講談社電子文庫
平行神話 プラパ・ゼータ3
[#地から2字上げ]流 星香
目 次
登場人物紹介
第一章 公女
第二章 異法
第三章 |望《ぼう》|星《せい》|楼《ろう》
第四章 |闇扉《やみとびら》
第五章 導球
第六章 到着
第七章 |賓客《ひんきゃく》
第八章 |吟《ぎん》|遊《ゆう》
第九章 発覚
第十章 |珠《しゅ》|抱《ほう》
第十一章 追っ手
あとがき
登場人物紹介
●ファラ・ハン
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世界を滅亡の危機から救うために具現した、伝説の翼ある|乙女《お と め》。透きとおるような白い|肌《はだ》と|漆《しっ》|黒《こく》の髪に|彩《いろど》られたその姿形は、誰もが|見《み》|惚《ほ》れるほどの|麗《うるわ》しさである。はかなく優しげなイメージだが、正義感が強く自己犠牲も|厭《いと》わない大胆な性格を合わせもつ。|邪《じゃ》|悪《あく》な力によって記憶を失いつつも、世界救済の旅に出かけるが、出発早々思わぬ困難が待ち受けて……。
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●ディーノ
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|自《みずか》ら弧高の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》を名乗る、華麗で凶悪な|蛮《ばん》|族《ぞく》。彫像のような素晴らしい|体《たい》|躯《く》をもつ。自己中心的で、自分の欲求――破壊行為と|略奪《りゃくだつ》――のおもむくままに生きる男であるが、聖選によってファラ・ハンを|護《まも》る“勇者ラオウ”に選出され、不本意ながら世界救済の旅へ。自分と同じ黒髪と青い|瞳《ひとみ》をもつ|唯《ゆい》|一《いつ》の女性、ファラ・ハンを必要以上に意識し、その|葛《かっ》|藤《とう》に苦しむ。
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●レイム
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“|魔《ま》|道《どう》|士《し》スティーブ”に選ばれた、優しく|聡《そう》|明《めい》な若者。|竪《たて》|琴《ごと》と剣の技術はプロ級。
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●シルヴィン
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短剣を巧みに|操《あやつ》る、|竜使《りゅうつか》い一族の娘。“竜使いドラウド”に選出された男勝り。
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●ルージェス
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カルバイン|公爵《こうしゃく》の娘。もうひとつの伝説にのっとり、ファラ・ハンの心臓を|狙《ねら》う。
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●ケセル・オーク
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ルージェスに力を貸す|謎《なぞ》の老魔道士。強大な実力で|獣人《じゅうじん》を作り出そうと|試《こころ》みる。
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●トーラス・スカーレン
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気品と|威《い》|厳《げん》を備えた麗しの女王。滅びかけた世界の救済を、聖戦士たちに託す。
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●エル・コレンティ
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世界を代表する偉大な老魔道師。あらゆる魔道を駆使する、女王の心強き片腕。
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●ウィグ・イー
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公女ルージェスにのみ|懐《なつ》く|獰《どう》|猛《もう》な狩猟犬。公女を護る獣人として改良される。
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●バリル・キハノ
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|闇《やみ》と盟約を結ぶ邪悪な黒魔道師。エル・コレンティに対抗できる唯一の人物。
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無理をしてはいけない。
どんなに努力してもそれがなされないときには、必ずなんらかの理由があるはずだ。
ただ力で押すだけではどうにもならないこともある。方法や時が不適当な場合もある。もう一度、落ち着いて考えよ。自分の内なるもの、外なるものの確認をせよ。
ひとたび動きだしたものを中断し修正することは、はなはだ困難なことである。原点に戻って物事を行うほうが、手直しするよりも容易である。すべてを|反《ほ》|古《ご》にして再び最初からやり直すことは、もっとも適切だが二重の手間を要する。かかる時間は倍ではすまない。
|焦《あせ》って時を選ぶことはいけない。時に追われていてはいけない。
時が逃げきることはまずない。本物の時は逃がしても再びめぐりくる。ただし、めぐりきた時が、自分にとって都合がよいとは限らない。時待つ者は常に余裕をもち身構えよ。
知ること、記憶することは、人間にのみ|魂《たましい》に刻むことを許された行為である。必要なる物事は、けっして忘れさることはない。断片であれ、どこかに引っかかるべき部分をもっている。
知り、伝え残していくことこそ、今という時間に生きる我々に与えられた使命である。知ること、忘れることを恐れてはいけない。これらにもすべて時があることを考えればよい。
適したことをせよ。続けられることをせよ。視界を広くもてることをせよ。
そしてなによりも、自分を信じることが大切なのである。
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〈自由人ティムジン・アシャス|覚書《おぼえがき》『|賢《けん》|者《じゃ》オルロフ』の項より |抜《ばっ》|粋《すい》〉
第一章 公女
|竪《たて》|琴《ごと》の|奏《かな》でるけだるい音楽が、|肌《はだ》|寒《さむ》い空気に響いていた。
曲そのものに関していうのなら、けっして|怠《たい》|惰《だ》を感じさせるものではない。ありふれた恋の歌、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう曲だ。老若男女を問わず、どこで誰が口ずさんでいても珍しくもない。
楽器にも問題はない。|竜牙《りゅうげ》で作られた|滑《なめ》らかな乳白色の竪琴は、細かな刻印や|金《きん》|泥《でい》で華麗に装飾がほどこされた最上級の楽器だ。張られている九本の銀の弦も、とりかえられたばかりで真新しい。反響板にひろわれた音は、まろやかにふくらんで飛びでる。まっすぐに遠くをめざして、空気を切り裂きすべりゆく。どこまでもどこまでも、澄んで響きわたるはずの音。
だが奏でられている音楽は、でれでれとだらしなく、怠惰をむさぼるように音をつむいでいる。本来聞こえるはずの|可《か》|憐《れん》な音は、濁りきり重く湿って腐り|崩《くず》れているかのようだ。
うっとうしい音は、窓辺から外に出ていくどころか、その重みで部屋の|床《ゆか》にこぼれ落ち、よどみを作って|溜《た》まっていく気さえする。
「もういいわ! やめてくださらない!?」
いらいらと足を踏み鳴らしていた|乙女《お と め》は、ついに爆発したとでもいうように声を荒げ、|椅《い》|子《す》を蹴立てた。
強く握りしめた小さな|拳《こぶし》で、駄目押しをするように乱暴に大理石のテーブルを|叩《たた》く。
|華《きゃ》|奢《しゃ》な細い小指を飾っていた指輪が、大理石の固い|滑《かつ》|面《めん》に叩きつけられて音をたてる。
宝石をはめこまれた高価な金の指輪は、傷つきかすかにひしゃげたりしたが、かえりみられることはなかった。
勢いよくあげた顔の動きで、背にかかる光の滝のような長い金髪が優雅に大きく波打った。
きらきらと光の粉が舞い立つかに見える華やかさのまえに、どんよりと音でよどんでいた室内の|闇《やみ》が追い払われる。
調子をとるのではなく、|嫌《いや》|味《み》で靴の|踵《かかと》で音をたてて|床《ゆか》を踏んでいたことがわからなかったのかと、|綺《き》|麗《れい》に澄んだ|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》で窓辺の人影を|睨《にら》んだ。
|竪《たて》|琴《ごと》の主は、ひとつポロンと弦を鳴らし、怒り心頭に発した彼女の|剣《けん》|幕《まく》をものともせず、穏やかに|微《ほほ》|笑《え》む。
「今日の姫君は、ことのほか虫の居所が悪いらしい」
ぬけぬけと言い放つ。
誰のなんのせいで気分を害しているのかは承知だが、そらとぼけて涼しい顔をしている。
「せっかく素敵な恋の曲を覚えてきてあげたというのに」
芝居がかった仕草で恩着せがましく|溜《た》め|息《いき》をついた。
早寝して早起きし、わざわざ明け方ちかくまで働いていた宮廷楽士を選んで|叩《たた》き起こしたというのに。
公子たる彼に音楽を教授することができるのは、もちろんその楽士一人だけではない。
「きっと彼がいけなかったんだね。|怠《なま》け|者《もの》の僕ですら起きていたというのに、まだ眠っていたような|不《ふ》|埒《らち》な彼が」
だから不満足な曲しか|奏《かな》でられないのに違いない。
公子は一人納得した。
「即刻首をはねないと」
にっこりと公子は笑った。
公子の翠色の瞳の奥に、|愉《ゆ》|悦《えつ》に|歪《ゆが》んだ黄色い|焔《ほのお》が浮かび、揺れていた。
整った温和な優しい顔立ちの中で、この瞳の奥だけが彼の本性をのぞかせている。
たっぷりとドレープをとった衣服をまとう細身の体つき。都会的に洗練され、男性にしてはあまりにも優雅で繊細に見えるが、それでこの青年を判断するわけにはいかない。
彼のその細腕は、自分より頭一つ大きい男であっても片手で首を押さえ、つり上げて|窒《ちっ》|息《そく》させるほどの腕力を持っているのだ。打たれ強い|鎧《よろい》のような筋肉こそまとっていないが、|俊敏《しゅんびん》で|狡《こう》|猾《かつ》な動きには、必要最低限の筋肉を無駄なく見事に配した身軽なこの体型のほうがいい。
困ったものだねと首をかすかにかしげて、公子は|乙女《お と め》に同意を求めるよう視線を投げる。
|癖《くせ》のない金色の髪が、さらりと肩口を|滑《すべ》った。
乙女は、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。
確かに同じ血を受けついでいる|瞳《ひとみ》の|翠色《みどりいろ》、髪の金色。
ただし乙女の髪は優雅に大きく波打つ癖をもつ、ひときわ豪華な光の|奔流《ほんりゅう》だ。|華《きゃ》|奢《しゃ》でほっそりした骨格を基本にすえた体型は、女性的と|褒《ほ》められるだけに|嫌《いや》|味《み》もなく愛らしい。すんなりと鼻筋のとおった、かすかに|目《め》|尻《じり》の上がる|麗《うるわ》しい顔つきは、何者をも恐れない不可能知らずの若さと負けん気の強さを象徴し、美しさと愛らしさが混同した強さを感じさせる。屈服や|挫《ざ》|折《せつ》という言葉と彼女の存在とは、あまりにも縁遠い。
彼女には彼の|魂《こん》|胆《たん》などはじめから見えていた。
「兄様の憂さ晴らしにつきあわされたんじゃ、たまらないわ!」
|可《か》|憐《れん》な花の|蕾《つぼみ》に似た赤い|唇《くちびる》を開き、|苦《にが》|々《にが》しく言葉を吐きすてる。
彼女に|我《が》|慢《まん》ならないのは、とやかく理由をこじつけて血を見ようとする兄の行為にではない。へたくそな|竪《たて》|琴《ごと》を親切めかして延々と聞かされることに対してである。
下働きや芸人が何人死んだところで、かわりなどいくらでもいる。物のふんだんに溢れた領主の|館《やかた》で働けるとなれば、喜んで名乗りをあげる人間が腐るほどいる。
ひょっとすると同じ|卑賤《ひ せ ん》の者たちにも、誰かが死ぬことによって自分たちに与えられるものの割合が増える結果を先読みして、ひそかに喜んでいる者がいるかもしれない。気にくわない者を|陥《おとしい》れる機会をうかがっている者だっているはずだ。
彼女らにとってはしもじもの人間の命など、虫けらと同等のものでしかない。いや、時と場合によってはそれより|遥《はる》かに|劣《おと》ることさえある。
自分用に|誂《あつら》えさせた勇ましい白い軍服姿の公女は、ほんのりとした甘い桜色のマントをひるがえし、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な|面《おも》|持《も》ちでうろうろと部屋の中を行き来した。
ふわふわと揺れる金髪と彼女の衣類にたきしめた香の|薫《かお》りで、部屋の中が|華《はな》やかに|賑《にぎ》わう。
まぶしいものでも見るように、公子は妹の姿を見つめながら目を細めた。
「退屈しているのは皆同じではないか。気をもんでも仕方あるまい」
気のこもらぬ声で吐息のように公子は言い、一弦竪琴を鳴らす。
「ですから余計に神経を逆なでされたくありませんのよ!」
かつんと固い音をたてて足を止め、公女は声を荒らげた。
公子はおおげさに腕をあげて耳をふさぐ。
「救世主たる高貴の姫が、そんな|野《や》|蛮《ばん》な声を出すものではないよ」
「しとやかさで一秒でも早く世界が救えるのなら、それも心がけることにいたしましょう」
言いすてて、公女はつんと細い|顎《あご》をあげた。
どんよりと垂れこめた重い灰色の雲間を割って、稲妻が|奔《はし》った。
世界はいま、滅亡の危機にある。
厚い黒雲によって天空と地上はへだてられ、大地のすべてに降りそそぎ恵みと生命の|息《い》|吹《ぶき》を与える、暖かくまぶしい|陽《ひ》の光は失われた。
不穏に鳴動する空と大地は、崩壊の予兆を感じさせ、間断なく荒れている。
水も土も腐り|崩《くず》れだして、|育《はぐく》むことを放棄した。
自然にすべてを依存して生きてきた生命のことごとくは、あっけなく未来を断たれて死ぬ羽目になった。
|瞬《またた》く間に身辺を|脅《おびや》かした出来事に、ひとびとは困惑し路頭に迷った。
混迷の状態に、あちこちで小さなもめ事が起きた。
それらはたいてい、役人や地方領主の手にあまるものはなく、大がかりになるまえに|阻《そ》|止《し》された。
ふらふらと衝動に駆られることはあっても、事件を未然に防げるだけの理性をもつ者がまだ大半を占めていたが、乏しくなりゆく食糧や資材を奪いあい、やがては暴動に発展してゆくだろうことは容易に推測された。
事件を未然に防ぐため、世界の確固たる繁栄を象徴した王都に君臨する|麗《うるわ》しの女王トーラス・スカーレンは、大規模な事件の首謀者となる可能性をもつ者を余さず捜しだし、捕らえて聖地の獄舎に|幽《ゆう》|閉《へい》した。
幽閉の身となった犯罪者、もしくはその予備者たちで、獄舎は一度に満杯となった。
女王の直接|管《かん》|轄《かつ》|下《か》に諸悪の根源となる者を置くと同時に、日々の労働に汗して働いていた者たちから力で物を奪おうと|企《たくら》む凶悪な者たちの存在もなくなった。
似たり寄ったりの境遇や状態、武においてもはかり知れる力の相手には、一定の法則が成り立っていた。そのことにより、ひとびとはお互いを|猜《さい》|疑《ぎ》し|牽《けん》|制《せい》しあうという無駄なことを減らし、つましいながらもなんとか平静ににた状況と平穏を取りもどした。
ひとびとをなだめすかし、希望の光を|灯《とも》すため、数多くの有力者たちによって様々な|占《うらな》いや未来予知、神託の儀式が行われた。
現存するものを手がかりにして、世界を救う方法を得るため各地で多くの書物や伝承がひもとかれ、その中に隠された光明が探された。
そして。
厳しい修行によりひとに許された不思議を|操《あやつ》る、世界一の|聖《せい》|魔《ま》|道《どう》|師《し》エル・コレンティ老は提案した。
世界滅亡を予見した伝説を信じてみてはどうだろうかと。
世界の存続を危うくしている不安定な『時の|宝《ほう》|珠《しゅ》』を正すことができるという、選ばれし聖者たちの力にすがってみてはどうだろうかと。
この提案をのみ、女王は世界を救うという、夢物語に近い伝説の翼ある|乙女《お と め》の|招喚《しょうかん》を許可した。
女王自らが、翼ある乙女が世界を救うことに望みをつなぎ、信じるのだという。
女王は『翼ある乙女さえ具現すれば必ず世界は救われる』という|噂《うわさ》を広め、絶望しようとするひとびとに呼びかけた。
王都から派遣された大勢の魔道士が世界各地に向かった。
魔道士たちはこの希望の噂を伝え、乏しくなりゆく食糧に悩むひとびとに、王都の倉から分け与えられたものを公平に分配してまわった。
魔道士たちは死に絶えゆく『|種《しゅ》』を滅亡から救うため、『眠り』の魔道をほどこしてまわることを課せられていた。
滅亡の危機を|免《まぬが》れても、それまでの生命がどれ一つとして残っていないのでは、事実上の世界壊滅となんらかわりはないからだ。
植物も動物も皆、生命の輪をつなぐ大切な仲間に違いない。どれほどの時間がかかるのか予測できない以上、減少し滅亡してゆくそれらの種族を見逃すわけにはいかない。
希望するひとびとにも、世界が救われたときに目覚めるように『眠る』|措《そ》|置《ち》をとることが許可された。
現状に不安をいだく者、|変《へん》|貌《ぼう》する時代についてゆけぬ弱い者たちは、自らその勧めに従っていった。後に残った者たちに、少しでも多くの食糧なりが行きわたることが願われた。
多くの地方領主の|館《やかた》の地下には、それらの者を収容する|廟《びょう》がいくつも急造されたという|噂《うわさ》が流れた。
だが、ここ。カルバイン|公爵領《こうしゃくりょう》においては。
訪れた魔道士は誰一人として王都に戻ることはなかった。
『眠りたい』と申しでて館の門をくぐった領民たちもまた、誰一人として「魔道によって」『眠る』者はいなかった。
時代に適応できない人間は、たとえ世界が復興しようとも足手まといになることが目に見えているからだ。
魔道士も領民も、即刻|密《ひそ》やかに|惨《ざん》|殺《さつ》された。
そのような者たちの存在する必要性は認められていなかった。
カルバイン公爵領は豊かな土地である。動植物にも鉱物資源にも、ありとあらゆるものに恵まれた|肥《ひ》|沃《よく》な土地だった。塩水湖まであり、ここで手に入らないのは、ほとんどない。
だから事実上、完全自治区としても成立している。
王都だ女王だと認めているのは、そのほうが貿易上に有利だという理由だけだ。
|厄《やっ》|介《かい》なことが世界に起こっている今、孤立していたほうが領地は豊かでありえる。
王都の|干渉《かんしょう》を|厭《いと》うからこそ、侵入してくる魔道士を無事に生かしておくことができない。
ただし世界救済を願うのは、王都のそれよりは豊富な|蓄《たくわ》えを持ち|遥《はる》かに長く持ちこたえられるとはいえ、時間の問題にすぎない現実のまえに、共通の思いである。
そしてそのために、公女が立ちあがったのだ。
カルバイン公爵の四人の子供のうちで一番|歳《とし》若い、ただ一人の娘。
金色の髪に|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》、高貴なる血を色濃く受けつぐ処女姫は。
家に伝わる予言書に記された、選ばれし最後の運命の|乙女《お と め》として。
翼ある乙女により、世界を救うことのできる救世主として。
そのたおやかな両肩に世界の命運を|担《にな》い、奮起していた。
翼ある乙女ファラ・ハンの具現の|噂《うわさ》は、遠く離れたこの地でも聞きおよんでいた。
いち早く公女は出発してファラ・ハンと合流せねばならない。
だが、そのために必要な準備が整わないのだ。
ファラ・ハンが遂に具現したというのに、こっちは事態が何も進展しないまま一週間が過ぎている。
ファラ・ハンたちが出発前の眠りについているため、目覚めるまでは王都を離れないとわかってはいたが、我がままで|傲《ごう》|慢《まん》で|気位《きぐらい》ばかり高い公女には、我慢の限界でもあった。
公女は朝から出発用の勇ましい|装束《しょうぞく》に着替え、いらいらと|柳眉《りゅうび》を逆立てている。
今この領地にいる二人の兄公子たちは、ささくれだつ公女の気持ちをなだめにか、単なる気まぐれでか、いれかわり立ちかわり公女の部屋にいりびたっていた。
公子それぞれで、ただ本を読んでいるだけだったり、お茶を飲んで時間をつぶしているだけだったり、|下手《へ た》な詩や音楽を楽しんでいたり、何をするかはまちまちだ。
先走ろうとする公女の行動を規制するには最適の監視役だったが、それはけっして公女や世界のためを思っての行為とは思えない。
持てあます時間で、救世主たる|己《おのれ》の使命に酔う愚かなる妹の姿を楽しんでいるようにも見える。
この地で生まれ育った上二人の兄公子たちは、父であるカルバイン|公爵《こうしゃく》に似て、穏やかで優しそうな美しい外見をもっているが、涼しい|笑《え》みを浮かべながら、素手でも人殺しができるような人種だ。
ひとを押しのけ踏み台にして一代にして広大で|肥《ひ》|沃《よく》な領地の領主、公爵の娘を得て地位まで手に入れた男の、野望に満ちた|残虐《ざんぎゃく》な|性分《しょうぶん》は彼ら二人の息子にそっくりそのまま継承されている。
もっとも、そのくらいの性格でなければ、実の父親に寝首をかかれかねない。善良な紳士の仮面をかぶった困った性分も、彼ら二人だけの責任とはいえないのかもしれない。
不穏に鳴動する空模様をものともせず、兄の相手に|嫌《いや》|気《け》のさした公女は、外の空気を吸いに出ようと|扉《とびら》のほうに向かった。
扉の開閉を行うよう控えた|小姓《こしょう》の少年が、足早に近づきつつある公女のために扉を開こうと身構えたとき。
外から静かに扉が開かれた。
公女と同じ金色の髪と|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》をした青年は|大《おお》|股《また》で部屋に入り、にこりと公女らに|微《ほほ》|笑《え》みかける。
許しも|乞《こ》わずに堂々と公女の居間に入ってくるのは、ごく身近な親族だけだ。
「兄上」
「ベルク兄様、いかがなさいましたの?」
公子と公女はそれぞれに、訪問者に言葉と視線を投げかける。
ちょっと驚く公女の肩に、ぽんと手を置いた一番上の公子、ベルクは彼らをテラスのほうに移動するよううながす。
「ネレス、ルージェス、そろそろ退屈しはじめた頃だと思って来たのだ。|面《おも》|白《しろ》い|余興《よきょう》を見せてやる」
自慢げな口調でいい、薄笑いを浮かべるベルク公子の|瞳《ひとみ》の奥には、さきほど|竪《たて》|琴《ごと》を|奏《かな》でていた公子の瞳の奥にあったと同じ、あの黄色い|焔《ほのお》が揺れていた。
瞳に浮かぶそれを見て取って、窓辺にかけていた公子は|嬉《き》|々《き》として腰をあげる。スキップでもするように、軽やかに兄と妹の後を追ってテラスに向かった。
素早く移動した|小姓《こしょう》の少年が、公子たちにテラスへの|扉《とびら》を開けはなつ。間合いが一歩でも遅れようものなら、即座に首をはねられかねないので必死である。
彼らの|機《き》|嫌《げん》を損ねることを何よりも恐れ、顔をあげることすらできぬほどにびくびくしながら|仕《つか》えているのは、この|館《やかた》にいる者の大半だ。
「勇気ある|乙女《お と め》、ルージェス公女に|占《うらな》いを!」
公女を伴いテラスに出たベルクは、眼下の広い中庭に向かって命じた。
儀式の準備を整えて|石畳《いしだたみ》にぬかずいた大勢の者、このカルバイン|公爵領《こうしゃくりょう》に忠誠を誓い、|魔《ま》|道《どう》による忠義の刻印をしるされた魔道士たちは、ベルクの言葉に占いを開始する。
中庭の中央にかたまり置かれていた五つの小山から、大きな真紅のビロードの|覆《おお》い|布《ぬの》が取り払われた。
隠されていたそれらが、曇った薄暗い昼の光の下にさらされる。
中央には人間がいた。
一人の男を囲むようにして、|飛竜《ひりゅう》と|野《の》|鹿《じか》、|土《つち》|蜘蛛《ぐ も》と|牙《きば》|長《なが》|象《ぞう》ら四頭の巨大な動物たちがいた。
それらは人間の|四《し》|肢《し》に一頭ずつ、後ろ足の一本にがっしりとした鋼鉄の|枷《かせ》をはめられ、太い|頑丈《がんじょう》な鎖をもってつながれている。
かぶせられた布の|魔《ま》|呪《じゅ》で意識を奪われていた男は、布が取りのけられたとたんに正気にかえった。
|仰《あお》|向《む》けで大の字に石畳の上に寝かされた男は、はっと顔を動かした。
端からよだれを|滴《したた》り落とす口には、上下の|唇《くちびる》を触れあわすことすらできないほどの、きついさるぐつわをされているので声を出すどころではない。
身じろぎし忙しく首が回された。
血の網を張った目が大きく見開かれて、ぐりぐりと動く。
男の目はテラスに立つ公子たちの姿を捕らえ、ぎくりとして全身の動きを止めた。
恐怖と絶望の色が浮かんでいた。
その男、いやこの領地の大勢の|民《たみ》たちにとっては、領主の一族たちはその象徴たる人物に間違いなかった。
鎖につながれた動物たちは口にそれ相応の精神安定剤のようなものをあてがわれている。
|獰《どう》|猛《もう》さで名を知られるそれらは、そのため|虚《うつ》ろな|瞳《ひとみ》をし、正体定かでない状態だ。
見あげるほどに大きい動物たちは、|魔《ま》|道《どう》|士《し》たちに|轡《くつわ》を取られ、ほとほとと歩を進めて男を中心に放射状に広がっていく。
鎖が|綺《き》|麗《れい》に広げられたところで、魔道士たちは動物を進ませるのをやめた。
テラスに出る公子たち三人をふり仰ぐ。
ベルク公子は満足げにうなずく。
魔道士たちは|仰々《ぎょうぎょう》しい仕草で深々と|御《お》|辞《じ》|儀《ぎ》した。
「いったいなんですの?」
かすかに首をかしげてルージェス公女は背を支えている兄公子を見あげる。
つぶらな瞳を見つめかえし、ベルク公子は目を細めて薄く笑った。
「だから|占《うらな》いだと言っただろう」
「占い、ね」
くっくっと声を殺してネレス公子が笑った。
ベルク公子は、魔道士たちに向かって腕をあげた。
「はじめよ!」
四頭の猛獣たちの正気を奪っていたものがいっせいに取り去られた。
魔道士たちは|印《いん》を結び、一瞬の後にその場から姿を消していた。
どこか遠くに消えうせたのではない。
『魔道の|径《こみち》』と呼ばれる、魔道士たちだけが入ることのできる陰の通路に待避したのだ。
我に返った猛獣たちは、自分の身を|拘《こう》|束《そく》する鋼鉄の|枷《かせ》の存在に|憤《ふん》|慨《がい》した。
野生の猛獣たち。
ひとの世界とは相いれぬ自然の生物たち。
彼らは何よりも、自由であることを望む。
|飛竜《ひりゅう》、|野《の》|鹿《じか》、|土《つち》|蜘蛛《く も》、|牙《きば》|長《なが》|象《ぞう》。
それらはそれぞれに。
逃れの道を選んだ。
鋼鉄の鎖が四方から勢いよく引かれた。
猛獣たちの巨大な|体《たい》|躯《く》に秘められた力は同等とも見えた。
|戒《いまし》めの。
一番|脆《もろ》い部分が引き裂け、ちぎれた。
もっとも力の集中した、一点だった。
血柱が噴きあげた。
たくさんの|玩具《おもちゃ》を詰めた子供のびっくり箱のように、ぐねりとしたものが幾つも、高く|弾《はじ》け飛んだ。
第二章 異法
|占《うらな》いはすぐに結果を表した。
四頭の猛獣たちは、鋼鉄の鎖とその先の|枷《かせ》に捕らえた男の|四《し》|肢《し》を引きずったまま、それぞれの方向に逃げおおせた。
中庭に残ったのは、ザクロかアワビみたいにぱっくりと赤黒い口をあけた、|蝉《せみ》の抜け殻に似た一匹の巨大な|芋《いも》|虫《むし》だ。
まともな意識など保っているはずもなかったが、それはまだかろうじて生きているのか、びくんびくんとエビのように|跳《は》ねていた。
内圧に耐えかねて、眼球が半分以上飛びでて、こぼれかけていた。
口から何も出なかったのは、さるぐつわのお陰だ。
弾けでた内容物が、派手に周囲へとぶちまけられていた。
遠くまで飛散し、|石畳《いしだたみ》をびしゃりと|滴《したた》り濡らす赤い液体に、白い|脂分《あぶらぶん》が入り混じって|斑《まだら》に浮かんでいた。
下半身に相当するところには、|失《しっ》|禁《きん》されたらしい|排《はい》|泄《せつ》|物《ぶつ》まである。
まんべんなく飛び散ったものに囲まれた|芋《いも》|虫《むし》は、臓物で張った|忌《い》まわしい|蜘蛛《く も》の巣の|虜《とりこ》のように見えた。
ベルク公子は細い|顎《あご》をあげ、すうっと目を細めた。
ネレス公子は|竪《たて》|琴《ごと》を抱えていたのも忘れるほどに、腹を抱えて笑い転げた。
ルージェス公女は、それがどういう意味をもつのか捕らえ損ね、むっと|眉《まゆ》をひそめる。
あまり美しい光景であるとはいえない。
鼻をつくのは、むんと熱い生臭い悪臭である。
汚物が|醜態《しゅうたい》をさらしている。
|魔《ま》|道《どう》の|径《こみち》から再び血みどろの中庭へ抜けでた魔道士が、ぱっと魔道の粉を振りまいた。
かすかに黄色く|霞《かすみ》をなすほどにまかれた不思議の粉に、|石畳《いしだたみ》のあいだに流れこもうとしていた赤い液体が動きを止めた。
霞の消えた後。
|館《やかた》の中庭には、真紅の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》が描かれていた。
びくびくとうごめいていた|芋《いも》|虫《むし》も、汚らしい臓物も排泄物もなくなっていた。
残ったのは赤。
血の色だけ。
血で描かれた魔法陣。
古代文字の記された二重円に囲まれ、天をルージェス公女に向ける|五《ご》|芒《ぼう》|星《せい》を持つ魔法陣。
手品にも見えるそれに、ルージェス公女は目を丸くする。
ベルク公子は魔道士たちにうなずいてみせた。
魔道士たちはうやうやしく一礼すると、血でどろどろに汚れた中庭をそのままにして立ち去った。
中庭を吹き抜ける風は、生々しい血臭を運び、|忌《い》まわしくあたりにからみついた。
テラスのすぐ横、公女の部屋の片隅で寝そべっていた黒犬が、低い声で|唸《うな》りながら構え、ゆっくりと身を起こした。
主人以外には絶対になつかないといわれる、|獰《どう》|猛《もう》な狩猟犬だ。
底に黄色く煙った炎が浮かぶ狂気の|闇《やみ》のような|漆《しっ》|黒《こく》の|瞳《ひとみ》が、|床《ゆか》の一点を|睨《にら》んで暗く光っている。
|小姓《こしょう》の少年ら、この部屋での仕事を言いつかり、働くようになって久しい者たちは、誰も何があっても動じることはなかった。
何があろうと持ち場を離れず、仕事に絶対を尽くすのが使命なのである。
顔色を変えたり、命に|固《こ》|執《しつ》することは、ずいぶんまえからやめている。
なるようにしかならないのだという|諦《あきら》めの色が濃く日常に染みていた。
彼らの主人たる人間たちは、物事に対して取り乱すことはめったになかった。
主人より先に取り乱すようなことがあれば、それは従者にとってすなわち死を|覚《かく》|悟《ご》するべき|醜態《しゅうたい》なのだ。
うぅるる、という不快な|唸《うな》り声を耳にした公女は、ゆるりと首をめぐらせた。
待ち受けていたベルク公子は、|颯《さっ》|爽《そう》たる仕草で|踵《きびす》を返す。
振りかえった先。
黒犬の|睨《にら》むそこには。
誰もいなかった。
実体のないただの黒い染みに似たものが、|床《ゆか》にゆるゆると広がりゆくだけである。
影の|水《みず》|溜《た》まりのようなそれは、ぶわりと軽くふくれあがり、小山のように|凝《こ》った。
|萎縮《いしゅく》して|凝固《ぎょうこ》し、質量をもつ小柄な人型に落ち着いたそれに、激しく黒犬が吠えかかる。
明らかな|魔《ま》|道《どう》の法により現れいでたる者は、|黄昏《たそがれ》|色《いろ》に輝く何やら|陰《いん》|鬱《うつ》な感じのする、果てしない|闇《やみ》|色《いろ》の|法《ほう》|衣《え》をまとう老人らしかった。
深く引きかぶったフードが暗がりをつくり、顔は見えない。
がりがりに|痩《や》せ衰えた体の魔道士は、さらに痛々しいことに左手を銀色の|鋭《するど》く長い指をもつ義手に変えていた。
普通の三倍もの長さをもつ作り物の指は五本とも、まがまがしいばかりに先端を|研《と》ぎ|澄《す》まされ、|鉤《かぎ》のようにゆるく曲げられている。
狂ったように吠えかかる犬に、フードの陰に隠れた赤い炎の色の|瞳《ひとみ》がちらりと|瞬《まばた》いた。
何気ない|一《いち》|瞥《べつ》に見えたそれ。
視線を投げかけられた犬は、びくんと硬直して|怖《お》じ|気《け》づいた。
野生種の|飛竜《ひりゅう》であれ、ひとたび獲物とみなせば|果《か》|敢《かん》に吠えかかり狩りとろうとする|獰《どう》|猛《もう》な犬は、子牛ほどもある大きな体を丸めるように小さく|四《し》|肢《し》を縮めた。
だらしなく垂れ下がった尾は、ぐるんと|股《こ》|間《かん》にしまいこまれた。
逃げることもかなわぬという仕草で四肢をつっぱり、その場に|釘《くぎ》づけになっている。
愛犬ほど|顕《けん》|著《ちょ》にではなかったが、公女もその魔道士から発散されるえもいえぬ|不《ぶ》|気《き》|味《み》な波動を感じとって、静電気を帯びたようにちりちりと体毛が立つのを感じていた。
本能や野性の勘、第六感と呼ばれるものを信じる者は、ここにはいない。
だから彼らは、なにかと適当な理屈をつけて、自分がこの男に対して感じていることを納得させていた。
激しく鳴らされる音のない警報に耳をふさいでいた。
世界のどこに住まう者でも、昔から魔道士などという職についている人物は、|得《え》|体《たい》の知れない|不《ぶ》|気《き》|味《み》な|輩《やから》が多いと聞きおよんでいる。
こんなものかもしれないという|憶《おく》|測《そく》もあって、この不気味な|魔《ま》|道《どう》|士《し》は、案外しぜんと受け入れられている。
そのような|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を感じさせるそのことこそが、大いなる術者の|証《あかし》ででもあるかのような気をおこさせている。
「見てのとおりだ、ケセル・オーク」
ベルク公子は、魔道士に向かい、|顎《あご》で中庭の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》を示す。
呼びかけられた魔道士は、|豪《ごう》|奢《しゃ》な毛皮の敷きつめられた|床《ゆか》|上《うえ》を音もなく|滑《すべ》るように移動し、わずかに公子たちに近づいた。
人間の|乾《ひ》|物《もの》のような老魔道士は中庭を見向きもしない。
「知れたこと。神聖なる|五《ご》|芒《ぼう》|星《せい》は運命の公女を指し示しております。御身に流れる高貴なる血には及ばないながらも、|種《しゅ》を同じくするひとの命をもってされる絶対の|占《うらな》いでございます。よもや疑われることもありますまい。ルージェス・イース・カルバイン公女こそが世界を救う|唯《ゆい》|一《いつ》の存在にございます。それゆえに、この老いたる魔道士ケセル・オークがはるばるお迎えに上がったのでございます」
乾いた|声《こわ》|音《ね》で|謳《うた》うように、魔道士は公子たちに語りかけた。
この魔法陣に書かれた複雑で難解な超古代文字を解読できる者は、高級|魔《ま》|道《どう》|士《し》のうちにもそんなに数多くはいない。
だからこそ、この方法を指示され、予想どおりの結果を得ることのできた大勢の魔道士たちは、何も疑問に思わなかった。
ルージェス公女に天を向けた|五《ご》|芒《ぼう》|星《せい》。
ルージェス公女を天として見た場合、確かに彼女を示した聖なる|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》としかならないそれは。
しかし、そう見ることが|妥《だ》|当《とう》ではなかった。
なぜなら。
超古代文字は、魔法陣のとるべき正しき方向を定めていたからである。
超古代文字を正確に読み取ることのできる形から、この魔法陣を見た場合。
描かれたそれは。
逆さ星。
天を|墜《お》とした|邪《じゃ》|星《せい》の魔法陣だった。
おぞましく|残《ざん》|酷《こく》な血の儀式をもって描かれた、|闇《やみ》の魔法陣だった。
聖戦士たる者を祝福するための聖なる光の魔法陣でないことを知るのは、この老いた魔道士一人しかいない。
老魔道士ケセル・オーク。
|不《ぶ》|気《き》|味《み》な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》をもつ強大な術者だろうこの男は、伝説の翼ある|乙女《お と め》ファラ・ハンが具現したその日に、一人このカルバイン|公爵領《こうしゃくりょう》に訪れた魔道士だ。
ケセル・オークは聖女の|招喚《しょうかん》が成功し聖戦士たちが選ばれたとき、その聖光によって隠されていたもう一つの予言が現れたのだとこの地に派遣された|旨《むね》を告げた。
世界の命運を決める運命の乙女、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を安定させる最後の儀式に必要な、ファラ・ハンの心臓を生きたまま取りだすことができるのは、ルージェス公女だけなのだと。
ルージェス公女の|麗《うるわ》しき姿が、聖地に置かれた未来予知の法具、|垣《かい》|間《ま》|見《み》の銀水盤に映しだされたのであると。
半信半疑の領主たちを伴い、ケセル・オークはカルバイン公爵が王都に献上せずに隠し持っていた家宝の書物の所在を見抜き、いとも簡単に書庫から引きだし、広げさせた。
背文字もなく一字の文字も書かれていない、ただの白紙本であった家宝の本には。
聖女の具現とともに、文字が出現していた。
ルージェス公女の名も、聖戦士たちの名も、すべてが書き連ねてあった。
それぞれが何をなすべきであるのかも、事細かく書かれてあった。
そしてそれらが確認されて後に、王都の女王の使いという魔道士が、ファラ・ハン具現の知らせと聖戦士たる人物についての報告をもってカルバイン公爵領の土を踏んだ。
伝令はきちんとした高級|魔《ま》|道《どう》|士《し》だったが、同じころに王都を出発したというケセル・オークに一日遅れての来訪は、ケセル・オークの実力の高さを認めるに十分だった。
高級魔道士はケセル・オークを見知っていたらしく、老魔道士に対して敬意を払った。この高級魔道士によってケセル・オークの|素性《すじょう》が確認された。
ルージェスは老魔道士ケセル・オークと護衛たる獣人を伴って、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の破片を回収して各地をまわるファラ・ハンたち一行に追いつかねばならない。
集められた六つの宝珠にファラ・ハンの心臓から流れ出た血を与えて、時空を安定させねばならない。
それこそが彼女に課せられた使命。
そのための。
獣人を魔道によって作製中であるのだが、なかなか術が成功しないのだ。
時間を引き伸ばし、一度行動を起こそうとした公女を押し止めておくことも、そろそろ時間切れの頃合いになっていた。
恐る恐る顔色をうかがうしかない側近の者たちは、|機《き》|嫌《げん》を悪くする公女をなだめるのに必死の状態だ。
「獣人はどうなのですか?」
|叩《たた》きつけるような|辛《しん》|辣《らつ》な口調で、ルージェス公女はケセル・オークに尋ねた。
ケセル・オークは声荒い公女の問いに深く頭を下げる。
「魔道士の総力、このわたくしの力すべてを注ぎまして、|目《もっ》|下《か》のところ作製中でございます。いましばらくのお待ちを、お願い申しあげます」
「同じ言葉は聞き飽きました」
にべもなく言いすて、公女は老魔道士を|睨《にら》む。
「こんなに手間取るものならば、どうして魔道師たるエル・コレンティが来ないのですか? 強大なる力をもつ祭司長であれば、困難でもないはず。出向いてもよいはずでしょう」
「お言葉ながら」
|丁重《ていちょう》に、それでいてきっぱりとケセル・オークは言いかえす。
「獣人なる亜人を作りだす、ただそれだけの過程なれば、たいした困難でもないのです。ただ公女様に対する忠誠心に問題が残りますのみ。もとになります|獣《けもの》の特性や公女様と獣の相性にも関係がございます。|勇《ゆう》|猛《もう》|果《か》|敢《かん》な|逞《たくま》しい従者たる獣人を公女様にさしあげたい、そのための|試《し》|行《こう》|錯《さく》|誤《ご》でございます。ご|辛《しん》|抱《ぼう》くださいませ」
数多くの獣が魔道士たちによって懸命に|捕《とら》えられ、獣人となる魔道の|呪《じゅ》を与えられていた。
獣人といっても、それは単なる力だけに頼る怪物ではない。一見しただけではひとと見分けのつかない形をしているのが、ごく美しい成功した体型の獣人だ。
獣人は人間に|匹《ひっ》|敵《てき》する知能をもち、ひとに服従する卑俗のものである。
生物特性を向上させたものが、それぞれの獣人の特徴となる。
形だけでもまともな亜人となったものはまだしも、そうでないものはただの化け物にすぎない。
むろん化け物は即座に処分される。
なかなか死にきれず、数日ものあいだうごめき|呻《うめ》き続けるおぞましいものもいる。
|魔《ま》|道《どう》|士《し》の何人かを道連れにして死ぬような性悪なものもいる。
毒液やガスで|怪《け》|我《が》を負わせたり、周囲を汚染したりするものもいる。
より頼りとなりそうな獣人を作りだすために、凶暴であったり|醜悪《しゅうあく》であったりする|獣《けもの》の多くが、ケセル・オークのいる魔道宮に運びこまれていた。
指導的立場でその行為を飽くことなく繰りかえしているケセル・オークの姿は、神聖なる魔道士にはとても見えない。
このようなことをさせること自体、高貴なる麗人、女王トーラス・スカーレンらしからぬ命令であることは、彼女の人柄を知り、考えればわかりそうなものだ。
ただ、|残虐《ざんぎゃく》であったり非道であったりということが当然の行為として見られがちなこの地において、不自然なことではないだけだ。
裕福であり|肥《ひ》|沃《よく》であり、|冷《れい》|酷《こく》な領主の治める領地は、|陰《いん》|鬱《うつ》な|企《たくら》みにもっとも好都合な場所だった。
ケセル・オークの言葉に、ルージェスは目を細めた。
「わたしに馴れ、忠実な|下僕《し も べ》となる獣ならばよいのか?」
「は。|勇《ゆう》|猛《もう》|果《か》|敢《かん》と申しますか、公女様をお守りできるだけの絶対的な力となりうる獣であれば。例えば、あの|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》を名乗ります勇者ディーノが、|飛竜《ひりゅう》を駆っておりましても、それと正面から立ち向かえるほどのものであれば、事は十分かと思います」
ケセル・オークは簡単に言い切った。
出された条件は、安易なものではけっしてない。
「飛竜か……」
ルージェスは口の中で小さく繰りかえした。
修羅王を名乗る孤高の|蛮《ばん》|族《ぞく》の若者、ディーノのことはルージェスも風の|噂《うわさ》に聞きおよんでいる。どのように凶暴で危険な男であるのかも聞いている。世界滅亡がささやかれたとき、真っ先に駆り出されたほどの危険人物の一人であるということも。
しかし高貴な血を受けつぐ公女ルージェスにとっては、|素性《すじょう》の知れない一人の野蛮人など虫けら同然の存在にしかすぎない。
ケセル・オークから与えられた条件は、ルージェスの中で『ひとの|操《あやつ》る|飛竜《ひりゅう》と立ち向かえる』という形に整理された。
ちょうど手頃な生き物が、身近にいた。
「ウィグ・イーでは、どうか?」
ルージェスは提案した。
名を呼ばれた黒犬が、びくんと一度身を震わせて、主人を見あげて首をめぐらす。
|獰《どう》|猛《もう》で飛竜すら狩る狩猟犬。
ルージェスの言うことしかきかない、凶暴このうえない犬だ。公女のために番犬として、これほどに|相応《ふ さ わ》しい犬もいない。
本来なら大人の男でも持て余すだろうこの種の犬を、忠実に飼いならしているのは、目の開かないほどの子犬の頃から親代わりに世話をし、養い育ててやった実績があるからだ。
なかなかに気の長い作業ではあったが、その目的は十分に達せられていた。
ケセル・オークは、ぞろりとした流し目を黒犬に送る。
赤い|瞳《ひとみ》の|一《いち》|瞥《べつ》に、黒犬ウィグ・イーは身をすくませた。
獰猛な犬。
ただ、敏感に善悪、力の大小を判断できる能力をもつ『優秀な』犬。
ウィグ・イーから野性の勘を取り去ってしまえば、|玉砕覚悟《ぎょくさいかくご》で突進していく凶悪なまでに無謀な犬になることだろう。
獣人には命令を忠実に聞きわける知能と、攻撃における的確な判断力さえあればいい。
この犬から作りだすのなら、さぞかし立派な獣人ができあがることだろう。
飛竜ごとディーノを|葬《ほうむ》り去ることも可能かもしれない。
ディーノさえいなければ、ケセル・オークの|魔《ま》|道《どう》でファラ・ハンを|拉《ら》|致《ち》することなどたやすい。竜使いの小娘も、魔道士見習いの若者も、とるに足りない相手だ。
ディーノの存在さえなければ、六つの|宝《ほう》|珠《しゅ》を集めたファラ・ハンから簡単に心臓をえぐりだすことができる。
ケセル・オークの目指す『本当の目的』を達することができる。
ケセル・オークはうやうやしい仕草でルージェスに向かって|片《かた》|膝《ひざ》を落とし、|頭《こうべ》を垂れた。
「お許しくださいますならば、これ以上のものはございませんでしょう」
第三章 |望《ぼう》|星《せい》|楼《ろう》
下にも置かない大歓迎のまえには、とうてい引っこみなどつくはずもなかった。
救世主、聖戦士の肩書きを受け、名を叫ばれる彼らは、ひときわ高いその場所から身動きかなわないまま、期待と歓喜の声を浴びせかけられ続けるしかなかった。
ひとびとの手のひらを返した態度に面食らい、|憤《ふん》|慨《がい》したのは、ディーノである。
勝手気ままのやりたい放題に生き、孤高の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》を名乗る彼には、ひとから|誹《そし》られこそすれ、歓迎されるいわれはない。
初めこそ、ファラ・ハンが自分に向かって|艶《あで》やかに|微《ほほ》|笑《え》んだことや、なりゆきにあっけにとられて立ちつくしていたディーノだったが、冷静に思考をめぐらせ我を取りもどすにつれて、倍加した怒りがこみあげた。
こんな茶番につきあわされるのはまっぴらだ! と。
口を開いたディーノより一瞬早く。
立ちあがった|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》エル・コレンティの声が響いた。
声を出す体勢を整え、声を出しかけた矢先の、絶妙の間合いだった。
思わず、ディーノは|唇《くちびる》からこぼれかけた自分の声をのみこんだ。
老魔道師は群れつどった一同を見回し、語りかける。
「これより聖戦士たる若き魔道士レイムに、導きの魔道を教授する。王宮、望星楼への道を開かれよ」
低く腹の底まで響く|声《こわ》|音《ね》。迷信深い者ならば、それだけで|畏《い》|怖《ふ》し、ひれ伏してしまいかねない声だ。
|床《ゆか》|面《めん》だけになった無残な礼拝堂を取り囲んでいたひとびとは、一瞬水を打ったように静まり、老魔道師の声に従い整然とすみやかに場所を開けた。
望星楼は魔道や不思議の宝庫たる、神秘を集めた建物だ。
魔道宮での修行を完全に終えたひと握りの優秀な魔道士や、厳正な審査による資格をもった学者のみが出入りを許されているという特別の場所である。
翼ある|乙女《お と め》の世界救済伝説を記した書物なども、この望星楼の書庫にあったと聞く。
それを必要とすることがなくなり、溶けるようにディーノの手の内から静かに消え失せた、伝説の聖なる|銀《ぎん》|斧《ふ》レプラ・ザンなども、望星楼の|宝《ほう》|物《もつ》|殿《でん》に大切にしまいこまれていたものだ。
レプラ・ザンは関心を失われれば、勝手にディーノの内に戻る。必要とされるまで、眠っている。
貴人に対する|愍《いん》|懃《ぎん》な仕草で、|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》は女王たち、ディーノたちをうながす。
|近衛《こ の え》騎士隊長バルドザックは、ひざまずいていた女王トーラス・スカーレンに手をかして腰をあげさせる。
宮廷白魔道士マリエはエル・コレンティの|所《しょ》|作《さ》から、この場に|留《とど》まれる潮時が来たことを察した。
問題となる人物の|出《で》|端《ばな》を|挫《くじ》くことや、ひとの先手を打つことなどは、この|狡《こう》|猾《かつ》な老魔道師にとっては|造《ぞう》|作《さ》もない。
しんがりをバルドザックに|任《まか》せ、マリエは女王を伴って優雅に老魔道師の後に続いた。
振りかえった女王の|瞳《ひとみ》に目でうなずき、ファラ・ハンがその後に続こうと一歩踏みだす。
抱きかかえたままだった赤ん坊の|飛竜《ひりゅう》が、その細腕には少し荷が重かったのか。
踏みだしたものの、重心を|崩《くず》してふらりとファラ・ハンがよろめいた。
とっさに腕を伸ばし、ディーノがファラ・ハンの肩をつかんで倒れこむ背を抱きとめる。
反射的に、体勢を立てなおそうと一度大きく広げられかけた翼は、ふわりと上にあげられたところで止められた。ディーノの腕に当たった翼から、きらきらと細かい羽毛が舞い散った。
罪のない動作で首をかしげ、赤ん坊の飛竜はぱたぱたと自分の背中にある小さな翼を動かす。
|大《おお》|股《また》で歩を進め、素早くファラ・ハンの横に入ったシルヴィンが、ファラ・ハンの腕に抱かれたままの|飛竜《ひりゅう》の赤ん坊の翼の端をつかんだ。
飛竜の扱い方を熟知している手つきを感じ、赤ん坊の飛竜は自分の翼をつかんだ者のほうにきゅるんと首をめぐらせた。
「いいかげんに下りなさい」
水色の|瞳《ひとみ》でシルヴィンが小さな飛竜を|睨《にら》みつける。
しつけは幼いうちからきちんとしておかなければならない。ひとのあいだで育つ飛竜には、特に重要なこと。竜使いの村で育ったシルヴィンとしては、ごく当たり前に身についた習慣だ。
小さな飛竜は怖い顔をして見下ろすシルヴィンの目から逃れるように、翼をつかんだ手を|跳《は》ねのけて、小さく翼をたたんだ。ファラ・ハンの胸に顔を埋め、薄絹の衣服をしっかりとつかんで、いやいやするように首を振る。
量感のある形のいいまろやかな胸のふくらみが、小さな飛竜の動きに押されて揺れた。
「きゃあ! やめて! くすぐったい!」
たまらず、くすくす笑いながら、ファラ・ハンは身をよじる。
ファラ・ハンの背に腕を回し、支えたままだったディーノは、甘ったれた飛竜の仕草に、むっと|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に|眉《まゆ》を寄せた。
少しまえ、薄い衣服を|挟《はさ》んで強く抱きしめたことのあるファラ・ハンの体の感触は、まだ記憶に新しい。すべやかな|肌《はだ》の優しいぬくもりや、|鼻《び》|孔《こう》をくすぐる甘い体臭、胸の|双丘《そうきゅう》の|瑞《みず》|々《みず》しい果実に似た弾力のある確かなやわらかさは、鮮烈な印象をもってディーノの体に刻まれている。
じゃれる小さな飛竜に揺れるファラ・ハンの胸の動きは、間近で見る羽目になっているディーノにとって、みょうに生々しく、しかもひじょうに|面《おも》|白《しろ》くないものだった。
|無《む》|雑《ぞう》|作《さ》に出されたディーノのもう一方の手が、小さな飛竜の|襟《えり》|首《くび》をつかんだ。
|有《う》|無《む》を言わせぬ簡潔な態度で、ファラ・ハンから引きはがす。
強い力でがしりと|捕《つか》まえられた|襟《えり》|首《くび》にびっくりして肩をすくめ、赤ん坊の飛竜はつかんでいたファラ・ハンの衣服から、思わずぱっと手を放してしまっていた。
ディーノの起こした唐突な行動に驚いたのは、ファラ・ハンも同様である。
小さな飛竜は首をめぐらせて、自分をつまみ上げた者を見た。
睨んでいたのは、きりりと引きしまった顔立ちの、りりしく勇猛な若者だった。
「キャウイ!」
小さな飛竜は喜んで大声で叫んだ。
真正面でぱかっと開いた飛竜の口に、一瞬炎を吐きかけられるかと思ったディーノが驚く。
身の危険を感じ、ディーノはつかんでいた手を開いて勢いよく|飛竜《ひりゅう》を振りすてる。
ぶんと振りすてられた小さな飛竜は、翼を広げながら素早く|尻尾《し っ ぽ》をディーノの腕に巻きつけた。
勢いの反動を利用し、振り子の要領でディーノにびたんとひっつく。
しっかりと小さな両手でディーノの腕にしがみつき、肩口目指してよじよじと昇った。
たくましいディーノの腕を抱きかかえ、キュピキュピと小さく|哭《な》きながら目を閉じて、盛りあがった形のいい筋肉に|頬《ほお》ずりする。
ぱさぱさと翼が開閉し、尻尾がひらひら振られた。耳がふかふかと動き、|鼻《び》|孔《こう》がふくらむ。
すっかり|御《ご》|機《き》|嫌《げん》な様子だ。
むむっと口を真一文字に引き結び、ディーノは|眉《まゆ》をしかめて目を寄せた。
まぁどうしたものかしらと目でうかがったファラ・ハンに、シルヴィンはそ知らぬふりをし、先に立って歩きだした。
相手がディーノなら、シルヴィンがとやかく口出しできる相手ではない。
ディーノはシルヴィンにとって大勢の仲間の|仇敵《きゅうてき》である。|憎《にく》んでもなおあまりある男だ。
たとえディーノが死ぬほど迷惑していたって、どうこうしてやりたくもない。
甘やかしは飛竜の教育上よいとはいえないが、あれくらいの重りをぶら下げたくらいではディーノの行動を規制することはない。
当人には|邪《じゃ》|魔《ま》なお荷物だろうが、あの腕をチビが気に入ることに不都合はない。
赤ん坊であれ、飛竜は炎を吐く。
至近距離で浴びせられる炎の攻撃を受ければ、いかに無敵のディーノであっても歯が立たないはずだ。
この小さな飛竜に対するには、腕一本が完全に封じられているし、ディーノが剣を拾うのと飛竜が炎を吐くのとでは、炎のほうが早い。
飛竜がディーノの手の届かない高みに逃げのびるほうが早い。
飛竜に危険は及ばない。
ディーノが|怪《け》|我《が》することは、本来|敵討《かたきう》ちをしたいシルヴィンにとって、むしろ望ましい。
だから問題はない。
肩をつかんで背に回されていた腕を放され、足場を踏みかえてきちんと自分の足で立ったファラ・ハンは、きょとんとしながらディーノと小さい飛竜を見る。
わずらわしいとばかりに、ディーノが飛竜のひっついた腕を大きく振る。
その動きに従って、振り落とされようとしている飛竜は|嬉《き》|々《き》としてキュイキュイ哭きながら、ディーノの腕になおしっかりとしがみついた。何もされないで放置されるより、かえって楽しそうだった。遊んでもらっているつもりだ。
むっとしたディーノと大喜びの|飛竜《ひりゅう》とは、間抜けなコンビネーションに見えて|滑《こっ》|稽《けい》だった。
|口《くち》|許《もと》に手をやり、くすくすと笑ったファラ・ハンを、ディーノが横目で|睨《にら》んだ。
当人はいたくご立腹の様子だ。
ファラ・ハンは申し訳程度に、声を殺し、|小《こ》|鳩《ばと》のように|咽《のど》を鳴らして、小さく笑った。
きまり悪そうにディーノは横を向いてファラ・ハンから顔を|背《そむ》けた。
ゆっくりと追い越しながら振りかえり、|微《ほほ》|笑《え》んでレイムがファラ・ハンをうながす。
うなずいて、ファラ・ハンはレイムの後に続いた。
「行け」
|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》な切り口上で、バルドザックがディーノをせかした。
剣を抜き、その切っ先をもって追い立てようとするかのような目だった。
もともと仲がよくないだけに、ちょっとしたことでもすぐにこの二人は険悪な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》になる。|一触即発《いっしょくそくはつ》のその機会を待っているかにもとれる。
ディーノはすうっと目を細め、バルドザックを睨みかえした。
|喧《けん》|嘩《か》ごしのバルドザックの態度に、ディーノの腕にしがみつく飛竜も|嫌《いや》な顔をした。
飛竜は、この男はディーノの敵であり、一大事かもしれないと感じた。
「カオ!」
一人前に|威《い》|嚇《かく》した。
威嚇したくせに、バルドザックの視線が向けられかけると、ディーノの陰になるよう、ぐるんと腕にしがみついたまま回りこんだ。
|脅《おび》えながらもそっと頭をあげ、ちらちらバルドザックの様子をうかがう。
自分から戦うつもりはまったくないくせに、いけ、やってしまえ、といわんばかりに、鼻の頭でちょいちょいとディーノをつついた。
先んずれば有利だ、いまのうちだと、無責任に応援した。
小さな味方の存在に。
ディーノは晴れやかに笑った。
バルドザックは|茫《ぼう》|然《ぜん》とした。
いくら世界最強の動物、無敵の飛竜といっても、こんなにちびっこい奴など、一人前の剣士の前にはものの数ではないのだ。
ディーノは笑いながら、落とした長剣を拾いあげて背負った|鞘《さや》に収め、数歩の大きな歩調でいっきにファラ・ハンたちに追いついた。
首だけバルドザックに振りかえった小さい飛竜が、これみよがしにぴろりと|舌《した》を出す。
飛竜に毒気をさらわれたからであるが、バルドザックを相手にしなかったディーノに、|飛竜《ひりゅう》はどうやら彼が|喧《けん》|嘩《か》するだけの価値がなかったのだろうとの判断を下したようである。
腕にしがみついたままの小さな飛竜は、ディーノになくてはならない|相《あい》|棒《ぼう》のように、ちゃっかりとその地位を確保しつつあった。
あきれて立ちつくし、ぽつんと一人取り残された形になったバルドザックは、我にかえって置き去りになった自分の間抜けさに恥じいり、真っ赤になりながら走って一行の後を追った。
ディーノたちと行動をともにする三頭の飛竜たちは、ゆるやかに巨大な翼を広げ、彼らの向かった場所に向けて舞い立った。
「|約束の言葉《ハイ・ハー・ウー》 |いつかかなう夢へと進もう《ゼータ・デナ・イティス》」
見送る人垣の中。
まるみを帯びた優しい子供の声が歌った。
歌を送ると言っていた、あの子供の声。
せっせと練習したそれを、今こそ披露する時が来たのである。
「|どこまでも遠く《カウ・セラ・ヴァイ》 |道は続いていく《ラピス・オルト・パース》」
古代語を使った古い歌。
繰りかえされる音。
ひどく懐かしい、耳に|心《ここ》|地《ち》よい歌。
歌を学び練習を積んだ子供の声に。
いつしか大人たちの声も混じっていた。
歌いながら。
自らが世界を|委《ゆだ》ねた者たちを見送った。
|望《ぼう》|星《せい》|楼《ろう》は王宮の中央に位置する、|瀟灑《しょうしゃ》な白亜の塔である。星を望むという名のとおり、もっとも天に近くそびえたっているのだが、王宮の外からは、王宮の|尖《せん》|塔《とう》や他の建物に隔てられて、なかなかその姿を見ることはできない。
望星楼の管理を|任《まか》されているのは、マリエと同等の実力をもつ女性宮廷|白《しろ》|魔《ま》|道《どう》|士《し》数名のみ。
優秀な高級魔道士の資格をもち、|女《にょ》|官《かん》として王宮に仕える女性から選ばれた者が、望星楼を守っているのだ。
彼女らは命にかえてもこの建物だけは死守するという、強固な使命を帯びている。
またそうまでされるべき、重要な建物ではある。
輝いてさえ見える純白の魔道士|装束《しょうぞく》に身を包んだ二人の美しい女官が、望星楼に近づく老魔道師一行の姿を見つけ、しずしずと|扉《とびら》の前に控えた。
やや細かく敷き詰められた|石畳《いしだたみ》、かすかに色の違う|敷《しき》|石《いし》を混ぜて|望《ぼう》|星《せい》|楼《ろう》を囲む形に描かれた複雑な|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》を踏み越えながら、|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》は彼女らにうなずいてみせた。
魔道士を伴わなければ絶対に侵入かなわない、難解な魔法陣。注意して見なければ、魔法陣がそこに描かれていることを見抜くことすら困難である。
目の前に望星楼を置きながら、発見できず、そこにたどり着けない侵入者は多い。
少年の頃何度も王都に忍びこみ、警備の厳しい王宮ですら自分の庭のように隅々まで勝手知ったるさすがのディーノも、これを間近で拝むのは初めてだ。
特殊なこの魔法陣には高級魔道士一人につき魔道資格をもたない者を一人しか侵入させることはできないのだが、老魔道師エル・コレンティに関しては同行者の人数に不可能はない。
フードを深くかぶって人相こそはっきりしなかったが、|痩《や》せて老いた今もなお巨大な骨格をもつ体格や、引き連れきた人数で、彼が本物のエル・コレンティであることは証明された。深緑色の見習い魔道士の|装束《しょうぞく》をまとったレイムは、むろん連れの人数に数えられている。
従いきた三頭の大きな|飛竜《ひりゅう》は、望星楼のそば、王宮の|尖《せん》|塔《とう》の上に舞い降り、主人たちの行動を見守った。
老魔道師に指示され、二人の白魔道士は、彫刻を施された望星楼の|扉《とびら》をゆっくりと開く。
普段ならこれほどまでに大勢の人間を入れることはない塔。
遠くから眺めることさえかなわない塔。
女王トーラス・スカーレンですら、おいそれと中に入ることはできない塔。
この世界の秩序を知るべくもない|招喚《しょうかん》の|乙女《お と め》たるファラ・ハンと、なんに関しても自分は特別であると思ってはばからないディーノを除き、その重要性を知る者たちは皆それぞれに緊張しながら塔の中に足を踏み入れた。
|薫《た》きしめられた|黒《こく》|蓮《れん》の香の匂い、後頭部にからみつき頭の|芯《しん》をぼうっとさせるような甘い薫りが、かすかな重みをもって空気の底に沈んでいる。一人一人が歩き、空気がかき乱されるたびに、ぶわりと薫りが舞い立つかのように感じられる。
ひと一人が通るためのたっぷりした幅の、最上階に上る階段だけが作られている小部屋の扉が開かれ、彼らは順に中に入った。
老魔道師は階段の手前で振りかえり、うやうやしく礼をして、女王とファラ・ハンを招き寄せる。マリエが老魔道師のそばに寄る。
何事かしらとそばに歩み寄ったファラ・ハンと、女王、そしてマリエに、老魔道師は大きく広げた自分の|法《ほう》|衣《え》をかぶせ、身を沈ませた。
|紫《むらさき》に輝く黒い法衣は実体のない影となり、|氷塊《ひょうかい》が|融《と》けるようにすうっと|床《ゆか》にしみこみ、消える。
|魔《ま》|道《どう》による近距離の移動だ。
「一番上までだ」
かねてから示し合わせていたとおり、一番先頭に立ったバルドザックが振りかえって言った。言い終わるやいなや、すたすたと階段を上りはじめる。
バルドザックがためらいもなく先頭に立つことができたのは、いかに|手《て》|癖《ぐせ》のよくない勝手気ままなディーノであっても寄り道するような場所がどこにもないからだ。
ひきかえそうにも、|扉《とびら》は閉ざされている。
魔道の色濃い建物の中、どう力責めにしようと無駄に終わるだろうことは無茶なディーノでもわかるはずだ。
最後尾をディーノにしても、なんの不安もないわけだ。
「はい」
苦笑し、レイムがその後に従う。
「隊長さん、ちょっと待ってよ。どうしてわたしだけ歩いて上るの?」
ぶすっと|唇《くちびる》をとがらせて、シルヴィンがバルドザックに問いかけた。
女性を大切に扱うというのなら、当然シルヴィンも優遇されてしかるべきなのだ。
置いてきぼりを食って|面《おも》|白《しろ》いはずがない。
バルドザックは決まり悪そうに視線を上向け、髪を|掻《か》きあげた。
冷や汗もので言葉を探す。
「動きやすそうな格好だからでは、ないだろうか」
苦しく言い逃れた。
フェミニストなバルドザックには、シルヴィンが見るからに健康的で、武人として体を鍛えていない普通の男たちよりもはるかに丈夫そうだからだとは、口が裂けても言えない。
「そう」
王都に向かうというので普段よりはおしゃれにしていたとはいえ、|竜使《りゅうつか》いらしい男身なりの服装に違いないシルヴィンは、|不承不承《ふしょうぶしょう》納得するしかなかった。
一度も着たことはないが、あんなふうに|裾《すそ》を引く長衣を着ていては、さぞかし階段は上りにくかろうと想像した。
シルヴィンなら、想像してみるまでもなく、着た途端に裾を踏みつけることが明白だ。
「ふん」
目を細めて、ディーノが鼻を鳴らしてあざけり笑った。
バルドザックの言い訳も|滑《こっ》|稽《けい》だったが、そんなもので丸めこまれるシルヴィンも|馬《ば》|鹿《か》だ。
あからさまな|侮《ぶ》|蔑《べつ》に、シルヴィンは立ち止まってディーノに振りかえり、|睨《にら》みつける。
「何よ」
なりばかりは大きいが頭のほうはその分栄養が回らなかったと見える、恐れ知らずの|果《か》|敢《かん》な少女に、ディーノはすうっと目を細める。
意地悪く問いかけた。
「言ってほしいのか?」
|田舎者《いなかもの》の|山猿娘《やまざるむすめ》だから置いていかれたのだと。
乱暴で下品な男女など、あの高尚な|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》が|面《めん》|倒《どう》を見たくなかったのだと。
お前のような娘が、ファラ・ハンや女王と同じ扱いをされるはずがないだろうと。
勝ち誇ったように、ディーノは|顎《あご》をあげ、薄笑いを浮かべた。
「キュア!」
小さい|飛竜《ひりゅう》が、さっきいじめられた仕返しがてら、ディーノと一緒になってシルヴィンを|揶《や》|揄《ゆ》する。
女性でありながらただ一人、自分の手足のように飛竜を使いこなせる『竜使い』の呼び名をもらい、男性と同等に、いやそれ以上の特別な目で尊敬され、里の者たちから大切に大切に扱われてきたシルヴィンは、正面きってこんな|侮辱《ぶじょく》を受けたことはなかった。
ものすごいとまではいかなくても、そこそこ整った顔立ちをしていると、シルヴィンは自分をまずまずに評価している。女性らしいやわらかさやしとやかさ、優雅さこそ欠けているかもしれないが、女性であることを否定されたことなどこれまで一度もなかった。
ましてや、こんな人間の|屑《くず》である|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》にとやかく言われる覚えはない。
誰もが|恋《こ》い|焦《こ》がれてやまぬ優しく|麗《うるわ》しい|乙女《お と め》、ファラ・ハンを目にし、美しく高貴なる女王トーラス・スカーレンを目にしたシルヴィンが、自分で気づかないまま心の奥底にたまっていた|劣《れっ》|等《とう》|感《かん》が、ディーノによって無残にさらけ出されていた。
シルヴィンは目をつり上げ、|唇《くちびる》を|噛《か》みしめて、白くなるほど強く両の|拳《こぶし》を握りしめた。
反射的に手が出そうになるのを、必死でこらえた。
自らを王であるなどと豪語し、向かうところ敵なし、誰であろうと|容《よう》|赦《しゃ》しない非道の|極《ごく》|悪《あく》|人《にん》であるディーノの|頬《ほお》を張ろうものなら、ただではすまない。
鬼神と並び称されるような男に手をあげて、五体満足でいられようはずがないのだ。
はらわたが煮えくりかえるほどに悔しかったが、結果の見えた無謀な行為をしたくはない。
さらに|面《おも》|白《しろ》くないことに、女性であるシルヴィンの生理は、極度の興奮状態に際し、泣きたくもないのに目に涙を浮かべた。こればかりは理性でもどうしようもない。
後続者が立ち止まったことを感じて、レイムが歩みを止めて振りかえった。
レイムに完全に背中を向けて、細かく震えわななくシルヴィンがいた。
|蔑《さげす》みの表情を浮かべ、シルヴィンを見返すディーノがいる。
やり取りされた言葉数こそ少なかったが。
状況は最悪であることがわかった。
この二人、どちらかがひとこと言うたびに|喧《けん》|嘩《か》ごしであったことを、レイムは思い出す。
大半の場合、ディーノが悪いのは、立腹したことのあるレイムにはわかっている。
わかっているが、レイムはまだ彼らよりも「大人」だった。
この険悪な状況をなんとかし、穏やかに仲裁に導くには、シルヴィンからなだめにかかったほうがいいと判断する。
|溜《た》め|息《いき》をつき、仕方ないなと淡く|微《ほほ》|笑《え》む。
「シルヴィン、どうしたんだい? 疲れたかい?」
彼女が歩を止めたことに対して、優しく尋ねた。
唐突に自分にかけられた声に、シルヴィンがびくんと背中を震わせる。
興奮のおさまりきらないこわい|面《おも》|持《も》ちで、レイムに首をめぐらせた。
ぎっとつり上がったままの水色の|瞳《ひとみ》は、いまにも泣きだしそうに|潤《うる》みきっている。悔しさの絶頂というところか。
レイムには悔し涙を必死でこらえている様子が、けなげでむしょうに|可《か》|愛《わい》らしく見えた。
「まだまだ先は長いよ。女王様たちは上で待ちかねていらっしゃる。さぁ」
微笑んで、荷物を持たぬ右手をさし出す。
たおやかな女性に対する|所《しょ》|作《さ》。
男としては整えられた、指の細い、白くて|華《きゃ》|奢《しゃ》なレイムの手。やわらかそうな肉づき。
それを目にし。
かっとシルヴィンの頭に血が昇った。
シルヴィンの|劣《れっ》|等《とう》|感《かん》を刺激したのは、何もファラ・ハンや女王にかぎったものではない。
彼女にとって一番むかっ腹の立つのが、誰あろうレイムだった。
男のくせに女のシルヴィンよりも華奢で、繊細そうで、優雅で。
そしてそのうえ。
神秘を|操《あやつ》る|魔《ま》|道《どう》|士《し》であり、勇猛な剣客なのだ。
世界救済の望みを|担《にな》う聖戦士の一人なのだ。
長い|睫《まつげ》に囲まれた、きらきらとたくさんの星を浮かべる|綺《き》|麗《れい》に澄んだ|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》や、すんなりととおった細く高い|鼻梁《びりょう》も、穏やかで優しげな顔立ちも、なにもかもが気にくわなかった。
身長に大差なく、そのうえ骨太なシルヴィンを、レイムが支えきれるはずはない。体重など、おそらくシルヴィンのほうが重いはずだ。
シルヴィンは言葉を発することもできず、真っ赤になってレイムを|睨《にら》みつけた。
親切めかしてさし出された手を勢いよく払いのけ、レイムを乱暴に押しやって道をあけさせ、ずかずかと先に上った。
胸に手を突かれて思いきり壁に押しつけられたレイムは、きょとんと目を丸くする。
女性といえばなよやかな美女ばかりに囲まれていた、姫君づきのもと宮廷芸人のレイムにとって、シルヴィンの力は予想だにしないものだった。
まさに男勝り、というやつである。
|力任《ちからまか》せのとっ組みあいになれば、真剣にやっても、おそらくレイムが負ける。
気性の荒さにおいても、シルヴィンはレイムに|御《ぎょ》しきれる相手ではなかった。
まさか自分がシルヴィンの劣等感を刺激している張本人の一人であるなどとは、レイムは夢にも思っていない。
背中に|痣《あざ》をつくり、壁にへばりついて目をぱちぱちさせながらシルヴィンを見送っているレイムの横を、ディーノが通り過ぎた。
「キャウ」
ディーノが横目でレイムを|一《いち》|瞥《べつ》し、小さな|飛竜《ひりゅう》が|哭《な》いた。
ディーノにはシルヴィンがレイムに対し|憤《ふん》|慨《がい》した理由がわかっていた。
レイムは首をかしげ、いったい何がいけなかったのかわけがわからないまま、彼らの後を追った。
ずんずんと足を鳴らしバルドザックを追い立てるようにして階段を上りながら、シルヴィンは手の甲でにじみ出た涙を乱暴に|拭《ぬぐ》いすてた。
小さな明かり取りだけが上のほうに|穿《うが》たれていた階段は、どこまでも果てることなく続いているかに感じられた。
第四章 |闇扉《やみとびら》
|望《ぼう》|星《せい》|楼《ろう》の最上階。
そこは星空を描いた開閉式の高い|丸天井《まるてんじょう》を持つ、高い位置に作られた窓から光がさしこむ部屋である。
星を望むという呼び名にふさわしく、星々の運行や天体観測、環境保護や気象観測のための装置や貴重な模型が数多く置かれている。
ぐるりと部屋の壁を囲んだ|書《しょ》|架《か》の中、たくさんの書物が詰めこまれている。
講義資料用の大きな布幕が、巻かれて何本も、書架の角に立てかけられている。
あちらこちらにあるいろいろな形、大きさ、高さの台の上には、研究途中の書物が重ねられ、広げられ、小道具らとともに置かれている。
|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》に連れられて訪れることとなった|招換《しょうかん》の|佳《か》|麗《れい》は、初めて目にするそれらに目を丸くした。
大きさを変えて|幾《いく》|重《え》にも固定された銀色の金輪を、それぞれに速度を変えて、|滑《すべ》るようにくるくると回る惑星の模型。
時を刻む様々な形の砂時計、水時計。
いろいろな大きさ、形のクリスタルの筒の中に、生みだされては消えてゆく、熱さをもたない|幻《まぼろし》の炎。
水槽に似たクリスタルの装置の中で暖められ、|孵《ふ》|化《か》を待つ何かの卵たち。
内臓を|晒《さら》し、あるいは取りだされてなお、生きている標本たち。
装置らしいもののあいだに浮かぶ、金属で作られた|飛竜《ひりゅう》の複製品。
実体をもたぬ虚像の動物たち。
捕らえられ、研究の対象となっている|妖《よう》|魔《ま》。
違った条件を与えられながら培養される植物。プリズムを通して分離させた不可視光線を浴びせられ、徐々に|変《へん》|貌《ぼう》を遂げてゆく種子たち。
青くくゆる光。赤く|弾《はじ》ける光。黄色く煙る光。コイルの端々で|煌《きら》めくものたち。一瞬にしてすべてのもの、恒久的に存在し続けるもの。
人工的に作りだされた雲が、白い霧のようにクリスタルの管からこぽこぽと銀盆に溢れ、|床《ゆか》に|滴《したた》り落ちている。
燃料の|乏《とぼ》しい昨今、この模型たちを動かし続けているのは他ならぬ|魔《ま》|道《どう》そのものである。
工学的な装置の根源を、魔道が支えている。
部屋に置かれたいくつもの|燭台《しょくだい》の上でかすかに揺らめきながら燃えている、魔道の|焔《ほのお》。
ひととおり見て取って。
ファラ・ハンは、これこそがこの世界の縮図であるような気がしていた。
科学と魔道。
混在し、お互いに支えあって成り立っている世界。
ファラ・ハンの感覚において、本来なら相いれぬ二つのものたち。
部屋に溢れ、はみでそうなほどの知識。
これほどまでに蓄積されたものがありながら、急発展していかぬ、文明世界。
どれほどの時が流れていたのかは、教えられなくても目で見て知ることができる。
こまめに手入れされ、補修と修繕を繰りかえし、何千年何百年という長き時代を耐えてきた建造物がここにある。
二百年という|齢《よわい》を重ね、生きてきた老魔道師がここにいる。
この世界を支えていた『時の|宝《ほう》|珠《しゅ》』。
それはもしかすると。
基本的にとてももろいものであったのかもしれない。
あるいは、ちょっとしたことで崩壊してしまうような。
夢のようにはかない、美しい世界。
「こちらへ、ファラ・ハン」
涼しい声で、女王が誘った。
はっと我を取りもどし、ファラ・ハンは呼びかけてきた女王を捜す。
部屋の中央に置かれた円卓。
つややかな|漆《しっ》|黒《こく》の石を切って作られた、巨大な|滑《なめ》らかな台。
この上に|招喚《しょうかん》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》を描き、ファラ・ハンを呼びだしたあの儀式を行うこともできるだろう、途方もない大きさだ。
|飛竜《ひりゅう》や|魔《ま》|道《どう》、それらに類するなにがしかの力を使い、あの|天井《てんじょう》、開閉式のあれから、この|望《ぼう》|星《せい》|楼《ろう》に運びこんだものだろう。継ぎのないこの形は、狭い階段などを使ってとても運びこめるものではない。
細かな傷一つない、水鏡のような表をもつ円卓を、驚異の目でファラ・ハンは見た。
見下ろす自分の顔の細部まで、くっきりと見てとれる。
「あまりのぞきこんではいけませんよ」
マリエは人指し指を立て、片目をつぶって、いたずらっぽくファラ・ハンに注意をうながした。
「これは『影の鏡』とも呼ばれる、不思議な力を秘めたものでございますからね。身を乗りだしすぎますと、中から|妖《よう》|魔《ま》の手が伸びて、|闇《やみ》の果てへと引きこまれることもございます」
びっくりして|綺《き》|麗《れい》な青い|瞳《ひとみ》を見開き、ファラ・ハンはおずおずと後じさった。
自分の無力さは、ファラ・ハン自身が|嫌《いや》というほどに知っている。
魔道という不思議の前にはあらがう|術《すべ》がないにしろ、常に堂々と構えていられるだけの図々しさも、彼女にはない。
何者をも恐れることのない、無遠慮で厚かましい、自信たっぷりな一人の男の存在が、なぜだか|無性《むしょう》に頼もしく、懐かしく思えた。
おそらくは。
ただ服の端、そのマントの|裾《すそ》の一部を握っていただけでも、ファラ・ハンの胸の、このどきどきとおののく感触はなくなるはずなのだ。
約束したわけでも、誓われたわけでもなかったが。
なぜだか、あの男だけは必ず自分を守ってくれるような、そんな気がしていた。
|有《う》|無《む》を言わせず抱きしめ、|唇《くちびる》を奪おうとした無礼な|輩《やから》であり、きっぱりと拒絶した男であるのに。
見あげるほどに背の高い、がっしりとした筋肉質な|体《たい》|躯《く》。
そばにないその質量が、みょうに寒々しい。
思わず自分で自分をかばう形に、ファラ・ハンは手を胸の前に引き寄せ、握りしめた。
ファラ・ハンの|可《か》|愛《わい》らしい仕草に、女王が笑う。
「おやめなさい、マリエ。怖がられてしまったではありませんか」
ちょっと心細い顔で、ファラ・ハンはマリエを見る。
「|嘘《うそ》、ですの?」
今にも泣きそうな、震える高くはかない声で尋ねる。
マリエは母親のように|温《あたた》かな|笑《え》みを浮かべた。
「まるっきりの嘘ではございませんよ。これで|魔《ま》|物《もの》を呼びだすこともできるのですから。これは一つの抜け穴、様々な場所に通じる窓と同じ性質をも合わせもっております。ファラ・ハンがそばにいることを感知して、寄ってくる|不《ふ》|埒《らち》な|輩《やから》がいないともかぎりませんでしょう? ことファラ・ハンにおかれましては、用心し過ぎて困ることはありませんわ」
なるほどと納得して、ファラ・ハンはうなずいた。
マリエは楽しそうに|微《ほほ》|笑《え》む。
「それと。これはごく特別な場合だけですけれどもね。これを使ってひとの心の中をのぞくことだってできますのよ。深き真実において、誰が誰のことを想っているのかとか、本当の心を知ることもできますの」
誰が誰のことを想っているのか。
きゅんと、ファラ・ハンの胸が痛んだ。
それは、自分の記憶を呼び起こすことすら、可能であるかもしれない。
苦しいほどに|焦《こ》がれていた想いが、|蘇《よみがえ》る。
思い出せない、誰か。
その姿が。
記憶に新しい一人の男のものとすり代わって。
ファラ・ハンはびっくりして、叫び声をあげかけた。慌てて|口《くち》|許《もと》を手で押さえる。
思いもよらない過激な反応に、女王とマリエはまじまじとファラ・ハンを見つめた。
上目づかいでちらりと見回したファラ・ハンは、自分が注目されていることを知る。
ぱああっと、ファラ・ハンの|頬《ほお》が|薔《ば》|薇《ら》|色《いろ》に染まった。
マリエがいたずらっぽく目を細めた。
「想い人に心当たりがおありのご様子ですわね。なんなら、その殿方の心をのぞくこともできますのよ。あなた様の想いを|伝《つて》にして、ほかの時空に存在する者にだって、働きかけてみせますわ。御心配は無用でございます。このマリエにお|任《まか》せくださいまし」
「いえ、あの、そうではなくて……」
「で、なんでございますか、その方のお名前ですとか、特徴ですとか、あぁ、恥ずかしければ、お名前は|内《ない》|緒《しょ》でも結構でございますよ。どのような方なのか、できるだけ詳しくお教えくださいましね」
きゃらきゃらと|華《はな》やかに、マリエはまくしたてる。
ファラ・ハンはますます|頬《ほお》を赤くし、困り果てたように顔をうつむけた。
忙しく|瞬《まばた》きされる目の、長い|睫《まつげ》が、みょうに|可《か》|愛《わい》い。
トーラス・スカーレンがくすくすと笑った。
「からかうものではありませんよ、マリエ。ファラ・ハンがお困りになられてます」
たしなめられ、マリエはおほほほと豪快に笑った。
「申し訳ございません。あんまりお可愛らしいものでございますから、つい」
笑うたびに、ゆったりと|肥《こ》えた肉が大きく揺れる。
マリエのような熟女たる女に、到底ファラ・ハンなどかなうはずもなかった。
笑うマリエとトーラス・スカーレンを、少しばかり|恨《うら》めしげな上目づかいで見る。
移り気かもしれない自分の心が、情けなくもあった。
どうして、苦しいほどに想い続けていた者のことをさしおいて、いきなり|強《ごう》|引《いん》に現れでた男に心を移さねばならないことがあるのだろうか。
ファラ・ハンは、自分をそんなうわついた気持ちの者ではないと信じたい。
|一《いち》|途《ず》になりきれないことを、否定できず、恥じている。
なぜこうなってしまうのだろうと、考えた。
なぜこんなふうに苦しまねばならないのだろうと思った。
以前。
これと同じ疑問をもったことがあることに、ファラ・ハンは気づいていない。
気がつけば。
もっと早くに、すべての結末をむかえることができたはずなのだ。
隠れる場所とてない一部屋の中、いったいどこにいたのか、ふらりと真横に歩ききた|大《おお》|柄《がら》な|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》に、びくりとファラ・ハンは姿勢を正した。
エル・コレンティは、静かに|屈《かが》みこみ階段に通じる|跳《は》ねあげ|扉《とびら》を開く。
ちょうどいい間合いだったらしく、扉を押し開けようと腕を伸ばしたバルドザックが頭をのぞかせた。
階段を上りきった連中が、無事に到着した。
|憮《ぶ》|然《ぜん》とした表情で上りきたシルヴィンに、目ざとくファラ・ハンが近づいた。
目の前に進みくるファラ・ハンに、シルヴィンは足を止める。
伝説の聖女、背中に純白の翼を持つ華麗な|乙女《お と め》が、自分から歩み寄ってくるなどとは、思いもよらなかった。
棒立ちになったシルヴィンに、ファラ・ハンは間近く寄る。
少しばかり乱れたシルヴィンの前髪をそっと直し、日焼けした浅黒い頬に手を当てる。
ゆるやかに波打つシルヴィンの|亜《あ》|麻《ま》|色《いろ》の髪は、|陽《ひ》に焼けて細く、見た目よりもやわらかい。
若いがゆえに張りがあり、よく洗いこまれて清潔に保たれているだけにつるんとした、シルヴィンの|肌《はだ》。引きしまった|頬《ほお》はかすかに汗ばみ、上気してほかほかと|温《あたた》かかった。
「疲れましたか? 気分でもすぐれませんか? どうかしましたか?」
ファラ・ハンは静かに尋ねた。
まっすぐにシルヴィンだけを見つめる、どこまでも深く|透《す》きとおる海とも、|遥《はる》かなる空の高みとも見える、澄んだ青い|瞳《ひとみ》。
引きこまれそうに神秘的で、純粋な優しい青。
シルヴィンの生まれ育った自然そのものを思い出させる、青い色。
くすんと、シルヴィンの鼻が鳴った。
ひどく懐かしい感じがした。
幼い頃から顔見知りの近所のお姉さんを前にしたときのように、みょうに親密なものがあった。
いつかどこかで、これとまったく同じことがあったような、|既《き》|視《し》|感《かん》があった。
ファラ・ハンに軽く手を触れられているだけで、そこからじんわりと温かいものが体全体に流れこんでくる気がした。
心悩ませた|面《おも》|白《しろ》くない出来事を、あらいざらいぶちまけてすがり、思いきり泣きたい衝動に駆られたが、なんとか思いとどまった。
周囲のひとの目を感じられるだけの気持ちの余裕はあった。
ほっと心安らげる相手を見いだして、シルヴィンの気持ちがなごんだ。家に帰って家族の皆にたっぷり甘えた後のような充実感があった。
シルヴィンは瞳を閉じ、ふんわりと|微《ほほ》|笑《え》んで、ゆるく首を振った。
心配する必要はないのだと、態度で示した。
頬に当てられたファラ・ハンの手を、そっとはずす。
|華《きゃ》|奢《しゃ》で小作りな|繊《せん》|手《しゅ》。あったかく、|餅《もち》のようにふんわりとやわらかい。
シルヴィンはびっくりして、まじまじとファラ・ハンを眺めた。
自分にあれほどの安心感を与えた人物の、思いもよらない小ささに、驚く。
シルヴィンがつかんでいたのは、握ったときに親指の先が人指し指の第一間節のところに当たるような、あまりにも細い手首だった。
白い|項《うなじ》をもつ首も、|襟《えり》|元《もと》から|垣《かい》|間《ま》見える|鎖《さ》|骨《こつ》も、細くやわにできている。
薄い皮膚を|透《す》かして、脈打つ血管のありかまで見ることができる。
骨格など、ひょっとするとシルヴィンの半分ほどの太さにすぎないのではないかと思った。
|鍛《きた》えあげた筋肉の存在を見ることのできない肉体は、シルヴィンが考えるよりもずいぶん軽いはずだ。
|頑丈《がんじょう》が|取《と》り|柄《え》の|竜使《りゅうつか》いの一族の娘であるシルヴィンからすると、ファラ・ハンはひどく心細い存在に見えた。
こんなふうでは、自分の身一つ守れるはずがない。
一般的な武器である長剣だって、この細腕では満足に持ちあげられるはずがない。
しかし。
だからといってシルヴィンは、ファラ・ハンを|蔑《さげす》むことはなかった。
甘んじて守られねばならない人間、守られねば生きられない人間。
現実は、必ずしもそうではないのだが、とにかくシルヴィンにはそうとれた。
そして、このような人間が存在していてもいいのではないかと思った。
自分こそが彼女を守ってやらねばならないという気になった。
この前のディーノの件からしても、男に彼女を|任《まか》せておいては安心できない。
一見なよなよしているあのレイムにしても、シルヴィンに手を貸そうとするような、図々しい抜け目のないところがある。
シルヴィンはファラ・ハンの身を絶対無事に保てる|唯《ゆい》|一《いつ》の存在は自分であると、自覚した。
ファラ・ハンを守り、同行するための、聖戦士なのだ。
女である自分が選ばれたのには、それなりの理由があったのだと、納得した。
奮起し、一つ大きくシルヴィンがうなずく。
晴れやかに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
急に元気になったシルヴィンに、わけがわからないながらもファラ・ハンは微笑みかえした。
「これだけたくさんのガラクタを集めて、いったいなんの役に立つのだ?」
物珍しげに見て回ったディーノが、|居《い》|丈《たけ》|高《だか》に|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》に問いかけた。
簡単にガラクタと言い切ってしまうところが、いかにも彼らしい。
青くなってレイムがディーノに振りかえる。
ディーノの扱い方を心得ているらしい老魔道師たちは、無礼なその物言いにも動じることはなかった。
「集めることに意味があるのではない。作られたことに意味があるのだ。それらは皆、役立つために作られている」
老魔道師は|禅《ぜん》|問《もん》|答《どう》をするような口調で静かに|説《と》いた。
ディーノは目を細める。
返答は理にかなっていた。
永久機関として動き続ける装置に、小さい|飛竜《ひりゅう》は喜んでぱたぱたと翼を開閉した。
どんなに興味深いものがあっても、すっかり保護者と決めこんでしまったディーノの腕から離れる|気《け》|配《はい》はない。見たいなと思うものがあれば、ディーノをせっつく感じだ。
完全に無視するとうっとうしく引っ張られたり突かれたりするので、ディーノはそこそこに小さい飛竜の|機《き》|嫌《げん》をとってお茶をにごす。彼としては非常に|面《めん》|倒《どう》|見《み》がいい。
|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》は、部屋の中央に置かれた円卓のそばにレイムを招いた。
レイムは緊張した|面《おも》|持《も》ちで円卓に歩み寄った。
老魔道師は問う。
「これがなんであるか、わかるか?」
尋ねられているのは円卓のこと。
それがもっている意味のこと。
レイムは透明な|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》で|漆《しっ》|黒《こく》の円卓を見つめ、うなずいた。
わずかに震える声で答える。
「これは『|扉《とびら》』です」
|滑《なめ》らかなる漆黒は、あらゆる|闇《やみ》につながる、影の色。
この世のすべてをあまねく照らした光によってもたらされる、陰の本質をもつもの。
隠されたもの。
秘められたもの。
ひとの目に見えぬもの。
そしてそれら『かげ』の中に引き寄せられ。
六つに|砕《くだ》け散った時の|宝《ほう》|珠《しゅ》のかけらが落ちている。
よどんだ|瘴気《しょうき》に|汚《けが》されながら、存在している。
|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》はレイムに命じた。
「これをお前の力で開くのだ」
簡潔なそれに。
レイムは驚いて顔をあげた。
見つめかえされながら、老魔道師は身じろぎもしない。
試されたのではなかった。
たちの悪い冗談を言うような人物でもなかった。
レイムはかすかに青ざめ、きつく引きしめた|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
目を閉じて知りうるかぎりの秘術を思い起こし、さらに自分の内なるものを呼び起こす。
聖戦士として神秘の聖光に選ばれた魔道士たる自分を、信じた。
現実味こそなかったが、確かに、自分の中に眠っている魔道の力の根源をなすものの存在を知ることができた。
あの聖女|招喚《しょうかん》の広場、シルヴィンを|飛竜《ひりゅう》の|焔《ほのお》から守ったときに初めて感じた、あの魔道士たるものだけのもつ力の感覚だ。
ややあって、レイムは目を開けた。
開けてまっすぐに老魔道師を見た。
|顎《あご》を引き小さくうなずく。
「できると、思います」
自信はなかったが、断言することはできた。
開く、それだけなら、不可能ではない。
「でも……」
レイムは言葉を濁した。
自分一人なら無責任にあきらめもつくが、ファラ・ハンやディーノ、シルヴィンなどを伴って、無事にこれを出入りすることなど、とてもできそうにない。
続きを言いよどむレイムに、老魔道師が近寄った。
枯れた巨大な樹木にも似た|痩《そう》|躯《く》が、頭一つも高い位置から間近くレイムを見下ろす。
俗世に縛られず、神秘とともに生きる、深みのある穏やかな|瞳《ひとみ》がレイムを見つめていた。
そこにいるのに近くない、離れていても遠くない、不思議な人物。
偉大なる|魔《ま》|道《どう》|師《し》。
|畏《い》|敬《けい》の念を払い、顔をうつむけて、レイムはその場にひざまずく。
老魔道師は、|節《ふし》くれだった骨と皮ばかりになった大きな手をレイムの頭上にかざした。
「学ぶ者はけっして慌ててはいけない。積み重ね、繰りかえし覚えることを|怠《おこた》ってはいけない。道を踏み違えて元の位置に戻ることのないよう、注意して記憶していかねばならない」
「はい」
それは魔道士になるための儀式を受けたとき、この老魔道師、エル・コレンティの口から|直《じき》|々《じき》に言い渡されたのと同じ言葉。レイムはそのときの、その日の、一分一秒までもを、こと細かく記憶している。誰がどんな感じに見えたかも。レイムの一生を変えた運命の日。
老魔道師は、|陰《かげ》|日向《ひ な た》なく誠実で責任感の強いこの若者の本質を知っている。|真《しん》|摯《し》なレイムの態度に好感を抱いている。だからこそ、彼が選ばれたことに疑問をもたない。
聖なる光がもっとも好むだろう、若き最良の魔道士。
「受けよ。これより最後の魔道を教授する」
一人前の魔道士となるための魔道知識を。
かしこまったまま、レイムは老魔道師に教えを|乞《こ》うた。
レイムの頭上にかざされた老魔道師の手のひらが、ぽわっと光り輝いた。
熱をもたぬのに暖かい光が、レイムに注がれる。
光にうながされ、しぜんとレイムの顔があがっていた。
|額《ひたい》をもって、光を受ける。
二百年の歳月をかけてエル・コレンティの知り得た様々な魔道が、音もなく、光の矢のごとき速さでレイムの内に流れこんだ。
|許容量《きょようりょう》のない者なら溢れて|零《こぼ》れ落ちるであろう膨大な知識は。
あまさず、レイムの中に注ぎこまれた。
これでもう。
誰に頼ることも許されない。
ただの見習い魔道士にすぎないと、逃れることはできない。
すべてを教授し終え、老魔道師は静かに手を引いた。
|瞳《ひとみ》を開き、レイムが老魔道師を見あげる。
「承認の儀式は、すべての終わった後に」
復帰した世界での、第一号の高級魔道士としてレイムは名乗りを上げることができる。
今はまだ、知識を|鵜《う》|呑《の》みにしただけだが、おそらくレイムがこの王都に戻りきたときには、誰からも非難されない本物の魔道士としての昇華を終えているはずである。
老魔道師の教授により、レイムの中で意味をなさずにわだかまっていたものたちが、きれいに整理された。
いつでも取りだせるかたちに、変わった。
駆使できる力は、爆発的に|膨《ふく》れあがった。
レイムは|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》の嬉しい誘いに、しっかりとうなずいた。
役目を果たして戻りくることに、誓いの|印《いん》を結んで|応《こた》えた。
第五章 導球
|膝《ひざ》を上げたレイムは、意を決した表情で立ちあがった。
「ゆくか?」
老魔道師が尋ねた。
「すぐにでも。僕は動けます」
一刻も早く、行動は開始したほうがいい。
少女めいた優しい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》をもつこの青年は、見かけよりも|遥《はる》かに|芯《しん》が強い。
|毅《き》|然《ぜん》と居ずまいを正し、円卓に向かって|瞳《ひとみ》を閉じ、レイムは両手を組んで印を結んだ。
声を封じられていたときの|癖《くせ》で、無言のまま、|呪《じゅ》を|唱《とな》える。
ひとの背の高さほどの高み、円卓の|淵《ふち》からわずかに内側に入った位置に。
ぽわっと光が生じた。
|靄《もや》のように頼りない光は、二、三度|瞬《またた》き、不意に出現する|鬼《おに》|火《び》を連想させる勢いで、ぼっと燃えあがった。
高級|魔《ま》|道《どう》|士《し》だけが用いることを許された、神聖なる白魔道術の一つである|焔《ほのお》だ。
まるで見えない|燭台《しょくだい》に掲げられた明かりのように、同じ高さで、燃すものなく燃えあがる九つの青白い焔。
何事が起こるのかと、それまでてんでばらばらの物に気を取られていた一同が円卓に歩み寄り、まじまじとレイムを見つめる。
|印《いん》を解き、薄く目を開いたレイムは、胸の前で一度両手のひらを合わせ|呪《じゅ》を|唱《とな》えて、そっとそれらを引き離した。
広がりゆく手のひらのあいだ、かすかに霧に似た明るいものが渦巻き、|凝《こ》りはじめる。
くりくりと回り続け、次第に大きくなる。
|清《すが》|々《すが》しさをもつ聖なるものが、しっかりとした球体になってゆく。
透明なようで、光を通さぬ|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》のもの。
ある角度から、あるいはある一瞬に、澄みわたり、くっきりと向こうの|透《す》かし見えるもの。
念を送り、きちんとしたものに仕上がるまでの十分な時間を置いて。
レイムは静かに胸の前に上げていた両手を下ろした。
神秘の球体は、レイムの手に囲われることなくても、ふわりとその場に浮き続けていた。
レイムは細めていた目を開いて、自分の魔道力の成果を見る。
術は申し分なく、成功していた。
「それはなんですの? とても|綺《き》|麗《れい》」
レイムの前に浮かぶ球体を見つめ、ファラ・ハンが|微《ほほ》|笑《え》んだ。
花の咲きこぼれるかのような|艶《あで》やかさに、周囲までがぱあっと明るくなる感じがする。
ファラ・ハンの表情一つで、陰に隠れた|埃《ほこり》やカビがかすかに異臭を放つこの部屋であっても、窓を閉め切られて動くことのほとんどない、こもった空気さえ清浄さを帯びて新鮮になる。
あながち|錯《さっ》|覚《かく》でないことは、楽になる呼吸から明白だ。
ファラ・ハンの問いに答えるため、レイムは少し視線をファラ・ハンに向ける。
綺麗だと|褒《ほ》められたのは球体なのだが、それを形にしたのはレイムである。
間接的な褒め言葉をもらったレイムは、少しばかり照れて|笑《え》みを浮かべる。
「これは僕たちの行き先を示す『導きの球』です。この世界を構成している『正』の力を根源としているから、光と同じく、明るく気持ちのいいものに見えるのです。僕たちはこれを用いて道と行き先を知ることができます。|砕《くだ》けた時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の破片を見つけることができます」
「世界の|命《いのち》と話ができるの?」
レイムの言葉から読み取り、彼女独特の価値観をもってシルヴィンが尋ねた。
レイムは首を縦に振る。
「世界の呼び声に|応《こた》えて、世界そのものを救う旅に出発することができます」
|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》をうかがうように、レイムは少し視線を動かした。
ディーノは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な顔をして老魔道師を|睨《にら》んだ。
「本気でこの女を追いやるつもりなのか?」
|怫《ふつ》|然《ぜん》とした言葉に、マリエはかすかに|眉《まゆ》をひそめ、人指し指をたてて振る。
「およしなさいませ、人聞きの悪い」
「言葉などいくら飾っても結果は変わらぬ。おまえたちがやろうとしていることに違いはない」
ディーノはにべもなく切りかえす。
ファラ・ハンは、ディーノに向かって|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「わたしは追いやられるのではありませんわ。わたしの意思で、自分から望んで行動を起こすのです。わたしが自分の力でどういう方向に進もうと、誰も|咎《とが》められることはありません。わたしのことを心配してくださっていたのですね」
|可《か》|憐《れん》な仕草で頭を下げられ、ディーノはばつが悪そうに口を曲げ、そっぽを向いた。
「思いあがるな。俺は誰のことも案じるつもりはない」
「キャワ」
合いの手を入れて小さな|飛竜《ひりゅう》が|啼《な》く。
「|高尚《こうしょう》な善人のふりをしている奴らが気にくわないだけだ」
レイムはディーノを少し驚いた顔で見つめ、そしてすうっと目を細めた。
花も実もある若い男であるレイムには、ディーノの本心が知れた。
根本的にひねくれて、ぜんぜん素直でない根性曲がりな性格にも、なんとなくなれてきていた。
これらのやりとりには、ディーノによる表現の限界があった。
冷めた表情で、|挑《いど》むようにレイムはディーノに語りかける。
「ファラ・ハンでは役目を|担《にな》いきれない、と言うのですか?」
いわずもがなの問いかけに、ちらりと横目で視線を投げ、|軽《けい》|蔑《べつ》するようにディーノは言う。
「|無《む》|謀《ぼう》だな。行かせようとする奴らはひとでなしで、行きたがっている女は身のほど知らずにもほどがある」
「でも死ににいくのではありません」
「誰でも最初は格好をつけてそう言う。そうして|肝《かん》|心《じん》なときに|尻尾《し っ ぽ》を巻いて逃げだすのだ。一番最初にな」
たとえば。
その軟弱な男。
お前のように。
真っこうからディーノはレイムを|睨《にら》んだ。
「選ばれたからなどと思いあがっても、誰もが都合よく、簡単に勇者になれるわけではない」
勇者や英雄と呼ばれることができるのは、その事件や冒険が終わってからだ。
|凱《がい》|旋《せん》した者だけが、そのような形で呼ばれるのにふさわしい。
何もしないまえから自らをそう呼ぶ|輩《やから》にろくな連中はいない。
「聖戦士であり|魔《ま》|道《どう》|士《し》である僕を、あなたの言う勇者と認めてもらうことはできませんか?」
静かに、レイムは尋ねた。
「|戯《ざ》れ|言《ごと》だ」
ディーノは|一蹴《いっしゅう》した。
当然のことだった。
ディーノは基本的に魔道を好まない。魔道士も嫌いだ。
力こそ正義であり、すべての秩序の根源と思いこんでいるディーノの目から見たレイムには、シルヴィンが初対面で感じたと同じに、なんの価値も見いだせない。
「でも、ファラ・ハンは僕たちと行動を共にして、世界救済の旅に出かけます」
「|馬《ば》|鹿《か》げている」
「たぶん……」
淡くレイムは|微《ほほ》|笑《え》んだ。
ディーノのそれは、むかっ腹の立つ言い方だが、間違ってはいない。
おそらくは正しい。
「そう思っていて……!」
かっとディーノが怒った。
|着《き》|痩《や》せするその見事な体が、いっきに倍にふくらんだかのような迫力があった。
声の荒々しさに恐れをなし、小さな|飛竜《ひりゅう》はピヤッと首をすくめる。
たった一人で一領地を|瞬《またた》く間に壊滅状態にし、女子供老人すら余さず|殺《さつ》|戮《りく》しつくす、恐るべき破壊者、孤高の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》であるディーノの顔がそこにあった。
迫力に|戦《おのの》き、レイムはびくりと背を震わせたが、なんとかそのままの姿勢を保った。
この|居《い》|丈《たけ》|高《だか》な男相手に、|脅《おび》えていることを察せられてはならなかった。
レイムは虚勢を張るため、|早《はや》|鐘《がね》を打つ自分の鼓動を確認し、声が震えないように腹に力を入れる。
「僕らがあなたにとやかくいわれたり、非難されたりする覚えはありません」
きっぱりと言い切った。
力もないくせに自分に|楯《たて》|突《つ》こうとする|不《ふ》|埒《らち》な男に、ぎりっとディーノは|眉《まゆ》をつり上げた。
いまにも背負った長剣に手を掛けかねない。
そのわずかな間に先んじて、|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》が口を開いた。
「お前が守ればよい」
断言された|唐《とう》|突《とつ》な提案に、ディーノはぴくりとする。
さらにレイムが|畳《たた》みかけた。
「この世であなたが一番強いのであれば、あなたにこそファラ・ハンを守る義務があります。あなたは、そのために選ばれ、聖なる|銀《ぎん》|斧《ふ》に認められた|唯《ゆい》|一《いつ》のひとです」
「俺は、知らぬ!」
ディーノは何にも従わない。
ディーノをつなぎとめられる鎖はない。
「僕たちが眠っていたあいだ、すでに伝令は送られ、世界のすみずみにまで僕らの|噂《うわさ》は広まっています。ひとびとに名を知られていたあなたが、聖戦士となったことも、皆の知る事実です。王都に集まったひとびとは、僕らがこの|望《ぼう》|星《せい》|楼《ろう》に上ったことを知っています。僕らはここから旅立つために来たのです。僕らがこの塔を下りることはありません。それでも」
レイムは|説《と》き、ディーノに問いかけた。
「あなたは自分の役目を否定しますか? |担《にな》い手ではないと叫んで、それを放棄するのですか? 選ばれた勇者として旅立つことをせず、ここから逃げ帰るのですか?」
ディーノは息をのんだ。
正面切ってただ一人王都を去れば、救世主たる自分の使命から逃げだしたようにひとびとに受けとられる。
女の身一つ守れない|臆病者《おくびょうもの》として後ろ指をさされる。
|闇《やみ》にまぎれ、夜盗のようにこそこそと人目を忍んで動くのなど|真《ま》っ|平《ぴら》|御《ご》|免《めん》だ。
だからといって、このままここに|留《とど》まることなどできはしない。
わずかな|隙《すき》を見つけられ、犯罪者として以前のように女王や老魔道師の手で捕らえられるつもりはさらさらない。
飼われるのも御免なら、ディーノ自身で決めたこと以外で無責任で愚かな他人に中傷されたくもない。
ディーノの威厳を|損《そこ》なわず、孤高の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》としての自尊心を保つ。
その一番の得策といえば。
聖戦士として、ひとまずこの場を去ることである。
それならば、何もかもがうまくおさまる。
ディーノは低い声で|唸《うな》った。
|八《はっ》|方《ぽう》|塞《ふさ》がりだった。
どう動こうにも、しゃくの種が残る。
レイムは考えこむディーノに見切りをつけた。
「残された道は一つです。とりあえず、僕たちと一緒にここから出発するというのは、いかがですか? 口さがないひとたちの目をごまかすには、一番の方法です」
「う、む……」
ディーノは|唸《うな》った。
聖戦士たることを|甘《かん》|受《じゅ》し、うまく丸めこまれてしまう形にが、この場をやりすごすには、それ以外の方法はない。
にっこりとレイムは笑った。
「決まりですね」
優しげな青年は、けっして勝ち誇ったようではなかった。
|邪《じゃ》|気《き》がまったく感じられない|無《む》|垢《く》な|微《ほほ》|笑《え》みを浮かべる彼が、一番あなどれない人間になるのではないかと考えて、ディーノはぞっとした。
近い将来、エル・コレンティをしのぐかもしれない実力をもつだろう|魔《ま》|道《どう》|士《し》になっていくのが、目に見えるようだった。
観念し、ディーノは息を吐く。
とにかく、まずはこの場をやりすごさねばならない。
後のことは、また後から考えればいい。
レイムは両手の指を組んで|印《いん》を結び、|呪《じゅ》を|唱《とな》えた。
胸の前の空間に浮かんでいた導球が、すいっと|滑《なめ》らかに空を|滑《すべ》る。
きらきらと|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》に輝く不思議な球は、円卓の中央に進んだ。
円卓のちょうど中心点たる所で静止し、ちかちかと|瞬《またた》く。
|鬼《おに》|火《び》のように揺れていた九つの|焔《ほのお》は、ごおっと勢いを増して高く燃えあがった。
伸びあがった焔が。
きゅうっとドームの骨組みを作るかのように丸く、円卓の上にのしかかる。
導球の真上に当たる部分で、焔たちはぶつかり、真下に垂れた。
集まった焔が。
導球の中に吸いこまれる。
焔をのみこみ、中身を渦巻かせた導球が、かっと光り輝いた。
まばゆい瑠璃色の光が、円卓の上に降り注いだ。
ぽつりと。
円卓の中央に|膨《ふく》らみが生じた。
あたかもそれが、ぬばたまの色をした水を|湛《たた》えていたかのように。
そこから波紋が広がり。
円卓が、ごうと波立った。
渦巻いて波立ち、激しく揺れる。
なにか、おぞましいものの|気《け》|配《はい》がした。
直視することかなわず、ファラ・ハンが悲鳴をあげて、腕を上げ、身をかばう。
「大丈夫でございます! しっかり気を落ち着けて御覧くださいまし。|闇《やみ》にまぎれた|忌《い》まわしきものたちの存在を見てとることができるはずです」
マリエはファラ・ハンに叫んだ。
ファラ・ハンは|綺《き》|麗《れい》な青い|瞳《ひとみ》に涙を|滲《にじ》ませながら目をあげる。
シルヴィンとディーノも。
そこから目が離せないでいた。
闇のごとき黒色と見えたのは、|魔《ま》、そのものの色。
瞳をこらせば、渦巻くそれらが液体ではなく、小さな魔物の寄り集まりであることを見ることができる。
渦巻いたがゆえに、円卓の表に浮かびあがってきたもの。
陰が、|魔《ま》|物《もの》に|侵《おか》されている。
目に見えないところから、着実に、むしばまれている。
レイムが、かっと目を見開いた。
導球はゆっくりと円卓の中央に向かって降下した。
降りて、渦巻く|闇《やみ》の中に沈んだ。
ぱあっと|眩《まぶ》しい|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》の光が|弾《はじ》けた。
円卓の中に渦巻いていた陰が消え失せ、そこは瑠璃色に輝くものに満たされていた。
はあっと息を抜き、レイムが|印《いん》を解く。
円卓はその表面を|煌《きら》めく光の色に変えていた。
これで闇の|扉《とびら》を開く|魔《ま》|道《どう》が無事に完了したわけだ。
老魔道師の目配せを受け、マリエが|天井《てんじょう》を開く装置に手をかけた。
半球状になった屋根が|畳《たた》まれて、真っ二つに割れてゆく。
開き切った屋根の|淵《ふち》に、巨大な影が飛来した。
三つの影。
近くでこの|望《ぼう》|星《せい》|楼《ろう》を見つめて控えていた三頭の|飛竜《ひりゅう》たちだ。
レイムは老魔道師を見た。
老魔道師は、重々しい仕草でうなずいた。
女王が、はかなく|微《ほほ》|笑《え》む。
「わたくしは、あなたがたの起こすであろう奇跡を信じています。必ず、戻ってきてくださいね」
何よりも無事に、四人そろって。
女王は誰かを犠牲にして、世界を救いたいのではない。
誰かが犠牲になるために、ファラ・ハンを具現させたわけではない。
優しい。
女王。
この世界をまとめるにたる『生命』そのものの大きさを抱いて生きていけるひと。
女性としての存在を与えられ王位を継いだ彼女は、この世に何かを生みだし、成長させてゆく、確固たる力で守り抜くという使命を本質的に帯びている。
ある意味、滅亡世界の王たるに、もっともふさわしい人物であるのかもしれない。
ゆっくりと羽ばたきながら、飛竜が円卓の上に降下した。
レイムは大理石でできた円卓の縁に上る。
振りかえったレイムに、エル・コレンティは重々しくうなずいた。
にこりとレイムが|微《ほほ》|笑《え》む。
右手を握り、人指し指と中指を立てて、レイムは円卓の上をすっと指し示した。
|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》に輝く表面が、ぼこりと半球状に|陥《かん》|没《ぼつ》する。
成獣の三頭のうちでは|華《きゃ》|奢《しゃ》な感じのする一頭が、真っ先に下に降りきた。
|陥《かん》|没《ぼつ》した空間に降りる|飛竜《ひりゅう》の上に、レイムが身軽く跳び移る。
次いで来た普通くらいの大きさの飛竜の|鞍《くら》に、やや離れた位置から|果《か》|敢《かん》にシルヴィンが飛び乗った。
ディーノの飛竜は、主人に似てひどく|緩《かん》|慢《まん》でふてぶてしい格好で、一番最後に降下した。
一番大きいために、型の小さい仲間に順番を譲ったのかもしれないが、なんとなく素直にそうもとれないような、みょうに|生《なま》|意《い》|気《き》で図々しい感じがした。
ディーノの飛竜と思って見るから|可《か》|愛《わい》くない気がするのか、もともと可愛げがないやつなのかは、この飛竜を運びきたシルヴィンにも定かではない。
円卓の縁によじ登ったファラ・ハンは、わりと近い位置で浮かんでいるディーノの飛竜の背に自分も跳び移ろうと、懸命になって飛竜を|睨《にら》んでいた。
間合いをはかって跳ぼうとするのだが、底知れない場所に浮いている飛竜である。もし足を踏みはずしたりしてはと考えると、|生《なま》|半《はん》|可《か》な|覚《かく》|悟《ご》では跳べない。|無《む》|謀《ぼう》でも度胸のあるシルヴィンのような態度で挑んだほうが、こういうものの成功率は高い。
「行くよ」
レイムはディーノに向かって言った。
ディーノは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に目を細める。
とりあえずは、この地から、なにがしかの方法を用いて離れる必要があるのだ。
後のことは後で考えればいいのかもしれない。
ディーノは救世主だとか勇者だとかの肩書きを引き受けたつもりはいっさいない。
つねに勝手に動く。
それがディーノの信条である。
ディーノは長い足の一|跨《また》ぎで大理石の上にあがった。
ためらいもなく一息に飛竜の上に乗る。
身軽い移動に、腕にしがみついたままの小さい飛竜がぱたぱたと翼を広げて喜んだ。
飛竜の大きさから見ても、ディーノの飛竜に二人乗るのが誰からも|妥《だ》|当《とう》に思われた。
危なっかしい格好のファラ・ハンをディーノが見あげる。
「その翼は飾りか?」
|辛《しん》|辣《らつ》に問いかけた。
言われて、ファラ・ハンははっとする。
翼を負っていても、みょうに実感がないことにあまり変わりはないらしい。
そうっとうかがうように、ファラ・ハンは翼を開いてみた。
ちゃんと思うとおりに動く。
にこっとディーノに笑った。
「キャオ」
自分に|微《ほほ》|笑《え》みかけられたわけでもないのに、なぜだか小さい|飛竜《ひりゅう》が歓声をあげる。
ふんとばかりに、ディーノは横を向く。
人当たりの悪いいけ好かない仕草だったし、本人もそれと気づいていなかったが、存分に照れていた。もちろん、指摘されようとも、そうと認めることもない。
大きく翼を広げ、|覚《かく》|悟《ご》を決めて、ファラ・ハンは跳んだ。
落下に反射的に動かされた翼が空気を押し、ふわりと軽く体が浮いた。
彼女としては思いのほか優雅な仕草で、ディーノの|鞍《くら》の後ろに降り、腰を落とす。
ディーノは華麗に翼で飛んだファラ・ハンを見ぬように、ふてくされたような顔で、ずっとよそを向いていた。
女王たちの心づかいでそれぞれの鞍の後ろにしっかりとくくりつけられた荷物の袋が、ファラ・ハンがつかまるのにちょうどいい場所にあった。
レイムは女王や|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》たちを見あげる。
「では、いましばらくのお別れでございます。大船に乗ったつもりでお待ちくださいませ」
涼しく|爽《さわ》やかなレイムの声。
清浄に耳から心の奥底まで、しみわたる。
自己犠牲を|厭《いと》わぬ、誰よりも優しい青年。
女王が、激励と|哀愁《あいしゅう》のいりまじった|笑《え》|顔《がお》を浮かべ、うなずく。
騎士の礼をし、バルドザックはレイムを送った。
枯れた巨木を思わせる質量感で存在し、エル・コレンティは微動だにしなかった。そうすることが、かえって老魔道師らしかった。
「必ず、帰っていらっしゃい」
泣き笑いのような顔でマリエは|印《いん》を結び、魔道の粉を散らせて安全|祈《き》|願《がん》をした。
軽く上向けたレイムの左の手のひらの上に。
ぽわりと導球が生じて浮かぶ。
レイムは右手で|手《た》|綱《づな》をつかみ、導球を自分の飛竜の前にやる。
左手だけの簡略化した印を結び、|毅《き》|然《ぜん》とした|面《おも》|持《も》ちで念を|凝《こ》らす。
きりりと|唇《くちびる》を引き結んだ一人前の魔道士としてのレイムの顔は、普段の彼のそれとは、随分|趣《おもむき》を変えて見えた。
命さえ奪う覚悟で剣を振るって戦うときにも、戦意を喪失したり、戦えなくさせればいいなどと余計なことまで考える、どこかで懸命に相手のことを思っている温和なレイムとは、根本的に違う。
おそらくは、この|魔《ま》|道《どう》というものそのものが、レイムには適している素材であるのかもしれない。
騎士道を重んじるこの世界では、剣を扱う者は滅多なことでは魔道を知りたいと思わない。
魔道に頼る剣士というのは、はなはだ不名誉な言われ方なのだ。
剣士としてもかなりの腕をもつレイムだが、魔道士としての彼のほうが、胃の痛くなるような無理はなさそうだ。
どれほど剣技が巧みであっても、魔道士を名乗るほうがレイム本人にはふさわしい。
朗々と|謳《うた》うようにレイムは|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えた。
澄んだ|声《こわ》|音《ね》はそれを、あたかも神秘の歌であるかのように|錯《さっ》|覚《かく》させる。
「天空を知ろしめす光の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》 |汝《なんじ》の行きたる場所に 我らを導け 聖なる正義の女神の名において |闇《やみ》に一条の光の矢を放て」
|眩《まぶ》しい光が|炸《さく》|裂《れつ》した。
光の圧力に、服の|裾《すそ》や髪が、ぶわりと押しあげられた。
思わず目をかばったシルヴィンだが、すこししてそれが|瞳《ひとみ》を射ることのない聖光であることに気がつく。
ぐうっとへこんでいた底が。
光に満ちたまま。
開いた。
光の抜け穴となって、底を落とした。
|有《う》|無《む》を言わせる間もなく。
一瞬にして。
吸いこまれるようにして、三頭の|飛竜《ひりゅう》はその奥に落ちこんでいった。
彼らをのみこみ。
ふいに光は消失した。
その後に残ったのは。
鏡のように|滑《なめ》らかな|光《こう》|沢《たく》をもつ、硬い|闇《やみ》の|塊《かたまり》を満たした円卓だった。
一つ|溜《た》め|息《いき》をつき、マリエは開いた|丸天井《まるてんじょう》を閉めるため、装置に近づいた。
|大《おお》|柄《がら》な体を揺するようにして歩を進め、装置に手をかけようとするマリエよりわずかに早く、バルドザックが手を伸ばす。
ちょっとびっくりした仕草で、マリエは手を引いた。
天井を閉ざしながら、バルドザックは|叔母《お ば》に|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「もう一度、彼らに祝福の|魔《ま》|道《どう》を。さぁこれから彼らの成功と無事を祈っての|宴《うたげ》を行うのでしょう? 各地の領主を魔道で呼び寄せたり、広間の準備をしたりで大忙しになりますよ」
心配している暇はない。
ひとびとをもりたて、大勢の信じる心を用いて、不可能を奇跡へと導くことをせねばならない。
世界に満ちる世界存続という正なる力を、ひとの心という力を用いて増幅し、聖戦士たちを応援してやらねばならない。
マリエは鼻から息を抜き、にっと笑う。
豪快で迫力のある、いつもの強い|女官長《にょかんちょう》たるマリエの姿があった。
「そうだったわね」
うなずいて、マリエは奮起する。
大勢から母とも慕われる宮廷白魔道士の|女《じょ》|傑《けつ》のいつもの姿に、女王はほっと微笑んだ。
「エル・コレンティ祭司長、伝令を」
「|御《ぎょ》|意《い》に」
うやうやしい仕草で、老魔道師は|頭《こうべ》を垂れた。
世界救済の旅に出発した四人の聖戦士の|噂《うわさ》は、|瞬《またた》く間に世界じゅうに広められた。
第六章 到着
「いったいどこに向かってるのよ! いつまでこんなのが続くの!」
まず初めに文句を言ったのはシルヴィンだった。
そのような態度に出るだろう性格と、余裕があったからだった。
|飛竜《ひりゅう》を扱い、いくつもの|修《しゅ》|羅《ら》|場《ば》をくぐり抜けてきた十分な経験をもつこの竜使いの娘には、与えられた状況は必ずしも珍しいものではなかった。
導球が光の|奔流《ほんりゅう》を導いて影の世界に道を切り開き、三頭の飛竜たちはほとんど自由落下に近い姿勢で飛んでいる。
勢いよくなぶられる髪や服の|裾《すそ》が、痛いほどばちばちと体を打ちすえる。
ゆるやかに|錐《きり》もみし、|手《た》|綱《づな》を握るというより、振り落とされまいと、ほとんど死に物狂いで|鞍《くら》にしがみついているレイムには、周りのことを見るような余裕などない。
飛竜に乗るのがこれが初めてという事情をもつレイムにしては、かなり|頑《がん》|張《ば》っているわけで、|褒《ほ》められてもいいような状態だ。
シルヴィンの|怒《ど》|鳴《な》り声に返事などできるはずもない。
第一レイム自身にも、それらの答えはわからない。
勢いにびっくりし後ろで小さく悲鳴をあげたファラ・ハンに、ディーノはさりげなく腕をさしだしていた。
|鞍《くら》の端を握りながら、すがりつくようにして、ファラ・ハンはディーノの腕を無意識に両手で抱えていた。ディーノという壁に、直接襲いくる激しい風に似たものをやわらげられても、その速度たるや、めまいがし、気分が悪くなるほどだ。
乗り手がどっかりとしているからか、ディーノの飛竜がもっとも安定し、最初のままの姿勢を保ったまま、移動を続けている。
ゆっくりと錐もみして回り続けているレイムには、とうの昔に上下感覚はない。
ときどきわずかにかしぐシルヴィンの飛竜も、ディーノから見れば、いつしかかすかに|歪《ゆが》んだ姿勢で落ち着いている。
不意に。
導球が消えた。
視界に色が生じた。
光の通路から抜けでていた。
重力の方向を与えられて、明確な上下感覚が復活した。
視界は|灰白色《かいはくしょく》に曇って何も見えない。
霧を発生させるような気象条件は、世界じゅうでもほとんどなくなっている。
だとすると、これは雲。
四人を乗せた三頭の|飛竜《ひりゅう》は、勢いよく吐きだされるようにして、空に出ていた。
灰色によどんだ陰気な雲に埋めつくされた暗い空。
ところどころで|轟《とどろ》きをあげて空を切り裂く|雷《らい》|光《こう》がある、世界滅亡をむかえつつあるあの空。
レイムは悲鳴すらあげられぬまま、主人の命令がなくても、ゆっくりと|錐《きり》もみ体勢から正しい形に戻ろうとする|利《り》|口《こう》な飛竜にしがみついていた。
斜めになっていることを知ったシルヴィンは、慌ててかしいでいた姿勢を戻す。
|悠《ゆう》|々《ゆう》と出たディーノが。
びくりと背中に|悪《お》|寒《かん》を走らせた。
「キョワ!」
小さな飛竜が|戦《おのの》き|哭《な》いた。
素早く|鐙《あぶみ》を鳴らし、ディーノは|手《た》|綱《づな》をゆるめる。
まったく同時に、飛竜がその場からとびすさるように大きく羽ばたく。
落下するように。
雲間を抜けた。
激烈な爆発音が|轟《とどろ》いた。
にぎやかな色彩の火の粉が、散りしだいた。
ほんの一瞬でもディーノと彼の飛竜の反応が遅れていたら、その爆発物をもろに飛竜の翼に食らっていたところだった。
爆発の加減から推測するに、まともに受けていたなら翼に大穴が開き、骨を|砕《くだ》かれているところだ。
ディーノと、あの飛竜という絶妙のコンビネーションだからこそかわせた、|神《かみ》|業《わざ》のような芸当だった。
もともと主人をさしおいても、自分の身を守りたいという行動に出やすい、勝手気ままな性質をもっている野生の竜種だ。本能的な|防《ぼう》|御《ぎょ》反応の速度は並ではない。ましてや、それを助長させられるような乗り手も、めったにいるものではない。
ものすごい爆発音に驚いてシルヴィンが振りかえる。
音に|度《ど》|肝《ぎも》を抜かれて、心臓が一瞬口から飛びだしそうな感じがして、必死で|唾《だ》|液《えき》を飲みくだす。
じんじん耳がしびれ、なんだか頭の中がぼんやりしている。
「下だ!」
いまいましげにシルヴィンを|睨《にら》み、ディーノが叫んだ。
射殺すような視線を受けてシルヴィンはびくんと背筋を正した。次いで素早く体が反応していた。彼女の場合、思考よりも行動のほうが速い。そしてその簡潔な言葉の意味したことを知覚する。
何事があるのかと、ぎょっとして見下ろすシルヴィンの目に。
自分の|飛竜《ひりゅう》の腹部めがけて、下から新たに高速で飛来する物の影が映った。
|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》の差で、|手《た》|綱《づな》をさばき、シルヴィンはこれをかわす。
かわして間なしのところで。
それが爆発した。
様々な色に輝く美しい火の粉が大きく散った。
花火だ。
盛大な打ち上げ花火をやっている上空に、現れでてしまったのだ。
真下に見えるのは立派な造りをした宮殿。
広場で打ち上げ花火を観賞している、ゴマ粒大に見える者たちが大勢、不意に上空に出現したディーノたちの飛竜を見あげている。
慌てて打ち上げの仕掛けに数人の花火職人が走っていったが、一度火をつけた導火線をいきなりすべて処分することは不可能に見えた。
よりにもよって、こんな空域に現れでるとは。
文句のひとつも言ってやろうかとディーノが首をめぐらせた先で。
レイムの飛竜が。
花火の直撃を受けた。
危険を本能的に察知し、わずかに先んじて、レイムが|防《ぼう》|御《ぎょ》の|結《けっ》|界《かい》の|印《いん》を結んでいた。
防御結界のおかげで奇跡的に、|粉《こな》|微《み》|塵《じん》に吹き飛ぶことだけは免れた。
|炸《さく》|裂《れつ》した花火の勢いに|弾《はじ》かれ、なんとか無傷だった飛竜が|跳《は》ね飛ぶ。
手綱を握ったレイムの頭が、がくんと揺れた。
なれない|魔《ま》|道《どう》を使った疲れに、いまの|衝撃《しょうげき》は|辛《つら》かった。
とっさのそれに、もっとも強力な術で対処したなら問題はなかったのだろうが、いかんせん実践経験に|乏《とぼ》しいレイムは、初心者の域を全然脱していなかった。
衝撃の完全吸収などという高等技術は、やりかたを知っていてもここぞというときに用いることができない。
レイムよりも、直接に|衝撃《しょうげき》を受けている|飛竜《ひりゅう》のほうがダメージは大きい。
レイムが気を失っていたのなら、飛竜もそうであって不思議ではない。
当然の結果として。
飛竜が|墜《お》ちる!
「ちょっと|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》いっ!」
シルヴィンは|叱《しか》りつけるように叫んで、レイムの飛竜を追って降下した。
飛来する打ち上げ花火のあいだをかいくぐり、自分の飛竜をレイムの飛竜にぶつけ、落下して行く飛竜をまず最初に正気に戻す。
レイムの実力など、はなからあてにしていない態度だった。
シルヴィンは、彼が生まれてこのかた一度も飛竜に触れたこともない、|正真正銘《しょうしんしょうめい》の初心者であることを知らない。
生まれたときからごく当たり前のように、身近に飛竜がいた彼女にとって、この世にそういう人間がいることすら思いつかない。
彼について認識不足のシルヴィンだったが、見切ったその|冷《れい》|酷《こく》な判断は間違ってはいない。
数度の体当たりで正気に返った飛竜は、墜ちながら懸命に方向を変えた。
誘導するシルヴィンの後についていくように、よろよろと翼を動かした。
うまく空域を脱したレイムとシルヴィンを見送りながら、ディーノはかるく|舌《した》|打《う》ちする。
ディーノの腕にしがみついた小さな飛竜が、ぶるぶると体を震わせて|脅《おび》えていた。
ときおりちろちろと目を開けるが、たいていのものは見るのも|嫌《いや》という感じだ。
打ち上げ花火のほぼ|真《ま》っ|只《ただ》|中《なか》にいたディーノたちの飛竜は、うかつに身動きできなかった。
ここはあまりにも場が悪い。
なんとかして場所を変えようとやっきになるディーノの後ろで。
間近く聞こえた雷と花火の爆発音が同時に|轟《とどろ》いた。
小さな飛竜が一瞬飛びあがって驚く。
音の大きさに|驚愕《きょうがく》して動いたファラ・ハンの腰が、|鞍《くら》から|滑《すべ》った。
慌てたはずみに、抱えていたディーノの腕から手が離れた。
自力でしがみつくのに|任《まか》せていたディーノの|不《ふ》|覚《かく》だった。
気づいたディーノの反応は、一瞬遅かった。
悲鳴をあげながら、ファラ・ハンの体が空に投げだされる。
落ちまいと、無意識でファラ・ハンが翼を広げる。
「やめろ! 隠せ!」
ディーノが|怒《ど》|鳴《な》った。
半分|無《む》|駄《だ》かもしれないと思っていた。
思っていたが、そう忠告するのが|妥《だ》|当《とう》であると感じていた。
「キョワァ!」
小さな|飛竜《ひりゅう》も、わけがわからないままにディーノに加勢した。
ディーノの声の激しさに、びくんと震えたファラ・ハンは。
広げた翼を。
思わず背中にしまっていた。
白い翼はほっそりした背中、|肩《けん》|甲《こう》|骨《こつ》の付け根あたりに、するりと引きこまれる。
夢のように、ものの見事に翼がなくなった。
自分のしでかしたことに、ファラ・ハンはぱちくりと目を|瞬《まばた》いた。
ひと一人を支えきれるほどの大きな翼である。
まさか自由に出し入れできるようなものだとは思ってもいなかった。
勢いを増し石のように落下していくファラ・ハンを追って、ディーノが飛竜を降下させる。
救いを求めるように伸ばした細い指先が、ディーノの指に触れるかというところで。
ファラ・ハンは気を失った。
地表ぎりぎりの危ういところで。
ディーノはファラ・ハンの手首を捕まえて引き寄せ、体をしっかりと抱きとめた。
白い衣装に白い翼。
色が同じであったため、誰もこの|乙女《お と め》の背中に翼があることを目撃して確信したものはいなかった。
もしいたとしても、目の|錯《さっ》|覚《かく》として|一笑《いっしょう》にふされるだけだろう。
羽のはえた人間などいない。
真顔でそれを主張するなら狂気である。
もしも万が一いたとすれば、それこそが世界を救うという伝説の乙女にほかならないのだ。
翼さえなければ、なんら普通の乙女と変わりない、ひとの形をしたファラ・ハン。
あの現場の目撃者でもないかぎり、まさかこの|美《び》|姫《き》が、|招喚《しょうかん》されてこの世界に出現した聖女であるなどとは、誰も思うはずがない。
世界救済の望みを|担《にな》う彼女。
誰もが喜んで迎えいれるべき存在。
どうしてかと問われれば自信はないが。
ディーノは、ファラ・ハンが伝説の翼ある乙女であるという事実を隠したほうがいいような気がしていた。
上空からうまく逃れたシルヴィンとレイムは。
出現空域からずいぶん離れた|街《まち》のほうで、|飛竜《ひりゅう》から降りていた。
世界滅亡をいわれるようになってどこでもそうであるように、この街も固く|扉《とびら》を閉ざし、|廃《はい》|墟《きょ》にも似て、ほとんど|人《ひと》|気《け》がない。
降下した飛竜を見つけ、物珍しさでシルヴィンたちに寄り集まってくるようなひとびとは、一人もいなかった。
他の場所から来た旅人といっても、歓待されもしなければ、けむたがられることもない。
|厄《やっ》|介《かい》|事《ごと》が少ないのに越したことはないが。
なんだか少し、物足りない気もする。
きょろきょろとあたりを見回し、様子を見て地上に降り立った飛竜から、シルヴィンがレイムを引きずり下ろす。
力仕事になれているシルヴィンは、自分の体重より二割ほど重たいものまでなら、なんの苦もなく扱うことができる。
レイムのような|華《きゃ》|奢《しゃ》な男など問題外で、|担《かつ》いで移動するのも楽なものだ。
今度は助けてやったのよ、これで貸し借りなしねとばかりに優越感にひたり、シルヴィンはにやっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
彼女に自覚はないが、レイムに助けてもらっている回数はかなり多い。
|担《かつ》がれて乱暴に揺すられ、ぴくりとレイムの指先が反応した。
|石畳《いしだたみ》の横にある砂地の地面の上に座りこむように下ろされ、自分の|飛竜《ひりゅう》の腹にもたれて座りこんだ形のレイムが、小さな声で|唸《うな》った。
身じろぎし、やがてうすく目をあける。
「ここは……?」
ぼーっと目を見開いて、レイムは問いかける。
やや低血圧の傾向がある彼は、目覚めてすぐには頭が十分に働かない。
「|街《まち》の中」
簡単|明瞭《めいりょう》に、シルヴィンは答えた。
ぱちぱちと|瞬《まばた》きし、ゆっくりレイムは気を失うまえのことを思い出す。
|脳《のう》|裏《り》に、
|唐《とう》|突《とつ》にファラ・ハンの顔が浮かんだ。
「そうだ!」
大声で叫んで、すっくと立ちあがった。
声に驚き、シルヴィンが目をくるんと見開く。
頭のほうにまだ十分血がめぐっていなかったレイムは、めまいを起こして再びへなっと腰を落とした。
無茶をするレイムを、|馬《ば》|鹿《か》じゃないのかという目でシルヴィンが見る。
レイムは青ざめた顔をあげてシルヴィンを見返す。
「ファラ・ハンと、ディーノの乗った飛竜は? どうなったの?」
わずかにかすれる声で問いかけた。
|咽《のど》を|滑《すべ》りでた不本意な|声《こわ》|音《ね》に、レイムは思わず|眉《まゆ》をひそめた。
|些《さ》|細《さい》なことに気をとめないシルヴィンは、レイムの声がどんなふうに聞こえようとお構いなしだ。意味がきちんとつうじる声なら、シルヴィンはどんな声であっても文句はない。
もちろんレイムが気にしたようなことは、|微《み》|塵《じん》も感じていない。
シルヴィンは左手の人指し指で、そこから少しばかりはなれた一段小高くなった場所を指差した。
壁に囲まれて、立派な|館《やかた》らしいものがいくつも建てられている。
「あっちのほう。|墜《お》ちたみたいに見えたけど、大丈夫じゃない?」
「墜ちた!?」
ぎょっと目を見開き、おうむ返しにレイムが尋ねる。今度は咽の調子が元に戻っていた。
シルヴィンはこともなげにうなずいた。
「そうよ。ほら、あの日、聖地がディーノたちに襲われてめちゃくちゃになった日にも、同じようなことがあったわ。|飛竜《ひりゅう》から落ちたファラ・ハンを、まっさかさまにディーノが追いかけた」
あのときと、ほぼ同じ形。
シルヴィンは肩をすくめる。
「ディーノだもの。一度成功したことをしくじるようなことはないでしょ」
「あぁ、うん……」
しぶしぶ、レイムは首を縦に振った。
確かに、理屈としては間違ってはいないのかもしれないが……。
納得しきれないものが残る。
不安な|面《おも》|持《も》ちで見つめていた二人の目に。
一頭の飛竜が空高く飛び立つのが見えた。
遠目でもはっきりそれとわかる、|綺《き》|麗《れい》なシルエットをもつ飛竜。
ディーノの飛竜らしきものが空に上がっていった。
シルヴィンが目をこらす。
「誰も、乗っていないわ」
事実だけを無感動な|声《こわ》|音《ね》で告げた。
さぁっと音をたてて、レイムの頭から血が引いた。
何かあった。
いや、そうとかぎらなくても、二人の周りで何かが起こっている。
飛竜の力を必要としない、何か。
飛竜が自分から主人と認めた者を見捨てるようなまねは絶対にしない。
自分の命にかえても守り抜く。
たとえ主人が殺されてもしりぞかない。
相手に報復せずにはおかない。
シルヴィンには飛竜に対する絶対の信頼があった。
飛竜が離れられる状況であるだろうことを推測していた。
とにかく、あの中に二人がいるのは確実だ。
「|魔《ま》|道《どう》抜きで、あそこまで行かなきゃならないな」
レイムは言いながら、ゆっくりと腰をあげた。
魔道士のいるだろう場所を相手に、|下手《へ た》に魔道を使おうものなら、|呪《じゅ》がからむおそれがある。
外敵からの防御策の一つに魔道が関与していることは、けっして珍しくない。
気楽なレイムの口調に、シルヴィンは驚いて目を見はる。
「あそこって、領主の|館《やかた》よ?」
のこのこと行って簡単に中に入れてもらえるような場所ではない。
レイムは、にこっと笑った。
「大丈夫。心配しないで」
「…………」
お人好しそのもののレイムに、シルヴィンは出す言葉もなかった。
シルヴィンは心配などしていない。ただ|無《む》|謀《ぼう》ではないかと思っただけだ。
見ているといらいらするが、心の中をあらいざらいぶちまけて傷つけてしまうのは、あまりに|残《ざん》|酷《こく》な仕打ちであり、自分がとんでもない意地悪になってしまうので、やめる。
どちらかというと、レイムはいじめられやすい性格をしている。彼がそうと自覚していないのは、大抵の場合気がつかないからであり、その性質ゆえについ構いたくなってしまう者の|庇《ひ》|護《ご》|下《か》にありやすいからだ。レイムの庇護者はいつでもなんらかの有力者である。
レイムは|機《き》|嫌《げん》よく、|飛竜《ひりゅう》の|鞍《くら》の後ろにくくりつけた荷物の|紐《ひも》をほどく。
袋を下ろしかけ、はっと顔をあげて、|茫《ぼう》|然《ぜん》と見つめているシルヴィンに|微《ほほ》|笑《え》みかけた。
「あの、遅くなってしまったけれど。助けてくれてありがとう」
実直に生きてきた者だけに許された、素直な|透《す》きとおる|声《こわ》|音《ね》だった。
その言葉を耳にして。
シルヴィンは、自分が一度もこの青年に礼を言っていないことを思い出した。
真っ赤になって口を|尖《とが》らせ、シルヴィンはぷいと横を向いた。
言うだけのことはちゃんと言ったはずなので、シルヴィンの反応に構わず、袋の口を開けてごそごそとなにやら準備しながら、レイムが尋ねた。
「飛竜を後から呼ぶことはできるかな?」
何をするつもりなのかと、|街《まち》|角《かど》に転がっていた|空《から》の|樽《たる》の上に腰を下ろしたシルヴィンは、他愛ない質問に肩をそびやかす。
「飛竜はとても頭がいいのよ。主人と認めた人間が呼べば必ず来るわ。心が通じ合っていれば、言葉すら必要ないのよ。危険を察知したときにはどこからともなく飛んできてくれることだってあるもの」
「ふぅん」
レイムはまじまじと飛竜を見つめ、にこっと笑った。深緑色の|装束《しょうぞく》からこぼれ出た金色の髪と|透《す》きとおる|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》は白い|肌《はだ》|色《いろ》を|華《はな》やかに飾っている。レイムの優しい|面《おも》|差《ざ》しは、どこか透明で|清《すが》|々《すが》しく、全身から|爽《さわ》やかで涼しいものが発散されているような感じがする。
真正面からレイムに微笑みかけられた飛竜は、まるで照れるかのようにそっと目を伏せた。
レイムは|魔《ま》|道《どう》|士《し》の|法《ほう》|衣《え》を脱ぎ、マントのように肩にかけてピンで止めた。薄手の見習い魔道士の法衣は、|袖《そで》を中に引きこまれてしまうと、ありふれた安物の|外《がい》|套《とう》のようにしか見えない。
リボンでひとつに束ねていた髪をほどいて、空気を含ませるようにたっぷりとさばく。
軽くウエーブのかかる巻き毛はきらきらと輝いて、夢物語の若者のようにレイムを|彩《いろど》った。
人形じみたその姿を見つめながら、シルヴィンは、昔どうしても欲しいとだだをこねて泣いたことのある、お姫様のように|綺《き》|麗《れい》な人形のことを、|漠《ばく》|然《ぜん》と思い出していた。
もっと髪が長く、大きなウエーブを作っていたなら、そっくりになる。たしか、|瞳《ひとみ》の色も同じ、あんな|透《す》きとおった|翠色《みどりいろ》の石だった。
ようやく母親が折れ、兄たちも伴い、皆で連れ立って喜び勇んで|街《まち》に行ったときには、誰かに買われた後で、店から姿を消してしまっていた人形。
名前まで決めて、その人形と遊ぶ様々な楽しい素敵なことを思い描いていたのに、結局シルヴィンのものにはならなかったそれ。
子供心に深く残る失望の記憶。
|頬《ほお》|杖《づえ》をついてうつむいて、思わず|溜《た》め|息《いき》をもらしたシルヴィンの顔の下に。
「どうしたの? 気分悪いの? 平気?」
レイムの顔があった。
シルヴィンは思わず悲鳴をあげて背筋を正す。驚き慌てた乱暴な動きに、腰を下ろしていた|空《あ》き|樽《だる》が不安定にがこがこと揺れた。
|膝《ひざ》を抱えるようにしゃがみこみ、地べた近くからシルヴィンを見あげていたレイムは、ゆっくりと腰を上げる。
どうやら今の元気な反応からすると、気のまわしすぎであったらしい。
「なんだか急におとなしいから、心配しちゃった」
髪が|邪《じゃ》|魔《ま》になったときにいつでも|結《ゆ》えるように、リボンを手首に巻きつけておきながら、にこにこと|微《ほほ》|笑《え》む。
苦労知らずのおっとりとした夢見がちな少年のような、邪気のないふかふかの笑顔だ。
真っ赤になり、ぷんと怒ったシルヴィンは、思いっきり横を向いた。
格好を整え、|竪《たて》|琴《ごと》を抱えたレイムは、先の|尖《とが》った石ころを拾い、平坦になった|石畳《いしだたみ》を選んで|屈《かが》みこみ、シルヴィンに話しかける。
「こういう形をしたものがどこにあるのか、空から探してくれないか」
言いながら、石畳に|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》を描いた。
「|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》?」
察しよく、シルヴィンが尋ねる。
うなずきながら、レイムはその一方の先端に、握っていた小石を置いた。
「上向きの正三角形、一番初めに底辺を、左から線を引いて描くこれは、|邪《じゃ》|星《せい》の魔法陣。長きにわたり描かれておかれる魔法陣は本来、光と|闇《やみ》を力に存在する。だからこれも、おそらく地表に直接描かれていて、空から見えるはずだ」
建物の中にあったり陰に隠れてしまっては、本来の役目を果たさない。
邪星の魔法陣とはいえ、神聖なる|呪《じゅ》|文《もん》をその周りに|印《しる》しておけば、それは何よりも強固な|封《ふう》|印《いん》となる。
むろんその呪文は地に深く染みているので、表面に描かれた文字だけを消し去っても効力は消えない。神聖文字を無に帰すことができるのは、聖なる力に精通した者のみ。
小物の魔物なら、その神聖文字の弱いわずかな部分を|狙《ねら》って、微細な|隙《すき》|間《ま》から|這《は》いだしてくることもある。しかしたいていは魔法陣のある場所には礼拝堂など神聖な儀式が行われる建物があり、優秀な|魔《ま》|道《どう》|士《し》や神官がそれを守っている。その少々の魔が寄ったところで、それら守護者を打ち倒し従わせて、魔法陣を解放させることなどできない。
魔法陣は『|封《ふう》|印《いん》』であり『|扉《とびら》』である。
「これ大きいの?」
「たぶんね。建物ひとつまるまる建てられるくらいの大きさか、それ以上かもしれない。この地点の中心に、あの王都の礼拝堂と同じような『魔道の封土』があるはず。僕らはそこに用がある」
「見つけたら?」
「待ってて。ディーノとファラ・ハンを連れて、そこに行くから」
にこやかに、レイムは言った。
シルヴィンは、むっと|眉《まゆ》をひそめる。
「連れて、って何よ」
説明と打ち合わせの終わったレイムは、立ちあがって振りかえる。
「僕が今から二人を迎えにいってくるから。何かあってあそこから出てこないみたいだし」
ディーノはともかく、世界を救いたいと言っていたファラ・ハンまでもが出てこないのはどう考えてもおかしい。
彼女一人で自在に乗りこなすというのは危なげに見えても、あの|飛竜《ひりゅう》はファラ・ハンが背に乗ることを許したわけだし、言うことも聞くはずだ。
魔道士たるレイムの力が求められるような事態が起こっているのかもしれない。
背に翼を持つ伝説の|乙女《お と め》。
全身を構成する細胞のひとかけらにさえ不思議の力を秘めた、世界さえ救う聖なる乙女。
彼女が他人の|手中《しゅちゅう》にある場合どうなるかは、様々な推測がなりたつ。
しかもあの男が、世界じゅうに名を|轟《とどろ》かせた|悪《あっ》|漢《かん》ディーノであることを知られれば、一緒にいるファラ・ハンすら身の危険にさらされるかもしれない。
あれだけの|美《び》|貌《ぼう》をもつ|乙女《お と め》だ。
|邪《よこしま》なる男たちの|陵辱《りょうじょく》の対象とならないわけはない。
なんにせよ、楽観はせぬほうがいい。
レイムやシルヴィンは、|飛竜《ひりゅう》から|墜《お》ちたファラ・ハンが、ひとびとの目にとまるまえ、ディーノの忠告に従って翼をしまっていたことを知らない。
「一人で領主の|館《やかた》にもぐりこもうっていうの!?」
色めきたつシルヴィンに、レイムは片目をつぶる。
「飛竜が墜ちたのも出たのもあそこでしょ? それに僕はちゃんと正面から入れてもらうさ」
「…………」
やっぱりこの男はどこか頭がおかしい。
シルヴィンは|独《ひと》り|言《ご》ちながら飛竜を駆って、空に上がった。
レイムは、自分の飛竜に言いつける。
「君もどこかで待ってておくれ。僕が呼んだときには、必ず来て。できれば急いでね」
自分より|遥《はる》かに大きな飛竜を相手に、子供をあやすような口調でレイムは語りかけた。
くいと頭を下げて了承の意を示し、飛竜は空高く飛び立った。
第七章 |賓客《ひんきゃく》
なりゆきに驚きながらも、事態を|傍《ぼう》|観《かん》し見あげていた大勢の花火見物に集まったひとびとは、自分たちのいる場所めがけて|墜《お》ちてくる|飛竜《ひりゅう》に慌てて逃げた。
逃げ惑うひとびとに遠慮なく、降下を止めて|滑《かっ》|空《くう》した飛竜が突っこむ。
巻き起こされる風にあおられて転ぶ者はいたが、幸いなことに飛竜の翼にかけられて|怪《け》|我《が》を負うものはいなかった。
飛竜は広場の中にちょうどいい場所を見つけて降り立つ。
「ケシャアァァッ!」
|威《い》|嚇《かく》するように、腹の底まで響く恐ろしい声で飛竜が|哭《な》いた。
びりびりと空気が振動した。
気絶したファラ・ハンを抱いて、安定した地上に足を下ろしたディーノは、ほっと|安《あん》|堵《ど》の息をもらした。急降下の|余《よ》|韻《いん》を振り払うように頭を軽く振る。
それまで石のようにディーノの腕にしがみついていた小さな飛竜が、ようやく本来の元気を取り戻して、きょろきょろと首をめぐらす。
「キャオ!」
もう大丈夫とばかりに歓喜して、小さな飛竜が|哭《な》いた。
このチビにかかると、何もかもが自分の手柄のように聞こえる。
いいことは小さな飛竜にとって、自慢の種になるらしい。
耳元で聞こえた小さな飛竜の声に、ぴくんとファラ・ハンの耳が反応した。
ディーノの腕の中にしっかりと抱きかかえられたファラ・ハンは、うっすらと|瞳《ひとみ》を開く。
たいしたショックはなさそうだ。もちろん|怪《け》|我《が》をしているところもない。
なかば助けて支える形で、ディーノはファラ・ハンの足を地表に下ろして立たせた。
頼りなくよろめき、ディーノに胸を借りてすがりながらも、窮地を脱したことを知ったファラ・ハンは、肩に入っていた力を抜く。
なんとか|人《ひと》|心《ごこ》|地《ち》ついた二人の前に。
立派な身なりをした紳士が進みきた。
なりゆきに驚きざわざわと不穏に|賑《にぎ》わう者たちが、紳士のためにそそくさと道を開ける。
|妻《さい》|帯《たい》し、物心ついたばかりの子供のいそうな好漢である。
|文武両道《ぶんぶりょうどう》のバランスのとれた上品な感じがする。足運びから見てとるに、かなりの|剣客《けんきゃく》だ。
ディーノは相手を値踏みするかのように目を細める。
相手としては、はなはだ不本意な|雑魚《ざ こ》であると|冷《れい》|酷《こく》に判断した。
たいていの場合、ディーノと対等にわたりあえる者などいない。
紳士は二人のそばまで近づき、うやうやしい仕草で礼をしてひざまずいた。
「わたくしはこのモルミエナ領国の七代目の領主、ツィークフリートと申します。高貴で美しい旅の方々、事故とはいえ、これは大変な災難でございました。お|怪《け》|我《が》のほどはいかがなものでございましょうか?」
|丁《てい》|寧《ねい》な、見かけよりも年寄りめいたひびきをもつ口調で問いかけた。
領主の口にした名に、ディーノはかすかに|眉《まゆ》を寄せた。
名に覚えがあった。
この男を知っているはずだった。
だが記憶にあるその容姿と、目の前にいる男のそれは違う。
そしてまた。
ツィークフリート・モルミエナという名の男なら、ディーノの顔を知っているはずだった。
おのれの|民《たみ》を守るため、恥も外聞もかなぐり捨てて土下座をし許しを|乞《こ》うた男が、ディーノの顔を見忘れるはずがない。
黒い髪と青い|瞳《ひとみ》の二人連れは、誰の目にも異国の客人、遠い国から来た旅人と見えた。
まるで自分に向かって立派な紳士が|丁重《ていちょう》に語りかけているものと|錯《さっ》|覚《かく》しているのか、単に思いあがっているだけなのか。|鼻《び》|孔《こう》をふくらませたり縮めたりしながら、小さな|飛竜《ひりゅう》は、ぱさぱさと翼を開閉する。
男が一見してそう判断したように、ディーノの格好は、素材もデザインも女王が|係《かか》わっただけあって相当に|吟《ぎん》|味《み》され、|凝《こ》った一流のものだ。
孤高王を名乗ってあちこちを|闊《かっ》|歩《ぽ》する普段の彼もそうだが、けっして身寄りも身分もない|卑《いや》しい|蛮《ばん》|族《ぞく》の若者には見えない。
ディーノ同様、簡素な長衣をまとうファラ・ハンにしても、やわらかな|光《こう》|沢《たく》を放つ|滑《なめ》らかな布地から、純白のそれがかなり上等の絹織物を用いた|贅《ぜい》|沢《たく》|品《ひん》であることを見てとることができる。
小さな宝石を織り柄のところどころに縫いこんだ金糸の腰帯などは、さりげないだけになお豪華な一品だ。
連れの飛竜の背につけられた|鞍《くら》にしても、女王の持ち物といっても差し支えないほどに豪勢なものである。
身なりと持ち物に、なんら不備はない。
そしてそれ以上に。
|綺《き》|麗《れい》で気持ちいい|精《せい》|巧《こう》な美術品のような|体《たい》|躯《く》と、|凜《りん》|然《ぜん》と整った顔立ちをした彼ら二人の|麗《うるわ》しさが、他を圧する力を放っていた。
男が見ても|惚《ほ》れぼれとする、|威《い》|風《ふう》|堂《どう》|々《どう》とした見事なる若者。
女同士でも|羨《うらや》む、なよやかで優雅な|乙女《お と め》。
色以外にはどこといって似た部分などない一組の男女。
形を|違《たが》えていて、共通している本質のもの。
血だとか、そういうものに縛られない確固たる存在感。
大勢のひとびとの中にいてもすぐに見つけ、見分けられる、石ころと宝石ほどの違いだ。
また、これまで見たこともないほど立派な飛竜を駆ることができるという力量からも、不意に訪れたこの客人たちの価値がしぜんと決められていた。
こうしてファラ・ハンと並び立つ雄々しいディーノの姿は、とても世界を|震《しん》|撼《かん》させた、あの非道の|悪《あっ》|漢《かん》とは見えない。
王都での情報は、|逐《ちく》|一《いち》|魔《ま》|道《どう》|士《し》の伝令法によって世界各地にくまなく伝えられている。
世界滅亡が|噂《うわさ》されたとき、まっさきに捜しだされ、永久|監《かん》|獄《ごく》と呼ばれる獄舎アル・ディ・フラの塔にディーノが|幽《ゆう》|閉《へい》されたことも知られている。
一週間ばかりまえ、聖地にて具現した翼ある|乙女《お と め》とともに選ばれし戦士であることも。
もっとも、|覚《かく》|醒《せい》した彼らの出発のそれまでは、王都にいる者にさえまだあまりに耳新しく、王都から遠く離れたこの地までは、伝令の支度も整っておらず、|噂《うわさ》は聞こえていない。
ましてや彼らがいきなり訪れようなどとは、誰もが夢にも思うまい。
だが。
あのモルミエナ領主であるならば。
格好が違うから、同伴者がいるから、初対面と|錯《さっ》|覚《かく》することがあるだろうか。
独特の魅力を有し、その場の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》すら変えてしまうディーノのそれを忘れきってしまい、今目の前にいる彼を別人と思うことがあるだろうか。
「お心づかい、ありがとうございます」
身を案じる問いかけに、ファラ・ハンが淡く|微《ほほ》|笑《え》む。かすかに顔色が青い。
いらぬ気づかいをさせてはならないと思うから、懸命に笑みを浮かべようとしている。
それがよけいに、このはかなげなまでにか弱い乙女の魅力を増す。
白い|肌《はだ》に薄く桜色に赤みを|透《す》かす、えもいえない愛らしさ。すんなりとした首筋も、しなやかな手足も、たおやかな全身のすみずみまでをも、かばいたくなる。
自分こそが、守り戦わねばという気を起こさせてしまう。
|姑《こ》|息《そく》に|意《い》|図《と》し、そう望まなくても、しぜんとひとを奮起させる存在、それが彼女なのだ。
いたずらに他をあてにしないことが、余計に興味と関心をそそる。
「|怪《け》|我《が》のほうは」
顔をあげて、ファラ・ハンはちらりとディーノを見る。
ディーノは無表情で、なんだか|機《き》|嫌《げん》の悪いような|愛《あい》|想《そ》のない顔をしている。
ひざまずいている領主を見下ろしている。
見つめてくるファラ・ハンのことなど無視である。
つきあい浅いファラ・ハンが、その心中を計り知るはずがない。
ディーノが|怫《ふつ》|然《ぜん》としていたり、愛想のないのは、何も今に始まったことではない。
「これといってないようです」
決めつけてまとめた。
この男に尋ねても|無《む》|駄《だ》だと割り切って、問うこともしなかった。正しい判断だ。
「申しわけありません。せっかく皆様でお楽しみのところを|邪《じゃ》|魔《ま》してしまって……」
ファラ・ハンは頭を下げて謝罪した。
絹糸のように美しい|癖《くせ》のない黒髪が、さらりと肩口を|滑《すべ》り落ちる。つややかなそれが動き、輝きが放たれると、光の粉が散るほどの|錯《さっ》|覚《かく》が起こる。
「とんでもない」
まぶしげに目を細め、領主は大げさな仕草で、ファラ・ハンのそれを否定した。
「たとえ小鳥一羽であってもこのようなことになるまいと、|魔《ま》|道《どう》|士《し》まで配して空の様子をうかがっておりましたのに。役に立たず、まったくとんだことでございました。心からお|詫《わ》び申しあげます」
「いいえ……」
ファラ・ハンは、ゆるく首を振る。
この領主に必要以上の気をつかわせてはいけないと、ディーノにすがる手を放し、なんとか完全に一人で立った。
少しくらくらする感じが残っているが、気分はかなり急速によくなってきている。
ずいと、一歩ディーノが前に出る。
「ここにわずかばかりの水はあるか?」
|物《もの》|怖《お》じしないいつもの口調で領主に尋ねた。
ひとを見下ろしたような口ぶりで話す若者に、一瞬領主は気をのまれた。
ファラ・ハンは、ディーノのあまりの態度に声も失い、棒をのんだように立ちつくす。
|横《おう》|柄《へい》をさばくディーノは、恥ずかし気などあるはずもなく、かえって堂々としている。
「キャウ」
聞こえなかったのかとばかりに、小さい|飛竜《ひりゅう》が|哭《な》く。
|小《こ》|生《なま》|意《い》|気《き》にもちゃっかりと、主人の威を|笠《かさ》に着ている。
領主が気をのまれたのも当然で。
ディーノと領主が生まれながらにして持っている『格』に、明確な違いがあった。
彼が孤高王を名乗ってしかるべき確固たるもの。
|気《け》|圧《お》されて、領主は慌てふためき腰を浮かす。
「こ、これはとんだご無礼を。すぐに申しつけて用意させますので。|些少《さしょう》ではございますが、|宴《うたげ》を開くことのできるだけの支度を整えてあります。|館《やかた》のほうにいらしてくださいませ」
引き際を察して、ディーノの飛竜は館の従者が|手《た》|綱《づな》を預かろうとするまえに、さっさと上空に飛び立った。
広場に集まっていた領主直属らしい大勢の者たちは、領主の後について館に向かう二人の突然の客人に、礼儀正しく立ちどまり頭を下げて見送った。
ディーノはしごく当然という|面《おも》|持《も》ちで、それらのひとびとに目をやることもしなかった。
|会釈《えしゃく》してやり過ごすファラ・ハンは、なんだかとんでもない方向に物事が進んでいるのかもしれないと、内心冷や汗をかいていた。
ディーノが何を考えているかなど、想像もできない。
領主の|館《やかた》に身を置き、もてなしを受ける者の儀礼ということで、|丁重《ていちょう》な態度で申しでた|執《しつ》|事《じ》が、ディーノに背負った長剣を預けるように言った。
もとはといえば、ディーノから申しでたことである。
ぶしつけに内部に入りこもうとする立場上、武装しているのは好ましくない。
呼びとめられ、ディーノは執事に背筋が凍るような視線を送った。
ディーノは少しばかり|睨《にら》みをきかせたが、背負っていた長剣を|悠《ゆう》|然《ぜん》とした態度で即座に下ろし、すくみあがった執事にぽいと渡した。
|小姓《こしょう》の子供ほどの長さのある巨大な長剣を両腕に放られた執事は、重みに耐えきれず、半ば下敷きになるような格好でその場所に腰砕け、ひっくり返った。
押しつぶされ、|蛙《かえる》が踏みつぶされたような奇怪な悲鳴をあげて|失《しっ》|神《しん》した執事に、慌てふためいた使用人たちが駆け寄った。
ひと抱えもある鋼鉄の|塊《かたまり》を、三人がかりで気絶した執事の上からのけ、さらなる人数でよろよろと、預かり物をしまいおく小部屋に運んだ。
医務官のもとに|担《かつ》がれてゆく執事を、振りかえったファラ・ハンが気の毒そうに|眉《まゆ》をひそめて見送った。
こうなることをはじめから予測していたディーノは、涼しい顔でファラ・ハンをせかして|歩《ほ》を進めるのみで、かえりみることもしなかった。
|綺《き》|麗《れい》に飾りつけられた|館《やかた》の中。
特別な客をもてなすための別室に案内されたディーノたちは、そこのテーブルについて今しばらく待つよう|請《こ》われた。
木の枝に似た巨大な角をもつ動物の首の|剥《はく》|製《せい》が、マントルピースの上に飾られている。
六つの|椅《い》|子《す》が置かれた、六人掛けというには大きすぎるテーブルの上や部屋のあちこちに置かれていた何十という銀製の|燭台《しょくだい》、真新しいロウソクのすべてに火が|灯《とも》される。
染みひとつない純白のテーブルクロスが、淡い光を浴びて輝くばかりに見えた。
一段と立派な礼服に衣装を着替え、領主は再びディーノたちを接待しに現れる。
服装だけでも失礼のないようにとの配慮だろう。
ディーノの服装や態度は、どうみてもただ者ではないと思わせるに十分だ。
領主は|厨房《ちゅうぼう》に用意させていた料理の内で一番いいものを運ぶようにいいつけてきたが、なにぶんにも不意のことなので、対応に|若干《じゃっかん》の時間がかかることを|詫《わ》びた。
従者がワゴンを押し、酒蔵から|選《え》り抜きの赤ワインを運びきた。
氷を入れたワインクーラーで冷やされていた三本の|瓶《びん》から領主の|指《さし》|図《ず》で一本が選ばれ、コルク|栓《せん》が抜かれる。領主は慎重に味見をした後、従者にうなずく。
ルビー色の液体が、|磨《みが》きこまれたクリスタルのグラスに注ぎ入れられ、ディーノとファラ・ハン、それぞれの前にも置かれた。
ディーノはちらりと|一《いち》|瞥《べつ》しただけで、ふくいくたる|芳《ほう》|香《こう》を放つその上等の酒に口をつけることもしなかった。
ファラ・ハンは恐縮し、グラスに手をかけるどころではない。
王のようにふんぞりかえっている若者の|機《き》|嫌《げん》をとろうと、領主は彼の顔色をうかがいながら、場つなぎに|面《おも》|白《しろ》おかしい話題を出して話しはじめる。
うっとりとするほどに美しい二人の客人。見たこともない|漆《しっ》|黒《こく》の髪と|透《す》きとおる|群青《ぐんじょう》の|瞳《ひとみ》。
そのような色を持つ民族のことは知られておらず、どことも知れぬ遠い場所から来たらしい、しかも文化程度は王都のそれと変わらないまでに洗練された初対面の者に、何をか話しかけるのは、相当に気をつかうものだった。
ディーノは冷めた目で領主を見、ファラ・ハンはつきあいよく、話に|相《あい》|槌《づち》を打っている。
どうということもない、形ばかりはなごやかな談話が続けられた。
しばらくして豪華で大量の料理が惜しげもなく運ばれ、テーブルの上をにぎわせた。
「なにかついているのか?」
ディーノは数度目の同じ問いを領主に投げかけた。
キャワキャワと、肉のおこぼれにありついていた小さな|飛竜《ひりゅう》も不満を申し立てる。
ディーノは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》|極《きわ》まりない仕草で、銀製のフォークを置いた。
不意の問いかけにびくりとした領主は、自分が|惚《ほう》けたようにディーノを|凝視《ぎょうし》していたことに気がつき、慌てて視線をはずす。
豪快であり、威厳のあるこの美漢に見とれていたとは、言えなかった。
ディーノは機嫌が悪いと、平気でそこらじゅうにあるものを破壊する。
こういう|険《けん》|悪《あく》な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》は、いつディーノがテーブルを蹴り倒しても不自然ではない。
ファラ・ハンは、どうとりなしていいかわからず、おろおろと二人を見比べる。
幾度となく同じ視線を受けていた彼女自身も、少しばかり|嫌《いや》な気がしていた。
それに確かに食している姿をじっと見つめるのは、あまり感心した行為とは思えない。
小鳥がついばむほどに少しばかりのものを口に運んだファラ・ハンとは違い、ディーノは豪勢に並べられた料理の大半を一人で平らげている。
底なしかと思われる胃袋だったが、もうそろそろ食器を置いても問題なさそうな頃になってもいた。
ここで手を休めるのも、いいかもしれない。
「部屋を用意できるか? 少し休めばすぐに出ていく」
ディーノはわざとらしい仕草で、ぱさりと左手で髪を|掻《か》きあげる。
領主だろうとなんだろうとお構いなしの|無《ぶ》|礼《れい》な格好だ。そうしてもそれがみょうに絵になる、目を|惹《ひ》いてやまないというのが、|憎《にく》らしい。
格好いいディーノのそれに喜んで、小さな|飛竜《ひりゅう》はディーノの腕に再び飛びついた。
|居《い》|丈《たけ》|高《だか》な態度に出るディーノをやわらげるために、ファラ・ハンが口を開く。
「できるだけ早く、お|暇《いとま》いたしたいと思っております。疲れていたうえに驚くことがありましたもので、このまま|出立《しゅったつ》というのも|辛《つら》いくらいですの。ご親切に甘えてばかりで、本当に勝手な申し出なのですけれど……」
世界がどのようなものなのかを|把《は》|握《あく》しきれていないファラ・ハン。しかし彼女はそれ以外でも、ディーノにあらゆる面で頼り、守ってもらっていることを|否《いな》めない。
もしも彼が肉体的に限界を感じて休息を欲しているとすれば、それはとても重要なことだ。
領主は、これを|快《こころよ》く受け入れた。
従者に命じて、二人を|丁重《ていちょう》に部屋から送りだす。
完全に立ち去ったのを見送って。
領主はぞんざいな格好で、どっかりと|椅《い》|子《す》に腰を下ろした。さきほどまでの紳士然とした様子は|微《み》|塵《じん》もない。
飲みかけの酒が入ったグラスを持ち上げ、薄笑いを浮かべる。
にいいっと引かれた|唇《くちびる》の|端《はし》が。
耳まで裂けた。
めくれあがった唇から、|鮫《さめ》のように先の|尖《とが》った|醜悪《しゅうあく》な歯が伸びだした。
|瞳《どう》|孔《こう》が縦に細長く伸びる。
グラスをつかんだ手の指が、ぞろりと長くなった。
きめの荒くなった|肌《はだ》に|皺《しわ》が寄り、それらの皺は|鱗《うろこ》に変わる。
たまらぬ|愉《ゆ》|悦《えつ》に、ぐっぐっと|咽《のど》を鳴らし、領主が笑った。
|爬虫類《はちゅうるい》の鳴き声にも似た、おぞましい笑い声だった。
先の二つに割れた長い|舌《した》が、べろりとひるがえり唇をなめる。
「美しい」
笑いながら、領主はつぶやいた。
その賛美は、ディーノに対して。
ファラ・ハンに対して。
「あの男の血肉を余さず食らい、あの姿をもらおうぞ。あの女を|供《く》|物《もつ》に用い、新たなる|魔《ま》を呼びだそうぞ。『名乗り』の|魔《ま》|道《どう》にさえかかれば、いかなる|猛《も》|者《さ》といえど恐るるに足らぬ。あの女からなら、聞きだすこともかなうはず。礼儀知らずには、まこと、手間取るものよ」
領主の家に生まれついて、厳格な貴族として育ってきた領主だったが、あそこまで|物《もの》|怖《お》じせぬ男に会ったのは初めてだと思った。
いつかどこかで会ったことがあるような気も、しないではない。
しかし|紗《しゃ》|幕《まく》で|隔《へだ》てられたような過去の記憶をまさぐり、思い出すことは、今の彼にはできない。
さりげなく相手をうかがうように、名前を名乗らせる機会を何度も与えてみたのだが、とことん図々しい男の前には、まったく|意《い》|図《と》がつうじた様子はなかった。
まるで神の一人を泊めた宿屋の物語のようだ。
神々は簡単には名乗らない。
自分たちのその名が、神秘の|呪《じゅ》|文《もん》につうじることを知っているからだ。
神。
思いかえし、領主はぶるっと身震いした。
すでに捨てたはずの者たちの呼び名だった。
震えたはずみに、握りしめていた手に力が加わったのか、クリスタルのグラスが粉々に砕け散った。
ぼたぼたとまろやかな|芳《ほう》|香《こう》を放つ液体がテーブルクロスに|真《しん》|紅《く》の染みをつくる。
破片に切り裂けた手のひらの皮膚、ぱっくりと口を開けた傷口からは、一滴の血も流れでなかった。
領主の考え方には、彼ら客人の事情を知らぬだけに都合のいいものがある。
二人の客人は、絶対に名を告げない。
なぜなら。
一人は、神秘の儀式によってこの世界に具現した聖女の名をもつ|乙女《お と め》であるから。
一人は、世界の隅々にまでその|悪逆非道《あくぎゃくひどう》な行動を知られた、|凶悪《きょうあく》なる孤高王であるから。
ディーノとファラ・ハンは|館《やかた》の奥にある立派な客間に通された。
無遠慮に、ディーノが部屋の中を検分する。
まるで不本意だがこれで|辛《しん》|抱《ぼう》してやるとでも言いたげだ。
ディーノたち四人それぞれが眠っていた王都の|離宮《りきゅう》と比べれば、調度品などはずっと低級な安物だったが、それでも|庶《しょ》|民《みん》のそれとは段違いのものばかりが集められている。
ディーノの気分を察して、小さな|飛竜《ひりゅう》までが、|可《か》|愛《わい》げなくふんと鼻を鳴らす。
|呼《よ》び|鈴《りん》の場所を教え、いつでもお呼びくださいと言いおいて、従者は恐縮しながら二人の前から引き下がった。
かなりの勇者と見えるディーノだが、勝手にくつろがせ、警戒する素振りもなかった。
武器を取りあげられているディーノは、彼の油断ならない本質を見抜けない者たちにとっては、確かに恐るるに足りない存在と感じられるのかもしれない。
一人で何ができるものかと、油断している。
だがこれまでの冒険談から考えて、剣などなくてもディーノは存分に破壊行為を行える。
略奪も壊滅的打撃を与えることも、武器を欠こうが、どうにでもなる。
ディーノは、寝台に上がり、どさりと体を横たえた。
同じようにころんと、小さな|飛竜《ひりゅう》が|仰《あお》|向《む》けに転がる。
満腹のおなかがくるんと出っ張っていた。
親元にいるように安心しきった感じのある飛竜は、ディーノのマントの|端《はし》を握り、見る間に、すかすかと気持ちよさそうな寝息を立てた。
横になるディーノに少し心配げな|面《おも》|持《も》ちで、ファラ・ハンは寝台のそばに寄る。
「疲れましたか? 何かありましたらすぐに対処できるよう、わたしが起きてますから、どうぞ眠ってください」
けなげな申し出に、ディーノは目を細め、ふんと鼻を鳴らす。
返事をすることすら|馬《ば》|鹿《か》らしかった。
このなんの力もないような、|華《きゃ》|奢《しゃ》でか弱い|乙女《お と め》に対処できるようなことなどあるはずがない。
|火急《かきゅう》に何かがあれば、どんな状態であろうとディーノがなんとかしなければならないことは、明白である。
何も言わなかったディーノに、了承を得たと思ったファラ・ハンは、寝台横の|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》に腰かけようと背を向ける。
去りかけたファラ・ハンの手を。
ディーノがつかんだ。
|有《う》|無《む》を言わせる間もなく、ぐいと引っ張る。
寝台に|尻《しり》|餅《もち》をつく格好で、勢いよくファラ・ハンが倒れこんだ。
ファラ・ハンを引き寄せながら半身を起こしたディーノが、自分の胸にファラ・ハンを抱き寄せる。
「なっ、何を……!?」
後頭部と背中を押さえられ、身動きできない形に強く抱きしめられたファラ・ハンは、いきなりの展開に、驚いて身じろぎする。
この状況にはたぶんに問題がある。
「動くな」
|耳《じ》|朶《だ》に直接|吐《と》|息《いき》のかかる距離で、ディーノの声が小さく響いた。
耳にしたささやき声に、びくりとファラ・ハンの体が震えた。
身動きできなくなった。
指一本も動かせなくなるような|衝撃《しょうげき》があった。
そしてディーノは。
あの頭の|芯《しん》がくらくらするような甘く|芳《かぐわ》しい体臭を、思いがけなく大量に吸いこんでいた。
|脆《もろ》く柔らかい|乙女《お と め》の肉体が、腕の中にあった。
脈打つ熱いものは、ディーノのそれとわずかにリズムをずらしている。
ふうっと遠のきかける緊迫感を、|唇《くちびる》を強く|噛《か》んで引き戻す。
自分の内で目を覚まそうとする|獣《けもの》を、懸命に抑えた。
「大声は必要ない」
からからに|干《ひ》あがった|咽《のど》でディーノはつぶやいた。
大きさを抑えて出したためなのか。
わずかにディーノの声は|掠《かす》れ、震えを帯びていた。
不覚なるそれに慌てたディーノは、何か行動を起こしてまぎらわそうとする。
そうっと壊れ物を扱うように静かに、背中に置かれたディーノの手がファラ・ハンの長い黒髪を|撫《な》でた。
ぞくりと背筋が震えるような感覚がファラ・ハンを襲った。
かあっと体が熱くなる。
女性の扱い方を十分に心得た男の仕草だった。
ディーノはファラ・ハンの耳元に|唇《くちびる》を近づけたまま、かすかな声で確認する。
「酒を飲んでいないな」
どきどきと高鳴る胸の|鼓《こ》|動《どう》を聞かれまいと、どうにか胸の前に腕をねじこんで、ファラ・ハンは顔を伏せたまま少しだけ首を縦に振った。
頭に置かれている手が、言葉なくともファラ・ハンの返事を伝えるはずだ。
ディーノは、ほうと|安《あん》|堵《ど》の息を|洩《も》らす。
最良の状態で本題に入れる。
「気がついたか?」
小声で切り口上にディーノは問いかけた。
|睦《むつ》|言《ごと》を|囁《ささや》こうという、それではない。
なんのことかわからず、ファラ・ハンはぱちくりと|瞬《まばた》きした。
反応から察知して、ディーノは話を続ける。
「ここは何かおかしい。今の世界に、このように満ち足りた場所などない」
惜しげもなく|蓄《たくわ》えを出し客人をもてなすほどの余裕など、食糧不足の叫ばれる現在、どこにもあるはずがない。
女王のいるあの王都でさえ、皆がつましく平等に質素なものを食卓に並べているのだ。
ここは……。
そう。
レイムの導球の力によって訪れることになったところ。
あるいは。
「そうだ。こここそ、その問題の場所であるのかもしれぬ」
思い当たり、ファラ・ハンははっと顔をあげる。
何か言いかけたファラ・ハンに、ディーノがすっと目を細めた。
煙る光を帯びた青い|瞳《ひとみ》が、ごく間近い位置でファラ・ハンを見つめていた。
一度唇を求められたときと大差ない距離。
そのときのディーノをありありと思い出し、どきりとしてファラ・ハンは顔を伏せる。
ファラ・ハンの様子にいっさい構わず、ディーノは淡々と先を続けた。
「俺は以前、ここの領主と会ったことがある。同じ名乗りをしたが、顔も年格好も別人だ。ここでしばらく、あいつらが来るまで時間稼ぎをする。話を盗み聞かれぬよう、こうするだけで手いっぱいだ。|魔《ま》|道《どう》が相手では|分《ぶ》が悪い」
わざわざ抱き寄せたのも、ファラ・ハンに確認をしておく必要があったため。
のぞき見られるのは|免《まぬが》れきれないとしても、これだけの距離で交わされる小声の会話なら、エル・コレンティほどの高位の術者でもないかぎり、完全に聞きとるのは不可能だ。
しかも、そうした|遠《とお》|耳《みみ》の術のために必要なものを、ディーノは領主に与えてはいない。
わずかばかりの魔道の法則については、ディーノも精通しているものがある。
名を告げていないので、そのために|呪《じゅ》に縛られることはないのだ。
口にするものに混入されていた少量の薬物から、その持てる魔道特性だけはディーノにも探ることができた。
|肌《はだ》の裏にまで|沁《し》みいるような独特のうすら寒さも、昔経験したことがある。
氷の魔道を基本においているらしい。
温度とともに効力を変えるタイプだ。
料理よりも、しごく当然とばかりに、氷そのものを用いて冷やされていた酒に混入されていた魔道のほうが、即効性で影響力が大きい。
身を守るために覚えた消去の|印《いん》で、ディーノの体内ではそれらは十分に消去できていた。
料理も酒も大量に食してあるので、術にかかったものと、向こうも安心しているはずだ。
ファラ・ハン程度の食事量なら、まったく影響は出ない。
ディーノが休息を願いでることも、連中の計略のひとつに入っている。
わざわざその計略に添ったのだから、行動だけを見てとった奴らは安心しているはずだ。
派手に暴れるなどしないかぎり、しばらくは大丈夫だろう。
お人好しなファラ・ハンのように、なんでもかんでも疑いなく接しているようでは、とうてい生き残れない。時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の破片を集めて元に戻すなど夢物語だ。
常に|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》に|凝《こ》り固まり、誰も信じないと固く心に決めているディーノだからこそ、他人の顔色の裏の裏までを見抜く術に|長《た》けていた。
自分やファラ・ハンを見つめていた、領主の尋常でない視線もみょうに引っかかる。
|墜《つい》|落《らく》に近い形のレイムの|飛竜《ひりゅう》をなんとか正気づかせて、どこへともなく落ち延びたシルヴィンたちの身の安全を、ディーノは確信していた。
あの程度で簡単にくたばってしまうようなら、聖戦士だなどと豪語するのは片腹痛い。
もちろん彼らがここにやってこない場合についても、抜け目なくディーノは考えている。
ディーノが|意《い》|図《と》していたことの本質を知らず、抱き寄せられ、胸を高鳴らせてしまったファラ・ハンは、ますます赤面する。
こんなではないはずなのに、そういう気持ちを抱いてしまうことに|自《じ》|己《こ》|嫌《けん》|悪《お》する。
男として格別の魅力をもつディーノを相手にするのなら、女性の誰でもがそういう感じになってしまうのも、仕方ないことなのかもしれないが。
揺るぎない力と存在感のまえには、どんな抵抗もできない。
|嫌《いや》というほど自分を思い知らされる。
一個の、ただの女として還元されてしまう。
まるで神聖な祭壇に捧げられる|生《い》け|贄《にえ》のように、|自《みずか》らの身を投げだしてしまいそうな衝動に駆られる。
危険に満ちた、|研《と》ぎ|澄《す》まされた|鋭《えい》|利《り》な|刃《やいば》のような男。
ディーノには、状況を利用してそういう方面に持ちこもうとする気は|毛《もう》|頭《とう》ない。
そういう手段を用いなければ思いを遂げられないような男ではない。
ましてや。
今はそう|呑《のん》|気《き》なことをやっている場合ではない。
敵対する相手がどのようなもので、どんな形で出てくるのか見当もつかない以上、ディーノはいつでも対応できる体勢に身を置いておく必要があった。
軽い|戯《たわむ》れでさえ、隠れ見られていることを知っていてというのは気に食わない。
ただでさえ注目されやすく、しかも|己《おのれ》を誇示し、それを楽しむことを知っている英雄気質のディーノだったが、露出狂の気があるわけではない。
のぞきの楽しみを提供してやる気など、さらさらなかった。
時間稼ぎの必要性は、すぐになくなった。
第八章 |吟《ぎん》|遊《ゆう》
一人残ったレイムは、さっきシルヴィンが座っていた|空《あ》き|樽《だる》に腰を下ろした。
久しぶりに手に取った金色の|竪《たて》|琴《ごと》を、慎重に調律する。
手入れもせずに袋にしまいこんだまま放置していたが、それは以前と変わらず美しい|光《こう》|沢《たく》をもって輝いていた。弦に|錆《さ》びが浮いてもいない。
頭よりも体のほうが竪琴の扱い方を覚えている。
|哀《かな》しさと嬉しさ、懐かしさの入り交じった複雑な表情で、レイムは弦をいじる。
|魔《ま》|道《どう》|士《し》になるまえ、宮廷楽士であったレイム。
場数をこなしたいささかの自信もあり、その実力を利用しない手はない。
ぴーんと澄んだ|音《ね》|色《いろ》が、かわいた空気の中をどこまでも響いた。
準備を整えて、レイムは静かに竪琴を|爪《つま》|弾《び》く。
初心者向けの簡単な練習曲で指を慣らす。初めこそ少しぎこちない感じがしていたが、だんだんと硬さがほぐれていった。
|弾《ひ》きたい。
|謡《うた》いたい。
体の奥底から、思いが溢れる。
ようやく自分本来の姿を取り戻したような、深い|安《あん》|堵《ど》|感《かん》があった。
幾度となく練習した曲。愛らしい姫様をなんとかして喜ばせようと、一生懸命に覚えた曲。
繰りかえすうち、知らず体が謡う姿勢に入っていた。
「風をわたる銀の鈴 朝の光を告げて鳴る 光の|乙女《お と め》は野を駆けて 花の|蕾《つぼみ》に口づける」
伸びのある|爽《さわ》やかなレイムの声が、竪琴の伴奏にのって響いた。
声の行き渡る先すべてを浄化するかのような、清らかな|声《こわ》|音《ね》。
遠く遠く、|沁《し》みいるように、響く。
空気に分けいり運ばれる。
ぴくんと。
シルヴィンの乗る|飛竜《ひりゅう》が震えた。
「どうしたの? 何かあった?」
常にない反応に、不安げにシルヴィンは飛竜に問いかけた。
天性の竜使いであり、小さな頃から飛竜と接していたシルヴィンだ。実際に乗りこなすようになってずいぶんたつが、このような感じは経験したことがない。
主人の問いに答えようと、|飛竜《ひりゅう》はついと首をめぐらせ、とってかえすように旋回した。
命じていない飛竜の行動に意味を見いだし、|遥《はる》かな高みからいったい何があったのかと見下ろしたシルヴィンは、その真下に見覚えのある人影を見つける。
|竪《たて》|琴《ごと》を|奏《かな》で、|謡《うた》っているらしい若者。
金色の髪の|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》い。
風を切る飛竜の翼の音にかき消され、上空にいるシルヴィンの耳にその|音《ね》|色《いろ》は届かない。
「クゥ」
目を細め、飛竜は甘えるように|哭《な》いた。
どこからともなく、ぱたぱたと羽音を響かせて鳥が飛びきた。
ありとあらゆる方向から。
たくさんの様々な種類の鳥たちが我先にと、|賑《にぎ》やかに集まりくる。
ピチュピチュと歓喜するようにさえずりながら、レイム目指して舞い降りてゆく。
シルヴィンは。
よくわからなかったが、それらの原因がレイムにあることを確信した。
理解不可能な部分があるのは、|得《え》|体《たい》のしれない魔法使いだから当然なのであると納得した。
|街《まち》じゅうの固く閉ざされていた窓が、外の様子をうかがうように、恐る恐る開かれた。
世界ですべての生き物が死に絶えてしまったのかと失望していたひとびとが見たのは。
竪琴を奏でながら謡い続けている一人の|綺《き》|麗《れい》な|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》の若者。
そして彼の周りで楽しげに舞い遊ぶ、たくさんの鳥たちの姿である。
彼が弦を|爪《つま》|弾《び》くたびに、綺麗な金色の髪が肩口を|滑《すべ》る。光を散らすように揺れる。
街じゅうのどこかに隠れていた|猫《ねこ》やリス、ネズミなどの小動物たち、ひそかに生き延びていた|蝶《ちょう》などの虫たちが、彼の周囲に集まっていく。
どこかの家。外に音さえ漏れ聞こえぬ地下室のひとつで、母親にあやされながらむずかり泣いていた赤ん坊がぴたりと泣きやんでいた。
日々の不安に|戦《おのの》いていたひとびとに、いつのまにか巣食っていた胸のつかえがなくなった。
なぜかしら、気持ちが軽くなる。
表情をなくし、こわ張っていた|頬《ほお》が柔らかさを取り戻してほぐれる。
レイムのそばにいた動物たちが、近寄りくる影に、ちらほらと逃げだした。
指慣らしのつもりが、いつの間にか本気で謡っていたレイムは、自分の足元に落ちた人影に気づいて、びくりと手を止めた。
誰もそばにいないと思いこんでいた気安さで、無防備になっていた自分を認識する。
どれくらいのあいだこうして|弾《ひ》いていたのか、見当がつかなかった。
ほぞを|噛《か》むレイムに。
小さな人影がまろび寄り、彼の|膝《ひざ》|元《もと》に手を置いて、逃がすまいとするように服を握った。
びっくりして見つめるレイムに、栗色の髪をした少女が顔をあげる。
「もっとお歌、|謡《うた》って」
すがるような|瞳《ひとみ》で願った。
レイムは優しく|微《ほほ》|笑《え》んで少女の髪を|撫《な》で、自分の周囲を見回す。
少女のような子供だけでなく、|杖《つえ》をついた老人も男も女も。
|街《まち》じゅうのひとびとが、集まりきていた。
涙を流しながら、レイムに向かって祈りを捧げているひとまでいる。
何が起こっているのか理解できず|唖《あ》|然《ぜん》としているレイムに、教会の司祭の衣装を身につけた若い男が静かに歩み寄った。
レイムの膝にすがりついている少女の肩に、そっと手を置く。
「コニー、その手をお放しなさい」
穏やかにゆったりとした|声《こわ》|音《ね》で、少女を|諭《さと》す。
少女は悲し気にうなずき、握りしめていたレイムの服を放した。
レイムは、おろおろとしながら腰を上げる。
「あ、あの、申し訳ありません。僕……! 領主様のお|館《やかた》に向かう途中だったんです。静かな|街《まち》を、その、音でかき乱してしまって……!」
慌てふためきながら謝罪した。
レイムの頭の上や肩にとまっていた小鳥が、びっくりして飛びあがった。小鳥たちは、それでもレイムから離れるのが|名《な》|残《ごり》|惜《お》しい様子で、近くの家の窓辺にとまる。
司祭はレイムの言葉ににっこりと微笑む。
「領主様の館にですか。それはとてもよいことですね」
同じように賛同する声が、ひとびとのあいだからいくつも漏れ聞こえた。
音もなく集まりきた大勢のひとびと。平和な日常を破壊する行為をしでかしたよそ者として、てっきり非難されるものだと思いこんでいたレイムは、彼らの態度にきょとんとする。
司祭はレイムに向かってひざまずいた。
「わたくしたちからもお願い申しあげます。どうぞ領主様のお心を慰めてくださいませ。一日も早く、もとのお優しい領主様に戻られますように」
お願いしますと言いながら、集まりきたひとびとの全部が司祭と同じようにレイムに向かってひざまずく。
「ちょっ……!」
何事かとレイムは慌てる。
「ちょっと待ってください! 僕はただの|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》で、とてもそんな大それたことまで……」
聖戦士としての自分を見抜かれたのかと、レイムは|肝《きも》を冷やす。
「お歌、|謡《うた》ってあげて、領主様に……。お願い」
コニーと呼ばれた少女が、目を|潤《うる》ませてレイムに頼んだ。
何か、あるのかもしれない。
レイムは少女と目線を合わせるため、腰を落とした。
「いったい、どうしたの? 何かあったの?」
涼しく澄んだ|爽《さわ》やかなレイムの声に、少女はこくんとうなずいた。
「領主様ね、変なの。まえはすごくお優しい方だったの。でも今は、よくわからないの。|塀《へい》の外から、怖い怒った声を聞いたわ。たくさんの泣き声も。まえみたいに|街《まち》に下りてきてくださらないの。お|館《やかた》で働いてたひともね、お館にお話しに行ったひともね、全然帰ってこないのよ」
くすんくすんと泣きながら|喋《しゃべ》り、コニーは目をこすった。
レイムはコニーの髪を|撫《な》で、涙を指でぬぐってやる。
昔。
初めて会ったときのミルフェ姫と同じくらいの年格好の少女だった。
あのときも、こうしてお慰めしたことを、昨日のようにレイムは思い出す。
今はもういない、レイムの|仕《つか》えたただ一人の姫君。
|郷愁《きょうしゅう》にかられる気持ちを現実に引き戻し、レイムは司祭に尋ねた。
「館から、誰も出てこられないのですか?」
ただの吟遊詩人らしからぬ|凜《りん》|然《ぜん》とした態度で問われ、司祭は少しびっくりして顔をあげる。
レイムは|綺《き》|麗《れい》な|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》で、まっすぐに司祭を見つめている。
|凝視《ぎょうし》されて少しばかり照れ、司祭はぱちぱちと|瞬《まばた》きして口を開く。
「はい……、もう三月になりますか。誰一人、あの門から出てきた者はおりません」
「王都から派遣されてきた|魔《ま》|道《どう》|士《し》たちや、救援物資の配給は?」
「魔道士様たちは訪れられて、わたくしたちに水と食糧を配ってくださいました。そうして領主さまたちのところに、残りの荷車を引いていかれました」
「それだけですか? 帰っていく魔道士を見送りましたか?」
「それだけ、です……」
司祭は問われたことの意味をつかみきれず、不思議そうな|面《おも》|持《も》ちでレイムを見返す。
レイムは軽く|唇《くちびる》を|噛《か》んで考えこんだ。
王都から派遣された魔道士は、|街《まち》を進みながらひとびとに救援物資を配り、残りを持って|館《やかた》に入ったのだ。館に運びこまれた物資は、頃合いを見て領主からひとびとに分け与えられてしかるべき物なのだ。
何か、おかしい。
何かよからぬことが起こっている。
そういえば。
レイムたちが現れでたのは、あの領主の館の上あたりだった。
いや。
真上、だったのだ。
何かレイムたちの力を必要としていることが起こっている。
気負いかけたレイムは、自分の立場を思い出し、肩に入っていた力を抜いた。
「僕の歌が、少しでも領主様のお心をお慰めできますなら、喜んで向かいましょう」
|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》として引き受けた。
案内役をかって出たのはコニーである。
母親が領主の館に奉公しているのでよく知っているのだと自慢した。
|街《まち》|中《なか》をとおっていく危険のない道行きなので、ひとびとは嬉しそうにレイムにまとわりつくコニーと、父親をなくして独りぼっちで帰らぬ母親を待つコニーの|面《めん》|倒《どう》を見ている司祭に|任《まか》せた。二人に伴われ、レイムは領主の館を目指す。
レイムの歌で集まり寄ってきた鳥や|蝶《ちょう》などの生き物たちは、そのまましぶしぶねぐらに帰るものと、見え隠れしながらレイムの後を追うものに分かれた。
歌声に誘われて窓を開けたコニーは、最初レイムを見て、母親と同じ金髪で、同じような髪の長さをしていたので、てっきり母親が帰ってきたのだと思ったらしい。
別人であるとわかり失望したが、それでもひどく幸せな気分だったとコニーは言う。
司祭は、教会から飛びだしたコニーを追って、レイムのそばに来ることになったのだと告げた。
なりゆきで出てきたものの、しかし出てきてよかったと思ったと、恥ずかしそうに|白状《はくじょう》する。
レイムの周りに集まったひとびとも、皆同じ気持ちがして、家から出てきたのだろうと、コニーと司祭は顔を見合わせ、嬉しそうに笑った。
歌はひとつの|呪術《じゅじゅつ》的要素をもっている。
歌詞にこめられた意味と、|旋《せん》|律《りつ》という|韻《いん》。
|精《せい》|巧《こう》につくられた歌は|謡《うた》われて、そのまま|魔《ま》|道《どう》となることができる。
魔道士たるものが『謡う』ということは、多分に術としての色彩を帯びているのだ。
レイムは気がついていないが、優秀な歌謡いとしての彼の歌声は、魔道士としての確固たる実力とあいまって、しぜんと効力を発している。
そしてまた、歌そのものに愛されてきたレイムの存在自体が、特別なものなのだ。
|心《ここ》|地《ち》よく伸びる歌声と、忠実に|丁《てい》|寧《ねい》になぞってゆく音。
謡う彼の心を反映し、不思議の波動が放たれる。
心なごむ歌声に、すべてのものが賛同し、振り向かずにはいられない。
集まらずにはいられない。
たとえ|意《い》|図《と》していても、絶滅の|噂《うわさ》される動物たちをあれだけ集めることは容易ではない。
ましてや離れがたい気分にさせることなど、ひどく困難である。
コニーの母親同様、通いであれ、|館《やかた》で働いていたひとは、誰一人|街《まち》に帰っていない。
「ねぇ、少しだけ、コニーにお歌謡って!」
手をつないで歩きながら、コニーはレイムにお願いした。
「歌だけなら、歩きながらでもいいよ」
レイムは|快《こころよ》く承諾する。
「何が聞きたい?」
(何を謡いましょうか?)
(何を|奏《かな》でましょうか?)
かつて何度も繰りかえしたと同じ問い。
帰らない日々の遠い時間。
あの日以来、一度も発したことのない問い。
耳を打った自分の言葉に、レイムの胸はいいようもなく痛んだ。
そんなレイムの気持ちを知ることなく、コニーは|御《ご》|機《き》|嫌《げん》で|微《ほほ》|笑《え》む。
レイムの手を握りしめる小さなやわらかい手は、興奮して少し汗ばんで|温《あたた》かい。
「神様の出てくるお話の歌!」
さすが教会に|居候《いそうろう》しているだけのことはある。
|無《む》|邪《じゃ》|気《き》なコニーの言葉に、司祭は思わず苦笑した。
レイムは昔懸命に習い覚えた歌詞と旋律を、心の中で正確に|反《はん》|芻《すう》してみる。
大丈夫。なんでも謡えそうだ。
「湖の|乙女《お と め》に恋した太陽の神の話はどう?」
「すてきっ!」
きゃあきゃあと飛び回るように、少女が喜んだ。
一度軽く目を閉じて、心の中で世界を作ってから、レイムは|謡《うた》いはじめる。
コニーのために。
そして小さな彼女を|育《はぐく》んできた世界に存在する、様々のものに感謝しながら。
優しい優しい気持ちの歌声。
ひそやかに後を追いかけてきた生き物たちは、再び聞こえきた歌声に歓喜する。
それは自分たちのために謡われるものでもあったから。
むかしむかしの物語。
それはまだ神様が地上にいらしたころ。
恵みの溢れる金の時代。
|焔《ほのお》の馬車を駆り天空をめぐる太陽の神様は、年に一度の神々|祝宴《しゅくえん》の夜、|透《す》きとおるほどに美しい一人の|乙女《お と め》に恋をした。
どうしても一目会いたい、その|麗《うるわ》しい声を耳にしたいと、太陽の神様は乙女の姿を求めるけれど、どうしても捜しだすことはできなかった。
恋に狂う太陽の神様は昼も夜も乙女を捜し回り、世界は一日じゅう昼間になった。
働きづめの昼の神と、出番を|邪《じゃ》|魔《ま》された朝と夜と夕方の神が怒り、太陽の神を|捕《つか》まえてひどい目にあわせた。
指一本動かすことができないほどに痛めつけられても、太陽の神は乙女を忘れることはできなかった。
太陽の神は傷つきながらも、|鞭《むち》打ち、焔の馬車を駆って天を駆け続けた。
苦しい恋に悩む太陽の神の|噂《うわさ》話が、世界じゅうに広まった。
噂は、昼間水の底で眠っている湖の乙女の耳にも届いた。
太陽の神が捜し回っている恋人が自分のことであると、湖の乙女にはわかった。
でも湖の乙女は水の|妖《よう》|精《せい》。太陽の神に近づけば、消えてなくなってしまう。
思い悩み水面の近くまで浮かびあがった湖の乙女の耳に、太陽の神の|嘆《なげ》き声が聞こえた。
嘆きはやがて|恨《うら》み|言《ごと》となり、そして罪もない|可《か》|憐《れん》な乙女を|憎《にく》んだ太陽の神自身を恥じる言葉に変わった。
湖の乙女は太陽の神の恋心に打たれ、ついに姿を現した。
喜び寄った太陽の神の指先が乙女に触れるわずかまえ、乙女は蒸発し、消えてなくなった。
恋したあまりに傷ついた太陽の神を思った涙は、消えずに三粒のクリスタルになった。
太陽の神は死んでしまった乙女を嘆き、せめてこのクリスタルに命を与えてくださるように、大いなる神に願った。
クリスタルは卵になり、美しい乙女を生まれさせた。
第一の|乙女《お と め》は銀色の|鱗《うろこ》を持つ人魚であった。第二の乙女は腰から下に金色の|鹿《しか》の胴体をつけた人鹿であった。第三の乙女は背中に白い翼を持っていた……。
「そこ、ちがーう!」
むっと口を|尖《とが》らせて、コニーが抗議した。
不意の指摘に、|謡《うた》いやめ、レイムはきょとんとする。
「そうですね。間違っていますよ」
くすくすと笑いながら、司祭も言った。
レイムはわけがわからず|眉《まゆ》を寄せる。
「音がはずれてましたか?」
「いえ、物語が違うんです。第三の乙女のところ。第三の乙女は、七色に輝く|蜉蝣《かげろう》の|翅《はね》を持っているんですよ」
「え?」
思いがけない言葉に、レイムは息をのむ。
間違ってはいない。
これはレイムが宮廷楽士から習い覚えた歌。姫君とも領主とも、何度も一緒に謡ったことがある。聖書にも同じ話が載っていた。礼拝堂で司祭の朗読する声を聞いている。
それに。
この白い翼を持つ|乙女《お と め》は、ファラ・ハンのこと。
背中に白い翼のある聖女は、ファラ・ハン一人。
彼女が存在しなければ、|招喚《しょうかん》も世界救済も時の|宝《ほう》|珠《しゅ》も何もない。
司祭はにこやかに|微《ほほ》|笑《え》んで、レイムに聖書を開いて渡した。
「|駄《だ》|目《め》ねぇ、お歌|謡《うた》うひとは、ちゃあんとお話覚えなくっちゃ」
大人びた口調で、コニーがレイムを|叱《しか》った。
|手《て》|垢《あか》でめくり|癖《ぐせ》のわかる、よく使いこまれた分厚い聖書。
そこには。
たしかに七色の光を放つ|蜉蝣《かげろう》の|翅《はね》を持つ乙女の記述がある。
誰かが|故《こ》|意《い》に書き直した様子はない。|装《そう》|丁《てい》も|小《こ》|細《ざい》|工《く》したり直したりした形跡はない。
冷水をかぶったように、レイムの体から音をたてて血が引いた。
「で、でもそれじゃあ、滅亡に向かう世界を救う救世主は……」
青くなったレイムのつぶやき声に、司祭とコニーは首をかしげる。
「金色の髪を持つ|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》の姫君の、あの物語のことですか?」
「な、何?」
ぎょっとして、レイムは首をめぐらせる。
「予言書です。たしか、ゾーラ・レトキア|創《そう》|世《せい》|紀《き》の、|賢《けん》|者《じゃ》ユリム・アウレウスのところ」
その名はレイムも知っている。
ファラ・ハン招喚のきっかけをつくった、もっとも一般的に|流《る》|布《ふ》している文献の部分だ。
「まるであなたのようですね」
冗談とも本気ともとれない声で司祭は言った。
優しげで整った|綺《き》|麗《れい》な|面《おも》|差《ざ》しであり、男性としては|華《きゃ》|奢《しゃ》で肉体労働にはまるで縁のなさそうな低血圧傾向のレイムは、女性と見間違えられてもそんなに不思議ではない。
|類《たぐい》まれなる天性の|剣客《けんきゃく》で、剣をとれば向かうところ敵なしというレイムを知らない者は、たいてい外見で彼を判断して油断し、手痛い目にあう。
剣さえあれば自分の身は十分自分で守れるし、他人を助けることだってできる。
かつては姫君を警護する騎士のような役割まで|担《にな》っていた。
レイムは自分で自分のことを男らしくないと思ったことは一度もない。
司祭の言い分に、はぁとばかりに|眉《まゆ》を寄せるレイムを見て、司祭はいたずらっぽく笑う。
「お姫様だったらよかったのにね」
コニーはにこにこと笑いながら、レイムを見あげた。
司祭がレイムの横から手を出してページをめくった。
記載されている文章を読み。
レイムは|愕《がく》|然《ぜん》とした。
それによると。
世界滅亡が予見されるとき、背に白い翼を持つ|乙女《お と め》が|魔《ま》を|率《ひき》いて現れでて、世界を支えている時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を奪い去ると書いてある。金色の髪の乙女は翼ある乙女を捕らえ、その心臓をえぐり、溢れでる血で世界を救うことになっている。
(|馬《ば》|鹿《か》な!)
叫び声を、レイムは寸前でのみくだした。
司祭やコニーの前でそのような態度にでることは、望ましくないと思われたからだ。
彼らはこの聖書に書かれていることを、そのままに信じている。
いや、聖書を信じることは、なんの不思議もないのだ。
レイムは司祭に礼を述べて聖書を返した。
頭の中で必死に別のことを考えながらも、せがまれるままに、他の歌をコニーに|謡《うた》い聞かせた。
それから間もなく、領主の|館《やかた》の高い|塀《へい》が見える場所まで来た。
司祭とコニーはレイムに別れを告げて、来た道を引きかえしていった。
二人を見送り。
レイムは道をはずれ、道のすぐ脇、大きな森につながる|雑木林《ぞうきばやし》に歩を運んだ。
恵みを奪われて水を断たれた樹木たちは、もう見る影もなく寂れ果てている。なんとか形ばかりは残った立ち木も、半分枯れかけた悲惨な格好をしている。
レイムは木の根に腰かけて、旅の|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》に見せかけるため、抱えてきた荷物の袋を開けて自分の聖書を取りだした。
ミルフェ姫に|仕《つか》えて働くことになるまえ、下働きの頃に誰かが新しいものに買い替えて捨てたものをゆずりうけ、大切に持っていた本だ。
彼が生まれて初めて手にした自分の本。
|魔《ま》|道《どう》|士《し》としての修業をするようになっても、これを用いて仲間たちと講義を受けていた。
レイムの聖書。
ゾーラ・レトキア|創《そう》|世《せい》|紀《き》の、|賢《けん》|者《じゃ》ユリム・アウレウスの予言書の項にも。
さっき見たのとまったく同じ文章があった。
そんなことは、絶対にありえない。
明らかに。
文字が並び変わっている。
ひとびとの記憶が、すり替えられている。
おそらくは、レイムなどが想像もできぬ強大な力をもつ存在によって。
貧血を起こしかけ、レイムはぐらりと木の幹にもたれかかる。
一瞬頭の中が空白になった。
ファラ・ハンは……。
白い翼の|乙女《お と め》は、捕らえて聖なる神に捧げねばならない|生《い》け|贄《にえ》。
見つけたら。
見つけたら……。
頭に浮かびきたものに、レイムはびくりと身を震わせて目を見開いた。
(違うっ!!)
|愕《がく》|然《ぜん》としながら激しく首を振る。
長い金髪が、乱暴に揺れた。
思考が、記憶がすり変わろうとしている。
そんなことは絶対にさせない。
たとえどんな|些《さ》|細《さい》な記憶であれ、それはレイムのものだ。
ほかのいかなるものにも、奪われたり与えられたりするものではない。
記憶をすり替え、心をむしばむものを許してはならない。
レイムは聖戦士なのだ。
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を正し、世界を滅亡から救うために選ばれた、世界でただ一人の|魔《ま》|道《どう》|士《し》。
ファラ・ハンを失っては、世界を救うことはできない。
滅亡しようとする世界は、ファラ・ハンの存在を消し去ろうとしている。
世界救済という行為に置き換えて。
恐ろしい|目《もく》|論《ろ》|見《み》を|抱《いだ》いている。
レイムは息を吐き、胸の|動《どう》|悸《き》を落ち着けて、老魔道師から教わった聖なる魔道における基本の|呪《じゅ》|文《もん》を|反《はん》|芻《すう》した。
頭の中に入りこみ、レイムをむしばもうとしていたものが、氷解するように消え失せた。
強い意思と使命感がなければ、それらを|跳《は》ねのけることは不可能だったに違いない。
王都のあの偉大なる老魔道師エル・コレンティならば、このようなもの恐れるに足りない。
きっと老魔道師に従う者たちも、|惑《まど》わされることはない。
しかし。
それ以外の者たちは。
聖地で聖女の|招喚《しょうかん》の儀式にあたり、|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》の|命《めい》に従って忙しく活動を続けてきたレイムには、いったいいつから世界にこのようなことが起こっていたのか、見当もつかなかった。
|阻《そ》|止《し》できていないということは、偉大なるエル・コレンティですら気がついていないのかもしれない。
考えこむレイムの肩に。
小鳥がとまった。
レイムを案じるように、チチチと小さくさえずった。
けなげな小さい友人の呼びかけに、レイムは顔をあげる。
視界のいたるところ、様々の場所、物陰に。
たくさんの生き物たちがいた。
先ほど|街《まち》で|謡《うた》ったときに集まりきた彼らだ。
いや今度はそれだけでなく、さらにたくさんの生き物がいる。
レイムしかここにいないことに心を許して、姿を見せている。
普段なら捕食関係にあるものたちも、それらの鎖を絶ち切って肩を並べていた。
レイムを気づかうように、|無《む》|垢《く》なつぶらな|瞳《ひとみ》でじっとレイムを見つめていた。
集まった彼らは。
レイムのことを知っている。
世界を滅亡から救う聖戦士であることを知っている。
知っているから、レイムに|一《いち》|縷《る》の望みをかけている。
世界の未来を託している。
レイムの胸にじんと熱いものがこみあげた。
たとえすべての人間が敵に回ったとしても、それが世界に生きるすべてのものの意思ではないことを確信することができた。
「大丈夫、僕を信じて。安心して|任《まか》せて」
レイムは、にっこりと|微《ほほ》|笑《え》んだ。言葉と同様に、自信があった。
たとえ自分の身を犠牲にしても、世界を救うという強い決意があった。
聖地でシルヴィンを救おうとして、自然の命を用いるという奇跡の魔道をためらいもなく行ったレイムだ。その|潔《いさぎよ》さ、優しい雄々しさは|嘘《うそ》ではない。
|安《あん》|堵《ど》したように、集まった生き物たちは一度レイムを支援するかのような格好を見せ、その場を去った。それぞれのいるべきところに戻っていった。
レイムは険しい目で領主の|館《やかた》の|塀《へい》を見あげる。
あの中にファラ・ハンとディーノがいる。
記憶をすり替えられたひとびとがいる。
世界を救う力をもつ伝説の聖女の身が案じられた。
清められ袋にしまわれたレイムの聖書には、彼の知る、もとのとおりの文章が並んでいた。
第九章 発覚
高く飛ぶには限界がある。
空を埋めつくし重く垂れこめる、|鉛色《なまりいろ》の雲のせいだ。
読み書きや細かいことにはとことん無縁のシルヴィンは、|飛竜《ひりゅう》を駆る狩猟民族の特性としてかなり遠くの細部までを見ることができる。
野生動物をしのぐだけの視力がなければ、狩猟など不可能なのだ。先に発見したほうが先んじる。|獲《え》|物《もの》も、ひとを襲う|凶暴《きょうぼう》な害獣も同じ。発見さえできれば、|俊敏《しゅんびん》さは飛竜が補う。
どうにかして良好な視界を確保して地上を見下ろし、レイムに教えられた|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》を捜しだそうと、シルヴィンは懸命になっていた。
このようなことを素早く確実に成し遂げられるのはシルヴィンだけ。
力ではディーノにかなうわけなく、技術ではレイムにかなわない。こういうときに役立っておかねば、シルヴィンのいる価値がない。
レイムはあんなことを言ったが、魔法陣を発見することさえできれば、シルヴィンもまたファラ・ハンの救出に向かうことを決めていた。
レイムなんて、少しばかり剣の腕がたち、シルヴィンの無縁の|魔道術《まどうじゅつ》を|操《あやつ》ることができるかもしれないが、しょせんはうらなりの|青瓢箪《あおびょうたん》だ。ディーノでもどうにもならないようなひどい状況だった場合、|怖《お》じ|気《け》づいて逃げだしてしまうに決まっている。
ものすごい誤解が数知れずあったが、第一印象の悪かったシルヴィンにとって、キザで軟弱で|嫌《いや》|味《み》でしかないレイムは、けっして信頼すべき相手ではない。
レイムに責任はないにしても、元来そう見られがちな彼でもあるのだから仕方ない。
価値規準を|違《たが》えている者に、どんなに誠意をもって尽くそうと、簡単に真意は伝わらない。
市民階級の住まう|街《まち》を外界と区切った|塀《へい》の上空を一巡りして見渡したシルヴィンは、それらしいものを目にすることができなかった。
|飛竜《ひりゅう》の背に乗り、少年のような勇ましい格好で腕組みしながら、シルヴィンは考える。
一番初めに出てきたのはどこだったか。
かなりの高みで、雲を突き抜け出てきたわけだが、真上となれば。
領主の|館《やかた》。
そうだ。
ディーノの飛竜が|墜《お》ちた、あの場所だ。
移動の時に平衡感覚をなくし、飛竜を変な方向に傾けてしまい、慌ててごたごたしていたので自信はないが、|墜《つい》|落《らく》しかけたレイムの飛竜も、おそらくあの場所目がけていたはずだ。
導球の導きが的確であったとするならば、あそこが問題になってくるはずだ。
シルヴィンは飛竜を領主の館の方向に向けた。
近寄りつつあるその上空には。
もう花火は打ち上げられていない。
あれば祭りであるとか、なんらかの理由があってこそ上げられてしかるべきもの。
でも。滅亡に|瀕《ひん》し、|爪《つめ》の先に火を|灯《とも》すようにしてつましく生活しているひとびとが、何を盛大に祝うというのだ。
領主が祝宴を開こうというのに、死んだように活気のないあの街の様子はなんなのだ。
(おかしいわ)
(何か変よ)
半分青ざめながら、シルヴィンは矢のように飛竜を飛ばせた。
領主の館の上空に飛来したシルヴィンが見たのは。
ぐるりと門を取り囲む、|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》の形にこしらえられた|獣道《けものみち》のようなものだった。
色のわずかに違う|砂《じゃ》|利《り》をひとつかみほど置いて並べていったような、簡素なもの。
|目《め》|利《き》きのシルヴィンであったからこそ、見分けられたもの。
領主の住まう敷地そのものが、レイムの言う『|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|土《ど》』であるかに見えた。
実際、それほどに大きなものを描かねばならない必要性などないのだが、そんなことはシルヴィンにわかるはずがない。
彼女が探していたのは、ともかくも|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》なのだ。
見当違いの様相も呈していたが。
シルヴィンの発見したそれは、けっして間違いではなかった。
その魔法陣の中央にあったのだろう建物の|名残《な ご り》には。
あの王都の礼拝堂がそうなったように、|天井《てんじょう》と壁がない。
|床《ゆか》|下《した》から突き上げきたものに、吹き飛ばされている。
めちゃめちゃに破壊されている。
すでにして|封《ふう》|印《いん》は|解《と》かれている!?
そうならば。
|魔《ま》|物《もの》が溢れだしている!
「いやぁっ!!」
シルヴィンは悲鳴をあげて|飛竜《ひりゅう》を降下させた。
あの場所に|墜《お》ちたディーノとファラ・ハン。
魔物たちの手にかかり、細かな肉片へと|無《む》|残《ざん》に引き裂かれるファラ・ハンの姿が、シルヴィンの|脳《のう》|裏《り》に浮かんでいた。
封印が解かれているならば、あの|暗《くら》|闇《やみ》の象徴たる黒き影の柱が|屹《きつ》|立《りつ》しているのが普通であるのだが、シルヴィンにはそこまでの道理はわからない。
降下するシルヴィンは、昔初めて狩りをしたときの記憶をよみがえらせていた。
輝き見えるほどに高貴な感じのする一羽の白い鳥があまりに美しくて、好きだった。
どうしても欲しくて欲しくて。
シルヴィンは夜、一人で|罠《わな》をしかけた。
その鳥がいつも舞い遊ぶ草むらの中に、|鳥《とり》|挟《ばさ》みをしかけておいた。
挟んでも足を傷つけないように、|鋭《するど》い|縁《ふち》を丸くしておいた。
ただそばに白い鳥を置きたかっただけだった。
翌朝、誰よりも早起きして森にわけいったシルヴィンが見たのは。
罠にかかって動けなくなったところを|獣《けもの》に襲われた、鳥の|残《ざん》|骸《がい》だった。
獣の足跡の残る血みどろの草むらに、白い羽と食い散らかされた内臓と肉片が、|惨《むご》たらしくぶちまけられていた。
それはもう、シルヴィンが愛していた白い鳥ではなかった。
その日を境にして、シルヴィンは自分が生きていくために必要なだけの狩りしかしないと心に決めた。
|狙《ねら》いさだめ、後頭部めがけて石を投げつけるだけで、簡単に死んでしまう小さな動物。
ついさっきまで生きて懸命に草を|食《は》んでいたそれ、まぶしく躍動する|俊敏《しゅんびん》な脚で大地を蹴っていたそれも、次の瞬間にはぐんにゃりとした力ないただの|肉《にく》|塊《かい》となってしまう。
ひとさえ襲って食い殺す|獰《どう》|猛《もう》な獣。どんなに力強い確かな存在でも、命果てればどれも同じ、つまらない、ただ腐り|崩《くず》れてゆくだけのもの。
輝かしさ、|瑞《みず》|々《みず》しさ、どうあっても与えられない、作りだせないもの。
生命。
誰より。
シルヴィンはその重さ、|尊《とうと》さを知っている。
知っているからこそ、いつでもそれらには誠実に接してきた。
(死なないで!)
涙を流すことすら忘れ、シルヴィンは固く|唇《くちびる》を|噛《か》みしめて、|墜《つい》|落《らく》するよりなお速く、|飛竜《ひりゅう》を降下させていた。
世界救済という名目もある。
あるが。
それ以上にシルヴィンはファラ・ハンそのものに|惹《ひ》かれていた。
女性として|憧《あこが》れ、|焦《こ》がれていた。
|望《ぼう》|星《せい》|楼《ろう》でシルヴィンの|頬《ほお》に優しく触れた、ファラ・ハンの白く細い指。
|温《あたた》かくて、ひどく懐かしい、甘い匂いがした。
見つめていた青い空の色の|瞳《ひとみ》。
たおやかで|華《きゃ》|奢《しゃ》で、はかなく、それでいて何よりも確かな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》をもったひと。
全身からほのかに|沁《し》みだし、溢れくる、|清《すが》|々《すが》しく|心《ここ》|地《ち》よい光輝。
|香《かぐわ》しき|美《び》|姫《き》。
領主の|館《やかた》、数多くの建物があるその場所を|睨《にら》みすえたシルヴィンの目に。
あちこちでひとのように|蠢《うごめ》いている|醜悪《しゅうあく》な|魔《ま》|物《もの》の姿が映った。
ひくっと|頬《ほお》の端を引きつらせ、シルヴィンはそれらを|凝視《ぎょうし》する。
|錯《さっ》|覚《かく》ではない。
意識して目をこらすことによって、それはより明確さを増した。
ひとの姿から変じて|魔《ま》|物《もの》に見えてくるものさえ、数しれない。
種類も数も|膨《ぼう》|大《だい》な魔物。
|樽《たる》を積みあげたり、洗濯をしたり、下働きのようにして働く魔物たち。
ときどきほんのわずかに、それらの中にひとが混じっている。
|醜悪《しゅうあく》な姿形をした魔物たちの集まりの中に恐れげもなく混じり、|井《い》|戸《ど》|端《ばた》会議でもするように談笑していたりする。
緊張するような、攻撃しかけるような、おぞましさに|嫌《けん》|悪《お》するような、複雑な表情でシルヴィンの顔が|歪《ゆが》んだ。
ほかの誰もは、|巧《たく》みにひとのふりをする|狡《こう》|猾《かつ》な魔物に気がついていない。
気づかないまま、魔物をそばに招き、我が身を危険にさらしている。
それを見分けられたのは、自然なる生命と間近い位置に存在しているシルヴィンの|魂《たましい》の本質があったからだった。
門の方向に視線をやったシルヴィンが見たのは。
門番らしい格好をしたひとに伴われ、魔物たちのそばを抜けて歩きくる、一人の|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》の青年の姿だった。
金色の長い髪、深緑色のマントを着た夢のように美しい若者を、シルヴィンは知っている。
手を伸ばせば届くほどの距離にいる魔物の横を通りながら、レイムはそれにまったく気がついた様子はない。
|飛竜《ひりゅう》とともに|墜《お》ちながら。
シルヴィンはかすかに|手《た》|綱《づな》を引いた。
合図を受けて。
飛竜が|紅《ぐ》|蓮《れん》の|焔《ほのお》を吐いた。
吟遊詩人として訪れた|旨《むね》を語ると、門番は|快《こころよ》くレイムに中に入ることを許した。
コニーたちの話にあるような|不《ふ》|穏《おん》な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》は|微《み》|塵《じん》もない。
活気に満ち、忙しく立ち働く使用人たちで、|館《やかた》の中はあちこち|賑《にぎ》わっている。
似たような領主の館で働いていた経験をもつレイムには、特別に珍しくもない光景だ。
|残虐《ざんぎゃく》な行為が行われたらしい雰囲気もないし、これだとディーノたちは客人としてのもてなしを受けて休んでいるのかもしれない。
うまくとりいり領主に話を切りだせば、案外簡単にディーノたちに会うことができるかもしれない。
ディーノたちのほうからレイムを見つけてくれるかもしれない。
とりこし苦労であったかと、楽観視しかけたレイムは。
不意に。
はっと顔をあげた。
意味を知覚するまえに、体が反応していた。
レイムが見たのは。
ものすごい速さで|墜《お》ちながら、猛火を吐きかけて口を開けた|飛竜《ひりゅう》である。
|亜《あ》|麻《ま》|色《いろ》の髪をした少女の姿が、その背の上にあった。
険しい、戦うときのあの烈火のような表情をしている、シルヴィンだった。
止められない!
レイムにあの娘の行動を止めさせることはできない。
存在を主張し言葉で言って、たとえそれが正しくても、一瞬の|躊躇《ちゅうちょ》もする少女ではない。
シルヴィンやディーノのような|猛《たけ》|々《だけ》しい者たちに、文明圏の穏やかな常識などつうじない。
即座に観念したレイムは、腰に下げた小さな皮袋を、腰帯に|結《ゆ》わえつけた|紐《ひも》ごと引きちぎるように手に取った。
すべてを飛竜の吐きだす猛火から守ることなど、とうていできない。
形あるものは再び作り直せばいい。
ひとの力で作れぬものを、それだけでも守れれば。
皮袋に入れていた|魔《ま》|道《どう》の粉を、レイムは袋ごとぶちまけるようにしてまき散らす。
「清純なる風の女神アイリーンの|御《み》|名《な》において 我の望みしところまで 聖なる|印《しるし》を与えよ
偉大なる我らが母ラスティン・ノームに|育《はぐく》まれし 生命の|同《どう》|胞《ほう》たちの身に|御《ご》|加《か》|護《ご》を」
|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えながら、古代ザルジア文字による魔道印を指で素早く空間に描いた。
レイムを中心にして、|疾《しっ》|風《ぷう》が渦巻き、広がり|奔《はし》った。
風に乗り、きらりと|虹《にじ》|色《いろ》に輝く魔道の粉が遠くまで散りしだく。
あるひとつのものに対してしか効力をもたない、絶対防御の魔道のひとつ。
風によって運ばれた魔道の粉のある範囲が有効領域。
領主の|館《やかた》のあるこの周辺一帯を|網《もう》|羅《ら》する、急激な熱変化に対する絶対防御。
虹色の光を伴った疾風の通り過ぎた後を。
|轟《ごう》! と音をたてて|焔《ほのお》が降りかかった。
防御された肉体は、かすかに光を発するものに覆われ、焔を|弾《はじ》く。
身を|焦《こ》がす熱に対しては、生命あるものは完璧に守られる。
激しく吐きだされた焔の重みを受け、腕をあげたレイムが腰から下に力を入れて踏ん張る。
不意を打たれ|焔《ほのお》に襲われたひとびとは、|叩《たた》きつけられるようにして地面に倒れた。
|昏《こん》|倒《とう》は|免《まぬが》れないが、死ぬほどのことはない。
「シルヴィンっ!!」
レイムは彼にしては似つかわしくない激しい声で叫び、頭上を見あげた。
レイムの声は、|怒《ど》|鳴《な》るというよりも悲鳴のようだ。
瞬時にして怒り狂うとかいうことは、どんな場合であれ、およそレイムに縁がない。
ぐんと間近い位置にまで降下した|飛竜《ひりゅう》を|巧《たく》みに|手《た》|綱《づな》で|操《あやつ》りながら、シルヴィンがレイムを|睨《にら》みつける。
「何よ、能なしっ!」
|辛《しん》|辣《らつ》な口調で非難した。
予想だにしない言葉を受けて、レイムはくるんと目を見開く。
気が短く、行動の|迅《じん》|速《そく》なシルヴィンは、|呑《のん》|気《き》で|愚《ぐ》|鈍《どん》なレイムの反応に、いらいらと|眉《まゆ》をつり上げる。
「よーく自分の周りをごらんなさいよ!」
|叩《たた》きつけるように言い、高く飛ぶように命じながら、再び飛竜による火炎放射を開始した。
シルヴィンのやっているそれは、自然の生き物、神獣の異名をもつ飛竜の|紅《ぐ》|蓮《れん》の焔を用いた|魔《ま》|物《もの》の|一《いっ》|斉《せい》清掃にほかならない。
かつてディーノが聖地で行ったのと似かよった、|焔《ほのお》による|粛正《しゅくせい》だ。
この場にレイムがいなかったなら、ひとを道連れにした大量|虐殺《ぎゃくさつ》にほかならない。
鉄砲玉のように一直線で|無《む》|謀《ぼう》な娘には、理屈や理想は通じない。
たとえ|操《あやつ》られていた、利用されていたというだけのことであったとしても、ファラ・ハンのことで|見境《みさかい》をなくしていた彼女に、聞く耳はない。
加担したものは、すなわち『魔』と決めつけられて、正義の名のもとに|葬《ほうむ》り去られる。
シルヴィンは悲壮な顔をしながら、ファラ・ハンを捜していた。
襲いくる焔に恐慌に駆られ、ひとびとが逃げまどう。
逃げ延びられるはずもなく、つぎつぎと焔にのまれる。
その様子を見て。
ぱちぱちと|瞬《まばた》きしたレイムは、目をこすった。
燃え|崩《くず》れてゆくものと、ただその|衝撃《しょうげき》に打ち倒されるだけのものとがいる。
そして燃えるものたちは。
火を|灯《とも》した瞬間、ひとならざる形態に変化して見えた。
「まさか!?」
レイムは|愕《がく》|然《ぜん》とし、なおしっかりと|己《おのれ》の周囲を見回す。
|昏《こん》|倒《とう》するひとがいた。
消し炭のようになって消えてゆく、この世ならざる生き物がいた。
ついさっきまで、何食わぬ顔でひとのふりをしていたものたち。
|瀕《ひん》|死《し》の状態で転がる魔物たちは、恐ろしげな|醜態《しゅうたい》をさらし、ささくれた声で|呪《じゅ》|詛《そ》の言葉を繰りかえし、果てていった。
レイムは魔道の粉を用いた|防《ぼう》|御《ぎょ》の|呪《じゅ》|文《もん》において、『この世に生まれた生命』という条件をつくった。それによって生き物の命を守ろうとした。
だから。
魔道の粉の影響下にあっても、魔物は加護されないのだ。
ようやくレイムはシルヴィンの言い放った言葉の意味を知る。
|偽《いつわ》りの姿で|闊《かっ》|歩《ぽ》する魔物も、シルヴィンの目には見抜けていたことがわかった。
自分の身に火の防御印を|施《ほどこ》したレイムは、全身を淡く光り輝かせながら、焔になぶられ燃え|焦《こ》げる|石畳《いしだたみ》の上、焔の上を走る。
目標を定め、シルヴィンは|館《やかた》のほうに飛竜の鼻先を向けた。
ほぞを|噛《か》みながら、レイムはシルヴィンの飛竜の後を追って、館に向かって走る。
シルヴィンが目をつけたとおり、ファラ・ハンやディーノがいそうなところといえば、あの一番大きな建物と考えるのが|妥《だ》|当《とう》だろう。
|遥《はる》かなる高みから、彼らの目指す場所目指して巨大な影が矢のように降下していた。
それよりすこし遅れて、もうひとつの影が舞い降りてきている。
一瞬上を見やったシルヴィンの|飛竜《ひりゅう》が、仲間たちの到着に高らかに一声|哭《な》いた。
レイムはシルヴィンに|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》を探してくれるように頼んでおいた。
|快《こころよ》く引き受けて、シルヴィンは飛び立っていったはずだ。
どうして彼女が|魔《ま》|物《もの》と人間を見分けて、魔物を|抹《まっ》|殺《さつ》するためにここに来ているのか、レイムにはわからなかった。
そしてなぜここにだけ、これほどの数の魔物がいるのかも、わからない。
|街《まち》のほうでも、魔物がひとのふりをして混じっているのだろうか。
思いをめぐらせ、レイムは首を振る。
あの街の寂れ方は、|乏《とぼ》しい物資にようやく命をつないでいる、けなげなひとびとのものだ。
魔物に支配されている街ではない。
ではここは。
ひとのふりをして活動していた魔物は。
いったいなぜそんな茶番を演じる必要があったのか。
領主ツィークフリートは。
|阿鼻叫喚《あびきょうかん》を耳にして、驚いて顔をあげた。
大慌てで駆けてくる足音を間近く聞き、居ずまいを正す。おぞましい化け物の姿形は悪夢のように消え失せ、もとの人型、あの穏やかな好紳士のそれに戻った。
|変《へん》|貌《ぼう》を遂げた体にひとつ息をついたところで、駆けきた足音が部屋の前で急停止した。
「領主様っ!」
|扉《とびら》を押し開きながらの悲鳴のような呼びかけに、ツィークフリートはかすかに不快に表情を|崩《くず》し、立ちあがる。
焼け|焦《こ》げるきな臭い空気が、開けられた扉から部屋の中に流れこんだ。
「何事だ、騒々しい!」
「飛竜を伴った|聖《せい》|魔《ま》|道《どう》|士《し》が、|館《やかた》に……!」
|執《しつ》|事《じ》をつとめる老人は、おろおろとしながら口を動かす。よほど慌てていたのだろうか。黒い上着の|裾《すそ》を押しあげて、ぬるりとした|光《こう》|沢《たく》を放つ細長い|尻尾《し っ ぽ》がはみでていた。
老人の背面でひろひろと|蠢《うごめ》くものを、ツィークフリートは険しい目で|睨《にら》みつける。
視線を受けている場所に気づき、執事は|仰天《ぎょうてん》しながらのたうつ尻尾の端を握った。
|叱《しか》りを受けることと|覚《かく》|悟《ご》して、びくびくと上目づかいに領主を見る執事に、領主は目もくれず、駆けだしながら|怒《ど》|鳴《な》った。
「眠れる|魔《ま》|物《もの》を呼び起こせ! 我等が血の盟約に従わせるのだ! 少々の犠牲は構わぬ、|魔《ま》|道《どう》|士《し》も|飛竜《ひりゅう》も、生きて王都に帰すな! 我々の|館《やかた》を、|街《まち》を守るのだ!」
領主の駆けてゆく方向は、ディーノたちのいる客間のある場所。
力ある者を食らえば、それはすなわち|己《おのれ》の力となる。
そして彼は。
食らった者の特徴たるものをも、自在に自分のものとして取りこむことができた。
若さも、美しさも何もかも。
|歳《とし》|経《へ》た者のような口調も、彼がそれなりの時間を生きてきたゆえだ。
どれほど肉体の若さを手に入れても、習慣や老いた精神までも若返らせることはできない。
ディーノが顔をあげた。
胸に抱かれたままだったファラ・ハンは、びくんと体を緊張させる。
しっかりとした造り、防音さえなされているかと思われる分厚い壁を通して、かすかに何かしらただ事でない物音が聞こえていた。
「迎えが来た」
簡潔に言って、抱いていたファラ・ハンの肩をぐいと引き離し、ディーノは腰をおろしていた寝台から下りた。
余裕に満ちた、あのいつものディーノの仕草だった。
|逞《たくま》しい胸に身を預け、自分の置かれた立場に動揺していたファラ・ハンは、ディーノの平然とした態度に慌てて自分も平静を|装《よそお》い、寝台から下りる。
揺れずにはいられない気持ちを|見《み》|透《す》かされるのが怖かった。
ディーノのような男にそれを察知されることは、どうあっても|阻《そ》|止《し》すべきだと思えた。
|鋼《はがね》のような精神力で状況を失念せず、ファラ・ハンを恋い、|溺《おぼ》れるかもしれない危うい理性を、ディーノが懸命になってつなぎとめていた事実を彼女は知らない。
己を|誇《こ》|示《じ》することを知って堂々と振る舞うディーノと違い、ファラ・ハンは女性としての自分がどれほどの魅力を有する者であるかということを知らない。
その|無《む》|垢《く》な|瞳《ひとみ》を相手にしているがゆえに、ディーノが常になく、余計に虚勢を張っていることも。
振りかえったり、|無《む》|駄《だ》|口《ぐち》を|叩《たた》き、ちゃかしからかうだけのゆとりは、今のディーノにはない。
|否《いや》|応《おう》なく必要最低限に口数も減るのだが、それがかえってファラ・ハンには、ディーノの冷静さのように見えている。
マントの|裾《すそ》を握ったまま、すーすーと気持ちよさそうな寝息を立てていた小さな|飛竜《ひりゅう》は、おもむろに動いたディーノにずるずる引きずられ、ころりんと寝台の下に落っこちた。
どすんころころと転がり、勢いよく|扉《とびら》にぶつかる。
子供ほどの体重のある小さな飛竜が|衝突《しょうとつ》した扉は、それほど|頑丈《がんじょう》なものにも見えなかったが、びくともしなかった。
まるで外からしっかりと|錠《じょう》をかけられてでもいるかのように。
頭から|床《ゆか》に転げ落ちた飛竜は、痛さで目を覚まし、キャピキャピと不平の悲鳴をあげる。
よちよちと歩き、二人のそばに戻りきながら二本の前脚で、ぶつけた頭を抱える小さな飛竜を、優しく|微《ほほ》|笑《え》みながらファラ・ハンが抱きあげた。
小さな子供のするように、甘えた飛竜がファラ・ハンの胸にすがった。甘く|香《かぐわ》しいファラ・ハンの体臭を|愉《たの》しむように、目を細めてキュルキュルと|咽《のど》を鳴らす。
背後にファラ・ハンを置き、悠々と腕組みをして|天井《てんじょう》を見上げたディーノの予想に|違《たが》わず。
|轟《ごう》|音《おん》を響かせ、天井をぶち抜いて猛火が降り注いだ。
|焔《ほのお》を上げて先ほどまで腰を落ち着けていた寝台が燃えあがる。
一瞬にして火の海になった室内に、ファラ・ハンが小さく悲鳴をあげた。
彫像のように揺るぎなく雄々しく構えたディーノは、今にも燃えあがりそうな、焔の勢いにあおられる髪にもいっさい動じない。
間もなく身を|焦《こ》がすかと思える火炎にのまれた部屋の中に、天井を作っていた建材がばきりと大きく砕け落ちてきた。
大穴が|穿《うが》たれた天井を通って、巨大な影が舞い降りた。
「キュイッ!」
そのものの姿を目にとめた小さな飛竜が歓声をあげる。
「ケシャァアアアッ!」
こたえるようにディーノの飛竜が|哭《な》いた。
焔の上に|崩《くず》れ落ちた天井の|瓦《が》|礫《れき》を踏み越え、ディーノは飛竜に近づき|手《た》|綱《づな》を握った。
危なげな足取りで、近づきくるファラ・ハンに向かって手を差しだす。
自分に向け差しだされた手に、おずおずと手を重ねたファラ・ハンを、ぐいとつかんでディーノが引き寄せる。
まろぶような足取りで、抱いた小さな飛竜ごともつれこんできたファラ・ハンを抱きとめ、細い腰に腕を回したディーノは、略奪するかという勢いで|有《う》|無《む》を言わせず飛竜の|鞍《くら》に乗った。
主人たちを乗せたことを感じとった飛竜は、|命《めい》を受けるまでもなく早々に翼を打ち振るう。
腰を落ち着けるやいなやで、少々の安定感を欠く動きかもしれなかったが、そこはディーノのこと。絶対の信頼を置いている|飛竜《ひりゅう》の期待を裏切ることはない。
まるで|生《せい》|来《らい》の|相《あい》|棒《ぼう》ででもあるかのように、|華《か》|麗《れい》にしぜんに、ディーノは飛竜の上にいた。
後ろに乗せられたファラ・ハンの腕の中をすり抜けて、自分の定位置に戻らねばならないのか、小さな飛竜はファラ・ハンの腰に回されていたディーノの腕のほうに居場所を変える。
飛竜の体が浮きあがるのと同時に。
|扉《とびら》が開かれた。
駆けこんできたのは、領主である紳士、ツィークフリートだ。
軽く息を切らせた領主は、射るような視線で飛竜の背に身を置くディーノを|睨《にら》みつけた。
ディーノは涼しい顔で視線を受け、すうっと目を細めて薄く笑った。
いかなる場合であろうと|物《もの》|怖《お》じしない、あの天性の王者たる者の表情で|卑《いや》しい|輩《やから》を|蔑《さげす》んだ。
|目《もく》|論《ろ》|見《み》など最初から|見《み》|透《す》かされていたことが、領主にわかった。
ぎりっと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた領主の|瞳《ひとみ》が。
白目に血の色の|網《あみ》を浮かべ、一瞬にして|真《しん》|紅《く》に染まり縦に一筋に伸びた。
|口《く》|惜《や》しさの形相がそのまま、|異形《いぎょう》の輩と化した。
|蛇《へび》が|鎌《かま》|首《くび》を持ちあげるように髪が逆立ち、口が耳まで引き裂けた。
「じゃっ……!」
領主が生臭い炎の息で吠えた。
長く伸びだした爪で指差すディーノの飛竜目がけ、|瓦《が》|礫《れき》から|弾《だん》|丸《がん》に似た黒い|疾《しっ》|風《ぷう》が|奔《はし》る。
ふんと鼻を鳴らしたディーノが、わずかに速く飛竜の|手《た》|綱《づな》を引く。
黒い疾風の上に、飛竜が|紅《ぐ》|蓮《れん》の|焔《ほのお》を吐きだした。
おぞましい悲鳴をあげて黒い疾風が燃え|崩《くず》れた。
びくりと震え、思わずファラ・ハンが耳を押さえる。
|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》の差で、領主は|己《おのれ》の上にも降り注がんとした焔を腕を上げて防いだ。
上等の絹を用いた上着が燃え落ち、|鱗《うろこ》に覆われた|醜悪《しゅうあく》な形をした腕がむきだしになる。
飛竜を上昇させながら、高らかにディーノが笑った。
「ひとのふりをして領主の名を|騙《かた》る|魔《ま》|族《ぞく》よ! 貴様らの仲間ごと|引《いん》|導《どう》を渡してやる! この俺の手にかかれることを喜ぶがいい!」
第十章 |珠《しゅ》|抱《ほう》
飛来したレイムの|飛竜《ひりゅう》は、駆ける彼の背後から低く|滑《かっ》|空《くう》し、鼻先ですくいあげるようにして主人を拾った。
身を|任《まか》せた形になったレイムは、軽々と舞いあげられ、すとんと|鞍《くら》の上に腰を落ち着けた。一瞬にして自分に何が起こったのか、よくわけがわからなかったが、舞いあがる飛竜の背から転げ落ちることに慌てて、とりあえず|手《た》|綱《づな》を握る。
領主の|館《やかた》の屋根をぶち抜いて、ファラ・ハンを伴ったディーノの飛竜が上昇した。
捜し求めていた|麗《れい》|人《じん》の姿を発見し、シルヴィンの体から力が抜けた。
いまさらのように|涙《るい》|腺《せん》がゆるむ。
信頼していたが、少なからず気にしていたファラ・ハンは、二人の無事な姿に|安《あん》|堵《ど》する。
|瞳《ひとみ》を|潤《うる》ませて近づきくるシルヴィンたちを目にとめ、ディーノがにやりと|口《くち》|許《もと》をゆるめる。
「案ずる必要はない。このような|屑《くず》どもにしてやられる俺ではない」
自信たっぷりに断言する言葉に、レイムは|茫《ぼう》|然《ぜん》とし、シルヴィンはかっと目を見開いた。
「誰があんたなんかを心配するものですか!」
怒りで|頬《ほお》を赤らめるシルヴィンに。
ディーノは|惚《ほ》れぼれするほどに、|爽《さわ》やかに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
性格や行動に問題は数知れずあるが、もともとがかなり|秀麗《しゅうれい》な|面《おも》|差《ざ》しをしているディーノである。
勇猛にして華麗なる武人、孤高にして王を名乗ってはばからぬ者。
それは、その姿は、力は、誰もが賛美してあまりあるものだった。
これまでにシルヴィンが接したことのない、絶対の格をもつ男が、目の前にいた。
一瞬にして、シルヴィンの内からディーノに対する|毒《どく》|気《け》が抜かれた。
どくん! と心臓が大きく脈打った。
先ほどの怒りとは違った意味で、かああっと頬が熱を帯びるのを感じた。
上昇する飛竜の背にいたレイムが、びくりと背筋を|震《しん》|撼《かん》させた。
|弾《はじ》かれるように上を見あげる。
そこは何も変わらない、あのどんよりと淀んだ空。
灰色に濁って、重苦しく渦巻く雲を浮かべた、あの変わらぬ|終焉《しゅうえん》の空。
しかし。
「だめだ! これ以上あがれない!」
激しい声でレイムは停止をうながした。
驚いて、視線がレイムに集中する。
長い金色の髪を|乙女《お と め》のように風に泳がせ、|飛竜《ひりゅう》に乗る|魔《ま》|道《どう》|士《し》の青年は、優しい顔を厳しく引きしめ、上空を|睨《にら》んでいる。
ただならぬその様子に、かすかに|眉《まゆ》をひそめ、ディーノやシルヴィンも上を振り仰いでみたが、彼らの目には何も捕らえることはできない。
|瞬《まばた》きしたファラ・ハンは、くるんと青い|瞳《ひとみ》を見開く。
確かに。そこに何かが存在した。
意思ある者に確固たる影響力をもつ、|作《さく》|為《い》|的《てき》な力場のようなもの。
「|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》……?」
「閉じられています!」
ファラ・ハンの疑惑をレイムは断言する。
意味をつかみ取れないシルヴィンは、不愉快な顔でレイムを睨む。
レイムはまっすぐシルヴィンを見返した。
「見つけたんだよね? いったい、それは|何《ど》|処《こ》!? 僕らのいるここは、それの内なんだろう? 僕らはここから出られない!」
|畳《たた》みこむような悲痛な|剣《けん》|幕《まく》に、シルヴィンは|気《け》|圧《お》される。
頼まれ、それを発見しおわっていた。真っ先に知らせてしかるべき事柄だった。
シルヴィンは、少しばかりばつが悪そうに横を向く。
「見つけたわよ!」
半ば怒るような口調で言った。
「この|館《やかた》の門の外側、ぐるりと囲んでいたわ。|獣道《けものみち》みたいな、草の生えないだけの|砂《じゃ》|利《り》|道《みち》だけど、それでもきちんとした|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》の形になっていたら、そうなんでしょう?」
「あぁ……。そう。それも、魔法陣」
魔道の|封《ふう》|土《ど》を示すものとしてレイムが|意《い》|図《と》していたものとは少し違うが、それがこのもとになっているものに間違いはない。
煮えきらぬ返事をしてうなずくレイムの様子を見、シルヴィンはさっき目にしたもののことを思い出す。
「それから、この中心になっているところに、教会みたいな建物の|残《ざん》|骸《がい》があったわ」
「それ……!」
それこそが魔道の封土。
影の柱を一本|屹《きつ》|立《りつ》させることさえできれば、問題のない大きさのそれ。なにもこの敷地ごと囲んでしまわねばならないような、おおげさなものが描かれる必要性はないのだ。
シルヴィンの言ったことを思い返し、レイムは|眉《まゆ》をひそめる。
「|残《ざん》|骸《がい》?」
「えぇ、そう。だから、わたし慌てて……」
ファラ・ハンを捜したのだ。
しかし。
「それ、変だ。|魔《ま》|物《もの》……、ただの魔物じゃない。何かが違う……!」
断片的な言葉をつぶやきながら、レイムはシルヴィンが示した方向に|飛竜《ひりゅう》の向きを変えた。
「わたしも行きます!」
ディーノの後ろから、ファラ・ハンが名乗りをあげる。
|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|土《ど》たるべき場所は、あらゆる不思議が混在していておかしくない場所。
|封《ふう》|印《いん》が|解《と》かれているならば、魔が溢れだすあの|闇《やみ》|色《いろ》をした柱の存在がなくては変だ。
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の存在するはずだったのも、その地点なのだ。
その責任を負うファラ・ハンがそこに向かわねばならないのは、道理である。
ディーノは素早く飛竜を動かし、レイムの真上まで飛んだ。
片腕でひょいとファラ・ハンを抱きあげ、レイムの飛竜の上におろす。
背中に翼を持ち、いつでもそれを出すことができるファラ・ハンは、|遥《はる》かな高みであっても恐れげなく、身軽に居場所を変えた。
ディーノに降ろされるファラ・ハンを受けとめねばならなくなったレイムのほうが、緊張して手を差し伸べている。
少しばかりためらってから、小さな飛竜はファラ・ハンに同行することを選んで、ディーノの腕からファラ・ハンとレイムのあいだに飛び降りた。
レイムに対して、一人前にやきもちを焼くような、そんな仕草でお|尻《しり》を割りこませる。
「理屈くさいことは俺の領分ではない。俺たちは下のいまいましい魔物を片づけておくから、そっちは勝手にしろ」
言うが早いか、飛竜を降下させる。
ファラ・ハンを|任《まか》せるのはいささか不本意ではあったが、どのみち、魔道士の力をあてにせねばここからは出られないと割り切っていた。
ディーノほどの男が、いくら美しいとはいえ、ただ一人の|乙女《お と め》に|固《こ》|執《しつ》することなどありえないのだと、理由をつけ|自《みずか》らを納得させていた。
そのはずだった。
ちくちくと胸の|隅《すみ》に残る|嫌《いや》な感じの原因は、定かではない。
「行くぞ!」
ディーノはえもいえない感情を振り払うよう、大声で|怒《ど》|鳴《な》った。
「はいっ!」
強く呼びかけられ、シルヴィンは飛びあがらんばかりに驚き、返事して、ディーノの後に続いた。
|迅《じん》|速《そく》さ|機《き》|敏《びん》さ、|果《か》|敢《かん》さを売り物とするような二人連れは、|巧《たく》みに|飛竜《ひりゅう》を駆り、|瞬《またた》く間に飛び過ぎていった。
「…………」
|一《いち》|瞥《べつ》もない、あっけないそれに。
なんとなく。
ファラ・ハンは|肌《はだ》|寒《さむ》い寂しさを覚えた。
自分から言いだしたはずなのに、なぜだか置いていかれたような、|厄《やっ》|介《かい》|払《ばら》いをされたような、おかしな|錯《さっ》|覚《かく》がしていた。
女性でありながら、まったく足手まといにならず、|勇《ゆう》|敢《かん》に行動する実力のある少女に対し、あまりにも現実的に無力な自分に、強い|劣《れっ》|等《とう》|感《かん》を抱いた。
外見の美しさ、|麗《うるわ》しさも、目にするにはあまりにも近すぎて、ファラ・ハンの意識に遠い。ほっそりとした、たおやかな体も何もかも、ひ弱さそのものでしかない。
そばにいたとしても何もできない自分が、ディーノに見切りをつけられたとしてもなんら不自然ではないことを思い知り、やるせない。
何も役に立たず、ただ一方的に守ってもらおうとしている、そばで守られるのが当然と感じつつある自分を浅ましいと気づき、恥いった。さもしい|了見《りょうけん》だけで、けっして寂しいとは感じないことを、ファラ・ハンは理解していない。
頼もしい仲間をレイムは|羨《せん》|望《ぼう》にも似た|溜《た》め|息《いき》をついて見送る。
ファラ・ハンが感じたことと同じく、レイムにとっても、彼らほど健全なる生命の光に満ち溢れて、大いなる力を駆使する者たちは、|賛《さん》|嘆《たん》に|値《あたい》する。
置かれている状況を|失《しつ》|念《ねん》して見とれそうになるが、ぐいと意識を現実に引き戻す。
「しっかりつかまっててください。降下します」
レイムは振りかえり、優しく注意をうながした。
「キャオ!」
ファラ・ハンより先に、小さな飛竜が返事する。
自己主張を忘れない図々しい珍客に、きょとんと目を丸くしたレイムを見て、ファラ・ハンはくすくす笑った。
小さな飛竜はレイムの反応にかまわず、やる気十分とばかりに、ピスピスと音をたてて|鼻《び》|孔《こう》をふくらませている。
笑いながら、ファラ・ハンはレイムを見やる。
「行きましょう」
|薄《うす》|絹《ぎぬ》の花びらを持つ大輪の花が咲きこぼれるかのような、|艶《あで》やかな|微《ほほ》|笑《え》みを投げかけられ、レイムの|魂《たましい》が震えた。
しびれて遠のきそうになる意識を、|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》、つなぎとめる。
「……はい」
いらえを返し、レイムは|飛竜《ひりゅう》の|手《た》|綱《づな》を大きくさばいて握りなおした。
降下しようかと身がまえたとき。
ファラ・ハンの腕がレイムの腰に回された。
はかない力ですがる、白く細い指先。
身を支えるために当然の仕草でなされたそれは、飛竜の初心者であるレイムにはもちろん初めての体験だった。
誰かの後ろに同乗することは、ディーノのそれでなれているファラ・ハンだ。
どうあってもそうしなければ安定が悪いというわけではなかったが、同じ飛竜に乗るお互いの動向を知る意味において、この姿勢は絶対的な意味がある。
|華《きゃ》|奢《しゃ》なファラ・ハンの腕を意識し、レイムの心臓が早鐘を打った。
|麗《うるわ》しい彼女の肩を抱き、|呪《じゅ》を|解《と》くための儀礼とはいえ、そのすべやかな|肌《はだ》に少しでも|唇《くちびる》を|這《は》わせたことがあるという記憶が、よけいにレイムを落ち着かなくさせた。
ぴたりと寄り添うのではなく、あいだに小さな|飛竜《ひりゅう》がいてくれたことが、何よりの救いだった。
聖戦士たるべき自分の心に不純なものが生じることを恐れたレイムは、ぐっと息をのみこんで胸を落ち着け、正気を確認した。
|聖《せい》|魔《ま》|道《どう》|士《し》であるために、ときめくものをなだめすかして、どこか遠くに追いやった。
「行きます……!」
レイムのかけ声に従い、飛竜はなれない|手《た》|綱《づな》の合図よりも|滑《なめ》らかに、行動を開始した。
魔道の粉を用いたレイムの術は、まだしばらくのあいだ、有効である。
飛竜を降下させながら、吐き出す火炎を用い、ディーノとシルヴィンは|魔《ま》|物《もの》の|一《いっ》|掃《そう》をはかっていた。
一片のかけらも残すことなく、燃え|崩《くず》れてゆくのは本物の魔物だけ。
それらを見分けることができるのは、シルヴィン一人である。
ディーノには、何がなんだかわからない。
同じように逃げ|惑《まど》いながら、魔物に変化して|朽《く》ちてゆくものがなぜそうなのか、|皆《かい》|目《もく》見当がつかない。
倒れて気絶しているひと型をしたものが、果たして本物のひとであるのかさえ疑わしい。
レイムの行った魔道のなんたるかを知らないディーノには、ひと思いに|微《み》|塵《じん》に|粉《ふん》|砕《さい》しつくし、二度と復活できぬように殺してしまったほうが、いくらかすっきりとする。
火炎だけでは飽き足らず、ディーノは|面《めん》|倒《どう》であると|舌《した》|打《う》ちした。
事情を知らないディーノには、生き残っているものがいるだけでも、|目《め》|障《ざわ》りだ。
飛竜の|爪《つめ》で目につくすべてを引き裂こうと、ディーノがさらに飛竜を低く降下させる。
倒れ伏したが、|昏《こん》|倒《とう》を|免《まぬが》れていたひとびとが、|襲《おそ》いかかりくる飛竜を目にし、悲鳴をあげた。
彼らにとっては、飛竜を駆るディーノやシルヴィンという来訪者は、ただ突然に襲いきた|殺《さつ》|戮《りく》|者《しゃ》でしかない。当たり前の日常を破壊する、|凶悪《きょうあく》な|賊《ぞく》|徒《と》にほかならない。
|奇《き》|怪《かい》で|醜悪《しゅうあく》な魔物と化して|焔《ほのお》に焼け崩れてゆく者たちのことでさえ、それがもともと魔物であったなどとはまったく信じられなかった。
まさしく、焔渦巻く悪夢の|饗宴《きょうえん》である。自分が本当にひとであったのかさえ、疑わしい。
恐慌に襲われ狂おしく|瞳《ひとみ》を見開き、立つこともかなわぬ四つんばいで、|地《じ》|這《は》い|虫《むし》のように無様な格好で逃げ惑う者たちを、高らかにあざ笑いながらディーノが追う。
不可思議な力の加護によって焔を|免《まぬが》れていた者たちも、こればかりは防ぎようがなかった。
今まさに。
ひとの命を奪おうとしたディーノを。
|石畳《いしだたみ》を割って伸びでた黒い|疾《しっ》|風《ぷう》が襲った。
いや、疾風と見えたのは、|忌《い》まわしい|触手《しょくしゅ》。
空を飛ぶ|飛竜《ひりゅう》の移動を計画にいれ、がぱりと包みこんで|捕《つか》まえるように、|闇《やみ》|色《いろ》をした何本もの触手がいっせいにディーノめがけて|躍《おど》りあがる。
「ケアァァッ!」
|甲《かん》|高《だか》く|哭《な》きながら、飛竜が身をよじった。
|巧《たく》みに|手《た》|綱《づな》を|操《あやつ》り、ディーノが向きをかえる飛竜を助ける。
地中から突然に現れでたのは、イボだらけの巨大なイソギンチャクのようなもの。
この世のものならぬ、おぞましい|魔《ま》|物《もの》。
腐りただれる悪臭を発するそれの触手の一本が。
ディーノの飛竜の尾の先端を、わずかに捕まえた。
すばやくからみつき、引っ張る。
がくんと。
飛竜が|墜《お》ちた。
ぐあっと触手が襲いかかる。
飛竜ごと。
ディーノが魔物にのまれた。
ただならぬ飛竜の哭き声に振りかえったシルヴィンが見たのは、その瞬間である。
ぎょっと大きく目を見開いたシルヴィンは、慌てて飛竜の向きを変える。
ぐちゅぐちゅと|嫌《いや》らしい音をたて、巨大な魔物は|咀嚼《そしゃく》を開始して|身《み》|悶《もだ》えた。
毒々しい|膿《うみ》の色をした液体が、閉じた魔物の開口部から溢れた。液体は、中から現れでた魔物のために突き|崩《くず》された石畳の上に、汚らしい|飛《ひ》|沫《まつ》を飛ばし、こぼれ落ちる。
|館《やかた》からまろび出てきた領主が、ディーノをのみこんだ魔物を見て、|哄笑《こうしょう》した。
魔物の親方らしい威厳と風格をもつ、立派な衣服までまとったそれに、シルヴィンは驚く。
|爬虫類《はちゅうるい》めいたそれが、なぜ二本足で立ち、衣類まで身につけているのか、わからない。
見分けられると確信していたシルヴィンの目に。
そのものは、魔物のようにも、ひとのようにも、見えた。
一方。
|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|土《ど》たるべき場所の近くに降りたレイムとファラ・ハンたちは。
|瓦《が》|礫《れき》の山と化したそこが、一見して目指していた場所に間違いないことを確信した。
|印《いん》を結び、レイムがその中に踏みこむ。
中心点に近い位置にひざまずき、右手のひらを地面にかざして、探る。
|眉《まゆ》をひそめたレイムを、気づかわしげにファラ・ハンが見つめる。
細い腕に|居《い》|心《ごこ》|地《ち》よさそうに抱かれた小さな|飛竜《ひりゅう》も、わけ知り顔で赤い|瞳《ひとみ》をくりくり動かす。
「どうですか?」
「間違いなく……、|封《ふう》|印《いん》は|解《と》かれています。でも、影の柱を天に上らせ、溢れくるはずの|魔《ま》の力が、|制《せい》|御《ぎょ》されている……」
「ひとの力で、|操《あやつ》ることができるのですか?」
|驚嘆《きょうたん》し、ファラ・ハンは|麗《うるわ》しい青い瞳を大きく開く。
見切りをつけてレイムは腰を上げた。
「おそらくこの|館《やかた》すべてを囲んでいる|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の力でしょう。それを仕組んだ術者が、この中にいるはずです。そしてその者こそが、|宝《ほう》|珠《しゅ》を持っています。おそらくは、それと知らずに」
時の宝珠は世界の|均《きん》|衡《こう》を保つほどの力をもったもの。
力の|源《みなもと》、純粋な力そのものであるそれ。
しかし、それは自然の|摂《せつ》|理《り》にあまりに近すぎるため、魔物に扱いきれるものではない。
時の宝珠を得た魔物ができることは、ただそれを|粉《ふん》|砕《さい》し、隠すことだけ。
ならば。
ここで|君《くん》|臨《りん》しているひとこそが、それを得た者。
ここの絶対権力者であるとする見方が、まず第一に当てはまる。
「でも……」
ファラ・ハンは、思い当たる人物に|困《こん》|惑《わく》した。
「どうしましたか?」
心当たりのありそうなファラ・ハンに、レイムが近寄る。
「あれは、たしかに魔物でしたもの……」
おぞましい姿に|変《へん》|貌《ぼう》した、領主ツィークフリート。
|醜悪《しゅうあく》なるそれを思い出し、ファラ・ハンはぶるっと身震いし、飛竜を強く抱きしめた。
「キャウ?」
くりっと首を上げ、飛竜はファラ・ハンに|頬《ほお》ずりする。
|脅《おび》えの色を浮かべ震えたファラ・ハンを安心させるかのように、レイムは寄り添うように間近く寄り、かすかに首をかしげて見つめた。
きらきらと星を浮かべて澄んだ、|綺《き》|麗《れい》な|翠色《みどりいろ》の瞳。
優しい|面《おも》|持《も》ちでうなずくレイムに、ファラ・ハンは淡く|微《ほほ》|笑《え》んだ。
簡単に話を聞き、レイムは目を細める。
「とにかく会ってみましょう。時の|宝《ほう》|珠《しゅ》はこの|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》の|結《けっ》|界《かい》内に必ずあります。僕たちにはこの土地の|歪《ゆが》められた秩序を正し、|魔《ま》の|呪《じゅ》|縛《ばく》から解放するという使命もあります。なんらかの手がかりが、きっとあるでしょう」
|毅《き》|然《ぜん》と言いはなちながら、レイムは長い髪を手首に巻きつけていたリボンで再び|結《ゆ》わえた。
レイムは、幼い少女コニーや司祭など、|街《まち》のひとびとを見てから、ここに来た。
どんな気持ちで領民がここを毎日眺めているのか、知っている。
なんとしてでも、彼らを救いたいと思っている。
夢見る少女のように優しく穏やかな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》をもつこの綺麗な若者は、外見の美しさ、|秀麗《しゅうれい》さにおいて、男性としては|繊《せん》|細《さい》すぎる印象があるが、その実、遥かに強固なる|芯《しん》が一筋通っていることを、ファラ・ハンは知った。
おっとりしているからといって、|臆病《おくびょう》で|勇《ゆう》|敢《かん》でなく|意《い》|気《く》|地《じ》がないというわけではないのだ。
剣士としてのレイムをファラ・ハンは知らない。だがそれにかかわりなく、彼がその実力や技術、腕力に頼らない、本物の強さをもつ者であることを、感じとることができた。
聖戦士、|聖《せい》|魔《ま》|道《どう》|士《し》としてレイムが選ばれ、ここにいる理由が納得できる。
不思議を駆使する魔道士の実力の上で、あのエル・コレンティ老魔道師と比べると少しばかり頼りないような気もしていたが、彼を知るにつけ、その不安は跡形もなく消えた。
|飛竜《ひりゅう》の悲鳴が聞こえた。
「ディーノ!?」
びくんと身を震わせ、ファラ・ハンが|啼《な》き声のしたほうに首をめぐらす。
ファラ・ハンの腕に抱かれた小さな飛竜が、呼応するように|甲《かん》|高《だか》い哭き声をあげる。
ファラ・ハンが、なぜそれがディーノの飛竜であると思ったのか、理由はない。
ただファラ・ハンの口をついて出たのは、その名前だった。
|邪《じゃ》|悪《あく》なるものの|闊《かっ》|歩《ぽ》する|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の内、気高き神獣たる飛竜は、彼ら聖戦士たちが持ちこんだ四頭しかいない。
飛竜を駆って上空にいるのは、ディーノとシルヴィン。
まずしてやられるとするならば。
力で劣るシルヴィンとみるべきである。
冷静に判断したレイムと、ファラ・ハンの|懸《け》|念《ねん》する対象は異なっている。
それも。
ファラ・ハンが伝説の聖女であるからこそわかることなのだろうかと、レイムは勘繰ったりもする。
「行きましょう」
表情を険しくし、そこから追い立てるようにファラ・ハンの肩を抱いて、レイムが移動をうながした。
あまり大きくないと自覚するレイムの手ですらすっぽりと包むことのできる、骨格の細い小さなファラ・ハンの肩。強く握れば折れ砕けそうなそれに、無意識に不必要なまでの力を入れようとしていた自分に気がつき、レイムは慌てて手を放す。
不自然な仕草に、きょとんとしてファラ・ハンがレイムを見た。
取りつくろうようにレイムはファラ・ハンの手を引き、背を向けて足早に|飛竜《ひりゅう》のそばに戻った。
どちらかというと|華《きゃ》|奢《しゃ》で、女性と見間違えられることもたまにある、すらりと細身のレイムだが、足運びの速さや歩幅はまぎれもない男性のそれである。
長衣の|裾《すそ》引くファラ・ハンは、急ぎ足で、転ばないよう注意深く、懸命に|歩《ほ》を運んだ。
ファラ・ハンの腕から転げ落ちそうになっている小さな飛竜は、アギャアギャと|哭《な》いて、レイムに不平を訴えた。
常になくレイムは、自分の行っていることが、伴っている|麗《れい》|人《じん》にとって危なくはないかと、振りかえって確認することをしなかった。
なぜだか、ついいましがたファラ・ハンの|可《か》|憐《れん》な声が呼ばわった男の名が、不思議と気持ちを落ち着かなくさせていた。耳から離れない感じがした。
ファラ・ハンの顔をまともに見ることがためらわれた。
小作りな白い手を握った手の先が、ひどく熱い。
勝利に酔い、ぞろりと|鋭《するど》い|牙《きば》を生やした口を開け、笑い声をあげる領主の眼前で。
巨大な|魔《ま》|物《もの》が|轟《ごう》|音《おん》を発して爆発した。
粉々に砕け散った肉片が、激しい爆風によって勢いよく飛散する。
いまわしい|汚《お》|濁《だく》の|肉《にく》|塊《かい》の真ん中に。
|瘴気《しょうき》にあてられ、ぐたりと翼を広げる飛竜がいた。
そして。
右手に銀色に光り輝く|斧《おの》を持つ、ディーノがいた。
ぬらりとした魔物の緑色の体液と肉片で、飛竜もディーノも、全身ぐずぐずに汚れている。
汚物と呼べるそれにぞっぷりと濡れそぼち、重くよれている。
それらにも汚されることのないもの。
|研《と》ぎ|澄《す》まされた刃物のように|鋭《するど》い光を放つ青い|瞳《ひとみ》が。
すうっと見開かれ。
ぎろりと領主を|睨《にら》んだ。
|銀《ぎん》|斧《ふ》を握る手に力が入る。
|斧《おの》をかざし、ディーノは|弛《し》|緩《かん》した|飛竜《ひりゅう》の背から降りる。
銀斧を中心にして光が|炸《さく》|裂《れつ》した。
圧力を放つ光に、ディーノの髪や衣服がぶわりと舞い立つ。
反射的にシルヴィンは目を閉じたが。
それはけっして、瞳を射、視力を奪うものではなかった。
聖なる銀斧レプラ・ザンの発する聖光である。
炸裂した光を浴び。
領主のそばに群がり、領主と同じく歓喜していた|醜《みにく》い|魔《ま》|物《もの》たちが、おぞましい悲鳴をあげて、霧か|塵《ちり》のように細かく砕け散った。
魔物に惑わされていたひとびとが、|昏《こん》|倒《とう》して失神する。
仲間を失い孤立した一匹の魔物。
領主に。
ディーノが銀斧を振り下ろした。
濡れた布を勢いよく壁に|叩《たた》きつけるような音がした。
突然に|閃《ひらめ》いた聖光によって浄化された場所。
そこに、ファラ・ハンを乗せたレイムの飛竜が降下する。
目を開けたシルヴィン。
到着したファラ・ハンとレイムが見たのは。
醜い魔物に|変《へん》|貌《ぼう》した領主の肩口に銀斧を叩きこんだディーノの姿だった。
斜めに振り下ろされた斧。
|脊《せき》|椎《つい》を割られ、筋肉の支えを断ち切られた首が、ぐらりと横にかしぐ。
腰のあたりまで深く食いこんだ斧を、|無《む》|造《ぞう》|作《さ》にディーノが引き抜く。
どぷりと。
割れた肉体から悪臭を放つ緑色の体液が溢れ出た。
かしいだ首が、腕の長さほどもある青い|舌《した》をでろりと吐きだす。
がくんと|膝《ひざ》を折り、領主は|石畳《いしだたみ》の上に座りこんだ。
|綺《き》|麗《れい》に浄化され、身にからんだ汚物から解放されたディーノは、鏡のように美しい|光《こう》|沢《たく》を放つ銀斧の|刃《やいば》を汚した領主の体液を、軽く振り落とす。
領主からなんらかの手がかりを得ようとしていたレイムとファラ・ハンは。
あまりに性急ななりゆきに、|泡《あわ》をくった。
手を貸そうとしたレイムより早く、身軽く|飛竜《ひりゅう》を飛びおりたファラ・ハンが、白い衣装の|裾《すそ》をひるがえし、|脱《だっ》|兎《と》のごとく駆けだす。
思いのほかに鮮やかな格好で飛竜をおりたレイムと、小さな飛竜がファラ・ハンを追う。
二人の行動を見てとり、シルヴィンが飛竜から飛びおりる。
ちぎれ落ちようとしている首で、何か言いたげに口を動かしかけた領主に。
無表情でディーノが|斧《おの》を振りあげた。
「やめてぇっ!」
横から駆けこんだファラ・ハンが。
振りあげた腕をいまにも下ろさんとしていたディーノにしがみついた。
きらめいた刃を恐れるゆとりなど、|微《み》|塵《じん》もなかった。
自ら胸に飛びこんできた美女に。
ぎくりとディーノは体を硬直させる。
しなやかに|空《くう》を泳いだのは、長い黒髪。身を抱きすくめたのは、たおやかなる白い腕。
動きを封じようとする、あまりにもはかない力を、ディーノには振りほどくことができなかった。
「お願い、待って……!」
顔をあげて|懇《こん》|願《がん》し、ファラ・ハンはディーノを見つめた。
|困《こん》|惑《わく》した青い|瞳《ひとみ》が、ファラ・ハンを見返す。
命をもかえりみない大胆な行動により、すでにして気勢はそがれていた。
無言で見返すディーノの瞳の中に映っている自分の姿を捕らえ。
ファラ・ハンは、|鋼《はがね》のように引きしまった|体《たい》|躯《く》を抱きしめていた腕を、ぱっと放した。
うつむき、くるりと背を向ける。
とても向かい合ったままではいられなかった。
事切れようとしている領主は、ずるりとくずおれる。
その姿を見つめながら、レイムは軽く|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
その|異形《いぎょう》のものが本物の|魔《ま》|物《もの》なのかそうでないのか、わからなかった。
いくら上級の魔物であっても、聖なる|銀《ぎん》|斧《ふ》の放つ聖光の前にはひとたまりもないはずだ。
事実、ほかの魔物たちは皆、消え失せてしまっている。
形を残したまま、存在する魔物などいるはずがない。
魔物とひととを見分けられるシルヴィンは、レイムとは違う観点から同じことを感じ、軽く目をこする。おぞましい|見目形《みめかたち》をしている魔物そのものであるそれが、なぜだか魔物ではないように思えてならないのだ。
「タノ、ム……」
ごぼごぼと緑色の体液を口から溢れさせながら、領主が声をもらした。
「ワタシノ、領民タチダケハ、タスケテクレ……。欲シイモノナラ、ナンデモ持ッテイクガイイ。ダガ、誰モ、殺サナイデ……。命アルカギリ生キヨウトスル者タチノ、明日ヲ、奪ワナイデヤッテクレ……」
(欲しいものなら、なんでも持っていくがいい。命あるかぎり生きようとする者たちから、明日を奪うことだけは、やめてくれ……! 頼む……! 命だけは……!!)
かつて耳にした、悲痛な言葉。
|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な振る舞いにでる勇猛な|蛮《ばん》|族《ぞく》の若者を前に、誇りも尊厳もかなぐり捨てて、|土《ど》|下《げ》|座《ざ》した男。
モルミエナ領国の領主、ツィークフリート。
「貴様……」
ディーノは|眉《まゆ》をひそめて、|朽《く》ち果てようとしている魔物を見つめた。
レイムと一緒に飛びきた小さな|飛竜《ひりゅう》が、ディーノの左肩の上にちょこんと乗った。
本来、聖なる銀斧の一撃で、魔物なら|粉《こな》|微《み》|塵《じん》に|粉《ふん》|砕《さい》できるはずである。
形あるままで、|骸《むくろ》をさらすはずがない。
|醜《みにく》い死骸も、自然なる世界に存在していてはならないのだ。
浄化され消える定めである。
疑り深いディーノは仕損じたかと気軽く考えて、もう一度|斧《おの》を振り下ろそうとしたのだが、事態の意味するものは、そんなに簡単なものではなかった。
|魔《ま》|物《もの》の目から、透明な涙が|珠《たま》を結び、ほろほろと|零《こぼ》れ落ちる。
魔物に|涙《るい》|腺《せん》は存在しない。
たとえ、ひとの姿を借りたり、乗り移ったとしても。
「本物の、ツィークフリートなのか……?」
ひとであるのか。
あったのか。
いずれにせよそれは、信じがたい事実だった。
魔物がひとにとり|憑《つ》き、あるいはひとを食らうことにより、その姿を得て成り代わることはよくある。
だが、それはあくまでも、魔物でしかない。
ひとの意識を保ちきることはできないのだ。
領民のことを気づかってやるようなことなど、到底できはしない。
死に|際《ぎわ》に、弱い生き物たちを守ろうと|懇《こん》|願《がん》するようなことなど、あるはずがない。
消えようとする生命の|灯《ひ》を懸命につなぎとめ、がくがくと震える|顎《あご》を動かし言葉を|紡《つむ》ごうとする魔物に、レイムは近寄りひざまずく。
「あなたが時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を持っておられたのですね」
慈悲と|憐《れん》|愍《びん》のこもった口調で、静かに話しかけた。
涙を溢れさせる魔物は|応《こた》えない。
いらえる力はもうない。
ひとの意識をもったまま、この領主たる男は魔物の力を手に入れていた。
そのような不思議を可能にするのは、時の宝珠の破片という、|莫《ばく》|大《だい》な力の存在なしには考えられない。
おそらくは少しばかりの|魔《ま》|道《どう》に精通していたがために、この土地にある魔道の|封《ふう》|土《ど》のことを知ったのだろう。
時の宝珠の迷いこんだそこならば、失ったあらゆる自然の力さえ、元に修復できるだけの神聖なる力を|誇《こ》|示《じ》していたことだろう。
誰もが|藁《わら》にもすがりたい気持ちで、|終焉《しゅうえん》をむかえつつある世界に|戦《おのの》いていたのだ。
できうる思いつくかぎりの方法を試したとして、なんの不思議があるだろう。
|封《ふう》|印《いん》を|解《と》き、その力の|源《みなもと》を|己《おの》が物にすることが、同時に魔物を解き放つことになるとは、夢にも思わなかったに違いない。
失敗を恐れ、|館《やかた》全体を|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》の封じの|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》で囲っていたことが、外への|魔《ま》|物《もの》の流出を防ぎ、限られた狭い空間における時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の価値を高めた。
|封《ふう》|印《いん》を|解《と》いたがゆえに一番初めの|生《い》け|贄《にえ》となった領主は、魔物に食らわれると同時に時の宝珠を手に入れた。
時の宝珠を受け入れたことと魔物に食らわれた|衝撃《しょうげき》で、それまでの記憶の大半が欠落した。
しかしそれでも、領民を、ひとびとを救いたいという強固な意志が、消えきらず残っていたとしてもおかしくない。
欲深き魔物でありながら、絶対権力者。生命の尊厳を覚えている者。
人魔。
ひととしての彼を支えている時の宝珠を取りだせば。
領主は|正真正銘《しょうしんしょうめい》のひとに戻る。
ひとに戻った瞬間に、とり|憑《つ》いていた魔物に食らわれ、本物の魔物と化す。
|聖《せい》|斧《ふ》の|粛正《しゅくせい》をうけ、滅しようとしている魔物に。
|哀《かな》しい|瞳《ひとみ》でレイムは魔物を見つめた。
このまま魔物として彼は死ぬ。
ひとに戻したとしても、ひとつの段階を踏むだけで、結果はかわらない。
若々しく|選《え》りすぐられた姿を手に入れていることから、この男が魔物としての一面でひとを食らっていたのだということが推測できる。
すでにひととしての道にない。
ひとに戻して魔物としての自分の|犯《おか》していた罪を知らないほうが、幸せなのかもしれない。
救いようは、ない。
苦しげに|眉《まゆ》をひそめるレイムの横に。
ファラ・ハンが歩みきた。
|哀《かな》しみとも|憐《あわ》れみともつかない表情で、傷口から|腐汁《ふじゅう》を吹きだしながら息絶えようとしている領主に、すっと白い手をさしだした。
「望みは叶えます。もともとわたしたちがここにきた目的も、そうだったのですから。必ず、世界を救います。この世界に|育《はぐく》まれた命に約束された明日をとり戻します。欲しいものをくださるというのなら、あなたが抱いた心と力を、わたしに託してくださいませんか」
ためらうことなく伸ばされた細い指先が。
こぼれ落ちる涙に触れた。
光が|弾《はじ》けた。
濡れた指先から|迸《ほとばし》ったのは、|清《すが》|々《すが》しい|芳《ほう》|香《こう》さえ放つ清き光。
一瞬にして、ふわあっとまろく広がった光は、地の底までも沁みわたるかのように、浄化されたすべてのものを誇らしげに輝かせた。
シルヴィンの目に。
|魔《ま》|物《もの》と化した肉体から解放されてゆく、ひととしての領主の|幻《まぼろし》が見えた。
彼に食らわれたひと、この地を訪れた旅人や詩人たちの幻が見えた。
それらの|魂《たましい》たちは。
清き光を受けてきらきらと輝きながら、光の粒子となって消えていく。
魔の|呪《じゅ》|縛《ばく》から逃れ、歓喜しながら。
消えていく。
ようやくの安らぎをみつけて。
シルヴィンの鼻の奥がつんと痛くなり、|温《あたた》かい涙で水色の|瞳《ひとみ》が|潤《うる》んだ。
領主そのひとであった魔物は。
|塵《ちり》となってほどけて消えた。
|滴《したた》り落ちた汚い緑色の体液も何もかも、跡形も残さず消え失せた。
さしだしたままのファラ・ハンの手の上に。
金色に光り輝く球体が浮かんでいた。
彼女の小作りな手のひらでさえ、握りしめられるほどの大きさの光の|珠《たま》。
それこそが。
探し求めていた時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の一部。
手のひらを上向け、引き寄せたファラ・ハンの動きに従って、それは彼女の胸元近くで光り輝いた。
無事手に入ったそれを見つめ、レイムはふわりと|微《ほほ》|笑《え》む。
「やりましたね」
ファラ・ハンは、優しく微笑みかえした。
|愛《いと》し|子《ご》を抱くように、そうっと、両手のひらで受ける格好をする。
金色の宝珠は、|眩《まぶ》しく輝きながら、くるくると回る。
ディーノは少し目を細め、不思議の光珠を見下ろす。
「それが、時の宝珠なのか?」
肩に乗った|飛竜《ひりゅう》も、目にする珍しいものに、きゅるんと首をかしげる。
浮かんだ宝珠を手のあいだに|挟《はさ》むように、指先を上向けたファラ・ハンは、うなずいて目を閉じた。
金色の光は、一瞬ぱあっと|弾《はじ》け、消えた。
ファラ・ハンの内に、収まった。
第十一章 追っ手
|封《ふう》じの|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》を|解《と》かれ、|館《やかた》で働いていたひとびとは、魔物に化かされていた|偽《にせ》|物《もの》の日常から、本来の時間を取りもどした。
領主そのものにほかならなかったおかげで、魔物の支配下にあったとはいえ、もともとこの領地の|民《たみ》である者には、いっさいの手出しはなされていなかった。
被害を受けて殺されたり食われたりしたのは、王都から派遣されてきた|魔《ま》|道《どう》|士《し》や旅人たちだけである。
魔道士の神秘の力をもってしても音信不通である各所も、内情は案外このようなものであるのかもしれない。
領主の幼い頃からこの家に|仕《つか》えてきた|侍従長《じじゅうちょう》の老人は、魔物と|変《へん》|貌《ぼう》した後の領主にも、ひとのままで間近く仕えていた。
この者の記憶をつうじて、どうして聖戦士たちの出現を待ちかまえるようにして、花火を打ちあげるなどの|祝宴《しゅくえん》が|催《もよお》されたのかが知れた。
ファラ・ハンがこの世界に具現して、世界はほんのわずかにではあるが、明日に光を取りもどした。役立たずになっていた|占《うらな》い|板《ばん》も、少しばかりの未来予知を可能としていたのだ。
上空から訪れるだろう四頭の|飛竜《ひりゅう》、四人の人間。
かれらがいかなる者かまでは知りえなかったが、その仲間たちの一人、|麗《うるわ》しい|乙女《お と め》が、その肉のひとかけらにさえ、|莫《ばく》|大《だい》な神秘の力を宿していることが予知されていた。
撃ち落とす目的で、朝から花火が用意されたのだという。
予定どおり現れでた飛竜に対しては、文字どおりの集中砲火である。
たとえ殺すことになろうとも、血の一滴でも得られるものなら、かまわなかった。
|快《こころよ》く招き入れたのも、|居《い》|心《ごこ》|地《ち》よくもてなし、料理や酒に薬を盛ったのも、すべてファラ・ハンを手に入れんがためだったのだ。
もしもこの|館《やかた》からうまく逃げ延びたとしても、|街《まち》のひとびとがファラ・ハンを放っておくはずがない。
領主を心から愛する|民《たみ》たちが、これを領主に献上しないはずがない。
街の事情を知っているレイムは、その言葉を聞き、ぶるっと身震いした。
神話をすり替えられ、記憶を入れ替えられたひとびと。
背に白い翼を持つ乙女は、殺さなければならない者なのだ。
街のすべてを清めて回ることはできない。
乱れてすり変わった聖書の中身は、彼が知るよりももっとずっと高度な|魔力《まりょく》で時間を費やし、影響されている。
ここに来て、突然に文字の置き変わってしまったレイムの聖書ほど、簡単にはいかない。
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を取りだすために解放された|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|土《ど》は、この館に仕える魔道士たちの手で、再び|封《ふう》|印《いん》された。
館を取りまく|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の解除作業は、レイムが一手に引き受けた。
魔物の術中にはまり、家に帰ることも家族のことも忘れて館で働き暮らしていたひとびとは、魔法陣の解除作業を門の前で待ちかまえた。
聖なる|銀《ぎん》|斧《ふ》レプラ・ザンの発した聖光によってひととおりの浄化はしたが、運よくそれを|免《まぬが》れた魔物がいるかもしれない。
ファラ・ハンとシルヴィン、ディーノは飛竜で上から眺め下ろし、それらを捜した。
たいした時間もかけず、問題なく魔法陣は取り除かれた。
壁づたいに二頭の飛竜が館の周辺を飛び回り、逃れて行く魔物がいないかを確認する。
予期された最悪の事態にはならなかったようだ。
ほっと肩から力を抜き、飛竜を戻そうとしたシルヴィンの背後で。
ファラ・ハンが、あっと小さな声をあげた。
びくんとして、シルヴィンが背筋を正す。
「何? どうかした?」
首を後ろ向けて問いかけるシルヴィンに、ファラ・ハンは立ち枯れた森の一画を指差す。
「あれ! |魔《ま》|物《もの》に襲われているのではないかしら!?」
きゅっと腰に回した腕に力を入れて、シルヴィンの背に寄り添うファラ・ハンは、恐る恐る尋ねた。
|眉《まゆ》を|険《けわ》しくして指差す先に目をこらしたシルヴィンが見たのは。
必死の勢いで駆けてゆく一人の若い女の後ろ姿。
長く伸ばされた金色の髪が、激しく揺れている。
薄桃色のマントと男仕立ての白い軍服のような、勇ましい格好をしている。
そして。
彼女を追っているのは。
|槍《やり》を突き立てられたような長く|鋭《するど》い|刺《とげ》を持つ、子牛ほどの大きさもある、|紫色《むらさきいろ》の|芋《いも》|虫《むし》。
全身を素早く|蠢動《しゅんどう》させながら、うねるように移動するそれを見て。
シルヴィンは大きく息を吐いた。
|安《あん》|堵《ど》して|弛《し》|緩《かん》したシルヴィンの体を感じとって、ファラ・ハンが眉をひそめる。
シルヴィンは|怪《け》|訝《げん》そうな顔をするファラ・ハンに気軽く|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「あれは魔物じゃないわ。ただの虫。ゲルゼルって名前の、血を吸うやつよ。森の中にはよくいるわ。まだ生き残ってたのね」
すべての生き物が死に絶えようとしている世界。
ひとや動物に寄生して生きている生き物のほうが、自然から食物や栄養を得ていたものよりも幾分か生き残る確率が高いのか。
害虫にほかならないものであったが、それでも一匹でも多くの生物が生き残っていたということが、シルヴィンには嬉しい。
血を吸うと耳にしたファラ・ハンは、虫の大きさから想像し、|蒼《そう》|白《はく》になる。
「あんなのに血を吸われては死んでしまうわ! 早く助けましょう!」
怒るような激しい口調に、シルヴィンはきょとんと目を丸くした。
「え……、でもあれが血を吸うっていっても、ちょっと|痺《しび》れて一時的な|貧《ひん》|血《けつ》を感じるくらいで、吸い口が|腫《は》れるとか何もないし……、木の上とか大きな石の上とか、同じ地面の上にいなければ、すぐに見失ってどこかに行っちゃうような|鈍《どん》|感《かん》な虫だし……」
ようするに、見た目ほど恐ろしい虫ではないのだ。
当たり前の環境で育ってきた者なら、誰もがゲルゼルを追い払う方法を知っている。
それを知らないのはよほどの|馬《ば》|鹿《か》か、世間知らずだけだ。
森に入るには入るだけの気がまえと常識がいる。
必要な準備を欠いて自然の中に足を踏み入れようとする者、自然に|畏《い》|敬《けい》の念を払わず、関心をもたないで、ひとの力だけで世界が存在していると思いあがっている者を、シルヴィンは好まない。
少しくらい痛い思いをしたほうが勉強になるし、あとあと為になるとシルヴィンは思う。
「いいわ!」
煮え切らないシルヴィンの態度に|業《ごう》を煮やしたファラ・ハンは、するりと|飛竜《ひりゅう》の上から飛び降りた。
声をかける暇も与えず、行動に移っていた。
落ちてゆくファラ・ハンは、ほどなくして背から翼を|滑《すべ》りださせる。
ぱあっと白い翼が|華《はな》やかに広がった。
あっけにとられていたシルヴィンは、はぁと息を吐く。
あのか細い体のどこに、こんな行動を起こす激しさが備わっているのだろうと考えた。
翼を広げて舞い降りたファラ・ハンの姿を見つけて。
矢のような速さでディーノの飛竜がシルヴィンの飛竜の横に飛びきた。
「何が起こったのだ!?」
|咎《とが》めるような|剣《けん》|幕《まく》に、シルヴィンは肩をすくめる。
「ゲルゼルに追っかけられてる子を助けるんですって」
「なんだと!?」
それはディーノにとっても、あまりにも他愛ないこと。
|狙《ねら》われ、追い払えぬことこそが、|愚《おろ》かさの|証《あかし》となるようなこと。
だが。
それよりも、無防備にひとならざる姿を|晒《さら》すファラ・ハンの|軽《けい》|率《そつ》さに、むっとした。
毒づきながら、ディーノは素早く飛竜を降下させ、ファラ・ハンの後を追った。
ぐんと|墜《つい》|落《らく》するようにして降下した勢いに乗りそこね、ディーノの肩の上に乗っていた小さな飛竜が振り落とされた。慌てた飛竜は、夢中になって翼を広げる。
幾分かおぼつかない格好で翼を広げる小さな飛竜を、母親であるシルヴィンの飛竜が下から受けとめる形になった。
腕を伸ばしたシルヴィンの手に、小さな飛竜の|尻尾《し っ ぽ》の先がつかまれる。
小さな飛竜は、シルヴィンに助けられ、その腕にしがみついた。
おぞましい格好をした巨大な虫に追いかけられていた娘は。
悲鳴をあげながら、まろぶように駆けていた。
見たこともない|醜《みにく》い虫が、明らかに自分を|獲《え》|物《もの》と見て|狙《ねら》っていることがわかった。
|捕《つか》まえられたら何をされるか。
考えることすら恐ろしい。
背中で虫の足音を聞きながら夢中で足を動かし続ける娘の耳に。
「こっちへ!」
涼しい声が飛びこんだ。
まろい|綺《き》|麗《れい》な響きをもつ、|可《か》|憐《れん》な|声《こわ》|音《ね》。
反射的に娘は声のした方向に顔をあげ、|爪《つま》|先《さき》の向きを変えていた。
行く手を|塞《ふさ》ぐように倒れ伏した巨木の幹の上にいたのは。
白い翼を広げた、長い黒髪に青い|瞳《ひとみ》の、天界の|麗《れい》|人《じん》だった。
光さえ放つ美しさを|目《ま》の当たりにし、はっとする娘に、翼ある|美《び》|姫《き》は声をかける。
「早くこの上に!」
がくがくとうなずきながら娘は、飛びつくように木にしがみついた。
上に登ろうとするのだが、半ば腐り枯れた木は固い靴の爪先に、ぼろぼろと|崩《くず》れ落ちる。
白い翼を持つ|乙女《お と め》ファラ・ハンは。
娘の腕を引っ張って、彼女をその上に引きあげた。
娘の衣服を|刺《とげ》で|貫《つらぬ》き、今にも甘い血潮を|啜《すす》ろうとしていた虫は。
|唐《とう》|突《とつ》に目標物を失った。
うろうろとのたうち捜すゲルゼルは。
わかるわけでもないのに、風の匂いを|嗅《か》ぐような仕草をした。
探られているのだと勘繰り、娘は青くなる。
荒い息を吐いていたが、汗はべったりと冷えていた。
「大丈夫、心配なさらないで」
引きあげた腕を放し、耳元に近い位置でファラ・ハンが|囁《ささや》いた。
香水などというものをまったく必要としない甘く|香《かんば》しい体臭が、娘の|鼻《び》|孔《こう》に届いた。
本物の美しさに愛された者の確固たる姿が、形として存在していた。
ゲルゼルには耳はない。目もなければ鼻もない。
ただ敏感に、地べたの上を動く大きな生き物を感知する。
地に足をつけていないかぎり、しごく簡単に対処できる虫なのだ。
翼で風を切り、空を飛んだファラ・ハンは、そこからわずかに離れた位置に、とんと着地した。
ぴくんと反応したゲルゼルが、首をめぐらせる。
二、三歩、誘うように足を踏んだファラ・ハンの動きに誘われて、後を追った。
地を蹴りながら飛ぶファラ・ハンを、懸命にゲルゼルが追いかける。
確実に追ってきているか振りかえって確認しながら、娘から虫を引き離す。
ファラ・ハンの上を。
長い|竿《さお》のような物が|奔《はし》った。
|閃《ひらめ》いた物にびくんとしたファラ・ハンの目の前に、巨大な黒い影が出現した。
ファラ・ハンの後ろにいたゲルゼルが、おぞましい悲鳴をあげる。
眼前に迫った黒い影は。
|有《う》|無《む》を言わせる暇もなく、ファラ・ハンをさらった。
吹き荒れる暴風のような勢いに|翻《ほん》|弄《ろう》されるままに、ファラ・ハンは|捕《つか》まえられる。
細くくびれた胴をがちりとつかまえたのは。
すべやかな|鋼《はがね》に似た、熱く脈動する血に|潤《うるお》う腕。
孤高でありながら王を名乗ってはばからない男。
「ディーノ?」
きょとんとして、ファラ・ハンは青い|瞳《ひとみ》を見開いた。
ファラ・ハンを追ってきたゲルゼルは、ディーノの投げた枯れ枝の|槍《やり》に|刺《さ》し|貫《つらぬ》かれ、地面に縫い止められている。
傷口から|赤紫《あかむらさき》の体液を飛ばしながら、苦しげにのた打っている。
そのあまりに|無《む》|残《ざん》な|有《あ》り|様《さま》を見て、ファラ・ハンの|頬《ほお》が引きつった。
「なんてひどいことをするの!?」
お|綺《き》|麗《れい》な物言いに、ディーノが目を細める。
「むごいのは俺か? お前はなんなのだ?」
問われて。
ファラ・ハンは、ぐっと言葉に詰まった。
木の枝で刺し殺すことを選んだのは、ディーノ。
ファラ・ハンは。
|獲《え》|物《もの》となるものを与えずにいた。
遠回しに、死へと導いた。
結果として変わりない。
するりと力なく、翼が|乙女《お と め》の背中にしまいこまれた。
言葉をなくし顔をうつむけたファラ・ハンを、ディーノは自分の前に押しあげた。
|飛竜《ひりゅう》を扱いやすいように、|手《た》|綱《づな》を握りなおす。
領主の|館《やかた》の方向に戻ろうと飛竜をめぐらせるディーノの目が。
倒壊した枯れ木の上で、命拾いをしたとばかりに肩で息をしている娘の姿を捕らえた。
育ちのよさそうな、世間知らずの娘。
じっとりと全身に|滲《にじ》んだ汗で|蒸《む》され、よれた汚らしい格好で、情けなくうずくまっている。
その姿を見。
ディーノは鼻でせせら笑った。
上空に飛びきた飛竜に、驚いて顔をあげた娘と。
ディーノの目が合った。
娘の|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》。
ディーノの青い瞳。
それらがお互いを、きっぱりと認めあった。
|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の|後《あと》|始《し》|末《まつ》を終え、飛竜を駆って合流しようとやってきたレイムは、シルヴィンから話を聞き、翼を現したファラ・ハンの後を慌てて追った。
ファラ・ハンが救おうとしたのが、神話をすり替えられている領民であったなら、ファラ・ハンはひとを助けたおかげで命を奪われることになる。
理由を知らぬファラ・ハンが、自分の身を守るために戦うことは考えられない。
なぜだかわからないままに、逃げ道を失い、引き裂かれてしまう。
必要なのはファラ・ハンの心臓なのだ。
いくらそれが一人の乙女の手に|委《ゆだ》ねられているとはいえ、ファラ・ハンを見つけたひとびとが、|丁《てい》|寧《ねい》に方法を選んでくれるなどという楽観はできない。
各人の慌てぶりに、わけがわからず、遅れてシルヴィンが|飛竜《ひりゅう》を飛ばせる。
いくらもいかないうちに、ディーノに連れられて戻ってくるファラ・ハンと会った。
無事な姿を目にし、レイムは|安《あん》|堵《ど》の息を吐く。
血相を変えた迎えに、ファラ・ハンはわけがわからず、ぱちぱちと|瞬《まばた》きする。
ディーノが一緒であるのなら、レイムが懸念する必要はない。
か弱く|麗《うるわ》しい姫君を守るには、ディーノはあまりにも好ましい能力と|容《よう》|姿《し》を持っている。
誰も|太刀《た ち》|打《う》ちできないほどに。
レイムは厳しい表情でファラ・ハンを見つめた。
「自分たちと違う形を持つものに、ひとはあまりいい気持ちをもたないものです。そのことをよく覚えておいてください」
軽はずみに翼を広げたファラ・ハンに対する警告。
あまりに愛らしいファラ・ハンに、まさかひとびとの皆が彼女を|魔《ま》の|象徴《しょうちょう》として|排《はい》|斥《せき》するため命を|狙《ねら》っているのだなどと、本当のことを言う|残《ざん》|酷《こく》な気にはなれなかった。
不必要なまでに冷たくなってしまった声は、レイムの胸の内でもやもやと渦巻いている、彼自身まだそれと認めていない感情のためだ。
ただ優れた|容《よう》|姿《し》を持つ武人というだけでなく、ひどくディーノが気にかかる。
行動の重大さを思い知り、ファラ・ハンは|憂《うれ》えて|溜《た》め|息《いき》を洩らす。
「すみません……」
忠告を与えた者のほうが悪いことをしたかと|錯《さっ》|覚《かく》するような|声《こわ》|音《ね》だった。
女々しいなりをしているくせに、言うことはちゃんと言うではないかと、内心感嘆しながら、ディーノがレイムを見つめた。
何もそんな言い方をしなくても、いじめなくてもいいのにと、シルヴィンがレイムを見た。
ファラ・ハンの澄んだ|瞳《ひとみ》の直視に耐えられず、レイムはぷいと横を向く。
捜しださねばならない時の|宝《ほう》|珠《しゅ》は、あと五つ。
聞きなれた|唸《うな》り声を耳にした娘は。
ぎっと目をつり上げ、怒りに満ちた表情で、首をめぐらせた。
岩場を越えて四つんばいで、巨大なものが走り寄る。
猛獣のような瞳をした、ひどく野性的な顔つきの、毛深い若い男だった。
背が異様に高く、ごつい体格をしている。
ぐしゃぐしゃの|黒褐色《こっかっしょく》の髪と黄色い|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》が、異臭を放っている。
四つんばいで来たその男の後ろから。
|魔《ま》|道《どう》|士《し》の衣装をまとった男が、空中を|滑《すべ》るようにしてやってきた。
|袖《そで》|口《ぐち》からのぞく左手は、冷たい|光《こう》|沢《たく》を放つ金属の義手である。
「どこに行っていた!? 遅いぞケセル・オーク!」
娘は。
公女ルージェスは、怒りにまかせ、言葉を|叩《たた》きつける。
ルージェスの乗る木の下で|蛙《かえる》みたいな|格《かっ》|好《こう》で座りこんだ男が、きゅーんと鼻を鳴らし、首をすくめる。
激しい|声《こわ》|音《ね》で名を呼ばれた当事者は。
魔道士ケセル・オークは。
涼しい、何食わぬ仕草で、ルージェスに向かって|恭《うやうや》しく礼をする。
「なにぶんにも成功した獣人は貴重でありますゆえ。魔道による移動をしました後、しばらく様子をみておりました。これも選ばれし戦士たる|美《び》|姫《き》ルージェス様の為を思えばこそ」
とうとうと話し続けようとするケセル・オークを、引きはがした木の皮を投げつけて、ルージェスがさえぎった。
「もうよい! わかった!」
|癇癪《かんしゃく》をおこすルージェスなど|歯《し》|牙《が》にもかけず、落ち着き払って状況を読んだケセル・オークが、ほうと息をつく。
「ひと足遅かったようですな」
あのファラ・ハンたち一行が、すぐ目の前にある|館《やかた》にいるときに出会うには。
白い翼を持つ、|麗《うるわ》しい|乙女《お と め》。
孤高でありながら王を名乗る|不《ふ》|遜《そん》の|蛮《ばん》|族《ぞく》。|華《か》|麗《れい》なる|修《しゅ》|羅《ら》。
|飛竜《ひりゅう》の上にいたそれら二人の姿を思い出し、ルージェスは、ぎりっと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
自尊心をずたずたに引き裂くあの美しさが、あまさず思い出された。
自分を|蔑《さげす》み見たあの若者の青い|瞳《ひとみ》が、まざまざと記憶に|蘇《よみがえ》った。
「おのれ……! 許さぬ……! ファラ・ハン、あの男……!! 必ずやこのわたしの手で引き裂き、目玉をえぐりだしてやる……! 二度と目の前に現れぬよう、心臓を|捻《ひね》りつぶしてくれる……!!」
それこそが。
滅亡しようとしている世界を救わんがため、ルージェスに与えられた使命。
信じて疑わぬもの。
一歩も退かぬ姿勢に。
にいっとケセル・オークが笑った。
うずくまる獣人が、|脅《おび》えるように、真横に立つ|魔《ま》|道《どう》|士《し》を見つめる。
味方の出現に気を大きくしたルージェスは、乱れた髪を直し、木の上から飛び降りた。
獣人の前に進み、その肩の上にどんと腰を下ろす。
肩に乗った重みに、|唸《うな》り|声《ごえ》をあげて、獣人が喜んだ。
「追うぞ!」
ルージェスはケセル・オークに|怒《ど》|鳴《な》った。
「|御《ぎょ》|意《い》に」
ケセル・オークは、ひどくゆっくりとした動作で、|丁《てい》|寧《ねい》に了承の意を示す。
「立て、ウィグ・イー!」
|居《い》|丈《たけ》|高《だか》に命じられ、嬉しそうに獣人が二本足で立ちあがった。
世界救済のためのもう一組の聖戦士の一行も。
準備を整え、行動を開始していた。
[#地から2字上げ]『プラパ・ゼータ4』に続く
あとがき
あとがき
朝起きスズメの|宵《よい》っぱりです。
目覚ましは使ってません。自力で起きます。なーんか時間に|縛《しば》られるのって嫌いなのね。
でも、だからって朝の時間にだらしないってわけじゃないです。
自分で決めた時間に『起きる』んですよ。毎日、ほぼ同じ時間に。たまーに起きられないときがあったりすると、体調悪いなーなんてね。
起きた瞬間から元気なひとだから、わりと時間めいっぱいの有効活用かな。
今のところ目開いて二十分で家を出る、そんな生活してます(専業作家ではないので)。
朝御飯はちゃんと食べましょうねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] 一日のうちでもっとも重要なのが朝御飯。食べないで学校行ったりしてるひと、注意ね。脳ミソが栄養不良になっちゃうんですってさ。
わたし食べるときはかなりしっかり食べたり、まるっきり食べなかったり、わりと極端なこともあるけども、今のところ偉そうに言えるかな。ここんとこ毎日しっかり食べてます。
パンのときもあるけども、朝、御飯食べるときにはお代わりしますH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] 寝過ごしちゃって時間なかったときには、お茶碗に山盛りのっけて、しゃもじで|叩《たた》く。むりやり二杯分のせる。とにかくのせてお代わりする手間ひまを|省《はぶ》く。お昼まえいつもより早くお腹空いたら、「今日は叩き方が甘かったかなー」なんてねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
で。夜更かしもわりと平気。でも朝七時に起きるには、午前三時が臨界点。
土曜日とか、祭日前ならそれでもいいんだけどね。翌日いつでも寝れるし。ふだんでも、ぼーっとしながら本の整理して読みふけってたら、すぐに日付変更線越えてるのよ。
理想としましては、せめて毎日平均して六時間以上は睡眠時間が欲しいものです。
休みとなると、嬉しいのかしら、いつもより朝早くから目が覚めたりするんですよ。夜更かししてても、起きる時間はやっぱり早いわけね。まず、いつもといっしょ。朝寝坊でない。
困ったもんだね。
まるで寝なくても平気みたいな感じだけど、実際そうじゃないし。
不規則が|祟《たた》るとねー、夕方くらいが一番眠くなるのよ。ときどき午後六時とか八時とか、他人様の信じられないような時間に仮眠とって、布団の中で平和に眠ってたりしてます。
ナポレオンや福沢諭吉にゃ、とってもなれないね。
わたしってば、そんなひとです。
年度変わりの時期でありますH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
初版リアルタイムで呼んでくれている方には年度で、今これを書いているわたしには年。四月と一月。少しタイムラグがありますが、きりのよい区切りの季節ということで。
やっぱりこーいうのって、ちょっとばっかし気が引きしまっていいですねーH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] 根性ないしだらしないものだから、こんな時期がないと、本当、だらけっぱなしになってしまうわ。
えー、とにかくも心機一転というやつで、新しい気持ちで顔をあげていきましょH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
で、わたしは年末、|爽《さわ》やかにお話を書こうと思い立ちまして、クリスマス前の日曜日、バラとかすみ草を気前よく買いこみましたH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] 一度自分の為に買ってみたかったのね。一日べったりワープロ打ってられるのは、この年末年始の休みかお盆休みくらいだし。やっぱり真紅のバラとかすみ草のコンビって、ロマンチックじゃないH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]。ところがこれ、扱いが悪かったのか一週間もたなかった。|懲《こ》りないわたしは、|大晦日《おおみそか》にまた買うのよ。ちょっと値段落としたけど。それでも、うーん、こいつ、なーんか元気なくなってきたぞっ! |下手《へ た》なのか|花鋏《はなばさみ》で肉|挾《はさ》んで、薬指の指先に二つも目ン玉みたいに血マメまで作ったのにっ。ふぇ…、|哀《かな》しいっ……。ちくしょー、また明日買いに行くぞーっ! (たぶん値段は落ちる)
まぁね、一日がかりのプリントアウトのあいだは美しき花を|愛《め》でたわけだし、落ちこまないわ。|片《かた》|山《やま》先生の最新刊『ドラゴン・フィスト3』はあったしH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] 正月から余裕なのか忙しいのか。
ようやく出発の第三巻、発行でありますH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
初版の一巻目の帯に『聖戦士たちの世界救済冒険ロマン開幕!!』なーんて書かれておきながら、やっとこさの出発ですよ。やんなっちゃうね、我ながらさ。よくもまぁ、こーぐずぐず引っ張りたおしたもんだよ。初校チェックしながら、頭くらくらしちゃった。あはははH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
自分で書いてんだから、文句言ったってしかたないしねー。わたしがあきらめてるんだから、読んでるひともあきらめてよねってのは、わがまま? ま、世の中、なるよーになるもんです。はい。くれぐれも短気をおこして怒りや抗議の手紙など書かないように。デビュー半年そこらの新人作家は、皆様|温《あたた》かい目でみていただきたいものです。出世払いのツケということにしておいてくださいなH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] そのうちきっといいもの書くよH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] なーんてね。適当なことほざいて本物のサギ師にゃなりたくないな。日々努力は惜しまぬつもり。専業になるまで待っててね、とかなんとか、責められたらやだなーと、逃げ道を探してしまう自分が|不《ふ》|憫《びん》。
書くごとに課題がたまってくような気がして、なんだか大変だわ。げーげー言ってのた打ち回るくらい苦しいのに、それでも書くのが好きH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] これって異常かなー。異常だよなー。
去年は年末近くで調子悪くって立ちくらみ起こして二回も寝こんでしまったりしたので、大きく予定が狂っちまいました。二巻の『あとがき』で大きなこと言いながら、|大晦日《おおみそか》から元旦と必死に書きまくって四巻を書きあげた次第です。本編書きあがってないのに、外伝のネタ振りをしたりプラン練ってたりする軟弱者です。本編も予定の六巻より少し長くなりそう。
今回は、王都から聖戦士たちの旅立ちと、第一の|宝《ほう》|珠《しゅ》を手に入れるところまで。
世界救済のもうひとつの物語が世界に|流《る》|布《ふ》しているという、ファラ・ハンには危険な|不《ふ》|穏《おん》なものが彼らの前に立ちふさがり、行き着く先を|阻《はば》もうとしています。
運命の公女ルージェスと、|不《ぶ》|気《き》|味《み》な|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|士《し》ケセル・オーク、獣人ウィグ・イーを加え、メイン・キャラクターが全員出そろいました。
舞台はこれ以後王都を離れ、時の宝珠を探して各地に移ります。
最終話でもう一度、王都に舞台が戻ってくるまで、女王やエル・コレンティ老魔道師など、王都の居残りキャラたちはお休みです。
片山先生のイラストがお気に入りのわたしは、バルドザック兄ちゃんやマリエおばちゃんが話のなかにさえ出てこなくなるのは、ひじょーに寂しくって|哀《かな》しいです。仕方ないけど。
そのかわり、と言ってはなんですが。
でっかい顔をしだしたのが、チビの|飛竜《ひりゅう》。
ファラ・ハンやディーノという、出番の多いキャラにくっついているもんだから、出てくる、出てくる。好き放題に騒いで食って寝る。しばらくはマスコットのつもりだったのに、ファラ・ハンたちには、ずいぶんといい待遇を受けて|可《か》|愛《わい》がられ、甘やかされてます。
ただこいつ、わたしが忘れるのよ。作者には無意識に|迫《はく》|害《がい》されてるの。
各章が終わって読みかえしてみると、何かアイテムが足りないのね。よーくチェックするとこいつだった、みたいな。
「おー、まぁた『すえぞう』忘れちまったぃ!」ちっ! |舌《した》を鳴らしたこと数知れず。
|永井護《ながいまもる》先生を教祖と仰ぐ五星教の関係者、信者の方々には大変失礼かと思いますが、このチビ|飛竜《ひりゅう》は、内輪では『すえぞう』と呼ばれております。
飛竜って、どいつも名前つけてなかったのよね。いまさら言っても遅いけど。
読者から名前募集するとかいう手もあったなー、読者参加っていうのも楽でいいよなー。ま、それはまた別のお話、別の機会にまわしましょ。その時にはどうぞご協力よろしくH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
さて、次の四巻目では、もう二つ、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を手に入れます。冒頭から、やっぱり一騒動おこさずにはいられないのが、ディーノ。聖戦士たることを承諾する条件に、ファラ・ハンを要求します。ルージェスの一行も次の場所に向かった彼らに追いついてきて、ファラ・ハンが|狙《ねら》われ、ディーノやシルヴィンが悲惨な目にあう……。そーいう感じで終わっております。
最後になってしまいましたけれども。
この作品を出版してくださいました、講談社様。
毎度毎度手を変え、バリエーション豊富な|厄《やっ》|介《かい》|事《ごと》を押しつけております担当の小林様。ビギナーにはありがちなことですH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] とりあえず大目にみてください(いつまで続くやら)。
偉大なる印刷屋さんと|校《こう》|閲《えつ》の皆様。
今回も|素《す》|敵《てき》なイラストを描いてくださった|片山愁《かたやましゅう》大先生H[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
そして、読んでくださった方々に。
心から。
ありがとうございます。
素敵な作品たくさん書けるように|頑《がん》|張《ば》るから、見ててねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
一九九二年一月四日 今日が(作家でないほうの)仕事初めだった
[#地から2字上げ]|流《ながれ》 |星《せい》|香《か》
[#ここで字下げ終わり]
本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九二年三月刊)を底本といたしました。
|平《へい》|行《こう》|神《しん》|話《わ》 プラパ・ゼータ3
講談社電子文庫版PC
|流《ながれ》 |星《せい》|香《か》 著
(C) Seika Nagare 1992
二〇〇二年四月一二日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001