講談社電子文庫
天空の魔法陣 プラパ・ゼータ2
[#地から2字上げ]流 星香
目 次
登場人物紹介
第一章 |妖《よう》|宴《えん》
第二章 |慕情《ぼじょう》
第三章 |哀《あい》|惜《せき》
第四章 天地
第五章 旅人
第六章 相違
第七章 |嘆《たん》|願《がん》
第八章 |聖《せい》|露《ろ》
第九章 |導《どう》|光《こう》
あとがき
登場人物紹介
●ファラ・ハン
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世界を滅亡の危機から救うために具現した、伝説の翼ある|乙《おと》|女《め》。透きとおるような白い|肌《はだ》と|漆《しっ》|黒《こく》の髪に|彩《いろど》られた|麗《うるわ》しく愛らしいその姿形には、誰もが|見《み》|惚《ほ》れずにはいられない輝きがある。はかなく優しげなイメージだが、正義感が強く自己犠牲も|厭《いと》わない大胆な性格をあわせ持つ。|邪《じゃ》|悪《あく》な力により記憶を失っていたため、使命|全《まっと》うには相当な困難が予想されるが……。
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●ディーノ
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|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》と呼ばれ、人々から恐れられている、華麗で凶悪な|蛮《ばん》|族《ぞく》。彫像のような素晴らしい|体《たい》|躯《く》を持つ。自己中心的で、自分の欲求――破壊行為と|略奪《りゃくだつ》――のおもむくままに生きる男である。|牢《ろう》|獄《ごく》に|幽《ゆう》|閉《へい》されていたが、邪悪な|黒《くろ》|魔《ま》|道《どう》|師《し》バリル・キハノによって解放。ファラ・ハンの身を|脅《おびや》かす存在になるかと見えた。しかし意外にも、乙女を護る“勇者ラオウ”に選出される。
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●レイム
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歌と|竪《たて》|琴《ごと》、そして武術に|長《た》けた心優しき若者。“魔道士スティーブ”に選ばれる。
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●シルヴィン
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“|竜《りゅう》使いドラウド”に選出された、竜使い一族の娘。短剣を巧みに|操《あやつ》る男勝り。
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●トーラス・スカーレン
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気品と威厳を兼ね備えた麗しの女王。夫を持たず、ただ一人で世界を|統《とう》|率《そつ》する。
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●エル・コレンティ
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世界を代表する偉大な魔道師。乙女|招喚《しょうかん》の|祭司長《さいしちょう》を務める。女王の心強き片腕。
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●バリル・キハノ
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|闇《やみ》と盟約を結ぶ黒魔道師。エル・コレンティによって塔に幽閉されているが……。
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●バルドザック
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女王の|近《この》|衛《え》|騎《き》|士《し》|団《だん》隊長。トーラス・スカーレンに|報《むく》われぬ愛を注ぐ実直な男。
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●マリエ
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女王の|乳母《う ば》で、王都の|女官頭《にょかんがしら》を務める宮廷白魔道士。|肝《きも》っ|玉《たま》母さん的な女傑。
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●ミルフェ
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以前レイムが|仕《つか》えていた領主の|美《び》|姫《き》。身分違いながらも、レイムに恋をする。
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勢い持つ星に|芒《ぼう》あり。
芒により、星それぞれに格を有す。
芒『五』なる星は「力」を示す。
天を一つの芒にて指し示す正なる形に記されているものは、すなわち|聖《きよ》きもの。
天を二つの芒にて指し示す異なる形に記されているものは、すなわち|邪《よこしま》なるもの。
|聖《せい》|邪《じゃ》重ね合わされた|五《ご》|芒《ぼう》|星《せい》は、時空をも超える「絶対」の力を|導《みちび》く|印《しるし》なり。
芒『六』なる星は「場」を示す。
六か所にて重なり六か所にて触れあう、傾きと長さを同じくする六つの辺の星。
角を持ちながら円に近しく天地を持たず。もっとも安定し、完結した形なり。
六芒星の内にあるものは、これ容易に|封《ふう》じることができる。
芒『七』なる星は「永遠」を示す。
果てしなきこと、ひとの|忘却《ぼうきゃく》を|促《うなが》す。
七芒星の内なる時は封じられ|干渉《かんしょう》を|厭《いと》うものなり。
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〈初級|魔《ま》|道《どう》入門書 星使いホルムス・メイムの項より |抜《ばっ》|粋《すい》〉
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第一章 |妖《よう》|宴《えん》
風が|凍《こお》っていた。
ゼルダは氷の|息《い》|吹《ぶき》を含むそれに、ぎゅっと目を閉じ首をすくめた。
|襟《えり》ぐりから侵入する冷気を|拒《こば》むように、胸元を押さえた手で強く毛皮の|外《がい》|套《とう》を握りしめる。
腐食し|脆《もろ》くなった岩から|剥《はく》|離《り》した砂粒が風に乗り、ばらばらとあたりに舞いおちた。
歩き続けてきた長いあいだ風になぶられて、全身砂だらけだ。|埃《ほこり》を|被《かぶ》って輝きを失った赤い髪を、ゼルダは襟足に手を入れて乱暴に|捌《さば》いた。背まで掛かる|癖《くせ》の少ない長い髪のあいだから、ざらざらした石の|砕《さい》|片《へん》が振りおちた。
いまいましげに目を細め|唇《くちびる》を|噛《か》んで、ぐるりと見渡したところで、人影はない。
いったいどこまで行ったのか。
ほんの一足先に家を出た弟は、小一時間も捜しても見つからない。
|薬《やく》|草《そう》の茂みを|巡《めぐ》った真新しい|跡《あと》|形《がた》だけが、点々と続いている。
|溜《た》め|息《いき》をつき、ゼルダは再び風のあいだを縫うように岩場を選びながら、急ぎ足で前進した。
弟の知っている薬草の茂みは、もうあと残り少ない。
悪くても、じきに会えるはずだ。
それ以上進むほどの勇気を、おそらく少年は持っていないだろう。
駆け戻ってくる小さな彼と、|鉢《はち》|合《あ》わせするかもしれない。
今にも泣き出しそうな心細い顔で、すがりついてくるかもしれない。
いや、ひょっとすると最終地点で、そこから動くこともできず立ちつくしているのかもしれない。
一人では引き返すことができないのかもしれない。
弟の身を心配し、ゼルダはうら若い|乙《おと》|女《め》でありながら、ただ一人|勇《ゆう》|敢《かん》に『生者禁断の地』の方向を目指して進んだ。
ここは、辺境にほど近い東。
深く|萌《も》えた美しい森と険しい岩場、岩を割って染みだした地下よりこんこんと|湧《わ》きでる泉の清水に恵まれていた狩猟の里だ。
森の中、高原地帯の中心に領主の城があり、それをぐるりと囲むようにして村がある。
森に茂るルナスの木の葉の深緑と幹の|象《ぞう》|牙《げ》|色《いろ》、溶岩質の岩の黒色、火山灰質の黒い土壌。
高原といっても草に|覆《おお》われたそれではない、|剥《む》きだしの土の落ちつき沈んだ色の場所だ。
そして、色の少ない地味さを補うように、村には明るい派手な屋根を持つ家並みが続く。
森の色彩に慣れた旅人が|唖《あ》|然《ぜん》とするような鮮やかな色彩が、ここの特徴ともなっている。
派手な色の衣服は目立つ。目立つから、動物たちはしぜんと村人を避ける。
狩猟をする者以外は、目立つことによって|己《おのれ》の身の安全を確保している。
動物が食物をふんだんに採取することのできる、豊かな森あってこその方法だ。
それでも中には恐れ知らずの|獣《けもの》たちもいる。手負いになり見境なくひとを襲う獣もいる。それらの来襲に油断なく構えるため、夜中でも村はこうこうたる|篝火《かがりび》を絶やさない。
野生の動物の雄々しい生命力に支えられた良質の狩り場を持つ、タルソデス|男爵領《だんしゃくりょう》。
村のあちこちにある|煉《れん》|瓦《が》造りの小屋からは|燻《くん》|製《せい》の煙が立ちのぼり、詰め物をされた腸が|竿《さお》に|吊《つ》るされて揺れている。つやつやと|光《こう》|沢《たく》を放つ柔らかな毛皮が、|陽《ひ》を受けてふっくらと気持ちよく乾いている。型押しされた立派な皮革が加工されている。
命から命へ、着実な生の受け渡しによって支えられていた|街《まち》。
しかしそれは。
あまりに自然の|営《いとな》みに近すぎたゆえに。
世界|崩《ほう》|壊《かい》の日を前にして容易に|均《きん》|衡《こう》を|崩《くず》した。
病み|荒《すさ》んだ大地に対し、野生の生命はあっけなく前途を断った。
|湧《わ》き出ていた水が腐り、毒素を含むそれを体内に取り入れた魚や水鳥が死んだ。
立ち枯れた木々、植物を|餌《えさ》としていた小鳥や小動物が死んだ。
そして、それらを|捕《ほ》|獲《かく》していた大形の動物たちも死んだ。
かろうじて生き残った|肉食獣《にくしょくじゅう》たちは、|飢《う》え|渇《かつ》えて村におり見境なくひとや家畜を襲った。
物悲しい|獣《けもの》の|遠《とお》|吠《ぼ》えが不安なひとびとの胸を騒がせ、眠れぬ長い夜に延々と響いた。
村の|辻《つじ》を駆け回る獣たちの足音が、|脅《おび》え|戦《おのの》く家畜たちの物音が、|鋭《えい》|敏《びん》になりがちな耳に届き、安らかなまどろみを妨げた。
誰もが急激な変化に気づいたときには、もう手遅れの状態だった。
訴えに耳を貸した領主は、|為《な》す|術《すべ》もなく手をこまねいた。
神秘を用いて事態を究明しようにも、|占《うらな》いはまったく役にたたず、未来見の鏡すらあっけなく|粉《ふん》|砕《さい》した。
神託を得ようとした神殿では、すべての神像が血の涙を流す|惨《さん》|憺《たん》たる有り様に終わった。
明日に対する絶望だけが残った。
なんの方法も講じられぬまま|窮地《きゅうち》に|陥《おちい》った彼らを救援するため、王都から|魔《ま》|道《どう》|士《し》が訪れた。
王都から各地に派遣された魔道士たちは、世界救済の望みをかけて聖地で伝説の救世主の|招喚《しょうかん》の儀式を行っていることを告げた。
|諦《あきら》め絶望することなく、ともにこの混迷の時代を耐えようと激励して回った。
そうして魔道士は清らかな水と火を神秘の力で作りだし、各家庭に配った。
開放された王都の食物倉から、領主のもとに大量の小麦なども分け与えられた。
精肉し出荷を目前にしていた|燻《くん》|製《せい》などの加工肉があったおかげで、当面の食料はなんとか無理なく問題を解決した。
奇跡的に生き残った、ここにしかいない野生種の動植物たちが、強制的に領主の|館《やかた》に集められ、|種《しゅ》を保存するため魔道によって『眠ら』され|封《ふう》|印《いん》された。一体一体が館の|地下廟《ちかびょう》に、死体のように箱に納められ安置された。
世界が滅亡の危機を脱し、もとの平穏さを取り戻し生きていけるようになる、その日まで。
魔道士の力によって自分たちの生活領域を出ることなく、なんとか水と|餌《えさ》を得た動物たちは、細々と命を|繋《つな》いだ。
不本意であれ民家を襲う動物たちは、魔道士によって|捕《ほ》|獲《かく》され、『眠ら』された。
そしてまた。
体力的に劣る者、不安に|戦《おのの》く心を静められぬ者が、自ら進んで『眠り』たいと申しでた。
|余《よ》|命《めい》|幾《いく》|許《ばく》もないが、すぐに死を迎えることもできない老人が食糧を若者たちに分け与えるため、魔道士のもとを訪れて『眠った』。
突然の日常の変化に驚き、乳の出なくなってしまった若い母が、彼女の心を反映し火がついたように泣きじゃくる|乳《ち》|飲《の》み|子《ご》とともに『眠った』。
いつ目覚めるかのあてはなくとも、それはけっして『死』ではない。
心細さや不安を感じたり|脅《おび》えながら生きるよりもと、|潔《いさぎよ》い判断を下す者が相次いだ。
この|苛《か》|酷《こく》な時代に自分の存在の不適格さを感じる者が、自分のため他人のことを思いやり、『眠り』についた。
里は、『眠り』につくひとを横たえるための丈夫な箱を作ることに明け暮れた。
数か月の後には。
村を守る力と、この土地の歴史や郷土を継承していく者たちだけが残った。
ゼルダの家も。
村で暮らす代々続いた|猟師《りょうし》の家である。
両親と祖父母、そして彼女と弟の六人家族だった。
年老いた祖父母は彼女らに自分たちの食糧を与えるため、いつ目覚めるかもしれない、いや目覚める日が来るのかさえわからない『眠り』を進んで申しでた。
もともと体の弱かった母も、心労が|祟《たた》って倒れることが多くなり『眠った』。
そして。
|唯《ゆい》|一《いつ》の頼みとしていた父が、三日前の深夜、家を襲撃してきた|獣《けもの》によって|大《おお》|怪《け》|我《が》を負った。
|鋭《するど》い|爪《つめ》と|牙《きば》によって引き裂かれ、|喰《く》らわれるところだった。
地下の隠し小部屋に押しこまれ、|暗《くら》|闇《やみ》で震えながら物音に耳をそばだてていたゼルダと弟の上に、|床《ゆか》|板《いた》のあいだから|滴《したた》った父親の血が、ぼたぼたと降り注いだ。
すんでのところで駆けつけた魔道士によって獣は捕らえられ、その場で『眠ら』されたが、生きていたことすら奇跡に近かった父の怪我までは|完《かん》|治《ち》できなかった。
動かせぬ状態のまま、魔道士は不思議の術を|操《あやつ》って応急処置を|施《ほどこ》した。
そうして、ゼルダたちを地下の小部屋から出してくれた。
不安がることや心細い思いをすることはないと、幼い弟を抱きしめるゼルダを激励した。
元どおりになるよう手を尽くすので準備を整えて出直してくると言いおいて、魔道士は一度、領主の|館《やかた》に帰った。
父の体、肩から腹へ、ほとんど真っ二つに引き裂かれた傷跡は、魔道によって表面を|塞《ふさ》がれてもなお、|肌《はだ》に生々しい|痕《こん》|跡《せき》となって目を刺激した。
即死していても不思議はない、壮絶な姿だったのに違いない。
だから、地下の小部屋に押しこめられ、どうなっているのかと暗がりで抱きあって震えている子供たちの存在を|研《と》ぎ|澄《す》ました不思議の力で感知しながらも、魔道士は二人を出してやることができなかったに違いない。
二人の子供を残しているという|執念《しゅうねん》が、父の命を繋いだのだ。
野生の動物にもひけをとらない、激しく荒々しい父だった。
優しく|雄《お》|々《お》しい男性だった。
小さい頃よくおぶさった広い背中と太い腕、大きな手が、ゼルダの記憶する父の|温《ぬく》もりだ。
見上げるばかりに大きく、どんなときにも岩のように、どっしりと揺るぎなく構えていたひとだった。
死人のように顔を土色にし、身をさいなむ激痛をこらえている父を見るのは、足ががくがくと震えるほど|辛《つら》かった。
意識を失っていながらも父は|呻《うめ》き声の一つも口から|洩《も》らさず、ただ血の|滲《にじ》むほど強く|唇《くちびる》を|噛《か》んで耐えた。
|怪《け》|我《が》のせいで高熱を発し、|粘《ねば》い汗に濡れそぼる痛々しい父に寄り添うのは、たまらなかった。
守り抜こうとした子供たちを、怪我をした自分につききりにさせ、食事も満足に取らせず眠らせず、身を守るための家の戸締まりすら|疎《おろそ》かになっていることを知ったら、父はどう思うのだろう。
あのとき、ひと思いに死んでいたほうがよかったと思うかもしれない。
自分に厳しく、ひとのことを細かく|気《き》|遣《づか》うひとであったから。
無我夢中で日が過ぎた。
そうして|今《け》|朝《さ》早く、約束どおり再び魔道士は訪れた。
しかし。
完全|治《ち》|瘉《ゆ》に必要な道具が足りないという、残念な報告を持って。
世界が救済され元どおりに|復《ふっ》|興《こう》されれば、|造《ぞう》|作《さ》もなくその奇跡は成し遂げられる。
だから今しばらく『眠って』待ってもらえないだろうかと誘った。
『眠って』いれば、死ぬことはない。
このままの状態では、そんなに長くは持たない。
ゼルダたちは、この誘いを承諾するしかなかった。
本格的なそれに入る前に準備状態を作る簡単な『眠り』の|呪《じゅ》|文《もん》を与えられた父は、それまでの苦痛にひき|歪《ゆが》んだ表情を|和《やわ》らげ、静かに安らぎ笑みさえ浮かべた穏やかな顔で、ひっそりと息を止めた。
|拭《ぬぐ》っても拭っても|珠《たま》を結んだ汗は、|滲《にじ》むのを止めた。発熱のせいで炎のように熱くほてっていた体は、氷のように冷えた。
硬く滑らかな石の彫像のように、がちがちに硬直した。
|魔《ま》|道《どう》を|促《うなが》す、ただ一株の|薬《やく》|草《そう》が手に入らなかったために。
命を腐敗させる病み腐り|汚《お》|濁《だく》した土の上には、かつてどこにでも生えていた、ありふれた薬草の姿など、とうの昔になくなっていた。
絶滅した植物の中、真っ先に枯れたのはそういう有益な薬草の|類《たぐい》だった。
どう|頑《がん》|張《ば》ったところで、土から抜き取られない、根を空気に|晒《さら》していない新鮮な薬草など、どこにもなかった。
薬箱や薬菜館にある物では|駄《だ》|目《め》なのだ。
魔道は、ごく細かな規約に見合ってこそ求める不思議を具現する。ごまかしや間に合わせはいっさい通用しない。運悪く|呪《じゅ》がこじれると、とんでもない悲劇を生んだり、恐ろしい黒魔術と化したりすることもある。
魔道士は父の体に見合う大きさの眠り箱を持って、明日来ると言って家から去った。
ゼルダたち二人は領主の|館《やかた》に移るため、荷物をまとめておくようにと命じられた。
そして弟は。
薬草を求めるため家を飛びだした。
魔道士が探して駄目だったものを、十歳にも満たない子供が見つけられるはずもないのに。
|臆病《おくびょう》なくせになんでも自分でやってみて確かめなければ気がすまない、|強情《ごうじょう》な子供だった。
行き当たりばったりでなく、|大《おお》|雑《ざっ》|把《ぱ》に見えても父のように|繊《せん》|細《さい》な|気《き》|配《くば》りができるようになったのなら、不可能と見える中にある一条の希望を、夢から現実に変えられるだろうと思う。
頼もしい、いい若者となるだろう。
けれど今は。
父親譲りの粘り強さは、かえって危険に身を置く結果となる。
もしも|飢《う》えた|獣《けもの》に襲われたなら格好の|餌《え》|食《じき》になる。
抵抗するにも、弟には力も技も経験も何もない。
結果は見えている。
そこまでしなければならない理由は、どこにもない。
そうして救ったところで父は喜ばない。
ゼルダは、弟を追った。
『生者禁断の地』は、死を選ぶ者だけが訪れる場所だ。
辺境や|田舎《い な か》の土地柄には古くから慣習として、このような|忌《い》みし場所がある。
|流行病《はやりやまい》に|冒《おか》された者、またその流行病で動物が死んでしまい思うように狩猟ができなかった年には口減らしのため老人が、自分の意思で訪れる。育てきる見こみのない、間引かれた子供や赤ん坊が置き去りにされることもある。
逃げぬよう、逃げられる方法のあることに未練を残さぬよう、足を傷つける。わざと歩けなくして、ここに留まり、死を迎えると聞く。
|大人《お と な》の背より深い、ちょっとした|窪《くぼ》|地《ち》になっているそこは、腕だけでよじ登り越えることができないよう、内側にむけて|顎《あご》のように張り出した岩壁に周囲をぐるりと囲まれている。
岩間から染みだした毒素を含む無臭のガスで、たいして時間もかけずに死ぬことができる。
ガスに|冒《おか》された肉体は、数日のうちに溶け|崩《くず》れてなくなる。
骨だけが、そこに誰かがいたことを物語る。
風の強い日にはそこに散らばる無数の白骨が転がり、かろんかろんと乾いた音をたてて鳴る。
転がりぶつかって|粉《こな》|々《ごな》に|砕《くだ》けながら、うら寂しくかろんかろんと鳴る。
しょぼしょぼと雨の降る日には、濡れて泣いていた赤ん坊の声が聞こえるという。
死んだはずの女が歌っているのを聞いたという。
そぼ降る雨音に、|恨《うら》みごとや死に行く|口《く》|惜《や》しさをつぶやく|微《かす》かな声が混じるのだという。
月のない夜、青白く輝き群れ遊ぶ無数の鬼火が見えるという。
鬼火に送られて白骨の馬に乗り、ここから死神がやってくるのだという。
何も見ないように目を|逸《そ》らせ。
聞かないように耳を|塞《ふさ》げ。
ここで見聞きしたすべてを忘れよ。
影を自分の後ろに回してはいけない。
死者や死神が命ある者の影を踏む。
影から『死』に捕まってしまう。
影に死が染みこむ。
影に死神が|紛《まぎ》れこむ。
まことしやかに様々なことが言われている。
生者禁断の地の|噂《うわさ》は、怖いもの好きの連中には格好の話題である。
里の中で、明るく|温《あたた》かい場所に身を置いて家族や友達に囲まれ、怖いもの見たさの|好《こう》|奇《き》|心《しん》で話を聞いているときには、かなり楽しめる怪談だ。
数学や科学をほんの少しでも学ぶ知性ある者たちからすれば、気のせいだとか迷信だと簡単に笑い飛ばせることも多い。それらすべてを信じるのは、くだらないと思う。
だが、いざそこに出向いてみると、迷信も何もかも認めずにはいられない。
理屈で割りきれない一種独特の|陰《いん》|鬱《うつ》な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を、否定することはできない。
感じるそれを、気のせいだと言いきることはできない。
ゼルダが以前そこの|側《そば》まで来たときは、父たち|猟師《りょうし》仲間の男たちにくっついての|狩猟《しゅりょう》の途中だった。
大勢の頼もしい|大人《お と な》の男たちに囲まれていた。
何が起こっても絶対に守ってもらえる、これ以上の保証はない者たちの側にいた。
しかしそれでも、ゼルダは父の腕にしがみつかなければ動けなかった。
固く目を閉じ|逞《たくま》しい腕に引っぱられ、まろぶようにして立ちさった。
今の弟と似たような|歳《とし》ではあったが。
条件は、全然違う。
歳を|経《へ》たから大丈夫、怖くないなどとは口が裂けても言えなかったが、ゼルダがためらっている暇はない。
祖父母と母、そして父が『眠って』しまった今、弟を守るのは姉であるゼルダしかいない。
助けてもらいに、ひとを呼びに行っているような余裕はない。
|頑《がん》|張《ば》って急げば、もうじき生者禁断の地に着く前に弟と会うことができるはずだ。
たとえ弟が生者禁断の地を目の前に|脅《おび》えて足をすくませていたとしても、彼がそこに足を踏み入れていることはない。連れて帰るそれだけのことが、ゼルダにできないはずはない。
|自《みずか》らを|叱《しっ》|咤《た》|激《げき》|励《れい》し、ゼルダは|凍《こご》える手を握りしめ、白い息をきらせながら先を急いだ。
森や泉を失い、見る影もなく寂れはてた狩り場は、ゼルダの記憶を|曖《あい》|昧《まい》にし、|戸《と》|惑《まど》わせた。
道を|間《ま》|違《ちが》えたかと思わせるような場所がいくつもあった。
いぶかしみながら見当で足を向けた先、|薬《やく》|草《そう》の茂みがあったかと思われた場所は、もちろんそこもかつての|面《おも》|影《かげ》など|微《み》|塵《じん》も残っていなかったが、彼女と同じように調べた真新しい跡が、ついいましがたの来訪者の存在を知らしめていた。
弟もゼルダと同じように、ためらいながら、そこがその場所であったのか確認して回っている。
その|度《たび》|毎《ごと》に奮起しながらゼルダは弟を追う。
ひくにひけなくなった少年が意地になっている様子が、乱暴な|痕《こん》|跡《せき》から手に取るようにわかった。
やっきになるからなおのこと、少年の足は速くなっている。
きかん気の強さで突っ走れるのも、|意《い》|気《く》|地《じ》なしの本性が現れるまでの話だ。
夜中に一人で小便のひとつもできないような弱虫が、生者禁断の地の見えるようなところまで行けるはずもない。
ふと岩場が途切れ。
広い谷間らしき場所に出た。
見通しのいいそこに。
ぽつんと。
|跪《ひざまず》いた、小さな人影があった。
ようやく発見した捜し人に、ほうとゼルダの|頬《ほお》が|緩《ゆる》む。
|凍《こご》えた風にふき|晒《さら》され、|埃《ほこり》にまみれて乾燥していた厳しい顔に、ようやくゆとりが生まれた。
「ケイン!」
ゼルダは大声で弟の名を呼び、岩越えでくたくたになっていた足で駆けだした。
|閑《かん》|散《さん》とした谷間に響いたゼルダの声は|間《ま》|違《ちが》いなく耳に届いているはずなのに、人影はぴくりとも反応しない。
岩場というよりも、もとはちょっとした草原か何かだったような小高いなだらかなそこにゼルダは駆けあがる。
だんだんに間近くなる人影は。
たしかに、見覚えのある少年だった。
座りこむかのように|両膝《りょうひざ》を地につけ腰を浮かせた格好で、肩を落としうつむいている。
遠目でもわかる横顔には、|惚《ほう》けたような表情が浮かんでいる。
よほど失望したとでもいうのか。
半ば脱力した弟の姿に胸を痛め、ゼルダは|唇《くちびる》を|噛《か》んで困ったように|眉《まゆ》をしかめた。
こうなることは初めからわかっていたはずなのだ。
小さな男の子がどんなに努力をしてみたところで、厳しい修行を積んできた正式な資格を持つ高級|魔《ま》|道《どう》|士《し》にかなうわけがない。魔道士が数日がかりで丹念に捜し求めて見つからなかったものを発見できようはずがない。
|薬《やく》|草《そう》が見つからなかったといって、父が死んでしまうわけではないのだ。
ほんのしばらくのあいだ、『眠って』いるだけなのだ。
自分たち二人も保護者が『眠って』いる里の他の子供たちと同じように、家を出て領主の|館《やかた》で世話になるだけなのだ。
皆が|親《しん》|身《み》になって面倒をみてくれる。力を合わせて生きていける。
何も不安がる必要はないはずだ。
|溜《た》め|息《いき》をつき、ゼルダは放心状態の弟を引きずって帰ろうと近づいた。
「ケイン、立って。ほら、帰るわよ」
|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に手を差し出し、歩み寄ったゼルダは。
そこの光景が、彼女のまったく見知らぬものであることに気づいた。
|薬《やく》|草《そう》の茂みではない。
森がなくなって周囲の様子はずいぶん様変わりしていたが、こんな感じの谷間に分け入ったことはない。
|猟師《りょうし》の娘、将来有望な弓の名手として父から楽しみにされているゼルダは、幼い頃から男の子なみに猟への同行を許されている。
狩り場なら知らない場所がないほどに、あちこち細かく足を踏み入れている。
ゼルダは目を細めて、|睨《にら》むように周囲を見回した。
記憶を|隅《すみ》までまさぐった。
谷の、あの少しばかり向こうに見える岩壁は、違う方向からなら見たことがある気がする。
そうだ。方向を違えてなら|垣《かい》|間《ま》見たことがある。
どうして。
ここから見た記憶がないのか。
ここに来たことが、ないのか。
思い当たる一つの|事《こと》|柄《がら》に、はっとゼルダは大きく目を見開いた。
その瞬間。
ぞっと背筋を|悪《お》|寒《かん》が走った。
彼女の本能が敏感に迫り来る危険を察知した。
「ケイン!」
行動を|促《うなが》すよう悲鳴のような大声でゼルダは弟を呼んだ。
少年は|跪《ひざまず》いたその格好のまま、ぴくりとも動かなかった。
|怖《おぞ》|気《け》に|膝《ひざ》をわななかせながら、ゼルダは|焦《じ》れて弟の腕を|掴《つか》んで引っぱった。
ぐいと力|任《まか》せに引いた腕が。
ずるりと。
引きぬけた。
ゼルダに手首を掴まれ肩口からちぎれた腕が、神経と筋肉の筋を引きながら、ぶちぶちと音をたてる。
|湯《ゆ》|気《げ》をあげ噴水のように勢いよく、鮮血が地面に降りしだいた。
ゼルダは声も出せず、|驚愕《きょうがく》したまま弟を見つめる。
(やれ、ようやく)
(待った)
(待った)
足元から、音のない声が響いた。
(|護《ご》|符《ふ》など彫りつけておるから)
(手が出せぬところだった)
(血の|導《みちび》きあらば)
(内側から|喰《く》らえる)
けくけくと。
|愉《ゆ》|悦《えつ》に|歪《ゆが》む|囁《ささや》きが|幾《いく》つも重なり合いながら、足元へ波のように押しよせてきた。
正面に見る、うつむけた少年の顔。
|虚《うつ》ろに見開かれた両目から。
はらはらと涙が落ちた。
(姉さん)
(姉さん)
(ごめんね)
(ごめんね)
(僕が)
(勝手に家を飛び出てきたばっかりに)
動きを|縛《しば》られ、指先一つ|瞬《まばた》き一つ自由にならない少年の|嘆《なげ》きが、ゼルダの心に|掴《つか》んだままの小さな手首から、染みこむように伝わった。
身動きままならないだけで。
少年は、ゼルダがここにやってくることを知っていた。
動かぬ視界の|端《はし》で姿を捕らえ、呼びかける声を聞いていた。
わかっていて、何もすることができなかった。
痛みも苦しみもなかった。
ただ後悔の念で、いっぱいだった。
祈るように切なく、姉が自分を追って捜しに来ないことを願った。
|入《い》れ|墨《ずみ》をして常に加護されている男のケインと違い、女のゼルダが|慌《あわ》てて|護《ご》|符《ふ》も持たずにやってこないことを、信じた。
しかし。
それらの期待は。
見事に裏切られていた。
ゼルダはケインの後を追い、しかも急いだせいで護符すら置き忘れて家を出ていた。
生命の|神《しん》|秘《ぴ》に|溢《あふ》れ、ところどころで|瘴気《しょうき》が|吹《ふ》き|溜《だ》まりをなすことのある狩り場。
普段の彼女であったなら、父から厳しく|躾《しつけ》られていた基本的な|事《こと》|柄《がら》を失念するはずはなかったのだが、|臆病者《おくびょうもの》である弟の後を追うという考え方が|迂《う》|闊《かつ》さを|導《みちび》いた。危険な|妖《あや》しい場所に、よもや少年が向かうはずがないだろうという推量が判断を甘くした。
彼女の足と少年の足の速さとを比べれば、もっと早くに追いついてしかるべきだったのだ。
それなのに追いつくことができなかったということは。
なんらかの外部因子の介入があったからに違いない。
その外部因子とは。
『|魔《ま》』である。
ただ一人|薬《やく》|草《そう》を求めてやってきた少年は、魔に|魅《み》|入《い》られたのだ。
そうと知らぬままに導かれ、足を運んでいったのだ。
この『生者禁断の地』へ。
勢いよく散りしぶいた血。
とろりとした血溜まりをなすかに見えたそれは。
黒みがかった地表に吸われた。
染みたのではない。
吸われたのだ。
まるで先を争うようにして、地表に吸われた。
ぞわりと。
足元が|蠢《うごめ》いた。
不安定に揺れたそれに、驚いて足場を踏み変えようとしたゼルダは。
地から足を動かすことができなかった。
足元からいつのまにやら、ずるりと土に巻かれ、とりこまれようとしていた。
そろそろと足を伝い、泥に似た|得《え》|体《たい》の知れないものが体を|這《は》いあがってくる。
(女だ)
(女だ)
(若い)
(あやつか?)
(背格好は似ている)
(|喰《く》らおう)
(喰らおう)
(髪の一筋)
(血の|一雫《ひとしずく》が)
(|至上《しじょう》の|甘《かん》|露《ろ》よ)
(喰らわば)
(それがすべて|神《しん》|秘《ぴ》の力となる)
(我らのものとなる)
ごぽりと。
ゼルダとケインのいた場所が、本来あるべき高さにまで落ちくぼんだ。
ぐらりと|傾《かし》いだそれに、|喘《あえ》ぐように腕を泳がせたゼルダは小さな弟の体を抱きよせた。
見えぬ力に|搦《から》められ身動きかなわぬ少年は、涙を流したまま姉の胸に抱きしめられる。
触れれば|他《た》|愛《あい》なく崩壊する少年の|脆《もろ》い体は、抱き|崩《くず》れながら、姉とともに地に落ちた。
ゼルダはなんの|術《すべ》もないまま、それでも懸命に少年を守りたいと思った。
小高く、なだらかな盛り上がりに見えた谷間のそこは。
生者禁断の地、そのものだった。
群れ|集《つど》った|膨《ぼう》|大《だい》な数の『|魔《ま》』が、わだかまりをなし、風景の一つになりすましていた。
もっとも形を得やすい場所、|忌《い》みし場所に、世界滅亡の際、崩壊の|兆《きざ》しと世界じゅうに|溢《あふ》れる|嘆《なげ》きを力として、あちこちで魔が具現しているのだ。
予言書や昔話、童話や|寓《ぐう》|話《わ》の中の存在でしかなかった忌まわしい|闇《やみ》の生き物たちが、現れはじめているのだ。
ここタルソデス|男爵領《だんしゃくりょう》においては、この生者禁断の地が、その|呪《のろ》われた場所としてもっとも|相応《ふ さ わ》しかった。
まだ|凝縮《ぎょうしゅく》しきれぬ力弱い魔が、ひとを喰らって力をつけるため、ここに|淀《よど》んでいたのだ。
|窪《くぼ》|地《ち》を囲んだ周囲の岩壁が、ぐうっと高く伸びあがった。
絶望の表情を浮かべ思わず顔を伏せたゼルダを、黒い泥のようなものが包みこむ。
どろりとした|瘴魔《しょうま》が二人を飲みこんだ。
引き抜けた腕、その傷口から、少年は|魔《ま》に|喰《く》われた。
|聖《せい》|印《いん》のあるのは|肌《はだ》。
その表皮を残して|掻《か》き出すように、肉や骨、|筋《すじ》や内臓が引きずりだされた。
腕の裂け目から、体が裏返った。
ぶちまけられ|肉《にっ》|塊《かい》と化したものに、魔が|群《むら》がり、むさぼり喰った。
(ファラ・ハン)
(ファラ・ハン)
魔が|獲《え》|物《もの》の女に、ゼルダに呼びかけた。
体をまさぐるように、魔が|這《は》いまわる。
(やや)
(や)
(これは)
(翼がない)
(|黄《おう》|金《ごん》|律《りつ》の肉体ではない)
(|漆《しっ》|黒《こく》の髪ではない)
(天界の風を映した、あの美しい、|癖《くせ》のない髪ではない)
(違う)
(違う)
|落《らく》|胆《たん》したように、ぞわぞわと魔が|囁《ささや》きゆれる。
それでも。
ひとを。
喰いたいことに、変わりはない。
形あるものを我がものとしたいことに、変わりはない。
(音を聞く耳が欲しい)
(光を捕らえる目が欲しい)
(物を|掴《つか》む手が欲しい)
(遠くに向かえる足が欲しい)
(肌に風を感じてみたい)
少しでも多く喰うために。
|眼《がん》|窩《か》や口、鼻や耳、毛穴、ありとあらゆる場所から、魔はゼルダの内部に食いこんだ。
|弾《はじ》けるように。
ゼルダの体は、ちぎり取られた。
びちゃびちゃと、臓器の液に濡れた肉片が|喰《く》らわれて音をたてる。
ぱきり、みしりと、|骨《こつ》|髄《ずい》まで|砕《くだ》かれる骨が、きしむ。
音は小さく念入りに続く。
続く。
(|旨《うま》い)
(旨い)
歓喜しながら、幾度も幾度も喰らう。
内に取りこんでなお喰らう。
(ファラ・ハンであれば)
(こんなに、ざらざらしておらぬ)
(もっともっと柔らかい)
(甘く、とろける)
(|芳《かんば》しい)
(もっと旨い)
(もっと力になろうぞ)
(我ら|魔《ま》|族《ぞく》の最高の|獲《え》|物《もの》じゃ)
(喰らえ)
(喰らえ)
(あの|滑《なめ》らかな白い|肌《はだ》に|牙《きば》をたてよ)
(黒の絹糸の髪を引きぬけ)
(空と海の青の|瞳《ひとみ》を、目を|啜《すす》れ)
(血の|一雫《ひとしずく》、肉の一片たりとも大地に|零《こぼ》すな)
(引き裂け)
(喰らえ)
(取りこめ)
伝説の一つに過ぎなかった翼ある|乙《おと》|女《め》。
天界の住人たる清らかな聖女。
|至上《しじょう》の美しさを誇る|黄《おう》|金《ごん》|律《りつ》の肉体を持つ者。
そのひとは。
|招喚《しょうかん》の儀式の成功により呼びだされ、この世界に具現した。
壊滅世界の腐敗する|気《け》|配《はい》に、にわかに力を得、勢力を増してきた|魔《ま》|物《もの》たちは単なる暗がり、|瘴気《しょうき》を含む|闇《やみ》という|希《き》|薄《はく》な存在から、形あるものへと|変《へん》|貌《ぼう》しつつある。
未来に光明を見いだし輝きを取り戻そうとする命も。
未来の崩壊を目指し闇に|葬《ほうむ》り去ろうとするものも。
皆。
伝説の翼ある|乙《おと》|女《め》、救世主ファラ・ハンの存在を歓迎していた。
第二章 |慕情《ぼじょう》
初めて会ったのがいつだったのか。
もう覚えてはいない。
ただ遠い日。
繰り返されてきた日々の中。
いやそれは会ったなどとは、もしかすると言えないのかもしれない。
ただ見ただけだ。
何もなされないままに|瞳《ひとみ》を奪われ、気持ちを|搦《から》め取られてしまっただけだ。
心を捧げてしまっただけだ。
いつからか。
彼は彼女にとって。
かけがえのない存在。
何ものにも代えられない、絶対のもの。
身を|焦《こ》がす|愛《いと》おしさ。
けっして|相《あい》|容《い》れることのないお互いの立場は、優しさや情け、甘やかな愛とは無縁だった。
二人は、二人を含む両者は、長きにあって滅ぼしあっている|憎《にく》むべき|仇敵《きゅうてき》でしかない。
女と男という|逃《のが》れられないものを越えて、なお。
「好きなのか?」
|唐《とう》|突《とつ》に問いかけられた。
彼女は、ぎくりと身をこわ張らせ、ゆっくりと振りかえる。
心の|隅《すみ》まで|貫《つらぬ》くような|鋭《するど》い視線が、彼女をまっすぐに見つめていた。
すべてを見抜いている瞳の中に、振りかえった彼女自身の姿が映っていた。
|曖《あい》|昧《まい》にごまかしきれない厳しさが、冷たく|冴《さ》えた表情を|彩《いろど》っていた。
彼女の胸は、まるで罪深さにさいなまれる|科《とが》|人《にん》が審判を仰ぐように、どきどきと|早《はや》|鐘《がね》を打った。誰かを恋うことが、罪だと恥じているというのか。
笑おうとした。
しかし|頬《ほお》は|緩《ゆる》まなかった。
|微笑《ほ ほ え》もうとするほど泣きたくなった。
取り|繕《つくろ》う|無《む》|駄《だ》な努力をやめ、彼女は目を伏せた。
静かに首を|縦《たて》に振る。
「そうか……」
一つ、|溜《た》め|息《いき》がつかれた。
あえて尋ねられるまでもない、問いではあったが。
けじめはつけられねばならない。
「それで、どうするつもりだ?」
穏やかに、さらに問うた。
彼女は追及を|逃《のが》れることもできず沈んだ瞳を見開いた。
どこまでも|透《す》きとおった|汚《けが》れのない青い瞳は、心に|溢《あふ》れくる|哀《かな》しみに|潤《うる》む。
だが泣けない。
泣いてはいけない。
けなげに|葛《かっ》|藤《とう》する彼女は、|痛《いた》|々《いた》しく見つめられた。
「我々はどこにも行けない。逃れるわけにはいかないのだ」
「わかっています……」
血を吐くように、彼女は声を|洩《も》らした。
|可《か》|憐《れん》な澄んだ|声《こわ》|音《ね》は、|微《かす》かに震えを帯び|掠《かす》れて響いた。
彼女らは、時の輪に|縛《しば》られた絶対の存在。滅してなお続く、永久|螺《ら》|旋《せん》の軌道に生きる命。
巡り合いもまた、どこかで定められていた事項の一つであったのかもしれない。
繰り返し通り過ぎてきた座標の一つであったのかもしれない。
これまでずっとその想いを持ち続けていなかったということは、どこかで恋しさを忘れてしまう、そんな定めを負っているのかもしれない。
ただ今は。
身を引き裂くばかりに狂おしい。
一人だけが|愛《いと》しい。
すべての命を愛することのできる、そんな特別な称号を持つ彼女においてさえ。
恋という理屈で割りきることのできない不可思議な感情の前には、なんの抵抗もできない。
相手に伝えることのできぬ想いと、相手ゆえに|口《こう》|外《がい》できないそれ、仲間への後ろめたさで、彼女の心はぼろぼろにさいなまれている。
ひた隠しにし一人苦しみ抜く心は、あまりにも透明な感情であったがために|透《す》かし見え、目も当てられない。
見ぬふりをしているのも|辛《つら》くなっている頃合いだった。
「我々にはお前が必要だ」
感情を殺し|淡《たん》|々《たん》と言われた。
「はい」
彼女はそれを|肯《こう》|定《てい》した。
「奴らにも、あいつが必要だ」
あいつ。
名を伏せられても。
彼女の体の|芯《しん》を、じんと熱いものが|貫《つらぬ》いた。
思い描いてさえいけない姿を見ぬように、彼女は微かに横を向く。
「はい」
声が震えた。
彼女に背を向け、続ける。
「そして我々には」
ぎゅっと彼女は手を握りしめた。
強く|己《おのれ》の|拳《こぶし》を握ることによって、現実逃避して|遠《とお》|退《の》こうとする意識を|掴《つか》みとめるとでも、するように。
足が細かく震えわななき、立っていることすら|辛《つら》かった。
「|邪《じゃ》|魔《ま》なのだ」
口から|漏《も》れた、その言葉に。
耳を|塞《ふさ》ぐことは。
許されていなかった。
「はい……」
肯定した。
せねばならなかった。
「次の一戦が|雌《し》|雄《ゆう》を決する戦いになる。お前も|率《ひき》いる者の一人として、今までどおり最前線に向かわねばならない。そして。むろん、それにはあいつも参加する。これまでから考えて、最前線に出てくるのは|間《ま》|違《ちが》いなかろう」
振りかえられた。
「戦えるか?」
問われた。
「本気で戦うことができるか?」
戦えねば。
最前線に|赴《おもむ》く資格はない。
率いる者の、また象徴たる者の資格はない。
彼女は。
|眉《まゆ》を寄せ|苦《く》|悶《もん》するように目を伏せた。
そうして顔を向けた。
「戦えます」
|凍《こお》りついた声で答えた。
「あいつとでも?」
|畳《たた》みこみ尋ねられた。
一部の甘さも|許《きょ》|諾《だく》しない険しい視線で彼女を射た。
|挑《いど》むように彼女はうなずいた。
大きな|瞳《ひとみ》を見開いたまま。
|唇《くちびる》だけで|微笑《ほ ほ え》んだ。
「わたくしが」
笑みを浮かべたままの唇で|囁《ささや》いた。
見開いたままの瞳から、ほろりと大粒の涙が|珠《たま》を結んで|零《こぼ》れおちた。
「この手で|葬《ほうむ》りさります」
それが。
彼女が彼女である|証《あかし》。
|率《ひき》いる者としての証。
そして。
彼に対する真実の愛の証。
ほかの誰の手でもない。
彼女が。
手を下すべき|唯《ゆい》|一《いつ》の相手。
そうだ。
もう誰の手にも渡しはしない。
|焦《こ》がれる、激しい想い。
「そうか……」
息が吐かれ、目が伏せられた。
|安《あん》|堵《ど》と|不《ふ》|敏《びん》さがあった。
「うふ」
彼女は笑った。
見開いた瞳から涙を|溢《あふ》れさせながら。
笑った。
このまま気が狂えるものならば。
どんなに幸せであっただろうか。
どうして。恋しいひとの姿は、こうも簡単に捜し出せるものなのだろうか。
大勢の中に埋もれていても、なお。
輝くばかりにして目を奪うのだろう。
背を向けていても。
肩の線、指先だけでも、なぜ見分けられてしまうのだろう。
様々な音の入り乱れる中でさえ、くっきりと耳に届く声。
移動し|瞬《まばた》く|瞳《ひとみ》が、星のように輝き見える。
あの胸に一度でも抱かれることはないのに。
あの指が|微《かす》かにも|肌《はだ》に触れることはないのに。
あの声が自分に語りかけてくることはないのに。
あの瞳に熱っぽく見つめられることはないのに。
胸が痛い。
苦しい。
|切《せつ》ない。
呼吸をすることも瞬くことも|辛《つら》い。
なぜ。
生きていることにさえ耐えられそうにないほど、打ちのめされねばならないのだ?
こんな気持ちにならなければいけないのだ?
意味もなく、いらいらとしなければいけないのだ?
涙が|滲《にじ》むほどに|昂《たか》ぶる感情を持てあまさねばならないのだ?
すべては。
あの男がいたからだ。
あの男さえ、いなければ。
こんなことにはならなかった。
彼女を安ずる優しい心を、自分のために|煩《わずら》わせることもなかった。
あの男さえ、いなくなれば。
きっと。
すべては元どおりになる。
前のあの男のことを知らなかった頃に戻れる。
本当に?
|柳眉《りゅうび》を険しくし踏みだした前に。
彼がいた。
|鬼《き》|神《じん》もかくやという|形相《ぎょうそう》で、彼女の前にいた。
今まで見たこともない恐ろしい顔で。
|厭《いと》い|蔑《べっ》|視《し》する|眼《まな》|差《ざ》しで。
おそらくは。
彼女自身もそのような強い顔で、彼を|睨《にら》みつけているのに違いない。
いなければいいのにと、思っていた。
この世から消しさりたいほど|憎《にく》く、|疎《うと》ましいと思っていた。
でも。
まさか嫌われていようとは、夢にも考えていなかった。
たぎらせていた怒りは、たった一目で、あえなく|崩《くず》れさった。
とめどもない|哀《かな》しみに変わった。
思いもかけず涙が|溢《あふ》れた。
「泣かないで」
「姫様」
「姫様」
「泣かないで」
耳元で幼い|声《こわ》|音《ね》が、|幾《いく》|重《え》にも重なりながら|囁《ささや》いた。
小さく柔らかい、あたたかな湿り気を帯びたものが、|頬《ほお》に触れた。
びくんとして彼女は目を開いた。
眠っていたらしい。
見慣れない|天《てん》|蓋《がい》つきの豪勢な寝台の上に、寝かされていた。
|天井《てんじょう》の様子も調度も、見知らぬ様式に統一されている。
文化が違う。
突然目を開けた彼女に驚いたのか、頬に触れていたあたたかなものが慌てて引っこんだ。
いったい何が、誰が|側《そば》にいるのかと、彼女は、ぼんやりとしながら静かに首を横向ける。
頬を濡らしていたらしい涙の|雫《しずく》が、鼻の上をついと|滑《すべ》って耳の近くに落ちた。
|瑞《みず》|々《みず》しく|潤《うる》んだ深い海の色の|瞳《ひとみ》が、寝台の枕元に集まり寄った小さな四人の子供たちの姿を捕らえる。
泣かないでと、彼女に呼びかけていたのはこの子たちだ。
涙を|拭《ぬぐ》おうと頬に触れたのは、その小さな手の一つだ。
眠りながら泣いていた自分を慰めてくれた優しい子供たちに、彼女はふわりと|微笑《ほ ほ え》んだ。
「ありがとう。もう大丈夫です」
上がけの上に出ていた腕を上げて、そっとその子供の一人の|頬《ほお》に当てる。
ぷくぷくとした|林《りん》|檎《ご》のほっぺたの少女は、しとやかな|佳《か》|人《じん》の手に|愛《あい》|撫《ぶ》され、照れて恥ずかしそうに首をすくめた。肩の線で短く切りそろえた茶色の髪が、ふわふわと揺れる。
「ねぇ、もう起きられますの?」
大丈夫という言葉を聞きつけて、金髪で巻き毛の少年が、おずおずと問いかける。
テラスらしきほうから差しこむ光は、ずいぶんと|陽《ひ》が高くなっていることを示している。
彼女はゆっくり体を動かしてみた。
どこも問題なく動くようだ。特別痛む場所もない。
腕をつき、静かに体を起こす。
子供たちは晴れがましいものでも拝むように、寝台に上半身を起こした彼女を見つめた。
ね、大丈夫でしょうと、にっこりと彼女は微笑む。
とろりと心をとろかすような、甘く|清《すが》|々《すが》しい微笑みだった。
|麗《れい》|人《じん》の微笑みは、どこからともなく|芳《かぐわ》しい花の香りを運んだ。どこにも花などない、この世界滅亡に近い時代。|錯《さっ》|覚《かく》にしかすぎないそれは、そうとわかっていてもなお、うっとりと、|鼻《び》|孔《こう》を|浸《ひた》す。
生命、光。そして彼女の存在が、輝かしさそのものであるとでもいうのか。
部屋じゅうに満ちた光は、確実に増している。すべてのものが明るく、生き生きとそこにある。
胸のつかえも、|得《え》|体《たい》の知れない不安に|戦《おのの》いていた心も、光を前にし影をひそめた。
あとに残ったのは、うきうきと軽く楽しいもの。
彼女が確かにここにいるのだという、|安《あん》|堵《ど》|感《かん》。
きゃあと歓声を上げて子供たちは笑いさざめいた。
姫君は、|瞳《ひとみ》を閉じて眠れる姿から思い描いていたよりも、ずっと素敵な方だった。
ひとしきり歓喜し、子供たちは自分の言いつかっていた|事《こと》|柄《がら》を思い出す。
「もう少しここでお休みくださいませね」
「今、|女《にょ》|官《かん》の方を呼んでまいりますから」
「皆様楽しみにしておられたから、きっとお喜びになられるわ」
「女王様も|魔《ま》|道《どう》|師《し》様も、|今朝《け さ》から礼拝堂でお待ちかねです」
ぱたぱたと小さな足をひらめかせ、子供たちは大騒ぎをしながら重たい巨大な一枚|扉《とびら》に|群《むら》がって、皆で力をあわせ少しばかり押しひらいた。
「ファラ・ハンのお目覚めのお知らせよ」
「あぁ、なんて素敵なんでしょう」
台風が去っていくように|賑《にぎ》|々《にぎ》しく、子供たちはぱたぱたと駆けさった。
重くきしみながら、しぜんと扉が閉ざされる。
(ファラ・ハン……?)
彼女は自分を呼んだとおぼしきそれを、|微《かす》かに|眉《まゆ》を寄せて|反《はん》|芻《すう》した。
名前なのだろうか。
自分の。
じっくりと考えて首を|傾《かし》げる。
実感がない。
座りこんだ自分を見下ろす。
そして。
自分の体、それ自体、妙な違和感があることに気がついた。
これは。
彼女の体であって、そうではない気がする。
しみじみと手を返し、手のひらと甲を見つめても、今一つしっくりとこない。
まるで借り物の体であるような、そんな気がする。
触れれば|温《あたた》かい血の通ったそれであり、|紛《まぎ》れもない柔らかな肉であるのに。
本来の彼女のそれでない、そんな感じがする。
何が、どこがどう違うからと、はっきりと言えないのだがそうなのだ。
身を包むこの大気の感じも空気の湿り具合も風の|薫《かお》りも、なんとなく|馴《な》|染《じ》みがない。
部屋から見てとれる文化と、同じように。
(ファラ・ハン)
そうだ。
そう呼ばれたことはある。
生々しい|血臭《ちしゅう》漂う廃虚で。
不意に。
つい先頃のことが思い出された。
我が身を捕らえた|蛮《ばん》|人《じん》と、|龍《りゅう》の背から飛びおりたという事実を、思い出した。
伝説の救世主となるべき翼ある|乙《おと》|女《め》に、|一《いち》|縷《る》の望みを抱く人々に|応《こた》えるために。
伝説の乙女なら|阿鼻叫喚《あびきょうかん》入り乱れる狂気と|殺《さつ》|戮《りく》|渦《うず》|巻《ま》く光景を、静められると聞いたから。
自分の身を|賭《か》けた。
(助かったのね)
あのまま落下していたなら|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎に飲まれていたはずだ。他の者たちと同じように、骨すら残さず燃え|崩《くず》れていたはずだ。
飛びおりたところまでは覚えているのだが。
どうやって助かったものなのか。
ただ、皆が楽しみに待っているというのだから、歓迎されていないわけではなさそうだ。
彼女は恐る恐る自分の背を指先でまさぐった。
|肩《けん》|甲《こう》|骨《こつ》のあたり。そのまわり。
すべやかな背には、何も翼らしきものはない。
翼があったような気がする。
でも、ない。
夢だったのだろうか。
よくわからない。
|溜《た》め|息《いき》をついた。
泣いた|跡《あと》のある顔が、涙で少しつっぱっていた。
泣いていたのだ。
眠りながら泣いていた。
|気《き》|遣《づか》った子供たちの声で目が覚めたのだ。
胸の奥に、|鈍《にぶ》い痛みのようなものが残っている。
|酷《ひど》く|哀《かな》しい夢を見ていたのだ。
苦しい恋を|嘆《なげ》いていた。
彼女は、もう一度|溜《た》め|息《いき》をつき、寝台から体をずらした。
着替えらしい|一《ひと》|揃《そろ》いの衣服が枕元に置かれてあった。
寝巻きがわりの|簡《かん》|衣《い》から、きちんとした衣服に着替える。あのとき着ていたのと同じものだった。
足を下ろしてサンダルを|履《は》く。
光の差しこんでいるテラスに出て、自分のいる場所が|何《ど》|処《こ》であるのか知りたかった。
ひょっとすると、少しでも見覚えのあるものが目に入るかもしれない。
見慣れぬ調度品で満ちているのは、ここだけかもしれない。
歩きだそうとした彼女は、踏み出した左足首から体を|貫《つらぬ》いた激痛に顔をしかめた。
|挫《くじ》いていたのか。
とても普通に足を運べる状態ではない。
半分身を引きずるようにして、彼女はテラスに面した大きな掃き出し窓まで|辿《たど》りついた。
引きずったほうの足で、途中何度もまとった衣装の|裾《すそ》を踏みつけ転びそうになった。
すがるようにして|掴《つか》んだ薄いカーテンを|退《の》け|硝子《ガ ラ ス》|戸《ど》を開く。
氷の|息《い》|吹《ぶき》を含んだ|凍《こご》える風が、|轟《ごう》と勢いよく吹きこんだ。
思いがけないそれに、彼女は首をすくめ目を閉じる。
一陣の風の去った後、恐る恐るテラスの外に出た。
|石《せっ》|灰《かい》|質《しつ》な|石畳《いしだたみ》の、白い|閑《かん》|散《さん》とした中庭があった。
かなりの広さのあるそこには、彫像のような造形物の他には目を楽しませてくれるものは何もない。
一本の樹木も植えられていなければ、一輪の花、雑草すらない。光に輝く流れる水もない。
|綺《き》|麗《れい》に片づけられているが、そのためによりわびしく感じられる。
彼女が見たあの廃虚と同じだ。
人為的に荒らされてはいないが、寂れはてている。
もちろん。
彼女のまったく知らないところだ。
庭の遠い向こうには、彼女のいた|棟《むね》と同じような|豪《ごう》|奢《しゃ》ではあるが部屋数の少なそうな、離宮と呼ぶのに似つかわしい建物が幾つかある。そしてそれらの屋根越しに、数多くの|丈《たけ》|高《たか》い塔や宮殿のようなものが見えている。
|客分《きゃくぶん》として、もてなされていたと考えられるか。
(ファラ・ハン)
伝説の翼ある|乙《おと》|女《め》。
世界を滅亡から救う者。
自分にその期待がかけられているならば。
思うだけで荷が重い。
ひと一人恋うことさえ、こんなに苦しいというのに。
よろめくようにテラスの先に進み出て、低い手すりの上に腰をおろした彼女は、思いを巡らせようとして|愕《がく》|然《ぜん》とした。
夢が何一つ、形として思い出せない。
ほんの少し前、あんなに狂おしく|焦《こ》がれていた、そのひとの姿さえ。
誰かが問いかけていたことは|虚《うつ》ろに覚えている。受け答えた|哀《かな》しい決意も。
でも。
想いだけが、|疵《きず》のように胸に刻みつけられているだけだ。
どうしても伝えられない、報われぬ哀しさが|溢《あふ》れくるだけだ。
この世界は知らない。
自分が何者であるのかもわからない。
心細い。
激しく恋い焦がれる者がいたのに、いるのに、それすら忘れ、|嘆《なげ》くことしかできない。
誰に頼ることもできない。
なぜ。
なぜこんなことになってしまったのか。
|眩暈《め ま い》がしそうなほど、気持ちが不安定に揺れる。
かっと、一瞬周囲が真っ白に輝いた。
色を失った視界に、はっとする。
そして。
|雷《らい》|鳴《めい》が|轟《とどろ》いた。
びりびりと空気を鳴動させた激しいそれに虚をつかれ、彼女は固く目をつぶり肩をすくめる。
恐る恐る見あげた空は、どんよりとした|鉛色《なまりいろ》の雲を浮かべている。
よく耳を澄ませば、ごろごろと|不《ふ》|穏《おん》な音をたてて波打っている。
そうだ。
ここは滅亡の危機を迎えた世界なのだ。
自然というものの何もかもが|均《きん》|衡《こう》を乱した、時から見放された世界なのだ。
何もかも、いつあっけなく|崩《くず》れさってしまっても文句のないところなのだ。
身をすくめ、部屋の中に退去しようと彼女が腰をあげたとき。
庭に、|落《らく》|雷《らい》した。
|凄《すさ》まじい音がして、ぐらりと|床《ゆか》|面《めん》が揺れた。
落雷の直撃を受けた|石畳《いしだたみ》が爆裂し、大穴が開いた。
燃えるような物はなかったが、火の|粉《こ》に似た炎の|塊《かたまり》が大穴の周囲に飛散した。
片足首を|挫《くじ》いていたうえに、驚いて|足《あし》|萎《な》えた彼女はテラスにへなへなとうずくまった。
近くなって幾つも響く|雷《かみなり》に|脅《おび》え、顔を伏せて目を閉じ耳を|塞《ふさ》いだ。
「|霆《いかずち》には脅えるのか?」
太くよく響く|声《こわ》|音《ね》が、頭の上から|居《い》|丈《たけ》|高《だか》に問いかけた。
声に聞きおぼえがあった。
つい最近耳にした、それだった。
|吐《と》|息《いき》が|絡《から》むほど、間近で聞いた声だった。
声の主を思い出し、彼女は|柳眉《りゅうび》を険しくして顔を上げた。
小柄な彼女からは普通でも見あげるだろうその男は、片手を腰に置き、|侮《ぶ》|蔑《べつ》さえ浮かべるかという余裕の表情で悠然と彼女を見下ろしていた。
第三章 |哀《あい》|惜《せき》
歌うことは好きだった。
趣味としても職業としても。
そして歌うこと、|竪《たて》|琴《ごと》を|弾《ひ》くことに関しては、誰にも文句を言わせない自信があった。
「レイム! 景気づけだ! 一曲、威勢のいいやつを歌ってくれ! 士気のあがりそうな、思わずやる気になってしまうような、力のこもった歌を!」
こと剣技の競技会においては彼も武人の一人に違いはないのであったが、それでも。
ほかのどんなに立派な招待者である有名な|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》よりも、彼のそれが求められた。
どんなに疲れていようと、レイムはその申し出を断ることをしなかった。いつでも|爽《さわ》やかに澄み渡るような笑顔を浮かべて、快く承諾した。
宮廷芸人でありながら、騎士と呼ばれても不足のない|誉《ほま》れ高い腕前を|披《ひ》|露《ろう》した|若《わか》|武《む》|者《しゃ》は、期待に|応《こた》え汗で熱く|蒸《む》れた重い|甲冑《かっちゅう》を脱ぐ。
幼い頃から領主の姫君にあてがわれ、彼女とともに成長した一人の歌唄い。護衛の任も、そこそこに務められるようにとの配慮から、彼にも騎士と同じように剣技が教授された。
音感のいい彼は、天性のリズムを持って|瞬《またた》く|間《ま》に同門の諸侯の子息たちに追いついた。追いつきながら、育ちのいい少年らの気持ちを察し、追いぬくような|素《そ》|振《ぶ》りを見せなかった。
レイムの実力を|目《ま》の当たりにし師までもが|舌《した》を巻いたのは、競技会において初めてだ。
彼の剣の腕に目をつけ、年に一度の競技会以外に試合を申しこむ若者もいたが、それらはことごとく姫君の直属の|僕《しもべ》であり吟遊詩人である彼の立場をもって|一蹴《いっしゅう》された。
一部の|隙《すき》とて|見《み》|逃《のが》さぬ向かうところ敵なしの荒々しい武人の剣を力強く繰りだしていた若者が、|兜《かぶと》を取って素顔を|晒《さら》す。
短く流行の形に切りそろえた金色の巻き毛が、太陽の光を受けてきらきらと輝く。
レイムは長い|睫《まつげ》に囲まれた、たくさんの星を浮かべたきららかな|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》をあげた。|細面《ほそおもて》の優しい|面《おも》|差《ざ》しをしたレイムの顔は、それがあの武人たる|颯《さっ》|爽《そう》とした若者であるとは思えない。どこか薄ぼんやりとした、動作の|鈍重《どんじゅう》そうな印象がある。夢見る少女を思わせる独特の|叙情的《じょじょうてき》な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が、彼をそう印象づけるのだろう。本人にしても自分が一流の剣の使い手となったことが、今だに信じられない。武人よりも文人としての、吟遊詩人としての役目のほうがレイムは気にいっている。
|貴《き》|賓《ひん》|席《せき》に座る主人を、レイムは振りあおぎ指示を求めた。
領主の自慢である|可《か》|憐《れん》な花と|詠《うた》われる|美《び》|姫《き》ミルフェは、|清《すが》|々《すが》しく|薫《かお》りたつばかりの|微笑《ほ ほ え》みを浮かべ小さく目でうなずく。
レイムはマントを|翻《ひるがえ》して|跪《ひざまず》き、うやうやしく正騎士の礼をもって|頭《こうべ》を垂れた。
楽士らの席の裏手に置いていた自分の|竪《たて》|琴《ごと》を取る。
レイムは姫様付きの吟遊詩人とはいえ、正式に音楽のなんたるかを学んだわけでもない。国じゅうから|選《え》り|優《すぐ》りの立派な格式と才と学を持つ宮廷楽士たちを|敬《うやま》って、彼らより一段低い位置に腰かけるため降りる。宮廷楽士に向かって一度深々と腰を折って礼をする。彼の|一挙手一投足《いっきょしゅいちとうそく》を、皆は期待に満ちた|眼《まな》|差《ざ》しで、わくわくと見守った。四方八方からの視線を浴びながらレイムは緊張し腰を下ろす。|頬《ほお》が|紅潮《こうちょう》し、かあっと頭に血が昇っていた。しかしそれも、竪琴を構え|膝《ひざ》の上に親しんだ重みを感じたとき、すうっと消えた。彼は本来の生まれついての歌唄い、自由な小鳥としての自分を取り戻した。
男としては甘い|相《そう》|貌《ぼう》が、演奏を始めるのだと優しくにっこりと微笑みを浮かべた。
整えられた指先が、しなやかに弦を|爪《つま》|弾《び》きはじめた。
乾いた空気が、ぴーんと|冴《さ》え渡り、響き渡る音を遠くまで運んだ。
金色の髪と|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》を持つ|小姓《こしょう》の少年は、どこかぼーっとしていたが、行儀がよくおとなしい|可《か》|愛《わい》らしい子供だった。騎士の称号を持つ貴族の一人が、領地を馬で視察していたときに森小屋の火事を発見し、その|側《そば》で泣いているところを見つけて連れ帰った孤児だ。森番の|爺《じい》も若夫婦も、焼けおちた小屋の|残《ざん》|骸《がい》の中から無残な焼死体で発見された。遠い|親《しん》|戚《せき》の誰一人もいない三歳の幼児は、領主の好意により城の下働きの子供らに交じって生活することを許された。
それから六年後。
領主の夫人が|亡《な》くなられた。難産が|災《わざわ》いし、産まれたばかりの王子と、小さな姫を残して。
領主も|乳《う》|母《ば》も、毎日毎日泣き暮らす姫を慰められなかった。
そこで。適任とされたのが、あの金髪の少年だった。
身の回りをする|女《にょ》|官《かん》に交じり、行儀見習いを兼ねて領主の|館《やかた》に務める貴族の子供たちの中で、彼だけが|生《お》いたちを|違《たが》えていたからだ。
身よりのない気の毒な少年は、誰よりも姫の心の痛みを理解できるに違いない。夢見るようにおっとりしていて、いじめられていてもそうだとわかっていない|鈍《にぶ》いところはあるが、申しつけられたことは最後までやり抜こうとするし優しい。大抵の我がままなら、|口《こう》|外《がい》することなく|密《ひそ》かに耐え忍び応じることだろう。泣いている姫を持て余しても、放っておくことはけっしてない。姫に|厭《いと》われたり拒絶されたりしても、ついていろと厳しく命じておけば、どんなに困難であっても|煩《わずら》わしく思っても、|側《そば》にいる。
あの少年と比べるならば姫は遥かに恵まれている。自分を取り巻く環境の素晴らしさを改めて認識することができたなら、幼い姫といえど泣くことをやめるはずだ。
|姑《こ》|息《そく》な手段だが、少年を使って姫の優越感をあおりたてることができる。他の子供たちと同じように、|残虐《ざんぎゃく》な|嗜《し》|好《こう》|性《せい》によって|自《みずか》らの|瘉《いや》されぬ心を晴らすかもしれない。たとえ少年が|怪《け》|我《が》をしたり、いじめ殺されることがあったとしても、誰も文句を言う血縁者はいない。
まるで新しい|玩具《おもちゃ》のように、少年は姫様付きの|小姓《こしょう》となった。
領主の|思《おも》|惑《わく》どおり、数日で姫は泣くことをやめた。
小さい姫は、自分より少し大きいだけの少年が、けなげに一人で生きているという事実に感動した。そして恵まれぬ彼のことを何かしら気にかけ、優しくねぎらった。いついかなるときも、やわらかい笑顔を絶やすことのない、幸せを振りまくような少年を|羨《うらや》み、自らもそのようになりたいと懸命になった。
少年は|館《やかた》を出ることのない姫を喜ばせるために、様々なことを|試《こころ》みた。そして、誰よりも|秀《ひい》でた|竪《たて》|琴《ごと》と歌の素質を見つけた。歌うこと、|奏《かな》でることは楽しかった。何にも増して、姫が輝くような最高の笑顔を浮かべて喜んでくれることが嬉しかった。
賢く優しい姫は成長するにつれて花のように美しく|可《か》|憐《れん》な、領主自慢の娘になった。
努力家の小姓の少年は、宮廷芸人の一人として館に|籍《せき》を置き、文武に秀でた姫の直属のお気に入りの|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》として名を知られるようになった。
レイムとミルフェ姫の関係は、あの初めての出会いの日から十年を|経《へ》た今に至る。
可憐な|美《び》|姫《き》と静かに彼女に従う|見目麗《みめうるわ》しい吟遊詩人は、人々の注目と|羨《せん》|望《ぼう》を集めた。
旅の吟遊詩人が|噂《うわさ》を聞きつけて領主の元を訪れ、二人のことを唄わせてもらえないだろうかと話を持ちかけたことも一度や二度ではなかった。しかしそれらは嫁入り前の姫のこと、たかが使用人である若者とよからぬ|詮《せん》|索《さく》や|邪《じゃ》|推《すい》の種となり|好《こう》|奇《き》の|的《まと》にされては|適《かな》わないと、領主や当のレイムによってことごとく拒絶された。
月の美しい夜だった。
レイムはいつものように大きな出窓を開き、窓辺に腰かけて静かに竪琴を|弾《ひ》いていた。
窓から差し込む青白い月光が、しらしらと金色の髪の上に降っている。光の粉が細かく舞っているように、ぼうっと彼の|輪《りん》|郭《かく》が輝いて見える。男としては|華《きゃ》|奢《しゃ》な、繊細な骨格を持つ|影《かげ》|法《ぼう》|師《し》が大きく|床《ゆか》の上に伸びている。
|囁《ささや》くように静かに|奏《かな》でられる恋の曲。|透《す》きとおる|音《ね》|色《いろ》は乾いた夜気の中を、どこまでも遠く響きわたる。ときには領主の|館《やかた》の外までも、風がやわらかく音を運ぶ。
レイムのいるそこは、数多くの豪華な調度や|贅《ぜい》を|凝《こ》らした絹の布、クリスタルなどに、品よく飾られた大きな部屋だった。けっして使用人であるレイムの部屋ではない。
彼の主人たるミルフェ姫の居間である。
明かりも|灯《とも》さず、うっとりと月の光を浴びながら、レイムは竪琴を|弾《ひ》いていた。
|意《い》|図《と》|的《てき》に音を吸収するものを極力控えた部屋の中、彼の他には誰もいない。
|儚《はかな》い光に|紛《まぎ》れ自分自身の存在すら|希《き》|薄《はく》になる、そんな感じがたまらなく好きだった。
秋の夜、恋人たちの足元でひっそりと恋の歌を|奏《かな》でている虫になったような、そんな気がして幸せだった。
どんなに練習しようともレイムは、あの虫の声には|敵《かな》わないと思う。
楽士たちが技術の優劣を|競《きそ》うような、いかなる難しい曲が弾きこなせても|駄《だ》|目《め》なのだ。
|所《しょ》|詮《せん》作り物の、あざといものは、必ずいつか|厭《いと》われる。聞き飽きられる。
でも。
虫の声や鳥のさえずりを聞き飽きる者はいない。
歌うこと奏でることが何より自然である存在になりたいとレイムは願う。
願いながら一心に奏で続ける。歌い続ける。
それが音によって多くのひとに認められた、レイムに課せられたこと。
|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》である彼が、ほんの一歩、ただの芸人と|趣《おもむき》を|違《たが》える理由。
|瞳《ひとみ》の|端《はし》に捕らえた人影に、はっと顔をあげたレイムは部屋の中を見た。
いつの間に部屋に戻ったのか、ちょっとしたお茶を楽しんだりする小さなテーブルセットの|椅《い》|子《す》にミルフェ姫がいた。
編みこんでいた長いふんわりとした白金の髪を解き、彼女付きの|女《にょ》|官《かん》であるカリナが静かに|櫛《くし》|削《けず》っている。
レイムは弦の上に滑らせていた指を、つと止めた。
途切れた音に、耳をそばだてていたミルフェ姫は軽く閉じていた瞳を見開く。
レイムの|翠色《みどりいろ》の瞳とミルフェ姫の|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の瞳が、お互いを見つめた。
レイムは窓縁に乗せていた片足を降ろし、ミルフェ姫のほうに体を向けて立ちあがる。
「失礼しました。お戻りになられたことも気づかず、音曲にうつつを抜かしておりました」
深く|頭《こうべ》を垂れて礼をしたレイムに、ミルフェは|微笑《ほ ほ え》む。
「あなたに非はありませんのよ。わたくしはあなたの|邪《じゃ》|魔《ま》をしないように、足音を忍ばせてそっと戻ってきたんですもの。月の光を楽しんでいる姿が素敵だったので、カリナに明かりを|灯《とも》すことも止めさせたのですよ。むしろ責められるのは、わたくしのほう」
「もったいないお言葉です」
優しい声に、レイムはただただ頭を下げるばかりだった。
「カリナ様、どうぞ姫様に明かりを。あなたが|櫛《くし》持つ手元を、光で照らしてください」
同じ年頃の少女に過ぎぬ|女《にょ》|官《かん》といえど、孤児であるレイムと姫様付きの貴族の娘では格が違う。誰より幼い頃から|館《やかた》で|仕《つか》えていても、レイムの態度はどこまでも腰が低い。
年齢よりやや|大人《お と な》びた|雰《ふん》|囲《い》|気《き》のカリナは、レイムの言葉に淡い微笑みを浮かべて|緩《ゆる》く首を振る。
「|今《こ》|宵《よい》はこのままでよろしいんですのよ。本当によい月ですこと。明かりなどなくても、十分。それに……」
主人の背後で櫛を持つカリナは、いたずらっぽくちらりと姫を|窺《うかが》い見る。
「ミルフェ様は、物思いに沈まれたいロマンチックな夜ですもの」
「カリナ!」
真っ赤になって姫は声を荒らげた。
常にないそれにびっくりして、レイムはぱちぱちと目をしばたたく。
声を殺しながら笑うカリナと、|豆《まめ》|鉄《でっ》|砲《ぽう》を食らった|鳩《はと》のような顔をしているレイムを、交互に見比べて姫はうつむく。|耳《みみ》|朶《たぶ》まで真っ赤になった。
いったい何があったのかと目で問いかけるレイムに、カリナはそっぽを向いた。
|居《い》|心《ごこ》|地《ち》悪くどうしたものかと悩むレイムへ、ぽつりとミルフェは口を開いた。
「|縁《えん》|談《だん》のお話をね…、父上から|伺《うかが》ったの……」
年頃から考えて不自然でもなんでもない。むしろそのような話がまったくないとしたら、それは|驚愕《きょうがく》に|値《あたい》する。美しいミルフェ姫の|噂《うわさ》は、遠くの領主たちの耳にも地平の|彼方《か な た》の王都にも届いている。今までにも持ちかけられてきた話は数多くあったのだろうが、父である領主がなかなか承諾しなかったのだ。ミルフェ姫を|溺《でき》|愛《あい》し優れた策士であると誰もが認める領主のこと、納得のいく縁組みが来るまで首を縦に振らなかったに違いない。娘思いで用心深い、いつものやり方から考えるに、娘のためにも領地のためにも最良と判断した縁組みなのだろう。
拾い育ててくれた大恩人であり、体が壊れるようなそれまでの力仕事から自分を解放し、文武まで励める姫様付きの役目に変えてくれた、レイムにとっては心優しい領主。
レイムは領主が自分を姫に近づけた真意など、夢にも考えたことがない。結果、彼にとってよい方向になっているので、お|人《ひと》|好《よ》しのレイムとしては善意に解釈して|然《しか》るべきだ。
絶対の信頼を置くその領主が決めたことに、レイムが異論を|唱《とな》えるわけはない。
姫の幸せを強く|希《ねが》う彼は、心の底から喜んだ。
レイムの表情が輝いたことを目ざとく見つけ、カリナが口を開く。
「本当によいお話ですのよ! 素敵な方ですの! ほら、レイムも噂くらい……」
「カリナ!」
|華《はな》やかな声で言葉を継ごうとしたカリナを、ミルフェは厳しく|叱《しか》るように止める。
父親の勧めに|生《なま》|返《へん》|事《じ》をしていたミルフェは、どうもあまり乗り気ではないらしい。|機《き》|嫌《げん》を|損《そこ》ねてもつまらない。肩をすくめ、カリナは再び|櫛《くし》を動かす仕事に専念することにした。
|眉《み》|間《けん》に|微《かす》かな|皺《しわ》を寄せるミルフェの微妙な心など、おっとりした幸せの|塊《かたまり》のようなレイムに読みとれるはずもない。
穏やかな笑みを浮かべたレイムは|竪《たて》|琴《ごと》を置いて|跪《ひざまず》き、姫に祝福を送る。
「おめでとうございます。喜びの贈り物といたしまして、わたくしは永遠の愛を誓う恋人たちの曲を捧げましょう」
晴れやかにそう言ったレイムは、窓縁に戻り竪琴を構えた。
甘くきらびやかな曲を、レイムは月光に映える金色の竪琴で軽やかに|爪《つま》|弾《び》く。
美しい調べを耳にしながら。
想い人に心を告げる言葉を持たないミルフェ姫は、しくしくと涙を|零《こぼ》した。
|瞳《ひとみ》を閉じて曲を|奏《かな》でるレイムは、姫君の美しい婚礼姿を思い描き、うっとりと|口《くち》|許《もと》を|綻《ほころ》ばす。
自分の立場をよくわきまえているレイムの様子に、少しばかりの|危《き》|惧《ぐ》を抱いていたカリナは、ほっと|安《あん》|堵《ど》の|溜《た》め|息《いき》を|洩《も》らした。
嬉しい知らせを耳にしたその夜。
気が|昂《こう》|揚《よう》して、|寝《ね》|床《どこ》に入ってもレイムはなかなか寝つかれなかった。
レイムの部屋は、雇われ騎士たちと下働きの使用人たちのちょうど中間の位置にある。|館《やかた》の中でのレイムは、|卑《ひ》|賎《せん》の身にありながら姫様付きであり文武にも秀でている。剣技の競技会において、かなりの勇者たる素質を|披《ひ》|露《ろう》する彼を、ないがしろにするわけにもいかない。領主としては不本意だったが、彼の待遇改善を願う姫の嘆願に大いに屈していた。レイムは部屋や居場所こそ幼い頃からあまり変わらなかったが、他者より恵まれた何不自由ない生活をしていた。レイムの宝物である金の竪琴も、軽く丈夫な皮の|甲冑《かっちゅう》も剣も、すべて領主から贈られた物だ。
竪琴が、鳴った。
月も高く移動し、ようやくレイムも、うとうととまどろみかけた深夜。
|椅《い》|子《す》の上に掛け布を|被《かぶ》せて置いていた竪琴が鳴った。
|夢《ゆめ》|見《み》|心《ごこ》|地《ち》で、ぽかりとレイムは目を開く。
ここはレイム一人の部屋。
中から|鍵《かぎ》の掛かった、レイムの部屋。
それなのに。
竪琴は鳴っていた。
掛け布の取り去られた竪琴の弦が震えている。
風はない。
窓は閉まっている。
しぜんにそうなるはずはないのに、竪琴は鳴っていた。
震えた弦が、静かに静かに曲を|奏《かな》でる。
優しく穏やかな曲を奏でる。
ぼーっとした|半覚醒状態《はんかくせいじょうたい》のまま、レイムは音を耳にし、ふわあっと幸せそうに|微笑《ほ ほ え》む。
この曲は。
知っている。
遠い遠い日に、耳にしたことのある曲だ。
ひょっこりと心に掘りおこされてくるのは、|温《あたた》かく懐かしい、いい|匂《にお》いのする幸せな記憶。
物心つく前の、それ。
(これはあなたの子守歌。あなたのために作られし世界に一つの曲)
震える竪琴の弦に、影の指が触れていた。
|椅《い》|子《す》の横にうずくまる影が、竪琴を|爪《つま》|弾《び》いている。
レイムに|囁《ささや》いている。
(ようやく|復讐《ふくしゅう》の時に至れり。|我《われ》|等《ら》が領主の末の公子よ。影の剣を取りて姫を|葬《ほうむ》りさられよ。そうして、近隣の領地と結ばれん強固なる繋がりを断ちきられよ。新たなる戦乱の幕を開け。姫さえこの世を去るならば、ここに送られしあなたの役目は終われり。|卑《いや》しき|隷《れい》|属《ぞく》の日々は終われり。居るべき生まれ故郷へ帰られよ)
姫を殺せ。家に戻ろう。両親のもとに帰ろう。荷物をまとめ、姫を殺して逃げるのだ。
影は子守歌の曲に乗せて、|染《し》みこむようにレイムに歌いかけた。
もともとが暗示にかかりやすい体質のレイムは、声に|導《みちび》かれ、ぼんやりと体を起こした。
姫の命を奪って逃亡するため、寝巻きから外出着に着替える。
下帯に隠される腰骨の上に、王侯貴族の|位《くらい》を持つ領主の家の|嫡男《ちゃくなん》にのみ与えられる、親指の爪ほどの大きさの|入《い》れ|墨《ずみ》があった。彼が世話になっているここの領主とは常に敵対関係にある家の|紋章《もんしょう》だ。おそらく生まれたときにつけられたものなのだろう。成長するにつれて皮膚が伸び、幼い頃の傷口は大きく広がって見える。それと同じように、初め|黒子《ほ く ろ》のようなものにしか過ぎなかった紋章が、|歳《とし》を|経《へ》て明確になったのだ。入浴を一人でするようになってから、この|印《しるし》のことに気づいた者は一人もいない。また、よほどじろじろ|凝視《ぎょうし》しない限り、それが敵対する領地の正統な嫡男の|証《あかし》だなどと見抜けるはずもない。身分が露見していれば、レイムの命など|闇《やみ》から闇だ。
すべては。|占《うらな》いによって、綿密に計画されたものだった。
|故《こ》|意《い》に起こされた森番の小屋の火事。生き残る|手《て》|筈《はず》になっていた金髪の男の子は、レイムとすり替えられ別の場所で殺された。レイムは予定どおり領主の|館《やかた》に引きとられ、さらにうまい具合に姫様付きの芸人になった。
武人であり風雅を解する父の血を濃く受け継いでいたレイムが、優秀な|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》であり剣技の達人であるのは、当然のことなのだ。
夢と|現《うつつ》の|狭《はざ》|間《ま》で|朦《もう》|朧《ろう》としながら、レイムは命じられるまま荷をまとめた。
うずくまっていた影、長衣の|裾《すそ》を長くひく、その影が、身支度を整えたレイムにあわせ、ついと立ちあがる。先に立ち、うやうやしい仕草でレイムを|導《みちび》いた。
影が指差しただけで、ぴんと音を立てて|鍵《かぎ》が開き、|閂《かんぬき》が引きぬける。
|甲冑《かっちゅう》と剣、そして少しばかりの着替えの入った|麻袋《あさぶくろ》を肩に、|竪《たて》|琴《ごと》を腕に抱え、影の後ろをついて、レイムは夢遊病者のように頼りなげに音もなく歩を運んだ。
|館《やかた》の敷地内を見回る夜番とレイムは出くわしたが、兵は全然気づかぬ様子で行き過ぎた。
兵の目には、影につき従うレイムの姿は見えていなかった。
ミルフェは|微《かす》かに|憂《うれ》いを浮かべた表情で安らかな寝息をたて、ぐっすりと眠っていた。
影に招きいれられたレイムは、無感動な|面《おも》|持《も》ちで姫の寝台の横に立ち、寝顔を見下ろす。
のろのろと荷物を|床《ゆか》に下ろしたレイムに、影は短剣のような形に|凝《こ》った|闇《やみ》をさし出した。
機械的にそれを受けとったレイムは、移動し影の短剣を握った手を大きく振りあげた。
窓から差しこむ青白い月光が、レイムの体によって|遮《さえぎ》られ、姫の顔の上に落ちる。
突然、眠れる自分が真の闇に包まれたことを感じ、うんと姫は身じろぎする。
寝返りを打とうとした姫は、微かに開いた|瞼《まぶた》のあいだに、ひとの姿を捕らえた。
自分の寝台の|側《そば》にひとが立っていることに気づき、姫は驚いて目を開いた。
姫が顔を動かすのと。
レイムの腕が振りおろされるのが。
同時だった。
「…………!」
息を飲んだ姫の耳の真横に。
レイムの握った影の短剣が、ぐさりとつき刺さった。
切り裂かれた枕から純白の羽毛が飛び出、雪のように舞った。
顔を動かさなければ、|額《ひたい》の中央から後頭部に、真っ直ぐ刺し|貫《つらぬ》かれているところだった。
姫は寝こみを|狙《ねら》われたことよりも、それがレイムであったことに驚いた。
自分の一番恋しいひとであったことに驚いた。
身分違いの恋である。
姫にとっては初めてであり、幼い頃から長きに渡り抱き続けてきた真実の想いだった。
あの|強《ごう》|引《いん》さが|取《と》り|柄《え》のような父にかかれば、どんなに|頑強《がんきょう》な理屈を並べ立てても、縁談を断れるものではない。世間知らずの姫の意見や気持ちなど、お構いなしで話は運ぶ。
(ほかのひとに|嫁《とつ》ぐくらいなら)
若い|乙《おと》|女《め》らしく思いつめていた姫は、自分を殺しにきたレイムにはらはらと涙を流した。
殺されるとわかっていて喜びがあった。
愛する者の手に掛かれるという|至上《しじょう》の幸福があった。
正規ではけっして結ばれることのない恋人たちにとって。
死の洗礼は永遠の婚姻である。
虫さえ殺せぬ優しいレイムの内に、ひとの命すら奪えるだけの激しさを|垣《かい》|間《ま》|見《み》たと思い、姫の胸は熱く感動して震えた。
枕に深々と突き立った短剣をレイムが引きぬく。
後ろから月明かりを浴びながら、再び短剣を振りかざしたレイム。
そのレイムに。
べたりと背後に張りつくような奇妙な影があった。
青白い光にしらしらと輝き見えるはずの彼の姿とは、何かが違う。
|微《かす》かに姫はいぶかしみ|眉《まゆ》をひそめた。
レイムが勢いよく短剣を振りおろす。
「レイ、ム……?」
小さくつぶやいた姫の声。
耳に届いた|可《か》|憐《れん》な|声《こわ》|音《ね》。
びくりとレイムの体が震えた。
|瞳《ひとみ》に正気の光が戻った。
今まさに。
短剣の切っ先が姫の|額《ひたい》に届こうかという、その時だった。
あわやというところで|刃《やいば》は方向を変えた。
殺し切れぬ勢いのまま姫を避け、上がけの|端《はし》と枕とにつき刺さる。
ぎょっと見開かれたレイムの|翠色《みどりいろ》の瞳が現状を認識する。
自分が何をやっているのか。
信じられず、目をぱちぱちと|瞬《しばたた》いた。
「姫様……?」
呼びかけに姫は淡く|微笑《ほ ほ え》んだ。ついと腕を伸ばしレイムの|頬《ほお》に触れる。
まるで口づけを|乞《こ》うように。
レイムはいったい何がどうなっているのかわからず|困《こん》|惑《わく》した。
彼にとってミルフェは|紛《まぎ》れもない恩人の姫であり、主人でしかないのだ。
困惑するレイムの右腕。短剣をつき刺したそれが。
レイムの意思に関わりなく、ぐいと後ろに引かれた。
レイムの手が握っているのは黒い影の|凝《こ》る短剣。レイムの腕は彼の背に|蠢《うごめ》く奇怪な影のようなものに|掴《つか》まれ動かされた。
|己《おのれ》を|操《あやつ》る|不《ぶ》|気《き》|味《み》な存在に、レイムは|度《ど》|肝《ぎも》を抜かれ振り返った。
(殺せ)
(ミルフェを殺せ)
(そして家に戻られよ)
(一族の者皆待つあなたの家に)
(さすれば)
(あなたは本当のあなたに戻れましょう。縁者も富も地位も何もかも、取り戻すことができましょう)
(あなたはこのためにここにいた。|屈辱《くつじょく》の時を生きてきた)
(|報《むく》われるべき最後の仕事を済まされん)
影は|諭《さと》すようにレイムに|囁《ささや》いた。
|意《い》|図《と》することにレイムは色をなす。
「できない! 姫様は僕の大切な主君です! |嫁《とつ》がれて幸せになられるお方です!」
悲鳴のような非難の声を聞き。
甘やかな喜びに|潤《うるお》っていた姫の心が|凍《こお》りついた。
|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の|瞳《ひとみ》は大きく見開かれたまま、|虚《きょ》を映した。
(命を奪われよ)
(|隷《れい》|属《ぞく》の身に自由を)
「|嫌《いや》だ! 僕は姫様にお|仕《つか》えすることを領主様と誓いました! 僕は誰も裏切らない!」
(レイム様、|我《われ》|等《ら》が領主の末の公子よ。心まで|卑《いや》しめられたと申されるのか)
「違う!」
影とレイムとの押し問答を耳にする姫の目に涙が|溢《あふ》れた。
レイムが自分を女として見ていなかったことを知った。
愛されてなどいないことを知った。
報われぬ一方通行の抑えきれぬ想いに、姫の胸ははり裂けそうに痛んだ。
父の言うとおりに嫁いでしまえば、レイムは彼女の|側《そば》から離れる。|卑《ひ》|俗《ぞく》の身である彼は、|館《やかた》から追われるかもしれない。そしてどこかで誰かのために歌うのだ。人のよい彼のことだから|乞《こ》われて断りきれなければ、見知らぬ娘のために歌い耳元で|囁《ささや》き抱くかもしれない。
すべてはここでの身分のために。
その|枷《かせ》を解き放つことができるのは。
ミルフェ自身の命だ。
「僕は何もいらない! 僕に構うな! 放せ! 離れろ!」
レイムは影から|逃《のが》れようと必死で|身《み》|悶《もだ》えた。
しかしべたりと背後にへばりつくそれは、レイムの動きを封じたままびくともしない。
「姫様! いったいなんの騒ぎでございますか!?」
|騒《そう》|々《ぞう》しい声に驚き、控えの間で休んでいたカリナが|扉《とびら》を押しひらいた。
カリナに首をねじ曲げたレイムが、身動きできない姿勢でもがきながら、すがるような表情を向ける。ばたばたと動かされる足は影に持ちあげられ、|僅《わず》かに宙に浮いていた。
|忌《い》まわしい影は、レイムの背中とまともに向かいあったカリナの目にくっきりと見えた。|邪《じゃ》|気《き》さえ含む|魔《ま》|道《どう》のそれに、カリナの背筋を冷たいものが走る。
半身を起こした姫は|哀《かな》しい目でカリナを見た。
(殺せ)
(殺せ)
「|嫌《いや》だぁっ!」
レイムは必死に自分の体の自由を取り戻そうとあがく。
邪封じの|護《ご》|符《ふ》となる帯飾りを握りしめカリナがレイムに駆けよった。
切っ先を姫に向けた影の短剣。
その|柄頭《つかがしら》を胸元に引きよせたレイムに。
姫は抱きついた。
「うわあぁっ!」
がばっと。
レイムは寝台から跳ね起きた。
自分のあげた叫びが、耳の奥に残っていた。
手に腕に、血に染まって|頽《くずお》れる姫の体の感触が残っている。胸を刺し|貫《つらぬ》いた影の短剣、消えうせたそれの|穿《うが》った傷口から|溢《あふ》れでた、むせかえる鮮烈な血の|臭《にお》い。寝台の上に|零《こぼ》れ咲いた、生々しい|光《こう》|沢《たく》を放つぬめりを帯びた|真《しん》|紅《く》の花びら。
忘れえぬ記憶。
混同する時間。
あの日からずいぶん長く伸びた髪を目にして、レイムは肩に入った力を抜く。
ぐっしょりと全身に冷や汗をかいていた。|気《き》|味《み》の悪いそれを、手で|拭《ぬぐ》いすてる。
大きく息を吐く。
|咽《のど》からはどんな音も漏れなかった。
そうだ。
声は封じてある。
|魔《ま》|道《どう》|士《し》となるために。
あのときカリナは。
ひとを呼ぶ前に、レイムを姫の部屋から逃がし自分の部屋に戻らせた。
彼に姫を殺す気がないことはわかっていた。そうと信じていた。事実そうだった。
レイムは誰にも疑われることなく、姫の葬儀に出た。姫に間近く幼い頃から忠実に|仕《つか》えてきたレイムの、顔をあげる力さえ|萎《な》えた姿をいぶかしむ者は誰もいなかった。
悲嘆に暮れた領主は、姫のことを思い出すもののすべてを|排《はい》|斥《せき》した。当然レイムも|厄《やっ》|介《かい》|払《ばら》いされた。追い払われるようにその地を去った。
|館《やかた》を出たレイムを待ちうけるようにして影が迎えに現れたが、それに従わなかった。
影はレイムにそれ以上つきまとわなかった。姫を|葬《ほうむ》り去り婚儀を|邪《じゃ》|魔《ま》するという|企《くわだ》ては、どういう過程を|経《へ》ようと成功しているのだ。レイムが親の元に帰ろうと帰るまいと、別にどちらでもよい。レイムがどうあがこうと血からは|逃《のが》れられないのだ。便利な|手《て》|駒《ごま》として利用したいときには、いつでも捜しだすことができるのだから。少しばかり遊ばせておいても構わない。
ミルフェは彼女の命をもってレイムに自由を与えた。レイムが|己《おのれ》の生まれに従って生きるように。血を分けた縁者たちに本来あるべき迎えられ方をされるために。
レイムによかれと思って。
だが。
レイムはそれを|甘《かん》|受《じゅ》するわけにはいかない。
ミルフェの、他人の命を奪って得た自由や身分に、どんな価値があるというのだろう。
誰かを犠牲にして得たものは、必ず同じ報いで奪いかえされる。
貧困と不自由の中に育ってきたレイムにとって何よりの宝だったのが、|自《みずか》らの甘さを許さない|潔《けっ》|癖《ぺき》さと清潔さだった。正直で努力家で、常に|真《ま》|面《じ》|目《め》に物事に接してきた。そうすることによって自分の居場所を自分で確保してきた。裏づけのある自信を守りにして、誰にも文句を言わせない非を|唱《とな》えさせないと、胸を張ることができた。
だから。
レイムはミルフェの死を望みはしなかった。
そうして得たものになんの魅力も感じなかった。
死を贈られたことによって、レイム自身がそれまで懸命に築いてきたものが無に帰した。
後に残ったのは|哀《かな》しみと、将来ある若き|乙《おと》|女《め》を自殺にまで追いこんでしまったという支えきれない自責の念だけだ。自分の存在に対する疑問だけだ。
結局ミルフェはレイムの本質を理解してはいなかった。彼に恋心を抱かせ、愛されるべき女性ではなかった。ただ|空《から》|回《まわ》りし、|挙《あ》げ|句《く》、レイムからすべてを奪い、打ちのめした。
行く当てもなく生きる気力もなくしたレイムは、死を望んで谷川に身を投げた。
危ういところで通りかかった旅の|魔《ま》|道《どう》|士《し》らに救われた。
そして。
魔道士となる道を選んだ。
レイムはのろのろと自分が寝かされていた部屋を見回した。
立派な調度品を置かれた、貴族の|館《やかた》の客間らしい部屋だった。
ただの見習い魔道士であるレイムが、いて|相応《ふ さ わ》しい部屋ではない。
レイムは首を|傾《かし》げる。
確か。
聖地にいたはずだ。|龍使《りゅうつか》いの|勇《ゆう》|敢《かん》な娘の命を救うため、魔道を使った。自分の命とひきかえに行う魔道。他人の命を救う魔道を。
未だ生きているということは。
失敗したに違いない。
レイムは大きく|溜《た》め|息《いき》をつく。
またしてもおめおめと生き延びてしまった。
修行は一から仕直しだ。
寝台から抜け出したレイムは、なぜだかここに運ばれ、|揃《そろ》えてあった自分の荷物と衣装のほうに向かった。
深緑色の魔道士の衣装をまとって身支度を整え、荷物を抱えて部屋を出る。
影に|操《あやつ》られたり領主に|暇《いとま》を|貰《もら》い部屋を後にしたときと、|装束《しょうぞく》こそ|違《たが》えていたが。
同じ荷物だった。
第四章 天地
すべてが生きていた。
とくとくと脈打ち日々成長を続けていた。
人間も動物も植物も水も土も空も。
何もかもが。
シルヴィンは大きく腕を広げ肺の|隅《すみ》|々《ずみ》にまで空気が入るよう、深く深く息を吸いこむ。
感覚をとぎ澄まし、自分のいる場所をよく認識する。
もけもけと天に煙をあげている火吹き山。|微《かす》かに風に乗る|硫《い》|黄《おう》の|臭《にお》い。つい二週間前にも噴火があった。そのとき流れ出た溶岩が、真新しい|歪《いびつ》な|縦《たて》|縞《じま》で新しく|山《やま》|肌《はだ》を飾っている。
|山《やま》|裾《すそ》は、どこまでも続くなだらかな傾斜を持つ草原。目が覚めるほど、|眩《まぶ》しく緑が|萌《も》える。やんわり|蒸《む》れた土は、よく肥えて湿っぽい。風をうけた草は涼しい音をたてながら、波が走るようにそよぐ。草の先っぽがちぎれ、ぴんと跳ね飛んだかに見えたのは、緑色の昆虫。見え隠れしながら、草むらに|紛《まぎ》れる。
|彼方《か な た》に、雪解けの澄んだ|湧《わ》き水を|湛《たた》え鏡面のようにくっきりと空を映す湖がある。湖をとりまく湿地帯には、季節を迎えたミランの|蓮《れん》|花《か》が咲き乱れている。いたずらっぽく花の上を渡ってゆく風が|絹《けん》|布《ぷ》ほども薄い花びらを|翻《ひるがえ》し、内と外の色、白とピンクが交互に揺れる。花が首を振るたびに、甘い|芳《ほう》|香《こう》が漏れおちる。
青く澄んだ天空には、うちたての|真《ま》|綿《わた》のような丸いふかふかの雲が浮かび、のんびりと移動してゆく。見えないほどの高みで、鳥が楽しげにさえずっている。
男の子みたいな|丈《たけ》の短いズボンからにょっきりと出た、シルヴィンの|痩《や》せっぽちの足。真っ黒に汚れた|剥《む》きだしの|脛《すね》を、さわさわと草が|撫《な》でる。汗や水でこびりついていた泥が、白く乾いてほろほろ落ちる。
一本の木。
大地にしっかりと根を下ろし、天に向かって枝を伸ばす。
地中に広げた根が、水を養分を吸いあげる。樹液が木の中を巡る。|陽《ひ》を受けた葉が、呼吸する。
シルヴィンは足をしっかりと大地につけて立っている。目を閉じ静かに感じている。
自然と一体化しその一部となって。生命を息づくすべてを。
まるで一本の木のような格好で。
こうしていると今まで感じられなかったもののすべてを知ることができる。
生命の全部が繋がりあい|絡《から》みあってなっていることを知ることができる。
人間がけっして特別な存在ではないことを知ることができる。
個体の大きさに関わりなく命の価値に違いがないことがわかる。
世界の|隅《すみ》|々《ずみ》を構成する生きている|同《どう》|胞《ほう》たち。
どんな生き物もこの大地という繋がりなしには存在しない。
どこかでかきっと触れあっている。ここから出発し生まれ育ってゆく。
そしてここは空と繋がっている。空気という見えない触れられないものを介して。
空に輝くたくさんの星と空気は繋がっている。
気の遠くなるような延長線。
ちっぽけなちっぽけな、自分という一個の存在。
思いあがることも|卑《ひ》|下《げ》することもない確かなもの。
生命の進化だとかいう難しいことはシルヴィンにはわからない。どんなに高等なものも下等なものも、本質において同じものから分岐したものなどと知るよしもない。
それでも。
なんとなく感じていた。
感じられることが何より大切なことだった。
シルヴィンは険しい谷間を縫うように、|飛龍《ひりゅう》を飛ばせていた。
|瞳《ひとみ》をあげることすら困難な、強烈な|陽《ひ》|射《ざ》しが地を|焦《こ》がす、文字どおりの炎天下。ゆらゆらと熱気を含んだ|陽炎《かげろう》が揺れていた。からからに|干《ひ》|上《あ》がり割れた地面の|狭《はざ》|間《ま》から、ときおり蒸気が激しく吹きあがる。
直撃を受けるといかに|頑丈《がんじょう》な飛龍の体であっても|火《ひ》|膨《ぶく》れを起こしそうな、煮えたぎる蒸気を避けながら飛龍はのろのろと飛んでいる。熱く陽に焼けた地面は生き物の影さえない、しらしらと明るい不毛の地だ。
固い|鱗《うろこ》に|覆《おお》われた|強靭《きょうじん》な飛龍でさえ、さすがにこの暑さには|音《ね》をあげる。ぐったりと半分目を閉じたような飛龍は、気力を熱に奪いさられ主人のなすがままになっている。|過《か》|酷《こく》な状況に耐えている飛龍を|憐《あわ》れみ、シルヴィンは蒸気を吹きあげる狭間を積極的に|見《み》|極《きわ》めてやり、その上を飛ばないよう注意しながら、ちょこちょこと微妙に|手《た》|綱《づな》をさばいて道を教える。
シルヴィンは日射病や熱射病を避けるため、ターバンを巻いたり特別|誂《あつら》えの服を身につけたりして、|完《かん》|璧《ぺき》に身支度を整えて家を出てきた。しかし何より快適であるはずの|装束《しょうぞく》に身を包んでいてさえ、この|酷《こく》|暑《しょ》が相手ではどうあがこうと分が悪い。|男勝《おとこまさ》りで勝ち気な、誰よりきかん気で強がりのシルヴィンも、意識を|朦《もう》|朧《ろう》とさせている。目を細めて|睫《まつげ》を下ろし視界を|和《やわ》らげた|瞳《ひとみ》も、乾いた白い地面に反射する|眩《まぶ》しい光に射られてくらみ、ほとんど見えていない。天性の勘に大いに頼った、|命懸《いのちが》けの道行きだった。
しかも急がなくてはならない。間に合わなければ意味がないのだ。気持ちばかりが|焦《あせ》る。|焦《じ》れた感情は、周囲に勝るとも劣らず熱い。
ホレスの山のあたりは|灼熱地獄《しゃくねつじごく》として広く名を知られている。真夏ともなれば、足を向けようなどと思う物好きはまずいない。飛龍を自分の手足のように使いこなす龍使い、しかも豊富な山越えの経験を持つ者でも難色を示す、|選《え》りぬきの危険地帯だ。
よほどの者でもないかぎり、行ったが最後無事に帰ってきたなどという話は聞かない。|切《せっ》|迫《ぱく》した事情があっても、賢明な者ならここを|迂《う》|回《かい》する方法を選ぶ。強行に計画にふみきったとして、運がよくても|火《ひ》|膨《ぶく》れや脱水症状などを|覚《かく》|悟《ご》しなければならない。運がなければそれまでで、焼けただれて乾き、|粉《こな》|々《ごな》になった骨のかけらすら見つからないことだってある。
(|馬《ば》|鹿《か》げてるわよ)
シルヴィンは何度も心の中で毒づいた。口の中が乾いているので、|舌《した》|打《う》ちはできない。毒づきながら、シルヴィンの胸はきゅんと痛くなる。心の奥深くでは、強く共感している。そうせずにはいられなかった気持ちがわかる。でも。
(だからって、こんな無茶してもいいってものじゃないのよ!)
引きしめた顔が、乾いた汗でぴしぴしにつっ張る。涙を|零《こぼ》すにも、体じゅう|干《ひ》あがっていた。大事に荷袋に何重にも包んで持ってきた水は、彼女が口にするわけにはいかない。
シルヴィンより先に彼を追っていった兄の姿は、まだ見えない。赤い布の目印は、乾燥した視界のどこにもない。連れ立ってひき返してくる二頭の飛龍は、どこにもいない。
シルヴィンはあちこちの森林を巡り、ようやく見つけた夏越えのナラカ|蔦《つた》を持って兄の後を追っていた。
兄は、飛龍を駆って真夏の火の山越えという愚行に走った一人の若者を助けるため、龍使いの一族の|果《か》|敢《かん》なる勇士として、この仕事をひき受けたいと名乗り出た。追いつき、説得して連れ帰ろうと。
シルヴィンは、万一の時のための|助《すけ》っ|人《と》である。
もしも、その若者に何かがあったり、彼が言うことを聞きそうになかった場合、彼の飛龍にナラカ蔦を|食《は》ませ、無理にでも従わせ連れ帰るための相棒だ。
飛龍は生涯にただ一人の主人しか持たない。主人以外の命令は聞かないし、背に乗ることも許さない。だから強制する場合には、飛龍に|鎮《ちん》|静《せい》|剤《ざい》的効果を与えるナラカ蔦を適量食ませていうことを聞かせる。
ナラカ蔦は、春と秋に生える寄生種の|蔓《つる》植物だ。非常に|癖《くせ》の強い植物で、寄生した樹木を枯らしてしまうこともあるほどの、|旺《おう》|盛《せい》な生命力を持つものだ。しかし、気温の変化には極端に弱い。自分たちに適した温度が維持されなくなると、|瞬《またた》く|間《ま》に枯れてしまう。ほそぼそとでも季節越えを行う自然種のナラカ蔦は、改良種や乾燥した保存用のそれより、絶大な効果を発揮する。興奮状態の飛龍にたち向かうには、季節越えのナラカ蔦のほうが量が少なく絶大な|効《き》き|目《め》がある。
兄は保存用の物を大量に持って出発したが、もしものときには、シルヴィンのこれのほうが役に立つはずだ。
彼女の自慢する一番上の兄のこと。よもや失敗はないだろうと思う。そう信じられる。
だから。
|余《よ》|計《けい》に不安になる。胸騒ぎがする。
兄に何かあったとしたら、おそらくシルヴィンの手には負えない状況が待ち構えていることになるだろう。
最悪の事態を回避するため、シルヴィンは一刻も早く兄に追いつきたい。二人|揃《そろ》って物事に対処するならば、何が起こってもけっして恐れる必要はないからだ。
遠くで|微《かす》かに飛龍の|哭《な》き声がした。
びくんとシルヴィンの体が震え、仲間の声を耳にした飛龍は、はっと顔をあげた。
確かに二頭分聞こえた。ただならぬ声だった。
兄と、あの若者の飛龍だ。
シルヴィンは気力を|奮《ふる》いおこし、|手《た》|綱《づな》をさばいて飛龍を|叱《しっ》|咤《た》し、先を急がせる。|火急《かきゅう》の事態が待ちうけていることを察していた飛龍も、シルヴィンに|応《こた》え彼女の意に添うよう大きく翼を打ちふる。ぐんと速度を増した飛龍は、目的地に到着することを第一条件として飛んだ。
飛龍を駆ってこの狂気とも思える山越えを行った若者は、名前をヨルグという。
もともと龍使いの一族の若者ではない。自分の飛龍を求めて里に訪れた武人の一人だ。
龍使いの里には、そうした目的で一から|手《て》|解《ほど》きを受けて、自分にぴったりとした飛龍を買い求めてゆく者が多い。心行くまで飛龍を|吟《ぎん》|味《み》しながら|逗留《とうりゅう》する者たちのための宿も、数多く用意されている。文書や使いの者から注文を受け、適当であると判断されたものを数頭届けてその中から選んでもらうこともあるが、そういうのはよほど身分の高い者だけだ。ごく普通程度の身分の貴族や、武人、龍騎兵を志願する|傭《よう》|兵《へい》など、安価で、しかも自分ともっとも気のあう飛龍を用いたい者は、市場で買うなどという安直な方法に走らず、|自《みずか》ら里に訪れるという堅実な策をとる。かつて飛龍を飼い慣らしたことがあるような、|目《め》|利《き》きでない限り、市場で飛龍を買うものではない。初心者が身の危険に|晒《さら》されることなく、細かな約束事や飛龍の生態を知るには、龍使いの里は格好の勉強場所でもある。
ヨルグはほとんど自分のことを話さない、騎士道精神を持つ無口な若者だった。態度や物言いは礼儀正しく、どこかの貴族の子息かとも思えるような、武者修行中の剣士らしい。|真《ま》|面《じ》|目《め》すぎる性格が|災《わざわ》いしてか、なかなか息のあう飛龍が見つからなくて困っていた。
飛龍にも個々に、それなりの格がある。お互いの品性や本質の|器《うつわ》に折りあいがつかなければ、双方に負担となるのだ。あくまで、飛龍は『相棒』である。よき協力者である。乗用ではあるが、道具、物としてわりきって見てしまうことはできない。|利《り》|口《こう》で|獰《どう》|猛《もう》で忠実な、ほかのどんな生き物もかなわない最高の戦友。それが飛龍である。相手を見抜き、なかなかひとに|馴《な》れず、ずる賢い。馴れたように見せかけて、簡単にひとを|欺《あざむ》く。主人と認めない者の|横《おう》|柄《へい》な振るまいを許さず、殺してしまうことすら珍しくない。
飛龍を駆ることのできる者、自分の飛龍を持つ者は、その本質的な面における人間的評価が高い。飛龍の振る舞いや行動から、主人の才覚が露見する。実力が伴わなかったり、性格的に|卑《ひ》|俗《ぞく》な者が飛龍を|操《あやつ》る資格を持っているわけではないのだ。どこに行こうとも自分だけの飛龍を持つ貴族や武人は、|丁重《ていちょう》にもてなされ歓待される。
半年ものあいだをかけて里に居残ったヨルグは、最近になってようやく自分の捜し求めていた飛龍と巡りあうことができた。
野生種の飛龍を、里の者とともに自分の手で捕らえたのだ。
飼い慣らすことが奇跡とさえ言われる、野生種の飛龍。飛龍の純粋種には遠く及ばなかったが、それは里の者をも|唸《うな》らせるほどの、立派な飛龍だった。
|毅《き》|然《ぜん》とした武人たるヨルグに見合ったその飛龍は、あらゆる面に|秀《ひい》でていた彼と深く意気投合し、生来定められていた存在ででもあるかのように|馴《な》|染《じ》みあった。お互いが相手を|慈《いつく》しむ、ひとと飛龍の理想的な関係を持つことができた。
そうして数日後にヨルグが飛龍とともに里を離れることが決まった日。
ヨルグの泊まっていた宿屋の娘であり、親身になって彼に飛龍についての指導をしていたナスティが、|怪《け》|我《が》をした。
ナスティはシルヴィンよりやや年かさの、美しい|乙《おと》|女《め》だ。女性であるため、自分の飛龍を持てるまでではないが、里で卵から飼い慣らす、ひとなつっこくおとなしい飛龍の飼育においては、彼女の右に出る者はいない。そうやって育てた、初心者向けの扱いやすい飛龍を入門用に用いて、優しく|丁《てい》|寧《ねい》な指導を行うので、なかなか評判のいい教官だった。
そのナスティが、こともあろうに飛龍の扱いをしくじった。
とぎ澄まされた飛龍の|爪《つめ》に掛かって、左腕に|創傷《そうしょう》を負った。
傷自体は浅く、たいした出血をしたわけではなかった。しかし、その飛龍は子を|孕《はら》んでいたため、爪に激烈な毒液を分泌していた。
飛龍に襲われたという衝撃と傷とでショック症状を起こしたナスティは、そのまま気を失って倒れ、|昏睡状態《こんすいじょうたい》に|陥《おちい》った。真っ昼間の事件であったがゆえに、気づかれるのが遅れた。夕方近くになってやっと発見されたナスティは、全身に毒が回り、青黒く変色してぶよぶよに|膨《ふく》れあがった、見る影もない姿になり果てていた。
慌ててひとが呼び集められ、家に運びこまれたナスティに治療が施された。飛龍の毒液を薄めて抽出した特殊な薬を飲ませ、全身を|粘《ねん》|土《ど》をこねた泥で包み冷やすことにより、膨れあがった体は三日後なんとか元の形にまで戻すことに成功した。これで一安心かと思われたが、完全な|解《げ》|毒《どく》にまでは至らなかったらしく、ナスティの意識は戻らず高熱が続いた。
最初に与えた薬の効力がそれ以上望めないとなると、里では手の施しようがない。山脈を一つ隔てたところにある|薬《くす》|師《し》の里に出向いて、ナスティに合う特別な解毒剤を調合してもらわねばならない。全身を|冒《おか》している毒の特性を知らせるためにナスティの血を少量付着させた物を持ち、薬師の里に急がねばならない。
そうして越えねばならない山が、この|灼熱《しゃくねつ》たる火吹き山、ホレスの山である。熱気を避けるため山脈を遠く|迂《う》|回《かい》すると、軽く見積もっても三倍の道のりとなる。
このままの状態でナスティが持ちこたえられるのは、二日。
山を迂回し薬を持って帰るのには、どんなに急いでも三日かかる。
山越えを行えば、丸一日で薬を持って帰れる。
飛龍の|里《さと》|長《おさ》は山を迂回する方法で、使いの者を送り出した。
ヨルグは飛龍で里を飛び出した。冷静な彼の|常《つね》では考えられない、|無《む》|謀《ぼう》な行動だった。
なぜ里長が、単純な計算で間に合わないとわかるような方法をとったのか。そこまで思いを巡らせる余裕をヨルグは欠いていた。
火山地帯として知られる飛龍の里にも、|氷《ひ》|室《むろ》と呼ばれるものがある。地の底に続く穴深くに、氷点下の冷気に閉ざされた小さな|鍾乳洞《しょうにゅうどう》があるのだ。そこに連れてゆき、|魔《ま》|道《どう》|士《し》から買い求めた秘薬で冬眠状態を作ってやれば、|容《よう》|体《だい》を悪化させずに薬の到着を待つことができる。
だから、あえて山越えの危険に|挑《いど》む必要はなかったのだ。
ここ何年か、ここまで|酷《ひど》い|怪《け》|我《が》を負う者は里にいなかった。たかが半年滞在しただけのヨルグが、飛龍の里の慣習を知らなくても当然なのだ。
ヨルグは取る物も取りあえず、里を飛び出した。
矢のように飛龍を駆って行きうせた彼の行き先を知ったのは、里長以外の者がナスティにつけた新しい小さな切り傷からである。非礼を|詫《わ》びる簡単な書簡と大量の金貨を置いて、山越えに用いられる、|酷《こく》|暑《しょ》をしのぐための|男装束《おとこしょうぞく》が|一《ひと》|揃《そろ》いなくなっていた。
そしてシルヴィンの兄がヨルグを連れもどすために後を追い、それを助ける者として、ナラカ|蔦《つた》を捜しだしたシルヴィンが出てきたのだ。
シルヴィンはナスティと仲がいい。今では里の女でただ一人自分の飛龍を持つ、特別な存在であるシルヴィンだが、彼女はもともとナスティの生徒だった。ナスティに飛龍の乗り方や扱い方を教わった。天性の|勘《かん》というべきものに恵まれていたシルヴィンは、自分の飛龍を持つことによって他の女たちとは少しばかり立場を|違《たが》えた者として優遇されていたが、さすがの彼女もナスティには頭があがらないのだ。ナスティだけは、シルヴィンを昔とまったく同じに扱い、つきあってくれた。
シルヴィンはナスティがヨルグに寄せていた淡い想いを知っていた。
里に残れるはずもないヨルグと、里を離れられないナスティ。ひょっとするとヨルグの帰っていくところには、美しい婚約者が待っているのかもしれない。優しくしてくれるのも、ただ、紳士であるからだけなのかもしれない。たとえ想いを告げたとしても、ヨルグにとっては、この里にいるあいだだけの、遊びに近しいもので終わってしまうのかもしれない。
ひたむきに|恋《こい》|焦《こ》がれる|乙《おと》|女《め》の|臆病《おくびょう》さに捕らわれて、ナスティに言葉はない。夢破れてしまったり、夢を|汚《けが》されてしまうのなら、何もないままで別れてしまったほうが楽かもしれないと思う。そしてそれを納得しきれない、|優柔不断《ゆうじゅうふだん》さで心が揺れている。
|孕《はら》んでいる|牝《めす》の飛龍に|迂《う》|闊《かつ》に近寄るなど、日頃のナスティからは考えられない失態だった。
里を出ていく日の決まったヨルグのことに、気をとられていたに違いない。
寝台につききりであったナスティの両親たちを思い、刺激をしないようにと|側《そば》に行くことを控えていたヨルグは、だからといって部屋で休んでいたわけではなかった。|隔《へだ》てられているからなお、切なく、一人で星を仰ぎ夜の|闇《やみ》に埋もれて座っている姿を、シルヴィンは見ている。毒で青黒く|膨《ふく》れあがったナスティを見ないようにと、それとなく目を|逸《そ》らしてくれたヨルグに感謝している。もしも恋しいひとにそんな姿を見られたと知れば、それこそナスティは死にたいほど恥じいることだろう。
我が身を|顧《かえり》みることすら忘れ、周囲の者の|思《おも》|惑《わく》を|推《お》し|量《はか》ることすら失念し、飛びだしていったヨルグも、おそらくナスティに少なからぬ好意を抱いていたに違いない。
そうとでも考えなければ、彼がこんな無茶な行動を選ぶなど|到《とう》|底《てい》信じられない。
ナスティのためにもヨルグのためにも、シルヴィンたちにはヨルグを連れ戻す義務がある。
ナスティは必ず助かる。だからヨルグも無事でなければならないのだ。
もう二度と会えなくなるのだとしても、それは死別などという悲劇であってほしくない。たとえ若い日の淡い恋心の思い出であっても、お互いが生きてるほうがいい。死によって、確認されなければならない愛情なんて、シルヴィンは見たくない。
結ばれることのなかった恋心を胸にしまっていても、生きていくことはできる。良心の|呵責《かしゃく》を受けることなくほかの誰かを愛し、家庭を築いていくことができる。一人よがりの思い出は、自分だけの思い出。現実に喜びをもたらすこともなければ、傷を残すこともない。
でもそれが死という形をもって完結してしまったとしたら。死んだ相手との恋が結ばれてしまったとしたら。ましてやそのひとが、自分を助けるために命を落としてしまったのだとしたら。
ひたむきな|乙《おと》|女《め》であるナスティに、あのひとの分まで幸せになるなどという考えが思い浮かぶだろうか。自分のことを想いながら死んでしまった男のことを横にしりぞけて、別の男との恋を楽しんだり、家庭を持って愛することができるだろうか。
女は強い生き物だとシルヴィンの母は言うが、そうなった場合ナスティが立ちなおるのにはかなりの時間を要するように、シルヴィンには思われる。
ナスティは優しい。優しすぎるほど、優しい。
だからこそシルヴィンは|余《よ》|計《けい》に|哀《かな》しいのだ。
|轟《ごう》! と激しい火炎がシルヴィンの飛龍を襲った。
シルヴィンの飛龍は、|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》、翼を返してその下をかいくぐる。
地面すれすれを滑空した飛龍の上を、真っ黒い影が飛びすぎた。
飛龍、|紛《まぎ》れもない、ヨルグのそれだ。
飛来した影に反射的に顔をあげたシルヴィンは、一瞬視界をかすめたそれの|手《た》|綱《づな》が揺れていたのを見て取った。
誰も乗っていない!?
「シルヴィン!」
兄の声がした。
少し向こうの岩陰に兄の大きな飛龍がいた。
岩の下にうずくまった兄は、両手で大きな布包みを抱いている。
|大《おお》|柄《がら》な|体《たい》|躯《く》の兄でも、背に|担《かつ》ぎあげるのに力を要するほどに大きなものだ。
ひと一人分ほどもある包みだ。
シルヴィンは飛龍を兄のほうに向けながら、ゆっくりと|瞬《またた》いた。
思考が|麻《ま》|痺《ひ》していた。
考えまいと、思い当たるただ一つの|事《こと》|柄《がら》を拒否していた。
「シルヴィン!!」
兄が|怒《ど》|鳴《な》った。
「その飛龍を殺せ! ヨルグは死んだ! ヨルグをかばって一緒に|火傷《や け ど》を負ったそいつも、もう長くは持たない! 苦しがって暴れているんだ! ひと思いに殺してやれっ!!」
見境なく吐かれる火炎。飛龍は熱く焼けた岩に激突し、熱湯の|間《かん》|欠《けつ》|泉《せん》を吹きだす|溜《た》まりに突っこみ絶叫する。逃げ|惑《まど》い、のた打ちまわって飛びあがる。
「早くシルヴィン! 迷うなっ!!」
血を吐くほどに、|哀《かな》しい兄の声。
兄も、ヨルグの飛龍を|捕《つか》まえるときに同行した一人だった。素晴らしい飛龍が見つかったと、ヨルグと肩を|叩《たた》いて喜びあった一人だった。
ヨルグを好いていたし、飛龍にも愛着があった。
生命の|尊《とうと》さをシルヴィンに教えてくれた兄だった。
羽ばたき迫り、間近くなる飛龍の絶叫。
シルヴィンは腰帯に差した宝石つきの短剣を|鞘《さや》から抜いた。
腕が動いた。
びくりとして、シルヴィンは目を開ける。
夢を見ていたらしい。
シルヴィンは立派な部屋の|天《てん》|蓋《がい》つきの寝台の上に寝かされている。
ぱちぱちと|瞬《まばた》きした。
記憶がこんがらがっていた。
よく頭を整理する。
ヨルグという若者が村に来て、仲良しのナスティが|怪《け》|我《が》をしたのは、一年近く前の話だ。
シルヴィンは短剣を使い、初めて飛龍と戦って、それを|仕《し》|留《と》めた。かなり重症の火傷を負い、狂ったように暴れていた飛龍だった。正気な判断能力を欠いていた飛龍だったが、そうであるがゆえに、野性の凶暴さをむき出しにして襲いくる。|厄《やっ》|介《かい》な相手だった。
シルヴィンのお守りである、宝石つきの短剣。
龍笛を仕込んだ、彼女だけの特別な物。
|滅《めっ》|多《た》なことでは使われないそれを。
最近、抜いていた。
新しい記憶が戻ってくる。
がばっとシルヴィンは寝台から体を起こした。
浅く無数に負った|火傷《や け ど》で、体じゅうにぴりぴりと痛みが走った。
そうだ。聖地クラシュケスに行った。|招喚《しょうかん》の|乙《おと》|女《め》に選ばれた者たちのための飛龍を届けに。
そこの龍舍を暴徒が襲い、飛龍のうちの|選《え》りぬきの一頭が、あの|極《ごく》|悪《あく》|人《にん》として名高い|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》、ディーノに奪われたのだ。
シルヴィンはその飛龍を取りもどそうとしてディーノを追っかけ。
地面の|亀《き》|裂《れつ》に足を踏みこんだのだ。
落ちた。
かなりの深みが口を開けて待っていた。
誰かが腕を|掴《つか》んだような気がする。
助けられたのだろうか。
シルヴィンは、首を|捻《ひね》って考えこむ。|残虐《ざんぎゃく》な行為に歓喜する|凶悪《きょうあく》な者たちの暴れ狂っていたあの場所に、シルヴィンを助けようなどという人間が、果たしていただろうか。
金髪に|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》。優しい|面《おも》|差《ざ》しの深緑色の|法《ほう》|衣《え》を着た|魔《ま》|道《どう》|士《し》の青年。
思い出した人物に、むっと|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になり、シルヴィンは|眉《まゆ》をひそめる。
確かにあの魔道士は剣の腕はたったし、魔道も立派に使っていた。
でも。
シルヴィンとそんなに体格が変わらない。いや、骨格から判断してもシルヴィンのほうが重いはずだ。あの軟弱そうな男の細腕で、シルヴィンのようにがっちりした娘を支えきれるわけがない。引きこまれて一緒に落ちこむのが関の山だ。
それでも。
シルヴィンがなんとか五体満足でいられるのは誰かが助けてくれたからだ。
この立派な部屋にシルヴィンを運んでくれた者が恩人ということになるのだろう。
シルヴィンは体のあちこちを確認するように、ゆっくりと体を動かして寝台から下りた。
衣服や短剣は寝台の|脇《わき》のラブソファに、きちんと並べてあった。
焼け|焦《こ》げた部分は|跡《あと》|形《かた》すら見当たらないほど見事に補修され、血でどろどろに汚れていた短剣も|研《と》いで|磨《みが》きこまれている。
女性であるシルヴィンを思いやってか、身支度を整えるのに必要だと思われるものは、顔を洗う水も鏡も何もかも整えてあった。
好意に甘えて使わせてもらい、シルヴィンは|綺《き》|麗《れい》に格好を整えて部屋を出た。
ひとを捜し、|館《やかた》の主人、命の恩人に礼を言わねばならない。
第五章 旅人
最初に感じたのは|屈辱《くつじょく》だった。
|蔑《さげす》まれ、あるいは|憐《あわ》れまりたりする対象としての自分。他人に優越感を与えるだけの、慰み者としての存在。
それに飼い慣らされることを、本能が拒絶していた。
「そら、食えよ!」
酒臭い声が乱暴に命じた。
甲まで真っ黒に毛の生えた大きな汚らしい手が、小さな頭を|鷲《わし》|掴《づか》みにして、地面に落とした|肉《にく》|塊《かい》の上にこすりつけた。
|痩《や》せっぽちの少年は、見せ物小屋の|操《あやつ》り人形のように|翻《ほん》|弄《ろう》され、頭から地べたに|這《は》いつくばる。
|夕《ゆう》|立《だち》の去った後の|潤《うるお》った地面は、ぐしょぐしょの泥でぬかるんでいる。
包みから投げだされた肉屋から買ったばかりの骨付き肉も、地面に押しつけられた少年の顔も、どろどろに汚れた。
「そらそら、そぉら!」
むさくるしい|髭《ひげ》|面《づら》で熊のように大柄な男は、泥を気管に吸いこむまいともがき暴れる少年の動きを楽しむように、力を入れたり|緩《ゆる》めたりしながらぐりぐりと少年の頭を|玩《もてあそ》ぶ。
露店を行きすぎていく者たちは、男になぶられている少年を見ながら、肩をすくめるだけで何も言わない。|一《いち》|瞥《べつ》をくれるだけで、何もなかったような顔をする。
人々は知っていた。この大柄な男が、右足を失う前は優秀な|傭《よう》|兵《へい》であったことを。風の|噂《うわさ》で名を聞いただけで全軍が震えあがるような、|悪《あっ》|鬼《き》そのものの戦いを得意とした勇者であったことを。そして彼が相手にしている子供が、親なしの流れ者であり、相当に|手《て》|癖《くせ》の悪い少年であることを。顔形は幾分整っていて|綺《き》|麗《れい》だったが、誰一人として同じ色を持たぬ黒い髪と青い|瞳《ひとみ》をしている|異《い》|端《たん》|者《しゃ》であることを。
第一線をしりぞけられ、得ていた|報償金《ほうしょうきん》で何不自由なく暮らしていける男。煮えたぎる|殺《さつ》|戮《りく》への欲望を持てあまし、ただ|酒《さけ》|浸《びた》りの日を送ることしかできぬ、社会不適応者。
守られることもなく、他人の物をかすめ取ることや汚い手段で命を繋いできた|卑《いや》しい子供。|街《まち》の中にいるだけで|厭《いと》わしい少年。少年をひきとるなどという物好きは、まともな考え方をする人間の中にはいない。異民族である彼がいったいどのような種族の人間であるのか、想像がつかないからだ。彼の肉親者が、自分たちの利益しか考えぬ利己的な征服者となるような|蛮《ばん》|族《ぞく》でもあったなら、たまったものではない。|呪《のろ》われた血を持つ民族の子供であったなら、自分たちまで汚れてしまう。いい方向に考えるより、悪い方向に考えておいたほうが、後々慌てなくてもすむ。|酷《ひど》い目にあわなくてもすむ。関わりを持たないほうが、|無《ぶ》|難《なん》なことに間違いはない。だから、力弱い子供であるうちに自分たちの|側《そば》から追い払いたいと、誰もが思っている。
戦場でしか生きられぬような凶暴な男が少年にちょっかいを出していても、誰も責めない。
男を非難して|機《き》|嫌《げん》を|損《そこ》ね、彼が|狼《ろう》|藉《ぜき》を働く対象が自分に移行してはたまらない。
少年がいじめ殺されたとしても、自分たちに罪や責任はないと思っている。
直接手を下していないのだから、関係ないはずだと思いこみ、信じて疑わない。
本当の罪は、ひとの心に根づくものであることを、知らない。
汚れていくのは手や誇りや名声などではなく、|魂《たましい》の本質であることに気づいていない。
少年は抵抗をやめなかった。
男は手をのけなかった。
泥まみれになりながら、時間が過ぎた。
泥を鼻や口から吸いこみ、吐きだしながら苦しげに|喘《あえ》いでいた少年は、息を詰まらせて失神した。一言も弱音を吐かなかった。男に許しも|乞《こ》わなかった。
少年が男に詫びたり|媚《こ》びたりする理由は、どこにも存在していなかったから。
男は|下《した》|顎《あご》を突きだし鼻に|皺《しわ》を寄せて、不機嫌に目を細め少年の|襟《えり》|首《くび》を|掴《つか》んで持ちあげる。
|造《ぞう》|作《さく》の判別のできないほどにどろどろに汚れた少年の顔が引きあげられ、朱で|斑《まだら》に染まった泥水が|滴《したた》りおちた。鼻と食いしばった|歯《は》|茎《ぐき》から流れでた血が混じっているのだ。
泣いていなかった証拠に、目の回りは泥の|塊《かたまり》で|縒《よ》れている。
男はふんと鼻を鳴らし、|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に少年を|逆《さか》さにして揺さぶった。
ごぽりと音がして、少年の口から大量の泥水が吐きだされた。
ひく、ひくひくと|痙《けい》|攣《れん》し、少年の胸が大きく|膨《ふく》らんで再び規則正しい呼吸運動をはじめる。
道端に泥にまみれて転がった肉を拾いあげ、男は荷物を入れた皮袋か何かのように乱暴に少年を肩に|担《かつ》ぎあげると、酒に酔っ払った|覚《おぼ》|束《つか》ない足取りで、ふらふらと寝ぐらへと帰った。
水を打たれて少年が目を開いた場所は、相当のがたの来た|荒《あば》ら|屋《や》と呼ぶに|相応《ふ さ わ》しい小屋の中だった。
|釘《くぎ》が抜け、|捲《めく》れあがった|床《ゆか》|板《いた》が少年の|頬《ほお》を持ちあげている。
濡れた少年の体からこびりついていた泥が溶けおち、|汚《お》|濁《だく》した|雫《しずく》が|水《みず》|溜《た》まりに落ちる。
薄く開けた目に、大きな足が見えた。
|頑丈《がんじょう》そうな大きな|体《たい》|躯《く》をした男が立っていた。右足が|杖《つえ》に似たぶざまな作り物になっていた。
少年は遠のいていた記憶を呼びよせ、その男が誰で自分にどのようなことをした者なのかを思い出す。
火のような怒りが少年の内で爆発した。
少年の|瞳《ひとみ》が、かっと見開かれた。
男はそれを|見《み》|逃《のが》さなかった。
野生の山猫を思わせる素早い身のこなしで少年が跳ね起きた。
待ち受けていたように|狙《ねら》い定め、少年の両足の向こう|脛《ずね》を、男は義足の先で打ちのめす。
少年はもんどりうって倒れた。
鋼鉄の義足が少年の|痩《や》せた足を|砕《くだ》かなかったのが信じられないほどの、痛烈な一撃だった。
しびれて感覚をなくした足は動かない。
内出血し|紫色《むらさきいろ》に変色した|打《だ》|撲《ぼく》の|痕《あと》が、じわりと|肌《はだ》に浮き出る。熱を帯びて|腫《は》れあがる。
|微《かす》かな悲鳴をもあげまいと、少年は血の|滲《にじ》むほど強く|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
苦痛に耐えながら、上半身を持ち上げようと、腕をつく。
浮き上がった少年の背を、男は|容《よう》|赦《しゃ》なく義足で踏みつけた。
|轢《ひ》き|潰《つぶ》される|蛙《かえる》のように、少年はべたりと床に|這《は》いつくばった。
踏みつけられながら、屈することなくもがいた。
ざぎざぎにささくれた床板を擦って手が裂けた。板の間にひっかかって|爪《つめ》が割れ、|剥《は》がれた。床から折れでた釘が、暴れるたびにぐさぐさと腕や足に突き刺さった。
それでも。
少年は抵抗を続けた。
少年を見下ろし、男は目を細める。
にいっと笑った。
愉快で|堪《たま》らないというように、|笑《え》み|崩《くず》れた。
「|悔《くや》しいか?」
男は静かに少年に問うた。
答えるかわりに、少年は男を|睨《ね》めつけた。
青い|瞳《ひとみ》で|射《い》|殺《ころ》そうかという勢いだった。
「悔しいか?」
笑いながら、男は問うた。
少年はぎりぎりと歯を食いしばる。
少年には、けっして力などには屈しない確固たるものがあった。|貧《ひん》|相《そう》に|痩《や》せた体には似つかわしくない、|雄《お》|々《お》しさがあった。
慣れぬ。
絶対の存在位置を持っている。
|魂《たましい》の格を有している。
「悔しいか?」
三度男は問い、少年は|獣《けもの》じみた|唸《うな》り声に|咽《のど》を鳴らした。
男は|唇《くちびる》に太い笑みを浮かべる。
少年の背から義足をのけ、彼を部屋の|隅《すみ》に蹴りこんだ。
少年は|床《ゆか》の上に散乱していた|壺《つぼ》や汚らしい衣類の山をなぎ倒し、床の上を跳ね転がった。
壁に激突して止まる。
|嫌《いや》というほどしたたかに背を壁に打ちつけていた。義足で蹴られた脇腹は、|肋《ろっ》|骨《こつ》にひびの一つくらい入っていても不思議はないほど、|鋭《するど》く痛んだ。呼吸をしようと|喘《あえ》ぐたびに、体に激しい痛みが走る。不覚にも|滲《にじ》み出た涙を耐えようとして、少年はくわっと目を見開く。
顔を上げた少年の唇の端から一筋の血が|滴《したた》り落ちた。
ゆるりと身を起こした少年の目の前に。
ぼとりと何かが落ちた。
男から投げられた、それ。
泥にまみれた骨付き肉。
ぎりっと瞳を険しくし少年は男を|睨《にら》む。
男は|顎《あご》を上げ、|蔑《さげす》むように少年を見下ろした。
「本当に悔しいのか? 悔しいのならそれを食らえ」
普通の神経を持っている者ならすくみあがってしまうだろう声で|挑《いど》みかける。
少年が|脅《おど》しなどに従わないことは男にはわかっている。
わかっていて食らえと言っている。
少年の幼すぎる思考には理解できない。真意を|掴《つか》み|損《そこ》ね、少年は|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》に駆られる|獣《けもの》の目で男を見つめる。
男はせせら笑った。
「お前は子供よ」
笑いながら|自嘲《じちょう》していた。
少年は男の|思《おも》|惑《わく》を少ない言葉から読みとろうと懸命になる。
子供は、やがて|大人《お と な》になる。
大人になるためには生きぬかねばならない。
幾度となく食さねば、生きて大人となることはできない。
悔しければそれを見返せるようになればいい。
見返せるだけの大人になればいい。
|貪《どん》|欲《よく》に食し、|自《みずか》らの力で肉体を築きあげる必要がある。
家も親兄弟もないのなら、自分だけが頼りなのだ。
体だけが財産となる。
力ある肉体を持つ必要がある。
自分を頼り、力を信じて|戦《せん》|鬼《き》となり、生きぬいてきた男。男にとっては、形ある自分こそが絶対の価値を持つものだった。
片足を失い、|利《き》き腕さえ神経に損傷を受けて物を持ち上げることすら困難になってしまった今。手元には戦場での栄誉を|称《たた》えた使いきれないほどの|報償金《ほうしょうきん》と、|勲章《くんしょう》があった。何不自由なく一生遊んで暮らせるだけの大金と名誉。しかし男には、戦場で死ぬことを許されず、飼い殺しにされているという納得できない気持ちだけが残っていた。
教育過程のいっさいを受けず、独自の形で戦う方法を|会《え》|得《とく》してきた男には、上品に戦記を講義したり訓練を指揮するような「戦争ごっこ」はできない。他人に物を教えられるような人間ではない。事実幾人もの軍訓練生を再起不能にしてしまった男であったから、ただ名声を与えられただけの嫌われ者になり下がってしまったのだ。
体がかつてのように思いどおりにならないからこそ、男は少年に約束されている未来を|羨《うらや》んだ。炎のような激しさを持つ少年の|性根《しょうね》を嬉しく感じた。こいつならこのままで済むはずがない、きっとどうにかなるはずだと、期待に胸|弾《はず》ませることができた。
自覚さえあったなら。
少年は|床《ゆか》に転がる泥まみれの骨つき肉に食らいついた。命を繋ぎ、自分という存在を力として築きあげていくために。
腐敗しはじめていた肉は、|微《かす》かに甘く少年の|舌《した》に|絡《から》んだ。
「自分の力で、勝手に生き抜け」
男は肉を|咀嚼《そしゃく》する少年に向かってつぶやいた。
同族や肉親を知らない。生まれた場所を知らない。家を持たない。たしかに、ディーノには何もなかった。この名すら、誰がどういう|意《い》|図《と》でつけたのか、彼は知らない。
ただの孤児、捨て子として扱われることは、彼にはできない。同情や|憐《あわ》れみはいっさい欲しくなかった。少年を弱者と決めつけ自分を高みにおく愚かしい者たちの接触を|頑《かたく》なに|拒《こば》んだ。そして世間も、少年が黒い髪と青い|瞳《ひとみ》を持つという、世間一般とは人種を|違《たが》えた者であるために常に一線を引いて考えていた。優しさだけで近寄ってくる物好きはいない。
またディーノはほかに|隷《れい》|属《ぞく》せず、けっして誰も|追《つい》|随《ずい》しないという揺るぎない信念を持っていた。
あざけられ|詰《なじ》られながらも絶対に屈しない。誰もディーノの意思を変えることはできない。
成長するにつれて、生まれながらにしてディーノに与えられていたものが、見事なる形を結びはじめた。
もともとが整った|造《ぞう》|作《さく》をしていた|面《おも》|差《ざ》しは、信念に|彩《いろど》られ品格さえ備えた|精《せい》|悍《かん》さを帯びたものとなった。男らしく、りりしく引きしまったものとなった。
計画的に鍛えあげられた肉体は見事なる筋肉をまとい、しなやかな|鋼《はがね》を思わせる|強靭《きょうじん》なものとなった。|俊敏《しゅんびん》なバネを秘めた腕力も脚力も、誰にもひけをとらない。全身あますところなく見事で、彼一人の力さえあればと|羨《せん》|望《ぼう》されるほどのものを身につけた。飾りではない実用的な肉を形よくつけ、しかもすらりと引きしまった|体《たい》|躯《く》は、生きた彫像のそれである。誰もがその姿形だけで、|惚《ほ》れ|惚《ぼ》れと彼に見とれた。そして根拠のなさを|卑《ひ》|下《げ》することのない、恐れを知らぬ|威《い》|風《ふう》|堂《どう》|々《どう》とした態度に、圧倒される。
誰にも頼ることができなかったから。
ディーノは自分で自分を築きあげた。
確固たるものに。
|唯《ゆい》|一《いつ》の種族であればこその|威《い》|厳《げん》を持った。
彼が一人であるが|故《ゆえ》に王を名乗った。
そうして|然《しか》るべき存在となった自分を、無理にでも世間に認めさせた。
|逆《さか》らう者は|容《よう》|赦《しゃ》しなかった。許容する必要はなかった。彼の行く手に立ち|塞《ふさ》がるものは、ことごとく|排《はい》|斥《せき》されねばならないのだ。
そしていつか|流《る》|浪《ろう》を終えることのできる日が訪れる。
彼こそが、華麗にして|猛《たけ》き者、|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》ディーノ。
ふっと目が開いた。
ディーノはゆっくりと|瞬《まばた》きを繰り返す。
立派な寝台で眠っていたらしく|天《てん》|蓋《がい》がある。
|清《すが》|々《すが》しく|心地《こ こ ち》|好《よ》い|香《こう》の|匂《にお》いが空気に満ちていた。マントルピースの上に置かれた|白《はく》|磁《じ》の|香《こう》|炉《ろ》で、ディーノの好むジェバンの|香《こう》|木《ぼく》が|焚《た》かれ、|薄紫色《うすむらさきいろ》の細い煙をくゆらせている。
寝台は絹と清浄な羽毛の匂いがした。与えられているすべてが最高級の寝具だ。
いや、軽く見渡し目についた限りの調度品も、クリスタル、大理石金銀皮革と、相当の|目《め》|利《き》きであるディーノでさえ自分を疑うほどに立派なものが集められている。ざっと換算してみただけで、天文学的金額になるはずだ。
静かに首を巡らせたディーノの動きに、寝台の|側《そば》の台の上で片づけ物をしていた少年がびくりと背を正して振り返った。
甘い|蜂《はち》|蜜《みつ》|色《いろ》の金髪に緑色の|瞳《ひとみ》をした少年は、涼しい切れ長のディーノの瞳に見返され、かあっと顔に|朱《しゅ》を広げてうろたえたように笑う。
「も、申し訳ありません、つい手が滑ってしまいまして……」
台の上でがちゃがちゃと音を立てて、|鞘《さや》を|拭《ふ》こうと剣の下に入れていた布を引き抜いた。台の上には子供の|背《せ》|丈《たけ》ほどもある、ディーノの長剣が乗せてあった。おそらく持ちあげることができなかったので、布を|鞘《さや》や|柄《つか》の下に敷き動かして、磨こうと思ったのだろう。物音をたててしまい眠りを|妨《さまた》げたという|脅《おび》えと|媚《こ》びの入り交じった複雑な表情が、|曖《あい》|昧《まい》な|笑《え》みの形に見えたのだ。
ディーノは青い目をすうっと細め、少年から目をそらす。
少年はどう見ても家柄と育ちのいい貴族の子息だった。行儀見習いに、高位の者のもとに奉公しているというような|風《ふ》|情《ぜい》だ。
体のどこにも異常がないことを確かめながら力を入れ、ディーノはゆっくりと上半身を起こした。痛む場所もなければ、不快な部分もない。
「|湯《ゆ》|浴《あ》みの用意ができています」
おずおずと、少年はディーノに声をかけた。
「あぁ」
|微《かす》かにざらりとした感触を残す|額《ひたい》にかかる髪を払ったディーノは、|物《もの》|憂《う》げに首を縦に振った。
この部屋の本来の|主《あるじ》ででもあるかのような|悠《ゆう》|然《ぜん》とした仕草で寝台を下りるディーノにかしずき、少年は|小姓然《こしょうぜん》とした動作で隣室の|扉《とびら》を開いた。
適温に保たれた清らかな湯をたたえる大理石の広い|浴《よく》|槽《そう》が、やわらかな|湯《ゆ》|気《げ》をあげている。
浴槽の手前で歩を止めたディーノの夜着を、うやうやしい手つきで少年が脱がせた。
そうさせてやるのが当然のように、ディーノは微動だにしなかった。威厳に満ちた態度に圧倒されて|萎縮《いしゅく》した少年は、びくびくしながらディーノに|仕《つか》える。ディーノは少年になど目もくれなかった。ディーノは湯に足を踏みいれる。
見事なる形を有する裸身がゆったりと進み、静かに湯の中に沈んだ。脱がせて預かった衣類を|畳《たた》むことすら忘れ、少年はディーノの後ろ姿に見とれた。目の前にあったそれは、湯気による|紗《しゃ》をまとい、幻想的にまで見えた。思わず|溜《た》め|息《いき》が漏れ出るほどに、美しい身体だった。男という生き物が、こんなに|綺《き》|麗《れい》な形を持っていたのかと、少年はしみじみと考えた。ディーノは、確かにどんな美術工芸品でもお目にかかれないほどに、優れた容姿を持っていた。
|惚《ほう》けた表情で少年はディーノを鑑賞し続けた。ディーノはそのようなことには|馴《な》れているのか、視線を|歯《し》|牙《が》にもかけない。ディーノにとっては、それで当たり前のことなのだ。
流せと命じられ、少年はどきどきと胸で|早《はや》|鐘《がね》を打ちながら|石《せっ》|鹸《けん》をもってディーノの|肌《はだ》に触れた。引き締まって|鋼《はがね》のように固く、しかも滑やかで弾力がある。熱い。肌に触れてわかる骨の形、肉の厚み、筋肉の具合。脈動する確かな存在。手に伝わる鼓動。
ディーノが生きていることが、|至《し》|福《ふく》の喜びに等しい出来事だった。|恍《こう》|惚《こつ》としながら、少年は務めを果たすためディーノに触れ続けた。
無言で宙を|睨《にら》みながら、ディーノは記憶の糸を繋いでいた。
アル・ディ・フラの塔に|幽《ゆう》|閉《へい》されていた罪人であったはずの自分が、なぜ今優遇されているのか疑問に思った。どう考えても|辻《つじ》|褄《つま》が合わず、素直に信じ難い。
|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》としてのディーノの|残《ざん》|忍《にん》さ非情さを知らぬ者はいない。|凶悪《きょうあく》な|殺《さつ》|人《じん》|鬼《き》であり重犯罪者であるのに、人々の|羨《せん》|望《ぼう》を集めてやまない理由を、少年はそこはかとなく理解した。
少年の目の前にいるこの男であるならば。何をしでかしたとしても、きっと見とれてしまうに違いない。|凄《せい》|惨《さん》なる血の祝宴に酔っていようとも、おそらくその彼を美しいと思うに違いない。華麗だと感じるに違いない。
ひょっとすると、|自《みずか》らディーノに命を奪われるために、|側《そば》に近寄ろうとするかもしれない。
激しく燃えあがる|篝火《かがりび》の炎に群がり寄る、愚かでちっぽけな|羽《は》|虫《むし》のように。
この男と比べるならば、誰も虫けらほどの魅力しか持っていないのかもしれない。
本質が持っている真の美しさには、かなうはずもないのだ。生まれながらの宝玉と作り出された色|硝子《ガ ラ ス》とは、明らかに優劣をもって隔てられている。どんなに似かよって見えようと、違いは明白である。
|丁《てい》|寧《ねい》にディーノを磨きあげた少年は、くどくなろうとする奉仕を断念した。少年のごとき存在には、ディーノの時間を奪うなどという恐れ多い行為は許されてはいない。
ディーノの着替えを終わらせた少年は、いいつかっていたことを伝えた。
「女王トーラス・スカーレン様と|魔《ま》|道《どう》|師《し》のエル・コレンティ様たちが礼拝堂でお待ちになっておられます」
少年の口をついて出た名に、びくんとディーノの|眉《まゆ》が反応した。
そうだ。
女王たちが関与しているとすれば、彼に与えられたこの待遇も不自然なく理解できる。これほどの|贅《ぜい》を尽くせるのは、あの高慢な連中しかいない。
だがなぜ。
女王も|魔《ま》|道《どう》|師《し》もディーノを|憎《ぞう》|悪《お》しても、歓待することはないはずだ。
何かよからぬ|思《おも》|惑《わく》があるのか。
「これよりすぐに参りますか?」
少年はディーノの|機《き》|嫌《げん》を|伺《うかが》った。
ディーノは少年を|一《いち》|瞥《べつ》する。
若いというよりまだ幼い。女王たちがいったいどのようなつもりでこんな|乳《ちち》|臭《くさ》い子供を|側《そば》に置いたのか、ディーノにはわからない。相手が子供だと気を許すとでも考えたのだろうか。
(愚かな)
ディーノは目を伏せる。ディーノにはいかなる時でも油断などということはない。相手がたとえどんな人間だろうと|容《よう》|赦《しゃ》しない。
それが、|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》と呼ばれる|所以《ゆ え ん》。
ディーノは、ふっと笑った。
この世にディーノを呼びつけるような者は存在しない。
「女王たちに伝えよ、出向いて来いと」
一瞬、少年は自分の耳を疑った。
|茫《ぼう》|然《ぜん》として聞き返すように見返した少年に、ディーノはすうっと目を細める。
ディーノは冗談を言ったわけではない。
少年は|戦《おのの》きながら早口で返事をし、慌てふためいてディーノの前からしりぞいた。
まろぶようにして言葉を伝えに礼拝堂へと駆けた。
第六章 相違
あてがわれたのは|誉《ほま》れ高い武人に|相応《ふ さ わ》しいような|豪《ごう》|奢《しゃ》な衣服だった。そのまま一軍を|率《ひき》いて戦場に|赴《おもむ》くこともできるだろう、丈夫な素材を用い形よく|頑丈《がんじょう》に仕立ててある。|肌《はだ》|触《ざわ》りも吸湿性も運動性も申し分ない。何より大きさと微妙な仕立てが、体にしっくりと|馴《な》|染《じ》んだ。
ディーノは|槍《やり》ほども長い巨大な剣を台から取りあげ、背に負う。剣と一緒に置かれていた衣服と|揃《そろ》えて|誂《あつら》えたであろう簡素な形の立派な|鎧《よろい》を身につける。
どうにも話がうますぎる。この部屋にしてもディーノが気にいるよう何から何まで揃えられすぎている。手のひらを返したような態度が気にいらない。
ディーノは女王が嫌いだ。エル・コレンティ|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》も嫌いだ。剣で|微《み》|塵《じん》に|斬《き》り殺しても余りあるほど|憎《にく》み、|嫌《けん》|悪《お》している。
その思いはディーノだけでなく、女王たちも同じであるはずだ。
|幽《ゆう》|閉《へい》では飽き足らず、|新《あら》|手《て》の方法に出たのかもしれない。
飼われ|馴《な》らされるのはディーノの意にそぐわない。
このような|館《やかた》に住みたいのなら、|主《あるじ》を殺し奪うまでのことだ。自分から望んで勝ちえたものでない物にはいっさい未練はない。どんな|贅《ぜい》|沢《たく》もディーノを|魅《み》|惑《わく》することはない。もと着ていた汚れた衣服は取りあげられてしまったため、ディーノに合わせて特別に仕立てたのだろうこの衣服で|我《が》|慢《まん》してやるにしても、こんなことで|機《き》|嫌《げん》をとったつもりになられては|迷《めい》|惑《わく》だ。
余さず好みを知り尽くし、彼のために揃えられた部屋に|辟《へき》|易《えき》としたディーノは掃き出し窓のほうに足を進めた。外の空気を吸おうと思った。|扉《とびら》から出て、その外に誰かいようものなら、|何《ど》|処《こ》に行くのかと問いかけたり、|煩《うるさ》くまとわりつくに決まっている。女王たちを呼びつけた手前、ふらふらと出歩くディーノを野放しにしておくはずはない。
待つつもりがあるなら、待てばいい。
どうせディーノに|火急《かきゅう》な用事などない。あったとしたらそれこそ|物《ぶっ》|騒《そう》な|目《もく》|論《ろ》|見《み》だけだ。
ディーノは冷淡に割り切って、テラスから外に出た。
テラスの外は|瀟灑《しょうしゃ》な中庭になっていた。
大理石や白亜の石像や彫像などの美術的価値の高そうなものが、趣味よく配置されている。ただ、白い|石畳《いしだたみ》で|覆《おお》われたそこはそれだけで、人工的な飾りしかない分、|空《くう》|虚《きょ》で|閑《かん》|散《さん》とした感じがする。土や水が腐り果ててしまい、緑などの|瞳《ひとみ》を|憩《いこ》わせるものが何も存在しないからだ。見苦しく|変《へん》|貌《ぼう》を遂げてしまった物は皆、どこかに片づけられてしまって、かつてを思いださせることはないのだ。
(これがあの連中のやり方だ)
|微《かす》かに|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に|眉《まゆ》をひそめ、ディーノは思った。
自分たちに害を及ぼすと判断すれば、ことごとくを|排《はい》|斥《せき》する。表面を取り|繕《つくろ》い、満足する。
(人殺しの|屑《くず》どもでも、取り澄ました上品なだけの奴らよりずっと正直だ)
(|自《みずか》らの手を用いずに汚いことをする者と、自力で罪を犯す者にどのような違いがあるのか)
|幽《ゆう》|閉《へい》し食い物も与えずに飼い殺しにすることと、剣を振るって殺すことに違いがあるのか。
ディーノから見れば、身勝手な理屈ばかりだ。
もともと誰にも受け入れられず、|疎《うと》まれながら育ってきたディーノ。社会からはみ出していた存在であるディーノが、今さら社会に従わねばならない道理など、どこにもない。
ディーノはいつでも、勝手に生きる。
生きられる。
ディーノのいる離宮のような|館《やかた》は、このあたりに幾つか固まって建てられている。
王都に訪れた特別な客用の|別《べつ》|棟《むね》といったところか。
王宮にはかなり昔に、夜盗まがいで忍びこんだことがある。身分の高い者のみに出入りを許された警備の厳しい王都といえど、ディーノに知らぬ場所などない。この離宮は王都の中心である王宮の近辺、王宮からすぐ南に位置している場所だ。女王たちが待っているらしいところから、そんなに隔たっているわけではない。どうせ|尻《しり》の重たい高慢な連中だから、呼びつけたところでなかなかやってこないだろうが。
|客分《きゃくぶん》としてもてなされる覚えはディーノにない。
女王だとか偉そうなことをいっても、このディーノがわざわざ会ってやる必要もない。
気が向かねばディーノはこのまま|行《ゆく》|方《え》をくらます。それが当然だ。行きがけの|駄《だ》|賃《ちん》に、建物に火をかけてやるくらいの奉仕をするかもしれない。それくらいの|覚《かく》|悟《ご》なしではディーノに関わってはいけない。あの女王たちなら当然、そんなことくらい百も承知なはずだ。
本当にディーノに会いたければ、間近く控えて目覚めを待ち受けるくらいの周到さがなくては|駄《だ》|目《め》だ。いかなる因習や規律にも従わず、気ままに生きるディーノから自由を奪える者はいない。
空は相変わらずの悪天候だった。不景気にどんよりと曇り、陰気な|雷《かみなり》が遠くで鳴っている。
|獄《ごく》|舎《しゃ》アル・ディ・フラの塔でディーノたちと同様に|幽《ゆう》|閉《へい》されていた|邪《よこしま》なる|黒《くろ》|魔《ま》|道《どう》|師《し》バリル・キハノは、滅亡に|瀕《ひん》した世界を救おうという伝説の翼ある|乙《おと》|女《め》の|招喚《しょうかん》の瞬間に、神秘と不可思議を繋ぐ|扉《とびら》が開かれ、この世にある不思議が増大するのだと言っていた。それをきっかけにしてキハノは自由と本来の魔道力を取り戻し、ディーノたち罪人を聖地に解き放ったのだ。
確かにその瞬間は訪れたのだ。
だが招喚は成功したのか、それとも失敗に終わったのか、ディーノに知る|由《よし》もない。
天は血の雨を降らせた。聖地の大地はより大きく鳴動して割れ|砕《くだ》け、建物は倒壊した。|凄《すさ》まじい|落《らく》|雷《らい》が襲った。
いくらかはキハノのしでかしたことなのかもしれない。キハノならきっと|造《ぞう》|作《さ》もなくあれくらいのことはやってのけられるはずだ。|呪《のろ》われた、おぞましい血の祝福を与え、招喚の喜びにわく人々に精神的衝撃を与えて気力を奪うことくらいはする。
それにしても。
|縁《えん》|起《ぎ》は悪い。悪すぎる。
|陽《ひ》の高さから見て、あの日ではない。どのくらいかはわからないが、かなり長いあいだ眠っていたように思う。
黒雲を浮かべて不穏に揺れる天空。|微《かす》かに腐敗臭のする冷たい風。自然のそれらに何も変わった|兆《きざ》しが感じられないとすると、世界はまだ救われていないことになる。
伝説の乙女の招喚はならなかったのか。
世界はやはり滅亡へと進むしかないのか。
思いを巡らせ、ディーノはふんと鼻を鳴らす。
どのみち彼に関係ない。なるようにしかならぬのだ。たかがひとの分際で自然に対抗しようなどと、大それたことをディーノは考えない。お|伽話《とぎばなし》に踊らされ無駄な時間を過ごすより、もっと有意義に残された時間を楽しむ方法はいくらでもあるはずだ。
どうせ世界が滅亡するのなら、皆が死なねばならないのなら。
欲しいものは手にいれる。何がなんでも奪い、自分のものにする。
思い残すことなどないように、考えつく限りのことを|堪《たん》|能《のう》すればいい。
例えば。
一瞬|脳《のう》|裏《り》を|閃《せん》|光《こう》のように|眩《まぶ》しくかすめた|面《おも》|影《かげ》に、ディーノはびくりとして歩みを止めた。
|突《とつ》|如《じょ》鮮明に思い描かれた人物の姿に、全身が熱くなった。
それは。
ディーノの|抱《ほう》|擁《よう》と|唇《くちびる》を拒絶した|唯《ゆい》|一《いつ》の女性。
一人の|香《かぐわ》しき|美《び》|姫《き》。
優しく|麗《うるわ》しい|面《おも》|差《ざ》しを険しくし、|可《か》|憐《れん》な|声《こわ》|音《ね》でディーノを非難した|乙《おと》|女《め》。
彼が最近、最後に腕に抱いた女性。
まろやかな曲線を描く、|蠱《こ》|惑《わく》に満ちた優美な肉体を持っていた乙女。
甘い|吐《と》|息《いき》を|絡《から》めた、やわらかくしなやかな|温《ぬく》もりと感触が、強くかき抱き触れ合った腕と体に|蘇《よみがえ》る。
どきどきと心臓が高鳴った。ほてるように体が熱い。頭の|芯《しん》がぐらぐらする。落ち着かず、足が地につかない。
ディーノは強く頭を振った。
何が自分に起こっているのか、わからなかった。
気になる。
息苦しいほどに、気になって|仕《し》|方《かた》ない。
こんな気持ちになったことなど、今まで一度もなかった。
たかが女一人だ。女なら世界じゅうにいくらでもいる。確かに見たこともないほどに|綺《き》|麗《れい》な顔をしていたが、|所《しょ》|詮《せん》美しさなど皮一枚だ。|歳《とし》をとれば、見る影もなく|無《む》|残《ざん》に|朽《く》ち果てる女だ。|刹《せつ》|那《な》にしかすぎぬ美に、これほどまでに|固《こ》|執《しつ》するなど、とても考えられない。
だとすれば|何故《な ぜ》。
ディーノはいらいらと理由をまさぐった。何かしら捜し出そうと努めた。
そしてそれは、確かにあった。
彼女のあの長い髪と|瞳《ひとみ》だ。ディーノのそれと同じ黒い髪と青い瞳。世界で彼にだけ与えられたと思っていた、色だ。それゆえに|疎《そ》|外《がい》され、|虐《しいた》げられてきた|元凶《げんきょう》だ。
だから、気になっているのに違いない。
きっとそうだ。
ディーノは自分を納得させるように、何度もそう頭の中で繰り返した。
落ち着きをなくし、あてもなくずかずかと庭を歩いていたディーノは、瞳の|端《はし》をかすめたものに、はっと足を止めた。
しなやかに泳いだ黒いもの。
優雅に風を受けてそよぐ、長い黒髪。
ディーノは|弾《はじ》かれるように|踵《きびす》を返す。
そこは一つの離宮のテラス。手すりに一人の|乙《おと》|女《め》が腰掛けている。|物《もの》|憂《う》げに顔を曇らせている。
しかしそれでも。
美しい。
口の中がからからに|干《ひ》あがってしまうほどに、圧倒される。
あれほど美しいと思い描いた幻影であっても、実物の足元にも及ばない。
すぐ向こうにあの乙女がいる。
とくとくと脈打つ|温《あたた》かい|血《けつ》|肉《にく》と体液に|潤《うる》む、|芳《かぐわ》しく甘いやわらかな身体がある。
乙女に向かい、ふらりと足を踏み出したことに驚いて、ディーノは我を取り戻す。
いったいどんな間の抜けた顔をしていたのだろうかと考えて|憤《ふん》|慨《がい》した。
およそ自分らしくない態度に、|嫌《けん》|悪《お》すらする。
ディーノは自分にしっかりと言い聞かせた。思い起こさせた。どんなに|見目形《みめかたち》が|麗《うるわ》しかろうと、それがその人物の本質を決定するものではない。いままでがそうだった。美しく着飾った高慢な姫君も、|所《しょ》|詮《せん》ただの女にすぎない。強い者には|媚《こ》びて|機《き》|嫌《げん》を取ろうとし、浅ましく自分の欲ばかり追い求める。|娼婦《しょうふ》も|淑女《しゅくじょ》も、ディーノの前では何一つ変わらない。
あの乙女にしても、|瞳《ひとみ》に見える清浄さに|惑《まど》わされているだけだ。
ただ、髪と瞳の色については知りたい、聞きたいことがある。だから、近寄る必要があるだけだ。
ただ、それだけ。
気を取り直しディーノは乙女に向かう。
|雷《らい》|鳴《めい》が激しくなっていた。
乙女は、身をすくませ、|館《やかた》の中に逃げこむように腰をあげる。
かっと周囲が白く輝いた。
|雷《かみなり》だ。
耳をつんざく|轟《ごう》|音《おん》が鳴り響く。
庭のすぐ向こうに、光の柱が突き立った。
地震のようにぐらりと地面が揺れた。
じんと耳がしびれ、瞬間、思考が停止するほどの|衝撃《しょうげき》があった。
落雷の直撃を受けたそこに、火の粉を散らせて大穴が|穿《うが》たれていた。
乙女の姿は見えなくなっていた。
しかし中に入ってしまったのではない証拠に、掃き出し窓に近寄った様子もない。
だとすると。
さっきの落雷はディーノでさえ、ぴくんと反応したほど強烈な刺激を受けた。あの見るからにか弱そうな乙女なら、気を失っても不思議はない。手すりの向こう側で|頽《くずお》れているのかもしれない。
ディーノは|眉《まゆ》を寄せ、駆け寄るように足早に近寄り、手すりの上から|覗《のぞ》きこむ。
足元に近い位置で、長い髪に覆われた白い背中が震えているのが見えた。
|脅《おび》えてうずくまってしまったらしい。両手で耳まで|塞《ふさ》いでいる。
軽く肩をそびやかし、ディーノは石段になった部分まで進んだ。手すりはやや高いが越えられないほどでもなかった。だがそこまでしなければならないとは思えなかった。
|危《き》|惧《ぐ》し、慌てて助け起こしてやる理由などあるはずはない。
なぜだか|焦《じ》れる気持ちを抑えつけ、ディーノはわざとゆっくり乙女に近づいた。
乙女は|側《そば》に寄るディーノに気づくことなく、顔を伏せ、ぺたんと腰を落としている。
しみじみと、記憶が|蘇《よみがえ》った。
この|可《か》|憐《れん》で小柄な乙女は、こともあろうに|辛《しん》|辣《らつ》な口調でディーノを非難した。|逃《のが》れることなどできぬ確固たる力を持つディーノに捕らえられ、|飛龍《ひりゅう》の背で彼の腕に命を|委《ゆだ》ねながら、|臆《おく》することなく|睨《ね》めつけた。|抱《ほう》|擁《よう》する彼の腕に|抗《あらが》い、ぴたりと寄り添った体をか細い腕で引き|剥《は》がした。|唇《くちびる》を求めたそれに応じず、ディーノの|横《よこ》|面《つら》を張った。そして、ディーノの腕を振りほどき、飛龍の背から飛び降りたのだ。
そして。その後どうなったのか、ディーノにもわからない。覚えていない。
だが、こうして目の前にいるとなると、なんらかの方法で助かったのに違いない。
誰もが恐れ|戦《おのの》いた|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》ディーノに、真っこうから|挑《いど》んできた可憐なる乙女。
片手を腰に置き、ディーノは苦笑する。
「|霆《いかずち》には|脅《おび》えるのか?」
いかに悪名高いディーノといえど、天変地異以下なのか。
問いかけたディーノの声を耳にして、ぴくんと乙女の肩が反応した。
乙女は目の前にいる男が誰なのか、その|声《こわ》|音《ね》で思い当たったようだ。
|柳眉《りゅうび》を険しくして、乙女はディーノを見あげた。
きっと見開かれた、|透《す》きとおる深い色を|湛《たた》えた青い|瞳《ひとみ》は、泣きべそをかいていたように|潤《うる》みきって揺れていた。
まだ一言声をかけただけなのに、弱い者いじめをしているような|錯《さっ》|覚《かく》が起こる。
|雷《かみなり》で体がすくんでしまっているために、乙女はそこから動けなかった。
ディーノはすとんと腰を下ろし|片《かた》|膝《ひざ》をつく。近い位置で乙女を見、その|容《よう》|姿《し》を確かめたいと思った。髪に触れようと、そっと手を伸ばす。光に透かして本当にそれが|漆《しっ》|黒《こく》の色をしているのか、見たかった。
「|嫌《いや》っ!」
顔の横に伸ばされてきた手に驚き、乙女は耳を|塞《ふさ》いでいた手を離して、ディーノの手を払おうと振りあげる。
しかし白い|繊《せん》|手《しゅ》は目的を遂げる前に、やすやすと|掴《つか》み止められた。ほっそりとした手首は、ディーノの手に握られる。ディーノは軽くそれを引き寄せた。あっと腰を浮かせディーノに飛びこみかけた乙女は、|危《あや》ういところでもう一方の腕を突き四つん這いに近い格好で、体のバランスを|崩《くず》した。腰|砕《くだ》けたままであったため、しっかりと膝で立つことができず、横座りになって顔をあげた。
ディーノの手に握られた乙女の手首は、まだ細かく震えている。涙まで浮かべながら震えていたとすれば、ずいぶん怖い心細い思いをしていたのだろう。
たかが雷に。
ディーノは、鼻で笑う。
乙女はかっと|頬《ほお》を赤らめ、|屈辱《くつじょく》を耐え忍ぶように|唇《くちびる》を引き結んで顔を横向けた。
「こっちを向け」
ディーノは乙女に命じた。
乙女は|頑《かたく》なに唇を引き結んだまま、動かない。
ディーノは|微《かす》かに目を細め、握った手にわずかに力を加える。乙女はきゅっと|眉《まゆ》をしかめ、文句の一つも言いたげに斜めに顔を向け、ディーノを|睨《にら》んだ。
青い色の|瞳《ひとみ》だ。確かに緑でも|紫《むらさき》でもない。神秘な海と空の色。ディーノと同じ色だ。
さらりと肩口を滑り落ちてきた髪も、本物の髪。|射干玉《ぬばたま》の色。
この乙女こそディーノの捜し求めてきた同族なのかもしれない。この色合いを持つ種族の者たちとともに、この地を訪れたのかもしれない。
「お前はどこから来たのだ?」
恐る恐る問いかけた。
確か聖地で彼女を奪ったとき、|側《そば》に女王や|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》たちがいた。そして今は|客分《きゃくぶん》として扱われ、離宮に滞在している。
乙女は答えなかった。無言でディーノから目を|逸《そ》らした。
「名前はなんというのだ?」
名前には種族独特の|音《おん》がある。ディーノの、この名の|由《ゆ》|来《らい》も、彼女から聞き出せるかもしれない。
ディーノの期待も|空《むな》しく。
乙女は答えなかった。
むっと|眉《まゆ》を寄せ、ディーノはぐいと|掴《つか》んだ白い腕を引く。
引きずられるように、乙女が腰をずらす。きつい|眼《まな》|差《ざ》しでディーノを睨んだ。
「そんなに知りたければまずあなたが考えてごらんなさい! ひとが、自分が本当はどこから来てどこに帰って行くものなのか! ひとに本当につけられた名前がなんであったのか、思いだしてみなさい!」
|辛《しん》|辣《らつ》に言い返した。
さすがにこれには|度《ど》|肝《ぎも》を抜かれ、ディーノはぱちぱちと目を|瞬《しばたた》く。まさかこんな言われ方をされようなどとは、夢にも思わなかった。
|茫《ぼう》|然《ぜん》としたディーノを見、乙女は恥じいった。
「ごめんなさい……。八つ当たりですね……」
|可《か》|憐《れん》な|耳《じ》|朶《だ》まで真っ赤に染めて顔を伏せた。
なんだかどぎまぎとして、ディーノは横を向く。
「いや……、ぶしつけで、驚かせたのは俺だ……」
ディーノが他人に|詫《わ》びるなどということは、|滅《めっ》|多《た》にない。彼を知る人間が見れば|唖《あ》|然《ぜん》とする会話だ。
なんだかディーノの調子が狂っている。いつもの|横《おう》|柄《へい》な彼らしくない。
|馴《な》れない|不《ぶ》|器《き》|用《よう》な言葉を|遣《つか》うディーノの声は、ぶっきらぼうな中に照れを含んでいるようで、少しばかり|微笑《ほ ほ え》ましい響きがあった。
「どうやって助かったのか教えてくれ」
|無《む》|謀《ぼう》にも|飛龍《ひりゅう》の背から飛び降りた乙女。ディーノの記憶はそこで|曖《あい》|昧《まい》になっている。
乙女は首を振った。
「わかりません。わたしは確か……」
思い出し、乙女はかあっと真っ赤になる。ディーノに|唇《くちびる》を奪われそうになり、その|横《よこ》|面《つら》を張って飛龍から飛び降りたのだ。とてもその当事者を前に言える話ではない。
「落ちたとき、気を失ったみたいです。今までずっと眠っていました」
「そうか……」
ディーノは息を吐いた。
目の前にいる若者は、無茶苦茶のやりたい放題で、ひとの命などなんとも思っていない|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》だったが、彼女にはまるっきりの悪人であるとは感じられなかった。ましてや今目の前で立派な身なりをしている若者が、|極《ごく》|悪《あく》な罪人として|獄《ごく》|舎《しゃ》に|幽《ゆう》|閉《へい》されていたなどと、彼女に想像できようはずもない。
乙女は力なく肩を落とす。
「わたしのことは、わたしよりもあなたがたのほうがよく御存知です。わたしは何も知りません。何も、覚えていないのです」
悲し気につぶやいた。そう自覚するたびに、思い出すことすらできぬ恋しい者のことが慕われる。|面《おも》|影《かげ》ひとつ浮かべられない自分の|薄情《はくじょう》さに|嫌《けん》|悪《お》する。
不可思議な物言いに、ディーノは|微《かす》かに|眉《まゆ》を寄せて乙女を見つめる。|嘘《うそ》ではない。|憂《うれ》えたその表情は、ついさっき手すりに腰掛けていたときのそれだ。
「手を放していただけますか?」
穏やかに乙女はディーノに願った。ディーノはつられたようにこくんとうなずいて、握りしめていた白い手首を解放した。
ディーノが軽く|掴《つか》んだだけで折れ|砕《くだ》けそうな、ほっそりとした手首に、手の形をした真新しい|痣《あざ》が浮いていた。遠目で見てもはっきりわかるだろうほどに、痛々しく変色している。
|己《おのれ》の目で見たそれに信じられず、ディーノは目を丸くする。痛めつけるつもりはまったくなかった。指一つ動かそうとしないところから見ると、|酷《ひど》く|痺《しび》れているのかもしれない。
乙女は驚き見つめるディーノの視線からかばうように、もう一方の手でそれを|覆《おお》い隠す。
「自分が何者なのかはっきり知ることができれば、さっきの質問にもお答えできます。思い出したいことは、たくさんありますもの……」
「できぬのか?」
静かにディーノは尋ねた。
包み込むような声の優しさを受け取って、乙女はにこりと|微笑《ほ ほ え》む。
「あの方たちなら、たぶん、教えてくださるだろうと思います」
心の底から|安《あん》|堵《ど》できるような、幸せそうな笑顔だった。ぱあっと周囲が明るくなるかと|錯《さっ》|覚《かく》するほどに、|清《すが》|々《すが》しい。空気が透明度を増す感じだ。
「あの方たちとは誰だ?」
「礼拝堂におられるという女王様と|魔《ま》|道《どう》|師《し》|様《さま》です。つい先ほど、子供たちがわたしが目覚めたと報告しに、|女《にょ》|官《かん》の方のところへ行ってくれたのですけど」
乙女のあげた人物に、|微《かす》かにディーノは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になる。この乙女もまた、ディーノと同じ意味で優遇を受けているとでもいうのか。|魂《こん》|胆《たん》が複雑すぎて、ディーノには理解できない。
こんなに似かよった状態では、あの後いったい何がどうなったのかなど知る|術《すべ》はない。
わけはわからないが、とにかくディーノは女王たちのところに出向いて行くことになっていた。この乙女には女官が来る|手《て》|筈《はず》になっているらしい。
ディーノは尋ねた。
「一刻も早く知りたいとは思わぬのか?」
「思います。気持ちばかり|焦《あせ》って苦しいほどです」
「ならばなぜ、自分から奴らのいるところに出向いて行かないのだ?」
「わたしは礼拝堂がどこにあるのか存じません。それに……」
「それに?」
「歩けないんです。片足を|挫《くじ》いていたみたいなの」
「む……」
ディーノは納得するしかなかった。気の短いディーノなら足を引きずってでも行くかも知れないが。この乙女はそんな無茶はするまい。
ディーノはおもむろに腕を伸ばすと、乙女をひょいと持ちあげた。びっくりした彼女が声をあげるより先に、テラスの手すりの上に下ろす。足元に|屈《かが》みこんだディーノは、|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に乙女のまとった衣装の|裾《すそ》を|捲《まく》りあげた。乱暴にむき出しになった足に慌てて、乙女は衣装の裾を自分で少しばかり引きあげる。
「どっちだ?」
問いかけながら、ディーノは乙女の足を持ちあげる。ぐいと|掴《つか》まれ動かされた左足に、乙女は小さく悲鳴をあげた。
ディーノの手の上に乗るほどの|華《きゃ》|奢《しゃ》な足は、確かに足首を|捻《ねん》|挫《ざ》しているらしく|微《かす》かに熱さえ帯びている。寝台からここまでの少しばかりの距離だが、歩いたせいで|怪《け》|我《が》らしくなってしまった。
ディーノの視線が|肌《はだ》を|這《は》うような気がして、ぞくぞくした。|悪《お》|寒《かん》ではないが、なんだかいたたまれない。|雷《かみなり》とは別の意味で、体が細かく震えわななく。
「やめて、お願い」
じっくりと足を検分するディーノを押しのけようと、乙女は|頬《ほお》を赤らめ手を出して制した。
ディーノは差し出された手を、ひょっと握って止める。手の中に収まった柔らかなそれを、今度は握り|潰《つぶ》して痛めないよう、加減する。
「|白《しろ》|魔《ま》|道《どう》|士《し》が必要だな」
ちょっとした怪我なら、彼らの扱う魔道で|治《ち》|瘉《ゆ》できる。
子供たちが呼びに行ったという|女《にょ》|官《かん》は、宮廷白魔道士のことかもしれない。
行儀よく|膝《ひざ》を閉じ、ディーノに手を握られ片足を預けた乙女は、恥ずかしそうに頬を|薔《ば》|薇《ら》|色《いろ》に|染《そ》めてうつむいている。
捻挫している足首は、ディーノの手首よりも細い。
なんだか、冗談のような気がした。
さっき持ちあげたときも、乙女は羽のように軽かった。そんなに軽い体が支えきれないということなど、信じ難い。ましてや、こんなに|脆《もろ》くか細い体をした生き物が、彼と同じように歩いたり駆けたりできることが、驚異的だった。握っている手も、ふんわりとやわらかい。すべすべした皮膚は、ちょっとした引っかかりがあれば、簡単に切り裂けてしまいそうだ。
女とはこんな形で、こんな感触をしたものであったかと、ディーノは記憶をまさぐる。
今|側《そば》にいる彼女は、ディーノがこれまでに出会った誰よりもたおやかで、しなやかだった。
思わず|瞳《ひとみ》が吸い寄せられるほどの、|潤《うる》んだ女香を感じさせる|魅《み》|惑《わく》がある。
美しい。
ディーノは|溜《た》め|息《いき》を|洩《も》らした。
何か勘がくるう。
原因は手早く処理したほうがいい。
手を放し、立ちあがったディーノは、|有《う》|無《む》を言わせぬ早さで乙女を抱きあげた。
驚き見つめる乙女の視線を避けるように、|微《かす》かに顔をそむける。|大《おお》|股《また》で歩きだす。
「礼拝堂は知っている。|女《にょ》|官《かん》もおってくるはずだ」
連れていく、と言っている。
「はい」
くすっと笑って乙女はおとなしく、歩みを進めるディーノに身を預けた。前のように小脇に抱えられるより、このほうがいいと思った。どこに連れていかれるのか、疑いはしなかった。なんとなくそういう疑いを持つ気にならなかった。そう考えを巡らせることすら忘れていた。
勝手知ったる者のように、離宮の一画を抜け、ディーノは|悠《ゆう》|然《ぜん》と庭を進んでいく。
思い出したように、乙女は言った。
「真実ふさわしいのかどうか知りませんが、わたしを呼ぶ名前を一つだけ知っています」
「名など一つでたりる」
長々としたものでありがたがっているのは、|面《めん》|倒《どう》|臭《くさ》いことの好きな年寄りか金持ちだけだ。
「そうですね」
乙女はディーノの簡潔な言い方に|微笑《ほ ほ え》んだ。
そして楽しい秘密を打ち明けるように、いたずらっぽい目でディーノを見る。
「わたしのことを知っているらしい方たちは皆、わたしのことをファラ・ハンと呼んでいましたわ」
「ファラ、ハン?」
「えぇ」
くすくすと乙女は笑う。
ディーノは目を|瞬《しばたた》きながら、笑う乙女を見つめた。
ファラ・ハン。
伝説の聖女。背に翼を持つという。
だが。乙女の背に回したディーノの腕に、それらしいものは触れていない。
しかしもしも、彼女の言っていることが真実だとしたら。
あの|招喚《しょうかん》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の上に彼女がいたことも納得できる。女王たちが懸命になって守ろうとしたことも理解できる。
できるが。
それだけでは説得力に|乏《とぼ》しい。
本気か|嘘《うそ》か測りかねた。
大掛かりなペテンにかけられているような気もした。
第七章 |嘆《たん》|願《がん》
ファラ・ハンの目覚めの報告とディーノからの伝言は、ほぼ同時に届けられた。
朝から礼拝堂に詰め、今か今かと待ち受けていた女王たちは、ほうと肩から力を抜く。
報告を耳にし、宮廷|白《しろ》|魔《ま》|道《どう》|士《し》であり|女官長《にょかんちょう》であるマリエは、大柄な体を揺すぶって、|意《い》|気《き》|揚《よう》|揚《よう》とファラ・ハンのもとに向かった。
呼びつけるとは何事かという、いつに変わらぬ|横《おう》|柄《へい》なディーノの態度に、女王は笑った。どうやら救世主の一員として聖光を授かっても、いっこうにその人格に変貌はないと見える。
|呑《のん》|気《き》に|微笑《ほ ほ え》む女王トーラス・スカーレンに、|近《この》|衛《え》騎士隊長バルドザックはむっとする。
「笑っている場合ですか!」
食ってかかるように、一歩女王に詰め寄った。
「だからわたしは反対したでしょう! あんな|無《ぶ》|礼《れい》な|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》は、目が覚めるまで地下室にでも転がしておけば十分だったんです! どうせ病気なんてしやしません。|雨《あめ》|露《つゆ》をしのげるだけでももったいないくらいだったのに、高貴な客人のようにもてなして、離宮を与えて好みの調度を|揃《そろ》えて、衣服を|誂《あつら》えてやるだなんて……! ああ! 数えあげただけでも|悪《お》|寒《かん》がします! ただでさえ扱いにくい無法者だというのに、これ以上あいつがいい気になったら、どうなさるおつもりですか!?」
やや|目《め》|尻《じり》の下がる優しげな茶色の|瞳《ひとみ》を怒らせていっきに|捲《まく》したてるバルドザックを、女王は困ったような少しばかりすねたような上目づかいで見あげた。バルドザックが誰よりも、自分の身を案じているだろうことは、知っている。近衛騎士としての務めを越えた領域のそれであることも。女王にとってもバルドザックは、誰より近しい位置にいる大切な|乳兄弟《ちきょうだい》だ。彼の気持ちはわかるが、事態はそう都合よく運んでくれるものではない。
「気を|揉《も》む必要はありません。ディーノは聖選を受けた勇者です」
気楽に女王は断言した。
「自覚があったらの話でしょう!? |献《けん》|身《しん》|的《てき》に誰かの|為《ため》に尽くそう、世界を救おうなんて考え方を、あの男がするはずがないではありませんか!」
バルドザックの見解は|的《まと》を射ている。|散《さん》|々《ざん》な目にあい、|苦汁《くじゅう》を味わってきた分だけ、利己的なディーノの性格を承知している。本心から言えば、バルドザックは|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》ディーノに関わりたくないのだ。二度と顔も見たくない。殺したくもないほど|嫌《けん》|悪《お》している。
「それでも」
にこっと女王は|微笑《ほ ほ え》んだ。トーラス・スカーレンが考えても、バルドザックの言うことは正しいと思う。
「務めを果たさないような者が選ばれることはないでしょう? 聖戦士はわたくしたちなど知ることすら許されぬ規準で選ばれたのですから。それに従うまでです。快く送り出してさしあげねばなりません」
「|蛮《ばん》|族《ぞく》をですか」
「救世主の勇者をです」
トーラス・スカーレンは|辛《しん》|辣《らつ》な口調で語りかけるバルドザックをなんなくかわした。
彼らが世界を救ってくれると信じて疑う|気《け》|配《はい》もない。
疑おうがどうにもならない現実もあった。そして、心労のためにすっかり|痩《や》せ|衰《おとろ》えたトーラス・スカーレンは、小さい頃からこうと決めたら一歩も退かぬ|頑《がん》|固《こ》な面があった。たおやかで優しそうな見かけとは対照的に、女王は勝ち気で恐れ知らずの|男勝《おとこまさ》りの|性分《しょうぶん》もあわせ持っている。どんなに分が悪くても、|貫《つらぬ》き通す信念がある。見事成し遂げる力がある。若く賢き|麗《うるわ》しの女王トーラス・スカーレン。繁栄と優雅さの象徴である彼女は、確固たる存在であるが|故《ゆえ》に、どんな困難を前にしてもけっして|怯《ひる》んだり|怖《お》じ|気《け》づいたりすることはない。
誰よりその気性を知っているバルドザックは|駄《だ》|々《だ》っ|子《こ》のように口を|尖《とが》らせ、|赤銅色《しゃくどういろ》の髪を|掻《か》きあげた。そうしてもう何も言うまいと、女王にくるりと背を向けた。女王を恋しいと想い、|一蓮托生《いちれんたくしょう》を望むバルドザックは、彼女のやり方に従うほかはない。
これまでいつでも、女王のなし遂げてきたことは正しかった。成功してきた。あのお|伽話《とぎばなし》のような、伝説の|乙《おと》|女《め》の|招喚《しょうかん》という奇跡すら起こった。
ここまで来たらもう一つ|賭《か》けてみるのも、もののついでかもしれない。
悪くしても世界が滅亡する以上のことなど起こるはずもない。
何が起こっても構わないではないかという、|自《じ》|暴《ぼう》|自《じ》|棄《き》な部分もないではなかった。
|気《き》|遣《づか》ってくれるバルドザックの気持ちはありがたいが、いつもいつも安全なことばかりをしていられるわけではない。危険と思える人物であっても、その者だけに許されたことならば、その力に頼らねばならない。それが、ほかの人々のためであり、世界の復興を望む生きとし生ける命の願いなのだ。
トーラス・スカーレンなどという現実にはまったく|非《ひ》|力《りき》な一人の女性ができうることならば、なんだってする。命を与えてやることでディーノが快く役目を引き受けるのであれば、それでもいいとも、|覚《かく》|悟《ご》している。
少しのあいだと立ち去った|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》エル・コレンティは、女王たちにここから何があっても動く必要はないと言い置いていた。
だからディーノに呼びつけられたにも関わらず、女王はここから動かない。
エル・コレンティの話によると、女王たちのいるこの礼拝堂が、『中心』になるらしい。何の中心なのかは、聞いていない。話さなかったということは、偉大なる祭司長エル・コレンティにも、まだ知ることを許されていない|事《こと》|柄《がら》なのかもしれなかった。
ディーノに|小姓《こしょう》として|仕《つか》えていた少年は、女王からねぎらいの言葉をかけられ、真っ赤になってうつむいた。トーラス・スカーレンに直接声をかけられたことよりも、ディーノの名を耳にしたことが少年に何かを思い出させたようだった。確かに言葉を伝えたと、ディーノのもとに戻ろうとした少年を、バルドザックがひきとめ別の用事を言いつけた。ディーノの言葉を聞いたからといって、女王が|奴《やつ》のところに出向くわけにはいかないからだ。ディーノの|側《そば》に戻して、この少年が八つ当たりでもされたなら、気の毒で眠れないだろう。こんな小さな少年ではディーノの軽く見舞った|拳《こぶし》一つで、簡単に殺されてしまうに決まっている。
加えて、ディーノに対する明らかな|崇《すう》|拝《はい》の色が少年の|瞳《ひとみ》の中にうかがい見えることが、バルドザックには気にいらない。
ファラ・ハンとディーノが目覚めたのなら、他の二人もまた、同様であるのに違いない。
ただ彼らには老魔道師の指示で誰も|側《そば》につけられなかった。
|女官長《にょかんちょう》マリエは礼拝堂からファラ・ハンの離宮に向かった。
ファラ・ハンを抱きかかえたディーノは、ファラ・ハンの離宮から礼拝堂に向かった。
マリエは正規の通路を用い、ディーノは庭をつっきったため、顔を合わせることなく入れ違った。
シルヴィンは助けられたうえに部屋まで与えて休ませてもらっていた礼を述べるため、|館《やかた》の主人か使用人の姿を求めてうろうろとしていた。
広大な敷地に迷子になりそうだ。
|掃《そう》|除《じ》だけでも一仕事だろうに、数多い建物の中に誰の姿も見えぬのは、不思議な気がした。
建物はどれ一つをとっても見たこともないほど立派で、|飛龍《ひりゅう》の里しか知らない|田舎娘《いなかむすめ》のシルヴィンは圧倒されるばかりだ。飛龍の飛行訓練のできそうな高い|天井《てんじょう》を持つ|廊《ろう》|下《か》に、|唖《あ》|然《ぜん》とする。これほどの|贅《ぜい》|沢《たく》をする者は、シルヴィンたちの里の近隣の貴族や領主にもいない。
さすがにこの混迷の時代にも聖地に出入りしていた者だけのことはあると、妙なところで感心する。
里に帰ったら父に報告し、命の恩人に|相応《ふ さ わ》しいような飛龍を|見繕《みつくろ》ってさしあげねばならないだろう。
報告と言えば。
兄たちが死んだことはもう知らされただろうか。飛龍が悪名高い|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》ディーノによって奪いさられたことは。
シルヴィンは、きつく|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
あの飛龍がどうなったのかを確かめない限り、おめおめと里になど戻れない。シルヴィンの責任で、奪い返すか殺すかする必要がある。
ディーノはあの飛龍を使って龍舎に火をかけた。同胞も敵も無差別に、あたりかまわず焼き払った。シルヴィンも焼け死ぬところだった。あの飛龍がディーノの手にある限り、皆はディーノをこれまで以上に恐れねばならない。シルヴィンは自分の目の前で奪いさられてしまった飛龍を、取り戻そうと必死になって追いかけたのだ。途中で投げ出すわけにもいかない。生き残りには生き残りの責任がある。
飛龍が、ディーノがどうなったのか。
シルヴィンの気持ちは|焦《じ》れた。
迷子になりかけたのではないかと、ふと不安になったシルヴィンは、心細げな|眼《まな》|差《ざ》しであたりを見回す。
目の|端《はし》をちらりと何かが動いた。
|閑《かん》|散《さん》とした冷たい作り物ばかりの装飾品に囲まれた中で、風を受けても動くものなどない。
やっと人を見つけたと、喜び勇んで首を巡らせたシルヴィンが見たのは。
黒い髪の男の後ろ姿だった。
黒い髪をした人間など、この世界に|滅《めっ》|多《た》にいるものではない。いや、シルヴィンの知る限り、たった一人だ。
修羅王ディーノ。
兄や同胞たちの敵。苦労して聖地まで運び来た飛龍を奪いさった|憎《にく》むべき男。
怒りの|形相《ぎょうそう》でディーノの後ろ姿を|睨《にら》みつけ、ぎりっと|眉《まゆ》をつりあげたシルヴィンは、彼を追いかけるため、|回《かい》|廊《ろう》をとって返した。
巨大な|扉《とびら》を押し開き、ディーノが中に入っていった建物。特徴あるそれを、シルヴィンが|見《み》|間《ま》|違《ちが》えるはずはなかった。
レイムは仲間の|魔《ま》|道《どう》|士《し》の姿を求めて、歩き回っていた。
王宮には魔道士を|志《こころざ》した日に洗礼を受けるため、来たことがある。だからここでの魔道士たちが|何処《ど こ》で何をしているのか、ある程度知っている。
だが、王都の|片《かた》|隅《すみ》にある魔道訓練所の宿舎に置いていたはずの荷物まで運びこまれてここの一室に寝かされていたレイムには、いったい何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
魔道訓練所自体がどうにかなってしまったというのだろうか。
それとも、あまりにレイムが未熟であったために、追いだされようとしているのだろうか。
こわごわ王宮の|側《そば》にある魔道宮に行ってみた。誰もいなかった。連絡係の一人すら残っていなかった。
あとレイムの知る限りで魔道士たちが行きそうな場所と言えば。
女王のいる王宮と、礼拝堂くらいのものだ。
女王が王都に戻り王宮にいるならば、その近辺に偉大なる老魔道師エル・コレンティがいるはずである。宮廷白魔道士たちもいるはずだ。ほかの魔道士たちが今どこで何をやっているのか、|何故《な ぜ》自分が荷物を抱えて歩き回らねばならないのか、わかるはずだ。
だが。
ちょっとためらってから、レイムは王宮より礼拝堂に先に行くことを選んだ。
会うことなどとんでもないにしても、女王の側に自分のような者が行くことは|臆《おく》された。
そしてもしも、エル・コレンティ老魔道師が|指《さし》|図《ず》してレイムの荷物を訓練所から引きあげさせたのだとしたら、レイムはひどく師の怒りをかっていることとなる。おめおめと近寄って顔など見せることは、|言《ごん》|語《ご》|道《どう》|断《だん》なのかもしれない。見習いのレイムと比較すれば|遥《はる》かに高位だとしても、同じ仲間の魔道士たちのほうから出ていけと伝えられたほうが気が楽な感じがする。老魔道師に|面《めん》|倒《どう》な思いをさせるより、こっちのほうが|無《ぶ》|難《なん》だ。
重い足取りで礼拝堂に向かったレイムが見たのは。
|一《いち》|目《もく》|散《さん》に駆けて行く、|亜《あ》|麻《ま》|色《いろ》の髪の娘だった。
風を切って駆ける、豪快な走りだ。目標物だけをひたすらに|睨《にら》みながら矢のように進んでいく、あれ。
遠目でも|間《ま》|違《ちが》いはない。
確かにあの|龍使《りゅうつか》いの娘だ。
助けようとしてレイムの命を用いる最後の|呪《じゅ》|文《もん》を使った相手だ。
あの娘が生きていて、レイムも生きているとすれば、|辻《つじ》|褄《つま》が合わない。何か、レイムには想像もつかないことが起こったらしいことになる。
それがレイムに対するこの処置であるのか。
レイムは娘を追った。そして娘が行こうとしているのが礼拝堂であることを知った。
どのみちレイムの目的は達せられるはずだ。
長いかと思えた道行きは、案外あっけなく終わった。
役人に見つかると|厄《やっ》|介《かい》なことになるかもしれないと思い、建物の裏手や庭をかすめて少しばかり遠回りをしてきたわけだが、脚の長いディーノが|大《おお》|股《また》で|闊《かっ》|歩《ぽ》したならば、そんな距離、物の数ではなかった。
抱きかかえられながら首を巡らせたファラ・ハンは、間近くなる建物が礼拝堂に違いないと|雰《ふん》|囲《い》|気《き》で感じる。
滑やかな|絹《きぬ》の衣服をまとっているため、揺られながらともするとするりと位置をずらす体を支えるため、ファラ・ハンはおずおずとディーノの首に腕を回していた。ディーノの衣装には肩と胸を保護する|鎧《よろい》があるので、直接お互いの感触が伝わるわけではない。しかしそれでも、相手が男性であることを意識しないはずはない。腕の中にいる、守られているという、その事実だけで、かあっと体の|芯《しん》が熱くなった。胸の|鼓《こ》|動《どう》が激しく早くて息苦しいほどだ。そのせいなのか、|痺《しび》れたように頭がぼんやりしていた。そわそわとして落ちつかないのに、なぜだかひどく|安《あん》|堵《ど》している。
恋しい者がいた。名前も姿も思い出せない、|愛《いと》しい者。|焦《こ》がれていた思いだけが残る者。誰かを好きでいながら、ほかの男性の腕の中で安らぎを感じているのは|紛《まぎ》れもない事実だ。愛していないはずなのに、ときめくような胸騒ぎがする。人殺しをなんとも思わないような|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》であると|罵《ののし》っても、偽りきれないそれらのあいだで、ファラ・ハンの心は微妙に揺れる。
誰であってもいいというのではけっしてない。
だが、魅せられる気持ちを認めないこともできない。
ずらされた腕に、びくりとファラ・ハンは緊張した。
ディーノが礼拝堂の|扉《とびら》を押し開くため、片方の手首を使えるように、抱えたファラ・ハンを|僅《わず》かに位置を変えて抱きなおしたのだ。
巨大な一枚板で作られた重い扉は、猛秀を誇るディーノの手に軽く押され、すんなりと開いた。
礼拝堂の中にいた二人の人物が、来訪者にはっと|踵《きびす》を返した。
振り返った二人を見て、ディーノは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に顔を曇らせた。呼びつけたはずの人物が、|悠《ゆう》|々《ゆう》と自分の到着を待っているなどとは、許しがたいことだった。
女王は、|麗《うるわ》しいファラ・ハンを腕に抱いて訪れた、立派な衣装に身を包みすっかり見違えるばかりになった若者に、にっこりと|微笑《ほ ほ え》みかける。
目にも|艶《あで》やかな二人組だった。
「エル・コレンティはどうした?」
切り口上でディーノは尋ねた。抑えてはあるが怒りを含んだ|声《こわ》|音《ね》は、明らかに彼の気分を害していることを示している。
あまりにしっくりと|馴《な》|染《じ》む二人の姿に、|瞳《ひとみ》を奪われていたバルドザックは、|我《われ》を取り戻すとともに|憤《ふん》|慨《がい》した。格好こそ立派になったが中身は相変わらずの、人間の|屑《くず》に等しい|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》に見とれていたことに|立《りっ》|腹《ぷく》した。なぜこうも、魅了してやまぬ格を持った人間が存在するのだろうかと、どうにもならない怒りがこみあげる。
ディーノはつかつかと二人に歩み寄った。
「|女官長《にょかんちょう》とは会わなかったのですか?」
穏やかに女王は問いかけた。
ちょっと小首を|傾《かし》げて思い起こし、ファラ・ハンは女王を見る。
「誰ともお目にかかりませんでしたわ」
「入れ違いになってしまったようですね」
わざとそういう方向を選んで来たディーノは、そ知らぬ涼しい顔をしてやり取りを聞いている。バルドザックは言われなくてもその事実を確信した。
「ファラ・ハンを下ろせ」
ディーノを|睨《にら》みつけながら、ゆっくりとバルドザックは言った。
ふんとばかりに|顎《あご》をあげ、ディーノは目を細めた。
ファラ・ハンがバルドザックを見つめる。
「見苦しくてすみません。わたしがお願いしました」
|可《か》|憐《れん》な声で|詫《わ》びた。もともとディーノが有無を言わせずに連れ来たのであったが、ファラ・ハンが歩けないのは本当だ。
「足を痛めている。下ろそうにもここには何もないな」
片づけられ|椅《い》|子《す》一つない礼拝堂の|床《ゆか》に、直接ファラ・ハンを座らせるわけにはいかない。これ見よがしに、ディーノはファラ・ハンを抱いたまま、ぐるりと見回す。
バルドザックがファラ・ハンに対して|抱《いだ》いている感情を、ディーノは見抜いていた。誰しも、彼女のような美しさを持つ|乙《おと》|女《め》を見ればそう思うだろう気持ちだ。ましてやバルドザックなら、そのファラ・ハンを抱いているのがディーノであれば、歯ぎしりしたいほどに|憎《ぞう》|悪《お》するのに決まっている。
この乙女が本物のファラ・ハンでなかったとしても、この|類稀《たぐいまれ》なる|美《び》|貌《ぼう》は本物だ。|魅《み》|惑《わく》され、男の誰もが自分のものにしたいと|恋《こい》|焦《こ》がれるに|相応《ふ さ わ》しい|美《び》|姫《き》であることに|間《ま》|違《ちが》いはない。
ディーノは一度はファラ・ハンを奪い、無礼なふるまいに出た|蛮《ばん》|族《ぞく》だ。そのようなことが起こらないとは絶対に言えない。歩けないならなおのこと、バルドザックのように良識のある人間は責任を持って、ファラ・ハンを守るべく気を配らなければならない。
ディーノは冷ややかにバルドザックを見やった。バルドザックは火のような視線でディーノを射た。
仲がよくなさそうなことはわかっていたが、|険《けん》|悪《あく》な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》に少しファラ・ハンは|困《こん》|惑《わく》する。いがみ合う原因が自分にあるなどとは、夢にも思わない。
女王はファラ・ハンとディーノがうまくやっていけそうな感じを見て、一安心した。ほかの二人もいるが、ファラ・ハンに近く位置し彼女を守り抜く存在となる勇者ラオウは、絶対的存在だ。冷静に判断しても、世界じゅうでディーノほど勇猛な男はいない。どんなに不可能に思えることも、なぜだかなし遂げられそうな、そんな気持ちにさせてくれる者などいない。
自分が聖選を行ったとしても、ディーノを選んでいたかもしれないと、女王は思った。
「やっぱりこちらにいらしたのですね!」
|賑《にぎ》やかに|扉《とびら》を開いて入ってきた白い|魔《ま》|道《どう》|士《し》の|法《ほう》|衣《え》をまとった女が、大声で言った。
女王トーラス・スカーレンの|乳《う》|母《ば》であり、|近《この》|衛《え》騎士隊長バルドザックを|甥《おい》に持つ|女《じょ》|傑《けつ》は、ゆったりと|肥《こ》えた体を|大《おお》|股《また》に前進させてやってきた。
「まぁなんでしょうね。来ないなんて|駄《だ》|々《だ》をこねていたくせに、わたしに先んじるなんて、とんでもない|了見《りょうけん》ですよ」
|朗《ほが》らかな口調で非難しながら近寄り、|丈《たけ》|高《だか》い蛮族の若者を見あげる。|無《む》|駄《だ》|足《あし》を踏んだわけだったが、そんなに|機《き》|嫌《げん》を|損《そこ》ねた感じでもない。
母親のようなおおらかな|笑《え》|顔《がお》で、ファラ・ハンに|微笑《ほ ほ え》みかけた。
「はじめましてファラ・ハン。わたしは|女官長《にょかんちょう》で宮廷|白《しろ》|魔《ま》|道《どう》|士《し》のマリエでございます。どこか痛むところはございませんか? |僭《せん》|越《えつ》ながらこのわたくしが、白き魔道をもって治療させていただきたく存じます」
自分に向けられる健康的な婦人の丸い笑顔に、ファラ・ハンはほっと気持ちをくつろげる。
「ありがとうございます。じつは左の足首を|捻《ひね》っていたらしくて、痛くて歩けず困っておりました。お願いしてもよろしいですか?」
「はい。なんなりとお申しつけくださいまし」
お安い御用とばかりにマリエは大きくうなずく。
魔道による治療を|施《ほどこ》そうと、小脇に抱えていたクラッチバッグから|貝《かい》|殻《がら》の入れ物に入った魔法の粉と|邪《じゃ》|気《き》|封《ふう》じの|呪《まじな》い|符《ふ》を取り出した。
そして、ファラ・ハンを抱いたまま突っ立ったディーノを見て、むっと顔をしかめる。
「わたしに立ったまま魔道を行えというのかい?」
|果《か》|敢《かん》に|睨《ね》めつけた。
この常識知らずの若僧が。あんたも女から生まれたんだよ。体ばかりが大きくなったからって、偉そうな顔をおしでないよ。年上の女を|労《いたわ》ることくらい覚えておおき。
目で口ほどに物を言っていた。
本当にそう|罵《ののし》られてはたまったものではない。口から先に生まれてきたような婦人と、正面きって口論する|奇《き》|特《とく》な趣味の持ちあわせはディーノにない。力で|排《はい》|斥《せき》しようにも、相手は|魔《ま》|道《どう》|士《し》だ。たちが悪いに決まっている。ディーノはゆっくりと身を沈め|片《かた》|膝《ひざ》をついた。
ディーノが立てたほうの膝に腰掛けたような形をとったファラ・ハンは、恥じらいながらディーノの首に回していた腕を解き、マリエのほうに顔を向けた。
|床《ゆか》に|跪《ひざまず》いたマリエは|魔《ま》|法《ほう》の粉を指先ですくい取り、軽く|弾《はじ》いて周囲に散らせて、ファラ・ハンと自分とのあいだに|呪《まじな》い|符《ふ》を置いた。白魔道を使うときに行う、簡単な魔法陣だ。
「左足でございましたね」
うやうやしくファラ・ハンの足に手を伸ばす。ファラ・ハンはそっと衣装の|裾《すそ》を持ちあげて足を出す。そこに集まった全員の視線が自分の足に集中していることを感じて、恥じいる。
|頬《ほお》を染めたファラ・ハンの気持ちを察して、マリエは大きく|咳《せき》|払《ばら》いした。
わざとらしいそれに、バルドザックははっとして姿勢を正し、横を向いた。女王は上品に礼儀正しく、なりゆきを見ているだけだ。
ディーノは間近い位置に、うつむけたファラ・ハンの|美《び》|貌《ぼう》を感じていた。涼しい金色に輝く|産《うぶ》|毛《げ》まで見ることができるほど、近い。ただ、あまりに近すぎて、ぶしつけに観賞することができなかった。
マリエはそっと手をかざしただけで、ファラ・ハンの足の異状を感じとった。かざされたマリエの手から、ふわりとした|温《ぬく》もりが伝わり、広がって、痛みが|嘘《うそ》のように|和《やわ》らいでいく。
しみじみと涙が|零《こぼ》れる感じがする優しさが|溢《あふ》れ来て、体じゅうが|潤《うるお》っていくようだった。体の傷も心の傷も、すべてが|瘉《いや》されるような|温《あたた》かさだ。
「その手もですわね」
マリエは目ざとくファラ・ハンの手についた|痣《あざ》を発見した。ディーノが強く握った|痕《あと》の、あの痣だ。ディーノの首に腕を回していた際に後ろになっていたため見えなかったが、なかなか生々しい壮絶な痣だった。握りしめていただろう指の形まで判別できる。誰の手が原因となったのかは、|一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。
「ディーノ!」
驚きいきりたってバルドザックが|怒《ど》|鳴《な》る。
「静かにおし!」
マリエが|一《いっ》|喝《かつ》した。
何をしたのかと食ってかかりたかったバルドザックだが、思いとどまらざるをえない。
ファラ・ハンは、そっと手をかばうように引きよせる。
「これはわたしがつけたものです。わたしが不注意で|痣《あざ》を作ってしまっただけ」
だからディーノは関係ない。責められねばならない理由はない。
ファラ・ハン本人にそう言いきられてしまっては、誰も何も言えない。
バルドザックは|憮《ぶ》|然《ぜん》としてそっぽを向いた。ディーノはなぜかしら、寂しい感じがした。
優しいファラ・ハンに、マリエはにっこりと|微笑《ほ ほ え》む。
「さぁ、手をお出しくださいな」
誰がどうしたのだと追及する必要はない。ファラ・ハンは重さを持たないそれのように優雅な仕草で、マリエに手を預けた。
ややあって完全にいいと判断したマリエは|床《ゆか》に置いていた|呪《まじな》い|符《ふ》を取りあげてバッグにしまい、ファラ・ハンに手をさし出した。
肉づきのいいマリエの手を握り、ファラ・ハンはおずおずと立ちあがった。
「ありがとうございました」
役目を終え、|片《かた》|膝《ひざ》をついて|椅《い》|子《す》がわりになっていたディーノが立ちあがる。
「御苦労だったね」
にこにこと笑みを|湛《たた》えてマリエがディーノをねぎらった。小さい子供であったなら、頭を|撫《な》でていただろう|声《こわ》|音《ね》だった。
ディーノはファラ・ハンとマリエから、ぷいと顔を|背《そむ》ける。
今まで経験したことのない変な気がした。
礼拝堂の|扉《とびら》が、慌ただしい足音とともに押し開かれる。
飛びこむようにして現れたのは、きつい|面《おも》|差《ざ》しをした|亜《あ》|麻《ま》|色《いろ》の髪の、|大《おお》|柄《がら》な娘だった。
薄い水色の|瞳《ひとみ》が、振り返ったディーノをぎりっと|睨《にら》みつける。
乱れた息にかまわず駆けだし、やにわに腰帯に差していた短剣を|鞘《さや》から引きぬいた。
ただならぬその様子を見てとったマリエが、|悠《ゆう》|然《ぜん》と一歩前に進みでる。
「神聖なる礼拝堂で|刃《は》|物《もの》を抜くとは何事ですか! 女王様の|御《ご》|前《ぜん》ですよ! |控《ひか》えなさい!」
威厳に満ちた怖い|女官長《にょかんちょう》は、|凜《りん》|然《ぜん》とした姿勢で胸を張った。
矢のような勢いで駆けよろうとしていたシルヴィンは、一瞬|毒《どく》|気《け》を抜かれ、足を止めた。
女王トーラス・スカーレンは|艶《あで》やかな笑みを浮かべて、元気のいいシルヴィンを見つめた。
|色《いろ》|褪《あ》せた姿絵でしか見たことのない女王。シルヴィンの飛びこんだ場所にいたのは、紛れもなくあの名高い女王トーラス・スカーレンだ。いろいろと気苦労が絶えなかったのか、すっかり|痩《や》せてはいたが、象徴たる強さに満ちた輝きを放つ|瞳《ひとみ》は、凡人の持つそれではない。
しかし、そうだ。女王の|側《そば》にいるのは、確かにあの|極《ごく》|悪《あく》|人《にん》だ。|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》などと名乗ってやりたい放題に暴れ回っている|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》だ。同胞たちの|仇敵《きゅうてき》である、|憎《にく》い男だ。
女王たちの手前であろうと、憎むべき人間を|見《み》|逃《のが》すわけにはいかない。
ゆるりと踏み出したシルヴィンの横手で。
|床《ゆか》から染み出たように盛り上がった|闇《やみ》が|凝《こ》った。
|気《け》|配《はい》を感じて、びくりとシルヴィンは歩みを止めた。
盛り上がった黒い影は、黒い|法《ほう》|衣《え》へと変化する。
|魔《ま》|道《どう》による移動を行い現れでた、老魔道師エル・コレンティだ。
初めて|目《ま》の当たりにするそれに、思わずシルヴィンは|後《あと》|退《ず》さった。ディーノは何事が起ころうとも動じるほどに可愛らしい神経の持ちあわせはない。ディーノの|陰《かげ》になっていたファラ・ハンは、ちょっと首を|傾《かし》げて、こわごわ|眺《なが》めた。
待ちかねた人物の到着に、女王たちはほっとする。
ばさりと大きく法衣を広げて立ちあがった老魔道師は、がりがりに|痩《や》せて骨ばかりが目立つ巨大な|体《たい》|躯《く》をしていた。命尽きてなおその|面《おも》|影《かげ》を保った、一本の巨大な枯れ木のようだ。
圧倒され、シルヴィンは声も出ない。
老魔道師は女王にうやうやしく|頭《こうべ》を垂れ、そして礼拝堂の入り口を|顧《かえり》みた。
「入って来なさいレイム。お前はここに来なくてはならない」
朗々とした響きを持つ重い声が命じた。
シルヴィンが飛びこんできたとき、半開きのままで放置されていたその|扉《とびら》のところには。
深緑色の法衣を着た魔道士見習いの青年が立っていた。
少しばかり慌ててやってきたとでもいうのか、乱れたフードから金色に輝く長い巻き毛が|零《こぼ》れ落ちて光っている。
レイムは|綺《き》|麗《れい》な|翠色《みどりいろ》の瞳を陰らせて、顔を伏せ、おずおずと進みきた。
女王や宮廷白魔道士の前に出ることなどとてもできないはずの、修行中の自分を恥じた。
|覗《のぞ》き見た礼拝堂の中に、求めていた魔道士たちの姿がなかったので、出直そうかと思っていた矢先だった。名前まで呼ばれては、逃げだすわけにはいかない。
顔色をうかがいながら歩みを進めたレイムは|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》に追いたてられるようにして、シルヴィンと一緒に女王の前まで出た。
白魔道士マリエと|近《この》|衛《え》騎士隊長バルドザックが、女王トーラス・スカーレンの横に|退《しりぞ》き控える。
ディーノとファラ・ハン、そしてレイムとシルヴィンが、近く寄る。
「女王トーラス・スカーレン様、近衛騎士隊長バルドザック様、宮廷白魔道士マリエ様、大変お待たせ致しました。祭司長魔道師エル・コレンティは、ここにおります四名が、目覚めてここに集結しましたことを御報告致します」
エル・コレンティの深い響きを持つ声が、礼拝堂の高い|天井《てんじょう》に反響する。
トーラス・スカーレンはうなずき、一足前に進み出た。
「翼ある|乙《おと》|女《め》、ファラ・ハン。勇者ラオウ、ディーノ。魔道士スティーブ、レイム。|龍使《りゅうつか》いドラウド、シルヴィン。あなた方四名は、我々の願いに|応《こた》えて具現し、聖選を受けた者です。選ばれし者たちよ、どうぞそのお力を持って世界を救ってください」
第八章 |聖《せい》|露《ろ》
まさに寝耳に水だった。
耳を疑うなどという|生《なま》|易《やさ》しいことではなかった。
四人は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、女王を見つめ、立ちつくした。
「ふざけるな!」
真っ先に我を取り戻したのはディーノだった。
聖選だなんだと勝手に決めつけられて、世界救済の勇者などに祭りあげられては|堪《たまら》ない。
|幽《ゆう》|閉《へい》の飼い殺しと|大《たい》|義《ぎ》|名《めい》|分《ぶん》による|道《どう》|化《け》は、本質的意味においてなんら変わることがない。
うまい具合に|煽《おだ》て上げて、自分たちは楽をしたまま、なんの努力もせずに世界救済をしてもらおうというつもりなのだろう。
いつでもそうだ。
貴族然とした上品な連中は、自分の手さえ汚さなければそれでいいのだ。勝手に作りあげた身分制度などに甘え、|隷従《れいじゅう》する|愚《おろ》かな者がいて当然だと思っている。
|虐《しいた》げられ続けてきたディーノのような人間が、身に覚えのないことを|盾《たて》に取られて|憤《ふん》|慨《がい》しても不思議はない。
「何が聖選だ!? 俺にはなんの関わりもない!」
予想されていた展開に、|微《かす》かに女王は|眉《まゆ》をひそめる。
「あなたが認めなくても、あなたは伝説の勇者たる戦士です。聖光によって選ばれました」
「知らぬ!」
ディーノはにべもなく突き放す。
しかし女王はひくわけにはいかない。すうっと|挑《いど》むように目を細めた。
「ではディーノ、レプラ・ザンを返してください」
「?」
聞き覚えのない名称にディーノは眉を寄せる。
「あなたが奪った銀の|斧《おの》です。あれはラオウだけに与えられるもの。あなたが好きで奪ったのです。そのために|間《ま》|違《ちが》って選ばれてしまったのだとしたらやり直せるはずです。さぁ、お出しなさい!」
女王の口調は、女王たちとしてもディーノが選ばれたことは|甚《はなは》だ不本意であるという、|辛《しん》|辣《らつ》な勢いを持っていた。
確かに、嫌われ者であった|修《しゅ》|羅《ら》の申し子に頼み事をしたい人間などいない。そこまでディーノも思いあがっているわけではない。女王たちが迷惑したとしても、当然だ。
(銀の斧……?)
ディーノは記憶をまさぐる。そういえばそんなものを持っていた。何か不思議な感じのする斧だった。それを打ち振るい、|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》の強固なる魔道を打ち砕いたのだ。
しかし。
「俺の手にはない」
|湯《ゆ》|浴《あ》みまで済ませたのだから確かだ。
だが女王はそれで納得はしない。
レプラ・ザンがディーノの手に握られておらず、身のどこにも帯びられていなくても、あの|銀《ぎん》|斧《ふ》はディーノが『持って』いるのだ。
「あれは神秘なる斧。持ち主を選び、自らその者の中に|潜《ひそ》んで機をうかがっています。あなた自身に手放す気がなくては、あなたから離れません」
「俺の中にだと……?」
変な事を口走り始めたなと、ディーノは女王を眺めた。とても正気の発言とは思えない。そんな物がこの世にあるなどとは、信じがたい。
もしもあったとしても。
それはディーノに勝手に住みついたのだ。ディーノがそうしたわけではない。ディーノの内にあるのかどうかも定かでないのに、手放すもなにもない。
根も葉もない|御《ご》|託《たく》を並べ立てて丸めこもうとしても、そうはいかない。
ディーノはふんと鼻で笑った。
「少しは|利《り》|口《こう》かと思っていたが、とんだ買い|被《かぶ》りだったようだな」
あからさまな|侮《ぶ》|蔑《べつ》を浮かべた表情で女王を見た。
「なんだと!?」
がちゃりと音をたてて剣の|柄《つか》に手を掛けたバルドザックを、女王は腕を出して制する。
ここは聖なる礼拝堂。|流血沙汰《りゅうけつざた》は禁じられている。
バルドザックはきつく|唇《くちびる》を|噛《か》み、剣の柄から手を放した。
どんな形で|斬《き》りかかられてこようと防ぐ自信があるからなのか、ディーノはバルドザックの|剣《けん》|幕《まく》にもまったく動じず、腕を組んだまま微動だにしなかった。
「少しは頭を冷やして考えてみろ。翼も持たぬこの女がファラ・ハンであるはずがない。こんな女に|大《たい》|義《ぎ》|名《めい》|分《ぶん》を与えて死地に追いやるとは、趣味が悪いにもほどがある」
見るからにか弱く、愛らしく美しく|麗《うるわ》しいばかりの|乙《おと》|女《め》。およそ死にに行けと言っているようなものだ。
「それとも、これがお前たちの最後の手というやつなのか?」
ディーノは冷めた目で女王を見つめた。
|生《い》け|贄《にえ》を|捧《ささ》げて、自分たちの生活を守ろうという、弱者にばかり厳しい法則。
|流《る》|浪《ろう》していた子供のとき、幾度もディーノは|生《い》け|贄《にえ》として捕らえられ、生き埋めにされたり|磔《はりつけ》にされたりした。恩恵など受けたことのない、関わりのない村や川のために。彼を|疎《うと》んじ一|欠片《か け ら》のパン|屑《くず》を与えることさえ惜しんだ、見ず知らずの人々の生活を守るために。
やりとりされる理屈は、女王たちのそれよりディーノの言い分のほうが、レイムたちにはよっぽど説得力があった。
自分たちが突然に、選ばれた聖戦士だなどと言われても、はいそうですかと|鵜《う》|呑《の》みにするわけにはいかない。世界救済など、とても果たせぬ大任だ。期待をかけられても、あまりにも荷が重すぎる。
ディーノは乙女の腕を|掴《つか》んだ。
驚いて乙女はつぶらな|瞳《ひとみ》でディーノを見る。
「長居は無用だ。このような奴らの話に耳を貸す必要はない」
「でも……」
今度は|痣《あざ》を作らないようディーノが手加減しているため、彼女に動く意思がなければこの形のままで連れ去られることはない。
まともに判断したなら、ディーノの意向に従うのが道理なのだ。
だからディーノには乙女をむりやり抱えて連れ去るほどのことはない。手を引いてやりさえすれば、十分なのだ。
乙女は軽く引かれた|弾《はず》みで一、二歩動いたが、それ以上進もうとする|気《け》|配《はい》はない。
「死に急ぐつもりか」
「いいえ」
|困《こん》|惑《わく》し、乙女は女王を見た。困惑しただけだった。発言を持っていなかった。ファラ・ハンとして自覚のない彼女には、積極的な発言などできなかった。
女王は|厳《きび》しい|眼《まな》|差《ざ》しでディーノを見る。
「去りたいなら一人で行きなさい。ファラ・ハンは|招喚《しょうかん》によりこの世界に訪れたわたしたちの客人です」
「本当に……?」
恐る恐るファラ・ハンは尋ねる。
トーラス・スカーレンはうなずいた。
「|飛龍《ひりゅう》から飛びおりたあなたの背から翼が現れいでたことは、あのとき聖地にいた誰もが目撃した事実です。あなたは|紛《まぎ》れもなく、ファラ・ハンではありませんか」
きっぱりと言った。
「世界は滅亡への道を着実に進んでいます。太陽の光は厚い雲によって|阻《はば》まれ、もう半年もの長きになります。土も水も腐り、植物も動物も絶滅しかけています。わたしたちの切なる願いに|応《こた》えて招かれた乙女よ、どうぞお願い致します。世界をお救いください」
正式な貴人の礼でもって、トーラス・スカーレンは乙女に|恭《うやうや》しく|頭《こうべ》を垂れた。
背に翼のない、自覚の|欠片《か け ら》もない乙女だったが。
女王と呼ばれるこの貴婦人の言葉や態度に|偽《いつわ》りはないと判断した。
きららかに星を浮かべた|瑞《みず》|々《みず》しい青い瞳を閉じて、考える。
たとえこの女王の話がまったくの作り話だとしても、この世界が滅亡に向かっていることはわかる。それには何の疑いも持てない。現実だ。
|愚《おろ》かな世界救済の望みを持ったとして、それを|一笑《いっしょう》に付すなど、誰にできるだろう。|藁《わら》をも|掴《つか》みたい気持ちを抱いても当然ではないか。
たとえ|茶《ちゃ》|番《ばん》にしかすぎないそれであっても、力を貸せるものなら貸してやればいい。
死ぬのは、世界が滅亡しても同じことだ。
「俺は見ていない」
ディーノは言った。びくりと乙女は背を震わせる。
「聖地にいたすべての者と言ったな。この女は確かに|飛龍《ひりゅう》から飛びおりた。だが俺は翼など見ていない。お前たちはどうなのだ?」
いきなり|矛《ほこ》|先《さき》を向けられたレイムとシルヴィンは、はっと姿勢を正す。
飛龍に向けて剣を投げつけた龍使いの娘と優しい|面《おも》|差《ざ》しの金髪の|魔《ま》|道《どう》|士《し》の青年のことは、ディーノの記憶にあった。彼ら二人もあのとき聖地にいた。
シルヴィンもレイムも地割れに落ちこんでいた、その|真《ま》っ|只《ただ》|中《なか》の出来事だ。乙女が身を投げたところまでは見ていたが、その後は知らない。
問いかけられ、シルヴィンは口を|尖《とが》らせ|居《い》|心《ごこ》|地《ち》悪そうにぷいと横を向く。知らないのだ。どうなったかを知らないものにとやかく言えるわけはない。すがるような|眼《まな》|差《ざ》しで見つめる乙女に、レイムは|辛《つら》そうに顔を伏せた。見てないものは、見てないのだ。間が悪かったとも言えるだろうが、それでは|肯《こう》|定《てい》にも|否《ひ》|定《てい》にもならない。
ディーノはふんと鼻を鳴らす。
「くだらぬ茶番だ」
吐き捨てるように言った。
乙女は顔を伏せた。誰もが見た、自分たちは見てないのいいあいでは、どちらを信じていいのかわからない。女王もレイムもシルヴィンも、誰も|嘘《うそ》をついている感じではない。
女王は困ったように|唇《くちびる》を|噛《か》む。説得するにも言葉がなかった。誰よりもディーノこそが、あのとき翼ある乙女に間近く位置していたのだ。そのディーノにこうまではっきり、見ていないと言われてはどうしようもない。
聖選を受けたはずの全員がそれを覚えていない。聖選を行った|張本人《ちょうほんにん》であるファラ・ハンですら、それを知らない。
ディーノの記憶は、あの奇跡の瞬間の少し手前で途切れているらしい。
反抗的な態度も、自分を|排《はい》|斥《せき》した社会に対する反感によるものだけではない。
世をすねた無法者の、いつものそれではない。
選ばれたのだという事実を本当に知らないなら、女王たちの言葉はディーノにとって不愉快な申し出でしかない。怒って当然のことだ。
「里には伝えられているのですか?」
顔を伏せ、固い声でシルヴィンは尋ねた。シルヴィンに向き直り、女王はうなずく。
「すべて伝えました。あなたが選ばれたことも、|龍舎《りゅうしゃ》が焼け落ちたことも、あなたが聖地にいた龍使いの、ただ一人の生き残りであることも」
「それで、なんて?」
「あなたの意思に|任《まか》せるそうです」
世界救済の希望も何もかもを。
そうだ。
誰もシルヴィンに帰って来いとは言えない。里の者たちは皆、世界救済を願っている。自然がもとの力を取り戻す日を|切《せつ》|望《ぼう》している。そのためにいろいろと骨を折り、準備してきたのだ。素質のある龍使いたちは、誰が選ばれてもいいように厳しい訓練を続けていた。里の者たちは全員|一《いち》|丸《がん》となって、聖戦士たちに|相応《ふ さ わ》しい飛龍を、いつでも|出立《しゅったつ》できるように調整していた。
聖地にいた龍使いは里でも自慢の優れた腕を持つ者たちだった。シルヴィンも|紛《まぎ》れもなく、その一人だったのだ。里の残った者たちでは、世界救済に向かうドラウドとしての実力はない。龍使いの里以外にドラウドとなりうる優秀な者がいるとは思えない。
現実的に見て、シルヴィンが引き受けるしかないのだ。
シルヴィンは|瞳《ひとみ》を閉じ、意を決してうなずいた。
「わかりました。その役目、引き受けます」
はっきりと言い切った。
女王たちの顔が、ぱあっと明るくなる。|安《あん》|堵《ど》したように息をついた。
「正気か!?」
ぎょっとしてディーノがシルヴィンを見る。
シルヴィンは水色の瞳を険しくしてディーノを|睨《にら》んだ。
「正気よ! そうするしかないのよ!」
選ばれたというのに、シルヴィンがおめおめと逃げ帰るわけにはいかない。|弱《よわ》|音《ね》を吐いて逃げ帰ったところで、里の者に受け入れられるはずもない。
|玉砕覚悟《ぎょくさいかくご》だ。
里という集団に|縛《しば》られているシルヴィンに、選択の余地はない。
「…………」
ディーノは軽く肩をそびやかした。
|亜《あ》|麻《ま》|色《いろ》の髪をした|龍使《りゅうつか》いの娘は、そのしっかりとした丈夫そうな体格と同じく、びくとも揺るがない激しさを持っていた。目標物に向かって|後《あと》|先《さき》考えずに突進するあの|無《む》|謀《ぼう》さだ。
|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》と呼ばれて恐れられていたディーノの乗った飛龍の|間《かん》|隙《げき》をついて、その急所に剣を投げつけるような娘だ。その大胆さは、|豪《ごう》|傑《けつ》と|褒《ほ》めるよりも誰もがあきれ果てることだろう。
娘の性格を思い出し、ディーノは納得するしかなかった。
|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》はレイムの前に立った。
「|喉《のど》の|聖《せい》|痕《こん》を返しなさい」
命じられレイムは泣きだしそうに表情を|歪《ゆが》めた。声を封じることは彼から望んだことだ。聖痕を返してしまえば、声は再び彼に戻ってくる。
「世界を救い、ファラ・ハンを守るために選ばれし魔道士よ。その務めを果たしなさい」
一級の魔道士たるには、レイムには声が必要なのだ。声なくしては今の彼が十分に実力を発揮できない。
レイムはためらった後、|覚《かく》|悟《ご》を決めた。魔道士となる道を選んだのと同じく、|自《じ》|暴《ぼう》|自《じ》|棄《き》な動機だった。そしてこれもまた、運命なのだと思った。
レイムは老魔道師の前に進み出、目を閉じて|顎《あご》をあげた。顎と|咽《のど》との境界に近い|陰《かげ》に|記《しる》された、魔道による小さな|封《ふう》|印《いん》が|晒《さら》された。
老魔道師の|節《ふし》ばかり目立つ大きな手が、そっとレイムの顎を持ちあげ、指が聖痕を|撫《な》でた。
小さく|呪《じゅ》|文《もん》が|唱《とな》えられ、指が動かされた後には、赤い小さな花びらに似た聖痕は、|綺《き》|麗《れい》に|拭《ぬぐ》いさられていた。
大きな手がレイムの顔から離れ、レイムはゆっくりと顔を戻し|瞳《ひとみ》を開く。音を忘れていた|唇《くちびる》を開いた。
ありがとうございました。
そう言ったつもりだった。
声は出なかった。
咽を空気が滑った音すら、漏れ出て来なかった。
レイムは|茫《ぼう》|然《ぜん》となった。声を封じる気持ちはあったものの、完全に失うつもりはなかった。まだどこかに出せる、持っているけれど声を出さないのだという気持ちがあった。聖痕を返してもなお、声を失ってしまうことなどありえないはずだった。恐る恐る何度も声帯を震わせよう、声を出そうと|試《こころ》みる。息の漏れ出るそれも、音にはならなかった。
エル・コレンティ|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》は|微《かす》かに|眉《まゆ》をひそめた。老魔道師のほうの|手《て》|筈《はず》は|完《かん》|璧《ぺき》だった。
「|呪《じゅ》が|絡《から》んだようです……」
老魔道師は女王に振り返った。
|咽《のど》に与えた聖痕とレイムを選んだ聖光、その両者の持てる神秘の力が絡んだのだ。
老魔道師は三度レイムの咽に触れたが、レイムの声は戻らなかった。
「方法は、ありますか?」
|気《き》|遣《づか》わしげに女王は尋ねた。力なく肩を落としたレイムは、正視に耐えないほどの|落《らく》|胆《たん》を見せていた。|竪《たて》|琴《ごと》の入った袋を持つ手が、|微《かす》かに震えている。
思いを巡らせ、老魔道師はうなずく。
「おそらくファラ・ハンなら、この者の呪を取り除けるはずでございます」
名指されて、|乙《おと》|女《め》ははっとする。ディーノはむっと眉をひそめた。
老魔道師は乙女の前に歩みを進め、|仰々《ぎょうぎょう》しい仕草で|跪《ひざまず》いた。
「ファラ・ハンに願います。どうぞこの者に絡みし呪を解かれんことを」
乙女は少し困る。方法など知らない。思いもつかない。
白魔道を扱うマリエは乙女を優しく見つめる。
「あなた様が真なるファラ・ハンである|証《あかし》にもなります。迷えるあなた様のためにも、どうぞ試みられるのがよろしいでしょう。|呪《じゅ》は内側から|絡《から》んでおります。|僅《わず》かばかりで十分でございます。あなた様の体液がこの者の|咽《のど》を通りましたなら、呪は|自《おのずか》ら解けます」
体液?
驚いて乙女は目を見開いた。ころころとマリエは笑う。
「具現したファラ・ハンの|血《けつ》|肉《にく》そのものが、神秘なる力の|源《みなもと》となるのですよ」
それを用いたならば呪を取り除くことなど|造《ぞう》|作《さ》もない。
「傷を刻みつけて血をくれてやれというのか」
|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な声でディーノは尋ねた。
「まあ|野《や》|蛮《ばん》な」
マリエはおどけた仕草で肩をすくめ、不安そうな乙女をなだめるように声をかける。
「血とは限りませんのよ。体液ならばなんでもよろしいんです。あなた様の体から直接与えられたものが一番。その|唇《くちびる》をもって|唾《だ》|液《えき》をくださいませ」
唇をもって。
さらりと提案されたことに、当事者たる乙女とレイムは一瞬頭が空白化した。
「なんだと!?」
いきりたったのは、ディーノだった。バルドザックもまた、驚いてマリエに目をやる。
ぐいと歩みを進めたディーノを、マリエは涼しい顔をして無視する。
「唇に唇を。彼はファラ・ハンに|仕《つか》えるスティーブたる者。あなた様を守る|魔《ま》|道《どう》|士《し》です」
|畳《たた》みかけられ、乙女は落ちつかなげに|瞬《まばた》きし、顔をうつむけた。|耳《みみ》|朶《たぶ》まで真っ赤になった。それが|証《あかし》となるのなら、試みるべきなのだと思う。そうすれば自分の立場もはっきりとする。でもそのことのために、自分から進んでこの方法をとることは、さすがにためらわれた。
思いがけない展開にレイムはどうしていいのかわからない。声を取り戻すことができるのは喜ばしいことなのだが、恥じらい悩む|可《か》|憐《れん》な|美《び》|姫《き》の様子を見ては、やりきれない。声を取り戻したい、そうするのが一番いいからと、つめよるような|真《ま》|似《ね》はできない。どういう意味で浅ましいのか、自分がわからなくなる。見たこともないほどの|麗《うるわ》しい乙女の|容《よう》|姿《し》にちらりと目をやったレイムの胸は、どきどきと|早《はや》|鐘《がね》を打った。|不《ふ》|謹《きん》|慎《しん》にも、乙女を意識してしまう。
「今のあなた様に一番必要なものを得てくださいませ」
マリエは乙女に言った。厳しい響きを持つ声だった。
「そんな願いを聞き届けることはない!」
ディーノは|怒《ど》|鳴《な》った。
「でも……」
乙女は言い淀む。承諾するのも|拒《こば》むのも、どちらにも踏みきれない。
煮えきらぬ態度に、ディーノはますます気分を害した。
「適当な理屈で|玩《もてあそ》ばれるつもりか!?」
「そんな……」
そういう言い方をされてしまうと、|辛《つら》い。
彼女はディーノが|唇《くちびる》を求めてきたとき、拒んでいる。|頬《ほお》を張った。
ディーノの見解からすれば、これは半々の確率を持つ|賭《かけ》に等しい行為だ。彼女がファラ・ハンであった場合は仕方がないとしても、もしもそうでなかった場合、彼女はただ人前で|辱《はずかし》められただけとなる。純潔だとか|潔《けっ》|癖《ぺき》さだとかいうものは、彼女に存在しないこととなる。
そんな女に頬まで張られて拒絶されたとなれば、ディーノとしても|面《おも》|白《しろ》くなくて当然だ。
ディーノは|蔑《さげす》むような目で、ちらりとレイムを見た。
「結果がどうであれ構わんと思う者もいるだろうが」
この|類稀《たぐいまれ》なる|美《び》|貌《ぼう》を持つ乙女から唇を与えられるとするならば、それだけで歓喜して|然《しか》るべきかもしれない。|邪《よこしま》な気持ちが|微《み》|塵《じん》も存在しないなんてありえない。
かっとレイムの頭に血が上った。|侮辱《ぶじょく》されたと思った。そして心の迷いを|見《み》|透《すか》かされていたと思った。声を欲している自分自身をも恥じていた。
長い|睫《まつげ》に囲まれた、きらきらと星を浮かべる|綺《き》|麗《れい》な|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》が、ディーノを激しく|睨《にら》みつけ、思わず何か言いかけた。だが声を失っている口は、ただぱくぱくと開かれただけだ。むきになり自分の状態を失念していたレイムは、愚かな行為に慌てて口をつぐむ。わずかだったが唇の動きだけでも、ディーノの言い方に対する抗議であるらしいことは読みとれた。
貧しくとも実直に生きてきたレイムが、|己《おのれ》の誇りと|尊《そん》|厳《げん》をもって|憤《ふん》|慨《がい》するのは当然である。
ディーノは、ふんと鼻を鳴らした。
何にもまして、この乙女の存在自体に問題があるようだった。
忙しく視線を巡らせるバルドザックにはディーノの言い分もレイムの気持ちも、理解できた。ディーノほど|露《ろ》|骨《こつ》でないにしても、バルドザックですらこのやり方は喜んで|許《きょ》|諾《だく》しにくい。もしもそれを受けるのが自分であったならと仮定しても、おそらく|幾《いく》|許《ばく》かは彼女からの行為に、男性としての意識が関与することを|否《いな》めない。
「|臆《おく》することはありません」
マリエは言いきった。
「従う必要はない!」
ディーノが|怒《ど》|鳴《な》った。
乙女は。
どうしていいのかわからなくなり、うつむいて|頬《ほお》に両手を当てたまま、その場に座りこんでしまった。
どちらにせよ、無理じいはできない。
シルヴィンは力なく|床《ゆか》に座りこんだ乙女に冷ややかな|一《いち》|瞥《べつ》を投げかける。
バルドザックは気の毒そうに|労《いたわ》りの目を向けた。か弱い乙女を、よってたかっていじめているような気がした。
ディーノのような人間に|侮辱《ぶじょく》されるくらいなら、このままでも構わないとレイムは思った。
一瞬ぴくんと身をのけぞらせた女王は|紫《むらさき》の|瞳《ひとみ》の奥を|真《しん》|紅《く》に輝かせ、|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》に向き直った。
「時間は!?」
問いかけられたそれに、老魔道師は目を細め、表情を険しくする。
「ありません……!」
|搾《しぼ》り出すように答えた。
はっとあらぬほうに顔を向けたマリエは、女王をかばうように腕をあげた。
「身構えよ!」
朗々たる声で、エル・コレンティが命じた。
何を言っているのか、意味を|掴《つか》みとめた者は|僅《わず》かだ。
次の瞬間。
ぞっとする感覚が全員の体を|貫《つらぬ》いた。
|床《ゆか》が爆裂して|裂《さ》けとんだ。
|轟《ごう》|音《おん》を発して礼拝堂の巨大な屋根が吹きとんだ。
下から突き上げきたものの激しさに、|抗《あらが》いきれなかった。
おぞましく|邪《じゃ》|悪《あく》なる影が一本、豪々と音をたてながら、地より吹きあがっていた。
歯の根があわぬほどに|震《しん》|撼《かん》せずにはいられない『|魔《ま》』そのものが、礼拝堂という神聖なる|封《ふう》|印《いん》を|弾《はじ》き飛ばし|噴出《ふんしゅつ》したのだ。
「なんだ、これは……!?」
思わず背負った長剣を引きぬき構えたディーノは、つぶやくように声を洩らした。
少し遅れをとり、武器を帯びた他の者たちも、それぞれの|得《え》|物《もの》を抜きはなつ。
「世界は滅亡への道を|辿《たど》っているのです。|闇《やみ》に|潜《ひそ》む|瘴気《しょうき》さえ力を持ち、光の下に生きる命であるわたくしたちを|脅《おびや》かす形を得て|溢《あふ》れ出ようとしています」
女王は|淡《たん》|々《たん》と述べた。神秘を|覗《のぞ》く|真《しん》|紅《く》の|瞳《ひとみ》を得ることのできる聖王家の血を受け継いたトーラス・スカーレンであるからこそ、語ることを許された|事《こと》|柄《がら》だった。
|悟《さと》りきり、あまりに冷めた女王の物言いに、ディーノは|怒《ど》|鳴《な》った。
「それがわかっていて野放しにしていたのか!」
女王は悲し気に顔を曇らせ、軽く|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
噴出を続ける影を|見《み》|据《す》え複雑な|印《いん》を結びながら、|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》は苦しげに言葉を吐く。
「わかっていても、我々にはどうすることもできぬ」
「能なしの役立たずが!」
|辛《しん》|辣《らつ》にディーノは非難した。目の前に|屹《きつ》|立《りつ》する影の柱の存在がなければ、一刀のもとに老魔道師を切り捨てていても不思議はない|剣《けん》|幕《まく》だった。
「なんと言われようとできぬことはできぬ」
にべもなく老魔道師は言いきった。
|近《この》|衛《え》騎士たるバルドザックは女王を守るため、剣をかざして|盾《たて》になる。
座りこんだままの|乙《おと》|女《め》に、ぱたぱたと|忙《せわ》しくマリエが近寄った。|呪《まじな》い粉を固めた小さな棒で、手早く乙女の周囲に複雑に入り組んだ魔法陣を描く。
「よろしいですか? この魔法陣の中にはどんな魔物も入って来れません。何があってもこれを踏み越えてはなりませんよ」
乙女は|茫《ぼう》|然《ぜん》としたまま、こくんとうなずいた。
にこっと|微笑《ほ ほ え》んで、マリエは女王とバルドザックのほうに戻り、彼らの足元にも、乙女に描き与えたのと同じ形に線を引く。マリエの記した魔法陣に、エル・コレンティも入った。
「ちょっと待て!」
あからさまな待遇の違いに、さすがのディーノも色をなす。自分は放置されても理由はわかるとしても、シルヴィンやレイムまで見捨てられるとは思わなかった。
仮にもこの二人は聖戦士たることを承諾したというのに。
予兆を感じたレイムは荷物の入った袋を下に下ろして|護《ご》|符《ふ》を取り出し、防御と攻撃どちらにも移行できる|魔《ま》|道《どう》の|印《いん》を結んだ。
ディーノとシルヴィンの握った刃物が、もっとも得意とする形に構えられた。
|乙《おと》|女《め》が青い|瞳《ひとみ》を大きく見開く。
黒き影の柱を噴きあげる地の底から。
小柄な魔物たちが|躍《おど》りでた。
伝説に|謳《うた》われた|禍《まが》|禍《まが》しい|闇《やみ》の生物。
|瞳《どう》|孔《こう》のない瞳とねじくれた角、口を裂いて|鋭《するど》く|尖《とが》り出た|牙《きば》と長い|爪《つめ》を持つ、|小鬼《しょうき》だ。
「ダ・カウ!?」
子供の頃夜語りに祖父から聞いたそのものの名称を、シルヴィンがつぶやいた。
ようやく得た自由に歓喜しながらまろび出たそれらは、柔らかい|血《けつ》|肉《にく》を持つ|旨《うま》そうな生き物が|側《そば》にいることを発見した。
引き裂き、|喰《く》らうために、|我《われ》|先《さき》にと襲いかかる。
ディーノとレイム、シルヴィンめがけて押しよせる。
自分たちのほうにむかい来る小鬼に、乙女が鋭い悲鳴をあげた。
「大丈夫! ご安心を! 動かないでくださいませ!」
|脅《おび》え|戦《おのの》き思わず腰をずらしかけた乙女に、マリエが声をかける。わずかでも魔法陣の領域を出てしまえば、効力がなくなる。身を守る|術《すべ》のない乙女など、|微《み》|塵《じん》に引き裂かれてしまう。
|危《あや》ういところで思いとどまり、乙女はのけぞろうとした姿勢を正した。
飛びかかってきたダ・カウめがけてディーノの長剣が|唸《うな》った。一度に五、六匹のダ・カウが真っぷたつに分断されて|弾《はじ》け飛んだ。緑色のぬらりとした液体が、ディーノの長剣から|滴《したた》り落ちる。
|器《き》|用《よう》に短剣の刃を|閃《ひらめ》かせたシルヴィンが、跳ね飛ばすようにダ・カウを|薙《なぎ》|払《はら》う。
|焔《ほのお》の攻撃印を結んだレイムの前で、一瞬にして火の|塊《かたまり》となったダ・カウが、ぼとぼとと落ちて燃え|崩《くず》れる。
|果《か》|敢《かん》な戦いぶりに見えたそれは、いつ尽きるともない|膨《ぼう》|大《だい》な数の魔物の前に、次第に衰えを見せはじめた。
緑色の|汚《お》|濁《だく》した液体に足を取られ、転んだシルヴィンを援護しに、レイムが駆けこむ。
勢いよく打ち振るい血振りするディーノの長剣も、どろりとぬめるその液体のおかげで切れ味が|鈍《にぶ》りつつある。
よろよろと身を起こすシルヴィンの目に、|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の中の乙女が映った。
乙女に向かって顔をあげたシルヴィンは、|年齢《と し》|相《そう》|応《おう》の疲れ果てた少女のそれだった。|唯《ゆい》|一《いつ》の女性|龍使《りゅうつか》いとして|肩《かた》|肘《ひじ》を張っていた、勝ち気な彼女のするべき表情ではない。
シルヴィンと視線をあわせた乙女が、魔法陣の中に彼女を招き入れようと腰を浮かせた。
乙女のもとに身を寄せようとしたシルヴィンの肩を、レイムが|掴《つか》んでひきとめた。
乙女に与えられた魔法陣は、魔道士の存在なくしては、ひと一人を守るのが精いっぱいだ。魔道士でもないシルヴィンなら、踏みこんだ途端に魔法陣は効力をなくしてしまう。
黙したまま首を振り、シルヴィンを|諭《さと》したレイムは、魔道を|志《こころざ》したときただ一つ授けられた絶対の効力を持つ大切な|護《ご》|符《ふ》を、シルヴィンの手に押しつけた。
護符を得たシルヴィンの腕から、固く握りしめていた短剣に向かって力が流れこむのがわかった。|俄《にわか》に活気を取り戻すことのできたシルヴィンは、はっとしてレイムを見あげる。
護符を失ったレイムの魔道力は彼本来のそれにすぎなくなり、格段に威力をなくした。
礼拝堂の|床《ゆか》にぶちまけられていた魔物の体液が。
寄り集まって、盛りあがった。
分断されたり燃え|崩《くず》れた|屑《くず》をも飲み込んで融合し、あちこちで大きく|膨《ふく》れあがった。
不意をつかれて横殴りに強襲され、ディーノが打ち倒された。
「左です! 気をつけて!」
|可《か》|憐《れん》な声がレイムに注意を|促《うなが》した。
ダ・カウを魔道で|弾《はじ》き飛ばしたレイムは、|危《あや》ういところで襲いかかった緑の|汚《お》|泥《でい》をかわす。
「髪を押さえて!」
マリエが乙女に叫んだ。
レイムが乙女に振り返る。
反射的に両手で|襟《えり》|足《あし》から髪を押さえた乙女の頭に、つんと|鋭《するど》い痛みが走る。
魔法陣からはみ出た乙女の髪が一、二本、乙女の真後ろに回り込んでいた一匹のダ・カウの|牙《きば》に引きぬかれていた。
乙女の髪を得たダ・カウは青い|舌《した》をべろりと|翻《ひるがえ》し、黒い|絹《きぬ》|糸《いと》のような髪を素早く|啜《すす》りこむ。
それがダ・カウの内に取りこまれた瞬間。
ダ・カウの体が爆発した。
いや、違う。
犬ほどの大きさに過ぎなかったダ・カウの体が爆発的に十倍以上にも|膨《ふく》れあがり、同時に|得《え》|体《たい》の知れない奇怪で|醜悪《しゅうあく》な|魔《ま》|物《もの》へと|変《へん》|貌《ぼう》を遂げていたのだ。
突然頭上が|陰《かげ》ったことに、乙女ははっとする。
|度《ど》|肝《ぎも》を抜かれたレイムは、|咄《とっ》|嗟《さ》に、自分よりこの乙女のほうがこの事態に|驚愕《きょうがく》するだろうことを|悟《さと》った。
乙女が驚いた|弾《はず》みに魔法陣を踏み越えることにでもなれば、それこそ、ひと|溜《た》まりもない。
いやむしろ。
髪数本で魔物をこんなに変化させた乙女の存在に、|畏《い》|怖《ふ》するしかなかった。
乙女を魔法陣の外に出すわけにはいかない。
乙女を魔物に与えるわけにはいかない。
レイムの指が高級魔道による爆裂の|攻《こう》|撃《げき》|印《いん》を結んだ。
乙女が振り返るよりわずかに早く、レイムの気合いが|奔《はし》った。
頭が瞬間空白化し全身の力が抜けるほど、一撃に|賭《か》けた大きな魔道を使い、レイムはがくりと|膝《ひざ》をつく。
振り返った乙女の|瞳《ひとみ》に映ったのは、|雲散霧消《うんさんむしょう》して散りゆく巨大な影だけだった。
使い手を失い宙を飛んだ長剣が、がしゃりと音をたてて転がった。
物音にびくりと振り返ったレイムと乙女が見たのは、|蠢《うごめ》き盛りあがる緑色の魔の|汚《お》|泥《でい》だ。
|床《ゆか》に|叩《たた》きつけられたディーノは、群がり寄った緑色の汚泥にずっぽりと包みこまれていた。
ディーノという勇猛なる剣士の|凄《すさ》まじい攻防のおこぼれで、自分の実力より優位に戦っていたシルヴィンも、ひたひたとにじり寄った緑の汚泥に足元をすくわれ、飲まれていた。はみ出た左手の先が、かろうじてその|塊《かたまり》の内包物がシルヴィンであると示している。
襲いかかられた際にシルヴィンから手放された|護《ご》|符《ふ》を、レイムが拾いあげる。
|爆《ばく》|砕《さい》の魔道を用い、彼らを解放しようと|試《こころ》みるが、緑の汚泥は表面が薄く|弾《はじ》け散るだけだ。
すっかり息のあがったレイムの|些《さ》|細《さい》な魔道力では、救い出すことなど|到《とう》|底《てい》できそうもない。
「魔道師様!」
乙女は救いを求めるようにエル・コレンティを|顧《かえり》みた。
老魔道師は|緩《ゆる》く首を振る。
「真の聖戦士ならば、これを乗りきることができましょう」
「見殺しにせよとおっしゃるのですか!?」
|乙《おと》|女《め》は悲鳴のような声で叫んだ。
「|我《われ》|々《われ》には、どうにもならぬのです……」
血を吐く|声《こわ》|音《ね》で、老魔道師は繰り返した。
これが現実なのだ。このために伝説による|招喚《しょうかん》や聖選に頼るしかなかったのだ。いかに強大なる魔道を駆使しようとも、もう人間には、どうすることもかなわない。
「そんな……!!」
乙女は自分の無力さを思い知るしかなかった。
彼女には剣を用いて戦うことはおろか、その剣を持ちあげることすらできない。
魔道も何も知らない。
無力で非力な、|脆《もろ》い存在に過ぎない。
自分だけ魔法陣に守られ、ただ泣くことしか、できない。
乙女の目から涙が|珠《たま》を結び、|零《こぼ》れ落ちた。
泣きながら|詫《わ》びていた。何もできない自分を恥じていた。
肩で荒い息を吐き、|額《ひたい》に浮き出た汗を|拭《ぬぐ》ったレイムは、泣き|崩《くず》れている乙女に気がついた。
彼女が泣くようなことがあってはいけない。
心悩ますようなことなどあるはずがない。
乙女の至上なる|美《び》|貌《ぼう》には|微笑《ほ ほ え》みこそが|相応《ふ さ わ》しい。
レイムは魔道力を根こそぎ放出し、気を失いそうだった。ふらつく足を懸命に支え動かし、乙女の魔法陣に足を踏みいれる。座り込み涙を流している乙女の前に、静かに|膝《ひざ》を落とす。
泣かないで。
優しく、レイムは乙女の両肩に手を置いた。
涙を零しながら、乙女はレイムを見上げる。
レイムには乙女が本物のファラ・ハンであることがわかっていた。
そうでなければ、ただ一、二本の髪を得ただけで魔物が巨大に|変《へん》|貌《ぼう》するなどということはありえない。
具現したファラ・ハンの|血《けつ》|肉《にく》そのものが、神秘なる力の|源《みなもと》となるのだ。
だから彼女だけは魔法陣に入れられたのだ。
レイムは乙女を見つめ、静かに乙女の顔に自分の顔を近づけた。
声を取り戻す。
そしてディーノとシルヴィンを救い出し、この|邪《じゃ》|悪《あく》なる黒き柱を|封《ふう》|印《いん》せねばならない。
聖戦士としての務めを果たし、世界を救わなければならない。
|己《おのれ》の無力さを痛感したのは、レイムも同様だ。
レイムはそっと乙女に|唇《くちびる》を寄せた。
唇をもって。
乙女の右目から|零《こぼ》れ落ちる涙を|拭《ぬぐ》った。
|目《め》|尻《じり》に寄せられた柔らかい唇を受け、乙女は目を閉じた。
唇を与えることをためらった自分を|気《き》|遣《づか》うレイムの気持ちを感じた。
感謝して、その行為を受けいれた。
レイムには|咽《のど》を通るわずかな体液であれば、なんでも構わないのだ。
|唾《だ》|液《えき》でも涙でも。
|絡《から》んだ|呪《じゅ》は解ける。
レイムに涙を拭われながら、泣き濡れていた乙女の手が下ろされた。濡れた指先が、ちょっとだけレイムの|法《ほう》|衣《え》に引っかかった。
唇を離したレイムは、乙女の左目の涙を手で拭ってやった。
乙女は、ゆっくりと目を開く。
レイムは乙女と目をあわせ、包みこむように|温《あたた》かく、ふわりと|微笑《ほ ほ え》んだ。
|透《す》きとおる|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》は夢見る少女ほどに|綺《き》|麗《れい》で優しげだったが、その奥には|紛《まぎ》れもない戦士たる若者の、|毅《き》|然《ぜん》とした輝きが宿っていた。
失敗や困難を恐れず、自分を信じようとする者の決意が見えた。
自分に与えられた力で、自分という存在で、心置きなく突き進む者の|気《き》|迫《はく》があった。
それこそが。
乙女に不足していたもの。
忘れていたもの。
聖地で|飛龍《ひりゅう》の背から飛び降りたときの乙女に、確かにあったはずのもの。
死ぬことは怖い。傷つきたくはない。生きて、恋しいひとに会いたい。
でも。
恋しいひとがいるから、ひとを愛しているから、|怖《お》じ|気《け》づき弱くなって何からも逃げ腰になっていいということではないのだ。
恋しさを弱さへと転換してはいけない。
ここで果たすべき役割を終えれば、おのずから彼女は自分の世界に戻れるのに違いない。
第九章 |導《どう》|光《こう》
レイムは乙女に手をさし出した。
乙女はためらうことなく、レイムの手に自分の手をのせた。
静かに腰をあげたレイムに引かれ、乙女は立ちあがった。
乙女は「ファラ・ハン」と呼ばれた。
伝説による|招喚《しょうかん》の儀式にてこの世に具現した聖女であるのだという。翼ある乙女であるのだという。この世でただ一人、世界を救う力を持つ|美《び》|姫《き》であるという。
しかし彼女には記憶がない。名前がない。翼がない。奇跡を駆使する力がない。自分をファラ・ハンだと認める自信がない。自覚がない。
彼女が現実に持っているのは、自分の存在するこの世界に対する違和感だ。か弱く|脆《もろ》い|可《か》|憐《れん》なる肉体だ。激しく誰かに|恋《こい》|焦《こ》がれていた、|報《むく》われることのない|哀《かな》しい想いだ。あまりに|儚《はかな》い、女性たる弱さだ。
剣を振るって戦うことはおろか、それを持ちあげることすらできない、たおやかな乙女がするべきことは、うずくまって顔を伏せ、泣き|崩《くず》れることではない。
それが今はっきりとわかった。
だから立ちあがることができた。
|魔《ま》|物《もの》の体液が|凝《こ》った、緑色の|邪《じゃ》|悪《あく》なる|汚《お》|泥《でい》。|忌《い》みし|闇《やみ》に|蠢《うごめ》いていた、|瘴気《しょうき》の|塊《かたまり》。
|禍《まが》|禍《まが》しきそれに、ディーノとシルヴィンの二人は捕らえられ、飲まれていた。
ディーノは。
それに取り込まれ、融合されようとしていた。
目や鼻、口、毛穴など、全身のありとあらゆる開口部から、緑色のそれらが侵入してこようとする。柔らかく|温《あたた》かい内側から|喰《く》らいつき、その|血《けつ》|肉《にく》を余さず|啜《すす》ろうとしている。
ぐうっと|吐《と》|瀉《しゃ》を|促《うなが》す激烈な|臭気《しゅうき》がした。|肌《はだ》に寄り添い、ぞろりと|這《は》いあがる感覚に|悪《お》|寒《かん》がした。
彼は「|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》」。
世間を|震《しん》|撼《かん》させた、凶暴なる|蛮《ばん》|族《ぞく》の若者。自らを王と名乗り、豪語する不|遜《そん》の|族《やから》。そして、それを|否《いや》|応《おう》なしに認めさせてしまった|猛《たけ》き者。彫像よりも|雄《お》|々《お》しく華麗な、美しき修羅。
|蔑《さげす》む者を許さない。|卑《いや》しむ者を許さない。|隷従《れいじゅう》させようとする者を許さない。
そしてだれも彼を意のままに|操《あやつ》ることなどできはしない。
確固たる力と格を持つ、最強の戦士。
この世でただ一人、無敵の勇者と呼ばれるのに|相応《ふ さ わ》しい男。
シルヴィンは。
左手の先だけをわずかに外に|晒《さら》し、彼女もまた、ディーノとまったく同じ状態にあった。
彼女は「|龍使《りゅうつか》い」。
自然の恩恵を受けた里に生まれ、それらに感謝しながら生きてきた。生命の神秘に|畏《い》|敬《けい》の念を払い、その法則に|自《みずか》らを|委《ゆだ》ねて育ってきた。誰よりも自然を身近に感じ、暮らしてきた。
自然を愛している。自然の声を聞いている。自然の心を知っている。
|眩《まぶ》しく連なり続ける、世界のすべての生命を感じられる者。
女性でありながら、|獰《どう》|猛《もう》なる野生種の飛龍ですら操ることのできる、龍使い。
見習い|魔《ま》|道《どう》|士《し》レイムは|乙《おと》|女《め》から離れて背を向け、魔法陣を踏みしめた。
|咽《のど》の奥が熱を帯びていた。全身が熱くほてっていた。これまで一度も感じたことがないほど不可思議に熱いが、けっして不快ではない。
声を取り戻したことがわかっていた。そしてまた、もの|凄《すご》い魔道力が体じゅうに|漲《みなぎ》っていることを感じていた。
これなら。
不可能などない。
レイムの足が魔法陣の外に踏み出す。
ディーノが|吠《ほ》えた。
|汚《けが》らわしい魔物になぶられ|喰《く》らわれるなど、彼には絶対にあってはならないことだった。
体じゅうの細胞が|沸《ふっ》|騰《とう》するほどの、激烈な怒りが爆発した。
力が形をなして、ディーノの右手の内に|凝《こ》った。
シルヴィンが叫んだ。
今自分を喰らい尽くそうとしている魔物たちは、この世界に存在していてはならないものだった。これは自然の産物ではない。自然の恵みに関わりのない|邪《じゃ》|悪《あく》なる|闇《やみ》の生物だ。
世界がこんなものたちに|占《せん》|拠《きょ》されようとしている。滅せられようとしている。
シルヴィンが|哀《かな》しみよりも強く感じたそれは、激しい|憤《いきどお》りだった。
彼女は自分の知る、自然にいきづく生命であり、しかも自然の神秘にも近しい強大な力を持つものを夢中で呼んでいた。
乙女は立ちあがり、背筋を伸ばして姿勢を正した。
呼吸を整えるように目を伏せる。
戦う。戦える。逃げない。自分の力で自分がなくしたものを取りもどす。
目を閉じたまま、大きく息を吸いこんだ。
レイムは両手を組み合わせ、聖魔道士の|絶《ぜっ》|対《たい》|印《いん》を結んだ。
乙女がその清らかなる青い|瞳《ひとみ》を見開いた。
レイムと乙女の|唇《くちびる》が、同時に開かれた。
「我は求める 太古より継がれし神秘なる象徴をもってためされん 天界の七賢者 七つの|鍵《かぎ》を持ちよりて 閉ざされた重き|扉《とびら》を押しひらけ」
重なった声が同じ|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えた。
誰に教えられたのでもない呪文だった。二人だけが唱えることを許されていた呪文だった。この時のために用意されていた呪文だった。
強大なる清き力の予感に、礼拝堂に|溢《あふ》れでていた|魔《ま》|物《もの》が一瞬|怯《ひる》んだ。
|間《かん》|髪《はつ》をおかず。
空から|紅《ぐ》|蓮《れん》の|焔《ほのお》が降りそそいだ。
焔をかいくぐり青黒いものが一つ、電光のような速さで落ちた。
|印《いん》を結んだレイムの手が、燃えさかる星を捕らえたように青く光輝いた。光はレイムの手から|零《こぼ》れて|床《ゆか》に落ち、水が激しく溢れでるほどに素早く広がる。
降り注ぐ紅蓮の焔と床に溢れ広がる青白い光におぞましい悲鳴をあげて、魔物が|融《と》ける。逃げまどう場所も|暇《いとま》も残されてはいない。神秘であり健全な自然に近しい力を持つ火炎と聖魔道力の前には、|忌《い》みし|小魔《しょうま》など|束《たば》になろうとひと|溜《た》まりもなかった。
魔の根源たる|闇《やみ》の柱を残して、溢れでていた魔物たちのことごとくが消え失せた。
ディーノを|覆《おお》っていた緑の|汚《お》|泥《でい》は、焔や聖魔道力を受ける前に内側に爆発したものを抑えきれず|弾《はじ》けとんでいた。
汚泥を吹きとばし、真っ先に現れ出たのは銀色のもの。
清浄なる銀の光を放つものが、ディーノの全身を包んだ緑の汚泥を|微《み》|塵《じん》に|粉《ふん》|砕《さい》していた。
乱れくるう焔と聖魔道力の中、マリエの描いた魔法陣に守られた|乙《おと》|女《め》の体は、金色の光の|塊《かたまり》と化していた。
まばゆいがけっして|瞳《ひとみ》を射ることのない『聖光』だ。体内から発せられる光の|圧《おさえ》に、長い髪が生き物のように広がり波打つ。|咽《のど》を押しひらき溢れでようとする聖なる力に耐え、懸命に|唇《くちびる》を閉ざす。
シルヴィンを捕らえていた緑の汚泥は、焔と聖魔道力に触れて一瞬にして消失した。
魔法陣も持たず、身を守る|結《けっ》|界《かい》の一つもないシルヴィンの肉体など、圧倒的な破壊力を持つ焔の前には物の数ではない。身を包んでいた魔物がなくなると、彼女が直接焔に|晒《さら》されることになる。
間一髪のきわどい間合いで。
焔に対する防護膜を失ったシルヴィンの上に何かが飛来した。
さきほど|天井《てんじょう》から電光のような速さで|焔《ほのお》の|隙《すき》|間《ま》から飛来した青黒いもの。
ひとほどの大きさのそれは、我が身をもってシルヴィンを守るよう|覆《おお》い|被《かぶ》さった。
圧力さえ持つ光の激しい勢いにレイムの金色の巻き毛がぶわりと浮きあがり、|法《ほう》|衣《え》が大きく波打った。
レイムの足元では個人防御の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の大きさに円を描いて|結《けっ》|界《かい》が張られている。
陣を描くことない高級魔道による不可侵領域に守られて、頭上から焔を被りながらもレイムはその熱気を|微《み》|塵《じん》も感じていない。
|唯《ゆい》|一《いつ》の楽園にも似てみえるそこに、無我夢中で転がりこもうとする魔物もいたが、レイムの聖陣に触れた|愚《おろ》かなるそれらは、一瞬にして浄化され|甲《かん》|高《だか》くおぞましい悲鳴をあげた。
浄化された|邪《じゃ》|気《き》は|昇華《しょうか》し、七色に揺らめいて輝き消える。
魔法陣の中で成り行きを見ていた女王たち四人は。
礼拝堂に降り注いだ激しい焔に驚き、聖なる高等魔道による絶対防御によって身を守った。エル・コレンティ老魔道師と宮廷白魔道士マリエという、魔道士界でも|選《え》りすぐりの術者の二人がいたからこそ、できたことだった。しかし二人の魔道力でも、魔法陣を含む結界を維持するのが精いっぱいだ。普通の高級魔道士ではおそらくひとたまりもなかっただろう。
何もかもが瞬時にして燃え|崩《くず》れても不思議ではない、|怒《ど》|濤《とう》のごとき焔。渦巻いた焔はひとの背の高さよりも|丈《たけ》|高《たか》く暴れ狂い、焔の中に|埋《まい》|没《ぼつ》した者たちの視界を奪った。ひたひたと足元を浸すのは、レイムから|溢《あふ》れでた聖魔道力。
圧倒たるそれらを受け、天井をなくした礼拝堂の壁面が押されて崩れおちた。
聖魔道力と焔は触れあい、|絡《から》んでお互いに打ち消しあった。方法が異なりながら、本質を同じくするという親密さが融和を|促《うなが》していた。
思わず身構えて顔を伏せた者たちが、息を止めていたことに気がついたとき。
すべては終わっていた。
ディーノは|銀《ぎん》|斧《ふ》を握りしめ、ゆらりと立ちあがった。
レイムは両手で結んでいた|印《いん》を解いた。聖陣はふいと消えた。
シルヴィンはそっと体を起こす。シルヴィンを守っていたものが、彼女の動きを感じとり、|退《しりぞ》いた。自分に被さるようにして身を守ってくれていた、小さな|飛龍《ひりゅう》を間近く見て、シルヴィンは目をぱちくりと見開いた。純粋種であることを示す青黒い宝石に似た|光《こう》|沢《たく》を放つ|鱗《うろこ》に|覆《おお》われた見事な飛龍の赤ん坊は、見つめるシルヴィンにきゅるっと首を|傾《かし》げてみせる。|真《しん》|紅《く》の目は、親しげな光を|湛《たた》えてシルヴィンに向けられていた。
ばさばさと翼で風を切り、三頭の飛龍が礼拝堂の|床《ゆか》に舞いおりた。
より見事に見える一頭、背に|豪《ごう》|奢《しゃ》な|鞍《くら》を乗せた飛龍は主人を慕い、ディーノの|側《そば》に降りたった。首を|撫《な》でさすって欲しそうに、甘えてディーノに擦りよる。
|間《ま》|違《ちが》いなく、ファラ・ハン|招喚《しょうかん》のあの日、ディーノが龍舎から|強《ごう》|奪《だつ》した飛龍だった。
シルヴィンの心の叫びを聞き、救出せんとやって来た飛龍は、|魔《ま》を焼き払うために|焔《ほのお》を吐いたのだ。魔を|撃《げき》|退《たい》するという点においても、もっとも自然に近い神秘の力を与えられた飛龍の火炎の効力は絶大だ。何も動物や物を焼きつくすだけではない。
飛龍の焔は奇跡に近い強大な威力を持つ魔道で中和することができる。
レイムがいなければ、礼拝堂など床さえも残さず|跡《あと》|形《かた》もなく燃えつきていたはずだ。
聖戦士たる魔道士レイムに|畏《い》|敬《けい》の念を払い、一頭の飛龍が近づいて|頭《こうべ》を垂れた。
シルヴィンの横には、母子の飛龍が控える。
伝説の聖女ファラ・ハンと三人の聖戦士たち。四頭の飛龍。
声を取りもどし振り返ったレイムに、ファラ・ハンが|微笑《ほ ほ え》んだ。
ディーノは|己《おのれ》の手の内に|忽《こつ》|然《ぜん》と出現した|銀《ぎん》|斧《ふ》をいぶかしげに見つめる。
シルヴィンは何かしら思いもよらない何かが、自分を取り巻いて起こっているのを感じた。
そこには|紛《まぎ》れもなく。
選ばれた者たちが|集《つど》っていた。
間違いを主張しても弁明できない、明確すぎる形があった。
必要なくなった魔法陣から老魔道師が出る。焔になぶられ聖魔道力に覆われて、圧倒的な力による侵食を受けていた床板の表面は、|芝《しば》|生《ふ》のように毛羽立ち、|脆《もろ》くささくれ立っていた。サンダルの靴底に踏みしだかれて、小さな|刺《とげ》たちはめきめきと音を立ててひしゃげた。さすがのエル・コレンティであっても、これほどの奇跡と形なす夢幻を|目《ま》の当たりにするのは初めてだった。
老魔道師に向き合うため|踵《きびす》を返そうとしたレイムの腰のあたりで。
何かがぽわっと光った。
はっとしたレイムは腕をあげて腰の部分に目をやる。
|微《かす》かに真新しい|水《みず》|跡《あと》のつく、そこ。
ファラ・ハンの指を伝って|滴《したた》りおちた涙の染みたらしいところ。ファラ・ハンの指が引っかかり、彼女の白い指から直接に涙の|雫《しずく》が|滴《したた》りおちたところ。
|法《ほう》|衣《え》のポケット。
そこには。
|光虫《ひかりむし》が入れられたままだった。
あの日、|招喚《しょうかん》に使う|香《こう》|木《ぼく》を運んでいたレイムの足元に転がりきた、一匹の虫の|死《し》|骸《がい》。
それだけが入っているはずだった。
すっかり忘れられていたそれは、|神《こう》|々《ごう》しい光を放ちながらレイムの法衣から抜けでた。
|角《つの》のない|甲虫《かぶとむし》に似た形の|透《す》きとおった体を持つ虫は、鮮烈に光輝きながら|忙《せわ》しく羽で風を切りながら飛びだしていた。
心なごむ聖光の|塊《かたまり》そのものとなって、光虫はきらきらと光の粉さえ振りまきながら飛ぶ。
高く飛びあがる。
光虫の存在が意味することを見てとって、エル・コレンティが叫んだ。
「|導《みちび》きを!」
命じられ、|惚《ほう》けたように光虫を見つめていたレイムは、びくんと姿勢を正して|印《いん》を結んだ。
「我ら 光の盟約を持つ旅人 この世のすべての精霊と神霊の名において 求め訴える 行く手を|阻《はば》む|闇《やみ》を|拭《ぬぐ》い 聖なる|乙《おと》|女《め》に 光へ向かう道を教えよ」
ぴんと張りつめた透明な空気に|爽涼《そうりょう》なレイムの声が染みた。思わずうっとりと聞き惚れてしまいそうな、誰よりも音に愛され、歌うことを知っている|声《こわ》|音《ね》だった。
レイムの言葉を聞き、光虫はすいと方向を定めた。
まっすぐ影の柱に向かって飛ぶ。
飛んで。
飛びこんだ。
ぎょっと見守る前で。
闇の柱に飛びこんだ光虫の姿が暗みに飲まれ、聖光が消失する。
そして。
爆裂するかと思われる激しい光を発し、闇なす影の柱が根本から吹きとんだ。
ファラ・ハンの体液、涙という|聖《せい》|露《ろ》を|糧《かて》とし聖光を発する光虫。|邪《じゃ》を払う力においては、絶大なものがあって|然《しか》るべきだ。
役目を終え、粉々に|砕《くだ》けた光虫の|残《ざん》|骸《がい》が飛散した。
砕けた光虫の腹から、小さな光が上空に跳ねとぶ。
吹きとんだ礼拝堂の|天井《てんじょう》を抜けて、高く昇ってゆく。
はじめ一つに見えたそれは、上昇するにつれて分かれた。
六つに分かれて広がった。
あの|死《し》|骸《がい》だった光虫が腹に抱いていた卵と同じ、六つの数に均等に分かれた。
円を描くかのように、|綺《き》|麗《れい》に並んだ六つの光。
指先よりも小さいはずのそれらは清き光に強く強く輝きながら、|遥《はる》かなる高みから自分たちの居場所を教える。
どんよりと曇った空に星のように浮かんだ光は、隣りあった一つおきに光の触手を伸ばしてお互いを繋ぎあった。重なりあう二つの正三角形が描かれた。
天空に広大な|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》が描かれた。
魔法陣の影響を受け、その上に重く垂れこめていた黒雲が外向きに渦巻きはじめた。
渦巻きながら、空を|覆《おお》っていた雲が薄くなり遠く飛びさっていく。
半年もの月日にわたり|遮《さえぎ》られていた太陽の光が、|眩《まぶ》しく|煌《きら》めく滝のように降り注いだ。
暖かく優しい、生命を|育《はぐく》む力に満ちた太陽の光。
ひとの手で作り出すどんな光もかなわない、大いなる自然の恵み。世界のすべてに満ちるもの。世界をあまねく照らすもの。天空の魔法陣から王都全域に青空が広がりはじめる。
王都に青空を取りもどし。
天空の魔法陣を作っていた六つの星が、それぞれの方向に向かって|弾《はじ》けとんだ。
眩しく強い光で、おのおのの行きつく場所を示すように。
行かねばならぬ場所を示すように。
そうして天空の六芒星は淡い光を放ち、消えた。
吹きとんだ|天井《てんじょう》から、礼拝堂の中に太陽の光が降り注ぐ。
|隅《すみ》|々《ずみ》まで光を滑らせ、|暗《くら》|闇《やみ》と|邪《じゃ》|気《き》を払うように。
陽光を注がれた|乙《おと》|女《め》は全身にそれを浴びるように、あの影の柱が突きたっていたところの手前まで進みでて、両手のひらで光を受けた。
|可《か》|憐《れん》な姿がくっきりと明るみに映える。
目を閉じ、存分に光を受ける乙女の内で、身を封じていた|枷《かせ》が弾けた。
ざあっと音を立てて。
純白に煌めく翼が乙女の背に広がりでた。
広がりでた翼から散った細かい羽毛が、降り注ぐ陽光を受け光の粉と化してきらきらと輝く。
ここは、王都の礼拝堂のあるこの地は、世界にいくつか存在する|魔《ま》|道《どう》の封土。暗黒と|瘴気《しょうき》が|凝《こ》りやすいところ。なんらかのきっかけがあれば、|妖《よう》|邪《じゃ》が|溢《あふ》れ出やすいところ。
老魔道師は、六つの星の飛びさった方角に思いを巡らせた。
そうだ。
あれらの星の向かったところにもまた、この地と同じく魔道の封土がある。
七つの封土。七つの|封《ふう》|印《いん》。
そして七つは魔法陣にも共通する。
|七《しち》|芒《ぼう》|星《せい》の魔法陣の封印を受けて、世界は明日へと向かおうとする道を失った。恵みを与える自然すら受けいれず、あらゆるものの|干渉《かんしょう》を|厭《いと》う、滅亡という永遠に足を踏みいれたのだ。
|招喚《しょうかん》により具現した乙女も、世界と同じ七芒星の魔法陣の洗礼を受けて、象徴たる翼を封じられていた。彼女の迷いも|戸《と》|惑《まど》いも、翼を持たぬ『翼ある乙女』という理屈からだ。
声を取りもどしたレイムや聖なる光を放つ|光虫《ひかりむし》からも、伝説の聖女の|証《あかし》はたてられた。
もう疑うことはない。誰がなんと言おうと、明確な形を持つ彼女を|否《ひ》|定《てい》することはできない。
ディーノは|茫《ぼう》|然《ぜん》として乙女を見つめた。
同じ色を持つ彼女がこの世ならぬ存在であることに|愕《がく》|然《ぜん》とした。
自分というものが、なんなのかわからなくなった。
見た目以外に共通するもののことなど、今のディーノにはとても知ることはできなかった。
六芒星の内にあるものは、簡単に封じることができる。
世界を滅亡から救うという『時の|宝《ほう》|珠《しゅ》』ですら、容易に正すことができるはずだ。
向かう場所も定められた。選ばれた聖戦士たちも、申し分なく|揃《そろ》った。
|麗《うるわ》しの青い|瞳《ひとみ》を開き、ファラ・ハンが振り返った。
|清《すが》|々《すが》しい笑みを|湛《たた》えた|香《かぐわ》しき|美《び》|貌《ぼう》が礼拝堂にいた者たちに向けられる。
女王や老魔道師、バルドザックとマリエは、うやうやしく|跪《ひざまず》いた。
遠目でもそれとわかる至上の美しさを持つ乙女に、わっと|怒《ど》|濤《とう》のような歓声があがった。
礼拝堂にいた者たちは、歓声に驚いて周囲に目を配る。
|天井《てんじょう》も壁も失い|無《む》|残《ざん》にも|床《ゆか》だけになった礼拝堂を囲み、王都に残っていたひとびとが集まっていた。青空を|覗《のぞ》かせ陽光降り注いだその場所目指して、|群《むら》がり寄ってきたのだ。誰もが皆、忘れかけていた明るい|陽《ひ》の光に、待ち|焦《こ》がれた聖戦士たちの|雄《ゆう》|姿《し》に歓喜していた。
『眠らず』王都に残っていた千名にも満たないひとびと。
世界救済に|一《いち》|縷《る》の望みをかけて命を繋いでいたひとびと。
彼らは今日四人が目覚めるだろうとの知らせを耳にし、朝から息を|潜《ひそ》め空気の微妙な動きさえ感じとる気迫でひたすらに待っていた。四人を迎えるのに失礼でない晴れ着に身を包み、清めの|魔《ま》|道《どう》を受けながら待っていた。
不安も|遺《い》|恨《こん》も、聖戦士に|違《たが》わぬ確固たるものを|目《ま》の当たりにして消し飛んでいた。
誰もが泣いていた。
泣きながら、四人それぞれの名を叫んでいた。
まるでその名が奇跡を生む魔道の|呪《じゅ》|文《もん》でもあるように。
もう後戻りはできない。
聖戦士たることを|否《ひ》|定《てい》することはできない。
|尻《しり》|込《ご》みすることもできない。
とてとてと|覚《おぼ》|束《つか》ない足取りで赤ん坊の|飛龍《ひりゅう》がファラ・ハンにまろび寄った。ちょいとさし出される小さな前足を、軽く腰を|屈《かが》めたファラ・ハンが|握《あく》|手《しゅ》でもするように持ちあげる。
「キュウイ!」
赤ん坊の飛龍が|哭《な》いた。
「ケシャアアアッ!」
三頭の飛龍が哭いた。|咽《のど》をそらし高らかに哭いた。
名乗りをあげた。
ファラ・ハンは、そっと控えた女王たちに|微笑《ほ ほ え》みかける。
「|謹《つつし》んでお話をお受けしましょう。わたしたち四人は聖なる救世主として、この世界を滅亡より救うため、力を尽くします」
|可《か》|憐《れん》な|声《こわ》|音《ね》が言いはなった言葉に、ディーノが色をなす。
|孤《こ》|高《こう》の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》を名乗る彼には、世界もひとびとも関係なかった。そのためにディーノが|尽力《じんりょく》せねばならないことなど、何一つないのだ。
|気《け》|色《しき》ばんで思わず一歩近づいたディーノに、ファラ・ハンは花が|綻《ほころ》ぶように|艶《あで》やかに微笑みかけた。すうっと視界が|拭《ぬぐ》われたかと思うほどの、清浄さに満ちた笑顔だった。
一瞬|毒《どく》|気《け》を抜かれ、ディーノは出そうとしていた言葉を失った。
小さな飛龍を抱きあげ、ファラ・ハンはディーノに歩み寄る。
選ばれし四人の聖戦士が間近く寄り添う形になった。
|一《ひと》|際《きわ》大きな歓声があがった。
[#地から2字上げ]『プラパ・ゼータ3』に続く
あとがき
あとがき
筋金入りの|野《や》|次《じ》|馬《うま》であります。
寝るとき何着て寝ますかってきかれたら、スエットスーツって答えます。あと|迷彩色《めいさいしょく》のコットンパンツと|長《なが》|袖《そで》Tシャツかもしれないかな。けっこうあれ、お気に入りH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
お|風《ふ》|呂《ろ》から上がった後も、すぐに寝るとかじゃなかったら、ちゃんと普通の服着てます。
家の中だからって、いい加減な格好してません。
だぁってねぇ。
もしも何かあったら、すぐにとんで出なけりゃならないじゃあないですか。
近所に火事だって? |泥《どろ》|棒《ぼう》が入ったって? 急に|産《さん》|気《け》づいて自宅|分《ぶん》|娩《べん》だって? |甲《こう》|子《し》|園《えん》目前の高校球児が帰ってきたって? どこどこの兄ちゃんがオカマになって戻って来た?
まー大変っ! このあたしを仲間はずれになんてしたら、しょーちしないわよっ!
おほほっH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
一九九一年九月十五日。
|桜川唯丸《さくらがわゆいまる》&|上々颱風《シャンシャンタイフーン》の大阪コンサート当日でありますH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
めでたいデビュー作、書き下ろし新潮文庫本『魔剣伝暁ノ段』の『あとがき』に書きました予告どおり、わたしってばスタッフ参加したのですねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
予想降水確率二十パーセントは、|狙《ねら》い定めたように、みごとに公演時間を集中攻撃。
雨天決行! 台風でもやるよんH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] という根性のはいった公演は、堂々開始なわけです。
お祭り騒ぎ大好きのわたしは、もーとにかく楽しみで楽しみで。
事務所開きの日しか顔出せなくって、すっごく心苦しかったんだけども「ねー、こんなわたしでも手伝えることある? なんでもするっ!」なんて、やっぱ言ってみるものよね。
生ラジオでの紹介放送にも参加したかったよー。しくしく。
えーと、当日のわたしがやったことと言ったらばですね、会場案内の|看《かん》|板《ばん》を電柱にくくりつけてもらい、それに矢印を書きこむ。お客様を|導《みちび》いたあの矢印はわたしが書いたの!
案内の腕章をつけ駅前にとりつけた看板の横に立って、「商店街を左に曲がって抜けてってくださぁい!」と客引きじゃなくて、道案内をする。矢印書いた紙持って商店街に立つ。
三時間くらいあの場所にいたから、駅から来たひとのほとんどはわたしを見てるはずね。
赤いチャイナシャツに黒パンツの、髪の長い陽気なねーちゃんが、わたしだったのよH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
場所は駐車場を借りた特設ステージ。|緞帳《どんちょう》はクレーンで宙吊り。丸太を組んで作られた本部はまるで|高《たか》|床《ゆか》|式《しき》住居。本部って書いた画用紙が横木にぶら下がってたからあれだよね。
ステージの横には、フリーマーケットあり屋台あり。やきそばやフランクフルトを買い食いしながら踊りまくるという、学校の文化祭みたいな|賑《にぎ》やかで楽しいコンサートでした。
本格的になってしまった雨で、傘が手放せなくなってしまったのが、本当に残念。
ポロシャツのボタンはずして、カンガルーみたいに洋服の中に子供入れてノリまくってたお母さん。雨よけのビニールマットを頭にかざし、|獅《し》|子《し》|舞《まい》のように乱舞していたお父さん。安定感のいいお|尻《しり》をした、ゆかた姿の踊り子さんたち。|作務衣姿《さむえすがた》の|坊主頭《ぼうずあたま》のおっちゃん。
傘がなくても、レインコートがなくても、帰るなんてもったいない。びしょびしょで寒くって震えても、体の|芯《しん》まで冷えきっても、心の中は燃えに燃えまくってる!
だってねぇ。楽しみに来たんだものね。
うふ、うふふふふっH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
アットホームでみんなで楽しめる、いいノリのコンサートだったね。
桜川唯丸さーんっ! 上々颱風さーんっ! またコンサートしに来てねっ!
和田くん、矢野さん、|雷《いかづち》の会の皆さん、またぜひ声かけてねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
来年もその次も、絶対の絶対のぜーったい参加するぞーっ! 本っ当、楽しかったっ!
わたしってば、そんなひとです。
お待たせの第二巻、遂に発刊H[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
三か月ものあいだをおきまして、ようやくのお久しぶりねです。うほほ。
さぼってたわけじゃないのよ。お話書くの大好きなわたしが、続きを書かずに放置しておけるはずがないじゃないH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] ま、これも講談社さんのスケジュールというやつで。
おそらくは、これが店頭に並んでいる頃は、もうわたしはこの話を完結させてることでしょう。かもしれない。うーん。そーなら予定どおりなんだけどなー。
心機一転新企画! 明るい新年をむかえたいものです。
読んでるひとは、待っててね〜 なーんて、都合がいいことを、このねーちゃんは。
〜あっそれ! ちっちゃいことちっちゃいこと気にしないっ〜
上々颱風が抜け切ってないなー。
音が流れるとへろへろ浮かれ騒いでしまう、やっぱり元気なわたしですH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
『魔剣』から買ってくれてるひと、初めてわたしの本を手に取ったひと、『あとがき』から読むひと、ごめんなさいねー。
これ、わたしの地なんですよー。あははっ!(反省を求めるほうが無理かもしんない)
今回は主要キャラクターたち四人の過去など|暴《あば》きたてました。これで少しは奴らに親しみなど感じていただけたらと願っております。「お気に入りっ!」なんてのがいてくれたら、すっごく嬉しい。教えてね。六巻目の『あとがき』で人気集計して発表できたらいいなH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
育ってきた環境、人間構成。持ってる基本的な価値観、そういうものを細かく考えていけば、常識なんていうものは、わりとあやふやなものかもしれないって気がします。
誰でも持っているんだけど、一個人、個性として確立したものって、すごいですよね。
ひとそれぞれに考えていること、コンプレックス持ってることは、様々です。
ファラ・ハンやディーノ、レイムとシルヴィンっていうのは、そういうところを刺激しあう要素を多分に持ってる連中です。
だからお互いに嫌いでも目を離せない。気になっても、突っぱねてしまう。気にならないふりをする。関係ないと言われてしまうと、なぜだかどこか寂しい。素直になれない。むしょうに、いらいらとしたりする。
同じことに直面しても各人の反応が違うから、書いてるわたしとしては、おもしろくって仕方ないです。(おもしろがられてたまるか、とディーノに踏みつけられそうですが)
これいじょうないほどに、本当に仲よくなれるか、|喧《けん》|嘩《か》わかれする仲になるのかって、すごく微妙な関係ではないかとわたしは思います。
さて、次の三巻目では、いよいよ聖戦士たちが世界救済の旅に出発します。してます。一つめの時の|宝《ほう》|珠《しゅ》も手に入れます。今度はほとんど書き上がっているから、確実な予告ね。
今回お休みのメイン・キャラも復活してて、わたしはすごく楽しいH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] 主要なキャラクターは次で|出《で》|揃《そろ》うことになってます。原稿を送る寸前で気が変わらなければ。はい。
イラストを誰にお願いするかという話し合いのとき、「|片《かた》|山《やま》先生がいいっH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]』と言ったところ、パラパラと『ウィングス』をめくった小林さんに、「ははぁん、わかったぞぉ。ネコ目が好きなんだなーH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]」と言われてしまいました。「えっ?」
か、片山せんせぇ、にゃんこ目でしたっけっ?
とにかく第一印象、絵で漫画を買うわたしには、片山先生の絵って、すっごい好みH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] のタイプに入るんですよね。
うーんむ。自分がネコ科人類なのは認めるけどなー。指摘されると、なーんか|辛《つら》いわ。
一巻のトーラス・スカーレンのイラストを見たわたしは、思わず片山先生のコミックス『|黄金《きん》のアンケス』を取り出し、「|斗飛《トウフェイ》にーちゃん斗飛にーちゃんH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]」と喜んじゃった。
疑ってたわけじゃないけど、あー、本物の片山先生が描いてくれたんだよなー、なんて、しみじみ感激しちゃったH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
最後になってしまいましたけれども。
この作品を出版してくださいました、講談社様。
ぐじゃぐじゃと文句言いのわたしの言葉に|辛《しん》|抱《ぼう》強く耳を傾け、作品におつきあいくださいます、担当の小林様。胃痛くないですか?(誰のせいとは、あえて言うまい。体御大事に)
偉大なる印刷屋さんと|校《こう》|閲《えつ》の皆様。
今回も素敵なイラストを描いてくださった|片山愁《かたやましゅう》大先生H[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
そして、読んでくださった方々に。
心から。
ありがとうございます。
素敵な作品たくさん書けるように|頑《がん》|張《ば》るから、見ててねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
[#ここから3字下げ]
一九九一年九月十六日
はしゃぎすぎて足の裏の筋肉の痛い
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]|流《ながれ》 |星《せい》|香《か》
本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート版(一九九一年一二月刊)を底本といたしました。
|天《てん》|空《くう》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》
講談社電子文庫版PC
|流《ながれ》 |星《せい》|香《か》 著
(C) Seika Nagare 1991
二〇〇二年三月八日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001