カナリア・ファイル〜金蚕蠱(きんさんこ)
毛利志生子(もうり しうこ)
集英社スーパーファンタージー文庫
目次
プロローグ
1.発端
2.別離
3.異変
4.再会
5.終局
エピローグ
☆主要登場人物☆
有王(ゆうお)
道教をベースに発展した「呪禁道《じゅごんどう》」の現在の継承者。呪禁師《じゅごんじ》としての誇りも気概もなく、自分から依頼人を探そうなどとは考えもしない。普段は若宮神社の裏手にあるワンショット・バー「辻《つじ》」でバーテンをしている。
若宮匠(わかみや たくみ)
ワンショット・バー「辻」のオーナーだがその正体は御霊神。かつては人間だったが、憤死したのち、祟りを鎮めるために神に奉りあげられた。空位だった若宮神社に勝手に居座り、有王をいいようにこき使っている。
花映(かえ)
人間と同型でありながら独自の習慣や性質を持つ「古族」である。狼の性質を持つ「狼人」で、その能力は人間よりも精霊に近い。綾瀬《あやせ》の元にいたが、虐待されることを嫌がって真実夜《まみや》たちと共に一族から逃げ出してきた。
燿(よう)
崇が拾った少年。少女と見まがうような顔立ちをしている。口をきかないが、不思議な存在感と雰囲気で相手の気持ちを安らげる。実は綾瀬の一員だが、ある特異な能力を持っているおかげで一族から執拗に追われている。
綾瀬真実夜(あやせ まみや)
謎の一族「綾瀬」の女性。一族の中では重要な地位を占めるが、なぜか一族を裏切り花映たちと行動を共にしている。花映にとっては伯母に当たり、息子である士郎は一族の手で「熊人《ゆうじん》」に改造させられている。
高田崇(たかだ たかし)
鬱屈した心を抱え、不良仲間と盗みや恐喝を繰り返しているうちに特殊な呪物《まじもの》「金蚕蠱《きんさんこ》」にとり憑かれてしまった少年。失踪していた父の死をきっかけに有王たちと関わり、そのため綾瀬一族の事件に巻き込まれるが……。
プロローグ
「ちくしょう」
有王《ゆうお》はつぶやいて、クリームベージュのコートのポケットに手をx突っ込んだ。
寒いし、空腹だし、歩くのにも疲れてしまっている。
中野の事務所を出てから、もうかれこれ五時間近くも、八王子市内の繁華街を彷徨《さまよ》っているのだ。
街角に設置された時計の針は三時を指そうとしているし、道行く人々にも制服姿の学生が混じり始めている。
ねえねえ、と傍らを通り過ぎたブレザーコートの女学生が、こっそりと有王を指差す気配が感じられた。
その後すぐに、やわらかい若さに満ちた忍び笑いが耳に触れ、やがては遠ざかっていく。
そういうことは珍しくない。
確かに驚くほど長身で派手めの格好の若者が、まるで人目を避けるように壁にへばりついているのは滑稽《こっけい》だろうし、不審がられても仕方がない。
しかし、これが今回の仕事なのだ。
それでも、ほんの少し不愉快な気分になり、舌打ちして自分の仕事に没頭するようにと自分を諫《いさ》めた。
有王の仕事、それは、前をいく一人の婦人の動向を見守ることである。
有王の視線の十数メートル先を、いかにも有閑マダム風の中年女性が歩いている。
髪を大きく膨らみのある形に結い上げて高級そうな毛皮をまとった婦人は、背を伸ばし、石畳の形に型押ししたコンクリートにパンプスのヒールを響かせている。
だが、その颯爽《さっそう》とした足運びとは裏腹に、表情は不安と苦悩に支配されていた。
よく見れば、すれ違う人々にも分かっただろう。
結い上げた髪がほつれて風になびいていることや、白眼に苦渋を思わせる黄色い濁りが生じていること、あるいは、白くほどこされた化粧の下のくっきりとした黒いくま。
婦人は疲れきっていて、思考もさだかならず、ただ憑《つ》かれたように前へと足を運んでいるにすぎないのだ。
そして、その理由は浮気や借金というありふれたものではなく、有王もまた、探偵や刑事などではない。
彼の現在の状況を裏打ちしているのは、極めて特殊な理由によるが、今はただ待つほかない。
いつ訪れるともしれない終わりを待つことに苛立《いらだ》ち、コートのポケットにつっこんだ手を無意識に動かした。
自分が煙草を捜していることに気付き、有王はもう一度舌打ちをした。
五年も前から禁煙しているのに、少しでもおいつめられた気分になると無性に煙草が吸いたくなる。
悪い癖というのは、そう簡単に抜けるものではない。
だが、待っている時間が長いほど、何かが訪れるときはだしぬけで速やかなのかもしれない。
溜め息をついて首を振り、今にも泣き出しそうな灰色の空に目をやった時、『それ』は狙いすましたように訪れた。
建物の陰から走り出てきた三人の少年たちが婦人を突き飛ばし、彼女が転んだ瞬間に腕に通していた紙袋をむしり取るようにして持ち去っていったのだ。
けれども、空気が凍りついていたのはほんの一瞬のことで、すぐに時間は正常な流れを取り戻した。
道行く人々は再び自分の行くべき方向に足を進め、地面に転がった婦人を横目で眺めながら通り過ぎていく。
みなが見ぬふりを決め込んでいる中で、ぼんやりと少年たちのスニーカーの裏などを眺めていた婦人もまた、恨みつらみを感じることなく、ただ解放されたという喜びと脱力感を抱き締めながら、冷たいコンクリートの感触を味わっているようだった。
「終わり、か……?」
悲鳴一つあげるでもなく、うすら笑いを浮かべてへたりこんでいる婦人に手を貸すため、有王は前へと踏み出した。
自分が教えた方法は成功したようだが、それで婦人の心に刻まれた傷が癒えるわけではない。
その傷は、これから婦人が自分自身で癒していかなくてはならないものだ。
有王にできるのはただ、婦人についていた呪物《まじもの》を退ける手伝いのみであった。
呪禁師《じゅごんじ》。
呪術の知識をもち、それを駆使できる肉体と精神力をもち、なおかつ、他者の呪術に干渉できるだけの影響力をもった人間。
とはいえ、それは本職ではなく、ましてや聖職でもない。
もともとそういう家系に生まれたことが最大の原因なのだが、有王にとっては、不本意ながら引き受けざるを得なかったアルバイトのようなものだった。
第一、もともと細かく分類されるはずの、呪禁師も陰陽師《おんみょうじ》も、ましてや密教僧、神主、修験者、宿曜師《すくようじ》、唱門師《しょもんじ》にいたるまで、関心のない人々にかかれば全て『拝み屋』という名称でくくられてしまう。
さらにはその内容にも様々な問題があり、詐称によって大金を獲得する者もあり、とにかく何でもいいからすがりつきたいほど精神的に困窮している人間以外には、あまりを必要とされない職種である。
実際問題として、有王の呪禁者としての生計は成り立っていないし、当人はそれでいいと思っている。呪禁者の地位の向上などは論外だし、気概などは毛の先ほどもない。
だから、有王は他人に呪《しゅ》を放つことはせず、ただ呪を受けた人間がそれを打ち返せるように手を貸すだけだと決めている。
それに不服を唱える依頼相手には、呪を放つということは、ゴムひもをつけた矢を射るのに似ている、と説明する。
もともとがキワモノに属する職業なので、専門用語を用いても、呪術の危険性をうまく説明することができないのだ。
そうしたら、どうなりますか? と尋ねると、大抵は皆くびを傾げるが、答えが簡単すぎて面白くないのだろう。
放たれた矢が目標物に当たれば問題はない。
しかし、他の者に当たって跳ね返された場合、極限まで引っぱられたゴムは、恐ろしい勢いで元の状態にもどろうとするはずだ。
引き戻された矢は、間違いなく放った人間を傷つける。
その呪という矢が強いほどに、重いほどに傷は深い。
死に至る傷だと考えた方がいい、と言うと、しかし、大抵の依頼者はまだ、それでもいいです、と答えるのだ。
それなら、一ヶ月後にいらっしゃい、と約束するのだが、半分以上の人間は二度と来ない。
今日は日が悪いので来月、さ来月と延ばしていくと、ほとんどの状態は『時間』が解決してしまう。
あるいは、呪術など当てにならないと思いなおして自力で奔走《ほんそう》してしまうものだ。
生命をかけておこなうのが呪術であるが、生命をかけてまで呪術を行わなくてはならない事態というのは滅多にはなく、大抵のことは生命をかける気持ちで挑めばやりとげられるか、あるいは、もともと生命かける価値のないことかのどちらかなのだ。
しかし、今回の依頼は、その滅多にない事態の方であった。
『虫』を落とす。
それが今回の依頼である。
その『虫』は、中国南部においてのみ見られる特殊な生物で、恐るべき性質を持っている。
人間の生命を食らって黄金を生む、と伝えられる通り、他人の生命と引き替えに持ち主に万金を与える。
しかし、最後には持ち主の生命までをも食らい尽くす悪食ぶりで、いったん取り憑くと、殺すことも捨てることも叶《かな》わない。
これを落とす、つまり、消滅させることは不可能に近い。
『虫』はその性質上、強欲な人間に取り憑くことが多い。
例外は一番始め、つまり生まれたての『虫』を誤って手にいれてしまい、知識不足から飼育に至るという場合のみであるが、今回の婦人はまさにそのパターンであったようだ。
それに、ともかくも話を聞いてしまった以上、有王にも『虫』との因果関係が生じてしまった。
どうにかしなくては、『虫』の害がこちらに及ばないとも限らない。
頭を悩ませた末、他人に転嫁することによって本人は難を逃れられるという『伝え』を採用し、さらには、他人に手の中のものを奪い取ることに、心を痛めない人々に持ち去ってもらおう……。
それならば自業自得で、なおかつ、巡り巡った『虫』が婦人や有王のもとに戻ってくる確率はゼロに等しい。
当然のことながら、あまり心楽しい提案ではなかったが、他に方法がないのだから仕方がない。
呪術なり、呪術者の知識なりは決して万能ではあり得ないし、出来る事は限られているのだ。
さて、とつぶやいて歩き出した有王は、しかし、すぐにその足をとめた。
見ぬふりして通り過ぎる人の流れに逆らい、一人の女性が駆け寄ってきたからだ。
黒く長い髪をさらりと後方になびかせ、全身黒ずくめの服装をしている。
女性は倒れている婦人に手をさしのべ、助け起こしてからも、破れたストッキングやそこから血をにじませる膝の具合などを丹念に、心配そうに調べている。
「痛くありませんか?」
「……ええ。……もう」
女性と婦人のやりとりが切れ切れに聞こえる。
有王は止まっていた足を動かし、再び婦人の方へゆっくりと近付いていった。
女性がゆるやかな動きで顔を上げ、無言のまま自分を見つめている存在……有王へと視線を向ける。長い黒髪、黒い洋服、それなのに肌は病的に白く、切れ長の眼を覆う長いまつげが濃い影を落としている。
影絵のような女だ、と有王は思った。
立体感がない。
存在感がない。
ただ、形の良い唇だけが、ひどく意匠的な赤で彩られていて印象的だ。
その赤が、無意識の意識を揺さぶる呪術的な色合いに見えて、有王は自然と背筋に走る冷たい『何か』を御するための努力を強いられた。
「……あの?」
女性が声を発した。
自分を睨《にら》みつけながら、無言で立っている有王に不審を感じたのなら、当然のことだ。
女性ほどではないにしろ、長い髪はオレンジのマニキュアのせいで薄い光をまとっている。
うなじの辺りで一つにまとめているので、有王自身は不便を感じたことはあまりないが、見る相手によっては突飛な、あるいはひどく奇妙な髪型だと思うかもしれない。
おまけに有王はひどく背が高い。
二メートルには及ばないが、百八十五、六センチは軽く超えている。
痩せても太ってもない体躯をクリームベージュのコートに包み、大昔の怪盗がかけていたようなローネット風の丸眼鏡をかけている。
変な格好だな、と鏡を見るたびに自分でも思うのだから、他人が見れば尚更《なおさら》であろう。
「その婦人《ひと》はおれの連れだから」
「お怪我《けが》をなさってますわ」
放っておいてくれ、と言う前に、女性が有王の台詞をさえぎった。
途端に、有王の内側に警笛の音が響く。
「あんた、……呪術者だな?」
犬を見て犬だと知覚するように、花を見て花だと知覚するように、呪術者には特有の気配があり、神xの女性もまた、それに近いものがあった。
しかし、彼女は有王の目を見つめ寂しそうに微笑んで首を振る。
違います、と小さな声が否定した。
「わたくしは、……綾瀬《あやせ》真実夜《まみや》と申します。あなたさまは?」
「有王」
ああ、とつぶやいて女性は再び微笑んだ。
「とにかく、その婦人《ひと》にはさわらないでくれ」
「これは、……失礼いたしました」
軽く頭を下げ、女性は半歩後ろに下がる。
美しい女だが、やはり存在感が薄い。
モノクロームの写真に落ちた一滴の血を思わせる紅だけが、有王の網膜に焼き付いていた。
「あんた、何か……」
「真実夜さま! そいつから離れて!」
物言いたげな女性に問いかけようとしたとき、よく通る声が彼女の後方から有王に叩きつけられた。
目をこらすまでもなく、しとやかな身のこなしで、一人の少女が彼女と有王の間に立ちはだかる。
赤い艶やかな髪をショートカットにし、やや褐色がかった肌の色をしている。
大きな瞳は琥珀《こはく》の輝きを帯びて、対峙《たいじ》する有王をこれ以上ないほどに強い光をたたえて睨みつけている。
年の頃は二十歳前というところか。
女性にしては長身で、均整のとれた若々しい肢体をもっている。
顔立ちも整っているので、もう少しまともな格好をすればモデルだといっても通っただろう。
しかし、いかんせん服装がひどすぎる。
ホームレスも真っ青だ。
「おまえ、陰陽師《おんみょうじ》か!?」
少女が怒鳴った。
「いいや、おれは陰陽師じゃない。呪禁師《じゅごんじ》だよ」
苦笑混じりに有王は答えた。
そもそも有王ら呪禁師が伝承する『呪禁道《じゅごんどう》』とは、中国で発生した『道教』が朝鮮半島を経て伝来し、日本的な展開を得て発展した呪術の一形態である。
多くの呪術がそうであるように、破壊と創造の両面を備えているが、特筆すべきは秀れた医療知識を含有することだ。
古代の日本の宮廷においても、呪禁師は『典薬寮《てんやくりょう》』と呼ばれる医術者の集団に属していた。
しかし、さらに天文や暦学に重きをおく『陰陽道』が成立するや、『呪禁道』は多くの呪術知識を吸収され、衰退し、ついには歴史の表舞台から姿を消してしまった。
現在でも『陰陽師』を標榜する人間がいるのに対し、表だって『呪禁師』です、と名乗る人間は皆無だろう。
「どちらでも同じことだ!! 呪術者なんて、クズばっかり!!」
有王の心中を察したわけでもあるまいが、少女は先ほどよりも語気荒く怒鳴った。
めくれた唇の下に、きらりと白い犬歯がのぞく。
それは一般的な大きさをはるかに上回る大きさと鋭さを兼ね備えていた。
「おまえこそ、『古族』だろ?」
少女が不可解そうな顔をした。
「『獣人』なんだろう? 虎人か、狼人か、それとも誰かの犬神か?」
「うるさい! 私は誰のモノでもない!」
今度こそ、少女は本当に牙を見せて唸《うな》った。
「行こう、真実夜さま。こんな奴らにかまってないで」
「でも花映《かえ》……」
「早くしないと、士郎《しろう》が待っている」
返事を渋る真実夜の手を掴《つか》み、花映と呼ばれた少女は踵《きびす》を返した。
引きすえられていくままに、真実夜だけが顔を振り向けて有王に告げる。
「またお目にかかりましょう」
影絵の女の黒い瞳が、さらに深い闇の色に輝いた。
「わたくしには、あなたさまと花映をつなぐ糸が見えました故」
しかし、花映は連れの言葉も耳に届かぬばかりか、もはや有王や婦人のことなどすっかり失念しているらしい。
ずんずんと雑踏の中に踏み込んで行き、すぐにその背中すら見えないほど遠くに歩み去ってしまう。
その勢いがあまりに強かったので、消えてしまった後もしばらく、彼女らの軌跡を見送ってしまった。腕に、そっと婦人の手がかかるまで、有王までも自分の仕事を完全に失念していたのだ。
「あの……」
「ああ、悪い。ちょっとボケてた」
有王は軽く頭を振った。
影絵の女……真実夜が告げた呪縛《じゅばく》に似た言葉を頭から追い出すためだ。長い髪が空中を踊り、有王の背中に当たって軽い音をたてる。
「あの紙袋に、ちゃんと現金を入れておいたんだろう?」
「……五百万円ほど」
「なら、大丈夫だ、……多分な」
「多分?」
婦人が怪訝《けげん》そうな顔をしたが、どんな顔をされたって『絶対』と保証してやることは有王にはできなかった。
あの『虫』はあらゆる呪物《まじもの》の中でも特異な存在なのだ。
「あの『虫』は、おれごときがどうこう出来る代物じゃあないんだ。だから、追い払えただけでもよしとしてくれ」
「……でも、……あの子たちのご家族に不幸が及ぶのですよね……」
有王は頭を掻いた。
苛々《いらいら》したからだ。
伏し目がちの婦人は、とりあえず自分の不幸が去った途端に、常識のある善人に立ち戻りたくなったのだろう。
『虫』を転嫁された見知らぬ相手に対する心遣いは、そのまま、何故あの『虫』を殺さないのかという有王に対する責めの言葉になっている。
結局、婦人は呪物《まじもの》の何たるかを理解してはいないのだ。
「あんた、あの『虫』と心中する覚悟があるのか?」
抑えた声色で問うと、婦人はびくりと肩を震わせて口をつぐんでしまった。
呪術の限界は、それを実感した者にしか理解されない。
ましてや、有王は『中くらい』と評される呪術者なのである。
「あんたが、自分の生命を捨てる覚悟があるんなら、他の方法もあるんだぜ。あんただけが『虫』を殺せる……」
婦人は俯《うつむ》いたまま首を左右に振った。
「だったら、これで終いだ。家に戻って、『虫』のことは忘れてしまった方がいい」
「でも、あの、……お金は……」
「金はいいよ」
有王は嘆息する。
ポケットに突っ込んだ手を動かし、煙草はないのだと再確認する。
「おれがしたのは、アドバイスだけだからな。身内から頼まれた仕事だったし」
そうですか、と婦人は脱力した様子でつぶやいた。
「どうも、ありがとうございました」
深々と頭を下げ、婦人が有王の側を離れていく。
乱れた髪と、少し引きずるようにして運ぶ足どりが悲しい。
何を悲しく感じるのか、分かる気がしたが、分かりたくはなかった。
それでも、婦人の背中が駅の構内に消えるのを見届けた。
有王は一息つき、駅舎の壁面に背中をつけた。
これから中央線に乗り、高円寺にある職場に出勤しなくてはならない。
婦人に言ったように、自分も『虫』のことを忘れようと思った。
だが、あの影絵の女の残した言葉が、胸の奥に黒い染みを作っている。
『糸が見えた』とは、一体どういうことなのか? 『虫』は蚕に似ているが、糸は吐かない。
だから、『虫』とあの二人の女たちは関係がないのだが……。
符合だ。嫌な予感ともいう。
そして、有王のこの手の予感は外れたことがない。
様々な想いが頭の中を駆けめぐり、有王は少しだけ憂鬱《ゆううつ》になった。そして、その憂鬱さを象徴するかのように、ようやく師走を迎えた冬の空から、小さな雨粒が落ち始めた。
1 発端
ブルーオーバーやワイドパンツ、アーミー風のライトジャケットなど、今時の若者の服装に身を包んだ少年たちの一団が、不必要に大声をたてて笑いながら歩いている。
行き違う大人たちは、彼らと目をあわせないように早足で、しかし、あからさまに避けている様子を悟られないように少年たちの傍《かたわ》らを通り抜ける。
少年たちは、皆で五人いた。
後方を歩く二人の少年はそれぞれに大きな紙袋を手にしており、無造作に下げたその口からは女物のバッグの取っ手が覗《のぞ》いている。
彼らはそんなものをどこで手に入れたのか。
答えは簡単だった。
少年たちは、まだ少年であるという自分たちの立場を最大限に利用して現金を得てきたにすぎない。すなわち、何々狩りと俗称される犯罪行為に手を染めたのだ。
それは、簡単でスリルも実益もある、まさに彼らにうってつけの犯罪だった。
弱そうな相手を突き転ばし、あるいは脅して鞄ごと、財布ごと現金を手に入れるのだ。
決してしてはならないのは、自分よりも強い相手に手を出すことであったが、彼らの狡猾《こうかつ》さが間違いを犯させることはない。
今までにも、この方法でかなりの額の金を手に入れているし、その金が、盗られた相手がいかに苦心して手にいれたものであるかや、突き転がされた人間がどのような苦痛を味わったかは、少年たちには想像すら及ばない遙か彼方の現実であった。
彼らはまるで戦利品を手にした戦士の面持ちで住宅街を闊歩《かっぽ》し、これからお決まりのコース、つまりグループのリーダー格の少年、安藤征哉《あんどうせいや》のアパートでビールでも飲みつつ金を分配することになっている。
その場所で問題となるのは、手にいれた金の額もさることながら、いかにして獲物をみつけたか、いかにして獲物を料理したかというそれぞれの手際である。
泣いて嫌がる獲物から金をせしめる快感を語り、獲物たちの卑屈な言動をとぼしい語彙《ごい》で語るこそが少年たちの最大の『肴《さかな》』なのだった。
しかし、今日は何故か心弾まない、と高田崇《たかだだかし》は考えていた。
笑う少年たちの中にいるから笑い、大声で今日の自慢を語りこぼす彼らの中にいるから大声で相槌《あいづち》をうつ。
けれども実際には崇はそうしたくない気持ちを抱え、『付き合いの悪い奴』というレッテルを貼られたくないばかりに無理に友人たちに迎合しているにすぎなかった。
崇の気掛かりは、三時ごろ、八王子の繁華街で毛皮をきた中年の女を突き飛ばした時に始まった。女のもっていた紙袋がみすぼらしかったからではない。
それをひったくられる瞬間の女の表情が、まるで刷り込みでもしたかのように瞼の裏にありありと焼き付けているのだった。
彼女は笑ったのだ。
崇は、あんなに嬉しそうな被害者の顔を、これまで一度たりとも見たことがなかった。
解放されたという安堵《あんど》と一抹《いちまつ》の哀れみの視線が、するどい鉄条網のように崇の全身に巻きついている。被害者の歓迎は、ある種加害者を当惑させる効果がある。
「おい、崇ぃ」
隣を歩いていた鈴木隆文《すずきたかふみ》が、やや居丈高《いたけだか》な声で崇を呼んだ。
彼は崇の高校の同級生で、崇と共に最年少である。
家も近所で、小学校からの知り合いだから幼馴染みということになるのだが、その時分はずいぶんと仲がよかったにもかかわらず、最近は崇に対して妙に当たりがきつい。
崇にしてみれば、自分よりも背が高くて、顔立ちも整っていて、さらには両親ともそろった家庭に育った隆文が、どうして自分なんかに敵愾心《てきがいしん》をもつのか理解できない。
「おまえ、なにボケーッとしてんだよ。なんか、不満でもあんの」
「ないよ」
カッカした方が負けなのだ。
崇は隆文の言葉を軽くかわして、リーダー格の安藤へと視線を移した。安藤は、やはり隣を歩く一つ年下の斉藤という少年と馬鹿笑いを交えて歓談していた。
五人の少年たちの中で、安藤だけが専門学校生で二十歳を過ぎている。
「安藤さん、すいません。オレ、今日はちょっと早く帰りたいんで、……」
「なンだあ、タカシぃ!? 今日はカアちゃんはいねえんじゃねえのか?」
「……ばあちゃんが来るから……」
はっきりしない口調で、崇はもごもごと返事をした。
他の少年ならどやしつけられるどころだが、何故か安藤は崇に、目をかけてくれているので、そっか、気ぃつけろよの一言で収まってしまう。
だが、そうした安藤のエコヒイキが隆文たちを怒らせる原因であるころは明かだったし、安藤自身も自分の寛大さが他の少年たちの反乱を招くことを知っていたので、つけ足しのように言葉を紡《つむ》いだ。
「おまえ、今日の分け前はなしだぞ」
「わかってます。……すいません」
あっさりと承諾し、ついでにもう一度謝っておく。
崇は、以前ほどは簡単に手に入る金を嬉しいとは思わなくなっている。
とはいっても、崇の家が金持ちだということでは決してない。
狭い市営アパートに住んでいて、母は家計を支えるために働きづめに働いている。
父は会社員だったが、三年前に愛人をこさえて出奔《しゅっぽん》してしまった。
「ばあちゃん来るから帰りますなんて、てめえは小学生かヨ」
あまり金に執着を見せない崇の背中を、隆文がかなりの力でどんと押した。
不意打ちに崇はよろめいだが、もともとはしっこいほうなので転びはしない。
ただ、背中にぶつけられた隆文の崇に対する憎しみが、鋭い痛みとともに骨に響いた。
「……ばあちゃん、年だから……」
「おい」
それでも言い訳はしようとした崇の言葉を、斉藤の鋭い声がさえぎった。
皆ははっとした様子で顔を上げ、声を発した斉藤の指す方角へと視線を走らせる。
住宅街の一角に、こっぽりと落ち込んだ暗い空間を形成している場所がある。
そこだけ異世界のように時間をとめた神域『神社』があるのだ。
背の高い針葉樹でおおわれたその神社は昼でも暗く、この界隈《かいわい》に住んでいる者の間では、やれ強姦事件が起きただの浮浪者が寝泊まりしているのだといった怪しい噂が囁《ささや》かれている。
今は夕刻だが、雨上がりのうすい西日が周囲に光を投げかけている中、その神社だけはすでに夜を迎えてしまったかのように闇を抱えて静まり返っていた。
「ンだよ、サイトー」
「あれだよ、安藤さん」
神社は小高い丘の上にあり、道路のすぐ脇に建っているわけではない。
参道は細い石の階段だったが、すでに小さな明かりの灯された街灯の下に二人のサラリーマン風の男が立っている。
なんだよぉ、と安藤が面倒くさそうにつぶやいた頃にはもう、崇は二人の男が何のためにその場に立っているのかを理解していた。
二人の影が覆う階段の下段に、一人の少女が座っている。
襟元《えりもと》をだらしくなる弛《ゆる》め、酒のために顔を赤くした二人の男は、その少女に何がしかの声をかけているのだ。
「やめなよ、おじさん」
崇は、自分が声を発する瞬間まで、どんなすばやさで少女と男たちの間に割って入ったのかが知覚できないでいた。
まさに彼らを制止する声で我に返ったのだ。
「……やめなよ」
正面から二人の顔を見て、崇は彼らがまだおじさんと呼ばれるような年ではないことに気がついた。
三十歳をわずかに越えた程度で、酔いに濁った視線が疲労を交えてはいるものの、背は崇より高く、横幅もずっと頑健《がんけん》に見える。
彼らは突然に飛びこんできた少年に気勢そがれたらしいが、すぐにまた相手が小柄であることに気付いてにやりと笑い、格好に似合わない脅し文句を口々にぶつけ始めた。
「何だ、おまえ」
「何をやめろって? ああ!?」
「おれたちはな、この子に今夜の宿を紹介してやろうってんだよ。これは親切で言ってるんだぜ」
崇は、そっと首を巡らせて少女を見た。
なるほど、肩までたれた茶色の髪と細面の白い肌、薔薇の唇と濡れて光る琥珀色の瞳は人間ばなれして美しい。
だが、着ているものといえば汚れたシャツにジーンズで、上に羽織ったカーキー色のジャンパーさえ、何とも分からぬ汚れを無数につけている。
その目に見える汚れのみならず、全体に染み込ませたような色彩の変化もあり、さらには洋服のほとんどがサイズさえ合ってないようにちぐはぐだ。
どう見ても家出人で、冬だからまだいいが、夏ならば近くによっただけでひどく臭いに違いなかった。
「メシと洋服と温かい寝床があるぜ、お嬢ちゃん」
卑猥《ひわい》な笑いとともに男の一人が言った。
少女は無言のまま、振り返った崇の視線を捕らえている。
立ち上がった少女は、崇よりも十数センチは背が高い。
しかし、威圧感はかけらもなく、むしろ、感情のこもらないその瞳が、空洞のように崇の存在そのものを飲み込んでしまいそうに感じられた。
「……行こう」
崇は少女の手を取った。
別に、そのサラリーマンたちの獲物を横取りしようと思ったわけではない。
ただ、何となくそこに置いておきたくない気持ちになっただけだ。
少女は嫌がるでもなく、冷えた手を崇のそれにそっと預けた。
「ちょっと待てよ!」
少しの体格の勝った男が怒声と共に崇の肩を掴んだ。
彼らにしても、せっかく見つけた『後腐れのなさそうな相手』をみすみす見逃すつもりはなかったのだろう。
しかし、身構えた崇のもとには、固められた拳《こぶし》も蹴りも飛んではこなかった。
崇の肩にかかった男の手を、斜め後方から安藤ががっちりと押さえ込んでいたからだ。
「おっさん、オレらのダチに何すンだよ」
安藤が凄《すご》んだ。
他の三人も皆、ぎらぎらと殺意に似た凶暴な光を宿した視線で男たちを眺めやり、まるで獲物を囲い込むハイエナのような足取りで円陣を描く。
立場が逆転した。男たちの目から急速に光が失われていく中で、彼らの戦意の消失こそが少年たちに力を与えているように見える。
崇は少女の手を引いたまま輪の外にいたが、自ら進んで輪の中に入りたいと小指の先ほどとも思わなかった。
「おい、タカシ」
崇の肩から男の手をもぎとった安藤が、崇の放り出した紙袋から、さらにボロい紙袋を一つ取り出して投げる。
崇は空中でそれをキャッチし、安藤の言葉を待った。
「そいつはおまえの取り分だ。次も絶対に来いよ」
「その女、オレにもマワしてくれよ」
安藤の近くにいた津村という少年がゲラゲラ笑った。
それを合図に一方的な暴力が始まったが、崇はもう構わなかった。
自分はもう帰ることを許されている。
あの二人の男を殴りたいとは思わなかったが、殴られる彼らを気の毒とも思わない。
それが報いであるように感じた。
勤勉な人間を装って内側に獣を飼っていた報いだ。
三年前に姿を消した崇の父親もそういう男の一人だった。
まだ家庭に身をおいている時は、まがりなりにも勤勉に働き、崇や母親の顔を見るたびに自分の存在のありがたさに感謝するよう強要した。
父親が消えて母がはたらくようになると、今度は母がその宗教の教祖になったようだった。
「あら、崇くん」
「……こんばんは」
少女の手を引いた崇がアパートの階段を上がっていると、上から降りてきた痩せた中年の女性が声をかけてきた。
「洋子《ひろこ》ちゃん、帰ってるんでしょ? 後でおみかんを持っていくわね」
「……どうも」
崇はあごだけで会釈して、彼女に体が当たらないよう注意して脇をすり抜けた。
本当は近所の人とも会話などにしたくはなかったが、それでも、夫に逃げられた女と言われている母親を哀れに感じる部分はあり、挨拶《あいさつ》程度はまめに交わすよう心掛けている。
いっそ孤立してしまえば楽だろうが、それをする勇気も理由も崇の中には見付からなかった。
それに、表面をとりつくろう必要はもう一つある。
ポケットから鍵をとりだして鉄の扉を開けると、崇は少女に中に入るようにうながした。
「ただいま」
少女は警戒する風もなく、玄関に雑然と並べられた新聞の束や箱ごと積み重ねられた靴や傘を避けて部屋に入る。
中から、はぁいと人の声がした時には一瞬びくりと身を震わせたが、傷だらけの柱に両手ですがるようにして、一人の女性が現れるころにはもう、完全な無表情を取り戻した。
「おかえりなさい、崇」
「ただいま、姉ちゃん。遅くなってごめん」
いいのよ、と彼女は微笑んで首を振った。
ピンクのモヘアのセーターにえんじのフレアースカートをはき、ほっそりとしていて、はかなげな印象である、彼女は両の目を閉じたまま弟の連れ帰った少女へと顔を向け、
「崇のお友達ですか?」
と尋ねた。
「崇の姉の洋子です。ごめんなさいね、私の目が見えないものだから、崇が早くここに戻らなくてはならなくなって」
少女はじっと洋子を見つめていたが、ふいに手を伸ばして洋子の右手を掴まえた。
崇は少女の突然の行動にぎょっとし、それは洋子も同じに見えたが、不思議なことに洋子は掴まれた手を無理に引き戻そうとはしなかった。
少女の動きが唐突さのわりにゆるやかであり、十分に洋子の心情を配慮したものだったからかもしれない。
少女は洋子の指先を自分の頬に当て、洋子が自分を確認するように催促《さいそく》した。
また、その指先を唇に当て、ゆっくりと無言のまま形を作って自らの名を告げた。
「よ・う、……よう、ね」
嬉しそうに洋子のつぶやくのを聞き、少女は再び手を自分の頬に当ててこっくりとうなずく。
二人の少女のやりとりを、崇は不思議そうな面持ちで見ていたが、やがて二人を残したまま、玄関脇の小さな汚い台所に入り、おそろしく大きな音をたてる小さな冷蔵庫の扉を開いて二人に尋ねた。
「何か飲むか?」
「温かいものがいいわ」
洋子が弾んだ口調で答えた。
崇が早く家に帰りたがったのは、目の不自由な姉のためであり、祖母が来るからと嘘をついたのは、姉の存在を彼らに知らせないためだった。
彼らは友人であると共に、やはり完全には信用できない存在であることを、崇は基本的に知っていたのだ。
「あら! まあ!」
マグカップに牛乳を注いでいる崇の耳に、すっとんきょうな洋子の声が飛び込んできた。
驚いて顔を上げた崇は、満面の笑みを浮かべる洋子に驚かされた。
「ごめんなさいね、崇のガールフレンドかと思ってたわ」
「違うよ!」
あわてて崇は否定したが、洋子の笑いはおさまらない。
続く言葉に、今度は崇の方が耳を疑う羽目になった。
「そうよね。この子、男の子だものね」
「え、っ!?」
カップから白い液体が溢《あふ》れ出る。
少女……いや、少年はあわてて両手で崇の手にしている牛乳パックを上向け、茫然《ぼうぜん》としている崇に向かって微笑んでみせる。
笑うと春の日射しのようにおだやかな表情の『彼』は、少年と言われれば確かに少年だとわかる不思議な存在をもって崇の傍らにたたずんでいた。
高円寺は駅前こそ賑わっているが、少し沿線から離れるとまだ田舎の風景があちこちに残っている。
公園なども完全な造形ではなく、どちらかといえば残された自然をそのままに利用したという印象を与える。
それは多くの神社も同様で、こんもりと残る神域の森は、それぞれに由緒《ゆいしょ》ある神のまします座としての格式と体裁《ていさい》を保っている。
しかし、それは同時にその由来を知らぬものにとってはただ暗い場所であり、犯罪を誘発する温床ともなり、あるいは足早に通りすぎねばならなない閉ざされた空間でもあった。
ワンショット・バー『辻《つじ》』は、そんな神社の一つ、若宮神社の裏手にたつ、まるで堀立小屋のような店だった。
一応看板は出ているが、電気系統が弱っているのか、それとも文字自体が薄れているのか、うんと近付いて目を凝らさねば店の名も見えない有様で、その薄い黄色い光に遮られて、その足もとすら危ないというのが現状であった。
けれども、店の主が閑古鳥《かんこどり》の鳴く声に耳をかたむけ、あくびを噛み殺しているかと思えばそうでもない。
建て付けの悪いドアを開け、わずかながら地下へと下る階段を降りると、そこにはそれなりの喧騒《けんそう》が用意されていて、訪れる者をほっとさせる空気があるのだった。
「ねぇ、有王。あたし、今月の同伴回数が少ないのよぉ。すぐにとは言わないから、クリスマス辺《あた》り、一緒に店に行ってくれないのかなぁ」
「馬鹿言えよ」
カウンターに掛けた赤いドレスのホステスが鼻声で言うのを、有王はグラスを拭きながら一蹴《いっしゅう》した。グラスに指紋が残らないよう上手に布巾で包み込んでいる。
「クリスマスなんか、かきいれ時だ。オーナーが許可するもんか」
なぁ、と問いと同意を含んだ声で尋ねると、店の隅のグランドピアノの前に座っていたこの店のオーナー、若宮匠《わかみやたくみ》はにっこりと笑った。
「駄目ですよ、あけみさん。うちの大事な客引きパンダを連れていっちゃぁ」
匠に言われ、あけみはふん、と鼻を鳴らして視線を外した。
やわらかくウェーブした髪が、むきだしの肩に触れながらふわりと揺れる。
しかし、彼女は本当にへそを曲げてしまったわけではない。
「こまりましたねぇ」
すねたふりをしたあけみに微笑を送ると、匠は打開策を考える様子を見せる。
その表情で、あけみが諦《あきら》めを伴った満足感を得ていることは間違いない。
身長こそ百七十センチそこそこしかないものの、匠はまさに貴族的としか表現できない典雅《てんが》な顔立ちしている。
肌の白さは多少病的だったが、やわらかくそれにかぶさる色素の薄い髪が、かえってその白さを当然のものと感じさせる。
そして、やはり暁《あかつき》の色を帯びた大きな瞳がその調和を揺るぎないものとし、いかにも年若い彼の言動を不思議な威厳と確信に満ちたものだと感じさせる手伝いをした。
それに、彼は笑うとひどく可愛らしく、まるで愛玩動物のような愛嬌を見る者に与えたので、オーナーの微笑みには、常連客のみならず、一見の客ですらそうそう逆らえるものではなかった。
「あーあ。もぉ、こんなに景気が悪くなっちゃあ、今年の正月も楽しみないわぁ」
「来年だろ」
一昔前の小学校で使われていたような木製の椅子にもたれるあけみに、有王は率直なつっこみを入れる。
匠の言葉よりもそちらが気に障ったとみえて、あけみは本当に語気を荒くした。
「除夜の鐘がなっちまったら、今年だもんね、こっちの稼ぎには協力してくれないで、あたしから高い金とってさ。ねえ、オーナー。有王はね、こないだつぐみちゃんと一緒に店に来て、散々飲んだくせに支払いはつぐみちゃんにさせたんだよ」
「そいつはひどい」
即座に言葉を返し、匠は白く細い指を鍵盤の上に走らせた。
そこから紡ぎだされた音は、もちろん有王を責める言葉の代わりである。
「あれは、つぐみサンに頼まれたんだよ。でなけりゃあ、薄給のおれが銀座なんかに飲みに行けるもんか。店に入って席についただけで一ヶ月の稼ぎがパアになる」
「労使間の溝を深める台詞だねえ」
有王の反論に対し、また匠がピアノを鳴らした。
「ぼくだって、けっこう融通はつけているつもりなんだけどね」
「雑用が多すぎるんだよ」
心底むっとした様子で有王はつぶやいた。
現在に至るまでの経過を思い返すまでもなく、自分が匠に太刀打ちできないことは明らかである。
だからといって、諾々《だくだく》と従う気にもならないのは当然のことだ。
有王のつぶやきを聞いた匠は少し意地の悪い笑みを浮かべて、
「それが君の業《ごう》だろう」
と言い放った。
「ちょっとぉ、喧嘩しないでよぉ」
二人のやりとりの発端を自分に認め、あけみがあわてて両手を振る。
助けられたとも思わなかったが、つき出しの補充にちょうどいい機会だと、匠から視線を離して有王は冷蔵庫に手をかけた。
「やだ、怒らないでってば」
「怒っちゃいないよ。第一、そいつとは喧嘩にもなりゃしないんだ」
「そうそう、ぼくがあんまりにも強すぎてね。そうだろ、有王」
寝た子を起こす匠の攻撃だったが、有王はぐっとこらえて彼の言葉を肯定した。
「そうだよ、若宮さま」
「よしよし、それでこそ正しい選択だ。嫌な思いをさせちゃったから、なんでも好きな曲弾いてあげるよ、あけみさん。何がいい」
悦に入った様子で匠が椅子に座り直すと、何でもいいのぉ、とあけみが鼻声で尋ねた。
「何でもいいよ」
「じゃあ、『白鳥の湖』!」
あけみのリクエストは、フライパンに向かった有王をつんのめらせるのに充分な効果をもっていた。
「それは、ピアノ曲じゃないぞ」
「いいよ」
楽し気に有王の言葉をさえぎると、匠は少しだけの真剣な面持ちでピアノに向かう。
ふんふんと鼻歌をまじえてメロディーラインを確認すると、おもむろに鍵盤《キー》を叩き始めた。
指先で鍵盤に触れるたび、奇妙だが確かにそれと知れる『白鳥の湖』が奏でられていく。
テーブル席について歓談していた客が喋るのをやめ、あけみも、有王でさえもしばしば匠の演奏に酔いしれる。
有る者は舞台の上を横切る白いチュチュの女性を思い、ある者は水面を滑る白鳥の姿を心に描いた。
しかし、曲が一つの山場を迎えようとした時、不意に店の扉がひらいて皆の心を掻き乱した。
それは匠も同様と見えて、ゆっくり上手に音を終わりに導くと、皆が曲の余韻を楽しんでいる間に立ちあがり、滑るような足取りで寒風吹き込む扉を閉めるようにと突然の来訪者をうながした。
「いらっしゃいませ」
有王が慇懃《いんぎん》に告げる。
入ってきたのは熊のような大男で、比較的広めの店の扉も、彼の肉体に圧迫されて今にも壊れてしまいそうに見える。
「やあ、めずらしいな」
匠が笑いを含んだ声で言い、どうぞ中に入って扉を閉めてくれるように男に頼む。
珍しいという匠の言葉が常連客に向けられたものとおもったあけみが首を巡らせたが、彼女は、古びてあちこちささくれだった革のジャンパーを来た大男を、一度たりともこの店で見たことはなかった。
「だれ?」
匠の親しげな様子に心ひかれたらしく、あけみが小声で有王に尋ねる。
有王は、昼間から続くこの珍事にうんざりとしていたが、ここが匠の店である以上うかつなことは言えず、さあな、と曖昧《あいまい》な言葉を返した。
大男が階段をきしませて降りてくると、その後ろにいた二人の女性の姿も見えるようになった。
店内の淡い照明に艶やかな黒髪をきらめかせるやさしい面立ちの女性と、無遠慮に店内に警戒心のこもった視線をばらまく赤毛の少女だ。
彼女は当然のように有王に一瞥《いちべつ》をくれたが、特に心配した様子もなく匠へと視線を移したので、無視されたと感じた有王は舌を鳴らした。
「……だぁれ?」
「知るもんか」
あけみの再度の問いを一蹴し、有王はこの一団の処置を匠に一任することにした。
ここは匠の地所であり、有王ごときに何ら口をはさむ権利のないことくらいは心得ている。
そして、有王が何も口を出さぬことを理解している匠はといえば、全く対照的な嬉しそうな笑みを浮かべ、三人をカウンター席へと誘った。
「こんばんは」
「こんばんは」
黒髪の女性――真実夜《まみや》だけがにこりと笑って匠のエスコートに応じる。
赤毛の少女――花映《かえ》は真実夜を保護するかのように背後にぴったりと張り付き、まだ周囲に警戒のこもった視線を投げかけている。
そして、一番最初に店に踏み込んできた大男は、二人の意図に逆らわないつもりらしく、ぼんやりと店内を見回しただけだった。
「どうぞ、席についてください」
「花映、士郎、座って」
真実夜が命ずると、ようやく二人の従者は彼女の左右の椅子を引き、たっぷりと時間をかけてそれに腰を下ろした。
昼間、花映が言っていたことを思い出し、この大男が件《くだん》の待ち合わせの相手であったか、とつき出しや割り箸を用意しながら有王は考えた。
「西南からのお客人」
匠が言うと、真実夜ははいと返事をした。
「何ようで東の地にいらしたんです?」
「人捜しと厄災《やくさい》を逃れるために」
「何にいたしましょう!」
匠と真実夜の会話の行方が、自分にとってはあまりありがたくはない方向に進み始めていると気付いた有王は、抑えた声ながら鋭い響きをもって注文を尋ねた。
花映が馬鹿にしたような目で有王を見たが、かまわなかった。
師走にさしかかってまで面倒なことは御免こうむりたかったのだ。
「何か飲みますか? 食事もご用意できますよ。この男は呪術者としては、中くらいですが、カクテル作りや料理の腕は玄人《くろうと》です」
柔らかい口調に変えて、匠が言った。
「何でもいただきます」
匠の口調に負けぬやわらかい微笑と共に、真実夜が言った。
女でも誘惑されてしまいそうな美声である。
「追手をかわしながらの人捜しは難しいものです。ようやく清浄な結界を見つけましたのでご迷惑とは存じますが、しばらく休息させていただきたく存じます」
「歓迎しますよ。ただし、外の邪魔な御仁たちを追い払ってからね」
一瞬だけ匠の髪が逆立った。
店内の照明が消え、すぐまた点った。
客たちは突然の停電にわずかなざわめきを発したが、それで全ては終わりだった。
匠は何ごともなかったようににっこり笑い、花映の驚愕《きょうがく》と畏怖《いふ》の視線を受け流した。
有王は嘆息し、何でもいいというありがたい客の注文に応じるべく包丁を手にした、
「さあ、お話をうかがいましょうか」
匠が笑って再びピアノの前へ腰を下ろす。
人払いするでもなく、ワンショット・バーの片隅で奇妙な会談が始まった。
「どうぞ」
無愛想に、有王が炒め物ののった皿をカウンターに置くと、真実夜はそれを士郎の前に置き直した。
花映は不平を言わず、士郎もまた当たり前のように箸を割り、意外なほど行儀よく両手を合わせてから一気にそれを口の中に掻き込んだ。
二人前の炒め物が皿の上から消えたのは、わずか数秒のうちのことだった。
匠は彼の健啖家《けんたんか》ぶりに笑ったが、無人の椅子ひとつ隔てて隣りあわせに座っていたあけみは目を丸くし、造形のごついその顔をただ凝視するばかりだった。
冬眠あけの熊だって、こんなに勢いのある食っぷりはみせないだろう。
「……すごいわ」
あけみがつぶやいて、煙草を口にくわえた。
有王がコンロ用のチャッカマンで火をつけてやっても、いつものような拗《す》ねた表情一つ浮かべない。
黙って彼のことを見つめているから、よほど心に感じるものがあったのだろう。
一方の有王は、一々料理をしていては間に合わないと気付き、とりあえずすぐに出せるものを手当たり次第に並べていくことにした。
恐らく料理代は支払われまいが、オーナーである匠が満面の笑みを保っている限りは、冷蔵庫が空になろうとも有王の責任ではない。
まず、大きなハムの塊を取り出し、適当に切りわけて皿に盛った。
普段ならば、もっと薄く切り、皿に青いものやレモンを添えるのだが、そんな手間はかけたくなかった。
事実、有王がパイナップルの缶詰を開け終わらないうちに、皿に盛られたハムは一枚残らず士郎の腹に消えていた。
「……ちっ、……」
パイナップルの缶詰をプラスチックのボールに入れて出す。
作り置きのオードブルを片っ端から並べていく。
水でもどし済みの海藻のサラダも丼にぶちこみ、手間暇のかかるクレープのタネですらホットケーキのように厚焼きにした。
サンドイッチは四角に食パンの形のまま出し、酔狂な客のためのインスタントラーメン五つにも湯を注いだ。
そのどれもが、次の用意するよりも早く、士郎の腹に消えていく。
「……っくしょう!」
有王のつぶやきを耳にした匠が、顔を似合わぬ下品な声でげらげら笑った。
あけみの表情は驚愕を通りこしてうっとりとしたものになっていたし、冗談ではなく冷蔵庫はほとんど空っぽの状態になってしまった。
「これで終いだよ」
壁に掛けた袋からバケットを取り出し、パンを切り包丁で荒く切る。
士郎はそれすらも皿ごと平らげようとしたが、それまで無表情に黙りこくっていた花映が鋭い声で制止をかけた。
「士郎!」
う、と熊そっくりの唸りと共に手を止め、まるで主人に怒鳴られた犬のように怯《おび》えた表情すら浮かべて士郎は花映を見た。
岩を彫ったか粘土で造ったかという大造りな顔に、花映の言うことは何でも従うという服従の意思が表れている。
「全部食べちゃだめよ!」
「……いいのよ、士郎」
う、と再び士郎はうなった。
これまでの行動からして、真実夜こそが主体的な立場にあると思われる。
しかし、士郎個人の考えでは、あるいは花映の方が高位にあるのかもしれない。
仕えるべき相手とさからうことのできない相手、その双方に違うことを要求され、士郎は進むこともさがることも許されない心理状態に大変なストレスを感じているようだった。
「いいから、食えば? こっちのお嬢には、スパゲッティでも茹《ゆ》でてやるからさ」
有王は、女二人にはさまれた士郎が哀れに思え、ついつい助け出した。
そのままで食べられる物は全て放出したが、小麦粉や乾燥麺、何かにかけなくては食べられない缶詰などは残っている。
士郎がとりあえず満足してくれれば、二、三十分かけて別のものを用意するのは、空を飛ぶよりも簡単なことだった。
しかし、真実夜は有王の申し出を断った。
「私はいいのです。食べるものがあるのなら、士郎に食べさせてやって下さい。この子は、もう三日も食べていないのですから」
それを聞いた途端に、有王は調理をする意欲のほとんどを失った。
士郎の食べ方はものすごかったが、それは口に入る物なら何でもいいという態度でしかなく、士郎はそれすら丸のみにしてしまったかもしれない。
「……でも、あんたも顔色が悪いよぉ」
そっとあけみが立ち上がった。
士郎の食べっぷりに対する免疫が生まれたためか、あるいはしばらく同じカウンターに掛けていた気安さのためか、手を伸ばして真実夜の頬に触れようとする。
カウンター下の収納庫から缶詰を出そうとしていた有王は、顔を上げてあけみの行動に気付くなり大声で叫んだ。
「よせ! その女に触るな!」
ぴっ! とあけみの手の甲が裂けた。
驚いて引いた彼女の頬に、鮮血が二滴ほど散った。
ドレスにもいくらかは散ったのだろうが、赤い生地に染みた赤い血は、こんな暗い照明の中では定かに見えはしなかった。
「この、っ!!」
有王が怒鳴り、ヒョウのようにしなやかな身のこなしでカウンターを飛びこえる。
手に傷をつくったあけみは、自分に何かが起こったのか理解できない様子で、自分の後ろに立った有王の胸にどん!! と背中をぶつけた。
ただ彼女たちが怖くて、その場から逃れたい気持ちになったからだ。
「なんて事をするんだ!」
「ごめんなさい!」
あけみを抱きとめた有王の怒声に、真実夜の声が重なった。
何故か、真実夜の隣に座っていたはずの花映が場所を移動していたが、あけみには花映の行動の意味は分からない。
ただ、花映を押しのけるようにして伸ばした真実夜の手に傷付いた手をとめられ、びくりと身をすくめたものの、体が硬直していてそれを振り払うことが出来なかった。
「痛くないわ、大丈夫」
真実夜が強い口調で言う。
「傷も残らないわ。何の心配もない」
真実夜は、まるであけみの手の傷に命令を下しているかのように見えた。
あけみはぼうっとしたままその言葉を聞いていたが、確かに痛みはいっこうに感じられず、血の流れる熱っぽい感覚だけがそこにある。
すっかり笑うのをやめていた匠が、やわらかい物腰であけみの手を掴んだ真実夜を横へと押しやった。
「それでは不十分だ」
匠の行動に低い唸りを発し、花映が唇の端をめくり上げた。
異常に発達した犬歯が見え、あけみはまた一歩身を引こうと足を動かした。
しかし、あけみが逃げるまでもなく、匠が花映を一瞥し、やめろとするどく命じるだけでよかったのだ。
そして、匠自らが中世の騎士のようにあけみの手をとり、触れるか触れないかの軽いキスを与えただけで彼女の傷は跡形もなく消えてしまった。
「ごめんね、あけみさん」
匠が微笑んだ。
「今日はもう家にお帰り」
ぼうっとした顔付きであけみが頷《うなず》く。
店の客はもう一人として残ってはおらず、送ってあげなさいという匠の言葉に従って有王はあけみと共に店を出た。
あの三人と匠を残していくのは気掛かりだったが、心配していても仕方がない。
実際に、有王に何とかできる程度のことなら匠は朝飯前にこなしたし、匠にできぬことを有王に何とかできるはずもないのだ。
「おい、犬女」
あけみを先に店から出し、昼間と同じ白っぽいコートを羽織りながら、有王は花映に向かって宣言した。
「おまえがどんな馬鹿だって、御霊神に噛みつくような真似はしないだろうな」
「しないよ、ね、花映ちゃん」
ふん、と横を向いた花映の代わりに、匠が答えた。
有王が呆れ顔をしたためか、匠はさらに花映の肩に腕を回してひきよせ、花映の右手を掴んでバイバイの格好までさせる。
花映は首だけで横を向き、噛みつきたい気持ちを懸命に抑えている様子を見せた。
花映が心底いやがっていることを知り、さすがに、有王も同情の気持ちを抱えて店を後にする。
まだ子供なのだという不思議な感慨と共に、彼女の方向の定まらない攻撃性から見える苛立ちの意味を思った。
あれはかつての自分の姿と同じなのだ、と……。
崇が目をさますと、部屋の中はほんのりと暖かかった。
いつもなら、多少は肌寒さを感じながら横になるのが常なのだ。
ところが、何故か今夜は暖かい。
おまけに、部屋の中がカーテン越しに差し込む町の明かりとは別の穏やかな光で満たされている。
「……なに?」
大きな驚きはなかったが、崇はつぶやいて目を擦った。
音はないが、テレビでも消し忘れたのかと台所に足を向ける。
小さなアパートには居間などという高級なものはなく、テレビは、ただ人が二、三人腰を下ろせるというだけの台所の片隅に他の家具に埋もれるようにして置かれている。
「あ……?」
確かに光は台所の方から漏れ出していた。
しかし、その源泉はテレビなどではなく、足を一本添え木で補強したテーブルの側に立つ、一人の少年の体から発せられているのだった。
「燿……か?」
少年は、無言のまま悲しそうに崇を見つめた。
すっかり汚れた緑のチェックのテーブルクロスの上に、雑誌や食パンの袋などが雑然と積み重ねられている。
その傍らに置かれた女物の紙袋を指で示し、少年はゆっくりと左右に首を振った。
「燿だろ?」
崇は繰り返した。
「おまえ、何で……?」
その時、金属的な音を立てて玄関のドアが開いた。
一陣の寒風と共に、脱色して大きくカールさせた髪を揺らしながら、派手な化粧をした中年の女が部屋に飛び込んできた。
女はあわててドアをロックし、独り言のようにただいまとつぶやくと、手にしていた荷物を大儀そうに椅子の上に放り出した。
女は崇の母の伽奈子《かなこ》だったが、彼女は崇を見ようともせず、まして薄い光をまとった燿に驚く様子もない。
あわてて声をかけようとした崇は、自分の全身がまるで薄手の絹のように透け、手をかざしてもその向こうにあるものがはっきりと見えるが状態であることに初めて気が付いた。
「寒いわね……」
伽奈子はガスストーブのスイッチを入れ、コートを着たままで椅子にかけると、ポケットから取り出した煙草をくわえて火をつけた。
煙草と共に疲れまで吐き出そうとしているかのように、大きく長い吐息をもらし、それから赤く灯ったストーブの前で両手をせわしなく擦りあわせた。
しばらくの間、伽奈子はそこに座っていた。
疲労が体を満たし、そのために眠ることもできないのだ、とは崇には理解できない。
ただ出掛けようとする崇に寝床からだらしなく声をかける姿や、間にあわないと騒ぎながら鏡台の前で化粧を塗りたくっている姿しか知らない。
『学校に行きなさいよ』『誰の稼ぎで食べられると思ってんの』と伽奈子は口を開くたびに崇をののしることしかない。
しかし、今、自堕落《じだらく》で口うるさいはずの母親は、赤いストーブの火に照らされて、地獄の業火に焼かれるあわれな罪人のように見えた。
『……燿……』
崇は疲れはてた母親を見ているのが嫌で、助けを求めるように燿を見る。
燿は黙って、また首を左右に振り、やはり哀しみに満ちた瞳で伽奈子のうなじの辺りを見つめていた。
「……こんなことじゃあ、駄目だね」
吐息と共に言葉をもらし、伽奈子はようやく立ちあがりかけた。
そして、ふと気付いたといった様子でテーブルの上の古びた紙袋に目をとめた。
「何、これ」
伽奈子はつぶやきながら手を伸ばし、心当たりがあるという苦渋に満ちた顔で動きをとめた。
彼女は、自分の息子が悪い連中の仲間になって、世間には公表できないような犯罪を遊びにしていることに薄々気がついていたのだ。
少しためらい、伽奈子は紙袋の口を開けた。
すぐに、その顔が唖然とした表情に変わり、ややあって彼女はむきだしの一万円の札束をいくつもテーブルに並べあげた。
「何なんだい、これは」
札束は、全部で五つあった。
それぞれについた白い帯に、判で百万円と印されている。
崇がひったくったあの古びた紙袋の中には、現金が五百万円もつまっていたのだ。
『……すげえ』
驚いていたのは崇も同様だった。
つい手を伸ばして札束に触れようとし、自分が実体をもたない透き通る存在であることに気付いて手をとめる。
そして、母親がどうするのかと再び視線を戻すと、彼女は紙袋の中から、細かい金糸の縫いの施された錦の帯の切れっ端を掴みだしているところだった。
その布には、虫の食ったような小さな穴がいくつもあいている。
そして……。
崇ははっとした。
『うわぁ!』
崇は虫を払い落とした。
羽もなく歴然とした甲羅も持たない虫はたいていの芋虫がそうであるように、ころりと転がって、床に落ちてしまった。
だが、次の瞬間には再び胸に取り付いている。何度払い落としても、虫が床に落ちたと感じた瞬間には、もう崇の胸には虫の這《は》いずる嫌な感触が戻っているのだ。
踏んでも、蹴飛ばしても。
放り投げても、まるで崇の胸こそが自分の住処《すみか》と決め込んでしまったかのように、虫は常にそこに戻った。
これは夢なのか、それとも現実なのか、崇は恐慌をきたして叫びまくった。
その声はしかし、母親には届かず、唯一崇に気の毒そうな顔を見せる燿だけが、例の悲しい瞳で崇を見つめている。
『いやだ、これ、取ってくれよ!』
崇は燿にぶつかり、その両肩を掴んで揺さぶった。
『たのむよ! この虫、気持ちわりぃよぉ!』
崇の懇願に、ようやく燿は手をのばしたが、その指先が虫に触れたようとした瞬間、大きな音が響いて崇の意識を飲み込んでしまった。
「崇! 起きなさい!」
その声に応じて崇は飛び起きたが、大音響の正体が母親の呼び声だと気付くまでには時間がかかった。
「……何だよぉ」
目を擦りながら半身を起こした崇の顔を、恐ろしい形相の母の向こうから、燿までが一緒になって覗いている。
「何だよ、そいつのことなら……」
「燿ちゃんのことはいいのよ。ちゃんと多岐絵《たきえ》さんから電話があったから」
多岐絵さんって誰だろう、と崇が不審に思うまでもなく、燿はちゃっかりとこの家庭に居場所を作ってしまったらしい。
勝手に崇の洋服を着込んでいるが、それはちっとも構わないし、むしろ少し窮屈そうで可哀相にさえ感じられた。
「燿のことじゃないんなら……」
「いいから、おいで!」
また布団に潜りこもうとする崇の耳たぶを、伽奈子が掴んでひっぱった。
寝起きを襲うするどい痛みに声をあげ、崇は目尻に涙を浮かべて伽奈子の手を振り払った。
「っせーな。行きゃあいいんだろ」
二段ベッドの下段から降りると、ひんやりとした空気が全身を包む。
床に敷かれていたはずの洋子の布団は、すでに片付けられていた。
「母さん、洋子は?」
「お姉ちゃんって言いなさいよ。今日は病院の日だから、もうとっくに出掛けたわよ」
怒気と呆れを含んだ声で言い放ち、伽奈子は崇を台所まで引っぱって行った。
とはいえ、距離としてはほんのわずかなものである。
半分だけつけられたガスストーブの前に座ると、崇は裸足の脚を組んで、何? と尊大な態度で母親の小言の雨が降るのを待った。
だが、崇の予想に反して、伽奈子は崇を怒鳴りつけたりはしなかった。
平手を振り上げることももちろんなく、彼女がどんな言葉で息子に用件を切り出そうかと思案している間に冷蔵庫から牛乳を取り出す余裕もたっぷりとあった。
「燿も飲むか?」
燿がうなずいたので、崇は洗い桶の横の籠から二つカップを取り、それから少しだけ考えてもう一つカップを増やした。
それに適当に牛乳を注ぎ、埃《ほこり》と油で地の色が変わってしまっている電子レンジに入れてタイマーを回す。
独特の電子音が響いている間中、伽奈子はうつむいて言葉をさがしているようだった。
「燿、飯くったか?」
また燿がうなずいたので、パンは自分だけが食べることにする。
食パンをトースターに押し込み、チン! と音をたてたレンジから牛乳入りのカップを取り出して伽奈子の前に置くと、伽奈子は不思議な感慨のこもった瞳で崇を見つめた。
「なんだよ!?」
「ううん、ありがとね」
めずらしい息子の行動に礼を言い、伽奈子はようやく口を開く気になったらしい。
今時の少年にしては小柄な崇は、言動こそぶっきらぼうなものの、家庭で暴力をふるったりすることはなかった。
だから、伽奈子と向かい合って何がしか会話することもないではない。
「この袋なんだけどね」
伽奈子が崇の前に置いたのは、昨日、八王子の駅前で崇が中年の婦人からひったくった古びた紙袋。
「あんた、これに何が入ってるか、知ってるのかい? どこで、……拾ったんだい?」
「……ゴミ捨て場だよ」
そろり、と崇は嘘を口にした。
あの五百万は夢かもしれないが、母親がこうして弁明を求めているのは、やはりあれが夢ではないという証拠かもしれない。
「ゴミ捨て場で拾ったんだよ。まだ、なんか……使えそうだったから」
「そう、……ゴミ。捨ててあったの。……それは、本当なんだね、崇」
きつい視線で伽奈子が崇を見た。
彼女は多分、崇の言葉が嘘であることを知っている。
知っていてなお、その嘘を信じたがっているのだ、と崇には感じられてならなかった。
「本当だよ」
今度は力強く返事をした。
崇は、伽奈子が金を欲していることを理解している。
それは、この家庭の最大のかすがいであり、地盤であり、崇と伽奈子が最も愛している家庭、洋子の目の治療のために喉から手が出るほど欲しいものだからだ。
身をけずって働いても、ひったくりをしても手にはいらない大金は、五倍の価値の宝石や十倍の価値の金塊よりも確実に高田家の人間が必要としているものだった。
「ゴミなんだね」
「ああ! 捨ててあったんだよ!」
伽奈子にぶつけるように言い、崇が顔を上げると、燿の悲しそうな視線が崇へと注がれていた。
もぞり、と胸のあたりで何かが動く。
崇は、パジャマを捲《まく》ってそれの正体を確かめる勇気を持つことができなかった。
2 別離
「食えよ」
まだ昼食時には一時間も早い国道沿いのファミリーレストランで、自分の前に置かれた厚いステーキをみつめる花映に向かって有王は言った。
牛をかたどった鉄板はジュウ、ジュウと音を立てながら油をはじいていて、美味しいそうな匂いのこもった湯気がゆるやかにたちのぼっている。
「食えってば」
いらついた有王の言葉に押されるように、花映は傍らのフォークを取っておもむろに肉の真ん中に突きさした。
そして、ナイフで切り分けることなど考えてもいないように、油のしたたる大きな一枚肉にがぶりと音をてて食らいついた。
まだ赤い肉汁を滴らせた、ステーキの三分の一が花映の口の中に消えてしまう。
昨夜の士郎とは違い確かに食べているという実感は伴っていたものの、花映の食いっぷりもやはり常人のそれとは大きく異なっていた。
「変な味」
ぺたりと肉を皿にもどし、下品なほど舌を出して唇を嘗《な》めながら花映が言った。窓際の席に向かい合って座っている有王は、外を行く人々がちらりとでも花映の方を見ないようにと心から願わずにはいられなかった。
「いいから、全部食え。まずいのはともかく、殻ごと卵を飲むよりはマシだろうが」
「ふん」
花映は鼻を鳴らしたが、それでも腹はへっていると見えて、有王の勧めを邪険に断るような真似はしなかった。
残りの肉がわずか二、三分のうちに花映の口の中に消えてしまうと、遠慮がちな視線で食事の進み具合を見守っていた年配のウェイトレスが、ひどく驚いた顔をして厨房へ消えていった。
ウェイトレスが厨房の方に消えると、まるで入れ違いのように女子学生の集団が店に入ってきて、有王たちの隣の席につく。
彼女たちは学校帰りなのか、制服のままで、流行に聡《さと》い世代だけあり、長身の有王と、やはり長身でモデル体型とも言える花映の取り合わせにこっそりと視線を走らせ、二人の正体や関係についてささやきあい始めた。
聞こえてくる憶測に頭を痛めつつ、これも仕事のうちだと有王は席を立つ。
「ちょっといいかな?」
「何ですか?」
さすがに女連れなのでナンパとは思われなかったようだが、少女たちは期待と想像に満ちた煌《きら》めく視線で有王の全身を穴だらけにした。
しかし、それでも構わない。
現実を伴わない穴ごしには、彼女らは丸のままステーキにかぶりつく花映を見ることはできないのだ。
「この子をみたことないか?」
「えー?」
有王がポケットから取りだした写真を、少女たちは頭をくっつけ、あるいは奪い合うようにして凝視した。
有王の奇妙な格好と共に、写真に収まった少年がとても綺麗な顔立ちをしていることが彼女らを真剣にさせた原因であろう。
「知らないわ」
「そうか、ありがとう」
それでも礼を言い、有王は花映の正面に再び腰を下ろす。
知らないものは仕方が無いし、今朝から何百人という人間に振られ続けているので落胆する気持ちはあまり起こらない。
「駄目だ。外れだな」
淡々とした口調で告げると、花映もまた、あまり期待を抱いてはなかったらしく、テーブルにつっぷしたまま気のなさそうな声をもらして有王に答えた。
ひどく眠そうに見える。
無理もないな、と有王は考えた。
昨夜はあけみを送って、また店に戻ったのだが、店の明かりは消えていたので神社の方に向かった。
表参道ほどは整っていない細くて急なコンクリートの階段を上がり、うっそうとしたという以外に表現のしようもないような本殿裏の敷地に至る。
まっすぐに幹を伸ばす数本の樹木の間を抜け、苔むして年季を感じさせる石の境界を越えて、どうにか本殿の前にまで辿《たど》りついたのだ。
とはいっても、本殿で一夜を過ごすつもりなど全くなかった。
ただ、裏手からはいると本殿が一番前になってしまうだけのことで、目指していたのは社務所であった。
そこならば布団もあるし、ストーブもあるし台所もある。
本殿からまた数段の石段を下りると横手に社務所があり、正面には小さな能舞台もある。
闇に白い息を吐きながら石段を降りかけた有王は、薄い月光に影を映して舞台を踏む一つの人影に気付いて足を止めた。
「真実夜さんか!?」
はい、と影は答えて有王を見た、ように見えた。
どちらにしても、シルエットしか分からない。
流れおちる黒髪も黒い瞳も黒い衣服も、全てが闇に通じていて切れ目もない。
「何をしている!?」
「花映が外にでましたので、見送っておりました」
真実夜が艶然《えんぜん》と答える。
彼女の存在感は全てその美声にのみ凝縮されているようで、闇が深ければ深いほど効果が上がるらしい。
「追手がいるのに、か!?」
「ええ、狩りでしょう。あの子は獣ですもの。山野をかけて獲物を捕らえて生きるだけの存在。何の役にも立ちはしないのです」
真実夜の言葉には棘《とげ》があった。それも密やかなものではない、あからさまな敵意だ。
「あんた、花映がきらいなのか?」
「あれは、わたくしの妹の子なのです。ですから、愛さなくてはならないのです。わたくしは非道い女で、何の価値もない。『綾瀬《あやせ》』で在りながら、一族の信ずる神の力にすがることもできない。ですから、せめて人並みに姪を愛することのできる存在でいなくてはならないのです」
「人並みにか」
「そうです。人並みに……」
真実夜は微笑んだ。
闇を動く黒い瞳は月光を捕らえ、花映が無事に戻るまでは寒気の中に身を置き続けようという決意が光っている。
愛する理由はあるのに愛せない。
憎む理由がないのに憎い。
真実夜のとまどいが周囲を重い空気で満たし、まるで煙幕のように彼女の輝きを覆い隠してしまうのだろう。
花映の苛立ちは周囲を傷つけ、真実夜の苛立ちは自身を傷つけている。
「『綾瀬』ってのは、何だ?」
「神を信じ、連綿と続く一族にございます」
「神……というのは?」
「マタラ神」
ふわり、と真実夜が舞台から身を躍らせた。
そのしなやかな身のこなしは、華やかな生き物よりも狡猾《こうかつ》な夜の住人たるこうもりを思わせる。
彼女が自分の傍らをすりぬけていく時、有王は一瞬だけ背筋が冷たくなるのを感じた。
「マタラ神ってのは、何だ!?」
恐怖を押し隠すように、あわてて尋ねた有王に向かい、真実夜は鳩のように喉を鳴らして笑った。
三日月型につりあがった唇が、それこそ今獲物を屠《ほふ》ってきた獣のように赤い。
「これは異なことを仰せだこと。呪禁師さまが知らぬはずはございません」
真実夜が決めつける。
「かの神は、あなたさま方の術と同じく、大陸より渡来せしものでございますれば」
「大陸……?」
ふふ、と真実夜は小さな笑い声をもらした。
自分の内側に作った境界の上に立ち、どちらへ踏みだすべきか迷っていた女性の顔ではない。
彼女は、迷いながらも決めている。
自分の進むべき方向を、はっきりと心に決めているのだ。
「北斗七星の加護のもと、死者の肝を食らうことで安寧《あんねい》に導く異形の神、とは申せ、我らのマタラ神は少し違うのですけれど」
その時、不意に茂みが音を立てた。
真実夜は途端におとなしくなる。
「大陸渡来の術者さま。あなたさまが奉じる神は、日本の方でございますねえ」
「匠のことか?」
音のした方向へと意識の半分を向けながら有王は問うた。
確かに、匠は人間ではない。
かつては人間であったが、死後もこの世に留まって神となった。
憤死し、その祟りを鎮めるために祀りあげられた御霊神である。
しかし、膨大なエネルギーの塊にすぎない匠は、その能力をうまく使って人型を保っているのだ。
それを、たやすく見破れるなど大したものだ。
しかし、有王には真実夜が普通の人間と違うことは理解できるが、その能力の内容や大きさまでは計れなかった。
所詮《しょせん》中くらい、という匠の言葉が耳に甦《よみがえ》った。
「広足《ひろたり》さま、と申したところで、あの方の経る年月は長すぎて、御名に縛を生じませぬ」
「……最初から、知っていたのか」
そっと、有王は身を屈めた。
靴に仕込んだナイフの柄に手をかけ、真実夜の動向を窺う。
「もちろん」
真実夜がくるりと背中を向けた。
「お目にかかったからこそ、『判った』のですわ」
石段の最上段に立ち、真実夜は有王を見下ろしている。
月光を正面から受けてなお彼女の影絵に似た印象は変わることがなかった。
「おやすみなさいませ。わたくしは、もう休みます。……わたくしは、もう、……花映を待たなくてもよいのですわ」
「何故だ?」
「あなたさまがいらっしゃいますもの」
真実夜が笑った。
これまで一番憂愁に満ちた微笑だった。
「獣の飼い主は、一人でよいのです」
……真実夜の言葉は有王の胸に染み込み、消化しきれないまま眠りをさまたげた。
明け方近くに花映が戻ったことを気配で察したが、起きていく気にならなかった。
匠の住まう本殿は、見た目こそわずか十数畳だが、そこは神威《しんい》の為せる業、違う場所にも通路を通してしまっていて無限に広い。
うかつに踏み込むと迷うことは必至だったが、まさか匠も客を迷わせて喜ぶほど非道ではないだろう。
結局半眼のまぶたを再び閉じた。
朝一番の鶏の声に起こされると、東京都の二十三区内ありながら、辺りは白いもやに包まれていて森林の体である。
それでも、周囲にも住宅はあるのだし、よく近所から苦情がこないものだと感心しながら、寝間着代わりの厚い浴衣の上にはんてんを羽織って鶏小屋に向かった。
オレンジがかった髪をざんばらに乱れさせ、寒さをさけるための猫足で背中をまるめた有王の姿は、なまじ背が高いだけに異様に見える。
もっとも、現在、それを眺めている者もいまいとたかをくくっていたのだが。
「うおっ!?」
完全に無防備だった有王は、神社の片隅に建てられた鶏小屋の前にうずくまっている花映に驚いて声を上げた。
もやのせいで姿はおぼろげだったのが、気配までもよめないとは呪禁師として『中くらい』の程度とも言えない。
下の下だ。
「おはよう……」
有王の自己嫌悪にも気付かないように、花映が独り言のような朝の挨拶を向ける。
「美味しそうな鶏……。つやつやで、ふくふくだなあ……」
有王の言葉も待たず、花映は人差し指の先で鶏小屋の金網を辿っていく。
ただならぬものを感じたのか、それまでおとなしかった鶏たちが、いきなり大声を上げて飛び騒ぎ始めた。
「よせって。おまえ、腹がへってるのか?」
「うん、……でも、鶏はだめなんだろう? 真実夜さまが、箱の中のものは食べるなと言っていたし……」
「だめ!!……だが卵なら食ってもいいよ。すぐ朝飯作ってやるから。ちょっとだけ待ってろ」
小屋の横手の扉から中に入り、産み立ての卵を拾い集めて出る。
まだ温かい有精卵はもやよりも白くしっとりとした光を放っていたが、花映はひょいと有王の手の中のそれをつまむと、殻ごとくるりと飲み込んでしまった。
「ばっ!……か……」
花映の喉が、蛇のそれのように大きくふくらみ、すぐにまた元に戻る。
有王は花映の奇行に茫然としたが、それに対する言葉がみつからなかった。
「有王」
代わりに言葉を発したのは、いつの間にか有王の後ろに立っていた匠だった。
匠は有王の後ろをとって脅かすのを趣味にしているようだが、今朝はそんなお茶目な気持ちにはならないらしい。
しかめつらしい顔をし、やはり柄ではないと思い返す様子を見せ、首を軽く左右に振り、結局はいつもの調子に戻って続けた。
「君、呪禁師のくせに、馬鹿とか何とか言うもんじゃないよ。言霊を知らないわけじゃないだろう」
「……口ぐせなんだよ」
「悪癖だね」
有王の反論に匠はくすくす笑い、花映の手をとって人前でこんなことをしてはいけないよ、と優しく言った。
花映はうなずきはしたが、何故と問いたそうな視線で匠を見る。
匠は笑って、
「古族がこの世界で生きていくには、細心の注意が必要なんだよ」
とも言った。
「もっとも、卵を生で食べる人くらい、いっぱいいるけどねえ」
そこには大いに反論の余地を感じたが、有王は黙っていた。
朝っぱらから生卵論を戦わせる気力はないのだ。
「それはそうと、花映。おまえ、追いかけられているとか言いながら、夕べ外に出ていただろう?」
「そうそう、有王。真実夜さんたちは、燿くんという男の子を捜しに来たんだってさ」
花映の代わりに匠が答える。
「君、日中はヒマだろう? 東京の地理にもあかるいし、手伝ってあげてくれないか」
「おれは、今夜も仕事があるんだけどな」
「店は当分休むよ」
あっさりとオーナーが休業宣言し、途端に有王は職にあぶれた一青年という立場にたたされた。
しかし、さすがに有王をかわいそうだと感じたのか、自分の言葉の足りない部分を補うように匠が続ける。
「ほんのしばらくの間だけだよ。昨夜、少しだけ真実夜さんに事情を聞いたんだけどね。どうも相手が簡単にはいかない感じなんだ。店の結界はあってないようなものだし、昨夜のようなことを毎晩続ける自信はぼくにもないんだ」
「ああ、昨夜は何したんだ?」
有王が問うと、匠は邪悪の意思のこもった天使の微笑を浮かべ、まるでそれが当たり前であるかのように言い放つ。
「店の周りをうろちょろしていたから、ちょっと意識だけを別の次元へね」
「ひでえことするなよ」
「一瞬だけだよ」
「戻って来れなくなったら、どうするんだよ」
「いいお医者さんはいっぱいいるよ。それで納得できない人間なら、有王、君のお客になってくれるかもしれないじゃないか」
「あっちの客なんか、御免こうむる!」
「どうしてさ?」
有王の強情な口振りに、匠がさも面白そうに笑った。
「おれは、呪禁師になんか、なりたくなかったんだ!」
「……と言っただろう?」
「ああ?」
「呪禁師になりたくなかった、と言っただろう。あれは、どうしてだ?」
テーブルの上にあごを乗せ、ぼんやりとした顔つきの花映が尋ねた。
近くで見ると、琥珀色の瞳の中に金色の虹彩が透けて見え、本当に彼女は人ならざる者なのだという意識を有王の中で新たにさせた。
「もう、食わなくていいのか?」
「うん、もういい」
べろり、と赤い舌で口の周りを嘗め、
「それよりも、質問に答えろ」
と、花映は有王に命じた。
「おまえ、きのう、おれのことを陰陽師と言ったな」
「うん」
「だったら聞くが、陰陽師ってなんだ?」
花映の瞳に怪訝そうな光が走った。
「呪術を使う人間だろう」
「まあ、間違いじゃない。けど、おれは陰陽師じゃない。呪禁師だ。そして、呪術も使う。その違いがどこにあるか、分かるか?」
「分からない」
率直に花映は答えた。
そこには見栄も対抗意識もなく、ただ知らないものは知らないのだという天晴れなまでの開き直りしかない。
これには、有王の方が返事に困ってしまったほどだった。
「おまえ西南から来たと言ったよな。いや、言ったのは匠か。どっちでもいいんだが、西南というのは、厳密にはどこなんだ?」
「どこ、というのは、どういう意味だ?」
「正確な地名を知りたいんだ」
短い間があった。
花映は口をつぐみ、悲しむような、懐かしむような目で遠くを見た。
その目にあったのは、人間の悲哀ではなく、故郷を追われた獣のそれだった。
怒りではなく、憎しみでもない。
ただ純粋で、深い深い哀しみ。
「地名なんて、私は知らない。連なる山々の美しさと厳密な『気』があったとしか……」
「……だが、西南から来たんなら、東京は寒いだろう」
花映は左右に首をふり、声に出しては答えなかった。
「おまえの名字は何だ? 虎人、……か狼人の家系だろ? ああ、でも、あの士郎って奴は熊人《ゆうじん》系統だよな」
「『綾瀬』」
今度は声に出し、花映はきっぱりと言った。
「虎人か狼人か、それがどういうものなのかも知らない。ただ、わたしも士郎も真実夜さまも皆『綾瀬』を名乗っている」
花映が目を伏せた。
「有王、古族とは何なのだ? 言葉だけなら何度も聞いた。白衣を着た男や女の中で、一番いばっている連中が何度も同じ事を言った。けれど、わたしはそれが何なのかを知らない。そして、それを尋ねることは許されなかった。私は獣だから、人間の言葉は理解できないとまで言われた。でも、私は知りたい。自分が何なのか、知りたいんだ」
「古族というのは、……そうだな、正式な呼称じゃないが、人間と同じ形をしながら、人間以外の存在を指す。それぞれに独自の食性をもち、習慣や文化を持つ。その能力は人間のそれとは異なり、むしろ神や精霊に近い。古《いにしえ》よりの一族、と匠なんかは言うよ」
「あの人も、……人間じゃない。違うものの匂いがする」
「そりゃあ、当たりだし外れでもある見解だな。あいつは、かつて人間であった物、だ。昨夜も言ったろ、御霊神だって」
「あの人。恐ろしい」
花映の言葉に有王は笑ったが、あながち笑ってもいられない正しい指摘であることに気付いて背筋を伸ばした。
「民間信仰に座する神は、みんな多少の違いはあっても怖いもんだろう。それよりも、さっきの話を詳しく話してくれないか?」
「さっきの話?」
いきなり声をひそめた有王に、花映は問い返した。
有王はうなずいて再び言う。
「綾瀬家のことだよ」
有王と花映が若宮神社に戻った頃、時計の針は午後四時を回っていた。
灰色の空を背負う暗い神社を見つめながら、有王は何もかもが中途半端だと自戒の念を新たにする。
結局、花映は何も知らないのだ。
ただ、『綾瀬』にいるのが苦痛だから逃げたにすぎない。
燿を捜すにもほんの少しの手掛かりもなく、また彼のこととなると、花映は過敏な反応をしめして口を閉ざしてしまう。
社務所に行って人の不在を確かめた有王は、花映を伴って神社裏手のワンショット・バー『辻』の方へと足を向けた。
仮にも御霊神でありながら、匠はずいぶんと俗な性質の持ち主で、日中も本殿に納まりかえっていることはめったにない。
案の定、店の扉を開けた有王は、カウンターの椅子に全身を預け、ほとんどひっくり返るような状態で雑誌を読んでいる匠の姿を見て嘆息した。
「ああ、おかえり」
二人が戻ったことに気付いた匠が、雑誌を床に放り投げる。
「どうだい。燿くんは見付かったかい?」
「いいや」
一言で答え、花映の背を押して、匠の隣に座らせると、有王はいつものようにカウンターに入った。
壁にかけたエプロンを取り、代わりに手にしていたコートをフックにかける。
そして、手早くコーヒーメーカーに缶入りの豆をぶち込んで水を注ぐ。
「カフェ・オ・レにしてくれ」
器用に座ったまま向きを変え、至極当然のように匠が言った。
へいへい、と気のなさそうな返事をし、有王は棚にふせてあった雪平鍋《ゆきひらなべ》をとって牛乳を注ぐ。
火力の弱いコンロに掛けてしばらく置くと、やがて白い液体の表面にこまかい泡が立ち始めた。
「真実夜さまは?」
「ああ、彼女はどこかに出掛けてた。士郎くんは眠ったきりだよ。ゆうべ、あんなに食べたと思ったら、今度は全然起きやしない」
花映の問いに、匠が微笑んだまま両肩をすくめて見せる。
「仕方ないか。あれが、造られた古族の限界の姿だろう」
「造られた?」
カップに牛乳とコーヒーを同時に注ぎ込みながら、有王が問う。
眼鏡のレンズが曇ってしまったので、匠の表情がよく見えない。
「うん、花映ちゃんは本物、士郎くんは偽物。その造られた目的は同じだろうけど、工程が違うよ」
「つまり?」
「花映ちゃんのコレは生まれつき」
匠が花映の上唇をめくって犬歯を示す。
花映は心底嫌そうに顔をしかめたが、やはり匠には逆らう様子が見せないでいる。
「だけど、士郎くんは人間のベースに熊の性質を注ぎ込んだものだ。『コーヒー』と『牛乳』で『カフェ・オ・レ』という飲み物を作るように、『人間』に『熊』をプラスして、『獣人』を造ろうとした」
湯気のたちのぼるカップを二つカウンターに置き、自分のためのブラック・コーヒーを一口飲んで有王は尋ねた。
「……そんなことが、できるもんなのか?」
「できるよ」
匠の返事はそっけない。
「だって、士郎くんという例が眼前にいるじゃないか」
「それは、……そうだが。あいつ、士郎は古族らしい雰囲気がちゃんとある」
「そりゃあ、フェイクとはいえ古族だもん」
カフェ・オ・レを一口飲み、あちち……とつぶやいて匠は舌を出した。
ちゃんと自分の神社をもった猫舌というのも納得いきかねる。
有王は仏頂面のまま、コップに水を注いでカウンターに置いた。
「……頭の硬い男だなあ」
礼にも言わずに水を飲み、匠はくすくす笑いながら花映の方に目を向ける。
「これはイマドキな格好のくせに、こいつの頭は大昔の武士みたいなんだよ。ぼくという存在がいなかったら、きっと田舎に住んで魚釣りに興じている」
「うるさいな」
「小学校の先生かなんかしてね。子供にはけむたがられるけど、父兄にはいい先生ね、とか言われる。髪も短く切ってしまって、黒縁の四角い眼鏡をかけるのさ」
「そう。この髪も似合うのに……」
「そいつはどうも」
花映が手を伸ばして有王の髪の先をすくい上げたので、有王は無愛想に言って後方に身を引いた。
「ほらほら!」
有王の行動を見て、匠が鬼の首でもとったようにげらげら笑った。
「まったく気が小さいったら。だから、君は呪術者としては中くらいなんだよ」
「おまえの基準があてになるか」
怒気をはらんだ声で言い、有王は空になった自分のカップやコーヒーメーカーの部品を洗い始めた。
花映が自分のカップの中身をあわてて飲み干したので、有王は手をとめて、もう一杯飲むかと聞く。
「もういい。真実夜さまの所へ行きたい」
「んじゃ、匠と一緒に行けよ。勝手に本殿に行ったら、どんな場所に飛ばされるかわからないぞ」
有王の言葉に、花映がぎょっとしたような顔を匠に向ける。
匠は笑って花映の頭を軽く叩き、大丈夫だよと優しく言った。
「入るのは難しいけれど、出るのは簡単だ。中にいる人間が出たいと思いさえすれば、邪魔をするものは何もないんだ」
花映と匠が店を出てすぐ、有王は、士郎のためのホット・サンドイッチとココアを用意した。
そして、やや緩慢な動きで二人の後を追ったのだが、裏の階段を上がりきり、本殿の前にたった途端、真実夜と士郎の名を呼びながら走り出てきた花映とぶつかって銀のトレイを取り落とした。
その後ろから、匠の止めろという言葉が聞こえてくる。
事態を飲み込めぬまま、あわてて腕からすりぬけそうになる花映を押さえつけたが、本気で暴れる獣人を二本の腕だけでとどめておけるものではなかった。
「離すな! 役たたず!」
結局は花映を取り逃がしてしまった有王に、のたのたと走ってきた匠が毒づく。
「あんたが飛べばよかったんじゃないか!」
「それもそうだが……」
忘れていたよ、と匠は苦笑して頭をかいた。
こんな神様に仕えるのは嫌だ、と有王は一瞬だけ本気で転職を考える。
「それよりも、追いかけろよ」
有王の造反の心を知ってか知らずか、匠は容姿に似合わぬ乱暴な手つきで自分よりもかなり大きな有王の背中をどん! と押した。
そうこうしているうちに、花映は神社の長い階段を駆け下り、左右に並ぶ杉の並木に背中が消えてしまいそうな程遠くまで走ってしまっている。
「あんたの領分だろうが! 界を結ぶとか何とか、手の打ちようがある……。はず……」
「遅い! 鈍い! 店を出た時に気がつくがいい! きみはやっぱり中くらいの呪術者だ」
言い淀んだ有王に、つぶてごとき罵りの言葉をあびせて匠が空を仰いだ。
つられて有王もそれに習うと、確かに店に入る前はどんよりとした曇り空だったはずなのに、今は鮮やかなブルーがそこに注入され、決して混じりあうことのない水の上の油絵の具のようなグレイのマーブル模様を描いている。
どちらも空を形成する色彩なのに、現実離れした不快の印象を与えずにはおかない。
「結界か!?」
「それも神社全体に、だ。一人の呪術者で簡単にできることじゃない。だから、有王、花映ちゃんをとめろ! できれば、真実夜さんと士郎くんも連れ戻せ」
それは、……と有王は即答を避けた。
この奇妙な事象が彼女たちのせいならば、むしろこのまますんなりと行かせてしまったほうが無難というものではないだろうか。
そもそも、匠が彼女らを気にいってしまった、というだけのつながりしかない相手である。
「いいから、行け! 命令だ! ぼくはここを動かないでいるから、有王一人でなんとかするんだ!」
匠が怒鳴る。
一人の呪術者では到底はれない結界といっておきながら、有王一人に何もかもかたづけろというのは、死にに行けと命じられたにも等しい。
だが、結局のところ有王は匠の力を信じていたし、もとより逆らうための強い理由も持ってない。
半ば物見遊山の老人のごとき気持ちを装い、全身の余計な力を抜き、あれこれ考えることもやめて花映の後を追うことにした。
匠に物も言わずに階段を駆け降りると、一番下の杉の木の側に、ほとんど自失したような顔付きの花映が立っていた。
有王は勢いあまって花映にぶつかりそうになり、あわててその両肩に両手を添えて、なんとか突き倒さないように足を止める。
後ろからぬりかべ状態の有王にぶつかられても、しかし、花映は少しの衝撃も感じないらしかった。
ただ数メートル前方に横付けされた黒塗りの外車を凝視していて、背後に有王がいることにすら気付いていていない。
黒塗りの外車には窓にスモークが張られていて中を見ることはできなかったが、真実夜と三十代半ばと思しき男性が二人、それぞれに車体に手を置いた状態で車外に立って有王と花映を見つめていた。
真実夜は少しだけ悲しそうな安堵の表情を浮かべている。
もう一人の男性は、トラッドなスーツにアスコットタイをきめていて、どちらかといえば嫌味の漂うダンディ、というところだ。
綺麗に揃えた口髭が、遠目にもよく見えた。
「……真実夜さま」
花映がつぶやいた。
それでも、真実夜の後を追っていかないのは、真実夜の傍らに立つダンディ・嫌味が気にくわないからだ、と有王は勝手に解釈する。
「真実夜さん! 挨拶なしでお帰りか!?」
とりあえず、怒鳴ってみた。
すると、真実夜は深々と頭を下げ、ごめんなさいねと唇の動きだけで応えた。
「こいつはどうするんだ!?」
ぐいっ、と両肩を掴んだままの花映の体を押し出すと、今度は真実夜ではなく男の方が笑いを含んだ粘ついた声で答える。
「もちろん、花映も帰るんですよ」
「帰さない、と言ったらどうなる?」
「騎士《ナイト》のおつもりですか?」
男が笑った。
どちらかといえば、騎士は匠で、自分は従者か下男だと思ったが、それは口には出さないでおく。
「力ずくでも、構いませんか?」
「仕方無いな」
有王は、ぼそりとつぶやく。
その答えを聞いた瞬間、男の目が歓喜に輝いた。
「では、遠慮なく」
言うなり男は九字《くじ》を切った。
印を結び、早口で呪《しゅ》を唱える。
『臨《りん》・兵《びょう》・闘《とう》・者《じゃ》・皆《かい》・陳《ちん》・列《れつ》・在《ざい》・前《ぜん》』
そして、男が印をむけた先、すなわち花映と有王の立っていた場所が、彼らが飛び退いた一瞬後には、爆発を起こしたように土煙と共に掘り返されてしまった。
「……すっげ!」
杉の木立の陰に隠れてなお横から吹きよせる爆風に髪を乱された有王は、地面にべたりと座ったまま感嘆の声をもらす。
思っていたよりも、威力が大きく、ほんの少しだけ自分のたんかを後悔する気持ちが生じていた。
花映は反対の方向に飛び、有王よりも二、三本上の方の対になる木立の陰に身をひそめていた。
笑い事ではなく、有王には花映を庇《かば》ってやる余裕はこれっぽっちもなかったのだ。
獣人の花映は、肉体だけなら有王よりもよほど頑健で治癒力も高く、反射神経も優れている。
「菊名翁《きくなおう》! 有王《そのひと》に手を出すな!」
花映が木立の陰から現れて叫んだ。
朗々とした声の響きは、獣の喉から放たれる歌にも似て誇りと力の存在を感じさせる。
「真実夜さまが帰るというなら、……仕方無いんだ。でも、わたしは帰らない。あんな場所にはシンでも帰るものか!」
「……死体でもかまいませんよ」
菊名翁と呼ばれたダンディ男が、冷たいまなざしで答えた。
「脳が死んでいても、体の方は処理をして使えますからね。細胞の活性のみならず、卵巣もいきているともっといいんですが」
「わたしの子供はガラス瓶の中で育てたりしない! そんなことは……」
「そんなことは『綾瀬』の大老がお決めになること、ですよ、花映」
さあ、と言って手を伸ばす仕草を見せた菊名翁が、あわてて体を反転させた。
鈍い金属音が数回響き、菊名翁の上着の裾《すそ》の部分が白い針で黒い車体に縫いとめられた。
杉の根元に立った有王の姿をみつけ、菊名翁は苦々しそうな顔で笑って上着を脱いだ。
「隠れて震えていればいいものを」
「不可能に挑戦したい年頃なんだよ」
有王は、白いシャツにベストといういでたちになった菊名翁にアカンベをしてみせたが、それは挑発にはならなかった。
菊名翁が面倒くさそうな顔で、さきほどよりも素早く九字を唱え、有王へと呪いを放ったからだ。
しかし、その呪いはさきほどの威力は示さず、伸ばした有王の掌にあたって左右に弾け飛んでしまった。
まるで花火のような華やかさだったが、それを受けた有王は傷一つ負ってはいない。
うぬ、と菊名翁が時代がかった唸り声をもらした。
「あんたの九字は、ちょっと遅いな」
「十字の秘伝か。……なるほど呪禁道らしい原始的な呪法だよ。おそれいる」
菊名翁が負け惜しみを言った。
掌に目的別の文字を空書する呪法は、元祖である道教においては血文字を用いる。
しかし、呪禁道にはそうした作法はなく、ただ空書すればよいのだから、スピードの上では九字にわずかに勝り、あとは呪禁者の他力くらべになる。
そして、有王の防御は菊名翁の攻撃に対応できることが証明されたわけだが、これが逆になった場合も対抗できるかといえば、それは全くの別問題なのだった。
しかし、菊名翁はわずか二度の呪いを放った時点でこのやりとりに飽きてしまったらしい。
車の窓を裏手でノックすると、
「キリエ、出ろ」
と車中の存在へと告げた。
まだ他に呪術者がいるのか、と有王が本気で逃走を考え始めた時、それまで黙って二人の術者のやりとりを見ていた真実夜がとつぜんに異議を唱えた。
「菊名翁、キリエまで使うのは卑怯です」
「誰のせいだとお思いですか」
言葉遣いは丁寧に、しかし、何ともいえぬ毒を孕《はら》んだ声で菊名翁が真実夜に反論する。
「あなたが大老に謀反《むほん》など企てるから、皆がしなくてもいい仕事をしなくてはならなくなるのです」
菊名翁の言葉に悪びれた様子もなく、まるっきり彼らの呪術合戦を楽しんでいた体の真実夜が、のんびりとした口調で否定した。
「謀反などではありません」
「せっかく造りあげたカナリアを野に放つなど、謀反どころか極刑にも値する大罪です!」
『へーえ、カナリアかあ』
ふいに野太い人ならざる声が空間いっぱいに広がった。
菊名翁と真実夜は罵り合うのをやめ、はっとした面持ちであたりに視線を走らせたが、結局視線の落ち着く先は車内から悲鳴とともにまろび出てきた真っ白い人間の体だった。
「キリエ……」
地面にのたうつ真っ白な女に、真実夜が手を貸して助け起こした。
純白のAラインのワンピースもさることながら、肌も髪も降り積もったばかりの雪のように白く、歯ぎしりしながら上げた顔の中には熟れきった果実のように真っ赤な瞳が二つ、怒りを湛《たた》えて輝いていた。
「なんだ……?」
結界が消えた気配を感じながら、有王は白い女を見つめた。
彼女のうけている打撃から、結界を張った人間の正体は分かったが、結界が消えた理由が分からない。
つぶやいた有王の言葉に、匠の声が応えた。
「彼女は『鏡』だよ」
一部の大気が濃くなり、まるでフィルムを早送りするかのように輪郭、そして細部が再生されて匠という一つの個体を作り出した。
スラックスのポケットに手を突っ込み、隣に立った匠を見て有王はぎょっとする。
しかし、馴れてないだけで、匠がそういう存在であることの認識は持っている。
だから、匠の台詞に対する合の手もすぐに口をついて出た。
「結界はりの『鏡』の一族か!?」
「そうでしょう、キリエさん?」
真実夜にほとんど全身を預けるようにして立ちあがった女は、匠の問いには答えなかった。
ただ、憎々しげなまなざしの隅に、抑えることのできない畏怖の念がこもっていることを有王は見逃さなかった。
「なるほど『鏡』の結界は絶品でした。美味しく頂いたけれど、……惜しむらくはフェイクってことだね」
フェイク、すなわち贋物《がんぶつ》ということだ。
『鏡』は古族の中でも特に異質の存在で、結界をはるという以外の能力は一切もちあわせていない。
しかも、その能力は女児にしか伝承されず、一族が結託して何ごとかを為すということもない。
村は形成するが、そこは厳しいおきてに守られた仮の住まいでしかなく、長ずれば己の仕える主を求めて村を出なくてはならない。
そして、生涯ただ一人の主に仕え続ける。
名前も主から賜るし、同族同志で闘うことすら珍しくない。
それ故に下賤の一族とさげすまれてきたが、今日では非常に数が減り、また結界はりしかできぬとはいえその道のエキスパートであったので、珍重され、重用もされ、『鏡』を得るは安寧を得ると同じと称されるまでになった。
だが、その結界がフェイクということは……。
「彼女は『鏡』ではないのか?」
「ガラス管の中で培養された存在、なんじゃないのかな? 詳しいことは分からない。何にしたって『鏡』の結界を食ったのは二十年ぶりだからね」
「悪食もいいところだ!」
菊名翁が吐き捨てた。
しかし、匠は全く動じもせずに、声をたてて笑う。
「うーん、ぼくの結界を、別の結界ですっぽり覆ってしまうという考え自体はよかったんだけどね。エネルギー同志が反発しないように気は遣ったけど、これでは全然力不足だよ。かつては人間だったとはいえ、現在のぼくはれっきとした神域をもった存在なんだ。喧嘩を売るのなら、それなりの準備をしてくるのが礼儀というもんじゃないかな」
「怨霊ごときにはらう敬意を持ち合わせていませんが、私たちの主には伝えましょう。あなたの方が我々の邪魔をする気なら、それこそ万全の態勢で叩きつぶしてしまえ、とね」
菊名翁が毒づいた。
しかし、彼にしても匠と正面からやり合う気持ちは毛頭なかったのだろう。
真実夜をうながすとさっさと車の助手席に乗り込んでしまう。
キリエと呼ばれた女性を車に乗せ、ほんのわずかに真実夜が花映に視線を投げたが、やがて彼女も車中に消え、全員を乗せた車は速やかに発進した。
車が完全に走り去ってしまうと、匠は小さく嘆息した。
彼はうきうきしているらしく、抑えきれない微笑が口もとに浮かんでいる。
そして、全身を花映にむけて腕を開いた。
「おいで、花映ちゃん、真実夜さんたちと行かなかったのは、君にとって燿くんを捜すことのほうが大切だからだろう? ぼくも有王も手伝うから、しばらくここにいるといい」
花映は少しだけ考えているようだったが、やがてゆっくりと二人の側に歩みよってきた。
そして、不思議な信頼と疑問のこもった瞳で匠と有王の顔を交互に眺めた。
夜。
明かり一つない本殿の中央に正座し、両手を膝に乗せて有王は目を閉じている。
寒気が全身を包んでいるが、それはむしろ清浄さの象徴に思われ、身の震えるような冷たさは、一切身の内には寄りつかない。
内側からこんこんと湧き出る力があり、その力の存在を確かめながら目を開ける。
闇になれた目の前には太い木製の格子があり、神社の御神体を祀《まつ》る秘せられた空間を保っている。
しかし、そこに御神体がないことを、有王はずっと前から知っている。
この神社は若宮さまと呼ばれる御霊を祀る神社であるが、すでに空座であったと匠は言った。
その空座の神社に違う御霊神を祀り、あまつさえ『匠』と名付けたのは有王の曾祖母であるらしい。
もっとも、この若宮神社には鳥居というものがなく、岩倉と呼ばれる列石の結界をもって神域であることを示しているのだから、若宮さまが祀られる以前は、さらに自然崇拝から発した神威《しんい》を祀っていたのかもしれなかった。
では、閉ざされた神座には何があるのか。
有王は流麗な動作で立ちあがり、格子を上へと押し上げる。幾重にも重なりあった幕をわけていくと、数段高くなった場所に一振りの太刀が安置されていた。
その太刀は、闇にあってなお黒く光る。
鞘も柄《つか》も漆黒で、雲龍を施した鍔《つば》さえも黒い。
無駄な装飾は一切なく、ただ実用性のみを追求したと見える太刀は、やはり黒い組み紐で封印されていた。
その紐の結び目の部分には薄い絹がただ一巻き、闇に踊る幻想の蝶のようにわずかな色を添えてとどまっている。
その薄い絹こそが封印だ、と有王は自分を戒めた。
もとより、呪禁とは太刀を抜きながら呪を唱える動作を指す言葉に由来する。
しかし、現代においては太刀は呪よりも人を斬ることにこそ簡単に用いられ、まだ子供だった有王も、この太刀を使って人を斬った。
幸いにも相手は死に至らなかったが、問題は相手の生死のみにはとどまらない。
それこそ全身全霊をかけて護りたかった少女『齋姫《いついひめ》』は、自らの霊力の源である比礼《ひれ》の端を切り取って有王に与え、再びその必要がある時まで決して鞘から太刀を抜かぬようにと彼を諭した。
「有王」
わずかの軋《きしみ》みも立てずに本殿に入ってきた花映が、やはりわずかな遠慮もない声で名を呼ぶ。
太刀を手にしたまま振り返りもせず、有王は大きく息をついて張り詰めていた全身の空気を外へ逃がした。
「何をしているんだ?」
「別に、何もしていない」
「……なら、店の方に来てくれと匠さんが呼んでいたから」
「ああ、すぐ行く」
太刀を元の場所に戻し、有王はようやく花映の方へと振り向いた。
まだ、今は封印を解くべき時期ではなく、まして『齋姫』以上に護りたい相手もいない。
現人神《あらひとがみ》、そして託宣神《たくせんしん》。
修験道の祖とされる役小角《えんのおづの》に使役された葛城山《かつらぎざん》の神は一言主《ひとことぬし》であり、それは託宣の神である。
酷い容貌の一言主は、夜間にしか小角の命を実行しなかったという。
それは、神の依代《よりしろ》としての特異性を表すため、半顔をつぶされた葛城山の『齋姫』であった、と言ったとて、誰一人として信じる者もないだろう。
孔雀明王《くじゃくみょうおう》の呪いを用い、呪力に長《た》けた役小角はまた、日本における呪禁師の最高を極めたという韓国連広足《からくにのむらじひろたり》の師でもあり、後に陰陽道を大成させた賀茂氏の長でもあった。
五年前、有王は一人の美しい少女に出会った。
そして、その少女が今も尚、連綿と続く葛城山の『齋姫《いついひめ》』の系譜を継ぐべく育てられたということも知った。
その顔の半分をつぶされ、葛城山に設けられた神殿の中に閉じ籠もり、ただ比礼を降り続けるだけの一生を送る。
破邪《はじゃ》の霊力を持つ比礼は、その一振り、一振りに神の力を宿らせ、彼女は託宣を行う巫女となる。
もちろん、有王は猛烈に反発した。
彼女を説き伏せようと言葉を尽くし、彼女を取り巻く人々の間に呪力の壁を巡らせようとした。
『運命』などという言葉が許せなかった。
少女に残酷な行く末を定めた人が皆、心から憎かった。
だが、彼女は巫女として生きることを選んだ。
傷つけるよりも傷つくことを。
奪うよりも与えることを。
『私は、その機会を与えられたのですもの』
と彼女は笑った。
望んでも得られない役目だと、我が身を人柱にすることを甘受した少女は笑ったのだ。
日本における全ての呪術の根源は奈良にあり、しかし、有王は二度とはそこに足を踏み込めない。
あわや神の花嫁を汚しかけた二流の呪禁師ごときには、かの霊峰を目に映すことすら許されないというのが、今もって葛城山を守る、誇り高くも鬱屈した人々の言い分であったし、彼らと争う意思ももはや有王にはなかった。
『私が有王を護ってさし上げる。愛しい全てのものと一緒に……』
清らかな微笑は闇に溶け、現実が有王の眼前に開けていく。
自分に護られる価値はなく、この世界すべてもそれを認めることはできない。
それでも、できることをしなくてはならない。
愛する理由はなくとも、すれ違う折に生じた縁を振り捨てることはできないし、憎む理由があったとしても、結局世界を憎みきることはできないのだ。
真実夜の苦しみが風のように全身を通り抜けていき、闇の中でも輝く花映の瞳のみが残される。
有王が自分を取り巻く環境の中でもがいていたように、皆ももがいていることに違いない。
「匠が呼んでるんだったな」
「そう。ご飯作れって」
「〜〜〜っ。分かったよっ!」
現実を最も現実らしくする一歩は、最も現実離れした神さまの食欲を満たすことから始まるらしい。
「おい、花映。おまえ、トラックで東京に来た、って言ったよな? 何月何日って言ったけかな」
「十一月二十日」
花映が眠そうな瞳で有王を見た。
彼女も匠と一緒に夕食に舌鼓を打ち、緊張感がゆるんだせいもあってか、カウンターに突っ伏して眠りの態勢に入りかけていた。
「それにしても、東京に着くまでの間、よく追っ手に見つからなかったもんだな」
「あの時は燿がいたから、簡単だった。燿が『三日間は見つけられない』と言ったから、本当に見つからなかったんだ」
「ああ、カナリアか。おれも噂にしか聞いたことがないが、カナリアってのは禁呪《きんじゅ》の達人のことなんだろ? だったら永久に見つからないとでも言えばよかったのに」
禁呪、というのは、呪法の一つであり、その名の示す通り、『禁止の呪《しゅ》』である。
犬を禁じれば吠えるのを止め、蛙を禁じれば雨季にあってもあのけたたましい合唱を無効にしてしまえる。
人を禁じるのはその動きを封じることとなり、水を禁じれば沈むことも溺れることもなく、また火を禁じれば燃えさかる炎すら涼風の如く感じるという。
しかし、有王の解釈に対して、匠は首を左右にふり、その誤解を正すべく珍しく真面目な顔で口を開いた。
「違うよ。それならば、道士か、呪禁師か陰陽師とでも呼べばいいことになるだろう」
「どう違う?」
「そうだな……」
うつむき、あごに手を当てて匠は言葉を探す様子を見せた。
そしておもむろに顔を上げ、
「カナリアは、もっと絶対的なものだ」
と言ったが、その意味は有王には分からなかった。
「だから、何が絶対的なんだ?」
有王の中では禁呪はかなり上等な呪法と位置づけられている。
攻撃性は低く、しかし、大変な防御性をもった呪法である。
たとえ呪禁者同士で力比べの状態が起こったとしても、禁呪の中の禁人に長けていれば相手を完全に、しかも無傷で押さえ込んでしまうことが可能なのだ。
中国の古い書物には、この禁呪の達人の話が驚くほどたくさんあり、中には、寺に一夜の宿を求めた若い女が、ふらちな心を起こして彼女に悪戯しようとした僧たちを『禁じて』しまうというものがある。
これは一種の笑い話的な側面もあり、禁じられた僧たちの前で女は着替えまで披露し、僧たちは動きも中途の格好で石のように固まり、眠る女の姿を見詰め、その後ろ姿を見送らされたというのだから、世の女性たちにとっては痛快な話といえよう。
しかし、匠はカナリアの力を、禁呪よりも絶対的なものであるという。
上位の呪法の禁呪よりも絶対的とはどういうことか。
「カナリアは、……そう、ある意味では神よりも神らしい、存在というのか。悪魔的と表現すべきなのかな」
「神よりも、神らしい?」
「ああ、もう! 花映ちゃん、説明してよ。燿くんがどういう人間だったか。このお馬鹿に簡単にね」
有王には馬鹿と言うなと命じておいて、匠は平気でその言葉を使う。
話をふられた花映は少しだけ面倒くさそうな顔をしたが、おとなしく説明を始めた。
「燿が晴れろといえば、晴れる。雨が降るようにと言うと、降る。死ねといえば生き物は何でも死ぬし、生き返れというと、……わたしが食べかけていた鶏の丸焼きが息を吹き返して走り出した」
「反魂《はんごん》、……じゃないよな。そんな、言っただけで食いかけの鶏がはしる!? 馬鹿な……」
有王はつぶやかずにはいられなかったが、花映が嘘をついているとも思わなかった。
しかし、すんなり信じてしまうには、あまりに問題の多い発言である。
「とにかく燿の言ったことは何でも本当になる。だから、……燿は喋らなくなった。皆が燿に言う事をきかせようといろいろなことをしたけれど、燿はだまったまま。それは、……生き返った死体がひどく苦しんだり、言ったことが別の意味になることもあると分かったからだけど……」
「燿くんの力が大きすぎて、不必要なものにまで及んでしまう、ということだね?」
匠の問いに花映がうなずく。
「もし燿が永久に追っ手に見つからないなんて言ったら、わたしたちは全く別の世界に迷い込んでしまうかもしれない」
「力が大きすぎて、燿本人にはコントロールがきかない、ということか」
有王は嘆息する。
内容が把握できても『カナリア』はやはり認知とはほど遠い場所にぽかんと浮かんでいるに過ぎない存在だった。
第一、何でも言う通りになるのなら、『人間』として生きている意味がない。
文字通り、神だ。
だが、その神たる匠は有王の解釈ぶりに異存がある様子で、唸ったりうなずいたりしている従業員に低いピアノの音と共に警告を発する。
「有王、僕の言い方が悪かったようだがな、神さまにだってそれぞれの領分というものがある。それは分かっているだろうね? 水の神、火の神、土の神、あるいは山の、川の、海の神としての領分だが、カナリアはその系統には属さない存在だ」
「だろうな。何でも思い通りにできるなんてのは、神さまにだって無理だろう」
「……悪かったね」
匠が苦笑した。
「確かに、カナリアは禁呪の達人どころか、神よりも絶対的な部分をもっているよ。しかし、カナリアの言葉が完全に世界の秩序に反する者であるのに対して、カナリアという存在は自然に世界に生みだされてくる」
「何が何だって?」
有王には、匠の言わんとすることが半分以下しか分からなかった。
「頭の悪い男だな!」
匠が怒気を吐いて再び説明を始める。
「君の使う呪法、呪術とは何だ?」
「目に見えない世界の秩序の利用、あるいは逆転発想における力の利用だ、だっけかな?」
「そうだ。この世界には、人間の目には見えない様々の秩序がある。最も分かりやすいのは暦学などに見る天体の動きが及ぼす作用や、例えば火が燃えるためには酸素が不可欠であったり、物が落ちるのは地球の引力の働きであるといった『当たり前のこと』だ。それなら有王。逆転の発想における力とは何だ?」
「たとえば、五行説の逆説。木剋土《もっこくど》や水剋火《すいこくか》なんかの逆説だろ。木は土から養分を吸い取るんで木は土に勝つ、水は火を消してしまえるので水は火に勝つという基本形を逆にする。つまり、土が木を育み、朽ちた木を再利用して力を取り戻すという構図や、あるいは火が水を蒸発させてしまえるといった作用だ。それには、どちらも他者の力を借りることが不可欠だけれど、物ごとが絶対的に一方へと流れることはないということ。川は高い場所から低い場所へと流れていくが、そこに月の引力が作用すると、その法則すらもまげられてしまうんだ。それも『自然』に」
「はい、けっこう。ついでに五行の中の呼応しあう関係、つまり木と春、秋と金なんかの旺気や火と春、秋と水なんかの相気といったパワーの増大も裏を返せば危険を孕んだものという解釈もしてほしかったな」
「そいつも、散々ばあちゃん達に吹き込まれたよ。とにかく、その秩序、あるいは逆説の部分に気の力を乗せて流すのが呪法だったな。ついでに、気の出所についても説明するか?」
「いや、いいよ。でも、僕の言うことが理解できただろう?」
「カナリアが、この世界に『生まれる』ということか?」
「そう」
ようやく匠はにっこりと笑った。
「『人間として』『自然に』生まれてくるんだよ。だから、やっぱりカナリアも必要とされる存在なんだ」
しかし、と有王は心の中で反論する。
花映は違うと匠は言ったが、あの士郎や、あるいは『鏡』の能力をもったキリエという女は造られた存在に他ならない。
人間の体が人間を生みだすのは『自然』なことだが、人間の手が人間を造りだすのは、はたして『自然』と言えるのだろうか? あの菊名翁という男は『せっかく造りあげたカナリア』と言ったのだ。
それでも尚、『人間』として『自然』に生まれたというのだろうか。
「不満のようだね」
「不満じゃないが、釈然としない。カナリア……燿は、何のために『生まれた』んだ? いや、造られたのか?」
「燿は、わたしの弟だ。同じ母親から生まれたのだと真実夜さまが言った」
「ほら、有王。花映ちゃんの弟なら、燿くんも生粋のカナリアかもしれないよ。どうもね、『綾瀬』とやらのやり方は変だからねぇ」
「変、ってのは?」
「だって、わざわざ古族を自分たちの手で造ろうとしているじゃないか。でも、ぼくに言わせれば、同じ労力を注ぎ込んで、各地に隠遁《いんとん》している古族を狩り出して繁殖させた方が効率がいいぞ」
「非道いことを言うなよ」
皿を戸棚にしまいながら、有王は顔をしかめた。
しかし、匠はどこふく風である。
「だから『造る』ぐらいなら、ってことだよ。本当に古族を繁殖させる気があるんなら、恐らくは花映ちゃんももっと大事にされてたはずなんだが、花映ちゃん、君は『綾瀬』の皆に大事にされたかい?」
「知らない」
花映はぷいと横を向いてしまった。
「士郎くんはどうだい?」
「士郎は真実夜さまの子供だもの」
「おい、だったら、おまえも立場は同じだろう? 真実夜さんの妹の子供なんだろう?」
「知らない、わたしはいつも一人だったし、たまに呼ばれてもいろんな管や針を体に突っ込まれたり、痛いことをされるから一人の方がよかった。……士郎や燿と一緒にいるようになって、真実夜さまは優しくて好きだったけど、いつも、……あの場所から逃げ出したかったんだ」
「ほら、見ろ」
「何を見ろっていうんだよ」
「彼らは古族を大事にはしていないじゃないか。むしろ、……ごめんね、花映ちゃん。蔑《さげす》んでいるように感じるだろう」
「だから?」
「だから、彼らは『新しく』『造る』ことに執着しているんだ。自然発生的な異能者はいらないんだよ。もしかすると、逃げたのが花映ちゃんだけなら追ってこなかったかもしれない。でも、ことがカナリアじゃあね。無視もできないよな」
「それで、結局、燿は自然に生まれたカナリアなのか? それとも『綾瀬』に造られたカナリアなのか?」
有王の問いに、匠はうふふ……と笑った。
「だからね、有王。ぼくの前に燿くんを連れてきてよ。そうしたら、ちゃんと白黒つけてあげるからさ」
「それに何の意味があるんだ」
有王は、匠との会話をぽいとその辺に投げ出した。
匠は笑ったまま、カウンターにつっぷして眠り始めた花映を抱き上げ、しっかり捜せよと催促する。
そして、すぐに店を出ていった。
3 異変
真実夜と士郎が若宮神社を出てから三週間が過ぎた。
有王は花映を伴って毎日燿を捜し歩いたが、目撃情報はおろか手掛かりすらもつかめない有様であった。
「本当に、東京にいるんだろうな?」
さすがに店を閉めっぱなしにしてはおけないので一週間前から再び開業し、夕方からは有王も本職(?)の仕込みに追われる。
匠は閉めたままでもいいと言ったのたが、そういうわけにもいかない。
本当に捜す気があるのかとやかましい匠に比べ、花映はおとなしく有王のすることにまかせている様子だった。
どちらにしても、少し気分がだらけていたことは確かである。
「いっそ、貼り紙でもしてみたらどうだろう」
「なんて書くんだよ」
「ミッシング・チャイルド、見つけてくださった方に多少の御礼、とかね」
馬鹿が……、とつぶやいて、有王はグラスを磨く手を止めた。
花映はおとなしくカウンターに座り、うたた寝を始める猫のように組んだ両手にあごを乗せ、カウンタ内とピアノの前とで交わされる二人の会話の行く末を見守っている。
「いたずら電話が増えるのがオチだ。それに、電話は店の方にしかついてないんだぞ。誰が電話番をするんだよ。はっきり言って時間の無駄だ」
「そんなに怒らなくても、ねえ」
匠が花映を味方に引き入れようと画策を始めた。
以前は有王だけを玩具にしていたのだが、今度は花映までも自分の遊びに引き入れようとしているのかと考え、思わずため息が漏れる。
実際に長い長い時間を生きる、……いや、この世に存在し続ける匠はひどく退屈をしているようで、ほんの時々は有王ですら同情的な感情を覚えることがある。
しかし、それは大抵の場合、一瞬後には露と消えてしまうのだが……。
「……何を考えてる?」
いつの間にかカウンターまで歩いてきた匠が、にやにや笑いながら有王の顔を覗き込んだ。
うるさい、と邪険に匠から視線を逸《そ》らし、中断していたつき出しの仕込みに取り掛かる。
ここはワンショット・バーとは名ばかりで、まるで居酒屋のように飲み食いする連中ばかりがやってくるのだ。
「ちょっと! 有王いるぅ!?」
ぬたを作るためのねぎを手にした有王は、ばーん! というドアを跳ね開ける音に驚いて顔を上げた。
噂をすれば影、ということか。
飲み食いする常連の一人であるあけみが、コートの前を完全にはだけた状態で戸口に仁王立ちになっていた。
「だから、分かるように喋ってくれよ!」
「何が分からないって言うのよ!」
有王が、あけみが話を始めてから十分の間に何度言ったか分からない台詞を口にすると、あけみも負けじと怒鳴り返してきた。
カウンターの中央にはあけみと、あけみが耳をつかんで引きずり込んだ若いスーツ姿の青年が座っている。
「あの、……喧嘩しないで下さいよ……」
田原坂《たばるざか》と名乗った中肉中背の青年が、蚊の鳴くような声で仲裁を口にした。
「だれのせいで喧嘩していると思ってんのよ!!」
ぎゃんぎゃんと有王に噛みついたあけみが、田原坂の鳥柄のネクタイをがっしと右手で掴み上げる。
「くる、苦しい、……やめて……」
あけみの勢いに後ろに倒れそうになったが、ネクタイを掴まれているので倒れることもできない。
自然に首がしまり、田原坂は細かい銀縁の眼鏡を飛ばして哀願した。
「あけみさん、暴力はよくないよ」
さすがに、花映と二人で傍観をきめこんでいた匠が口を出す。
あけみは、ぎっとピアノ側に立った匠が睨んだが、一理ありと悟ってか、それからすぐに手を離した。
支え手を失った田原坂は真後ろにひっくり返る。
今どき受け狙いのタレントでもやらない古典的なお笑いだが、彼は大まじめに後頭部まで打ちつけて見せた。
首に筋肉がないから、落下する頭を支えることができないのだ。
「有王もいい加減にしたらどうだい」
助けるでもなく田原坂の頭近くに立ち、匠はうんざりといった表情の有王に物申した。
有王の不機嫌の理由は、あけみと田原坂の出現よりも、さっぱり開店の準備が整わないことだったのだが、そうした仕事熱心は一向にオーナーに理解されていない。
「こいつらの言ってることが分かるんなら、あんたにやるから、どこか、おれの眼の届かない所に連れていってくれ! 相談には、あんたが乗ってやればいいんだ」
「オステリーだなぁ」
「そいつは死語だ」
「勝手に言葉を殺すなよ。君たちは言葉のサイクルが短すぎる。そんなことでは、立派な言霊使いにはなれないぞ」
匠が、もっと話をかきまわそうという目論見のこもった目つきをする。
花映はピアノの足もとに、それこそ猫のように丸くなって眠り始めている。
開店の準備もまだなのに、しなくてもいい仕事ばかりで腹立たしい。
ついさっきも興奮したあけみが、グラスを並べたトレイを床に落としたばかりなのだ。
彼女は弁償すると言い張ったが、匠はいいよいいよと軽くいなした。
それならば、いっそおとなしくなってくれと有王は思ったのだが、あけみにとっては違う話であるらしい。
「それで、離婚が何だって?」
「離婚じゃないわよ! 離婚はしてないの」
さっさと話を聞いて店から追い出した方がいい、と覚悟をきめた有王の問いに、甲高い声であけみが反論した。
「有王ってば、ちっとも聞いてないんじゃないの。キワ子ちゃんはね、離婚してない相手と同棲してたのよ」
「不倫か」
「純愛なのよ!」
あけみが叫ぶ。
ようやくのろのろと立ちあがった田原坂が、居場所のない犬のように卑屈な態度で再び椅子に腰を下ろした。
しかし、あけみが振り回した手が顔面に当たり、再び音をたてて、しかも今度は椅子ごと後ろにひっくり返った。
踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
「おまえの主観はどうでもいいんだ! もう、あけみは喋るな。田原坂さんに話をさせろ」
田原坂の腕をつかみ、ぐい、と椅子ごともち上げて有王は言った。
口調に怒気がこもっていたので、さすがのあけみも一瞬口をつぐむ。
その機を逃さず、有王はすぐに田原坂の隣の椅子に腰を下ろした。
「しっかり、要点だけを説明してください」
「……はい」
正面から有王に見据えられ、田原坂は蛇に睨まれた蛙みたいに竦《すく》みあがる。
スーツのポケットから取り出したハンカチでこめかみの汗を拭い、手にしている眼鏡をかけ直して話に臨んだ。
「この件、あけみさんには関係ないんですが」
「なんですって!?」
「うるさい。黙れ! ……それで?」
「……はい。あの、川口さんという女性が、数年前から高田毅《たかだたけし》さんという男性と同棲をしておられたのですが、高田さんは先頃心不全のためにお亡くなりになりました。享年四十八歳でした」
「川口さんって、『ブラック・ルシアン』の小《ちー》ママのキワ子さんか?」
有王が事務的に問うと、すでに口出しを締めていたらしいあけみが、そぉそぉと嫌味な口調で肯定した。
また何か言われるかと首をすくめ、首筋の汗を拭い、田原坂は恐る恐る話を再開する。
「高田さんは、実はれっきとしたご家庭をお持ちでしたが、川口さんと知り合ってから出奔《しゅっぽん》なさったのです。けれども、捨てたはずのご家族のことが心配だったのか、ご自分にかけておられた保険金の受取人は、ご長男になっておりまして……」
「そんなの、許せない!」
あけみが、また田原坂に手を伸ばしたので、有王は立ち上がって二人の間に割りこまなくてはならなかった。
放っておくと、本当にあけみは田原坂に怪我をさせるかもしれない。
「だってね、有王」
押しとどめられたあけみは、有王の腕にとりすがって涙を流した。
「最初は、お互いを受取人にしてたはずなのよ。高田さんの保険金はキワ子ちゃんが受取人で、キワ子ちゃんの保険金は高田さんが受取人でね。夫婦みたいにって、……そりゃあ、ほんとの夫婦じゃないけど、お金も全部キワ子ちゃんがはらってたけど、なんでこんなことになっちゃうのよ!?」
声を上げてあけみが泣き始めた。
マスカラが溶けて涙と一緒に流れ出し、あっという間にパンダのような顔になってしまう。
「最初は、川口さんが受取人でしたけど、高田さんがつい先日、亡くなる二日ほど前に書類の書き替えを依頼なさったんですよ」
「……なるほどね」
「まあ、確かに掛け金を払ってらしたのは川口さんですが、それ自体を納得していらしたので、格別な問題は何もないはずなんです。死因に不審はありませんし、八千万円はご遺族に支払われます」
「まあ、そうだろうな」
「でも、確かに川口さんはかわいそうなんですよね」
ぽろっと本音をもらした田原坂が、あわてて自分の口を押さえる。
消毒付きの保温器からおしぼりを取りだして、匠があけみにそれを手渡しながら笑った。
「それで、田原坂さんは保険会社の人なの?」
「いいえ、契約している弁護士です」
「じゃあ、聞いてもいい? ……無料《ただ》でね」
匠がカウンターにもたれて満面の笑みで問う。
「何ですか?」
「いや、簡単なことなんだけどね。その遺族に支払われる分から、掛け金だけ川口さんに返すとかって、できないのかなぁ?」
「それは、……」
田原坂が視線をうろうろさせた。
「ご遺族が承知なされば、可能ですが……」
「そうか!」
ひどくわざとらしく、匠が得心した様子で両手を打ち合わせる。
有王は、その瞬間にものすごく嫌な気分になった。
予感などという生易しいものではない。
「じゃあ、田原坂さん」
逃げ場所を求めるまでもなく、匠があくまでにこやかに切り出した。
「そこの有王と一緒に、明日ちょっとご遺族の所にお願いに行ってくれないのかなあ?」
崇は寒い室内でひざを抱え、汚れたガラス越しに、散り残った枯れ葉をぶらさげた細かい木の枝を見つめている。
いや、見つめているのではなく、ただ瞳に映しているにすぎないのだが、それでも風が吹いて木の葉が揺れると、死んだように麻痺してしまっている心にもわずかな揺れが生じるのを感じずにはいられない。
胸のあたりで、もぞりもぞりと何かが動く。
虫だということは分かっていて、その感触を感じるたびに崇は大声で叫びたくもなり、泣き声を上げたくなり、そして、同時に自虐的な歓喜の気持ちすら湧きおこってくる。
崇の精神状態は混乱を極めている。
払い除けることも、踏み殺すことも叶わないその小さな虫は、崇の胸を住処として三週間の間、何も食べず、また糞もしないのに少しずつ元気そうになり、色を変化し、今では完全に金色に輝いているように見えた。
虫は、まるで崇が元気をなくすたびに、より大きく、より勢力を増していくように見える。
それでも崇に為す術はなく、ただ諾々と日々を過ごし、虫の与える苦痛に耐えていかなくてはならないのだ。
風が、窓の向こうの枯れ葉を一枚、木の枝からむしり取っていった時、切れかけた電池の悲鳴のようなドア・チャイムが崇を呼んだ。
先日亡くなった父親への弔問客か、それとも母の入院を気遣った近所の偵察隊かと思い、崇は立ち上がることもせずに耳の底にチャイムの音だけを響かせている。
また、鳴った。
またまた、鳴った。
とぎれとぎれの音が崇の心の平穏を掻き乱し、ついに根負けして玄関に向かうまで、チャイムは鳴りっぱなしに鳴り続けた。
「……ちくしょう!」
悪態をついてドアを開けると、そこには紺のスーツに濃いベージュのコートを羽織った実直そうな青年が立っていた。
申し訳なさそうな表情を浮かべ、しきりにハンカチで汗をぬぐったが、あのしつこさは普通ではない。
崇は、その男が保険会社の依頼を受けた弁護士だと知っていたので、今、母は不在なのだと告げようとした。
しかし、口を開くよりも先に、男の背後にもう一人、おそろしく背の高い男がいることに気付く。
白っぽいトレンチコートを羽織った男は、大昔の怪盗がかけているような丸いこぶりの眼鏡をかけ、首の後ろまでまとめた長い髪にオレンジのマニキュアをほどこしていて、いかにも怪しい職業の人間に見えた。
眼鏡の向こうの目はするどく、全体の雰囲気も華やかというよりは、きびしい感じがある。
男は何故か崇の顔を見て驚きの表情を示したが、あわてて開きかけた口を意思の力で押さえつけ、弁護士に主導権をもたせたまま黙り込んでいた。
「こんにちは、ええと、高田崇くん、……でしたよね? 私のこと、覚えてますか?」
「弁護士さんだろ。今、母さんいないから、保険金の話なんか分かんないよ」
つっけんどんな口調で答え、崇は何とか彼らを追い返す方法はないかと考える。
彼らが何の目的で来たのかはともかく、もう誰とも会いたくなかったし、何事にまきこまれるのも真っ平だった。
「お母さんはいつごろか帰られますか?」
覚えてもいられないほど変わった名前をしていたはずの弁護士は、大抵の大人がするよりも丁寧に崇に接する。
以前ならば殴りたくなったかもしれないその腰の低さを眺めながら、崇は自分が現在彼よりももっと悪い場所に立っているのだという自覚を新たにした。
いや、そもそも自分は誤解していただけなのだ。
あくせく働く大人を馬鹿にし、ただ若く力があるというだけで他人を見下してきた自分の内部には、何一つ確かなものはなく、何一つ価値のあるものも存在しない。
ただ腕力だけでは運命を押し退けることは不可能であり、ただ虚勢を吐き散らす口では他人に助けを求めることもできはしない。
何よりも、自分が現在何を望んでいるのかすら定かではなく、迷子の子供のように怯《おび》え、だまって膝を抱えているしかないのだった。
「母さんは戻ってこない。今、病院に入院しているから」
「えっ!? どこかお悪いんですか!?」
弁護士が、何故かひどく心配した様子で尋ねた。
後ろの男が少し呆れた顔をして連れの様子を頭ごしに眺めたが、やっぱり口ははさまずに黙ったままでいる。
「……車に撥《は》ねられたから」
「お加減はいかがなんです?」
「足の、……ダイタイコツ? なんか、ももの方の大きい骨が折れたみたいで」
「それは、……お気の毒に」
弁護士は、崇の方が気の毒に思うくらい青ざめ、心底同情した様子でつぶやいて後ろの男を振り返った。
「ですって、アリオーさん。どうしますか?」
「……ああ。ええと、崇、だったな。別に脅かしすかしにきたわけじゃないんだが、母ちゃんの事故な、慰謝料とか治癒費とか、ものすごくたくさん貰えたんじゃない」
「……! 知るもんか!」
崇はかっとなり、玄関のドアを閉めてしまおうとした。
しかし、その隙間に足を押し込み、男は会話が遮断されるのを無理に防ぐ。
「ちょっと待てって。脅しにきたんじゃないって言ったろ。落ち着けよ」
「うるさい!」
崇はぐいぐいとドアのノブを引っ張ったが、男はびくともせずにドアの隙間を保ち続ける。
そして、天岩戸《あまのいわと》を引きあけた剛力の神のように落ち着き払い、ついにはドアごと崇を外に引きずりだしてしまった。
「ちくしょう!」
崇は両腕を伸ばして男に掴みかかったが、その両腕はあっさりと封じられ、おまけに宙に吊り上げられてしまった。
崇の勢いに弾きとばされた弁護士が、廊下にへたりこんだまま、崇よりもよほど驚いた顔をしている。
「落ち着け」
男は再び言った。
「おれは、虫憑《つ》きのやつとは、あんまりやり合いたくないんだよ」
ぎょっとして動きを止め、崇は男を凝視した。
男は崇の視線を受けとめ、ひどく気のすすまない様子で嘆息し、とにかく話をしようじゃないかと提案する。
もはや、崇には、うなずくことしか選択の余地はなかった。
崇のアパートからほど近い、三面がガラス張りの明るい公園脇の喫茶店に入り、さあ、どうしようかと有王は考えた。
『辻』で田原坂の話を聞いた時からクサイなとは感じていたのだが、その予感は崇を見た瞬間に絶対のものとなった。
八王子駅前の繁華街で、あの中年の婦人から紙袋をひったくった少年の一人である。
そして、彼は今、年に似合わぬ疲れた顔をして有王の前に座り、たいして美味くもないなさそうにブラックのコーヒーをすすっているのだ。
「あの、……どうするんですか?」
有王の隣に座っている田原坂が、本当に遠慮がちに尋ねてくる。
この件、つまり、高田毅の保険金ではなく、崇の抱えている『虫』に関わる人間を増やしたくなかった有王は、よほど田原坂に帰れと言おうと思う。
しかし、彼の眼鏡の奥の目が、心底心配そうに、物言いたげにうるんでいたのでついつい言いそびれてしまった。
年の頃からいっても駆け出しであろうに、田原坂は妙につきあいよく有王たちの後についてきた。
普通の弁護士ならば、もっと忙しいものではないのか、と有王は偏見に近い思いを含んだ目で田原坂を一瞥した。
「田原坂さん、あんた、呪術を信じるのか?」
「……鶏の首を切ったり、焚き火をたいたりするアレですか?」
おずおずと田原坂が答える。
有王はテーブルにのめりそうな脱力感を感じ、しかし、一般的な認識などこんなものだと自分を励ました。
「そいつは、外国の呪術だよ。いや、鶏も焚き火も日本でも重要なアイテムなんだが、もつと、こう、……なんて言うのか……」
「じゃあ、お札とかを書くやつですか? それなら、うちにもありますよ。剣と文字を書いた細長いのが台所に貼ってありますし、玄関には粽《ちまき》が打ちつけてありますよ。あと、カラスで文字を作ったような版画もあるんですが、アリオーさんが言うのは、そういうもののことですか?」
「まあ、そうだが」
無茶苦茶だな、という言葉を、有王はなんとか喉の奥に押し込めた。
実際、日本の家庭に入り込んでいる宗教は雑多で、たいていの家には神棚も仏壇もあり、さらには西洋の様々なタリズマンなどが飾りとして持ち込まれたりしている。
田原坂の言う台所のお礼は、不動明王の持ち物である剣を表した火災避けのものであろうし、玄関の粽はおそらく京都の祇園祭でくばられる魔除けである。
さらにカラス文字の版画は、和歌山の熊野神社で新年を迎えるごとに信者に配られる牛王宝印《ごおうほういん》で、熊野誓紙とも呼ばれる祈願成就の誓約書でもある。
しかし、それらはまるですっぽりと日本人の日常生活に溶け込んでいて、呪術というよりも常識の地位すら得つつあるものばかりだ。
「田原坂さんの言うのは、いわゆる護符の類で、現在の生活を乱さないためのもの、というのが正答かもしれない。よっぽど激烈な新興宗教にでも入らない限りは、たいていの家庭にあるものだ。だが、もしも、田原坂さんが個人的に誰かを恨む、あるいは現在の生活を向上させたい、……それも不相応なほどに金持ち、あるいは女運にめぐまれたいなんて考えた時に、あんたは呪術師を名乗る人間の所に行き、ノウハウを学んだり札を買ったりするか、とおれは聞きたいんだよ」
「……むつかしい問題ですね」
田原坂は弱々しく笑ってうつむいた。
そして、しばらく考え、
「するかもしれないし、しないかもしれません」
と無難な答えを口にした。
「私は、今までそんなに困ったことがないんですよ。いえ、もちろん人並みの悩みはありましたし、好きな女性やら仕事やら、人外のものに頼れるならと神頼みをしたこともあります。けども、……そう。私には呪術的なものに対する禁忌の気持ちがあるのかもしれません。恐ろしいというか、自分自身が滅ぼされてしまうような感覚というのか。両親が神道に熱心な分、反動もあったんでしょうか」
「いや、あんたの言ってることは正論だよ」
有王は、めずらしく小さく笑《え》んで息をついた。
田原坂が人間の暗い部分をもつ必要のない環境で育った、ということを差し引いても、彼の『闇』に対する認識は健全である。
世紀末にはオカルトが流行ると言われ、また、物の価値が軽くなっているとも言われるが、有王の立場からすれば、呪術までをそれに加えてしまうのは軽率を通りこして自殺願望があるとしか思えない。
街にイルミネーションが溢《あふ》れ、人工の明かりで夜を切りさいてみても、『夜』そのものがなくなるわけではないということを、多くの人間は忘れているのだ。
そうでなければ、夜という現象に対する認識が麻痺しているのではないか。
別に、有王は夜は寝て朝は起きるという健康な生活を奨励したいわけでは毛頭ない。
しかし、世界に昼夜の別があるように、人間の内側にも昼夜に相当する働きがあり、その夜の部分に無理矢理あかりを灯して入り込むような真似はしない方がいいのだ。
その部分には『闇』がこごり、ある種の修行、ある種のノウハウを心得ていないものはたちまち方向を失ってしまう。
『闇』に対する危惧《きぐ》や畏敬《いけい》は、自分を守るための一つの不可欠な本能なのだ。
「でもな、今からおれが、こいつとしようとしている話は、あんたの嫌いな他に働きかける呪術、つまり特異な事例の話なんだ。事の始まりには二つのパターンがあって、『触って』覚えることと『知識』を脳に刻むことからスタートする。話を聞くと、その知識が脳に刻まれて、もしかすると田原坂さんも抜けられなくなるかもしれない。出来ればここに来る前に言えばよかったんだろうが、あんたがあんまり心配しているもんだから、つい言い出せなかったんだが……」
「私はお邪魔ですか?」
「そうじゃない。ただ、関わりたくないというはっきりとした意思があるのならば、関わらないほうがいいと言っているだけだ」
「それなら、いいです」
そう言って田原坂は笑った。
「私はね、アリオーさん。司法試験一発合格組なんですよ。世間の皆さんはすごいと言って下さいますが、それは違うと自分で知っています。私が他人よりも勝れている点があるとすれば、それは頭脳そのものではなくて、記憶力なんです。でも、実際に弁護士を努めるには、頭の良さを要求されることが度々あるんです」
「それは、……そうだろうな」
「でも、私は頭がいいわけじゃない。だから、それをカバーするための努力が不可欠なので、そのためには足も耳も口も最大限に利用しなくてはなりません。……気も弱い方ですし」
「うん、そうかもな」
「ですから、高田さんの保険金の件に関して何か別の人間の意思が動いているとか、不正があったということなら、それを放っておくわけにはいかないと思うんです」
「だが、書類に問題はないわけだろ?」
「もちろんです」
「なら、やっぱり関わらないほうがいいんじゃないのか? 嫌々ながらあけみに付き合って店に来ただけでも。あんたは十分に誠意を見せたと思うぜ」
有王はぼんやりとしている崇に視線を走らせ、そろそろ田原坂との問答も終わりにしなければと心を引き締めた。
「だから、やっぱり、……」
「好奇心、猫を殺す、って言いますよね。私は、猫なんです。いえ、猫みたいに好奇心が旺盛《おうせい》なんですよ」
有王の台詞をひったくり、意を決した表情になった田原坂が訴えた。
「さっき、呪術に禁忌を感じると言ったでしょう。あれは本当です。でも、裏側は嘘なんです。恐ろしくて、とても手は出せなかったけど、興味はあった。それに、アリオーさんがおっしゃったように、私の脳にはもう『虫』という言葉が刻まれている。このまま帰ってしまうのは、……正直言って間違いではないか、と……思うのですが……」
一気にまくしたて、それから田原坂は後悔の表情になって顔を伏せた。
自分が駄々をこねている子供のように感じられたのだろう。
しかし、田原坂の実直な訴えにはもっともといえる部分があり、有王はすでに彼もこの場に同席させるべきだと考えを改めていた。
「じゃあ、ここにいろよ。あんたが、自分自身でそのほうがいいと思うんなら、きっとそうなんだろう。ただし、話を聞いた上でマズイと思うんなら、この事態に手を出すな、それから、他言も無用。いいな」
「分かりました」
顔を伏せたまま、田原坂が強くうなずく。
「よし。それなら、お待たせしました、だ。崇くんとやらが虫に憑かれた経緯を話してもらうとするか」
すっかり冷めてしまったコーヒーを一口すすり、有王は正面へと向き直った。
崇は、そもそも有王と名乗る長身の男のことを信用してはいなかった。
いきなり訪ねてきて、母の事故で金が入っただろう、などという。
いでたちもまともな人間のものではなかったし、どうせ保険金や母の治療費目当てのヤクザな相手だと考えていた。
それは『虫』のことを聞かれ、呪術者だと告げられてからも変わりなく、喫茶店まで同行したのも、ただ自分にとりついている金色の虫の正体が知りたかったからに他ならない。
有王は部屋に入りたくないからと喫茶店を選んだが、それは崇にとっても都合のいいことであった。
今は洋子が燿と共に病院に行っていて不在でも、いつ帰ってくるかもしれない二人に危害が及ぶようなことだけは絶対に避けなくてはならないと思ったからだ。
ほんの短い間に様々なことがあり、崇はすっかり疲れていて考えるのも嫌になっていたので、たった一つ洋子と燿の無事だけを心の中心に置き、あとは全て追い払ってしまおうとさえ決心していた。
「虫は、気がついたら胸にとまっていたんだけど、払っても踏んでも戻ってくるんでおかしいとは思ったんだ」
いつから、と問われればいつともはっきりせず、適当に崇は喋り始める。
「最初は黄色っぽくて、だんだん金色になってきた。ほとんど三週間ぐらい経ったかな。気持ち悪い奴だよ」
「最初の報酬は何だった?」
「報酬?」
「さっきも聞いたろ? 金が儲かったんじゃないのか?」
「ああ」
やっぱり、こいつはうさんくさいと頭の中の警鐘を鳴らしつつ、崇は簡単に先を続けた。
「最初は、ひったくりをとめて助けてやったおっさんがくれた礼金。いいや、誘拐から助けてやった女の子の親がくれた金が先かな。でも、それはオレが善意でしてやったことの礼なんだから、別に関係ないんだろう?」
崇は言った。
はっきりと喋ろうとしているのに、声が小さく震えてしまって情けない。
「それから、親父の保険金の話がきた。家を出てった時はとんでもねえ親父だと思ったけど、金を残してくれたんだから、ちったあマシだよな。だけど、母さんが車に撥ねられたから、ラッキーとアンラッキーは差し引きゼロってとこかな」
「差し引きゼロ、ね」
有王が馬鹿にしたように息をついたので、崇はカチンときた。
「だってよ、母さんを撥ねたのは、あるタレントの運転していた車でさ、慰謝料に治癒費に口止め料に、……普通じゃないくらいの大金をぽんぽん出すんだぜ。これからも、母さんが治るまで払い続けるっていうし、もしうまく立ち回れば、別の所からだって大金がせしめられる」
「それで、君はそのタレントのスキャンダルを売ったりしようと思っているんですか?」
田原坂の問いに、崇は左右に首を振った。
「しないよ、そんなこと。オレ、金持ちになったんだぜ」
「そうだな。八千万円はなかなかの大金だ。だから、次はもっと大きな額じゃなくちゃいけない。おまえ、家族は他には誰がいる?」
有王が訳のわからないことを言い、崇に家族構成を尋ねてきた。
そういえば、洋子たちのことは話していないと気付き、崇は小声で姉ちゃんと友達、と答えた。
「友達?……友達も家族なのか?」
「一緒に暮らしてるから」
ぼそりと言うと、有王はふーんとつぶやいただけで深くは追及してこなかった。
「それより、おっさん。説明してくれるんだろ? 虫のこととか、……いろいろと」
「おまえが嘘をついている限りは無理だ」
「嘘なんか……!」
「いいや、おまえ、多分、どうして自分に虫が憑いたのか気付いてるよ。そうだろ?」
丸い小さなレンズの向こうから、怒りでもなく正義でもない灯をたたえた瞳が崇を見つめている。
その有王が、大きく嘆息して体を動かした。
彼が今にも立ち上がってしまうのではないかと崇は恐れたが、彼は手を上げてウエイトレスを呼び、もう一杯ずつのコーヒーの注文をしただけだった。
「おっさん、……」
「おっさんじゃない。有王だ」
「じゃあ、有王さん。オレのこと助けてくれるんだろう? 正しいかどうか分からないんだけど、オレの周りの変なこと全部、こいつのせいだって気がするんだ」
崇は胸を指した。
両目からは、ついに涙が吹き出す。
有王が左右のポケットを探ったが、ハンカチは見付からないようだった。
代わりに田原坂が真新しいハンカチを一枚、崇に向かって差し出した。
「汗、拭いてませんから。ちゃんと洗濯してありますから、どうぞ」
「……うん、サンキュウ……」
田原坂のハンカチを借り、涙を拭いたついでに鼻をかんだ。
しまったと思ってあわてて顔を上げたが、田原坂は嫌な顔一つせずに優しいまなざしで崇を見守ってくれている。
その目は犬に似ていて、また崇は悲しくなった。
もっとも、犬の目といっても卑屈な目ということではない。
相手を信じ切っている、そして気遣っている無垢《むく》な情愛の瞳なのだ。
彼の目が犬ならば、きっと自分は恐ろしい怪物の目を持っているのだと崇は考えた。
「オレのせいで変なことが怒ってるんだったら、オレのことを退治するのか?」
「おまえのせいだが、……おまえだけのせいじゃないよ。ただ、虫がおまえについているというのは、おれにとっても具合が悪い。本当のことを喋れば、虫のことも教えてやる。それが嫌なら、自分で解決するんだな」
う……、と崇は小さく唸った。
これが、あの虫を払う最後のチャンスであり、この背の高い男だけが、今、自分にその方法を教えてくれる相手なのだということに突然気付いたからだった。
わずかな沈黙の後、崇は渋々と喋り始めた。
あの朝、崇が虫の存在に気付いてからこっち、虫は決して崇の体を離れなかった。
母親に見せるのは嫌だったが、崇が悩んでいると目がみえないはずの洋子が尋ねてきた。
『崇、あんた、体の具合が悪いんじゃないの? 病院に行く』
洋子は子供のころから勘が鋭く、行きたくないと言った方向で事故がおこったり、食べたくないと言った弁当で集団食中毒がおこったりと、特に危険を回避することに敏感な性質を持っていた。
長じてからはあまり口に出さなくなったが、子供のころはそれこそ神託をする巫女のごとき的確さを有し、あまりに当たるので父は洋子を恐れている部分もあったと崇は記憶している。
崇にとっての洋子は自慢の姉だったが、その洋子に具合が悪いのではときかされて崇は震えあがった。
しかし、口をついて出たのは助けを求める言葉ではなく、なんでもないよという否定だった。
『そう? 何でもないんなら、いいけど』
洋子は優しく崇の頭を撫で、そして笑った。
普段は施設にいるはずの洋子が年末をアパートで過ごすのは、施設が改築されるためだが、突然ころがりこんできた燿を親戚すじから預かった少年だと誤解していたが、崇と洋子はその誤解を解く必要を少しも感じなかった。
不思議といえば、燿の存在自体も不思議である。
言葉は喋らず、しかし、とても上手に崇とも洋子ともコミュニケーションをとる。
燿がにっこりと笑うだけで、崇はかつてない穏やかな気持ちを感じて悲しくなった。
カツアゲや、ひったくりや、いきがって繰り返した暴力に対する後悔が胸に湧き、もはや詫《わ》びる相手もないのに詫びたくて仕方なくなる。
母の苦労も自然と理解でき、つっけんどんではあるものの家事を手伝ったり、時には簡単な食事を作ることさえした。
だが、その間も胸ではもぞもぞと虫が動き続けていた。
考えてみれば、虫が崇の胸にくっついたのは、燿が崇の側に来てからのことである。
おかしいといえば、おかしな符合だったが、崇は虫を燿のせいだとは考えたくなかった。
そして、当然のことのように、不良仲間から遠ざかっていた崇の元に呼び出しの電話がかかってきた。
久し振りに『狩り』をするので一緒に来いという。
『いや、今、ちょっと……』
行きたくない、と言えずに口ごもった崇に、電話の向こうの隆文が怒鳴る。
『てめえ、安藤さんが呼んでるんだぞ!』
それは本当らしく、隆文の言葉の奥には電話を通してさえしっかりと感じとれる嫉妬があった。
それでも尚、崇が返事を渋っていると、向こうでがやがやと数人の声が入り混じり、やがて受話器をとった津村という少年が、笑いを含んだ不気味な声でこう言った。
『たかしぃ、こないとアパートに火ぃつけるぞぉ』
言い切った途端にぎゃははは……とけたたましく笑い、電話はそれっきり切れてしまった。
グループの中でも津村はアブナイ存在と目されていて、リーダーの安藤には従うものの、他の者が意見したりしようものならそれこそ平気で半殺しにしたし、崇たちがしたこともないような殺人以外の全ての犯罪に手を染めているという噂すらあった。
実際には、死体の一つや二つ、どこかの山中に埋めているのではないかと言う者さえいた。
その津村がアパートに火をつけるというのだ。
脅しと笑いとばせばそれまでだったが、そうする度胸は崇にはなく、まして万一のことを考えると上着をとってアパートから駆け出して行きたい気持ちを止められなかった。
『燿、姉ちゃん、ちょっとでかけてくる!』
『気をつけてね』
点字の本を眺めながら指で燿と会話していた洋子が、崇を気遣う言葉を口にした。
途端に泣き出したくなったが、そんなことは無論出来はしない。
三十分も自転車を漕ぎ続けて安藤の部屋に飛び込むと、煙草の煙で真っ白に濁った室内には缶ビールをもった五、六人の少年が留まっていた。
『遅かったなあ、たかしぃ』
酒臭い息を吐きながら近付いてきた津村が、崇の肩に全身をもたせかけてひゃっひやっと笑った。
白眼のほとんど全部に血管が走っていて、目付きも尋常とは思えない。
何をされるのかとビクビクしていた崇の気持ちを察してか、奥のベッドに陣取っていた安藤が、
『ツムりん、座れや』
と声をかけた。
そして、津村に解放された崇を手招きで呼び寄せ、自分の隣に座るようにと促す。
崇がおとなしく従うとウイスキーの入ったグラスを握らせ、
『長いことご無沙汰だったな』
とヤクザの親分のような口調で言った。
『家で、……いろいろあって……。その……』
『ふん、まあ、いいさ。けどな、今日の『狩り』には最後にまで参加するつもりで来たんだろう?』
イエスという以外には許さない、と安藤の目の奥の炎が崇に告げていた。
かつては安藤のお気に入りとして安穏としていた崇も、それは崇が野心もなにももたない存在であり、うるさくもなく、面倒でもなく、そして退屈でもないちょうどいい存在であったからに過ぎないということに気付いた。
さらに、かつてお気に入りであったればこそ、反意を示した時の安藤の怒りはすさまじいだろうと容易に想像することができた。
『そうだろう? タカシ』
『……はい』
だから、崇は安藤の望む通りを口にした。
そして街に繰り出し、いつものように理不尽で残酷ゲームを開始したが、もともとやる気のない崇は失敗を連発し、ついには獲物として捕らえていたはずの相手に殴られるという失態すら犯した。
さらに、崇を殴って逃げ出した相手はそのまま警察に駆け込み、後を追った隆文は現行犯として警官に取り押さえられてしまった。
茫然としている崇を残して仲間たちは走り去り、家に帰ることも安藤の部屋に戻ることもできない崇は、ただぼんやりとアパート近くの公園でブランコを揺らしながら時間が過ぎるのを待っていた。
本当に津村たちが逆恨みして仕返しに来るかもしれないし、見張っていなくてはならないという気負いがあったためだ。
冬の空気はコート越しにも冷たく、手袋もしていない手は真っ赤になって感覚がなくなる。
五時をまわれば日も暮れてくるし、崇は泣き出したい気持ちで無邪気に遊んでいる小さな子供たちを見つめていた。
そのうちにもっと辺りが暗くなり、さすがに子供たちも一人二人と帰っていく。
買い物帰りや仕事帰りで道を行き交じっていた人影もめっきり減ったころ、また砂場で遊んでいた小さな女の子の側に、コート姿の男がするすると近寄っていくのが目についた。
最初は、父親が子供を迎えに来たのかと思った。
しかし、何事か女の子と会話していたはずの男は、やにわに彼女を抱き、まるで小脇に抱えるようにして走り出してしまった。
女の子が細い悲鳴を上げる。
とっさに崇が声を上げられたのは、どうしてなのだろうか。
人さらい、と時代がかった言葉が口をついて溢れ、さらに腕を無茶苦茶に振りまわしながら男にぶつかっていった。
女の子が泣きわめき、男はひどく残念そうに、しかし素早く女の子を放りだして逃げてしまった。
公園のフェンスの向こうから、数人の大人が走ってくるのが見えたからかもしれない。
中に女の子の母親がいたらしく、地面に転がって泣いている女の子を、助け起こした崇の手からひったくって抱きしめた後、はっとした表情になって涙ながらに御礼の言葉を繰り返した。
『ごめんなさい、ごめんなさい。ありがとうね。近所の人と話に夢中になっちゃって。本当にありがとう』
母親はポケットの財布から幾許《いくばく》かの御礼を包もうとしてくれたが、崇はあわててそれを辞した。
ひったくりに失敗して、仲間が仕返しにこないかどうか見張っていたという状況が、すんなりと崇にそれを受けとらせはしなかった。
『いいんです。偶然だから』
崇はあわてて踵《きびす》を返し、仕返しのことも失念してアパートに駆け込んだ。
その夜、崇の助けた女の子の両親がケーキと金一封をもって崇の部屋を訪れ、さいきん女児にいたずらをする男が頻繁に出没して困っていたことや、自分の娘が被害にあわなくてよかったということを説明し、また深々と頭を下げて帰っていった。
お金は受けとれませんと洋子が頑張ってくれたが、結局は気持ちですから押し切られてしまった。
母が帰宅してからあけてみると、薄いと思っていた封筒には新札で三十万ものお金が入っていた。
誘拐を未然に防いだ御礼にしても桁違いな額である。
洋子は返すべきだと主張したが、崇にも母親にも、彼らがどこに住んでいるのかさえ分からなかった。
さらに、翌日は黒塗りのベンツがアパートの前に横付けされ、恰幅のいい初老の紳士が崇たちの部屋のドアを叩いた。
『ああ! やっぱり君か!』
ドアの向こうに立つ紳士を見た時、崇はひっくり返りそうに驚いた。
彼は昨日、崇がひったくりに失敗した相手だったからである。
しかし、紳士は嬉しそうに崇の手を握り、御礼の言葉を繰り返した。
『あの鞄には、取り引き先から受けとった五千万円の小切手が入っていたんだよ』
紳士は説明する。
昨日は汚い背広を着ていたが、この時は見た目にも高級と分かるブランドのオーダースーツに身を包んでいた。
『あれを盗られていたら、わしらは一家で首を括《くく》らなくてはならない所だった。君があの悪たれども止めてくれなかったら、全くどうなっていたか分からんよ』
紳士はにこやかに言い、昨夜の夫婦のようにケーキの包みと御礼と表書きされた封筒を崇に渡した。
『あの、補導された鈴木とかいう少年は、君のクラスメイトだそうじゃないか。高田が悪い、高田のせいだと随分騒いでいたようだが、おかげで君にお礼が言えるよ。いや、本当にありがとう』
紳士が帰ってしまうと、崇は洋子にも見せずにこっそりと封筒を開けてみた。
中には五十万も入っていて、気味悪くなって小さな仏壇の引き出しに放り込んでおいた。
母に言うべきかどうか悩んでいたが、母はいつもの帰宅時間を過ぎても戻らず、代わりにもたらされたのは母が事故にあって病院に担ぎ込まれたという知らせだった。
時々物思いに沈み込んでしまいながら崇は、とぎれとぎれに話す。
話ながら、自分の目がうるんでくるのを感じていた。
父が失踪《しっそう》したころには世間の全てを憎んでいて、父を簡単に手放した母も憎んでいて、そして、洋子を疎《うと》んじ、崇までをも捨てた父を誰よりも憎んでいてた。
だから、父が苦労して手にいれていた金を玩具のように、馬鹿な遊びに使い、あくせくしている人間全てを鼻で笑ってやるつもりだった。
反面、苦労して金を手にいれ、疲れた疲れたと不平をもらす存在に成り下がることが恐ろしくもあったのだが、今は簡単に、いや、崇の周囲にいる人間と引き替えるかのように手にはいる金自体が恐ろしい。
喧嘩もしていたが友人の隆文の自由と引き替えの礼金、母の健康と引き替えの慰謝料、さらには父の命と引き替えの保険金。
額が大きくなるにつれて、その代償も大きくなっていく。
それも、崇の心寄せる相手への被害と決まっているようだ。
見えないロープをじわじわと首に掛けられているような焦燥は常に崇の内にあり、霞網《かすみあみ》に絡《から》めとられた小鳥のように、崇はふいに身を震わせて自分の両肩を抱きしめた。
崇が最後まで話し終えると田原坂は目を丸くしたが、有王は鷹揚《おうよう》に両腕を組んだまま別のことを考えていた。
あの婦人から虫を『落とし』たのは自分だが、これでは確かに具合が悪い。
婦人から話を持ち込まれた時点で生まれた有王と『虫』との関わりが、今またあけみを介して、崇とのつながりの中に生じてしまった。
『虫』に憑かれているのは有王ではないが、完全に無関係にもなりきれていない。
これは呪術者としての有王の未熟を示すと共に、はらいの不完全さをはっきりとした形で顕《あらわ》されてしまったことになり、ヤバイ、マズイでは済まされない問題になるのだった。
「アリオーさん、アリオーさん」
「聞いてるよ」
その競走馬かコンビニのスナック菓子のような呼び方はやめてくれ、と何度頼もうかと思った言葉を飲み込み、真剣味を増した崇の瞳を覗《のぞ》き込んで有王は言った。
「おまえ、『虫』は何にくっついて来たと思う?」
「……五百万円の入った汚い紙袋」
「大当たりだ」
ぱんぱんと気のない様子で両手を叩《たた》き、有王は姿勢を正した。
この店に入ってから一時間以上経過していて、堅い椅子にずり込むように座っているのも、そろそろ限界に近い。
「鞄に、錦の切れっ端が入ってたろ?」
「うん」
「そいつが、『虫』のエサだ」
「……えさ?」
「そうだ。おまえに取りついている虫は、錦を食うので『食錦虫《しょくきんちゅう》』と呼ばれている。だが、本当に通りがいいのはもう一つの名前の方だ。形が蚕に似ていて、金色の虫なので、『金蚕蠱《きんさんこ》』という」
「キンサンコ?」
「金に、蚕に、蠱だ。虫は虫でもこの蠱という字は蠱毒《こどく》を表す。つまり、呪術に用いるべく、特定の作法にのっとって毒性を高めた生き物だ。蜘蛛やバッタやノミなんかも使うが、とかげや蛇、それに犬なんかの大型のものを使うこともあるから、厳密に虫のみというわけじゃない。物を使う場合もあるんだが、それまでも話すとややこしくなるんで、ちょっと置いとくとしよう」
有王の説明に、崇は何が何だか分からないという顔をした。
それも当然のことで、高校生くらいの少年が蠱毒法をそのまま理解してしまえると考える方が間違っている。
有王にしても、別に崇の蠱毒の作り方を教えたいわけでない。
しかし、崇に『虫』がどういう存在であり、どういう経緯をもって崇の胸に住み着いたのかを教えるには、やはり最初から順をおって説明していくことが必要だと思ったのだ。
「普通は、同じ種類の虫なり爬虫類なりを集める。犬なら犬ばかり、猫なら猫ばかりをな。それを一つ狭い場所、……狭くて暗い場所に閉じ込めて共食いさせる」
「……。うえっ」
田原坂が口もとを手で覆った。
一瞬間があいたのは、想像していた時間のせいだと思われる。
崇がきょとんとした顔で田原坂を見ると、ごめんごめん、続けて下さいと謝った。
「最後に生き残った個体を呪法に使うんだが、その方法は様々だ。陰惨な状態で最後まで残るんだから、ものすごく強い個体であることをもちろん、食われた仲間の全ての力と念を一身にまとっていると考える。で、まあ、もっと飢えさせて首をはねて幽鬼体として使ったり、あるいはそのまま憎い相手を殺しに行かせる。それでもすでに妖物になっているから、その効果は絶大で確実だ」
「……殺しに、って! ちょっと、おっさん!」
「待て。あわてるな。それは一般的な蠱毒のことだ。大抵の蠱はそうやって作るという例みたいなもんで金蚕蠱は違う」
「……脅かすなよ」
崇が胸をなでおろすのを見て、有王は説明を続けるのが少し嫌になった。
しかし、ここで投げ出すことは許されない。
「金蚕蠱というのは、呪術者が作る虫じゃあない。もともと土中にいる虫なんだ」
「もともと、ですか」
「そうだ。毬《まり》のようにまん丸い石を磨くと幾重にも重なった殻が現れて、それをすべて破ると虫が出でくる。そいつが金蚕蠱だ」
「じゃあ、最初に殻を破った人に取りつく、ということですか?」
田原坂が質問する。
崇はまだよく分からないという顔をして、だらしなく椅子にもたれこんでいる。
「いいや、一番最初に石の中から金蚕蠱を取りだした者は、それを連れて帰ることもできるし、そこに捨ててしまうこともできるんだ。捨てれば、金蚕蠱はどこかにきえてしまう。おそらく再び土中にもぐるんだと思うが、それを確かめたことはないから分からない」
「連れて帰ったら……?」
「まあ、『虫』に憑かれた、ということだな。金蚕蠱のいる家には富が集まる。そもそも蠱毒という呪法自体、他人を害して蓄財するということを主目的としているようなもんだから、他人を殺してでも金の欲しい奴には、金蚕蠱は最適の存在だ。それも、法で裁かれることがない」
「保険金に治癒費ですもんね」
「ところが、だ。ただホイホイと金を運んできてくれるありがたい存在では決してない。金蚕蠱を手に入れた者は、その糞を他人の食べ物に混ぜて相手を毒殺して財を奪う。もちろん、金蚕蠱は宿主の不利にならないよう心得たもんで、捕まったりすることもない。だが、糞を用いて金持ちを殺していくという『方法』を知らない相手が宿主の場合、金蚕蠱はもっと簡単なやり方で蓄財の手助けをしてくれる。宿主の家庭の不幸だ」
「……そんな」
「金蚕蠱は人間の生命を食う。その代わりとして黄金を吐き出す。食うものがなくなったら、宿主の命を食ってどこかへ消える」
「うわぁ!」
突然叫び声が上がった。
崇が弾かれたように立ち上がり、やみくもに自分の胸についた虫を払い落とそうとする。
しかし、そんなことで『虫』は落ちるなら問題はないはずで、有王はあわてて崇の口をふさぎ、ざわめきはじめた人の目を避けるための店を出なくてはならなくなった。
有王が崇を担《かつ》いでいたため、コーヒー代を払ったのは田原坂であった。
手がつけられないほど騒ぎたてる崇を公園に連れて行った有王たちは、彼が落ち着くまで、長い時間を人目と寒風にさらされながら過ごさなくてはならなかった。
崇はわあわあと声を上げたり泣き叫んだりし続け、小一時間もたったころようやく騒ぐのをやめておとなしくなった。
とはいえ、落ち着いたわけではない。
声が嗄《か》れて、さわぐのにも体がついていかなくなっただけだ。
「……オレ、死ぬの?」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて崇が問うのを、田原坂は自分も泣き出しそうな瞳で見つめている。
そうだとも違うとも言わず、有王は口を開いた。
「死にたくないんなら、ちゃんと聞けよ」
「うん」
「最初にあの虫の入った石を拾ったのは、ある考古学者の奥さんで、彼女はその殻を破った。そして、中から出てきた虫を捨てずに育てようとした」
ごくり、と田原坂が唾を飲みこんだが、事実は彼が考えているような状態でスタートしたわけではない。
「奥さんは、そいつが金蚕蠱だなんて知らなかった。ただ珍しいから育てたようとしただけだ。しかし、その家の息子はそのテの事象にかなり知識をもっていたらしく、放っておけばいいはずの金蚕蠱に錦を与え、さらには本当に黄金を吐くのか確かめようとした」
「人を、……殺して……?」
「そうだ。幸い未遂に終わったようだが、家庭はかなりメチャクチャになったらしい。それで、奥さんの知人の知人が……」
有王は忌ま忌ましそうに言葉を切ったが、すぐにまた気をとりなおして話を始める。
「その知人がおれの所にやってきた。『虫』をなんとかして『落とし』てくれ、とな」
「落とすって?」
「おはらいみたいなもんだ」
「……できるの?」
崇の目が希望にきらりと光ったが、有王はすぐにその方法は口にしなかった。
「蠱毒を落とすには、いや、この場合ははらうと言うほうがいいな。蠱毒をはらうのにはいくつかやり方があって、まず一つは放蠱の家、あるいは人を突き止めること」
「ホーコっていうのは何ですか?」
「蠱を放った、という意味だよ。そもそも呪法というのは、その源泉を他人に突き止められた瞬間に効力が消失してしまうものが多い。有名どころだと、丑《うし》の刻参《こくまい》りがそうだろう」
「知ってますけど、……今でもそういうことをする人がいるんですか?」
「いるよ」
有王はあっさりと言った。
「でも、その話は別の機会にな」
「はあ」
「で、……どこまで話したかな?」
「コドクをはらう方法のその一までです」
「そうそう、二番目は蠱そのものを強い呪法で叩き出して、それを放った家に自力で帰らせること。どっちにしても、方向をうしなった呪いというのは、その源泉に帰ろうとする性質があるから、道案内は必要ない」
「でも、また来たらどうするんだよ!? 防ぎようがないじゃないか」
「防ぐ必要はないんだ」
必死の形相の崇をいなして、有王は唇の端をへの字にまげた。
「放った呪が、目的を達成せずに戻ると『返しの風』が吹く。つまり、呪を放った呪術者自身に呪力がふりかかるんだ。何倍もの威力になってな」
「どうするんだ?」
「どうもしないさ。いや、大抵の者はどうにも出来ない。自分の行った呪法によって滅びるだけだ。そもそも呪とはそういうものだし、それを使うのならば、その程度の覚悟はしておくものだ。……ところが、さっきも店で言ったように、金蚕蠱は他の蠱毒とは発生そのもののプロセスが違う。最初は誰かが放った呪ではなくて、どちらかというと自然発生的にそこいらへんに転がっている存在だ。だから他の蠱毒のような『はらい』は通用しない。はらわれた蠱に帰るべき場所が存在しないからだ」
「じゃ、じゃあ、どうするんだよ!?」
「おれが、その奥さんにした『はらい』はな、『嫁金蚕《かきんさん》』というんだ。つまり、金蚕蠱に持参金をつけてやって、違う人間の元に送り出すという方法だ」
「なんだと!? でめえ!」
崇が叫んだ。
有王の襟首を掴もうとしたが、その前に有王はするりと身をかわして立ちあがる。
方向を失った崇は一瞬よろりとし、そばの立ち木に拳をぶつけて泣き声を上げた。
「いてえよ、ちくしょう!」
「……っぶねーなあ」
「てめえ、この長髪野郎!」
崇が有王に向きなおって怒鳴る。
田原坂は自分の鞄を抱えこんでオロオロしているが、有王は平気で崇の怒る姿を眺めてやっていた。
「おい、おまえに『虫』がついたのは、おれのせいか?」
「そうじゃないか!」
「本気でそう思ってんのか?」
うう……、と獣のように崇が唸った。
「おれが、いつおまえに奥さんの紙袋を渡したんだ? 盗ってくれって頼んだか? おまえが、……いや、何人かいたよな。おまえらが、勝手に奥さんの紙袋を盗ったんだろうが?」
「そっ、それでも……」
「そうだな。本当の嫁金蚕ってのは、汚い籠の中に金銀の食器と金蚕蠱を入れて、その金額に目がくらんだ奴に拾わせるやり方を言うんだ。だが、万一にも拾った奴が警察に届けたりして奥さんのところに戻ってくると困るんでな。ちょうどいいから、おまえらみたいな奴らに押しつけちまえと思ったんだよ。そりゃあ、おれだって寝てて贅沢《ぜいたく》したいこともあるし、働くのが面倒になることもある。けどな、おまえらみたいな奴らのやっていることは、絶対にしたいとは思わないね。他人を殴りつけて金や物をとって、他人の不幸の上に胡座《あぐら》をかいて豪遊して、おれは、おまえらみたいな人間が大嫌いなんだよ。実際に、自分たちがどんなに危険なことに手を染めているのか、気がついただろうが」
いつの間にか、有王の方が崇の襟首を掴まえていた。
崇は首が絞まらないように目一杯爪先をたて、両手を有王の手に添えてもがいている。
やめて下さい、と田原坂が有王の腰にタックルをかけてきた。
有王が手を離すと、崇は音を立てて地面に崩れ落ち、大袈裟なほどに激しく喉を鳴らして咳き込んだ。
よごれと、涙と鼻水まで地面に垂らし、もはや為す術もないという有様ですっかり打ちひしがれてしまっている。
「大丈夫かい、崇くん」
田原坂がくだけた口調になり、ひどく心配そうに崇の背中をさする。
そして、崇が弱々しくうなずくのを見届けると、今度は崇のそばに立ったままの有王に文句を言うのも忘れなかった。
「ひどいですよ。アリオーさん。この子、まだ子供なんですよ。いろいろ大変な事があったのに、こんな……」
「あんたが泣くなよ」
「すみません……」
「あやまらなくてもいいよ」
田原坂はあわてて眼鏡をはずし、ポケットから取り出したハンカチで目を押さえる。
「確かに、あんたの言う通り、おれのしたことはひどいよ。それは認める。こいつにしたって、下っぱみたいだし、おれは天誅《てんちゅう》を下してやろうなんて立派な人間じゃない。……『はらい』は不完全だったし」
「何か、まずいところがあったんですか?」
地面に正座して田原坂が尋ねる。
ふてくされた顔付きながら、その横に崇が胡座をかいた。
「そうだな。『嫁金蚕』には相場があって、拾った時に入っていた金銀の倍以上の顔を添えて出すのが普通なんだ。最初の考古学者の奥さんは、実はけっこう家計の苦しいヒトみたいだったからな。かき集めて五百万円を持参させたんだ。もう奥さんのところに戻らないだろうが、おれとは縁が切れなかったからな。ちょっと半端だったのかもしれない」
「どうすればいいんです?」
「目安三倍だな。……こいつが五百万の三倍の金を袋にでもつめて、それを誰かが拾えば、とりあえずは『はらい』になる」
「で、でも、拾った人がかわいそうですよ」
田原坂が真剣な目で訴える。有王が心配した通り、彼はこの事態にどっぷりと首までつかり込んでしまっていて、収拾がつくまでは解放されそうもない。
こんなに他人に心を寄せていては苦しいだろうに、と有王は少しだけ田原坂を気の毒に思った。
「……もし、拾った人が警察に届けたら?」
「さあなあ。万一の場合は、金と一緒に金蚕蠱が戻ってきて、……その時はさらに三倍の金が必要になるんだろうな」
「そんな……」
崇は地面の砂利を握りしめ、うつむいたままで言う。
「そんな金、ないよぉ」
「あるんだろ、保険金が」
「いえ、あれは駄目なんですよ」
涙目で顔を上げた崇の代わりに、田原坂が鞄から取り出した手帳を繰りながら答えた。
そして、手帳を目指す箇所でとめると、ここです、と有王に指で示しながら説明する。
「高田さんの保険金は、社でDスタイルと呼ばれるタイプのものでしてね。分割払い戻し型なんですよ。ほら、いっぺんに受けとっても管理に困ってしまうようなご家庭ってあるじゃないですか。まあ、貯金でもすればいいんですけど、税金もかかりますしね。だから、子供さんの成長に合わせて、少しずつ増額しながらお渡ししていくというタイプもありまして、高田さんの場合はこれにあたります」
「先に言えよ、そんなこと。キワ子さんの掛け金の返済、できないんじゃないか」
「ははあ……」
有王は口をあけたままで崇を見た。
崇はしっかり燃えつきてしまっていて、もはや有王に八つ当たりする元気すらないらしい。
ただ、どうしても姉と友人のことは気にかかるとみえて、ほとんど虚ろになった瞳を有王に向け、
「オレが死ねば、虫はいなくなるんだろう……」
とだけ尋ねた。
「本当のことを言うと、もう一つだけ、完全に虫をはらってしまう方法もあるんだ。だが、これのできる人間なんてもう、この東京、いや、日本中捜してもいないだろうな」
万策つきた、という顔つきで崇が立ち上がった。
田原坂が励ましの言葉を捜していたが、みつからなくて有王を見る。
有王は……。
有王は全然別のことを考えていた。
『虫』との関わりが再び生じてしまったことの妙だ。
「おい、崇」
返事こそしなかったものの、背中を丸めてアパートに戻ろうとしていた崇が、空洞のような視線を伴って振り返った。
「おまえの友達、何ていう名前なんだ?」
何故そんなことを聞くのか、と問いたげな顔をしたものの、崇はおとなしく答えだけを返す。
「よう、だ。燿っていう名だよ」
4 再会
有王が田原坂と一緒に高田毅の家族に会いに行っている間、花映は匠と『辻』の店内で彼らが戻るのを待っていた。
花映は有王と一緒に行きたがったのが、有王が来るなというので店に残った。
自分がついていくと邪魔なのだという分別くらいはある。
「ねえ、花映ちゃん」
ぼんやりとカウンター席に座っている花映に、思いつくままピアノ曲を弾き散らしていた匠が声をかけてきた。
「花映ちゃんのお母さんは、どうしたの?」
「いない。いえ、知らない。会ったことがないし、誰に聞いても教えてくれなかった」
匠がピアノから離れてカウンターへと歩いてきた。
しかし、椅子には座らずに中に入り電気ポットの保温を沸騰にきりかえる。
匠はカウンター下の物入れからカップ麺を二個取り出し、ビニールの包装を解いた。
カップ麺に沸騰したお湯を注ぎ、蓋をさらに小皿で塞ぎながら匠は続ける。
「でも、燿くんは、君の弟なんだろ?」
ふうん、とうなずきながら匠が片方のカップ麺を花映に寄越した。
続いて箸を手渡され、つい先日教わったように、花映はカップ麺のふたをめくって中身を軽くかきまぜる。
つんと油くさい匂いがし、花映は上目で匠を見た。
「匠さんは神さまでしょう? 菊名翁はよく、神になりたいという話をしていたから、ものすごく力があるんだと思うし、偉いんだとも思う。長いことこの世界にいて、いろんなものを見て、知っているんでしょう? だったら、一つだけ教えて欲しい」
「ぼくにわかることならね」
匠が微笑んだ。
「自分が人間なのか、獣なのか。知りたい」
わずかに語調を強めた花映に対して、匠はやわらかいまなざしをむける。
そして、ゆっくりと穏やかな声で問い返してきた。
「君は、自分のことをどちらだと思っているんだい?」
「……分からない」
『綾瀬』の建物では人間の格好で、しかし、食べ物を得るために四つ脚で走った。
うさぎなどの小動物に噛みついた口には牙があったし、花映の食事ぶりを見た人間が悲鳴を上げたこともある。
意識は常に自分を捕らえることができたが、それが人間のものなのか、それとも獣のものなのかの別は自身にはつけられなかった。
「それならねえ、花映ちゃん。『ぼく』は何だと思うのかい?」
「……熱かったり、冷たかったりする、……エネルギーの塊だと感じる。人間に見えるけど、とても大きなパワーを持っていて、違う存在なんだって分かる」
遠慮がちに、しかし、思ったまま花映は告げた。
目には匠は人間として映るのだが、感覚は違うことを教えてくれる。
そして、どちらが違うとも、どちらが正しいとも、花映はまだ考えたこともなかった。
「ぼくにもね、花映ちゃんは人間に見えるよ。それから、人間とは違うパワーを内側にもっているのも分かる。これは、当たり前のことだ。君は人間でも獣でもない。古族という精霊的な生物で『花映』という存在だからだよ。分かるかい」
「……なんとなく」
「よし。それなら、君はどうしたいんだい? 人間として生きるもよし、獣として生きるもよし。もちろん、古族して生きるという選択も可能だしね。君は、ある意味でラッキーかも知れないよ。選択肢がいっぱいあるんだからな」
「うん、そうかもしれない」
花映がうなずくと、匠はひどく幸せそうな顔をしてカップの中の麺をすすった。ごく当たり前の、そしてたとえようもなく奇妙なこの光景に異論を唱える者はここにはいない。
幸運なのはここにたどりつけたことだ、と花映は思っていた。
自分がここにいることで、匠にも有王にも迷惑をかけているという自責の念は消えることがない。
しかし、彼らの助けをかりなくては、燿を捜すどころか自分の身を守ることすら危うかったのではないだろうか。
真実夜と士郎は諦めて『綾瀬』に戻ってしまったが、今となっては彼らの選択は彼らにとっては正しいものだったのだと思えてくる。
真実夜には花映たちに助力しながら逃げまわる必要などなかったのだし、士郎も母親の真実夜と一緒にいるほうがいいんだろう。
「匠さん。でも、古族って何?……有王は、古族なんか嫌いだと言っていた」
「あいつ、そんなことを言ったのか!?」
匠が声をたてて笑った。
「根の暗い奴だなあ。いや、花映ちゃんは気にしなくていいよ。有王は商売柄、古族と関わることも多くてね。いろいろと失敗もしたもんだから、逆恨みでもしてるんだ。でも、平気平気。あいつは言うだけなんだよ」
カップ麺のスープまで全部のみ干し、空の容器を流しにおいて匠は続ける。
「でも、有王の言うことも分からないでもないかな。古族の面々には頑固者が多くてね。昔っからの生活習慣は変えないし、住んでいる場所を動くこともしない。それは、そもそも古族というものの特性で、……ほら、人間だって子供の頃から育った土地を捨てることは容易じゃないだろ? 年寄りは言うに及ばず、都会暮らしの若者だって、大抵はちゃんと田舎持ちなんだ。別に田畑や山がある田舎に限らないけどね」
「故郷がある、ということか?」
「そうそう。地震とか大規模の火災とかさ。おそろしい天災があっても、人間はなかなかその土地を捨てない。離れることのできない愛着があるんだよ。……そこに、仕事や財産があるからという理由を差し引いてもね」
冷蔵庫を開けてウーロン茶のペットボトルを取り出し、匠は二つのグラスにそれを注ぎ入れる。
「人間ですらそうなのに、古族はなおさらだよ。その生活に即した生態系がそこにあるんだからね」
「生態系?」
「うん。水に属する者には水が必要だ。それも、海水なのか、淡水なのか、流動しているのか、静止しているのか。樹木に属する者には豊かな森林が必要で、羽のある物には休める場所が必要。生命を維持するために口にするものだって同様なんだ。もちろん、彼らはたいてい人間の形をとって、まるで人間のように暮らしていくことができるのだけど、実際にはそんなことは望んではいないのさ。自分たちの生まれた場所、自分たちを育んだ場所で生活し、そこで土に還りたいと思っている。それは、……少なくとも間違いではないとぼくは思うよ」
「古族は古族のままでいいの……?」
「いいと思うよ。でもねえ、たいていの古族は争うのが嫌いなんだ。自分たちの住処に人間の集団がやってきたりしたら、物も言わずに立ち退いてしまう。そして、自分たちが暮らせるような場所を捜す。でも、そう簡単には見付かりはしないし、先住の一族がいることもある。そうしてどんどん人数が減っていっても、彼らは文句も言わないのさ。それで滅びてしまった一族もたくさんあって、……有王は多分、彼らのそういう所がはがゆいんだろう。分をわきまえすぎていると言ってね」
「分?」
「そう。花映ちゃんは、自分で食べるものを調達していたと言ったよね。うさぎとかを獲るって」
「うさぎも、鳥も。いろいろだった」
「でも、食べきれないほどは獲らないだろう? 二匹でも、三匹でも殺してしまったりはしないだろ?」
「当たり前じゃないか! そんな、無意味なことはしない!」
「それが分だよ。そして、多分、君も自分で獲物が捕れなくなったらおとなしく死を迎えるはずだ。いや、もちろん純粋な獣ではないから、一族がいれば相互に助け合える部分もあるはずなんだがね」
「……一族、なんか……」
「ああ、ごめんよ。ごめん! とにかく、不必要にはあらがわないことが『分』だよ。何もかも甘受するということではなくて、あくまで『不必要には』だけどね。でも、実は人間はそうじゃないんだ。弱くって、普通の状態であれば、うさぎよりも簡単に捕まえられる獲物になるはずなのに、人間はものすごくあらがうからね。するどい牙の代わりに武器をもったり、夜にはきかない目のかわりに明かりを灯す。食べきれない獲物をしまう冷蔵庫もつくるし、それでも腐った物は捨てちゃうのさ。どんどんと」
「そうだな。街に近付くとひどい腐臭がした。……でも、馴れる」
花映がウーロン茶を一口に飲むと、今度は匠は戸棚から柿の種を持ってきた。
おつまみを勝手に食べると有王に叱られるのだが、匠は決して己を改める素振りは見せない。
「実はねえ、有王は人間も嫌いなんだよね。だから、その分をわきまえない人間ごときに蹂躙《じゅうりん》されるままの古族も嫌いなのさ。けど、大嫌いにはなれない。嫌い嫌いも好きのうちだからさ。あいつ、あんな格好してるけど、ものすごく頭の中が古風なんだよ。おばあちゃん子だったし、変にフェミニストだし、なんだかね」
匠は笑って肩をすくめた。
その口調にひどく有王をいとおしむような響きがあったので、花映は温かくも寂しい気持ちを胸に生じさせなくてはならなかった。
「匠さんは、どうなの? 古族とか、人間とかで好き嫌いがあるのか?」
「ぼくはね、……これでも元人間だからなあ」
「人間、なの?」
「そうだよ。有王が『御霊神』て言っただろう。君は単に神さまと理解したようだけど、御霊神というのはね、憤死した人間が祟りをなすので神格として祭り上げた神なんだ。それは、必ずしもそうではないけれど、まあ宥《なだ》められている怨霊と認識しておけば間違いない。ものすごく有名なのは菅原道真の神格化で、今は『天神さん』と呼ばれる学問の神さまだ。今は出世するにも勉強、勉強だからね。天神さんは人気者だよ」
「それじゃあ、匠さんはもともと『誰』だったの? それとも、人間だったことは覚えてない?」
「覚えてるよ。でも目で見たり、耳で聞いたりしたことはもう、大昔の古い映画のフィルムみたいにボケてる。『想い』だけが核のように固まっていて、……それも、もう恨みじゃないんだ。怨霊から神格へと祭り上げられる段階で、すごく多くの『願い』がぼくの内側に入ってきて、少しずつでゆっくりだけど『恨み』を浄化していってくれたんだよ。だから、ぼくは神さまになったんじゃなくて、してもらったというのが正しいんだ」
「その『想い』って……」
花映がまだ先を尋ねようとした時、それをさえぎるように電話が鳴った。
匠の意向により今も懐かしい黒電話を置いているので音が大きく、花映はびくんと肩をふるわせる。
そして、急いで受話器をとった。
「辻。いえ、ワンショット・バー辻です」
間違い電話だと思われないよう、花映はあわてて言い直した。
匠はオーナーのくせに、何があっても絶対に電話には出ないと言うので、くれぐれも電話番だけはしっかりこなせと有王に頼まれていたのである。
『ねえ、男の子を捜してるのって、あんたたち?』
若い女性の声が不躾《ぶしつけ》に問うた。
名乗りもせずにいきなり話を始めるので、花映は少し面食らってしまった。
「そうだけど、どちらさま?」
『ああ、……あたし、大西かおりっていうんだけどね。こないだ、友達がそこの背の高い人に写真見せられたって言っててさあ。電話番号もらったんだって。そんで、そんなカンジの子を見かけたからね』
「……ナンパしていたのか? あいつ……」
通話口から離れているにもかかわらず、匠がつぶやいて頭を押さえた。
『今、近くにいるのよ。すぐ来て』
「ちょっと待って」
花映は通話口を手で覆い、匠を振り返ってどうするべきか尋ねた。
本当ならば、すぐにも飛んでいきたいほどの情報である。
しかし、大西かおりという女性の声には、わずかな震えや、言葉を捜しているような微妙なニュアンスが感じられて仕方がない。
つまり、彼女が嘘を言っているか、あるいは何を隠しているのではないかという疑惑をぬぐいきれなかったのだ。
それに、もしも『綾瀬』からの追っ手の罠ならば、それはそれで面倒なことになりかねない。
「うーん、そうだね」
待てと言ったのに、電話の向こうの女性はぎゃんぎゃんと騒ぎたてているらしく、花映の掌《てのひら》に強い震動が伝わってくる。
「花映、行きたいんだろ?」
「……燿がいるかもしれないから」
「そうだよね。じゃあ、行っておいで」
匠があっさりと言った。
花映はうなずき、通話口から手を離し、
「行きます」
と答えた。
「どこに行けばいい?」
電話の向こうの女は場所を説明し、早く来てよね! と言い捨てて一方的に電話を切ってしまう。
受話器を置いてから。
再び匠に目を向けると、彼はごそごそとスラックスのポケットをさぐって、透き通った紫色の石のついた紐を取り出していた。
「首に物をつけるのは嫌かい?」
「構わないけど、何?」
「お守り」
匠が笑った。
そして、石のついた紐を花映の首にかけ、ついでに奥のフックにかけてあったコートを取ってくれた。
「今、ここを離れるわけにはいかないから、一緒には行けないけど、大丈夫だよ」
花映はうなずいた。
「ちゃんとここに戻ってくるんだよ」
花映は、一瞬だけ言葉につまった。
そして匠を見、その微笑の真実を確かめ、今までにないほど、大きくうなずいて店を出ていった。
母親の見舞いと自分の眼の定期検診を済ませた洋子は、右手に白い杖を持ち、左手は燿に預けて、バス停までの道程をゆっくりと歩いていた。
洋子は燿が弟の崇の友人であるということしか知らず、また、何故自分の家にちゃっかりと入り込んでしまっているのかさえ見当もつかない。
母親は彼を親戚の子供だと思い込んだいるようだ。
けれども、それらは全てどうでもいいことだった。
それは、燿を連れてきた崇も同様らしく、以前は何をしているのかあまり家に寄り付かなかった彼が、燿が来てからというもの無断で外出したり、外泊したりすることがなくなり、洋子だけでなく母親に対しても明るく優しくなったと感じられる。
洋子にしても、眼の状態こそ以前と変わらないものの、燿が近くにいるだけで不思議と穏やかな、落ち着いた気持ちになることができるのだった。
家庭の手前、泣き言を言ったり怒鳴り散らしたりはしてこなかったが、眼が見えないことからくる不安はいつも洋子の内にあり、父親が自分を疎ましく思っていることも、母親に経済的な負担をかけていることも何もかも自分のせいではないのだと叫んで逃げ出したい気持ちになることもしばしばだった。
けれども、燿が来てからはそれがない。
たとえ眼が見えなくても、大勢の人間の手を借りる必要があると感じても、それは洋子だけに限られたことではないと思えるようになった。
もちろん、手を貸してくれる人々に強い感謝の念は感じる。
しかし、それによって卑屈になったり、自分の存在価値を疑ったりする必要は全くないのだということを、洋子は誰に教わるでもなく、知ることができるようになった。
崇や母親に対しても、自分は重荷である分、支えでもあるのだという誇らしい気持ちが胸に生まれる。
そして、何故か洋子には、それが燿の声にならない声なのだという気がしてならなかった。
今も、燿に左手を預けて、緩やかな歩調で足を運ぶことが楽しい。
師走もあと残すところわずかという時期なのに、燿のそばにいると穏やかな暖かさを感じて、コートも手袋もいらないのではないかとさえ思われた。
それに、燿のそばにいると、いつよりも周囲の事柄が自然と耳に馴染む。
きりきりと神経を逆立てて耳をそばだてなくても、車の音も風の音も、すぐそばを通り過ぎる人の声や息遣いすらごく自然に、そして穏やかに洋子の心のフィルターを傷つけることなく、通り抜けていった。
近くに実を残した果樹でもあるのか、次第にけたたましい鳥の声が近付いてくる。
「すごく鳥が鳴くわね」
洋子がそう言うと、燿は洋子の手の甲に掌をかぶせ、足を止めることを合図した。
洋子が立ちどまると両肩を叩き、座るように言う。
「なあに?」
ゆっくりと注意しながら腰をおろす。
そこには木製のベンチがあった。
洋子の触れている燿の体の近くから、たとえようもない美しい鳥の声が聞こえてくる。
その声はまるで天空を駆ける黄金の鳥のようで、見えない目の奥にその情景すら感じさせ、わずかな間の後に、洋子は自分の手や肩にやわらかく温かい生き物の気配を感じて動きを止めた。
「……鳥?」
小さなはばたきと、ちっちっとさえずる声が聞こえる。
燿が差し出したのか、ちょいとくちばしが頬に触れることさえあって、洋子は子供のように声をたてて笑った。
どんな鳥が集まっているのか、目で見ることはできないが、その鳴き声からたいそういろいろな種類の鳥がいることが想像できる。
彼らは争うでもなく洋子と戯れ、一時を過ごした後に、また、あの不思議な声に別れを告げられたかのように、洋子と燿のもとから飛び去った。
「燿、あなたが呼んだの?」
まさか、と思う気持ちの裏に、問わなくても分かるという確信がある。
燿は万物に愛されていて、世界の何もかもが彼の声を待っているという気配を感じる。
しかし、燿は洋子の手を自分の頬に当てて左右に振り、その手を引いて立ちあがるようにと洋子をうながした。
「……これは、内緒のことなのね」
立ち上がりながら洋子は言った。
昔、まだ目がみえていたころに物語の本で読んだ魔法使いだ。
花を咲かせ、木を育て、獣や鳥たちや全てのものに愛されている魔法使い。
でも、彼はいつかきっとどこかへ消えてしまうだろう。
世界に愛され、それを動かす力をもった魔法使いを、洋子や崇だけのそばに縛り付けておくわけにはいかないのだ。
ただ願わくば、彼が突然に黙って消えてしまわないように、と、洋子はそっと胸の中で両手をあわせた。
洋子と燿の周囲に鳥が集まる様を、感嘆と驚愕を浮かべて見つめる六つの瞳がある。
洋子は実際には『感じた』だけであるが、彼らはその目で見た。
燿が片手を空に伸ばし、喉を震わせて鳥たちに語りかけ、呼び寄せたのだ。
鳥たちは何の疑いも恐れもなく、ただおとなしくて二人の側に舞い降りていった。
「……何だよ、あいつ」
鳥たちが飛び去って尚《なお》、彼らはしばらく二人に近付くことができないでいる。
とりわけ、鈴木隆文はその気持ちが強い。
しかし、それは燿に対する恐れよりも、洋子に対する気遣いといったほうがいい理由によってだった。
隆文は現在も崇と同じクラスだが、それは小学校の頃から続いていて、いわゆる幼馴染みの間柄なのだ。
小柄ながら敏捷《びんしょう》な崇に、隆文はいつも負けまいと張り合った。
不良仲間になったのも、もしかすると『上の人たちに』に可愛がられている崇に対する嫉妬心からもしれない。
崇は家庭にそれを誘発する動機があったのだろうが、隆文はただ好奇心と競争心からそこに身をおいたにすぎなかった。
「おい、隆文」
どん、と隣にいた斉藤に手荒く背中を押されて、隆文ははっとした。
彼らは『崇に仕返し』をするためと、もう一つ、『崇と一緒にいる少年の保護者から金をせしめる』という目的のために、崇の姉である洋子と同居人の燿を拉致《らち》しようと目論《もくろ》んでいる。
もっとも、最初は崇の仕返しが主体であり、そもそもそれを言い出したのは隆文であった。
今月の初め頃、崇は、神社の石段の下で一人の少女を助けてから、ひどく付き合いが悪くなった。
隆文は、崇が先輩たちから叱られればいいと思っていたのだが、事はそんなに簡単で楽しいものではなかった。
それも、隆文にとっては崇のドジのせいで警察に補導されるという最悪の事態になったのである。
それまで、隆文は家庭の前ではいい子のようにふるまい、崇に比べても比較的熱心に学校に通い、時々学校をさぼった時も、授業が面白くないから図書館で勉強していたなどと言い繕《つくろ》っていた。
もともと隆文の両親は成績第一という見解をもっていて、隆文もペーパー上の成績はほどほどだったので、遅く帰ろうが学校をさぼろうが、成績さえキープしていればあとはどうでもいいという状態で物事が進んでいた。
しかし、補導された途端、話は違ってくる。
『狩り』の『獲物』にすぎないはずの中年男は隆文を『泥棒』だと言い、警察官は『犯罪者』だと言った。
さんざん怒鳴られ、名前や住所や学校を聞かれ、泣いても謝っても通用などしなかった。
そして、何よりも隆文を痛めつけたのは、警察に彼を引き取りにきたのが両親ではなく、担任の教師だったという事実であった。
初犯だから書類送検ですむのだと説教されたが、指先にべったりとついた指紋採取用のインクのあとが、いつまでも隆文をみじめにさせた。
全部、何もかも崇のせいだ、と隆文はわめきたてた。
警察でも、家庭でも、そして、不良仲間の間でも。
すると、津村が崇をシメてやると言い出した。
殴る蹴るして、態度を改めさせると豪語したのだ。
隆文が警察につかまって以来、崇は安藤の部屋には顔を見せていない。
自分たちを甘く見たらどうなるか、思い知らせてやると津村は息巻いていた。
隆文は何故津村がそんなに腹をたてるのか理解できなかったが、アパートに火をつけてやると脅した手前、津村は崇に無視され続けるのが我慢できなかったらしい。
その後、実際に隆文たちは、崇を痛いめにあわせてやろうとつけ狙った。
だが、何度かチャンスがあったにもかかわらず、結局、崇に怪我をおわせるどころか、手を触れることすら叶わなかった。
しかも、崇に手を伸ばそうとする度に、隆文たちの仲間が怪我をしたり、事故にあったり、あるいは家庭に問題ができたりということが重なって、ついには他のメンバーが崇に関わるのを嫌がるようにさえなった。
津村が恐ろしいので面と向かっては反論しなかったが、崇を襲撃すると聞いた途端に及び腰になり、何くれと理由をつけて回避しようとする、すると、それまで口も出さなかった安藤が、家族を人質にするか、そちらから金をせしめて崇を痛めるつけることの代わりにすればいいと言い出した。
そうなると、隆文は本来の使いっぱしりの立場に戻る。
崇の家族の行動や、その時間帯などを調べろと命じられたわけだが、もともと子供時分からのつきあいなのだ。
あえて家族構成から調べる必要もなく、母親と目の見えない姉がいることは分かっていた。
そして、そのどちらにも手は出したくないと思っていたのだった。
崇の母が苦労していることは知っていたし、洋子とは昔、一緒に遊んだこともある。
それに、父親が愛人宅で亡くなったという噂が飛び、母親まで事故にあったという。
崇自身が事故にあったのならざまを見ろと思ったかもしれないが、両親そろって大変な目にあっているとなると、幼いころからのつきあいである分、隆文は崇に対する同情心を抱くことを止められなかった。
けれども、隆文にしても津村は怖いのだ。
最終的には洋子のことを報告し、ついでにいつの間にか崇の家に居候をはじめた燿という少年についても、安藤に知らせる羽目になった。
この燿という少年の存在には皆が対処を考えるところだったが、グループの中の須賀恵子という少女が、保護者に捜されている少年ではないかと言い出した。
『んーとね、すっごく背の高い、髪の長いおにいさんだったよ』
そう言って、恵子はメモを安藤に手渡した。
『なんか飲み屋で働いているんだって』
彼女はそれ以上のことを知らなかった。
だから、隆文たちは燿のことを、家出して崇に拾われた少年としか認識していない。
『そいつらを捕まえろ』
安藤が隆文たちに命じた。
『オレらは、その飲み屋ににいちゃんから治療費やら慰謝料やらをもらうことにする』
彼らは、自分たちの常識でしか物事を推し量ることができなかったので、崇を襲いにいって勝手に怪我をしたり事故にあったことが、燿に、まして燿の保護者に何の関係もないのだという考えをもつことはできなかった。
もちろん、その後にどんなとんでもないことが起きるかなどとは考えも及ばない。
隆文は洋子たちの拉致を命ぜられるまま後をつけてきて、そして今、ようやく重い腰を上げたところだった。
気のすすまない相手に声をかける時は、正面よりも後ろからの方がいい。
相対する双方の意思がそこに介在してしまうので、隆文は無意識にそれを嫌って二人の背後から近寄っていった。
「おい、ちょっと待てよ」
言ったのは、斉藤だった。
しかし、彼は洋子と燿を振り向かせた後は知らない、という風に隆文の背中を押した。
隆文を見た燿の目に、何か物言いたげな光が走る。
「あ、……あ、おいっ……」
ドスをきかせようとしても力が入らず、空気の抜けていく風船みたいな声になった。
「あら……? 隆文くん? ええと、鈴木隆文くんよね、崇のお友達の」
何が起こったのかと不安そうに燿の腕につかまっていた洋子が、安心した様子で隆文の方へと笑いかけてきた。
目が見えないせいか向きは微妙にずれているが、親しく話しかけてきた知人を懐かしむ思いがこもっている。
「へええ。タカフミ、この綺麗なお姉ちゃんと知り合いなのか」
斉藤がにやにや笑いながらいい、三人の中の紅一点、須賀恵子に軽く叩かれた。
ファニィ・フェイスで小柄だが、コケティッシュな魅力をもった彼女はグループのマスコット的存在である。
「サイトー、下品だよ」
「タカシも可愛い顔だけど、姉ちゃんも奇麗だよなあ」
恵子を無視して、斉藤は隆文に同意を求めてきた。
否定も肯定もできない隆文は、黙って燿の腕を掴み、
「一緒に来いよ」
と言うのが精一杯だった。
燿はあらがう様子も見せず、諾々と隆文に従う気配だったが、身長は自分と大して変わらないはずの燿の腕の細さにぎょっとし、隆文は燿の腕を掴んだまま、その場に立ちつくしてしまった。
もともとなのか、それとも日にあたらない生活をしていたのか、燿はぬけるように色が白く、髪も茶色がかっている。
さらに、自分たちに何をするつもりなのかと問いかける瞳も琥珀色を帯びていて、隆文は自分たちが触れてはいけない相手に触れてしまったような戸惑いを感じずにはいられなかった。
「隆文くん、崇に用なの?」
「いいや、お姉ちゃんに用事だぜ」
斉藤が、まるで中年の酔っぱらいのように笑いと共に洋子の肩に手を回す。
その手を燿が風のごとき軽やかさで払い落とした。
その優雅な動きに隆文はあっけにとられ、当の斉藤ですら自分に何が起こったのか分からないというまぬけな顔をした。
「へーえ、あんた、かっこいいねえ」
恵子だけが、少年たちとは違う感想を口にする。
けれども、恵子の感嘆も耳に届かないといった様子で、燿は洋子が怯えていないかを確かめた。
そして、空いているもう一方の手で隆文に触れて、用件を告げるようにと促してきた。
燿が口をきかないことを隆文は知らなかったが、今、この場でそれを知っても何の驚きも感じない。
むしろ、彼が言葉を発しないことにほっとしていた。
「おい、隆文。おまえがそいつらを例の場所に連れていけよ。オレは安藤さんが長髪を呼び出した場所に加勢に行くから」
「……はあ」
「やあねえ。サイトーってば。あのお兄さんが来るんなら、あたしも行きたい」
恵子が甘えた声で言う。
「だから、このヒトたちは、さっさと倉庫に閉じ込めちゃいましょうよ。タカフミに任せたら、逃げちゃうかもしれないじゃない」
「……だな。よし、とにかく、隆文がそいつらを連れていくんだぞ。オレらは周りをかためといてやるからよ」
つまり、斉藤たちは手を触れないつもりなのだ。
そうしておけば、いざという時に隆文の責任にできる。
仲間面をしながら、実はいろいろと小細工を弄《ろう》し、優位に立つことや、相手を陥《おとしい》れることが、彼らのつきあいの常套《じょうとう》手段なのだった。
隆文もそれは承知していて、しかも事あるごとに崇をそれにひっかけようとしていたが、いざ、自分がひっかけられる立場にたつと、腹が立つ反面、彼らに対する哀れみめいた軽蔑を感じた。
しかし、それはまた恐怖に裏打ちされていて、他の者に意見する気などは到底起きない。
「ついてこい、逃げるなよ」
端的に言うと、隆文は子供を連れ戻す父親のように燿の手を掴んだまま動き出す。
燿はおとなしく、二、三歩進んだが、急に隆文の手を引き、何ごとかと色めきたって振り返った隆文にゆっくり歩いてくるようにと目で訴えてきた。
勇みたった隆文の歩調には、洋子はあわせることができなかったのだ。
「……ああ、……うん」
早くしろよ、と斉藤が怒鳴る。
隆文は、どうすればいいのか分からず、まるで助けを求めるかのように燿を見た。
燿は微笑んで、自分の腕を掴む隆文の手を優しくほどき、洋子の掌を自分の唇にあてて何かを告げると、まるで羽毛の塊を持ち上げるごとく簡単に洋子の体を抱き上げてしまった。
「へーえ、ちっからもちぃ」
恵子はどこまでも軽いが、斉藤はいささか白けた顔で燿を見、ぷいと横を向いてしまう。
行こう、と燿が告げるので、隆文は再び歩き出した。
すりきれたヌバック調のジャンパーの下からのぞくシャツの裾を掴み、先導しているはずの隆文こそが、迷子の子供のように意気消沈している。
後ろで斉藤と恵子が喋っていたが、それに加わる気持ちにもなれず、隆文は黙々と歩き続けた。
そして、三十分ほども歩いた後、街のややはずれに当たる目的地に辿り着いた。
そこには、屑鉄《くずてつ》を集めて精製しなおすために建てられた工場がある。
ただし、今は完全に操業を停止していて、廃棄された鉄製品が、立ち並ぶ倉庫の中で強い錆《さび》の匂い発していた。
巨大な廃屋の群れもさることながら、すでに機械の大半が運び出された工場内部のがらんとした様子も寒々しい。
それにも増して、工場がたてる騒音を配慮した立地から、周辺に民家の一つもなく、集団でバイクを走らせたり、競わせたりする以外には足を運ぶべき場所ではないという意識が、この場所を実際に訪れる暴走族たちの意識にも深く浸透している。
地元でも子供たちが犯罪にまきこまれる可能性のある場所として、ワースト・ワンの地位を独占して久しいし、すでに号数も消えた倉庫のどこかで人が殺されただの、ヤクザが拷問に使っている場所があるだの、果ては幽霊が出るという噂まであって、ありきたりのドライブに退屈したカップルたちの肝試し用デートスポットにもなっている。
都市計画進行中という雰囲気をもつひどく造形的な大型公園を通りぬけると、あとはだだっ広い空き地が枯れた草をなびかせながら続いている。
その先の工場までは、ただ一本の太いアスファルトの帯が延び、訪れる者を招き入れる灰色の毛織のように見えた。
隆文たちは、そのひび割れた道を行き、手前から二番目の倉庫の前で立ちどまると、錆で硬くなっている大きな鉄の扉を二人がかりで押し開け、中に入るようにと燿に命じた。
実の所、隆文も斉藤も、何も知りませんと言いたげな恵子でさえも、その廃工場の奥まで入り込むことが恐ろしく、しかし、安藤に命令されている手前、一番最初の倉庫にすることもできず、こうしてひどく中途半端な場所を二人の監禁場所として選択したのだった。
話しあうでもなく、打ち合わせるでもないが、もちろん誰にも異存があるはずがない。
「入れよ」
斉藤が声に出して告げると、燿は別段恐れた様子もなく、洋子を抱いたまますたすたと中に入っていってしまった。
倉庫の内部はかなり暗く、空気も冷たかったが、燿は、隆文や斉藤が感じたような心細さはいっさい感じていないように見える。
「ドアを閉めると、真っ暗になるんだぞ」
斉藤ががなったが、実際には高いむきだしの天井のすぐ下に、いくつかの小さな明かり取りの窓があるので、彼が言うほどの状態にはならないだろう、と隆文は密やかに胸を撫《な》で下ろした。
洋子のことも少しだけ心配だったが、彼女はもともと闇には馴れており、しかも燿が一緒であることにこの上ない力強さを感じているようで、小さな子供のように彼の首にしがみついたまま、助けを求めて叫んだり、声高に隆文に説明を求めるようなこともない。
むしろ、彼らが何故そんなに落ち着いているのか、隆文のほうが説明を求めたい気持ちになるのだった。
「おい、ドアを閉めるぞ」
ぼうっとしている隆文の肩を荒々しく叩き、斉藤が言う。
隆文は返事もせずに斉藤に手を貸し、開いた時よりは軽く、しかし、音はけたたましくなった扉を引いた。
手に黒茶色い錆がつき、何気なく鼻に近付けると馴れない匂いがつんと鼻腔《びくう》を刺激した。
「タカフミ、おまえ、ちゃんと見張っとけよ。恵子は、……おまえも隆文の見張りに残れ」
「えーっ! いやだぁ」
斉藤の決定に、恵子が抗議の声を上げた。
この寒い時期に、こんな寒くて怖い場所にとどまるのは誰だって嫌に決まっている。
隆文も嫌だと言いたかったが、幸いというべきか不幸にもというべきか、彼には斉藤に異を唱える勇気はなかった。
それに、もう、安藤たちが崇に仕返しする所など見たくない。
いや、正確には崇ではなく、燿の保護者らしき人物にたかるつもりなのだが、それは隆文にとっては同じことで、どちらも気がすすまない。
いっそ、恵子もここを立ち去ってくれればいいのに、とさえ思った時、ふいに恵子が意見を変えて、いいわ、あたしも残ると言い出して隆文をがっかりさせた。
「じゃあ、しっかり見張れよ」
言うなり、斉藤はそそくさと元来た道を歩いていく。
両手をジャケットのポケットに突っ込み、後ろ姿でも虚勢を残っているらしかったが、足取りだけは異常に速かった。
「何で残ったんだよ」
倉庫の扉の前に腰を下ろし、まめ粒のように小さくなった斉藤を見送りながら隆文は尋ねた。
恵子はするりと隆文の隣に腰をおろし、ミニスカートなのに構わず膝をたてて抱え込むと、艶めかしい笑い声をたてて隆文を見た。
「タカフミとなかよくなりたかったからじゃないの」
「ばかやろ。アツシに殺されらぁ」
「やだ、アッちゃんなんか関係ないよ。実はさあ、カップルでここに来ると幽霊が出るってハナシじゃない。だから、いっぺん見たいと思ってたんだ」
恵子はくるりと体を返し、自分の方にもたれてくるのかと期待した隆文を無視して扉の鍵穴に目を当てた。
「あの二人にも見えるのかなあ」
ふんふんと鼻歌まじりで鍵穴を覗いたはずの恵子は、しかし、すぐにとんでもない悲鳴を上げて隆文に抱きついてきた。
まず悲鳴に驚き、さらに恵子の勢いに驚いた隆文は腰を抜かしそうになり、ようやく震える声で恵子に問いを向けたのは、たっぷり三分はたってからのことだった。
「何だよ……」
「あのコ、……幽霊よぉ」
自分の言葉に恐怖を新たにし、恵子は唇を紫色にして声を震われる。
「悪いけど、あたし帰る。ね、タカフミ、駅まで送ってよ」
「送れったって、見張りはどうすんだよ」
「どうでもいいわよ! あのコたち、絶対に変だってば!」
「何が……」
「光ってるんだもん! 金色に!」
隆文は取りすがってくる恵子を引きはがし、自らも体の震えを抑えて鍵穴を覗いた。
単眼で焦点が合いにくかったが、かなりくらい倉庫の中で何かが光っていることはすぐに分かる。
さらに目をこらし、意識を集中すると、ほのかな光の中心に、重なりあうようにして座っている二つの影が見えた。
燿が、洋子を抱きかかえるようにして床に座っているのだ。
そして、洋子は安心しきった子供のように燿にもたれ、まるで眠っているようにさえ見える。
燿は全身を金色に輝かせ、そこかしこから金色の帯を伸ばしている。
その帯はマグマのように吹き上げたり、下がったりしながら二人のシルエットそのものを包み込んでしまっているように見える。
何よりも、燿の背中の部分から伸びる二つの大きな金色の帯は、地上に降臨した天使の羽のごとく美しく、強く、気高く広がっていた。
「幽霊なんかじゃない……」
隆文はつぶやいた。
鍵穴から目を離し、背中が汚れるのにも構わず、扉に背を押しつけている。
「幽霊なんかじゃないよ、あいつ」
「タカフミ……」
自分とは違う隆文の反応に、恵子がとまどった様子を見せる。
しかし、隆文はもう、他人が何を言おうとどうでもいい気持ちでいた。
彼らをここに閉じ込めておいてはいけない。
安藤たちなんかより、よっぽど大きくて、強くて、大切な存在なのだと思った。
「幽霊なんかじゃない。あいつ、……天使かもしれない」
大西かおりという少女が花映に指定したのは、市内からわずかにそれた人気のない河原だった。
堤防が高く、その向こうに広がる住宅地とを隔て、堤防上の細い一方通行の道路を走る車もめったにない。
また、背の高い雑草が生い茂っているので、道路に立ったとしても簡単には見えない。
おまけに川幅のわりに流れが速く、何箇所にも設けられたコンクリート製の段差の部分が、白い泡とともに轟音《ごうおん》を発している。
何メートルか離れただけで相手の声すら聞こえなくなるほどのやかましさだった。
その分、喧嘩をしたり、リンチするには都合がいいのである。
安藤は、にきびだらけのぽってりした顔に似合わない細長い外国煙草を口に加え、右手はポケットに、左手は大西かおりの肩に回して、うち捨てられた古い土管の上に腰を下ろしていた。
「こんなトコに呼び出して、来るかなぁ」
かおりの問いに答えもせず、安藤は歯で煙草を支えたまま、唇の隙間からふうっと紫煙を吐き出した。
来るかもしれないし、来ないかも知れない。
安藤自身はどちらでもよかったが、もし、誰もこなければグループのリーダーとしての安藤の地位は大きく揺らぐに違いないことだけは分かっている。
しかし、それでもいい、と安藤は考える。
もう二十歳を過ぎ、専門学校生という肩書きはもっているものの、学校にはほとんど行ってはいない。
バイトなどしなくても金は入ってくるし、生活費の全般は親がカードで振り込んでいる。
安藤の友人の中にはまともに就職した者や、すでに家庭をもっている者もいて、皆で集まるといまだに強請《ゆすり》たかりで肩を風切っている自分の所在がないのを感じ、最近はあまり友人とも話さなくなっている。
中には完全に社会からフェイドアウトする感覚で極道の道に走る者もいるが、それに準ずるつもりはない。
極道は安藤の望む未来ではないのだ。
だが、それならば何を望んでいるのかと問われた時、安藤の中には明確なビジョンは存在しない。
それどころか、人に使われるのが嫌だ、頭を下げるのは嫌だと条件を上げていくうちに、もう自分は死んでしまったほうがいいのではないかという突拍子もない思考さえ浮かんできて、それをうち消すためには強い酒をあおったり、ハッパを吸ったりすることさえ必要だった。
いつからだろうか。
まだ手に入れてもいない未来に対する喪失感をもつようになったのは。
ただ働き、他人に使われて人生をすり減らし、年をとって死ぬのは真っ平だと感じる。
けれども、大成するための知恵はなく、ましてそのために努力しようという意識も限りなくゼロに近い。
安藤自身に意欲はなく、ただ必死になって勉強したり働いている人間に向かって嘲笑と侮蔑《ぶべつ》の言葉を投げつける。
そして、腕力をふるって、努力の成果であり生活の手段でもある金品を奪う。
それだけが、安藤に誇示できる力であり、全てなのだった。
「ねえってば」
「来るって言ったんだろ」
「言ったけどぉ……」
あたしのせいじゃないわ、とかおりが喉の奥でつぶやく。
クセのあるロング・ヘアーに化粧をほどこしたかおりは、まだ高校生なのに、二十歳は過ぎているように見える。
彫りの深い顔はよく日焼けし、ブリーチした髪とのバランスもよく、かなり色っぽく見えた。
「ねぇ、電話に出たのは女だったけどさ。何だっけ? よう、ってコを捜してる人って、かなりいい感じらしいよ」
かおりは安藤の肩にもたれかかりながら上目遣いにその表情を確かめる。
しかし、安藤はぼんやりと煙草をふかし、かおりの言葉に嫉妬を抱いている素振りすら見せなかった。
何よ、かおりは唇だけでつぶやいた。
安藤は金回りがよく、女に対しても甘い。
少年たちの中では最も権力をもっているので、安藤の側にくっついてさえいれば、かおりも他の少年たちに対してそこそこの権力をふるうことができた。
もっとも、体ががっしりとしていて力があるわりに、安藤自身は魅力に乏しい男だ、とかおりは常々考えている。
かなり気分屋のところがあるし、セックスだって下の中くらいだ。
何よりも、連れて歩いて見栄えが悪い。
いっそ、お金だけくれて、あとは電話友達とでもいうのなら楽なのだが、それならばちょっと羽振りいいサラリーマンをひっかけても同じことだとかおりは思い始めていた。
だから、いっそのこと呼び出した相手がこなくて、安藤の他の少年たちにたいする支配力が弱まればいいと思う。
そうすれば、安藤と縁を切るのが簡単になるからだ。
別れ話をもちだして殴る蹴るされるのは嫌だったし、つきまとわれるのももっての外で、夜道ででも刺されようものなら、たとえ命が助かっても仲間うちでは笑い者だ。
それを避けるにはやはり、安藤が現在の地位から失墜して、かおりのことに構っていられないような状態になることが好ましいものだった。
けれども、かおりの目論見はあっけなく崩れ去った。
「来ましたぁ!」
堤防の上に立って見張りをしていた片山という少年が、手にしていた毛糸の帽子を左右に大きく振っている。
「……連れて来い」
安藤は、落ち着いた声で指示した。
「ケイコの目はあてにならないけど、見にいこっと」
ひょいと土管から飛び下り、かおりは開けた枯れ草の間の道を通って堤防へと近付いていく。
しかし、上からとまどい顔で下りてきた片山が連れていたのは、赤い髪を短くカットした、モデルのように背の高い美人一人だけであった。
「何、この女」
「……それが」
かおりのあからさまに嫌そうな顔に、下っぱの片山はおどおどした様子を見せる。
何と言われても答えられるはずもない。
ただ、呼び出して来た相手を、安藤の所へと連れてきただけのことなのだ。
「燿を捜しにきた」
口ごもる片山の代わりに、赤い髪の女……花映が答える。
「なんなの、あんた?」
きっぱりとした花映の口調が気に障《さわ》ったのか、それとも美しい体のラインに嫉妬したのかひどく険を含んだ声でかおりは言い、甘えるような瞳で自分の後ろにいるはずの安藤を振り返る。
ところが、必ず自分の味方をするはずの安藤は花映に目を奪われ、肉厚の頬を紅潮すらさせている。
「あんた、崇の知り合いか?」
うわずった声で安藤が尋ねた時にはもう、かおりはさっさと土管の側まで戻って、両腕を組んで彼らのすることを傍観する姿勢を整えていた。
安藤が彼女に興味を持ったのなら、それはそれで結構なことではないか。
あの気の強そうな女が安藤ごときにくどかれるわけはなし、いっそ皆にめちゃくちゃにされてしまえという残酷な期待だけで胸を躍らせる。
その時点で、安藤『ごとき』の彼女になって、ふんぞり返っているという自覚はかおりには、全くなかった。
「崇ってだれだ?」
「高田崇だよ。知ってんだろう?」
案の定、安藤は花映にある種の欲望を抱いているようだった。
頭と下半身に血液が集中しているのか、崇と燿と花映という、真ん中にワン・クッションを置く関係を理解も把握もしていない。
それどころか、須賀恵子が言っていた背の高い男の存在もかけらほど念頭になく、そもそも金をせしめるという当初の目的すら失念しているようだった。
「崇なんて知らない。わたしは燿に会いに来たんだ。おまえたち、燿の居所を知っていると言っただろう」
「ああ……そうだったな。燿、ってのは崇が連れている口のきけない坊やのことだ」
花映に言われ、ようやく思い出したという風に安藤は喋り始める。
「ところがな。その燿という奴が来てから、崇の様子が変なんだよ。悪魔にとっつかれたみたいになって、オレの友達もけっこうな怪我やらを負わされたしな」
「……そんなことは関係ない」
花映は、頭の中で彼らの怪我と燿の存在をうまく切り離していた。
口をきかない、と安藤が言ったからだが、当の安藤は、自分が何を喋っているのかはもちろん、花映の受け答えもあまり頭に入っていない様子だ。
ただ台本を棒読みしている役者のように、事を先へ先へと進めようとする。
「あんた、燿って奴を捜してんだろ?」
「さっきから、そう言っている」
うんざりしたという口調で、花映がしごく横柄に答える。
「早く言え。ぐずぐずしていると、おまえたちも怪我をすることになるぞ」
「怪我は、もうしたんだよ」
安藤がうなずいた。
「だから、治療費やら、ほんの心付けをいただこうと思ったんだけどね。……あんたが代わりに払ってくれてもいいや、なあ」
同意を求めるように、地面に座り込んでいる津村を見る。
すると、それまではかおりの百面相を楽しんでいたくせに、ついと立ち上がって花映の左脇まで歩み寄り、そうだなあと低い声をもらした。
もっとも、何をしたって最初は安藤と決まっていて、津村はおこぼれにあずかるハイエナに過ぎない。
「この首飾りは駄目だ。借り物だから」
花映が胸元の石に手を触れると、安藤と津村は弾かれたように笑い出した。
雨季の蛙のようにつぶれた声だ。
「そのペンダント、取ってきて!」
土管脇のかおりが命じると、花映の一番近くにいた片山が、やや嫌そうに手を伸ばす。
けれども、その手は血の筋を噴き、片山はペンダントをさわるどころか、悲鳴を上げて花映から数メートルも離れた場所に飛びすさるはめになってしまった。
片山の飛ばした血が頬についたが、花映は手の甲でそれを拭《ぬぐ》い、ぺろりと舌で舐《な》めとった。
瞳は妖しげに輝き、見るものをぞくりとさせずにはおかない緊張感をまとっている。
もしも、夜道で、あるいは一人で花映と対峙《たいじ》したのなら、彼らも『逃げる』べきだと感じたはずなのだ。
しかし、彼らは自分たちの力を圧倒的だと信じていたし、かおりまでもが背筋に走る冷たいものを、これから起こることへの期待感であると勘違いしてしまっていた。
丸く殻をつくり、周囲に無数の棘《とげ》をまとって他者を傷つけることでしかコミュニケーションを図れない彼らの世界は狭く、花映の存在を正しく理解することは、言葉をつくしても到底無理だったには違いない。
だから、花映が再び発した警告も、彼らの耳には届かなかった。
「わたしに触るな」
「触るなってよ。おじょうさまが」
やや鼻白《はなじろ》んではいるものの、安藤たちは花映の言葉を一笑に付した。
女一人に何ができるのかという蔑《さげす》みをもって、津村が花映の肩に手をかけようとした、その時。
「ぎゃっ!」
派手な悲鳴を上げて、津村が地面に尻餅をついた。
手で頬を押さえているが、指の間から真っ赤な血が流れ出し、土に落ちてどす黒い染みをつくる。
「何をしやがる! この女!」
「ナイフでも持ってんじゃないのか!?」
津村のシンパの中村という少年がわめいたが、花映はだらりと両手を垂らしたままで、何も手には持っていない。
「安藤さん!」
「やっちまえよ!」
両手を突き出して花映に突進した中村が、今度は肩口から血を噴きながら地面に転がった。
津村以上に耳に響く悲鳴が、川面を流れる水音とぶつかって消えていく。
「何なんだよ! こいつ……っ!」
「だから、触るなと言った」
花映は動じた様子もなく言い放ち、片山、津村、中村の三人を一通り眺めた後、茫然としている安藤に視線を向けた。
「燿はどこにいる?」
「……っ、くっ、てめえ、こいつらに何しやがったんだ!?」
「皮を一枚斬っただけだ。血もすぐにとまる。わたしは最初に触るなと言った。警告を発している相手に近付くのは、ただの馬鹿だ」
「なに、わけのわかんないことを言ってんのよ、あんた!」
返すべき言葉を捜している安藤に代わり、土管の陰に隠れる格好でかおりが叫んだ。
「こ、こんなことして、ただで済むと思ってんじゃないでしょうね!?」
「燿のことを知らないなら、用はない」
「こっちにはあるんだよ!」
くるりと向きを変えようとした花映を、安藤は両手で捕まえようと必死になった。
そしてその手が花映の背に触れるか触れないかの瞬間、ぴっ! と血のしぶきが安藤の掌から飛んだ。
「こいつ……」
「よけたな」
安藤の紅潮していた顔が青ざめたが、逆に花映はにやりと笑った。
わずかながら身を反らした安藤は我が身を切りさいたのが、花映の爪だと知り、花映もまた、安藤がそれに気付いたことを知ったのである。
「ノラ犬のボスでも、ボスはボス。だが群れをひきいるつもりならば、下のものを教育し、また守るのがボスのつとめだ。おまえは、ただ力だけ。相応《ふさわ》しくない」
「てめえっ!!」
完全に頭に血が上がった安藤は、血塗《ちまみ》れの拳をかためて花映に突き出す。
花映は軽くそれをよけ、前のめりになった安藤の背に、容赦なく肘を叩き込んでうつぶせにさせた。
地面では安藤がうめいているというのに、遠巻きにしている少年たちは誰一人として助けにこようとはしない。
それどころか。徐々に輪を広げ、花映が仕掛けてきた瞬間に逃げられるよう、タイミングを計りはじめている。
「そういえば、おまえ以前に中年の女性から紙袋を……」
その場を去りかけた花映が、ふと思い出したという風に片山に声をかけた。
すると、片山は悲鳴を上げながら走り出し、突然空気の壁にぶっかった感じで跳ね返って仰向けに倒れた。
頭でも打ったのか、ぴくりとも動かない。
「化け物!」
花映の仕業だと思い込んだかおりが叫んだ。
しかし、花映はすでに彼女の言葉を聞いてはいなかった。
片山がぶつかった空気の壁の正体を知っていたからだ。
おもえば、こんな所で少年たちの相手をしている余裕などないはずだったのだ。
有王や匠と過ごした穏やかな時間に麻痺した自分の感覚を苦々しく思いつつ、花映は少し腰を落として周囲の音に耳をそばだてた。
しかし、そんなことをしなくても、『相手』はちゃんと自分の居場所を教えてくれる。
軽い拍手と喝采《かっさい》。
そして大音声が告げる。
「化け物とはけっこうなお言葉です!」
声は堤防の上から聞こえた。
「まさしく、彼らは昔からそう呼ばれてきた存在ですからね」
「菊名翁」
花映の視線の先、堤防の上に一台の黒いバンが止まっている。
その後部のドア前に菊名翁が立ち、革の手袋を重ねあわせて拍手の形をつくったまま、河原に立つ幾人もの人間を見下ろしていた。
遠目にも、そのまなざしに侮蔑と嘲笑があることが分かる。
「やはり獣の知能しかないんだな、花映」
よく通る声で菊名翁が言う。
花映はきりりと歯を鳴らしたが、少年たちは突然現れた男にとまどい、地面に縫いとめたれたように立ちつくしているだけだった。
「燿のことで頭がいっぱいか。……あの呪禁師はどうした?」
「有王は関係ない」
花映は突っぱねる。
「おまえたちが用があるのは、わたしと燿の二人だけのはず」
「まあ、……どちらかといえば、燿が重要なんだがな。しかし、あれだけの自由を与えられておきながら、飼い主を噛むような真似をする。愚かな犬にもおしおきの必要があるとは思わないかな?」
「思うものか!」
花映が怒鳴った。
両手を拳に固めて握りしめ、唇の端からは白い牙さえ覗いている。
「何が自由なものか! わたしを檻の中に閉じこめたくせに」
「それは、おまえだけじゃない。どんな生き物も、檻の中で生きているんだ。目の前に格子があるかないかの違いだよ。もっとも、おまえに言っても、理解はできまいな」
「では、菊名翁。あんたも檻の中にいると認めるのか!?」
「そうだな。だが、私には手段がある。おまえと燿を連れ戻し、もう一段上のランクに昇進するのさ。そうして、いつか、檻の外から中を支配する存在になってみせるよ」
「到底無理だ!」
花映が飛んだ。
前に、ではなく、後ろにだ。
軽い靴音と共に土管に着地すると、後ろに隠れていたかおりが短い悲鳴を上げた。
「あんたの力なんて、たかが知れてる。ここでやりあったって、わたしは負けはしない」
「残念だな」
花映のたんかを聞き、菊名翁は心から楽しそうに残忍な笑みをもらした。
「おまえの相手は私じゃない。士郎!」
バンの後部ドアが開いた。
そのわずかに暗い空間から、ふうっと獣臭い風が吹き寄せる。
光る二つの点が拡大し、低い唸り声を発しながら鋼鉄を思わせる爪のある手がドアを掴んだ。
「士郎!?」
のそり、と車外に姿を現した『もの』を見て、花映の後ろに位置していたかおりがものすごい悲鳴を上げた。
喉が裂けて、血を吐くのではないかというほどのかなりきり声を連続してあげている。
対して少年たちは静かだったが、それは冷静なのではなく自失しているためで、津村など地面に腰を抜かしたまま失禁していた。
「……なんてことを……」
堤防の上に、熊が立っている。
ごつい人間の手にずらりと並んだ熊の爪。
肥大した頭に人間の顔。
四つの耳。
せり上がった顔と牙。
おそろしくて不完全な獣と人間の融合の姿がそこにある。
どんな画家にだって描けまい、グロテスクでシュールな姿だ。
「士郎……」
花映は息を吐いた。
長い嘆きの吐息を洩《も》らした。
だれがこんなことを考えるのか。
だれがこんなことを命じるのか。
そして、だれがこんなことを実行するのか。
士郎は、確かに失敗作だったのだ。
卵子と精子の融合の時点で加えられた熊の遺伝子は活性化せず、少しぼんやりとした、そしてよく食べる、巨体をもった少年へと成長した。
夜目きき、少し鼻がきくぐらいしか特性しかもたず、燿や花映になついていて一緒に遊びたがった。
他の者ならば処分されたに違いないが、彼の母親は『綾瀬』で主要な地位をしめる女性だったので生存を許された。
そして母親は、彼を溺愛《できあい》していた。
なのに!
「真実夜さまは……。真実夜さまはどうしたよのよ!」
「もちろん、ここにいらっしゃるとも」
菊名翁がそれこそ笑いをこらえられないという顔で告げる。
後ろ手指した前部のドアが開かなかったが、その言葉は花映に耳を疑わせるに十分な内容をもっている。
「そんなはずない! 真実夜さまが、そんなことを許すはずない! だって、士郎は……!」
「真実夜さまは、大老にきついお叱りをうけたのさ。そして、『命を賭してでも燿を連れ帰るように』とお言葉を賜った」
「だからって!」
「ついでにね、実験しようとおっしゃったんだよ。おまえは、『綾瀬』の実験計画の中で偶然に生まれた生粋の古族だ。せっかくいる者を使わない手はないだろう」
「協力なんか、しない。するものか!」
「士郎と闘うんだ。珍しいデータが手にはいるはずだからな」
「断る!!」
「そんなことは無理だ」
菊名翁が笑いながら士郎の首の鎖を外す。
と、士郎は野生の熊がそうであるように四つ脚になり、ややバランス悪そうに堤防の斜面を一目散に駆け下ってきた。
ただ、花映だけを目指している。
「士郎!」
花映が飛び退くのと、士郎の振り下ろした腕が土管を砕くのはほぼ同時だった。
かつて、親しみをもって駆け寄ってきたはずの士郎には、もはや花映に対する殺意しか残されていないように見える。
ぐぅぅ……、と低い唸り声と共に士郎が花映を睨《にら》みつける。
「……士郎」
とめることも、話しかけることもできず、花映は士郎の名を呼んだ。
しかし、それは耳にとどいていないのか、再び士郎が腕を振り上げた。
5 終局
崇は有王と田原坂を伴って部屋に戻ると、それを待っていたかのように電話が鳴った。
「ちょっと待ってて」
玄関に二人を残し、靴を履いたままの崇が部屋を横切っていく。
受話器を取り、名字も名乗らずに相手の言葉を待っているようだったが、いきなり怒鳴り声をあげた。
「何だよ! なんで、おまえ!!」
崇はひどく激昂《げきこう》しているが、相手もそれに負けまいと声を張り上げているらしい。
声ではない音としての響きが、通話口から数メートルも離れている有王たちにもよく聞こえた。
「……うん。あの工場跡の……? うん、えっ!?」
崇の声が、徐々に低くなっていく。
しかし、内に含まれたものは決して穏やかではなく、むしろ何か決心にも似た強い意思を感じさせる。
吠えている獣よりも、狙いを定めて低く唸っている獣の方が恐ろしく感じるのと同じことだ。
「すぐに行くから、姉ちゃんたちをそっから出せ。怖いって、……燿は何もしねよ。いいから、言う通りにしろって、……うん」
がちゃん! と電話は唐突に切れた、いや、崇が投げつけるように受話器を置いただけで、有王の耳に響いたそれは幻聴だったのかもしれない。
とにかく、脱兎《だっと》の勢いで玄関まで走ってきた崇は、有王たちのことなど忘れた様子で部屋を出ていこうとし、ふと顔を上げて二人を見た。
「あんた、燿を捜してるんだったな」
「そうだが」
「……燿は、あんたたちから逃げてきたのか?」
崇が探るような目で有王を見る。
「話せば長くなる」
有王は嘆息して崇の背中を叩いた。
「それより、急いでるんだろう? 道々説明してやるから、話はその時にしよう」
じゃあ、車をまわしてきますね、と田原坂が駆け出して行った。
もう、彼も完全に最後まで立ち会うつもりでいるらしい。
「あの弁護士、あれでも運転はうまい」
車があった方がいいんだろう、と有王は暗に崇にもちかけた。
「……あんたは信用できないけど、あの弁護士ならいいや」
仕返しのように崇が言い、それきり二人は言葉もかわさずにアパートの階段を駆けおりる。
住宅の多いこの場所には流しのタクシーもめったにやって来ず、車を拾うためにはかなり離れた大通りまで出るか、客を運んできたタクシーを捕まえるしかない。
田原坂の提言はまさに渡りに船で、崇もそれを棒に振るつもりはなかったのだろう。
「こっちですよ、早く!」
少し時間がかかったものの、アパートの前の道路に出た有王たちの前に、田原坂が車を回してきて叫ぶ。
彼は意外に迅速で、二人が青いカローラに乗り込むのを待ちきれない様子で発進させた。
「どこに行くんです!?」
「街はずれの、……田所の屑鉄工場跡!」
発進のスピードに後部座席で転がされた崇が告げる。
了解、と低く答えて、田原坂はハンドルを切った。
今度は有王までが座席の上を転がされた。
「おっさん!」
上に乗っかってきた有王を押し退け、ようやく身を起こした崇が怒鳴る。
「何でそんなに飛ばすんだよ!!」
「だって、君、急いでるんでしょう?」
「そうだけど、あんたが事故っても、オレは責任とれねえぞ!」
「当たり前ですよ。私のしたことの責任は、私はとります!!」
田原坂のきっぱりとした言葉に、崇は返す言葉を失った。
ちらり、と座席にへばりついている有王を見、視線を逸《そ》らして密かに息をつく。
何を言うまでもなく有王はにやりと笑い、
「もう少しスピードを落とせよ」
と田原坂に助言した。
器物を破損する一人相撲の事故ならばいいが、人身事故を起こしては一人の責任というわけにもいかない。
田原坂はうなずいてアクセルを踏む足を弛《ゆる》めた。
「さて、と。燿がおれらから逃げたのかっていう質問だったな」
有王が問うと、崇は無言でうなずく。
「おれは、燿っていう子には会ったことがないんだ。ただ知り合いが燿を捜しているから手伝っている。……といっても、ほとんど行き掛かり上だけどな」
「よくわからねえよ!?」
崇が怪訝そうな顔をしたが、バックミラー越しに視線を送った田原坂がうまく答える。
「人間って、そういうもんですよ」
そうなのか、とそれには有王の方が納得させられた。
有王のやっていることも大概《たいがい》だが、田原坂も変だ。
ものすごく弁護士向きではないように見える田原坂は、実は誰よりも弁護士向きの精神構造をもっているのではないか、と有王はぼんやりと考えた。
「……それで、おまえ、何で田所の廃工場なんかに行くんだ?」
最初に聞くべきことを、今さらのように有王が聞く。
『虫』に取りつかれても自暴自棄になりきれない崇を支えているのが燿と姉の存在である以上、彼が血相を変えて飛び出して行く先には間違いなく彼らがいるはずだ。
しかし、それにしては場所が変だし、さきほどの電話もあまりまともではない。
「おまえ、ひったくり仲間ともめてるんじゃないだろうな」
「あんな奴ら、関係ないよ」
「ふーん、まあ、いいけどな」
とりあえず、燿を花映の所に送り届ければいいのだ。
もしも燿が会わないと言っても居所さえ、花映に告げてやれば、匠に言いつけられた仕事も一旦は決着がつく。
崇についた『虫』が後に残るが、それは全部終わってからのことだった。
「着きましたよ」
灰色の空を背景にそびえる寂れた倉庫や工場の群れを望める場所でいったん車を止め、田原坂が尋ねる。
「中まで入るんですか?」
「二番目の倉庫にいるって」
「じゃあ、そこまで車で入りましょう」
かつてトラックが運行していたはずの道を通り、カローラはゆっくりしたスピードで倉庫へと近付いていていく。
現代のゴーストタウンは生命感の無機的な屍《しかばね》をさらしていたが、その中でぴょんぴょんと撥ねている水色のコートの少女が、一番不可解で不気味な存在のように三人の目を捕らえた。
「ケイコ!?」
「こっちよぉ」
田原坂が車をとめ、車外へ出て高校生らしき少女と対峙した時点でようやく、有王たちは彼女と対等な立場にたった気がした。
現実離れした雰囲気の場所にぽんと投げ込まれると、現実こそが非現実として目に映るのだということが実感できる。
恵子は崇が伴ってきた有王と田原坂を気にする様子もなく、倉庫を指してこの中にいる、と崇に告げた。
「隆文は?」
「中にいるわ。タカシに電話した後、お姉さんが呼んだから」
「こんな所に人を閉じ込めるなんて」
田原坂がすぐに鉄の扉にとりついたが、一人では容易に開かない。
彼はかなり非力なのだろう。
有王が手を貸すと、派手な音を立てたものの、扉はかなり滑りよく開いた。
「姉ちゃん! 燿!」
有王の脇から崇が飛び込むと、まだぼんやりと金色の光をまとっている燿が洋子を抱いたまま立ち上がる。
少し遅れて、床にしゃがんでいた隆文も立ち上がった。
「隆文……、てめえ!?」
「駄目よ、崇。喧嘩しないで!」
血相を変えた弟の様子に、一早く気付いた洋子が崇をとめる。
「私は大丈夫だから。燿がいたし、隆文くんだって乱暴なことはしなかったわ」
「……ああ、うん」
姉の言葉にしおらしくなる崇の後ろに有王たちの姿を認めた隆文が、奇妙な表情を浮かべ、遠慮がちに崇の肩を叩いた。
「あの人、なんでここにいるんだ!?」
「え?」
「そういえば、そうねえ。安藤サンたちが呼び出すって言ってたのに」
「誰を呼び出すって?」
「う……ん。お兄さん、あたしにこの子のこと聞いたでしょう」
後ろからのこのこと倉庫に入ってきた恵子が不躾《ぶしつけ》に燿を指差す。
「タカシと一緒にいる子を飲み屋のお兄さんが捜してるって、あたし、安藤さんに言っちゃったの。したら、なんかいいがかりつけてお金をとろうって」
「はあ!?」
何をどうしたらそんな発想生まれるのか、有王は頭を抱えてしまった。
「それで、電話でもしたのか?」
「したんじゃない? でも、お兄さんがここにいるのなら失敗なのよね」
「……いや。電話、したんなら話は別だ、な。電話、電話、……あんたら、どこから崇の家に電話したんだ!?」
「あたしのケータイから」
「貸してくれ!」
有王の剣幕に驚きながら、恵子が背中のデイパックを下ろす。取り出した携帯電話をもぎとるようにプッシュした有王は、空虚な呼び出し音を十数回も聞いた後にようやく電源を切った。
「燿くん、だよな」
有王が、携帯を握りつぶさんばかりの勢いで尋ねると、洋子を抱きあげたまま、細身の少年はこくりとあごを引く。
「花映が捜しているんだ。多分、おれにかかってきたはずの電話ででかけたんだろう」
店には匠がいるはずだったが、彼は絶対に電話にはでない。
なぜなら、近年ちまたにあふれている『電気』が、『エネルギー体』である匠に少なからぬ影響を及ぼすからである。
呪の中で、もっとも即効性を持ち、もっとも威力のあるのは雷を媒介とするもので、電波や電流はそれに類似していて『結界』や『場』を簡単にすりぬけ、あるいは無効にしてしまう。
花映に電話番を頼んではおいたが、一見高飛車な彼女が有王の言い付けをよく守っただろうことは想像に難しくない。
そして、『燿の居所』を知っていると言われれば、彼女がすぐに出掛けていっただろうことも容易に想像できた。
「どこに呼び出したか、知ってるか?」
ほんの少しだけ、有王は焦燥を感じている。
隆文や恵子の仲間に対して、花映が何らかの危害を加えるかもしれないという危惧《きぐ》ではない。
もし、それが行われたとしても、彼女が相手を殺すことはなかろうし、それ以前ならば自業自得だ。
けれども、おそらく花映には『綾瀬』の追っ手がぴったりと貼りついているはずだ。
あの菊名翁という陰陽師や『鏡』のキリエ、さらに別の力を持った者でも加われば、さしもの花映にも為す術はないだろう。
「あの、大井出川の河原だと思うけど」
よく分からない、と隆文が口ごもる。
有王は舌打ちして首を返し、扉の側に行儀よくたたずんでいる田原坂に視線を移した。
「田原坂さん、悪いが、もう少しだけ手伝ってくれ!」
有王の言葉に対し、神妙な顔の田原坂がおおきくうなずいた。
田原坂の車で洋子と恵子、それに隆文をアパートまで運び、残る四人は花映が呼び出された河原へと急行する。
できることなら崇も置いていくべきだと有王は思ったが、本人が行きたいと強く希望したのでそれを許した。
「顔こっちに向けな」
助手席から振り返り、有王が告げると二人の少年はひょっこりと顔を並べてくる。
有王は左手の小指の皮膚を噛み破り、流れ出た血で二人の顔に小さなバツ印をつけた。
「田原坂さんも、ちょっとごめんよ」
運転している田原坂の邪魔をしないように、気をつけながらバツ印をつける。
暖房のきいた車内にわずかに血の匂いが漂ったが、持ち主は別に異論を唱えたりはしなかった。
「何ですか、これ?」
痛くないのか、という顔をした田原坂が、バツ印の意味をきく。
「魔除けだよ。ほんとは朱か煤《すす》で書くのがいいんだが、どっちもないからコレで代用だ」
「へえ。……ちょっとパリパリしますけど」
田原坂が少し感心したように微笑んだ。
崇のアパートから河原まではさほど遠くなかった。
時刻はもう夕方近かったが、ラッシュの時間を外していたおかげで、イライラさせられることもなく、目的の場所に辿り着く。
田原坂の車は近くの空き地に駐車し、皆でそろって堤防に上がったが、眼下には薄墨を流したような冬枯れた河原が続き、どこにも人の姿は見えない。
「……誰もいませんねえ」
「しっ!」
がっかりした田原坂を、有王が鋭い声で制した。
「……分かるか?」
問いの意味すら分からない言葉に、燿だけがこくりとうなずいてみせる。
田原坂と崇は有王の言葉の意味を知ろうと辺りを見回したが、やはり背の高い枯れ尾花のむこうに音を立てて流れる河があるだけの風景に変わりはなかった。
「何かあるんですか?」
「……結界がある。ここから五メートルほど先に、けっこう大きな空気の歪みがあるんだ。目をこらして見るといい」
有王が指差した先を、田原坂は眼鏡をずらし、目を細めて確かめようとする。
崇は無言のまま、ゆっくりとそちらに近付き、ふいに姿を消したと思うと、さらに数メートル先に忽然《こつぜん》と姿を現した。
茫然とした顔で振り向き、あまり気の進まない様子ながらゆっくりと崇が有王たちのもとに戻ってくる。
その時も途中で一旦姿が消え、皆の側にくるとひどく安堵《あんど》した表情のまま、自分の体を確かめるためにか両掌を見つめていた。
「……空気の中に、水たまりがあるみたいだ。気持ち悪ぃ……」
有王は鼻を鳴らす。
こんな場所に無意味な結界があるわけはないから、おそらく中には花映や、もしかすると『綾瀬』がさしむけた追っ手もいるのかもしれない。
「どういうことなんですか?」
すぐれた奇術を観覧したかのように、田原坂が頬を紅潮させて尋ねる。
有王は両腕を組み、髪をわずかな風になびかせていたが、ややあって指を鳴らして口を開いた。
「おい、崇。ここはおまえたちが『よく使う場所』なのか?」
「……まあね」
歯切れ悪く崇が答える。
「それなら、なにかここらへんから無くなっているものはないか? 増えているものとか」
「無くなったり、増えたりしてる物って言ったって……」
自信なさそうに、それでも崇は真剣に周囲に視線を走らせる。
もともと物のない場所なので不審なことがあればすぐに分かると思ったが、人間の注意力は案外あてにはならない。
「分からないよ」
「何でもいいんだ。結界を作るのは、符とか玉とか鏡とか、……紐でも地面に描いた模様でもいい。何でもない状態の結界は有り得ないんだ。だから、それを壊してしまえば、少なくとも中に入ることは可能になる」
「ふ……? 『ふ』って何だよ?」
「字や模様を描いた紙だ。板に書く場合もある。それなら、きちんと貼るか地面に立てるかするはずだから、見れば分かるだろう」
崇は周囲に視線に配るのを止め、ついには地面に這いつくばった。
燿も田原坂も同じように膝をつき、ごそごそと雑草を分けたりする。
有王は一人、たったままで、コートのポケットに手を突っ込んでいたが、ゆるやかに暮れていく冬の空を睨みつけ、もういい、と皆に立ち上がるように声をかけた。
「危ないから下がってろ。それから、よく見ていてくれ。うまくいけば、結界を作っている『物』が見えるはずだから」
皆が下がると、有王はポケットから鉄粉を掴み出した。
あの廃工場からもってきたもので、有王はそれを空中にかざし、意味不明の言葉を短くつぶやいた。
そしてゆっくりと手をひらき、堤防上から河原に吹き下ろす風に乗せて鉄粉を流し出す。
メタリックな輝きをもった黒い粉は、きらきらと光りながら河原へと飛んでいき、突然に意志をもった昆虫の群に変じたかのように一所に集まり始めた。
「あそこだ」
有王が先頭に立ち、崇、燿、田原坂の順に堤防を駆けおりる。
鉄粉はすでに地面におちたのか、目には見えなくなっていたが、場所だけはおぼろげに記憶している。
「……うわっ、と!」
最後に降りてきた田原坂が、声を上げて地面に転がる。
有王たちが振り向くと、彼は丈の短い草を結んで作った罠に足をとられてもがいていた。
「危ないなあ。こんなもの作って」
「触るな!」
有王は叫んだ。
誰かが引っかかっては危ないと、草の罠を解こうとしていた田原坂が驚いて手を止める。
「触るなよ。そいつが結界の要だ。ゆっくり、こっちに来い」
ぎょっとした表情を浮かべ、田原坂はあたふたと有王たちの足もとまで這ってくる。
燿が手を貸して立たせると、彼はありがとうと小さく笑って礼を言った。
「さて、と……」
有王は草を結んで作った結界をしばし眺めやっていたが、やがて懐《ふところ》から一枚の紙を手を取り出して幾つかに折りたたむ。
何をするのかと見守っていた崇が、特売の広告じゃねーかとがっかりしたような声を上げた。
「うるさい、省エネなんだぞ」
崇を一喝《いっかつ》した後、器用に紙を指で裂き、形をすっかり整えると再び紙を広げる。
そこには、小さな紙の牛がずらりと並び、風にはためきながら主の命令を待っていた。
有王はやはり意味不明の言葉をつぶやき、一呼吸おいた後にふうっ! と紙の牛に息を吹きかけてそれを地面に落とした。
すると、ひらひらと頼りない様子で舞った紙が、地面に着くなり小さな牛の群へと姿を変じ、喜び勇んで草で作られた結界の要を食べ始める。
何度か咀嚼《そしゃく》した牛は、そのつど小さな炎のかたまりになって燃え上がったが、数を頼みに最後の一頭が、結んだ草の根元まで食べつくして、灰と化した。
途端に、目の前の風景が変わる。
何人もの人影と、喧騒。
悲鳴や怒声。
そして、風にながされてもなお、鼻について仕方がない獣の血の匂い。
そこには、まさに想像もつかなかった異界が開けていたのだった。
最初に有王の目についたのは、ちょうど楕円形を描くように薙《な》ぎ倒された枯れ草の中心に置かれた黒い塊だった。
それは、時折コッフコッフという音を発しながらわずかに全身を上下させている。
目をこらすまでもなく、地面に座りこんだ黒い獣の背中が、息荒く何かを屠《ほふ》っているのだと知れる。
血と油と胸の悪くなるような死臭が、寒気にさまたげられながらも濃厚に漂っている。
少し離れた場所には、地面に転がった手足のねじくれた死体があり、首を失った奇妙な骸を無残にさらしていた。
「う……っ、げぇ」
見るなり、田原坂が口をおさえて身を屈める。
すると、その声にひかれたのか、黒い獣がゆるゆると首を回し、どこか視点の定まらない黄色い瞳に彼の姿を捉《とら》えた。
口もとには赤い泡をいっぱいにつけていて、両手にはすでに頭蓋骨と髪しかないような赤黒いぬめりを湛《たた》えた丸いものを抱えている。
それを、ぽいと放りだし、のそり、と立ちあがった獣が、驚くほどの勢いで、田原坂めがけて走り出した。
「うわ、っ!」
崇が、何を考える余裕もなく飛びすさる。
そのすぐ前を、今度は赤い塊が風と共に横切り、自分に何が起こったのか理解できずにすくんでいる田原坂にぶつかり、ごろごろと音をたてて地面を転がった。
ざくっ!
ついさっきまで田原坂がいた場所を獣の爪がえぐり、かわいた土のかたまりを弾き上げる。
空中で崩れながらも、最後まで原型をとどめて落下した土塊《つちくれ》は、ほとんど人間の首一つに匹敵するほどの大きさを保っていた。
「おい、おっさん!」
コートもスーツも泥まみれにした田原坂は、むくむくとした毛のかたまりにしがみつくようにして顔を上げる。
枯れ草で頬を無数に傷付け、眼鏡もどこかに飛んでしまっている。
「はっ、はっ、ふっ」
呼吸困難に陥ったまま、田原坂は崇の方に視線を向ける。
その腕からするりと抜け出した毛のかたまりは、琥珀色の瞳で田原坂に一瞥をくれ、次の攻撃に移ろうと身がまえる黒い獣と、中五メートルほどおいて正面から対峙する気配をみせた。
赤みを帯びた金色の被毛《ひもう》を輝かせ、ぴんとたった耳と豊かな尾をもった狼ほどの大きさの獣は、まるで田原坂を庇うように立ち、一歩も退く様子はない。
「おっさん、立てよ!」
まだ地面にへたりこんでいる田原坂の腕を引き、崇が無理やりに彼を立ちあがらせる。
膝を震わせながら立った田原坂は、しかし、数歩さがった場所で何かにつまずき、またも不様に仰向けに倒れてしまった。
「かおりさん!」
粉々に崩れた土管のかたわらに、髪を振り乱し、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたかおりが、あごが外れてしまったかのように口を大きくあけて自失している。
空洞のような目に光はなく、まぶたを閉じてはいないものの意識はすでに失っているようだ。
「おっさん! 危ねぇって。かおりさんも!」
とにかく、彼らをあの黒い獣から離さなくてはならない、と崇は必死になった。
崇自身も目の前に広がる光景を信じてはいなかったし、正気を保つのが難しいほどの混乱を内に抱えている。
しかし、だからこそこの局面を脱することに神経を集中し、かろうじて自分を支えながら田原坂たちを励ますのだ。
けれども、あのグロテスクな黒い獣は、その不器用そうな巨体に似合わず、十数メートルの距離さえ一瞬で無効にしてしまうほどのスピードをもっている。
今はあの赤金の被毛をもった狼と対峙しているが、いつ、またこちらに向かってくるか分からない。
それに、あの狼が味方であるという認識も、まだ崇の中には生まれていなかった。
「花映」
有王が狼を呼んだ。
だが、狼は、黒い獣から一瞬も目が離せない様子で、有王の方に視線を向けることすらしない。
「そいつは、……士郎か?」
かまわずに続ける。
暁の輝きをもった体をわずかに震わせ、有王は狼が全身で泣き声を上げているように感じられた。
「いらっしゃいませ、と言うべきですかね」
突然の声に有王は驚かない。
黙って顔をそちらに振り向け、堤防の上で悠々とこの惨劇を楽しんでいる伊達男にきつい視線を送る。
「邪魔をされないように結界をはったのだが、無駄だったようですね。思ったよりも、君が優秀ということかな」
「菊名翁、あれは、士郎か?」
菊名翁の弁舌に耳もかさず、有王は問うた。
丸い小さなレンズには、黒い獣が映っている。
「だったら何です?」
「……きさま」
有王の髪が逆立った。
「士郎を元に戻せ」
「無理ですね。『あれ』に残っているのは攻撃性と食欲だけ。他の感情を司る部分は、もう完全に破壊してしまったと聞きましたから。……キリエ」
とん、と後ろ手で背後に止まっているバンのボディを叩き、菊名翁がもう一人の術者を呼ぶ。
それに応じて外に出てきた白い女は、気温の低さなど問題にならないと言いたげに白い下着のようなドレス一枚といういでたちであった。
遠目には、何もかも白くてヒルのように見える。
「キリエ、おまえはあの呪禁師を押さえろ。私は、その間に他の連中を始末する」
「承知しました」
答えるなり、キリエは掌印《しょういんx》を結び、その中心に有王を捕らえる。
縛! とするどい声をかけただけで、有王は見えない縄でかんじ絡めにされたかのような感覚を味わった。
気で相手を縛る禁呪《きんじゅ》であり、修験道系統のかなり高度な呪法である。
しかし、完全とは言い難く、わずかに手足を動かすことも、声を出すことも可能だった有王は、スキップに似た足どりで堤防から下がってくる菊名翁とキリエから遠ざかるよう、崇たちに警告を発した。
「逃げろ! 他の連中も!」
崇がすぐにうなずいた。
田原坂とかおりを無理に立たせ、首をめぐらせて燿の姿を捜す。
燿は赤金の被毛の狼と黒い獣の向かい合っている場所からわずかに数歩しかない場所に立ち、あの悲しげな、物言いたげな瞳で彼らを見詰めていた。
「燿っ! こっち来い!」
しかし、燿はわずかに首を左右に振り、そうっと手を伸ばして黒い獣に触れようとさえする。
「燿っ!」
「燿はいいから! おまえら、逃げろ!」
崇が、あきらめたように田原坂とかおりを引きずりながら、その場を離れ始めた。
「あなたこそ、自分の身を心配したら?」
呪法に縛られた有王の前に立ち、キリエが悠然とした口調で告げた。
赤い瞳にはサディスティックな歓喜の色が浮かび、これから自分が行う残酷なゲームへの期待に輝いている。
「あなたは、あたしと遊ぶのよ」
「好みじゃないね」
「おだまり!」
ずん、と口を押さえられたかのような重みが顔面に押しよせたが、その分足の呪縛は軽くなった。
キリエの禁呪は、有王クラスの呪術者を押さえておけるほどは強くなく、先程の呪も応急的なものなのだろう。
「あんた、あいつよりは『弱い』んだな」
「おだまりというのに!」
一言ずつ噛みしめるようだった言葉が、今度は完全に封じこめられてしまった。
しかし、その分、手までが自由になり、わずかツーステップで有王は安全な距離までキリエから離れることが出来る。
「お待ち!」
足は地面に縫いとめられたが、自由になった指で掌に一字を空書し、有王は無言のままキリエに向かって呪を発した。
「ぎゃん!」
獣のような声を上げ、キリエが地面に仰向けに倒れる。
途端に全ての呪縛が解け、有王はすぐに、崇たちに迫る菊名翁を追うため踵《きびす》を返した。
「菊名翁!」
「ちっ」
有王が発した呪を懐から取りだした符で払い除け、菊名翁は両手の指をあわせて縦四本、横五本の線を空書する。
陰陽道で用いられる早九字九字《はやくじ》で、ドーマンと呼ばれる図形だ。
菊名翁の手もとから放たれた気が膨れ上がって有王の胸にぶつかり、音をたてて破裂した。
その勢いに押され、今度は有王が地面を転がり、その衝撃に喘ぐはめになる。
「キリエ! そいつを押さえろ!」
「げ……ほっ」
よろよろと立ちあがった有王の上に、さあっと一陣の風が吹いてきらめく水晶のかけらが舞った。
それは、引力に逆らいながら空中にとどまり、水面の光や灰色の空からわずかに差し出した西日を反射しながら有王の周囲をくるくると回る。
そして、その水晶に反射する光が体にあたるたび、細い針を体に差し込まれているような苦痛を生じさせた。
目といわず、喉といわず、腹といわず……、実際の傷を伴わない激痛に、有王は声を上げて地面をのたうちまわった。
「水晶壁。光呀陣《x》」
まだ腹をおさえたままのキリエが、やや前屈みになりながら立ちあがっている。
乱れた白髪が顔にかかり、ピンクの唇が歪んだ笑みを形作っていた。
「よくもやったわね、呪禁師ふぜいが」
自分がうけた苦痛は、何倍にしても返さなくては気がすまない、とキリエの赤い瞳が物語っている。
「臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前」
余裕をもって九字を唱え、指先を地面をのたうつ有王に向ける。
菊名翁ほど目に見える勢いはないものの、薄い刃の刀でゆっくりと身をそいていくような苦痛を、何度も与えていく。
針で刺される苦痛と身をそがれる苦痛。
その二つに一時に耐えながら、有王は必死でこの呪法から逃れる方法を考えていた。
「遊ぶな、キリエ。殺してしまえ」
少しいらついた口調で菊名翁が命じ、唇の端からよだれさえ垂らして有王の苦しむ様を楽しんでいたキリエに不服そうな顔をさせた。
しかし、今までの経緯からしても、菊名翁がキリエに命令を下せる立場であることは疑いようもない。
ひどく残念そうな表情を浮かべたまま、キリエは両手を揉《も》みあわせて呪を唱える。
ゆるやかに有王をとりまく水晶の壁がせばまって、有王が身にうける苦痛も我慢できるぎりぎりの段階まで高まっていった。
「……っくしょう!」
のたうちながら、有王は靴底に隠してあった細いナイフを抜き取った。
それを、渾身《こんしん》の刃をこめて地面に突き刺す。
「黄龍! 地の産物を地面に返せ!」
きれぎれに呪を唱える。
自信のほどは半分程度。
苦しまぎれの呪法だという自覚が、有王の内に歴然と存在する。
龍を呼ぶ呪法は危険で、かつ難しい。
制しきれない呪など、こんな場合でもなければ手をだすものではない。
「さよなら、呪禁師さん」
ごぽっ!
キリエが笑いながら告げた言葉を、地面から湧き出た泥土が飲み込んだ。
ねばりのある土が、わずかに空気に押し上げられて湧《わ》いた、と見たその瞬間、泥土はまるで生き物のような柔らかさとしなりをもって上方に吹き上がった。
有王を包み込みかけていた水晶のかけらは、全て泥土に喰いつくされてしまう。
その輝く呪縛の全てを飲み込むと、泥土は満足したように地面に沈んでいった。
そこには水たまりも何もなく、乾いた土が枯れ草をまとったまま存在するのみである。
「……いってーな。ちくしょう」
笑い半分、悔しさ半分でつぶやき、有王は何とか身を起こす。
地を司る黄龍を呼び出すつもりだったのに、出てきたのが泥土だけとは半端も半端、いろはのいにも満たないおそまつな呪法になった。
しかし、望むことは達成されたのだから、腹をたてるのはお門違いというものだろう。
「龍を呼ぶなんて……」
微苦笑で破顔《はがん》する有王とは対照的に、青ざめた顔でつぶやいたキリエがさっと身をひるがえす。
今までのやり方で分かるように、キリエの呪力は、手に触れずに人を殺させるほどの威力はないのだ。
しかも、結界のはり方も生粋の『鏡』とは比べものにならないほど不完全だ。
それを補うために九字を使うのだろうが、そちらもあまり上等ではない。
『場』の外側に立って他の呪術者の補佐をする分には遜色《そんしょく》なかろうが、有王と接近戦を交えるには力が無さ過ぎるのだった。
「おい、あんた」
「ひっ!」
有王が手を伸ばすと、キリエは息を飲んで後ずさり、ぺたんと尻餅をついてしまう。
すっかり戦意を喪失していて、逃げることさえできなくなっているようだった。
「おとなしくしててくれよな」
ぺたり、とキリエの額に呪符《じゅふ》を貼りつけ、金縛りで完全に自由を奪っておいてから、有王は再び菊名翁の方へと目を向けた。
今のやりあいでキリエの力のほどは分かっていたが、野放しにしたままもう一人の陰陽師とやり合う自信など、有王にも全然なかったのだ。
有王の背後、十数メートルの場所では、相変わらず赤金の被毛をもった狼形の花映が、我を失った士郎と対峙し続けている。
その傍らには燿が立ち、さながら三つ巴の睨み合いを思わせたが、彼らは互いに睨み合っているだけではなく、我が身を削るようなぎりぎりの緊張感の中に身をおいて相手のすきをうかがっているに相違ない。
そこから、さらに百メートルほど下流の辺りを、ほとんどかおりを背負う格好の崇が、よろめく田原坂の手を引きながら駆けていくのが見えた。
普通の状態であれば、歩いた方がまだ速いようなスピードだったが、形相だけはこの上もなく必死である。
今、まさに菊名翁の無慈悲な一撃が下されようとしているのに、何の心得もない彼らにはそれを避ける方法は一つとしてないのだ。
「崇!!」
花映や燿よりも、崇の方が急を要する。
有王は咄嗟《とっさ》にそう判断して、すぐさまそちらに向かって走り始めた。
呼ばれた崇はわずかにホッとした表情で有王を見たが、それは同時に菊名翁をも振り向かせる結果になり、大きく嘆息した彼は堤防下に人形に固まっているキリエを見て激しく舌を鳴らした。
「役立たずが!」
そして、ちらりと有王と自分との距離を計り、すばやく懐から符を取り出すとくしゃくしゃと丸めた。
「火炎招来急々如律令!」
菊名翁が唱え終わるや否や、手の中の紙玉がぱっと燃え上がる。
「行け!」
ふ、と軽く息を吹きかけただけで小さな火の玉は空中をころころと転がり、見るまに大きな火球となって崇たちに迫った。
「うわっ!」
崇は立ちすくみ、無意識にかおりと田原坂を横に突き飛ばした。
自分は地面に伏せようと、反射的に思ったからだった。
しかし、その程度で呪がコントロールを失うわけはない。
火球は正面に位置する崇にぶつかり、大きな爆発音をたてる。
その勢いは、横に飛ばされた田原坂が、ひゃっ、と叫んで頭を抱え込まずにはいられないほどだった。
「崇!!」
有王は叫んだが、すぐにほっとした表情になる。
崇の全身を包み込んだはずの火球が、ちりぢりの火の粉と化して周囲に飛び散ったからである。
無数の火の粉から枯れ草に火がつき、一瞬は勢いよく燃え上がったが、平らな床にこぼした水のように地面を広がっていく火は、他の燃え種に辿りつくことができず、やがてゆるやかに自然鎮火してしまった。
自分の無事を誰よりも信じられなかったのは崇だろうか。
火球がぶつかった勢いで前のめりになったまま、地面を一回転してぼやけた表情で顔を上げる。
「……なに!?」
「あやっこか!?」
崇の額に小さくつけられた赤いバツ印を目にした菊名翁が、ぎりぎりと歯を鳴らして言葉をもらした。
ヤツコ、ヤチコなどとも呼ばれるこの印は、多く東日本で用いられる子供のための魔除けである。
火の機能を備えているため、かえって菊名翁の火呪と交わらずに押し返す作用が起こったのだ。
あるいは、金蚕蠱が宿主を守ったのかもしれない、と有王は思ったが、それは菊名翁の預かり知らぬことである。
「菊名翁」
「……キリエを封じたか」
駆け寄ってきた有王に向きなおり、すでに崇たちは眼中にないといった様子で菊名翁が言った。
キリエがいればこそ、安心とは言い難いものの有王に背を向けてもいられたが、一対一になっては、やはり正面から向きあわなくてはならない相手である。
そして、それは当然、有王も同じであった。
「士郎を元に戻せ」
「聞き分けの悪い男だな。できない相談だと言ったろう」
「士郎は真実夜さんの息子だろう? 真実夜さんは『綾瀬』と名乗った。あんたらの組織の偉いさんじゃないのか?」
ふん、と鼻を鳴らして菊名翁が笑う。
「大老の、三十数人もいる子供のうちの一人に過ぎない。大した力もない。まして出来損ないの士郎など問題外だ」
「……だが、それでもおまえは真実夜さんが恐ろしい。違うか?」
有王の指摘に、ぎくりとした様子で菊名翁が息を飲む。
「おれは、『綾瀬』がなんたるかは知らない。知りたいとも思わない。しかし、それでも、あんたたちのやってることは非道すぎる」
「一介の呪禁師ごときに止められるものか!」
ぱっ! と後方に飛びながら菊名翁が繰りだした長針数本が、ついさきほどまで有王の立っていた場所に突き刺さって鈍い光を放つ。
「火炎招来急々如律令!」
音をたてて長針が火を吹いた。
細かく呪を刻み込んであったのだろう。
有王は両腕で目を庇い、さらに後方へと飛び退いた。
それを追うように菊名翁が印を結ぶ。
「臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前!」
今度は避ける暇がなかった。
たっぷりと余裕のある九字がそのまま威力をもって有王を直撃し、遙か後方までも弾き飛ばす。
コートはずたずたに裂け、眼鏡はふっ飛び、顔や首、手などのむきだしの部分に無数の傷をつくった有王は、死体のように仰向けに地面に転がった。
「おっさん!」
崇があわてて立ち上がる。
しかし、菊名翁は後ろで吠えている少年のことなど眼中にないらしく、足早に有王に近付いていく。
足を運びながら懐から符を取り出し、さらなる攻撃をしかけようとした時。
「うわああああーっ!」
崇が崩れた土管近くに転がっていた鉄パイプを手に、菊名翁に殴りかかった。
後頭部を直撃しそうになった鉄パイプをしなやかに腕で受けとめ、菊名翁はむきだしになった崇の腹部に気を送り込んだ。
呪も、九字もいらない。
それだけで崇は腹を押さえ、よろよろと地面に屈み込むはめになった。
「邪魔をするな、小僧。後でゆっくり殺してやる」
菊名翁は余裕なく言い放ち、地面に仰向けに倒れている有王にちかづいていく。
浜に打ちあげられたマグロを思わせる格好で、すっかり失神状態の有王はぴくりとも動く気配がない。
ごつん、と靴の先で有王の頭を蹴り、完全に意識を失っていることを確かめてから、菊名翁は懐から一本の針金を取りだした。
幾重かに巻かれていたそれを伸ばし、真っ直ぐに直す。
「水気招来急々如律令」
唱え終わるとすぐに、無数の水滴が菊名翁の手もとの針金に寄り付きはじめる。
「凍気招来急々如律令」
やがて、サーベルほどの太さになった水の塊が、さらに招来された凍気で硬い氷の剣と化す。
それを手にした菊名翁は、いっきに有王の額を貫こうと剣をかざす。
火気を司る血流の中心である心臓を刺すような冒険は、今の菊名翁にはできないのだった。
「身のほど知らずめ!」
いざ、有王の頭部を貫こうと振り上げた剣に、地面から閃《ひらめ》いた透明な光が当たった。
すると、菊名翁が剣を振り下ろすわずかな間に氷はすっかり溶けてしまう。
水のかたまりが顔にばしゃりとかかり、挙句《あげく》、額に柔らかい針金をぶち当てられた有王は、情け無い声を上げて目を開き、自分を覗き込む格好で茫然としている菊名翁と数秒間も見つめあう羽目になった。
「……いてーな」
「何……だと……?」
つぶやき、すぐに菊名翁が飛びすさる。
何の防御もなく、完全に失神していたはずの有王に必殺の一撃をかわされたショックがかなり響いているのだろう。
しかし、謎はすぐに解けた。
『馬鹿!』
地面からぼやけた声が湧く。
二日酔いを十乗したような情け無い格好で身を起こした有王は、透き通った光を発しながら輝いている小さな石を指先でつまみあげた。
『ぼくは花映ちゃんを助けたかったのに!』
石が叫んだ。
『それ以前の問題じゃないか!』
「怒鳴るなよ」
額からまぶたへと流れてくる血を指先で払い、有王は軽く頭をふって正気を保とうとする。
全身に濃い疲労感が被《かぶ》さっていて、おまけにあちこちが痛くてたまらない、一撃を受けてしまったほうが楽だったかもしれない、と頭の隅で考えたほどだった。
「何でこんなところに転がってるんだ?」
『花映ちゃんを守りたかったのに、士郎くんに弾き飛ばされちゃってね』
石がきらめいた。
『せっかくのパワーを、君なんかを助けるのに使いきっちゃったよ。がっかりだ』
「そいつはどうも」
他に言葉はない。
この水晶は、匠の力を遠隔に送り出す一つの扉的役割を持っている。
言葉通り、匠は花映を守るつもりで託したのだろうが、今の今まで地面に転がっていたのでは、役に立つ立たない以前に悲しいものすら感じさせる。
『ああ、もう! 文句いいたりないよ。早く戻ってこいよ』
「了解」
有王の返事を開いたのかどうか、言いたいことだけ言うと石は音をたてて燃えあがった。
白く冷たい炎はすぐに消え、ふりだしに戻った有王と菊名翁の勝敗を見守る者もない。
「つくづく運のいい男だな」
「おかげさまでね」
ひどく悔しそうな菊名翁に、有王は軽口を叩いた。
眼鏡は伊達なのでなくても構わないが、とにかく疲労が激しくて、少しでも体力を取りもどすための時間が欲しかった。
「運も実力のうち、ってのは、おれたちが言うべき台詞じゃないな」
「惜《お》しい」
「……何が?」
「おまえの力が惜しいと言ったのだ」
「そうか? じゃあ。あんたもおれたちの味方になるかい? 何にしたって、呪禁師よりは陰陽師の方が知名度が高いもんな。バーテン似合いそうだし、年配のご婦人方にすごく受けがよさそうだ」
「私は逆のことを考えている」
「若いお嬢さんの方がいいのか?」
「味方に、ということだよ。おまえ、私たちの味方に加わらないか?」
「『綾瀬』の?」
「そうだ」
有王は考える振りをした。
実際には、遠くで睨み合っている花映や士郎が気になるが、とにかく今、澱《よど》みなく動くのは口だけだ。
「十年前なら大喜びだったろうけどね。あいにくと『綾瀬』は、かなり悪役っぽいぜ」
「……表面的には、そう見えるだろうな」
「表面も内面も、嫌がっている人間を監禁したり追い回したり、食い物と花映だけが好きみたいだった士郎をあんな風にしちまうんだ。どんなに崇高な目的があったって、人間の意思を押しつぶしてまでの計画なんかには参加したくはならないね」
「頭の悪い男だな」
「ばあちゃんにもよく言われたよ。でも。頭ぁ悪くてもいいから、お天道さまに恥じない生活をしろという遺言だ」
「今は太陽もかげっているぞ」
「あいにくだ」
じりっ、と有王は左に重心を傾けた。
「おれのお天道さんは、ずっと地中に潜っちまってるのさ!」
左に飛び、有王は地面に散らばっていた、最初の結界の要を見つけるのに、利用した鉄粉を掴み上げた。
振り向きざまに菊名翁に投げつけ、火の象徴、朱雀《すざく》の略字を空書する。
途端に鉄粉は火の粉に変じ、菊名翁の全身を包むべく頭から振りかかっていった。
「風威招来急々如律令!」
すぐに一陣の風が吹き、火の粉を菊名翁の周囲からさらっていく。
しかし、先ほど有王にとどめをさしそびれた動揺が残っていたのか、菊名翁のコントロールはやや甘く、吹き飛ばされた火の粉は、仁王立ちになったまま低い唸り声を発していた士郎の顔に当たって四散した。
火の粉が目にでも入ったのか、それまで静止していた士郎が恐ろしい声を上げて暴れ始める。
振り上げた腕を闇雲に振りまわし、空気を裂きながら対象物を求めて前進する。
その動きの先には燿がいた。
燿は逃げなかった。
ただ、悲しそうに士郎を見つめているだけで、恐怖にも驚愕にも捕らわれていないくせに、その場から動こうともしない。
「ばかっ! 逃げろよっ!」
腹を押さえて地面に屈んだままの崇が叫んだ。
燿はそちらにやさしい視線を送ったが、すぐにまた士郎に目を戻し、まるで子供を抱きしめる母親のごとき慈愛をもって士郎の攻撃を待っていた。
どん!
士郎の爪が燿の首を捕らえようとした時、赤金のかたまりが全身で燿をその場から突き退けた。
燿はそのまま五、六メートルも横へ飛ばされる。
狼は、そのまますくっと立ちあがり、暴れ続けている士郎を睨みつけて、地面に座り込んでいる燿を守るように前方に仁王立ちした。
けれども、有王たちが結界が破るよりも以前から闘っていたのだ。
しゃんと伸ばした足は疲労のために小刻みに震え、豊かな被毛は焦げたり、縮れたりして薄汚れてしまっている。
所々にこびりついた血も、自身のものか他人のものか、もう分からないほどになっている。
ぴんと立った耳の先も裂けて、哀れというよりも壮絶なほどの意思を感じさせる。
しかし、だからといって、意思の力だけで蓄積した疲労を押し退けられるものではない。
「花映っ!」
「士郎、この馬鹿が!」
有王と菊名翁が当時に叫んだ。
「火炎招来急々如律令」
花映に加勢すべく走り出した有王と違い、菊名翁は印を結んで符に火気を招来する。
やばい! と思う間もなく、その手のうちから発せられた火球は、あわてて頭を下げた有王の頭上を掠め、暴れている士郎の頭を音をたてて包み込んだ。
「ぎゃあああーお!」
「なっ!?」
何をするんだ、と叫ぶ代わりに、有王は『涼』という文字を掌に空書して士郎に向ける。
肩や頭から炎を立ち上らせながら、この上なく滑稽で哀れな足取りで踊る士郎は、有王の発した呪に弾かれて地面に転がった。
しかし、ぐうう……と喉を鳴らしながら起きあがった時にはもう、肉と被毛の焼ける嫌な匂いをまとっているだけで火は完全に消えていた。
「何てことをするんだ!?」
「馬鹿が『カナリア』を攻撃するなんて」
有王が激怒する意味ができないように、菊名翁はつぶやく。
「失敗作は処分するしかないだろう」
「この……っ」
ぐおぅん……、と黒い獣が吠えた。
再び対戦に臨もうとしていた二人ははっとしたが、彼にはもう暴れる意思はないようだった。
きゅうん……、と赤金の狼が鳴いた。
傷を負った鼻先で燿の頬に触れ、何かを請うように、うるんだ瞳で彼を見つめている。
「花映……」
初めて、『カナリア』が声を発する。
辺りはしんと静まりかえり、風の音すら聞こえなくなってしまう。
「……士郎」
狼の首筋をぎゅっと抱きしめ、それから優しく横へと押しやり、燿はゆっくりと立ちあがった。
顔には天使も恥じらうほどの慈愛に満ちた微笑を浮かべ、しかし、頬をぬらす涙は哀別の情にあふれている。
「士郎」
ぐうう……、と黒い獣が唸る。
両手をだらりと垂らしたままで立ち、きょろりと小さな人間の瞳で燿を見つめながら、彼もまた何かを待っているようであった。
「……士郎。もう、お終いにしよう」
燿の両手が、ごわごわとした黒い被毛にそっと差し込まれた。
士郎は不思議そうな目で幼友達を見、ひどく嬉しそうな表情を浮かべた、……ように見えた。
そして、そのままゆっくりと仰向けに倒れ、軽い地響きをたてたきり、二度と唸ることも動くこともなかった。
どのくらい時間が流れたか分からない。
しかし、それはほんの短い時間に過ぎなかったのだろう。
それぞれ異なる思いを胸に、哀悼《あいとう》でも同情でもない沈黙がしばしその場を支配した後、無機質な音をたてて、堤防の上に止まっていたバンの助手席のドアが開いた。
中からは、艶やかな黒髪を腰よりも長く伸ばし、黒いロングコートをきちんと着込んだ女性が現れる。
「……真実夜」
「真実夜さま」
有王と菊名翁が、同時に彼女の名をつぶやいた。
彼女−真実夜はどちらかの言葉にも応えることなく、ただ黙って、ゆるやかな足取りで堤防を降りてくる。
赤金の狼だけが、彼女の呪縛的な行動にも屈せずに、するりと燿の前に立ちはだかった。
「花映」
真実夜が笑った。
背筋が凍りつき、全身の毛が総毛立つほどの壮絶な微笑だ。
闇をたたえる瞳には、どんな深遠よりも暗い憎しみがこごって輝きを放っている。
「おまえの母親は、わたくしの妹だった」
花映は唸り声も上げない。
真実夜はかまわずに先を続ける。
「わたくしの双子の妹。同じ顔で、同じ声で、同じ体を持っていた。だから、あの男は『どちらでもいい』と言ったのだ」
静かに、しかし、よく通る声で真実夜が告げる。
苦々しげな顔をしていた菊名翁がそろりと横に足を滑らせたのを、有王は見逃さなかった。
「どちらでもいいと、……あの男は言ったのに、わたくしはそれを侮辱だと感じた。妹は自分の感情を優先した。全てを捨てて『綾瀬』をも捨てて、あの男のもとに走り、おまえを産んだ。生まれたのは、純粋な古族の獣人。わたくしの子は普通の知能さえ持ち得なかったというのに!!」
真実夜が士郎に視線を向け、そちらに足を運ぶ。
黒い被毛を茶色く焦がした獣は、母親の視線すら応える術ももたない肉の塊と化している。
「かわいい士郎……。わたくしは自分の中の闇が恐ろしかった。妬み、憎しみ、そして殺意も、ほんの少し気をゆるめただけで、全身から噴き出してしまうのではないかと、長い間おびえていた」
す……、と真実夜が士郎の上に身を屈める。
小さく唸った花映の首を、燿がきゅっと強く抱き締めた。
「士郎の大好きな花映を愛して、士郎の大好きな燿の望むようにと、わたくしは常に自分を戒め続けた。自らの内なる闇を封じること、それだけが今までのわたくしの全てだったのに、……士郎」
柔らかな指先で、真実夜は士郎の黒い胸に触れた。
すると、さして力を込めてもいないのに、ばりり……、と音をたてて士郎の胸部が裂ける。
赤黒い肉と黄色い油、そして血にぬめる白い肋骨があらわになり、生臭い匂いがわっと周囲に立ちのぼった。
「わたくしは花映を憎み、燿を憎む。それ以外に、この胸の痛みをとめる方法はないのだもの。我らの奉ずる摩多羅神の名にかけて、士郎のかたきを……」
「おいっ!」
有王の制止は、しかし、何の役にも立たなかった。
真実夜は白い顔を士郎の裂けた胸部に突っ込み、しばらく動こうともしない。
水っぽい、胸の悪くなるような咀嚼《そしゃく》の音を夕闇の河原に響かせた後、真実夜はようやく顔を上げた。
髪は血でぬれそぼり、顔にもべったりと血がついている。
特に口の周りがひどく、赤く染められた唇の端からは、まだわずかに内臓の残りと思われる部分が覗いていた。
「菊名翁」
「は、はい」
きろり、と白目もあざやかに、真実夜が菊名翁に一瞥をくれた。
彼女は我が子の血肉を食らい、より一層美しく、女王の風格さえ感じさせる女へと変貌をとげている。
「士郎の死体を『綾瀬』へ運びなさい。肉片一つ残すのではないよ」
「……承知」
「呪禁師・有王」
有王は声をたてず、視線だけで真実夜をとらえる。
彼はもう、店に逃げ込んできた真実夜と、ここに立つ真実夜は別人だと考えている。
「このまま菊名翁と闘いたいかい?」
「……、そっちの出方次第だ」
「今までの戦いぶり、やや甘いとはいえ菊名翁に劣るとも思えぬ。この後も、花映、燿の両者に加勢するや否や?」
「そいつは、……おれが決めることじゃないな。うちのわがまま神さんが決めることだね」
有王は頭をかいた。
今ならば、菊名翁が侮《あなど》りつつも真実夜を恐れていた理由がはっきりと分かる。
こうして向き合い、言葉をかわし、真実夜に何ら特殊な力を見せつけられたわけでもないのに、やはり有王も真実夜が恐ろしかったからだ。
「よかろう」
しかし、緊張感を高めつつある有王に背を向け、真実夜はさっさと堤防に向かって歩き始めた。
「この場はこれまで。けれど、花映と燿の身柄は次には必ずお返し願う。大老《ちち》のためではない。わたくしがこの手で千々に引き裂き、その血肉を食らうためじゃ」
そろそろと士郎の死体に近付いた菊名翁が、ポケットから取りだした小瓶に蓋をとって呪を唱えた。
真実夜の言葉通り、肉片一つ残さずに、士郎の死体も血も被毛も、全てがするすると瓶の中に吸い込まれて消える。
軽い手つきで瓶に蓋をし、菊名翁が有王を見てにやりと笑った。
「いずれ、また」
しかし、すぐに振り返り、堤防の下で人形のように不動の姿勢を保っているキリエを後ろ手に指して言う。
「彼女の呪縛を解いてもらえますかね」
菊名翁にも解けぬことはなかろうが、もはや解除の手順をふむのが面倒だったのだろう。
有王が歩み寄って額の符を剥がすと、ぼんやりと夢を見るような目付きでキリエが立ちあがった。
黒い女と、伊達男の陰陽師、そして白い女。
彼らは速やかにバンに乗り込み、さして大きな音も立てずに堤防上の細い道路を走り去っていく。
河原に残っているのは有王と燿、狼の形態を保ったままの花映、さらに田原坂と崇が、正気をほとんど失ったかおりを引きずるようにして連れてくる。
生きているのかいないのかも分からない少年たちが三人、全身に血をつけて転がっていて、地面には一体の首のない死体。
側には、ころんと食べかけの頭部が転がっていた。
「……煙草、あるか?」
息をついて地面に腰をおろした有王が問うたが、田原坂も崇も左右に首を振る。
「しかたねえなぁ」
もう立ちあがる元気もなくて、有王はごそごそと地面を這うようにして首なし死体に近寄り、そのジャンパーのポケットから西洋煙草の箱を失敬して一本くわえた。
しかし、一緒にあるはずのライターが見付からず、煙草に火をつけることが叶わない。
未練がましくフィルターを噛みしめ、煙草の先をぶらぶらと上下させながら、有王はそっと花映に目をやった。
「元に戻れるか?」
狼がうなずく。
「……そんなにボロボロなら、服もだめになってるんだろうな」
有王は自分のコートを脱いで花映に投げてやったが、それもあまり役に立ちそうもない。
「あ、これを使ってください。……汚いですけど」
田原坂があわてて自分のコートを脱ぎ、花映の首にしがみついたままの燿に手渡した。
「あーあ……」
煙草をくわえたままで仰向けに転がり、有王は空を見上げる。
夜の色を伴いながら暮れきらない空は、まさにこの現状を象徴しているかのようで気が滅入《めい》った。
「だれが片付けるんだよ、この惨状」
しかし、それに答えてくれる者は誰もいない。
汚れた空には星一つなく、さらに有王を滅入らせるのだった。
十二、三分はそのままで過ごしただろうか、わずかながら体力の回復を自覚した有王は、すっかり冷えきってしまった体を起こして一同の様子を見回した。
多少の差こそあれ、回復している少年たちは一所に集められ、放置されているのは死体だけだ。
「……っしょっと」
大儀そうに立ちあがり、有王はスラックスのポケットから小さな六角の結晶体を取り出した。
左手に乗せ、右手の中指と人差し指をあてて呪を唱えると、その結晶がふわりと空中に浮かび上がる。
「何か光ってるもんがあったら、拾っとけよ。警察と救急に電話してくるから」
「ああ、それなら私が行きましょう」
有王の命令に疑問を持った風もなく、地面に目をこらしていた田原坂が名乗りを上げる。
眼鏡が飛ばされたしまって物がよく見えず、あまり役に立たないという自覚があったからだった。
「……なんて言う気だ?」
「そうですね。何て言いましょうか?」
有王の問いに、田原坂が困ったように笑った。
まさか、今までのいきさつを全て話してしまうわけにもいかない。
「子供たちが河原でラリってるとでも言うか。どっちにしても、このまま放っておくわけにはいかないからな」
「はい」
それじゃあ、と田原坂は怪しげな足取り堤防を登り始める。
それから、ふと振り向き、車を回して来ますね、と付け加えた。
途端に、前途ある青年弁護士を引き込んでしまった罪悪感が、有王の胸に湧いてくる。
「おい、おっさん」
「おっさんじゃない。おれはまだ二十代なんだぞ」
だらだらと頭を掻きながら有王が言うが、崇はそれを配慮する気配すらない。
「ボタンや何やらを集めてどうするんだよ?」
「中身はともかく、日本の警察は優秀ってことになってるだろ。証拠になりそうなものは、ちゃんと始末しとかないとな」
「ふ……ん」
文句を言いたそうな顔をしたが、適当な言葉が浮かばなかったらしく、崇は再び拾いものに精を出す。
いつの間にか人型に戻った花映が、泥だらけの田原坂のコートを羽織って有王の隣に立った。
「世話になったな」
「……ああ」
「匠さんは戻ってこいと言ってくれたが、そういうわけにもいかない。よろしく伝えてくれ」
「逃げるのか?」
やや嫌味のこもった声で有王は問う。
花映はすまなそうに目を伏せ、噛みついてくるような気配は全くない。
「どこに逃げる気なんだ?」
「遠くに……」
「無駄だな。このままなら、遅かれ早かれおまえら二人とも元の場所に連れ戻されるよ」
「……そうかもしれない」
それでも、と花映の目が強く有王に訴えてくる。
今、彼女が恐れているのは、恐らくは有王や匠、そして崇や田原坂といった面々に迷惑がかかることなのだろう。
「でも、私たちは逃げる。逃げられるところまで逃げる。……檻に閉じ込められるのは、もう嫌だから」
「……そいつはそうだな」
有王のかざした結晶の光を頼りに、皆の落としたボタンやら眼鏡やらを拾い集めていた崇が、ふたりのやりとりを聞いていてやって来た。
「なに? 燿をどっかに連れていくのか?」
「おまえ、あのひったくりの仲間だ」
ぎっ、と崇がすごい目つきで花映を睨んだ。
「どうせ、オレは虫憑きだよ。そういやあ、おっさん。じゃない、有王さん。別の方法があるとか言ったろ? あれを教えてくれよ」
「あれは……」
こんな時に、と思ったものの、崇にとっては最も重要な問題なのだと考えなおす。
内容は聞くだけ無駄なものだったが、これまでの働きぶりからして、崇にもそれくらいは要求する権利があるのだと有王は自分を戒めた。
「欲のない、死を厭《いと》わない人間が金蚕蠱を食うんだ」
「食う?」
もぞり、と崇の胸で虫が動いた。
悪寒が脳天まで突きあげ、崇は声を上げてしまいそうになる。
「食ったら、……どうなんの?」
あわてて口をおさえ、指の隙間から重ねて尋ねる。
『虫』をどうにかできるのなら、何でもしてやりたい気持ちになっている。
「食ったら、死ぬ。金蚕蠱は毒のかたまりだからな。ただ、誰かが食えば『虫』も消えるから、他の人間が迷惑することはない」
「……そんなの……」
何の助けにもならないことだ、と多分崇は言いたかったのだろう。
へなへなと脱力して地面にへたりこみ、もはや泣き叫ぶ元気もないといった様相だった。
「だから、な。金蚕蠱をはらうには、嫁金蚕しか方法がないんだ」
慰めにもならない慰めの言葉を吐き、有王は崇の腕を取って立ち上がらせようとする。
その手にそっと温かい手が重なり、有王も崇も顔を上げて二人を覗き込んでいる燿の顔を見返した。
燿は笑っていた。
身を屈め、そっと崇のセーターとシャツをめくる。
夏の日焼けをとどめたままの胸に、金色の小さな虫がへばりついて身動《みじろ》ぎしているのが露わになった。
ひょい、とその虫を燿の白い指がつまむ。
そのまま、躍り食いのように、燿は虫を自分の口の中に放り込んでしまった。
「ばっ! ばかっ! 吐けっ!」
「燿!?」
崇が前から、花映が後ろから、それぞれ手加減もなく燿にぶつかって体を揺する。
有王は二人の勢いに弾かれ、二、三歩離れた場所から展開を見守るしかなくなってしまった。
「死にたいのかっ、燿!?」
「……死にたいのか……?」
燿は動きを止めた花映と崇に優しい目線を配し、ためらうこともなく口中の虫を飲下する。
少しだけ苦痛を身がまえるように喉をさすったが、その表情が苦悶にゆがむような事態は露ほども起こらなかった。
燿が、天を仰ぎ、不思議そうな顔で口を大きく開く。
そこから、まず金色の光が溢れ、したたり、やがて、ひときわ強い光が喉の奥からせり上がってきたかと思うと、朧《おぼろ》げな形だけを保った蝶の影がふわり……、と夜の宙空へ躍り出た。
蝶は、生きている蝶のようには、体の部位がはっきりしていない。
時には金色の影のようにしか見えなかったが、確かに意志をもち、生命をもっているように見えた。
ひらり、ひらりと風に舞い、小刻みに羽をふるわせ、大きく、あるいは小さく、その形を変化させながら、ゆっくりと空へと昇っていく。
金色の鱗粉《りんぷん》が皆の体にかかり、地面に落ち、弾けて消えた。
そして、後にはまた、変わり映しない顔ぶれが、唖然とした表情のまま、消えてしまった蝶の後を追うように空を見上げているだけだったのだ。
「……羽化しやがった」
信じられないという表情でつぶやいたものの、有王は腹の底からこみあげてくる笑いを抑えることができなかった。
匠の言っていた意味が、なんとなく理解できたからだ。
金蚕蠱は自然から生まれて……。
『カナリア』も自然から生みだされた生き物だと……。
呪術は人を助けるものであり、目に見えぬ理を動かす手段でもある。
しかし、それでもやはり人の手に余る、人の手の触れてはならぬ領域なのかもしれない。
だからこそ、自然の産物である『金蚕蠱』をはらうことが、ひどく困難なのかもしれない。
そして、あらゆる法則をねじ曲げ、秩序を乱すと分かりきっている『カナリア』という存在を生みだすことを、この世界は必要としているのかも知れない。
人間のように自らの分に逆らう種が繁栄を許されているように、『世界』は『金蚕蠱』をも『カナリア』をも、すっぽりと内抱し、愛し、慈しんで育てていく。
悲しみと苦しみを伴にして……。
「電話してきましたよぉ」
堤防の上から田原坂が叫んだ。
「すぐ来るそうですから、早くここから離れましょう」
「……ああ、すぐ行く」
有王は答えた。
すっかり輝きを失ってしまった結晶を回収し、花映と崇に抱きかかえられる格好の燿をうながす。
二人の全身で守られながら燿は、まだぼんやりとした顔のまま、有王に小さく微笑みかけた。
田原坂の車にはるかに定員を超える人数で乗り込み、とりあえず崇のアパートに向かう。
年末の取り締まりの時期だったが、幸いにもパトカーに出会うこともなく目的地に着いた。
「ほいほい、お疲れさん。これとこれ玄関と窓に貼っときな。いずれ、ちゃんとした護符を書いてやる」
窮屈な車内から崇を押し出し、有王は二枚の護符を手渡した。
崇は顔をしかめてそれを受けとったが、今にも発進しようとした車のドアに取り付いて叫ぶ。
「燿を……!」
田原坂があわてて車を止め、助手席の窓が音を立てて開いた。
「燿のことなら、後ろのお姉ちゃんに頼んだほうがいいぜ」
有王が身を引くと、崇は車内に首を突っ込んだ。
後部座席には、花映と燿が小鳥のように身をよせあって座っている。
アパートの敷地内の一角で、街灯のわずかな光しか届かない車内に沈んだ花映の目が、獣のようにきらきらと輝いて崇を捕らえた。
「燿、を、……どこかに連れて行ったりしないでくれ、……よ」
「心配するな」
琥珀色の獣の目の中に、強い意思と覚悟を秘めて花映が答えた。
「燿には、能力を完全にコントロールするための訓練が必要なんだと分かった」
「逃げるのは止めなのか?」
有王が笑いながら口をはさむと。花映は少しだけ拗《す》ねたように目を伏せた。
「止めだ。燿の訓練ができるのは、わたしや有王ではないし、『綾瀬』でもない。だが、匠さんなら、おそらくこの子に必要なことを教えてくれる。……どうせ他人に迷惑をかけるんなら有王と匠さんをイケニエにするよ」
「どこに住むんだ? 姉ちゃんと、オレも訪ねていってもいいかい?」
「うん」
花映が、これまでにないほど優しい顔で崇にうなずいてみせる。
「おまえが燿を守っていてくれたんだものな。ありがとう」
「はいはい、そうと決まれば、早く帰ろうぜ。これが、ウチの店の住所だよ」
ぴっ! と窓から名刺を弾き出し、それを受け取ろうとあわてて手を伸ばした崇を後目《しりめ》に窓を閉める。
しかし、有王は最後の一回しの部分で手を止め、
「飲み屋だから、夜は来るなよ!」
と付け加えた。
「バッキャロー、今どき……!!」
「田原坂さん、車出してくれ」
最後の台詞に対する反論をわめく崇を置き去りにして、青いカローラは速やかに発進した。
バックミラーにはいつまでも両手をあげた崇が映っていて、運転席の田原坂を和《なご》ませたらしい。
「有王さん、今どきの子に、飲み屋に来るなっていうのは、酷じゃありませんか?」
「いいんだよ。おれはもう、常識派の呪術師で押し通すことにしたんだからな」
嘆息して窓下に頬杖をつき、有王はしばし流れすぎていく夜の風景に目を向ける。
クリスマスの残骸と新年の下準備とが、雑然と夜の明かりの中に同居している。
何もかもが金銭を中心に回っている破壊と搾取の空間にも、今もって華やかな美しさを求める気持ちと共に、おごそかで敬虔《けいけん》な祈りが隠されているようだ。
愛する理由もないのに、有王は結局、自分を育んだ東京という土地への愛着は目に見えない楔《くさび》として、確かに胸の内に存在する。
それならば、……。
「帰りたくないか、花映?」
しかし、花映は答えなかった。
「眠っているんですよ」
運転席の田原坂がそっと告げる。
それからはもう言葉もなく、車は薄絹ににた明かりに照られた夜の中を、ただ静かに走り続けていくだけだった。
エピローグ
「陰気くさいな」
ため息と共に開店の準備をすすめる有王に、ピアノの前の匠が文句を言う。
しかし、はい、そうですかとそれを甘受するほどの脳天気さを有王は持ち合わせていないのだ。
師走に入ってからこっち、バタバタし通しだったのだから、大晦日くらいは休ませて欲しいというのが、有王のささやかな望みだったのに、無慈悲なオーナーはそんなことなど鼻にも引っ掛けられないらしい。
常連客を招いた年越しのパーティーをしよう、などと言い出した。
「年末くらい、休ませろよ」
「だって君、こないだ二週間も休んだじゃないか」
その間は燿を捜して奔走していたのだが、それを言う気は、もはや有王にはなかった。
何をどう言っても、匠は自分の計画を引っ込めることはない。
それならば、何もかもを早く準備し、速やかに終わらせてしまうに限るというものだろう。
だが、無言でてきぱきと準備を進める有王を見ていると、今度は相手にして欲しいという気持ちが湧いたのか、めずらしく匠がカウンターに腰を下ろしてオードブルの盛り付けを始めた有王の手元を覗き込んだ。
「……燿の訓練はどうなんだ?」
また余計なことをされては敵わないとばかり、有王は顔を上げずに無難な質問を口にする。
ひょいと皿からハムをつまみ出した匠は、当然とばかりに、
「年末は休みだよ」
と言い放った。
よくよく他人の神経を逆撫《さかな》でする術に長けた男である。
「今は本殿の掃除をしているけどね。そういえば、花映ちゃんはどうしたの?」
「買い出し、と崇たちを駅まで迎えに行くんだと。あのひったくり小僧も、まだ母ちゃんは入院していて大変らしいしけどな」
「ふうん」
有王が馴れた手つきで切り分けていくハムを、匠は前からひょいひょいと掠《かす》めていく。
「緊張感がないねえ」
「花映が行くっていったんだよ。ハムを食うなって! 全部無くなるじゃないか」
「『綾瀬』もねえ」
有王に怒鳴られた匠は、今度はテーブル席に用意されていたおつまみの盛り合わせに手をつける。
「何だったっけ? 摩多羅神だったけね。奇怪なものに手を出してるよね。ほら、道教の泰山府君《たいざんふくん》の眷属《けんぞく》でさ。いや、北斗星君だったかな? まあ、どっちでもいいや」
「いい加減なことを言う……」
「いいんだよ。その摩多羅神は、死者の肝を食べて臨終に導く、恐ろしくも形式的な『死』の一面を表しているんだ。けど、真実夜さんが士郎くんの内臓を食べたのは、……多分、死者の無念や、その生前の力を自分の内に取り組む儀式を行ったんだと思う。だから、摩多羅神とは言うものの、ケルトや南米の呪術に近いものかもしれないな」
「……そんなことは、どうでもいいんだ」
「『綾瀬』も、『古族』かな」
「え!?」
「血の薄まった古族か、人間に近付きすぎてしまったものか。彼らは多分、『分』を守ることを止めたんだ。そして、古族でも人間でもない。この世界を統べる存在を自分たちの手で造り出そうとした、……っていうのは、どうだろうねえ?」
「多分。多分。多分、か」
「だって、ぼくは、真実夜さんと士郎くんにしか会ってないもの。いや、あの『鏡』さんとかにも会ったっけか」
匠がけろけろと蛙のように笑う。
椅子の座席に登り、背もたれに腰を下ろしている。
よくひっくり返らないものだ。
「あいつ、あの真実夜っていう女、おまえのことを『知って』たぞ」
「何を知ってたって?」
「……広足《ひろたり》どの、って言ったんだよ」
しかし、有王の真剣さとは裏腹に、匠の反応はあっさりとしている。
「間違ってないじゃないか。韓国連広足《からくにのむらじひろたり》。大当たりだよ。ぼくは、一人の女のために師匠の小角《おづの》を朝廷に売り、呪術者の頂点に立った男だもの」
一人の女……託宣の巫女『一言主《ひとことぬし》』。
「……失脚したんだよな」
「悪かったね」
ぷん、と口で怒りの擬音を発し、匠は椅子から飛び降りた。
「誰か来たぞ。ドアを開けてやれよ」
言いながら、匠はさっさとピアノの前の定位置に腰をおろす。
他人の手を煩《わずら》わすためには、何ともいとわない奇妙な習性を発揮したわけだ。
「こんばんは。ちょっと早いんですが、お手伝いできることがあればと思ってきました」
かっちりとしたスーツにコートを羽織り、四角い眼鏡を半分曇らせた田原坂が、迎えに出た有王に白い発砲スチロールの箱を手渡す。
「これ、蟹です。お歳暮で五箱ももらってしまったので、おすそわけです」
「えらいっ!」
有王よりも先に、ピアノの音と共に匠が叫んだ。
「いい心がけだよ。君、今年はいいことがあるよ、うん」
「はあ、ありがとうございます」
今年は、後数時間で終わるのだが、有王はそれを指摘する気にはなれなかった。
田原坂は律儀に礼を述べてコートを脱ぐ。
もちろん、彼は匠がこの神社の『主』であることなど知らない。
「そういえば、さっき病院に行って来たんですけど。崇くんのお母さん、来月の十日ごろには、退院できるそうですよ」
「そいつはよかった」
スーツの上着を脱ぎ、腕捲りをしながら田原坂は続ける。
「それから川口さんの方に、掛け金を返してくださるそうです。こっちの手続きも年明けになりますけどね」
「そいつはおめでたい!」
「おめでたいのは、てめえの頭だろ」
勝手にクラッカーを鳴らした匠を横目で見て、有王は毒づいた。
田原坂が笑いを噛み殺すような表情を浮かべる。
しかし、すぐに真顔になって有王の方を向き、
「燿くんはお元気でしょうか?」
と訪ねた。
「田原坂《バル》さん、燿くんの自殺願望の心配してくれてるんだねえ。でも大丈夫だよん」
バルサン……? と有王は顔をしかめたが、当人は全然気にしていないらしい。
「彼はねえ、死にたかったんじゃなくて、死ななくてはならないって思い込んでいただけだから」
「そうですか」
ほっとした表情の田原坂に、匠があごをしゃくって見せる。
「自分の目でみるといい。ほら、来たよ」
カウント・ダウンするまでもなく、すぐに扉が音をたてて開く。
「ただいまあ!」
「ちわース!!」
「さっみーっ!! サイアクー!!」
「……こんばんは」
どたどたと靴音を響かせて転がり込んできた集団の中には、花映もいたし、崇もいたし、洋子もいた。
そして、隆文の後ろから、そうっと茶髪の頭を覗かせた燿の姿が現れる。
「おまえら、電車がなくなる前に帰れよ」
途端に店内の気温が上がり、有王は怒鳴った。
毛糸の帽子を取って椅子に置いた崇が、少しも間をあけずにげらげらと笑いだした。
「大晦日は夜間運行あるんだぜ。とりあえず、除夜の鐘を聞くまではヨロシク!」
「ちっ、まぁいいや、これ運べ」
「あいよっ」
猿まわしの猿ように、崇が調子よくウエイターの真似ごとを始める。
燿は洋子を椅子にかけさせ、花映は彼女に飲み物を運んでいった。
隆文は少し所在がなさそうだったが、やがて崇と一緒に準備を手伝うようになる。
「あけみさんは来ないの?」
花映が訪ねた。
「あいつも年明けまで営業だと」
「店が終わったら、こっちに顔を出すって言ってたよ」
ぽろん……と匠がピアノを鳴らした。
「ばっ、馬鹿いうなよ! それまでには、こっちも閉めるに決まってんだろ!」
有王はわめいた。
あと、数時間で除夜の鐘が鳴る。
教会はミサを始め、神社に向かう人の群れが家を出る。
あと数時間で。
長く連なる時間の中に、いくつか用意されている扉の一つがそっと開く。
音もたてずに。