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マリア・プロジェクト
楡 周平
目 次
はじめに
プロローグ
第一章 一九九六年八月
第二章 二〇〇〇年三月
第三章 二〇〇〇年四月
第四章 二〇〇〇年五月
第五章 二〇〇〇年九月
第六章 二〇〇〇年十月
第七章 二〇〇〇年十一月
第八章 展 開
第九章 襲 撃
エピローグ
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はじめに
白黒のモニターの中には、刷毛《はけ》で掃いたような粗い画像が扇状に浮かび上がっている。
グリセリンが塗られた腹の上を滑らかな球状の超音波発信機が角度を変えながら這《は》い回ると、やがてモニターの中央に朧《おぼろ》げな輪郭が浮かび上がってくる。
小さく体を丸めるようにした姿勢。頭部には既に形を成し始めた目と口がモニターのむこうから見つめてくる。胸の前で合わされた腕の先はまるでおしゃぶりをしているようにも見える。早いリズムで鼓動を刻む心臓の在処《ありか》がはっきりと分かる。胎盤から臍《へそ》の緒を通し血液が流れ込んで行くのも――。数カ月の後、この世に新たな生を享《う》け生まれてくるはずの胎児の姿。子宮の中を満たした羊水の中で、白い影となって映るそれは穏やかな眠りを貪《むさぼ》っている。
ほどなくして胎児を目がけ、硬い質感を持った棒状の鮮明な影が現れる。明らかに異物と分かるそれは、徐々に、しかし確実に胎児を目がけて迫って行く。安眠を破られた胎児は本能的に体を捩《よじ》った。だが狭い子宮の中には、身をかわす余地もなければ逃げ道もない。虐殺者の手から逃れようとするかのように絶望的な努力を始める。悲しいまでの生への執着。器具の先が体に届いた刹那《せつな》、胎児は侵入者と、この暴挙を許した母に抗議するかのように、顔を向けた。虚《うつ》ろな二つの目。大きく開けた口からは断末魔の悲鳴が聞こえてくるようだ。
影の先が二つに割れ胎児を捕らえると、躊躇《ちゆうちよ》することなく柔らかな体を切り裂いていく。小さな体内を満たしていた驚くほど大量の血液が羊水の中に流れ出す。
僅《わず》かな時間の後、血で濁った羊水が排出された子宮の中は空っぽになった。モニターの中にはぺちゃんこになった空間が映し出されているだけだ。この世に生まれ来る機会を得たにもかかわらず、祝福されるどころか誰にも知られぬまま葬られた命。一度産声を上げさえすれば、同じ死を迎えるにあたっても最低限の尊厳ある儀式によって送られることだろう。だが望まれない命はまるでその存在がなかったかのように、一瞬にして全ての可能性を奪われ、排泄《はいせつ》物同様の扱いで処分される。そしてその後の行方に興味を持つ人間など、この世のどこを捜してもいやしない。
数カ月の間、自らの子宮に宿した母親の心の片隅に、微《かす》かな記憶として留《とど》められるだけで、やがてはそれも忘れ去られる運命にある。それが堕胎された胎児がこの世に残した痕跡《こんせき》の全てなのだ。
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プロローグ
雨期の厚い雲が空に低く垂れ込めていた。湿度をたっぷりと含んだ生暖かい風が吹きつけてくる方向を見やると、黒い雨雲からは薄汚れたレースのカーテンが地上に向けて垂れ下がっているようになっている。スコールがすぐそこまでやってきていた。早くもその気配を察した人々が、小走りに駆けながら通りから姿を消し始める。アリシア・ベイロンは路面の凹凸に溜《た》まった水たまりを避けるように、小刻みにステップのリズムを変えながら家路を急いだ。
手にしたプラスチックバッグの中で、たった今買い求めたばかりの食材が乾いた音を立てた。今夜と明日の朝と昼の三食分の食料。干魚、そして米と野菜。ビニール袋に小分けされた油と塩。それがバッグの中の全てだった。
スコールが来る前に早く家に帰らなければ。
アリシアは足を更に早めると、入り組んだ路地の中へと駆け込んだ。
目指す家まではもう僅かの距離しかない。軒が触れ合わんばかりにバラックが建ち並ぶ暗く狭い路地。家々から漏れ出した裸電球の光が仄暗《ほのぐら》く足元を照らし出した。強烈な尿の臭いが鼻をつく。
ふとその片隅に人影を目にしてアリシアは思わず足を止めた。
仄暗い明りの中に、一軒の家の壁に寄りかかるようにして座り込んでいる老人。その正体に気がつくまで幾許《いくばく》の時間もかからなかった。
「テオドロ」
朽ち果てたトタン板に小石をぶち当てたような音を立てながら、雨が降り始めた。数がはっきりと数えられるような大粒の水滴が降り注いでくる。路地はこうしている間にも暗さを増していく。
「こんなところで寝ていちゃ駄目じゃない」
この街でまともな衣服など身に着けている人間などいないが、それにしてもテオドロの身なりは酷《ひど》いものだった。垢《あか》と汗にまみれたシャツは汚水で染め上げられたように変色し、薄く見窄《みすぼ》らしいトランクスも随分洗ってはいないのだろう。強張《こわば》った繊維が無数の皺《しわ》をつくっている。そこから覗《のぞ》く四肢は痩《や》せ細り、弛《たる》んだ皮膚の下から骨が浮かび上がっている。
確かもう六十は越しているはずだ。平均寿命が六十四というこの国では、いつ天寿を全うしてもおかしくない年齢だ。
一抹の不安を覚えながらそっと肩に手をかけ、アリシアは再び老人の体を揺さぶった。
固く閉じられていた目蓋《まぶた》がうっすらと開いた。焦点の定まらぬ目が虚空を彷徨《さまよ》う。どうやら意識もまだ定かではないようだ。半開きになっていた口元が微かに動くと、呻《うめ》くような声が上がったが、何を言っているのかはっきりとは分からない。腐敗寸前のフルーツを思わせる安酒の臭いが鼻をついた。
「また酔っぱらっているのね」
アリシアはほっと安堵《あんど》の吐息を漏らしながらも、漂ってくる臭気に顔を顰《しか》めた。
身に染みついた体臭はスラムに澱《よど》む空気の成分そのものだが、饐《す》えたアルコールの臭いは数少ない異臭の一つだ。
「アリシア――おお、アリシア……」
呂律《ろれつ》の回らない言葉と共に、生きの悪い魚のような澱んだ瞳《ひとみ》がこちらを見つめた。
スコールはたちまちのうちに激しさを増してきた。豪雨がトタン屋根の上で弾《はじ》け、樋《とい》のない縁からそのままの勢いで流れ落ちてくる。重い雨粒が背中を殴りつける。身に着けていたシャツが重くなり、肩まで伸ばした髪がシャワーを浴びたように濡《ぬ》れそぼって首筋にへばりついてくる。
「しっかりなさいな。駄目よこんなところで寝ていちゃ」
「へへへ、今日は稼ぎが上がったんでな。久しぶりに一杯やっちまった」
「そう、それは何よりだったわね。だけどもう家に帰らなくちゃ。こんなところで寝ていちゃ駄目」
「そうきついことを言うなよ。人が折角いい気持で寝ているのに。酔いが醒《さ》めたら自分で家に帰るさ」
どうやらテオドロはスコールが降り始めたことにさえ気がついていないほど泥酔しているらしい。
「雨が降り始めたのよ。分かる?」
家々の前に掘られた溝《どぶ》からは、早くも黒い汚水が溢《あふ》れだし、テオドロの体を浸し始めている。だがそんなことに一向に構う素振りもないばかりか、再び目蓋が重く垂れ下がりかかる。路地を見渡すと、他に人影はない。この土砂降りの中で自分の他にこの老人の世話を焼く人間が現れることは期待できそうにない。自宅まではもう僅かの距離だ。父が帰って来るにはまだ時間が早いが、母がいる。一瞬、家に帰り助けを借りようかとも考えたが、テオドロの家はこの先の路地を曲がって五軒目。回り道になるという程のことでもない。それにもう身に着けているものはずぶ濡れになっている。
アリシアは一つ溜息《ためいき》をつくと、テオドロを自らの手で送り届けることを決心した。
痩せた老人の脇の下から腕を差し入れ体を支えた。空いた手に持ったプラスチックバッグを握り直す。
「いい? 体を支えてあげるからしっかり立つのよ」
その声に励まされたように二度三度と足が宙を掻《か》きながら、テオドロはようやく立ち上がった。
「すまねえな。アリシア。お前は本当に優しい娘だ」
喉《のど》が渇くのか、口元に流れてくる水滴を舐《な》めながらテオドロは譫言《うわごと》を呟《つぶや》くように言った。バラックの戸口から、明りが筋となって漏れて来る。水浸しになった路面に飛沫《ひまつ》が上がり、微細な光を反射する。いかに痩せ細った老人とはいえ、大の男の体を支えて歩くのは楽な行為ではなかった。ともするとバランスを崩し倒れ込みそうになるのを、アリシアは必死に堪《こら》え、狭い路地の中を進んだ。
やがてテオドロの家が見え始める。斜めになっていまにも外れそうなドア。錆《さ》びたトタンを張り付けただけの外壁。二階の窓は開け放たれたままで、まるで深い洞窟《どうくつ》の入り口のように暗い口を開けている。
この分だと部屋の中にも雨が吹き込んで水浸しになっているに違いない。でもこのスコールの中、外で寝転がっているよりはまだまし[#「まし」に傍点]というものだわ。
軋《きし》みを上げるドアを慎重に開けた。闇に目が慣れていたせいで、さすがに暗いトタンの穴蔵の隅々までとはいかないまでも、かろうじて様子は分かる。床の上に散乱しているのは衣類だろうか。湿気とともに、こびりついたむせ返るような汗と体臭が嗅覚《きゆうかく》を刺激する。やっとの思いでテオドロをバラックの中に横たえた。
とりあえず灯だけはつけて帰ろう。それに二階の雨戸も閉めてあげないと。
アリシアは電球を探ろうと部屋の中に入った。宙に翳《かざ》した手の先に薄い円形のガラスが触れた。ぶら下がっている紐《ひも》を引いた。眩《まぶ》しい光が目を射り、一瞬視界が奪われた。目蓋を閉じ顔を逸《そ》らした。突然背後でドアの閉まる音がした。反射的にその方向を振り向こうとした目に、飛び込んで来たものを見てアリシアは息を呑《の》んだ。
部屋の片隅に蹲《うずくま》ってじっと息をこらしていたのだろうか。見慣れぬ男が今そこから湧いて出てきたように立ち上がった。黒いシャツにジーンズを穿《は》いている。男の視線はじっとこちらの目を捕らえて離さない。感情というものが一切感じられない冷酷な目だった。体が硬直して動きが取れない。それに反して心臓の鼓動が速くなり、聴覚を失ったかのように耳の奥がしんとなる。男の目が素早く、しかし舐めるように全身をくまなく見たのが分かった。目的は分からないが自分の身がいま、大変な危機に置かれたことを感じさせるに十分だった。
「誰……誰なの」
アリシアはかろうじて言葉を発した。
だが男は表情一つ変えることなく佇《たたず》んでいる。それはほんの一瞬のことだったに違いないが、とてつもなく長い時間に思えた。
逃げなければ!
本能が叫んだ。アリシアは身を翻してこの場から逃げ出そうとした。だがそれは僅《わず》かに身を捩《よじ》ったところで中断せざるを得なかった。首の辺りに背後から凄《すさ》まじい力がかかった。反射的にもがきながらその正体を見極めようとした。鎌を持った死神の入れ墨が目に入った。そこからそれが人間の二の腕、それも逞《たくま》しい男のものであることが分かった。身長差のせいだろうか、体が宙に浮いた。首を固定されたせいで、ばたつかせる足が空《むな》しく宙を掻いた。
もはやこうなれば取れる手だては一つしかなかった。呼吸すら自由にならなくなりつつある中で、声の限りに助けを呼ぼうとした。壁と言ってもトタン板一枚を隔てただけだ。悲鳴を上げれば近隣の住人が気がついてくれる。
しかし次の瞬間、白い布が目の前に現れたかと思うと、口と鼻が同時に塞《ふさ》がれた。今まで嗅《か》いだこともない刺激的な臭いが嗅覚に突き刺さった。正体は定かではないが、そこに秘められた脅威を悟って息を止めた。空しい努力だった。不自然な姿勢で激しくもがく体は常にも増して呼吸を必要としていた。息が続かなくなったアリシアは、絶望的な気持に襲われながらも僅かな期待を込めて声を振り絞った。布で口と鼻を塞がれているせいで、くぐもった悲鳴はトタン屋根を激しく打ち鳴らす雨音にかき消された。そして吐きだした呼吸の後に来るもの――。
アリシアの体は人間の生理的機能通りに反応した。得体の知れない刺激的な臭いのする何かが体内に取り込まれるのが分かった。急速に視界が薄れていく。体中から力が抜け、目蓋が重い。黄色く輝いていた裸電球の光が、徐々に小さくなって行き、やがてそれは小さな点となり完全に見えなくなった。
暗い闇が訪れた。
アリシアが完全におとなしくなったところで、羽交い締めにしていた男が丁重にその体を床の上に横たえた。その傍らにもう一人の男がやってくると、改めて全身を舐め回すような目で見た。まるで値踏みをするような目つきだった。
アリシアがぐったりしたのを見て、さすがにテオドロは慌てふためいた。
「死んじまったのかい……まさか殺しちまったんじゃ」
実のところテオドロはそれほど酒を飲んではいなかった。体内に入れたのはたった一杯の安酒。後は臭いを発散させるために、シャツの上に透明な液体をぶちまけただけだ。つまりこれまでは泥酔の演技をしていたに過ぎない。思わず震える声で訊《たず》ねると、
「馬鹿な」黒シャツの男が鼻で笑った。「小娘を殺すためだったらわざわざ十日もこうしてお前の家に籠《こも》ったりするもんか。クロロホルムという麻酔薬を嗅がしただけだ」
とりあえず、命が奪われていなかったことに安堵すると、
「それでアリシアは使えそうかい」
今度はせっかく苦労してここに引きずり込むことに成功した獲物の状態に男たちが満足するかどうかが気になった。
「アリシアという名前なのか、この娘」問いかけは無視して、黒シャツの男が逆に訊ねてきた。「歳は幾つになる」
「お望み通り十六……」
「十六か。悪くない。男関係は」
「親方がそれは大事に育ててきたんだ」
テオドロは首を振った。
「親方?」
「アリシアの父親はこの辺の建設現場の作業員を束ねる親方だ。俺も体が丈夫だった頃はその下で働いていた」
「トンドにしては比較的裕福な暮らしをしていたってわけか。発育状態も悪くはない。上玉だな」
アリシアに舐め回すような視線を向ける男を見ながら、ふとこれまで何かと我が身の世話を焼いてくれた彼女の父、オランドの顔が脳裏に浮かんだ。スモーキー・マウンテンが九三年に閉鎖され、ゴミの山から空き缶、空き瓶、ビニール、金属物、プラスチックといった再生可能なものを採取して金に換える『廃品回収業者《スカベンジヤー》』として生きていく手だてを失った時、手を差し伸べてくれたのもオランドなら、作業員として働けなくなったこの老いぼれに、路上の煙草売りの職を世話してくれたのもオランドだった。その大恩ある親方の娘をこんな目に遭わせることは、さすがに心が痛んだが、もはやここまでくれば後戻りなどできない。
「それじゃ、この娘で用が足りるんだな」
胸の高鳴りを感じながら、テオドロは再び訊ねた。
トンドの傍らを走るマルコス・ロードに面した路上に広げた煙草売り場に、この二人の男が現れたのは一月程前のことだった。良くて数本、大抵はばら売りの煙草をたった一本買っていくのが当たり前というところが、一度に三箱もまとめ買いをしてくれたのが最初の出会いだった。しかもこの男たちは、それから毎日決まって三箱の煙草を買っていくようになった。めったにない上客が現れたとなれば、愛想の一つも言いたくなるのは当然だろう。
「ありがてえ。あんたたちがこうやって毎日来てくれるお陰で、酒代に事欠かなくて済む」
「ほう、爺《じい》さん、そんなに酒が好きなのかい」
サングラスをしているせいで、目の表情は分からなかったが、男は口元から白い歯を覗《のぞ》かせながら言った。
「情けねえ話だが、酒なしじゃ生きていけねえ体になっちまった」
「安酒は体に毒だぜ」
「どうせ、もう長くはない命だ。それに酒以外に楽しみなんてありゃしねえからな」
釣りの札を渡す手が震えた。アルコールが切れる昼間はいつもそうだった。
「いいよ、そいつは。取っておけ」
震える手を包み込むようにしながら釣りの札を押し付けてきた。
「いいんですかい」
この仕事を始めて随分になるが、こんなに気前のいい客は初めてのことだった。十ペソ札が三枚ほどだったが、それでも夢を見ているのかと思った。
男は口元に浮かべていた笑いを消すと、急に真顔になり、
「なあ、爺さん。あんたでかい金を稼ぎたくはねえか」
おもむろに切りだしてきた。
「でかい金って……いったいいくらだ」
「五万ペソだ」
「五万!」
それは法外な金額以外の何物でもなかった。なにしろこの国のトップスクールであるフィリピン大学(UP)を出て、首尾よく就職できたとしても二万ペソの月収がいいところという話は聞いたことがある。そのほぼ二カ月半分に相当する大金が自分のものになるというのだ。スカベンジャーをやったとしても、一日に五十ペソか百ペソがせいぜいであることを考えれば、まさに夢のような金額だった。
「冗談は止めてくれ。こんな老いぼれが、どうしてそんな金を稼げるって言うんだ」
顔の前で手を振りながらテオドロは言った。
「爺さん。あんたトンドで暮らし始めて何年になる」
「今年で六十二になるが、生まれてこの方ずっとトンドだ」
「それならこの街のことなら、何でも知っているってわけだ」
「ああ」
「そんなに難しいことをしろって言ってるんじゃない。ちょいと俺たちに手を貸してくれるだけでいいんだ」
極めて事務的で感情が籠っていない口調は、男の話があながち冗談ではないことを窺《うかが》わせた。
五万ペソもの大金を手にできる。この俺が?
それだけあれば、日々の酒代に事欠かないどころか、飯の心配だってありゃしない。どうせまともな話でないことには違いないだろうが、このまま生きていても精々が五年やそこいらがいいところだろう。いいこと一つない人生だったが、その終わりに少しばかり花が咲くことがあっても罰はあたりはしない。
「いったいどんなことをすれば、五万もの金をくれるって言うんだ」
テオドロは声を潜めながら訊ねた。
「あんた、話を聞いたら、答えはただ一つ、『イエス』しかねえぜ。後戻りはできない。それでもいいんだな」
「やるよ。だって、こんな老いぼれでもできる仕事なんだろう。そいつをやれば五万もの金をくれるんだろう」
「仕事はそんなに難しいことじゃない。あんたでも十分やることができるさ」
「やるよ。やる」
声が上ずった。サングラスの下から男の視線が自分を見つめるのが分かった。まるで蛇に睨《にら》まれた蛙のような気がして、テオドロは体を堅くした。暫《しば》しの沈黙の後、男は一つ肯《うなず》くとおもむろに切りだしてきた。
「女を捜しているんだ」
「女? どんな」
「歳の頃は十六、七……」
「そんな娘なら、その辺にわんさかいるが」
「ただ若いだけじゃ駄目だ。健康で、まだ男を知らない娘だ」
「男を知らない娘?」
その条件を聞いて、テオドロははたと考え込んだ。
ただ十六、七の娘というのであればこのトンドにはたくさんいる。だが、まだ男を知らない娘ということになると、確信を持てる娘はそうはいない。何しろこのトンドでは小学校すらまともに出ていない子供が珍しくはない。中にはその上の学校、つまり高校に行く子供もいたが、それだって十六で終わりだ。これといった娯楽もない貧しい暮らしの中で、セックスは数少ない娯楽の一つだ。明日の飯に事欠く有り様なのに、どこの家にも子供が溢《あふ》れかえっているのがその事実を如実に物語っている。ましてや、エネルギーが有り余っている若い男と女ということになれば尚更《なおさら》のことだった。そうした環境の中から、まだ男を知らない娘を捜しだすのは、改めて考えてみると結構な難題と言えた。
「どうだ、爺さん。そんな娘に心当たりはないか」
男は答えを促してくる。
「確実に男を知らない娘となると……」
「まあ、こんな世の中だ。トンドじゃなくとも、余程の箱入りでもない限りそんな娘はいやしないんだが」
「しかし、そんな娘がいたとして、それをどうしようってんだ」
「暫くこの街から消えて貰《もら》う」
「消えて貰うって……まさか、どこかの売春宿に売ろうってんじゃ」
「そんなことはしない。俺たちが何のために娘を攫《さら》うのか、それはあんたには関係のないことだ。ただ、それにちょっと手を貸してくれれば、五万ペソを払うことだけは約束する」
難題には違いなかったが、条件を満たす娘を捜しだし、少し手を貸すだけで大金が手に入る。それをみすみす逃す手はない。
テオドロは必死で考えた。やがて男が言った『余程の箱入りでもない限りそんな娘はいやしない』という言葉が引鉄《ひきがね》になり、一人の娘が脳裏に浮かんだ。
「いる! あの娘なら絶対に男を知らない」
テオドロは思わず叫んでいた。それが、今目の前で意識を失って横たわるアリシアだった。
大恩ある親方を裏切るのに気が引けなかったといえば嘘になる。ましてや目に入れても痛くないほどオランドはアリシアを溺愛《できあい》している。その娘を罠《わな》にはめたのが自分だと知れたらどんなことになるか――。常には寛大なオランドだが、トンドの男を仕切るのは人徳だけでなせるものではない。荒くれ者に有無を言わせぬだけの力を持っているからだ。オランドの力を以《もつ》てすれば、老いぼれの一人や二人闇に葬ることなど造作もないことだ。それも尋常な方法ではない。凄《すさ》まじい拷問。なぶり殺しに等しい方法で命を奪われることは間違いない。あそこには血気盛んな上に、親方の命令とあれば一も二もなく従う若い衆がごまんといる。しかし、五万ペソという金の魅力はそうした恩義や恐怖を補って余りあるものだった。何しろこの街では何もしなくとも一年、いやそれより長く暮らすのに十分な金なのだから。
テオドロは気が気ではなかった。実際にアリシアをこの家に引き入れることには成功したが、もしアリシアが男たちの条件を満たしていないとなると、事は厄介になる。たとえ男たちがこのまま立ち去ったとしても、少なくともアリシアは危害を加えられた現場が自分の家だったということは知っている。その事実を知れば、オランドは何があったのかを徹底的に問い詰めて来るだろう。その時の光景を想像するだけで背筋に冷たいものが流れるような気がした。
どうか、アリシアがこの男たちの満足のいく娘でありますように――。
テオドロはそんな願いを込めて、二人の男の様子を窺った。
黒シャツの男はおもむろにその場に跪《ひざまず》くと、アリシアが身に付けているカットオフ・ジーンズに手をかけ、ウエストのボタンを外しファスナーを押し下げた。
「何をするんだ」
「黙って見ていろ。念には念を入れんとな」
黒シャツの男の口調は穏やかだったが、視線には有無を言わせぬ鋭さがあった。入れ墨の入った二の腕を剥《む》き出しにした男は、口元に不気味な笑いを宿している。背筋にぞくりと冷たいものが走った。こうした視線を向ける男たちには、トンドで暮らしていればいままで何度も会ったことがある。人を殺すことなど何とも思っていない人間特有の眼差《まなざ》しだ。それを察知してテオドロは押し黙った。
トタン屋根を叩《たた》きつけるスコールはますます激しさを増していく。抑制が利かない壊れたテレビが最大限のヴォリュームでスピーカーを震わせてでもいるように、単調な轟音《ごうおん》が狭い空間を満たした。
雨水をたっぷりと吸って重く濡れそぼったカットオフ・ジーンズが脱がされた。白地にオレンジ色の花柄がプリントされたビキニの下履きが露《あらわ》になった。張り切った小麦色の太腿《ふともも》に裸電球の光が反射する。黒シャツの男はアリシアの下腹部を隠していた小さな布を無造作に引き下ろした。
薄い陰毛に覆われた下腹部を目にした男は、おもむろに大腿《だいたい》を押し広げた。傍らにあった枕をアリシアの腰の下に差し入れると、ポケットからペンライトを取りだし口にくわえ陰部をかがみ込むようにしながら覗き込んだ。両の手が陰部に伸び、武骨な二本の指が肉の裂け目をぐいと押し広げるのが分かった。
男たちの目的に見当はついたが、さすがに陰惨な光景にテオドロは目を背けた。
「どうだ。使えそうか」
二の腕に入れ墨を入れた男の声が聞こえた。目を戻すと黒シャツの男は口にくわえていたペンライトをポケットに戻しながらゆっくりと立ち上がった。「たぶん……間違いないだろう」
「使える? じゃあ、この娘《こ》でOKなんだな」
安堵《あんど》の吐息が漏れた。
「爺《じい》さんよ」
黒シャツの男がこちらに向き直った。もう一人の男は部屋の片隅に丸めて置いてあったシート状のビニールを広げ始めている。
「前に言ったように、この娘は当分の間トンドから姿を消すことになる」
「それはどの位の間だ」
男はゆっくりとかぶりをふった。
「さあな。三年、四年……あるいは五年かも知れない」
「期限が分からないのは困る。ただでさえもアリシアが姿を消したとなれば大騒ぎになる。親方は必死になってアリシアの行方を捜しにかかる」
「だが、娘の行方は決して分からない。そうだろう」黒シャツの男は微《かす》かに眉《まゆ》を吊《つ》り上げ笑いを浮かべた。「事の経緯を知るのはここにいる三人だけだ。俺とこいつはこれからすぐに姿を消す。残るのは爺さん、お前だけだ。まさかその親方とやらに、私が協力して娘を攫わせました。そんなことを言えるわけでもないだろう」
「そうじゃない。ある日突然アリシアが戻ってきたら、俺の家から攫われたということを喋《しやべ》ってしまうに決まってる。そんなことになれば親方は、俺をどんな酷《ひど》い目に遭わせるか……」
「心配するなよ、爺さん」
怯《おび》えるテオドロをあざ笑うかのように、男の背後から声が聞こえた。見ると先ほどまで横たわっていたアリシアの姿はすでになく、代わりに人形《ひとがた》に膨らんだビニールバッグが転がっていた。ファスナーでしっかり封印されたそれは、戦場で使われる死体袋だった。
「この娘が帰されて来る時には、事前に知らせてやる」黒シャツの男はおもむろにポケットの中に手を入れると、紙幣の束を取りだした。「五万ペソある。こいつがお前の取り分だ」
五百ペソ札が百枚。札の束が渡された。湿気を吸っているせいもあるのだろうが、紙幣がこれほどの重みを持っていることをテオドロは初めて知った。
一度芽生えた恐怖はそう簡単に拭《ぬぐ》えるものではなかったが、今や自分のものとなった大金の魔力はそれを遥《はる》かに凌《しの》いで余りある。
一言も言葉を発することができないでいるテオドロのそんな心中を見透かしたように、
「いい仕事っぷりだったぜ、爺さん。せいぜい長生きしてくれよ。生きていりゃまた仕事を頼むこともあるだろうからな」黒シャツの男がにやりと笑った。そして携帯電話を取りだすと、「目的のものが手に入った。すぐに予定の場所に車を回してくれ。すぐに行く」
短い言葉を吐き終わると軽くテオドロの肩を一つ叩いた。スコールが降りしきる外の気配を窺い、そこに人影がないのを確認すると慌ただしい足取りで立ち去って行った。
二人の足音は、屋根を打ち付ける激しい雨音にかき消されすぐに聞こえなくなった。
一人取り残されたテオドロは、分厚い札束を床の上に置いた。その手が瘧《おこり》にかかったようにぶるぶると震えた。すぐ傍らには先程まで濡れそぼった体を横たえていたアリシアの痕跡《こんせき》があった。
札束と濡れた床を見ながら、テオドロはその場に跪くと、神に許しを乞《こ》う言葉を呟《つぶや》きながら何度も十字を切った。
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第一章 一九九六年八月
堕胎手術《アウス》
うだるような夏の暑い日だった。昼を過ぎた青梅《おうめ》街道は盆休みを前にして、いつもより渋滞が激しかった。遅々として進まないベンツの後部座席で、大道寺《だいどうじ》諒子《りようこ》は虚《うつ》ろな眼差しを外に向けていた。もう一週間も雨が降っていないことに加え、連日の真夏日ときている。道の両側に植えられた銀杏《いちよう》並木に繁る緑の葉も、どこかくすんで見える。革張りのシートに浅く腰を掛け、窓の外に映るそんな景色を目にしていると、体中の精気を吸い取られていくような気がして、手にしていたエビアンのボトルに口をつけた。
諒子は二十一歳、良家の子女が集うことで有名な聖陵女子大の四年生だった。今の時代に良家の子女もあったものではないが、小学校から一貫して聖陵という履歴は、途中から入学してきた学生とは一線を画し立派なブランドとして世間には通用する。いつもなら夏休みともなれば、軽井沢の深い森に囲まれた別荘か、海外のリゾートで過ごすのを常としていたはずが、いまだこうして都内にいるのは体に予期しない異変が生じたからだ。
妊娠――。その兆候に気がついたのは新学期が始まってすぐのことだった。いつもはきちんとある生理が止まり、いつになってもやってこない。それが何を意味するかに説明はいらなかった。当然身に覚えはあった。相手も分かっている。瀬島《せじま》孝輔《こうすけ》。以前から付き合っていた帝都大学の経済学部に学ぶ男だ。春休みの間に関係を持った時に、彼の子供を身籠《みごも》ってしまったのだ。
正直言って、妊娠を確信した時に戸惑いを覚えなかったと言ったら嘘になる。だがその一方で、心の奥底から仄《ほの》かな喜びにも似た感情が込み上げてきたのも事実だった。たぶんそれは幼い頃から施されてきた教育のせいもあったのだろう。聖陵はカソリックの学校で、愛する者の子を宿すのは最大の神の祝福と教え込まれてきたのだ。
そう、私はあの人を愛していた。だから体を許した。
その気持は今でも変わらない。結婚は愛情ばかりで成り立つほど甘い代物ではないと思うけれど、少なくとも瀬島は他の観点から見ても生涯を共にする相手としても相応《ふさわ》しい人物に思えた。帝都大は日本でも最難関の大学の一つだったし、政財官の各界に多くの優秀な人材を輩出している名門だ。おまけに瀬島はそこでも優秀な成績を収めている。
だが、二十一歳になったばかりの娘が、突然妊娠したということを告げたら両親はどんな反応を示すだろうか。未婚の娘が妊娠するということは、いまの世間では珍しくも何ともないことだが、大道寺の家には子供は私だけ。もろ手を上げて喜んでくれるとはいかないだろう。当然相手のことも訊《たず》ねてくるに決まっている。
そう考えると、両親にしてみれば瀬島は結婚相手として好ましいとは映らないのではないかという不安に襲われた。彼が、自分たちの仲間、つまり財界に名を連ねるどこぞの御曹司《おんぞうし》とでもいうなら、あるいは話も違ってくるのかも知れない。しかし瀬島の父親はさる大手鉄鋼メーカーの子会社で部長職を務めるごく普通のサラリーマン。それも地方の商業高校を卒業してそのまま就職し叩《たた》き上げでその地位まで上り詰めた人間だった。住まいは東京近郊。それも片道二時間もかかる所だ。瀬島も大学に入った一年目こそ自宅から通学していたが、さすがに往復四時間の道のりは堪《こた》えたらしく、二年に入ってからは都内に1Kのアパートを借りて住んでいた。
『学費を払ってもらっている上に、勝手に独り住まいを始めたんだ。せめて生活費ぐらいは稼がなくちゃね。それに家計だって家のローンを抱えて楽じゃないんだ』
そう言い、家庭教師やコンビニのバイトをしながら自活をしていた。
付き合い始めて間もなく、彼を家に連れてきたことがあったが、最初は帝都の学生というブランドに、愛想良く応対していた母も、そうした瀬島のバックグラウンドを聞くにつけ、その顔に時折冷ややかなものが宿ることを諒子は見逃さなかった。
だが、いささかの見栄《みえ》や誇張を交えることなく、あくまでも誠実、かつ正直に受け答えする瀬島の姿は、たまたま裕福な家に生まれただけで、それがさも自分の能力の一つであるかのごとくに振る舞う男たちばかりをいやというほど見てきたせいだろうか、諒子にはことさら好ましいものに映ったものだった。
しかし自分の育った環境はそれとは全くの正反対にある。父は東証一部に上場する大道寺産業の社長。社名からも分かるように、代々大道寺の家名を継ぐ者がオーナーとして君臨する同族会社だ。母だけではなく父にしたところで、この世の中には、支配する者とされる者、主人と使用人、その二つしかないのだ。その一人娘である私が瀬島と結婚する。それは彼がこの家に養子に入り、いずれは父の後を継ぎ経営を担う存在に就くことを意味する。常日頃の両親の言動から考えると、いかに瀬島が優秀であろうと、人物的に申し分なくとも、決して許しはしないだろう。
思いがそこに至った時、体内に宿った新しい命への喜びは消えうせ、突破しなければならない壁の大きさに途方にくれる思いがした。そう考えると行き着く先は一つしかなかった。思いを遂げるためには動かしがたい既成事実を作り上げることだ。それには妊娠という既成事実だけでは不十分だ。体内に宿った胎児を堕胎することができなくなる妊娠七カ月に入るまでは絶対にこの子供を守り通すことだ――。諒子は決心した。
だが、日を追うごとに確実に現れてくる変化は隠しきれるものではなかった。服を着替える度に、あるいは入浴をする度に、四カ月目に入った辺りから下腹がせりだしてくるのが分かった。外見的な妊娠の兆候は、ルーズな服装で体の線を隠すことと、家にいる時はなるべく自室に籠《こも》ることでごまかした。幸い悪阻《つわり》に関して言うならば、どうやら軽いたち[#「たち」に傍点]であったらしく、たまに吐き気を覚えることはあっても、家族の前でその兆しはないまま済んだ。
悪阻は五カ月ぐらいでおさまるという。このままなら何とか隠しとおせるかも知れない。
ところが、事態の発覚は突然だった。それは一昨日の夕食の席で起きた。食卓につき目の前で微《かす》かな湯気を立てる煮物の匂いが鼻をついた瞬間、猛烈な吐き気に襲われた。慌てて洗面所へ駆けこみ激しく嘔吐《おうと》した。背後から追って来た母の声が聞こえた。
「諒子、どうしたの。どこか具合が悪いの」
「風邪かしら……急に吐き気がして。それに何だか体が熱っぽいの」
突然の悪阻に動揺しながらも、とっさにでまかせを言った。
「あなた顔色が真っ青よ」
「大丈夫。少し休めば良くなるわ。今日はご飯をいただく気になれないから、このまま休むわ」
母は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せながら顔を覗《のぞ》き込んでくる。
ここで事が露見すれば大変なことになる。少なくともあと数日、妊娠の事実を悟られなければ後は何とかなる。お盆に入れば一族が軽井沢の別荘に集まり、数日間を過ごすのが決まりとなっていた。私は夏風邪を理由にそれを欠席する。みんなが東京に引き返してきたところで、今度は私が軽井沢へ――。学校の休みは九月一杯。そうなれば何とか七カ月に入るまでは家族の目をごまかすことができる。
諒子は意識的に平静を装う努力をしながら、母親の視線から一刻も早く逃れようと軽くうがいをすると部屋に戻った。ところが、悪阻は翌日の朝食の席でも起こった。洗面所に駆け込み嘔吐する諒子に、
「やっぱりお医者様に行ったほうがいいわ」
「大丈夫だってば。軽い夏風邪よ。そんなに大げさに騒ぐほどのことじゃないわ」
「こじらせたら大変よ。これからすぐにお医者様へ行きましょう」
医者のところへ行けば、自分が妊娠していることはすぐに分かってしまう。しかし一旦《いつたん》始まった悪阻がこれを最後に収まるとは考えられない。こうなった以上事が露見するのは時間の問題というものだ。
しかし今度ばかりは母も頑として医者へ行くことを譲ろうとはしない。
心配気な眼差しで顔を覗き込んでくる。諒子はその視線から逃れようと、正面の鏡を見た。暖色灯の柔らかい光が正面から照らしているにもかかわらず、顔からは血の気がすっかり失せている。
母の視線に怪訝《けげん》な表情が宿り、自分の体を舐《な》め回すように見るのが分かった。緊張が走った。諒子は慌ててその場を立ち去ろうとした。
「ちょっと、あなた」
母の華奢《きやしや》な手が腕を掴《つか》んだ。
「何をなさるの。私、休むわ」
「待ちなさい」
返事をする間もなく、母の手が腹部を撫《な》でた。諒子は正面の鏡を見つめながら、母の様子を窺《うかが》った。
「まさか……あなた……」
腹部の膨らみを察したことは間違いなかった。五十に差しかかろうとしている母の顔に緊張の色が見て取れた。顔色が瞬く間に青白く変わっていく。
「どうしたんだ。諒子、体の調子が悪いのか」
ただならぬ気配を察したのか、一人娘の身を案ずるかのような父の声が聞こえた。
諒子は覚悟を決めた。もうこうなった以上事実を隠し通すことはできない。
「お母様」
口を半開きにしたまま、戸惑いと驚きに満ちた視線を向ける母の瞳《ひとみ》を見据えながら、諒子は静かに言った。
「私、妊娠しているの……」
それからのことは思い出したくもない。当然のことながら大騒ぎになった。たった一人の娘が結婚前に妊娠した。それも大道寺の家を継ぐ身とあろうものが――。母親は、『ふしだら』という時代がかった言葉でなじり、しかもこれまでずっとだましてきたことをヒステリックな言葉で責め立てた。そしてお決まりの相手の詮索《せんさく》が始まった。
「まさかあなた、いつか家に連れてきた瀬島とかいう男が相手じゃないでしょうね」
母親には友達ということで紹介したのだが、異性を家に連れて来たのは瀬島が最初だった。いきなり相手を特定された諒子は答えに窮し、押し黙った。それが母親の推測を暗に認めることになった。
「やっぱりそうなのね」
「だったらどうだって言うの。瀬島さんは立派な人よ」
「どこが立派なの。まだ結婚もしていない娘を妊娠させて、そんな男は最低よ」
気色ばむ母親を制するように初めて父が口を開いた。
「いったいその瀬島というのはどんな男なんだ」
「お父様と同じ、帝都大学の経済学部の四年生よ」
「親は何をしている」
「東亜金属の部長よ」
「東亜金属の部長って、いまは子会社にいるんでしょう」
「なんだ、子会社か」
母の言葉に、父親は一言の下に吐き捨てるように言った。
「それも、あなた高卒なんですってよ」
「うちの会社もいまでこそ大卒しか採らないが、昔は大企業でも高卒は貴重な戦力だったからな。子会社にしても、東亜の部長職にまで上り詰めるなら、それなりに実力はあるのだろうが、いまの時代ならそもそも募集対象にもなりはしない」
「そんなどこの馬の骨とも分からない男を、大道寺の家に入れるわけにはいかないわ。あなた、この家を継ぐということがどれほど大変なことか分かっているの。私は絶対にそんな男をこの家に入れることは許しませんからね」
母は断固とした口調でまくし立てた。
「私、産むわ」
「許しません」
「ならどうするの。このお腹の中の子供」
「堕《お》ろしなさい」
「堕ろす?」
答えは分かってはいたが、いざその言葉が投げ掛けられると、両の手が無意識のうちに膨らんだお腹をかばうように包んでいた。胎児が生命の危機を察したようにぴくりと動いた。
「ほら、赤ちゃんはお腹の中でいまも生きている。動いている。そんな残酷なことできないわ」
「勝手を言うんじゃない!」父が諒子の抗議の言葉を一喝した。「お前が産む子供は大道寺を継がなきゃならないんだ。それ以前にお前の夫となる人間は私に代わって大道寺産業の経営を担う人間だ。本社だけでも三千人。関連会社を入れれば二万人の頂点に立たなければならない。なるほど、確かに帝都の経済に入るほどの人間だ。学歴としては申し分ないだろう。だがな諒子。これだけの組織の頂点に立つ人間というものは、それなりの履歴というものが要求される。よしんばその瀬島という男を婿として迎えたとしてもだ、結婚前に妊娠という既成事実をつくり、それを以《もつ》て一族に名を連ねることになった男がどうしてこれだけの組織を束ねていけるというのだ。お前を妊娠させることで成り上がった社長。そうした汚名は生涯ついて回るだろう。もちろん表立ってそんなことを口にする人間はおらんだろうが、社員からも財界からも決して歓迎されるものではない」
「でもお父様……」
父が言わんとすることは理解できなくはない。サラリーマン社長が経営の頂点に立つ会社と違って、オーナー会社、それもこれほどまでの大企業に君臨するのは、能力もさることながらそれ以上のものが求められるのは厳然たる事実というものだった。一点の曇りもないサラブレッド。そうした毛並みの良さもまた必要欠くべからざる要素の一つだった。
「そうよ諒子」父親の言葉を継ぐ形で、母親が言った。「仮にその瀬島とかいう男が大道寺の家に入ったとしても、不幸になるのは目に見えているわ。育ちというものは大切なものですからね。クラシックで育ってきたのか、歌謡曲なのか、演歌なのか。価値観も違えば、しきたりも違う。そんな方がこの家に入って一族と付き合っていくのは、むしろ可哀相というものだわ。成り上がりは所詮《しよせん》どこまで行っても成り上がり。過去を消すことだけはどうあがいてもできないものですからね」
瀬島の顔が脳裏に浮かんだ。瀬島への思慕の念、そして授かった小さな命への執着に胸が張り裂けそうになる。だが幼い頃から学校のシスターに『愛する者の子を宿すのは最大の神の祝福』と教え込まれてきたのと同様、物心つく頃から『この家を継ぐのはお前の夫になる男で、そしてその子供が次を担う』という言葉もまた諒子にとってはもう一つの真理だった。
私はこの家を捨てることはできない。
そう考えると、父や母が言う『たとえ瀬島がこの家に入っても不幸になる』という言葉が、俄《にわか》に現実味をおびたものに思えてきた。体中に張りつめていた力が一気に抜けて行くのが分かった。
その様子を見透かしたように父の声が聞こえた。
「六カ月で中絶はできるのか」
「何とかなるはずですわ」と母の声。
「しかし、相手の同意が必要なんだろう」
しばしの沈黙の後に母が言った。
「セントラル・クリニックの楢崎《ならさき》先生に相談してみるわ」
「それがいいだろう。あの先生なら何か良い手だてをご存じかも知れない」
平然と自分たちの孫の命を奪う相談をする両親の会話を聞きながら、もはや逃れることのできない運命の糸にすっかりからめ捕られてしまった気がした。その時再び胎児が腹の中で動いた。その気配を感じた時、両の目から涙が溢《あふ》れだした。諒子は声の限りに泣いた。
――「大丈夫? 気持悪くない」
ハンドルを握る母が優しい口調で訊ねてきた。随分と余裕を見て家を出たつもりだったが、思わぬ渋滞に巻き込まれたせいで、しきりに時計を気にしている。
「少し冷房を弱めて下さる」
これから堕ろす子供を気にするのも変な話だとは思いながら、腰から下を覆った膝掛《ひざか》けをそっと引き上げた。母がエアコンを調節する。環七の交差点の信号を越したところで急に流れが良くなった。
「もうすぐ着きますからね。この分だと約束の時間に間に合うわ」
ようやく快調に回り始めたエンジン音に安堵《あんど》の色を浮かべながら母が言った。
そんなにこの子供を殺すことが嬉《うれ》しくて堪《たま》らないのかしら。いかに望まないとはいえ初孫じゃないの。
皮肉の一つも言いたいところだが、もはやそんな気力もない。すべき議論は全てやった。薄いスモークが入ったウインドウからは、真夏の光が差し込んで来る。その熱と足元から忍び寄ってくる冷気との温度差が不快感に拍車をかける。授かった命をこれから葬ることへの罪の意識が重く胸にのしかかる。
そんな自分の心中にお構いなしにベンツは緩い坂を下っていく。やがて道が上りに転じたところで、西新宿の高層ビル街が間近に迫ってきた。
全面がガラスで覆われたビルに天頂から傾きかけた太陽が反射する。
まるで巨大な保育器を見る思いがした。だが、これから自分が受ける行為は、未熟な胎児の命を救うことではない。それと逆の行為を行うのだ。
そう思うと、俄にガラスのビルが巨大な棺桶《かんおけ》に見えてきた。
「もうすぐ着くわ」
静かな車内にウインカーが点滅する音が響き始めた。
軽やかに操作されるハンドルの動きに従って、車は青梅街道から一つの路地へと入っていった。
「大道寺さんがお見えになりました」
看護師が顔を覗かせると、事務的な口調で患者の来訪を告げた。
「すぐにお通しして」
新城《しんじよう》慶治《けいじ》は、ベン・ケーシー・スタイルの白衣を椅子の上で正した。外来の診療はすでに終わっている。待合室にはもう誰もいないはずだった。いつものくせでカルテを取りだしかけた手を止めた。
今日の患者にカルテは必要ない。
恩師である帝都大学医学部名誉教授の楢崎から電話があったのは、昨夜のことだった。
『君のところで堕胎《アウス》をやって欲しいんだがね』
「アウス……ですか。それは構いませんが」
医局を辞し、親が経営する産婦人科医院を継いだのは十年前のことだった。以来楢崎とは年始の挨拶《あいさつ》状とたまさかの学会で言葉を交わすことがあったが、直接電話を貰《もら》うのは初めてだった。だがかつての恩師の申し出となれば断るわけにはいかない。唐突な申し出に、いささか戸惑いながらも新城は答えた。
『君にこうして願い事をするのは他でもない』
案の定、楢崎はきりだしてきた。
「何か事情があるのですか」
『実は患者《クランケ》はもう妊娠六カ月になっているらしい。本来なら同意書の他に、死亡証明書も必要とされるところなのだが、事情があってそうした手続きの一切をなしにしてアウスをやってもらいたいのだ』
「先生はまだクランケを診ていらっしゃらないのですか」
訊《たず》ねたところで、その質問が愚問であることに気がついた。帝都大学を定年退官してから、楢崎はセントラル・クリニックの医師ということになってはいた。確かにそのクリニックにはMRIやCTといった高価な設備があり、ある程度の検査をする能力を持ってはいたが、態《てい》のいい健康診断しかできないというのが実態だった。何しろ帝都を始め有名大学の医学部を定年退官し、名誉教授となった盛りを過ぎた医師たちがずらりと名を連ねているだけのことなのだ。そこで病の兆しが見つかれば、特診患者として自分の息のかかった病院に紹介するだけの話。つまり金持ちの財界人や、著名人相手の医院|斡旋《あつせん》業に過ぎないのだが、そうした特権を得るために法外な会員料を支払う人間はごまんといて立派に商売として成り立つものなのだ。それが自分の影響力がいまだ大きい帝都大学付属病院ではなく、一介の産婦人科医師に過ぎない自分のところに依頼してくる。それには相応の理由があるに決まっている。
『診てはいない。だが先方の話からだけでも妊娠は間違いないな。その確認も含めて君のところで処置をして欲しいのだ』
「それはできない相談ではありませんが、いったいどんなクランケなのです」
楢崎が受話器の向こうで一瞬沈黙した。
『こんな無茶を頼むんだ。君には本当のところを話しておかねばならんだろう。ただしくれぐれもこのクランケに関しては名前が他に漏れないようにしてくれ』改めて念を押すと、『大道寺産業を知っているな』おもむろに言った。
「ええ」
もちろんその名前は経済紙ならずとも、一般紙の上でもちょくちょく目にする名前だ。会社の規模の正確なところはともかく、名前程度は知っている。
『クランケはそこの一人娘でまだ二十一歳だ』
「なるほど」新城は受話器を耳にあてたまま一つ大きく肯《うなず》いた。
『電話をしてきたのは母親だ。君も知っての通り、私はいま会員制のクリニックで医師をやっている。大道寺氏が私を頼ってきたのもそうした経緯からだ』
後は言わずもがなとばかりに楢崎は言葉を切った。
「分かりました。しかし先生、もしもそのお嬢さんがおっしゃる通り六カ月に入っているとしたら、プレグランディンを使わなければなりませんね」
プレグランディン――陣痛を意図的に起こさせる促進剤の名前を新城は口にした。この薬は麻薬と同じで、当局のチェックがことのほか厳しい。もちろんこの病院にもストックがないわけではない。通常|分娩《ぶんべん》の出産に使用したように見せかけることは可能だがあえて訊ねた。
『そんなことは、別の出産に使用したことにすればいいじゃないか』
案の定、だからこそお前のところに頼んでいるのだとばかりの答えが返ってきた。
「最近では管理が何かと煩《うるさ》いもので……特に私のところのような個人病院では。その辺の事情はどうかご賢察いただきたいと……」新城はわざと困惑した声を上げる演技をした。「大学の研究室のようなわけにはいかないのです」
『研究室か』
「あそこなら実験用のマウスに用いるプレグランディンがたくさんあります。流用したとしても絶対に分かりません」
その言葉に嘘はなかった。大学の研究棟では、常に多くの研究がなされており、妊娠したマウスに人工的に陣痛を起こさせるのも日常的に行われている。実験に使われる陣痛促進剤の総量を少しばかりごまかすことなど、造作もないことだ。だが、これを人間に使用するとなれば、逆に大学病院は極めて不向きな環境にある。カルテの改竄《かいざん》などまず不可能だし、何よりも闇でアウスを行うことなどできない。
『分かった。プレグランディンは何とかしよう』
その言葉を新城は待っていた。
「それなら、講師の河村君にお願いしたらどうでしょう」
『河村君に?』
「ええ、彼は私が医局にいた時分に何かと面倒をみて気心の知れた間柄です。それに何よりも口が堅い。こうしたアウスには持ってこいの人間です。ご異存がなければ先生のほうから河村君に一言お口添えを頂くと助かります」
『分かった』楢崎がその申し出を拒否する理由などあろうはずがない。『念を押すまでもないことだが、今回の件を極秘裏に済ませたいというのがクランケの意向だ』
いったい幾らふんだくったものかは知らないが、帝都大学の名誉教授とあろう者が大した気の遣いようだ。
「分かっています。手術は私と看護長、それに信頼のおける古参の看護師をあてることにしますのでご心配なく」
――診察室のドアが二度ノックされた。
「どうぞ。お入り下さい」
ノブが回される音がすると、ドアが静かに開いた。
「失礼いたします」
最初に姿を現したのは、五十に差しかかろうとしている中年の女性だった。ベージュのジョーゼットのワンピース。首には細い金のネックレスをしている。手首に巻いた腕時計も一目で高価なものと分かる。質素を気取っていても身に付いた品というものは隠しようのないものだ。医者も客商売の一つだ。毎日それぞれに環境の異なる患者を相手にしていれば、その人間の生活環境にある程度の察しはつく。
「さあ、お入りなさい」
夫人が後ろを振り返りながら横に位置を変えた。背後に立っている若い女性の姿が露《あらわ》になった。
その姿を目にした瞬間、新城はまたとない獲物[#「獲物」に傍点]に巡り合ったことを確信した。
肩よりも少し下のところまで伸びた髪は上質のシルクのような輝きを放っている。きめ細かい布地の白いブラウスが柔らかく波打ち、その下には膝丈までの濃紺のフレアースカート。腰に巻いたベルトの金のバックルがさりげないアクセントとなっている。僅《わず》かに紅をさしただけで化粧気のない顔は、悪阻《つわり》のせいだろうか、さすがに血色は悪いが、それでもそこはかとない気品が漂ってくる。
大道寺直系という血統に加えてこの容姿だ。これでもう一つの条件を満たしていたら申し分ない。だがそれこそが事の成否を決定づける最大にして最重要の問題だ。
込み上げてくる興奮を悟られまいと、わざと平静を装いながら、
「どうぞ、そこにお掛けになって下さい」
新城は事務的に言いながら目の前の椅子を示した。
促されるままに娘が静かに腰を下ろす。緊張しているのだろうか、背筋を伸ばしたまま身じろぎ一つしない。
「セントラル・クリニックの楢崎先生からご紹介を賜りました大道寺でございます」
背後から夫人が言いながら、バッグの中から封書を取りだした。紹介状であることは分かっていたが、取りあえずそれを机の上に広げた。
「大道寺諒子さん……二十一歳でいらっしゃいますか。おおよその事情は楢崎先生から伺っております」
「お恥ずかしいことで」
夫人が戸惑いを隠せない声で答えた。
「最後に生理があったのはいつでしたか」
新城は早々に問診にかかった。
娘はじっと俯《うつむ》いたまま答えない。
「しっかりお答えなさい」
夫人が背後から促した。
「確か三月の第二週までだったと思います」
娘がかろうじて、か細い声で答えた。
「生理は規則的にあるほうでしたか」
「はい……時々二日程度遅れることはありましたが、ほぼ二十八日周期でありました」
「三月以来一度も生理が来ないの?」
娘はこくりと肯いた。
「分かりました」生理が突然止まる病気がないではないが、今日のクランケはそんなことを気にする必要はない。「それじゃこのカップの中にお小水を取って来て下さい。三分の一程度で結構です。妊娠しているかどうかの検査をしてみましょう」新城は机の上に置かれたカップを娘の前に差しだした。
瞬間、初めて諒子は顔を上げた。医師の顔がまともに見られなかった。
四十の後半ぐらいの年齢の小太りの男。それにこちらをじっと見つめる瞳《ひとみ》だけがかろうじて目に入った。
差しだされたカップを受け取ると、すぐに立ち上がった。
「トイレはここを出てすぐ右手にあります。そちらを使って下さい」
医師の声が背後から追いかけて来た。
ドアを押して診察室を出た。ワックスが塗られ手入れの行き届いた廊下に、靴の底が歩を進める度にか細い音を立てて鳴った。入って来た時には気がつかなかったが、廊下の壁は明るいパステルカラーのピンクとブルー、それにクリーム色にコーディネートされている。ガラス張りの玄関からは、真夏の午後の日差しが差し込んでいる。メトロポリタン・マタニティ・クリニックの文字と、幸せそうな笑いを浮かべる赤ちゃんのイラストが、ステンドグラスの絵を見るように、透過光に明るく映える。
本来ならば新しい命を授かるためにくぐるドア。だが自分がここに来たのはそれとは全く逆の行為をするためだ。その落差に、ますます諒子の気持は重く沈んだ。
狭い個室に入ってしばらくすると、ドアが軽くノックされた。
「諒子、大丈夫?」
母のくぐもった声が聞こえた時、いよいよ諒子は覚悟を決めた。
返事をしないままトイレを出た。その手の中に小水が入ったカップが握られていることを目にした母が、軽い安堵《あんど》の息を漏らすのが分かった。
会話を交わさないまま診察室に戻った。医師は手回し良く机の上に検査道具を広げて待っていた。感情が窺《うかが》えない目が、手にしたカップに注がれる。
「これだけあれば十分です」
医師は無造作にカップを受け取ると、スポイトで諒子の小水を吸い上げた。机の上に置かれた試験紙の上に手慣れた手つきで一滴の小水を垂らした。
どうか陰性でありますように。
結果は分かってはいても、諒子は神に祈らざるを得なかった。たとえ他の病気でもいい。妊娠が間違いであったなら、少なくとも小さな命を奪わなくとも済む。
だが突きつけられた現実は厳しいものだった。紙の色がたちまち変化した。
「陽性反応がでましたね。やはり妊娠しているようです」
冷静に事実を告げる医師の言葉が終わるまでもなく、母の深い溜息《ためいき》が背後から聞こえて来た。
女として生まれて来た限り、新しい命を授かった妊娠は人生でも最高の喜びの瞬間に違いない。当然それを告げる医師の言葉の前には『おめでとうございます』の一言があってしかるべきだ。それすらも言っては貰《もら》えない妊娠。全く望まれない子供を宿した不幸。そして限りない可能性を秘めた子供を堕《お》ろさざるを得ない罪の意識が諒子の心を苛《さいな》んだ。思わず涙が込み上げて来そうになった。
そんな気持に追い打ちをかけるように医師が言った。
「それじゃ内診を行いましょう。そこで、下半身の下着を取って下さい」
「下着を取るのですか」
産婦人科で診察を受けるに当たっての知識がないわけではなかったが、いざとなると戸惑うものがある。諒子は問い返した。
「取りあえず上半身はそのままで結構です」
患者のそんな反応は日常茶飯事のことなのだろう。医師は無造作に言葉を返すと立ち上がった。
新城のすぐ目の前に露になった諒子の陰部があった。
大きく開いた両の足は、開脚台の上でしっかりと革のベルトで固定されている。下半身を覆っているものは何もない。新城はライトの角度を調整し焦点を定めた。薄い陰毛で覆われた切れ目に膣開腔器《クスコ》を挿入すると緩やかに押し広げた。鮮やかな肉の色が露になった。ラテックスの手袋をはめた指を挿入する。体温が伝わってくる。瞬間、諒子が反射的にぴくりと体を震わせた。それにかまわず更に奥を探ると、指の先端に質感の違う子宮口が触れた。明らかに妊娠の兆しがある。どうせ堕ろす子供だ。本来ならばこれで十分だが、このクランケの場合は違う。もう一つ更に確認しなければならないことがある。
「超音波の準備をしてくれ」
傍らに控えている看護長に新城は命じた。
「ブラウスの前をはだけますからね」
手際よくボタンが外されると、象牙《ぞうげ》のような質感を持った腹部が露になった。染み一つない肌。なだらかな曲線を描いた下腹部が、ライトの光を反射して柔らかな光を放つ。膣《ちつ》に挿入したクスコを外す間に、看護長が慣れた手つきで腹部にゲル状の液体を塗布する。モニターを見ながら超音波の発信機を腹に押し付けると、質の悪い新聞紙に印刷された白黒写真のような画像が浮かび上がった。ざらついた白い影――。それはすでに人間としての形をなし、その中央で心臓が規則正しく鼓動を打っているのが分かった。
姿形、発育の度合からみて、やはり六カ月といったところだろう。
新城は、慎重に超音波診断装置の先端を移動させた。
まるで胎児の心拍のリズムが乗り移ったように、自分の鼓動が速くなるのが分かった。
肝心なのは、男か女か。その一点だけだ。
手の動きに従って、モニターに映し出される胎児の位置が変わっていく。やがて、胎児の姿を正面から捕らえたところで新城は手を止めた。
視線が画像の中の一点に集中する。決して鮮明とは言い難い白い影の中に、微《かす》かな兆しがあるか否か、それが重要なのだ。胎児の姿は頭部や胴体の大きさに比して、手足は驚くほど貧弱だ。微妙に角度を変え両足の付け根を探る。そこに男子の兆しがないことを見定めた時、新城は思わず喝采《かつさい》を上げたくなった。
間違いない。女の子供だ。それも最高の血を受け継いだ紛れもないサラブレッド――。これほどまでに条件を完璧《かんぺき》に満たす素材に巡り合うことはないだろう。
「先生……」
その声に我に返り顔を上げると、じっとこちらを見つめている諒子と目が合った。
「何か」
「先生。お腹の中の赤ちゃんは、男の子ですか、女の子ですか」
「分かりません」
新城はとっさに嘘を言った。
堕ろすと分かっている子供の性別を知ったところで何になる。それ以上に、胎児の性別を知ることでこの娘が堕胎への決意を翻すことにでもなったらせっかくのチャンスが水の泡になる。
「でも今、先生はお腹の中の赤ちゃんをご覧になったんでしょう」
「状態を見ただけです」
「それなら性別が分かったんじゃありませんか」
「それは確認していません」
「知りたいんです」
「その必要はないでしょう」新城はきっぱりと言った。「知らないほうがいい。堕胎というのは、多かれ少なかれ、女性の心に傷を残すものです。特にあなたのようなケースではね。楢崎先生からは、密《ひそ》かに、誰に知られることなく堕胎をして欲しい。そう依頼されています。詳しいことは聞いてはおりませんが、余程の事情がおありのようだ。私だってかつての恩師の頼みだから、このような手術を引き受けたんです。これから行われることは私にとって一切なかったこと。だからあなたも忘れることです」
「でも、もしも男の子だったら――」
すがるような目だった。そこには体内に宿った子供の命を護《まも》ろうとする母としての本能が、はっきりと見てとれた。いや諒子の面差しが気品に溢《あふ》れたものだけに、ただならぬ執念さえ感じられた。もしも体内に宿った命が男子なら、大道寺家にとっては跡取りの誕生となる。そうなればいかに堕胎を望む親にしたところで、翻意するかも知れない。もしかするとこの娘はそうした可能性に一縷《いちる》の望みをかけているのだろうか。
新城は一瞬、今、確認したばかりの胎児の性別を告げようかとも思ったが、
「知らないほうがいい。それがあなたのためです」
冷たく突き放すと、看護長に後の処置を任せ、診察室を出て行った。
「お嬢さんは妊娠六カ月です」問診室に戻ると、不安げな視線を投げ掛けてくる夫人を前に、新城は告げた。「間違いありません」
「やっぱり……」
分かってはいても、妊娠が確定した事実を告げられた夫人には動揺と落胆の色がありありと見て取れる。
「どうなさいますか。やはり堕ろしますか」
「もちろんです」
夫人の言葉に迷いはなかった。決然として言い放った。
「分かりました。しかし六カ月に入っているとなると、少々面倒ですな」
「面倒……といいますと」
「この時期になると、胎児には骨格が形成されていて、掻爬《そうは》することはできないのです」
「まさか堕ろせないとおっしゃるのでは」
「いえ、そうではありません。薬を使って人工的に早産させる手法を取らなければなりません」
「むりやり産ませると」
「その通りです」
「それをあの子は知っているのですか」
新城の言葉が終わらぬうちに夫人が訊《たず》ねてきた。
「いいえ、言ってはおりません」
「でしたら、そのことは言わないでおいて欲しいのです」隣の診察室の気配を窺《うかが》うように夫人が声を潜めた。娘は身支度を整えているのだろう、まだ戻って来てはいない。
「ご意向とあればそのようにいたしますが」
「意図的に早産をさせるということをあの子が知れば、また中絶を拒まないとも限りません。お恥ずかしい話ですが、お腹の中の子供は何としても、産んで欲しくはないのです」
「ご事情のほどは十分心得ているつもりです」
「そうおっしゃっていただけると助かります」
夫人の顔に安堵《あんど》の色が浮かんだ。
「ですがお母さん」新城はいよいよ目的の最終段階に向けて、話をまとめにかかった。
「こうした方法での中絶は、いろいろと手続きが必要でしてね」
「と、申しますと」怪訝《けげん》な表情を浮かべ問い返す夫人。
「中絶といっても人工的に早産をさせるのは、死産をさせるということです。掻爬とは違って幾つかの書類上の手続きが必要になります」
「書類上の手続き?」
「死産証明書、それに胎児の埋葬許可も必要になります」
「埋葬許可……ということは役所に出生を届けなければならないのですか」
夫人の顔から血の気が引いていく。
「五カ月と六カ月では胎児の状態が全く異なりますからね。一応人間の形をして生まれて来るわけですから」
「困ります」
「はあ?」
「そんなことをすれば、あの子が子供を産んだことが記録として残ってしまいます。それではこうして、密かに中絶をお願いする意味がありません」
いよいよ、思った通りになってきた。だが新城はそんな内心をおくびにも出さず、無言のまま夫人の顔を見つめた。
「何とか内密に処分することはできないものでしょうか」
「それはできないわけではありませんが……」
中絶される胎児の数は、統計に上がるだけでも年間四十万とも五十万とも言われる。密かに処分される胎児の数とて少なくはないだろう。もともとこの行為には保険は適用されない。つまり闇で手術を行えば、手術料はそのまま医師の懐へ入ることになる。産婦人科の看板を掲げてはいても、開脚台が一つの見窄《みすぼ》らしい設備しかない場末の開業医が生計をたてていけるのも、そんな違法行為がまかり通っているからにほかならない。
「もちろんこうしたお願いをする限りは、それ相応の御礼はいたします。ですから先生、どうかこの手術は一切何もなかったことにしていただきたいのです」
「困りましたね」
「お願い致します」
夫人はほとほと困り果てたふうで、深々と頭を下げた。
「分かりました。ほかならぬ楢崎先生のご紹介でもあることですし、お嬢さんの中絶には一切の書類を残さないようにしましょう」
「ありがとうございます」
頭を上げた夫人の顔に光が差す。
「当然早産させた胎児の処分もこちらで行ってよろしいのですね」
「もちろんです」
そんなものを持って帰れと言われても困るに決まっている。予想に違《たが》わぬ言葉が返って来た。
これこそが待っていた答えだった。妊娠二十二週目に入った胎児。しかも女児のそれを手に入れる。条件は百%整った。
「分かりました。で、手術はいつ行いましょうか。中絶といってもお嬢さんの場合、本質的には出産行為そのものに変わりありませんからね。術後は一週間ほどの入院が必要になりますが」
「できれば間を置きたくないのですが」
「ならば、これから準備が整い次第すぐにやりましょう。幸い個室にも空きがある」
「そうしていただけると有り難いのですが」
「分かりました」
「先生……」夫人の顔が母親の面差しに変わった。「それで、あの子は今後再び妊娠することは可能なのでしょうか。まさか、これで子供を産めない体になるというようなことは……」
「それは心配ありません。早産をさせるには陣痛促進剤を使うだけです。その点を除けば通常分娩と変わりはありません。どうかご信頼下さい」
「生まれて来る子供は泣くのでしょうか」
中絶を強く望んではいても、さすがに人の形をして生まれて来る子供の命を絶つとなると、良心に咎《とが》めるものがあるのだろう。
「泣くというのは、自発呼吸を始めた証《あかし》です。六カ月の胎児にそんな能力はありません」
奇妙な質問をするものだ、と思いながらも新城は医師の冷静さをもって答えた。
だがその外観を形成する細胞はすぐには活動を停止しない。フレッシュな胎児の細胞を手に入れるには、絶対的時間の制約というものがある。
いかに手際よく、目指す部分を手に入れるか。
その時、新城が考えていたのはこれからやらなければならないアウスの手順ではなかった。その次に行わなければならないもう一つの行為。むしろそちらのほうがずっと重要で、いまや本来の目的となったことに思考の全てが集中していた。
重々しい音を立ててドアが開いた。そこには先程まで診察台の上で、全てを自分の目の前に晒《さら》した諒子の姿があった。身なりをきちんと整えてはいたが、感情というものの一切が窺えない娘の姿を見ているうちに、自然と視線がその下腹部に集中した。
最高の遺伝子を受け継いだ胎児。それがもうすぐ自分のものになる。
背筋が粟立《あわだ》つような興奮を覚えながら、新城は静かに言った。
「どうぞ、ここへお掛け下さい。診察の結果をお伝えしましょう」
「で、あちらにはもう連絡を入れたのですか」
人払いをした問診室で、患者が座る丸椅子に腰掛けた河村が訊ねてきた。帝都大学医学部産婦人科で講師を務める河村は、医師としても研究者としても優秀な男だった。特に体外受精に関しては、大学でも一、二の腕を持つ。新城が経営するメトロポリタン・マタニティ・クリニックは不妊治療も行っており、体外受精を行うのに彼の腕を借りるのは度々のことだった。楢崎名誉教授から諒子の中絶の依頼を受けた際に、新城がプレグランディンを入手するために河村の名前を口にしたのは、そんな関係もあってのことだったが、それ以外にも二人の間にはまた別の密接な繋《つな》がりがあった。
二人の関係を決定づけたのは三年前、アメリカのコロラド州にあるボルダーで開催された学会でのことだった。学会と言えば聞こえはいいが、実態は製薬会社や医療機器メーカーが顎足《あごあし》つきで招待する接待旅行と言ったほうが遥《はる》かに的を射ている。三日間の学会の最終日に開かれたパーティの席上、同行していた米国系の医薬品メーカーの本社の研究員と名乗るアメリカ人の男が接触して来た。たわいもない世間話から始まった会話。それが新城が東京で産婦人科医院を経営しており、一方の河村が帝都大学の講師で、しかも不妊治療の研究を行っているということが分かった時点で一変した。ホテルの中に予《あらかじ》めキープされてあったスイートルームに通され、こちらの反応を慎重に窺いながら男の口をついて出た計画を聞かされた時には、正直なところさすがに驚愕《きようがく》したものだった。
『未成熟の卵子を体外受精に耐えうるだけの成熟した卵子にする培養基と技術を開発した。それも胎児の卵子を成熟できる』
そのアメリカ人の研究員はそう言ったのである。
通常の人工授精においては、受精可能となった卵子の採取の可否が最初のポイントとなる。受精できるのは排卵直後の第二減数分裂中期の卵子だ。しかし採卵の時間は極めて限られたものであり、僅《わず》かに十二時間程度しかない。採取した卵子は四時間から六時間の前培養の後、精子懸濁液を加えて媒精する。それから更に十八時間から二十時間の後に受精を確認するために、実体顕微鏡を用いて卵丘細胞や放射冠を除去するピペッティングを行う。前核を二個認めれば正常受精卵と判断し、さらに成長培養へと移行する。それから二十四時間後、卵割が均等でフラグメンテーションの少ない形態良好|胚《はい》であり、高妊娠率が期待されると判断されたものが子宮内に移植される――。一口に体外受精といっても、かように手間がかかり、何よりもタイミングが重要となるのだが、未成熟の卵子、それも胎児の胎内から取りだされたそれを受精可能な状態にまで熟成培養できるとなれば、これまでの常識は完全に覆される。
そして続けて男の口から漏れたプロジェクト――。それは今まで医学者の誰もが耳にしたこともなければ考えもしなかった衝撃的なものだった。
だが、淡々とした口調で語られる計画の詳細を聞くうちに、新城はプロジェクトに協力することと引き換えに支払われる莫大《ばくだい》な報酬に酷《ひど》く惹《ひ》かれるものを感じた。一方の河村は研究者の立場から深い興味を抱いたようだった。
長い会話は深夜まで続いた。その部屋を出る時には、二人はこのプロジェクトに参加することに同意していた……。
――「いやまだだ」手にしたボールペンの先で机の上を叩《たた》きながら、新城は答えた。
「しかしチャンスは来るものなのですね。まさかこんな理想的な状況にでくわすとは思わなかった」
河村は手にしていた諒子の体内に宿る胎児の状況を映した超音波診断装置からのハードコピーを改めて見つめた。「妊娠二十二週目の女児……しかもあの大道寺の娘とあれば折り紙付きの血統です。ところで相手の男は分かっているのですか」
「いや。それはさすがに分からない。まさか訊《き》くわけにもいかんだろう」
「それはそうですが。となると折り紙付きの血統も半分はアラブの血が混じっているという可能性もあるわけですな」
「それでも十分だ。たとえ半分にしても極め付けの血がこの胎児の中に受け継がれていることは間違いない」
河村が肯《うなず》き、同意の意を示しながら手にしていたハードコピーを返してよこした。
「どうだ、うまくやれるかね」
新城は、それを受け取りながら訊ねた。
「卵子の培養の件ですか」
「ああ」
「それなら問題はないですね。ウイリアム・アンド・トンプソンが開発した培養液、WM8、それに手法は画期的なものです」河村はアメリカの製薬会社と培養液の名前を口にした。「培養液はあれから何度か改良されていて、完成度が格段に高くなっています。マウスでの試験データ、それに実際に人間の胎児を使った実験でも高成績を残しています。胎児の状態さえ良ければ、まずしくじることはないでしょう。なにしろ二十二週目の胎児の中には七百万個からの卵子があるんです。状態さえ良ければ、その中の二十や三十の卵子を受精に耐えうるものにするのはたぶん大丈夫だと思います」
「たぶん?」
「絶対という言葉は存在しませんよ。実験段階ではうまくいってはいても、本番もそうとは限りませんからね。実際に培養を始めてみないことには何とも」
河村が苦笑いを浮かべた。
「もちろんそうには違いないが、これほどに全ての条件を満たす卵子が手に入ることはめったにないことだ。くれぐれも慎重に頼む」
「分かっています」河村は軽く肩を竦《すく》めると、「ところで、培養がうまくいったとして、いったい幾らのビジネスになるのです」改まった口調で訊《たず》ねてきた。
「さあな。連中のオファーは質のいい日本人の卵子なら、十万ドルを支払うと言っていたが、今回の場合はそれにプレミアムがついて当然というものだろう。おそらく十五万、いや二十万にはなるかも知れないな」
「悪くない金額ですな」
「卵子が無事マニラに着き、使用に耐えうることが確認され次第、代金はクーリエがキャッシュで運んでくることになっている。取り分は君と俺とで折半、それでいいな」
「もちろん、異存はありません」
いかに帝都大学の講師とはいっても、給料は世間で思われているほど高くはない。むしろ特診患者から受け取る謝礼や、医局出身の開業医を手伝い、受け取る報酬のほうが多いことだって珍しくはない。研究医として医局に残る河村にしたところで、金はあるに越したことはない。それも無税の金だ。
「卵子をマニラに送るのはそちらでやってくれるのだろうな」
「ええ。連中が指定した研究施設に学術用のサンプルとして大学から送付します。普通の手段で送ったのではX線の検査があります。それだけは何としても避けなければなりませんからね」
「結構だ」
これで後は胎児を手に入れるだけだ。
新城は全ての準備が整ったことに満足した。ふと壁に掛かった時計を見ると、時間は午後八時にさしかかるところだった。すでにプレグランディンを諒子に投与して三時間近い時間が経っている。
そろそろ陣痛が始まっても良い頃なのだが――。
予感を裏付けるように机の上の電話が短い間隔で鳴った。看護長からだった。いよいよ諒子の陣痛が始まったのだ。
新城は受話器を置くと立ち上がった。
「河村君。クランケの陣痛が始まった。いよいよだ」
別離
諒子と連絡が取れなくなって、もう三週間になる。
瀬島孝輔は1Kのアパートの畳の上に体を横たえ、染みの浮いた天井を見つめていた。エアコンもない部屋には、大きく西に傾いた午後の太陽が開け放たれた窓から容赦なく差し込んでくる。近くを走る幹線道路を行き交う車の騒音がただでも苛立《いらだ》つ神経を逆撫《さかな》でする。じっとしていてもたちまちのうちに背中がじっとりと汗ばんでくるのが分かった。
大学生活の最後の夏休み。大手総合商社の一つである飛鳥物産に就職も決まり、本来ならばそろそろ卒業論文の準備に取りかからなければならないところだったが、一向にそんな気にはなれなかった。
それもこれも、全ては諒子のことが一時として脳裏から離れないからだ。
こんなことは初めてのことだった。確かにここ一月半ばかりの間は就職活動の最後の追い込みで会うこともままならなかったが、それでも携帯電話を通じていつでも連絡が取れたし、メールをやり取りするのも日課の一つだった。だが三週間ほど前から電話は電源が切られているか電波が届かないところにいるというメッセージが流れるだけだし、かと言ってメール一つくるわけではない。
いったい何があったのだろう。
熱の籠《こも》る部屋の中にいると、無性に諒子の体が恋しくなる。それにもまして、飛鳥という学生の人気ナンバー・ワン企業の総合商社に内定を貰《もら》ったことを喜んでくれる顔を見たかった。
瀬島は無意識のうちに、傍らにあった携帯電話を手にしていた。指先を操り、発信記録を呼びだす。ボタンを操作するたびに、同じ番号が表示される。いずれも諒子の番号だ。一縷《いちる》の望みをかけて、発信ボタンを押した。短い発信音の後に、聞きなれたメッセージが流れてきた。
瀬島は一つ溜息《ためいき》をつくと電話を切った。
汗ばんだ体を起こし、机の上に置いたパソコンを立ち上げた。軽やかなスタートサウンドの後に画面一杯にアイコンが現れる。メールをクリックすると、回線が繋《つな》がった。チャイムが鳴った。着信があった。発信アドレスは紛れもない諒子のものだ。
待ち望んでいたメッセージ。操作する手ももどかしかった。瀬島はメールを開けた。
差出人:大道寺諒子〈ryokodaidoji@seiryo.ac.jp〉
宛先:瀬島孝輔〈kosejima@teito.ac.jp〉
件名:孝輔へ
何度も電話やメールを貰っていたのに連絡しなくてごめんなさい。あなたがどれだけ私のことを心配してくれていたか、そのことを感じれば感じるほど、この二十日ばかりの間に起きたことをどう伝えたらいいのか分からなくて……。
まず最初に辛《つら》い話をしなければなりません。いいえ、これから伝えることの全てが、あなたを酷く傷つけ、辛い思いをさせることになることと思います。
実は私、中絶手術を受けました。もちろんお腹の中にいた子供の父親はあなたです。六カ月になっていたそうです。正直に言うと、妊娠の兆候には随分前から気がついていました。いまになって、こんなことを言うと、きっとあなたのことです、どうして早く言ってくれなかった、両親に会って、事情を説明し、けじめはしっかりつけたのに。そう言い出すことでしょうね。
でもね、孝輔。たとえあなたがそうしてくれても、両親の答えは決まっていたことでしょう。いまさら言うまでもないことだけれど、私は大道寺の跡取り娘。もちろん両親にしても、早くに次の跡取りができることは強く望んでいるに違いはないのだろうけど、問題は結婚よりも先に子供ができたという事実です。いわゆる『できちゃった結婚』。こんなことはいまの時代に珍しいことではありませんが、少なくとも大道寺の家においてはそんなことは許されるものではないのです。馬鹿げたことと思うでしょうが、大道寺の家では世間体というものも酷く重要なものなのです。
問題は誰が相手であるかではなく、結婚前に妊娠してしまった。その一点にあるのですから……。
そうしたことが分かっていたからこそ、私はこの事実を誰にも打ち明けずにいたのです。どうしても、産みたかった。日を追ってさすがにお腹が大きくなってくるのは分かったけれど、それはゆったりした服を着ることでごまかせました。悪阻《つわり》もなかったから、もしかするとこのまま気づかれずに済むかも知れないと思いました。七カ月に入って、中絶が不可能となった時点で、あなたにも両親にも妊娠の事実を打ち明けるつもりでした。
でも、現実はそう甘くなかったのです。夕食の席で襲われた吐き気。最初は夏風邪をひいたとごまかしたけれど、そんなことが度重なれば否応《いやおう》なく気づかれます。
事実を知った両親は、当然激怒しました。相手が誰という問題ではありません。大道寺という家にとって、将来に汚点を残すような跡取りが生まれてくること自体が問題だったのです。
両親は、有無を言わせず中絶することを強要しました。もちろん私は必死に抵抗したけれど、この家が世間一般とは違った価値基準で動いていることも知っていたし、私がこの家のために何をせねばならないか、ということも小さい頃から教え込まれて育ってきました。
体内に宿した小さな命を自らの手で葬り去ることは堪え難いことだったけれど、最終的に私は中絶を承諾しました。たとえ本意ではなかったとしても、それは紛れもない事実です。
こんな話をいきなり聞かされて、大きなショックを受けていることでしょうね。あなたの血を引き継いだ命を勝手に葬り去った私に、憤りを覚えているでしょうね。どんな批判を受けてもしようがないと思っています。
正直言って、このことをあなたに話すべきかどうか、随分迷いました。中絶を受けてもう十八日経ったいまでも、私の体はお腹の中で動いていた子供の感触をはっきりと覚えています。あの子が父親であるあなたにも、自分がどんな最期を迎えたのか、そのことを知らせろ、そう言っているように思えてなりません。
もちろんあなたには何の責任もありません。余儀ない事情――少なくとも私にとっては――があったにしても最終的に小さな命を奪うことに同意した責任は私にあるのだから……。
何だかとりとめのないメールになってしまってごめんなさい。まだ私も心の整理がつかなくて……。
液晶モニターに映し出された文面を何度も読み返した。突きつけられた事実の重さに心臓が締めつけられる思いがした。
諒子が予期した通り、瀬島の胸中に最初に込み上げてきたものは、怒り以外の何物でもなかった。
中絶――この世に産声を上げ、人間としての存在を認められたものではないにしても、心臓は自発的鼓動を繰り返し、体内には赤い血が流れている。たとえ望まれないものであったとしても、この世に生まれてくる新しい命を奪う権利が誰にあるというのだろうか。
だが、何度も文面を読み返す程に、怒りの本質が徐々に変化していくことに瀬島は気がついた。
諒子が新しい命をあの体内に宿していた。その事実に気がつかなかった自分の迂闊《うかつ》さ、愛する人間が深刻な状況にありながら、何一つしてやれなかった己の無力感が瀬島の心を苛《さいな》み始めた。
最初から諒子が大道寺などという大きな家の、しかもたった一人の跡取り娘だということを知っていたわけではない。少なくともそれを知ったのは、体の関係ができた後に彼女の家を訪ねた時のことだ。少なくとも諒子は自分からそんなことを言い出す娘ではなかったし、高価なものを身に着けているとはいってもいまの時勢ならばごく平均的なほうだったろう。最初に肉体関係を結んだのも、このアパートでのことだ。確かに聖陵女子大は良家の子女が多く学ぶところだが、いまの時代に家柄が入学の基準の一つとして大きなウエイトを占める大学などありはしない。
しかし、諒子の家を初めて訪ねた時、明るく振る舞いながらも、瀬島はそこにどうあがいても自分が身を置くことができない世界が存在することを思い知らされた気がした。特に贅《ぜい》を凝らした調度品があるわけでもなければ、家具があったわけでもない。しかし室内のいたるところから、かつて自分が触れたこともないような、気圧《けお》されるような何かが感じられた。たぶんそれこそが何代にもわたって築き上げられた家の持つ格というものなのかも知れない。そして諒子の姿は、その雰囲気に見事なまでに調和していた。
別に自分の出生を恥じていたわけではない。父は地方の商業高校を卒業してそのまま就職したが、あの時代に東亜金属という大企業に入れるのは高校で一番の成績を収めていなければ到底|叶《かな》いはしなかったはずだ。もちろん父にしたところで、大学に進学したかったには違いない。おそらくは帝都大学へ進学することだって可能だったかも知れない。しかし、まだ日本が貧しい時代、父の生家もまたその例外ではなく、家庭の経済事情がそれを許さなかったのだ。
世の中が裕福になっていくに従って、父の会社も高卒の採用を止め、大卒ばかりが入社するようになった。そしてお決まりの出向、転籍……。実績をいかに残そうとも、そこに学歴という厚い壁が立ちはだかる現実。内心は忸怩《じくじ》たるものがあったには違いないが、それでも父は家で不満一つ言うこともなく家族を支えようと必死に耐えた。そして自分が叶えられなかった夢を、この自分に賭《か》けたのだ。
瀬島はその期待に応《こた》えるべく、必死で勉強し最難関校の帝都大学に現役で合格した。
当時頭にあったものは唯《ただ》一つ。帝都大学を優秀な成績で終え、一流と言われる企業に就職し、そこで成功を収めること、自分のために愛情を惜しみなく注いでくれた両親の期待に応えることしかなかった。
努力は必ず報われる――。帝都という一流大学への合格を果たしてもなお瀬島は気を緩めることはなかった。そして全世界に支店を持つ総合商社の飛鳥物産への就職。表向きは広く人材を求めると言ってはいても、そんなことは嘘っぱちだ。そこには大学による足切りがあり、身元も調査される。世間では『超』のつく一流企業に就職したことで、瀬島は自分が日本社会を構成する階層のピラミッドを、上に向かって最初の一段を踏みだしたと確信した。
有頂天になった。あと八カ月もすればあの飛鳥の社員になれる。もちろん選ばれた者だけが集う企業社会での競争は激烈で、勝ち抜いていくためにはいままで以上の努力と、それに何よりも運が必要なことは分かっていた。だが間違いなく俺は成功へのチャンスを掴《つか》み、その第一歩を踏みだしたのだ。
だが、大道寺の家の生活は、そうした思いを打ち砕くのに十分過ぎるものだった。
あの時、俺は異分子以外の何物でもなかった。諒子が自分の子供を宿す。それはいずれあの家の継承者に自分の血が流れることを意味する。
そんなことをあの家が許すだろうか。もしもそれを認めるということは、この俺があの家に入るということと同義語だ。そんなことがあろうはずもない。だからこそ、諒子の体内に宿った小さな命を絶つことを、大道寺の家は決断したのだ。
諒子を愛する気持はいまでも変わってはいない。だがその思いが本物であればあるほど、諒子との間には果てどもない距離がある。それはいまの自分がどうあがいても決して縮めることのできないものであることには違いない。
愛の昇華したものが結婚であるとすれば、この愛は決して叶えられはしないだろう。
この世にはいかに努力し、あがこうとも、自己の力ではどうすることもできない厳しい現実があることを改めて突きつけられたような気がした。
あの日心の奥で感じた破綻《はたん》の予兆――。
これまでの諒子との関係を思い出しながら、瀬島はいよいよその日が来たことを感じていた。
どれくらいそうしていたのだろうか。瀬島はようやく画面から目を離した。流れる汗が首筋から背中をじっとりと濡《ぬ》らす感覚が不快な感情に拍車をかけた。すでに部屋に差し込む光はなかった。西に沈んだ太陽の残光が残るだけとなっていた。パソコンのモニター画面が放つ光が、ことのほか明るく感じられる。机の上のスタンドに明りを灯《とも》した。携帯電話を操作して、諒子の番号を押してみる。
短い発信音。そして呼び出し音が鳴るまでもなく、聞きなれたメッセージが流れてくる。
溜息《ためいき》が漏れた。直接話をしたくないからこそ、諒子はメールを使ったに違いない。恐らくは彼女も感情をかろうじて制御しているに違いないのだ。そして過酷な仕打ちを受けて十八日もの間を費やして、やっとの思いで事の次第を打ち明ける気になったところなのだろう。いま自分の声を聞けば鬱積《うつせき》した感情が一気に噴き出し、再び深い悲しみと罪の意識をますだけとなるだろう。
瀬島は、携帯電話を机の上に置くと、パソコンに向き直りキーボードを叩《たた》き始めた。
差出人 : 瀬島孝輔〈kosejima@teito.ac.jp〉
宛先 : 大道寺諒子〈ryokodaidoji@seiryo.ac.jp〉
件名 : Re 孝輔へ
諒子へ。
連絡が取れなくなって、もう三週間近く。何かが君の身辺に起きたと予感させるに十分な時間でしたが、まさかこんなことが起きていたとは想像だにしませんでした。
正直言って、君のメールを一読して僕が最初に覚えた感情は、君に対する怒り以外の何物でもありませんでした。
しかし、何度も君のメールを読み返しているうちに、その怒りは次第に自分に向けられるようになりました。一人の女性が新しい命をその体内に宿す。その責任が一方の当事者である男に等しくあることは言うまでもないことです。むしろそうした状況に君を追いやり、辛い思いをさせてしまったのはほかならぬ僕自身です。健全な男女が交渉を持てば、どんなことになるか。もちろんその結果は十分に認識していたつもりですが、確かに君との間には何度かこんな状況を迎えても仕方がない局面があったことは事実です。それもこれも迸《ほとばし》る激情に負け、僕が適切な手だてを怠ったことにあります。
いまさら何をと思われるかも知れませんが、僕は心の底から君を愛しています。その気持はいまでも変わりはありません。ですが君が連絡を絶ったこの三週間、僕もその理由を自分なりに必死に考えていました。いや本当のところを言えば、君が連絡を絶った理由について、考えが行き着く先は一つしかありませんでした。君と僕との将来について考えてみれば、結論を見いだすことはいとも簡単なことだったのです。
僕が君を愛してやまなかったのと同様、君も僕を同じように愛してくれていたと僕は信じています。だとすれば、そう遠くない将来はっきりした形で結論を出さなければならなくなります。つまり結婚という問題です。
結婚というものは当人同士の愛情が重要であることは言うまでもないことですが、それだけで成り立つほど単純なものではありません。むしろ当人を取り巻く環境というものも同じくらい重要なものになってくるはずです。そうして考えると、僕たちの間には絶望的なほど高いハードルがあることは紛れもない事実です。巷間《こうかん》、人間にも職業にも貴賤《きせん》はない、と言われますが、そんなことは嘘っぱちです。実際の社会では、生まれ、育ち、学歴、職業……。様々な尺度で人間は値踏みをされるのが現実です。こうした事実に直面せざるを得ない一つの事象が結婚でしょう。
大道寺家は紛れもない日本の最上流に属する家です。一方の僕はと言えば、ごく普通の家に生まれた人間です。少なくとも君が生まれ育った環境とは雲泥の差がある。いかに僕たちの間に結婚に向けての確固たる意思があったとしても、愛情以外の他の要件を考えれば、到底許されるものではないでしょう。
君の妊娠を知って、ご両親が躊躇《ちゆうちよ》することなく中絶を決断したのも、おそらくはそうした考えがあってのことだと思います。それ故にますます僕は自分が犯した過ち、少なくとも君を妊娠させてしまったということに関して、深い罪の意識を感じざるを得ません。誤解のないよう付け加えますが、これは君を愛したことを後悔しているのではありません。ただ、こんな事態に陥る前に、僕たちの将来についてもっと多くのことを話し合っておくべきだったと思っているのです。
ついさっき君の携帯に電話を入れました。着信記録から君もそのことに気がついていることと思います。電話で何を話すつもりだったのか、と問われれば、正直言って明確な答えはありません。ただ一つ、確かなことは悲嘆に暮れる君にはこんなことを言っても何の慰めにもならないとは思いますが、新しい命を奪った最大の責任はこの僕にある。そのことだけは伝えておきたかったのです。
一生を懸けても償い切れない罪を僕は背負ったと思っています。苦しんでいるのは君だけじゃない。僕もまた、同じように苦しんでいる。そのことだけは分かって欲しい。
瀬島は全文を読み直すと、すぐにメールを送付した。
日はとっぷりと暮れ、路地に灯る水銀灯の白い光が部屋の中に差し込んでくる。いつもなら夕食をとる時間だったが、そんな気にはなれなかった。再び畳の上に体を横たえた瀬島はじっと目を閉じた。目蓋《まぶた》の裏が熱くなった。込み上げてきた涙が溢《あふ》れると、汗に濡れた頬を滑り落ち、床の上で音を立てた。
間もなく日にちが変わる時間だった。もうパソコンの画面に向かって二時間が経っていた。
瀬島からのメールを一読して、諒子はひどく打ちのめされた気になった。いっそ自分を罵《ののし》り、責め立ててくれたほうがどれだけ楽だったろう。妊娠の事実を告げることもなく、いきなり二人の間にできた子供を堕《お》ろした。その事実は、いまでも諒子の心を苛《さいな》み続けていた。
確かに中絶をしたのは本意ではなかったけれど、最終的にお腹の中の子供を見殺しにしたのは、誰でもない、この私……。なのに孝輔は私を責めるどころか、自分を責めている。
そこに自分に寄せる孝輔の愛の深さを感じ、諒子の心は重く沈んだ。
更に諒子の心を重くしたのは、両親が断固として中絶を強要した理由を孝輔が気づいていることだった。『なんだ、子会社か』『そんなどこの馬の骨とも分からない男を、大道寺の家に入れるわけにはいかない』そう言った両親の言葉が、脳裏に蘇《よみがえ》ってくる。
孝輔に抱く気持に些《いささ》かの変化があるわけでもない。今こうしている間でも、あの人が傍にいてくれればどれだけ気が楽になることか。彼の胸に縋《すが》り、思いきり泣くことができれば、どんなにいいか――。
だが、それは考えるまでもなく、到底|叶《かな》えられはしないことだった。
私はこの大道寺の家を守るためにお腹の子供を見殺しにしたのだ。このまま孝輔との関係を続けていてもその先に待ち構えている結末は目に見えている。
自然と手がお腹の上を上下に撫《な》でていることに気がついた。薄い皮膚を通してぺたんとした肉が触れた。ついこの間まで感じていた胎動の感触が生々しく思い出された。
私は今でも孝輔を愛している。でも、もうこんな悲しい思いをしたくはない。
諒子は決心すると、ようやくキーボードに手を添え、メールを打ち始めた。
差出人:大道寺諒子〈ryokodaidoji@seiryo.ac.jp〉
宛先:瀬島孝輔〈kosejima@teito.ac.jp〉
件名:孝輔へ
あなたにまで辛《つら》い思いをさせてしまってごめんなさい。孝輔が自分自身を責めれば責めるほど、私はますます犯した罪の大きさに打ちひしがれるばかりです。
前のメールにも書いたように、中絶をしたのは一方的にこちらの事情によるものです。そして最終的にそれに同意したのはこの私です。今回のことで、私は生まれて初めて神を呪いました。私が大道寺の家に生まれなかったら、きっとお腹に宿った命は順調に発育し、元気な産声と共にこの世に生まれてきたことでしょう。そのことを思うと本当に心が痛みます。この罪は私が生涯背負っていかなければならないものだと感じています。
大道寺という家の体面と、ひと一人の命を天秤《てんびん》に掛け、家の体面を選んだのはこの私なのだから……。だから孝輔。あなたには何の責任もないのよ。どうか、このことについてこれ以上考えを巡らすのは止めにして。お願いです。
それからもう一つ。今回の件はこんな結末を迎えた以上、私とあなたとの関係は清算しなければなりません。誤解のないよう付け加えておきますが、これは決してあなたが私の結婚相手として相応《ふさわ》しくないということを意味しているのではありません。ただ、平穏だった家の中に大きな波風を立ててしまった。もちろんその責は私にあるのだけれど、どうしても両親はその因のかなりの部分をあなたに見てしまっている。酷な言い方かも知れませんが、それは紛れもない事実なのです。おそらく、というよりは、絶対にこの関係は未来|永劫《えいごう》にわたって修復されることはないでしょう。一旦《いつたん》こじれてしまった人の感情を修復するのは容易なことではありません。家のためなら小さな命をいとも簡単に抹殺してしまう。確かに酷《ひど》い親ですが、私はそれでもまだ両親を愛しています。そしてあなたのことも愛しています。
大切な人たちが憎しみの感情を抱いたまま向かい合う。その狭間《はざま》に身を置くことは何よりも辛いことです。たとえこのままあなたとの関係を続けても、同じことの繰り返しになるでしょう。私にはそれを乗り越えながら、あなたへの想いを遂げるだけの勇気もなければ、気力もありません。
だから率直に言います。孝輔。私たちの関係はこれで終わりにしましょう。一旦|噛《か》み合わせが狂った歯車を元に戻すことは不可能です。これ以上、二人の関係を続けることは、お互いに辛い思いをするだけです。これがこの三週間、悩みに悩んで出した結論です。明日携帯の電話番号も変えます。メールのアドレスも……。
こんな形であなたと別れるのは身を裂かれるような思いですが、これが二人の将来を考えれば最良の手だてだと思います。もう二度とあなたの声を聞くこともなければ、あなたと会うこともないでしょう。
もう一度最後に言いますが、今回のことは一日も早く忘れて下さい。あなたには何の責任もないことなのですから。
お元気で。
長いメールを打ち終わった諒子は、トラックパットの上に乗せた指を静かに動かした。画面の上の矢印が、『送信』と表示された文字を指す。これで一度クリックすれば全てが終わる。
そう思うと、目頭に熱いものが込み上げ、文字がぼやけて見えた。どれくらい躊躇していたのだろう。スクリーンセーバーがかかり、画面が暗くなった。反射的にトラックパットをなぞった。再び文字が浮かび上がる。矢印の位置を『送信』に戻した。
反射的に諒子は指令を実行していた。軽やかなチャイムが鳴り、メッセージが消え、送信記録の欄に孝輔のアドレスが現れた。
送信したメッセージはもう取り戻すことはできない。矢は放たれた。心臓を射ぬかれたかのように熱い塊が体内を満たしていく。胸が張り裂けそうになった。これまで堪《こら》えていた感情の全てが波となって押し寄せてきた。ラテックスに覆われた掌の上に乗った胎児の姿が、孝輔の顔が脳裏に浮かんで離れない。
失ったものの大きさに、そして自分の運命を呪いながら、諒子は力の限りに声を出して泣いた。
移植《インプラント》
ウイリアム・アンド・トンプソン研究開発センター。マニラ市街を一望の下に見渡せる、パテロス地区。小高い丘の中腹から上が熱帯の樹木に覆われた頂上近くにその施設はあった。三階建ての壁面が全てミラーガラスで覆われたビル。メインゲートは常に閉鎖された状態にあり、そこに設けられた守衛ブースには二十四時間三人のガードマンが待機し、人の出入りを厳重にチェックしている。そのいずれもが腰に拳銃《けんじゆう》をぶら下げ、ショットガンさえ携帯している。研究開発センターというものは、業種、規模の如何《いかん》を問わず企業の最高機密を扱うところである。
ゲートでガードマンのチェックを受けた後、建物まで三十メートルばかりのアプローチを進まなければならない。その両側には等間隔で椰子《やし》が植えられ、全面ミラー張りの近代的な建造物と南国情緒溢れる植栽とのアンバランスが独特な雰囲気を醸《かも》し出していた。
建物の前庭には五十台ほどが収容できる駐車スペースがあり、バックヤードはヘリポートがある一画を除けば、二面があざやかな芝生で覆われていた。敷地はあますところなく、堅牢《けんろう》なネットが張られた柵《さく》で囲まれている。その上部には研ぎ澄まされたステンレスの刃が剥《む》き出しになったレザーワイヤーがコイル状に取り付けられている。
研究所長の役職にあるマーク・フレッチャー博士のデスクにある電話が鳴ったのは、遅いランチとなったサンドウィッチを平らげている最中のことだった。こんな山の中では気軽に外に出て食事をとることもできない。ここで働く従業員は施設の中にある食堂でランチをとり、時には三食を済ませることも強いられる。それも日本企業がこの地で製造する化学調味料がたっぷりと入った酷い代物がほとんどときている。ランチ・ボックスに入れたサンドウィッチで昼食を済ませるのは毎度のことだった。
「マーク・フレッチャー」
口一杯に頬張ったパストラミ・サンドウィッチを急いで咀嚼《そしやく》し、コークで胃の中に流し込むなり、フレッチャーは受話器を取り上げながら名乗った。
『ビル《ウイリアム》・ノエルです』
聞きなれた男の声が流れてきた。
「やあ、ビル。調子はどうだい」
『いい知らせです、博士』
紋切り型の挨拶《あいさつ》に応《こた》える間もなくノエルが答えた。心なしかその声が弾んでいるようだ。
「そのいい知らせとやらを聞かせてくれ」
食べかけのサンドウィッチをランチ・ボックスの中に戻しながら、フレッチャーは言った。
『例の日本から送られて来た卵子の件です』
「うまくいっているのかね」
『ええ、予想以上に。このままいけば最終的には四十個前後の卵子が使用可能になると思います』
日本で妊娠二十二週目の胎児の卵巣から採取された卵子。理論的には、約七百万個の卵子が存在していたはずだ。だが健康な成人女性でも、実際に卵子が熟成し受精可能になる数は四百程度でしかない。つまり残りの卵子は自然の摂理によって選別され、体内に吸収される運命にある。フレッチャーたちが行っていた行為は、神の摂理に明らかに反し、極めて未成熟な――と言うよりもかろうじて形をなしている蕾《つぼみ》のような――卵子を人工的な環境の下で受精可能な状態に熟成させることだった。
七百万個の中の四十個。確率にして僅《わず》か〇・〇〇〇五七%。数字の上では絶望的なほどに低い数字だが、当面必要なのは完全な卵子が十個もあればいい。それが四十個前後となれば、上出来と言わなければならない。
「やはりWM8培養液の効果は絶大だな。ヴァージョン7の時にはこれほどいいデータは得られなかった」
『おっしゃる通りです。これまでの実験でWM8についてはある程度の確信は得ていましたが、今回ばかりはさすがに緊張しました。なにしろ、これまでの実験はこの施設でも帝都大学でも、ラボの中で採卵から培養を一貫して行ったものばかりで、他の施設、それも海外で採取した卵子を培養液に入れ、空輸してきたのは初めてのことです。いまだから言いますが、はたしてこれまでの実験データ通りの成績が得られるかどうか、全く自信はありませんでした。第一ここに到着するまでにX線でもあてられたらおしゃかですからね』緊張から解放されたような晴れやかな声が聞こえてきた。
「それはまさにグッド・ニュースだ、ビル。今回のようにクライアントのオーダーに百%合致する卵子が手に入ることはそうあるものではない。まさにこのプロジェクトのスタートには相応しい素材[#「素材」に傍点]だからな」
『どうです、博士。卵子の状態をご覧になってみませんか』
ノエルが訊《たず》ねてきた。
「もちろん」
『それではラボのほうでお待ちしています』
フレッチャーは食べかけのサンドウィッチをそのままに立ち上がった。オフィスのドアを開けると、大きな窓ガラスを通して、亜熱帯の強い日差しが差し込んでくる廊下に出た。外観は全面がミラーガラスに覆われてはいても、この施設の二階と三階の部屋という部屋には窓というものが一つもないのだ。この二つのフロアーは部屋の外側を廊下が回廊のように取り巻いており、つまり体裁を施した外殻の中に、窓一つないコンクリートのビルが存在するといった構造になっていた。
目指すラボは二階にあった。エレベーターホールは部屋を出てすぐのところにあったが、フレッチャーはそれを使わずに階段でフロアーを一つ降りた。
グレーに塗られた壁。その所々に同色のドアがある。壁面には、カードリーダーと暗証をインプットするためのキーボードが取り付けられている。
一つのドアの前に来たところで、首にぶら下げていたIDカードをスキャンし、更に暗証番号をインプットした。この施設の中で行われていることは、ウイリアム・アンド・トンプソン社の中でも極秘中の極秘に相当するプロジェクトばかりだった。入室はそれぞれの研究者が持つ資格によって厳しく制限され、全ての部屋に立ち入りを許されている者は、極めて限られた数人の研究者しかいなかった。
オートロックが外れる音がした。ノブを捻《ひね》りドアを押すと、入室者があることを知らせるブザーが鳴った。ラボに入るためにはさらにここから三つの区画を通り抜けなければならない。最初のドアを開けると、研究機材やブースが並んだ部屋となっており、そこにいた二人の研究者が一斉にこちらを向いて目で挨拶を送って来た。ノエルの姿はそこになかった。たぶんさらにこの奥に設けられた無菌室にいるのだろう。フレッチャーは無言のままそれに肯《うなず》くと、次の区画に進むドアを押した。そこは小さな区画になっており、狭い空間が密閉されたところで猛烈なエアーが吹きつけてきた。耳を聾《ろう》するような大気がひとしきり流れ、体についた埃《ほこり》を払い落とす。傍らに置かれたロッカーから滅菌されたオーバーオールを取りだし身に着ける。ラテックスの手袋をはめる。頭部から足まで、露出している部分は顔だけとなったところで、更に次の区画へと進む。再び密閉された空間。壁面に小さなボタンがある。それを押すと、再び強いエアーが吹きつけてくる。
規定通りの手順を全て踏んだフレッチャーはいよいよラボへ通じるドアを開けた。通常ならば無菌容器の中での培養だけで事は足りるが、最も怖いのは何かの拍子に細菌に汚染されることだ。そんな卵子を移植に用いようものなら、レシピエントが感染症を起こす可能性も捨てきれない。念には念を入れるに越したことはない。いささか度を越した手順を踏むのも、そうしたリスクを極限まで排除するためだった。
ノエルが満面の笑みを湛《たた》えて立っていた。
中央に置かれた机の上には培養器が、その手前には実体顕微鏡が置かれている。
「さあ博士。どうぞご覧になって下さい」
フレッチャーは促されるままに、顕微鏡を覗《のぞ》き込んだ。培養液の中に浮遊する卵子が、鏡面に反射した透過光の中に浮かび上がる。紛れもない人間の卵子がそこにあった。完全に熟成したとは言い難いが、それでもこれが妊娠二十二週目の胎児から採取した卵子だと思うと、驚愕《きようがく》と興奮の念が込み上げてくる。
「いい状態だ。実にいい……」フレッチャーは思わず呟《つぶや》いていた。「熟成するまでにはあと一週間といったところだろうか」
「ええ、大体その辺りになるでしょうね」とノエル。
「レシピエントの準備は進んでいるのかね」
卵子の状態に満足したフレッチャーは、顕微鏡から目を離すと訊ねた。
「すでに二週間前から経口避妊薬の服用を行いルプロンを投与。エスラジオールバルレートの|発情ホルモン《エストラゲン》注射の一回目を終わらせてあります」
ぬかりはないとばかりにノエルが間髪を容《い》れず答えてきた。
受精した卵子をうまく着床させるためには、レシピエントの子宮を妊娠可能な状態にする必要がある。そのためには人為的に生理をコントロールし、卵子の熟成度合と子宮のコンディションをドンピシャリのタイミングにもっていく必要がある。
フレッチャーはその言葉に満足すると深く肯いた。
「感染症のチェックは?」
「全て問題ありません。エイズ、肝炎B、肝炎C、梅毒、HTLV‐I(成人性T型細胞性白血病)の伝染病系の血液検査は全て陰性。子宮|頸部《けいぶ》の菌培養も行って淋菌《りんきん》の検査もしました。クラミディアとホルモンの血液検査も済んでいます」
「トンド出身のレシピエントにしては、最高の母体が手に入ったものだ」
マニラ最大の、いや世界三大スラムの一つと言われるトンド。実際のところ、フレッチャーはそんなところに足を踏み入れたこともなければ、傍を通ったことすらない。だがこの街でそうは呼ばれなくとも、先進国に住む人間の感覚から言えば、スラム、それもその頭に『酸鼻を極める』の一言がつくバラックの集合体はどこにでもある。それすらもトンドに比べればまだマシというのだから、その酷《ひど》さは想像もつかない。
「正真正銘の処女ですからね」
「そうだったな。その点から言えば少なくとも性感染症に罹《かか》っている可能性はまずないと言ってもいいだろう。懸念されたのはエイズや肝炎といった類《たぐ》いの感染症だったのだが……」
「その点でもトンドに目をつけたのは正解でしたよ」ノエルは皮肉な笑いを顔に浮かべた。
「あそこで生活しているのは、その日暮らしの社会の底辺に蠢《うごめ》く人間たちばかりです。大体が性病なんて代物は、不特定多数の性交渉によって感染するものですが、連中ときたら女を買う金など持ち合わせていやしません。勢いやる[#「やる」に傍点]相手は夫婦間に限られる。ぼろぼろと子供を産むのが何よりの証拠というわけです」
「全く盲点だった。このプロジェクトを発案したまでは良かったが、どうやってレシピエントを捜したものか、途方にくれたものだった。まさかよりによってトンドに最高の素材がいるとは、考えもしなかった」
「実際こうして考えてみると、あのスラムはこのプロジェクトにとって、最高の素材供給源になることは間違いありません。あの街からある日突然一人や二人の人間が姿を消したところで、連中にはどうすることもできません。たとえ警察に届けたところでまともに取りあっちゃくれないでしょうしね。外国人や富裕層に属する人間が誘拐されたなら話は別でしょうけど」
「我々にとっては何とも有り難いことだよ、ビル。ビジネスは大きな財閥が全てを取り仕切っている。官僚、警察、大概のことは袖《そで》の下次第で何とでもなる」
「つまり今後も、素材[#「素材」に傍点]の調達に苦労することはない、ということになりますね」
「ああ」
肩を竦《すく》めてフレッチャーはささやかな笑いを返した。実際この国の社会構造は極めて単純明快で、圧倒的な富裕層と、その日の糧を得ることすら難しい絶望的なまでの貧困層に二分される。富裕層の中核を占めるのは、数少ない旧統治時代からのスペイン系か世界に根無し草のようにはびこる華僑《かきよう》系の財閥だ。彼らはその財力を以《もつ》て時の支配者に深く食い込み富を独占する。当然、それに連なる国家機構も金で動く。それはこの国が――少なくとも国家の公式見解として――出している数少ない統計を見ても明らかだ。フィリピンで平均的な生活を送ろうとするのに必要な金を百とすれば、国家公務員の給料は六十にしか満たない。大統領の給与でも米ドルに換算して僅《わず》か月額四千ドルかそこらだ。それでどうして公務員は当たり前の生活を営み、大統領は広大な邸宅に住み、贅《ぜい》を凝らした生活ができるのか。それもこれもすべては袖の下で私腹を肥やしているからにほかならない。この国でビジネスを行おうとすれば、絶対的に必要なのは、そうした利権構造に連なるコネクションと係《かか》わりを持つことだ。一旦《いつたん》、このコネクションに潜り込んでしまいさえすれば、大抵のことは金次第でうまくいく。それが絶対的なローカル・ルールだった。
ビジネスとしてこの国に進出している外資系の製薬会社は何もウイリアム・アンド・トンプソンだけではない。いや少なくない数の製薬会社がこの貧しい国に進出している。その理由の第一は、自国では認可されていない新薬をいち早く試すことができる点にある。ここで得たデータはすぐさま本国に送られ、開発途上にある新薬を、先進国の基準をもってして立派に通用するレベルに仕上げていくのだ。『決して売薬を買って飲んではいけない』。マニラに駐在する外国人たちの決まり文句であるが、それは彼らがそうした事実を知っていればこそのことだ。
さらに何よりもウイリアム・アンド・トンプソンが、この国に研究センターを設置した最大の理由は、先進国では決して許されない実験、それも将来必ずや巨大産業になりうる技術を、この国の特殊な国情を利用して他社に先駆けていち早く確立するためだった。
マニラにやって来て、一年の時が流れようとしていた。そして今日、ついにそのプロジェクトが準備段階から、実施段階に入る日がきたのだ。
「ビル。どうやらついにプロジェクトを実施段階に移す時が来たようだな」
ノエルはゆっくりと、大きく一つ肯くと、
「ついに、マリア・プロジェクトの実施というわけですね」
感慨深げな声を漏らした。
「そうだ。最大の問題は六カ月の胎児から採取した卵子がうまく熟成し、使用に耐えうるものになるかどうかにあったが、とりあえず一つの山はクリアした。ここまで来れば、後の工程は楽なものだ。体外受精の技術はすでに確立されているからね。もちろん失敗する可能性がないわけではないが、それはどんなことにもつきものというものだ」
「ですが、胎児の卵巣から取りだした卵子を使って、実際に子供を産ませるのは初めてのことです。果たして五体満足な子供が生まれてくるかどうかは分かりません。ここから先は未知の領域になります」
不安げな言葉を吐きながらも、逆にノエルの目は研究者としての好奇と興奮の色に満ち溢《あふ》れているようだった。
「もちろん胎児が順調に育たずに途中で駄目になる可能性もあるだろう。あるいは、何かしらの障害を持って生まれてくることも十分に考えられる。だが、そんなことは気にすることはない。少なくともクライアントには何の害も及ばない。それに健康な子供でなかったとしても、それならそれで他に立派な使い道がある」フレッチャーはそう言い放つと、ラテックスの手袋をはめた手の人差し指を立てノエルの言葉を遮り、机の上に置かれた受話器を手にした。「フレッチャーだ。プロジェクトを実施に移す。クライアントに連絡を取ってくれ」
それだけ言うと、フレッチャーは電話を切った。樹脂が触れ合う鈍い音がした。いよいよマリア・プロジェクトはプランの域を脱し、実行に移されるのだ。
いったい自分の身に何が起きたのだろうか。
生理が来ないのだ。これまで周期に二、三日程度のずれが生じることはあったが、一週間経っても二週間経っても来ない。後にも先にもこんなことは初めてだった。医学的な知識などないに等しかったが、それが何に起因するかは容易に推測がついた。
強制的に服用させられた錠剤《ピル》。それからしばらくして打たれた注射。きっとあのせいに違いない。生理が止まる――。普通ならば妊娠を考えるところだろうが、自分は命を授かるような行為はまだしたことがない。テオドロの家から拉致《らち》された時に意識を失いはしたが、ここに来てからも生理はあった。そうして考えると、ますます男たちが自分に行おうとしている目的が分からなくなった。
生理を止めていったい何をする気なのだろう。
一向に訪れる気配のない生理。わけの分からない薬品の投与。その先に待ち受けているに違いない不吉な影の存在を考えると、何かとんでもなく酷い運命が自分の身の上に忍び寄って来ているような予兆にアリシアは怯《おび》えた。
静寂を破って不意にドアのロックが外れる鈍い音がした。鉄の扉が開くと、マスクと白衣を纏《まと》った三人の男の姿が見えた。最後に入ってきた男は|移動式の寝台《ストレツチヤー》を運び込もうとしている。それを見た瞬間、アリシアは金切り声をあげて、ベッドの隅へと身を寄せ鉄のフレームにしがみついた。男たちはそんな反応は先刻承知とばかりに、特別の感情を見せるわけでもなく体を押さえつけてきた。中の一人が透明な液体の入った注射器を取りだした。ポンプを僅かに押すと、細いニードルの先から中の薬品が小さな球となって側面を伝った。その間に体が革のベルトでベッドに固定され、腕が凄《すさ》まじい力で押さえつけられた。消毒綿に含まれたアルコールの臭いが鼻をついた。鋭い痛みとともに、ニードルが小麦色の肌に覆われた腕に突き刺さる。注射器の中に鮮血が入り込むのが見えた。
「何をするの! 止めて、お願いだから」
注射器の下部に溜《た》まった血液が再び体内へと戻されていく。そしてそれに続いて透明な液体が……。
「止めて!」
だが確実に注射器の中の液体は体内へと送り込まれていく。それにつれて自分の声が酔ったように呂律《ろれつ》が怪しくなり、急速に意識が遠のき、緞帳《どんちよう》が下りるように視界が暗くなってくる。
「や・め・て……」
「大丈夫。何も心配することはないんだよ」
マスクで顔の半分を覆った男はぐっと顔を近づけると、くぐもった声で言った。
アリシアは薄れ行く意識の中で、必死に男たちの顔を見た。六つの瞳《ひとみ》が自分の反応を見定めるようにじっと見つめている。細まった目の様子からそのいずれもがマスクの下に満足気な笑みを浮かべているようだった。どしゃぶりの夜の闇に吸い込まれていくように、男たちの顔が消えていく。
「お・ね・が・い……」
自分の発する言葉がひどく間延びしている上に遠くで聞こえる。
――深い泥沼の底に吸い込まれるかのような絶望的な余韻を残して。
電話が鳴った。
それを予期していたような素早さでノエルが受話器を取った。
「OK。分かった」それだけ言うと受話器を置きながら「準備ができたそうです。間もなく手術室に運ばれてきます」
電話への答えと同様、振り向き様に短い言葉を吐いた。
「マリア、それに胚《はい》の状態も問題はなし」
ノエルには絶対の信頼を置いていたが、最後の確認はプロジェクトの最高責任者である自分の務めだ。フレッチャーは机の上に広げられたデータ・シートを見ながら言った。
培養した卵子にクライアントの精子を授精させるにあたっては、卵細胞質内精子注入法《ICSI》と呼ばれる方式が取られていた。これは熟成した卵子の細胞質内にクライアントの精子を直接注入する方法だ。直径わずか七μMのガラス針を使用して精子を尻尾《しつぽ》から吸い込む。おたまじゃくしのような形をした精子は頭部が大きく尻尾が少し曲がっているため、吸引を始めると頭部が近寄ってきてしまい、尻尾の先を針の先端に持って来るのは極めて高度な技術を要求される。そこで、考案されたのが精子の首に近い尻尾の部分を針の先で擦《こす》ってやるという方法だった。不思議なものでこうしてやると、まるでむずかる子供が眠りにつくかのように精子はおとなしくなるのだ。更に好都合なのはこの一連の作業をすることで、精子は授精に必要なカルシウムを放出し、卵子の感受性を高めることができる。
顕微鏡の中で繰り広げられる受精の瞬間を見るにつけ、自分が神になったかのような錯覚に陥る。必要とされるのはたった一個の精子。それを選ぶのも、受精によって新しい命を生み出すのも全ては自分の意のままだ。まさに生命創出の一部始終を顕微鏡の中で完全なコントロール下に置くことができるのだ。
事実そうした行為を繰り返す度に、フレッチャーはえもいわれぬ快感と充足感に体内が満たされた。そしてそれはやがて、一つのアイデアを生むことになった。
自分が神だとしたら、この手法によってこの世に生まれて来るのは神の子と言うべきものだ。神の子――そう、この手法をとれば、健全な機能を持つ女性ならば、処女をも懐妊させることができる。これこそ聖母マリア懐妊の再現じゃないか。
まさに聖母マリアの伝説は百%再現できるのだ。それこそ何人でも――。そうして生まれてきた子供を処女懐妊伝説を信じる人々は、それでも神の子と言うのだろうか。だとすれば俺はまさしく神そのものじゃないか。
フレッチャーはこのアイデアに酔った。倫理的に許されるかどうか、そんなことは知ったことではなかった。本来ならば自然の摂理に任せるしかない現象を、自分の意のままに操れ、さらには伝説を再現できる。その手法と技術をどうしても実現してみたいという欲求を抑えきれなかった。フレッチャーは、その計画を自ら『マリア・プロジェクト』と名付け、密《ひそ》かに準備を始めた。
ノエルの言ったように、データに問題はないようだった。彼はICSIに関しては、この研究所の中でもピカ一の腕の持ち主だ。失敗などするわけがない。事実、データ・シートを見ると用意された受精卵は三個。これは培養に成功した四十個の中から最も状態のいいものを選んだ結果だろう。すでに三個の卵子はいずれも八つに分裂した胚となっている。
フレッチャーは部屋の片隅にあるドアを開けると、ノエルを伴って手術室の手前にある準備室に入り、草緑色の手術着を身に着けた。ステンレスの流し台で消毒|石鹸《せつけん》とブラシを使って丹念に手を洗う。
「しかし、今回のクライアントのオーダーは奇妙と言えば実に奇妙なものですね」
「何がかね」フレッチャーは、ゆっくりとノエルに向き直った。
「クライアントはアメリカ人の夫婦。不妊の原因は妻の治療効果の見られない卵管|閉塞《へいそく》症。まあここまではよくあるケースですが、何でまたよりによってドナーに日本人なんてことを言ってきたんでしょうね。しかも成功報酬は実に五十万ドルですよ。こんな面倒なオプションさえつけなければ、どこかの不妊クリニックで三万ドルも出せば、卵子の提供者は選び放題。まるでカタログを捲《めく》るようにね。それに代理母だって――」
「まあ君の疑問は分からないではないが」フレッチャーは肩を竦《すく》めると、「妻の方がどうも日本人らしいんだな。元々|東洋人《オリエンタル》の卵子は需要の割に供給数が絶対的に不足している。ましてや日本人のものとなれば入手は極めて難しいからな」
「アメリカ人と結婚したっていうのに、それでもまだ血に拘《こだわ》るものなんですかね」
「どうやら金には不自由しない人間のようだが、もの[#「もの」に傍点]は買えても子供を授かることは自由にならない。他人の卵子を使ってでもと思うなら可能な限りの条件を付けたくなるものなのだろうさ」
「卵子ドナーがハーバード出の才媛《さいえん》。容姿端麗で、ブロンドの髪なんて言っても、それじゃ生まれて来る子供が一目で自分たちのものじゃないということが分かってしまう。その点日本人の卵子を使った子供ならば外見からは実の子と言っても分かりませんからね」
「それに今回のクライアントにとって、生まれてくる子供が伝説を持つのはことのほか魅力的なものに映ったらしい」
「マリア……つまり処女を懐妊させるということですか」
「料金が法外なものか、そうでないかは価値を見いだす人間。つまりクライアントが決めることだ。確かに五十万ドルという値は、代理母を使った人工授精による出産の相場からすると、随分と馬鹿げた値段には違いないが、世の中には理解できないことに大金をはたく人間もいるということさ」
「それにしても凄《すご》いことを考えたものですね。最初にこのプロジェクトを聞かされた時には正直言って随分と驚いたものです」
その時、手術室に繋《つな》がるドアが開いた。一人の男が姿を現すと、
「準備ができました。いつでも開始できます」
マスクの下からくぐもった声で言った。
フレッチャーは手についた石鹸を丹念に流し終えると、肘《ひじ》で蛇口を押しつけ水を止めた。ノエルが同じ動作で、蛇口を閉じた。
手術室に入ったところで、中にいた一人の男が、ラテックスの手袋を装着する手助けをしてくれる。弾《はじ》けるような音と共に、もう一つの皮膚ができたかのような密着感があった。
手術室の中央にある手術台の上には、開脚台にバンドで固定されたマリア[#「マリア」に傍点]の姿があった。剥《む》き出しになった下半身。草緑色の布に覆われた胸の辺りがたおやかに上下している。
フレッチャーはノエルを見やると、目で合図を送った。今日の術者はノエルであって自分はただの傍観者だ。
「自発呼吸は?」
ノエルは無言のままこくりと肯《うなず》くと静かな声で言った。
「大丈夫です」
「血圧は」
「百十三と六十五で安定しています」
モニターを監視している男が静かに答えた。
「よし。それじゃ始めよう」
無影灯に明りがついた。開脚した両足の付け根。薄い恥毛の奥に縦長に伸びる谷間が浮かび上がった。
まず最初にノエルが行ったのは、培養液の中の移植胚を採取することだった。その前段として、施術に用いるボーン・ホール式ポリエチレンチューブを一度培養液(HTF+二十%非動化患者血清)で満たした後、液が滴状にチューブ内に残らないように完全に排出した。それを確認したところで、いよいよ胚の採取にかかる。直径は僅《わず》かに〇・二ミリほどしかない胚を顕微鏡を覗《のぞ》きながら、できうる限り少量の培養液とともに吸入しなければならない。液が少なければ少ないほど移植する胚を小さな範囲に置くことができるからだ。その量はおよそ二十から三十マイクロリットル程度のものだ。
培養液に浮かぶ胚が、チューブ先端に吸い込まれたところで、吐く息がマスクの中に籠《こも》った。微妙な作業の間、自然と呼吸が止まっていたことに初めてノエルは気がついた。
胚が入ったチューブを左手でそっと捧《ささ》げ持つ。その根元は右手に持った注射器へと接続されている。
「胚の採取が終わりました」
その言葉にフレッチャーがこくりと肯いた。目が開脚台の上に横たわるアリシアの局部に注がれる。手術室の中にいる、全員の視線が自分の手元に集中するのが分かった。
ノエルはそのままの姿勢で移動すると、開脚台の上の固定されたアリシアの股間《こかん》の中央に僅《わず》かな距離を置いて立った。
「クスコを」
指示に従って助手の一人が金属の器具をアリシアの局所に差し込み、肉の割れ目を押し広げた。まだ男の進入を経験したことのない鮮やかなピンク色の肉に覆われた膣《ちつ》の内部が無影灯の光の中に浮かび上がった。助手が場所を空けながら、椅子の位置を調節する。ノエルはそこに腰をかけるとチューブの先端をその入り口にあてた。アリシアの頭部付近に置かれたモニターを注視する。そこには経腹的超音波によって子宮内の状態が映し出されていた。野球場のフェアフィールドを上から見たように扇状に広がる画像。アリシアの子宮の様子が粗い白い影となって浮かび上がっている。子宮内膜は卵巣が分泌する黄体ホルモンのせいで、すっかり分厚くなっている。その形はまるで木の葉のようで、上下垂直に葉脈のように子宮腔が走っている。子宮内膜は一分から三分の間隔で、うねうねと動いており、チューブを進めるチャンスはほんの数秒しかない。理屈の上では人工授精そのものは世間で考えられているほど難しいものではないが、この僅かなタイミングを見定めるのにはそれなりの熟練と経験を要する。ましてや大事な遺伝子を持った胚《はい》を移植するのだ。否《いや》が応でも慎重にならざるを得ない。
ノエルはその時を見定めながらゆっくりと、しかし確実にチューブを押し込んだ。指先に微《かす》かな抵抗を感じる。ほどなくして超音波画像の中に、チューブが白く鮮やかな影となって現れた。さらに指先にそっと力を入れるとチューブの先端が子宮底に達したことを見定め、およそ一センチ、今度は逆に引いた。すでに右手の親指は注射器のピストンのヘッドに押し付けた状態にある。ここで一気に押しだしてやらないと、弾性によって中の胚がチューブに吸い戻されてしまう。ノエルはモニターに全神経を集中し力を込めた。
この行為の果てに生ずる結果に比して、それは余りにもあっけない行為だった。
処置の全てを終えたノエルは、差し込んでいたチューブを一気に引き抜いた。
いま体内に注入した胚がうまく着床すれば、後は生物学的法則によって分裂を繰り返し、やがては胎児として順調に成長を遂げるはずだ。
「どうやらうまくいったようだな」
処置の全てを監視していたフレッチャーの声が後ろから聞こえた。室内を満たしていた緊張感が俄《にわか》に緩んでいく。
「ええ、胚がうまく着床するかどうかはそれこそ神のみぞ知るというやつです」
「まあ、その結果は遠からず分かる。だが今回のように理想的な卵子が手に入ることはめったにない。つまり何が何でも成功させなければならない」
「分かってますよ、博士」
ノエルは手にしていた注射器、それに接続されていたチューブを助手に手渡しながら言った。
今日の施術はこれで終わりではない。あと二人の母体となる処女に同じ処置を施すことが予《あらかじ》め決められていた。
理屈の上では、同じ日に同じ遺伝形質を持った子供が受胎することになり、その全てが十カ月後に新しい命をこの世に産みだすことになる。もちろんクライアントが欲しているのは唯《ただ》一人の赤ん坊だ。最良の結果を得た場合、引き取り手のない赤ん坊が生まれてしまうことになるが、それはそれで願ってもないことだった。マリア・プロジェクトは処女を懐妊させ、クライアントが望む遺伝形質を持った赤ん坊をこの世に送りだすことだけでは終わらない。もしも自分の考えていることが正しければ、副次的に発生するビジネスのほうが遥《はる》かに大きなものとなる可能性がある。
処置を終えたアリシアの性器に目をやりながら、フレッチャーはもう一つのビジネスプランに思いを馳《は》せていた。
このプランを聞いたら本社の上層部はどんな反応を示すだろうか。悪魔の所業とでも言うだろうか。いやそんなことはない。このプロジェクトには莫大《ばくだい》な金額が投下されている。その金を一刻でも早く回収し利益を上げたいと願うのが経営者というものだ。乗り気にならないわけがない。
マスクの中で自分の口元に笑いが広がって行くのを感じながら、早くもその脳裏でこれからしたためるビジネスプランの草稿に考えを巡らせ始めていた。
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第二章 二〇〇〇年三月
飛鳥物産マニラ支店
『おかけになった電話番号はただいまお話し中でお繋《つな》ぎできません。暫《しばら》くしてまたおかけ直し下さい』
もう何度目かになるメッセージを聞きながら、瀬島孝輔は短く舌打ちをして電話を切った。
相手が話し中でないことは分かっていた。携帯電話が急速に普及したのは結構なことだが、インフラがそれに追いついていないせいで、一回で繋がるのは余程の幸運と言わざるを得ない。確かに携帯電話の出現によって仕事の能率が上がったのは事実だが、それに応じてフラストレーションを覚える機会が増えたのも否めない。
照りつける太陽の熱は体温を超えている。袖《そで》を肘《ひじ》まで捲《まく》った作業服から露出した肌が焼けつくようだ。三月――乾期の時期でも、スコールが降るのはままあることだが、強い日差しが雲間から覗《のぞ》くと、ミスト・サウナに入ったような猛烈な湿気が襲ってくる。ヘルメットを被《かぶ》った頭が熱で蒸れ、額から噴き出した汗が頬を伝って顎《あご》から地面に滴り落ちた。
目の前には赤土が剥《む》き出しになった広大な大地が広がっていた。しばらくすると、水分が蒸発した地面からは整地のための重機が動く度に土煙が上がり、埃《ほこり》っぽい空気が容赦なく肺に入り込んでくる。
もうマニラに来てから一年が経っていた。帝都大学を卒業した瀬島は、飛鳥物産に入社すると海外開発建設部に配属された。二年間、東京の本社で一応の仕事を身に付けた瀬島にフィリピン駐在の辞令が下りた背景には、この国がアジアの中でも市場的に見れば宝の山に等しかったからにほかならない。発電所や送電網を中心としたエネルギー関連。各州を結ぶ高速道路網。約百三十ある港湾施設の改修。百六十二の空港施設の拡張。長距離、及び移動電話を中心とした通信網整備。上下水道、病院等の施設拡張。それに何よりも自然災害が多発するこの国では、その復興工事が常にあると言う点だ。加えて安い労働力に目をつけた日本企業の工場進出は後を絶たない。そうした施設を建設するための工業用地の造成も大きな商いになる。
いま瀬島が立っているのも、この国に進出する日本企業向けに造成している工業用地の一つだった。開発総面積三百七十ヘクタール。総電力容量九十MVA。給水は地下三十メートルにある豊富な地下水を使い、幅員三十メートルの主要道路。支線道路は幅十三メートルもある。これを三年の期間をかけて造成、企業誘致を行うのだ。
もちろん日本の大手建設会社や鉄鋼会社もこの地に現地法人を構え、事業の受注に血眼になっているのだが、そもそも海外において、資材の調達、輸送、用地の獲得といったオーガナイザーとしての総合的ノウハウを持っているのは総合商社をおいて他にない。そして何よりも、この国でものを言うのは、富のほとんどを独占する数少ない財閥にコネを持っているかどうかだ。これなくしてはこの国でビジネスを成立させることなどできない。
そうした観点から言えば、まさに飛鳥物産は数ある総合商社の中でもフィリピンの建設産業において図抜けた力を有していた。アヴェリーノ財閥。時の政権と常に密接な繋がりを持ち、絶大な富と隠然たる権力を持つこの財閥の歴史は常に飛鳥物産と共にあったと言っていい。仕事が途切れる例《ためし》はなかった。商社マンといえば聞こえはいいが、オフィスにいて電話一本でビジネスが成立するほど甘い世界ではない。世界中を駆け回り、地べたを這《は》うようにして商いを拾ってくるのがこの仕事の本質だ。熱帯の強い日差しに、現場監督|宜《よろ》しく一日中身を晒《さら》すのは毎度のことだったし、それは決して楽な仕事ではない。体力と熱意。それこそが海外でビジネスを成功させる最低必要条件だった。
瀬島が入社二年を経て、若くしてマニラ駐在を命じられたのはそんな事情もあったに違いない。
「ミスター・セジマ!」
自分の名を呼ぶ声に、瀬島は振り向いた。サングラス越しに、作業服を着た男が手を振っているのが見えた。レクト・マリオ。年齢は二十四歳、たぶんスペイン系の血が混じっているのだろう。無駄な肉がなくどちらかといえばほっそりとした体つきに彫りの深い顔に西欧の香りがする。
マリオはこの国の最難関校である|フィリピン大学《UP》を卒業後、飛鳥物産マニラ支店に入社して三年目になるローカルスタッフだ。UPを卒業したとはいえ、大企業に就職できるのはむしろ幸運というのがこの国の就職事情だ。ましてや日本企業に職を求めるという学生は稀《まれ》な部類に入る。それもこれも日本企業に就職しても所詮《しよせん》は現地スタッフの域を出ないうちに一生を終えることが目に見えているからだ。最高のエリート校の卒業生が憧《あこが》れるのは欧米系の企業で、そこでキャリアを積みながら、留学のチャンスを窺《うかが》う。少なくともこの国で中流以上の成功を収めようと野心を抱く者ならば、そうした道を選ぶものだ。
おそらくはマリオもまた、飛鳥物産は腰掛け程度にしか考えていないのだろうが、少なくともその働きぶりは十分に満足いくものだった。特にこうした現場に出向いてくると、フィリピンでは英語が公用語の一つというのも、どこまで本当か怪しいものだ。タガログ語しか通じないことも日常茶飯事のことで、そんな時にはマリオの語学力に頼らざるを得ない。まさにいまの瀬島にとってマリオは少なくとも仕事の上でなくてはならない存在の一人。日本人のスタンダードから見ても間違いなく優秀な部類に入る男だ。
「ちょっとこれを見ていただけますか」
マリオが何台もの重機が奏でる機械音に負けまいと声を張り上げ、手にしていた分厚い紙の束を翳《かざ》した。造成地の設計図が書かれた青写真だ。ジャングルブーツの厚い靴底を通して堅い地面の感触が伝わって来るのを感じながら、瀬島はゆっくりと歩を進めた。
どうせまたろくでもない報告に決まっている。
瀬島はマリオの言葉を聞くまでもなく直感した。軽い溜息《ためいき》が漏れた。この国で日本と同じレベルのクオリティを仕事に要求するのは無理な相談というものだ。考えられないようなミスが日々起こる。もちろん工事に関しての直接的管理責任は、元請けの建設会社にあるのだが、何しろフィリピン国内に建設業者はおよそ七千五百社もある。事業を受注したゼネコンの下にこうした中小の建設業者が連なる構造は日本もフィリピンも同じことだ。当然実際に現場で工事に携わるのは、名もない下請けの業者で、労働賃金の低さに比例して仕事のクオリティが劣悪なものになることは否めない。
施主である飛鳥物産の社員である自分が、こうして日々現場にでかけて工事の進捗《しんちよく》状況、時にはその出来栄えまでをもチェックしなければならないのは、工事を監督する元請けのゼネコンとて仕様書《スペツク》通りに仕事を仕上げるとは限らないからだ。
「何が起きたんだ、マリオ」
瀬島の問い掛けを待っていたようにマリオが話し始めた。
「この区画の給水管の口径、スペックとちょっと違うんじゃないですか」
「どれ、ちょっと見せてくれ」
そこは第一次分譲区画の一つで、すでに日本企業の買い手がついているところだった。
「この区画の給水管は、施主の依頼で他よりも内径が一センチ大きいものを使うことになっているはずですが……」
深く掘られた溝の中に横たわるパイプの表面には、口径と長さを示す数値がペイントされている。その数値と青写真の上の数値を見比べると、末尾の数字が異なっている。
そうしている間にもマリオは、深く掘られた溝の中に足を踏み入れ、そこに横たわるパイプの内径を折り畳み式のメジャーを使って測り始めた。
「どうだ。やはり間違った給水管が使われているのか」
「ええ、間違いありません。内径がスペックよりも一センチ小さいものが並べられています」
溝の中に蹲《うずくま》った体を捻《ひね》るようにして顔を向けると、マリオが断言した。
「何てこった」瀬島は短く舌打ちをした。「気がつかないまま、埋めてしまっていたら、取り換えるのに大変な手間がかかるところだった」
「いや、いまのうちに気がついてラッキーでした。まだパイプは溝の中に並べられただけで、ジョイントは接合されていません。スペック通りのものに取り換えるのに、それほど手間はかからないでしょう」
「君が気づいてくれたからいいようなものを……」
溝の中から這い上がろうとするマリオに瀬島は手を貸し、その体を引き上げてやった。向う脛《ずね》の辺りを払う度に、そこに付着した赤土が煙となって立ち上った。
「これじゃ他の箇所もチェックしなければならないな」
「施主が給水管の口径を指定してきた箇所は他に三箇所あります。幸い埋設作業はまだ行われていないようです。配置されたパイプが正しいものかどうかを調べるのは目視できます。それほどの時間はかからないでしょう」
マリオの言うことに間違いはなかった。確かにそれをチェックするのはそれほどの[#「それほどの」に傍点]時間はかからないだろうが、そもそもこんな単純なミスが起こること自体どうかしているのだ。だが根本的な解決策を望んだとしても、それはできない相談だった。たぶんそれはフィリピンに限らず多くの開発途上国に言えることなのだろう。
それが瀬島が海外駐在の任について一年の間に学んだ数多くの事柄の中の一つだった。
「ミスター・セジマ。それじゃまずこの部分から始めましょうか」
そんな気持を知ってか知らずか、マリオは口元に白い歯を覗かせて言うと、青写真の一部分を指で指し、先に立って歩き始めた。
それから三箇所の給水管を確かめ、作業のやり直しを事務所にいる現場監督に伝え、マカティにあるオフィスに戻って来たのは、退社時間の五分前のことだった。グレーのカーペットが敷かれ、オレンジ色のパーティションに区切られたオフィスは、荒涼とした造成地から帰って来た身には別天地のように思えた。何よりも南国の強い日差しの中に身を晒した体には除湿されたエアコンの冷気がことのほか心地よかった。
割り当てられたオフィスに戻る前に、瀬島は給水器からミネラル・ウオーターをカップに注ぐと、一息に飲み干した。更にもう一杯の水をカップに満たすと、それを片手にオフィスへと向かった。
花柄のワンピースに身を包んだ秘書が満面の笑みで出迎える。だがその手は早くも帰り支度を始めている。
「グレース、何か緊急を要する連絡はなかったかな」
瀬島は、長針が頂点を指すのをいまや遅しと待ち構えている秘書に向かって訊《たず》ねた。
「電話は何件か入ってますけど、全てメモにして残してあります。お急ぎのような方には、携帯電話へおかけになるように番号をお教えしておきましたけど」
確かに何件かの電話は受けたが、その全てが繋《つな》がったわけではないだろう。何しろこちらからこのオフィスに携帯で電話をしても、繋がったのはたったの三度だけ。それに、机の上に残されたメモだって、どれほどのものが残っているのか怪しいものだ。
少なくともこの国で秘書に伝言を残す時には、一度こちらが伝えたことが正確にメモにされたかどうかをちゃんと確認しておかなければならない。まず最初にこちらの名前を言う。用件を話す。コールバックして貰《もら》う電話番号を話す……。受話器の向こうからは、愛想のいい返事が戻ってくる。そこで、いま言ったことを復唱してくれと言ってみるのだ。その時点で相手がしどろもどろになるか、あるいは沈黙してしまうことが珍しくはない。要は生返事を繰り返しているだけで、事が足りると考えている秘書が少なくないのだ。
グレースはその点、これまでの経験上随分まし[#「まし」に傍点]なほうだとは言えたが、それでも取りこぼしの目にあった例は数限りない。
「ありがとう」
瀬島は礼の言葉を述べると、窓を背にした形で置かれた椅子に腰を下ろした。机の上にはグレースが言った通り、十件ほどのメモが整然と置かれている。
その一つ一つに目を通し始めたところで、グレースがパーティションの陰から顔を覗かせた。
「それじゃミスター・セジマ。私は帰らせていただきます。ハヴ・ア・ナイス・ウイークエンド」
「ユゥ・トゥ」
反射的にお決まりの言葉が口をついて出たが、その時初めて瀬島は今日が週末の金曜日であったことを思い出した。グレースがオフィスを立ち去る気配。おそらくは他の現地スタッフもまた、同様なのだろう。パーティションの向こうを、人が次々に同方向に歩いていく。その足取りがいつにも増して軽やかに感ずるのは気のせいだろうか。
改めて机の上に並べられたメモの一つ一つに目を通し始める。今日中に連絡を取らなければならない相手はいなかった。いや正確にはすぐに連絡を取るに越したことはない相手がいないわけではなかったが、名前を見ればプライオリティの高い人間に限って、退社時間を待ちかねているような連中ばかりだった。
電話を諦《あきら》め、パソコンに電源を入れた。OSが立ち上がるまでの短い時間の間に、持ち込んだミネラル・ウオーターを飲み干した。メールをチェックすると、五件の着信があった。全てが東京の本社からのものだった。マニラと東京の時差は一時間。あちらは退社時間をとっくに過ぎてはいるが、いかに週末とはいえ、まだほとんどの人間がオフィスに残っているはずだ。内容によっては、これから電話でやりとりをしなければならない。
最初の着信メールを開けた。
「ミスター・セジマ」背後から呼びかけられ、椅子を回転させながらそのほうを見やるとマリオが立っていた。「ちょっといいですか」
「いいとも。そこに掛けたまえ」
瀬島は机の前に置かれた、二つの椅子を目で指した。
マリオは小脇に一つの分厚いファイルを手にしていた。その中から四つに折られたページを広げると、早々に用件を切りだしてきた。
「少し気になることがあるのです」
マリオが広げたドキュメンテーションが何を示すものかはすぐに分かった。プロジェクトの進捗状況を管理するために作られたパートチャートだった。このチャートには工事の全ての目安となる工程が、『スタート』を起点としてそれぞれの役割に応じて枝分かれしながら時系列に記してある。最終的には『ゴール』と記載された最後の一点で全ての線が集中して終わるのだが、途中で何度か収束する部分は、『メジャー・マイル・ストーン』と呼ばれるチェック・ポイントである。工程を結ぶ多くの線の中で特に太く記載されているのは、『クリティカル・パス』と呼ばれ、その名の通り、工事の進捗状況に特に影響を及ぼす作業を示している。
「何かな、気になる点というのは」複雑に入り組みながら分岐するチャートを見ながら瀬島は訊ねた。
「実は今日現場に行って気になってはいたのですが、第一次分譲区画のA3のブロックの地盤改良工事が遅れているようなのです」
「本当か。気がつかなかったが」
マリオはさらにもう一枚の大きな紙を広げた。それは造成工事が行われる前の現場の地図だった。
「造成地のほとんどは元々密林に覆われた丘陵地帯だったのですが、A3ブロックの半分程は沼があったところなのです。本来の予定だと、地盤改良のためにドレイン・チューブを地中深くまで差し込んで水抜きの作業が行われていなければならないはずなのですが、今日現在まだ行われてはいません」
指摘された区画に沼があったことは覚えていた。改めてパートチャートを見ると、確かにドレイン・チューブによる水抜き作業は、二週間前から行われていなければならないことになっている。
地盤改良工事。それも軟弱地盤のそれは、工業団地の造成では重要な意味合いを持つ。この上に建つ建造物の重量は普通の住宅の比ではない。もしも水抜きが不完全なままに受け渡しが行われ、その上に工場が建てられれば、地盤沈下が起こり、建物全体が不均衡に傾いてしまうといった事態が起こりかねない。
「水抜きの地盤改良は、雨期を迎える六月には終わらせておかなければならないことになっているんだが」
「その通りです。この作業は五月には終わらせておくことになっていたのですが、今日現場を見た時点ではドレインを地中に差し込む機材も見当たりませんでした」
「それは確かかね」
「間違いありません。もしも作業が終わっていれば、地中に差し込まれた無数のドレインが、花畑のように整然と頭を出しているはずです。一目瞭然《いちもくりようぜん》というわけです。ところがA3ブロックは沼を埋設した状態そのままになってるんです」
ドレインによる水抜き作業と言っても原理はいたって簡単なものだ。長い紙を地中深く差し込み、六カ月の間放置し、その間に毛細管現象を利用して土壌に含まれた水分を吸い出してやるのだ。だがそれも乾期の間なら順調に行くだろうが、一旦《いつたん》雨期に入れば毎日決まって激しいスコールが襲ってくる。それも六月から十一月もの長きにわたってだ。当然効率は劇的に悪化し、土壌改良に要する時間は月単位で長くなる。
「なんてことだ」
マリオの言うことに間違いがないことは分かっている。瀬島は己の不明を恥じながら、長い吐息をもらし、背もたれに体をあずけた。
「もっと早くに気がつくべきでした。前回のマンスリー・ミーティングでこの件に関しては予定通り行われるという返答を貰っていた上に、時期の記憶が定かではなくて、気がつくのが遅れてしまいました」
「君のせいじゃないよ、マリオ」
組織の上から言っても瀬島は本社からやってきたエキスパッツ。いかに優秀とはいえ、マリオは現地採用のスタッフに過ぎない。待遇にはそれこそ雲泥の差がある。高い給料が責任の重さに比例していることは言うまでもない。
「とにかく、一日も早くあの区画の地盤改良工事を始めないと、予定通りにクライアントに用地の引き渡しができなくなる可能性があります」
「分かった。すぐにこちらから建設会社のほうにはクレームを入れておこう」
「日本のゼネコンの責任者ですね」
「そうだ」
「宜《よろ》しくお願いします。私からも実際にこの工程を担当しているこちらの業者には連絡を入れておきます」
「そうしてくれると助かる」
瀬島はそう言いながら身を起こすと電話を取り上げた。これから電話をするのは日本のゼネコンの駐在員だ。まだオフィスにはいるはずだ。
マリオは用件は終わったとばかりに、机の上に広げた地図とファイルを片づけると席を立った。
「マリオ」
瀬島は手を止めて言った。
「何か」
「どうだ。帰りに一杯付き合わないか。あと三十分ほどで、今日は帰れるとは思うが」
水道管の件といい、ドレインの件といい、どちらも気がつかないままに工事が進行していれば、とんでもない厄介事を抱え込むことになるところだった。もちろんその責は工事の当事者たる建設会社が負うべきものだが、クライアントに対してはこのプロジェクトを統括する立場にある飛鳥物産が矢面に立たなければならない。それを未然に防げたのはマリオの功績にほかならない。
それにいままでこの勤勉な部下に何度助けられたことか。そう思うとささやかながら、その労をねぎらってやりたい気持が湧いてきた。
「ありがとうございます。ミスター・セジマ」マリオは穏やかな笑みを口元に湛《たた》えた。「残念ながら、今日はまだ片づけなければならない仕事がある上に、先約がありましてね。またの機会に……」
「そうか、週末だったな」
「それに給料日《ペイ・デイ》ですから」
「なるほど。それじゃまたの機会にしよう」
瀬島は改めて受話器を取り上げながら言った。
オフィスを出ていくマリオの後ろ姿を見ていると、この優秀な男がいつまでこの会社にいてくれるのだろうか、という気持に襲われた。
おそらくマリオも他のフィリピン人と同じように、この会社にいるのはキャリアアップを図るための通過点に過ぎないのだろう。少なくとも彼は日本商社の一現地スタッフで終わるような人材ではない。それに人物的にも能力的にもマリオにはその資格が十分にある。もしもそのようなチャンスを掴《つか》んだ時には喜んで送りだしてやろう。レコメンデーションが必要で、この俺で役に立つのなら何度でも書いてやる。ただ問題はその時がいつ来るのか。できることなら、進行中のプロジェクトが終わってからにしてもらいたいものだが……。
受話器の向こうから呼び出し音が鳴り始める。思った通り、聞きなれた男の声が聞こえてきた。
「飛鳥物産の瀬島ですが……」
仕事に一応の区切りをつけ、瀬島がオフィスを後にしたのはそれからたっぷり二時間後のことだった。
家族
夜八時を回ったというのに、道は混みあっていた。マニラ湾沿いに一直線に走るロハス通りを激しく車線を変えながらタクシーは確実に目的地に向かって進んでいた。右手には瀟洒《しようしや》なレストランのネオンやホテルの華やかな明りが見える。通りの両側に並ぶ街路灯の光は薄暗い。そのせいもあってか逆に原色に彩られたネオンが妙にうら寂しい気分にさせる。だが後部座席に座るマリオは浮き立つような気分を抑えきれなかった。
両親、それに兄弟……。未《いま》だ貧困のどん底にいる両親に給与の一部を手渡す瞬間に覚える充足感。そのために自分は身を粉にして必死で働いているのだ。家族の喜ぶ笑顔の前では、どんな苦労も報われたような気になる。日本の本社から来るエキスパッツたちがどんな高給を貰《もら》い、底辺で喘《あえ》ぐ自分の家族たちからすれば考えられないような生活を送っているか。そんなことは十分に知っていた。月々支払われる給料もフィリピンのスタンダードの域を出ず、彼らとの仕事と比べてみれば、法外に低いものであることももちろん承知していた。
だが自分の生い立ちを考えればそれでも幸運だったのだ。なにしろあの劣悪な環境に生まれたことを考えれば、この国の最高学府であるUPに進学し、日本企業に職を得られたことだけを取ってみても普通では考えられないことだ。それもこれも、全てを犠牲にして、辛《つら》い選択を何も言わずに呑《の》んでくれた両親の深い愛があってのことだ。その恩に報いるためにはどんなことでも苦にはならない。それにまだあの家には十四歳になったばかりの弟もいる。あの街から抜け出すために、家族がしてくれたことを、今度は自分がしてやる番だ。
やがてタクシーはボニファシオ・ドライヴを抜けるとパッシグ・リバーにかかるロハス橋にかかった。黒い水面が周囲の建物から漏れる明りを反射して、闇の中で緩やかにのたうっているのが分かった。
さほど川幅はないが、世界を二分する果てどもなく深く、そして広い河だ。
トンド――。マニラ最大のスラム。人間の尊厳などという言葉とは無縁の最底辺の生活を余儀なくされた人間たちが蠢《うごめ》く街が広がっているのだ。自分の原点はこの街にある。それは身に押し付けられた焼き印のごとく、決して消すことはできない。
この河を渡る度にマリオは自分の運命を呪う反面、あの酷《ひど》い暮らしから抜け出せた幸運を噛《か》みしめるのだった。
「どの辺りで止めたらいいんです」
ドライバーが前を見据えたまま低い声で訊《たず》ねてきた。
「このまま真っすぐ行ってくれ。大丈夫、中に入れとは言わない。ピア16を過ぎた辺りで降ろしてくれればいい」
ドライバーは無言のまま肯《うなず》いた。昼間ならまだしも、夜の帳《とばり》が降りてからスラムのど真ん中に行きたい人間などいるわけがない。前方を見据えたままハンドルを握る男の肩が、幾分リラックスしたように見えるのは気のせいではあるまい。
タクシーはマリオが言ったピア16を過ぎた辺りで止まった。メーターの料金に十ペソのチップを握らせるとマリオはドアを開けた。途端に排気ガスと腐敗したゴミ、人々の汗と体臭が渾然《こんぜん》一体となった酷い臭いが鼻をついた。道路沿いに密集して並ぶバラックからは、裸電球の灯が漏れてくる。アスファルトの路面の所々が濡《ぬ》れている。おそらく一日の仕事を終え、軒先で水浴びをした名残なのだろう。そこに反射する暖色灯の光がうら寂しい光を放つ。
バラックのあちらこちらにたむろしていた住人たちの視線が集中してくるのが分かった。少なくともここにタクシーで乗りつけるような人間などそういるものではない。まるで猛獣の住処《すみか》に迷い込んだ獲物を物色するような視線だった。
だがそれも、長くは続かない。
「マリオ、マリオじゃないか」
そう、少なくともこの一画の人間たちは自分が何者かを知っている。
マリオは、その言葉に片手を上げて応《こた》えると、細い路地の一つに入り込んで行った。廃材といっても最低の部類に属する赤茶けたトタンや板切れをパッチワークのように継ぎ合わせただけの小屋。まるで焼け落ちたばかりの廃屋を思わせるような窓すらもない鶏小屋よりも酷いバラックが、肩を寄せ合うように密集している。電柱からは細い電線が束となって各家に引き込まれている。その様は一度も洗ったことのないようなドレッドヘアのようだ。路上に放置されたゴミ袋は回収されないまま山となって、すえた腐敗臭を漂わせている。家々に染みついた生活臭。身を清めるといえば、たまさかの水浴び程度の手だてしかない人々の汗と垢《あか》にまみれた体臭がそれに混じる。おまけにここのほとんどの家にはトイレという生活衛生上必要最低限のものすらない。小便、そして大便すらも入り組んだ路地のあちらこちらでし放題ときている。
確かに外に目を向ければ、ヴィレッジと呼ばれる別世界がありはする。そこは城塞《じようさい》のような塀で囲まれた中に豪壮な家が立ち並び、バード・サンクチュアリになるほど緑も豊富だ。人の出入りは二十四時間ガードマンによってチェックされ、犯罪や貧困とは無縁の世界だ。しかしそれはこの国のほんの一握りの富裕層か外国人のためにあるものだ。
一日の糧とする分の金を稼ぐことすらも困難を極めるこのスラムで、つつがなく三食を口にできることは、それだけでも神に感謝するのに十分に値する。食料は肉でも野菜でも調味料でさえも、一食分から買うことができるし、文明社会では当たり前の冷蔵庫なんかなくとも生活に不自由することはない。ただ一つ、どうしても我慢できないのは、下水などという気の利いたものがないこの街が、ちょっとした雨によって瞬く間に水浸しになってしまうことだった。腐敗した汚水、路上にしみ込んだ小便や放置されたままの大便が、黒い水とともに足元に押し寄せてくる。子供の頃にはさほど気にならなかったが、一度街を離れてみると生理的嫌悪を覚える。細い路地に入ると臭いが一段ときつくなる。ほどよく温度コントロールされた清浄な空気。毎日クリーン・アップされる清潔なオフィスから直接この場に来た身には、この瞬間にも酷い臭いが自分の体の奥深くまで侵食してくるような気がする。いや、それは気のせいじゃない。何時間かの後、この地を去る時に乗るタクシーの運転手は、決まって鼻を鳴らし、エアコンを全開にした上に窓をそっと開ける。その仕草からだけでも確実にスラムに澱《よど》む大気は自分の体臭となって深く染み込んでしまうものなのだ。
ここで暮らす人間に明日を考えるという習慣などありはしない。その日一日の稼ぎが日々の生活を支える糧の全てだった。たまに僅《わず》かばかりの余分な金が手に入れば、男たちの多くは安酒か小博打《こばくち》に費やす。自分にしてもかつては小さな運河の対岸にあったゴミの投棄場、スモーキー・マウンテンから、空き缶、空き瓶、ビニール、金属物、プラスチックといった再生可能なものを採取して業者に売り僅かばかりの金に換える『廃品回収業者《スカベンジヤー》』のまね事をしていたものだった。乾期に入ると熱帯の太陽に照らされた廃棄物が自然発火して白い煙が燻《くすぶ》る『山』を大きな竹籠《たけかご》を背負い、腐臭と無数の蠅が群がる中を彷徨《さまよ》った幼い頃の記憶は、いまも鮮明に残っている。
九三年になってこの山は閉鎖され、麓《ふもと》にあったスラムは撤去された。だがそれは住民たちの生活の手だてを奪うことに他ならなかった。建築業や物売り、港湾作業員といったところに職を見つけた人間もいるにはいたが、圧倒的多数はスモーキー・マウンテンに代わってマニラ各地に分散したゴミの山を漁《あさ》るスカベンジャーとして相変わらずの生活を送らざるを得なかった。
おまけにこの国の車は、先進国に比べ値段は安いが、粗雑な精製のガソリンを使っているせいで有毒物質をたっぷりと含んだ排気ガスを撒《ま》き散らす。かつてあった『山』から漂って来る煙は有毒ガスそのものだ。死亡統計には肺炎や結核が常に上位にあり、働き盛りの五十代で人生を終える人間が珍しくないのもこうした環境的要因があることは間違いない。
マリオは足を早めた。複雑に入り組んだ路地を何ブロックか過ぎる。やがて、一軒のバラックの前に辿《たど》り着いたところで足を止めた。歪《ゆが》んだドアの隙間から室内の明りが漏れている。人の気配がする。食事時なのか、何かを調理した後の残り香が中から漏れてくる。
ドアを押した。ほんの数歩で壁にぶち当たるような狭い空間の中に、車座になっている三人の目が一斉にこちらを向いた。
「マリオ」
食べかけの食器を床に置くと、母が立ち上がって飛びついてきた。なでつけた髪を後ろで束ね、安手の化繊のワンピース。抱き締めてやると痩《や》せた顴骨《かんこつ》が頬に当たった。微《かす》かに汗の臭いがしたが、紛れもない母の香りがそこにあった。俄《にわか》に暖いものが胸の奥から込み上げてくる。床の上に置かれた食事が目に入った。洗面器に盛られた白飯。それに僅かな塩漬けの魚。それがこの夜の三人の食事だった。腕の中の母の体が、少し小さくなったような気がする。
「食事は済んだのかい」
床に腰を下ろしたままの姿勢で、口元に笑みを浮かべながら父が問い掛けてきた。
「ええ、ここに来る道すがら済ませてきたよ」
家を訪ねる前にありあわせのもので腹を満たすのはいつものことだった。四人で食卓を囲みたいという気持はあったが、自分が加われば三人の食事を分けなければならないことになるだろう。いま、腕の中にいる母の体の感触。そこからだけでも、普段の食生活の度合が知れようというものだった。それに育ち盛りの弟には普段の量でも十分とは言い難いだろう。
マリオはそっと腕を離すと、靴を脱ぎ部屋の中に入り腰を下ろした。
「父さん、変わりはない?」
視線の高さが同じになったところで、父の顔を見ると心なしか顔色が悪い。
「ああ、元気でやっている」
そう言っている傍らから、父は軽い咳《せき》をした。
「本当に? 何だかこの間来た時から咳が続いているようだけど。それに少し痩せたんじゃない」
「実はこの十日ばかり、熱が引かなくて困ってるんだよ」推測を裏付けるように母が言った。「それでこの一週間ばかりは仕事にも行けなくて」
今年五十五になる父親は建設現場で働く作業員だった。トンドの中では比較的安定した収入があるほうだが、それも所詮《しよせん》は日雇いの域を出ない。その収入が途絶えたとなれば、家計を支えるのは、街のゴミの中から多少でも金に換えられそうな金属の欠片《かけら》の類《たぐ》いを漁る母に頼るしかない。今夜の食事がいつにも増して貧しいのも合点がいった。
「いや、大丈夫さ。ちょいとばかり休んでいればすぐに良くなるさ」再び軽い咳をする父は、それでも精一杯の虚勢を張った。
「駄目だよ父さん。もうそろそろ無理の利かない歳になってきているんだから。明日にでも医者に行かなくちゃ」
「大丈夫だ。自分の体のことは自分が一番良く知っている。それに来週にはデリアが様子を見に来ると言っていたのでな」
デリアは二十六になる二番目の姉で、ケソンの公立病院で看護師をしている。その点から言えば医療について心得がないわけではなかったが、治療を施すこともできなければ、薬の処方ができるわけでもない。軽い咳に微熱が続くのが気になった。何しろフィリピンの主要疾患で一番に上げられるのが気管支炎で、肺炎や結核もトップ5に入る。死亡原因でも呼吸器関係の疾病が多いことは統計的データが証明している。それに加えて平均寿命が六十四歳ということを考えれば、父は決して若い部類に入るとは言い難い。
だが、その一方で父が病院へ行くことを躊躇《ちゆうちよ》する理由も良く分かる。何しろ医者にかかるにもそれだけの金を持ちあわせていなければ話にならないのだ。その日暮らしがやっとのスラムの人間がまともな治療を受けることなど、夢のまた夢にほかならない。
「母さん」マリオは母に向き直るとポケットに手を入れた。「これ少しだけど足しにして」
手の中には五百ペソ札が十五枚ほどあるはずだった。本当はいつものように五千ペソを渡すつもりだったが、事情が事情だ。富裕層がかかる病院とはいかないが、医療福祉的性格の強い国立の病院ならば、何とかなるだろう。
飛鳥物産に入社して三年の間に、月収は二万五千ペソ程になってはいた。その中から毎月二回、それぞれ五千ペソという決まった額を手渡す。マリオにとってそれは大きな出費には違いなかったが、それがこのスラムで暮らす家族にしてやれるただ一つのことであり、最大の楽しみだった。
「すまないねえ。いつも……お前にも生活があるだろうに」
「大丈夫だよ母さん。いま僕がこうしていられるのも、全ては父さんや母さんのお陰じゃないか」
その言葉に嘘はなかった。おずおずと枯れ木のような手を差し出し、札の束を受け取る母の手が震えているような気がした。無理もない。父が無収入になったとなれば、どうあがいても母が稼げる金は一日に五十ペソか、良くても百ペソがせいぜいだろう。タクシーやジープニーの運転手が、ストリート・サイドの粗末な屋台で昼食を摂れば一度で吹き飛んでしまう。それに公立高校とはいえ、学業を続ける弟には何かと金がかかる。月に二回手渡す金はそのほとんどに消えてしまうだろう。
この街から抜け出す手だてはただ一つ。図抜けた才能を持つか余程の幸運に恵まれることだ。いやそれだけでも十分とはいえない。トンド出身――その出生の経歴がこの国ではまるで生まれながらにして烙印《らくいん》を押されたように、生涯にわたってついて回る。いかにUPをトップで卒業したとしても、まともな職に就くことなど期待できなかった。一般社会から忘れ去られたような地域で生まれ育った人間を採用するリスクを冒さずとも、この国に職を求める人間はごまんといる。つまりトンドに誕生した者は、それだけでも絶望的なほどのハンディキャップを持っているのだ。
今日、こうして自分が飛鳥物産という会社に職を得ることができたのは、その過去を消す幸運に恵まれたからにほかならない。そのために両親を始めとして家族全員が、文字通り血を吐くような選択と決断を迫られたのだ。
今度は自分が家族にその恩を返す番だ。
マリオは、札束を握ったまま微かに震える母の手を自らの手で優しく包み込み、胸に押し当ててやった。狭い部屋の中の空気が俄に和んだように感ずるのは気のせいではあるまい。これから暫《しばら》くの間は、金の心配をすることはない。切迫感から解放された安堵《あんど》の気持の現れであることをマリオは疑わなかった。
母は貰ったばかりの金を捧《ささ》げ持つようにして立ち上がると、それを部屋の隅にあった引き出しの中にしまい込んだ。
「それから、今度具合が悪くなったら、すぐに連絡しなきゃ駄目だよ」
「ああそうするよ」母の声が背後から聞こえた。
やりとりが終わるのを見計らっていたように、弟のジョエルが皿に残っていた食事を平らげ始めた。
「ジョエル」
「なあに、兄さん」
「勉強はしっかりやっているかい」
「うん。この間の試験は学年で二番だったよ」
「そうか」
「僕も兄さんのようにしっかり勉強してUPに入るよ」
僅かな塩魚の最後のひと欠片を残りの白飯と一緒に掻《か》き込みながら、ジョエルが屈託のない笑顔で答えた。
「UPに入るためには二番じゃ駄目だ。一番を取らないと。勉強をしっかりすることはもちろんだが、父さんや母さんに何かあったら、すぐに連絡してくれ。これはその時のための金だ」
もちろん貧しい家庭に電話などあるはずがない。連絡をするためには、スーパーマーケットにある公衆電話を使わなければならない。マリオは再びポケットの中に手を入れると、数個の小銭を弟の手に握らせた。
「お前が心配してくれるのはありがたいが、そんなに気を遣うな」父が心底済まなそうな顔をして言った。「親方も何かと気をかけていてくれてな。このところ稼ぎがないのを心配して、時々食べ物を持ってきてくれる」
「親方が」
「そうなんだよ」と母。「お前がここを出る時にも世話をやいてくれたのに、父さんが調子を崩してからも何かと気を遣ってくれて……実は、私の仕事もこのところ稼ぎが上がらなくて、それでもこうして何とか食いつなげることができたのも、親方のお陰なんだよ」
「そうだったのか」
「帰りには親方の家に行って、挨拶《あいさつ》をしてくれないかい。お前も親方には随分会っていないだろう」
もちろんその言葉に異存はなかった。何しろ自分がこのスラムを抜け出すことができたのは、家族の支えもあったが、もう一人、あの親方の存在なくしてはあり得なかったのだから――。
マリオが家を出たのはそれから一時間後のことだった。
この地区の建設現場の作業員を束ねる親方、オランド・ベイロンの家は、バラックの中を網の目のように縫う路地を五分ほど歩いたところにあった。スラムとは言っても、中には人が住むに相応《ふさわ》しいなりをした建物が全くないわけではない。オランドの家はその中の一つで、コンクリートでできた二階建ての建物だった。さすがに外壁は薄汚れてはいたが、建てつけは見るからにしっかりしている。
玄関の前に立ったマリオは、戸口についた呼び鈴を押した。ほどなくして中から声が聞こえた。
「誰だ」
「マリオです」
「マリオだって?」
鍵《かぎ》が外れる音とともに、スチールのドアが開いた。
薄汚れたシャツ。それに短パンというすっかりリラックスしたいでたちの男の姿が、室内から漏れてくる明りの中にシルエットとなって浮かび上がった。確か年は四十の半ばにさしかかっているはずだが、その体は肉体労働者の親方らしく張りのある筋肉で覆われている。二の腕には剣に絡みついた蛇の入れ墨が彫られている。
「マァリオー」オランドは一際高く来訪者の名を呼びながら、両手を大きく広げると抱きついてきた。
「久しぶりだな。良く来てくれた。まあ、入れ」
外観に相応しく、広いリビング。大分くたびれてはいるがソファーもある。部屋の片隅にはマリアの像と十字架が飾られた祭壇があり、その前で今まで跪《ひざまず》いていた婦人が慌ただしく十字を切ると立ち上がった。オランドの妻、ゼナイダだった。オランドよりも歳は若いにもかかわらず、頭髪には白いものが混じり、こけた頬が実際よりもずっと年老いた印象を与える。
「お変わりありませんか」マリオはどちらにともなく問い掛けた。「すっかりご無沙汰《ぶさた》してしまって」
「ああ、見ての通りだ。元気でやっている。まあそこに掛けろ」
オランドは椅子を勧めながら、自らもソファーに腰を下ろすと、
「家には行ったか」
おもむろに訊ねて来た。
「ええ、たったいま、寄って来たところです」
「親父さんの具合はどうだ。この二週間ばかり具合が悪いとかで仕事に出てこないんで、気にはなっていたんだが……」
「いろいろとお世話になっているようで、本当に何とお礼を言っていいものか」
マリオは思わず頭を下げた。
「いいや、たまに僅かな食料を差し入れするくらいのことさ。本当はもっとましなことをしてやりたいんだが、このところは仕事も十分にあるというわけじゃないんでな」
オランドは入れ墨が彫られた二の腕を撫《な》でながらすまなそうな声を漏らした。
建設現場の作業員を束ねる組織はトンドにも幾つかあったが、その中でもオランドの組織は最大のものだった。もちろん荒くれ者を統率する地位に立つにはそれ相応の資質というものが必要になる。少なくとも自分の一家に寄せるような慈悲と思いやりだけでは、統率することなどできない。このスラムを抜け出す前、そうあれは小学校の二年の頃のことだったろうか。この男が持つ、別の一面を垣間《かいま》見たことがある。
いかなる理由かは分からないが、まだ若い作業員を完膚なきまでに叩《たた》きのめす場面に出くわしたことがある。堅く握られた拳《こぶし》が凄《すさ》まじい勢いでその男の顔面に飛んだかと思うと、血《ち》飛沫《しぶき》が上がった。鼻と口からだらだらと鮮血を流しながら、地べたに転がった男に向かってオランドは容赦ない蹴《け》りを見舞った。靴の先が腹部にめり込む。たまらず男は喘《あえ》ぎ声を漏らしながら、顎《あご》を突きだすような形で顔を上げる。そこにまた容赦ない蹴りが入れられる。歯が折れる嫌な音がした。周りを取り巻く作業員たちも一言も発することなく、荒れ狂う親方を見ているだけだ。血走った目。パンチを繰り出す度に、蹴りを入れる度に、オランドの体の筋肉はしなやかな収縮を繰り返し、二の腕に彫られた蛇が牙《きば》をむいているように躍動した。鬼のような形相をしながら、無慈悲な行為を繰り返す姿を路地の角から見ていたマリオは、あれがいつも優しい言葉を掛けてくれるオランドかと、我が目を疑ったほどだ。
そう、親方の中には天使のような優しさと慈悲に溢《あふ》れた心と、悪魔のように冷酷で残忍な二つの血が同居している……。
「まだ咳《せき》は収まらないの?」ゼナイダの声で我に返った。
「ええ、それに微熱も」
「もう親父さんもいい歳だ。体にがたがきてもおかしくはない。気をつけないとな」とオランド。
「医者に行くようには言ったのですが……」
「親父さんもいい息子を持ったものだ」オランドが優しい目を向けながら言った。
「この街から抜け出すのは生易しいことじゃない。何かのきっかけを掴《つか》んだとしても、トンド出身という経歴は一生ついて回る。まともな仕事にありつけるなんてことは万に一つの可能性もありゃしない。お前が日本企業で一廉《ひとかど》のビジネスマンとして働いていられるのも、出生に関する過去を消すことができたからだ」
「それも親方のお陰です。もしも親方が――」
「にもかかわらずお前はペイ・デイの度に親元を訪れてるっていうじゃないか」オランドはマリオの言葉を遮るように話を続けた。「それもかなり纏《まと》まった金を渡しているそうだな。全く感心なことだ」
「弟はまだ高校生です。とうてい両親の収入だけではやってはいけません。今度は私が面倒を見る番ですよ」
「だが、もしもお前がこんなところに出入りしているなんてことが知れれば、職を失うことになりはしないか」
「大丈夫ですよ」マリオは笑みを湛《たた》えながら言った。「週末の行動なんか誰がチェックするもんですか。それに」『トンドくんだり』と言いかけたのを慌てて呑《の》み込むと、「外国人がこの地域にやって来ることは絶対にありません。やって来るどころか、近づくことすらもね」
「だが、人の口に戸は立てられない。少なくともお前はこの地域ではちょいとした有名人だ。どこから情報が漏れるか分かったもんじゃない。用心することだ」
「ありがとうございます」
「マリオ、今夜はゆっくりしていけるの?」
会話が一区切りしたのを見計らって、ゼナイダが訊《たず》ねてきた。
「ええ、週末ですから」
「それなら、ビールでも用意しましょうか」
「いただきます」
ゼナイダが立ち上がり、すぐに目の前に冷えたサンミゲールとグラスが用意された。その日に必要な分だけの食料を買うのが習慣となっているこの国では冷蔵庫は贅沢《ぜいたく》品の部類で、生活必需品とはいえない。その冷蔵庫を持ち、さらにビールを常備しているのも多くの作業員を束ねるオランドの家ならではのことだ。
手に吸い付いてくるような冷えたボトルの感触が心地よかった。
マリオは最初の一杯をオランドのグラスに注いでやった。
「俺にもお前のような息子がいればどんなに心強かったことか」
グラスを目の高さまで捧《ささ》げ持ち、軽く合わせると中のビールを一気に飲み干した。
突然傍らからゼナイダが嗚咽《おえつ》を漏らした。オランドには五人の子供がいたが、いずれも女ばかりだった。だがいま彼女が悲しみに打ち震えているのは、男の子を授からなかったせいではない。四年前に突如姿を消した次女のアリシアのことを思い出したからに違いない。
「ごめんなさいね、マリオ……アリシアのことを思い出してしまって……」
果たしてその推測を裏付けるように、ゼナイダが言った。
「いまだに何の手がかりもなしですか」
「ああ……」二杯目のビールを飲み干すオランドの顔が苦渋に満ちたものに変わった。「最初はどこかの血迷った馬鹿が僅《わず》かな金目当てにアリシアを攫《さら》ったのかとも思ったんだが、それならば何かの連絡があるはずだ。それがいつになっても、唯《ただ》の一度すら連絡がない」
「警察には届けたんでしょう」
「そりゃあ届けはしたさ。だけど考えてもみろよ。どこかの金持ちの娘ならいざ知らず、トンドの娘だぞ。この街から人が一人行方不明になったところで連中が本気になって捜査なんかするもんか」
オランドの言うことはもっともだった。マリオは今更ながらにつまらぬ問い掛けをしたことを後悔した。返す言葉もなくグラスの中のビールを半分ほど口にした。
たまりかねたようにゼナイダが立ち上がり、祭壇の前に跪くと祈りを捧げ始めた。
「アリシアが姿を消してからというもの、俺は必死になって行方を追ったさ。この街にはろくでもないビジネスを生業《なりわい》にする連中がごまんといる。まあその方面には多少なりとも伝手《つて》はあるからな。だがどこをどうつついても、手がかりの一つも出てこねえ……。いまはただあの娘《こ》が神に召されてはいないことを祈るだけだ。ゼナイダが朝に夕に、いや時間さえあればああしてマリア様に祈るのも無理のない話さ」
アリシアのような若い娘が攫われた。それが金目的ではないとすれば、おそらくはその身を以《もつ》て金を稼がせる、つまり娼婦《しようふ》となってどこかに売られた可能性が高い。
だが悲しみに打ちひしがれている二人を目の前にしてそんなことを言える筈《はず》もない。マリオは二度三度と肯《うなず》きながら、残りのビールを喉《のど》に送り込んだ。
「だがなマリオ」
「何です」
「実はここに来て奇妙なことに俺は気がついたんだ」
オランドがマリオのグラスにビールを注ぎながら言った。
「奇妙なこと?」
「俺もアリシアのことだけに気をとられてしまって、つまりあれだ、木を見て……」
「森を見ず」
「そう、それだったんだが、実はこの四年の間にトンドから姿を消したのはアリシアだけじゃないんだ」
「何ですって」
「まあ、トンドと言っても広いし、情報も頻繁に入ってくるわけじゃないんで、俺もうっかりしていたんだが、少なくとも三人ほどが行方知れずになっている」
「それもアリシアのような若い娘ばかりなんですか」
「いや、そうじゃない。もしもこいつが若い娘ばかりなら、どこかに娼婦として売る目的として攫われたということも考えられるんだが……」
「でもここから行方も知らせずどこかに姿を消すなんて人間はたくさんいるんじゃないんですか」
「それが分別のつく大人ならな」
「えっ」
「行方知れずになったのは、子供ばかり。それも何も女に限ったことじゃない。三人の内二人は六歳と五歳の男の子。残る一人はアリシアよりも一つ年下の十五歳の女の子だ」
「それも、その後何の音沙汰《おとさた》もないんですか」
「あるもんか。どいつもこいつも金を目的とするなら、どう逆立ちしたって百ペソの金も出やしない家の子供ばかりだ」
マリオは考えた。もしもこれがアリシア同様に年頃の娘ばかりだとすれば、これまで自分が考えていたことはかなりの確率で正しいと言えるかもしれない。だが、その中にまだ幼い男の子が混じっているというのはどういうことだろう。
ふと、脳裏にいつかオフィスで読んだ『タイム』の記事が思い出された。性のはけ口を幼児に求める欧米人が少なからずいて、アメリカで突然行方不明になる幼児の多くが、そうした趣味を持つ男たちの犠牲になっていること。そしてその対象は女児に限ったことではなく、男児にも向けられていること……。
悪寒が背筋を走った。もしも自分の想像通りのことが行われ、その供給源としてそうした組織の目がこのトンドに向けられているとすれば絶対に許すことはできないと思った。
トンド出身というだけで、将来を堅く閉ざされ、警察にさえもまともにとりあってもらえない人々。それをいいことに、ジャングルの中にあるマンゴーの果実をもぎ取るような気安さで、己の欲望のために連れ去ってしまうとは……。確かにここの生活は人間の極限の暮らし以外の何物でもない。だがそうではあっても、体の中に流れている血の色も、組織も何一つ変わりはしない。もしも金に飽かして最後に残された人間の尊厳すらも踏みにじるような行為を平然と行う人間がいるとすれば、俺は絶対に許さない。
マリオは高ぶる感情を胸に押し込むように、注がれたばかりのビールを一息に飲み込んだ。
DM
マラテにあるスパニッシュ・レストラン『ゲルニカ』の室内は柔らかな明りで満たされていた。白いテーブルクロスで覆われた食卓の中央にはキャンドルが灯《とも》り、磨き抜かれたグラスが小さな光を反射する。四人掛けのテーブルを背後から囲んだ三人組のバンドが『コモエスタ赤坂』を奏でる。おおよそマニラで日本人が出入りするような高級レストランにはバンドがつきもので、この曲は決まって演奏される定番の一つだ。
店の中の席はまだ半分ほど空いている。誰が注目しているというわけでもないのだが、この習慣だけは駐在一年を迎えたいまでもどうしても馴染《なじ》めない。身の置きどころに困るというのは、まさにこのことだ。
瀬島は、ギターを鳴らし声を張り上げる三人の男を見ながら、ビールの入ったグラスを静かに傾けると、左側の席に座る鳥河《とりかわ》麻里《まり》をちらりと見やった。ベージュのブラウスにワインレッドのスカートを穿《は》いた麻里は、マニラに腰を落ち着けて二年。日頃はUPに研究員として籍を置きながらフィリピンの国情を調査しているといった、いささか変わった経歴の持ち主だった。さすがにここでの生活歴が自分よりも長いだけあって、自然な笑みを浮かべながら、この儀式が終わるのをじっと待っている。麻里の前には瀬島に付き合ってオーダーしたビールのグラスがほんの少し口をつけたまま置かれている。
「デルコーラーソーン」。男たちが甲高いハーモニーと共に『コモエスタ赤坂』を歌い終えると、間髪を容《い》れず曲は『昴《すばる》』に変わった。
瀬島は、軽く肩を竦《すく》めると麻里を見た。両目を一度、意識的に瞬きさせて麻里が応《こた》える。こうなったらこの曲が終わるまで、じっと曲の旋律に身を任せるしかない。第一、耳元で奏でられる音楽の中で会話を交わすのは至難の業というものだ。
瀬島はポケットから二十ペソのチップを取りだすと曲が終わるのを待った。
気配でその意図が麻里にも伝わったらしい。ギターの最後の余韻が残っている間に麻里は上品な手つきで拍手を送った。すかさず一番近いところにいるバンドマンにチップを握らせてやる。
「サンキュー・サー」
バンドマンは礼を言うと次のテーブルへと移って行った。
「やれやれ、どうもこのバンドの習慣だけは馴染めない。できることならご勘弁願いたいものだね」
「でも彼らにとっては生活がかかっているんですもの。しょうがないわ」
「それは分かっているさ。でも、週末の夜をカップルで過ごしている席を邪魔するなんて、無粋だよ。東京じゃ考えられない」
「おあいにくさま。ここはマニラ。東京じゃないわ」
「その通りだ」
二人は目を合わせると、密《ひそ》やかな声で笑った。
麻里と出会ったのは昨年の末、日本大使館で開催された天皇誕生日のパーティの席でのことだった。大使館主催で行われるこのパーティには、フィリピンに進出している主だった企業や、政府外郭団体、報道機関の駐在員、それにフィリピンの政財界の人間たちが招かれる。飛鳥物産はフィリピンに進出している総合商社の中でも、最も多くの駐在員がおり、本来ならば瀬島のような若手社員が出席するようなものではなかったが、『これも経験だ』と言う支社長の一言の下、お供という形で列席することを許されたのだ。華やかな宴が続く中、支店長から紹介されたのが麻里だった。夫婦同伴が多いパーティの中で、身の置きどころのない独り身同士が親しく会話を交わすようになるまでさほどの時間はかからなかった。フィリピンの中にあっても、こと首都マニラに関して言うならば、若い女性が単身赴任していることは珍しい話ではない。航空会社、銀行、ホテル……。絶対数は少ないが、すでに社会構造が確立された先進国よりも、未《いま》だ社会のインフラが整わず発展途上にある国に魅力を感じ、自ら志願してやって来る女性もいるのだ。麻里もまたそうした人間の一人だった。
ショートカットにした髪。華やかなカクテルドレスから剥《む》き出しになった腕には日焼けの跡がうっすらとついているにもかかわらずそれを隠そうともしない。日頃の麻里の活動の度合が知れようというものだった。
「私は現場が好きなの。研究室にいてあれこれ文献をひっくり返していても、この国のことなんか分からないわ。だいたい政府の統計にしたって満足に整備されているとは言い難いんですもの」
そう語る麻里の目は、自分の生きる場所を見いだした喜びと自信に満ちあふれていた。どうやら常に現場に出ているせいで真っ黒に日焼けした自分に、他の駐在員とは違う匂いを嗅《か》ぎ取ったらしく、華やかな喧騒《けんそう》に包まれるパーティ会場の中で、いつしか二人はお互いのことを語り合うまでになっていた。
現在の仕事のこと。学校のこと。そして生い立ち……。
麻里の生い立ちを話すとすればこんな具合になるだろう。
小学校四年の時に父親の仕事でニューヨークに渡った麻里が、フィリピンに興味を持ったのは父親の転勤だった。その頃高校への入学を控えていた麻里は家族から離れそのままアメリカに一人残った。ニューヨークの郊外にある全寮制のプレップスクールに進学したのだ。そして迎えた最初の夏休み。マニラに赴任した両親の下を訪ねた麻里はそこで激しいカルチャーショックに襲われた。とうてい人が暮らしているとは思えないような鳥小屋よりも酷《ひど》い家屋。丸裸のまま路上を駆ける小さな子供……。アメリカにもスラムと言われる地域は多々あるが、それでもここまで酷くはない。まさにそこには人間の極限の暮らしがあった。
両親や兄弟が暮らす家に着いた時、その思いはますます強くなった。高いブロック塀で囲まれ、二十四時間ガードマンが厳重に出入りをチェックする広大なヴィレッジ。中にはゴルフ場もあれば学校や病院もある。広大な邸宅は緑の木々に覆われ、庭にはプールがある。四人家族に二人のメイド。マニラ支店長を務める父には専用の運転手までいた。この国のほんの一握りの特権階級と外国人だけで構成される租界地はまさに南国の天国以外の何物でもなかった。だが一歩その空間から出たところに現存する極貧の生活。この落差は一体何に起因するのだろう。麻里はそれから長い夏休みが来る度に時間のほとんどをこの国で過ごし、フィリピンやその周辺の国々についての勉強に費やした。それは高校を卒業し、ニュージャージーにある東部の名門、プリンストン大学に進学しても変わることはなかった。
いつしか麻里の中で『アジア』という言葉が自分のこれからの人生を賭《か》けるキーワードになっていた。そして卒業と同時にUPに研究員として籍を置くことを許され、望み通りこの国で将来に向けての第一歩を踏みだすことになったのだ。
「いずれはまたアメリカに戻って大学院で勉強して、国連の専門職としてアジアのために働きたいの」
溌剌《はつらつ》とした口調で話す麻里。そこからはかつて辛《つら》い別れを余儀なくされた大道寺諒子と同じ匂いが漂ってくるような気がした。オーナー会社の一人娘として掌中の珠《たま》のように育てられた諒子と、発展途上国のために身を捧《ささ》げようとする麻里とでは生き方という点に関していえば雲泥の差がある。だが身に染みついた育ちの良さは隠しようがない。瀬島は早くもその匂いを敏感に嗅ぎ取ったのだった。
麻里は魅力的な女性には違いなかったが、もうあんな辛い思いをするのは御免だ。
過去の苦い記憶が脳裏に蘇《よみがえ》った。瀬島は心の中で燻《くすぶ》り始めた小さな炎を消そうとした。
幸いなことにパーティは終わりの時を迎え、家路につく参加者も目につき始めた。話を切り上げるにはちょうどいいタイミングだった。
「鳥河さん。今日はとても楽しい時間を過ごさせていただきました。またお会いできる機会があればいいのですが……」
そう言いながら立ち去ろうとすると、
「瀬島さん。年末は日本にお帰りになるの」
麻里が訊《たず》ねてきた。
「いいえ、公休での帰国は二年に一度というのが決まりです。私はまだ赴任してきたばかりなので、年末年始はこちらで過ごします」
「そう、それじゃ明日のクリスマス・イヴは?」
「別に……何の予定もありませんが」
「それなら夕食でもご一緒しません? 明日から日本へ帰国するお友達が多くて、今年はクリスマスもお正月もこれといって予定がないの。もしご迷惑でなければ」
全く予期しなかった誘いの言葉だった。瀬島は一瞬言葉に窮したが、改めてそう言われてみると確かに年末のビッグイベントを一人で過ごすのも何だか味気ないような気がした。
「いいんですか。僕なんかで」
「もちろん」
そして初めて二人で夕食を共にしたのがこの『ゲルニカ』だった。たった二人きりのディナー。しかし麻里のことを知れば知るほど、自分とは全くの別世界に育った人間だということを瀬島は改めて思い知った。
時期が来れば大学院で勉強するために再びアメリカに戻ると麻里は言った。日本ならば学部を卒業し、そのまま大学院に進むのが普通だが、アメリカでは多くの場合二、三年程度の実務経験が要求される。いまフィリピンに来ているのはその要件を満たすためで、修士課程を終えた後は、博士課程に進み、その後は発展途上国のために一生を捧げるつもりだとも言った。自分にしたところで、数年すれば東京の本社に戻り、いずれは再び世界のどこかの国に駐在を余儀なくされることだろう。これからの麻里と自分の生き方を考えれば、その線が再び交錯する可能性は限りなくゼロに近い。
異国の地で、顔見知りとなりたまたま空いた時間を共有する。そう割り切ってしまえば、殺伐とした駐在員生活に少しの潤いを与えてくれる存在にはなるだろう。
瀬島は諒子との一件以来、トラウマとなっていまも心の中に残る自分の生い立ちを話す気になったのも、そうした気安さの現れであったのかも知れない。
父親の学歴や家柄……。能力とは別の尺度で計られ、不遇を余儀なくされていること。それがかつて愛し合った女性との間の障害になり別れてしまったこと……。
さすがに諒子が自分の子供を身籠《みごも》ったことまでは打ち明けなかったが、全てを話し終えた時、瀬島はいままで心の底に澱《おり》となって溜《た》まっていたものを吐きだしたような気がした。
「それはお気の毒だったわね」
無言のまま耳を傾けていた麻里が静かに言った。
「長く日本を離れていた君には分からないかも知れないけれど、家柄、学歴、職業……あからさまではないにしても複雑なマトリクスによって人間は値踏みされ、言われなき差別を受けるのが日本社会の現実というものでね」
「確かにそうした一面はあることは認めるけれど、少なくともこの国の人々の多くが置かれているほどに絶望的なものじゃないわ」
「そうかな」
「そうよ」麻里は断言した。「あなたが辛い目にあったことは事実かも知れないけれど、そもそも家柄なんてなんのあてにもならないわ。少なくとも人間を決める尺度の中には入らない」
「君には分からないよ」
「そんなことはないわ。第一そんなものに頼るのがいかに馬鹿げたことかは良く知っているもの」
麻里は目の前に置かれたグラスの中に満たされたワインで口を湿らした。その口調にはどこか怒りが込められているようだった。
「良く知っている?」
「ええ」麻里はこくりと肯《うなず》くと、新たな事実を話し始めた。「私の生まれた家、つまり鳥河は昔爵位を貰《もら》っていたいわゆる華族だったわけ。でもね、戦後の華族制度の廃止で、一夜にして没落。酷《ひど》い困窮生活に陥った。父はそうした中で育つことを余儀なくされた。当時のことですもの、たぶんあなたが経験してきたよりも酷い環境だったと思うわ。私もその頃の苦労話は子供の頃からいやというほど聞いて育ちましたからね。そして父も祖父も事ある度に言うのは、身分なんてものは何のあてにもならないってこと。ましてやいまの時代を生き抜くのはその人個人の能力でしかないわ。親がどこかのお偉いさんだからって、安穏とした一生が送れるわけじゃない。大体日本人なんて三代、四代|遡《さかのぼ》れば、ほとんどが何をしていたか分からないんだから。そんなつまらないことに拘《こだわ》るのはよしなさいよ」
麻里の言葉の一言一句が胸に響いた。堅く閉ざしていた心の封印が解け、胸が何倍にも膨らんでいくような解放感を覚えた。
だがその一方で、麻里がそう言えるのも華族制度の廃止に伴う没落という苦い過去を味わったからこそのもので、百五十年もの間、何代にもわたって家業を受け継ぎ、現在では一部上場企業の商社のオーナーとして君臨する大道寺の家にとっては、全く違った価値観の下で全てが判断されることを改めて思い知る気がした。
業界の中でも大道寺産業は手堅い商いをモットーとする会社として知られ、収益率は少額の口銭を量で補う総合商社の中にあっても群を抜いていた。そして何よりもあの会社が数多《あまた》ある同業他社と大きく異なる点は、従業員が野心というものを持つことを許されないということだ。どんなに出世しても専務、あるいは副社長まで。その地位に就くためにはひたすら大道寺の家のために働き実績を上げなければならない。
大道寺の家はまだ没落という辛酸を舐《な》めたことはない。戦後の財閥解体にも遭わなかった。それゆえにいまの時代にあっても血統というものをことさら重視し、組織の頂点に君臨するに相応《ふさわ》しくない者を排除しようとするのだ。
麻里の言葉は逆に、諒子との別れの根底にあったものをいまさらながらに思い知らせた。
――次の席に移ったバンドマンたちが新しい曲を奏で始めた。
「今夜は急に誘って悪かったかな」
「そんなことはないわ。この週末はこれといってすることもなかったし、瀬島さんとお会いするのも随分と久しぶりですもの。それに定収のない学生ごときには、こんな店で豪華なディナーをおごってもらえるなんてラッキーだわ」
「よく言うよ」
屈託のない麻里の言葉に、瀬島は笑いを浮かべながらビールを啜《すす》った。
これといって予定のない週末と言うならば、自分にしたところで同じことだ。いつもならば真っすぐ家に帰りのんびりとするところだが、マリオを飲みに誘ったことが呼び水になったものか、たまには街で仕事を抜きに羽を伸ばしたい気になった。しかし一人で食事をするのもつまらない。そこで暫《しばら》く会っていなかった麻里を呼び出してみる気になったのだ。
「で、仕事のほうはどうなの。うまくいってる?」
「ああ、何とか……とはいっても些細《ささい》なトラブルは日常茶飯事。注意を怠るととんでもないミスをしでかしていることが少なくなくてね。本当に気苦労が絶えないよ。事実、今日だって配管のスペックが違っていることが見つかった上に、土壌改良の工程が予定通りに行っていないことが分かって、その事後処理にてんてこまいだった。それでもマリオが気がついてくれたから良かったようなものの」
「マリオねえ。UP出身のローカルスタッフだったわね」
「ああ、全く彼は良くやってくれる」
「でもUPを卒業して日本企業に入るなんて珍しいわね。それほど優秀な人なら同じ外資系企業に職を求めるにしても、欧米系の会社につきたがるものなんだけど」
「まあ、職を得られたというだけでも良しとすべきところなんじゃないかな。何しろUPを出たといっても、まともな職にありつくのは難しいからね。カラオケ屋のホステスにしても、UPの学生だっているんだぜ」
「あなた、カラオケ屋になんか良く行くの?」
麻里が意地の悪い質問をしてきた。
「そりゃ、日本から来た出張者の接待や、こちらの駐在員の人との付き合いもあるからね。これも仕事のうちさ」
「でも、本当にUPの学生なのかしら」
「実際に学生証を見せるんだぜ」
「この国じゃそんなもの偽造するのは造作もないことよ」
「かもね。まあ、真偽のほどはともかくとして、とにかくそれだけ職を求めるのが難しいってこと」
「確かにね。でもそのマリオ君にしてからが、それほど優秀なら、いずれはどこか別の欧米企業へ転職するつもりかも知れないわね。何しろ日本企業じゃ一生現地雇用の下働きでしかないんだから」
「たぶん君の推測は正しいだろう。そうなったら喜んで送りだしてやるつもりさ。レコメンデーションが必要ならばそれも書いてやるつもりさ。もっとも僕がいる間に、そんなことが起きないことを祈ってはいるけどね」
「正直で中々よろしい」
麻里は戯《おど》けた口調で言うと、くすりと笑った。
「で、君のほうは。何か変わったことなかったの」
「まあ、仕事のほうは相変わらずと言ったところね」
ボーイが頃合いを見計らってワインを運んで来た。チリ産の赤ワインだ。テイスティングを済ませると二人のグラスがルビー色の液体で満たされた。
「そうそう、変わったことって言えば、この間変なダイレクトメールが来たの」
「ダイレクトメール? どんな」
瀬島はワインで口を湿らすと訊《たず》ねた。
「『あなたの卵子を売ってくれませんか』って」
明らかに麻里の顔には不快な感情が見て取れた。
「君の卵子を? 何でまた」
「もちろん不妊治療のための卵子よ」
「確かにアメリカあたりじゃ、不妊治療のカップルに卵子を提供するドナーを有名校の女子学生に求めているって話は聞いたことがあるけど」
最近ではこの手の話を耳にするのはそう珍しいことではない。欧米の週刊誌や新聞、それにケーブルテレビから流れてくるニュースには頻繁に登場する話題の一つだ。
「これがアメリカにいる頃なら話は分からないのではないけれど、フィリピンでこんなDMを貰《もら》うとは思わなかったわ」
「どこの会社がそんなものを送ってきたんだい」
「差出人はニュー・イングランド・ファーティリティ・メディカル・アソシエイト……」
「それはアメリカにある機関なの?」
「みたいね。もっともアドレスはボストンの郵便局の私書箱を使っているから、正確には分からないけれど……ただ機関というのはどうかしら。少なくともアメリカには不妊治療のための公的機関なんてないもの」
「第三者から提供される卵子を使っての不妊治療は全てが民間のものだものね」
「そうなの」麻里は続けた。「それに何よりも驚いたのはその報酬額よ」
「いったい幾らだっていうんだい」
「二万ドル……」
「二万ドル? 米ドルかい? それ、ペソの間違いじゃないの」
「間違いないわ。米ドルで二万。それで卵子を提供してくれないかっていうのよ」
「そりゃまた、随分法外な金額だな。卵子提供者に支払われるのは、確か数千ドル程度だったと思うけど。どこの金持ちを相手にしてのことかは分からないけれど、元値にそんな金をかけていたんじゃとてもビジネスとしては成り立たない。いくらアメリカでもね」
「私もそう思うの。あなたの言うように、アメリカの不妊クリニックに行けば、それこそドナーのリストが経歴、体型、それに写真までついたパンフレットが用意されていて、どんな遺伝形質を受け継いだ卵子を提供されるのか、レシピエントは自由に選ぶことができる。それこそカタログショッピングを楽しむような気軽さでね」
「それにしても、何でまたフィリピンにいる君のところにそんなものを送り付けてきたんだろう」
瀬島はワインを啜ると先を促した。
「そこが私も気になるの。どうして私のアドレスが分かったのかしら」
言われてみると麻里の疑問はもっともだった。実際のところ、フィリピンで働く日本人の住所を知ることはそう容易なことではない。もちろん個々が所属する会社には名簿が存在しないではないが、どこでも厳秘に値する扱いを受けるのが常だ。アジアの中では図抜けて裕福な上に、危機意識に乏しい――とはいってもここで生活する人間は別だが――日本人は金目的の誘拐の格好のターゲットになる。何しろこの国には活動資金を必要とする反政府組織やマフィアもどきがたくさんいる。そういった組織に連なる人間が自分の働くオフィスにいたとしても、何の不思議もない。まさに住所が知れることは身の安全に係《かか》わる重大事なのだ。
「銀行は?」
瀬島は住所の出処となりそうなところを次々に並べ始めた。
「可能性としてはないわけじゃないけど、日本の銀行を使っているし……」
「君の研究室の緊急連絡簿からとか」
「全員に配られているのは電話番号だけ。住所は記載されてはいないわ」
「君の友人の誰かから漏れた」
「その線から探ればフィリピン人の中にも友達はいるけど、あまり考えたくはないわね」麻里は眉を顰《ひそ》めた。
「君、プリンストンの同窓会名簿には現住所を記載しているの?」
「確か今年のイヤーブックには載っているはずだわ」
「だとすればその線が一番可能性としては強いんじゃないかな」
「まさか」麻里はかぶりをふる。
「いや、ことによるとその線が一番強いかも知れないぞ」
「どうしてそう思うの」
「いいか、卵子のドナーというのは誰でもいいというわけじゃない。さっき君が言ったようにクライアントは優秀な遺伝子を持つ卵子の持ち主を望むものだ。学歴、人種、容姿、あらゆる観点から完璧《かんぺき》を求める。つい最近もアメリカのニュースでハーバードの女子学生に卵子提供のDMが送付されたというのを見た記憶がある。ハーバードの女子学生に送られていたとすれば、プリンストンの女子学生にこの手のDMが送られていたとしても何の不思議もない」
「だったら、プリンストンの在校生に送れば事が足りるんじゃなくて。何もこんなフィリピンにいる私なんかに送る必要なんかないわ。あそこで勉強している学生は何も碧眼《へきがん》、金髪の白人ばかりじゃない。黒人もいれば、チャイニーズ、もちろん数は少ないけれど日本人の女子学生だっているし」
麻里の言うことも尤《もつと》もだった。
「日本人の女子学生は少ない、か……」
「もしかすると、日本人の卵子と特定してドナーを捜しているのかも知れないわね」
「日本人の? どうしてそう思う」
「アメリカでもオリエンタルの卵子は人気があるらしいの。中でも日本人の卵子提供者は圧倒的に不足している」
「日本人のものが不足しているだって? たくさんいるじゃないか」
「あなたが言った通り、子供を得る夫婦にしてみたら日本人であれば誰でもいいってものじゃないでしょう。アメリカには何をしているのか分からない、ふらふらしている日本人女性はたくさんいるけど、少なくともそうした女性たちは対象とはなりえない」
「つまり経歴のはっきりした遺伝子を受け継いだ卵子を欲している人間がいるってことかい」
「ええ。そうじゃないと、あんな奇妙なDMが、何で送られてきたのか、説明がつかないんですもの。しかも二万ドルなんていう法外な値段でね。子供を持つというのは、言わば一か八かの賭《かけ》に等しい行為なんだけど、他人の遺伝形質を受け継いだ卵子を提供されるとなれば、更に慎重になるものだと思うの。まるで物を買うような言い方で嫌なのだけれど、スペックを完全に満たしたものでなければ絶対に納得しない」
「その結果が二万ドルという値段というわけか」
確かに麻里の推測には説得力があった。他人の卵子を使って子供を得る。そういうシチュエーションになれば優れた遺伝形質を受け継ぐ子供を得たいと願うのは、親となる者なら誰しもが願うことだろう。誰の卵子でもいいというわけではない。だがその気になれば麻里が言うように、アメリカの卵子バンクにでも行けば、それこそ通信販売のカタログを捲《めく》るような気安さで、望む卵子を手に入れることができる。おそらく中には日本人の女性の卵子だってあるだろう。それにそのままアメリカに滞在して彼《か》の地で子供を産めば、国籍さえも手に入れられる。
考えがそこに至った時、麻里が言った『スペック』という言葉が妙に心に引っ掛かった。
「どうしたの?」
自分でも気がつかないうちに怪訝《けげん》な表情が顔に宿ったのだろうか。麻里が訊《たず》ねてきた。
「いや……何でもない」
どの程度のことまでかは分からないが、いずれにしてもプライバシーにかかわることが他人に漏れているというのはあまりいい気分がするものではない。不愉快なDMを受け取ったというだけでも、随分とナーバスになっているように見えるのに、思いつきに等しい言葉で不安を煽《あお》るのはいささか気が引けた。いかに大きな志を抱いて自ら望んで赴任してきたといっても、この地で女性一人で暮らすためには何かと気を配らなければならないことが山ほどあるのだ。
「いずれにしても、卵子を提供するかどうかはドナーが決めることさ。誰に強制されるものでもない。それとも、二万ドルという金は十分に考えに値するものなのかな」
わざと戯《おど》けた口調で瀬島は言った。
「馬鹿言わないでよ。確かに二万ドルは大金よ。それに不妊に悩む夫婦には同情するし、他人の卵子を貰ってでも子供を持ちたいという気持は分からないではないけれど、自分の子供が知らないところで人生を送っているなんて状況は、少なくとも私には耐えられない」
「だとしたら、そんなDMのことは忘れることだね。すでに君の中では決着のついた問題なんだから」
「そうね。そうするわ」
麻里はようやく笑顔を浮かべると肯《うなず》いた。
タイミング良く、ウエイターが銀のトレイに盛られた料理を運んできた。
「シーフード・パエリアをお持ちしました」
サフランで黄色に色づいた米からは仄《ほの》かな湯気が立ち昇っている。その上にふんだんに載せられた魚介類の匂いが漂ってくる。さすがにこの店の自慢料理の一つだけあって食欲をそそる。
「さあ、もう変な話はよそう。実は今日は昼をとり損なって腹ぺこなんだ。冷めないうちに食べよう」
瀬島は言うが早いか、銀のトレイに添えられたスプーンとフォークを小器用に操りながらパエリアを二つの皿に取り分け始めた。
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第三章 二〇〇〇年四月
ウイリアム・アンド・トンプソン研究開発センター
分娩《ぶんべん》台の上でアリシアは周期的に押し寄せてくる堪《こら》えようのない痛みに喘《あえ》いでいた。骨盤を内部から割られるような感覚。腰から大腿《だいたい》にかけての筋肉が軋《きし》みを上げる。内部から内臓が塊となってじわじわと飛びだしてくるような気がする。その力を吸収できない会陰部が、ピシリと音を立てて裂けた。
もうここに連れてこられて少なくとも四年近くの月日が経っているはずだった。時間――正確に言えば日にちだが――の感覚など、とうの昔になくなっていたが、皮肉なことに時の経過を知らしめたのは妊娠という事実だった。アリシアはこの間にすでに二人の子供を出産していた。一人の子供が体内から外に出るまでは十月十日……。医学に関してさほどの知識があるわけではないが、その程度のことは知っている。そしていま三人目の子供を産もうとしているのだ。インターバルの期間を加えれば、否《いや》が応でも見当はつく。
陣痛の間隔はほとんどなく、気が遠くなるような痛みが断続的に続く。頭上の横に延びた棒を固く両手で握り締めた。息を止め下腹部に力を込める。また少し胎児が産道を進むのが分かった。
息を継ぐ一瞬の間に、清潔な室内が目に入った。
近代的な設備が整った手術室。清掃は隅々まで行き届いており、医師たちもまた清潔な草緑色の手術着に身を包んでいる。自分の口をついて出る喘ぎ声に混じって空調の音が静かに響く。
本来ならばこんな恵まれた環境で子供を産むことができるのは、ごく限られた金持ちだけの特権だ。何しろトンドに限らず、貧困に喘ぐフィリピンの女性は国家が運営する保健所で子供を産むのが常だ。そこならば出産費用は一切かからない。だがその環境は劣悪を極める。出産に立ち会う医師は薄汚れた白衣を着ており、分娩室にも粗末な分娩台があるだけで満足な器具などありはしない。それもこれもそこで施される出産医療は、あくまでも通常分娩だけで、帝王切開を必要とする出産は有料となりその時点で民間の病院に回されることになっているからだ。
まさにこの国では出産は命懸けの行為にほかならない。
しかし、どこの誰とも分からぬ男の子種を植え付けられ、十カ月もの間体内で育て出産する――。妊娠の期間中も検査が繰り返され、いかに手厚い待遇を受けようとも、アリシアにとってそれは悪夢のような日々だった。そうして考えると、この近代的な医療設備が整った清潔な部屋はまさに地獄と言えた。
生まれ落ちた臍《へそ》の緒がついた子供を腹の上に載せてくれることもなければ、初乳を与えることも叶《かな》わない。産声を上げた子供は早々にどこかに連れ去られ、その姿を見ることすらできないのだ。
自分はただ子供を産むための道具としてここで飼われているのだ――。
アリシアは自分が何ゆえにここに連れてこられたのか、その意味をはっきりと悟っていた。その目的に気がついた二度目の妊娠の際には、自ら腹の中の子供を流産させることも考えた。激しい運動をするか、食事の際に用意されるスプーンやフォークの柄を局部に差し込み、小さな命を掻《か》き出してしまいたい衝動に何度襲われたか知れない。
だが、敬虔《けいけん》なクリスチャンであるアリシアにとって、たとえいかなる理由があろうとも、一旦《いつたん》宿った命を自らの手で奪うことは到底許される行為ではなかった。命は全て神の思《おぼ》し召しによって与えられるもの。堕胎は神に背く大罪以外の何物でもない。
アリシアはいつの間にか自分に課せられた運命を受け入れるようになっていた。自分にできることはただ一つ。ひたすら神に祈ることだけ――と。
一際激しい陣痛が全身を走った。新しい命がこの世に生まれ出ようとしている。その感覚をはっきりと感じながら、アリシアは呻《うめ》き声を漏らしながら歯を食い縛った。自然と下腹部に力が入った。会陰部が張り裂けそうな感覚。それが今度は急に収束へと変わる。腹が軽くなり、痛みが和らぐ。全身にみなぎっていたエネルギーの全てを使い果たしたような虚脱感と共に、意識が軽く遠のいて行く。
聞こえて来た元気な産声で我に返った。
誰の子供かは分からないが、紛れもない自分のお腹の中で育った赤ちゃん――。今度は体内で眠っていた母性で全身が張り裂けそうになる。
この子供は自分を求めて泣き叫んでいる。
アリシアは残る体力の全てを使い必死に頭をもたげ、泣き声のほうを見た。
草緑色の手術着が見えた。その胸元には羊水と血に塗《まみ》れた赤ん坊が抱かれている。ラテックスの手袋についた鮮血が生々しい。紫色の肌をした新しい命。顔は見えないが泣き声の合間に息をする度に臍の緒がついたままの柔らかな腹が激しく上下する。
「お願い! 一度でいいからその子を抱かせて!」
アリシアは声の限りに叫んだ。
だが医師は冷酷な一瞥《いちべつ》をくれると、無言のままくるりと背を向けた。傍らにいたもう一人の医師が白い布で赤ん坊をくるむと、そのままドアの一つに向かって歩き始めた。
「お願いだから! せめて顔を見るだけでもいいから!」
「静かに……これから産後の処置をしなければならない」
赤ん坊を取り上げた医師はマスク越しにくぐもった声で言った。感情というものが一切感じられない冷酷な声――。
自動ドアが鈍い音と共に開いた。赤ん坊を抱えた医師の姿がその向こうに消えると、ドアが閉まった。
我が身の一部を切り裂かれたかのような悲しみが込み上げてくる。赤ん坊への切ないほどの思慕の念、そして絶望感が全身を満たし、はけ口のない感情の爆発が嗚咽《おえつ》となって迸《ほとばし》る。
アリシアは声の限りに泣いた。たったいま生まれて来た子供が、どうか無事に育つようにとの願いを込めて――。
ウイリアム・アンド・トンプソン研究開発センターの地下二階はフロアーの全てが手術室になっていた。その一つはたったいまアリシアが新生児を出産した分娩室であり、その他の部屋は大手術室を中心に、それを取り囲む形で三つの手術室がドアを隔てて繋《つな》がっていた。その日手術室の中は、異常な緊張感に包まれていた。中央手術室には執刀医と三人の介助者、それに麻酔医。立会人として、フレッチャーの姿があった。機械出しは通常看護師の役目だがそれも二人の医師が担当している。
三方の壁面には大きなガラス窓がはめられており、それぞれの手術室の中では、草緑色の手術着で身を包んだ医師たちがせわしげに動いている上半身が見えた。
フレッチャーは、腕組みをした姿勢で三つの窓を順番に見やった。執刀を担当する三人の医師が、ガラス越しに目で合図を送ってくる。
準備は全て整った。いつでもどうぞ。
マスクの上から覗《のぞ》いた目がそう告げていた。
「よし。それじゃ始めようか」
フレッチャーが静かに言うと、中央手術室の扉が開き、ストレッチャーが車輪の回る軽やかな音と共に運び込まれてきた。その上に乗せられていたのは首から下をシーツで覆われ、体の三箇所を革のベルトで固定された少年だった。黒い髪はキャップで覆われ、すでに導入麻酔がかかっているせいだろう、その下から焦点が定かではない虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》が、それでも恐怖の色を浮かべながら医師たちの姿を見渡すのが分かった。
介助者の一人が革のベルトを外し、少年の体を覆っていたシーツをはぎ取った。何一つ身に着けていない少年の裸体が露《あらわ》になった。染み一つない小麦色の肌には張りがあり、四肢の骨に沿ってしなやかな筋肉がへばりついている。股間《こかん》には僅《わず》かに生え始めた黒い陰毛が薄い陰影を形づくり、縮んだペニスが突き出ている。歳の頃は十三歳ぐらいだろうか。体が自由になったところで、少年は力なく片手で空を掻いた。
だがそれも空《むな》しい努力だった。少年の体がストレッチャーから手術台に移されると、麻酔科の医師が、血圧、脈搏《みやくはく》、呼吸数を計測する機器を手際よく体に装着していく。一連の作業が済むと、透明なプラスチックでできたマスクが少年の口と鼻を覆った。
「本麻酔に入ります」
麻酔科の医師がマスクの下からくぐもった声で言うと、笑気ガスを送り込んだ。その言葉の意味を理解していたとはとうてい思えないが、少年が一瞬息を止めるのが分かった。だがそれも長くは続かない。やがて大きく胸が膨らむと、マスクの中が呼吸音で満たされた。二度、三度……。少年の目蓋《まぶた》がゆっくりと落ちた。
心拍数を告げるモニターの甲高い音が静かな室内に響く。
「血圧、脈搏、呼吸数とも問題ありません。いつでもどうぞ」
麻酔科の医師の言葉に、フレッチャーは肯《うなず》くと、「OK、ドクター。始めて下さい」
執刀者に向かって静かに言った。
「手術《オペ》を始める――」
執刀者の重々しい言葉が手術室に響いた。介助者たちが、その言葉に反応しそれぞれの位置につく。一瞬、全ての動きが止まり、張りつめた緊張感が頂点に達する。無影灯の光は少年の小麦色の肌を鮮明に捕らえている。酸素マスクの中に籠《こも》る呼吸音と共に、その胸が一定の呼吸で緩やかに上下する。
ふと無影灯のほうに目をやると、そこには一台のテレビカメラが設置されていた。視線を三方の壁にはめ込まれたガラス窓に転じた。いずれの部屋の医師たちも、部屋の片隅に置かれたテレビモニターを凝視して動かない。
「メス――」
執刀者の声で、フレッチャーは視線を戻した。プラスチックの柄の先に取り付けられた刃が、無影灯の明りを反射して冷たい光を放った。メスを入れる前に一度大きく呼吸をしたせいで、刃が微《かす》かに上下する。そして一瞬の間を置いて、鋭い刃の先が少年の胸骨の上部中心に入った。メスは躊躇《ためら》うことなく一気に下腹部に向けて一直線に進んだ。鮮血が盛り上がると、その後を追って流れ出す。薄い皮膚の下には僅かに黄色い脂肪がへばりつくようにあり、さらにその下から薄いピンク色の肉が覗いた。介助者たちが、それぞれの役割を一言も発することなく黙々とこなしていく。腹筋鉤《ふつきんこう》がかけられると、腹の中の臓器が露になった。肋骨《ろつこつ》の下には、暗褐色の肝臓がぬめりを帯びた光を放ち、空っぽの胃、それに緩やかな蠕動《ぜんどう》を繰り返す腸が見える。
フレッチャーは露になった少年の腹腔《ふくこう》内を身を乗りだして見た。少年の肝臓に何の問題もないことは事前の検査で分かってはいたが、改めて自らの目で確認するとその状態に満足した。
健康な臓器を順次摘出し、隣接する三つの手術室でいまや遅しと待ち構えているそれぞれのチームに渡す。それがこの手術の目的だった。もちろん目の前の少年は命を失うことになりはするが、そんなことは些細《ささい》な問題だ。どうせ、一生をスラムという絶望と貧困に支配される社会の底辺で暮らすことを余儀なくされる運命《さだめ》に生まれてきた子供だ。生きていてもこの社会に名を残すことなどありはしない。だが体を構成する臓器だけは別だ。貧富の差にかかわらず人体の構造は皆同じときている。一定の要件さえ満たせば、ドナーがたとえスラムの人間であろうとも、犯罪者であろうとも、立派に役に立つ。
この少年にしても、劣悪な環境の中で暮らすうちに病に冒され、満足な医療もうけられないまま一生を終えるのが関の山だ。
絶望と貧困の中でしか生きる術《すべ》のない人間の臓器を取りだし、前途ある人間に移植してやる。それこそがもの[#「もの」に傍点]の有効活用というものだ。何しろ臓器移植が進んだアメリカにしても、移植を望む人間の数に比して、提供者の数は圧倒的に不足している。新鮮な臓器を手に入れるためには、ドナーの身に振りかかる突然の不幸、そしてレシピエントにとってはよほどの幸運を待たなければならない。それはまさに神の気まぐれに頼るとしか言い様のない偶然性の産物だ。いまこうしている間にも、多くの臓器不全に悩む患者たちが生命の灯火を消していくのだ。
そうしてみると、この国はまさに生体移植のドナーの供給源としては、理想的な条件を備えている。何しろ貧困に喘《あえ》ぐ者の常で、子供は湧いて来るように次々と生まれてくるうえに、戸籍すらはっきりしないときている。路上で裸に等しい――実際には素っ裸の子供も少なくないのだが――子供が、あるいは路傍の物売りで僅かな金を稼ぐ少年や少女が突然姿を消したところで大した問題になりはしない。もちろん、子供や家族が行方不明になったとなれば、騒ぎにはなるだろう。だがスラムから人が一人消えた程度のことでこの国の警察が本気で捜査をすることなどありえない。自分たちの影響力は警察はもちろん、重要な機関と密接に結びついている。この施設が司直の手入れに遭う可能性はゼロ。何が行われているかということすら詮索《せんさく》されることもありはしない。
こうして見ると人の体には捨てるものがほとんどないことをフレッチャーは改めて思い知った。まさに宝の山だ。一日数十ペソやそこらを稼ぐ子供をばらせば、一度で数百万ドル単位の金になる。それはここに集まった欧米やフィリピン国内からかき集めた医師たちに十分な報酬を支払って余りある立派なビジネスだった。その上、我々は新薬の開発に必要な重要なデータを手にすることができる。まさに一石二鳥。これほど条件の全てを満たす国はそうありはしない。この計画をしたためたビジネスプランを目にした会社の上層部が一も二もなくGOサインを出してきたのも、無理のない話だ。
目前では執刀医が見事なメス捌《さば》きで、少年の体を切り開いて行く。生命維持に注意を払う必要のない臓器を摘出する手術などブロイラーの解体と同じようなものだ。緊急度が要求される臓器を次々に取りだす。その順番は決まっていて、まず最初に心肺、次に肝臓、腎臓《じんぞう》、膵臓《すいぞう》の順に摘出され、それはただちに隣室に控える移植チームの下に運ばれる。皮膚や角膜はそれからゆっくりやればいい。
骨と肉だけになった骸《むくろ》は、施設の中にある焼却炉で骨にしてどこかのジャングルの中にでも捨ててしまえば土に返る。
胸骨が外されると、いよいよ心肺の取りだしに入る。
フレッチャーは腕組みをすると、仁王立ちの姿勢で執刀医の作業に集中した。
心臓の移植だけをとってみても十二時間からの時間を要する。長い一日はまだ始まったばかりだった。
告知
焦点の定まらない視界に見慣れぬ天井が見えた。すぐ頭の上からは、煮えたぎったサイフォンの泡を思わせる音が間断なく聞こえてくる。頭が重かった。指先に力を入れてみたが、どこか感覚が曖昧《あいまい》ではっきりしない。口と鼻がマスクで覆われているのに気がついた。
ゆっくりと視線を転じてみると、ベッドサイドには心配そうに顔を覗き込んでいる母の姿があった。
「気がついたのね、諒子」
母は安堵《あんど》の色が混じった優しげな口調で話しかけてきた。
「ここは、どこなの」
「メトロポリタン・マタニティ・クリニック……新城先生のところよ」
「どうしてこんなところにいるの……」
自分の声がどこか遠く聞こえる。まるで夢の中にいるようだった。
「あなた、卵管破裂を起こしたのよ。大変な出血をして、危うく命を落とすところだったの」
「卵管破裂?」
諒子はまだ呂律《ろれつ》がはっきりしない口調で訊《たず》ねた。慎一《しんいち》を連れて、実家のキッチンに立っていたことは覚えている。そこで突然下腹部に激しい痛みが走った……。だがその後のことは記憶がない。
「子宮外妊娠をしていたそうよ。あなた、気がつかなかったの」
ともするとまた深い眠りに落ちそうになる意識を必死に維持しながら考えた。確かにそう言われてみれば、思い当たる兆候がなかったわけではなかった。生理は遅れていたし、乳房が張るような気もしていた。体調もすぐれなかった。少なくとも月のものが遅れるのは、この一年間の間しばしばのことだったし、体調が悪いのもいまに始まったことではない。それもこれも全てはいまや命にも代えがたい存在である息子の慎一が抱えている病のせいだ。拡張型心筋症――特発性心筋症の一つであるこの病は、心筋細胞が変性して質が脆《もろ》くなる、あるいは線維化して心臓本来の役割である血液を送りだすポンプ作用が低下し心不全を起こす、厚生労働省の特定疾患(難病)にも指定されている病だ。まだ幼い子供の顔はむくみ、常に呼吸困難に晒《さら》されていた。医師から処方された薬を飲み続けてはいても、心不全の発作はいつ襲ってくるかも知れず、一時たりとも目を離すことはできない。
瀬島との辛《つら》い別れを余儀なくされた翌年、まだ大学を卒業しないうちに諒子は見合い結婚していた。
夫である祥蔵《しようぞう》と結婚したのは、決して愛情を覚えたからではなかった。瀬島との間にできた子供を堕胎して以来、諒子は恋愛と結婚というものは全くの別物であるということを思い知った。大道寺の家の、たった一人の娘として生まれた――、自分に課せられた運命《さだめ》の重さを悟ったのだ。
少なくとも世間では当たり前の自由な恋愛をして、伴侶《はんりよ》となる相手を選ぶ自由はありはしない。本当に心から愛したと言えるのは、瀬島だけ。その気持は別れた後でも変わることはなかった。
そんな気持になったところに持ち込まれたのが祥蔵との縁談だった。
釣り書を見る限り、申し分のない家柄と学歴。それに職業も大手都市銀行の海外投資顧問部ときている。二十七歳という年齢から見て、銀行の中でも将来を嘱望されている身には違いなかった。将来の大道寺産業を背負って立つ人間の資質も十分にあると思われた。
何よりも結婚を決意させるに至った最大の理由は、瀬島への想いを絶ち切るため。それに両親がもろ手を上げてこの縁談を進めたがったことだった。おそらく両親にしてみれば瀬島のような男と付き合い始め、再び妊娠でもするようなことがあればもはや取り返しのつかないことになる。そうした気持もあったのだろう。
自分はこの家を継ぐに相応《ふさわ》しい跡取りを、産み育てることを嘱望されているに過ぎないのだ。
そう考えると、この縁談を断る理由などなかった。諒子に異存がないと分かると、縁談はとんとん拍子に進んだ。相手を見極める交際期間などないも同然のことだった。婚約、結納、そして華燭《かしよく》の典……。それから一年の後に生まれたのが慎一だった。
男子の誕生は大道寺の家にとって、最高の福音以外の何物でもなかった。慎一が誕生してからも、瀬島に覚えたような愛情というものを祥蔵に対して覚えたことはなかったが、実の血を分けた子供は別だ。
ましてや一度は心から愛した人の子供をたとえ本意ではなくとも中絶したのだ。諒子は、この世に産声をあげることなく葬り去られた子供の分まで惜しみない愛情を慎一に注いだ。順調に発育していく我が子の笑顔を見る度に、忌まわしい過去の思い出が癒《いや》されていく。少なくとも慎一の世話を焼いている間は諒子は最高の幸福感に満たされた。
だがそれも長くは続かなかった。一歳を過ぎた頃に発症した病。
拡張型心筋症――。深刻な顔をした医師の口から告げられた病名を耳にした瞬間、諒子は絶望の淵《ふち》に突き落とされた。病との格闘の日々が始まった。お金はいくらかかってもかまわない。最高の医師の手による最高の治療を施すべく必死になった。
だが、慎一の容体が徐々に悪化していくのは明らかだった。やがて医師から告げられた『心臓移植以外には決定的な治療法はありません』の一言――。しかし、こればかりはお金で解決できる問題ではない。人間一人に一つしか与えられていない臓器。その提供を受けることは、一つの生命の終わりを期待しなければならない。よしんばそうした臓器が目の前にぶら下がっていたとしても、日本では十五歳以下の臓器移植は認められていないという。
考えが行き着く先は一つしかない。海外にそのチャンスを求めることだ。
諒子は寝食を忘れて、その看護と移植の手だてを求めて必死になった。精神的にも肉体的にも辛い日々が続いた。かつては定期的にあった生理も不定期になった。妊娠の兆候に気がつかなかったのは迂闊《うかつ》といえば迂闊だったかも知れないが、我が身を振り返る余裕などありはしなかったのだ。
「赤ちゃん、駄目だったの……」
諒子は母の問い掛けに答えずに訊ねた。
「残念だけど……ね」母はそっと目を落とすと言った。「でも、またがんばればいいのよ。健康な体になればまた赤ちゃんは産めるわ」
「本当に? 大丈夫なのかなあ」
ふと見ると、腕には二本のチューブが伸びており、輸液と輸血がされていることが分かった。母の手が腕を優しく撫《な》で、掌《てのひら》を握ってくる。久しく忘れていた温もりを感じると猛烈な睡魔が襲ってきた。
「大丈夫、何も心配することはないから……ゆっくりお休みなさい」
「慎一は?……慎一はどうしている……」
「登喜子《ときこ》さんが見ていてくれるわ。あの人ならあなたも心配ないでしょう」
登喜子とは、大道寺の家に長く勤める家政婦の一人だ。慎一が生まれてから、諒子と一緒になって慎一の面倒を見てくれる最も信頼できる人間の一人だった。
「そう……登喜子さんが……」
「だから、心配しないで……早く良くなるのよ……」
母の声が遠くで聞こえる。再び闇が訪れた。諒子は深い眠りの中に落ちて行った。
「大道寺さん、どうぞお入り下さい」
診察室の中から男の声が聞こえた。大道寺祥蔵は腰を上げると、二度ノックしてドアを開けた。
部屋の中には白衣を着た新城がカルテにペンを走らせている。
「どうぞ、そこにお掛け下さい。すぐに終わりますから」
脂気のない髪にはキャップの痕跡《こんせき》が筋となって残っている。染み一つない清潔な白衣。スタンドの明りの中でせわしなく動く手は抜けるように白く、消毒液の臭いが漂ってくるような気がした。
人の体を切り開いた直後だというのに、どうしてこうも平静を装っていられるものなのだろうか……。
医師という職業にとっては当たり前のことには違いないが、祥蔵は不思議な思いに囚《とら》われた。いかに入念に洗い流したとしても、生き血の臭いはそう簡単に消えるものではない。
生体を切り開いた興奮と緊張が微熱のように体内に残る余韻――。それは肉を屠《ほふ》ることで生命を維持する肉食獣と、屠られる側との違いに似て、医師という職業を生業《なりわい》とする者には分からなくとも、彼らに運命をゆだねる人間であればこそ感じ取ることができるものなのだろう。
新城の横顔を見ながら、祥蔵はふとそう思った。
「お待たせしました」
ペンを静かに置くと新城がゆっくりとこちらに向き直った。
「この度は、家内がいろいろとお世話になりまして……」
上半身を折り曲げながら、祥蔵は頭を下げた。
「いえ、もう少し早く気がついていれば、こんな大事にならずに済んだのですが。危ないところでした」
「そんなに深刻な状況だったのですか」
「ええ、ここに運ばれて来てすぐに検査した時点で、子宮外妊娠という診断はつきましたし、腹腔《ふくこう》内に出血があることもすぐに分かりました」
「お腹の中で酷《ひど》い出血があったのですか」
「まあ、子宮外妊娠で卵管破裂を起こしたわけですからね、腹腔内で出血が起きるのは当然で、それ自体はさほど驚くことではないのです。ただ通常は子宮外妊娠を起こした部位、つまり奥様の場合ですと卵管の峡部にあたる部分を切除すれば済むのが、止血が極めて難しかったのです」
「つまりその峡部、ですか、その部分の切除だけでは済まなかったと」
祥蔵は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。不吉な予感が込み上げてくる。
「子宮外妊娠で卵管破裂を起こすと、奥様の例に漏れず急激に症状が現れるものでしてね。出血がひどい場合だと、そのまま放置すればショック状態におちいり生命が危険に晒《さら》されることも珍しくないのです。開腹して出血が止まらない場合に施す処置は一つしかありません」
息を止めて祥蔵は新城の次の言葉を待った。
「子宮の摘出です」
「子宮の摘出……それじゃ諒子は……」
「大道寺さん、ご理解いただきたいのですが、奥様の命を助けるためにはそれしかなかったのです」
「何てことだ……」
祥蔵は呻《うめ》いた。もちろん新城を責めるつもりなど毛頭ありはしなかった。子宮を全摘する。それが何を意味するかに説明はいらなかった。つまり未来|永劫《えいごう》にわたって二度と子供を産む機能を逸してしまったということだ。それは祥蔵にとって余りにも辛い宣告だった。
彼女との縁談が持ち込まれたのは、祥蔵が大手都市銀行に勤務して五年目、二十七歳を迎えた時のことだった。高名な医師であり研究者を曾祖父《そうそふ》に持つ祥蔵の下には、入行して二年も経った頃から多くの縁談が持ち込まれた。寮生活を送っていたせいで、家に帰るのは月に一度か二度あればいいほうだったが、その度に目の前には釣り書と写真が山と積まれた。父親は家電メーカーの社長。母方の祖父は地方ではあるが国立大学の名誉教授という家柄に相応《ふさわ》しく、どれもこれもが釣り書を見る限りにおいては申し分のない、いわゆる良家の子女ばかりだった。母親の勧めにしたがって、一応釣り書のことごとくに目を通しはするのだが、ただの一度も見合いをしなかったのは、身を固めるにはまだ早いという気持があったからだ。それにもまして、次々に持ち込まれる縁談は、時の経過に伴って相手の条件が目に見えて良くなっていくことに気がつくと、その気持はますます強いものになって行った。
考えてみれば、それも当然のことで、歳を重ねるほどに相手となる女性の対象年齢は広がり、それだけ選択肢の幅もまた広がっていく――。
釣り書の中の条件が良くなっていくのは、まるで自分の社会的価値がどんどんと上がっていくような気がした。売り時を焦って値上がりの途中で相手を選ぶよりは、高値に達したところで最高の条件の女性を選ぶことだ。
ひっきりなしに持ち込まれる縁談は、もはや祥蔵にとって自分の社会的価値を確認させる一つの指標以外の何物でもなかった。
だがそんな気持に変化が現れたのは、入行後まる三年を経た頃のことだった。銀行員の常で、最初に配属された首都圏の支店から、本店の海外投資顧問部への転勤が決まったのだ。
このまま行けば数年の国内勤務を経て、次は海外の支店勤務となる可能性が高い。そうなれば、少なくとも四年は日本へ帰ってこられなくなるだろう。帰国した頃には三十を越える。それに海外生活を一人で送ることなどできることなら御免こうむりたい。
本腰を入れて釣り書や写真を見だしたのは、その時からだった。数多《あまた》ある選択肢の中から、めぼしい相手を捜し何度か見合いをしたが、これが一生の伴侶《はんりよ》となるのかと思うと、相手の良い面よりもマイナス面が目についてしまう。結論を見いだせぬままにいた最中、飛び込んできたのが大道寺諒子との縁談だった。
東証一部に上場されている大道寺産業のことは良く知っていた。業務内容はもちろん、仕事柄、財務内容や人事構成、社風といったことまでもだ。代々続くオーナー会社ということもあって、バブル期の投資にもことさら慎重だったせいで、多くの商社が多額の債務に苦しむ中にあって、堅実な商いを行い、確実に利益を上げている優良企業だ。家族構成を見ると、子供は諒子一人しかいない。そこから婿養子を望んでいるらしいという推測はついた。多少の引っ掛かりはあったが、考えてみるとそれも悪い話ではない。それは大道寺産業を継ぐ人間、つまり次の代のオーナーを捜していると考えていいだろう。
銀行員としては順調なキャリア・パスを歩み始めていたが、少しのミスが一瞬にして将来の道を閉ざしてしまうのがこの職業の宿命というものだ。それに同期だけをとっても軽く百人を超える人間がいる。それが全てライバルであり、組織の頂点とは言わずとも、エグゼクティヴに名を連ねるのも容易なことではない。いや同期どころか、前後数年の入行組はことごとくライバルと見ていいことを考えれば、壮絶な出世争いを繰り広げなければならない。しかも現在の金融業界の状況を考えれば、銀行の再編成、つまり合併や他業種といった外的要因によって足元をすくわれないとも限らない。
そう考えると、この縁談はことさら魅力的なものに思えて来た。何しろ諒子と結婚することは、一部上場企業のオーナーの座を確約されたことにほかならないのだ。それに婿養子の件にしたところで、自分は三男。二人の兄はすでに結婚して家を継がねばならない理由はなかった。
加えて祥蔵をその気にさせたのは諒子の容姿だった。山ほど寄せられる見合い写真の中でも、彼女の容姿は図抜けていた。
この女が自分のものとなる。写真を一目見た瞬間から祥蔵はもう一つの男の本能が自分の中で目覚めて来るのをはっきりと感じたものだった。そして見合い――。実際に会った諒子は、どこか影のある印象を抱かせるものがあったが、写真で見た以上の美貌《びぼう》を持っていた。祥蔵は積極的に縁談を進めた。元よりお互いの家の状況は知り尽くした上で持ち込まれた縁談である。双方に異存がないとなれば、結婚に至るまでにさほどの時間はかからなかった。いやそれからのほとんどが結婚に向けての準備期間だったと言ってもいいだろう。出会いから結婚まで半年、帝国ホテルで千人もの列席者を集めた披露宴が行われ晴れて二人は夫婦になった。
目論みは狂わなかった。結婚と同時に銀行を辞した祥蔵は、大道寺産業の社長室長として迎えられた。そしてさらに一年後、二人の間に男子が生まれた。それは将来の大道寺を背負って立つ世継ぎの誕生だった。その子供、慎一に重い病が発覚するまでは……。
「子宮の全摘だけは何としても避けたかったのですが、とにかくそうでもしないことには止血ができなかったのです。あのままでは、奥様の命が危険な状況でした」
新城は気の毒そうな表情を浮かべながら繰り返した。
「いや、先生の処置に異議を唱えるつもりはないのです。ただもう、子供が産めない体になったかと思うと、それが残念で……」
「確か男のお子様がお一人いらっしゃいましたね」
「ええ、二歳になります」
「そうですか……」それがせめてもの慰めだと言わんばかりの新城の口調。
「ですが、家内にこのことをどう説明したらいいものか……」
「確かに子宮を全摘すると生理が起こらなくなります」困惑を、諒子が受ける精神的苦痛を心配してのことだと思ったのだろうか、新城は気の毒そうな眼差《まなざ》しを向けてきながら言葉を続けた。「それに妊娠もできません。そうした現実に多くの女性は自分が女ではなくなったという感じを持つものです。ですが子宮はいろいろなホルモンの影響を受けはしますが、ホルモンを分泌する器官ではありません。卵巣が残っている限り、ホルモンの分泌に変化が起こることはありません。それに膣《ちつ》は残っていますから性交渉の支障もありません」
「そうではないのです」
「と言いますと」新城が怪訝《けげん》な顔で聞き返して来た。
「実は、息子は深刻な病を抱えておりまして……」
「深刻な病?」
「拡張型心筋症です」
祥蔵は、力を振り絞るようにして病名を口にした。
「何ですって? そんな難病を抱えていらっしゃるのですか」
「ええ、それだけにもう子供が産めない体になったということを家内に何と伝えたものかと……」
「そうでしたか……存じ上げませんでした。ご子息が乳児健診で私のところへ来ていた頃には、そのような兆候は全く見られませんでしたが」
「発病したのは、一歳を過ぎた頃のことでしたので……」視線を落として祥蔵が答えた。そこからは重い病を抱えた父親の苦悩が見て取れる。
「拡張型心筋症といえば、治療のできる病院はそう多くありませんが、どちらにお掛かりですか」
「帝都大学医学部の循環器科に掛かっています。山瀬先生のところです」
当然その名前は知っていた。自分の母校である帝都大学の循環器科の教授だ。おそらく大道寺のことだ。諒子がここに来るようになったのと同様、セントラル・クリニックからの紹介だったに違いない。
「山瀬先生ならば間違いはありません。その分野では日本でも指折りの権威でいらっしゃる」
だが、そんな言葉は何の慰めにもならないことは分かっていた。そもそもが特発性心筋症は心臓病の二〜三%を占めるのに過ぎない。原因がいかなるものに起因するのかも分かっておらず、したがって根本的治療法さえ確立されてはいないのだ。
「ですが先生。この病はウイルス性の心筋炎の後遺症として起こるのではないかと考えられている程度で、はっきりとした原因も分かっていなければ、根本的な治療法はないと聞いておりますが」
我が子の病について必死に調べたものだろう、果たして祥蔵はいま自分が考えた通りのことを口にした。
「その通りです。特に心臓に親和性を持つのはコクサッキーウイルスとインフルエンザウイルスですが、ご子息は拡張型心筋症を発症する前に、風邪をひいたりしませんでしたか」
「特にそのようなことはなかったと思います。先生、そのコクサッキーウイルスというのは何なのですか」
「医学的な話になりますが」新城は前置きをした。専門的な言語を使うのは患者や家族の知的レベルを考慮して話さなければならない。その点祥蔵は学部は違っていても、同じ帝都大学、それも文系では最難関の法学部の同窓生だ。ある程度の話にはついてこれるだろう。「コクサッキーウイルスはピコルナウイルス科、ピコは小さい、ルナはRNAの意味なのですが、エンテロウイルス属に分類されるRNAウイルスです」
「なるほど」
「このウイルスはA群とB群に分けられるのですが、このA群によって引き起こされるのがヘルペンギーナと言いまして、まあ言わば夏風邪の一種と考えていただいてよろしいかと思います。発熱と喉《のど》の痛み、多分一歳程度の幼児だと三十九度前後の発熱とともに不機嫌で食欲がなくなるでしょう。口の中を見ると、前口蓋弓《ぜんこうがいきゆう》から軟口蓋《なんこうがい》にかけての粘膜に、数個から時に数十個の灰白色の小水疱《しようすいほう》、掌や足の裏にも水疱ができることがあるのですが」
「風邪や水疱の有無に関しては、山瀬先生にも聞かれたと家内が申しておりましたが、やはりそのようなことはなかったと申しておりました。何しろ大事な跡取り息子ですから、異常があればすぐにお医者様のところへは連れて行くようにしていたので、三十九度どころか微熱でも大騒ぎする有り様で、私共が気がつかなくてもお医者様が見落とすとは考えられないのですが……」
「やはり帝都の方へ行ってらしたのですか」
「ええ……平井教授に診ていただいておりました」
祥蔵は恐縮したように体を折った。
「そうですか」
短い沈黙があった。祥蔵は上体を軽く折り曲げ、頭《こうべ》を垂らしたままの姿勢で動かないでいる。ふとその肩が小刻みに震えているのに新城は気がついた。
「先生」沈黙に堪えかねたように祥蔵は顔を上げた。その目から涙が流れ出している。「あの子は助からないのでしょうか」
今度は新城が沈黙する番だった。止むを得ぬ処置だったとはいえ、いまの大道寺にしてみれば、たった一人の子供が難病を抱えているうえに、新たな子供を授かる可能性さえなくしてしまったのだ。絶望感に打ちひしがれる心情は良く分かる。
「私は、循環器に関しての専門家ではありませんので……何とも申し上げられません」
苦しい言い訳であることは分かってはいたが、それ以上の言葉のかけようがなかった。
「心不全が起こる度に強心剤や利尿剤、血管拡張剤が投薬されます。これで不整脈が起きればペースメーカーを装着しなければならなくなるとも言われております」
「多分……」
「それでも、根本的治療とはいえず、いずれあの子は……きっと……」
祥蔵はそこまで言うと不吉な予感に怯《おび》えるように口をつぐんだ。
肩がいままでに増して大きく震えている。再び重苦しい沈黙――。突如、祥蔵が顔を上げると、
「先生!」
決然とした口調で言い放った。
「何でしょうか」
「聞けば海外、特に欧米ではこの病の治療として心臓移植が行われているとか」
「それは山瀬教授にお訊《たず》ねになったのでしょう」
「ええ……しかし、日本では十五歳未満の脳死による臓器提供は法律で認められていないと……私共としては、もしも心臓移植であの子の命が助かるというのであれば、アメリカでもオーストラリアでも、いくらかかろうとも出掛けて行く覚悟はあるのですが」
確かに山瀬教授の言うことに間違いはなかった。日本では十五歳未満の脳死による臓器提供は認められていない。もし認められていたにしても、帝都大学の心臓外科が心臓移植をやるとは考えられない。移植する臓器が新鮮であればあるほどいいにこしたことはないのは素人でも知っている。だがこの日本では脳死状態からの移植については、症例が少ないせいもあって、その判定を巡って論争が起きるのは毎度のことだ。医学的には死亡したことが確定しているにもかかわらず、痛くない腹を探られる。医学界の最高権威として君臨する帝都大学がそうした論争の中心となることは、何が何でも避けなければならない。事実、脳死判定に至るまでのガイドラインができ上がってもなお、東京で脳死状態に陥ったドナーの臓器は、わざわざ大阪や地方の大学病院に運ばれ移植されており、帝都系列の医師で構成される東京の病院では、症例がただの一つもない。
君子危うきに近寄らず――全く馬鹿げた話だが患者の治療、医学の発展よりも最高権威たるものの威厳を守るほうに、重きが置かれているのだ。
だが、そんな医学界の内輪話をしたところで、大道寺にはいささかの慰めにもならないだろう。第一この国では二歳の子供に臓器を移植することは法律で許されてはいないのだから――。
ふと、考えがそこに至った時、新城の脳裏の片隅で閃《ひらめ》くものがあった。確かにアメリカやオーストラリアでは、子供に対しての臓器移植が広く行われている。だが、脳死状態の、それも幼児ともなればそう簡単にドナーは見つからないだろう。たとえ年齢が同じだとしても、血液型を始めとする様々な要件を満たさなければならないのだ。そのチャンスを掴《つか》むのはまさに宝くじに当たるようなものだ。
幸い、大道寺には移植治療を受けるに当たっての費用の心配はない。いや、もしも移植によって大道寺を継ぐただ一人の子供となった息子の命を助けるためならば、金に糸目はつけないだろう。そう、もしかしたら、あの組織なら何か手だてがあるかも知れない――。
「大道寺さん……」無意識のうちに自分の声が低くなるのが分かった。その言葉に祥蔵が反応し顔を上げた。
「実はアメリカやオーストラリアでなくとも、手術を受けられる可能性が遥《はる》かに高い国がないわけではないのです」
「そんな国があるのですか。それはいったいどこです」すがるような祥蔵の目。
「秘密は絶対に守っていただけますか」
「もちろん。あの子の命が助かる可能性があるのなら、どこにでも行きます。費用はいくらでも出します」
「まだ確実にお約束できるわけではありませんが……」
祥蔵の喉仏《のどぼとけ》が上下するのがはっきりと見て取れた。まるで次の言葉を催促するように……。
「フィリピンです」
新城は一呼吸置いた後に静かに言った。
「フィリピン……」
祥蔵がその国名を心に刻むように復唱した――。
オファー
『ドクター・フレッチャー、お電話です。日本のドクター・シンジョウからです』
デスクの上に置かれた受話器を取り上げると、秘書の声が告げた。
新城――忘れもしない名前だった。もう四年前になるが、記念すべきマリア・プロジェクト初の優秀な卵子を提供してくれた医師だ。
「繋《つな》いでくれ」短い接続音の後に回線が繋がるのが気配で分かった。「ハロゥ」
『ハロゥ』
語尾にアクセントを置いた口調で相手が反応した。
「ドクター・シンジョウ、お久しぶりです。前にお電話を頂いたのは四年も前になりますかな」
『良く覚えておいでですね。光栄です』
新城の経歴は東京で産婦人科医院を経営する帝都大学出身の医師であること、かつて出身校の医局で講師を務めていた程度のことしか知らなかったが、見事な英語、それも米国|訛《なまり》のものを喋《しやべ》るところをみると、留学の経験でもあるのだろう。
「忘れるものですか。その節は優秀な卵子を提供していただいて感謝しております」
まだ一度も会ったことのない相手に向かってフレッチャーは、親しみを込めて言った。
『目的は十分に達成できましたかな』
「ええ、お陰様で。クライアントにも十分に満足いただける結果を残すことができました」
『というと、健康なベビーが生まれたのですね』
「その通りです。何もかもが順調でしたよ。こちらでの熟成も、クライアントの精子を授精させた後の胚《はい》の生育状態も問題ありませんでした」
『新生児の生まれた後の発育状態はいかがでした』
「それも問題ありません。正常な発育過程を辿《たど》っています」
母体となったアリシアが子供を産んでから、新生児はクライアントである米国人の夫婦に渡された。その後の発育状況は、研究所と繋がりのある産婦人科医、そして小児科医が定期的にモニタリングしている。
『授精の方式はICSIを使ったのですか』
「その通りです」
『世間で喧伝《けんでん》されているような問題は何も?』
新城が質問している意図はすぐに分かった。米国ではこの生殖技術によって生まれた子供が遺伝上の問題を抱えていたか否かの追跡調査は行われていない。だがベルギーとオーストラリア政府が一九九八年に発表したデータでは、この技術によって生まれた子供は自然出産に比べて、染色体異常が二倍も多かったとされる。さらに一歳児で比較すると、問題解決能力、記憶力、言語発達能力の点において、発達の遅れが見られたという。
「あの卵子を使った子供はもうすぐ三歳になりますが、健康そのものです。いや全ての点において平均を上回る発育を遂げています」
『胎児の卵子を使って新しい生命を創りだすことに成功した。本来ならば学会で発表すれば、大変なニュースになるところなのでしょうけどね』
「残念ながらそれにはまだ時期尚早というものでしょう。改めて言うまでもないことですが、ICSIを含めて人工授精そのものは社会的に十分に認知されたものには違いありませんが、胎児の卵子を使ったとなれば大騒ぎになります。いまの段階では密《ひそ》やかにやらざるを得ない。それが現実というものです」
『生命工学上の革命的な出来事なのに何とも残念なことですな』
「偉大な技術の出現というものは、世間の常識を上回るものであればあるほど、受け入れられないものでしてね。何もかも歴史が証明するように……」
『いったい毎日どれだけの胎児が闇に葬り去られているか。望まれぬ生命に新しい命を吹き込んでやるのにちょっと手を貸してやっているのに過ぎないというのに』
「それが世の中というものですよ。世界はほんの一握りの賢者と大多数の愚か者で構成されているのですから。科学の進歩を感情でしか理解できない連中がごまんといるのです。これだけ単純な理屈がどうして分からないのか腹立たしい限りです」
何も卵子だけではない。臓器だってそうだ。この世の中には、地位と名声、それに財力を手にしながら臓器不全の絶望の淵《ふち》に身を置く人間はたくさんいる。絶望と貧困に生きるしかない人間のそれを分け与えてやる。それのいったいどこに異を唱える意味があるというのか。
だが新城は胎児の卵子を使っての新しい生命の創出を知ってはいても、ここで行われているもう一つのプロジェクトのことは知らない。そう続けたくなるのをぐっと堪《こら》えて、
「ところで、ドクター・シンジョウ。今日はどういったご用件ですかな」
わざわざ電話をしてきたのは四年前の人工授精の結果を確かめるためではあるまい。フレッチャーは訊《たず》ねた。
『直接電話したのは他でもありません』
「何かいい卵子でも手に入りましたか」
『いいえ、そうではありません』新城は一呼吸置くと、『こんなことをドクター・フレッチャーにお訊ねするのは見当違いかも知れませんが、実はこちらで拡張型心筋症を抱えている子供がおりましてね』
「拡張型心筋症ねえ。それは厄介な病気ですな」
『クランケの容体はすでに予断を許さないところまできています』
「となると、根本的治療方法は心臓移植以外にないということになりますかな」
『その通りです』
何ゆえに新城が電話をかけてきたのか。その理由をフレッチャーの嗅覚《きゆうかく》はすでに敏感に察知していた。
「それで、私にどうしろと」
だがそんなことはおくびにもださず、落ち着いた声で訊ねた。
『残念ながら日本では十五歳以下の臓器移植は認められておりません』
「なるほど。で、クランケの年齢は?」
『二歳です』
「日本ではその年齢の子供が臓器移植のドナーを求めるのは、多くの場合アメリカかオーストラリアと相場が決まっているという記憶がありますが」
『ええ。しかしながらこの年齢の子供に心臓移植を施すドナーはアメリカやオーストラリアでもそう簡単に見つかるわけがない。成人のドナーでさえも難しいのに、二歳の幼児ともなれば尚《なお》のことね』
「確かにおっしゃる通りです」
『そこで、思い当たったのがフィリピンです。正確な医学統計が出ていないので、伝聞による知識で恐縮ですが、フィリピンでは臓器移植が広く行われていると聞きます。特に腎《じん》移植に関しては、自ら進んで売る人間もいるとか。そうした国情からすると、ことによると心臓の提供者もいるのではないかと、そう考えたわけです。失礼を承知でお訊ねするのですが、何かそうした情報をお持ちではいらっしゃいませんか』
フレッチャーは口元が自然とほころぶのを感じた。情報を持っているどころか、その手術を闇で行っているのがこの組織なのだ。
『ハロゥ……聞こえていますか?』
「失礼しました。余りに唐突なお訊ねだったので」
『やはり心当たりがありませんか』と、失望の色を隠せない新城の声。
「ドクター・シンジョウ」フレッチャーは、更に一呼吸置くと念を押すように訊ねた。「秘密は守っていただけますかな」
『もちろん。信じて下さい。第一私も胎児の卵子をあなた方に提供した人間の一人です』
「いいでしょう」フレッチャーは大きく肯《うなず》くと慎重に言葉を選びながら話し始めた。「率直に申し上げましょう。臓器移植に関して、お聞きのような噂があることは私も知っています。いや、噂どころかこの国では手に入らない臓器はないと言ってもいいでしょう」
『それでは心臓も?』
「心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓《すいぞう》、皮膚、角膜……手に入らないものなどありはしません。何でもご希望次第です」
『本当ですか』
「ええ。もちろん移植に際してはドナーとレシピエントの適合性の問題がありますから、それを確認しないことにはどれだけの待機期間が必要になるかは詳しいデータをしかるべき医師に見てもらわなければなりませんが、いずれにしても提供者を捜しだすのは時間の問題です」
『そんなに簡単にドナーが見つかるものなのですか』
「|見つかります《シユアー》」フレッチャーは一言の下に言い切った。「飛びきり新鮮な臓器が手に入ります。もっとも大金がかかりますがね」
『金ね。その点なら心配はありません』
いかにフィリピンとはいえ、命と引き換えに金を得ようとするものなどいるわけがない。だが、さすがに闇で卵子を提供する医者だ。臓器の入手方法や七面倒臭い質問などしてくる気配もない。
「心臓。状況によっては心肺同時移植ということも考えられますから、そうなるとかなりの金額になりますが」
『だいたいいくらぐらいが必要なのですか』
「そうですね。心臓で百五十万ドル。心肺同時ということになれば、さらに百万ドル。これはあなたへの謝礼も含めてね。もちろん滞在費は別ということになります」
欧米の病院で正規のルートで移植手術を受けようとしても、八十万ドルからの費用がかかる。もちろんこれは渡航費、手術費、術後の治療費、ドナーが現れるまでの滞在費を加味してのもので、当然いま言った費用は純粋な手術費だけの金額だ。しかしここにやってくれば間違いなく移植手術を受けられることを考えれば、決して法外な額とは言えないだろう。もちろんレシピエントの家族にそれだけの支払い能力があればの話だが……。
『結構です』
躊躇《ちゆうちよ》する間もなく新城の答えが返ってきた。
「それほどの大金をすぐに用意できるとなると、相当に裕福な方のお子様のようですな」
『ええ、何しろ相手は大道寺産業という日本の商社の跡取り息子ですからね。そのくらいの金はすぐに用意できるでしょう』
「謝礼は、十万ドルといったところですが、よろしいですか」
『もちろん――』
新城の満足そうな声を聞きながら、フレッチャーはレシピエントの名前にどこか聞き覚えのあるような気がした。
ダイドウジ……ダイドウジ……。
「ドクター・シンジョウ」
『何か』
「そのレシピエントの名前、ダイドウジというのをどこかで聞いた覚えがあるのですが」
『覚えておいででしたか』新城が微《かす》かに含み笑いをする気配が伝わってくる。『この子供の母親こそ、四年前にそちらに送った胎児から取り出した卵子の主です』
「何ですって!」
『驚かれましたか。これも何かの巡り合わせというものでしょう。新しい生命の種子を提供した人間の子供が、今度は新しい生命の享受者となる』
まさに新城の言う通りだった。皮肉といえばこれほど皮肉な運命の巡り合わせもあるまい。いやこの場合、レシピエントにとっては幸運といった方がいいかも知れない。
フレッチャーは身を乗りだすと受話器に向かって言った。
「ドクター・シンジョウ。その子供の検査データはいつ入手できますか」
『たぶん明後日には』
「結構です。入手でき次第すぐにそれをファックスして下さい。番号は――」
受話器の向こうで番号をメモする気配がする。それは外にいる秘書の番号ではない。この部屋の中に設置されたファックスへの直通番号だった。
新城がメモした番号を復唱した。間違いのないことを確認したフレッチャーは、
「ドクター・シンジョウ。この件に関してはトップ・プライオリティでやりましょう。データが入手でき次第、ただちに心臓の入手に向けて動き始めますから」
早口で言った。
「もしかすると、かなり早いうちに移植手術が可能かも知れません」
「驚いたな。まさかあのマリア・プロジェクトの第一号の胎児提供者の子供が心臓を求めているとはねえ」地下一階のボタンを押すと、エレベーター・ドアが閉まったところでノエルが言った。「で、適合性はどうだったんです」
東京の新城からレシピエントとなる子供の検査データが送られて来たのは、昨日のことだった。唸《うな》りを上げて排出される紙。受信が終わったことを告げる信号音が鳴り止まないうちに、束になった紙を掴《つか》むと、フレッチャーは早々にデータの検討に入った。心臓移植に関しては専門外だったが、この研究施設の性質上、適合性を確かめる程度の知識は十分にあった。さらにそれを移植チームのチーフに見せ、再度の確認作業を行っている。
「手持のストックは七体。うち候補となるのは二体あった」と、フレッチャー。「血液型はA型のRH+。体重も許容の範囲内。抗体検査の結果もね」
「それじゃその二つのうちのどちらかということになりますね」
「いや、一体の男児の方は心臓が大き過ぎた」
フレッチャーは手にしていた一冊のファイルの一ページを開くと、ノエルに差し出した。
「同時期に生まれているのに、やはり男児と女児の違いなんでしょうかね」
「まあそういったところだろう……もしもあの時のクライアントが女児を望んでいたらこうはすんなり事が運ばなかっただろう」
「今回のドナーとするのは、アイリーンですか」
「そういうことになる」
この施設で生まれた子供には、アルファベット順に西洋風の名前が自動的に付けられることになっていた。アイリーンは三年前に、かつてアリシアに施されたのと同じ手法で、攫《さら》われて来たスラムの娘が産んだ子供だった。
データに目を通すノエルがせわしげにページを捲《めく》る。
「おや」
その声に思わず反応したフレッチャーの前で、ノエルはファイルの一ページを凝視して固まっていた。
「どうした」
「驚いたな」
「何が?」
「いや、このアイリーンを創る[#「創る」に傍点]に当たって使用した卵子ですよ。気がつかれませんでしたか」
そう言われれば、自分はドナーの候補を選ぶに際して、副産物として生まれたストックの中から年齢、体重、その他の適合性という医学的見地を以《もつ》て判断しただけで、それが誰の卵子を用いて創られた子供かは確認していない。
ノエルはこれを見ろとばかりに無言のまま、目の前にファイルを突きだしてきた。指で指し示された欄には数字とマルファベットが並んでいる。
卵子識別番号:1996―01―07―97―MAR
この記号の意味するところは一九九六年に採取された第一号の卵子を用いた七回目の移植によって生まれた子供。その移植年月日、つまり受胎月は九七年の三月。つまり冷凍保存された卵子が使われたことを意味していた。
「それが何か」
「一九九六年の第一号卵子といえば、それこそ日本から送られてきたものですよ」
「あっ!」
ノエルが言わんとするところに気がついたフレッチャーは思わず驚きの声を上げた。日本から送られてきた卵子といえば、それこそいま移植する心臓を求めている子供の母親が、かつて堕胎した胎児のものということになる。
こちらをじっと見つめるノエルと目が合った。その顔が不敵な笑いで歪《ゆが》んだ。それにつられるように自分の顔に笑いが広がって行くのが分かった。
次の瞬間、狭い空間は二人の笑いで満たされた。
「こいつは面白い。つまり今回行う心臓移植手術は世代をまたがった間で行われるってことになるのか」
「そうですよ、ドクター・フレッチャー」肩を揺らしながらノエル。「こんなケースは間違いなく世界初のことでしょう」
「前代未聞だな」
「そりゃそうでしょう。心臓の移植を待ち望む子供の血縁者が脳死に陥るなんて偶然はそう起こることじゃありません。よしんば起きたとしても、年齢差による心臓の大きさ、血液型、全ての条件が満たされるなんてまず考えられない。まあ双子であったなら話は別でしょうけどね。しかしそんなことが起きる確率は限りなくゼロに近い」
「これも胎児の卵子を使って新しい生命を創ることができればこそのことだ」
エレベーターが止まった。ドアが開くと広い空間が開けた。二人は笑いの余韻を残しながらリノリウムの廊下を歩き始めた。
蛍光灯の寒々とした光が長い空間を満たしている。左側はコンクリートの壁。右側には一定の間隔で鉄のドアが並んでいる。
その一つの前に行き着いたところでフレッチャーは足を止めると、壁に設置されたインターフォンを押した。
「ドクター・フレッチャーだ。開けてくれ」
中からロックが外される音がすると、鉄のドアが静かに開いた。一人のフィリピン人の中年の女性が姿を現した。愛想笑いを浮かべる女を無視して中に入った。背後でドアが閉じられる音がした。部屋の中はまるでどこかの託児所のような様相を呈していた。赤ん坊の泣き声、幼い子供があげる無邪気な歓声――。違和感を覚えるものがあるとすれば、そこから些《いささ》かの言葉らしきものが聞こえてこないことだろう。
ここにいる子供たちには言葉も必要なければ、成長過程に施される教育というものも必要ない。ただひたすら健康体を維持し、来るべき日に備えていればいいのだ。
何しろ、そう遠くないうちに臓器提供のためのドナーとして屠《ほふ》られる運命にあるのだ。五体満足でいてくれればそれでいい。
フレッチャーは部屋の奥に設けられたプレイルームへと歩を進めた。そこには五人ほどの幼子が積み木やブロックといった玩具で遊んでいる。
「アイリーン。アイリーン」
フレッチャーは無心に遊ぶ子供たちに向かって優しい口調で声を掛けた。何の教育も施されていなくとも、自分の名前だけは覚えているらしい。つまり犬が自分の名前を呼ばれて反応するのと同じことだ。ブロックで遊んでいた一人の女児が顔を上げた。
肩まで伸びた黒い髪。抜けるように白い肌。そして愛らしい瞳《ひとみ》がじっとこちらを見つめている。遠からず自分に振りかかる運命など何も気がついていない無垢《むく》な光がそこには宿っていた。
「君がアイリーンか……いい子だ……」
フレッチャーはその場にかがみ込むと、そっとその頬を撫《な》でてやった。
「ドクター、ところで実施日はいつのことになるのです」
背後からノエルが訊《たず》ねてきた。
「まだ、確定はしていない。心臓のレシピエントは準備が整い次第日本を発《た》つことになっているが、使えるものは全て使わないとな。全てのレシピエントが整い次第ということになる」
アイリーンの頬を撫でてやる手を止めずにフレッチャーは答えた。まるで宝物を愛《め》でるように――。そう、この子供はまさに宝だ。なにしろその体内には総額五百万ドルは下らない臓器という宝物を秘めているのだから――。
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第四章 二〇〇〇年五月
渡航
雲の切れ目から島影が見えた。海岸には白い砂浜が広がり、アクア・ブルーの海水を通してサンゴ礁が複雑な模様を描いている。飛行機はどうやら降下の態勢に入ったようだった。
グラマン・ガルフストリーム。病人搬送用のチャーター便の機内にしつらえられたベッドの上で横たわる慎一の手を諒子はそっと握り締めた。
気配を察したのか、付添の医師が心配するなといわんばかりの視線を投げ掛けてくる。歳の頃は四十に差しかかったばかりといったところだろうか。名前はジャバダン・ミンダ。マニラにあるマカティ・セントラル・クリニックに勤務する循環器科の医師というふれこみだった。
慌ただしい一月《ひとつき》だった。悪い知らせと、良い知らせは同時にやってきた。子宮外妊娠によって子宮を摘出され、自分がもはや二度と子供を産むことができない体になってしまったことを、諒子は病室で祥蔵の口から言い渡された。そして悲嘆に暮れる間もなく、今度は慎一に心臓移植のチャンスが巡ってきたことを告げられた。
この子だけは何としても生かさなければならない。もはやかけがえのないたった一人の子供となった自分の分身――。新しい心臓を得ることができるなら、それがどこだって構わない。アメリカだろうとオーストラリアだろうと、フィリピンだろうと。
「慎一、お母様はどんなことをしてもきっとあなたを助けてみせる。だから、あなたもがんばるのよ。もう少しだから」
浮腫《むく》んだ顔。その鼻には酸素を体内に送るためのチューブが差し込まれている。その頬を優しく撫でながら諒子は呟《つぶや》いた。
『これから当機は最終着陸体勢に入ります。シートベルトの着用、確認をお願いします』
狭い機内にコックピット・アナウンスが流れた。
諒子はもう一度慎一の頬を撫でてやると、通路を挟んだシートに座りベルトを締めた。窓からは南国特有の強い太陽の光が差し込んでくる。日に晒《さら》された腕が仄《ほの》かに熱を帯びてくる。幾つもの巨大な積乱雲が天空に向かって伸びている。
飛行機はその間を縫うように何度か方向を変えた。やがて雲の中に突入すると、足の下で|ギア《脚》が降りる音がした。風切り音が機内を満たす。視界を遮っていた雲が途切れた。ふと下界に目をやると、先に見たのとは全く違う色の海面が姿を現した。かつてこれほど酷《ひど》い海水の色を見た記憶はなかった。その色はまるでドブ川を流れる汚水で満たされたように澱《よど》んでいる。更に目をこらして見ると、そこに海岸線という境界がないことに気がついた。海面に迫《せり》出すようにバラックが建ち並んでいるのだ。それはまさに覆い尽くすといった表現がぴったりきているだろう。なにしろ普通の街ならあるべきはずの道路らしきものすらないのだ。上空からもはっきりと分かるほどに崩れかけた小屋が軒を連ねて密集している。
心臓移植という最先端の医療がこんな所で受けられるものなのだろうか。
胸中に新たな不安が頭を擡《もた》げてくる。
もしかしたら私はとんでもない間違いを犯そうとしているのかも知れない。
後悔と不安が諒子の心を苛《さいな》み始めた。だが、そんな心中など一向に介さぬように、機は確実に高度を下げていく。地上がどんどん近くなる。それに従って、街の様子が更にはっきりとしてくる。そこにはかつて自分が目にしたこともない、悲惨な家が建ち並んでいた。薄汚れたコンクリートが剥《む》き出しになった廃屋のような家々。いや、まだコンクリートでできているのはましな方だ。路上に落ちていた廃材を打ち付けただけの小屋が軒を連ねている。
後方に過ぎ去っていく家並みを見ていると不安は更に大きくなっていく。増幅していくそんな気持にピリオドを打つように、接地の軽い衝撃が走った。逆噴射《リバース》するエンジン音が一際高く吠《ほ》えた。その音に背を押されるように、諒子は覚悟を決めた。
ここまで来れば、後戻りはできない。この国にはこの子の命を救う心臓がある。
不安に苛まれた諒子の心を静めるかのようにエンジン音が低くなり、機はぐるりと機首を転じるとタキシングに入った。ボーディングゲートではなく、小型機が駐機しているエプロンに、救急車ともう一台、ワゴン車が駐車しているのが見えた。
その姿を見た瞬間、まだ機が完全に停止していないというのに、諒子はベルトを外し立ち上がると、誰よりも早く慎一の横たわるベッドサイドへと駆け寄っていた。
再会
中二階までが吹き抜けになったロビーにピアノの旋律が木霊する。一階のフロント前はカフェテリアになっており、週末の夕刻を過ごす人々が交わす騒《ざわ》めきが枯野を這《は》う野火のように広がって行く。
フロントに向かって開いた通路をチェックインする客がひっきりなしに過ぎ去っていく。
ペニンシュラ・マニラ。マカティ・アヴェニューとアヤラ・アヴェニューの交差する所に建つこのホテルは、マニラでも最高ランクの格式を誇る。
時間はもうすぐ五時半を指そうとしている。日本からやってきた建設会社の出張者と駐在員を交えた長いミーティングを終えた瀬島は、机の上に広げた資料を閉じると、冷たくなったコーヒーを飲み込んだ。
仕事を終えた充足感、それにこれで週末を迎えられるという解放感が体にみなぎってくる。だが日本企業の駐在員にはもう一つの仕事が待っている。ミーティングを始める前の名刺交換の際に訊《き》いたところによると、日本からやってきた二人の出張者はフィリピンは初めてだという。となれば、あまり気は進まないが今夜はせいぜい接待に精を出さなければならなくなるだろう。
「ところで、今夜のご予定はどのようになっておりますか。もしよろしければ、夕食でもいかがかと思ってはいるのですが。お口に合うかどうかは分かりませんが、スペイン料理の店を押さえてありますけど」
いつもの調子で瀬島は訊《たず》ねた。
日本からの出張者が一瞬顔を見合わせた。
「いやいや瀬島さん。そこまでのお心遣いはなさらずとも結構ですよ。今夜はこちらで二人の面倒は見ることにしますから。どうかお気遣いなく」同席していた建設会社の駐在員が、すかさず助け船を出すように答えた。「正直申し上げてフィリピン暮らしが長くなりますと、出張者から本社の状況もいろいろと訊きたいですし、今夜は一つ水入らずということで……」
「そうですか。そういうご事情なら無理にお誘いするわけにはいきませんね」
どうせ、ろくでもないことを企《たくら》んでいるに決まっている。日本人行きつけのレストランは幾つかあるが、おそらくそれからカラオケ・ハウスに繰り出すつもりでもあるのだろう。カラオケ・ハウスと言えば聞こえはいいがこれには二種類ある。酒の相手をするホステスがいるものと、カラオケ・ハウスとは名ばかりで、別室にずらりと並んだ女性の中から好みの相手をピックアップする、つまりは売春宿の二つだ。主に駐在員が出入りするのは前者の方だが、それだって最終的な目的は同じことだ。つまり口説きの過程の果てに目指す女性を落とすことを楽しむか、手っ取り早く金で一夜を共にする相手を選ぶかの違いしかない。
それ以上の誘いは野暮というもの。瀬島は伝票を手にすると、ウエイトレスを呼んだ。黒いミニスカートを身に着けたウエイトレスが笑みを浮かべながら近づいてくる。
「チェックをしてくれ」
「イエス・サー。お支払いはキャッシュでよろしいのですか」
「そうしてくれ」
「よろしいんですか」
ウエイトレスが伝票を手にして立ち去ったところで建設会社の駐在員が訊ねてきた。
「どうかお気になさらずに。食事はまたの機会にいたしましょう」
「そうですか。それではここはご馳走《ちそう》になります」
「日本からは四時間ちょっととはいっても、食事の前にシャワーをお使いになりたいでしょう。後は私がやっておきますので……」
「すみませんね」
二人の出張者は口々に礼を述べると、広いフロアーの片隅にあるエレベーターに向かって、立ち去って行った。やがてウエイトレスが計算を終えたレシートを持って現れた。記載された金額にチップを上乗せして支払いを済ませた瀬島は、
「それでは私はこれで」
一人残った建設会社の駐在員に一礼すると席を立った。
メイン・エントランスに立つ白い制服に身を包んだドアボーイが精一杯の愛想笑いをしながら巨大なガラスのドアを開けた。まだ十分に日が高い熱帯の太陽に熱せられた湿気を含んだ大気が身を包む。係員が寄ってくると、瀬島は車のナンバーを告げた。個人の専用車を持つ。それも一介の平社員がだ。日本では考えられないことだが、これもフィリピンに駐在する外国人なら当たり前のことだ。第一、安全が保証された郊外のヴィレッジからオフィスまでのまともな交通手段というものがないのだ。いや、正確に言えばバス、それにジープニーと呼ばれる小型の乗り合いバスのようなものがあるが、ここで暮らす外国人はあまり使いたがらない。第一、お抱え運転手を雇っても日本の遠距離通勤者に支払う通勤費よりもことによると安く上がるかも知れない。
車寄せにはひっきりなしに、客を乗せたタクシーや社用車がやってくる。その度にベルボーイが荷物をピックアップし、客と共にホテルの中へと消えていく。一台のワゴン車がなだらかな坂を登って来ると、エントランスの前に佇《たたず》む瀬島の前で停った。
ドアが開くと、最初にフィリピン人の男が、次いで身なりのいい女性が降り立った。オックスフォード地のシャツにベージュのパンツ。腰には革の細いベルトが巻かれている。
女性は降り立った瞬間、前に乱れた髪を片手で掻《か》き上げた。その顔が露《あらわ》になった瞬間、瀬島は我が目を疑った。忘れもしない大道寺諒子の姿がそこにあった。
すでに別れてから四年近くの歳月が流れていた。
声が出なかった。体の中に強烈な電流が流れたように硬直する。
瀬島は微動だにすることもなく、諒子を見つめた。
いったいどうして。何のためにフィリピンに――。
ほんの二、三歩近づいて、手を伸ばせば届きそうなところにいる諒子の顔を見ているうちに、その面差しのどこかに窶《やつ》れの色が見て取れることに気がついた。ただの旅疲れではない。もっと心の奥深くから滲《にじ》み出てくるようなものだ。
「諒子……」
思わず瀬島は呟《つぶや》いていた。
怪訝《けげん》な表情を浮かべながら諒子が振り向いた。視線が合った。その瞳《ひとみ》が驚きで大きく見開かれる。
「孝輔……」
鞭《むち》で打たれたように諒子の動きが止まった。それはほんの一瞬だったかも知れない。だが永遠とも思えるような長い時間のように感じられた。
「どうして、こんな所に」
「あなたこそ」
諒子はきっと笑顔を浮かべようとしたのだろう。顔がぎこちなく歪《ゆが》んだ。
「いま僕はマニラに駐在しているんだ。もう一年と少し前からね」
「そうだったの」遠い記憶を思い出したように、諒子の瞳に優しい光が宿った。「元気そうね。日焼けのせいかしら、前よりもずっと逞《たくま》しくなった」
「ああ、飛鳥物産に入っての配属先が海外開発建設部だったからね。こちらでは工業団地の造成工事に携わっていて毎日熱帯の太陽に晒《さら》されている。日焼けもするさ」
「若奥様」
背後から続いて降りてきた中年の女性が声を掛けた。
若奥様?
瞬間、諒子の左手の薬指に指輪がはめられていることに瀬島は気がついた。張り出した屋根の下にいるせいで、太陽の光が届くはずもないのに、それが眩《まぶ》しく目を射た。なぜだか分からないが、心臓が一度大きく脈を打ち、明らかに体温よりも低い血液が全身を駆け巡る。
「登喜子さん、ちょっと知り合いにお会いしたの。先にチェックインを済ませて下さる」
「分かりました」
ワゴン車に同乗してきた男は、日本語を解するらしく、登喜子と呼ばれた女性と二言三言言葉を交わすと、ポーターに荷物を任せホテルの中に消えて行った。
「結婚したんだね、君……」
「ええ……」
諒子の視線がそっと落ちた。
「そう……良かった」
瀬島は意識して笑いを浮かべながら言った。一度は心の底から愛し合い、自分の子種を宿した女《ひと》だ。胸の奥底からほろ苦いものが込み上げてくるのを禁じえなかった。しかし、当時二人が置かれていた環境を考えるとそれもしかたがないことだ。いや商社マンとして自立したいまでも、それは変わりはしない。二人の間に横たわる溝はどこまでも深く、そして広いままだ。成就することなく、別れという形で終焉《しゆうえん》を迎えた恋。とかく人間は自分を悲劇の最大の主人公と考えるものだ。事実世の中にはこの手の話はごまんとあるだろう。自分も諒子も、数多《あまた》ある悲劇の中の一つを人生のある時期演じていたに過ぎないのだ。
「ごめんなさいね、孝輔」
諒子は静かに言った。
「何が?」
「あんな形で一方的な別れ方をしてしまって。きっとあなたにも言いたいことはたくさんあったでしょうに」
「しょうがないさ」
一方的に別れを告げるメールを最後に諒子が連絡を閉ざした時には、諒子が言っているのとは別の部分で怒りを覚えたことは確かだった。二人の間に授かった子供を、何の事前通告もなしに堕胎した。その行為を許せないと思った。子供を授かるのは一人の行為で成しえるものではない。自分は当事者以外の何者でもない。それを何の知らせもないままに芽生えたばかりの生命を闇に葬ったのだ。だからと言って諒子を責める気にはなれなかった。そもそもが、結果が分かり切った関係を続け、そうした事態を引き起こした責任は自分にもある。激しい自己嫌悪と罪悪感に苛《さいな》まれた日々。失意のどん底からようやく平静さを取り戻すまでには随分な時間を費やしたものだった。
おそらく諒子もまた自分と同様、辛《つら》い時期を過ごしたに違いないことを瀬島は疑わなかった。
それはたったいま諒子が結婚の事実を告げた時に一瞬見せた表情からでも察しがつく。
「君と話し合っていたとしても、どうすることもできなかったに違いない。冷静に考えてみればああいう別れ方をするのが一番いい方法だったんだよ」
「――そう言われると辛いわ……」
俯《うつむ》いた諒子がやっとといった口調で言った。
「別に君を責めているんじゃない。本当の気持だ」
思わずその髪を撫《な》でてやりたい衝動を堪《こら》えながら、瀬島は努めて明るく言葉を返すと、「ところでこちらへは旅行かい?」
改めて訊ねた。
「そうじゃないの、ちょっと事情があって」
諒子はそこでようやく顔を上げた。表情に戸惑いの色が見て取れる。フィリピンに観光に訪れる日本人は少なくないが、そのほとんどはセブ島を始めとするリゾート地へ向かう。マニラを訪れるのは、東南アジアの渾沌《こんとん》とした熱に浮かされたバックパッカーか、そうでもなければ日本で馴染《なじ》みになったホステス嬢を追い求めてくる色爺《いろじじい》と大体の相場は決まっている。
いまや大道寺家の若奥様と呼ばれる身になった人間が訪ねてくるような場所ではない。それも御付《おつき》を伴ってということになれば、何かよほどの事情があるのだろう。
「何か理由がありそうだね」
「ええ、実は――」
諒子がそこまで言いかけた時、背後から登喜子と呼ばれた中年の女性が声を掛けた。
「若奥様、チェックインが済みました。すぐに部屋の方にご案内できるそうですが、いかがいたしますか」
それと機を同じくして、緩い坂を瀬島の専用車が登って来るのが見えた。
「すぐに行くわ」諒子は声の方に向かって言うと、改めて瀬島に向き直った。「孝輔、悪いけどすぐにやらなければならないことがあるの。もし迷惑でなければ、連絡先を教えてくれる? 私、この国に来るのは初めてなの。いろいろと教えて欲しいこともあるし」
「もちろん」瀬島はスーツの懐から一枚の名刺とペンを取りだすと、その裏に自宅と携帯の電話番号を書き込んだ。「明日、明後日は週末で家にいる。いつでも電話してくれ」
「ありがとう」
差し出された名刺を、諒子は胸の前で押し抱いた。
専用車が目の前で停った。ドアボーイが後部座席のドアを開いた。
「それじゃ、連絡を待っている」そこに身を滑らせながら瀬島は言った。「それからこの国の携帯電話は中々|繋《つな》がらないことが多い。話し中だというメッセージが流れても、そうでないことがあるから、何度かトライしてみてくれ」
「分かったわ……」肯《うなず》く諒子。
その言葉が終わるのを見計らったようにドアが閉じられた。そこに佇《たたず》む諒子を残して車は夕刻のマニラ市内へと走り始めた。
電話が鳴ったのは、その夜の午後十時を回った頃だった。
「ミスター・セジマ、お電話です」
メイドの声が階下から聞こえた。
日本流に称するならば、部屋は二十畳はあるだろうか。キングサイズのベッドの上に横になって書類に目を通していた瀬島は、跳ね起きるとサイドボードの上に置かれた受話器を取り上げた。
「ハロゥ」
耳に全神経が集中する。きっと諒子に違いない。なぜだか分からないが、心臓が高鳴り胸に熱いものが込み上げてくる。
『孝輔』
その推測を裏付けるように、諒子の声が聞こえて来た。
「諒子かい」
『ええ……』
今日の夕方実際に会って言葉を交わしたばかりだと言うのに、受話器の向こうから流れてくる声がひどく懐かしいものに思える。かつては毎晩のようにこうして電話でたわいもない会話を交わしたものだった。久しく忘れていた諒子の体の温もりが思い出された。胸が締めつけられたように苦しくなる。もう終わったことと決めていたはずの諒子への想いが、急速に頭を擡《もた》げてくる。
ぎこちない沈黙――。瀬島は、そんな内心の葛藤《かつとう》を振り払おうと、小さく息をすると、
「どうだい。少しは落ち着いた」
優しい口調で問いかけた。
『いま、やっとホテルに戻ったところなの』
「食事にでも行っていたのか」
『いいえ……』再び諒子は少しの間押し黙ると、『でも驚いたわ』巧みに質問を逸《そ》らすように言った。
「何が?」
『だって、てっきりあなたが電話に出るものだとばかり思っていたんですもの。まさか女の人が出るとは考えてもいなかった』
「ああ、そのことか」
『奥様?』
「いや違う。メイドだ」
『メイド?』
「日本じゃ考えられないだろうけど、この国では駐在員なら誰でも住み込みのメイドを雇っているからね」
『それじゃ、二人で暮らしているの』
「そういうことになる。一人暮らしとはいっても、掃除や洗濯、それに食事と日常生活の雑事は山ほどあるからね。まあ、家族連れの駐在員の奥様方はそのお陰で、テニスやゴルフに勤《いそ》しむことができるんだが、独り者でもメイドのお世話になっていると、そのありがたみは身に染みるよ」
自然と笑いが口から漏れた。
『そう、かつての1Kとは大違いね』
「ああ、あの当時から比べれば全くの別世界だ。僕が住んでいるところはアヤラ・アラバンというヴィレッジでね、この中には居住者以外の人間はガードのチェックを受けた者しか入れないことになっている。中にはゴルフ場もあれば、学校、教会もある」
『あなた、一戸建てに一人で住んでいるの?』
「そう。ベッドルームが四つにリビング、ダイニング、庭には小さいがプールもある」
『いい暮らしをしているのね』
「まあ、日本のスタンダードから比べればね。でもそれでも家賃は日本円に換算して十五万円ほど。それほどびっくりするようなものじゃない。日本で君が当たり前にしている生活のまねごとができる程度のものだ」
『それ、皮肉?』意地の悪い諒子の問い掛け。
「いや、そんなつもりはない。ただ、少しばかり比較文化論の講釈のさわりの部分を言ってみただけさ」
『冗談よ、孝輔』
「分かってる」密《ひそ》やかな笑い声が聞こえてくる。たわいもない会話は四年前の諒子との日々そのものだ。「ところで、君がフィリピンにやって来たのは何が目的なんだい。旅行じゃないと言っていたけど」
瀬島はホテルのエントランスで中断した会話の続きを始めた。
『うん……』一瞬、受話器の向こうで諒子が沈黙した。『実は子供の病気の治療のためなの』
「お子さんの病気?」既にベッドの上に起き上がっていた瀬島はファイルを閉じると、改めて居住まいを正しながら訊《たず》ねた。「君、子供がいたの」
考えれば馬鹿な質問をしたものだ。結婚したのであれば、子供の一人や二人いても何の不思議もない。
「ええ、二歳の男の子が一人いるわ」
「そうだったのか……」とは言っても、直接諒子の口から子供の存在を聞かされると、改めて四年の歳月の重みを感じると同時に、複雑な思いが込み上げてくる。「どんな病気なんだい。よほど深刻なものなのかい」
『拡張型心筋症』
「拡張型心筋症?」
瀬島は反射的にその病名を繰り返した。医学については全くの素人だが、心臓の病である程度の想像はつく。
『深刻な病気よ……心筋細胞が変性して質がもろくなって線維化する。ポンプ機能がうまく働かずに心不全を起こすの……』
「何てことだ……」瀬島は返す言葉がなかった。「そんな大変な病に君の子供は冒されていたのか」
『そうなの。発症して一年。容体は日々目に見えて悪化するばかり』
「しかし日本ではしかるべき医者に診てもらってはいたんだろう」
『もちろん。日本では帝都大学で治療を受けていたわ』
「分からないな。それなら、どうしていまさらフィリピンにやって来たんだ」
当然の疑問というものだった。フィリピンにやって来て一年余。病気らしい病気はしたことがなかったが、少なくとも医療に関して言うならば、あらゆる面でこの国のレベルが日本を凌《しの》いでいるとは考えられない。
『孝輔、この病気の根本的治療方法はただの一つしかないの』
「そのたった一つの治療法というのは何なんだい。それもフィリピンでなければならないものっていうのは」
『心臓移植よ』
「心臓移植?」瀬島はベッドの上でまさに飛び上がらんばかりに驚いた。「それなら日本でだってすでにある程度確立された技術じゃないか。もちろん移植ということになれば心臓の提供者が現れないことには話にならないが、もしも駄目ならアメリカとかオーストラリアの方がチャンスは高いんじゃないのか。それに技術だってずっと進んでいる、何もフィリピンに来なくとも……」
『あなた何も分かってないのね』諒子は悲しげな声で言った。『日本で受けられるものなら、こんなところへわざわざ来たりするもんですか。日本では十五歳未満の脳死による臓器提供は認められていないの。確かにあなたの言うように、アメリカやオーストラリア、ううん、ヨーロッパのあらゆる国にそのチャンスを見いだす努力はしたわ。でもね、もうあの子には時間がないの。一日でも早く新しい心臓を移植しないことには、助からない』
「それじゃ、このフィリピンに新しい心臓の提供者が現れたと」
『そうでなかったら、何でやってくるものですか』
移植か――。そう言えば、思い当たらない節がないわけではない。いつのことだか記憶は定かではないが、この国の刑務所に収監されている受刑者たちが、罪を軽減するのと引き換えに、腎臓《じんぞう》を売り飛ばしているというニュースを日本にいた頃に見た記憶がある。健康体そのものの身には、実感はないのだが、世の中には腎臓を病に冒され、透析を余儀なくされている人間も多い。腎臓は、人間の体内に二個ある。その一つを差し出したとしても、残る一つが正常に機能していれば問題はないのだという。
痩《や》せた囚人の脇腹に残ったメスの跡が脳裏に思い出された。
罪を軽減される――一個の腎臓と引き換えに劣悪な刑務所を早く出られるのは、囚人にしても魅力的な話ではあるだろう。しかし彼らにしても自ら進んで腎臓を提供したわけではない。第一いかにフィリピンとはいえ、そんな行為が合法的なものとは思えない。もしもそうした行為が当たり前に行われているとすれば、そこに転がる利権を貪《むさぼ》っている人間が介在していることは間違いないだろう。つまり、腎臓の提供は善意のなせる業ではなく、実質的には臓器売買という行為がまかり通っていることを意味するに違いない。
だが腎臓ならともかく、諒子がフィリピンに渡って来た目的は健康な心臓を手に入れることだ。つまり提供者はその命と引き換えに心臓を提供することになる。確かに貧困に喘《あえ》ぐ人間は多いが、命と引き換えに臓器を売る人間などいるものではない。ましてや彼女が欲しているのは二歳の子供の心臓だ。そんな年頃の子供が罪を犯し、その引き換えに、などということもありえまい。
と、考えればやはり善意の第三者が出現した。つまり状況からすれば脳死状態に陥った子供がこの国にいて、心臓の提供に同意した可能性が最も高い。
『孝輔……』
沈黙した瀬島に諒子が呼びかけてきた。
「何だい」
『私はどうしても、この子を助けなければならないの』
「子供を思う親の気持は良く分かる」
『そうじゃないの……そうじゃないのよ、孝輔……私にはこの子を助けなければならない理由があるの』
諒子の口調にはただならざる響きがあった。
「どんな」
『もう私にはこの子しかいないのよ』
「どういう意味だ」
『私……子宮を摘出したの』
「えっ」
『第二子を妊娠したのだけれど、それが子宮外妊娠で』
「子宮を全摘したっていうのか」
『そう……だから……どうしても……どうしてもこの子だけは助けなければならないの』
諒子は泣いていた。これまでこれほどまでに悲しく切ない女の声を聞いたことがなかった。子宮を失う。それが女性にとってどれほどの苦痛をもたらすものなのか。幾人かの子供を産み育てた後のことであるならともかく、若くして女性のアイデンティティの最たる器官の一つを失ってしまったのだ。しかも折角授かった子供は難病を抱え、迫り来る死と闘っている――。
瀬島は諒子の絶望の深淵《しんえん》を垣間《かいま》見る思いがした。
もしも自分が諒子の立場だったら、やはり同じ行動をとったに違いない。確かにこの国の実情を知っている身にしてみれば、他の先進国で治療を受けたいと思うのは山々だが、目の前にチャンスが転がり込んでくれば躊躇《ちゆうちよ》することなく決断を下すだろう。
文字通り絶望の淵《ふち》に一縷《いちる》の望みを見いだした思いで諒子はこの国にやってきたのだ。
「諒子」受話器の向こうからは、啜《すす》り泣く声だけが聞こえてくる。「もしも、僕にできることがあるなら、何でも言ってくれ。どれだけ力になれるかどうかは分からないけど、できる限りのことはする」
瀬島の一言一言が胸に染み入ってくる。思いやりに溢《あふ》れた言葉をかけてくれるのは、瀬島に限ったことではない。もちろん夫の祥蔵も、自分を、そして慎一を心配し、常に愛情に溢れる言葉をかけてくれた。だが、両者の言葉の内容にさほどの違いがないにもかかわらず、受け取る自分の心情には大きな違いがあることに諒子は戸惑った。
瀬島の言葉が心の奥底まで到達し、無限の空間に向かって果てどもなく広がっていく気がするのだ。
こんな奇妙な感覚を覚えるのは初めてのことだった。これまで自分の心を堅く閉ざしていた幾重もの扉。まるで堅く閉じられていた蕾《つぼみ》が開花し、その所在を誇示しているような気さえした。涙が込み上げてきたのは、子宮を摘出し、二度と子供を産めない体になったという事実を、自らの口で告げたせいばかりではない。心の奥に広がっていく温かな何か――。それが自然な感情の現れとなったに過ぎないのだ。
祥蔵は夫として申し分のない男とは言えるかも知れない。だが彼に対して愛情を覚えているかというと、正直なところ『イエス』と断言する自信はなかった。それは二人が大道寺の家を護《まも》るための、いわばお仕着せの結婚ということで夫婦になったということに起因するものではない。祥蔵よりも、もっと大切に想う誰か、結婚した後も心の奥底で求めて止まない誰かの存在があったからこそ、ついぞ愛情というものを覚えられなかったのだ。それが受話器の向こうにいる瀬島であることを、諒子はその時はっきりと悟った。
しかし、今更二人の関係を修復することなどできはしない。大道寺の家を捨てることはともかく、自分には護らなければならない、慎一という存在がある。
「ありがとう……」
諒子は、ともすると激しく迸《ほとばし》りそうになる感情を、再び扉の向こうに押しやる努力をしながらかろうじて言った。
「日本から初めてこの国にやってきた人間の多くは、少なからずカルチャーショックを覚えるものだからね。この僕でさえ、慣れるまでに随分と時間がかかったものだ」
『ええ……分かるわ』
「それで、お子さんの手術の日は決まったの」
『たぶん二、三日のうちのことになると思うの。空港から病院に直行して、そのまま手術前の最終検査に入っているから、その結果問題がなければ、という話だった』
「そうか。もし時間が許せば一度会おう。この週末は僕は予定はないし、いつでも出られる状態にしておくから」
瀬島は嘘を言った。明日は日本から来た建設会社の出張者を接待しなければならなかったが、そんなことはもはや些細《ささい》なことだった。連中のことは支店の上司にでも任せておけばいい。
『ありがとう、孝輔……また電話する……』
「待っているよ、諒子」
『それじゃ……』
「じゃ……」
回線が途切れる音がした。その余韻が耳に残っている間に、フックを押した。単調な発信音が鼓膜を震わせる。瀬島は明日の接待の予定をキャンセルすべく、上司の電話番号を押した。
海から穏やかな風が吹きつけて来る。
マニラ湾を臨むロハス通りの海沿いの歩道を、二人は肩を並べて歩いていた。
諒子から電話があったのは、午後三時を回ったあたりのことだった。瀬島が住むアヤラ・アラバンからペニンシュラ・ホテルまでは、高速道路《スカイウエイ》を使い順調に行けば三十分ほどの距離だが、一般道に降りるとそこからはその日の状況次第だ。交通渋滞が日常化しているこの街では、時間が全く読めない。案の定、一般道は休日にもかかわらず酷《ひど》い渋滞で、スカイウエイを降りて、ホテルに着くまで小一時間を要した。
聞けば諒子はこの日、朝から子供の看病と、医師からの説明を受けるために、病院にずっと詰めていたと言う。ペニンシュラのカフェテリアで話をすることも考えたが、気分を変えることも必要だろう。そう思って連れ出したのが、この場所だった。
「少し歩かないか」
海岸沿いに一直線に伸びる通りに出たところで瀬島は言った。諒子は黙って肯《うなず》いた。運転手にマニラ・ホテルで待つように命じると、瀬島は諒子を伴って通りを歩き始めた。
葉を大きく広げた椰子《やし》の街路樹が、道に沿って整然と立ち並んでいる。ここから見る夕日は世界一の美しさを持つと言われる。幸い今日は天候も良く、日没を妨げるような雲は見当たらない。
早くも二人の姿を見かけた物売りが近づいてくる。薄汚れたTシャツにジーンズ。両手にはサングラスを山と抱えている。
「サー。サングラス。五百ペソ」
諒子のしなやかな指が腕を握ってきた。久しく忘れていた感触が蘇《よみがえ》った。それは怯《おび》えの感情の現れ以外の何ものでもないことは分かってはいたが、瀬島は切ないもので心がかき乱される思いがした。
「大丈夫だよ。何も心配することはない。ただの物売りだ」
「サー」
物売りは抱えていたサングラスの一つを差し出して迫ってきた。腕を握り締める諒子の手に力が籠《こも》った。
「無視していれば、すぐに消えるから」
それでも諒子は身をぴたりと擦り寄せてくる。二人の歩調が速まった。振り切るようにして物売りをやり過ごしたところで、諒子は慌てて手を離した。
「孝輔、大丈夫なの。ここ危ないところじゃないの」
思わず瀬島は噴き出した。
「危ないところに君を連れ出したりするものか。ここはマニラ湾に沈む夕日を眺めるのに絶好のスポットでね。ほら見てごらん。あんなにカップルや旅行者がいるだろう」
歩道のあちらこちらにいる人々を顎《あご》で指しながら言った。その光景に安堵《あんど》したのか、
「ほんと」ようやく落ち着きを取り戻すと、「でも、やっぱり慣れないと怖いものがあるわ」
「あんなものを買う旅行者が一日に何人いるのかは分からないが、あれで生計を立てているんだ。彼らも必死なんだ」
「確か一つ五百ペソって言っていたけど、日本円にすると――」
「千円といったところかな」
「それで、生活ができるの」
「さあね。でも面白いのは、彼ら、決して値段を下げはしないんだな」
「交渉《ネゴ》をしないで売れるの?」
「いや、言い値の五百ペソは譲らないんだが、その代わり二個つけるからその値段で買ってくれって言うんだ。こんな奇妙な商売をするところはそうめったにお目にかかれるもんじゃない。どうだ、試しに買ってみるかい」
「とんでもない」冗談だとは分かり切っているはずなのに、諒子は慌ててかぶりを振った。「こんなことをいまさら言うのはおかしいのかも知れないけれど、私どうしてもこの国に馴染《なじ》めないの」
「怖いか」
諒子はこくりと肯いた。
「空港に降りる寸前に見たマニラの街。私、日本から僅《わず》か四時間のところにこんな酷い暮らしがあるとは考えてもみなかった。それにホテルまでの道すがらに立ち並ぶバラック、あんな所に人が住んでいるなんて……」
「僕も初めてマニラにやって来た時には同じような思いに囚《とら》われたものさ」
「ワゴン車に乗って走り始めると、乗り合いバスの中から投げ掛けられる視線が鋭いの」
「あれはジープニーと言ってね、この国の乗り合いバスだ」
「何だか分からないけれど、凄《すさ》まじい敵意、って言うか殺気に似たものを感じたのね。いままであんな視線を受けた経験はなかったから」
「それは多分この街に限ったことじゃないと思うよ」瀬島は苦笑いを浮かべながら答えた。「うちの支店長に聞いたことがある。彼は若い時分にニューヨーク支店に勤務していてね、最初のうちは地下鉄に乗ると決まって乗客が一斉に自分に視線を向けるんだそうだ。だがそれも、三カ月を過ぎて街に慣れた頃になると誰も振り向かなくなった」
「それが、どういう関係があるの」
「つまり、よそ者は自分たちと違った匂いを放っているものだということさ。居住者はそれを敏感に察知する。三カ月も過ぎた頃になると、誰も支店長を見向きもしなくなったというのは、その街に同化した、彼の言葉を借りて言うならニューヨーカーになった証《あかし》というわけさ。おそらく、君は東京の匂いをぷんぷんさせていたんだろう」
「そうかしら」
「事実、僕もいま君に言われてみてこちらにやって来た頃に同じ思いに囚われたことを思い出したよ。でもいまはそんなことを感じることもない。もっとも、もう一つのこの国に蔓延《まんえん》する貧困ということに関して言うならば、いまだに慣れずにはいるがね」
「いったいどうやって、あの人たちは日々の生活を支えているの」
「この国はね、ほんの一握りの富裕層と大多数を占める貧困層とで社会が成り立っている。富はあくまでも富める層。特に絶大な権力を持つ財閥に集中し、貧困層に生まれた者には這《は》い上がるチャンスもない絶望的な一生が待っている。気がつかなかったかい?」
「何を」
「空港からホテルまでの道すがら、ペニンシュラに近づくと俄《にわか》に道路が良くなったことに」
「そう言えば、あの一画は近代都市そのものね」
「あれはね、アヤラ・アヴェニューという名が示す通り、この国でも最大の財閥の一つアヤラの私道だからなんだよ」
「あれが私道?」
「そう。国家が管理する道路より、財閥が管理する私道の方が遥《はる》かに整備が行き届いている。そこからだけでも、この国の財閥がいかに絶大な富と力を持っているか分かるだろう。実際僕がいま住んでいるヴィレッジもアヤラ・アラバンといってこの財閥が開発したものだ」
「富める者はメイド付きの豪邸に住み、貧困層はあんなバラックに住むことを余儀なくされる……」
「それもこれも、この国が本当の意味での独立をして間もないせいだ。なにしろスペインの統治下にあった時代が三百年。これは日本でいうなら徳川幕府の時代とほぼ同じ期間に相当する。そして日本の侵略の時代を経て、次の五十年は事実上アメリカの統治下にあった。つまり自国の人間がこの国を治める時代は始まったばかりだ。もっともこの間に大統領に就任したのは富裕層出身者ばかりとは言えない。マルコス、ラモス……中には決して富裕層出身と言えない者もいる。だが、こうした人間たちも、いざ最高権力者の地位につけばやることは同じだ。大体この国の大統領の月給はいくらだと思う? 日本円にしてたったの四十万円だぜ。それがどうして豪勢なドレスを山のように買い、海外に膨大な資産を抱えたり、引退してからも我々駐在員以上の生活ができるっていうんだ」
「つまり、袖《そで》の下を取っているというわけね」
「その通りだ。実際ひどいもんさ。一つ例を挙げれば警察だ」自然と語気が荒くなった。「この国じゃ女性の結婚相手として警官がことのほか人気があるらしくてね。それも決して給与が高いからじゃない。交通違反を取り締まるたびに、反則切符を切る代わりに賄賂《わいろ》で済ませてしまう。つまり副収入がぐっと多いからなんだ。それに日本人相手のツアーの中には、オプションで射撃を組んでいるところがあってね、それがどこへ行くと思う」
「まさかそれも警察ってわけじゃないでしょうね」
「そのまさかさ。もっとも民間のシューティングレンジもあるにはあるが、中には警察署に連れて行くツアーもある。そこで銃を選び、弾丸を渡される」
「弾の管理はどうなっているの」
「そんなものなんてありゃしない。全く馬鹿げた話さ。日本のヤクザがやってきて射撃の腕を磨くのは、こともあろうにこの国の警察署だっていうんだから」
「信じられない……」
諒子は二度三度とかぶりを振った。
「それは何も警察に限ったことじゃない。正直言ってフィリピンの国家統計を始めとする資料にはあてになるものは少ないんだが、それでも公的機関が発表したところによれば、この国で暮らして行くのに必要な金を百とすると、公務員の平均賃金は六十にしかならない。だが皆それで立派に生活を成り立たせている」
「つまり不足分の四十は、袖の下で賄っていると」
「そういうことだろうな」
「それじゃ、その袖の下をあてにできない貧困層の人たちはどうやって日々の暮らしをたてているの」
「詳しいことは僕も分からない。運転手やガードマン、それに日払いの仕事につければまだ良いほうだろう。実のところ、君が空港からの道すがらに目にしたのは日本人の目から見ればスラム以外の何物でもないと映るのだろうが、あれはまだマシな方かも知れない」
「もっと酷《ひど》い暮らしがあるの」
「ある」瀬島は断言した。「僕も行ったことはないがこの道の先に、トンドというこの国最大、世界の中でも三指に入ると言われるスラムがある。スモーキー・マウンテンというのを聞いたことがあるかい」
「ええ、確か、ゴミが山となっている場所で、自然発火した煙がいつも漂っていることからそんな名前がついた」
「その通り。いまではその山も埋められてなくなってしまったのだが、かつてはトンドに暮らす多くの人々の生活を支えるのがそのゴミの山だった」
「だっていらなくなったゴミでしょう。そんなものがお金になるの」
「金属やプラスチックといった再生可能なものを捜しだすのさ。彼らはスカベンジャーと呼ばれていて、僅かな金を得るために一日中スモーキー・マウンテンの中を彷徨《さまよ》い歩いた。もちろん老若男女のいかんを問わずね」
「それで食べていけるの」
「ここではね、食料品や調味料は一食分に小分けして売られているんだ。煙草も一本から買える。つまりその日暮らしの人間を対象にしたマーケットがちゃんと存在する。その日得た金で、その日の食事のことを考える。明日のことは明日のこと。先のことを考えてもしょうがない。もっとも、スモーキー・マウンテンは数年前に閉鎖されたそうだから、いまトンドの人たちの生活を支えているのは何かは分からないけれどね」
「あんな年端もいかない子供たちがそんな悲惨な暮らしを強いられているのね……空港からの道すがら渋滞で停ったら、小さな子供、それも丸裸の子供を抱えて窓を叩《たた》く少女がいてね。思わずお金をあげようとしたのだけれど……」
「それは、本当にその少女の子供かな」再び瀬島は苦笑いを浮かべた。
「どういうこと?」
「同情を買うために子供を借りてくることもあるからね」
「そんな……」
「とにかく、国の行政が我々の感覚からすればあまり機能していないというのが現実だろうね。だがそうは言っても悪いことばかりじゃない。例えば――」
「例えば?」
「この国の人たちはね家族、それも子供をことのほか大事にするんだ」
「確かに、子供の姿は目につくわね」
「なにしろ敬虔《けいけん》なカソリックの国だからね。子供は神様からの授かり物。中絶は固く禁じられている」
諒子が押し黙った。瞬間、瀬島は迂闊《うかつ》な言葉を吐いてしまったことに気がついた。四年前の辛《つら》い記憶を思い出させてしまったに違いない。
「済まない……そんなつもりで言ったんじゃないんだ」
「いいの……」諒子が努めて明るく振る舞おうとしているのが分かった。「でもその敬虔なカソリックの人たちが、賄賂をもらったり、犯罪に手を染めたりするのはいったいどういうわけ。何だか、合点がいかないわ」
「それはね。懺悔《ざんげ》をすれば罪は全て許される――」
「何ですって。それ冗談でしょう?」
「さあね」瀬島は言った。「まんざら冗談でもないんじゃないかな。誰に訊《き》いても同じ答えが返ってくるんだもの」
「ほんとうにそう思っているなら、何とも都合のいい解釈ね。そんなことのために懺悔があるわけじゃないのに……」ミッション系の学校を卒業した諒子は、さすがに渋面を作った。「でも、そんな話を聞くと、心臓移植をこの国でやって大丈夫なのかしら。医療レベルはどうなの」
「正直言って僕はこの国に来て以来病気らしい病気はしたことがないので何とも言えない。ただ、昨日君と会ってから、少し気になっていたので医療について何人かに聞いてはみた」
「ありがとう。いろいろ気を遣っていただいて」
「医学教育ということに関しては、サント・トーマスという世界でも歴史ある医学部をもつ大学があるそうだ。腎臓《じんぞう》移植という点においては、キドニー・トランスプラント・インスティテュートという専門病院がある。そして心臓に関してはハート・センターというのがあるが――お子さんはそこで手術を受けることになるのかな」
「それは……」
諒子は視線を落とすと口籠《くちごも》った。
「どうした」
訊《たず》ねる瀬島に視線を合わせることなく、歯切れの悪い言葉が返ってきた。
「たぶん、いま入院している病院ですることになると思うわ」
「思うって、説明はなかったの」
「特には……」諒子は微《かす》かに肯《うなず》いた。「こちらに来て分かったのだけれど、この国の私立病院っていうのはオープン制でお医者様は自分の診療所とは別に病院内に自分の診療所を持っているのね。つまり入院患者のために病院内の施設を利用しているシステムになっているの」
「それは知らなかった」
「マカティ・セントラル・クリニックは大きな病院で、清潔だし、施設も整っていると先生はおっしゃっていたから、多分そこでやるんじゃないかと思うの」
確かに諒子の言うように、マカティ・セントラル・クリニックは超一流、つまり限られた金持ちしか行けない病院には違いない。この手の手術を行えるだけの設備が整ってはいても不思議はない。しかし、心臓移植ともなれば専門のチームが結成され、大掛かりな手術となるはずだ。それにしては、諒子の言葉の端々に曖昧《あいまい》な表現が見て取れるのはどういうことなのだろうか。
何か諒子は自分に言えない事実を隠しているのではないだろうか――。
瀬島は直感的にそう思った。
「わあ、奇麗――」
そうした気配を察したものか、諒子が打って変わって華やいだ声を上げた。視線の方に目をやると、ブラッディ・オレンジの色をした太陽が輪郭も露にマニラ湾に沈もうとしているところだった。バターン山が黒いシルエットとなって浮かび上がる。夕日ははっきりと分かる速度で落ちて行き、黒い水面に同色の太い帯を作った。まるで、動脈に流れる血のように――。
その帯に吸い寄せられるように諒子が二、三歩進み出た。その姿が黒いシルエットとなって浮かび上がると、両の手を胸の前で合わせ頭《こうべ》を垂れた。長い祈りの時が流れた。それは太陽の頂点が最後に小さな光を放ち、消えていくまで続いた。
手術《オペ》
ウイリアム・アンド・トンプソン研究開発センターの手術室の一つに、アイリーンを乗せたストレッチャーが運び込まれて来たのは翌日の朝のことだった。二歳の幼児の体は、一人の介助者の手によって軽々と手術台の上に乗せられた。
部屋の三方の壁にある各手術室をしきる窓の向こうから、それぞれの部屋で待機する医師たちが一斉にこちらを見る。
「準備はよろしいかな、ドクター・ショーン」いつもの習慣に従って、フレッチャーは言った。
ドナーとなるアイリーンの心臓を摘出することになる医師が、こくりと肯いた。
「いつでもどうぞ」
「ドクター・イートン」
天井には手術の進行度合を映すためのカメラとともに、集音マイクが設置されている。大きな声を出す必要はないが、自然と声が高くなった。
「こちらも準備はOKです」
マスクを通したせいで、くぐもった声がスピーカーを通して聞こえてくる。それとともに窓の向こうで一人の医師が手を上げた。
「特に心臓を移植される今日のレシピエントは、上客中の上客。つまりVIPです。くれぐれも、慎重にお願いしますよ」
「分かっています。任せておいて下さい」
「結構」その言葉に満足すると、「それでは始めて下さい」フレッチャーは手術の開始を宣言した。
その間にも、介助者の手によってアイリーンの体には、種々の測定機器が取り付けられていく。心電図、心拍数計測機、経皮的酸素飽和度測定装置、自動血圧計、聴診器などの非侵襲的モニター……。たちまちのうちに二歳児の小さな体の状態は、機械による完全な監視下に置かれた。
モニターには心電図の波形が現れ、脈搏《みやくはく》を告げる発信音が手術室の中に響き始める。
「血圧、心拍数、ともに異常なし」
麻酔医は、更に温度計つき導尿カテーテル、咽喉《いんこう》温度計、食道聴診器をその体に装着した。
「準備は全て整いました。いつでもどうぞ」
「手術《オペ》を始める」
ドクター・ショーンが静かに告げた。ドナーの臓器を取りだすのは、実際に移植を行うチームの仕事に比べれば遥《はる》かに気楽なものだ。何と言っても自分が執刀する人間を生かしておく必要はありはしない。要はこの部屋の向こうで待機する移植チームが最も手術を行いやすい状態で、それぞれの臓器を取りだしてやる。サンクスギビング・デイのテーブルを飾る七面鳥を絞めて解体するのと同じようなものでしかない。もしも違いがあるとすれば、万が一つにでも臓器を傷つけないようにすること。ただその一点だけだ。
「メス……」
ショーンの言葉に器具出しを務める医師が第一刀を手渡した。ラテックスに覆われた手袋と、プラスチックの柄が触れ合う湿った音がした。無影灯の明りの下で、その先端に取り付けられた刃がきらりと光った。
心臓だけの移植なら胸部正中切開だけで済むが、この施設で生体移植を行う時の常で、使える臓器は全て使う。ショーンは首下すぐの所にメスを入れるとそれを一気に、しかし慎重に下腹部まで進めた。つまり胸部正中切開と腹部正中切開を同時に行ったのだ。介助者たちが開胸鉤《かいきようこう》と腹筋鉤を無駄のない動きでかけて行くにつれて、アイリーンの体の中が露《あらわ》になった。
すぐ目の前で心臓がのたうつように鼓動を繰り返している。赤黒く滑《ぬめ》りを帯びた筋肉の塊。その大きさは、二歳の子供に相応《ふさわ》しく、自分の握りこぶしの三分の一ほどしかない。まるで別の生き物のように動く心臓を子細に観察する。冠動脈疾患、弁疾患、先天性奇形は見られない。まさに健康そのものの心臓だった。
「ドナー側の心臓には問題なし」
「ヴェリー・ウエル……」
背後から満足気に呟《つぶや》くフレッチャーの声が聞こえた。
ショーンは次の作業に取り掛かった。心嚢《しんのう》を開く。更に上大静脈と下大静脈を心嚢内でテーピングした、背側の右肺動脈から上大静脈を剥離《はくり》し、上行大動脈を主肺動脈から剥離したところで、左右両側の縦隔胸膜を縦に切開した。露になった肺の状態を確認する。肉眼的には何の問題もないようだった。小さな体に合わせて手を意識的に縮め胸腔《きようこう》内に差し込み、背部に癒着がないかどうかを確認する。小さな不随意筋が繰り返す搏動《はくどう》が薄いラテックスの手袋を通して生温かい体温と共に直《じか》に伝わってくる。これも問題はない。
「肺もOK。予定通り移植の準備に入っていただいて結構だ」
ショーンは断言した。ちらりと別の手術室を見ると、肺の移植チームの医師がマスク越しに目で合図を送ってきた。
それから腹部臓器摘出のためのいくつかの処置をほどこした。
「ヘパリン……」
全身を抗凝血化させるための薬品を静注する。それが済んだところで、今度は上行大動脈へ心停止ラインとなる心筋保護液注入用のカテーテルを挿入した。主肺動脈の左右分岐の中枢にあたる部分に縫合をかけ、肺動脈|灌流《かんりゆう》用のカニューラを挿入し固定した。そこから四十センチメートルほど上方に灌流液を吊《つ》るし、ラインのエアー抜きを行った。
大きく切り開かれたアイリーンの体の中には、作業が進むたびに一つまた一つと、チューブが差し込まれていく。そのことごとくがこの子供の命を吸収するためのものであるような錯覚に陥る。いや、それは錯覚でも何でもない。いま自分が下している行為はこの子の命を奪う行為そのものにほかならないのだから……。
「全てのチームに。移植の準備に入ってくれて結構だ」
ショーンの言葉に、他の三つの手術室にいる医師たちが一斉に動き始めた。
手術台の上には、不自然な形で横たわる慎一の姿があった。両上肢を巻き込んだ仰臥《ぎようが》位と呼ばれる姿勢だ。シーツで覆われた体は頸部《けいぶ》から膝部《しつぶ》までが露になっている。すでに麻酔がかかっている慎一は、モニタリングのための機器を取り付けられ、ぐったりとしている。介助者の一人が、インターフォンから流れて来たショーンの言葉に、露になった部分全体に入念に消毒を行った。
麻酔医がモニターに現れたデータを静かに読み上げる。
イートンはその肩越しに心電図を見た。緑色の波の形状は明らかに不整脈があることを示している。部屋の片隅に設置されたテレビモニターには、隣接する手術室で行われているドナーの心臓摘出の様子が映し出されている。大きく開かれた胸の中で、赤黒い心臓が規則正しい鼓動を打っているのが分かった。ドクター・ショーンの言葉に嘘はなかった。全ては予定通りに進んでおり、摘出に向けての前段階は終わりを迎え、いよいよ心臓本体をドナーの体から切り離すところに入ろうとしている。
うまくやってくれよ、ドクター・ショーン……。
イートンは心の中で呟いた。ドナーの体から心臓を摘出するのは、レシピエントの体にそれを移植するのに比べれば、遥かに楽な手術ではある。だがそれが完璧《かんぺき》な形で摘出されるか、つまり自分が手術を行いやすい形状でこの部屋に運び込まれるか否かでおのずと難度が違ってくる。事前に入念な打ち合わせを行っている上に、ショーンの腕の程は十分に信頼に値するものであることは分かってはいたが、何が起こるか分からないのが手術というものだ。手術に要する時間は短ければ短いほどいいに決まっている。長時間にわたる手術は患者の体力を消耗させることと同義語だ。ましてや今日のレシピエントは二歳の幼児だ。手際良くやらなければならない。
手術開始は、移植心が運び込まれる一時間前からのことになる。それまでにはまだ時間がある。
視線を転じると、すぐ目の前に一定のリズムで上下するレシピエントの小さな体があった。その様はまるで健康な心臓をいまや遅しと待ち受けているように見えた。
もうすぐだ……。もうすぐ楽になる……。
無影灯の灯に照らされた胸部を凝視しながら、イートンは胸の中で呟いた。
作業[#「作業」に傍点]は順調に進んでいた。ショーンは、肺動脈内にプロスタグランディンE1を急速に注入した。
「血圧が下がります……」と、麻酔科の医師が数値を読み上げる声。
予期した通りの言葉が聞こえた。上大動脈を二重に結紮《けつさつ》した。
「血管|鉗子《かんし》……」
望み通りの器具が即座に渡された。それを掌《てのひら》の中で持ち替えると、心嚢内の横隔膜直上で下大静脈を遮断した。
「鋏《はさみ》……」
鉗子を受け取った器具出しの医師が鋏を手渡してくる。狙いを定めて下大静脈を切断した。
「ウ……フ……ッ」
麻酔がかかっているにもかかわらず、アイリーンの断末魔の声が聞こえた。気のせいかその体が一瞬、硬直したように見えた。
罪の意識を覚えなかったといえば嘘になる。だが、それも一瞬のことで、すぐにショーンは再び手術に没頭していた。ここに集まった医師たちは、自分も含めて人間の生死を操ることができる可能性に魅せられた者たちだった。もちろん、ここで行われていることは通常の移植手術と根本的に異なることは知っていた。紛れもない殺人行為であることも。だが、医学の発展というものは、そもそもが社会の常識では到底許されない常軌を逸した行為の結果としてあったのだ。かつて、旧日本軍の七三一部隊が行った生体解剖や人体実験――。戦勝国アメリカも、その罪を問うことなくデータの入手にやっきになったといわれるではないか。
そう、医学というものは決して奇麗事だけで済むものではありはしない。
自分たちがいまここでやっていることは生涯にわたって公にできるものでもなければ、何の実績にもなりはしないだろう。だが、少なくともここに来れば、普段の現場では到底経験できない理想的な条件で移植手術を行うことができる。そして密《ひそ》かに身につけた経験は、公の場で役に立てることができるのだ。
ショーンは頭の中にたたき込んだ手順に従って他臓器摘出の準備を整えた。いよいよ心臓が摘出可能な状態になった。
「人工呼吸装置《レスピエーター》停止」
麻酔医が指示を復唱する声が聞こえた。
「よろしい」
規則的な音を立てて酸素を送り込んでいた機械が止まった。
大動脈を先に挿入していた心筋保護液注入用のカテーテルを末梢《まつしよう》側で遮断する。心停止をさせるために4℃の心筋保護液と肺灌流液を同時に注入した。
脈搏を告げていた信号音が不規則さを増し、警報音が鳴る。やがて、単調な音が鳴り響くだけとなる。目の前の心臓は微《かす》かに蠕動《ぜんどう》を繰り返しているだけだ。
いよいよ心臓の摘出だ。
ショーンは上大動脈、上行大動脈の順番で二つの血管を切断した。主肺動脈に挿入していた肺灌流用のカニューラを除去すると、その部分で主肺動脈を切断した。心臓をアイリーンの右肩方向に牽引《けんいん》し、左室を過伸展させないように注意を払いながら、冠静脈と左下肺静脈基部の中間で左心房に切開を入れた。
心臓は完全に停止している。もはや蠕動すらも肉眼では確認できない。軽く触れてみると、意外なほどに柔らかい。
その状態に満足したショーンは、心臓を上に持ち上げると、左右の肺静脈を切離した。心臓を元の位置に戻すと、上大静脈を、そして大動脈は可能な限り長く、肺動脈は分岐部の直前で切離した。
理想的な移植心臓に仕上がったことをショーンは疑わなかった。
「鋏……」
差し出したその手に、固い金属の器具が渡された。左右の手に感ずる対極の感触が奇妙に思える。
心房後壁の結合組織をそれで切離すると、アイリーンの心臓は完全に体内から摘出された。それをかざし心臓を軽く握ってみた。手の中で柔らかな肉の感触があった。それは大きな掌の中で握り隠すことができるほどの大きさで、これが到底人間の命を司《つかさど》るものの中でも最も重要な臓器と呼ぶには余りにも儚《はかな》いもののように思えた。
介助者がすかさず冷却水を入れたボウルを差し出して来た。ここから先は心臓移植チームの仕事となる。だが自分の役割はその一つの段階を終わっただけに過ぎない。まだ取り出さなければならない臓器は他にもある。
ショーンは一つ息をすると、次の仕事に入った。
手術室のドアが開いた。チームの一人がドナーの体から取り出した心臓が入った容器を手に入ってきた。
すでにレシピエントの体は、胸骨正中切開によって大きく開かれていた。事前の検査で分かっていたことだが、心臓には著しい拡張が見られた。このような状況下で注意しなければならないのは、被刺激性が亢進《こうしん》しているため、胸骨切開やカニューレションの最中に不整脈を起こし、低血圧や心室細動に陥る可能性があることだ。
イートンは細心の注意を払いながら手術を行った。抗凝固剤《ヘパリン》を投与し、送血管を腕頭動脈直下の上行大動脈に、脱血管を上大静脈に挿入した。
「移植片《グラフト》の状態は?」
背後で冷却された状態で運び込まれた移植心の状態を確認していたスタッフに訊《たず》ねた。
「全く問題ありません。グラフトは4℃の生理的食塩水で二度洗浄、心腔内の血液は生理的食塩水に置き換えてあります。外表、内腔からの観察では、心房中隔欠損なども見られませんでした。現在は4℃の保存液の中に漬けられ、いつでも移植に移ることができます」
「ヴェリー・ウエル……」その言葉に満足すると「そのまま準備に入ってくれ」と命じ、「体外循環開始」イートンは、いよいよレシピエントの心臓を取りだす工程に移った。
鈍い音を立てて、体外循環機が作動を始める。血液が心臓をバイパスし、送血管の中を流れ始める。これは体外循環を行い心臓を空虚にした後の方が、右心房下端から挿入する下大静脈への脱血管の挿入が容易になるからだ。
脱血管を挿入したイートンは、そこで一度手を止めた。
静かな時が流れた。
「体温が十八度に下がりました」
「OK。それでは心臓の摘出に移る」
再びスタッフの動きが慌ただしくなった。
右心耳とともに右心房を房室溝に沿って、左房は心耳を含めて中隔から切離した。
器具を要求する声。肉が掻《か》き分けられる湿った音が室内に流れる。張りつめた時間。イートンは上行大動脈、そして最後に肺動脈の順で切離した。
手の中に拡張した心臓があった。すかさず介助者がトレイを差し出してくる。単なる肉の塊と化したそれを静かにその中に置くと、
「電気メス……」
すかさずイートンは次の作業に入った。左房切離部、大動脈、それに肺動脈の間の結合組織からの出血を止めるためだ。電気メスが肉を焦がす音が聞こえる。入念に止血を施し、その状態に満足したイートンは顔を上げた。
「グラフトは準備できているか」
「はい。問題なく」と、グラフトの準備を行っていたスタッフ。
差し出された移植心をイートンは改めて観察した。大動脈と肺動脈の間は、左冠動脈起始部のおよそ一センチ上方で剥離《はくり》され、肺動脈は分岐部で切断されている。
「卵円孔は?」
「開存はありません。僧帽弁、大動脈弁にも異常はみられません」
「よろしい」
移植心の状態に問題がないことを確認したところで、いよいよ心房の吻合《ふんごう》に入った。
「6‐0ポリプロピレン糸を」
イートンは針の先に取り付けられた糸を手にすると、慎重に右房の縫合を始めた。
右房の吻合を終えたところで、息をつく間もなく、今度は左房の吻合を行う。
手が動く度に機械で測ったかのような吻合線ができ上がっていく。
そして循環停止。グラフト大動脈の大彎《だいわん》側末梢とレシピエントの動脈管切除部や肺動脈を7‐0ポリプロピレン糸を用いて連続縫合を行った。さらに大動脈・心腔内の空気除去をするために腕頭大静脈と右心房にカニュレーションを行う。体外循環を再び始める。
手術は順調に進み、大動脈の遮断を解除するところにきた。
「メチルプレドニゾロンを投与してくれ」
イートンは一つ息をつくと命じた。再血流障害と拒絶反応を予防する薬品だ。
「メチルプレドニゾロンを人工心肺に投与しました」
その言葉を受けて、イートンは上下大静脈のタニケットを解除した。
「レシピエントを頭側低位に……」
介助者が、指示に従ってレシピエントの体位を変えた。
「大動脈の遮断を解除する」
指示が的確に行われたところで、空気除去を行った。イートンは心臓に神経を集中した。血流を得た心臓は自然と脈を刻み始めるはずだ。心房が流れ込む血液で満たされていく。瞬間、たったいま埋め込まれた肉の塊が新たな命を吹き込まれたように動き出した。
最後に心房と心室にペーシングリードを装着した。吻合部を念入りに観察する。出血は見られない。
その出来栄えに満足したイートンは、マスクの下に自然と笑みがこぼれるのを感じた。
ここまでくれば、移植手術は成功したも同然だ。あとは三十分ほど移植心への血液の再灌流《さいかんりゆう》を行い、心臓の収縮力とリズムが回復したことを確認すればいいだけだ。後はペーシングリードと体外循環を外し閉胸。それからICUに入れた後は拒絶反応防止のために数種の免疫抑制剤の投与を行えばいい。
目の前の心臓の鼓動に合わせて、モニターが信号音を発する。
イートンにはそれがまるで、死の淵《ふち》から蘇《よみがえ》ったレシピエントが、新たな生命を得た歓喜の声に聞こえた。
それは病院の中にあっては余りに異様な空間だった。いや異様といえば、この施設に連れて来られる過程そのものが尋常ならざるものだった。
慎一のマカティ・セントラル・クリニックからの転送を告げられたのは、瀬島と再び出会ったその夜のことだった。日本からこの病院に慎一が入院して以来、主治医として検査を行ってきたジャバダン・ミンダが突然、諒子の前に現れると、
「ドナーが現れました。手術は明日行われます。ただし移植手術はここではなく、もっと施設の整った病院で行います」
そう告げてきたのだ。
てっきりこの病院で移植手術が行われるとばかり思っていたせいで、顔に怪訝《けげん》な表情が宿ったのだろうか、
「どうか、ご心配なく。最高の設備、最高の手術スタッフがお子さんの移植手術を執刀することになっていますから」
ミンダはそう言うと、穏やかな笑みを湛《たた》えて言った。
「どちらの病院で行うのです」
反射的に訊ねると、
「ミセス・ダイドウジ……こちらに来る前にサインしていただいた誓約書を覚えていらっしゃいますか」
一転、笑顔を消したミンダが静かな声で問い返してきた。
もちろん誓約書には覚えがある。それは細かい文字でびっしりと埋められた、五枚にも上る英文のもので、移植手術に際してのリスク、報酬、その支払い方法といったことが記載され、最後にドナーについての質問は一切しないこと、手術する病院の選択に対しては現地の医師の指示に従うこと、が付け加えられていた。
「もちろん覚えています」
「でしたらそうした質問に答える義務は私にないことはお分かりですね」
有無を言わせぬ口調でミンダは言った。
しかし、そうは言われてもどうして慎一が移植手術を受ける病院名を隠す必要があるのだろうか。
諒子は合点がいかなかった。
「ご納得いただけませんか」
内心を見透かしたかのようにミンダが訊《たず》ねてきた。
「ええ」
ミンダは少し考えていたようだったが、やがて小さく肩を竦《すく》めると、声を落として話し始めた。
「通常でしたら、この国で心臓移植を行うのはハート・センターということになります。ですが、あそこにはドナーとなる心臓を待ち望んでいる患者がごまんといます。日本、アメリカ、オーストラリア、どこの国でも状況は同じです。移植手術を受ける順番は、もちろん適合性の問題はありますが、同じ条件下であれば、待ち順の長い患者に優先的に施されることになっています」
「確かにそれは日本でも同じことです」
「ですが、あなたのお子さんには、その順番を待っている時間がない。つまり通常の手順を踏んでいては手遅れになる可能性がある」
諒子は無言のまま肯《うなず》いていた。
「ミセス・ダイドウジ、考えてもみて下さい。あなたは今回心臓移植を受けるにあたって、百五十万ドルものお金を支払った。それが何故のことか、大方の推測はつくでしょう」
「まさか通常の手順をスキップして、優先的に心臓を慎一に回すためでは……」
「その通りです」
ミンダは当然という面持ちで、即座に答えを返してよこした。
臓器移植を受けるためには莫大《ばくだい》な費用がかかることは知っていた。ましてや海外で受けるとなれば、日本よりも遥《はる》かに高い対価を支払わなければならない。百五十万ドルはアメリカやオーストラリアで移植を受ける際にかかる費用と比べても遥かに高額には違いない。それが何に起因するものなのか。諒子はその時はっきりと悟った。同時に『この国では袖《そで》の下が横行しているんだ』という瀬島の言葉が思い出された。
慎一が受ける移植手術は、決して表沙汰《おもてざた》にはできないものなのだ。金の力を以《もつ》て、優先順位を手にした――。そのために本来心臓の提供を受けるべき子供が犠牲になるのかも知れない。
罪悪感が急速に頭を擡《もた》げてくる。だが、それも一瞬のことだった。
慎一に新しい心臓が移植される。
何物にも替えがたい我が子の命。それが現実に近づきつつある希望は、罪の意識を補って余りあるものがあった。
「ご納得していただけましたかな。ミセス・ダイドウジ」
自分でも気がつかないうちに、諒子は肯いていた。
移送は速やかに行われた。深夜、ICUから搬出された慎一は、外に待ち構えていたワゴン車に乗せられた。救急車でもない、普通の外観をしているワゴン車だったが、内部には医療機器が積まれているのが分かった。中には数人の医師たちの姿が見えた。マスクをしているせいで定かではないが、体格からすると、どうもフィリピン人よりも遥かに大柄で、欧米人のように思えた。
「ミセス・ダイドウジはこちらへ――」
ミンダが指示したところには、もう一台のワゴン車が停っていた。後部座席、それにリアウインドウは完全に塞《ふさ》がれていた。更に車内に乗り込むと、前部と後部座席の間は完全に遮断された状態にあり、外の様子が窺《うかが》い知れないようになっていた。
イリーガルな手順で移植手術を行うのだ。おそらくこの人たちは行く先を知られたくないのに違いない。
罪を犯す恐怖がそこはかとなく胸中に込み上げてきた。だがもうここまでくれば、引き返せない。
「それでは、ミセス・ダイドウジ、グッド・ラック……」
ミンダが最後の言葉を投げ掛けてきた。
諒子の決意を決定づけるように、ドアが閉まった。仄暗《ほのぐら》いルーム・ライトが狭い空間を満たした。
目的地を告げられないままのドライヴが終わったのは、それから一時間の後のことだった。
長い坂を登り、少しばかりの平地を走行したかと思うと、急な坂を下った。聞こえてくるエンジンが反響するところから、地下に入ったらしい。車が停止するとすぐにドアが開けられた。
「ようこそ、ミセス・ダイドウジ」
初めて見る男の姿があった。大柄な白人だった。銀髪に碧眼《へきがん》。髭《ひげ》はきちんと剃《そ》られており、着用しているアイロンの跡がついた白衣とあいまって、清潔感が漂ってくる。
この病院の医師だろうか――。
「ここは……」
「それはお知りにならない方がいいでしょう」
「あなたは?」
「それも――」
男は静かな笑みを浮かべながら言った。
「慎一は? 慎一はどこにいるのですか」
「ご心配なく。無事搬送は終了して、すでに我々の医師団の管理下にあります」
改めて周囲を見回すと、そこは思った通り地下駐車場だった。少し先には慎一を搬送してきたワゴン車が停っている。
「これから移植手術が終了するまで、お子様とお会いになることは控えていただきます」
「手術の前に会えないのですか」
「術前の最終の検査があります。これからは全てをスケジュール通りに行わなければなりません」
「それではその間、私はどこで待機すればよろしいのですか」
「どうぞ、こちらへ……」
男は先に立って、地下駐車場の片隅にある建物への入り口へ諒子を誘った――。
それから通されたのがこの部屋だった。
室内には大きなソファーとテーブル。それにベッドが置かれている。バスルームとトイレもあり、マニラの一流ホテルに匹敵するクオリティだった。唯《ただ》一つ、異様なのはこの部屋に窓がないことだった。そしてもう一つ、極めて異常なのは、ドアの向こうには常時ガードマンがいるブースがあって自由な行動が部屋の中に限定されている点だった。
上品な柄がプリントされた壁紙。食事は豊富なメニューの中から選ぶことができたし、口にする気持にはなれなかったがワインリストも添えられていた。慎一のことが気になって食欲はさほど覚えなかったが、それでも運ばれてくる食事の味は悪くはなかった。朝食の際には、決まってこの国唯一の邦字紙である『まにら新聞』が添えられていた。
しかし、行動の自由を奪われた身にしてみれば、まさにここは態《てい》のいい監獄そのものだった。時間の経過を示すものは、ベッドサイドに置かれたデジタル時計の数値。三度の食事。それに見るとはなしにただつけておくだけのテレビだけだった。衛星回線を通じて流れてくるNHKの放送が、どこか遠くの世界のことのように感じられる。
予定通りに手術が行われているとすれば、いまごろ慎一は手術を受けているはずだ。たとえこのような環境下になくとも、実際に執刀の場に立ち合うことはできはしない。手術室の前に置かれたソファーの上で、身じろぎひとつすることもなく、『手術中』の文字が浮かび上がる表示灯の光が消えるのをじっと待つだけだ。そうして考えると、自由の身であろうとなかろうと、自分がとれる行動にさほどの違いはないのだが、それでも精神的重圧は堪え難いものがある。
諒子はソファーに腰を下ろした姿勢のままで、ベッドサイドにある時計を見た。
デジタル表示の数字は、午後八時十五分になろうとしている。
手術はいったい何時から始まったのだろう。ドナーの心臓は移植に耐えうるものだったのだろうか。慎一の心臓の摘出はうまくいったのだろうか。まさか移植した心臓が動かないなんてことは……。
考えはどうしてもネガティヴな方向に向かう。その重圧にともすると押しつぶされそうになる度に、諒子はカーペットの上に跪《ひざまず》き、胸にかけたロザリオを取り出すと長い祈りを捧《ささ》げた。
突然電話が鳴ったのは、もう何度目になったのか分からない祈りを捧げている最中のことだった。三度目の呼び出し音の半ばで受話器を取り上げた。その手が小刻みに震えているのが分かった。心臓が早鐘を打ち、緊張感が全身を包む。もはや答えは成功か失敗か、そのうちの一つしかない。
「ハロゥ……」
声が震えた。最後の方は擦《かす》れて音にならない。全神経が聴覚に集中する。
『ミセス・ダイドウジ――』聞き覚えのある男の声。
「手術は終わったのですか? 慎一の容体は?」
矢継ぎ早に諒子は訊ねた。
『つい先ほど終了しました。ご心配なく。手術は成功ですよ』
「えっ……本当に? 本当に成功したのですか」
自然と涙が込み上げてくる。視界が霞《かす》んで壁紙のプリント模様が滲《にじ》んで形をなくす。
諒子は受話器を押し当てたままの姿勢でその場に跪いていた。全身の力が一気に抜けていく。得体の知れない熱い塊が胸の中で膨張し、果てどもなく広がっていく。
『ドナーの心臓の状態は極めて良好でした。手術そのものも、全て順調に推移しました』
「それで、慎一は」
『お子様はいまICUに入れられております。術後の経過もいまのところ問題ありません』
「会う……、いえ、一目あの子の姿を見ることはできないのですか」
『ICUの中には入ることはできませんが、窓の外からでしたら姿を見ることはできますが。それでもよろしいというのであれば』
「もちろん、それで結構です。ぜひ!」
諒子は即座に答えた。
『分かりました。それではすぐに迎えを出します。そこで暫《しばら》くお待ち下さい。さらに詳しい話は後ほど……』
その言葉を最後に回線が切れた。
受話器を静かに戻した。瞬間、全身から力が抜けていくのを諒子は感じた。考えてみれば慎一が発病して以来、気が休まることはなかった。一時たりとも我が子から目を離したことはない。絶望の闇の中に小さな光を見いだそうと、必死になっていたのだ。しかも時間という絶対的制約に追われながら――。長きにわたって心を満たしていた緊張感から解き放たれたせいだろう、全身の筋肉が弛緩《しかん》していくのが分かった。
諒子は改めてロザリオを取りだすと、その場に蹲《うずくま》り神に感謝の祈りを捧げた。それはドアが静かにノックされるまで続いた。
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第五章 二〇〇〇年九月
依頼
トタン板の屋根にぶちあたる雨音が激しさを増してきているような気がした。大気の中に籠《こも》る湿度をたっぷりと吸い込んだマットが体にへばりつく。樋《とい》のない屋根の縁から、雨が滝となって流れ落ちる音がする。
灯を消した狭い部屋の中でテオドロはまた一つ寝返りをうった。姿勢を変えるために、体に力を入れたせいだろうか、胸が苦しくなり軽い咳《せき》を繰り返した。
どうもこのところ、前にも増して気管支の調子が良くない。有害物質をたっぷりと含んだ排気ガス。それにこの劣悪な環境だ。気管支や肺を病む人間は少なくはない。それに自分はもう六十六。この街では長命の部類に入る。
もう俺もそう長くはない。どうせ生きたところであと一年か二年といったところだろう。
もちろん医者にかかり、それなりの治療を受ければそれよりも少しは長く生き永らえることができるかも知れない。だがそんなことをしていったい何になる。このどん底の暮らしが変わるわけでもない。いっそ死んでしまった方がよっぽど楽というものだ。
だがそう思う一方で、いざ死というものを正面から考えてみると、得体の知れない恐怖が込み上げてくる。
死が突然襲ってくるならばいい。だが真綿で首を絞められるような苦しみの果てに朽ち果てるのは御免だ。第一俺には誰一人として最期を看取《みと》ってくれる家族がいない。妻は四十に満たない歳で結核を患いこの世を去った。子供も授からなかった。このバラックの部屋の中で、断末魔の苦痛に喘《あえ》ぎながら死を迎える。発見される頃には、体は腐乱して酷《ひど》い臭いを発し、無数の蛆《うじ》が肉を食い散らしていることだろう。
散々な人生を送ってきた最期に、そんな目に遭うのだけは嫌だ。
かといって、自分にはいかなる手だても残されてはいない。その絶望感から逃れるために、テオドロは酒に溺《おぼ》れた。アルコールが体内を満たしている時間だけが恐怖を和らげてくれる。そのためには俺は何だってする。
枕元には酒が入った瓶が置いてあるはずだった。安い地酒だ。テオドロは、手探りでそれを探り当てると、上半身を起こし、二口ばかり中の液体を体内に送り込んだ。強いアルコールが喉《のど》を焼きながら滑り落ちて行くと、胃の中で炸裂《さくれつ》した。血流がたちまち熱を帯び、血管の在処《ありか》がはっきりと分かるような気がした。
再びマットの上に体を横たえると、大きな息をした。気分が幾分楽になったような気がする。胸中を満たしていた不安が急速に和らいでいく。
アルコールのせいで、意識が朦朧《もうろう》としてきたのか、睡魔が襲ってきたのかは分からないが、目蓋《まぶた》が重くなってくる。部屋の中の闇が濃さを増してくるようだ。
と、その時だった。建て付けの悪い入り口のドアが軋《きし》みを上げて開いたような気配を感じた。
風のせいか? 確か台風が近づいているはずだ。ドアを開け放ったままのところに、強風が吹き込めばこんなバラックはひとたまりもない。
短い舌打ちが自然と口をついて出た。意識がはっきりとしないまま重い体を起こしかけた。瞬間、眩《まぶ》しい光が目を射り、テオドロは反射的に目蓋を閉じた。
「爺《じい》さんよ。久しぶりだな」
声の主が電球の灯を遮ったのだろう。幾分眩しさが和らいだ。恐る恐る目を開けると、自分の顔を覗《のぞ》き込むようにしている男の顔がすぐ目の前にあった。
「随分ごきげんじゃねえか、ええ」
男は、枕元にあった瓶を手にすると、それを二度三度と振った。瓶の底から三分の一程残っている透明な液体が、微《かす》かな音を立てて鳴った。
名前は知らないが男の顔には見覚えがあった。いや忘れようにも忘れられない顔――。
テオドロはその顔を見た瞬間、何のためにこの男がやって来たのか、その目的を悟った。
「毎晩、この調子でやっているのかい」
テオドロは答える代わりに身を起こすと、男の手から酒瓶を奪い取った。
「どうしようもねえ安酒だが、こんな調子でやってたんじゃ、いくら金を渡したところで足りやしねえだろうが」
男の視線には哀れみと皮肉が籠《こも》っているような気がした。口元は薄気味の悪い笑いで歪《ゆが》んでいる。
「またかよ」
目的など訊《き》く必要はない。この男が自分を訪ねてくる用件は、後にも先にも一つしかありはしない。
「ああ、そうだよ」
「今度は何だ。子供か、若い女か」
「少年だよ」
「少年?」
男たちに手を貸して四年になる。しかしいつも要求されるのは幼い子供か、さもなくば少女で、少年というのは初めてのことだった。
「それも今回は今までとはちょっと違った条件があってな」
「何だ、そのちょっと違う条件ってのは」
「まず健康な男子。歳の頃というより、身長が百六十センチ前後。体格は普通。つまり痩《や》せていなければ太ってもいない――」
「太った子供なんか、このトンドにいるもんか」
「そりゃそうだ」男は歯を見せて笑った。「どうだ、心あたりはあるか」
テオドロは酔いの回った頭の中で必死に考えた。条件を満たしそうな子供を見つけること自体は難しい話ではない。おそらく歳の頃にして十三歳か十四歳……。小学校を卒業するか高校に入ったばかりあたりの子供といったところだろう。問題はその頃の少年をどうやってこの男たちに引き渡すかだ。
アリシア、それに確か十五歳の少女の場合は、どちらも顔見知り。泥酔する身を案じて自分をこの家に運び込んでくれたところを引き渡せばよかった。他の二人の幼児の場合はもっと簡単だった。路上で遊び回っているところを、お菓子をやるといえば造作もなくついて来た。しかしそれが少年となるとそうした方法は取れない。少しばかり手順というものを考えなければならない。
「そんな少年はごまんといるにはいるが……」
「いるが、どうした」口籠《くちごも》ったテオドロに男が訊《たず》ねてきた。
「問題はどうやってここにその少年を誘い入れるかだ」
「なるほど。心優しい少女や分別のつかないガキとは違うというわけか」
男は納得したように肯《うなず》いた。
雨はますます激しさを増してくる。トタン屋根の上で無数の爆竹が炸裂《さくれつ》しているような凄《すさ》まじさだ。家のあちらこちらにある隙間から風が吹き込んで来るのだろう、天井からぶら下がっている電球がゆらゆらと揺れた。
「それに、十三やそこらのガキとはいっても男だからな。拉致《らち》する時に暴れられて誰かに物音でも聞きつけられたんじゃ、まずいことになる。できれば俺たちが車をつける場所に近い所まで誘《おび》き出してもらえればいいんだが」
「車のつけられる場所ねえ……」
テオドロが思案を巡らし始めたその時だった。
「おい、爺さん」何か閃《ひらめ》いたのか男が言った。
「あんた、普段はマルコス・ロードで煙草売りをやってるんだったな」
「ああ、そうだが」
「だったら、その店を少しの間手伝わせることのできるガキはいないか。小遣い銭をやると言えば、喜んで店番をするような……」
「そうさな」
テオドロは考えた。身長百六十センチ。歳の頃十三から十四……。それも喜んで店番をやってくれるとなると、良く自分を見知っている少年でなければならない――。やがて一人の少年が脳裏に浮かんだ。
「いるよ。いる」
「条件は満たしているのか」念を押すように男。
「ああ、ぴったりだ。高校二年の少年だ。健康状態も悪くはない。頭の良い子で、親思いときている。あの家も決して楽ではない暮らしの中からどうにかあの子を高校にやってるんだ。賢い分だけ家の事情は良く分かっているはずだ。僅《わず》かでも金が稼げるとなれば、喜んで店番をやるだろう」
「よし。それで行こう」
「で、もしもあの子が店番に立ったら、どうするつもりなんだ」
「後のことは心配することはない。そこから先は俺たちの仕事だ。まあ任せておけ」男は不敵な笑いを宿しながら言うと、「で、いつ頃ならそれを実行できそうだ」続けて訊いてきた。
「期限は」
攫《さら》った少年少女をどうするつもりかは知らないが、どういう理由かこの男の依頼にはいつも期限がつきものだった。
「待っても二月《ふたつき》……」
「分かった。それなら何とかなるだろう」
「準備ができたら、いつもの番号に電話してくれ。こちらはすぐに出られるように態勢を整えておく」男は満足そうに言うと、
「報酬はいつもの通りだ」
「ありがてぇ」
最初の頃こそ自分のしでかしたことに罪の意識を覚えたものだが、度重なる行為にそんなものはいつの間にかどこかに吹き飛んでいた。何よりも五万ペソの現金は罪の意識を補って余りある報酬だった。
「それから、こいつはあんたにだ。深酒は体に毒だ。せいぜい長生きしてくれよ、爺さん」
男は後ろに隠し持っていた酒をマットの上に置いた。普段飲んでいる地酒とは全く違う、ブランドものの酒だった。
「すまねえな」
それを手にし、目を上げた時には、もう男の姿はそこになかった。一陣の強い風が室内の大気を揺らすと、ドアが閉まる音がした。
躊躇《ちゆうちよ》することなく栓を開けると、中の液体を三口ばかり喉《のど》に流し込んだ。いつもと違う良質のアルコールに、体内の全ての細胞が歓喜の声を上げる。心地よい酔いとともに、睡魔が襲ってきた。
テオドロは深い眠りに墜《お》ちて行った。
標的
ハバナ・カフェ――。マカティにあるこの店は、酒の種類も豊富なら食事も楽しむことができることもあって、外国人や現地人の中でも高所得者層の若者が集まるホット・スポットの一つだった。店のインテリアや造りは、どこか自由が丘辺りの洒落《しやれ》た店を思わせる。
その店の一角、窓際に席を取った瀬島と上司である支店長の松井は、麻里を交えて夕食前の一時を楽しんでいた。
「なるほど、大したもんだね。これで君もちょっとした有名人ってわけだ」
二つ折りにしていた新聞から目を上げると、松井が金縁眼鏡の下から穏やかな笑みを投げ掛けながら言った。彼が手にしていたのは十日前の日付のついた日本の新聞だった。
「恥ずかしくなるようなことをおっしゃらないで下さいよ、松井さん。一回新聞に取り上げられたくらいで有名人だなんて、そんなこと言い始めたら、日本は国民皆有名人ですよ」
「そうでもないさ。単に名前がでるだけならともかく、全国紙が個人のことをこれほどのスペースを割いて紹介するなんてそうあるもんじゃない」
テーブルの上にはショットグラスになみなみと注がれたテキーラが置かれている。それに蓋《ふた》をする形でライムのスライスが添えられている。二人の会話を聞きながら瀬島はライムを齧《かじ》ると、その余韻が口の中に広がっている間に透明な液体を一口|啜《すす》った。
「読んでみろよ、瀬島君」松井が新聞を手渡してきた。
「拝見」
「もういいわよ。勘弁して頂戴《ちようだい》」
「まあそう言わずに」
瀬島は松井の手から新聞を受け取ると、紙面に目を走らせた。
『情熱大陸アジア――第一線で活動する女たち――シリーズ連載5回。フィリピン』
ゴシックの見出しが打たれた囲み記事。その最初には麻里のバストショットが載せられていた。
「このお話を受けた時にはこんなに大きな記事になるとは思わなかったんです」
麻里はカンパリソーダの入ったグラスに口をつけた。ルビー色の液体の中に沈む氷が涼やかな音色を奏でた。
「取材をしたのは、毎朝のマニラ支局の太田さんですか」と、松井。
「ええ、でも最初の打診は東京本社からのお話だったみたいですね。そちらで働いている若い女性はいませんかってね」
「たしかにフィリピン最難関のUPとはいっても、日本人の女性は珍しいですからね。たぶんいまはあなた一人じゃありませんか」
「それはそうなんですけれど……でもお二人が知っての通り、私は一介の研究員、学生にちょっと毛が生えた程度のことですからね。ここに駐在して働いている女性ならば、ホテル、航空会社、銀行。他にもたくさんいます。そんな方々からすれば滞在期間っていうことだけ取ってみても、私はまだ短い部類だし、記事にするならもっと相応《ふさわ》しい方がいらっしゃると、最初はお断りしたのですけど」
「先輩諸氏を差し置いては、さすがに気が咎《とが》めましたか」
「それはそうですよ」身を小さくしながら麻里。
「自己主張の激しいアメリカでの生活が長かった割には随分控え目なんですね」
「あら、松井さん。私こう見えても純粋な日本人ですもの……」
「それにプリンストン時代には、ボランティアで聴覚障害者のために手話を教えていたとありますが」
「ええ、たまたま私が中学時代に住んでいた家の近所に聴覚障害を持った同年代の女の子がいたので、ごく自然な成り行きで手話を覚える気になったのです。それに社会に何らかの形で無償の奉仕をするのは、いわば一つの義務みたいなものですからね」
「最近では日本でも随分とボランティア活動が盛んになってきてはいますが、やはりそうしたところは、アメリカで暮らした方ですね。和洋折衷なかなか結構」
「まあ意地悪な言い方」
松井のいささか戯《おど》けた口調に麻里は頬を膨らませた。だがそれも長くは続かない。視線が合うと、一転してその口元に笑みが宿った。
「でもさ、こうして記事を読んでみると、確かに記事として仕上げるには君は絶好の素材だったと言えるんじゃないかな」
記事を読み終えた瀬島は、視線を上げると麻里を見た。
「どうして?」
「だって記事の始まりからしてそうじゃないか。『戦前、外務大臣、内務大臣を歴任した鳥河弘文子爵。その名前は混迷する現代社会において、政治家の先見の明がいかに大切であるかということを論じる時、とかく引きあいに出される。日本国政史上に名を成す鳥河弘文を曾祖父《そうそふ》に持つのが今回紹介する麻里さんだ』。掴《つか》みはバッチリってわけだ」
「止めて下さいよ、瀬島さん」
その声には戸惑いというより、不快な響きが込められているような気がした。
「気に障った?」
「取材の趣旨はともかくとして、何で私の曾祖父《ひいじい》さんのことまで引きあいに出さなきゃならないの」
「その方が記事としてのインパクトがあるからだよ。鳥河弘文といえば、知る人ぞ知る政治家だ。そんな家庭に生まれた女性が、フィリピンに一人住んで発展途上国の研究をしている。読者にとってはすごく興味を覚える出だしだと思うけど」
「だから、それが不愉快だって言っているのよ」麻里は瀬島の手から新聞を引ったくるようにして持つと続けた。「まるで深窓のご令嬢が物好きで発展途上国に来ているって論調じゃない」
「意外性のある話の方が人々の耳目を惹《ひ》くものですよ。それにここに書いてあることに嘘はないんだし」瀬島の言葉を引き継ぐ形で、松井が続けた。
「それが面白くないんですよ。だったら、終戦と同時に鳥河の家が財産の全てを失って、いまや普通の家だってことも書いて下さればよろしかったのに。こんな書き方をされると記事を読んだ人はフィリピンが日本人が住むに当たってとんでもない苦労を強いられる国のような印象を否《いや》が応でも抱いてしまうわ」
「それは君の考え過ぎというものだよ」
取り成そうとした瀬島の言葉を無視して麻里は続けた。
「確かにこの国は、多くの問題を抱えていることは認めるわ。だけどそれはフィリピンに限ったことじゃない。アジアにはもっと酷《ひど》い国はたくさんあるし、世界を見渡せばもっと酷い国もある。たまたま、私は高校の頃にこの国を訪ねる機会があって、大学で勉強している間にアジアのために働きたいと思うようになった。三代前の家柄のことなんて何の関係もないわ。まさかあの太田さんが、フィリピンを特別視するような書き方をするとは思ってもみなかった」
「まあ、そう怒りなさんなよ。太田さんだって悪気があってこんな書き方をしたんじゃないでしょう」相変わらず穏やかな声で、松井は宥《なだ》めるように言うと、「ところで鳥河さん。ご研究の方はいかがです。順調に進んでいますか」
絶妙なタイミングで話題を転じた。
「ええ、各産業別の経済情勢はこちらに事務所を置く邦人企業のご協力もあって、かなりのデータが揃いました。これを纏《まと》めながらそろそろ文化的側面を探るフィールド・リサーチに重点を置こうと思っています」
「それは結構ですね。この国で経済活動をしている我々もあなたの研究成果については大変期待しています。なにしろ政府機関から発表される資料には我々からすると使いづらいところがありますからね。それゆえにフィリピン日本人商工会議所に加盟する邦人企業が、九六年にそれぞれの産業分野のデータを『フィリピン経済の手引き』として纏めたわけです。いまだにあれが最新のもので、この国の経済を正確に表している唯一の資料といってもいいでしょう」
「あの資料は私も拝見しましたけど、やはり実務につかれている方々がそれぞれの専門分野を担当して執筆なさっただけあって、研究には大変役に立ちましたわ」
「ああした資料を我々の手によって作らざるを得なかったのも必要に迫られてのことです。本当は毎年改訂版を出すことができればそれにこしたことはないのですが、何しろ皆日常の業務を抱えてのことですからね。それに宮仕えの身、ベテランの駐在員が帰国してしまえば後任が国情を把握するにはそれなりの時間がかかります。必要性は認めていて、改訂版を出そうと思ってもうまくいかないというのが現状なのです」
「私の研究が少しでもお役に立てばいいのですけれど」
「実は、今日お食事に招待したのは、ちょっと嬉《うれ》しいニュースをお届けしようかと思いましてね」
「あら、何かしら」
麻里は、表情を一変させるとすました顔で松井を見た。
「あなたの研究に助成金を出すことが決まったのです」
「本当ですか」
松井を見る麻里の目が喜びの色で満たされた。
「本当です」
「それは飛鳥物産からの研究助成金ですか」
「ええ」
「でも、あの助成金制度は日本国内の大学院で研究を行っている学生に与えられるもので、私なんかは対象外だと思っていましたけど」
「原則はね。しかし我々飛鳥にとって、アジアという地域は戦前からいまに至るまで切っても切れない関係にあります。ましてやこれまで商いの主要国だった欧米の事業規模は年々縮小傾向にある中で、ビジネスのメインは東南アジア、アフリカ、ロシアといったインフラがまだ十分に整備されていない発展途上国を中心としたものに変わりつつあります。しかし、こうした国でビジネスを行うに当たっての最大の問題は、国の全体像を掴《つか》む上で必要な信頼に足りる産業統計を始めとする資料がなかなか手に入らないことなんですね。アジアはこれからますます重要な地位を占めようとしています。そうした状況をふまえて今回は私が独断で申請してみたのです。まあ、通るかどうか定かではありませんでしたので秘密にしておいたのですが、今日正式に本社からその旨通知がありました」
「それは本当にグッド・ニュースだわ」
「まあ、研究助成金と言っても、年額五十万円ですが」
「とんでもない。フィリピンの貨幣価値に換算すれば大金です。本当に助かります」
麻里はすっかり興奮した態《てい》で、思いがけず巡り合った幸運に改めて喜びの色を露《あらわ》にした。
「助成金を差し上げる以上、研究の成果物は私共にも見せていただくことになりますが、それは構いませんか」
「もちろんです。人のお役に立ってこその研究ですもの。秘密にしなければならない理由なんてありませんわ」
「最終的に研究を纏められるのはいつ頃になりますか」
「そうですね。経済情勢に関しては分野別のリサーチ段階は終了して、いま最後の医療関係の纏めに入っているところです。後は先に申し上げた通り、文化的側面のフィールド・リサーチをこれから行うところですから、最終的に全てのものを纏め上げるまでにはあと半年はかかるとは思いますが」
「フィールド・リサーチというと、マニラを離れて島の方を回られるつもりですか」
「はい。できうる限りそうしたいと思います。何しろ七千余の島々から構成されている国ですからね。マニラにいて文献だけ漁《あさ》っていたんじゃ分からないことも多々ありますから、できうる限り足を伸ばしてみたいと思っています」
「結構です」
人が喜ぶ顔を見るのはいいものだ、と瀬島は思った。そして何故に今夜の席に松井が自分を同席させたのか。その理由が分かるような気がした。
おそらくは、この嬉しい知らせをもたらす席に、同年代の、それも満更知らない仲でもない男がいたほうが、麻里もリラックスするだろうし座も盛り上がると松井は考えたに違いない。
無邪気に喜ぶ麻里の顔を見ていると、脳裏に苦悩の表情を浮かべていた諒子の顔が浮かんできた。突然の電話があったのは、昨日の昼のことだった。工事現場で仕事の最中に携帯電話に連絡が入ったのだ。
『孝輔?』
受話器の向こうから聞こえて来たのは紛れもない諒子の声だった。
「諒子、どうしていたんだ」
『ごめんなさい。連絡しようと思ってはいたのだけれど、子供の看病で時間がとれなくて……』
問い掛ける瀬島に向かって、諒子は済まなそうな声で言った。
「いったいどこへ行っていたんだ。マカティ・セントラル・クリニックには何度か足を運んだんだが、そんな患者は入院していないというし、ホテルも僕と会った翌日には引き払っていると――心配していたんだぞ」
『あの翌日急に転院することになったの』
「どこへ」
『ハート・センター……』
だとすれば全てが納得がいく。ハート・センターはその名の示す通り、心臓を専門とする病院だ。それにペニンシュラのあるマカティからハート・センターのあるケソン・シティーは実際の距離にすればそれほどではないが、交通事情を考えれば一時間、いや状況次第では二時間もかかるかも知れない。難しい手術を受ける子供の傍にできるだけ長くいたいと思うのは親心というものだ。マカティにあるホテルを引き払ったのも当然というものだろう。
「それで、お子さんの手術はうまく行ったのかい」
『ええ、無事に済んだわ。入院するとすぐにドナーが見つかってね。回復もことのほか順調で』
「そうか、そりゃあ良かった。おめでとう、諒子」
瀬島は心から祝福の言葉を贈った。
『ありがとう』
「君はいまどこから電話をしているんだ。ハート・センターから? もし、そうなら今日の夕方にでもそちらに行ってもいいかな」
もう二度と会うことはないだろう。そんな気持が込み上げてくると、絶望に打ちひしがれた諒子の姿よりも、前途に希望を見いだした姿を記憶の中に残して置きたいと思った。
『いま空港からかけているの』
「空港?」
『これから帰国するの』
「そうか、もうそこまで回復したのか」
『孝輔、ほんとうにあなたには感謝しているわ』
「僕は何もしていないよ」
『いいえ、初めての土地。誰一人として知る人のいない国で、がんばってこられたのも、万が一のことがあればあなたがいると思ったからよ』
「そんな……」
『ううん、社交辞令でも何でもない。私の本心よ。ありがとう。孝輔』
「だとすれば、嬉しいが」
『たぶん、これでもうお会いすることはないとは思うけど、あなたが幸せになることを心から祈っている』
「ありがとう、諒子……」
『それじゃ』
「ああ、諒子も元気で。お子さんの順調な回復を祈っている」
『さようなら』
「さようなら」
――それが最後の会話だった。
「鳥河さん。いま医療関係の纏めに入っていると言いましたよね」
そんな質問が口をついて出たのも、諒子と交した会話がまだ記憶に新しかったせいだろう。
「ええ、それが何か」
「臓器移植についてはどうなのかな」
「どうって?」
「フィリピンでは頻繁に行われているものなのかな」
「そうね」麻里は少し考えているようだったが、「詳しいことは知らないけれど、少なくとも腎臓《じんぞう》についてはありなんじゃないかしら。何しろケソンにはキドニー・トランスプラント・インスティテュートってその名もずばりの施設がありますからね」
「心臓についてはどうなのかな」
「心臓ねえ……。どうかしら。確かにこの国は保険医療システムに難はあるとしても、医師のレベル自体は諸外国に比べて遜色《そんしよく》ないレベルにあると言ってもいいと思うわ。それにキドニー・トランスプラント・インスティテュートの近くにはハート・センターという心臓専門の病院もあることにはあるけれど……でも心臓移植となるとどうなのかしら」
麻里は小首を傾げた。
「心臓移植は大変な金のかかる手術だからなあ。仮に移植を望む患者がいたとしても、その金を支払えるだけの人間なんて、ごく一部の富裕層だけだろう。もしもそんな大金を支払えるだけの財力があるんだったら、実績のあるアメリカかオーストラリアにでも行って手術を受けるんじゃないのか」
麻里に代わって傍らから松井が言った。
「それなら、腎臓だって同じことが言えるんじゃないでしょうか」
「それについては、とかくの噂がないわけでもない」
「噂?」
瀬島は思わず問い返した。
「ああ、何でも腎臓を金に換える人間がいるらしいんだ」
「自分の臓器を売るんですか」
「腎臓は二つあるからね。そのうちの一個を売り飛ばすというんだな。まあ、その日の糧を得るのにも苦労する貧困層が圧倒的多数を占める国だ。大金を積まれりゃ、無茶な行為に打って出てくる人間がいたとしてもおかしくはない話だがね」
「それを誰が買うんです。腎臓が大金になるというなら、それを貰《もら》い受ける方も、それなりの金額を積まなきゃならないでしょうに」
「どうも、外国人らしいんだな。もちろん日本人も含めての話だが……。しかし腎臓はあっても心臓はどうかな。何しろ、たった一つしかない臓器だ。こいつだけは売り捌《さば》こうにも売れやしない。第一そんなことをしたら死んじまうよ」
松井は苦笑いを浮かべながらそう言うと、
「しかし瀬島君、何でまた急にそんなことを言い出したんだ」
「いえ、ちょっと……」
瀬島は言葉を濁した。
まさか諒子の子供がこの地で心臓移植を受けたことを話すわけにもいかない。
腎臓を売って金に換える人間がいるというのはぞっとしない話だが、確かに松井の言うように、心臓を売る人間などいようはずもない。ましてや諒子の子供は二歳。人生に絶望した大人が家族のために命を投げ出すということは考えられないではないが、まさか子供の命を生活のために売ろうなどという親がどこにいようか。ましてやことのほか子供を大切にするのは、この国が持つ美徳の一つだ。そんなことは絶対にあり得ない。
麻里にしたところで、この国の医療を経済的側面から調査したのであって、術例の調査を行ったわけではない。心臓移植がこの国で行われているのか否かは、この二人が知らないだけで、やはり諒子が言った通り、ハート・センターでは実際に行われているのだろう。
「何だか話が変な方に行ってしまったな」松井が言った。「そろそろ場所を変えて食事にしないか」
「ええ、そうしましょう。私、もうお腹がペコペコ」
麻里が明るい声で言った。
「瀬島君、レストランの予約はしてあるよね」
「ええ、カマヤンを押さえてありますが」
「フィリピン料理か……たまには悪くないな。どうですか、鳥河さん、それでよろしいですか?」
「もちろんです。ありがたく頂戴《ちようだい》しますわ」
「それじゃ、車を回してきます」
そう言って席を立ちかけた瀬島に向かって、麻里が言った。
「あら、いいんですよ。そんなに気を遣わなくても。一緒に行きますよ」
「いいって。レディに雨の中を歩かせるのは気が引ける」
噴き出す二人を見ながら、瀬島は席を立った。
ウイリアム・アンド・トンプソン研究開発センターの事業[#「事業」に傍点]は日を追うごとに確実に規模を拡大していた。いかにアメリカやオーストラリアでの脳死移植が日常的に行われていようとも、ドナーを得ることができずに命を失う人間の方が絶対的に多いのだ。なにしろアクシデントによる脳死、あるいは善意の第三者の死を待たねばならない上に、適合性、優先順位という条件を満たさないことには肝心の臓器を手にすることはできない。その点、この施設はドナーとなる人間を飼っている。それも万全の健康管理の下、何の異常もない健康体の人間ばかりをだ。
唸るほどの金を持っているにもかかわらず迫り来る死の影に脅えている。そんな患者を捜しだすのは造作もないことだった。もはやこの施設内で臓器移植が行われるのは日常茶飯事のことであり、ドナーとなる子供や少年少女は、フィリピンどころか、インドにまで供給源を伸ばし、人工授精によって生まれ引き取り手のないまま飼われている幼児の数も、常に五人前後の水準を維持していた。
それに加えて『マリア』を使った体外受精という本来の仕事[#「仕事」に傍点]もある。優秀な卵子を求める顧客もまた跡を絶たず、時にはアメリカ本国から完全にとはいえないまでも、ある程度の条件を満たした卵子を融通してもらうことも珍しいことではなかった。
特別な顧客のオファーがフレッチャーの下に舞い込んで来たのは、そんなある日のことだった。四年前にマリア・プロジェクトによって子供を得た夫婦が第二子を望んで来たのだ。
「どうやら、クライアントは、ことのほか子供の出来栄え[#「出来栄え」に傍点]に満足のご様子だな」
フレッチャーは朝のコーヒーを啜《すす》りながら言った。窓の外は雨期らしく雨が降り注いでいる。無数の水滴が、室内の蛍光灯の光を反射して微細な光を放っている。
「あの卵子は完璧《かんぺき》にクライアントの条件を満たしていましたからね。あれほどの卵子はそうめったに手に入るものではありませんよ」
まだ朝食を済ませていなかったものか、ペーストリーを頬張りながらノエルが言った。
「しかしまた、厄介な条件を突きつけてきたものだよ」
フレッチャーは、手にしていた一枚の紙を差し出した。ノエルが空いた方の手でそれを受け取ると、素早くそれに目を通した。
「卵子提供者は前回とは違うオリエンタル。それも血統がしっかりしていること。おまけに母体は処女……。第二子にも処女懐妊の伝説を持たせたがっているというわけですか」
「第三者にとっては実に馬鹿げたことでも、こだわる人間というものはとことんこだわるものさ」
フレッチャーは肩を竦《すく》めた。
「で、どうするんです。ドクター・フレッチャー。このオーダー通りのオペレーションを行うんですか」
ノエルの問いが意味するところは明白だ。オリエンタルと言うならばチャイニーズでも日本人でも生まれてくる子供は外見からでは判断のしようがない。本国にはチャイニーズ、あるいは日本人の凍結卵子だってあるだろう。それに母体となる女性が処女かどうかということだって、クライアントには確かめようがない。要はクライアントのオーダーを手間暇かけて忠実に行うか、それとも手っ取り早く済ませてしまうか、それを訊《たず》ねているのだ。
「やらざるを得ないだろう。このオーダーは唯《ただ》のクライアントじゃないからね。一度ならず二度までも莫大《ばくだい》な金を払ってくれる大切な客だ。我々がこの国で、研究や事業をしていられるのも、こうした客がいればこそだ」
「そうでしたね。そもそもマリア・プロジェクトを行うきっかけになったのも、彼のオーダーがあればこそでしたから」
「しかし、厄介なオーダーだな。こいつは」フレッチャーは胸の前で腕を組みながら、溜息《ためいき》を漏らした。「母体に処女をという点に関しては問題はない。すでに代理母で子供を産んだ女性は経産婦には違いないが、処女であることに変わりはない。だがオリエンタルの、しかも折り紙つきの血統を持っている卵子を手に入れるのは至難の業だ。前回望み通りの子供を提供できたのは、全くの偶然の産物だ。あんな幸運がそうタイミング良くやってくるわけがない」
「前回の卵子はまだ凍結保管してありますが、そいつを使ってはならないということになると、新しい卵子の提供者を捜しださないと」
「あの時は、同時に三体の子供を作りだすことに成功したのだったな」
「ええ、一体はクライアントに。もう一体は、胎児提供者の子供の移植に使っています。もう一体はいまだ地下の施設におりますが」
「確か女の子だったな」
「ええ」ノエルはペーストリーを慌てて飲み込むと、「ドクター・フレッチャー、まさかその卵子を摘出して使おうというんじゃ」
「馬鹿な。そんなことはできるはずがないじゃないか。その卵子にクライアントの精子を掛け合わせても血が近過ぎて遺伝的な障害が起こる可能性が高い。ただ聞いてみただけだ」
「いずれにしてもオリエンタルの卵子をクライアントが望んでいるとなれば、ドクター・シンジョウに当たってみるほか手はないでしょう」
「ドクター・シンジョウねえ」
フレッチャーは気乗りのしない返事をした。
確かに新城のクリニックは上客の集まるところではあるらしい。だが堕胎手術を望む患者というものは、掻爬《そうは》が簡単に行える妊娠五カ月前に手術を行うのが常で、六カ月まで放っておく患者は珍しい部類に入る。もっとも他の要因、例えば異常妊娠などの理由で堕胎を余儀なくされるケースはあるだろうが、もしそうだとすれば、あの新城のことだ、きっと向こうから連絡を入れてくるに違いない。
「確か最初のマリア・プロジェクトを行うのに使用した卵子は、帝都大学の医学部の研究室で採取されたはずでしたよね。ドクター・シンジョウのところに該当する卵子はなくとも、帝都にならあるかも知れませんよ」
「なるほど、帝都大学か」
いかに大学病院とはいえ、果たして条件に見合う卵子がそう都合良く転がっているとは思えなかったが、クライアントが折り紙つきのオリエンタルの卵子を望んでいる以上、他に頼る人間はいない。
壁に掛かっている時計を見た。時間は午前九時を三十分ばかり回ったところだった。時差一時間の日本は十時半。おそらく、クリニックは午前の診察に入り妊婦たちが列をなしていることだろう。
「分かった。君のいう通りドクター・シンジョウに電話をいれてみよう」
期待はできないが、座して手をこまねいているより遥《はる》かにましだ。駄目なら駄目でまた次の手を考える。いま自分にできることはそれしかないのだから――。
ノエルがペーストリーを平らげると、コーヒーでそれを胃の中に送り込んだ。
「それでは、これで」
「進展があったら知らせる」
「今日は一日研究室におりますので」
ノエルはそう言うと立ち上がった。朝のミーティングが終わった。
「院長先生、お電話です」受話器を取り上げた新城の耳に事務員が告げた。「外国人の方からです」
「繋《つな》いでくれ」
ちょうど午後の診察を終え、院長室に戻り煙草に火をつけたばかりだった。新城はまだ一口しか吸っていない煙草を灰皿に擦《こす》りつけた。
『ハロゥ』
聞き覚えのある声が流れてきた。ドクター・フレッチャーだった。
「ドクター・フレッチャー、ご機嫌はいかがですかな」
『雨期のせいで毎日雨降り。天候は優れませんが、私自身は問題なく過ごしています』
「それは結構ですな」
フレッチャーと言葉を交わすのは四カ月ぶりのことだった。この前は大道寺諒子の子供の移植手術の最終打ち合わせの会話だった。そう言えばまだあの件に関しての礼を言っていなかった。
「ところで、ドクター・フレッチャー、その節は大変お世話になりました」
『はて、何の件でしたかな』
「例の大道寺の子供の心臓移植の件です」
『ああ、あの件ですか。それなら礼を言わなければならないのはこちらの方です』
「私のところにも、帰国なさって間もなくご夫妻でお礼においでになりましたよ。まさかこんなに早く移植手術をしていただけるとはと、それは大変な喜びようで」
『運が良かったのですよ。たまたま条件が一致する脳死状態の子供が現れた……』
「通常のプロセスを踏んでいたのでは、これほどスムーズに事は運ばなかったのでしょう」
『その辺はあまりお訊ねにならないで下さい。何のためにあれほどの大金がかかったのか、そこから事情は推測していただきたいものです』
確かに百五十万ドルという金額は、欧米先進国で同じ治療を受けるにしても法外なものには違いない。ましてやフィリピンともなれば、諸経費だって遥かに安くつくはずだ。あの金額の中には順番を繰り上げるための工作費、自分が手にした仲介料はもちろん、フレッチャーの組織の利益も含まれていたのだろう。
どんな手を使ったのか。大方の想像はつくが、それを聞いたところでどうなるものでもない。要は大道寺という上客が満足のいく治療を受けることができた。それに自分もそれに見合うだけの金を得た。それで十分だった。
「失礼しました」新城は革張りの椅子に体を預けると、「ところで今日は何用ですかな。わざわざお電話をおかけになったところをみると、他に用事があるのでしょう」と、訊ねた。
『お察しの通りです』
果たして予期した通りの答えが返ってきた。『実は、また日本人の卵子を捜しているのです』
「日本人の卵子を」
『ええ』
「それは胎児のものですか。それとも……」
『どちらでも構いません。ただ私共のクライアントはいつかと同じような折り紙付きの血統を持った卵子を求めているのです』
「正直言ってそれは難しい相談ですね。あの時大道寺の娘が宿した胎児から卵子を採取できたのは、まったくの偶然の産物以外の何物でもありません。あんな幸運はめったにあるものじゃありません。あの時真っ先にあなた方のところへ連絡を入れたのが何よりの証拠です。もしも再びあのようなケースに巡り合っていたら、すでにこちらからコンタクトしていますよ」
『それはそうでしょうな……』落胆の色を隠せないフレッチャーの声が聞こえた。『ドクター・シンジョウ』
「何です」
『あなたのクリニックでは不妊治療も行っているのですよね』
「その通りです」
『その中に、ダイドウジに匹敵するような血統を持った婦人はいらっしゃいませんか』
「それはどういう意味です」
『つまり体外受精を行う卵子を採取する際に、余分に卵子を採取していただく……』
「あなたのおっしゃる血統。つまり大道寺に匹敵するような患者となると、答えはノーです。少なくともいま現在私のところで不妊治療を受けている患者は、まあ日本の中では純中流に属する人間ばかりです。もっとも患者の方はどう考えているかは分かりません。もしかすると自分は上流に属すると考えている患者もいるかも知れませんが、少なくとも私から見ればとてもとても」
『率直なご意見ですな』
「単に、両親の学歴だけが一流校出というだけなら、いないわけではないのですが」
『それでは、クライアントは満足しないでしょうね。少なくとも代々オーナーを務める家であるとか、あるいは元華族であったとか、それなりの歴史を持っている家系のものではないと』
「私がこんなことを言うのはどうかとは思うのですが、日本人の卵子はともかく、経歴を勝手にでっちあげてもクライアントには分かりゃしないでしょう」
『それがこのクライアントの場合はそうはいかないのです、ドクター・シンジョウ。私共がここで行っていることは決して表沙汰《おもてざた》にできるものではないことはお分かりですね』
「ええ、知っています」
『我々がこうした研究を秘密裏に続けていくためには大変な金がかかります。十分な収益を上げなければ施設も維持できません。わざわざ大金を払っても願い通りの子供を得たいというクライアントには決していい加減なことはできないのです』
「ですがドクター・フレッチャー、残念ながら今回のお申し出に関してはお応《こた》えできる患者はおりません。少なくともいますぐには――」
そう、そもそもが大道寺諒子の胎児の卵子を手に入れることができたこと自体が、奇跡に近い偶然だったのだ。ましてや華族だと? 確かにその血を引く者はこのクリニックの患者にいないではないだろうが、いまの時代に自ら進んで華族なんて言葉を口にする人間などいない。全く日本に対する幻想もここまでくれば立派なものだ。
考えがそこに至った時、ふと新城は脳裏に閃《ひらめ》くものを感じた。
待てよ、華族――。確かその言葉、いやそれに連なる文字を最近目にした記憶がある。
『ハロゥ。ドクター・シンジョウ?』
フレッチャーが問いかけて来る。
新城は必死に記憶の糸を手繰った。あれは確か――。
『どうかしましたか』
「ちょっと待っていただけますか」
そうだ、あれは新聞記事だ。新城は受話器を置くと、院長室の片隅に重ねられた新聞の束を捲《めく》り始めた。目的のものを見つけるまでさほどの時間もかからなかった。それは全国紙の連載記事で、いつも決まったページに掲載されている。
「ドクター・フレッチャー、ご参考になるかどうか分かりませんが、元子爵家の令嬢がいますよ」
『それはあなたの患者の中に?』
「いいえ、少し前の新聞で報じられた女性です。日本の国政史上に名を残し、子爵の爵位を持つ鳥河弘文という人物を曾祖父《そうそふ》に持つ女性です」
『それじゃ話にならないでしょう。それともあなたが交渉すればその女性が卵子提供のドナーとなってくれるとでも言うのですか』
「いいえ、交渉するのはあなた方でしょう。何しろ彼女はマニラにいるのですから」
『マニラに?』
「ええ、記事によると彼女はアメリカのプリンストンを出た後、いまはUPの研究員としてマニラで生活を送っているとあります。年齢は二十五歳。少なくともアメリカで教育を受けたとなれば、卵子提供に関しての抵抗感は普通の女性に比べて多少は少ないかも知れません」
『なるほど』
声の口調からフレッチャーが興味を覚えたらしいことが分かった。
「どうせ駄目で元々です。どうですか、一つ交渉してみては」
『貴重な情報をありがとうございます。ドクター・シンジョウ。恐れ入りますがその記事を日本文で結構ですからすぐにファックスしていただけませんでしょうか』
「分かりました。それではすぐに。幸運をお祈りします」
ファックス・マシーンが唸《うな》りを上げて用紙を排出し始めた。意味の分からない文字の羅列に続いて、鳥河という女性の写真がプリントアウトされた。
それを見たフレッチャーは自然と顔がほころぶのを感じた。
悪くない。アメリカ人の目から見ても、美人の部類に入る顔立ちをしている。それに漂ってくる気品はどうだ。これこそ我々が探し求めていた女だ。
新城の言葉からして、家柄は申し分ない。それにプリンストンを出たという経歴からしても頭脳は折り紙付きだ。第一、プリンストンはそう簡単に学位を授与するような大学ではない。すでに条件を完璧《かんぺき》に満たしていることは間違いなかった。
この女がマニラにいるとは、何という幸運だろう。
フレッチャーは腹の底から込み上げてくる喜びを抑えきれなかった。興奮が全身を満たし、手にしていたファックスが小刻みに震えた。
このチャンスを逃す手はない。もしもこの女を手に入れることができれば、これから先も最高の卵子の供給源になることは間違いない。
自然と電話に手が伸びた。指先が三|桁《けた》の番号をプッシュした。二度目の呼び出し音の半ばで相手が出た。
「ビル。すぐに私の部屋に来てくれ。ドナーが見つかった」
それだけ言うと、フレッチャーは受話器を叩《たた》きつけるように置いた。
交渉などするつもりは更々なかった。新城はアメリカで教育を受けた人間なら、卵子提供に理解を示すかも知れないと言った。だがそんな物好きな女はアメリカにだってそうはいやしない。よしんば応じてくれたとしても、二度、三度というわけにはいくまい。となればとる手だては一つしかない。
フレッチャーの中にはすでにプランができ上がっていた。
[#改ページ]
第六章 二〇〇〇年十月
拉致
忙しい一日だった。夕刻から始めた資料の整理に没頭し、気がついた時にはもう夜の十時近くになっていた。疲労感が急激に襲って来る。週末の夜。普段ならばマニラの中心部に出て、この地で働く女性駐在員の友人とディナーを取りながらたわいもない話に花を咲かせるところだが、週明けの月曜日からはフィールド・リサーチのためにマニラを離れることになっている。明日一日を費やせば、資料の整理は何とかなるという目処《めど》をつけられたのは収穫だった。お陰で日曜日は長旅のためのパッキングにゆっくりと時間を費やすことができる。
麻里は早々に帰り支度を終わらせると部屋を出た。研究棟の玄関には腰に拳銃《けんじゆう》をぶら下げたガードマンがいた。
「いま帰り?」
顔見知りのガードマンが驚いた様子で麻里を見た。
「ええ、資料の整理で遅くなっちゃった」
「気をつけて。いい週末をね」
「あなたもね。でも私は明日も来なければいけないの」
「そいつぁ大変だ」
「暫《しばら》くマニラを離れるもので、やらなきゃならないことがたくさんあるのよ」
「暫くって、どのくらい?」
「一月ほどよ。島を巡るの」
「そう、いい旅をね」
「ありがとう」
研究棟は広大なUPのキャンパスの中にあり、麻里が住むマンションまでは歩いて十五分程の距離があった。外国人向けの高級マンションとまではいかないが、それでもフィリピンのスタンダードからいえば、十分にハイ・クラスのものには違いない。それでも何だか自分が先進国の国民であるがゆえの特権をここぞとばかりに享受しているかのようで、心の片隅に疾《やま》しさを覚える。だが、それも安全ということを考えればこそのことだ。こちらがいくらこの国の人々に愛着を覚えていようとも、犯罪者にはそんな感情は無関係というものだ。
雨が止んで濡《ぬ》れた歩道に薄暗い街路灯の明りが鈍く反射している。
麻里は肩からバッグを下げると、速足で歩き始めた。人影はなかった。ゴム底のスニーカーが歩道を踏みしめる微《かす》かな音だけが聞こえる。穏やかな夜だった。
広大なキャンパスの中で目につくのは散在する建物の所々に灯《とも》る明りだけだ。なだらかな稜線《りようせん》を描く敷地の窪地《くぼち》から仄《ほの》かな明りが漏れて来るのは、そこに肩を寄せ合うようにして建つバラックの群れからのものだ。彼らにとってはここが大学の構内であろうとなかろうと、そんなことはお構いなしだ。空き地さえあればどこにでも住み着いてしまう。
しかしそれも毎日目にしていればさして気にならなくなるものだ。麻里は腕を大きく振りながら歩を進めた。
あと家までは十分もかからないだろう。それからシャワーを浴び、簡単な食事をとる。冷凍しておいたご飯を電子レンジで解凍し、それに友人の駐在員が土産でくれた佃煮《つくだに》、取り置きの総菜もある。一旦《いつたん》フィールド・リサーチのためにマニラを離れれば、日本食など当分口にできなくなる。
そう思うと急に空腹感を覚えた。
突然植栽の陰から黒い人影が飛び出してくると、前に立ちはだかった。
反射的に麻里は傍らをすり抜けようとした。暗がりでよくは分からないが、自分とそう歳は離れていないと思える男だった。男は左に位置をずらすと行く手を遮ってきた。
心臓が一つ大きな鼓動を打った。全身の筋肉が強張《こわば》り、緊張が俄《にわか》に頂点に達するのが分かった。男の視線と目が合った。何の感情も持ちあわせてはいないような冷酷な眼差《まなざ》し。表情一つ変えるわけでもなく、じっとこちらを見つめている。そこからもただならざる気配が漂ってくる。
「何?……何の用」
麻里はやっとの思いで訊《たず》ねた。その声が微かに震えているのが自分でも分かった。
物盗《ものと》りだろうか。だがその割には身なりはきちんとしている。カッターシャツにスラックス。学生とは思えなかったが、キャンパスの中でもよく見かける格好をしている。
「お金が欲しいの? だったらこれをあげるから……」
ショルダーバッグの中には、万が一の場合に備えて幾許《いくばく》か、つまり自分の身を護《まも》るに値する現金は用意してある。それを探ろうとした瞬間、
「ミス・マリ・トリカワ?」
男は自分の名を呼んできた。手が止まった。
どうしてこの男は私の名前を知っているのだろう。
麻里は答える前に男の顔を見つめた。浅黒い顔をしたフィリピン人の男。確かにこれまで研究生活を送ってきた中では数えきれないほどの人と会い、名刺の交換を行ってきた。その全てを覚えているわけではないが、少なくとも記憶の中にこの男の顔はない。それに知った顔なら、自分の進路を遮るような形で前に立ちはだかるというような行動には出ないはずだ。
本能が我が身に振りかかりつつある危機を告げる。
逃げろ!
麻里は身を翻しながら強張った両足に力を込め、ダッシュしようとした。しかしそれよりも早く、男の肩が動いたかと思うと、強烈な打撃が腹部を襲った。息が止まった。体が二つに折れ、膝《ひざ》から力が抜けていく。崩れかける体を男の腕が支えてきた。筋肉の在処《ありか》がはっきりと分かる屈強な男の腕だった。
息ができない。空の胃袋が悲鳴を上げ、その苦しさから逃れようと、麻里は意識的に大きく息を吸い込む努力をした。その時背後から、もう一人の誰かが口と鼻を塞《ふさ》いで来た。湿った布の感触。そこに含まれた特異な臭いが嗅覚《きゆうかく》を刺激する。
息をしちゃいけない!
再び本能が警告を発する。だがそれは空《むな》しい努力だった。肉体の要求に耐えられなくなった麻里は、大きく息を吸い込んだ。何かの薬品の臭い……。その正体を考える間もなく、意識が急速に遠のいていく。
暗い闇が訪れた――。
麻里の体から力が抜けて行くのを見ながら、腹に一発を見舞った男は初めて表情を歪《ゆが》めた。素早く周囲を見渡した。人影はなかった。
この女が目指す獲物であることは最初から分かっていた。この一週間の間、麻里の行動パターンを監視していたのだから……。
男は大木が鬱蒼《うつそう》と繁る一画に向かって手を振った。ヘッドライトを消して待機していたワゴン車が、静かに寄ってきた。スライド式のドアを引き開けた。
「乗せろ……早く」
命じられるまでもないといった素早さで、もう一人の男が麻里の体を後部座席に押し込んだ。男は再び周囲を見渡した。相変わらず人間の気配は微塵《みじん》もない。
それに満足すると、助手席に乗り込んだ。
「出せ」
ドライバーがヘッドライトを点灯させると同時にアクセルを踏み込む。ワゴン車のエンジンが咆哮《ほうこう》を上げると、ひっそりと静まり返っているキャンパスの中を加速しながら走り始めた。
行き先を告げる必要はない。向かう先は予《あらかじ》め決まっていた。ウイリアム・アンド・トンプソン研究開発センターだ。
最初に視界に飛び込んで来たのは、漆喰《しつくい》で塗り固められた白い天井だった。蛍光灯の輪郭がぼやけ、焦点を合わせるためには目を大きく見開いた上で、何度か瞬《まばた》きを繰り返さなければならなかった。
ここはどこなのだろう――。
頭蓋《ずがい》の中は澱《よど》んだ空気に満たされているかのようにはっきりしない。ともすると再び深い淵《ふち》の中へ落ちて行きそうになる意識の中で、必死になって記憶の糸を手繰ってみた。
目の前に見覚えのない男が立ち塞《ふさ》がると行く手を遮った。その傍らを通り抜けようとした。いきなり腹部に強い衝撃。息ができない。そして背後から何者かが私の口を塞いだ。何かの薬品の臭いがした……。
記憶はそこで途切れていた。その後のことは何も覚えていない。
「気がつかれましたか、ミス・トリカワ」
遠くから自分の名前を呼ぶ男の声がした。
麻里は声の方に向かって頭を動かした。意外なほどすぐ近くで静かな笑みを湛《たた》えながらこちらを見ている男の姿が目に入った。白人の男だ。グレーの髪。白衣の襟元からは、ブルーのオックスフォード地のボタンダウンのシャツ。レジメンタル・ストライプのネクタイがのぞいている。
ついいましがた呼びかけた男の声が脳裏に思い出された。英語。それも違和感なく入り込んでくる聞きなれたアクセント。風体、それに言葉からしてもアメリカ人に違いない。
一瞬、ここはアメリカなのだろうかという思いに囚《とら》われた。
「ここは? あなたは誰?」
だが男はその問い掛けに答えなかった。
「手荒なまねをしてしまいました。どうか失礼のほどはお許しいただきたい。ミス・トリカワ」
相変わらず笑みを浮かべながら男は言った。
「どうして私の名前を知っているの? 何が目的で私にこんなことをするの」
「ミス・マリ・トリカワ。二十五歳。元子爵家に生まれ、プリンストン大学卒。UPに籍を置き、フィリピンの国情調査を始めて二年――」
再び記憶の糸を手繰ってみる。
ここまで私の経歴を知っているとなると、どこかで会ったことのある人なのだろうか。白衣を着ているところからすると医者、あるいは科学者といったところかしら……。
だがどこを探っても目の前の男と一致する姿は記憶の中にない。
「あなたのことは良く知っております。いや、大変優秀な血統をお持ちでいらっしゃる」
「血統?」
「遺伝子と言ったらよろしいかな」
ますます以《もつ》て理由が分からなかった。自分の生まれがこの男にとって何の意味を持つというのだろう。それに遺伝子ですって? それはいったい何を意味するのだろう。
「それがあなたにどんな関係があるの」
「あなたに関係なくとも、こちらには大ありなのです」男は笑みを絶やさずに言った。その口調は不気味なほどに穏やかだった。「あなたの由緒正しい血統、それに遺伝子を是非いただきたいというお方がいらっしゃいましてね」
「それ、どういうこと」
背筋に悪寒が走るのが分かった。
「そんなに難しく考えていただくほどのことではありません。私共が望んでいるのはあなたに卵子を提供していただきたいだけなのですから。もちろん十分な報酬はお支払いしますよ」
「卵子を?」
何を馬鹿なことを。どうして私が卵子を提供しなければならないの。冗談にもほどがある。
「そんなことは絶対に嫌。はっきりとお断りするわ」
麻里は身を起こそうとした。だがまるで金縛りにあったように全身の自由が利かない。かろうじて動く頭部を持ち上げ、体を見ると、胸、腹、太腿《ふともも》、そして足首の位置で革のベルトによって体がベッドに固定されている。
麻里はそこで初めて明確な意図の下、自分が拉致《らち》されたことを確信した。
「あなたが選べる選択肢は二つあります」男は表情を変えることなく続けた。「第一の選択肢は、たぶんこれが最良の道だと思うのですが、素直に卵子採取に協力していただく。この場合は採取はただの一度だけ。それが終われば再びあなたの身の自由は保証いたします。神に誓って。それに十分な報酬もお支払いする。ただしここであったことの一切は他言は無用。全てを忘れていただく」
「そんなことは嫌よ」
「第二は」男は麻里の拒絶の言葉など聞こえなかったかのように淡々と続けた。「いま申し上げた要請にお応《こた》えいただけないとなると、あなたをここから出して差し上げることはできなくなってしまう。この場合、卵子の採取はただの一度では済まなくなる。優秀な遺伝子を引き継いだ卵子を欲しているお方は世の中にたくさんおりましてね。あなたはこれからずっと、採取可能な限り、卵子提供者としてこの施設に留《とど》まっていただく。もちろん、その場合でも最高の食事、最高の待遇は保証いたしますよ。ただし限られたエリアの中でのことではありますがね」
どちらにしても考える余地など微塵《みじん》もありはしない。どこの誰とも分からない精子と自分の卵子が掛け合わされ、新しい生命が誕生する。おそらく自分がその子供を妊娠し、出産するというわけではないのだろうが、それでもこの世に分身が存在することになるのは変わりがない。そんなことは考えるだにおぞましいことだ。
「絶対嫌! 断固拒否するわ!」全身の力を振り絞って麻里は叫んだ。「あなたたちがやろうとしていることは、紛れもない犯罪行為よ。誘拐、暴行罪、それに……」
そこまで言いかけた時、はっと気がついて麻里は再び不自由な頭を擡《もた》げ、自分の下半身を見た。
どうやら着衣に乱れはなかった。
「それに何です?」男は口が裂けそうな笑いで顔を一杯にした。「その二つの罪状に関しては認めましょう。ただしあなたがご想像なさっているような行為はまだ行っておりませんから、どうかご心配なく。ただ更に付け加えて言うならば、傷害罪はすでに適用されるかも知れませんね」
「傷害罪?」
「ええ、すでにあなたの体には、点滴のセッティングが施してありますからね」
「えっ」
気がつかなかったが、改めてベッドの周囲を見渡すと、反対側に何かの薬品が入ったバッグがぶら下げられ、そこから一本のチューブが自分の腕に差し込まれているのが分かった。
「患者が望んだ治療ならともかく、勝手にやったとなれば、これは立派な傷害罪ですからね」
「こんなことをして、ただで済むと思っているの」
だが男に動じる気配は全くない。
「ミス・トリカワ。犯罪というのは発覚して初めて取締りの対象になるものです。その点、私たちがあなたを拉致したこと、これからしていただくこと、その全ては決して表沙汰《おもてざた》になることはないのです」
「そんなことはないわ。私が突然消息を絶てばきっと騒ぎになる。警察にも届ければ大使館にも届けを出す。そうなれば大きな事件として、日本でも報じられることになる。いくらこの国の警察機構がいい加減だとはいっても、日本とフィリピンとの間の国際問題となれば、それなりの働きはするわ」
突然男は大きな声で笑いだした。
「何がおかしいの」
「これは失礼――」男は再び穏やかな笑みを湛《たた》えると静かに言った。「あなたが拉致された現場など、誰にも目撃されてはいなかった。いやもし目撃者がいたとしても、我々に結びつくものなど何もありはしない。考えてもごらんなさい。我々があなたを拉致したのは行き当たりばったりの行為ではない。しかるべき期間、あなたを監視し、行動パターンを把握した上で最良の機会を窺《うかが》っていたのです。それに――」
「それに、何よ」
「我々がここで行っていることの全容は申し上げるわけにはいきませんが、普通の感覚からすればとうてい理解されないようなことをしているわけですからね。第一、ドナーを強制的に拉致してその卵子を採取するなんてことだけを取ってしても、いくらこの国でも許されることじゃない。ただ我々の組織は、あなたが考えているよりもずっと強大で、この国の権力機構にはしかるべき手を十分に打ってあることは申し上げておきましょう」
男の顔から笑みが消え、真顔になった。獲物を完全に手中にした猛禽《もうきん》のような冷酷な目がじっと見つめてくる。
「さあ、答えをいただきましょうか。選択肢は先に申し上げた二つ。聡明《そうめい》なあなたのことだ。どちらをお選びになるか、訊《き》くまでもないことだとは思いますが」
「どちらもお断りだわ。私をここからすぐに出してちょうだい」
無駄な抵抗だとは知りつつも、力の入らない体に鞭打《むちう》って麻里はもがこうとした。だが体の四箇所を固定したベルトは頑として動かない。
「聞き分けのない人だ。しょうがありませんな……」
肩を竦《すく》めながら言うと、男は自然な足取りで位置を変えた。
一瞬、麻里は男がベルトを外し自分を解放するのではないかという期待を持った。だがそうではなかった。白衣の先から露出した手には一本の注射器が握り締められていた。その針が点滴のチューブの三方活栓《さんぽうかつせん》に差し込まれると、筒内の液体がゆっくりと中に放出された。
「何をするの」
恐怖が込み上げてくる。
「貴重な卵子提供者の体にこれ以上の負担をかけたくありません。少しの間眠っていただきますよ。興奮状態にある人間は正確な判断がつかないものです。一眠りして気分がすっきりすれば、きっと考えも変わることでしょう」
「考えなんて変わらないわ」
「それでは困るのですよ、ミス・トリカワ。私共があなたから卵子を採取するにあたっては、まだまだお訊《たず》ねしなければならないことがあるのですから。例えば生理の周期――」
「絶対に話すものですか」
「話さなければそれでも構いません。放っておけばそれも分かることですから……ただし随分と屈辱的な思いはなさることでしょうけどね」
「そんなこと……そんな……こと……絶対に……」
猛烈な虚脱感とともにどうしようもない睡魔が襲ってくる。目蓋《まぶた》が重い。焦点が定まらず、見えるものの全てが急速に光を失っていく。
必死に意識を保とうとする麻里の意思に反して、暗い闇が再び訪れた。
麻里は深い眠りの中に落ちていった。
生贄
「おじさん」
時間は夜八時を回っていた。トンドは闇の中に沈み、家々から漏れる電球の明りがバラックの群れを朧《おぼろ》げなシルエットとして浮かび上がらせる。迷路のような路地からマルコス・ロードに出ると、行き交う車のヘッドライトが、産業廃棄物の山を思わせる小屋の群れを明るく照らし出す。
目当てのものを見つけ出すのに苦労はいらなかった。雨よけのパラソルの下、路上に出された小さなテーブル。その上には煙草が山と積まれている。
ジョエルは、その前で椅子に座る老人の姿を見つけると声をかけた。
「おお、来てくれたか」
「遅くなって御免なさい。今日は宿題が山ほどあって片づけるのに時間がかかっちゃった」
小走りに駆けてきたせいで息が弾んだ。
「代わるよ、テオドロおじさん」
ジョエルの言葉を待つまでもなくテオドロが席を立った。その刹那《せつな》、軽い咳《せき》が断続的に老人の体から漏れた。
「大丈夫?」
「いや、大したことはない。どうもこのところ胸の具合が悪くてな。じっとしていれば何ともないんだが、少し動くとこの辺りが苦しくなって」
テオドロは痩《や》せた胸骨と喉《のど》の中間を指すとまた咳《せ》き込んだ。
「ごめんよ。もう少し早く来てあげればよかったんだけれど。父さんもこのところ、おじさんと同じように気管支の具合が悪いらしくて、苦しそうな咳をするんだ。雨期の間は特に酷《ひど》くてね」
「ああ、全くこの天候にはまいっちまうよ。だが雨期ももうすぐ明ける。乾期に入れば少しは楽になるだろうさ」
確かに乾期に入れば容体が幾分軽くなることだろう。だがそれも自分の父親に限ったことで、路上での煙草売りを生業《なりわい》にするテオドロに関していえば、ひっきりなしに通りを行き交う車が放出する排気ガス、それも強い太陽に熱せられたそれを常に吸い込んでいるせいで、容体は落ち着くどころかむしろ酷くなる。
僅《わず》かな金と引き換えに、路上の煙草売りのバイトを引き受けたのは、テオドロの様子が父の姿と重なって見えることもあったし、たとえ取るに足らない額であったとしても、一食を賄うには事足りる。そんな気持があればこそのことだった。
「勉強はもういいのかい」
「教科書は持ってきたよ。勉強なんてどこにいてもできるさ。予習程度のことならね」
「そうかい。感心な子だよ、お前は」
ジョエルは、テオドロが掛けていた椅子に腰を下ろした。枯れ木のような老人が残した体温が尻《しり》を通して伝わってくる。
「おじさん、もういいよ。家に帰って早くお休みよ。後片づけも僕がやっておくから」
「ありがとよ。ジョエル」
テオドロは、目を細めながら礼を言った。
「いつものように十時になったら店じまいするから。お金は後で持って行くよ」
「じゃあ宜《よろ》しくな。釣り銭はこの箱の中に入れてあるからな」
「分かってるよ」
その場を立ち去って行くテオドロの姿を見送りながら、ジョエルは持ってきた教科書に目を通し始めた。この国には入学試験というものがない。小学校、高校、大学まで七・四・四制の教育システムの中で、義務教育の小学校は別として、上級の学校に進むに当たって合否を決定するのは学校時代の成績だ。つまり一発逆転のチャンスなどあろうはずもなく、日頃の勉強の成果そのものが問われるのだ。貧しい家庭の子供が私立の大学に行くことなど、夢のまた夢だ。自分が唯一進学できる学校は国立の最高峰に位置するUPしかない。それは同時にこのスラムから抜け出し、人並みの生活を手にする唯一の手だてだった。
通りを走る車の騒音もさほど気にならなかった。すでにラッシュの時間は過ぎており、行き交う車の量もぐっと少なくなってきている。
子供に与えられる仕事と言えば渋滞の車の間を縫って、レイや花飾りの物売りと相場は決まっている。だが、この仕事には自らセールスをして歩く必要はない。煙草を買う客が声を掛けて来るのをじっと待っていればよいだけで、こうしてじっくり勉強する時間もある。そう考えると、このバイトは満更割の悪い仕事ではなかった。
ジョエルは煙草が積まれたテーブルの僅かなスペースに教科書を置くと、すぐ傍の家から漏れてくる灯を頼りに文字の世界に没頭していった。
男はいよいよ決行の時が来たと思った。
目標となるのはジョエル・デロス。十四歳。すでに彼の姿はこれまで何度かの監視によって確認してあり、自分たちに課せられたオーダーを少なくとも外見の上で満たすことは間違いなかった。
身長百六十センチ。歳の頃十三から十四――。
もっとも身長さえ満たしていれば、年齢は大きな問題ではないと告げられていた。それがいかなる意味を持つものかは分からないが、健康な若い処女などという厄介な条件をつけられるよりは遥《はる》かに楽な仕事だ。
「どうします?」
ドライバーが訊《き》いてきた。
「決行する」男は助手席から後部座席を振り返ると、「準備はいいか」もう一人の男に訊ねた。
「いつでもどうぞ」
路上側の座席を空けて座る男の目が、暗い室内で光った。
「手筈《てはず》は予《あらかじ》め打ち合わせた通りだ。ドジを踏むなよ」
「分かってます。あの程度のガキなら、苦労はしませんよ」
背後で、男が何かを探る気配がする。それに続いて嗅《か》ぎ慣れた薬品の臭い――。
ドライバーはサイドミラーを見ながら、車の往来を見計らっている。マルコス・ロードをマニラ市内に向かう交通量はさほどなく、信号のない通りを猛烈なスピードで車が傍らを過ぎ去って行く。
「OK、出します」
ドライバーは言うが早いか、アクセルを踏み込んだ。回転を上げたエンジン音が室内に響いた。だがそれも僅かの間のことで車はすぐに減速に転じた。ハザード・ランプが灯った。路肩に向けて車が寄せられた。フロントガラス越しに獲物となるジョエルの姿が大きく見えた。微《かす》かなブレーキ音とともに、車が停った。後部座席に座る男が位置をずらし、ワゴン車のスライド式の後部ドアを引き開けた。
「おおい、煙草をくれ」背後から男の声。
ジョエルは読みものに熱中していたらしく、そこで初めて顔を上げた。きちんと七三に分けられた髪。浅黒い顔の中で、澄んだ瞳《ひとみ》がこちらを見つめている。見るからに聡明《そうめい》な顔立ちをした少年だった。
「何本?」
食料や調味料さえも一食分単位で売られるのと同様、煙草もまたばら売りされる。ましてやトンドともなれば、ボックス単位で買う客などそういるものではない。
ルームミラー越しに後部座席の男が人差し指を立てた。
「一本ね。銘柄は」
ジョエルは早くもすでに封が切られた何箱かのパッケージを手にしている。
「一本じゃない。マルボロを一カートンだ」
「一カートン? 十箱ですか?」
声が裏がえった。無理もない話だ。一箱でも上客だというのに、カートン単位で買う客に出くわすことなど年に一人もいるかどうかだろう。いったいいくら貰《もら》うことになっているのかは知らないが、この子にしてみれば軽く数日分の商いにはなるのだろう。
「そうだ。早く持って来い」再び背後から催促する男の声。
ジョエルは山と積まれた中から、赤と白のカートンを鷲掴《わしづか》みにすると、喜々とした足取りで車に駆け寄って来た。こぼれんばかりの笑みを満面に湛《たた》えながら……。
「いくらだ」
「千四百ペソです」
ジョエルの姿がルームミラーの視界の中に入って来た。上半身はすでにワゴン車の後部座席の中に入っている。
「いい商売になったな」
男がポケットを探りながら言った。
「ありがとうございます」弾むようなジョエルの声。
札束が取りだされた。枚数を数える気配。
「じゃあ、千四百ペソだ」
男が札を手渡そうと手を伸ばした。それに呼応するようにジョエルもまた手を差し伸べて来た。
次の瞬間、男は目にも止まらぬ早業でジョエルの手首を掴《つか》むと、渾身《こんしん》の力を込めて車の中に引きずり込んだ。
「あっ!」
小さな悲鳴。贅肉《ぜいにく》のないすらりとした体がほぼ水平になって宙を舞ったかと思うと、次の瞬間にはドサリと鈍い音を立てて座席に転がった。
その間に男は助手席のドアを開け、車外に飛びだすと、開いたままになっている後部のドアを閉めた。そしてすかさず助手席に乗り込むと、
「出せ!」
ドライバーに命じた。
エンジンが唸《うな》りを上げた。その音に混じって布で口と鼻を塞《ふさ》がれたものだろう、くぐもった悲鳴とともにジョエルが激しく手と足をばたつかせながらもがく気配がした。
車はマニラ中心部に向けて猛然と加速していく。障害になりそうな渋滞はなかった。それを確認したところで初めて男は後部座席を見やった。
最後の抵抗を示すかのように、ジョエルの手が空《むな》しく宙を掻《か》くとだらりと垂れ下がった。
「どうやらうまくいったようだな」
安堵《あんど》の吐息が漏れた。容易《たやす》い仕事だと分かってはいても、実際に拉致《らち》を行う時にはそれなりの緊張を覚える。意識しないうちに、強張《こわば》っていた全身の筋肉が弛緩《しかん》していくのが分かった。
「まったく元気のいい小僧だ」
ジョエルの口を塞いでいた布を離した男が忌々しげに言うと、目の下の辺りを別の手で二度三度と押さえた。見るとそこには二本の赤い筋がついている。
「苦し紛れに暴れた際に、俺の顔をひっ掻きやがった」
「その程度のことは我慢しなくちゃな」
「おお痛てえ」
「そんな傷、放っておいても一週間もすれば跡形もなく消え失《う》せる。こいつも報酬のうちだ」
男はそう言うと、密《ひそ》やかな笑い声を上げた。
車はすでに加速の段階を抜け、順調に走り始めている。携帯電話を取りだすと、暗記していた番号を押した。相手はすぐに出た。
「目的の獲物を確保しました。これからそちらに搬送します」
夜の闇を切り裂きながら四人を乗せたワゴン車はトンドを脱し、パッシグ・リバーにかかるロハス橋を渡るとボニファシオ・ドライヴに入った。ストリートを仄暗《ほのぐら》く照らす黄色い街路灯がすでに自分たちが安全圏に達したことを告げているようだった。
目的地まであと一時間。それは捕獲した獲物を眠らせておくのに十分な時間だった。
電話のベルが鳴った。カーテンを締め切った部屋は暗い闇の中にあった。覚醒《かくせい》しない意識の中で腕を伸ばし、明りをつけた。闇が切り裂かれ、眩《まばゆ》い光が目を射った。その間も電話のベルは鳴り続けている。三度、四度……。時計を見ると深夜の二時だ。眠りについてまだ二時間も経っていない。
こんな時間にいったい誰だろう。
マリオは頭を振りながら受話器を持ち上げた。
「ハロゥ……」
目がしょぼつく。声が自分でも不愉快な響きを持つのが分かった。
『マリオかい』
「母さん?」実の母親の声を聞き間違えるはずがない。意識が急速に覚醒していく。「どうしたんだい。こんな時間に何かあったの」
不吉な予感に胸が高鳴った。母がここに電話をしてくることはめったにない。
このところ、体調を崩したままの父の姿が脳裏をよぎった。
まるで何かに怯《おび》えているような密やかな息遣いが聞こえてくる。
「どうしたの、母さん」
再び訊《たず》ねたマリオに、
『ジョエルが……』
かろうじてといった態《てい》で母の声が答えた。抑制していた感情が噴き出したものか、最後の方は言葉にならない。
「ジョエルがどうしたの。何があったんだ、母さん」
ベッドの上に上半身を起こし、受話器を耳に強く押し付けながらマリオは訊《き》いた。
『ジョエルが帰って来ないんだよ』
「帰って来ないって……もう夜中の二時だよ」
『そうなんだよ。いま近所の人が手分けして捜してくれているんだけど、どこへ行ったものか……』
母の啜《すす》り泣きが再び言葉を不十分なもので終わらせた。
「いったい何が起きたの。順を追って話してごらんよ」
『あの子、テオドロさんの煙草売りを手伝っていたんだよ。宿題が終わってから夜十時までの間の約束でね。お前からは十分なお金を貰っているからそんなことをしなくともいいとは言ったんだけど、少しでも家の足しになるからと言ってね。今日はいつもよりも遅く八時に家を出て……』
テオドロのことは良く知っている。かつては父と同じ建設現場の作業員として働いていた男だ。年老いたいまは過酷な肉体労働に従事することもできず、その日の糧を得るために路上で煙草売りをしているはずだった。
「いつからそんなことを始めたんだ。十日前に行った時にはそんなこと少しも言ってなかったじゃないか」
『この一週間ほどのことだよ。テオドロさんもこのところ随分体の調子が悪くて……ジョエルはあの通り優しい子だろう。お金よりもきっと放っておけなかったんだよ』
「で、ジョエルがいなくなった時の状況は」
『分からない』
「分からない?」
『最初に気がついたのはテオドロさんだよ。十時半ぐらいだったかしら。ジョエルは帰っていないかと訪ねてきてね。それで初めてあの子がいなくなったことに気がついたんだよ』
「ジョエルがいなくなったのは煙草売りの場所からかい? それとも帰り道なのかい?」
『テオドロさんが家に来てから、すぐに私たちもあの子が煙草を売っていた場所に行ってみたのだけれど、机の上に積まれていた煙草はなくなっているし、教科書が残っているだけで……』
「教科書が残っていたって?」
その言葉を聞いた瞬間、何かただならざる事態が弟の身の上に起きたことをマリオは確信した。
店番をする者がいなくなれば、どうぞお持ち下さいと言っているようなものだ、机の上に積まれていたはずの煙草がなくなっていたのは誰かが持ち去ってしまったのだろう。だが、あのジョエルが教科書を放ったままどこかに姿を消してしまうわけがない。第一ジョエルには家を出る理由が何一つとしてありはしない。貧しい暮らしとはいっても、給料の半分に相当する額を月に二度、両親に渡している。通っている高校の学費も当然その中から工面しなければならなかったが、それでもトンドでなら家族の生活を考えても十分とはいえないまでも何とかやっていけるはずだった。加えてジョエルは高校を優秀な成績で終え、UPに入りやがてはエンジニアになるという夢を持っていた。成績も極めて優秀だったし、家を出なければならない理由などどこにもありはしない。
「まさか、友達の家に行ってそのまま泊まっているなんてことはないんだろうね」
『あの子が仕事を途中で放り出してそんなことをする子かい』
言われるまでもないことだった。だとすれば他にどんなことが考えられるか――。
ふとマリオの脳裏にいつかオランドが言った言葉が思い出された。
――「この四年の間にトンドからは少なくとも三人ほどが行方知れずになっている。それも何も女に限ったことじゃない。三人の内二人は六歳と五歳の男の子。残る一人はアリシアよりも一つ年下の十五歳の女の子だ」――。
アリシアが姿を消してもう四年。その間の消息はようとして知れない。
不吉な予感が込み上げてくる。
まさか今度はジョエルが……。いったいあのトンドで何が起きているのだろう。
事件の当事者となって改めて一連の事態を考えてみるとますます理由が分からなくなる。アリシアがいなくなったのは、彼女が十六歳の時。それから六歳と五歳の男の子と十五歳の女の子。そしてジョエルは十四歳だ。幼児を除けば年齢が思春期を迎えているのはいずれも女性ばかりということを考えると、そこに何の共通性を見いだすこともできない。
これは単なる偶然だろうか。それとも何者かが明確な目的を持って、トンドの子供を拉致しているのだろうか。
「親方には話をしてみたの」
思いつくままにマリオは訊ねた。
『ええ、煙草売りの場所に行った足ですぐに。親方も若い衆を集めてくれて、いま皆必死でジョエルを捜してくれてはいるのだけれど……マリオ、私はどうしていいのか分からない。あの子がもしもこのまま親方のところのお嬢さんのように、二度と帰らなくなってしまったらと考えると……』
「分かったよ、母さん。僕もこれからすぐ行くから。気をしっかり持って。いいね」
マリオは受話器を置くとベッドを抜け出た。すぐにジーンズとシャツを身に着けると、ポケットを探り金を数えた。月収の半分を家に入れるために普段の生活は極限まで切り詰めざるを得なかった。通勤の足はジープニーで、さほどの金はかからない。幸いなことに持ち合わせの現金でトンドまでのタクシー代は何とか足りそうだった。
部屋の明りを消すとドアを開けた。途端に湿り気を帯びた生温い大気がまとわりつくように全身を包む。重くなった大気を掻《か》き分けるようにしながら歩を進めた。心臓の搏動《はくどう》はアスファルトを踏みしめる足のリズムよりも速い。通りまでの短い距離を歩く間にも、背中に汗が噴き出すのが分かった。ベットリとしたそれはまるで油のようで、澱《よど》んだ大気の中でシャツがへばりつく感触が殊更不快なものに感じる。
タクシーを捕まえるまでに、五分程の時間を要した。後部座席に乗り込んだマリオはドアを閉めながら行く先を告げた。
「トンドへ。急いでくれ」
「ミスター・セジマ、今日は十時から現場でミーティングがありますが、予定通りでよろしいですか」
定刻通りに出勤してきた秘書が席につく間もなく、スケジュールブックを手に訊ねてきた。
「結構だ。あと十五分くらいで出るから車を玄関に回しておいてくれ」
「分かりました」
「それからマリオにも声を掛けておいてくれ」
「マリオは今朝まだ出社していないようですけど」
「えっ」
いつも現地スタッフの中で一番最初に出社するマリオが来ていないというのはどういうことだろう。瀬島がマニラに駐在してからはこんなことはただの一度もなかった。
今日は特別道が混んでいるのだろうか――。
そう考えた時、秘書のブースの電話が鳴った。外線からだ。
「あら、マリオ。いまミスター・セジマとあなたの話をしていたところよ……ええ……分かったわ。いまミスター・セジマに代わるから」パーティションの向こうから、秘書の声が聞こえた。「ミスター・セジマ、マリオから電話です」
「ハロゥ」
『ミスター・セジマ』声の調子から携帯電話を使っていることが分かった。『申し訳ありませんが、ちょっと事情があって今日は会社を休ませていただきたいのです』
「どうした。体調でも悪いのか」
休暇の申請は従業員に認められた権利だが、ことマリオに関して言うならばめったにないことだった。それも当日の朝にこんな形で会社を休むと言ってきたのは、初めてのことだ。
『いいえ、そうではないのです』
「じゃあ何があったんだ」
『家族にちょっと問題が起こりまして』
「家族に?」
日本人の感覚では違和感を覚えることなのだが、ここフィリピンでは、子供が、あるいは妻が病気とか、家族に些細《ささい》な問題が生じたことは立派に会社を休む理由になる。だが、マリオはフィリピン人にしては珍しく、そんな理由で休暇を申請したことはいままで一度もない。その点何においても仕事を第一に考えるマリオは日本人に近い職業観を持っていると思っていた。
どんな問題が起きたのかは知らないが、マリオが言うからには余程のことなのだろう。
「何か深刻な問題なのか」
瀬島は正直な疑問を口にした。
『ええ、ちょっと困ったことが……』マリオの口調はいつになく歯切れが悪い。
「君らしくないな。突然当日の朝になって会社を休むなんて言い出すとは。せめて午前中だけでも出てくることはできないのか」
『無理です』
「今日は、昼まで現場で会議があることは知っているな」
『知っています。とにかく今日はそちらに行くことは無理です。ことによると、週明けも休ませていただくかも知れません』
「何だって。週明けも?」
『ええ、問題が解決しない限り……』
冗談じゃないと瀬島は思った。少なくともマリオはいまや自分が抱えているプロジェクトにはなくてはならない存在になっている。
「マリオ……」自然と手が頭髪を掻き上げる。小さな吐息が出た。「君のことだ。どんな問題が持ち上がったのかは知らないが会社を突然休むにはそれなりの事情があってのことだろう。しかし出社の目処が立たないというのは困る」
『とにかく放ってはおけない非常事態が持ち上がったんです』
瀬島の言葉を遮る形でマリオが言った。
「ことと次第によっては力になれるかも知れない。どうだ、何があったのかを話してくれないか」
『話したところで、あなたにはどうすることもできないことです』
「事態の解決には、多分君の言う通りだろう。だが、社内的な根回しということに関して言うなら話は別だろう」
『特別の便宜を図ってでもくれると』
「ことと次第によっては」
再び短い沈黙。受話器の向こうでマリオが考えている気配がする。微《かす》かな息遣いが聞こえた。
『実は、弟が行方不明になった』
「弟さんが? いつのことだ」
『昨夜です』
「そんな……」
瀬島は返す言葉が見つからず絶句した。その一方で、瀬島はマリオの言葉に奇妙な点があることに気がついた。それは自分がマニラに駐在して三カ月目の出来事だった。ケサンの教会で執り行われた彼の母親の葬儀。確かあの時、マリオはこれで天涯孤独の身になったと言っていたはずだ。自分にはこれで親、兄弟、頼る者の全てがなくなってしまった。そう話していたはずではなかったか。
「マリオ」
『何です』
「君に弟なんていなかったんじゃないのか。どうしてこんな嘘をつく。昨年、君の母親が亡くなった時、これで自分は家族の全てを失った。そう言っていたじゃないか」
『それは……』
マリオは押し黙った。
「まさか嘘を言っているんじゃないだろうな」
これまでのマリオを考えれば、到底そんな嘘を平然と言うとは思えなかったが、この男にはそうした一面が隠されていたのだろうか。
絶大な信頼を寄せていただけに、裏切られたという思いが込み上げてくるのを抑えきれなかった。
瀬島は自分の声が怒りで震えるのをはっきりと感じていた。
『嘘ではありません……ミスター・セジマ』
「じゃあ、あの葬儀の場で私に話したことが嘘だったと」
『それも本当のことです』
何が何だか理由が分からない。瀬島は大きな溜息《ためいき》をついた。
『ミスター・セジマ。これには深い理由があるのです。実は私には二つの両親がいるのです。戸籍上の両親と、実の両親。つまり私を産んでくれた両親のね。そしてこちらには二人の姉と、弟が一人いる――』
「どういうことだ」
『養子に出されたのです』
「どうしてそれをいままで隠していた」
『それは――』マリオは一瞬、押し黙ると小さな声で続けた。『これを話せば、私は飛鳥にいられなくなる』
「どうして? たとえ君が養子だったとしても、飛鳥が有能な社員を解雇する理由がどこにある。まさか経歴を詐称していたわけでもあるまいし」
『あなたは、まだこの国のことをご存じない』
どうやらマリオの背景には何か人に言えない複雑なものがあるようだった。いずれにしても有能な部下をこのまま失うことは何としても避けたい。このプロジェクトがここまで順調にこれたのもマリオの存在があればこそだ。
「マリオ……」
『何です』
「どうやら君の言葉に嘘はなさそうだ。秘密はどんなことがあっても決して他には漏らさない。どうだろう。今夜少しばかりの時間を割いてくれないか。パートナーとして、いや友人として君の力になりたいんだ」
『私を友人と呼んでくれるんですか』
「ああ。まだビジネスマンとして未熟な私がこれまでこんな大きなプロジェクトをなんとかこなしてこれたのも君の力があればこそだ。君は紛れもない私の戦友だ」
『ありがとうございます。それでは今日の夕方にでもいかがでしょう』
「特に場所の指定は」
『いいえ、お任せします』
「それでは、マカティにあるハバナ・カフェ。時間は七時でどうだ」
『結構です』
「それじゃ、その時に」
瀬島は受話器を置くと立ち上がった。
告白
夜のマカティは週末ということもあって、いつにも増して人の出が多かった。
ハバナ・カフェに着いた時にはまだ約束の時間まで十分ほどあった。マリオの口からどんな話が飛びだすのか、想像もつかなかったが、あの口ぶりからすると人に聞かれたくない内容に違いないという程度の見当はついた。
BGMが絶え間なく流れている上に、人々の喧騒《けんそう》が渦を巻いている室内よりも、外の方が人に聞かれたくない話をするには好都合だろう。
そう考えた瀬島は、店の前の歩道に設けられた席の中でも一番端に位置するところに腰を下ろした。
ウエイターがやってくると、メニューを差し出してきた。ここで週末を過ごす時にはテキーラを注文するのが習慣だったが、アルコールを体に入れる気にはなれずジンジャーエールを注文した。
マリオが現れたのは、グラスに注がれた琥珀《こはく》色の液体が目の前に置かれたその時だった。
「ミスター・セジマ」
「さすがにオン・タイムだね」
マリオの姿は見るからに窶《やつ》れが目立った。おそらく昨夜からまともな眠りを取っていないのだろう。目蓋《まぶた》が重く腫《は》れ、目も充血している。一見乾いたように見える肌は、店から漏れてくる光が当たると、その上を滑《ぬめ》りを帯びた脂が覆っているのが分かった。
「何にする」
ウエイターは、小脇に抱えたメニューをテーブルの上に置こうとした。
「この人と同じものでいい」
「分かりました」
ウエイターが店内に去って行くのを見送りながら、マリオが正面の席に腰を下ろした。二人の間には僅《わず》かな距離があるだけだ。
「ミスター・セジマ」先に口を開いたのはマリオだった。「いろいろとご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「お互い様だ」
グラスの中に差し込まれたストローでジンジャーエールを一口|啜《すす》った。微細な炭酸が喉《のど》を刺激する。
「どこから、話していいものか……」
マリオは困惑の表情を浮かべながら視線を落とした。まるでこれから取り調べを受ける容疑者のような神妙さだ。
「そんなに改まることはない。今朝話した通り、今日これから話すことはあくまでも君と私の間に留《とど》めておく。それは約束する」
「どんなことでも?」
「ああ、どんなことでもだ」
「もしかすると、あなたに迷惑がかかることになるかも知れませんよ」
「それは話を聞いてみないと分からない。だがたとえそうだとしても、私が協力することで解決できる問題ならば、精一杯のことはしよう」
「ありがとうございます」
マリオは軽く頭を下げた。
「立ち入ったことは承知の上で訊《き》くが、まず最初に君がどうして養子であったことを隠していたのか、その辺の事情を聞かせてくれないか」瀬島は切りだした。「実は今日午後に現場から戻って来てから、総務の近江さんから君が飛鳥に応募した際の履歴書を見せて貰《もら》った。もちろん履歴書には君がその両親の実子か養子かなんて書く項目はない。君はマニラ出身で、家族欄にはお母様の名前しか書いていなかった。飛鳥に入社して二年目にお母様が亡くなったのだったな。確か高校の校長をなさっていたお父様は君がUPに入学した年にお亡くなりになったとお母様の葬儀に出席した際に聞いた記憶があるが、それに嘘はないのだろう」
「はい。履歴書の記載事項そのものには嘘はありません」
「君は養子に出されたと言っていたが、それはいつのことだったのだ」
「小学校を卒業した時ですから十三歳の時のことです」
「養子縁組というのはどこの国でもあることだ。特に珍しいことではないし、それが飛鳥に入るに当たって障害になるようなことではないと思うが……どうして君はその経緯が私たちに知られてしまえば解雇の憂き目に遭うかも知れないと考えているんだ」
「それは……」
マリオが言いかけた時、ウエイターがジンジャーエールを運んできた。瀬島はその場で金を支払うと、先をうながした。
「実は私が養子に出されたのは、極貧の生活から抜け出す手段だったのです。できることなら実の両親も私を手放したくはなかったに違いありません。しかし、この国の最下層に生まれた人間が、まともな仕事を得ることは不可能に近い。幸い私は幼い頃から学校の成績は良かった。ですが生まれた家の経済力を以《もつ》てしては、UPはおろか高校に進むことだってできやしなかった。実際私には二人の姉、それに弟がいます。姉は二人とも看護師となって家にそれなりのお金を入れてはいましたが、それでも到底まかない切れるものではなかった」
「特に請われて養子に行ったと」
「そうした一面があったことは否めませんが、事実はそんな単純なものではありません。もっと深刻です。何しろ私の生まれそのものにかかわることなのですから」
「君の生まれにかかわる問題?」
マリオの視線がマッチ棒の小さな炎が消え失せるようにすっと落ちた。重苦しい沈黙があった。
「実は私はトンドの生まれなのです」
消え入るような声、だが意を決したような口調でマリオは言った。
「トンド? 君はトンドの生まれだったのか」
「驚かれましたか」
マリオは初めて視線を合わせてきた。その口の端には自虐的な歪《ゆが》んだ笑いが浮かんでいる。
「……いや……そんなことはないが……」
歯切れが悪くなるのが分かった。トンド――確かにマリオが自分の過去を隠したがるのももっともな話だ。マニラ、いや世界でも最大スラムの一つと言われるトンドの存在は、この国に住んでいなくとも、十分に認知されている。もちろんトンドにだって優秀な人間はいるだろう。だがスラムの常識と外の世界の常識には越えられない壁がある。そんな劣悪な環境に生まれたという事実は、それだけでまともな企業なら採用の対象から除外されてしまうのが現実というものだった。差別――そう、厳然たる差別と偏見がここにはいまでも存在する。いかにUPを最優等の成績で卒業したとしても、トンド出身の人間を使わずとも代わりはいくらでもいる。
「いいえ、いいんです」マリオは二度三度とかぶりを振った。「養子の話が持ち上がったのは、私が小学校を卒業する時のことでした。実の父親は、ずっと建設現場の作業員をしておりましてね。その親方が私の能力を高く評価してくれて、養子の口を世話してくれたのです」
「その養父母となったのが、履歴書に書かれていた方なのだな」
「ええ……養父母には子供がいませんでした。以前から機会があれば養子を迎えたいと思っていたのですが、この国では養子縁組というのは、考えられているほどポピュラーなものではありません。カソリックの教えが徹底しているせいもあるのでしょうが、暮らしがいかに貧しくとも子供だけは宝として扱う。それがこの国の美徳の一つです。ですが、実の両親は私がそのままトンドに埋もれ、その日暮らしに追われながら将来に何の希望を見いだすこともできずに一生を終えてしまう。そんな目には遭わせたくないと思ったのでしょう。私は小学校卒業と同時に、つまり高校に入学した時点で、養父母に貰われ、そこで高校を終え、UPに進みました」
「しかし、戸籍は消せないだろう」
「戸籍?」マリオは鼻で笑うと話を続けた。「この国の戸籍なんていい加減なものです。第一出生届けさえしていない人間はごまんといます。それが証拠に選挙人名簿だってありません。投票したい人間は、選挙の前にレジストレーションを済ませればいい。その辺の事情はあなたも良くご存じでしょう」
確かにマリオの言うことに違いはなかった。戸籍などあってなきがごときものだ。マリオが飛鳥フィリピンに就職する際に提出していた書類は、身上調書、レコメンデーション、それにUPの成績証明書ぐらいのものだった。
「もっともその点を突かれれば、私はあなたたちを欺いたと言われてもしようがないのですけど……」
苦しげな言葉がマリオの口をついて出た。
「それで、いまも実のご両親は健在なのだね」
「ええ、トンドで暮らしています。もっとも父親はこのところ体調が悪くて、寝たり起きたりの繰り返しで仕事をまともにできない状態です。二人の姉、それに私が給料から幾分かの金を渡して生活をしています」
「その弟さんが、消息を絶った。そういうわけか」
「その通りです。弟はいま高校の二年生です。私はこうしてあの街を抜け出すことができた……。今度は私がそれを弟にしてやる番だと思っていたのですが……」
マリオの気持は察するに余りあった。そして彼が何故に他の現地スタッフの誰にも増して職務に勤勉であり、会社に対しても、いやこの自分に対しても忠実に仕えてきたのか。その理由を垣間《かいま》見た思いがした。少なくとも能力という点に関して言えば、マリオは自分とそう変わらない。いやことによるとマリオの方がよほど優れているかも知れなかった。しかし実際に彼が受けている待遇は自分と天と地ほどの違いがある。給料はおそらく二十分の一程度、家やお抱え運転手といったインセンティヴもない。それに出世を期待できるわけでもない。単なる現地スタッフの一人として一生を終える。それがこの男の前に敷かれたレールだ。
もちろんそうした不条理は日本でもよく見られることには違いない。地方の安い労働力を求め、子会社をつくる。そこで採用された従業員は転勤がない代わりに、本社から来る人間よりも遥《はる》かに安い賃金で働かされ、与えられるポストもまた天井が見えている。それが利潤を追求する企業のあり方だと言ってしまえばそれまでだが、少なくとも表向きにはここまで酷《ひど》い差別はない。
トンドで暮らす誰もが自ら好んでスラムに生まれてきたわけではない。飛鳥に入社して以来のマリオの働きぶり、それに人となりは誰よりも自分が良く知っている。
トンド出身だからといってそれが何だというんだ。彼は他の誰よりも優秀で、そして何よりも自分の大切なパートナーだ。
そう思う一方で、瀬島は目の前にいるマリオにかつての自分の姿を見る思いがした。
育ちの違い。家柄――。自分ではどうすることもできない、生まれながらにして焼き印のごとく押されたつまらない事柄に一生を左右される。そうだ。あの諒子との関係に終止符を打たざるを得なかったのも、そんな理不尽な理由によるものだった。
あの時に覚えた屈辱、閉塞《へいそく》感、そして絶望が思い出されると、堅く閉じていたはずの傷が開き、そこから鮮血が噴き出してくるような気がした。
この男にかつての自分と同じような思いをさせてはいけない。
「マリオ……」
瀬島は静かに言った。マリオの顔が上がった。
「良く正直に話してくれた」
「いいんです、ミスター・セジマ。トンド出身だと分かれば、もう飛鳥にいられないことは分かっていますから……」
「そんなことは気にすることはない。トンド出身。大いに結構じゃないか」
「本気で言ってるんですか」
マリオは目を大きく見開き、呆《ほう》けたような表情で訊《たず》ねてきた。
「本気だ」
「でもこんなことが会社に知れれば――」
「そんなことは話す必要はない。これは私と君との間の秘密だ。確かに会社に知れれば、何らかの方法で飛鳥は君を解雇する方策を取ってくる公算が高い。残念なことにそれが現実というものだ。だが私たちが黙っていれば誰も気がつきはしない。第一君は履歴を詐称しているわけでもなければ、おそらく入社時のインタヴューでも訊かれたことを正直に答えたに過ぎないのだろう」
「ミスター・セジマ……」
マリオはますます理由が分からないとばかりにかぶりを振った。
「君は誰にも増して優秀な社員だ。そんな人間を失うことは会社にとっても大きな損失だ」
「しかし――」
「それに私は君をこんなつまらない理由でなくしたくはないのだ」
「どうしてそこまで、私に気を遣ってくれるのですか」
「それは私も君と同じような思いを味わったことがあるからさ」
「同じような思い?」
「そうだ」心の奥に堅く閉ざしていた封印が解かれ、重い扉が音を立てて開いていくような気がした。そこに塊となって澱《よど》んでいた想いがみるみる間に溶解し噴き出して来るのを抑えきれなかった。
「あれは私が大学四年の夏のことだった。私はある女性と恋に落ちた。そして私たちの間には子供ができた。だが彼女の家はこの世に新しい生命が生まれて来ることを望まなかった」
「つまり中絶したと?」
「そうだ」
「ジーザス……」
マリオもまた忠実なカソリックらしく胸の前で十字を切った。
「それもこれも私の家と彼女の家の釣り合いが取れなかったからだ」
「家の釣り合い? あなたは帝都大学を出て飛鳥物産に入社したんでしょう? 帝都は日本ではトップスクールだ。それに飛鳥もまた日本を代表する超一流会社じゃないですか」
「確かに、君にはそう見えるかも知れない。いやほとんどの日本人からみても、私は至極平均的な家庭に生まれ育ったと言えるだろう。だがね、マリオ。日本社会の中にも、ほんの一握りだが、この国と同様、とてつもない富と、閨閥《けいばつ》を作って社会に君臨している人間たちがいる。フィリピンと日本の違いは、国民の圧倒的多数が貧困層で形成されているか、中流で形成されているか、その一点だけだ。そして上流に属する人間は、彼ら独自の価値観で人を見、決して自分たちと異なる世界の人間を仲間に加えようとはしない。その点については、世界中、どこに行っても同じだ」
マリオは真摯《しんし》な眼差《まなざ》しを向け、じっと耳を傾けている。
「恋に落ちた女性は代々続くオーナー企業の一人娘だった。いずれは婿養子を迎え、その会社を継がなければならないことを運命づけられていた。つまり日本の社会において、彼女は紛れもない上流に属する人間だったというわけさ」
「つまり、家の格というものが問題になったというわけですね」
マリオが初めて肯《うなず》きながら言った。
「その通りだ。彼女が赤ん坊を産む。それは同時に代々続く家の跡取りになる人間を迎えることになる。その親となるのが、彼らから見れば中流以下のどこの馬の骨とも知れないこの私だ。そんなことは到底許されるものではなかった。子供は妊娠六カ月で堕胎され、私たちの関係はそこで終わった――」
「そんな辛《つら》い思いをしたんですか」
「ああ、本当に辛かった――。家柄、階級、育ち、そんなものはどう努力しようとも、当の本人には解決できない問題だ。だが、そんなことを呪い嘆いたところで何になる。第一、人間の価値はそんなことで決まるものではない。人の価値を決めるのは能力だ。生き様だ。以来私は、履歴、育ちといったようなこの世の中にはびこるつまらない尺度で人を見まいと心に決めた。もちろんそうした概念が根強くはびこっていることは事実だ。そうしたことをことのほか重要視する人間たちの価値観も分からないではない。しかし私に限っていえばそれはNOだ」
「ミスター・セジマ……」
マリオの目に光るものがあった。
「だからマリオ。君がトンド出身だからと言っても何も気にすることはない。これまでと同様、レクト・マリオとして、飛鳥で働いてくれ」
「ありがとうございます」
マリオはうなだれると、しきりに洟《はな》を啜《すす》った。
「だが気になるのは弟さんの問題だな。いったいどんな状況で弟さんはいなくなったんだ」
「家の近くで煙草売りをしている最中のことらしいんです」
マリオは顔を上げると、頬の辺りを拭《ぬぐ》いながら言った。
「煙草売りって、あの路上でやっている?」
「ええ、マルコス・ロードに面した場所で……」
「それで、昨夜から何かこれまでに進展はあったのかい」
「いいえ、何も……」マリオは肩を落として首を振った。「両親はもちろん、近所の人たちも町中を捜してくれてはいるのですが、手がかり一つ掴《つか》めません」
「まさか、何かの事故に遭ったとか」
「それも考えました。店を出していた付近の住人にも当たりました。もしも事故に遭ったのなら、それらしき物音をきっと耳にしているはずですからね。しかしそんな不審な物音を聞いた人間はいなかった。それに弟が番をしていた店からは煙草が消え失せ――もっともトンドで店番なしに煙草を出しておけばものの数分でなくなってしまうでしょうから、これ自体は不思議ではないのですが、彼が持っていた教科書だけがその場に残されていた。状況から見るとどう考えても誰かに拉致《らち》された可能性が高いのです」
「しかし何のために」
駐在員生活一年を経てもトンドにはただの一度も足を踏み入れたことも、傍らを通り過ぎたこともない。『あの場所には近づくな』――。それはマニラに駐在する者が最初に受ける注意の一つだった。治安がことのほか悪いというのは、言い換えればそれだけ生活に困窮している人間が集まっているということだ。そんな人間を拉致したところで何になる。
瀬島の言葉の裏には、そうした思いがあった。
「分かりません。弟を誘拐したところで金にはならないことはこの国の人間なら誰もが知っていることです。事実、今日一日、弟を拉致した人間からは何の接触もありません」
「すると金目当て以外の何か他の目的があってということなのかな」
「その可能性は十分に考えられます」マリオは肯いた。「実は、この四年の間トンドでは似たような事件が少なくとも四件は起きているのです」
「そんなに頻繁に」
瀬島はまだ自分が知らないこの国の闇の部分を垣間《かいま》見る思いがした。
「事件は、四年前、アリシアという当時十六歳になる娘が行方知れずになったことに端を発します。それからいままでに、六歳と五歳の男の子が一人ずつ、それに十五歳の女の子が突然姿を消しているのです」
「その内の一つでも解決したのか」
「いいえ、ただの一つも……。犯人からの接触も一切ありませんでした。事故に遭ったというのなら、どこかで死体が発見されるとかしてもおかしくないのですが、それすらもない。突然姿を消して後はまるで音沙汰《おとさた》なしです」
「警察には届けたのだろう?」
「もちろん……ですが、トンドの人間が行方不明になった程度のことでこの国の警察が本気になって動くものですか。スラムで生まれた人間を本気になって捜すほど、この国の警察なんて信頼できるものではありませんよ」
確かにその通りかも知れないと思った。警察と言っても袖《そで》の下で生計を立てているような連中だ。どん底で暮らす人間が行方知れずになった程度のことでは、まともな捜査など期待できる筈《はず》もない。と、なれば、弟の消息を掴《つか》むためにはマリオ自らが動かなければならなくなるが、数日ならばまだしも、長期間オフィスにマリオが姿を現さないとなると、当然上司の知るところとなるだろう。何しろ飛鳥のマニラ支店は、三十人という小所帯ときている。
こうなれば、やれるところまでやってみるしかない。ばれたらばれた時のことだ。とにかくこの男の将来の可能性を奪うようなことだけは何としても避けなければ。
「事情は良く分かった」瀬島は自らの決意を奮い立たせようと声に力を込めた。「君は明日から現場への直行直帰ということにしておく。もちろんできるだけオフィスには顔を出して欲しいが、場合が場合だ」
「えっ、それでは――」
「ああ、どちらにしてもそんな問題を抱えていたんじゃ仕事に専念できないだろう。いつまでごまかすことができるか分からないが、とにかくやれるところまではやってみよう。それから年次休暇はどれくらい消化していたかな。私の記憶ではまだ一日も取っていないと思うが」
「その通りです。四十日まるまる残っています」
「ならば、時々その申請をしてくれ。それも休む時には体調不良とか何とか理由をつけて、なるべく纏《まと》まった形でだしてくれ。小刻みにやるよりも、その方が目立たずに済む。タイミングはこちらから指示する」
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。これは私の、いや飛鳥のためでもあるんだから」
そう言うと瀬島はマリオに手を差し伸べた。マリオがその手を遠慮がちに握ってきた。力を込めてやると、その手が小刻みに震え出した。顔を伏せたマリオの顔から涙がこぼれテーブルの上に滴り落ちた。突然大きく洟を啜る音がしたかと思うと、マリオは声を上げて泣き始めた。周囲のテーブルで週末の夜を過ごしていた客が何事が起きたのかとばかりに、一斉にこちらに視線を向けてくるのが分かった。
瀬島はそっとマリオの背に手を乗せながら、じっと動かずにいた。ひたすらマリオの弟の無事を祈りながら――。
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第七章 二〇〇〇年十一月
帝都大学医学部付属病院
薄暗い蛍光灯の明りがリノリウムの床に反射して鈍い光を放っていた。
諒子は廊下に設けられた椅子に座り、両手を合わせひたすら神に祈りを捧《ささ》げていた。隣に座る夫がその手を上から握り締めて来た。父親は檻《おり》の中に閉じ込められた動物のように、一定の距離を行ったり来たりしている。足を踏みだす度に床が泣き砂のような音を立てた。
思わず顔を上げると、その先の大きなガラス窓越しにICUの中の様子が見えた。特徴のある白衣、キャップ。それにマスクで身を覆った医師や看護師がせわしげに動き回っている。動きが活発なのはいい兆候ではなかった。いつ消え去るとも限らない幼い命を助けようと、皆必死になっているのだ。
フィリピンで移植手術を受けて以来半年、慎一は順調に回復していた。免疫抑制剤の効果もあったのだろうが、心配された拒絶反応はなかった。帰国するとすぐに、帝都大学付属病院に入院し、そこで三週間ばかりの時間をかけ、検査を受けたが予後は安定しており、それからは自宅での療養となった。慎一は移植手術後の最大の問題をクリアしたのである。だが予見される障害はそれで終わらない。免疫抑制剤を服用することは、同時に人間が本来持っているはずの免疫機能を低減させることを意味し、術後感染症を引き起こす可能性が高くなる。ちょっとした油断が命取りになるのだ。特に小児の場合は成人に比してウイルス感染症にかかりやすい。
それを懸念して大道寺の家に慎一が帰って来た時には、フィリピンに渡る前から行っていた家の改装も済ませていた。
最も日当たりのいい二階の角部屋。換気にも万全の注意を払い、エアコンのフィルターは月に一度、必ず交換するようにしていた。台所も慎一用に新たに設けた。食器も専用のものを用意し、温度を上げることで滅菌効果が期待できることから食器乾燥機を必ず使用した。与える食物にも十分に注意を払った。有機農法での野菜は与えず、果物は必ず皮を剥《む》いて与えた。生の魚介類などもってのほかだった。蛋白《たんぱく》源となる肉、魚は十分火を通して与え、部屋に入る際には諒子自身も必ずディスポーザブル・マスクを着用した。もちろん入室前には手を消毒することを怠ることはなかった。
家でペットとして飼っていた二匹のアフガンハウンドは、知人に引き取ってもらった。
とにかく感染症の原因となりうるものは極力慎一の周りから排除した。
なのに、どうして――。
突然の発熱に見舞われたのは七日ほど前のことだった。
明らかにいつもとは違う慎一の様子に、慌てて熱を測ってみると体温は三十九度を超えていた。目は潤んでおり、吐く息も荒かった。全身に倦怠《けんたい》感を覚えるのか、自分の姿をみつけると慎一は甘えたような声を出しながらむずかった。
諒子は躊躇《ちゆうちよ》することなく救急車を呼んだ。帰国して以来通院していたこの病院に運び込まれるとすぐに、数々の検査が行われた。血液採取、痰《たん》の培養、胸部X線撮影、CTスキャン……。その結果告げられた病名は衝撃的なものだった。『肺膿瘍《はいのうよう》』。つまり肺に細菌が感染して化膿性炎症を起こし、肺組織が壊死《えし》におちいる強度の肺炎と診断されたのだ。
この病気の治療の方法は二つしかないと医師は告げた。抗生物質療法と手術療法の二つだ。しかしこの病の特性の一つとして、原因菌の決定が簡単ではなく、慎一は広範囲抗生物質の最大量を静脈からの点滴のかたちで受けた。日々繰り返されるX線撮影。これで症状が消える方向に向かえば治療が功を奏したといえるのだが、病状に好転は見られなかった。病巣は日を追うごとに確実に拡張し、もはや残る手だてはただ一つ、手術によって病巣切除を行うしかなかった。
だが心臓移植という大手術を終えたばかりの慎一にこの療法を受ける選択肢は残されていなかった。
医師は抗生物質療法の限界は七〜八週間と言っていたが、とてもこのままではその期間さえも慎一の命が生き永らえそうにないことは、傍目でも分かった。
ICUの中で、計測機械や点滴のチューブに繋《つな》がれた我が子の姿を見ながら、ただひたすらその身の上に奇跡が起こることを祈る。諒子に残された手段は一つしかなかった。
せっかく新しい心臓を貰《もら》って、命を永らえることができたというのに、何でこんなことに。どうしてこの子にばかりこんな不幸が起こるのか――。
神に祈りを捧げる一方で、信ずる存在が次々に与えてくる過酷な運命を諒子は心底呪った。
ICUのドアが音を立てて開いた。中から見慣れた顔の医師がマスクを外しながら出て来た。
「ご子息は危篤状態に入りました。お引き合わせしたい方がおりましたらいまのうちに……」
悲鳴にならない声が漏れた。夫が立ち上がり、
「先生、何とかならないのですか。あの子の命が助かるならば何でもします。いくらかかってもいいですからどうか助けて下さい」
悲痛な叫び声を上げた。
顔を上げたすぐ先に医師の姿があった。苦渋に満ちた顔。彼は黙って頭を振った。
次の瞬間、諒子はリノリウムの床の上を駆け出していた。ICUのドアを開けると、そこに待ち構えていた看護師が消毒した白衣を差し出してきた。一刻も早く慎一の傍らに駆けつけたかったが、いかなる理由があろうともこの部屋に入る時には白衣とキャップ、それにマスクを着用するのが決まりだった。
割烹《かつぽう》着のような白衣に袖《そで》を通す。すかさず看護師が背中の紐《ひも》を結んでいく。キャップを被《かぶ》り、マスクを着用した。
ガラス窓の向こうには様々な機器に囲まれた病床がずらりと並んでいる。全ての準備が整ったところで、諒子は脱兎《だつと》のごとくICUの中に入った。ドアを開けると複数の計測機器が奏でる電子音が錯綜《さくそう》しながら聴覚に訴えてくる。少なくともその中の一つは慎一のものだ。
ベッドの位置は分かっている。手前から二番目のところだ。
小さい体からは様々なコードが、そしてか細い腕には点滴のチューブが伸びている。薄く開いた目。目蓋《まぶた》の僅《わず》かな間から覗《のぞ》く視線は虚《うつ》ろで、夢の最中にいるように焦点が定まっていない。小さな胸が上下するたびに、気道から悲鳴のような音が漏れた。
「慎一! お母様よ! 分かる!」
諒子は紅葉のような小さな手を握ると、耳元に口を近づけ叫んだ。だが、慎一には何の変化も見られない。
「慎一!」
「慎一!」
遅れて入って来た夫が父が母が、口々にそれぞれの思いを込めて名を呼んだ。
呼吸の合間に痰が絡むような濁った異音が聞こえた。
「看護師さん。痰がからんでいるんじゃありません」
これまでの看護の過程で、こうした際の処置は目の当たりにしていて良く知っている。
看護師がサンクションを起動し、チューブを取り上げた。細い管が空気を吸い込む音がする。その先端が慎一の口の中に入ったかと思うと、看護師はさらにそれを深く差し込み、気道から気管の間を探るように上下させた。かつては四肢を強張《こわば》らせ、激しくもがいたのがまるで反応がない。そこからも事態がいよいよ切迫していることが分かった。濁った音とともに、黄色い粘度を帯びた痰が、それに続いて真っ黒な液体が透明なチューブの中を流れていく。蒸溜水《じようりゆうすい》が満たされた容器の中にそれが落ちると、透明な液体がたちまちのうちに濁った。
呼吸は異常に速い。傍らに置かれた心電図に目が行った。心拍数は呼吸に比して大きな数値を刻んでいる。その一方でモニターの上に現れる波形は、比較的安定した波動を刻んでいるようだった。
肺膿瘍に冒されたのは免疫抑制剤のせいであることは分かっていた。そもそもの問題であった心臓はこの通り動いているというのに、どうして?
左から右に、規則正しく流れていく波動を見るにつけ諒子は不思議な思いに囚《とら》われた。
自然と両の目から涙が流れた。誰もが無言だった。部屋の中に流れるのは、心電図のモニターから流れてくる電子音と、家族が洟《はな》を啜《すす》る音だけだった。医師はもはや打つ手がないとばかりにじっと佇《たたず》んだままだ。長い時が流れた。
やがて、苦しげに上下していた胸のリズムが緩慢なものに変わった。呼吸音から絶え間なく流れていた悲鳴のような音が聞こえなくなった。
「慎一! 慎一!」
諒子は声の限りに叫んだ。
どうしてこの子が。代わってやれるものなら代わってあげたい――。
「間もなく呼吸が止まります……」
医師が事務的な口調で言った。
一際大きな嗚咽《おえつ》が背後から聞こえた。父が、母が泣いている。
「慎一……もういいのよ……よく頑張ったね……だからもうこれ以上は……」
諒子は柔らかな我が子の髪を撫《な》でながら言った。もはやこうなった以上、一時でも早くこの苦しみから解放してやりたいと思った。涙が滴り落ちて慎一の頬の上に落ちた。
呼吸が静かになった。どの機器からかは分からないが連続的な警報音が鳴り響いた。
「慎一!」
胸が大きく盛り上がると、溜息《ためいき》のような呼吸が口をついて出た。それは数秒ごとに繰り返され、四度目の息を吐きだしたところで、喉《のど》の奥から泡がはじけるような音がしたかと思うと、呼吸が止まった。
心電図のモニターが警報音を鳴らす。
「間もなく心臓が止まります……」
再び医師の声。心電図のモニターに現れていた波形が乱れ、間隔が長くなり、やがてそれは限りなく水平な線を描き始める。それに伴って慎一の顔からまるで魂が抜け去るかのように急速に血の気が失《う》せていく。撫でていた額から体温が失われていくような気がした。それを裏付けるかのように、心電図から発せられる音が連続音に変わった。
「失礼いたします」
医師は一礼すると、慎一の胸に聴診器を押し当て、数箇所を探った。そしてやにわにペンライトを取り出すと、目蓋《まぶた》を指先で押し開き瞳孔《どうこう》反応を確認した。
そして一呼吸おきながら改めて身を正すと、「十一月二日、午前二時三十三分。ご臨終です。力が及びませんで申し訳ございません」
小さな命の消滅を宣言した。
諒子は慎一の亡骸《なきがら》に取りすがり、力の限り泣いた。全ては終わってしまった。底知れぬ絶望と悲しみの渦が心の中を満たし、それは永遠に続くように思われた――。
何も考えられなかった。たったいま目の前で起きたことが現実として実感できなかった。寂寥《せきりよう》感、喪失感、それに悲しみが体を満たしているのは分かってはいたが、それらが複雑に入り混じった感情の縺《もつ》れは余りにも膨大であり、諒子が受容する能力を遥《はる》かに上回っていた。
涙だけが絶え間なく流れてくる。
これが夢であったならどんなにいいだろう――。
ふと見上げると壁に掛かった時計が静かに秒針を刻んでいる。さっきまでは慎一の生命の灯火が消えるまでのカウントダウンだった針は、いまは死後の時間を刻々と刻んでいる。確実に慎一の死は過去のものとなりつつあるのだ。
遺体を清拭《せいしき》する間、と言われて霊安室に通されて三十分の時間が経っていた。一時たりとも慎一の傍らを離れたくはなかったが、看護師たちが動き始めると、自分がいる場所はなかった。
それにしても長い時間だ。あんなに小さな体を清めるのにそんなに長い時間がかかるものだろうか。
部屋の中には父と母がいたが、会話らしい会話はなかった。母の啜り泣き、それにがっくりと肩を震わせながらじっと悲しみに耐えている父の姿があるだけだった。夫の祥蔵は遺体を病院から家に移し、それから始まる儀式の手筈《てはず》を整えるために席を外していた。それだって三十分の時間はかからないだろうにと諒子は思った。おそらく親族にこの不幸を知らせてでもいるのだろうか――。
その時部屋のドアがノックされた。
何と返事をして良いものか、一瞬|躊躇《ちゆうちよ》する間もなくドアが静かに開いた。
最初に姿を現したのは、慎一が日本に帰国して以来主治医となっていた帝都大学医学部心臓外科教授の竹原だった。それに続いて祥蔵が、そして今度の入院に際して主治医を務めた第一内科の教授の神田が入って来た。
「この度は何と申し上げていいのか……大変残念です。力が及ばず申し訳ありません」
二人の教授は深々と頭を下げた。
諒子が、父が母が、一斉に立ち上がり、礼を返した。
「大変お世話になりました。いろいろとご配慮いただき、お礼の言葉もございません……このようなことになりましたのも、あの子に運がなかったのでしょう……いまはそう思うしか……」
父の声は嗚咽《おえつ》で遮られた。
「ご心痛のほどはお察し申し上げます」
竹原が銀縁眼鏡の下の目を伏しめがちにしながら言った。その目がちらりと祥蔵を見たような気がした。祥蔵が静かに肯《うなず》いた。
「ご不幸の直後にこんなことを申し上げるのは、大変心苦しいのですが――」
竹原が丁重な口調で切りだした。
「何でしょうか」
父が答えた。
「実はお孫さんの心臓を頂きたいのです」
「慎一の心臓を?」
理由が分からないとばかりの父の口調だった。思わず顔を上げると、母と視線があった。悲しみに打ちひしがれている上に、怯《おび》えの色が浮かんだ。おそらく自分もまた同じような表情をしていることを諒子は疑わなかった。
「そんなことはできません。苦しんで死んで行った孫の体に、再びメスを入れさせるなんて、そんな酷《むご》いことは……」
最初に反応したのは母だった。握り締めた拳《こぶし》が震えている。
「ご心情のほどは承知の上で申し上げているのです」切り出し難い用件を一旦《いつたん》口にした神田は一気|呵成《かせい》に話し始めた。「この帝都大学は心臓移植の指定機関にはなっておりますが、実際のところこれまで一件の移植例もございません。加えて十五歳未満の脳死による臓器提供は法律で禁じられており、日本ではこの年齢の移植に関しては海外の術例に頼っているのが実情なのです。確かにお孫さんの直接の死因は、移植心の不具合に起因するものではありませんでした。しかし、たとえそうでなくとも、移植された心臓を剖検することで、今後の治療に役に立つ極めて貴重なデータが得られることになるのです。十五歳未満の脳死による臓器提供の禁止。実際に医療の最前線に立つ者の立場から言って、これほど理に適《かな》わない法はありません。もしもこんな馬鹿げた規制がなければ、お孫さんにしても、わざわざ海外まで行かずともこの日本で移植手術を受けるチャンスはあったはずです。おそらくこうした規制は、時間はかかるにしても将来きっと撤廃されると思います。移植以外に治療の手だてのない病を抱えた少年少女、幼児はたくさんいるのですから……その時のためにもぜひお孫さんの心臓を頂き、貴重なデータとして来るべき時に備えたいのです」
「できない……そんなことはできない……」
「先生……それは余りにも酷い申し出というものです」
父に続いて母が相次いで、非難の声を上げた。
激昂《げつこう》した父が肩で息をするのが分かった。
「祥蔵君!」厳しい口調で父が言った。「君はこのことを承諾したのかね。慎一の心臓を摘出するなんて申し出を受け入れたのかね」
「それは――」
祥蔵は青い顔をして俯《うつむ》いた。
「お父様!」父親の声が引鉄《ひきがね》になった。諒子は自分でも気がつかないうちに叫んでいた。「先生のお申し出をお受けしましょう」
「何を馬鹿な」
「いいえ。慎一だって他人様の心臓を頂いたのです。あの小さな体に心臓を下さった方は、私たちよりもっと辛《つら》い思いをなさったに違いありません。今度は私たちが人様のお役に立つ番です。そうでなければ、そうでなければ……」
諒子の目に熱いものが込み上げてくる。
「私たちは余りにも身勝手で……人の道に外れたことをしてしまうことになる……神は決してそんなことをお許しにならない」
「神?」父はせせら笑うようにして言った。
「神がいるなら、会って訊《き》きたいものだ。何故にこんな不幸ばかりを私たちに与えるのか」
「不幸に直面しているのは私たちだけじゃないわ。世の中には私たち以上に苦しんでいる方々だってたくさんいる。慎一は確かに不幸な生涯を遂げたけど、できる限りの最高の治療を施してやることができた。それすらも受けられずにこの世を去っていく子供の方が多いのよ。それから見たら……それにこのまま慎一を送りだしてしまったら、それこそあの子がこの世に何のために生まれて来たのか、その意味さえなくなってしまう。他人様から貰った心臓を難病に苦しむ方々のために役に立てて頂けるなら、あの子もきっと、きっと喜んでくれる」
諒子は決然として二人の医師を見た。
「先生、お申し出はお受けいたします」
「ご承諾していただけますか」
竹原は父の様子を窺《うかが》いながら言った。
しばしの沈黙のあと、
「その代わり条件があります」
「何でしょうか」
「摘出する臓器は……心臓だけに……心臓だけにして下さい……それと、傷口はできるだけ小さく……小さくお願いします……」
全てを話し終えたところで、腹の底から感情が塊となって込み上げて来た。抑えきれない熱量を持ったそれは、堪《こら》えていた悲しみ、寂寥《せきりよう》感といった負の感情の全てを巻き込み、激しい嗚咽となって諒子の口から漏れた。
監禁
窓一つない部屋の中に閉じ込められていると時間の感覚というものがなくなりそうだった。時の経過を知る手だてはただ一つ。決まった時間に部屋に運び込まれる三度の食事だった。
朝は、シリアルにミルク。それにオレンジジュース。卵が二個とトースト。コーヒーもついた。これで行動が自由であれば、ちょっとしたホテルに泊まってルームサーヴィスを受けているのとそう変わらない気持になっただろう。昼食、夕食は毎回メニューが違い、味も悪くなかった。それに厳重なカロリー計算がされているらしく、量もいつも適度に保たれていた。
もうここに来てから二週間は優に過ぎているはずだった。
シリアルがテーブルの上に載るたびに、麻里はそこに添えられた紙ナプキンに『正』の文字を書き込むのが習慣となっていた。その数はすでに三つを数えられるところまで来ている。しかし、その数字が正しいという確証はなかった。
拉致《らち》されてからの数日は、安定剤か誘眠剤を投与されたらしく、正体を失っていたからだ。それにもう一度、多分一週間ほど前のことになるだろう。手術室のベッドの上で、自分の体を照らす無影灯の光を見たのを最後に記憶が途切れてしまったことがあったからだ。
おそらくあの男たちは、私の卵子を採取してしまったに違いない。
その時の光景を思うと、いまでも体の芯《しん》から屈辱と怒りが込み上げてくる。
気がついた時には、すでにこの部屋に運び込まれた後だった。下腹部に残る鈍痛。重い体が無意識のうちに反応し、体にかけられていた毛布を払いのけた。部屋を出るまで着用していた衣服とは違い、膝丈《ひざたけ》まである薄っぺらな浴衣のような代物を纏《まと》わされていた。もちろん下着は全て剥《は》ぎ取られていた。
意識を失っている間に何が行われたかは明白だった。手術室の中にいた医師と思われる連中の姿が脳裏に浮かんだ。草緑色の術着に身をつつんだ男たち。手術帽にマスクを着用していたせいで、はっきりとは分からなかったが、目の色、体格、それにマスクの下から漏れてくる英語のアクセントで、アメリカ人らしいことは分かった。
あの男たちが私の体内を探り、卵子を採取したのだ。
もちろん、これまでに産婦人科を受診した経験がなかったわけではない。この年齢ともなれば、婦人病の検診のためにクリニックを訪れたことがあるのは当たり前のことだ。だが自ら望んで医学的な目的で検診を受けるのと、無理やり体内を探られるのとでは話が違う。
激しい怒りに体が震えた。涙が溢《あふ》れだすのを堪《こら》えきれなかった。ともすると思考が混乱しそうになる頭の中で必死に考えた。
連中はついに目指すものを手に入れた。私の卵子を――。とすると、その卵子は誰か見ず知らずの男の精子と掛け合わされ、細胞分裂を繰り返し、やがてはこの世に新しい命として生まれてくることになる。それは紛れもない私の分身であることを意味する。そう考えると事態は最悪だった。
かつてプリンストンの学部生であった時代、こうした問題についてディスカッションをしたことはあった。レイプによって妊娠した場合、その子供をどうすべきかという問題についてだ。
その時も意見は大きく分かれた。レイプによって授かった命だとしても、あくまで人間の命は尊重すべきだ、という意見と、犯罪行為によって妊娠した胎児は堕胎されても仕方がないというものの二つだ。アメリカでも最も優秀な頭脳が集い、最高の教育と見識を持つ人間たちの間でも見解は違い、結論を見いだせないまま議論は紛糾した。
麻里は基本的に中絶については反対だが、犯罪行為の結果、妊娠してしまった場合の中絶は止むを得ないという側に立った。しかしいざ自分がそんな目に遭ってみると、そう簡単に割り切れる問題ではないことに改めて気がついた。
たとえ誰かのお腹に宿ったにしても、我が子であることは動かし難い事実だ。その子がこの世に生を享《う》ける前に死を迎える――。理屈の上では理解できても、感情的にはどうしても割り切れない。かといって、自分の知らないところで分身がこの世に生を享け、誰かの子供として生き続ける。それもまたありうべからざる選択肢だった。
私はどうしたらいいのだろうか。いったいいつになったら、悪夢のようなこの環境から解放されるのだろうか――。まさか定期的に卵子を採取され、自分の分身がその度に増殖していく――そんなことになるんじゃ――。
考えるだにおぞましい事態に、麻里は体の震えを抑えきれなかった。
それから一週間。定期的に運び込まれてくる食事以外に外界との接触は何一つとしてなかった。三食を運び込んで来るのは、フィリピン人の中年の女性だったが、その背後には常に監視の目があり、いかなる問い掛けにも答えてくれなかった。高級ホテルの客室のような設備があるといっても、窓一つない空間の中に閉じ込められている上に、常に精神が大きな重圧に苛《さいな》まれていると、さすがに麻里の中にも諦《あきら》めの感情が芽生えてくるのを禁じ得なかった。
ドアがノックされる音がした。昼食はさきほどとったばかりだった。夕食まではまだ大分時間があるはずだ。来訪者がこんな時間にやってくることは、一週間前の手術の時だけだった。
不吉な予感が脳裏をよぎった。手術室の光景が思い出された。自然と体が強張《こわば》ってくる。
ベッドに横たわっていた麻里は、毛布を引き上げると、身を丸め防御の姿勢を取った。
鍵《かぎ》が外される音。それに続いてドアが開いた。姿を現したのは、白衣を着た白人の男だった。見覚えがある。そう、拉致《らち》された直後、ベッドサイドに立ったあの男だ。
「ミス・トリカワ。ご機嫌はいかがですかな」
男は後ろ手にドアを閉めると穏やかな笑みを浮かべながら訊《たず》ねてきた。
「ご機嫌はいかがですかですって? 人をこんな目に遭わせて、よくもそんなことを言えたものね」
「何か待遇について改善すべき点があれば、どうぞご遠慮なくおっしゃって下さい。もっとも全てがご希望通りになるとはお約束できませんが」
「希望ならあるわ」鬼畜のような行為をしておいて、一片も恥じ入る様子もない男の姿を見ているうちに、猛烈な怒りが込み上げてきた。「私をここから出してちょうだい。もう私の卵子は採取したんでしょう。だったら私は用済みなんじゃないの」
「構いませんよ」意外にも男は肯《うなず》いてきた。「もしもあなたがお望みなら」
「じゃあ、解放してくれるのね」
「勘違いなさっては困りますな、ミス・トリカワ。出して差し上げると言ったのは、この部屋からという意味です。施設からというわけじゃない」
「何ですって」
「あなたにはまだまだ働いていただかなくてはなりませんからな」
「働くって……まさかまた卵子を採取しようと言うんじゃないでしょうね」
「その通りですよ」
「冗談じゃないわ。どうして私があなた方にこれ以上の協力をしなければならないわけ。卵子の提供者なんて世の中にはごまんといるじゃないの」
「それは前にも申し上げたように、あなたの優れた遺伝子を受け継いだ子供を授かることを望んでいるクライアントがいるからです。確かにあなたがおっしゃるように世の中には金と引き換えに自ら進んで卵子を提供してくれる女性はたくさんいる。だが我々の抱えているクライアントはスペックにはことのほか煩《うるさ》いものでしてね。完璧《かんぺき》に要件を満たす女性、それもオリエンタルのものとなると、そうは見つかるものではないのです」
密《ひそ》かに恐れていたことが現実となった。やはりこの男は私を解放する気など端《はな》からありはしないのだ。
「それじゃ私は鶏と同じじゃないの」
「それは心外なお言葉ですな。第一鶏はこんないい待遇は受けられませんよ」
「こんないい待遇? いったい何を指してそんなことを言えるの。窓一つない部屋に閉じ込められて、ひたすら卵を採取される。檻《おり》の中に閉じ込められた鶏そのものだわ」
「ですから、環境を快適なものにすべく今日こうして伺ったのです」
「いったい何をどう改善してくれるというの。電話を使わせてくれるの? それとも外へ買い物に行かせてくれるとでも?」
精一杯の皮肉を込めて言ったつもりだが、男の表情に変わりはなかった。
「申し訳ありませんが、その希望も叶《かな》えて差し上げることはできませんな」相変わらず穏やかな笑みを浮かべ、口調にも些《いささ》かの変化も見られない。「この施設には高級ホテル並のアスレチックジム、それにプレイルームがあります。部屋の中に閉じこもってばかりいては体に毒です。体調を維持するためにもそろそろそうした施設に出入りなさってはいかがかと……」
「それもこれも、質のいい卵子を採取するためなんでしょう。誰がそんなところへ」
「ミス・トリカワ……あなたはこの施設がどれほど快適なところかまだご理解していらっしゃらないようだ」そんな反応は想定の内といった態《てい》で男が続けた。「ここにやってきた[#「やってきた」に傍点]女性たちは最初のうちは皆、あなたと同じような反応をなさいます。ですが外の世界では到底口にできないような食事、快適な環境に慣れると、それなりにここの生活を満喫するようになる」
「女性たち[#「女性たち」に傍点]ですって? あなた方が拉致してきたのは私だけじゃないの?」
「ええ……もっとも日本人はあなた一人。他は全てこの国の女性たちですがね。もちろん彼女たちは卵子採取の目的でここに連れて来られたのではない。あなたのような優秀な遺伝子を受け継ぐ子供を産むためにここにいるだけですが」
背筋に戦慄《せんりつ》が走った。いったいこの連中は何人の女性を拉致し、ここに監禁しているというのだろう。しかも体外受精によって胚《はい》となった受精卵を子宮に埋め込まれ、誰のとも分からない子供を産む。そんな目的のためにこんな施設をつくるなんて……。許せない。絶対に許せない。
「先進国で生まれて育ったあなたにとっては、至極当たり前の食事、それに待遇でしょう。貧しい暮らしを強いられてきた他の女たちとは違いますからね。その点は十分考慮して、最大限できうる範囲であなたの要求は実現して差し上げるつもりです」
「狂ってる……」
麻里は男の目を睨《にら》みつけながら呟《つぶや》いた。
「|何とおっしゃいました《エクスキユーズ・ミー》?」
「狂ってるって言ったのよ。あなたがやっていることは生命を玩《もてあそ》んでいるだけのことだわ。私は体外受精や代理母を使っての新しい生命の創出については、特別な意見は持っちゃいない。それが少なくとも当事者間で合意を得たものであれば、何も言うつもりはないわ。だけど、こんな形で生命を創出するような行為を、到底容認することはできない。正常な人間ならこんなことは思いもつかないことだわ。そんなことを平気でやり遂げるあなたはまともな神経を持っているとは思えない。だから狂っているって言ったのよ」
男の表情に変化があった。顔から笑みが消え、ブルーの瞳《ひとみ》がじっとこちらを見据えてきた。冷酷な目だった。
「ミス・トリカワ……」男の視線が再び元に戻った。「テクノロジーの進歩というものは、どんなものにせよ多少の人の犠牲の下に確立され進歩を遂げてきたものだ。特に医学の場合、多大な動物、人間の犠牲の上にいまの治療法が確立されたと言っていいだろう。中世に至るまで、純粋な医学的目的での解剖はタブーとされた。紛争の中で人体をぶった切ることや、拷問で肉体を切り刻むことは許されてもね。解剖にしたって、この世で罪を犯した罪人のものが使われた。現在では医師になるために当たり前だった解剖も、それを望む者は異常者扱いされたものさ。いま確立されている医学というものは常にそうした負の遺産の上澄みをすくい取って、成り立っているものなのだよ。人間の善意をあてにしていたのでは、進歩などありはしない。そうじゃないのかね」
「でも、時代には時代の社会的コンセンサスというものがある。それを無視することは犯罪と糾弾されてもしょうがないわね。たとえあなたがどんな理屈をこねようともね。とんだ現代のクルーセーダーだわ」
「クルーセーダー。大いに結構」男は両手を広げると満面に笑みを湛《たた》えた。「ここで得られたデータは全て実際の医療現場にフィードバックされ、多くの人の役に立っているのです。それに果たした私の役割は決して表に出ることはないだろう。だが、私がここで医学界に残した功績は、多くの人間に感謝されこそすれ決して非難されるものではない。私にはそれで十分だ」
「私の気持を踏みにじってまでね」
「さっきも言った通り、多くの人間のためには多少のスケープゴートは必要なのです」
もはや何をか言わんやだ。とにかく確かなことは、この男が私を施設から即座に解放する気など更々持ちあわせてはいないということだった。
「ミス・トリカワ……どうしますかな。私どものプロジェクトにいま暫《しばら》くの間、ご協力いただきその間快適な生活を送るか。それともこのまま、この狭い部屋の中で囚人のような日々を送るか、ご決心いただけませんかな。どちらをお選びになるかは、もちろんあなたの自由というものですが」
もちろん、男の条件を呑《の》む気など更々なかった。定期的に卵子を採取され、その度に自分の分身がこの世に創出されてくるなんてことは考えたくもない。何とか脱出する手だてを考えなければ――。だがそのためにはここがどこなのか。建物の構造は、監視の体制は……。最低限必要なことすらまだ私は知らない。たとえ限られた範囲の中でも、施設の中を見るチャンスがあるとすれば、何かしらの手だてを見いだすことができるかも知れない。少なくともここにじっとしていてはチャンスは絶対に訪れない。
「まあ、精々考えることですな。時間はたっぷりとある」
男はうやうやしく一礼をすると、身を翻しドアを開けた。外にガードマンの姿が見えた。
「待って!」
ドアを開けたまま男が振り向いた。
「分かった……どうやら私の負けだわ……協力するわ」麻里は観念したように見せる演技をした。
「もうこの部屋に閉じ込められていることは限界……ただ一つだけ教えて頂戴《ちようだい》。私はいったいいつになったら解放してもらえるの」
「どうやらやっと納得していただけたようですな。結構、いやまことに結構。そう決心したならここの生活は満更悪いものではないと思いますよ。それからあなたの解放については、おそらく半年は我慢していただかなくてはなりませんがね。時が経つのは早いものです。半年なんてあっという間ですよ。それではいずれまた、近いうちに……」
満面の笑みとともに、男は高揚した声を上げた。
「ミス・トリカワをジムにご案内して差し上げろ」
ドアの外に待機していたガードマンに命じた。
「はい。分かりました。ドクター・フレッチャー……」
ガードマンの答える声が聞こえた。
そうか、フレッチャーというのか、この男。絶対にこの名前は忘れない。何があっても……。
麻里は去って行くその背中を睨みつけながらその名前を脳裏に刻みつけた。
アプローチ
晩秋の太陽は、早くもビルの陰にその姿を沈めようとしていた。透明な大気を通して長い日差しが周囲を薄暗く浮かび上がらせている。建物の窓からは明りが漏れ、グレーに変わった空の下で白い光を放っている。
諒子は乗ってきたベンツから降り立つと、助手席に置いたコートをそのままに、後部座席に置いておいた香典返しの品を手にして玄関へと向かった。ガラス張りのエントランス。メトロポリタン・マタニティ・クリニックの文字と、幸せそうな笑いを浮かべる赤ちゃんのイラストが、中から漏れてくる明りの中に浮かび上がった。幼くして世を去った慎一の姿がその絵と重なり、胸が締めつけられる思いがした。自然と小さな吐息が漏れた。
自ら望んでのことではなかったとはいえ、初めて宿した命を絶ち切ったのも、新しい命を授かり母となった喜びを味わったのもここだった。重い心臓病を克服することに一筋の光明を見いだしたのもこの場所ならば、子宮の摘出という絶望を味わったのもここだった……。だが、今日を境に、おそらく二度とこの場所に足を踏み入れることはないだろう。四年の間に怒濤《どとう》のように押し寄せてはこの身を翻弄《ほんろう》していった運命に、今日は小さなピリオドを打つのだ。
諒子はゆっくりとエントランスに向かって歩いた。モーターが微《かす》かな唸《うな》りを上げ、ガラスのドアが左右に開いた。暖められた空気が、室内から流れ出し身を包むのが分かった。
ロビーに置かれた待合の椅子に人影はなかった。新しい命を授かった幸せな妊婦の姿を目にしなくて済むことがせめてもの慰めというものだった。すでに時間外となったこの時間、受付のブースには誰もいない。カウンターの上には小さな呼び鈴が置いてあるだけだ。上部に突き出た突起を押してみる。軽やかな音を立ててベルの音が広い空間に木霊した。
「はい」
すぐ奥にあるナース・ステーションから一人の看護師が姿を現した。
「大道寺と申します。新城先生と四時に約束がございまして」
「ああ、大道寺さん。伺っております。院長室の方でお会いになるとのことですので、エレベーターでどうぞ四階の方へおいで下さい」
「分かりました。四階ですね」
「ええ、お上がりになるとすぐに分かると思います。表示も出ておりますので」
「ありがとうございます」
諒子は丁重に頭を下げると、エレベーターに乗り込んだ。寝台車《ストレツチヤー》を乗せるために奥行きのある空間が、白い光で満たされると、鈍い音とともに上がり始めた。そして軽いショックに続いて停止……。再び開いたドアの向こうに厚い絨毯《じゆうたん》が敷き詰められた廊下があった。
看護師が言った通り、院長室はすぐに分かった。ダウンライトの琥珀《こはく》色の光の中を歩き、重厚なドアをノックした。
「どうぞ。お入り下さい」
室内から予《あらかじ》め来室を予期していた返答があった。
「失礼致します」
ドアを開けると新城が立ち上がり諒子を迎えた。
「これは、大道寺さん。わざわざお越しいただき恐縮でございます」
「この度の慎一の件に関しましては、大変お世話になりました。それにご多忙にもかかわらず通夜、それに葬儀までにもご参列いただきまして……」
「何のお役にも立てませんで。それにあのような結果を迎えられるとは……大変残念でなりません」
「いいえ、本来でしたら十分な治療も施してやれないままでございましたところを、あんなに早くに心臓移植の手術を受けられたのは、先生のお力があったればこそでございます。本当に感謝申し上げております。これは心ばかりのものでございますが……」
諒子は手にしていた品を、風呂敷《ふろしき》から取り出した。
「これはご丁寧に、恐れ入ります」新城は頭を下げながら、それを受け取ると、「どうぞお掛け下さい」と椅子を勧めた。
タイミングを見計らったかのように、続きの部屋のドアが開いた。身なりからすると秘書を務めているらしい若い女性が、コーヒーをトレイの上に載せて現れると、テーブルの上に置き、うやうやしい礼をして引き下がった。
「早いものですな。もう二週間になりますか」
「ええ……何だか、まだ信じられなくて……いまでもつい足が子供部屋に向いてしまいます」
「無理もありません。ご心痛のほどはお察し申し上げます」
「まだ動き回る前からあのような病に罹《かか》ってしまって、そういう意味では子供の気配というものが、ほとんどなかった家だったのですが、それでも火が消えたように寂しくなって……」
「ご家族の方もさぞや気をお落としでしょう」
「主人や父はそれでも仕事がございますので、幾分は気が紛れるようではございますが、母は初七日を乗りきるのがやっとという有り様で、本来ならば今日は一緒にご挨拶《あいさつ》に伺わなければならないところなのですが、こうして私一人で出掛けてまいりました」
「いや、お母様のご心中はお察し申し上げます」
「これで、私が再び子供を産めるというのなら、まだ救いがあったのかも知れませんが、ご承知のような体でございますから……」
下腹部に茶色の筋となって残った大きな傷が脳裏に浮かんだ。入浴の度に否《いや》が応でも目にしなければならない深い傷。象牙《ぞうげ》色の肌の上に百足《むかで》の入れ墨を施したようなそれは、子宮を摘出された名残だった。それを目にする度に、諒子は自分の腹部の中に大きな空洞が存在しているような錯覚に襲われるとともに、もはや二度と子供を産むことができないという冷酷な事実を突きつけられるのだった。
新城はじっとテーブルの一点を見つめたまま口を閉ざしている諒子を見つめた。
かけがえのないただ一人の子供を失った悲しみ。そして二度と自らの力では新しい生命を授かることはできないという絶望感が手に取るように分かった。
護国寺で執り行われた盛大な葬儀。祭壇の脇に控える大道寺の一族は、打ちひしがれ、延々と続く参列者に、もはやまともな礼を返す気力もないようだった。中でも諒子の憔悴《しようすい》のほどは傍目にもはっきりと分かった。その姿を目にした時、胸中にもう一人の自分が囁《ささや》く声を新城ははっきりと聞いた。
大道寺にその血を引いた子供が授かるチャンスがあると知ったなら、この連中はいったいどんな反応を示すだろうか。
脳裏に四年前に諒子が妊娠し、堕胎した胎児から採取した卵子のことが思い出された。
もしもあの時の卵子がいまでも凍結保存されているとしたら、今度は祥蔵の精子と掛け合わせれば、双方の血を受け継いだ子供を代理母の子宮に移植することによって得られる。それは正確に言えば純粋に祥蔵と諒子の子供ではなく、以前付き合っていた男の血が混じり合うことになるが、それでも大道寺の血を引き継いでいる子供には違いない。大道寺はこのままでは正統な血を絶やしてしまい、傍流の血をもって家を維持していかなければならなくなる。それはこの家の人間たちにとって苦渋の選択であることに違いあるまい。
紛れもない自分たちの子供が再び授かるとしたら、間違いなくこの一族は話に乗ってくる。どんな大金を払ってでも、そのチャンスをものにしようとするだろう。
新城はすぐマニラにいるドクター・フレッチャーに電話をかけた。もたらされた事実は期待を裏切らないものだった。マニラにあるウイリアム・アンド・トンプソン研究開発センターには、四年前に諒子の胎児から採取された二十個ほどの凍結卵子がいまだに保存されているという。もちろんそれが使用に耐えうるものであることの確認は怠らなかった。事の一部始終を知ったフレッチャーが乗り気であったことは言うまでもない。必要な資源は全て揃っており、大道寺家がこの申し出を受ければいつでも体外受精は実行に移せる。
もちろん子宮を摘出したと言っても、諒子の体内には卵巣が二つ残っている。そこから卵子を採取し、体外受精・代理母という手段で子供を得ることは可能だ。しかしそんな方法を選ばれたのでは自分が介在する余地はほとんどない。アメリカにはその手の斡旋《あつせん》業者は何十社とある。それを紹介・斡旋してお終《しま》いだ。面白みも旨味《うまみ》もあったものではない。
だが、最初の子供を堕胎する時に諒子が見せた執着――。堕胎を決意してやって来ても、いざとなると躊躇《ちゆうちよ》する女性は少なくないが、あの執着ぶりはただ事ではなかった。大道寺という名のある家に生まれた身。おそらくは道ならぬ恋に落ち、心から愛していた男の子供を身籠《みごも》ったのだろう。想いを遂げられずに終わった悲恋の結果、望まぬ男と、つまり親の決めた相手と結婚するのは、あのような家にはよくある話だ。諒子がいまでもかつての男に対する想いを捨てられずにいたとしたら、きっと彼女は凍結保存しておいた卵子を使って子供を得ることに興味を示すに違いない。そうなれば再び労せずして大金を稼ぎだすことができるというものだ。
チャンスだと思った。全ての希望を失い、不幸のどん底に叩《たた》き落とされているのは、何もこの女だけではあるまい。大道寺の家の誰もが同じような気持でいるはずだ。不幸の責め苦の中にあり地獄のような苦しみに身を置く人間は、それが通常の思考の下では常軌を逸したものであったとしても逃れるためならどんなことでもするものだ。しでかした事の重大さに気がつき、罪の重さに戦《おのの》くのは正気を取り戻した後の話というもの。いや、その選択が、不可能と思っていたことを可能としたとなれば、身に降り注いだ幸運を感謝しこそすれ罪の意識など微塵《みじん》も抱かないだろう。
新城はいよいよ計画を口にする時が来たと思った。
「大道寺さん」
「はい」
諒子が静かに顔を上げた。記憶が呼び戻され、心中が新たな悲しみによってかき乱されたものか、二度三度と潤んだ目をしばたたかせた。
「確かに、おっしゃられたように、奥様ご自身ではもうお子さんを産むことはできません。残念ながらそれが現実というものです」
「存じております」
「これはあくまでも可能性の話として聞いていただきたいのですが、もしも、再びお子さんを授かるチャンスがあるかも知れないとしたら、どうお考えになりますか」
「おっしゃっていることが分かりませんが――」虚を突かれたような眼差《まなざ》しを浮かべながら、諒子は小首を傾げて新城を見ると、「第一私はもう二度と子供を産むことができない体になってしまったのです。そのことは先生が一番良くご存じではありませんか。もちろん、授かることができるなら、どんなに良いかとは思いますが……」
「ご自分で産まなくとも、子供を得ることはできますよ」
諒子は、ふっと吐息にも似た薄い笑いを浮かべた。形のいい口元が歪《ゆが》んだ。
「養子という手もあると、先生はおっしゃりたいのでしょうか。それはそれで私自身としては考えないでもありませんが、先生もご存じの通り、父や母はあの性格です。とても外から子供を連れてくるなんていうことに賛成するとは思えません」
「いいえ、そうではないのです。あなたの血を引き継いだ、正真正銘、あなたとご主人のお子さんを得る可能性の話をしているのです」
「私と、主人との子?」
いったい何を言わんとしているのかとばかりに、諒子は見開いた目を向けて来た。
「そうです」
「どうやったらそんなことができるのですか。私にはそんな能力はありません」
「確かに、あなた自身が子供を産むことはできない。それは紛れもない事実です」
「おっしゃっていることの意味が分かりません」かぶりを振りながら諒子は言った。
「人工授精……それに代理母を使うのです」
「人工授精に代理母ですって?」
思いもかけなかった言葉の出現に、諒子の口が惚《ほう》けたように開いた。
「驚くようなことではありませんよ、大道寺さん。いまの不妊治療では人工授精――正確には体外受精は広く用いられているものです。もっとも代理母については日本ではまだそのコンセンサスが取れているとは言えませんがね。欧米では広く社会的に認知されていることです」
「そんなことが……そんなことが可能なのですか」
「可能です」
諒子の目の色がすがるようなものに変わった。思った通り絶望に満たされた血の海でのたうち回るこの女は、細い藁《わら》の先を差し伸べてやっただけに過ぎないのにそれをしっかりと掴《つか》んできたのだ。
「でも、先生はいまおっしゃいましたよね。体外受精はともかく、日本ではまだ代理母についての社会的コンセンサスが得られていないと。つまりそれは違法行為であるということを意味するのですか」
「正確には違法とは言えないでしょう。規制する法律もなければ、罰則も設けられていませんからね。だからと言ってやっていいという法律もない。まだその機が熟していないというのが正直なところでしょうか」
諒子はこくりと肯《うなず》いた。ついいましがた口元に浮かべていた笑いは消えていた。真剣な、すがるような眼差しで話に聞き入っている。諒子がこの申し出に多大な興味を覚えていることは間違いない。
「考えてみれば日本というのは随分と不思議な国ですよ。大道寺さん」新城は諒子の反応に満足すると話を続けた。「だいたいご子息に施した心臓移植にしてからがそうです。日本では十五歳未満の脳死による臓器提供は法律で認められていない。だがこれが一旦《いつたん》海外で行われたとなれば、誰一人としてそれを罰するどころか非難する人間の一人も出てきやしない。重い病を治したい、子供を得たいというのは万人に共通した願いです。それを国内では社会的コンセンサスが得られないという、全くナンセンスな理由で治療そのものを施すことを拒否する。問題を解決する技術は確立されているというのにね。まるで不幸に遭った人間はそれを運命として甘んじて受け入れろ、と言っているようなものです」
「それでは、もしもその治療を受けるとすれば、こちらではなくどこか海外で、ということになるのですか」
「そうなります。体外受精はともかく、さすがに代理母で子供を出産させたというようなことが表沙汰《おもてざた》になれば、当然世間からは激しく非難されるでしょうからね。私にとっても、いや大道寺さんのお立場を考えれば絶対に避けなければなりません。全ては隠密裏に済ませなければなりません」
諒子が再びこくりと肯いた。
「でも先生」
「何です」
「体外受精を行うとしても、夫の精子はともかくとして、卵子はどうするのです。まさか私の場合は、代理母となる方の卵子を使うというんじゃ――」
やはり予期した通りの質問が諒子の口をついて出た。
「いいえ、そうではありません。奥様は確かに子宮を摘出なさった。ですが二つの卵巣は何の障害もなく体内に留《とど》まったままです。そこから卵子を採取してご主人の精子を授精させ、代理母の子宮を借りるのです」
「それじゃ私は再び母親になれるというのですね」
諒子の顔に血の気が差し、頬の辺りを仄《ほの》かに朱《あか》く染めると、
「それで、そんな方法で生まれてきた子供は何の障害もなく育つのですか」
矢継ぎ早に訊《たず》ねてきた。
「何事にも確実という言葉は存在しません。それは通常の出産でも同じことです」
「それはそうに違いありませんが……」
「ただ先に申し上げた通り、こうした方法で子供を得ることは欧米では広く行われていることなのです。体外受精の技術も確立されたものと言ってもいいでしょう。ただ……」
新城はそこでわざともったいぶって言葉を区切った。
「ただ?」
「代理母による出産が普及している国はアメリカということになるのですが、実は困ったことに最近、日本人の子供を産むことに関して難色を示す代理母が少なくないのです」
「それはなぜです」
「代理母には当然それなりの報酬が支払われます。この点からしても立派なビジネスなのですが、たとえ自分の遺伝形質を受け継いではいない子供とはいえ、十カ月もの間自分の体内に宿った命です。代理母が胎児に愛情を持つようになるのは当然というものでしょう」
諒子がこくりと肯いた。
「自分の産んだ子供がどんな環境の人間の手に渡り、その後どのような成長を遂げているか、そうしたことをどうしても知りたがるようなのです。季節ごとに送られて来る挨拶状でもいい、とにかく折に触れ、何らかの形で継続的な形で依頼者とコンタクトを持ちたがる。ところがこと日本人に関して言うならば、代理母という方法で子供を得たという事実を隠したがる傾向があって、その後一切の接触を絶ってしまう。そうした例が跡を絶たず、日本人というだけで代理母のなり手がいないのです」
代理母と継続的にコンタクトを取らざるを得ないとなれば、大道寺のような家にとっては迷惑以外の何物でもないだろう。おそらくはそうした方法ですでに子供を得た日本人同様、その事実さえも隠蔽《いんぺい》したいに決まっている。
果たして諒子は、そんな推測を裏付けるかのように沈黙した。
「代理母となる女性たちは、多くの場合、報酬よりも善意に基づいて子宮を他人に貸すことを引き受けるものなのですが、大道寺さんの場合は果たしてそれで済むかどうか……。私はその点が心配なのです。いくら善意に基づいてとは言っても、そこは人間です。大道寺さんのような名前もあれば財産もあるような家の子供を産んだとなれば、相手がその後どんな難題を吹っかけて来ないとも限りませんからね」
「確かに、先生がおっしゃる通りかも知れません。再び私共に子供が授かるとなれば、それに優る喜びはないのですが、その後お腹を借りた方との間で面倒が起きるとなれば、きっと両親も難色を示すでしょうね――」
諒子は落胆の深さを表すかのように、小さな吐息とともに言うと、「他に何かいい方法はないものなのでしょうか」
それでも諦《あきら》めきれぬとばかりに続けて訊ねてきた。
ここから先はうまく辻褄《つじつま》を合わせて話さなければならない。諒子のことだ、多少のショックは受けるかも知れないが、自分の子供を授かるという喜びの方がそれに優るに決まっている。
「ないわけではありません」
新城は静かに言った。
「本当ですか」
諒子の声に力が籠《こも》った。
「本当です」
「いまおっしゃったようなトラブルに遭うことなく、私の子供を手に入れる方法が他にあると」
「ええ」
「それにはどうすればいいのです」
「実は奥様の血を引き継いだ卵子はすでに受精可能な状態で存在しているのです」
「何ですって」諒子は身を乗りだすと、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ怪訝《けげん》な顔をして訊ねてきた。「どうして? どうして私の卵子が?」
「これからお話しすることは、奥様にとっては辛《つら》いことかも知れません。私も今回もしやと思って調べてみるまで、全く気づかず事実を知った時はしばし唖然《あぜん》としたほどでしたから……」新城はそう前置きをすると、「四年前に堕胎なさった胎児のことを覚えていらっしゃいますか」おもむろに切りだした。
諒子の視線が落ちた。それに合わせるように頭が一度|微《かす》かに上下した。
「妊娠二十二週目。つまり六カ月だった胎児は女の子でした。一般にはあまり知られていないことなのですが、女性が持つ卵子は成長のつど造られるのではなく、胎児期に全て持って生まれて来るものなのです。特に妊娠二十二週目にある女児は、およそ七百万個をその子宮に宿しています。成長とともにその数は減り、妊娠可能な思春期に入ると三十万個。実際に排卵されるのは四百程度なのです」
理由が分からないとばかりに諒子は新城の言葉に聞き入っている。
「通常、掻爬《そうは》された胎児は、しかるべき業者の手によって処分されます。しかし胎児というのは、実のところ金の成る木でしてね。実際堕胎された胎児は密《ひそ》かに高額で取引されることがあるらしいのです」
「胎児がお金になるんですか」
「ええ、あまり詳しくはお知りにならない方がいいとは思いますが」
「まさか」
諒子の顔がおぞましい話を聞いたとばかりに引き攣《つ》った。顔から血の気が引いて行くのがはっきりと見て取れた。
「もちろん引き取りに来る業者が堕胎した胎児の死体を横流ししているなんてことは、口が裂けても言いやしません。こんな旨味《うまみ》のあるビジネスはありませんからね。何しろ病院からは処分料を取っているくせに、横流しをしてまた決して安くはない金を得るわけです。堕胎された胎児がどうなったかなんてことを気にする人間はいません。そもそもが闇に葬り去りたいと願った命なのですから」
「それで、私の赤ちゃんの場合も?」
「実は、今回のご不幸があって脳裏に浮かんだのがあの胎児はどうなったのかということでした。通常でしたら六カ月にさしかかった堕胎の場合は、死産とされて役所への届け出が義務づけられています。しかし、あの時はその事実を何としても隠し通して欲しいというのが大道寺さんのご意向でした。もちろんカルテも残してありません。つまり事実の隠蔽《いんぺい》は完全に行われたということです」
新城は暗にお前こそ隠蔽の張本人だということを匂わせた。
「ところが、こうした胎児はめったやたらなことでは手に入らない。欲しがる機関はいくらでもあります。そこで業者にその点を質《ただ》したのです」
「つまり私が堕胎した子供から卵子を取り出した人がいると」
「胎児を購入したのは、ある外国資本の製薬会社の研究機関です。その会社は胎児から取り出した未成熟卵子を受精に耐えるだけのものにする培養液の開発を進めていて、それにあの胎児の持っていた卵子を用いたというのです」
「そんな……そんな馬鹿な……それじゃ、七百万もの卵子が私の知らないうちに存在しているというのですか」
「いいえ、そうではありません。胎児から取り出した卵子を受精に耐えうるものにする技術はマウスや他の動物実験の段階では成功したという報告はありますが、人間のものでということになるとまだ確立されていないということになっています」
「それでは、その卵子もまた……」
新城はゆっくりとかぶりを振った。
「その外資系の製薬会社というのは、かつて私が帝都の医局に籍を置いていた時分から付き合いがありましてね。その伝手《つて》を辿《たど》って直接確認したのです。その結果……」
諒子の細い首。喉《のど》が一つ上下するのが分かった。
「およそ二十個ほどの卵子の熟成に成功したと言うのです」
「まさか、その卵子を使ってすでに子供を作り上げたというんじゃ」
まるで悲鳴を上げたかのように、諒子の声が引き攣った。
「それはご心配なく」新城は大仰に顔の前で手を振って見せた。「そんな研究をしているということ自体が公になっただけで、その製薬会社は世の中から大変な非難を浴びるでしょう。今回二十個の卵子の熟成培養に成功したということを打ち明けたのも、私とその研究所の責任者が個人的なコネクションがあったこと、それに出所をはっきりと突きつけられたからですよ。彼らにしたところで、引き取り手のない子供を作り上げたところで、どうしようもありませんよ。マウスや他の動物なら飼っておくこともできますが、人間の子供はそうはいきませんからね。熟成に成功したところですぐにサンプルとして凍結保存したそうです」
その言葉を聞いて少しは落ち着きを取り戻したらしかったが、それでも諒子は小さな溜息《ためいき》を漏らすと、額に手をやって顔を伏せた。
「奥様」もはやここまで話せば後に引くことはできない。新城は一気に畳み掛けに入った。「ご決断をなさる時です。彼らは新しく生まれてくる生命の引き取り手があれば、すぐにでも凍結保存をしてある卵子を使って、体外受精をする用意があると言っています。事の経緯にご納得がいかない点は多々あるとは思いますが。これは神が与えたチャンスです。もちろんいまあなたの体内にある卵子を使って子供を得るか、研究所に保管されている凍結卵子を使うか。どちらをお選びになるかはご自由です。しかしこの機を逃せば、もう二度とお子さんを得る機会はありません。文字通りの最後のチャンスですよ」
長い沈黙があった。じっと見つめる新城の前で諒子は額に手をやった姿勢を崩すことなく考え込んでいる。心の葛藤《かつとう》が手に取るように分かった。
だが、結論は見えていた。どうあがいたところで、この女が選択する道は一つしかありはしない。最愛の息子を失った悲しみを癒《いや》し、大道寺の家を守るためには他の選択肢は残されてはいないのだ。精々思い悩むことだ。
どれだけの時間が流れたのだろう。突如諒子は大きな溜息を漏らすと、決然として顔を上げた。
「でも、その凍結卵子を使ったとしても代理母を使うことに変わりはないじゃありませんか。その点は……」
思った通り、諒子はかつての男との間にできた胎児から採取された卵子の方に興味を覚えたらしい。
新城はその反応に満足すると、
「それはご心配に及びません」
力を込めて言った。
「どうしてです? どうしてその研究機関がやって下さるものならトラブルの心配がないと言えるのですか」
「そうした心配のない国で、その研究が行われているからです」
「それはどこなんですか? そんな国があるのですか?」
「フィリピンです」
「フィリピン?」
諒子の顔が再び驚きの色で満たされた。
夜の闇の中で前を走る車のテールランプの赤い光が目を射った。
ハンドルを握る腕が心の動揺を表すかのように小刻みに震えるのが分かった。
告げられた事実は余りにも衝撃的で、諒子はついぞ明確な返答をしないままあの場を辞した。
人工流産によって産み落とした際にちらりと垣間《かいま》見た我が子の姿が思い出された。枯れ枝のような痩《や》せ細った手。まるで肉の突起といったような小さな指……。死して生まれてきたとはいえ、あの子供の体を切り刻み卵子を手に入れたのだ。そこにいかなる理由があろうとも、それはとうてい諒子の中で許されるような行為ではなかった。だがその一方で、
私の血を引き継いだ卵子が受精可能な状態でこの世に存在する――。
そう思うと、新城の言葉を借りるまでもなく、失意の中で暮らす我が身には確かに神が与えたもうた福音以外の何物でもないように聞こえたこともまた事実だった。
壊れたCDプレーヤーが同じフレーズを奏でるように、新城の言葉が何度も脳裏に蘇《よみがえ》ってくる。
『卵子は胎児から採取したものではなく、新たに奥様の卵巣から採取したということにすれば、ご家族にもご納得いただけるでしょう』
『フィリピンならば金で代理母となる女性を捜すのは難しくないでしょう。もちろんトラブルの心配は一切ありません』
『子宮摘出のことは、ご家族以外の方々にはまだ知られてはいないのですね。それでしたら、ご決断がつき次第、マニラに住居を構え、一年ばかりの間をあちらで暮らせば生まれたお子さんが代理母によるものだとは分からないでしょう。差し出がましいことを申し上げるようですが、大道寺産業の駐在員事務所を構えるということにして、ご主人共々そちらに赴任するということにすればよろしいかと思います。フィリピンは戸籍もしっかりと整備されていないところだといいます。あちらでお子様を得られた後、日本で出生届を出せば、絶対に事は露見しません』
確かに新城が言う通りにすれば、私は自分の血を引き継いだ子供を得ることができる。それは絶望しかけていた人生に大きな光明を見いだせるとともに、大道寺の家にも喜びをもたらすことには違いない。加えて、その子供は夫の子供であると同時に、あの孝輔の血を引き継いだ子供でもある。
孝輔……孝輔……。
その名前を心の中で繰り返す度に、久しく封印していた想いが熱い流れとなって噴き出してくるのが分かった。決して嫌いで別れたわけではなかった。単に家柄、育ちが違うといったどうしようもなくつまらない理由で、まさに生木を裂くような別れを強いられたのだ。そして二人の間に授かった命も、まるで汚物を片づけるかのように何一つ躊躇《ちゆうちよ》することもなく葬られたのだ。あの時の絶望と苦悩はいまでもこの体がはっきりと覚えている。
あの子供がまだ生きている。今度生まれて来る子供は、祥蔵の血も入るには違いないが、その体内には孝輔の血もまた同様に流れるのだ。その秘密を知るものは私一人。事の成り行きからいって新城がそのことを口外するとは思えない。あれだけ両親が嫌っていた孝輔の血が、これから大道寺の家に脈々と流れ続けるのだ。
復讐《ふくしゆう》への息吹がかすかに芽生え始めると、そこはかとない快感が込み上げてくるのを諒子は覚えた。
だがその一方で、あの時堕胎した胎児から卵子が密《ひそ》かに摘出され、凍結保存されているという現実は、俄《にわか》には割り切れるものではなかった。
怒りと戸惑い。希望と喜び……。複雑な感情が体内で渦を巻き、考えは明と暗の狭間《はざま》を大きく揺れ動いた。人工授精、そして代理母を使って子供を得ることはいずれにしても祥蔵、それに両親には話をしなければならないことに違いなかったが、さすがにその卵子が瀬島との間にできた胎児のものだとは言える筈《はず》もない。もちろん新城のシナリオ通りにすれば隠しおおせることはできるだろうが、その事実は一生背負っていかなければならない。それは余りにも荷が重すぎることのように思えた。
そう考えると、相談できる相手は唯《ただ》一人しかいなかった。
孝輔……。そうあの人なら……。それに新城のオファーを受けるにしても、あの人だけには話しておくべきことだろう。かつてあの人との間にできた子供を一言の相談もなしに葬ってしまったのはこの私だ。そして今度はあの胎児の体内にあった卵子を使って子供を作る。それも祥蔵の精子を使って……。そんなことを何も知らせないうちに行ってしまうことは、いかに何でも身勝手過ぎる。
信号が赤に変わった。時計を見ると時間はまだ七時を少し回ったところだった。マニラとの時差は一時間。家に帰ってからすぐに電話を入れれば、今夜のうちに話はできる。
諒子はそう決心すると、すぐ前方で赤い光を放つ車のストップライトを見つめた。
疑惑
「ミスター・セジマ。お電話です」
電話が鳴ったのは、夜も十一時を回り、そろそろ休もうかと思っていた頃のことだった。
「ありがとう」
瀬島はソファーから腰を上げると、受話器を耳に押し当てた。
「ハロゥ」
『孝輔……』
その最初の一言で、相手が誰であるかはすぐに分かったが、
「……諒子? 諒子かい」
一瞬言葉に詰まりながらも、瀬島は訊《たず》ねた。
『そう……』
「どうしたんだ、いったい。何かあったのか。お子さんの具合はどうなんだい」
矢継ぎ早に訊ねる瀬島に、
『慎一は……慎一は、死んだわ』
「死んだ? いつ」
『もう半月になるわ』
「それは知らなかった……何と言っていいのか……難しい手術だとは聞いていたけど、うまくいったと言っていたので、てっきり順調に回復しているものとばかり思っていた」
『手術自体はうまくいったの。でもその後感染症を起こしてしまって……直接の死因は肺膿瘍《はいのうよう》だった』
「免疫抑制剤を使用すると、感染症を起こしやすくなるということは聞いたことがあるが、やはりそのせいだったのかな」
『ええ、多分……』
消え入るような諒子の声。唯《ただ》一人の息子を失った母親としての悲しみが伝わってくるようだった。
「気を落とすなよ諒子。まだ君は若い」
と、言ったところで、そんなありきたりの言葉がこと諒子に関しては何の慰めにもならないことを思い出した。いくら若くとも、子宮を摘出してしまった女性は新たな命を授かれない。
「済まない諒子。君は……」
『いいのよ、気にしないで……』
気まずい沈黙が流れた。その一方で、瀬島は諒子が何ゆえに電話をかけてきたのか、その真意を測りかねていた。決して迷惑だったからではない。仲を引き裂かれてすでに四年の歳月が流れていたが、心の底から愛した女は諒子一人だった。その気持はいまでも熾火《おきび》のように瀬島の心の奥底で燻《くすぶ》り続けている。もしもあの時、諒子と二人で人生を歩み始めていたら。自分は諒子を襲った悲劇の一方の当事者になっていたかも知れない。そう思うと、とても他人事《ひとごと》とは思えなかった。
『孝輔……実はちょっとあなたにお話ししておきたいことがあって今日は電話したの』
果たして瀬島の推測を裏付けるように諒子が切りだしてきた。
「何だい。改まって」
『私もまだ頭の中が混乱していて、順を追いながら話さないとうまく言えないと思う。ちょっと長くなるかも知れないけれど、あなたにも関係のあることだから我慢して聞いてちょうだい』
「僕に関係があること?」
思わず問い返した瀬島を無視して、諒子は話し始めた。
『事の発端は、今回慎一が心臓移植を受けるに当たって、仲介の労を取ってくれたメトロポリタン・マタニティ・クリニックの新城という医者に葬儀のお礼に行ったところから始まるの。実は、その病院で、私はあなたとの間にできた最初の子供を堕胎した。そして慎一を産んだのも、子宮を摘出したのもそこだった。もう二度と子供を授かれない体になった――それはどうしようもない現実というもので、私も何とかその運命を受け入れようとしていた。でもね、そんな私を前にして新城先生は言ったの。まだ子供を、それも紛れもない私の血を受け継いだ子供を授かるチャンスがあるって……』
「どういうことだ。残酷な言葉を吐くようで申し訳ないが、君は子宮を摘出してしまったんだろう。それでどうして新たな生命を授かることができるというんだ」
と言ったところで、瀬島の記憶の片隅に閃《ひらめ》くものがあった。体細胞クローン。諒子の体の一部分から採取した細胞を飢餓状態の下で培養する。核抜き処理した未受精卵に培養した細胞の核を挿入し、代理母の体内に戻す。そこから先は、通常の妊娠と出産を経て新しい生命が出現することになる。すでにこの技術は動物実験では成功しており、一九九七年に世間を騒然とさせた羊『ドリー』はこの技術で生まれたものだ。しかしこの技術を用いて創出された人間は、確かに諒子の遺伝子を引き継いではいるが、正確には子供とは言えない。諒子の遺伝子を百%引き継いだ人間。つまり諒子そのもの。クローンだ。
「まさか、体細胞クローンを作ろうってんじゃないだろうな」
『そんなんじゃないわ。クローンを作るというだけなら、どうしてあなたに関係があるなんて言うもんですか』
「それはそうに違いないが……しかし他にどんな方法があるっていうんだ」
『私とあなたとの間にできた子供は女の子だったそうよ。その子供の体内から採取された卵子が、いまだ凍結されたままで存在するって新城先生は言うの』
「そんな馬鹿な! だって君が堕胎した時、その子供はまだ六カ月の胎児だったんだろう。そんな未成熟な胎児が妊娠可能な卵子なんか持っているのか」
『私も初めて知ったのだけれど、女性が持つ卵子は成長のつど造られるのではなく、胎児期に全て持って生まれて来るものなのだそうよ』
諒子は新城から聞いた生物学的根拠に基づいた数字を話した。
「それじゃ、その新城って医者は、君の体内から胎児を取りだした時に、その子の体から卵子を採取し凍結保存したっていうのか」
『新城先生の言葉を信じるなら、卵子を取りだしたのは彼じゃない。六カ月の子供は骨格も形成されているから、堕胎手術と言っても通常の掻爬《そうは》とは違って、人工流産させるという処置が行われる。当然死産証明、それに埋葬許可も必要になる。でもそんなものを残したら、私が子供を産んだという事実は公の記録として残ってしまう。それを恐れたからこそ、両親はあらゆる伝手《つて》を使って、あの子を闇に葬り去った。胎児は回収する専門の業者の手に渡され、そうした事情を逆手に取って、とある研究機関に持ち込まれた』
「そんなことができるのか?」
『私だってそう思ったわ。でもね、堕胎された胎児というのは研究者にとっては様々な使い道があるものらしいのよ。業者は処分料として病院からお金を貰《もら》い、その一方でそれを研究機関に持ち込み、またお金に換えることがあるらしいの。ましてや六カ月の胎児ともなると、希少価値もあってかなりの高額で取引されるものだって言うのよ。確かにそんな仕組みができ上がっているとしたら、あの子は格好の研究素材だったに違いないわ。だってそもそもが全て存在しなかったということになっているんですもの』
瀬島は告げられた言葉の前に絶句するしかなかった。
「それで……」
かろうじて先を促すのが精一杯だった。
『新城先生が言うところによれば、私たちの子供の卵子は、人間の未成熟卵子を熟成させる培養基の研究に使用されたそうなの。そしてその研究機関は実験に成功した――』
「つまり、僕たちの子供の卵子は、いつでも受精可能な状態でこの世に存在しているっていうことか」
『そういうことになるわ』
「何てことだ……」
あまりに突然に突きつけられた事実を前にして、思考が混乱し、方向性が見いだせない。
「それで、何だってその新城という医師は今更君にそんなことを話したんだ」
『その凍結卵子を使って子供を作れると……』
「子供を? どうやって」
『代理母を使えば可能だっていうのよ。つまりあなたと私の子供の卵子に、私の夫の精子を掛け合わせ、健康な女性の子宮に植え付ける』
何と答えたものか……。瀬島は言葉が見つからずに押し黙った。確かに代理母を使って新たな生命を創出するのは、確立されたとまでは言い難くとも、すでに欧米では広く用いられている技術だ。その点、その研究機関とやらが胎児の体内から採取した卵子の熟成培養に成功したとしたならば、理屈の上では子宮を失った諒子が自分の遺伝子を引き継いだ子供を持つことは可能だろう。しかしそれは諒子と自分にとっては孫ということになる。
複雑な心境だった。
まだ未婚のうちに、しかもこんな年若くして第三世代の子供を持つことに対してだけではない。代理母によって新たな生を創出する。その人工的な手法に対して、言い様のない違和感を覚えた。
しかしその一方で、諒子がそうまでして子供を欲する気持も分からないではなかった。
「そのことは君の家族は知っているの? ご主人は、ご両親は何と言っているの」
『家族にはまだこのことは話してはいないわ。両親はともかく、主人はかつて私があなたとの間で子供を身籠《みごも》ったことがあることさえ知らない』
「それじゃ代理母を使って子供を得るということを決断したとして、卵子の出処をどう話すつもりなんだ。もしもその卵子が僕の遺伝子を引き継いでいるなんてことが分かれば、ご主人も、ご両親だって賛同しないんじゃないのか」
そう、そもそもがその子供を堕胎させるに至ったのも、元はと言えば家柄や血筋に拘《かかわ》る大道寺の家の事情があってのことだ。こんな自分の血が、大道寺の家を継いでいくことと定められた子供に混じることは決して歓迎されることではあるまい。
『新城先生はこう言ったわ。私には二つの選択肢がある。一つは体内に残った卵巣から卵子を採取し、それに夫の精子を授精させ代理母を使って子供を産ませる。もう一つは凍結卵子に夫の精子を授精させ同じ方法で子供を得る。どちらにしても秘密は守られると……』
「それで君はどちらを選ぶと言ったんだ」
『分からない……どうしていいのか……でも――』
「でも?」
『あの子はまだこの世に生きている。姿形は見えなくとも、息をして泣き声を上げるのを待っている。私にははっきりと聞こえるの。あの子が助けを求めているのが。そう思うと、いてもたってもいられなくて……』
いままで胸に秘めていた想いの丈を、一気に吐きだすように諒子は言った。しんとした受話器の向こうから微《かす》かに諒子の息遣いが聞こえて来る。そのひとつひとつを耳にする度に、瀬島もまた堅く封印していた諒子への想いが頭を擡《もた》げてくるのを感じていた。
そう、俺はまだ諒子を忘れてはいない。まだこの女を愛している……。
成就させることはできなかった恋だったが、二人の想いを形として残すことができる。密《ひそ》かに闇に葬られたと思っていた命が、まだこの世に存在し、密かに息づいている。瀬島もまた、あの時の子供が助けを呼ぶ声をはっきりと聞いたような気がした。
しかし、どうしたらいいのだろう。いまの自分に何ができるのだろう。
言い様のない戸惑いを瀬島は覚えた。
「余りにも突然のことで何と答えていいのか、すぐには答えが見つからない。少し考えさせてくれないか」
生まれてくる子供を、二人で育てることができたらどんなにいいだろうと思わなかったら嘘になる。だが、体外受精に用いられる卵子が自分の遺伝形質を引き継いでいる限り、精子は他人のものを使わざるを得ない。あまり血が近いと、生まれてくる子供に何らかの障害をもたらす可能性が極めて高くなるのは遺伝学的に立証された事実というものだ。いまの諒子の夫の精子を用いれば、そうした問題はクリアされるし、何よりも諒子に心の安泰と幸せをもたらすことになることは間違いないだろう。しかし――。
『ごめんなさい。あなたが戸惑うのは良く分かる。正直言ってどうしていいのか私も分からない』
瀬島の複雑な心情を察したのか、諒子の声が落ちた。熱に浮かされたような口調が一変した。
しばしの沈黙があった。
ふと、瀬島は胸中に言い様のない胸騒ぎを感じた。いやそれは疑念と言った方が当たっていたかも知れない。それはへばりついて決して拭《ぬぐ》い去ることができない松脂《まつやに》のような不快な感触となって瀬島の心を重くした。
そもそも胎児の卵子を採取して、培養、熟成させる――。その目的はいったい何のためにあるのだろう。
瀬島は考えた。
不妊で悩む夫婦に子供を授けるため? いや、そんなことはあり得ない。第一不妊は妊娠という現象がそもそも成立しないことを指すのだ。だとすれば胎児の卵子を用いて子供を得ようとする場合、父親の血は引き継ぐことができても、母親の血は引き継ぐことができないということになる。つまり、この場合熟成させた胎児の卵子は、女性の方に何らかの障害があって子供ができない場合に限って使用されることになる。と、考えれば、まるで既存の卵子バンクと同じことだ。いやもしもこれをビジネスとして考えてみれば、これほど効率のいい卵子バンクはない。従来のシステムだと、卵子提供者にはそれ相応のお金が支払われるはずだ。しかし堕胎児という言わば廃品を利用するとなれば、コストは限りなくゼロに近い。しかも六カ月の胎児は七百万個の卵子を持っていると新城という医師は言ったという。さらにあの胎児から取り出して培養し、熟成させることに成功した卵子の数は二十個。それらは熟成させたところで即座に凍結保存してあるとも。
だが、それは本当のことだろうか。本当に卵子を熟成させたところで、研究者たちは研究をストップしたのだろうか。七百万個の中の二十個。確率にすれば、限りなくゼロに近い数字だ。それが五十でもそうは変わらない。研究者というものの気質は分からないが、一つのステップをクリアすれば、次のステップに進みたくなるのが人の常というものだ。ましてや医薬品の研究開発というものには莫大《ばくだい》な投資が要求される。一つの薬品が日の目を見ると、そのコストが回収できるまで、それ以上の効力を持った薬が開発されてもなかなか市場にリリースされないのが何よりの証拠だ。
ビジネス社会というものが冷徹なまでの市場原理で動くものであり、あくまでも利潤を追求すること以外に目的が存在しないことは十分に知っている。ことによると、その胎児の卵子はすでに実際に誰かの精子と掛け合わされ、新しい命としてこの世に存在しているのではないだろうか。
「諒子」
考えがそこに至った時、瀬島は受話器の向こうに呼びかけていた。
『何』
「その人工授精はどこで受けるんだ。アメリカか」
『それが、マニラだと……』
「マニラ! この街でか! その新城という医者は、マニラで人工授精を施すと言ったのか」
瀬島は受話器を持ったまま凍りついた。
『ええ……』
「それじゃ凍結卵子を保存している研究機関というのは、マニラにあるんだな」
『新城先生はそう言ったわ……』
口調の激しさに気圧《けお》されるように、諒子の語尾が細くなった。
まるで絡まった糸がほどけるように考えが次から次へと展開し始めた。
もしその研究機関というのがその胎児から採取した卵子を熟成することに成功して、次のステップ、つまり受精から妊娠へと実験を進めていたとしたら、その子供は今年で二歳といったところだろうか。体外受精はどんなふうにするのか、実際の方法は知らないが、試験管の中でやるようなものなのだろうか。
試験管ベビー――人工的に作り上げられた生命――親のない子供――。
無機的な響きが、瀬島の脳の片隅に突き刺さった。そこから冷たい戦慄《せんりつ》が走ると、感電したかのような衝撃が背筋を走った。全てのストーリーがフラッシュが放つ閃光《せんこう》のような速さで、一瞬にして脳裏をよぎって行った。
まさか――。
瀬島はいま脳裏に浮かんだ推測を打ち消そうとした。それは考えるだにおぞましいことだった。
しかしその考えを打ち消そうとすればするほど、全てが一本の線で繋《つな》がるような気がしてならなかった。
そういえば、何もかもがタイミングが良すぎる。どこの国に行ったって幼児の脳死ドナーなんて、そんなに簡単に見つかるものではないだろう。それに心臓移植を受けたのもマニラならば、卵子が凍結保存されているのもマニラときている。命を簡単に創出できる人間にしてみれば、命を奪うことはそれよりももっと簡単なことに違いない。まさか、彼女の息子に移植された心臓は、実験段階で作りだされた子供のものだったんじゃ……。
受話器を握り締める手が瘧《おこり》にかかったように震えだした。
まさか……そんな……そんな酷《むご》いことが……自分の血を引き継いだ子供の心臓を、我が子に移植したなんて……そんな酷いことが……。
『孝輔、どうしたの。何か気になることがあるの?』
一瞬、瀬島は脳裏に浮かんだ推測を話そうかとも思ったが、それは余りに残酷なものであるような気がして答えに窮した。
『孝輔?』
そうした気配を感じ取ったものらしく、諒子がいささか強張《こわば》った口調で呼びかけてくる。
「いや、ちょっと気になることがあって……」
『気になること?』
「ああ、多分僕の取り越し苦労だとは思うんだが……」
『どんなこと。話してちょうだい』
「いや、君の子供が亡くなったいまとなっては、どうしようもないことだ。できることなら、君の子供に移植された心臓と子供のDNAを調べて貰《もら》いたかったんだが……」
『それは、どういうことなの』
「少し気になることがあってね」
『……それならできない話じゃないと思うわ』
「何? いま何て言った」
心臓がどきりと一つ大きな鼓動を打った。
『慎一の心臓は、標本として帝都大学の医学部に保管されているの』
「本当か、それは!」
『ええ、帝都ではいままで生体心臓移植の術例がないと言って、是非にと頼まれたの……。苦しんで死んでいった慎一の体に再びメスを入れるのは辛《つら》かったけれど、あの子だって人様の命を頂いたんですもの……』
諒子の声が沈んだ。そこからいかに辛い選択を強いられたのかが窺《うかが》い知れた。だがそんなことに配慮している余裕など瀬島にありはしなかった。
「諒子! 頼みがある」
『何?』
「帝都に、その移植心のDNAを鑑定して貰うように頼んではくれないか」
『どうして? 何でそんな必要があるの』
「もしも僕の推測が正しければ、これは大変なことになるかも知れない」
ただならぬ気配を察したものか、今度は諒子が押し黙った。
「お願いだ。その新城という医者の話に乗る前に、これだけは確かめておいてくれ」
瀬島は受話器を堅く握り締めると、念を押した。
希望
部屋の中は、若い女たちが黙々とペダルを踏み続ける単調な音で満たされていた。
こうして椅子に座っているのも給料のうちだが、話し相手一人いない勤務は退屈極まりないものだった。直射日光に晒《さら》され、じっとしているだけでも汗が噴き出してくる戸外に比べ、完全に空調されたこの部屋の監視任務につくことを、仲間内では天国と呼ぶものもいたが、それも半日の間こうやって過ごすのはそれなりの忍耐というものを要求される。
ドアのすぐ傍に設けられた監視ブースの中で、ガードマンの男はデスクの上に置かれた時計を見た。時間はまだ、午後二時に差しかかったばかりだ。持ち場を離れるまでまだ二時間もある。
快適な環境は眠気を呼ぶ。ともすると両目が塞《ふさ》がりそうになるのを振り払おうと、男は一つ大きな伸びをすると、目の前に置かれたマグカップの中のコーヒーを一息に飲み干した。ぬるくなった液体が、喉《のど》を滑り落ち胃の中に落ちて行く。量の割には腹が重くなるのを感じた。
そう言えば、もう勤務についてからこれで三杯目のコーヒーだ。いくら何でも今日はコーヒーを飲み過ぎている。
いくら眠気を振り払うためとはいえ、一度に大量の刺激物を胃の中に送り込んだことを男は後悔した。そんな感情がきっかけになったものか、不意に尿意が込み上げてきた。
短時間にこれだけ多くの水分を体内に送り込んだのだ。それも無理のない話だ。ましてやカフェインには利尿作用がある。気のせいか便意も感ずる。
あと二時間。男は自分が持ち場を離れるまでの時間と、便意とのバランスを計ってみた。だが一旦《いつたん》覚え始めた生理現象は、ますます強くなりこそすれ和らぐ気配はない。ここに話し相手がいれば気も紛れはするだろうが、たった一人の勤務ともなればそうもいかない。
無断で持ち場を離れることは禁じられていた。一瞬、ドアの外でこのフロアーを見張っている仲間を呼び、任務を代わってもらうことも考えたが、時間にしてほんの数分のことだ。それにこの部屋を出るには、自分が持っているIDカードをスキャナーに通し、更にパスワードをインプットしないことには、ドアのロックは解除されない。僅《わず》かな時間、席を外したからと言って、この女たちには部屋を脱出する手だてなどない。
ほんのちょっとの間だけだ。何が起きるというわけでもないだろう。
そう考えた男は下腹に手をやりながら、無言のまま席を立った。トイレは部屋の片隅に設けられたドアの向こうに、シャワールームと共に設置されている。普段は女性しか使わないが、場合が場合だ。それに誰にばれるというわけでもない。
様々なトレーニング機器が置かれた中をゆっくりと歩くと、男はドアを開け、閉ざされた空間の中に足を踏み入れた。
エアロバイクの上でペダルを踏みながら、ガードマンがトイレの中に消えていく一部始終を麻里は正面の壁を覆ったミラー越しに見ていた。
部屋の中では、数人の女性がそれぞれに予《あらかじ》め決められたトレーニング・メニューをこなすべく、黙々と汗を流している。ちょっと見た目には、日本のどこにでもあるスポーツジムとそう変わらない光景だった。ただ一つ、日本人が自分一人だという点を除けばの話だが。
この部屋の中で、運動に汗を流す女性同士との会話は原則として許されてはいなかったが、監視がいなくなったところで麻里は隣でエアロバイクをこいでいる自分よりも随分若い娘に話しかけた。
「あなたも、むりやりここに拉致《らち》されてきたの」
「ええ、もうここに来て三年になるかしら」
フィリピン人と思《おぼ》しきその娘は、荒い息の下から軽い口調で言った。
「いったい何であなたはこんなところに連れられてきたの。やっぱり卵子を取られるため?」
「卵子? それは何のこと。私の場合は、この三年の間にどこの誰とも分からない子供を二人産まされただけよ」
「子供を産まされただけって……あなたそんなことをされて平気なの?」
「そりゃあ最初のうちは抵抗もしたわ。自分の身に振りかかった災難を呪いもした。でもどうあがいたってここから逃げ出すことなんてできはしない。こうなったらこれも運命だと思って現実を受け入れるしかないじゃないの」
「子供のことが気にならないの」
「あれは確かに私が産んだ子供には違いないけれど、種も卵も別の人のものだっていうじゃない。私はただお腹を貸しただけよ」
どうやらこの娘は、自分とは違って、受精卵を子宮の中に埋め込まれ、育て上げる代理母となるべく拉致されてきたものらしい。
「お腹を貸しただけっていうけれど、十カ月もの間あなたの中にいた子供よ。胎盤で繋《つな》がってあなたの栄養をもらいながらこの世に生まれてきたのよ。それでどうしてそんなに平気でいられるの」
「あなた日本人?」
「そうだけど」
「ここに来てからどれくらい?」
「もう三週間になるわ」
「私も最初の子供を産んだ時にはあなたと同じ気持になったものよ。だけどね、よくよく考えてみると、ここの生活は決して悪いものじゃない。確かに自由はないけれど、外の世界では考えられない豪華な食事、快適な部屋。それに年季が明けたら、五十万ペソの報酬とともに、自由の身にしてくれるって言うじゃない。考えてみればそれはそれでいい話よ。あのまま外の世界にいたところで、その日の糧を得るための僅かな金を稼ぐことに追われる。結婚したとしてもその生活が変わるわけじゃない。それこそへたをすりゃ、子供を残してあなたの国へ行って、抱かれたくもない男に身を売る稼業に身を窶《やつ》さなければならなくなることだって十分に考えられる。それに比べたら、他人の子供を産むためにお腹を貸すことぐらいどうってことないわ」
「他の女の人たちも同じように考えているの」
「皆が皆というわけじゃないけど、ここで長く暮らしていると、そういう考えになるのよ。来たばかりのあなたにはまだ理解できないでしょうけどね」
人間には二通りのタイプがある。絶望的な環境に置かれた時、それを運命と受け止め自分の置き場を見つけようとするタイプと、何が何でも打破して行こうと考えるタイプの二つだ。
確かにこの国の圧倒的多数を占める貧困層に属する人間にしてみれば、自由を奪われることの引き換えとして与えられるここでの待遇は、まさに夢としか思えないものには違いない。この国に蔓延《まんえん》する貧困は、人間の尊厳を奪い去ってしまうほどに酷《ひど》いものがある。そうした点から言えば、彼女たちが、自分に振りかかった災難を運命と考え、いまの立場に甘んじようとする気持になるのもあながち理解できないでもない。
だが自分は違う。この組織が行っていることは人間として決して許すことができないものだ。第一自分と彼女たちでは拉致されてきた目的が違う。私は彼女たちの子宮に移植される卵子を採取されるためにここに連れられてきたのだ。彼女たちが妊娠する。それは同時に自分の子供がこの世に一人、また一人と生まれてくることを意味するのだ。自分がここから脱出することは、状況的に見てかなり難しいことには違いないが、何らかの形で外部に連絡を取る術《すべ》は残されているはずだ。その機会は必ずやってくる。どんなに警備が厳重でも人間が介在している限りどこかに隙が生じるものだ。
脈搏《みやくはく》が俄《にわか》に上がったように感じたのは、運動のせいではない。願ってもないチャンス。そう、いままで待ち望んでいた瞬間がついにやってきたのだ。
ガードマンの姿を追いながら、麻里の注意はブースの机の上に置かれているパーソナル・コンピュータに注がれていた。いつも自分たちが運動を終えた後には決まって何かのデータをインプットしているところをみると、おそらくエクセルか何かのソフトでデータを管理しているのだろう。もしもあのコンピュータが、ネットに繋がっていたら、メールが使えるとしたら、この危機を外部の誰かに伝えられるに違いない。ここがどこなのか、連中が何者なのかは分からないが、打ち込む文字はほんの僅か。『HELP! MARI』だけでいい。発信先のアドレスは自動的に表示されるはずだ。私がただならざる状況に置かれていることが分かれば、きっと警察か大使館にそれなりのアクションを取ってくれるに違いない。通常プロバイダーは使用者の詳細を教えることはないが、犯罪にかかわっているとなれば話は別。きっと、そこから使用者を割り出し、場所を掴《つか》んで助けがやってくるに違いない。
男がドアの向こうに消えた次の瞬間には、もう麻里はエアロバイクから飛び降りていた。一目散にブースに向かって駆け寄った。女たちが何事が起きたのかとばかりの視線を向けてくる。そんなことに構っている場合ではない。滴り落ちる汗も気にならなかった。与えられた時間は僅かしかない。心臓がいままでにもまして早鐘を打つ。限界を超えて破裂せんばかりの激しさだ。画面の上に表示されたアイコンに視線を走らせる。
『メール。メール。メール!――あった!』
汗で湿った手でマウスを操作する。矢印が画面の上を這《は》い、目指すアイコンの上にかかる。矢印の先が手の動きを反映して微《かす》かに震えている。
お願い! 開いて!
麻里は心の奥から祈りを込めて、マウスをダブルクリックした。ハードディスクが微かな音を立てると、画面に変化が現れた。『Outlook Express』――。
やった! メールソフトが起動した!
さほどの時間を置かずして送信画面が現れた。誰に向かってメッセージを発信するかは予め決めていた。もっとも、日頃メールをやり取りしている人間はたくさんいたが、そのアドレスの一々を覚えているわけではない。いやむしろ、いつもはアドレス帳を使っているせいで、記憶しているものは皆無に近い。思いつくものはログイン名がその人間のスペルそのものが使われており、使用しているサーバーが自分と同じもの。最も確実なのはUPで自分を担当している教授だ。
久方ぶりに触れるせいもあって、キーボードの上を這う指先がやけに遅く感じる。それでも何とか間違いなく送信先のアドレスを打ち終えると、かねてから考えていた短いメッセージを書き終えた。時間さえあれば、いまに至るまでの経緯を事細かに知らせたいところだが場合が場合だ、ここはこれで良しとしなければならない。
そしてそれを確認する間もなく、送信をクリックした。作業が実行されたことを告げる軽やかな音色が鳴った。
やった! 送れた!
早鐘を打っていた心臓の鼓動が、急速に間隔を長くしていく。言いようのない達成感が胸中に込み上げてくる。だが、その余韻に浸っている間はなかった。一旦送付したメッセージを取り戻すことなど不可能だ。いまこの瞬間をガードマンに見つかったとしてももはや連中にはどうすることもできはしない。だが、私を拉致して無理やり卵子を採取するという行動にでた連中だ。もしも外部とコンタクトを取ったことがばれれば、どんな仕打ちをしてくるとも限らない。
とにかくこのメッセージを送信レコードから消去しておいた方がいい。
麻里はたったいま送付したばかりのメッセージを送信済みアイテムの中から削除した。そして画面をもとの状態に戻すと、急いでエアロバイクに取って返すと、何食わぬ顔で再びペダルを漕《こ》ぎ始めた。
足にかかる負荷がいままでになく軽やかに感じられる。回転が一定のリズムを刻み始めたところで、トイレから水が流れる音がするとドアが開いた。
用を済ませたガードマンはこちらに向かって一瞥《いちべつ》をくれたが、何の不審も抱いた様子もなく、再びブースの中に置かれた椅子にどっかと腰を下ろした。僅《わず》かな時間の間に、目の前のコンピュータが操作されたことに気づいている様子はなかった。
その反応に満足した麻里は、思わず快哉《かいさい》を叫びたくなる感情を抑えようと、ペダルを漕ぐ足に力を入れた。正面のミラーに映る自分の顔、その口元に自然と笑みが広がった。それはここに拉致《らち》されてきて初めて見る笑顔だった。
デスクの上の電話が短い間隔で鳴った。内線だ――。ドキュメンテーションに目を通していたフレッチャーは、受話器を取り上げると、
「フレッチャーだ」
すかさず名乗った。
『ノエルです』
「何か用かね、ビル」
鼻に載せた老眼鏡を外しながらフレッチャーは訊《たず》ねた。
『たったいま、サーバーを管理しているアーノルドから連絡があったのですが、あのトリカワという女、外部に向かってメールを発信しようとしたみたいです』
「ほう、どうしてそんなことができたのかな」
『どうやら、ガードマンがちょっと席を外した間に、ジムに置かれた端末を使ったらしいのです』
「ジムの?」思わず鼻を鳴らしたフレッチャーは、「はしっこい女だ。この期に及んでまだここから脱出することを諦《あきら》めてはいないらしいな」
『ええ、どうやらそのようです』
「内容は確認したのかね」
『ええ、送信相手が使用しているサーバーからすると、UPの誰かのようです。ログイン名が名前そのものであることからすると、たぶん指導教授といったところのようです。文面はただ一言『HELP! MARI』――』
「それだけかね?」
『ええ、先ほどガードマンから事情を聞きましたが、どうやらトイレに行った僅かな隙をついたようです。その程度のことを打つのがせいぜいだったのでしょうよ』
「何ともご苦労なことだな」ついにフレッチャーは笑い声を上げた。
『全くです。ちょっとした会社、学校でも自前のサーバーを持って交信をチェックしているというのに、こうした研究機関なら外部との交信には多大な注意を払っていることに気がつかないんでしょうかね』
「まあ、一般のユーザーの認識なんてそんなところだろう。サーバーの管理者が、その気になれば実は通信の一部始終を見ることができるなんてことは考えもしないだろうさ。大会社で働いている人間にしても、職場から極めてプライベートなメールのやり取りをして、平然としているのが現実というものだからな。それにちょっとプログラムに細工をすれば、特定の端末からの送信をサーバーが拒絶して、その事実を表示させないようにすることなどわけもないことだ」
『この施設の中に置かれたPCからメールを送れるのは、二階と三階の研究室とオフィスに置かれたものからだけと限定してありますからね』
ここで働くガードマンには、こちらから職務上必要な指示を伝える都合上、ログイン名はそれぞれに与えてはいたが、発信の必要性などありはしない。しかしネットへのアクセスを自由にしておけば、中にはろくでもないサイトを覗《のぞ》き回って無駄に時間を費やす輩《やから》が出てこないとも限らない。それに一応英語だけはできる人間を選んで雇っているのだ。チャットなど始めようものなら、ここで行っていることの全容は掴まれないように十分な注意を払ってはいても、何かの拍子に余計なことを書き込まないとも限らない。
不穏な兆候は芽吹く前にしかるべき防御措置を施すに限る。それが誰にも気づかれることなく、この施設を存続させる最も効果的な手段だ。
画面上は通常のパソコンのそれと変わらなくとも、トラフィックを監視し、使用を限定すべく特別にサーバー内のプログラムに仕掛けを施しているのはそんな理由もあってのことだった。
『それで、どうします? あのトリカワを』
ノエルが訊ねてきた。
「放っておけ」
フレッチャーは間髪を容《い》れずに返事をした。
『いいんですか』
「いいさ。あの女、今頃は無事メールが相手に伝わったと思って、さぞやいい気持になっているに違いない。希望は我慢に繋《つな》がるものだ。いずれ何の反応もないことに不審を抱き、やがて失意の日々に逆戻りすることは間違いないんだ。しばしの間、せいぜい良い夢を見させてやろうじゃないか。何もここで事を荒立てることはない」
『それもそうですね。分かりました、そのように致します』
「報告ありがとう」
フレッチャーはそう言うと、受話器を置いた。
DNA
「これはどういうことなんでしょうか」
目の前にいる帝都大学医学部心臓外科教授の竹原が静かに訊ねてきた。古びた建物の一画に設けられた教授室は、両の書棚に本がびっしりと並び、収納しきれなかった学会誌の類《たぐ》いが、窓際の執務机の周りの床に無造作に積み上げられている。中央に置かれた応接セットのソファーに座った竹原は、銀縁眼鏡の下からすっかり困惑した様子の視線で諒子を見ていた。
二人の間には、数枚のペーパーと、写真が置かれている。
「どうにも理解できない検査結果です。最初にこれを見た時には、何かの間違いかと思いました」
「先生は奇妙とおっしゃいますが、いったい何が分かったのです」
心中を満たしていた不安が現実のものとなる予感に怯《おび》えながらも、諒子は努めて平静を装い訊《き》き返した。
竹原は、テーブルの上に置いたペーパーを取り上げると、
「移植心から抽出したDNAとご子息のDNAを比べた結果です。我々が行ったのはミトコンドリアDNA鑑定と言いまして、体細胞内のミトコンドリアのDNAの型が母親と子供は一致することを利用して親子関係を調べるものです。この両者をみると、移植された心臓の持ち主と、ご子息には共通する遺伝子が存在する……。これは二人の母親が共通していない限りこんな結果は考えられないのです」
目の前に突きつけながら断言した。
「何とおっしゃいました」
諒子は我が耳を疑った。体から体温が急速に失われ、指先にしびれてくるような感覚があった。
「手っ取り早く言ってしまえば、ご子息と心臓提供者のいずれもが、あなたの遺伝子を引き継いでいるということです」
「そんな馬鹿な……」
「大道寺さん。失礼ですがあなた、何かご存じなんじゃありませんか」竹原の問い詰めるような口調。
「いや、そうに違いない。そうじゃなければグラフトとご子息の遺伝子鑑定なんていうことを言い出すわけがない」
諒子は返す言葉がみつからず、じっと下を向いた。
「我々はご子息の体内から取り出した心臓を詳しく分析しました。その結果はグラフトとご子息の臓器の接続部分は肉眼的観察から拒絶反応の兆候はみられず、顕微鏡による細胞観察の結果でもそれは実証されました。つまり手術そのものは完全に成功していたのです。その後はいつもの手順にしたがって、臓器の各部位からサンプルを採取、標本を作り上げ、摘出した心臓そのものもホルマリン漬けにして保存しました。そしてあなたのご依頼があるまではDNAの鑑定は行わなかった。その理由は、通常、臓器移植ではDNAの鑑定など無意味以外の何ものでもないからです。移植に際して、適合性の判断基準となるものはまず最初に血液型、大きさ。それに数々の検査項目がありますが、いずれの場合もDNAは判断基準となる検査項目の中には入っていません。もちろん生体肝や腎《じん》といった移植の場合、親子の間で行われることがありますが、それでもDNAの適合検査などしません。ましてや心臓はたった一つの臓器です。これが肉親間で行われるなどということはまず考えられません。それがこのデータをみる限り、百%同じ遺伝子を引き継いでいるとしか思えません。そんな結果が出ているのです」
「それを確かめていただきたいから、鑑定をお願いしたのです」
ようやく口を開いた諒子に向かって竹原は大きく肯《うなず》くと、矢継ぎ早に質問をしてきた。
「何か心当たりがあったのですね。確か移植はフィリピンでお受けになったと言われた。いったいどういう経緯でフィリピンなどという国で移植を受けることになったのですか。ドナーはどうやって決まったのですか」
「申しわけございません、先生。事の経緯は詳しくは申し上げられません」
「それでは埒《らち》があきませんな」竹原は身を乗りだして来た。口調の厳しさからかろうじてのところで感情を抑制していることが分かった。「いいですか、大道寺さん。これは尋常なことではないのです。通常ドナーの選択は、公認されたコーディネーターによって決められ、法で定められた手続きを踏んで行われます。もちろん、このケースのように、二歳児の臓器移植は対象外です。我が国ではまだ十五歳未満の脳死による臓器提供は認められていませんからね。だからあなたは海外で移植手術を受ける決断をなさった。我々もそうした事情を考慮して、最大限の便宜を図った。しかし、どうしてフィリピンだったのですか。ドナーに関して、事前によほどの心当たりがあったのでしょう」
「いえ、ドナーに関しては何の事前の説明も受けておりません。それはいまでも同じです。第一、慎一を日本に連れ帰ってからは、一度もあちらの病院とは接触を持っていないのですから……。それに何でフィリピンかと申されましても、移植心臓が手に入る機会が欧米に比べて格段に高いと、そう聞いただけです。私共はあの子を何としても助けたかった。ただその一心で、フィリピンという国を選んだのです」
「誰がそんな情報をもたらしたのです。どなたかお知り合いでも?」
「特定の人物の名前を挙げることはどうかお許し下さい。ただ私共にも、それなりの情報源はありますから……」
瀬島があの時何ゆえにDNA鑑定を持ちだしたのか、その理由がはっきりと分かった。
彼はこのことに気がついていたのだ。
まだ動揺がさめやらぬ脳裏で、一つのストーリーができ上がっていく。
二人は紛れもなく私のDNAを引き継いでいる。となれば思い当たるのはただ一つ。新城が言った胎児から採取したという卵子の存在だ。そう、彼の背後に連なる製薬会社とやらは、四年前に私が産んだ[#「産んだ」に傍点]子供から採取した卵子を使って、新しい生命を創出したのだ。その子供の心臓を摘出し、慎一に移植したのだ。
何という残酷なことを――。
そう考えるだに諒子の心はやり場のない怒りで満たされた。いっそのこと、この場で全てを竹原に打ち明けてしまいたい衝動に襲われた。だがその一方でもう一人の自分が囁《ささや》きかけてくる。
新城はまだ二十個ほどの卵子が凍結されたまま、受精可能な状態で保存されていると言った。もしもここで事が公になれば、連中は証拠の湮滅《いんめつ》にかかるだろう。考えてみれば、こうした事態を予測してのものかどうかは分からないが、慎一が移植手術を受ける直前から、日本への帰国が許されるまで、私は態《てい》のいい監禁状態に置かれていた。あの施設があの国のどこにあったのか。実際に手術を施したのが誰であったのか、それすらも分からないようになっていた。全ては周到に準備されていたオペレーションだったのだ。それも決して世間では許されないようなことをしでかしているからこそ、あくまで秘密を守ることに執着したに違いない。
もしも事実が明らかになれば、竹原は摘発という手を打つであろうことは間違いない。国を超えてのことだ。実態が解明されるまでには、それなりの時間がかかるだろう。その間に凍結卵子を始末されてしまえば、今度こそあの子は闇へと葬り去られてしまう。それだけは何としても避けなければならない。
「大道寺さん。この事実が判明してから我々はすぐにご子息が手術を受けたとおっしゃるマニラ・ハート・センターに問い合わせを入れました。しかしご子息が心臓移植を受けた事実もなければ、診察さえも受けたという事実も存在しないという返答が戻ってきました。カルテ、それに手術自体は大変良くできたものでした。今回の移植がかなり高度な技術を持った医師の手で行われたものであることは疑いの余地もありません。ただ一つ、カルテがハート・センターのものではなかったということを除けばね」
「分かりません……私、いえ私共には何一つ知らされてはいなかったのですから……全ては指示に従って私共は動いただけです」
諒子は揺るがぬ事実を突きつけられても頑としてそれを認めなかった。
竹原の口から深い溜息《ためいき》が漏れた。
「指示? いったい誰のです?」
諒子は答えに詰まった。ここで新城の名前を口にすることなどできはしない。
重苦しい沈黙が流れた。
「まさか、臓器売買の業者の世話になったのではないでしょうね」
「臓器売買の業者?」
初めて耳にする存在に諒子は問い直した。
「ええ、私も実態は良く知らないのですが、腎臓をはじめとする臓器を高額で世話する組織が存在するらしいのです」
「人の臓器をお金で?」
「ええ、特にフィリピンや中国では盛んに行われているという噂があります。まあ、私も実態調査をしたわけではありませんし、そのような行為が行われているという正式な報告書が存在するわけではありませんから、一部マスコミを経て流れてくる噂話程度、どこか遠くの世界の話だと思っていたのですが……。例えばフィリピンの刑務所に収容されている囚人の多くが、腎臓の一つを失っているといいます。減刑をしてもらう代わりに腎臓を売るというわけです。中国の場合、ターゲットになるのは死刑囚です。ご承知のように、あの国では死刑は頻繁に行われます。その死体から必要な臓器を取り出し、移植に供するのだそうです。遺族に渡されるのは、火葬を終えた後の骨だけ。そうなればその前に臓器が摘出された痕跡《こんせき》は一切残りませんからね」
「本当に? 本当にそんなことが行われているのですか」
耳にするだにおぞましい話だった。もしもそれが事実だったら――。
「あくまでも噂の域を出ない話といままでは思っておりましたがね。しかし、それにしても分からない」竹原は首を捻《ひね》った。「どうして移植された心臓の持ち主がご子息と同じDNAを引き継いでいるのか……」
諒子の脳裏に新城の言葉が蘇《よみがえ》って来る。
『妊娠二十二週目にある女児は、およそ七百万個の卵子をその子宮に宿しています』
もしも、慎一に心臓を提供した子供以外に、その研究所の中で実験的に新たな生命が作り出されていたとしたら、それはドナーとして格好の資源となることだろう。親のいない子、誰に認知されることなく生まれた命は闇に葬り去られても誰にも気づかれることはない。ましてや幼児の移植臓器は引く手|数多《あまた》だ。竹原の言うように、臓器売買の業者というものが存在すると考えるなら、こんなに効率のいいことはないに違いない。
ヴェールを被《かぶ》らされたように目の前が暗くなった。たとえそれが本意でなかったにせよ、図らずも巨大かつ邪悪な組織のビジネスに加担した罪悪感が込み上げてきた。
だがその一方で、もう一人の我が子の卵子が凍結保存されているという事実は、諒子の心を大きく揺り動かした。
私の遺伝子を引き継いだ卵子が受精可能な状態でこの世に存在する。その卵子を手に入れることができれば私は再び母親になれる。それも孝輔と私の血を引き継いだ子供――。もしも私がその卵子を手にすることができなければ、きっとあの組織は新たな生命の創出にそれを使うことだろう。どこの誰とも分からない男の精子と掛け合わされ、この世で生き続ける。それだけでも我慢できないことなのに、それが臓器移植に供されるなんてことは考えたくもない。
何としてもマニラに保管されているあの子[#「あの子」に傍点]の卵子を取り戻さなくては。
だがそうは言っても、肝心の凍結卵子がどこにあるのか、誰の手にあるものか何一つ分かってはいない。おそらく新城は知っているには違いないが、それを訊《たず》ねたところでそう簡単に喋《しやべ》りはしないだろう。
複雑な感情の嵐に翻弄《ほんろう》されながら、諒子が望むことは一つしかなかった。保管されている卵子を一つ残らずこの手にすること。ただそれだけだった。
告白
昼の余熱が籠《こも》る室内で、テオドロはひとしきり激しく咳《せ》き込んだ。体内に取り入れた酸素の全てが吐きだされてしまうのではないかと思われるほど酷《ひど》い咳《せき》だった。背中が自然と丸まり、息を吐きだす度に背骨が軋《きし》んだ。気管が紙鑢《かみやすり》で擦《こす》られたようにざらつき、空気の摩擦によってたちまちのうちに熱を持つのが分かった。
咳の合間に枕元に置いた酒瓶を手に取った。三分の一ほど残っていた透明な液体が、瓶の中で微《かす》かな音をたてた。おぼつかない手で栓を開けると、テオドロは中の酒をそのまま呷《あお》った。
一口、二口……。喉元《のどもと》を粘度を帯びた液体が通過していくに従って、気管に強烈な刺激が走り、胃の中で膨大な熱量をもって弾《はじ》けた。途端に呼吸が楽になり咳が止んだ。
もう俺は長いことはない。
気管支がやられていることは分かっていた。激しい咳の周期が狭まってくることから、症状は日を追うごとに悪化の一途を辿《たど》っているに違いなかった。医者に掛かるだけの金がないわけではない。このスラムから五人の子供を拉致《らち》することに手を貸したおかげで、手元には十分な金がある。だが医者に掛かって、少しばかり命を永らえたところで何になるというのだ。もうこんな一生は早く終わらせるに限る。
テオドロは酒に溺《おぼ》れた。手元にある金をここぞとばかりに使い、浴びるように飲んだ。アルコールは体内から抜ける時はなく、ろくなものを口にしていない体は枯れ木のように痩《や》せ細って行った。
それは五人の子供を拉致することに手を貸した、という罪の意識から逃れるせいもあったのかも知れない。子供をことのほか大切にするこの国で、宝に等しい存在を突如失った親たちの悲嘆に暮れる有り様を目にするたびにテオドロは良心の呵責《かしやく》に苦しんだ。
全てを知りながら、知らぬふりを決め込む――。少なくとも、しらを切り通せるほどテオドロは悪党にはなりきれなかった。金の誘惑に負け、魔が差しただけだったのだ。まさかこんな大事になるとは思いもしなかった。
罪の意識から逃れるため、そして日を追って悪化していく病魔の苦痛から暫《しば》しの間解放されるため、テオドロは酒を飲み続けた。そして泥のような眠り。その間にも体は酒を解毒しようと働き続ける。やがて朦朧《もうろう》とした視界の中に、拉致することに手を貸した五人の子供たちの姿が浮かんでくる。幻想などではない。天井を覆ったトタン板までの狭い空間を、五つの顔が浮遊し、何かを言いたげな表情でじっと自分を見つめている。そしてその後に襲ってくる激しい咳が込み上げてくると、それを抑えるために酒を呷る――。
死は突然にやってくるだろう。誰にも気づかれないうちに、俺はこのトンドで生涯を終えるのだ。
閉め切った部屋の中で、夢と現実の狭間《はざま》を彷徨《さまよ》いながら、テオドロの中でそれはいつの間にか揺るぎない確信となっていた。
瓶の底で液体が微かな音を立てた。焦点の定まらない目を向けると、透明な液体はもう僅《わず》かしか残っていない。
くそ。こんな時に。
体内に十分にアルコールが回った重い体を起こした。よろめきながらどうやら立ち上がったテオドロは、引き出しの中に入れておいた札の束を無造作にポケットに入れた。縺《もつ》れる足取りでドアを開けると、もう外は夜の帳《とばり》が降り始めようとしていた。澱《よど》んだ空気に包まれながら、テオドロは酒を買いに外に出た。
酒屋までは、僅かの距離しかなかった。人の排泄《はいせつ》物やあらゆる生活臭が漂う狭い路地をテオドロはおぼつかない足取りで歩いた。ともすると足が絡まり、両脇に迫るバラックに体をぶち当てそうになった。
暗い路地の先に、明るい火が灯《とも》るやや広い通りが見える。自らの意志で制御できなくなった体を、かろうじてのところでコントロールしながら通りに出ると、すぐそこにある酒屋に入った。
カウンター越しに酒瓶が棚にずらりと並べられている。その前に中年の男がTシャツ一枚という軽装で店番をしていた。
「テオドロ爺《じい》さん。またそんなに酔っぱらって」
「うるせい。酒をくれ。いつものやつだ」
「無茶しちゃ駄目ですよ。こっちは商売だから売らないわけじゃないが、こう毎日じゃ本当に体を壊すよ」
顔見知りの店主は、優しい言葉をかけてくる。
「さっさと出してくれ。金ならいくらでもあるんだ」
そのやり取りの一部始終を、店の奥に居合わせた若い男が見ていることに、テオドロは気がつかなかった。
テオドロはポケットの中に入っていた金を無造作に掴《つか》み出した。湿気をたっぷりと含んだせいで腰をなくした紙幣のグニャリとした感覚が手の中に残った。一体どれほどの金があるのか、それすらも定かではなかった。カウンターに突っ伏しながら、テオドロは手にしたありったけの金を叩《たた》きつけるようにして置いた。
五百ペソ紙幣が四枚。トンドではめったに見ることができない大金だ。
店主の目が驚愕《きようがく》で見開かれた。
「爺さん。いったいいくら欲しいんだい。この店の酒を買い占めるならともかく、一本や二本でいいんだろう。だったらこんなにたくさんいらないよ」
店主は、その中から一枚の紙幣をつまみ上げると、棚から二本の安酒を出し、釣り銭とともに骨の浮き出た手に握らせた。死にかけた昆虫の足のように、緩慢な動作でテオドロは金をポケットの中に戻すと、酒瓶を手に上体を起こした。その動作が引鉄《ひきがね》になったものか、軽い咳が断続的に出た。
震える手でたったいま差し出されたばかりの酒瓶の栓を抜いた。瓶をしっかりと掴むと、中の液体を二口ばかり体の中に送り込んだ。咳が収まり、体が楽になった。新たな酔いが血流に乗り全身を満たしていくのが分かった。指先の毛細血管の隅々まで行き渡るアルコールの感触。それを感じる一瞬の間が自分がまだこの世に生きていることを感じる瞬間だった。
おもむろにそれぞれの手で二本の酒瓶を持った。ずしりとした重量が伝わってくる。酔いの回った体には、ちょっとした苦役を強いられるほどの重さだった。
「爺さん。あんまり飲むんじゃないよ。本当に命を縮めちまう」
店主が優しい言葉を投げ掛けてくる。
「またくる……」
汗と垢《あか》に塗《まみ》れたマットレスがことのほか恋しい。今夜はもうこれ以上の酒はいらない。後は泥のように眠るだけだ。またいつものように悪夢が襲ってこなければ……。
テオドロは二本の酒瓶を手に家路についた。
男はまたとない獲物にめぐり合ったと思った。どうしてあの爺《じじい》があんな大金を持っているのか分からないが、そんなことは知ったことじゃない。ただトンドではめったに目にすることがない大金を無造作に所持していることは確かだった。
いま受け取った釣り銭を入れて、少なくとも千数百ペソの金を持っている。しかも正体もおぼつかないくたばり損ないの爺だ。やつから金を奪うことなど造作もないことだ。
店の奥からテオドロと店主のやり取りの一部始終を見ていた男は、形ばかりにサンミゲールを一本買うと、その後を追った。テオドロは十メートル先を千鳥足で歩いている。上体が左右前後に揺れ、泥酔していることは間違いなかった。周囲へ注意を払っている気配もない。
男はサンミゲールの栓を歯でこじ開けると、冷えたビールをそのまま一息に飲み干した。仄《ほの》かなアルコールの刺激は、事に及ぶ前の緊張を幾分リラックスさせる働きをした。何だか、ずっと身が軽くなったような気がした。
周到に周囲に目を配る。薄暮に包まれた通りにはまだ人の姿が多かった。
ここで事に及ぶわけには行かない。どうせあんな身なりをした爺だ。どこかスラムのずっと奥の、路地の片隅に寝床を構えているに違いない。
手にした空瓶が気になった。一瞬それを路上に捨て去ろうとも考えたが、これはこれで立派な凶器になることに気がついた。
果たして目標は、そこから更に十メートルほど行ったところで、左の路地に入って行く。
密《ひそ》やかな笑いが込み上げてくるのを男は抑えきれなかった。複雑に入り組んだ路地に街灯などありはしない。空にはまだ若干の明るさは残っているが、バラックが軒をつらねる路地は、すでに闇に閉ざされている。家々から漏れてくる仄かな明りがあるだけだ。
男は足を速めると、獲物の姿を追って路地に入った。暗い路地の中をおぼつかない足取りで歩く老人の姿が、黒い影となって見えた。背後から急速に距離を詰めていく自分の気配は全く感じられていない。まるで無防備なその姿に、男は満足すると、手にしていたビール瓶を握り直した。微《かす》かに汗をかいたガラスの感触が手に吸い付くようだった。
闇が濃い一角に差しかかった。男は全身に力を込めると、路面を蹴《け》り、跳躍するような足取りで獲物に襲いかかった。手にしていたビール瓶を振り上げる。間合いを測って、ここぞというタイミングでそれを振り下ろした。頭蓋骨《ずがいこつ》と硬いガラス瓶がぶつかり合う鈍い音がした。角度のせいか、それともずんぐりとしたサンミゲールの瓶の形状のせいかどうかは分からないが、凶器は砕け散ることはなかった。
だが泥酔し、体力の衰えた老人を倒すにはその一撃は十分な威力を持っていた。骨と皮ばかりとなった老人は、その場に防御の姿勢を取ることもできないまま、前のめりに倒れた。顔面が地面を擦る微かな音がした。薄くなった頭髪の打撃を受けた部分から、滑《ぬめ》りを帯びた血液が噴きだしてくるのが見えた。
一刻の猶予もままならなかった。金の在処《ありか》は分かっている。荒い息を吐きながら、男はテオドロのポケットの中を探った。湿った札の感覚があった。バラ銭など放っておけばいい。少なくとも、千ペソの金を持っているのは確かなのだから。
トンドで暮らす者にとってそれは大金以外の何物でもない。このくたばり損ないの爺に一撃をくれるだけで、これほどの金を手にできるとあればちょろいものだ。
無防備なまま、これみよがしに大金を見せたのが悪いのだ。ここトンドでは世間で言う一般常識の類《たぐ》いが通用しないことは、この爺にしたところで百も承知のはずだ。隙をみせたらやられる。それがこの街の掟《おきて》だ。
男は我が身に降り注いだ幸運を感謝しこそすれ、自分がしでかしたことに対する罪の意識など爪の先ほども抱いてはいなかった。
この爺が死んだところで、知ったことじゃない。
もう片一方のポケットを探り、そこに何もないことを確認した男は、早々にその場を立ち去った。闇の中に、ピクリともしなくなったテオドロを残しながら。
トンドのスラムの一角にある食堂で、オランドはマリオがやって来るのをじっと待っていた。粗末なテーブルの上には、サンミゲールの瓶が置かれている。グラスに注いだビールを一息に呷《あお》った。仕事の帰りに一杯やる習慣はなかったが、大事な話をするには外の方がいい。行方知れずになった子供の話を家ですると、きまって妻のゼナイダの精神状態が不安定になる。肩を震わせながら必死にマリアの像に向かって祈りを捧《ささ》げる姿は、見ているだけでも心が掻《か》きむしられるような思いがする。同じアリシアの話をするにしても、女を抜きにした方がずっと冷静でいられる。
冷えたビールが、日がな一日強い日差しを浴びていたせいで熱を持った体に心地よかった。細胞の隅々まで、染み渡って行くような快感が込み上げてくる。
オランドは胃の中で膨張した炭酸を小さなゲップとともに吐きだすと、腕に巻いた時計を見た。時間は午後八時十分になろうとしている。マリオが現れる約束の時間を僅《わず》かばかりだが過ぎている。再び瓶を傾け、二杯目のビールを注ぎ切ったとき、背後に人の気配がした。
振り返る間もなく、男の声がした。
「遅くなりました」
マリオだった。弟のジョエルが姿を消して以来、仕事を休み必死でその行方を追うことに専念できたのはほんの二週間の間のことだった。だが素人のできることは限られている。弟が姿を消したマルコス・ロード沿いの煙草売り場を中心に、広いスラムの中を彷徨《さまよ》い、片っ端から目撃者がいないか、あるいはこれまでの拉致《らち》について何か心当たりがないか、それを訊《たず》ねて回る。その程度のことしかできなかった。手がかりと言えるものは何一つみつからないまま、あっという間に二週間は過ぎた。以来彼は、昼間は仕事を続けながら夜になると毎日こうしてトンドに現れては情報収集に当たるのだった。
「俺もいまきたところだ。まあそこに座れよ」オランドは傍らにあった椅子を勧めながら、「お前もビールにするか」と訊ねた。
「いいえ、私はコークにしておきます」
マリオはアルコールの誘いを断ると、店の女主人にドリンクを注文した。程なくして気が抜けたコーラが運ばれて来た。
「はかばかしい進展はないな。全く手がかりになりそうな情報は何一つとして入ってこねえ。何もかもアリシアや他の子供たちが姿を消した時と同じだ」
いくら建設作業員を束ねる親方とはいえ、日々の仕事を疎《おろそ》かにしていたのでは、たちまち生活を支える糧が途絶えてしまう。自分の下には五十人からの手下がいるのだ。彼らの生活もかかっている。オランドは、手下のうち、その日の仕事にあぶれた何人かを聞き込みに回らせ、日当を払いながら情報の収集に当たらせていた。
手下たちは、日頃の面倒見のよさのせいもあってか、必死になってトンドの中を駆けずり回ったが、それでもはかばかしい情報は何一つ得られないままだった。
「アリシアの時と同じですか」マリオは目の前に置かれたコーラに手をつける気配もない。「目撃者一人いない。その後の手がかりも何一つない。逆にそれが共通点とも言えますね」
「考えれば考えるほど分からねえ。姿を消したのは、全部で五人。それも年端もいかねえ子供か若い女。お前の弟のジョエルが唯一の例外で十四歳の少年だ。こいつらにも何の共通点もねえ。トンドで生まれ育った子供、それにその後犯人から一切の接触もないという点を除けばな」
「少なくとも金目当てではないということだけははっきりしていますね。五人を拉致した人間は、金以外の目的で五人の子供たちを攫《さら》った。それは間違いないと思います」
「すると、お前は全ての事件が同じ犯人の仕業だと見ているのか」
「おそらく」マリオが肯《うなず》きながら答えた。
「しかし分からねえな。犯人が同じ、しかも金目当てでないとすればその目的はいったい何なのだろう。いや攫われたのがアリシアだけだったとしたら、その理由が分からねえわけじゃないんだ。当時あの娘《こ》は十六。どこかに売り払おうとすれば、それなりの値段がつくだろうしな。だがもう一人の娘を除けば二人は年端もいかない幼児。それにお前の弟は十四だ。少なくとも三人についてはそう簡単に金になるとは思えない」
「それがそうでもないのです」マリオは初めてコーラを口にすると、静かに言った。「世の中には実に変わった趣味を持つ人間がおりましてね」
「変わった趣味?」
「児童性愛というやつです」
「何だそりゃ。もっと簡単な言葉で言ってくれねえか。俺はお前のようなUP出身のインテリとは違うんだ」
「つまり子供を性のはけ口として扱う連中のことですよ。少女はもちろん、幼児さえもその対象にする。そんな連中が世の中にはごまんといるんです」
「十五、六の少女ならまだしも、いったい五歳、六歳の幼児や、十四の少年に何をしようっていうんだ」
「同じことですよ」
「同じことって……つまり」
告げられた言葉の持つ意味のおぞましさに、オランドは言葉を失った。考えたくもないことだった。まだ自我も確立されていない無抵抗の子供を組み敷き、己の欲求のはけ口とする。そんな鬼畜の所業を平然として行う人間がいるとは、到底思いもよらないことだった。
「ご想像の通りです。実際インターネットの創設期には、そうした児童ポルノのウエブサイトが氾濫《はんらん》して、大きな社会問題となりました」
「なんだ、そのインターネットとかウエブ……」
「サイト。いまでは電話回線などを使ったコンピュータ・ネットワークを通じて、文字や音声、画像を誰もが自由に発信できるのです」
「何だか知らねえが便利な世の中になったもんだな」
「ええ、実際、ネットは便利には違いないのですが、こいつを悪意を持って使おうと思えば、またどうにでもできる代物でしてね。同好の士を集めようとすればいとも簡単にできてしまうのです。それも世界的規模でね」
「言っている意味がどうも分からねえ」
「電話回線が世界中に繋《つな》がっている限り、コンピュータさえ持っていれば誰とでも情報のやり取りができるというわけです」
「じゃあ俺がコンピュータを持っていれば同じようなことができるというわけかい」
「その通りです」マリオは肯くと話を続けた。「その中で最初に問題になったのが、幼児ポルノに関する情報交換だったのです。世界中の同好の士が、幼児の性行為の画像や、どこに行けば子供を買えるか、そんなやり取りを始めたのです」
「信じられねえ。そんなに世の中には変態野郎がごろごろしてるってのか」
「悲しいことにそれが現実というものです」
「それじゃ、攫われた幼児はそうした変態野郎の餌食《えじき》になったというのか」
激しい憤りに、オランドは自分の手が小刻みに震えるのが分かった。
「すると、お前は子供たちがそんな連中の玩具《おもちや》にされるために拉致された――その可能性が一番高いというのだな」
「犯人から、何も言ってこないところをみると、その線が一番強いと思います。ほかに年端もいかない幼児を攫う理由は考えつきません」
「じゃあ、アリシアは、お前の弟は」
「少女もまたその筋の人間たちには高く売れると聞きます。それに少年に対して異常なまでの関心を示す同性愛者も世の中にはごまんといますからね」
苦渋に満ちた表情で、苦しげな言葉を吐くマリオを目の前にしてオランドは続ける言葉が見つからなかった。
重苦しい沈黙が流れた。
と、その時だった。慌ただしく駆け込んでくる人の気配がしたかと思うと、「親方!」
一人の男が店の中に駆け込んで来た。自分の下で働く作業員の一人でロレトという男だった。
「何だ。どうした」
「ちょっと耳に入れたいことがありまして」
ロレトはマリオの方に視線をやると口籠《くちごも》った。
「いま大事な話をしているんだ。仕事の話なら後で聞く」
「いえ、それが二人にも関係がありそうな話なんで……」
「何だって」
二人に共通した話といえば、アリシア、それにジョエルのことしかない。アリシアが姿を消して四年。ジョエルは一月。この間に、行方知れずになった二人に関する話は何一つとしてもたらされてはいない。
粟立《あわだ》つような興奮が背筋を這《は》い上がってくるのをオランドははっきりと感じた。どうやら、その思いは同じであったらしく、マリオの表情が緊張に包まれるのが分かった。
「いったい何が起きた」
「実は今日の夕方、テオドロの爺《じい》さんが襲われましてね」
「テオドロが」
「ええ、頭を何かで殴られたらしくて、血を流しながらぶっ倒れているところをうちの若い者が見つけたんです」
「それで、爺さんは」
確かにテオドロは二人の見知った男には違いないが、拉致《らち》とはとうてい関係があるとは思えなかった。いささかの落胆を覚えながらオランドは訊《たず》ねた。
「いや、酷《ひど》く酔っぱらっていたことを除けば、どうやら命に別状はないようです」
「テオドロの爺さんが酔っぱらっているのはいつものことだが」
「それで、取りあえずその若い者が爺さんを家に運び込んで手当てをしたんですが、その時にびっくりするようなものが見つかりましてね」
「何だそのびっくりするようなものって」
「金です」
「金?」
「ええ、血を拭《ふ》こうと、引き出しを開けたら、中から半端じゃない金が出てきたんですよ」
「いったい幾らの金が出てきたんだ」
「五万……」
「五万? 五万ペソか!」
ロレトは黙って首を縦に振った。
「何でストリートで煙草売りをやって日銭を稼いでいる爺さんがそんな大金を持っているんだ」
確かにオランドの言うことはもっともだった。この国では決して安くはない賃金を稼いでいる身と比較しても、約半年分にちょっと欠ける額の金だ。路上の煙草売り程度の仕事をしていては、そう簡単に手にすることができる額ではない。
盗み?
それも考えられないわけではない。だがこのトンドのどこを見ても、それほどの現金を持ち合わせている家はないだろう。第一あのアルコールに毒された老人が、そんな大それたことをしでかすことができるはずがない。
どうやら考える方向性は同じだったと見えて、オランドが視線を向けてきた。待ち望んでいた手がかりをついに手にしたという確信と、期待に満ちた視線だった。
少なくとも、ジョエルが失踪《しつそう》した現場はテオドロの店だった。他の子供たちについては定かではないが、ことジョエルに関して、それは揺るぎない事実だった。
あの直後、いつものように酔いの回った顔で現れ、盛んに詫《わ》びを入れたテオドロ。そう遠くないうちに一生を終える老人を前に、慰めの言葉を掛けこそすれ、ほんの僅《わず》かの疑いも抱きはしなかったものだった。だがもしも、ジョエルの失踪にテオドロが関与していたら、最初からジョエルを誘拐すべく、テオドロが段取りをつけていたのだとしたら、その見返りに大金を受け取ったという推測はつく。いやそれ以外に五万ペソもの現金を所持していたという理由は考えられない。
ジョエルの失踪とアリシアを始めとする他の子供たちに降りかかった同様の災難が、全く無関係であるとは思えない。
テオドロは何かを知っている。あの老人の口を割らせれば、絶対に一連の事件の解明へと繋がるはずだ。
もはやそれはマリオの中で揺るぎない確信へと変わりつつあった。
無言のままオランドが席を立った。その顔には並々ならぬ決意の色が見て取れた。
長年探し求めていた仇《かたき》をついに見つけたような鬼のような形相。幼い頃に見た凄《すさ》まじいリンチの光景が脳裏に浮かんだ。
「ロレト」
オランドが静かに言った。
「何でしょうか」
「テオドロの爺さんはいまどこにいる」
「まだ家にいると思いますが」
「誰も見張っちゃいねえのか」
「手当ての間だって、酔っぱらって正体が定かじゃなかったんですぜ。あのまま寝ちまっているに決まってます」
「お前はすぐに取って返してあの爺《じじい》を俺のところに引っ張ってこい」
「引っ張ってこいって……家にですか」
「そうじゃない。運河沿いの資材倉庫にだ。すぐに行け」
「分かりました」
ロレトは弾かれたように身を翻すと、小走りに駆けながら店を出て行った。
「聞いた通りだ、マリオ。どう思う」
「多分、テオドロが今回の一連の誘拐事件に関与している可能性は高いと思います」
「俺もそう思う。そうじゃなければそんな大金をあの飲んだくれの爺が持っているはずがない。きっとあの野郎は何かを知っている」
「どうしてそのことに気がつかなかったのか……ジョエルが行方不明になったところで、テオドロを真っ先に疑ってかかるべきでした」
マリオは本心から言った。そう思うと自分の不明を恥じる気持と、一カ月というタイムラグがジョエルの身に取り返しのつかない何かが起きるに十分な時間のような気がして、不吉な予感が込み上げてくる。
「俺も、迂闊《うかつ》だった。あんな酔いどれがこんな大事件に関与しているとは露ほども思っちゃいなかったからな。全く俺もどうしようもないお人好しだよ。身よりがねえと思えばこそ、何かと情けをかけていたんだからな。まさかその恩を仇《あだ》で返してくるとは考えもしなかった」
「で、これからどうするんです」
ただならざるオランドの気配に思わず訊ねたマリオだったが、答えは聞くまでもなかった。
「UP出身の秀才にしては随分間の抜けた質問をするもんだな。決まってるじゃないか。あいつの口を割らせるんだ」
オランドはいまにも爆発しそうな怒りをかろうじて堪《こら》えているといった態《てい》で、押し殺した声を上げた。二の腕に彫り込まれた剣に絡みついた蛇の入れ墨が筋肉の膨張に合わせ、生き物のように動いた。
トンドの運河沿いにある資材倉庫にテオドロが連れて来られたのは、夜の十一時近くのことだった。赤錆《あかさび》の浮いた薄いスチールの壁。天井もまた同じ素材でできていた。天井からぶら下がった、たった一つの裸電球がさほど広くはない空間を朧《おぼろ》げに浮かび上がらせている。その光の中央に垢《あか》に塗《まみ》れたシャツとトランクス一つで蹲《うずくま》るテオドロは、まるでうち捨てられた猫のような惨めな姿で体を丸めて横たわっていた。頭部に巻かれたタオルが痛々しかった。こめかみから頬にかけては、拭《ぬぐ》いきれなかった乾いた血液が赤黒くこびりついている。細い体。その胸が上下する度に酒の臭いが鼻をついた。意識が回復していないのは酒のせいなのか、あるいは頭部に受けた打撃のせいなのかさえ分からない。
「目を醒《さ》まさせてやれ」
仁王立ちの姿勢でテオドロを見ていたオランドが言った。
資材倉庫の中には、マリオ、オランドの他に五人の男がいた。その中の一人、ロレトが古びたバケツをおもむろに取り上げると、中を満たしていた水を一気にぶちまけた。すぐ傍らの運河から汲《く》み上げた汚水の腐臭が澱《よど》んだ空気の中に広がっていく。
「……うっ……ううん……」
テオドロは乾いた口の粘膜を鳴らしながら呻《うめ》き声を上げた。打撃を受けた頭部が痛むのか、手でタオルの上をなぞるような仕草をした。微《かす》かに目が開いたような気がした。
「あまり手荒なことをしちゃ気の毒だよ。怪我人なんだ」
思わずマリオは言った。
オランドの気持は分からないではなかった。自分とてことの真相を確かめたいと思うのは同じだが、さすがにボロ布のようになった老人を痛めつけるのは気が咎《とが》めた。
だが、オランドはそんな言葉は聞こえなかったとばかりに、テオドロの肩口の辺りを足で二度、三度とつついた。
「おい、テオドロ爺《じい》さんよ。いいかげんに目を醒ますんだ」
ゆっくりとだが今度はテオドロの目がはっきりと開くのが分かった。だが相変わらずその目はどんよりと澱んだままだった。
「ここは……どこだ」テオドロの濁った瞳《ひとみ》が虚空を彷徨《さまよ》う。その目がすぐ傍らから覗《のぞ》き込むオランドの顔に向けられた。「オランド……親方?」
「おお、そうだよ。オランドだ。俺の顔が分かるところを見ると、どうやら正気に戻ったようだな」
「……ああ、頭が痛え……」
再びテオドロはタオルの上から頭部に手をやった。
「爺さんよ。お前に訊《き》きてえことがある」
「何だい改まって。親方が訊きてえことなら、何でも答えるよ」
「そうかい。その言葉を聞いて安心したよ。なあにそんなに難しいことじゃねえ。酔っぱらった頭でもすぐに答えられることだ」オランドは気味の悪いほど優しい口調で続けた。「爺さん。お前、ジョエルが何でいなくなったか、その本当のところを知っているんじゃねえのか」
テオドロの目に一瞬だが変化があった。怯《おび》えと狼狽《ろうばい》。心中の動揺が露《あらわ》になった。
「ジョエルがいなくなった理由? どうしてそんなことを俺が知ってるってんだ。確かにジョエルに店番を頼んだのは俺だ。だけど、何であの子がいなくなったのかそんなことは知っているはずがないじゃないか。もしも知っていたなら、とうの昔に話しているよ」相変わらず呂律《ろれつ》の回らない口調で言うと、「おお痛え……頭が割れそうだ……」満更嘘ではないといった態で、頭を抱え込んだ。
「正直に言わねえと、そんな程度じゃ済まなくなるぜ、爺さん」
オランドはすっくと立ち上がると、
「おい」
傍らに控えたロレトに命じた。
ロレトは心得ているとばかりに、汚水で満たされたもう一つのバケツを持ち上げた。二人の男が背を丸めた姿勢で蹲るテオドロの体を仰向《あおむ》けの姿勢にし、がっちりと押さえ込む。
「親方……何をしようってんだ。俺は何も……」
一人の男がテオドロの痩《や》せた顎《あご》と顔の上半分を押さえ、口を開かせた。
「やれ!」
テオドロの言葉が終わらないうちに、オランドが命じた。ロレトがバケツをゆっくりと傾けた。汚水が一筋の線となってぽっかりと開いた口蓋《こうがい》に向けて滴り落ちていく。鼻を塞《ふさ》がれたテオドロの喉《のど》が上下し、細菌の巣窟《そうくつ》となった汚水を体内に吸収していく。吸収しきれなかったそれは両の頬、顎を伝って床に広がり水たまりの面積を大きくしていく。骨にへばりつくような貧弱な筋肉を膨張させながら、テオドロは必死にもがく。
バケツの汚水が三分の一ほど減ったところで、ロレトの手が止まった。その間隙《かんげき》を逃すまいと大きく息を吸い込んだテオドロは激しく咳《せ》き込み始める。
「どうだ、爺さん。酔いは少しは醒めたかい。何か思い出したかい」
オランドの容赦のない声が飛ぶ。
「……俺は何も……何も知らねえ……」
「まだ、思い出す気にはなれねえか」
オランドはロレトに向かって今度は無言のまま目で合図を送った。再びバケツの中の水がテオドロの顔に向かって注がれる。
水攻めはそれからバケツが空になるまで二度にわたって行われた。
「何の証拠があって俺がジョエルの行方を知っているというんだ……こんな老いぼれに何ができるというんだ」
激しい咳の後、絶え絶えの息の下からテオドロが叫んだ。
「爺さんよ、何の証拠もなく俺たちがこんなことをしでかすと思っているのか」
「そんな証拠があるんなら、見せて貰《もら》いたいもんだ」
テオドロはあくまでもしらを切る気らしい。
「じゃあ、こいつは何だ」
オランドはおもむろにポケットの中に手を入れると、握ったものをテオドロの上に放り投げた。湿った音を立てて、分厚い札束が体の上に落ちた。
「そいつはな、お前の家の引き出しの中から、このロレトが見つけたもんだ。全部で五万ペソある。こんな大金をどうやって手に入れたんだ。盗んだなんてふざけたことを言いやがったら承知しねえぞ」
テオドロの顔色が変わるのが、薄暗い明りのなかでもはっきりと分かった。オランドは煙草を咥《くわ》えると、マッチを擦った。黄色い炎の中に幽鬼のような顔が陰影をもって浮かび上がった。やにわにしゃがみ込むと罠《わな》にかかった獲物の表情を覗き込むように顔を近づける。
「知らねえよう……そんな金なんて、俺《お》りゃあ知らねえ……」
首を左右に振りながらテオドロが答えた。水分をたっぷりと含んで額にへばりついた乏しい頭髪が束になって揺れた。顔一杯に恐怖の色が広がっている。
「しょうがねえ爺《じじい》だな」
おもむろにテオドロの腕をねじ上げた。必死にそれを振り払おうと老人はあがいた。オランドは無表情のまま、咥えていた煙草を指先で摘《つま》むと、赤い火が灯《とも》るそれを堅く握り締められた手の甲に押し当てた。
肉の焼ける音がした。
「親方!」
マリオは思わずその行為を制止しようと、声を上げた。弟の失踪《しつそう》にテオドロが関与していることは間違いないだろう。ちょっとやそっとのことで彼の口から真相が聞き出せないだろうということも分かってはいた。だが老人が苦痛に呻く様子を見ているのは忍びないものがあった。口を割らせるにしても、もっと他の方法があるはずだ。
しかしオランドはそんなマリオの心中などまるで無視するように、躊躇《ちゆうちよ》することなく次の行動に出た。煙草を投げ捨てると、開かれた指の一本を無造作に掴《つか》むと、それを逆の方向に持っていった。
凄《すさ》まじい悲鳴が上がった。鈍い音を立てて人差し指が第一関節から手の甲に近いところまで折れ曲がった。
テオドロの顔が苦痛で歪《ゆが》み、大きく開いた口から涎《よだれ》が垂れた。
「爺さんよ、これ以上痛い目に遭いたくなかったら、さっさと喋《しやべ》っちまうことだな。それ、二本目だ」
オランドの目は残虐な光を放ち、自らの行為に酔っているようだった。間髪を容《い》れず中指を握ると、再びそれを手の甲に付くまで押しやった。二度目の鈍い音に重なるように絶叫が上がる。
「分かった、喋る……喋るから勘弁してくれ」
老人の目から涙が溢《あふ》れ、頬を伝って流れ落ちた。
「やはり、お前か」
オランドは握った手を離さずに訊いた。テオドロの口から激しい息が漏れる度に、痩せた胸が上下する。拷問がしばしの間止んだことへの安堵《あんど》からか、あるいはついに秘密を喋らなければならなくなったことへの緊張からか、いきなりテオドロは激しく嘔吐《おうと》した。ついいまし方飲み込んだ汚水とともに、胃液が飛沫《しぶき》を上げながら床に広がった。饐《す》えた酸の臭いとともに、蒸れたアルコールの臭いがした。無理もない、この老人はろくな食物も口にすることなく、酒だけで暮らしてきたのだ。
「確かにジョエルを売ったのは……売ったのは……俺だ」
苦痛に歪むテオドロの顔は、この僅《わず》かな時間のうちに十も歳を取ったように見える。
「やっぱりそうか。それで」オランドは先を促した。
テオドロは肩で大きく息をしながら、押し寄せる苦痛に顔を顰《しか》めながら呼吸を整えているようだった。
「早く喋らねえか。三本目行くぞ」
薬指に手がかかった。
「喋る……喋るから……止めてくれ、親方……」
オランドは握った手をそのままにしながら次の言葉を待った。
「やつらはちょうどジョエルのような……ジョエルのような体格の少年を捜していた……歳のころは十三、四……身長は百六十センチぐらい……それが連中の出してきた条件だった……そんな年頃の少年を拉致《らち》するのは簡単なことじゃねえ……おれは最初は断ったんだが……計画を……つまり煙草売りの店番をしているところを狙えば……後はやつらが何とかすると言って……」
「その、やつらっていうのは誰のことだ」
「分からねえ……」
「分からねえだぁ。ふざけるな。どこの誰とも分からねえ連中の仕事を請け負ったってのか」
「嘘じゃねえ。連中は唯《ただ》の一度も正体を明かすことはなかった……ただ無事に目的を果たすことができれば、五万ペソの報酬を約束してくれたんだ」
「ジョエルをかっ攫《さら》って何をしようってんだ」
「それも分からねえ……何しろ連中は何も喋らねえんだ……ただ何年かごとに現れては……」
テオドロの言葉が詰まった。その顔に明らかに自分が喋り過ぎたことへの後悔の色が浮かんでいた。
「何年かごとに現れてはだと? それじゃ、この四年の間に姿を消した子供たちもお前が手引きした。そうなんだな。アリシアもお前がやったのか」
本当かどうかは分からなかったが、テオドロは答える代わりに激しく咳き込んだ。
三度目の鈍い音がした。今度は無警告のうちに薬指が折られた。
咳《せき》の合間に、激しい絶叫があがった。口を何度もがくがくさせながら、激痛にテオドロは体をのたうちまわらせた。
「どうなんだ爺さんよ。ええっ!」
テオドロは二度、三度と首を縦に振った。もう顔は涙と涎でぐちゃぐちゃになっていた。額が滑《ぬめ》りを帯びたように光るのは、さきほどしこたまぶちまけられた汚水のせいばかりではない。脂汗だ。
「やっぱりそうか。お前がアリシアの件も手引きしたんだな」
「あれは俺がやつらに手を貸した初めての仕事だった」
「いったい何のために。アリシアの場合は何が条件だったんだ」
「何が目的なのかは分からねえ……これは嘘じゃねえ……ただあの時は、若い未婚の女……それが条件だった……それも最初はやつらが娘を攫うなんてことは聞いちゃいなかった……ただ、そんな女を連れてきてくれれば五万ペソ支払う……そう言われただけだ……俺は酔っぱらったふりをして条件に見合う娘が通りかかるのを待った……最初からアリシアを狙ったわけじゃねえ……そこに通りかかったのがアリシアだっただけだ……アリシアは雨に打たれながら路上に横たわる俺を家に連れて行った……そこに待ち構えていたのがやつらだった……」
「それで、その連中はアリシアに何をした」
語気も荒くオランドは訊《たず》ねた。
「何かの薬を嗅《か》がされたんだろう……アリシアはすぐに気を失った……あの子が抵抗しなくなったところで連中はアリシアの……アリシアの体を調べ始めた……」
「体を調べただと?」
「ああ……衣服を脱がして……念入りに」
オランドの顔が怒りでどす黒く変わって行くのが分かった。肩が激しく上下する。その呼吸がここまで聞こえてきそうだった。
「それで」
「連中は状態に満足したようだった……そしてそのまま雨の中をどこかに連れ去った……」そこまで言うとテオドロの口調が俄《にわか》に哀願するかのようなものに変わった。「親方……信じてくれ……俺はこんなことになるとは思っちゃいなかったんだ……まさかアリシアをどこかに連れ去るなんて……そんなことは止めてくれって……そう言ったんだ……だけど連中はこのことが親方にばれれば……きっとただじゃすまねえと……」
「それで、それ以降もやつらの手先となって働いたってわけか。五万ペソもの大金を貰《もら》い、毎日酒をかっ食らってのうのうと今日まで生き延びたってわけか」
「すまねえ、親方……だけどどうしようもなかったんだよ……勘弁してくれ」
哀願するテオドロに視線をやりながら、オランドは立ち上がると、
「どう思う、マリオ」
やにわに訊ねてきた。
「話に嘘はないように思いますが。一つ訊《き》いてもいいですか」
「何でも好きに訊くがいいさ」
「爺さん。その連中は、子供を拉致するに当たって、その都度こと細かく条件を指示してきたんだな」
「ああ……その通りだ。若い未婚の女……五歳の子供……六歳の子供……それにジョエルのような十三、四、身長百六十って具合にな……」
「性別の指定も常にあったのか」
「若い娘二人の時と、それからお前の弟の時はそうだった。だが五歳と六歳の子供の時は別だった。歳の頃を指定されただけで、男、女の区別はなかった……なあマリオ……本当にお前にもすまねえことをしたと思ってる……お願えだ……お前からも親方に取りなしてくれねえか……」
「何を言ってやがる。この期に及んで命乞《いのちごい》かよ」
ロレトがふざけるなとばかりに吐き捨てるように言った。
マリオは考えた。この脈絡のない一味の要求は何を意味するものだろう。やはり性の玩具としての供給源としてこのトンドから若い娘や子供を攫ったのだろうか。しかし、性別の指定がなかったこともあったというのは妙な話だ。幼児性愛の傾向を持つ者は、男女どちらかを必ず指定するはずだ。だとすれば、この一連の拉致はいったい何を目的にするものなのだろう。
「お前の質問はそれだけか」
オランドの言葉で我に返った。
「ええ……」
「だったら、マリオ。済まんがお前は消えてくれないか」
「えっ?」
言葉の意味が分からず、マリオは思わず訊き返した。
「ここから先はいないほうがいい」
「どういうことです」
「お前は将来ある身だ。この男にはまだまだ訊かなきゃならないことがあるからな。汚れ仕事の現場に立ち会うのにお前は相応《ふさわ》しくない」
「いったい何をする気です。もうこれ以上のことは知っちゃいないと思いますが」
「体に訊くのさ。この男が四年の間にどれほどの罪の意識を覚えていたものか、それを身を以《もつ》て俺たちに教えて貰う……」
「親方。早まったことをしちゃいけない。ここから先は警察に任せましょう」
「警察だ? やつらが俺たちの力になんかなるもんか。トンドにはトンドのルールってもんがある。ここは何も言わず俺に任せろ。お前はここであったことは何一つ見なかった。少なくともここから先は、一切お前とは無関係だ。いいから早くお前はここから出ていけ!」
有無を言わさぬ口調で言うと背を向け、もう二度と振り返ることはなかった。これから行われるであろう行為を予感してか、恐怖に引き攣《つ》るテオドロの目。それがマリオがテオドロを見た最後の姿となった。
ロレトが丁重に、しかししっかりとマリオの腕を掴《つか》むと、外に連れ出した。スチールの扉が閉められると、暗い闇の中にマリオは一人になった。もはやここまで来れば、どうすることもできない。マリオは踵《きびす》を返すと資材倉庫を離れた。
存在
珍しく仕事を早く終えた瀬島は、シャワーで汗を流すと、その間にメイドが用意しておいてくれた夕食をとり、一階のリビングで書類に目を通していた。それはマリオが作成した工業団地造成工事に関するプログレス・レポートだった。
諒子の一件は、一時たりとも脳裏から離れることはなかったが、かといって仕事を疎《おろそ》かにすることはできない。第一、自分はフィリピンにいる身だ。気がもめるのは事実だが、じたばたしたところでどうすることもできやしない。ここはじっとDNA鑑定の結果が出るまで待つしかないのだ。
瀬島は意識を集中して文字を追った。
弟が失踪《しつそう》してから二週間の間、マリオはオフィスに姿を現さなかった。その間は何とか現場への直行直帰という形で勤務簿を繕ってやることができた。三週目に入ると、勤務時間に若干遅れ、それに早くオフィスを辞することもあったが、それもどうやら他のスタッフには知られることなく、乗りきることができた。
オフィスでは平静を装うマリオだったが、その顔が日を追うごとに窶《やつ》れていくのは傍目《はため》にもよく分かった。両の目の下には隈《くま》ができ、顴骨《かんこつ》も浮き出てきて、頻繁に彼と顔を合わせる瀬島の秘書などは、「マリオ、どこか悪いんじゃないかしら。あの痩《や》せぶりは尋常じゃないわ」、そう囁《ささや》いてくることも度々のことだった。
無理もない。通常の業務を何とか支障が出ない程度にはこなしながら、失踪した弟の消息を掴もうと必死になっているのだ。そうなれば取れる手段はただ一つ。睡眠時間を切り詰めるしかない。弟の失踪に関して、特に話を交わすことはなかったが、はかばかしい進展がないことは、彼の窶れていく様子を見ていれば十分に推測がついた。
トンドを抜け出すために、いわれなき差別から解放され人並みの人生をおくるために、この男がこれまで歩んできた人生は『苦労』という並大抵の言葉では言い表すことができないものがあったろう。更にそれに追い打ちをかけるように見舞った悲劇。その心中は察するにあまりある。にもかかわらず苦しい精神状態の中でこれほどのものを書き上げるとは――。
実際いま目を通したプログレス・レポートは良くできていた。いや文句のつけようがなかった。
瀬島は今更ながらにマリオの能力に感嘆すると、レポートを閉じた。
目を上げてサイドボードの上に置かれた時計を見ると、九時になろうとしている。まだ寝るには早い時間だった。プログレス・レポートが引鉄《ひきがね》になったのか、ふと麻里のことが思い出された。いま抱えている工業団地の造成分譲事業が完全に終わるまでまだ大分時間があったが、そろそろ次のプロジェクトを考えなければならないところにきていた。ビジネスの種はどこに転がっているか分からない。もしかすると、彼女が三年以上の歳月を費やして調査した研究成果の中に、どんなヒントが含まれていないとも限らない。
そういえば、松井と共に食事をしてからかれこれ一月以上は経っている。確かあれからすぐにフィールド・リサーチに出掛けると言っていたが、もうマニラに戻ったのだろうか。もしもそうならば、是非経済情勢に関する部分だけでも目を通させてもらいたいものだ。
瀬島はソファーから立ち上がると、傍らに置いてあったブリーフ・ケースの中から、手帳を取りだした。麻里の電話番号を探し当てると、受話器を取り番号をプッシュした。少しの間を置いて呼び出し音が鳴り始める。受話器が上がる音がした。
「ハロゥ」
そこまで言った時、流暢《りゆうちよう》な英語が流れてきた。『I'm sorry. I can't come to phone right now. Please leave your name and message up to the tone. Thank you』
まだ戻ってはいないのだろうか。それともどこかに出掛けているのか――。
そう考えた瀬島はとりあえずメッセージを残すことも考えたが、何だか催促をするような気がして受話器を置き再びソファーに腰を下ろした。
いずれにしても彼女のことだ。研究の成果がちゃんとした形になれば、黙っていても松井の下に持参してくるに違いない。
電話が鳴ったのは、そんな思いを巡らしている最中《さなか》のことだった。
メイドが受話器を持ち上げると、二言三言、お決まりの会話をする。
「ミスター・セジマ。お電話です。東京からです」
東京! 心臓が一つ大きな搏動《はくどう》を打った。胃の辺りに痺《しび》れるような感覚が走り、俄に重みを増す。ソファーから立ち上がると、受話器を耳に押し当てた。
「もしもし」
『孝輔……』
予期した通りの声が聞こえてきた。諒子だ。
「諒子。どうだった。DNA鑑定の結果は出たのか」
『孝輔……私どうしていいのか分からない。こんな恐ろしい結果が出るなんて……』
取り乱した諒子の声が聞こえてくる。恐怖と絶望に駆られた女の叫びだった。
「教えてくれ。何が分かったんだ」
諒子の様子から鑑定結果の見当はついたが、それでも訊ねずにはいられなかった。瀬島は生唾《なまつば》を飲み込みながら次の言葉を待った。心臓が重い鼓動を刻み始める。
『慎一とドナーはどちらも私の遺伝子を引き継いでいるって……少なくともDNA鑑定の結果はそれ以外考えられないって……』
「二人は遺伝形質的につながっている――そうなんだな」
『ええ……分析結果を前にした帝都大学の先生たちも愕然《がくぜん》としていたわ』
「何てこった……」
瀬島は絶句した。次の言葉が見つからなかった。
『孝輔。あなた気がついていたのね。それでDNA鑑定なんてことを言い出したのね』
「確証はなかった。ただ、移植心が出現したタイミング。それに心臓移植、凍結卵子、そして人工授精、代理母を使って子供を作る。これらに共通しているキーワードはマニラ……。そこから何となく不自然な感じがしたんだ。それに新城という医者は、君の胎児から取り出した卵子を熟成培養することに成功した時点で、凍結保存したと言ったそうだが、それだけのことをしでかす連中が次のステップに進むことなく、作業を停止するだろうか。研究者というものの気質は分からないが、一つの問題がクリアされれば次のステップに進みたくなるのが人間の常というものじゃないのか。少なくとも、僕がその連中の立場なら、手を休めることなどしない」
『そう言えば、共通するキーワードと言えば、他にもあるわ』
「他にも?」
『新城先生よ』
「新城? 新城先生がどうしたんだ」
『実は最初にフィリピンでの心臓移植を持ち出したのも新城先生だったの』
「何だって」
『アメリカやオーストラリアでなくとも、心臓移植を受けられる可能性が遥《はる》かに高い可能性のある国があると言って……』
「君の子供はいったいこの国のどこの施設で手術を受けたんだ。確かあの時はハート・センターと言っていたと思うが」
『……分からない……』消え入りそうな諒子の声。
「分からない? どういうことだ」
『最初に入院したのは、マカティ・セントラル・クリニック。そこまでは話したことに嘘はない。だけどあの病院からどこへ移されたのは分からない。あなたと会った夜に突然転院を告げられた。当然どこへ移すのかを訊ねはしたわ。でも移植する順番をスキップするためには、特別な場所じゃないと駄目だと言われて、そこから窓を塞《ふさ》がれた車に乗せられて……』
「どんな場所だった。それは病院だったのか。何か手がかりになるような物を見なかったのか」
『奇妙な構造の建物だった。私がいた部屋は設備はペニンシュラの客室とそう変わらなかったけれど、あれは地下かしら。だって窓というものが一つもないんですもの。慎一の手術が終わり退院するまでそことICUを往復することしか許されなかった』諒子はそこまで言うと、急に思い出したように『そう言えば、あれは医者かしら。白人の男がいた』
「白人?」
『ええ、名前は名乗らなかったけれど、銀髪にブルーの瞳《ひとみ》をした白人の男よ』
「状況から考えれば、それが新城先生の言う外国資本の研究所というやつかも知れないな」
『まさかその人たちは臓器売買をそこでやっているんじゃないでしょうね』
「臓器売買?」
『ええ。帝都大学の先生たちがおっしゃっていたのだけれど、何でもそちらでは腎臓《じんぞう》や肝臓、角膜の臓器売買が盛んに行われているらしいの。もしかして私たちの子供の卵子は、密《ひそ》かに体外受精に使われ、生まれた子供はそのまま臓器提供用のドナーとして使われているんじゃ……』
「まさか、そんな……それじゃまるで臓器農場じゃないか」
戦慄《せんりつ》と嫌悪、そして怒りが粟立《あわだ》つような血流に乗って全身を満たしていく。しかし突きつけられた現実は、それ以外に推測の余地がないほど冷酷なものだった。
諒子の推測は決して外れてはいないだろう。胎児から取り出した未成熟な卵子を熟成する技術を開発したとなれば、新しい命を創出することは意のままに行える。それは移植を受けた諒子の子供と、ドナーのDNAが一致したことでも明らかだ。諒子が産んだ子供は二人。しかもその一方は男子で、女児の胎児から採取した卵子は熟成培養に成功した。次に連中は熟成に成功した卵子を使って誰かの腹を借り、子供を出産させた。そう、連中はやったのだ。そしてその子供の心臓を摘出し、移植心として用いたのだ。
『孝輔……』受話器の向こうから諒子が呼びかけて来る。『私は何としても凍結保存されている私とあなたとの間に生まれたあの子の卵子を取り戻したいの。もうこれ以上、私たちの血を引き継いだ命が、闇から闇に葬られるなんてことは我慢できない』
「それは僕だって同じ気持だ」
悲鳴のような諒子の言葉に、瀬島は断固とした口調で言い放った。
長い電話を終えた瀬島は、酷《ひど》い疲労感に襲われた。体内のエネルギーの全てが奪われてしまったような気がした。その一方で、胸に燃え盛る怒りと嫌悪の炎は秒針が時を刻むごとに、ますます大きくなってくる。
ベッドに体を横たえ、天井を見上げていると、まだ見たこともない自分の遺伝子を、いや諒子と自分のそれを引き継いだ子供の顔が虚空に浮かんでこちらに向かって助けを求めているような気がした。表情が見えるわけではなかったが、確実にそこに気配を感じるのだ。
諒子が言った臓器売買という言葉が頭にこびりついて離れない。
確かにこの国には先進国の常識では推し量れない現実が多々ある。まだ臨床実験の段階の域を出ない薬品が販売されていると囁《ささや》かれていることなどはその一例だろう。フィリピンの売薬はうかつに飲むな。それは、自分たちに限らずこの国で暮らす駐在員の間では赴任早々に受ける注意事項の一つだ。自国での販売に先立ち、欧米の製薬会社によって壮大な人体実験にも等しい行為が行われていると囁かれているのだ。フィリピン人に対して口にするのも忌わしい侮蔑《ぶべつ》的な言葉を吐いて恥じ入ることがない外国人には何度も出会った。限られた権力階層へ金を掴《つか》ませれば、先進国では不可能なことも大手を振ってまかり通る。もしもその研究機関とやらが、欧米先進国では到底許されない研究をしようと考えたのならば、これほど都合のいい場所はそうあるまい。何しろ戸籍さえも完備されていない国だ。どこで誰が生まれようとも、ある日突然姿を消したとしても、そもそも社会的には存在を認知されていない人間がたくさんいる。ましてや研究室の中という密室の中で密かに創出された命を自由にすることはそう難しいことではあるまい。
考えているうちに、瀬島の脳裏に一つのストーリーが浮かび上がってきた。
隠密裏に処分することを願われている胎児の卵子の入手――熟成培養――受精――代理母への移植・出産――新しい生命の誕生――。
『十五歳未満の脳死による臓器提供は禁じられている』
いつか諒子が子供の心臓移植のためにフィリピンにやって来た時に言った言葉が思い出された。
幼児の臓器が不足しているのは、どこの国とて同じことだ。対象年齢が定められていないアメリカにしたところで、脳死体の、それも幼児のものとなればよほどのことがない限り入手することは困難だろう。胎児の体から取り出した卵子を熟成させて作り出した子供は果たして何の障害もなく育つものだろうか。もしも、その技術を確立させようとするなら、体の発育状態や知能の発達ということも研究の対象におくはずだ。つまりそれ相応の観察期間を置かなければならないことになる。
医学に関してさほどの知識があるわけでもなかったが、大きなプロジェクトを遂行するに当たってのプロセスは通常のビジネスとて同じことだ。その程度の推測はつく。
そこで問題になるのは、そうした実験段階で生まれてきた子供の処遇だ。幼いうちならばともかく、日々成長する子供をどうするか。それが問題になってくるはずだ。動物ならばただ餌をやり、檻《おり》の中に閉じ込めておけばいい。あるいは臓器の成長度合や細胞の異常を調べるために、殺し、解剖することもあるかも知れない。だが人間には成長に従って自我や感情というものが芽生えてくるはずだ。そこが動物と人間の大きく異なる点だ。始末に困った人間をどうするか――。答えは一つ。ある一定の年齢が来たところで抹殺してしまうことだ。闇のうちに創出した人間を闇に葬る。連中のしでかした行為を考えれば、その程度のことはいとも簡単にやり遂げてしまうに違いない。そしてそこに新鮮な臓器が生じる――。
やはり臓器ファームは存在するのだ。このマニラに。そして素材となる自分と諒子の二人の遺伝子を引き継いだ卵子は凍結された状態で連中の手の中にまだある。
我慢がならなかった。たとえ目に見えない卵子だとしても、自分と諒子二人の愛の結晶だ。無理やり引き裂かれた二人の想いを証明する唯一の存在だ。その卵子を使った子供は我が子も同じ。それを生きたまま臓器移植に用いるとは――。
新たな怒りが込み上げてくる。
もうこれ以上の悲劇を繰り返してはならない。何としても二十個存在するという凍結卵子はこの手で奪取しなければならない。
かといって手がかり一つない状況に瀬島は苛立《いらだ》ちを隠せなかった。もちろんこの事実を司法当局に持ち込むということも考えた。だが、事実が公になれば、諒子と自分との過去も、大道寺の家が図らずも臓器売買に係《かか》わったということも明らかになってしまう。そんなことになれば事の経緯はどうあれ、大道寺の家は世間から糾弾され、諒子自身も窮地に陥る。
瀬島は必死に考えた。
慎一の手術を行った施設はどこにあるのだろう。その痕跡《こんせき》を追う一番いい手だては何だろう――。
闇は果てどもなく続くように思われた。だがその先に一瞬の煌《きら》めきを見いだしたような気がして、瀬島ははっとなった。
体外受精はほぼ確立された技術には違いないが、人工的に胚《はい》を人間の形にするまでには至っていないはずだ。つまり胚を人間に育て上げるためには、代理母の存在、子宮なくしてはあり得ない。
『最初の事件は、四年前、アリシアという当時十六歳になる娘が行方知れずになったことに端を発します。それから今までに、六歳と五歳の男の子が一人ずつ、それに十五歳の女の子が突然姿を消しているのです』
つい一月前のマリオの告白が脳裏に蘇《よみがえ》った。
トンドで起きたあの事件と、この一件は密接に関連しているのかも知れない。もしも、代理母となる女性を必要とするなら、それに臓器売買が恒常的に行われているとしたら――一見、何の脈絡もなく見える奇妙な拉致《らち》事件も全て説明がつく。
瀬島はベッドの上で跳ね起きると、次の瞬間にはもう電話のボタンをプッシュしていた。回線が繋《つな》がる時間がもどかしかった。やがて呼び出し音が鳴り始めた。二度目のコールで聞き覚えのある声が流れてきた。
マリオがやって来たのはそれから一時間後のことだった。
「その話は本当ですか」
諒子と交わした会話のあらましを聞き終わったところで、険しい視線を向けながらマリオは言った。さすがに興奮と動揺の色は隠せない。
日は変わり、時間は午前一時を回ったところだった。メイドはすでに休ませており、リビングのテーブルを挟んで座る二人の間には、瀬島が用意したコーラが手つかずのまま置かれていた。
「冗談でこんなことが言えるか。彼女から直接聞いたんだ。間違いない」
「それが本当だとすると、事態は想像していた以上に深刻です」
「ああ、まさかこんな展開を迎えるとは想像だにしなかった。私の推測が正しければ、トンドで起きた一連の拉致事件は、今回諒子の身に起きた事件と密接に結びついていると考えられなくもない」
「その推測は、当たっているかも知れませんよ、ミスター・セジマ」
誰に聞かれるわけでもないにもかかわらず、マリオは声を落として言った。
「何か根拠があるのか」
どうやら彼にも何か心当たりがあるらしい。そう訊《たず》ねた瀬島に向かって、
「実は、こちらでも動きがあったのです」
マリオは真剣な眼差《まなざ》しで答えてきた。
「動き? どんな」
「つい先日のことです。弟のジョエルに店番を頼んだ男――テオドロというんですけどね。こいつはどうしようもない飲んだくれの爺《じじい》なんですが、こいつが分不相応な大金を持っていることが発覚しましてね」
「大金って、どれぐらいの額だ」
「五万ペソです」
「五万ペソ?」
「あなたがたエキスパッツにとっては、大した額じゃないかも知れませんが、彼《か》の街で暮らす人間にしてみたら、そんなまとまった金を手にすることなんて考えられないほどの大金ですよ。何しろ日に五十ペソ、良くとも百ペソ稼げれば良いほうなんですから」
言われるまでもない。有能なマリオは現地スタッフの中でも給料は高い方だったが、それでも月に貰《もら》っている額は二万五千ペソがいいところだ。その二カ月分の額を一介の路傍の煙草売りが所持しているとなると、尋常なことではない。日本ならば貯蓄したということも考えられないではないが、そもそもこの国の人々に金を貯め込むという習慣はない。日銀に相当するフィリピン銀行にしたところで、日本の地銀の一つである秋田銀行程度の規模しかないのだ。その日に稼いだ金はその日に使う。ほんの一握りの富裕層でもなければ、銀行などほど遠い存在でしかないのだ。ましてやテオドロという男は、どうやら飲酒癖があるらしい。箪笥《たんす》預金などということも考えられないだろう。
「何でまたそんな大金を持っていたんだ。その男」
「ジョエルを売った報酬だったのです」
「それじゃ、そのテオドロという男が君の弟を拉致したのか」
「正確に言えば、拉致したのは他にいます。やつはそのお膳立《ぜんだ》てを調えただけに過ぎません。ただテオドロが手を貸したのはジョエルの件だけじゃない。他の四件の拉致も彼の手引きによるものだったのです」
「いったいどうやってそんな事実を聞きだしたんだ」
「それは聞かないほうがいいと思います。あの街にはあの街の掟《おきて》というものがありますから……」
マリオはそっと視線を落とした。その様子からどうやらあまり触れられたくはない方法で、口を割らせたらしい。一瞬の沈黙の後、マリオはすぐに先を続けた。
「テオドロの話によると、拉致は誰でもいいというわけではなかったようです。リクエストはいつも一緒というわけではなく、若い未婚の女性であったり、五歳、六歳の子供。ジョエルの場合には歳の頃十三歳から十四歳ぐらいで、しかも身長百六十センチ程度と事細かに決められていたというのです」
「若い未婚の女性?」
「連中はアリシア――これは親方の娘なんですが、彼女を拉致するに当たっては、局部を念入りに調べたらしいですよ。これはどういうことなんでしょうか」
マリオがここにやって来るまでの間、瀬島はじっと手をこまねいていたわけではなかった。早々にウエブサイトを検索し、臓器移植に関しての情報と、体外受精に関しての情報の収集に当たっていた。
「君には残酷なことを言うようだが、臓器移植に関して最も重要なのは、血液型と感染症の有無。それに臓器の大きさだ。子供たちを拉致した連中が、幼児の年齢にこだわったり、君の弟を拉致するに当たって、身長を細かく指定してきたことは十分に納得がいく。ただ分からないのが二人の娘の拉致に関して付してきた条件だ。若い女性ということは分からないではない。出産能力という点においては、十六歳の娘は十分にあるだろう。しかし代理母を目的に拉致するのなら、経産婦の方が確実に妊娠能力があることが実証されているはずだ。連中は何故に未婚の女性ということに拘《こだわ》ったのだろう」
「それが分かっていれば苦労しませんよ。テオドロにしても連中の手先にはなっても、目的そのものは知らされていなかったのですから」
「弟のジョエル、それに幼い二人の子供が臓器移植のドナーとして拉致されたことは間違いない。それに若い二人の女性も、同じ組織の手によって拉致されたとなれば、いささかの謎は残るものの、やはり代理母が目的という可能性が最も高いと言えるだろうな」
「ええ、おそらくは……」
マリオは最後まで言わず唇を噛《か》んだ。膝《ひざ》の上で握り締めた拳《こぶし》が小刻みに震えている。
実の弟が生きながらにして臓器を取りだされる。その光景を想像しただけでも、堪え難い苦痛に違いない。マリオの心中は察するに余りあるものがあった。
「で、そのテオドロという男、組織の背後関係については何か喋《しやべ》ったのか」
「いいえ、先ほども言ったように、あの男は何も知りませんでした」
「と言うことは、当然場所も分からずということか……」
「残念ながら。もはや辿《たど》る術《すべ》はありません。ミスター・セジマ。その移植を受けた子供の母親からは辿れないのでしょうか」
「施設の中にいたことは事実だが、彼女もまた三カ月の間事実上の軟禁状態に置かれていたそうだ。場所も全く分からないと言っていた。その点、実に周到なやつらだ」
「そうですか」
マリオは深い溜息《ためいき》を漏らすと、無念の表情を浮かべながら肩を落とした。
重苦しい沈黙が場を支配した。突如マリオの顔が上がった。その表情が一変していた。
「俺は絶対、その連中を許さない。弟の身にもしものことがあったら……その時は……一生を懸けても連中を見つけ出し必ず復讐《ふくしゆう》してやる」
幽鬼のような表情で、血を吐くかのように声を振り絞るマリオにいままでの面影はなかった。
許せない気持は瀬島とて同じことだった。すでに自分の血を、いや諒子と自分、二人の血を引き継いだ子供が生贄《いけにえ》として屠《ほふ》られているのだ。人間の生命を命とも思わない鬼畜のような連中に天誅《てんちゆう》を与えてやりたい気持は瀬島にしても同じことだった。
連中の居所を一刻も早く掴《つか》まなければ。凍結卵子を何としても取り返さなければ。いやもしかすると、すでに存在しているかも知れない、自分たちの遺伝子を引き継いだ子供を救い出さねば。
だが、目指す組織への手がかりを掴む術はない。
ふとリビングの窓に目をやると、ガーデンライトに照らされた庭の向こうには深い闇が広がっていた。瀬島はその闇の向こうに必ずや存在する組織の影を探し求めるように、じっと目を凝らした。
コンタクト
ドアがノックされた。最近では音の強弱や間隔から来訪者が誰であるか分かるようになっていた。隠し持ったペーパー・ナプキンに書き込んでいた日にちを数えるための『正』の字は、六個を少し上回ったところで書くのを止めた。昼食が終わってから、しばしの時が流れている。頃合いからして、そろそろ運動に連れ出されるのだろう。
指導教授にメールを送ってからすでに十日が過ぎていた。
あのメールを見ればきっと先生は私の身の上に何かが起きたことを悟って、警察か日本大使館に連絡を取ってくれているに違いない。現地の人間ならばともかく、外国人が何らかの理由で助けを求めているとなれば、当然大騒ぎになるはずだ。だが日々の生活は淡々と流れ、助けがくる気配どころか、施設の中の人間たちにも何の変化もない。
おかしい――。いったいどうしたのだろう。私のメッセージが伝わらなかったのだろうか。
心の片隅に抱いていた希望も、さすがに諦《あきら》めの心境に支配されるようになっていた。ペーパー・ナプキンに監禁からの日にちを書き込むのを止めたのも、そんな心情の表れかも知れない。
麻里はベッドの上で居住まいを正した。空調が万全に行き届いた部屋の中では、Tシャツにショートパンツといったいでたちで十分だった。アスレチックジムで汗を流す間に、ベッドの上には新しい衣類が下着とともに用意されている。監禁という事実を除けば、一流のリゾートホテル並のサーヴィスだ。
ドアが開いた。いつものガードマンが姿を現すと、「ミス・トリカワ。運動の時間です」
予期していた通りの言葉を投げ掛けて来た。
もうすっかり馴染《なじ》みとなった顔なのに、この男ときたら相変わらず一向にそれ以上の会話をする気配もみせやしない。こちらから何度か話しかけたこともあったが、自分の名前さえも教えはしないのだ。恐らくは言葉を交わすことは固く禁じられているのだろうが、囚人と看守の関係でもここまでコミュニケーションというものの一切を拒絶されはしないだろう。
麻里は男に一瞥《いちべつ》をくれると、先に立って廊下を歩き始めた。リノリウムの床を踏みしめる度に、スニーカーのゴム底が小気味のいい音を立てた。
スチールのドアが固定された壁面にロックを解除するための暗証番号をインプットするボードが取り付けてあった。男は片手でそれを塞《ふさ》ぎ、麻里の視線に死角をつくると、数|桁《けた》の番号をインプットした。さらに自分が首から下げていたIDカードをスキャンした。ロックが外れる鈍いモーターの音がした。ドアが開けられると、いつもの見慣れた光景が目に飛び込んできた。
麻里は、いつものように与えられたメニューに従って、エアロバイクを三十分ほどの時間をかけて漕《こ》いだ。体に汗が滲《にじ》み、部屋の片隅に置かれていたタオルの束から一つを取り上げると、それで首筋に浮いた汗を拭《ぬぐ》った。
壁の一面を覆った分厚い窓ガラスから、熱帯の太陽が容赦なく差し込んでくる。窓際の部分は地下一階部分まで掘り下げられており、更に外にでることはできないが五メートルばかりのテラスが設けられているせいで、そこを通じてこの時間は室内にちょっとした日だまりができる。地上までは垂直なコンクリートの壁面で、その上は蔦《つた》が一面に覆い南国の花が咲き誇っている。
ジムで汗を流す間だけが日光の恵みを享受できる僅《わず》かなチャンスだった。
麻里は汗を拭《ふ》きながら、日だまりの中に立った。壁の高さは四メートルはあるだろうか。見上げると抜けるような空高くに、刷毛《はけ》で掃いたような雲が見えた。壁面の上部、縁の部分にはおそらく、庭の芝生だろうか、草が均一の高さで密生しているのが黒いシルエットとなって見えた。
この壁を這《は》い上がることができれば、その先には自由がある。
そう思うと、いつものことながら、目の前の窓をぶち破り、この場から逃げ出したい衝動に駆られた。しかし窓ガラスはとても素手でぶち破ることができないほど厚いことは一目で分かったし、中にワイヤーも入っている。たとえこのガラスをぶち破ることができたとしても、今度は四メートルもの垂直の壁をのぼらなければならない。非力な女の力ではいずれの行為も到底完遂することはできはしないだろう。それよりもそんな気配さえみせたら、部屋の中にいるガードマンがただちに阻止しに動くに決まっている。
深い溜息とともに、麻里は空を仰いだ。抜けるような空の碧《あお》がことのほか恨めしく感じた。
と、その時だった。微《かす》かに小型発動機のエンジン音が外から聞こえてきた。
何だろう。
ここに監禁されるようになって初めて耳にする外界からの音に、麻里は神経を集中した。エンジン音はますます近くなってくる。やがて壁の上部に一人の男が乗ったゴーカートのような芝刈り機が姿を現した。作業着を身にまとった初老の男。浅黒い皮膚。特徴的な顔立ちからフィリピン人であることは一目で分かった。
男は、壁の頂点の辺りに生えた芝を丹念に刈り取ろうとしているのか、刃先の当たる部分に視線を固定させたまま、巧みにハンドルを操りながら芝刈り機を前方に進めて来る。
それをじっと見つめていた麻里の視線と男のそれが合った。瞬間、男は軽く手を上げると白い歯を見せて笑ったように見えた。
自由がある。この壁の上には誰はばかることなく、自由を謳歌《おうか》している人間がいる。
そう思うと麻里はいてもたってもいられなかった。次の瞬間、意識しないうちに手が自然に動いていた。
男の顔に怪訝《けげん》な表情が宿り、芝刈り機が停った。エンジンの波長が変わり、アイドリングの状態になった。男は左の掌《てのひら》を右手の人差し指で切るような動作をみせた。さらに両手の人差し指を前に突き出し、そのまま手首を内側に返した。見覚えのある動作だった。
『ドウシタ』
麻里の脳裏に男の動作が自然と言葉となって形を成した。心臓がどきりと一つ大きな鼓動を打った。はっとして、自分の手元を見ると、無意識のうちに右|拳《こぶし》を左の掌で下から支え、自分の方へ引く動作を繰り返していた。
『タスケテ』
そう、手話だ。この男にも手話の心得がある。それもアメリカの手話だ。
またとないチャンスだと思った。この機を逃せばもう二度とこんなチャンスは巡ってこないだろう。
麻里はそっと後ろを振り返った。ガードマンは、すっかり安心しきったふうで、居眠りをしている。それを確認した麻里は次のサインを送った。
『トジコメラレテイル。タマゴヲトラレタ』
『イミガワカラナイ』
詳しい事情を伝えている時間はない。サインを変えた。
『ワタシヲココカラダシテ』
『ワタシニハデキナイ』
予期した通りの答えだった。考えてみればそれも無理のない話だ。これだけ厳重な監視が置かれている中から一介のガーディナーが自分を外に連れ出してくれるなんてことを考えるほうがどうかしている。
麻里は考えた。ならば、この男を使って誰かにコンタクトをつけさせることはできないだろうか。研究室の先生? いいえそれは駄目だわ。広大なキャンパスの中に点在する建物の中から研究室を見つけだすだけでも大変だ。それに教授にしたところで常に研究室に在室しているわけでもない。アポイントメントを取ってでもいない限りうまく会うことすら難しいだろう。
それなら誰がいいか――。松井さん? 金縁眼鏡をかけた紳士。いかにもビジネスマンといった風体の松井の姿が脳裏に浮かんだ。しかしこの状況を打開するには、それも何だか頼りない。日に焼けた窓の向こうの男の顔を見ているうちに、一人の人物の顔が浮かんできた。日に焼けた逞《たくま》しい男の顔――。瀬島さんだ! そう、あの人ならばきっとこの状況を分かってくれる。すぐに何らかのアクションを起こしてくれるに違いない。
『レンラクヲトッテホシイ』
『ダレニ?』
『アヤラ・アラバンニスンデイルニホンジン、セジマ』
『アヤラ・アラバンニスンデイル、セ・ジ・マ・ダナ。アナタノナマエハ?』
『マリ』
そこまでのサインを送ったところで、男の背後に一人のガードマンが姿を現し、その背中を小突くのが見えた。何事かを喚《わめ》き散らしているようだったが、会話は成り立たないらしく、男は再びエンジン音も高らかに芝刈りを再開した。
気がつくと、さっき汗を拭き取ったばかりだというのに、首筋から背中にかけて汗が筋となって流れているのに気がついた。麻里はタオルでそれを拭いながら、日だまりから後ずさった。
いま送ったばかりのメッセージがうまく瀬島に伝わることを願いながら。
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第八章 展 開
発覚
単調なエンジン音が響く後部座席で瀬島はとめどもなく押し寄せてくる疲労を感じていた。いや正確に言えば、肉体は疲れていても脳だけはその働きを止めようとしないのだ。一昨日にマリオと会って以来、事態は再び硬直状態に陥った。
いかにして闇の組織の正体を掴《つか》むか。どこかにその手がかりがあるはずだ。
電気を消した闇に覆われた部屋の中で、疲れた体をベッドに横たえていると、脳裏に浮かぶのはその一点だけだった。そのうちにさすがに睡魔が襲って来るのだが、いまこの時点でもどこかに自分の遺伝子を引き継いだ子供がいるかも知れないという気持が無意識のうちに頭を擡《もた》げるのか、ふと子供の泣き声を聞いたような気がして、その度に正気に戻された。
どうやら、それはマリオも同じと見えて、オフィスで会う彼の姿にもかつての覇気というものが感じられない。あと一息で目標に辿《たど》りつけるというのに、ゴールへのルートが見つからない。まるで希薄な空気の中をあがきながら、極めようとしていた高山の頂上が、雲で覆い隠されたようなもどかしさ、苦しさが胸中を支配していた。
どこかに連中へ繋《つな》がる手がかりがあるはずだ。このマニラのどこかに……。
だが、改めて糸口を見つけだそうとすると、組織がこれまで行って来た手口は実に巧妙にできていた。トンドで拉致《らち》に協力したテオドロという男は、金と引き換えに下っ端として働いていただけで、目的はおろか実行犯が何者であったのかさえ知らなかったという。情報の分断が意図的に図られていたのだ。最も組織に近いところにいるのは、直接諒子に凍結卵子の存在を打ち明けてきた新城という医師だ。もちろんその線から組織に接触を図るということも考えた。確かに新城が持ちかけてきた話を聞けば大道寺の家は一も二もなく乗って来はするだろう。しかし、そのためには諒子の夫である祥蔵を協力者に仕立てあげなければならない。いや連中のことだ、日本で精子を採取し、それを凍結したままこの国に運び込むことぐらいの周到な準備をするだろう。そうなれば、組織の手によって保存されている凍結卵子と祥蔵の精子は体外受精の処置を施され、代理母となる女性の子宮に移植される。後はその子供が生まれるまで、組織と接触する機会はない。第一、新城は凍結卵子は二十個といったが、それすら怪しいものだ。何しろ六カ月の胎児の体内には七百万個もの卵子が存在していたのだ。慎一の移植に用いられた心臓は、まさにその卵子を用いて創出された子供のものが使われた。他にもまだ卵子が存在していないとも限らない。
やはり何が何でも、自分たちで組織の施設の場所を特定し、凍結卵子を奪取するしかない。
考えは堂々めぐりを繰り返し、出口のない迷路に迷い込んだようだった。
夜十時を回ったスカイウエイは空いていた。朝のラッシュアワーならば、一時間を要する道のりも、この調子なら三十分もかからないで、家に辿り着けるだろう。順調に走る車は、一般道に降りた。自宅のあるアヤラ・アラバンはもうすぐ先だ。昼間ならマニラ中心部とは違い、まるでカリフォルニアの高級住宅地を思わせるような光景も、夜の闇の中に溶け込んで見ることはできない。ヘッドライトの先にT字路が見え始める。運転手が左にウインカーを灯《とも》すと、信号のない交差点の左右を確認しながら、ハンドルを左に切った。
ヴィレッジを守るガードマンのいるブースに灯る蛍光灯の光が、闇の中に見えてくる。運転手が速度を落とした。
と、その時だった。いつもなら窓に張ってあるシールを確認して素通りできるはずが、ガードマンが手を翳《かざ》し、車を制止しにかかってきた。
何だろう――。
運転手がブレーキを踏み、指示に従って車を止めた。サイドウインドウが開けられた。
「ミスター・セジマだ」
愛想のない言葉を投げ掛けた運転手に向かって、
「ええ、知っていますよ。ミスター・セジマ。ビジターが待っているんですが……」
いささか困惑した表情を浮かべながらブースの中を指差した。椅子に腰を下ろした一人の男と目があった。どうやら緊張しているらしく、その様子が強張《こわば》った顔の表情から窺《うかが》えた。見窄《みすぼ》らしい作業服。全体から漂う雰囲気――。記憶の糸を手繰ってみたが、とんと見覚えのない顔だった。もっとも現場では、常時数百人という労働者が働いているのだ。彼らは自分の姿を見知ってはいても、当然こちらはその全てを覚えているわけではない。しかしだからといって、一介の作業員がこんな時間に自宅を訪ねてくる用事などあろうはずもない。よしんばそうだとしても、エキスパッツの住所は厳秘とは言わないまでも、限られた人間にしか知られておらず、このレベルの人間に漏れることなどまずあり得ない。
「ビジターって彼のことか」
「はい」とガードマン。
「知らないな。あんな男は会ったこともないが」
「彼は口と耳が不自由らしいんです」
「喋《しやべ》ることができないのか」
「ええ、ただ筆談は可能です」
少なくとも、自分が知っている中にそのような障害を抱えた者はいない。おそらく現場の作業員の中にも、聴覚、言語障害を抱えた人間は皆無だろう。決して障害者を差別しているわけではないが、土木工事現場のように、重機が多く使われる場所で働く者は常に危険と隣り合わせにある。万が一の事態に遭遇しても即座に反応できないとなれば、働かせる方が酷というものだ。
いったい俺に何の用があるというのだろう。
ガードマンと話を交わしている間に、男はブースを出ると車に近づいて来た。
一瞬、用件を訊《たず》ねようとしたが、聴覚に障害があるのでは無意味なことだ。どうしたものかと、考えているうちに、男は一枚の紙を差し出してきた。
瀬島は釈然としないものを感じながら、その紙を受け取った。
ボールペンで書かれた英文の文字が、ブースから漏れてくる明りの中に浮かび上がった。
その文面に目をやった時、瀬島は全身の血液が音をたてて逆流していくような衝撃に襲われた。
『マリハカンキンサレテイル。タマゴヲトラレタ』
我が目を疑った。目をしばたたかせながら、もう一度短いセンテンスを読み返してみた。紙を持つ手が込み上げる興奮で小刻みに震えた。
ついに闇に閉ざされていた組織に繋がる情報を手にした気がした。
七千を超えるこの国の島々のどこかに、フィールド・リサーチにでも出掛けているのかと思っていたが、とんでもない思い違いをしていたようだ。彼女は誘拐されていたのだ。
『タマゴヲトラレタ』このメッセージの意味するところは明白だ。タマゴ――それは間違いなく卵子を意味するものだろう。
瀬島は背中に戦慄《せんりつ》が走るのを感じた。不吉な予感が込み上げて来るのを抑えきれなかった。在留邦人の誘拐とスラムに暮らす子供の誘拐――。普通に考えれば両者の間に共通点を見いだすことは難しいのは明らかだ。何しろ獲物[#「獲物」に傍点]としての価値に雲泥の差がある。だが今回の場合は目的が違う。日本人の卵子。そして受精し胚《はい》となった卵子を育てる代理母の娘。麻里からのメッセージは、先日マリオとの間で交わした推測を裏付けるに十分なものだった。
「君は、麻里の居所を知っているのか」
瀬島は反射的に訊ねた。
男は慌てた仕草で、口と耳を指すと、顔の前で手を振った。
そうだ、この男は耳と口が不自由なのだ。改めてそのことを思い出した瀬島は慌てて胸のポケットからペンを取り出すと、紙の上にいま発したばかりの質問を書いた。ペンを持つ手がもどかしかった。その気持が表れたものか、文字は大分乱れてはいたが、読めないほどではないだろう。短いセンテンスを書き終えた瀬島はその紙を男の手に渡した。
男の目が紙の上に走る。顔が上がった。頭が上下に振られる。
間違いない。この男は麻里の居場所を知っている。どんな方法でかは分からないが、彼女はこの男を使って、自分に助けを求めてきたのだ。
貴重な情報源。いやこの男こそが事態を解決するに当たっての全てのことを知っているのだ。となれば聞きださなければならないことは山ほどある。
次の瞬間には、瀬島はドアを開けていた。座っていた位置をずらし席を空けると、『乗れ』と、男に向かって手招きをした。男は瀬島のそんな反応を予《あらかじ》め予期していたように、躊躇《ちゆうちよ》することなく車内に身を滑り込ませてきた。ドアが閉まった。
「ミスター・セジマ。いいんですか」
やり取りの一部始終を見ていたガードマンが訊ねてきた。
「いいんだ。この人は私の大切なゲストだ」
瀬島はそう言うと、今度は運転手に向かって命じた。
「出してくれ」
ゲートから家までは、そこから五分もかからなかった。車を降りた瀬島は男を家の中に招き入れた。駐在員にとってはごく普通の暮らし向きだが、大多数のフィリピン人からすれば夢のような空間と映ることだろう。
男はまるで場違いのところに彷徨《さまよ》い出たといった態《てい》で、玄関ホールで固まっている。
瀬島は手招きして、男をリビングに招き入れると、ソファーを勧めた。
「おかえりなさい。ミスター・セジマ」
まだ起きていたメイドが姿を現すと、爽《さわ》やかな笑顔で迎えた。だが男の姿を認めた瞬間、その顔に怪訝《けげん》な表情が宿った。
「私の大事なゲストだ。悪いがコークを持ってきてくれないか」
「イエス・サー」
メイドがコーラを持って来る間に、上着を脱ぎ捨てた瀬島は、鞄《かばん》の中からレポート用紙を取り出すと、さっそく男への質問を書き連ねていった。
『あなたの名前は』
『麻里とどこで会った』
『彼女はいまどこにいる』
そこまで書いた時、メイドがグラスにいれたコーラを持って来た。
「今日はもう休んでいいよ」
「食事はどうします」
「結構だ」
そう告げられたメイドは、キッチンの奥にある自室へと消えて行った。
瀬島はとりあえずの質問を記したレポート用紙を男に渡した。一読した男はおもむろにペンを走らせ始めた。短い時間の後、再びそれが戻された時には、瀬島が質問した以上のことが書き記されていた。
『私の名前はネスター・ジャレト。麻里と会ったのは私がガーディナーとして働いている、ウイリアム・アンド・トンプソン研究開発センターでのこと。彼女はいまそこにいて助けを求めている』
筆談が始まった。
『それは何をしている施設? もしかしてあのアメリカの製薬会社のウイリアム・アンド・トンプソンのことか』
『そうだ』
『連中はそこで何をやっているんだ』
『何をやっているか分からないが、研究者の他に、多くの女たちがいる。ほとんどはフィリピン人だと思う』
『それはどこにある』
『パテロス地区』
『どうやって彼女……麻里とコンタクトを取れた』
『彼女は手話を使える』
そうだったのか。確かに彼女は高校、プリンストンと米国で生活していた間、聴覚障害者のために、手話を習いボランティア活動をしていたと言っていた。彼女が助けを求めているということは、自由が奪われているということと同義語だ。おそらく外部の人間との接触はままならない状態に置かれているのだろう。手話。そうした伝達手段を身に付けていたからこそ、この男とコンタクトを取れたに違いない。
『研究所にいる女たちは何をしているんだ』
『それも分からない。ただ地下一階のある部分にアスレチックジムがある。その窓の前にだけ小さなテラスがあって、ガラス越しに女たちが運動しているのが見える』
『麻里はその窓越しに手話を使って助けを求めてきた。この私にコンタクトして欲しい。そう告げてきたんだな』
『その通りだ』
『研究所までの道筋を書けるか』
男は今度は文字を連ねる代わりに、器用に地図を書いてよこした。道標となる建物や標識まで書き記してある。
『研究所の見取り図は書けるか』
『建物の中はどうなっているのかは分からない。ただ外の様子だけでいいなら』
『それでいい』
今度は前よりも長い時間がかかった。差し出された図は敷地、建物の形状とともに、入り口や監視カメラの配置までが漏れなく書き記してあった。
敷地は、百五十メートルと百メートルほどの長方形をしており、やや右に寄ったところに三階建ての研究棟、そしてその傍らに整備機器を入れておく小さな建物がある。道路に面した部分の中央にはエントランスに向かって一本の道路があり、門の部分には守衛ブースがある。そして敷地の左側にはヘリポート。周囲は金網で囲まれており、監視カメラは敷地の全てを見渡せるポイントに十台ほどが配置されているようだった。
『警備の状態を教えてくれるか』
『極めて厳重だ。ガードマンは全員が銃を携帯している』
『どんなタイプの銃だ』
『拳銃《けんじゆう》は常に全員が携帯している。それにガードマンのいるゲートのブースには三|挺《ちよう》のショットガン。それに巡回しているガードマンも拳銃の他にショットガンを携帯している』
『人数は』
『ゲートのブースには常に三人から四人。それに巡回が二人。建物の中にもガードマンはいて、全部で二十人はいるだろう』
二十人もいるのか。外にいるのは、全部で六人から七人。そうすると、建物の中にいるガードマンの方が数が多いことになる。
『彼らは、昼夜二交代のシフトで動いている。私が知っているのは、昼のシフトの人数で、夜は多少数は少なくなるんじゃないかと思う』
ネスターは、最初のセンテンスに続けて書いた。
『研究所の職員の数は?』
『常時いるのは、約二十人前後』
『常時?』
『時として、ビジターが大勢やって来ることがある』
『それは頻繁に?』
『いや、そうでもない。ただ一旦《いつたん》ビジターがやって来ると、大抵の場合二週間から三週間、連続して滞在するようだ』
『どうしてそんなことが分かる』
『彼らがやって来ると、車の出入りが頻繁になる。何が行われるのかは分からないが、そんなことが年に三回から四回はある。多い年だと五回ということもあった。それもやって来るのは白人ばかりだ』
卵子を採取し、体外受精を行い、それを代理母となる女性の体に移植するのにそんなに人手はかからないはずだ。おそらく突然大挙して訪問してくる白人というのは、臓器移植を行う医師団だろう。『タマゴヲトラレタ』――麻里が託してきたメッセージ。それにいまネスターから聞いた状況から、瀬島は自分の想像が外れてはいなかったことを確信した。
やはり連中は、新しい生命の創出と、生体臓器移植を並行して行っているに違いない。
『一つ思い出して欲しいことがある。半年ほど前、正確に言えば今年の五月に、同じような動きがなかったか』
ネスターは暫《しばら》く考えていたふうだったが、おもむろにペンを拾うと迷いのない手つきで文字を綴《つづ》った。
『あった。あれは乾期の最後の頃だったからはっきり覚えている。そう五月に間違いない』
やはりそうか。諒子の息子慎一が心臓移植を受けたのは五月。もしもその施設で移植手術が行われたとすれば、時期はぴたりと一致する。監禁されている女たちは卵子を採取するか、代理母とすることを目的とした女たちとみて間違いあるまい。そして、そこで創出された生命、あるいは拉致《らち》した幼い子供たちは、臓器移植のドナーとして供されているのだ。
激しい怒り。その時瀬島が覚えたものはそれ以外の何物でもなかった。
許せない。絶対に……。生命の創出を意のままに操るだけじゃなく、それを臓器移植に利用するなんて人間の所業じゃない。まさに悪魔のなせる業だ。もちろん、体外受精や臓器移植そのものを否定するわけじゃない、世の中には不妊で悩む人間もいれば、臓器移植以外に命を永らえることのできない難病を抱えている人たちがいることも事実だ。だがいずれの行為も、ドナーとなる人間の合意があり、しかるべき手続きの下で行われるものだ。連中がしていることは、生命を玩《もてあそ》ぶ。それに加えて人の窮地につけ込み、法外な金をふんだくっているだけだ。それは諒子のケース一つとっても明らかだ。しかも連中は、自分の遺伝子を引き継いだ子供の生命を奪ったのだ。それをこともあろうに諒子の子供に移植した。世の中にこんな残酷な話があるものだろうか。心に痛手を負ったのは、俺だけじゃない。諒子もまた同じだ。難病を抱えた我が子を救おうと藁《わら》をも掴《つか》もうとする親の気持につけ込んで、美味《おい》しい餌をちらつかせ、あげくは奈落《ならく》の底へと突き落としたのだ。それだけでも大きな傷を心に負ったというのに、こともあろうに今度は凍結卵子の存在を持ち出し、代理母を使って子供を手にすることを提案してきた。まさに死人に鞭打《むちう》つというのはこのことだ。愛する我が子を失っただけでも、大きなショックだというのに、そんなことを聞かされた諒子の心中は察するに余りある。
もうこんな悲劇を繰り返すのは御免だ。こうなった以上、いま連中の手の中にある凍結卵子を何が何でも奪取しなければならない。そして自分を頼ってきた麻里を助け出さなければならない。どんな方法をとっても――。
瀬島は再びペンを手にすると、文字で一杯になったレポート用紙を引きちぎり、新しいペーパーの上に一つのセンテンスを書いた。
『ミスター・ジャレト。本当に貴重な情報を寄せていただいて感謝している。どうお礼をすればいいかな』
一読してネスターはめっそうもないとばかりに首を横に振った。
『しかし、ここに来るまでに随分と金も使っただろう。金というのは失礼だがこれはほんの気持だ。受け取って欲しい』
瀬島は、傍らに置いた背広のポケットから札入れを取り出すと、五百ペソ札を十枚、テーブルの上に置いた。
『ミスター・セジマ。そんなことはいいのです。これはあなた方外国人への恩返しです』
『恩返し?』
ネスターは穏やかな笑みを湛《たた》えたまま、じっと瀬島を見るとペンを走らせた。
『耳も聞こえない、話すこともできない私に手話を教え、英語を教えてくれたのは外国人のボランティアだったのです。少しでもその恩に報いることができただけで私はいいのです』
いくらの賃金を貰《もら》っているのかは知らないが、こんな郊外までやってくる交通費を考えただけでも、この男にとっては大変な負担だっただろう。だが、改めて紙幣を差し出した瀬島を見ながらネスターは、ペンを走らせると、
『ところで、あの施設の中ではいったい何が行われているのです?』
初めて問うてきた。
一瞬だが瀬島は躊躇《ちゆうちよ》した。この男の置かれた境遇を考えれば、ガーディナーという、まっとうな職を見つけることはさぞや困難なことだったろう。この組織の存在、それにそこで行われていることが自分のような第三者に知られたということを察知すれば、連中は即座に隠蔽《いんぺい》工作を施し、この国を捨てるに決まっている。そうなれば、この男が再び職を見つけることは困難を極めることは間違いない。事実を知れば果たしてこのネスターはどう動くだろうか。組織に存在を察知されたことを知らせるという可能性も捨てきれない。
だが、ネスターの真摯《しんし》な眼差《まなざ》しを見るにつけ、この男だけは信じてもいいような気がした。もしもこの男が味方についてくれたら、少なくとも問題解決に向けての大きな戦力になることは間違いない。
こうなれば一か八かだ。
瀬島は腹を括《くく》ると、いままでの経緯を説明すべく長い文章を書いた。それを一読したネスターの目が驚きで見開かれた。明らかに動揺の色が見て取れた。
『それは本当のことですか。あの研究所で、そんな酷《むご》いことが行われているのですか』
文字がいままでに比べて明らかに乱れていた。
『本当だ』
『許せない。そんなことは決して神もお許しにならない。フィリピンの女性が、子供たちが、日本人の女性が、そんなひどい目に遭っているなんて』
『こんなことをあなたに頼むのは筋違い、虫のいいことかも知れないが、私には、凍結卵子とあそこに閉じ込められている女性たち、それにおそらくは子供たちを救い出さなければならない義務がある。協力して貰うわけにはいかないだろうか』
『事情は良く分かりました。私にできることなら』
「ありがとう」
瀬島は初めて声を出すと、手を差し伸べた。どうやら口の動きで意味を解したらしく、ネスターはその手を握り返してきた。肉体労働に明け暮れているせいだろう、分厚い皮膚の感触が頼もしかった。
ちょっと待っててくれ。
ゼスチャーでそう告げると、瀬島はサイドボードの上に置かれた電話を手にした。傍らに置いてあった時計を見ると、すでに時間は深夜二時になろうとしている。慣れぬ筆談のせいで、時間を食ってしまったのはしかたがない。だが、このニュースはあの男に一刻も早く伝えなければならない。闇に閉ざされた彼方《かなた》に一筋の光明を見いだしたのだ。こうなれば事態は一刻の猶予もない。すぐにでも手を打たなければ。
回線の繋《つな》がる音に続いて、呼び出し音が鳴る。一度、二度、三度……。四度目のコールで、受話器が持ち上がった。
「ハロゥ」
深夜の電話は、それでなくとも不吉な思いに囚《とら》われるものだが、この時ばかりは違った。まるで待ち構えていたものが、ついに来た。そんな期待と、些《いささ》かの不安が微妙に入り混じった声が聞こえてきた。
「マリオ。瀬島だ。ついに連中の正体を掴んだぞ」
瀬島は一連の経緯を話し始めた。
同志
「親方、こちらが私の上司のミスター・セジマです。それに例の研究所で働いているネスター……ミスター・セジマ。こちらがいつか話した親方のオランド・ベイロン」
連絡を受けたマリオの動きは迅速だった。電話を切るとすぐにオランドのもとに電話を入れ、折り返し連絡がくるまで十分と時間はかからなかった。
『親方がすぐに会いたいと言っています。構わなければ、いまからそちらに伺いたいのですが』
元より瀬島に異論はなかった。オランドは娘を拉致され、自分は諒子との間にできた子供の卵子を保管されている上に、鳥河麻里という知人も卵子の供給源として監禁されているのだ。利害が一致する者同士、打開策を見いだすためには単独で行動するよりも仲間が増えた方が心強い。
マリオの紹介が終わるまでもなく差し出した手をオランドが力強く握ってくる。Tシャツに作業ズボンといったいでたちのオランドの二の腕が膨らみ、そこに彫り込まれた剣に絡みついた蛇の入れ墨が膨らんだ。
時間はすでに午前三時半。深夜の会合が始まった。
「ミスター・セジマ」
「ミスターは止めましょう。セジマで結構です」
「分かった。それじゃセジマ。だいたいの経緯は、ここに来る道すがらマリオから聞いたが、改めて状況を説明してくれないか」
早々にオランドは切り出して来た。
瀬島はすでにこれまでに分かっている事実に、自分の推測を交えて話して聞かせた。
ネスターを通じて、麻里が監禁の事実を告げ、助けを求めていること。かつて諒子を妊娠させ、六カ月で堕胎させてしまったこと。諒子の一人息子、慎一が重い心臓病に罹《かか》り、移植手術をここマニラで受けたこと。移植された心臓と慎一の遺伝形質が一致し、二人が諒子の血を引き継いでいる以外に考えられないこと。状況的に考えてかつて堕胎された胎児の卵巣から卵子を取り出し、代理母の子宮に移植、それによって生まれた子供を臓器提供者として使ったとしか思えないこと――。
「それで、その代理母に供されたのが、俺の娘のアリシアかも知れない。そう言うのだな」
オランドの顔が朱に染まり、こめかみの血管が青く膨れ上がった。
「それは現時点では分かりません。しかしネスターの話によれば、あの施設の地下には多くの若い女性が監禁されていると言います。その可能性はないとは言えません」
医師が辛《つら》い宣告をする気持というのはかくのごときものなのだろうか。瀬島は思わず目を伏せながら言った。
「それじゃ、トンドから攫《さら》われた幼い子供たちは」
「これはあくまでも私の推測ですが――」
ここから先は更に辛い宣告をしなければならない。瀬島は前置きをすると、意を決して話した。
「もしかすると、あの施設で行われているのは、体外受精で子供を作ることだけではないかも知れません。おそらく臓器売買も並行して行われているんじゃないかと考えられます」
「臓器売買? まさか幼い子供たちは生きて臓器を抜かれたと」
「その可能性は否定できません」
オランドは野獣のような唸《うな》りをひとしきり上げると、
「確かにこの国じゃ臓器売買が行われていることは事実さ。俺のところにはいまは足を洗っているが、かつては犯罪行為に手を染めムショにぶち込まれた人間も少なくはない。この俺にしても、いまはまっとうな稼業についちゃいるが、若い頃には随分と無茶をやったもんさ。ムショにも二度ばかり入ったことがある。何しろトンドはあんたたちには想像もできない貧しい暮らしを強いられる場所だからな。その中には腎臓《じんぞう》の一つと引き換えに刑期を短縮してもらったやつもいる」
オランドは腕の入れ墨をさすりながら言った。
「それはどんな形で行われるのです」
「背後関係はよく分からないが、かなりしっかりした組織が存在するのは確かだ。直接腎臓の提供を持ちかけてくるのは看守だが、そのレベルで一旦《いつたん》下された刑期が短縮されるなんてことができるわけがない。それこそかなり上の連中を巻き込まなければ、そんな芸当はできやしないからな」
「つまり、刑務所、司法当局、そして臓器売買組織が密接に結びついていると」
「金がものをいうんです。それは日頃のビジネスでも十分に分かっていることじゃないですか。悲しいことにそれが現実というものです」とマリオ。
「しかし、人工的に作りだした子供や、かっ攫《さら》った幼児の臓器を、生きたまま他人に移植するなんて、そんな酷《ひど》い話はきいたこともねえ。ましてやその子供を産ませるために、若い娘を攫って代理母にするなんて……まさに悪魔の仕業だ。絶対に許せねえ」オランドは怒りで血走った目を向けてくると、「で、あんた、この後どうするつもりなんだ」と、訊《たず》ねてきた。
「許せないという気持は私にしたところで同じことです。何しろ、連中は私と彼女との間にできた子供の体内から卵子を採取し、すでに少なくとも一人の人間を作り上げることに成功している。それに連中の手元には、まだ二十個の凍結卵子がある。私は何が何でもそれをこの手に取り戻したい。いま監禁されている麻里と共にね」
「まさか、警察の手を借りるつもりじゃないだろうな」
「そんなことができるものなら、あなた方に相談したりはしない」瀬島はゆっくりとかぶりを振った。「それだけのことをしでかしている連中です。馬鹿でもない限り、この国の権力構造にはしかるべき手を打っているでしょうよ。もし不用意に警察に知らせでもして、その情報が連中の知るところとなれば、早々に証拠の湮滅《いんめつ》を図るに決まってますからね」
「証拠の湮滅?」
「保存してある凍結卵子はもちろん、監禁している娘たちもろとも処分してこの国を立ち去る――」
「つまり警察が押しかけた頃には、施設はもぬけの殻。事件は闇から闇へというわけか」
「そういうことだ」
「どうやら方法は一つしかないようだな」オランドは腹を括《くく》ったような低い声で言った。「俺たち自身の手で、やるしかない」
瀬島は無言のまま肯《うなず》いた。
本心を言えば、警察が動いて問題が解決するのならそれに越したことはない。しかし、状況的に見て、オランドに言ったようにその組織がこの国の権力構造に密接に結びついていることは間違いないと見ておいた方がいい。よしんばそうでなくとも、司直の手によって連中が摘発されたとなると、事は公のものとなってしまう。そうなれば麻里を始めとする女たちは無事救出できたとしても、凍結卵子を奪取するということに関して言えばかなり厄介なことになる。その卵子が自分の遺伝子を引き継いでいることを証明しなければならなくなるだろう。それは同時にもう一人の当事者である諒子の存在を白日の下に晒《さら》すことを意味する。
『あなたの血を引き継いだ子供よ。あんな形で別れなければならなかったけれど、後にも先にも私が愛した人はあなただけ。その気持はいまでも変わっていない』
諒子の悲痛なまでの叫びが耳に蘇《よみがえ》ってくる。まだ人の形を成していなくとも、あそこには紛れもない二人の愛の結晶が四年の歳月を経たいまでも息づいている。
「こうなれば打つ手は一つしかないな」
オランドが意を決したように言った。
「どうするつもりだ」
「決まってるじゃないか。こうなった以上、俺たちの手で娘たちを助け出し、あんたの血を引き継いだ卵子を奪回するんだ。実力でな」
「実力で?」
「命知らずの若い衆の十人やそこら集めるのは造作もないことだ。俺のところには軍隊にいたやつもいることだしな」
「しかし正面から行ったところで、埒《らち》は明かないぞ」
「そんなことは元より承知だ。その気になれば、武器を調達することなんて朝飯前だ。セジマ、その男にその施設の様子はどんなふうになっているのか訊《き》いてくれないか」
「それはもう準備してある」
マリオに連絡を入れて以来、彼らがここにやってくるまで瀬島もただじっとしていたわけではない。ネスターの書いた見取り図を、製図用紙に書き直す作業をしていたのだ。海外建設事業部に籍を置き、日頃から図面に慣れ親しんでいたおかげで、出来映えは見事なものだった。テーブルの上に広げた完成図を見た途端に、オランドの口から感嘆の声が漏れた。
「これがその施設か……」
「ああ。生半可なことじゃ建物はおろか、敷地の中に侵入するのも難しいぞ」
「敷地を囲むフェンスの何箇所かに書き込まれているのは監視カメラか」
オランドは図面の何箇所かを指差しながら訊ねてきた。
「そうだ。監視カメラは全部で十箇所に設置されている。敷地に近づく者がいればもれなく発見される。どうやら死角はないようだ」
「侵入口となるのは正面ゲートだけか」
「どうやらそのようだ。ネスターの言うところによると、フェンスは金網でできていてその高さはおよそ四メートル。上部には螺旋《らせん》状になったレザーワイヤーが張り巡らされている」
「この正面ゲートには何人のガードマンがいるんだ」
「常に三人から四人。ブースの中にはショットガンが三|挺《ちよう》あるそうだ。それに二人のガードマンが敷地の中を常に巡回している」
「ガードマンはそれだけか」
「いや、建物の中にもいて、全部で二十人程になるそうだ」
「二十人! そいつは大層な人数だな」
「おまけにその全員が拳銃《けんじゆう》を所持している」
「こっちは、戦力になりそうなのは俺を入れて八人を集めるのがせいぜいだ」
「九人ですよ、親方」マリオが脇から口を挟んだ。
「私も弟を助け出さなければなりませんからね」
「十人だ」
瀬島は間髪を容《い》れず言った。その言葉に、オランドは一瞬不敵な笑いを浮かべたが、すぐに真顔に戻ると、
「それにしても正面突破は難しい。おそらくショットガンはブースの中の三挺だけじゃあるまい。全員分がどこかに保管されているだろう。こちらの気配を察したら、二十人もの連中がそれを手に飛び出してくるんだ。不意をつかないことには無理だ」
瀬島はそこで、レポート用紙を取り出すと、
『入り口は本当にこのメインゲートだけなのか』
ネスターに向かって訊ねた。彼は暫《しばら》く考えていたが、やがてフェンスの一部分を指で示すと、
『刈り取った草をジャングルの中に捨てるための作業用の出入り口があります』
瀬島はその部分に新たに赤ペンで太い線を引いた。だが、そこはやはり監視カメラによって完全にモニターされている。
『他に敷地内に侵入する経路はないのか。思い出してくれ』
ネスターは再び考え込んだ。短い時が流れた。やがて彼はハッとした表情を浮かべ、おもむろに赤ペンを瀬島の手から奪い取ると、図面の上に線を引き始めた。それはフェンスの外から敷地の中を横切り、建物のすぐ傍まで延びていた。
『これは何だ』
『排水溝。年に何度か業者が来て清掃作業をしています。おそらく人が通れるだけの広さはあるはずです』
「それだ!」
瀬島は思わず叫んでいた。
排水溝は研究所の周囲を囲むジャングルへと続いており、監視カメラの位置からすると、それにひっかかることなく、建物の傍まで行けそうだった。
「連中に気づかれずに内部に侵入するにはここしかない」
「それで建物の内部の様子はどうなっているんだ」
侵入ルートを見つけ出した興奮を隠せない表情で、オランドが訊ねてきた。
「残念だが、分かっているのはここまでだ」
「ここまで? ネスターは中の様子を知らないのか」
「彼はガーディナーとしてここで働いているだけなんだ。内部には入ったことはないそうだ」
瀬島はゆっくりと首を振りながら答えた。オランドの顔に失望の色が浮かんだ。
「ただ一つ、分かっているのは、この部分……」瀬島は建物の一隅を指で叩《たた》くと、「この地下一階がアスレチックジムになっていて、ここで監禁されている女性たちは定期的に運動をさせられているらしい」
小さな溜息《ためいき》がオランドの口から漏れた。失望の色は隠せない。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、じっと図面を見ていたが、やがて意を決したように顔を上げると、
「とにかく、侵入経路が見つかっただけでも大きな収穫だ。連中は少なくともここに拠点を構えて四年以上。その間、危機に晒されたことはないはずだ。もちろん自分たちがやっていることを俺たちが気づいたということもまだ知ってはいないだろう。奇襲となれば状況は俺たちに絶対的に有利だ」
「しかし、中の状況が何一つ分かっていないうちに襲撃するというのは無茶だ」
慌てて、瀬島は異を唱えた。
しかし、オランドはそんなことは意に介さずとばかりに決然と言い放った。
「ずっと中で働いていたネスターでさえも、中の様子は分からないんだ。それとも何か、時間をやれば、彼が中の様子を掴《つか》んで来てくれるとでも言うのか」
「それは……」
確かにオランドの言うことはもっともだった。ネスター以外の協力者を見つけることは、まず不可能だろう。
口籠《くちごも》った瀬島に追い打ちをかけるように、今度はマリオが口を開いた。
「ミスター・セジマ。もう我々にはそんな悠長なことをしている時間はないんです。いまこうしているうちにも、ジョエルは、私の弟は臓器移植のドナーにされてしまうかも知れないんです。完全に状況を把握していないうちに行動に打って出るのは危険なことは百も承知ですが、無駄に時間を費やすくらいなら、賭《かけ》に出ましょう。奇襲、それも夜襲をかければ、どうにかなると思います」
「だが、状況を把握していないうちにいきなり行動に打って出るのは危険だ。こちらに犠牲者が出る可能性も十分に考えられる」
「危険は元より承知だ。アリシアを救い出すことができるなら、再びこの手に抱くことができるなら、俺は命を失っても本望だ。それに……」オランドはニヤリと不敵な笑いを浮かべると、「俺たちの力もそんなに馬鹿にしたもんじゃない。雇われのガードマンがどんな連中かは分からないが、命を捨ててまで連中を護《まも》ろうなんて根性のあるやつがそうそういるとは思えない。その点、俺たちは元より命など惜しくはないと思っている者ばかりだ。戦いで一番大切なのは、命を捨てても惜しくはない。そう思えるものを持っているかどうかだ」
オランドの言葉が胸に響いた。命を捨てても惜しくはない何か――。それが自分にはあるだろうか。
瀬島は考えた。答えはすぐに見つかった。
ある。俺と諒子の血を引き継いだ生命の兆し。それを無事奪回できるなら俺は命を捨てても惜しくはない。未来|永劫《えいごう》にわたって諒子とは結ばれない運命にあることは分かっている。だが、凍結保存されている卵子をこの手にすることができるなら、それはやがて二人の愛の証《あかし》を引き継いだ新しい生命となって、この世に存在することになるだろう。そう、この胸を張り裂けんばかりに満たす思いを遂げる。それは同時に諒子の願いでもある。そのためには一命を賭《と》しても惜しくはない。
「分かった。やろう」瀬島はきっぱりと言い放つと、「それで実行はいつにする」
オランドに向かって訊《き》いた。
「武器の調達にはまる一日あれば十分だろう。今日の昼からは二十四時間見張りを置いて、やつらの動きを監視する。決行は明後日、いやもう明日になったか、その夜でどうだ」
明日と言えば、土曜日だ、おそらく、研究所は一般の常識から言えば休日のはずだ。人員が手薄な時を狙う。状況的には申し分ない。
「そんな短期間で道具[#「道具」に傍点]を揃えられるのか」
「まあ、任せておけ」
オランドは自信あり気に肯《うなず》いた。
「襲撃の途中で騒ぎを聞きつけた警察がやって来たら」
「場所からすれば、周辺に民家はない。周りは深いジャングルに囲まれている。かなり派手にやったとしても、そうそう警察は駆けつけてはこない。目的を遂げたら、早々にジャングルの中に逃げ込んでしまえば、大丈夫逃げおおせるさ。第一これだけのことをしでかしている連中だ。とっくの昔に警察にも手を回しているに決まってる。事が公になって困るのは俺たちじゃない。あいつらだ」
「分かった」
瀬島はオランドに手を差し伸べると、がっしりと握手を交わした。その上にマリオの手が重なった。
「そうと決まれば早々に準備に入ろう。忙しくなるぞ」
オランドは決意を固めた目で瀬島を見ると、今度は心中を満たしていた緊張から一瞬、自らを解き放つように言った。
「仕事に入る前の景気づけだ。ビールはあるか」
「サンミゲールだが、それでもよければ」
「もちろん。一杯ご馳走《ちそう》してくれ」
オランドはここに来て初めて顔に笑みを宿した。
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第九章 襲 撃
準備
それは想像を絶する酷《ひど》い街だった。廃材、それも普通の感覚ならば到底使用に耐えうるとは思えないような、トタンの板や朽ちたベニヤを打ち付けただけのバラックが軒を連ねて密集している。
これが噂に聞くトンドか。
マニラの街には、日本人の感覚から言えば、スラムそのものという建物があちらこちらに見られるのだが、それに比べてもこの街の様相は想像を絶していた。およそ人の住処《すみか》とは思えないような廃材を張り付けただけの家[#「家」に傍点]の周りには、裸同然の子供が走り回り、一日の汗を流すべく痩《や》せた男たちが水をバケツで頭から被《かぶ》っている。
「驚きましたか、ミスター・セジマ」
ハンドルを握るマリオが静かに問いかけてきた。
おそらくは顔の表情に感情が表れたのだろう。とって付けたような嘘を言っても仕方がない。
「ああ、まさかこんな酷い所だとは思わなかった」
「ここが私が生まれて育った所です」
「聞きしに勝るとはこのことだ……苦労したんだな、マリオ」
その言葉に嘘はなかった。こんな劣悪な環境に生まれ、UPを卒業し、いまの職を得るまでにこの男が乗り越えてきた苦難を考えると瀬島は胸が疼《うず》いた。弟が誘拐される。そんな悲劇が襲わなければ、マリオも自らの出生の秘密を明かさずに済んだであろうし、これまで通り老いた両親に金を渡し、飛鳥でキャリアを積んだ後、あるいは欧米系の企業に移り、もっといいポジションと収入を得ることができたかも知れない。そのささやかな幸せ、そして大きな可能性を人を人とも思わぬ連中が奪い去ったのだ。
人の価値は地位や収入の多寡で決められるものではない。ましてや生まれついた家の格や血統で決まるものでもない。要はその人間がそれからの人生をどのように歩むか。ただその一点だ。
どんな所に生まれようとも、どんな形《なり》をしていても、人間は人間だ。それを貧困に喘《あえ》ぐ人間の弱みにつけ込み、生命をビジネスとするような連中は絶対に許せないと思った。
夜の闇が忍び寄り始めた空は濃さを増し、通りは人でごった返していた。
マリオはその人込みの中を掻《か》き分けるようにしながらゆっくりと車を進めた。やがてフロントガラスの前に運河が見え始めたところで、ハンドルを右に切った。路地の辻々《つじつじ》にはビニール袋に入れられたゴミが山と積まれており、貧しい家から価値のあるものはそれほど出るものではないと思われるのに、酷い身形《みなり》の老人や子供たちがそれを漁《あさ》っている。
車は薄汚れたコンクリートの壁や、赤茶けたスレートでできた倉庫が立ち並ぶ一画に入っていく。人通りが急に少なくなった。
「ここです」マリオはブレーキを踏み、車を停止させながら言った。「中には親方たちがいるはずです」
瀬島はドアを開けると外に出た。運河から漂ってくる蒸れた汚水の臭い。この街一帯に漂う、生ゴミの腐敗臭や、生活臭が渾然《こんぜん》一体となった酷い臭いが鼻をついた。その瞬間にも全身の皮膚の毛穴を通して体内に染み込んできそうだった。思わず息を止めた瀬島に向かって、「行きましょう。ぐずぐずしていると人目につきます。私はともかくあなたは目立ち過ぎる」
マリオは言うと先に立って、一つの建物目指して歩き始めた。
それはスレートでできた平屋建ての粗末な倉庫だった。戸口に立ったマリオは、静かにノックした。
「誰だ」
中から押し殺した男の声が聞こえた。
「マリオです。ミスター・セジマも一緒です」
ドアが軋《きし》みながら僅《わず》かに開いた。暗い空間に向かってマリオが入っていく。瀬島もその後に続いた。裸電球が一つ、天井から倉庫内を薄暗く照らし出していた。建設資材が山と積まれた両側の空いたスペースに六人の男たちがいた。その足元に、黒い光を放つ鉄の工作物が並んでいる。それが銃であることを悟るまでにさほどの時間はかからなかった。
「セジマ、よく来てくれたな」
オランドは満面に笑みを湛《たた》えると、手を差し伸べてきた。
「それは?」
握手をしながら瀬島は聞いた。
「見ての通りのものさ」
オランドは腰をかがめるとその中の一つを翳《かざ》してみせた。どこかで見覚えのあるシェイプだった。
「こいつはいいぞ。連中が持っているメイド・イン・フィリピンのショットガンとはもの[#「もの」に傍点]が違う。正真正銘のメイド・イン・USAのM‐16だ」
「M‐16? そんなものをどうやって」
M‐16は米軍の制式自動小銃としていまでも用いられているものだ。いかに武器に無縁の日本人とはいえ、その程度の知識は持ちあわせている。
「その気になりゃ、この程度のものを手に入れるのはわけのないことさ。もっともこいつは、いささか旧式に属する部類のものだがな」
「まさか軍から流れてきたものじゃ」
「そうじゃない」オランドは首を振った。「こいつはベトナム戦争当時に米軍が使っていたものさ。連中、あの国を退去する際に百万|挺《ちよう》ものこいつを、そのまま残していったんだ。だが、ベトナムは解放後残された膨大なこの銃を自国の軍隊には採用しなかった。連中が選んだのはソ連製のAK‐47だった。残されたM‐16は、その後、闇のマーケットに流れ、その一部がフィリピンに持ち込まれたというわけさ」
「で、それをどうやって手に入れたんだ」
オランドはニヤリと意味ありげな笑いを浮かべた。
「フィリピンは密造銃の一大製造拠点だ。つまりそれだけ多くの銃のニーズがあるってことさ。それに皆が皆、密造銃ばかりを欲しがるわけでもない。正規の銃だってちゃんとマーケットに流れている。要はどれだけの金が出せるかによるんだがね」
「しかし、これだけの銃。しかも正真正銘のM‐16をこれだけの量を揃えるとなれば、簡単なことではないだろうに」
「トンドにはろくでもないビジネスに首を突っ込んでいる人間も少なくない。長年この街で暮らしていれば、否応《いやおう》なしにそんな連中とも付き合っていかなきゃならない。一声かけりゃ、この程度の銃を集めるのはわけのないことさ」
「酷い話だ」
「まあ、そう言うな。今回連中と伍《ご》して戦えるのはそのお陰なんだからな」
「しかし、ただ[#「ただ」に傍点]というわけじゃないだろう。正規の銃を揃えるとなれば、大変な金がかかったんじゃないのか」
当然の疑問というものだった。
「たぶんお前が考えているほどの金は使ってはいないとだけは言っておこう。何事にも仲間内価格というやつだ。もっとも随分高い買い物だったことには違いない。何十人もの建設現場の作業員を抱えている俺にしても、さすがにキャッシュで全額を支払うことはできなかった。請け負っていた仕事の二つばかりを、同業に譲って何とか資金を捻出《ねんしゆつ》することができたんだ。それでもアリシアを救い出すことができれば安い買い物さ」
そう言いながら、オランドはコッキング・レバーを引いた。金属が擦《こす》れ合う冷たい音がした。
「気をつけてくれよ。まさかこんなところでぶっ放す気じゃないだろうな」
「心配するな。弾は入っちゃいない」
オランドは白い歯を見せて笑うと、マガジンが抜かれて暗い穴となっているチャンバー下部を示すと、「ただ、何分にも時間がなかったもんでな。全てがM‐16というわけにはいかなかった。襲撃に参加するのは十人だが、こいつは八挺しか揃わなかった。後はショットガンが二挺……」
オランドは、再び腰をかがめると、明らかにシェイプの異なる一挺を瀬島に放り投げてきた。受け止めた瞬間、見かけよりも遥《はる》かにある重量のせいで、腕が下に落ちた。
「銃を撃ったことは?」
「ない」
「だろうな。だったらお前はそれを使え。扱いはM‐16よりも遥かに易しい」
床の上にM‐16を置いたオランドは、瀬島の手からショットガンを取ると、扱いの説明を始めた。
「こいつには全部で五発の弾丸が入る。弾丸はここから装填《そうてん》する……」
銃床下部の装填口に、赤い円筒形の銃弾をスライドさせながら込めていく。
「弾丸の方向を間違えるんじゃないぞ。つねにこちら側が前だ」
「分かった」
弾丸がどちら側から射出されるか、その程度のことは知っている。
「装填した銃弾をチャンバーに送り込むのは、この遊底を引けばいい。やってみろ」
銃身下部の木製のグリップをスライドさせる仕草をすると、オランドは再び銃を手渡してきた。
「まさか暴発したりしないだろうな」
「お前さんが引鉄《ひきがね》を引かない限りは大丈夫だ。思い切って引け。そうじゃないとジャムるぞ」
瀬島はショットガンを構えた。バックストックを肩に固定し頬を押し付けた。ショットガンの銃身を万が一に備えて人のいないところに向ける。左手でしっかりと銃床を握る。吸い付くような木の感触が心地よかった。精神が俄《にわか》に高揚してくるのが分かった。
「そう、いい姿勢だ。そのまま銃床をスライドさせろ。引鉄には指をかけるなよ」
瀬島は改めて銃床を握り直すと、意を決してそれを手前に引いた。耳元で、金属が擦れ合う音がしたと思うと初弾がチャンバー内に装填される手応《てごた》えがした。
「それで狙いを定めて引鉄を引けばいい。いまさら言うまでもないが、ショットガンの銃弾の中には鉛の粒が何十と入っている。それが発射と同時に拡散していくわけだ。銃の心得のないお前でも、命中する確率はぐんと高くなる」
「あまりぞっとしない話だな」瀬島は銃を下げると言った。「だってそうだろう。ガードマンの連中が持っているのも、ショットガン。腕の善し悪しが命中率にそう影響しないというのは連中にしても同じことだ。狙われるこちらが被弾する可能性もぐっと高くなる」
「頭が働き過ぎるのも考えものだ。すぐ悲観的にものを考えたがる」
オランドは薄く笑った。その時、山と積まれた資材の陰からモーターの回転する甲高い音が聞こえた。
「あれは?」
思わず問い返した瀬島に、
「銃だけじゃ、数の劣勢を補うことは難しいかも知れないと思ってな。ちょいとしたものを作らせている」
「ちょいとしたもの?」
瀬島は思わずマリオと顔を見合わせた。オランドはニヤリと笑うと、先に立って二人を音のする方に誘った。
そこでは五人の男たちが、床に蹲《うずくま》るようにして何かの作業をしていた。その周りには色の異なった二種類の箱。半ばから切断されたシャンペンボトル。ココナッツワインの空き瓶。それにポリタンクに入れられた赤い液体と、明らかに何かの薬品が入っているとみられる瓶が置かれていた。
「何を作ってるんだ」
「C‐4さ」
「C‐4ですって!」
武器に興味を持たない者でも、その名前ぐらいは知っている。軍事作戦では広く用いられているプラスチック爆薬だ。
「まさか、そんなものがハンドメイドでできるものなのですか」
「何も、軍で使っているような立派なものを作ろうっていうんじゃなければ簡単なものさ。それ、そこにある二つの肥料、それにケミカルを一つ混ぜてやればいいだけだ」
唸《うな》りを上げているモーターの正体はコーヒーミルだった。それを操作していた男は手を止めると、樹脂のキャップを外して見せた。完全に粉砕され、きめ細かいパウダーになった中の物質が、淹《い》れ立てのコーヒーから立ち上る湯気さながらに、微細な粒子となって仄《ほの》かに宙を舞った。
男は上目遣いにちらりとこちらを見ると、すでに別の色のパウダーが入れられていたボールの中におもむろにぶちまけた。返す手でケミカルの入った瓶を持つと栓を開け、中の液体を注ぎ出した。刺激臭が鼻をついた。頃合いを見計らったところで、男はケミカルとパウダーをゆっくりと攪拌《かくはん》した。
「簡単なもんさ。後はあの液体を半分に切ったシャンペンボトルの中に注いで、瓶をメタルテープでぐるぐる巻きにしてデトネーティング・コードを差し込んでやれば一丁上がりだ」
「破壊力の程はどうなんだ」
「この程度のものでも、L字形の鉄板を切断するぐらいのことはできるだろう」
「そんなに凄《すご》いのか」
「と言っても、設置する位置によるがな」オランドは、半分に切断されたシャンペンボトルを手にすると、「一番威力を発するのはこのボトルの底の部分に当たった所だ。何と言ったかな」
「モンロー効果」
作業をしていた男が言葉を継いだ。
「そうそう、そのモンロー効果というやつだ。爆発の威力はこの瓶の斜めに切られた部分から、中心に向かう。つまり爆発力は中心の一点に集約されて、真下に向かって噴き出すというわけだ」
「なるほど」
「施設の中の様子が分からない以上、あらゆる事態を想定しておくに越したことはない。ドアが厳重にロックされていたとしても、こいつがあればロックを破壊することはそう難しいことではない。それにこいつは簡易|手榴弾《てりゆうだん》としても十分に使える代物だ」
「簡易手榴弾?」
「そうだ。中にベアリングの弾を入れておけば、クレイモアと同じ働きをする」
「何です。クレイモアって」
「地雷だ。こいつは爆発による鉄の破片で人を倒すのではなく、中にびっしりと入れられた鉄球が爆風とともに飛散し、前面の敵を薙《な》ぎ倒す。もし撃ち合いになってこちらが劣勢になった時は、デトネーティング・コードに着火してやつらに向かって地面に転がしてやればいい」
「そこにある、ココナッツワインの瓶は何に使うんだ?」
「火炎瓶だ。中身はガソリンとモーターオイルを同比率で混ぜ合わせたものだ。瓶の首には布をきつく巻き付けておく。投げる前にオイルライターの燃料を染み込ませて点火……。あとは説明するまでもないだろう」
「いったい、そんな知識をどこで覚えたんです」
「こいつらは、かつて軍隊にいたことがあってな。銃器や爆発物についてはプロ中のプロってわけだ」
「なるほど」
思わず肯《うなず》いた瀬島に向かって、
「そう言えば襲撃に加わる仲間をまだ紹介していなかったな。ここにいるのがすべてじゃない。すでに二人を施設の監視に張りつけてあるが」オランドは改まった口調で言うと、「みんな、ちょっと集まってくれ」と大きな声を張り上げた。
倉庫内にいた男たちが集まって来た。
「お前たちに今夜の襲撃に加わる日本人を紹介しておく。ミスター・セジマだ。マリオはみんな知っているな」
男たちが一斉に肯いた。
「セジマは銃を扱うのも初めてなら、襲撃なんて荒っぽい手にでるのも初めてだ。みんな面倒をみてやってくれ」
オランドはそう言うと、瀬島に向き直り五人の男たちを次々と紹介していく。
ロレト、リコ、アヴェリーノ、テディ、ヴェナス……五人の男たちと握手を交わした。いずれの男たちも、三十を超えたばかりといったところだろうか。贅肉《ぜいにく》一つないのはろくな食事をとっていないせいではない。胸や腕の筋肉が発達しているのが何よりの証拠だ。兵士としての訓練を受け、オランドの下で絶え間ない肉体労働に勤《いそ》しんできた結果だろう。
「セジマ、マリオ、ちょっと」
ひとしきりの紹介が終わったところで、オランドは二人を倉庫の片隅へと誘った。
「なあ、本当にお前ら、今夜の襲撃に参加するのを考え直す気はないか」
小さな声で意外な言葉を投げかけてきた。
「いまさら何を言うんです」
「私だって覚悟を決めていますよ」
瀬島に続いてマリオが言った。
「お前らの決意の程は分かっているつもりだが、どうも俺は気が進まねえ。セジマは押しも押されもせぬ日本の一流企業のビジネスマン。マリオにしたところでやっとこの街を抜け出すことができたんだ。今夜の襲撃は、並大抵のものじゃねえ。おそらく命を落とす者も出るだろう。連中は、俺の忠実な手下であるだけじゃなく、親子も同然の仲だ。堅い契りで結ばれているってわけだ。親である俺の娘の危機は自分の身内の危機でもある。そんなふうに思ってくれている連中さ。それに軍隊で銃器の扱いにもなれていれば、戦闘訓練も受けている。だがお前らは、ずぶの素人だ。同行するには余りに危険が大きすぎる。どうだ。今夜の襲撃は俺たちに全て任す気にはならんか」
ここに至るまでに瀬島の中に躊躇《ちゆうちよ》する気持がなかったと言えば嘘になる。実際に施設の中に突入を試みようとすれば、当然激しい戦いになることは間違いない。凍結卵子を奪取し、無事、諒子の元に届ける。麻里を救出する。その目的を達成するためには自らの命を自らの手で護《まも》らなければならない。それは図らずも、自分に銃を向ける相手を倒すこと、つまりその人間の命を奪うことを意味する。
ビジネスマンとしてのキャリアをうち捨てることに未練はなかったが、改めてオランドに問われると、果たして自分が人を殺すことができるのか。弾丸が飛び交う中に身を晒《さら》してなお、目的を完遂できるのか。不安が頭を擡《もた》げてくるのは事実だった。
「親方。私はやりますよ」傍らにいたマリオが決然として言い放った。「確かに私はこの街を抜け出して、いまの地位に這《は》い上がることはできた。でも、それは私一人では到底なしえなかったことです。僅《わず》かな給料を節約して仕送りをしてくれた姉。養子に出すことを承知してくれた両親。そしてそれを世話してくれた親方。みんなの温かい支えがあればこそのことです。私はいい夢を見させて貰《もら》った。もうそれで十分です。ですが、弟は、ジョエルはまだ志半ば、今度は私があの子のために働く番です。生きてあの子が帰って、再び輝かしい未来に向けて歩み出してくれるなら、私は命を失おうとも本望です。キャリアなど糞《くそ》食らえです」
その時、オランドのポケットの中で携帯電話の呼び出し音が鳴った。片手を翳《かざ》し、ちょっと待てという仕草をしながら、オランドは電話を耳に当てた。
「オランドだ……何? 施設に動きがあるだと……うん、それでどれくらいの人数が集まって来ているんだ……白人ばかり四十人ぐらいだな……そうか状況は分かった……どうしますって、決まっているだろう。予定通り今夜決行だ」
オランドは通話を切るとこちらに向き直った。目つきが一変している。据わった瞳《ひとみ》が並々ならぬ決意のほどを物語っているようだった。
「何かあったのか」
「研究所に続々と白人の男たちが集まって来ているそうだ」
「こんな時間に?」
「ああ、どうやら今夜、何かがあるらしい」
何かがある――。それが意味するところは明白だ。四十人もの白人の男たち。それはまず間違いなく医師だろう。それも臓器移植を行うべく集結しているに違いない。あの手術だけは条件が揃えば時間など関係ない。
また一つの無垢《むく》な命が危機に晒《さら》されようとしている。もしかすると、それは自分と諒子の遺伝子を引き継いだ子供かも知れない。
そう思うと、瀬島は止めどない焦燥感に駆られた。たったいま胸中に込み上げてきた襲撃を躊躇する気持はどこかに吹き飛んでいた。
何があっても凍結卵子を奪回しなければ。麻里を助け出さなければ――。
「親方。私も行くよ。あなたが命に代えてもお嬢さんを助け出したいと思う気持と、私が凍結卵子を奪回したいと思う気持は同じだ。何しろあそこに保存されている凍結卵子は私の分身そのものなのだから……」
オランドは探るような目で瀬島を見た。短い沈黙の時間が流れた。
「何があっても後悔はしないな」
「しない」
「命を失うかも知れないんだぞ」
「構わない」
瀬島は断言した。
オランドがゆっくりと手を差し伸べてきた。
「もう何も言わない。好きにするがいいさ。日本人」
がっしりと握った手からオランドの体温が伝わってくる。熱い血の息吹を感じる。瀬島にもう迷いはなかった。
「親方。準備を急いでくれ。もし私の考えが正しければ、連中は今夜移植手術をする気かも知れない」
「そうか、白人が大挙して押しかけてきているのはそのためか」
「まず間違いなく……」
オランドは瀬島の手を放すと、踵《きびす》を返して仲間の方に向かって歩き始めた。
「みんな準備を急いでくれ。もうあまり時間がない」
ブリーフィング
ウイリアム・アンド・トンプソン研究開発センターの三階にある会議室には、四十人ほどの白人の男たちが集まっていた。所長を務めるフレッチャーは、副所長のノエルとともにホワイトボードとシャウカステンを背にして、一同に向きあっていた。
移植手術が行われる度に決まって行われる最終ブリーフィングだった。
医師たちはそれぞれの役割に従って、小さなグループとなり座っている。彼らの目の前には分厚いカルテと、レントゲン写真の入った袋が置かれていた。だがもはやこの段階にきて、改めてそれらの書類に目を通す医師はただの一人もいはしなかった。世界中に散らばったウイリアム・アンド・トンプソン社の密命を受けたエージェントたちが、移植手術に関してはまだ駆け出しの医師たちの功名心を微妙にくすぐりながら、高額の報酬を餌にかき集めてきたのだ。失敗したところで、何の責任もない。おまけに腕を磨くことができれば、金も貰えるとあっては、これと目をつけた医師が話に乗ってこない例は極めて稀《まれ》なことだった。
「最後に今回のドナーについて、最終確認をしておきます」
長いブリーフィングの最後に、フレッチャーは抑えた声で言った。
「年齢は十四歳。フィリピン人の男子。すでにこの施設に入ってから、一月以上になります。この間に全身の健康状態、感染症の有無、レシピエントとの適合性は全て確認済みです。これから移植手術を行う上でネガティヴな要素はゼロです」
そこでフレッチャーは一同を見渡すと、「心肺移植チーム。何か問題、あるいは質問は?」
それぞれのグループに向かって問いかけ始めた。
「ありません」
「腎臓《じんぞう》移植チームは」
「何も……」
「肝臓移植チーム」
「OKです」
「角膜移植チーム」
「問題なし」
「結構――」フレッチャーは一つ大きく肯くと、「現在の時間は、午後八時。レシピエントは十一時にこの施設に運ばれてくることになっています。手術開始は午前一時とします。それでよろしいかな」
四十人の目がじっとこちらを見つめている。その中に異議を唱える表情を宿したものは見当たらなかった。フレッチャーはその反応に満足すると、
「それではこれから各自準備に取りかかっていただきたい。以上でブリーフィングを終わります。後は手術場で……」
声高らかにブリーフィングの終わりを宣言した。
長いブリーフィングが終わった解放感か、それともこれから生きた人間の臓器を意のままにできるという期待感からか、場が急に騒《ざわ》めいた。
部屋を出ていく医師たちを視界の端で捕らえながら、フレッチャーは机の上に広げた書類を片づけ始めた。束になった分厚い書類。その一番上にはこれから生きたまま臓器を取り出される少年のバックグラウンドが記されたカヴァーシートが置かれていた。
その氏名欄には今夜ドナーとして供される男の子のファーストネームだけが書き記してあった。『JOEL』と――。
侵入
ダットサンのピックアップ・バンの荷台で、瀬島は車の揺れに身を任せていた。排気ガスをたっぷりと含んだ生暖かい風が全身を撫《な》でていく。荷台には瀬島、それにマリオを含めて六人の男たちがいた。マニラの街を荷台に人を満載したトラックが駆け抜けるのは珍しいことではない。並行して走るジープニーの乗客たちの中にも誰一人として興味を向けてくるものはいなかった。
だが荷台の中央に盛り上がったシートの下には銃器、それに爆発物が隠されているのだ。トラックが段差を越える度に、銃身や稼働部といった金属部分が擦れ合う音がした。瀬島は気が気でなかった。
どれほどの威力を持つものかは知らないが、手製のC‐4爆弾が何本も積まれている。それが何かの拍子で爆発したら、それが火炎瓶に引火したら、ここにいる八人はひとたまりもなく吹き飛ばされ、絶命してしまうに決まっている。戦いで命を失うことに関しては、すでに覚悟を決めていたが、犬死には御免だ。
そうした気配を察したものか、荷台にいる一人の男が微妙な笑いを浮かべて話しかけてきた。確かヴェナスと呼ばれていた男だ。
「ミスター・セジマ。心配しなくていい。手製とは言ってもC‐4は非常に安定した爆薬だ。大きなショックを与えても、起爆剤がない限り爆発はしないから。もっとも火気は厳禁だがね」
「じゃあ、もしも何かの拍子で、火炎瓶に火がついたら」
「そりゃあ、爆発しますがね」ヴェナスは白い歯を見せて笑った。「でもそんなことを言い始めたら、戦場で胸に手榴弾《てりゆうだん》をぶら下げている連中、潜水艦の中に、核ミサイルを抱え込んで何百日も水の中で暮らす連中にしたところで危険は同じです。馬鹿げたミスさえ起こさなければ、心配しているようなことは起こりゃしませんから安心して下さい」
「私は君たちのように兵士としての訓練を受けた経験はないものでね。どうしても臆病《おくびよう》になる」
ヴェナスは二度三度と肯《うなず》くと、
「無理もありません。私の経験から言っても新兵というものは同じような反応をするものです。ですが、ミスター・セジマ。これだけは言っておきます。これから我々がしようとしていることは紛れもない戦闘行為です。多分間違いなく、直接命のやり取りをすることになるでしょう。親方からは特別な訓練を受けていないあなたやマリオを極力カヴァーしろと言われていますが、正直言って一旦《いつたん》戦闘状態に陥れば、皆自分の命を護《まも》るので必死です。つまり自らの命は自らで護っていただくしかない。それが戦場の掟《おきて》です」
「君の言うことはもっともだ。私だって頼まれてこの戦いに参加したわけじゃない。自ら志願して加わったんだ。覚悟はできているつもりだ」
瀬島の言葉に嘘はなかった。凍結卵子を取り戻し、奴等が行ってきた非人道的な行為にこの手で鉄槌《てつつい》を下すことができたら、たとえこの身はどうなろうとも構わない。
「ただ、目的半ばにして自爆するようなことだけは御免こうむりたいものでね。少し慎重になっただけだ」
「その点は私たちだって同じですよ、ミスター・セジマ。否応《いやおう》なしにもうすぐしたら、長い緊張の時間に晒《さら》される。リラックスできる時にしておかないと、緊張を持続させることはできません。これも戦場で生き残る一つの知恵というものです」
「ああ、そうするよ。ありがとう……」
優しい笑みを浮かべながら、静かに肯くヴェナスを見ているうちに、
「一つ訊《き》いてもいいかな」
瀬島はふと感じた疑問を口にした。
「何です」
「どうして君たちはこの襲撃に加わったんだ。私にはこの襲撃に命を懸けるだけの動機がある。マリオ、それに親方にもね。だが君たちには命を危険に晒してまで加わる理由などないように思えるんだが」
「不思議に思うのも無理はありません」ヴェナスは視線を遠くに向けると言った。「あなたも知っての通り、貧困層が圧倒的多数を占めるこの国でも、トンドは特に酷《ひど》いところです。あの街出身というだけで、まともな職にありつくこともできやしない。せいぜいが軍隊に入る……その程度の道しか開かれてはいないのです」
瀬島は無言のまま、ヴェナスの言葉に耳を傾けた。
「もっとも、あの街に生まれ育った人間は貧しい暮らしに慣れています。諦《あきら》めというんじゃない。当たり前のことだと思っているんです。どん底から這《は》い上がることができなくとも、その日暮らしの生活から抜け出せなくとも、そんなことは構やしない。ただ家族が日々の食べ物を口にできて、無事に一日を過ごすことができればそれでいいのです……。随分とささやかな願いでしょう?」
「家族を大切にするというのはフィリピンの美徳の一つだと思うよ」
「ええ、実際フィリピン人は家族を大切にします。特に子供をね。誰しもが宝だと思っている……だから、今回の話を聞いた時には我慢がならなかった。トンドの人間を蔑《さげす》んだ目で見ることは構わない。そんなことには慣れていますからね。たとえあなた方、外国人にどう言われようともね」
「全ての外国人というわけじゃないだろう」
瀬島が慌てて言うのを制するようにヴェナスは続けた。
「ミスター・セジマ。別にあなたのことを言っているんじゃない。ただ多くの外国人が酷い言葉で我々のことを呼んでいるのは事実でしょう?」
返す言葉がなかった。フィリピン人を侮蔑《ぶべつ》的な言葉で表現してはばからない外国人がいることは確かだった。
「だが、俺たちの貧困につけ込んで、こんな、人を人とも思わないようなことをしでかす連中だけは許せない。ましてや親方には大きな恩がある」
「恩?」
「親方はね、常日頃から俺たちを家族と呼んでくれた。使用人である俺たちの家族に病人が出れば、病院に行く金を貸してくれることもあった。見舞いにもきてくれた。仕事に何日もあぶれた時には、食い物を恵んでくれることもあった。軍を除隊して街に帰ってきた人間が職を求めれば、温かく迎えてくれた……。そう親方は俺たちにとって、もう一人の親なんです。そう考えれば、アリシアは俺たちの妹。そんな娘《こ》が、口にするのも忌まわしい扱いを受けているとなれば、助けに行くのは当然というものじゃないですか。たとえ命を失う危険があったとしても……」
傍らで会話の一部始終を聞いていたマリオがそっと瀬島の肩に手を乗せてきた。
「ミスター・セジマ。あなたには俄《にわか》に理解できないかも知れませんが、私にはヴェナスの言うことがよく分かります。この私にしたところで、親方には大きな恩がありますからね。多分、弟のことがなくとも、こんな酷い話を聞けば私も銃を取ることを厭《いと》わなかったと思います。もっとも、彼らのように軍隊経験はありませんからどれだけ役に立つかは分かりませんけど」
マリオは穏やかな笑みを湛《たた》えながら軽く肯いた。
トラックは繁華街を抜け暫《しばら》く走ると、小さな河を幾つか渡った。周囲に建物が少なくなり、深い森で覆われた丘陵が目前に迫ってくる。
「いよいよ、パテロスに入りました」
マリオが小声で囁《ささや》いてきた。街路灯一つない道をトラックは進んでいく。前方を照らすヘッドライトの明りからもれてくる光が荷台の上を朧《おぼろ》に浮かび上がらせる。いつの間にかエンジンの震動が変わっている。どうやら丘陵に続く坂を登り始めたようだ。前方からの光に、濃い陰影をもって浮かび上がる男たちの顔に緊張の色が見て取れた。目が異様にぎらついているような気がする。
突如、トラックは速度を落とした。見るとヘッドライトの明りの中に、一人の男が立っている。ネスターだった。彼は計画のあらましを知ると自ら道案内を買ってでたのだ。路肩に停車すると助手席のドアが開きオランドが降り立った。
「みんな降りてくれ。いよいよだ」
「目標の施設はこの先ですか」
マリオが聞いた。
「ああ、このジャングルを真っすぐ登っておよそ三百メートル先になるはずだ」
見るとオランドの手には折り畳まれた地図が持たれている。
「監視にあたっているヨランダからの連絡によれば、状況に変化はないそうだ」
「ということは、二十人のガードマン。それに四十人からの白人――それに常駐している研究者を合わせると中には少なくとも八十人からの人間がいるわけですね」
瀬島は訊《たず》ねた。
「まあ、そういうことになるが、白人どもに戦闘能力があるとは思えない。お前さんの推測が正しければ、連中は医者と科学者だろうからな。倒さなければならないのは、当面二十人と考えていい。想定した状況とそう大差はないさ」
その間に、荷台に乗っていた男たちは、誰に指示されるまでもなく作業を始めていた。武器を覆っていたシートを取り除く。月明りを反射して艶《つや》消しの施された銃身が鈍く光った。
銃が一|挺《ちよう》ずつ丁重にそれぞれに渡されていく。
「こいつは、セジマとマリオのやつだ」
レミントンM870。それに、予備の銃弾が装着された二本のベルトが渡された。ずっしりとした重量を持つその一つを、マリオに手渡してやる。
「すでに銃の中には五発の弾丸が込められている。安全装置を確認してくれ。予備の弾丸は三十発だ」
安全装置がきちんとかけられていることを手探りで確認した。
「大丈夫だ」
瀬島は、手渡されたばかりのベルトを腰に巻こうとした。
「ちょっと待て」オランドがそれを制した。
「その前に着替えをしてもらわなければならない。いかに何でもそんな格好じゃ目立ち過ぎる」
荷台の男の一人が大きな袋を放ってよこした。ずだ袋の中に入ったそれはかなりの重量を持っているらしく、どさりと音をたて路肩の草むらの中に転がった。
「これは」
「黒のシャツにパンツ、防弾チョッキ。それにジャングルブーツが入っている。それから顔を塗るためのドーランもな」
「ここで着替えるのか」
「そうだ」
「分かった」
瀬島はマリオとともに袋の口を開け、中のものを取り出しにかかった。
「セジマ」オランドが呼んだ。「すまんがネスターに、この車を隠す場所を訊いてくれないか」
瀬島は、メモ用紙とペンを受け取ると、ネスターの下に歩み寄った。マリオが背後から手元をペンライトで照らした。
『車を隠す場所はどこにしたらいい』
ネスターは、十メートルばかり先の右の密林を指差した。すかさずマリオがその部分にペンライトの光を当てた。見ると、そこに闇が裂けたような暗がりがある。ちょうどトラック一台が入り込めるほどの幅だ。
「あの部分だそうです」
「リコ。分かったな。いますぐにトラックをあそこに隠してくれ」
「分かりました親方」
トラックがゆっくりと動き出すと、バックで密林の切れ目に向かって姿を隠していく。やがてヘッドライトが消されると、道路からはその存在を確認することはできなくなった。
男たちの動きが慌ただしさを増した。めいめいが黒のシャツに同色のパンツ、それにジャングルブーツに履き終えるまでに五分ほどの時間しかかからなかった。いち早く着替えを終えたヴェナスが脱ぎ捨てた衣類を大きなランドリーバッグの中に集め、それをジャングルの中に隠したトラックに運んでいく。
瀬島は三十発の弾丸が装着されたベルトを腰に巻いた。体の重心が、ぐっと下がるような気がする。
「それからこれは敵と味方を見分けるしるし[#「しるし」に傍点]だ」オランドは二つの赤い布を手渡してきた。「そいつを左右の腕にしっかりと巻いておけ」
マリオが瀬島の腕に布を巻き付け、それが終わると瀬島がマリオの腕に布をしっかりと結び付けた。最後に地面に置いておいたショットガンを拾い上げ、胸の前で構えた時には、瀬島は自分が一人前の戦士になったような気がして、俄に気持が高ぶってくるのを感じた。不思議なことに恐怖はなかった。直接命のやり取りに身を晒《さら》したことがないせいもあるだろう。だがそれよりも、絶対に自分と諒子の遺伝子を引き継いだ卵子を奪回してみせる、麻里を救い出してみせる、全身に漲《みなぎ》る決意が恐怖をかき消しているに違いなかった。
それに俺は一人で敵に立ち向かって行くわけじゃない。マリオも、オランドも、それに心強い味方が他に七人もいるのだ。
ふと横にいるヴェナスを見ると彼だけが防弾チョッキを身に着けてはいない。
「ヴェナス、防弾チョッキは?」
暗がりの中で、ドーランが塗られた黒い顔から白い歯が見えた。
「数が一つ足らないんです」
「無茶だ。実弾が飛び交う中に身を晒そうってのに、生身だなんて」
「心配はいりません。このメンバーの中では私が一番実戦の経験を積んでいますからね。今夜の敵は気が触れた学者に雇われガードマン。持っている武器だってショットガンがせいぜいです。そんな相手に防弾チョッキなんか必要ありませんよ」
ヴェナスは笑みを絶やすことなくそう答えると胸を張った。逞《たくま》しい筋肉で覆われたぶ厚い胸板が大きく膨らむのが分かった。
「みんな、準備はいいな」
オランドの確認の声が闇を通して聞こえてきた。それに異議を唱える者はいなかった。
「よし、それじゃ行こう」
黒いシルエットとなったオランドの腕が振られた。ネスターにもその仕草で意図は十分に伝わったらしく、彼は先に立ってジャングルの中に入って行く。それに続こうとした瀬島とマリオの傍らに、ヴェナスが寄り添ってきた。瀬島とマリオ以外の男たちは、肩から袈裟掛《けさが》けに膨らんだバッグを下げていた。中には手製の手榴弾《てりゆうだん》と火炎瓶が入っていることは言うまでもない。
「もしも戦闘状態に入ったら、二人とも私の傍らを離れないように」
押し殺したヴェナスの囁《ささや》き声が聞こえてきた。
「それは親方の指示か」
「そんなところです。まあ、私にしても新兵がむざむざ命を落とすところを見るのは忍びないものでね」
「ありがとう……」
「礼は作戦が無事終わってからでいいですよ」
ヴェナスはそう言うと、二人の先に立って深い木立を掻《か》き分けながら歩き始めた。
「ヨランダか……オランドだ。いまジャングルをそちらに向かっている。花火[#「花火」に傍点]が上がるまであと三十分というところだろう。準備を始めてくれ」
携帯電話に向かって囁くオランドの声が、密林の中に聞こえた。
腐葉土が堆積《たいせき》する地面を踏みしめる音が、戦いまでの秒読みを刻んでいるかのように瀬島は感じた。
傾斜はそれほどきつくはなかったが、足場が悪いうえに滞留した大気はまだ昼の熱の余韻を残しており、距離にして僅《わず》か三百メートルを歩く間に瀬島の全身は汗みずくになっていた。シャツが皮膚に貼り付く感触が不快さに拍車をかけた。腰に巻いた銃弾を装着したベルトが重かった。吐く息が荒くなり、早鐘のように収縮を繰り返す心臓が口から飛び出してきそうな気がした。M‐16を持つ男たちが腰に巻いた弾倉帯には三十発の弾丸の入ったマガジンが十本、ストリップ・クリープで止められた二十発ワンセットの弾丸が十本、それに手製の手榴弾に火炎瓶をバッグに入れて所持しているにもかかわらず、彼らは息が乱れるどころか平然としている。いかにかつて兵士としての訓練をうけ、日頃は肉体労働に従事しているとはいえ、体力の差には歴然たるものがあった。
息が切れかかる頃になってようやく密生する木々の間から光が差し込んできた。おそらくは敷地を照らし出している水銀灯のものだろう。傾斜を登る一行の歩速が遅くなり、緊張感が俄《にわか》に漂い始める。
「止まれ……」
ジャングルの終わりがすぐ目の前にきたところで、オランドが低い声で命じた。少し遅れて先頭に追いついた瀬島の前に、木立の間から施設の全容が広がった。広大な敷地を覆う奇麗に手入れされた芝。眩《まばゆ》いばかりの光の中に照らし出された鮮やかなグリーンはまるで野球場のナイターフィールドのようだった。庭の一画にはヘリポートもある。そして窓という窓がミラー張りのガラスで覆われた三階建ての建物。高い金網のフェンス。その上部に螺旋《らせん》状に巻かれたレザーワイヤー……。それは人里離れたジャングルの中にあって、一際、異彩を放っていた。外に灯《とも》る水銀灯の光を反射しているだけの窓から中の様子を窺《うかが》い知ることはできない。
ちょうど建物の裏手に出たせいもあって、正面玄関の様子は確認できないが、少なくともここから見るかぎり、人の気配というものは感じられなかった。中には少なくとも八十人からの人間がいるはずだったが建物は眩いばかりの光の中に、静謐《せいひつ》に包まれて佇《たたず》んでいた。
オランドは携帯電話を取りだすと、ボタンを押した。
「ヨランダ、俺だ。いまちょうど建物の裏手に出た。人影は見当たらないが、状況に変化はないか」
監視を続けているヨランダは正面玄関を望める位置にいるはずだった。
「……そうか前回の報告から何も変わっちゃいないんだな……分かった、お前はそのままの位置で待機してくれ。我々はこれから施設へ侵入する。連中に見つかれば撃ち合いになるかも知れない。その時は正面のガードマンはお前たち二人に任せる。うまく援護をしてくれ。そこから見えるガードマンは何人だ……三人だな。とにかく銃声が聞こえるまでは何もするな……そうだ、銃声が行動の合図だ。神のご加護を――」
オランドが携帯電話をポケットに戻した。
「よし、移動だ」オランドは傍らにいたネスターの肩をぽんと叩《たた》くと、指で侵入経路となる排水溝の方向を指差した。ネスターは肯《うなず》くと、先に立って歩き始めた。
誰もが無言だった。密生する木々の間を掻き分けながら九人の男たちは、慎重な足取りで息を潜めながら目指す排水溝に向かって移動した。
それは建物のちょうど裏手正面にあるはずだった。いまいる場所から距離にして五十メートルといったところだろうか。その半ばあたりまで来た時、木立を通して差し込んでくる光の中でオランドの手が上がった。後ろに続いている男たちが次々に同じゼスチャーをし、後方に注意を促した。『待て』の合図だ。それに続いて手が二度上下し、今度は『身を伏せろ』の指示が送られてきた。その場に跪《ひざまず》きながら建物の方を見ると、一人のガードマンが姿を現した。白の開襟シャツに黒のパンツ。その手にはショットガンを所持してる。まるで、小型のホッケーのスティックのようなそれは自分が所持しているものよりも、幾分短いように感じる。多分銃身を短く切ったものだろう。腰には拳銃《けんじゆう》が入っていると思われるホルスターが吊《つ》り下げられている。
ガードマンは煌々《こうこう》と照らされた芝の中ほどをゆっくりと歩いていく。そこからは警戒心の欠片《かけら》も感じられない。それが証拠に、男は庭の中ほどまで来ると、ショットガンを宙に翳《かざ》し、大きな伸びをした。
だが、木立の中に身を潜める男たちの中に流れる緊張感は緩むことがなかった。些細《ささい》なミスが作戦の失敗に繋《つな》がる。全員の目がガードマンの一挙手一投足に注がれるのが分かった。瀬島はガードマンの動きを見詰める一方で、建物の様子を子細に観察した。一階部分の一画に、地下に向かってぽっかりと口を開けた空間がある。おそらくあそこがネスターが麻里と手話で会話を交わしたと思われるアスレチックジムがある場所だろう。
瀬島はすぐ隣にいるマリオに視線を向けると、その場所を指し示した。
どうやら、マリオも意図を察したらしく深く肯いた。
ガードマンは周囲を取り囲む密林の中で息を潜めながら監視を続けるこちらの気配に気がつく様子もなく、悠々とした足取りで庭を横切ると、やがて建物の陰に姿を消した。
耳元まで掲げたオランドの手が振られた。男たちは一斉に立ち上がると、再び移動に入った。暫《しばら》く行くと、敷地を囲む金網のフェンスの下部が、二メートルばかりのコンクリートの壁でできている部分が見えてきた。そこには高さ一メートルばかりの穴が暗い口を開けていた。目指す排水溝だ。庭とは段差があるせいで、うまい具合に陰となって水銀灯の光も届かない。これなら監視カメラにも引っかからずにそこに潜り込むのは可能なようだ。
オランドが後方に待機していた瀬島に向かって、『こっちへ……』と言うように手招きをした。すかさずその傍らに忍び寄った瀬島に向かって、
「ネスターに伝えてくれ。ここまで来ればもう十分だ。あとは俺たちでやると」
小声で言った。
「分かった」
瀬島はメモ用紙を取りだすと、いまオランドが言ったことをその上に書き綴《つづ》った。木立を通して漏れてくる明りのせいで、ペンライトを灯《とも》さずに済むのが有り難かった。
文面を一読したネスターは、静かに首を振った。メモ用紙とペンを貸せという仕草を送ってきた。
『建物の中に入るには、IDカードとパスワードがいる。私が入れるのは廃棄物置き場までだが、そこまでは同行した方がいい』
「親方。建物の中に入るにはIDカードとパスワードが必要だと言っています。どうします?」
オランドは少し考えているようだったが、
「しょうがない。危険を冒させるのは気乗りしないが、もう少し協力してもらおうか」小声で言うと、全員が円陣を組むように命じ、「これからいよいよ施設の中に突入する。知っての通り中の様子は分からない。出たとこ勝負だ。いまさら言うまでもないことだが、最大の目的は拉致《らち》された人間の救出。それに保管されている凍結卵子の奪回だ。おそらく侵入はそう時間を置かずして連中の知るところになるだろう。だがさしあたっての脅威はガードマンの連中だ。ゲートを固めている連中は、ヨランダたちに任せておけばいいが、それでも中には二十人近くのガードマンがいる。どうやら連中が所持しているのはさっき見た巡回のガードマンの装備からすると、ショットガンに拳銃といったところがせいぜいだ。少なくとも火力という点においては、こちらに圧倒的に利がある」
「ショットガンに拳銃ね。その程度ならこいつの前にはさしたる脅威にはなりませんよ。さっきあいつが持っているやつを見ましたが、あれは正規の代物じゃない。レミントンをベースにした密造銃。装弾数も五発。やつらが二発発射する間にこっちは三十発の弾丸をお見舞いすることができる」
ヴェナスが手にしていたM‐16を撫《な》でながら言った。
『M‐16をフルオートでぶっ放せば、三十発のマガジンを空にするまで二秒程度しかかからない』
オランドが言った言葉が思い出された。
「それに連中が大挙して押し寄せてくればしめたものです。C‐4を詰めた手榴弾をお見舞いしてやれば、一発でことが済みますからね」
「そう都合良く行けばいいがな」オランドはあくまで慎重な口調で言った。「とにかく目的を達成するためには、中の様子を熟知している連中を捕らえなければならない。おそらくガードマンは拉致した娘たちの居場所を知ってはいるだろうが、セジマの目的である凍結卵子の存在は知らないだろう。そのためにはこの組織を運営する人間を捕らえなければならない」
「医者たちは抵抗するでしょうか」
「それはあまり考えられないな。ガードマン連中を倒しさえすれば、命乞《いのちご》いをすることはあっても、まず銃を手にして戦いを挑んでくることはないだろう」
オランドは、そこで一旦《いつたん》言葉を区切ると、
「これは最初の突入に成功したらの話だが、とにかくガードマンは手当たり次第に倒せ。投降してくる者がいたら、武器を奪い、床に這《は》わせた上で両手を銃床で砕け」
「そんなことをしなければならないのか? 投降してきた人間に?」
背筋に冷たいものが流れるのを感じながら、非難の意思を込めて瀬島は訊《たず》ねた。
「死にたくなかったらそうするんだな。へたに情けをかけることが命取りにならないとも限らない」オランドは反論の余地もない口調で、ぴしゃりと言い放つと、「ヴェナス、リコ、内部への突入に成功したらお前たち二人はセジマと一緒に凍結卵子の奪回にあたれ。他の連中は、俺と一緒に拉致された娘たちの救出にあたる。いいな」
全員が心得たとばかりに無言のまま肯いた。
「よし。それじゃ行くぞ」
オランドがネスターの肩を優しく叩いた。それに肯いたネスターは、一瞬呼吸を整えると密生した木立を掻《か》き分けながら、排水溝の入り口に向かって脱兎《だつと》のごとく駆け寄って行った。
作戦はついに実行段階に入った。
それは苦行に等しい行為だった。縦横一メートル四方の排水溝の中を移動するのは、軍隊でいう匍匐《ほふく》前進を強いられた。肘《ひじ》と膝《ひざ》を使い身をくねらせながら前に進む。地上でも生易しいことではないのに、施設から排水される汚水は何かのケミカル成分を含んでいるらしく、鼻をつく刺激臭が充満している上に、コンクリートの表面にはヘドロのようになった堆積《たいせき》物や、苔《こけ》のように滑《ぬめ》りを帯びたもの[#「もの」に傍点]が全面を覆っており、まるでガラスの上を這う蛇のような有り様だった。外からざっと距離を測ったところでは五十メートルにも満たない距離のはずが、果てしないものに感じられる。時折、前を行く男の足が滑ると、飛沫《ひまつ》が上がり、その度に目に強い刺激を感じた。先進国ならば環境に配慮して完全に浄化された後に流される排水も、この国では規制などあってなきがごときものなのだろう。だが浄化槽がないこの構造こそが、施設への侵入を容易ならしめているのだと思うと、瀬島はその苦行に必死に堪えた。永遠とも思えるような時間が過ぎた。前方に天井から明りが差し込んでくるのが見えた。ふと時計を見ると、夜光塗料が塗られた針は侵入を始めてからまだ十五分ほどしか経っていないことを示していた。汗みずくになったシャツの前面、それにパンツの前面が、汚水で濡れて胸に、太腿《ふともも》にへばりついてくる。
「OK、いよいよ外に出るぞ。全員弾丸を装填《そうてん》しろ」
男たちはめいめいの姿勢で銃を持ち直すと指示を実行した。M‐16のボルトが引かれ、金属が擦れ合う音に被《かぶ》さって、瀬島やマリオが持つショットガンの遊底が引かれる音が狭い空間に充満した。そして訪れた静寂――。
前方で最初の一人が立ち上がるのが見えた。オランドだった。彼は地上に出る縦穴の壁面に取り付けられた梯《はしご》を昇り始めた。そしてそれに続いてネスター。三人目が立ち上がったところで、動きが止まった。どうやら外の気配を窺《うかが》っているらしい。
やがて重量のある金属が鈍い音をたてた。ついに蓋《ふた》が開かれたのだ。その音が止むと同時に、男たちが次々に梯を昇り外へと飛び出して行く。瀬島はヴェナスに続いて五人目に梯を昇った。外に出た瞬間、眩い光に包まれると同時に、新鮮な空気が肺一杯に入り込んで来るのが分かった。一瞬の至福の時を味わう暇もなかった。縦穴から飛び出した男たちは、腰をかがめた姿勢で五メートルほど先の建物への入り口に向かって、全力で駆けていくと、次々に壁面へとへばりつく姿勢を取った。
ネスターは早くもIDカードを取り出し、ロックの解除をしようとしている。次々に這《は》い上がってくる仲間を援護しようと、先に壁にとりついたオランド、ロレトがM‐16を構えて周囲を警戒する。しんがりを務めていたリコが合流するタイミングを見計らっていたように、ドアのロックが解除されるモーターの動く音がした。
鉄のドアがネスターの手によって勢いよく開かれた。
壁面に身を押し付けていたオランドがM‐16を構えて勢いよく飛び込んでいく。それに続いてロレト、ネスター……。
いまこの瞬間にも起こるかも知れない銃撃戦の恐怖が込み上げてくる。心臓が激しい搏動《はくどう》を繰り返す。ヴェナスが飛び込んでいく。それに続くべく踏み出した足が、意識とは反対に妙にもどかしく、ともすると縺《もつ》れそうになった。視界が開けた。ネスターが言った通り、そこは廃棄物置き場で、黒いビニール袋に入れられたゴミが山と積まれていた。厨房《ちゆうぼう》から出されたものか、生ゴミが腐ったような臭い。それに混じって微《かす》かに何かの薬品の刺激臭がした。
とりあえずの危険がないと見たオランドがネスターの肩を叩《たた》くと、親指を立てた手を肩口に翳《かざ》し、もうここを立ち去れというサインを送った。
だがネスターは首を横に振った。
「ネスターもう十分だ。早くここを立ち去れ」
聞こえるはずもないことを知りながら、オランドが早口で言った。
一旦銃撃戦が始まれば、聴覚に障害のあるネスターは敵の気配を自らの力で悟ることはできない。もう彼は十分に貢献した。これ以上ここに留《とど》まることは危険過ぎる。
瀬島にしたところでネスターがすぐこの場を立ち去るべきだという気持は同じだった。
ネスターの腕を掴《つか》んだ。
「ネスター早く!」
だが彼は瀬島の腕を振りほどくと、部屋の片隅にあるドアに向かって駆け始めた。
鉄のドアの横の壁面には、ロックを解除するためのスキャナーと、暗証番号をインプットするキーボードが取り付けられていた。
もしかしてネスターはこのドアを開くことができるのだろうか。確か彼はこの施設の内部には入ったことがないと言っていたが……。もしあの時の言葉の通りだとすれば、これほどの施設だ。おそらく、内部で働く人間にはそれぞれの職分に従って、立ち入り制限が加えられているはずだ。
瀬島が考えている間に、ネスターは手にしていたIDカードをスキャナーに通した。果たして予期していた通り、キーボードの上についている小さなランプが赤く点滅した。
ネスターは再びカードをスキャンにかけた。だが赤い点滅光が点灯するだけで、いくら暗証番号をインプットしてもロックは解除されなかった。
悲しげな顔をしてネスターが振り向いた。
「駄目なんだよ、ネスター。君はここから先への立ち入りは禁じられているんだ」そう言いながら瀬島は目の前で腕を交差させ『×』を作ると、「早く出ろ」と、腕を掴み彼を外へと誘った。
ネスターは無念の表情も露《あらわ》に、一同を見渡すと、手話で何かのメッセージを送ってよこした。
おそらくは、成功を祈る……あるいは神のご加護を……とでも言いたかったのだろう。手話を解することはできなくとも、目の表情がそう言っているようだった。
「さあ、早く! ありがとうネスター」
手話ができない身にとって、感謝の意を表すのは笑顔だけだ。
瀬島は精一杯の笑顔を作ると、顔の前で拝むような仕草をした。
どうやら、意図が伝わったらしく、ネスターは踵《きびす》を返すと外に向かってドアから出て行った。
「さて、どうする」ネスターが姿を消したところで、オランドが言った。「こいつを開けないことには中に入れないが……」
「どうせ、やるなら派手にぶちかましましょうか」
ロレトがどすの利いた声で言うなり、肩に袈裟掛《けさが》けにしていたショルダーバッグから、手製の手榴弾《てりゆうだん》を取りだした。
「こいつを使えば、こんなドアのロックをぶっ壊すことぐらいは簡単なことですよ」
「しかしそんなことをしたら、ガードマンが一斉に押し寄せてくるぞ」
思わず瀬島は叫んだ。いまこの瞬間にもどこからか弾丸が飛んできそうな恐怖が込み上げてくる。
「それならそれで一気に片がつくってもんじゃありませんか」
「それじゃギャンブルだ。連中に気づかれるのは時間の問題かも知れないが、極力その時間を遅らせることが成功につながるんだ。もしも、戦闘が長引けばガードマンはともかく、肝心の組織の全容を知る連中が逃げてしまわないとも限らない。しかもその前に拉致《らち》された人間たちを始末してな」
「だったら、どうするってんだ。他にどんな方法がある」と、声を荒らげてロレト。
確かに、この扉が開かないことには次の行動に打っては出られない。その点ではロレトの言うことにも一理ある。だが一か八かの賭《かけ》は余りにも危険過ぎる。
刺すようなロレトの視線が痛かった。思案に行き詰った瀬島は思わず天を仰いだ。その目に、天井のすぐ下にある通風口が目に入った。
「あれだ!」
反射的に指差した方向を全員の視線が追った。
「通風口ですか。うん、こいつはいけるかもしれない」マリオがすかさず反応した。「おそらくあそこを辿《たど》って行けば、ここから内部に侵入できるはずです」
「よし、それで行こう!」
オランドが言った。親方の判断に異議を唱える人間などいやしなかった。
「すまねえ、ミスター・セジマ。つい熱くなっちまった」
「いや、こちらこそ……すまなかった」
ロレトに悪意がなかったのは元より承知だ。瀬島は軽くその肩を叩くと、静かな笑みでその言葉に応《こた》えた。
「しかしこれは少し入り口が狭いぞ。誰が入れる」
その間に通風口の下に歩み寄ったオランドが言った。確かにそれは、大人、それもかなり肩幅の狭い人間がやっとという間口しかなかった。
「それなら、俺でしょう。俺に行かせて下さい」
志願したのはロレトだった。確かに彼はこの中では一番肩幅が狭く、身長も低い。彼をもってして無理ならば、この中の誰がやっても無理だ。
「よし、ロレト、やってみろ」
オランドが命じた。他の男たちが、周囲にあったテーブルや椅子を移動させ、足場を作りにかかった。それが組み上がったところでロレトが身軽にその上に飛び乗った。手が通風口を塞《ふさ》いでいる格子状のカヴァーにかかった。
建物の一階にある中央監視室の壁には十台の監視カメラからの画像を映し出すテレビモニターが目よりも高い位置にずらりと並べられている。机の上には二台のコンピュータ・モニターがあり、一つは施設のパワーラインやもろもろの設備を監視するためのもので、もう一つはセキュリティシステムに繋《つな》がっていた。そのモニターに警告を表す表示が出た。『不正アクセス』の赤い文字が画面中央でブリンクしながら注意を促してきた。誰かが立ち入りを許可されていないエリアへのアクセスを行ったのだ。
監視室の中には、二人の男がいた。たまに施設内の機器の不具合を示す表示があっても、侵入者がモニターに現れたことはなかった。この施設は頑丈な金網のフェンスの上に、レザーワイヤーがコイル状に巻かれている。正面のゲートには常時三人から四人のガードマンが常駐している。しかもジャングルの中にある商業施設でもないこの建物に侵入してくる物好きはそういるものではない。
一方のセキュリティシステムはと言えば、たまにガードマンのシフトの変更があった場合に、うっかりパスワードを忘れた人間が、間違った番号をインプットして反応するのがせいぜいで、いずれにしても大事に至ったことはない。
「おや、誰かが立ち入り禁止区域に侵入しようとしているぞ」
それでも久々に表示されたメッセージは、ガードマンの興味を十分に引いた。何しろめったなことでは異常表示など現れないモニタリングという仕事は、退屈極まりない。ちょうどいい刺激だった。
「今夜はビジターが館内にはたくさんいるからな。おおかた中の様子を知らない誰かがうっかりしたんだろう」
もう一人の男が、さほどの興味を示さずに返事をする。
「多分そんなところだろうな」
男はそれでもマウスを手にすると、不正侵入者の正体を調べるべく画面の中にある一つのアイコンをクリックした。レイアウトが変わり、スキャナーが読み取ったIDを名前と共に表示してきた。
[#ここから1字下げ]
≪不正アクセス情報・詳細≫
不正アクセス者ID:MB009015 エリア:GFA‐17 時間 21:33:25
不正アクセス者ID:MB009015 エリア:GFA‐17 時間 21:33:30
以上二件の不正アクセスがありました。
ID所有者氏名:ネスター・ジャレト
立ち入り許可エリア:GFE‐1、GFE‐2、GFA‐15、FBX‐20、FBX‐21、FBX‐22
[#ここで字下げ終わり]
ネスター・ジャレト――。当然その名前は知っていた。聴覚障害を持ったガーディナーの爺《じい》さんだ。あの男はこの施設の設立とともに働きだし、内部の規則はよく知っているはずだ。不用意に立ち入りが禁止されているエリアへ立ち入ろうとするとは思えない。しかも一度なら間違いということもあるだろうが、二度にわたってロックを解除しようとしている。これはいったいどういうことだろう。
「誰が不正アクセスしようとしたんだ。やはりビジターか」
隣に座っていた男が訊《たず》ねてきた。
「いや、ネスターだ」
「ネスター? あの爺さんか」
「ああ、しかもGFA‐17のドアのロックを解除しようとしたみたいだ。それも二度もだ」
「二回も? 規則を知らないビジターじゃあるまいし、何でまた?」
男はその問い掛けに答えず、再びマウスを操作すると別のメニューを選択した。画面が切り替わると一階部分の見取り図が表示された。ネスターが不正アクセスをした、ドアの部分が赤くブリンクしながら注意を促してきた。
それは廃棄物置き場から、厨房《ちゆうぼう》に繋がるドアだった。
「爺さん、腹でも空かしたのかな。廃棄物置き場から厨房に繋がるドアを開けようとしていたみたいだ」
「しかしあの爺さんは、資材置き場で食事を摂ることになっている。厨房への出入りは禁止されているのは、知っているはずだぞ。腹が減ったら減ったで、近くのガードマンに言えばいいものを……それに、何だってこんな時間まで居残っているんだ。彼の勤務時間はとっくに終わっているはずだ」
男の言うことはもっともだった。ガーディナーのネスターの勤務時間は、朝の八時から夕方五時までのはずだ。ガードマンのようにシフトで働いているわけじゃない。そうして考えると、もう一つ奇妙なことがあることに男は思い至った。今日は土曜日。爺さんは休日のはずだ。
急に男は不安になって、再びマウスを操作すると別のメニューを選び出した。
[#ここから1字下げ]
≪入退記録≫
該当者ID番号をインプットして下さい《》
[#ここで字下げ終わり]
男はネスターのID番号を空欄にインプットするとリターン・キーを押した。画面が即座に反応し、彼の退出記録が現れた。
男は思わず眉を顰《ひそ》めた。
「これはいったいどういうことだ」
「何がだ」
隣に座る男が画面を覗《のぞ》き込んできた。
「ネスターのやつ。昨日の夕方に施設を出たきり、今日ここに入った記録はない。正面ゲートでカードをスキャンしない限り中には入れないはずだが……」
「本当だ。こいつは妙だな。彼はどこから入り込んだんだろう。まさかメインエントランスのブースの連中が、手を抜いたとは思えないのだが……」
男はその言葉を聞き終わる前にすでに机の上の電話に手を伸ばしていた。もしも廃棄物置き場に監視カメラがあれば、状況は一発で把握できたはずだが、あいにくそこに設置されてはいなかった。一番近い所にいるガードマンは、厨房からカフェテリアを抜けた所にある正面玄関のロビーにいる。
トランシーバーのスイッチを入れると、男は指示を出した。
「中央監視室からL‐1……」
『こちらL‐1』
「悪いが廃棄物置き場の様子を見てきてくれないか」
『それは構わないが。何かあったのか』
「不正アクセスがあった。どうもネスターの爺さんが厨房に続くドアを開けようとしたらしいんだが、奇妙なことに入退出記録は昨日の夕方にここを出たきり、入ったレコードがない。それに今日は土曜日。本来なら爺さんは休みのはずなんだが」
『分かった。ちょっと見てこよう』
L‐1と呼ばれた男は、広い正面玄関ロビーを歩き始めた。大理石の床に、革靴の底が当たる度に硬い音が響いた。エレベーターホールを横切り、来客用のソファーと机のセットが数組置かれた応接エリアを過ぎると、カフェテリアに入る。名目的にはこの研究所に常駐する研究者たちが食事をするために設けられたことになってはいたが、フィリピン人の調理人が作る食事は米国人の口に合わないのか、ここで昼食をとるスタッフはめったにいなかった。いつの間にかここはガードマンたちが食事をとる、あるいは休息の時間にたむろする場となっていた。明りは消されていたが、レイアウトはよく知っている。
男はそのまま、カフェテリアを抜けると厨房へと入って行った。ステンレスの地が剥《む》き出しの調理台や冷蔵器具がどこからか差し込んでくる薄明りの中で鈍い光を放った。
廃棄物置き場に続くドアの在処《ありか》は分かっていた。
あの爺さんが何でまたこんな時間に厨房に入ろうとなんかしたんだろう。監視室の男は、今日爺さんが施設に入ったレコードがないと言ってはいたが、何かの間違いだろう。この敷地の中に入るに当たっての出入り口はメインゲートのただ一つしかない。あそこを通る者はすべからくIDカードをスキャンすることを義務づけられている。ビジターにしたところで、ブースで発行される臨時のパスを貰《もら》わなければ中に入れない。スキャンが不十分だったのをブースの連中が見逃したか、あるいはシステムに何か不備が生じたのか。いずれにしてもそう大したことではないさ。
男は鉄の扉の前に立つと、胸からぶら下げていたIDカードを取り出し、壁に取り付けられていたスキャナーに差し込んだ。グリーンの小さな光が暗がりの中で鮮やかな光を放った。暗記していたパスワードをキーボードにインプットした。ロックが外れるモーターの鈍い音が響いた――。
「しっ! 誰か来ました」
逸早《いちはや》くその音を聞きつけたのはマリオだった。
彼の押し殺した声に通風口を外そうとしていた男たちの動きが凍りついたように止まった。
いよいよ始まる。
そう思うと、瀬島の両の足、ショットガンを持った手が小刻みに震え出した。木製のグリップを握った掌《てのひら》にべっとりとした汗が湧いて出てくる。口の中が異様に乾いた。吐く息が速くなり、心臓は喉《のど》から飛び出そうだ。
後悔しないと言ったら嘘になる。死への恐怖が俄《にわか》に現実のものとして頭を擡《もた》げてくる。
だがここまで来ればもはや逃げ出すことなどできやしない。賽《さい》は投げられたのだ。
覚悟を決めろ。凍結卵子を何としても取り戻すんだ。
瀬島は胸の中で自らを鼓舞すべく何度も叫んだ。
最初に反応したのは、ヴェナスだった。彼は素早くドアの傍に身を押し付けると、周囲の人間に『散れ!』という合図を送った。その間にM‐16を床に置き、肩から袈裟掛《けさが》けにしていたバッグを床に置いた。瀬島はマリオと共に、ヴェナスの背後に回る形で壁に体を押し付けた。だがすでに通風口の格子を外し終えたロレトは今更どうすることもできずに、机の上に積み上げた椅子の上で戸惑いを隠せない表情で、ドアの方向を見ている。
オランドが、アヴェリーノが、すかさずM‐16を構えた。ドアが開いた。全く不用意に男の頭部が扉の陰から覗《のぞ》いた瞬間、ヴェナスの腕が伸び、頭髪を無造作に掴《つか》んだ。敵の髪を掴んで引き倒すのは、軍隊の格闘術で教え込まれる戦法の一つだ。背後から不意をつかれ頭髪を掴まれた男は、仰向《あおむ》けにひっくり返った。息つく間もない早業でヴェナスの拳《こぶし》が男の顔面へ飛び、膝《ひざ》が腹へめり込んだ。拳が肉に当たる湿った音と共に、膝がめり込んだ腹部から蛙が踏みつけられたごとく呻《うめ》き声が漏れた。
男は打撃を受けた顔面や腹部に手をやることもなく、硬直させた四肢を広げた。
全てが夢の中の世界の出来事のような気がする。
瀬島はどうしていいものか呆然《ぼうぜん》としてそれを眺めた。
マリオが閉じかけたドアの間に身を滑り込ませると、ショットガンを構えて後続の動きを窺《うかが》った。
「誰もいない。こいつ一人だ」
マリオが告げた。
「よし。こいつはガードマンだな。生きて捕らえられたのは何よりだ」銃を下げたオランドがゆっくりと歩み寄りながら男を舐《な》めるような眼差《まなざ》しで見る。
「マリオ、そこを閉めていいぞ」
「しかし親方」
「心配するな。こいつは開け方を知っている」
「分かりました」
ドアが重い音をたてて閉まった。自動的にロックがかかった。
ガードマンは荒い息を不規則に吐きながら、苦痛で顔を歪《ゆが》めている。
「おい、お前」
オランドが腰をかがめて男の頬を軽く叩《たた》いた。パンチを正面から受けたせいで骨が折れたものか、鼻が不自然に曲がり、噴き出した鮮血が早くも顔の下半分を赤く染めていた。虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》の中に恐怖の色が宿るのが傍目《はため》にもはっきりと分かった。
「聞きたいことがある。正直に言えば命は奪わない」
だがまだ自分の身に何があったのか、理解できないとばかりに男に反応はなかった。
頭髪を握ったままのヴェナスが、サバイバルナイフを抜くと、男の目の前に突きだした。
男の目が恐怖の色で満たされた。まるで瘧《おこり》にかかったようにその頭が上下に振られた。
「よし」オランドは満足したふうに肯《うなず》くと、「ここには、フィリピン人の娘たちが何人か監禁されているだろう」
「ああ、知っている」
「その娘たちはどこにいる」
「地下一階……この一つ下のフロアーだ」
「そこに行くにはどうしたらいいんだ。やはりここと同じように、IDカードとパスワードが決まっているのか」
「どうしてそんなことを知っている」
「この仕組みを見れば馬鹿でも見当がつくさ」瀬島が壁面に取り付けられたスキャナーとキーボードを指すと、「日本人の女性も一人いるな」
「それは分からない……地下一階は全て個室になっていて、そこにいる女たちを目にすることはめったにない。それよりもお前たちは何者だ。どうやってここに入った」
「それは知らない方がお前の身のためだ。余計なことは訊《き》くな。ただこちらの質問に答えればいい」
ヴェナスが目の前でナイフをちらつかせた。
「パスワードをお前は知っているのか」
「ああ」
「お前のIDカードで地下へは行けるんだな」
「その通りだ」
腹部に食らった衝撃は、だいぶ和らいできたが、顔面に受けた打撃は時間が経つにつれ神経が回復してきたものか、痛みが増してくるようだった。鼻が熱かった。そこから血が噴き出ていることも分かった。鼻孔が血液で満たされ呼吸ができない。男はひとしきり激しく鼻を啜《すす》ってみた。口の中がデロリとした塊に満たされた。鉄の味がした。それをコンクリートの床に吐き出すと、赤黒い粘度を帯びた塊がぼとりと落ちた。
返事に嘘はなかった。いま自分が持っているIDカードと知っているパスワードをインプットすれば地下一階の全てのロックは解除できる。
「その、パスワードを教えてくれ」
「お前、日本人か?」
黒いドーランを塗っているせいで、人相ははっきりしないが明らかに顔つきが違う。
「質問はするなと言っただろう」
ナイフがまた目の前に近づいてきた。
「分かった……パスワードは一つじゃない。エリアによって微妙に違うんだ」
男は嘘を言った。
パスワードは一つしかない。この一味が何をしでかすつもりかは知らないが、監禁されている女たちのことを訊き出そうとしているところを見ると、おそらく彼女たちを救い出すつもりなのだろう。もしここでパスワードを喋《しやべ》ってしまえば、所持しているIDカードを手に入れた後、俺は用済みになってしまう。もしかするとここで殺されてしまうかも知れない。
一味が所持しているM‐16やショットガンを使わずとも、口を塞《ふさ》ぎ目の前に突きつけられたナイフで首を掻《か》き切られてしまえばそれで終わりだ。
そう思うと死への恐怖が頭を擡げてくる。
男は必死に考えていた。
その日のシフトによってガードマンの配置は異なる。自分の持ち場を離れて、不必要なエリアに立ち入れば中央監視室のシステムが警告を発するはずだ。連中が目指す地下一階に立ち入れば、きっと応援が駆けつける。ここには八人の男しかいない。こちらには二十人からの人間がいる、それにどうやらこの連中は、建物の中の構造をよくは知らないようだ。戦闘において武器の優劣は勝敗を決する大きな要因には違いないが、それよりも状況把握ができているかどうかの方が重要になってくる。
地の利はこちらにある。うまくこいつらを地下一階に誘い込むことができれば、俺が助かるチャンスはまだある。
「どうやら、こいつを案内役に仕立て上げるしか方法はないようですね」
瀬島はオランドを見た。
取りあえず最初の敵との接触が、こちらの思うがままに運んだことで、心に幾分の余裕が生じたような気がした。それが証拠に、手足の震えはぴたりと止んでいた。
「そのようだな」
一つ大きく肯《うなず》くと、オランドは同意した。
「もう一つ訊かせてくれ」
再び男を見下ろすと、瀬島は訊《たず》ねた。
「何だ」
「この建物では何が行われているんだ」
「それは俺たちにも分からない」
「この施設はアメリカの製薬会社、ウイリアム・アンド・トンプソン社によって運営されているんだよな」
「ああ、そうだ」
「この施設にいるのは女だけじゃないだろう。子供や少年もいる。そうじゃないのか」
男が口籠《くちごも》った。ヴェナスが今度はナイフの刃を喉《のど》に押し付けると、
「正直に言わねえと、道案内のお役もここで終わるぞ」
「分かった……言う」男は肩で息をしながら答えた。顔面は血と脂汗でべとべとだ。「確かにあんたの言う通りだ。地下にいるのは女だけじゃない。子供それに少年もいる」
「少年というのは歳の頃どれぐらいの?」
マリオがすがるような声で訊ねた。
「最近……といっても、俺が最後に見たのは一週間程前だが、十四歳くらいの少年だ」
「それはフィリピン人か」
「そうだ、と思う……」
マリオと視線が合った。その目には明らかに前途に希望を見いだした様子が浮かんでいた。
「それで、今夜はここで何がある。四十人からの白人の男たちが集まっているそうじゃないか」
「そんなこと俺には分からねえよう……」男は泣きそうな声を上げた。「ただ何カ月かに一度、こうした集まりがある。一旦《いつたん》こいつが始まると、まる一日以上は連中、二階以上のフロアーにいるか、地下二階に閉じ籠《こも》るだけで、その間に他のフロアーに姿を現すことはめったにない」
「外から誰か、運び込まれて来る人間は」
「そう言えば、この集まりがある時には、決まって何台かのワゴン車がやってくる……」
やはりそうか。そのワゴン車で運ばれてくるのは臓器提供を受けるレシピエントに違いない。
瀬島はそう確信すると更に質問を続けた。
「いまお前は、ここに集まった連中は二階から降りてくることはないと言っていたが、そこには何がある」
「それも知らない。二階、三階は廊下が回廊のように部屋を取り巻いていて、俺たちガードマンは部屋の中に入ることは許されてはいないんだ。地下二階は長い廊下に沿って幾つかの部屋があるだけだが中に何があるのかは知らない。あの中に入れるのは、ここで働いている研究者か、たまにこうして集まってくる連中だけだ」
おそらく、そのいずれかのフロアーが研究室。そして手術室になっているのだろう。普通の感覚で考えれば、三階はここを取り仕切る責任者、つまり所長に該当する人間の執務室あたりが置かれているはずだ。洋の東西を問わず、なぜか権力者というものは高いところに居を構えるのが常というものだ。
「今日集まった連中はいまどこにいる」
「分からない。二階か三階……もしかすると地下かも知れない」
「OK、よく答えてくれた。最後にもう一つ教えてくれ」
「何だ」
男が改めて瀬島を仰ぎ見る形で見つめてきた。
「この研究所を取り仕切っている人間の名前を教えてくれ」
「所長は、ドクター・フレッチャー。副所長はドクター・ノエルだ」
「もういいだろう。あまりもたもたしていると、時間がなくなる」
オランドが時計を見ながら言ったその時、男が腰に下げていたトランシーバーから空電の音に続いて声が漏れて来た。
『L‐1。状況を知らせてくれ』
男の顔に戸惑いの表情が漏れた。どうやらL‐1というのはこの男のことらしい。オランドが銃を構えると、僅《わず》かにそれを振り、『答えろ』と、促した。
「L‐1だ。異常はない。ネスターの爺《じい》さんも見当たらない。これから配置に戻る」
交信が終わったところでオランドがヴェナスに向かって目で合図を送った。ヴェナスはその手からトランシーバーを取り上げると、ロレトに放り投げた。髪を掴んで男を立たせる。その間に空いた片手でショルダーバッグの中を探ると、ガムテープを取りだし、後ろ手に男の腕を固定した。
「これからいよいよ内部に入るが……セジマ、君はどうする」
改めて訊かれると、瀬島は迷った。地下一階には、おそらく麻里が監禁されているはずだ。ネスターを使ってこの場所を教え、助けを求めてきたのはほかならない麻里だ。それにもしかすると、自分と諒子の遺伝子を引き継いだ子供もいるかも知れない。そう考えると、麻里をはじめとする女たち、それに子供たちの救出が最優先すべきことのように思われた。だがその一方で、階下で騒ぎが起こったことを察知すれば、当然そのフレッチャーという所長やノエルという副所長は逃走を図るだろう。そうなれば自分と諒子の間にできた胎児の体から取りだした凍結卵子の奪回は極めて難しいものになる。
思わず押し黙った瀬島の心中を察したのか、オランドが口を開いた。
「ここは二手に分かれよう。俺は娘たちを助ける。もちろんお前の友人のマリという女性もだ。だがお前のもう一つの目的である凍結卵子を取り戻すためには、そのフレッチャーとノエルという二人の身柄を押さえなければならない。お前はヴェナスとリコと共に上の階に行って連中の身柄を確保してくれないか。それにその二人には俺もきっちりと挨拶《あいさつ》をしておきたいんでな」
背を押されるような気がした。その言葉で踏ん切りがついた。
「分かりました。ただそのためにはもう一枚IDカードが必要になります。それにパスワードも」
「そうだな……」オランドはもっともだとばかりに肯くと、視線を血塗れになった男に向け「一階にはお前の他に、仲間はいるのか」
再びヴェナスの持ったナイフが首に押し付けられた。
「ああ、もう一人……ロビーに……」
「決まった。そいつを倒して、IDを手に入れよう。それで二階のパスワードは」
瀬島は、その数字を記入すべく、ネスターとの会話に用いたメモ用紙を取りだした。
戦闘
仄暗《ほのぐら》い厨房《ちゆうぼう》を抜けると、カフェテリアに出た。開いたままになっているドアからは、ロビーに灯《とも》る蛍光灯の光が差し込んでくる。男の言う通りならば、そこにはもう一人のガードマンがいるはずだった。
先頭を行っていたヴェナスが、ドアの陰に身を潜めた。男のベルトを背後から掴《つか》み、身柄を確保していたオランドは振り向くと、後ろに続く六人に向かって机の陰に身を隠すよう仕草で合図をしてきた。
「さあ、仲間を呼ぶんだ……いますぐに……」
オランドが男の耳元で囁《ささや》く声が聞こえた。
ついに命のやり取りが始まるのだ。
不思議なことに恐怖は感じなかった。興奮しているわけでもない。だが、異様なまでの緊張感が全身を満たし、心臓の鼓動が速くなるのを瀬島は感じた。
「アントニオ! ちょっと来てくれ。手を貸してくれ!」
男はやけになったような大声を出した。
男の言葉に嘘はなかった。硬い廊下を歩いて来る足音が徐々に近づいてくる。ヴェナスが身構えるのが分かった。
「何だ? 何かあったのか」
逆光になったせいで、アントニオと呼ばれた男の姿が黒いシルエットとなってドアに現れた瞬間、ヴェナスが野獣のようなしなやかさで動いた。サイドから背後へと素早い動作で回ると、首に腕を巻き付けた。もう一方の腕は肘《ひじ》から垂直に立っており、折り返された手首から先が男の後頭部を押し下げる。男は数回両腕をヴェナスの腕に回し、もがくような仕草をしたが、頸椎《けいつい》の折れる鈍い音と共に、全身の力が抜け、全ての動きを止めた。
殺人の現場を見るのはこれが初めてだった。瀬島は込み上げてくる嘔吐《おうと》をすんでのところで堪《こら》えた。
こんなことで怯《ひる》んでどうする。これから先は俺が人を殺さなければならないかも知れないのだ。
ヴェナスは、いまや肉塊と化した男の体を床に横たえると、胸に下げられたIDカードと腰のベルトからトランシーバーを抜き取った。
オランドがこちらに向かって腕を振った。全員が一斉に立ち上がった。
「これがIDだ。ここから先は別行動になる。うまくやってくれ」
「麻里さんを、麻里さんを宜《よろ》しくお願いします」
「任しておけ、彼女がいなければ俺たちがここに辿《たど》り着くことはできなかったんだ。命に代えても助け出してみせるさ」
「くれぐれも無茶はしないで下さいよ」
「俺の身を案じるよりも、自分の身を心配しろ」
オランドは瀬島の手を握るようにしてIDカードを手渡してきた。
「ミスター・セジマ。外でお会いしましょう」
マリオが覚悟を決めた目を向けながら言った。
「ああ。無事弟さんを助け出すことができることを祈っている」
「あなたも、目的のものを無事手に入れられますように……」
マリオはそう言いながら手を差し伸べてきた。瀬島はその手を握り返すと、
「じゃあ、外で……」
「神のご加護を……」
そう言うと、ヴェナスとリコと自分の三人を残して男たちはカフェテリアを出ていった。
「セジマ。こちらもすぐに行動に移らなければ。もたもたしていると、下で騒ぎが起きないとも限りません」
「よし、行こう!」
ヴェナスに言われるまでもなかった。瀬島は先頭に立ってカフェテリアを出た。大理石の廊下の先に広大なロビーがあった。人影はない。走った。一歩を踏み出すごとに、ジャングルブーツのゴム底が軽快な音を立てた。やがて右手にエレベーターホールが見えた。そこにもまた、IDスキャナーとパスワードを入れるキーボードが取り付けられていた。おおよそ研究開発をやっている施設では、ごく当たり前のセキュリティシステムである上に、先に拉致《らち》した男の口からこのことは予《あらかじ》め聞かされていたことだった。IDカードをスキャナーにかける。パスワードを入れた。グリーンのランプが点灯する。瀬島はアップのボタンを押した。エレベーターが動き出す気配がした。扉の向こうで錘《おもり》が上に向けて移動して行くのが分かる。やがて軽やかなベルの音とともに、扉が開いた。
瀬島はまだ完全に扉が開き切らないうちに、その中に身を滑り込ませた。三階のボタンを押した時にはすでにヴェナス、リコの二人も中に乗り込んでいた。
扉が閉まった。エレベーターは三階を目指して上昇を始めた。
オランドは案内役のガードマンを先頭に、残る四人を引き連れて階段を使い地下一階へと降りた。フロアーへの入り口は鉄の扉で閉ざされていた。壁面には例によってスキャナーとキーボードが取り付けられていた。
IDカードを手にしていたのはマリオである。彼はカードを取り出すとそれをスキャナーにかけようとした。
「ちょっと待て!」
オランドがその行為を半ばで中断させた。
「おい、このフロアーには何人のガードマンがいるんだ」
「いつもは六人だ」
「その位置は」
「このドアを開けると、長い廊下の右側に個室がずらりと並んでいる。その数はおよそ二十。一番手前の部屋はアスレチックジムだ。その間にガードマンがいるブースが三つあってそれぞれに二人が配置されている」
「遮蔽《しやへい》物は」
「各ブースのある場所が防火扉の設置場所になっている。そこに柱のでっぱりがあるだけだ」
「拉致した人間を監視するには大した人数じゃないか、ええ」
「日中こそは運動が許されるが、部屋には窓一つないんだ、ストレスも溜《た》まる。要求されることはできる限り速やかに叶《かな》えてやれというのが指示だからな」
「そんなひでえ環境に娘たちを閉じ込めていやがったのか」
オランドが男の腕を締め上げた。
「そ、そんなことはない……最初のうちこそ泣き叫ぶのが普通だが、日が経つにつれて娘たちは結構楽しくやっている」
「楽しんでいるだと」
「ああ。なにしろ外じゃ口にすることもできないような食べ物を三食|貰《もら》える上に、部屋だって一流ホテル並みときている。おおかた外にいた頃には食うや食わずの生活を強いられてきたんだろうからな。それからみりゃあ、多少の不自由はあっても天国だろうさ」
「お前、ここに監禁されている娘や子供がどんな気持でいるのか知って言っているのか」
オランドは込み上げてくる怒気も露《あらわ》に言った。
「そんなことは知っちゃいない。俺はただ事実を言っただけだ」
「まあいい。お前のような下っ端に何を言っても無駄だ」吐き捨てるように言うと、「聞いたな、このフロアーの敵は六人。身を隠す場所はないと考えてくれ。奥までは一本道だ。突入と同時に、最初のブースを確保する。そこから先は、一つずつブースを潰《つぶ》していくんだ。準備はいいな」
男たちが一斉に肯《うなず》くと銃を構えた。
「親方私が先頭に立ちます」
ロレトがオランドを押しのけて、ドアにへばりついた。彼に続けとばかりに隊列ができた。
「よし、マリオ、ロックを解除しろ」
「パスワードは?」
マリオは素早くIDカードをスキャンすると、男が発したパスワードをキーボードにインプットした。モーターが作動しロックが解除された。
中央監視室でモニターに目をやっていた男は、思わず身を乗りだした。
画面の中に『不正アクセス情報』の赤い文字が現れるとブリンクを始めたのだ。
廃棄物置き場の様子はさっき見てきて貰ったばかりだというのに今度はどこだろう。
不正アクセスが起こることはそうめったやたらにあることではない。それがもう今夜は二度目だ。
訝《いぶか》しく思いながら、マウスをクリックすると詳細を見た。画面が変わりその内容を見た瞬間、男は奇妙な思いに囚《とら》われた。そこには一件の不正アクセスの表示があった。ロビーにいるはずのガードマン、L‐2がエレベーターを使って三階に向かっている。持ち場を勝手に離れることは許されていない。ましてやL‐2はロビーの警備が今日の任務で、ビジターやエグゼクティヴのいる三階に用はないはずだった。
いったいどうしたってんだ。
その意図を探ろうと、男がトランシーバーに手を伸ばしかけた時、新たな文字が画面の下に現れ、ブリンクを始めた。
『不正アクセス情報』
何が起きているんだ。トランシーバーに伸ばしかけた手を止め、再びマウスを操作する。詳細画面が更新された。今度は先ほど廃棄物置き場を見回ったL‐1が、地下一階のドアのロックを解除した。同時に二人のガードマンが何の事前連絡をすることもなく、持ち場を離れる。そんなことは考えられないことだった。
男はトランシーバーを手に取ると、送信ボタンを押した。最初に呼びかけたのはL‐1だった。
「L‐1。どこに行くんだ。いま地下一階のドアを開けたという警告があったが、何かあったのか」
だが何の応答も返っては来なかった。それは何かが起きたことを予感させるに十分だった。
「L‐2。L‐2。応答してくれ」
男は、今度はもう一人のガードマンのコールサインを呼んだ。
ドアが開いた。ロレトがM‐16を抱えて廊下に飛びだして行った。間髪を容《い》れず、テディが、アヴェリーノがそれに続いた。
マリオはショットガンの遊底をスライドさせ初弾をチャンバーの中に装填《そうてん》しながらそれに続いた。
捕らえたガードマンのトランシーバーからコールサインを呼ぶ声が聞こえた。一瞬足が止まりかかった。
「行け、マリオ! 行け!」
もはやここに至っては答えている暇はないとばかりに、オランドの鋭い一喝が飛んだ。
その声に押されるように、廊下に飛びだした。
前を行く三人が、銃を構えながら飛ぶような足取りで最初のブースを目がけて突き進んでいく。リノリウムの床の上を複数のジャングルブーツのゴム底が踏みしめる度に甲高い音を立てた。それはブースにいる男たちに不審を抱かせることになっただろうが、ここまでくればもはやそんなことに構っている場合ではない。
果たして予期した通り、一番近いブースからガードマンが二人身を乗りだしてこちらを見ているのが分かった。その目が驚愕《きようがく》で見開かれる。何事かを叫ぶと、身を一旦《いつたん》引こうとした。
突如、耳を劈《つんざ》く甲高い銃声が、閉鎖された空間に充満した。
ロレトの構えたM‐16の銃口に青白い炎が上がるのが見えた。排出された薬莢《やつきよう》が宙に舞う。それが床に落ちないうちに、ガードマンのいるブース付近の柱から、コンクリートが飛沫《ひまつ》となって砕け散る。たちまちのうちにブース付近は白い煙が立ち込めたようになった。その中から断末魔の悲鳴が上がると、一人のガードマンがブレイクダンスを踊るように身をくねらせながら、弾丸の方向に向かって吹き飛ぶのが見えた。無力になったその体が、壁面に叩《たた》きつけられると、ブースのカウンターの上にうつ伏せになった。壁にべっとりと鮮血がついている。
突然の銃声に驚いたように第二のブース、第三のブースから、ガードマンが顔を覗《のぞ》かせた。すでにその手には銃が握られている。突如、M‐16の甲高い銃声とは明らかに異なる重量感を持った銃声が木霊した。その直前に身を伏せたマリオの上を無数の小さな弾が掠《かす》めて行くのが分かった。慌てていたせいで、狙いが十分ではなかったのだろう。銃弾の多くは天井にぶち当たり、破壊された蛍光灯のガラス片が頭上から降り注いできた。
ロレトが応戦する。ガードマンはそれを見透かしたように頭を引っ込めた。フルオートの連射を行ったせいで、たちまち最初のマガジンが空になった。ロレトはマガジン・ポーチを探るとマガジンの交換に入った。その間にアヴェリーノがニーリング・ポジションの姿勢を取ると点射で相手の動きを封じにかかる。
「テディ! 最初のブースを確保しろ! このままじゃ殺《や》られる!」背後からオランドの声。
心得たとばかりにテディはショルダーバッグの中からC‐4とベアリングが詰まったシャンペンボトルを取り出すと、軽やかな身のこなしで匍匐《ほふく》前進を始めた。
「マリオ! 天井だ! 天井の明りを破壊しろ!」装填の終わった銃を撃ちながら、ロレトが叫ぶ。
マリオは伏せていた床から身を起こすと、天井の蛍光灯に向けてショットガンを発射した。肩を蹴飛《けと》ばされるような衝撃。最初の蛍光灯が砕け散り、天井に大穴が開く。二発、三発……。五発全ての銃弾を撃ち終わった時には、廊下の半ばほど、ちょうど第二のブース辺りまでの蛍光灯を破壊することに成功した。消火栓の在処《ありか》を示す、赤い光が照明の落ちた廊下を仄暗《ほのぐら》く照らし出していた。
その間にテディは第一のブースに辿《たど》り着いていた。ぴたりとカウンター下に身を寄せると、手元に明るい光が灯《とも》った。デトネーティング・コードに着火したのだ。毒蛇が攻撃を仕掛ける時に発するような音が聞こえた。小さな火花と共に、白煙が上がる。頃合いを見計らって、テディは位置を僅《わず》かにずらすと、手にしていたシャンペンボトルをブースの中に投げ入れた。重量感を持った物体が床に落ちる音がした。
「伏せろ!」
テディは叫ぶと、カウンターの下にへばりつくように身を伏せた。マリオもまたその姿を最後まで見るまでもなく、床の上に伏せ耳を塞《ふさ》いだ。
爆発の威力は想像を絶するものだった。衝撃波と共に凄《すさ》まじい爆発音が一瞬の間に頭上を駆け抜けて行く。天井が、壁が、音を立てて崩れ落ちる。顔を上げると、第一のブースは、カウンターの下半分を残し、完全に破壊されているのが、もうもうと立ち込める煙を通して見えた。
「俺が援護する。早くあの場所を確保しろ!」
ロレトは再びM‐16を第二第三のブースに向け、点射を開始した。アヴェリーノが身を低くして走る。マリオもそれに続いた。爆破に成功したテディが、今度はM‐16を構え、援護射撃を始める。耳を劈く甲高い銃声の中を、マリオは走った。先を行くアヴェリーノが残骸《ざんがい》となったブースに飛び込んだ。マリオもまたそれに続いた。オランドが、人質となったガードマンが飛び込んできた。
「確保した! ロレト!」
アヴェリーノが遮蔽《しやへい》物となった壁面から半身を出し、援護射撃を始める。フルオートの乱射だ。破壊されたカウンターの下にいたテディが転がり込んでくる。それに続いてロレトが駆け込んで来た。
全員が揃ったところで、薬品の焦げた臭いの中に生臭い血の臭いを嗅《か》いだ気がしてマリオはぎょっとなった。初めて破壊されたブースの中を見渡すと、ボロボロになった二つの肉塊が瓦礫《がれき》の中に転がっていた。仄暗い明りの中に黒い血溜《ちだ》まりができ、それは見ている間にも床に広がって行く。明らかに肉の色とも構造とも違うもの[#「もの」に傍点]が腹部からはみ出している。内臓だ。ぱっくりと割れた頭部からは異様に白い脳が飛び散っていた。
胃の中のものが逆流するような不快感が込み上げてきた。だがまだ戦いは始まったばかりだ。今度は俺がこうなる番かも知れない。だが俺はまだ死ねない。ジョエルを救い出すまでは――。
マリオは必死に込み上げてくる吐き気を堪《こら》えると、そのせいで涙が浮かんでぼやける視界の中で、空になった弾倉に新たな銃弾を込め始めた。
「何だ! 何が起きた」
それはあるはずのない音だった。銃声。間違いない。それが足元の床を伝わって聞こえてきたかと思うと、程なくして建物全体を揺るがすような振動をともなった爆発が起きた。
異変が起きたことを知らせるには十分過ぎるくらいの現象だった。コンピュータのモニターの中で『警告』の文字が赤くブリンクしている。
中央監視室にいた男は、すぐ前にある非常警報装置に目をやった。プラスチックのカヴァーで覆われたそれを作動させるのは、これが初めてのことだったが躊躇《ちゆうちよ》しなかった。力を込めてそれをぶち破ると、中のボタンをそのままの勢いで押した。
全館に巨人が口笛を吹いているかのような警報音が、一定の間隔を置いて断続的に鳴り始めた。
その間に隣にいたもう一人の男がトランシーバーを鷲掴《わしづか》みにすると、非常周波数にセットし、絶叫した。
「緊急事態だ! 全員武装して地下一階に集結してくれ」
男はそう告げると、隣に座るもう一人を促し、ショットガンを手に部屋を飛び出して行った。
激しい銃声が断続的に聞こえてきた。研究所に入るメインゲートからおよそ百メートル。建物までは更に二十メートルほどの距離がある。ジャングルの中に潜むヨランダは、ついにその時が来たことを悟った。もうここで監視を始めてまる一日。監視にはいい加減うんざりしていたところだった。
「始まったな……」
ゲートにいる三人のガードマンたちはブースを飛び出し、建物の方を見ている。
「ああ、こちらもおっ始めようか」
隣で双眼鏡を使いながら様子を窺《うかが》っていたジョバンニが、凶暴な意思を秘めたことを窺《うかが》わせながら答えると、地面に置いていたM‐16を取り上げた。ヨランダもまたその動きに合わせるようにM‐16を構えた。ポジションは|伏せ撃ち《プローン》。広げた両足の右側は、軽く引きつけるように折り曲げる。膝《ひざ》を銃と体中心線、つまり背骨の描く角度がおよそ三十度になったあたりで固定した。こうすれば銃の反動を体重で支えることができ、命中率が高くなる。左手でハンドガードを支える。指がハンドガードの上部に自然と巻き付く。右手でピストルグリップをしっかりと握り、トリガーに人差し指をかけた。発射の際の反動を軽減すべく銃尾を右肩の窪《くぼ》みにしっかりと当てた。右頬をストックに密着させた。定着性が高まるほど照準は一定し、銃の発射の際の反動でどうしても動く頭部の修正がすぐに利く。
照準の中に目標が入ってきた。建物の中からは、ひっきりなしに銃声が聞こえてくる。時折ショットガンのものと分かる重量感のある音が混じる。ガードマンたちの様子に明らかに動揺の色が見て取れた。持ち場を離れ駆けつけるべきか、迷っているようだった。
もたもたしている時間はない。
「ジョバンニ……どちらを殺る」
「左だ……」
「よし、じゃあ俺は右だ……中央の一人は早い者勝ちといこう」
「……分かった」
ヨランダは銃身を僅かに右に振った。照準の中に右端の男の姿が入ってくる。こちらに背を向け隣にいる男と何事か言葉を交わしているようだった。フロント・サイト・ポストが円形に開けられた照門のど真ん中にきた。目標はその延長線上にある。狙いを男の尻《しり》の部分に定めた。発射された弾丸は、弧状の弾道を描いて飛ぶ。百メートルの距離ならば、尻を狙えばちょうど男の腹の中央をぶち抜くはずだ。
狙いが定まった。息を止めた。思考がサイトの中の目標に集中する。ゆっくりと、しかし確実にトリガーにかかった指先に力を込めた。突如甲高い銃声と共に、蹴飛ばすような反動が肩にかかった。
銃弾は見事に命中した。ガードマンは、背中から不意に凄《すさ》まじい勢いで蹴飛ばされたように、前方に向かって吹き飛んだ。その体が地面につかないうちにジョバンニが初弾を発射した。銃声と同時に左の男が膝を折り、その場に崩れ落ちた。どうやら彼は目標の頭部を狙い、見事にぶち抜いたらしい。
だがそんなことを確認している余裕はない。目標はもう一人いる。ヨランダは、銃を僅かに左に振ると、照準の中にその男の姿を納めた。全くの不意をつかれ、両側の二人が倒されたせいでパニックに陥ったものか、腰のホルスターから拳銃《けんじゆう》を抜くと、銃声の方向を確認するかのように振り向いた。恐怖で引き攣《つ》った男の顔が見えた。突如男は目標を確認できるはずもないのに拳銃をやみくもに二人が潜むジャングルに向けて乱射し始めた。乾いた銃声を密林が吸収していく。
ヨランダの脳裏をついいまし方ジョバンニが目標の頭をぶち抜いた光景が掠《かす》めた。照準を僅かに上げ男の胸に定めた。頭部はその垂直延長線上にある。息を止めた。トリガーを引いた。再び蹴飛ばすような反動が肩にかかると、甲高い銃声が耳を聾《ろう》した。男の額に小さな点ができたのが見えた。髪の毛が逆立ち、頭部から飛沫《ひまつ》が上がった。狙った通り、フルメタルジャケットの弾丸は、男の頭部をぶち抜いたのだ。
「いい腕だな、ヨランダ」
「お前こそ」
ジョバンニと目が合った瞬間、二人は口元を僅《わず》かに歪《ゆが》めて笑い合った。
「さあ、こうしちゃいられない。エントランスを固めて中から出てくるやつを一人たりとも逃しちゃならねえ。急ごう」
ヨランダは立ち上がると緩い傾斜を、密生する木々を掻《か》き分けながら駆け出した。
ひとしきり激しい銃声が聞こえたかと思うと、爆発音がした。上昇を続けるエレベーターが振動し、思わず三人は顔を見合わせた。それは地下一階に向かったオランドたちが、早くも行動を起こしたことと瀬島は疑わなかった。
一旦《いつたん》は平静を取り戻した筈《はず》の心臓が、再び早鐘を打つような搏動《はくどう》を繰り返し始めた。全身に痺《しび》れるような緊張が走る。
エレベーターの表示が『2』から『3』に変わろうとしている。突如警報音がエレベーターの扉の向こうから聞こえ始めた。それに続いて、ヴェナスが手にしていたトランシーバーから、
『緊急事態だ! 全員武装して地下一階に集結してくれ』
緊迫した声が聞こえた。
「できることなら、三階に辿《たど》り着いてからおっ始めればよかったんだが……」
ヴェナスが舌打ちをしながらも、二、三歩下がりながらM‐16を腰だめにして構えた。エレベーターは、まるで病院で使われているもののように、大人が一人横になってもまだ十分に余裕があった。それが何を意図してのものかは、言うまでもなかった。
「ヴェナス。ここは私に任せてくれ」
おそらく彼はドアが開いた瞬間、そこに立っているかも知れないガードマンに備えて、そうした構えを取ったのだろう。だとすれば、自動小銃よりもショットガンの方が一定のエリアの中の敵を倒すのには向いている。銃器を扱ったことのない自分でもその程度の見当はついた。
「大丈夫か」
ヴェナスが意外な顔をして訊《たず》ねてきた。
「とっくに腹は決まっているさ」
本当は嘘っぱちだった。自らが端緒を開かなければ、逃げ出してしまうかも知れないという不安を拭《ぬぐ》いきれなかったからそんな虚勢を張ってみせたに過ぎない。進んで先頭に立ち、むりやり戦いの前線に身を追い込まなければ、とても命のやり取りをする自信がなかった。
もはやここに至っては、引き返すこともできない。目的を達するしか道はないのだ。
エレベーターの表示が『3』に変わった。軽い衝撃と共にゴンドラが止まった。ヴェナスが、リコがドアの左右に銃を立てた姿勢でポジションを確保した。ショットガンを腰だめに構えた。遊底を引いた。初弾がチャンバーの中に、送り込まれる手応《てごた》え……。アドレナリンが口の中に広がり始める。緊張は頂点に達し、小便を漏らしそうな感覚に襲われる。ドアが開いた。エレベーターからの明りに照らされて、二人の男が佇《たたず》んでいるのが見えた。こちらの姿を認めた瞬間、驚愕《きようがく》の表情を浮かべ、危機を告げようとしたのか頬の筋肉が微《かす》かに引き攣った。
躊躇《ちゆうちよ》することなく瀬島はトリガーを引いた。腰だめの姿勢では反動を吸収しきれなかった銃身が跳ね上がった。エレベーターの中に重い銃声が充満する間に、二人の男の顔が潰《つぶ》れるのがはっきりと見てとれた。まだ完全に開ききらない散弾が集中的に二人の顔面に命中したのだ。吸収しきれなかった衝撃の余力のままに二人の体が吹き飛び、床に叩《たた》きつけられる。
初めて人を殺した……。
不思議なことに罪の意識も嫌悪も何も感じなかった。まるで夢を見ているように現実感がなかった。遊底をスライドさせた。次弾が送り込まれると同時に排出された空薬莢《からやつきよう》が宙を舞った。硝煙の臭いが鼻をついた。それが引鉄《ひきがね》になったものか、全身を支配していた緊張感や恐怖といったものとは明らかに対極にある感情が込み上げてきた。黒から白へ。暗から明へ。まさに激変と呼ぶに相応《ふさわ》しい変化が、一瞬のうちに起きた。
頭の中が白くなった。あらゆる雑念から解放され、ただ強烈な闘争本能だけが血流に乗って全身を満たすのが分かった。
「うおおお――」
無意識のうちに瀬島は腹から声を絞り出すと、猛然とダッシュし、エレベーターホールに向かって飛び出ようとした。
「馬鹿野郎! 飛び出すな!」
ホールに半分ほど体が出たところで、ヴェナスに腕を掴《つか》まれ引き戻され、瀬島はぶざまに仰向《あおむ》けにひっくり返った。瞬間、ホールの中に耳を聾するような銃声が轟《とどろ》いた。エレベーターのフレームに弾丸がぶち当たり火花を散らした。それはヴェナスの周囲に集中し、彼はその脅威から少しでも身を護《まも》ろうとするかのように、立ったまま身を縮めた。湿った肉の音がした。ヴェナスの顔に苦悶《くもん》の表情が浮かぶ。
「ヴェナス!」
しかし彼は怯《ひる》まなかった。瀬島の叫びなど聞こえなかったかのように、銃撃の間隙《かんげき》をぬって片手でM‐16を構えると、フルオートで反撃を開始した。銃口から青白い炎が上がる。薬莢が雨のように降り注いでくる。マガジンが空になったところで、ヴェナスはポジションを離れ、瀬島の傍らに転がり込んできた。すかさず、リコがヴェナスに代わって応戦を始める。
「大丈夫か!」
「腕をやられた」
見ると左の上腕部。逞《たくま》しい筋肉を覆ったシャツが黒く濡《ぬ》れている。ヴェナスは、自らそれを引き裂くと傷の様子を確認した。ぽつりと小さな円形の穴が開き、そこから鮮血が筋となって流れ出している。反対側にも損傷の跡が見てとれた。そちらは肉が飛び出し、薔薇《ばら》の花が咲いたようになっている。
「弾は抜けている。大丈夫だ」
ヴェナスは腕に巻いていた赤い布でその上を堅く縛り始めた。それに手を貸そうとした時、
「セジマ。援護してくれ」
リコが叫んだ。見ると彼は弾を撃ち尽くしたらしく、腰のポーチを探り、新たなマガジンを探っている。エレベーターの床の中は、二人が発射した弾丸の空薬莢が散乱して足の踏み場もない。硝煙の臭いが充満している。
「行け! セジマ。行け!」
ヴェナスの言葉に押され、瀬島はショットガンを手にリコに代わってドアサイドにポジションを取った。飛んでくる弾丸の間隙を縫って、身を乗り出し銃声の方向に向かってトリガーを引いた。重い銃声。肩を蹴飛《けと》ばされるような衝撃。遊底を引くたびに、紫色の煙を引きながら薬莢が排出される。
ホールの向こうから、絶叫が聞こえた。敵が何人いるのかは分からない。だが少なくともその中の一人にダメージを与えたことは確かだ。
更に二発の弾丸を発射したところで、新たなマガジンを装填《そうてん》し終えたリコとポジションを入れ替えた。空になったショットガンの弾倉に、腰のベルトから五発の弾丸を装填する。
手当てを終えたヴェナスが、M‐16を手にすると遊底を引き初弾をチャンバーに送り込んだ。床の上を這《は》いながら、立ち撃ちをしているリコの足元に位置を取ると、フルオートの連射を始めた。
硬いものが砕け散る音に混じって、断末魔の悲鳴が聞こえた。何事かを叫び合う声が聞こえた。
敵の応射が止んだ。
「行くぞ! 援護してくれ!」
頃合いはよしと見計らったのか、リコが連射を行いながらエレベーターを飛び出して行く。五発の弾丸を装填し終えた瀬島が後に続くのを、ヴェナスは止めなかった。最初のショットガンの一撃を食らった二人のガードマンの死体が転がっていた。二人とも散弾を正面から頭部に食らったせいで、顔は判別できないほどに潰れ、一人は頭の上半分がなくなっていた。血が広がっていないのは、フロアーに敷き詰められた分厚い絨毯《じゆうたん》のせいだ。一瞬、罪の意識と、嫌悪が胸中に込み上げてきたがそんなことに構っている場合ではない。いつ自分がこのような姿になっていてもおかしくはなかったのだ。身を低くした姿勢で、瀬島はホールから廊下に続くコーナーに行き着いた。先に到達していたリコが銃を縦に構え気配を窺《うかが》っている。ガードマンたちは、そのコーナーの柱の陰からこちらに銃撃を仕掛けてきたのだろう。それが証拠に、柱は無数の銃弾によって穴が開き、角はのこぎりのようにぎざぎざに削れていた。ヴェナスが、荒い息を吐きながら追いついてきた。背後でエレベーターのドアが閉まる気配がした。
足元で人の呻《うめ》き声が聞こえた。リコがそっと身を乗り出した。その瞬間、再び凄《すさ》まじい銃声とともに、コーナーの柱に銃弾がぶち当たり、コンクリートが砕け散った。
「こいつを吐かせれば、このフロアーの様子が分かるはずだ」
「何だって」
瀬島の言葉はガードマンの銃から発せられる銃声と着弾音に掻《か》き消され、よく聞き取れなかったらしい。ヴェナスが訊《き》き返してきた。
「ここにいる男の口を割らせればフレッチャーの居所が分かるかも知れないと言ったんだ」
「分かった」ヴェナスは肯《うなず》くと、「リコ! リコ! そこで呻《うめ》いている男をこちらに引っ張りこめ!」
「何だって! こんな状況でそんな器用なことをしろってんですか」
信じられないというようなリコの顔。
「口を割らせるんだ。フレッチャーの居場所を訊き出すんだ!」
「はいはい。分かりましたよ」リコはいささか呆《あき》れた様子で言うと、「セジマ、援護をしてくれ」位置を入れ替えて来た。瀬島は銃を構えると、ガードマンたちの銃撃の間合いを測った。
瀬島は背後にぴたりと身を寄せていたリコに向かって、目で合図を送った。すでに彼は動きやすいように、M‐16と袈裟掛《けさが》けにしていたショルダーバッグを床の上に置いている。
一瞬、銃撃が止んだ。
瀬島は通路に飛び出した。ダウンライトに照らされた長い廊下がずっと先まで延びている。左側はガラス窓、右側は壁になっており、数箇所にドアがある。廊下の半ばの切れ間にこちらを窺うように突きだした頭部が見えた。遮蔽《しやへい》物は何もなかった。恐怖が込み上げてくる。だがいままで隠れていた場所に戻ろうとすれば、その一瞬の隙をついて相手は攻撃してくるだろう。もはや身を護る手段は一つしかない。相手に攻撃のチャンスを与えないことだ。
瀬島は無意識のうちにトリガーを引いていた。今度は指先に込めた力を緩めることはなかった。遊底を続けざまに引く。その度に銃声が轟き、空になった薬莢が次々に排出される。足元で身を低くしたリコがそこに横たわっていた男をエレベーターホールに引きずり込んでいくのが気配で分かった。
廊下の半ばの辺りでこちらを窺っていたガードマンの頭は、最初の一発が発射された瞬間に引っ込んでいた。五発の弾丸を発射し終えるまで、いくらの時間もかからなかった。たちまち弾丸が底をつく。ここで装填している時間はない。絶望的な気持が頭を擡《もた》げた。と、その時、目の前にヴェナスが身を躍らせながら現れると、M‐16を撃ち始めた。どうやら彼は、発射した弾丸の数を冷静に数えていたらしい。
「セジマ、戻れ! リコ、早くそいつを引きずり込め」
瀬島は、身を翻して安全圏へと逃れた。リコが手傷を負ったガードマンを引きずり込んでくる。
その様子を気配で悟ったヴェナスが、最後にフルオートで残りの弾丸を一気に撃ち尽くすと、エレベーターホールに飛び込んで来た。
それを見透かしたかのように、相手が反撃を始めた。リコが床に置いたM‐16を手にすると、再びコーナーにポジションを取り、反撃の機会を窺う。
瀬島は手傷を負ったガードマンをかがみ込んで観察した。腕から肩口にかけてシャツに無数の小さな穴が開き、白い布地が鮮血で染まっていた。荒い息を吐きながら、恐怖の中に助けを求めるような眼差《まなざ》しを向けてくる。どうやら命に別状はないようだ。
「セジマ、そいつはお前に任せたぞ」
ヴェナスの持っていたM‐16から空になったマガジンがポトリと落ちた。すかさずポーチの中から新しいマガジンを取り出すと、それを装填し、リコの下に向かった。
「た、助けて……知っていることは何でも喋《しやべ》るから……」
呻《うめ》くように男が言った。
「いい心がけだ。こちらの訊きたいことを喋ってくれれば命を奪いはしない」
男は激しく頭を上下させた。
「フレッチャーはどこにいる――」
瀬島は男の視線を捕らえたまま有無を言わせぬ口調で訊いた。
突如として破られた静寂。激しい銃撃戦、そして爆発音――。
鉄のドアの向こうで繰り広げられる凄まじい戦いが何を意味するか、麻里は瞬間的に悟った。
助けが来たんだ! あのガーディナーと交わした手話が通じ、瀬島に連絡をつけてくれたんだ。
それは麻里がここに監禁されてから初めて見いだした希望そのものにほかならなかった。
最初自分がいる部屋を挟んで左右から聞こえていた銃声は、爆発音と共に右側に移った。
左の奥はエレベーターホールと階段があったはずだ。拉致《らち》されて以来、ただの一度もそれを使った記憶はなかったが、ジムから部屋に戻る際に、それふうのエリアがあることは毎回目にしている。ということは、救出部隊が確実にあの忌々しい連中を押しているということに違いない。
自分の部屋を挟んで銃撃戦が交わされている間こそ、ドアから離れ、部屋の片隅で身を伏せていたが、救援が現れたとなると、一時も早くここを出たいという気持が抑えられなかった。
麻里は身を起こしてドアに向かって駆け寄ると、堅く拳《こぶし》を握り締め、力の限りの大声を出してたった一つの出口を遮蔽する鉄の扉を叩《たた》いた。
「助けてちょうだい! 私をここから出して!」
銃声、建物を揺るがす爆発音に続いて警報が鳴り響いた。
所長室にいたフレッチャーとノエルは思わず顔を見合わせた。ただごとではないと早くも悟ったノエルの顔が緊張の色で満たされた。
「何事だ」
「分かりません」
ノエルが机の上の電話に手を伸ばしかけた時、明らかにこのフロアーと分かる所で、銃声が聞こえた。それは重量感のある一発の銃声から始まり、たちまちのうちに激しい銃撃戦へと変わった。
「エレベーターホールだ!」
フレッチャーは叫んだ。受話器を取り上げたままだったノエルが、せわしげにボタンをプッシュした。緊張に満たされた短い時間が流れた。
「駄目です。中央監視室も出ない」
「誰もいないのか」
「呼び出し音は鳴るのですが、誰もいないようなんです。まさかここで行っていることが当局に発覚したんじゃ……」
「馬鹿な!」フレッチャーは一言の下にノエルの推測を否定した。「これまでだてに大金をこの国の権力者に掴ませてきたわけじゃない。政府の中枢に絶大なコネクションを持つ財閥、保健省の有力者、警察、軍……主だったところにはことごとく金をばらまいてきたんだ。そんなことは絶対にあり得ない。それに万に一つでも警察や軍隊がこの施設に乗り込んで来ようとするなら、事前にその情報がもたらされていたはずだ」
「しかしこの状況は他に説明がつきません」
銃撃戦はますます激しさを増してくる。
確かにノエルが言うことはもっともだ、とフレッチャーも思った。聞こえてくる銃声から判断すると、襲撃してきた連中は自動小銃を所持している。時折混じる重量感のある銃声はショットガンのものだろう。この施設を護《まも》るガードマンには拳銃《けんじゆう》とショットガンを持たせてはいるが、さすがに自動小銃までは持たせてはいない。確かにこの国の警察は自動小銃を所持してはいるが、幾ら何でもいきなり警告もなしに、突入してきたりはしない。第一、ガードマンにしたところで、警察を前に銃撃戦を挑むほど根性の据わったやつなんかいやしないだろう。となれば、全くの不意をついた何者かの仕業だ。いったいこの施設に乗り込んで来て、真っ向から戦いを挑んでくる連中とは何者だろう。何が目的なんだろう。金だろうか。確かにこの国には外国人を拉致して、身代金を手にしようと企《たくら》んでいる連中がいないわけではないが――。もしかして今日ここに多くの外国人が集まることを事前に察知してそこを狙ったものだろうか。
「ドクター・フレッチャー。どうします」
ノエルはすっかり血の気の引いた顔で訊《たず》ねてきた。もういても立ってもいられないという様子だ。
「もしかすると、俺たちを拉致して金に換えるつもりかも知れない」
「金? 身代金目的の誘拐ですか?」
「それ以外に何が考えられる。ここには我々のほかに四十人以上のアメリカ人がいるんだ。根こそぎ拉致することに成功すれば、大金を手にできる。そう考えた連中が出てきたとしてもおかしくはない」
「そんな馬鹿な!」
「何が馬鹿なもんか! そうでなければ何だってんだ!」
銃撃戦はますます激しさを増してくる。お互いの推測を交わし合っている場合ではない。もはや一刻の猶予もならなかった。
フレッチャーは部屋の隅に備え付けられたクローゼットを開けると、中にあった金庫のダイアルロックを外し、重い扉を開いた。そこには二|挺《ちよう》のサブマシンガンMP‐5が収納されていた。このサイレンサー付きのSMGは、装弾数三十発、毎分八百発の発射速度を持つ。おまけに9ミリのピストル弾を使用している割には、抜群の命中精度を持つときている。普通の拳銃ならば、訓練を積んだ者でないと五メートルも離れれば、命中させることは難しくなるが、こいつは発射の際の衝撃がストレートにショルダーストックに伝わるせいでブレるということが全くない。護身用としてはオーヴァー・スペックであることは否めないが、小銃とは違って十分にその役割を果たすことは間違いない。
二挺のMP‐5と六本のマガジンを取りだしたフレッチャーは、そのうちの一挺をノエルに向かって放り投げた。ノエルの目が驚きで見開かれた。
「こんなものを持っていたんですか。ガードマンだっているでしょうに」
「何事にも万が一ということがある……まさか本当に役に立つ時が来るとは思わなかったがな」
フレッチャーは、六本のマガジンを机の上に並べると白衣を脱ぎ捨てた。
「マガジンにはそれぞれ三十発ずつ弾丸が装填《そうてん》されている」マガジンの上部を覗《のぞ》き金色に光る銃弾を確認したフレッチャーは、「三本ずつだ」そう言うと、最初のマガジンをMP‐5に差し込んだ。
ノエルの喉仏《のどぼとけ》が上下するのが分かった。一瞬の間の後、慌てた手つきで三本のマガジンを手に取った。
「銃を撃ったことは?」
ノエルは無言のまま激しく頭を左右に振った。
「扱いは簡単だ。マガジンを装填する。ボルトを引く。狙う。トリガーを引く。|それで終わりだ《ザツツ・イツト》」
フレッチャーは自らボルトを引いて初弾をチャンバーの中に送り込んだ。慌ただしい仕草で、ノエルがマガジンを装着し、ボルトを引いた。
「そう、それでいい」満足したフレッチャーは、「ここから先は自分の命は自分で護れ。身代金目的の人質は辛《つら》いぞ」静かに言った。
「しかしどうやって逃げ出すんです」
緊張は極限に達しているらしい。ノエルの声は震えていた。
「この部屋を出るとすぐに非常階段がある。それを使って庭に降りる」
「庭に? ヘリを使うんですか」
「ああ、これからすぐに連絡をすれば、二十分程度でここにやってくるだろう」
「連中がいるのはこのフロアーだけじゃありませんよ。事実下の階からも銃声が聞こえているじゃありませんか」
「そのためのこれだろう」
フレッチャーはMP‐5を翳《かざ》して見せると、契約しているヘリコプターのチャーター会社に電話を入れた。
「すぐに来るそうだ」
「手術室にいる医者たちはどうするんです」
「そんなことに構っている場合か!」
どこまでも、頭が回らないやつだ。フレッチャーは苛立《いらだ》ちを露《あらわ》にして言った。
「連中が拉致して身代金を要求してきたら、その時考えればいいことだ。本社がうまくやってくれるさ」
「しかし、それじゃ我々がここでやっていることがばれてしまう」
「そんなことを連中が喋《しやべ》ると思っているのか。健康な体から臓器を取りだすためにここに来ましたと、そんなことを言えると思うか」
「娘たちがいます」
「トンド出身の娘たちの言うことなんか、どうにでももみ消せるさ」
「しかし――」
ノエルが続けようとした時、銃声と共にすぐ近くで男の絶叫が聞こえた。
「もういい。逃げるのか、それともここに残って連中の餌食《えじき》になるのか、勝手にするがいいさ。もう時間がない」
フレッチャーはピシャリといい放つと、会話にピリオドを打ち、脱出の機会を窺《うかが》うべくドアに身を寄せた。
四十人の医師たちは地下二階で手術の準備を進めていた。
頭上から轟《とどろ》いてくる銃声、爆発音は当然彼らの耳にも入っていた。それに続けて警報が鳴った。
四つある手術室の一つには、手術台に横たわるジョエルの姿があった。まだ導入麻酔もかけられていない彼は、三本のベルトで固定されていた。
医師たちはたちまちのうちにパニックに陥った。無理もない、何しろ彼らがここでやろうとしていることは、殺人そのものなのだ。
万が一にでも司直の手によって捕らえられるようなことにでもなれば、前途が閉ざされるどころの話ではない。長い刑務所暮らしを強いられることになる。しかもこのフィリピンでだ。荒くれ者ばかりが揃う監獄の中で身の安全すらも保障されはしないだろう。何よりもこの国の監獄の環境が劣悪なことは折り紙付きだ。
誰もがそんなことは御免だとばかりに、血相を変えて先を争うように出口へと向かった。もはやジョエルに構っている場合ではなかった。
怒号、悲鳴……混乱の嵐は、ものの数分と続かなかった。まるで竜巻が過ぎ去った後のように、静寂が訪れた。
無機的な光を放つ器具が並ぶ手術室で、ジョエルは一人になった。
激しい銃撃戦になった。相手はショットガンをぶちかましてくる。その間隙《かんげき》をつきながら、M‐16で応戦する。人差し指に力を込める度に五発ほどの銃弾が発射される。六回前後の銃撃でマガジンが空になる。もうすでに所持してきた十本のマガジンの半分は撃ち尽くしてしまっただろう。足元には瓦礫《がれき》の上に空薬莢《からやつきよう》が散乱している。
このままでは早晩持ってきたマガジンに込めた弾丸を撃ち尽くしてしまう。
そう判断したオランドは、
「ロレト、空のマガジンに弾を補充しておけ」
背後で待機していたロレトが薄暗がりの中で、床に散らばったマガジンを拾い集めポーチの中からストリップ・クリープで止められた銃弾を次々と込めていく。
「マリオ! マリオ!」
「何です!」
「ショットガンで残りの天井の照明を全部破壊しろ。明りが邪魔だ。このままじゃくぎ付けで埒《らち》があかねえ」
「分かりました」
オランドは応戦していたアヴェリーノの肩を叩《たた》くと、ポジションを空けるように命じた。
マリオが替わって位置についた。散弾がすぐ目の前の空間を凄《すさ》まじい速度で過ぎ去っていく。肩で大きく息をしていたマリオはタイミングを見計らい間隙をぬって身を乗り出した。遊底がスライドする音と共に銃弾が次々と発射される。その度に天井から無数の瓦礫が落ちる音がし、確実に明りが落ちていく。五発の弾丸を撃ち終えた時には、蛍光灯の光はなく、消火栓の在処《ありか》を示す、赤く仄《ほの》かな明りがあるだけとなった。
マリオが身を翻すとポジションを空けた。テディがすぐに取って代わってM‐16を撃ち始める。弾が発射される度に、銃口から上がる閃光《せんこう》に男たちの姿がストロボライトを浴びせかけられたように浮き上がる。
「テディ! 援護を頼む! 一発お見舞いしてくる」
オランドはショルダーバッグの中を探ると、シャンペンボトルを取りだそうとした。その手を誰かが掴《つか》んだ。アヴェリーノだった。
「親方、俺が行く。こいつの扱いは俺の方が心得ている」
「しかし」
「親方は、お嬢さんを助け出さなきゃなんねえ。ここは俺が行く」
有無を言わせぬ強い口調で言うと、C‐4とベアリングが詰まったシャンペンボトルを手にして応戦を続けるテディの足元に蹲《うずくま》り、突入のタイミングを見計らった。
「援護を頼むぞ!」
「任せておけ」
空になったマガジンが落ちた。すかさずテディが腰のポーチの中から新たなマガジンを装填《そうてん》する。M‐16から発射された銃弾が死神の叫びのような唸《うな》りを上げて飛び去っていく。
「行け、アヴェリーノ! 行け!」
その声につき動かされるようにアヴェリーノが通路に身を屈《かが》めて飛びだした。テディがフルオートで弾丸を発射し続ける。その背後にはすぐにポジションを受け継ぐべく、ロレトが銃を構えてぴたりと立った。
その時、思いもよらぬ方向から重い銃声が断続的に轟いた。それは明らかに自分たちが侵入してきた階段付近から発射されたものであることが分かった。不意をつかれたテディの腕から銃が落ち、その場に崩れ落ちた。その上の壁面に二発三発と散弾が命中し、砕け散ったコンクリートが雨のように降り注いだ。
「テディ!」
オランドは部下の名前を呼びながら、その場に駆け寄った。マリオがショットガンを構え、新たな敵に向かって応戦を始める。ロレトは身を低くして、第二、第三のブースに向かって撃ちまくる。
テディの状態は一目で深刻なものであることが分かった。背後から浴びた散弾は彼の頸部《けいぶ》の肉を深く抉《えぐ》っていた。出血が激しい。頸動脈に手をやると、かろうじてまだ脈がある。喉がごぼりとなり、目が薄く開いた。どこか遠くを見つめているような視線だった。
「しっかりしろ、テディ!」
「親方……アヴェリーノが……やられた――」
絶え絶えの息の中で、ようやくそう言うと、テディの目から光が消えた。
「テディ! おい、テディ!」
もはや彼は何の反応も示さなかった。
「親方! アヴェリーノがやられた!」
銃声に重なってロレトの声が聞こえてきた。部下を失った悲しみ、そして新たな怒りが込み上げてきた。もともとこの戦いにこいつらのほとんどは無関係だ。にもかかわらず、ことの次第を話すや一も二もなく命を投げ出すことも厭《いと》わないと言ってついてきてくれた。確かに俺はあの貧しい街で、陰になり日なたになりしてこいつらの面倒を見てきた。俺を親同然に慕っていてくれたこともよく知っている。そうこいつらは俺の子供も同然だ。アリシアが俺の娘なら、こいつらは息子だ。それを――。
怒りは頂点に達した。凶暴なまでの復讐《ふくしゆう》心が心中を満たし、爆発しそうだった。
絶対に許さねえ。全員皆殺しだ。
オランドはテディの体をそっと床に横たえると、ショルダーバッグの中からシャンペンボトルを取り出した。無言のままマリオの背後に立った。
「代わってくれ!」
銃弾を撃ち尽くしたマリオが装填のために応射を止めることを、背向かいにいるはずのロレトに向かって宣言した。ロレトがその言葉にすかさず反応し、柱の陰に身を隠す。振り向いたマリオとオランドの視線が合った。
「親方、何をする気です」
「連中をぶっ飛ばす。そいつが一番早い。階段の先に人質のいる部屋はないからな」
オランドは言うが早いかデトネーティング・コードにライターの火を点火した。熾火《おきび》のような赤い火がコードをどんどん短くしていく。白煙が上がる。
「親方、待って下さい。まだ援護の準備が……」
マリオの目が驚愕《きようがく》で見開かれた。だがオランドは躊躇《ちゆうちよ》しなかった。弾丸が交差する一瞬の間を縫って、柱の陰から身を乗り出すと、シャンペンボトルを階段の方角に向かって放り投げた。
重量感を持った物体が床に落ちる音。剥《む》き出しのボトルならば、そこで砕け散るところだろうが、メタルテープが何重にも巻かれ補強された瓶は、割れることなく床を転がっていく。だが音がしたのも一瞬のことで、凄まじい爆発が起きた。爆風が破壊された建材と白煙とともに、通路を駆け抜けていく。明らかに散弾とは違いもっと大きな鉄球が凶暴な唸りを上げて飛び去っていく。
銃声が止んだ。マリオが気配を確かめるかのように身を乗り出すと、続けざまに二発、ショットガンを発射した。一瞬の静寂……。もうその方向からの応射はなかった。
「親方、後方の敵は始末できたようです」
マリオが取りあえず一方の危機が去ったことを告げた。
オランドはそれに一つ肯《うなず》くと、再びショルダーバッグの中に手を入れ、新たなシャンペンボトルを手にした。
「何をする気です」
驚きの表情も露《あらわ》にマリオが訊《たず》ねてきた。
「決まってるじゃないか。第二のブースの敵を始末するんだ」
「しかしここから投げたんじゃ、ドンピシャリ、ブースの正面で爆発させないと、部屋の中にいる人質を巻き込まないとも限りませんよ」
「そんなことは分かっている。俺が行く」
「無茶だ……」
押し止めにかかるマリオの手を振り払いながらオランドは言った。
「俺にもしものことがあったら、アリシアのことは宜《よろ》しく頼む」
全身を床に押し付けられるような空気の圧力を感じて気がついた。爆風だった。背後から前方に向けて砕け散った建築資材や鉄球が唸りを上げて飛び去っていく。腰から背にかけてが焼けるように熱い。感じるものはただそれだけだった。アヴェリーノは四肢を動かしてみようとした。指が動いた。力を込めると、腕の筋肉が膨張し意思の通りに反応する。しかし腰から下は全く感覚がない。
撃たれたのだろうか。
途切れた記憶を辿《たど》ってみる。第一のブースから身を屈めて飛び出した。二歩三歩……多分それくらいだろう。進んだところで背後から銃声が聞こえたのは覚えている。瞬間、腰から背中にかけて何かが炸裂《さくれつ》した感覚があったことも……。それから先は覚えていない。
視界がはっきりしなかった。それは通路を覆った爆発の名残の白煙のせいでもなければ、照明が全て破壊されたせいでもない。すぐ目の前に忍び寄って来ている死の影のせいだ。
アヴェリーノは己の運命を本能的に悟った。
これまでの人生が走馬灯のように脳裏に蘇《よみがえ》ってくる。トンドという極貧のスラムに生まれ、満足に教育も受けられなかった少年時代。小学校すらもまともに行けはしなかった。軍隊への入隊。厳しい訓練に明け暮れる毎日。この国ではおなじみのデモの鎮圧に出掛けたこともあった。だがそれも限られたごく一部の富裕層を護《まも》るため。つまりは確立された利権構造を保持するためであり、大勢を占める貧困層にとっては何の役にも立ちはしないのだ、ということを悟った時点で辞めることにした。トンドに舞い戻った俺を拾ってくれたのは親方だった。職を与えてくれ、バラックのような家を建てることにも尽力してくれた。そのお陰で、人並みに恋もし、子供を持つこともできた。この襲撃に参加したメンバーにしたところで同じようなものだ。親方にはいくら感謝してもしきれないほどの恩を抱えている。
もしも親方がいなかったら、トンドに舞い戻った俺はまず間違いなくゴミの山を漁《あさ》ってその日暮らしを強いられるスカベンジャーに身を窶《やつ》すのがせいぜいだったろう。大恩ある親方の娘を救い出す。親方にとって娘が宝なら、それは俺たちにとっても宝だ。そう、確かにアリシアは宝と呼ぶに相応《ふさわ》しい娘《こ》だった。分け隔てなく誰にでも優しく、そして常に口元から絶えることのない笑み……。あの娘を救い出すことができるなら、命を落としても惜しくはない。おれが死ねば家族は悲しむかも知れないが、親方のことだ。後のことはきちんとやってくれるに違いない……。それに何よりもアリシアに対して、もしあの日本人が言っていたような酷《むご》い仕打ちが行われていたのだとしたら、こんな酷い話があるものか。
アヴェリーノはともすると途切れそうになる意識の中で必死に目を見開いた。すぐ手の先にシャンペンボトルが転がっていた。顔を僅《わず》かに上げた。三メートルほど先に、目指していた第二のブースがあり、そこに二つの人影が蠢《うごめ》いているのが分かった。
俺の命一つと引き換えに、二つの邪悪な命が葬られる。結構なことじゃないか、ええっ。
アヴェリーノは顔を歪《ゆが》めた。痛さのせいではない。自分の為《な》すべきことをはっきりと見定めたことに満足したからだ。
肘《ひじ》に力を入れた。体が僅かに前進した。ボトルに手がかかった。
それを引き寄せ、しっかりと抱え込むと、アヴェリーノは渾身《こんしん》の力を込めて前進を始めた。
背後から銃声が断続的に聞こえ始めた。甲高い銃声。それがM‐16のものであり、仲間が発射しているものであることが分かった。銃弾が頭上を飛ぶ度に、微《かす》かな衝撃波を感ずる。目前まで迫った二つの影は、それに気を取られているのか、こちらの様子には気がついていないようだ。それが証拠に背後からの銃声が途切れると、銃を構え応戦を始める。
密《ひそ》やかに、密やかに……気づかれないようにアヴェリーノは不自由な体を引きずって匍匐《ほふく》前進した。
こいつらを殺す――。
アヴェリーノを支えているものはただ一つ。執念以外の何物でもなかった。
「ロレト、マリオ、援護を頼む」
オランドはそう言うと、一歩前に進みシャンペンボトルをしっかりと握りしめた。さすがにその手はじっとりと汗ばんでいる。
「分かりました。任せて下さい」銃を発射しながらロレトが叫んだ。
「マガジンを代えます。次の射撃を始める時がチャンスです」
通路には先ほどの爆発の名残の白煙が立ち込めていて視界が利かない。身を低くしていけばショットガンの脅威に晒《さら》されずに近づくことができるかも知れない。
ロレトが壁に背を付ける形で身を隠した。マガジンが床に落ちる。そして装填《そうてん》。間隙《かんげき》を縫って散弾が飛んでくる。
「行きますよ! 親方!」
オランドは身構えた。ロレトが身を翻し銃を構えた。
当然、次に起こる銃声を予期して、全身に力を込めていた目の前に、ロレトの手が『待て』と言うように突き出された。ロレトは一発も発射することなく、再び壁に背を付けると、
「アヴェリーノが、まだ生きています」
「何?」
「やつらに向かって進んで行くのが見えました」
「死なせるな! 絶対に助け出すんだ」
もうこれ以上可愛い部下を失うのは御免だ。
オランドはシャンペンボトルを床に置くと、M‐16を拾い上げ、銃撃戦に加わった。
敵はもうすぐそこだった。ぼやけていた二人の姿がはっきりと見えた。
アヴェリーノは抱え込んでいたシャンペンボトルを取り出すと、ポケットの中にあったライターでデトネーティング・コードに点火した。生命の終わりへの時を刻むように、コードがみるみる間に短くなっていく。
最後の力を振り絞って身を起こした。シャンペンボトルの底をしっかりとやや右手前方にいる二人に向けると、その上に覆いかぶさった。
こうすれば我が身によって側面を塞《ふさ》がれた爆発力は拡散することなく、あの二人に向かってバズーカよりもでかい口径から発射されたショットガン宜しく、中に込められた鉄球と共に吹きつけていくはずだ。腹の下で燃え盛るデトネーティング・コードが皮膚を肉を焼いていく。堪え難い痛みにアヴェリーノは最後の呻《うめ》きを漏らしながら耐えた。
さすがにその時、気配に気がついたガードマンが、何かを叫ぶと銃をこちらに向けるのが分かった。
「遅えんだよ――」
アヴェリーノは男に向かって、精一杯の笑顔を作り応《こた》えてやった。腹の下で突き上げられるような衝撃を感じた。それが彼が最後に感じた生体としての感覚となった。
凄《すさ》まじい爆発が起きた。爆発音が収まった時、アヴェリーノの体は粉々になり、もはやその断片を捜し出すのも困難かと思われるほどに完全に消滅していた。もちろん彼の目論み通り、二人の男もまた、C‐4の爆風、それに中に込められていたベアリングの直撃を受け、ずたずたに切り裂かれたボロ屑《くず》のような変わり果てた姿となっていた。
第二のブースも破壊された――。
「ドクター・フレッチャーはこの廊下の並びの一番奥の部屋にいる」
ガードマンは問われるままに答えた。
「ノエルはどこにいる。一緒か」
瀬島は続けざまに聞いた。
「ドクター・ノエルも一緒だ」
それさえ訊《き》けば後はこの男に用はない。かといってこの男を放置しておくわけにもいかない。ふと、別れ際にオランドの言った言葉が思い出された。
『投降してくる者がいたら、武器を奪い、床に這《は》わせた上で両手を銃床で砕け』
しかし実際に無抵抗の男を目の前にすると、そんな残虐な行為などできようはずもなかった。
「ヴェナス、ヴェナス。こいつをいったいどうしたらいいんだ」
「親方も言ったじゃないか、手を砕いて放っておけ」
「そんなことはできない」
「こんな時に何を言ってる。やらなきゃ、こっちがやられちまう。命のやり取りをしてるんだぞ」
忌々しげにヴェナスは叫んだ。
その時、瀬島の脳裏に一つの考えが浮かんだ。
「ヴェナス、このまま撃ち合いをしていても埒《らち》があかない。いいことを思いついた」
「何だ」
瀬島は床に横たわる男から注意をそらすことなく、ヴェナスの下に駆け寄ると、耳打ちをした。
「そいつはやってみる価値があるな。試してみるか。ただその男が立てればの話だが……」
「立たせてみせるさ」
この男が負傷しているのは肩から胸にかけてのことだ。まず間違いなく立つことは可能だろう。
瀬島はゆっくりと男に向かって歩み寄った。
「お前、命が惜しいか」
男が激しく肯《うなず》いた。
「手を砕かれたいか」
今度は激しくかぶりを振る。
「それじゃ、お前にやってもらいたいことがある。立てるか」
苦悶《くもん》の表情を浮かべながらも、男はどうにかといった態《てい》で立ち上がった。
「どうやら大丈夫なようだな」瀬島はその状態を確認すると、
「いいか俺の言うことをよく聞け。これから俺は、あの壁面に向かってこいつを発射する」
ヴェナス、リコの二人がいる壁面を指し、次に銃を掲げて見せた。
「それと同時に、彼らは銃撃を止める。そこでお前は連中に向かって言うんだ。『敵は倒した』とな。そしてこの銃を下げて、廊下に出ていく――。どうだできるか」
男は押し黙った。さすがに仲間を裏切ることは気が引けるらしい。
「できないと言うなら、しょうがない。両手を砕くことになるが」
どすを利かせた声を発しながら、ショットガンを翳《かざ》した。
「やる! やるよ……」
男は手を上げ防御の姿勢を取ると、何度も肯いた。
「へたなことはするなよ。お前に預ける銃に弾丸は入っていない。常に小銃が狙っていることを忘れるな」
再び男が首を縦に振った。
「ヴェナス。話はついた」
瀬島は振り返ると、ヴェナスに向かって言った。
「OK、それじゃリコ、派手にやるか」と、リコの耳元でヴェナスが囁《ささや》いた。
「任せておけ」
ヴェナスが柱の陰から身を覗《のぞ》かせフルオートで全弾を発射した。その間にリコが入れ替わり、点射を始めた。ヴェナスは空になったマガジンを入れ替えるとボルトを引いて、新たな初弾をチャンバーに送り込むと、やや後ろに下がって、リコと間隔を置いて立った。
ヴェナスが目で合図を送ってきた。瀬島は遊底を引くと、正面の壁に向かってショットガンを発射した。最初の三発は続けざまに、そして二発は不規則に……。
二発目が発射されたところでヴェナスが背中から銃弾を食らったかの勢いで、廊下に体を投げ出し、床にうつ伏せになった。銃は片手に握ったままだ。リコも同時に射撃を止め、柱の陰に身を隠した。
瀬島はショットガンを男に預けながら、『さあお前の出番だ』と促した。
リコの銃口はじっと男に向けられたまま微動だにしない。
「撃つのを止めろ! ここにいる侵入者は制圧した!」
男は瀬島が命じた通りのセリフを叫ぶと、促されるままに廊下の中央に向かって進み出た。
銃声は返って来なかった。ガードマンの姿を目にした刹那《せつな》、廊下の奥で緊張感が緩むのが気配で分かった。
ヴェナスは薄目を開けて、その一瞬を待った。すぐ傍にガードマンが立っている。廊下の奥からはもはや攻撃を仕掛けてくる気配はなかった。
仲間の姿を確認したところで、コーナーの陰から三人の男たちが姿を現すのが見えた。手にはショットガンを所持しているが、片手でそれをぶら下げている。これでは何か異変を感じても、銃を上げ、遊底を引き、狙いを定め、トリガーを引くには時間がかかる。その間にこちらはマガジンの中の三十発を撃ち尽くしてしまうだろう。
「いったい、こいつらは何者なんだ」
コーナーから姿を現した三人は、そう問いかけながらこちらに歩み寄ってくる。背後にバックアップはいないようだ。
まるで俺はデコイだ。そしてあいつらはデコイに引き寄せられた鴨だ。
ヴェナスは寝たままの姿勢で、M‐16の銃口を三人に向けた。恐怖と絶望が男たちの目に宿るのが分かった。ヴェナスは容赦することなくトリガーを引いた。ハンドガードをしっかりと握り、小銃を左から右へと払った。マリオネットが踊っているかのように男たちの体が跳ねる。白い制服の上に小さな赤い花が咲いていく。黄泉《よみ》の国へ送りだす手向けの花だ。
三十発全てを撃ち終えた時、三人は仰向《あおむ》けになって床の上に横たわったまま、ぴくりともしなくなった。
「やったぜ!」
ヴェナスが勝利の雄叫《おたけ》びを上げた。
瀬島はその声を聞くなり、廊下の中央で呆然《ぼうぜん》とした面持ちで佇《たたず》んでいる男の下に駆け寄ると、その手からショットガンを取り上げた。全く無抵抗のうちに銃は瀬島の手に戻った。
無理もない。仲間が全て殺されるという惨劇の一部始終を目の当たりにしたのだ。
だが男に同情している時間はない。あの奥のドアの中に目指す二人がいるのだ。
瀬島は五発の弾丸を弾倉の中に送り込んだ。遊底を引いた。初弾がチャンバーの中に送り込まれる感触をしっかと味わいながら、無意識のうちに言葉が漏れた。
「ついに追いつめた……フレッチャー、ノエル……」
フレッチャーはドアの横に立って脱出の機会を窺《うかが》っていた。
銃声が止んだ。どちらが勝利を収めたものかは判断がつきかねた。
楽観は禁物だ。ふとした気持の緩みが命取りになる。
事実、部屋の外が静かになる前に最後に聞こえてきたのはショットガンの銃声ではなかった。フルオートで撃ちまくる自動小銃のものだ。
ということは敵が外にいると考えた方が無難だ。勝利したのは敵か味方か、それはすぐに分かることだ。
手の中のMP‐5がことのほか心強かった。小さな鋼鉄の工作物がこれほどいとおしく感じられたことはなかった。ロングレンジでの戦いならともかく、接近戦では圧倒的にSMGに分がある。各国のSATを始め、突入部隊が手にしているのが決まってこの手の銃であることが何よりの証拠だ。武器を所持した暴漢相手に命を懸ける人間たちが、最強の武器を選ぶのは当然の成り行きというものだ。
タイミングを計った。
ノエルに目でドアの反対側に立つように合図を送った。恐怖に駆られた目、顔面の筋肉が緊張がピークに達したせいで小刻みに震えている。
危機に際して生死を分けるのは、土壇場で覚悟を決められるかどうかだ。その点この男にそれだけの度量はない。こんなやつはここで死んでも自業自得というやつだ。どうなったところで俺の知ったことじゃない。邪魔さえしてくれなければそれでいい。
フレッチャーにとって、ここから自分が生きて逃げおおせることができるかどうか。問題はその一つだった。
そっとノブに手をかけた。円形のそれをそっと右に回す。もちろんドアに正対して立つことはない。壁に身を隠したまま腕だけを伸ばした。
開けるぞ……。
ノエルに目で最後のサインを送る。彼の喉仏《のどぼとけ》が一度大きく上下する。一呼吸置いて肯きが返ってきた。
フレッチャーは一つ大きく息をすると、勢いよくドアを開けた。
ガードマンがいるブースは残り一つとなった。
あそこにいる連中を倒さない限り、廊下に沿ってずらりと並んだ娘たちが監禁されている部屋のドアを開けることはできない。敵はおそらく二人、こちらはついに三人になった。弾丸もそろそろ尽きかけている。
オランドは焦った。連中の弾丸ストックがどれだけあるものかは分からないが、弾がなくなればこちらの武器はシャンペンボトルに詰めた手製の手榴弾《てりゆうだん》、それに火炎瓶だけだ。それだけでショットガンに対抗するとなればどちらが有利かは、五歳の子供でも分かることだ。
そうした気持を代弁するかのように、空のマガジンにストリップ・クリープにセットされた弾丸を補充していたマリオが不安げな声を上げた。
「親方、あとマガジンは十個しかありません」
「分かってる。お前のショットガンの弾丸は幾つある」
「もうありません。いま装填《そうてん》されている五発で終わりです」
状況は最悪だった。もはやこうなれば二つのブースを破壊した時と同じ方法、つまり援護射撃を背にブースに近づき、手榴弾を投げ込むしかない。
「お前、こいつの扱いかたを知っているか」
オランドは手にしていたM‐16を翳してみせた。
「知っていますが……親方、まさか」
早くもこちらの意図を悟ったものか、マリオが顔色を変えた。
「それ以外に方法があるか。今度は俺が行く。しっかり援護を頼むぞ」
「ちょっと待って下さい。そんなことは自殺行為です」
「しかしそれ以外にどんな方法があるってんだ」
マリオは押し黙った。
「方法がないんだったら、黙って俺の言う通りにしろ」
「ちょっと待って下さい」
何か閃《ひらめ》いたのか、マリオはそう言うなり傍らにいる人質のガードマンに向かって訊《たず》ねた。
「あのブースの向こうは何になっている。やはり監禁された娘たちがいるのか」
男は首を左右に振った。
「リネン室があるだけです。誰もいやしません」
「誰もいない。本当かそれは」
オランドは聞き返した。それと同時に脳裏に閃くものがあった。
「本当です。間違いありません」
「そうなれば話は簡単じゃねえか」
「どうする気です親方」と、怪訝《けげん》な顔をしてマリオ。
「ハンティングと同じさ。穴に潜った獲物を燻《いぶ》し出すには、こいつしかねえだろう」
おもむろにショルダーバッグの中に手を入れたオランドは、火炎瓶を取り出して見せた。
「そんなものを使って大丈夫ですか」
「心配するな。まあ見ていろ」
言うが早いか、オランドはバッグの中からライターオイルを取り出すと、火炎瓶のネックに巻かれた布にたっぷりと注ぎかけた。特徴のある臭いが破壊されたブースの中に充満した。その臭いを察知したロレトが銃撃の合間を縫って振り返った。
「親方、何をしようってんです」
「いいから、お前は黙ってしっかり援護を頼む」
「分かりました。任せといて下さい」
ロレトはそう言うなり、マガジンを入れ替え、ボルトを引いた。援護射撃の態勢が整ったことを見定めたところで、オランドは前に進み出ると、ライターで火炎瓶に火をつけた。オレンジ色の炎が上がった。薄暗かった空間が明るくなった。炎の先から黒煙が立ち昇る。
「ロレト!」
「いつでもどうぞ!」
そう言うなりロレトは身を乗り出すと、第三のブース目がけて銃弾を浴びせかけ始めた。オランドはダッシュして廊下に飛び出た。
「食らえ! この糞《くそ》馬鹿野郎!」
罵《ののし》りの言葉と共に火炎瓶を投げつけた。オレンジ色の炎が尾を引きながら宙を飛んで行く。火炎瓶は狙った通り第三のカウンターのテーブルの上にぶち当たると、粉々に砕け散った。小さな炎は瞬間的に巨大な火の玉となり、飛散したガソリンとモーターオイルの混合液が太陽のコロナのように周囲に飛び散った。
「うおおおおお」
野獣の咆哮《ほうこう》を彷彿《ほうふつ》させるような絶叫が上がった。火だるまになった二人の男がブースを飛び出して来た。銃声が上がった。ロレトが二人の男の命を瞬時に葬り去ったのだ。
酷《むご》い仕打ちかも知れないが、生きて焼かれるよりは遥《はる》かにましというものだ。とにかく、これでこのフロアーを完全に制圧することに成功したのだ。
後は監禁されている娘たちを解放するだけだ。
「マリオ。すぐに閉じ込められている娘たちを解放するんだ。急げ、時間がないぞ」
その時、燃え盛る炎の熱を感知した火災報知器が鳴り始めた。それに続いて天井のスプリンクラーからシャワーのように水が噴き出し始めた。
「さあ、お前の出番だ。早くドアを開けろ」
マリオは男を立たせると、背を押しながら廊下に出た。
正直なところを言えばジョエルのことがやはり頭に浮かんで離れない。一刻も早くこの目で無事を確かめたい。しかしどこの部屋に誰がいるかは分からない。手前から片っ端に開けて行くのが早道だ。
男から奪っていたIDカードをスキャナーに通した。
「パスワード」
男が答えた。
「全ての部屋は一緒なんだな」
肯《うなず》くのを確認したマリオは言われた暗証番号を押した。こうしている間にも、燃え盛る炎は収まるどころかますます火力を強くしていく。天井の建材の表面を舐《な》めるようにして炎が走り始める。黒煙が空間を満たし始める。
キーボードの表示にグリーンのランプが点灯する。
マリオは思い切りドアを開けた。蛍光灯の光が眩《まぶ》しく目を射た。
「誰かいるか! 助けに来たぞ」
ベッドの陰から一人の若い女が姿を現した。鉄の扉一つ隔てたところでたったいままで交わされていた銃撃戦に怯《おび》えているのか、中々出てこようとしない。
「心配ないんだよ。君たちを助けるために来たんだ」
笑みを浮かべながら歩み寄り、そっとその娘に手を差し伸べてやった。
娘は突然わっと泣き出すと、しがみついてきた。いままで堪《こら》えていた感情が一気に爆発したのだろう。その背に手を回そうとした瞬間、腹にふくよかな感触を感じて、思わずぎょっとなった。
見ると娘の腹は不自然に膨らんでいた。
娘は明らかに妊娠していた。
腕の中で泣きじゃくる娘を抱き締めながら、ここで行われていた非道の数々に改めて怒りが込み上げてくるのを抑えきれなかった。
拉致《らち》されたあげく、どこの誰とも分からない人間の受精卵を子宮の中に移植される。ただ子供を産むというだけの目的でここに長きにわたって監禁されてきたのだ。その精神的苦痛、肉体的苦痛は想像に余りある。
「お前、ここにいる娘たちは、みな生活をエンジョイしていると言ったな。外にいては味わえないような待遇を受けていると言ったな。それがこれか」
いつの間にか部屋に入ってきたオランドが怒気も露《あらわ》にガードマンに食ってかかった。
「確かに一見したところ、一流ホテル並みの家具が揃ってはいるようだ。メシもいいものを食わせてはやっただろうさ。だがな、この娘が受けた屈辱、悲しみを考えてみたことはあるのか。どこの誰のものとも分からねえ卵を埋め込まれ、無理やり子供を産まされる。その苦しみを……お前は……」
おそらくはアリシアの身にも起きたであろうことを想像したのか、オランドは涙を流しながら絶句した。
「親方、時間がありません。急ぎましょう」
黒煙は早くもこの部屋の中にも流れ込んできている。
「許せねえ。おれは絶対にこいつらを許せねえ」
そう罵りの言葉を吐きながらも、マリオにせかされながらオランドは部屋を出た。
二つ目のドアを開けた。そして三つ目……。そこにも見慣れぬ若い娘がいるだけで、アリシア、麻里、そしてジョエルの姿もなかった。火は自分たちを追うようにどんどん火力を増しながら迫って来る。
四つ目のドアの前に立った時、中から助けを呼ぶ女の声が聞こえた。
「助けて! ここから出して!」
「待っていろ、いま助けてやる」
マリオはロックを解除した。ドアを開けた瞬間、中から若い女性が飛び出してきた。黒髪はフィリピン人のそれと変わらないが、明らかに皮膚の色が違い、顔つきも違っていた。
「マリ?」
「そう。あなたは?」
「私はミスター・セジマと一緒に働いているマリオだ」
「やっぱり私のメッセージが伝わったのね。瀬島さんが助けを手配してくれたのね」
「大方のところは当たっているが……とにかく詳しいことは後でミスター・セジマから聞いてくれ」
「瀬島さんもここに来ているの?」
怪訝《けげん》な表情を浮かべ、麻里が訊ねてきた。
「彼はいま上の階で、フレッチャーという男を追っているはずだ」
「どうしてあの人が? そう言えばあなた瀬島さんと一緒に働いていると言ったけど、それじゃこの人たちは警察の人じゃないの」
「だから詳しいことは後でミスター・セジマから聞いてくれ。とにかく時間がないんだ。あちらに階段がある。あれを使って早く一階に上がるんだ」
マリオは麻里の背を押すと、さあ行けとばかりに手を振った。
五つ目のドアを開いた。
そこにはやはり怯えた目をした女性がいた。歳の頃は二十歳前後だろうか。どこかで見覚えのある顔だった。考えるまでもなくオランドが叫んだ。
「アリシア……アリシア……だな」
「お父さん?」
四年ぶりに見るアリシアは幾分|窶《やつ》れているふうではあったが、美しい娘に成長していた。透明感さえ感じる澄んだ瞳《ひとみ》が水を湛《たた》えたように潤うと、涙が頬を伝って流れ始めた。激しい嗚咽《おえつ》が漏れた。
オランドは、いてもたってもいられぬとばかりに我が子の下に駆け寄ると、その体をきつく抱き締め、何度も頬擦りをした。その顔も涙でぐしゃぐしゃだった。
「来てくれたのね……来てくれたのね……」
「ああ……アリシア……どれだけ辛《つら》い思いをしたか……」
ひとしきり抱き合ったところで、身を離したアリシアは急に真顔になった。その顔がたちまちのうちに悲しみで満たされた。
「お父さん……私、この四年の間に三人の子供を産んだ……いえ、産まされた……」
「三人も……」
突然の告白にオランドは続ける言葉もないようで、押し黙った。
「それが、私の本当の子供なのか、そうじゃないのかは分からない。でも最後に産んだのは半年ぐらい前のことだった。もしかしたらこの建物のどこかにいるかも知れないの」
「何だって!」
「もしも、その子供たちがこの建物にいるのなら……どうしてもあの子たちをこの手に取り戻したいの」
「アリシア。よく聞け。お前が産んだのは、他人の受精卵をただ体内に移植されたものなんだ。お前の子供じゃないんだ」
「いいえ、あの子たちは私のお腹の中に十カ月いて、産まれてきた子供たちよ。紛れもない私の子供よ。三人の子供たちの出産の苦しみ。産声もこの体が全部覚えている」アリシアは必死の形相で訴えかける。まさにそれは母の顔だった。「お願いお父さん、あの子たちを助けて……お願いだから」
「分かった」
オランドはそう言うと、アリシアの手を取り立ち上がらせた。
「おい」話の一部始終を聞いていたマリオはいち早くガードマンの下に取って返すと、「この施設の中に赤ん坊はいるのか。どこにいる」
ガードマンは恐る恐るといった態《てい》で、一番奥の階段のすぐ手前にある部屋を指した。
「何人いるんだ」
「正確な数字は知らない。数は増減するからな。多分随時五人程度はいたと思う」
「なんてやつらだ……」
言葉もなかった。やはり連中は瀬島の推測通り、臓器移植のドナーに供すべく、密《ひそ》かに生命を創出し、それを飼っていたのだ。
「親方、先に行きます。そうとなれば急がなければなりません」
マリオは、廊下に飛び出すと次々にドアを開けていった。
どこの部屋にも若い女性がいた。それらの女性を外に連れ出しながら、ついにドアはあと二つを残すばかりとなった。
この次のドアは赤ん坊がいる部屋のはずだ。となればジョエルのいる部屋はここか。
胸が高鳴った。どうかジョエルがいてくれますように――。マリオは神に祈りを捧《ささ》げながら、ドアを開けた。だがそこに人影はなかった。失望感が込み上げてくる。その場に思わず膝《ひざ》をつきそうになった。だが、よくよく部屋を見渡してみると、明らかについいまし方まで、人がここにいた痕跡《こんせき》があった。ベッドのシーツは乱れたままだったし、テーブルの上には読みかけの雑誌が開かれたまま置かれていた。
なぜだか分からないが、ここにジョエルがいたような気がしてならなかった。
いったいジョエルはどこに行ったのだろう。絶対にこの建物の中にいるには違いないのだが……。
ふと、今夜はこの施設の中に四十人もの白人が集結していることが思い出された。
まさか連中は、今夜ジョエルを生きたままばらそうとしているんじゃ……。
不吉な思いが心中を満たしていく。背筋に戦慄《せんりつ》が走り、どうしようもない焦燥感に襲われた。
「おい、お前」
再びマリオはガードマンに向かって問いかけた。
「はい」
「この施設には手術室があるだろう」
「手術室……ですか。それは知りません」
「嘘を言うな、絶対にあるはずだ」
「いいえ、私は知らない」
ガードマンは頑《かたく》なに否定する。どうやらその様子に嘘はないようだった。
「ただ……」
絶望感が再び心中を満たし始めた時、ガードマンが呟《つぶや》くように言った。
「ただ、何だ」
「もしかしたら、地下二階のことかも知れません。あそこは我々も立ち入りを禁止されているので、よくは分かりませんが……」
もうそれだけ聞けば十分だった。マリオは脱兎《だつと》のごとく部屋を飛び出ると、一刻も早く地下二階に駆けつけたい感情を抑え、最後のドアを開けた。
そこはまさに保育所とも言うべき様相を呈していた。世話係なのだろう。一人の中年の女がすっかり怯《おび》えた表情でこちらを見ていた。ベビーベッドの中には、先ほどアリシアが言った通り、乳児、それに部屋の片隅には三歳ぐらいまでの幼子たちがいた。
「親方、後は任せます。私は地下二階を見てきます」
五人の乳幼児を運ぶには、親方、アリシア、ロレト、それにこの世話係で十分手は足りるだろう。
マリオはそう判断すると、スプリンクラーから水が滴り落ちてくる廊下に飛び出して行った。
瀬島は奥の部屋に向けて、壁に背をつける形で慎重に歩を進めた。自分の背後にはヴェナスが、窓側にはリコがポジションを取っている。
ヘビーウエポンを所持しているとは思えないが、拳銃《けんじゆう》ぐらいの武器は持っていてもおかしくはない。慎重には慎重を期しておいて間違いはない。何しろこれだけのことをしでかす連中だ、追いつめられたらどんな手を打ってこないとも限らない。
厚い絨毯《じゆうたん》が敷き詰められているせいで、足音は見事に吸収された。接近の気配は完全に消せているはずだ。後はあのドアをぶち破り、中に突入する――。
だが問題は、決してあの二人を殺してはならないということだ。とにかく諒子の凍結卵子の在処《ありか》を知るものはあの二人をおいて他にいないのだ。
生け捕り――それがどんなに難しいものか、瀬島は改めて思い知る気がした。これならばひと思いに殺《や》ってしまった方が遥《はる》かに簡単だ。
また一歩、歩を進めた――。
その時、突然ドアが開いた。瞬間的に瀬島は身を伏せた。リコの位置からは、何かが見えたらしく、スタンディング・ポジションからいきなりM‐16をぶっ放し始めた。
薬莢《やつきよう》が宙を舞い、絨毯の上に転がっていく。
「リコ! リコ! 殺すな! あいつらは生きて捕らえないとならない!」
思わず叫んだ瀬島に向かって、リコが驚きの表情の籠《こも》った視線をちらりと向けた。
その時一瞬の隙ができた。
予期した通り相手はドアを開けるなりいきなりぶっ放してきた。
フレッチャーのいた位置は、ちょうど射線の死角になり、弾丸はドアを挟んだところにいるノエルに集中した。コンクリートの壁に護《まも》られているにもかかわらず、彼はその場に蹲《うずくま》り身を硬くしている。部屋の中に飛び込んできた弾丸が、ローズウッドやマホガニーの高価なサイドボードを容赦なく破壊していく。
木片が舞い、破壊音が部屋の中に充満する。
一瞬、銃撃が止んだ。チャンスだと思った。
フレッチャーは、MP‐5を構え素早く戸口に立つと、銃声のした方に向けてそれを構えた。窓を背にして銃を構えている男の姿が見えた。意外なことに視線はこちらを向いてはおらず、横に向けられている。躊躇《ちゆうちよ》することなくトリガーを引いた。モードはもちろんフルオートにしてある。サイレンサーは見事なまでに発射音を消し去った。ファイアリング・ピンが薬莢《やつきよう》の底部を叩《たた》く音に重なって、9ミリのピストル弾が相手の体を捕らえた鈍い音がはっきりと聞こえた。黒ずくめの衣服。両の腕には赤い布を巻いている。その格好からも予期した通り、この男が警察や軍隊の人間ではないことが分かった。命中弾を食らった男の体が後ろに吹き飛び、仰向《あおむ》けの姿勢で床に叩きつけられた。体をぶち抜いた弾丸か、あるいは目標を逸《そ》れたものかは分からないが、背後の窓ガラスが粉々に砕け散った。
あと何人の賊がいるのかは分からない。潜んでいる位置はここからは死角になってはいるが、先ほど男が向けていた視線の延長線上にいるに違いない。
とにかく幅三メートルほどの廊下を横切ることができれば、連中の死角に入る。そこには地上に繋《つな》がる非常階段がある。逃げおおせるためには、これが最初で最後のチャンスだ。やつらに反撃の機会を与えたら終わりだ。
フレッチャーは身を乗りだしながら、男が向けた視線の延長線上と思《おぼ》しき辺りに向かって、トリガーを絞った。それと同時に、猛然と三メートルほど向こうに向けてダッシュした。
「ノエル、もたもたするな! 死にたくなかったら続け」
そう叫びながら――。
それは全く想定外のできごとだった。
リコが視線を向けてきた瞬間、ドアの陰から人影が黒いシルエットとなって覗《のぞ》くのを瀬島は目の端で捕らえた。本能が危機を知らせた。遮蔽《しやへい》物は何もない。銃を構えながら身を伏せた。
その時思いもよらないことが起きた。突然、断続的に高圧ガスが排出されるような音が聞こえたかと思うと、空気を切り裂きながら凄《すさ》まじい勢いで弾丸が飛んできた。
リコの体から肉を切り裂かれる湿った音がした。スタンディング・ポジションを取っていた姿勢が崩れる。吸収しきれなかった衝撃のせいで、両手を天に翳《かざ》すように大きく開きながら、彼の体が後方に吹き飛ばされる。侵入の最中に外したものだろうか、防弾チョッキの前は大きく開いている。固く閉じられた目。大きく開いた口。苦悶《くもん》に歪《ゆが》むリコの顔が見えた。胸を中心に着弾の証《あかし》とでもいうように、小さな血煙が上がる。
「リコ!」
瀬島は思わず叫んだ。窓ガラスが雪崩を打つように砕け散った。無数の破片が飛び散ってくる。意識しないうちに一瞬目を閉じた。その間にたったいま目にしたリコの姿が、ビデオテープをスローで再生したかのように脳裏に蘇《よみがえ》ってきた。
リコがやられた――。胸を中心に食らった弾丸は一発や二発ではないように思われた。彼が致命的な打撃を被ったことは間違いない。
時間にすればまだ一時間と経ってはいないだろうが、それでも生死を共にして戦ってきた仲間を失う喪失感、寂寥《せきりよう》感が込み上げてくる。それと同時にいままでにも増して激しい怒りが込み上げてくる。
「気をつけろ! こいつは拳銃じゃねえぞ。やつらはSMGを持っている!」
ヴェナスが背後から叫ぶのが聞こえた。
瀬島は連中が持っているのはせいぜいが拳銃ぐらいだろう、とたかを括《くく》っていた己の不明を恥じた。三人が三人ともそんなヘビーウエポンを所持しているとは考えもしていなかったが、もっと慎重に行動すべきだった。
瀬島は決然と目を見開くと、応戦に打って出るべくショットガンを構えた。
その時、第二の連射が襲ってきた。今度はこちらを狙っている。床の上に伏せていなかったら、確実にやられていただろう。連中の射撃はそれだけこちらの位置を確実に把握していた。耳を聾《ろう》する銃声に慣れていた身には、高圧ガスが断続的に噴出するような音が聞こえるだけのSMGの発射音は不気味以外の何ものでもなかった。死神の息吹――。そう呼ぶに相応《ふさわ》しい音とともに、弾丸がすぐ頭上を唸《うな》りを上げて掠《かす》めていく。膨大な熱量を持った弾丸の衝撃波を感じる。
危険を察知した体が無意識のうちに反応した。銃を構えたままで頭を伏せた。
その時、ドアの陰から男が一人、猛然と飛び出すと、通路の向こうに姿を消した。
「ヴェナス! ヴェナス! 一人逃げた」
攻撃が一瞬止んだ。
その間隙《かんげき》をついて、瀬島は肘《ひじ》と膝《ひざ》を使って素早い動作で匍匐《ほふく》前進を始めた。
一人は逃したが、まだ中にはフレッチャーかノエルか分からないが、もう一人残っているはずだ。
距離が幾分縮まった。ドアの陰に人影が見えた。ショットガンを構えようとした。それよりも早く、相手が撃ってきた。やはり銃声は聞こえない。弾丸の発射される間隔も全く一緒だ。弾数を数えることすらできない程の発射速度だ。
だが前回の攻撃とは違って、的は自分から遥《はる》かに離れている。どうやら最初の男が脱出に成功したのを見て、焦っているようだ。
瀬島はそれでも頭を低くして、ショットガンを構えた。
乱射は二度、小刻みに繰り返された。三度目の射撃が始まった。その時ついにドアの間から、廊下を横切ろうと、意を決したかのような勢いで飛び出してくる人影を捕らえた。
今度は逃しはしなかった。瀬島はそのまま、低い姿勢でショットガンのトリガーを引いた。重量感のある銃声と共に、肩に蹴飛《けと》ばされるような反動があった。狙いの程は定かではなかったが、発射と同時に拡散を始めた散弾は確実に目標にダメージを与えたようだった。
それが証拠に、まるでブッシュの間から勢い良く飛び立った雉《きじ》が、銃弾を浴びてたちまち羽ばたきを止め失速するように、男の足が止まり廊下の陰に倒れ込むのが分かった。
手応《てごた》えが十分にあった。あとはこいつが誰か。生きて口を割らせることができるか。問題はそれだけだ。
瀬島は、立ち上がると、慎重に銃を構えながら腰をやや落とした姿勢で歩を進めた。背後では、ヴェナスがリコの下に駆け寄り、膝を落として、完全に動きを止めた彼の首の辺りに手をやっている。
一瞬、そちらの方に目を向けると、ヴェナスは悲しげな目と共にゆっくりと顔を振って、視線を落とした。
リコが死んだ……。だがいまはその感傷に浸っている場合ではない。
瀬島は改めて銃を構え直すと、一つ大きく息を吐き、更に前に歩を進めた。男の呻《うめ》き、聞きようによっては啜《すす》り泣きとも思える声がした。コーナーが近くなる。男の足が見えた。大腿《だいたい》から下が血塗《ちまみ》れになっている。これでは動きは取れまい。だが油断は禁物だ。
瀬島は慎重にその全身を見極めるべく歩を進めた。
一人の男が床に横たわっていた。こちらの気配を察して振り向いたその目に、明らかに怯《おび》えの色が見て取れた。歳の頃は四十にさしかかったばかりという辺りだろうか。頭部にへばりつくような金髪が乱れて額にかかっている。オックスフォード地のYシャツの襟元に汗が滲《にじ》んでいるのが分かった。
銃は所持していない。手の先を見ると、一メートルほど前方に、見たこともない銃が転がっていた。
「MP‐5……こんなもんを持っていやがったのか」
背後からヴェナスが怒声を上げると、憎しみの籠《こも》った視線を男に向け銃を構えた。そこに紛れもない殺気を感じた瀬島は、思わず銃口を持ち、それを制した。
「なぜだ。こいつはリコを殺《や》りやがったんだぜ」
「この男にはまだ訊《き》かなければならないことがある。それにリコを殺ったのは、こいつじゃない」
瀬島は前方に開かれたままになっているドアを顎《あご》で示した。
「もう一人の男を逃がすな」
「分かった」
ヴェナスは銃を構え直すともう一人の男を追って、ドアの向こうに消えて行った。
二人になったところで瀬島はおもむろに訊いた。
「お前はフレッチャーか」
男は何でその名前を知っているんだとばかりの驚きの表情を顔に宿すと、首を左右に振った。
「それじゃノエルだな」
「どうして……それを」
「お前は聞かれたことだけに答えればいい」
瀬島は銃口を男の額に押し付けた。
「止めてくれ! 何でも喋《しやべ》るから……」
ノエルは固く目を閉じると、歯を食い縛りながら懇願した。
「お前、大道寺諒子という女を知っているな」
「ダイドウジ・リョウコ……何者だ。そんな名前は……」
「嘘を言うな。東京の新城という医師から、四年前胎児の卵巣から採取された卵子が送られてきたはずだ。その母親の名前だ」
「思い出した……何でも喋るから……ああっ……その銃を額から離してくれ……頼む……」
こうして見ている間にも額に脂汗が滲《にじ》んでくるのが見てとれた。
「いいだろう」瀬島は銃口を額から離してやった。
ノエルはがっくりとその体を床に横たえると、肩で荒い息を吐いた。
「お前たちは、その卵子を熟成培養して誰かの精子と掛け合わせ、代理母を使って赤ん坊を作り上げたな」
「どうして、それを……」
はっとしたような目を向けノエルが言った。
「赤ん坊はどうやら二歳になるまでこの施設の中にいた。それまでは間違いなく生存していたはずだ。だがお前たちは、諒子の息子が移植を必要とされる重い心臓病に罹《かか》っていると知るや、人工授精で生まれた子供の心臓をその子供に移植した……どうだ、それに違いないだろう」
「確かに、あの卵子を使って体外受精を行い、赤ん坊を作り上げたのは俺たちだ。こうなったら、何でも話す。ただ命ばかりは助けてくれ……それは約束してくれるか」
「全てを話せばな」
ノエルは一つ肯《うなず》くと、すっかり観念した様子で話し始めた。
「我々がここに研究所を開設した当初の目的は、未成熟の卵子、つまり胎児の卵巣から取り出した卵子を培養熟成し、妊娠に耐えられるまで育て上げる技術を確立することだった。我々は長い研究の果てにその培養液の開発に成功した。世の中には不妊で悩む夫婦は少なくない。それと同時に快楽を追い求めた揚げ句に、望まない命を授かり、闇から闇に葬られる命も少なくはない。世界中で堕胎される胎児の数は膨大なものだ。全く皮肉なものさ。どんなに望んでも、ただの一度も子供を授からないカップルもいれば、二度、三度と望まない子供を孕《はら》む女もいるんだからな」
「それで」
「我々はそこに大きなビジネスチャンスが存在すると考えた。あんたは卵子ドナーの存在を知っているな」
「ああ」
「不妊に悩む夫婦は他人の卵子や精子による子供、つまり自分たちのどちらかの遺伝子しか引き継いでいなくとも、何としても子供を手に入れたいと願っているケースが少なくない。だが、実際に子供を手に入れるに当たっては、優れた遺伝子を引き継ぐ人間の卵子、あるいは精子を欲しがる。誰でも容姿端麗、頭脳|明晰《めいせき》、そんな子供を欲しがるものだ。だが、現実は卵子やドナーの提供者の中からそんな要件を満たす人間を見つけだすのは至難の業だ。そこで目をつけたのが胎児の卵子というわけだ」
「妊娠二十二週目の胎児は七百万個の卵子を抱えている……」
「その通りだ。つまり遺伝学的に優れたものを持っているとみなされる胎児の卵子を手に入れ、それを培養熟成することができれば、一々ドナーを捜す手間が省ける。子供を得る方にしたところで、データが完全に把握されていれば、安心できるというものさ」
「オーダー・ベビーどころか、それじゃ肉牛の生産と同じじゃないか」
「まあ、そういう見方もあるだろう。だがいずれにしても、我々はその培養液、培養方法の開発、確立に成功した。だが言うまでもなくそれは実験段階の話で、技術を確立するためにはどうしても実際の人間を使って臨床実験をする必要があった」
「それで、どこの誰とも分からない男の精子と培養した卵子を掛け合わせ、それを密《ひそ》かに拉致《らち》してきた娘の子宮に移植して無理やり子供を産ませた。そして生まれた子供はデータを集めてしまえば邪魔になり臓器移植のドナーとして用いた……そういうわけだな」
「それは違う……」
「何が違うと言うんだ」
「確かに、臓器移植にそうした子供を用いたのは事実だ。だが、それは副産物として生じた命の有効利用だったんだ」
「副産物だと?」
瀬島はノエルの言うところが分からなかった。
「優れた遺伝形質を持った卵子を使って、体外受精を希望する夫婦を捜すことは難しい話ではなかった。本国の組織の中には、このプロジェクトを進める組織がある。もっとも社内でも極秘で、その存在を知る者はほんの一握りの人間だがね。彼らは世界中から医者が集まる学会に出掛けて行っては、これぞという医者を見つけると患者の斡旋《あつせん》、それにもしもこちらの希望どおりの胎児の卵子が手に入った時にはそれを採取してくれるよう持ちかけた。もちろん大金と引き換えにだ」
「世界規模の学会に集まってくるような学者先生がそんな誘いに易々と乗るものなのか」
「学会といってもいろいろある。メーカー主催の学会ともなれば、顎足《あごあし》付きの観光旅行に毛が生えたような代物さ。自社の製品を使ってくれそうな医者を集め、接待申し上げるのが目的だからな」
「じゃあ、新城もそうやって引っかけたのか」
「どうやら、そのようだな。彼は理想的な条件を持った医者だったよ。私は直接彼と言葉を交わしたこともなければ、会ったこともないが、聞くところによれば、東京の一等地にマタニティ・クリニックを構え、客層は富裕層が多いそうじゃないか」
「そこに現れたのが諒子だったわけだ」
「その通りだ。あの卵子にはすぐに買い手が見つかった。そもそもが東洋系の卵子は通常の不妊治療の現場でも希少価値であるうえに、あれだけ血統がはっきりしている例はめったになかったからな」
「それじゃ、移植に用いた子供の他に、現在も存在している子供がいるというのか」
「確かアメリカ人夫婦のオーダーだったはずだ」
瀬島は、初めて知った思いもかけなかった事実に唖然《あぜん》とした。だが次に知らされた事実は、もっと酷《ひど》いものだった。
「あれには奇妙な条件がついていてね」
「奇妙な条件?」
「その第一は、オリエンタルの卵子であること。第二に代理母になる女性は処女にしてくれって言うんだ」
「何でまたそんな奇妙なオーダーをしてきたんだ」
オリエンタルの卵子に需要があることは何かの記事で読んだ記憶があるが、ノエルが言うまでもなく処女を求めてくるというのは確かに奇妙なオーダーだ。
「さあね。多分待望の子供を手にすることができるんだ。その子供に伝説を作りたかったんじゃないのか。処女懐妊という伝説をね」
「つまり神の子ということか」
「ああ……だがクライアントはその願いを叶《かな》えてくれれば、それに見合った報酬を支払うことを申し出てきた。こうした分野の研究には莫大《ばくだい》な投資がかかる。桁《けた》が一つ違う金額は大きな魅力だった。我々はこの研究施設の中に特別な組織を作りそれを『マリア・プロジェクト』と名付けた……」
「マリア・プロジェクト……それでアリシアが必要だったというわけだな」
「アリシア? すまないがどの女のことかは分からない。何しろここでは全て女性をコードネームで呼ぶことになっているんでね」
「拉致《らち》したのはアリシアだけじゃないだろう。少なくともトンドからだけでも、二人の少女を拉致したはずだ」
「よく知っているな。トンドに目をつけた理由は二つある。まず一つは言うまでもないことだが、あのスラムから女の一人や二人が姿を消しても大した騒ぎにはなりはしないからだ。二つめの理由は、エイズや性感染症の心配がまずほとんどないという点だ」
「どうしてそんなことが言える」
「我々もマリア・プロジェクトを実施に向けて検討している過程で分かったことなんだが、その日暮らしを余儀なくされている連中は女を買う金などありゃしない。つまり、限られたパートナーとしか性交渉を持つ機会がない。どいつもこいつも子沢山なのが何よりの証拠だ。あんな環境にいたんじゃ、娯楽といったらその程度のことしかありゃしねえだろうさ」
「何てやつらだ」
瀬島は込み上げてくる怒りを必死に堪《こら》えた。こいつにはまだ聞かなければならないこと、やって貰《もら》わなければならないことがある。
「さっきお前は臓器移植は副産物だったと言ったな。あれはどういうことだ」
感情を押し殺して瀬島は訊《たず》ねた。
「体外受精によって移植される胚《はい》は必ずしも順調に子宮に定着し育つというわけではない。失敗する確率も少なくない。当然成功率を高めるために同時並行的に数人の女性の子宮に胚を移植する。だが成功するのは一件だけというわけでもないのもまた現実というものでね……クライアントにしたって必ずしも全ての子供を引き取ってくれるというわけでもない」
「それで引き取り手のない子供を臓器移植のドナーに仕立て上げたというわけか」
「元々行く当てのない子供だ。それにあれ[#「あれ」に傍点]を創りだしたのは俺たちだ。人の形《なり》をしていても、実験動物と変わらない。それに健康な臓器を求めている人間は世の中にごまんといる。いくら金を出しても構わないというね……。まさに双方の利害が一致したというわけさ」
「臓器移植に利用したのは、ここで生まれた子供だけじゃないだろう。実際トンドからも何人かの幼児、それに少年が姿を消している」
「オーダーに従ったまでだ。やり始めてみると、臓器売買は不妊治療など比較にならないくらいの莫大な利益をもたらすからな。本社の中に設立された部隊には歩合で報酬が支払われる仕組みになっている。連中が分のいいほうに力を入れるのは当然の成り行きというものだろう。それに……」
「それに、何だ」
「あんなスラムに生まれて将来に何の希望も見いだせずその日暮らしを強いられている身だ。人生をやり直すなら早いうちがいいだろうさ。我々はそれにちょいと手を貸してやったに過ぎない」
「本気で言っているのか……」
怒りは既に頂点を突き抜けていた。ノエルの顔を見ているだけでも胸が悪くなるような嫌悪が込み上げてくる。できることなら犠牲になった子供たちと同じ思いをさせてやるべく、この場で生かしたまま肉体を切り刻んでやりたい衝動に襲われた。だがもう一つこいつにはやって貰わなければならないことがある。
「立て……」
銃口を向けると、瀬島は命じた。
人の命を奪うことは平気でも、自分の命は惜しいと見えて、
「何をする気だ……全てを喋《しやべ》れば命は奪わないと約束したじゃないか」
「ああ、殺しはしないさ。本心を言えばこの場でぶっ殺してやりたいところだが、お前にはまだやって貰わなければならないことがある」
「何だ」
「諒子の胎児から摘出して培養熟成させた凍結卵子がまだ保管されているな」
「どうしてそれを……」
「そんなことはどうでもいい。とにかくそれを渡せ」
「何で、そんなものに拘《こだわ》るんだ」
瀬島は静かに言った。
「あれは俺と諒子との間にできた子供のものだ」
ドアから飛び出したフレッチャーは、非常階段を地上に向かって駆け下り始めた。
歩を進める度に鋼鉄の階段が革靴の底に当たり、甲高い音を立てた。程なくしてMP‐5を連射する微《かす》かな音が聞こえた。ノエルが脱出を試みていることが分かった。突如、ショットガンの銃声が一つ轟《とどろ》いた。それ以来、フロアーからは何も聞こえなくなった。
やられたか、ノエル……。
何の感慨もなかった。いま脳裏にあるものはこの危機をどう切り抜けるかその一つしかなかった。
つづら折りになった階段の二階部分の踊り場に来た時、頭上から誰かが階段を駆け下りてくる音がした。甲高い靴音ではない。明らかにラバーソールの靴が鋼鉄の段を踏みしめる音だ。
追っ手だ。あの連中が俺を追ってきている。
一瞬、この場で追っ手が現れるのを待ち伏せし、一気に片をつけることも考えた。だが、連中が何人いるのかは分からない。とにかく、地上に降りさえすれば、階段の全容を見渡すことができる。片をつけるのはそれからでも遅くはない。
フレッチャーはそう考えると、足を速めた。
地上はもうすぐそこだった。最後の階段を一気に駆け降りた。足の底から伝わってくる芝生の柔らかい感触が妙に懐かしかった。後は追っ手を倒し、ヘリの到着を待てばいい。素早く時計を見やると、到着までは十分ほどの時間があった。足を止めた。慎重に階段を離れる。建物の地下からは黒煙が漂ってきていたが、さほど酷くはない。霧のように建物全体を煙らせている程度のものだ。たったいま駆け降りてきた階段を見上げた。追っ手の位置は足音ですぐに分かった。敷地を照らす水銀灯の光を浴びて黒い衣服を身に着けた男の姿がくっきりと浮かび上がった。追っ手は一人しかいない。二階部分にさしかかろうとしている。
階段を駆け降りる足がもどかしかった。たったいま凶弾の刃《やいば》にかかって息を引き取ったリコの虚《うつ》ろな眼差しが、脳裏にこびりついて離れない。新たな怒り、そして絶対にあの男を仕留めてやるという思いが心中を満たしていた。
ジャングルブーツが鉄のステップに当たる甲高い音が鼓膜を刺激した。
この階段を降りた先は広い庭だ。おそらく奴はジャングルに逃げ込むつもりだろうが、そこには身を隠す遮蔽《しやへい》物はない。階段を降りた所で逃走するあの男を狙撃《そげき》する。SMGとは言ってもMP‐5は狙撃にもつかえる優れた銃だが、逃げに入った相手が反撃をしてくるとすれば、狙いの定まらない乱射が精々というところだろう。
視界の中に二階の踊り場が目に入った。
ヴェナスは頬の筋肉が緩むのを感じた。残虐な考えが脳裏を過《よぎ》る。
あそこに出れば視界が開け、奴が逃げる姿を確実に捕らえることができるはずだ。そこで狙いを定め、トリガーを引く……。決着は一瞬でつくだろう。おそらく命を奪うには一発の銃弾で十分だ。だがこの施設の中で、生きながら体を切り刻まれた子供たちのことを思えば、瞬間的に訪れる死は、安楽死同然だ。足を撃ち抜く。いや腹部をぶち抜き、迫り来る死の恐怖を苦痛と共にたっぷりと味わってもらうのも悪くはない。
踊り場に足が触れた。銃を構え直し、トリガーに指先を掛けた。身を捻《ひね》り、体勢を整えようとしたその目に、階段の下に蹲《うずくま》る人影が見えた。心臓が強い鼓動を打った。脳が痺《しび》れ、冷たいものが体の中を駆け巡る。本能が危機を知らせた。これまでの実戦経験の中でも、かつて経験したことのない絶望的な感情――。
慌てて銃をその方向に構えようとした。その視線の先に、暗く小さな穴がこちらを捕らえているのが見えた。直径|僅《わず》か九ミリに過ぎない穴が、これほどまでにはっきりと見えることへの驚きと、目前に迫った死神の気配を振り払おうとヴェナスは本能の叫びを上げた。
フレッチャーはMP‐5を構えた。いくらもない距離だ。この銃の命中精度をもってすればわけのない距離だ。
追って来た男が罵《ののし》りとも雄叫《おたけ》びともつかぬ声を上げるのが聞こえた。慎重に狙いを定める。トリガーにかけた指先に力を込めた。モードはフルオートにしてある。瞬間、銃身の後部延長線上にストレートな反動があった。鈍い発射音。MP‐5を左右に振った。男を中心に左右の壁面を覆ったコンクリートが砕け散り、白い煙を上げた。着弾音に混じって絶叫が聞こえる。男はほぼ真横から銃弾を浴び、ブレイクダンスを踊るように体を震わせた。手にしていたM‐16が宙を舞う。衝撃の反動で手すりに叩《たた》きつけられると、一階の踊り場に向けて階段を転げ落ちた。主を失くした小銃が大きな音を立てて鋼鉄の階段にぶつかると、空《むな》しい音を立てながら後を追って滑り落ちて来る。
銃を構えたそのままの姿勢で、フレッチャーは男の様子を窺《うかが》った。だが踊り場に蹲る影に動きはなかった。
追っ手を始末した安堵《あんど》の溜息《ためいき》が漏れた。ヘリポートはもうすぐ目の前にあった。あと十分。その間身を隠すことができれば、どこでもいい、今夜のうちにもこの国を脱出しよう。あとの始末は、本社を通じてしかるべき筋に手を打てばそれで済むことだ。
フレッチャーは全力で短い距離を走ると、敷地を囲むようにして植えられていた植栽の陰に身を潜め、ヘリの到着を待った。
虫酸が走るというのはまさにこのことだ、と瀬島は思った。
こんな鬼畜のごときノエルに肩を貸してやるのは不本意以外の何物でもなかったが、立っているのがやっととなればそれも仕方がない。しかし肩に回した腕や、密着した脇腹から伝わってくる体温を感じる度に、体の中の不快な感情が増していくのはどうしようもないことだった。
二人は階段を使って二階に降りた。ドアを開けると、ここだけは全く手つかずでフロアーに人影はなかった。
「ここには誰もいないのか」
「今日は土曜日だからな」
「ガードマンは」
「いつもならいるはずなんだが……」
おそらくは下の騒ぎを聞きつけて、持ち場を離れたのだろう。不気味なまでにフロアーは静まり返っていた。足を引きずるノエルを支えながら、瀬島は廊下を進んだ。
「ここだ」
廊下の半ばにある二つ目のドアまで来た時、ノエルが言った。指示するまでもなく、彼はIDカードをスキャンすると、パスワードを慣れた仕草でインプットした。グリーンのランプが点灯し、ロックが解除された。ドアを開けるとブザーが鳴った。
「何だ」
思わず問いかけた瀬島に、
「この部屋に入室者があったことを知らせるサインだ。何も心配することはない」
ノエルは微かに口元を歪《ゆが》めると言った。
どうやらその言葉に嘘はなさそうだった。後ろ手でドアを閉めると、ブザーが鳴り止んだ。
「凍結卵子はどこにある」
「そうあせるな。あんたが手に入れたいものはこの部屋の向こうだ。クリーンルームの先だ」
「クリーンルーム?」
「ああ、通常ならば無菌容器の中での培養だけでことは足りるんだが、最も怖いのは何かの拍子に細菌に汚染されることだ。そんな卵子を移植に用いようものなら、感染を起こす可能性も捨てきれない。念には念を入れるに越したことはないからな。だが今日は別だ。凍結卵子を保存容器から取り出し、あんたに渡すだけだからな。それにこの施設もこんなことになった以上、二度と使うことはないだろう。面倒な手順を踏むことはない」
そう言うとノエルは不自由な足を引きずりながら、自らの手で二つ目のドアを開けた。そこは彼の言う通り、狭い空間になっており、その先にはもう一つのドアがあった。
「そのドアは開けたままにしておいてくれ。閉めるとエアーが吹きつける仕組みになっている。勘違いして銃をぶっ放されちゃたまらんからな」
まるで自分の城に戻ってきたとばかりの傲慢《ごうまん》さで、ノエルは言うと、第三のドアを開いた。
中には見たこともないような機器がずらりと並んでいた。
「ここで、培養や授精を行っていたのか」
「ああ、そうだ」
ノエルは愛想のない返事をしながら、部屋の片隅に置かれた機器の前に立った。それは円筒形のステンレスでできた大きなジャーのような形状をしていた。上部は潜水艦のハッチを思わせるような分厚い蓋《ふた》で密閉されていた。
「その中に凍結卵子があるのか」
「そうだ」
「持ち出すにはどうしたらいいんだ」
「そこに携帯用の保存容器がある」ノエルの指差す方を見ると、アイスボックスのような、ストラップのついた箱があった。
「そいつにドライアイスを詰め込んで運べばいい」
「ドライアイスはどこにある」
「そこのボックスの中だ」
「分かった。そいつは俺がやる」
瀬島は銃を自分の手の届くところに置くと、ドライアイスが入っていると言われたボックスを開けた。傍らに置かれていた手袋を片手だけにはめ、白い塊を次々に携帯容器の中に移していく。
ノエルは机の上に置かれたパソコンを操作し始めた。
「何をやっている」
「あんたの子供の卵子の保管番号を調べているんだ」
「全部渡すんだぞ。保存しているもの全てだ」
「分かっている」
二度、三度とキーを操作する音に同調して、画面が切り替わった。
「OK、分かった」
中央に置かれた机に手をつきながら、ノエルは卵子が保管されているという保存容器の前に立つと、おもむろに蓋を引き開けた。仄《ほの》かな湯気のような煙が立ち昇り、中の様子が露《あらわ》になった。
それは燃料棒が差し込まれた原子炉の様子に似ており、蜂の巣のように開いた穴のそれぞれに、認識番号のタグが取り付けられた棒が差し込まれていた。
「こいつとこいつだ……間違いない」
ノエルは二本の凍結した棒状の容器を翳《かざ》して見せた。
「この中にはいったい何個の卵子が入っているんだ」
「全部で四十……」
「聞いていたのは二十個という話だったが」
「ああ、確かにシンジョウにはそう伝えた。何でもこの卵子を摘出した胎児の母親が子宮を失って、体外受精を望んでいるという話だったと記憶しているが」
「余計なことは言わなくていい。それより間違いはないんだろうな」
「ああ、間違いない。ここまできて小細工をしたところでしようがないさ」
そう言うと、ノエルは棒状の容器を手渡してきた。
手袋を通して冷たい感触が伝わってきた。だが瀬島にはその中にいるはずの卵子の息づかいが聞こえてくるような気がしてならなかった。
ついに手に入れた。四年前にこの世を去ったとばかり思っていた諒子と自分の子供が残した卵子。目には見えないが、紛れもない我が子の形見が四年の歳月を経てなお眠りについたままでいるのだ。
思わず頬擦りをしたくなるほどのいとおしさが込み上げてきた。このちっぽけなアイスキャンディのような物体が何物にも代えがたいもののように思えてきてならなかった。
「保存容器に入れる前にこれを使え。衝撃から護《まも》るためだ」
ステンレスでできた試験管の形状をした容器を、ノエルは二本差し出してきた。それぞれに二つの凍結卵子が保存されたスティックを差し入れると、瀬島は携帯容器のドライアイスの中に埋め込んだ。
蓋を閉めた。
その時、背後で気配を感じた。
反射的に瀬島は身を捻《ひね》った。瞬間、肩甲骨の辺りに激痛が走った。それはたちまちのうちに灼熱感《しやくねつかん》に変わった。ノエルの体重が体にかかってくる。彼が何かを自分の体に刺し込んだことは間違いなかった。
呻《うめ》き声が漏れた。その間にも体内に刺し込まれた異物が、抉《えぐ》るように捻られ、周囲の組織を破壊していく感触があった。力を振り絞って、のしかかる体を撥《は》ね除《の》けた。足が不自由なノエルはふんばることができずに、後方へと吹っ飛び、巨大なジャーのような保存容器の傍らにぶざまな姿でひっくり返った。振り向き様に傍らにあったショットガンに手を伸ばして構えた。銃弾はすでにチャンバー内に装填《そうてん》されている。背中から腕に生温かいものが流れ、シャツが皮膚にへばりついてくる感触があった。トリガーにかかった指先から鮮血が滴り落ちてくる。何かの異物が肩甲骨の辺りに突き刺さっているのが分かった。心臓が脈を打つ度に、そこを中心として激痛が走った。
この野郎! どこまで――。
激情に駆られた瀬島はトリガーにかかっていた指先に力を込めようとした。その様子を見たノエルが事が未遂に終わった恐怖で満たされた目を見開きながら、
「撃つな! 撃たないでくれ!」
必死の形相で顔の前に命乞《いのちご》いをしてきた。
だが、すでに一旦《いつたん》指先に込めた力を緩めることはできなかった。重い銃声と共に、ショットガンの銃身が跳ね上がった。まだ若干の理性があったものか、あるいは鮮血で濡《ぬ》れたせいでグリップがしっかりと確保できなかったせいなのか、それは分からない。弾丸は、ノエルの顔面を外れ、背後にあったパイプを直撃した。
だが結果的には、これはノエルにとって最悪の結果となった。銃弾が破壊したもの。それは液体窒素の詰まったボンベと保存容器を繋《つな》ぐパイプだった。霧状になった液体窒素が、その前に仰向《あおむ》けに転がっていたノエルの顔面に直接降り注いだ。沸点マイナス百九十五・八度の洗礼は強烈だった。凄《すさ》まじい悲鳴を上げていた口が大きく開かれたままの姿で動かなくなる。頭髪、眉毛《まゆげ》、大きく見開いた眼球の上に、たちまちのうちに分厚い霜がかかり肉が凍りついていく。
断末魔の悲鳴は長くは続かなかった。静寂がノエルの命が絶えたことを如実に物語っていた。
瀬島は携帯用の保存容器を手にすると、部屋を出た。歩を進める度に肩甲骨の辺りから体中に激痛が走った。酷《ひど》い出血だった。だがここで倒れるわけにはいかない。この保存容器に入った卵子を諒子に渡すまでは……。
瀬島はともすると襲い来る激痛に、倒れそうになる体を意思の力で支え、一階への階段を降り始めた。
地下二階に駆け降りたマリオの前に、鉄の扉が立ち塞《ふさ》がった。
手にしていたIDカードをスキャンしてみる。だが機械は反応しなかった。『立ち入りが禁じられている』――。ついさっきガードマンが言った言葉が思い出された。
このIDカードでは、アクセスできないのだ。
それでも一縷《いちる》の望みをかけて、ノブを回してみた。だが堅く閉ざされたドアはびくともしない。ふと上階に向かった瀬島のことが脳裏をよぎった。
彼らはフレッチャーを、ノエルを、捕らえることができただろうか。もしも当初の目的を果たすことができていたとしたら、捕らえた二人のどちらかが持つIDカードはここでも使えるはずだし、パスワードを聞きだすこともできるに違いない。
一瞬、彼らの下にとって返すことを考えた。だが、このドアの向こうにジョエルがいるかと思うと、悠長にことを構えている時間はない。ここは一か八かの賭《かけ》に出るしかない。
ショットガンを構えた。一歩下がって狙いをドアのノブに定めた。トリガーを引いた。手の中で銃が跳ね上がる。二発、三発……。マリオは慎重に狙いを定めながら、銃弾をそこに集中させた。
鉄の扉に無数の穴が開き捲《めく》れ上がる。ノブが弾《はじ》け飛び、リノリウムの床の上に鈍い音をたてて転がった。周囲の鉄が捲れ上がり大きな空洞が開いた。それでもドアは開く気配もない。
畜生! 駄目か……。
最後の望みをかけて、渾身《こんしん》の力を込めてドアを蹴《け》った。
どすんという鈍い音と共に、反動が足に伝わってきた。壁とドアの間に僅《わず》かに隙間が生じたような気がした。目を凝らすと、蹴られた反動でドアが僅かに持ち上がり段差ができているのがはっきりと分かった。
開いた!
マリオはノブがとれ、空洞となった穴の中に手を入れると、ドアを引き開けた。力を入れるまでもなかった。重量があるはずの鉄の扉が、意外なほどの軽さで開いた。蛍光灯の明りに満たされた室内の様子が目に飛び込んでくる。
僅かな空間の先、分厚いガラスがはめ込まれた大きな窓の向こうには、様々な機械に囲まれた手術台があり、天井からぶら下がっている無影灯が見えた。人の気配は全く感じられない。目の前の手術室を取り巻くように三方の壁面に取り付けられた窓の先にも、同様の設備が見えた。そこから少なくともこのフロアーには四つの手術室が連なって設置されていることが分かった。
それが何を目的としてのものかは言うまでもないことだった。やはり瀬島の推測は正しかったのだ。
目を凝らして中の様子を窺《うかが》った。中央の手術台は空だ。左手、奥も……。右手の手術室に目をやった時、台の上に横たわる人の足が見えた。褐色の肌。大人にしては、まだサイズが小さい。
ジョエルかも知れない。いやそうであってくれ。
彼が拉致《らち》されてから、もう一月が経つ。もしかするとすでにやつらの手にかかって、臓器移植のドナーとして屠《ほふ》られてしまっていてもおかしくはない時間の経過があることは事実だ。
心臓の鼓動が早鐘を打つようだ。
人の気配は感じられなかったが、それでも油断は禁物だ。中央手術室に繋《つな》がるドアに手をかけた。ロックはかかっていなかった。手術室に入るまでには二つのドアがあった。第一の扉の前に立つと自動になっているそれが静かに開いた。そこは手洗い場で、ステンレスの流しと、タワシと洗剤が置かれていた。やはり自動になっている第二のドアが開くと手術室の全容が明らかになった。中央に置かれた手術台。それを取り巻くようにして整然と並んだ様々な機器やモニター。床の上には、カルテだろうか。手書きの文字で埋め尽くされた書類が散らばり足の踏み場もない。メスや鉗子《かんし》に混じって見たこともない器具がぶちまけられたままになって、銀色の光を放っていた。
どうやらここにいた連中は、上の階の騒ぎを察知して、大慌てでここを立ち去ったようだ。
マリオはようやく構えていた銃を下ろすと、右手の手術室へと駆け出した。
自動ドアが開く時間がもどかしかった。両側に開いたドア。その先の手術台に横たわる少年の姿がはっきりと見てとれた。彼は、一糸|纏《まと》わぬ全裸のまま体の三点を革のベルトで固定されていた。股間《こかん》にぶら下がったペニス。その上部には生えかかったばかりの、恥毛がうっすらと息づいている。骨の浮いた胸の辺りが、上下しているのが分かった。侵入者の気配を察したのか、頭を擡《もた》げるとこちらを見てきた。顔が露《あらわ》になった。そこには紛れもないジョエルの姿があった。恐怖で満たされた目がこちらを見つめてくる。
「ジョエル……」
安堵《あんど》といとおしさが込み上げてくる。間に合った――。
「……兄さん?……兄さん!……」
マリオは込み上げる涙で霞《かす》む視線を弟に向けながら、精一杯の笑顔を作ってみせた。
「だってそんな真っ黒な顔をしているんだもの。てっきり連中が戻ってきたのかと思った」
ジョエルはやっと安堵したのか、初めて無邪気な笑いを浮かべた。
「そうか……そうだったな」
そこで初めてマリオは顔をドーランで黒く塗り潰《つぶ》していたことを思い出した。
「助けに来てくれたんだね」
「ああ……そうだよ」
「もう駄目かと思ったよ。何をされるのかは分からなかったけど、このまま死んじゃうんじゃないかって、そう思うと怖くてしかたがなかった……」
うんうんと肯《うなず》きながら、マリオは弟の体を固定していたベルトを外してやった。
自由を取り戻した弟が抱きついてきた。その痩《や》せた体をきつく抱き締めながら、涙が止めどもなく流れ出てくるのをマリオは抑えきれなかった。
ジョエルの啜《すす》り泣きがすぐ耳元で聞こえる。それは紛れもなく弟が生きている証《あかし》だった。冷えた体が、徐々に体温を取り戻して来るのが分かった。
大切なものを取り戻した至福の時間が流れた。
やがて体をそっと引き離したマリオは、弟の体に傍らにあった手術用のシーツを被《かぶ》せてやると、優しく言った。
「さあ、行こう。皆が待っている」
一階の玄関ロビーでは凄惨《せいさん》な光景が繰り広げられていた。
正面ゲートにいた三人のガードマンを撃ち倒したヨランダは、ジョバンニを後ろに従え、余勢をかってジャングルを飛び出た。木々が密生する中を抜けると、急に呼吸が楽になるような気がした。
アスファルトで固められた、対向二車線の道路を横切ると、ガードマンが常駐していたブースの横を駆け抜けた。ついいまし方倒したばかりの三人の骸《むくろ》が行く手を遮る形で転がっていた。それを飛び越える刹那《せつな》、三人に加えた打撃の様子が目に入った。
うつ伏せにひっくり返った左端の男は、ジョバンニが発射した弾丸に頭部を打ち抜かれて、そこを中心に路面に血溜《ちだ》まりができていた。その傍らに仰向《あおむ》けに横たわる男は、自分が発射した弾丸を眉間《みけん》に浴び、潰れた後頭部からは脳漿《のうしよう》が噴き出て、放射状に血|飛沫《しぶき》と白い塊がアスファルトの上に吹き飛んでいた。そして三人目。最初に狙撃《そげき》された男は、背中を撃ち抜かれ、仰向けになったまま微動だにしない。白い制服の上にはちょうど心臓と思《おぼ》しき辺りに、小さな穴が開き、そこから広がった血がべっとりと肌にへばりついていた。チェックするまでもなく、三人がもはや絶命していることは明らかだった。
M‐16を両手で抱えながら、玄関へのアプローチを一気に駆け抜けた。万が一の反撃に備えて、両側にある椰子《やし》の植栽の陰を利用しながら進んだ。最初地下から聞こえていた銃声は、そのうちに三階部分からも聞こえてくるようになった。銃撃の音は激しさを増し、時折爆発音がそれに混じった。
玄関に辿《たど》り着いたヨランダは肩で息をしながら、ロビーの様子を窺った。
反対側の植栽の陰から中の様子を窺っていたジョバンニと視線が合うと、彼はこくりと肯《うなず》いた。
中に脅威となる人影は見られないというサインだ。
ヨランダは腕を大きく振った。ジョバンニは植栽の陰から身を乗り出し、短い距離を身を低くしながら駆け抜けるとエントランスのドアの陰にへばりつき中の様子を窺った。援護の姿勢をとりながら動かずにいるヨランダに、今度はジョバンニが腕を振って移動を促す合図を送ってきた。
すかさず援護のポジションを離れ、エントランスのドアを挟みジョバンニと視線を交した。
ロビーの正面にはガードマンがいると思しきブースがあったが、中に人の影はない。おそらくは最初に起きた地下か、三階で起きた騒ぎを聞きつけて、ガードマンたちはそちらに駆けつけたのだろう。
先に立ってヨランダは中に突入した。自動ドアが開き、空調によって温度がコントロールされた心地よい冷気が漂ってくる。たっぷりと熱を含んだ細胞の一つ一つに精気が蘇《よみがえ》る気がした。だがそんな心地よさを味わっている場合ではない。油断なく銃を左右に振りながら、再度安全を確認した。
地下、それに上の階での銃撃戦はますます激しさを増している。警報音が絶え間なく鳴り響いている。
「どうする、ヨランダ。親方はこの施設から出てくるやつを一人も逃さないよう見張れと言ったが、応援に駆けつけたほうがよくはないか」
「そうだな……」
確かにジョバンニの言うことももっともだ。銃撃の度合から判断すると、手が多いに越したことはないだろう。それにここには誰もいない。
「ただここに突っ立っている場合じゃないだろう」
ジョバンニが苛立《いらだ》った声で言ったその時だった。ロビーの陰からドアが勢いよく開かれる音がした。それに続いて大理石の床を駆け出す、慌ただしい足音が聞こえた。それも一人や二人ではない。複数のものだ。
ヨランダはとっさにその方に向けて銃を構えながら正面のブースの陰に身を潜めた。ジョバンニもそれに続いた。
足音が近づいたかと思うと、柱の陰から奇妙な色の服に身を包んだ一団が、足を縺《もつ》れさせんばかりの慌てた様子で、次々に駆け出してきた。草緑色の上下。それに頭には同色のキャップを被っている。いつかテレビのドラマで見たことがある医師が手術を行う時の服装であることにすぐに気がついた。
脅威になりそうなものは何も持っていないようだった。
ヨランダは、先を争って外に出ようとしている一行の頭上目がけて銃を発射した。
不意を突かれた人の群れが一斉に床に伏せた。その上に破壊されたコンクリートの断片や天井の建材の破片が雨のように降り注ぐ。
悲鳴が上がった。口々に何事かを叫ぶのが聞こえたが、何を言っているのかは分からなかった。おそらくは命乞《いのちご》いの言葉でも吐いているのだろう。
一行の動きは最初の掃射で完全に止まった。
壁の向こうにはまだ人の気配がする。
「ジョバンニ!」
それだけで意図を察した相棒が、銃を構えながらその方向に向かって駆け出す。
「動くな! そこに伏せたままでいろ!」
そう叫びながら、ヨランダは銃を構えながら、素早くブースの陰から飛び出すと床に伏せたまま動かないでいる一行に向かってにじり寄った。医師たちは恐怖で震えているようだった。
「撃たないでくれ……俺たちは医者だ」
その中の一人が言った。キャップの端から銀髪が覗《のぞ》いている。白人の男だった。
「ほう。医者がこんなところで何をやっている。こんな夜中にそんな服を着て、まさか学会とでも言うんじゃあるめえ」
「手術を頼まれただけだ。難しい手術をな」
「ここは病院かよ。製薬会社の研究所だろうが」
「何が目的だ……金か。金ならここにはないが、着替えを置いた場所になら、幾らかはある。全員のものをかき集めればそこそこの金額にはなるだろう」
「あいにく目的は金じゃない」
「じゃあ何だ。何だって俺たちをこんな目に遭わせる」
男がそう言った時、「さあ、みんなこっちへ出てきて床の上に腹這《はらば》いになれ」
ジョバンニが銃をつきつけながら、残りの男たちをロビーに連れ出してきた。
恐怖で顔を引き攣《つ》らせた男たちが次々に姿を現すと、言われた通りの姿勢を取る。大理石の上は草緑色の絨毯《じゆうたん》が敷かれたようになった。最後の一人が腹這いの姿勢をとったところで、再びヨランダが口を開いた。
「俺たちが訊《き》きたいのはお前らがここで何をしていたかだ」
「だから、難しい手術を頼まれて――」
「臓器移植かよ」
「えっ」
男は身を硬くした。
「そうなんだろう? えっ! お医者様よ!」思わず口籠《くちごも》った男に向かってヨランダはさらに続けた。「お前らは健康な子供の臓器を、生きたまま他の人間に移植するためにここに集まった。そうじゃないのか」
「それは……」
「許せねえな。お前らが臓器を取り出そうとした子供はな、俺たちが住む街、トンドから攫《さら》われてここに無理やり連れてこられたんだ。そりゃ、確かにあの街の生活は酷《ひど》いもんさ。トンドに生まれて育った俺たちにしても、最低の暮らしをしていることはよく分かってる。酷い差別があることもな。だけどな、それでも俺たちは生きるために必死なんだ。子供が生まれりゃ無事育ってくれることを願う気持も同じなら、幸せを掴《つか》んで欲しいと思う気持も同じさ。どんな酷い差別を受けようとも、まっとうな扱いを受けられなくとも、俺たちは紛れもねえ人間だ。この体の中にはお前たちと同じように赤い血が流れてるんだ。それを、まるで家畜を殺すようにばらして金に換えるとは……絶対に許せねえ」
ヨランダは心中に込み上げてくる、思いの丈を容赦なくぶつけた。医師たちはその語気の荒さにすっかり縮み上がった態《てい》で、もはや返す言葉も見つからないとばかりに微動だにしない。中には早くも哀れさを誘うように、啜《すす》り泣きを始める者も出始めた。
「さてこいつらをどうする?」
ジョバンニが男たちを見下ろしながら訊《たず》ねてきた。その目には残虐な光が宿り、口元には同様の笑みが浮かんでいる。
「そうさな。親方は確か、抵抗ができないようにしろと言っていたっけな」
もちろんその言葉の前に『投降してきたガードマンは』という一言がついていたことは百も承知だ。だがこいつらを無事に、ここから解放してやるのはいかに何でも癪《しやく》に障る。
「ああ、確かにそう言っていたっけな」
早くもその言葉の意味を悟ったジョバンニはニヤリと笑って答えてきた。
「全員、両手を前に出せ。しっかり掌《てのひら》を広げてな」
ヨランダの指示に全員が従った。
「止めろ! 殺さないでくれ!」
あちらこちらから命乞いの悲鳴が上がった。
「安心しろ。殺しはしない。ただ落とし前だけはきちんとつけて貰《もら》う」
そう言うなり、ヨランダはM‐16を持ち直し、それを高く振り上げると全体重をかけて大理石の床の上に広げられた掌めがけて打ち降ろした。骨が砕け、肉が潰《つぶ》れる鈍い音がした。凄《すさ》まじい絶叫が上がった。
医師にとって、特に外科医にとって手は命にも等しい大事な存在だ。それを潰すのは生きて命を奪われるのと同然だ。殺すことが叶《かな》わぬなら、せめてその程度のハンディキャップを背負わせてやらなければ気が済まない。それでもこいつらに命を奪われた子供たちのことを考えれば細《ささ》やかな復讐《ふくしゆう》というものだ。
たちまちのうちに医師たちはパニックに陥った。中には慌てて立ち上がり逃げ出そうとする者もいた。だがそれも腰を浮かしかけたところで、あるいは足が宙を掻《か》いたところで断念せざるを得なくなった。ジョバンニが天井に向けて威嚇射撃を行ったのだ。
啜り泣き、絶叫が高い天井のホール一杯に木霊した。
「死を選ぶか、手がいささか不自由になるのを選ぶか。どっちにするかはお前らの自由だ」
ここに至って、もはや逃げ出そうとする者などいなかった。
ヨランダは、床の上に並んだ、八十の手を次々に潰して行った。その度に絶叫が上がり、ホールは呻《うめ》き声と泣き声、それに運命を呪う罵《ののし》りの言葉が渦巻く修羅場と化した。中には失禁をし、迫り来る恐怖のあまりまだ自分の番が来ないうちに意識を失った者さえいた。
全ての手を潰し終えた時には、建物の中から銃声が全く聞こえなくなっていることにヨランダは気がついた。
「おい、ジョバンニ。銃声が止んでいる」
ヨランダがそう言ったその時だった。先ほど医師たちが駆け上がってきた階段から、一群の女性たちが飛び出してきた。拉致《らち》されていた女性たちであることはすぐに分かった。
「止まれ。心配しなくていい。俺たちは味方だ」ヨランダは大声を張り上げて言った。
「もう心配することはない。ここは完全に制圧した」
「親方は? 親方はどうした」
急にオランドのことが心配になってヨランダは訊《たず》ねた。
「親方? 親方って、私たちを助けてくれた人?」
その中で明らかにフィリピン人とは違う肌の色、顔立ちの女性が言った。
「そうだ」
「その人なら、もうすぐ上がって来ると思うわ。まだ何人か閉じ込められているの」
「あなたは、もしかするとミス・トリカワ?」
「そう……どうして私の名前を」
「ミスター・セジマから聞いています」
「瀬島……瀬島さんはここに来ているの」
「ええ、下にはいませんでしたか」
「いなかったけど……まさか……」
麻里の顔が不吉な予感で満たされたように引き攣《つ》った。
「セジマなら上の階に行った」
その声に階段の方に目を向けると、オランドがいた。両の腕で包み込むようにして二人の乳幼児を抱えている。背後からオランドに寄り添うように若い娘が、ロレトが、そして中年の女性が一人ずつ幼児を腕に抱えてこちらに向かって歩み寄って来た。
「親方!」
オランドは黙って一つ肯《うなず》くと、目の前で呻き声を上げながらのたうち回る医師たちを冷たい目で見た。
「本当にとんでもねえやつらだ。殺しても飽き足らねえが、これから先は精々生きてたっぷり地獄を味わうんだな」
「で、お嬢さんは無事だったんですか」
「ああ、お前たちのお陰だ……」そう言うとオランドは、背後に寄りそうように立ち尽くしている若い女性を目で示した。「アリシアだ」
そう言われてみると、記憶の中の面影に重なり合う部分がある。だが四年の歳月はアリシアの容姿を一変させていた。さすがに長い監禁生活のせいで窶《やつ》れが見てとれないわけではなかったが、それでも化粧をしていないにもかかわらず、匂うような色香が漂ってくるようだった。彼女は見事に一人前の女に成長していた。
「よかった……無事だったんですね」
「ああ……」
目的を達したにもかかわらず、オランドの返事はどことなく歯切れが悪い。嫌な予感がした。
「だがそれも代償として大きな犠牲を払ってのことだ」
「アヴェリーノは? テディは? マリオはどこです」
「アヴェリーノとテディの二人は殺《や》られた……」
顔を歪《ゆが》めながらオランドは苦しげに言った。
「何てこった……」
「悪いがヨランダ、下の階に行ってテディを引き揚げてきてくれ……」
「それは構いませんが、アヴェリーノは」
「あいつは二人のガードマンを道連れに自爆した……体はばらばらだ。跡形もない……回収するのは無理だろう。せめて何か形見になりそうなものを見つけてくれれば有り難いんだが」
オランドの目に光るものがあった。仲間を失った寂寥《せきりよう》感が込み上げてくる。共に親方の下で額に汗しながら建築現場で働いた日々が脳裏に蘇《よみがえ》ってくる。
「分かりました……」
そう言うのが精一杯だった。これ以上何か言葉を発しようとすれば、それよりも先に嗚咽《おえつ》が漏れそうな気がした。だが、自分の娘を助けるために忠実な部下が二人も命を失った、オランドの悲しみは自分の比ではあるまい。
ヨランダは必死に込み上げて来るものを歯を食い縛って堪《こら》えると、小走りに仲間の遺体を回収すべく階下に向かった。
「あんたはミス・トリカワだね」
ヨランダが去ったところで、オランドは訊ねた。
「ええ、あなたは?」
「私はミスター・セジマの友人でオランドという者だ。無事娘たちを救い出すことができたのはあんたのお陰だ」
「それじゃ、あのガーディナーが通報してくれたのね。警察の方?」
「警察?」オランドは鼻で笑った。
「この国の警察なんかあてにできるもんか。我々はトンドの者だ」
「トンドの? どうしてそんな人たちがこんなことを」
「こうでもしなけりゃ、埒《らち》が明かねえからさ。これだけのことをしでかす連中だ、この国の権力構造にはそれなりの手を回しているだろうからな。一刻も早く、あんた方を助け出すためには仕方がなかったんだよ」
「こちらの方はお嬢さん?」
「ああ、四年前に行方不明になった俺の娘だ」
「四年間も監禁されていたの」
「そうだ……連中はその間に三人もの子供をこの娘《こ》に産ませやがった」
「代理母にされた、そうなのね」
アリシアが悲しげな目でこくりと肯いた。
「何て酷《ひど》いことを……」
「あんたも連中に何かされたのか」
麻里の視線が落ちた。屈辱に耐えるかのように唇を噛《か》みしめる。
「卵子を採取された……おそらく間違いないと思うわ。そしてその卵子に誰かの精子を授精させ、ここにいる女性の誰かの体内に移植した」
「フレッチャーとかいう野郎がか」
「ええ、でもその名前をどこで知ったの」
「あんたからのメッセージを伝えて来た男からだ」
「ここでは体外受精によるオーダー・ベビーが創られていたのよ。私はそのドナーとしてここに拉致された。あの男は確かにそう言ったわ」
「それだけじゃないだろう」
「それだけじゃない?」
まだ何かあるのかとばかりに麻里は訊《き》き返した。
「こいつらはな」オランドは床に横たわる医者たちに視線をやりながら続けた。
「臓器移植を行うためにここに来たんだ。年端も行かない幼児や少年を誘拐して、生きた臓器を取り出すためにな」
「何ですって!」
麻里の顔から血の気が引いて行くのがはっきりと分かった。
「ええ。そうだろう、お前ら!」
すかさずジョバンニが反応し、一番そばにいた医師の頭に銃を突きつけた。
「ああ、そうだ。なにもかもさっき話した通りだ。勘弁してくれ」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、医師は許しを乞《こ》うた。
「何て酷いことを……そんなことが行われているなんて知らなかった」
「とんでもねえ人でなしどもだぜ、こいつらは。あんたも知っての通り、俺たちトンドの人間は貧しい暮らしを余儀なくされている。ろくな教育どころか、戸籍すらも持っていやしねえ人間がたくさんいる。こいつらは、そこに目を付けたんだ。トンドから人間の一人や二人姿を消しても分かりゃしねえ、警察だってまともに取り合っちゃくれねえってな。この四年の間にトンドから姿を消したのは若い娘が二人、幼児が二人、それに少年が一人……その全てがこいつらの仕業だったわけだ」
「でも二人の幼児は? 少年は?」
「少年については、いまそいつの兄貴が捜しに行っている。幼児は見当たらないところをみると、こいつらにバラされちまったんだろう」
「酷い……人間の仕業とは思えない……」
「ああ、殺しても飽き足らない連中には違えねえがな。だが無抵抗の人間を殺《や》るのはさすがに気が引ける」
「それで、こいつらが二度とそんな悪さをできないように、手を砕いてやったってわけさ」
ジョバンニが傍らからオランドの言葉を補足した。
麻里は憎しみの籠《こも》った目で医師たちを見つめていたが、
「ところで、瀬島さんは。さっき上の階に行ったと言っていたけれど」
話題を転じてきた。
「そのフレッチャーという男を追っているはずだ」
オランドが言ったその時だった。ホールの片隅に集まっていた女たちの間から悲鳴が上がった。
神経が戻ってきたのか激痛は酷くなるばかりだった。少しでも気を抜けば、その瞬間にも気を失いそうになるほどの痛みが肩甲骨を中心に足先まで響いてくる。背中を流れる血は、パンツをも濡《ぬ》らし、太腿《ふともも》に布地がへばりついてくる。
瀬島は諒子の胎児から取り出された卵子が入った携帯用の保存容器をしっかりと抱えたまま、ついに一階のロビーに辿《たど》り着いた。
悲鳴が聞こえた。
白い蛍光灯の光に照らされたロビー。そこに横たわる草緑色の手術着の一団の姿が見えた。背後にはジョバンニが、オランドの姿が見えた。そして麻里……。
無事だった。麻里は無事だった。
俄《にわか》に張りつめていた緊張の糸が緩んで行く。こちらを向いた麻里と視線が合った瞬間、瀬島は精一杯の笑顔を作ったつもりだった。だがそれは彼女には苦痛に顔を歪めたものにでも映ったらしく、
「瀬島さん!」
そう叫ぶなり、駆け寄ってきた。華奢《きやしや》な体が瀬島を支えた。
「酷い傷! メスがこんなに深く突き刺さっている」
瀬島は初めて自分を刺した凶器が何であるかを悟った。オランドがすかさず駆け寄ると、傷の状態を確認した。
「いじるな! へたにこいつを抜くと、命取りになる。医者だ、医者のところに運ばないと」
「畜生! こんなことになるんだったら、一人ぐらいは手を潰さずに残しておくべきだった」
ジョバンニが忌々しげに叫んだ。
「ジョバンニ。外にある車を使って、一刻も早くセジマを医者のところに運ぶんだ。早く車を回せ」
「分かりました」
ジョバンニは心得たとばかりにロビーを飛び出して行った。
「セジマ! セジマ! しっかりしろ!」
必死にオランドが声をかけてきた。
「ノエルを殺った……目的のものも奪回した……」瀬島は朦朧《もうろう》とする意識の中で、携帯用の保存容器を指し示しながら言った。
「リコはどうした? ヴェナスは? フレッチャーを追っているのか?」
「リコは……リコは殺られた……フレッチャーに……」
「何だって! ヴェナスは! ヴェナスはどうした」
「ここにまだ戻っていないのか」
「ああ、姿を見ていない」
「ヴェナスはフレッチャーを追って、非常階段を降りて行ったはずだが」
「フレッチャーを逃がしたのか」
「分からない……」
「やつだけは絶対に逃がさない!」
オランドが怒りの色も露《あらわ》に立ち上がった。その時、マリオが草緑色のシーツに包《くる》まった一人の少年を抱えてホールに姿を現した。
「親方」
「マリオ……ジョエル、ジョエルじゃないか、無事だったか」
「ええ、間一髪間に合いました。危ないところでした」
「そうか、そいつはよかった」
「ミスター・セジマ、どうしたんです」
すぐに床の上にうつ伏せに横たえられた瀬島の惨状を目にしたマリオが驚愕《きようがく》の色も露に叫んだ。ジョエルの体を足元に横たえると、傷の様子を探ってきた。
「こいつは酷い! すぐに手当てをしないと。出血が……」
「分かっている。もうすぐジョバンニが車を回してくる。ヨランダはもうすぐ地下からテディの遺体を回収してくるはずだ。彼が戻ったら、三階にあるリコの遺体を回収するように伝えろ。そうしたらお前は、みんなを連れてここから脱出しろ」
「こいつらはどうするんです」
マリオは医者たちを指して言った。
「そんなやつらは放っておけ」
「親方はどうするんです」
「俺はフレッチャーを追う」
「何ですって」
「ヴェナスがやつを追っているんだ。あいつだけは逃がすことはできない。絶対に」
オランドはM‐16を手にすると立ち上がった。ロビーの奥は一面ガラス張りとなっており、そこから水銀灯の光に照らされた庭が広がっている。瀬島は薄れ行く意識の中で必死にその後ろ姿に向かって叫んだ。
「親方! 気をつけろ……やつが持っているのはただの銃じゃない……サブマシンガンだ……」
それがオランドの耳に届いたのかどうかは分からない。自分の発した声が遠くに聞こえる。闇が視界を遮り、瀬島は意識を失った。
外に出た瞬間、頭上でヘリコプターの爆音が聞こえた。思わず空を見上げると、一機のヘリが低空で半旋回し、赤い点滅光の光に挟まれるように黒いシルエットとなって夜空を舞っている。ヘリは態勢を整えると地面に相対する姿勢で高度を徐々に下げ真っすぐ庭の片隅にあるヘリポートに向かって降りてくる。突如、ランディングライトの眩《まばゆ》いばかりの光が目を射た。
視界が強烈な光で幻惑された。オランドは手でその光を遮ると目をしばたたかせ、視力の回復に努めた。
その時、庭の植栽の陰から黒い人影が、ヘリに向けて駆け寄って行くのが見えた。
それがフレッチャーかどうか分からなかったが、状況からすれば、その可能性が高いと思った。
男までの距離は二十メートル程だろうか。オランドはM‐16を構えると、狙いを定めた。だが強烈な光によって幻惑された視界の中央に残光が残り、中心点だけが雲がかかったようにはっきりとしない。視力が戻るまで待っていたのではあの男を逃してしまう。
オランドは焦った。ままよとばかりにトリガーを引いた。初弾の発射と共に、甲高い銃声がヘリの爆音を突き破って轟《とどろ》いた。
着弾点の確認もできなかった。さすがに銃声に気づいた男が、こちらを振り向くのが分かった。その腕が、何かを構える動作をしたように見えた。小銃ではない。ましてやショットガンでもない。もっと小さな何か……しかし拳銃《けんじゆう》の構え方とも違う。
瀬島の最後の警告はオランドの耳に届いてはいなかった。もしもオランドが男の持つ銃の正体を知っていたなら、あるいはもう少し慎重な行動に出たのかも知れない。だが時は遅すぎた。
突如腹をバットで殴りつけられたような衝撃があった。間髪を容《い》れず胸に、そして額に……。三度目の衝撃は、額に膨大なエネルギーを持つ何かが触れたというところで終わった。
MP‐5から発射された、9ミリ弾は次の瞬間、オランドの額をぶち抜き、後頭部に抜けていた。
僅《わず》かな時間のうちに、凄《すさ》まじい速度で回転しながら頭蓋《ずがい》内を抜けたピストル弾は、瞬時にしてオランドの脳組織を破壊し、その生命を奪った。
地面に大の字になって倒れた時、オランドは目を見開いたまま絶命していた。
フレッチャーは追っ手が倒れたところで、ヘリに向かって全力で駆けた。激しく回転するローターからは猛烈なダウンフォースが吹きつけてくる。意識しないうちに身を低く屈《かが》めた姿勢でヘリに駆け寄る。スライド式の後部座席のドアを引き開けた。
銃撃の一部始終を目撃していたパイロットが驚愕の表情を隠さずに、振り向いてきた。飛び込んできた乗客が手にしているMP‐5を目にした瞬間、身を硬くするのが分かった。
「出せ! 離陸しろ! いますぐにだ!」
フレッチャーは思わずMP‐5の銃口をパイロットの首筋に押しつけながら、頭上から響いてくる爆音に負けまいと大声で叫んだ。
パイロットが首を竦《すく》めながらも、サイクリック・レバーを操作する。爆音が高くなり、機が振動すると、急激に機首を回転させながら離陸を始めた。
眼下に施設の全容が明らかになって行く。水銀灯の光に照らされた鮮やかなグリーンの芝生が目に眩《まぶ》しかった。その中に大の字になって微動だにしない男の姿が、染みのように浮かび上がっている。三階建ての建物の地下から立ち昇っていた煙はほとんど消えている。先ほどまで自分がいた三階の窓の一部が砕け散っている。全面がミラー張りのガラスに覆われた中で、その部分が異様に目立った。
だがそれを見たのは一瞬のことで、開け放ったままのドアから見える施設の全容はすぐに足元を流れ、下界はすぐに鬱蒼《うつそう》とした木々が覆う黒一色の世界へと変わった。
ようやく安全圏へと逃れたことを確認したフレッチャーは、天井にぶら下がっていたレシーバーをはめた。爆音の残響が耳に残り聴覚は完全ではなかったが、パイロットとコミュニケーションを取るのに問題はないだろう。
「驚かして済まなかった」
「いったい何事です」
パイロットが非難がましい声を上げた。
「賊が押し入ってきたんだ」
「それならすぐに警察に連絡しましょうか」
「余計なことはしなくていい。ここであったことは、全て見なかったことにしろ。いいな」
「しかし……」
「十分な礼はする。多分君の年収に相当するくらいの金を支払おう」
パイロットは無言のまま肯《うなず》くと、
「だったらその物騒なものをとりあえず下げていただけませんか」
「これは失礼した」
フレッチャーは銃をジャングルに向かって投げ捨てると、ドアを閉めた。急に爆音が小さくなった。
「で、どちらに向かったらいいんです」
「ニノイ・アキノ空港へ……」
「分かりました」
パイロットはそう言うなり、機を旋回させにかかった。ウインドシールドの向こうに、マニラの街の光が一杯に見える。
「携帯電話を持っているか」
「ありますが」
「済まんが、ちょっとそれを貸してくれるか」
パイロットがポケットを探り、望んだものを肩越しに手渡してきた。
それを受け取ったフレッチャーは慌ただしい仕草で、しかし迷うことなく番号をプッシュした。
「私だ……すぐに身支度をして家を出て空港まで来てくれ……ああそうだ。急にマニラを離れることになった……家財道具? そんなものは放っておけ。とにかくパスポートと現金、それにクレジットカードだけあればそれでいい。事情は後で話すよ、ハニー」
相手はマニラ近郊のヴィレッジに住む家族だった。
とにかくどこでもいい。この国を一刻も早く離れることだ。あの施設のことは空港に着き次第、アメリカの本社に連絡を入れれば、適切な処置が迅速に施されるはずだ。大金をこの国の権力者にたっぷりとばらまいているのは、こうした万が一のトラブルに見舞われた時の隠蔽《いんぺい》工作料も含んでいることは言うまでもない。
ノエルには気の毒なことをしたが、それも運命というものだ。あそこに集められた医者たちがどんな目に遭ったか、そんなことは知ったことじゃない。殺されたならそれはそれで構わない。たとえ生きて帰って来たとしても、連中が本当のことを喋《しやべ》ることなどあろうはずもない。真実が白日の下に晒《さら》されれば、世間の矢面に立たされるのは、我々だけじゃない。連中も同罪だ。それに襲った連中にしても、あれだけ多くの人間を殺したんだ。この国の最高刑は死刑。そんな危険を冒す人間など、自殺志願者でもないかぎりいやしない。もっとも自首したところで、事件は隠蔽され、闇から闇へと葬られる運命にある。
そもそも施設を開設した当初の目的は達成されていたのだ。未成熟の卵子を培養熟成させる技術データは十分に取り尽くした。その上、これまでに何度となく繰り返してきた、臓器移植によって得た利益は、あの施設の建設費、維持費を遥《はる》かに上回る。
引き揚げるにはちょうどいい潮時というものだ。
フレッチャーは順調に飛行を続けるヘリの座席に体を投げ出すと、眼下に広がり始めたマニラの夜景を見やった。無数の微細な光が密生する様は、さながら顕微鏡の中を動き回る精子の像を反転させたかのような光景を彷彿《ほうふつ》とさせた。
マリアを求める者がいる限り、このビジネスはなくなることはない。そしてその技術、ビジネススキームは確立されてこの手の中にある。世界のどこへ行こうとも――。
「気がつきましたか」
目を開けると最初に目に映ったのは白い天井だった。視線をゆっくり声の方に向けると、そこにマリオの姿があった。痛みは感じないが背中に痺《しび》れた感覚があった。
「麻酔が効いています。あまり動かない方がいいです」
「ここはどこだ」
酷い喉《のど》の渇きを感じながら瀬島は訊《たず》ねた。
「病院です。マカティにある」
「どうなったんだ、いったい」
「危ないところでした。出血が酷《ひど》くて、輸血をしました」
ふと見ると、マリオの腕には小さなガーゼが絆創膏《ばんそうこう》で貼り付けられていた。
「君の血を?」
「ええ、血液型が同じでしたので……」
「済まない……そうか君の血が私の体の中に流れているのか」
急に体の中を温かいものが流れる感覚に襲われた。それは決して不快なものではなかった。むしろ生死を共にした、紛れもない友、いや、もはや本当の意味で戦友と呼ぶに相応《ふさわ》しい存在の体の一部が自分の生命を救ってくれたのだと思うと、瀬島は感動すら覚えた。
「ジョエルは……君の弟は無事だったのか」
意識が途切れる前に、確かその名前を脳裏の片隅で聞いた覚えがあった。
「ええ、危ないところでしたが、無事救出することができました。あそこに集まっていた医師たちは、ジョエルをドナーにして手術を行う予定だったらしいのです。あと一歩遅れていれば、取り返しのつかないことになるところでした」
「それはよかった……」
まだ麻酔が効いているのか、ともすると堪《こら》えようのない睡魔が襲ってくる。友が命をかけて救おうとした存在が無事であったという安堵《あんど》の気持が込み上げてくると、今度は自分がノエルの手から奪回した凍結卵子の存在が気になった。意識を失うまでは、この腕の中にしっかりと抱えていたはずの容器が見当たらない。
「マリオ。保存容器は、私が手にしていた容器はどこにある」
「ドライアイスが入ったあの容器ですね」
「そうだ。あの中には私と諒子の間にできた子供の体内から採取された凍結卵子が保存されているんだ。私はあれを何が何でも諒子の手に無事に届けなければならない」
「それはご心配なく」マリオが心得ているとばかりに肯《うなず》いてきた。「私が保管してあります。ドライアイスも新たに補充してあります」
「ありがとう……何もかもすまない」
「あなたが命をかけて取り戻したものですからね。ここで駄目にしてしまったら元も子もない」
「オランドは……親方はどうした」
マリオの視線が落ちた。表情が苦痛に歪《ゆが》むのが分かった。
「何かあったのか」
「死にました……」
「死んだ? なぜ」
「ヘリが飛んできたのは覚えていますか」
「いや」必死に記憶の糸を手繰ってみる。「確か親方は、フレッチャーが非常階段を伝って外に出た。ヴェナスがそれを追った。そう、私が言った言葉を聞くなり、外に飛びだして行った……そこまでは覚えているが」
「その通りです。親方は銃を手にすると外に飛びだして行った。そこに一機のヘリがやって来たんです。どうやら連中は襲撃と同時にいち早く脱出の手だてを講じたものとみえます。とにかくその時、ヘリに向かって一人の男が駆けて行くのが見えました。たぶんあれがフレッチャーだったのでしょう。親方がその男に向かって銃を発射したのは事実です。爆音を縫って銃声が聞こえましたからね。しかし倒れたのは、ヘリに乗り込もうとした男じゃなかった……」
「銃声は聞こえなかったのか」
「少なくとも親方の銃声以外は……」
「フレッチャーだ! あいつが所持していたのは、ただの銃じゃない。MP‐5というサブマシンガンだ。あの銃にはサイレンサーが内蔵されていて、至近距離でぶっ放されても、銃声がほとんど聞こえない。三階で、リコが倒されたのもあの銃の掃射を浴びたからだ」
「慌てて外に飛びだしたのですが、遅かった。親方は腹、胸、それに額を撃ち抜かれて……」
「何てことだ……それで、フレッチャーはどうしたんだ」
「残念ながら……」
「ヴェナスは」
「非常階段の所で、死んでいるのが見つかりました……」
マリオは唇を噛《か》むと絶句した。
「親方、リコ、ヴェナス……三人もの仲間が……」
思わず瀬島は呟《つぶや》いていた。
「三人じゃありませんよ……アヴェリーノ、テディ……全部で五人です」
「五人!……五人も殺《や》られたのか」
「ええ。遺体はトンドに運びました。回収できるものは……」
言葉が見つからなかった。元より激しい戦いに身を晒《さら》し命を失うかも知れないことは覚悟の上のことだったとはいえ、五人もの仲間が殺られてしまうとは……。時間にすれば、初めて会ってからまる一日の付き合いにしか過ぎなかったが、この間に築き上げられた絆《きずな》はこれまでの人生のなかで培ってきた何物よりも堅く、強いものがあった。五人の顔が次々に脳裏に浮かんで離れない。貧困を余儀なくされるスラムに生まれたにもかかわらず、最後まで精一杯生きた男たち。
そう思うと、五人の男たちがことさら不憫《ふびん》に思えてならなかった。その一方で生命を玩《もてあそ》び、無垢《むく》な命を奪って平然としているフレッチャーに対する新たな怒りが身中を駆けめぐる。あの男がいまこの時もどこかで生きていると思うと、我慢がならなかった。
瀬島は込み上げる涙を抑えきれなかった。熱いものが止めどもなく頬を伝って流れて行く。
自由の利く左手でそれを拭《ぬぐ》うと、マリオを見た。
「それで、娘たちは全員無事だったのか」
「ええ。全員を無事家に送り届けました」
「麻里さんは……麻里さんはどうしている」
「彼女はこの病室の外であなたが気がつくのをじっと待っています。お会いになりますか」
「ああ……しかしあの状況をどう彼女に説明したものか」
瀬島は小さな吐息をついた。麻里をはじめとする、連中の手によって拉致《らち》された人間を救い出すためにはやむを得ぬ行動だったとは言え、自分たちがしでかしたのは紛れもない違法行為。いやそれどころか殺人行為そのものだ。これだけのことが公になれば当然自分たちは犯罪者としての罰を受けることになる。
元よりそれは覚悟の上の行動だったが、生き残ったマリオやロレト、ジョバンニ、ヨランダにまで害が及ぶのは忍びない。一家の稼ぎ手を失うとなれば、彼らの家族はたちまち生活に行き詰ってしまうだろう。いやそれだけじゃない。たとえ背景を知らされないまま乗った話だったとはいえ、諒子もまた事件の当事者としてことの経緯を明らかにせざるを得なくなる。
「それは、すでに私の口から話してあります」
「君が?」
マリオは一つ肯くと、
「確かに、連中があそこでやっていたことが明らかになれば、ウイリアム・アンド・トンプソン社は甚大《じんだい》な打撃を受けることになるでしょう。しかしことが公になることは同時に我々があそこで行ったことが露見してしまうことに繋《つな》がります。そうなれば、私も、そしてあなたも当然|咎《とが》めを受けることになる」
「それで麻里は何と」
「納得してくれましたよ。最初は一連の経緯を公にしてやると息巻いていましたがね」
「正直なところ、私個人が罪を全部被って済むことならそうしたいのは山々だ。たとえ連中がこの国の権力構造に深く食い込んでいて、隠蔽《いんぺい》工作を施そうとも、日本やアメリカのマスコミに事件をリークすれば世界的な反響を得ることは間違いないだろう。当然ウイリアム・アンド・トンプソン社も世間から厳しく糾弾される。フレッチャーとて、のうのうとはしていられないだろう。それがいま考えうる最高の復讐《ふくしゆう》手段には違いないのだが――それに……」
「ミスター・セジマ。それ以上のことは言わなくてもいいじゃありませんか。あなたが何故この襲撃に加わったのか。その理由は誰よりも私がよく知っているつもりです」
マリオはそう言うと、そっと瀬島の手を握った。
「ミス・トリカワを呼んできます」
瀬島はそれに肯いて応《こた》えた。
程なくして、麻里が病室に現れた。
「瀬島さん……」
「無事でよかった」
「本当に何て言っていいのか……私たちを助けるために、こんなに多くの人が犠牲になるなんて……」
麻里は身の置きどころが見つからないとばかりに、下げた頭を上げようとしない。
「気にしないでくれ。辛《つら》い思いをしなければならなかったのは、君だって同じことだ。それに君の機転がなかったら、やつらはこれから先もあの施設で人工的に生命を創りだし、その過程で余剰になった子供の臓器を生きたまま他人に移植するという暴挙を引き続き行っていただろう。それをこの手で叩《たた》き潰《つぶ》すことができた。私にはそれで十分だ」
「でも、まさか瀬島さん自らが救出部隊を組織して助けにきてくれるとは思っていなかった。大使館か警察に通報してそれで終わりかとばかり思っていた」
「それには理由があるんだ」
「それはマリオさんから聞いたわ。助けに来てくれたのはトンドの人たちだったって。確かにマリオさんが言うようにまともに行ったんじゃ、警察にしたってなかなかとりあってくれるはずがない。それにあれだけの組織ともなれば、権力機構にはそれなりの手を打っているでしょうからね。自分たちの身内を助けるために立ち上がったのも無理のないことだわ」
「いやそれだけじゃない」
黙っていれば、それで済むことかも知れなかった。しかし自分が何ゆえに身の危険を冒してまで、今回の襲撃に参加したか。その本当のところを麻里に告げず善人を気取るのはどうしても心が許さなかった。
「実は、私があの施設に直接乗り込んだのは、もちろん君を救出したいという気持もあったが、ことをどうしても公にできない事情があったからだ」
瀬島はかつて諒子との間にあったこと、あの施設で行われていることが発覚した経緯、そして最大の目的があそこに保管されている凍結卵子の奪回にあったことを、かつてオランドに語ったように包み隠さず話して聞かせた。
麻里は瀬島の長い話が終わるまで一言も発することなく黙って聞き入っていた。
「君が監禁されているところに真っ先に駆けつけず、フレッチャーやノエルの身柄の確保に向かったのはそのせいだ。君を助けたのは私じゃない。命を落としたオランド、アヴェリーノ、テディ……トンドの男たちだ。だから私には何も感謝することはないんだ」
澄んだ瞳《ひとみ》をじっとこちらに向ける麻里の視線が痛かった。長い沈黙の時間が流れた。傍らに立ったままでいるマリオは日本語を解しなかったが、二人の間に流れる微妙な雰囲気を悟ったものか、沈黙している。
「瀬島さん」ようやく麻里が口を開いた。「瀬島さんはまだその方を愛していらっしゃるのね」
「そうなのかも知れない……。ただ私たちの間にできた子供の凍結卵子の存在を知った時、彼女の絶望的な声を聞いた時、私は何が何でも連中が保管している凍結卵子をこの手に取り戻さなくてはならないと思った。そもそも彼女をこんな状況に追いやった責任の一端はこの私にある。彼女が凍結卵子を手に入れることで、将来に少しでも光明を見いだすことができれば……それが私を今回の襲撃に突き動かした理由だ。いかに連中がこの国の権力構造に食い込んでいようとも、大使館にことの次第を話せば外交ルートを使って圧力をかけ、警察を動かすこともできただろう。君たちをあんな危険な目に遭わせず救出できたかも知れない……」
「いいえ。事情はどうあれ、瀬島さんが取った行動はベストだったことは確かだわ」麻里は静かにかぶりを振りながら言った。「もしもそんなことをしていたら、警察が来る前に動きを察知した連中は、きっと私たちを始末して口封じにかかっていたと思う。まるで動物を解体するように、幼い子供の臓器を摘出して殺すことも厭《いと》わない連中よ。それくらいのことは何の躊躇《ためら》いもせずにしたに違いない。もちろん凍結卵子も処分して証拠の湮滅《いんめつ》を図ったことは間違いない。ああするほか仕方がなかったのよ」
「しかし――」
「瀬島さん。本当にあなたには感謝している。そしてトンドの人たちにもね」麻里はそこで真摯《しんし》な眼差《まなざ》しを向けると、「私、いまの瀬島さんの言葉を聞いて決意を新たにした。二度とこんな悲劇が起きないよう、貧困に喘《あえ》ぐこの国の多くの人々のために一生を賭《か》けるって……ほんとうにありがとう。瀬島さん」
そう言うと、穏やかな微笑みを浮かべ瀬島の手を握った。
「麻里さん……」
「もうそれ以上の話はもう少し元気になってからにしましょう。体に障るわ。少しお休みになった方がいいわ」
優しい麻里の言葉に、堪《こら》えていた睡魔が襲ってきた。目蓋《まぶた》がどうしようもなく重い。瀬島は深い眠りの中に墜《お》ちて行った――。
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エピローグ
廃墟にて
それから一年の歳月が過ぎた。
天頂に達した南国の太陽が容赦なく照りつけてくる中に立っていると、たちまちのうちに半袖《はんそで》のシャツから露出した腕が熱を帯びてくるのが分かった。まったりとした大気を揺らしながら時折駆け抜けていく風が心地よかった。
瀬島は目の前に聳《そび》える三階建ての建物を見ていた。堅く閉ざされた正面ゲートの門柱には『ウイリアム・アンド・トンプソン研究開発センター』の看板が、薄汚れたまま掲げられていた。全面を覆ったミラーコーティングが施された窓は輝きを失い、広大な敷地の庭を覆った芝生は伸び放題となって、膝《ひざ》の高さまで生長している。一階部分の壁面の煤《すす》けたような跡が、一年前ここであった惨劇を物語るただ一つの名残だった。
事件は予期した通り、何一つ公になることなく闇から闇へと葬られた。瀬島の怪我も、週末の街のストリートで暴漢に襲われたということで、全ては決着がついた。職場に戻るまで、約一カ月の時間がかかったが、その間にマリオが何とか仕事をフォローしてくれたせいで、抱えていたプロジェクトも予定通りに完工の時を迎えることができた。
帰国の内示があったのは一月前。そして今日がいよいよフィリピンを去る日だった。
「君には本当に世話になった。いくら感謝してもしきれないぐらいだ」
瀬島は傍らに立ったマリオに向かって言った。
「それはこちらのセリフですよ、ミスター・セジマ。しかし、何でまたマニラを離れる最後にこんなところに来る気になったんです」
怪訝《けげん》な声でマリオが訊《たず》ねてきた。
マリオが言うことはもっともだと思った。確かにここには忌まわしい思い出しかない。
「さあね。自分でもなぜ最後にここを見ておきたいと思ったのか分からない」
「第二次大戦中、激戦の場となったこの国を訪れる当時の日本兵は跡を絶ちませんが、同じような心境なんでしょうかね」
「そんなところなのかも知れないな」
人の一生の中で、命を賭《か》けるなどという行為がどれだけあるだろうか。そうした行為を行った場所には、たとえそれが忌まわしい思い出であったとしても、その体験が強烈であればあるほど特別な思い入れが生じたとしてもおかしくはない。生々しい惨劇の光景を最後として記憶の中に留《とど》めておくか、平穏に満たされた光景を最後とするかでは、随分な違いがある。たぶん、自分はこの施設が再び使われることなく、ウイリアム・アンド・トンプソン社がこの地で行っていた『マリア・プロジェクト』を完全に放棄した、その確証を最後に得ておきたかったに違いないと、瀬島は思った。
「いろいろなことがここではあったな」
「ええ……」
「親方、アヴェリーノ、テディ、ヴェナス、リコ……。みんないいやつばかりだった」
「本当に……もしもみんなが生きていて、今日の日を迎えていたら、きっと見送りももっと賑《にぎ》やかなものになっていたでしょうに。情に厚い親方なんかは、涙を流して別れを惜しんだでしょうね」
「親方か……あの人がいなかったら、凍結卵子を取り戻すこともできなければ、マリア・プロジェクトも、生体臓器移植もそのまま行われていたんだろうな」
「考えるだにぞっとします」マリオは、廃墟《はいきよ》となった建物を見ながら相槌《あいづち》を打つと、「ところでミス・トリカワから何か便りがありましたか」と、訊ねてきた。
麻里は瀬島よりも一足早く、四カ月前にUPでの研究生活を終え、かつての計画通り母校であるプリンストン大学大学院の修士課程に戻っていた。
「ああ、先日連絡があった。毎日が研究生活に追われる日々を送っているらしい」
「彼女は本当にいずれこの国に戻ってくるつもりなんでしょうか」
「その情熱は失っていないようだね。修士を終えたらそのまま博士課程に進むつもりらしいが、それは目的を達成するためにはそれなりの肩書きを持っていた方が発言力もあれば影響力も発揮できるということでね。学者になる気もなければ、大衆とは無縁の機関で働くつもりでもないようだ。もっと密接にフィリピンの普通の人々と係《かか》わり合いながら、この国のために尽くしたい、そういう意向のようだ」
「彼女のような人間が増えてくれば、この国も変わっていくのでしょうけどね」
「どこの国でも一緒だが、一旦《いつたん》完成された権力構造というものを突き崩すことは難しいものだ。特にフィリピンは三百年のスペインによる統治時代、日本の侵略、それから五十年のアメリカによる支配の時代があった。この間に完成され、国家の中に深く根づいた構造を改革するのは容易なことではないだろう。しかしだからと言って手をこまねいていては、何も変わりはしない。急激な変革など期待はできないだろうが、彼女のような人間が現れてくれば、小さな変革を起こすことは可能だろう。それはトンドに限らず、貧困に喘《あえ》ぐ人々に、いままでよりも少しでも高い教育を授けるとか、技能を身に付けさせる術《すべ》を与えるとか、そんなところから始まるのかも知れない。いま彼女はその道を必死に模索しているんだ」
瀬島はそこでマリオを見ると、
「君だって、そのつもりで飛鳥を去ることにしたんだろう」
と、訊ねた。
マリオは瀬島と一緒になって行っていたプロジェクトが終わりを迎えたところで、突然辞表を提出した。この一年の間、常に自分がフィリピンを去った後の、彼の身の遇し方を考えていた瀬島にとってそれは大きな驚き以外の何物でもなかった。さらに驚いたことには、退社の理由がトンドに戻り、オランドがいなくなった建設会社を継ぐというものだった。しかもアリシアと結婚するというおまけまでついた。
苦労してトンドの街を離れ、UPを卒業し、経歴を隠してまで日本企業に職を得ることができた人間が、再び自らの意思で貧困が支配する街に戻る……。そこには並々ならぬ決意のほどが見て取れた。
「私はあの事件で、いままでの自分の生き方が間違っていたことを思い知らされたんです。それまでの私は、どうしたらあの街から脱出していい暮らしを送れるようになるか。つまり自分のことしか考えず、現実に目を瞑《つむ》ってきたことに気がついたんです。あそこに暮らす人々に必要なのは、いまミスター・セジマが言われたように、少しでも高い教育や、技術を身に付けることです。教育なくしてはこの国がいかに理不尽な権力構造によって支配されているか、いかに自分たちが不当な扱いを受けているのか、感情の赴くままに喚《わめ》き散らすことはできても、理路整然と述べることなどできはしないでしょう。親方の恩に報いるためにも、飛鳥で覚えたビジネスの知識を生かし、それに私塾を開いて、恵まれない子供たちに学問を授けることができたら……そう考えたんです。幸いアリシアという伴侶《はんりよ》を得ることもできましたしね」
「しかしそれと同時に二児の父となることを決意したのには驚いたがね」
「誰の子供かは分かりませんが、これも神の思《おぼ》し召しというものです。子供はこの国を背負って立つ宝ですからね」
瀬島はうんうんと肯《うなず》いた。
「ところでミスター・セジマ」
「何だ」
「例の凍結卵子はその後どうなったんです」
瀬島は無言のまま、ポケットの中から一通のエアメールを取り出すと、マリオの手に渡した。
「日本語は読めませんよ」
「いいから」
怪訝《けげん》な表情を浮かべながら封筒の中の手紙を広げたマリオは、同封されていた写真を目の前に翳《かざ》した。
「この子供は? まさか……」
「凍結卵子を取り出してすぐに私は諒子に連絡を入れた。それをどうするかは諒子が決めることだ。もしも、その卵子を使って、しかるべき方法で子供を作ることを決断し、それが合法的手段の下で行われるならばそれでもいいと思った。諒子はすぐには返事をしなかったが、とりあえず凍結卵子を自分の手元に置いて考えたいと言った。輸送の手段は全く問題なかった。一連の事件のあらましを諒子が新城という医師に話すと、事が公になることを恐れた彼は一も二もなく、凍結卵子を研究用サンプルとして帝都大学の医局にいる河村という講師宛に送ることを指示してきた。そのお陰で凍結卵子はX線の影響を受けることもなく無事日本に持ち込まれた。いま君が手にしている手紙が届いたのは、ほんの二週間前のことだ」
「彼女はアメリカに渡って、あの卵子に夫の精子を掛け合わせ代理母を使って子供を得たのですか! 何とも思い切ったことをしたものですね」
「それがこれからの彼女の支えになるなら、何も言うことはない。少なくとも、アメリカでは代理母による出産は法で認められていることだからね」
「でも、この子はあなたの子供でもあるんでしょう」
「違うよ、マリオ。僕と彼女の孫だよ」
「孫?……ええと、あの卵子はあなたと彼女の子供から取ったもので、それに夫の精子を……そうか、孫か。それじゃミスター・セジマ、あなたはその歳でお祖父《じい》さんですか」
「まあ、そういうことになる」
「私は結婚と同時に二人の父親、それであなたは未婚のお祖父さんですか――。何だか妙なもんですね」
「まあ、妙といえば妙には違いないが……」
瀬島もマリオも苦笑するしかなかった。
「二人とも、そろそろ行かないと飛行機の時間に間に合わなくなるわよ」
声の方を振り返ると、停車した車から降りたアリシアが長い髪を風に靡《なび》かせながら、手招きをしている。その左手の薬指にはめられた真新しい指輪が光った。
「行きましょうか、ミスター・セジマ」
「ああ……」
瀬島はそう言いながら、もう一度廃墟となった研究所を見つめながら心の中で呟《つぶや》いた。
『ソー・ロング――オランド、アヴェリーノ、テディ、ヴェナス、リコ……』
それに応《こた》えるように天頂に輝く太陽が、ミラー・コーティングされたビルの一角に反射し、眩《まばゆ》い光を放った。思わず視線を逸《そ》らした目に、南国の抜けるような青空が飛び込んできた。深い碧《あお》一色の空が、全身を染めて行くような感覚を脳裏に焼き付けた瀬島は、踵《きびす》を返すとマリオの後を追って、ゆっくりとした足取りで車に向かって歩いて行った。
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参考文献および資料/謝辞
この作品を執筆するにあたって、次の書籍、雑誌、ホームページ等を参考にさせていただきました。
御礼申し上げます。
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心臓移植・肺移植第3版 日本胸部外科学会臓器移植問題特別委員会編(金芳堂)
内科医のための心臓移植ハンドブック 堀正二・松田暉監修/是恒之宏編(大阪大学出版会)
ヒト・クローン無法地帯 ローリー・B・アンドルーズ著/望月弘子訳(紀伊國屋書店)
フィリピン経済の手引き(改定版) フィリピン日本人商工会議所
コンバット・バイブル一〜三 上田信著(日本出版社)
新潮45「闇の連鎖」 一橋文哉/新潮45特別取材班著 二〇〇〇年五月号〜二〇〇一年六月号(休載二〇〇〇年十一月、十二月、二〇〇一年五月号)
http://member.nifty.ne.jp/NishiWC/bunken02.htm
http://www.fetus.org/soon/ivf/ICSI.html
http://www.fetus.org/soon/ivf/Af.html
http://www.fetus.org/soon/ivf/matureegg.html
http://www.fetus.org/soon/ivf/sprecure.html
http://www.fetus.org/soon/ivf/ET.html
http://www.yomiuri.co.jp/life/medical/98080701.htm
http://www.shonan.ne.jp/~ctmc/infertile/how_ivfet.html
http://www.donorivf.com/japanese/treatments.html
(編集部注・単行本刊行時のものです。現在接続できないホームページがあります)
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この小説を書くに当たっては、多くの方々にご協力をいただきました。特に、フィリピン取材に当たっては、グローバルアニメーショングループの副社長、篠崎泰孝氏に、多大なご協力をいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。言うまでもなく、この作品は、現在ではまだ実現段階を迎えていない技術が含まれており、必ずしも現実を反映していない部分も多々あります。さらに事実の誤解、|
歪曲《わいきよく》などあれば、その責は百%著者である私にあります。
本書はフィクションである。従って登場する国家、地域、組織、人物等は、すべて虚構である。
角川文庫『マリア・プロジェクト』平成16年10月25日初版発行
平成17年10月10日5版発行