[#表紙(表紙.jpg)]
水辺のゆりかご
柳 美里
目 次
1 畳《たたみ》のしたの海峡《かいきよう》
2 校庭の陽炎《かげろう》
3 劇場《げきじよう》の砂浜《すなはま》
あとがき
[#改ページ]
1 畳《たたみ》のしたの海峡《かいきよう》
昭和四十三年六月二十二日。
私は夏至《げし》の早朝に生まれた。
美里という名をあたえてくれたのは母方のハンベ(韓国語《かんこくご》で祖父《そふ》)の梁任得《ヤンイントク》だ。ミリ、韓国でも日本でもおなじ読みの名前を考えたのだそうだ。柳は韓国読みではユである。ヤナギと読めるので、ハンベも両親も、私が日本社会のなかで生きていくことを配慮《はいりよ》したのだろう。在日《ざいにち》韓国人は本名で生きていくひと、国籍《こくせき》を保持《ほじ》しながら日本名で通すひと、帰化して日本国籍を取得するひと(当然日本名だ)の三つにわけられるが、このいずれもアイデンティティの問題をかかえこまないわけにはいかない。しかし韓国籍のまま日本名のように通用する柳美里という名前をつけられたことが、在日韓国人としての困難《こんなん》な問題にさらされるのをふせいだといえなくもない。もし私が金〇〇というようなあきらかに韓国人だとわかる名前だったら、私の意識《いしき》の流れはいまと大きくちがうものになっていただろう。
私たちきょうだいは、祖父母、親戚《しんせき》には韓国の呼称《こしよう》をつかうようしつけられた。アボジ(父)、オモニ(母)だけは口にするたびに違和感《いわかん》が走り、パパ、ママとよびつづけ、最初のうちは注意していた両親もあきらめたのか何もいわなくなった。
ハンベは保育器のなかの未熟児《みじゆくじ》だった私をのぞきこんでいった。
「指が長いからピアニストにするといいよ。しかし親に苦労かける顔してるねぇ」
ハンベはマラソンランナーだったという。
母からきいた話なのでにわかには信じられないが、ハンベはベルリン・オリンピックで日の丸をつけて金メダルをとったランナーとして有名な孫基禎《ソンギジヨン》とともに、幻《まぼろし》となった一九四〇年の東京オリンピックの出場予定選手だったそうだ。私は青梅《おうめ》マラソンか何かに一般《いつぱん》ランナーとして出場した経験《けいけん》があるという程度《ていど》なのではないかと考えているが。
私が生まれたころ、ハンベは茨城《いばらき》県の土浦《つちうら》市で〈旭御殿《あさひごてん》〉というパチンコ店を経営《けいえい》していた。どういう経緯《けいい》でマラソンランナーがパチンコ店の経営者になったのか不思議で、ものごころついてから母にきいてみた。母の説明は要をえなかったので、何度もくりかえしきいた。母が話すたびにハンベの過去《かこ》はちがっていた。
母がもっとも好んだ話はこうだ。
ハンベはアカ(共産主義者《きようさんしゆぎしや》)だった。母がすんでいた韓国の家にはかくし扉《とびら》があり、ハンベの同志《どうし》がよく身をひそめていた。そして彼《かれ》は危険《きけん》を察知し、家族とマラソンをすてて単身日本ににげた。二年すぎても何の音沙汰《おとさた》もないのでハンメ(韓国語で祖母)は母、母のふたりの兄、妹をつれて、ハンベをさがすために日本に密入国《みつにゆうごく》した。母が五|歳《さい》のときだった。
一年近くさがして見つかったハンベには、日本人の妻《つま》とそのあいだにできた男の子がいた。それを知ると、ハンメは四人の子どもを置いて失踪《しつそう》した。ハンメは徐貞淑《ソチヨンスク》というおよそ行状《ぎようじよう》とは似《に》つかわしくない名前だった。ハンメの行状についてはおって書き進めることにする。
ハンベとハンメの姓《せい》がことなるのは、韓国では結婚《けつこん》しても夫婦《ふうふ》が同姓をなのることはないからである。韓国人はその人間のルーツを何よりも重んじているので、夫婦だからといっておなじ墓《はか》にほうむられることはない。
そのころハンベは現在《げんざい》の芝浦《しばうら》のあたりで外国人相手の、二階で売春をしているようないかがわしいバーを経営していた。母はよなよな女のあえぎ声がきこえる部屋で日本語の勉強をし、ふたりの兄は壁穴《かべあな》に目をおしあててのぞいていたという。そこでもうけた金を持って茨城県の土浦にうつり、駅まえでパチンコ店をはじめた。
なぜ政治的《せいじてき》に亡命《ぼうめい》したにもかかわらず、日本人と結婚して子どもをつくることができたのかについての説明はない。
母が酔《よ》ったいきおいで話したべつのストーリーはこれよりも珍妙《ちんみよう》である。
ハンベはおもてむきはマラソン選手だったのだが、生活苦のため麻薬《まやく》の売人《ばいにん》になった。発覚して、日本に脱出《だつしゆつ》したものの、結局|逮捕《たいほ》されてしまった。ハンメは日本で夫の出所を待つことを決意した。しかしハンベが獄中《ごくちゆう》にいるあいだ、ハンメは情夫《じようふ》をつくり、子どもをすてて失踪した。ハンベはしかたなく日本人の女と結婚して、ひとりの男の子をもうけた――というものである。
「歴史が創《つく》り変えられるように個人史《こじんし》だって自由に変えられる」といったのは寺山修司《てらやましゆうじ》だったと記憶《きおく》しているが、母がわが家の歴史をあやしげな三文《さんもん》小説のような物語にかえてしまったのかもしれない。さらに子どもだった私が、空想をまじえてつくりかえたとしてもおかしくない。
母は戸籍《こせき》上は日本で生まれたことになっている。その間の事情《じじよう》を問いただしても、口をつぐんで頑《がん》として答えてくれない。在日の一世には出生や姓名など、私のような二世が想像《そうぞう》を絶《ぜつ》するような、それこそ墓場《はかば》まで持っていかざるをえない秘密《ひみつ》をかかえているひとが多い。私は柳という姓も、もしかしたら父のほんとうの姓でないのではとうたがっている。
ハンベは自分の子どもの名前の頭にみな〈栄〉の一字をつけた。栄男《ヨンナン》、栄敏《ヨンミン》、栄姫《ヨンヒ》、栄子《ヨンジヤ》。日本人妻の籍に入っている末子にまで、栄哲《ヨンチヨル》という韓国風の名前をつけた。
母の話によれば、継母《けいぼ》は栄哲だけにちゃんとした食事をあたえ、タンスのなかに栄哲のために蜜柑《みかん》をかくしたり、すきやきを食べさせたりしたという。母たちは近くの畑のさつまいもをぬすんで食いつないでいた。ハンベは四人の子どもたちを存在《そんざい》しないもののようにあつかい、こづかいもあたえずひとことの言葉もかわさなかった。ふたりの兄は中学校のころから新聞配達をして妹たちを養ったのである。
大学に進学したのは栄哲だけだった。母は内緒《ないしよ》で東京の女子短大を受験したが、ハンベに合格《ごうかく》通知を見せると、火のついたダルマストーブをなげつけられ、断念《だんねん》せざるをえなかった。母は兄たちと同様に子どもというより〈旭御殿〉の従業員《じゆうぎよういん》だったのだ。学校から帰宅《きたく》すると、兄たちはホールの管理、母と妹は景品|交換《こうかん》をした。無給でつかえるのは自分の子どもぐらいしかいない。
母は二十歳《はたち》のころ同級生に求婚《きゆうこん》されたが、日本人との結婚はゆるさないとハンベに反対され、知人の紹介《しようかい》で父、柳原孝《ユウオンヒヨ》と見合いをした。母にいわせれば、父は財産《ざいさん》めあてで結婚を決めたという。それがほんとうだとしたら父の期待は大きくはずれた。父はハンベに薄給《はつきゆう》でやとわれ、えたものといえば釘師《くぎし》の技術《ぎじゆつ》だけだった。
私が生まれた二カ月後に、ハンベは信頼《しんらい》していたひとにだまされて〈旭御殿〉を安価《あんか》で売り、韓国に帰ってしまった。その後何度か日本に立ちもどってきたが、来日すると、ハンベは六畳二間《ろくじようふたま》しかないわが家に滞在《たいざい》した。
そのときのようすは鮮明《せんめい》に記憶している。
ハンベは毎朝まだ暗いうちにランニングウェアを着てジョギングに出かけた。ひと一倍健康に気をつかい、健康法はブラックコーヒーにナメクジをいれて飲むことで、「おい、ちんちんさわらせろや」と弟をおいかけまわす変なひとだった。母がこしらえた料理には箸《はし》をつけずによくひとりで即席《そくせき》ラーメンを煮《に》て、「日本でいちばんうまいものはチャルメラだ」といっていた。そして夕方になるとかならず、父が祖国をすてて日本にわたってくるときに持ってきた唯一《ゆいいつ》の品であるレコードに針《はり》を落とした。その唄《うた》のイントロは汽車の音ではじまるのだが、ハンベは、シュポポポポポポポと口ずさみながらプレーヤーのまえにうずくまり、曲が終わるのを待たずに針を持ちあげ、また汽車の音を流した。百八十センチの長身がとても小さく見えた。
話を私の生まれた朝にもどす。
知らせを受けた父は床屋《とこや》と果物屋《くだものや》のシャッターをたたき、はじめての子どもにあうために髪《かみ》と髭《ひげ》をととのえ、母に食べさせるために枇杷《びわ》をひと箱買って病院へと急いだ。
背筋《せすじ》をのばして病室に入り、枕《まくら》に深く頭をうずめてはなやかな笑みをうかべている母に、「ありがとう」とつぶやいて父は涙《なみだ》ぐんだ。父が母に、ありがとう、といったのは、このときが最初で最後だった。
ハンベが〈旭御殿〉を売却《ばいきやく》して帰国したことによって失業した父は、パチンコ店を開店したいので協力してくれという知人の言葉にとびつき、母と私をつれて横浜《よこはま》にひっこした。
私はハンベの予言どおり、赤《あか》ん坊《ぼう》のころから弟や妹たちとくらべて手がかかったという。母が私の唇《くちびる》に乳首《ちくび》をおしつけると泣き出し、乳《ちち》を一滴《いつてき》も飲まなかったそうだ。私は哺乳《ほにゆう》ビンで育った。そのせいではないが、生後六カ月になっても頭髪《とうはつ》が一本も生えなかった。
そして一歳《いつさい》の誕生日《たんじようび》のまえにコモ(韓国語で父方の伯母《おば》)の家にあずけられた。母が弟を身ごもり、ひどいつわりで私のめんどうをみられなかったからだ。
父方の親戚《しんせき》で私が知っているのは彼女《かのじよ》ひとりだけだ。コモは父より十九歳うえである。このコモの素姓《すじよう》というのがよくわからない。父は自分たちがなぜ日本にきたのか、韓国でどのような生活をしていたのか、いっさいを語ろうとしない。保険証《ほけんしよう》の父の生年月日は昭和十四年七月五日となっている。そのとおりだとしたら今年五十七歳になるはずなのだが、父は六十四だという。歳《とし》があわないばかりか、私が知っている父の誕生日は五月二十日だ。このことをきくと父は眉《まゆ》をひそめて、口をつぐむ。
母は、コモが父の実母ではないかとうたがっているが、真実を知ろうと考えたことはないようだ。私のしつこい質問で(母はかぎまわる[#「かぎまわる」に傍点]というが)母からききだした断片《だんぺん》をつなぎあわせると、こうなる。
コモは十九歳のときに私生児として男の子を産み、世間の目を気にして両親の籍にいれたので、表むきは歳がはなれた姉ということになってしまった。しかし祖母がまもなく死んだので、コモは男の子を実子とおなじように育てた。祖父というのがひどいひとで、韓国のいなかの地主だったのだが、持っていた山を売って、博打《ばくち》で金をつかいはたし、コモを女工にやり彼女の給金も博打につぎこんだ。家にはなぜか日本刀があり、コモが金をわたさないと切りつけられ、背中には大きな切り傷があるらしい。コモは父親からのがれるために出奔《しゆつぽん》し、男の子とふたりで日本に密航《みつこう》してきた。その男の子が私の父というわけだ。祖父は私が小学校に入るまえに他人の家の軒下《のきした》でゆきだおれて死んだ。雨の日だったそうだが風の便りということなので真相はわからない。両親の過去には暗いトンネルがあって、ふたりはその入口と出口を沈黙《ちんもく》という壁でぬりこめてからでなければ、日本で生きていくことはできなかったのだ。それをあばく権利《けんり》はだれにもないが、私はいつかそのトンネルに入りこみ、ルーツにたどりつきたいという願望をすてきれないでいる。
私は三歳までそのコモの家にあずけられた。
心理学の本で読んだことがあるが、三歳までのあいだに母親との関係が希薄《きはく》な子どもは精神的《せいしんてき》な障害《しようがい》を持つケースが多いという。いちばん重要なその年月、母と別居《べつきよ》していたことが、のちの私の対人関係に大きな影《かげ》を落としたのかもしれない。
「きみには根本的に愛情というものがかけてるんじゃないか」
ある友人にいわれたことがある。
「愛されたいとは思っても、愛したことはないんじゃないかな」
それが私のトラウマ、母親との関係から生じた障害だというのだ。
コモの家には、堀江《ほりえ》という日本人の男と小学校六年になる男の子がいた。コモは正式な結婚《けつこん》はしていないが、表むきには堀江の妻ということになっていた。私が、お兄ちゃんとよんでいた淳一《じゆんいち》という男の子はコモの息子ではなく、堀江のつれ子だった。
ずっとあとになってわかったことだが、堀江の妻は出産直後に失踪《しつそう》し、彼は赤ん坊を育てながら妻をさがしまわり、十年たってあきらめかけていたときにコモとであったということらしい。
私の離乳食《りにゆうしよく》ははんぺんだった。夜泣きする私をおぶって、コモが屋台《やたい》のおでん屋につれて行き、吹《ふ》いてさましたはんぺんを割《わ》り箸《ばし》でちぎってあたえると、歯のない口で食べたという。
二歳をすぎたころの、淳一といっしょにならんだ写真を見ても、私の頭には猿《さる》のような産毛《うぶげ》が生えているだけだ。しゃべり出すのも、歩き出すのも平均《へいきん》よりかなりおそかったという。
コモは屑《くず》ひろいをしていた。家のなかはコモがひろったありとあらゆるものでうめつくされていた。漂泊《ひようはく》のはてといった感じの、生活を放棄《ほうき》した雰囲気《ふんいき》がこいバタ屋のような平屋だった。
私の記憶はこのあたりからはじまる。さびた乳母車《うばぐるま》、音のしないがらがら[#「がらがら」に傍点]、手足がもげた人形、私はコモがひろってきたもので遊んだ。いまでも廃屋《はいおく》に足をふみいれると気持ちがやすらぐのは、そのときの記憶がしみついているからだろうか。
強烈《きようれつ》に憶《おぼ》えているのが、堀江の布団《ふとん》むしである。彼は私をつかまえてよく布団におしこみ、泣いてもあばれても出してくれなかった。ばかりか布団のなかに手をいれて私のからだをくすぐった。その感覚はいまでもときどき私を身震《みぶる》いさせる。
三歳のとき、コモがひろってきた泥《どろ》だらけの人形をいじったのが原因《げんいん》で破傷風《はしようふう》にかかった。近所の町医者はさじをなげ、救急車で虎《とら》ノ門《もん》病院に運ばれた。医者に覚悟《かくご》をしておいてください、といわれたそうだが、奇跡的《きせきてき》に一命をとりとめた。
どのくらい入院していたのだろう。母の話によれば、見舞《みま》いにおとずれた母や父やコモが帰ろうとすると、ベッドからおきあがって廊下《ろうか》までついてきたというが、病院での記憶はまったく残っていない。長い廊下のまんなかに水色のガウンをはおったおかっぱ頭の私がつっ立っている、一枚《いちまい》の写真がアルバムにはりつけられているだけだ。写真を撮《と》ったのはおそらく父なのだろうが、知らないひとに銃口《じゆうこう》を向けられたかのようにおびえた目をして立ちすくんでいる。
弟の春樹《ハルキ》が生まれた数カ月後、母がふたりの幼児《ようじ》を育てる自信を持てるようになってから、私はコモの手をはなれ、横浜で両親とくらすことになった。最初の数カ月は、きちんとしいた布団のうえでは寝《ね》つけず、洗濯物《せんたくもの》や新聞紙で寝床を鳥の巣《す》のようにしてようやく眠《ねむ》ることができた。
「この子はだらしないんだから」と母がしかると、コモが「この子はここの子じゃなくてうちの子だから」と笑った。
コモは家に遊びにくるたびに、「美里はパパとママのどっちが好きか。ママとコモのどっちが好きか」と私に質問した。
「パパのほうが好き、ママは嫌《きら》い、コモが好き」
コモがズロースにかくしているへそくりのなかから五百円札を一枚ぬきとってくれるので、私は決まってそう答えた。
私は突然《とつぜん》、淳一の妹ではなく、ひとつ年下の弟春樹の姉になっていた。母は臨月《りんげつ》でじきに妹の愛里《エリ》が生まれた。
私が三歳のときに妹の愛里が生まれたのだが、そのことはまったく憶えていない。赤ん坊だった妹の姿《すがた》は私の記憶のフロッピイからきれいさっぱり消去されている。なぜだろう――、私は妹の存在をみとめたくなかったのかもしれない。
弟と妹の命名をしたのもハンベだ。
そのころのことを思い出そうとしても何もかもぼやけている。まず頭にうかぶのは、家の垣根《かきね》にかがりびのようにさいていた薔薇《ばら》の花と、じょうろを持ってちょこちょこ歩く弟の黄色い長靴《ながぐつ》だ。そして奇妙《きみよう》な食卓《しよくたく》――。ひと口大に切ったバターやチーズが皿のうえにあり、それをご飯にのせ、しょうゆをかけて食べた。食事は貧《まず》しかったが、父がパチンコ店の景品を持ち帰ったので、チョコレートやキャラメルなどのお菓子《かし》は無制限にあたえられた。父の手からぱらぱらとこぼれ落ちる色とりどりのお菓子は魔法《まほう》のようでもあったが、わけのわからない不安な気持ちにもさせられた。私たちは喜んでというより、おびえたようにお菓子をひろい集めた。
私は何をして遊べばよいのか途方《とほう》にくれた。父はリカちゃん人形やリカちゃんハウスをつぎつぎに私に買いあたえた。私は人形の首や手足をもいでは窓《まど》から放りなげた。家にはテレビもなく、とても退屈《たいくつ》だった。父の背より高いりっぱな本棚《ほんだな》があった。父は日本語の読み書きがほとんどできなかったにもかかわらず、本を買いあさり、ずらりと本棚にならべてただながめていた。家のすみには、本棚にかざられることのないハングル文字の本が縄《なわ》でしばられ、ほこりをかぶっていた。私は世界文学全集の挿絵《さしえ》を見るのが好きだった。挿絵を見ているうちに何が書いてあるのか知りたくなり、母に字を教えてもらい、小学校にあがるまえにひらがなは全部読めるようになっていたという。
アメリカンスクールにいれたいという母の主張と朝鮮《ちようせん》学校にいれたいという父の主張が食いちがい、すったもんだしているうちに私の幼稚園《ようちえん》はおくれてしまった。
家は横浜の山手にあった。
すぐ近くに(のちに私が入学することになる)横浜共立学園があった。母は私の手をひいて垣根ごしに女学生たちがテニスをしているさまをのぞいた。白いスコートがひるがえり、軟式《なんしき》テニスの白球が打ちかえされた。
母が子どものころに出奔したハンメが突然姿をあらわし、同居《どうきよ》するようになったのはそのころだ。男から男をわたり歩いたあげく、六十になって男をつかまえることができなくなり、どこかでいどころをつきとめて転がりこんできたのだ。
ハンメは赤ん坊だった妹が泣くと、煮たった味噌汁《みそしる》が入った鍋《なべ》を妹の顔に近づけ、「うるさい、黙《だま》れ!」とどなり散らした。外出するときはめかしこみ、上品な老婦人《ろうふじん》のようにふるまった。
幼稚園に入るまえだったかどうかは憶えていない。母の異母弟《いぼてい》の栄哲の結婚式には、父、母、私、春樹、愛里、そしてハンメも招待《しようたい》された。ハンメは、前日に白髪頭《しらがあたま》を薄紫《うすむらさき》色にそめ、クリスチャン・ディオールのピンク色のスーツを着こんで出かけた。
電車のなかでハンメのとなりに座《すわ》った私は、その香水《こうすい》のにおいにたえられず、「窓あけて」と頼《たの》んだが、ハンメは髪が風でみだれるのを嫌ってか、私の言葉を無視《むし》した。
新郎《しんろう》の父である韓国にすんでいるハンベは出席しなかった。子どものなかでいちばんかわいがっていた栄哲の結婚式に、なぜ出席しなかったのだろうか。結婚式のあいだ、だれもそのことにふれなかったように思う。
結婚式のようすはまったく憶えていないが、はじめてのフルコースに狂喜《きようき》し、たらふくつめこみすぎて、私と弟は式の最中にトイレにかけこみ吐《は》きまくった。
式が終わると、出口には新婦のとなりに白いタキシードを着た栄哲が立っていた。
「赤ちゃんが生まれたら、わたしのいとこだ」
何かいわなければ、そう感じてだれかに教えてもらったことをつぶやくと、
「美里、ありがとう」栄哲は涙ぐんだ。
それきり彼とはあっていない。消息もわからない。
母は妹をおぶって買物に出かけ、弟は近所の子たちと公園で遊ぶので、ひとりで家にいることが多かった。そんなとき私は、部屋の畳《たたみ》をはがすと、そのしたにはほんとうの家族、畳のうえとはちがうふつうのくらしをしている私たちがいるのではないかと思ったものだ。となりの部屋には、ハンベ、ハンメ、コモがすんでいて、そのもっとしたには、父がたまに口にする玄界灘《げんかいなだ》がある。
私は畳に顔をよせて耳をすます。畳のひんやりとした感触《かんしよく》が伝わってくるが、家族の団欒《だんらん》の声も海鳴りもきこえてこない。
家は静まりかえっていた。
私の記憶が鮮明になるのは、南区の大岡にひっこしたころからだ。そのころのことを思い出そうとすると、かならず蝉《せみ》の声がひびいてくる。私は夏の陽光のなかにいて、ただ蝉の声だけでみたされていた。
私たちが借りたのは、おなじ敷地《しきち》にすんでいる大家《おおや》が物置がわりにつかっていた小さな平屋だった。
風呂場《ふろば》には大きな穴が開《あ》いていたので、ナメクジが石鹸箱《せつけんばこ》にへばりついていたり、コオロギが湯にういていたりした。風呂場だけではなく天井《てんじよう》や壁も穴だらけで、雨がふるたびに大騒動《おおそうどう》だった。ヤカンや鍋や洗面器《せんめんき》を部屋のあちこちに置いて眠ったが、雨足《あまあし》がはげしくなると、水のはねかえる音がうるさくてなかなか寝つけなかった。
裏庭《うらにわ》のちょうどまんなかにはふたつの家を区わけするように柿《かき》の樹《き》が植わっていた。裏庭へ通じる狭《せま》い路《みち》には父が植えた鳳仙花《ほうせんか》がさいていた。赤、ピンク、白――、指でつつくと、種がはじけてとんだ。
私は虫籠《むしかご》をぶらさげて墓地《ぼち》の横に広がる原っぱをめざして、まだアスファルトでかためられていなかった砂利道《じやりみち》を走った。虫が好きだった。とくに蝶《ちよう》や蛾《が》の幼虫が好きで、腕《うで》にはわせて遊んだ。毛虫にかぶれて全身に湿疹《しつしん》が出てしまったこともある。父は「美里は虫博士になるのか」と、昆虫図鑑《こんちゆうずかん》を買ってくれた。つかまえてきた芋虫《いもむし》がどんな成虫になるのかを図鑑で調べ、蛾になるものはすてて、蝶になるものは空《から》の水槽《すいそう》にいれた。
水槽の底には芋虫が食べる菜をしきつめた。さなぎになり羽化《うか》するまで待てずに、芋虫をすて、庭や近くの山でつかまえた虫をつぎつぎと水槽に閉じこめた。飼《か》うというより、水槽は虫たちの牢獄《ろうごく》であり、柩《ひつぎ》だった。バッタ、カマキリ、テントウムシ、クワガタ、カナブン、カタツムリ――。
ときどきバッタの首をもぎ取って右手に持ち、左手に持ったカマキリに食べさせた。弟にべつのカマキリを持たせて共食いさせたこともある。そのせいかカマキリだけは元気だったが、他の虫はばたばたと死んでいった。私はそれらの死体を庭のアリの巣《す》の近くに置き、アリが巣穴にひきずりこもうとするようすを日がくれるまでながめていた。家から虫眼鏡《むしめがね》を持ってきて指でつぶしたアリを焼き殺すのも楽しかった。髪の毛がこげるようなにおいがしてひとすじの煙《けむり》が立ちのぼり、からからになったアリを息で吹きとばした。
これもたしか夏――。
縁《えん》のしたで野良猫《のらねこ》が子どもを産んだ。ミーミーという水っぽい鳴き声をききつけると、父は懐中電灯《かいちゆうでんとう》をつかんで立ちあがった。そして母猫を竹箒《たけぼうき》でおいはらい、まだ目のあかない仔猫《こねこ》の首をつかみ段《だん》ボールにいれて持ち去った。弟はうずくまって泣いたが、私はこっそりあとをつけて、父が仔猫を家のまえの原っぱにすてるのを見とどけた。翌日《よくじつ》段ボールをのぞきこむと、仔猫は死んでいた。何日かたってもう一度原っぱに行くと、前日ふった雨のせいだろうか、くずれた箱からはみ出した仔猫の死骸《しがい》にびっしりと蛆虫《うじむし》がたかっていた――、私はなぜか仔猫や昆虫の死体を、気味が悪い、怖《こわ》いとは感じなかった。
私は一年おくれて〈年長組〉から幼稚園に入ることになった。年子《としご》の春樹といっしょだった。しかしどうしたわけか私は杉山《すぎやま》神社の境内《けいだい》にある幼稚園に入り、弟はミッション系《けい》の成美《せいび》学園の附属《ふぞく》幼稚園だった。杉山幼稚園はチューリップの名札があるだけで制服《せいふく》がなかったが、弟の通っている成美幼稚園は黄色いスモックに、組ごとに色のちがうベレー帽《ぼう》があり、うらやましかった。
私の桃《もも》組の先生は、髪を茶色くそめ、チンパンジーのような品のない口もとをした若い女性だった。彼女はザ・フォーク・クルセダーズの熱狂的《ねつきようてき》なファンだったので、私たちの組のお遊戯《ゆうぎ》は「帰って来たヨッパライ」だった。
「オラは死んじまっただ オラは死んじまっただ オラは死んじまっただ 天国に行っただ……天国よいとこ一度はおいで 酒はうまいし ねえちゃんはきれいだ」
阿波踊《あわおど》りのようなふりつけで子どもごころにも恥《は》ずかしかった。
弟は幼稚園から帰ると、父と母のまえでその日にならったお遊戯を得意気にやってみせた。
「パラパラ落ちる雨よ雨よ パラパラとなぜ落ちる」と歌いながらてのひらを胸《むな》もとから膝《ひざ》のあたりにひらひらさせた。讃美歌《さんびか》の歌詞《かし》を子ども用にわかりやすく替《か》えたものだった。弟が幼稚園からもらってきた聖書《せいしよ》も、弟が「エスさまはねぇ」というのも、何もかもうらやましくてしょうがなかった。
私の先生が梅組の先生と賽銭箱《さいせんばこ》のまえでしていた立ち話の内容をはっきり憶えている。
「誕生日のプレゼントに黒いレースのブラとパンティーもらったんだけど、透《す》けちゃうでしょ、なんのしたに着ればいいかなぁ」
「喪服《もふく》とか……」
「喪服、持ってないのよ」
「あたし、持ってる。いらないんならちょうだい」
「もらってくれる? だったら明日持ってくるわ」
どうしてこんな会話が気になったのだろうか。
帰って話したとき、母の口もとに奇妙な笑いがうかび、べたっとした視線《しせん》が私にはりついたことが、彼女たちの会話を記憶にとどめさせたのかもしれない。子どもにとって大人《おとな》の不可解な会話や視線が、謎《なぞ》や秘密を生み出し、それらは決して答えがないままに子どもを大人へと成長させていく。母親の視線が、幼児のなかにある〈性〉や〈女〉を羽化させるものなのだ。
ある晩、淀川長治《よどがわながはる》が解説《かいせつ》をしているテレビの映画番組で『禁《きん》じられた遊び』を放送していた。私は観《み》ていて哀《かな》しくなり泣いてしまった(いまもかわらず私の洋画ベストワンは『禁じられた遊び』である)。父と母が顔を見あわせて笑ったので、私はトイレにかけこんで鼻をかんだ。翌朝《よくあさ》、母は『禁じられた遊び』のヒロインの髪型《かみがた》をまねて、私の髪を編《あ》みこみにした。私は鏡にうつった自分の姿に満足して幼稚園に出かけた。
教室に入ったとたん、女の子たちの針のような視線が私の頭に向けられた。
「へぇんな髪型、ブース」とだれかがいったのをきっかけに、みな私のまわりに集まってきた。リボンをむしり取ったのも、うしろから私の両腕をひねりあげたのも女の子だった。
「ブース、ブス!」と四方八方から手がつき出てきて、私の髪をひっぱった。私は泣くまいと口をぎゅっとつぐみ、父に「喧嘩《けんか》のときはパクチギ(韓国語で頭突《ずつ》き)をしろ」といわれたのを思い出し、目のまえにいる男の子の額《ひたい》に頭をぶつけた。彼が泣き出すと、待ってましたとばかりにいっせいに拳《こぶし》や足がとんできて、なぐられ、けられ、ひっかかれた。
「やめなさい!」
先生があらわれて、私の髪や服をつかんでいる子どもたちをひきはなした。私がパクチギをした男の子は額をおさえてまだしゃくりあげている。何ごともなかったように積み木で遊びはじめた女の子たちがちらっと私のほうを見て、「最初にぶったのは美里ちゃんです」といった。
「でもおおぜいでひとりをいじめるのはルール違反《いはん》よ」先生は歌うような調子でいい、「せっかく編んできたのにぐしゃぐしゃになっちゃって」と私の頭をなでた。
「変な髪型!」女の子が叫《さけ》んだ。
「どこが変なの? かわいいじゃない? ねぇ美里ちゃん」と先生がいうと、みな獣《けもの》じみた目つきで私をにらんだ。
「髪型とか服装がみんなとちがってたからかな?」
私の友人が酒場のカウンターで、左の手でほおづえをつき、右の手でグラスを揺《ゆ》らしながらいった。
「つまりさ、ひとりだけかわいらしい髪型になったんで、憎悪《ぞうお》の対象になったってわけだよ。だいたいかわいい子っていうのは、グループの中心になるか、いじめられるか、どっちかだからね」
子どものころの私がいまよりずっとかわいかったことだけはたしかだ。
「だから? それだけじゃないと思うけど……」
ママが無言で水割《みずわり》のおかわりをこしらえて私のまえに置いた。
「そりゃそうだよ。いじめられるなにかがあった。なんだったと思う?」
「お遊戯をいっしょにやらなかったからかなぁ……みんなと話をしなかったから……」
私は煙草《たばこ》に火をつけた。
「自分は特別だっていう意識があったんじゃないの。そのことを他の子どもたちは敏感《びんかん》に察知した。きみみたいな子はふつうリーダーになるんだけどな」
だが私はいじめられつづけた。いろいろな要素がからみあっていたのだろうが、集団への苦手《にがて》意識がひと一倍強かったせいのように思う。いまでも一対一では話せても、三、四人がおなじテーブルにつくと会話できない。私の無意識の集団への嫌悪《けんお》感は、幼稚園児にさえ勘《かん》づかれていたのだ。
話を幼稚園のころにもどそう。
パリで美容師《びようし》の勉強をしていたイモ(韓国語で母方の叔母《おば》)が家にやってきたのも夏だったと思う。
メイド・イン・フランスのショッキングピンクのタンクトップにスリムジーンズのいでたちで、ワンレングスの長い髪をかきあげるイモは格好《かつこう》よかった。日本にもどってしばらくすると、イモは新宿《しんじゆく》の伊勢丹《いせたん》の美容院に就職《しゆうしよく》した。家にくるたびに「冷房《れいぼう》で腰《こし》が冷える、シャンプーで手が荒《あ》れる」と母にぐちっていた。イモはよく新宿のマンションに私をつれて行き、「美里、イモの子どもになる?」ときいた。私は「うん、いいよ」とうなずいた。「結婚はしたくないけど、子どもはほしいの。でも産むのはイヤ」といっていた。指切りをして母娘《おやこ》になる約束までした。
母は家でつけたキムチを横浜橋のたもとで売って、生計をたてていた。父が給料を競馬につぎこむからだ。そのころから父と母は頻繁《ひんぱん》に夫婦喧嘩をするようになった。私が「イモの子どもになる」ことを黙っていたのは、家に遊びにきたコモまでが、「妹のほうをもらえばよかったね」などというのをきいて、母が哀《あわ》れに思えたからだ。
杉山幼稚園は車通りがはげしい場所にあったので、家が遠い園児は幼稚園バス、近所の園児は親が送りむかえすると決まっていた。
ある日、いくら待っても母はあらわれなかった。私は動揺《どうよう》をあらわすまいと、砂場《すなば》の砂に指で絵を描《か》いていた。
「美里ちゃんのお母さん、どうしたのかしらねぇ」
と先生に声をかけられて、私はびくっとふりかえった。親がむかえにくる園児はもうみな帰ったあとで、バス組の園児たちも全員バスに乗りこんでいた。
「今日はひとりで帰れってママにいわれたから」私は嘘《うそ》をついた。
「あぶないからだめですよ。お母さんに電話するから教室のなかでちょっと待ってて。先生、お見送りするから」
だれもいない教室で待っているのはいやだった。
私は、先生がバスに乗った園児に手をふっているすきに、門の外へ走り出した。
「美里ちゃん!」先生が叫びながらおいかけてくる。石につまずいて転び、靴が脱《ぬ》げる。おきあがって走り出そうとしたとき、先生に肩《かた》をつかまれた。走り出したばかりのバスがとまって、なかから他の組の先生もおりてきた。子どもたちが窓から私を見おろしているのがわかる。これでまた明日はいじめられる、そう思うとすりむいた膝の痛みとむかえにこない母への怒《いか》りが一挙におそってきた。私は、幼稚園にひきずりもどそうとする先生の腕にかみつき、ガードレールにしがみついた。
「だってママがひとりで帰れっていったんだもん! 帰る! うちに帰る!」金切り声をあげた。
「いいかげんにしなさい!」と太った園長先生にほおをはたかれたとき、おしっこをもらしてしまった。私ははげしく泣いた。
「美里ぃ」と声がしたので顔をあげると、自転車に乗ったイモが近づいてきた。
「ママはちょっと具合が悪くてね、イモがかわりにきたのよ。おそくなってごめんね」
「お姉さんですか?」
ときく園長に向かってイモはほほえんだ。
「美里ちゃんと似てますねぇ」
私が自転車の荷台にまたがると、イモは何もきかずにペダルをこぐ足に力をいれ、スピードをあげた。ぬれたスカートが風でばたばたした。私はイモにわからないように口のまわりの涙と鼻水を舌《した》でなめた。
指が長いからピアニストにするといい、というハンベの予言にもとづいて、私は近所のピアノ教室に通わされた。
最初は親指と小指で一オクターブにとどき、「筋《すじ》がいい」とほめられ、いい気になっていたが、半年後に通いはじめた弟においぬかれてやる気をなくしてしまった。
ほおを紅潮《こうちよう》させて背筋をぴんとのばし、メトロノームのように正確にひく弟を、先生は「ジュンくん、ジュンくん」とかわいがった。春樹は韓国語でチュンスと読むので、私は「チュンくん」とよんでいた。それをききちがえたのだ。
ミスをすると、先生は脇腹《わきばら》をつねった。しだいにピアノ教室に通うのが苦痛《くつう》になりサボることが多くなった。家とピアノ教室は目と鼻の先にあり、一本道だったので原っぱに行くためにはまえを通りすぎなければならない。
ある日いつものように爪先立《つまさきだ》って歩《ほ》を速めると、――先生が教室のまえで仁王立《におうだ》ちになっていた。
「そんなに先生がいやなの?」
私はしかたなく教室のなかに入り、カバンからバイエルを取り出してピアノのまえに座った。
先生はびくつきながらピアノをひく私の耳もとでささやいた。
「あなた、こずえちゃんに、先生が赤ちゃんを産んだら、赤ちゃんがかわいそうだっていったんですって?」
こずえちゃんというのは、ピアノ教室に通っている私とおなじ歳《とし》の大家の娘《むすめ》である。このあいだ、裏庭で縄《なわ》とびをしたときに私がいったことを告げ口したのだ。
先生は私の脇腹を思い切りつねった。いつもより強く――、痛《いた》い、と思ったがピアノをひきつづけた。家に帰ってトイレで見てみたら、くっきりとした爪《つめ》のあとに血がにじんでいた。
このふたつの出来事が、私の学校や教師にたいする異常《いじよう》なまでの拒絶感《きよぜつかん》の原因になったのだという気がする。もちろんこのような出来事を生み出したのは、私の内で芽生えつつあった暗くはげしい情念《じようねん》だったのだろう。私は四、五歳のころからずっと逃亡者《とうぼうしや》だったのだ。アメリカのヘビー級のチャンピオンだったジョー・ルイスが「リングではにげることはできても、かくれることはできない」といっていたが、私だってかくれはしなかった。そう、ただにげつづけただけなのだ。
夕飯どきに、味噌《みそ》、塩、砂糖《さとう》、味醂《みりん》などを切らしていることに気づくと、よくとなりの大家の家に借りに行かされた。ほんとうにたまにだが、こずえちゃんもお母さんにいわれて借りにきた。私たちの〈おかえし〉は、父が店から持ってくるパチンコの景品(煙草、菓子、ぬいぐるみなど)に決まっていたが、彼らの〈おかえし〉は、こずえちゃんのお母さんが焼いたクッキーやケーキだったり、ひよこやくまが刺繍《ししゆう》してある手づくりの弁当包《べんとうづつ》みやハンカチだったりした。
ある日、こずえちゃんが得意そうにいった。
「お父さんとお母さんがねぇ、美里ちゃんのお父さんはヒジョウシキだって昨日《きのう》話してたよ」
「どうして?」
ヒジョウシキの意味がわからないまま私はききかえした。
「だって下着姿で、りんごかじりながら、道歩いてるもん」
父が着ていたのは下着ではなく、韓国の親戚から送られてきた白いパジチョゴリだったが、私は黙《だま》って塀《へい》ごしに縁側《えんがわ》でひなたぼっこしているこずえちゃんのお父さんを見た。彼が有名|製菓《せいか》会社につとめているということは母からきいて知っていた。
彼は会社が休みの日曜日にはかならずといっていいほど、こずえちゃんとりょうちゃん(春樹とおなじ歳のこずえちゃんの弟)といっしょに私や春樹とも遊んでくれたが、自分の子どもより私をだきあげる回数のほうが多かった。そのだきあげ方が変なのだ。私の股《また》にてのひらをあてがい、すばやく指をうごめかす。他の子をだきあげるときは両の腋《わき》のしたに手をさしいれるのに――。変だと思ったがだれにも話せなかった。
ある日曜日、成美|幼稚園《ようちえん》のジャングルジムで遊んでいるとだれかが「のどかわいた」といい出し、家に帰ってカルピスを飲もうということになった。こずえちゃんのお父さんはゆっくりと近づいてきて私と手をつないだ。こずえちゃんとりょうちゃんと春樹は影ふみをはじめて、キャッキャッと笑いながら走り出し、視界《しかい》から消えてしまった。三人をおいかけようとしたのだが、彼は私の手をつかんではなさない。
「こずえたちは先に行かせればいいよ。疲《つか》れたから座ろ」
彼は右手で私の手をひっぱり、左手で校門の扉をおす。日曜日なのにカギは開いている。湖のように静まりかえっている校庭に足をふみいれ、ベンチに腰をおろす。
彼は自分の膝のうえに私をだきあげた。胃のなかにすっぱい予感がこみあげてきて、私は口のなかの飴玉《あめだま》をなめるのをやめた。――甘皮《あまかわ》ののびた女のような細い指――、その指は私のスカートをまくりあげパンツのうえから陰部《いんぶ》をなぞる。そしてもう片方の手の指でブラウスのボタンをはずし、たいらな胸をくすぐる。
葉は一枚も揺れていなかったが、空気はざわついていた。
「あそこに寝転ぼうよ」
彼が指さした場所には、絨毬《じゆうたん》のように草が生《お》いしげっていた。私は新しい墓穴のような土のにおいを、水気をふくんだ草の葉のにおいをかいだ。
「いまからおじさんとすること、お父さんにもお母さんにもこずえにもいっちゃだめだよ。おじさんと美里ちゃんだけの秘密だよ。約束できる?」
私は見ないようにしていたこずえちゃんのお父さんの目を直視した。黒目に私の顔が小さくうつっていた。
母が四人目の子どもを産むために入院しているあいだ、私たちのめんどうはコモがみてくれた。掃除《そうじ》はまったくしないし、洗濯物にも手をつけないので、わが家はわずか数日でゴミ置場のようになった。三歳まですごしたコモの家とおなじ雰囲気なので、私はこころのどこかで落ちつきを感じていたが、春樹は大人びたため息《いき》まじりに、ときにはすすり泣きながら、「ママ、はやく帰ってこないかなぁ」とくりかえした。愛里はどうしていただろう、――思い出せない。
生まれたのは男の子だった。
父は、春樹のときは「長男だ!」と狂喜したそうだが、次男誕生の知らせを受けてもなかなか見舞いに行こうとはしなかった。のちにきいたところによると、父の不機嫌《ふきげん》の原因は、母がピルを飲み忘《わす》れて妊娠《にんしん》してしまったせいだという。
父は母が退院する日にはじめて私たちきょうだいを車に乗せて病院へと向かった。母はすでに着替えて荷物をまとめ、赤ん坊をだいて廊下の長椅子《ながいす》で待っていた。母に「かわいいでしょ」と、その色黒でがさがさした肌の赤ん坊を見せられても、だれひとりにこりともしなかった。
家に帰った母は釜山《プサン》にすむハンベに国際電話をかけ、次男は春逢《ハルオ》と名づけられた。美里、春樹、愛里、春逢、みな、ハンベの命名だ。父はなぜ命名の権利を主張しなかったのだろうか。父は自分の血について何かしらのおびえを感じていたのではないかと思う。悪い血=A父はいつも自分の血流に耳をすましていたような気がする。そのはげしくしぶく濁流《だくりゆう》にたえられずに、自分を憎《にく》み、私たち家族を憎んだ。
私は春逢の乳母車をおして街を歩くのが好きだった。
春、樹《き》のあいだから空が蒼《あお》くくだけてきて、乳母車のなかの弟のほおはピンク色にかがやいて見える。夕飯の買物に出かける主婦たちは、「かわいいわねぇ」とかならず乳母車をのぞきこむので、私は出産を終えたばかりの母親のようなほこらしさでいっぱいになった。
私はときどき立ちどまって、うとうとと浅い眠りのなかにいる弟の顔をながめた。めぶいたばかりの葉が微風《そよかぜ》で揺すられ、光と影が交差するときのようなあわい気分がふたりのあいだで通う気がした。
乳母車をおして坂のうえに立つと、色とりどりの家の屋根が見わたせた。銭湯《せんとう》の煙突《えんとつ》から立ちのぼる一条の煙は、風ひとつない春の空へ形もくずれずに消えていく。坂の途中にはひとっ子ひとり、猫|一匹《いつぴき》いなかった。乳母車をにぎる手が汗でぬるぬるして――、あっ、乳母車が坂道を落ちていく。手をはなしてしまったのがうっかりだったのか、わざとだったのかは憶えていない。私は全力で走って乳母車をつかまえた。赤ん坊は泣いていなかった。もし私がおいつかなかったら、弟は泣き声ひとつたてずに死んだだろうか。このときのことはだれにも話していない。
母はとなりのこずえちゃんが横浜国大の附属小学校を受験するということを知ると、突然教育ママに変身して私に受験勉強をするように命じた。教材はテレビ番組の「ひらけ! ポンキッキ」だった。
一次が知能《ちのう》テスト、二次は体操《たいそう》と面接《めんせつ》、三次は抽選《ちゆうせん》だった。案《あん》の定《じよう》私は一次で不合格、塾《じゆく》に通っていたこずえちゃんも一次で落ちた。私たちはそろって近所の大岡《おおおか》小学校に入学することになった。
入学式の前日、母が伊勢丹の美容院に電話をかけて、イモをよび出した。
「ねぇ、今日店終わったらきてよ。美里がね、明日入学式なの、パーマかけてくれない? あのねぇ、小公女セーラのイメージ、わかる? やわらかくふわぁっとくるくるっと」
母は電話しながら新聞のチラシの裏にイタズラ書きをしていた。瞳《ひとみ》に星がいくつもあるお姫《ひめ》さまの絵だった。母の愛読書は「マーガレット」や「少女フレンド」や「りぼん」だったのだ。「ママは、まんがと花林糖《かりんとう》があればなんにもいらないわ」といつもいっていた。
私は母が電話しているあいだ、まだ文字でよごれていないまっ白な学習ノートをめくっていた。ランドセルは黒、革製《かわせい》の筆箱も黒、消しゴムつきの三菱《みつびし》の黄色い鉛筆《えんぴつ》、砂消《すなけ》しのついた細長い消しゴム――、大学生のような何の遊びもない勉強道具だった。私は「男の子みたいでヤダ、キティちゃんとかキキララがついたのがいい。ランドセルはぜったい赤!」と抗議《こうぎ》したが、母は「美里が行くべきほんとうの学校はね、学習院なのよ。学習院の生徒はみんな黒いランドセルなの。そのほうがいいとこのお嬢《じよう》さんに見えるのよ。ママにまかせといて」ととりあってくれなかった。タンスの把手《とつて》につりさがっている父が買ってくれたセーラー服に、妹がふれようとしたので手の甲《こう》を思い切りつねってやった。
夜十時をまわっていたと思う、イモはパーマの道具を持ってやってきた。私は火燵《こたつ》に足をつっこんだままロットをまかれることにたえた。髪がひっぱられて痛かったし、パーマ液《えき》が額にたれてきて不快だった。朝七時におきなければならないのに――。
朝おきて鏡を見て、――死にたくなった。アフロヘアになっていたのだ。赤いランドセルを背負ってむかえにきたこずえちゃんに、「お茶の水博士みたぁい」と笑われ、私は母とイモをうらんだ。校門に入っていく生徒たちのランドセルは、女は赤、男は黒なのに、私だけ黒。紺《こん》のセーラー服もういていた。みんなはブラウスに吊りスカートやジャンパースカート、あるいはワンピースといういでたちだったからだ。
入学式が終わると、父母は帰り、それぞれの決められた教室にわかれなければならない。そこで大騒動になった。母親の腕にしがみついて泣き叫ぶ子、おしっこをもらす子、母は私が泣き出すことを期待して(いるように見えた)まっ赤な口紅《くちべに》をぬった唇を笑いでゆがめていたが、私は「じゃあ」と腰のあたりで手をふり、一年三組の教室に向かった。
一週間もたたないうちに同級生たちは五つぐらいの仲よしグループにわかれ、私はそのいずれにもいれてもらえなかった。だれも話しかけてこなかったし、自分から声をかける努力もしなかった。私は完全に声を出すタイミングを逸《いつ》してしまったのだ。
はじめての遠足は野毛山《のげやま》動物園だった。
「好きなもの同士でグループをつくってください」というと先生は眼鏡《めがね》をかけてテストの採点《さいてん》をはじめた。
教室は早口言葉のようなおしゃべりと笑い声ではちきれそうになった。何をしゃべっているのかはひとこともきき取れない。私は信号が赤にかわった横断歩道《おうだんほどう》のまんなかにつっ立っているような恐怖を感じた。
「グループができたら机《つくえ》をよせて、話しあいで班長《はんちよう》さんと副班長さんを決めてね」先生は顔をあげない。
机をひきずる音がするたびに心臓《しんぞう》が少しずつけずりとられるようにズキズキした。たったひとり取り残されているみじめな自分の顔をかくすために国語の教科書をひらいた。最初は無理してページをめくっていたが、まだならっていない「ごんぎつね」を読むうちに気持ちが静まっていった。本を読めば現実の世界から逃避《とうひ》できるということを知った最初の経験だった。
「みんな決まった?」
採点を終えて、先生は顔をあげた。
「あら、柳さん、どうしたの?」
ときかれても私は教科書から目をはなさなかった。
「そんなんだからお友だちができないのよ。ねぇ、だれか柳さんをいれてあげてもいいってひと、手をあげて」
私は教科書に顔をふせたまま目を画鋲《がびよう》のようにとがらせていたが、だれも手をあげていないことはわかった。
結局どの班にも属《ぞく》さず先生たちと行動することになり、いっしょに動物園をまわり、お弁当《べんとう》を食べたのだ。
私がいじめにあったのは理不尽《りふじん》なことではなく、何か原因があったのだ。私は生意気《なまいき》だったし、自分は選ばれた人間だと思っていた。選ばれている、そう確信していた。この意識を説明するのはむずかしいが、自分のことを特別な存在《そんざい》だと思っていた、というより、ものごころついたころから、私と他者とのあいだには深い溝《みぞ》があって、決して向こう側には行けないと感じていたのである。私は追放された人間だと思うより、選ばれた人間だと信じたかったのだ。クラスのみんなからいじめられたとしてもしかたない。でも、みんなと仲よくなりたいという気持ちは強く、そう思えば思うほどどうしていいかわからなくなり、だれかから話しかけられたい、声をかけてほしいと願いながら本を読んでいたのだ。
いじめはえんえんとつづいた。
父が買ってくれた四十六色の絵の具がなくなったときは、思わず泣いてしまいそうになった。同級生たちは私が絵の具箱のふたをとった瞬間《しゆんかん》、くすくす笑い出した。黒や黄土《おうど》色や茶色などの暗い色しか残っていなかった。私は涙がこぼれないように顎《あご》をあげて教室の天井をにらみつけた。筆や筆洗《ふであら》いもつぎつぎとなくなった。
私は黒や黄土色の絵の具を指やてのひらにじかにぬりつけて、バケツを持って廊下に立たされている自分の姿を画用紙に描《えが》き、その絵で横浜市から賞をもらった。のちに中学の美術の先生に本格的に絵の勉強をするようにすすめられたことがあるが、何かしら自分に得意なものがあるとすれば絵だけだった。
夏休みまえに通信簿《つうしんぼ》をもらった。クラスのみんなは通信簿の見せあいっこをしていたが、私はその相手がいなかったので、自分の成績《せいせき》がよいのか悪いのかさっぱりわからなかった。裏の通信|欄《らん》には〈お友だちとつきあうのが苦手なようですが、お花の水やり係としてがんばりました〉とだけ書かれていた。〈お花の水やり係〉というのは、私のためにつくられたたったひとりの係なのだ。人気があるのは保健係や新聞係などだったが、私がひとことも口をきかないのでグループ行動は無理と判断《はんだん》し、朝と放課後に花壇《かだん》のチューリップに水をやるという係を先生が考え出したのだ。
私は通信簿をもらったのがうれしくてスキップして家に帰った。息をはずませながら通信簿を手わたしたとたんに、母の表情《ひようじよう》はけわしくなった。〈たいへんよい〉〈よい〉〈ふつう〉〈ややおとる〉〈おとる〉の五|段階評価《だんかいひようか》で、私の通信簿は〈ややおとる〉と〈おとる〉で占《し》められていたからだ。〈たいへんよい〉は図画工作だけだったと思う。
夏休み、母の兄である梁栄男、〈八王子《はちおうじ》のサンチュン(韓国語で伯父《おじ》)〉のところに泊《と》まりに行った。
サンチュンは長距離《ちようきより》トラックの運転手だったが、その会社の社長の娘婿《むすめむこ》になり、帰化した。
大きな家だった。庭には池があり数十万円もする錦鯉《にしきごい》が何匹も泳いでいて、手をたたくと足もとによってきては口をぱくぱくさせた。ししおどしやいろいろな石が配置された日本庭園――、サンチュンは韓国人であることがばれるのを極度に怖《おそ》れ、栄姫という名の母を良子とよんだ。
三人の従兄弟《いとこ》がいた。和夫、義夫、秀夫、みな、男で年子だった。伯母《おば》は、「良子さんとこはいいわね、女男女男と交互《こうご》に生まれて……、秀夫のときはてっきり女の子だと思って、産着《うぶぎ》も全部ピンク色のを用意してたんだけど」と私と愛里をうらやましそうにながめた。
食卓も私たちの家とはまったくことなり、ローストチキンにフルーツサラダなどがならんだ。何日目かの夕食に食べなれた魚が出た。
「カルチ」春樹がいった。
「太刀魚《たちうお》といいなさい、太刀魚と」サンチュンは声を荒《あら》くした。
カルチは、韓国でよく食べられている蛇《へび》のように細長い銀色の魚で、日本では太刀魚とよばれ切身で売られているが、韓国では両手をひろげたくらいの長さのまま売られている。日本人にとっての秋刀魚《さんま》のようにポピュラーな魚である。
サンチュンは食事を終えると、「三人とも二階にあがれ」と従兄弟たちにいった。
三人の従兄弟が二階にあがると、「みっともない食べ方をするなといつもいってるだろ!」というサンチュンのどなり声がきこえ、従兄弟たちはいっせいに泣き出した。
「男は泣くな!」
伯母は子どもがなぐられているのに、「パンツをおろしてお尻《しり》をはたいてるだけだから」と平静な声でいって台所を片づけはじめた。
その夜、真新しい布団に緊張《きんちよう》しておもらしをしてしまった。サンチュンになぐられるにちがいないとおびえたが、そのことを知ったサンチュンはにこにこと「美里は本が好きなんだって? 着替えて和夫の絵本を見てなさい」といっただけだった。サンチュンも女の子がほしかったのだろう。
一週間近く泊まって帰宅《きたく》するやいなや、カギのかかった家のなかで電話が鳴りひびいていた。母があわてて受話器をとると、サンチュンだった。
「おまえたちが帰ったあと、近所のひとの目がおかしい。おまえ、表で韓国語をつかったんじゃないか?」
「つかいませんよ」
「子どもたちにもきいてみろ」
「子どもたちは韓国語なんてしゃべれません」
「名前をチュンス(春樹の韓国読み)とかチュンボン(春逢の韓国読み)とかよばなかったろうな」
母は途中で黙りこみ、電話を切ってしまった。
私はこのときはじめて、自分が韓国人であることを意識したのかもしれない。私にはだれにも決してあかしてはならない、暗い穴ぼこ[#「穴ぼこ」に傍点]のようなものがあり、それは用心深く歩を進めなければいつか落ちてしまう落とし穴≠ネのだ、と思った。友だちを家にまねいたことはないし、父と母をパパ、ママといって決して韓国語でよばなかったのは無意識のうちにその穴ぼこの存在におびえていたせいだ。
もうひとり〈馬のサンチュン〉とよんでいた母の兄、栄敏がいる。
〈八王子のサンチュン〉とは正反対の陽気なひとだった。韓国にすんでいたのだが、数カ月に一度は家に泊まりにきた。家のなかに足をふみいれると、荷物をなげ出し四つんばいになって私たちきょうだいを背中や腰に乗せ、「ヒヒーン、ヒヒーン」と狭い家を動きまわった。私たちはサンチュンが家にいるあいだは四六時中、「ヒヒーンして、ねぇ、サンチュン、ヒヒーンしてぇ」とせがんだ。
サンチュンの職業はおとずれるたびにちがっていた。最初は延世《えんせい》大学の学生だった。学費をかせぐために日本で家電|製品《せいひん》を仕入れ、韓国で売りさばいていたのだ。そのうち学生運動に熱中し、政治犯《せいじはん》として五年近く刑務所《けいむしよ》にいれられた。出獄したあとは韓国に絶望して日本で生きることを決意し、真偽《しんぎ》のほどは定かではないがナベプロに入り、ショーケンのマネージャーになったといい出した。
ただ一度遊びに行ったサンチュンのマンションは豪華《ごうか》で、髪が腰まであるグラマーな裕子《ゆうこ》というモデルと同棲《どうせい》していた。靴のまま入れる部屋のなかでブルドッグの血をひくボクサー犬を飼い、リビングルームには大きな水槽《すいそう》があってめずらしい蛍光色《けいこうしよく》の熱帯魚が泳いでいた。
サンチュンの部屋をたずねたしばらくあとに、父はデパートのペットショップでいちばん大きな水槽と目につく熱帯魚を手あたりしだいに買ってきた。水槽は泳ぐすきもないほどさまざまな種類の熱帯魚でいっぱいになり、ひと月もたずにつぎつぎと死んでいった。最初、死魚をつついていた魚たちはやがて生きたまま共食いしはじめた。水槽の水が米のとぎ汁のように濁《にご》っていき、魚が全滅《ぜんめつ》すると、父は世界の犬と日本の犬の図鑑をそろえはじめた。全百|巻《かん》にもおよぶ小冊子《しようさつし》なのだが、それをいくつものバインダーに分類して本棚にならべた。
二学期のはじめの運動会は最悪だった。
マスゲームで動けなくなりひとりだけ直立不動で立ちすくんでしまった。そればかりか退場の行進の最中、うしろの男子に髪をつかまれた。ふりかえって彼の顔をなぐり、取っ組みあいになった。先生がとめに入ったが、しかられたのは私だけだった。
「また柳さんね」
私は猫の仔のように体操服の襟首《えりくび》をつかまれて朝礼台のまえにつれて行かれた。
二年や三年の先生が口々にいった。
「これが一年三組の柳か」
「あぁ、あの問題児の」
私は罰《ばつ》として朝礼台のうえに立たされた。一年が出場する五十メートル競走も、玉入れも見ていただけだった。生徒会長の〈終わりの言葉〉の途中で台からおろされた。母や弟が陣取《じんど》っていた場所を見たが、もうだれもいなかった。帰ってしまったのだ。
夕食は手をつけずに持ち帰った運動会の弁当だった。
「まったく恥ずかしいったらありゃしないわ! この子はほんとうのばかなんじゃないかしら? 頭のネジが一本ぬけてるのよ」
そういってから、母は授業参観のときの話を持ち出した。
その日は花や果物の汁をしぼり、画用紙に絵を描《か》くという授業だった。級友たちはエプロンをかけ、教室のうしろにならんでいる父親や母親の目を意識しながら卸《おろ》し金《がね》で林檎《りんご》をすりおろしたり、苺《いちご》をガーゼにくるんでしぼったりしていた。私が家から持ってきたものは、蜜柑《みかん》だけだったので、にぎりつぶして画用紙になすりつけた。それを見ていた親たちは呆気《あつけ》にとられたように笑い出した。家に帰ると、母にこっぴどくしかられたのだった。
「もう学校には行かないからね」
母はいなりずしを口いっぱいにほおばりながらいった。
学校で友だちができなかったので、家できょうだいと遊んだ。妹とふたりの弟を犬に見立てて、母におやつだとわたされた〈カール〉や〈かっぱえびせん〉をなげあたえた。手をつかってはいけない、ワンワン吠《ほ》えて口でひろわなければならないルールだ。
ひとりのときは、ようじと粘土《ねんど》とティッシュで人形をつくり、空き箱で家をつくった。それはだんだん大がかりになり、やがて本格的《ほんかくてき》に針と糸で端切《はぎ》れを縫《ぬ》いあわせて人形の衣裳《いしよう》をつくるようになった。自分の髪を切って、木工用ボンドで人形の頭にはりつけた。仲違《なかたが》いもすれば、殺しあいもする人形の家族――、私は声音《こわね》をかえてひとりで会話した。
「あんたたち、みんな死ぬのよ!」
母親の人形が叫ぶ。
のっそりと立ちあがった父親の人形が、ざらざらした耳ざわりな声でいう。
「死ぬのは、おまえだ」
父と散歩していたときのことだ。父は歩をとめて、垣根ごしに芝生《しばふ》が生えている広い庭をながめた。成美学園に敷地を寄付《きふ》したという大岡一帯の土地のかなりを所有している地主の家だった。芝生に仔犬が寝そべっていた。
「あれはいい犬だ。ポインターといってね、イギリスの猟犬《りようけん》だ」
怒《おこ》っているときも、笑っているときも、虚《うつ》ろで無表情な父の瞳《ひとみ》がきらりと光った。
ある日学校から帰ると、その犬がいた。
「どうしたの?」ときくと、母はシーッとひとさし指を自分の唇におしあてた。
「外に出すんじゃないぞ」たったひとことそういって、父は食パンの耳を口に放りこんだ。
「ばれたらどうするの」母は小さなため息《いき》をおさえつけた。
「ちがう犬だといえばいい。つばをなめさせるとなつくんだ」父は唾液《だえき》でどろどろになったパンをてのひらに吐き出して犬にやった。
「しばらく家に閉じこめておかないとな」
「しばらくって……」
「一カ月たてば、まえの飼い主を忘れるだろ」
犬はひと晩《ばん》中、玄関から動かずにキューンという切ない鳴き声をあげ、そのたびに私は家がきしむような気がしてからだがすくんだ。父はいびきをかいて眠ってしまったが、私は一睡《いつすい》もできなかった。
翌朝、母は「あなた、やっぱりかえしてあげましょうよ」といったが、父は黙って自分のご飯に玉葱《たまねぎ》の味噌汁をぶっかけ、犬のまえに置いた。犬はさめるのも待たずにがつがつと食べた。ところがその犬にペペという名前をつけたのは母である。買物をしているとき、〈PePe〉というスナックの看板《かんばん》のまえで立ちどまり、「美里、あの犬の名前ペペにしよう」と声をはずませたのだ。
数週間後に父は、もう一匹、今度はマルチーズの仔犬をかかえて帰ってきた。
この犬は父だけになつき、父が不在のときは二段ベッドのしたにもぐって私たちがいくら「チロ」とよんでも出てこなかった。食事も水も容器《ようき》ごとベッドのしたにいれてやらなければ食べないのだ。一度ハムをひらひらさせておびき出そうと試みたが、低くうなりながら顔だけのぞかせ、ハムを持った指にかみついた。父は帰宅すると扉が開いていてもかならずチャイムを鳴らしてみなの目をさまさせる。チロはベッドのしたからいきおいよくとび出し、ジャンプして父の顔をなめようとした。
――それから二年もたたないうちに二匹ともいなくなった。
ペペは父がつとめる〈ホームラン球殿〉の社長に奪《うば》われたのだ。父は先代の社長の李《イ》さんとふたりで〈ホームラン球殿〉を設立《せつりつ》したのだが、李さんは胃癌《いがん》で亡《な》くなり、二十代なかばのひとり息子が跡《あと》をついでいた。彼は日本人の女性と結婚したのを機に帰化し、安田財閥《やすだざいばつ》と血縁関係にあると嘘《うそ》をついて安田の姓を名乗るようになった。
くわしいことはわからないが、父が従業員たちにしていた犬|自慢《じまん》が社長の耳にとどき、「その犬をくれ」といわれたのだそうだ。
その夜、父は帰宅を知らせるチャイムを鳴らさず、明け方まで犬小屋のまえでうずくまっていた。そしてまだ暗いうちにペペを車に乗せ、社長の家につれて行ったのだ。
ペペは一週間後に死んだ。父からきいた話によれば、社長はペペを鎖《くさり》につないだまま餌《えさ》も水もあたえず、餓死《がし》させたという。犬がほしかったのではなく、ただ父から犬を取りあげたかったのだ。
チロはコモとくらしている堀江の親戚にもらわれていった。その夫婦は原宿《はらじゆく》にマンションを持っていてその家賃《やちん》だけで生計をたてていたが、子どもがいなかった。
夫婦は幼稚園に通いはじめたばかりの愛里を養女にくれと申し出てきた。
私は深夜、父と母のひそひそ話をきいてしまった。ふたりは愛里を養女にやろうかどうしようか話しあっていた。
最近私は妹が母とくらしているマンションをひさしぶりにたずね、本棚のすみにあった妹の日記をぬすみ読み、「私はパパに一度もだかれたことがない。パパの膝のうえにはいつもあいつがいて、髭《ひげ》が剃《そ》り残っているパパの顎《あご》にほおずりしていた」と書いてあったので、そのうらみの深さに愕然《がくぜん》としたが、事実、父と母は私ばかりをかわいがっていたのだ。長いあいだ、三歳になるまで私をコモの家にあずけていたという負い目がそうさせたのだと考えていたが、妹の日記によれば、私のほうが「かわいらしかった」からで、愛里は「猿の子みたいだった」からだという。さらに私は父のペットであり、母の着せ替え人形だったと書いてあった。
そういえば母は私に何度もささやいた。
「美里と春逢はママの家系の血をひいているんだけどね、春樹と愛里はパパの家系。とくに愛里はね、若いころのコモに顔がそっくりなのよ。毛深いところまでそっくり。ママのお腹《なか》から出たときにはもう髪がふさふさでね、お猿の子みたいに背中にまで毛が生えてたんだから。このあいだコモの髪の毛をそろえてあげたときにママぞっとしちゃった。愛里とね、つむじの位置までいっしょなの、耳の形もよ」
私はほんとうは愛里のほうが母に似ていると思っていた。たしかに顔は似ていなかったが、よく腕がぬけるところや、貧血《ひんけつ》をおこしてたおれるところなど母の体質を受けついでいる。血液型も母とおなじB型。父とふたりの弟がAB型、私だけA型だった。
妹は何かにつけて私にたてついた。小さいくせに口だけは達者で、何をいってもいいかえしてきた。喧嘩をしたあとはお気にいりの人形などを妹の背のとどかないところにかくさなければならなかった。しかし幼稚園のほうが早く終わるので、妹は私がいないあいだに椅子《いす》をひっぱってきて棚にかくしたものを見つけ出し、私がこしらえた人形の家をふみつぶしたり、私のリカちゃん人形の顔に油性マジックでへのへのもへじを書いたり、髪を父のライターで燃《も》やしたりした。
だから愛里が養女にやられるということを知っても、喜びこそすれ微塵《みじん》の哀《かな》しみもわいてこなかった。
よく晴れた日だった。父が「チロにあいに行こう」といい出した。電車をいくつも乗りつぎ、私たちきょうだいは靴を脱いで、ガラスに額をおしつけて外の景色を夢中《むちゆう》になってながめた。愛里ははじめて買いあたえられた新しい服を着てはしゃいでいた。もらい子になることも知らないで――、少し気の毒になったがこれまで妹がした仕打ちを思いおこし、いい気味だと自分にいいきかせていた。
竹下《たけした》通りぞいの堀江の親戚の夫婦のマンション。父がチャイムを鳴らしてもチロは玄関に出てこなかった。すっかり父を忘れて夫妻になついてしまったチロは、どういうわけかジュゲムという名前にかわっていた。日がくれ、いざ帰るという段階になると母の目から落ちつきが失われ、「すみません、ちょっと……」と奥《おく》さんを台所につれて行った。愛里を置いて帰ることができなかったのだ。私たちはそろって家に帰った。電車の外の景色は暗く、何も見えなくなっていた。私たちは互《たが》いの肩にもたれあって眠った。
春樹は横浜国大の附属《ふぞく》小学校への合格をめざして幼児英才教育の塾に通った。
塾で行われたIQテストでは、教師が驚《おどろ》くほど弟の成績はよかった。この十年間でトップということだった。しかし、一次合格、二次合格、三次の抽選で落ちた。
その二年後、愛里はダメモトで受けた横浜国大附属横浜小学校に合格した。何の勉強もしなかった愛里が合格したのだ。私ははげしく嫉妬《しつと》した。紺のブレザーの制服、ポケットのボタン穴に鎖でつながれた定期いれ、大岡小学校では禁止《きんし》になっている腕時計《うでどけい》。妹は何かにつけて学校自慢をし、各クラスに数人ずついる障害児《しようがいじ》のことまでほこらしそうに語った。
私はふたりの弟を手下にして妹をいじめた。あるとき春樹に愛里をあおむけにするよう命令し、〈電気アンマ〉をした。愛里は最初のうちはケラケラ笑って身をよじっていたが、突然白目をむき、ひきつけをおこした。私は怖くなって正気にもどそうと蹴《け》とばした。爪先《つまさき》が妹の右の瞼《まぶた》に入ってしまった。やばいと思ったがおそかった。愛里の瞼はみるみるうちに紫色に腫《は》れあがり、買物から帰ってきた母親は悲鳴をあげた。
パチンコ店は年中無休。よその父親たちが家でくつろいでいる土日祭日が書入《かきい》れどきだったが、父は店をサボって家にいた。テレビとラジオの競馬中継をつけ、赤鉛筆を耳にはさみ、競馬新聞をひろげ、ノミ屋に電話するのだ。
釘師《くぎし》は高給で父はその当時で八十万ももらっていたが、母にはわずかな生活費しかわたさず競馬につぎこんだ。
春逢は幼稚園の父親参観日に、先生に「お父さんの趣味《しゆみ》はなんですか?」ときかれ、「競馬」と大きな声で答えたそうだ。他の子は「釣《つ》り」「読書」「ジョギング」などだったのに。
母は生活費をかせぐために家でつけたキムチを横浜橋のたもとで売りはじめた。
ところが父は「きみのキムチはまずくて食べられない」と、母がつけたキムチを絶対に口にせず、自分の手で大きな壺《つぼ》につけるのだった。
あるとき風呂場でキムチをつけている最中に店からよびだしの電話があり、父は急に店に行かなければならなくなった。父といれかわりに春樹が学校から砂だらけになって帰ってきた。母の趣味でおかっぱ頭にされていた春樹は、当時人気があったアニメの、頭に卵の殻《から》をかぶったひよこに似ているせいで「カリメロ」というあだ名をつけられ、いじめられていた。このときもおそらくいじめられたのだろう。春樹は風呂場に直行し、髪に入りこんだ砂を洗い流した。
深夜帰ってきた父は、「だれだ、アボジが風呂場につけておいたキムチに石鹸《せつけん》いれたのは!」と家中の電気をつけたり消したりしながら韓国語で何か絶叫《ぜつきよう》していたが、母と私たちきょうだいは眠ったふりをしていた。
私にとってキムチといじめはどこかでつながっている。だからといって、私と弟が在日韓国人だからいじめられたとは考えていない。だけどもしかしたら、母が乞食《こじき》のように橋のたもとでキムチ売りしたことも、弟のおかっぱ頭も、私たち一家が異物《いぶつ》≠セったからなのかもしれないと思わないでもない。家族の日常《にちじよう》生活に自然と顔をのぞかせていた韓国の風習、キムチのにおいがごく自然に私たちきょうだいにもしみついていたのだろう。
ああ、忘れてはいけない。
イモはつとめていた美容院を退職《たいしよく》し、結婚するために韓国に帰ることになり、帰国する前日、家にやってきた。
「ねぇ美里、女の子が生まれたら〈美里〉から一字もらっていい?」
私は返事をせずに、嘘つき、裏切りもの、とこころのなかでつぶやいていた。結婚しない、美里を養女にする、と指切りしたのに――。
それから一年ほどたったろうか、イモからエアメイルがとどいた。女の子が生まれ、〈里恵《リヘ》〉という名前にしたと書いてあった。
学校での私にたいするいじめはエスカレートしていくばかりだった。上履《うわば》きが焼却炉《しようきやくろ》にすてられたり、椅子《いす》にしいていた防災頭巾《ぼうさいずきん》のなかに画鋲《がびよう》がしのばせてあったりということは日常|茶飯事《さはんじ》だったが、いちばんこたえたのは給食当番の私がよそったシチューをクラス全員が食べなかったことだ。
「どうして食べないんだ?」担任《たんにん》がみなにたずねた。
「バイキンがよそったから」とだれかがいうと、みんなどっと笑った。クラス委員が手をあげ、「柳さんはきたないから、給食当番からはずしてください」といった。
学校生活は最悪だったが、四年にあがって大野清美《おおのきよみ》先生が担任になると、私は救われる思いがした。
三年のときの担任は私の読書感想文を悪い見本としてみんなのまえで読みあげたのだが、大野先生は国語に〈たいへんよい〉をつけてくれ、さらに赤ペンで「読解力と文章力は大人なみです」と書いてくれた。そして放課後忘れものを取りにもどったとき、だれもいない教室でテストの採点をしていた先生は、「やる気になれば、みんなをおいぬけるわよ、あなたの祖先は騎馬《きば》民族で負けず嫌いなんだから」といった。
図工だけは一年からずっと〈たいへんよい〉だった。植木鉢《うえきばち》という課題で、粘土でランドセルを背負って膝《ひざ》をかかえている少年の形をつくった。家に持ち帰ってテレビのうえにかざっておいたのだが、父はそれを手にとるとひっくりかえしてながめ、「いやらしい」と不機嫌になった。ちょうど少年のお尻《しり》の肛門《こうもん》のあたりを植木鉢の穴にしたからだ。
私は父によく「いやらしい」といわれた。
虫歯だらけなのでアイスキャンディーをかめずにしゃぶっていたら、「へんなしゃぶり方をする」と父にいわれた。何でへんなのかは大人になってから知ったが、「ばかなこといわないで!」と母が顔を赤らめたので性に関することなのだとぼんやり気づいた。
小学校四年のとき、大岡小学校の近くの弘明寺《ぐみようじ》商店街にあるサンリオショップで万引をした。妹には「水曜日はただの日だから」と嘘をつき、キキララやキティちゃんやパティちゃんがついた文房具《ぶんぼうぐ》をつぎつぎと家から持ってきた紙袋《かみぶくろ》のなかにいれた。あまりにも堂々とやっていたせいだろうか、店員にはばれなかった。かならず妹をつれて行った。見つかったら、妹に罪を着せようと思っていたからだ。木曜日には「木曜日もただの日だから、愛里のほしいものいれな」と妹をだました。誕生日に父からもらったカギつきの宝石箱《ほうせきばこ》にかくし、入りきらなくなるとゴミ袋のなかにいれて成美学園の校庭のすみにうめた。
そしてときどき宝石箱やゴミ袋から取り出して、学校に持って行った。
昼休みは校庭で遊ぶことが義務づけられていた。私はいったん外に出てこっそりと教室にもどり、みんなの机のなかにぬすんできた文具をいれた。チャイムが鳴り、みんなが帰ってくると、私は本を読むふりをしながらようすをうかがうのだ。だれかが魔法にかかったように、「今日はしたじきだ!」と驚く顔を見て満足した。
掲示板《けいじばん》に画鋲でとめてある、漢字ドリルと算数ドリルをだれが何ページまで終えたかをしめす棒《ぼう》グラフをマジックでのばすのも楽しみだった。自分だけのばすとばれるので、私をいじめているグループのリーダー格の女の子のグラフものばしてやった。
展示《てんじ》してある〈お父さんの顔〉を破《やぶ》いたこともある。私にたいするいじめだと思わせるために自分の描《か》いた絵だけ細かくちぎった。
「このクラスには妖精《ようせい》がすみついているみたいですね。プレゼントが机のなかに入っていたり、グラフがのびていたり、不思議ね」
大野先生が私のほうを見ていったような気がして、視線をさっと窓の外ににがした。
他の生徒とは会話できなかったが、同じクラスのヨッコにだけは小声でしゃべることができた。
ヨッコの誕生日に私の万引はばれた。ヨッコをサンリオショップのまえに待たせて私だけ店内に入り、キティちゃんの顔がプリントされたまっ赤なスポーツタオルをぬすみ、「お誕生日おめでとう」と手わたしたのだ。
「どうして包んでないの?」
彼女は包装《ほうそう》していないタオルを不審《ふしん》に思ったのだ。
「急いでたから包まなくていいっていったの」
「これ、高いんじゃない?」
「そんなには……」
「でも二千円って書いてある」
「割引《わりびき》でね、千円だったの」
私とヨッコは家の方向が逆《ぎやく》だったのでそこでわかれた。はじめて友だちにプレゼントしたということで気持ちがうき立ち、スキップをして帰った。
あとになってわかったのだが、彼女は品物をレジに持っていき店員にかえした。そして店員は学校に電話したのだ。
翌朝教室に入ると、ヨッコに廊下につれだされた。
「お店のひとが、お金もらってないっていってたよ」
「はらったもん。レジにひとがたくさんならんでたから、お金だけ置いてきたの」
「どこに?」
「えーっとね……レジの横」
「あのあとすぐ行ってみたけど、お金なんて置いてなかったよ」
「……うーんと……レジの横じゃなかったかな……ノートのうえだったかもしれない」
大野先生が私の顔をちらっと見て教室に入っていった。暗く哀しそうな顔だった。先生は知っているのだ。
「起立!」
先生に顔を見られないようまえのひとの背にかくれ、机に両手をつき中腰《ちゆうごし》で立ちあがった。
「礼!」
「おはようございます」
足ががくがく震《ふる》え、「着席!」という言葉を待てずに腰を落としてしまった。
「昨日、弘明寺商店街の文房具屋から電話がありました。みなさんのなかにどろぼうをしたひとがいます。いま、先生の顔を見れずにうつむいているひとがそうです」
顔をあげなければと思ったのだが、どうしてもあげられなかった。
私は大野先生を裏切った。そしてヨッコは私を裏切った。大野先生は職員室《しよくいんしつ》にでもよんで私を責めればいいのに、みんなのまえでさらしものにした――私を裏切ったのだ。私はヨッコに好かれたかった。大野先生に好かれたかった。しかし私のカードはすべて裏目に出て、私はますます孤立《こりつ》していった。
イモは事前に何の連絡《れんらく》もなく、隣町《となりまち》から遊びにきたようにふたりの子ども――里恵と悠真《ユジン》をつれて韓国からもどってきた。
「あらぁ」母が大きな声をあげると里恵はイモのスカートをにぎりしめ、負紐《おぶいひも》で背負われた悠真はぐずりはじめた。
「どうしたの、あんた、突然」
「まぁ、あがってからゆっくり話すわよ」
赤ん坊を背中からおろしたイモは私の腋《わき》のしたに両手をまわし、思いきりだきしめた。
「美里ぃ、大きくなってぇ。ごめんね、おみやげ買うひまなかったのよ」
化粧《けしよう》っ気《け》のないその顔にはかつてのパリ帰りの面影《おもかげ》はなかった。
イモは赤ん坊のおしめを替えると、何もうつっていないテレビに金属《きんぞく》のようなかたい視線を向け、韓国語でしゃべりはじめた。意味はわからなかったが、虚空《こくう》に吐き出しているようなしゃがれた声だった。里恵はイモのスカートをにぎりしめたままはなそうとせず、ときどき警戒《けいかい》にみちた目で私たちきょうだいの顔を見た。
突然韓国にわたって結婚し、子どもを産み、突然子どもをつれて日本にもどってきたイモが、なぜそうしたのか、そのころの私にはまったく理解できなかった。
のちにイモからきいた話によると、日本で育った彼女と韓国のいなかで育った夫とでは、何ひとつ話題があわなかったことと、夫の親戚とのつきあいにたえられなかったことが大きいという。ではなぜ結婚はしたくない、自由でいたい、とパリで美容師の勉強をしたイモが写真を見ただけの男と結婚を決め、子どもを産み、韓国のいなかで農作業をしたのか――、とききたかったがイモの顔が曇《くも》るような気がして声にできなかった。いま思えば、おさないころにはなれた祖国への望郷《ぼうきよう》の念が彼女をつき動かしたのだろう。
仕事が見つかるまでのあいだ、イモたちはわが家でくらすことになった。父、母、イモ、私、春樹、愛里、春逢、里恵、悠真の九人が六畳で眠るのは無理があり、父は車のなかで眠った。
美容師にもどるのだろうという私の予想に反してイモはキャバレーづとめをはじめ、私たちの家の窓から見える距離にあるアパートを借りた。
従弟妹《いとこ》たちの父親からハングルの手紙がとどいた。アメリカの大学に留学《りゆうがく》するために英語を勉強している、アメリカで成功したら里恵と悠真をむかえに行くので待っていてほしいという内容だった。
それからも頻繁に韓国からのエアメイルはとどき、そのたびにイモは日本語に訳《やく》して私に読んできかせてくれた。そして、「これからの時代は英語ができなくっちゃ」とFMラジオの英会話|講座《こうざ》をきき、数年後に里恵が入学したのはアメリカンスクール〈サンタ・マリア〉であった。
私たちきょうだいは、日本語をしゃべれない従弟妹がめずらしく、〈あーぶくたったにえたった〉や〈かごめかごめ〉などをして遊んでやった。そうして里恵は言葉を憶えていった。半年で完全なイントネーションでしゃべれるようになったが、韓国語はきれいさっぱり忘れてしまった。私は彼女が半年で日本語を憶えたことよりも、半年で自分が生まれた国の言葉を忘れてしまったということに驚き、ショックを受けた。
ある晴れた日、家のまえの空き地でバッタをつかまえていると赤ん坊の泣き声がきこえた。私はビニール袋ごとバッタを放りすて、イモの家へと走り、開いていた窓から家のなかに入って、見よう見まねで赤ん坊のおしめを替《か》えてやった。イモは里恵と買物に出かけていて留守《るす》だったのだ。からし色のうんちをティッシュでふき取り、タルカムパウダーをはたいてやると、ようやく泣きやんだ。私はブラウスのボタンをはずし、赤ん坊をだいてまだかたくならない乳首に赤ん坊の唇をおしあてた。ちゅうちゅうと音をたてて吸われるのが心地よく、目を細めて窓ガラスをとげでひっかいている薔薇《ばら》をながめた。
父はイモの子どもを嫌っていた。
あるとき、父が木枕《きまくら》に頭をのせて縁側でひなたぼっこしていると、そこに里恵がしのびより、父の腋のしたをくすぐった。
「パパ」里恵は父にだきついた。
「きみのパパは韓国にいるよ」と父は冷たくいい放ったが、里恵がくすぐるのをやめないので、「シッシ!」と手でおいはらった。
しばらくするとイモは客のひとりと恋愛《れんあい》関係になり、同棲《どうせい》するためにひっこしていった。妻子《さいし》がある男だったが、里恵と悠真はパパとよんで慕《した》った。
母はイモと頻繁に電話で話し、「貯金が百万になった」というイモのひとことにこころを動かされ、キムチ売りをやめてキャバレーのホステスになった。はじめのうちは父が車で送りむかえしていたが、「同伴《どうはん》するお客さんの手前まずいのよ」といいはって免許《めんきよ》を取ったばかりのバイクで通勤するようになり、母の服装や化粧はみるみるはでになった。授業参観のとき母があらわれると、「だれのお母さん?」とみないっせいにふりかえった。カーリーヘア、ショッキングピンクの口紅、からだにぴっちりとはりついた黒の革ジャン、パンタロン――。校庭に駐車《ちゆうしや》してある母のスカイブルーの250CCのバイクが初夏の陽射《ひざ》しをはねかえしてきらきらかがやいていた。
深夜、父と母が帰ってくるまでのあいだはきょうだい四人で夜をすごした。テレビもお菓子も好き放題、風呂には入らず歯もみがかないまま布団にもぐりこんだ。楽しかったのは最初の一週間だけで、しだいにたえがたくなっていった。額《ひたい》の生《は》えぎわの髪《かみ》をひきぬく癖《くせ》も、左側の小鼻がぴくぴくひきつるのもこのころからはじまった。いまでも不安におちいるとおなじ症状が出る。愛里は爪《つめ》をかじる癖がつき、からだをおりまげて足の爪までかじった。血がにじんでもやめなかった。従順だった春樹もささいなことで激怒《げきど》するようになった。私が小学四年、春樹は三年、身長はぬかれていたので、まともにぶつかっては勝ち目がない。ある夜|喧嘩《けんか》になり、私はとっさにテレビにたてかけてあった父のゴルフクラブをつかんだ(父はゴルフなどただの一度もやったことがない)。春樹は金属バットをふりあげ、声がわりするまえのかんだかい声で「ばかやろう! 死ね!」とすごんだが、唇は恐怖《きようふ》にゆがんでいていまにも泣きそうだった。愛里は春樹の味方につき、私の顔めがけてゴルフボールをなげつけてきた。いくつかはあたったがいくつかははずれ、ガラスがわれた。
「知らないんだぁ。ママとパパに怒られるんだぁ」というと、愛里はわっと泣き出した。
私のほおには数日間ゴルフボールの凹凸《おうとつ》が痣《あざ》になって残っていた。
その日は日曜で晴れていた。
いつものように腹《はら》ばいになり赤鉛筆で競馬新聞にしるしをつけている父の背に、母は胸をおしつけ、
「ねぇ、モデルハウス観《み》に行きましょ」と不動産屋のおりこみ広告をひらひらさせた。
「美里も自分の家にすみたいでしょ」と母が私に向かってウインクしたので、「すみたい」と相槌《あいづち》は打ったものの私にとっては家などどうでもよく、それよりもまえの日に物置で見つけた登山用ロープで遊びたかった。
私、春樹、愛里、となりのこずえちゃん、りょうちゃんの五人でロープをつかって〈ゴレンジャー〉ごっこをすることにした。まずじゃんけんをして、だれが青レンジャー、黄レンジャー、緑レンジャー、赤レンジャー、桃レンジャーになるかを決めた。それからマンションの二階の鉄柵《てつさく》にロープをむすんで壁面《へきめん》をはいあがった。みそっかすの春逢は、私たちの危険《きけん》な遊びをうらやましそうに見あげていた。調子に乗った私たちは、「青レンジャー参上!」などと叫《さけ》びながらマンションの部屋のまえに出してあるビールケースのなかの空《あ》きビンを道路にたたきつけてわった。
「自転車で成美学園に行こ」といい出したのは私だったと思う。
五歳の春逢はまだ補助《ほじよ》つきの自転車で、足手まといだったのでつれて行きたくなかったが、「ビールをわったこといいつけてやる」とおどされ、しかたなく春樹は自分の自転車の荷台と春逢の自転車のハンドルをロープでむすんだ。ペダルをこがなくてもスピードが出るので、「ラクチン、ラクチン」と春逢は大はしゃぎだった。
成美学園の校内でかくれんぼをして遊んだ。空に赤みがさすと、門限《もんげん》が決められているこずえちゃんとりょうちゃんは、「いっちぬっけた、にぃぬっけた」と帰ってしまった。しばらくきょうだいだけで遊んでいたが、何だかしらけて、腕や足を刺す縞《しま》もようの蚊《か》に我慢《がまん》ならなくなり、「やーめたっ! 自転車競走して帰るひと、この指とまれ」と、私はかくれていた草むらからとび出した。
樹《き》のうえにかくれていた春樹の「ずるい!」という声を背後できいたが、私と愛里はふりかえらず、腰をうかして力いっぱいペダルをこいだ。
私が一番、愛里が二番。家に入ると、奥の六畳で父と母がはだかで眠っていた。私はそっとカーテンを閉め、愛里とぬり絵をはじめた。クレヨンをにぎりしめてはみ出さないようにぬっているうちに春樹と春逢が帰っていないことを忘れていった。
「柳さん!」
玄関にひびきわたった切羽《せつぱ》つまった男の声で、うまくぬれていた〈魔女っ子メグ〉の髪の毛がはみ出してしまった。春樹と春逢に何かあった、なぜか瞬間そう思った。
「柳さん!」
とふたたび男の声。私の心臓は走ったときのように速く、強く、打っていた。数秒後に母が水からあがるようにのろのろとおきあがり、服を身につけて玄関に出た。
母の悲鳴。酒屋のおじさんが血だらけの春逢をだいていた。どこに傷《きず》があるのかわからないほど顔と頭は血だらけだった。意識はない。手と足はぬれた洗濯物のようにぐったりとたれさがっている。
父は家のまえにとめてある酒屋のバンに視線をうつし、彼がひいたのだとかんちがいし怒声を浴びせた。酒屋は春逢を玄関に寝かすと救急車がくるまでのあいだ、事態《じたい》を説明した。
配達をしていた酒屋は、成美学園のまえの急坂をおりきったところに自転車ごとたおれていた春逢を見つけた。
「自転車はばらばらに壊《こわ》れてましたよ。ロープでもう一台の自転車につながっていたんですがね、だれもいませんでしたよ」と酒屋は額の汗を血のついた手でぬぐった。
坂のしたはT字路になっていた。ロープでつながったままふたりの自転車は加速し、春樹はハンドルを切ったが、春逢はそのままブロック塀に激突したのだ。
春樹はどこにいるのだろう?
救急車のサイレンが近づいてくると、心臓はもうそれほどドキドキしなくなった。父と母は救急車に乗りこみ、酒屋のおじさんは自分の車を運転して帰っていった。
一時間後、勝手口でつまずいたような音がしたので行ってみると、春樹だった。扉を開けてもつっ立ったままでいる。
「春逢は病院、パパとママも病院」というと、からだをこわばらせて家のなかに入ってきた。
父は十二時すぎに帰ってきた。そして春樹の顔から目をそらさず、抑揚《よくよう》のない声でくりかえした。
「おまえが殺した。おまえが殺した。おまえが殺した」
父は拳《こぶし》をかため、春樹の頭をなぐりとばした。父の暴力にはなれている私がわなわな震えるほど、そのときの殴打《おうだ》はひどかった。春樹はクッとのどもとから奇妙な音をたてて気絶してしまった。
「春逢はもうだめだ。これからは家族五人でやっていく。死ぬものはしかたない。残ったもので仲よくやるしかない」と父は冷静な声でいうと、病院にもどっていった。
からだ全体が電気をおびたようにぴりぴりして何度寝がえりを打っても眠ることができなかったが、外がしらむとともにのどのあたりの緊張が解け、眠りが頭のなかにおりてきた。どれくらい眠っただろう。家中の電気が煌々《こうこう》としている。私は眠ったふりをしてようすをうかがった。となりに眠っているはずの春樹がいない、玄関の扉が開く音、外に出て行ったのだ、どうしよう、腋《わき》のしたが汗でぬるぬるする、パジャマは背中にはりついている。十分ぐらいたったろうか、ふたたび扉が開いた。
「どうしたの?」
心臓の鼓動《こどう》がはげしくなり、私は意を決しておきあがった。春樹はタンスや鏡台のひきだしをかたっぱしから開けて何かをさがしているようだった。父の机のひきだしを開けると、モンブランのインクビンをつかんで口のなかにおしこもうとした。
「ダメ」
ビンを取りあげた。春樹の手は土でよごれていた。視線をさげると、足も土だらけだった。裸足《はだし》で夜のなかに出て行ったのだ。
「ねぇ、チュンくん、どうしたの?」
私は春樹の肩をつかんで揺さぶった。すると春樹はパジャマのズボンをおろして鏡台のひきだしのなかにおしっこをし、布団にもぐって、眠った。
カーテンの隙間《すきま》から夏の朝の空の切れ端が見えた。
翌日、〈ハルオキトク〉の電報を受けて、コモがやってきた。
「死ぬまえにおいしいものをいっぱい食べさせてやらないとね」
コモはケーキや果物や駄菓子《だがし》をかかえて見舞いに行ったが、意識のない春逢が食べられるはずもなく、看護婦《かんごふ》に非常識だときつく注意された。
春逢は生死の境《さかい》を十日ものあいださまよい、ふっと意識をもどした。一命をとりとめても植物人間になる可能性が高いといわれていたのだから奇跡的だった。しかし左目の視力は失明同然、脳波《のうは》にも異常があった。医者は何らかの後遺症《こういしよう》が残るだろうと大学病院の専門医《せんもんい》を紹介した。
外傷《がいしよう》によるものかショックによるものか専門医にも判断できなかったが、春逢は一週間に一度の割合で発作《ほつさ》をおこした。深夜悲鳴をあげてとびおき、「痛《いた》い! 痛い! ママ!」と左半身を痙攣《けいれん》させるのだ。両目をかっと見ひらき、何をよびかけても反応しない。母は医者に「なぐってもいいから正気にかえらせてください。そのまま正気にもどらないケースも考えられますから」といわれていたので、針で腕をつついたり水を頭からかぶせたりした。大人がいない夜は私がそうしなければならなかった。
春逢の発作、春樹の夢遊病《むゆうびよう》――、家のなかの夜ははいあがることができない穴ぐらに似ていて、私は疲労《ひろう》の底へずり落ちていった。夜は長く、夜になるたびにもう朝はもどってこない、そんな思いに支配《しはい》された。
「パパとママが帰ってくるまで、テレビ観て待ってよ」と弟たちの瞼《まぶた》に歯磨粉《はみがきこ》をぬりたくって眠らせなかったことさえあった。
四年の二学期の途中で転校することになった。母が、定年退職する堀江を「家の頭金に退職金の一千万を出してください。残りの六百万はローンにして柳とあたしがはらいますから」と説得し、父と堀江の共同|名義《めいぎ》で西区の住宅街にある古い家を買ったのだ。一階に私たち、二階にコモと堀江がすむことになった。
おなじ時期、やはり「いま買っておけば絶対に損《そん》はしない」という母のすすめで、父と堀江は二束三文《にそくさんもん》でともに百|坪《つぼ》ずつ横浜市緑区(現|都筑《つづき》区)の山中の土地を買った。しかし最近母に「あの土地いくらで買ったの?」とたずねたところ、母が嘘をついていないとすれば、三十年ほどまえに堀江が緑区に百坪の土地を買ったのだが、実際|測《はか》ってみると七十坪しかなかった。「もし取りかえせたら、その分はおまえさんにやるよ」と堀江は冗談《じようだん》半分で父にいったそうだ。どういう方法をつかったのか母の説明をいくらきいてもわからなかったが、とにかく父は十年がかりで三十坪ばかりか、堀江の土地に隣接《りんせつ》した百坪まで手にいれたのだそうだ。
当時は小さな湖があるただの山だったが、のちに〈港北《こうほく》ニュータウン〉として開発され、バブル時には二億近い値《ね》がつけられた。現在はその半値でも売れないだろうといわれている。
私の小説『フルハウス』に出てくる家の土地である。
私たちは中区から南区、そして西区へと横浜市の中心部をひっこしてまわった。南区の借家ずまいから西区の一戸建てにうつる日が近づくにつれ、〈転校〉という二文字は日に日に私のなかで大きくなった。私だけではなく父も母もうき足立ち、顔をあわせればにんまりしてプロレスの技《わざ》をかけあったりしてふざけてばかりいた。家中に、ひっこせば何もかもうまくいくという楽天的な気分が充満《じゆうまん》していた。
私たち家族のひっこしを伝えると、意外なことにとなりのこずえちゃんが哀しんだ。宝物にしていたシールや千代紙を箱ごと私にくれ、腕時計までくれようとするので断《ことわ》ると、それをどぶになげすてた。そして家に帰って窓から人形や教科書や文房具などをなげすて――、こずえちゃんの泣き声とお母さんのわめき声がきこえてきた。
翌朝、登校班でいっしょになったとき、「手紙書くから」というと、「ウソッ、手紙なんてくれないくせに! こずえのことなんか忘れちゃうんだ!」とそっぽを向き、学校につくまで何を話しかけても口をきいてくれなかった。
そのころになると、こずえちゃんのお父さんが実は酒乱《しゆらん》で酔って帰っては暴力《ぼうりよく》をふるっていること、どの家庭にもハンカチについた落ちないシミのように不幸があるのだということにうすうす気づいていた。となりの家からきこえる悲鳴、嗚咽《おえつ》、こずえちゃんのお母さんの顔についた赤紫の痣《あざ》――、こずえちゃんは見かけほど幸福ではなかったのだ。
最後の日、「柳さん、ちょっとお掃除のあと残ってね」と大野先生にいわれた。
だれもいない教室で何かしかられるのではないかと身をかたくしていると、大野先生は亡くなられたご主人とイギリスを旅したときに買ったものだという、アンティークのオルゴールとレースのハンカチをそっと手わたしてくれた。そのあとの数分間、先生は何も語らなかった。私は背筋をまっすぐにして両手を膝《ひざ》のうえから動かさず、顎《あご》をわずかにのけぞらせて座っていた。
私は帰り路《みち》、目にうつるすべての風景、耳にとびこむすべての音に酔いながら歩いた。さまざまなイメージが通過して消え去り、私は自分でも不可解な幸福感にとらわれていた。なじみ深いひとやものにきっぱりとわかれを告げて、私はかわりたかった。べつの人間になりたかった。思い出など必要なかったのだ。私は先生からもらったオルゴールとハンカチを公園にうめた。
私をのぞきこんでいる空は見せかけの同情などうかべない遠い青だった。
横浜市西区|境之谷《さかいのたに》の家は、はじめての借家ではないほんとうのわが家だった。私たち一家はひっこしたその日からもう永年《ながねん》そこにすんでいたかのようになれてしまった。母だけは例外で巣づくりに熱中した。屋根も外壁《がいへき》も青信号のような色のトタンで、八畳、六畳、四畳半、三畳の台所と狭い家だったが、母は十年まえから元町《もとまち》のチャーミングセールでこつこつ買いためていた〈近沢《ちかざわ》レース店〉のカーテンやテーブルクロスで家のなかをかざり、文字どおり猫の額ほどしかない庭に葡萄棚《ぶどうだな》をこしらえ、牡丹《ぼたん》、石南花《しやくなげ》、薔薇《ばら》など大輪の花の植木鉢《うえきばち》でうめつくし、歩くことさえままならないほどだった。
父は粗大《そだい》ゴミの日の前夜、車で街を徘徊《はいかい》するのが趣味《しゆみ》だった。おれた傘《かさ》、壊れたテレビや洗濯機、町内会のゴルフ大会のトロフィーなど、ひとがすてたものをひろってくるのだ。
母にとってそれはゆるせないことだった。なぜなら彼女はこの家を何とか少女|漫画《まんが》のヒロインがすむようにしたかったのだ。母のもうひとつの父への怒《いか》りは、二階にすむようになったコモの存在だった。コモと堀江は通りに面しているほうのわずかな敷地(通路とよんだほうがいいかもしれない)に鶏小屋《とりごや》をつくり、鶏《にわとり》と鶉《うずら》をそれぞれ二十羽ずつ飼育《しいく》した。雄鳥《おんどり》たちは夜がしらむとともに時を告げ、二階ではコモが八百屋《やおや》からただでもらってきた大根の葉をきざみはじめた。私たちは最初はそれらの音で目をさましていたが、すぐになれて気にならなくなった。だが、午前二時前後、おそいときは三時をまわって帰宅するキャバレーづとめの母にはたえがたいことだった。
コモはまだ夜があけ切らないうちに階段からおりてきて、「よぉ、おまえ、トイレの水があふれてるんだよ、よぉおきな」と、母とはだかでだきあって眠っている父を揺すりおこしたりした。コモはいったい何で二階のトイレや洗濯機をつまらせるのだろうか? 天井から雨もりのように汚水《おすい》がたれてくることが私には不思議でしょうがなかった。
堀江とコモは喧嘩ばかりしていた。怒声とともにものがわれる音が階下にまでひびいてきて、父はそのたびに二階にすっとんでいった。
あるとき父が二階にあがったきりおりてこないので、不審に思った母が二階にあがってみると、布団のうえではだけた胸をかきむしっているコモを堀江と父が看病していたそうだ。
まっ赤な顔をしておりてきた母は、
「いい男がふたりしてなによ! あれはねぇ、仮病《けびよう》なのよ。仮病じゃないんならさっさと救急車よんで病院につれて行けばいいのよ!」とどなり散らした。
父とコモは日本人の堀江のまえでよく韓国語で内緒話していた。
「あのひとたちの韓国語はねぇ、ドいなかの方言だからあたしにだってわからないの。日本のズーズー弁みたいなもんよ」と吐きすてたときの母のゆがんだ唇は、私に憎悪というもののはげしさと醜悪《しゆうあく》さを教えるのに充分だった。
コモは家のまえの駐車場で新聞紙のうえに鶏のフンをひろげて乾燥《かんそう》させた。畑の肥料《ひりよう》にするためだというのだが家には畑などなく、コモは近所の公園の敷地を無断でたがやし、キムチの材料の菜っ葉や大根や蕪《かぶ》を植えていた。
正月や家族のだれかの誕生日にはコモが鶏を殺した。鶏を両腿《りようもも》ではさみつけ、包丁《ほうちよう》で首をはねるというやり方なのだが、首をはねられた鶏は通りに出てすごいいきおいで走りまわり、なかなか絶命《ぜつめい》しなかった。毛をむしった鶏を湯が沸《わ》き立つ大鍋《おおなべ》のなかにあおむけに寝かせ、一日煮こむとおいしいスープができた。ご飯を盛《も》った丼《どんぶり》にそのスープをかけ、葱《ねぎ》と塩・こしょうをふって食べた。
二階にはお年玉をもらいに行く元旦《がんたん》しかあがらないのだが、そのコモと堀江の部屋というのがすさまじかった。街中の粗大ゴミを集めたような感じで足のふみ場もないのだ。私たちは地震《じしん》がくるたびに二階が落ちてこないかとおびえたほどだ。お年玉をもらいに行くときいやなのは、コモに韓国語であいさつをしなければならないことだった。頭のうえに両手をかざしてからだをまげる韓国式の礼もいやだった。しかしお年玉袋にはかならず五千円札が入っていたので、私たちはコモの部屋に入るまえにその呪文《じゆもん》のような韓国語を暗記した。
お年玉で本を買うのが楽しみだった。伊勢佐木町《いせざきちよう》にある有隣堂《ゆうりんどう》で本を買った。エドガー・アラン・ポーや小泉八雲《こいずみやくも》などの怪談《かいだん》が好きで、布団のなかに本と懐中電灯《かいちゆうでんとう》を持って入り、顔を近づけて読んだせいで私の目はどんどん悪くなっていった。
稲荷台《いなりだい》小学校の校門を転校生としてくぐった朝のことは、よく憶えていない。
ひとつだけ記憶に残っているのは、母がよろしくお願いしますと頭をさげて職員室から出ていった直後、担任の日野《ひの》先生に「日本語しゃべれるの?」ときかれたことだ。チャイムが鳴った。私は黙《だま》ってその若い男の先生のあとをついていき、四年三組という札を一瞥《いちべつ》してから教室に入った。生徒たちのどよめきがひそひそ声にかわり、「起立、礼」と号令がかかったが、みんな頭をさげずに私をながめまわした。
「転校生を紹介する」
先生は黒板に大きく私の名前を書いた。
「やなぎみり、と読む。柳は南区の大岡小学校から転校してきた。みんな仲よくしてやれ。柳、きみの席は明日の席がえまで、とりあえずいちばんうしろ、中田《なかた》の列だ。なにかわからないことがあったら学級委員の中田にきけ」
男子のだれかがヒューヒューと奇声をあげた。先生が出席簿をひろげて出欠をとっているあいだもみんなは私のほうをふりかえった。私は〈やなぎ〉なのでいちばん最後に名前をよばれた。
「はい」小さな声で返事をすると、先生は「なんだ、しゃべれるんじゃないか」とほっとした声でいった。
母はくりかえし、稲荷台は大岡にくらべると下町にあるせいか、レベルが低いといっていた。
「成績も大岡は五段階評価だったのに、稲荷台はABCの三段階評価。でもねぇ、美里ちゃん、内申書は五段階評価で提出《ていしゆつ》されるんだから油断しちゃだめよ。あんたはおっとりしてるから、ふつうにしてたら高校受験は無理だわよ。それに男の子がいるところもだめ。女子校がいいのよ。ママ、調べたんだけどね、雙葉《ふたば》と聖心《せいしん》はいくら成績がよくても韓国人は絶対はいれないみたいなの。フェリスか横浜共立学園ね。共立の制服はセーラーの襟が臙脂色《えんじいろ》でかわいいわよぉ」
と母はそのころから、共立、共立とうるさかった。横浜共立学園は、茨城県土浦市からひっこしてきて最初にすんだ山手の家のそばにある、母が憧《あこが》れていたイメージどおりの女学校だったのだ。
「美里をおぶって学校の垣根からのぞくとね、女学生たちがテニスしてたの、美智子《みちこ》さまみたいな良家のお嬢《じよう》さまたちが。共立入ったら絶対テニス部に入るのよ」
稲荷台小学校には〈子どもは風の子〉という標語がどの学年の掲示板にもはってあり、PTAが決めた半袖《はんそで》運動を守って一年を半袖、半ズボン、吊《つ》りスカートで通すと表彰《ひようしよう》された。
母は、風邪《かぜ》をひいたらどうするのよ、野蛮《やばん》ね、と冬至《とうじ》のまえには私と春樹に厚着《あつぎ》をさせた。服装がちがうからだろうか、私は級友たちにとけこむことができず、しだいに無視されるようになった。学芸会で三組の演《だ》し物が〈合唱〉に決まったとき、「ピアノをひけるものいるか?」という日野先生の質問に、思わず「ハイ!」と手をあげてしまったのが致命傷《ちめいしよう》になった。「転校生のくせに生意気《なまいき》」クラスの番長的な存在のキーちゃんのひとことで、いじめは開始された。
三ばかトリオとよばれていたクラスの人気者の男子、ナカヤン、カッチン、イゲちゃんの三人が、「8時だヨ! 全員集合」のなかで加藤茶《かとうちや》と志村《しむら》けんがやっていた「ヒゲダンス」をしながら、私の髪をひっぱったりスカートをめくってパンツをおろしたりした。
体育の時間にドッジボールをやれば、みんな私の頭や腹をねらってボールを思いきりなげつけ、フォークダンスの練習のときは、「バイキンがうつる」と指でバリアをこしらえて手をつながなかった。おなじように手をつながれなかったのは、蓄膿症《ちくのうしよう》なのかいつも青洟《あおばな》をたらしているゲジ子というあだ名の恵子《けいこ》だった。
「ミーとケーじゃん」キーちゃんが嘲笑《ちようしよう》した。ゲジ子はへらへら笑いながら、「ミーとケーで仲よくしよ」と手をつないできた。私はその腕を思い切りつねってやった。
だれにも韓国人だといっていないのに、「ナントォカジーン」「おまえんちは国勢調査《こくせいちようさ》あるのかってお母さんがいってたぞ」「カンコク人は自分の国に帰れ!」と砂場の砂をつかんでなげられることもあった。
水泳の授業のたびに死にたくなった。更衣室《こういしつ》がないので、男子は腰にタオルをまき、女子はバスタオルを胸にまきつけて着替えるのだが、私がパンツを脱ぐと、「とっちゃえ!」というキーちゃんの号令で、三ばかトリオのイゲちゃんとカッチンが私のタオルをむしり取り、ナカヤンが私のパンツを手に持って教室中走りまわった。
「見て、やなぎの胸ぺたんこ!」とキーちゃんが笑うと、イゲちゃんが私の両腕をおさえつけ、カッチンが私のたいらな胸をつかみ、「いやぁん、やめてぇ」とナカヤンがもだえてみんなの笑いをとった。
キーちゃんの胸は大人なみにふくらんでいた。腕をあげるとスクール水着から腋毛《わきげ》がのぞき、クラスでひとりだけ生理がはじまっていたためときどき水泳を見学していた。
水泳の授業の最終日には、全員参加のクラス対抗リレーがある。ばた足、クロール、背泳ぎ、平泳ぎ、泳ぎ方は自由で二十五メートル泳ぎ切ってつぎの生徒にタッチする。二十五メートル泳げないものは足をつけてもいいのだが、私はうくことさえできなかった。みな、他のクラスに対抗心を燃やして、「キーちゃん、がんばれ」「ナカヤン、がんばれ」と声をあわせて応援《おうえん》していたが、私の番になると三組はシーンとしてしまった。
「いいこと思いついた。オエッにしな。ガンバレのかわりに」といったのはまたしてもキーちゃんだった。
「せぇの!」イゲちゃんの合図で、「やっなっぎ、オエッ、やっなっぎ、オエッ」という信じられない応援(?)がはじまった。「オエッ」というときにゲロを吐く身ぶりをしているものまでいた。オエッの大合唱――、耳がキーンとして、顔がほてって、涙で視界がにじんだ。一刻《いつこく》も早くプールからあがりたかった。私は水のなかを走ろうとして転んだ。水から顔を出すと、「なにやってんだよ!」「ざっけんなよ!」「死ね!」と罵声《ばせい》を浴びせられた。
私のせいで三組はビリになった。
そのときから私は自殺を考えはじめたように思う。しかし死んではキーちゃんたちに復讐《ふくしゆう》できない。家に帰ると、その日のキーちゃんたちのいじめを克明《こくめい》に記録した。私のノートはいじめで自殺する子どもの遺書《いしよ》ともちがうし、ましてや日記ではなかった。私の〈物語〉だった。気をつけなければ現実から見すてられ、世界とズレてしまう。その溝をうめるためには書くしかなかったのだ。
五年からクラブ活動がはじまった。私は女子がひとりもいないサッカークラブを選んだ。長かった髪を母に頼《たの》んでショートカットにしてもらい、半ズボンで学校に通うようにした。三ばかトリオもサッカークラブに入ったがいっしょに練習するうちにしだいに打ちとけていき、黒板にナカヤンと私の相合《あいあ》い傘《がさ》を書かれるまでになった。私にたいするいじめは弱まっていった。
しかし女子たちは執念深《しゆうねんぶか》く私につきまとった。あるときキーちゃんが私のランドセルをゴミ箱にすてようとしたとき、「やめなよ」と声がした。無口で目立たない、一度も口をきいたことがない岡本《おかもと》さんだった。その日から私と彼女《かのじよ》はいっしょに帰るようになり、「オカモ」「ミリ」とよびあう間柄《あいだがら》になった。
学校の帰り、オカモが「ミリのうちに遊びに行きたい」といい出し、私はうろたえた。あの家を見せるわけにはいかない。それに私は嘘をいっていたのだ。広い芝生《しばふ》の庭があり、自分の部屋にはカギがついていて、自分|専用《せんよう》のテレビがあると――。私は「パパのお客さんがきてるかもしれないからちょっと待ってて」と公園のシーソーで待っていてもらった。そしてあたりをうろうろして時間をつぶし、「やっぱりお客さんがきてたからだめなの、ごめんね。オカモんち行きたい」と切りぬけた。
うたがっていたのだろうか――、彼女は執拗《しつよう》にきいてきた。
「ミリんち、どこなの?」
「見えるかな? あそこ」
私は表札をたしかめられたらどうしようとひやひやしながら、わが家の三軒《さんげん》となりにある白い大きな家を指さした。
数日後の学校の帰り、オカモと手をつないで坂道をのぼっていたら、路地からリアカーをひいたコモがあらわれた。上半身はだか。日本手ぬぐいで鉢巻《はちま》きをしてリアカーをひくコモを目にしたオカモは「ヤダァ、こじき」とささやいた。きこえてしまっただろうか――、私は汗《あせ》ばんだ手をふりほどき、「近道しよ」ときた道をもどって路地をまがった。
その晩《ばん》、縁側《えんがわ》でコモが父に話しているのがきこえた。
「美里は道であっても知らんぷり。顔が母親に似ているからこころがないんだろ。愛里はリアカーおしてくれたのにねぇ。愛里にはこっちの血が流れてるよ」
愛里は学校が遠くて近所に同級生がいないから、といいたかったが、声にするとなぐられるので黙っていた。
自分が恥《は》じているのが、〈家〉なのか、〈家族〉なのか、そのころはよくわからなかった。でもなぜ、家は家族に似ていき家族は家そっくりになるのだろう。ひとりの人間を理解するには、そのひとがどのように生きたかだけではなく、どのような家で育ったかを知ったほうがいい。
ある日学校から帰ると家のまえにひとだかりができていた。中年の男が「堀江さん、堀江さん」と扉《とびら》をたたいている。家のなかに入って行こうとする私を近所のおばさんたちがけわしい目で見つめた。
母は鏡台のまえにあぐらをかいて座り、仕事に行く支度《したく》――化粧をしていた。
「あれ、なんなの?」
「町内会のひとと保健所のひとよ」
「なんで?」
「鶏《とり》よ、鶏。うちは関係ありません、二階の堀江さんが飼ってるんですっていってやったんだけど」
二階から堀江がおりてきて、玄関の戸を開けた。とたんにヒステリックな怒声《どせい》がとびこんできた。
「お宅《たく》の鶏のフンに迷惑《めいわく》しているって苦情の電話がありましてねぇ」
「朝四時に鶏の声で目をさまさせられるんですよ」
「残酷《ざんこく》です、鶏の首を切るなんて。うちの子はショックで泣いて泣いて」
堀江はひとこと、
「うちは生活のために飼ってるんだ。卵《たまご》を食べて生きてるんだよ、死ねっていいたいのか」といい、扉を閉めてしまった。
彼らはしばらくひそひそと何やら相談していたが、やがて帰っていった。
何日かたったある朝、鶏小屋の金網《かなあみ》が何ものかによって切断《せつだん》されていた。犬か猫に鶏はかみ殺され、白い羽根が通りにまで散らばっていた。
堀江はその日部屋にこもったまま出てこなかったが、翌日ひよこを二十羽買ってきた。そして柴犬《しばいぬ》の雑種《ざつしゆ》をどこかからもらってきた。だが近所のひとのいやがらせはつづき、家のガラスにひびが入り、部屋のなかに石が転がっていることもあった。ジャッキーと名づけた犬の額から血が流れていたこともある。
母が最初の家出をしたのはそのころだ。日曜日、競馬|中継《ちゆうけい》が終わって父が店に出かけると、母はランドセルに教科書やノートを全科目つめこむよう命令し、用意していたらしいボストンバッグをおしいれからひきずり出した。
母の表情が暗くきびしかったので私と春樹と愛里は黙って外に出たが、六歳になったばかりの春逢は「ねぇ、どこ行くの、ママどこ行くの」とくりかえした。
母はかかとのすり減った赤いハイヒールでカツカツと歩き、大通りに出てタクシーをひろった。
「あのね、ママはもうパパとやっていけないのよ」
そういわれた瞬間、私は泣き出した。父とわかれるのがつらいのではない。父になぐられたことや、学校でいじめられた記憶がつぎつぎと波のようにおしよせてはくだけ、くだけてはおしよせ――、息もできないほどだった。私だけではなく家族ひとりひとりが内部にかかえこんでいる暗い穴がぽっかりとひらき、いまにも飲みこまれそうだった。父とわかれたからといって解決するものは何ひとつなく、もっと大きな落とし穴が待ちかまえているにちがいない。終わったのではなく、今日からはじまるのだ――。
タクシーは本牧《ほんもく》のイモの家のまえでとまった。と同時に扉がひらき、イモがあらわれた。事前に母からの連絡を受けていたのだろう、にこにこ笑いながらしゃくりあげている私の肩《かた》をだいてくれた。
「この子はパパっ子だから」母は不機嫌な声でいった。
母は私の日記帳を読んだことがないのだ。私がどんなに父を憎んでいたか――。私は外で遊んでいるあいだに母が日記帳をぬすみ読んでくれているものとばかり思っていた。熱望していたといってもいい。私に関心があるならそうするはずなのだ。私がかくしているココロをぬすみ読んで大切に母の胸で温めてくれている、そう思っていた。だが彼女は私の血のにおいのするココロの痛みになど、これっぽっちも気にかけてくれてはいなかった。
私はイモにだかれ、母を片目でうかがいながら自分のココロにゆっくりとカギをかけた。もうだれもカギを開けることはできないだろう、そう考えると少し安心して、涙がまたどっとあふれた。
私たちはひさしぶりにあう従弟妹《いとこ》、里恵と悠真といっしょに子どもたちだけで近所の銭湯に行った。帰ると布団がしいてあり、横になると一分もたたないうちに眠くなったが、ダイニングテーブルで母とイモが話しあっている声が私を眠らせまいとするかのようにきこえてきた。
「柳さんがむかえにきたら、お姉ちゃんどうするの?」
「帰るわけないでしょ」母がぎざぎざした声をはりあげた。
「子どもたちの学校は?」
「転校とどけ出すわ」
母とイモの会話はやがて韓国語のささやきにかわり、その虫の羽音のような耳ざわりなひびきをきいているうちに眠ってしまった。
朝目をさますと、母とイモがならんで台所に立っていた。今日からここが自分の家、そしてまた転校だ。私はイモに雑巾《ぞうきん》をしぼってもらってふき掃除《そうじ》をはじめた。それが終わると家のまえを箒《ほうき》ではいた、鼻唄《はなうた》を歌いながら――。
三日後の夕方、父の黒いクラウンが家のまえにとまった。
母は「ちょっとそこの公園で話してくるから」とイモにいい、私たち四人をつれて外に出た。
母と父はベンチにならんで座り、私たちはとなりのベンチできいていた。
「あなたはコモとあたしたち、どっちをとるの」
口をひらいたのは母だった。
「あのひと、あなたの実の――」
父は眉ひとつ唇ひとつ動かさなかった。
「結局、あなたはなにも選べないのよ」というと母は立ちあがった。しかしイモの家にはもどらず、そのまま父の車に乗りこんだ。父が家のなかに入って、ボストンバッグと私たちのランドセルをかかえて出てきた。私は混乱《こんらん》して何が何だかわからなかった。車は動き出したが、家に帰るという実感は持てなかった。私の〈家〉は永遠に失われたのだ。それより母は、あのひと、あなたの実の――、といった。その言葉がけばけばしい風車のようにくるくるとまわった。「実の母じゃないの」――そう母がいおうとしたのだとずっとあとになってわかった。いまだに真相は藪《やぶ》のなかだが、私は彼女が父の実の母親だと確信している。
ハンベが死んだときのことははっきり憶えている。小学校五年、クリスマスまえ、夜九時をまわったころ、私はダルマストーブに消しゴムをおしつけて遊んでいた。鼻先でかぐと、ゴムが焼ける、というより癖《くせ》になりそうな甘《あま》い奇妙《きみよう》なにおいがした。春樹と愛里はテレビを観ていて、春逢は火燵《こたつ》から頭だけ出して眠っていた。ふっとハンベの顔がうかんだ。このときほど、ふっと、という言葉がぴったりきたことはない。
「ママとパパの結婚式のアルバム見よ」私は本棚《ほんだな》から背表紙のめくれたアルバムを取り出してひろげた。
「ハンベ元気かなぁ」
写真のなかの白いテーブルクロスをかけた円卓《えんたく》とハンベの顔をひとさし指でなでた瞬間、電話が鳴った。私はテレビのうえの黒い受話器をとった。
「もしもし」
「美里か」
ハンメだった、と思う。ハンメは私たちの家に居ついたかと思うと、ふいに出て行き何年もあらわれなかったこともある。母は「ハンメは神出鬼没《しんしゆつきぼつ》、いまごろどこをうろついてるかわかりゃしない」といっていたが、そのときハンメは韓国にいたのだ。
「ママは」
「仕事。パパもいないよ」
「そうか、よくききなさい、ハンベがね、いま、死んだんだよ」
電話は国際《こくさい》電話だったのでひどく遠かったが、ハンベが死んだという事実はハンメの声の震えから伝わった。電話の向こうでは雪がふっている、なぜかそう思った。私はテレパシーや超《ちよう》能力など信じない人間だが、あれは虫の知らせというものだったのかもしれない。ハンベの顔を思いうかべたそのときにハンベが死んだのかと思うと、哀《かな》しみよりもむしろ恐怖が足の裏からスカートのなかにまではいあがってきて、私は電話が切れたあとも受話器をにぎりしめていた。
マラソンランナーだったハンベの血をついだのか、母の兄〈馬のサンチュン〉は高校時代インターハイに出場したことがあるらしいし、私と春逢も足が速く、とくに長距離が得意だった。私は全校生参加のマラソン大会で一等になったことがある。
年が明けて、墨田《すみだ》区だったと思うが、在日本|大韓民国居留民団《だいかんみんこくきよりゆうみんだん》(通称《つうしよう》、民団)中央本部が主催《しゆさい》する「元旦《がんたん》マラソン」があり、私たちきょうだいは日本に遊びにきたハンメにつれられて参加した。驚いたことにそのマラソンはハンベの冥福《めいふく》を祈《いの》る黙祷《もくとう》ではじまった。ハンメは視線を落としたまま深々と頭をさげた。
子どもの部に参加するために町内会の集会所で体操着《たいそうぎ》に着替《きが》えているとハンメは拇印《ぼいん》をおすように耳打ちした。
「ハンベの孫らしく走りなさい。十位以内に入らないと恥ずかしいからね」
しかし四キロもの距離を走りぬけるかどうか不安だった。私と春樹が完走はしたものの入賞にとどかなかったのは、朝の五時まできょうだいたちと遊んで、目がさめてから雑煮《ぞうに》を食べすぎたせいだ、といまでも思っている。
小学校六年のクラス替えでいじめの主犯格《しゆはんかく》だったキーちゃんとべつのクラスになったのが幸いしてか、私はいじめられなくなり、サッコとモーちゃんという友だちができた。
私の父と母は子どもにはこづかいをわたさないという教育|方針《ほうしん》を持っていた。けちなのではなく、「ほしいものがあったらアボジにいいなさい。もしも高いもので、そのとき金がなくて買えなくても、一カ月後にはかならず買ってやる」と父は豪語《ごうご》し、それは嘘ではなかった。思いつきでほしいといったリモコンの飛行機、トランシーバーなど一週間後の朝目ざめると枕《まくら》もとに置かれていた。でも私は他の同級生たちのように自分のこづかいを駄菓子《だがし》屋や文房具《ぶんぼうぐ》屋でつかってみたかったのだ。
サッコやモーちゃんはコーラや駄菓子をよくおごってくれた。名札についている安全ピンを缶《かん》コーラにつき刺して穴をおや指でおさえてはげしくふり、口のなかに噴射《ふんしや》させるというやり方を教えてくれたのもふたりだった。ゲップが出てたいてい半分ぐらいしか飲めないので、コーラを空にまき散らして遊んだ。おごってもらうばかりでこころ苦しくなって、父と母の財布《さいふ》から、最初は五十円や百円、だんだん額《がく》が大きくなり、千円札を平気でぬき取るようになった。内心いつばれるかとひやひやしていたが、見つかったのは私ではなかった。春樹がゲームセンターで友だちとインベーダーゲームをやっているところを父に目撃《もくげき》されたのだ。父が店主からきき出した話によると、一万円札をくずして友だちと一日でつかいはたしたこともあるという。意外だったのは父が弟をひとことも責めなかったことだ。自分も競馬で一日数十万も負けるせいだろうか、それだけではないと思う。父は分裂症気味《ぶんれつしようぎみ》のところがあり、すでに書いたように生活費をわずかしかわたさないのに、私たちに高価な玩具《がんぐ》を買いあたえたり、一流ブランドのシャツや背広や靴を身につけていながら、粗大《そだい》ゴミをひろい集めたり、ささいなことでなぐりつけるのに、このように罰を受けて当然なことをしでかしてもしからなかったり――、〈親〉という自分の役割に何のリアリティも持てず、どうしていいかわからず途方にくれていたのではないかと思う。妻《つま》や子どもを虐待《ぎやくたい》する部分は、おそらく彼の父親をモデルにしたのだろう。しかし父は子どものころ、父親に甘やかされたり、ゆるされたいと願ったにちがいない。その気持ちからか、ときとして父は信じられないほど寛大《かんだい》にふるまった。そして後年、私たちきょうだいが成人してからは、どんなに父にたいしてひどいことをしても、ただひたすらゆるしつづけるようになった。おかしくて、哀しい。
小学校六年の学芸会、私がシェイクスピアの『リア王』を上演《じようえん》したいと提案し、多数決で通った。上演時間は四十分と決まっているのでオリジナルを三分の一以下の分量にしなければならない。私が台本を書き、モーちゃん(モーちゃんは母ひとり子ひとりのカギっ子だった)の家でサッコとモーちゃんに読んでもらいながら直していった。
だれがどの役をやるかは基本的《きほんてき》に立候補《りつこうほ》で、立候補がない場合は投票で決めた。モーちゃんとサッコは台詞《せりふ》が多いふたりの姉役に立候補し、私は本心では妹役、コーディーリアをやりたかったのだが恥ずかしくて手をあげることができず、だれかがクラス一の美少女、メグを推薦《すいせん》してしまった。私はどの役にも立候補しなかったし推薦されなかったので、最後に残った道化役に決まった。母の仕事用の赤い網《あみ》タイツ、スパンコールがついたレースのブラウスを衣裳《いしよう》に決め、道化の台詞を大幅《おおはば》に書き増やした。
この経験が私を戯曲《ぎきよく》、そして小説を書くことに向かわせたのだと思う。子どもの偶発的《ぐうはつてき》に思える行動が、その後の人生に決定的な影響《えいきよう》をあたえることもある。私は道化を演《えん》じながら自分が観客に受けているかより、私の『リア王』がどう評価《ひようか》されるか、それだけを気にしていたように思う。私の演技《えんぎ》が受けなくても平気だったのである。評価は――、その後|演劇《えんげき》の道に進んだのだから手ひどい挫折感《ざせつかん》を味わわなかったことだけはたしかだ。
ある日学校から帰ると、母が家の梁《はり》に火燵のコードをかけ、まさに首を吊《つ》ろうとしているところだった。弟や妹はあえぐように泣き、「ママ! ママ!」と叫んでいたが、私はランドセルを背負ったまま母の顔をまともに凝視《ぎようし》した。母は目をそらして絨毯《じゆうたん》のうえにくずおれ、「オンマ(韓国語でママ)! オンマ! アイゴー」と号泣した。父との不和が高じて子どもをすててまで死を選択《せんたく》しようとした母に、私は裏切《うらぎ》られたというよりむき出しになったひとりの人間、はげしさと同居する弱さを知ってたじろいでしまった。
現在もつきあっている大橋《おおはし》と母が出あったのもこのころだ。ふたりは高校のときの同級生――彼が級長、母が副級長だったそうだ。偶然大橋が会社の同僚《どうりよう》とキャバレー〈帝《みかど》〉をおとずれた。二十年近い歳月《さいげつ》が流れているのにふたりともひと目で相手を見わけたという。そして恋に落ちた――。大橋には私たちとおなじ年ごろのふたりの娘と息子がひとりいた。のちに嘘だとわかるのだが母にはこんなふうに説明していた。自分には双子《ふたご》の兄がいたが、三年まえにバイクの事故《じこ》で死んだ。自分は兄の三人の子どものために、義理《ぎり》の姉としかたなく結婚したと――。母はその話を信じきり、私たちきょうだいに大橋と奥《おく》さんのあいだには愛情の欠片《かけら》もないのだと話してきかせた。母は私たちに自分と大橋の関係をかくそうとはしなかった。
ある日曜日、父は競馬|中継《ちゆうけい》が終わったのに、火燵《こたつ》に足をつっこみ木枕《きまくら》に頭をのせて店に出かける気配をみせなかった。母は何度も「あなた、クビになるわよ」とくりかえしたが、父はうるさがり、新聞紙を顔にかぶせて眠る態勢《たいせい》に入った。母はいらだったようすで立ちあがり、私を手まねきして台所につれて行き、ささやいた。
「公園の入口にシルバーの車がとまってるから、黒いサングラスをかけた男のひとにね、ママはおそくなるけどかならず行くから待っててくださいって伝えて」
私は無視して火燵にもどった。私にはその男が大橋だということがわかっていた。母は舌打《したう》ちをして愛里に大橋への伝言を頼み、靴をはく愛里に、「お豆腐、もめんだからね」とわざとらしく声をかけた。
父が十時ごろ店に出かけると、母は手早く化粧をしていそいそと出かけ、その夜は帰ってこなかった。この日を境《さかい》にして母の外泊《がいはく》は増えた。何かの理由をこしらえて三、四日帰らなかったとき、不審《ふしん》に思った父が開店まえのキャバレーをたずねると、母は一カ月まえにやめたといわれたそうだ。しかし父は母を詰問《きつもん》もしなければ、家の外ではげしくやりあった形跡《けいせき》もなかった。父は大きな問題と直面することはつねに避《さ》けていたような気がする。
小学校六年から、私は母の憧《あこが》れだったミッションスクール、横浜共立学園に入るために〈日能研《にちのうけん》〉に通わされた。
小学四、五年から塾通《じゆくがよ》いしている生徒がほとんどだったのでまったくついていけず、とくに算数は模擬《もぎ》試験で毎回(百点満点で)十点以下というひどい成績だった。
模試の成績でクラスわけされていて、私はいちばんしたのクラスだった。
ようやく学校でのいじめがなくなったと思ったら今度は塾でのいじめがはじまった。模試の答案用紙を黒板にはり出されたり、弁当《べんとう》をゴミ箱にすてられたり、カバンで頭をなぐられたりした。いちばんうえのクラスにいたサッコは廊下でいじめられている私を目撃《もくげき》しても知らんぷりし、かばってはくれなかった。仲間だと思われるのがいやだったのだろう、学校でもサッコとのあいだには距離ができていった。
夏休みまえだったと記憶《きおく》している。私は学校でおもらしをしてしまった。授業中トイレにつれ立って行く生徒が多かったので、ホームルームで担任から休み時間に済ませておくようにと強く注意されたばかりだった。そのとき黒板のうえの時計は休み時間まであと五分だった。何度も足を組みかえた。手をあげて立ちあがって教壇に行き、先生お手洗い、といいさえすればよかったのだ。気分が悪いので、といって保健室に行くふりをしてトイレに行ってもよかったのに、声が出せなかった。その日から私のあだ名は「ションベン」になり、せっかくうまくいっていた学校生活はまた地獄にもどった。
私は地元の公立中学に行くことを怖れた。三年間、下手《へた》すれば高校を卒業するまでの六年間、「ションベン」とよばれつづけ、いじめを受けるなら死んだほうがマシだった。私はその日を境に猛勉強《もうべんきよう》するようになった。苦手な分数の計算と地理に集中的に取り組み、日本地図を壁《かべ》にはり、県の位置と名前、県庁《けんちよう》所在地を暗記した。一日が終わるとカレンダーをぬりつぶして、共立に合格してみんなとおさらばすることをこころに誓《ちか》った。
第一|志望《しぼう》を共立に、第二志望をその年から女子を募集《ぼしゆう》しはじめた桐蔭《とういん》にして願書を取りに行った。
桐蔭の受験日、朝方まで数式を暗記していたせいで風邪《かぜ》をひいて熱を出してしまった。試験会場に行く途中で吐き、試験中も手をあげて席を立ち、トイレにかけこんだ。マークシートだったので適当《てきとう》にしるしをつけ空白はなくしたが自信はゼロだった。
共立のときはことごとく事前に勉強したところが出て、試験中に思わずほくそ笑んだほどだった。国語の試験問題は、何かの小説が途中で切れていて、結末を想像《そうぞう》して原稿用紙《げんこうようし》二枚以内で書けというものだった。面接会場に母と移動《いどう》するとき、みんな口々に作文がむずかしかったといっているのをきいて合格を確信した。
桐蔭は不合格だと思っていたので発表を見に行かなかった。父の知人の子どもの桐蔭の生徒にかわりに見てもらったが、やはり落ちていた。
共立の発表はひとりで行った。掲示板の番号と受験票の番号を見くらべたが、いくら見ても私の番号は見あたらなかった。
「レベルはかなり落ちるけど、鶴見《つるみ》女子で二次募集してるから明後日受けに行きなさい」
いじめられていたことを知っていたのだろうか、母は公立に行けとはいわなかった。私は黙ったまま塾のカバンや参考書をゴミ箱のなかにすてた。そのとき電話が鳴り、母が受話器をとった。
「ほんとですか? ええ、ええ、ありがとうございます。すぐ手つづきに参ります。ほんとうにどうもありがとうございました」
他の学校に入学する合格者が出て、私は補欠で入学できることになったのだ。
卒業式の前夜、母は二度目の家出をした。今度は私たちをつれて行かなかった。家を卒業するつもりなのか――、私は笑った。狂《くる》ったように笑いつづけている私を弟と妹は遠巻《とおま》きに見ていた。
「自殺ごっこしようか」
私の目が底光りしていたのだろうか、三人はあとずさりして部屋を出た。何も卒業式の前日に家出することはないのに。彼女は妻と母親をやめ、女になったのだ。母のなかで確実に何かが死んでしまったように思えて私は身震《みぶる》いした。そしてこの日、私のなかの少女が死んだ気がする。喪失《そうしつ》はある日突然におとずれる。ひとは何度でも死ぬけれど、だからといって何度も生きかえるとは限らない。私は生きながら〈自殺〉したという感覚をこの日持ったのだ。
「仰げば尊《とうと》し」を歌いながら、キーちゃんもイゲちゃんもオカモもサッコもモーちゃんもみんな泣き出した。卒業式が終わると、みんな校庭の桜《さくら》をバックにして仲のよい友だちや母親とならび、父親が構《かま》えるカメラに笑顔を向けていた。私はそのあいだを縫《ぬ》って走った。校門を走りぬけ、家までいきおいを落とさず走った。
手ににぎりしめていた〈将来《しようらい》の夢《ゆめ》〉がテーマの卒業文集には、〈私は小説家になる〉と書いてあった。
[#改ページ]
2 校庭の陽炎《かげろう》
私が入学することになった横浜共立学園を少し説明しておく。
明治四年に設立《せつりつ》された、古さでは日本で五指に入る女子校であり、中・高エスカレーター式で大学|進学率《しんがくりつ》百パーセントをほこる進学校だ。夏服はオーソドックスなセーラー服だが、冬服は臙脂《えんじ》色の襟《えり》に黒いネクタイとめずらしい。その臙脂色とモスグリーンがスクールカラーで、校章と体操服《たいそうふく》は中学生が臙脂、高校生はモスグリーンである。校舎《こうしや》の屋根|瓦《がわら》まで臙脂、縦長《たてなが》のひき窓《まど》の鉄枠《てつわく》はモスグリーンと徹底《てつてい》している。そして校舎にはヨーロッパの古い建造物《けんぞうぶつ》のような雰囲気《ふんいき》がただよっていた。
もよりの駅は石川町《いしかわちよう》。元町にはフェリス、横浜|雙葉《ふたば》、横浜共立をはじめとして女子校ばかり五校(六校だったかも)もあるので、朝、駅から学校までの坂は何種類もの制服《せいふく》でひしめきあう。そのせいで地蔵坂《じぞうざか》という名のその坂は乙女坂《おとめざか》とよばれていた。
山手は三|歳《さい》から五歳までの二年間すんでいた地でもある。外人|墓地《ぼち》、港の見える丘公園、山下公園、中華街《ちゆうかがい》――いわゆる観光名所で、土地の値段《ねだん》が横浜一高い場所である。
母は入学が決まるまえから自分がはたせなかった夢《ゆめ》を私によって実現《じつげん》させるために、テニス部に入れといってゆずらなかった。
「美里、上流のひととつきあうにはテニスができなくちゃだめなのよ」
私はサッカー部があればサッカー部に、なかったら美術部に入ろうと決めていたのだが母の願いをつっぱねることができず、結局テニス部に入部とどけを出した。クラブは中・高で組織《そしき》されていた。ついこのあいだまで小学生だった私たち中1から見れば、高2の先輩《せんぱい》(高2で引退するので高3はいない)は大人《おとな》だった。
下級生はみな上級生のだれかのファンになり、クリスマスや先輩の誕生日《たんじようび》にはプレゼントを、バレンタインデーにはチョコレートを下駄箱《げたばこ》にいれたり、カメラを持っていくことが許可される文化祭や体育祭ではかくし撮《ど》りが行われた。暑中|見舞《みま》いはすべての先輩に出すため(先生、同級生をふくめると)二百枚近く書かなければならなかった。先輩から暑中見舞いの返事がとどくとうれしくなって返事を書き、その返事がくると今度は封書《ふうしよ》で返事を出した。
夏休みが終わり学校にもなれてくると、休み時間に高2の教室をたずね、「××先輩お願いします」と意中の先輩を廊下《ろうか》によび出し、「文通してください」と頼《たの》むのがはやりはじめた。先輩たちも、「もてるぅ」と同級生に冷やかされるのが心地|好《よ》かったのだろう、断《ことわ》ることはなかった。
中2の先輩が文通していたことを知らずに相手の先輩に文通を申しこむと、横取りしたとにらまれ、よく放課後教室によび出されて腕力《わんりよく》ではないが言葉でリンチされ、泣かされて教室に帰ってきた子がいた。このような光景は中高|一貫《いつかん》教育の女子校ならどこでも見られるごく一般的なものだろう。
私は塚田《つかだ》という小柄《こがら》な先輩の下駄箱に「文通してください」と書いた手紙をいれ、翌日《よくじつ》下駄箱をのぞくと返事が入っていた。他の同級生のように教室に手紙をわたしに行くようなことはせず、かならず下駄箱にいれた。好きだとか憧《あこが》れたというより、他の生徒とおなじことをしたいという気持ちのほうが強く、あせってその対象を決めたというほうがぴったりくる。だれでもよかったのだ。そのことを同級生に話し、いっしょだと思われることが重要だった。
朝練のため六時には家を出なければならないのだが、いつもおなじバスに乗りあわせる聖光《せいこう》(男子校)の生徒がいた。私は先輩に恋《こい》をするよりもっと過激《かげき》なことをして注目を浴びようと、彼《かれ》に憧れることにした。聖光生を選んだのは、共立生のあいだでPPM《いわれはわからない》とよばれた栄光(男子校)とおなじく、ヒジリと暗号化するほど人気があったからだ。夏休みまえのある朝、バスからおりるとき「いつもあなたを目でおいかけています。好きです」と書いた手紙をわたした。翌日からバスの時間をかえられてしまい、もう二度とあうことはなかった。私はそれを失恋《しつれん》として同級生たちに話してきかせ、思ったとおりにうらやましがられて得意になった。
私は登下校のとき当時はやっていた伊藤《いとう》つかさというアイドル歌手の「夢みるシーズン」を口ずさんだ。
「春がくればきっと めぐりあうはずよ 少しはにかんだ笑い顔が 心に焼きついて 忘《わす》れられないから 不思議な気分の私よ」
私はそのころ、母のイメージどおりのミッションスクールの新入生を演《えん》じることに夢中になっていたような気がする。熱病にうかされたように典型的な女子中学生を演じようと努力した。もしあのまま演じ切れていたら大学に進学し、二、三年会社づとめをしたあと結婚《けつこん》していまごろは子育てにおわれていたかもしれない。同級生のほとんどがそうであるように――。
部活はきつかった。中1は先輩があらわれるまえにポールを立ててネットをはり、雨がふった翌日はコートにできた水溜《みずた》まりを雑巾《ぞうきん》でふき取らなければならなかった。全員がそろうと先輩のかけ声でランニングをし、先輩が打ちあっているあいだはコートの外にいて球ひろい、ただそれだけの毎日だった。中1はユニフォームを着せてもらえないのでジャージ姿《すがた》、一年間は球も打たせてもらえない。雨の日は体育館のひとひとりやっと通れる幅《はば》しかない歩廊《ほろう》を体育系クラブの中1が全力|疾走《しつそう》させられたが、クラブによって走る速度やかけ声がことなるのがおもしろかった。
共立の校則《こうそく》は設立した明治時代からかわっていないのではないかと思われるほどきびしかった。細かくは憶えていないが、喫茶店《きつさてん》には親と同伴《どうはん》でなければ入ってはいけないとか、銭湯《せんとう》は自宅《じたく》から何分以内の場所でなくてはいけないとか、文化祭や体育祭も〈家族券〉を二枚もらい、それを持参した家族でなければ校内にいれないと排他的《はいたてき》だった。体育系クラブの試合も、おなじプロテスタント系の女子校でなければならないのでなかなか実現しなかった。服装《ふくそう》に関する記述《きじゆつ》はとくにくわしく何ページにもおよんでいた。髪《かみ》の毛は襟にかかったら黒いゴムで左右にふたつにむすぶか三つ編みにしなければならない。ポニーテールなどひとつにむすぶのは禁《きん》じられ、リボンや髪かざりのたぐいはいっさい禁止、ピンまで長さ何センチ幅《はば》何ミリと指定されていたくらいだからパーマなどもってのほかで、天然パーマの生徒は入学時に親がとどけを出さなければならなかった。コート、レインコート、帽子《ぼうし》、靴下《くつした》も学校で決めたもの以外禁止、カバンに吊《つ》るすキーホルダーの大きさも直径何センチと定められ、マフラーはコートのなかにまき、外から見えてはだめだった。なぜですか、という生徒の質問に困《こま》った教師は、マフラーが電車の自動扉《じどうとびら》にはさまると危《あぶ》ないから、と苦しまぎれの嘘《うそ》をついた。爪先《つまさき》から頭のてっぺんまで一分のすきもない共立生にして、街行くひとに「共立の生徒はまじめね」と思わせたいだけにすぎない。私たちを葬儀《そうぎ》に参列しているような、あるいは戦時中のような緊張《きんちよう》のなかに閉じこめたかったのだろう。
それらの校則に生徒が違反《いはん》しないよう、教師たちはつねに目を光らせていた。登校時、駅から学校までの道の物陰《ものかげ》にかくれ、ぬき打ちで髪をむすんでいない生徒やマフラーを外に出している生徒を見つけると、生徒手帳に校則違反の判をおした。たしかそれが三つになると親に連絡《れんらく》が行くなど罰《ばつ》があったはずだ。唇《くちびる》が赤い生徒はハンカチで痛《いた》いほどごしごしこすられた。水にぬれるとパーマはちぢれ、天然パーマは直毛になることから、入学時にとどけを出し忘れた生徒が頭から水をぶっかけられたこともある。そして放課後になると教師たちは元町《もとまち》、伊勢佐木町《いせざきちよう》、横浜駅周辺の繁華街《はんかがい》に散り、マクドナルドやウェンディーズなどのファーストフード店や喫茶店を巡回《じゆんかい》していた。喫茶店に入ったり、パーマをかけたりするのは重罪《じゆうざい》で、ばれると翌日から停学になるばかりかその生徒が所属《しよぞく》しているクラブも活動停止になった。
私たちはセーラーのリボンをむすぶ位置をうえにしたりしたにしたりして、おなじであることへささやかな抵抗《ていこう》をしたが、やがて生徒のあいだにも、したのほうで小さくむすんでいいのは中3以上で、下級生はうえのほうでリボンをだらんとむすばなければならないというルールがあることを先輩から教えられ、登校時は(先輩に見られる危険性《きけんせい》が高いので)うえのほう、教室のなかでしたのほうにむすび替《か》え、上級生に何か用があったり手紙をわたしたりするときは、一時的にうえのほうにむすび直すようになった。
そのころちまたでは松田聖子《まつだせいこ》、中森明菜《なかもりあきな》、小泉《こいずみ》今日子《きようこ》、柏原《かしわばら》よしえ、石川秀美《いしかわひでみ》などのアイドル歌手たちがこぞってしていた、いわゆるぶりっ子カットがはやっていた。みなこっそり「ヘアカタログ」を学校に持ってきて、ピンでおさえたりしてサイドの髪が流れるよう苦心していた。
私たちB組の担任《たんにん》は英語を教えているユクチャンだった。四十代だったと思うが独身《どくしん》で岸恵子《きしけいこ》似の美人だった。あたくし、という上品なしゃべり方まで岸恵子を彷彿《ほうふつ》とさせた。いつも仕立てのよいスーツを着ていて、膝《ひざ》と膝をすりあわせるように歩くと美しく見えると教壇《きようだん》のうえを歩いてみせてくれた。真偽《しんぎ》のほどはわからないが家に電話するとかならずお手伝いが出て、「お嬢《じよう》さまはお留守《るす》です」と告げられるという噂《うわさ》が流れていた。A組担任の現国を教えているモップはクリスチャンではなく、正月には家族でかならず皇居《こうきよ》の一般参賀《いつぱんさんが》に行く右翼《うよく》で、共立はクリスチャンでなければ担任になれないがモップは校長の親戚《しんせき》なので例外だということだった。C組担任は地理のエロティ、彼《かれ》には教え子と熱烈《ねつれつ》な恋愛《れんあい》の末に結婚《けつこん》したという噂があった。在学中にCまでいった説と在学中はBまでで我慢《がまん》し、卒業してからCをした説に二分されていた。D組担任の化学のキダチャンは校則違反を見て見ぬふりをし、教科書そっちのけで好きな草花の話をしてくれた。私が出あったなかでいちばん好きな先生で、一度担任になってほしかったが、私が高1で退学処分《たいがくしよぶん》になるまで担任にはならなかった。
勉強の進み具合は速かった。高3は塾《じゆく》や自宅で受験勉強させるために自由登校なので、高2までに高3の教科書を終えてしまうのだ。部活も生徒会も高2で引退することになっていた。
補欠《ほけつ》入学をした私は劣等感《れつとうかん》をつねにいだき、実際《じつさい》前期の中間、期末ともに、二百人中百八十番というひどい成績《せいせき》だった。教科べつに、クラス順位、学年順位などが細かくしるされ、成績のアップダウンがひと目でわかるおれ線グラフまでついている通知表をもらった。美術と書道が十|段階《だんかい》評価で九のほかはどれも赤点ぎりぎりだった。赤点が三つになると進級できない。成績が悪い生徒は中学から高校にあがるときに、他のレベルの低い学校に転校させられるという噂だった。
成績の悩《なや》みもあったが、もうひとつ、小学校のとき同級だったサッコが小学校六年のときのおもらしをばらすのではないかと始終おびえていた。廊下ですれちがっても気づかないふりをしたが、休み時間トイレにならんでいるときとなりあわせになったりして、「美里、元気」などと声をかけられると生きた心地がしなかった。
四十八人のクラスメイトは五、六人ずつの仲よしグループにわかれた。最初はおなじクラブ、おなじ沿線《えんせん》にすんでいるもの同士で何となくかたまっていたのだが、しだいに趣味《しゆみ》べつにわかれていった。
アニメおたく派、プロ野球選手派、シンディ・ローパーやボーイ・ジョージなどのファンで学校帰りに元町のタワーレコードによる洋楽派、たのきんトリオなどアイドル歌手のブロマイドをはさんだしたじきに〈マッチ命〉などと書くおっかけもどき、ファッションの話しかしない自称《じしよう》〈オリーブ少女〉グループ、休み時間に教師にまとわりついてはなれないクリスチャン家庭で育ったいい子ちゃんたち、あとごく少数だが映画・演劇情報《えんげきじようほう》に精通《せいつう》している〈ぴあ〉派がいた。
私はどこにも所属することができなかった。勉強ばかりではなく、彼女《かのじよ》たちの話題にもついていくことができなかった。知ったかぶりをしてその場の会話に相槌《あいづち》を打ってもすぐばれてしまうし、とにかく興味を持てなかったのだ。集団になじめない単独《たんどく》行動型、過剰《かじよう》な自己防御《じこぼうぎよ》、他者を極度に怖《おそ》れるという本性《ほんしよう》があらわになっていき、私は浜辺《はまべ》に取り残された魚のようにあっぷあっぷしはじめた。大学受験までの五年間この学校で生活をしなければならないのだと自分にいいきかせても、どんどんみんなとズレていき、落ちこぼれるばかりだった。
共立には給食はなく弁当《べんとう》を持参しなければならなかった。はじめのうちはキャバレーづとめで明け方|帰宅《きたく》する母も眠《ねむ》るまえに夕飯の残りをつめて弁当をこしらえてくれたが、クラスのみんなはタコの形のミニウインナーや卵焼《たまごや》き、桜《さくら》でんぶや海苔《のり》でかざられたご飯などの花畑のような弁当だったので恥《は》ずかしくて、図書館に持っていって本棚《ほんだな》の陰《かげ》にかくれて食べるようになった。どんな中身だったかというと、ご飯のうえに秋刀魚《さんま》が一|匹《ぴき》(しかもタッパーから尻尾《しつぽ》がはみ出し、弁当包みに油がしみ出ていた)だったり、ご飯をつめたタッパーとビニール袋《ぶくろ》に入ったカレーだったりした。それも数カ月しかつづかず、弁当代五百円が下駄箱《げたばこ》のうえに置かれるようになった。私は地下の売店に行き、菓子《かし》パンとジュースを買ってひとりで食べた。しかしそのほうが、見られるのではないかとあせってろくにかまずに飲みこむより気が楽だった。
そのころ、イモは西区のわが家のすぐそばに小さな土地を買い、美容院《びよういん》を営んでいた。従弟妹《いとこ》たちが通っているアメリカンスクールの月謝《げつしや》は高いので生活を切りつめるだけ切りつめていた。風呂《ふろ》の水を十日間取り替《か》えないで、イモも里恵も悠真も皮膚《ひふ》に湿疹《しつしん》ができたこともあった。夕食にまねかれたので行ってみると、輪切りにしただけの大根や黒胡麻《くろごま》を煮《に》たスープなどとうてい料理といえる代物《しろもの》ではなかった。
イモがそれほどまでしてアメリカンスクールにこだわった理由は――、アメリカの大学で電子工学を専攻《せんこう》していたわかれた夫が卒業し、技師《ぎし》として大手|企業《きぎよう》に就職《しゆうしよく》できた、つまり成功したのでふたりの子どもをひき取りたいというエアメイルがとどいたからだ。自分の子どもたちに父親とおなじように成功してほしいという強い願望はあったものの夫はヒスパニック系アメリカ人と再婚《さいこん》し、そのあいだにふたりの子どもをもうけていたため、イモはべつの場所でくらすというのが条件だったので、彼女の気持ちは揺《ゆ》れていた。イモの家に瀬川《せがわ》という妻子《さいし》ある初老の男が出いりし、里恵と悠真がパパとよんでなついていたことも迷《まよ》いのひとつだったろう。
父と母の間柄《あいだがら》は日に日に険悪《けんあく》になり、それに比例して父が私たちきょうだいにふるう暴力《ぼうりよく》ははげしくなった。
冬の朝、目をさますと雪がふっていた。母は前日から帰っていなかった。遅刻寸前《ちこくすんぜん》だったが鏡台に座《すわ》り、寝癖《ねぐせ》を母のコテで直していると、父がむっくりと寝床《ねどこ》からおきあがり、昨夜から電気をいれっぱなしの炊飯器《すいはんき》からご飯をよそり、鍋《なべ》のなかの味噌汁《みそしる》を温めてご飯にぶっかけ、火燵《こたつ》のうえに置いた。
「早く食べて」
「時間ないからいい」
「早く食べて」父はまったくおなじ調子でくりかえした。
「もぉ、ほんとに遅刻しそうなんだからぁ」
父は立ちあがり、鏡台から鏡をひきぬいたと思うと、私の頭に思いっきり打ちおろした。鏡に罅《ひび》が入った。一瞬《いつしゆん》何がなんだかわからなくなったが、カバンだけをつかんで外にとび出した。雪がふっていた。授業がはじまっても、悪寒《おかん》のような怒《いか》りと屈辱《くつじよく》はしずまらなかった。先生に「どうしたの?」ときかれ、保健委員につきそわれ保健室に行った。放課後になるまでベッドに横たわり白い天井《てんじよう》を凝視《ぎようし》していた。この日から私は教室にいるより保健室にいるほうが多くなった。
父も私と顔をあわせるのを避《さ》けてか、家のまえの駐車場《ちゆうしやじよう》に車をとめてそのなかで眠《ねむ》る夜が増えた。
私のなかで何かの糸が切れた。目ざまし時計が鳴っても朝練の時間におきることができなくなった。意識はさめているのだが、金縛《かなしば》りのようにからだを動かすことができない。部活を休んだ、しかもいちばんよくない無断《むだん》欠席。一週間休みつづけたある日、部長が退部とどけを持って教室にやってきた。
テニス部を退部すると、私は堂々と遅刻するようになった。目をさまして時計を見ると、昼の二時をまわっていたときもあった。担任《たんにん》の電話で目ざめ、母に熱を出して眠っていると嘘《うそ》をついてもらったこともある。通信欄《つうしんらん》に遅刻の理由を母に書いてもらわなければならないのだが、母の筆跡《ひつせき》をまねて風邪《かぜ》をひいたと書き、街をぶらぶらしてから昼すぎに学校に行くことが増えた。授業の内容がチンプンカンプンになった。成績は百九十番台に落ちた。それでも私のしたにふたりいるのが不思議だった。
横浜駅を経由したいがために家の近くのバス停から通うのはやめ、二十分近く歩く相鉄《そうてつ》線の西横浜から通うことにして、定期券を買った。横浜駅にはジョイナス、モアーズ、シャルとデパートがひしめきあっていた。私は昼食代の五百円をとっておき、学校帰りに駅ビル地下のラーメン屋で塩バターラーメンを食べたり、マクドナルドでチーズバーガーやポテトを食べたりするようになった。そしてひとごみのなかを電車がなくなるぎりぎりの時間までぶらぶらした。終電に乗って西横浜でおり、稲荷台小学校の脇《わき》にあるだれもいない公園ではじめての煙草《たばこ》を吸《す》った。父が店の景品の煙草を無断で持ち帰ってくるので、家にはさまざまな銘柄《めいがら》の煙草がごろごろしていた。
――最初の一服はふかした。それから深く吸いこんだ。はじめてだとむせるというが、すうっと胃のなかに入っていき、気持ちが静かになった。
私はそのころ、イモに頼《たの》まれて美容院の手伝いに行っていた。いつもはロットを手わたしたり、床《ゆか》に落ちた髪の毛を掃《は》き集めたりと簡単《かんたん》だったが、成人式の日の朝によばれて行くといきなり客のまえに立たされて、「メイクはプロのメイクアップアーティストがいたしますので」と紹介《しようかい》された。
そしてイモに化粧《けしよう》道具をわたされ、自分の顔にすら一度もしたことがないのに二十歳《はたち》の女性の顔をアイシャドーやルージュでそめていった。そうやって五人の顔に化粧した。だんだん調子に乗ってプロっぽい刷毛《はけ》さばきをしたものの、きっと変だったろう。イモに「美里は絵がうまいだけあってお化粧もセンスあるわね」とおだてられ、いつもより二千円多くバイト料をもらった。
イモは一年あまり悩《なや》んでいたが、これからの時代は英語ができなきゃだめよね、と里恵と悠真を父親のもとに送った。ふたりはウィスコンシン州の小学校に編入したが、悠真は半年で日本に帰ってきた。アメリカに残った里恵からの電話によると、アメリカ人の義母《ぎぼ》やふたりの異母《いぼ》きょうだいとうまくいかなかったのが原因《げんいん》だそうだ。
〈八王子《はちおうじ》のサンチュン〉の会社が倒産《とうさん》したのもこのころだった。突然《とつぜん》「金を用意できないか」と電話をかけてきた。母も父も貯金ができない性格だったので、用立てるまとまった金などあるはずがなく、「お金なんてあるわけないじゃないですか」と母が答えると、細かい事情を説明せずに電話を切ったそうだ。サラ金からにげまわりしばらく消息がとだえていたが、数年後に夫婦《ふうふ》で屋台《やたい》のラーメン屋をはじめ、はやっているらしいことを母からきいた。サンチュン夫婦はそれからこつこつと金をかえし、さらに数年後、八王子市内に三|軒《げん》のラーメン屋を経営《けいえい》するまでになった。のちに従兄弟《いとこ》の和夫が上智《じようち》大学に合格《ごうかく》したということを知ると母は、「あぁあ、成功するひとはどんな災難《さいなん》がふりかかっても成功するのねぇ、失敗するひとはどんな幸運が舞《ま》いこんでもかならず失敗する、あぁあ、やんなっちゃう」と深いため息《いき》をついた。
もうひとりの母の兄〈馬のサンチュン〉はさまざまな職を転々とし、韓国と日本を落ちつきなく行き来していたが、日本で物干《ものほ》し竿《ざお》を売る仕事をはじめた。街を歩いて、物干し竿のない家を見つけると玄関《げんかん》のブザーを鳴らす、いわゆるおし売りだったが、芸能マネージャーあがりの口のうまさが功を奏《そう》してもうかっているということだった。〈馬のサンチュン〉からきいた話では、ベランダのない家や古いベランダの家には、業者に連絡してベランダまで取りつけさせマージンを取るという強引なやり口だった。
中学二年になると、私の遅刻《ちこく》は常習化《じようしゆうか》し、昼さがりのがらんと静かな坂をのぼって学校に向かうことが多くなった。途中《とちゆう》から階段を行く近道があり、その急な階段の右手には墓地がひろがり、いつも線香《せんこう》のにおいがただよっていた。いまでも不思議だが、私が通った学校はみな墓地のそばにあった。最初の小学校も、転校先の小学校も、横浜共立学園もそうだった。墓地をながめているうちに学校や家でささくれ立った神経《しんけい》がしずまりやすらいでいくのを感じた。私は生きている人間たちより、死者たちと親しかった。カバンのなかには中原中也《なかはらちゆうや》や太宰治《だざいおさむ》の本があり、死者たちとしか打ち解けて話しあえなかったのだ。生きている人間はかならず私を傷《きず》つけるのに、死者たちは私をゆるし、いやしてくれる。うえから三段目の階段に腰《こし》をおろして墓地をながめていると、死者が約束の地から私に向かって手まねきしているように思えた。この世界に置き去りにされ、生きている人間とどうやってこころを通わせればいいのか途方《とほう》にくれている私に、憐憫《れんびん》の視線《しせん》をなげかけてくれるのだ。いまでも道を歩いているとき、視線を感じて思わず周囲を見まわすことがある。私は現実とズレていて、その隙間《すきま》から死者に見つめられているのかもしれない。
中1のころは校則を忠実《ちゆうじつ》に守っていた生徒たちも、中2になると校則違反やイタズラをはじめた。
はやっていたのは〈横浜|銀蠅《ぎんばえ》〉〈なめ猫《ねこ》〉、キョンキョンがショートカットにするとみな髪を切り、原田知世《はらだともよ》が登場するとその髪型がはやった。スカートのポケットのうえを鈴《すず》のついた安全ピンでとめたり、はでな色のコームを胸ポケットにさしたり、靴下《くつした》をひっぱってソックタッチでとめるのもはやった。そのころはいまとちがってくるぶしまでの長いスカートが格好《かつこう》よかったので、みなスカートをサスペンダーで吊《つ》り、校内では規定《きてい》の長さに、登下校時はおろせるだけおろして歩いていた。
授業中ノートを破《やぶ》り取ってメッセージを書き、バリエーションにとんだ(十通り以上あった)おり方で紙をおり、教師が黒板に向かっているすきにまわし読みした。たいてい教師や同級生の悪口、帰りにどこそこへよろうなどという内容だったが、人気投票や美人投票が行われることもあった。
まえの生徒の背中にかくれてジュースを飲んだり、早弁《はやべん》したり、内職《ないしよく》したり、漫画《まんが》を読んだりするのも日常|茶飯事《さはんじ》になり、〈おっとっと〉や〈いちごポッキー〉を食べているのがばれる生徒もいた。教師たちも対策《たいさく》を講《こう》じて生徒が礼拝堂《れいはいどう》に行っているあいだに、カバン、机《つくえ》、ロッカーのなかを調べて校則に違反するものを見つけると没収《ぼつしゆう》した。
生徒たちは陰湿《いんしつ》なイヤガラセで報復《ほうふく》した。標的にする教師の授業の直前に全員の机をうしろ向きにして黒板に背に向けて座り、授業をボイコットしたことさえあった。私は、みんなでやれば怖《こわ》くないというような、その種の連帯がいやでたまらなかったので教室をぬけ出して保健室に行って参加しなかった。彼女たちのイヤガラセはエスカレートしていき、牛乳《ぎゆうにゆう》をいれたコンドームやマジックで赤くぬった生理ナプキンやタンポンなどを教壇のうえに置くようになった。友だちをほしいという気持ちはあったが彼女たちとおなじ行動をすることはできなくて、気がつくと私は群《む》れからはみ出していた。
たぶんほとんどの女子中・高校で似たようなことが行われていただろうし、いまではもっと過激《かげき》なゲームになっているのかもしれない。抑圧《よくあつ》された性的《せいてき》エネルギーは教室や廊下に吹《ふ》きすさんでいる。いじめによる自殺が中学校に多いのは、性的に不安定なことが理由のひとつなのではないか。いまとなって思えば彼女たちはちょっとしたイタズラを思いついては、制服《せいふく》にかくされた性的な抑圧を必死になって発散していたのだ。
何がきっかけだったかは忘れてしまったが、私はとなりのクラスのマミとカジ子と親しくなり、授業中以外はとなりのクラスですごすようになった。
カジ子には暴力団《ぼうりよくだん》の彼氏《かれし》とすでにCまで経験《けいけん》しているという噂がたっていた。カジ子は、彼氏は暴力団ではなく暴走族《ぼうそうぞく》だしまだBまでしかいっていないといっていたが、彼女の外見が他の生徒からういていることはたしかだった。ボーイ・ジョージのまねで、耳と鼻にピアスの穴を開けて髪は五分刈《ごぶがり》にしていた。教師は眉《まゆ》をひそめたが、校則にはパーマをかけてはいけない、制服の襟にかかったらむすぶという条項《じようこう》はあったが、五分刈にしてはいけないというのはなかった。休み時間は教師を挑発《ちようはつ》するように禁煙《きんえん》パイポをくわえ、セーラー服のしたには赤や紫《むらさき》や黒のフランス製《せい》の高価《こうか》な下着をつけていた。
カジ子は小学校から煙草《たばこ》を吸っているというし、私も吸いはじめて半年もたたないうちに財布《さいふ》や櫛《くし》とおなじくらいあたりまえにカバンのなかにマルボロをいれるようになっていた。昼食を終えると、私たち三人はしめしあわせて屋上に行き、煙草を吸った。
私は目立つ格好をするようになった。クラスのみんなとなじめない理由を外見になすりつけ、私は不良だ、だからみんなは敬遠《けいえん》するのだと自分を納得《なつとく》させたかったのだ。
カジ子から髪を脱色《だつしよく》するにはビールがいいときいたが、家には父|秘蔵《ひぞう》のナポレオンしかなく、ためしにコップにいれて髪を浸《ひた》してみたが効果《こうか》はなかった。翌日《よくじつ》薬局でオキシフルを買い、洗髪《せんぱつ》のあと頭からかぶった。ぬれているときは変化がないように見えたが、ドライヤーで乾《かわ》かして――、呆然《ぼうぜん》とした。赤茶色になってしまったのだ。
不思議なことにキリンというあだ名の担任は何もいわなかった。数日後のホームルームのときに「柳の髪は茶色いからうしろから見てもすぐわかる」といわれて一瞬《いつしゆん》びくっとしたが、「肌も白いし、色素《しきそ》が薄《うす》いんだね」と気づいていないようなのでほっとした。髪型自体は中1のころからかわらないオカッパだったのが幸いしたのか、もしかしたら私をかばってくれたのかもしれない。
男言葉でしゃべる六十近いオールドミスのキリンには、レズではないかという噂があった。
私は中2でおなじ組になったヒロエが気になってしょうがなかった。彼女は優等生《ゆうとうせい》ではなかったが、人気があったので投票で級長に決まった。彼女の「起立」「礼」「着席」という号令に胸をときめかせ、窓ぎわの列のまえから三番目に座っている彼女を目でおうようになった。授業中、ヒロエはよくぼんやりしていた。窓から流れこむ校庭でバレーボールをしている生徒たちの声に耳をすましているようでもあったし、何かを追憶《ついおく》しているようでもあり、ただ退屈《たいくつ》しているだけにも見えた。私はほおづえをついて居眠《いねむ》りをしている彼女をノートに写生した。
私は彼女に恋《こい》をしていたのだ。もし彼女が演劇部《えんげきぶ》に所属《しよぞく》していなかったら、私は演劇の道に進まなかったかもしれない。私は思いをつづった手紙をヒロエの机にいれた。朝の礼拝のまえにヒロエが手紙の封《ふう》を切り、読むのを見たが、彼女は私のほうをふり向きもしなかった。
一週間たったある日、休み時間にひとりで廊下に出たヒロエのあとをおった。数歩歩いてヒロエは向きをかえた。彼女が私の顔をまともに見たのはそのときがはじめてだった。胃がゼリーのように痙攣《けいれん》し、首が痛くなるのをじっと我慢して身動きせずに彼女が声を発するのを待った。
「机のなかに変な手紙いれたり、つけまわしたりするの、気持ち悪いからやめてよ」
彼女の声は耳の痛みのように頭にひびき、それにたえられず私は口をひらいた。
「わたしのどこが嫌《きら》いなのか、教えて? 嫌いなところは直すから」
「そのしゃべり方も、そのしつこい性格も、その顔も髪も全部嫌い」
授業のはじまりを告げるチャイムが鳴り、ヒロエは教室にもどった。私は教師にとがめられるまで、廊下のまんなかでうわばきの自分の名前に目を落としたままだった。ヒロエの言葉はガラスの欠片《かけら》のようにこころにつき刺《さ》さったが、私は手紙を出すことをやめなかったばかりか、自宅に電話をかけたり、放課後彼女の家をたずねてチャイムを鳴らしたり、と気持ちをおさえることができなくなっていった。
「わたしがどうすれば満足なの?」
ヒロエは悲鳴のようにくりかえしたが、その問いに答えることはできなかった。自分でも彼女に何を求めているのかわからなかったからだ。友だちとして親しくなることでも、からだにふれたりふれられたりすることでもなかった。いま思えば、私は彼女にいっしょに死のうと誘《さそ》いかけていたのかもしれない。百通以上の手紙につづったのは、好き、死にたい、というふたつの思いだけだった。ふたりだったら〈約束の地〉へ行けるのに、そう口に出してはいえるはずがなかった。
中2の六月二十二日、はじめての家出をした。私の十四回目の誕生日だった。
私と父は口をひらくと喧嘩《けんか》という険悪《けんあく》な間柄になっていた。その朝も母は外泊《がいはく》をして、いなかった。朝練のため六時おきだった春樹と愛里が目ざましをセットし直すのを忘れたのか、私か春逢かめずらしく家のなかで寝ていた父が無意識《むいしき》のうちにとめたのか、目ざましが故障《こしよう》したのか、とにかくいつものように私は寝坊《ねぼう》した。
尿意《にようい》をもよおして目をさますと、時計は八時をしめしていた。校門が閉まるのは八時二十分、間にあうはずがない。しかしどういうわけだか学校に行ってみる気になった。トイレで用を足し、タンスの把手《とつて》にかけてある制服を取り、父が目をさまさぬようそっと着替《きが》えて春逢を揺りおこすと、
「送るよ」
父が発条《ばね》のようにとびおきた。
「いいよ、間にあわないから」
「急げば間にあう」
「校則《こうそく》で車の登校は禁止《きんし》されてるし、もう間にあわないんだから、電車で行くよ」
私はあわてて着替えている父を尻目《しりめ》に玄関に出て靴をはいた。
家のまえの坂をおり切ったときだ。車の音がしてふりかえると父のクラウン――、父は私目がけてアクセルをふんだ。ひかれる、そう思った瞬間《しゆんかん》父は車からとび出て、トランクを開け、なかに入っている傘《かさ》を槍《やり》のようにして私の背中になげつけた。深夜ゴミ収集所を車でまわって、直せばつかえるものをひろうのが趣味《しゆみ》だったので、おれた傘が何本もトランクのなかに入っていたのだ。
傘は一本だけ私の背中に命中し、あとは的《まと》をそれて道路に散らばった。私は父が車でおってくるかもしれないので路地を走って走りぬけて駅にたどりついた。定期券《ていきけん》を見せて改札をくぐりホームで電車を待っているとき、両足がへなへなとくずれるような感じになった。
電車は走り出し、私は座席《ざせき》に座った。目が熱くなり涙《なみだ》をこらえようと吊革《つりかわ》を凝視《ぎようし》しつづけたが、外は快晴でガラスごしの初夏の光が目にこたえた。だれかブラインドをおろして、と念じながら私はからだじゅうのエネルギーを目に集中しなければならなかった。
終点の横浜駅でおり、横須賀《よこすか》線のホームで電車を待っていると、「おはよう」とマミによびとめられ、「おはよう、マミも寝坊?」と声にしたとたん涙がこぼれてしまった。電車のなかで私は拳《こぶし》で目をおさえていた。何の音もきかず、見ず、瞼《まぶた》におしあてた指の関節だけを感じようとした。マミは何もきかず電車に揺られていた。
「美里、ついたよ」
声をかけられたが、私は動かなかった。顔を見られたくなかった。学校に行きたくなかった。扉は閉まり、電車はふたたび走り出した。マミは私のとなりに残っていた。電車が学校からも家からも遠ざかるとやっと楽に息ができて、顔をあげて車内が空《す》いてきたことを確認《かくにん》し、座席に腰をおろした。制服の袖《そで》で涙と鼻水をぬぐうと、気持ちが緩《ゆる》んで吐《は》き気《け》のようなものが胸にこみあげたが、吐かないことはわかっていた。
「どこ行く」
「いいよ、ひとりで行くから、マミ学校行かないと」
「美里が行きたいところに行きたいの」
マミの声には切羽《せつぱ》つまった調子はなく、学校帰りにどこによろうかとたずねるようないつもとまったくかわらない調子だった。電車のなかで彼女に父のことや自分の気持ちを打ち明けたという記憶《きおく》はない。きっとどうでもいいことを話してその奇妙《きみよう》な時間をやりすごしたのだろう。おりたのは熱海《あたみ》で、私たちふたりは持ち金があまりなかったので改札を通らずに線路をかけぬけた。もう正午近く、私たちは空腹《くうふく》だった。マミの母親はリウマチで寝たきりだということで、昼食はいつも私とおなじ、校内で販売《はんばい》されている菓子パンだったのだ。私たちは駅まえの土産物《みやげもの》屋で土産を選ぶふりをしながら試食品を食べてまわり、街をぶらぶらしてから海の方角に向かった。
私たちは『東京物語』の老夫婦《ろうふうふ》のように海をながめた。
「あぁ忘れてた、お誕生日おめでと」
マミがカバンのなかからきれいに包装《ほうそう》されたてのひらにのるくらいの小さな箱を取り出した。
「気にいるかなぁ、昨日《きのう》カジ子と選んだんだけど」
18金のネックレスだった。私はそれを陽《ひ》にかざしてから首にかけた。
「高かったでしょ」
「ううん、そんなでもない」
「ありがとう」
私は父に暴力をふるわれたことよりも、父が私の誕生日を憶《おぼ》えていてくれなかったことが哀《かな》しかったのだと、ふと思った、そう思いたかった。
「もう泳げるんだよね、こんなことなら水着持ってくるんだった」
「熱海って海水浴場ないんじゃないの」
私たちは照《て》れかくしのためにとりとめのない会話をした。学校にいると時間がすぎるのがおそいことにいらだつのだが、このときは文字どおりあっという間に日がくれた。私たちは海に背を向けて橋をわたった。そこはちょうど川が海に流れこんでいくところだった。
「どうする?」
私は欄干《らんかん》につかまって、光を失って黒ずんでしまった水を凝視した。
「帰りたくない」
何歩かまえを行っていたマミは欄干にそって私のほうにもどり、弁解《べんかい》するような調子でいった。
「でも、どうしようか。お金ないし、学校から家に連絡行ってるよね、きっと。夜おそくなっちゃったらうちの親と美里の親、学校と相談して警察《けいさつ》に捜索願《そうさくねが》い出すんじゃないかな」
帰ろうという含みが宙《ちゆう》にただようのをきき、急に現実にひきもどされて、暗澹《あんたん》たる気分が胸をついた。陽が落ちて途方《とほう》にくれている私の気持ちを見透《みす》かしたようにこんな話を切り出すなんて卑怯《ひきよう》だ。
「いいよ、帰っても」
「どうしてそんなこというの。私は美里がいっしょじゃないと絶対帰らないよ」
「わたしは帰らない」
私は海の方角へ踵《きびす》をかえした。家だけではない、見なれた街、私を見知ったひとのなかにまたもどるなんて、この世に適応《てきおう》しなくてはならないなんてうんざりだ、たえられない。私は死をむかえいれられそうだったのに。しかしこころのどこかに甘《あま》えがあってマミをおいかえすことができなかったのもまた事実だった。
マミは私の数歩あとをついてきた。もう言葉は交わさなかった。青白い光を放つ電話ボックスが目にとまった。
「ちょっと電話していい?」
「だれに」
「大騒《おおさわ》ぎになってるかどうかヒロエにきいてみる」私は電話ボックスに入り、財布のなかの十円玉と百円玉を電話のうえに重ねて、ダイヤルをまわした。マミは外で待っていた。
「もしもし、共立の柳というものですけれど、ヒロエさんいらっしゃいますか」
「どこにいるの」ヒロエだった。
「熱海」
「キリンは授業をやめて話しあいにするし、とにかくみんな迷惑《めいわく》してるんだから、帰ってきてよね」
早口でそれだけいうと、ヒロエは電話を切った。私は急に世界の果てにおしやられた気分になり、黙《だま》って外に出た。
「家に電話する。警察にとどけ出されちゃうとたいへんだから」とマミがいった。
いつの間にか街は夜景になっていた。黒々とした水が街の灯《あか》りをうつして光っていた。
「あのね、ママに美里をうちに泊《と》めてって頼んだの。いいってよ、ママから美里の親に連絡してくれるって」
マミの父親が車でむかえにくるまでのあいだ、私たちは駅まえの喫茶店《きつさてん》でコーヒーを飲んですごした。
かわるがわるにシャワーを浴び、十|畳《じよう》の部屋に布団《ふとん》をならべた。灰汁《あく》のようにつぎつぎとわいてくる不安に責め苛《さいな》まれ、眠れないだろうと思ったが、横たわって布団にしがみつくと、数分もたたないうちに眠っていた。きっと、まるで、溺死体《できしたい》のように――。
私とマミは授業をサボって熱海に行ったことで、停学を食らった。担任同士が話しあい、ふたりをひきはなすしかないという結論《けつろん》に達し、よび出された父と母はそのことに協力するよう伝えられた。担任のキリンに「美里さんが非行に走るのも、成績が悪いのも全部お父さんとお母さんのせいです」と強い調子で非難《ひなん》されたという。
一週間ぶりに学校に行くと停学のあいだに席替《せきが》えがあったらしく、私はいちばんまえの席、まわりは品行方正な生徒でかためられ、右どなりはヒロエだった。熱海に行った日の放課後キリンがヒロエを談話室によび出し、「柳の友だちになってあげなさい」といったという噂《うわさ》がひろまっていたが、ヒロエはひとことも口をきかないばかりか、ほおづえで左側の顔をかくして私に見られないようにしていた。
私は「柳がクラスにとけこむために」席替えをしたキリンをうらんだ。放課後はほぼ毎日キリンに居残《いのこ》りを命じられるのでマミといっしょに帰れなくなり、家に電話してもかならずマミの姉や父親が電話をとり、「まだ帰っていません」「もう眠りました」などと嘘《うそ》をつかれた。
キリンはだれもいない教室で息苦しくなるまで黙りこみ、ただ私の顔をじっとながめていた。
「柳はほんとは素直で優《やさ》しい子なのにね、真弓なんかに影響《えいきよう》されて」
私がいくら、あの日電車からおりたくなかったのは私で、マミはつきあってくれただけだと説明してもとりあってくれなかった。
家庭科を教えていたマミの担任の清水の私にたいする仕打ちはひどかった。刺繍《ししゆう》は、いちばんまえの席の五人が教壇のまわりに集まって清水が刺繍するのを見て憶え、うしろの席の生徒に教え、つぎつぎうしろに教えるというやり方だった。ところが清水は私の顔を見たとたん、「あなたはだめ、あなたにひとを教えることなんてできません、そこの列二番目のひと出てきて」とあからさまに私を除外《じよがい》した。結局私は授業中何もできなかった。いちばんまえの席だったのでだれにも教えてもらえないからだ。そういう話が伝わったのだろう、清水とキリンの間柄《あいだがら》は険悪《けんあく》になり、廊下でどなりあっていたのを目撃《もくげき》したことがある。
家もめちゃくちゃだった。父も母も書き置きひとつなく一万円札だけを置いて何日も家を空《あ》けるようになっていた。親がいない家のなかで私たちきょうだいはののしりあい、なぐりあった。私は中2、春樹は中1、愛里は小5、そして春逢が小3とみな大きくなっていたので喧嘩《けんか》も半端《はんぱ》ではなく、加減《かげん》がわからなかったので脱臼《だつきゆう》させたり出血させたりして、叫《さけ》び声やガラスがわれる音で二階のコモがとめにきた。コモがあらわれると、「関係ありません。二階にもどってください」春樹はものすごい形相でにらみつけた。見るに見かねた近所の主婦《しゆふ》が「あんまりひどいと警察よびますよ」とつれ立ってやってきたこともあった。
春逢は五|歳《さい》のときの事故《じこ》で脳波《のうは》が狂《くる》ったのが原因で深夜眠っていると突然、痛い痛いと泣き叫びのたうちまわる発作《ほつさ》をおこした。その声は崩壊《ほうかい》しつつあるわが家のきしみ、悲鳴のようにもきこえた。
毎日、自己|嫌悪《けんお》と後悔《こうかい》の念で目をさました。自分の何を嫌悪し後悔しなければならないのかわからなかったが、とにかくすべてがいやでたまらず、家や学校と縁《えん》を切って人生からおりてしまいたかった。二枚刃《にまいば》の剃刀《かみそり》を買って、山下公園のベンチで手首を切ったこともある。切っても切っても血管を切断《せつだん》するほど深くは切れず、かといって頸動脈《けいどうみやく》を切る勇気もおこらず、ひと晩中《ばんじゆう》海と向かいあい一睡《いつすい》もせずに学校に行ったこともある。手首の傷《きず》は最初|風呂《ふろ》に入るととびあがるほど痛かったが、膿《う》んでかさぶたが取れると、砂《すな》のうえの鳥の足跡《あしあと》に似《に》た白く細い筋《すじ》だけが残り、やがて消えた。
このころ母は私たち四人をつれてつきあっていた男とすむために鎌倉《かまくら》のマンションに夜にげしたのだが、不思議なことに記憶がすっぽりぬけ落ちている。最近母にきくと、そのマンションに半年すんでいたということなのだが、鎌倉のどこにあったのか、どういう間取りだったのか、夏だったのか冬だったのか、ほんとうに中学二年のときだったのか――、何も思い出せない。春樹と愛里のふたりはしばらくして父の家にもどったのだが、いつどんな理由でもどったのか――。これでもう父と母の諍《いさか》いに立ち会わずに済《す》むとほっとした気もするが、それならばなぜ記憶を喪失《そうしつ》したのだろう。
最初のマンションはまったく憶えていないのだが、つぎにひっこした部屋は七階建てのマンションの五階だった。十二畳のリビングルームに八畳がひと部屋、六畳がふた部屋あり、そのひとつが私の部屋だった。近辺には母の男、大橋がつとめるH電機の工場が林立していた。そのマンションの住人も大多数はH電機の社員と家族だった。しかも彼の家族がすむ家も目と鼻の先にあった。大橋は会社が終わるとマンションにやってきた。母のこしらえた料理を食べ、母といっしょに風呂に入って、十二時まえに自宅に帰った。母はよくベランダに立ってぼんやりと、大橋の車がマンションの駐車場から出て小さな橋を隔《へだ》てた自宅の車庫に入るようすをながめていた。なぜこんな場所に――、私は大橋の神経が理解《りかい》できなかった。
マンションの脇には線路があった。工場に何かを運ぶときに貨車が通ったのだろうと想像したが、もう何年もつかわれていないらしく線路はさびて雑草《ざつそう》がぼうぼう生えていた。学校の帰り、大船《おおふな》駅からまっすぐにつづいている線路のまんなかを歩いた。三十分以上かかったが苦にならなかった。私にかかわるすべての煩《わずら》わしさから解き放たれるのはその時間だけだった。
母はつとめていたキャバレー〈帝〉をやめて、ホステスの何人かと出張コンパニオンの仕事をはじめた。ときどきメンバーがそろわず、「二時間で五千円だからあんた入ってくれる」と母に頼《たの》まれ手伝った。
熱海や伊豆《いず》の温泉《おんせん》ホテルに行き、会社や町内会の会合や慰安《いあん》旅行をしている中年の男たちに酌《しやく》をするのが主な仕事なのだが、かならずダンスタイムがあって誘《さそ》われればチークダンスをしなければならなかった。チップはもらってもあとでチーフにわたさなければならない規則《きそく》で、帰りぎわに合計|額《がく》をコンパニオンの頭数でわった額を手わたされるというシステムだった。最初に参加したのは医者の会合だった。私と母は楽屋で化粧《けしよう》をして露出《ろしゆつ》のはげしい服に着替えた。三百人は収容できる大きな宴会場《えんかいじよう》の舞台《ぶたい》に正座《せいざ》してならび、安っぽい演歌《えんか》とともに幕《まく》があがると座敷におりていき、酌をするというのが段取《だんど》りだった。私は、里子、二十歳《はたち》で通したのだが、うたがう男は皆無《かいむ》だった。なかには酌のしかたが下手《へた》だと手をにぎってやり直させる男もいた。チークダンスをしていると男がほおをすりよせてきて、「部屋で二次会やるんだけどおいでよ」とささやき、黙っていると、「これでどう」と指を三本にぎらされた。
マミに彼氏ができたという噂がたった。伊勢佐木町で腕を組んで歩いているのを目撃したとか、港の見える丘公園でキスしていたとかさまざまな噂がとびかい、これも本人に確認《かくにん》したわけではない噂だが、カジ子が通っている少林寺拳法《しようりんじけんぽう》の道場に国士舘《こくしかん》の大学生がいて、カジ子とつきあいはじめ、その大学生がマミに友だちを紹介したというのが経緯《けいい》らしかった。私とふたりのあいだには距離《きより》ができ、そしてそれはうめられないほどひろがっていった。彼女《かのじよ》たちは学校にたいする反発などばからしくなったのか、校則を守り成績もあがっていき学校側から見れば完全ないい子になって、私は取り残された。
それから、友だちができなかったわけではない。カラリ、帰る方向はまったく逆《ぎやく》だったのだが、私はいつもカラリの家がある駅まで送っていった。家に帰りたくないせいもあったが、だれでもいい、だれかといっしょにいたかった。ある日などはカラリがおりるひとつまえの駅で泣き出し、カラリは何とか笑わせようとして私のつむじをつつき、「今度はわたしが送るから」と大船まで送ってくれた。大船につくと今度は私が「送るよ」と電車に乗りこみ、終電ぎりぎりまで何|往復《おうふく》もした。
カラリは中3にあがるときアメリカに留学《りゆうがく》してしまった。
そのあと成績のビリから一、二を競っていたリサと親しくなった。リサの家は共働きだったので親がいないことが多く、私はよく泊まりに行った。カップラーメンを食べて器《うつわ》を灰皿《はいざら》にしたり、伊勢佐木町にある〈シュガーストッキング〉というディスコにも何度か出かけた。しかし彼女は中3の夏休みに父親が急死して学費を支払《しはら》えなくなり公立中学に転入した。他の学校に入ってもあおうね、と約束したのだが、共学だったためすぐ彼氏ができて十六歳になるのを待って結婚してしまった。
女子校では休み時間も登下校もトイレに行くのもひとりというひとはまずいない。人気ものは人気もの同士で群れ、嫌われものは嫌われもの同士で群れていた。学校でひとりでいることはできない、ひとりでいること自体が拷問《ごうもん》に近いのだ。
もの音というもの音がだんだん耳ざわりになり、授業中、腕時計の音がちくちくと鼓膜《こまく》につき刺《さ》さり、だれかのため息《いき》や咳払《せきばら》いひとつで脂汗《あぶらあせ》をかくようになった。廊下で笑い声がきこえるたびに心臓《しんぞう》がちぢみ、殺意に近い感情がわきあがった。みな私をばかにしている。夜眠ることができなくなった。できないことばかりが増《ふ》え、できることが何ひとつ見つからない。駅から学校につづく坂をのぼりはじめると唇からすすり泣きがもれた。罠《わな》にかかった獣《けもの》の呻《うめ》き声といったほうが近いかもしれない。学校に近づくにしたがってそれはひどくなり息も満足にできなくなった。校門をくぐると私が吸《す》う空気はどこにもなくなり、吸って、吐いて、吸って、吸って、吸って吸って吸って、私は呼吸困難《こきゆうこんなん》におちいり、たおれた。
それが何度かつづいて担任《たんにん》のノダから母に連絡がいった。療養《りようよう》のためにしばらくのあいだ登校しないでいいということだった。国立横浜病院の精神科の医者を紹介された。何でも思春期の精神|医療《いりよう》では権威《けんい》らしい。
母といっしょに病院に行ったのだが、母は紹介状を無視《むし》して内科の受付を済《す》ませた。自分の娘《むすめ》を精神科医にみせるということにどうしても納得《なつとく》できなかったのだろう。内科で名前をよばれ母が症状《しようじよう》を説明すると、「それは精神科に行ったほうがいいですよ」といわれ、母はしぶしぶ受付にもどり、紹介状を提出《ていしゆつ》した。
母がつきそって診察室《しんさつしつ》に入ったが、
「お母さんはあとでお話をききますので外に出ていてくれますか」
医者は母をおい出し、私と向きあった。
「疲《つか》れますか」
「はい」
「眠れないですか」
「はい」
「死にたいですか」
「はい」
事務的《じむてき》に淡々《たんたん》と質問され、私はすべてに「はい」と答え、他には何もしゃべらなかったように思う(しかし数年まえにその医者をたずねカルテを見せてもらってわかったのだが、私は家のこと学校のことをかなりくわしく打ちあけていた)。
母は病院を背にして歩きはじめると、「そんな薬飲んじゃだめよ。そんな薬飲むとねぇ、ほんとの気ちがいになっちゃうんだから、いい?」と早口でいった。
その夜私は病院でもらった二種類(三種類だったかもしれない)の薬を飲んで布団のうえに横になった。意外に効《き》かないなと思っていると、しばらくして指、それから手が痺《しび》れてきて、やがてそろりと気怠《けだる》さがやってきた。私は夢《ゆめ》も見ずに熟睡《じゆくすい》した。
こんなによく効くならまとめて飲んだらどうなるだろう。二週間後に登校した朝、私は飲まないでためておいた薬をかみくだき、ウォータークーラーの水でのどに流しこんだ。始業を告げるチャイムが鳴って聖書《せいしよ》のイモアライが教壇に立った。「起立」ヒロエの声。「礼」ヒロエの声が少し遠くなる。「おはようございます」私は声を出せなかった。「着席」というヒロエの声を待てずに私は腰を落とし意識をなくした。母の話によると、学校からの連絡でかけつけると私は保健室のベッドで大きな鼾《いびき》をかいて眠っていたという。よびかけてもひっぱたいても目をさまさない。タクシーをよんでくれるよう頼んだが、世間体《せけんてい》が悪いということでよんでくれなかった。母は私をおぶって三十分以上かけて石川町駅まで歩き、階段をのぼってホームで電車を待って、やっとの思いで大船駅にたどりついた。改札をくぐってくだりの階段に一歩足をふみ出したとたん、私もろとも転げ落ちた。母はからだをおこし泣きながら私の顔をなぐったが、鼾をかいたままだった。母はそのとき亡《な》きハンベが生まれたばかりの私を見て、「この子は親に苦労をかける顔をしてる」といったことを思い出したそうだ。
私は無期停学になった。いまになってみれば何も学校で薬を飲まなくてもよかったのにと思うが、そのときの私はクラスのみんなに無視されることがたえがたく、無視されるよりは迷惑《めいわく》がられたほうがいいと思っていたのだろう、とにかく切羽《せつぱ》つまっていた。
つぎの診察日はひとりで行った。
「いまの薬はまとめてのんでも死ねませんよ。吐いてもどすしね」
医者はすでに学校から連絡をもらっているようすだった。
私は堰《せき》を切ったようにしゃべりまくった。医者にきいてもらいながらも、死ぬしかない、死のう、死のう、その考えだけがしつこくまとわりついてはなれなかった。
無期停学がとけて学校に行くと、みな好奇心《こうきしん》むき出しの視線を向けてきた。しかしだれも近づいてこない。遠巻《とおま》きにしてちらちらながめ、ささやきあうだけだった。もうだめだ。私は決断《けつだん》した。授業を終えて校門を出た。家には絶対《ぜつたい》に帰らない。海にとびこんで死ぬつもりだった。大船でおりて逗子《ずし》までの切符《きつぷ》を買った。
真冬だった。逗子の駅におりたものの海までどう行けばいいかわからない。いや、まっすぐ海に行く勇気がなかったのだ。私は線路ぞいを歩いた。終電がなくなったあとは線路のうえを歩いた。どれくらい歩いただろう、だれかに肩をたたかれた。ふり向くとだれもいない。気のせいだ、と足を速めると、またたたかれる。私はわっと叫《さけ》んで線路の外に出て、走った。走っても走っても肩をたたかれる。気がつくと山路《やまみち》を走っていた。防空壕《ぼうくうごう》のような穴《あな》がぼこぼこ開いている。私は光が見える方角にかけおりた。
このときの記憶は錯綜《さくそう》していてたどるのがむずかしいが、住宅街に入りこんだ私は落ちつける場所をさがした。公園を見つけてベンチに座り、あまりにも寒いのでカバンから教科書を取り出してライターで燃やし、かじかんだてのひらをかざした。そのままうつらうつらした。刺すような寒さで目をさますと、私は神社の境内《けいだい》で眠っていた。悲鳴をあげてとびおき、走った。もうずいぶんはなれただろうと階段に腰をおろし、ふと、あたりを見まわすとそこは先刻《せんこく》の神社だった。私はにげてにげてにげまくった。空がしらんでくると、気持ちが少し落ちついた。肩をたたかれたのも神社も幻覚《げんかく》にすぎないと自分にいいきかせて、公園のすべり台にからだを横たえて目を瞑《つむ》った。
声が先にきこえて目を開けると、私の顔を二十代前半の若い女とその腕にだかれた小さな男の子がのぞきこんでいる。制服姿を不審《ふしん》に思われ警察に通報されでもしたらおしまいだ。私はふたたび歩きはじめた。明るいうちはいいのだが、陽《ひ》が落ちたとたんに昨夜の恐怖が蘇《よみがえ》った。その夜はマンションの工事現場ですごした。建設中の建物というのは怖い。しかし夜のなかを動きまわるのも怖い。スカートをまくりあげおしっこをしながらも、私はあたりを見まわした。頭のなかで蠅《はえ》の羽音のようなブーンという音がして、恐怖が極限《きよくげん》まで達したとき、私はしゃべりはじめた。
翌日になってもひとりごとはとまらなかった。口の筋肉《きんにく》を休めたかったが、しゃべっている私は、私から遠く、とめることは無理だった。こちら側の私が、このままでは狂ってしまう、早く死ななければ、と海に向かうことを急《せ》き立てた。
やがて夕暮れになろうかという時刻、私は海につづく坂道をおりていった。潮風《しおかぜ》は冷たく、浜辺《はまべ》にはだれもいなかったが私は砂のうえに腰をおろして夜になるのを待つことにした。どれくらい時間がたったろう、私はしゃべりながら空を見あげた。空は晴れあがり、満月に近い月と星がうかんでいる。靴を脱《ぬ》ぎすてる。どうせぬれるので黒いストッキングも脱ぎ、靴のなかにおしこむ。見ず知らずの男のまえで服を脱いでいるような胸の高鳴りを感じる。私は海に向かって歩き、靴とカバンは砂のうえに転がり取り残された。爪先《つまさき》から脹《ふく》ら脛《はぎ》にかけて鳥肌《とりはだ》がたっているのがわかる。波音が迫《せま》ってくる。私は気配を感じてふりかえった。
不信感のこもる目で私をじっと見ていたのは、小学校のころに飼《か》っていたペペだった。二本足でちんちんをしているペペの腹《はら》をなでると、小学校のときとなりにすんでいたこずえちゃんとりょうちゃんがあらわれた。私は笑い出した。こずえちゃんだけではない、仲よくしてくれたヨッコ、私をいじめていたナカヤン、カッチン、イゲちゃん、キーちゃんまでが私に笑いかけてくる。
「あ! オカモ! モーちゃん、サッコ!」
私はみんなにつられて笑い出した。意識の片すみにおいやられたこちら側の私は狂っている自分をぼんやりと認識したが、笑い声をとめることはできず、湿《しめ》った砂のうえを歩き、真冬の荒々《あらあら》しい海のなかに入っていった。ひいてはよせる潮の流れにからだをおしもどされそうになりながら、私は波間を進んでいく。うんと小さいときはこのくらいまで進むとがくっと足もとの砂がくずれて浮輪《うきわ》が波に乗ったものだが、遠浅なのかどこまで行ってもしたの砂はなくならない。足もとで砂が動き波のひとつが胸にぶつかったとき、岸辺《きしべ》から笑い声がきこえた。ふり向くと、ひと、ひと、ひと、白いひとが浜辺をうめつくしている。いっせいに私目がけて笑っているのだ。その瞬間背後で黒いうねりが立ちあがり、波に頭をたたかれ、どっと口に海水が入り、私は渦巻《うずまき》に飲みこまれるように海に沈《しず》んだ。
ザザーッという音がして、寒い、と目をひらくと夜はあけかけていた。私は潮の香《かお》る息を吐きながら横たわっていた。死ねなかった。波が私をはねかえしたのだ。あるいは私が、飲みこもうとおそいかかってきた波からにげたのかもしれない。私に笑いかけてくれた幻《まぼろし》たちも消えていた。ひとりだ、そう思った。おきあがり、海に背を向けて歩いた、のろのろと。心身ともに余力《よりよく》が残されていない極限|状態《じようたい》の疲労《ひろう》だった。何とか階段《かいだん》をのぼり、国道に出て横断歩道《おうだんほどう》をわたろうとしたが、両足がいうことをきかず、たおれた。
中島《なかじま》みゆきの「わかれうた」は、「途《みち》に倒れて だれかの名を よび続けたことが ありますか」という問いではじまる。家できいていたとき、母は「そんなことあるわけないじゃない」とつぶやいたが、死に拒絶《きよぜつ》された私は、途にたおれ、名をよぶひとさえいなかった。
しばらくして車がとまる音――。
「どうしたの、大丈夫《だいじようぶ》」
無理矢理《むりやり》こじあけるようにして瞼《まぶた》をひらき、見知らぬ男の顔をながめた。瞼の裏《うら》にひりひりした痛みが走り、頭のなかで舌《した》が膨《ふく》れあがったが言葉は出てこなかった。
「怪我《けが》してるの、寒いから車に乗りなよ、立てる?」
男は私の腋《わき》のしたに手をさしこんでからだを持ちあげ、白いバンの助手席に乗せた。
「コートぬれてるねぇ、風邪《かぜ》ひくから脱いだほうがいい」
私はいわれるままにコートを脱いだ。脱いでから、制服でどこの学校かばれてしまうのではないかと思ったが、男は何もきかなかった。
車が走り出したとたん、うたがいと恐怖がこみあげてハンドルをにぎっている男の横顔をぬすみ見た――、額《ひたい》が禿《は》げあがっている、五十歳前後というところか、なぜひとこともしゃべらないのだろう、どこに向かっているのか、警察? それとも――、私は男に気づかれないようゆっくりドアの把手《とつて》に左手をかけた。
車はセブンイレブンのまえでとまった。男は黙って車をおりた。
にげよう、そう思った瞬間、男が自動扉から出てくるのが目に入った。
男は温かい缶《かん》コーヒーを私の膝のうえに置いた。私は男の思いやりにふれ、うたがったことをはげしく後悔《こうかい》して缶コーヒーを飲み、緊張《きんちよう》をほどいてシートにからだを沈めた。暖房《だんぼう》が海水を含んだスカートを乾《かわ》かしていく。頭を強打されたときのように急速に意識が遠くなり、私は瞼を閉じた。
もう数分まえから目ざめているような気がするが目を開けることはできない。眠りと覚醒《かくせい》の境界線上《きようかいせんじよう》で、父の車のなかにいる、そう思った。車は動いていない。薄く目を開けると、フロントガラスの向こうはひと気のない海岸、すっかり朝になっていた。
父ではない男は私が目ざめたことに気づくと、吸っていた煙草《たばこ》をなげすて窓を閉めた。
「オッパイとオマンコどっちさわらしてくれる」
心臓が緩慢《かんまん》に脈打った。
「じゃあ両方さわっていいね」
私は首を左右にふった。
「だって車に乗せてあげたでしょ」
私は扉の把手をひいたが、男はすばやくシートをたおして私のうえにおおいかぶさり、片手でセーラー服の上着をまくり、もう片方の手でスカートをたくしあげた。悲鳴をあげたいが舌が動かない、抵抗《ていこう》したいが痺《しび》れた手足はびくともしなかった。顔に熱くくさい息がかかり、ブラジャーに手がもぐりこみ、足のあいだへと指がのびていった。男の指は性急《せいきゆう》に動き、私の奥《おく》にぐっとさしこまれた。痛い、私は腰《こし》をひいた。男はブラジャーをひっぱりあげて片方の乳房《ちぶさ》に顔を近づけ、大丈夫すぐ痛くなくなるからね、とささやくような掠《かす》れ声でいった。そして犬のように鼻先をおしつけたかと思うと乳首《ちくび》を舌の先でなめはじめた。無精髭《ぶしようひげ》が乳房にすれて痛い。男は指を乱暴《らんぼう》に動かし乳首を強く吸った。息がはずまないよう顔をそむけて下唇をかんだ。
男は、これで新しい下着買えばいい、とブラジャーのあいだに二千円をねじこんで、エンジンをかけた。
車は駅まえでとまり、私はおりた。地べたに腰をおろし切符《きつぷ》売場の壁《かべ》によりかかると、手の震《ふる》えがやみ、疲労感がどっとおしよせてきた。私は眠った。ひとの行き来がはげしくなっていく気配、何人かが立ちどまり、大丈夫ですかと声をかけてきたが、私が目をつぶったままでいると足音は遠くなっていった。
「柳、柳、大丈夫?」
――だれの声だろう。
「柳、わかる? 福本《ふくもと》だけど」
肩を揺さぶられる。生徒会長の福本みちよだ。たしか卓球部《たつきゆうぶ》だったと思うが、どうして私を知っているのだろう、話したことなど一度もないのに。私は福本|先輩《せんぱい》に背負われ、タクシーに乗って――、それから憶えていない。
私は福本先輩の家で数日間眠りつづけた。あとからきいた話によると、親にはあいたくない、家に帰りたくないと泣いて訴《うつた》えたそうだが、記憶から消えている。
布団が重い、顔が熱い、歯茎《はぐき》が疼《うず》く、そう思ってときどき目を開けると、高熱のためか遠近感がひどく狂《くる》っていて、眼鏡《めがね》をかけた医者の顔がぐんぐん近づいてくるし、私の額《ひたい》にアイスノンをのせる先輩のお母さんの手が一メートルも遠くに感じられた。
肺炎《はいえん》になりかけていたそうだ。両足が萎《な》えてしばらくはトイレにさえ行けなかったので、おしめをあてていた。おしめを取り替《か》えてくれたのは先輩のお母さんと大学生のお姉さんだ。
熱が少しさがると、お姉さんは「お風呂に入らないで気持ち悪いでしょ」と髪《かみ》にヘアトニックをぬってくれたり、おかゆをスプーンでよそってひと口ひと口食べさせてくれたりした。だれも何も質問をしなかった、ただ手厚《てあつ》く看病《かんびよう》してくれただけだった。
布団にしみついたナフタリンのにおい、食事どきにただよってくる玉葱《たまねぎ》の炒《いた》めものや味噌汁《みそしる》のにおい、私は生まれたときから福本家の一員であるかのようになじんでいった。
熱はもうひいていたのに、いざ学校と家のことを考えると麻酔《ますい》を打たれたように眠くなり、私は眠りつづけた。そして福本家のひとびとのまえでは具合が悪いふりをしていた。現実に直面することが怖かったのだ。
私は自分の人生が分断《ぶんだん》されてしまったように感じていた。私はひとつの人生を生き終えたのだ。もうひとつべつの昼を、べつの夜を生き直すことなどできるだろうか。二回生まれ、二回死ぬことなど――。
十日間がすぎ、担任のノダがたずねてきた。
「あら、顔色いいじゃない」
ノダは枕《まくら》もとに座り、歯を見せて笑いかけてきた。
「いろいろあったんだけどね、学校のほうはなんとか大丈夫よ。正直いうと、あと三カ月で中学卒業でしょ、高校はどこか他に転校してもらいましょうっていう先生がたが多かったんだけど、木田《きだ》先生がおっしゃったひとことが大きかったの。先生は新約聖書《しんやくせいしよ》の『迷える羊《ひつじ》』のたとえをお話しになられたあと、その御言葉《おことば》を生徒たちに教えるミッションスクールが、群れからはずれて苦しんでいる柳さんを退学にするのはおかしいんじゃないかっておっしゃって、それで職員会議《しよくいんかいぎ》の流れががらっとかわったの。クラスのみんながノートとっててくれてるから、あせらないでゆっくり休んで、からだを治しなさい。でもね、いつまでも福本さんのお宅にお世話になるわけにはいかないでしょ? こちらはみなさん、美里が帰りたくなるまでいていいとおっしゃってくれてるけど、もういい加減《かげん》帰らないと、ね。美里が休んでいるあいだ、先生、お母さまと話しあったのよ。お母さま、すべてわたしが悪いって泣いてらっしゃったわよ。明日、ここにむかえにきてくださることになってるから、帰りなさい、いいわね」
私が何と返事をしたのか、翌日母親といっしょに帰ったのか、帰らなかったのか、どのくらいのあいだ学校を休んだのか、記憶の断片《だんぺん》すら残っていない。トラウマが記憶喪失をもたらすケースもあるというが、私の記憶はところどころ虫が食ったような欠落があることをみとめないわけにはいかない。それにしてもなぜ十日間も、私が福本家に居《い》つづけることができたのか、母とのあいだでいったいどんな話しあいが行われたのか、まったくわからないが、この十日間の休息がなかったら、私は学校にも家にも復帰《ふつき》できなかったにちがいない。
私は横浜共立学園高校にあげてもらったが、一学期の頭にまた家出して補導《ほどう》され、中3につづいて高1でも担任になったノダから退学|処分《しよぶん》になったことを告げられた。
「今回もね、やっぱり木田先生が『迷える羊』のお話をしてくださったんだけどもね、もうだれも味方する先生いなかったのよ。明日、退学手続きをしなきゃならないの。お母さまかお父さまのサインが必要なのと、校長からお話があるから、お母さまかお父さまつれてきてね。先生、電話で話さなくて大丈夫よね」
私はうなずいた。
家に帰って退学手続きをしてくれるよう母に頼むと、
「あたしは絶対にいや、さんざん先生たちから、あんたが変になったの全部あたしのせいみたいにいわれて、冗談《じようだん》じゃないわよ、もううんざり。とにかくあたしは行かないから、柳さんに行ってもらいなさい」
このときは不思議と絶望的《ぜつぼうてき》な状況《じようきよう》なのにもかかわらず、死のうという考えはよぎらなかった。明日《あす》父のパチンコ店に行こうと決意してパジャマに着替《きが》えた。布団のうえに横たわって、母と家出したときから一年もあっていない父にどのように話そうかと思いあぐねていると、「迷える羊」という言葉がうかんだ。一貫して退学処分に反対してくれた木田先生が根拠《こんきよ》にしたという「迷える羊」――、私ははじかれたようにおきあがり机のうえの聖書を手にとった。
「あるひとに百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊をさがしに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よくききなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅《ほろ》びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」
翌朝私は父のパチンコ店に行った。制服で店内に入っていくのに一瞬ためらわれたが、時間がないので奥にある景品|交換所《こうかんじよ》までまっすぐつき進んだ。景品交換の女のひとに「柳ですけれど、父をよんでいただけますか」大声でいうと、「マネージャーの娘《むすめ》さん?」とやはり大声できかれた。音がうるさいので声をはらないときこえないのだ。
マイクでアナウンスしてもらって五分もたたないうちに父があらわれた。
「ご飯、食べたの」
「まだ」
お互《たが》い顔を見ずに大声でいうと、父は私の背中をおし、店を出た。
父のパチンコ店がある横浜の黄金町《こがねちよう》という場所は、昔よく「太陽にほえろ」のロケにつかわれた、猥雑《わいざつ》で危険《きけん》なにおいがたちこめている街だ。ドブ川と線路のあいだには、売春宿、ストリップ劇場《げきじよう》、肉体労働者たちのための一泊《いつぱく》五百円の木賃宿《きちんやど》などがひしめきあっている。
父はそのどまんなかにある六畳ほどのひろさしかない定食屋に入っていった。
「なんでも好きなもの頼めばいいよ」
「生姜焼《しようがやき》定食」
「あとは」
「もういい」
「生姜焼定食ふたつと」と父は注文しかけて、
「豆腐《とうふ》は?」
「うん」
「豆腐ひとつね、納豆《なつとう》も食べるだろ? 納豆と、あとしゃけと海苔《のり》、お願いね」
高架《こうか》したにある店なので電車が通るたびに轟音《ごうおん》とともに震動《しんどう》し、大声でしゃべらないときこえない。
私は食べ物がならぶのを待って話を切り出した。
「わたしさ、退学になったの。それでパパかママどっちかといっしょに学校行って手続きしなきゃだめなんだけど、ママがどうしてもいやだっていうから」と一気に話して、湯気をたてている生姜焼を口にいれた。
「いつ」父は箸《はし》で冷《ひ》や奴《やつこ》をくずしながらきいた。
「今日《きよう》なんだけど」私は生姜焼を飲みこんで、海苔を三枚まとめて口にはさみ山羊《やぎ》が紙を食うように咀嚼《そしやく》した。
「何時」
「そろそろ行かないと」
父は箸を置き、制服のポケットから財布を取り出し、「ごめんなさいね、残しちゃって」と老夫婦にあやまって勘定《かんじよう》した。
私はパチンコ店の裏手《うらて》にある駐車場に向かって走り出した父のあとをおって走り、助手席に乗った。
父は黙ってハンドルをにぎり、信号をいくつも無視してアクセルをふみつづけた。
十五分足らずで校門のまえに到着《とうちやく》した。
私が三年間数え切れないほど往復した校門から校舎《こうしや》までの道は桜《さくら》の花でまっ白だった。横浜共立学園の校歌は、「雲かとまごう花の園を 重ねし春を数えまほし」という歌詞《かし》ではじまるのだが、春になると何種類もの花の蕾《つぼみ》がいっせいにほころび、大袈裟《おおげさ》ではなく雲のなかに学校がうかんでいるように見えるのだった。
事務の女のひとに名前を告げると、「校長先生がお待ちですよ。ノックしてから入ってくださいね」といわれた。
父と私はスリッパにはきかえ、授業中で静まりかえっている廊下を音をたてないようにすり足で歩いた。
息をととのえてから校長室の扉を二度ノックした。
「はいどうぞ」扉のなかから声がきこえた。
ノブをまわして扉をひらくと、父は私をおしのけてなかに入り、いきなり土下座《どげざ》してしまった。
「校長先生さま、娘をどうかこの学校に置いてやってください。だめな点は娘と話しあって反省させます。絶対に直させます。私はパチンコ屋につとめているんですけれど、お客さまに、うえの娘が共立に通っているんだというのが自慢《じまん》なんです。共立は神奈川県にすんでいるひとならみんな知ってるいい学校です。娘を置いてやってください、校長先生さま、お願いします」
父は床に額をすりつけた。
校長はしばらく呆気《あつけ》にとられて父を見おろしていたが、
「お父さまのお気持ちはよくわかりますがね、娘さんは他の生徒に毒をばらまいているんですよ、段ボールのなかに腐《くさ》った林檎《りんご》がひとつあると、他のなんでもない林檎まで腐りはじめるでしょ」と三揃《みつぞろ》いの胸ポケットから取り出した金縁《きんぶち》の老眼鏡《ろうがんきよう》をかけ、机上《きじよう》の紙にこと細かにしるしてあるのであろう、中学二年からはじまった私の非行[#「非行」に傍点]の数々をつぶさに読みあげた。終《しま》いまで読まないうちに父は顔をあげて立ちあがったが、校長は最後まで読み切った。
父は黙って退学とどけにサインした。
とたんに、ケンタッキーのカーネル・サンダースそっくりの校長はにこにこと満面の笑みをうかべ、退学とどけの私の名を確認してから、
「柳さん、学校だけがすべてではないよ。あなたには向かなかったというだけでね、他にかならずぴったりする世界があるからね。あんまりがっくりしないですぐさがしなさいよ。本来ならば強制《きようせい》退学のところを自主退学というかたちにしておいてあげたから、他の学校に転校しようと思えばできますよ、学校がどうしてもいやなら働いてもいいんだし、とにかくがんばること。がんばりなさいね。わたしも陰《かげ》ながら祈《いの》っていますから」
驚《おどろ》いたことに、校長は私のまえに右手をつき出した。握手《あくしゆ》をしようというのだ。私は右手の指を左手でつかんだまま動かさなかった。
「じゃあがんばって」
校長は眉《まゆ》をひそめて自分の椅子《いす》にもどり、私は一礼してから廊下に出た。
スリッパを脱ごうとすると、
「柳さん、今日はそのままお父さんと帰っていいそうですよ。荷物は明日取りにきてくださいってノダ先生からの伝言です」と先刻の事務の女性に声をかけられた。
「はい」私は小さな声で返事をしたが、父は無言のまま靴をはき歩き出した。
花びらがまい落ちるなか、私は父の背中を見ながら校門までの道程《みちのり》を歩いた。父にたいして取りかえしのつかないひどいことをしてしまった、という気持ちでいっぱいだった。父はもう二度と私と口をきかないのではないか――、そう思うと花のにおいが急にたえがたくなった。校門が迫ったとき、天からふるように讃美歌《さんびか》がきこえてきた。私は今日音楽の授業があることを思い出した。
校門を出たあとどのように帰ったのか憶えていないが、おそらく何の言葉も交わさないままばらばらの方向に、父は車で店に、私は電車で母の家に帰ったのだという気がする。
翌日、昼休みにつくように計って最後の登校をした。
私が扉を開けると、クラスのみんなは「なごり雪」を歌いはじめた。
汽車を待つ君の横で僕《ぼく》は
時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
東京で見る雪はこれが最後ねと
さみしそうに君がつぶやく
なごり雪も降るときを知り
ふざけすぎた季節のあとで
今春がきて君はきれいになった
去年よりずっときれいになった
どうしていいのかわからずつっ立っていた私は、クラス委員に花束とよせ書きをもらい、さらにどうしていいかわからなくなってしまった。
とにかく持ってきたボストンバッグに机とロッカーの荷物をつめこみ、始業を告げるチャイムとともににげるように教室をあとにし、焼却炉《しようきやくろ》にボストンバッグをなげこんだ。
花束とよせ書きは、持ち帰った。
生まれてはじめてもらった花束だった。
家にもどると小包がとどいていた。差出人の名を見て、包装紙を破く手が震えた。ヒロエだった。箱には赤い薔薇《ばら》の花束が窮屈《きゆうくつ》そうに横たわっていて、白い封筒《ふうとう》にブルーブラックのインクで、「赤くさくのはけしの花、白くさくのは百合《ゆり》の花、美里は美里色にきれいにさいてください」と書いてあった。彼女の思いやりはうれしかったが、と同時に世界がことなったと告げられた気もした。
私はドライフラワーにしようと、ヒロエからもらった花束とクラスのみんなからもらった花束をカーテンレールに吊《つ》るした。そして絨毯《じゆうたん》のうえに腰を落とし、呆然《ぼうぜん》と外をながめた。高校をクビになった実感がこみあげてくる。いままでは曖昧《あいまい》だった社会を囲う線がはっきりと見えた。もうもどれない、と思ったとたん、時間と血液《けつえき》の流れが急にぎこちなくなった。
陽《ひ》は沈《しず》み、家の外も内も色彩《しきさい》を失っていき、電気をつけなければと思ったが身動きできない。母と弟はどこへ行っていたのだろう。いつ立ちあがり、電気をつけ、制服を脱いだのか、帰宅した母になじられたのかなぐさめられたのか、眠ったのか眠れなかったのか憶えていない、全部|忘《わす》れてしまった。
[#改ページ]
3 劇場《げきじよう》の砂浜《すなはま》
弟が小学校に出かけると、私と母はふたりきりになった。食卓《しよくたく》をはさんで向かいあうたびに母は、「高校に行きなさいよ、定時制《ていじせい》でもいいから」とか「家でぼんやりしてるんなら銀座《ぎんざ》のクラブのホステスになりなさい。お金かせいで自分をみがいてナンバーワンになれば、デヴィ夫人みたいに大統領《だいとうりよう》だってつかまえられるんだから」と言葉をぶつけてきた。
母の口から出たなかでは、里恵と悠真の父親であるウィスコンシン州の李さんのもとでくらし、高校、大学に進むという話がもっとも具体的で、私のこころも動いたのだが、李さんは再婚《さいこん》し、ふたりの息子《むすこ》をもうけていて、悠真と彼《かれ》らとはうまくいかず円形|脱毛症《だつもうしよう》になって帰国していた。それでも定時制や銀座のクラブや母とふたりで家にいるよりははるかにましに思えたので、私はアメリカに行くことを決断《けつだん》した。
李さんとも連絡《れんらく》をとりあって、ハイスクールが夏休みのあいだに渡米《とべい》し、新学期から通うというスケジュールで着々と進んでいたのだが、母は夏が近づくにつれ不機嫌《ふきげん》になっていった。
「あんたは朱《しゆ》にまじわれば赤くなるタイプだから、アメリカに五年も六年もいたら、麻薬《まやく》とセックスでぼろぼろになるに決まってるのよ。そしたらねぇ、もう高く売りつけることができなくなるの。留学《りゆうがく》やめて、いまのうちにだれかお金持ちとお見合いして結婚《けつこん》したほうがいいかもしれない」
そんな言葉など耳に入らず、ゴミ収集日がくるたびに制服《せいふく》や教科書、いままで大事にしていた身のまわりのものを段《だん》ボールにつめこんですて、「セサミストリート」を観《み》て、こころはすでにアメリカだった。〈すてる〉ということに執念《しゆうねん》を燃《も》やし、すてることで何かひとつでも残るものがあるかたしかめようとしたのかもしれない。年賀状《ねんがじよう》、テニス部の先輩《せんぱい》との交換日記《こうかんにつき》、体育祭でかくし撮《ど》りをしてもらったヒロエの写真、ドライフラワーになっていたふたつの花束――。居場所《いばしよ》がないと憎悪《ぞうお》した学校、やはり外界としては私のたったひとつの場所だったのだ。学校に行かない[#「行かない」に傍点]のと行けない[#「行けない」に傍点]のでは大ちがいだった。私は世界に宙吊《ちゆうづ》りになっている気がした。私を吊《つ》るしているものの正体はわからなかった。この世界に私をつなぎとめているものは何なのか知ろうとしたが、私はがらんどうの世界に影《かげ》のようにいるだけだった。
ある日、がらんとした部屋のまんなかにうつぶせになり両肘《りようひじ》をついて、唯一《ゆいいつ》すてずに残していた英語の教科書をめくっていると、母がノックもせずに扉《とびら》を開け、
「いま、ママ、李さんと電話で話したんだけど、やめたわよ、アメリカ行くの」
私に驚《おどろ》きの声をあげる間もからだをよじる間もあたえずに扉を閉めた。意外に思うかもしれないが、私は何の抗議《こうぎ》もしなかった。月々の生活費は母がふりこむことになっていたし、李氏とはイモの元|旦那《だんな》という間柄《あいだがら》でしかないし、母が中止だといえば、したがうしかないのだ。うつぶせの姿勢《しせい》のまま屑《くず》いれに英語の教科書をシュートすると、急速に眠《ねむ》くなった。部屋のすみに積み重ねてある布団《ふとん》の山をくずし、蓑虫《みのむし》のようにくるまって眠った。
翌日《よくじつ》から私は部屋の扉に《カギがついていなかったので》竹刀《しない》をたてかけ開かないようにして部屋に立てこもった。
することがない。あおむけになったりうつぶせになったりしていると、こころが隙間《すきま》だらけになり、そこからすぎた時間がわりこんでくる。それらは私の人生の外側でおきた、テレビのニュースで紹介《しようかい》される事件のようにしか感じられなかった。
そして小学校に入ったときから数えて十回目の夏休みがやってきた。人生の大部分を学校ですごしてきたせいか一年を一月一日から十二月三十一日までとは考えず、四月から七月でひと区切り、夏は休息期間、と考えていた。ところが一年中、毎日が休日なのである。私は息を殺し、針《はり》のようにつき刺《さ》さってくる時間にたえた。蝉《せみ》の声は消え、外から見える木々はいつもの年と同様に緑を深め、枯《か》れていく予感をただよわせたが、私は宿題にあせる必要はなく、九月が新学期を意味しないことにあらためて気づいた。
母は自分が買物に行ったすきに冷蔵庫《れいぞうこ》を開けてものを食い、トイレを済《す》ます私にいらだち、扉の外からどなり、扉の端《はし》を両手でつかんで強引に開けようとした。
ある深夜、気配を感じて目を開けると、母は枕《まくら》もとに立っていた。
「おまえを殺して、あたしも死んでやる」
母は出刃包丁《でばぼうちよう》をにぎりしめていた。
「死ぬときは自分で死ぬよ。てめぇなんかに殺されてたまるか!」
私は母の右腕《みぎうで》をつかんでひねり、包丁をうばいとった。母は韓国語で何かうなっていたが、となりの部屋から愛人の大橋があらわれると、わっと泣きくずれた。
母に睡眠薬《すいみんやく》を飲ませたあと、大橋が私の部屋に入ってきた。私も泣いていたのだと思う。大橋は私にだきついてきた。
「おじさんは美里をほんとうの娘《むすめ》だと思ってるんだから。ほんとうの娘だよ」うわごとのようにくりかえしながら私の頭や背中をなでまわす。
「てめぇなんて父親でもなんでもない! 出てけ、クソジジイ!」
私は大橋をつきとばして部屋からおい出し、扉のまえに籐《とう》のタンスを移動《いどう》させてバリケードをこしらえると、布団のなかで丸くなった。
そういう夜がつづいた。いま思えば、母は私に何かをやらせたかったのだろう。何度も私の閉ざされたこころを無理矢理抉《むりやりこ》じ開けようとした。包丁のときもあったし、サラダ油のボトルとライターをにぎりしめているときもあった。ある夜などは、今日は外で食べましょう、と車で埠頭《ふとう》につれて行かれ、ちょっとおりて、と海につき落とされそうになったこともある。何かしたいと積極的に思っていたわけではないが、家から出たいという思いだけは切実だった。事実このままふたりきりで母と向きあう生活がつづいたら、母が私を殺すか、私が母を殺すか、どちらかだったろう。
何をしようか、と天井《てんじよう》をぼんやりながめているときにふっと、私が中1のときにテニス部の高2の先輩たちがかわしていた会話を思い出した。先輩たちは日曜日にみんなでミュージカルを観に行ったようで、その役者たちのことを話していたのだ。
「あたしなんか林さんに握手《あくしゆ》してもらったんだから」
「前から二列目だったから汗《あせ》ビシバシとんできたね」
「小池さんなんか涙《なみだ》と鼻水で顔ぐしゃぐしゃだったでしょ。すごいね、お芝居《しばい》でほんとうに泣いちゃうなんて」
「でもあたしも泣いちゃった、美穂《みほ》だって泣いてたじゃん」
何という劇団名《げきだんめい》だったか、不思議なことに一度きいただけなのにすんなり思い出した。
〈東京キッドブラザース〉。私は104で番号を調べ、ためらわずに劇団|事務所《じむしよ》に電話をした。
「あのぉ、そちらの劇団に入るにはどうしたらいいでしょうか」
電話に出た女性《じよせい》は研究生のオーディションが二月にあるということ、受験するならば履歴書《りれきしよ》と写真を送るようにと住所を教えてくれた。電話を切った私は早速寝巻《さつそくねま》きを脱《ぬ》いで着替え、文房具《ぶんぼうぐ》屋に履歴書を買いに行った。写真は、正月に母の着物を着せられて鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》に行ったときに大橋が撮《と》ったピンボケの写真を同封《どうふう》した。
書類選考が通ったという通知がとどき、二次選考会の日時と会場の地図が書かれていた。面接《めんせつ》と唄《うた》。私は買ったばかりの中島みゆきのニューアルバム『はじめまして』のなかでいちばん好きな曲、「生まれた時から」の歌詞《かし》を憶《おぼ》えた。
当時、東京キッドブラザースの小劇場《しようげきじよう》は、竹下通りの入口にあるビルの地下だった。五人ずつ番号をよばれて扉のなかに入る。
なかはせまくて空気が悪かった。私たちは鏡を背に大きな椅子《いす》に座《すわ》っている男のまえに座った。手短に自己紹介《じこしようかい》をして、ピアノの伴奏《ばんそう》にあわせて歌うという段取《だんど》りだったと思う。私の順番は最後だった。他のひとはみんな東京キッドブラザースのミュージカルナンバーで、ふりつきで歌うひともいた。まずいと思ったが私の番になってしまった。どんな自己紹介をしたかは憶えていない。とにかく歌った。
生まれた時から飲んでたと思うほど
あんたが素面《しらふ》でいるのを あたしは見たことがない
あたしの気持ちを気づかない仲間から
昔のあんたの姿《すがた》を 悪気もなく聞かされた
あの娘《こ》と別れて荒《あ》れてたあの頃《ころ》と
今でも同じだと まだ悲しいんだねと
飲んででもいなければ 悲しみは眠らない
さびにかかったところで机《つくえ》がたたかれた。私は声をのんで男を見た。椅子にもどると男は履歴書に目を落としたまま「韓国語はしゃべれるんですか」ときいてきた。「いえ」あわてて首をふると、「どうして退学《たいがく》になったんですか」と質問された。「いろいろあって」と口ごもっていると「あなた写真うつりが悪いですね」といわれ、それで終わりだった。他のひとはもっといろいろ質問されているのに――、落ちた、そう確信《かくしん》した。
しかし合格《ごうかく》した。通知に入所費二十万円と書いてある。母に相談しなければならない。母は意外にも反対しなかった。
「あぁ美里ちゃんがドラマや映画《えいが》に出るようになったら、ママ左うちわねぇ」とうっとりする始末だったが、「ママはお金ないからお父さんに出してもらいなさい」と金は出してくれなかった。
私は高校を中退《ちゆうたい》してから一度も父とあっていなかったので、こころが重かった。そうこうするうちに入団手続きの期限《きげん》がせまってきた。
ある日、東京キッドブラザースの事務所から電話がかかってきた。主宰者《しゆさいしや》の東由多加《ひがしゆたか》氏が私にあいたがっているということだった。母は「芸能界ってそういうふうによばれてひどい目にあうのよ、ママもついてくわ」とうるさかったが、母をふり切ってひとりで渋谷《しぶや》にある劇団事務所に行った。
エレベーターのない階段《かいだん》を一階、二階とのぼっていくうちに、頭のなかで母の声が反響《はんきよう》し、五階の扉《とびら》のまえで深呼吸《しんこきゆう》した。ノックしても反応がない。ブザーも見あたらない。私は扉を開けた。ふつうの事務所だ。女のひとが二、三人いたが、だれもふりかえらない。
「あのぉ、お電話いただいた柳というものですけれど」
というと眼鏡《めがね》をかけた小太りの女性が首をひねった。
「ああ、東さん、家で待ってますからね、この坂をあがって大きな通りに出たら左にまっすぐ行くんです、十分ぐらいですから」と道を説明してくれた。
三十分以上|迷《まよ》った末に青山の|紀ノ国屋《きのくにや》の裏手《うらて》にある白いマンションにたどりついた。かかととかかとをそろえてブザーをおすと、数秒置いて扉が開いた。オーディションのときに質問をしたひとだった。そして彼が東京キッドブラザースの演出家《えんしゆつか》であり劇作家《げきさつか》である東由多加氏だった。私は緊張《きんちよう》して椅子に座った。
「あなたは今年のオーディションで一番だったんですよ。ぜひ研究生になってもらいたくて連絡《れんらく》したんです」
「はい」意外な展開《てんかい》に背筋《せすじ》をのばした。
「まずぼくが興味を持ったのは、高校中退、在日韓国人、それから顔です。あなたメリル・ストリープに似《に》ているといわれませんか」
「知りません」
「街角でモデル事務所にスカウトされたことは?」
私は驚いて首をふった。ひとに容貌《ようぼう》をほめられるのははじめてだった。
「あなたは声に欠陥《けつかん》がありますね。鼻が悪いんですか」
「いえ」
「ちょっとイーッといってみて」
私は歯をかみあわせて上下の唇《くちびる》をめくりイーッと声を出した。東氏は眉根《まゆね》をよせて私の歯に目をこらした。
「なぜ前歯がぬけてるの」
「ちょっと歯の病気で、ふつうはしたに生える歯が一回転して鼻に向かったので、子どものころにぬいたんです」
「いい歯医者紹介するから治したほうがいいよ」
「はい」なぜか急に笑いたくなったが唇に力をいれてこらえた。
「どうして含《ふく》み笑いしてるの。なにかおかしい?」
「いえ」
「キッドはね、男優《だんゆう》は柴田恭兵《しばたきようへい》をはじめとして粒《つぶ》がそろっているんだけど、女優《じよゆう》がね、いないんですよ。女優を育ててみたいという欲望《よくぼう》というか、夢《ゆめ》があるからぜひ入団してほしいんです」
「入ります」
「ほんとに?」
「はい」
東氏は壁《かべ》にかけてある時計を見あげ、
「まだ間にあう。劇場の受付で名前をいえばわかるように電話しておくから、オーディションを受けた場所わかりますか?」
「はい」
「あそこで『失われた藍《あい》の色』という芝居をやっているんですよ、あなたに観《み》てほしいんだけど」
「観たいです」
「あと十五分だから、青山通りでタクシーをひろって、原宿駅の竹下口といってください」
東氏はズボンのなかに手をつっこんでくしゃくしゃの千円札を取り出し、
「ワンメーターで行きます」
「あるからいいです」私は札を受け取らなかったが、「急がないと間にあいませんよ」というので、「じゃあすみません」とつぶやいて札を受け取って外にとび出し、生まれてはじめてひとりでタクシーに乗り、生まれてはじめて観る芝居に思いをはせた。
レッスンはソング、ダンス、アクティングの三つからなり、週に四日だった。アクティングの時間は東氏で、何をするかというと、まるで警察《けいさつ》の訊問《じんもん》のように、これまで何をやってきたか、父親と母親はどのようなひとなのかと追及《ついきゆう》された。幼児《ようじ》のころ楽しかったのは何か、母親をどう思っているか、父親にぶたれたことはないか、東氏は研究生ひとりひとりに執拗《しつよう》に迫り、泣き出してしまうものもいた。
彼は洗いざらい私の過去《かこ》をきいてからこういった。
「あなたの家族のことも、これまでの出来事も、ひとには知られたくないマイナスのことだったでしょうが、演劇をやっていくんならすべてがプラスにひっくりかえるでしょう。それはあなたの才能であり、ほこりにしたほうがいい」
自分でも予想しなかったが、私は熱心にレッスンに打ちこみ、急速に研究生たちと親しくなっていった。
とくに栃木《とちぎ》から上京してきた鈴木京子《すずききようこ》と長野《ながの》の務台真紀《むたいまき》のアパートにはいりびたり、着替えまで置くようになった。
研究生たちはみな、学校や社会の側から見ればどうしようもない落ちこぼれだった。もちろん私が最年少だったが、高卒、大卒、元保母や看護婦《かんごふ》、これまでつきあったことのない、さまざまなひとがいた。
研究生にあたえられた課題のなかに一週間に一冊本を読むこと、日記をつけることというのがあった。日記は数カ月に一度、東氏に提出《ていしゆつ》する。
ある日、東氏によばれた。
「あなたは文章を書けます。これからはできるだけ本を読むように」
同時期に入団した研究生は七十数名、宝塚《たからづか》のように〈愛〉〈夢〉〈連帯〉の三組にわかれ、私は〈愛組〉、なぜか班長《はんちよう》に指名された。あとで劇団の女優から「東さんは美人か美少年、高学歴のひとをはべらせるんだから気をつけたほうがいいわよ」と皮肉めいた口調でいわれたが、何を気をつけたらいいかききそびれてしまった。班長の仕事は緊急《きんきゆう》の連絡|事項《じこう》をみんなに連絡し、他にはどういうことがあったろう、思い出せない。しかし何度か連絡もれなどのミスが重なり、たしか三カ月後に「柳は班長に向かない」と東氏に苦笑され、おろされてしまった。
最初の数カ月はどの稽古《けいこ》にもまじめに出席していたのだが、リズム音痴《おんち》のため唄とダンスが他の研究生にくらべてあきらかに劣《おと》る私は、東氏のアクティング以外はサボることが多くなっていった。東氏に、今年のオーディションではあなたが一番だった、女優として育てたい、あなたはキッドに必要な人物だといわれたことから、多少サボったってクビにされることはないだろう、と高をくくっていたせいもあるが、東氏の稽古《けいこ》が(ダンスはふりつけ師《し》が、ソングは劇団員が担当していた)圧倒的《あつとうてき》におもしろかったというのが大きい。
東氏の演技《えんぎ》の稽古というのは、他の劇団のそれとはまったくことなり、一カ月ごとに〈泣き〉〈笑い〉〈怒《いか》り〉の訓練をし、日常《にちじよう》生活で自分の内にかくし閉じこめている生《なま》の感情《かんじよう》を非《ひ》日常である劇空間《げきくうかん》で解放《かいほう》する、というのが目的だった。岸田秀《きしだしゆう》氏の唯幻論《ゆいげんろん》をもとに、フロイトをはじめとするいろいろな精神分析《せいしんぶんせき》を組みあわせた演劇理論であった。超自我《ちようじが》を排除《はいじよ》して、エス、無意識の世界に抑圧《よくあつ》したものを解放することが演技であるという考えである。もちろん私にはそんなことはわからず、ただ『ガラスの仮面《かめん》』の北島《きたじま》マヤがめざしていることと似ているな、と思っただけであった。
東氏は笑えないひとがいると、稽古場のまんなかに椅子《いす》を置いて座《すわ》らせ、「あなたのお父さんのことを話してください、職業《しよくぎよう》は?」「お母さんはあなたから見てどんなひとですか」「お母さんの出身地は? どんな家庭で育ったかきいたことありますか」「あなたが小学校に通っていたころ家族で旅行に行ったときの話をしてください」「最後に海に行ったのはいつ」「恋人《こいびと》はいますか?」などと矢継《やつ》ぎ早《ばや》に質問をぶつけるのだ。
私は笑えなかった。東氏は笑えないでいる私を見おろしていった。
「あなたは自意識|過剰《かじよう》なんです。自分の感情にふたをしてせきとめている」
終電がなくなって鎌倉まで帰れないときに何度かアパートに泊《と》めてもらったことのある松原《まつばら》も、どうしても笑い顔がひきつってしまうひとりだった。彼女は東氏にたずねられるままに自分の生い立ちを語りはじめた。母親が五歳のときに死んでしまい、父親は一年たたないうちに再婚し、継母《けいぼ》は自分をいじめ、それにたえ切れなくなって高校のときに父親にアパートを借りてもらいひとりぐらしをし、そこから学校に通った話をゆがんだ唇から吐き出した。
ひっきりなしに煙草《たばこ》を吸《す》い、ときおり日本酒の入ったグラスを口に運びながら松原の話に耳をかたむけていた東氏はひとこと、「あなたは嘘をついている」といった。松原は顔をあげ、「嘘なんかいっていません」といったが、東氏は「そのお義母《かあ》さんはあなたをいじめてなんかいない。あなたがお義母さんを憎《にく》んでいたんですよ。あなたがお義母さんにいじめられたと思っているうちは笑えませんよ」といい、興奮《こうふん》して具体的に義母《ぎぼ》から受けた仕打ちを語りはじめた松原を制《せい》して、「じゃあいまお義母さんに電話してみてください、ぼくがそのころのことをきいてみるから」としぶる松原に執拗にせまり、番号をきき出し、机のうえの黒電話のダイヤルを廻《まわ》した。いささか強引に思えたが、実は彼女が継母を憎悪《ぞうお》し、その反映《はんえい》として継母とのいさかいが生じた、つまり松原の〈ものがたり〉にすぎないというのが東氏の主張《しゆちよう》であった。結果がどうだったかは忘れてしまったが、記憶はひとつの物語でしかなく、ひとは往々《おうおう》にして自分に都合のいいよう創作《そうさく》しているものだという考えは、過去《かこ》の経験《けいけん》の重みにたえかねていた私にとって刺激的《しげきてき》だった。もしかしたら私の陰惨《いんさん》な記憶も案外|自己憐憫《じこれんびん》によるフィクションかもしれない――、反発をおぼえると同時に、自分の過去を書きかえることができる可能性《かのうせい》を示唆《しさ》されたように思えた。そのときから私はいつか自分の過去を書きかえて戯曲《ぎきよく》にするという予感を持ったように思う。
〈ワークショップ〉と名づけられた空間で、ライトを浴びた研究生がならび、〈泣き〉の稽古をやらされる。驚いたことに東氏がポンと手をたたいて合図すると、研究生の七割くらいがすすり泣きをはじめ、涙を流し、号泣するのだ。私は呆気《あつけ》にとられて一滴《いつてき》の涙も出なかったが、それでも何度目かの稽古で、突然《とつぜん》の激情《げきじよう》にかられて自分でも驚くほど泣き叫《さけ》んだのであった。三島由紀夫《みしまゆきお》は杉村春子《すぎむらはるこ》のことを「あのひとは怪物《かいぶつ》ですよ、だっていつだってほんとうに泣けるというんですから」と語ったというが、あの稽古場には何人もの怪物がいたのである。
何不自由のないふつうの家庭に育ち、両親はいまだにとても仲がよいという女の子が泣けなかったとき、東氏はいきなり「あなたには何人友だちがいる?」ときき、その子が指をおって「七人」と答えると、「じゃあいまからその七人に電話してここにきてもらいなさい」といってさらにおい打ちをかけた。
「ほんとうに困《こま》っていると説明してきてくれないようでは友だちとはいえないと思いますよ」
彼女は自分のバッグのなかから手帳をつかみ出し、ふらふらした(ように見えた)足取りで(とても小さな)ロビーに出て行った。ふたたび稽古場にもどってきたとき、彼女は泣いていた。だれもくるといってくれなかったそうだ。
〈笑い〉だったか〈泣き〉だったか忘れたが、全員で輪になり鳥のまねをして走りまわるだとか、(幸い愛組はやらなかったが夢組はやった)ピンク・フロイドの音楽をかけて女性、男性ともに上半身はだかになるという試みもあった。
〈怒り〉の稽古では、全員が一列にならび、頭にうかぶきたない言葉をあらん限りの大声で叫び、それでも怒《おこ》れないひとがいると、東氏が机から立ちあがりほおをビンタした。
私は怒りが得意だった。東氏に指名されて立ちあがり、おなじく指名されたひとと向かいあって罵倒《ばとう》しあうということをやったとき、ののしっているうちにわけのわからない憤怒《ふんぬ》がこみあげ、私は低いうなり声をあげて相手につかみかかり、取っ組みあいの喧嘩《けんか》になってしまった。相手も必死で、研究生数人がわって入るまで、手綱《たづな》をにぎりしめるように私の髪の毛をにぎってはなさなかった。髪の毛がごっそりとぬけたのを憶えている。
とにかく稽古場では感情を爆発《ばくはつ》させた研究生が注目を浴びた。私はダンスはからきしできないし、泣くことも笑うことも苦手だったから、どうやら女優には向いていないと思いはじめていたのだが、ときおり稽古場でアドレナリンを噴出《ふんしゆつ》したような気分にさせられて、稽古が私の内部にある何かを強く刺激していることを感じながら〈ワークショップ〉に通いつづけた。
結果的には女優にはなれなかったが、もしあの稽古場での日々がなかったら自分はどうなっていただろうかと感傷《かんしよう》めいたことを考えることがある。なぜキッドの研究生になったの、と問われてもはっきりとした答えはかえせない。ただ生まれてはじめての現実《げんじつ》の手ざわりといおうか、自分自身を疎外《そがい》し、私的な幻想《げんそう》と情念《じようねん》に閉じこもっていた私が外の世界にひらかれていく実感を持ったということはたしかだ。
ずっとのちになって、東氏にアル中、カリスマ、何かとてつもない才能を持っているように見えるが何の評価《ひようか》もされていない男、分裂症《ぶんれつしよう》、などという毀誉褒貶《きよほうへん》がまとわりついていることを知ったが、若いひとの無署名《むしよめい》の才能に真摯《しんし》に対峙《たいじ》し、その可能性《かのうせい》をひき出す情熱を持ちつづけているということだけはみとめなくてはならないと思う。
現在のキッドはそうではないようだが、当時はアルバイト禁止《きんし》だった。だから研究生は入団するまえに貯《た》めた金をつかいはたすか、親から仕送りをしてもらうか、どちらかだった。東氏の言葉によれば、女(あるいは男)をだまして金をまきあげるよりも、アルバイトをするほうがよくないということだった。研究生たちはみな、煙草を一本あげるときでも、「十円」と手を出すほど金に困っていた。それは私も例外ではなく、妻子《さいし》あるサラリーマンの二号と化していた母から金をもらうわけにもいかず、研究生の部屋に泊まり、鎌倉までの電車賃《でんしやちん》をうかすのが精《せい》いっぱいだった。
ソングやダンスの授業のとき、自宅にいる東氏から稽古場に電話がかかってきて、帰りに家によるようにいわれた。玄関のブザーをおすと、東氏が出てきて私に三万円を手わたした。
「え? いい、いい、です」私は両手を左右にふりながらあとずさった。
「これ全部、本と映画につかうんです。あとで感想をきかせてください。他のものにつかっちゃだめ、お金がなくなったらいってください」東氏は二日酔《ふつかよ》いなのか不機嫌《ふきげん》そうに眉《まゆ》をしかめたまま扉を閉めてしまった。
そういう事情で私はこのときほど本をたくさん読み、映画をたくさん観たときはない。稽古が終わると本屋か映画館に直行した。ジイド、バルザック、トルストイ、普段《ふだん》の自分だったら手をのばさないであろう本を十冊近く買いこみ、古本屋を彷徨《ほうこう》し絶版《ぜつぱん》になっている本をさがし歩いたりした。古い白黒映画三本立てというのをよく観た。小津安二郎《おづやすじろう》や溝口健二《みぞぐちけんじ》、イングリッド・バーグマンやグレイス・ケリーの特集というのもあって、それまでほとんど映画を観たことがなかった私は感動と衝撃《しようげき》を受けた。
東氏に目をかけられ〈先生のお気にいり〉として特別|待遇《たいぐう》を受けていることにうしろめたい気分を味わわなかったといえば嘘になる。しかしのちに、彼は私にだけではなく、たとえば東大に在学中の子には入所金を免除《めんじよ》したり、役者として素質《そしつ》があると感じた子には仕事をあたえて、金をわたすという方法をとっていることを知って、内心ホッとした。もっと正直にいえば、私はこころのどこかで〈選ばれた人間〉だというおごりにも似たものを持っていて、学校の擬似的《ぎじてき》な平等とはことなる、社会の不平等、差別に救われたような気持ちだった。そして私は東氏が、私の才能は女優ではなくもっとちがうものなのではないかと考えていることに、しだいに気づいていったのだった。
研究生は週四日の稽古の他にキッドの本公演《ほんこうえん》の手伝いをしなければならなかった。目立たないようみんな、うえは黒のTシャツ、したは黒いジャージかジーンズという出《い》で立《た》ちだったが、それが格好《かつこう》いいというか、黒ずくめになると胸《むね》が高鳴った。
最初にあたえられた仕事は暗転係だった。
大きな劇場には何カ所も緑色の非常灯《ひじようとう》がある。非常灯は消防法《しようぼうほう》によって、上演中《じようえんちゆう》であろうと消してはいけないというのがたてまえなのだが、それでは完全暗転ができないので、融通《ゆうずう》がきく劇場は上演中消してくれる。しかしどうしてもだめだという劇場もあり、しかたないとあきらめることを極度に嫌《きら》う東氏が考えた苦肉の策《さく》が暗転係だった。
暗転係はベニヤでこしらえた非常灯をかくす黒いおおいを持って、非常口に待機している。暗転のシーンが近づいたら観客に気づかれないようにそろりそろりとそのおおいを頭上にあげ非常灯にかぶせるのだ。明るくなると同時にまたゆっくりとしたにおろすのだが、ベニヤでできているので重く、神経《しんけい》を集中しないと非常灯にこすれて音がしてしまう、なかなか忍耐《にんたい》のいる仕事だった。
ああ、思い出した、暗転係として劇場のすみにうずくまっているとき、私ははじめて「ユウミリ」を名乗ったのだ。「ヤナギ」とよばれても「ハイ」、「ユ」とよばれても「ハイ」とかけずりまわっている私を東氏がよびとめた。
「あなたはどうしてぼくとあうときいつもふくみ笑いしてるの」
「いえべつに笑ってません」と否定したがほんとうは東氏をまえにするとなぜか吹《ふ》き出したくてしょうがなかったのだ。なぜそうなのかはいまでも言葉にするのがむずかしい。単純《たんじゆん》にいえば〈はだかの王様〉といおうか、気むずかしい将軍《しようぐん》のようにふるまったり、ときとして道化のように劇団員《げきだんいん》を笑わせたりするこのひとのなかにある稚気《ちき》がおかしくてならなかったのだろう。それをこらえているのでふくみ笑いのように見えたのだ。
「ふたつ名前があるのはよくありません。どちらかに決めなさい、あなたはヤナギなんですか、ユウなんですか」東氏は冗談《じようだん》のまじっていないキツイ調子できいてきた。
私は唇《くちびる》をむすんで数秒考えたあと、韓国読みの本名「ユ ミリ」を「ユウミリ」とききまちがえているなと思ったが、「ユ」よりも「ユウ」のほうがひびきがいいので、訂正する気にはなれなかった。
「ユウでいきます」
そのときから現在《げんざい》にいたるまで私は「ユウミリ」を名乗り通している。
つぎの公演のとき、私は演出《えんしゆつ》づきとして、東氏のとなりに座り、グラスが空になったら酒をつぎ、東氏が怒《おこ》って机をたおしたら床《ゆか》にこぼれた酒を雑巾《ぞうきん》でふき、本番中は東氏のダメ出しをメモするというのがおもな仕事の内容だった。かんたんといえばかんたんだが、連日の徹夜稽古《てつやげいこ》がたたって、居眠《いねむ》りをしてしまうので困った。始終東氏のとなりにいなければならないのでばれてしまうのだ。
私は東氏の息子の養育係もした。いまふりかえるとまるで麻原《あさはら》の娘《むすめ》をあやす信者のようでへんといえばへんだが、成績《せいせき》のよい研究生は家庭教師《かていきようし》、スケートがうまい男子は遊び相手、私はなにも取《と》り柄《え》はなかったが、よくおもちゃなどで遊んだ。研究生にとっては楽なアルバイトだった。たしか半日で三千円だったはずだ。
青山にある東氏の家から原宿のキディランドにつれて行き、あずけられた一万円でおもちゃを買い、帰って包みを破《やぶ》きいっしょに遊ぶ。彼は疲《つか》れて眠ってしまうことが多かった。そうすると約束の時間まで本を読んですごし、おぶって通りに出て家につれて帰るのだ。東氏と元キッドの制作者《せいさくしや》であった女性《じよせい》とは離婚《りこん》していて、子どもは彼女のお母さんとお姉さんが育てていたが、週に一日はかならず昼すぎから夜まで東氏のマンションですごす決まりだった。
彼は小さいとき、私をユーミンとよび、中学に入るまでそうよびつづけていた。彼もいまはもう高校一年生で、私より背が高い。
〈泣き〉〈笑い〉〈怒《いか》り〉の稽古が終わったころ、夏になった。十日間の夏休みがあり、東氏から宿題をあたえられた。夏をつくる、というテーマだった。
みな、竹下通りにあるマクドナルドにより、途方にくれた表情《ひようじよう》で話しあった。
「おれ自転車で日本一周しようかな」
「いや東さんはそんなことを求めてないよ、もっと精神的《せいしんてき》なものじゃない?」
「精神的なものってなに?」
「たとえば大恋愛《だいれんあい》するとか、小学校のとき自分をいじめたひととあって話をするとか」
「え、そんなの平凡《へいぼん》じゃん、もっとかわったことじゃないとだめだよ」
結局、どうすれば夏をつくることになるのかわからないままわかれた。
夏休みが終わって最初の稽古の日、東氏のまえで自分のつくった夏を話さなければならなかった。
椅子が稽古場のまんなかに置かれ、スポットライトがあてられ、暗くなる。しゃべり出すと、いつのまにかイージーリスニングの音楽が流れ、その夏に体験した劇的《げきてき》な出来事を語る。たとえば両親が離婚して、わかれてくらしている父親に十二年ぶりにあいに行く、というような話である。感きわまって泣き出すものもいた。私の番になった。しかし音楽が鳴ってもしゃべることができなかった。うまくいかないのでは、そう思ったのだ。東氏が机をたたき、ふたたび音楽が流れ出す。私は口をつぐんだままだった。
「あなたは自意識過剰ですね。女優で自意識過剰じゃないひとは才能がないけれど、あなたはひどすぎます。それはくだらない」
そのあと他のひとがしゃべっているあいだ、私は小学校、中学校と、自分が他の生徒としゃべれなかった理由にはじめて気づいた。私は自意識過剰のあまり他者とのあいだに壁をきずき、他者にしゃべりかけるすきをあたえなかったのだ。
みんなが夏を語り終わったあと、ふたたび東氏に名をよばれた。私は立ちあがり椅子に座った。スポットライトが落ちてBGMが流れても声が出せない。
「早くしろ!」東氏の怒声《どせい》。
私は玉葱《たまねぎ》のように自分をおおい、自分を守っていた自意識を何とかひきはがして、ある夜|墓地《ぼち》に行き、朝までひとりですごしたことを話した。
「あなたの話はまるで一編《いつぺん》の短編《たんぺん》小説のようですね、けれどその墓場《はかば》であなたはなにを発見したんですか」
「ええっと……それまで墓場には死んだひとの魂《たましい》が眠《ねむ》っていると思っていたんですけど、ひと晩中《ばんじゆう》いて幽霊《ゆうれい》があらわれなかったってことは、いないんだなぁって、死んだひとの魂は墓場なんかじゃなくて、生前好きだった場所にいるんじゃないかなぁって」私はしどろもどろだった。われながらばかなことをいっていると赤面していくのがわかった。
「あなたはまだ自分がだれなのかわかっていない。あなたはここで自分とはだれなのかを知るための旅をしているんですよ。お疲《つか》れさまでした」
突然《とつぜん》稽古は終わった。私とはだれか、という言葉がやけどのように私のなかでふくれあがっていった。
夏が終わると、稽古はそれまでの〈泣き〉〈笑い〉〈怒り〉から、東由多加氏の戯曲集のなかの台詞《せりふ》をしゃべってみるという本格的《ほんかくてき》なものになっていった。
しかしそれも他の劇団とはことなっていた。通常《つうじよう》は本読みからはじまり、演出家が作品を解釈《かいしやく》して役のイメージや台詞の意味などを俳優に伝えることにかなりの時間を費やしたあと、台詞を暗記させ、完全に台詞が入った段階《だんかい》で立ち稽古になるのだが、キッドは東氏が戯曲集をぱらぱらめくり、「八十ページの台詞いってみてください」といわれると、その台詞に一度目を通して本を置き、すぐに稽古場のまんなかで演じなければならないのだ。本読みはなく、いきなり立ち稽古だった。一度読んだだけではもちろん暗記することは不可能である。記憶に残るのは、自分の気持ちにひっかかった台詞、もっといえばとっさにこれは自分だと思った部分だけなのだ。東氏は、台詞を九九《くく》のように口にしてはいけない、単なる口先だけの台詞はきいていてもつまらない、そういいたかったのだと思う。そしてそれはまちがっていない。東氏のいうことはいわゆる常識《じようしき》からははずれていたが、私にとっては新鮮《しんせん》で、なるほどと思うことのほうが多かった。
舞台《ぶたい》の仕込みのときは、男は金槌《かなづち》を持ってセットを組み立て、女は平台や小道具をトラックからおろして舞台そでに搬入《はんにゆう》するのだった。そういうとき私は異常《いじよう》にはりきり、ふつうふたりでひとつを運ぶ平台をひとりでかつぎ、格好もプロの照明や大道具のひとをまねて、肩までまくりあげたTシャツに煙草《たばこ》の箱をはさんだりした。
『スーパーマーケットロマンス』という芝居《しばい》のときはさすがの私もうんざりした。舞台上をスーパーの店内に見せるためにいくつものキャビネットをほんものの商品でうめつくさなければならなかったのだ。缶詰《かんづめ》が入った段《だん》ボールはとうていひとりでは持ちあげられないほど重く、ふたりで両端《りようはし》をつかんで、イッセェノォセ、で息をとめて力んでも持ちあげられなかった。中野サンプラザホールやメルパルクホールなど二千人は収容《しゆうよう》できる劇場は舞台面積も広く、品物もはんぱな量ではさまにならないのだ。コンビニまるごと一店分の品物はあったと思う。それを小道具担当の三人でならべなければならないのだから、たいへんだった。ある研究生の女の子などは眠気《ねむけ》をさますために、ユンケルとモカをいっぺんに飲んで鼻血を出したことさえあった。
その合間に研究生の稽古《けいこ》があるという苛酷《かこく》なスケジュールだった。いちばん困《こま》ったのは風呂《ふろ》。みんなほとんど風呂なし、洗面所《せんめんじよ》もトイレも共同、家賃平均《やちんへいきん》三万の四畳半にすんでいたので、都内の実家から通っている研究生の家におしかけた。私は鎌倉の母の家から通っていたのだが、稽古が長びいて終電がなくなると帰れない。風呂つきの子の家は三人が限度《げんど》なので、都内にすんでいない研究生はいつも早いもの勝ちで宿泊先を確保《かくほ》し、あぶれると風呂なしのアパートに泊まらせてもらうしかなかった。
ある朝、だれかの四畳半で目をさますと、となりに寝ているはずの女の子がいない。廊下に出ると、何と彼女は共同流し場のうえに全裸《ぜんら》で立ち、からだに石鹸《せつけん》をぬりたくっているではないか――、私はあぜんとして、
「やめなよ、だれかきたらどうするの」
「まだ六時だから寝てるよ」
「そろそろおきるからやばいよ」
「だってあたし四日も風呂に入ってないんだもん、すぐ済むから大丈夫」と彼女は水道の蛇口《じやぐち》をひねった。
やはり風呂なしのべつの子の家に泊まり、稽古場に行くまえにひらいたばかりの風呂屋にかけこみ、十分で髪とからだを洗《あら》って水滴《すいてき》もふき取らないで服を着て外にとび出たこともある。どうやっても時間を捻出《ねんしゆつ》できないときは、稽古場のトイレの洗面台の液状《えきじよう》ソープで髪を洗っていた。
はなやかな芸能界とかんちがいして入団した子は早々とやめていった。芝居の小道具を買いに行ってそのままもどらなかった子もいるし、東氏にどなりつけられて泣きながら稽古場から走り出た子もいる。
秋も深まり、翌年の一月の卒業公演に向けてのクラス替えがあるころには約半数に減《へ》っていた。
卒業公演は二クラスにわかれ、おなじ作品をダブルキャストでやることになっている。東氏はひとりひとり顔を見ていって、「変更《へんこう》はあります」と断《ことわ》ったうえでおなじ役につくふたりを選び出していった。
そして二クラス合同の稽古がはじまり、東氏は台本を書き進めていった。芝居のタイトルは、『ウィンターナイトドリーム』、シェイクスピアの『真夏の夜の夢《ゆめ》』のもじりだった。
私は〈佐保《さほ》〉という名の役をもらった。「芝居の世界に絶望《ぜつぼう》していまや信じられるのは本だけ」だという叔父《おじ》が経営するカフェバー〈マクベス〉でシェイクスピアの台詞を唐突《とうとつ》にしゃべり出し、自分のことを〈ぼく〉という不思議な少女――、主役だった。
幕開《まくあ》きのダンスが終わって、最初の台詞は私だった。
「あのテーブルを見ろよ。あのテーブルは劇場さ。いったい何人の人間があの椅子に座ってまるで役者のように泣いたり叫んだりしていると思う?」
佐保はいつも自分のかたわらにいる寛之《ひろゆき》という青年に語りかける。
佐保は店におとずれる客たちがくりひろげる悲喜劇《ひきげき》を観察しているのだが、外が吹雪《ふぶき》になり電車がとまったということを知って狂喜《きようき》する。見ず知らずのひとたちが雪に閉じこめられたことによって、何かがおきるのではないかと期待するのだ。佐保はテーブルのうえにとび乗り、「バーナムの森が、この目には動き出したと見えたのです、動く森が!」と叫んで、ポケットから檸檬《レモン》を取り出しテーブルのうえに置く。
しかし何もおきないまま朝になり、雪はやむ。帰り支度《じたく》をはじめるみんなに、佐保は「冬の王を殺すんだ!」と自分を殺すように命じ、みなは手に手に見えないナイフをにぎって佐保を取り囲み、佐保のうえにふりおろす。悲鳴をあげてテーブルのうえにたおれた佐保のまえに、みんなは花瓶《かびん》からぬいた花、籠《かご》のなかの檸檬をそなえる。佐保は死体のように動かないのだが、寛之の「佐保、はっきりさせよう」という言葉でゆっくりとからだをおこし、「お願いやめて」とはじめて女言葉をつかう。寛之は自分の気持ちを告白したあと、人生に劇的なことなど期待しても無駄《むだ》で、人生とはのろのろと目をさましトーストをかじりコーヒーを飲み、あきらめることなのだというのだが、佐保は「どうしてもそうは思えないの。闘《たたか》いたいの。血を流したいのよ」といい、シェイクスピアのソネットをつぶやく。「Shall I Die Shall I Fly にげるべきか、死ぬべきか」。そして『ウィンターナイトドリーム』は、「寛之、わたし女優になるわ」という佐保のひとことで幕がおりる。
主役だということも大きかったが、私はこの役が好きだった。佐保は私自身だったし、何かをしたいという衝動《しようどう》につき動かされて看護婦《かんごふ》や保母や大学や会社をやめて劇団《げきだん》に入った研究生ひとりひとりでもあったのだ。
チラシができ、チケットが配布《はいふ》され、本番が近づくと、稽古はだんだん過熱していった。
私は近藤《こんどう》という女の子と大乱闘《だいらんとう》になってしまった。
近藤は〈マクベス〉にいきおいよく入ってきて、「だれかいっしょにこの街を出て遠くに行かないか」とだれかれかまわず誘《さそ》いかける少女を演じていたのだが、私が演じる佐保が「いったことをしないやつを見ると胸がむかつくんだ」とつっかかり、少女が佐保につかみかかるところで寛之がとめに入るという設定《せつてい》だった。そのシーンで私はむらむらと怒《いか》りがこみあげ、飲んでいたワインをひっかけてやろうとしたら、手がすべってグラスごとなげつけてしまった。グラスはわれ、近藤も顔をまっ赤にしてなぐりかかってきた。舞台では何があっても役者自らが時間をとめてはいけないといわれていたので、私たちはワイングラスの破片《はへん》のうえで取っ組みあいになった。東氏はいつまでたってもやめろという合図である机をたたくことをせず、私たちを満足そうにながめていた。もちろん本番でそんなことはゆるされないが、私と近藤が本気になっている姿を他の研究生たちに見せつけたのだ。
八年まえ、近藤は二十二歳で死んだ。白血病だった。そのころ私は自分の劇団を旗揚《はたあ》げしたばかりで、公演案内の手紙を送ったところ、「いま病気で、明日集中|治療室《ちりようしつ》に入ります。薬の副作用で髪も眉毛《まゆげ》もみんなぬけてしまいました。退院して髪が生えてきたら、あいましょう」という弱々しい文字でつづられた葉書がかえってきた。
彼女は稽古中何度も咳《せき》をしてとまらないことがあった。私はそれを注意し、彼女がいないところでは、台詞を忘れたことをごまかすためにわざと咳きこんでいるにちがいないと陰口《かげぐち》をたたいた。白血病が原因《げんいん》で咳きこんでいたのかどうかはわからないが、通夜《つや》の席で知人から、彼女は研究生公演が終わって退団《たいだん》した半年後に入院したということをきいた。
話を卒業公演のまえにもどそう。
たしか研究生がチケットをあまり売っていない(ひとり百枚は売らなければならなかった)ことが原因だったと思うが、東氏は「公演は中止」といって稽古の途中で席を立ってしまった。
みな東氏をおいかけて外にとび出たが、私は腰をあげなかった。結局東氏にタクシーに乗りこまれ途方にくれてぞろぞろともどってきて、「どうすれば東さんがゆるしてくれるか考えよう」ということになったが、私は「アホみたいに顔をつきあわせても、なにもはじまらない」とバッグを肩《かた》にかけて立ちあがり、鎌倉に帰った。
それから二、三日は母の店の手伝いをしてすごした。当時母は大船駅のそばで小さな焼き鳥屋をいとなんで生計をたてていた。公演中止になって四日目だったか五日目だったか忘れたが、洗い物をしていると、研究生たちがどかどかと店に入ってきた。いまから全員で東氏の家におしかけ稽古を再開してくれるよう頼むのだという。私は彼らといっしょに電車に乗った。
集合場所であるラフォーレ原宿のまえに全員がそろったのは、午前一時をまわっていた。四十七士の討《う》ちいりのようなこころ持ちで青山にある東氏のマンションに向かった。
何度ブザーをおしても扉をたたいても東氏は出てこない。外から見ると電気はついているのだからいることはたしかだ。だれかが「芝居のなかの唄《うた》を歌って東さんをおこそう」といい出し、全員で歌いはじめ、しだいに乗ってきてふりつきで歌った。深夜だったので、あちこちの窓に電気がついて近所のひとが窓から顔を出し、「うるさい! 静かにしないと警察よぶぞ!」とどなるひともいた。
その声にあわてたのか東氏も窓を開けていった。
「近所|迷惑《めいわく》だからなかに入りなさい」
東氏との話しあいの末、翌日から稽古は再開されるということになり、私たちは東氏のマンションをあとにした。といっても電車はない。タクシー代を持っているひとは帰っていったが、金がない二十名ばかりは始発まで時間をつぶすしかなく、私もそのなかのひとりだった。十二月だ。寒い。代々木上原《よよぎうえはら》にすんでいる研究生のアパートに朝まで置いてもらうことになった。四畳半に二十人、みなしばらくは興奮して芝居のことを語りあっていたが、そのうち眠くなり、足をのばすスペースはなかったので畳のうえで膝をかかえてうつらうつらした。
そして一月、私ははじめての舞台に立ったのだが、なぜだろう、本番直前、本番中の記憶は朦朧《もうろう》としていてほとんど思い出せない。
憶《おぼ》えているのは、何人か共立の同級生が観にきて最前列に座り、泣きながら歌っている私と目があい、吹《ふ》き出されたことだ。男優がいきおいよくジャンプすると、天井に頭がぶつかるほどせまい小劇場だったので、よく観客と目があった。知らないひとであれば笑われても見つめかえすことができるのだが、知人と目があってしまうと――、私はあわてて目をそらした。
遠い親戚がわざわざ韓国から観にきたときも気まずい思いをした。父の兄の嫁の従兄弟《いとこ》という血のつながりも何もない間柄だったが、私が台詞をしゃべるたびに立ちあがり、「ブラボー!」と叫ぶので閉口した。
ハンメが友だちとつれ立ってきたときも困った。ハンメの友だちは日本語がまったくわからないため、となりに座っているハンメが大きな声で台詞を訳《やく》すのだ。終演後、他の研究生たちからは非難囂々《ひなんごうごう》だった。
かくして卒業公演の幕《まく》はおりた。卒業式の日に成績表をもらった。成績表は、ソング、ダンス、アクティング、チケット、貢献度《こうけんど》の五|項目《こうもく》にわかれていて、合計点がある点数に達しているひとだけが準《じゆん》劇団員としてキッドにむかえいれられ、成績が低いひとは役者を断念するか、他の劇団をさがすしかなかった。
結局残ったのは十人、私は合格だった。
東氏はいった。
「あなたたちは近年の研究生のなかでもっとも優秀《ゆうしゆう》です。ぼくはこのメンバーで新しい劇団をつくります。キッドはライバルだと思ってください」
劇団名は〈パンとサーカス〉に決まった。
東氏は、ひとはパンのみにて生くるにあらず、ひとは食べ物だけでは生きられない、カーニバル、祭、サーカスが必要だ、と劇団名の由来を説明し、「人間に必要なすべてを表現するんだから、きっと成功するよ」と笑った。開演まえに観客に手づくりのパンを食べてもらい、サーカスとミュージカルを合体させるという試みだった。私たちは五人ずつサーカス組とパン組にわかれ、私はサーカス組だった。パン組はパン屋で見習いとして働き、サーカス組はたしか木下《きのした》サーカスだったと記憶しているがサーカスに修業《しゆぎよう》に行き、一輪車からはじめて、空中ブランコ、ピエロなどをプロにならった。
旗揚げ公演の台本が半分ぐらいできたところで、男優ふたりと女優ひとりがやめてしまい、代役にキッドの劇団員の長戸《ながと》さんと水谷《みずたに》さんと室伏《むろふし》さんが参加した。
この『BILLY BOY』という芝居がつらかった。毎日が苦痛の連続だった。からだをふりまわすようにダンスを踊り、完全につぶれた声をふりしぼって唄を歌い台詞をしゃべった。いまもこの芝居のことを思い出そうとすると手足と胃の筋肉《きんにく》がきりきり痛む。
私が演じた〈湖〉は、ウイスキーをラッパ飲みして、ジャックナイフをちらつかせ、自分のことは「オレ」といい、〈BILLY BOY〉とよばれている、殺人で刑務所《けいむしよ》に入っている男以外のすべての人間を憎み、殺したいと思っているという役である。
私はとにかくめちゃくちゃにやった。小道具のライターをポケットにいれ忘れて煙草を吸うシーンで火をつけられず、間が持たないので煙草をかみちぎって吐きすてたり、ポケットビンにいれるウーロン茶をほんもののウイスキーにいれかえたこともあった。酒に弱い私はまっ赤になり、幕がおりると同時にトイレにかけこんで嘔吐《おうと》した。
ラストシーンで湖は、〈BILLY BOY〉に兄を殺され、出所したら復讐《ふくしゆう》してやるとこころに決めている阿南《あなん》という男に向かってジャックナイフで切りかかる。阿南は一期うえの水谷さんが演じた。本番中に一度、ナイフで額《ひたい》を切ってしまったことがある。刃《は》はもちろんつぶしてあるのだが、思いきりふりまわせば切れるのだ。私はいくら殺陣《たて》を教わっても本番では形をくずしてしまった。いやなのだ、乱闘を殺陣にするのは――。
東氏は、「柳は芝居ができないから本気でかかってくる。水谷くんも本気でにげるしかない」といったが、水谷さんも必死で、私がナイフをぬいたとたんに私の腕をひねりあげ、おしたおして動けないようにした。
父が観にきたときである。その乱闘シーンで水谷さんは、おしたおしてもなお肩にかみついてあばれる私に怒《いか》り、私のシャツの左右を両手でつかんで頭を床にたたきつけた。その瞬間ボタンが全部はじけとび、したに何も着ていなかったので胸がはだけてしまった。おかげでフィナーレではおっぱいをぶらぶらさせて歌わなければならなかった。――父は最前列に座っていた。
終演後はロビーで劇場から出る観客ひとりひとりを見送ることになっている。父が私のまえにきたとき、どなられるのではないかと身がまえたが、
「きみが演じているのはしたっぱのチンピラだ。ほんとうのワルは、きみみたいにがなり散らしたりしない。こうやって、ほら、顎《あご》だけで指示するんだ、見ろ、このほうがすごみがあるだろ? ちょっとなんて台詞だったっけ? いってみろ」
私が小声で台詞を教えると、父はひと目をはばからずに演じて見せた。父はパチンコ店の釘師《くぎし》なのだが、その昔二十代のころはセールスマン(といえばきこえがいいが、実際《じつさい》はおし売り)をやっていて、偶然《ぐうぜん》芸能プロダクションの社長の家にあがりこんだとき俳優《はいゆう》にならないかとスカウトされたというのが自慢だったのだ。
「だけどわたしはその誘いには乗らなかった。なぜだと思う? 大統領《だいとうりよう》の器だからだ。わたしは韓国にいればいまごろ大統領になっていたはずなんだ」
父の口癖《くちぐせ》だった。
このことを話すと東氏は大笑いした。
「あなたの一家のことをそのまま書けば、傑作《けつさく》ができる」
ちょうど夏休みだったので東氏は、中学二年になった愛里と小学六年の春逢を『BILLY BOY』の地方公演に招待《しようたい》してくれた。そしてそのとき東氏は愛里に目をつけ、キッドに入らないかと勧誘《かんゆう》したのだった。のちに妹も高校を一年で中退してキッドに入る。
愛里と春逢ははじめての新幹線《しんかんせん》にはしゃぎまわっていた。他の役者は〈キョードー名古屋《なごや》〉の担当者《たんとうしや》のマンションや、京都《きようと》出身の役者の実家にわかれて泊《と》まっていたのだが、私たちきょうだいは特別|待遇《たいぐう》で、東氏や劇団員の先輩とおなじホテルをとってもらいダブルベッドに三人で眠った。東氏は私から愛里や春逢のことをきいて、一度も新幹線に乗ったことがなく、両親が別居《べつきよ》してから旅行していないことを知っていたので不憫《ふびん》に思ったのだろう。
地方公演は四国で終了《しゆうりよう》したが、手伝ってくれた地元劇団の役者たちといっしょに島にわたって、海の家に一週間ばかり滞在《たいざい》し、遊んだ。
何日目かの早朝、頭をふみつけられて目をさました。愛里と春逢が取っ組みあいの大喧嘩をしている。春逢の顔にはひっかき傷《きず》ができ血がにじんでいた。
地元劇団の男優がふたりの首根っこをつかんでひきはなした。しゃくりあげている春逢から事情をきくと、愛里が今回の旅のおこづかいが入っている財布から勝手に千円ぬき取り外に出ようとし、何につかうのかときいても黙っているので喧嘩になったのだという。ふたりを外につれ出したとたん、愛里はわっと泣き出し、生理になってしまったのでナプキンを買いに行こうとしただけだといった。
その日の昼すぎ、東氏とキッドの劇団員の三人は本公演のためひと足先に帰ることになっていた。みなで見送りに出ると、春逢は「お姉ちゃん百円!」と私に手をさし出し、百円玉をわたすと全速力でかけ出した。松林の向こうにある自動|販売機《はんばいき》でジュースか何かを買い、船に乗ろうとしている東氏に手わたした。息せき切ってもどってきた春逢は、
「東さん、ウーロン茶好きだから」
と笑って東氏に手をふった。一本の缶ウーロン茶が春逢の精いっぱいの感謝《かんしや》の気持ちだったのである。
――この夏の日のことを思い出すと、なぜだか私は哀《かな》しくなる。
『BILLY BOY』は、〈ワークショップ〉で再演されることになった。
初日が開けてたしか二日目だったと思う。前日にいやなことが三つも立てつづけにおこった。その内容は思い出すのもおぞましいのでくわしくは書かないが、ひとつは、つきあっていた男性のマンションで他の女性とかちあったことだ。泊まる場所をなくした私は一期したの研究生である佐藤恵美《さとうえみ》に事情を話し、横浜にある彼女《かのじよ》の実家に泊めてもらった。
恵美ちゃんは当時十八|歳《さい》、ドイツ人のおじいさんの血をひいて色白で瞳《ひとみ》が大きく、汗くさい劇団にはそぐわないお嬢《じよう》さまっぽい美少女だった。劇団内で「東さんはキッドのヒロインに育てようとしている」と噂《うわさ》され、私と同期の女優たちは「なに、あのぶりっ子!」と嫉妬《しつと》をむき出しにしていた。
恵美ちゃんは、「柳さんは危《あぶ》なっかしくて心配」とひとつ年したの私に親しげにふるまい、たびたび彼女の家に泊まらせてもらっていた。いつもにこにこして何の屈託《くつたく》もない彼女は、私が気楽につきあえるただひとりのひとだった。
朝、ふたりで劇場いりした。東氏の初日のダメ出しをきいたあとぬき稽古をし、開場二十分まえ、私の長台詞からつぎの唄まで通して、本番の支度をすることになった。
ピンク・フロイドの「マザー」が流れるのを合図に私は黒いサングラスをかけ、ゆっくりと舞台のセンターまで歩いて灯《あか》りのなかに立ち、しゃべり出さなければならないのだが、――台詞はのどにつっかえ、頭のなかをぐるぐるまわって一向に音声にならない。
「もう一度!」東氏が机をたたいた。
私は不安、恐怖《きようふ》、あるいは憎悪《ぞうお》、それらをひっくるめた韓国でいう恨《ハン》がこころをしめると、外界を遮断《しやだん》し破滅的《はめつてき》な状況に自分をおいこんでしまうという一種の病を持っていた。
私がもとの位置にもどると、ふたたびBGMがフェイドインしたが、今度は全身がこわばり、歩くことさえできない。
「柳、なにしてんだ!」東氏の怒声《どせい》がとび、シーンはまたもとにもどった。サングラスから涙と鼻水がぼろぼろと流れ落ちるのがわかる。五度目のピンク・フロイドが流れ出したとき、私はにげた。扉の外の階段には開演を待つ客がならんでいた。客をかきわけて階段をかけあがると、外はどしゃぶりの雨だった。駅のそばに陸橋があるのを思いつき、全力で走った。
「柳さん!」声がおいかけてくる。恵美ちゃんだ。彼女は私をおいぬき、私のまえに立ちはだかった。
「柳さん、にげちゃだめだよ。なにがあったってお客さんには関係ないでしょ」
「わたしはひとりでいたいの。だからもどってくれる?」私は彼女の目をにらみつけた。
「柳さんいま、死のうとしてる」というと感きわまったのかワッと泣き出した。
彼女の涙で急速にさめていく自分を感じたが、行く先は断崖《だんがい》しかなくもどり道はないのだといいきかせてあとずさりしながら、
「死のうとなんてしてないし、家に帰るだけだから放っておいてよ。つきまとわれると迷惑だから」
「嘘! 柳さんは線路にとびこもうとしてる!」
彼女が興奮すればするほどばかばかしくなっていく。しかしにげなければ……。
「柳さんいまにげたら、一生にげつづけることになるよ。ね、もどろう」彼女は私の腕をつかみ、坂をかけおりた。
開演時間はとうにすぎているのに客はまだならんでいた。恵美ちゃんは劇場の鉄の扉をおすと、そのまま失神してしまった。
東氏が私の衣裳《いしよう》の上着をはおり、サングラスをかけて台詞を憶えている最中だった。この劇団では本番直前に出演者《しゆつえんしや》がいなくなり、観客を待たせて急遽《きゆうきよ》芝居の内容を変更することなど、よくある出来事だったのだ。『スーパーマーケットロマンス』という芝居では、ニューヨークからよんだ黒人俳優が開演時間をすぎても劇場にあらわれなかった。そのときは出演者のひとりに黒人のメーキャップをほどこし台詞を憶えさせて、三時間おくれで開演した。どんな事件がおこっても上演中止ということはありえない。
東氏は私の姿をみとめると、上着を脱ぎサングラスをはずして黙って私にさし出した。五分後に幕が開いた。腰までのばしていた髪から雨がしたたり落ち、ダンスシーンになると客席に雨がとび散った。
幕がおりたとたん、からだのなかから力という力がぬけ、その場にぐしゃっとつぶれてしまいそうだった。
雨と汗でぬれた衣裳のままだれもいない客席のすみに座っていると舞台|監督《かんとく》から、恵美ちゃんが高熱を出して終演直後に病院に運ばれたことを知らされた。「今日はすみませんでした」と小声でつぶやいても、みな口をきいてくれず、そそくさと帰り支度をして劇場から出て行ってしまった。
この日を境《さかい》にして、役者をやめよう、自分には向いていない、という思いが膨《ふく》れあがっていった。公演中に地方公演が決まったが出演するつもりはなかった。あと一週間、あと五日、あと一日と数えて何とかこなした。
楽日《らくび》の打ちあげ。居酒屋《いざかや》での食事のあとスタッフ、キャスト全員が公演をふりかえって反省や印象深い思い出を順番に語る決まりになっている。退団することをいおうかどうしようか迷ったが、みんなを不快な気分にしてしまうので日を改めて東氏にだけ話すことにし、「いろいろご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」とひとことで終えた。
最後は三期先輩で主役を演じた室伏さんだった。
「あたしは柳がだいっきらいです。でも、パンフレットの文章を読んで、こんなすてきなことを書くのかと思って少しだけゆるせました。でもだいっきらい」室伏さんは少し涙ぐんでいたので私はいたたまれなかった。
深夜一時をまわると、だいぶ飲んでいた東氏は座敷のすみに横になり眠ってしまった。ひとりで薄いチューハイを飲んでいると、となりに室伏さんが腰をおろした。
「あたし、柳がパンフレットに書いた文章、ほんとに好きだったの。あれはビルのうえからとびおりようとした瞬間、もうひとりの自分によびとめられたってことでしょう。みんなはわけわかんない文章だっていってたけど、あたしにはわかるの」
ろれつがまわっていなかった。彼女は酒乱《しゆらん》で、酔っぱらうとトイレのなかでも眠ってしまうと話にきいていた。
「あたし、ひとりで部屋にいると死ぬことばかり考えてるの。剃刀《かみそり》で手首を切ってみるんだけれど、怖くて、深く切れないの。わかるでしょ、柳には。柳とあたしってとってもよく似てるところがあるの、だからだいっきらい」と彼女は煙草《たばこ》をせわしなく吸ってもみ消し、「今度映画観に行こうよ」と独特《どくとく》の泣きそうな笑顔を向けた。
私は室伏さんの芝居が好きだった。彼女は似ている部分があるといったが、感情を爆発させるしか能《のう》がない私とは正反対の、感情をにじませるような演技をした。『冒険《ぼうけん》ブルックリンまで』の〈薫《かおる》〉という花売り娘役がいちばん好きだったが、哀しい花言葉ばかりの花束をだきしめているうちに瞳《ひとみ》も声もにじんでいき、哀しみに流されて消えてしまいそうだった。
テーブルのはすむかいには、室伏さんとつきあっている男優の元|恋人《こいびと》が座っていた。彼女も室伏さんと同期の役者である。
「ああ、いやだ。ほら、あの女《ひと》あたしとひとことも口きかないの。ああ、いやだ」
私の耳のなかに彼女の「いやだ、いやだ」というつぶやきがしたたり落ち、鼓膜《こまく》周辺に雨水のようにたまった。
「柳って、中島みゆき、好きなんだよね。あたしも大好きなの。いちばん好きなのは『りばいばる』」というと彼女は腰をあげてふらふらと立ちあがった。
それから二週間後だったと思う。
室伏さんは死んだ。
東氏からきいた話によると、午前一時ごろ自宅マンションでつきあっていた男優と口論になり、死んでやる、と叫んでベランダの柵《さく》を乗りこえ、その男優は腕をつかんだのだが、支《ささ》え切れずに落ちてしまったということだった。隣室《りんしつ》のひとが、助けて、という声をきいているので男優は殺人のうたがいをかけられ、警察《けいさつ》に十時間もぶっ通しで事情|聴取《ちようしゆ》された。
通夜《つや》と葬儀《そうぎ》に参列するために彼女の実家に向かった。
玄関で私たちを出むかえた室伏さんのお母さんは、「みなさん、よくきてくれたわね、うれしいわ」と異様《いよう》なほどはしゃいでいるように見えた。夫とは離婚していて子どもは室伏さんひとりだけだということだった。
お母さんは私たちを室伏さんの部屋にまねきいれ、タンスのひきだしを開けて形見わけの服を選びはじめた。
通夜の夜更《よふ》け、室伏さんの顔を見せてもらった。とびおりたマンションは八階だときいていたので足がすくんだ。しかし頭部は包帯でかくされているものの、死化粧をほどこされた顔はきれいだった。笑っているようにさえ見えた。
その晩、同期の数人で室伏さんの部屋で眠った。
何の夢も見なかった。
翌朝、葬儀の段取りを説明された。
柴田恭兵さんの弔辞《ちようじ》のあと、みんなでキッドのミュージカルソング「たとえ捩れた青春でも」を歌うということになっていた。私は柴田さんの弔辞をききながら、柴田さんが室伏さんの誕生日《たんじようび》に、稽古場《けいこば》でお地蔵《じぞう》さんの貯金箱をプレゼントしていたことを思い出した。柴田さんは室伏さんを、「お地蔵さん」というニックネームでよんでいたのだ。
柴田さんが遺影《いえい》のまえでいっしょに舞台に立った思い出を語り、「みき、もっといっしょに芝居をしたかった」と泣きくずれて、
何もかもどうでも良くて
死んでもいいと思うきみが
ひと切れの愛の欠片《かけら》に
舞《ま》いあがるほどうれしがる
と歌いはじめたとき、室伏さんの顔とお地蔵さんの顔が重なり、私は泣いた。呼吸《こきゆう》ができないほど、立っていられないほど、泣いた。
東京にもどってしばらくたって、私は東氏に退団したいと申し出た。
「やめることはいつでもできるし、地方公演だってあるじゃないか。『BILLY BOY』の〈湖〉という役はあなたにしかできないんだから、この芝居が終わってもう一度考えたら」と東氏にひきとめられ、決心がぐらつきそうになったそのとき、
「まぁ、いいか。あなたは女優には向いていないし、そろそろほんとうにめざすものに向かったほうがいいかもな」といった。
私は黙ったまま一礼して稽古場の扉を閉めた。
鎌倉の母の家にいると気分的においつめられるので、研究生時代親しかった鈴木京子の代々木上原のアパートに身のまわりの荷物をうつした。
鈴木京子は成績が足りずにキッドに残ることができなかったのだが、女優になる夢をすてきれず、元|文学座《ぶんがくざ》の俳優がやっているというショーパブにつとめていた。彼女は、そこは芸能プロダクションでもあり、CMやドラマのオーディションのチャンスがまわってくると信じていた。
最初の一カ月は掃除《そうじ》や洗濯をするかわりに彼女から一日五百円をもらって生活した。米だけは彼女の実家の宇都宮《うつのみや》から送ってくるので不自由しなかった。しかし一カ月をすぎると、五百円もらうのに気がひけて「とらばーゆ」を買って赤マジックで印をつけたりした。三カ月目に突入するとかなり気まずい雰囲気になり、私は時給八千円の銀座のクラブに面接に出かけた。
面接係の中年男性にいくつか質問された。
「あなたいますっぴんだけど、いつもそうなの」
「肌《はだ》が弱いんで、化粧するとかぶれるんです。すっぴんじゃだめですか」
「だめに決まってるでしょ」
彼は履歴書に目を落とした。
「〈東京キッドブラザース〉に二年いたのね。あのねぇ、劇団でちょい役やるより、銀座でホステスやるほうが、よっぽど演技の勉強になるのよ」
ホステスが顔にはりつける愛想笑いなど舞台のうえで通用するはずがない。第一、日本の役者は男だったら兵隊《へいたい》、女は娼婦《しようふ》やホステス役ならなんなく演じることができるという定評《ていひよう》があるのだ。
「悪いけど、うちではきみみたいな子、だめなんだよ。六本木《ろつぽんぎ》に友だちの店があるからそこに行ってみたら。いま、面接行くって電話してあげる」
男は受話器を取り上げプッシュボタンをおし、先方に私のことを簡単《かんたん》に説明すると、その店の地図といっしょに履歴書をつきかえした。紹介された店には行かなかった。
数日後、つきあっていた男性からいっしょにくらさないかと誘われ、荷物をうつした。
私はそこでも掃除や洗濯をしてすごした。同級生たちが高校を卒業する歳になると、不安は頂点《ちようてん》に達し、何のあてもなくいろいろな芝居を観てまわったが、はじめてキッドの芝居を観たときのようには感動できなかった。八〇年代半ば、小劇場《しようげきじよう》ブームのまっただなか、軽い笑いとパロディが全盛《ぜんせい》だった。
私は焦燥感《しようそうかん》をごまかすために猫を飼い、亀《かめ》を、イモリを、めずらしい熱帯魚を、鰻《うなぎ》の稚魚《ちぎよ》を、泥鰌《どじよう》を、鮒《ふな》を、金魚を飼った。そして部屋中観葉植物でうめつくし、新しいカーテンをオーダーし、食器を買いそろえた。それでも時間はあまり、おり紙の本を買ってきて複雑な形をおっては、天井から糸で吊るした。屑《くず》いれなどにテディ・ベアの形に切りぬいた色紙をはりつけたり、クッションにきれいな色のボタンを縫《ぬ》いつけたり――、とにかく時間をつぶすためなら何でもした。
その年の大晦日《おおみそか》は御節《おせち》料理の本を片手《かたて》に締《し》め鯖《さば》をこしらえ、栗《くり》きんとんは薩摩芋《さつまいも》をこすところからやった。
大掃除も大晦日の数日まえから徹底的にやった。店が閉まるまえにクリーニングに出そうとクローゼットを開けると、形見わけにもらった室伏さんのピンクのセーターと紺《こん》の上下が目にとびこんできた。耳の底から「いやだ、いやだ」という彼女のつぶやきがわきあがって煙《けむり》のように私のほおをなで、「柳とあたしってとってもよく似てるところがあるの」という言葉がせまってきた。一度も袖《そで》を通さなかった。袖を通すことが怖かったのだ。
数カ月後に、キッドに残った同期の役者に電話をかけたとき、『BILLY BOY』の室伏さんの役は恵美ちゃんが演じたこと、さらに室伏さんがつきあっていた男優と恵美ちゃんがいっしょにくらしはじめたことを知った。一年もたっていないのにと怒《いか》りがこみあげるより、これ以上ないような情《なさ》けない笑いがこみあげてきて、しばらくすかすかの笑いをまき散らした。不意に室伏さんが好きだといっていた中島みゆきの「りばいばる」の歌詞を思い出した。
愛してる愛してる 今は誰《だれ》のため
愛してる愛してる 君よ歌う
やっと忘れた歌が もう一度|流行《はや》る
きっかけは忘れた。なぜだろう、大切なことなのに。私は書きはじめた。何をテーマにするだとか、発表する、しないだとか、小説か戯曲《ぎきよく》かだとか何も考えずに、書いた。
いま思うと、あれほど未熟《みじゆく》であれほど完璧《かんぺき》だった公演はあるまい。私はすべてを書いたのだ。チラシのデザイン、宣伝《せんでん》コピー、セットプラン――。
私が書いた戯曲はあまりにもみすぼらしく、砂漠《さばく》の吟遊詩人《ぎんゆうしじん》が語るように、もし一匹のアリが戯曲を書いたノートのあいだにまぎれこんだら、すぐさまイメージをどこかに持ち運んだことだろう。恥ずかしさをこらえて書き出しの|ト書《とがき》をそのまま紹介する。
[#ここから1字下げ]
幻のセミの泣く声……ジージーとしのびよってくる。夕暮れがだんだん赤くなっていくにつれてセミの大合唱となる。
くたびれたがくらん姿の少年、フラフラと公園に迷いこみ、街のただ行き交うひとびとを茫然《ぼうぜん》とながめる。少年の顔は思わず目を背けたくなるほど憔悴《しようすい》しきっているが……不可解《ふかかい》な微笑《びしよう》がうかんでいる。受難《じゆなん》のキリストのイメージ。
[#ここで字下げ終わり]
やはり恥ずかしい。一応戯曲形式になっていたが、日記といったほうがふさわしい。主人公の名は〈修治《しゆうじ》〉、太宰治の本名〈津島《つしま》修治〉からもらった。ずいしょに太宰の言葉をちりばめ、まさに太宰治へのラブレターだった。タイトルは『水の中の友へ』、タイトルをつけたとたんに戯曲として上演してみたくなった。
私は自分の演出名を太宰治の実兄の名〈津島|圭治《けいじ》〉、舞台《ぶたい》デザイナーとしての名を中原中也の実弟の名〈中原|思郎《しろう》〉と決め、演出プランを練り、セットデザインを描きはじめた。劇団名は檀一雄《だんかずお》の『小説太宰治』に登場する〈青春五月党〉からとった。都新聞の入社試験に落ちた若かりしころの太宰治をはげます会を檀ら友人がひらき、五月だったことから「我《われ》ら青春五月党」とだれかがふざけていったのだ。
書きはじめたばかりの六ページ足らずの戯曲をかかえて、私は東氏をたずねた。読み終えた東氏は何の感情もこめずにただひとこと「やってみるか」といい、書きあげたら原宿の〈ワークショップ〉からひっこしたばかりの新しい稽古場|兼《けん》劇場〈WATER〉をただで貸《か》してくれると約束してくれた。芝浦《しばうら》の倉庫街の一角にあるビルの六階、窓からは海が見えた。
物語は、死にたがっている男、あるいはすでに死んでいる男と家出少女が浜辺で出あって心中するという、いま考えるとただ私の心情をべたべたとぬりたくっただけのものだった。
この公演の記憶は浜辺に打ちあげられたゴミのように切れ切れだ。憶えていることといえば、稽古がはじまって十日もたたないのに逃亡《とうぼう》をくわだて、稽古を三日間も中断してしまったこと、砂舞台にしたかったので鎌倉の|七里ケ浜《しちりがはま》の砂をトラックで運び、役者に手伝ってもらって五時間もかけてポリバケツで一階から六階の劇場までかかえあげたことだ。
公演中私がしたことといえば、いちばんうしろの席で自分の台詞に赤面し、下手くそな役者を憎み、屋上にかけあがって自殺したいという衝動をおさえ、観客のちょっとした反応に自己満足し、とにかく気が狂っていたとしかいいようのない醜態《しゆうたい》を演じた。
ラストシーンはこうである。
[#ここから1字下げ]
樹影 サヨナラ サヨナラ
こんなにいいお天気の日におわかれしてゆくのかと思うとほんとにつらいのだけれど……サヨナラ……サヨナラ(中略《ちゆうりやく》)おーいっ、おーいっ(砂浜にくずれながら叫びつづける)おーいっ、おーいっ!
叫び声はきき取れなくなり、樹影はまるで胎児《たいじ》のように丸くなる。
暗転。
闇《やみ》の中、すすり泣きだけが心細くきこえるが、それも消えてしまう。
―――――幕―――――
[#ここで字下げ終わり]
一九八八年、読売新聞の劇評「三月の新劇から」でこう評された。
「作・演出《えんしゆつ》は同一人物で、十九歳の在日韓国人女性。青春特有の苦悩を、水の鏡に映し出すとゆがんで見えるという意味をこめた作品である。主人公は在日韓国人二世の少年。己《おのれ》のアイデンティティを求めることによって、他人(恋人)までも傷つける。作者は豊富な言葉の持ち主で、整理された次回作に期待したい。何よりまじめな芝居づくりに好感を持った」
はじめての芝居がこのような評価をえたことは幸運以外の何ものでもない。
でも私は公演中まいあがりながらもいつも劇場の外の海を意識していた。波の音というより、海の悲鳴に耳をすましていた。
私は『棘《とげ》を失《な》くした時計』『石に泳ぐ魚』『静物画』『月の斑点《しみ》』『春の消息』『向日葵《ひまわり》の柩《ひつぎ》』とつぎつぎに作品を書き、発表していった。いま思うと、書くことでしかうめられなかった六年間は、海をうめ立てつづけたようで何だか哀《かな》しい。そして八作目の『魚の祭』で岸田國士《きしだくにお》戯曲賞を受賞した。二十四歳、史上最年少だった。
私はなぜこんな早すぎる自伝めいたエッセイを書いたのだろう。過去を埋葬《まいそう》したいという動機はたしかにある。私が書いた戯曲の主題は〈家族〉であり、その後書きはじめた小説もやはり〈家族〉の物語からのがれることはできなかった。つまり私はこのエッセイを書くことによって、私自身から遠くはなれようとしたのだ。それこそがこのロングエッセイを書いた理由だと思う。
私は過去の墓標《ぼひよう》を立てたかったのだ。それがどんなに早すぎるとしても――。
今年のはじめに、十五歳のとき自殺を試みた逗子《ずし》の海岸に行った。
真冬の浜辺にはひとっ子ひとりいなかった。まるで深夜の校庭のようにしんとしていた。きこえるのは波がくだける音だけ。だれもいない。海は不安気に泡立《あわだ》って波を打ちかえしていた。あれから十三年――。
海を左にながめながら歩いていて、つまずいてしまった。砂浜にうもれているさびた鉄のパイプ。砂をほると、乳母車の骨と朽《く》ちた布が姿をあらわした。
私は骨格だけの乳母車にからだをおしこんだ。目のまえにはおおきな蝙蝠《こうもり》のような海がひろがっている。私は乳母車を揺すった。
不意に、ゆりかご、という言葉がうかんだ。私にはゆりかごのなかにいた記憶はない。しかしいいのだ、記憶はいつだって修整《しゆうせい》できるから。すべてが虚構《きよこう》なのだ。背や尻につき刺さる乳母車の骨を感じながら私は海に目をなげた。
私のゆりかごは、私の墓場でもある。海は生誕《せいたん》の約束の場であり、死んで帰るべき場所だ。私たちが生きている場所は砂浜なのだ。私は骨ばったゆりかごにゆったりと身をまかせた。遠くから子守唄《こもりうた》が流れてくる。
海の向こうに、幻の海峡《かいきよう》が見えた。
[#改ページ]
あとがき
「夕影草」というタイトルで「月刊カドカワ」に連載《れんさい》していたものを一冊にまとめるにあたって『水辺のゆりかご』と改題した。
なぜ改題したのかと問われれば、夕暮れどきに迷子《まいご》になって、どこからきたのかと問われるような心細い気持ちになるが、ラストシーンの浜辺にうもれたゆりかごが瞼《まぶた》からはなれなかったから、と答えるしかない。ゆりかごは半分|砂《すな》にうもれさびた鉄骨《てつこつ》がむき出しになっている――、夕影草は砂にうもれてしまったのである。
すべては〈事実〉であり、〈嘘〉であるといえばひとはうさんくさいと思うであろうか。私は歴史であれ、政治であれ、ひとの身の上話であっても、それは事実であると同時に嘘だと思う、その自分の感覚を信じている。芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》の有名な小説「藪の中」に登場する藪、カオスこそ私にとっての〈真実〉である。
ではいったいこれは何なのだろう。あるひとは〈自伝〉だといい、あるひとは〈小説〉だといい、〈エッセイ〉だというひともいるかもしれない。
ここに登場するひとたちは、実際に私のまえにあらわれたひとびとだと断言する。懐《なつ》かしく哀《かな》しい思いをかき立てるひとびと、彼らは存在したし、いまでも存在している。私が浜辺で見た幻覚《げんかく》だったにしろ――、そう、この世はある種の幻覚なのだ。
多くのひとがあらわれて、去る――、それは私だけではなくだれもが経験する〈哀しみ〉だろう。残るのは思い出、記憶にすぎない。そしてその記憶こそが物語であり、物語の〈変容《へんよう》〉のいっさいである。これは〈自伝〉でもなく〈小説〉でもない。私はいおう、これは言葉の堆積《たいせき》である、言葉の土砂であると――。
一九九六年暮れ
[#地付き]柳 美 里
角川文庫『水辺のゆりかご』平成11年6月25日初版発行
平成13年7月10日8版発行