TITLE : 空白の天気図
空白の天気図 柳田邦男
目次
序章 死者二千人の謎
敗戦後間もない日本を駆け抜けた枕崎台風。広島県下では上陸地九州をはるかに上回る二千余の人命が一夜にして絶たれた。なぜ広島で?
第一章 閃光
八月六日朝、広島気象台は一瞬の閃光により破壊された。その日データ打電のため炎上する市街へ決死行を試みた三人の台員の見たものは。
第二章 欠測ナシ
失われた観測機材、食料難、原因不明の病に次々と倒れて行く台員たち。終戦を迎えても天気予報は再開し得ず、気象情報の空白は続く。
第三章 昭和二十年九月十七日
情報途絶下、勢力も進路も知り得ぬ台風は来た。「総員起シ!」暴風雨の中、匍匐前進で百葉箱へと向う台員。しかし風速計の針はとび……。
第四章 京都大学研究班の遭難
原爆禍が台風の犠牲者を呼ぶ。豪雨がもたらした暗夜の山津波。被爆者と救護班の眠る大野陸軍病院は一瞬のうちに海に押し流された。
第五章 黒い雨
台風、原爆両災害の全貌は、台員たちの綿密な聴取り調査で次第に明らかになって行く。原爆投下後降り注いだ謎の黒色の泥雨の正体は。
終章 砂時計の記録
時は過ぎ、悪夢の記憶は人々の心の中で急速に風化して行く。戦禍癒えた今、再び広島の人となった一台員の胸に新たな使命感が。
あとがき
主要参考資料
空白の天気図
序章 死者二千人の謎
1
海は哮《たけ》り狂っていた。
攻め寄せて来る波浪は、猛然と岸壁に襲いかかり、砕け散った波しぶきが退却する間もなく、もう次の怒濤《どとう》が急迫していた。波頭は、岸壁に激突しないうちに烈風によってちぎられ、ちぎれた波は白い泡沫《ほうまつ》となって飛び散り、暗澹《あんたん》たる世界の中に辛うじて光る斑点を作っていた。
風は唸《うな》りをあげ、雨は横に飛んでいた。
風は刻一刻と強まって行った。風向きが東南東からわずかに南東寄りに変化したとき、波浪の中に混乱が起こった。波と波がぶつかり始めたのだ。巨大なエネルギーを持った大波と大波が合体すると、それは全く姿を変え、不気味な三角波となった。烈風がさらにその三角波を研ぎ澄ます作用をしていた。
三角波は、海岸に到達すると恐るべき威力を発揮した。波は岸壁を破壊し、港の中に繋留《けいりゆう》された漁船を次々に呑みこんだ。
台風が至近距離を通過しつつあることは確実だった。
昭和二十年九月十七日、月曜日、午後二時を回ろうとしていた。
薩摩《さつま》半島南端の枕崎一帯は、いま数十年来経験したことのない暴風雨の真っただ中に置かれていた。三角波の発生は漁師たちを恐怖に陥れた。軍艦さえ沈没させる三角波の狂暴さについて、海に生きている漁師たちは知り過ぎるほど知っていたが、それが海岸にまで押し寄せてくることは尋常のことではなかった。
枕崎町の小高い丘の上にある枕崎測候所では、茶屋道久吉技手と今門宗夫嘱託の二人が嵐と闘っていた。枕崎一帯では、海からの風はもはや単なる暴風ではなくなっていた。風は無数の海水の飛沫を含み、一面濃霧が立ちこめたように視界を悪くしていた。土地の人たちはこの特異な現象を「潮煙《しおけむり》」と呼んでいた。潮煙が霧と根本的に違うのは、海水の粒子がたたきつけるようなスピードで飛んでいることだった。
潮煙は内陸深くまで容赦なく侵入して行った。観測のため屋外の露場《ろじよう》に出入りする二人は、塩辛い暴風雨と闘わなければならなかった。海水の粒子は目といわず鼻といわず遠慮なく飛び込んでくるし、そんなことに気をとられていると身体《からだ》が吹き飛ばされる危険があった。
茶屋道技手が午前中受信した中央気象台の無線放送によれば、台風の中心示度は水銀気圧計で七二〇粍《ミリ》以下(注・九六〇ミリバール以下)とのことだったが、枕崎測候所の水銀気圧計はすでに午後一時過ぎには七二〇粍を切り、その後もどんどん降下して、午後二時過ぎにはついに七〇〇粍を切ってしまった。まるで巨大な竜巻の中に入ったかと思われるような、急激な気圧の降下と暴風の荒れ狂いようであった。
午後二時十六分、風の息とも言える刻々の風速を記録するダインス式風圧計の自記紙の針は、最大瞬間風速六十二・七米《メートル》を記録した。これは、台風常襲地の枕崎でさえ、明治二十二年の台風以来五十六年ぶりという記録的な暴風だった。
午後二時三十分、茶屋道技手は露場にある雨量計や百葉箱の温度計の臨時観測をしようと外に出た。そのとたん、瞬間五十米を越える突風に襲われて、吹き飛ばされた。彼は露場入口の柱に激突して右手に打撲傷を負ったが、ずぶ濡れの身体を起こすと、這《は》うようにして庁舎に逃げ込んだ。
逃げこんだ瞬間、今度はバリバリという音とともに、庁舎の東半分の屋根が剥《は》ぎとられた。ほとんど同時に露場の百葉箱や雨量計室が倒壊するのが窓から見えた。雨と潮風が庁舎の中に怒濤のごとく入り込んで来、庁舎内の塗壁が無残にずり落ちて行った。屋根が飛んだ部分には、平均風速を観測する風速計の読み取り器があったが、読み取り器は壊され、最大風速をこれ以上実測することは不可能になった。
気圧計室は無事だった。
二時三十八分風が急に衰えて、それまで低くたれこめていた暗雲に切れ目ができ、全天に薄明りが射して来た。茶屋道技手は、枕崎付近が台風の眼に入ったことを、直感的に悟った。
二時四十分、気圧計はついに六八七・五粍(九一六・六ミリバール)を指して、降下をやめた。異常なまでに低い示度であった。六八七・五粍と言えば、観測史上最大の台風とされる昭和九年の室戸《むろと》台風のとき、室戸測候所で観測された世界的最低気圧六八四粍(九一二ミリバール)に匹敵する値である。
風はほとんどやみ、雨も小降りになっていたが、高山に登ったときのような息苦しさが続いた。気圧計の示度はほとんど動かなかった。
二時四十分 六八七・五粍
同 四十五分 六八七・七粍
同 五十分 六八七・九粍
三時〇〇分 六八八・五粍
観測野帳にメモされたこれらの記録は、二十分間の気圧の変化がわずかに一粍しかなかったことをはっきりと示していた。
茶屋道技手は、この重要なデータを何とかして中央気象台に打電しなければならないと思った。戦争に敗れてから、南方洋上や島々の気象観測データの入電は激減し、中央気象台の天気図作成業務は支障を来たしていた。南方のデータが欠けることは、とくに台風予報にとって致命的であった。いまや枕崎測候所は、台風観測の最前線なのだ。この日午前までの中央気象台の台風情報は、すべて周辺のデータから勢力を推定したものであった。台風が上陸したとき、枕崎で実測された最低気圧と風速は、中央気象台の推定が台風の正体を全く見抜いていないことを暴露していた。台風がこのまま北上すれば、西日本一円に甚大な被害がもたらされることは確実だった。中央気象台をはじめ各地の気象台は、暴風警報を更新し、住民に対し襲来しつつある台風が並大抵のものでないことを警告しなければならないのだ。だが、中央気象台にその必要性を気付かせるためには、台風がいかに凄《すさま》じいものであるかを示す枕崎のデータが伝えられなければならない。茶屋道技手はあせりを感じたが、どうしようもなかった。庁舎は倒壊寸前の危険な状態に置かれていたし、すべての通信線は途絶していたからだ。
台風の眼の大きさは約三十粁《キロ》もあり、その中心は枕崎のやや西を通った。
眼の中心が通過した農村地帯では、風がにわかにやみ、暗澹たる雲が一転して、日も照り出した。人々は夢のような気持につつまれた。蒸し暑く、息苦しいため、人々が戸外に出ると、空にはかもめや赤とんぼが弱々しく飛んでいた。あの暴風雨の中で生き残ったのか、それとも台風の眼にとらえられて逃れられず、台風とともに移動しているのか、大自然の猛威にさらされた生き物のか弱さを象徴するような弱々しい姿だった。
こんな平穏もほんの三十分程しか持続しなかった。風向がゆっくりと南から西へと変り、台風の中心が過ぎたことを示すやいなや、再び猛烈な風の吹き返しが始まった。それまでは何とか耐えていた家屋も、全く逆方向から吹き返して来た暴風にさらされると、ひとたまりもなく倒壊した。
とくにひどかったのは、川辺《かわなべ》郡西南方《にしみなみかた》村茅野だった。茅野では、六十数戸の村落のほとんど全部が倒壊し、まるで竜巻の直撃を受けたような惨状を呈していた。
村人たちは、家の下敷になって死傷する者が続出し、
「イワオコシだ、イワオコシだ!」
と叫んで、恐れおののいた。
イワオコシとは、この地方の古老によって伝えられた言葉で、「岩起こし」つまり巨大な岩さえもひきはがすほどの風の意味であった。イワオコシは、この地方に数十年に一回吹く風として恐れられていた。確かに風は山々の樹木をことごとくなぎ倒し、山崩れをひき起こし、さらに山肌の岩をも吹き飛ばしかねない勢いで荒れ狂っていた。
枕崎町の被害も惨憺《さんたん》たるものであった。枕崎町は、空襲で市街地のほとんどを焼き尽されていたが、焼け残っていた周辺の住宅もこの暴風によって次々に破壊された。人間の棲《す》み家《か》は、黒い巨獣に弄《もてあそ》ばれる玩具のようであった。
枕崎測候所では、風速計が壊れたため、ダインス式風圧計から平均風速を推定せざるをえなくなっていた。茶屋道技手は、午後三時三十分、「最大平均風速、西の風五十米」と推定し、観測野帳に記入した。台風の眼の上陸前には、瞬間風速は六十二・七米を記録したものの、平均風速は最大で四十米だった。ところが、眼の通過後の平均風速は最大五十米に達している。吹き戻しの風の方がむしろ強いのだ。長年枕崎測候所に勤務し、数多くの台風に立ち向かって来た茶屋道技手は、いよいよもってこの台風は恐るべきものだと思った。しかし、中央気象台に打電する手段は、依然としてすべて断たれたままであった。彼の脳裏に、猛台風に翻弄《ほんろう》される町や村の姿がかすめた。彼は苛立《いらだ》ちを感じたが、なすすべを知らなかった。
2
同時刻――。
枕崎からはるか離れた東京の街には、台風の前ぶれの驟雨《しゆうう》が時折通り過ぎ、べとつくような生暖かい南風が吹き込んでいた。
終戦からひと月余りを経たこの日、昭和二十年九月十七日正午前、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、日比谷交差点の第一生命ビルに設けられたGHQ(連合軍総司令部)に乗り込み、いよいよ東京で占領政策の執務にとりかかった。宮城とお濠《ほり》をへだてて向かいあった第一生命ビルにGHQが設置されたのは、わずか二日前であった。
一方、日本政府の動きを見ると、ミズーリ号艦上での降伏調印に全権委員を務めた重光葵外相が辞任し、後任に、平和派外交官と言われていた吉田茂元駐英大使が起用されている。連合軍の占領政策と、それに対応する日本側の政治体制がようやく整えられつつあったのだが、空襲で焦土と化した首都東京は、いたるところ瓦礫《がれき》の山が放置されたままになっていて、復興の槌音《つちおと》はようやく細々と響き始めたばかりであった。
中央気象台は、神田寄りのお濠端の竹平町にあったが、戦災で庁舎の多くを焼かれたため、台長室や総務関係は、神田の学士会館の一角に間借りしていた。
台長藤原咲平が台長室の机に向かって書類の整理をしていると、来客があった。客と言っても、前月に広島管区気象台長に赴任したばかりの菅原《すがわら》芳生であった。菅原は「業務のため上京しましたので、ちょっとご挨拶に寄りました」と言って、頭を下げた。
菅原は、赴任して知った広島の原爆の被災状況が想像を越えたものであることを語った後、広島管区気象台の現状について報告した。
「職員がみな頑張ってくれるので、観測は何とか続けています。病気で倒れたままの者もいるのですが、若い連中の頑張り様ときたら、頭が下がる思いです。食糧難も大変ですが、広島では住む家の方も大変な問題です。原子爆弾でほとんど焼かれてしまいましたから――。気象台の近くに空家になった陸軍の仮設病棟がありますので、とりあえずはそこに住まわせたいと考えているのですが、それとてバラック同然のひどい建物です、いつまでもそこに住まわせておくわけにはまいりません」
菅原の報告は、控え目だったが、切々たるものがこめられていた。藤原咲平は、菅原の訥々《とつとつ》としたことばの背後にある廃墟の街の生活と仕事の苛酷さについて、十分に理解しているつもりだった。菅原を広島に派遣したのは、ほかでもない藤原自身だった。原子爆弾によって未曾有《みぞう》の惨禍を受けた広島に乗り込んで、気象業務を立て直すことができるのは誰かと考えたとき、藤原の頭に浮んだのが菅原であった。
もっとも菅原の広島派遣を考えたのは、原爆投下前の八月はじめだった。戦争も大詰めを迎えて、気象要員の軍への派遣など目まぐるしく変る要員配置の中で、広島の台長交代も考えられていたのだった。そこへ原爆投下という事態が起こったのである。廃墟の街で気象台の再建を担当できる人物は誰かと再考したが、やはり藤原の頭には菅原以外に適任者は思い浮べることができなかった。
菅原という男は、富士山頂観測所勤務を長年経験し、試煉に耐えることを身体で覚えている。菅原と富士山の結びつきの深さは、明治年間に厳冬の山頂における気象観測の壮挙を独力で成し遂げた野中至夫妻の娘を妻に迎えていることからも十分にうかがえる。がっしりとした長身、風貌《ふうぼう》は一見茫洋《ぼうよう》としたところもあるが、物事に動じない芯《しん》の強さと、何よりも実行力がある。そう言えば、『富士山頂気象観測の歌』――
一万二千尺雲の上、うき世の風のいづこ吹く、千古の雪に禊《みそぎ》して、絶えざる観測《みとり》にいそしむは、気象の二字に打込める、霊峰の富士の観測者……
作詩は、富士山の主と言われている観測所長の藤村郁雄だったが、作曲は菅原芳生だった。その歌に流れる“観測精神”の響きが、藤原は好きだった。富士山頂勤務の連中が歌うあの豪気な歌を思い出したとき、藤原の気持は決まった。
〈そうだ、広島の再建はやはり菅原にやらせよう〉
中央気象台長藤原咲平が、広島地方気象台を管区気象台に格上げすると共に、新台長に菅原芳生を発令したのは、昭和二十年八月十一日、原子爆弾が投下された八月六日から五日後のことであった。その頃、菅原は千葉県館山《たてやま》の海軍航空隊の地下壕《ちかごう》で軍の予報作業に従事していた。一カ月前から、本土決戦に備えて徴用されていたのである。ところが、発令されたものの、異動の転勤などすぐにできるような情勢ではなかった。一日一日が目まぐるしく過ぎ、八月十五日を迎えてしまった。終戦から数日経って東京へ帰り、中央気象台に挨拶に寄ったとき、菅原は、新たな任地である広島が、新型爆弾によって全滅していることをはじめて知らされた。新型爆弾は原子爆弾と呼ばれていた。
「原子爆弾がどんなものか、正確なところはいまだに伝えられていない。被害の実態すらつかめていないのだ。広島の気象台の再建を急ぐかたわら、原子爆弾の調査をしてほしい。気象学的な見地からだけでなく、あらゆる角度からよく調べてほしいのだ」
藤原台長からこのような命令を受けて、菅原が広島に向けて発《た》ったのは、八月も日を余すところ少なくなってからであった。その菅原が一カ月も経たないうちに上京し、藤原台長の前に現われたのである。
「バラック同然のひどい建物です、いつまでもそこに住まわせておくわけにはまいりません」
と、菅原が言ったとき、藤原は一枚の写真を思い浮べた。それは戦争が終ってはじめて新聞に掲載された広島の写真だった。その写真は、被爆後十日余り経った時点で小高い山から撮影されたものだった。遠望する広島の街は、黒々と広がる焼け野原と道路と川だけになっていた。その中に煙突が一本だけポツンと立っているのが、惨禍の印象を一段と強くしていた。関東大震災を体験した藤原は、その広島の新聞写真と大正十二年の東京の下町の光景とを重ね合わせることによって、広島の惨状を辛うじて実感に結びつけることができるような気がした。
〈空襲を受けた気象台や測候所は、どこも苦労している。中央気象台だって構内に細々と野菜畑を作っているのだ。だが広島だけは特別のようだ。いや長崎もそうかも知れん〉こう思いをめぐらせた藤原は、
「中央気象台としてもできるだけのことを考える。大変だろうが頑張ってくれ、見殺しにはしない」
と言って、菅原を励ました。
菅原は、藤原台長に陳情する意図を持って台長室に来たのではなかった。足りない予算や資材、住宅などの問題については、総務課や業務課と折衝すべき筋の事柄であったし、実際そうしていた。藤原台長に対しては、当面の報告としてありのままを語っただけで、決して何かの答えを引き出そうなどとは考えていなかった。それだけに、藤原が「見殺しにはしない」と言ってくれたことは、菅原の気持を明るくした。
「――広島の連中はみな頑張っています」
と、菅原は思わず繰り返した。
「大型の台風が九州に上陸しそうだが、このまま進むと四国、中国もかなりやられそうだな、広島は大丈夫かな――」
藤原咲平は、話題を変えつつもなお広島への思いやりを忘れなかった。
前日の予報では、台風の上陸は明十八日朝と見込まれていたが、この日(十七日)の朝になって、台風の速度が速まり上陸は今夜半頃と訂正され、さらに昼過ぎになると上陸はもう少し早まりそうだと、台長に報告されていた。台風の勢力は、中心示度が七二〇粍以下で大型と推定されていた。確かに台風が九州の南海上にある段階で、東京にまで驟雨をもたらすのだから、台風の勢力がかなり強大であることは間違いないようだった。実はこの頃すでに九州南端枕崎では記録的な暴風雨に見舞われつつあったのだが、通信線が途絶してしまったため、その実況は中央気象台では把握《はあく》しようがなかった。
菅原は、藤原台長に台風のことを言われて、思わず窓の外を見た。風にあおられた雨滴が、時時窓ガラスにさらさらと当たっていた。
「それはそうと、菅原君、原子爆弾の調査は進んでいるかね」
「それがどうも、気象台自体の片付けがやっと済んだ状態でして。もちろん調査の方も少しずつ手がけてはいますが、原爆の被害を受けた人たちから聞き取りをしようとしても、街ではまだそれどころではないという空気が強うございます。帰りましたら気象台あげて取り組むように致します」
「事情はよくわかるが、いろいろな資料が散逸したり、人々の記憶が薄れないうちに、調べて欲しいのだ。
学術研究会議もこの問題に真正面から取り組むことになった。原子爆弾による広島、長崎の被害を重視して、『原子爆弾災害調査研究特別委員会』というものを設けることになったのだ。広島、長崎の被害については、被爆直後から学界の権威者たちが、それぞれに現地に行って調査研究しているが、原子爆弾という誠に残念な経験を、今後の社会福祉のために役立てるには、やはり個々の学者の研究だけでは不十分だ。どうしても総合的な調査研究体制を作ることが必要だ。すでに委員の顔ぶれも決まっており、僕も一員に加えられた――」
文部省学術研究会議(通称「学研」)が、原子爆弾災害調査研究特別委員会を設けたのは、九月十二日であった。委員長には学研会長で東京帝国大学名誉教授の林春雄博士が任命され、委員会は九つの分科会で構成された。各科会長(○印)及び主な委員を記すと――
〓物理学化学地学科会 ○西川正治(東大)、仁科《にしな》芳雄(理研)、藤原咲平(中央気象台)、荒勝文策(京大)、菊池正士(阪大)、嵯峨根《さがね》遼吉(東大)、木村健二郎(同)、野口喜三雄(同)、渡辺武男(同)
〓生物学科会 ○岡田要(東大)、小倉謙(同)、江崎悌三(九大)
〓機械金属学科会 ○真島正市(東大)、野口尚一(同)
〓電力通信学科会 ○瀬藤象二(東大)、大橋幹一(電気試験所長)、米沢滋(逓信院工務局調査課長)
〓土木建築学科会 ○田中豊(東大)、武藤清(同)、広瀬孝太郎(同)
〓医学科会 ○都築正男(東大)、中泉正徳(同)、菊池武彦(京大)、真下俊一(同)、舟岡省五(同)、大野章三(九大)
〓農学水産学科会 ○雨宮育作(東大)、浅見與七(同)、川村一水(九大)
〓林学科会 ○三浦伊八郎(東大)、中村賢太郎(同)
〓獣医学畜産学科会 ○増井清(東大)、佐々木清綱(同)
わが国の学界の権威者を総動員しての調査研究体制であった。これだけのメンバーを揃《そろ》えて一つの調査研究(一つと言うにはあまりにも巨大なテーマだが)に取り組むことは、日本の学術研究史上前例のないことだった。中央気象台長藤原咲平が真剣になるのも当然だった。
藤原は話を続けた。
「――僕の所属する『物理学化学地学科会』は、理研の仁科博士、京都の荒勝教授、帝大の嵯峨根教授と言った科学陣を網羅している。中央気象台としても、恥かしくない調査研究をしたい。こちらから広島、長崎に技師を派遣するつもりだが、やはり主力は現地の気象台にやってもらわなければならない。
とくに広島については、被害の規模も大きいので大変だと思うが、広島にいる宇田君に調査の中心になるよう伝えてあるから協力し合ってうまくやってくれ」
宇田とは、神戸海洋気象台長の宇田道隆技師のことであった。宇田は神戸の台長の身分のまま徴用され、広島の陸軍船舶司令部で将兵の気象教育に当たっていたが、終戦で除隊になった。藤原は、大学理学部卒の宇田の学識に目をつけて、そのまま宇田を広島管区気象台の客員として広島に残し、原子爆弾の調査を担当するよう命令したのだった。宇田は客員とはいえ気象台内部での格付けは、菅原より上だった。
菅原は、こつこつと仕事をする学者のような気質の宇田を知っていた。藤原咲平は、
「ともかくこの種の調査は時間が経ってしまったら駄目だ。基本的な資料は遅くともあと一、二カ月以内に収集しなければいかん。年内に報告をまとめて欲しい」
と、駄目押しをするように言った。
「承知しました。調査は技術主任の北技手に手伝わせるつもりですが、できるだけ多くの台員を調査に参加させるように致します」
「世界に前例のない研究だ。しっかりした報告を作ってくれ」
「はい」
と答えて、菅原は台長室を辞した。
菅原が去ると、藤原咲平は再び当面する台風のことが気になって来た。机の上にある新聞の朝刊天気予報欄には、「今日(十七日)の天気」として、
「発達した台風がラサ島の南西方百キロの海上を北々西に進行中で、次第に北より北々東に転向する模様です、西日本は明日より警戒を要す」
と掲載されていた。これは前日の夕刻に発表したものであるから止《や》むを得ないとは言え、台風の上陸を「明日」つまり十八日と予想しているのはまずいな、と藤原は思った。今朝藤原が予報課の現業室に寄ったときには、すでに様子が変っていたからだ。ラジオの昼の天気予報では大幅に上陸予想時刻を繰り上げて、「今夜」と放送したものの、朝の新聞を見ただけで勤めに出た人は、台風は「明日」のことだと思って油断しているかも知れない。
懐中時計を出して見ると、すでに午後三時近かった。そろそろ午後二時の各地の実況が入りつつある頃だと思った藤原は、席を立って学士会館の台長室を出た。
会館から中央気象台までは徒歩で十分もかからなかったから、藤原はいつもその距離を歩いた。
さきほどの驟雨は止んでいたが、南風が強かった。神田一帯の焼け跡にはいまだに壊れた瓦やコンクリートが散乱し、あちこちにバラックが建ち並んでいた。そうした中で、焼け残った中央気象台の「時計塔」とも言われる観測塔は、ひときわ目立つ存在だった。観測塔の西側にある防弾建築の二階に予報課は陣取っていた。
気象台の前まで歩くと、変らぬ濃い緑をたたえた宮城の松が、大手濠を越えて、藤原の目に映った。内濠通りを進駐軍のジープが往来していたが、そんな風景は一カ月余り前には想像もできない事柄であった。この日マッカーサー元帥が日比谷のGHQ入りしたことを、藤原は一官庁の長として知っていた。かつて熱烈な愛国者であった藤原の頭の中では、往来するジープを見て様様な感慨が渦巻いたに違いない。
藤原は、防弾建築に入ると、二階の予報課現業室に真直ぐ足を運んだ。現業室では、当番の技師平沢健造が、腰の高い椅子に坐って作業台に向かい、天気図の解析に取りかかろうとしていた。天気図は、プロッターから回されて来たところで、すでに午後二時の実況がプロットされていた。予報課長の高橋浩一郎も横に立って心配そうに天気図をのぞき込んでいた。
「台風はどうなったかね」
藤原台長の声に、平沢は顔を上げた。
「手ごわいです。中心示度は、これまで推定していたよりかなり深そうです。九州南部のデータがほとんど入っていませんのではっきりしませんが、周囲の気圧傾度から推定すると、七二〇粍よりかなり低くなっているかも知れません」
「――――」
藤原は声も出さずにまだ等圧線の引かれていない天気図を見つめ、プロットされた各地の実況データから自分なりに概況を読み取ろうとしていた。平沢は説明を続けた。
「速度も出ています。昨日は時速二十五粁だったのですが、今朝の六時と十時の位置の変化を見ますと少なくとも三十五粁は出ています。今から午後二時現在の中心位置を決めますが、どうも九州南岸に上陸寸前のところまで来てしまっているようです。となると時速はさらに出ていることになります。間もなく鹿児島県の南岸に上陸ということになります」
ニューギニア、ソロモン方面の気象隊に勤務したことのある平沢の説明には、軍の幕僚に報告するようなてきぱきとしたところがあった。
藤原は、完成された午前十時の天気図と午後二時の未完成の天気図とを見比べた。
午前十時の天気図を見ると、西日本一帯はすでに台風特有の蜘蛛《く も》の巣のように立て込んだ同心円の等圧線にすっぽりと覆われていた。そして、同心円の中心、つまり台風の中心は、九州の薩摩半島の南百数十粁の海上にあった。時速三十五粁以上出ているなら、確かに上陸は時間の問題だった。
天気図のプロットをよく見ると、九州の南半分から奄美《あまみ》諸島にかけての気象観測点からの入電は全くと言ってよいほどなく、各地とも白マルのまま何のデータも記入されていなかった。それは、台風の暴風により通信線が途絶した地域を示していた。データが空白の地域は台風の被害がすでに発生している地域なのであり、空白の地域が広ければ広いほど台風の勢力が大きいことを意味していた。
午前十時の天気図で、このデータのない“白い”範囲は、台風の中心から半径百五十粁から二百粁に及んでいたが、午後二時のプロットを見ると“白い”範囲は九州の中部から北部にかけて一段と広がっていた。それは台風の進行と鮮やかに一致していた。
中心付近の重要なデータが欠如する中で、台風の中心位置、中心気圧、進路を推定しなければならないのだから、当番技師の苦労は大変なものであった。中心付近のデータがない場合に、外縁の気圧傾度などから中心気圧や最大風速を推定する理論は、予報課長高橋浩一郎が考案したものだが、それとて実践の場においては、理論だけでは解決できない、いわば職人的技能が要求される作業であった。
「九州はほとんど入電なしか。天気図はずいぶん白くなっているな。だが、今度は大きいやつだから、先月のような豆台風と違って進路予想を間違うようなことはないだろうな」
藤原はそうつぶやきながら、台風襲来の度に天気図の最も肝心なところに空白ができ、その白い領域の移動によって台風の移動を知らされるという繰り返しを心で嘆いた。
「戦争に敗けたとはいえ、通信回線ははやいところ何とかしなければいかんな。通信回線は気象業務の生命線だからな――」
前台長の岡田武松時代から藤原咲平台長時代を通じて、中央気象台が一番腐心した事業はと言えば、それは通信回線の強化とスピード・アップであった。災害時にデータの入電が止まってしまったのでは、まさに敵機に闇討ちされるようなものである。災害の防止には気象学の学問的発達もさることながら、データの確実な入手の方が優先すべき課題であったのだ。通信回線の強化は、日華事変から太平洋戦争に至る過程で、軍事的な要請もあって積極的に進められたのだが、戦争の進行は通信回線の荒廃という逆の結果を残した。通信回線の無残な実態は、戦争が終ってわずか一カ月しか経たぬうちに迎えなければならない大型台風の来襲を前にして、天気図の上に無慈悲なまでに表現されていた。
藤原は、天気図の空白地域が物語るこの数年来の戦争の時代の重さについて思った。その思いは、必然的に自分が中央気象台長に任命されたあの国家的動揺の時期、昭和十六年夏へと繋《つな》がって行った――。
3
昭和十六年――。
時の中央気象台長岡田武松と予報主任藤原咲平が、突然軍令部に呼び出されたのは、この年七月の暑い日だった。大谷東平技師と奥山奥忠事務官の二人も同行した。
〈これは軍の重大な機密である〉
軍令部の参謀はこう前置きし、これから申し伝えることに関し、一切の口外を厳禁した。
〈帝国陸海軍はついに米英両国を相手に戦わざるを得なくなった。戦争遂行に当たり気象面で全面的な協力を要請したい〉
軍令部参謀の言葉は威圧的であったが、具体的な協力内容については言及しなかった。そうした詳しい事項については追って連絡する性質のものなのであろう。
岡田台長に問い返す余地は与えられていなかった。ただ畏《かしこ》まって承諾するだけだった。
四人とも重苦しい気分で軍令部を退出したが、その帰り道、岡田は同行した藤原ら三人に対しはっきりと自分の考えを述べた。
「米国や英国となぜ戦争などをするのだろう。絶対に勝味などありはしない。日本もここまで来たら、いちど戦争に敗けなければ、とても目は覚めまい」
岡田は、気象台が軍の指揮下に入れられることに終始反対の立場を貫いて来た。中央気象台の組織を文部省から陸軍に移そうとする計画は、すでに二年前から中国大陸での戦局の拡大と並行して、陸軍によって着々と進められていた。これに対し、岡田や藤原は、気象事業というものは、文部、農林、内務、鉄道、逓信、陸海軍など各省に関連を持っているものであって、特定の省に所属すると弊害のみ大きくなる、気象学はまだ学問的にも未開発の部分が多いので文部省に所属するのが最善である、として、陸軍への移管に強く反対した。二人は、この趣旨を印刷物にして関係機関に配り、陸軍の計画を懸命に阻止して来た。岡田が軍への移管に強く反対した理由はほかにもあった。岡田は度々の外遊で欧洲の気象事業や気象学の現況に通じていた。そして気象事業が軍に統合された国においては、民のための気象事業も気象学も停滞気味であることをよく知っていたのである。国家百年の計を考えたとき、気象事業はあくまでも独立の組織と自由な学問的気風の下に置かなければならないというのが、岡田の思想だったのである。
しかし内外の情勢は、気象台という小さな組織の反抗をいつまでも許してはおかなかった。米英との国際関係は風雲急を告げていた。昭和十五年七月に成立した第二次近衛内閣は、外相松岡洋右、陸相東條英機、海相吉田善吾という陣容だった。同年九月には日本軍の北部仏領インドシナ進駐が行なわれ、それとほとんど時期を同じくして日独伊三国同盟が成立、十月には大政翼賛会が発足し、街には「一億一心」「バスに乗りおくれるな」の合言葉が浸透して行った。明けて昭和十六年を迎えると、外交ルートでは日米交渉が開始されたが、両国関係を打開する糸口もつかめぬまま、はや夏を迎えたのであった。
岡田と藤原が軍令部の呼び出しを受けたのは、こうした緊迫した内外情勢のさ中であった。岡田は、事態がここまで来てしまった以上、軍の要請に抗することは、国のためにならないと判断した。飛行機や艦船を駆使する近代戦において気象業務の占める比重は極めて大きい。万一開戦ということになれば、気象台が戦争遂行に全面的に協力しなければならないことは明らかだった。岡田は、この困難な局面を乗り切ることができるのは、藤原を措《お》いてほかにはないと考えた。自分がこれ以上気象台に止まることは、事態を一層悪くし、気象台に対する軍の直接介入さえ招きかねないと判断した。自分の任務はもはや終ったと判断したのである。
昭和十六年七月三十一日岡田は中央気象台長を辞め、藤原が後を継いだ。
藤原は、気象事業に対する熱意と哲学において岡田と変るところはなかったが、思想と性格の点で持味の違いがあった。二人ともすぐれた学者であり事業家であったが、強いて対比するならば、岡田が自由穏健な西欧的学問風土を好み、教育者的人格を備えていたのに対し、藤原は情熱的な志士であり、純粋な忠君愛国の士であった。藤原は決して軍国主義者ではなかったが、国のため、時局のためには協力を惜しまぬ愛国者であった。
岡田が辞めると、それを待っていたかのように、軍は中央気象台に訓令を出して来た。
昭和十六年八月十五日文部大臣、陸軍大臣、海軍大臣がそれぞれに中央気象台長藤原咲平に対して決定的な命令を下したのである。
文部大臣の訓令は次のような文面であった。
「文部省訓令
中央気象台長
戦時事変中ノ緊急措置トシテ左ノ通訓令ス
昭和十六年八月十五日
文部大臣 橋田邦彦
一、中央気象台長ハ朝鮮総督府気象台長、台湾総督府気象台長、関東(注・カントン)気象台長、樺太《からふと》庁観測所長及南洋庁気象台長ノ掌理スル気象通報及気象ノ研究ノ中軍事ニ関係アル事項ニ関シテハ戦時事変中ノ緊急ノ措置トシテ陸軍大臣、海軍大臣ノ命ヲ承《う》ケ当該気象台長及観測所長ヲ指揮監督スベシ
二、中央気象台長ハ現地陸海軍指揮官ヨリ所在地ノ気象機関ニ対シ作戦ニ必要ナル資料ノ提供ヲ求メラレタル時ハ当該気象機関ヲシテ直接之《これ》ニ応セシムベシ」
つまり中央気象台及び各気象官署の組織は現状のままとするが、業務面では陸海軍が中央気象台及び外地の中枢気象官署に対し直接命令を出すことができるよう、文部大臣がまず門戸を開放したのである。そして、陸海軍大臣の訓令はこれを受ける形で出されたもので、このうち陸軍大臣の訓令は次のような文面であった。
「陸訓第二八号
訓令
昭和十六年八月十五日
陸軍大臣 東條英機
中央気象台長 藤原咲平殿
一、貴官ハ朝鮮総督府気象台長、台湾総督府気象台長、関東気象台長、樺太庁観測所長及南洋庁気象台長ノ掌理スル気象通報及気象ノ研究ノ中軍事ニ関係アル事項ニ関シテハ戦時事変中ノ緊急措置トシテ当該気象台長及観測所長ヲ指揮監督スベシ
二、貴官ハ現地陸軍指揮官ヨリ所在地ノ気象機関ニ対シ作戦ニ必要ナル資料ノ提供ヲ求メラレタル時ハ当該気象機関ヲシテ直接之ニ応セシムベシ」
これは文部大臣の訓令を駄目押ししたかたちの命令文であった。海軍大臣の訓令も同文であった。
一方国内及び外地の末端気象官署については、同じ十五日付海軍兵備局長からの通牒《つうちよう》と八月十八日付の陸軍次官からの通牒で詳細な命令を受けた。二つの通牒はほぼ同趣旨なので、陸軍のものを次に記す。
「陸密第二五四五号
昭和十六年八月十八日
陸軍次官 木村兵太郎
中央気象台長 藤原咲平殿
軍事上必要ナル気象通報勤務ニ関スル件
首題ノ件左記ニ依リ至急必要ナル対策ヲ講ジ軍事上支障ナカラシムル如ク処理相成度依命通牒ス
左 記
一、中央気象台通報関係機構ハ昼夜連続業務ヲ永続シ得ルヲ目途トシ且特ニ予報作業ノ適正、気象通信ノ確保、暗号業務ノ整備並ニ予報ニ関係アル研究調査ニ重点ヲ置キ人員ノ充実ヲ図《はか》ルコト
二、中央気象台、陸軍気象部間ノ通信機構ヲ調整シ気象実況報ノ速達ヲ図ルコト
三、付表ノ気象官署ハ昼夜連続業務ヲ永続シ得ルヲ目途トシテ人員ノ充実ヲ図ルコト
四、従来実施中ノ気象無線通報甲類ノ放送ニ準ジ零時、三時及二十一時ノ観測ニ基ク気象無線通報ヲ実施スルコト」
要するに中央気象台と指定の地方気象台、測候所は、昼夜兼行で観測と予報業務を怠りなく実施し、気象無線放送の回数を増やすと共に、軍との間に専用通信回線を設定して観測データと予報のすみやかな伝達を行なう体制を組め、という命令である。そして気象通信はいつでも暗号に切り換えられるよう準備をせよという命令も含まれている。ここでいう指定の地方気象台、測候所として付表に列記された気象官署の位置とその数の多さは、開戦前の緊迫した空気を如実に伝えているので、次に引用しておこう。
「付表
軍事上特ニ重要ナル地方気象官署
(地方別) (気象官署)
南西諸島 石垣島、那覇、沖大東、南大東、名瀬
九 州 鹿児島、宮崎、大分、長崎、福岡、富江、厳原
四 国 足摺、室戸、高松
本 州 下関、広島、米子、西郷、豊岡、大阪、潮岬、名古屋、御前崎、富崎、八丈島、父島、硫黄島、銚子、福井、松本、前橋、輪島、新潟、相川、小名浜、仙台、宮古、八戸、秋田
北海道 函館、札幌、浦河、羽幌、稚内、網走、根室、紗那、幌莚
樺 太 大泊、敷香、恵須取
朝 鮮 釜山、済州、木浦、大邱、秋風嶺、中江鎮、江陵、元山、鬱陵島、清津、雄基、平壌、新義州、仁川
台 湾 台北、澎湖、花蓮港、恒春
南 洋 サイパン、ヤップ、ポナペ、ヤルート、オレアイ、トコペイ、エニエタック、モウク、ロタ、タツルー、エンダービー、ビンゲラップ、パラオ
備 考 本表ノ気象官署ハ若干変更スルコトヲ得」
こうして昭和十六年八月十五日は中央気象台にとって大転換の日となった。藤原は、岡田の意志を受け継いで気象台の組織と人事は守ったが、実際上の業務は完全に軍の意のままに動かされることになってしまったのである。
すでに七月末、米英両国は、日本の在外資産の凍結令を布告し、ABCD(米・英・中・蘭)包囲陣を敷いていた。続いて、八月一日には、米国が対日石油輸出停止の措置に出て来た。これに対し日本側は、参謀本部を中心に対米英戦の決意が固められ、九月三日には大本営政府連絡会議で「対米(英蘭)戦争ヲ辞セズ」という帝国国策遂行要領が決せられた。戦争を目指して急速に加速度を増す歯車の回転は、もはや誰の手にも止めようがないように見えた。
目まぐるしく秋が過ぎ、師走《しわす》を迎えた。
十二月一日御前会議で遂に対米英開戦が決定された。すでにこの頃には、中央気象台の構内に木造で軍の特別予報作業室が建てられていた。中央気象台の構内に軍の作業室を作ったのは、天気図作成のための気象データが、軍のものだけでは不十分だったため、中央気象台の豊富なデータをそっくり利用しようというねらいからであった。そしてこの特別予報作業室には、陸軍と海軍の気象班が詰めて、日本付近の天気図はもちろんのこと、アジア太平洋一円にわたる広大な地域の天気図を、中央気象台とは別に軍独自で作成していた。
十二月七日、深夜になってもこの特別予報作業室は、なぜか扉も窓もすべて内側から黒い遮蔽幕《しやへいまく》に閉ざされていた。もし外部から見たなら、かすかにもれる明りによって室内で何かの作業が行なわれていることはわかったであろうが、戸外には初冬の寒気が張りつめていて、気象台構内は人影もなく静まり返っていた。
このとき特別予報作業室内では、戸外とは全く対照的に電燈がこうこうと輝き、息づまるような熱気がただよっていたのである。額を集めていたのは、海軍の気象担当将校と気象班員、気象台からは藤原台長、大谷東平航空予報掛長、石丸雄吉技師、上松《あげまつ》清技師らの幹部であった。机の上には、海軍の気象班が作成した太平洋天気図が広げてあった。
海軍からの要請は、現地時間七日早暁(日本時間八日未明)のハワイ沖海面の海上天気予報を報告せよというものであった。海軍はすでに九月頃から中央気象台に対し、再三にわたり北太平洋の天候や海面の状態などの情報提供を要請して来たが、この夜求めて来た要請は従来とは全く雰囲気《ふんいき》が違っていた。それが単なる訓練のためではなく、現実の作戦展開につながるものであることは、気象台の幹部たちにも職業的直感ではっきりとわかった。現実の作戦展開とは、日米開戦以外の何ものでもなかった。
藤原は、机の中央に静かに席をとって、黙々と天気図をにらんでいた。海軍の気象班が作成した北太平洋天気図の一つ一つのデータを読み取り、等圧線の引き方に間違いはないかどうかを、目で確かめているようであった。藤原は、自分の学問的知識と経験の全力を尽して、はるか太平洋上の気象状況をつかもうとしていたのだった。
太平洋高気圧は広く北太平洋の中緯度一帯を覆い、ハワイ沖の作戦海面の天気はまずまず安定していた。
藤原は、海軍の気象担当将校に対して、
「高気圧が安定しているので、さし当たり海上の天気がくずれることはない。風の状況にも急激な変化は予想されない」
と、自分の考えを述べた。
藤原の発言で、特別予報作業室の張りつめた空気が幾分ゆるみ、出席者の間で細部について意見が交わされた。しかし、藤原の予報に対し基本的に反対する意見はなかった。
意見交換が終ると、室内にしばらく静寂が支配した。藤原は坐したまま、瞑想《めいそう》するかのように目を閉じた。自分の考えと協議の結果とを、もう一度胸の中で整理したのであろう。これから軍令部に出頭して報告することの重大性が、彼の脳裏にひしひしと迫ったに違いない。
藤原はやおら立ち上がって天気図を巻くと、海軍将校とともに軍令部に出かけた。すでに午前零時を過ぎていた。
藤原が、軍令部にハワイ沖海面の海上天気予報を説明したのは、十二月八日午前一時であった。藤原は、この時期大本営陸海軍部付にもなっていたので、予報説明の席で、参謀から今展開されようとしている作戦がハワイ奇襲作戦であることを知らされた。
藤原が報告したハワイ沖の海上天気予報が、どのような形で、ハワイのオアフ島北方約二百五十海里(約四百六十粁)海域に待機していた南雲《なぐも》機動部隊に打電されたかは不明であるが、日本時間八日午前一時三十分(現地時間七日午前六時)、南雲機動部隊の航空母艦から第一次攻撃隊百八十三機が真珠湾目指して発艦し、続いて日本時間午前二時四十五分には第二次攻撃隊百六十七機が発艦したのであった。
太平洋戦争の火蓋は切って落されたのである。
午前七時過ぎ、霜が真白に降りた東京の街に、遅い冬の朝日が昇った頃、ラジオはチャイムの音と共に臨時ニュースを伝えた。
「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
軍令部への報告を終えた藤原は、気象台へ帰った後も一睡もしないで夜を明かしたが、一夜明けてこの臨時ニュースを聞いたとき、「真珠湾攻撃は背信的な不信行為ではなかったか」とひどく心を痛めたと言う。
開戦と同時に陸海軍大臣は中央気象台長に対し命令で気象管制を実施した。この命令は、「八日午前八時」を期して気象管制を行なうというものであったが、実際にはすでにこの日の早朝から天気予報の発表は中止され、午前六時二十九分に毎朝放送されていたラジオ天気予報も取りやめられていた。
こうして天気予報はもちろんのこと、日時や場所を特定した気温、気圧、風向風速、降水量、雲量雲高、視程などの観測データでさえ、一般への発表は禁止され、国民の前から気象情報は姿を消したのであった。この気象管制は台風襲来などの災害時でも緩和されることはなかった。
広大なアジア太平洋地域に戦場を広げた日本軍の進攻作戦は長続きしなかった。昭和十七年四月には米空軍による本土への初空襲があり、京浜、名古屋、神戸などの都市が爆撃を受けた。同年八月には米軍はガダルカナルで反撃を開始した。国内では本土防衛の声が徐々に高まりつつあった。
藤原は気象台の防空対策を真剣に考えた。たとえ首都東京が空襲を受けても、予報や通報の現業職員は、その業務の重要性から職場を離れることができない――となると、防空壕《ぼうくうごう》だけでは不十分である、庁舎を防弾建築にする必要がある、と藤原は考えたのだった。
藤原はこの年の夏も終ろうとする頃、部下に命じて、現業部門専用の鉄筋二階建ての防弾建築の見積りを作らせると、大蔵省と直接掛け合った。主計官は、予備費の支出に関してなかなか首をタテに振らなかった。藤原は遂に机の上に坐りこむと、熱気をこめて訴えた。
「戦線の前面に立つも同然の気象台職員の身の安全を保てないようでは、戦には勝てない。爆弾が雨と降ろうが、作業を続けられるようにしてほしい」
藤原は、この予算要求が通らぬ限り梃子《てこ》でも動かない、と頑張った。主計官もついに折れて、検討することを約束した。防弾建築の建設は間もなく承認され、秋になると工事が始まった。
完成した庁舎は、二階建ての屋根のコンクリートの厚さを一米にしたうえに、その中に部厚い鉄板を埋め込み、さらに屋根と天井の間には子供が立って歩ける程の空間を設けるという堅固な構造であった。焼夷弾《しよういだん》はもとより一瓲《トン》爆弾にも耐えられる、というのが藤原の要求した条件だった。昭和十七年暮れには、予報、通報、通信などの現業部門は、すべてこの防弾建築に移った。
戦局の推移に伴い、政府機関の様々な機構改革が行なわれ、中央気象台も昭和十八年に文部省から運輸通信省に移管された。これは、研究的側面より、交通通信機関と密接な関連を持つ実践的な側面を重視しての組織改正であった。中央気象台は、この時期においても直接大本営の組織に組みこまれることはなかったが、戦局が急速に悪化して来た昭和十九年には、十六年八月に次ぐ二度目の大転換が強制された。この年十月十二日に、陸海軍から「軍事上必要ナル気象放送其《そ》ノ他気象業務ノ陸海官合同勤務実施ニ関スル件通牒」なるものが発せられたのである。
通牒の内容は、日本、満洲(中国東北部)、支那(中国本土)、比島《フイリピン》、南方地域、ソ連、米国、濠洲、南太平洋、メキシコ、アフリカ、印度等々の約七百地点の気象実況と概況について、陸海軍気象班と中央気象台現業班が合同勤務を行なって、相互のデータ交換と解析を行ない、合理的かつ速やかに作業を進めようというものであった。
中央気象台には、開戦前から軍の特別予報作業室ができていたが、毎日の予報作業は軍と中央気象台とはあくまでも別々にやっていた。それを合体し、いよいよ陸海軍の気象班が防弾建築の現業室にのりこんで来ることになったのである。
すでにこの年の夏、サイパン、テニアン、グアムの各島守備隊は玉砕し、インド進攻を目指すインパール作戦も敗北していた。米空軍による本土空襲も激しくなりつつあった。「陸海官合同勤務」は、こうした緊迫した情勢の中でとられた措置であった。
防弾建築の現業室は、軍との合同勤務まで考えて建てられたわけではなかったから、合同勤務が始まると、現業室はすし詰めの状態になった。現業室に所属する要員は、陸軍、海軍の各気象班員と中央気象台の現業職員、それに手伝いの動員学徒を含めると七百人を越えた。勤務は一日三交代制であったが、それでも部屋に詰める人数は常時二百四十人に上ったのだから、いくら机の配置を工夫しても、部屋の収容能力の限界を越えていた。ちょっと用事があって奥の方へ行こうとしても、簡単には移動できなかった。おまけに換気が悪いため、一時間もいると頭が痛くなるほどであった。
気象業務の重要度が増し、業務量が膨大になったのと反比例して、気象台職員の生活は、大多数の国民生活がそうであったように、急速に逼迫《ひつぱく》していった。当時中央気象台の庶務課長だった上松《あげまつ》清は、昭和二十年を迎えた頃の食糧難の状況を次のように記している。
「一番いやなそして閉口した問題は、徹夜勤務のための職員の夜食の準備でした。陸軍は銀めしのにぎりめし、海軍は真白い渦巻パン、気象台はチョウネンテンと称するもの。チョウネンテン別名はネコマタ(注・ねこも食べないでまたいで通る意)とも言っていたのでありますが、ここで一応説明しておきましょう。気象台の総務の厚生の係の方の非常な努力で、一般主食配給の他に特別配給を交渉していただき、ようやく獲得した貴重な食料で、キビを主体とし、ドングリ粉、ワラの粉末等をまぜて、餅のようにのしたものであります。やわらかい時はそのまま食べられるし、かたくなると焼いて食べるのですが、口に入れて無理にのみ込むという処《ところ》でありましょう。職員に藤田君という人がいて、これを食べすぎた訳でもありませんが、勤務後帰宅しましたが、急に苦しみ出して、医者さわぎをしたのですが、翌早朝あっけなくなおってしまったのであります。その病名がチョウネンテンであったのです。
夜勤職員が三者並んで勤務し、各々の夜食を食べるときを見るときは、正に断腸の思いがいたしました」
中央気象台の予報当番の中には、栄養失調のため「目がかすんで天気図が書けない」と訴える者が出るほどであった。食糧難については、台長の藤原咲平も心を痛めていた。台長は、夜食は必ず当直の職員と同じ「チョウネンテン」を食べるという気の使いようであった。そして自ら「チョウネンテン」の料理法を研究し、焼いて食べるのがよいとか、汁の中に入れるのもよいとか、“研究結果”を職員たちに話していたのであった。
また、この時期になると、気象台の職員数は急激に増えたものの、ほとんどにわか養成の若い人たちばかりで、ベテランの技師や技手は、外地の気象台や陸海軍気象隊に派遣しなければならなかったから、中央では中堅の職員が不足し、結局残った者がオーバー・ワークになるという問題が起こっていた。
このような中で、中央気象台にも遂に空襲の洗礼を受ける日がやって来た。中央気象台がはじめて空襲を受けたのは、昭和二十年二月二十五日であった。朝から雪で、雲の垂れこめた暗い日曜日だった。午前七時四十分頃、まずB29十機による空襲があり、上野から御徒町《おかちまち》辺りの下谷区内に焼夷弾大小七千五百五十個が投下され、三千七百余棟が焼かれた。空襲警報はいったん解除されたが、午後三時前から、今度はB29百三十機の大編隊による空襲が開始された。敵機は数編隊に分れて波状的に爆弾や焼夷弾を投下した。神田、本郷、荒川の各区のほとんど全域をはじめ、日本橋区の半分、四谷、牛込、麹町、浅草、深川、本所など十六区の一部に及ぶ広い範囲がたちまち火に包まれた。
B29の機影は雲の中に隠れて全く見えず、爆音と爆弾の炸裂《さくれつ》音のみが都心一帯に響き渡った。気象台に近い神田一帯では焼夷弾が雨のように降りそそぎ、落下地点は神田錦町三丁目辺りからやがて大手町へと広がって来た。気象台の観測塔や防弾建築は竹平町側にあったが、道一つ隔てた大手町側(現在、気象庁がある場所)には台長室や総務関係の入っている木造二階建ての本館があった。この大手町側の気象台構内への焼夷弾の落下本数は、後日台員が調べたところ、多いところで一坪当たり十四本という“超過密爆撃”であった。本館は四、五分で全館火に包まれてしまった。藤原の指揮で当直の十数人が消火作業に当たったが、火の勢いは手の下しようもなかった。これだけの猛爆にもかかわらず、防弾建築のある竹平町側の構内には奇蹟《きせき》的に一発の焼夷弾も落ちなかった。
この空襲で、現業関係は温存されたが、本館が焼かれたため、台長室や総務関係は神田の学士会館に間借りすることになった。
十万人の犠牲者を出した三月十日の「東京大空襲」のときには、気象台は被災を免れたが、五月二十五日には気象台は二度目の焼夷弾爆撃にさらされた。この日の東京空襲は、三月十日に次ぐ大規模なもので、B29四百七十機が午後と深夜の二回にわたって、焼け残っていた地域に襲いかかったのだった。
気象台が被災したのは、深夜になってからであった。この日二度目の敵機編隊の襲来で、台員たちが防空壕《ぼうくうごう》に待避していると、「ザーッ」という焼夷弾の不気味な落下音が頭上を通り過ぎていった。焼夷弾は、今度は大手町側構内にも竹平町側構内にも降りそそいだ。台員たちが壕から飛び出すと、大手町側の焼け残っていた建物や、竹平町側の木造の観測部庁舎や倉庫などが燃え上がっていた。防弾建築の現業庁舎と鉄筋の観測塔は、焼夷弾をはね返したのか、全く無傷のまま、周辺の火災の明かりに照らし出されて堂々と立っているのが見えた。観測塔は関東大震災の烈震にもびくともせずに持ちこたえた建築であり、防弾建築はまさにこうした空襲に備えて藤原が建設した庁舎であった。気象台の木造庁舎の大半は、二度にわたる被災で焼失したが、現業室はびくともせずに残ったのである。
この夜の空襲は、これだけでは終らず、執拗《しつよう》に続けられた。木造庁舎の火災が下火になった頃、再びB29が戻って来て焼夷弾を投下したのである。今度は気象台西側の敷地にある官舎群の一角に火の手が上がった。この官舎群を焼かれると、主要な職員の生活の本拠が失われ、業務の遂行に重大な支障を来たすことは明らかであった。だが、全員すでに疲れ切って、誰ひとり消火にかけつけようとしなかった。
そのとき藤原台長は、「官舎を焼いてはいかん!」と怒鳴るように叫ぶと、バケツで防火用水を汲《く》み上げては、二杯、三杯と、防火頭巾の上からかぶり、火を目指して突進して行った。すでに六十を過ぎた老台長が自ら火の中に突っ込んだのだから、若い連中は傍観していられなくなった。次々にバケツで水をかぶると消火に当たったのである。
「この線でくい止めるのだ。焼けている壁を向う側へ押し倒せ!」
藤原の指揮で、官舎群全体への類焼は免れた。焦土と化した都心の中に残った官舎群は、終戦前後の気象台員の生活と仕事を支えるうえで、大きな役割を果たすことになったが、それも藤原に負うところが絶大であったのだ。陣頭に立つこと、そして率先垂範すること、それが藤原の精神であり信条であり行動であった。日本の気象業務を守り推進するのは自分であるという自負心と責任感がそこには潜んでいた。岡田武松もそうであったが、藤原はより情熱的であった。痩《や》せた老体のどこにそのような闘志が隠されているのか不思議なほどであった。
この頃になると、空襲は東京だけでなく中小都市にまで苛烈になり、中央気象台の業務に大きな影響を与えていた。地方の空襲は通信線の途絶をもたらし、各地の観測データの入電数を減少させた。しかも観測データの入電状況を悪くしたのは、通信線の途絶だけではなかった。連続する空襲と食糧難が、各地の逓信局出先機関の作業能力と労働意欲を低下させていたのである。この通信事情の悪化は、西日本でとくにひどくなっていた。例えば、福岡管区気象台の管内では、末端の測候所の観測データが管区気象台に電信線で届くまでに三十分もかかっているのである。これでは福岡を経由して中央気象台に届くまでに四十分はかかってしまう。当時中央気象台では、末端のデータが二十分以内に入ることを目標にしていた。
中央気象台は、運輸通信省に対し再三にわたり、気象電報の通信回線の確保を申し入れ、業務上気象通信の優位を改めて徹底するよう働きかけた。運輸通信省は昭和二十年五月に次のような措置をとった。
「極秘
通波統第一九四号 昭和二十年五月十四日
電波局長
業務局長
工務局長
災害時ニ於《お》ケル気象電報ノ送達ニ関スル件
戦局ノ苛烈化ニ伴ヒ気象業務ハ重要性愈々《いよいよ》加重セラレタルニ鑑《かんが》ミ気象業務上特ニ緊要ナル左記甲号気象官署発気象電報ハ有線連絡杜絶《とぜつ》ニ際シテモ其ノ迅速ナル送達ヲ確保スル如ク左記乙号ニ依リ之カ取扱ヲ為《な》スコトト相成候条諒知ノ上実施上遺憾《いかん》ナキ様可然《しかるべく》配意相成度
記
甲号
銚子 大島 長津呂 甲府 前橋 仙台 青森 秋田 山形 宮古 新潟 舳倉島 輪島 長野 福井 松本 相川 御前崎 小名浜 八戸 富崎 新島 三宅島 敦賀 名古屋 広島 岡山 下関 浜田 西郷 松山 徳島 米子 高知 亀山 潮岬 室戸 足摺 熊本 大分 長崎 厳原 富江 女島 鹿児島 釣掛
乙号
一 甲号気象官署発気象電報ハ之ヲ伝送スベキ有線連絡杜絶シタル場合ハ其ノ不通区間別《〈ママ〉》(筆者注・別表のことか)ニ依リ之ヲ送達スルコト
二 前号ニ依リ気象電報ヲ送達スル場合ハ速カニ関係官署(中継局ニ在リテハ最寄気象官署トス)ニ其ノ旨ヲ告ゲ該気象電報ヲ暗号化セシメタル上之ヲ伝送スルコト
三 別表各無線電信ノ使用周波数ニ付テハ該当周波数中ヨリ適当ナルモノヲ予メ選定シ之ヲ関係無線電信ニ通報シ置クコト
(前頁掲載)
備考(筆者注・これは前頁表の注である)
一、本表左ノ記号ハ各下記ノ意義ヲ有ス
(海)海岸局 (航)航空局 (固)固定局
(非)非常無線連絡 (燈)燈台無線施設
(漁)漁業無線施設 (気)気象無線施設
中継ノミ取扱フ局又ハ無線施設
二、災害状況及通信疎通状況等ニ鑑ミ気象電報速達上特ニ必要アリト認ムルトキハ本表通信系統ニ依ラザルコトヲ得」
以上のような運輸通信省の措置を受けて、中央気象台は地方の気象台長と測候所長に対し、「空襲其ノ他不時ノ災害発生セル場合最少限度ノ重要観測所ノ電報ヲ絶対確保スル為」該当する最寄りの無線局と「充分打合ス」よう命令を出した。
しかし、このような通信回線の確保対策も要は運用次第であった。末端無線局が日夜休みなく気象官署から発信される気象電報の要請を受けて作業するかどうかは、ひとえに局員の事態認識と作業意欲にかかっていた。そこで、中央気象台や陸軍気象班の幹部は手分けして各地に出張し、観測データ速達の督促に歩いた。この督促先は、前記の表にある無線局とそこにぶら下がっている気象官署だけでは不十分で、無線局のない気象官署が利用している郵便局にまで足を伸ばさなければならなかった。歩いて見るとひどい例もあった。
中央気象台の沢田龍吉技師が、房総半島をまわったときのことである。ある郵便局からの発信があまりに遅れるので訪ねてみると、郵便局長の答えには唖然《あぜん》とするばかりであった。
「毎回同じような数字だから、いちいち打つのは大変だし、たまったところでまとめて打っているのだ」
沢田技師はしばらく口もきけなかったが、やっと、
「気象のデータは、毎回同じなら同じでそこに意味があるのです。気象電報は軍の要請もあり、一刻も早く打ってもらわなければ困るのです。勝手に判断しないで下さい」
と言った。ところが郵便局長も負けてはいなかった。
「そんなこと言ったって、こちらは気象台の仕事だけをやっているのではない。ろくにメシも食えずみな疲れているのだ」
局長と沢田技師は、互いにそれぞれの主張を言い合い、喧嘩《けんか》口調になって行った。結局電報は毎回すみやかに発信してもらえることにはなったが、沢田の気持は重かった。「みな疲れているのだ」という局長の言葉が、決して他人事《ひとごと》ではなかったからであった。
戦争末期、観測データの伝達は、こういう実態の中で辛うじて維持されていたのであった。
そして八月を迎えた。すでに前月の末、中央気象台の組織を大本営の中に組み込んで、大本営気象部とする構想が、陸軍気象部から示され、八月一日付で発令される手筈になっていた。ところが八月になってもなぜか発令されなかった。中央気象台が大本営気象部となることは、中央気象台の組織が完全に軍に組み込まれ、台長の権限が骨抜きになることを意味した。藤原咲平はまわりの者に対して、「僕のすることはもうないんだね」と寂しそうにもらしていた。大本営気象部が発令されれば、藤原は中央気象台長の肩書きはなくなり、大本営参謀として働くことになっていた。ところが、八月に入って二日経っても三日経っても発令がないのである。後日わかったことだが、大本営は、ポツダム宣言の諾否をめぐって、もはや気象業務体制の強化などどうでもよい事態に直面していたのであった。
そんな動揺が続いているさ中、八月六日のことであった。広島地方気象台からの気象電報が一日中届かないという事態が起こった。広島が空襲を受けたことは、午後になって合同勤務の軍からの情報でわかったが、どの程度の被害が生じたのかについては皆目不明であった。地方都市からの通信が途絶することは日常茶飯事になっていたから、中央気象台の予報現業室では、広島のデータが途絶えていることにはじめのうち注意を払う者はいなかった。広島電信局は中国地方の通信系統の中枢であり、そこに重要気象官署である広島地方気象台と岡山、松江、浜田などの測候所などが依存していた。そして広島電信局と大阪電信局とは非常無線でつながっていた。中央気象台では、そのうちに連絡がとれるだろうと楽観していた。
ところが翌七日になると、情勢は一変した。ちょうどこの日は中央気象台で全国の管区気象台長会議が開かれていたが、午後になって会議の席に運輸通信省から、小日山運輸通信大臣が臨時の訓示をするので大臣室に参集するようにという通知があった。そこで藤原咲平以下各管区気象台長はそろって運輸通信省に行き、大臣室に入った。
小日山大臣は、一同を迎えると、重苦しい表情で訓示をした。それは、広島が昨日敵機により原子爆弾と見られる強力な新型兵器の爆撃を受け、甚大な損害を受けた、というまだラジオや新聞では報道されてない重大な内容であった。そして大臣は最後に、
「原子爆弾の使用は国際条約で禁止されている毒ガスの使用をも凌《しの》ぐ極悪非道なものである。かかる非人道的な兵器を使用せる敵、既に敗れたり」
と結んだ。
藤原をはじめ各管区台長はいずれも物理学を学んだことのある科学者であった。原子爆弾が何たるかについては知識を持っていた。それだけに戦争がいよいよ恐るべき局面に突入したのだという実感が、各人の胸に深く染み渡った。
藤原らが訓示を受けていた同じ時刻、午後三時三十分大本営は、
「一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」
との発表を行なっていた。一般国民に対してはまだ「原子爆弾」であるという発表は押えたのだが、大本営内部ではすでに現地の軍からの報告で、広島に投下されたのは原子爆弾の可能性が強いと判断していた。
中央気象台には、七日夜になっても広島地方気象台からの連絡は何もなかった。広島地方気象台がやられたのか、それとも無事なのかすら、中央気象台ではつかむことができなかった。
八月八日ソ連は対日宣戦を布告し、九日午前零時を期して満洲への総攻撃を開始した。九日には長崎にも原子爆弾が投下された。米軍機によって各地に宣伝ビラがまかれ、民心の動揺は大きくなって行った。
八月十二日米軍機は東京にビラをまき、午後東京に原子爆弾を落とすという情報を流した。それまで大本営はビラに惑わされるなという方針をとっていたが、広島、長崎の状況を知ってからは、東京への「原子爆弾投下」のビラを無視するわけには行かなくなった。大本営は、ラジオを通じて、繰り返し「新型爆弾攻撃のおそれがあるからとくに婦女子は早目に避難するように」と放送した。中央気象台でも午前十一時までに女子職員や動員学徒を退庁させ、現業当番以外は防護団として待機した。
午後零時半頃B29一機が現われ、空襲警報が発令されたが、何事も起こらず、敵機は姿を消した。この日は朝から真夏の太陽が照りつけていたが、午後一時頃からは雷雨となった。その雷雨の中を、午後二時半頃再びラジオでB29一機の侵入が告げられ、空襲警報が再度発令された。そのとき空がピカッと光ったため、台員たちは一斉に防空壕に逃げこんだ。原子爆弾はまずピカッと光ると、防空の心得として知らされていたのだった。台員たちは防空壕の中で息をひそめていたが、何事も起こらなかった。光ったのは、雷の閃光《せんこう》だったのだ。
原子爆弾に対しては鉄筋の建物でも駄目だと伝えられたため、空襲警報が発令されると、防弾建築の現業当番も速やかに防空壕に避難しなければならなくなった。予報や通報の作業は空襲警報の度に寸断された。各地からの観測データの入電は極度に少なくなっていた。
4
昭和二十年八月十五日正午、天皇陛下の玉音放送が全国に流れた。
「……惟《おも》フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固《もと》ヨリ尋常ニアラス爾《なんじ》臣民ノ衷情モ朕善《よ》ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨《おもむ》ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以《もつ》テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス……」
朝から重大放送の予告があったため、藤原台長は運輸通信省大臣室に出向き、一般職員は学士会館と大手町側の再建した木造庁舎に集まってラジオに耳を傾けた。放送が終っても、全員慟哭《どうこく》して、動こうともしなかった。女子動員学徒は声をあげて泣いた。
この日の藤原咲平の日記――
「正午の放送は、陛下御自らの由畏《かしこ》し彌《いよいよ》以て大事だ。早朝本台員の為、拝聴準備を命ずる。本省へ更に情報を聞きに行く。今日十一時五十分迄に参集せよとの事。自分と人事課長と太田技師とが本省へ、他は台内夫《そ》れ〓〓の建物内で謹聴する事にする。
カッチカッチカッチーン最敬礼……最敬礼、嗚呼《ああ》、噫《ああ》、悲痛極まりなし、涙流れて止《や》まず、辛らうじて嗚咽《おえつ》をこらへる。大臣の訓示あり。飽く迄も堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍びて、聖旨に副《そ》ひ奉らん。皇国の無窮なるを確信し、国体護持の道に邁進《まいしん》せむ。嗚呼、吾等臣民不忠不敏、皇国をして遂に〓《ここ》に至らしめ、聖慮を悩まし奉る事斯《かく》の如し、嗚呼、罪万死尚償ふなし。十五時全員を集め訓辞。堅く御詔勅を奉戴し、平和新日本の復興に邁進せむ事を期す」
玉音放送の後、陸海軍の気象班は全員仕事を投げ出し、動員学徒もこれにつられて仕事につかなくなったが、気象台の当番による観測、天気図作成、予報、気象無線放送「トヨハタ」の作業は何とか続けられていた。気象無線放送には、各地の気象機関向けに実況や概況を流すための「トヨハタ」、船舶のための「ウナバラ」、航空のための「ヒサカタ」、さらにはアジア全域向け、中国東北部向け、中国大陸向け、などの各種があり、いずれも「トン・ツー」のモールス信号で暗号化したものを無線電波で発信していた。そして「トヨハタ」以外はほとんど軍事目的のものであったから、終戦によって軍側が仕事を投げ出すと、「トヨハタ」以外の無線放送は、完全に止まってしまった。
もっとも、気象台側の作業は続けられたといっても、その内容は惨憺《さんたん》たるものであった。現在、国立公文書館と気象庁に保存されている昭和二十年八月十五日の天気図を見ると、実に感無量である。八月に入ってからというもの、本土内から入電する観測データは、多いときでさえ二十地点止まりという状態になっていたが、八月十五日になると、データの入電はさらに減り、午前二時の天気図はデータ不足のために辛うじて等圧線らしきものが二、三本引いてあるだけで、高気圧・低気圧の配置などは全く記載されていない。午前六時の天気図も、ようやく高気圧と低気圧の位置が大ざっぱに書き込まれているだけである。玉音放送の直後の午後二時の天気図になると、本土各地からの入電はほとんどなく、日本列島にはデータのプロットも等圧線も記入されていない。辛うじて朝鮮半島北部に低気圧を示す円形が記されているが、それとて中心示度は書かれていない。幼児がいたずらに線を二、三本引いたのではないかと思われるような天気図であった。このような天気図でさえ、中央気象台の業務が、敗戦という国の破局に直面しつつも続行されていたことを示す証跡として見るならば、また意味も違ってくる。中央気象台の当番は懸命に等圧線を引こうとしたのだが、データの入電がないため、如何《いかん》ともしようがなかったのだ――。
八月十五日の夕方になると、陸海軍気象班の隊員たちは、構内の空地で一斉に赤表紙の機密書類の焼却を始めた。機密書類の大半は暗号表だった。敵に最も知られたくないのは暗号である。戦に敗れたりといえども、いつまた暗号が必要になる時が来るかも知れない。暗号表を敵に渡すことは、日本の暗号のロジックを公開することになる。再度敵に知られぬロジックを組み立てることは大変なことである。こうしたことから陸海軍は、上部の命令によりあらゆる部隊で暗号表をはじめとする機密文書の焼却を図ったのであった。中央気象台でも空地という空地で山のような文書が燃やされ、煙は庁舎を包むほどであった。その炎の勢いとは対照的に、陸海軍気象部の隊員たちの動きは鈍く、すっかり活気を失っていた。
翌十六日も軍は朝から文書の焼却を続け、気象台側も軍からの要請で気象電報用暗号表などの機密文書を焼き始めた。暑いのでみな上半身はだかだった。
その中を藤原台長は業務に支障のない職員全員を整列させて、宮城前広場まで行進した。宮城前に着くと台長を先頭にして、みな地面に坐り込んで首《こうべ》を垂れた。藤原は号泣した。
かつてガダルカナルの戦に敗れれば台長室に「ガダルカナルを忘れるな」の大書を掲げ、アッツ島の玉砕が伝えられれば「アッツ島を忘れるな」と掲げた藤原であった。彼は、決して盲目的軍国主義者ではなかったが、愛国の情において熱烈なものを持っていた。昨日終戦詔書の放送を聞いた後も、職員を集めて訓示をし、「かかる事態となったのはひとえに我々の力が及ばなかったためである。死灰となって国の復興に尽せ」と、口をふるわせていた。そして今、玉砂利に伏して肩を波打たせる藤原の号泣は、たちまち全員の嗚咽となって広がった。
敗戦の衝撃の中でも、藤原は気象業務の重要性を忘れなかった。この日も当番勤務は続けさせる一方、陸海軍気象班の備品や施設をできるだけ引き継ぐ方針を決め、陸海軍側の了解もとりつけた。そして十七日には早速幹部を高円寺の陸軍気象部に派遣して、乾電池、真空管、トランス、電線、無線受信機など、物資不足の中で喉《のど》から手が出るほど欲しかった業務用備品が五、六部屋分もあるのを確認すると共に、その気象台への運搬計画を立てさせたのである。藤原のすばやい手の打ち方で確保されたこれらの物資は、終戦後数年間、深刻な物資不足の時代に気象台の業務を支えることになった。
このような中で業務に支障を来たしたのは、通信事情が非常に悪くなったことであった。十七日朝になると気象電報の入電がほとんど止まってしまったのである。十七日午前六時に入電したのは、わずかに関東地方の前橋と熊谷の二地点だけという状態であった。これでは天気図の解析などできるわけがない。しかも午前六時の天気図はその日の予報を決める上で重要なものである。夜間の観測データの入電が悪いのは、すでに戦争末期からの現象だったが、午前六時の観測データがわずか二地点という事態は異常であり、当番はさすがに解析作業を投げ出した。
この報告に驚いた藤原は、直ちに通信業務に詳しい庶務課長の上松清技師に調査を命じ、逓信院に派遣した。上松技師は逓信院の関係部をまわったが、いっこうに要領をえないので、日頃付き合いのある電務係長をつかまえて現場関係を調べて欲しいと頼んだ。その結果ようやくわかったのは、電信局では、気象電報は軍用のものであるからもはや不用であると判断し、気象台への専用回線の電源を勝手に切ってしまったというのであった。たしかに中央気象台に入る気象電報用の専用回線は、予報課と陸海軍気象班と共用になっており、それぞれの班に同じ電報が届くように仮名タイプが設定してあった。だがもともとこの専用回線は気象台のものであり、それを軍が合同勤務のために分岐して利用していただけのことであった。
「戦争が終っても気象業務は続けているのです。平和になったこれからこそ気象は大事なものになるのです」
上松はこう言って、至急専用回線を回復させて欲しいと申し入れた。電信局としても施設を破壊したわけではないので、回線を復旧させることは容易だった。
こうして気象電報は再び入電するようになったが、終戦に伴う混乱はこんなところにも起こっていたのであった。
台長の威令にもかかわらず、終戦三日目の十七日ともなると、台員の間にはさすがに虚脱感が覆いかぶさっていた。中央気象台には、暗号で送られてくる膨大な量の気象電報を平常文に直す作業をするために共立女子高校と都立第五高女から二百人以上の女子学徒が動員されていたが、その動員学徒もすでに十六日から姿を見せなくなっていた。どの建物に入っても人いきれでむんむんするほどだった気象台が、いまや気が抜けたような状態になっていた。
予報課長高橋浩一郎は、終戦の日、家族の疎開に付き添って秋田の父の実家に行っていたが、玉音放送を聞くと、急遽《きゆうきよ》帰京した。東京に着いたのは十七日の朝であった。気象台に着いたときの印象を、高橋は後日次のように語っている。
「構内では台員や兵隊たちがはだかで黙々と書類を焼いていた。各部屋の人影は少なく、とりわけ二百人以上の動員学徒が乱数表と首っ引きで作業をしていた部屋はガランとして、虚《うつ》ろな空気が漂っていた。その情景を見て、ああやはり日本は敗けたのだなという感慨がこみ上げて来た」
このような虚脱状態を狙い撃ちされたような事件が起こった。八月二十二日のことだった。
その前日の八月二十一日、政府は二十二日午前零時から気象管制を解除することを決め、中央気象台に指令を出した。気象観測データや天気予報を一般に公表できるようになったのである。藤原の心は躍った。重要なことは何事も自分で事を進める癖のあった藤原は、気象管制解除の指令を受け取ると、すぐに内幸町のNHKに足を運び、大橋八郎会長を訪ねた。
藤原は、大橋会長夫人と同郷の長野県上諏訪《かみすわ》の出身だったこともあって、かねて会長と親しい関係にあった。
「明日から気象管制が解除されることになりました。そこで気象台としましては、早速東京地方だけでも天気予報を発表することにしたいのですが、天気予報は一般国民に伝わらなければ意味をなさんものです。明日からラジオの天気予報の時間を復活していただけないものでしょうか」
藤原は自分で決意すると、相手が驚くようなことでも平気で言ってのける男だった。放送局に対し、日が暮れる時刻になって、「明日から天気予報の時間を復活してほしい」と申し入れたのだから唐突な話もいいところである。だが大橋会長は二つ返事で藤原の申し出を受け入れた。NHKは十五日以来一般娯楽放送を自粛していたが、ちょうど二十二日から慰安娯楽放送を再開することを決めたばかりだった。そこへ天気予報の申し入れであった。
警戒警報や空襲警報に代って天気予報が茶の間に流れ、街に流れる、これこそ平時への復帰を象徴するものであり、民心安定に役立つものである――大橋会長はそう判断したに違いない。
二人の話し合いによって、天気予報の放送は、二十二日正午のニュースに続いて行なうことになった。
気象台に帰った藤原は、予報課に行き、「明日から天気予報を発表する」と言った。驚いたのは高橋課長をはじめ予報官たちであった。依然として各地の観測データの入電は少ないし、だいいち一般向けの天気予報を発表するための体制など誰もまだ考えていなかったからである。
翌日当番に当たっていた沢田技師が、
「天気予報をやるとおっしゃっても、データが足りないので、とても自信が持てません」
と言うと、藤原はすかさず反論した。
「今の若い者は困る。部屋の中にいるからデータがないと予報ができないなどと考えるのだ。データ、データと言うが、外へ出て空を見なさい」
藤原の頭には、天を仰ぎ、空を望んで天気を予想するいわゆる“観天望気”の方法があった。それは漁師などの生活の知恵であったが、藤原が“観天望気”を口にするときには、空を観察することは予報の第一歩であるという意味がこめられていた。そのような言い方をする藤原には、大正昭和を通じて岡田武松と共に近代的な天気予報の道を切り開き、世間から“お天気博士”と愛称されるまでになった自負心があった。
この藤原の自信と決意には予報官たちも抵抗できなかった。ともかくやるだけやってみようということになった。
翌二十二日、当番の沢田技師は、午前六時の天気図をもとに戦後初の天気予報――東京地方だけではあったが――を出そうと、朝から意気込んで天気図の解析に取り組んだ。
午前六時の各地の観測データが中央気象台に集まり、それがプロッターによって天気図用白地図に記入されて予報当番のところへ回って来るのは午前七時頃であった。それから当番の予報官が解析をして等圧線を書き込み、概況を把握《はあく》すると共に予報文を作成し終えると、大体八時半から九時になる。
この日沢田技師の天気図によると、沖縄南方洋上にかなり大型の台風があって本土をうかがう気配を見せていたが、台風が本土に接近するかどうかはまだ不明だった。太平洋高気圧は本州のはるか東方海上に引っ込んでいて、房総半島南東沖には小さな気流の渦があった。この渦は、前日付近の船から打電されたデータから、中心示度七四〇粍《ミリ》(九八五ミリバール)程度の豆台風と推定されていた。沢田は、午前六時の天気図でこの豆台風を銚子の南東百数十粁《キロ》のところに書いたが、関東地方に直接大きな影響を与えることはあるまいと判断した。沢田としては、むしろ沖縄南方の台風の方が本命であり、その余波で日本付近の大気の状態が全般に不安定になっている、という見方をとった。
「東京地方、きょうは天気が変りやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」
沢田はこのような予報を出した。この再開第一号の天気予報は、電話でNHKに伝えられ、予定通り正午のニュースに続いて放送された。昭和十六年十二月八日以来、実に三年八カ月ぶりに天気予報が街に流れたのだった。
雲行きは予報通り午後から怪しくなって、驟雨《しゆうう》模様となり、風も少し出て来た。食糧難の折から、都内ではほとんどの家で軒先などに家庭菜園を作っていたから、この雨はまさに干天の慈雨であった。最初の天気予報としては、まずまずの成績だった。
沢田は、続いて午後二時の天気図をもとに夜から翌日にかけての予報をまとめる作業に取りかかった。午後二時の観測データは、関東、東北、北陸以外は入電状況が悪く、房総から伊豆諸島にかけてのデータもゼロだった。このため、房総沖の豆台風の動きがその後どうなったかは全くつかめなかった。沢田は、豆台風が関東地方に突っ掛けて来るような進み方をすることはまずないだろうと、朝と同じ判断をした。東京地方に午後から吹き出した風と驟雨は、不連続線があるためであろうと考えた。
そして午後五時、NHKや新聞社に「今夜は雨、明日は曇りがち」という新たな天気予報を通報すると、宿直当番の斎藤将一技師に業務を引き継いで帰宅した。和達業務部長、高橋予報課長も帰った。
帰り道、強まって来た風に雨があおられていたが、誰も不審に思わなかった。
当番を引き継いだ斎藤技師は、午後六時の天気図の解析を始めると、豆台風の動きがおかしいことに気付いた。房総から伊豆諸島にかけての観測データは、依然として入電してなかったが、それ以外の関東周辺のデータは今度は比較的豊富に入っていた。これらの気圧変化や風向風速のデータから解析すると、豆台風は午後六時には房総東岸にかなり接近し、上陸寸前であると考えざるを得なくなっていたのである。そして朝からの台風の動きから判断すると、豆台風は関東の東海上では異例の北西に向かって進んでおり、夜半頃東京直撃という事態も予想された。
すでに午後八時を過ぎ、暗くなった東京の街は、次第に暴風雨気味になっていた。中央気象台の気圧計もどんどん下がり、風雨はひどくなる一方だった。天気予報は再開したものの、まだ暴風警報の一般への臨時発表の仕方などは決めてなかったから、斎藤技師はとくに報道機関への通報まで気は回らなかった。気象管制の三年八カ月の空白を埋めることは、たやすいことではなかった。
嵐の中を官舎から藤原台長が血相を変えて駆けつけて来た。藤原は現業室に入るや、朝からの天気図をめくって、怒鳴った。
「何だこれは!」
「はいッ、沢田技師が書いたものを引き継いで、台風を追っております」
斎藤が答えると、藤原の声はさらに大きくなった。
「沢田が何だ! この暴風雨はどういうことなんだと言っとるんだ」
「はッ、台風が……」
「天気予報を始めたばかりだと言うのに、台風のことは一言も言っとらんかっただろう。これ位のことがわからんかったのかと言っているのだ!」
藤原の怒りは、まさに怒髪天を衝く勢いであった。そこへ和達部長も現われ、台長に何度も頭を下げた。
台風は深夜横浜付近を通り、東京では最大風速二十二・八米《メートル》を記録した。被害は家屋の全半壊約一千戸、浸水約三千戸で、規模はそれほど大きくはなかったが、二十四万人に上る焼け跡の壕舎生活者やバラック生活者は屋根を飛ばされたり、浸水したりで、散々な目に会った。
天気予報再開第一日にしては、あまりにも意地の悪い台風襲来だった。明くる朝になると、新聞記者たちが台長室に詰めかけて来た。
「気象管制解除早々の黒星ですな」
記者たちは、こう言って台長を責めた。
中央気象台では折から終戦以来の士気のたるみを引き締めようと、賞罰規定委員会を設けて、和達業務部長が委員長になり、その規定を決めた矢先だった。台風の襲来を予報できなかったことは、当然重大なミスとして、処罰の対象になる問題だった。賞罰規定を作った和達自身も業務部長として責任を免れそうになかった。
和達部長、高橋課長、沢田技師の三人は、それぞれに進退伺いを持って、学士会館の台長室に行った。藤原は険しい表情で三人に対した。説明を求められた沢田が口を開いた。
「洋上のデータは皆無ですし、銚子からも八丈島からも入電がなかったのです。もちろん房総沖に低圧部があることはわかっていたのですが、あんな勢いで、しかも北西に台風が上がって来ようとは……」
「観天望気があるだろう」
藤原は遮《さえぎ》った。「――外へ出て空を見ろと、一昨日言ったではないか」
そう言われて、沢田は、昨日夕刻現業室から外へ出て空を仰いだとき、怪しい黒雲が南東方向から次々に流れて来ていたのを思い出した。気象というものは、後になってみると明白に説明のつく事柄でも、予報の実践の場ではなかなかうまく行かないものだが、沢田はその最悪の経験をしたのだった。
藤原は、
「この問題はやはり君たちに責任を感じてもらわないと困る」
と言うと、三人を直立させ賞罰規定の該当処罰条項を読み上げた。三人はどんな罰を受けるのかと、首をうな垂れていた。
「――ただし終戦以来の激務のため、職員は疲労困憊《こんぱい》しており、君たちも例外ではないことを考えると、情状酌量の余地はある」
藤原はこう結ぶと、三人に対し下がってよいと言った。客観的に見て、たとえ観天望気をしたにせよ、二十二日のデータの入電状況から考える限り、台風直撃を予想することは難かしかったであろう。予報のミスを沢田技師個人の責任問題とするには酷であった。もっと根本的な問題が背景にあった。それは台風予報には欠かせぬ海上の観測データが、敗戦によってほとんど入手できなくなったことであった。藤原もそのことは百も承知していた。
三人は学士会館を出ると竹平町の気象台まで黙々と歩いた。台風はすでに去り、晩夏の太陽がぎらぎらと輝いていた。お濠端の老松の緑が殺風景な気象台と鮮やかな対照をなしていた。
結局三人とも情状酌量されて、その後処罰の通知は何もなかったが、この豆台風事件は気象台の職員に活を入れ、虚脱状態をようやく吹き飛ばした。
戦争は終ったものの、気象業務は、洋上のデータの喪失と通信事情の悪化という苦しい条件の中で再出発の歩みを開始しなければならなかったのである。
5
藤原咲平が、広島管区気象台長菅原芳生の来訪を受けた後、九州に接近しつつある大型台風が気になって現業室に立ち寄ったのは、豆台風事件の翌月九月十七日午後のことだった。
九州南端の枕崎一帯は空前の暴風雨に襲われていたのだが、藤原がのぞきこんでいる天気図の九州一帯は、すでに通信線の途絶によって実況データの入電がなく、各観測点の白マルには何もプロットされていなかった。
藤原咲平は、天気図から顔を上げると、
「九州は入電なしで真白だな。この台風は手ごわそうだ。先月のようなへまはやるなよ」
と、もう一度言った。
「まわりのデータがはっきりしていますから、この位置決定はほとんど誤差がないでしょう」
高橋予報課長が当番の平沢健造技師を応援した。
平沢は、高橋課長の言う通り、この台風に関しては、中心位置の決め方や進路予想について十分な自信があった。実際秋の大型台風は迷走することが少なく、すでに転向点も過ぎているから、まわりのデータの変化さえしっかりと把握していれば、台風の動きに関して判断を誤ることはまずなさそうであった。
「ただ心配なのは、どうも中心示度がかなり深そうなのです。午後二時現在で上陸寸前とすると、もう今頃は九州南部は大荒れに荒れている最中でしょう。薩摩半島直撃の可能性が強いと思うのですが、枕崎からの入電はなしです。大きな被害が出なければよいのですが……」
平沢は災害のことを気遣った。すでに午後三時を過ぎていた。
「つい先程広島の菅原君が姿を見せたが、この分だと今夜あたり広島も危ないな。鉄道が不通にならなければよいが」
藤原台長は台長室に挨拶に来た広島管区気象台長菅原芳生のことを思い出していた。
台風はすでに午後二時半過ぎに枕崎付近に上陸し、まれに見る最低気圧と風速とを記録していたのだが、通信線は途絶していたから、中央気象台ではその実況を把握しようがなかった。ましてこの台風が昭和九年の室戸台風に匹敵する史上空前の猛台風であるなどとは、藤原をはじめ誰一人として想像もしなかった。
この台風の真の姿が明らかになったのは、数日後になってからである。それも極く断片的にわかっただけであって、全貌《ぜんぼう》が明らかになるまでには多くの歳月がかかった。
中央気象台は、後年この台風の『調査報告書』をまとめているが、その第一頁には「梗概《こうがい》」として次のように記している。
「昭和二十年九月十七日九州南端枕崎付近に上陸した台風は九州、中国を横断して日本海に出《い》で更に奥羽を横断して太平洋に出た。此《こ》の台風は沖縄付近に在った頃既に中心示度七二〇粍以下に推定されたが、九州に接近するに及び著しく強力なことが判った。然し当時終戦後の電信線の復旧不完全の為に確かな状況はわからなかった。
然るに其《そ》の後枕崎観測所からの暴風報告に接するに及んで同地の実測最低気圧は六八七・五粍(海面更正値)であることが知れ、更に其の他の暴風報告が続々と到着するに及び、台風は稀有《けう》の強さのものであったことが明かとなった。
此の枕崎の実測最低気圧の値は昭和九年の室戸岬で得られた世界的記録(海面更正値六八四・〇粍)に匹敵し、且台風の規模も此の室戸台風に劣らず、其の齎《もたら》した被害亦《また》広島県の死傷行方不明三〇六六名を初とし実に甚大なものであった。〓《ここ》に本台風を枕崎台風と呼び特記する次第である」
ここで疑問になるのは、なぜ被害が「広島県の死傷行方不明三〇六六名を初とし」なのであろうかということである。なぜ上陸地の鹿児島県の被害が筆頭にならず、広島県下の被害の方が大きかったのだろうか。なぜ広島県で「三〇六六名」もの死傷者が出たのだろうか(このうち死者行方不明は二〇一二名に上り、負傷者は一〇五四名であった)。台風が広島を通過する頃には、勢力は上陸時よりかなり弱まっていた筈である。それにもかかわらず広島県下で最も大きな被害が出たということは、何を意味するのだろうか。
思えば広島は、人類最初の原子爆弾の惨禍を受けた直後であった。廃墟の街で台風の直撃を受けた市民たちは、いったいどんな災害に巻きこまれたのだろうか。広島の気象台はいったい何をしていたのだろうか。
枕崎台風の『調査報告書』の活字の向う側にある生きた実相――この災害の中で生き、災害の中で死んでいった人々の姿は、今日に語り伝えるべき大きな悲劇、人間の記録なのだ。昭和二十年九月十七日の問題は、昭和二十年八月六日の問題と切っても切れない関係にあるのである。いよいよ本論に入らなければならない――。
第一章 閃光
1
広島は、三角洲《す》の街である。
もともとは白島《しろしま》と呼ばれたとも言われる。たしかに中国山地は花崗岩質《かこうがんしつ》の岩石が多く、太田川によって運ばれる砂は白っぽい。三角洲は、長い年月のうちに、流出土砂によって、次第にその面積を広げ、やがて入江近くにあった小さな島々を陸続きにする。これらの島々は、白い三角洲の街の中に、いくつかの小高い緑の山となって残る。
広島市の中心よりやや西寄りにある中洲、それは太田川の本流を意味する本川と支流の一つ天満川にはさまれた中洲なのだが、その南のはずれに、瀬戸内海に浮ぶ小島の面影を残す江波山がある。山といっても、標高わずか三十米《メートル》の、猫が寝そべったような形をした丘陵で、なだらかな山頂の東の端に広島地方気象台があった。
広島地方気象台は、もともとは県営の気象台だったが、昭和十四年、気象業務の一元化をはかる国策によって、他府県の気象台や測候所とともに、中央気象台の組織に併合された。それは、中国大陸での戦火が拡大し、対米英関係が悪化する情勢の中でとられた施策であった。
気象技手北勲が、広島地方気象台の技術主任として赴任したのは、昭和十七年十二月だった。太平洋戦争の開戦からすでに一年経ち、強引に戦線を拡大した日本軍は南太平洋などではやくも守勢に転じていたが、国内では戦局に対する危機感はまだそれほど高まってはいなかった。北が広島に着いた頃には、街には落ち着いた雰囲気《ふんいき》があり、江波山の長いだらだら坂を、すぐ下の海岸沿いにある造船所を見下ろしながら上って行く気象台通いは、台員たちにとってのどかな日課の一こまであった。
広島の街は、決して緑が多いとは言えなかったが、市内を七つの川が流れ、水の都の観があった。北は、江波山の上の気象台の前にある官舎に家族とともに住んだ。赴任したとき、北は三十一歳で、妻と三人の子供があった。官舎からは、街と川と海とを見下ろすことができた。北はすぐに広島の街が好きになった。広島勤務になったことは、やがて北の運命を大きく変えることになるのだが、北はそんなことは夢想だにしなかった。北は、ただ漠然とこの街には長く住むことになりそうだなという予感は抱いていた。
仕事の方も問題はなかった。広島地方気象台は、中国地方から四国の一部にかけての気象官署の中枢になっていたから、地方気象台としては人員も機材も整っていた。部課制はしかれておらず、台長の下に庶務主任と技術主任が直属する形になっていたが、職員数は三十名を越えていた。このうち北は技術主任の地位についたのだった。台長の気象技師平野烈介は、北が駆け出しの頃大阪勤務時代の上司だったから、何かにつけて仕事はやり易かった。北は、観測と予報の業務については、台長から大幅に仕事を任されていたので、若い台員たちを率いて観測業務に専念することができた。
しかし平穏な生活は長続きしなかった。その後の戦局の急速な悪化は、地方都市の気象台といえども、容赦なく巻き込んで行った。とりわけ江波山は、広島の市街地から広島湾一帯を三百六十度見通せる恰好の位置にあったため、アメリカ軍による本土空襲が始まるや、次々に高射砲陣地が構築され、強化された。昭和十九年が暮れる頃には、この小さな山に十二門の高射砲が配置され、高射砲隊一個中隊が常駐して、敵機の来襲に目を光らせていた。その中の一門は、気象台の建物のすぐ南側の五十米と離れていない所にあり、天気図の解析作業をする一階現業室の窓からもよく見えた。
広島が、空襲の最初の洗礼を受けたのは、昭和二十年三月十八日であった。首都東京の下町を火の海と化した三月十日の「東京大空襲」の八日後のことであった。この日の広島空襲は、艦載機編隊による小規模なものだったが、江波山の高射砲が初めて火を吹いた。
グラマン戦闘機は、身軽で巧妙だった。海側から低空で侵入し、三菱重工広島造船所などに機銃掃射をあびせ、応酬する高射砲陣地にも襲いかかった。江波山の高射砲隊は、超低空の敵機に手こずった。山の上から低空の敵機に発射すると、市街地に砲弾を射ちこむことになりかねない。しかも、敵機は、気象台の二階建ての建物を隠れ蓑《みの》にして接近し、高射砲陣地を脅かした。高射砲隊は、発射のタイミングを失い、一機も撃ち墜《おと》すことができなかった。
翌十九日にも、艦載機編隊による同じような小空襲があった。高射砲隊は、またも思うように射撃することができなかった。敵機が去った後、若い兵隊が気象台にやって来て、たまたま顔を合わせた北に対し、腹立ちまぎれに、
「気象台は邪魔だ。今度敵が来たときには、遠慮なくぶち壊すぞ」
と、怒鳴った。
高射砲弾をまともにぶちこまれれば、直撃爆弾を受けるにも等しい。気象台の建物を吹き飛ばすことなど、いとも簡単である。北は、兵隊の怒鳴り声を単なる威しに過ぎないと知りつつも、二日間にわたる空襲で、実弾がびゅんびゅん飛び交った直後だけに、好い気持はしなかった。兵隊の剣幕があまりすごいので、北もつい真顔になって、
「それだけは勘弁してくれ」
と答えてしまった。
もっとも高射砲隊にしても、気象台を「ぶち壊す」意志は毛頭なかった。爆撃機B29の来襲に備えて、毎朝上層の風向・風速をつかんでおかねばならない。高射砲から射った砲弾が、上空でどれ位風によってそれるかを計算するためである。これによって、当然砲身の狙いが変ってくる。この上層の風を知るためには、毎朝ラジオ・ゾンデを上げて上層の気象観測をしている気象台から、必要なデータをもらわなければならない。このために高射砲隊は、六、七人の気象班を気象台に常駐させていた。気象台を「ぶち壊す」などということは、空襲で緊張した兵卒の腹いせに過ぎなかった。
その後しばらく空襲はなかったが、四月三十日になってB29一機が飛来し、高射砲による激しい弾幕の中を悠々とすり抜けて、爆弾十個を市街地に投下して飛び去った。この爆撃によって、市内で初めて死者十名の犠牲が出た。
すでに三月十七日南の硫黄《いおう》島は日本軍の玉砕により、敵の手中に渡り、沖縄本島でも、四月一日アメリカ軍が上陸して以来、連日激戦が続けられていた。日本軍は各地でじりじりと追いつめられ、国内には、いよいよ本土決戦の緊迫感が高まっていた。大本営は、敵の上陸によって本土が分断された場合、各地方別に独自の活動ができる体制をとることを決め、六月十日各地に「地方総監府」を設けたが、このうち「中国地方総監府」は広島市内の広島文理科大学内に置かれた。地域に、職場に、義勇隊が編成された。台長が気象台義勇隊の隊長になり、台員全員が義勇隊員だった。
台員たちは、国民服に脚絆《きやはん》を巻き、空襲時には鉄兜《てつかぶと》をかぶって勤務についた。
空襲を防ぐ七つ道具として、台内に火叩き、バケツ、水槽《すいそう》、とびぐち、砂袋、頭巾、防毒面が常備された。
北は、山の上の官舎に家族を住まわせておくことは危険になったので、すでに五月に江波山の麓《ふもと》に家を借りて、そこへ引越していた。そして官舎は、独身者たちの宿舎にあてた。その方が独身者たちの勤務にも都合がよかったし、住宅対策にも役立った。若い台員たちの多くは、この官舎と江波山から一粁《キロ》ほどのところにあるアパートの二カ所に分れて生活した。
七月一日の深夜から二日未明にかけて、軍事都市呉《くれ》市がB29延約八十機による大空襲を受けた。焼夷弾《しよういだん》の雨に呉の中心部はたちまち火の海となり、全天を赤く焦がした。
この夜、北は非番だったが、気象台が気になるので、山に上って見た。宿直の台員たちは、屋上に上って不安そうに南東の呉方面の空を見ていた。北もその方角に目をやった。燈火管制で暗闇につつまれた広島湾を越えて、江田島の向うの空が真赤に染まっていた。江田島の輪郭が黒いシルエットとなってくっきりと浮び上がっているのが、一層不気味だった。
「広島がやられるのはもはや時間の問題だ」
と、北は宿直の台員たちと語り合った。
この頃から、艦載機の編隊による広島への空襲も頻繁《ひんぱん》になって来た。すでに県と市の各防空本部は、B29三百機の大空襲を想定して、市民の防空訓練や避難訓練をくり返し実施していた。大空襲となれば、山の上の気象台といえども、無傷でいられる筈はなかった。
「気象原簿は絶対に焼かれるようなことがあってはならぬ。防空壕《ぼうくうごう》の最も安全な場所に移して、保存に万全を期せ」
平野台長が、北にこう命じたのは、呉市大空襲の数日後であった。平野は、呉の市街地が灰燼《かいじん》に帰し、被害は死者一千八百余名、焼失家屋二万二千余戸に上ったという詳報を得て、気象台としては何はともあれ気象原簿の保管に気を配らなければならないと考えたのであった。
平野は、小柄ながらいかつい顔に軍人髭《ぐんじんひげ》をはやし、古武士のような風格をそなえていた。言葉づかいまでが古風であった。北をはじめ台員たちは、台長の命令に従い直ちに明治以来の気象原簿を整理した。原簿は実に百五十一冊もあった。これらすべてを保存箱に詰めて、構内の横穴式防空壕に運んだ。七月七日であった。
気象原簿は、長い年月の間一日も欠かさずに観測し続けてきたデータの記録簿であり、気象人にとって命に匹敵するとも言える代々の仕事の結晶であった。気象観測は、いかなる事態のもとでも定時に行なわなければならないというのが、気象人の職業訓であり、欠測によってデータに空白ができることは、気象業務に携わる者には許されないことであった。この職業訓は、“観測精神”と呼ばれた。だから、観測記録の集積であり、その土地の気象の歴史でもある気象原簿を焼失するなどということは、絶対にあり得べからざることだった。何としてでも気象原簿は守らなければならなかった。
気象原簿を防空壕に移した日、市の防空本部から電話があった。
台長は、朝から出張で出かけて留守だったので、庶務主任で予報当番だった田村万太郎技手が電話に出た。電話の内容は、
「焼夷弾爆撃に備えて中心部の家屋疎開を急ぐため、多数の作業要員が必要である。各地域や職場の義勇隊に動員数を割り当てたが、気象台義勇隊からは明日から毎日五名出してほしい」
という命令であった。家屋疎開とは、住宅密集地を対象に、家屋の強制撤去を命じて延焼を防ごうとする措置であった。言わば破壊消防の先取りである。人々は家屋の“間引き”と呼んだ。電話を受けた田村は、技術主任の北と相談した。防空本部の命令は絶対である。
「観測業務に支障のないように当番勤務をやりくりして、交代で何とか毎日五名ずつ動員しましょう」
と、北は答えた。
この時期の広島地方気象台の職員名簿について明確な記録はない。辛うじて残された『当番日誌』の日々の署名や関係者の記憶から確認し得た範囲で再構成すると、次の通りであったようである。
台長(技師) 平野烈介
技師 尾崎俊治
技手 田村万太郎(庶務主任)
北勲(技術主任)
吉田勇、白井宗吉、古市敏則、遠藤二郎、山根正演、山路巌、鈴木伸夫
雇(技術員) 高杉正明、金子省三、加藤照明、岡原貞夫、高松則行、上原清人、中村輝子、藤津(名不明)
見習 守木、小川、日高、門(女)
事務員 栗山すみ子、小林治子、山吉英子
定夫《じようふ》(小使い) 川本、尾山、脇本
雑役夫 武内
(このほか、台員ではないが、中央気象台測候技術官養成所から現場実習のため出身地に派遣されていた次の本科生五名と専修科生一名が毎日気象台に出ていた。
本科生 津村正樹(仮名)、福原賢次、定成勇、根山香晴、広段隆
専修科生 田中孝
このうち専修科生というのは、本科とは別に戦争直前から新設された一年課程の短期養成コースの学生で、当たり前なら中央気象台で講義を受けるのだが、東京の空襲が激しいため地方気象台で実習訓練を受けるように臨時の措置がとられていたものである。本科生は夏季現場実習であった。
なお、以上の名簿のうち津村正樹のみを仮名で記したのは、終章で記録される彼のあまりにも悲惨な運命を考慮したとき、実名を書くに忍びなかったからである。)
当時の気象台は身分制がはっきりしていて、現業職は大別すると、技師、技手、雇(技術員)の三つの職階に分れていた。全国の気象台や測候所の中心になっていたのは、中央気象台測候技術官養成所(高等専門学校に相当する三年制の専門学校)の卒業生で、養成所を出ると、まず雇となり、何年間か現場の仕事を身につけたところで技手に昇格するというのが、最も一般的なコースであった。年齢で見ると、技手になるのは二十代後半だった。しかし、戦時体制に入ってからは、気象台の業務量も増えて、全国的に要員が不足して来たため、中学校や女学校の卒業生を見習として積極的に採用するようになっていた。中卒の見習は、各気象台で教育訓練を終了してから、雇として本採用になった。
一方、大学卒のエリートは、比較的若いうちに技師となって、中央気象台の予報官や、主要気象台の台長などの地位に就いていたが、養成所卒以下の技手が技師にまで昇格するには、通常二十数年から三十年以上もかかった。多くの場合、五十歳前後で技師に昇格し、技師になると地方気象台長や測候所長に発令された。
さて、広島地方気象台の平野台長は、大正初期にまだ中央気象台の養成所がなかった頃、中学卒で中央気象台に就職し、地方の気象台や測候所を転々としながら文字通りたたき上げで技師になった人物であった。当時中央気象台長だった岡田武松に、能力と努力を認められて抜擢されたのである。
尾崎技師は、平野台長より年上で、定年に近かった。広島地方気象台に台長以外の技師が配置されていたのは異例のことであった。それは、この年(昭和二十年)の春南洋勤務から帰国したばかりの尾崎を、とりあえず広島に配属させておくという人事だった。だから尾崎は、現業の仕事は時折手伝う程度で、出張の多い台長の留守の場合の代理を務めるのが主な仕事だった。台長の主な出張先は米子《よなご》だった。というのは、広島地方気象台長は米子測候所長を兼ねていたうえに、広島の総務関係の業務はほとんど米子に疎開させていたためだった。だいいち台長官舎が米子に置いてあったのだから、平野は米子へ出張すると言うより、むしろ米子から広島へ出張するという格好になっていた。平野は広島では、台長室のソファーに寝泊りし、台内で自炊していた。
台長と尾崎以外の現業員は、技手が九名、雇が八名の計十七名であった。このうち庶務主任の田村と技術主任の北は三十代だったが、ほかはみな二十代から十代の若い台員ばかりだった。この十七名で現業の勤務を組んでいたのだが、その業務内容は、天気図を作成して予報や警報を出す予報当番一名、観測当番二名(先輩格の甲番と助手役の乙番)、上層気象(ゾンデ)当番一名、防空当番一名となっていた。このうち観測当番は宿直も兼ね、午前八時から翌日午前八時までの二十四時間勤務になっていた。このほか、調査、統計、観測器械の保守、出張などの業務もあるし、専修科生の講義や実習指導もしなければならなかった。
このような人員構成と業務の実態だったから、家屋疎開のための勤労奉仕に連日五名を出すことは、気象台にとってかなりの重荷であった。しかし、断わることはできなかった。北は、田村と相談して現業員を中心に動員表を作った。動員表には、男子の専修科生も加えられた。家屋疎開の作業は、相当な重労働だった。もともと月月火水木金金の勤務になっていたところへ加わった肉体労働だった。勤労奉仕の翌日、疲れが出て欠勤する者もいた。食糧事情が悪くなっていたことも、労働に対する耐久力を減退させていた。
昭和二十年の梅雨は長く活溌だった。
七月十日過ぎてから中国地方に梅雨末期の大雨が降った。太田川の水量が増して、上流の方で氾濫《はんらん》するところが出た。広島市内でも堤防の低いところでは川の水が市街地にあふれ出て、家屋の浸水被害が出た。
この大水の原因についてデマが流れた。
「アメリカ軍の爆撃機が上流の発電用ダムを爆破したのだ」
という根拠のない流言だった。天気予報はもとより大雨の警報でさえ一般への伝達は禁止されていた時代であった。予報や警報は、軍や警察、県、市、船舶機関などに伝えられるだけだったから、突然の大水にデマが流れるのも止《や》むを得ないことであったろう。流言がはびこるということは、激しくなる空襲の中で民心が動揺していることの反映でもあった。
気象台の中でも、街に流れているデマのことが話題になった。
「上流の雨量が多かったためなのになあ。かと言ってラジオで放送するわけには行かないし」
などと話し合っていたことが、どういうわけか憲兵隊の耳に入った。台内に詰めている高射砲隊員が通報したのかも知れなかった。非常時下にたとえ他人から聞いたことであっても、デマを口にすることは厳しく禁じられていた。憲兵隊から台員に出頭命令が来た。
デマを話していたという技手一名と女子事務員二名が、憲兵隊にこわごわ出頭すると、幸い注意されただけで済んだが、大水の話位で憲兵隊に咎《とが》められたことは、台員たちの気を重くした。本土決戦近しとの緊張感が高まる中で、軍が極度に神経を尖《とが》らせていることは、こうした憲兵隊の過敏な態度からも伺うことができた。
洪水のデマ騒ぎがあって間もなく、気象台からまた一人召集された。若手の山路技手だった。現業員から五人目の徴兵だった。
七月二十二日は日曜日だったが、山路がいよいよ明日入営だというので、午後から気象台事務室で壮行会が行なわれた。平野台長はじめほとんどの現業員が集まった。
食糧難で、酒も肴《さかな》もない壮行会だった。北は、「これでやろう」と言って、ふかしたさつま芋を持参した。数が足りないので、包丁で半分ずつに切り、一人半本ずつ配った。酒ならぬお茶で乾杯した。
「いよいよお国のために出るのだな」
台長が言った。
「頑張ってまいります」
と、山路は挨拶したが、山陰の比較的裕福な農家出のおっとりした若者だったせいか、悲愴感《ひそうかん》は感じられなかった。
戦地に行ったことのある先輩が体験談を話して座をつないだ。北支帰りの遠藤技手だった。
「昭和十六年十二月八日の開戦の日には、わしは北京《ペキン》におったのじゃが、すでに二日前にはアメリカ租界やアメリカ軍駐屯隊の基地の周りは、わが軍が秘かに包囲していた。隊長が言うには、いよいよ紳士の国と戦争を始めるから、こちらも髭ぐらい剃《そ》っておけ、とな。宣戦布告発表と同時に参謀は敵基地に乗り込んで、降伏せよ、しからずんば一斉砲撃を開始する、と申し入れた……」
遠藤技手はまだ三十前だったが、開戦後間もなくまだ戦局が悪化しない頃、気象要員であることを重視されて内地に帰されたのだった。
「もちろん敵は無抵抗で降伏しよった。アメリカ兵三百名を捕虜にしたんじゃ。ところが驚いたことに敵の陣地に入ってみると、女の写真が貼《は》ってあるじゃないか――」
壮行会はこんな雑談を交えながら続けられた。
山路は、気象台前の独身者用官舎に住んでいたので、翌朝気象台から出征した。全員が玄関前に整列して万歳を三唱した。国民服で山を下りて行く山路に付き添って、当番外の数人が市内電車の停留所まで見送った。
このような状態の中で、観測業務はさらに別の側面からも脅《おびや》かされ始めていた。それは、物資不足であった。深刻な物資不足は、労力や精神力で補うことはできなかった。
影響は、まずラジオ・ゾンデによる上層の気象観測に現われた。上層観測には、毎回新しいバルーン(風船)と測器が必要である。ところが、六月頃からバルーンに詰める水素ガスが不足し、測器も中央から十分な数だけ送られて来ない。上層の観測は防空上どうしても必要なので、水素ガスは軍に頼んで何とか入手することができたが、測器の方はどうしようもなかった。ゾンデ観測は毎日朝晩二回行なうのが原則だったが、六月末頃からは、一日に一回しかできない日が出始め、七月になると二日に一回ということさえあった。
次に影響を受けたのは地震観測であった。資源の大部分を海外に依存している日本にとって、戦局の悪化は資源入手の道を断たれることを意味した。開戦当初、一滴の油は、一滴の血に値するとまで言われたが、戦争末期にはいくら血を流しても、一滴の石油も得られなくなっていた。いたるところで松の根が掘り返されて、工場で松根油がしぼりとられ、石油代りに使われた。そんな松根油でさえ、軍の需要を充たすだけの量を生産することはできなかった。だから軍以外の機関が、たとえ銃後の護りのために油を必要としても、配給量は極度に減らされた。
地震観測は石油を必要とした。地震計の記録紙は、重油の煙で真黒にすすを付着させなければならないからである。油煙で真黒にした記録紙を地震計に取り付け、その上に針でひっかき傷を作って地震波を記録するのである。地震があろうがなかろうが、毎日この記録紙を作って取り換えなければならない。その重油がなくなったのである。紙も底をついて来た。
中央気象台は、遂に七月末主要地点を除く気象台・測候所に対して、地震観測を中止してもよい旨指令を出した。広島地方気象台でも、七月三十日から地震計の観測を取り止めた。
日本の気象台が、一部の観測項目とはいえ、物資の欠乏から観測データに空白を作ったのは、観測史上この時期をおいてほかにはない。
この頃の広島地方気象台の「当番日誌」は、断片的ではあるが、連日連夜の空襲の中で台員たちが観測業務を何とか遂行している状況を生き生きと伝えている。その一部を以下に記しておく。
(〈 〉内は筆者の注である)
七月一日(日)
23時10分ケハ〈警戒警報発令〉、30分クハ〈空襲警報発令〉
呉、火災発生スルヲ望見
七月二日(月)
本早朝呉方面敵機ノ来襲アリ
台長米子出張中ノ処夕刻帰台サル
有線不通ノタメ無線ニテ送行《〈ママ〉》セルモ順調ナラズ〈爆撃により通信回線が不通になって気象電報を送れなくなることは日常茶飯事になっていた〉
七月三日(火)
00・15警戒警報発令
01・14右解除
有線不通ナル《〈ママ〉》モ無線ニテ送信依頼セルモ無線モ順調ナラザルタメ気象電報発信セズ
23・09警戒警報発令
23・37空襲警報発令 参集者田村、古市、高杉、加藤、金子、高松〈空襲警報が発令されると当番者以外でも気象台にかけつけ防空体制をとった〉
気象電報発信不能ノ所無線ニテ大阪ニ送信可能ノタメ二日十八時ヨリ三日十六時マデ発信ス
七月四日(水)
01・02空襲警報解除
01・12警戒警報解除
20・48警戒警報発令
21・32 〃 解除
加藤技術員病欠
田村技手祇園《ぎおん》ニ出張ス
四、五月分宿直料支払ワル〈手当ての遅配である〉
七月七日(土)
本朝台長山口県ヘ旅行サル
防空壕内ヘ移セル原簿ハ一五一部ノ如シ、未《いま》ダ製本セザルモノハ一括数ヘタリ
支那事変勃発《ぼつぱつ》ノ日
義勇隊ヘ出動命令発令サル
遠藤技手宿直ノ処義勇隊出動ノタメ交代ス
午前午後機材運搬ノタメ総員住田製材所ニ行ク
七月八日(日)
台長山口県ニ旅行中
義勇隊員出動ス、本川国民学校付近ノ疎開家屋整理ノタメ七時半本川国民学校ニ集合、十七時マデ作業
七月九日(月)
台長午前九時頃山口県ヘ旅行中処帰台
藤津技術員大腸カタルノ為アパートニテ養生中病状悪化ノ為入院、赤痢ト診断家族ヘ其《その》事情打電ス
義勇隊員本日モ出動
七月十日(火)
本朝ヨリ台長直々ニ職員ノ呼名点呼ヲ行ハル
自今十四時実況ハ六時使用天気図ノ裏面ニ記入シ、上層天気図ノ十四時実況欄ハ空欄トスルコトトナル〈用紙の不足、ゾンデ観測の欠測を示している〉
七月十二日(木)
テケ発布中
十七時特報発布ス〈「テケ」は大雨や暴風雨の際に出される鉄道警報、「特報」は「気象特報」のことで軍・警察・県・市などに知らされる注意報。当時はこの他台風襲来時などに出される「暴風警報」があった〉
本科実習生五名本日ヨリ実習始ム
九時頃台長ヨリ技手以上参集ノ上夜間ノ防空ニ関シ訓示アリタリ
十三時ヨリ有線、広島大阪間復旧セルニヨリ託送電話ニテ電信課〈広島電信局〉ヘ送リ込ム、専用電話並専用電信線ハ不通、二十時以後電話類全部不通
七月十九日(木)
12・52警戒警報発令
13・30解除
田村、尾崎疎開ノ件ニツキ祇園町ニ出頭、十二時頃帰台ス〈気象台焼失の場合に備えて予備の観測器機や無線電信受信機などを、広島市近郊の町村に疎開する準備を急いでいた〉
本台伊藤技師気象電報ノ件ニ付キ来台、十四時三十分田村技手ト電信課ニ出頭ス〈電信電話線の不通が多く、中央気象台に入電するデータが激減したので、たまりかねた中央気象台では主要気象台に技師を派遣してテコ入れをしようとした〉
七月二十二日(日)
遠藤、本朝乱数受領シテ帰任ス
午後山路技手入営ノ為壮行会アリ
21・13警戒警報発令ス
21・51警戒警報解除サル
23・17警戒警報発令ス
23・47空襲警報発令ス
01・12空襲警報解除
01・33警戒警報解除
七月二十三日(月)
山路技手ノ入営一同見送ル
直通電話故障中
高杉・藤津技術員病欠中
観測室ヲ清潔ニ致シマセウ
七月二十四日(火)
早朝ヨリ敵機五百機来ル
西郷、津山、岡山、松江、高松、松山、室戸、各測候所ノ気象電報ヲ広島ニテ暗号化スル様依頼アリ、十六時ヨリ送ル
七月二十八日(土)
本早朝ヨリ敵機二百機来襲スルモ本市ニハ被害ナシ
可部分室整備ノタメ尾崎技師外三名本夕二十一時出発、大八車ニテ〈気象台の疎開先は広島市北方約十五キロにある可部町役場近くの神社を借りることになり、観測器械など一式を大八車に積んで徒歩で出かけたのである〉
七月二十九日(日)
先ニ事務整理ノ為地震観測中止ノ通牒《つうちよう》アリタル処本日ヨリ実施
尾崎技師外専修科生三名徒歩ニテ荷物運搬ノ為出張
21・40警戒警報発令、暫《しばら》クノ後空襲警報ニ入ルモ二十三時五十分解除
2
八月になった。
広島の夏は暑い。灼《や》けつくような炎天下で、気象台の台員たちは庁舎にペンキを塗って迷彩をほどこした。江波山の上は高射砲隊の作戦上樹木が伐採され、気象台の建物があまりに目立つので、敵機に対し擬装する必要に迫られたのであった。
塗料の購入、運搬からペンキ塗りに至るまで、台員たちが精を出し、八月一日と二日のわずか二日間で擬装を仕上げてしまった。
「なかなかうまいではないか」
土色のまだらに塗りたくられた庁舎を見て、台員たちは自画自賛した。気象台は山の上の二階建てで、一部観測塔の部分が三階になっている。観測塔は、飛行場の管制塔のような格好になっていて、その屋上に風向風速計が立っていた。たとえ迷彩をほどこしても、敵機の目から逃れようがないことは誰しもわかり切っていたが、それでもやはり擬装は気休めになった。
ところが八月に入ると、なぜか敵機の方が来なくなった。それまでも広島への空襲はほとんど艦載機によるもので、B29による本格的な焼夷弾爆撃はいまだ受けていなかった。それが八月に入ると艦載機さえあまり姿を見せなくなった。広島は中国地方の軍事的中枢都市であったのに、敵の焦土作戦から取り残された格好になっていた。中小都市への猛爆がくり返されている中で、不思議な現象であった。空襲警報が出ても敵機は頭上を素通りした。
「定期便がやって来たぞ」
「今夜はどこへ落とす気かのぉ」
台員たちは、敵機が来襲するとこんな会話を交わして、割合のん気に構えていた。
五日夜から六日午前零時過ぎにかけて二回空襲警報が出されたときも、それほど緊迫感はなかった。
八月六日の朝が来た。
いつもの朝と変ったところはなかった。午前七時頃にはすでに日射しはきつく、市内の各所で義勇隊や動員学徒による建物の強制疎開作業が開始されていた。
江波山から見下ろした広島の街は、夏の陽光に白く輝いていた。気象台義勇隊からの疎開作業への動員は、この日はなかった。作業日程が全体としてくり上がり、気象台義勇隊に割り当てられていた六日の作業予定は、すでに五日に済んでいたためであった。
宿直明けの北技手は、一階の無線室で無線電信受信機の拡声器に耳を傾け、中央気象台の気象無線放送「トヨハタ」を受信していた。
この時刻には、午前六時現在の全国各地の実況(晴雨、気圧、風など)と高気圧低気圧の位置、不連続線の位置などが暗号で放送されていた。
「トツー、トツー……」
信号音で送られてくる数字を次々にメモしなければならない。数字は一見何の秩序もないような乱数である。一回分の放送を受信すると、メモした数字は大変な量になる。
無線室は北向きの部屋だったので、窓からは市の中心街の方を見渡すことができた。もっとも窓は幅一米、高さ二米ほどのものが一つあるだけだった。朝から風が弱く、じりじりとむし暑いので、北は窓を開《あ》けて作業をしていた。受信機は窓際にあった。
北が作業を始めてすぐ、午前七時九分にラジオは警戒警報を報じた。
「中国軍管区情報、敵B29四機が広島市西北方上空を旋回中」
この警戒警報は七時三十一分に解除され、
「中国軍管区上空に敵機なし」
と、放送されたが、ラジオのない無線室で北技手は警報の発令も解除も知らないまま、「トヨハタ」の受信を続けていた。メモした数字は「赤本」と呼ばれる暗号表を使って気象データに翻訳し、翻訳した気象データは、白地図にプロットして、天気図を作成する。そして出来上がった「午前六時天気図」をもとに、九時過ぎには広島県地方の天気予報を作成して、中国軍管区や関係防空機関に通報しなければならない。北は、無線の受信に没頭した。
緯度の高い太陽は北向きの窓にも眩惑《げんわく》的な光線をそそいでいた。空には多少白い雲が浮んでいたが、ぎらぎらとした太陽の輝きは雲の存在など無視するかのような威力を持っていた。
北の頭の中では、耳に響く「トツー、トツー」の信号音を数字に変換する作業がくり返されていた。その作業はほとんど機械的で習慣的でさえあった。それは思考を必要としなかったし、いちいち考えていたのでは間に合わなかった。
午前八時十五分――
北が乱数の筆記のため視線をメモ用紙に伏せていたときだった。一瞬目も眩《くら》むような閃光《せんこう》を全身に感じた北は、ハッとして顔を上げ、視線を窓の外に向けた。すると市街地上空には驚くべき現象が起こっていた。白い朝顔の花のような巨大な光幕が、青い天空の中をサーッと超スピードで四方に広がって行くではないか。それは太陽が突然何千倍にもその輝きを増したのかと思われるような衝撃的な明るさを持っていた。北がこの光幕を目撃した時間はほんの一瞬、おそらくは〇・五秒程度に過ぎなかったのだが、そのあまりの強烈さゆえに、彼は長い長い時間その光を見ていたような錯覚にとらわれた。そして網膜に焼きついた光幕の映像は、彼にとって生涯忘れ得ぬものとなった。
これこそ、人類が自らの歴史の中に消すことのできない破壊と殺戮《さつりく》の深い傷跡を残した恐るべき瞬間だったのだが、そのときの北には、一体何が起こったのか毫《ごう》も理解できなかった。
次の瞬間、北は、今度は至近距離でマグネシウムが大量に焚《た》かれたような閃光と熱線の照射を顔面に受けた。
「熱いッ」
と、北は口の中で叫んだ。すぐ近くに新たな爆弾が落ちたと判断した北は、とっさに坐っていた椅子をはねのけて床上に伏せ、両手で耳と目を被《おお》った。
一秒、二秒、と奇妙な静寂が過ぎ、心臓の鼓動が高鳴るのを感じたとき、天地が裂けたかと思われる轟音《ごうおん》と振動が響いて爆風が頭上を掠《かす》め、伏せた身体《からだ》の背面にばらばらと物が落ちて来た。
再び静けさが戻ったとき、北は自分が吹き飛ばされもせずに生きていたのでほっとした。頭から足の先まで身体の背面全体を被っていたガラスや物品の破片を払おうとすると、腰に重みと痛みを感じた。机の上に置いてあった無線受信機が腰の上に落ちていたのだった。無線受信機は、大きさは三十糎《センチ》ほどの長方体だったが、重さは十七瓩《キロ》もあった。そのまま身体を直撃すれば、北は背骨か腰の骨を折って瀕死《ひんし》の重傷を負うところだった。だが幸い伏せる前にはねのけた椅子に当たってから腰の上に落ちたので、衝撃力が弱まっていたのだった。
ガラスの破片を払い、無線受信機を腰の上からゆっくりとのけると、北は立ち上がった。腰に痛みを感じたが、どうやら打撲傷だけで済んだようだった。
あたりを見回すと破壊のすさまじさに驚いた。ただ一つあった窓は完全に吹き抜けていた。窓際の無線受信機はもとよりその付属品もすべて飛ばされ、つい今しがたまで「トツー、トツー」の信号音を響かせていた拡声器は、部屋の反対側の壁にたたきつけられて形を歪《ゆが》め、床に転がっていた。ガラスの破片が、壁と言わず、無線受信機の真鍮《しんちゆう》製ケースと言わず、いたるところに無数に突き刺さっていた。あの瞬間反射的に床に伏せていなかったら、全身窓ガラスの破片で蜂《はち》の巣にされたことは確実だった。それを想像すると、北はようやく恐怖感が背筋に走るのを覚えた。
入口の扉も爆風で開き、廊下をへだてた事務室のガラス戸まで吹き破られていた。その事務室の中で「どうした、どうした」「大丈夫か」という声がするのが聞こえていた。怪我人が出ている様子だった。二階の方も騒がしくなっていた。
北はこなごなになったガラス片を靴で踏み分けながら、事務室へ行った。
事務室の中も惨憺《さんたん》たる有様だった。倒れた机、飛散した事務用品や文書類、一面のガラス片、立ちこめる埃《ほこり》、その中に十人位の台員たちがいて、ほとんどみな顔や手から血を流していた。顔に刺さった多数のガラス片を一つ一つ抜いている者もいた。
事務室では、午前八時からの朝礼を終えた直後に爆風に襲われたのだった。この日は、台長が米子に出張中だったので、尾崎技師が代って訓示と事務連絡を行ない、朝礼は十分足らずで終了していた。台員たちは、それぞれの仕事に就く直前だった。閃光の瞬間、床に伏せた者もいたが、何が起こったのかもわからずに立っていた者もいた。
事務室で全く無傷だったのは、事務員の山吉英子ただ一人だった。窓際や廊下のガラス戸の近くにいた者ほど、多くのガラス片をたたきつけられていた。若い技術員の高杉は、シャツの右肩のところを血で赤く染めていたが、シャツを脱いでみると、それほどひどい傷ではなかった。事務室には骨折などの重傷を負った者はいなかった。
「どこへ爆弾が落ちたのだ」
「高射砲陣地が狙われたのだろう」
「直撃弾だぞ」
北は、台員たちと話しながら、屋外へ調べに出た。気象台の前にある木造の官舎は、雨戸やガラス戸をほとんど吹き飛ばされていたが、付近に爆弾が落ちた様子はなく、高射砲隊の砲門も健在だった。
不思議に思った北は、市街地の方を見下ろして、アッと息を呑んだ。
広島の街が全く姿を変えていたのだ。
江波山の周辺の家並みはほぼ元のままであったが、市の中心部に近づく舟入辺りから向うは、家屋という家屋が姿を消し、ただ一面に白い砂塵《さじん》が舞い上がってまるで砂漠のようになっていた。所々で煙が上がっている。
そして市街地上空には、天空高く巨大なキノコともクラゲともつかぬ奇怪な雲が出現してい、雄大な入道雲へと成長しつつあった。
「落ちたのは一つかなあ」
「また来たのじゃないか」
「いや一つだろう」
台員たちは、しばらくキノコ雲と市街地とを眺めていた。その光景は、目撃者の視線を吸い込み、足を釘付《くぎづ》けにする魔力を持っていた。
(原子爆弾を投下した米空軍機B29エノラ・ゲイ号の航空日誌によると、同機がテニアン基地を離陸したのは、八月六日午前一時四十五分(日本時間)であった。爆撃目標は、第一目標広島、第二目標小倉、第三目標長崎で、どこに投下するかは気象状況によって決められることになっていた。テニアンから広島までは約二千七百四十粁《キロ》あり、B29で片道六時間半かかった。午前六時四十一分、四国南方上空を北上中のエノラ・ゲイ号は、先発のB29三機が観測した目標都市の気象状況を無電で受信した。それによると、第一、第三目標は良好、第二目標は不良であった。この瞬間に広島の運命は最終的に決まったのだった。
午前八時九分、エノラ・ゲイ号の視界に広島の街が入って来た。午前八時十五分三十秒、同機は三万一千六百フィート(約九千六百米)の高度から目視照準によって原子爆弾を投下した。同機は直ちに急旋回すると山陰上空へ向かって離脱し、四十三秒後広島上空に閃光が発したのを目撃した。続いて二回衝撃波を受け、機体はグラリと傾いた。広島上空には巨大な原子雲が立ち昇っていた。テニアン基地では、エノラ・ゲイ号から原爆投下「成功」の通信を受けとると、「やったぞ」の歓声が上がった。
一方、日本側の学術調査によると、原子爆弾の炸裂地点《さくれつちてん》は、現在の原爆ドームのやや南東寄りの上空五百七十七米と推定され、炸裂と同時に空中に火球ができた。火球の大きさと温度は、炸裂直後の一万分の一秒のとき半径十七米で摂氏約三十万度、火球が直径百米になったとき摂氏九千〜一万一千度で、爆心直下では少なくとも摂氏六千度の照射を受けたと推定されている。
広島地方気象台は、爆心地から南々西の方角に約三・七粁離れていた。)
爆弾が炸裂してから二十分ほど経った頃、市内のあちこちから炎が火柱となって上がり始めた。市の中心部がほとんど全滅したことは、江波山の上からもわかったが、いかなる爆撃を受けたのかは、皆目見当がつかなかった。
北は、二、三人の台員とともに茫然と火災の発生を見下ろしていた。一方、事務室では、ガラスなどで負傷をした台員たちが、救急箱を出して互いに手当てをし合っていたが、そのうちに赤チンを塗り終えた者二人が、
「二階はどうなっているだろう」
と言って、階段を駆け上がっていった。すると、二階廊下に本科生の福原賢次が腰から下のズボンを真赤に染めて、放心状態で坐りこんでいるのを発見した。
この日、本科生たちは自由行動の日になっていたので、定時に出勤していたのは福原一人だけだった。福原は、二階の高射砲隊気象班の部屋で、上層の風向風速の計算作業などを見学していた。「ピカッ」と閃光が光ったとき、兵隊たちは叫び声をあげると、反射的に部屋から廊下に飛び出し、頑丈な柱の陰などに身を寄せたが、福原は兵隊たちの後を追って廊下に飛び出したものの、どうしてよいかわからずうろうろしていた。昂奮《こうふん》していたので轟音も爆風も記憶にはなかった。何が起こったのかわからないまま動き回っているうちに、右足に重みを感じ、ズボンが濡れているような感じを覚えた。我に返ってよく見ると、顔から足先まで身体の右側一面に無数のガラス片が刺さってい、とりわけ大腿部《だいたいぶ》と臑《すね》の二カ所のガラスは大きく、ひどい出血を起こしていた。ズボンは血でべっとりと重くなっていた。
自分の血を見たとき、福原はすっかり仰天して腰から力が抜け、その場に坐りこんで動けなくなってしまった。
二階では、このほか高射砲隊員一人が手首にかなりの怪我をして図書館の書架の間にうずくまっていた。また二階の一番奥の会議室では、爆撃の時刻に古市技手が見習の専修科生男女六人に講義をしていたが、閃光を感じた直後にみなすばやく伏せたため、重傷者を出さないで済んだ。
気象台で重傷を負ったのは、本科生の福原だけらしい。台員二人が福原を両脇からかかえて階下の事務室に運んだ。
現業員の中でただ一人の女性である中村輝子や事務員の山吉英子らが、早速福原の傷口を赤チンで消毒して三角巾で縛った。
「中村さんは三角巾が上手じゃのぉ」
と、男たちが誉めた。救急看護は女学校時代の必修だったから、別に誉めるほどのことではなかったのだが、自ら顔と背中にガラスで怪我をしながらもてきぱきと働いている中村輝子の手さばきを見て、男たちもさすがに感心したのだった。
福原の応急手当てが済んだところで、これはかなりの傷だから病院に連れて行かねばなるまいということになった。数人がかりで福原を担架に乗せ、吉田、古市、高杉ら元気な者が交代で担架をかつぎながら山を下った。近くに吉野病院という私立病院があったのでそこへ連れ込もうとしたのだった。
ところが坂道を下り切らない中に、一足先に街の様子を見に出ていた尾崎技師が上って来るのに出会った。
「吉野病院は屋根が落ちて完全にやられているぞ」
と、尾崎は言った。尾崎は自分の怪我に気付かないらしく、顔から血を流していた。
担架の中で福原が不安気な表情をのぞかせていた。
「尾崎さん、血が出ていますよ」
と、吉田が教えてやった。
「いや大丈夫だよ。それより吉野病院が駄目なら、陸軍病院へ行くよりほかはないだろう。そっちへ運んでくれ」
と、尾崎は言った。
江波山の東側に陸軍病院江波分院があった。一行は尾崎の指示で江波分院に向かうことにした。福原は出血がひどく、顔は次第に青ざめて、遂に気を失ってしまった。
この時刻になると被災者たちが続々と江波山の坂道沿いに避難して来た。倒れかかった家屋に危険を感じ、或いは次の爆撃から身を守るために、山陰の方が安全だと思ったのだろう。避難民の中には大怪我をしている者もいた。
担架をかついだ台員たちは、江波分院に行く道すがら、被害の大きさにあらためて驚かされた。山の上から見下ろしたときは、江波一帯はそれほど被害がでてないように見えたのに、山を下りて見ると、どの家も傾いたり、屋根が抜けたり、瓦が落ちたり、ガラスが吹き抜けていたりで、惨憺たる状況だった。その中を火傷《やけど》を負った者や怪我で血を流した者が、ぞろぞろと江波分院を目指して歩いていた。まともな衣服を身につけている者はいなかった。誰もが埃まみれ泥まみれになって、衣服はボロボロになっていた。火傷や怪我がひどくて道端に倒れるように坐り込んでしまう者も少なくなかった。背中から両腕にかけてベロリと皮膚がむけ、襤褸《ぼろ》をぶら下げているのかと見紛《みまご》うほどの男もいた。
江波分院に着くと、すでに診療棟の廊下はもとより構内の空地は治療を受けに詰め掛けた人たちでいっぱいだった。台員たちは担架をかついだままかき分けるようにして進んだ。衣服は、触れ合う怪我人の血でたちまち朱に染まった。診療棟に少しでも近づこうとしてさらに歩を進めたとき、台員たちはハッとして立ちすくんだ。全身を焼かれ、目を白くむいて、坐ったまま動かぬ女につまずきそうになったのだ。よく見れば、女は辛うじて心臓だけは動いていたが、もはや意識を失って、ただそこに坐ったままほとんど硬直しているのである。誰かがかつぎこんだのであろう。
そのとき突然空襲警報のサイレンが鳴り響いた。負傷者の群れに動揺が起こった。台員たちは、福原を担架に乗せたまま、群衆と一緒に避難壕に入った。福原はこの騒ぎで意識をとり戻していた。貧血しているせいか、「寒い」と訴え、「傷が痛い」とくり返した。
警報は間もなく解除された。高杉技術員が治療室の軍医のところへ行き、気象台の患者を早く診て欲しい、重傷なのだと交渉した。高杉は、周囲の患者たちを見ると、福原の怪我など怪我の中に入らないと思ったが、ともかく許されるなら一刻も早く福原に治療を受けさせてやりたかった。
「連れて来い」
と、軍医は言った。江波分院は気象台に近く、日頃からつき合いがあったので軍医が特別の配慮をしてくれたのだった。
高杉が治療室を出ると、順番を待って並んでいる人々の中に、上半身を熱で焼かれ、黒く火脹《ひぶく》れした顔に目玉だけをギョロギョロさせている男が目に止まった。背中の皮は完全にむけて垂れ下がり、どうしてできたのか爛《ただ》れた背中に小さな穴が無数にあいていた。腰にペンチなどの道具を下げているところから判断すると電気工事夫らしい。電柱で工事中に熱線で焼かれたのだろうか。垂れ下がった皮膚と腰に下げたままのペンチ類とが、高杉の網膜に強烈に焼き付いた。
一瞬気を呑まれたが、高杉は急いで避難壕に戻った。ほかの台員らと再び担架をかついで、福原を治療室へ連れてくると、軍医は、
「こんなもの大した怪我ではない」
と言って、赤チンで消毒し軟膏《なんこう》を塗り、包帯を巻いただけだった。
「今日はこの通りの患者数だから、明日もう一度治療をする。また連れて来い」
と、軍医は言った。
一同が気象台に戻ったのは昼頃だった。福原はとりあえず一階の奥にある宿直室に休ませた。
高杉らが福原を江波分院に連れて行った後、気象台に残っていた北は、観測施設等の被害が気になり、調査を行なった。
一階の現業室を覗《のぞ》くと、当番の岡原貞夫技術員がガラス片などの清掃をして、すでに作業のできる体制を整えていた。
被爆時、現業室には観測当番の吉田技手と岡原技術員のほか、所用で入って来た遠藤技手がいたが、部屋が南側を向いていたため損害が少なく、三人とも怪我を免れた。爆風がおさまった後、それぞれに事務室に行ったり、外へ出て市街地を眺めたりしたが、吉田技手は高杉らと担架をかついで出て行ったので、岡原一人が現業室に戻って観測業務を続行する体制を整えた。
「測器類は大丈夫か」
と、北技手が声をかけると、岡原は、
「露場の百葉箱は建物のちょうど陰になって爆風の直撃を受けずに済みました。気圧計室の気圧計も無事です。屋上の風向風速計も動いてます」
と報告した。北技手はほっとした。
机の上にあった観測野帳を見ると、毎正時の観測データがきちんと記されていた。そして空欄には、爆撃直後に市街地に立ち昇ったキノコ状の雲がスケッチしてあった。
「それは遠藤さんが描いたのです」
と、岡原が説明を加えた。
観測野帳には、不気味な雲の形が、北技手も目撃した通りに正確にスケッチされていた。キノコ雲の中程のくびれた辺りに、短時間ながら首輪をかけたようにドーナツ状雲ができたが、それも描き込まれていた。気象技手らしいきめの細かい雲のスケッチだった。いかなる爆弾かはまだ判明していない。しかし、巨大なキノコ雲の発生を見ただけでも事態が只事でないことは明らかである。それを気象技手の目で、直ちに観測野帳にスケッチしたことは、なかなかに気のきいた行為であると、北は思った。
「君の家は街の中ではなかったか」
北は、岡原に尋ねた。
「はい、広瀬元町です」
岡原が母親と一緒に住んでいることを、北は知っていた。
「ひょっとしたら君の家もやられているかも知れないぞ。お母さんの様子を見に帰った方がよいのじゃないか」
と、北は勧めたが、岡原は、
「今日は当番ですから記録をとります。家には姉もいますので母を守っていると思います」
と答えて、仕事を続ける姿勢を見せた。岡原があまりに平然としているので、北はそれ以上帰宅を勧めなかった。
北は現業室を出ると、廊下をはさんですぐ前にある地震計室を調べた。地震計室は北向きの部屋だったので、内部は無線受信室と同じようにめちゃめちゃで、地震計そのものも破壊されていた。地震観測は七月末から観測を中止していたから、当面業務に差しつかえる心配はなかったが、いずれ観測を再開することを考えると大がかりな修復工事が必要なほどの破壊状況であった。
気圧計室や三階の観測塔の状況は、岡原の報告通りだった。北向きの気圧計室にあった気圧計が破壊されなかったのは不思議なくらいだった。観測塔の風向風速計は、台風襲来時の暴風雨にも耐えられるだけの強度に設計してあったため、爆風の直撃を受けながらも持ちこたえたのだった。気象観測器械で破壊されたのは、二階屋上のロビッチ日照計だけだった。観測は支障なく続行できそうだった。
ただ、建物の方の被害は相当なものだった。すべての窓枠《まどわく》は飴《あめ》のように曲り、ガラスは吹き飛んでいた。内部のドアも壊れたものが多く、壁にもあちこち亀裂が生じていた。
事務室へ戻ると、時刻はすでに十時を過ぎようとしていた。台長が不在だから、年輩者が当面の対策を決め、指揮をしなければならない。尾崎技師は街の状況視察のため山を下りていたので、北は庶務主任の田村と打ち合わせた。その結果、台員たちに、
「女子職員は帰宅してよい。男子も市内に家がある者は帰ってもよい」
と伝えた。女子職員たちはそれぞれに帰っていったが、男たちはこの時刻に帰った者はいなかった。
寒暖計の水銀柱は三十度に達しようとしていた。海風が吹き始めていたが、風は弱く、むし暑かった。
そこへ濡れ鼠とも幽霊ともつかぬすさまじい形相をした青年が入って来た。北は、一瞬口を閉ざしてその青年の顔を見つめた。
「津村です、渡し船の上でやられました」
と、青年は言った。顔は火傷で裂け目ができ、とくに右顔面の皮膚がむけて顎《あご》の下にぶら下がっている。しかし、気持はしっかりしているらしく、言葉に元気があった。
よく見るとたしかに本科生の一人津村正樹だった。普段は眼鏡をかけているが、爆風で飛ばされたのだろう、彼は眼鏡を失くしていた。しかし目の周りには眼鏡の縁の形そのままに白い影が残っていた。眼鏡の縁が瞬間の熱線を遮《さえぎ》ったに違いない。
カッターシャツの上に作業服を着て、作業ズボンをはいているが、上下ともボロボロになっているばかりか、ずぶ濡れだった。
津村の話によると彼の遭遇した状況は次の通りだった。
津村は、市の東寄りの比治山《ひじやま》に近い昭和町の親戚《しんせき》の家に下宿していて、いつもはバスで通っていたが、この日は自由行動の日だったので、途中でバスを下車すると、のんびりと徒歩で江波の対岸の吉島本町に出て、そこから本川の渡し船に乗った。閃光にさらされたのは、渡し船が江波側に着岸する直前だった。
「いきなり水素ガスが爆発した中に放りこまれたような衝撃を受けたのです。同時にいくぶん黄色味を帯びた白熱の焔《ほのお》に目がくらみ、強い熱気を感じました。あたりがカラカラに乾燥し切ったような感じと『もう駄目だ』という絶望感にとらわれました」
と、津村は語った。船頭が真先に川に飛びこんだ。津村も我に返って飛びこむと息の続く限り水中に潜っていた。
浮き上がったとき、顔に火傷を負っているのを感じたが、痛みはそれほどなかった。眼鏡はなくなっていた。岸に泳ぎ着いてから我が身の状態をよく調べると、火傷は顔面右側から首、右手首、右股《みぎまた》、右足に及んでいた。ズボンを捲《まく》って見ると、右足の火傷はズボンの皺《しわ》の形の通りに焼印を押したようになっていた。幸い戦闘帽で頭は熱を直接受けず、胸や腹の辺りも無事だった。津村はこれだけの火傷を負いながらも、歩いて江波山の坂を上り、気象台に辿《たど》り着いたのだった。
北技手は、
「すぐ病院へ行って手当てを受けなければいかん。これは福原君よりひどいぞ。誰か手の空いている者が連れて行ってくれ」
と、台員に指示した。
台員たちは直ちに担架を用意して津村をその上に寝かせ、陸軍病院江波分院に向けて出発した。
十一時を過ぎると市内の火災はいよいよ激しくなり、その地域も大きく広がっていた。江波山の上から見渡すと、一粁余り北の舟入本町辺りから向うは、濛々《もうもう》たる黒煙に完全に包まれて、全く見えなくなっていた。それは広島の街が巨大な黒いカーテンに閉ざされたような光景だった。弱い海風が吹いているため、煙はこちら側へは流れず、そのことが江波山からの眺望を鮮明にした。煙は広い市街地のすべての所から出ていた。三角洲《す》の街全体が燃えているのだった。
すべてが煙だった。巨大な煙は炎さえもその中に包み隠してしまうほどで、猛烈な勢いで天空高くめざして上昇していた。成層圏をも突き破りそうな勢いだった。煙は強い上昇気流を誘発し、天頂で雄大な積乱雲に変じていた。積乱雲はかつて見たことのない壮大な峰々を形成し、雲の高さは確実に一万数千米はあった。その峰々は活溌に動き、姿を変え、さらに成長して行った。それは悪霊の蠢《うごめ》きのような不気味さと威圧感とを持っていた。
黒ずんだ積乱雲の中では、頻繁《ひんぱん》に稲妻が走ったり、閃光が明滅したりし、雲の姿をいちだんと不気味にしていた。広島市西部の横川から己斐《こい》にかけての一帯は暗雲の状態から見て、激しい雷雨になっている様子だった。夏の日に雷雲が近づくとき、真黒い降雨域を遠望することができるが、横川、己斐方面は不気味なまでに黒々とした降雨域になっているのが見えるのだった。にもかかわらず火の勢いは一向に衰える気配を見せず、煙は依然として市街地全域から立ち昇っていた。
その光景を茫然と見つめているうちに、北は、事務員の栗山すみ子のことが気になってきた。栗山すみ子は、この日の朝気象台の事務的な用事のため、自宅から直接県庁に行き、所用を済ませてから気象台に出勤することになっていた。県庁は市の中心に近い。栗山すみ子が出勤時刻に県庁に出向いていたとすれば、かなり近い距離で爆撃に晒《さら》されたことになる。
北は台員たちに栗山すみ子から何か連絡がなかったかどうか尋ねた。朝からの混乱と電話線不通の中で連絡を期待するのは無理であっても、やはり尋ねてみないではいられない心境だった。台員たちは誰一人栗山すみ子の消息を知らなかった。
栗山すみ子は女子事務員の筆頭でしっかりしていた。県庁で被爆したとしても、何とか避難するなり、自宅へ帰るなり、最善の道を選んでいるに違いない、この時刻になっても気象台に姿を見せないというのはそういうことなのだ、だが万一ということもある、あの火と煙の中を逃げられるだろうか――北はあらゆる場合を想像したが、いずれにせよ現在の事態の中では捜索に行くことはかえって危険だと思った。
昼過ぎた頃、陸軍病院江波分院に治療に行っていた津村も担架で帰って来た。入院は不可能だという。治療と言っても、火傷で皮膚がむけたところでさえ、赤チンで消毒して亜鉛華軟膏《なんこう》を塗布し、包帯を巻いただけだった。病院ではすでに亜鉛華軟膏さえ無くなりそうだと言っていたという。
津村は手当てを受けて緊張がゆるんだのか、ぐったりとしていた。時折苦痛に顔をゆがめながら、「打ちのめされたような感じです」と呟《つぶや》いた。下宿に帰すわけには行かないので、福原と一緒に宿直室に寝かせることにした。
津村を休ませると、台員たちの中にはさすがに疲れの表情を見せる者も出てきた。北は、怪我を押して働いている者や疲れた顔をしている者に対し、適宜休養をとるように言った。
台員たちは、宿直室の空いている畳の上や、後片付けの済んだ無線室の床の上に、ごろごろと横になって休んだ。
一息ついたところで、北は山を下り、家族の様子を見に行った。北の家は幸い山の陰になっていて爆風の直撃を免れたため、大きな被害は受けずに済み、妻と三人の子供もみな無事だった。彼は帰宅して着換えをするとき、妻に背中から血が出ていると注意された。大した傷ではなかったが、北ははじめて自分もガラスで怪我をしていたことに気付いた。
家族の無事を確認すると、北はすぐに気象台に帰った。山の上に立つと、いやでもまた市内の黒煙の全貌《ぜんぼう》が目に入って来た。あらためて市街地の状況を展望すると、広島がいまや壊滅に瀕《ひん》していることは歴然としていた。それは焼夷弾《しよういだん》による焦土作戦とも違っていたし、一瓲《トン》爆弾を雨と降らせる無差別爆撃とも違っていた。高射砲隊の隊員は新型爆弾らしいと言っていたが、確かに何か強力な特殊な爆弾による攻撃を受けたことは間違いないようだった。
〈ともかく事態を中央気象台に報告しなければならない〉
と、北は思ったが、電話はもとより有線、無線のあらゆる通信回線は不通になったままだった。定時の観測データさえ送れないでいたが、これも当面通信回線の回復を待つ以外にどうしようもないことだった。
夕方になると、さしもの火の勢いも弱まる気配を見せてきた。ところどころ燻《くす》ぶるような白い煙に変り、立ち昇る勢いもすさまじさを失っていた。
北は、中央へ電報を打つなら今のうちだと思った。市内の電信電話が駄目なときは、近郊の郵便局まで行けば通信線が生きているかも知れない。問題は中洲の南のはずれにある気象台から郊外に出るためには炎上する市街地を突破しなければならないことだが、火が下火になってくればどこか通り抜けられる道が見つかるかも知れない。それも暗くなってからでは困難だから日没前が勝負だ、と北は考えた。
北は中央気象台宛のおおよそ次のような電文を綴った。
「六日午前八時十五分B29広島市ヲ爆撃ス、広島市ニ大火発生、当台破損シ台員多数爆風ノタメ負傷シ一部ハ重傷、地震計破壊スルモ気象測器ハ破壊ヲマヌガル、気象観測ハ欠測ナク続行」
この電文に被爆以後未送信になっていた午前十時と午後二時、午後六時の観測データをつけ加えて打電することにした。(気象台の観測は毎正時に行なっていたが、当時中央気象台の天気図は午前二時、六時、十時、午後二時、六時、十時と四時間置きのデータを集めて作成していたので、各地の気象台や測候所は中央にはこれら四時間毎の観測データを送ることになっていた。)
北は、技術主任として台員を統率しなければならないので、自分が気象台を離れるわけには行かなかった。自分で行けなければほかの台員に命じなければならない。
北は、部下や後輩にずけずけと物事を命じる質《たち》ではなく、どちらかというと温和で線が細い方だった。火災の街を突破するという危険を伴う任務を部下に命じることにためらいを感じたが、しかし広島の測候を受け持つ技手として、朝からの事態と定時の観測データを一刻も早く中央気象台に報告しなければならない義務感も強かった。広島が空襲を受けたことについては、中央でも大本営など然るべき筋の情報で知っていようが、肝心の広島地方気象台がどうなっているかについてまではわからないだろう。広島からの直接の報告がなければ、中央は心配するだろうし、対策を立てることもできないだろう。
北は田村技手と相談の上、若い台員たちに集まってもらった。
「何とか中央に電報を打たねばならないのだが、街の火災も下火になってきたようなので、電信局まで連絡班を出したい。この火災では電信局がどうなっているかわからないが、電信局まで行けば何か中央への打電の方法があるかも知れない。もし電信局へ行くことが不可能なら、郊外の郵便局へ行けば電報を頼むことができると思う。連絡のとれる所まで行って欲しいのだ。
勿論《もちろん》無理はしなくてよい。市内の火災がまだおさまっていなければ戻って欲しい。若い者に頼みたいのだが、行ってくれるだろうか」
返事がなかったので、北は腹案として考えていた三名の名前をあげて連絡班員に指名した。三名は、先輩格で堅実な古市敏則、絵の素養があって落着きのある山根正演、太っ腹でユーモアのうまい高杉正明だった。
古市技手は怪我をしていなかったが、山根技手は右腕と右足に、高杉技術員は左顔面から左肩にかけて、いずれもガラスによる切傷を負っていた。しかし、二人ともすでに出血は止まり、元気に動きまわっていた。
三人とも連絡に出かけることを引き受け、出発の準備をした。準備と言っても、ゲートルを巻き鉄兜《てつかぶと》をかぶって身を引き締めただけだった。かなりの距離を歩くことを覚悟して、山根技手が水筒を肩に斜めに掛けた。
「電信局は袋町だから、まず本川に沿って溯《さかのぼ》って行こう」
と、古市が言った。古市は、
「それで駄目なら出たとこ勝負で考えようじゃないか」
と付け加えた。
古市、山根、高杉の三人は、午後六時過ぎ気象台を出発した。
北は三人を見送りながら、もう一度「無理はしなくてよいぞ」と言った。
陽は西の空に傾いていたが、日没までにはまだ一時間はあった。暗くなるまでにはかなり余裕はあるから、何とかうまく行くかも知れないと、北は期待を寄せた。火災が風を呼んだのか、いつもなら夕凪の蒸し暑い時刻なのに、海風が吹いていた。
三人の姿が坂の陰に隠れると、北は玄関から現業室へ足を運んだ。
現業室では、当番の吉田技手と岡原技術員が、すでに午後六時の定時観測を終えて、観測野帳の整理をしていた。
「御苦労さん」と言って、北は野帳を覗きこんだ。気象技手として当番でなくとも日々の観測記録に関心を持つのは当然だが、広島が空襲で炎上した一日の気象データは特別に興味をそそられたのだった。
午後六時の気温は摂氏二十八度三分、風は南西五・二米で、正午の記録三・三米より強まっていた。注目すべき点は、雲の観測記録だった。午前八時まではなかった「KN」(積乱雲)の記号が午前九時から登場し、午後六時現在なお記載されていた。爆撃とその後の火災で発生した雄大な積乱雲の存在を、その「KN」の記号は示していた。
そして、その積乱雲の下で燃え続けている街を思ったとき、北は再び当番の岡原の家と彼の母親のことが心配になってきた。
「やはり君は帰った方がよいのじゃないか。あれほどの火災だから広瀬元町あたりも焼けたに違いない。どうせ今夜はみな泊る覚悟だから、当番の君が帰っても心配することはないぞ」
北は岡原を説得した。
「やはり当番を続けます」
と、若い岡原は平然としていた。「爆撃位で驚いていたら観測などできません」と、岡原は言い切った。与えられた任務を守っているだけだという淡々とした口調だったが、その口調と表情は、「家に帰れ」という上司の勧めをきっぱりと拒んでいた。
何がこの青年を仕事に執着させているのだろうか、観測業務と彼の精神とを結びつけている絆《きずな》は何なのだろうか――北は一瞬考えこんだ。
岡原が中学校を卒《お》えて広島地方気象台に見習として入台したのは、昭和十六年だった。彼はそのまま広島で見習を続けたが、仕事熱心と成績が認められて、昭和十九年春から中央気象台に派遣され、中央で専修科の教育を受けた。そして昭和二十年春に、専修科を修了して測候技術員の資格を得て、広島地方気象台に帰任したのだった。彼はまだ十九歳だった。若い技術員として、仕事に対する熱意に満ち満ちていた。観測野帳を整理している岡原の生き生きとした目の輝きを見たとき、北は自らの青年時代を思い、気象人が体内に染みこませている観測精神について思った。自分が中央気象台の養成所で受けた教育や駆け出しの頃遭遇した猛台風の経験などが、ふと北の頭に浮んだのだった。
3
北勲は、明治四十四年八月一日兵庫県姫路市の奥にある飾磨《しかま》郡鹿谷《かや》村大字前之庄に生れた。現在の夢前《ゆめさき》町である。
鹿谷村は神戸から北条を経て鳥取へ抜ける街道筋にできた宿場町で、五百戸程のまとまった集落があった。北家はこの集落の中に代々居を構えていた庄屋の一つだったが、進歩的な気性の強かった父種次郎は、中学校を卒えると家業を継がずに上京し、麻布の獣医学校に入った。
種次郎が獣医師の資格を得て村に帰ってきたのは、明治四十年の春であった。種次郎は自宅で獣医を開業した。犬猫や家畜の病気の治療をする医者は、都会でも少ない時代だったから、山村の鹿谷村に出された獣医の看板は、村人たちから好奇の目で迎えられた。
しかし珍しがられ、話題になった割には、営業の方は繁盛しなかった。無理もないことで、田舎のことだから、獣医の世話をしょっちゅう必要とするような愛玩《あいがん》動物を飼っている家はなかった。患者と言えば、大抵農家の牛や馬だった。
家畜の診療だけでは生活を維持できないので、種次郎は牛馬用の薬を自家製造して、農家の置き薬にしたり、問屋に卸したりしていた。種次郎は薬剤師の資格を生かして、人間用の薬の製造にまで手を広げた。北家は一変して薬製造場になった。
北勲はこのような家庭の男三人女四人の兄弟姉妹の長男として育った。小学校での成績は、いつも一番か二番だった。種次郎は頭の良い勲に期待をかけ、医者にしようと考えて勲を姫路中学校に進ませた。
姫路に出るとさすがに秀才が多く、成績は一番、二番というわけには行かなかった。とくに小学校では習わなかった英語は苦手だった。しかし北は頑張って、好きな化学や物理だけは毎学期の平均点が九十八点というずば抜けて良い点をとった。
成績がよいとやはりその学科の学習意欲は脹《ふく》らんだ。父の書架から理解できそうな理科系の本を引っ張り出して読む中に、この年齢の多くの少年がそうであるように、天文学に興味を持つようになった。中学二年になる頃には、自分で天体望遠鏡を作り、級友たちと月や火星や星雲の観測をするようになっていた。
天体への関心は、日々の気象の変化や季節の移り変りにも目を開かせた。少年北のこころをとらえたのは、空に浮ぶ雲だった。
めまぐるしく形を変える雲は、星に劣らぬ知的興味と詩的情感とをかき立てた。雲は、静的な星に対し、動的だった。四季の雲の妙なる変化を観察していると、北は飽きることを知らなかった。雲は自然の驚異、自然の不思議、自然の偉大さを教えてくれた。
勿論《もちろん》北は、ただ雲の美しさに見とれていただけではなかった。雲の観察を通して気象に対する知識を深めたのだった。
北は父の進取の気性を受け継いだのであろう、中学三年頃になると理科の実験や工作は学校に先んじてどんどん自分でやるようになった。彼が熱心に取り組んだのは電気だった。
ラジオ技術の雑誌を買ってきて、独りでまず鉱石ラジオを組み立てた。回路図通りに組み立てると、大阪のラジオ放送が聞こえてきた。自分で作った鉱石ラジオからちゃんと音が聞こえてきたとき、彼は不思議な気持にとらわれ、ますますラジオの組み立てに熱中した。
そのうちに三球、四球の真空管ラジオも組み立てられるようになった。村の人たちが珍しがって欲しがったので、日曜日になると真空管ラジオを組み立てては実費で村人に提供してやった。彼が製作したラジオは四十台に上った。当時全国的にまだラジオはあまり普及していなかったから、ラジオを作ってもらった人たちは、「鹿谷村は全国で一番ラジオが普及している村じゃろう」と言って喜んだ。
そして、北に対し「勲君は器用だから、電気技手に向いている」と言った。
父の種次郎は、はじめは勲を医者にしたいと考えていたが、薬の方の商売が思わしくなく、七人の子供をかかえて、とても勲を金のかかる医学校にやるだけの資力がないことを知った。村の人たちが言うように、電気か何かの技術を身につけさせて、早く飯が食えるようにした方がよいと考えるようになった。
昭和五年の春が来て、いよいよ中学卒業の日が近づいてきた。
この頃国内では、昭和初年に始まった不景気の嵐が、年毎に深刻化するばかりで、給料の引き下げや遅配、首切りがいたるところで行なわれていた。新聞は、空前の就職難時代と書き立て、「大学は出たけれど」が流行語となっていた。
種次郎は勲に対し、
「就職の見通しがはっきりしている官費の学校を選べ」
と言った。
勲は、大阪の無線電信電話学校と東京の中央気象台測候技術官養成所を受験する積りだと答えた。
試験は無線電信電話学校が先で、難なく合格した。村人たちが言っていたように、電気技手か無線技手になる道は開かれた。しかし彼は、合格の通知を手にしながら、入学の手続きに行くのを止《や》めた。試験を受けに行ったとき、建物と実習設備を見て失望し、「この程度なら独学でできる」と思ったからだった。
北は一生の仕事としては気象の仕事の方が面白いし、生き甲斐《がい》があると考えた。無線電信電話学校を蹴《け》ったからには、何とか中央気象台の養成所に入りたいと思って頑張った。
測候技術官養成所は募集人員がわずかに十五名だった。授業料は全額官費の上に全寮制だったから、家庭が貧しくて高等学校へ進めない秀才たちがこぞって受験した。毎年海軍兵学校と並ぶ競争率で、この年も五十倍という難関になった。一流高校にパスできるだけの実力がなければ、養成所には入れないと言われた。姫路中学から上京した北は、やはりこの難関には勝てなかった。十五名の合格者の中に名前を連ねることはできなかったのである。
北はあきらめることなく、来年再び挑戦することを決意して田舎に帰り、当面父の手伝いをしながら勉強することにした。
翌昭和六年の三月、北は再び測候技術官養成所の試験を受けた。今度はかなり良い点を取った積りだったが、やはり駄目だった。北は、これでは気象技手になれるのはいつのことになるかわからない、養成所を卒業しなくても何とか気象台に入る道はないものか、と思いあぐねた。
失意の中に鹿谷村に帰った北は、考え抜いた末、中央気象台長岡田武松に手紙を書いた。岡田武松の名は、わが国の近代的気象事業の推進者として、あるいは気象学者として、さらには物理学者として、広く国民の間に知られていた。寺田寅彦と並ぶ知名度があり、中学生でも理工系に興味のある者なら、岡田の名前ぐらいは大抵の者は知っていた。北は、岡田と面識も伝《つて》もなかったが、測候技術官養成所の生みの親であり、気象人育成に熱心だと言われている岡田なら、自分の決意を理解してくれるに違いないと考えたのだった。
北は岡田宛の手紙に、自分は気象台に勤めて気象観測の仕事に一生打ちこみたいと思っていること、しかし養成所入所の門は狭く二度も受験に失敗したこと、田舎で無駄な時間をつぶしているより安月給でも構わないからどこかの気象台で見習をしながら養成所入所の準備をしたいこと、などを懸命に綴った。中学卒の一青年が、中央気象台長であり大学者でもある岡田武松に直接このような手紙を出すのは唐突に過ぎはしまいかと、北は投函《とうかん》するまでためらったが、何とか気象台に就職したいという決意の方が強かった。師を求めて自ら人生を切り開く、虎穴に入らずんば虎児を得ず、そういった精神的風土が向学の志に燃える青年の間に漲《みなぎ》っていた時代であった。
一週間ほど経ってから、北は父の許可を得て上京した。岡田武松からの返事を待ち切れなかっただけでなく、手紙を出したからには自分がどんな人物であるか直接挨拶をするのが礼儀だと考えたからであった。当時の苦学生は急行などには乗らなかった。各駅停車だと姫路から東京まで十六時間もかかった。一カ月前試験を受けに上京したときと同じ汽車だったが、早く岡田の返事を聞きたくて気がせいていた北には二倍も三倍も時間がかかるように思われた。
東京駅に着くと、北はそのまま中央気象台まで歩き、台長室を訪ねた。岡田は快く面会に応じ、北をソファーに掛けさせると、君の手紙は読んだ、ぼくのところへ一度来てみるよう返事を書こうと思っていたところだ、と言った。北は、
「身勝手な申し出で恐縮ですが、養成所に合格するまで、現場実習を先にやらせていただくわけにはまいりませんでしょうか。どんな辺鄙《へんぴ》な気象台でも構いません、実習をしながら勉強をして、来年また養成所を受験したいのです」
と、手紙にしたためておいた内容と同じことを話した。
岡田は、眼鏡の奥から柔和な眼差《まなざ》しを向けながら話を聞いていたが、北の話が終ると、ゆっくり首肯《うなず》いた。
「測候の仕事というものは側で見ているほど楽なものではない。深夜の観測もあるし、台風も来る。自分の家のことを気にしていたのではよい仕事はできない。苦労が多い割に地味なものだ」
「はい、覚悟しております」
「しかし学問研究を実践の場に生かすことができるという点では、やり甲斐のある仕事だ。大事なことは倦《う》むことなく努力すること、持続することだ。その自信はあるかな」
「はい」
北は岡田の目を真正面から見つめて、きっぱりと返事をした。この瞬間をおいて自分が気象技手になれる機会はないと、北は思った。
岡田は満足そうな表情を見せた。
「よし、大阪支台で働く道を考えてあげよう。今の気持を忘れずに、勉強を続けるのだ」
岡田は大阪支台長宛の紹介状を書いて、北に渡した。
岡田は度量が広く、気象の道を本当に愛する者なら学歴を問わず受け入れた。気象台に必要なのは、学問的な知識もさることながら、気象観測にいそしむ心であり、気象事業への情熱であるというのが、岡田の信念だった。実際、岡田の学識と人格とを慕って、気象台で働かせて欲しいと申し出る青年は少なくなかった。岡田はこのような青年に気軽に会い、できる限りのめんどうを見た。給仕として採用され、努力して後年地方気象台長にまでなった者もいた。
岡田に認められた北は、昭和六年四月中央気象台大阪支台(現在の大阪管区気象台)の見習となった。
念願の気象台に入った北は、どんな仕事でも熱心にやった。観測当番の補助員として、観測器械の読み取り方や雲形雲量の観測の仕方、観測野帳の記入法などを見習い、さらには水銀寒暖計、乾湿球温度計、自記温度計、水銀気圧計、風向計、椀型平均風速計、ダインス式風圧計、ウィーヘルト地震計……といった観測器械の原理や構造から記録紙の取り換えや故障の修理に至るまでを一年ほどでほぼマスターすることができた。
北は養成所受験の意志を捨ててはいなかったが、中央気象台は昭和七年度の養成所の学生募集をとりやめてしまった。深刻化する不景気の波が国家財政を逼迫《ひつぱく》させ、気象事業の拡大を困難にしたため、財政節減策の一つとしてとられた措置であった。北にはショックだったが、如何《いかん》とも仕様がなかった。上司は、いずれ募集再開の機会を待つことにして、この際現場の仕事をみっちりと覚えてしまった方がよいと勧めてくれた。
二年目になると、予報当番の補助員もやらせてもらえるようになった。白地図の上にプロットされた各地の気圧や風向を頼りに等圧線を引き、高気圧や低気圧の位置と勢力を確認し、天気の概況を把握《はあく》する。さらに前回作成の天気図と比べたりして、気圧配置の変化を見極め、大阪地方の天気予報を書く。ベテランの技手が、ある時はすらすらと手際よく、ある時は苦渋の表情を浮べて、予報をまとめる作業を傍《そば》で見ながら、北は天気図の解析とはどういうことをするのか、少しずつ覚えて行った。
中央気象台が無線で放送している気象情報を受信する訓練も受けた。気象台の現業員がやらなければならないことは、何でもたたき込まれた。北は下宿へ帰ってからも物理学や気象学の勉強をよくした。
養成所に入所するチャンスは意外に早くやって来た。昭和八年に入って間もなく、北は上司に呼ばれた。
「今年も養成所は学生の募集をしないことになったが、その代り各地の気象台や測候所から将来を期待される青年を集めて教育することになった。定員は十五名だが、大阪支台からは君を推薦したから、大いに勉強して、一人前の気象技手になって欲しい」
北は小躍りしたいほど嬉しかった。気象台や測候所の見習の中から優れた者を選抜して気象技手の養成をしようというやり方は、この年だけの臨時の措置であって、翌年からは試験による学生募集を再開することになったのだが、北は幸運にもこの一年限りの臨時の措置にめぐりあわせて養成所に入所することになったのだった。
昭和八年三月末、北は晴々しい気持で上京した。
測候技術官養成所は中央気象台内に教室を置き、気象学や測候に関する講座は気象台の技師が担当したが、岡田武松の方針は、単なる技術者を養成することではなく、人格豊かな本当の科学者を育成することに主眼が置かれた。だから共に東京帝国大学教授を兼任していた岡田や予報主任の藤原咲平が自ら講座を受け持って学生と直に接したのをはじめ、東京帝国大学(以下東大と略記)などから第一級の講師を招いて、物理学、化学、地理学、数学、英語、独乙《ドイツ》語、国史、西洋史、さらには文学に至るまで水準の高い授業を行なった。授業内容は一般の高等専門学校よりむしろ高いほどで、しかも授業の進め方は特訓とも言えるテンポで進められた。物理や化学の実験器具が気象台には十分になかったから、派遣講師の東大教授たちは、養成所の学生たちを東大の研究室に呼んで授業することもあった。
田舎育ちの北にとって、養成所の授業や生活は何もかも珍しいことばかりで、毎日夢中になって過した。中でも第一級の東大教授の教えを直接受けられるということは、想像もしていなかっただけに、強い刺戟《しげき》となった。
北は学問の広さと深さについて目を開かされる思いがした。岡田武松の物理実験は本質をついてわかり易く、興味が尽きることがなかった。東大助手朝比奈貞一の化学も面白く、教科書の範囲だけでは満足できなくなった北が、さらに専門書で勉強して難解な点を質問しに行くと、朝比奈教授はいつでも個人的に指導してくれた。東大生と同じ扱いを受けた北は感激した。
後に小樽《おたる》商大の学長になった加茂儀一という英語の専任教官がいて、北はその授業も好きだった。加茂講師はヨーロッパ文化史の研究家でもあったため、英語の授業中に語源の説明が屡々《しばしば》ギリシャ語の話に及び、やがてヨーロッパの歴史と文化の話へと発展し、止まるところを知らなかった。こうして英語の授業の大半は、ギリシャ文化やレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロなどのルネッサンス芸術の講話に費やされ、学生たちに理科系の授業にはない滋養分を与えたのだった。
養成所は、全人的教育の一環として全寮制をとっていた。
北が入ることになった寮は、品川に新築したばかりの智明寮だった。養成所の学生寮はもともと宮城内旧本丸跡の、葛《つた》や藤や茅《かや》の生い茂る静かな敷地内にあって、雅雲寮と呼ばれていた。ところが宮内省からかねて敷地返還の要請があったため、この年昭和八年春に寮生を新しい智明寮に移し、雅雲寮を閉鎖したのだった。寮生と言っても、二年続けて学生募集を中止していたため、本科生は三年生しかいなかった。そこへ北ら十五人のいわば訓練生が、本科一年生と同じ資格で入所したのである。
養成所とは言え、れっきとした高等専門学校であり、学生の意気は高かったから、寮生たちは、一高や三高の向うを張って、独自の寮歌を持っていた。
人生の流転いづこ
古の跡美《うる》はし
千代田城頭春いや深く
憩ふわれら若き学徒
意気みなぎる
ああ雅雲寮
旧千代田城天守閣跡の大石垣を朝夕眺めた雅雲寮時代の寮歌だったが、この歌は智明寮に越してからも三年生によって歌い継がれ、北たちも「ああ雅雲寮」のくだりを「ああ智明寮」などと変えてよく歌った。
とは言え、養成所の寮生活はいわゆる蛮カラとも違った。岡田の念頭にあったのは、英国風の全寮主義教育であり、修養と訓練の一環としての寮生活であった。
寮則第一条には、「紳士たる品位を保ち常識に欠ける言行を為《な》す可《べ》からず」と定められていたことは、まさに岡田の方針の反映であった。智明寮の名も、岡田が『道徳経』の「人を知るを智、己れを知るを明」からとったもので、偏狭にならず智・明ともに心得た人物になれという趣旨であった。
教官たちは、交代で週に一回は寮にやってきて、ミーティングをしたり、雑談に加わったりした。岡田も月一回の茶話会には大抵姿を見せた。岡田は、寮に来ると固苦しい訓話よりも、寮のレストラン風食堂でパーティーのマナーを教えたり、欧洲留学の体験談などの打ち解けた話をしたりした。
こうした教育の中で、青年北の脳裏に最も深く刻み込まれたのは、気象人としての岡田の哲学とも言える「観測精神」であった。
観測精神とは岡田が創った言葉であった。それは測候精神と言われることもあった。
「観測精神とは……」
と、岡田はその哲学を機会ある毎にいろいろな表現で語った。
「観測精神は、軍人精神とは違う。
観測精神とは、あくまでも科学者の精神である。自然現象は二度と繰り返されない。観測とは自然現象を正確に記録することである。同じことが二度と起こらない自然現象を欠測してはいけない。それではデータの価値が激減するからである。まして記録をごまかしたり、好い加減な記録をとったりすることは、科学者として失格である。
気象人は単なる技術屋ではない。地球物理学者としての自負心と責任とを持たなければならない。観測とは、強制されてやるものではなく、自分の全人格と全知識をこめて当たるものなのである」
「観測の記録は、精度を増すために測器による読み取り値を用いるが、実は観測者の観察による諸現象の記述が最も大切なものなのである。然るにどうしたことか、観測とは測器の読み取りだと速断するようになり、観察を軽視するようになってしまった。近頃では観測は初心の女でも子供でもできると考える者があるが、これは測器の読み取りと観測とをごっちゃにしたものである。単に読み取りだけならば、ある種のものは自記器械による方がましである」
「気象全体の模様などは決して測器に出て来ない。これらは観測者が絶大の注意を払って観察し、できるだけ詳細に書き付けて置くよりほかに方法はない。従って測器の読み取りにしたところで軽々しくこれを行なうべきではない。十分な注意と熟達した技術で行なわなければならないという精神がそこに宿っていなければならない。それ故に、観測者で当番のものは、寸分たりとも気を他に転ずることはできないのは勿論だが、当番でないものも常に自分は観測者であるという心掛けで注意していなければならない」
「気象学の進歩は観測の成果によって進歩したのではない、力学や熱力学を応用したためである、と従来言われている。表面だけ見ると、なるほどと首肯される。しかし力学や熱力学を応用するには、その基礎となるものがなくては叶《かな》わない。これは気象観測の成果から得られたものである。早い話が気象学の進歩は天気図に負うところが多大であるが、天気図は気象観測を資料として製作されるのである」
こうした岡田の哲学が、養成所の学生は勿論のこと、中央、地方の気象台や測候所の職員全体に浸透していったのは、岡田自身の人柄に負うところが大であった。岡田はワンマンであったが、同時に家族的であった。仕事に厳しく、観測の誤りをしたり測器を破損させたりすると厳しく咎《とが》めたが、同時に職員の人事については僻地《へきち》の測候所員に至るまで意を払い、よく面倒を見た。どこの気象台でも測候所でも、職場全体に家族的雰囲気《ふんいき》ができていた。職場の先輩は後輩の教師であり、若い職員が入ってくると、気象人の心構えと仕事のやり方が順送りに教え継がれた。その頂点に岡田武松がいたのである。
養成所の教官の中に、岡田の弟子で中央気象台観測課長をしている三浦栄五郎技師がいた。三浦は体躯《たいく》が大きくてでっぷりと太ってい、秋田弁まる出しの名物男だった。三浦は中学卒で気象台に入った文字通りたたき上げの苦労人だったが、彼の人生を決定的にしたのは、大正十二年九月一日の関東大震災だった。午前十一時五十八分首都東京に壊滅的打撃を与えたこの地震は、一日中激しい余震を続発させ、その度に中央気象台は激しくゆさぶられ、とりわけ高さ二十二米の観測塔は大波のように揺れた。その日観測当番だった三浦は、足もすくむような大揺れの中で、測器を調整しながら正確な観測を続けたのである。岡田はこの三浦の行動を高く評価し、後に中学卒としては異例の技師に抜擢《ばつてき》し、さらに観測課長の地位まで与えた。
三浦はこのような体験について、養成所の教壇で自慢話をしたわけではないが、気象台ではあまりにも有名なエピソードだったので、学生たちにもいつしか伝わり、学生たちは三浦を観測精神の体現者のような目で見た。三浦が教壇に立つということ自体、あるいは三浦という気象人が身近にいるということ自体が、学生たちに無言の影響を与えた。北は、もし自分が三浦のような状況に置かれたら、果たして観測を全うできるだろうかと思った。大揺れの中では測器の針がずれたり破損したりしているかも知れない、それを調整しながら正確な読み取りを行なうということは、よほど器械に精通していなければできないし、第一観測に対する情熱と決意がなければできるものではない。しかし、できようができまいが、自分が今後気象事業で一生を過すからには、いつかはそういう事態に直面するときが来るに違いないと、北は思った。
北はこうした教育環境の中で、観測とは何であるのか、気象人の道とは如何《い か》なるものであるのかについて、次第に目を開いて行った。北は岡田武松を尊敬し、師と仰いだ。
養成所の一年は矢のように過ぎた。
訓練生の教育は、本科生と違って一年で打ち切られることになった。一つの理由は予算不足であったが、一方では民間の定期航空の本格化などに伴い、現場の要員不足が目立って来たことも大きな理由であった。
昭和九年四月北は大阪支台に戻り、航空気象を担当することになった。
その年の九月二十一日朝大阪を中心に西日本一帯を史上空前の超大型台風が襲い、死者行方不明計三千三十六名、全壊家屋三万八千余戸、浸水家屋四十万一千余戸という大被害を出した。いわゆる室戸台風である。とくに悲惨だったのは大阪府下であった。台風の通過がちょうど小中学校の登校時間とぶつかったため、多数の教師や子供たちが倒壊校舎の下敷となり、教師と児童生徒の死者は大阪府だけで実に七百人に上る惨事となった。
世間は気象台に対し警報が適切でなかったと、ごうごうたる非難を浴びせた。
当時の警報発令体制を知るためには、気象業務の組織を知らなければならない。大阪には、中央気象台大阪支台と大阪府立大阪測候所の二つの気象官署があって、相互に交流はなく、むしろ対立していた。それぞれに独自の天気予報を発表していたため、一般の人たちから「どちらがよく当たるか」などとひやかされることも屡々であった。内容的には大阪支台の発表が天気図や天気概況に重点が置かれたのに対し、大阪測候所の発表はローカルのきめ細かい天気予報や警報に力が入れられていた。ラジオ、新聞は両方の発表を報道していたが、どちらかというとローカルの天気予報については大阪測候所のものを採用していた。
台風来襲の日、両気象官署がどのような警報を出していたか、大阪版の新聞を通じて府民に伝えられた台風情報は次のようなものであった。
「毎日新聞九月二十日夕刊(台風の前日)
迫る台風、時速三十五キロ
急ピッチに勢力を増してあす午前中大阪に接近
スローモーションを続けてゐた台風氏、急にピッチをあげて二十日朝六時早くも沖縄の南東一〇〇キロのところに現れ正午には奄美大島の南西約三〇キロに北進した。(中略)
大阪測候所では『台風は段々勢力を増して七二五粍《ミリ》(注・九六五ミリバール)となつたが、その割合には範囲がせまい、目下コースをどうとるかわからないが、今夜あたりは豊後《ぶんご》水道遥《はる》か南方沖に出て大阪に接近するのは二十一日午前となるでせう』と語つてをり『東北の風雨』といふ久方ぶりに見る直截《ちよくせつ》な二十一日の予報を掲げた」
「毎日新聞九月二十一日朝刊(当日)
猛台風の驀進《ばくしん》 四国、九州大荒れ
近畿一帯もけふは風雨
急ピッチをあげた猛台風――廿日午後三時『風強かるべし、大阪府管内を警戒す』との赤い暴風警報が大阪測候所の無線塔高く掲げられつづいて中央気象台大阪支台にも『風雨強かるべし大阪湾を警戒す』との警報が掲げられた。(中略)
大阪測候所の話
大阪地方は廿一日は天気悪く風も強まり同日朝は最も警戒を要します。しかし午後には台風も通過するから次第に回復に向ふでせう。
中央気象台大阪支台の話
九州から瀬戸内方面は相当荒れますが大阪方面は左程心配したものではない予定で廿一日夕からは風雨が止み時々驟雨性《しゆううせい》の雨があるのみでやがて通過後本格的な爽涼《そうりよう》の秋が訪れるでせう」
「朝日新聞九月二十一日朝刊(当日)
恐怖の猛台風 けさ大阪湾を衝くか
約三尺の高潮襲来のおそれ
今暁再び暴風警報
大東島南西方を発足した七二五粍の台風は(中略)、二十一日午前零時にはコースは北東に転じスピードは四十粁に衰へたが、なほもひた走りに豊後灘《なだ》から瀬戸内海に向つて驀進しつつある。二十一日朝には瀬戸内海東部から四国を荒しまくつたのち大阪湾付近を襲来する形勢となり同午前四時五十五分の満潮時には約三尺の高潮襲来のおそれがあるので大阪測候所では午前二時再び警報を発した。(以下略)」
これらの紙面からもうかがえるように、中央気象台大阪支台も府立大阪測候所もともに大阪地方が暴風雨に襲われることは予想していたのだが、この台風が未曾有《みぞう》の大災害をもたらすほど猛烈な勢力を持ったものであるとは考えていなかったし、台風が急速に加速しつつあるという実態も把《つか》めないままでいた。大阪測候所が午前二時に警報を更新して高潮の警告をしたのは当時としてはよくやった方で、これに対し大阪支台の予報は、大阪測候所の発表と比べて警告のニュアンスが弱く、大阪湾の船舶の警戒にのみ力点が置かれていた。
二十一日の朝になって、大阪支台や大阪測候所がラジオを通じてどのようなローカルの警報なり情報なりを流したかは、資料もなく明らかではないが、東京の中央気象台がおそらく午前八時半か九時頃発表した次のような全国天気概況文から推測すると、台風の動きに応じた警報や情報を発表できたとは考えられない。
「台風ハ可成リ猛烈ナルモノデ中心ハ七二〇粍程度(注・九六〇ミリバール)ラシク、今朝六時紀淡海峡徳島寄リニ在リ北東カラ東北東ノ間ニ向ツテ進行中デ付近ハ大暴風雨中デス、大阪、名古屋等モ次ギニ相当ノ暴風雨トナリマセウ、ソレカラ以東ハ総《す》ベテ雨降リデ相当ノ雨ガアリ総ベテ台風待チノ天候デスガ、九州方面ハ天候が次第ニ恢復《かいふく》中ト思ハレマス、尤《もつと》モ本邦西部ハ通信杜絶《とぜつ》シ状況ハ不明デス」
ところが、このような情報が発表されている頃には、大阪地方はすでに暴風雨に巻きこまれ、被害が続出していたのである。悪いことに、台風のスピードが速まっていたため、大阪地方では暴風雨に不意打ちされた格好になってしまった。大阪測候所で観測されたこの朝の風の記録(平均風速)は、不意打ちの状況を何よりもよく物語っている。すなわち、――
午前六時 六・四米
午前七時 一二・八米
午前七時五十分 二三・三米
午前八時 二九・八米
つまり、午前六時から七時にかけて府民がラジオや新聞の不十分な天気予報に接して家を出る頃には、風も十米前後で、一般に警戒心を抱かせるほどの状態ではなかった。ところがこの時刻には台風はすでに淡路島付近にまで接近し、速いスピードで大阪目指して北上していたのであった。そして、七時半を過ぎて、人々が会社や学校に着いた頃から、平均二十米を越える暴風雨が荒れ狂い始めたのだから、人々は避難することもできずに、倒壊家屋の下敷になったのだった。午前八時三分には、最大瞬間風速が六十米を越えていた。全く不意打ちの台風だったが、不意打ちの感を抱かせたのは、台風の実況と情報のずれがあまりにも大きかったためであった。
しかも住民の台風に対する防災意識は薄かった。台風の接近を知らされながら、普段と変らぬ生活をしていたのである。災害の規模を大きくした根本的な原因は、老朽家屋や老朽校舎が多かったことにあったのだが、被災者たちはもっぱら警報の不適切さを責め立てた。とりわけ大阪支台が矢面に立たされ、時の支台長平野烈介は窮地に追いこまれた。
当時の観測網や通信事情を考慮すれば、台風の予報が十分にできなかったのも止むを得ない面があったのだが、世間は納得しなかった。中央気象台長岡田武松は、かねてから平野を信頼していたが、世論の激しさを考慮して、平野を沖縄に配置換えした。それは気象台の格付けから見ると明らかに左遷であった。
北は台風襲来の朝は非番で下宿にいたし、若くて予報・警報の責任などまかされていなかったから、台風の勢力や進路について当番がどのような見通しを立てたのかは知らなかった。しかし、岡田武松が信頼していた平野支台長でさえ左遷させられる事態を体験して、気象業務の厳しさをあらためてたたき込まれる思いがした。駆け出し時代に空前の猛台風に遭遇したことは、北にとって自分の将来が決して生易しいものではないことを暗示しているような気がした。
北はその後も大阪支台で民間航空のための航空気象業務を担当し、昭和十一年には気象技手に昇格した。いまや一人前の気象人となったのだった。
昭和十三年徳島飛行場の航空観測所長に発令され、赴任して間もなく親の勧めで遠縁に当たるフクと結婚した。北は二十七歳になっていた。
前年七月蘆溝橋《ろこうきよう》事件に端を発した中国大陸の戦火は拡大の一途《いつと》をたどり、日米関係も悪化する一方だった。気象に対する軍事的な要請も強まっていた。とりわけ航空のための高層気象観測は重視された。北は、昭和十五年伊豆大島測候所で、高層気象の観測と研究に従事するよう命ぜられた。北は大島で三年を過した。その間に日本は太平洋戦争に突入していた。
北が広島に転勤することになったのは、広島地方気象台でも軍の要請で高層気象観測が開始されたことから、予報業務と高層気象観測の両方をこなすことのできる技術主任が必要となったためであった。昭和十七年十二月だった。
北が驚いたことには、広島の台長は平野烈介だった。室戸台風の責任をとらされて沖縄に左遷された平野は、その後各地の気象台を転々として、昭和十六年から広島地方気象台長に就いていたのだった。
4
夜が訪れるというのに広島の街はなおも燃え続けていた。
火災によって生じた巨大な積乱雲は、夏の遅い日が沈む頃、ようやく形が崩れて層積雲に変じ、火の勢いが峠を越したことを示していた。だが、あちこちにめらめらと立ち昇る火の手は、暗闇の訪れとともにかえって鮮明となり、威嚇《いかく》的な凄《すご》みを帯びてきた。
北は、中央への打電のため電文を持って山を下りて行った三人のことを思った。三人に市街地突破を命じたのは自分である、だから三人の行動と安全については自分が責任をとらなければならない、三人は無事電報を打つことができるだろうか――北は、赤々と照り返る方角を見下ろしながら、三人の行く手を思い描こうとしたが、一日中燃え続けている市街地の現実の状況は想像外であるように思えた。三人の突破行はやはり無理かも知れないという心配が、北の脳裏をかすめた。
この頃、古市、山根、高杉の三人はすでに行く手を火に遮《さえぎ》られて、進みあぐねていたのだった。
午後六時過ぎ江波山を下りた三人は、本川べりに出、川岸の道伝いに市の中心部目指して歩いた。川を遡《さかのぼ》るにつれて、道端の電柱は倒れ、家屋の破壊状態はひどくなっていった。道を塞《ふさ》ぐ倒壊物を踏み越えながら進まなければならなかった。気象台を出て四十分ほど歩いた頃、橋が見えて来た。住吉橋の手前二、三百米のところまでたどり着いたのだった。
三人は、住吉橋を渡ることができればその先は何とかなるような気がした。別にはっきりした理由があったわけではないが、火災地帯を突破して電信局かどこかの郵便局に到達できるかどうかは、住吉橋を渡れるかどうかにかかっているように思われたのだった。(実は広島市内の主要郵便局、電話局、電信局はいずれも壊滅的な打撃を受け、完全に機能は麻痺《まひ》していたのだが、そんなことは三人にわかる筈はなかった。)
通信機関の被爆状況は公式記録によれば次の通りであった。
「広島逓信局管下で、最も甚大な惨禍を受けたのは、爆心直下にあった細工町の広島郵便局であった。(中略)八時十五分、突如として、頭上に原子爆弾が炸裂《さくれつ》した。同時に局舎は倒壊し、ただちに火を発したに違いない。在局者(局員二百七十九名、動員学徒六十五名)全員死亡のため、その状況について説明し得る者は一人もいない。ただ一人、翌七日の朝まで生存していた職員がいただけである。それは、たまたま郵便局の建物外にいて、爆風のため防空壕《ごう》内に吹き飛ばされ、壕内で、そのまま九時間近くも人事不省になって倒れていたのである。しかし、そこで救出されてから、自宅の方向へ帰って行ったまま、それっきり永遠に行方不明となった。(中略)炸裂下の局舎は、たちまち全焼し、同日午後四時ごろ焼跡におもむいた者によると、だいたい燃え尽して自然鎮火しており、局舎の焼跡には、おびただしい数の白骨と黒焦げの死体だけが、瓦礫《がれき》と共に残っていた。周辺は、何一つ物音もなく、一人の人影もなく、鬼気迫る深い沈黙の世界であった」(広島市編『広島原爆戦災誌』第三巻二二八〜二三一頁)
気象台の通信回線のキイ・ステーションとなっていた広島電信局はどうであったろうか。
「袋町の富国生命ビル内の電信局は、爆心に近かったから(注・爆心から三百八十米)、惨禍も甚大だった。(中略)
八時十五分、一瞬の閃光《せんこう》と大爆音・爆風が突然に襲った。その数秒前まで活溌に活動をつづけていた職場は、死の暗黒に急変し、窓とおぼしいあたりから僅かにロウソクの光ほどの光線が、ほのかに闇を射すだけであった。(中略)室内が完全に明るくなると、鮮血に染った重傷者の呻《うめ》く姿、倒壊物の下から僅かにそれと知れる無言の手・脚。救助を求める断末魔の必死の声、何事か大声でわめきながら散乱したガラクタの中を駈けまわる人など、夢想だにしなかった残忍な地獄が出現していた。放心状態から我にかえった人々のうちで、活動能力の残った人たちによって、重傷者の救出が約二時間にわたっておこなわれた。
局舎は鉄筋コンクリート七階建ての堅牢《けんろう》な建物であったから、倒壊は免れたが、猛烈な爆風によって屋上は亀裂を生じて下方にのめり込み、バルコニーは落ち、鉄の窓枠《まどわく》は吹き飛ばされ、通信室入口の鉄扉は無残に曲り、天井と壁の上塗りは全部脱落し、モルタル間仕切りはすべて倒壊し、通信機器は飛散し、監視員室や受配課室の床は地下室に落ち込み、地下室の水道パイプは破損漏水するなど、おおよそ形ある物はことごとく破壊された。(中略)市内の各所から発生した火の手が、時とともに拡大し、やがて局舎周辺の建物に延焼して来た。猛火による竜巻が局舎近くで三度にわたって起り、ついに三階機械室に引火し、つづいて地下室の明り取り窓の破損箇所から、電力室にも火がはいった。もう何ら施すすべもなく、ただ燃えひろがるにまかせた。激しく狂う火勢は、たちまち建物内のあらゆる可燃物を焼きつくした」(同第三巻二三八〜二四〇頁)
(広島逓信局管下の主要機関の被災状況は、広島郵便局・全焼、広島駅前郵便局・全焼、広島鉄道郵便局・全焼、宇品郵便局・半壊、特定郵便局は市周辺部のものを除いてほとんど全壊または焼失、広島逓信局・半焼、広島電信局・全焼、広島中央電話局・全焼、広島電気通信工事局・全焼、広島搬送電気通信工事局・全焼、広島無線電気通信工事局・半焼、という惨憺《さんたん》たる有様であった。)
古市、山根、高杉の三人は、ようやく住吉橋の手前二、三百米のところまでたどり着いたものの(そこは後日爆心地から約一・七粁の地点であることがわかったのだが)、道はそこで倒壊家屋によって完全に塞がれていた。もう一息で橋のたもとに着くというのに、倒れた家を乗り越えることはとてもできそうになかった。しかもその向う側の製材所の材木置場まで火はまわっており、コールタールのタンクが激しく火を吹き上げている最中だった。
進みあぐねた三人は、いったん途中まで引き返し、舟入の電車通りに出てみることにした。あたりはすでに薄暗くなっていた。
「電車通りなら広いから通れるのではないか」
そう話し合って、電車通りに通じる小路を歩いて行くと、倒れた家の中から何かを懸命に引っぱり出そうとしている人影が、三人の目に映った。近寄って見ると、三十過ぎ位の女だった。明らかに怪我をしており、辛うじて身体《からだ》を支えながら、布団をかつぎ出そうとしている様子だった。
若い高杉が、「どうした、おばさん」と声をかけると、女は放心したような顔を上げた。
「気がついたら家の下敷になっとった。やっと這《は》い出したんじゃが、腰が……」
女は喘《あえ》ぎながらか細い声を出した。
「柱の下になって腰が駄目になってしもうた。このあたりの避難場所は舟入の唯信寺になっとるんじゃが、そこまで連れて行って下さらんか。お願いじゃ……。爆弾にやられたとき母は出とったので、どこへ行っとるかわからんが、唯信寺へ行けば会えるかも知れん。布団を持って行きたいんじゃ……」
三人は互いに顔を見合わせた。北技手から受けた命令は、一刻も早く電報を打つことであった。負傷者の救出ではなかった。この女を唯信寺まで連れて行ったりしていたら、時間がなくなってしまう。暗闇が迫っている今、一分たりとも貴重だった。
三人は互いの顔に当惑の色を読み取ったが、もう一度女の哀願するような目を見たとき、山根が口を開いた。
「よし、おばさん、連れて行ってあげよう。古市さん、これは北さんの命令とは違うが、放っておくわけには行かんでしょう。唯信寺まで連れて行ってあげましょうよ」
古市の気持も高杉の気持も同じだった。
「それじゃ三人で交代でかつごうじゃないか」
と、古市は答えた。まず山根と高杉が両側から女の肩に手をまわして女をかかえ、古市が布団をかついだ。
電車通りに出ると、電車通りなら突破できるだろうという三人の期待は完全に裏切られた。舟入の電車通りはたしかに道幅が十数米あったが、両側の舟入川口町一帯は夕方になって火がまわって来たらしく、折しも炎上の最中で、しかも道の真中では市内電車が激しく火と黒煙を吹き上げていた。三人が出たところは、火災地域から五十米ほど離れたところだったが、それでも熱気が伝わって来るほどだった。
「とてもこれ以上街へは突っ込めんな」
古市が思わずつぶやいた。
広い道なので、避難道路に使われたのであろう。路面のいたるところに、人が倒れていた。倒れているというより、転がっていると言った方がよかった。逃げのびようとして息絶えた人たちだった。爆風と熱傷のため、ある者は肉体がぼろぼろになり、ある者は血まみれになり、ある者は真黒になっていた。死んでいるのかと思うと、立ち上がろうとしてまた倒れる者もいた。
唯信寺は、この地点から少し南へ下がった角を西へ入ったところ、つまり本川とは反対の天満川寄りにあったので、三人は女をかかえ、屍体《したい》を踏み越えるようにして、再び歩き出した。女は時折悲しそうに口を開いた。
「こんなことになったのも、みんなわたしが悪いんじゃ。徴用されて満洲に行った主人から時々手紙が来てのぉ、その度に疎開せい疎開せいとやかましゅう言うとったんじゃが、その通りにせんかったから、バチがあたったんじゃ。ご迷惑かけてすみませんのぉ」
女は夫の留守に家どころか自分の身さえ守れなかったことに対して自責の念に苛《さいな》まれているようだった。
そのとき夕暮れの道端から、弱々しい悲鳴とも泣き声ともつかぬ、絞り出すような声が聞こえて来た。三人は思わず立ちすくんだ。死人が呻《うめ》いたのかと思われるような声だった。耳を澄ますと、それは明らかに女の声で、
「聞いて下さい、聞いて下さい」
と言っていた。
声のする方を覗《うかが》うと、ほとんど一糸もまとわぬ女が仰《あお》むけに倒れていた。全身の皮膚は裂け、顔面はつぶれ、失明しており、生命を持続させているのが不思議なほどだった。肉片の襤褸《ぼろ》と言った方がよいような姿であった。
山根が近づくと、女は人が傍に来たのを感じたのであろう、絶え入るような声で、
「遺言を聞いて下さい」
と言った。
山根は顔を近づけて、「きっと身内の方に伝えてあげます。どうぞ話して下さい」と励ました。
その女は絶え絶えに、自分は若い頃夫に先立たれてから娘一人を頼りに生きて来たこと、娘は吉島町の食糧営団に勤めており、今朝も出勤して行ったこと、もし娘が生きていたら自分がここで死んだことを伝えてほしいこと、娘のために貯えて来たお金が家の二階の押入れの布団の上にしまってあること、などを語り、自分の娘の住所、氏名、年齢を告げた。
山根は女の言うことをすべて手帳に書き取ると、水筒の蓋に水をついで末期の水をやるような気持で女の口に含ませ、「きっと明日またここへ来るから、頑張って生き抜くんですよ」と叫ぶような声で言った。女の死はもはや時間の問題だった。手のほどこしようのない変り果てた姿を前にして、三人にできたことは励ましの言葉をかけてやることだけだった。
(山根は、この女の遺言を娘さんに伝えようと、後日機会あるごとに手帳のメモを頼りに尋ね歩いたが、該当する女性を探し出すことはできなかった。三年ほどして吉島町のバラック建ての配給所で、配給係をしているおとしよりから、「そんな娘さんが原爆当時食糧営団に勤めていたような気がする」という話を聞きこんだが、それ以上具体的な手掛りをつかむことはできなかった。数年後山根は悲運の女と一人娘の住所、氏名を記した貴重な手帳を紛失し、娘さんを尋ねるすべを失ってしまった。この尋ね人のことはその後も山根の意識から消えなかった。十年ほど経って新聞に心当たりの人を求める投書をしたところ、記事として扱われた。しかし、そのような母娘《おやこ》を知っているという人は現われなかった。結局、娘さんも原爆で死亡してしまったのかも知れないと、山根は考えた。行方も死に場所も名前もわからぬままになっている原爆犠牲者が広島には何万といるのだ。)
唯信寺に着くと、境内は死線を彷徨《さまよ》う苦しみの呻きが反響していた。墓石は倒れ、本堂の屋根は抜け、いたるところに人々はうずくまり、足の踏み場もないほどだった。薄暮の中に響く呻きの中で、ようやく聞き取れる言葉と言えば、
「水、水……」
「水をくれ」
の叫びだけだった。
三人は、かかえるようにして連れて来た女を、本堂の片隅に場所をとって布団を敷き、そこに坐らせると、
「おばさん、救護班が来るまでここで待っていなさい」と言った。
女は何度も何度も礼を言って、「どうかこれを受けとって下さい」と金を出したが、三人は押し返した。
そのうちに山根が肩にかけていた水筒が、まわりの人々の目に入ったのであろう、
「兵隊さん、水を下さい!」
と、哀願する声が一斉に起こった。鉄兜《てつかぶと》姿の三人を見て兵隊と勘違いしたのだろう。どの目も血走っていた。
古市、山根、高杉の三人は、打電のための突破行が不可能となったからには、持てる水をここで有効に使った方がよいと判断した。そのとき、傍にいた男が水筒にしがみついて奪い取ろうとした。山根は、
「待て! 水は少ししかない。できるだけみんなに飲ませねばならん。順番に口に入れてやる」
と大声で叫んだ。
山根は、まず水筒を奪おうとした男に、
「口を大きく開《あ》けて」
と言った。ところが、その男は口を開けることができなかった。自分では開けているつもりなのだろうが、顔面が火傷《やけど》で脹れ上がっていて、口が引き攣《つ》って開かないのだった。山根は手を貸して唇を開かせ、その口に水筒の蓋一杯分の水を流し込んだ。
三歳位の幼児が息絶えた母親にしがみついていた。その子供も全身に火傷を負ってい、泣く力もなく、母親が死んでいるとも知らずにいるのだった。山根はその子の口にも水を含ませた。
水筒の水はすぐに底をついた。衣服をほとんど焼かれ、全身火脹れになった女学生に水をやろうとして、山根が水筒を傾けたときには、辛うじて一雫《しずく》の水が落ちただけだった。その一雫が誘い水になったのか、女学生は「水、水」と叫んで立ち上がるや、本堂脇にあった洗面器めざして走り出した。彼女はほとんど何も身にまとっていなかった。
「××子や! それは昇汞水《しようこうすい》だよ!」
女学生の爛《ただ》れ切った背中に向かって、母親らしい女が懸命に叫んだが、自らも被爆しているその母親には娘を引き止める力も後を追う力もなくなっていた。昇汞水が水銀化合物の消毒液で、激しい毒を持っていることぐらい、誰でも知っていることであった。爆弾が炸裂してからすでに十時間以上も苦しみ抜いたこの女学生にとって、もはや母親の叫び声すら耳に入らなくなっていたのであろう。
洗面器に駆け寄った女学生は、顔をその中に突っ込むと、がぶりと昇汞水を飲んでしまったのである。一瞬の出来事だった。
それを見た周りの十人程がばらばらと洗面器に駆け寄った。男も女も奪い合うようにして次々に昇汞水を飲んでしまった。
山根は唖然《あぜん》としてそこに立ちすくんでいた。天はこれらの苦悶《くもん》する人々に安楽死の道を教えたのであろうか。いや違う。そこに展開された光景は、地獄絵図そのものではないか。山根はこれ以上そこにいる人々を見るに忍びなかった。洗面器の昇汞水を飲んだ女学生をはじめ多くの男女の末路を見るのはとても耐えられないことだった。次々に起こる断末魔の事態に、山根ばかりでなく古市も高杉も次第に身体が震えるような恐ろしさにとらわれていた。
山根は、古市、高杉の二人を促して境内から出ようとした。そのとき、夕闇迫る空に敵の偵察機らしい一機が飛んで来た。その機影を目撃すると、呻いていた負傷者たちは一斉に空に向かって、ありとあらゆる恨み言をわめき叫んだ。立ち上がって金切声を振り絞る女もいた。叫び声は境内に響き返ったが、偵察機は地上の地獄絵図を黙殺するかのように、飛び去って行った。
午後十時近くなって三人は気象台に帰って来た。江波山の上はすでに暗闇に閉ざされていた。台内では懐中電燈とローソクで辛うじて明りがとられていた。
北は事務室で三人を迎えると、報告を促すように「どうだった」と尋ねた。
「電報は駄目でした」
古市が短く答えただけで、三人とも言葉を続けることができず、放心したような目を北技手に向けていた。それは、何か想像もつかないような怖いものを見てしまった後の痴呆状態を連想させる目だった。
それ以上三人に質問することは無理だと判断した北は、若い技術員に水を持って来るように命じ、三人には「詳しいことは一息ついてから聞こう」と言った。
三人はそれぞれにコップの水を飲み干すと、多少落着きを取り戻したようだった。やがてポツリポツリと、体験した市街地の状況を語り出した。三人を囲んで耳を傾ける台員たちは、街の被災状況がただならぬものであることを、言葉の端々からようやく感じ取ることができた。台員たちは、一日中広島を包んだ炎と黒煙の状況から被害規模の大きいことは推察していたものの、炎と黒煙の下の実相がそんな推察をはるかに越えた、通常の空襲では考えられない恐るべきものであることを、深更に及んではじめて知らされたのだ。この三人の報告でさえ、広島の惨状のほんの輪郭に過ぎなかったのだが――。
報告を聞き終ると、北は、今夜は庁舎内と防空壕に分れてめいめいが適宜寝る場所を作って泊ることにしたので、三人とも明日に備えて休んで欲しい、と言った。燃え続ける市街地の火災とさらに予想される空襲とに備えて、台員が泊りがけで気象台の護りを固めておかなければならないのだ。ところが、泊りがけといっても独身寮に当てていた官舎はガラス戸や畳が吹き飛ばされて寝ることもできず、また宿直室は重傷の本科生二人の病床に当てているため、台員たちは事務室や防空壕に泊らざるを得なかった。寝具は、重傷の二人に使わせていたので、ほかの者は机や椅子やむしろの上に雑魚寝だった。
「当番者以外は休養」
北は参集者にこう伝えると同時に、
「トヨハタの受信不能は止《や》むを得ないが、定時の観測は続けたい。元気な者で当番の編成を組み、欠測のないようにして欲しい。明日の当番は勤務表通り遠藤、加藤の二人で大丈夫だな」
と言った。中央気象台の無線放送「トヨハタ」を受信できないということは、天気図を作成できないということだった。つまり予報の作成ができないわけである。無線受信機が破損してしまった以上、それは止むを得ないことだった。しかし、たとえ予報業務ができなくても、観測業務だけでも続行しようというのが、技術主任である北の考えだった。北の命令は当然のこととして、台員たちに受け止められた。
疲労の色を見せながらも、気象台を護り、観測を守ろうという点では誰一人異存のない空気を読み取って、北は安心した。
北は自分もそろそろ横になろうと思ったが、街の方が気になるので、もう一度玄関の外へ出て見た。火の勢いはさすがに衰えつつあったが、なおあちこちに執拗《しつよう》に赤い炎を見せていた。その火を見ながら、北は江波の中洲は孤立しているのだなと、あらためて思った。幸い南寄りの海風なので江波山付近への延焼の心配はなさそうだったが、電報を打てなかったことが、北の孤立感と苛立《いらだ》ちを強くした。そのとき北は、
〈明日は自分で打電に行こう〉
と思った。〈明日なら下火になっていよう、みな疲れているから今度は自分で突破を試みるのだ〉そう思いをめぐらせながら、ふと海岸の方を見ると、そこに二つ、三つ、小さな火がゆらめくのが目に入った。北には、その火が屍体を焼く火であることがすぐにわかった。その方角には、夕暮れ頃から二筋、三筋と細い煙が立ち始め、ちょうどその頃江波山の周りを見回って来た誰かが、「海岸で屍体を焼き始めたそうだ」と話していたからだった。
その海岸の方に見える火は、江波山から見るといかにも弱々しく、市街地の威嚇的な火災とはあまりにも対照的で、哀《かな》しみの色さえ帯びているようであった。
広島地方気象台の『当番日誌』の八月六日の欄には、簡単に数行次のように記されている。
「八時十五分頃B29広島市ヲ爆撃シ、当台測器及当台附属品破損セリ
台員半数爆風ノタメ負傷シ一部ハ江波陸軍病院ニテ手当シ一部ハ軽傷ノタメ当台ニテ専修科生ガ手当セリ
盛ンニ火事雷発生シ横川方面大雨降ル」
第二章 欠測ナシ
1
夏の早い朝が明けると、気象台に仮泊した台員たちはごそごそと起き出した。みなさすがに睡眠不足で疲れていたが、非常事態だという緊張感がそうした疲労感を凌駕《りようが》していた。やはり真先に気になるのは火災の状況だったから、思い思いに屋上に上がったりしては、街を眺めた。北も屋上に上がった。
ところどころでなお新たな火の手が上がるのが見えたが、それらはいずれも延焼地域の縁《へり》のあたりだった。中心部一帯はほとんど燃え尽したのであろう、火と煙が猛然と天に吹き上げる勢いはなくなっていた。
巨大で醜怪な積乱雲は完全に崩れて、空は一面黒ずんだ層積雲に覆われていた。風もなく空気が澱《よど》んだような夜明けだった。その雲も、日が高くなるにつれてしだいに四散し、やがて焼けるような太陽が射し始めた。
北がまず気になったのは、宿直室に休ませている重傷の二人だった。宿直室に行ってみると、二人のうち台内で怪我をした福原は出血もすっかり止まって、精神的にも元気を取り戻していた。
しかし、渡し船で全身に熱線を受けて火傷《やけど》を負った津村は、顔が水脹《みずぶく》れになって、目も口もほとんど塞《ふさ》がっていた。皮膚がむけたその顔からは、リンパ液がじくじくと垂れ落ちて、布団を濡らして染みをつくっていた。水脹れの顔は二倍にも大きくなったかと思われるほどの大きさになっていた。津村は苦しそうな息づかいをしていたが、意識はしっかりしていた。北が、「何か食べるか」と聞くと、津村は首をわずかに動かしてうなずいた。
北は、津村と福原に粥《かゆ》をつくってやりたかったが、気象台には米などなかった。そこで北は事務室に戻ると、尾崎技師と庶務主任の田村技手に相談した。
「こういう事態だから負傷者の食事は高射砲隊にお願いしてみようじゃないか」
と、尾崎が言った。「田村君、僕と一緒に来てくれんか」
そう言うと、尾崎は田村と一緒に高射砲隊の隊長に面会に行き、事情を説明したうえで、兵隊の食事の一部を分けてもらえないものだろうかと頼みこんだ。
軍は米を豊富に持っていた。少々の分配ができないとは言えなかった。隊長は、糧秣《りようまつ》は本土決戦への備えの必要あって十分に蓄えておかなければならないから、まとめて譲るわけにはいかないが、朝昼晩の給食時に重傷者二名と観測当番二名の計四名分の食事を差し入れするぐらいならできると答え、さらに、
「お互いに困っているときには助け合わねばならんからな。早速今朝から誰かを炊事班まで取りによこしてほしい」
とつけ加えた。尾崎と田村は礼を言って帰ると、若い台員に命じて高射砲隊に食事をもらいにやらせた。もらって来たのは米の飯だった。麦飯でも芋飯でもコーリャン飯でもなかった。台員たちはそれを粥に炊き直して、宿直室に運んだ。
津村は口が塞がっているため、台員が粥の上澄みを小匙《こさじ》ですくって、それを箸《はし》一本辛うじて通るほどの唇のすき間から流しこんでやった。津村は、唇がひどく染みて痛いと言ったが、台員は食べなければ体力が消耗するから頑張れと言って、粥の上澄みを根気よく呑みこませた。
一方、元気な台員たちは、非常食として台内に備蓄しておいた南瓜《かぼちや》を煮て食ったり、乾パンを食ったりした。本土決戦や空襲に備えて蓄えておいたものだが、尾崎と田村が相談して、いよいよ重大事態に直面したと判断し、倉庫から出したのだった。
非常食の朝食に加わりながら、北はたった一日で広島の街も気象台も何という変りようだろうと思った。昨日の朝気象無線放送を受信していたあの瞬間に、すべては変ってしまったのだ。前夜就寝前に現業員に対して観測当番は続行すると命じたものの、観測以外は全く不可能になっている。無線受信機の破損で中央気象台の「トヨハタ」の受信はできなくなったから、もはや天気図を作成することはできず、当然予報も出せない。予報当番は中止だ。ラジオ・ゾンデの上層当番も、観測器械の補給ゼロと受信機の破損が重なったため中止せざるを得ない。だいいち中央気象台に打電することすらできないのだ。
北は、事務室で尾崎と田村に相談した。
「観測だけは当番の者に守ってもらって、欠測のないようにしたいのですが、それ以外の者は手分けをして重傷者の看護と消息不明の栗山すみ子の捜索、市内状況の把握《はあく》、台内の整理に当たるようにしましょう。台内の整理は一度にはできんでしょうから、当面観測業務に必要なところから片付けて行くより仕方がないでしょう。
それから中央気象台への気象電報ですが、今日はわたしが行ってきます」
北が「わたしが行ってきます」と言った言葉には、あとをよろしく頼みますという意味もこめられていた。尾崎も田村も北の提案に異存はなかった。
そのとき事務室に宿直明けの吉田技手と岡原技術員が入って来た。二人は、午前八時で当番を遠藤技手と加藤技術員に引き継いだところだった。
「ご苦労だったな、二人とも家が心配だろうから早く帰りたまえ」
と、北が声をかけた。北は、家が焼けたかもしれないというのに観測当番から離れようとしなかった岡原に対し気を遣った。
「岡原君、あとは心配いらんから、ともかく早く帰ることだ」
「はい、失礼します」
岡原は今度は素直に答えた。一夜明けてなお燻《くすぶ》る街の情景をあらためて見下ろして、岡原はようやくわが家に降りかかった災厄を実感として感じたように見えた。昨日とは打って変って顔にはっきりと不安の表情を浮べていた。
「吉田君の家は尾長町だったな。尾長なら東の方だから火はまわらなかったろうが、あの爆風では無傷というわけにはいくまい。家の方が大変だったら、明日は休んでもよい」
「江波の様子から考えると、尾長あたりでも家が傾いたり、窓ガラスが吹き抜けたりといった程度のことは覚悟しています。帰ってみないことにははっきりしたことはわかりませんが」
宿直明けの者はいつもは残務整理などで昼頃まで勤務するのが通例だったが、この日は、吉田と岡原は当番を引き継いだ後、北の指示もあってすぐに帰宅の途についた。北は、岡原が帰るのを見て、気にかかっていたことの一つがとれたような気持だった。
朝食が済んで一息ついたところで、若い台員たちは重傷者二名を担架に乗せて江波分院に出かけて行った。それを見送ってから北は身仕度をし鉄兜《てつかぶと》をかぶると、江波山を下りて中央への電報を打ちに出発した。広島は山陽沿線の電信系統の中枢になっていたから、広島の電信局がやられたとなると、西の郊外の郵便局へ行っても東京への上り回線は広島で切断されていて打電することはできないだろう。広島より東か少なくとも北方へ出なければなるまい、と北は考えた。東の西条か呉まで行けば間違いなく回線は生きているように思われたが、とてもそんな遠くまで足を延ばすことはできそうになかったし、だいいち東へ出るためにはまだあちこちで火が燻っている市内を突っ切らなければならない。危険を冒すよりは、江波から舟入の通りを真直ぐに上って横川を抜け、北へ出た方が無難であるように思われた。
北は、まず横川を目指して歩いた。舟入本町へ入ると街は全くの焦土と化していた。ただの火災の跡ではなかった。爆風で家屋が破壊され、そこへ火がついたのだから、家並みの痕跡《こんせき》などほとんど残さないほど徹底的に焼き尽されていた。道路には、昨夜市内突破に失敗した古市ら三人の報告で聞いた通り市内電車が焼けただれた姿をさらしており、いたるところに屍体《したい》が転がっていた。路面に散らばる焼けた木材や瓦、電線などを踏みわけながら十日市の交叉点《こうさてん》を過ぎ、ようやく横川駅前に着いたが、横川駅周辺も街並みは焼け落ちて消えていた。横川のガードをくぐって七、八百米歩くと、ようやく焼失地域から抜け出すことができた。
郊外へ出てたどり着いた郵便局が祇園《ぎおん》郵便局であったか緑井郵便局であったか、北の記憶ははっきりしないが、ともかく気象台を出てから三時間ほど歩いてようやく小さな郵便局を見つけたのだった。
「広島の気象台の者ですが、至急東京へ電報を打てませんでしょうか。気象電報で重要なのです。少し長文になりますが――」
北が窓口をのぞきこむようにして頼むと、局員の返事は、
「目下断線中で東京へは不通になっています。いつ復旧するか見通しは立っていませんが、復旧後でよろしければ受け付けます」
と頼りないものだった。北にしてみればここまで歩いて来たのに、空《むな》しく帰るわけには行かなかった。さりとてどこかほかの郵便局を探しても回線事情は同じだろう。北は止むを得ず局員に頼んだ。
「これは中央気象台への緊急連絡なのです。広島市内は全滅で電信局もやられているようです。電信局の非常無線も駄目になっていますので、電報に頼るほかに中央への連絡方法がないのです。電信線が復旧次第、優先して打って下さい」
北は、広島の街と気象台の被害状況と、暗号化した昨日からの観測データとを電信依頼紙に書いて窓口に差し出した。北は兵庫県の実家にも電報を打とうとしたが、私信の電報は受け付けないと言われたので、葉書を一枚買って、その場で、広島は戦災を受けたが江波の家は倒壊を免れ家族全員無事であることをしたためて投函《とうかん》した。
中央気象台に宛てた電報がいつ打電されるかわからなかったが、北は、電信依頼紙を局員に渡したことで、昨日から気になっていた肩の荷が軽くなったような気がした。(中央気象台宛の電報がいつ届いたか、あるいは果たして届いたのかどうかについては、今日記録もなく不明である。)
北は、広島へ戻る足を速めた。街道筋は、広島から避難する人々と広島へ救援に向かうトラックなどで混雑していた。
再び焼けた市内へ入り、横川を過ぎて間もなく、広瀬北町から錦町にかけての電車通りに差しかかったとき、北はふと今朝一足先に気象台を出て行った岡原のことを思い出した。そう言えば岡原君の家は広瀬元町だと言っていたからこの付近に違いない。そう思ってあたりを見回したが、一面焼け野原で、町の境も番地もわからなくなっており、尋ねようもなかった。岡原の家が消失したことは確実だった。岡原は母に会えただろうか、母は無事だっただろうか、そんなことを思いつつ、北はもう少し市内の状況を見ておこうと、足を市の中心部に向けた。
岡原の帰宅は悲劇的だった。
宿直勤務を終えて午前八時過ぎに気象台を出た岡原が、自宅のあった広瀬元町に着いたのは午前九時頃であった。そこで確認したのは、跡形もなく焼けていたわが家だった。焼けたのは自分の家だけではなかった。街中何も残っていなかったのである。昨日江波山の上から街を見下ろしたとき、これほどひどいとは思わなかった。いくら大火といっても、自分の家だけは大丈夫だろうという気持が、心のどこかにあった。そうした願望が現実認識とごっちゃになっていた。そのような気持が、主任の北に「帰れ」と言われても帰らずに当番を続けた一因ともなっていた。だが、願望は現実とあまりにも大きくずれていた。昨日の朝出勤するときまでは、そこにしっかりと建っていた家が、いまや見るも無残にくすぶる灰と炭になってしまっていたのである。
岡原は、母と一緒に住んでいた。姉とその子供も一緒だった。だが焼け跡には家族は誰もいなかった。岡原はしばらく茫然と立っていたが、そのうちに近所の人を見つけたので、母の行方を尋ねた。
「西の方へ避難したらしい」
その人は己斐《こい》の方を指してそう言った。広瀬元町の避難場所は己斐になっていたから、きっと母はその方角に避難したに違いないと、岡原は思った。
己斐までは二粁《キロ》程あった。天満川を渡り福島川を渡って、広島市のいちばん西を流れる山手川まで来ると、近くの原っぱは避難民でいっぱいだった。その大部分は負傷者であった。岡原は負傷者の間を踏み分けるようにして母と姉を探した。とうとう母を見つけることができたが、母は全身ひどい火傷で横たわっていた。衣類はぼろぼろになっていた。昨日から誰の助けも受けることができずにずっとこの川原にいたのだと言う。聞けば、昨日爆弾が炸裂《さくれつ》したとき、母は近所の引越しの手伝いで屋外にいたため、熱線と爆風に直撃されたのだった。
岡原は、息も絶え絶えの母にしばらく待つように言うと、己斐の叔父の家まで走った。叔父に母が重態であることを告げ、叔父と共に担架を持って原っぱに戻った。母をオーバーでつつんで担架に乗せ、叔父の家まで運んだが、母の容態は急激に悪くなり、午後になってとうとう息を引き取った。
姉は避難場所におらず、行方不明のままであった。(後日安佐《あさ》郡古市町の親戚《しんせき》に子供と一緒に避難していたことがわかった。姉と子供は被爆当時家の中にいたため怪我もせずに助かり、街が火につつまれる前に市外に脱出したのだった。)
母の死と家の焼失は、岡原にとっては大きな衝撃だった。当番を続けて帰宅しなかったことについては、決して悔いは感じなかった。しかし母の死という残酷な試煉は、十九歳の青年にとって決して軽いものではない。岡原はしばらく叔父の家に世話になることにしたが、母の火葬や姉の捜索などで、とても気象台に出勤できる状態ではなかった。岡原は、気象台はこういうときこそ忙しいことを知っているので心苦しかったが、しばらく休まざるを得ないと思った。
北が電報を打ちに出かけている間に、重傷の本科生二人は陸軍病院江波分院で治療を受けたが、治療といっても相変らず赤チンと亜鉛華軟膏《なんこう》を塗ってガーゼを当てがうだけだった。
「油紙の上から冷たく絞ったタオルで冷湿布するように。毎日来るのも大変だろう。熱傷には食用油を塗るのもよい」
軍医は、こう言った後、病院に来ても特別の治療ができるわけではない、医薬品がないから当面できることと言えば化膿《かのう》させないように手当てをするだけだ、と説明した。
二人が担架にかつがれて気象台に帰ると、津村の遠縁に当たる鈴木技手が心配そうな顔で待っていた。鈴木は、昨夜専修科生をそれぞれの自宅に帰す任務と自分の下宿の様子を見る目的とを持って帰ったままだったが、津村らが病院から帰る少し前に、気象台に戻っていたのだった。
「津村君のぐあいはどうかね」
鈴木が担架をのぞき込むと、
「顔がひどく腫《は》れているけれど、医者は大丈夫だと言ってます」
と、担架をかついでいた加藤技術員が、津村に代って答えた。
「これはずいぶんひどくなってしまったな。昨日はこれほどではなかったのに」
鈴木は津村を宿直室の布団に寝かせるのを手伝った。福原も右足に副木《そえぎ》を当てていてまだ立てる状態ではなかったので、津村と並んで敷いた布団に寝かせた。
「しばらくここで頑張るんだな」
鈴木が声をかけると、津村は腫れ上がったまぶたを辛うじて細く開けて弱々しい視線を鈴木に向けた。
「油を塗るとよいと医者は言うのですが、気象台に油がないんです」
と、加藤が江波の陸軍病院で軍医に言われたことを説明した。
「それなら僕の親戚が海田《かいた》にあるからもらいに行って来よう」
鈴木は、津村の世話に関しては自分に責任があるように思ったのだった。広島市の東隣りの海田町までは十数粁あった。
「まだ燃えているところがあるようだけれど、何とか街は通り抜けられると思う。電車もバスもないだろうから歩いて行く。夕方までには帰れると思う」
鈴木はそう言って出かけた。
北が打電の帰り道に市内の焼失地域の一部を見て気象台に戻ったのは、夕方近くなってからであった。台員の何人かは、それぞれに街に出て、被害状況や行方不明の栗山すみ子の捜索などをした。北が気象台に帰ったとき、ちょうど高杉技術員が街から戻ったところだった。
「昨日は住吉橋の手前までしか行けませんでしたが、今日は街の中へ入ることができました。県庁あたりはそれはもうひどいものです。栗山さんが県庁に行っていたとしたら、とても助かったとは思えません――」
高杉は、市内の状況をつぶさに見て帰っていた。焼失地域の惨状は北も目撃して帰ったばかりだったが、北が歩いたのは爆心地付近ではなかった。高杉から聞く爆心地に近い市内の状況はいちだんとひどいものであった。
高杉の話――江波山を下りて昨日と同じように本川沿いに住吉橋あたりまで上って行くと、川には多数の屍体が浮んでいた。川を遡《さかのぼ》るにつれて、川の中は屍体で埋まっているかと思われるほどになった。水面の屍体はほとんど衣服を身につけておらず、風船のように脹れ上がっていた。
市内はところどころに鉄筋ビルが焼けただれて残っているだけで、瓦礫《がれき》の中にはいたるところに焼屍体がころがっていて、白骨化するほど焼かれた遺体さえあった。
水主町《かこまち》の県庁は、跡形もなく焼失し、残った石造りの門柱だけが辛うじてそこが県庁跡であることを示していた。県庁は明治風の瀟灑《しようしや》な建築だったが、木造二階建ての古い建物だったため、爆風でひとたまりもなく倒壊し、発火したに違いなかった。ここでも屍体の収容はまだ行なわれていなかった。県庁脇の池の中にも、おなかのふくれ上がった数限りない屍体が浮んでいた。池の端の松の木にぶら下がって死んでいる者もあった。
もし栗山すみ子が予定通り午前八時過ぎに県庁に立ち寄っていたとしたら、生存の可能性を期待するのは無理なように思われた。
〈これではとても捜索しようがない〉
高杉は思わず唸《うな》った。屍体の数が多いだけではない、ほとんど人相も性別もわからないほどに傷んでいるのである。
高杉は、市役所の状態も見ておきたいと思った。市役所は元安《もとやす》川をへだててやや離れた国泰寺町にあった。(高杉は歩いた道の記憶がはっきりしないが、当時県庁から市役所へ行くには元安川にかかる万代《よろずよ》橋を渡らなければならない。原爆直後の万代橋についての記録や証言は多く、それによると、橋は鋼板製の頑丈な構造だったためしっかりと残っていた。そして、橋の上に欄干、橋桁《はしげた》、人間の影が残っていた。人間の影は五つあった。爆弾炸裂の瞬間に発した目もくらむ熱放射によって物体、人体の影が橋の床面に焼きつけられたものであった。影を残した五人の通行人はおそらく次の瞬間には爆風によって吹き飛ばされ、どこかにたたきつけられたか川に転落したに違いない。橋の上の人影は、そこにあった生活の温もりがまだ残っているような錯覚を起こさせるほど鮮明で、街と人間が抹殺《まつさつ》された瞬間を無言のうちに記録していた。)
高杉は、市役所に通じる道に出ると、小町の浅野図書館の焼け跡で、兵隊による屍体の収容作業がようやく始まっていた。屍体はむしろの上に並べられ、そのまわりを罹災者《りさいしや》たちがゾロゾロと歩いたり立ち止まったりしていた。屍体をのぞきこんで身内を探す者もいた。兵隊たちは、身許《みもと》の確認された遺体から順に十体ぐらいずつまとめてはむしろをかけて焼いていた。兵隊たちの作業は無造作に進められていた。
屍体置場の傍《そば》に、「死体収容所」と朱色で書かれた紙片が掲示されていた。その字を見て高杉はハッと思った。その字は明らかに血で書かれていた。「死体収容所」の字の横には収容屍体のうち身許の判明した者の氏名が列記してあったが、それも血で書かれてあった。高杉は背筋が寒くなるような気がした。
我に返って国泰寺町の方を見ると、鉄筋四階建ての市庁舎が、焦土の中にポツンと建っているのが見えた。近くへ行くと、市役所はほんの片隅の部屋が焼け残っているだけで、庁舎の中はほとんど焼失し、コンクリートの庁舎壁面も火と煙で黒々と焼けただれた姿になっていた。
しかし庁舎の前で、わずかばかりの職員たちが焼け残った机と椅子を持ち出して、集まった人人に対して罹災証明の発行などをしていた。市内を歩いて来た高杉がはじめて見た行政機関の活動だった。
市庁舎の内外には、まだ多数の負傷者がうめいており、兵隊たちが担架に乗せて運んでいた。近くの広島赤十字病院に収容しているのだという。しかし、負傷者の数より屍体の数の方が多いように見えた。
気象台では、一切の通信回線が途絶していたばかりか、停電のためにラジオを聞くことさえできなかったが、高射砲隊から断片的な情報はもれ聞くことができた。広島に落とされた爆弾が新型の特殊なものらしいということも、すでに前日のうちに伝えられていたが、七日の夕刻になって新しい情報が入った。それは、敵が広島に新型爆弾を投下したことを、大本営が正式に発表したというのだった。通信回線が途絶しても、各部隊には、伝令によって必要な指令や情報は速やかに知らされていた。また、中国軍管区と大本営との間は直接交信はできなかったけれど、被害の軽微だった宇品《うじな》の陸軍船舶司令部と呉の海軍鎮守府の間の無線電話が生き残っていたので、広島からの報告は呉経由で大本営あるいは陸海軍に報告され、大本営や陸海軍からの指令も同じルートで広島に速やかに伝えられていた。
新型爆弾投下に関する大本営発表も、この軍の通信ルートで伝えられたものだが、大本営が一地方都市の空襲に関して特別の発表をしたことは、大本営が広島に投下された爆弾とその被害に対して重大な関心を払っていることを示していた。
高射砲隊からの情報で、大本営発表を知った北は、これによって中央気象台も広島の被害状況の一端をつかむことができたに違いないと思った。しかし、中央気象台は広島が何か大変な被害を受けたという概況は知り得ても、広島地方気象台がどうなっているかといった詳細については知りようがないだろうとも考えられた。結局のところ、北は中央に直接打電できない苛立《いらだ》ちをますます強く感じるばかりであった。
2
翌八日も気象電報は郊外の郵便局まで持って行くことになった。
「僕が行って来ます」
と、宿直明けの遠藤技手が北に言った。
「僕は独身ですから、宿直明けでもとくにすることもありません。どうせ気象台にいるのですから、自分で観測したデータは自分で打ちます」
遠藤は仕事への愛着が人一倍強く、体力もあった。宿泊勤務でほとんど寝ていないにもかかわらず、元気旺盛《おうせい》な顔をしていた。
「昨日はなるべく近い郵便局を探そうと思って祇園方面へ行ったが、東京への通信回線ならやはり東の方の郵便局へ行った方が、通じている可能性が大きいだろうな。海田方面へ行ったらどうだろう」
北は遠藤にそう指示した。遠藤は「海田が駄目ならその先まで行って見ます」と言って、水筒を下げて出かけて行った。
市内の火災はほとんど消え、負傷者と屍体の収容作業もかなり進んでいた。川に浮んでいる屍体を、軍隊が鳶口《とびぐち》で引っかけては引き上げていた。焼けた木材に髪を引っかけた首だけの屍体もあった。
しかし、二日経ったのに焼け跡の道路端にはまだ負傷者がいて、遠藤の水筒を見ると、口々に、
「水を下さい」
と悲痛な声を出して、手を差し出した。遠藤は、郊外に出て海田町でもその先の瀬野川町でもよいからともかく郵便局を探す任務のことで頭の中がいっぱいだった。胸の中で手を合わせて、負傷者たちには済まぬと思いながら、道路を小走りに通り抜けて行った。度胸のある遠藤だったが、このときばかりは、何か悪いことをして逃げるような、あるいは幽鬼に追いかけられるような、複雑な恐怖心に襲われた。
遠藤は、郊外に出て窓口業務をやっている郵便局を見つけた。それが海田町の郵便局であったのか、瀬野川町まで行ったのか、遠藤の記憶ははっきりしないが、窓口の返事はやはり通信回線は不通になっているということだった。止むを得ず遠藤は、回線が復旧次第打ってほしいと言って、電信依頼紙を差し出して帰った。
宿直室の津村の容態はいちだんと悪くなっていた。顔面や右手の火傷のひどい部分が化膿して、膿《うみ》がにじみ出し、室内に異臭をただよわせていた。その臭いは市内のいたるところに転がっている屍体のあの屍臭と変らなかった。
「肉が滑り落ちるような気がする」
と、津村はかすかに言った。熱も三十九度四分まで上がっていた。前日まで発熱していなかっただけに、高熱を出したことは台員たちを心配させた。意識だけは割合明瞭だった。
若い台員たちが、傷に油を塗ったり、芋を当てがったりして手当てをした。女子で唯一人出勤している山吉英子も甲斐々々《かいがい》しく手伝った。山吉英子は、父を以前に亡くし、江波山のすぐ下に母と妹の三人暮しをしていた。母と妹は屋外で被爆していずれも背中に火傷を負ったが、重傷ではなかったので、休まずに気象台に出ていたのだった。市内がほとんど全滅してしまった混乱の中で、若い女子職員が欠勤もせずに働いていることは、台員たちの気を引き締めさせると同時に明るくもした。
津村と床を並べている福原にとって、鼻をつく異臭は、たまらないものであったが、火傷に苦しむ同期生に対する同情も強かった。傷の痛みと高熱に耐えている津村に比べれば、臭いぐらい我慢すべきだと、福原は自分に言い聞かせた。
「津村君には僕が食べさせますから」
福原は、朝食の粥を運んで来た山吉にそう言った。
「福原さんも怪我をしているのに大丈夫ですか」
と、山吉は気遣ったが、福原は、
「僕はもう痛みはないんです、津村君の口に粥を運ぶことくらい、寝ていてもできますよ」
と、気張って見せた。この異臭の中で女子職員に給仕をさせるのは、いかにも気の毒に思えたのだった。
福原は、床の上に起き上がると、副木を当てた右足を投げ出して、津村の床の近くへ寄った。津村の唇は相変らず腫れ上がっていて、ほとんど開かなかった。福原は、身体《からだ》をねじるようにして津村の顔の上にかがみ込み、茶碗の中から柔かい米粒を一粒ずつ箸でつまんでは、わずかに開けられた津村の唇の隙間から差し込んだ。右足の自由がきかない福原にとって、津村の顔に接近するためには無理な姿勢をとらなければならず、しかも悪臭をまともに吸いこむことにもなるため、何度もこみ上げて来る嘔吐《おうと》感を懸命にこらえなければならなかった。
津村にひとまず粥を食べさせた後、福原は自分も食べようとしたが、どうにも嘔吐感が抜けず、粥が喉《のど》を通らなかった。しばらく休むと、ようやく呑みこむようにして喉を通すことができた。
福原は昼の食事も朝と同じような苦闘をして津村に食べさせた。昼食が済んでしばらくしたとき、台員に案内されてもんぺ姿の若い女が宿直室に入って来た。その女は、津村の床に近づくと、
「正樹ちゃん!」
と叫んだ。津村の姉だった。津村の顔は西瓜《すいか》のようにふくれ上がり、表面は腐敗しかかって悪臭を放っている。膿がじくじくと出るので、ガーゼを当てることもできず、油を塗ってあるだけだった。津村の姉はさすがに驚いたのであろう、弟の名前を呼んだきり、しばらく口もきけない様子であった。
「大丈夫だよ、姉さん」
津村の声は小さかったが、姉が来たことをはっきりと認識していた。
「みなさん、いろいろとお世話になっております」
彼女は、弟と床を並べている福原と自分を宿直室に案内してくれた台員とにこう言って頭を下げた。
「歩いて来たものですから、おそうなってしもうて。もっとはよう来んといけん思うとったのですが、汽車が途中までしか動いとりませんものですから……」
彼女は、重傷の弟を二日間も気象台にまかせておいたことを詫《わ》び、なぜすぐに駆けつけられなかったかを語った。津村の姉は、瀬戸内海に浮ぶ島の一つ、豊田郡木江《きのえ》町の実家に住んでいた。広島が空襲を受けて大きな被害を受けたことは、木江町にもその日のうちに伝わった。弟の身を案じた彼女は、翌日船で竹原市に出て、何時間か待った後ようやく呉線の汽車に乗ることができた。汽車は広島に救援に向かう軍隊や彼女と同じように肉親の安否を気遣って広島に行く人々で満員であった。しかし、汽車は広島のかなり手前の駅で止まったまま先へは進まなかった。すでに夜になっていたので、駅舎で夜を明かし、明るくなってから歩いて広島市内に入り、道を尋ねながら江波の気象台までたどり着いたのだという。
「私がめんどうを見ます。今晩はこの部屋に泊めていただけんものでしょうか」
と、彼女は台員に聞いた。台員は、外出中の幹部が帰ったら話しておくが、差し支えはないと思うと言って、宿直室を出て行った。
尾崎技師と田村技手は、電燈線と通信回線の復旧見通しや食糧の配給見通しなどを調べるため、関係機関への交渉に出かけていたが、夕方になって帰台した。
尾崎は北に対して、「通信線が早急に回復することは期待できないので、明日僕が大阪まで行って大阪管区気象台から電報を打つ。山陽線は今日午後から動き出したそうだ。明日になれば何とか大阪まで行けると思う。六日以後今夜二十四時までの気象電報をまとめて持って行くから、明朝までに用意しておいてほしい」と命じた。
大阪まで行けば中央気象台との連絡は確実にとれるだろうと、北も思った。今朝は宿直明けの遠藤が海田町まで電報を持って行ったが、それとていつ打電されるか見通しは立っていなかったから、大阪まで持参するという尾崎の方針は、現時点では最善の方法であると思った。
北は、尾崎の命令を直ちに当番の古市技手と金子技術員に伝え、自分も六日以降の気象電報をとりまとめる作業を手伝った。
尾崎と田村が帰台したことを聞いて、津村の姉は事務室に挨拶に行った。
「この度は弟がすっかりお世話になりまして、ほんとうに何と申し上げてよろしいやら……」
恐縮する彼女に対して、尾崎は、
「津村君もまるで怪我をするために広島に来たようなことになってしまって気の毒ですなあ。軍の方で食事のめんどうを見てくれてるから、あとで挨拶をしておいた方がよいですよ」
と言った。彼女は来るのが遅れたことを繰り返し詫びた後、弟のことが気になるし、近くに知り合いもないので、宿直室に泊らせてほしいと頼んだ。そして彼女は、
「両親が木江にいますので、明日急いで帰って、あらためて船で迎えにまいりたいと存じます。漁船を雇って来れば、江波の海岸につけられますから、弟を歩かせずに連れて帰れます」
と、弟を引き取る考えを述べた。
「それはよい考えだ。あの火傷では気象台にいつまでも置いておくのは気の毒だ。食事だってろくなものはないし」
尾崎は彼女の考えに賛成し、津村を早く連れて帰った方が良いとすすめた。
「僕は明日から出張してしばらく留守にするから、ちょっと津村君らの様子を見ておこうかな」
尾崎はそう言うと、津村の姉と一緒に宿直室に行った。
「津村君、姉さんに来てもらえてよかったな。なるべく早く島の方へ帰って療養したほうが良いぞ、姉さんもそう言っているし」
尾崎は津村を説得するような口調でそう言うと、比較的元気な福原に尋ねた。
「君の家はどこだったかな」
「元柳町(現在の中島町平和公園の一角)に姉と一緒に間借り生活をしています」
「街の中だな。元柳町辺りは焼け野原になっているぞ。姉さんはどうしている」
「わかりません、僕はやられてからずっとここに寝ているものですから」
「実家は?」
「山県《やまがた》郡大朝《おおあさ》町です」
「そうか、実は僕は明日から大阪に出張して留守にするのだが、何とか一日も早く落着き先を考えてくれんか。いつまでも高射砲隊から食事をもらうようでは、気象台としても軍に迷惑をかけるようで困るのだ。君らにしても気象台の者に世話になるのは気が重いだろう」
「はい……」
福原は力なく答えた。実習中の学生の身だから、宿直室と布団を占領して寝ているだけでも気が引けたが、台長代理の技師に「気象台としても困るのだ」と言われると、ますます肩身が狭い思いがした。
津村の姉も恐縮して、
「できるだけ早く弟を連れて帰ります」
と、さっき言ったことをもう一度繰り返した。
津村の姉の言葉を耳にして、福原は自分の姉が訪ねて来ないのはどうしてだろう、万一のことがあったのではないだろうかと心配になって来た。尾崎技師の話では、元柳町あたりは丸焼けになってしまったと言うから、自分の下宿先が残っている筈はない、姉は田舎へ避難したのだろうかなどと思いをめぐらせたが、怪我をした足に副木をした身では、今すぐにはどうしようもないことであった。
「歩けるようになりましたら、田舎へ帰るようにします」
福原は辛うじて尾崎にそう言った。
情報途絶に閉口した台員たちは、この日蓄電池を使ってラジオを聞くことを思いついた。台員たちは、広島だけでなく全体の戦局がどう動いているのかを知りたかったし、中国軍管区の情報も聞きたかった。幸い現業室にあったオールウェーブのラジオは壊れていなかったし、無線受信機用の非常用蓄電池も十分に充電されていた。無線受信機は修理に手間がかかりそうだったので、蓄電池をラジオ用に使うことにした。手先の器用な若手の台員が蓄電池を電源にしてラジオを聞けるようにするのに大した時間はかからなかった。
ラジオの放送電波は出ていた。
(広島市上流川《かみながれかわ》町にあったNHK広島中央放送局は全焼し、多数の死傷者を出したが、生き残った放送局員によって、七日午前九時安佐郡祇園町の原放送所の臨時スタジオから広島単独の放送電波を出し、県知事の「アラユル艱苦《かんく》ヲ克服セヨ」という諭告を繰り返し放送した。そして午後には、空襲警報放送の必要から、軍用通信線が原放送所まで架設され、さらに翌八日には呉海軍鎮守府との軍用通信線も引かれ、軍や官庁からの伝達・公示事項・周知事項などが次々に放送されていた。ただ残念なことに広島市内及び周辺は依然として停電したままだったのである。)
ラジオの放送を聞くことによって、台員たちは、軍や官庁が今回の戦災に対してどう対処しているのかを、少しずつ知ることができた。ラジオは新型爆弾による空襲に対する注意として、敵機が一機であっても警報が出たら必ず防空壕に待避すること、身体の露出部分を少なくすること、万一火傷した場合はとりあえず海水を二分の一に薄めて浴びることなどを、軍発表の心得として放送していた。また負傷者の収容場所一覧についても伝えていた。
ラジオを聞けるようになったことは、台員たちの気持を落ち着かせ、通信線途絶による孤立無援の感が、幾分なりとも柔げられた。
それと同時に、恐るべき新型爆弾に対する防空の心得を繰り返し呼びかける軍の発表を聞くことは、広島の焼け残った地域にいつまた新型爆弾が落とされるかわからないという不安感を、呼び起こすことにもなった。台員たちは当番者といえども、空襲警報が発令されたら直ちに防空壕《ごう》に待避することにした。このために当番用の備品や暗号翻訳用赤本などは、リュックに入れて常に当番者の身近に置き、いざというときには当番者が背負って壕に駆け込めるようにした。また観測時間の正確さを期するために標準時計として使っていたスイス製ウォルサム時計は、一階の頑丈な待避室に保管することになった。
このまま推移すれば、広島地方気象台はかなり早く業務を平常に戻すことができたであろう。ところが、思わぬところで障害が生じた。台員の中に原因不明の病気で倒れる者が出始めたのである。
真先にやられたのは、山根技手だった。
山根は、六日夜古市、高杉と共に打電のため火災地帯を徘徊《はいかい》して帰ってから、「どうも身体がだるい」と言い出した。七日になると下痢をした。その日はそれほど気にせず乾パンを食べ、台内で室内の整理を手伝ったりした。ところが八日になると下痢がひどくなり、熱も出て、起きていることができなくなった。山根は六日以来ほかの独身者三人と一緒に、一階の小部屋にむしろを敷いて寝泊りしていたが、八日は一日中その部屋に寝たきりになった。畳のある宿直室が重傷の津村と福原の病室に当てられていたためだった。下痢は、赤痢かと思われるほど何度も激しく襲って来た。粥を食べることもできなかった。
山根は病気の原因について思い当たるものは何もなかった。ひょっとして赤痢か何かの伝染病にかかったのではないかとも思った。八日夜になって、彼は出張前の尾崎技師に申し出た。
「尾崎さん、このままでは腹のぐあいが悪くなるばかりですから、松江に帰ろうと思うのです。仕事の方も気になりますが、寝たきりではかえってみんなに迷惑をかけることになりますから。いまのうちならまだ歩いて駅まで行けますし……」
「止《や》むを得んだろう、ここにいたのでは薬もないし、ろくな食い物もないからな。よし明日の朝駅まで送ってやろう。僕も明日は大阪へ出張するが、出発までには時間があるからな」
尾崎はそう言って、山根の帰省に同意した。
北も「元気になったら、なるべく早く戻って、勤務に入ってほしい」と言って、山根を励ました。山根は、松江の実家に妻と三人の子供を置いていた。
翌九日早起きして身仕度を整えた山根は、六時過ぎに尾崎と若手の台員二人に付き添われて気象台を出発した。昨日市内に出た尾崎の話では、山陽線は広島駅まで開通したが、芸備線は一つ先の郊外の矢賀駅で折り返し運転をしているということだった。江波から矢賀までは八粁程の道のりがあったが、山根は懸命に歩いた。二日間も下痢が続いてすっかり力が抜け、ふらふらだったが、尾崎らに励まされて、八時頃矢賀駅に着いた。
矢賀駅は負傷兵でごった返していた。重症の火傷を負っている者が多かった。市内に仮設された野戦病院で応急手当てを受けていた負傷兵たちが、芸備線沿線の病院に運ばれるのだという。一時間程待つと列車が入って来た。列車と言っても貨車を連結したものだった。兵隊たちは先を争って貨車に乗り込んだ。駅員に聞くと、松江までは行かないが、途中乗り継げば行けるだろうと言うので、山根も兵隊たちの間に割り込んだ。
山根が何とか貨車に乗るのを見届けた尾崎らは、広島駅まで戻った。尾崎は大阪行きの上り列車が出るまで待つことにし、台員二人は気象台に帰った。
ところが気象台では、今度は田村技手が腹痛を訴えていた。田村も下痢をしたと言った。症状は山根の場合とよく似ていた。
田村は子供がなく、江波町に夫婦二人だけで住んでいた。家は小損で済んだので、生活にさほど不便ではなかった。
「山根君のようにひどくならんうちに休むことにする。明日は家で寝ている積りだが、もし病状が悪くなったら田舎へ帰って静養することにする。あとをよろしく頼む」
田村は北にこう言って夕方帰宅した。田村は山口県大島郡の出身だった。田村はそれっきり十一月まで姿を見せなかった。
この日(九日)午後七時のニュースの時刻にラジオをつけると、ソ連が宣戦を布告し、九日午前零時を期して満洲への攻撃を開始したという大本営発表を報道していた。
翌八月十日の気象台の『当番日誌』――
「一、吉田不参ノ為遠藤交替ス
一、台内整理ハ急ヲ要スルコトナルモ現在出勤可能人員僅ニ六名ニテハ仲々ハカドラヌノヲ遺憾《いかん》トス
一、有、無線、電灯復旧ナラズ
一、本夕敵キ広島来襲ノ声高シ」
被爆から四日経ち、尾崎技師は出張、田村技手は病欠、山根技手は病気で帰省。吉田技手は昨日から理由不明で欠勤、当番の今日も出て来ないのだから急病なのかも知れない。六日に休暇をとっていた白井技手はその後もずっと姿を見せず。鈴木技手は今日姿を見せたが、慢性気管支炎のぐあいが悪いので、しばらく休むと言って帰って行った。現業員は、宿直明けで帰る者もいるから、まさに「現在出勤可能人員僅ニ六名」という有様であった。
現業員以外では、山吉英子が出勤しているだけで、女子職員、見習の専修科生、定夫(小使い)はほとんど顔を見せなかった。夏季実習の本科生も重傷の津村、福原以外は音沙汰がなかった。
現業員たちは、被爆以来精一杯動きまわって来た積りだったが、気付いてみると台内の整理はほとんど進んでいなかった。大混乱の中では働くのは気持ばかりで実際には身体が動いていないということが往々にしてあるものだが、六日以来の気象台の状態はまさにその通りであった。
そんなところへ、六日以来休んでいた白井技手が姿を見せた。二十七歳の白井は山根らと共に中堅の技手で、千田町に世帯を持っていた。
「家が焼けてしまい、親子で野宿生活をしているのです。無断で休んでいてはいけないと思い報告にまいりました」
白井は被爆以来の身の上を詳しく北に報告した。
白井は被爆前日の五日に北らと一緒に家屋疎開作業に動員され、その労働の疲れが出たため、六日は休暇をとって自宅にいた。白井の家は爆心から約一・九粁のところに位置していた。白井は、その朝二階に寝かせていた生後二カ月の赤ん坊があまり泣くので、夫婦で二階に上がってあやしていたとき、突然大音響とも衝撃ともつかぬショックを受け、身体がすーっと落下するのを感じた。何が起こったのかわけがわからなかったが、はっと気がつくと、二階の床が抜けて、親子三人とも一階に落ちていたのだった。家は傾いていた。一階にいた弟を含めて四人とも幸い大きな怪我もなく、打撲傷を負った程度だったが、赤ん坊の顔は、ほこりで真黒になっていた。赤ん坊を抱いて外へ抜け出すと、驚いたことに周りの家という家はめちゃめちゃに破壊され、市内電車はひっくり返り、至るところに人や馬が倒れていた。空襲警報もなしに突然襲った爆撃に、誰もがどうしてよいのやらわからない様子だった。みな衣服はぼろぼろでうす汚れていた。市の中心部の方角では早くも火の手が上がっていた。そのうちに白井は、近所の人たちと話し合って、指定避難場所になっている御幸橋西詰に避難した。真黒に汚れた赤ん坊の顔を川の水で洗うと、意外に元気だったので、ほっとした。家は倒壊の危険があったし、街の火の勢いは次第に千田町あたりにも迫ってくるおそれがあったから、避難した人たちはそのまま橋のたもと付近に野宿することにした。
白井の家が焼けたのは翌七日になってからだった。延焼地域のいちばん外縁に当たるところで、もう少しのところで焼けずに済んだのだが、消火の方法もなく手をこまねいて見ているだけだった。
白井の母は以前に病死していたが、父は広島電鉄に勤めており、六日朝は十日市町の詰所に出ていた。父は被爆後どこへ行ったかわからなかったが、三日目の八日になって杖をついて白井の野宿先まで帰って来た。父は詰所の下敷になって足に大怪我をしたのだと言った。しかし、父は誰かに助け出され、火がまわる前に西の方に避難することができた。父はすっかり元気を失っていたが、白井親子と一緒に野宿するより仕方がなかった。
「こういう状態なので、父や妻子を放っておいて、私が気象台に出てくるわけには行かないのです。何とか落ち着くまで、もうしばらく休ませて下さい」と、白井は北に言った。
「しかし家族全員生命に別条がなかったのは何よりではないか。千田町あたりは焼けてしまったようだし、君からは連絡がないし、万一のことがあったのではないかと内心心配していたのだ。まあ気象台の方はわれわれで何とかやるから、早いところ住むところを見つけなければいかんなあ」
北は白井一家の無事を聞いて安心し、白井の休暇を快く認めた。尾崎も田村も留守になっている今、北が一切の決定をしなければならない立場にあった。
予想される再度の空襲に対する危機感から、北は十一日朝から、出勤している台員に命じて、防空壕の内部を拡張する作業をすると共に、木箱に入れた気象原簿を防空壕内の横穴などに埋める作業をした。気象原簿はどんな爆撃を受けようとも、焼失したり散逸したりさせてはいけないという考慮からの対策だった。
この日は前日まで二日間無断欠勤していた吉田技手が元気になって出て来たが、夜遅くなって今度は古市技手が発病した。古市は加藤と共に当番だった。当番の深夜業務は、甲番と呼ばれる先任技手が午前二時頃まで観測の責任を持ち、二時の観測が済むとあとは朝まで乙番の若い技術員が担当することになっており、忙しくなければ交互に仮眠をとってもよいことになっていた。古市は十一日夜の甲番だった。夜遅くなってどうも身体がだるく辛くなって来た。はじめのうちは無理をして三階の観測室に上がったり露場へ出たりして、各種観測器の読み取りをやっていた。ところが、夜半を過ぎて十二日午前一時の観測値をすべて野帳に書き終えた後、いつの間にか現業室の机に顔を伏せて眠ってしまった。
古市が誰かに揺り動かされて、はっと目が覚めたのは、午前二時前だった。驚いたことにそれは平野台長だった。
「二時前になっている、観測は?」
平野台長は古市の居眠りを叱責《しつせき》するような口調で言った。
「はッ、台長……」
古市は意識が朦朧《もうろう》としているうえに、深夜突然台長が現われたことに驚いたあまり、しどろもどろの返事をした。台長はそれを察してか、
「今米子から戻ったところなのだ。庁舎が残っていて、まず安心した。細かいことは明日にして、ともかく観測をやりたまえ」
と言った。厳めしい顔をした台長は仕事に厳しかった。
古市は急いでまず一階にある気圧計室に行き、気圧計を読み取ろうとしたが、頭がふらふらするばかりでなく目がかすんでしまい、水銀柱の目盛を読むことができなかった。いい加減な記録をとってはいけないと思った古市は、一階の小部屋で仮眠をとっていた乙番の加藤を起こした。
「おい、すまんが当番を交代してくれないか。二時なのだが、気分が悪くて駄目なのだ。目がかすんでしまってな、目盛を読み取れないのだ」
「はい」
加藤は驚いて起きると、古市から観測野帳を引き継いだ。
「台長がたった今帰ったぞ。実は不覚にも現業室で居眠りしていたところを、台長に起こされたのだ。真先に現業室をのぞくあたり、いかにも台長らしいな」
古市はそう言って当番を加藤に頼むと、そのまま小部屋のむしろの上に横になった。二階の台長室に行っていた平野台長は、観測を終えた加藤の連絡で古市のぐあいが悪いと聞くと、一階の小部屋まで下りて来た。
「体温を計ってみたらどうだ」
台長は検温をすすめた。加藤が宿直室から体温計を持って来た。古市は三十九度も熱が出ていた。
「三十九度もあるのか、それでは辛い筈だ。当番は加藤君にまかせて休んでいたまえ。アスピリンを飲むとよいのではないか」
平野台長も驚いて言った。台長は普段は口髭《くちひげ》をはやしていて古武士のような厳しい風格を見せていたが、台員が病気のときなどには案外に部下思いのやさしい面を見せることがあった。
そのうちに台内のあちこちに泊っていた若い台員たちが起きて来た。古市を小部屋に休ませると、一同事務室に移り、台長のまわりに集まった。
台長は、山陰の方では広島は新型爆弾で全滅したと伝えられ、一般人の入市は軍によって禁止されているという情報が流れていたことや、芸備線が広島まで通じているかどうかについて米子ではなかなかわからなかったことなど、広島帰任が遅れた理由を語った。
「昨日朝米子を出て、途中、乗換えがあったりして、広島駅に着いたのは夜中の零時を過ぎていたな。駅は電燈がついていたけれど、街は真暗だった。駅から歩いて来たよ」
「汽車は広島駅まで入ったのですか。先日山根さんが病気で松江に帰ったときには、芸備線は矢賀で折り返していましたから、矢賀まで歩かなければいけんかったです」
山根を見送りに行った加藤が言った。
「何でも昨日の昼から広島まで通じるようになったらしい。それはそうと庁舎がしっかりしていたので安心した。窓はずいぶんひどくやられているが、測器類は大丈夫だったのか。怪我をした者はいるのか」
台長は気になっていることを次々に尋ねた。
台員たちは、測器類は地震計を除いて破損を免れ、欠測なく観測を続けていること、尾崎技師は中央気象台への連絡のため大阪へ出張中であること、田村技手と山根技手は病気で帰省したこと、本科生二人が重傷を負って宿直室に寝ていること、家族が死傷したり家を失った者もいて出勤者が少ないこと、北技手が指揮をとっているが今夜は山の下の自宅へ帰っていること、などを報告した。
平野台長は、一通り話を聞くと、今後のことは明日北君と話し合って決めよう、怪我人を起こすのは止めて今夜はひとまず休むことにする、と言って、台長室に行った。平野は広島在勤中いつもそうしていたように、台長室のソファーに寝た。
朝になって平野は、本科生二人のぐあいを見ようと思い、宿直室に入って驚いた。何とも言いようのない臭気が鼻をついたのである。思わず入口のところで立ち止まってしまった。
寝ていた二人のうち一人が起き上がると、
「台長、お世話になっております、福原です」
と言って、頭を下げた。
「ずいぶんひどいじゃないか」
平野はそう言って、畳の間に上がった。津村の顔は依然として脹《ふく》れ上がったままで、顔面と右手は一面に化膿していた。はじめて見た平野は、しばらく口がきけなかった。
津村の方が口を僅かに開いて言った。
「昨日から熱が下がり始めました。今朝は目も少し開《あ》けられるようになりました」
たしかに津村は、醜く盛り上がった目蓋を細く開け、視線を台長に向けていた。横から福原が説明を加えた。
「油を塗ったり芋を切って当てたり、いろいろやっているのですが、これだけひどい火傷《やけど》ですので、どうもよくなりません。でも食欲は割合にありますし、一昨日かなり汗をかいたせいか、昨日からは熱も下がり始めました。化膿しているところが乾くといいのですが――。一時は右腕にうじが湧《わ》きました」
「医者には見てもらっているのか」
「時々江波の陸軍病院に担架で連れて行っていただいております。でも病院に行っても特別の薬があるわけではありません」
「君のその足はどうなのだ」
「骨折はありませんでした。ガラスでひどく切ったので副木を当てていますが、傷口はもうほとんどくっついています。あと二、三日で歩けるかと思います」
「それはよかった。津村君も早く快くなると良いが」
「先日津村君のお姉さんが見えまして、一晩泊って帰りました。木江から船を雇って連れに来ると言っておりましたから、もうそろそろ来られるのではないかと思います。私も歩けるようになりましたら田舎へ帰る積りです」
福原は、尾崎技師に「気象台としても困るのだ」と言われたことを思い浮べながら、「田舎へ帰る積りです」という言葉をはっきりと言った。平野は二人が高射砲隊から給食を受けていることを知らないのか、二人が宿直室を占領していることにとくにこだわらなかった。
「早く快くなるには安静が第一だ」
平野は励ますような口調でそう言うと、部屋を出て行った。
北が出勤して来ると、平野台長は早速北を台長室に呼んで、六日以降の報告を聞いた。北の報告は、深夜若い台員が話したこととほとんど変るところはなかったが、北は在勤者が協力し合って欠測なく観測を続けていることをとくに強調した。
「爆撃を受けた六日の気象データも完全に記録されています。六日は吉田君と岡原君が当番でした。岡原君は街の中に家があって焼けてしまいましたが、家に帰らずに当番をやり通したのです。その後休んでいますが、止むを得ないでしょう」
北の報告に対し、平野は感動した。
「広島は全滅したという噂《うわさ》が流れたし、気象台がどうなっているのか気が気ではなかった。庁舎も観測も守られているのを見て、本当に安心したよ」
平野は全く満足している様子だった。しかし、混乱の中で留守を務めて来た北にしてみれば、ただ満足しているわけには行かなかった。行方不明の栗山すみ子のことや重傷者の治療や続出する発病者のことなど、問題があまりにも多かったからだ。
「事務の栗山すみ子は爆撃で死亡したようです。当日朝県庁へ出たまま行方不明なのです。もう少し捜索の必要はあるかと思いますが」
「何か手がかりはないのか」
「街へ出る者には、栗山君についてどんな手がかりでもよいから、耳にしたら必ず報告するように言ってあるのですが、いまだに消息はつかめていません。県庁付近は身許不明の屍体が数え切れないほどあって、軍隊が次々に焼いてしまいましたから、栗山君がもしあのあたりで被爆死したとしたら、遺骨を確認することすら不可能だと思います」
「……気の毒なことをしたなあ……。しかし捜索を放棄するのはまだ早い。手が空いている者がいたら、病院とか自宅の方を当たってみるようにしてほしい」
気象台の職員からたとえ一人でも空襲の犠牲者を出したことを知って、平野は暗い表情になった。
「病人が出ているそうだな。夜中にわしが帰ったら、古市君が熱を出していた」
「古市君のことは、つい今しがた聞きました。高熱でひどい下痢をしているようです。田村さんや山根君も同じような症状で寝込んでしまい、帰省しました。万一赤痢とかチフスといった伝染病だといけませんから、私の家の方へ隔離して休ませます。古市君一人位なら、私の家に部屋がありますから」
「ほかの台員に伝染するといかんからな。陸軍病院で診断させたらどうだ」
「様子を見て、あまりおかしいようでしたらそうします。それから尾崎さんのことですが、大阪へ行って中央気象台と連絡をとった後、帰り途《みち》に岡山県西大寺の実家に寄る積りなので、広島に帰るのは遅くなると申しておりました」
「尾崎君は実家に家族を置いているからな。今度の戦災では、奥さんの方でも尾崎君の安否を気遣っているだろう。こういう事態の中だから、病気の者や妻子のある者には無理をさせないで、元気な若い者で最低限の業務を続けることにしよう。田舎へ帰る者があっても止むを得んだろう」
「尾崎さんが出かけられたのは九日の朝ですから、中央気象台との連絡はもうとれたと思います。いちばん困っているのは、通信回線がいまもって通じないことです。郊外の郵便局へ電報を持って行っても駄目なのです」
「何と言っても通信回線と電燈線を復旧してもらわねば、仕事にならんな。北君、今日は電信局と中国配電へ行って交渉してくれぬか」
当面の業務について台長から命令を受けた北は、市内に出かける前に、まず小部屋のむしろの上に寝ていた古市を起こして、山の下の自分の家に連れて行った。北は古市に一室をあてがい、まずアスピリンを飲んで熱を下げるのが先決だと言って、世話を妻に頼んだ。北はそのまま市内へ出かけた。
北は市役所を尋ねて全体の復旧と救援の進行状況を確かめた。市役所に最初に行ったのは、焼けた市庁舎に毎日軍、県、市、鉄道、逓信、中国配電等の代表が集まって連絡会議が開かれているということを聞き、そこで電気と通信の復旧見通しの情報を得られるだろうと思ったからだった。その結果、通信回線も電燈線も軍や重要官庁、機関を中心に徐々に復旧作業が進められていることがわかった。そこで北は、次に広島電信局に行き、気象電報打電の可能性を尋ねた。富国生命ビル内にあった広島電信局は全滅の打撃を受けたが、応援の職員によって部分的に業務が開始されていた。業務用の電報なら明日十三日から受け付けましょうという回答を得て、北は喜んだ。気象台から直接電話で申し込むことは、市内電話が不通だからできないが、電信局まで持参すれば東京まで電報が打てるというのである。
北はさらに中国配電本社に足を運んだ。中国配電は小町にあって、やはり壊滅的な打撃を受けたが、市東部にある段原変電所が比較的被害軽微であったため、その応急修理によって、七日には宇品の陸軍船舶司令部(市内で被爆を免れた部隊で救援の中心になった)への送電を開始したのをはじめとして、翌八日には広島駅へも送電を始めるなど、市内各所に残存する部隊や重要拠点に対する送電を、一部ではあったが優先的に復旧していた。電柱を立て電線を張る作業はもっぱら救援の部隊が行なった。
気象台に一刻も早く電線を引いてほしいという北の申し出に対して、中国配電の係員は、とてもまだ江波の方までは手がまわらないと答えた。しかし北はそこで引き下がろうとはせずに、さらに押してみた。
「江波山には高射砲陣地があり、部隊が詰めているのです。高射砲隊は防空の最先端ですよ。しかも防空のためには気象観測は欠かせないのです。中央気象台の気象無線放送を聞く無線受信機の電源さえ取れないようでは、天気図一枚書くことはできません。
気象台に一般家庭用の電燈線とは別の永久線が引いてあったのは、気象台の重要性を認めたからでしょう。江波山には高射砲陣地があるのです」
北が「高射砲陣地があるのです」と言ったのは、市内の残存部隊への送電を優先していると聞いたことによる咄嗟《とつさ》の思いつきであった。ところが、この咄嗟の思いつきが、中国配電側を納得させる言葉となった。
「明日にでも仮の送電線を張ることにしましょう」
と、中国配電の係員は答えたのである。
十三日午後気象台にようやく電気が通じた。夜になって電燈が点《とも》ったとき、台員たちは生き返ったような安堵《あんど》感を一様に味わった。ラジオも自由に聞けるようになった。被爆の日から八日目に戻った明るさであった。
またこの日から台員が交代で気象電報を電信局まで持って行くことになった。中央気象台に送らなければならないのは、二時、六時、十時、十四時、十八時、二十二時の各観測データであったが、その都度電信局まで持参することはとてもできなかったから、一日一回まとめて持って行くことにした。
電気が通じたことは、台員たちの士気を高めた。北が中心になって無線受信機の修理に取りかかった。
十四日朝、宿直明けの北は修理した無線受信機で中央気象台の無線放送「トヨハタ」の受信を試みた。乱数で暗号化された午前六時の各地の実況は、従来通り放送されていた。北は、あの六日の朝やっていたと同じように、モールス信号に耳を傾け、乱数を筆記した。天気図を描く作業を再開したのである。
この前日、重症の津村の姉が戻って来た。津村の火傷は、少しずつ乾く気配も見え始めていた。最悪の状態は脱したようだった。しかし連れて帰るにはまだ無理だったので、津村の姉は江波の海岸まで乗って来た漁船の船頭に、一週間ほど経ったらまた来て欲しいと言っていったん帰した。彼女は、台長の許可を得て弟の世話をするために宿直室に泊りこむことになった。
一緒に寝ていた福原は、津村の口に粥《かゆ》を運ぶ苦労からようやく解放され、津村を置いて先に帰宅しても気掛りではなくなった。十四日朝、福原は帰宅を決意した。帰宅すると言っても、家は焼けてしまったろうし、焼け跡がどうなっているかもわからなかったが、気象台にこれ以上迷惑をかけたくないという気兼ねの方が強かった。もし焼け跡に、一緒に住んでいた姉が戻っていなければ、そのまま田舎へ帰るつもりだった。彼は、台長らに礼を言うと、松葉杖《まつばづえ》をついて独りで江波山を下って行った。
3
八月十五日正午、広島地方気象台の台員たちは、台長室と現業室に分れて、それぞれの部屋にあるラジオで玉音放送を聞いた。
台長室では、放送が終ると、誰かが、
「降伏だ、敗れたのだ」
と、うめくように言った。部屋は悲憤慷慨《こうがい》やるかたない雰囲気《ふんいき》に満ちていた。ややあって、平野台長は全員を集めて訓示をした。
「こういうことになったのは、我々の力が至らなかったためだ。しかし、われわれは日本人として最後まで恥かしからぬ行動をとらなければならぬ。いずれ敵は本土に進駐して来ようが、汚辱を受けるようなことがあれば、日本男子らしく潔く死ね」
平野の言葉は短かったけれど、台員たちの気持は概《おおむ》ね同じであった。若い台員の中には、「陛下に申し訳ない、俺は切腹をする」とわめく者もいたが、傍《そば》の者に押しとどめられた。
当番の吉田技手は、この日の心情を『当番日誌』にたたきつけるような気持で書いた。
「正午ヨリ天皇陛下自ラ詔書ヲ御朗読ニナル、所員一同謹ンデ拝聴ス
陛下ニハ国民ノ苦労ヲ御推察ニナリ、聯合国《れんごうこく》ノ示セル降伏条約ヲ承認セラル
嗚呼《ああ》〓 弐千有余年ニ亙《わた》ル帝国ノ歴史ニ本日ヲ以《もつ》テ敗戦国ノ汚名ヲ記セリヤ」
その日午後は誰も仕事が手につかなかった。当番による観測業務は続けられたが、ほかの者は事務室などにたむろしては、日本はこれから一体どうなるのか、進駐して来る敵米英軍によってわれわれは皆殺しにされるのではないか、といったことをとりとめもなく語り合った。想像することはみな悲観的なことばかりであった。
そういう話に加わりながら、北は、自分の気持の中に、ほかの台員たちが話し合っていることとやや違う不安感が湧《わ》き上がっているのに気付いた。それは決して日本の運命といった巨大な不安ではなかったが、北にとっては差し当たり極めて重要な事柄のように思えた。
〈敵に気象原簿をとられるのはいやだ〉
北の頭の中を占めつつあったのは、このことだった。北は、自分は意外に感情が乾いていて冷静だなと思った。
北は、早速台長室に行って平野に申し出た。
「二つご相談したい用件があるのですが、一つは気象原簿の保管のことです。敵が進駐して来て万一押収して行くようなことがあったら大変です。どこかへ疎開すべきだと思うのです」
北の進言に対し、平野は「そうだな」と言ったが、それ以上どうしようとは言わなかった。北は仕方なく話を先に進めざるを得なかった。
「もう一つは古市君のことです。病状が一向によくならないのです。血便は出るし、すっかり衰弱してしまいました。ひょっとしたら伝染病かも知れないのですが、本人は、どうせ死ぬなら田舎に帰って死にたいと言っております。実家は四国の高松だということです」
古市は、アスピリンを飲むと熱は一時的に三十八度ぐらいまで下がるのだが、三十分もするとまた三十九度以上の高熱に戻ってしまい、下熱剤の効き目は全くなかった。粥《かゆ》も喉《のど》を通らないため、水を飲むだけだった。身体《からだ》は痩《や》せ細って、全身紫色になっていた。このまま放って置けば衰弱死してしまうのではないかと思われるほどであった。
「こうして日本が負けてしまった今、古市君は実家へ帰してやった方がよいと思うのですが」
北の心配そうな顔を見て、平野は、
「病院で最終的な診断を受けさせたうえで、帰すかどうか決めてはどうだ。本人の希望をできるだけ生かしてやりたまえ」
と言った。
この日から出勤していた白井技手が話に加わった。白井は焼けた自宅跡にようやく家族が住めるだけのバラックを建てることができたので、出勤して来たのだった。
「古市君の症状は僕の父のとよく似てますね。赤痢じゃないでしょうか。私の父は電鉄に勤めていてひどい怪我をしたのですが、三日目に帰ってから腹のぐあいが急に悪くなって、下痢が止まらんのです。福屋百貨店の焼けたビルを利用して、伝染病院が設けられたというので連れて行ったのですが、大した診療もしてくれんのです。仕方がないから宇品の妹のところに引き取ってもらいました。何でも赤痢らしい伝染病があちこちで発生しているということです」
翌日北は、若い台員に頼んで古市を自転車の荷台に乗せて陸軍病院江波分院に連れて行かせた。軍医の診断はやはり赤痢ではないかということだった。そう診断しても、病院側には強制隔離できるだけの能力がなかった。江波分院では、六日以来一万名を越える患者を治療し、このうち国民学校や島に運んだ者を除く四千五百名余りを分院内に収容した。多数の患者が次々に死んでいったが、生き残った重軽傷者も多く、古市のような患者が訪れても、もはや収容能力がないのだった。江波分院から帰ると、古市はやはり田舎に帰って死にたいと繰り返した。一人で帰れるから汽車に乗せてほしいと言った。
北があらためて平野台長に相談すると、平野は「気象台の業務は在勤者でやれるから心配ない。高松へ帰った方がよかろう」と言った。
古市はとても駅まで歩くだけの体力はなかった。立っているのも困難だった。そこで台員が古市を自転車の荷台にくくりつけて、駅まで連れて行き、汽車に乗せた。
古市の病気をはじめ、山根、田村、あるいは白井の父などが次々にやられたのは、原子爆弾の放射能による急性の原爆症だったのだが、この時点では誰一人としてそれが原爆症であるとは想像すらできなかった。だいいち広島に投下された新型爆弾が、恐るべき放射能を撒《ま》き散らす原子爆弾であることすら、広島の人々にはほとんど知らされていなかった。まして市内には強力な残留放射能が死の灰となって残存し、直接被爆しなかった人でも、市内を歩きまわるとこの残留放射能の影響を強く受けるなどということは、医師でさえ気がつかなかったのである。
広島に投下された爆弾が原子爆弾であることにいちはやく気付いたのは、極めて限られた専門家だけであった。原子爆弾という言葉はすでに存在し、各国で開発競争が行なわれていることについては、軍や科学者の間ではよく知られていた。しかし、こんなに早く実戦で使われるとは日本の科学者は誰一人考えていなかった。その典型的なエピソードは、広島文理科大学の理論物理学者三村剛昂教授の場合であった。三村教授は、偶然にも被爆前日の五日宇品の陸軍船舶練習部に招かれて講演し、原子爆弾は「今次戦争には、到底間に合いません」と語っていた。ところが、翌日広島がたった一個の爆弾で壊滅的打撃を受け自らも怪我をしたとき、三村教授はこれは間違いなく原子爆弾であると直感し、陸軍船舶部の将校に、「昨日は誤ったことを話して申しわけない」と言って詫《わ》びたという。また広島駅前で被爆した広島赤十字病院の重藤文夫副院長も原子爆弾だろうと直感したという。公式の調査としては、大本営から派遣された理化学研究所の仁科芳雄博士らの調査団が、八日夕刻飛行機で広島の吉島飛行場に着き、仁科博士が直ちに原子爆弾であると判断したのがはじめであった。そして調査団は、同夜宇品の船舶司令部の無線回線を使って呉経由で、今後の防空対策として、肌を露出しないこと、白い衣服を着ていた方がよいこと、爆風が強いから遮蔽物《しやへいぶつ》に身をかくすことなどを、大本営に打電している。原子爆弾の名称が新聞に登場したのは、トルーマン米大統領の対日戦演説の内容を伝えた八月十一日付紙面の記事がはじめてであったが、それとて単なる名称として登場しただけであって、爆弾の実態についてはほとんど知らされていなかった。原子爆弾がウラン原子核の分裂の際に生ずるエネルギーを利用したものであって、強力な破壊力と熱線及び放射能による影響力とを発揮するものであることが一般に知らされたのは、仁科博士が八月十四日に調査結果を公表し、その内容が十五日付または十六日付の各新聞で一斉に報道されたときであった(広島市内にはほとんど配達されなかったが)。しかし、この段階でもなお被爆者の放射線障害についての医学的理解は全く不十分であって、広島市内及び周辺の病院では、被爆者の疾病を正しく診断できず、多くは赤痢とかチフスと認定し、市内に臨時伝染病院まで設けたのであった。
気象台の台員たちが、終戦を迎えてはじめて知らされた原子爆弾という言葉と、同僚の病気の症状とを結びつけることができなかったのは無理もないことであった。
広島地方気象台は、建物に被害を受けたばかりか、病人まで続出するという苦しい事態に置かれているにもかかわらず、中央気象台からは依然として何の連絡もなかった。この難局に中央気象台がどう対処しようとしているのか、広島地方気象台の復興をどう考えているのか、さっぱりわからなかった。先に大阪まで出張した尾崎は、被爆の概況と気象電報を打電しただけで、中央気象台と直接電話で話した様子はなかった。地方都市が次々に空襲を受けている時期でもあったから、とくに広島だけ騒ぎ立てて中央気象台の指示を仰ぐというような発想は、尾崎の頭の中には浮ばなかったに違いない。尾崎は、電報を打つと共に大阪管区気象台長に被災状況の一部始終を話すと、自分の食糧調達のためすぐ大阪を発《た》って家族を置いている西大寺に向かい、広島に帰ったのは十四日になってからであった。
「俺たちは見捨てられたんじゃ」
台員の間にはこんな捨て台詞《ぜりふ》も聞かれるようになったが、北は「通信も郵便も復旧が遅れているのだから止《や》むを得んだろう、ともかく観測だけは欠測なく続けよう」と言って、台員たちの気持を柔げようと努めた。しかし、そう言う北自身も、中央気象台は広島のことなど念頭にないのではないかという孤立感を隠し切れなかった。ひょっとしたら国が瓦解したのではないか、とさえ思った。
中央気象台は、決して広島を見捨てた訳ではなかった。中央気象台長藤原咲平は、原爆投下の翌日、小日山運輸通信大臣から、広島が新型爆弾により甚大な被害を蒙《こうむ》ったこと、そして新型爆弾は恐るべき原子爆弾の可能性が強いことを知らされていた。しかし広島地方気象台の被災状況については、気象電報がぱったり途絶えてしまったために把握《はあく》し兼ねていた。それにもかかわらず、中央気象台ではすぐに救援の手を差し伸べるとか、調査員を派遣するといった対策を講じた訳ではなかった。激化する中小都市への空襲によって、二、三日通信が途絶えたり、地方気象台や測候所が被害を受けたりする例が続出していたから、たとえ広島の気象台が新型爆弾によってやられたとしても、それは当面広島地方気象台長の指揮の下に応急の対策をとるべきものであるというのが、暗黙の建て前になっていた。だいいち国策自体が、本土決戦に備えて、敵による分断があっても、地方毎に独立して抗戦を続行するような体制作りをしていたのであった。
また、中央気象台の場合、地方気象官署との地位の格差があまりにも大きかった。中央気象台の幹部は大学出や養成所本科出のエリートを中心とするいわば貴族の集団であったのに対し、地方気象台や測候所の職員はとにもかくにも定時の観測データを中央に送ることを守り抜かねばならぬ歩兵の集団であった。貴族集団は、歩兵集団の誠実な働きの上に成り立っているのだが、さりとて歩兵集団の一部に困難な事態が生じても、それに敏感に反応して何らかの手を差し伸べるという発想はしない。中央にとって一地方のデータが入るかどうかは「多数の中の一つ」に過ぎない事柄なのに対し、地方気象台や測候所にとってデータを送れるかどうかは絶えず「全てかゼロか」の問題である。結局、中央は地方に無限の奉仕を求めるが、決して地方に対しては無限の奉仕はしない、時には切り捨てることさえある。中央気象台は広島地方気象台のデータが入電しなくなったことを気にはしたが、すぐに何らかの手を打つことはしなかったということ――それは、中央気象台に悪意があったとか、広島の原爆被災に対する判断が甘かったと言うよりは、時代そのものの論理なのだった。そして、この論理に、中央も地方も誰も疑いを持たない時代なのだった。
とりわけ戦争末期になると、中央気象台は、入手可能な数少ない観測データを基に天気図を作成し、陸海軍気象部への協力を貫くことに専念していたのであって、一地方のデータが欠けても、もはや気にしてはいられなくなっていた。地方のデータの入手を確実にするために行なっていた督促旅行も、七月初め頃までのことであって、七月末頃になるとそれどころではなくなっていた。中央気象台を完全に軍の指揮下に組み込んでしまおうとする大本営気象部構想が軍から示されてからは、藤原咲平をはじめ中央気象台の幹部は、いつ大本営気象部といういわば中央気象台の解体となる新機構の発令があるのかと、ひどく動揺していた。しかも広島への原爆投下後政府内部に和平への空気が急速に高まっているという情報が、藤原咲平の耳にも断片的にではあるが入っていたから、中央気象台の動揺は一層大きくなっていた。藤原咲平が八月十一日に地方気象官署の若干の組織改正と人事異動を行なったのは、戦争の終末を控えた動揺の中では不思議なほど冷静な行政的措置であった。
原爆後広島地方気象台に中央気象台からの郵便がはじめて届いたのは、終戦の翌々日の十七日になってからだったようである。その文書は、終戦前に出されたもので、八月十一日付で発令された若干の組織改正と地方気象官署の台長や所長クラスの異動を伝えていた。その中に、広島地方気象台を広島管区気象台に格上げすると共に、広島地方気象台長平野烈介は高松管区気象台長に転任し、新しい広島管区気象台長には中央気象台から館山の海軍航空隊に出向している菅原芳生技師が発令されたことが記されていた。
この時期の人事異動は、発令があってすぐに赴任するということはむしろ稀《まれ》であった。発令の通知自体が遅れることもあったし、外地の気象台の異動となると、赴任までに二カ月も三カ月もかかることが珍しくなかった。前任者は原則として後任者が赴任して来るまで、従来通りの業務を続けることになっていた。
異動の発令を知った平野は、菅原なら広島の気象台の再建を立派にやってくれるだろうと思った。菅原は、平野より一世代若くまだ四十歳であった。測候技術官養成所本科を昭和三年に卒業し、富士山観測所や南洋の気象台勤務を経験した張り切り男であることを、平野は知っていた。しかし、菅原は海軍に出向しているから、いつ広島に赴任して来るかは不明であった。菅原が来るまでは、平野が広島の台長業務を続けなければならなかった。平野は台員を集めると、訓示をした。
「中央気象台からの通達により、広島地方気象台は広島管区気象台に昇格した。中国地方気象官署の中枢として、いよいよ広島の任務は重要であり、われわれの責任は大きい。
また広島管区気象台の新台長には中央気象台から菅原芳生君が就任することになった。私は高松管区気象台に行くが、菅原君が来るまでは私が留って業務を行なう。諸君、敗戦というこの難局の中で、気を弛《ゆる》めることなく、業務に専念してほしい」
この日台員たちは、陸海軍人に対し戦闘停止の勅語が下されたこと、終戦と同時に総辞職した鈴木貫太郎内閣の後を継いで東久邇宮《ひがしくにのみや》内閣が成立したことを、ラジオの放送で知った。
玉音放送から時間が経つにつれて、敗戦の衝撃は、国内では次第に敵の進駐に対する不安と恐怖という形に変って広まっていった。それはパニックに近い心理状態であった。とくに婦女子を敵の目にさらすことは危険だという噂《うわさ》が流れ、都市に住む人々は一斉に女子供を田舎に疎開させ始めた。
江波山の下に借家住いをしていた北にとっても、妻と三人の子供をこのまま広島に置いておくのは不安であった。広島は中国地方の中枢都市だから、敵がいち早く進駐して来ることは十分に予想された。少しでも辺鄙《へんぴ》な田舎へ疎開させた方がよいと考えた北は、姫路の奥の兵庫県飾磨《しかま》郡鹿谷村の実家に家族を預けることにした。北は台長から休暇の許可を得ると、十七日朝家族四人を荷車に乗せて広島駅まで運び、上り列車に乗った。実家に帰ると、両親は「よう生きとった!」と言って、息子一家の無事を喜んだ。広島は全滅したらしいという話が伝わっていたのである。北が被爆の翌日、郊外の郵便局まで行って投函《とうかん》した葉書はやはり着いていなかった(葉書が着いたのは九月になってからであった)。北は、六日以来の緊張が一気に抜け、急に疲れが出た。
実家で二日休養をとった北は、単身広島に戻った。何日かして(それがいつだったか北にも記憶がないのだが)、北は気象台の玄関ホールでリュックを背負い、脚絆《きやはん》を巻いた男が入って来るのに出会った。いかにも旅姿のその男は、「中央気象台からやって来ました」と言った。北は驚いて、その中央気象台の職員を台長室に案内し、外出中の平野台長に代って応対した。
「いやあひどいものですなあ、広島がここまでやられているとは思いませんでした。中央気象台では、広島、長崎の戦災の様子が伝えられるにつれて、広島管区気象台と長崎測候所に対して緊急援助をしなければなるまいということになり、当座の業務維持に必要な資金を届けにやって来たのです」
中央から来た職員はこう言うと、リュックの中から現金を入れた封筒を出した。
北は中央気象台が目を向けてくれたことが嬉しかった。気象台の庁舎や官舎を修理したくても、木材一本、ガラス一枚買う金さえ気象台にはなかったし、金融機関の機能麻痺《まひ》で月末の給料の支払いさえどうなるかわからない状態だったから、中央気象台からの緊急援助は、たとえ額はわずかなものであっても有難かった。
「遠路お疲れでしょう。今日はこちらへ泊って身体を休めてはいかがでしょうか」
と北は勧めたが、中央気象台の職員は、「これから長崎に向かわなければなりませんので、すぐに失礼します」と言った。
「では気象台の中だけでも見て帰って下さい」
北は、その職員を気象台の各階や官舎に案内して、被害状況を詳しく説明し、
「ぜひこの状況を藤原先生に報告して下さい。それから観測は欠測なく続けていますから御安心下さいとお伝え下さい」
と言った。
連合軍進駐の日が近づくにつれて、北は気象原簿の保管のことがあらためて気になり出し、平野台長に気象原簿の疎開を進言した。敵は月末にも本土に進駐して来ると伝えられていた。平野も今度は北の進言を受け止めて、台員たちによい隠し場所はないか相談した。
市内では危ないからやはり敵の目の届かない田舎がよいだろうという意見が多かった。誰か、広島からの運搬可能の範囲内に実家があって、大量の気象原簿を保管してもらえそうな者はいないかということになり、結局広島から五十粁《キロ》も奥の三次《みよし》に実家のある金子技術員が預かることになった。
八月二十二日台員たちは、気象台構内の砂地や防空壕《ごう》内横穴に埋めておいた気象原簿の箱を掘り出すと、その一部を大八車に積んだ。量が多いので二回に分けて運ぶことにし、金子が大八車を引いて実家に向かった。
ところで八月二十二日は気象管制が解除され、中央気象台では天気予報を再開した日であったが、気象管制解除の連絡が遅れたことから、広島管区気象台では(ほかの気象台でもそうだったのかも知れないが)、朝の気象無線放送の受信の際にちょっとした騒ぎになった。
午前九時頃、北が事務室にいると、当番の遠藤技手が入って来て、
「変ですねえ、『トヨハタ』がナマで放送されているのですよ」
と言った。北は驚いた。戦争が始まって以来、気象管制によって気象データの公表は禁止され、無線放送もすべて暗号でおこなわれていた。ところが、遠藤の話によると、この日の朝、いつものように無線受信室で中央気象台の無線放送「トヨハタ」の受信を始めると、「トヨハタ」は暗号でなくナマ文で放送されていた。ともかくそのまま受信を続けたが、どういうわけでナマ文で放送されているのかわからないので北のところへ報告に来たのだという。北にも事情がわからず、
「戦争が終ったのだから暗号を使う必要がなくなったのだろうが、中央はどうして何も知らせて来ないのだろう」
と答えるだけだった。ほかの台員たちも、遠藤の話を聞くと、突然の暗号中止に驚くとともに、中央気象台の連絡の悪さに不平を言ったりした。
そのうちに午後になって珍しく中央気象台から電報が届いた。電報の内容は、気象管制は二十二日午前零時で解除されたこと、従って無線放送及び各地からの気象電報はすべて暗号でなくナマのままでよく、気象データや予報の一般への発表もできること、ただし暗号用の乱数表は絶対に敵に知られないようにするため焼き捨てること、などを通達するものであった。
中央気象台では、合同勤務をしていた軍と共に、終戦と同時に乱数表をはじめ重要文書はほとんど焼却してしまったのだが、地方ではまだ戦時体制のままで業務を続けていた。それだけに「トヨハタ」が事前連絡なしにナマ文で放送されたことは地方に驚きを与えたが、その日やや遅れて届いた電報によって各地の気象台や測候所はようやく平時体制への第一歩を踏み出したのであった。広島管区気象台でも、即日構内の空地で乱数表を焼却した。またこの日は、市の防空本部からの指示で気象台の義勇隊が解散した。
こんな状態の中へ、一週間ほど前に原因不明の病気で高松に帰省した古市技手の父親が訪ねて来た。古市の父親の話によると、古市は半死半生のような状態で高松の両親の家に着き、その後も病状は悪化するばかりで、医者は先があまり長くないと言っているという。そこで官舎に住んでいた古市の身の回りの物を引き取りに来たのだと、父親は言った。台員たちは、古市が広島を発つときすでにかなり衰弱していたことは知っていたが、医者に見放されるほど悪くなるとは思っていなかったから、父親の話を聞いて非常に驚いた。
「古市に頑張るように言って下さい。回復を祈っております」
台員たちは、古市の荷物をとりまとめて帰る父親に対して、口々にそう言った。
古市の病状が思わしくないと伝えられたのとは反対に、一時は屍臭《ししゆう》さえ漂わせていた宿直室の津村は、姉が引き取りに戻った頃からようやく快方に向かい始めていた。玉音放送の日には、姉に助けられてはじめて部屋の中を少し歩いた。立ち上がるとさすがに目まいがしてふらふらしたが、姉に肩を支えられている限り、何とか歩くことができた。それ以後津村は一日も早く田舎へ帰れるようにしようと、毎日少しずつ歩く訓練をした。そのうちに顔面の火傷《やけど》も徐々に乾き始めた。二十日過ぎる頃には、唇や耳にまだ膿《うみ》がたまっていたものの、それ以外はほぼ乾き、体力もついて来た。二十二日になって迎えの漁船が江波の海岸に戻って来たので、翌二十三日朝津村姉弟は、平野台長をはじめ台員たちに礼を言って、木江の実家へと海路を帰って行った。台員たちは奇蹟《きせき》に近い津村の回復を心から喜んだ。
八月二十四日、当番の白井技手に家から「父が倒れて危篤状態だ」との連絡があった。しかし、白井は交代要員がいないので、翌朝になってようやく父のいる宇品の妹の家にかけつけた。父は全身に紫の斑点ができ、何度も吐いては苦しんでいた。医者は病名の見当さえつかないと言った。
白井の父は広島電鉄十日市詰所で建物の下敷になって大怪我をしたうえに、しばらく経って原因不明の赤痢に似た下痢を起こしたが、宇品に住む白井の妹の家で療養するうちに、怪我も下痢もよくなっていた。そして、豊橋の実家に一週間ほど帰って静養して広島に戻ったばかりだった。ところが、二十四日の朝突然便所で発作を起こして倒れたのだ。父は、「痛い、痛い」と苦しみ抜いて、白井が駆けつけた朝になって死んだ。
4
昭和二十年は台風の襲来の多い年だった。七月下旬に豆台風が九州北西部を通って山陰沖に進み、八月初旬には沖縄付近を通って九州西方海上を進んだ台風があった。八月二十二日には突然豆台風が関東地方に上陸して、東京などのバラック生活者に被害を与え、天気予報を再開したばかりの中央気象台に“黒星”をつけた。
その直後の八月二十五日朝、新たな台風が室戸岬の南方に現われ、北上中であることが、ラジオ放送とナマ文になった中央気象台の無線放送「トヨハタ」とによって各地の気象台に伝えられた。中央気象台が地方気象官署に流す気象情報などの業務連絡は、当時はテレタイプ回線がなかったから、気象管制解除後も何年かは無線放送「トヨハタ」に依存せざるを得なかった。
台風の中心示度は七三五粍《ミリ》(九八〇ミリバール)で、小型の台風であったが、中央気象台は、西日本一帯は警戒するよう呼びかけていた。
広島管区気象台の現業室はにわかに活気づいて来た。当番は高杉技術員と岡原技術員の二人だったが、他の者も原爆被爆後はじめて迎え撃つ台風だけに、現業室に集まって天気図をのぞいたり、観測の手伝いをしたりした。敗戦のショックで気持がゆるんでいた台内の空気が、何となく引き締まるような雰囲気になって来た。
午後台風は四国の室戸岬付近に上陸し、引き続き真直ぐ北上していることが、夕方の「トヨハタ」でわかった。広島でも北々東の風が次第に強くなっていた。雨は大したことはなかったが、このまま台風が北上すれば、岡山方面に進むため、広島付近もかなり荒れ模様になることが予想された。気象台の建物は、いまだに窓ガラスが壊れたままだったから、強い風が庁舎の中を吹き抜けていた。
当番は、気象管制解除後はじめての暴風警報を発令した。発令といっても、放送局や新聞社に電話で速報するわけではなかった。原爆以後ほとんど姿を見せなかった定夫《じようふ》が珍しく出勤していたので、定夫に暴風警報の指示書を持たせて、市役所に届けさせただけだった。戦時中と変った点と言えば、気象台の屋上に暴風警報発令中を意味する二つの「紅」の信号燈を点燈させたことであった。そんな形であっても、警報を公にするのは、四年ぶりのことであり、強風の中に点《とも》る「紅」の信号燈を見た台員たちは感無量であった。
風は夜に入って風速十米《メートル》を越えた。夜十時過ぎると風向が南々西に変った。それは台風が岡山方面を通り過ぎたことを意味していた。結局台風の規模が小さかったことと広島が台風の西側になっていたことから、広島では風雨共に心配されたほど荒れずに済んでしまった。意気込んでいた台員たちは、気勢をそがれて拍子抜けした気持になった。翌朝になると、「何だ、あっけなく日本海に抜けてしまったな」などと冗談を言い合って一息ついた。
その日(二十六日)夕方になって、中央気象台は再び「トヨハタ」を通じて、新たな台風が四国南方に現われたので注意を要すと指示して来た。台員たちはまたまた意気込み、屋上に気象特報(現在の注意報)発令を示す「紅」一つだけの信号燈を点燈した。だがこの台風は、幸い本土からはそれてしまった。
新しい台長菅原芳生が到着したのは、その翌日の八月二十七日であった。折悪しく平野前台長は残務整理のため朝から米子へ出かけてしまったため、菅原は平野に会うことができなかった。
菅原は、尾崎、北らの在勤者に挨拶すると、
「広島は原爆で瓦礫《がれき》の山だと聞いておったが、これほどひどいとは思わなかった。東京も焼け野原だが、広島は本当に何もかも焼かれてしまった感じだな。川べりにまだ腐った屍体があったよ」
と、広島へ第一歩を踏み入れた驚きを隠さずに語った。
「東京では原爆の被害がどんなものなのか、はっきりわかっていないから、よく調べろと、中央気象台の藤原先生に命じられて来たのだが、この被害は想像を越えたものだ。駅から歩いて来たのでよくわかったよ。それにしても気象台がこれだけの被害で済んだのはよかった」
菅原は率直に感想を述べた。先に緊急援助の資金を持って来た事務系の職員を別とすれば、菅原は中央から来た最初の責任ある地位の人だった。菅原の言葉は、中央気象台が如何《い か》に広島の実情を把握していないかを物語っていた。
「中央気象台から正式の被害調査に来るまでは、庁舎はできるだけ被爆当時のままに保存しておこうと思いまして、ほとんど修理していません。業務に必要な室内の整頓をした程度です。どうぞ庁舎内を御覧になって下さい」
尾崎は、気象台の窓枠《まどわく》がいまだにひん曲ったままになっていて、ガラスさえほとんど入っていない事情を説明した。さらに尾崎は、中央気象台から緊急援助を受けたが、その資金では台員の生活を維持するのがやっとであることについても報告した。
「観測業務はどうなっているのだ」
菅原の問いに対して、北は被爆一週目に帰台した平野前台長に報告したときと同じように、
「台員がみな協力し合って欠測なく観測を続けています」
と答えた。
菅原は満足そうに「御苦労だな」と言った。
これに対し、一緒に居合わせた遠藤技手が少し気色ばんで口をはさんだ。
「北さんの指示でみな頑張っているのですが、職場を放棄して出て来ない人もいるのですよ。欠測なく観測を続けられたのは、若い者がやったからです」
遠藤は一本気な熱血漢だった。遠藤は北の報告に抗議したわけではなかった。気力を失った年輩者に対する反撥を述べたのだった。それは、終戦から日が経つにつれて、若い独身者たちの間にくすぶり始めた不満を代弁したものでもあった。
戦争に敗れてからというもの、尾崎技師は「どうせ負けたのだから、一生懸命やっても仕様がない。田舎へ帰って百姓をやった方がましだ」と、よく口にするようになった。そして、妻を置いている西大寺へ帰ることが多く、それだけ欠勤の日が多くなっていた。幹部として留まるべき庶務主任の田村技手も、田舎へ帰ったまま音沙汰がなかった。病気で帰った山根技手と古市技手もその後どうなっているのかはっきりしなかった。欠勤者はいずれも妻帯者だった。妻帯者が出て来ないということは、独身者の反撥を招いた。残った独身者たちは、欠けた勤務を埋めるため五日に一回の割合で宿泊勤務をしなければならなかったから、気象台を守ったのは俺たちなのだという意識を強く持っていた。そうした胸中のわだかまりが、新台長に対する遠藤の発言となって表面化したのだった。
たしかに遠藤の発言には無理からぬものがあった。しかし、それは原爆症の実態がまだ医学的にも社会的にも知られていなかったことに起因する誤解の部分も多分にあった。北にしても、決して帰省者のその後を知っていたわけではなかったが、年長者として帰省者に対してもう少し思いやりを持っていた。
「遠藤君の言うことはもっともですが、やはりそれぞれに身体《からだ》のぐあいや家庭の事情もありますから……」
北は、遠藤の気持をなだめる意味と菅原に対して補足説明する意味の両方をこめて言った。
「まあまあ、今日はそうムキにならんでもよい。ともかく現状の中でこれからの再建をどうするかを考えよう。僕は今夜は台長室に泊って、明日いったん帰る。呉の奥の賀茂郡下黒瀬村に家内と娘を置くことにしたので、そちらをまずきちんとしてから着任することにしたいのだ。そのうちに平野さんも米子から戻って来ようから、九月初め頃には事務引継ぎを受けたいと思っている。平野さんが帰ったらそう伝えてほしい」
菅原はそう言って、その場の話を打ち切った。
一体病気で帰省した台員たちは、その後どのような病状の経過をたどったのだろうか。古市技手については、荷物を引き取りに来た父によって、かなり病状が悪化しているらしいことは伝えられていたが、病名や病状の詳細についてはわからなかった。実は、帰省者たちは、気象台に残った台員たちには想像もつかなかった急性の原爆症と苦闘していたのだった。
古市敏則技手の場合――
「田舎で死にたい」と言って、広島駅まで自転車で送ってもらった古市は、山陽線の上り列車で岡山まで行き、岡山で乗り換えて宇野に出た。衰弱し切っていた古市は、汽車の中でとても立っていることができず、ずっと床に腰をおろしたままだった。身動きもできない混雑の中で、古市は何度も目がかすんで苦しくなり、その度に死を覚悟した。もう何日も食べていないので、あまりにも無茶な帰省だったが、古市は何とか高松までは行こうという意志の力で身体を支えた。宇野から連絡船に乗り込んで潮風を吸い込んだとき、古市はこれで両親の顔を見て死ねると思った。そう思うと何としてでも高松に着くまでは生きたいという願望が一層強くなった。高松に着いたのは翌日だった。高松市内の古市の実家は戦災で焼かれたが、両親の疎開先は便りで知らされていた。両親が仮住いしているのは、高松から十二粁も南の村だったが、古市は最後の力をふりしぼってその道程を歩いた。何度も目まいがして倒れそうになったが、道端に腰をおろして休んでは、歩いた。両親がもうすぐそこに住んでいる、もう少し頑張れば両親の家にたどり着けるのだという思いだけが、古市の足を前へ進ませた。両親の家に帰ることが人生の全目的であるかのように、彼は広島から頑張り通して来たのだった。彼の意識の中にはもはや他の何物もなかった。家に着いたとき、彼は半死半生の状態だった。ばったりと倒れると鼻血を吹き出した。鼻血は止まらず、熱は四十度近くあり、頭の一部が腫《は》れていた。
両親は驚いて医者を呼んだ。鼻血はいったんは止まっても、ちょっとしたはずみでまた出血するという繰り返しだった。熱は下がらず、食事も受け付けなかった。医者は、赤痢でも肺結核でもない、こんな病気は診《み》たことがない、と言った。医者は栄養剤らしいものを注射するだけで、為《な》すすべを知らず、数日後両親に対して到頭「息子さんはそう長くはありません、何でも好きなものを食べさせてあげなさい」と宣告した。八月末頃、古市は文字通り骨と皮だけになって、死線を彷徨《さまよ》っていた。
山根正演技手の場合――
古市より早く発病した山根は、九日朝台員に見送られて矢賀駅から芸備線の列車に乗ったまではよかったのだが、客車代りの貨車の中は負傷した兵隊ですし詰め状態となり、家畜輸送車の観を呈していた。負傷兵たちの皮膚は化膿《かのう》して悪臭を放ち、真夏の太陽に焼かれる貨車の熱気と重なって、呼吸困難に陥りそうな車内だった。山根は何度も嘔吐《おうと》をもよおしそうになったが、それよりも困ったのは、制御不能になった下痢だった。腹痛が襲って来るのと、たれ流しになるのとが同時なのだった。神経が麻痺しているのか、我慢しようと思っても何の役にも立たなかった。しかも狭い貨車の中は身動きすらできなかった。
途中島根県との県境に近い備後落合駅で松江行きの客車に乗り換え、松江には夕刻に着いた。山根の家は、松江市内の小泉八雲の家の近くにあった。山根が玄関から入ると、妻の真江は一瞬目を大きく開《あ》けて立ちすくんだ。彼女は幽霊にでも会ったような驚愕《きようがく》の表情を見せていたが、次の瞬間には、
「足がある!」
と叫んだ。広島は全滅したという情報を聞いて、彼女はよもや夫が生きて帰るとは思っていなかったのだった。玄関に夫が立っているのを見たとき、彼女は本当に亡霊が現われたのかと思ったのだと言った。
「腹をこわしてしまってな、悪くなるばかりなので帰って来た。熱は下がらんし、ふらふらなのだ」
山根の顔色は蒼白《そうはく》だった。山根は妻に、広島の街は大半焼かれ、恐らく何万という死人が出たが、気象台は街から少しはずれていたので、被害は比較的小さくて済んだ、と話した。山根の体温を計って、真江はもう一度驚いた。四十度もあったのだ。
松江に帰って三、四日経つと、髪の毛が抜け出した。熱は相変らず下がらず、四日周期で四十度に上がった。近所の医者に診てもらっても、「こんな病気は診たことがない。どうして熱が出るのかもわからん」という答えしか得られなかった。嘔《は》き気がして何も食べられず、無理に粥を食べたりすると、直ちにソースのような便となって排泄《はいせつ》された。毎日ブドウ糖の注射を打って、衰弱を防ぐのが唯一の治療だった。山根には、小学校一年の長女を筆頭に、三歳の次女、生後五カ月の長男の三児がいた。妻子を置いて先立つわけにはいかなかった。山根は気力で頑張った。八月末広島に菅原新台長が着いた頃、山根は松江でようやく危機を脱しそうな気配を見せていた。
田村万太郎技手の場合――
田村も腹痛と下痢で十日から欠勤し、そのまま帰省したのだが、その後の病状と経過については、今日彼の消息がわからないので不明である。(ただし田村は、三カ月程経ってから気象台に戻ったことが、『当番日誌』に記載されている。三カ月も休む程の重症だったのか、廃墟の街に戻るのがいやだったのかは不明だが、少なくとも帰省の当初において放射線障害によって発病したことだけは間違いなさそうである。)
気象台の建物の中にいて直接原子爆弾の放射能をあびなかった者が原爆症に冒されたのは、被爆直後市内を歩きまわって、大量の残留放射能にさらされたり、放射能を帯びたチリを吸い込んだりしたためだったのだが、当時の一般の医学的な知識ではそこまで解明することはできなかった。広島ではそれを原爆症と知らずに死んで行った被爆者が多かった。死なないまでも、発病した者は病名も治療法もわからぬまま、長期間にわたって苦しみ抜かなければならなかった。
もっとも同じように市内を歩きまわって、同じように残留放射能の影響を受けても、人によって原爆症になったりならなかったりの差があった。その差の原因ははっきりしないが、気象台の台員の場合、年長者がばたばたとやられたのに対し、若くて体力のある者は原爆症の兆候すら見せなかった。例えば、被爆の翌日、県庁や市役所周辺を歩きまわった若い高杉技術員は、その後一日だけ下痢したものの、すぐに回復してケロリとしていた。やはり抵抗力の強弱とか年齢の活力の差が、微妙なところで発病するかしないかを分けたのかも知れない。そのことが、発病しなかった元気な者の発病者(つまり帰省者)に対する誤解をさらに大きくした要因となったのだった。原爆症という未経験の病いは、実に大きな不幸と誤解とをもたらしたのである。
ここでもう一人、右足に重傷を負って宿直室に寝ていた本科生福原賢次についても記しておこう。
台員に対する気兼ねから、八月十四日朝松葉杖《まつばづえ》をついて気象台を出た福原は、懸命に歩いて、元柳町の間借り先に帰った。二十二歳の姉と一緒に間借りしていた家は、跡形もなく焼失していた。そこには、誰もいなかった。福原は松葉杖の先で焼けただれたトタンをひっくり返したり、灰の山を掘り返してみたりしたが、姉の遺体はそこにはなかった。彼は体力が衰えていたので、それ以上姉の捜索をすることは無理だった。彼はひとまず田舎に帰ることに決め、横川方面へ出て、山県《やまがた》郡大朝《おおあさ》町まで帰るトラックを探した。救援活動のため広島に出入りしている車は多かったから、乗せてくれるトラックを探すことは容易だった。
大朝町の実家に帰ると、福原は、右足がひどくむくんでいるのに気付いた。無理に歩いたのが悪かったのか、次の日には丸太のように腫れ上がってしまった。そのうえ激しい腹痛と下痢に襲われ、血便まで出た。福原の場合も急性の放射能障害だったに違いないのだが、医者も本人も全く見当がつかず、医者は赤痢だろうと苦しい診断をした。福原の兄は、自分の家から伝染病患者が出たことを村人に知られまいとして、福原の病状を外部にはひた隠しにした。兄はあれこれ山で薬草を採って来ては、福原に煎《せん》じて飲ませた。その甲斐《かい》あってか、福原は十日程経つとようやく下痢が止まり、足の腫れも退《ひ》いた。
姉の消息はいぜんとしてわからなかった。八月末になって、福原は再び歩けるようになったので、バスで広島に出てみた。元柳町の焼け跡に行って見ると、やはりそこには誰も戻った形跡はなかった。もしや姉の遺体が見つかるのではないかと、彼はもう一度焼け跡を掘り返してみたが、体力の回復が十分でなく、三十分もすると息切れがして来た。彼は姉が灰と化してしまったのではないかと思うと、可哀そうでならなかったが、自分の病気もまだ完全に直り切っていない今、それ以上どうしようもなかった。彼は焼け跡掘りを断念して、大朝町へ帰った。
5
九月二日、菅原新台長は呉の奥の下黒瀬村への家族の引越しを終えて広島に戻ると、正式に着任した。菅原は、平野前台長がまだ米子から帰っていないため、この際兼務することになっている米子測候所の事務引継ぎを先に済ませてしまおうと、翌日米子へ出かけた。
菅原と平野が一緒に広島に帰ったのは、九月五日夕刻だった。翌六日、新旧台長の事務引継ぎが行なわれ、台内で平野前台長の簡素な送別会が行なわれた。
菅原は、送別会の後、早速台員に対して訓示をし、気象台再建の方針を打ち出した。
「業務の立て直しは、あくまでも在勤者が中心になって進めることにする。長期欠勤でおらん者は当てにしない。米子測候所から交代で応援の者が来ているが、さらに応援体制を強化することを考えたい。
当面台内の整理と官舎の修理に全力をあげる。住むところがいい加減では、仕事もいい加減になる。雨漏りするような家ではいかん。明日は官舎の修理をするから手の空いている者は全員手伝うこと。僕も参加する」
菅原は九州男児の気性を持っていた。決断が早く行動的だった。自分が先頭に立ってやるだけに、のろのろしている者に対しては厳しかった。
「欠勤ばかりで仕事にならん者は整理したい」
菅原は厳しい発言をした。
たまたまこの日は、病気で松江に帰っていた山根が、ほぼ一カ月ぶりに帰台し、訓示を聞いていた。山根は高熱と下痢に苦しみ抜いたが、八月末になって急に下痢が止まり、熱も下がった。それは不思議なほど急速な回復だった。脱毛したときには、精神的ショックが大きかっただけに、急速な回復は夢のようだった。九月に入ると食欲も出て、歩けるようになった。体力の回復はまだ十分でなかったが、気象台のことが気になるので、医者の許可を得て広島に出て来たのだった。ところが出勤したとたんに、新台長に「欠勤ばかりで仕事にならん者は整理したい」と言われたのだから、山根としても黙っていられなくなった。
「台長、私は一カ月近く休んで今日出勤したばかりです。台長がおっしゃることももっともですが、私の事情も聞いて下さい。
私は仕事をサボって休んだのではありません。私はひどい下痢と熱で、とても気象台に寝ていたのでは直りそうにないから、松江に帰ったのです。私が帰ったときの事情は、私を矢賀駅まで送って下さった尾崎技師がよくご存知の筈です」
山根は、松江へ帰ってからの苦しい闘病生活について語り、さらに続けた。
「私の病状については、手紙を書いて松江から速達で出したのですが、郵便事情が悪いので届いていないようです。私は決して職場を放棄したわけではありません。気象台は人手が足りなくて困っているだろうと、陰ながら心配していましたし、私がやるべき仕事のことも気にしていました。ですから、熱も下がって起きられるようになりましたので、こうして気象台に駆けつけたのです。亡くなった方とか、勤める意志のない人は別として、ただ休んでいるというだけの理由で整理されたのでは、私としても困ります。職員の整理につきましては、どうか一人々々の事情をよく調べてから決めて下さい」
山根の話をじっと聞いていた菅原は、
「よし、わかった。君の言うことは至極当然だ。原子爆弾のためにそれぞれに苦しい生活をしているときに、よく事情も調べずに整理するのはよくないな。この点は撤回するから、安心せい」
と、きっぱりと言った。菅原の竹を割ったような気持のよい返答を聞いて、山根は嬉しくなった。
「はい、ありがとうございます」
山根は、この台長なら信頼できる、ついて行ける、と思った。それは居合わせた台員が、新台長に対して抱いた共通の印象だった。
翌日早朝から官舎の修理が始まった。
官舎は被爆直後はとても住めるような状態ではなかったが、そこに住んでいた独身者たちが、めくれた床を直したり、吹き飛ばされた畳を戻したり、ガラスの破片を掃除したり、少しずつ修理をして、八月半ば過ぎから何とか寝泊りできるようになっていた。しかし、九月の雨期を迎えて、雨漏りがひどく、強い雨の夜には官舎に住む台員は気象台に泊らなければならなかった。
「さあ始めよう」
そう言って、真先に屋根に上がったのは、菅原だった。あっけにとられた若い台員が見上げていると、菅原は金槌《かなづち》を振り上げて、屋根の上から、
「何をぼやぼやしとるッ、ぶんなぐるぞ!」
と、怒鳴った。手伝わないと、本当になぐられそうな剣幕だった。あわてた台員たちは、ようやく官舎の修理にとりかかった。菅原は、官舎の住人だろうがなかろうがお構いなしに手伝わせた。気象台の業務を一日も早く平常に戻すには、台員が一体となって懸案を一つ一つ片付けて行かなければならないというのが、菅原の考えだった。
広島管区気象台の“菅原台長時代”は万事この調子でスタートした。平野前台長は叩き上げの技術者で、いわば老舗《しにせ》の大番頭が小僧を使うような雰囲気で台員たちに対したが、菅原新台長は本科出のやる気十分の職制として、全身で台員にぶつかって来た。ぼんやり坐って何もしないでいる者がいると、菅原は「お前、何してるのだ」と言って、ハッパをかけた。台員たちは、被爆以来働き続けて来た積りだったが、やはり原爆のショックは大きく、業務立て直しのペースは遅かった。台員の行動は統一性に欠けるところが多く、どこか意識がぼけていた。そこへ赴任して来た菅原によって、台員たちは気合いを入れられたのである。
それから三、四日すると、菅原は家族を置いている下黒瀬村に食糧調達に出かけたが、その際菅原は食糧だけでなく、どこで手に入れたのか小型の旋盤を持って帰り、台長室に設置した。菅原は、その旋盤を使って測器や用具の修理を始めた。観測器械を自分で作ったり修理したりすることができるくらいでなければ、本当の観測などできないという観測精神を、菅原は自分で示した。それは決して誇示ではなかった。そういうやり方が、菅原の身に染みついていたのだった。
台長室から響いて来る旋盤の音に、台員たちはますます尻をたたかれる思いがした。
しかし、菅原のこうした意気込みにもかかわらず、住宅問題と食糧難はそう簡単に克服できそうになかった。
官舎の応急修理はしたものの、もっと本格的な修理をしないと台風襲来時には危ない。もっと困ったのは、その官舎だけでは絶対的に収容能力が不足していることだった。別の独身グループが入っている近くの皿山下のアパートは被害が小さくて済んだが、下宿を焼かれて台内に泊っている者や米子測候所からの応援組もいた。さらに兵役から復員して来る予定の台員もいるし、職員数を増やさなければならないという問題もあった。住宅問題を早急に解決しなければ、台員たちの日々の生活が行き詰ってしまう。
菅原は、陸軍病院江波分院で行なわれて来た原爆負傷者の救護が峠を越え、仮設病棟が空いているのに着眼した。軍の施設は次第に閉鎖の方向に向かっていたから、軍と交渉すれば、仮設病棟を公務員である気象台職員の宿舎に転用することは可能なように思えた。もっとも仮設病棟はバラック同然のひどい建物だから、台員の住宅にするにはかなり補強したり改装したりしなければならないが、それに必要な建築資材を調達するだけの予算が気象台にはなかった。
食糧難も深刻になるばかりだった。近くの田舎に実家のある者は、時々帰って食糧調達をすることができたが、市内在住者や独身者のほとんどは、調達手段を持たなかった。当番勤務者に対する高射砲隊からの給食は、終戦と同時に打ち切られていた。米は全くなく、配給と言えば、大豆やコーリャンや米ぬかだった。得体の知れない雑草の粉も配給された。米ぬかと雑草の粉をまぜて団子にして食うのだが、いかに飢えているとはいえ、とても苦くて二度と手が出ぬ代物だった。食糧難は全国的なもので、この雑草の粉を使った団子が、中央気象台で戦時中から当直者に給食されていた「チョウネンテン」である。ただ、広島の場合は、街が原爆で廃墟と化し、食糧の配給機構が十分に働いていなかったから、食糧難はいちだんと深刻であった。
若い台員たちは、街の露店の雑炊屋の行列に加わったり、山へ行って野生のゴボウや山芋を掘って来たりして、飢えをしのいでいた。
終戦から日が経つにつれて、廃墟の街の人心はすさんで、街には強盗や略奪が横行し始めていた。鉄道貨物や軍の施設まで狙われた。江波にも陸軍の糧秣廠《りようまつしよう》があったが、ある夜集団強盗が押し入り、一人が守衛をつかまえている間に、ほかのグループがトラックに食糧を山積みにして逃走するという事件も発生した。
軍の内部も腐敗し、幹部の将校が物資を横領して帰省してしまう事態さえ起こっていた。軍は、原爆後、市役所を通じて大量の衣類や食糧を罹災者《りさいしや》に放出したが、それでもなお各地の部隊に備蓄を残していたのだった。
こういう社会情勢だったから、菅原は、万一台員の中から盗みをする者が出たら大変なことになると気を病んだ。
住宅問題にせよ食糧問題にせよ、資金の調達が先決だ。資金の調達は、中央気象台に陳情する以外に方法はない。菅原は上京を決意した。
九月十二日、菅原は赴任してまだ半月も経っていないのに、尾崎と北に自分の考えを話すと、広島を発って東京に向かった。
ちょうどこの日、中央気象台は、マリアナ海域に台風が発生したことを確認していた。菅原はこの台風の発生を知らなかった。ましてこの台風が、五日後に広島県下に史上空前の災害をもたらすことになろうとは、夢にも思わなかった。
広島管区気象台は、原爆投下の日もそうであったように、台長不在の状態で大台風を迎え撃つことになるのである。庁舎の補修も業務体制の再建もできていないまま――。
第三章 昭和二十年九月十七日
1
この年の秋の訪れは早かった。瀬戸内の白洲の街広島に、八月の末から降り出した雨は、九月に入ると、鬱陶しい長雨となった。時折澄んだ青空が広がることもあったが、二日と続かなかった。残酷なあの灼熱《しやくねつ》の太陽はいったいどこへ行ってしまったのか、代って非情な雨が、何を流そうとするのか、壊れかかった家や掘っ建て小屋に、来る日も来る日も、しとしとと降りそそいだ。それでなくてさえ秋の雨というものは、憂鬱なものなのに、廃墟の街に降る雨は、火傷《やけど》に焼け爛《ただ》れ、得体の知れぬ原爆疾患に苦しむ人々の胸の奥底に冷たくしみこんで、災厄に苛《さいな》まれる心をいっそう滅入らせた。
広島管区気象台が、九州南方から西日本に接近しつつある大型の台風について、中央気象台から注意を促されたのは、九月十六日午前十時過ぎであった。注意を促されたといっても、それは広島だけではなく、無線放送「トヨハタ」によって、台風の進路に当たるおそれのある地方の気象官署すべてに同時に知らされたものである。その情報は、台風の現況と見通しについて次のように述べていた。
「発達せる台風七二〇粍《ミリ》(九六〇ミリバール)、ラサ島南西方東経百三十・五度、北緯二十三・五度。北々西二十五粁《キロ》。中心位置誤差百粁以内。
中心より半径六百粁以内風速十米《メートル》以上、三百粁以内風速二十米以上、西側は比較的弱し。
明朝南大東島北西方、東経百三十度、北緯二十七度付近に達し、以後次第に北々東に転じ、明後日朝九州又は四国に、明々後日奥羽東岸に達する見込」
当時の台風情報は、今日のように予想される進路に幅を持たせたいわゆる扇形予想はせずに、ずばり一本の線で進路を予想するやり方をしていた。よくはずれたが、うまく当たることもあった。ともかく、この日の情報によれば、台風は十八日朝ごろ九州または四国に上陸するおそれがあるというのである。当然西日本のどこかが、台風の直撃を受けることになるが、台風がかなり大きそうなので、どこへ上陸するにせよ、西日本一帯は警戒の必要があり、広島も暴風雨を予想しなければならない。
広島地方は、この日も朝から雨だった。気象台としては、台風に備える準備をしなければならなかったが、菅原台長は上京中、台長代理の尾崎技師は帰省中、庶務主任の田村技手は病欠のまま依然音沙汰なし、技術主任の北技手は、敵の進駐を心配して実家にあずけておいた妻子を一カ月ぶりに引きとりにいって留守という状態だった。それでも留守をあずかった若手の台員たちは、意気盛んだった。
張り切り屋の当番の高杉技術員が、台風の接近を告げる「トヨハタ」の内容を台員たちに知らせると、みなワイワイ集まって来て、天気図のまわりを囲んだ。
「こりゃあ本物だぞ」
「なあに、どんと来いだ」
「おエライさんは、だれもいなくても、俺たちだけで迎え撃ってやるさ」
めいめい勝手なことを言い合った。天気図といっても、予報に使えるような精密なものではなかった。「トヨハタ」で放送されるデータをプロットして、高気圧や低気圧の大体の位置を書きこむ程度のものに過ぎなかった。台風の図にしても、発表された中心位置と中心示度、それに暴風圏を記入するだけで、正確な等圧線などはとても記載できなかった。全国の概況が何とかわかるだけといってもよい代物であった。そんなところへ、七月に出征した山路技手が、ひょっこり姿を現わした。
「いやあ、広島はひどいことになったものだ。原爆で全滅したとは聞いとったが、こんなにえらいことになってるとは思わなかった。みな、よう生きとったのぉ」
山路は、復興の手もつけられていない街を見た驚きを、何度も繰り返した。山路は内地の部隊に入営したばかりだったので、復員も早かったのだった。山路は気象台の復員第一号だった。
「山路君、よく帰ってくれた。人手が足りなくて、猫の手も借りたいくらいなのだ。いまもみなで話しとったのだが、どうやら台風が来そうなのだ。早速仕事についてくれんか」
先輩の台員がこう頼むと、山路は快く承諾した。
「私もそのつもりで来たのです。どこか寝るところはありますか」
台員たちは、「君はもともと官舎にいたのだから、適当にもぐりこんだらどうだ」と言った。若い連中は、雑魚寝のような毎日を送っていたから、一人や二人増えても何とかなりそうだった。台員たちは、メンバーが一人増えたことによって、何となく陽気になった。夕方になって幹部のうち尾崎技師が帰台したので、当番の高杉は台風についての情報を報告した。
「中央気象台は、明後日朝九州か四国に上陸と見ていますから、明日あたりからこちらでも警戒した方がよいと思います」
尾崎は「そうだな」とうなずくと、「明日の当番は誰かな。中央気象台の情報には十分気をつけておいてほしい」と言った。
翌十七日になると、雨足に切れ目がなくなって来た。降り方はさほど強くはなかったが、雨は休みなく降り続いた。この日の当番は、父を原爆症で亡くして間もない白井技手と上原技術員だった。白井と上原が午前八時前に出勤すると、宿直明けの高杉が、「トヨハタ」の受信をしていた。この時刻に放送される「トヨハタ」のデータは、午前六時現在のものであった。高杉は、受信したデータに基いて、午前六時現在の簡単な天気図を作成すると、当番の白井、上原に引き継いだ。
天気図に記載された台風の位置は、昨日より確実に北上していた。その移動状況から判断すると、台風は、四国側へは行かず、九州南部に真直ぐに進んで来ることは確実のようだった。速度もやや速まっているように見えた。中央気象台は、新たな予想として、十七日夜半頃九州南部に達する見込み、という発表をしており、上陸予想時刻をかなり早くしていた。そうなると、広島地方も、今夜から荒れ出し、十八日朝には暴風雨になることも覚悟しなければならない。九州をつっ切って来れば、中国地方にまともにつっかけて来ることは避けられそうにない。
白井は、尾崎技師に相談した。
「秋の台風は迷走しないで、真直ぐにやって来ますから、今度のやつは警戒しなければならないと思います。それにこの長雨ですから、台風がまともにやって来れば、洪水ですよ。八月のやつは二つともそれてくれましたが、今度はそうはいかないと思います。ぼつぼつ特報を出したいのですが……」
「トヨハタのこのデータだけでは台風がどこへ行くのかわからんが、中央気象台が台風は北々東に真直ぐ上がって来ると見ているのなら、やはり広島か岡山へ来ることになるな。どうも不吉な予感がするなあ。気圧は下がっているのか」
「わずかずつですが、それでも下がり始めています。気圧の降下は、一時間に〇・五粍から一粍位です。九時の気圧は七五二粍でしたから、まだそれほど下がってはいません。雨が心配です。少しずつ強まっています。時々時間雨量で十粍位になっているのです」
「…………」
「台風が九州の南方にいるうちからこうなのですから、ちょっと心配です」
「やはり早目に警戒した方がよさそうだな。特報を出そう」
尾崎は、気象特報を出したいという白井の申し出を認めた。
広島管区気象台は、十七日午前十時「台風接近にともない今夜から風雨強かるべし」という気象特報を出した。同時に、鉄道機関に対する鉄道警報を発令した。発令と言っても、関係機関に直ちに電話で通報したり、ラジオで一般住民に知らせたりする体制ができていたわけではないのは、八月末の台風のときと同じだった。気象台の電話回線は、いぜんとして復旧していなかったのである。
原爆で全焼した広島中央郵便局は、原爆後焼けたビルの中に交換台を仮設して、電話交換業務を再開したが、終戦までは軍用回線の復旧が中心になっていた。終戦後は、市の中心部にある主要官庁や会社、鉄道機関などの復旧も進められたが、九月に入ってからは、進駐軍のための回線作成に追われていた。しかも、焼け跡に張ったゴム巻きの電線が盗難にあったり、職員が次々に急性原爆症で倒れたりで、市内電話回線の復旧は大幅に遅れていた。気象台は、市の中心部からはずれていたこともあって、重要機関でありながら電話の復旧が遅れていたのである。はじめのうちは、中央への気象電報を電信局まで運んだり、特報や警報を市役所まで持って行かなければならなかったが、九月になってからはようやく江波郵便局まで電話が通じたため、気象電報や特報は、江波郵便局まで行って電話で通報すればよくなった。しかし、気象台から直接電話をかけることはできなかった。気象電報や特報を持参する仕事は、本来なら定夫《じようふ》がやるのだが、原爆後定夫がほとんど出て来なくなってしまったので、やむを得ず当番外の者が、自転車で郵便局まで出向いていた。
通報先は、鉄道警報は広島鉄道局、気象特報は、市役所と県庁(庁舎全焼のため郊外の向洋《むかいなだ》町にある東洋工業に仮住い中だった)、それに県警察部などに知らせるのがやっとであった。通報を受けた市役所にしても県庁にしても、これを出先機関や一般住民に知らせる体制は全くできていなかった。市役所や県庁のわずかばかりの職員が、災害に備えて待機する程度であった。気象特報を防災対策に役立てるような機能は、原爆による戦災によって完全に麻痺していたし、一般住民の意識も日々の食糧を確保することだけで精一杯であった。警察にしても、敗戦の動揺で執務態度がはなはだしく弛緩《しかん》していた。
一方、報道機関も、終戦から一カ月経ったというのに機能は十分に回復していなかった。当時の唯一のラジオ電波、NHK広島中央放送局は、上流川町の局舎が全焼した後、郊外の原放送所の臨時スタジオから、生き残った職員の手で細々とローカル放送を出してはいたが、一日の番組の大部分は、東京からの全国中継放送を受けたものであった。気象台との間の専用線など敷設されていなかったし、台風襲来に備えて、積極的にローカルの気象情報を流す体制は整っていなかった。せいぜい全国中継ニュースの中で台風情報が伝えられる程度であった。しかし全国中継ニュースの台風情報は、どうしても上陸地に重点が置かれ、進路先の特定の地方や県に対するきめ細かい注意までは提供してくれない。ニュースを聞く側も、「台風が九州に来ている」ことはわかっても、それをわが身のこととして理解するだけの防災知識を持ち合わせていなかった。
地元紙の中国新聞社は、原爆で百四人もの社員を失い、社屋も外郭を残すだけという惨憺《さんたん》たる被害を受けていた。空襲に備えて郊外の温品《ぬくしな》工場に疎開していた一部の輪転機で、ようやく八月三十一日付の新聞から、再刊にこぎつけたものの、取材体制も整わぬ中で編集された中国新聞温品版は、辛うじて新聞の体裁を保っているという紙面であった。生き残った社員たちは、懸命に紙面を埋めたが、取材の中心は戦災復興や配給や食糧のことであって、とても気象台の取材までは手が及ばなかった。時々紙面に載る気象に関する記事は、通信社から流れて来る中央気象台や福岡管区気象台の話が中心になっていた。もちろん夕刊はなかったから、仮に気象台が情報や特報を持ちこんだとしても、新聞に速報を期待することは無理であった。
だいいち広島管区気象台は、いまだに広島地方の天気予報を出すには至っていなかった。気象台の業務は、定時の観測を欠測なく続けることと、「トヨハタ」を受信して、ごく簡単な天気図を参考資料として作成するのがやっとであった。それにもかかわらずあえて気象特報や鉄道警報を出したのは、災害が予想されるときに気象台として何もしないわけにはいかないという判断からであった。中央気象台は、八月二十二日気象管制の解除と同時にいちはやく東京地方の天気予報を再開したのに続いて、全国天気概況や漁業気象も相次いで復活させ、各地の気象台も次々にこれにならったが、原爆を受けた広島だけは業務の回復が全く遅れていた。
こんなわけで、十七日午前十時広島地方気象台が発令した気象特報は、雨の中を自転車で江波郵便局まで出向いた台員によって、市役所と県庁、県警察部に伝えられたが、結局のところそれぞれの役所止まりの情報となったのであった。気象台による住民への直接的な伝達手段は、江波山の気象台屋上に掲げられた吹流しだけであった。だが、「風雨強かるべし」の特報発令中を示す「紅・藍《あい》」二色の吹流しの意味に気付くことのできた住民は、果たして何人いたろうか。
午後になると、雨は時折ザーッと、あたり一面白く光るほど強く降ったかと思うと、ピタリと小降りになるというぐあいに、台風の前ぶれ特有の断続的な降り方になって来た。風は平均七、八米であったが、気圧の下がり方は顕著になって来た。正午過ぎに水銀気圧計の示度は七五〇粍を割り、午後三時には七四五粍まで下がった。
雲は低く垂れこめ、江波山から見下ろす広島の街は暗い灰色に濡れていた。山の上は樹木が伐採されたままであったが、斜面に残る木や竹藪《たけやぶ》が風でざわざわと音をたてた。
技術主任の北はこの雨の中を姫路の田舎の実家から妻と三人の子供を連れて広島に帰って来た。北は家族を江波山の下の家に落ちつかせると、すぐに気象台に上がった。
「やあ、雨が強くなって来たな。台風は広島に来そうかね」
現業室を覗《のぞ》いた北は、当番の白井に尋ねた。北は、朝実家を出るときにラジオで台風が九州に近づいていることを知り、職務がら進路をあれこれと考えていたのだった。白井は、すかさず答えた。
「いまトヨハタで新しい台風の位置が放送されたのですが、それによりますと、台風は午後二時現在九州薩摩半島のすぐ南まで接近しています。進行方向は北々東、時速三十五粁だということですから、少し速くなっているようです。もう四時半を過ぎていますから、台風はすでに薩摩半島に上陸して、荒れ狂っているに違いありません」
「中心示度はどれくらいかね」
「七二〇粍以下と発表していますが、枕崎のデータがどうなっているのか、トヨハタでは欠けています。通信不能で入電なしなのでしょう」
各地の気象台や測候所から入電した観測データによって中央気象台が天気図を作成し、台風の勢力や進路予想をまとめるまでに、一時間から一時間半位かかる。さらにそれを電文にして、「トヨハタ」の無線放送にのせ、各地の気象台や測候所に伝えると、観測時点から二時間以上の時間的ずれが生じる。情報の遅れは、当時の観測と予報の体制ではどうしても避けられない問題であった。しかも、台風が接近して暴風雨圏に入った地方からは、通信線が途絶してデータが入電しなくなってしまう。最も重要な台風の中心付近のデータがゼロとなるから、中心示度は遠方の気圧傾度から推測する以外に方法はない。「中心示度七二〇粍以下」という中央気象台の発表は、そういう推測値なのであって、実際はそれほどでないのか、それとももっと低いつまり勢力の強いものなのか、正確なところはわからないのである。
「七二〇粍以下か……。手ごわい感じだな」
と、北は戦後はじめて迎える大型台風だけに、少々緊張した表情で言った。
「気象特報は午前十時に出してあります。夜半過ぎから明け方にかけてが山場になるのではないかと思うのですが」
白井は、若干の個人的見解を加えて言った。
こんな話をしているところへ、乙番の上原が午後五時の観測の読み取りを終えて、現業室へ入って来た。
「五時の気圧は七四〇粍まで下がっています」
上原の報告を聞いて北は驚いた。
「ずいぶん気圧の下がり方が速いな。台風の中心がいま薩摩半島あたりにあるとすると、広島ですでに七四〇粍というのは、低過ぎるな。ひょっとすると中心示度は、七二〇粍どころか、もっと凄《すご》いのかも知れんぞ」
北は、最後の「もっと凄いのかも知れんぞ」という言葉を、当番の白井や上原に言うというより、自分自身に言い聞かせるような口調で言った。北は不吉な予感が走るのを感じた。
そこへ、本来なら五時で退勤となる台員たち三、四人が入って来た。みな台風のことが気になっているのだった。台員たちは、天気図に記された最新の台風の中心位置と進行方向を示す矢印とを見ると、今夜から明け方にかけてが勝負だな、などと話しあった。元気のいい台員が叫んだ。
「今夜ハ総員起シ!」
2
台風は、午後二時半過ぎ薩摩半島南端の枕崎町付近に上陸し、枕崎測候所では茶屋道技手らが暴風雨の中で苦闘していた。
枕崎測候所では、午後二時十六分最大瞬間風速六十二・七米の猛烈な暴風を記録し、さらに台風の眼に入った午後二時四十分には最低気圧六八七・五粍(九一六・六ミリバール)という記録的な気圧示度を観測していた。
予想をはるかに越えたこの台風の勢力については、通信線途絶のため中央気象台には全く伝わらなかったから、中央気象台から全国の気象官署に流される台風情報も更新されなかった。
台風は、上陸後速度を時速四十粁に加速して北々東に進み、薩摩半島一円を次々に暴風雨の中に巻きこんだ。屋根瓦は飛び、家屋は倒壊し、電柱や樹木もなぎ倒された。
南九州一帯がいかに暴風雨に翻弄《ほんろう》されたかについて、後日中央気象台がまとめた記録(『枕崎・阿久根颱風調査報告』)を読むと次のように記されている。
「九州は空襲被害の最も大なる地方の一つであり、其《そ》の復旧工事も応急的なものであつたので、台風の猛威の前には、一たまりもなく破壊され、通信、交通は麻痺状態に陥つた。又農作物に就いても、稲は穂が台風のため〓取《もぎと》られて、収穫皆無の状態になつた所も可成多く、畑作は播種《はしゆ》後日尚《な》ほ浅いものが多かつたので、流失により全滅に瀕《ひん》した所が多い」
「鹿児島市内は本年六月中旬に於《お》ける焼夷弾《しよういだん》攻撃に依り、殆んど灰燼《かいじん》に帰した為、其の後の復旧家屋はバラック建なので、台風には一たまりもなく吹飛ばされてしまひ、倒潰《とうかい》の姿さへ見えぬ程である」
台風は、鹿児島県下に家屋の全半壊四万七千戸以上の被害をもたらした後、勢力がほとんど衰えないまま宮崎県を駆け抜けた。
都城《みやこのじよう》市では、製紙会社の高さ三十五米の大煙突が崩壊した。午後五時四十分には、宮崎県日向《ひゆうが》市に近い細島燈台で最大瞬間風速七十五米を記録し、この地方の家屋はほとんど全壊して家の形を留めるものがないという惨憺たる光景となった。
台風の速度は速まるばかりであった。午後七時過ぎには、台風の中心は大分市付近に到達していた。
ちょうどこの頃、台風の中心から東に二百粁以上離れた四国の室戸では、上空に明滅する異様な光に、人々の目が釘付《くぎづ》けにされていた。
位置は、天頂からやや北東寄りの曇り空の中であった。青い球状の強い電光が、何かが爆発を繰り返しているかのように、ほぼ三分間隔で発光しては消えるという規則正しい明滅を繰り返していた。雷鳴やそれらしい音は一切聞こえなかった。光も明らかに雷の稲妻や閃光《せんこう》とは違っていた。
この異様な光象は、室戸岬測候所の所員によっても観測された。この現象は、午後六時五十分頃から八時三十分頃まで約一時間四十分も続いた。このような異常光象は、台風襲来時などにごく稀《まれ》に観測されることがあるらしいが、室戸の人々が見たのははじめてであった。人々は、九州に来襲中の台風によって、何か恐ろしい災害が起こるような不吉な予感に襲われたが、その予感が何であるかについては誰一人としてはっきりとした輪郭をつかむことはできなかった。
室戸で見られた異様な電光が消滅した頃、台風は伊予灘《いよなだ》に進んでいた。瀬戸内海を越えれば、山口県東部であり、その先には広島があった。
3
広島管区気象台では、台風の勢力と動きについて正確なことがわからないまま夜を迎えた。風速十米前後の風になぶられるように降る雨は、次第に土砂降りの様相を呈して来た。水銀気圧計の示度は、午後八時前に七三〇粍を切り、その後も依然として下がり続けていた。
台風接近に備えて、夕刻からは三十分毎に観測を行なう臨時観測体制に入った。北をはじめ、「総員起シ!」と叫んだ若手の台員ら数人が帰らずに残った。三十分毎の臨時観測となると、当番だけでは手がまわらないし、どういう事態になるかもわからないというので、居残りを決めたのだった。ただ、台風が恐るべき勢力を持っていることについては、全く情報が入っていなかったから、若い連中には大台風を迎え撃つというような緊張感はなかった。仕事が好きな連中ばかりなので、多少の野次馬気分も手伝って、手ぐすねをひいて敵を待つといった空気だった。
午後八時過ぎに受信した「トヨハタ」によれば、台風の中心は「午後六時現在宮崎県北部にあり北々東進中」ということだった。
「よく降るなあ。この間の台風は二度も空振りだったけれど、今度は本物だぞ」
現業室で天気図に台風の中心位置を書きこみながら、当番の白井技手はひとりつぶやいた。気象台は原爆を受けて以来窓枠《まどわく》がひん曲ったままガラスを入れることもできないでいたが、現業室や無線受信室などの重要な部屋は、台風に備えて板が打ちつけられていた。しかし、吹きつける雨は、板の隙間から容赦なく入りこんできた。板をたたき、屋根をたたき、地面をたたく音は、次第に激しくなって来た。
午後九時前、白井が定時の観測に出ようとしていると、電燈が消えた。停電だった。台内が真暗になったせいか、雨の響きがいちだんと強くなったように思えた。
「やれやれ、また停電か」
傍《そば》にいた乙番の若い上原技術員が、ぼやきながら懐中電燈をつけた。戦争末期から、節電のための停電がしょっちゅうあったうえに、ちょっとした風雨でも停電するのが当たり前のようになっていた。台風の接近を前に停電したのでは、気象台としては困るのだが、どうしようもないことだった。九時の観測器の読み取りは、甲番の白井の番だった。上原は、「足もとに気をつけて下さい」と言って、白井に懐中電燈を渡し、ローソクに火を点《とも》した。
白井が廊下に出ると、事務室からもローソクの明りと話し声がもれていた。待機している当番以外の者たちは、台風の通過は夜半過ぎだろうと見込んで(それは中央気象台の「トヨハタ」の情報から判断したのだが)、事務室で世間話をしていたのである。白井は、事務室の前を通って、まず気圧計室に入った。水銀気圧計の示度は七二六・五粍まで下がっていた。白井は観測野帳にそのデータをす早くメモすると、暗い階段を懐中電燈を頼りに、三階の観測塔まで上がった。観測塔の中はほとんど吹きさらしになっていた。無線放送受信のアンテナや観測塔の屋上にある風向風速計が、風でヒューヒューと鳴っていた。観測塔内にある風向風速計の読み取り器をのぞきこむと、平均風速は十米であった。風向は東だった。瞬間風速を記録するダインス式風圧計の自記紙を見ると、ペン先が自記紙の上を地震計の針のように動いていた。それは風速数米から十数米の風の荒々しい息づかいをそのまま記録する動きであった。もっとも、風が強いと言っても、平均十米程度であれば、低気圧の通過時などには屡々《しばしば》吹く風であって、それほど驚くことはなかった。台風接近とは言え、まだ心配する状況ではないように、白井には思えた。ただ心配なのは雨だけだった。
野帳への記入を済ませて一階の現業室へ帰ると、白井はやおらシャツとズボンをぬいで、褌《ふんどし》一本になった。
「この風と雨じゃあ、露場《ろじよう》に出るのに傘は用をなさんよ。どうせずぶ濡れになるなら、この方がいいや」
白井は、ローソクの薄明りの中で褌をしめ直すと、再び懐中電燈を持って出て行った。野帳は濡れないように置いておき、代りに紙切れと鉛筆だけを持って行った。庁舎南側の露場に出ると、降りしきる雨は、目といわず口といわずお構いなしに入りこんで来た。江波山の下の街は停電で真暗だった。雨量計にたまった雨水を、計測用の枡《ます》に入れて目盛を読むと、午後八時から九時までの一時間雨量は十六・八粍だった。その前の七時から八時までの一時間雨量は十・三粍だったから、雨がいちだんと強くなっていることは、データからもはっきりとわかった。激しい雨で、持って来た紙切れはたちまち使いものにならなくなってしまったので、白井は読み取ったデータを頭の中に記憶した。
「この分では街の低いところは、そろそろ水があふれているぞ。水害になりそうだな」
白井は、そう思いながら、次は百葉箱の扉を開け、温度計と湿度計を調べた。気温は二十五度、昼よりもむしろ高目になっていた。台風の接近で、南の暖かい湿った空気が、日本上空に大量に運びこまれているのだろう。室内にいれば、むしむしする気温だが、ずぶ濡れの白井は、寒気を感じていた。気温と湿度を頭にたたきこむと、白井は急いで庁舎に戻った。プールから上がって来たような姿で現業室に戻ると、薄暗がりの中に北らが集まっていた。
「やあ、御苦労。雨量はどれ位行ってるかね」
北が白井に聞いた。北もやはり雨のことを気にしているようだった。白井は身体をふきながら答えた。
「午後八時から九時までの時間雨量が十六・八粍です。かなり強くなって来ました。昨日の朝からの総雨量は、八時までが百三十四・二粍でしたから、九時では……百……百五十一粍になります。この調子で台風が近づいたら、相当な大雨になりそうです」
白井の説明に、北は「そうだな」と言った。「台風の通過が夜半過ぎとすると、雨もこの分では済みそうもないからなあ――」北はいよいよ不安の色を濃くした。
白井は、とりあえず頭に入れて来た雨量、気温、湿度のデータを、観測野帳に記入した。
そのとき、雨の音が突然変ったのに、全員が気付いた。それは音というより響きであった。みな互いにローソクの明りに照らされた顔を無言のうちに見合った。雨の降り方が只事ではなくなって来たのだ。豪雨の響きは、一時的なものではなかった。それは休むことなく続き、庁舎内を圧倒した。窓に打ちつけた板の隙間からは、雨水がどんどん入りこんで来た。
「これは凄いことになったな」と、北がつぶやいたが、その言葉はたたきつける雨の轟音《ごうおん》にかき消された。
「台風は予想より近いのではないか」
と、北は声を大きくして、白井に聞いた。
「今のところ風向は東のままで変化はありません。ただ気圧が低いですね、七二六・五粍ですから……。案外、台風の速度が速くなっているのかも知れません」
気圧の低さから判断すると、台風は近いようにも思えたが、風速から判断するとまだ遠いようにも思えた。台風の中心が近いなら、風がもう少し強くなってもよいように思えたのである。
「ぼつぼつ手伝いに入りましょうか」
と、若手の台員が口をはさんだ。雨の響きに、若い連中の血が騒ぎ出したのだった。
「ありがたい、三十分ごとに濡れねずみではデータの整理もできんからな」
白井の返事に、技術主任の北も同意した。
「広島は台風災害の少ないところだと聞いていたが、ここ二、三年は事情が違うようだな。毎年やられているじゃあないか」
北は、昭和十七年暮れに広島に赴任して以来、毎年台風と立ち向かって来たことを思い浮べていた。今度の台風は、ちょうど一年前の同じ九月十七日にやって来た台風とコースがよく似ていた。しかも今度の台風は、勢力がはるかに強そうだし、前ぶれの雨の降り方も激しい。北は続けた。
「だが、今度のは横綱級のようだな。水害は避けられまい」
雨の響きは、一層激しくなって来た。
九時三十分の臨時観測では、露場には白井が「濡れたついでだから、もう一度俺がやろう」と言って出て行った。玄関から外に出ようとしたとき、白井は一瞬足を止めた。文字通りバケツをひっくり返したような豪雨なのだ。風もいぜんとして十米位の強さがある。白井は、大きく息を吸いこむと、滝壺にでもとびこむようなつもりで、褌一本の身体を豪雨にさらした。目を開けていられないような、たたきつける雨だった。鼻だけで息を吸うと雨水が入って来るので、口で呼吸をした。わずか三十分前に観測したときと比べ、状況は極端に違っていた。あまりにも雨が激しいので、雨量を露場で測ることはできなかった。雨量計の水を桝に移すと、それをかかえて急いで庁舎内に戻って目盛を読んだ。九時からのわずか三十分間の雨量が二十四粍もあった。
この間に、気圧計や風向風速計の観測は、乙番の上原がやっていた。気圧は依然として下がり続けていたが、風向がこれまでの東から南東に変化したのが、新しい傾向だった。このことは、台風の中心が広島の南西方向つまり山口県側からかなり近づいて来たことを示唆するデータであった。
「風向きが変ったか。やはり中央気象台の予想より台風は速いようだな」
報告を聞いた北は、台風の位置について確信を持ったような表情でこう言った。
「しかし、この雨と風ではとても気象電報を打ちに行くことはできません。残念だなあ――」
シャツとズボンを身につけながら、白井は口惜《く や》しそうに言った。広島のデータが入電するかしないかは、中央気象台が台風の勢力や位置を決めるうえで、いまこそ重要な手がかりになる筈であったが、停電の暗闇と豪雨の中を江波郵便局まで打電に行くことは、とても無理であった。たとえ江波郵便局まで行っても、この風雨では電話線や電信線も途絶しているに違いない。ずぶ濡れで観測している白井がデータを送れないことを口惜しがるのは当然であった。
午後十時の定時観測では、今度は応援で残っていた山根技手がやはり褌姿になって露場にとび出した。急性原爆症で一時は松江に帰っていた山根だったが、九月になってからはすっかり元気を取り戻していた。九時三十分から十時までの三十分間に雨量計にたまった雨量は、二十九・五粍だった。九時から十時までの一時間雨量は、実に五十三・五粍という、広島の短時間雨量としては記録的なものになった。これで総雨量は、たちまち二百粍を越えたことになる。
一時間に五十粍を越える豪雨が降れば、それだけでも浸水や山崩れ、崖崩《がけくず》れの災害が起こることは必至である。しかも、広島地方は長雨で川の水かさは増し、地盤はゆるんでいた。
「外は水びたしですよ。山の上でこんなぐあいでは、街は洪水だなあ。何しろ身体《からだ》が痛いような雨ですよ」
山根は少し昂奮《こうふん》気味で言った。たしかに百葉箱をのぞくのも困難なほどの土砂降りだった。もし電話が戦災前のように生きていれば、大雨の状況や台風の接近見込みなどについて、県や市など各方面に連絡しなければならず、現業室はごった返す忙しさとなったであろう。ところが、電話が使えないため、為《な》すべき業務は意外に少なかった。三十分毎の観測をすること以外に、ほとんど何もすることがないのである。せいぜい気象台自身が風雨にやられないように、板の打ちつけを頑丈にする仕事がある程度であった。台風が接近しているというのに、観測したデータを記録することしか他に為しようがないなどという孤立状態になったのは、おそらく広島の気象台開設以来はじめてのことであったろう。
午後十時過ぎて間もなく、豪雨の響きがぴたりと止《や》んだ。北が時計を見ると、十時七分だった。一時間も続いた轟音が突然消え失せたので、みな一瞬ぼーっと放心したような気分になった。本当に雨が止んでしまったのだった。雨の滴の音がどこからか、ピシャピシャと聞こえて来た。一同われに返ると、今度は風の唸《うな》りが耳に入って来た。雨が止むと同時に、風が急に強くなり出したのだ。無線受信用の鉄柱アンテナが、強風で唸り声をあげていた。
北は、直観的に台風の眼が近いと思った。豪雨がぴたりと止むことは、台風の眼に入ったときに経験することだが、もし眼に入ったのなら風も止む筈である。しかし、風がかえって強くなり出したということは、眼が至近距離にあると考えられる。
「台風の眼がもう来ているのかも知れん。風と気圧を調べよう」
北は、こう言うと、自分で懐中電燈を持って現業室を出た。白井たちも一緒について出た。気圧計は、七二三粍と七二二粍の間あたりを指していて、なお下降する気配を見せていた。三階の観測塔に上がると、平均風速は十五米を越え、風向は南々東に変っていた。広島湾側からの海風になったので、風は潮の臭いがしていた。空はいくぶん明るさをとり戻していた。
「台風の中心は近い。広島の西を通るだろう。測器の読み取りを十分毎にやろう」
北は、こう指示した。
その後、風はさらに強まって、平均二十米を越え、最大瞬間風速は十時二十五分には三十六米に達した。雨は完全に上がっていた。
十時四十分頃風が急に十数米に落ちた。風向計は南風を示していた。十時四十三分には水銀気圧計が、七二一・五粍(九六一ミリバール)で降下を止めた。台風が広島の西方至近距離を通過中であることは明らかだった。空は意外に明るかった。雲が切れて来たのかも知れない。つい先程までは豪雨の暗闇だったのに、あたりはうっすらと明るくなって、山の下の街がぼんやりと見えるようになっていた。
この夜臨泊した台員の中に、元気旺盛《おうせい》な遠藤技手がいた。遠藤は、二階建て庁舎の屋上に出てみた。足もとに何かが落ちているので、よく見ると、白いかもめの死骸だった。一羽だけではなかった。数えると五羽いた。みな死んでいたが、濡れた体に温もりが残っていた。
海鳥や小鳥は台風の眼にとらえられると抜け出せなくなって、台風の移動とともに大旅行をするが、そのうちに雨や風に打たれて墜落死することが多い、という話を遠藤は誰かに聞いたことがあるのを思い起こした。気象台の屋上に墜落死したかもめたちは、やはりどこかで台風に巻きこまれて飛んで来たに違いなかった。大自然の猛威にさらされた小動物のか弱い姿を、遠藤はそこに見た。しかし、人間とてこのかもめとどれほど違うだろうか、遠藤はふとそんなことを考えつつ、かもめの死骸を集めて、あとで片づけるために、観測塔の隅に置いた。
「ともかく台風の眼が至近距離を通過しつつあることは、このかもめが証明している」
遠藤がそう思ったとき、突風が遠藤の身体を吹き飛ばそうとした。風がまた強くなって来た。風向が急に南西寄りに変って来た。台風は着実に移動しているのだ。広島湾の方角からは、強風によって白い泡沫《ほうまつ》状になった潮水が、たたきつけるように飛んで来た。山の下の江波から海岸の方は、この泡沫のために、霧がたちこめたようにぼんやりと乳白色に覆われているのが、空の薄明りに助けられて見えた。遠藤はその珍しい現象に一瞬見とれたが、いつの間にか身体がべとついて、唇が塩辛くなっているのに気付いた。遠藤ははじめての経験だったので、現業室へ戻るとこのことを北に話した。北は、
「そうか、潮煙が出て来たか。潮煙は九州や四国に台風が上陸するときによく発生するが、瀬戸内ではあまり聞かないな。やはりこの台風はいつものとは違うようだ」
と言った。荒れ狂う暴風のために海水が波頭から吹きちぎられて粒子状になって飛ぶ潮煙は、台風が枕崎に上陸する際に大規模に発生して内陸深く吹きこんだが、同じ現象が広島湾でも起こったことは、台風が依然として強い勢力を保っていることを示すものであった。
雨はほとんど上がっていた。前日朝からつい先程午後十時過ぎに止むまでの総雨量は、二百十八・七粍に達していた。時刻は午後十一時になろうとしていた。台員たちをほっとさせたのは、水銀気圧計が、七二一・五粍(九六一ミリバール)の最低気圧を記録した後、急速に上がり始めたことであった。
そのとき、玄関の方から女の声が聞こえた。深夜嵐の中を誰だろうと、現業室に集まっていた台員たちが顔を見合わせると、懐中電燈を手にした若い女が部屋に入って来た。
「山吉です、お邪魔します」
事務の山吉英子だった。
「山吉さん、こんな時刻にどうしたんじゃ」
と、北が尋ねると、山吉は、
「水が出たんです。高潮で江波は水びたしです。うちも畳の上まで水が来てしもうて」
と、やや昂奮気味で言った。「いまのところこれ以上水は増えそうにないので、母と妹はうちに残っていますが、お知らせした方がよいと思いまして、やって来たのです」
「やはり高潮が出たか」
と、当番の白井が言った。広島では七二一・五粍という近来にない低い気圧を記録している。この低い気圧による海面の吸い上げと、南寄りの強風による波の吹き寄せが重なれば、広島湾岸に高潮が発生することは、当然予想されることであった。山吉は続けた。
「こんなに台風が凄いとは思わなかったものですから、寝こんでいたのです。近所が急に騒がしくなって、水だ! という叫び声が聞こえたので、びっくりしてとび起きたら、もう床下に水がどんどん流れこんで来て……。江波山の途中まで避難している人も沢山いました。近所の人たちの話では、江波の陸軍病院辺りにも水が来て、あそこはまだ患者さんが大勢いるので、避難の騒ぎが大変だったそうです。海岸の方では、漁船が波で打ち上げられていると言ってました」
気象台の職員である山吉でさえ、「こんなに台風が凄いとは思わなかった」と言ったことは、気象台の見通しが甘かったことを、何よりもよく示していた。山吉はそういうつもりで言ったわけではなかったが、予想と実際がずれていたことは否定しようのない事実であった。暴風雨が予想以上に凄いものであったばかりか、夜半過ぎから未明にかけてと予想していた台風の襲来が、三、四時間早くなったことも、大きなずれであった。
「大雨で太田川の水位が上がっているから、河口では高潮の逆流とぶつかって氾濫《はんらん》したのだろうな。山吉さん、しばらくここで休んでいなさいよ」
北はそう言いながら、胸の中で〈この調子だとあちこちで水害が起こっているぞ〉と思った。「原爆で倒れそうになったままの家も多いし、バラック住いの人もいるし、街はひどいことになっているのではないかな」北はひとり言をつぶやいたが、そうはいっても気象台ではどうしようもない事柄であった。
4
広島の街の人々は、この嵐の中でどう過していたのだろうか。
広島市千田町一丁目にある広島赤十字病院では、約二百五十人の重症患者たちが、ガラスのない窓から吹きこむ雨で、ずぶ濡れになってふるえていた。
広島赤十字病院は、爆心地から約一・六粁の比較的近い位置にあったため、原爆によって鉄筋三階建ての本館・一号館・二号館がいずれも大破し、ドアや窓ガラスはすべて吹き飛んでしまった。隔離病棟や看護婦生徒宿舎・解剖室などの木造の付属施設は、全半壊後、周辺の火災とともに焼失した。医師、看護婦、患者の中から多数の死傷者が出たが、生き残った医師と看護婦が、献身的な活躍をして、負傷者の手当てに当たった。院外からも被爆した負傷者が続々と運びこまれ、焼け残った鉄筋の本館と一、二号館の中は、病室も廊下も地下室も階段も、千人近い負傷者で埋まった。負傷者の大半は、火傷や骨折などによって瀕死《ひんし》の状態に陥っていて、毎日三十人ぐらいずつ死んでいった。病院では、死亡した患者は担架で病院の空地に運んで焼いた。こうして重態患者は八月末までにほとんど死んでしまい、九月に入ると何とか持ちこたえられそうな患者だけが残って、病院で屍体《したい》を焼くことも少なくなった。
九月十七日が来たとき、広島赤十字病院には、軍患と一般合わせて約二百五十人の患者がいて、一、二号館の二階と三階が病室に当てられていた。病室とはいっても、間仕切りやドアは原爆で吹きとんでなくなっていたから、どこも大部屋のようになっていた。しかもガラス窓も吹きとんだまま、病院には修理するだけの余力はなかった。夏のうちはそれでも一向に差し支えなかったが、秋になってから雨の日が多くなると、さすがに患者たちの身にはこたえた。患者たちは、毛布などを窓に張って雨をしのいだが、この日、夜に入って風雨が強くなると、そんな毛布だけでは雨水の浸入を防ぐことはできなくなった。
停電の暗闇の中で、職員や看護婦がカンテラの明りを頼りに、患者たちのベッドをできるだけ窓際から遠ざけた。しかし、その効き目もほんのわずかの間だけだった。夜が更けるにつれて、雨と風はただならぬ暴風雨の様相を呈して来た。病院ではラジオを聞いている余裕などなかったから、台風が中国地方に接近しつつあることは、誰も知らずに寝ていた。原爆の日以来、ここでは医師も看護婦も患者も、誰もが死と生の接点のぎりぎりのところで闘って来たのであり、治療と医薬品と食糧の問題が生活のすべてであったから、夜が来るとみなただ疲れ切って眠っていたのだった。
夜九時をまわった頃、窓から吹きこむ雨が異常に激しくなった。窓に張った毛布は強風ではためき、土砂降りの雨が各階の部屋という部屋に横なぐりになって入りこんで来た。窓際にいても部屋の奥にいても変りはなかった。豪雨は、全身火傷を負った者も、四十度の熱がある者も、差別しなかった。患者はずぶ濡れになり、ベッドの下の床はたちまち水びたしになった。
看護婦たちは二階の一角の床に畳をしいて寝起きしていたが、その畳も水につかってしまった。看護婦の中には激務で疲れ切って熟睡していたため、「大変だ」という騒ぎで起こされるまで、吹きこむ雨に気がつかない者もいた。
各階の床にたまった雨水は、階段をつたって滝のように階下へと流れ落ちていった。
重藤文夫副院長は三階の手術室脇に泊りこんでいたが、激しい風雨にとび起きると、医師や職員を起こしてまわり、「地下室の医薬品と米をかつぎ上げろ」と叫んだ。広島赤十字病院は、戦時中軍の患者を扱っていた関係で、医薬品と食糧は比較的豊富にあり、地下室に保管されていた。しかし、水につかったら使いものにならなくなってしまう。二百五十人もの患者をかかえて、医薬品も米もなくなったら、命の綱を絶たれるようなものである。医師や職員たちが、雨水が滝のように流れ落ちる階段を、カンテラを下げて降りて行くと、地下室はすでに腰まで水につかるほど浸水していた。水かさはさらに増えつつあった。全員総出で、懸命に医薬品や米俵を一階にかつぎ上げたが、すでにほとんど水につかってしまっていた。
広島市基《もと》町にあった広島逓信病院でも同じような状況であった。広島逓信病院は爆心地から約一・三粁の位置にあったため、破壊は広島赤十字病院よりひどかった。それでも鉄筋コンクリート二階建ての建物の構造だけは残ったので、負傷者の収容所に当てられた。収容患者は二百人から三百人位だったが、広島逓信病院は被爆一カ月前に空襲に備えて患者を全員退院させるなど業務を縮小していたため、物資が著しく不足していた。負傷者は衣服をボロボロに焼かれたため、ほとんど全裸に近い状態で収容された。毛布が足りないので、カーテンやシーツの焼け残ったものを配って、毛布代りにしなければならなかった。ここでも毎日のように死者が出たが、焼くときも、カーテンやシーツの端切れでくるんでやるのが精一杯であった。こういう状態で秋を迎え、患者の中には夜寒くて眠れない者もいた。そこへ暴風雨が追い打ちをかけるように襲って来たのだった。
病院長蜂谷《はちや》道彦の日記によれば、九月十七日夜は――「夕食後、風と雨がますます強くなった。烈風というより暴風だ。風と雨とが断続的に波を打って吹きこみだした。我々の部屋のカーテンは瞬く間に吹き飛ばされ、蚊帳《かや》が吹き上げられて横一文字になり旗のようにひるがえりだした。部屋の中は雨ざらしだ。電燈は消え、風はうなりをたてて吹き荒び、雨は遠慮会釈なく降り込む。真暗な中を職員や患者が右往左往して風当りの少ない壁際によりそう。右から吹き、左から吹き、きりきり舞して方角きめずに吹き荒ぶ。夜、九時ごろから、時々水の塊を投げこむように風が吹きこみだした。玄関口で避難者の群れが騒ぎだした、近所のバラックは吹き倒され、かくれ場一つなく這々《ほうほう》の態《てい》で逃げ出してきているのだ。雨がたまって洪水になり、その中をびしょぬれになって、皆、逃げてきている。患者も職員も毛布をかぶって雨風をしのぎ病院の中をうろついた。夜中をすぎて風が落ち雨がおさまった。びしょ濡れだ。寒くてとうとう眠れなかった」
広島市の西のはずれ、草津南町の屋根のかしいだ家では、絶対安静の少年が、凄《すさ》まじい風雨にすっかりおびえ切っていた。この少年は、高橋昭博という中学二年生だった。
原爆で全身に火傷を負った昭博は、傷口にガーゼを当て、背中には柔かい布を敷いていたが、まるで板の上に寝ているような痛みがあり、寝返りを打つこともできなかった。暴風で雨戸や窓はガタガタと音を立て、家もきしんだ。昭博は、ラジオを聞いていたわけではなかったが、台風が来ているのだろうと思った。昭博は幼いときから台風が大嫌いだった。暴風雨が怖《こわ》かったからだ。停電のため家の中は真暗だった。
「風が強いのぉ」
つきっきりで看病してくれている祖母が言った。台風に対する幼児からの潜在的な恐怖心と、原爆にたたきつけられて以来消え去らぬ精神的ショック状態とが、少年の意識の中で重なり合って、いつまでも眠れなかった。暗闇の中に目を見据えると、あの日のことがまた浮んできた。
あのとき、昭博は爆心地から一・四粁の中広町の広島市立中学校の校庭で朝礼が始まるのを待っていた。中学校の生徒たちは大部分は家屋の強制疎開作業に動員されていたが、この日昭博たちは授業日になっていたのだった。原爆炸裂《さくれつ》の一瞬、木造の校舎は倒壊し、職員室にいた教師たちを下敷にした。校庭にいた生徒たちは熱線で焼かれるのと爆風で吹き飛ばされるのとほとんど同時だった。昭博は十米ほど飛ばされて地面にたたきつけられた。何が起こったのかわからなかった。全身に激痛を感じてようやく起き上がると、まわりには級友たちがシャツやズボンをぼろぼろにして倒れてい、あちこちからうめき声が聞こえていた。我に返ってよく見れば、自分もシャツはぼろぼろで、全身に火傷を負っていた。昭博はともかく逃げなければと思った。彼は草津南町で製材業をしている祖父の家に、母と一緒に世話になっていた。父は前年病死し、二人の弟は田舎に疎開していた。彼は、何とか家にたどり着かなければ、自分は助からないだろうと思いつつ、気力で歩いた。つい先程登校するときにあった街並みは、見るも無残に瓦礫《がれき》の山と化していた。あちこちで火災も発生し、次第に燃え広がっていた。彼は避難する人々の流れに加わって、真直ぐ西へ向かった。まず郊外に出なければ火災に巻きこまれる危険があったからだった。広島の最西端を流れる山手川の橋を越えたとき、偶然祖父の弟に会った。「昭博、大丈夫か」と声をかけられたとき、彼はやっと助かったと思った。この偶然の幸運がなかったなら、彼はさらに四粁も先の草津南町まではとてもたどり着くことはできなかったであろう。祖父の弟は、昭博を背負ってくれた。しばらく行ったところで、今度は自転車に乗った草津の顔見知りの人に出会った。その知人は、昭博のようすを見ると、これは大変だと言って、自転車で祖父に知らせに走った。祖父は担架をかついでやって来た。
家にかつぎこまれた昭博は、草津南町の家でさえ屋根が傾き、窓ガラスがほとんど吹き抜けているので驚いた。布団に横になると緊張感が抜けたためか、全身火にあぶられるような激痛が襲って来た。昭博は意識を失った。
昭博が意識を取り戻したのは、三週間後だった。母に尋ねると、火傷をした皮膚はすっかりずり落ちて、その跡が化膿《かのう》し、四十度の熱が続いていたのだと言った。火傷は、露出していた顔や手、半袖シャツを着ていた上半身がとくにひどかった。髪の毛はすっかり脱けてしまっていた。近所の医者が朝晩二回往診に来たが、治療はリバノールを塗るだけだった。九月になってもまだ熱があり、傷の痛みは続いていた。
雨がいちだんと強くなって来た。豪雨の響きは、海鳴りも雨漏りの音も一切をかき消した。激しい風は、爆風で傾きかけた家を揺がし、強引に倒そうとしているかのようだった。昭博は寝つかれないでいると、また傷が痛み出した。
家族の誰かがつけたローソクの炎が、暗闇の中でゆらぐのが見えた。大人たちは、起き出して雨戸が吹き飛ばされないように釘で打ちつけたり、支えを頑丈にしたりしているようだった。昭博には、この暗闇と暴風雨は永久に続くのではないかと思えて来た。少年は、恐怖と痛みにひたすら耐え続けた。
広島市皆実《みなみ》町四丁目の二階の屋根が吹き飛んだ、いまにも倒れそうな日詰《ひづめ》家では、重症の母親が娘の看病を受けつつ、嵐の夜を迎えていた。
日詰家は、爆心地から二・三粁離れていて、焼失は免れたが、家族の受けた惨劇は、爆心地付近の犠牲者と変らぬ悲惨なものであった。
父忠吉は、千田町の広島貯金支局で勤務中に爆風で吹き飛ばされ、重傷を負った。家へ帰ろうとしたが、力尽きて道端に倒れ、軍のトラックで郊外の小学校に収容され、翌日息絶えた。母忍は、自宅のベランダで熱線と爆風を受けて全身火だるまとなり、右半身にひどい火傷《やけど》と裂傷を負って、近くの県立病院に収容された。広島市立中学校一年生だった長男忠昭は、爆心地からわずか八百米の地点で建物の疎開作業中に被爆した。動員されていた中学生たちは、ほとんど全滅し、忠昭も一旦は起き上がったけれど、また倒れ、友達に片手をさしのべて息絶えた。女学校を卒業したばかりの長女和子は、爆心地から八百米の福屋百貨店内にあった勤め先の広島貯金支局分室で被爆したが、ビルの中だったため、両手首にガラスによる傷を受けただけで炎の中を郊外に逃れることができ、翌日皆実町に帰って来た。父と同じ千田町の広島貯金支局に勤労奉仕に動員されていた進徳高等女学校三年生だった次女真澄は、奇蹟《きせき》的に傷ひとつ負わず走って帰った。末っ子の忠惇だけが、新潟県の伯父の家に疎開していて原爆を受けずに済んだ。
二人の娘は、重傷の母を、戸や窓がなくなった家に病院から連れて帰って、看病をした。近くに住んでいた親切な衛生兵が、毎日来てリバノール湿布などの手当てをしてくれた。女手だけとなった日詰家では、壊れた家の修理もできなかった。夏が終りに近づいたある夜、青白い月の光が部屋いっぱいにさしこむ中で、病床の母と二人の娘は「荒城の月」を口ずさんだ。長女の和子が新潟にいる末の弟のようすを見に行くという前の晩だった。それが和子の最後の元気な夜となった。新潟からの帰路、和子は、四十度を越す高熱と激しい下痢に襲われ、広島に帰り着いたときには、ふらふらになっていた。全身に赤紫の斑点が出、血便が出た。急性の放射線障害の典型的な症状だったが、そのときは正確な病名などわかるはずがなかった。和子は急速に衰弱し、苦しみ続け、「殺して、殺して」と叫び、意識がうすれていった。原爆を受けてからちょうど一カ月後の九月六日、和子は十八歳の短い生涯を閉じた。眼頭に残った涙は血で濁っていた。
家に残ったのは、母と次女の真澄だけになった。屋根のない二階は雨が降ると笊《ざる》に水をそそぐように漏るので、母と娘は一階で生活していた。真澄は時々微熱を出したが、献身的に母の看護をした。台風がやって来た日、前日から降り続いた雨で、二階の雨漏りは一層ひどくなった。ついに一階の部屋まで雨水が漏り始めた。近くに住む家主が、「うちに来た方がよい」とすすめてくれたが、忍は、「からだがきかんから」と言って断わった。右足の火傷と怪我が依然としてひどく、立って歩くことなどとてもできなかったのだった。ラジオは爆風で飛ばされて壊れてしまったから、台風が近づいているとは夢にも思わなかった。
夜になると、篠突《しのつ》く雨となり、二階は雨漏りと言うより、土砂降りの状態になった。当然一階の天井からも、所かまわず雨水が落ちて来た。忍と真澄は、暗闇の中で傘をさして辛うじてずぶ濡れになるのを防いだ。屋根のない二階建ての家は、暴風のために不気味にきしんだ。そのうちに、たっぷり雨水を含んだ二階の壁が、ドサーッ、ドサーッと音を響かせて落ち始めた。忍はすっかり恐ろしくなって、
「真澄、大丈夫かねえ」
と、暗闇の中に娘の顔を探した。
「お母ちゃん、大丈夫よ。お向いの二階の方が壊れやすそうだから、お向いが倒れるまでは、ここにいましょうよ」
真澄は気丈にこう言った。真澄はしっかりした娘だった。(この次女も六年後の夏、突然足に麻痺を起こし、麻痺は急速に全身に波及して口も動かなくなり、わずか六日間で悲運の生涯を閉じることになったのだが……)
ドサーッという壁の落ちる音がまた響いた。
「お向いが倒れたら引越しましょう、お母ちゃん。それまではここで頑張りましょう」
と、真澄は繰り返し言った。
忍は、娘に励まされて多少心強くなった。暗闇の中で真澄の声を聞いていると、その向うには長女の和子もいるような幻覚にとらわれた。夫も長男の忠昭もどこかへ旅行に出かけているだけに過ぎないような錯覚にとらわれた。和子の口ずさんだ「荒城の月」が、たたきつける豪雨の響きの中からかすかに聞こえてくるような気もした。そうだ、原爆にやられたなどというのは何か悪い夢を見ているだけのことなのだ――忍は懸命にそう思おうとしたが、その空《むな》しい努力は傷の痛みで無残に引き裂かれた。そのときまた壁の崩れる音が響いた。向いの二階家が暴風雨に耐えられるかどうかが、わが家の運命にそのままかかわっているのかと思うと、忍は必死に向いの家の無事を念じつつ、夜明けが一刻も早くやって来ることばかりを祈り続けた。
夜が更けるにつれて太田川の水位は刻々と増していた。広島市内で二百粍を越える雨量を記録したことは、上流の山岳部では三百粍に達する大雨となっているに違いなかった。
山奥の太田川上流、加計《かけ》でははやくも十七日午後九時三十分に警戒水位を突破し、続いて中流の可部《かべ》でも午後十一時に警戒水位を越えた。太田川の堤防工事は、戦争が激しくなった昭和十七年以後全く放置され、治山治水の施策は無に等しかった。支流の根の谷川、三篠《みささ》川、安川はいたるところで堤防が決壊し、川沿いの村落を濁流に呑みこんだ。最大の決壊は、夜半前に太田川の本流が大きく湾曲している可部付近の両岸で起こった。太田川の奔流は、暗闇の中を怒濤《どとう》となって広島市郊外の農村地帯に襲いかかった。とくに西岸を突き破った濁流は、八木、緑井、古市、祇園にかけての水田地帯を見る見るうちに水没させ、あたり一面広大な湖のようにしてしまった。水の高さは二米を越えて、軒先に達したところもあり、流出する家屋が続出した。突然の洪水に、農家の人たちは屋根によじ登って難を逃れたが、逃げ遅れて濁流に呑まれる犠牲者も出た。
それは単なる洪水ではなかった。折からの暴風で、水は時化《し け》の海のように激しく波立ち、水に浮ぶ家の屋根瓦が飛んだ。屋根に避難した人々は、暗闇の中で懸命にしがみついて、吹き飛ばされるのを防いだ。
太田川の洪水による農村部の被害は、本流、支流合わせて流失家屋六百十五戸、浸水田畑二千四百八町歩(二千三百八十八ヘクタール)、うち百二十町歩(百十九ヘクタール)は完全流出、そして死者は十三人、負傷者三十人に上った。
太田川による洪水は農村部だけではなかった。広島市内でもいたるところで氾濫を起こし、街中を水びたしにした。太田川は、広島市内に入ると、七つの川に分れて、デルタを形成していたが、とくにデルタの頂点、つまり川の分岐点付近の氾濫は凄まじく、焼け残った市北部の大芝や三篠一帯の市街地は床上一米も浸水するほどの洪水となった。
さらに太田川の激流は、流木で橋脚を突き崩し、次々に橋を流失させた。広島市内の流出した橋は、東大橋、天満橋、明治橋、観音橋、庚午《こうご》橋、大正橋、旭橋、住吉橋、電車横川鉄橋など二十に及んだ。原爆で破壊されたり焼失したりした橋が八カ所だったのに比べ、台風による橋の被害がいかに大きかったかがわかろう。三角洲《す》の街広島にとって橋は市民生活に欠かせないものであり、多数の橋が流出したことは、大きな打撃であった。とりわけ市西部の橋はほとんど失われたため、市内から己斐方面に行くには、はるばる市北部の横川橋を渡って迂回《うかい》しなければならなくなってしまった。さらに、橋の流失とともに、水道本管も各所で流されたうえに、牛田浄水場の取水口は土砂で埋まり、全市断水状態となって、水道施設は原爆以上の被害を受けた。
暴風雨と洪水は、原爆で廃墟と化した広島の街を骨髄まで洗い流す感があった。
これだけの水害でありながら、当時の新聞には災害の詳しい状況はほとんど報じられていない。辛うじて地元紙の中国新聞(温品《ぬくしな》版)九月十八日付に次のような写真つき三段記事が掲載されている。
「橋は落ち、道路は湖
台風広島県下を襲ふ
八月の末からまるで梅雨のやうに執拗《しつよう》に降りつゞいた雨は、十七日朝になつてとうとう豪雨になつた。『洪水にならなければこの雨は止まんのぢやないか?』といふ心配は不幸適中して、昼ころからは風をお伴につれて、ますます降りしきり、本格的台風になつた。八月六日に原子爆弾といふ『火』の試錬を受けた広島市民は今度は『水』だ。みるみる河川は増水する、下水は逆流していたるところに激流をつくる、焦土に建つたバラックや半壊の家屋が吹きとぶ、農村方面も低地の田畑は湖のやうになつた。戦々兢々《きようきよう》たるうちに夜を迎へたが、風雨はますます激しくなり、電気も消えた。橋梁《きようりよう》は流れる、汽車も不通となつた。不安は刻々と増す……だが、火に生き抜いてきた市民は敢然とこの天の猛威と戦つた。暗夜に不断の警戒がつゞけられた。かくて夜半やうやく雨は止んだ、やがて風もをさまつた。被害は県下一円に相当あるらしい。だが新しい日本建設にたくましく進む更生県民には、これしき何ぞ、苦難を乗越えて起上るだらう」
添えられた写真は、「洪水と戦ふ村民」と題して、広島市郊外温品村にある中国新聞の疎開工場付近の出水状況を撮影したものであった。疎開工場は、この記事と写真を掲載した十八日付朝刊の印刷が完了した直後、洪水の被害を受け、発刊不能に陥った。災害の報道ができなくなったのである。
中国新聞は、既述のように社屋が破壊されたうえに、戦後間もなく中央紙が一斉に「広島は今後七十年間は生物の棲息《せいそく》は不能である」と報道したことから、市内の本社での業務再建を見合わせて、温品村の疎開工場に本拠を移し、わずか一台の輪転機によって八月三十一日付紙面から再刊にこぎつけた。ところが、自転車もろくにないため、生き残った記者たちは山の中のデコボコ道を歩いて市内に取材に出かけなければならなかった。そのうえ本社が全焼したため鉛筆にさえ不自由し、戦災を受けなかった県内の支局から手持ちの鉛筆や原稿用紙、封筒などをかき集めて記事を書くという状態だった。疎開工場自体がトタン張りのひどい建物だった。
そこへ台風が襲来したのである。暴風雨の中で災害の詳しい情報が集まる筈がなかった。工場にいた記者が、わずかばかりの断片的な情報と温品周辺の状況とからようやく台風の記事をまとめ、深夜の〆切《しめきり》に間に合わせたのであろう。それは具体的な災害の事実こそとらえていなかったが、原爆の惨禍を受けた直後の水害の雰囲気《ふんいき》を精一杯感動的に記していた。そしてこの朝刊が刷り上がった直後、次第に水かさを増していた工場脇の川が氾濫を起こして、輪転機を泥水に巻きこみ、必要な資材を押し流してしまった。戦災に備えてたった一台だけ疎開していた輪転機も、これで使用不能になってしまった。再刊後わずか二週間余りで、中国新聞は再び発行の見通しが立たなくなったのである。しかも、中国新聞社は、この水害で、被爆直後からの写真や記録――それが今日残っていたらと思われる貴重な資料!――を多数流失するという打撃を受けた。
そのとき工場の一隅で、
「これでいいんじゃ、これでいいんじゃ、これで中国新聞は本当の再建ができるんじゃ」
と、ひとり言をつぶやきながら、コップ酒を飲んでいる男がいた。撮影課長の吉岡豊だった。吉岡は、こんな山の中では新聞業は成り立たないとはじめから思っていたが、撮影課長の分限では、そんな社の大方針に関することに口をはさむことはできなかった。しかし彼は、自分の考えを捨てていなかった。水害で温品工場の機能が麻痺したとき、彼は一社員としていたずらに災害を喜んだわけではなかったが、社の百年の計を考えれば、いまこそ市内の本社を再建すべきときが来たのだと思ったのだった。
「祝酒じゃ」
吉岡は、そうつぶやいては何度もコップ酒を飲み乾《ほ》した。
中国新聞社は、台風後再建会議を開いた結果、山本社長の決断で、温品工場を引き払い、本社ビルを復興することを決めた。本社内に放置してあった焼けただれた輪転機は、日本製鋼所に依頼して修理するなど、社員は社の再建に全力をあげた。本社での再刊にこぎつけたのは、十一月三日であった。
“台風広島県下を襲ふ”という記事を載せた九月十八日付朝刊は、中国新聞温品版の最後の号になったのだった。
5
気象台では暴風雨が峠を越してからも、臨時観測が続けられた。気圧は急速に上昇していた。台風の眼の通過前後には平均二十米を越えていた風も、十米前後に落ちていた。
夜半を過ぎると、雲の切れ間から星のきらめきさえ見えるようになった。つい先程の豪雨が嘘のようであった。
台風の通過速度は予想以上に速かったのだ。風は午前一時前北風に変っていた。台風の中心は山陰方面に達しているに違いなかった。
現業室や事務室に待機していた台員たちの間には、ほっとした空気が流れていた。当番の二人に応援の者も加わって、三十分毎の臨時観測やデータの整理をしながら、豪雨と暴風のさ中には、みな一体どうなるのかという共通の不安感を抱いていたのだが、前ぶれかと思っていた豪雨が意外に台風そのものの雨だったことがわかると、もはや最悪の事態は過ぎたのだという安堵《あんど》感が、誰の胸にもあった。
「広島あたりで中心示度が七二〇粍台を維持していたとなると、九州では相当に凄かったのではないかなあ。こんなに気圧の深い台風は最近にないですよ」
当番の白井は、観測野帳の整理の手を休めると、北にこう話しかけた。北は、
「広島に来て三年にしかならんが、こんな大雨はおそらく昭和になってはじめてではないかな。大正十五年に大変な水害があったらしいが」
と言った。北の耳には、つい先程まで続いた雨の異常な響きがまだ残っていた。
「ええ、広島の降雨記録の最高は大正十五年九月十一日の三百五十七粍ですから、今度の二百十八・七粍はそれに次ぐものですね」
白井は、北の感想をデータで裏付けた。
「風も強かったが、あの程度で済んでくれてよかったよ。昭和九年の室戸台風のとき、わしは大阪におったのだが、あのときの風は凄かった。瞬間風速が六十米を越えて、家や学校がバタバタ倒れ、大勢の子供が死んだ。今度の台風ではそんなことはなかったろうと思うのだが、バラックはやられたろうな」
北がこう言うと、白井は心配そうな顔をした。
「わたしも千田町の焼け跡にバラック住いなんですよ。頑丈に板やトタンを打ちつけたつもりだけれど、大丈夫かなあ。風に持ちこたえても、あの雨では水びたしは間違いなしだ。床が低いから、水が出ればお手上げですよ」
「白井君のところは、小さい子がいるんではなかったかね」
「やっと生後三カ月になったところですよ。その子と家内とわたしとわたしの弟の四人で、六畳ほどの板の間に雑魚寝みたいな生活なんです。どこかへ避難してくれたとは思うんですがね」
そのとき、どこかの部屋で板が落ちる音がした。打ちつけた板が風で飛んだらしい。風がまた強くなって来たのだった。
「変な吹き方だな。台風が過ぎて三時間も経ってから、吹き返しが来るというのは、どういうことでしょう」
白井は首をかしげた。「風向は順転して、午前一時には北の風で平均八・三米まで落ちていたのですが。ちょうど一時三十分になりますから観測塔を見て来ます。露場の方は、上原君頼む」
台風が西側を通過するとき、風向きは、時計の針と同じように、東から南、西、北へとほぼ一回転する。気象台の人たちは、このような風向の変化を“順転”と呼んで、台風の中心通過の判断の手掛りにしている。台風の中心が東側を通過するときは、風向きは時計の針と反対の方向に“逆転”する。
白井が観測塔に上がると、風速計は二十二米を示していた。ところが、ダインス式風圧計の自記紙をのぞくと、針が飛んで故障していた。一時二十分頃瞬間風速二十五米前後の激しい振幅を記録したのが最後で、おそらくその直後に三十米から四十米を越える突風が突然吹いて針が飛んだのであろう。風はさらに強くなりつつあった。台風が至近距離にいたときよりむしろ激しくなる気配さえあった。白井はこのことを、現業室に戻って北に報告すると、北は、
「台風が衰弱期に入ると、中心気圧は高くなって、鍋底《なべぞこ》のような形になるが、その代り輪っぱが大きくなって、中心よりむしろ離れたところで風が強くなる。おそらくこの風はそのせいだろう。ダインスが駄目になったのなら、平均風速計から瞬間風速を推算しなければならんな」
と言った。
「瞬間風速は三十米は越えていますよ。アンテナがひゅうひゅう鳴ってます」
白井がそう言うので、北もアンテナの唸りに気付いた。
アンテナの唸りは、次第に轟々《ごうごう》という音に変っていた。それは飛行機の編隊が上空を通過しているような音だった。
「B29を思い出しますね」
と、白井が言った。北も同じことを思い浮べていた。強風に唸るアンテナの音は、燈火管制のしかれた暗闇の上空を通過する不気味なB29編隊の爆音を連想させたのだった。空襲警報で防空壕《ごう》に避難し、B29や艦載機の爆音におびえる生活はもはやなかった。しかし、代って今は、壊れかかった家や粗末なバラックに住む原爆被災者たちは、暴風におびえているに違いない――北がそんな思いをめぐらしていると、またどこかで何かが飛ばされる音がした。
そこへ山根技手が入って来た。
「官舎の屋根瓦が飛んでいます。物凄《すご》い風になって来ましたよ。二時の露場観測は私が手伝いましょう」
山根がそう言うと、三十分前に露場に出た乙番の上原が口を開いた。
「山根さん、お願いします。でも、気をつけて下さいよ。さっき出たとき、飛ばされそうになってしまいましてね、百葉箱の扉を開《あ》けるのが大変でした」
「よし、わかった。では見て来るよ」
雨は止んでいるので、もう褌姿になる必要はなかった。山根は懐中電燈とメモ用紙とを持って、玄関を出ようとしたとたん、突風にあおられてよろめいた。山根は、いったん玄関口に戻った。玄関は南向きになっているので、北風をよけるのには好都合だった。露場は、庁舎の南側にあったが、庁舎からはちょっと離れているので、そこはもう暴風にまともにさらされていた。山根は、風に吹き飛ばされないように、這《は》って行くことにした。庁舎から離れるにつれて、風は人間をねらい打ちにしているのかと思われるほど激しく襲いかかって来た。息をするのも苦しかった。
百葉箱にたどり着くと、山根は懐中電燈をポケットに入れて、左手で柱にしがみつき、右手で扉を開けようとした。ところが扉は激しい風圧で片手ではなかなか開かなかった。無理に開けようとすると、百葉箱ごと風に吹き飛ばされそうな気がした。頭上ではアンテナの鉄柱が轟々と唸り続けていた。天には晴れ間が広がってい、星がきらめいていた。しかし、地上は全く対照的に真暗だった。山根は、姿も見せずに襲いかかって来る敵の正体を知っていた。どんな暴風であっても、風には息というものがある。荒れ狂う中にも、一瞬弱まる隙があるのだ。敵のその隙をねらって扉を開ければよい。山根は、百葉箱にへばりつくようにして、チャンスを待った。長い時間のような気がしたが、実は数十秒位なものであった。猛烈な突風が過ぎた次の瞬間、一瞬の風の弱まりをねらって、今度は思い切って両手を扉にかけ、ぐいと力を入れて開いた。扉は開いた。いつまでも扉を開けておくと、突風で破壊されるおそれがあるので、す早く測器の読み取りをしなければならなかった。だが、風で飛ばされそうになるため、いつものように手際よく温度計や湿度計の目盛を読むことはできなかった。片手で懐中電燈の光を当てながら辛うじて読み取ると、次はメモである。第三者が見ていたなら、これだけのデータの読み取りに、どうして命がけにならなければならないのかと思われるような業務だった。だが観測をする者にとっては、そうすることが日課なのであり、任務なのであって、そういう仕事のやり方に何の疑いも持たなかった。
山根は、雨が上がっていることに感謝した。この風に雨が加わっていたら、とてもひとりでは百葉箱の観測はできなかったろうし、百葉箱ばかりでなく雨量計まで見なければならなかったからだ。再び玄関まで這って戻ると、山根はようやく立ち上がって深呼吸をした。地面を這いまわったので、シャツもズボンも泥だらけになっていた。現業室に戻ると、山根の姿にみなびっくりした。
「いやあ、風が強くて、立っていられないのですよ。百葉箱の扉が風圧で開かないほどだから、風速は平均三十米ぐらいまでは行ってると思うな」
山根がそう言うと、観測塔に行って来た上原が、
「午前二時で平均二十九・三米でした。ダインスは故障で、瞬間風速はわかりません」
と、観測データを報告した。
山根は、「屋上の風速計は少し割引きして記録してるのじゃあないか、もっと吹いていると思うがなあ」と、冗談をとばした。「もっとも気象の教科書には、平均風速二十五米で煙突や屋根瓦が飛ぶ、三十米で雨戸がはずれ、粗末な建てつけの家は倒れる、四十米になると小石が飛び、列車も倒れる、五十米では家屋は倒れ、木は根こそぎになる、と書いてあるから……二十九・三米がいいとこかな。だが瞬間風速では四十五米位になっているぞ」山根は、自分自身を納得させるように言った。
この夜の広島の風の吹き方は、確かに異常だった。台風の中心は、午前零時四十分過ぎには松江付近を通過して、日本海に抜けていたのである。にもかかわらず、広島では、午前一時半ごろから二時半ごろにかけて猛烈な風が吹き荒れた。最大瞬間風速は午前二時五分に、推算値で四十八・三米にも達し、平均風速の最大値も二時十分に三十・二米を記録した。
午前三時頃になると、さしもの風もおさまる気配を見せ、平均十米前後の余波を残すだけとなった。気象台に泊りこんだ台員たちも、これでようやく安心し、当番の二人を残してそれぞれに場所をみつけて仮眠に入った。
朝になって一時雨がパラついたが、午前九時を過ぎる頃には雲もほとんど失せて、台風一過の青空が広がり、久々に灼《や》けるような太陽が照りつける天気となった。
宿直明けの白井と上原は、「トヨハタ」による朝の天気図の作成が終ると、さすがに疲れ切った表情を見せて帰宅して行った。
白井は、広島電鉄の市内電車で通勤していたが、江波の電車通りまで出て、電車が動いてないことを知った。橋が流れたり、浸水したりで、電車は運休していたのだった。白井は歩いて千田町の自宅まで帰ることにした。流されてない橋を探し、浸水地域を避けながら、遠まわりをして、昼近くなって家までたどり着くと、付近はまだ膝《ひざ》近くまで水につかっていた。バラックのわが家をのぞくと、赤ん坊を背負った妻と弟が、水を被った室内の掃除をしていた。やはり心配していた通り相当水が出たのだな、と白井は思いながら、
「いま帰ったぞ、やはり水にやられたか」
と、声をかけた。
「お帰りなさい。あなたがいないので、貯金局にみんなで避難していたのですよ。ついさっき帰ったばかりですけど、ゆうべはこんなに水が来て」
と、妻は床上一米ほどの板壁の水の跡を指差した。
「そうか。当番をしていても、この辺りは土地が低いから水が出てるのじゃないかと心配していたのだ。風も強かったしな。だが、みな元気で何よりだ」
白井は、妻の背負っている赤ん坊の元気な顔をのぞきみながら、顔をほころばせた。そして、このバラックがよくもあの強風に耐えたものだと不思議に思った。
台風一過の十八日は、宿直明けの白井と上原に代って、遠藤技手と加藤技術員が当番勤務についた。遠藤らは臨泊からの連続勤務だった。
北が現業室に立ち寄ると、遠藤が午前九時に取り換えた各種観測器械の自記紙の整理をしていた。一時間毎の数値を読み取って必要なデータを自記紙上にメモし、観測野帳の記録と照合するのである。自記紙の整理は、その日の当番が午前中にまず済ませなければならない日課の一つであった。
巻取式になっている各自記紙には、前日午前九時から当日午前九時までの二十四時間の気象状況の変化が、克明に自記ペンで記されている。それを見ると、気象というものがわずか一日という短い時間の間にも、いかに多彩な変化をするかが、手にとるようにわかるから、気象観測が好きでこの道に入った者にとっては、自記紙の整理は興味のつきない作業である。とりわけ台風襲来のような激しい気象の変化があった日の自記紙は、ちょっとしたペン先の跡の上がり下がりにも、各人の体験に符合する意味がこめられていて、自記ペンの跡をたどることは、事件のドキュメントを読むような充実感がある。
北が遠藤の手許《てもと》を覗《のぞ》きこむと、遠藤はダインス式風圧計の自記紙の整理中だった。瞬間々々の風の“息”をそのままに記録するこの風圧計は、瞬間風速の変化を知るための観測器械だが、暴風の荒々しい息づかいはペンの振幅を激しくし、自記紙に残されたペンの跡は地震計の記録のようであった。
「潮煙が発生したのはこのあたりでした」
遠藤は台風通過直後のペンの跡を指しながら北に言った。遠藤の記憶には、暗闇の中に奇妙に白く見えた“潮風”の光景がよほど強烈に焼き付いている様子だった。
「ダインスは、午前一時二十分頃にペン先が飛んでしまいましたから、いちばん風が強かったときの最大瞬間風速が記録されていません。昨夜の当番の白井さんは、平均風速計のデータから最大瞬間風速は午前二時五分に四十八・三米まで出たと推算していましたが……」
たしかに風圧計のペンの跡は午前一時二十分あたりでプツンと切れて、あとは空白になっていたが、それはそれなりに劇的でさえあった。
北は、整理の済んでいたほかの記録紙を手に取って見た。自記気圧計の記録紙は、台風の通過前後に典型的なV字型の谷を描いていた。また、自記雨量計の自記紙を見ると、十七日夜の一時間毎の雨量の読み取り値が記入されていた。その数値は、
18時〜19時 九・一粍
19時〜20時 一〇・三粍
20時〜21時 一六・八粍
21時〜22時 五三・五粍
22時〜23時 四・二粍
23時〜0時 〇・〇粍
となっていて、雨の盛衰をよく示していた。「21時〜22時 五三・五粍」という数値から、北は昨夜の滝のような雨の轟音が聞こえて来るような気がした。北が雨量の数値を丹念に読んでいるのに気付いた遠藤は、仕事の手を休めると説明を加えた。
「その自記紙の目盛を細かく読んで見たのですが、雨がいちばん激しかったのは、正確に言うと二十一時七分から二十二時七分までの間でした。その一時間の雨量は五十七・一粍です。それから、十七日午前九時から今朝十八日午前九時までの二十四時間雨量は百九十七・一粍、十六日朝の降り始めからの総雨量になりますと二百十八・七粍に達しています。やはり大変な雨でした。これまでの例から考えますと、大水害です」
「朝街の中を通って出勤した者の話だと、市内はほとんど水びたしだそうだ。あちこちで橋も流されたと言っておった。山の方はどうなっているかなあ」
北はラジオを聞きたかったのだが、停電で駄目だった。蓄電池は「トヨハタ」受信用の無線受信機に使っているから、ラジオに利用するわけにはいかなかった。気象台は原爆被爆直後と同じようにまたまた情報網から孤立した状態に置かれたのだった。災害の実態は全くわからなかったが、北も遠藤も、太田川上流の方では洪水や山崩れがあったに違いないと思った。
そのとき、若手の金子技術員が、
「ダインスが直りました」
と言って、現業室に入って来た。手先の器用な金子が朝から観測塔に上がって、強風で故障したダインス式風圧計の修理をしていたのだった。
「四十米くらいの突風で故障するようでは、うちのダインスは駄目ですね。六十米まで目盛があっても、意味ないですよ」
金子は、いざというときに役に立たなかった測器に不満だった。
「ここのダインスはもう古いからなあ。いくら風が凄かったからといっても、風速六十米くらいまでは故障せずにちゃんと記録してくれなくては困るな。台長に頼んで、しっかりした新型のものに替えてもらおう」
と、北が答えた。
「ところで台風はどこへ行きましたか」
金子はそう尋ねながら、天気図をのぞきこんだ。机の上には、宿直明けの白井が、「トヨハタ」を受信して書いていった午前六時現在の天気図が置いてあった。当番の遠藤が台風の位置を指しながら金子に説明した。
「午前六時で能登半島の先端付近に行っている。夜半過ぎに日本海に出てからは、進路を東に変えたようだ。このまま行けば、佐渡あたりを通って奥羽地方に突っかけることになりそうだ。だが、広島はもう終りだ。今日の当番は楽だよ」
「台風一過とはよく言ったものですねえ。こんな青空は久しぶりですよ」
金子は、そう言って現業室を出て行った。
窓に打ちつけてあった板は朝になってはがされ、ガラスのない空間からは、澄み切った初秋の空がのぞいていた。吹きこんだ雨で台内はどの部屋もじめじめと濡れていたが、吹きこむ風は心地よかった。
午後になって、市内に出かけていた吉田技手が帰って来た。吉田は中央気象台への気象電報の打電と市役所への気象特報解除の通知のために自転車で出かけていたのだった。原爆被爆当時の混乱のさ中には、気象台には自転車もなく、台員たちはどこへ行くにも徒歩で出かけなければならなかったが、九月になって中古の自転車を買い入れてからは市内出張はずいぶん楽になっていた。吉田は北に報告した。
「江波郵便局では、電信線が不通になっているので、いつ電報を打てるかわからないと言っていました。電報の依頼はして来ましたが。街の中はまだ水の退《ひ》いてないところが多いので、市役所へ行くのにもまわり道をしなければなりませんでした。おまけに本川の住吉橋が流されたので、一つ上手の新大橋まで行かなければなりません。
市役所に入った情報ですと、太田川の上流ではひどい水害らしい。奥の方では山崩れで多数の生き埋めも出ていると言っていました。詳しくは県庁に聞かないとわからないそうですが、街角には中国新聞のビラが貼《は》ってありました。太田川が決壊し、可部、八木、緑井は一面湖になっているとか書いてありました」
中国新聞社は、疎開先の温品工場が水害に会って印刷不能に陥ったため、記者たちが総出で藁半紙《わらばんし》などに筆で台風災害のニュースを書き、市内の要所に貼って歩いたのだった。
北は、吉田の報告を聞いて、災害発生が現実だったことを知り、「やはりそうだったか」とつぶやいた。
当番の遠藤は、この日の『当番日誌』に次のように記した。
「九月十八日 火曜
昨日ノ颱風《たいふう》モ早ヤ通過シ本日ハ灼ケル如キ天気トナル、昨年ノ颱風ト日ヲ同ジウシタ昨日ノ颱風ニ関シ多少記録スル
最低気圧七二一・五 17th 廿二時四三分
最大風速三〇・二 18th 二時十分(風向NNE)
降水量一九七・一(創立以来第二位)
停電中
ダインス故障中ノ処《ところ》金子雇修理ス
其後情報ニ依レバ恰《あたか》モ満潮ニ際シ多量ノ降水ヲ見タル為沿岸部ハ高潮被害アリシ由、又各河川出水橋梁ヲ損ジ、山間部ニテハ山崩レアリシ由聞ユ」
吉田の話だと、市役所は職員がほとんど集まらないため、災害復旧に何から手をつけてよいかわからないでいるようすだったという。
広島市役所は、実際吉田が感じ取った通り、原爆の惨禍に追い打ちをかけた風水害を目の前にして、一体何から復旧すべきか、途方に暮れた状態にあったのだった。後に広島市長になった配給課長浜井信三は、このときの心情を後日次のように記している。
「市役所の屋上から市中を見渡すと、全市が湖になっていた。瓦礫や倒れた家、ガラクタがすべて水の底にかくれ、一見美しい眺めであった。“原爆砂漠”が一夜にして“原爆湖水”にかわっている。――これで一切合財が、徹底的に葬り去られた。私はヤケッパチな気持で、いっそ水がこのまま引かなければよい、と思った」
なお、広島市の風水害の状況について『広島原爆戦災誌』には次のように記録されている。
「郊外へ脱出しなかった市民や、すぐに帰って来た市民は、焼け残りの木材や焼けトタン・焼瓦などを拾い集めてバラックを建てたり、あるいは焼け残った防空壕に細々と住んでいた。半壊家屋は自ら修理し、辛うじて雨露だけは凌《しの》いでいた。
そこへ九月十七日の暴風雨の襲来で、さらに災害を受けた。半壊家屋は倒れ、バラック小屋は潰《つぶ》れ、防空壕は水びたしになって住むに耐えなくなった。市としては、周辺地域で余分の部屋を持つ家を調査し、これら罹災者《りさいしや》に貸与するよう斡旋《あつせん》したが効果がなかった。
当時住宅建設は、住宅営団がすべて行なっていたが、とても間に合わなかった。この営団が組立て住宅一セット三五〇〇円で売り出したが、罹災者の多くは資金の持合せがなかったのか、あまり売れなかった」
第四章 京都大学研究班の遭難
1
台風から二日経った九月十九日になって、県庁の土木部の職員が台風の気象データを調べにやって来た。
北が応対に出た。北はこの日当番だった。県もようやく体制を整えて、災害の実態調査を始めたのだという。その職員の話から、呉市や広島の西の大野町、宮島町などでは、大規模な山崩れや山津波が発生して、多数の犠牲が出たこと、鉄道は山陽線をはじめ県内の呉線、芸備線、可部線、福塩線が各所で流出、埋没、崩壊などによってずたずたになり、復旧の見通しさえ立っていないこと、通信線は原爆の被害後に復旧させたばかりのものも含めて、ケーブルが流出するなど無数の被害を受け、広島周辺では市外線、市内線とも生きた回線は全く残っていないことなど、台風災害の全貌《ぜんぼう》がおぼろげながらわかって来た。
この日の夕方、台風の夜以来二日ぶりに電燈がつき、ラジオを聞くことができるようになった。ローカル・ニュースで県下の災害状況を放送していた。
夜になると気温が下がって、肌寒さを感じるほどになった。露場に出ると、秋冷が身にしみた。虫の鳴き声があちこちから聞こえた。北は、季節の移り変りを感じた。
〈これから十月に入れば朝夕は冷えこむようになるだろう。冬は遠くない。原爆と台風で散々な目に会った罹災者にとって、この冬は厳しいものになるだろうな〉
北は、そんなことを思いつつ、街を見下ろすと、街にはようやく点々と電燈の明りが戻っていた。
菅原台長が東京から帰ったのは、九月二十五日夕刻であった。山陽線は、岡山から広島にかけての区間で依然としてまだ数カ所で不通になっていたが、不通区間以外は折り返しで運転されていた。菅原は、不通区間は歩いて越え、汽車を乗り継いで、ようやく広島に帰ることができたのだった。東京を出てから広島までまる二日もかかっていた。
菅原は、台風の夜のようすについて尾崎と北から報告を聞くと、
「御苦労だった。中央気象台で聞けば、広島の気象電報は入電なしだというし、どうなっているのか気になって仕方がなかった。帰ろうと思っても、山陽線は不通だというので、足止めを食っていたのだ」
菅原は、台長として出張先から飛んで帰れなかったことを詫《わ》びるような口調で言った。
「はじめのうちは広島がこれほどやられているとはわからなくてな。五日ほど経ってからだよ、広島がひどい水害を受けたという記事が新聞に載ったのは。いつまでも東京で待っているわけには行かんので、思い切って不通区間は歩く覚悟で汽車に乗って来たのだ」
そう言いながら菅原は、東京で読んだ新聞記事の話をした。広島では台風以来新聞の配達がストップしていたから、菅原がもたらした新聞記事の話は、気象台では新鮮なニュースであった。
「風速五十米というから心配していた」
そう語る菅原が東京で読んだ記事は、「罹災者十余万人 惨、颱風禍《たいふうか》の広島県」という見出しで、二段組みの次のような内容であった。
「去る十七日西日本を洗つた今年最大の颱風は中心示度七三〇ミリ、風速約五〇メートル、それに豪雨を伴つたため西日本各地は大風水害の脅威に曝《さら》されたが特に颱風の中心が通過した広島県下においては実に数十年ぶりの大風水害を被り罹災者十余万、死傷、行方不明者約二千七百名を数ふる惨状を呈し、家屋流出全半壊六千戸、同浸水五万戸に及んでゐることが二十日広島県知事から内務省に達した報告によつて判明した。現在も依然交通通信は一切途絶し、徒歩によつて連絡しつつある現況である。
右報告によれば被害の最も甚大な地区は山陽沿線、広島、呉両市をはじめ……」
記事の内容を聞くうちに、北は、広島の風水害が東京の全国紙に取り上げられるほど際立って大きかったのか、とあらためて驚きを感じた。
「その記事によると内務省に県から報告されたのは、ずいぶん遅くなってからだったのですね。県もなかなか被害状況をつかめなかったようですから」
と北が言うと、菅原は、
「そうだ、新聞に出たのは二十二日の朝だからな。東京では台風から五日も経って、やっとその程度のことしかわからなかったのだ。中央気象台でも、その新聞記事を見てどうして広島がこのように大きな水害になったのか驚いていたよ」
と、東京で状況の把握《はあく》が遅れたわけをもう一度駄目押しをするように言った。菅原は続けた。
「中央気象台では、今度の台風は室戸台風以来の猛烈なものだと言っていた。上陸したのは枕崎付近だったのだが、通信線が不通になって、なかなか現地から入電がなくてな、二日後か三日後かにようやく入電した電報によると、枕崎測候所では最低気圧が六八七・五粍まで下がったそうだ。これは凄《すご》い記録だ。こんなに中心示度の深いやつは、本当に室戸台風以来のことだよ」
「六八七・五粍ですか。室戸台風のとき、私は大阪にいたのですが、あのときは室戸で観測したのが六八四粍でしたから、ほとんど同じですね。この新聞記事に出ている『中心示度七三〇ミリ、風速約五〇メートル』というのは、あまり正確ではありませんが、多分広島のデータだと思います。広島では最低気圧が七二一・五粍で、最大瞬間風速四十八・三米でした。この記録は、台風の二日後に県の土木部の人が来て書いて行きましたから、県から内務省への災害報告にこのデータを記載してあったのを、新聞記者が概数にして記事の中に使ったのではないかと思います」
北は、感想を述べるように言った。
「ところで、中央気象台の藤原咲平先生からの指示なのだが」と、菅原は本題に入るような口調で言った。「藤原先生は、原子爆弾災害と今度の台風災害の両方について、学術的な調査報告をまとめよと言うのだ。原子爆弾災害の調査研究については、学術研究会議が学界の権威を総動員して特別委員会を発足させて取り組むことになったのだが、藤原先生も委員の一人として任命された。物理学化学地学科会とか言っておられたな。ともかく藤原先生の意向では、単なる気象学的なデータを並べるだけでなく、幅の広い視野に立って、世界に前例を見ないこの原子爆弾災害の全体像を明らかにするような調査研究をせよということだ。原子爆弾にやられた被爆者がいかにむごい目に会っているかについては、新聞などで多少は報道されてはいるが、本当の姿はまだまだ伝えられていない。その意味でも、学術的な調査は意義が深いと、僕は思う。
日常の業務も満足にできないこの状態で、原子爆弾と台風の調査研究をかかえこむのは大変なことだと思うが、この際頑張ってくれぬか。藤原先生の指示で、宇田技師が広島管区気象台詰めになってまとめ役をやって下さるそうだ。神戸海洋気象台長だった宇田道隆さんだ。宇田さんは、広島の陸軍船舶練習部に動員されていたが、先日除隊になってそのまま広島に住まわれているとのことだ。宇田さんの指揮に従って調査をするようにと、藤原先生は言っておられた。北君、僕も調査の先頭に立ってやるけれど、やはり現場調査は技術主任の君に頑張ってほしい」
菅原の説明を聞いて、北ははやくも心を動かされた。
「とても重要なことだと思います。ぜひやらせていただきたいと思うのですが、具体的なテーマや調査方法はどうすればよいのでしょうか」
「いやそこまではまだ考えを煮つめていない。藤原先生も、宇田さんと打ち合わせて決めるようにと言われただけだった。ともかく宇田さんが、ここへ客員として今月中に来られるということだから、細かいことはそれから決めよう。原子物理学や医学などの分野については、それぞれの権威が調査されることだし、われわれ気象屋の手の及ぶテーマではない。僕の考えでは、爆風による破壊現象とか火災の発生と延焼の状況、爆撃後の気象変化、とくに風の変化や降雨現象――あの日はすごい積乱雲ができて、北の方で雷雨があったとか言っていたな――そういったことを調べて分布図を作ってはどうかと思うのだ。それならわれわれの力でもできるし、われわれ気象台の者ならではの調査研究になると思う。いずれにしても足で歩いて調べなければデータは集まらんから、大変なことだ」
菅原はさらに続けた。
「藤原先生から指示を受けたのは、はじめは原子爆弾の調査研究だけだったのだが、東京で足止めを食っているうちに、台風災害が大変なものだということがわかって来て、中央気象台の予報課と統計課が中心になって台風の調査報告書を作ろうということになったのだ。全国の気象台や測候所に報告を提出するよう指示が出されたが、広島は通信線が不通になっているので、僕が直接指示を受けて来た。九州各地の気象台や測候所には、災害の詳細な実地踏査記録を作るよう指示がでている。このように大がかりな台風災害の調査を行なうのは、室戸台風以来なかったことだ。そうだ、中央気象台では今度の台風を『枕崎台風』と名付けたから覚えておいてほしい。台風の上陸地点にちなんでつけられた名前だ。
この『枕崎台風』の調査報告を作成するに当たっては、藤原先生の意向が強く働いている。というのは、戦時中三年八カ月というもの、気象管制によって天気予報ばかりか、台風の警報さえ発表できなかった、このため、台風の不意打ちで犠牲になる者が多かったが、被害の記録さえ十分に残っていない。この期間の台風の犠牲者はおそらく何千という数に上っただろう、藤原先生はこの隠れた災害の犠牲者に対して、気象事業の責任者として、いたく胸を痛めておられるのだ。『枕崎台風の調査報告は、こうした戦時中の反省をこめて、詳細に記すのだ』と、藤原先生は言っておられた」
菅原の話を聞いているうちに、北は、中央気象台長藤原咲平の熱気が伝わって来るのを感じた。北は、測候技術官養成所時代に岡田武松の影響を最も強く受けたが、同時に当時中央気象台の予報主任でよく養成所の教壇にも立った藤原にも接し、その強烈な人柄から岡田に劣らぬ影響を受けていた。北が知っている藤原は、気象事業に対する情熱の固まりのような人物であった。藤原の講義の仕方は、観測作業の細かいところを手ほどきするというようなやり方とは正反対であった。問題のポイントやものの考え方などを一方的にしゃべると、細かいところは自分で勉強せよ、やる気のある者だけがついて来い、といったやり方であった。これが予報の現業作業になるともっと徹底していた。北は藤原と世代が大きく開いていて実際に現業作業をやったわけではなかったが、先輩から聞いたところでは、藤原は現業室で後輩に対し決して天気図の解析の仕方や予報の出し方を教えなかったという。後輩は先輩の仕事を見て覚えよ、というのが藤原の教育哲学だった。藤原のこのような教育哲学の背景にあったものは、気象業務のような地味な仕事は自分で苦労をして覚えようとする意志のある者、本当に気象業務の好きな者によってしか支えられないのだという思想であった。自分の情熱を後進の者にも求めたのである。藤原のこの情熱は、岡田武松の後を継いでからいよいよ煮えたぎり、全国津々浦々の気象台や測候所にまでその威令を響かせていた。
北は、広島に帰った菅原台長の話によって、藤原咲平の気象事業に対する情熱と意気が、敗戦という破局の中でも少しも衰えていないのを知り心強くなった。
「台長、一日も早くこの調査研究に取り掛りましょう」
北は意気ごんで言った。
「ありがとう、いずれ若い連中にも手伝ってもらわねばならなくなるから、観測業務とのかねあいをよく考えて、調査の計画を立てよう。
藤原先生は、われわれに仕事を命じるだけではない。原子爆弾を受けた広島と長崎の気象台の職員の生活について非常に心配しておられる。職員の官舎や気象台の修理などに必要な資金について、できるだけのことをして下さるということだ。江波病院の空家になった仮設病棟を官舎にすることはうまく行きそうだぞ」
菅原は、中央への陳情の成果があったことを満足そうな表情で話した。
九月二十八日朝、宇田道隆が気象台に姿を見せた。台長の菅原は、尾崎や北らを台長室に集めて、宇田と懇談した。
「宇田さん、どちらにお住いですか」
菅原が尋ねると、宇田は、
「ピカのときは、皆実《みなみ》町三丁目におりましたのですが、天井は落ち壁も崩れてとても住めなくなったので、高須へ越しましてな。陸軍船舶練習部のもとの隊長の家が一軒空いていたので、そこを借りたのですよ」
と言った。
「無事でよかったですね」
「あのときは自宅の便所へはいっていてな、稲光りのようなのがピカッと来て、ハッと頭を上げる間もなくドーンと爆風だ。ガラスの破片が額に刺さって、血が流れて目に入る、軍服を着ていたので腰に救急用の三角巾をつけていた、それを取り出して、ガラスを引き抜いた傷跡へ鉢巻のようにしてしばりつけたよ。傾きかけた便所からはい出すと、家の中はもうもうと土煙りが立ちこめて、めちゃめちゃになっていた。その中に長男と赤ん坊を抱いた家内が倒れているので驚いた。幸い妻と赤ん坊は無事だったが、長男は鎖骨を折っていた。いやあ、外へ出て見ると大変な騒ぎだったよ……。額は大した傷ではなかったのだけれど、最近白血球が少なくなっていると医者が言うのだ。どうも疲れやすくて、少し歩くと息が切れるので、あまり無理はせんようにしている。高須からここへ来るには、はるばる横川橋までまわらねばならんから大変だよ。この間の洪水で橋が流されたままになっているからね」
「で、宇田さんは、陸軍船舶練習部の方の仕事はすっかり片づいたのですか。先日東京で藤原先生にお会いしましたら、宇田さんは除隊になったと話しておられましたが」
「今月十五日付で除隊になったよ。お陰でいまは浪人みたいなものさ……。船舶練習部での仕事は真剣勝負そのものだったから、こう暇になると気が抜けたようだよ」
真剣勝負ということばに興味を引かれた北が、「船舶練習部ではどういうことをやっておられたのですか」と、口をはさんだ。
「船舶練習部の主力は教育隊と呼ばれた部隊でね、実は教育隊というのは防諜《ぼうちよう》のためのカムフラージュで、特攻隊のことなのだ。極秘中の極秘になっていた陸軍水上特別攻撃隊だ。ベニヤ板製の小船に二百五十瓩《キロ》の爆雷を積んでな、小船と言っても二十四ノットも出る高速艇なのだ、その小船に隊員一人が乗って敵艦に体当たりをして爆雷を投下する、そして敵にやっつけられないうちに急いで退避する、という人間魚雷と同じような戦法だ。部隊ではこれを本土決戦に備えた“水際撃滅作戦”と呼んで、瀬戸内海で猛烈な訓練をやっていたのだよ。
問題は、敵がどこの海岸に上陸作戦を仕掛けて来るかだ。陸軍参謀部からの情報では、敵は鹿島灘《なだ》や九十九里浜、相模《さがみ》湾、遠州灘、南は枕崎海岸など二十カ所位を候補地にして、オリンピック作戦と名付けて上陸作戦を決行しようとしているというのだな。その場合、当然気象条件や波浪の状態が安定していることが、作戦決行の日を決める重要な条件になる、裏返して考えれば、敵が来そうな海岸の気象や波浪についてできるだけ正確に予測することは、迎撃の体制を整えるために欠かせぬわけだ。ぼくは、神戸の海洋気象台長をやっていた関係で大事にされてな、将校クラスに気象学や海洋学の教育をしていたのだ。今になってみれば、水際撃滅作戦などで敵の戦力に太刀打ちできるなどという考えは妄想《もうそう》に過ぎなかったけれど、当時は真剣そのものだったよ」
「ところで藤原先生からの指示なのですが、原子爆弾と台風の二つの災害調査をやれということで……」
と、菅原が本題を切り出した。
「そのことで今日気象台に来たのです」と、宇田は言った。「藤原先生から手紙をいただきました。広島管区気象台付にするから、調査研究の指揮をせよというのです。気象台の気象記録だけでなく、できるだけ実地調査をして、災害の全貌を科学的に把握して、総合的な報告書をまとめよということで、具体的な調査項目や方法は一任されています。
中央気象台でも、原爆については予報の正野重方技師や地震の広野卓蔵技師ら理論家を調査員にして、広島、長崎に派遣し、理論的な解析に重点を置いた研究をするそうだ。しかし、現地の気象台では、できるだけ多くのデータを集めて、ありのままの実態を明らかにするという調査方法がよいのではないかと、藤原先生は指摘しておられた。
実態を調査すると言っても、この焼け野原に観測器械を配置しておいたわけではないのだから、私の考えでは、できるだけ多くの体験者に会って聞きとりをして、原爆当日の地域別の状況を再現してみる以外に、研究の手がかりはないのではないかと思う。聞きとった内容を、地域別、時間別に地図の上にプロットすれば、いろいろなことがわかって来るのではないか。
台風の方も同じだ。災害地へ行って、罹災者から当日夜の状況について聞きとりをするのだ。大変な作業だと思うけれど、誰かがやって記録を残さなければ、この世界に前例のない原爆と台風の二重災害の体験はいつしか忘れられてしまう」
宇田の考えを聞いて、菅原は、「私の考えも大体同じです。研究というものは、調査のやり方次第で、うまく行くかどうかが左右されますから、調査方法の考え方がはじめから一致していて何よりです」と、宇田に同意した。
菅原がさらに、「私も調査に歩くつもりですが、台長としての業務もありますので、現地調査の主任は北君ということにして、必要に応じて若い人を手伝わせることにしよう」と言うと、北はすかさず、
「こういう調査は、人々の記憶が生々しいうちにやらないと、正確な聞きとりができませんから、今日からでも始めたいですね」
と申し出た。菅原や北の積極的な姿勢に、宇田も熱心になって来た。
「実は、僕はすでに一人で市内を歩いて聞きとりを始めているのだ。なかなか大変なことだ。原爆であれだけひどい目に会って、まだ二カ月と経っていない、話を聞こうとすると、怒り出す人もいてな、人が死ぬような苦しみをしたのが何が面白いのだ、もうあんなことは結構だ、と言うのだ。こちらの趣旨を説明して理解してくれる人もいるが、なぐられそうになったこともあるよ。ともかく、話を聞く前に、こちらの調査の重要性についてよく納得してもらわなければ、協力は得られない。
それから聞きとりの要領だが、相手の話をそのままに記すことが、いちばん大切なことだ。こちらの先入観を入れたり、相手の話に食い違いがあったときに無理につじつまを合わせようとしたりしてはならない。人間の記憶というものは、誤りを含んでいることが多いから、無理につじつまを合わせようとすると、誤りに誤りを重ねることになりかねない。話に矛盾があると思っても、そのときはそのまま記録して、あとで検討すればよい。調査研究のための聞きとりというのは、そういうやり方をするのだ」
宇田が一息つくと、菅原が発言した。
「そうだ北君、早速だが、学生の西田宗隆を補助につけよう。彼は、実習の手伝いで当番勤務には入っていないからちょうどよい」
菅原は、自分で西田を呼びに行った。
西田宗隆は、測候技術官養成所本科三年生だった。二年生の津村、福原ら五人のグループとは別に、八月五日夏休み実習のため、出身地の広島に派遣された。ところが、たった一日気象台に顔を出しただけで、翌六日朝出勤の途中、爆心地から約一・五粁の舟入仲町付近で市内電車の中で原爆に会った。混《こ》んでいる電車の中央にいたため、ガラスの破片も当たらず、熱線で軽い火傷《やけど》を負った程度で済んだが、まわりの人々は吹き飛ばされたりして死傷していた。電車から飛び出すと、土煙りが街中に立ちこめ、どの家も倒壊していた。しばらく近くの防空壕《ごう》に避難していたが、やがて周囲が火につつまれて来たため、負傷者の群れと一緒になって西の郊外へと逃れた。そして、西田は、東観音町の自宅に叔母と一緒に住んでいたが、自宅は焼けたものとあきらめて、そのまま歩き続け、両親たちが疎開していた約三十粁山奥の佐伯郡水内《みのち》村の実家にたどり着いた。そのうちに、村の人たちが、広島に落とされたのは原子爆弾で、街には人は住めんようになったそうだと言っているのを聞き、西田は気象台に出るのを見合わせてそのまま田舎で夏休みを過した。
西田が広島へ出て来たのは、山奥の村にもようやく広島の正しい情報が伝わって来て、気象台のある江波あたりは焼け残っていることがわかってからのことで、九月中ごろだった。東観音町の自宅は跡形もなく焼け、叔母も行方不明になったままだった。西田は、菅原台長の指示で、独身者の官舎に入って、気象台の仕事の手伝いをすることになった。西田は被爆の前日に一日顔を出しただけだったから、台員たちはその後西田がいたことさえ忘れていた。西田から被爆時の話を聞き、台員たちは、よく大した怪我もなくて逃げられたな、まあ人手が足りないから一緒に働いてくれ、と言って歓迎した。
菅原は、この学生の西田を原子爆弾災害の調査に参加させようと言ったのだった。
現業室で見習をやっていた西田を台長室に連れて来た菅原は、事情を説明した後、
「君にもぜひ聞きとり調査をやってほしいのだ。できるだけ多くの資料を集めたいので、調査に出る者は一人でも多い方がよい。とりあえずは君に参加してもらって、そのうちに人数を増やすことにしたい」
と言った。
西田は、自分も市中で被爆し、悲惨な状況を目撃しているので、ぜひこの調査をやらせてほしい、と答えた。
「早速ですが、僕は、あの日舟入仲町付近で被爆して郊外へ逃げる途中、福島橋を渡って間もなく、物凄い土砂降りの雨に降られたのです。はじめはポツポツと降っていたのですが、そのうちに激しくなって、ずぶぬれになったものですから、雨やどりをしたのを覚えています。土砂降りは二十分か三十分だったでしょう。煤煙《ばいえん》を溶かしたような油ぎった黒い雨で、白いYシャツとカーキ色のズボンがすっかり黒くなって、洗濯しても落ちないのです。この雨は、原子爆弾に伴う気象の変化を調査する場合に注目してよい現象ではないでしょうか」
西田は学生らしくはやくも問題を出して来た。
これを聞いた宇田は、顔を輝かせた。
「それは重要なことだ。ぼくは原爆の後しばらくしてから高須に越したのだが、あのあたりも黒っぽい雨が降ったらしいな。雨戸などに、いまだに油煙みたいなものがこびりついているよ。その雨は、一つのテーマになり得るから、各地で聞きとりをするときに、降雨の時間と移動の方向がなるべく正確にわかるように話を聞き出してほしい」
北も新たな提案をした。
「いろいろな調査をするうえで、いちばん基本になるのは、やはり爆心の正確な位置だろうと思うのです。爆心地がどこで、爆心の高度がどれ位だったのかを決めておかないと、爆風や気象変化などを解析するための原点があいまいになってしまいます。
街を歩いていますと、ピカの熱線を受けた壁や橋に影が残っているのに気付きました。遮蔽物《しやへいぶつ》と影の位置から熱線の入射角を測量すれば、爆心の方位と仰角がわかります。これを数カ所でやって地図上に方位を記入し、各方位の延長線が交差したところが爆心地、爆心地がわかれば仰角から爆心の高度を計算で求めることができます。爆心の決定については、学術研究会議の物理の専門の方がおやりになるとは思いますが、この程度の調査なら私たちの手でもできますから、まず爆心の計測から手をつけたいと思うのです。公式の爆心決定を待っていたのでは、私たちの調査研究をまとめるのに間に合わないですから」
「その通りだ。爆心の決定は、すべての基本になるデータだから、北君には爆心の計測から手をつけてもらおう」
こうして午前中いっぱい話し合った結果、調査項目として考えられた主なものは次の通りであった。
○爆発当時の景況――爆発の瞬間の火の玉の状況から、キノコ雲の発生、積乱雲の発達に至る過程を明らかにする。
○爆心の決定。
○爆心地を中心に周辺の風がどう変化したか。
○爆発後の降雨現象――降雨域と降雨の強度、時間経過に伴う雨域の移動、黒い雨となった原因と黒い雨の性質などを明らかにする。
○飛撒降下物の範囲と内容。
○爆風の強さと破壊現象――爆心からの距離による破壊状況の変化を調べる。
○火傷と火災――熱線による火傷は、どの範囲にまで及んだか。建物等への自然着火状況、延焼、火災の盛衰、焼失地域等を明らかにする。
厖大《ぼうだい》な作業量になりそうだったが、気象台が行なうべき調査として、どれ一つとして欠かすことのできないものばかりであった。
「このように調査のねらいをはっきりさせておけば、聞きとりをするとき、何を聞き出せばよいかがわかってよい。漫然と体験談を聞いていたのでは、科学的調査の手がかりをつかむことはできんから」
宇田は、最後にこう言って話を締め括《くく》った。
この日の午後、北は早くも予備調査のために市内に出かけて行った。まず市役所に行って、これまでに市が把握した原爆と台風による被災状況を調べ、実地調査の足がかりを得ようというのが、予備調査の目的であった。
調査は始まった。
菅原、北、西田の三人は、業務の合間を見ては、毎日のように市内調査に出かけた。宇田は、気象台の日常業務は何もなかったから、毎朝自宅から直接調査に出た。調査は、市内電車が通じているところが少なかったため、ほとんど徒歩で行なわれた。芋弁当を下げて、焼け跡のバラックを訪ね、あるいは焼け残った周辺部の傾きかけた家を訪ね、被爆当日の体験談を聞くという、文字通り足で調べる調査がコツコツと続けられた。歩きながら、鉄塔の折損や倒れ方、建物の倒壊状況、墓石の倒壊状況、なども詳しく調査され、写真の記録もとられた。
調査を始めてみると、やはりもっと人手が欲しくなって来た。足で稼《かせ》ぐ仕事というものは、意外に時間がかかり、資料の収集は思うようにはかどらなかった。
そんな折、復員したばかりの山路技手が、「こんなところは住むところじゃない、田舎で百姓をやっていた方がましだ」と言って、退職願いを出して島根県の実家に帰ってしまった。たしかに山路の言う通りだった。兵隊から帰ったと思ったら、ひどい台風に襲われ、官舎での生活はろくに食うものもないという状態だったから、嫌気が差すのも当然であった。「田舎で百姓をやっていた方がましだ」と、誰しもが思っていたから、あえて山路を引き止める者はいなかった。むしろ、百姓のできる実家のあるやつはいいなあ、と溜《た》め息をもらす若い台員さえいた。
もっとも、広島の気象台には、徴兵されていた台員たちが、ぼつぼつ復員し始めたほか、転勤して来る者や新規の採用者も入って来たりして、欠員は次第に充足されつつあった。そこで菅原台長は、思い切って原爆と台風の調査担当者を増やすことにし、中堅の山根技手と京都の部隊から復員したばかりの中根清之技術員に調査に参加するよう命じた。山根は、「私も原爆で死ぬような目に会いました。この調査にはぜひ参加させて下さい」と意欲を示した。
気象台の観測業務も軌道にのりつつあった。物資不足の中で朗報だったのは、宇品の陸軍船舶練習部から気象観測機器や部品、真空管、乾電池などの払下げを受けられることになったことだった。これらの物資は部隊の解散によって不要になるので、宇田の斡旋《あつせん》で、タダでもらえるようになったのだった。気象台にとって喉《のど》から手が出るほど欲しい物品が山ほどあり、台員たちが大八車で三日がかりで運んだ。
十月七日、電話局の作業員が電話の修理にやって来た。原爆後二カ月にして、気象台から直接電話がかけられるようになったのだ。県、市、鉄道局との専用電話も復旧した。これで気象電報は直接電話で電信課に依頼することができるようになったし、警報や特報も直接関係機関に専用電話で速報できるようになった。広島管区気象台が、全国の気象官署のネットワークの中でようやくその地位を回復し、日々の観測業務が社会との繋《つな》がりを取り戻したのだった。電信局の電報受け付けは、午前八時から午後六時までに限られてはいたが、もはや江波郵便局まで電報依頼文を持って行く必要はなくなったのだ。
翌十月八日夜になって、当番の遠藤技手が中央気象台の無線放送「トヨハタ」を受信していると、午後六時現在の各地の観測実況の中に、「ヒロシマ」の午後二時のデータが延着分として入れられていた。たとえ延着にせよ、「ヒロシマ」の実況がトヨハタで放送されたのは、原爆以来二カ月ぶりのことだった。それまでは、「ヒロシマ」の実況は、あまりにも電報が遅れていたために、中央気象台での天気図作成にも「トヨハタ」の放送にも間に合わなかったのだった。電話が復旧した効果は、はやくも「トヨハタ」への「ヒロシマ」実況の復活という感動となって現われたのである。
遠藤は昂奮《こうふん》して、このことを翌朝出勤して来た台員たちにも話した。
その直後十月十日にまた台風が襲って来た。九月の枕崎台風とコースがよく似ていたことから、西日本各地は厳重な警戒をした。
広島管区気象台は、朝のうちに気象特報を出して、これを電話で県や市、鉄道局に速報した。秋雨前線の長雨が続いていたため、台風の接近に伴い、県内は再び大雨となり、各地で出水して午後には電話が不通になってしまった。気象台は、枕崎台風の直後だっただけに緊張した。
台風は、午後二時過ぎ鹿児島県西岸の阿久根に上陸し、鹿児島県下に風水害をもたらしてさらに北々東に進んだ。そして、上陸後勢力は次第に弱まって、夜半に広島県と山口県の県境付近を通過する頃にはかなり衰えていたが、山口県下と広島県西部に再び水害をもたらした。
電話は翌日回復したが、次の日にはまた不通になるというぐあいに、水害がなくても年中故障を繰り返していた。
十月十三日、呉に進駐した連合軍の米兵五名が、呉鎮守府測候所の技手二名を案内役にして、ジープで江波山の気象台に姿を見せた。台長と尾崎技師は不在だったので、北が応対に出た。米兵は、特別の用事があるわけでなく、軍事上重要な役割を果たす気象台が武装状態を続けていないかどうかを確かめに来ただけの様子だった。台内を隈《くま》なく見てまわると帰って行った。米兵が海軍の測候技手を通訳にして、台内を軍靴《ぐんか》で闊歩《かつぽ》するのを見て、北は、日本が戦争に負け、時代が大きく変りつつあるのだということを、あらためて痛感した。
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枕崎台風から一カ月近く経った十月十四日になって、台風の災害に関して重要な情報がもたらされた。
情報を持って来たのは、福岡管区気象台の田原寿一技手だった。田原技手は、台風直後に中央気象台の指示によって九州各地で一斉に行なわれた実地踏査に加わって、台風上陸地の薩摩半島一円の災害調査を済ませた後、下関以東の山陽線沿いに調査を進めて来たのだった。田原技手は、広島の前台長平野烈介の娘婿に当たるので、北は前から面識があった。
「実地踏査の途中なのです、今夜はこちらに泊めていただけないでしょうか」
そう言って現われた田原を、北は、
「やあ元気かね、宿直室に君一人ぐらいいつでも泊れるよ」
と、歓迎した。
「九州は二度の台風で大変だろう。九州の災害状況をすこし話してくれんかね」
「枕崎台風の後すぐに管区台長の命令で鹿児島に行きましてね、鹿児島を振り出しに薩摩半島を一回りしましたが、鉄道はズタズタで、ほとんど歩き通しでした。枕崎測候所の建物は半分破壊されてました。測候所の被害はまだましな方で、三年前に新築したばかりの枕崎駅も無残に潰《つぶ》れていました。枕崎は空襲で街がほとんど焼かれていたのですが、残っていたわずかばかりの家も、台風でひどく荒らされていました。最大瞬間風速が六十二・七米だったと言いますから、ひとたまりもなかったでしょう。
薩摩半島では、各地で台風の眼がはっきりと現われていますね。風がぴたりと止《や》んで、青空が広がり、かもめや赤とんぼが飛んでいたということです。ところが、眼の通過前後の風ときたら、台風常襲地のあの辺りでもめったに吹かないような激しいものだったということで、田舎の方へ行くと、としよりがイワオコシだと言ってました。あの地方では、数十年に一回位、大きな岩をも動かすような猛烈な風が吹くそうですけれど、そのような風をイワオコシと言うのです」
「広島でも五十米近い風が吹いたのだから九州はひどいことになっているのではないかと思っていたよ」
「九州では風害が大きかったですね。ところが、中国地方を歩いて見たら、こちらは風害より水害がひどいのに驚きました。とくにひどいのは、岩国を越えて広島県に入ってからです。大野浦あたりは、無数の山崩れと土石流で、いまだに目も当てられない状態です」
「そんなにひどい災害かね。広島管区でも災害の調査をやっているのだが、太田川の洪水が大変なものだったので、太田川水系の現地調査に重点を置いていたのだ」
「大野浦の水害はぜひ調査しておく必要があると思うのです。田んぼは土砂で埋まり、山陽線の線路もいまだに埋まったままです。あちこちに大石がごろごろ転がっていて、潰されたり流されたりした家の残骸がそのまま放ってあるのです。大野浦にある陸軍病院は全滅に近い被害で、惨憺《さんたん》たる有様でした。相当数の死者が出たということでした。あれほどの山津波は見たことがありません。
宮島もひどいというので、連絡船で渡って見ましたら、厳島《いつくしま》神社の裏山がやはり物凄い山津波を起こして、神社にもかなりの被害が出ていました」
北は驚いた。山陽線の大野浦付近の復旧が遅れているということは聞いていたが、大野浦一帯や宮島で、田原が驚くほどの山津波が起こっていたとは知らなかったからだ。しかも、厳島神社にまで被害が出ているとは、全くの初耳だった。
「北さん、大野浦の水害は、早いうちに見ておくべきだと思うのです。大変な水害ですよ」
「わかった、早速明日にでも行ってみよう。台風の後、管内の測候所などのデータを集めて調べたところ、台風の中心は大体広島の西十五粁《キロ》付近を通ったことがわかった。となると、台風の中心はまさに大野村付近を通ったわけで、大野浦で大きな災害が起こることは十分に考えられることだ」
北は、台長が出張中だったので、図書室で調査記録の整理をしていた宇田技師に田原の話を伝え、大野浦方面の調査を早速行なう必要があると言った。
宇田は、北の提案に賛成し、自分も一緒に行こうと言った。
「台風の災害の方は、もう大体調べが済んだと思っていたが、そうは行かんようだな。調査というものはやればやるほど素材が増えてくるものだ。しかしやり出した以上は徹底的にやらなければ良い報告はできん。明日は原爆調査の方は休んで、大野浦へ行こう」
宇田は、研究の対象に対し貪欲《どんよく》だった。白血球減少症に悩みながらも、研究の対象があると出向かないではいられないのだった。
翌朝早く宇田と北は、広島市西部の己斐駅から山陽線の下り列車に乗った。列車は大野浦駅で折り返し運転されていた。二人は、手分けして調査することにし、宇田は先に大野村へ入ってできるだけ多くの山崩れや土石流の現場を見て歩き、北は一つ手前の宮島口で下車して宮島へ渡って調査することにした。そして、昼過ぎに大野浦の陸軍病院で落ち合うことにした。
宮島へ連絡船で渡った北は、まず町役場を訪ねた。「気象台から水害の調査に来たのですが」と挨拶すると、助役が出て来て快く話をしてくれた。
「あの日は夕方から風が出てのぉ」
福田という助役は、台風の夜のことをよく記憶していた。「夜になって八時から十時頃にかけて風は宮島口の方から吹いとった。北西の風になるかいのぉ。雨は前の日から降っとったが、夕方六時頃から強うなって、九時から十時にかけては土砂降りじゃった。
山津波は、夜十時少し前じゃった。紅葉谷公園の奥から、白糸滝から、大元川から、もうとにかく一斉にドッと水が出てのぉ、砂がようけ出て、神社を埋めてしもうた。厳島神社をご覧なさったか」
日本三景の一つ安芸《あき》の宮島は、周囲三十一粁の小島である。島の北側の小さな入り江に、平安朝の昔からきらびやかな姿を伝えて来た厳島神社がある。満潮時には、丹朱の色あざやかな大鳥居をはじめ、社殿や回廊が波静かな海面に浮び、それが裏山の緑につつまれてよく映える。その風景には、たしかに自然の美と人工の美とを調和させた優雅さがある。
しかし、島の中央にそびえる弥山《みせん》は高さが五百三十米もあって意外に険しく、山裾は海岸にまで迫っている。島の入り江は、谷川の水のそそぐところでもある。厳島神社の裏手には、紅葉谷川と白糸川の二つの渓流が流れており、神社よりやや南寄りにある大元神社の一角には、大元川の渓流が海にそそいでいる。
助役の話では、これらの谷川からほとんど同時に水が出て、山津波をもたらしたのだという。
北は、町役場を出ると、神社へ足を向けた。町役場と神社とはほんの目と鼻の先だった。
神社の見える海岸の松の木陰に立ったとき、北は、思わず息をのんだ。連絡船から大鳥居を遠望したときは全く気付かなかったのだが、社殿も回廊も床すれすれまで一面土砂に埋まっているではないか。平安の貴族の邸を偲《しの》ばせる美しさは、もはやそこからは消え失せていた。よく見れば、回廊の柱が折れて屋根が宙づりになったところや、完全に潰れた小社屋もあり、痛々しいまでの災害の跡であった。
北は、社務所に寄る前に、まず全体の状況を見ようと、神社の裏手の紅葉谷公園側にまわった。紅葉谷川から流れ出た土石流が、神社を背面から襲った跡がはっきりと残っていた。いつもは澄んだ水がちょろちょろと流れている小さな渓流は、大小の石と砂とで無残に埋めつくされていた。
紅葉谷公園に一部被害を受けた岩惣《いわそう》という旅館が目についたので、北はそこの主人に当夜の話を聞いた。旅館の主人は、長年紅葉谷に住んでいる土地の人だった。
「紅葉谷は大正十五年の九月にも山津波があってな、そのときは今度ほどではなかったが、やはり神社に多少土砂が入った。十七日の夜は、九時頃から土砂降りになって、二十年前の降り方と同じなものじゃけえ、案じておったんじゃ。そしたら十時少し前になってドロドローッという地鳴りがしてのぉ、山が抜けたんじゃ。大石がごろんごろん流れ出る、土砂は出る、アッという間の出水で、それが神社の方へ抜けて行ったんじゃ。あとでこの辺り見てまわったが、谷という谷はみな抜けている」
北は、豪雨によって発生する典型的な土石流、それも山津波と呼ばれる大規模なものだと思った。
社務所に立ち寄ると、台風の夜のことがさらにはっきりとわかって来た。
厳島神社の社務所では、停電になる前ラジオの全国ニュースで台風が九州に近づいていると報じているのを聞いていたので、夜になって風雨が強くなって来たとき、台風のせいに違いないと思ったという(厳島神社は、北の聞きとり調査の中でラジオで台風の襲来を知り、台風に備えようとしていた唯一の例だった)。しかし、社務所では、山津波が発生するとは誰一人想像もしていなかった。むしろ高潮を心配していたのだという。
厳島神社の文化財に関する技術的専門家岡田貞治郎氏の記憶によれば、当夜の状況は次のようなものであった。
「午後九時過ぎ、風は強いし雨は土砂降りになって来た。能楽堂のござが濡れてはいかんと思って、能楽堂に行った。楽屋でござの始末などをしていると、床がむくむくと持ち上がって来た。これはいかん、高潮だ、と口の中で叫んで、柱につかまった。幸い高潮は楽屋の床を突き上げただけだったが、神社まで突き上げる高潮の力にいまさらながら驚いた。そのうち、午後十時頃だったろうか、社務所へ戻ろうと、回廊に出ると、裏山の弥山の方で、ゴロゴローッという異様な大きな音がして、地響きとともにこちらへ近づいて来る。あっという間に回廊の周りの水が盛り上がって、泥水に変るのが、暗闇の中でもわかった。濁流は神社の裏手から際限なく押し寄せて来て回廊の床まで洗い始めた。危険で社務所に帰れそうにないので、回廊の西側出口から逃げ出そうとした。ところが、西側出口の橋はすでに落ちて流されていた。暗くてそれがわからず、足を踏みはずして泥水とも砂ともつかぬ中に転落してしまった。危うく濁流に呑みこまれそうになったが、流れの端の方で比較的浅かったので、陸地に上がることができた。それから社務所に帰ることもできず、社務所ではずいぶん心配したという」
厳島神社の被害は大きかった。本殿のまわりをはじめ社殿や回廊の大半が、床すれすれまで流出土砂で埋めつくされ、建物に無数の傷みが生じていた。本殿の西裏手にあって、土石流にまともにさらされた天神社――連歌堂とも呼ばれる入母屋《いりもや》造りの小さな社殿――は、無残に潰されて床も柱も流され、土砂の上に屋根を残すだけとなった。天神社に通じる回廊も柱と床の一部を流されて、屋根が宙づり状態で傾いていた。回廊から裏手紅葉谷方面の陸地に通じる長さ約三十二米の長橋は、三つに折れて押し流されていた。
そして最大の損害は、紺青《こんじよう》の海面に浮ぶ竜宮の景観が失われてしまったことだった。厳島神社は、その大部分が国宝と重要文化財であった。有形無形の損失は、計り知れないものがあった。
「もうあれからひと月になりますが、どこから復旧の手をつけてよいのか途方に暮れています。とても神社の財力ではこの復旧は無理だ、と宮司も心を痛めています。二百年前の元文年間に水害があったと伝えられていますが、これほどひどいものではなかったでしょう。厳島とは、神をいつきまつる、という意味なのです。神社を守ることは、山の保護なくしてはあり得ない、と昔から言われて来たのですが、戦時中松根掘りをしたのが祟《たた》ったのでしょうか」
神社の岡田氏は肩を落としてこう言った。
帰りの連絡船の甲板に立って、島影の喫水線に小さくなって行く大鳥居や社殿を見返したとき、北は、漆黒の風雨の中で、回廊が高潮のために浮き上がり、次の瞬間には濁流に襲われる図を想像した。千年の昔から神聖視されて来た島と尊崇されて来た社に、こんなことがかつてあっただろうか。あの夜、江波山の気象台で暴風雨の観測をしていたときには想像もつかなかった事が、ここで起こっていたのだ。そう思うと、宇田技師が一足先に行っている大野浦一帯の災害もやはり大変なものなのかも知れない、と北は不吉な予感にとらわれた。
(後日、広島県土木部の調査によって、厳島神社を襲った山津波は、紅葉谷川上流の弥山七合目で発生した山の斜面の崩壊が原因となって土石流が流れ下ったものと、白糸川の弥山登山口付近で発生した土石流が流れ下ったものの二つが、神社の裏で合流する形で押し寄せたものであることが明らかになった。このほか、大元川で発生した山津波は、海岸にはめずらしい樅《もみ》の木立や桜で知られる大元公園を埋めつくし、大元神社を潰してしまった。
厳島神社の広い境内を埋めた土砂の量は、一万八千立方米にも及び、原子爆弾災害で窮迫した広島県の財政では、とても修復の援助はできなかった。国宝であるからには、国が復旧事業を行なうべきであったが、終戦直後の混乱期の中では、文化財のことなど二の次にされ、厳島神社は土砂に埋まったまま放置された。
厳島神社の復旧工事が始められたのは、実に三年後の昭和二十三年春になってからであった。そのきっかけを作ったのは、GHQのチャーチル・ギャラー美術記念物部長であった。ギャラー部長は、全国の美術建造物の視察の一環として、昭和二十一年十一月二十六日厳島神社を訪れ、参拝した。彼は、日本の古代文化を伝える美しい神社が、災害を受けたまま放置されているのを見て、「こんなことではいけない、日本政府は何をしているのか」と言った。彼は東京に帰ってから、文部省に対し厳島神社の復旧事業を急ぐよう要請した。このGHQからの叱咤《しつた》によって、ようやく国の二十二年度予算に厳島神社の災害復旧費が組まれ、二十三年三月から工事が開始された。復旧工事は、神社境内を埋めつくした土砂を取り除いて、破壊された天神社や回廊などを復元するのはもとより、渓流の砂防工事までも含む大がかりなもので、三年がかりで、国、県、神社合わせて二千四百十五万円がつぎ込まれた。復旧工事が完了したのは、災害から六年も経った昭和二十六年三月になってからであった。)
北より先に大野村に向かった宇田技師は、汽車が大野浦駅に近づくにつれて、窓から見える山山の光景に目を見張った。
この地方の山地は、花崗岩《かこうがん》質で地味がやせ、もともと赤松ぐらいしか生えていないところへ、戦時中の濫伐《らんばつ》ではげ山になっているところが多かった。そうした山々の肌に、山崩れによる深いひっかき傷が無数にできているのだ。
大野浦駅に降りると、付近は巨大な石が転がっていたりして、まだ水害の跡が生々しかった。駅の助役に聞くと、台風が来た夜は、自宅にいると、十時前から雨が最も激しくなり、心配になって十時十五分頃駅に駆けつけたときには、もう駅は水につかっていたということだった。宇田はその助役に道を尋ねて、まず大野村役場へ足を運んだ。役場は駅から一粁以上広島寄りに戻ったところにあった。
役場では助役が出て来て説明をしてくれた。
「大野村は、御存知のように、宮島に面した海岸沿いに広がっている村でな、山がかなり迫っている。小さな川がいくつも海にそそいでいるが、それがみな洪水を起こした。洪水よりひどかったのは、山崩れじゃった。山という山は抜けてのぉ、大きな山崩れだけでも五十カ所はあるじゃろうか、山津波になって海岸まで押し寄せて来よった。
大体調べも済んだが、埋まったり流れたりした家は六十二戸、死んだ者は、まだ遺体の見つからん者も入れて四十四名、この村としては大災害じゃ。
それから大野陸軍病院がやられた。陸軍病院のある丸石浜の山津波は凄いもんじゃった。病院の建物はほとんど全滅して、なんでも百五十人以上亡くなったそうじゃ」
「そんなに沢山の方が亡くなったのですか」
宇田は驚いた。
「まあ行って御覧になってみなさい。病棟がそっくり流されてしまったのですけえ。これなことになったのも、戦時中の山林の濫伐と松根掘りが原因じゃろうと思う。山へ行って見ると、松根掘ったところに山崩れが多いいんじゃ」
宇田は、村役場を出ると、村の農業会に寄り、さらに山崩れ現場の住民にも話を聞いた。宇田は精力的に歩きまわった。もし宇田の踏査行を観察している者がいたとしたら、取材記者か刑事が聞き込みをやっているのではないかと間違えたかも知れない。
大野陸軍病院は、大野浦駅から岩国寄りに二粁ほどのところにあった。丸石浜の一角にたどり着いたとき、宇田は思わずそこに立ちすくんだ。
病院は山の裾が海岸に迫る斜面に建っているのだが、病院というにはあまりにも無残な廃屋であった。辛うじて流されずに残った棟でさえ、一階は土石流が突き抜けて、壁も床も何もかもさらわれてい、わずか数本の柱で二階が支えられているという状態であった。その二階は波を打つように歪《ゆが》んで、いまにも崩壊しそうであった。
広い病院の敷地内は、山から押し出して来た土砂で埋まり、いたるところに直径一米から二米もある石が転がっていた。病院の下手、海岸際を走っている山陽線と国道も、土砂で埋没していた。山津波は、病院敷地の中央を突き抜けて、海の中まで突進して行ったことが、土砂と瓦礫《がれき》の状態からはっきりとわかった。宇田の目の前に広がっているのは、原子爆弾で焼きつくされた広島の焦土とは違ってはいるが、しかしその惨憺たる有様において決して劣らぬ、廃墟の姿であった。
海岸の一角にポツンと高台があって、そこに一軒の旅館が、山津波の通り道をわずかに避けた格好で、何の被害も受けずに残っていた。益本旅館という看板が出ていた。
宇田は、まずその旅館に寄って、主人に災害があった夜の話を聞いた。旅館の主人は、山津波の状況を一通り説明すると、
「病院は災害の後、閉鎖されたが、残務整理をしている兵隊さんがまだいるから、病院の中で尋ねられてはいかがですか。水野大尉という方が、後片付けの指揮をしている筈です」
と教えてくれた。
宇田は、主人に礼を言って外へ出ると腕時計を見た。すでに一時をまわっていた。この病院で北と落ち合うことにしていたから、そろそろ北が来る頃だろう、宇田はそう思って海岸べりの石に腰を下ろすと、弁当をひろげた。
北は間もなくやって来た。宮島口から汽車に乗り、大野浦駅で降りて、歩いて来たのだった。
「北君、昼飯は済んだかね」
「連絡船の中で食べました。宮島は渡っただけの甲斐《かい》はありました。厳島神社が大変なことになっていますよ」
二人は、それぞれに見聞きしたことを簡単に報告し合い、驚きを述べ合った。一休みしたところで、陸軍病院の話を聞こうということになった。
宇田と北は、石や木切れを踏み分けながら、病院構内に入り、後片付けをしている兵隊服の職員らしい数人に、責任者はどこにいるのか尋ねた。構内東寄りのやや高台になったところに被害を免れた下士官集会所があり、そこに医務課長がいるということだった。
宇田と北は、下士官集会所で、医務課長兼庶務主任水野宗之軍医大尉、大下薫衛生准尉、森脇康治衛生准尉の三人に会い、話を聞くことができた。
水野大尉が、まず体験談を話した。
「あの日は、午後から雨と風が強かったですね。私は、仕事があって病院を出たのは午後六時頃でした。広島の己斐に住んでいるものですから、毎日汽車で通っていたのです。ところが、大野浦駅に出てみますと、雨で不通になっているというので、仕方なしにまた病院に戻って、その夜は病院に泊りこむことに決めました。することもないので、本館二階の北の隅にある一室のベッドで早々と寝たのです。後で聞いたのですが、午後九時頃から雨が凄かったそうです。
十時過ぎでしたか、ガタガタ騒々しい音でハッと目が覚めたとたん、バリバリッと建物が傾き出したのです。暗闇の中で何が何だかわからないまま、とっさにベッドの下にもぐりこんで、ようすをみました。建物は潰れずに済んだなと思って、這《は》い出してみて驚いたのですが、本館の建物が、私のいた北の端の一角を残して、ちぎられたようになくなっていたのです。そして、本館があった筈のところは、轟々《ごうごう》という音をたてて、水が流れているではありませんか。それでやっと大雨で水が出たのだということがわかりました。病院の中央を、裏山から出ている丸石川という谷川が流れていて、それが本館のすぐ南側を走っているのですが、その川が氾濫《はんらん》したのだなと思いました。実は氾濫どころか、大変な山津波だったのですが。
私のいた一角も、残ったというものの、屋根は抜け、梁《はり》がベッドの上に落ちているという状態で、私も咄嗟《とつさ》にベッドの下にもぐらなかったら、どうなっていたことやら。助かったのは奇蹟《きせき》的ですよ。
あちこちから、『助けてくれ!』という叫び声が聞こえるので、救出作業にとりかかったのですが、それからが大変でした。雨は小降りになっていましたが、風は強いし、山からどんどん水は流れて来るし、その上、停電で真暗。流されたのは、本館だけでなく、病棟が軒並みやられたことが、だんだんわかって来る。海や沖の方でも、『助けてくれ!』という声が、濁流の音に混って聞こえる。ところが、舟を出そうにも舟も流されてしまったので、どうしようもないのです。
私は、激流に流されそうになりながら、滑る大岩を越えて、病院長に報告に行きました。病院長の斯林《しばやし》可児雄軍医大佐は、病院の南側の少し離れた臨海荘という宿舎に住んでおられたのです。臨海荘は幸い無事で、斯林院長は、私の知らせを聞くとひどく驚かれ、直ぐに病院に駆けつけて、救出作業の指揮をとられました。
それから職員を村役場と大竹の潜水学校に救援依頼に出したのですが、村中水害にやられたため、役場はもうお手上げの状態で、頼りになりませんでした。一方、大竹の潜水学校に向かった職員は、途中道路が山崩れや出水でずたずたになっていたため、突破するのに難航し、潜水学校から船で救援にやって来たのは明け方近くなってからでした」
大下准尉が、体験談を引き継いだ。
「九月十七日は、大野西国民学校の原爆患者の臨時救護所の後片付けも済んで、『ご苦労だった』ということで、私たちは夕方から打ち上げにエチル・アルコールを水で割っていっぱいやっていたのです。森脇准尉も一緒でした。というのは、八月六日に広島に原子爆弾が落とされたとき、この病院からも救援隊を出したのですが、軍のトラックなどで運ばれて来る負傷者があまりに多いので、この病院だけでは収容し切れなくなって、西国民学校を臨時救護所に当て、私がそこの診療班長をやることになった。
陸軍病院と西国民学校に収容した負傷者は、千五百人はいたでしょう。重傷の者が多く、毎日十人、二十人と息絶えていった。三百人は死んだでしょう。遺体は屋外で焼きましたが、数が多いので大変でした。身許《みもと》がわからない人も四、五十人いました。その遺骨は大野病院に安置しておいたのですが、今度の水害で流されてしまいました」
広島から二十粁も離れた小村で、こんなにも多くの被爆者が死んで行ったということを知ったのは、宇田にとっても北にとってもはじめてであった。それまでは広島市内にばかり目を向けていたが、周辺の町や村では、広島市内と変らぬ悲劇が繰り広げられていたのだなと二人は思った。
大下准尉は、話を続けた。
「村の人たちが交代で勤労奉仕に出て、給食や看護、屍体《したい》の運搬、焼却などを手伝ってくれました。九月中頃になると、重態の人はほとんど亡くなってしまい、一方快方に向かった人は身内に引きとられて行ったりして、患者の数も少なくなって来た。そこで西国民学校の臨時救護所は九月十五日で閉鎖し、残っていた患者約五十人は、大野陸軍病院に移しました。九月十七日の夜、遅くまでいっぱいやっていたのは、その作業が一段落した打ちあげだったのです。
私の家は、この病院から一粁半ほど広島寄りにあって、歩いて通っていたのですが、あの夜は雨と風がひどいので、本館二階に椅子を並べて泊ろうとしたのです。そのまま寝ていたら、本館もろとも流されて、今頃は冥土《めいど》ですな。そこへ森脇准尉が上がって来て、『一緒に帰ろう』と言うのですよ。帰り道が同じ方向だったものですから、私も思い直して、それではやはり帰ろうかということになって、二人で本館の玄関に出た。ところが、バケツをひっくり返したような雨に風も加わって、本館や病棟の屋根瓦がどんどん飛んでいる。とても危なくて外へ出られない、どうしようかと二人で玄関先で迷っているうちに、裏手の方からゴーッという音が聞こえて来た。二人で顔を見合わせて、『裏山の貯水池が切れたのではないか』と叫んだときには、もう水が押し寄せて来て足をすくわれてしまいました。私は、夢中で玄関前の左手にあった電柱にしがみつきました。振り向くと、本館があっという間に倒壊して、濁流に流されて行くではありませんか。水は地響きを立てて流れ、畳二枚分もあるような大きな石がごろんごろんと転がって行くので、あたりは轟々という音につつまれて、目の前の本館が倒れる音さえ聞こえなかった。暗闇の中で、つい先程まで自分のいた二階建ての本館が、まるで音もなく、玩具《おもちや》のように潰れてしまったのです。本当に恐ろしいものでした。激しい流れは、私の腰まで来ているし、大石はどんどん流れて来るし、生きた心地もなく、一時間位電柱にしがみついていましたよ」
「私は、松の木にしがみついて助かりました」
と、森脇准尉が口をはさんだ。「水に呑みこまれそうになったのですが、気がついたら病院の十米ほど前に立っている松にしがみついていたのです。大下准尉の電柱とは十米ほどしか離れていないのですが、暗いので大下准尉が生きているのかどうかはじめはわかりませんでした。必死に叫んでも、水の音と風の音でかき消されて、全然聞こえない。松の根がしっかりしていなかったら、私も一命を失うところでした。
奇蹟的に助かったと言えば、松村少将がそうでした。中国軍管区参謀長の松村秀逸少将です。松村少将は、本館二階に入院していたのですが、ベッドごと流されながら、途中材木の山にひっかかって助かったのです」
松村秀逸少将と言えば、大本営陸軍報道部長をやったことがある著名人で、宇田も北もその名をよく知っていた。
「松村さんもこちらに入院しておられたのですか」と、宇田が聞くと、水野大尉が話を引きとった。
「松村少将は広島市内の上流川町にあった官舎で原爆を受け、こちらに入院しておられたのです。広島城内にあった中国軍管区司令部は、数千の将兵もろとも壊滅したのですが、松村少将は出勤直前だったため、九死に一生を得たのです。全身に四十カ所もガラスの破片で負傷しながら、軍の再建や救援活動に奔走したため、とうとう傷は化膿《かのう》し熱は出すという状態になって、倒れてしまわれたそうです――」
松村少将は、市内の知人宅で療養をしていたが、病を押して東京の参謀長会議に参加したり、市内の病院に入院している危篤の部下を見舞ったりするものだから、自らの病状を悪化させ、八月末には白血球数が八百にまで減少してしまった。このため、軍司令官と軍医部長が、松村少将に対し、「絶対安静」を命じ、強制的に大野陸軍病院に入院させた。松村少将の病室は、本館二階の一室が当てられた。
入院後も経過は思わしくなく、白血球は遂に六百にまで減った。斯林院長は、見舞に来ていた松村少将の長女に対し、「お父さんは危篤です」と知らせた。急を聞いて、東京から夫人と八十になる母がかけつけた。連日の輸血がきいたのか、九月中頃になって松村少将は奇蹟的に持ち直し、白血球の数も増え始めた。その矢先に台風による山津波に襲われたのである。
バリバリッという音とともに建物が裂け、松村少将はベッドに寝たまま濁流に流され、次の瞬間にはベッドから滑り落ちた。しかし、気がついて見ると、松村少将は、濁流の中に堆積《たいせき》した材木の上に立っており、ベッドも斜めに立ってひっかかっていた。
「――その材木の島に松村少将の夫人とお嬢さんも打ち上げられて助かったのですが、お母さんは一週間後に遺体となって沖合で発見されました。材木の島はばらばらになった本館や病棟の材木やベッド、棚などが海岸際の岩にひっかかってできたもので、濁流の真中にあり、とても陸地からは救いの手をのばすことはできませんでした。松村少将ご一家は、とうとうそこで一夜を明かし、明け方になって潜水学校の船が来てからようやく救出されました」
水野大尉は、昨日の夜のことのように語った。
水野大尉の話に引きこまれて、北は、「山津波で亡くなったのは、やはり原爆患者の方々なのですか」と聞いた。
「そうです。この病院の配置は、まず中央正面に本館があって、その裏の斜面に、病理試験室、娯楽室、売店、中央病棟という順に棟が並んでいます。その西側に、海側から西一号病棟、西診療室、西二号病棟、東側に、やはり海側から東一号病棟、東診療室、東二号病棟と並んでいて、各病棟から海を見下ろせるような配置になっているのです」
水野大尉は、病院の配置図を描きながら説明した。
「ここは軍の結核療養所でしたから、東と西の病棟には、もともと軍の患者が入っていました。そこで原爆患者は、中央の並びにある本館や病理試験室、娯楽室、中央病棟に収容していました。とくに娯楽室のある棟には、原爆患者が沢山入っていました。
ところが、山津波は、病院の中央を突き抜ける形で襲って来たため、本館、病理試験室、娯楽室、中央病棟は、悉《ことごと》く全壊流出してしまったのです。中にいた原爆患者は、逃げる間もなく水に呑まれてしまいました。東と西の各病棟も、土石流に破壊されて、一階の患者から多数の犠牲者が出ましたが、全壊流出は免れました。
大野陸軍病院での水害の死者は、職員と患者合わせて百五十六人に上りましたが、このうち約百人は原爆患者でした。それから、百五十六人のほかに、大学の調査班や患者の付き添いの家族で亡くなった方が約二十人います。原爆患者は火傷や放射線障害で一カ月以上苦しんだあげく、水害で命を奪われたのです。何のために治療を受け、何のために闘病をしたのか……本当に気の毒なことをしました。『俺は原爆では生き残ったのだ』と言って自分を励ましていた患者もいましたが、その患者も海まで流されて亡くなりました」
水野大尉は、さらに一つの悲話について語った。それは、自ら原爆で火傷を負いながらも、力つきるまで救援と治療に全力を尽して遂に倒れ、大野陸軍病院に収容されていた広島の開業医についてであった。
広島の原爆被災者の救護に尽した医師たちの献身的な活躍については、多くのことが語り継がれているが、水野大尉の語る開業医もその一人であった。その医師は、松尾信吉と言い、爆心地から一粁余りの河原町で被爆した。松尾医師は、ひどい火傷を負ったが、医者としての義務感から、わが身も振り返らずに、被災者たちの救護に駆けまわり、数日後遂に体力が尽きて倒れてしまった。松尾医師は大野陸軍病院に収容され、手当てを受けたが、全身の火傷の跡は悪化するばかりで、白血球も著しく減少していた。台風の前日、阪大教授の兄が見舞いに来たが、「これではもう持たんだろう」と言って帰った。病院の診断でも、一週間と持たないだろうということであった。松尾医師は、多くの原爆患者と一緒に、娯楽室に収容されていた。燃え尽きようとするローソクの炎が一陣の風によって吹き消されるように、危篤状態の松尾医師は、原爆によって焼かれたその生命が燃え尽きる寸前に、濁流に呑まれてその生涯を閉じたのであった。
水野大尉の話は尽きなかった。
「京都帝大の方々も気の毒でした。京都帝大の方々が遭難されたことについては、すでに御存知でしょうが……」
「いえ、初耳です」
宇田も北も、京都帝大の方々と言われてもわからなかった。だいいち、大野陸軍病院が大被害を受けたことでさえ、昨日福岡管区気象台から来た田原技手に聞いてはじめて知った始末であった。
「京都帝大の医学部と理学部の方々が、大勢原爆被爆者の救援と調査に来て、この陸軍病院を根拠地にして活動していたのですよ。本館と病理試験室の一部を使っていました。
医学部の真下《ましも》教授をはじめ女医一人を含む十一人が犠牲になったのです……」
水野大尉らが語った京都帝国大学原爆災害綜合研究調査班の遭難記は、宇田と北の心を激しくゆさぶった。それは、八月六日と九月十七日とが、悲劇的に重なり合った事件であった。
京都帝国大学原爆災害綜合研究調査班の遭難について記すには、時間を原爆投下直後に戻さなければならない――。
3
原爆投下直後、軍の要請で多くの科学者が調査に動員されたが、その中で京都帝国大学(以下京都大学と略記する)の理学部と医学部の調査活動も大きな役割を果たした。京都大学で真先に動き出したのは、理学部の荒勝文策教授の原子物理学研究室と、医学部の杉山繁輝教授の病理研究室であった。
荒勝教授のもとに、「広島に投下された爆弾は原子爆弾であると、アメリカが発表した」という情報が伝えられたのは、原爆投下の翌日八月七日夕刻であった。この情報を伝えたのは、京都新聞の大学担当記者で、その記者によれば同盟通信社がそういう〓情報を流して来たというのである。
また、荒勝研究室の若手の村尾誠助手は、同じ七日夜、京都市内の下宿先で、手作りの短波受信機でハワイ放送を聞いているうちに、トルーマン大統領の重大声明をキャッチした。この声明は、「広島に投下した爆弾はTNT火薬二万瓲《トン》より強力な原子爆弾である」と明言し、「米国はこの原子爆弾製造のために二十億弗《ドル》を費やした」と誇っていた。
翌八日荒勝研究室は、原子爆弾の話題で持ち切りとなった。大本営はまだ「原子爆弾」であるとは発表していなかった。新聞発表は、「少数機による新型爆弾」という表現を使っていた。
当時、日本の原爆研究は、陸軍の委託を受けた理研の仁科研究室と、海軍の委託を受けた京大荒勝研究室の二本立てで行なわれていたが、敵も今次大戦中には間に合うまいというのが、大方の見方であった。原子爆弾が実現するまでには、米国二十年、日本五十年という見方さえあった。だから、荒勝研究室では、海軍の技術将校が研究陣に加わってはいたものの、研究内容は、原爆製造を急ぐというよりは、作るとするならどうすればよいかという理論的研究に重点が置かれていた。そこに「広島に原子爆弾投下」の情報が入ったのである。研究陣のショックは大きかった。
しかし、荒勝教授は、若い研究員たちに諫《いさ》めるような口調で言った。
「敵の謀略にかかってはいけない。本当に原子爆弾なのかどうかは、科学的に調べてみなければわからないことだ。また原子爆弾であるなら、いかなる種類のもので、威力や効果はどの程度であるかを明らかにしなければならない。学者として軽率な判断をしてはならん」
そうしたさ中に、大本営から京都の第十六師団を通じて、荒勝教授と医学部の杉山教授に対し、至急広島の現地調査をして欲しいという依頼があった。両研究室では、急遽《きゆうきよ》調査団を編成し、翌九日夜京都を発《た》って満員の夜行列車に揺られて広島に向かった。
この第一次調査に加わったのは、荒勝研究室からは、荒勝教授、木村毅一助教授、清水栄講師、花谷暉一大学院生、杉山研究室からは、杉山教授、島本光顕講師、木村雅助手、軍関係からは、海軍航空技術廠《ぎじゆつしよう》から荒勝研に派遣されていた上田技術大尉と石田技師、京都師団兵器部の池野中尉、以上計十名であった。この中から、後日山津波による遭難者が三名、負傷者が一名出ることになるが、一カ月後の運命のことなど知るべくもない。
一行が広島駅に着いたのは、十日正午であった。想像を越えた爆撃の惨状に、みな唖然《あぜん》とし、胸を突き刺される思いを抱いた。荒勝研のグループは、駅裏手の東練兵場で早速放射能測定用の土を採集した。駅には、中国軍管区司令部から車が迎えに来ていて、京都大学の一行を比治山裏の焼け残った兵器補給廠《ほきゆうしよう》の会議室に案内した。会議室では、二日早く広島に来ていた理研の仁科芳雄博士や陸海軍の専門家を集めて、新型爆弾に関する検討会が開かれており、結論をまとめているところだった。京都大学の一行は、その席で被害の概要を知ることができた。この会議は、「広島に投下された爆弾は原子爆弾に間違いないと考えられる」という結論をまとめ、即刻大本営に報告された。
会議が終ると、荒勝教授らは、軍のトラックを借りて市内をまわり、爆心地に近い西練兵場の芋畑など、まだ人が踏みつけていない場所を探しては、放射能測定のための土を採集した。軍の会議の結論は、あくまでも中間報告的なものであり、最終的な結論は精密な科学的分析調査を必要としたから、荒勝研としても放射能の測定を急いだのであった。短い時間だったが、十数カ所から土を採集することができたので、その夜の夜行列車に乗って、翌十一日正午京都大学に帰った。
持ち帰った土を、ガイガーミューラー計数管で測定すると、爆心地に近い西練兵場の土が、自然の土の四倍ものβ《ベータ》線を出していることがわかった。しかし、東練兵場など爆心地から離れた地点で採集した土からは、異常な放射能は検出されなかった。
さらに東練兵場の土のβ線のエネルギーや半減期などを詳しく調べた結果、荒勝教授は、新型爆弾はある種の原子爆弾である可能性は極めて濃厚であると判断し、京都師団に報告した。この報告の際、荒勝教授は、「敵は原子爆弾を十個位持っていると思われる」という個人的推測を述べ、「これ以上戦争をやっても無駄だ」ということを軍にそれとなくわからせようとした。というのは、米国は一体あと何個原子爆弾を持っているだろうかということが、軍にとって最大の問題であり、荒勝教授もそのことについて見解を求められていたからであった。(米国が八月六日、九日とわずか三日しか間をおかずに二度も続けて原爆を投下するというやり方は、数日以内に再びどこかの都市に原爆を落とすのではないかという恐怖を呼び起こすのに十分であった。実際米国は早ければ十七、八日頃三発目の原爆を小倉に投下する準備を進めていた。)
折から次の原爆投下の目標は、東京か京都だといううわさが広がった。焼け野原の東京より、広島のように空襲から温存されている京都の可能性が強いだろうと、軍も真剣にそう考えていた。このうわさを耳にした荒勝教授は、「原子物理学者としてまたとない好機だ、比叡《ひえい》山の上からその瞬間を徹底的に観測しよう」と言って、その準備を進めるとともに、広島についてはより豊富なサンプルを採集して厳密な放射能の測定を行なう必要があるとして、十二日清水講師を隊長とする九名から成る第二次調査隊を広島に派遣した。
第二次調査隊は、十三、十四の二日間にわたって活動し、爆心地付近から、鉄板、鉄磁石、セメント、アルミ板、馬骨、電柱碍子《がいし》の接着硫黄《いおう》、などを採集した。原子爆弾の核分裂によって発生した速い中性子が、いろいろな物質にぶつかると、その物質に核反応を起こしてβ線を出す。このβ線を測定することによって、もとの中性子の性質、ひいては原子爆弾の性質を調べようというのが、サンプル採集の目的である。
清水講師が京都大学に帰ったのは、玉音放送の翌日十六日午後であった。すでに第二次調査隊の若手が前日十五日にサンプルを持ち帰り、敗戦の衝撃を受けつつも、放射能の測定をやっていた。道路に規則正しく並んだ電柱から採集した碍子の硫黄は、爆心からの距離に比例してβ放射能の強さが弱まっていた。路上に斃死《へいし》していた馬の骨は、骨の中の燐《りん》が核反応を起こして、強力なβ放射能を示していた。これらの測定結果によって、米軍は原子爆弾に見せかけて放射性物質をばらまいたのではないかという、当初一部にあった推測は完全に否定された。いろいろなサンプルが示す放射能は、爆発に伴って放出された中性子によってひき起こされたもの以外の何物でもなく、爆発の正体は、ウラニウムU235の核分裂であったのだ。
清水栄日記より――
「八月十六日
汽車が途中至るところで遅れる。京都駅に着いたのは二時過であつた。疲れた体に重いリックを背にし、黙々として暗澹《あんたん》たるうちを教室に帰る。先生に帰つて来たことの報告をする。実験室も声なく敗戦の悲しみに満ちてゐる。
前日十五日の昼、石割君、高木君の一行が広島より持参した爆心中心部での資料、即ち金属片、電柱の碍子中の硫黄、家庭用電力計の破片、土壌等は皆強烈なβ線放射能ありと、更に海軍の本道技手の拾つて来た馬の骨とおぼしき破片等は非常に強烈な放射能を示した。又家庭用積算電力計の回転板の軸の根本に付いてゐた金属の破片も同じく強い放射能を示し、その表面一粍程磨りとつても尚《なほ》同じやうに強い放射能を示したといふことを知る。之等《これら》の事実より広島の爆弾はU235の原子核分裂を利用した原子爆弾なることが確定した。広島全土至るところの物質に賦与されたβ線放射能は爆発のとき発生した速中性子或は強烈なβ線による(恐らくは主として前者による)誘導放射能であらう。
矢張りU235の fission《フイツシヨン》(注・核分裂)による爆弾であつたかと……。今更ながら米英科学及び工業能力の水準の高さを想ひ感慨無量なるものあつた。(以下略)」
「八月十七日
佐治君と今度の広島爆撃のこと話す。佐治君は理研仁科研究室でU235の熱拡散分離の仕事に従事してゐた。四月理研戦災を受け、金沢に疎開してやつてゐた。仁科研の方は陸軍の戦研としてUのfissionの方の研究をやつてゐた。米国が二十億弗の費用と十二万五千人の人員を動員してやつてゐたといふのだ。Uのことで陸軍の戦研は仁科研に百万円、海軍の方は我々の方に六十万円、それも五月の中旬にやつと正式に戦研になつたのみで、第一回の会合をこの間琵琶湖《びわこ》ホテルで開いたのみで、金もまだ来てない仕末であつた。(以下略)」
一方、第一次調査で荒勝教授と一緒に広島入りした医学部の杉山教授らは、兵器補給廠での会議の後、荒勝研の一行と別れると、広島陸軍病院宇品分院に立ち寄って、収容患者の状態を見、さらに広島湾内の似ノ島に渡り、十日から十二日にかけて被爆者の遺体三体の詳細な解剖を行なった。杉山教授は、解剖結果の病理学的所見を軍に報告して、京都に帰った。
杉山教授の報告は翌月大阪朝日新聞(昭20・9・18)に掲載されたが、その内容は次のようなもので、原子爆弾が人間の組織や臓器をどのように破壊するかを詳細に解明したばかりか、造血臓器や生殖器への重大な影響や癌《がん》発生の可能性をいちはやく指摘していた。
「まず注目すべきことは爆発後六日目に死亡したものの火傷皮膚を顕微鏡で検すると強い諸種の円型細胞の浸潤や表皮細胞の増生をきたし、かつそれらにしばしば細胞の核分裂像が認められた。この事実は後に火傷が治療した場合においても傷痕から癌とか腫瘍とかの悪性変化を起すかもしれず、今後大いに警戒を要することと思う。更に大切なことはわれわれが解剖したところによると、火傷者には腎臓《じんぞう》や淋巴腺《りんぱせん》の濾胞萎縮《ろほういしゆく》という淋巴球の製造地の大損害が早くも存在したことと、生殖腺たとえば睾丸《こうがん》の精細胞が障害をうけていることである。またこれらの人たちの血液は赤血球やヘモグロビン、白血球の著しい減少が見られ、正常の十分の一以下にもなっている。そして単に骨髄性の白血球のみでなく淋巴性の白血球、すなわち淋巴球も減少している。これまで血液病に見られたような貧血とか汎骨髄癆《はんこつずいろう》とよばれてきたような生やさしいものでなく、淋巴系も含めた全血液製造器官が侵された汎血液癆ともよぶべき重大な変化が起っている。
また現在迄《まで》の死亡者を解剖した結果によれば心筋、肝臓、腎臓には相当の脂肪変性がありかつ強い壊死《えし》性扁桃腺、口腔、胃、小腸、大腸、腎臓、時には摂護腺など、全身の臓器にところきらわず大小の出血が認められ、殊に大腸には壊死性出血性の潰瘍《かいよう》が大小多数存し頑強な生前の下痢を思わすに充分であり、また脾臓《ひぞう》は小さくなっており、胚《はい》中心はまったく消失し淋巴腺においても同様で胚中心なく荒廃しており、さらに骨髄は黄色で赤色髄少く、赤血球や白血球の製造が高度に侵され、その結果全身の血球が少くなっていることを語っている。その他睾丸などの生殖腺は萎縮し、小さく軟かくなっている。原子核爆弾は単に当座の初期病変のほかに執拗《しつよう》な後続病変をもって飽くなき惨害を加えつつある。(以下略)」(傍点筆者)
白血病や癌などのいわゆる原爆後障害が表面化し、医学的にも社会的にも問題になり始めたのが被爆後数年以上経ってからであったことを考えると、杉山教授の報告は実に鋭く放射能障害の深刻さを予見していたと言うべきであろう。
戦争に敗れたことは、大学の研究者にとっても大きな衝撃であった。精神的空白は学問研究にも空白を作りかねない状況であった。しかし、広島の現実は、科学者、医学者の手を切実に求めていた。「広島、長崎には今後七十年草木はもちろん一切の生物は棲《す》めない」という新聞報道が流れて、市民を不安に陥れ、街の復興をはばんでいた。被爆当時は軽傷だった者が、突然出血したり、全身に紫の斑点を作ったりして死亡した。放射能障害の病理と治療については、あまりにも未知の事柄が多かった。
京都大学医学部の杉山教授のもとに、中国軍管区司令部の井街軍医少尉が訪ねて来たのは、八月二十七日であった。井街少尉は、司令部の軍医部長駒田少将の命を受けて、京都大学医学部の応援を要請に来たのだった。
「広島ではいまだに毎日数十人の被爆者が死亡して行きます。然るに、適当な医療の方法もなく、救援の指揮をしている司令部としては困却しているのです。
軍医部長は、血液学の専門家を早急に招聘《しようへい》して対策を立てよと、われわれに命令を下されました。軍医部で相談した結果、京都大学には、病理学の杉山教授、天野助教授、内科学の菊池教授が、それぞれ血液学の権威として専門の研究をしている、京都大学に依頼するのが最も良いではないか、ということに一決しまして、私が使いを命ぜられた次第なのです。
先生、原爆被爆者の病状と早急なる対策樹立のために、ぜひ専門の研究員を派遣して下さるようお願い致します」
杉山教授は、すでに原爆直後に被爆者の悲惨な症状を見ていたから、井街少尉の要請を快諾し、「他の研究室にも働きかけよう」と返事をした。
杉山教授は、直ちに内科教室の菊池武彦教授と解剖学教室の舟岡省五教授に電話をかけ、中国軍管区司令部から派遣要請があったことを伝えた。
この要請を聞いた菊池教授は、「いまこそわれわれが出かけなければならないときが来た」と思った。当時、京都大学で白血球や造血機能障害の研究を専攻していたのは杉山教授であったが、放射能を大量に被爆した臨床例はなく、放射能による人間への影響については、はっきりしたことはまだわかっていなかった。杉山教授のもとで島本光顕講師が、動物実験によって、放射線の量と影響の度合の関係について研究していたのが、ほとんど唯一の医学的データであった。まして放射能障害の治療法などわかっていなかった。
しかし、放射能によって真先に造血臓器がやられることくらいはわかっていた。白血球を製造する造血臓器が機能を低下させれば、白血球の数がたちまち減少し、細菌やビールスに対する抵抗力がなくなり、健康を維持できなくなる。治療法としては少なくとも輸血をしなければならない。菊池教授は、臨床血液学をやっていたから、これくらいのことは知っていた。しかも、菊池教授は、自分の内科教室から岩国海軍病院に出向していた研究員から、被爆直後に同病院に収容した百二十人の血液を検査したところ、いずれも白血球の減少が目立ち、このうち五日以内に五十人が死亡したという報告を聞いていた。
〈被爆者がどのような経過で弱って行き、どうして死んでいくのか、そこをつきとめない限り治療方法も見つからない。研究と治療は一体だ。われわれ血液の研究者が総出で乗りこまなくて、一体誰がこの任務を果たせようか。
広島の医療機関は壊滅状態だと聞いている。現地の医師たちを助けなければならない使命もある。大学として手をこまねいているわけには行かない〉
菊池教授は、胸に熱いものがこみ上げて来るのを感じ、杉山教授に即座に広島応援に対する賛意を表わした。
舟岡教授も同じだった。
杉山、菊池、舟岡の各教授は、内科の真下《ましも》俊一教授らほかの教室にも参加を呼びかけるとともに、出張中の授業や京大病院の患者の診療当番、出張許可などについて、医学部長と折衝した。
こうして八月二十八日、京都大学医学部の研究調査班の派遣が決まり、各教室では、助教授や講師クラスが、広島へ行く目的と重要性について教室員に説明し、参加者を募った。即座に参加を申し込む者が多かったが、放射能のために草木も生えないと伝えられる原爆の災害地で働くことに不安感を抱き、一晩家族と相談してから返事をしたいと言う者も少なくなかった。京都大学医学部の研究員でさえ、原爆被害の実相についてはっきりしたイメージを持つことができなかったのである。全く未知の災害に取り組むような緊張感を持ったのは当然のことであったろう。しかし、研究者として未知の災害を自分の目で確かめ、被爆者の診療に手を差し延べなければならないという使命感が、誰の胸にもあり、そうした使命感が、混乱の地に行く不安感を圧倒し、研究調査班への参加を促した。
研究調査班の編成は、各教室とも三十一日迄にほぼ完了した。参加申込み者は、教授、助教授、講師、助手、嘱託、学生、看護婦、合わせて四十人を越えた。これだけの大編成で診療と調査の両方をやろうというのだから、診療器具、検査用具、顕微鏡、薬品、カルテ類、事務用品などの準備も大変であった。
九月一日午後、全員が病理学教室の講堂に集まって、予備知識を得るための講義を聞いた。講師に立ったのは、病理学の杉山教授と島本光顕講師であった。まず島本講師が教壇に立った。島本講師はかねてから放射能障害についての基礎研究に取り組んでいた研究者で、広島への研究調査班の派遣に当たっては、熱意をこめて若手グループの推進力になっていた。演題は、「中性子放射能による生物学的影響について」であった。続いて杉山教授が、「八月十日広島に於《お》ける被爆者の剖検所見について」と題して、似ノ島で行なった原爆死亡者の解剖結果を中心に、被爆者の症状を報告した。この講義を聞いた参加者たちは、放射能障害の恐ろしさについて、あらためて身の引き締まる思いをした。
京都大学医学部の研究調査班は、九月一日夜から次々に広島に向けて出発した。九月一日夜第一班の先発隊として出発したのは、内科菊池教室の大久保忠継講師、内科真下教室の清水三郎講師、病理学杉山教室の島谷きよ女医ら十四人であったが、先発隊の一員だった菊池教室の糸井重幸助手が後年菊池教授に手紙にして送った日記体の手記は、出発前の準備や広島到着時の状況を生き生きと伝えている。
「八月三十日
本日午後突然大久保忠継講師から広島の原爆投下による被害の医学的調査を行なうについて調査編成についての話があった。教室としては是非諸君の協力をのぞむが、ついては希望者をつのる。用意のととのい次第、明日か明後日に京都を出発するとのこと。大久保先生らしく気の早い話である。私は即座に参加の意志を表明した。他にも数名申出があったが、教室員の中には一応家族と相談した上でと言う人もあった。
帰宅後家内にその由を告げると『こんな混乱の時期に独りで留守番をするのは不安でたまらない』と云ったが、何とかなだめて又病院の宿直に引きかえした。勿論《もちろん》自分としても色々の不安はない訳ではなかったが、それにもまして未知の災害をこの眼で確かめ、調査をしたい気持も強い。
「八月三十一日
出発は明日の夜九時半の広島行き列車に決まった。朝から受持患者の診療は放ったらかしにして準備に没頭する。顕微鏡、検血用具、カルテ類、事務用品、診療用薬品等各自手分けをしてどんどん行李《こうり》につめる。まるで火事場のような有様である。昼食をする暇もない。大久保先生は気も早いが、仕事の指揮を上手にてきぱきとやられる。
夜半近くに一応本日の業務を終了し、自転車で帰途につく。帰宅後明日の出発のこと、広島でのこと等話す。星野伯父がくれぐれも気をつけてゆくようにと来宅されし由をきく。
「九月一日
睡眠不足の目をこすりつつ病舎に出る。午前中大久保先生からの注意あり、又もってゆく荷物の内容に落ちがないか再検討する。午後二時より全班員は病理の講堂で島本光顕講師の『中性子放射能による生物学的影響について』講義をきき、それに続いて杉山先生の八月十日頃広島に行かれた時の災害屍の剖検所見についてのご報告をきいた。
漠然としか持っていなかった原爆災害の知識に、これ等の生々しい講義をきき改めて驚くと同時に、我々調査班の前途の容易ならぬことを感じた。原子障害のおそれがない訳でないので班員の健康保持上約二週間で第二班と交替することになっている。
講義終了後各自帰宅の上出発準備を整えて午後六時半病舎に集合。(中略)
京都駅は折から復員のため大変な混乱である。改札口を通らずに助役室よりプラットフォームに出してもらい、都合よく列車に乗り込む。プラットフォームには大きな行李をかついだ兵隊が大声でわめきつつ行く。発車前に座席は満員となり通路には荷物の山で、通行も出来ない位である。
「九月二日
満員と混乱に充ちたつらい夜汽車。夜が明けて山陽線の駅々を過ぎ、広島に近づく。広島は間もなくかと思いつつ窓外を見ていると、他の乗客も皆外を眺めている。広島近郊に入るにつれ驚いたことには緑の山の広島に面した斜面の木々の葉が褐色の枯葉になっている。所々に出てくる蓮の大きな葉も殆んどが枯れている。何だかぞーっとするような気持になった。線路の近くにて二階建のコンクリートの家がひしゃげて一階建のようになってしまっている。
定刻より大分遅れて九時頃広島駅につく。駅のプラットフォームの屋根はとび、一部の鉄骨の支柱が曲っている。広島駅の建物も天井がおちてしまって空がみえる。戸外には小雨が降っていたが、駅頭で井街軍医少尉の出迎えをうけ、駅で約一時間待って宇品行きの汽車に乗る。駅自体の破壊はもとより駅前からみた広島は殆んど一望の中瓦礫《がれき》の街となっている。驚くべき光景である。」
一行は、広島第一陸軍病院宇品分院に案内されたが、軍の手違いがあったのか、宇品分院には東京大学医学部の調査班が一足早く着いていて、宿泊施設もいっぱいになっていた。宇品分院は、もともと病院の施設があったわけではなく、陸軍船舶練習部が使っていた元紡績工場跡の建物に原爆で負傷して避難して来た人たち約六千人を収容し、そのまま臨時病棟に当てていたものであった。このうち約三千人は死亡し、また患者の一部は他の病院に移ったり、身内に引き取られていったりしたが、京大班が来た時点でも、なお千人を越える患者がいた。しかし、あまりにも貧弱な建物や設備を見て、京大班の一行は、このようなところで一体どれだけの活動ができるだろうかと、すっかり気を重くしたのだった。
案内の井街少尉は、手違いがあったことに恐縮して、「ともかく今夜は郊外にある私の設営部隊に泊って下さい。すぐに案内します」と言った。
糸井重幸日記、九月二日の続き――
「広島市中を歩いて廿日市に向う。市内に所々残って走っている市電を利用して乗継ぎ乗継ぎして行く。途中雨は土砂降りとなり遂に雨宿りの止《や》むなきに至る。
惨憺たる広島市街。町名も何も分らぬ。ただ瓦礫の街。家屋は何もなく焼け跡に所々かまど、洗い流しのこわれたのが残っている。
燃えるものは皆燃え尽している。所々に死臭を嗅《か》ぐ。道路のわきに人の腐敗屍体《したい》あり。又馬の骨、くずれた肉をみる。脊椎骨《せきついこつ》、頭骨もある。この様子では一家全滅の家も無数にあることであろう。屋敷跡の所々に尋ねて来る人のために一家の立ちのき先や安全を告げる立札をみる。全く音のないものすごき街である。市電にのった時に印象に残ったのは運転席の後のパイプの支柱に真黒に蠅《はえ》がとまっていたこと。一寸《ちよつと》他では見たこともないことである。雨降りの中の死臭たちこめる街。
京都と何という違いであろう。
夕刻に到り廿日市に着く。天理教の教会である。中に入ると数名の兵隊がゴロゴロとねている。夕食をとり入浴後、やっとくつろいで、原爆投下後の当時の状況を兵隊から聞く。驚き入ることばかり。
皆で大きな蚊帳《かや》の内にねる。今日は見るもの聞くもの驚くことばかり。
身心共疲れて眠る。」
翌三日、清水三郎講師が中国軍管区司令部に行って打ち合わせた結果、京大班は大野陸軍病院を担当することになり、午後全員軍のトラックで大野陸軍病院に移動した。
安芸《あき》の宮島の対岸、大野浦に面した斜面に、海岸線と平行に何列も建ち並ぶ瓦葺《かわらぶ》きの白い病棟は、瀟灑《しようしや》で静かなたたずまいを持っていた。診療設備をはじめ病理試験室や解剖室も完備していた。病院前の海岸べり高台にある益本旅館が一行の宿舎と決まった。
「眺めは好いし、ここなら京都に帰りたくないな」
そんな声も聞かれた。広島の惨状を忘れさせる環境であった。
しかし、病院に収容されている原爆患者の症状は、あまりにもそうした環境と違っていた。京大班は、大野陸軍病院と大野西国民学校に収容されている被爆者の診療を応援するとともに、病院の病理試験室と西診療室を借りて研究調査を開始することが決まった。
四日夕方には、第一班本隊の菊池、杉山、舟岡の各教授をはじめ病理の島本講師ら計十二人が到着し、教授たちの宿舎は病院南側にある院長官舎の臨海荘が当てられた。一行は五日からいよいよ患者の回診と検血を始めたが、患者の数があまりに多いので、初日はとりあえず重症患者のみを対象にした。
六日からは、原爆患者全員の血液の毎日の変化を調べるとともに、外来患者の診療の受け付けを始めた。外来部門を設けたのは、大野村から広島に勤労奉仕に動員されていて被爆し、入院もできずに自宅にいる患者が相当数いると聞いたからだった。
全員、日夜の別なく精力的に働いた。大野陸軍病院は、軍の結核療養所だったため、物資や食糧はかなり豊富に備蓄してあった。京都大学の一行は、お陰で食事の苦労はしなかった。
診療と研究調査が軌道に乗ったところで、菊池教授らは、夜益本旅館に全員が集まった機会に、広島市内にも診療所を開設しようと提案した。
「広島市内の焼け残った地区には、多くの被爆者が住んでいる。しかし、市内の医療機関は壊滅状態だから、十分な治療も受けられないでいるに違いない。この際われわれの活動を一歩進めて、軍から要請を受けたこの病院での診療だけでなく、市内の焼け残った地区に診療所を開設して、できるだけ多くの被爆者に診療の手を差しのべようではないか。
間もなく、第二班が来て人員も増えるから、第二班が到着し次第、開設したい」
というのが、提案の趣旨だった。これには全員が賛成した。
診療所は、牛田国民学校で開くことが決まり、牛田診療班のための民宿の交渉も進められた。十日午後、いったん帰洛《きらく》していた大久保講師に率いられて、第二班八人が到着したため、直ちに班の編成替えが行なわれ、佐々木貞二専門部助教授を班長とする計十人のチームが市内に向かい、即日牛田診療所の活動を始めた。
個別にやって来たメンバーを加えると、京大研究調査班は、約四十人の大部隊になっていた。大野と牛田にわかれて、ある者は、患者の治療に当たり、ある者は朝から晩まで目がおかしくなるほど顕微鏡をのぞいて白血球の計算を担当し、ある者は重症患者の往診をし、ある者は病理解剖をした。
潰瘍化した火傷《やけど》の跡にリバノール処置をしながら、看護婦はその度に「なんてひどいことを」と、悲憤慷慨《こうがい》していた。
患者の多くは、白血球が平常の半分以下の三千位に減っていたが、もっと少ない重症者も少なくなかった。悩みは輸血用の血液が全くないことだった。大野陸軍病院に入院していた中国軍管区司令部の松村秀逸参謀長は、司令部の命令で広島周辺の部隊から毎日献血者を募り、その輸血で病状を回復させたのだが、松村参謀長のように輸血の恩恵を受けられたのは、全くの例外であった。輸血用の血液がないがゆえに、みすみす回復の機会を失った患者が多かった。
ある日、前日まで元気だった患者が、突然鼻血や血便が止まらなくなって死亡したときには、長年様々な病気を診て来た診療班の者でさえ、原爆症という得体の知れない疾患に対して、恐怖を感じないわけには行かなかった。
ところで、京都大学では、九月十日の評議員会で、原爆災害綜合研究調査班の活動を、大学派遣の公式な研究班として承認し、全学を挙げて支援することを決定した。さらに九月十二日には、文部省学術研究会議が、学会の権威を総動員して原子爆弾災害調査研究特別委員会を発足させることを決め、このことが新聞報道で伝えられた。新聞によれば、京大に対しても医学部の菊池教授や理学部の荒勝教授の参加を求める予定になっているという。京都大学においては、にわかに原爆災害調査研究の気運が高まった。
原子物理学の荒勝研究室では、七十年間草木も生えないとまで言われる爆心地のその後の放射能の減衰状況を確かめる調査をしようということになった。もし放射能の危険が去っているのなら、その結論は、広島市の復興に役立つ筈である、というのが調査の目的であった。
荒勝研の第三次調査隊は、木村毅一助教授を隊長に助手や学生計六人で編成され、九月十五日京都を出発した。この第三次調査は、長期間にわたって滞在し、放射能測定作業も現地でやろうということになり、測定装置や記録用紙類などを持参した大がかりなものとなった。
一行が広島に着いたのは翌十六日で、雨の中を医学部が根拠地にしている大野陸軍病院に直行した。木村助教授らは、医学部の教授たちに挨拶を済ませると、臨海荘の一室に陣取った。
九月十七日、大野浦一帯の雨は、夜に入るといちだんと強くなり、午後九時頃からは異常な降り方になって来た。
医学部のメンバーは、すでに宿舎の益本旅館に帰っていた者もいたが、病理試験室や西診療室で仕事をしている者もいた。
真下教授や杉山教授ら数人は、前日到着したばかりの理学部の木村助教授ら物理班の六人と一緒に、本館二階の将校食堂で夕食を摂った後、雑談をしていた。教授らはいったんは宿舎へ帰ろうとしたのだが、あまりにも風雨が強く、傘をさして外へ出ることもできないため、食堂に戻って風雨のおさまるのを待っていたのだった。
仕事が忙しくラジオを聞く余裕もなかったから、台風が接近していることなど、誰も知らなかった。「風が強いから台風が来るのではないか」という程度の意識しかなかった。
真下教授は、しばらくして再び帰ろうとしたが、やはり無理であることがわかり、食堂へ戻って来た。
「今夜は病院泊りだ。大久保君、ベッドを貸してくれるよう病院に頼んで来てくれぬか。水野大尉に頼めば何とかしてくれるだろう」
真下教授は、傍《そば》にいた大久保講師に命じた。
病院の庶務主任水野大尉は、京大医学部出身で菊池教授の教え子だったため、京大の研究調査班に対しよく便宜を計り陰の力となっていた。
大久保講師は、助手の安西茂則と一緒に空きベッドの借り受けの交渉に出て行った。
表では強風が唸《うな》りを上げ、篠突《しのつ》く雨が激しく窓をたたいていたが、教授たちは、風雨を忘れて話に花を咲かせていた。
すでに午後十時を過ぎようとしていた。フッと電燈が消え、全館真暗となった。
「停電か、困ったな」
異口同音の声がもれた。暗闇の中でどうすることもできないので、隣り合った者同士が雑談を続け、停電の回復を待った。
そこへ大久保講師が手さぐりで戻って来た。一緒に出て行った安西助手は、病理試験室に用事があるので、一階で別れ、大久保講師が一人で戻ったのだった。
「ベッドと毛布の借用に成功しました」と、真下教授に報告している大久保講師の声が、暗がりの中でみなに聞こえた。
そのとき、突然「ゴーッ」と汽車が驀進《ばくしん》して来るような轟音《ごうおん》が響いて来た。その異様な響きに、一同ハッとなったが、次の瞬間には轟音はバリバリッという破壊音や石の打ち合う音を混えて全館に轟《とどろ》き渡り、建物が山に面した北西側からグーッと沈み出した。
「先生、山津波です!」
杉山教授の傍にいた島本光顕講師が叫んだ。
机の下にもぐる者、窓際や廊下に走り出した者、暗闇の中でそれぞれにとっさの避難行動をとろうとしたのだが、建物はあっという間に崩壊し、全員山津波の濁流に呑みこまれてしまった。
何もかもわからぬまま流された木村毅一助教授は、自分はこれで死ぬのだと観念したが、ふと気がつくと濁流の中に突き出た大きな岩に無意識のうちにすがりついている自分を発見した。海の中らしかったが、そこがどこなのか闇の中なので全くわからなかった。
遠い遠い海の彼方《かなた》まで押し流されてしまったような気がして、声を限りに助けを呼んだが、応答はなかった。
孤独感に襲われた木村助教授の脳裏には、来し方の事が走馬燈のように浮んで来た。木村助教授は、戦時中兵器研究のため浜松の陸軍の研究所に行っていたとき、大空襲に会い、市民や児童が多数犠牲になったにもかかわらず、自分は防空壕《ごう》の中で辛うじて助かった経験があった。その後、立川の部隊に動員学徒の補習講義に行ったときも、艦載機の爆撃を受けたが、ここでも命拾いをした。戦争で生き残ったのに、戦争が終ってから水害で死ぬなどということは、いかにも残念であった。
「気を鎮めよう」と思った木村助教授は、泥まみれになって引き裂かれた洋服のポケットを探した。そこにはチョコレートが入っている筈だった。大野陸軍病院には、一般には手に入らない罐詰《かんづめ》や菓子類があり、そのチョコレートも病院から支給されたものを食べ残してポケットに入れておいたのだった。物理班六人分の出張費と研究調査費として財布に入れて持って来た五万円余りの大金は財布ごと失くなっていたが、チョコレートは残っていた。チョコレートを口に入れると、ようやく気分も落ち着いて来た。暗闇に目も慣れて来た。
水の勢いが衰えるにつれて、周囲にいくつも岩が頭を出し始め、自分のいる場所が、意外にも海岸際であることがわかり、助かったという実感がこみ上げて来た。再び助けを求めて叫んでみたが、声が届かないのか答えはなかった。
いつしか雨も止み、雲の切れ間から星がきらめいていた。雲の陰に月があるのか、あたりが薄明るくなり、岩のまわりの水もかなり退《ひ》いて来た。もう大丈夫だと思った木村助教授は、浅瀬の中を岸に向かって手さぐりで歩き出した。人声が聞こえて来たので、その方へ足を向けた。
陸に上がったところで、木村助教授は医学部の若い連中に助けられた。西診療所にいて遭難を免れた医学部の清水三郎講師がてきぱきと指揮をとっていた。水の流れからはずれた小高い丘の上に連れて行かれると、食堂に一緒にいた物理班のうち、学生の西川喜良、高井宗三の二人が、すでに救助されて、怪我の手当てを受けていた。
木村助教授は頭に怪我をしていたが、ともかく命を落とさずに済んだことを、二人の学生とともに喜び合った。
しかし、物理班の残る堀重太郎、村尾誠、花谷暉一の三人は行方がわからないということだった。横須賀の海軍航空技術廠から技術大尉として派遣され、戦後も助手として研究に励んでいた堀重太郎、短波受信機でいち早くトルーマン声明をキャッチした化研からの雇員村尾誠、原爆直後の第一次調査のときから参加していた大学院生の花谷暉一――荒勝研究室にとって、一人一人が重要な研究員だった。とりわけ木村助教授の胸を痛めたのは、堀重太郎の遭難だった。堀は、同じ荒勝研の清水栄講師の妹とちょうど一カ月前の八月十七日に結婚したばかりだったのだ。
木村助教授は、高台の上で与えられた毛布にくるまり、寒さにふるえながら、教室員三人の安否を気遣った。
医学部研究調査班の若い連中が、傷の手当てなど、何かとめんどうをみてくれた。指揮をしている内科の清水三郎講師の話では、医学部関係では、杉山教授は救助されたが重傷らしく、真下教授、大久保講師、島本講師ら主だったメンバーが多数行方不明になっているということだった。木村助教授は、そこではじめて、食堂に一緒にいた者の多くが遭難したことを知ったのだった。杉山教授は、堀重太郎の結婚式の媒酌をつとめた知人であり、杉山教室の島本講師もその式に参列していたことを、木村助教授は知っていた。学部は違っても、荒勝研とは近しい人たちだった。重大な事態が起こったのだという実感が、木村助教授の胸にひしひしとこみあげて来た。
木村助教授が、高台で手当てを受けている頃、海岸や病院周辺では、宿舎や西診療所にいて助かった医学部の研究班員が、行方不明者の捜索と負傷者の手当てに全力をあげていた。山津波が貫通した跡には、無数の石や材木が堆積《たいせき》し、その間に泥まみれの屍体が転がっていた。星明りの中で、提燈《ちようちん》や懐中電燈が動きまわっていた。海から這《は》い上がった直後に、ばったり倒れて息絶える患者もいた。
このような中で杉山教授も発見され、益本旅館に収容された。杉山教授は、壊れた屋根に覆われる形で流されたが、海まで出て流れが止まると、力を振り絞って屋根から這い出し、海岸まで泳ぎ着いたのだという。
杉山教授は、顔、耳、上下肢に打撲傷と擦過創《さつかそう》を負っていた。手当てによってショック状態から立ち直ると、杉山教授は、
「水が塩辛いので、海に流されたと判断し、全力で倒木を分けて、山の方を目標に泳いだのだ。水泳で鍛えていたから自信はあったよ」
と、平然と言ったが、怪我の状態は重傷だった。
しかし、食堂にいた真下教授をはじめ、ベッドの借り受け交渉をして来た大久保講師、「先生、山津波です!」と叫んだ島本講師、学生の原祝之、平田耕造は、懸命の捜索にもかかわらず、いつまでも行方がわからなかった。
食堂の医学部グループのうち、杉山教授のほかに助かったのは、木村雅助手だけだった。木村助手は、流される途中に、建物から放り出され、脚部に怪我をしただけで、濁流から逃れることができたのだった。また、ベッドの借り受け交渉をした後、大久保講師と別れた安西助手は、本館一階小使い室に立ち寄ったところで、山津波に襲われたが、足に怪我をしただけで脱出することができた。
一方、本館裏手山側の病理試験室では、前日着いたばかりの西山真正助手と初日から献身的に活躍して来た島谷きよら三人の女医の計四人が遅くまで仕事をしていて、一瞬のうちに倒壊した建物の下敷きになった。救助班が、生き埋め現場に近づくことができたのは、濁流がおさまった午前四時頃になってからであった。
四人のうち女医二人が、まず救出された。二人は、嘱託の森彰子と松本繁子で、いずれも骨折の重傷を負っていた。しかし、西山助手と島谷女医は、潰《つぶ》れた建物の材木の下になっていて容易に救出することができなかった。
島谷女医は、首を動かすこともできない状態で、顔をすっかりゆがめて、絶え絶えの声で「気が遠くなりそうです、強心剤を射って下さい」と言った。救助班は、強心剤を注射して、材木を取り除こうとしたが、うず高く堆積した材木はびくともしなかった。島谷女医は夜明けを待たずに息を引きとった。
西山助手は、やや離れた位置で腹這いの状態で巨石と材木にはさまれたまま身動きもできず、ようやく右手を差しのべて救いを求めていた。助手たちが近づくと、「逃げ出そうとしたのだが、足をはさまれてしまって……」と、苦痛に耐えながら状況を語った。
救助班は、西山助手の右手を握って励まし、皮下注射を射って、材木を除こうとした。ここでも巨大な材木の山は微動だにせず、人手集めをしているうちに、西山助手は遂に事切れた。助手や学生たちは、しばし呆然となってその場に立ちすくんでいた。
一夜明けると、台風一過の晴天となり、山からの出水もほとんどおさまっていた。海も穏やかになって、対岸の宮島がくっきりと見えていた。病院周辺では、病院の職員や看護婦をはじめ、大竹の潜水学校の兵隊たちも加わって、大がかりな行方不明者の捜索と遺体の収容作業が続けられた。
この捜索で、真下教授の遺体が発見された。真下教授は海岸まで押し流された本館の屋根の下で、半身を砂に埋めていた。
この朝の時点で確認された医学部の遭難者は、死亡三名(真下教授、西山助手、島谷女医)、行方不明四名(大久保講師、島本講師、原学生、平田学生)、負傷者五名(杉山教授他)であった。また、理学部は、行方不明三名(堀助手、村尾雇員、花谷大学院生)、負傷者三名(木村助教授他)であった。
救助作業を指揮していた清水三郎講師は、災害の発生を京都大学に連絡しようとしたが、電報も交通機関もすべて途絶していたため、伝令を出す決意をした。折から午後には大野陸軍病院から宇品までの連絡便が出ることを聞いたため、那須貞二、中井武の二人の助手を伝令に指令し、出発させた。
高台の上で一夜を明かした木村助教授ら物理班の三人は、残る班員三人の遭難がもはや確実となって来たため、医学部の救助班に捜索を依頼すると、臨海荘にいったん戻り、負傷した身体《からだ》を休めた。三人とも衣類はびりびりに裂け、泥まみれになっていたため、すべて脱ぎ捨てると、敷布を腰に巻いて、半裸の生活をした。水道は断水しているため、身体の泥を落とすこともできなかった。やむを得ず裏山に出かけて谷間に小さな池を見つけ、そこで水浴をした。
夜になると、前夜とは打って変った澄み切った中空に名月が輝いた。月の光に誘われて、木村助教授は外に出た。明るく照り返る大野瀬戸の向こうに、宮島の島影が黒々と横たわっていた。辺りの草葉には、無数の露が止まり、月を映してきらめいていた。夜露のきらめきを見ているうちに、木村助教授は、若き日に日本ではじめて原子の人工崩壊実験に成功した夜のことを想い起こした。昭和四年京都大学理学部の物理学科を出た木村は、翌年台北帝大の助手として就職し、台湾で研究生活を送っていた。その頃、外国の文献に目を通しているうちに、英国ケンブリッジ大学キャベンディッシ研究所のラザフォード博士らが、原子の人工崩壊に成功したという論文にぶつかり、強い学問的刺戟《しげき》を受けた。原子が壊れるとは面白い、と思ったのである。ラザフォード博士らの方法は、「リシウムに加速した水素イオンをぶつけると、リシウムが崩壊して原子量の一つ小さいヘリウムが飛び出す」というものであった。今日では、原子物理学の初歩的な実験となってしまったこの原子崩壊の実験も、当時としては画期的なものであった。昭和七年のことである。
木村は、この論文を読むと、自分でもやってみようと決意し、実験装置の製造に取りかかった。問題は、リシウムの崩壊によって発生したヘリウム(つまりα《アルフア》粒子)をどうやって確認するかだが、α粒子を硫化亜鉛にぶつけると光を発するという現象があることは、すでに知られていた。木村は、この方法を使うことにし、ヘリウムが発生してくるところに硫化亜鉛を置き、ピカピカ光る光を顕微鏡で観察できるような装置を完成させた。昭和九年のある日の夜、木村はこの実験に成功した。顕微鏡をのぞいていると、硫化亜鉛にぶつかるα粒子が、流星群が降るようにピカピカと光を発した。リシウムが崩壊してヘリウム原子が発生しているのだ。木村は時が経つのも忘れて、顕微鏡の世界に見とれた。
木村助教授は、無数の夜露のきらめきの中に、かつて顕微鏡の中で降る星の如く光った原子の世界の光の美しさを想い起こしたのだった。それから十年余、自分は京都大学に戻って荒勝研究室で原子爆弾の研究にたずさわり、その因果で広島の原爆調査にやって来た。そして今、三人の若き頭脳を失い、自らも負傷して、為《な》すすべもなく立っている。木村助教授は、国木田独歩の『武蔵《むさし》野《の》』の中の小品『星』の一節を無意識のうちに口ずさんでいた。
夜は愈《いよいよ》更け、大空と地と次第に相近《ちかづ》けり。星一つ一つ梢《こずゑ》に下り、梢の露一つ一つ空に帰らんとす。
しかし、口ずさむことばの美しさとは裏腹に、木村助教授の心には、空《むな》しさのみがこみ上げていた。
京都大学原爆災害綜合研究調査班の遭難の第一報が、大学本部に伝えられたのは、三日後の二十日夜になってからであった。
伝令として船で大野浦を出発した那須、中井の二人の助手は、十八日夕方広島の宇品港に着いたが、広島県下の鉄道はずたずたで、広島から先へ行くことはできなかった。二人は、宇品に一泊した後、翌朝話し合った結果、那須は鉄道と広島の状況を伝えに大野浦に戻り、元気な中井が汽車の動いているところまで徒歩で強行突破することにした。
中井は、山陽線沿いの国道を歩き続けた。山陽線は、いたるところで山崩れ、崖《がけ》崩れで寸断され、行けども行けども汽車が動いている区間に着かなかった。日が暮れても中井は歩いた。午後九時頃、広島から六十粁《キロ》近く歩いたところで、汽車が停車している駅があった(三原駅と思われるが、中井は記憶していない)。駅員に尋ねると、翌朝動く見込みだという。疲れ切った中井は、切符を買うと車内で一泊した。汽車は、翌二十日午前五時に発車し、同日夕刻になってようやく京都駅に着くことができた。大野浦を出てから実に五十時間以上経っていた。中井は、大学に急行した。
中井の報告を、大学で最初に聞いたのは、病理の森教授だった。森教授は、大学からやや離れた浄土寺真如堂境内に静かな居を構えていた菊池教授宅に駆けつけた。第一班として大野陸軍病院に繰りこんだ教授陣のうち、菊池、舟岡の両教授は、卒業の追試験などのため、いったん大学に戻っていたのだった。とくに菊池教授は、病院の食事に出された牛罐でひどい蕁麻疹《じんましん》にかかり(同様に蕁麻疹にかかった者が数名いた)、その療養もかねて帰洛していたのである。
玄関に出迎えに出た菊池教授に対し、森教授はいきなり、
「驚くな、広島の研究班は全滅したぞ」
と、顔をひきつらせんばかりにして言った。菊池教授は、
「何を馬鹿なことを言う。冗談も休み休み言え。まあともかく中へ入って聞こうではないか」
と、信じ難い表情で答えた。
玄関脇の応接間に通された森教授は、ソファーに坐るのももどかしそうに、中井助手の報告を菊池教授に告げた。
「山津波のため、大野陸軍病院はほとんど壊滅したという。真下教授、西山君、女医の島谷君の三名は死亡、大久保君、島本君、学生二名、それに理学部荒勝研の教室員三名が行方不明、杉山教授以下八名が負傷したというのだ」
菊池教授も信じないわけには行かなくなった。
「中井君の報告は、大野浦を出た十八日正午までの状況だが、災害が発生したのが十七日午後十時過ぎだというから、半日以上経って行方がわからない大久保君らはやはり絶望と考えなくてはなるまい」
森教授は沈痛な表情で言った。
医学部では、翌日緊急教授会を開き、関係教授を含む大規模な救援隊を派遣すること、行方不明者を徹底的に捜索すること、遭難者の大学における地位を一級上昇させ、とくに大久保忠継講師は助教授に昇格させること、大学葬を行なうこと、などを決めた。
また理学部でも、理学部長と荒勝教授が協議した結果、医学部の救援隊に合流して教室員を派遣すること、遭難者の大学における地位を上昇させること(堀重太郎助手は講師に、村尾誠雇員は助手にそれぞれ昇格させ、花谷暉一大学院生はウラニウム核分裂の論文で博士号を授与する)、などを決めた。
救援隊は、二十二日午前十時過ぎ、京都駅を出発した。木村廉医学部長を隊長に、菊池教授、舟岡教授を含む十九人で、この中には遭難者の遺族六人も参加していた。大学の救援隊員は、木村医学部長以下全員巻脚絆《まききやはん》姿だった。
また隊員の中には、大久保講師の同期生で、やはり血液学を専攻していた大学院特研生の脇坂行一も加わっていた。広島派遣の研究調査班は、健康維持のため二週間でメンバーを交代する計画になっていて、大久保は十五日に脇坂と交代するスケジュールになっていた。ところが、大野陸軍病院が進駐軍の命令で近日中に接収されるらしいという情報が入ったため、大久保は「どうせなら接収まで僕がやろう」と言い出し、脇坂との交代を見合わせていたのだった。もし進駐軍接収の話がなかったら、そしてもし予定通り二人が交代していたら、二人の運命は全く逆になっていた筈であった。活溌できびきびとした大久保は、その積極さゆえに不幸を背負ってしまったのだった。脇坂は、大久保が自分の身代りになったような気がして辛かった。
京都駅には、大久保講師の妙子夫人が見送りに姿を見せていた。一児を背負い、一児の手を引いた夫人は、夫の主任である菊池教授にすがるようにして懇願した。
「私の夫はどこにいるのでしょうか。是非私の夫の消息をつかんで帰って下さい。これが唯一の御願いでございます」
菊池教授は、広島に研究調査班を派遣した責任者として、胸に釘《くぎ》をさされるような思いであった。
「必ず大久保君を見つけて来ます。大久保君が見つけられない間は、私は京都の地を踏みません」
菊池教授は、心の中で、〈発見できるまでは帰りません〉と繰り返した。
汽車は尾道止りで、三原から先は不通になっていた。尾道に着いたのは夜だった。一行は、止むを得ず尾道から一人三十円という法外な船賃の闇船に乗って、雨降る夜の瀬戸内海を宇品に向かった。
二十三日午前八時前、宇品に着くと、菊池教授らは、陸軍船舶練習部に挨拶をかねて立ち寄り、乾パンの援助を頼んだ。そこで大野陸軍病院の負傷者が宇品分院に収容されているという話を聞いたので、見舞いに寄ると、意外にも京大研究調査班の杉山教授ら四人の負傷者がいたので驚いた。大野陸軍病院が機能を失ったため、本格的治療を必要とする四人は、前日大野浦から移送されて来たということだった。菊池教授が担当医に尋ねると、杉山教授は左眼結膜下出血、右中耳炎、顔面数カ所の外傷、脚部の外傷などの怪我だが、熱は三十七度二、三分で当面それほど心配することはないということであった。杉山教授自身も元気そうにしていた。
一行は、昼過ぎ再び一人二十五円で船をチャーターして大野浦に向かった。
同日夕方、大野陸軍病院に着いた菊池教授は、災害の規模の大きさと変り果てた病院の姿にただ目を見張った。
救援隊が到着したことによって、災害発生以来清水講師の指揮で働き続けて来た助手、学生、看護婦たちは、ようやくほっとした表情を見せた。
清水講師らの報告で、医学部の大久保講師と島本講師、理学部の堀重太郎助手の計三人の遺体が依然発見できないこと、倒壊した建物の下敷になった西山助手と島谷女医の遺体収容も手つかずになっていること、診療器具や検査器具をはじめ、原爆患者のカルテ類、血液標本、骨髄標本、解剖標本、などの貴重な資料がほとんど失われたこと、牛田国民学校の診療所も太田川の洪水で浸水の被害を受けたため、牛田診療班は診療所を閉鎖して大野の本隊に合流していること、などの状況が知らされた。
また、病院の庶務主任水野軍医大尉に聞けば、災害直前に決定されていた大野陸軍病院の進駐軍による接収が正式に通告されて来たため、患者は第一陸軍病院宇品分院や柳井の陸軍病院に分散移送しているという。また、連合軍のマッカーサー総司令官から、軍隊は山陽線の復旧に全力をあげるよう命令が出たため、大野陸軍病院に救援に来ていた兵隊百人は、死体捜索の打ち切りを決定して、今日限りで引き揚げてしまったことも知らされた。
菊池教授は、船で大野浦に着いたとき、スコップなどの作業道具をかついで帰って行く兵隊たちの後ろ姿を見たのを思い出した。土砂や材木で埋めつくされた中から、大久保講師らの遺体を発掘するのは、大変な作業である。菊池教授は、マッカーサーの命令をうらめしく思った。
救援隊の教授陣は、臨海荘に泊ることになった。そして、全体の状況を判断した結果、原爆患者の診療活動も研究調査もともに打ち切って、九月はじめから来ている研究調査班は京都に引き揚げさせることを決めた。内科の真下教授、若い研究員を精力的に指揮して来た大久保講師、放射能障害について数少ない研究者として出発前に全員に講義をした島本講師、そういった重要なメンバーを失い、さらに血液学の杉山教授が重傷を負った今、研究調査活動を続けることは不可能であった。この災害は、医学部にとって大打撃だった。しかも、後世に残すべき貴重な標本や資料、調査記録がほとんど失われたことは、学界あげて取り組もうとしている原爆災害の研究にとっても痛手であった。
荒勝研の物理班にとっても、事情は同じだった。
翌二十四日、倒壊した病理試験室の下に埋もれたままになっていた西山助手と島谷女医の収容が行なわれた。大学のメンバーだけによる遺体の収容や捜索は思うようにはかどらなかった。道具が、鍬《くわ》二梃《ちよう》、スコップ二梃、鉄棒一本しかなかったのだ。まず午前中西山助手の遺体が遭難から一週間ぶりにようやく掘り出され、午後には島谷女医の遺体も収容することができた。二人の遺体はすぐに荼毘《だび》に付され、それぞれの肉親が遺骨を引き取って帰って行った。
この日昼頃、西山助手の遺体が発掘された近くから新たな遺体が発見された。もしや大久保講師ではないかというので、菊池教授らが駆け寄った。病院付の兵士らがスコップで土砂を掘っていた。上半身現われた遺体は兵士用のシャツを着ていた。大学の救援隊の者も発掘に加わった。顔は潰れて誰であるか識別できない。
「大久保君はこんなシャツを着ていたのか」
と、菊池教授が尋ねると、同じ教室の若い者が、
「大久保先生は、応召されたことがありますから、あるいは兵隊のシャツを持っておられたかも知れません」
と言った。しかし、誰一人、遭難時の大久保講師の服装を覚えている者はいなかった。そのうちに遺体の下半身まで掘り進むと、兵隊のズボンが見えて来た。どうも大久保講師とは思われなかった。場所も本館の流出位置から離れていた。そこへ、山津波の夜、遭難直前に大久保講師と一緒に、病院に仮泊用の毛布を借りに行った安西助手がやって来た。安西助手は、遺体を見ると、
「違います。大久保先生は白の開襟《かいきん》シャツに紺《こん》の上衣、紺のズボンでした」
と言った。遺体は、収容してよく調べた結果、病院付の曹長であることが判明した。
二十四日夜、宿舎の臨海荘に、教授ら主だったメンバーが集まって、大久保講師ら行方不明の三人の遺体の捜索をどうするかについてあらためて協議した。意見は二つに分れた。軍医の経験のある青木教授らは、
「軍が捜索中止を決定した以上、いつまでもわれわれだけが陸軍病院の敷地内を掘り返すわけにはいくまい。大久保君らには忍びないが、この際捜索続行は遠慮すべきではないか」
と言った。これに対し、菊池教授ら内科教室員たちは捜索続行を主張した。菊池教授は大久保講師夫人への約束を反古《ほご》にするわけにはいかなかった。
「いままでの遺体の発見状況から考えると、大久保君と島本君は壊れた本館の残骸付近に埋まっているのではないか。捜索範囲を絞って掘ってみれば、案外早く見つかると思う。本館の残骸は浜辺に堆積しているから、そのあたりに重点を置いてやってみたい。われわれの捜索については、私が病院の斯林《しばやし》院長に頼んでみる」
菊池教授は何が何でも続行するのだという決意を押し通した。結局翌日からの捜索は、菊池教授ら残留する救援隊に一任することになった。
翌二十五日、木村医学部長は、月初めからいた研究調査班員を率い、真下教授の遺骨を抱いて、大野浦駅から汽車で京都へ発った。
残った菊池教授らは、大野陸軍病院の斯林院長を訪ね、大学の行方不明者を捜すため、本館残骸のある浜辺付近だけでも掘らせてほしいと申し入れた。
「捜索を打ち切ったのは、応援の兵隊が引き揚げて労力不足になったからである。大学の方々だけで捜索をするのは一向に差し支えないが、病院の敷地をむやみに掘り返すのは困るから、一定の場所に限ってやって欲しい」
斯林院長は快諾してくれた。
行方不明者の捜索は、救援隊の手で細々と続けられた。
二十六日になって、到頭大久保講師の遺体が発見された。発見場所は、菊池教授らが見込んだ通り、海岸際の本館残骸の近くだった。山から流出した土砂は、すでに災害から九日を経て固まっており、その中から発掘された遺体は、ほとんどミイラ化していた。元気旺盛《おうせい》だった大久保講師の面影はそこにはなく、あまりの痛ましさに、みな言葉もなく合掌した。
その夜、大久保講師の遺体は、海岸で荼毘《だび》に付された。雨上がりのどんよりとした暗い夜だった。倒壊した病院の廃材を積み重ねて、火がつけられた。黒い海のほとりの累々たる石を照らして燃え上がる荼毘の赤い炎は、いつまでも消えなかった。
菊池教授は、「是非私の夫の消息をつかんで帰って下さい」と哀願するように言っていた大久保夫人のことを思うと、胸を絞めつけられた。夫人の待ち望んだ「消息」とは何だったのだろうか、それはあくまでもどこかで生きていて欲しいという神にすがる気持の表現ではなかったか。だが、いま「消息」をつきとめられた大久保君は、研究と救援のためにやって来た広島の果てで灰になろうとしている。夫人に何と言って伝えたらよいのか――。
発見された遺体は、次々に荼毘に付されていたが、大久保講師がその最後となった。島本講師と物理班の堀助手の遺体は、遂に発見することができないまま、二十七日で捜索作業は打ち切られた。病院の閉鎖が決まった中で、いつまでも滞在することはできなくなったからであった。
九月二十八日、京都大学の救援隊は、大久保講師の遺骨を抱いて、宇品の部隊から提供された舟艇で大野浦を離れた。瀬戸内海の島々の間には、帝国海軍の軍艦が撃沈されたままの姿をさらしていた。尾道まで直行した一行は、尾道で汽車に乗り換えて京都に帰った。
十月になって大学葬の日が間近に迫ったとき、京都大学医学部に新たな悲報が伝えられた。宇品分院からその後呉の病院に移されて治療を受けていた病理学の杉山教授が、吸いこんだ泥に起因する肺炎を起こして、病状が急に悪化し、九日朝死亡したのだった。病理の杉山教室は、白血病研究のホープ島本講師を失ったばかりか、主任教授まで亡くしたのであった。
大野陸軍病院における京都大学の死者行方不明者は、医学部八名、理学部三名、計十一名となった。
十月十一日、京都大学本部大講堂で、鳥養《とりかい》利三郎学長を葬儀委員長に、「殉難者大学葬」が神式で執り行なわれた。文部大臣、中国軍管区司令官、同軍医部長、大野陸軍病院長、学術会議会長、京都府知事、京都市長らが来賓として参列し、会葬者は、遺族、大学教職員、学生など数百人に上った。
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大野浦で見聞きしたことは、宇田技師にとっても北技手にとっても、大きな衝撃であった。もちろん廃屋に残った水野大尉らからの短時間の聞きとりの中で、以上のような京都大学研究調査班遭難事件の経過のすべてを知ることができたわけではないが、しかし事件の骨格については十分につかむことができた。山津波は、原爆で苦しみ抜いた者も、それを治療しようとした者も、後世のために研究資料を残そうとした者も、すべてを呑みこんでしまったのだ。しかも、台風が至近距離を通過しているなどとは誰も知らなかったのだ。
すでに調査が済んだ広島周辺の場合もそうだったのだが、あの夜風雨が激しくなったとき、それが台風であると知っていた被災者は皆無に近かった。台風に結びつけて予《あらかじ》め心配していたという証言を聞くことができたのは、厳島神社の社務所くらいなものであった。京大研究調査班の場合でさえ、診療や研究に追われていたあまり、台風災害のことなど想像もしていなかったのである。仮に風雨が気になってラジオに耳を傾けたとしても、ローカルの気象情報が復活していない以上、全国ニュースからだけでどれだけの情報を得ることができただろうか。稀有《けう》の猛台風の襲来と原爆災害の混乱とがぶつかったことは、あまりにも不幸であった。そのことは、気象技手としての北にとっても痛恨の極みであった。
大野陸軍病院を辞すと、夕暮れまでまだ時間があったので、せっかくここまで来たのだからと、宇田と北は、海岸沿いにもう少し先まで調査しようということになった。
大野浦から五粁程岩国に寄ったところに、玖波《くば》という町があり、その辺りでも大野浦に劣らぬ山津波の爪跡が残っていた。玖波の海岸に注ぐ川を少し遡《さかのぼ》ったところで、住民の古老から貴重な目撃談を聞くことができた。その古老は、山津波を横から見る位置に住んでいたのだった。
「あの夜は風も雨もひどうて寝ることもできんかった。そのうちにゴーッと、飛行機が二、三十機も編隊で飛んで来るような音がして山が抜けよった。大きな石が次から次からゴーッと転落して行くんじゃ。畳二枚分もある大石まで転び出よった。それらの石が衝突し合ってカチカチ火を出すんじゃ。まるで鮎《あゆ》漁の川松明《たいまつ》みたいにキラキラ光ってのお、あたりが明るく見えた程じゃった」
土石流が火花を散らすというのは、宇田にとっても北にとってもはじめて耳にする話だった。
大野浦駅に戻って帰りの汽車に乗ったとき、宇田も北も口が重くなっていた。それは、朝早くから歩きまわってさすがに疲れ果てたためでもあったが、何といっても、その日の経験の一つ一つが、あまりにも強烈で衝撃的だったからであった。夜汽車の窓から遠ざかって行く宮島の人家の明りのまたたきをぼんやり眺めながら、北は、闇の中を無数の巨石が火花を散らしながら轟々と流れ下る光景を想像していた。大野陸軍病院を襲った山津波もきっとそうであったに違いないと思いつつ――。
第五章 黒い雨
1
大野浦一帯の調査から帰ると、宇田技師は、原爆災害調査と台風災害調査のデータがそれぞれにあまりにも多く、混乱しそうになって来たので、この際比較的簡単な台風災害調査の方を先にまとめてしまおう、と言った。確かに菅原台長にとっても北にとっても、二つの論文に同時に取り組むことは、頭の中を整理するうえで、あまり効率的でなかった。台風災害調査の方は、中国地方の管内の測候所からのデータも集まったし、災害地の現地調査も済んでいたから、この方から片づけることに、誰も異存はなかった。
「集中的に作業をしてまとめてしまいましょう」
と、北は言った。
三人は、役割分担を次のように決めた。
○中国地方における台風の経路や降雨状況などの気象解析は、北技手、
○水害の概況と現地調査報告については、宇田技師、
○土石流の発生機構については、菅原台長、
○全体の取りまとめは、宇田技師。
当時、山崩れや土石流の発生の原因やメカニズムについては、河川学や砂防工学の分野で、ある程度は研究されていたものの、まだまだ未開拓の学問分野であった。
「風化花崗岩《かこうがん》地帯の広島周辺では、大雨によって山崩れや土石流が発生しやすい。大雨によってどのように山の斜面が崩壊するのか、その機構をはっきりさせることは、治山治水のためにぜひ必要なことだ」
そう言い出したのは、菅原だった。ただ菅原としても、本格的に砂防工学的な調査に取り組もうとまでは考えていなかった。広島周辺に台風による豪雨によって無数に発生した山地崩壊の現場を何カ所か選んで、とりあえずはその構造的な観察記録を残そう、という程度の提案だった。
「日曜日に下黒瀬の田舎に食糧を取りに行く機会にやれると思う。呉からその奥の郷原村や下黒瀬村辺りにかけて、無数の山崩れや土石流が発生しているから、適当なところを調査対象に選んでやってみよう」
菅原は、家族を下黒瀬村に置いていたため、土曜日から日曜日にかけて出かけては食糧をかついで帰っていた。その機会に田舎の山を調べよう、というのが菅原の考えだった。すでに菅原は、下黒瀬村などの大規模な山津波現場へ行って、崩壊斜面の流出表土層の厚さや傾斜面、林木の根の状態、土石流の到達範囲などを巻尺などを使って、こつこつと測量していた。測量結果は、スケッチ図にして丹念に記録していた。
枕崎台風報告の中に、土石流の発生機構という、気象学の分野以外の一項を入れることになったのは、以上のような菅原の個人的熱意によるものであった。
十月末には、中央気象台に提出する広島管区気象台分の『中国管区に於《お》ける枕崎台風調査』がまとめられた。
この報告書の中で、宇田は災害の問題点を簡潔に、しかしペンに力を入れて、次のように記した。
「この颱風《たいふう》の為に中国地方は惨害を被つたが、被害の様相は主に水害であつた。就中《なかんづく》颱風中心に最も近かつた広島県は未曾有《みぞう》の水害を被り、山口県が之《これ》に次いだ。
広島市は原子爆弾被害の直後の事ではあり相続いた水害の惨状は言語に絶した。広島県の流失家屋一三三〇、死傷行方不明合計三〇六六名と言ふ数字にも之は示されてゐる」
この報告書の特徴は、災害地における“聞き書き”を、豊富に掲載したことであった。洪水や山津波の被災者の体験談を、災害研究に役立つようなポイントに重点を置いて整理し、「××氏談」という形で列記したのである。当時の気象技術報告としては、型破りとも言えるまとめ方であったが、それは、「災害研究の出発点は現場にある。気象災害報告のように、後になって多くの人が参照する文献は、できるだけオリジナルの資料を豊富に記載してあった方が役に立つ。科学技術の文献であっても血の通ったものでなければならない」という宇田技師の哲学を反映したものであった。そして、この宇田技師の哲学と方法は、次の原爆災害報告にもそっくり採用されることになった。
(中央気象台では編集者の中にルーズな者がいたため、全体を取りまとめた中央気象台彙報《いほう》『枕崎・阿久根颱風調査報告』が印刷製本されたのは、昭和二十四年三月になってからであった。なお、本書序章末尾に引用した同『報告』梗概《こうがい》の「昭和二十年九月十七日九州南端枕崎付近に上陸した台風は……」のくだりは、中央気象台予報課の斎藤博英技師、根本順吉技師らによって執筆されたものである。)
十月末のある日、台員たちにとって見覚えのある青年が、気象台の事務室に現われ、「今日は」と元気に挨拶した。
「津村です、その節は大変お世話になりました」
と、その青年は言った。台員たちがよく見れば、原爆で全身に火傷《やけど》を負い宿直室で手当てを受けた本科生の津村正樹だった。顔にケロイドを残していたが、すっかり元気になっていた。
「やあ、生きておったか。元気そうじゃあないか」
事務室にいた北は驚きながら、津村を暖かく歓迎した。宿直室で一時は屍臭《ししゆう》さえただよわせた津村は、姉に引きとられて瀬戸内海の小島木江に帰って行ったのだが、その後の消息については、一、二度挨拶の葉書が来た程度で、台員たちははっきりしたことを知らなかったし、いつしか気にかけることも少なくなっていた。
「もうすっかり快いのか」
と北が尋ねると、津村は「お陰様で良くなりました」と、療養の経過を語った。
「島に帰ってから、火傷の方は膿《うみ》も退《ひ》いて良くなったのですが、九月になってから身体《からだ》はだるいし、頭痛がひどいので医者に診てもらいましたら、白血球が三千五百しかないと言うのです。普通の人の半分だと医者は言ってました。毎日三十tずつ一週間ほど輸血をしました。家族や親戚《しんせき》の人が血を出してくれたのです。そのうちに白血球数も増えて、九月末頃にはもう大丈夫だと医者は言って、治療を打ち切りました。その後も疲れ易いので、家でぶらぶらしていましたが、やっと自信がついたので学校へ戻ろうと思って出て来たのです」
津村は、明日上京する予定で、今夜は広島の知人宅に泊るつもりだと言った。
「あいにく台長は田舎へ帰っていて留守なのだ。午後には帰られると思うから、ぜひ台長にも挨拶をした方がいいぞ。君と一緒に宿直室で寝ていた福原君もすっかり元気がよくなってな、つい先日上京して行った。福原君も田舎へ帰ってから原爆病で随分苦しんだらしいが、台風の後しばらくして広島へ出て来て、ここで観測の手伝いをしておった。そのうちに東京の養成所から授業を再開するという連絡が来たので上京して行った。君が元気に学校へ行ったら、福原君は驚くぞ」
北はそう言って津村を励ました。
津村は、翌日再び気象台に姿を見せ、菅原台長に挨拶を済ませると、元気に上京して行った。原爆によって重傷を負った本科生の福原と津村がすっかり元気になって復学したことは、台員たちをほっとさせた。
この頃中央気象台からようやく台員の住宅対策の資金援助があった。菅原台長がかねて陳情していたものだった。広島管区気象台では、江波の陸軍病院の仮設病棟を借り受け、それを住宅として改築した。復員や異動や新採用によって増えつつあった職員の住いを確保することが急務だったからだ。住宅とは言っても、バラック同然の長屋であったが、それでも住宅難の街で、その後数年間気象台にとっては欠かせぬ官舎となった。
食糧難の方は、日毎に深刻になるばかりだった。配給は遅配した。台長や北らは、田舎から持ち帰ったものをできるだけ独身官舎に差し入れしたが、そんなもので若者たちの食欲を満たすことはできなかった。「広島駅前にすいとん屋があるそうだ」とか「呉まで行くとうまい団子屋があるそうだ」といった情報交換が、独身者たちのもっぱらの話題であった。
ある日、江波山の高射砲隊の倉庫の備品に手を出そうとした若い台員がいた。盗みをするといった大袈裟《おおげさ》なものではなく、ちょっと失敬して闇市で処分すれば、腹の足しになるものが買えるだろうという程度の出来心だった。高射砲隊はすでに引き揚げていなかったが、倉庫にはまだ軍の物資が残されていたのだった。それに手をつけることは、本人の意識がどうであれ、やはり盗みであることに違いなかった。
これを見つけた遠藤技手は、その若い台員を怒鳴りつけた。
「いくら腹が減っても毛唐みたいなことをするな。日本人として恥かしいぞ」
日本の古代史や民俗学の研究を趣味にしていた愛国者遠藤らしい怒り方だった。「毛唐みたいなこと」と言ったのは、進駐軍がいたるところで公然と略奪をしていたことを指していた。とくに呉に進駐した豪洲軍は荒っぽかった。気象台に進駐軍の将兵数人が二度目の調査にやって来たとき、何国人かはわからなかったが、兵隊たちは帰りしなに物も言わずに電気スタンドやペンシル、ソロバンなどをかき集めて持って行った。観測業務にすぐに差し支えるものではなかったが、原爆後の物資不足の中で、気象台では紙一枚でさえ大事にしていただけに、台員たちは口惜《く や》しさに歯ぎしりした。遠藤は、いくら腹が減ってもそんな心のすさんだことはするな、と言ったのだった。
2
台風災害調査を終えた宇田、菅原、北の三人は、中堅の山根技手、若手の西田技術員、中根技術員の三人を動員して、原爆災害調査の追いこみに入っていた。
北は、被爆者の一般的な聞きとり調査と並行して、爆心地及び爆心高度を推定するための測量を行なった。
爆心地については、北らは、相生橋東詰近くにある商工陳列館(今日原爆ドームとして残されている)の直ぐ南の墓地付近と判断した。倒壊物の折れ曲った方向や焦痕《こげあと》ができている方向、墓石の倒れ方などから推定したのだった。
次に、爆心の高度についての測量方法は、原爆炸裂《さくれつ》の瞬間に熱線によって物体に残された影と遮蔽物《しやへいぶつ》との位置関係から、熱線の入射角を求め、この入射角と爆心地までの距離とから三角法で爆心の高度を計算するというやり方をした。この方法は、調査を開始する段階で、宇田技師に話して同意を得ていた。
測量には、巻尺や水準儀を使うため、北は中根技術員に同行してもらった。
測量地点として、北は、聞きとり調査の際に各所で発見した熱線の影のうち、爆心からある程度離れていて、爆風による物体の移動や変形のない次の四カ所を選んだ。
〓爆心地の北東一・八七粁にある二葉山鶴羽根神社社務所。二階の外廻りの柱が熱線で黒く焦げているが、庇《ひさし》の影が残っている。
〓爆心地の北東一・八五粁の同神社拝殿。拝殿上部の檜造《ひのきづく》りの構造部分にやはり庇の影が残っている。
〓爆心地から北に二・五粁の山手川上流、三滝橋〜新庄間堤防際の竹林。竹の幹に堤防の影が残っている。
〓爆心地から北に二・一粁のやはり山手川上流、三滝橋際の竹。竹の幹に橋の欄干の影が残っている。
これらの四地点の入射角を測定し、爆心高度を求めた結果は、次の通りであった。
〓入射角二〇度五五分、推定高度七一四米。
〓 〃 一八度〇一分、 〃 六〇一米。
〓 〃 一六度三〇分、 〃 七四〇米。
〓 〃 一〇度五六分、 〃 四〇五米。
測量誤差によって、若干のばらつきはあるが、爆心の高度、つまり原子爆弾の炸裂地点は、地上数百米の空間であったことにほぼ間違いない。
これら四つのデータを平均すると、爆心の高度は、六一五米となる。北は、「爆心位置は、商工陳列館の直ぐ南の墓地付近、高度は六百米前後と見られる」という結論を出した。
(理化学研究所の木村一治副研究員と田島英三助手は、爆心地に近い別の地点で同じ方法による測定を行なった結果、爆心の高度は五七七米、誤差はプラスマイナス二〇米という結論を出している。今日この数字が一般に使われているが、北らの測定結果はほとんど理研グループの結論と一致していたと言えよう。)
北が、もう一つ自分の力で明らかにしたいと思ったのは、全市的に破壊現象をもたらした爆風圧はどれ位の強さだったのかということであった。爆心から三・六粁も離れた気象台周辺の江波町でさえ、屋外では体重が五十瓩《キロ》から六十瓩以上もある大人が数米も飛ばされている。気象台の中でも伏せるのが遅れた者は投げ飛ばされている。一体これだけのエネルギーを持った爆風は、風速にするとどれ位のものになるのだろうか、その値を求めることはできないものか、と北は考えた。
北は、何か手がかりが見つかるのではないかと思って、八月六日朝の風速計の記録を調べてみた。
瞬間風速を記録するダインス式風圧計の記録紙には、何の痕跡《こんせき》も残っていなかった。ダインス式風圧計は、最高六十米までの風速を記録する仕組みになっているが、爆風のような瞬間的な風圧は、はるかに器械の観測能力を越えていたのだった。一方、椀型風力計(平均風速計のこと)の記録を調べると、椀が瞬間的に急激に回転したと見られる痕跡が残されていた。その痕跡を秒速に換算すると、風速三百米という値になった。風速三百米という風は、ほとんど音速に近い。台風のときでさえあり得ない風である。しかし、椀型風力計の椀といえども、瞬間的な爆風について行くだけの回転能力はない筈である。つまり爆風の風圧の力はもっと強かったかも知れないのだが、椀が回り切れずにようやく風速三百米までの記録をすることができたと考えた方がよさそうだ、と北は考えた。
少なくとも爆風が、風速三百米より強かったことだけは確認できたのだが、それではその強さは秒速五百米なのか千米なのか。北は、あの日の朝気象台の無線受信室の窓から目撃した原爆炸裂の瞬間を想い浮べているうちに、ある方法を思いついた。
あの朝、自分は、閃光《せんこう》を感じてハッとして顔を上げ、北の空に白色の朝顔の花のような光幕がサーッと超スピードで円形に広がっていくのを見た。次の瞬間には、眼前近くでマグネシウムを大量に焚《た》かれたような閃光と熱を感じ、咄嗟《とつさ》に至近弾を受けたものと思って椅子をはねのけ床に身を伏せた。轟然《ごうぜん》と爆風が頭上を掠《かす》めて行ったのは、床に伏せてから二、三秒後だった。
北は、最初に閃光を感じてから爆風が来るまでの動作を当日そのままに何度も繰り返してみた。そして、その時間経過をストップウォッチで計測した。経過時間は、約五秒間であった。
爆心地から気象台まで三・六粁。閃光と同時に発生した爆風がその距離を伝わって気象台に達するまでの所要時間が約五秒。ということになると、爆風の速度は、秒速約七百米となる。音速の約二倍だ。
後日、北は、中国軍管区司令部軍医部の井街軍医少尉が郊外の五日市町坪井というところで、同じような方法で爆風を測定したデータがあるのを知ることができた。それによると、五日市町における爆風の速度は秒速六百八十米であった。五日市町坪井は、爆心地から西に十・二粁も離れている。
たった一発の爆弾の炸裂によって生じた爆風が、爆心から三粁乃至十粁の地点においてさえ、秒速七百米前後という猛烈なエネルギーを持って広がって行ったのだ。気象という自然現象を相手に仕事をして来た北にとって、この数字は想像を越えたものであり、人間の創り出した破壊力のすさまじさにただ驚くのみであった。
気象台として取り組んでいた原爆災害調査の主な項目は、「爆発当時の景況」「爆心の決定」「風の変化」「降雨現象」「飛撒《ひさん》降下物の範囲」「爆風の強さと破壊現象」「火傷と火災の範囲」などであったが、聞きとり調査が進むにつれて、原爆投下直後の顕著な気象変化として各所で熱旋風や豪雨が発生していたことが明らかになって来た。
黒ずんだ雨が避難する負傷者の群れに降りそそいだことは、調査に加わった西田宗隆の体験談などからわかっていたが、実際に調査してみるとこの黒い雨は局地的には激しい豪雨になっていたことが明らかになって来たのである。また熱旋風の発生は、聞きとり調査ではじめてわかったものだった。
調査のまとめ役の宇田は、気象学的な見地からこの熱旋風と黒い雨に強い関心を抱いたが、とりわけ黒い雨については個人的な体験もからんで積極的にメカニズムを解明しようとした。個人的な体験とは、黒い雨による残留放射能によって自分の息子が脱毛などの放射能障害に罹《かか》るというショックを受けたことであった。
宇田は原爆で皆実町の自宅が破壊されたため、原爆後は爆心地から西に四・二粁程離れた郊外の高須に移り住んでいた。子供は三人いたが、そのうち一人だけ親許《おやもと》を離れて疎開していた小学校六年生の次男が、十月になって疎開先から帰って来た。ところがその次男が、広島に帰って間もなく髪の毛が脱ける脱毛症状を起こした。高須から己斐にかけての一帯では、脱毛したとか下痢をしたという話をよく耳にしていたので、宇田は次男も残留放射能にやられたに違いないと心配した。それにしても二カ月も経っているのにおかしいと思っていたところへ、近所に理化学研究所の調査班が残留放射能の調査にやって来た。調査班は、理研仁科研究室の宮崎友喜雄と佐々木忠義という二人の若手研究員だった。宇田は、仁科研究室の人たちとは顔見知りだったので、自宅へ招いて、昼食をふるまった。
宇田は、宮崎、佐々木の二人に、原爆のときは広島に居なかった自分の次男が最近疎開先から帰ったら急に脱毛したのだが、このあたりはまだ強い放射能が残っているのだろうか、と尋ねた。
「この付近の泥を測定しますと、どうもかなり高い放射能の値を示しています。直後に降った雨で放射能が運ばれて来たようです。ひとつ先生のお宅も測ってみましょうか」と、宮崎が言った。
二人は携帯用の測定器械を持っていたので、宇田の家のまわりをあちこち測定してみた。驚いたことに、雨戸にこびりついた泥から非常に強い放射能が出ていることが発見された。その雨戸は、原爆のとき爆風で庭に吹き飛ばされ、間もなく降って来た黒ずんだ雨に打たれて、雨水中の泥分がこびりついていたのだった。宇田はそのまま雨戸を元に戻して使っていたが、泥は雨戸の内側にこびりついていたため、台風の大雨にも洗われずに残っていた。宇田の次男は、その雨戸の傍《そば》に寝床をとっていたのだから、かなり強い放射能を受けていたことになる。脱毛の原因がわかると、宇田はすぐに雨戸を取り片付けてしまった。理研の二人は、貴重な資料だから放射能の正確な測定をしたい、と言って雨戸の泥を採集ビンに入れて持って帰った。雨戸を除《ど》けた後、次男の症状は悪化することもなく、間もなく回復した。
この経験があったので、宇田は台員たちから提出される聞き書きのノートを読むときには、その証言の中から降雨時間や降雨域、雨量強度などを知る手掛りを見出《みいだ》すことにとりわけ熱心になった。
「黒い雨が強い放射能を帯びた泥を含んでいたとするなら、雨がどのようにして発生し、どのような地域にどれくらい降ったのかを明らかにすることは、単に原爆に伴う気象現象の変化を解明するのに役立つばかりではなく、放射能の影響範囲と影響度を調べるためにも重要な資料となる筈だ」
宇田は、黒い雨の調査の重要性について台員たちにこう説明した。
宇田は被爆体験者の証言を爆心地から距離と方角別に分類し、地域別に証言を読み返した。その結果、爆心地付近では原爆炸裂後二十分ほどしてはやくも雨が降り始めたことがわかった。
例えば、爆心地から南西に〇・八粁の河原町西組の住民(男)は次のように語っていた。
「閃光がして二、三十分経った頃じゃったが、大粒の雨が降り出してのぉ、それから三十分から小一時間も痛いほどの大粒の雨が抜けるほど降りよった。白い物は黒くなるし、川に流れ出た水は真黒じゃったよ。もっとも雨は途中から白くなったが……」
雨の降り方が「痛いほど」だったということは、短時間ながら豪雨と言ってもよい状態であったことを示している。降雨域は積乱雲の発達に伴い次第に広がって行った。一時間ほど経った頃には、西の己斐、北の三滝方面をはじめ横川、三篠方面から南の舟入、観音方面に至る広い範囲で雨が降り出していた。
爆心地から西に一・一粁の天満本通りで被爆した岡本氏は、己斐方面へ避難する途中雨に打たれたと語っていた。
「あのピカッという光は稲妻なんていうものじゃない。何だか暖かいものをグッと吸いこんだと思ったら、ガラガラッと家が崩れて、あたりが真暗になってしもうた。数秒ほど経ったろうか、土煙りが晴れたので起き上がって外へ這《は》い出すと、驚いたことに、街中全部見通せるじゃないか。そのうちに人が沢山逃げて来るのじゃが、男も女も火傷して着物はボロボロ、裸同然でのぉ。八時五十分頃付近が燃えて来たので、わしも逃げた。福島川のところへ着いたとき雨が降り出して、大粒の雨なものじゃから、川の水面がパッパッと光ってその輪が油のように広がる。しばらくすると雷がゴロゴロ鳴り出して本降りになってのぉ――」
爆心地から北西に〇・八粁の西引御堂町の町工場で被爆した堂面一衛氏も、鉄道線路沿いに避難する途中ずぶ濡れになった。
「倒れた工場から這い出して見ると、付近は一面ペシャンコで火災になっておった。付近の住民はほとんど全滅、逃げようと思って天満川に出たとき、大雨と大風に襲われてのぉ、雨は粒の大きい痛いような荒々しい雨じゃった。川を泳いで渡り、それから北の横川へ出て鉄道線路沿いに高須まで逃げたが、雨は高須付近に行くまで降っておった。黒くよごれた雨で、油のように見えた。男も女も火傷で皮が剥《む》け、血まみれでほとんど丸裸、真黒い油のような雨を浴びて泣き叫びながら逃げていった。横川や己斐あたりでは線路の柵の杭頭《くいがしら》が燃え、山手町では松の木まで燃えていたのぉ」
爆心地から二・一粁の山手町で被爆した大村氏は――
「パーッと光ったと思ったら、爆風で家が傾き、屋根や鴨居《かもい》が落ちかかった。それから三十分ほど経ってから雨が降り出して、ザーザー夕立のように一時間くらい降りよった。雨水は二日も三日も大雨が降ったときのように二尺ほども溜《たま》ったのじゃ」
北西二・五粁の己斐上町の町内会長土井氏の証言は――
「光って約一時間後じゃったが、ザーザー篠《しの》つく雨になって、二時間くらい降った。墨のような水で、池や田の鯉は全滅し、木犀《もくせい》や樫《かし》などは枯れ、黍《きび》など穂の出立ちのものも全滅じゃった」
北西一・九粁の打越町、波田氏の場合は――
「畑仕事をしていると火花が二度走って、爆風も二度じゃった。背中のシャツに火が着いて背中から顔やら腕やらに火傷を負ってしもうた。家に急いで帰ると、屋根は吹き上げられて、ほとんど倒壊したも同然で、家内が背中と手に大火傷をして下敷になっておったのを救け出したんじゃ。一時間ほど経ってから夕立のような大雨となって、雷がまるで爆発と同じような凄《すご》い音で鳴り轟《とどろ》いてのぉ。溜った雨水は真黒、池の水も真黒で飼っていた鯉十匹が全部死んでしもうた。雨は痛いほど大粒で、大怪我をして丸裸でやって来た避難民はみな『寒い、寒い』と言っておった。南瓜《かぼちや》や芋、稲、黍、粟は葉が焼けたり、白穂になったり、枯れたりしてしもうた。南瓜はその後新芽は出るには出たのじゃが、実がならんし、甘藷《かんしよ》や里芋も太らない、ピカのせいかいのぉ」
己斐の南の高須や古田あたりでも強い雨が降った。宇田の次男が残留放射能の影響を受けたのは、高須だが、高須付近での降雨状況について、高須農業会出張所(爆心地から西に三・二粁)の所員は、「雨は光って一時間以上経ってから降り出し、三十分くらいジャンジャン降りとなって、衣類も顔もよごれ、池の鯉も死んだ」と語っていた。また、爆心地から西南西に五粁の古田町の藤田氏は、「雨は十一時頃から降り出し、モビール廃油を溶いたような黒い雨垂れとなった」と話していた。
南の江波山では雨は全く降らず、一日中太陽が照りつけていたが、市の南部から東部にかけての地域では黒い雨は降らなかったことが、聞きとり調査で明確になった。黒い雨が降ったのは、市の中心部から西及び北にかけての地域だった。また爆心地のやや北側では、雨の降り始めはむしろ遅かったが、二度雨が降ったり、かなり長い時間降り続いたりしたことも明らかになって来た。
爆心地から北に一・二粁の西白島《はくしま》町で両眼に負傷した広兼氏は――
「火事の後、物凄い大雨になって、昼頃肌に痛いくらい打たれてのぉ。一回降って少し小降りになり、また降り出して三十分くらい続いた。旋風《つむじかぜ》も起こって材木まで吹き飛ばしたんじゃけえ」
また、爆心地から二・二粁の三篠本町二丁目の富樫《とがし》氏は、「光ってから約一時間後に大雨となり午後三時過ぎまで続いた」と話していた。
市内の降雨域や降雨状況がはっきりして来るにつれて、宇田は、原爆によって発生した積乱雲が風に流されて西ないし北の方角に移動していったのなら、黒い雨の調査範囲を市外にまで広げる必要があると考えた。宇田は、菅原や北らを集めて自分の頭の中で整理されつつある黒い雨の概要を説明するとともに、調査範囲を広げて欲しいと要請した。
「聞き書きの証言を読むと、黒い雨の降った地域は、広島市内の西部から北部にかけての広い範囲に広がっている。しかし雨はもっと広い範囲に及んでいるかも知れない。降雨域を正確にするために、広島の西から北にかけての村の方も調べて欲しいのだ。もちろん私も遠方の調査に出かけるつもりだ」
こうして宇田をはじめ台員たちは、相変らずの芋弁当を下げて、バスで山村にまで足を延ばした。調査地域は、西は佐伯《さえき》郡石内村から伴《とも》村にかけて、北は可部町や広島から三十粁以上も山奥の山県郡安野村や殿賀《とのが》村にまで及び、台員たちは一人ずつに分れて歩きまわった。
調査の成果は大きかった。山間部でも広い範囲で土砂降りの黒い雨が降ったことをはっきりと突きとめることができたのである。宇田の手許に集まった新たな聞き書きメモの主なものは、次のようなものであった。
爆心地から北西に六粁、石内村原田三叉路《さんさろ》の永井、山崎の両氏――
「東側(広島市側)のガラスみな壊れ、障子も外れ、天井が吹き上げられた。光って三十分くらい経って黒い雨が降り出し、一時間も続いた。黒い水がずいぶん流れた。十一時から十二時頃どんどん降り、十三時頃に止《や》んだ。はじめはゴミの混った黒い雨で、後半は白い雨になった。雨の降る前にトタン板やソギ板や紙などが降って来た」
西北西に八粁の石内村湯戸東端、田中氏――
「光って三十分くらいしてからだったのぉ、黒い雨がザーザー降って、八幡川の水が真黒になってしもうた。鰻《うなぎ》が死んで浮いとった。芋の葉の上に真黒いコールタールを流したような点々が残ったり、黒い雨のかかった草を喰わせた牛が下痢をしたりじゃった」
北西に七粁の伴村、大塚、上原の両氏――
「田んぼで草取りしよって、その後寝ついて死んだ人いるんじゃ。雨は大粒の黒い雨で、大雷雨じゃった。谷川に轟々と真黒い水が流れて真白い泡《あわ》を立て、鮠《はや》や鰻が死んだ、蝦蟹《えびがに》は生きとったが。紙やトタン板も飛んで来て雨と一緒に降ったんじゃ。稲は真黒になったが、不思議なほどよく育って、台風さえなければ豊作間違いなしだったのにのぉ」
北に八・五粁の安《やす》村相田、村役場の吏員――
「ピカーッとしてから二、三分してバーンと爆風が来てガラスが壊れた。東の武田山の上に広島側から黒雲がモクモクと昇って西の方へ動いて来よった。しばらくすると黒雲が空一面に広がり、大粒の雨がザーザー降り出してのぉ、降り出したのは光ってから一時間くらい経ってからで、雨は三十分くらい続いたなあ。安川の水が墨のように黒うなって、二日間も黒かったんじゃ。魚は死んだし、田草取りをしていた女の人が軽い火傷を負ったほどじゃった」
広島の山奥でも黒い雨は降ったが、降雨域の北限付近の様子は次のようなものであった。
爆心地から北々西に二十粁の山県郡安野村澄合《すみあい》の村民の話――
「黒い小雨が降って、濡れた服に小さな斑点ができてのぉ、洗濯してもなかなか落ちんかった。雷が鳴り、紙やソギ板も飛んで来よった」
北西に二十粁の水内《みのち》村久日市《さかいち》の村民の話――
「黒い小雨がパラパラ降って来たときは、油かと思うたんじゃ。雨は三十分から一時間くらい降ったろうか、そのほか紙切れや五十銭の札束なども落ちて来よった」
北西に二十六粁の殿賀村西調子の村民の話――
「大粒の雨がバラバラ降って雷も鳴ったのぉ。紙切れも少し飛んで来よった」
山村での聞きとりを終えて、それぞれのノートを持ち寄った台員たちは、一様に「調べに行ってよかった」と言い合った。二十粁以上も山奥にまで不気味なキノコ雲が流れて黒い雨を降らせたとは、足で調べなければわからないことだった。そして調査の成果を手にしたとき、気象台の者でなければそうした調査の必要に気付かなかったであろうという自負心が、宇田の心にも菅原や北の心にも芽生えていた。
3
十一月中旬に入ると、宇田は気象台の図書室に布団を持ちこんで、泊りこみで資料の解析と報告の取りまとめ作業に入った。
宇田、菅原、北、山根、西田、中根の六人が収集した聞き書きは、実に百数十件に達していた。各人のノートに記された聞き書きは、一つ一つがあの日何が起こったかを生き生きと証言していた。
これだけの数の聞き書きの整理と解析の方法として、宇田は、証言の中に含まれる体験事実から、
○火災発生後の風当たり方向や煙のたなびき工合から推定される風向。
○旋風の状況。
○飛撒降下物の内容。
○雨が降った時間と雨の強さ及び雨の性状。
○雷鳴。
○熱線による自然着火の有無及び着火物。
○火傷の度合。
などの要素を抜き出し、それぞれの事実を要素別の白地図の上にプロットするというやり方をとった。これは大変骨の折れる作業だった。例えば、雨の分布地図を作成するためには、大雨なら「黒マル」、中程度の雨なら「半黒マル」、小雨なら「白マルの中に黒点」、雨が降らなかった地点には「白マル」というように分類して、白地図上のそれぞれの証言者の体験場所に記入し、さらに雨の降り出した推定時間や降雨継続時間も併記するというぐあいに、細かい神経を使う頭の痛くなるようなプロッティングの作業だった。
しかし苦労をしただけの甲斐《かい》はあった。プロットが完了すると、風や飛撤物や雨や火災や火傷など、どの要素についても、地図の上にはっきりとした分布と特徴がまるで模様を描いたように現われて来たのである。
黒い雨についての調査と解析の結果は概略次のようなものであった。
〓降雨状況
〓 雨は、爆撃の閃光があった後二十分後から一時間後に降り始めた地域が多いが、市北部の白島町など一部では二時間から四時間も経ってから降り始めている。夕方までにはすべて降り止んだ。
〓 雨は、爆撃による上昇気流とその後の火災による上昇気流が重なって巨大な積乱雲が発生したために降ったものである。
〓 降雨域の範囲は、広島市中心の爆心付近に始まり、広島市北部から西部にかけての地域を中心に降って北西方向の山地に延び、遠く山県郡に及んで終る長径二十九粁、短径十五粁の長卵形をなしている。
このうちとくに二時間以上土砂降りの続いた豪雨域は、広島市北部の白島、横川、三篠から西部の山手、広瀬、福島、己斐、高須などの地域に広がり、さらに西方の山村の石内村、伴《とも》村を越えてはるか北方の戸山村、久地《くじ》村に及ぶ長径十九粁、短径十一粁の長卵形の区域になっている。
〓雨水の性状
〓 黒い雨の状況と影響
@降り始めの小雨の雨粒にとくに黒い泥分が多いため、粘り気があり、当時「敵は油を撒《ま》いた」と騒がれたが、臭いはなく油とは異っていた。しかし白い衣服も絣《かすり》状になり、あるいは笹の葉などに黒焦が残った。
A谷川を轟々と流下する黒雨による出水は真白い泡を立てて流れた。流れる川水は墨を溶いたように黒かった。
B土砂降りの雨滴は、雹《ひよう》のように大粒の雨で、裸の身体には痛いほどであった。
C大雨の最中は、盛夏の暑い日であったにかかわらず、気温が急に下がり、裸や薄着で脱出した人々は寒くて慄《ふる》えるほどであった。
D雨水中の泥分は、放射能がすこぶる強大であった。
E池の鯉や川の鮠《はや》、鰻などの魚類が黒い雨水の流入によって斃死《へいし》浮上した。
F牛が泥雨のかかった草を喰べて下痢した。
G稲田の害虫がいなくなり、稲は特別の肥料を与えられたかのように異常な成育を示した。(豊作が期待されたが、枕崎台風と阿久根台風とによって無残にも流失あるいは冠水し、期待は水の泡となった。)
〓 雨水中の泥の本体
黒い雨に含まれた泥の成分は、原爆が爆発したときに黒煙として昇った泥塵《でいじん》と火災による煤塵《ばいじん》とを主体とし、さらに原爆によって空中にばら撒かれた放射性物質を混合して含んだものである。
黒い雨は最初の一、二時間で、やがて雨は白い普通の雨になった。これは、空気中の塵埃《じんあい》が雨によって一、二時間でほぼ洗い落とされたためと見られる。このため初期の降雨量が多かった広島市西部の己斐、高須方面はとくに雨の泥が高い放射能を示し、爆発後三カ月にわたって下痢や脱毛を起こす住民が多かった。これは水道が断水したため、黒い雨の流れこんだ井戸水や地下水を飲水に使ったことが大きな原因とみられる。
〓 降雨量の推定
己斐の谷川や北西方の伴村、安村を流れる安川などでは、九月の枕崎台風のときとほとんど同じ位の出水があった。降雨時間と出水量の相互関係から計算すると、降雨量は一時間から三時間の間に五十粍《ミリ》から百粍に達したものと推定される。
以上のような調査と解析の結果に基いて、宇田は、黒い雨についての総括を次のように書いた。
「(原爆による広島の)驟雨《しゆうう》現象は、特に局部的に激烈顕著でかつ比較的広範囲で、長径十九粁、短径十一粁の楕円形乃至《ないし》長卵形の区域に相当激しい一時間以上乃至それ以上も継続せる驟雨を示し、少しでも雨の降った区域は長径二十九粁、短径十五粁に及ぶ長卵形をなしている。
さらにこの雨水は黒色の泥雨を呈したばかりでなく、その泥塵が強烈な放射能を呈し人体に脱毛、下痢等の毒性生理作用を示し、魚類の斃死浮上其《その》他の現象をも現わした。そしてその後も長く(二、三カ月も)広島西部地区の土地に高放射能性をとどめる重要原因をなした」
黒い雨と並んで宇田が強い関心を持った旋風に関するデータは、風の分布図の中に記入されたが、その分布図を作り終えると、宇田は言った。
「地図上にプロットされた旋風は、全部で十四カ所で発生しているが、このうち十三カ所までは川沿いに発生している。しかも竜巻と言ってもよい激しいものだ。
関東大震災の大火のときも隅田川沿いに熱旋風が次々に発生したが、それとよく似ている」
関東大震災のとき、火災につつまれた東京や横浜の市内では、数十カ所で熱旋風が発生し、被害を一層悽惨《せいさん》なものにした。とりわけ隅田川沿いに発生した熱旋風は規模が大きく、本所被服廠《ひふくしよう》跡の広場を襲って、避難していた四万人のうち三万八千人を焼死させた。宇田は震災当時仙台の二高にいたが、翌年震災の跡もまだ生々しい東京に来て東京帝大理学部の物理学科に入り、震災時の旋風の調査研究をした寺田寅彦教授から何度か旋風の話を聞いていた。宇田は、寺田寅彦が作成した旋風の発生分布図などの調査報告に強い関心を持ち、それを記憶していた。
原爆後の火災によって発生した旋風が、関東大震災のときの熱旋風と変らぬものであることが、被爆体験者からの聞き書きによってはっきりとわかったのだった。旋風は黒い雨の降らなかった東寄りの地域に多く発生していた。
爆心地の北東一・七粁の大須賀町で被爆した町内会長象面氏によると――
「わしは潰《つぶ》れた家の下敷になったのじゃが、瓦を蹴《け》って外へ出ると、わが家から火が出とる。急いで消火したが、方々の家で『助けてくれ』と叫ぶ声がするので、その救護に当たっているうちに、広島駅付近から出火しているのが見えよった。たちまち火は広がって攻め寄せて来たので、近くの疎開空地に逃げて石垣の陰で火を避けたんじゃが、熱くてのぉ。そのうえ幅数米の竜巻が飛んで来て、トタン板をまるで紙を剥《は》ぐようにくしゃくしゃにして飛ばす、竜巻は三十回も来たろう。竜巻で家や橋がやられてのぉ、川の水を七、八尺も巻き上げよった」
爆心地から東北東に一・二粁の幟《のぼり》町で被爆した高岡氏は、泉邸に逃げこんで旋風に襲われたという。
「ピカッと来て気がついたら家の下敷になっておった。自分で這い出すと、まわりが火事なので、泉邸の方へ逃げたんじゃが、火が迫って来て熱くてのぉ。泉邸前の神田川に入ってオーバーを水に浸してかぶり、首だけ出して身を守った。ところが物凄い竜巻が襲って来て巻きこまれそうになったものだから、夢中で川べりの木につかまってかがんでおった。六尺もあるトタン板や瓦が空が暗くなるほど舞い上がっていた。雨が降り出したのは、それとほとんど同時じゃった。大粒の恐ろしいような大雨じゃった」
原爆の放射能と熱線とで焼かれた市民は、次には旋風の焦熱地獄に直面させられ、中には旋風と黒い雨の二重の責めに会った者も少なくなかったのだ。
被爆体験者の聞き書きから明らかになった旋風の状況とエネルギーは次のようなものであった。
○常盤橋付近から泉邸にかけて――ドラム罐《かん》を捲《ま》き上げ、径三尺位のトタン板も捲き上げ、屋根に葺《ふ》いたトタン板は紙を剥ぐように舞い飛んだ。
○白島太田川付近――鉄板が舞い飛び、厚さ一寸位の厚板も宙に吹き飛んだ。
○柳橋付近――衣類入り行李《こうり》や鉄板が捲き上げられた。
○栄橋付近――人間を六人も捲き上げ、橋につかまって漸《ようや》く昇天を免れ得た者もいた。燃えたドラム罐も宙に浮く。
○大須賀町常盤橋付近――一升瓶《びん》が宙に浮び踊り、ビール瓶三本転がり来る。
○広島駅構内――客車が旋風のためひとりでに転がり動き出した。
○横川駅付近――火焔《かえん》を北から南に数十米吹き付ける強風を示した。そして火のついた木材が舞い上がった。
このような旋風の発生原因について、宇田は、「河川の両岸は火災による熱で激しい上昇気流が発生しているのに対し、水面上は比較的低温で下降気流が生じ、両者がよれ合って河川沿いに旋風の群列を発生させたものであろう。折から火災地域は、南からの海風と北からの陸風がぶつかり合ってほぼ川沿いに前線帯を作っていたため、この前線帯では旋風が最も激烈となった」と解析した。
宇田の解析と報告文の作成を手伝うことは、台員たちにとって大きな勉強となった。とりわけ原爆の日に江波山の上から炎上する市街地を終日眺めていた北や山根にとって、百数十人の証言の解析作業は、あの不気味に発達した巨大な積乱雲の下で何が起こっていたかを克明に教えてくれるものであった。「できるだけ多くの体験者に会って聞きとりをして、原爆当日の地域別の状況を再現してみる以外に、研究の手がかりはない」という宇田の方針が、これほどまで威力に充ちたデータを生み出そうとは、はじめのうちは考えても見なかった。聞き書きという一見原始的な調査方法でも、そのねらいと手法がしっかりしていれば、科学的調査の方法として十分に有効性を持ち得るのだということを、みなはじめて知ったのだった。
主要テーマの解析作業が峠を越したとき、宇田は、「このような解析の結果だけでなく、聞きとった証言自体も後世に残すべき記録だと思う。だから報告書には、できるだけ多くの証言を付録資料として載せるつもりだ。もちろん百数十人もの聞き書きの全文を載せることは、報告書のスペースの関係で無理だから、原爆災害の科学研究に必要と思われる部分に重点を置いた聞き書きの抄録にしようとは思うのだが」と言った。枕崎台風の報告書をまとめたときと同じ考えであった。しかし今度の場合は、枕崎台風の調査のときより、聞き書きの数ははるかに多く、証言内容も多岐に渡っていた。
宇田の考えを、台員たちは全面的に支持した。廃墟の街を歩きまわり、あるいは不便な山奥まで出かけて行って調べた聞き書きが、学術研究会議の権威ある学術報告書に掲載されるとなれば、そのことだけで報われるような気がしたのだ。
こうして、広島管区気象台による原爆調査報告には、「体験談聴取録(抄)」として百十六人に上る体験談の要旨が掲載されることになったのである。それは、決して人間ドラマを記した記録ではないが、被爆直後に収集された唯一の体系的な証言集として貴重なものであり、いわゆる原爆体験を記録する積極的な運動が戦後十数年も経ってから始められたことと照らし合わせると、被爆直後の困難な時期にこつこつと証言収集に歩きまわった気象台の台員たちの発想と隠れた努力の意義は高い。
4
十一月も末になると、はやくも寒波のはしりがやって来た。原爆焦土の復興は遅く、江波山から見下ろす焼け野原は寒々と広がっていた。
食糧難打開のために、江波山の高射砲陣地跡を気象台が開墾してよいことになった。すでに高射砲隊の施設は撤去されていた。つい半年前にはB29や艦載機を迎撃して火を吹いていた高射砲陣地一帯は、台員たちの手で薯畑《いもばたけ》や野菜畑に姿を変えられて行った。
原爆災害調査の方は、補足的な調査と報告書の作文を残すだけとなった。
十一月二十九日、調査の取りまとめ作業がヤマを越したところで、気象台二階の会議室で台員たちを集めて報告会が開かれた。報告は宇田技師が中心になって、いろいろなデータをプロットした何枚もの地図を使って行なわれた。
豊富なデータとがっちりとした作図は、強い説得力を持っていた。この報告会は、菅原台長や技術主任の北らが、なぜ日常業務の一部を犠牲にしてまでもあちこち出歩いて調査に没頭していたかを、無言のうちに説明していた。気象台の上級者が不在がちだったことは、何かにつけて業務に支障を来たし、外来者の応接にも困ることがしばしばであった。観測業務そのものは当番勤務者がはっきりと決まっているから問題はなかったが、若い台員の中には上級者の不在について面白くない空気が生れていた。台長代理として留守をあずかる尾崎技師がしょっちゅう帰省していたことも、そうした空気を一層強くしていた。しかし、この日原爆災害調査の報告会が終ると、そうした空気は完全に払拭《ふつしよく》されていた。
十二月になってすぐ、宇田は、中央気象台長藤原咲平から長崎への転勤を命ぜられた。
「長崎海洋気象台創設準備のため、原爆災害調査を至急完了させて長崎に赴任せよ」というのが、藤原の命令だった。
中央の政治経済情勢は、目まぐるしく変貌《へんぼう》しつつあった。GHQは、五大改革と称して、男女同権、労働組合結成の奨励、教育の自由主義化、専制政治からの解放、経済の民主化を指令し、これに基いて日本政府は財閥の解体などにとりかかっていた。いまや被占領国となった国民の間には、「四等国」という自らを卑下した言葉があたり前の評価として通用した。
世情が混沌《こんとん》とする中にあって、藤原咲平は気象事業の再建拡充に奔走していた。
敗戦によって精神的衝撃を受けた藤原であったが、藤原には科学者としての合理主義的な精神もあった。戦後の藤原は、転身が早かった。藤原にとって、自らの転身は気象事業の転進と裏腹のものであった。藤原の意識を大きく変えさせたのは、何と言っても、戦後になってベールをぬいだ米国の科学技術の水準の高さだった。外国留学の経験のある藤原は、欧米の科学事情を知らないわけではなかったが、戦争の四年間にこれほどまでに日本が遅れをとったとは思っていなかった。藤原が日米の科学の差を最初に思い知らされたのは、横田基地に進駐して来た気象観測機の内部を見せられたときである。
気象観測用のB29の内部は、アネロイド気圧計や通風温度計などの観測器械はもちろんのこと、航空用無線機とは別に気象無線専用の短波送信機と受信機があり、予報作業のデスクまで置いてあった。それは、気象無線放送施設を持つ空飛ぶ移動測候所であった。日本軍にはこれほどの機能を持った大型の気象観測機はなかった。日本側は気象管制によって気象電報を暗号化して四苦八苦していたが、米軍側は空飛ぶ移動測候所によって、日本各地の気象状態を意のままに把握《はあく》していたのだ。(テニアン基地を飛び立った原爆投下機エノラ・ゲイ号に対し、「目標都市広島の気象状況良好」の無電連絡をしたのもこのB29の気象観測機であった。)
しかも乗組員の米兵たちは、飛行機の操縦もやり、無線の送受信もやり、気象の観測も予報もやり、ジープの運転もやった。これを見た藤原は、「これでは日本が戦争に敗けるのも当然だ」とショックを受けた。
都内に米軍が進駐して来ると、藤原の目に映ったのは、上級将校の勤勉さであった。藤原は、「進駐軍は朝早くから勤勉に働き、上級将校は自ら車を運転している。日本国民はこの困難な時期に惰眠をむさぼっていてよいのか」と嘆いた。「米国に学べ。米兵は大尉でも大佐でも一人でジープを運転し、ガソリンの補給でもタイヤの交換でもみな自分でできる。日本の学校出は、優等生でも世間のことも機械のことも知らない者が多い。米国民は計画が徹底的で、仕事のやり方も即決即行である。新日本建設には米国に学ぶことが沢山ある」藤原は部下に屡々《しばしば》こう言った。
熱烈な愛国主義者だった藤原が、このようなことを言い出したことに戸惑う者もいたが、藤原が言っていることに間違いはなかった。
そして中央気象台長としての藤原にとって、日本の復興のためにまずやらねばならないことが、気象事業の再建拡充であったのだ。藤原の構想は、陸海軍の気象観測所を譲り受けて気象台または測候所とする、海軍艦船の払下げを受けて気象観測船にする、軍用機の払下げを受けて気象観測機にする、陸海軍の諸施設を譲り受けて研究所などに生かす、等々壮大なものであった。このうち軍用機の払下げなどは廃案となったが、陸海軍観測所の譲り受けや松代《まつしろ》大本営地下壕《ごう》の地震観測所への転用などは実現し、気象観測船の計画も後年形を変えて定点観測船として実現することになった。
広島の宇田が命じられた長崎海洋気象台創設の事業は、こうした藤原の大計画の一環として決められたものであった。それまで長崎には測候所しかなかったが、海軍の観測所から施設をそっくり引き継いで、それを海洋気象台にしようという計画であった。平和日本において漁業気象は重要であり、海洋立国として海洋の研究も重要である、神戸海洋気象台の経験者としてこの際新しい海洋気象台の創設に諸肌《もろはだ》を脱げ、というのが宇田に対する藤原の指示であった。
宇田は終りかかっていた原爆災害調査を『気象関係の広島原子爆弾被害調査報告』として完成させると、急ぎ長崎へ赴任して行った。
この『調査報告』は、控を気象台に残して、中央気象台の藤原台長宛に送られた。
ところが、中央からの連絡によると、GHQが日本人による原爆研究の一般への発表は許可しないという方針を明らかにしたため、藤原咲平も委員になっている学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会は、全体の報告をまとめて刊行することができるかどうかわからない情勢になったという。このGHQの方針は、十一月三十日東京大学で開かれた原子爆弾災害調査研究特別委員会の第一回報告会の席でGHQ科学局の担当官から明らかにされたものであった。
これより先、すでに九月十九日にはGHQから「連合国に不利益となるような報道」を禁止したプレス・コードが指令され、それ以後原爆に関する新聞報道も急速に影をひそめていた。そこへさらに学術的なものでも発表を禁止する命令が出されたのだった。
広島の気象台でまとめられた原爆災害の調査報告がいつ日の目を見られるのか、全くわからない状態になった。
昭和二十二年三月藤原咲平は中央気象台長の職を辞し、和達清夫にその地位を譲った。藤原は退職して参議院議員選挙に出馬しようとしたのだが、その意思表示をした直後に公職追放の指定を受けた。戦時中大本営の幕僚であったことが追放の主な理由であった。この追放によって藤原は悲運の晩年を送ることになった。
広島に引き続き勤務していた北は、『気象関係の広島原子爆弾被害調査報告』が埃《ほこり》に埋もれてしまうのが残念だった。
昭和二十二年十一月、北は『調査報告』を市内の印刷屋にガリ版刷りで五百部印刷するよう依頼した。原文に添付してある写真の印刷までは経費がなくてとてもできなかったが、本文と図表は全文印刷することにした。広島の関係機関や中央気象台の研究者などに配ろうとしたのだった。三十三頁の小冊子ができ上がって気象台に納入され、翌日いよいよ各方面に発送しようとしていたところへ、どこでかぎつけたのか進駐軍のMPが現われた。原爆災害に関する文書を許可なく印刷配布することはまかりならんと言って、せっかく印刷した『調査報告』を没収して行った。
台員たちが、北に同情の目を向けると、北は意外に平然としていた。
「こんなことがあるといけないと思って、百部だけ別に隠しておいたのだ。これだけでも残しておけばいつか役に立つときが来るだろう」
北はそう言った。
すでにその前年、七月一日米国は中部太平洋マーシャル群島のビキニ環礁《かんしよう》で原爆の一連の実験を開始し、新たな核兵器開発の段階に入っていた。このビキニでの実験は、実験海域に大小の艦艇七十隻を配置し、上空で長崎型の原子爆弾を炸裂させてその威力をたしかめるという大規模なもので、大型艦船十七隻が沈没、大破、炎上などの大被害を受けた。大破した軍艦の中には、接収された旧日本海軍の戦艦『長門《ながと》』と巡洋艦『酒匂《さかわ》』も含まれていた。この原爆実験によって生じた巨大なキノコ雲を新聞の報道写真で見た北は、広島上空に生じた原子雲とあまりにもよく似ているのに驚き、恐るべき時代が来たなと思った。
戦後の数年間は、中央気象台にとっても地方の気象台にとっても、激動の時代であった。終戦直後藤原咲平は、陸海軍気象部や戦地の気象隊からの復員者をできるだけ吸収する方針をとったが、その結果中央、地方の気象台職員は大幅にふくれ上がった。これに対しGHQは、国家公務員や公共企業体の職員の人員整理の一環として、中央気象台に対しても組織の整理統合と大幅な人員整理を指令して来た。藤原の後を継いだ和達時代は、人員整理と労働争議と組織の立て直しの苦難の時代でもあった。このような中で、和達は、昭和二十四年十一月一日付で全国の気象官署の大規模な機構改革を行なった。この機構改革は、東京、大阪、福岡、仙台、札幌の五つの管区気象台を地方中枢として、すべての地方気象官署を各管区気象台の下に所属させるというものであった。これによって広島管区気象台は、大阪管区気象台に統轄される広島地方気象台となった。
時代は目まぐるしく変った。東西の冷戦は年毎に深刻になっていった。昭和二十四年九月にはソ連が原爆実験に成功、翌二十五年六月には遂に朝鮮戦争が勃発《ぼつぱつ》した。日本の前途は多難に見えた。
広島地方気象台の顔ぶれも、年々の異動ですっかり変っていた。北も昭和二十六年三月に十年間勤務した広島を離れて、高知県の宿毛《すくも》測候所に転勤した。
学術研究会議の組織を引き継いだ日本学術会議が原子爆弾災害調査報告書刊行委員会を設けて、『原子爆弾災害調査報告集』全文を刊行したのは、日本が独立した後、昭和二十八年三月であった。宇田、菅原、北らにとっては、実に八年目にしてようやく活字となった広島管区気象台の報告をばらばらになった各人の勤務地で手にとることができたのであった。
終章 砂時計の記録
1
北勲が各地の気象台や測候所の勤務を経て広島地方気象台に戻ったのは、昭和四十二年六月であった。
広島地方気象台は、江波山の上の同じ建物であったが、組織は拡充されて課制が設けられており、観測設備は強化されていた。北は、観測課長として赴任した。
十六年ぶりに戻った広島は戦災都市の面影をすっかり払拭《ふつしよく》していた。街には近代的なビルが建ち並び、人口は五十万を越えていた。市西部の山手川は、大規模な太田川放水路に姿を変えていた。禿《は》げ山だった江波山には、樹木が生い繁っていた。
ある日、北は昔のことが懐かしくなって、図書室をのぞいてみた。苦労した原爆当時の資料を見たいと思ったのだった。観測原簿は当然のことながら保存されていた。昭和二十年八月六日と九月十七日の各種観測器の自記紙も特別に保存されていた。しかし、その他の資料はほとんど見当たらなかった。北は、原爆や台風の調査をしたとき集めたいろいろな関連資料やノートなどを残しておいたのだが、それらがほとんど失くなっていたのだった。
せめて当番日誌だけは永久保存にしたいと思った北は、懸命に図書室の資料庫の中を探した。『当番日誌昭和二十年下』と墨で書かれた当時の日誌を見つけたときには、高価な紛失物を発見したようなほっとした気分になった。変色しかかった日誌の一頁一頁に記された事柄は、ほとんど人事往来や業務に関することであったが、その一行一行の間に、北は当時の台員たちの日常を想い起こすことができた。
北は、その『当番日誌』の表紙に、赤マジックで“保存”と記されているのを見てほっとした。
北は、貴重な資料が散逸するのを惜しんだ。
考えて見れば、自分はすでに五十代の半ばを越えようとしていた。停年まで数年しか残されていなかった。十年一昔とかつては言ったものだが、あれから二十年をはるかに越える年月が過ぎてしまったのだ。資料が捨てられるのは当然のことなのかも知れなかった。
北は、自分の人生が砂時計のように見えて来た。失われてゆく砂の速さを思ったとき、北は今のうちに何かをしなければならないという苛立《いらだ》ちを覚えた。
「あの年のことは、気象台にとっても、広島にとっても記録して残しておく必要がある。自分が退職してしまえば、当時を知っている者はいなくなるし、あと十年も経てば資料類は何もかも失くなってしまうだろう。広島に戻って来たのは何かのめぐり合わせかも知れない。この機会に、当時のことを記録にまとめて残しておくのだ」
折からこの年七月典型的な梅雨末期の集中豪雨が佐世保、呉、神戸を中心に西日本一帯を襲い、死者行方不明者が三百人を越える災害となった。呉でも多数の山崩れや崖崩《がけくず》れが発生し、八十八人が死亡した。呉は、枕崎台風のとき死者行方不明千百五十四人という未曾有《みぞう》の大災害に見舞われたが、そうした過去の教訓が生かされずに災害が繰り返されるのを見るのは、気象業務に携わる者として何とも無念なことであった。
この頃広島市では、大がかりな『広島原爆戦災誌』の編纂《へんさん》作業が始められていた。この『広島原爆戦災誌』は、広島市内の軍、官公庁、会社、病院、学校などの機関別と町別の被災状況や体験記をすべて記録しようという画期的な事業であった。北は、編纂委員から気象台の被害状況と当時の気象記録についての執筆を依頼された。北は、個人的にもまとめようと思っていた折でもあったので、編纂委員からの依頼を進んで引き受けた。
北は、『広島原爆戦災誌』のための新たな報告をまとめるに当たって、この際気象台に残された資料だけでなく、各種の文献や新聞、関係者の記憶などを幅広く調べて、当時の気象台の置かれた状況を浮き彫りにしたいと考えた。また、気象台としての原爆の記録には、枕崎台風の災害を原爆災害の延長線上にあるものとして併記しなければならないと思った。
北は、在京の菅原元台長をはじめ、当時の広島の台員たちにその記憶を尋ねる手紙を書いたり、放送局に足を運んで終戦後の天気予報の放送記録を調べたり、図書館で昭和二十年の新聞をめくったりした。原爆を受けた広島市の浅野図書館には終戦当時の新聞資料などが著しく欠けていたため、北は呉市の図書館まで出かけた。
呉市の図書館に保存されている終戦当時の新聞記事を読むと、当時の社会情勢が彷彿《ほうふつ》として想い出され、北は飽くことを知らなかった。原爆を受けた中国新聞はまだ復刊していなかったが、当時は紙不足などのため中央紙と地方紙の合同発刊が行なわれており、中国新聞復刊までの間は中央紙がそれを兼ねて発行されていた。その中央紙に天気の記事がはじめて登場するのが、八月二十三日だった。気象管制は二十二日に解除され、東京では即日ラジオの天気予報が再開されたが、新聞は翌日朝刊から天気記事を載せたのである。しかし、北にとって問題なのは、広島地方の天気予報がいつ登場したのかであった。
当時の広島管区気象台がいつから天気予報を再開したのか、気象台に記録は残っていないし、北も忘れ去っていた。新聞の天気欄を見ると、昭和二十年は、福岡や岡山など他県の分ばかりで遂に広島地方の天気予報は登場しなかった。広島地方の天気予報を新聞で見ることができたのは、翌二十一年三月十三日になってからであった。この事柄だけでも、広島管区気象台の機能回復がいかに遅れていたかを物語っており、北にとっては溜《た》め息の出る思い出だった。ともかく枕崎台風来襲当時、予報業務が満足に行なわれていなかったことを、いまさらながら知らされる思いがしてならなかった。
また、新聞をめくっていると思わずいろいろな記事に目が移った。二十年八月末の紙面に、「“死の測候所”から奇蹟《きせき》の吉報」の見出しで出ている次のような記事は感動的であった。
「また台風がやつて来る。こんどの台風は二十五日朝南大東島付近に現れた七百四十ミリの中型で北東に進んでゐるといふ。……(中略)……資料蒐集《しゆうしゆう》に躍起になつてゐる気象台に二十四日夜突如奇蹟の吉報が舞ひ込んだ。沖大東島《おきのだいとうじま》測候所(所長は佐々木徳治氏)から実に二箇月ぶりに実況報告があつたのだ。その電報によつて気象台では二十六日に来襲する台風の存在を確信することができたのであつた。
久しく音信不通となつてゐた沖大東島からどうしていまごろひよつこり電報が来たのか、同測候所には所長以下十数名の所員が戦時気象に活躍してゐたが、何分にも沖縄と目と鼻の近距離にあるので連日連夜空襲と艦砲射撃に見舞はれ無電塔は破壊されるし、建物は吹つ飛ぶ、もちろん燃料は尽きるし、食糧もなくなつた。そして所員も戦死したり、病死したりして、残りの所員はたつた数名になつてしまつたといふ。同島にはひとかけらの土とてないのでどうして食ひつないでゐたのか、日一日と餓ゑ迫る穴居生活をどうしていままで頑張つてきたのか? 中央気象台でも同測候所の活躍は殊勲ですよと感激し賞讃《しようさん》してゐる」
沖大東島測候所の場合は、広島の気象台とはまた違った形で、測候所員たちが生命の危険にさらされ、多数の戦死者を出している。にもかかわらず台風接近の観測データを打電して来るだけの業務を続けていたのだ。こんな記事が伝えられていたのを、北ははじめて知った。
北にとって、呉の図書館で得たもう一つの収穫は、枕崎台風で大きな被害が出た呉市の水害について、広島県土木部砂防課が戦後数年経ってから再調査してまとめた記録があるのを発見したことだった。当時広島管区気象台では、太田川水系や大野浦方面については詳細な踏査をしたのだが、最大の被災地であった呉市については、調査の手がまわらぬまま気象台としての台風災害報告をまとめたことを、北は記憶していた。枕崎台風の豪雨によって、急斜面の呉市では、山津波や山崩れや河川の決壊が無数に発生し、あっという間に実に二千戸近い住宅が全半壊または流出し、千百五十四人が犠牲になったのだった。広島県下の死者行方不明二千十二人のうち半数以上は呉市の犠牲者であった。一地方都市で一千人を越える死者を出すということは稀有《けう》の大災害である。
災害の後、呉市民の間には、「戦争で火攻めにあい、今度は水攻めにあった。正月頃には食攻めにあって餓死するだろう。何故、天はこうまでわれわれを苦しめ抜かねばならぬのだろうか」という悲痛な叫びが聞かれた。この呉市の水害の詳細な報告書が残されていたことを知って、北は感謝したいような気持になった。
その報告書は、『昭和20年9月17日における呉市の水害について』と題され、序文の中に発刊に至るいきさつが書かれてあった。
それによると、報告書を作成したのは、広島県土木部砂防課長坂田静雄であることが記されていた。坂田は、戦後三年程経ってから砂防課長に就任し、呉市の砂防工事を視察した際に、枕崎台風の災害現場をつぶさに見て歩いた。そして、「ここで市民が何人も死んだとはどうしても考えられない。こうした所が多い。災害にあった人は忘れ得ないであろうけれども、後より来て住んでいる人は考えもしないであろう。ここに呉市のあの日の災害記録を作らんとした私の動機がある」と感じ、「おそきに失する」のを覚悟で二年がかりで災害の状況を再調査してまとめたのだという。報告書の日付は、昭和二十六年八月一日となっている。
北は、この報告書を夢中になって読んだ。
報告書は、災害当日の降雨状況をはじめ、数百カ所に及ぶ山津波、山崩れ、堤防決壊などの分布図と詳細な地域別見取図、地質調査などを順を追って記載していた。当時としては完璧《かんぺき》な災害記録であった。最後に災害の生々しい体験記が掲載されていた。その中の一文は次のようなものであった。
「父を失ったあの日の思い出(室瀬川にて遭難)
呉市室瀬町3丁目 小田ミチヱ
昭和20年9月17日長い間降り続いていた雨は夕方から次第にその勢を増して来る様でした。そして電灯は宵の口からつきませんでした。しかし私達は数時間後に震天動地の悲劇が目の前に起ろうとは、夢想だにせず、静かに床に就きましたが程なく雨の中より隣のおばさんの『先隣に応援頼みます』との声に皆眼をさまし、弟と二人で父の身仕度を手伝いました。盆を覆《くつがえ》す雨とはこの事か電気はつかず小さいランプを手に父を玄関に送りました。
八畳の間に母、妹、弟、兄とねているのですけれど父と最後の別れになろうとは誰しも思いませんでした。母はむづかる妹をねかせ乍《なが》ら、床の中より『運動靴の方が軽るくていいでしょう』と申しました。私が『お父さん用心してネ』と云い、父が戸をあけたその瞬間想像に絶した響が『ごう』と聞えた。
『お母さん水よ』と云いつつ私はかけだした。もう水は台所にいた私のボーズ(注・膝《ひざ》のこと)まで来ていました。『助けてくれ 助けてくれ』と逆上したような弟の叫び声で、私が屋根やら柱やらこわれた家の下敷になり、胸のあたりまで水が来ているのに気がつきました。身動き一つ出来ない私の体。水。死を感じました。
『みちえ、昌見、大丈夫か、お父さんは』無限の愛情と悲愴《ひそう》を秘めた母の声。『兄さんもお母さんと一緒に奥の間の箪笥《たんす》のかげにいるから昌見も『みちえ』も大丈夫だったら人の足音があるまで待ってなさい』どうする事も出来ないから、大きな声出してたら『体が弱り明日の朝まで持ちませんよ』一生懸命云っている母の声を聞き乍ら、でも何とかならないかしらと頭を上げて見ましたら、私は台所から八畳の隅にある仏壇の所までおされて来ておりました」
――体験記はさらに続く。
「水もこれ以上ふえないらしく私も大丈夫と急に元気になり皆で精一杯『お父さんお父さん』と叫び続けましたけれども返事はありませんでした。
静かな夜。ごうごうと聞える水の音にまじり人の話し声がかすかに聞えた。一番大きく聞えたのは弟の助をよぶ声でした。
やっと救い出されたのは幾時間経ってからであろうか。依然続いている土砂降りの中をよくもこんな所からと思われる位小さな穴から私はやっと抜け出すことが出来ました。
近所の家の姿は全く見当らず闇夜に降り続く雨の中を提灯《ちようちん》が飛びかひ、あちらこちらの焚火《たきび》、いまの今までいた家のあとは水が濁流をなし滝の如くごうごうと流れ落ちて居ります。小溝《こみぞ》だった流れは大きな河となり、私の家の隣二戸を押し流し跡片もなく、その跡は物すごく流れが渦巻いておりました。石垣や高い土地もどんどんくづれて流れておりました。私の家は押されて移動し、くづれたのですが、幸に流されはしませんでした。よくこんな所まで押し流されて助った事と思うのも夢の様です。
助けを呼ぶ私の声を耳にして救って下さった人の家に連れられ生き得た安堵感《あんどかん》にぐったりした私の耳に、物すごい流れの音は余りにも冷酷な音でありました。
生きているとは思えぬ様な顔をしている母。眼鏡を失った近眼の兄。父の安否を気づかってもこの闇夜には如何《いかん》ともしがたく、父の生を祈りつつ恐怖におびやかされ長い夜の明けるのを待ちました。
夜、おそろしかった夜が明けました。時計は丁度10時に止っていました。
翌朝、父は台所の土砂九尺位の底より死体として発見されました。そこら中ころがっている傷だらけの死体。うめき乍らはっている人。誰とも分らない位傷ついている顔。死体に泣き叫ぶ家族。死体をさがし廻る人々。次々と掘り出される死せる人。お父さん、お父さん、晴れそうもない空に恐れおののきしばらくは生きた心地はありませんでした……」
北は一気に二十年以上前の終戦当時に振り戻されるような気がした。あの日の夜、広島や大野浦や宮島で起こったと同じような事件が、同じ時刻に呉市内のいたるところで発生していたのだ。事件の発生はわずか一、二時間の間のことだったのに、そのすべてを記録することの何と難かしく、何と時間のかかることか。
報告書は、呉市における災害を大きくした人為的な誘因として次の点を強調していた。
〓戦時中の山林の伐採、松根の採取、軍用道路の建設、防空壕の掘鑿《くつさく》、爆弾の投下などによって山が荒廃していた。
〓呉市は軍港都市として、特異な発展をしたため、山腹や渓谷沿いにゴタゴタと無計画に家屋が建てられ、渓流がゆがめられて、河川としての取扱いがなされていなかった。
〓終戦直後のことで、気象予報がなかったために市民はこのような大災害が起きることを予知できなかった。また人心が不安定で弛緩《しかん》しており、災害に対して備える心構えなど全くなかった。
戦争、濫伐、松根掘り、そして情報途絶下の災害――こういったことは、北が宇田技師らと枕崎台風災害報告をまとめたときにも指摘したことだったが、この県土木部の報告書でも全く同じことがはっきりと記述されていた。とりわけ「気象予報がなかった」ことが災害の人為的誘因の重要なポイントとして指摘されていることは、いまさらながら北の胸を刺した。
〈あの災害は単なる自然災害ではなかったのだ。あの戦争と敗戦という時代に広島という場所に起こった枕崎台風災害は、広島県だけで二千人を越える犠牲者を出さなければならなかった必然性を持っていたのだ〉――北の頭の中ではあらためて原爆と枕崎台風災害とが重なり合った。北は思いにふけった。
情報途絶下の災害――それはあの特異な時代だけのこととしてもう永遠にないことであろうか。果たしてそんなことは二度と起こり得ないと言い切れるだろうか……
県土木部の報告書の中で、北がもう一つ目を見張ったのは、呉の測候所の観測記録に関する次のような記述であった。
「この呉市も、空襲による戦災のため大部分は廃墟と化し、その復興も市民の生活状況も立直る暇なく、失望落胆の日々を送り、果ては丸裸になった市民の群は海軍施設を目がけて殺到、略奪の巷《ちまた》と化していた。
丁度海軍構内にあった測候所は、かかる状況のため、職員は離散したが、ただ一人残って気象関係施設を守備していた某氏によってかろうじてその略奪から免れていたと云う事は、誠に幸なことであった。呉市役所は焼失し、当市付近における気象の記録は全然無い中に、この某氏によって呉市に於《お》ける昭和二十年九月十七日気象状況表の記録が残されていたことは、感謝感激の外ない。その功は長く残るものである」
呉の測候所は、海軍鎮守府の観測所であり中央気象台の組織とは関係がなかった。つまり民間への天気予報とは関係のない測候所であった。従って戦争に敗けた以上、いずれ閉鎖の運命にあるものであった。にもかかわらず、略奪の街で、台風のさ中に欠測なく観測記録を取り続けた測候所員がいたということに、北は感動した。
報告書には、「気象関係施設を守備していた某氏」が誰であり、どのようにして観測を続けていたのかについては何も記していなかったが、北は大体の状況は推察できた。
(北が、終戦当時の海軍呉測候所の状況について詳しく知ることができたのは、さらに数年後、人伝《ひとづ》てに話を聞いてからであった。それによると、呉の観測を続けたのは一人ではなく、木村芳晴という三十歳の技手と伊藤、川村、新田という三人の若い技生の計四人であった。
呉市は、昭和二十年七月一日深夜から二日未明にかけての約二時間にわたる猛烈な爆撃によって、中心部は焦土と化し、千九百三十九人が殺戮《さつりく》された。現在海上自衛隊総監部が使っている海軍の施設一帯も火につつまれ、その一角にあった三階建ての測候所にも延焼して来た。測候所は、一、二階は焼いたものの、必死の消火作業によって三階の現業室は焼け残り、明治以来六十年間に及ぶ呉鎮守府測候所の気象原簿などの重要資料も焼失を免れた。露場も焼夷弾《しよういだん》の直撃を受けずに済んだ。
終戦が伝えられると、海軍の中に動揺が生じ、将校クラスの中には軍の物資を横領して脱走する者が続出し、さらに日が経つにつれて貯蔵庫などの物資は一部の市民によって無茶苦茶に略奪された。このような中にあっても、木村技手らは観測を続けたが、八月末海軍の施設が進駐軍によって接収されることになったため、観測設備を近くの海岸べりに突き出た城山と呼ばれる高台の施設に移した。そこは昔測候所があったところだった。ところが、進駐軍の基地となった海軍の施設周辺は、海兵隊の荒くれた兵隊たちが略奪や強盗をほしいままにしたため、城山で夜も観測をすることは危険な状態になって来た。木村技手らは止むを得ず、城山を撤収して、呉駅近くの消防署の二階に移って気象観測の記録を取り続けた。枕崎台風が襲ったのは、木村技手らが消防署に仮住いしていたときだった。
木村技手は、広島県の西条農学校を卒業後、呉鎮守府に就職した軍属の測候技手だったが、中央気象台測候技術官養成所に委託学生として派遣され、そこで半年間学んだ経験を持っていた。養成所では岡田武松や藤原咲平の哲学であった観測精神というものをたたきこまれていた。「欠測をしてはならない」という観測者の鉄則は、木村技手にも浸みこんでいた。木村技手は、終戦後測候所の施設を転々と移しながらも、日々の観測は守り続けていた。こうして枕崎台風の際に呉市に大災害をもたらした豪雨のデータ――それは九月十七日午後六時から十時までの四時間に百十三・三粍という呉測候所開設以来の記録的豪雨であった――が残され、この地方の豪雨災害研究の貴重な資料となったのである。
その後呉鎮守府測候所は、中央気象台長藤原咲平の陸海軍観測所引き取り計画の一環として、昭和二十一年四月広島管区気象台呉臨時出張所となり、昭和二十四年には呉測候所となった。)
沖大東島測候所の場合と言い、呉鎮守府測候所の場合と言い、生活も生命も危険にさらされた中で測候所員に観測を続けさせたものは何だったのだろうか。広島の気象台が置かれた状況も同じようなものであった。このほかにもまだ危難に耐え抜いた気象台や測候所があったかも知れない。北は、あの頃の気象台を振り返って考えたとき、食糧もろくになく、病人が続出し、ある者は肉親を原爆で失いつつもなお必死になって気象台にしがみついて生きていた台員たちの姿が浮んで来た。自分もそうだったが、原爆の後も気象台に踏み止まった台員たちは、そうするよりほかに生活の糧を得る道がなかったのだ。当時の日本では大なり小なり事情の差こそあれ、職場にしがみつくか闇屋でもやる以外に食う道はなかったのであり、決して気象台だけが特殊な状況に置かれたわけではなかった。それに惰性で生き、惰性で仕事をしていたという面があったことも否定できない。「戦争に勝つため」という国家目的が敗戦によって崩壊したとき、あまりの衝撃に人々は精神的支柱を失い、生きる目的を失った。何のために何を為《な》すべきかが曖昧《あいまい》なまま、さりとてほかにすることもないため、ただ昨日までやって来たことを今日もやるという虚脱の毎日でもあったのだ。
だが、気象台や測候所の定時の観測を欠測することなく、科学的に見ても決して恥かしくない記録を残したということは、単なる惰性とかただ食うためという理由だけで為し得たであろうか。自問自答する中で、北は一時代の気象台員や測候所員を支えた観測精神について思い浮べた。そして、そうした気象台員や測候所員を率いて巨峰のようにそびえ立っていた岡田武松や藤原咲平について思った。
北は、新たに調べた資料が予想外に豊富になったので、『広島原爆戦災誌』のための原稿とは別に、「終戦年の広島地方気象台」という一文をまとめ、気象庁(中央気象台は昭和三十一年七月一日に気象庁となった)の論文集『測候時報』に投稿した。この一文は、戦争末期から原爆の受難を経て枕崎台風の来襲に至る時期に、広島の気象業務がいかなる状態で続けられたかを細かく記すとともに、枕崎台風の反省点を今日の目で振り返って見てまとめたものであった。北の原稿は『測候時報』昭和四十六年一月号に掲載された。
また、『広島原爆戦災誌』の編纂《へんさん》委員会は、北が執筆した広島管区気象台の原爆被災状況に関する原稿を、昭和四十六年秋に刊行した同『戦災誌』第三巻主要官公庁の章に掲載したが、編纂委員会はさらに『測候時報』の「終戦年の広島地方気象台」と昭和二十二年十一月にガリ版刷りで印刷して米軍に発禁にされた「広島原子爆弾被害調査報告(気象関係)」を重要な文献として、同『戦災誌』第五巻資料編に全文を写真印刷で採録した。
書くべきものを書き終えたとき、北は何か人生の重荷を下ろしたような気分になったが、それにもかかわらず爽やかになり切れないものが心の中に残っていた。それは、いわば“公的”な記録には記し得なかった何人かの台員の悲劇的な結末の一つ一つが、北の意識の中にずっしりとのしかかっていたからだった。
あの朝、県庁に出向いた事務員の栗山すみ子は遂に行方不明のまま遺体さえ発見されなかった。そして原爆で死亡した官公庁のほとんどの職員がそうであるように、栗山すみ子も未《いま》だに殉職の扱いさえ受けていない。
中堅の技手だった吉田勇は、原爆の翌年出勤の途中に市内電車から転落して死亡した。原因ははっきりしなかったが、事故の前吉田は疲れ気味だったらしい。吉田は原爆の直後二、三日下痢をして休んだが、その後は目立った病気はしていなかった。突然目まいでも起こしたのだろうか。吉田の死は謎《なぞ》であった。
本科生だった津村正樹の場合は、ある意味で最も痛ましい。全身に火傷《やけど》を負った津村は、肉がすべり落ちるほどの苦しみを味わったが、奇蹟的にもその年の秋までに治癒し、中央気象台の養成所に帰っていった。津村の近況について北はほとんど知らなかったが、原爆の記録をまとめるために終戦当時の台員の消息を調べているうちに、津村の同期生らから詳しい話を聞くことができた。それによると――
津村正樹は終戦の翌年春養成所を卒業すると、北海道内の気象台(場所不明)に配属され、さらに昭和二十二年秋には広島に転勤になった。広島に赴任して間なく、今度は岩国の進駐軍基地の気象隊に出向させられた。当時人員整理が始まった頃だったため、台員たちは進駐軍に出向するといずれ人員整理の対象にされるに違いないと言っていやがったが、津村は自ら出向を買って出たのだった。津村はひとがいやがることをあえて引き受ける性格の人物だった。仕事熱心で自分が損をすることでも進んでやるので、同僚からは「お前は変ってる」などと言われたりしていた。津村はそう言われても無頓着に「いいんだよ」と答えていた。
昭和二十五年に岩国の部隊編成に変更があったのを機会に、津村は中央気象台職員に身分が戻り、さらに翌年にははるか鳥島の測候所に発令された。ところが、津村が鳥島に勤務してしばらく経ったとき、鳥島から中央気象台に入電する気象電報が時々明らかに間違っている数字になっていることがあった。占領下の日本において、接収を免かれた鳥島は南方海上の測候所として、天気図作成に欠かせぬ重要な観測点であった。中央気象台では奇妙な電報に驚いて調査した結果、発信者は津村であり、ナマの観測値を規定通りに更正せずに打電していたことが明らかになった。本科を出て四年も現場の経験を積んだ津村が突然こんな誤ちを犯すのはおかしいというので、中央気象台では津村を召喚し事情を聞いた。津村の態度や口ぶりからどこか異常なところがあると感じた中央気象台の幹部は、津村を都内の精神神経科の病院に連れて行き、診断を受けさせた。津村はやはり病に侵されていた。精神分裂症を発病していたのだ。津村は入院することになった。
広島から姉が駆けつけた。電気ショック療法を受けている津村の姿を見たとき、姉は思わず「正樹ちゃん!」と叫びそうになった。姉の方が耐えられなかった。
「こんなところで弟をひとり入院させておくのは可哀そうでなりません。田舎へ引き取ります」
姉はこう言って津村を連れて帰った。
それから三年ほど経って、やはり原爆で大怪我をした同期生の福原が見舞いに訪ねると、姉は「よく来て下さいました。正樹は元気にしております」と言って喜んだ。
「正樹ちゃん、福原さんが来て下さったよ」
姉は津村にそう呼びかけたが、津村の表情は動かなかった。津村は同期生の顔さえわからなくなっていたのだった。
福原はこのとき広島地方気象台に勤務していたが、昭和三十一年になって岡山に転勤のため広島を離れることになったので、津村宛に久々に挨拶状を出した。すると父親から、「病状が思わしくないので広島市に近い病院に入院させました」という便りがあった。
月日の流れの中で、津村のことは同期生の間でも忘れられていった。昭和四十年代になって、気象大学校(戦後発足した)の校友会名簿が編纂されるようになり、戦前の測候技術官養成所の卒業生の名簿も掲載されたが、そこには「津村正樹」の名前はなかった。だれからともなく、津村は亡くなったらしいという噂《うわさ》が流れたが、誰一人はっきりしたことは知らなかった。
ある年の夏、広島地方気象台に思いがけなく津村の姉が姿を見せた。とくに用事があったわけではなく、近くまで来たので挨拶に寄ったのだと言った。そのとき姉は、「正樹は療養を続けております。たしかにまだ生きております」とはっきりと言った。
これが、北が津村について知り得たすべてであった。思えば、津村にとって戦後の大半はただ療養のためにだけあったようなものであった。被爆者の精神障害が原爆に起因するものかどうか、医学的なことは北にはわからなかったが、津村の場合、被爆によって受けた肉体的精神的打撃の大きさを考えると、原爆が精神神経科の領域にまで後遺症を残すことは十分にあり得ることのように、北には思えてならなかった。
北自身、戦後数年経って肝臓が腫《は》れ、その後十年も肝臓病に悩まされた経験を持っていただけに、原爆による様々な後遺症にはとりわけ強い関心を抱いていたが、津村の場合はあまりにも残酷であり、その話を聞いてからしばらくの間、北は気が塞《ふさ》ぐ思いがした。
2
昭和四十七年四月一日、北は広島地方気象台を定年で退職した。
退職後、北は広島県公害対策局大気汚染監視センターで嘱託で働くことになった。それは、気象台に四十一年間勤めた経験と知識を公害監視という新しい時代的要請に生かす道であった。
北にとって広島はいまや第二の故郷となっていた。北は広島に永住するつもりで、郊外の可部町の山沿いに小さな住いを持っていた。
翌昭和四十八年七月の暑い日、北が県庁内の大気汚染監視センターで仕事をしていると、中国新聞の若い記者が訪ねて来た。
「最近広島市の周辺部で黒い雨の影響が問題になっているので、詳しく調べたいのですが、当時黒い雨の調査をしたのは北さんだということを伺ったものですから」と、その記者は言った。
記者の話によると、原爆被爆者は原爆医療法によって医療の特別の援助を受けられるようになっているが、黒い雨による放射能の影響を受けた人たちの多くは、医療援助から除外されているという。原爆医療法によれば、爆心地から三粁以内で被爆した人や、原爆投下から二日以内に爆心地から二粁以内に入った人、黒い雨の降った残留放射能濃厚地区(いわゆる「特別被爆地域」)で被爆した人など、放射能の影響を強く受けた人は特別被爆者手帳を交付され、医療の無料化がはかられているが、黒い雨の「特別被爆地域」に実際に指定されているのは、わずかに広島市西部の草津町と北部の祇園町だけであった。(己斐辺りも黒い雨が激しく降ったが、爆心地から三粁以内の地域なので「特別被爆地区」の二重指定は受けない)。このため、同じように黒い雨の降った広島市西方の五日市町石内(当時石内村)から北西方の沼田町伴(当時伴村)、北方の安古市《やすふるいち》町(当時安村)にかけての住民は、現在の「特別被爆地域」の指定は片手落ちだとして、指定地域の拡大を要求しているが、広島市や厚生省はこれらの地域は放射能汚染のデータがはっきりしないなどの理由で「特別指定地域」の指定からはずしたのだと言っているということであった。
記者の話を聞いて、北は、それはたしかに片手落ちだと思った。黒い雨については、当時気象台の北らが宇田技師の指揮で、苦労して山村にまで出向いて実地調査をし、それをまとめた報告書があることは、行政当局も知っている筈であった。原爆直後に黒い雨が豪雨となって降った地域は広島の北西方十九粁の山村にまで及んだことを、降雨域の地図をつけてその報告書に記しておいたことを、北ははっきりと覚えていた。にもかかわらず黒い雨の「特別被爆地域」を極く一部の草津町と祇園町にだけ限定した理由が、北には理解できなかった。
仮に理由があるとしたら、山村地域には残留放射能測定のデータがほとんどないということではないか、と北は思った。広島市内の己斐から高須にかけての地域は、理研の調査班が残留放射能を調べたから、その異常に高い値が記録されたが、山村での放射能測定は行なわれなかった。だが降ったものは、同じ黒い雨である。たとえ放射能の測定記録がなくても、気象台員たちが調べた“聞き書き”には、山村でも川の水が真黒になって魚類が死んだり、牛が下痢をしたり、とくに安村では田草取りの女の人が手に放射能による火傷を負い、伴村では雨に打たれた後寝ついて死んだ農夫もいたことなどが記されている。
北は、新聞記者に対して、当時の調査結果を詳しく説明した後、
「特別被爆地域に指定されている地区のうち祇園町は、われわれの調べた黒い雨の降雨域に入ってはいますが、雨量はむしろ少なかった地域で、大雨の雨域には入っていません。一時間以上土砂降りの雨の降った大雨の雨域は、広島市外では祇園よりむしろ西の石内、伴、安、戸山、久地などの地域です。これらの地域は当然特別被爆地域に指定すべきではないかと思います」
と言った。
翌日の地元紙朝刊に、北が語ったことが大きなトップ記事となって掲載されていた。「片手落ち特別被爆地域指定」「あの日の黒い雨、市内で大量に降る」「気象調査員が矛盾指摘」と、かなり強い調子の見出しがつけられ、かつて北らが作成した黒い雨の降雨域の地図も載せられていた。
この記事がきっかけとなって、ほかの新聞社の記者も北のところへ取材にやって来た。そして、中央紙にも相次いで同じ趣旨の記事が報道された。また、被爆者の要求を受けて、広島市が市外の黒い雨の降った地域について、あらためて実態調査を行なう準備を始めたという記事も登場した。
急に焦点となった黒い雨に関する記事を読みながら、北は、かつて食うや食わずやの状態の中で、「ありのままを記録するのだ」という宇田技師のかけ声のもとに調べ歩いた結果が、いまにしてようやく日の目を見るときが来たのだという感慨にとらわれた。しかし同時に、黒い雨の問題が二十八年間も放置されていたかと思うと、行政の怠慢が腹立たしくもあった。
北は、気象台に奉職する一人の技術者に過ぎなかった。自ら被爆者ではあったが、平和運動の先頭に立ったこともなければ、被爆者運動の先頭に立ったこともなかった。しかし、一介の技術者として忠実に気象観測の記録をとり、気象の研究を行ない、災害の調査をまとめる仕事にひたすら半生を捧《ささ》げて来たのは、それが人間の福祉に役立つと確信すればこそのことであった。あの年、自分も含めて台員たちの聞きとり調査に応じてくれた黒い雨の体験者たちのうち一体何人がいまも生きているであろうか。被爆者としての医療保護も受けられずに死んで行った人も少なくないに違いない。原爆医療法でさえ、対象となる地域を現在のわくまで広げるまでには、長い長い年月を要したのだった。被爆者援護の問題は、医療問題だけではなく、原爆孤老や原爆小頭症や被爆朝鮮人といった実にさまざまな問題が未解決のままになっている。黒い雨の問題はそのほんの一端に過ぎないのだが、同時にそれは未解決の被爆問題を象徴しているように見えた。黒い雨の問題に関して、気象台の科学的調査データが生かされなかったことが、北には残念でならなかった。それは行政の愚行だ、と北は思った。
広島では、毎年夏が来ると原爆に関する報道が目立つようになる。
翌年四十九年の夏も、何人かの記者が北のところへ取材に来た。広島市郊外の山際にある自宅まで訪ねて来た記者と雑談しているうちに、北は、その記者から大野陸軍病院の悲劇の後日談を聞くことができた。枕崎台風の災害調査の話をしているうちに、その記者が、
「大野陸軍病院の跡に最近京都大学遭難者の記念碑が建てられ、遺族や大学の方々が、毎年九月十七日前後に慰霊祭をしているそうですが、北さん御存知ですか」
と言った。北は知らなかった。記者の説明によると、京都大学原爆災害調査班遭難記念碑建立のいきさつは次のようなものであった。
山津波の後閉鎖された大野陸軍病院では、斯林院長や大下准尉らが残って残務整理をしたり、山津波で行方不明になった原爆患者の遺体を探しに来る肉親の問い合せに応じたりしていた。後片付けが進むにつれて、白骨化した遺体が時々出て来たりしたこともあって、斯林院長は死者の鎮魂のために慰霊碑を建てようと言い出した。地元出身の大下准尉が村の石屋に頼んで、高さ一米半程の石碑で供養塔を作ってもらった。食糧難の時代だったので、石屋は斯林院長と大下准尉が持ち寄った多少の米との物々交換でこの仕事に応じてくれた。供養塔は、昭和二十年十二月八日に病院東側の海を見下ろす小高い丘の上に建てられた。
時は流れ、大野陸軍病院跡地は民間に売り渡され、付近一帯はホテルや民家が建てられて、昔の面影はすっかりなくなっていた。京都大学の遭難者の同僚や教授たちは、九州方面への出張などで山陽線で大野浦を通過する度に、窓からの風景に過去を想い出して胸を痛めていた。世情が安定して来るにつれて、遭難者を追悼する気持はかえって強くなって行った。
退官した菊池武彦名誉教授や九死に一生を得た木村毅一教授、亡くなった大久保講師の同期生だった脇坂行一教授ら多数が発起人となって、昭和四十一年に記念碑建立の募金運動が始められた。募金額は、四百万円に達した。記念碑は、京都大学工学部の増田友也教授が設計し、用地は大野町役場収入役となった大下元准尉らの奔走で、民有地となっていた大野陸軍病院跡の小高い一角が取得された。
記念碑の除幕式は、昭和四十五年九月二十一日十一人の遭難者全員の遺族をはじめ京都大学や広島原爆障害対策協議会、地元大野町などから百人近くが参列して行なわれ、遭難した故杉山繁輝教授の孫で九歳になる隆君が除幕した。記念碑は、三角形のコンクリート壁四面を四方からそびえ立つように組み合わせたユニークなデザインで、大地から空高く舞い上がる人間の復活を象徴する意図がこめられていた。折から雨がポツリポツリと落ちるどんよりとした天気だったが、静かに島影を横たえる宮島を見下ろしながら、参列者たちは原爆患者の診療とその学術研究に尽しつつ命を落とした遭難者たちをいつまでも偲《しの》んだ。
「その後遺族や大学関係者は、毎年九月に広島からはるか離れたこの大野の記念碑前で慰霊祭を行なっているということです。しかし、名誉教授となられた菊池先生たちにとって、まだ懸案が残っているそうです。というのは、遭難者の遺族は当時国から涙金程度の見舞金を支給されただけだったのです。幼ない子供をかかえた遺族は、あの戦後の混乱期の中でどんなにか苦労をしたことでしょうね。菊池先生たちが考えているのは、京都大学の原爆調査研究は軍の依頼でやったことだから、何とか軍属の扱いにして遺族年金を受けられないものかということだそうです。もっとも、軍から依頼があったことを証明するものが要《い》るとか、当時の混乱の中ではいちいち公文書などを残せる筈がないのに、役所というところはいろいろ手続きがやかましいので、実現するかどうかはわからないと、菊池先生も頭をかかえておられるようですが……」
この記者の話を聞きながら、北は、人間の不幸とそれを絶えず未解決のまま呑みこんで行く時代の流れとについて考えていた。あれから間もなく三十年になろうとしていた。しかし、北にとって、未解決の問題はいつまでも未解決の問題であった。考えて見れば、自分がやって来たさまざまな記録や報告書を残す仕事は、未解決の過去を絶えず現在形に置き換える作業ではなかったか。
記者を見送るために玄関先に出ると、通り雨が上がって、また真夏の日射しが照りつけていた。空には雄大な積雲が白く輝いていた。
あとがき
昭和二十年八月六日の広島については、多くの記録や文学作品や学術論文があるが、その直後の九月十七日に広島を襲った枕崎台風の惨禍に関する記録は少ない。原子爆弾によって打ちひしがれた広島の人々が、その傷も癒《い》えぬうちに、未曾有《みぞう》の暴風雨と洪水に襲われた歴史的事件を今日知る人は果たして何人いるだろうか。
原子爆弾による広島の死者及び行方不明は二十数万に上ったと言われる。これに対し枕崎台風による広島県下の死者及び行方不明は計二千十二人である。前者が想像を絶する非日常的な数字であるのに対して、後者は現実的で日常的な数字であるように見える。枕崎台風の悲劇が、原爆被害の巨大な影の中に隠されて見えなくなっているのは、ひとえにこの数字の圧倒的な落差によるためかも知れない。だが冷静に数字を見つめるならば、一夜にして二千人を越える人命が失われたということは尋常なことではない。しかも、枕崎台風による広島県下の犠牲者の数が、台風の上陸地の九州地方全体の犠牲者数(四百四十二人)よりもはるかに多かったということには、何か特別の事情があったはずである。いったいなぜ広島で二千余もの生命が奪われたのだろうか。
戦争の時代と戦後史との接点にある、この事件の知られざる部分に光を当ててみたいというのが、私のそもそもの出発点であった。もちろん私の意図は、単なる事件の発掘のみにあったわけではなく、原子爆弾による殺戮《さつりく》と台風による災害という二重の苦難の中で、人々がどのように生きあるいは死んでいったのかを知りたいというのが、私の根底にあった意識であった。とりわけ私の心をひきつけたのは、死傷者や病人が続出し、食うや食わずやという状況に置かれながらも、職業的な任務をしっかりと守り抜いた人々が実に多かったという事実であった。そういう人々は、官公庁の職員であったり、大学の研究者であったり、医師であったり、軍人であったり、実に様様であったが、そうした中で私が広島地方気象台の台員たちに焦点を合わせ、本書の主人公としたのは、彼ら自身が原爆炸裂《さくれつ》の真只中に身をさらした被爆者でありながら、同時に原爆と台風という二重の災厄を科学の目でしっかりと見つめていた観察者であったというその一点においてであった。気象台の台員が日々の観察を欠測なく続行するということは、あまりにも当たり前のように見えるかも知れないが、それは背広を着た安穏な時代の机上《きじよう》の思考に過ぎない。
気象台の台員たちの生きざまなどは、激動の時代においては、巨大な歯車に噛《か》みこまれていく細かな塵埃《じんあい》のようなものかも知れない。だが私は、塵埃のように見えるがゆえに、一生懸命生きた彼らの姿に無性に愛着を持った。そして、取材中に絶えず私の意識の中で蠢《うごめ》いていたのは、いったい困難な時代と状況の中で仕事を守り抜くということはどういうことなのであり、そうした職業的意識を支えるものは何なのだろうか、という問いであった。
私は、広島に生れたわけでもなければ、広島で原爆を体験したわけでもない。広島と私との間に関係が生じたのは、昭和三十五年春NHKの取材記者として広島赴任を命ぜられたのが最初であった。それから三十八年夏までの三年三カ月広島に勤務し、主に原爆問題を中心に報道の仕事に携わった。多くの人々を知り、いろいろなニュースを書いたが、私の心の中ではニュースの原稿量と反比例して、書くべきものを書いてないという心理的鬱血状態が強くなっていた。しかし若年の私にとって三年という年月は何かをするにはあまりに短か過ぎた。広島は不思議な力を持つ街である。ジャーナリストが一度そこに足を踏み入れると、その街のために何かを書かなければならないという責任感の虜《とりこ》になるのである。私は東京に転勤してから、いつまでも広島に対して借財を背負っているような気持にさいなまれた。
東京では気象や災害問題の報道が私の主要なテーマの一つとなった。そのため気象庁に出入りする機会が多かった。昭和四十二年七月、西日本各地を襲った梅雨末期の集中豪雨いわゆる「西日本豪雨」は、佐世保、呉、神戸などに大きな被害をもたらし、三百人以上の犠牲者を出した。このうち呉では六百カ所以上で山崩れや崖《がけ》崩れが発生し、死者は八十八人に上った。この災害を調べるうちに、呉では昭和二十年の枕崎台風で死者行方不明千人を越える大災害が起こっていたことを知った。しかも枕崎台風は、呉のみならず広島県下に未曾有の惨禍をもたらしたこと、災害の規模が大きくなったのは、県の中枢である広島市が原爆で壊滅した直後で、防災機関の機能が麻痺《まひ》していたためであること、などの事実も知ることが出来た。私の広島時代の取材は、あまりにも「八月六日」のことにばかり目を向けていたため、「九月十七日」のことなど思いも及ばなかったのであった。気象庁に保存されている中央気象台の「枕崎・阿久根颱風《たいふう》調査報告」を読んだのは、この「西日本豪雨」がきっかけだったのだが、それを読んではじめて、
「戦争が終ったと思ったら今度は台風じゃった。あの台風はすごかった。石は飛ぶし、宮島の厳島神社の回廊が高潮で浮き上がったのじゃからのぉ」
と、かつて広島の老年記者から聞いた話が、私にとってもようやく現実感をもってよみがえってきたのだった。このとき私の胸の中に、漠とした形ではあったが、広島について書くべきものの構想が生れた。原爆で焦土と化した広島を襲った情報途絶下の災害――それは、人災などという陳腐な表現をはるかに超えた現代の事件であった。それは昭和二十年九月十七日の事件であったが、核時代に生きるわれわれにとって、いつ何時同じ状況下に置かれるかもわからぬという意味で、まさしく現代の危機を象徴する事件であると思う。「九月十七日」を記録する意味はそこにある。
私は、東京にいるという立地条件から、当初は災害史の側面から取材と資料の収集に当たった。もちろん日常業務の合間にやることなので、取材は遅々として進まなかった。私にとって幸運だったことは、何年経っても気象関係の取材を担当させられたことであった。気象記者をやっているうちに、気象庁図書課の根本順吉氏と面識を得たことは、私の取材を飛躍的に前進させた。戦時中中央気象台の予報官だった根本氏は、当時の中央気象台の観測や予報に関する貴重な文書(それは秘密保護規則や防護団規定から予報課の当番勤務表に至るまで当時の気象台の業務の実態を彷彿《ほうふつ》とさせるものであった)を個人的に保存していたばかりか、原爆当時広島の気象台にいた台員たちの何人かについて近況を知っていた。私は早速、各地にばらばらになっているもと広島地方気象台の台員たちに電話をかけ、予備的な取材をした。枕崎台風と広島との接点はいよいよ明確になってきた。
昭和四十六年になって、気象庁の機関誌「測候時報」一月号に、原爆当時広島地方気象台の技術主任だった北勲氏が執筆した「終戦年の広島地方気象台」が掲載された。私はこのことを根本氏から教えられた。この記録を読んだとき、私の照準はしっかりと定まった。
広島地方気象台は爆心地から三粁半ほど離れた江波山の上にあったため、爆風による被害は受けたが、焼失は免れることができた。台員たちは負傷しながらも、観測業務を続行した。北氏の記録は、その状況を簡潔に生き生きと伝えていた。終戦後中央気象台では、欠測なく観測を続けた広島の台員たちを褒賞の対象にすべく、台員たちの個人別功績調書を作ったらしい。この調書が残っていれば、当時の台員たちの行動を知る貴重な資料となるに違いないと思って、私は気象庁の人事課にお願いして探してもらったが、結局見つからなかった。終戦後の混乱の中で、褒賞自体がうやむやになってしまったくらいだから、調書など残さなかったのであろう。
中央気象台側の取材に関しては、この年(昭和四十六年)の春、思いがけぬ収穫があった。気象庁通信参事官の上松清氏(終戦当時中央気象台業務部庶務課長)が実に貴重な資料を秘蔵しているのを知ったのだった。上松氏は中央気象台の業務畑を長年歩いてきた人物で、戦前戦後を通じての気象用通信回線と無線放送の変遷については、生き字引のような知識を持っていた。上松氏から、ある会合の席で昔話を伺っているうちに、
「戦時中の〓文書や暗号表は、終戦と同時にすべて焼却されたことになっているが、秘かに隠していた文書が私の手許《てもと》にいまだに残っている」
という話を聞いたのである。上松氏によれば、戦争に敗けたりとはいえ、重要な書類はいつまた参照しなければならないときが来るかも知れず、まして暗号表に至っては再び作成することは大変なことだからと考えて、焼却寸前だった文書類の一部をこっそり気象台構内に穴を掘って埋めておき、数年後進駐軍の目がうるさくなくなってから掘り出したのだという。ところがもはや戦前の文書など公的には全く不要な反故《ほご》になっていたので、個人的に自宅に保存していたのだ、と上松氏は言った。私はその書類をぜひ見せてほしいと頼んだ。上松氏は快諾して下さった。
その文書類は、宝の山であった。一例をあげるならば、開戦前夜の中央気象台は何度か大きな屈折点に立たされたが、その最初は日華事変(昭和十二年)勃発《ぼつぱつ》後における気象業務の中央集権化であった。この中央集権化の計画を策定したのは、企画院の中に軍官関係機関の代表によって構成設置された気象協議会で、同気象協議会は昭和十三年時局の重大性に鑑《かんが》みて、それまでの中央気象台直轄と府県立の二本立てになっていた全国の気象官署をすべて中央気象台傘下《さんか》の国営に統一する方針を打ち出した。国営移管は昭和十四年十月に完了したが、上松氏保管の文書類の中にはこのときの企画院気象協議会関係の資料が豊富に含まれていた。この中央集権化に続く中央気象台の大転換の時期は、開戦四カ月前の昭和十六年八月十五日、陸海軍に対する気象業務の全面協力を強いられた日であったが、上松氏はこのときの関係文書もほとんど完全な形で残していた。和紙にタイプされた東條英機陸軍大臣の藤原咲平中央気象台長宛の通牒《つうちよう》(命令書)などを手にしたとき、私はその時代の呼吸が肌に伝わってくるような昂奮《こうふん》を覚えた。
上松氏は、中央気象台の岡田(武松)時代から藤原(咲平)時代への変転、戦時体制への突入、そして戦後の気象業務の再建へと、激しく揺れ動いた気象事業の現代史を、至近距離で見つめてきた人物であり、本書の序章は同氏に負うところが大きかった。
広島側の資料で、北勲氏の「終戦年の広島地方気象台」と並んで感銘深かったのは、京都大学名誉教授菊池武彦博士(事件当時医学部教授)が『広島医学』昭和四十二年三月号に寄稿した「京都大学原子爆弾災害綜合研究調査班の成立と其《その》活動」及び「大野陸軍病院に於《お》ける京大原爆災害綜合研究調査班の山津波による遭難の状況(私の日記から)」であった。大野陸軍病院の悲劇、なかでも京大研究調査班の遭難について、私は、できるだけ詳しく事件の経過を知りたいと思い、医学班の中心になっていた菊池博士や物理班の助教授だった木村毅一博士らから長時間にわたって話を伺った。ある夏の午後、京都市左京区の真如堂境内の静かな住いに菊池博士をお訪ねしたときのことである。玄関脇の応接間で先生の聞き書きをしているうちに、話は大野陸軍病院における京大研究調査班遭難の第一報が届いたときの模様に及んだ。菊池博士は事件当日は所用と蕁麻疹《じんましん》の治療のために大野からいったん京都に帰っていたのだった。
「夜の八時頃だった、森教授が突然この家に現われて、玄関先でいきなり、驚くな、広島の研究班は全滅したぞ、と言うのですよ。私は、驚いて、何を馬鹿な事を言う、冗談も休み休みにしたまえと言って、森教授をこの部屋に通したのです。ほら、君の坐っているそのソファーですよ。森教授はそのソファーに坐ってね、広島から駆けつけた若い班員の報告を聞かせてくれたのです……」
私は、「ほら、君の坐っているそのソファーですよ」と言われたとき、三十年近い時の流れを忘れて、昨日の事件の話を聞いているような錯覚にとらわれた。菊池博士の記憶は生き生きとしていて、亡くなった同僚や弟子に対する哀惜の念に満ちていた。菊池博士からは多くの資料をお借りすることができた。とりわけ京大研究調査班員だった方々から博士のもとに寄せられた手紙や回想の手記、とりわけ糸井重幸博士の日記体の手記は、事件を再構成するうえで欠かせぬ資料となった。
木村毅一博士(現在国立福井工業高専校長)は、上京の度に貴重な時間を私のインタビューのためにさいて下さった。ロマンチシズムの香りさえ漂わせていた往年の原子物理学者の世界を知ることができたのは、私にとってよい勉強となった。
広島には勤めの夏期休暇の折などに何度か行った。広島の街に立ち、広島の川を見ることは、構想をまとめるうえで大きな刺戟《しげき》となった。昭和四十九年夏、私は本書を含めて書きたいと思うものがあまりにもたまり過ぎたため、NHKを辞めて執筆に専念することにしたが、自由な時間を持つことができたのを機会に、広島で集中的にまとめの取材をした。多くの人々に会い、多くの新しい収穫を得ることができた。原爆当時広島地方気象台の測候技手だった山根正演氏は、夏期休暇の日程をさいてわざわざ四国の足摺岬《あしずりみさき》から広島まで出向いて下さり、広島在住の北氏や広島航空測候所勤務の高杉正明氏らとともに、私の聞きとり調査に全面的に協力して下さった。私は会う人ごとに細かい点にわたって根掘り葉掘り尋ねたが、すべての人が私の不躾《ぶしつけ》を責めもせずに、記憶の糸をたぐり寄せては体験談を聞かせて下さった。とりわけ北氏には二日間にわたって話を伺ったが、氏はどんな質問にも快く応じて下さった。失礼を承知で書くならば、北氏は一般の気象台の職員と同じように坦々と気象業務に専念し、定年で退職した平凡な気象人である。私には、北氏を波瀾万丈の物語の主人公に仕立て上げようなどという意図は毛頭なかった。むしろ業務に坦々と専念した普通の人間であったことの方に、私は強く心を惹《ひ》かれた。
年月とともに私の手許には、膨大な聞き書きノートと資料とが集まったが、最後までつきまとって私を悩ませたのは、基本的な事柄でありながら、確認のできないことがあまりにも多いことであった。
例えば、最も基本となる原爆当時の広島地方気象台の台員全員の氏名と身分(技師、技手、技術員、見習、事務員、定夫、雑務婦、本科生、専修科生)でさえ、確実な資料はないのである。当時の主な台員たちに聞いても、思い出すことができるのはせいぜい十人から十数人であった。私は、まず当時の『当番日誌』に登場する名前のリストを作った。『当番日誌』に記されているのは「姓」だけであったから、「名」の方は主な台員数人に尋ねて記憶を蘇《よみがえ》らせていただいた。それでも全員の姓名は確認できなかったので、当時の台員の現在の所在を人づてに調べては、電話をかけ、本人の姓名と当時の身分、被爆の状況、覚えているほかの台員の氏名などを確認していった。『当番日誌』には登場しない台員(事務員や本科生など)についても、こうして少しずつ明らかになっていった。第一章に記載した台員名簿はこのようにして調べたものであって、各人の現在の所在地は、東京、大阪、広島、山陰、隠岐《おき》、四国というぐあいに全国各地に及んでおり、時の流れをしみじみと感じさせる。
枕崎台風による呉市の大水害に関しては、昭和二十六年に広島県砂防課がまとめた「昭和20年9月17日における呉市の水害について」という小冊子以外には全くと言ってよいほど資料がないので、私はこの資料を手がかりに、呉市の水害に関する取材をした。本文中にも引用したが、この小冊子の中に次のような数行がある。
「海軍構内にあった測候所は、かかる状況のため、職員は離散したが、ただ一人残って気象関係施設を守備していた某氏によってかろうじてその略奪から免れていたと云う事は、誠に幸なことであった。呉市役所は焼失し、当市付近における気象の記録は全然無い中に、この某氏によって(中略)記録が残されていたことは、感謝感激の外ない。その功は長く残るものである」
ここに記された「某氏」を探し出して、呉の水害の実相を明確にしたいと、私は思った。まず右の小冊子をまとめた人物については、同冊子の発刊の辞の頁から、当時広島県砂防課長だった坂田静雄氏であることがわかり、坂田氏が現在は広島市内で事業を営んでいることも、砂防課への電話取材ですぐにわかった。坂田氏に尋ねると、「あの記録をまとめてから二十年以上経つが、反響があったのも、取材されたのもはじめてです」と感激され、いろいろと思い出話をして下さったが、残念ながら呉測候所の「某氏」については記憶していなかった。呉測候所は当時海軍の施設で、中央気象台や広島地方気象台とは組織的なつながりがなかったので、現在の呉測候所とは人事的にも断絶があった。それでも何かの手掛りはつかめるかも知れないと思い、現呉測候所長の足羽栄之進氏に電話をかけ、終戦当時呉測候所にいた所員を調べる方法はないかどうかを尋ねた。足羽氏は、「昔測候所に後《うしろ》さんという人がいたような気がするので、その後の消息を調べてみましょう」と言った。数日後再び電話をかけると、足羽氏は、「後さんが終戦当時の測候所員かどうかははっきりしないが、昔の測候所のことに詳しいらしい。もう随分お齢のようですが、呉市内に御健在です」と言って、後氏の住所と名を教えて下さった。その住所、姓名に従って、呉の電話局に問い合わせると、後氏の電話番号がわかった。私はダイヤルを回した。後氏は随分お齢だと聞いていたが、電話の声はしっかりしていた。
「私は確かに呉測候所にいたことがありますが、昭和二年から十一年までのことです。終戦当時は鹿児島にいました。戦後しばらくして広島地方気象台に勤めましたが、終戦の年の呉測候所のことは存じません。ただあのころ呉には、木村さんという人がいたような気がします。その後測候所を辞められて、最近では広島市内の県立高校の事務長かなにかをやっておられるようですが……」
私は後氏が「某氏」その人に違いないと意気ごんでいただけに失望したが、新たな手掛りがあったので、広島県教育委員会に広島市内の県立高校の事務長で木村という名前の人はいないかどうかを尋ねた。これはすぐにわかった。広島市出汐町の県立工業高校の事務長に木村芳晴という方がいた。県立工業高校に電話をかけた。
「ええ、私が呉測候所にいた木村ですが……」
木村氏こそ「某氏」と記された人物だったのだ。このときは電話だったので、ごく簡単に往年の話を伺っただけだったが、後日広島を訪れたとき、直接木村氏にお会いして詳しい聞き書きをとることができ、海軍呉測候所が受けた苦難が、広島地方気象台のそれに劣らぬものであることを知った。
確認できないまま取材を打ち切らなければならなかった事柄は多いが、例えば、原子爆弾によって広島が壊滅した後、広島地方気象台に対して中央気象台が救援の手を差しのべたのは何日位経ってからであったか、という問題がある。公的な記録は何一つ残っていない。広島地方気象台の『当番日誌』には、台員自身の人事往来については割合よく記録されているのだが、中央気象台との関係については記録がないのである。北氏は、最初の私のインタビューに対して次のように語った。
「原爆の後しばらくの間、一週間位だったでしょうか、中央からは何の連絡もないし、こちらからも連絡することができず、われわれはもう忘れられてしまったのではないかとさえ思ったほどでした。台員たちの気持も、そんなわけで不安定なものでした。大阪まで行けば何とか連絡がつくだろうというので、尾崎さん(技師)が山陽線の復旧した八月九日に出発したのですが、尾崎さんはなかなか帰って来ないのです。そのうちに八月十五日になって玉音放送でした。私たちは、国が瓦解したのではないかと心配したりしたのですが、どうしてよいかもわからず、ともかく観測だけはやってようじゃないかということで、その日暮しをしていました。
東京から中央気象台の人がやって来たのは、かなり経ってからで、八月十五日より後だったように思います。事務系の人でした。リュックを背負っていたのを覚えています。二、三時間私たちの話を聞いて帰って行きました。その人が中央気象台から当座の業務のためにとお金を持って来てくれたのです。わずかな額ですが、応急的な資金としてはとても助かりました……」
しかし北氏は後日次のような手紙を下さった。
「中央官署としては当然のことでしょうが、当時の混乱期において十分に努力して下さったことを改めて感謝します。私共の方が心理的にいささか参っていた時だけに、第一に原爆投下の惨状に心身の平衡を奪われ、第二に敗戦のニュースでガクンと来て、この二つのショックが余りに大きかったため、私はその間の八日間という間の記憶がうすれたものと解しております。後で人から話されると逐次記憶がよみがえってくるのですが、この間の過し方は死に直面したような行動があって、当時の状勢から最善をつくして動き廻ったことは事実ですが、余裕のない判断力で行動し、善処して行く他はなく、どんな人に会ってどうしたか、後からいわれてそうだったなあと思い出すことが多いのです。人間の行動の不思議な一面ですね。
いよいよ敗戦の決定を知った時は、それなりに来るものが来たと落着きが出て、それ以後の行動は割合よく覚えております。こんなわけで、中央から連絡員が来られた日がいつだったかよく思い出せません。或いは八月十五日以前だったかも知れません。広島駅付近の破壊状況から鉄道が部分的にでも通じたのは数日後だったようです。学術調査団の一行が八月十日正午頃入市していますので、十日頃には何とか来られた筈ですから、或いはその頃だったかも知れません。リュックを負いゲートルを巻いた方(二人だった?)と庁舎玄関ホールの所で出会い、あいさつをして、台内外を案内し、官舎の方も見てもらい、現状を中央に報告してもらうよう依頼しました。その時平野台長(八月十二日帰台)(筆者註、台長は原爆の日米子へ出張中だった)が応対されたかどうかはっきりとは記憶がありません……」
中央気象台が広島に職員を派遣して、緊急の資金としてなにがしかの金を届けたことは間違いないようだが、誰がいつどれくらいの金を届けたのかとなると、どうもはっきりしない。東京から原爆後の広島に最初に乗りこんだのは、仁科芳雄博士ら大本営の調査団で八月八日夕刻のことであった。しかし仁科博士らは軍用機でやって来ている。山陽線広島駅が開通したのは翌九日。京都大学の調査班が汽車で広島入りしたのは、十日であった。中央気象台が広島に救援隊を派遣しようと思えば、八月十五日以前でも可能であった。しかし、中央気象台がそのように速やかな救援の措置をとるためには、広島の被害について詳しい情報を入手し得たこと、中央気象台側に地方の気象官署の戦災復旧に即応できるだけの体制と資金的なゆとりがあったこと、藤原咲平台長らが的確な判断をしたこと、などの条件が必要だったはずである。
広島に原子爆弾が投下されたことを、藤原台長ら中央気象台の幹部が知ったのは、七日午後になってからであった。運輸通信省の大臣室で小日山大臣から密《ひそ》かに聞かされたのである。しかし、被害の詳細は不明であった。九日に広島を発《た》って大阪に向かった広島地方気象台の尾崎技師は、おそらく九日夜か十日には大阪管区気象台から広島地方気象台の被害概況と気象電報とを打電したに違いないが、それとて救援を求めるような電報ではなく、あくまでも下級官署の上級官庁に対する業務報告の範囲に止まるものであった。この頃、東京には二度目の原爆攻撃が長崎に対して行なわれたことが伝えられ(長崎の原爆投下は九日午前十一時二分)、次の目標は東京ではないかと、都民の間には次第にパニックに近い様相が現われ始め、官公庁でも仕事が手につかなくなりつつあった。
また、全国の気象官署の戦災状況を見ると、広島を含めて焼失した気象台と測候所は計十七カ所に上っていた。戦災は日常化していた。戦災を受けた気象官署に対して、中央が直ちに救援や復旧の手を差しのべるという体制はしかれていなかった。中央気象台自体が二度にわたって、主要な建物を焼かれていた。さらに中央気象台は、八月に入ってから大本営気象部としていつ大本営に併合されるかわからないという組織的に不安定な状態に置かれていた。戦争末期の藤原咲平台長の日記を見ると次のように記されている。
「八月十三日
是非必要な公用で、今夜の夜行で出発する為に、大分骨を折つて切符を入手したが、夕方になつて、是《これ》から閣議が開かれるといふ情報を得たので、何か非常な事態でも起るかの予感が起り、攻め込んで来る蘇聯《ソレン》に対して何故宣戦されないか等の疑念も手伝つて、とう〓〓旅行は見合はせる事にした。今夜も警報が出て、防空の仕度はしたが、連日のことで遂《つい》うと〓〓しながら情報を聞く。方々やられた」
「八月十四日
今日も昼夜ぶつ通しで小型機の編隊が各地を襲ふた。明日正午に重大な放送がある旨予告された。果して予感の通りだ」
「八月十五日
昨夜から今暁にかけて本庄町もやられ、高層気象台本庄出張所も敢闘の甲斐《かひ》なく焼かれて仕舞つた。折角東京から疎開させてあつた人事に関するカードや書類が大分焼けた。併《しか》しこれなど直きまた作れる。是までに焼かれた気象台や測候所は内地丈《だけ》で十七個所、銃爆撃丈で破壊されたものが十個所である。糞《くそ》! 此位《これくらゐ》で屁古垂《へこた》れるか。二百余個所が全部焼かれるのは覚悟の前だ。穴居住でも仕事は出来る。
正午の放送は、陛下御自らの由……(以下略)」(傍点いずれも筆者)
また、上松清氏が後年記した「昭和二十年の気象台」(中央気象台『気団』昭27年第8号〜昭28年第2号)のなかから、終戦直前の中央気象台がどのような状況に置かれていたかを伝える部分を抜粋すると――
「(広島への原爆投下の後)、長崎への原爆攻撃、ソ連の対日宣戦布告と同時に満州への侵入、米軍機の宣伝ビラまき等、人心の動揺はその極に達しました。
〓八月十二日
米軍機の宣伝ビラによると、今日の午後は東京に原子爆弾を落すという情報です。女子職員や動員学徒は午前中に退庁するようにという指令に従って、早急に処置しました。午前十一時に準備は完了し、残った職員は予報部現業職員、防護団員、幹部職員などでありました。零時半頃B29一機のために、空襲警報が発令され、原爆攻撃のおそれがあるからと、ラジオは何回となく報じています。(以下略)
〓八月十三日
女子職員や動員学徒は殆んど出勤している。然しさすがに仕事は手につきません。地方の中小都市へのB29の攻撃はますますしつように続けられていました。午前中、和達部長より、悲観的な情報を内緒できかされました。この情報の出所には裏があった。それは、八月に入ってからはますます情勢が思わしくないので、当時の無線の風間課長が、内緒で短波受信機でガムか沖縄辺の米軍の放送を傍受して、その内容を和達部長や土佐林部長に伝えていたのでした。土佐林部長が一回この情報を藤原台長に申し上げたら、そういうデマはほんとうにするものではないと頭からしかられたというエピソードもあります。
〓八月十四日
午前中、陸軍気象部の山本三郎少佐がやって来て、大本営気象部の設置の勅裁がどうしてもおりないと、一人でふんがいしていた。(以下略)」
上松氏に直接話を伺うと、氏は、「中央気象台が広島気象台に対してどのような措置をとったか全く記憶にないが、八月になってからの中央気象台の業務の状態から考えると、広島に限らずどこの気象台であれ、戦災を受けたからといってその気象台に直ちに救援の職員を派遣するというような考え方はしなかったし、そのような体制もできていなかった。中央気象台自体がそれどころではないという状態に置かれていたのですよ」と語った。
結局、中央気象台が広島に救援の職員を派遣した時期について、決め手となる手掛りを得ることはできなかったが、関係資料や関係者の証言から判断して、「東京から中央気象台の人がやって来たのは、かなり経ってからで、八月十五日より後だった」という、北氏の当初の話の方が事実であったろうと、私は推定した。このことは、一見どうでもよいことのように見えるかも知れないが、私には、当時の中央と地方との関係や、中央が原子爆弾による被害をどの程度特別視していたか、といった時代の論理を理解するうえで一つの指標になるように思えたのである。
取材を通じて公的な記録や資料の中の誤りを発見したこともいくつかあった。その一つは、終戦直後に天気予報が復活した日であった。尾崎秀樹・山田宗睦著『戦後生活文化史』(弘文堂刊)の中に次のような文がある。
「八月十七日、ラジオから天気予報が流れた。なんでもないことのようだが、これが戦後のはじまりをあらわす一つの象徴だった。戦争中、国防上の秘密で天気予報の公表が禁止されてから、三年八か月ぶりの復活だった。三島由紀夫の言葉をかりるなら、戦後日常生活への復帰だった」(傍点筆者)
確かにラジオから流れる天気予報のアナウンスは、平和な時代への復帰の象徴的な事柄だったと言えよう。重々しい「大本営発表」や「東部軍管区情報」のアナウンスに代って、天気予報や娯楽放送が街に流れたのである。だが、天気予報の再開は、果たして終戦からわずか三日めの「八月十七日」であったろうか。
NHKの『ラジオ年鑑・昭和二十二年』(戦後復刊した最初の放送年鑑)を見ると、天気予報の復活に関しては二カ所に記述があり、一カ所には、終戦三日めから天気予報が復活したと記されているのに、もう一カ所には、天気予報は終戦後間もない八月二十二日に三年半ぶりで復活した、と記録されているのである。いったいどちらの日付が正しいのか、この年鑑の記述だけでは判定の仕様がなかった。戦後NHKが編纂した「放送史」には、二十五年史と三十五年史の二つがあるが、いずれにも、「終戦三日め」と記載されている。
気象庁側の資料はどうだろうか。気象管制解除と天気予報復活に関する公文書の記録は残念ながら残っていない。前記上松氏の「昭和二十年の気象台」に次のような記述がある。
「二十日の昼過ぎ、二十一日午前六時をもって、気象管制を解除する旨文書で、陸海軍大臣並に運輸大臣から届きました。(中略)明日六時からNHKのラジオで天気予報の第一声を出すべきであると、台長のお伴をして放送協会の総裁に面会に行きました。総裁は同じ長野県の出身で藤原台長はかねてお知り合いのため、話も非常にうまく行き、編成部長も加わって、兎に角二十一日六時に天気予報を出すことに話を決めてきました。帰って来てから、予報発表までの態勢に切りかえることがたいへんでした。然し、どうやら二十一日の六時からは予報が出て、いかにも戦争が終ったという安心感を市民に与えたようでした」
困ったことに、ここでは天気予報の復活は八月二十一日になっていて、NHK側の記録と合わない。折から「気象庁百年史」を編纂中の根本順吉氏と「放送五十年史」を編纂中のNHKの美土路脩一氏にお願いして、資料の点検をしていただいた。根本氏は、「藤原咲平台長は独断専行の人で、天気予報も藤原台長の独断に近い形で急いで復活に踏み切ったものだった。だから事情は藤原台長がいちばんよく知っており、もし藤原台長の日記に天気予報復活のことが記されてあれば、それを基本資料とすべきだろう」と助言して下さった。藤原咲平日記を調べると、天気予報復活の件は、次のようにはっきりと記されていた。
「八月二十一日
前田新文部大臣に御挨拶す。研究は飽く迄《まで》維持せよ、との御注意を受く、有難し。(中略)夕刻指令あり。今夜半より気象管制解除せらると。急遽《きゆうきよ》天気予報の放送に関して、当局と打合せをなす。
八月二十二日
〓《ここ》数日夢の如く過ぐ、又多忙にして寸暇なし。聯合軍進駐は愈々《いよいよ》二十六日からとの事。吾等も恐らく気象通報によるサービスを命ぜらるべし。(中略)
十二時の報道に続いて東京地方丈の天気予報放送さる。四年振りの初放送、但し天気は曇り勝ちなり、止《や》むを得ない。天も為に嘆くよ」
天気予報の復活は、八月二十二日正午のニュースの時間の後だったのだ。上松氏の「昭和二十年の気象台」は後年思い出して記したものであり、「二十一日六時から」というのは一日記憶を誤っていたのだった。
美土路氏は、八月二十一日に気象管制が解除され、中央気象台が翌日から天気予報を発表することにしたとはいえ、放送局側が編成上それほど速やかに対処できたかどうかを、念のため確かめた方がよいと言われ、藤原台長とNHK会長との親交関係を調べて下さった。上松氏の記録の中に、「総裁は同じ長野県の出身で藤原台長はかねてお知り合いのため」とあったからだった。ところが、藤原台長は確かに長野県上諏訪町(現在の諏訪市)の出身だったが、当時のNHKの大橋八郎会長(故人)は富山県の出身で、二人の学歴を調べても、互いに結びつける糸口は見当たらなかった。しかし、この裏付け調査には、もう一つどんでん返しがあった。美土路氏は、大橋会長の千世子夫人が長野県上諏訪町の出身で、藤原台長と同郷であることを発見したのだった。NHK側が藤原台長の突然の要請を即刻承認し、天気予報再開の放送体制を整えた事情がこれではっきりした。正確な事実がはっきりと確認できたときほど、取材者にとって嬉しいことはない。(なぜ「八月十七日」説が登場したのかは不明だったが。)
なお、八月二十二日の中央気象台の予報当番だった沢田龍吉氏からも、当時の予報作業の実態を伺ったが、沢田氏は、天気予報復活の日の夜、皮肉にも東京を直撃した豆台風の接近を予報できなかった自らの失敗談を、わだかまりなく洗いざらい話して下さった。沢田氏の証言によって、八月二十二日の状況は非常に生き生きとしたものとなった。
このような取材は際限なく時間を要したが、昭和四十九年秋の時点で、私は長年の取材に一応の区切りをつけ、本書の執筆にとりかかった。めぐり来る三十年の夏までには、「八月六日」と「九月十七日」に関する私なりの報告書をまとめたいと思ったからであった。三十年という年数に特別の意味があるわけではないのだが、私にとってはなぜか広島から負っている借財の返済期限のように思えてならなかったのだった。
本書は、いわゆるノンフィクションに属する作品であるが、私はこの作品を構成するに当たって、取材の経緯や、資料の検討や、聞き書きノートや、といった筆者の側に個人的に所属する生の素材をひとまず創作工場の溶鉱炉の中にたたきこんでしまった。そして、その後で、純粋に「八月六日」と「九月十七日」に所属する時代と人間の結晶を取り出すことに努めた。しかし、完全な結晶を取り出すためには、長い時の流れの中で埋没し失われてしまった多くの構成分子――確認不能の事実関係――を何らかの形で補う必要があった。ところどころ欠けた結晶格子の点と点をつなぎ合わせ、線と線を交叉《こうさ》させて、原型を復元させる作業は、原型の全体像をどうとらえるかという構想力の問題とかかわり合う。私はまさにその原型復元作業において小説的手法を用いた。というのは、私は本書をまとめるに当たって一つの命題――それは試みと言うべきかも知れないが――を自分自身に課していたからであった。すなわち、「作品」としてのノンフィクションとは、単なる取材の記録でもなければ、事実の羅列でもない、ノンフィクションにおける作品性とは、その歴史的真実の部分に関して、読者の心の中にどれだけ澱《おり》を残すことができるかにかかわっている、と。その意味では、小説もノンフィクションも、射止めようとしている的は究極において同じものであると、私は考えている。ただ、小説はイマジネーションのひとつの素材として事実や記録を援用するのに対して、ノンフィクションは諸々の事実や記録の構築を中心に据えつつ、真実の発見とその表現の手段としてイマジネーションあるいは小説的手法を援用する、という創作手法の点での差異はあるが――。
昭和三十七年頃だったろうか、私が広島で記者生活を送っていた頃、広島の子供たちにとって原爆体験が「むかしばなし」になりつつあるという話を聞いて、もうそんな時代になったのかと驚いたことをいまだに覚えている。その話は、爆心地付近の小学生が「そのむかし広島に原爆が落ちたという……」という作文を書いたというのだった。その小学生が原爆の被爆者の家庭に育ったのか、それとも戦後移住して来た家庭の子だったのかはわからなかったが、いずれの場合であるにせよ考えてみれば当時すでに戦後十七年も経過し、戦後生れの世代が原爆を「むかし」の出来事として考えるのはあまりにも当然のことではあった。だが、私にとって「そのむかし広島に原爆が落ちたという……」との表現はやはり強烈であった。ふり返ってみると、私と広島とのかかわり合いは、そうした原爆体験の風化が急速に進む中で始まったのだった。それからさらに十年以上経過し、「八月六日」や「九月十七日」の出来事はいっそう遠いとおいむかしの話になろうとしている。一方、今日における「核」の問題は、あまりにも巨大化してしまったがゆえに、どこか現実離れした甘い幻覚のイメージさえ持ちつつあるように見える。そうした時代であればこそ、風化した地層の表面を洗い落として、地脈の素顔をあらためて露出させようとする作業はいよいよ必要であるように、私には思えてならない。本書がそうした作業の一助となれば幸いである。
* *
本書は多くの方々の協力によって成立した。感謝の念をこめて、ご協力下さった方々の氏名を記す。( )内は、本書脱稿時における現職である。
〈広島地方気象台関係〉
宇田道隆(東海大学教授)、菅原芳生(株式会社公害気象研究所専務)、北勲(広島県大気汚染予報専門員)、白井宗吉(東京航空地方気象台総務課長)、遠藤二郎(松江地方気象台技術課)、山根正演(清水測候所足摺分室長)、吉田伸夫(旧姓鈴木、広島地方気象台予報課)、高杉正明(広島航空測候所)、金子省三(広島地方気象台予報課)、岡原貞夫(大阪管区気象台総務課)、中村輝子(広島地方気象台大気汚染センター長夫人)、上田英子(旧姓山吉、隠岐西郷測候所長夫人)、中根清之(大阪航空測候所予報課)、西田宗隆(大阪航空測候所予報課)、福原賢次(気象庁予報課)、定成勇(東京航空地方気象台予報課)、根山香晴(広島地方気象台予報課)、田中孝(広島生コン株式会社取締役)
〈中央気象台関係〉
高橋浩一郎(元気象庁長官)、上松清(気象庁通信参事官)、沢田龍吉(九州大学理学部長)、平沢健造(金沢地方気象台長)、根本順吉(気象庁図書課)、井関弘房(気象庁総務課)、白岡久雄(気象庁予報課)
〈大野陸軍病院及び京都大学研究調査班関係〉
菊池武彦(京都大学名誉教授)、木村毅一(国立福井工業高専校長)、水野宗之(広島市内水野内科病院長)、大下薫(大野町役場収入役)
〈広島の原爆及び台風災害関係〉
松坂義正(広島原爆障害対策協議会会長)、重藤文夫(元広島赤十字病院長、元広島原爆病院長)、佐々木寛(広島赤十字病院医事課長)、吉岡豊(中国新聞社常務取締役)、田窪真吾(元広島市総務課長)、高橋昭博(広島市広報課)、日詰忍(広島市在住)、竹内武(広島県原爆被害者団体協議会事務局)
〈呉市の水害関係〉
坂田静雄(広島建設コンサルタント株式会社社長)、木村芳晴(広島県立広島工業高校事務長)
〈宮島厳島神社の災害関係〉
林喜親(厳島神社禰宜)、岡田貞治郎(厳島神社技師、広島県文化財専門委員)
〈放送史料関係〉
美土路脩一(NHK放送五十年史編纂室長)
最後に、筆者を終始激励し、原稿の細部にわたって助言を下さった新潮社出版部の新田敞、伊藤貴和子の両氏に感謝申し上げます。
昭和五十年夏
著 者
文庫版刊行にあたり、単行本にはなかった各章の表題をつけた。
昭和五十六年夏
著 者
主要参考資料
T
「広島原爆戦災誌」第一巻〜第五巻(昭46・広島市)
「広島県史・原爆資料編」(昭47・広島県)
「広島原爆医療史」(昭36・広島原爆障害対策協議会)
「被爆者とともに・続広島原爆医療史」(昭44・広島原爆障害対策協議会)
日本学術会議「原子爆弾災害調査報告集」(昭28・日本学術振興会)
(同報告書所収の諸論文のうちとくに次のもの)
荒勝文策他「爆発後数日間に行える広島市の放射能学的調査に関する報告」
山崎文男「原子爆弾爆発後広島西方に残った放射能について」
宮崎友喜雄他「原子爆弾により惹起された広島市内およびその付近の放射能について」
木村健二郎他「広島高須の土壌中に見出された人工放射性元素」
宇田道隆他「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」
菊池武彦他「広島市における原子爆弾傷に関する研究(臨床編)」
杉山繁輝他「原子爆弾障碍に関する報告」第一報〜第四報
仁科記念財団「原子爆弾・広島長崎の写真と記録」(昭48・光風社書店)
(同記録のうちとくに次の論稿)
宇田道隆「火災・旋風・黒い雨」
木村毅一「枕崎台風による遭難」
荒勝文策「広島市における原子核学的調査」
杉山繁輝「広島市における医学的調査」
菊池武彦「京都大学原子爆弾災害綜合研究調査班の成立と其活動」(「広島医学」昭42・3)
菊池武彦「大野陸軍病院に於ける京大原爆災害綜合研究調査班の山津波による遭難の状況(私の日記から)」(「広島医学」昭42・3)
清水栄「清水栄日記昭二〇・八・六〜一二・七」(「広島県史・原爆資料編」昭47)
松村秀逸「原爆下の広島軍司令部―参謀長の記録―」(「文芸春秋」昭26・8)
「昭和史の天皇」第四巻(昭43・読売新聞社)
「広島陸軍病院大野分院」(写真帖・昭14)
「広島県大野町誌」(昭37・大野町)
「史蹟名勝・厳島災害復旧工事報告」(昭26・広島県)
「昭和20年9月17日における呉市の水害について」(昭26・広島県砂防課)
「広島市水道七十年史」(昭47・広島市水道局)
「太田川改修三十年史」(昭38・建設省太田川工事事務所)
浜井信三「原爆市長・ヒロシマとともに二十年」(昭42・朝日新聞社)
蜂谷道彦「ヒロシマ日記」(昭30・朝日新聞社)
「ひろしまの河」第18号(昭49・7・原水爆禁止広島母の会)
F・ニーベル、C・ベイリー「もはや高地なし――ヒロシマ原爆投下の秘密」(昭35・光文社)
中国新聞社「ヒロシマの記録・年表資料編」(昭41・未来社)
「NHK原爆之碑完成記念――原爆被災誌」(昭41・広島中央放送局)
U
「枕崎・阿久根颱風調査報告」(中央気象台「中央気象彙報」第三十三冊・昭24)
「わが国の災害誌」(昭40・全国防災協会)
北勲「終戦年の広島地方気象台」(気象庁「測候時報」昭46・1)
「あの頃の記・第一集」(全国気象官署長会機関誌「ひさかた」特集号・昭37)
上松清「昭和二十年の気象台」(中央気象台「気団」昭27第8号〜昭28第2号)
須田滝雄「岡田武松伝」(昭43・岩波書店)
藤原咲平「気象と人生」(昭10・岩波書店)
藤原咲平「生みの悩み」(昭22・蓼科書房)
「藤原先生追悼号」(中央気象台「気団」昭26)
「特集藤原咲平の人と業績」(信濃教育会「信濃教育」昭38・10)
「天気と気候――気象観測特輯」(昭21・1・地人書館)
大谷東平「天気予報三十年」(昭33・法政大学出版局)
大谷東平「室戸台風と大阪」(大阪管区気象台「大阪管区時報」昭37・9・21〜11・21)
荒川秀俊「台風・猛威への挑戦」(昭33・社会思想研究会出版部)
高橋浩一郎「気象を見る眼」(昭49・共立出版)
久保栄「戯曲・日本の気象」(昭28・新潮社)
稲垣文男「気象用語と放送」(NHK総合放送文化研究所「NHK放送文化研究年報」昭46)
「東京大空襲・戦災誌」第三巻(昭48・東京空襲を記録する会)
児島襄「太平洋戦争」上下(昭40、41・中央公論社)
*筆者注=参考資料よりの引用文については、できうる限り原文のままとしましたが、読み易さを考えて、文字遣い等若干の訂正部分もあることをお断りします。
この作品は昭和五十年九月新潮社より刊行され、昭和五十六年七月新潮文庫版が刊行された。
尚、電子本およびオンデマンドブックでは巻末の参考地図を削除した。
Shincho Online Books for T-Time
空白の天気図
発行 2002年11月1日
著者 柳田 邦男
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861234-5 C0893
(C)Kunio Yanagida 1975, Coded in Japan