柳田国男
遠野物語
目 次
遠野物語
解説(山本健吉)
『遠野物語』の意味(吉本隆明)
年譜
此書を外国に在る人々に呈す
此《この》話はすべて遠野《とほの》の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々|訪《たづ》ね来《きた》り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手《はなしじやうず》には非《あら》ざれども誠実なる人なり。自分も亦《また》一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり。思ふに遠野|郷《がう》には此類の物語|猶《なほ》数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之《これ》を語りて平地人を戦慄《せんりつ》せしめよ。此書の如《ごと》きは陳勝呉広《ちんしようごくわう》のみ。
昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻《はなまき》より十余里の路上には町場《まちば》三ヶ所あり。其《その》他は唯《ただ》青き山と原野なり。人煙の稀少《きせう》なること北海道|石狩《いしかり》の平野よりも甚《はなは》だし。或《あるい》は新道なるが故《ゆゑ》に民居の来り就《つ》ける者少なきか。遠野の城下は則《すなは》ち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独り郊外の村々を巡《めぐ》りたり。其馬は黔《くろ》き海草を以《もっ》て作りたる厚総《あつぶさ》を掛けたり。虻《あぶ》多き為《ため》なり。猿《さる》ヶ石《いし》の渓谷は土肥えてよく拓《ひら》けたり。路傍に石塔の多きこと諸国其比を知らず。高処より展望すれば早稲正《わせまさ》に熟し晩稲は花盛《はなざかり》にて水は悉《ことごと》く落ちて川に在《あ》り。稲の色合は種類によりて様々なり。三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきは即《すなは》ち一家に属する田にして所謂名処《いはゆるみやうしよ》の同じきなるべし。小字《こあざ》より更に小さき区域の地名は持主に非ざれば之を知らず。古き売買譲与の証文には常に見ゆる所なり。附馬牛《つくもうし》の谷へ越ゆれば早《はや》池峯《ちね》の山は淡く霞《かす》み山の形は菅笠《すげがさ》の如く又片仮名のへの字に似たり。此谷は稲熟すること更に遅く満目一色に青し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛《ひな》を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき※[#「奚+隹」]《にはとり》かと思ひしが溝《みぞ》の草に隠れて見えざれば乃《すなは》ち野鳥なることを知れり。天神の山には祭ありて獅子踊《ししをどり》あり。茲《ここ》にのみは軽く塵《ちり》たち紅《あか》き物|聊《いささ》かひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊と云ふは鹿《しか》の舞なり。鹿の角を附けたる面を被《かぶ》り童子五六人剣を抜きて之と共に舞ふなり。笛の調子高く歌は低くして側《かたはら》にあれども聞き難《がた》し。日は傾きて風吹き酔ひて人呼ぶ者の声も淋《さび》しく女は笑ひ児《こ》は走れども猶旅愁を奈何《いかん》ともする能《あた》はざりき。盂蘭盆《うらぼん》に新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり。峠の馬上に於《おい》て東西を指点するに此旗十数ヶ所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入り込みたる旅人と又かの悠々《いういう》たる霊山とを黄昏《たそがれ》は徐《おもむろ》に来りて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木を以て作りしなり。此日|報賽《ほうさい》の徒多く岡の上に燈火見え伏鉦《ふせがね》の音聞えたり。道ちがへの叢《くさむら》の中には雨風祭の藁人形《わらにんぎやう》あり。恰《あたか》もくたびれたる人の如く仰臥《ぎやうぐわ》してありたり。以上は自分が遠野郷にて得たる印象なり。
思ふに此類の書物は少なくも現代の流行に非ず。如何《いか》に印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狭隘《けふあい》なる趣味を以て他人に強《し》ひんとするは無作法の仕業《しわざ》なりと云ふ人あらん。されど敢《あへ》て答ふ。斯《かか》る話を聞き斯る処《ところ》を見て来て後之を人に語りたがらざる者果してありや。其様《そのやう》な沈黙にして且《か》つ慎《つつし》み深き人は少なくも自分の友人の中にはある事なし。況《いはん》や我《わが》九百年前の先輩今昔物語の如きは其当時に在りて既に今は昔の話なりしに反し此《これ》は是《これ》目前の出来事なり。仮令《たとひ》敬虔《けいけん》の意と誠実の態度とに於ては敢《あへ》て彼を凌《しの》ぐことを得《う》と言ふ能はざらんも人の耳を経ること多からず人の口と筆とを倩《やと》ひたること甚だ僅《わづか》なりし点に於ては彼の淡泊無邪気なる大納言《だいなごん》殿|却《かへ》つて来り聴《き》くに値せり。近代の御伽百物語《おとぎひやくものがたり》の徒に至りては其志や既に陋《ろう》且つ決して其談の妄誕《まうたん》に非ざることを誓ひ得ず。窃《ひそか》に以て之と隣を比するを恥とせり。要するに此書は現在の事実なり。単に此のみを以てするも立派なる存在理由ありと信ず。唯鏡石子は年|僅《わづか》に二十四五自分も之に十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生れながら問題の大小をも弁《わきま》へず、其力を用ゐる所当《たう》を失へりと言ふ人あらば如何。明神の山の木兎《みみづく》の如くあまりに其耳を尖《とが》らしあまりに其眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。はて是非も無し。此責任のみは自分が負はねばならぬなり。
お き な さ び 飛 ば ず 鳴 か ざ る を ち か た の 森 の ふ く ろ ふ 笑 ふ ら ん か も
[#地付き]柳田国男
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題 目
(下の数字は話の番号なり、頁《ページ》数には非《あら》ず。)
地勢 [#地付き]一、五、六七、一一一
神の始 [#地付き]二、六九、七四
里の神 [#地付き]九八
カクラサマ [#地付き]七二―七四
ゴンゲサマ [#地付き]一一〇
家の神 [#地付き]一六
オクナイサマ [#地付き]一四、一五、七〇
オシラサマ [#地付き]六九
ザシキワラシ [#地付き]一七、一八
山の神 [#地付き]八九、九一、九三、一〇二、一〇七、一〇八
神女 [#地付き]二七、五四
天狗《てんぐ》 [#地付き]二九、六二、九〇
山男 [#地付き]五、六、七、九、二八、三〇、三一、九二
山女 [#地付き]三、四、三四、三五、七五
山の霊異 [#地付き]三二、三三、六一、九五
仙人堂 [#地付き]四九
蝦夷《えぞ》の跡 [#地付き]一一二
塚と森と [#地付き]六六、一一一、一一三、一一四
姥神《うばがみ》 [#地付き]六五、七一
館《たて》の址《あと》 [#地付き]六七、六八、七六
昔の人 [#地付き]八、一〇、一一、一二、二一、二六、八四
家のさま [#地付き]八〇、八三
家の盛衰 [#地付き]一三、一八、一九、二四、二五、三八、六三
マヨヒガ [#地付き]六三、六四
前兆 [#地付き]二〇、五二、七八、九六
魂の行方 [#地付き]二二、八六―八八、九五、九七、九九、一〇〇
まぼろし [#地付き]二三、七七、七九、八一、八二
雪女 [#地付き]一〇三
川童《かつぱ》 [#地付き]五五―五九
猿《さる》の経立《ふつたち》 [#地付き]四五、四六
猿 [#地付き]四七、四八
狼《おいぬ》 [#地付き]三六―四二
熊《くま》 [#地付き]四三
狐《きつね》 [#地付き]六〇、九四、一〇一
色々の鳥 [#地付き]五一―五三
花 [#地付き]三三、五〇
小正月の行事 [#地付き]一四、一〇二―一〇五
雨風祭 [#地付き]一〇九
昔々 [#地付き]一一五―一一八
歌謡 [#地付き]一一九
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一 遠野郷《とほのがう》は今の陸中|上閉伊《かみへい》郡の西の半分、山々にて取囲まれたる平地なり。新町村にては、遠野、土淵《つちぶち》、附馬牛《つくもうし》、松崎、青笹《あをざさ》、上郷《かみがう》、小友《をとも》、綾織《あやおり》、鱒沢《ますざは》、宮守《みやもり》、達曽部《たつそべ》の一町十ヶ村に分つ。近代|或《あるい》は西閉伊郡とも称し、中古には又|遠野保《とほのほ》とも呼べり。今日郡役所の在る遠野町は即《すなは》ち一郷の町場《まちば》にして、南部家一万石の城下なり。城を横田城とも云ふ。此《この》地へ行くには花巻《はなまき》の停車場にて汽車を下り、北上《きたかみ》川を渡り、其《その》川の支流|猿《さる》ヶ石《いし》川の渓《たに》を伝ひて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝へ言ふ、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、其水猿ヶ石川と為《な》りて人界に流れ出《い》でしより、自然に此《かく》の如《ごと》き邑落《いふらく》をなせしなりと。されば谷川のこの猿ヶ石に落合ふもの甚《はなは》だ多く、俗に七内八崎《ななないやさき》ありと称す。内《ない》は沢又は谷のことにて、奥州の地名には多くあり。
[#2字下げ]*遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖といふ語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり。
二 遠野の町は南北の川の落合《おちあひ》に在り。以前は七七十里《しちしちじふり》とて、七つの渓谷|各※[#二の字点]《おのおの》七十里の奥より売買の貨物を聚《あつ》め、其|市《いち》の日は馬千匹、人千人の賑《にぎ》はしさなりき。四方の山々の中に最も秀《ひい》でたるを早池峯《はやちね》と云ふ、北の方附馬牛の奥に在り。東の方には六角牛《ろつこうし》山立てり。石神《いしがみ》と云ふ山は附馬牛と達曽部との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来《きた》り、今の来内《らいない》村の伊豆《いづ》権現《ごんげん》の社ある処《ところ》に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃《ひそか》に之《これ》を取り、我胸の上に載せたりしかば、終《つひ》に最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各※[#二の字点]三の山に住し今も之を領したまふ故《ゆゑ》に、遠野の女どもは其妬《ねたみ》を畏《おそ》れて今も此山には遊ばずと云へり。
[#2字下げ]*この一里は小道即ち坂東道《ばんどうみち》なり、一里が五丁又は六丁なり。
[#2字下げ]**タツソベもアイヌ語なるべし。岩手郡玉山村にも同じ大字《おおあざ》あり。
[#2字下げ]***上郷村大字来内、ライナイもアイヌ語にてライは死のことナイは沢なり、水の静かなるよりの名か。
三 山々の奥には山人住めり。栃内《とちない》村|和野《わの》の佐々木|嘉兵衛《かへゑ》と云ふ人は今も七十余にて生存せり。此《この》翁《おきな》若かりし頃《ころ》猟をして山奥に入りしに、遥《はる》かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳《くしけづ》りて居たり。顔の色|極《きは》めて白し。不敵の男なれば直に銃《つつ》を差し向けて打ち放せしに弾《たま》に応じて倒れたり。其処《そこ》に馳《か》け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪は又そのたけよりも長かりき。後の験《しるし》にせばやと思ひて其髪をいさゝか切り取り、之を綰《わが》ねて懐《ふところ》に入れ、やがて家路に向ひしに、道の程《ほど》にて耐へ難《がた》く睡眠を催しければ、暫《しばら》く物蔭《ものかげ》に立寄りてまどろみたり。其間夢と現《うつつ》との境のやうなる時に、是《これ》も丈《たけ》の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立去ると見れば忽《たちま》ち睡《ねむり》は覚めたり。山男なるべしと云へり。
[#2字下げ]*土淵村大字栃内。
四 山口村の吉兵衛と云ふ家の主人、根子立《ねつこだち》と云ふ山に入り、笹《ささ》を苅《か》りて束と為《な》し担《かつ》ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心付きて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児《をさなご》を負ひたるが笹原の上を歩みて此方《こちら》へ来るなり。極めてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結び付けたる紐《ひも》は藤の蔓《つる》にて、着たる衣類は世の常の縞物《しまもの》なれど、裾《すそ》のあたりぼろ/\に破れたるを、色々の木の葉などを添へて綴《つづ》りたり。足は地に着くとも覚えず。事も無げに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方《いづかた》へか行き過ぎたり。此人は其折の怖《おそ》ろしさより煩《わづら》ひ始めて、久しく病みてありしが、近き頃|亡《う》せたり。
[#2字下げ]*土淵村大字山口、吉兵衛は代々の通称なれば此主人も亦《また》吉兵衛ならん。
五 遠野郷より海岸の田ノ浜、吉利吉里《きりきり》などへ越ゆるには、昔より笛吹《ふえふき》峠と云ふ山路《やまみち》あり。山口村より六角牛《ろつこうし》の方へ入り路のりも近かりしかど、近年此峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢《であ》ふより、誰も皆怖ろしがりて次第に往来も稀《まれ》になりしかば、終《つひ》に別の路を境木《さかひぎ》峠と云ふ方に開き、和山《わやま》を馬次場《うまつぎば》として今は此方ばかりを越ゆるやうになれり。二里以上の迂路《うろ》なり。
[#2字下げ]*山口は六角牛に登る山口なれば村の名となれるなり。
六 遠野郷にては豪農のことを今でも長者と云ふ。青笹村大字|糠前《ぬかのまへ》の長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某《なにがし》と云ふ猟師、或日《あるひ》山に入りて一人の女に遭《あ》ふ。怖ろしくなりて之を撃たんとせしに、何をぢでは無いか、ぶつなと云ふ。驚きてよく見れば彼《か》の長者がまな娘なり。何故《なにゆゑ》にこんな処には居るぞと問へば、或物に取られて今は其妻となれり。子もあまた生みたれど、すべて夫が食ひ尽して一人此の如《ごと》く在り。おのれは此地に一|生涯《しやうがい》を送ることなるべし。人にも言ふな。御身も危ふければ疾《と》く帰れと云ふまゝに、其在所をも問ひ明らめずして遁《に》げ還《かへ》れりと云ふ。
[#2字下げ]*糠の前は糠の森の前に在る村なり、糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森糠塚多くあり。
七 上郷村の民家の娘、栗《くり》を拾ひに山に入りたるまゝ帰り来《きた》らず。家の者は死したるならんと思ひ、女のしたる枕《まくら》を形代《かたしろ》として葬式を執行《とりおこな》ひ、さて二三年を過ぎたり。然《しか》るに其村の者猟をして五葉山《ごえふざん》の腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽《おほ》ひかゝりて岩窟《いはあな》のやうになれる所にて、図らず此女に逢ひたり。互に打驚き、如何《いか》にしてかゝる山には居るかと問へば、女の曰《いは》く、山に入りて恐ろしき人にさらはれ、こんな所に来たるなり。遁げて帰らんと思へど些《いささか》の隙《すき》も無しとのことなり。其人は如何なる人かと問ふに、自分には並の人間と見ゆれど、たゞ丈極《たけきは》めて高く眼の色少し凄《すご》しと思はる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子には非《あら》ずと云ひて食ふにや殺すにや、皆|何《いづ》れへか持去りてしまふ也《なり》と云ふ。まことに我々と同じ人間かと押し返して問へば、衣類なども世の常なれど、たゞ眼の色少しちがへり。一市間《ひといちあひ》に一度か二度、同じやうなる人四五人集り来て、何事か話を為《な》し、やがて何方《どちら》へか出て行くなり。食物など外より持ち来るを見れば町へも出ることならん。かく言ふ中《うち》にも今にそこへ帰つて来るかも知れずと云ふ故、猟師も怖ろしくなりて帰りたりと云へり。二十年ばかりも以前のことかと思はる。
[#2字下げ]*一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間は即《すなは》ち五日のことなり。
八 黄昏《たそがれ》に女や子供の家の外に出て居る者はよく神隠しにあふことは他《よそ》の国々と同じ。松崎村の寒戸《さむと》と云ふ所の民家にて、若き娘|梨《なし》の樹の下に草履《ぞうり》を脱ぎ置きたるまゝ行方《ゆくへ》を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或日親類|知音《ちいん》の人々其家に集りてありし処へ、極めて老いさらぼひて其女帰り来れり。如何《いか》にして帰つて来たかと問へば人々に逢ひたかりし故帰りしなり。さらば又行かんとて、再び跡を留《とど》めず行き失《う》せたり。其日は風の烈《はげ》しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆《ばば》が帰つて来さうな日なりと云ふ。
九 菊池|弥之助《やのすけ》と云ふ老人は若き頃|駄賃《だちん》を業とせり。笛の名人にて夜通しに馬を追ひて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜に、あまたの仲間の者と共に浜へ越ゆる境木《さかひぎ》峠を行くとて、又笛を取出して吹きすさみつゝ、大谷地《おおやち》と云ふ所の上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺《しらかば》の林しげく、其《その》下は葦《あし》など生じ湿りたる沢なり。此時谷の底より何者か高き声にて面白《おもしろ》いぞーと呼《よば》はる者あり。一同|悉《ことごと》く色を失ひ遁《に》げ走りたりと云へり。
[#2字下げ]*ヤチはアイヌ語にて湿地の義なり、内地に多くある地名なり。又ヤツともヤトともヤとも云ふ。
一〇 此《この》男ある奥山に入り、茸《きのこ》を採るとて小屋を掛け宿りてありしに、深夜に遠き処にてきやーと云ふ女の叫声聞え胸を轟《とどろ》かしたることあり。里へ帰りて見れば、其同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子《むすこ》の為に殺されてありき。
一一 此女と云ふは母一人子一人の家なりしに、嫁と姑《しうとめ》との仲|悪《あ》しくなり、嫁は屡※[#二の字点]《しばしば》親里へ行きて帰り来ざることあり。其日は嫁は家に在りて打臥《うちふ》して居りしに、昼の頃になり突然と倅《せがれ》の言ふには、ガガはとても生かしては置かれぬ、今日はきつと殺すべしとて、大なる草苅鎌《くさかりがま》を取り出し、ごし/\と磨《と》ぎ始めたり。その有様更に戯言《たはむれごと》とも見えざれば、母は様々に事を分けて詫《わ》びたれども少しも聴かず。嫁も起出《おきい》でて泣きながら諫《いさ》めたれど、露《つゆ》従ふ色も無く、やがては母が遁《のが》れ出でんとする様子あるを見て、前後の戸口を悉く鎖《とざ》したり。便用に行きたしと言へば、おのれ自ら外より便器を持ち来りて此《これ》へせよと云ふ。夕方にもなりしかば母も終《つひ》にあきらめて、大なる囲炉裡《ゐろり》の側《かたはら》にうづくまり只《ただ》泣きて居たり。倅はよく/\磨《と》ぎたる大鎌を手にして近より来り、先《ま》づ左の肩口を目掛けて薙《な》ぐやうにすれば、鎌の刃先《はさき》炉の上の火棚《ひだな》に引掛かりてよく斬《き》れず。其時に母は深山の奥にて弥之助が聞き付けしやうなる叫声を立てたり。二度目には右の肩より切り下げたるが、此にても猶《なほ》死絶えずしてある所へ、里人等驚きて馳付《かけつ》け倅を取抑《とりおさ》へ直に警察官を呼びて渡したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕へられ引き立てられて行くを見て、滝のやうに血の流るゝ中より、おのれは恨《うらみ》も抱《いだ》かずに死ぬるなれば、孫四郎は宥《ゆる》したまはれと言ふ。之を聞きて心を動かさぬ者は無かりき。孫四郎は途中にても其鎌を振上げて巡査を追ひ廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里に在り。
[#2字下げ]*ガガは方言にて母といふことなり。
一二 土淵村山口に新田《につた》乙蔵《おとざう》と云ふ老人あり。村の人は乙爺《おとぢい》といふ。今は九十に近く病みて将《まさ》に死《しな》んとす。年頃遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のやうに言へど、あまり臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々の館《たて》の主の伝記、家々の盛衰、昔より此《この》郷に行はれし歌の数々を始めとして、深山の伝説又は其奥に住める人々の物語など、此老人最もよく知れり。
[#2字下げ]*惜むべし、乙爺は明治四十二年の夏の始めになくなりたり。
一三 此老人は数十年の間山の中に独《ひとり》にて住みし人なり。よき家柄《いへがら》なれど、若き頃財産を傾け失ひてより、世の中に思ひを絶ち、峠の上に小屋を掛け、甘酒を往来の人に売りて活計とす。駄賃の徒は此|翁《おきな》を父親のやうに思ひて、親しみたり。少しく収入の余あれば、町に下り来て酒を飲む。赤《あか》毛布《ゲツト》にて作りたる半纏《はんてん》を着て、赤き頭巾《づきん》を被《かぶ》り、酔へば、町の中を躍りて帰るに巡査もとがめず。愈※[#二の字点]《いよいよ》老衰して後、旧里に帰りあはれなる暮しを為《な》せり。子供はすべて北海道へ行き、翁|唯《ただ》一人|也《なり》。
一四 部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマと云ふ神を祀《まつ》る。其家をば大同《だいどう》と云ふ。此神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布の真中に穴を明け、之《これ》を上より通して衣裳《いしやう》とす。正月の十五日には小字中《こあざぢゆう》の人々この家に集り来《きた》りて之を祭る。又オシラサマと云ふ神あり。此神の像も亦《また》同じやうにして造り設け、これも正月の十五日に里人集りて之を祭る。其式には白粉《おしろい》を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一|帖《でふ》の室あり。此部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭《あ》ふ。枕を反《かへ》すなどは常のことなり。或《あるい》は誰かに抱起され、又は室より突き出さるゝこともあり。凡《およ》そ静かに眠ることを許さぬなり。
[#2字下げ]*オシラサマは双神なり。アイヌの中にも此神あること蝦夷《えぞ》風俗|彙聞《ゐぶん》に見ゆ。
[#2字下げ]**羽後|苅和野《かりわの》の町にて市の神の神体なる陰陽の神に正月十五日白粉を塗りて祭ることあり。之と似たる例なり。
一五 オクナイサマを祭れば幸多し。土淵《つちぶち》村大字|柏崎《かしはざき》の長者阿部氏、村にては田圃《たんぼ》の家と云ふ。此家にて或年田植の人手足らず、明日は空も怪しきに、僅《わづか》ばかりの田を植ゑ残すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方《いづかた》よりとも無く丈《たけ》低き小僧一人来りて、おのれも手伝ひ申さんと言ふに任せて働かせて置きしに、午飯時《ひるめしどき》に飯を食はせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び帰り来て終日、代《しろ》を掻《か》きよく働きて呉《く》れしかば、其日に植ゑはてたり。どこの人かは知らぬが、晩には来て物を食ひたまへと誘ひしが、日暮れて又其影見えず。家に帰りて見れば、縁側に小さき泥《どろ》の足跡あまたありて、段々に座敷に入り、オクナイサマの神棚《かみだな》の所に止りてありしかば、さてはと思ひて其|扉《とびら》を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由《よし》。
一六 コンセサマを祭れる家も少なからず。此《この》神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石又は木にて男の物を作りて捧《ささ》ぐる也。今は追々とその事少なくなれり。
一七 旧家にはザシキワラシと云ふ神の住みたまふ家少なからず。此神は多くは十二三ばかりの童児なり。折々人に姿を見することあり。土淵村大字|飯豊《いひで》の今淵勘十郎と云ふ人の家にては、近き頃高等女学校に居る娘の休暇にて帰りてありしが、或日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢《あ》ひ大いに驚きしことあり。これは正《まさ》しく男の児《こ》なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物して居りしに、次の間にて紙のがさ/\と云ふ音あり。此室は家の主人の部屋にて、其時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思ひて板戸を開き見るに何の影も無し。暫時《しばらく》の間|坐《すわ》りて居ればやがて又|頻《しきり》に鼻を鳴す音あり。さては座敷ワラシなりけりと思へり。此家にも座敷ワラシ住めりと云ふこと、久しき以前よりの沙汰《さた》なりき。此神の宿りたまふ家は富貴自在なりと云ふことなり。
[#2字下げ]*ザシキワラシは座敷童衆なり。此神のこと「石神《いしがみ》問答」中にも記事あり。
一八 ザシキワラシ又女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門と云ふ家には、童女の神二人いませりといふことを久しく言伝へたりしが、或年同じ村の何某と云ふ男、町より帰るとて留場《とめば》の橋のほとりにて見馴《みな》れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき様子にて此方へ来《きた》る。お前たちはどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処《ところ》から来たと答ふ。此《これ》から何処《どこ》へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某は稍※[#二の字点]《やや》離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、此家の主従二十幾人、茸《きのこ》の毒に中《あた》りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、其女も亦《また》年老いて子無く、近き頃病みて失せたり。
一九 孫左衛門が家にては、或日|梨《なし》の木のめぐりに見馴れぬ茸のあまた生えたるを、食はんか食ふまじきかと男共の評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食はぬがよしと制したれども、下男の一人が云ふには、如何《いか》なる茸にても水桶《みづをけ》の中に入れて苧殻《をがら》を以てよくかき廻して後食へば決して中《あた》ることなしとて、一同此言に従ひ家内|悉《ことごと》く之《これ》を食ひたり。七歳の女の児は其日外に出《い》でて遊びに気を取られ、昼飯を食ひに帰ることを忘れし為に助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、或は生前に貸ありと云ひ、或は約束ありと称して、家の貨財は味噌《みそ》の類までも取去りしかば、此村草分の長者なりしかども、一朝にして跡方も無くなりたり。
二〇 此|兇変《きようへん》の前には色々の前兆ありき。男ども苅置《かりお》きたる秣《まぐさ》を出すとて三ツ歯の鍬《くは》にて掻《か》きまはせしに、大なる蛇《へび》を見出《みいだ》したり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打殺したりしに、其跡より秣の下にいくらとも無き蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白《おもしろ》半分に悉く之を殺したり。さて取捨つべき所も無ければ、屋敷の外に穴を掘りて之を埋め、蛇塚を作る。その蛇は簣《あじか》に何荷《なんが》とも無くありたりといへり。
二一 右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取寄せて読み耽《ふけ》りたり。少し変人と云ふ方なりき。狐《きつね》と親しくなりて家を富ます術を得んと思ひ立ち、先《ま》づ庭の中に稲荷《いなり》の祠《ほこら》を建て、自身京に上りて正一位の神階を請けて帰り、それよりは日々一枚の油揚を欠かすことなく、手づから社頭に供へて拝を為《な》せしに、後には狐|馴《な》れて近づけども遁《に》げず。手を延ばして其首を抑へなどしたりと云ふ。村に在りし薬師の堂守《どうもり》は、我が仏様は何物をも供へざれども、孫左衛門の神様よりは御利益《ごりやく》ありと、度々《たびたび》笑ひごとにしたりと也《なり》。
二二 佐々木氏の曽祖母《そうそぼ》年よりて死去せし時、棺に取納め親族の者集り来て其夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心の為離縁せられたる婦人も亦《また》其中に在りき。喪の間は火の気を絶やすことを忌《い》むが所の風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡《ゐろり》の両側に坐り、母人は旁《かたはら》に炭籠《すみかご》を置き、折々炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音して来る者あるを見れば、亡《な》くなりし老女なり。平生腰かゞみて衣物《きもの》の裾《すそ》の引ずるを、三角に取上げて前に縫附けてありしが、まざ/\とその通りにて、縞目《しまめ》にも目覚えあり。あなやと思ふ間も無く、二人の女の坐れる炉の脇《わき》を通り行くとて、裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくる/\とまはりたり。母人は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打臥《うちふ》したる座敷の方へ近より行くと思ふ程に、かの狂女のけたゝましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。其余の人々は此声に睡《ねむり》を覚《さま》し只《ただ》打驚くばかりなりしと云へり。
[#2字下げ]*マーテルリンクの「侵入者」を想《おも》ひ起さしむ。
二三 同じ人の二七日の逮夜《たいや》に、知音《ちいん》の者集りて、夜更《ふ》くるまで念仏を唱へ立帰らんとする時、門口《かどぐち》の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。其《その》うしろ付正《つきまさ》しく亡くなりし人の通りなりき。此《これ》は数多《あまた》の人見たる故《ゆゑ》に誰も疑はず。如何《いか》なる執着のありしにや、終《つひ》に知る人はなかりし也《なり》。
二四 村々の旧家を大同《だいどう》と云ふは、大同元年に甲斐国《かひのくに》より移り来たる家なればかく云ふとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非《あら》ざるか。
[#2字下げ]*大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門又は族といふことなり。常陸国志《ひたちのこくし》に例あり、ホラマヘと云ふ語後に見ゆ。
二五 大同の祖先たちが、始めて此《この》地方に到着せしは、恰《あたか》も歳《とし》の暮にて、春のいそぎの門松を、まだ片方はえ立てぬうちに早《はや》元日になりたればとて、今も此家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるまゝにて、標縄《しめなは》を引き渡すとのことなり。
二六 柏崎の田圃《たんぼ》のうちと称する阿倍《あべ》氏は殊《こと》に聞えたる旧家なり。此家の先代に彫刻に巧なる人ありて、遠野一郷の神仏の像には此人の作りたる者多し。
二七 早池峯《はやちね》より出でて東北の方|宮古《みやこ》の海に流れ入る川を閉伊《へい》川と云う。其流域は即《すなは》ち下閉伊《しもへい》郡なり。遠野の町の中にて今は池《いけ》の端《はた》と云ふ家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、此川の原台《はらだい》の淵《ふち》と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托《たく》す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩《たた》けば宛名《あてな》の人出で来べしとなり。此人請け合ひはしたれども路々《みちみち》心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部《ろくぶ》に行き逢へり。此手紙を開きよみて曰《いは》く、此を持ち行かば汝《なんぢ》の身に大なる災あるべし。書き換へて取らすべしとて更に別の手紙を与へたり。これを持ちて沼に行き教《をしえ》の如《ごと》く手を叩きしに、果して若き女出でて手紙を受け取り、其礼なりとて極《きは》めて小さき石臼《いしうす》を呉《く》れたり。米を一粒入れて回せば下より黄金出づ。此宝物の力にてその家|稍※[#二の字点]《やや》富有になりしに、妻なる者慾《よく》深くして、一度に沢山の米をつかみ入れしかば、石臼は頻《しきり》に自ら回りて、終には朝|毎《ごと》に主人が此石臼に供へたりし水の、小さき窪《くぼ》みの中に溜《たま》りてありし中へ滑り入りて見えずなりたり。その水溜りは後に小さき池になりて、今も家の旁《かたはら》に在り。家の名を池の端と云ふも其|為《ため》なりと云ふ。
[#2字下げ]*此話に似たる物語西洋にもあり、偶合にや。
二八 始めて早池峯に山路《やまみち》をつけたるは、附馬牛《つくもうし》村の何某と云ふ猟師にて、時は遠野の南部家|入部《にふぶ》の後のことなり。其|頃《ころ》までは土地の者一人として此山には入りたる者無かりしと。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りて居りし頃、或日《あるひ》炉の上に餅《もち》を並べ焼きながら食ひ居りしに、小屋の外を通る者ありて頻《しきり》に中を窺《うかが》ふさまなり。よく見れば大なる坊主也。やがて小屋の中に入り来り、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、終《つひ》にこらへ兼ねて手をさし延べて取りて食ふ。猟師も恐ろしければ自らも亦《また》取りて与へしに、嬉《うれ》しげになほ食ひたり。餅皆になりたれば帰りぬ。次の日も又来るならんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじへて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のやうになれり。案の如くその坊主けふも来て、餅を取りて食ふこと昨日の如し。餅尽きて後其白石をも同じやうに口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。後に谷底にて此坊主の死してあるを見たりと云へり。
[#2字下げ]*北上川の中古の大洪水に白髪水といふがあり、白髪の姥《うば》を欺《あざむ》き餅に似たる焼石を食はせし祟《たたり》なりと云ふ。此話によく似たり。
二九 |※[#「奚+隹」]頭山《けいとうざん》は早池峯の前面に立てる峻峯《しゆんぽう》なり。麓《ふもと》の里にては又|前薬師《まへやくし》とも云ふ。天狗《てんぐ》住めりとて、早池峯に登る者も決して此山は掛けず。山口のハネトと云ふ家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。極めて無法者にて、鉞《まさかり》にて草を苅り鎌《かま》にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞のみ多かりし人なり。或時人と賭《かけ》をして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、其岩の上に大男三人居たり。前にあまたの金銀をひろげたり。此男の近よるを見て、気色《けしき》ばみて振り返る、その眼の光極めて恐ろし。早池峯に登りたるが途《みち》に迷ひて来たるなりと言へば、然《しか》らば送りて遣《や》るべしとて先に立ち、麓近き処まで来り、眼を塞《ふさ》げと言ふまゝに、暫時そこに立ちて居る間に、忽《たちま》ち異人は見えずなりたりと云ふ。
三〇 小国《をぐに》村の何某と云ふ男、或日早池峯に竹を伐《き》りに行きしに、地竹《ぢだけ》の夥《おびただ》しく茂りたる中に、大なる男一人寝て居たるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの草履《ざうり》を脱ぎてあり。仰《あほ》に臥《ふ》して大なる鼾《いびき》をかきてありき。
[#2字下げ]*下閉伊郡小国村大字小国。
[#2字下げ]**地竹は深山に生ずる低き竹なり。
三一 遠野郷の民家の子女にして、異人にさらはれて行く者年々多くあり。殊に女に多しとなり。
三二 千晩《せんば》ヶ嶽《たけ》は山中に沼あり。此谷は物すごく腥《なまぐさ》き臭《か》のする所にて、此山に入り帰りたる者はまことに少し。昔何の隼人《はやと》と云ふ猟師あり。其子孫今もあり。白き鹿を見て之《これ》を追ひ此谷に千晩こもりたれば山の名とす。其|白鹿《はくろく》撃たれて遁《に》げ、次の山まで行きて片肢《かたあし》折れたり。其山を今|片羽山《かたはやま》と云ふ。さて又前なる山へ来て終《つひ》に死したり。其地を死助《しすけ》と云ふ。死助|権現《ごんげん》とて祀《まつ》れるはこの白鹿なりと云ふ。
[#2字下げ]*宛然《ゑんぜん》として古風土記をよむが如し。
三三 白望《しろみ》の山に行きて泊れば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋の頃|茸《きのこ》を採りに行き山中に宿する者、よく此事に逢《あ》ふ。又谷のあなたにて大木を伐《き》り倒す音、歌の声など聞ゆることあり。此山の大さは測るべからず。五月に萱《かや》を苅りに行くとき、遠く望めば桐《きり》の花の咲き満ちたる山あり。恰《あたか》も紫の雲のたなびけるが如し。されども終に其あたりに近づくこと能《あた》はず。曽《かつ》て茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋《ひ》と金の杓《しゃく》とを見たり。持ち帰らんとするに極めて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなはず。又来んと思ひて樹の皮を白くし栞《しをり》としたりしが、次の日人々と共に行きて之《これ》を求めたれど、終に其木のありかをも見出《みいだ》し得ずしてやみたり。
三四 白望《しろみ》の山続きに離森《はなれもり》と云ふ所あり。その小字《こあざ》に長者屋敷と云ふは、全く無人の境なり。茲《ここ》に行きて炭を焼く者ありき。或夜その小屋の垂菰《たれこも》をかゝげて、内を覗《うかが》ふ者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。此あたりにても深夜に女の叫声を聞くことは珍しからず。
三五 佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るやうに思はれたり。待てちやアと二声ばかり呼《よば》はりたるを聞けりとぞ。
三六 猿《さる》の経立《ふつたち》、御犬《おいぬ》の経立は恐ろしきものなり。御犬とは狼《おほかみ》のことなり。山口の村に近き二ツ石山は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子ども此山を見るに、処々の岩の上に御犬うづくまりてあり。やがて首を下より押上ぐるやうにしてかはる/″\吠《ほ》えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ。後から見れば存外小さしと云へり。御犬のうなる声ほど物凄《ものすご》く恐ろしきものは無し。
三七 境木《さかひぎ》峠と和山《わやま》峠との間にて、昔は駄賃馬を追ふ者、屡※[#二の字点]《しばしば》狼に逢ひたりき。馬方|等《ら》は夜行には、大抵十人ばかりも群を為《な》し、その一人が牽《ひ》く馬は一端綱《ひとはづな》とて大抵五六七匹までなれば、常に四五十匹の馬の数なり。ある時二三百ばかりの狼追ひ来り、其足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、其めぐりに火を焼きて之を防ぎたり。されど猶《なほ》其火を躍り越えて入り来るにより、終には馬の綱を解き之を張り回《めぐ》らせしに、穽《おとしあな》などなりとや思ひけん、それより後は中に飛び入らず。遠くより取囲みて夜の明るまで吠えてありきとぞ。
三八 小友《をとも》村の旧家の主人にて今も生存せる某爺《なにがしぢい》と云ふ人、村より帰りに頻《しきり》に御犬の吠ゆるを聞きて、酒に酔ひたればおのれも亦《また》其声をまねたりしに、狼も吠えながら跡より来るやうなり。恐ろしくなりて急ぎ家に帰り入り、門の戸を堅く鎖《とざ》して打潜《うちひそ》みたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる声やまず。夜明けて見れば、馬屋の土台の下を掘り穿《うが》ちて中に入り、馬の七頭ありしを悉《ことごと》く食ひ殺してゐたり。此家はその頃より産|稍※[#二の字点]《やや》傾きたりとのことなり。
三九 佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間も無きにや、そこよりはまだ湯気立てり。祖父の曰《いは》く、これは狼が食ひたるなり。此皮ほしけれども御犬は必ずどこか此近所に隠れて見てをるに相違なければ、取ることが出来ぬと云へり。
四〇 草の長さ三寸あれば狼は身を隠すと云へり。草木の色の移り行くにつれて、狼の毛の色も季節ごとに変りて行くものなり。
四一 和野《わの》の佐々木嘉兵衛、或年|境木越《さかひぎごえ》の大谷地《おほやち》へ狩にゆきたり。死助《しすけ》の方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあらは也《なり》。向ふの峯《みね》より何百とも知れぬ狼此方へ群れて走り来るを見て恐ろしさに堪《た》へず、樹の梢《こずゑ》に上りてありしに、其樹の下を夥《おびただ》しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野郷には狼|甚《はなは》だ少なくなれりとのことなり。
四二 六角牛《ろつこうし》山の麓にヲバヤ、板小屋など云ふ所あり。広き萱山《かややま》なり。村々より苅りに行く。ある年の秋|飯豊《いひで》村の者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち帰りしに、その日より狼の飯豊衆《いひでし》の馬を襲ふことやまず。外《ほか》の村々の人馬には聊《いささ》かも害を為《な》さず。飯豊衆相談して狼狩を為す。其中には相撲《すまう》を取り平生力自慢の者あり。さて野に出《い》でて見るに、雄の狼は遠くにをりて来《きた》らず。雌狼一つ鉄と云ふ男に飛び掛りたるを、ワッポロを脱ぎて腕に巻き、矢庭《やには》に其《その》狼の口の中に突込みしに、狼之を噛《か》む。猶《なほ》強く突き入れながら人を喚《よ》ぶに、誰も誰も怖《おそ》れて近よらず。其間に鉄の腕は狼の腹まで入り、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を噛み砕きたり。狼は其場にて死したれども、鉄も担《かつ》がれて帰り程《ほど》なく死したり。
[#2字下げ]*ワッポロは上羽織のことなり。
四三 一昨年の遠野新聞にも此《この》記事を載せたり。上郷村の熊と云う男、友人と共に雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分して其跡を※[#「不/見」]《もと》め、自分は峯の方を行きしに、とある岩の陰より大なる熊|此方《こちら》を見る。矢頃《やごろ》あまりに近かりしかば、銃をすてゝ熊に抱《かか》へ付き雪の上を転びて、谷へ下る。連の男之を救はんと思へども力及ばず。やがて谷川に落入りて、人の熊下になり水に沈みたりしかば、その隙《すき》に獣の熊を打取りぬ。水にも溺《おぼ》れず、爪《つめ》の傷は数ヶ所受けたれども命に障《さは》ることはなかりき。
四四 六角牛《ろつこうし》の峯続きにて、橋野《はしの》と云ふ村の上なる山に金坑あり。この鉱山の為に炭を焼きて生計とする者、これも笛の上手《じやうず》にて、ある日昼の間小屋に居り、仰向に寝転びて笛を吹きてありしに、小屋の口なる垂菰《たれこも》をかゝぐる者あり。驚きて見れば猿の経立《ふつたち》なり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに彼方《かなた》へ走り行きぬ。
[#2字下げ]*上閉伊郡栗橋村大字橋野。
四五 猿の経立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂《まつやに》を毛に塗り砂を其上に附けてをる故《ゆゑ》、毛皮は鎧《よろい》の如《ごと》く鉄砲の弾《たま》も通らず。
四六 栃内《とちない》村の林崎《はやしざき》に住む何某と云ふ男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、之を真の鹿なりと思ひしか、地竹を手にて分けながら、大なる口をあけ嶺《みね》の方より下り来れり。胆潰《きもつぶ》れて笛を吹|止《や》めたれば、やがて反《そ》れて谷の方へ走り行きたり。
[#2字下げ]*オキとは鹿笛のことなり。
四七 此地方にて子供をおどす語に、六角牛の猿の経立が来るぞと云ふこと常の事なり。此山には猿多し。緒※[#「木+上/下」]《をがせ》の滝を見に行けば、崖《がけ》の樹の梢にあまた居り、人を見れば遁《に》げながら木の実などを擲《なげう》ちて行くなり。
四八 仙人峠にもあまた猿をりて行人に戯《たはむ》れ石を打ち付けなどす。
四九 仙人峠は登り十五里降り十五里あり。其中程に仙人の像を祀《まつ》りたる堂あり。此堂の壁には旅人がこの山中にて遭ひたる不思議の出来事を書き識《しる》すこと昔よりの習《ならひ》なり。例へば、我は越後《ゑちご》の者なるが、何月何日の夜、この山路《やまみち》にて若き女の髪を垂れたるに逢へり。こちらを見てにこと笑ひたりと云ふ類《たぐひ》なり。又此所にて猿に悪戯《いたづら》をせられたりとか、三人の盗賊に逢へりと云ふやうなる事をも記せり。
[#2字下げ]*この一里も小道なり。
五〇 死助《しすけ》の山にカツコ花あり。遠野郷にても珍しと云ふ花なり。五月|閑古鳥《かんこどり》の啼《な》く頃、女や子ども之《これ》を採りに山へ行く。酢の中に漬《つ》けて置けば紫色になる。酸漿《ほほづき》の実のやうに吹きて遊ぶなり。此花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。
五一 山には様々の鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオツト鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌《おほづち》より駄賃附《だちんづけ》の者など峠を越え来れば、遥《はるか》に谷底にて其声を聞くと云へり。昔ある長者の娘あり。又ある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探しあるきしが、之を見つくることを得ずして、終《つひ》に此鳥になりたりと云ふ。オツトーン、オツトーンと云ふは夫《をつと》のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴声なり。
五二 馬追鳥は時鳥《ほととぎす》に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のやうなる縞《しま》あり。胸のあたりにクツゴコのやうなるかたあり。これも或《ある》長者が家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通し之を求めあるきしが終に此鳥となる。アーホー、アーホーと啼くは此地方にて野に居る馬を追ふ声なり。年により馬追鳥里に来て啼くことあるは飢饉《ききん》の前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。
[#2字下げ]*クツゴコは馬の口に嵌《は》める網の袋なり。
五三 郭公《くわくこう》と時鳥とは昔有りし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまはりの堅き所を自ら食ひ、中の軟かなる所を妹に与へたりしを、妹は姉の食ふ分は一層|旨《うま》かるべしと想ひて、庖丁《はうちやう》にて其姉を殺せしに、忽《たちま》ちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅い所と云ふことなり。妹さてはよき所をのみおのれに呉《く》れしなりけりと思ひ、悔恨に堪へず、やがて又これも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりと云ふ。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡《もりをか》辺にては時鳥はどちやへ飛んでたと啼くと云ふ。
[#2字下げ]*この芋は馬鈴薯《ばれいしょ》のことなり。
五四 閉伊《へい》川の流には淵《ふち》多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近き所に、川井と云ふ村あり。其村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐《き》るとて、斧《をの》を水中に取落したり。主人の物なれば淵に入りて之を探りしに、水の底に入るまゝに物音聞ゆ。之を求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機《はた》を織りて居たり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。之を返したまはらんと言ふ時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我が此所《ここ》にあることを人に言ふな。其礼としては其方|身上《しんしやう》良くなり、奉公をせずともすむやうにして遣《や》らんと言ひたり。その為《ため》なるか否《いな》かは知らず、其後|胴引《どうびき》など云ふ博奕《ばくち》に不思議に勝ち続けて金|溜《たま》り、程なく奉公をやめ家に引込みて中位の農民になりたれど、此男は疾《と》くに物忘れして、此娘の言ひしことも心付かずしてありしに、或日同じ淵の辺を過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思ひ出し、伴へる者に以前かゝることありきと語りしかば、やがて其|噂《うはさ》は近郷に伝はりぬ。其頃より男は家産再び傾き、又昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思ひしにや、その淵に何荷《なんが》とも無く熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の効も無かりしとのことなり。
[#2字下げ]*下閉伊郡川井村大字川井、川井は勿論《もちろん》川合の義なるべし。
五五 川には川童《かっぱ》多く住めり。猿《さる》ヶ石《いし》川|殊《こと》に多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて川童の子を孕《はら》みたる者あり。生れし子は斬《き》り刻みて一升|樽《だる》に入れ、土中に埋めたり。其形|極《きは》めて醜怪なるものなりき。女の壻《むこ》の里は新張《にひばり》村の何某とて、これも川端の家なり。其主人人に其始終を語れり。かの家の者一同ある日|畠《はたけ》に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀《みぎは》に踞《うづくま》りてにこ/\と笑ひてあり。次の日は昼の休に亦《また》此事あり。斯《か》くすること日を重ねたりしに、次第に其女の所へ村の何某と云ふ者夜々通ふと云ふ噂立ちたり。始めには壻が浜の方へ駄賃附《だちんづけ》に行きたる留守をのみ窺《うかが》ひたりしが、後には壻と寝たる夜さへ来るやうになれり。川童なるべしと云ふ評判段々高くなりたれば、一族の者集りて之を守れども何の甲斐《かひ》も無く、壻の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑ふ声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなはず、人々|如何《いか》にともすべきやうなかりき。其産は極めて難産なりしが、或者の言ふには、馬槽《うまふね》に水をたゝへ其中にて産まば安く産まるべしとのことにて、之を試みたれば果して其通りなりき。その子は手に水掻《みづかき》あり。此娘の母も亦|曽《かつ》て川童の子を産みしことありと云ふ。二代や三代の因縁《いんねん》には非《あら》ずと言ふ者もあり。此家も如法《によほふ》の豪家にて○○○○○と云ふ士族なり。村会議員をしたることもあり。
五六 上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を産みたることあり。確《たしか》なる証とては無けれど、身内真赤にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌《いま》はしければ棄《す》てんとて之を携へて道ちがへに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思ひ直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立帰りたるに、早取り隠されて見えざりきと云ふ。
[#2字下げ]*道ちがへは道の二つに別るゝ所|即《すなは》ち追分なり。
五七 川の岸の砂の上には川童の足跡と云ふものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などは殊に此事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人のゝやうに明らかには見えずと云ふ。
五八 小烏瀬《こがらせ》川の姥子淵《をばこふち》の辺に、新屋《しんや》の家と云ふ家あり。ある日淵へ馬を冷しに行き、馬曳《うまひき》の子は外へ遊びに行きし間に、川童|出《い》でて其馬を引込まんとし、却《かへ》りて馬に引きずられて厩《うまや》の前に来《きた》り、馬槽《うまふね》に覆《おほ》はれてありき。家の者馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中の者集りて殺さんか宥《ゆる》さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯《いたづら》をせぬと云ふ堅き約束をさせて之を放したり。其川童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりと云ふ。
[#2字下げ]*此話などは類型全国に充満せり。苟《いやし》くも川童のをるといふ国には必ず此話あり。何の故《ゆゑ》にか。
五九 外《ほか》の国にては川童の顔は青しと云ふやうなれど、遠野の川童は面《つら》の色|赭《あか》きなり。佐々木氏の曽祖母《そうそぼ》、穉《をさな》かりし頃《ころ》友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃《くるみ》の木の間より、真赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にて在り。此家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。
六〇 和野村の嘉兵衛爺《かへゑぢい》、雉子《きじ》小屋に入りて雉子を待ちしに狐《きつね》|屡※[#二の字点]《しばしば》出でて雉子を追ふ。あまり悪《にく》ければ之を撃たんと思ひ狙《ねら》ひたるに、狐は此方を向きて何とも無げなる顔してあり。さて引金を引きたれども火移らず。胸騒ぎして銃を検せしに、筒口より手元の処《ところ》までいつの間にか悉《ことごと》く土をつめてありたり。
六一 同じ人|六角牛《ろつこうし》に入りて白き鹿に逢《あ》へり。白鹿《はくろく》は神なりと云ふ言伝へあれば、若《も》し傷《きずつ》けて殺すこと能《あた》はずば、必ず祟《たたり》あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲《あざけ》りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手応《てごた》へはあれども鹿少しも動かず。此《この》時もいたく胸騒ぎして、平生|魔除《まよ》けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸《たま》を取出し、これに蓬《よもぎ》を巻き附けて打ち放したれど、鹿は猶《なほ》動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障《ましやう》の仕業《しわざ》なりけりと、此時ばかりは猟を止《や》めばやと思ひたりきと云ふ。
六二 又同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとま無くて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンヅ縄《なは》をおのれと木のめぐりに三囲《みめぐり》引きめぐらし、鉄砲を竪《たて》に抱へてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心付けば、大なる僧形《そうぎやう》の者赤き衣を羽のやうに羽ばたきして、其《その》木の梢《こずゑ》に蔽《おほ》ひかゝりたり。すはやと銃を打ち放せばやがて又羽ばたきして中空を飛びかへりたり。此時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかゝる不思議に遭《あ》ひ、其度毎《そのたびごと》に鉄砲を止めんと心に誓ひ、氏神に願掛けなどすれど、やがて再び思ひ返して、年取るまで猟人の業を棄つること能はずとよく人に語りたり。
六三 小国《をぐに》の三浦某と云ふは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍《ろどん》なりき。この妻ある日|門《かど》の前を流るゝ小さき川に沿ひて蕗《ふき》を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝《いぶか》しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き※[#「奚+隹」]《にはとり》多く遊べり。其庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多く居り、馬舎《うまや》ありて馬多く居れども、一向に人は居らず。終《つい》に玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀《ぜんわん》をあまた取出したり。奥の座敷には火鉢《ひばち》ありて鉄瓶《てつびん》の湯のたぎれるを見たり。されども終に人影は無ければ、もしや山男の家では無いかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。此事を人に語れども実《まこと》と思ふ者も無かりしが、又|或日《あるひ》我家のカドに出でて物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れて来たり。あまり美しければ拾ひ上げたれど、之《これ》を食器に用ゐたらば汚《きたな》しと人に叱《しか》られんかと思ひ、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器と為《な》したり。然《しか》るに此器にて量り始めてより、いつ迄経《までた》ちてもケセネ尽きず。家の者も之を怪しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾ひ上げし由《よし》をば語りぬ。此家はこれより幸運に向ひ、終に今の三浦家と成れり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き当りたる者は、必ず其家の内の什器《じふき》家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。其人に授けんが為にかゝる家をば見する也《なり》。女が無慾《むよく》にて何物をも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしと云へり。
[#2字下げ]*此カドは門には非ず。川戸にて門前を流るゝ川の岸に水を汲《く》み物を洗ふ為家ごとに設けたる所なり。
[#2字下げ]**ケセネは米稗《ひえ》其他の穀物を云ふ。キツは其穀物を容《い》るゝ箱なり。大小種々のキツあり。
六四 金沢《かねざは》村は白望《しろみ》の麓《ふもと》、上閉伊《かみへい》郡の内にても殊《こと》に山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前|此《この》村より栃内《とちない》村の山崎なる某かゝが家に娘の壻《むこ》を取りたり。此壻実家に行かんとして山路《やまみち》に迷ひ、又このマヨヒガに行き当りぬ。家の有様、牛馬※[#「奚+隹」]の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取出したる室《へや》あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとする所のやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちて在るやうにも思はれたり。茫然《ばうぜん》として後には段々恐ろしくなり、引返して終《つひ》に小国の村里に出でたり。小国にては此話を聞きて実とする者も無かりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来《きた》り長者にならんとて、壻殿を先に立てゝ人あまた之を求めに山の奥に入り、こゝに門ありきと云ふ処に来たれども、眼にかゝるものも無く空《むな》しく帰り来りぬ。その壻も終に金持になりたりと云ふことを聞かず。
[#2字下げ]*上閉伊郡金沢村。
六五 早池峯《はやちね》は御影石《みかげいし》の山なり。此山の小国に向きたる側に安倍《あべ》ヶ城《じやう》と云ふ岩あり。険しき崖《がけ》の中程《なかほど》にありて、人などはとても行き得べき処に非ず。こゝには今でも安倍貞任《あべのさだたふ》の母住めりと言伝ふ。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉《とびら》を鎖《とざ》す音聞ゆと云ふ。小国、附馬牛《つくもうし》の人々は、安倍ヶ城の錠の音がする、明日は雨ならんなど云ふ。
六六 同じ山の附馬牛よりの登り口にも亦《また》安倍屋敷と云ふ巌窟《いはあな》あり。兎《と》に角《かく》早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小国より登る山口にも八幡太郎《はちまんたろう》の家来の討死したるを埋めたりと云ふ塚三つばかりあり。
六七 安倍貞任に関する伝説は此外《このほか》にも多し。土淵《つちぶち》村と昔は橋野と云ひし栗橋《くりはし》村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く平なる原あり。其《その》あたりの地名に貞任と云ふ所あり。沼ありて貞任が馬を冷せし所なりと云ふ。貞任が陣屋を構へし址《あと》とも言ひ伝ふ。景色よき所にて東海岸よく見ゆ。
六八 土淵村には安倍氏と云ふ家ありて貞任が末なりと云ふ。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀《ほり》ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍|与右衛門《よゑもん》、今も村にては二三等の物持にて、村会議員なり。安倍の子孫は此外にも多し。盛岡の安倍館《あべだて》の附近にもあり。厨川《くりやがは》の柵《しやく》に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬《こがらせ》川の河隈《かはくま》に館《たて》の址あり。八幡沢《はちまんざは》の館と云ふ。八幡太郎が陣屋と云ふもの是《これ》なり。これより遠野の町への路《みち》には又八幡山と云ふ山ありて、其山の八幡沢の館の方に向へる峯にも亦一つの館址あり。貞任が陣屋なりと云ふ。二つの館の間二十余町を隔つ。矢戦《やいくさ》をしたりと云ふ言伝へありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。此間に似田貝《にたかひ》と云ふ部落あり。戦の当時此あたりは蘆《あし》しげりて土固まらず、ユキ/\と動揺せり。或時八幡太郎こゝを通りしに、敵味方|何《いづ》れの兵糧《ひやうらう》にや、粥《かゆ》を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かと云ひしより村の名となる。似田貝の村の外を流るゝ小川を鳴川《なるかは》と云ふ。之を隔てゝ足洗川《あしらが》村あり。鳴川にて義家《よしいへ》が足を洗ひしより村の名となると云ふ。
[#2字下げ]*ニタカヒはアイヌ語のニタト即《すなは》ち湿地より出《いで》しなるべし。地形よく合へり。西の国々にてはニタともヌタともいふ皆これなり。下閉伊郡小川村にも二田貝といふ字あり。
六九 今の土淵村には大同《だいどう》と云ふ家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞《おほほらまんのじよう》と云ふ。此《この》人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇《へび》を殺し、木に止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。昨年の旧暦正月十五日に、此老女の語りしには、昔ある処《ところ》に貧しき百姓あり。妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩舎《うまや》に行きて寝《い》ね、終《つい》に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋《すが》りて泣きゐたりしを、父は之を悪《にく》みて斧《をの》を以《もつ》て後より馬の首を切り落せしに、忽《たちま》ち娘は其首に乗りたるまゝ天に昇り去れり。オシラサマと云ふは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。其像三つありき。本《もと》にて作りしは山口の大同にあり。之を姉神とす。中にて作りしは山崎の在家《ざいけ》権十郎と云ふ人の家に在り。佐々木氏の伯母《をば》が縁付きたる家なるが、今は家絶えて神の行方《ゆくへ》を知らず。末にて作りし妹神の像は今|附馬牛《つくもうし》村に在りと云へり。
七〇 同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマの在る家には必ず伴ひて在《いま》す神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみ在る家もあり。又家によりて神の像も同じからず。山口の大同に在るオクナイサマは木像なり。山口の辷石《はねいし》たにえと云ふ人の家なるは掛軸なり。田圃《たんぼ》のうちにいませるは亦《また》木像なり。飯豊《いひで》の大同にもオシラサマは無けれどオクナイサマのみはいませりと云ふ。
七一 此話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かはり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝ふることはあれども、互に厳重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊《いささ》かたりとも知らしめず。又寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の者のみの集りなり。其人の数も多からず。辷石たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏《あみだぶつ》の斎日《さいにち》には、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈祷《きたう》す。魔法まじなひを善くする故《ゆゑ》に、郷党に対して一種の権威あり。
七二 栃内村の字琴畑《あざことばた》は深山の沢に在り。家の数は五軒ばかり、小烏瀬川の支流の水上なり。此《これ》より栃内の民居まで二里を隔つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中に在りしが、今は雨ざらし也《なり》。之をカクラサマと云ふ。村の子供之を玩物《もてあそびもの》にし、引き出して川へ投げ入れ又路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬやうになれり。或《あるい》は子供を叱《しか》り戒めて之を制止する者あれば、却《かへ》りて祟《たたり》を受け病むことありと云へり。
[#2字下げ]*神体仏像子供と遊ぶを好み之を制止するを怒り玉《たま》ふこと外にも例多し。遠江《とほたふみ》小笠郡大池村東光寺の薬師仏(掛川志《かけがはし》)、駿河《するが》安倍郡豊田村|曲金《まがりかね》の軍陣坊社の神(新風土記)、又は信濃|筑摩《しなのちくま》郡射手の弥陀堂《みだだう》の木仏(信濃奇勝録)など是なり
七三 カクラサマの木像は遠野郷のうちに数多《あまた》あり。栃内の字西内《あざにしない》にもあり。山口分の大洞《おほほら》と云ふ所にもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人の之《これ》を信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳《いしやう》頭の飾の有様も不分明なり。
七四 栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵《つちぶち》一村にては三つか四つあり。何《いづ》れのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削りの無格好《ぶかつこう》なるもの也。されど人の顔なりと云ふことだけは分るなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したまふべき場所の名なりしが、其《その》地に常います神をかく唱ふることゝなれり。
七五 離森《はなれもり》の長者屋敷にはこの数年前まで燐寸《マツチ》の軸木の工場ありたり。其小屋の戸口に夜になれば女の伺ひ寄りて人を見てげた/\と笑ふ者ありて、淋《さび》しさに堪《た》へざる故、終《つひ》に工場を大字山口に移したり。其後又同じ山中に枕木伐出《まくらぎきりだし》の為《ため》に小屋を掛けたる者ありしが、夕方になると人夫の者何れへか迷ひ行き、帰りて後|茫然《ばうぜん》としてあること屡※[#二の字点]《しばしば》なり。かゝる人夫四五人もありて其後も絶えず何方《いづかた》へか出《い》でて行くことありき。此者どもが後に言ふを聞けば、女が来て何処《いづこ》へか連れ出すなり。帰りて後は二日も三日も物を覚えずと云へり。
七六 長者屋敷は昔時長者の住みたりし址《あと》なりとて、其あたりにも糠森《ぬかもり》と云ふ山あり。長者の家の糠を捨てたるが成れるなりと云ふ。此山中には五つ葉のうつ木ありて、其下に黄金を埋めてありとて、今も其うつぎの有処《ありか》を求めあるく者|稀々《まれまれ》にあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、此あたりには鉄を吹きたる滓《かす》あり。恩徳《おんどく》の金山もこれより山続きにて遠からず。
[#2字下げ]*諸国のヌカ塚スクモ塚には多くは之と同じき長者伝説を伴へり。又黄金埋蔵の伝説も諸国に限なく多くあり。
七七 山口の田尻《たじり》長三郎と云ふは土淵村一番の物持なり。当主なる老人の話に、此人四十あまりの頃《ころ》、おひで老人の息子|亡《な》くなりて葬式の夜、人々念仏を終り各※[#二の字点]《おのおの》帰り行きし跡に、自分のみは話好なれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落《あまおち》の石を枕にして仰臥《ぎやうぐわ》したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるやうなり。月のある夜なれば其光にて見るに、膝《ひざ》を立て口を開きてあり。此人大胆者にて足にて揺《ゆる》がして見たれど少しも身じろぎせず。道を妨げて外《ほか》にせん方も無ければ、終に之《これ》を跨《また》ぎて家に帰りたり。次の朝行きて見れば勿論《もちろん》其跡方もなく、又誰も外に之を見たりと云ふ人は無かりしかど、その枕にしてありし石の形と在《あり》どころとは昨夜の見覚えの通りなり。此人の曰《いは》く、手を掛けて見たらばよかりしに、半ば恐ろしければ唯《ただ》足にて触れたるのみなりし故、更に何者のわざとも思ひ付かずと。
七八 同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁《らうをう》にて生存す。曽《かつ》て夜遊びに出でて遅くかへり来たりしに、主人の家の門は大槌《おほづち》往還に向ひて立てるが、この門の前にて浜の方より来る人に逢《あ》へり。雪合羽《ゆきがつぱ》を着たり。近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみて之を見たるに、往還を隔てゝ向側なる畠地の方へすつと反《そ》れて行きたり。かしこには垣根《かきね》ありし筈《はず》なるにと思ひて、よく見れば垣根は正《まさ》しくあり。急に怖《おそ》ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、後になりて聞けば、此《これ》と同じ時刻に新張《にひばり》村の何某《なにがし》と云ふ者、浜よりの帰り途《みち》に馬より落ちて死したりとのことなり。
七九 この長蔵の父をも亦《また》長蔵と云ふ。代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕へてありき。若き頃夜遊びに出で、まだ宵《よひ》のうちに帰り来り、門《かど》の口より入りしに、洞前《ほらまへ》に立てる人影あり。懐手《ふところで》をして筒袖《つつそで》の袖口を垂れ、顔は茫《ばう》としてよく見えず。妻は名をおつねと云へり。おつねの所へ来たるヨバヒトでは無いかと思ひ、つか/\と近よりしに、裏の方へは遁《に》げずして、却《かへ》つて右手の玄関の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、猶《なほ》進みたるに、懐手のまゝ後ずさりして玄関の戸の三寸ばかり明《あ》きたる所より、すつと内に入りたり。されど長蔵は猶不思議とも思はず、其戸の隙《すき》に手を差入れて中を探らんとせしに、中の障子は正《まさ》しく閉してあり。茲《ここ》に始めて恐ろしくなり、少し引下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲壁《くもかべ》にひたと附きて我を見下す如《ごと》く、其首は低く垂れて我頭に触るゝばかりにて、其眼の球は尺余も、抜け出でてあるやうに思はれたりと云ふ。此時は只恐ろしかりしのみにて、何事の前兆にても非《あら》ざりき。
[#2字下げ]*ヨバヒトは呼ばひ人なるべし。女に思ひを運ぶ人をかく云ふ。
[#2字下げ]**雲壁はなげしの外側の壁なり。
八〇 右の話をよく呑込《のみこ》む為には、田尻氏の家のさまを図にする必要あり。遠野一郷の家の建て方は何《いづ》れも之《これ》と大同小異なり。
門は此家のは北向なれど、通例は東向なり。右の図にて厩舎《うまや》のあるあたりに在るなり。門のことを城前《じやうまへ》と云ふ。屋敷のめぐりは畠《はたけ》にて、
囲墻《ゐしやう》を設けず。主人の寝室とウチとの間に小さく暗き室あり。之を座頭部屋と云ふ。昔は家に宴会あれば必ず座頭を喚《よ》びたり。之を待たせ置く部屋なり。
[#2字下げ]*此地方を旅行して最も心とまるは家の形の何《いづ》れもかぎの手なることなり。此家などそのよき例なり。
八一 栃内《とちない》の字《あざ》野崎に前川万吉と云ふ人あり。二三年前に三十余にて亡《な》くなりたり。この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出《い》でて帰りしに、門《かど》の口より廻《まは》り縁に沿ひてその角|迄《まで》来たるとき、六月の月夜のことなり、何心なく雲壁を見れば、ひたと之に附きて寝たる男あり。色の蒼《あを》ざめたる顔なりき。大いに驚きて病みたりしが此《これ》も何の前兆にても非ざりき。田尻氏の息子丸吉此人と懇親にて之を聞きたり。
八二 これは田尻丸吉と云ふ人が自ら遭《あ》ひたることなり。少年の頃《ころ》ある夜|常居《じやうゐ》より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷との境に人立てり。幽《かす》かに茫《ばう》としてはあれど、衣類の縞《しま》も眼鼻もよく見え、髪をば垂れたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当り、戸のさんにも触《さは》りたり。されど我手は見えずして、其上《そのうへ》に影のやうに重なりて人の形あり。その顔の所へ手を遣《や》れば又手の上に顔見ゆ。常居に帰りて人々に話し、行燈《あんどん》を持ち行きて見たれば、既に何物も在《あ》らざりき。此人は近代的の人にて怜悧《れいり》なる人なり。又虚言を為《な》す人にも非ず。
八三 山口の大同、大洞万之丞《おほほらまんのじよう》の家の建てざまは少しく外《ほか》の家とはかはれり。其図前の頁《ページ》に出す。玄関は巽《たつみ》の方に向へり。極めて古き家なり。此家には出して見れば祟《たたり》ありとて開かざる古文書の葛籠《つづら》一つあり。
八四 佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。此人の青年の頃と云へば、嘉永《かえい》の頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた来住してありき。釜石《かまいし》にも山田にも西洋館あり。船越《ふなこし》の半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇教《やそけう》は密々に行はれ、遠野郷にても之を奉じて磔《はりつけ》になりたる者あり。浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合ひては嘗《な》め合ふ者なりなど云ふことを、今でも話にする老人あり。海岸地方には合の子中々多かりしと云ふことなり。
八五 土淵村の柏崎《かしはざき》にては両親とも正《まさ》しく日本人にして白子《しらこ》二人ある家あり。髪も肌《はだ》も眼も西洋人の通りなり。今は二十六七位なるべし。家にて農業を営む。語音も土地の人とは同じからず、声細くして鋭し。
八六 土淵村の中央にて役場小学校などの在る所を字本宿《あざもとじゆく》と云ふ。此所《ここ》に豆腐屋を業とする政と云ふ者、今三十六七なるべし。此人の父大病にて死なんとする頃、此村と小烏瀬《こがらせ》川を隔てたる字下栃内に普請《ふしん》ありて、地固めの堂突《だうづき》を為す所へ、夕方に政の父|独来《ひとりきた》りて人々に挨拶《あいさつ》し、おれも堂突を為すべしとて暫時仲間に入りて仕事を為し、稍※[#二の字点]《やや》暗くなりて皆と共に帰りたり。あとにて人々あの人は大病の筈《はず》なるにと少し不思議に思ひしが、後に聞けば其日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、其時刻は恰《あたか》も病人が息を引き取らんとする頃なりき。
八七 人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人|大煩《おほわづら》ひして命の境に臨みし頃、ある日ふと菩提寺《ぼだいじ》に訪《おとな》ひ来れり。和尚鄭重《をしやうていちよう》にあしらひ茶などすゝめたり。世間話をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに遣《や》りしに、門を出でて家の方に向ひ、町の角を廻りて見えずなれり。其道にてこの人に逢《あ》ひたる人まだ外にもあり。誰にもよく挨拶して常の体《てい》なりしが、此晩に死去して勿論《もちろん》其時は外出などすべき様態《やうだい》にてはあらざりし也《なり》。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀《ちやわん》を置きし処《ところ》を改めしに、畳の敷合せへ皆こぼしてありたり。
八八 此《これ》も似たる話なり。土淵村|大字《おほあざ》土淵の常堅寺は曹洞宗にて、遠野郷十二ヶ寺の触頭《ふれがしら》なり。或《ある》日の夕方に村人|何某《なにがし》と云ふ者、本宿《もとじゆく》より来る路《みち》にて何某と云ふ老人にあへり。此老人はかねて大病をして居る者なれば、いつの間によくなりしやと問ふに、二三日気分も宜《よろ》しければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にて又言葉を掛け合ひて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来りし故《ゆゑ》出迎へ、茶を進め暫《しばら》く話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見れば亦《また》茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日|失《う》せたり。
八九 山口より柏崎へ行くには愛宕山《あたごやま》の裾《すそ》を廻るなり。田圃《たんぼ》に続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木の林となる。愛宕山の頂には小さき祠《ほこら》ありて、参詣《さんけい》の路は林の中に在り。登口に鳥居立ち、二三十本の杉の古木あり。其旁《そのかたはら》には又一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言伝ふる所なり。和野《わの》の何某と云ふ若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降り来る丈《たけ》高き人あり。誰ならんと思ひ林の樹木越しに其人の顔の所を目がけて歩み寄りしに、道の角にてはたと行逢《いきあ》ひぬ。先方は思ひ掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は耀《かがや》きて且《か》つ如何《いか》にも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて後をも見ずに柏崎の村に走り付きたり。
[#2字下げ]*遠野郷には山神塔多く立てり、その処は曽《かつ》て山神に逢ひ又は山神の祟《たたり》を受けたる場所にて神をなだむる為《ため》に建てたる石なり。
九〇 松崎村に天狗森《てんぐもり》と云ふ山あり。其|麓《ふもと》なる桑畠《くはばたけ》にて村の若者何某と云ふ者、働きて居たりしに、頻《しきり》に睡《ねむ》くなりたれば、暫く畠の畔《くろ》に腰掛けて居眠りせんとせしに、極めて大なる男の顔は真赤なるが出《い》で来《きた》れり。若者は気軽にて平生|相撲《すまう》などの好きなる男なれば、この見馴《みな》れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すやうなるを面悪《つらにく》く思ひ、思はず立上りてお前はどこから来たかと問ふに、何の答もせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思ひ、力自慢のまゝ飛びかゝり手を掛けたりと思ふや否《いな》や、却《かへ》りて自分の方が飛ばされて気を失ひたり。夕方に正気づきて見れば無論その大男は居らず。家に帰りて後人に此《この》事を話したり。其《その》秋のことなり。早池峯《はやちね》の腰へ村人大勢と共に馬を曳《ひ》きて萩《はぎ》を刈りに行き、さて帰らんとする頃になりて此男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死して居たりと云ふ。今より二三十年前のことにて、此時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多く居ると云ふことは昔より人の知る所なり。
九一 遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部|男爵《だんしやく》家の鷹匠《たかじやう》なり。町の人|綽名《あだな》して鳥御前《とりごぜん》と云ふ。早池峯、六角牛《ろつこうし》の木や石や、すべて其形状と在所とを知れり。年取りて後|茸採《きのこと》りにとて一人の連《つれ》と共に出でたり。この連の男と云ふは水練の名人にて、藁《わら》と槌《つち》とを持ちて水の中に入り、草鞋《わらぢ》を作りて出て来ると云ふ評判の人なり。さて遠野の町と猿《さる》ヶ石《いし》川を隔つる向山《むけえやま》と云ふ山より、綾織《あやおり》村の続石《つづきいし》とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ/\になり、鳥御前一人は又少し山を登りしに、恰《あたか》も秋の空の日影、西の山の端《は》より四五間ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰に赭《あか》き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢ひたり。彼等は鳥御前の近づくを見て、手を拡《ひろ》げて押戻《おしもど》すやうなる手つきを為し制止したれども、それにも構はず行きたるに女は男の胸に縋《すが》るやうにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思ひながら、鳥御前はひやうきんな人なれば戯《たはむ》れて遣らんとて腰なる切刃《きりは》を抜き、打ちかゝるやうにしたれば、その色赭き男は足を挙げて蹴《けり》たるかと思ひしが、忽《たちま》ちに前後を知らず。連なる男は之《これ》を探しまはりて谷底に気絶してあるを見付け、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かゝる事は今までに更になきことなり。おのれは此為《このため》に死ぬかも知れず、外の者には誰にも言ふなと語り、三日程の間病みて身まかりたり。家の者あまりに其死にやうの不思議なればとて、山臥《やまぶし》のケンコウ院と云ふに相談せしに、其答には、山の神たちの遊べる所を邪魔したる故《ゆゑ》、その祟《たたり》をうけて死したるなりと言へり。此人は伊能先生なども知合なりき。今より十余年前の事なり。
九二 昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早池峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り麓近くなる頃、丈の高き男の下より急ぎ足に昇り来るに逢へり。色は黒く眼はきら/\として、肩には麻かと思はるゝ古き浅葱色《あさぎいろ》の風呂敷にて小さき包を負ひたり。恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかと此方より声を掛けたるに、小国《をぐに》さ行くと答ふ。此路《みち》は小国へ越ゆべき方角には非《あら》ざれば、立ちとまり不審する程に、行き過ぐると思ふ間もなく、早見えずなりたり。山男よと口々に言ひて皆々遁《に》げ帰りたりと云へり。
九三 これは和野《わの》の人菊池菊蔵と云ふ者、妻は笛吹《ふえふき》峠のあなたなる橋野より来たる者なり。この妻親里へ行きたる間に、糸蔵と云ふ五六歳の男の児《こ》病気になりたれば、昼過ぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負ふ六角牛の峯続きなれば山路は樹深く、殊《こと》に遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウトになりて両方は岨《そば》なり。日影は此岨に隠れてあたり稍※[#二の字点]薄暗くなりたる頃、後の方より菊蔵と呼ぶ者あるに振返りて見れば、崖《がけ》の上より下を覗《のぞ》くものあり。顔は赭く眼の光りかゞやけること前の話の如《ごと》し。お前の子はもう死んで居るぞと云ふ。この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはつと思ひたりしが、早其姿は見えず。急ぎ夜の中に妻を伴ひて帰りたれば、果して子は死してありき。四五年前のことなり。
[#2字下げ]*ウトとは両側高く切込みたる路のことなり。東海道の諸国にてウタウ坂謡坂などいふはすべて此の如き小さき切通しのことならん。
九四 この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞はれたる残りの餅《もち》を懐《ふところ》に入れて、愛宕山の麓の林を過ぎしに、象坪《ざうつぼ》の藤七と云ふ大酒呑《おほざけのみ》にて彼と仲善《なかよし》の友に行き逢へり。そこは林の中なれど少しく芝原ある所なり。藤七はにこにことしてその芝原を指し、こゝで相撲を取らぬかと云ふ。菊蔵|之《これ》を諾し、二人草原にて暫《しばら》く遊びしが、この藤七|如何《いか》にも弱く軽く自由に抱《かか》へては投げらるゝ故《ゆゑ》、面白《おもしろ》きまゝに三番まで取りたり。藤七が曰《いは》く、今日はとてもかなはず、さあ行くべしとて別れたり。四五間も行きて後心付きたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれど無し。始めて狐《きつね》ならんかと思ひたれど、外聞を恥ぢて人にも言はざりしが、四五日の後酒屋にて藤七に逢ひ其《その》話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものをと言ひて、愈※[#二の字点]《いよいよ》狐と相撲を取りしこと露顕したり。されど菊蔵は猶《なほ》他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休に人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれも実はと此話を白状し、大いに笑はれたり。
[#2字下げ]*象坪は地名にして且《か》つ藤七の名字なり。象坪と云ふ地名のこと石神問答の中にて之を研究したり。
九五 松崎の菊池某と云ふ今年四十三四の男、庭作りの上手《じやうず》にて、山に入り草花を掘りては我庭に移し植ゑ、形の面白き岩などは重きを厭《いと》はず家に担《にな》ひ帰るを常とせり。或《ある》日少し気分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までつひに見たることなき美しき大岩を見付けたり。平生の道楽なれば之を持ち帰らんと思ひ、持ち上げんとせしが非常に重し。恰《あたか》も人の立ちたる形して丈《たけ》もやがて人ほどあり。されどほしさの余《あまり》之を負ひ、我慢して十間ばかり歩みしが、気の遠くなる位重ければ怪しみを為《な》し、路《みち》の旁《かたはら》に之を立て少しくもたれかゝるやうにしたるに、そのまゝ石と共にすつと空中に昇り行く心地《ここち》したり。雲より上になりたるやうに思ひしが実に明るく清き所にて、あたりに色々の花咲き、しかも何処《いづこ》とも無く大勢の人声聞えたり。されど石は猶益※[#二の字点]《なほますます》昇り行き、終《つい》には昇り切りたるか、何事も覚えぬやうになりたり。其後時過ぎて心付きたる時は、やはり以前の如く不思議の石にもたれたるまゝにてありき。此石を家の内へ持ち込みては如何《いか》なる事あらんも測りがたしと、恐ろしくなりて遁《に》げ帰りぬ。この石は今も同じ所に在り。折々は之を見て再びほしくなることありと云へり。
九六 遠野の町に芳公《よしこう》馬鹿《ばか》とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。此男の癖は路上にて木の切れ塵《ちり》などを拾ひ、之を捻《ひね》りてつく/″\と見つめ又は之を嗅《か》ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりて其手を嗅ぎ、何物にても眼の先まで取り上げ、にこ/\として折々之を嗅ぐなり。此男往来をあるきながら急に立ち留り、石などを拾ひ上げて之をあたりの人家に打ち付け、けたゝましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすれば其晩か次の日か物を投げ付けられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度と無くあれば、後には其家々も注意して予防を為すと雖《いへども》、終《つひ》に火事を免《まぬが》れたる家は一軒も無しと云へり。
九七 飯豊《いひで》の菊池|松之丞《まつのじよう》と云ふ人傷寒を病み、度々《たびたび》息を引きつめし時、自分は田圃《たんぼ》に出でて菩提寺《ぼだいじ》なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛上り、凡《およ》そ人の頭ほどの所を次第に前下りに行き、又少し力を入るれば昇ること始めの如し。何とも言はれず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何故《なにゆゑ》ならんと訝《いぶか》りつゝ門を入れば、紅《くれなゐ》の芥子《けし》の花咲満ち、見渡す限も知らず。いよ/\心持よし。この花の間に亡《な》くなりし父立てり。お前も来たのかと云ふ。これに何か返事をしながら猶《なほ》行くに、以前失ひたる男の子居りて、トッチャお前も来たかと云ふ。お前はこゝに居たのかと言ひつゝ近よらんとすれば、今来てはいけないと云ふ。此時門の辺にて騒しく我名を喚《よ》ぶ者ありて、うるさきこと限なけれど、拠《よんどころ》なければ心も重くいや/\ながら引返したりと思へば正気付きたり。親族の者寄り集《つど》ひ水など打ちそゝぎて喚生かしたるなり。
九八 路の旁《かたはら》に山の神、田の神、塞《さへ》の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。又|早池峯《はやちね》山|六角牛《ろつこうし》山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜に殊《こと》に多し。
九九 土淵《つちぶち》村の助役北川清と云ふ人の家は字火石《あざひいし》に在り。代々の山臥《やまぶし》にて祖父は正福院と云ひ、学者にて著作多く、村の為《ため》に尽したる人なり。清の弟に福二と云ふ人は海岸の田ノ浜へ壻《むこ》に行きたるが、先年の大海嘯《おほつなみ》に遭《あ》ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出《い》でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪《なみ》の打つ渚《なぎさ》なり。霧の布《し》きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正《まさ》しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遥々《はるばる》と船越《ふなこし》村の方へ行く崎の洞《ほら》ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたり。男はと見れば此《これ》も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が壻に入りし以前に互に深く心を通はせたりと聞きし男なり。今は此《この》人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛《かはい》くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退《の》きて、小浦《をうら》へ行く道の山陰を廻《めぐ》り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中《みちなか》に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。其後久しく煩《わづら》ひたりと云へり。
一〇〇 船越の漁夫何某、ある日仲間の者と共に吉利吉里《きりきり》より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のある所にて一人の女に逢ふ。見れば我妻なり。されどもかゝる夜中に独《ひとり》此辺に来べき道理なければ、必定《ひつぢやう》化物ならんと思ひ定め、矢庭《やには》に魚切庖丁《うをきりばうちやう》を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てゝ死したり。暫《しばら》くの間は正体を現はさゞれば流石《さすが》に心に懸り、後の事を連《つれ》の者に頼み、おのれは馳《は》せて家に帰りしに、妻は事も無く家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅かされて、命を取らるゝと思ひて目覚めたりと云ふ。さてはと合点《がてん》して再び以前の場所へ引返して見れば、山にて殺したりし女は連の者が見てをる中《うち》につひに一匹の狐《きつね》となりたりと云へり。夢の野山を行くに此獣の身を傭《やと》ふことありと見ゆ。
一〇一 旅人|豊間根《とよまね》村を過ぎ、夜更《よふ》け疲れたれば、知音《ちいん》の者の家に燈火の見ゆるを幸《さいはひ》に、入りて休息せんとせしに、よき時に来合せたり、今夕死人あり、留守の者なくて如何《いか》にせんかと思ひし所なり、暫《しばら》くの間頼むと云ひて主人は人を喚《よ》びに行きたり。迷惑|千万《せんばん》なる話なれど是非も無く、囲炉裡《ゐろり》の側にて煙草《たばこ》を吸ひてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば床の上にむく/\と起直る。胆潰《きもつぶ》れたれど心を鎮《しづ》め静かにあたりを見廻すに、流し元の水口の穴より狐の如《ごと》き物あり、面《つら》をさし入れて頻《しきり》に死人の方を見つめて居たり。さてこそと身を潜め窃《ひそ》かに家の外に出で、背戸《せど》の方に廻りて見れば、正《まさ》しく狐にて首を流し元の穴に入れ後足を爪立《つまた》てゝ居たり。有合はせたる棒をもて之《これ》を打ち殺したり。
[#2字下げ]*下閉伊《しもへい》郡豊間根村大字豊間根。
一〇二 正月十五日の晩を小正月と云ふ。宵《よい》の程《ほど》は子供|等《ら》福の神と称して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、明《あけ》の方から福の神が舞込んだと唱へて餅《もち》を貰《もら》ふ習慣あり。宵を過ぐれば此《この》晩に限り人々決して戸の外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶと言ひ伝へてあれば也《なり》。山口の字|丸古立《まるこだち》におまさと云ふ今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。如何《いか》なるわけにてか唯《ただ》一人にて福の神に出で、処々をあるきて遅くなり、淋《さび》しき路を帰りしに、向ふの方より丈《たけ》の高き男来てすれちがひたり。顔はすてきに赤く眼はかゞやけり。袋を捨てゝ遁《に》げ帰り大いに煩ひたりと云へり。
一〇三 小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶとも云ふ。童子をあまた引連れて来ると云へり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇《そり》遊びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるゝは常のことなり。されど雪女を見たりと云ふ者は少なし。
一〇四 小正月の晩には行事|甚《はなは》だ多し。月見と云ふは六つの胡桃《くるみ》の実を十二に割り一時に炉の火にくべて一時に之を引上げ、一列にして右より正月二月と数ふるに、満月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月には直《ただち》に黒くなり、風ある月にはフー/\と音をたてゝ火が振ふなり。何遍繰返しても同じことなり。村中|何《いづ》れの家にても同じ結果を得るは妙なり。翌日は此事を語り合ひ、例《たと》へば八月の十五夜風とあらば、其歳《そのとし》の稲の苅入《かりいれ》を急ぐなり。
[#2字下げ]*五穀の占、月の占多少の※[#「ワに濁点」]リエテを以て諸国に行はる。陰陽道に出でしものならん。
一〇五 又|世中見《よなかみ》と云ふは、同じく小正月の晩に、色々の米にて餅をこしらへて鏡と為《な》し、同種の米を膳《ぜん》の上に平らに敷き、鏡餅をその上に伏せ、鍋《なべ》を被《かぶ》せ置きて翌朝之を見るなり。餅に附きたる米粒の多きもの其年は豊作なりとして、早中晩の種類を択《えら》び定むるなり。
一〇六 海岸の山田にては蜃気楼《しんきろう》年々見ゆ。常に外国の景色なりと云ふ。見馴《みな》れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年毎《としごと》に家の形など聊《いささか》も違ふこと無しと云へり。
一〇七 上郷《かみがう》村に河ぷちのうちと云ふ家あり。早瀬川の岸に在り。此家の若き娘、ある日|河原《かはら》に出でて石を拾ひてありしに、見馴れぬ男|来《きた》り、木の葉とか何とかを娘にくれたり。丈高く面朱のやうなる人なり。娘は此日より占の術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりと云へり。
一〇八 山の神の乗り移りたりとて占を為す人は所々に在り。附馬牛《つくもうし》村にも在り。本業は木挽《こびき》なり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神より其術を得たりし後は、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占ひの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、頼みに来たる人と世間話を為《な》し、その中《うち》にふと立ちて常居《じやうゐ》の中をあちこちとあるき出すと思ふ程に、其人の顔は少しも見ずして心に浮びたることを云ふなり。当らずと云ふこと無し。例へばお前のウチの板敷を取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡又は刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が焼くるとか言ふなり。帰りて掘りて見るに必ずあり。かゝる例は指を屈するに勝《た》へず。
一〇九 盆の頃《ころ》には雨風祭とて藁《わら》にて人よりも大なる人形を作り、道の岐《ちまた》に送り行きて立つ。紙にて顔を描き瓜《うり》にて陰陽の形を作り添へなどす。虫祭の藁人形にはかゝることは無く其形も小さし。雨風祭の折は一部落の中にて頭屋《とうや》を択《えら》び定め、里人集りて酒を飲みて後、一同笛太鼓にて之《これ》を道の辻《つじ》まで送り行くなり。笛の中には桐《きり》の木にて作りたるホラなどあり。之を高く吹く。さて其折の歌は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」と云ふ。
[#2字下げ]*東国|輿地《よち》勝覧に依《よ》れば韓国にても賜d《れいだん》を必ず城の北方に作ること見ゆ。共に玄武神の信仰より来《きた》れるなるべし。
一一〇 ゴンゲサマと云ふは、神楽舞《かぐらまひ》の組毎《くみごと》に一つづゝ備はれる木彫の像にして、獅子頭《ししがしら》とよく似て少しく異なれり。甚《はなは》だ御|利生《りしやう》のあるものなり。新張《にひばり》の八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵《つちぶち》村|字五日市《あざいつかいち》の神楽組のゴンゲサマと、曽《かつ》て途中にて争《あらそひ》を為せしことあり。新張のゴンゲサマ負けて片耳を失ひたりとて今も無し。毎年村々を舞ひてあるく故《ゆゑ》、之を見知らぬ者なし。ゴンゲサマの霊験《れいげん》は殊《こと》に火伏《ひぶせ》に在り。右の八播の神楽組曽て附馬牛村に行きて日暮れ宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にて快く之を泊めて、五升|桝《ます》を伏せて其上にゴンゲサマを座《す》ゑ置き、人々は臥《ふ》したりしに、夜中にがつ/\と物を噛《か》む音のするに驚きて起きて見れば、軒端《のきば》に火の燃え付きてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火を喰《く》ひ消してありし也と。子供の頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を囓《か》みてもらふことあり。
一一一 山口、飯豊《いひで》、附馬牛の字荒川東禅寺及|火渡《ひわたり》、青笹《あをざさ》の字中沢|並《ならび》に土淵村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して必ず蓮台野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此《この》蓮台野へ追ひ遣《や》るの習《ならひ》ありき。老人は徒《いたづら》に死んで了《しま》ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊《ぬら》したり。その為に今も山口土淵辺にては朝《あした》に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり。
[#2字下げ]*ダンノハナは壇の塙《はなは》なるべし。即《すなは》ち丘の上にて塚《つか》を築きたる場所ならん。境の神を祭る為の塚なりと信ず。蓮台野も此類なるべきこと「石神問答」の中に言へり。
一一二 ダンノハナは昔|館《たて》の有りし時代に囚人を斬《き》りし場所なるべしと云ふ。地形は山口のも土淵飯豊のも略※[#二の字点]《ほぼ》同様にて、村境の岡の上なり。仙台にも此地名あり。山口のダンノハナは大洞《おほほら》へ越ゆる丘の上にて館址《たてあと》よりの続きなり。蓮台野は之と山口の民居を隔てゝ相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東は即ちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷と云ふ。此所《ここ》には蝦夷《えぞ》屋敷と云ふ四角に凹みたる所多く有り。其跡|極《きは》めて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出《いづ》る処《ところ》山口に二ヶ所あり。他の一は小字《こあざ》をホウリャウと云ふ。こゝの土器と蓮台野の土器とは様式全然|殊《こと》なり。後者のは技巧|聊《いささ》かも無く、ホウリャウのは模様なども巧《たくみ》なり。埴輪《はにわ》もこゝより出づ。又|石斧《せきふ》石刀の類も出づ。蓮台野には蝦夷銭とて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。是《これ》には単純なる渦紋《うづもん》などの模様あり。字ホウリャウには丸玉菅玉《まるだまくだたま》も出づ。こゝの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料色々なり。ホウリャウの方は何の跡と云ふことも無く、狭き一町歩ほどの場所なり。星谷は底の方今は田と成れり。蝦夷屋敷は此《この》両側に連りてありし也と云ふ。此あたりに掘れば祟《たたり》ありと云ふ場所二ヶ所ほどあり。
[#2字下げ]*外《ほか》の村々にても二所の地形及関係|之《これ》に似たりと云ふ。
[#2字下げ]**星谷と云ふ地名も諸国に在り星を祭りし所なり。
[#2字下げ]***ホウリャウ権現は遠野を始め奥羽《あうう》一円に祀《まつ》らるゝ神なり。蛇《へび》の神なりと云ふ。名義を知らず。
一一三 和野《わの》にジャウヅカ森と云ふ所あり。象を埋めし場所なりと云へり。此所だけには地震なしとて、近辺にては地震の折はジャウヅカ森へ遁《に》げよと昔より言ひ伝へたり。此《これ》は確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀《ほり》あり。塚の上には石あり。之を掘れば祟《たたり》ありと云ふ。
[#2字下げ]*ジャウヅカは定塚、庄塚又は塩塚などゝかきて諸国にあまたあり。是も境の神を祀りし所にて地獄のシャウツカの奪衣婆《だつえば》の話などと関係あること「石神問答」に詳《つまびらか》にせり。又象坪などの象頭神とも関係あれば象の伝説は由《よし》なきに非《あら》ず、塚を森といふことも東国の風なり。
一一四 山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木を栽《う》ゑめぐらし其《その》口は東方に向ひて門《もん》口めきたる所あり。其中程に大なる青石あり。曽《かつ》て一たび其下を掘りたる者ありしが、何者をも発見せず。後再び之を試みし者は大なる瓶《かめ》あるを見たり。村の老人たち大いに叱《しか》りければ、又もとのまゝに為《な》し置きたり。館《たて》の主の墓なるべしと云ふ。此所に近き館の名はボンシャサの館と云ふ。幾つかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取り廻《めぐ》らせり。寺屋敷|砥石森《といしもり》など云ふ地名あり。井の跡とて石垣《いしがき》残れり。山口孫左衛門の祖先こゝに住めりと云ふ。遠野古事記《とほのこじき》に詳《つまびら》かなり。
一一五 御伽話《おとぎばなし》のことを昔々と云ふ。ヤマハヽの話最も多くあり。ヤマハヽは山姥《やまうば》のことなるべし。其一つ二つを次に記すべし。
一一六 昔々ある所にトヽとガヽとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰が来ても戸を明けるなと戒しめ、鍵《かぎ》を掛けて出《い》でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみて居たりしに、真昼間に戸を叩《たた》きてこゝを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破《けやぶ》るぞと嚇《おど》す故《ゆゑ》に、是非なく戸を明けたれば入り来たるはヤマハヽなり。炉の横座に蹈《ふ》みはたかりて火にあたり、飯をたきて食はせよと云ふ。其言葉に従ひ膳《ぜん》を支度《したく》してヤマハヽに食はせ、其間に家を遁《に》げ出したるに、ヤマハヽは飯を食ひ終りて娘を追ひ来《きた》り、追々《おひおひ》に其間近く今にも背《せな》に手の触るゝばかりになりし時、山の蔭《かげ》にて柴《しば》を苅る翁《おきな》に逢《あ》ふ。おれはヤマハヽにぼつかけられてあるなり、隠して呉《く》れよと頼み、苅り置きたる柴の中に隠れたり。ヤマハヽ尋ね来りて、どこに隠れたかと柴の束をのけんとして柴を抱へたるまゝ山より滑り落ちたり。其|隙《すき》にこゝを遁《のが》れて又|萱《かや》を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハヽにぼつかけられてあるなり、隠して呉れよと頼み、苅り置きたる萱の中に隠れたり。ヤマハヽは又尋ね来りて、どこに隠れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱へたるまゝ山より滑り落ちたり。其隙に又こゝを遁れ出でて大きなる沼の岸に出でたり。此《これ》よりは行くべき方も無ければ、沼の岸の大木の梢《こずゑ》に昇りゐたり。ヤマハヽはどけえ行つたとて遁《の》がすものかとて、沼の水に娘の影の映れるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。此《この》間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋《ささごや》のあるを見付け、中に入りて見れば若き女ゐたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃《からうど》のありし中へ隠してもらひたる所へ、ヤマハヽ又飛び来り娘のありかを問へども隠して知らずと答へたれば、いんね来ぬ筈《はず》は無い、人くさい香がするものと云ふ。それは今|雀《すずめ》を炙《あぶ》つて食つた故なるべしと言へば、ヤマハヽも納得してそんなら少し寝ん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言ひて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女は之《これ》に鍵を下し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハヽに連れて来られたる者なれば共々に之を殺して里へ帰らんとて、錐《きり》を紅《あか》く焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハヽはかくとも知らず、只《ただ》二十日鼠《はつかねずみ》が来たと言へり。それより湯を煮立てゝ焼錐の穴より注ぎ込みて、終《つひ》に其ヤマハヽを殺し二人共に親々の家に帰りたり。昔々の話の終りは何《いづ》れもコレデドンドハレと云ふ語を以《もつ》て結ぶなり。
一一七 昔々これもある所にトヽとガヽと、娘の嫁に行く仕度《したく》を買ひに町へ出で行くとて戸を鎖《とざ》し、誰が来ても明けるなよ、はァと答へたれば出でたり。昼の頃ヤマハヽ来《きた》りて娘を取りて食ひ、娘の皮を被《かぶ》り娘になりて居る。夕方二人の親帰りて、おりこひめこ居たかと門《かど》の口より呼べば、あ、ゐたます、早かつたなしと答へ、二親は買ひ来たりし色々の支度の物を見せて娘の悦《よろこ》ぶ顔を見たり。次の日夜の明けたる時、家の鶏羽ばたきして、糠屋《ぬかや》の隅《すみ》ッ子見ろぢや、けゝうと啼《な》く。はて常に変りたる鶏の啼きやうかなと二親は思ひたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハヽのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするとき又鶏啼く。其声は、おりこひめこを載せなえでヤマハヽのせた、けゝうと聞ゆ。之を繰り返して歌ひしかば、二親も始めて心付き、ヤマハヽを馬より引き下して殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた有りたり。
[#2字下げ]*糠屋は物おきなり。
一一八 紅皿欠皿《べにざらかけざら》の話も遠野郷に行はる。只《ただ》欠皿の方はその名をヌカボと云ふ。ヌカボは空穂《うつぼ》のことなり。継母《ままはは》に悪《にく》まれたれど神の恵ありて、終《つひ》に長者の妻となると云ふ話なり。エピソードには色々の美しき絵様《ゑやう》あり。折あらば詳しく書記すべし。
一一九 遠野郷の獅子踊《ししをどり》に古くより用ゐたる歌の曲あり。村により人によりて少しづゝの相異あれど、自分の聞きたるは次の如《ごと》し。百年あまり以前の筆写なり。
[#2字下げ]*獅子踊はさまで此《この》地方に古きものに非ず。中代|之《これ》を輸入せしものなることを人よく知れり。
[#ここから1字下げ]
橋ほめ
一 まゐり来て此橋を見申せや、いかなもをざは蹈《ふ》みそめたやら、わだるがくかいざるもの
一 此御馬場を見申せや、杉原七里大門まで
門ほめ
一 まゐり来て此もんを見申せや、ひの木さわらで門立てゝ、是《これ》ぞ目出たい白かねの門
一 門の戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい
一 まゐり来てこの御本堂を見申せや、いかな大工は建てたやら
一 建てた御人は御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺|也《なり》
小島ぶし
一 小島ではひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白金の門
一 白金の門戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい
一 八つ棟《むね》ぢくりにひわだぶきの、上におひたるから松
一 から松のみぎり左に涌《わ》くいぢみ、汲《く》めども呑《の》めどもつきひざるもの
一 あさ日さすよう日かゞやく大寺也、さくら色のちごは百人
一 天からおづるちよ硯水《すずりみづ》、まつて立たれる
馬屋ほめ
一 まゐり来てこの御台所見申せや、め釜《がま》を釜に釜は十六
一 十六の釜で御代たく時は、四十八の馬で朝草|苅《か》る
一 其馬で朝草にききやう小萱《こがや》を苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり
一 かゞやく中のかげ駒《こま》は、せたいあがれを足《あ》がきする
一 此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし
一 われ/\はきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり
一 しやうぢ申せや限なし、一礼申して立てや友だつ
桝形《ますがた》ほめ
一 まゐり来てこの桝を見申せや、四方四角桝形の庭也
一 まゐり来て此宿を見申せや、人のなさげの宿と申
町ほめ
一 参り来て此お町を見申せや、竪町《たてまち》十五里横七里、△△出羽にまよおな友たつ
*出羽の字も実は不明なり。
けんだんほめ
一 まゐり来てこのけんだん様を見申せや、御町間中にはたを立前
一 まいは立町油町
一 けんだん殿は二かい座敷に昼寝すて、銭を枕《まくら》に金の手遊《てあそび》
一 参り来てこの御札見申せば、おすがいろぢきあるまじき札
一 高き処《ところ》は城と申し、ひくき処は城下と申す也
橋ほめ
一 まゐり来てこの橋を見申せば、こ金《がね》の辻《つじ》に白金《しろかね》のはし
上ほめ
一 まゐり来てこの御堂見申せや、四方四面くさび一本
一 扇とりすゞ取り、上さ参らばりそうある物
*すゞは数珠《じゆず》、りそうは利生か。
家ほめ
一 こりばすらに小金のたる木に、水のせ懸るぐしになみたち
*こりばすら文字不分明。
浪合
一 此庭に歌の上《じやう》ずはありと聞く、歌へながらも心はづかし
一 おんげんべりこおらいべり、山と花ござ是《こ》の御庭へさらゝすかれ
*雲繝縁《うんげんべり》、高麗縁《かうらいべり》なり。
一 まぎゑの台に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く
一 十七はちやうすひやけ御手にもぢをすやく廻や御庭かゝやく
一 この御酒一つ引受たもるなら、命長くじめうさかよる
一 さかなには鯛《たひ》もすゞきもござれ共、おどにきこいしからのかるうめ
一 正ぢ申や限なし、一礼申て立や友たつ、京
柱懸り
一 仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない※[#二の字点]
一 すかの子は生れておりれや山めぐる、我等も廻《めぐ》る庭めぐる※[#二の字点]
*すかの子は鹿の子なり。遠野の獅子踊の面は鹿のやうなり。
一 これの御庭におい柱の立つときは、ちのみがき若くなるもの※[#二の字点]
*ちのみがきは鹿の角|磨《みが》きなるべし。
一 松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからするちたのえせもの※[#二の字点]
*ちたは蔦《つた》。
一 松島の松にからまるちたの葉も、えんが無《なけ》れやぶろりふぐれる※[#二の字点]
一 京で九貫のから絵のびよぼ、三よへにさらりたてまはす
*びよぼは屏風《びやうぶ》なり。三よへは三四重か、此歌最もおもしろし。
めず※[#二の字点]ぐり
一 仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ※[#二の字点]
*めず※[#二の字点]ぐりは鹿の妻択《えら》びなるべし。
一 鹿の子は生れおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな※[#二の字点]
一 女鹿《めじか》たづねていかんとして白山の御山かすみかゝる※[#二の字点]
*して、字は〆てとあり。不明。
一 うるすやな風はかすみを吹き払て、今こそ女鹿あけてたちねる※[#二の字点]
*うるすやなは嬉《うれ》しやな也。
一 何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる※[#二の字点]
一 笹のこのはの女鹿子は、何とかくてもおひき出さる
一 女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの※[#二の字点]
一 奥のみ山の大鹿はことすはじめておどりでき候※[#二の字点]
一 女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな※[#二の字点]
一 松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの※[#二の字点]
一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる※[#二の字点]
一 沖のと中の浜す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物※[#二の字点]
なげくさ
一 なげくさを如何御人は御出あつた、出た御人は心ありがたい
一 この代を如何《いか》な大工は御指しあた、四つ角て宝遊ばし※[#二の字点]
一 この御酒を如何な御酒だと思《おぼ》し召《め》す、おどに聞いしが※[#二の字点]菊の酒※[#二の字点]
一 此《この》銭を如何な銭たと思し召す、伊勢お八まち銭熊野参の遣《つか》ひあまりか※[#二の字点]
一 此紙を如何な紙と思し召す、はりまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし
*播磨檀紙《はりまだんし》にや。
一 あふぎのお所いぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなり※[#二の字点]、おりめにそたかさなる
*いぢくなりはいづこなるなり。三内の字不明。仮にかくよめり。
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解説
[#地付き]山本健吉
明治四十一年十一月四日、牛込《うしごめ》加賀町の柳田氏の家へ、水野|葉舟《ようしゆう》がはじめて佐々木喜善を連れて来た。佐々木は岩手県|上閉伊《かみへい》郡|土淵《つちぶち》村の生れで、同郡山口村の農、佐々木家の養子となった。このときは数えて二十三歳、早稲田大学の文科にはいり、文学に志を持ち、『芸苑』その他の雑誌に幾篇かの短篇小説を発表していた。号は鏡石。交友が広く、後にみずから希望し教師として遠野の学校へ赴任した折口|信夫《しのぶ》門下の民俗学者山下久男氏によれば、当時前田夕暮、水野葉舟、三木露風とことによく往来していたという。
葉舟はそのころ歌人、小品文作家また自然主義小説家のひとりとして活躍し、古くから土曜会の常連で、柳田氏とも親しく、その文章にもあちこちに登場する。豊後《ぶんご》の吉吾話(キッチョム話)の面白《おもしろ》さを氏に説いたのも葉舟で、また氏の『遠野物語』が出た一、二年前に、東北旅行から還《かえ》って来て、花巻《はなまき》の某家で多量の郷土誌の写本を所蔵していることを、氏に告げたりもしている。この東北旅行の縁で、彼は佐々木と知り合ったのだろう。柳田氏の民俗学への興味に傾いて行くのに、いちばん関心を寄せていた文学者仲間の一人で、佐々木喜善が語り出す郷里の奇聞が、柳田氏を喜ばせるに違いないという期待を持って、柳田家に伴ったのだと思われる。
佐々木が柳田氏に近づいたのは、当時の藤村・花袋等第一線作家たちのきわめて近くにあった柳田氏への好奇心もあったろう。だが、氏は彼が遠野郷の伝説・信仰・風俗・昔話など、珍しい民間伝承に通じているのを知って、何かぱっと自分の興味に灯《ひ》がともされたような気持がした。佐々木はおそらく、不思議な伝承型の頭脳で、次から次へと限りもなく彼が繰り拡《ひろ》げる話題に、まだ見ぬ遠野郷とそこの住民たちの世界が、眼前にまざまざと躍動して来るように思われた。氏の脳裏に描き出されたその小盆地は、まるで氏のために存在したのではなかったかと思えるほど、氏の関心する風景に充《み》ち充ちていた。
佐々木自身は、志は文学の創作にあり、自分が胸に蓄えている郷土の伝承が、如何《いか》に価値のあるものであるかは知らず、それを自分の名において採集し、記録し、研究しようという気持はなかった。だから柳田氏が、彼の語るところを筆録したいという申入れを快く引受け、毎月二日の夜柳田邸に出掛けて口述した。その間の事情は、戦時中に山下久男氏が、ガリ版の小冊子として刊行した柳田氏の佐々木|宛《あて》の書簡集によって知ることが出来る。(これは書簡一〇八通を収め、後に『定本柳田国男集』別冊第四に収録された。)
この書物は、簡潔な文語体で書かれている。佐々木の話がどの程度に簡潔であったかは知らないが、これは氏が思いきって枝葉末節を苅《か》りこんで、事実の記録だけに止《とど》めたものと思う。主観を圧《おさ》えて、記録の客観性だけに終始しようとする氏の文脈の中に、圧えても圧えきれぬ氏の学問的|昂奮《こうふん》の渦《うず》を、見出《みいだ》すことが出来る。私たちはこの小冊子を読み、そこに浮彫りにされた遠野郷の生活と自然とにひたることによって、日本民俗学の成立という一つの事件に、まさに立ち会っていることになるのである。
柳田氏は東京帝国大学法科大学政治科を卒業して、すぐ農商務省農務局農政課に入り、かたわら早稲田大学で農政学を講義した。氏は『故郷七十年』の中で、幼少年時代を振りかえって、十一歳のころ饑饉《ききん》の実態の悲惨さを経験し、十三歳のとき地蔵堂の絵馬によって、産褥《さんじょく》の女が生れたばかりの嬰児《えいじ》を抑えつけている凄惨《せいさん》な絵を見て大きなショックを受け、それらの印象が自分を農民史研究に導く動機になったと言っている。氏の学問につきまとっている経世済民的思想は、その基づくところが遠い。農政課では、産業組合と農会法との啓蒙《けいもう》のために、旅行の機会が非常に多かったが、この旅行好きは氏の終生の性向となった。「しんみりと歩く」という表現を氏はしているが、主として草鞋《わらじ》ばきの旅で、農民たちの生活外形の観察に止まらず、その意識の底に眠る渾沌《こんとん》とした微妙なものに至るまで、膚《はだ》で感じ取りたいと願う。このような旅行に、無類の読書を加えて、それは氏を農政学や農民史の研究に止まらず、広く日本の常民の生活意識の根源に横たわるものの探求に向わせたのであった。
氏の文学者とのつきあいは少年時代から始まっているが、明治三十五年ごろからは、花袋・独歩・藤村らと談話会を開き、これが後の龍土会、またイブセン会の前身となった。あたかも柳田家が彼等のサロンのような形となり、氏は巧みな座談で、いち早く外国の小説・戯曲の内容を紹介したり、自分の見聞を彼等の小説の題材として提供したりした。日本の近代文学の主流に近く位置しながら、自分は創《つく》らず、彼等の創造力の鼓吹者となった。花袋が『重右衛門《じゅうえもん》の最後』を書いた時は、わざわざその家を訪ねて自分の感動を伝えたが、『蒲団《ふとん》』を書いた時は、不愉快で不潔な小説として、面と向って激しく罵倒《ばとう》した。だがその『蒲団』が日本の自然主義の勝利を不動のものにした記念碑的な作品で、その後日本文学の私小説への傾斜を不可避なものにしたのだから、その時の氏の姿勢が、当時の文壇と氏とを大きく背馳《はいち》せしめることになったのである。
その後の文壇文学から氏の気持が離れたのは、それが自分の身辺記録にばかりこだわって、うその面白さを喪失してしまったということもあるが、根本はそれが都会の一部の知識人の世界にばかり執着して、大多数の常民の世界を忘れてしまったからであった。
文壇に志を断ったことは、氏の専攻した農政学、農民史の研究へ打ちこむきっかけとなったはずだが、そうはならないで、民間伝承への興味を次第に心の中でふくらませて行く。そのはずみをつけたのは、明治四十一年五月から八月へかけての、『後狩詞記《のちのかりことばのき》』の採集を行なった九州旅行であった。この時は熊本を手はじめに五木《いつき》から鹿児島県下をまわり、日向《ひゆうが》椎葉《しいば》村から大分へ出たが、奥深い山地の椎葉村では一週間ほど滞在して、村長中瀬淳から、口または筆で伝えられて来た狩の故実の話を聞いた。
この旅は、自分でも「九州の田舎を細かく見た」(『遊海島記』附記)と言われる旅だが、その頂点に椎葉村行があった。椎葉へ行くきっかけは、熊本である人から日向奈須(椎葉)の話を聞き、興味を抱《いだ》いて訪ねることを思い立ったのだが、その前に、同じく熊本の阿蘇《あそ》男爵家《だんしゃくけ》へ招かれて、近代の模写品ながら下野《しもの》の狩の絵が六幅あるのを見て、感動したことに基づいている。その絵には獲物の数が実に夥《おびただ》しい上に、侍|雑人《ぞうにん》に到るまでの行装が如何にも美々しかった。その年々の狩は、阿蘇神社の厳重の神事で、遊楽でも生業でもなかったが、世の常の遊楽よりはるかに楽しいものであったことが、この絵を見て納得された。そのかつての神事の名残《なごり》である狩の慣習と作法とを、椎葉村の生活は今において伝えていた。それをありのままに伝えることに、柳田氏の興趣は動いたのだが、それは何も辺境の希風殊俗への好奇心というに止まらず、もっと広く日本人の原初の生活を少しでも明らかにしたいという願いからである。下野の狩の絵は、弓矢を以《もっ》てする狩の黄金時代の記録であるのに対して、椎葉の狩詞の記録は、鉄砲を以てする狩の白銀時代の記録であり、そこに記された慣習と作法とが、黄金時代の楽しい神事の姿を垣間見《かいまみ》させてくれるのである。柳田氏自身、この狩詞の採録を通して、かつて厚い尊崇を捧《ささ》げられていた山の神に、激しい興味を掻《か》き立てられているさまを覗《うかが》うことが出来る。
椎葉村を訪れた年の十一月、氏は佐々木喜善に会い、東北の遠野郷の話を聴いた。『後狩詞記』に次いで、『遠野物語』が、氏の自費による第二の出版となる。「西南の生活を写した後狩詞記が出たからには、東北でも亦《また》一つは出してよい。三百数十里を隔てた両地の人々に、互いに希風殊俗というものは無いということを、心付かせたいというような望みもあった。幸いにこの比較研究法は、是《これ》が端緒となって段々と発達して居る。それから今一つは前々年の経験、味をしめたと謂《い》っては下品にも聴《きこ》えるが、人には斯《こ》ういう報告にも耳を傾ける能力があるということは、あの時代としては一つの発見であった。現にそれから後、急に美人や風景や名物の土産品《みやげひん》以外に、若い人たちの知りたがる地方事実が増加したのである。」(『予が出版事業』)
『遠野物語』には山の神、里の神、家の神、山人、山女、雪女、河童《かっぱ》、猿・犬の経立《ふつたち》などについての怪異な話が充ち充ちている。『後狩詞記』で興味を抱き、胸にひそかに問題として蓄えておいた山の神について、『遠野物語』はその疑問に答えるかのように、その豊富な資料を提供している。常民の生活意識をその根底において規制するものは、その信仰(原始的な呪術《じゅじゅつ》を含めて)であり、氏の学問的追求の根本には、神の問題を解くという願いがあった。
農政学から民俗学への転換の契機は何かということが、論者たちにいろいろと問題にされている。『遠野物語』執筆の前後には、両方の仕事が混交しているが、氏の農政学が経世済民の志を基にしているのに対して、民間伝承の採訪は如何にも好事《こうず》的、趣味的に見えた。だが、これを政治的な関心からの脱落と見るのは、柳田氏の真意をあまりにイデオロギッシュにしか解しない者の言であろう。もともと氏には、経世済民の志と並んで、文学への情熱があったが、それ以上に宗教的心情の持主であったことを考えないわけには行かない。折口信夫の心の底に潜む「迢空《ちょうくう》的暗黒」には人も気づくが、柳田氏の心にも底知れぬ「渾沌」が存在することに、人はあまり気づかない。これは氏が、客観的、合理的な思考者であったことと矛盾しない。神の問題は氏の心に最初から宿っていた。そのことが、氏を単なる農政学者であることに満足せしめない。農民をも含むところの日本の常民全体の心に宿る神とは何かという問いかけが、氏の学問的追求の根底にはあった。
「一口に言えば、(柳田)先生の学問は、『神』を目的としている。」「今迄《いままで》の神道家と違った神を先生は求めていられる。」(『先生の学問』)と、折口信夫は言っている。そして、柳田氏の学問と平田|篤胤《あつたね》の学問との類似点を、彼は挙げている。それは篤胤が、妖怪《ようかい》や仙人のことを調べ、神隠しにあった虎吉《とらきち》という少年を自分の家で養って、いろいろ実験し観察したことなどをいうのである。あれほど客観的記述を重んじた柳田氏が、不思議なことに、少年時代に神隠しの経験を持ったような、不思議な感受性を持っていた。氏の父君松岡操もまた、平田学派にかかわりがあって、中年から神官となった。神や祖先や魂や妖怪|変化《へんげ》などは、氏の民俗学の中にはっきり位置づけられ、それは民俗学の限界を逸脱しても追求された。そのことが、経世済民の志と並んで、常に氏の心裡《しんり》にあった。そしてその追求のいとぐちが、椎葉村や遠野郷が語り出す言葉の中にあった。農政学を超えることで、柳田氏の世界はあの見事な拡《ひろが》りの世界を獲得することが出来た。
柳田氏にとって、諸国の民間伝承の採集は独力では限りがあり、多くの採集者を養成することは、まず第一の課題であった。そのような同志の糾合をはかる前に、まず最初に見出した同志が佐々木喜善だった。佐々木は遠野郷の伝承の採集者としては、願ってもない適任者であった。
後に柳田氏は、日本の民間伝承の採集を次のような三段階に分けている。
「第一部は生活外形、目の採集、旅人の採集と名づけてもよいもの。之《これ》を生活技術誌というも可。在来の所謂《いわゆる》土俗誌は主として是《これ》に限られ、国々の民間伝承研究は通例之に及ばなかった。
第二部は生活解説、耳と目との採集、寄寓者《きぐうしゃ》の採集と名づけてもよいもの。言語の知識を通して学び得べきもの。物の名称から物語まで、一切の言語芸術は是に入れられる。是が又土俗誌と民間伝承論との『境の市場』であった。
第三部は骨子、即《すなわ》ち生活意識、心の採集又は同郷人の採集とも名づくべきもの。僅《わず》かな例外を除き外人は最早《もはや》之に参与する能《あた》わず。地方研究の必ず起らねばならぬ所以《ゆえん》。」(『民間伝承論』序)
氏が椎葉村での採集は、第一の「旅人の採集」であるが、氏の言う「しんみりと歩く」とか「細かく見て歩く」とかいった方法によって、第二の「寄寓者の採集」によほど近づいていると言えよう。だが、佐々木喜善の遠野郷での採集は、第三の「同郷人の採集」に属する。全国に散らばる氏の協力者は、氏が苦心して養成したかけがえのない人たちで、もちろん「同郷人の採集」であり、彼等が行うきめのこまかい「心の採集」には、旅人や滞在者などのよそものは参加することが出来ないのである。
だから『遠野物語』は、佐々木喜善あって始めて書かれたものであり、柳田氏も『後狩詞記』とともに、「精確には私の著書ということは出来ない」(『予が出版事業』)と言っている。だが、佐々木の草稿に氏の筆が加わっている『遠野物語拾遺』が、氏の執筆でないとして『定本柳田国男集』から省かれているのと同じではない。正篇の方は飽くまでも氏の執筆にかかり、その文体は氏のものである。ということは、遠野の伝承の記録を通して、遠野に住む人びとの人生の哀愁を、あれほどきめこまやかに描き出すことが出来たというのは、佐々木喜善の採集もさることながら、それへの柳田氏の共感の深さであり、その筆の力なのである。
たとえば、山口孫左衛門の家には童女の神(ザシキワラシ)が二人いるという久しい言い伝えがあったが、ある人が見馴《みな》れない娘二人に会って、どこから来たと問うと、孫左衛門が処《ところ》からと答え、何某の家に行くと答える。さては孫左衛門が世も末だなと思うと、間もなく死に絶えたという。遠野郷の旧家にはザシキワラシという童神が住んでいて、その家は富貴自在という伝えがあるのだ。だからこの神の移動は、おのずから村の家々の栄枯盛衰の歴史を物語るのである。(一八)
あるいは佐々木家(喜善の家)の曽祖母《そうそぼ》が亡《な》くなって、親族の者一同が集まって座敷に寝た時、祖母と母とは大きな囲炉裡《いろり》の両側に坐《すわ》って、火の気を絶やさぬように時々炭を継いでいると、裏口から足音がして亡くなった老女が現れ、炉の脇《わき》を通って消えた。その時、縞目《しまめ》に見覚えがあるその裾《すそ》が丸い炭取りにさわり、くるくるとまわったところまで、気丈の母はまざまざと見ているのである。しばらくして座敷で、老女の娘である狂女が、けたたましい声でおばあさんが来たと叫んだという。氏はこの話を、「マーテルリンクの『侵入者』を想《おも》ひ起さしむ」と書いている。現場のリアルな記憶が、今日になお生きる怪異な世界の存在を、私たちに知らせてくれる。(二二)
あるいはまた琴畑《ことばた》の入口に塚《つか》があり、カクラサマという木の座像が置かれてあったが、村の子供たちがこれを引き出して路《みち》や川でもてあそび物にしたので、ある男が子供を叱《しか》って制止すると、祟《たた》りを受けて病んだという。氏は注して、「神体仏像子供と遊ぶを好み之を制止するを怒り玉《たま》ふこと外にも例多し」と書いている。(七二)
これはちょっと微笑《ほほえ》ましい話であるが、次のような話になると眼の前が真っ暗になる思いがする。蓮台野という地があって、昔は六十を超えた老人はすべてこの地へ追い遣《や》る習いだったとある。まるで『楢山節考《ならやまぶしこう》』のような習俗だが、老人はいたずらに死ぬことも出来ず、日中は里へ下り農作して口を糊《のり》したという。(一一一)
こういう話が、淡々と、さりげない筆致で書かれているので、かえって感動が大きい。そしてこの一冊を読むと、この人煙|稀《まれ》な小盆地の中の、早池峯《はやちね》山とか猿《さる》ヶ石《いし》川とか附馬牛《つくもうし》とか六角牛《ろつこうし》とかいった地名が、この上なく親しいものとなり、ここに営まれる村人たちの自然を怖《おそ》れ親しみそれと一つに融《と》け合った、敬虔《けいけん》でひっそりとした、ザシキワラシやオシラサマや河童などとの共なる生活が、彷彿《ほうふつ》と瞼《まぶた》に浮んでくるのである。
佐々木喜善がその後自分の名で『遠野雑記』を書き出したのは、明治四十五年以降のことである。最初の著書は大正九年に炉辺|叢書《そうしょ》の一冊として刊行された『奥州のザシキワラシの話』であるが、この時は彼の長い執心であった創作から全く心を断っていたようだ。そのことは私に、柳田氏が一人の民俗学者、あるいは民間伝承採集者を育て上げるのに、どれほどの歳月と根気とを要したかを想像させる。佐々木にはその後、『江差郡《えさしぐん》昔話』『東奥異聞』『老媼夜譚《ろうおうやたん》』『聴耳草紙《ききみみぞうし》』などがある。後には村長になったが、ある事件で郷里にいられなくなり、仙台に移住し、昭和八年九月二十九日に不遇のうちに死んだ。
[#地付き](昭和四十八年八月、文芸評論家)
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『遠野物語』の意味
[#地付き]吉本隆明
『遠野物語』は、明治四十三年に公刊されている。
明治四十三年は、まだ森鴎外、夏目漱石が健在で若々しい作品を産みだしていた。鴎外は漱石の『三四郎』に対抗する気持で『青年』を書いている。漱石は三部作の一つである『門』にとりくんでいた。そして、次の世代をみると白樺派の作家たち、武者小路実篤や志賀直哉が作品を書きはじめていた。たとえば、志賀直哉は『網走まで』を「白樺」に発表していた。また浪漫的、耽美《たんび》的な作家でいえば、泉鏡花は健在で、『歌行燈』などを書いている。谷崎潤一郎は代表作の一つである『刺青《しせい》』を書いた。それから自然主義も次の世代にむかって、だんだんと私小説化していきつつあった。花袋の次の世代、徳田秋声が出てきて『足迹《あしあと》』を書いていた。
文学的には柳田国男は、花袋や独歩など自然主義系統の詩人、作家に属していたわけだが、『遠野物語』はこの系統とはむしろ類縁はないといっていい。むしろ独歩と鏡花を結びつける線を空想すると少し親近さが感じられる。『遠野物語』本位にみれば同時代の文学から屹立《きつりつ》していたといっていい。柳田国男自身をこの『物語』の作者にみたてれば『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などの古典伝承物語のイメージが頭にあって、どこかでそれにあやかりたいというのが、おもな関心だったとおもえる。
『今昔物語』は、平安朝の末ごろに生まれた昔話の物語で、「今ハ昔」で始まって「〜トナム語リ伝へタルトカヤ」という形でおわる一つのスタイルをもっている。その中にいろいろな故事や言い伝えや同時代の面白い話が集められている。日本だけでなくて、もちろん中国やインドの昔話もある。いま『今昔物語』のスタイルにのっとって、『遠野物語』を分類できないかかんがえてみる。すると三つに分類できそうだ。これを取り出してみる。
第一に「体験体」、あるいは「体験|譚《たん》」というスタイルがかんがえられる。つぎは「事実体」、あるいは「事実譚」というのが一つ、もう一つあえて分類すれば「伝承体」、つまり「伝承譚」というのが設定できる。大雑把《おおざつぱ》に「体験体」あるいは「体験譚」というのは、数えてみると三十一から三十三、「事実体」あるいは「事実譚」は七十三くらい、「伝承体」というものは、三篇くらいある。足しても『遠野物語』の話の数全部とあわないが、それは中間とみられるスタイルが重複するためだ。『遠野物語』の特色を作っているスタイルは、記述者、言いかえれば作者としての柳田国男の特色だとみなしうる。それはいまあげた三十三の体験譚のスタイルにあつまっているといっていい。
ここで体験譚といっているものは、べつに作者が体験した、あるいは記述者が体験した話ということではない。体験した者は遠野の住人であったり、そのなかでもほんとうに誰かわかっている人物が体験した話のスタイルになっている。だが『今昔物語』のように「今は昔、こういうことがありました」、「現在こういうことがあります」という記述の仕方をしていない。たとえば体験した猟師がじぶんでこんなふうに山に入って行ったら、こんなことに遭遇したのでこうした、というような記述の仕方をしているわけではない。普通は体験者がいて、べつの記述者が体験譚を記述するというスタイルをとると、昔話の形になる。ところが、ここでいう体験譚は、そういう記述の仕方をしていない。はじめは記述者と体験した人が別々のように書き始めるばあいもあるが、途中で記述者と体験者が一体になってしまう。まるで記述者自身が体験しているような文体に変わっていくわけだ。いわば行動的な文体といっていいとおもう。
これは『遠野物語』のたいへんな特色で、この特色は、内容的な特色とともに、この物語をとても特異なものにしている。こんな記述の仕方をしている古典物語は存在しない。記述する人つまり作者と、体験した人とが途中から一緒になってしまうような文体のあり方は、記述者があたかも自分が体験しているようなところへ身を乗りだしていることを意味する。なぜ身を乗りだしているかといえば、記述者自体がそのことに関心が深いから、あるいは記述者自体が体験者に乗りうつって一緒になってしまったからだ。
もう一ついえることは、この種の体験譚あるいは体験体は、たとえば山のなかで猟師さんが体験したというような話でも、必ずいまのことばでいえば入眠幻覚、つまり夢か現《うつつ》かわからない状態の体験で、里の物語でもないし、山の物語でもなく、里の人と山の人とが一緒にどこかで遭遇しなければ、とてもこの文体はうまれないといった記述の仕方になっている。こうかんがえてゆくと柳田国男がいちばん関心をもっていたのは、この体験譚というべきものだったといえそうな気がする。
たとえば『遠野物語』の三をみると、こうなっている。
三 山々の奥には山人住めり。栃内《とちない》村|和野《わの》の佐々木|嘉兵衛《かへゑ》と云ふ人は今も七十余にて生存せり。此翁《このおきな》若かりし頃《ころ》猟をして山奥に入りしに、遥《はる》かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳《くしけづ》りて居たり。顔の色|極《きは》めて白し。不敵の男なれば直に銃《つつ》を差し向けて打ち放せしに弾《たま》に応じて倒れたり。其処《そこ》に馳《か》け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪は又そのたけよりも長かりき。後の験《しるし》にせばやと思ひて其髪をいさゝか切り取り、之を綰《わが》ねて懐《ふところ》に入れ、やがて家路に向ひしに、道の程《ほど》にて耐へ難《がた》く睡眠を催しければ、暫《しばら》く物蔭《ものかげ》に立寄りてまどろみたり。其間夢と現《うつつ》との境のやうなる時に、是《これ》も丈《たけ》の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立去ると見れば忽《たちま》ち睡《ねむり》は覚めたり。山男なるべしと云へり。
その次の四もそうだ。
四 山口村の吉兵衛と云ふ家の主人、根子立《ねつこだち》と云ふ山に入り、笹《ささ》を苅《か》りて束と為《な》し担《かつ》ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心付きて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児《をさなご》を負ひたるが笹原の上を歩みて此方《こちら》へ来るなり。極めてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結び付けたる紐《ひも》は藤の蔓《つる》にて、着たる衣類は世の常の縞物《しまもの》なれど、裾《すそ》のあたりぼろ/\に破れたるを、色々の木の葉などを添へて綴《つづ》りたり。足は地に着くとも覚えず。事も無げに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方《いづかた》へか行き過ぎたり。此人は其折の怖《おそ》ろしさより煩《わづら》ひ始めて、久しく病みてありしが、近き頃|亡《う》せたり。
この記述の仕方を、よく注意してみると、佐々木嘉兵衛さんとか吉兵衛さんの体験は、記述している柳田国男自体が、体験したみたいに書かれていることに気づく。言いかえれば、記述者柳田国男が、この種の話になってくると、自分があたかも体験したように事態のなかに入っていってしまう。それくらい関心の深い話だったということがわかる。
これは『遠野物語』のおおきな特色になっている。ことばとしては、「山男なるべしと云へり」と昔話風に「〜ということだ」という言い方をして終わらせているところもある。だがその場合でも昔話の「こういう話があったよ」というような「なるべしと云へり」という意味ではなくて、そのことが夢か現かわからないところで体験したものだからあまり確信できない、それで「云へり」ということばを使った、そういう意味の「云へり」だということがわかる。けっして『今昔物語』のように、昔こういう人がいて、こういうことがあったんだよ、という意味ではない。柳田国男が『遠野物語』でやっている体験体の記述の仕方、いいかえれば記述者と体験者がおなじになってしまう記述の仕方は、それ自体が『遠野物語』のおおきな特徴だといえよう。
こういう体験譚が三十三篇くらいあるとすると、七十三篇くらいが事実体あるいは事実譚だ。この事実体とはいってみれば『今昔物語』のような古典物語とまったくおなじではないが、古典物語の記述の仕方をしているものだ。これが七十何篇あるということは、大部分が古典物語とおなじ昔話を語る記述の仕方を採っているということだ。
この事実体は、書かれている内容が必ずしも事実だという意味ではない。書かれていることがあやふやであったり、伝承であったり、夢現のうちで行われたことであっても、事実を記述するのとおなじような記述の仕方をしているという意味だ。内容はどんなに幻想的なことでも、事実こういうことがあったと記述していくのとおなじスタイルになっている。
たとえば『遠野物語』の二番目にこういうのがある。
二 遠野の町は南北の川の落合《おちあひ》に在り。以前は七七十里《しちしちじふり》とて、七つの渓谷|各※[#二の字点]《おのおの》七十里の奥より売買の貨物を聚《あつ》め、其|市《いち》の日は馬千匹、人千人の賑《にぎ》はしさなりき。四方の山々の中に最も秀《ひい》でたるを早池峯《はやちね》と云ふ、北の方附馬牛の奥に在り。東の方には六角牛《ろつこうし》山立てり。石神《いしがみ》と云ふ山は附馬牛と達曽部との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来《きた》り、今の来内《らいない》村の伊豆《いづ》権現《ごんげん》の社ある処《ところ》に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃《ひそか》に之《これ》を取り、我胸の上に載せたりしかば、終《つひ》に最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各※[#二の字点]三の山に住し今も之を領したまふ故《ゆゑ》に、遠野の女どもは其|妬《ねたみ》を畏《おそ》れて今も此山には遊ばずと云へり。
こういう言い伝えがあるというのを、あたかも事実こういうことがあったというスタイルで記述している。これはもちろん事実でないことがはっきりした伝承・伝説なのだが、その記述の仕方、書き方は、記述者があたかも事実を記述しているというスタイルが使われている。このスタイルは日本の昔の物語のおおきな特徴だといえる。たとえばおなじような話が『常陸国《ひたちのくに》風土記』にある。それは、富士山と筑波山にまつわる説話で次のようなものだ。
古老《ふるおきな》のいへらく、昔、神祖《みおや》の尊《みこと》、諸神《もろがみ》たちのみ処《もと》に巡り行《い》でまして、駿河の国|福慈《ふじ》の岳《やま》に到《いた》りまし、卒《つひ》に日暮に遇《あ》ひて、遇宿《やどり》を請欲《こ》ひたまひき。此の時、福慈の神答へけらく、「新粟《わせ》の初甞《にひなへ》して、家内《やぬち》諱忌《ものいみ》せり。今日《けふ》の間《ほど》は、冀《ねが》はくは許し堪《あ》へじ」とまをしき。是《ここ》に、神祖の尊、恨み泣きて詈告《の》りたまひけらく、「即ち汝《いまし》が親ぞ。何ぞ宿さまく欲《ほ》りせぬ。汝が居《す》める山は、生涯《いき》の極み、冬も夏も雪ふり霜おきて、冷寒《さむさ》重襲《しき》り、人民《ひと》登らず、飲食《をしもの》な奠《まつ》りそ」とのりたまひき。更に、筑波の岳に登りまして、亦客止《またやどり》を請ひたまひき。
此の時、筑波の神答へけらく、「今夜《こよひ》は新粟甞《にひなへ》すれども、敢へて尊旨《みこと》に奉《つかへまつ》らずはあらじ」とまをしき。爰《ここ》に、飲食《をしもの》を設《ま》けて、敬《ゐや》び拝《をろが》み祗《つつし》み承《つかへまつ》りき。是に、神祖の尊、歓然《よろこ》びて謌《うた》ひたまひしく、
愛《は》しきかも我が胤《すゑ》 巍《たか》きかも神宮《かむつみや》
天地《あめつち》と竝斉《ひと》しく 日月と共同《とも》に
人民集《たみぐさつど》ひ賀《ほ》ぎ 飲食富豊《みけみきゆたけ》く
代々に絶ゆることなく 日に日に弥栄《いやさか》え
千秋《ちあき》万歳《よろづよ》に 遊楽窮《たのしみつき》じ
とのりたまひき。是をもちて、福慈の岳は、常に雪ふりて登臨《のぼ》ることを得ず。其の筑波の岳は、往集《ゆきつど》ひて歌ひ舞ひ飲《さけの》み喫《ものくら》ふこと、今に至るまで絶えざるなり。
『遠野物語』の二とおなじ山々の伝承説話になる。これは事実そうなっているという記述のスタイルをとっている。おなじように早池峯の三山をめぐる伝説も、事実を記述する仕方のスタイルをとっていることがわかる。こういうものが七十数篇ある。もちろん事実体で、まったく実話とおもえるものを記述しているものもある。その場合は実話だから、事実のように記述する以外にないわけだ。たとえば一一番の話がそうだ。
一一 此女と云ふは母一人子一人の家なりしに、嫁と姑《しうとめ》との仲|悪《あ》しくなり、嫁は屡※[#二の字点]《しばしば》親里へ行きて帰り来ざることあり。其日は嫁は家に在りて打臥《うちふ》して居りしに、昼の頃になり突然と倅《せがれ》の言ふには、ガガはとても生かしては置かれぬ、今日はきつと殺すべしとて、大なる草苅鎌《くさかりがま》を取り出し、ごし/\と磨《と》ぎ始めたり。その有様更に戯言《たはむれごと》とも見えざれば、母は様々に事を分けて詫《わ》びたれども少しも聴かず。(中略)倅はよく/\磨《と》ぎたる大鎌を手にして近より来り、先《ま》づ左の肩口を目掛けて薙《な》ぐやうにすれば、鎌の刃先《はさき》炉の上の火棚《ひだな》に引掛かりてよく斬《き》れず。其時に母は深山の奥にて弥之助が聞き付けしやうなる叫声を立てたり。二度目には右の肩より切り下げたるが、此にても猶《なほ》死絶えずしてある所へ、里人等驚きて馳付《かけつ》け倅を取抑《とりおさ》へ直に警察官を呼びて渡したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕へられ引き立てられて行くを見て、滝のやうに血の流るゝ中より、おのれは恨《うらみ》も抱《いだ》かずに死ぬるなれば、孫四郎は宥《ゆる》したまはれと言ふ。之を聞きて心を動かさぬ者は無かりき。孫四郎は途中にても其鎌を振上げて巡査を追ひ廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里に在り。
これは巡査が出てくるくらいだから、明治以降の出来事で、実話だとおもえる。こういう実話も事実譚の記述の仕方にはいっている。これが『遠野物語』のおおきな部分を占める記述のスタイルだ。
もう一つ、伝承体の物語というのは、人によってはもっとおおく数えることができるだろうが、ここでは伝承の物語は三つだとかんがえた。伝承だから、長いあいだの時間が積り積っていったというスタイル、事物の起こりや伝承、あるいは神社や寺院の起源を語る起源譚などで、縁起譚のスタイルとおなじになっている。純粋にいって三つとり出すことができる。この伝承譚のなかには、たとえばオクナイサマの起源の話なども含まれている。
一四 部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマと云ふ神を祀《まつ》る。其家をば大同《だいどう》と云ふ。此神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布の真中に穴を明け、之《これ》を上より通して衣裳《いしやう》とす。正月の十五日には小字中《こあざぢゆう》の人々この家に集り来《きた》りて之を祭る。又オシラサマと云ふ神あり。此神の像も亦《また》同じやうにして造り設け、これも正月の十五日に里人集りて之を祭る。其式には白粉《おしろい》を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一|帖《でふ》の室あり。此部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭《あ》ふ。枕を反《かへ》すなどは常のことなり。或《あるい》は誰かに抱起され、又は室より突き出さるゝこともあり。凡《およ》そ静かに眠ることを許さぬなり。
ほかに地名の起源の話もある。また霊験あらたかなことがあったという、神社や寺院の縁起譚のようなものもある。
いままで述べた三つのタイプをとり出すと、『遠野物語』の物語としての性格は尽すことができよう。はじめにいったように、このうち体験譚が、『遠野物語』の特色をなしている部分だといえる。この記述のスタイルあるいは話のもっていき方は、かつての日本の古典物語や物語絵巻、お伽話《とぎばなし》や御伽草子のなかで、一度も現われてこなかったものだ。この部分が、『遠野物語』のおおきな特徴であり、柳田国男自身を一人の作者というようにかんがえれば、柳田国男の独創的なスタイルもここにあるといってよい。この体験体はいつも夢か現かわからないところで里の人と山の人とが接触したとき、はじめて生まれる物語だという意味で、おおきな意義がある。
『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などは作者が特定できなくて、誰であってもいい。そして「今は昔、こういうことがあったということだ」というスタイルをもっている。この話のスタイルは山や川の地勢、いいかえれば日本の自然の在り方とむすびつけることができる。「今は昔、こうであった」あるいは「昔々こういうことがあった」という、そういう話し方のスタイルは、平地の農耕社会の物語の定型だといっていい。農耕社会の村々の農閑期に語られた説話がふり積って「今は昔」というスタイルがきまってきたとおもえるからだ。
山地の物語は、こんなスタイルではあまり存在できない。また伝承として定型にまでふり積ることができにくい。なぜかといえば、山地に人が住んでいたとしても、食べ物を求めたり、獲物を追ったりして、たえず移動して一処にながく止まっていないことから、伝承とか昔話のようなものが積り積っていくことは難しい。だから山地には「今は昔」あるいは「昔々こういうことがあったとさ」という物語は出来にくいことがわかる。「今は昔」「昔々」という古典物語のスタイルは、平地の物語、もっと限定していえば、農耕社会だけの物語ということもできる。
これら日本の大部分の物語を作ってきた地形、日本の山や川の地勢をかんがえると、農耕の村落ができる地形は大別して二つのタイプしかない。一つは背後に山をひかえ、前に川とか海をひかえている、そのわずかな海辺の平地だ。そこに村ができ農耕が行われる。もう一つのスタイルは、遠野など典型的にそうだが、まわりに低い山があって、かなりの海抜の、山に囲まれた盆地のような窪《くぼ》みに、村落ができて、そこに農耕の集落ができる。いわゆる山村だ。おおきくいえば日本の地勢では、その二つに大別できるとおもえる。もちろん中間にもいろいろあるが、大別するとそうなる。この地勢のタイプと「昔々こういうことがあったとさ」という物語のスタイル、あるいは昔話の定型とは対応させてかんがえることができよう。
それにたいして、柳田国男の『遠野物語』の特色である体験体は、山の人と里の人がどこかで遭遇しないと生まれてこない夢か現かわからない入眠物語になっている。こういう物語を作文化したことが、柳田民俗学のおおきな特色だとおもえる。里人だけだと「昔々こういうことがありましたとさ」という話、先ほどいった事実譚だけになってしまう。そして山の人たちには、定型ある物語はないとおもったほうがいい。あるかもしれないが固定できず、ないといったほうがいいくらいだ。それは生活のやり方から理解できる。
柳田国男は山の人にも里の人にも、両方にわたって関心をもった。その両者の接点とか、境目のところで、『遠野物語』の特色は作られたといってよい。このことはとても大切なことだとおもう。そこに着目し、そこに関心をもったということは、柳田国男の民俗学的な特色であり、見識でもあった。この種の物語はほかに求めようとしても日本では求めることができない。これは柳田国男のたいへんなお手柄で『遠野物語』が物語として冠たるところがあるとすれば、この部分がおおきな役割をはたしている。
もう一ついうべきことがあるとすれば『遠野物語』の時間が複合された時間をもっていることだ。歴史的な時間が圧縮されて複数の物語の時間を作りだしている。さきに挙げた佐々木嘉兵衛さんが山のなかで女の髪を切って懐に入れて帰る途中で、物蔭でまどろんでいて夢か現かわからないうちに、男がやって来て懐に手を入れてその髪の毛をもって立ち去ってしまった、そしてはじめて眼がさめたという話があった。もう一つ山口村の吉兵衛さんが、やっぱり山のなかにいるとき、ぼろぼろの着物を着た若い女の人が子供を背負って、すーっと前を通っていった。あまりに驚いたので、里へ帰ってきて病気になったという話がでてきた。
これを、時間の問題として対応させるために、たとえば『古事記』『日本書紀』をもってくるとする。『古事記』の中つ巻の神武天皇記のところで、神武が難波《なには》のほうから上陸するが阻《はば》まれて近畿地方に入れず、熊野のほうを回って後ろから大和に入っていく記述がある。
かれ、神倭伊《かむやまとい》波礼毘古《はれびこ》の命《みこと》、そこより廻り幸《いでま》して、熊野の村に到りましし時に、大き熊、髣《ほの》かに出で入るすなはち失《う》せぬ。しかして、神倭伊波礼毘?古の命、たちまちにをえまし、また、御軍《みいくさ》もみなをえて伏しぬ。この時に、熊野の高倉下《たかくらじ》(こは人の名ぞ)、一ふりの横刀《たち》を※[#「十/口口/冖/貝」]《も》ち、天つ神の御子の伏しませる地《ところ》に到りて献《たてまつ》りし時に、天つ神の御子、すなはち寤《さ》め起きて、
「長く寝《い》ねたるかも」
と詔《の》らしき。
この話はすぐにわかるように、佐々木嘉兵衛さんや山口村の吉兵衛さんが体験した話とおなじ位相にあるといっていい。
それからまた、神武一行が吉野川の川尻《かわじり》に到ったとき、尾っぽのある人間が出てきた説話が記されている。
吉野河の河尻に到りましし時に、筌《やな》を作《ふ》せて魚《うを》取れる人あり。しかして、天つ神の御子、
「なは誰ぞ」
と問ひたまへば、
「あは国つ神、名は贄持《にへもつ》之子《のこ》といふ」
と答へ白《まを》しき(こは阿陀《あだ》の鵜養《うかひ》が祖《おや》ぞ)。そこより幸行《いでま》せば、尾生ふる人井より出で来《く》。その井に光あり。しかして、
「なは誰ぞ」
と問ひたまへば、
「あは国つ神、名は井氷鹿《ゐひか》といふ」
と答へ白しき(こは吉野の首等《おびとら》が祖ぞ)。すなはち、その山に入りませば、また尾生ふる人に遇《あ》ひましき。この人|巌《いはほ》を押し分けて出で来。しかして、
「なは誰ぞ」
と問ひたまへば、
「あは国つ神、名は石押分《いはおしわく》之子《のこ》といふ。今、天つ神の御子幸行しぬと聞きつれば、故《かれ》、参向《まゐむか》へつるにこそ」
と答へ白しき(こは吉野の国巣《くず》が祖ぞ)。
神武が山のなかで熊に遭遇したり、山の人に遭遇したりする神話は、『遠野物語』に出てくる嘉兵衛さんや吉兵衛さんの体験した話とおなじで、物語の時間としておなじ位相にあるものだ。一方は神話だし、一方は遠野地方の民譚だが、両方ともおなじだといえる。神武記が、実在の歴史時間としてどこに位置するのか、弥生時代の初期か、また弥生時代の象徴としてあるのか、縄文時代の末期になるのかは、きちんと対応できるかどうかわからない。また確定することは難しい。しかし神武記の時間は、歴史時間の凝縮した度合として『遠野物語』の話と同等の時間を包括していることがわかる。
民話と神話とは違うという考えがあるかもしれない。でもわたしたちのかんがえ方では、民話が社会や政治の制度の梯子《はしご》をどんどん登っていったものが神話にほかならない。それ以外何も民話と神話は違うところはない。制度の梯子を登ってゆくにつれて神話の性格があらわれてくる。民話的面白さが少なくなって、その神話をもった支配者などの祖先を合理化する様子がみえてくる。制度の梯子を、民話がどんどん登っていくとき、どうしても濾過《ろか》されて、制度の網の目に合格したものだけが、次の制度の網の目に入ってゆけることになる。そうして神話ができる。それは洗練されるとともに民話の面白さをなくし、典礼めくことになる。
『遠野物語』でいちばん原初の時間は何だろうか。わたしの主観では飯豊の菊池松之丞という人の話がそれを象徴しているとおもう。
九七 飯豊《いひで》の菊池|松之丞《まつのじよう》と云ふ人傷寒を病み、度々《たびたび》息を引きつめし時、自分は田圃《たんぼ》に出でて菩提寺《ぼだいじ》なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛上り、凡《およ》そ人の頭ほどの所を次第に前下りに行き、又少し力を入るれば昇ること始めの如し。何とも言はれず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何故《なにゆゑ》ならんと訝《いぶか》りつゝ門を入れば、紅《くれなゐ》の芥子《けし》の花咲満ち、見渡す限も知らず。いよ/\心持よし。この花の間に亡《な》くなりし父立てり。お前も来たのかと云ふ。これに何か返事をしながら猶《なほ》行くに、以前失ひたる男の子居りて、トッチャお前も来たかと云ふ。お前はこゝに居たのかと言ひつゝ近よらんとすれば、今来てはいけないと云ふ。此時門の辺にて騒しく我名を喚《よ》ぶ者ありて、うるさきこと限なけれど、拠《よんどころ》なければ心も重くいや/\ながら引返したりと思へば正気付きたり。親族の者寄り集《つど》ひ水など打ちそゝぎて喚生かしたるなり。
これは瀕死《ひんし》の体験をして生き返ったという話で、しばらくはおなじような話が出てくる。神話あるいは民話の時間としては、これが一番原初的な、一番|遡《さかのぼ》れる時間ではないかとかんがえる。
これはなかなか難しい問題なのだが、『古事記』でいえばイザナギとイザナミの話がある。イザナミが死んで黄泉《よみ》の国へ行ってしまう。そこでイザナギが連れ戻そうと黄泉の国へ旅していくが、簡単には連れもどせない。イザナミは黄泉の国の食べ物を食べてしまったので帰れるかどうかわからないが、黄泉の神にうかがいを立てるから自分の姿を見ないでくれという。イザナギが覗《のぞ》いてしまうと、イザナミの体から蛆《うじ》がわいていて、ぞっとして逃げ出す。
ここに、伊耶那岐《いざなき》の命見畏《みことみかしこ》みて逃げ還《かへ》ります時に、その妹《いも》伊耶那美《いざなみ》の命、
「あに辱《はぢ》見せつ」
と言ひて、すなはち予母都志許売《よもつしこめ》を遣はして追はしめき。(中略)
いやはてに、その妹伊耶那美の命みづから追ひ来ぬ。しかして、千引《ちび》きの石《いは》をその黄泉《よも》つ比良坂に引き塞《さ》へ、その石を中に置きて、おのもおのも対《むか》ひ立ちて、事戸《ことど》を度《わた》す時に、伊耶那美の命の言《の》らししく、
「愛《うつく》しきあがなせの命。かくせば、なが国の人草、一日《ひとひ》に千頭絞《ちがしらくび》り殺さむ」
しかして、伊耶那岐の命の詔《の》らししく、
「愛しきあがなに妹《も》の命。なれしかせば、あれ一日に千五百《ちいほ》の産屋《うぶや》立てむ」
ここをもちて、一日に必ず千人《ちたり》死に、一日に必ず千五百人《ちいほたり》生るるぞ。
これは『古事記』の上つ巻にある。その比良坂のところをおおきな石で塞《ふさ》いで、そこが黄泉の国と現世との境界になっている。この神話と瀕死体験の飯豊の松之丞さんの体験とは、たぶん物語の時間として同等だとおもえる。なぜかというと、洞穴の岩ひとつ隔てて黄泉の国と現世とがおなじで鏡像的だという認識は原初のものだからだ。
こんな例はアイヌの神話などにもよく記載されている。たとえば、ふくろうの神様が歌ったという形の神話がある。ふくろうが空を飛んでいる。子供たちが弓で射落とそうと追っかけてくる。そのなかにとても貧しい家の子供がいる。貧しい家の子供は木の弓しかもっていない。他の子供たちはみんな金属の弓をもっている。それでかわいそうだから貧しい子供に撃たれてやろうとおもって、例の貧しい子が木の弓を射たときに当たって落ちてやった。これはふくろうが語っている形になっていて、ふくろうの側から記述している。その後貧しい子が、いちばんはじめに駆けつけてきて、じぶんをとらえて小屋に帰った。小屋にはその子の親の老夫婦がいる。老夫婦はイナウ(御幣)を供えて、あの世の死んだふくろうの家に送り届けてやろうと話しあっている。
夜になって寝静まったころ、じぶんは――これはふくろうのことだが――両耳のあいだに座っていたと書かれている。じぶんの両耳のあいだにじぶんが座って、よく見ていた。みんな寝静まってしまったあと、バタバタと室のなかを飛びながら、羽音とともに宝物をいっぱい降らせた。宝物が室の上のほうまでいっぱいになったところで、じぶんはまた耳のあいだにとまって見ていた。それから老夫婦にいつの間にか宝がいっぱいになったという夢を見せてやった。夜があけて老夫婦が目を覚ます。そしたら家のなかにいっぱい宝物がある。老夫婦は宝物やお酒を供えてくれて、じぶんをあの世へ送ってくれた。アイヌの世界観でいえば、あの世というのはまったくこの世とおなじで、ただ反対だというだけなのだ。おなじ光景があり、おなじ生活があるというのが、アイヌの世界観で、じぶんがあの世に帰ってみると、老夫婦が供えてくれたものが、じぶんの家にちゃんとあった。そんなふうにふくろうが語るという形の神話だ。
ここでじぶんがじぶんの耳のあいだで見ているというのは、わたしのかんがえでは、さっきの瀕死体験の菊池松之丞さんの話と、時間的に同時性をもち、おなじことを語っているものだとおもえる。仮りにこれを中間連続といってみる。つまり中間は連続しているものだというかんがえ方だ。中間というものは連続していて、この世からあの世へ行く場合にもスムーズに行ってしまう、あるいはこちらからあちらへ行くときにもスムーズに行くのだということだ。こういう世界観は種族の原初の神話的イメージがあるところにしか成り立たないとおもえる。また松之丞さんの瀕死体験とか『古事記』とかの記述の仕方も、原初の神話的な時間のところでしか成り立たないだろうとおもえる。
これはかなり古く原始的な時間だというふうにかんがえられる。つまりイザナギ・イザナミ時代から神武記中つ巻の歴史的な時間というのは、どこに対応するのかということは確定できないし、単なる神話で作り話かもわからないが、歴史時間を共有したものとかんがえれば『遠野物語』はたいへん古い時間を包括しているといっていい。
こういったことは、体験譚からぬき出すことができる『遠野物語』の時間の働きを指している。また、事実譚からもおなじようにとり出すことができる。もちろん、大同という歴史の年号も出てくる。
二四 村々の旧家を大同《だいどう》と云ふは、大同元年に甲斐国《かひのくに》より移り来たる家なればかく云ふとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非《あら》ざるか。
二五 大同の祖先たちが、始めて此《この》地方に到着せしは、恰《あたか》も歳《とし》の暮にて、春のいそぎの門松を、まだ片方はえ立てぬうちに早《はや》元日になりたればとて、今も此家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるまゝにて、標縄《しめなは》を引き渡すとのことなり。
大同というのは時代でいえば、桓武《かんむ》天皇の延暦《えんりやく》年間の次にあたる。だからもちろん大同という年号は九世紀初頭の時間を具体的にあらわしている。だが事実譚からは原始的時間が典型的に出てくる例もある。『遠野物語』一一六、一一七に父親と母親の物語がある。
一一六 昔々ある所にトヽとガヽとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰が来ても戸を明けるなと戒しめ、鍵《かぎ》を掛けて出《い》でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみて居たりしに、真昼間に戸を叩《たた》きてこゝを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破《けやぶ》るぞと嚇《おど》す故《ゆゑ》に、是非なく戸を明けたれば入り来たるはヤマハヽなり。炉の横座に蹈《ふ》みはたかりて火にあたり、飯をたきて食はせよと云ふ。其言葉に従ひ膳《ぜん》を支度《したく》してヤマハヽに食はせ、其間に家を遁《に》げ出したるに、ヤマハヽは飯を食ひ終りて娘を追ひ来《きた》り、追々《おひおひ》に其間近く今にも背《せな》に手の触るゝばかりになりし時、山の蔭《かげ》にて柴《しば》を苅る翁《おきな》に逢《あ》ふ。おれはヤマハヽにぼつかけられてあるなり、隠して呉《く》れよと頼み、苅り置きたる柴の中に隠れたり。(中略)此《この》間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋《ささごや》のあるを見付け、中に入りて見れば若き女ゐたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃《からうど》のありし中へ隠してもらひたる所へ、ヤマハヽ又飛び来り娘のありかを問へども隠して知らずと答へたれば、いんね来ぬ筈《はず》は無い、人くさい香がするものと云ふ。それは今{雀《すずめ》を炙《あぶ》つて食つた故なるベしと言へば、ヤマハヽも納得してそんなら少し寝ん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言ひて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女は之《これ》に鍵を下し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハヽに連れて来られたる者なれば共々に之を殺して里へ帰らんとて、錐《きり》を紅《あか》く焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハヽはかくとも知らず、只《ただ》二十日鼠《はつかねずみ》が来たと言へり。それより湯を煮立てゝ焼錐の穴より注ぎ込みて、終《つひ》に其ヤマハヽを殺し二人共に親々の家に帰りたり。昔々の話の終りは何《いづ》れもコレデドンドハレと云ふ語を以《もつ》て結ぶなり。
これは、まったくそのまま『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、つまり日本の昔話によく出てくる話になる。たとえば『今昔物語』の巻二七の一五に、お産をする女が南山科《みなみやましな》に行って、鬼に会って逃げる話があるが、ほとんどそっくりおなじだといっていい。
昔、人の屋敷に仕えている若い女が、誰の子供ともわからないような子供を妊娠する。それでその女は主人にいうのも恥ずかしいし、どこか田舎のほうへ行って、お産をして帰ってこようとおもう。下女を一人連れて、産気づいたときに山のなかへ行って、それでお産をしようとかんがえる。そして北山科までやってくると家があって、入っていくと一人の白髪の老婆が住んでいる。泊めてくれないかというと、喜んで泊めてくれる。そこで無事にお産をする。そうしているうちに老婆が、寝かせた赤ん坊を見て、「穴甘気《アナウマゲ》、只一口」といっているのを聞く。女は驚いて、これは鬼に違いないとおもって逃げ出してくる。
すると『遠野物語』は、いわゆる古典物語、昔物語の時間も同時に含んでいるといっていい。こういう古典物語がだいたい平安末期から中世にかけてたくさん作られたとすれば、平安末期から中世の歴史時間というものも、『遠野物語』が包括していることになる。もう一つ例を挙げてみる。『遠野物語』の六八に地名起源譚がある。
六八 土淵村には安倍氏と云ふ家ありて貞任が末なりと云ふ。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀《ほり》ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍|与右衛門《よゑもん》、今も村にては二三等の物持にて、村会議員なり。安倍の子孫は此外にも多し。盛岡の安倍館《あべだて》の附近にもあり。厨川《くりやがは》の柵《しやく》に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬《こがらせ》川の河隈《かはくま》に館《たて》の址あり。八幡沢《はちまんざは》の館と云ふ。八幡太郎が陣屋と云ふもの是《これ》なり。これより遠野の町への路《みち》には又八幡山と云ふ山ありて、其山の八幡沢の館の方に向へる峯にも亦一つの館址あり。貞任が陣屋なりと云ふ。二つの館の間二十余町を隔つ。矢戦《やいくさ》をしたりと云ふ言伝へありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。此間に似田貝《にたかひ》と云ふ部落あり。戦の当時此あたりは蘆《あし》しげりて土固まらず、ユキ/\と動揺せり。或時八幡太郎こゝを通りしに、敵味方|何《いづ》れの兵糧《ひやうらう》にや、粥《かゆ》を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かと云ひしより村の名となる。似田貝の村の外を流るゝ小川を鳴川《なるかは》と云ふ。之を隔てゝ足洗川《あしらが》村あり。鳴川にて義家《よしいえ》が足を洗ひしより村の名となると云ふ。
『風土記』にはこれとおなじこじつけの地名の起源話がたくさんある。だから『遠野物語』で地名の起こりを語っているところは、『風土記』とおなじ時間性だということもできる。『風土記』の成立を八世紀か九世紀だとすれば、この時間性は『遠野物語』に含まれていることになる。『遠野物語』の地名伝承はべつに『風土記』を真似してできたわけではない。だが「似田貝」というのは「煮た粥」だと偉い人がいったからそういう土地の名前になったという起源譚は、『風土記』の起源譚とそっくりおなじだといえる。本来的にいえば、「似田貝」というのはそんな意味はない。ニタとかヌタは湿地帯のことを意味する。ニタガイというのはアイヌ語からきていて、湿地を後にひかえた土地みたいな意味になる。だから「煮た粥」だというのはこじつけ話にすぎないが、『風土記』はこの種の地名起源譚をたくさん保存している。
柳田国男は熱心に地名の研究をやった。日本の地名の起こりは、地勢や土地の形態を語るものがおおい。そういう地名がついているということは、そういう地勢をあらわす。つまり地名のことばは地勢のことばを起源としているといえる。だから、偉い人が通ったときに「煮た粥」があるから「似田貝」になったというのはまったくのつくり話で、時間としても八世紀とか九世紀で、それほど古いものではない。ある場所、たとえば遠野なら遠野の「似田貝」という村の名前は、いつできたかといえば、もっと遥か以前に先住の人々によって付けられている。本来地名は地勢の名前や土地の山川の名前を語っているのだから、この起源譚は『風土記』とおなじことをやっていることになる。つまり八世紀とか九世紀とかの時間に該当するわけだ。「似田貝」という地名ができたのは、ほんとうはもっとずっと以前、原始時代のころのことだといえる。
こうかんがえてくると『遠野物語』は物語の時間として、原始時代から八世紀、九世紀、つまり『風土記』、あるいは少し遅れて中世に近い『今昔物語』や昔物語のまとまったものができた時代も含んでいて、大きな幅で複合された時間をもっているといえる。これは『遠野物語』が物語としてたいへん本格的なものだということを意味している。文体はやや古くて、昔物語になぞらえて「〜たり」という文語調で書かれているが、記述の仕方としては、明治末年の頃には新しい記述のスタイルだった。そういうスタイルをもちながら、『遠野物語』は時間としてはたいへんおおきな多様な時間を包括している物語だといえる。これは何に匹敵するかというと、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』だ。これらの物語もかなり多様で幅のある時間を包括している。しかし記述のスタイルも含めて総合的にいえば、成立した中世初期からそんなに遠く遡れる時間を包括しているとはいえない。それは物語の単一性を意味しているとおもえる。
『遠野物語』の場合は、たいへんみごとに多様な幅のある時間を包括している。これは半分は無意識の伝承によっているのだが、半分は柳田国男の事実と幻想をとってくる取り方にかかっている。これが柳田国男の民俗学がもっている時間の幅を決定しているとおもえる。柳田国男は山林の世界は先史時代の時間だといっている。柳田国男の民俗学のもっている固有性がこの『遠野物語』におおきな時間の幅を与えている。
『遠野物語』のなかにもすこしだが楽しい話がある。里人が夢うつつのうちに異形の山人に出遇った話ではなく、山に出かけた里人の心に畏怖《いふ》も恐怖もなくて植物や動物と交歓し変身する挿話だ。愉しみや不思議はあっても、そこにはすこしも異類にたいして閉じられてしまうこころはない。それは『遠野物語』の五〇から五三のあたりにおかれている。『遠野物語』のなかでいちばん安息を感じさせるものだ。たぶん柳田国男も息をやわらげながら記述したに違いない。
五〇 死助《しすけ》の山にカツコ花あり。遠野郷にても珍しと云ふ花なり。五月|閑古鳥《かんこどり》の啼《な》く頃、女や子ども之《これ》を採りに山へ行く。酢の中に漬《つ》けて置けば紫色になる。酸漿《ほほづき》の実のやうに吹きて遊ぶなり。此花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。
「カツコ花」という花の名前の起源譚になっている。これは『遠野物語』のなかではかくべつ意味をつける必要がないものだ。
また「オツト鳥」の命名譚が五一にある。
五一 山には様々の鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオツト鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌《おほづち》より駄賃附《だちんづけ》の者など峠を越え来れば、遥《はるか》に谷底にて其声を聞くと云へり。昔ある長者の娘あり。又ある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探しあるきしが、之を見つくることを得ずして、終《つひ》に此鳥になりたりと云ふ。オツトーン、オツトーンと云ふは夫《をつと》のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴声なり。
さんざんに探しあぐねて神隠しにあったように見つからなくなった男を、鳥に変身したとおもいたい哀切が伝わってくる挿話だ。こういう言い伝えを記述するとき、柳田国男はかならずや山の気配にふれてぼんやりと夢うつつになりやすいじぶんの資質を思いうかべていたに違いない。この種の山の鳥の縁起譚はもうひとつ記述されている。
馬が鳥になる「馬追鳥」の話だ。
五二 馬追鳥は時鳥《ほととぎす》に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のやうなる縞《しま》あり。胸のあたりにクツゴコのやうなるかたあり。これも或《ある》長者が家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通し之を求めあるきしが終に此鳥となる。アーホー、アーホーと啼くは此地方にて野に居る馬を追ふ声なり。年により馬追鳥里に来て啼くことあるは飢饉《ききん》の前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。
簡単に記述してあるが、含みがあって見事な掌篇になっている。
柳田国男の『口承文芸史考』のなかに「夢と文芸」という一節がある。そこにこういう挿話が語られている。信州の山のなかの村の農家の主人が、自分の馬を里方の親類の人に貸してあげた。すると里方のほうから、借りた馬が病気になったと知らせてきて、主人のほうは急いで里方へ出かけていった。その夜女房は夢を見た。馬が夢のなかで起き上がって、俺は病気じゃないから殺さないでくれといっている。女房は恐ろしくなって気をもんでいると、主人が帰ってきた。そして病気でとても助からないから、皮を剥《は》いで売ろうとおもって殺してしまったというのだ。女房が夢を見たときがちょうど馬を殺したときにあたっていたのかもしれない。そしてその女房は一日中泣いた。
これは馬が人間になってというか、人間らしくなって立ち上がり、俺を殺さないでくれと夢のなかでいった話だ。いってみれば『遠野物語』の人間が鳥になるとか、馬が鳥になる話とちょうど反対にみえるが、一脈相通じている。
もし人間と動物や植物のあいだに親和が成り立ったとすれば、それは無償の度合で人間と人間のあいだを超えることがありうる。その哀切さがこういった挿話の核心のところに横たわっているとおもえる。柳田国男がこの種の挿話の無償性を書きとめたことを含めていえば、もう少し言うべきことがあるとおもえる。植物と動物とのあいだ、また動物と人間とのあいだ、獣と鳥とのあいだには境界がない。別な言い方をすれば中間はいつでも連続しているという思考方法は、柳田国男の潜在的な方法に叶《かな》っていた。
わたしたちの思考方法では、AがあってBがあってその中間があるという言い方をすると、AはA、BはB、中間は中間で領域が決まっているイメージになる。中間の概念は端とおなじように、境界が決まっているのだ。柳田国男の思考のスタイルでは、中間は必ず連続しているのだということになる。柳田国男の文体や思考の方法は、日本人のもっている伝承、風俗・習慣や性格の特質をひとりでに掴《つか》んでいたといえる。
日本人は、際立って人と対立したりするのが嫌いで、すぐなあなあになってしまう。AかBかでなければならないのに、うやむやに境界がくずれた中間を介して通路ができてしまうのだ。論理的な言い方では日本人の悪いところだということになる。人間と人間の関係でいえば甘えの構造になる。この甘えの構造は、中間を連続させる。いい悪いという倫理の問題と短絡すべきではなくて、それ自体としてきちんと分析しなければならない。柳田国男は分析はしなくても、論理のスタイルで、中間は連続することを自然に実現しているところがある。
中間が連続するということを、記述のスタイルとして確立していることは、柳田国男のとてもおおきな特徴だった。鳥と獣とのあいだ、植物と鳥とのあいだ、あるいは人間と獣とのあいだは、獣は獣、人間は人間、鳥は鳥そして一方から他方へ変幻するというよりも、中間が連続しているという認識が無意識に実現されているとおもえる。これは大袈裟《おおげさ》にいえば世界観だろうが、ちいさくいえば無意識のタイプが資質としてあるのだとおもえる。これは日本の風土・習慣の弱点になることも、利点になることもありうるだろうが、これによって冷たい社会だとおもわないで済んでいる。柳田国男はひとりでに記述のスタイル自体でそういうことをやっている。
たとえば、日本人は自然の音調を聞くときにことばのように聞く、それから自然の形を目で見たときにやはりことばとおなじように見るところがある。本来人間の脳の作用として、脳の視覚領域と聴覚領域とがうまく重なったところがことばになる領域だといわれている。ところが、柳田国男のかんがえ方によれば、聴覚の領域と視覚の領域はぴしっと領域が決まっているというようにはならないで、中間が連続しているという概念になる。中間が連続する概念で、自然のものごと、風の音とか水の流れを、ことばのように聞いている。
こういう場合に、ひとりでに中間が連続していることを、柳田国男は記述自体で体得している。柳田国男の文章を読んで、しばしばびっくりさせられるところはそこだ。
『源氏物語』の主人公光源氏は、いまでいえば由緒ある宰相に該当するわけだが、そういう人物が冬の月を見ながら有情の涙を流したとか、庭の草木を見やって風流の涙にくれたとかいう描写がでてくる。そうするといやしくも一国の宰相たる人物がそんな感傷的なことで務まるのかなとおもってしまう。でもそれは、月をことばとおなじに見ているからだ。これは現在のわたしたちにもいくらかの度合でのこっている。厳密な理路に耐えない心情のようにおもえてしまう。柳田国男にはそういう意味の理屈づけはないが、ひとりでに中間は連続するという論理をいっていることになる。視覚は、ことばの作用とどこかで繋《つな》がっていることを文体自体が語ってしまっている。もちろん内容もそれを含んでいる。ここには柳田民俗学のおおきな特徴があるとおもえる。
たとえばフレーザーの『金枝篇』と比べて、西洋的論理と分類方法で照らせば、柳田民俗学は問題にならないことになる。分類もげんみつにできてないし、何ひとつ明確な結論も出していないようにみえてしまう。しかしそうでない特質を探る読み方をすれば、柳田国男の文章は西洋的思考では一冊の本でしかできないことを、一行でいっているような含みが見つけられる。この含みは中間は連続するものだという柳田国男の思考方法の特徴からきている。
これを日本人の特徴としてよいかどうか、なかなか解くのは難しい。わたしの実感をいえば、日本人は難しくて、まだよくわからないところがあるとおもえる。
たぶん、日本人という構造、あるいは日本という構造は、有史以前にかなり壊れてしまっている。そこで再現するのがとても難しい。日本語もまたそうだ。また日本の風俗・習慣、それから中間は連続するという情念、情緒のもち方とどこかでつながっているとおもえるが、単一でないために、その情感、文法、語彙《ごい》の起源をつきとめるのはきわめて難しい。『古事記』や『日本書紀』の最古の記述された文章をみてこれが日本語かと首をかしげてしまうところがたくさんある。語彙だけでなく人名にも、地名にもある。沖縄語とか、アイヌ語とかにわずかに似ているところがあってもなかなか系統づけられない。この日本語の難しさは同根とおもえる。月や草花を眺めたり、風の音を聴いて涙を流すというような日本人の感性のわからなさを、どこに理由を求めて解明していくかはこれからの問題に属している。たぶん縄文期から弥生期への移行が長い年をかけてスムーズに連続的に行われたために、そこのところで日本(人)という構造、日本語の構造は継ぎ目がわからないように壊れたのだとおもえる。その壊れ方がたいへんスムーズで早い時期におこったので、その痕跡をどう辿《たど》ったらいいか、なかなかわからず、肉薄できにくくなっているにちがいない。
柳田国男は、その問題意識を当初からもっていた。そして山人と平地人という言い方で、稲作をもってきた人たちと、それ以前に住んでいた人たちの区分をどうかんがえるかが、はじめからおわりまで関心の的だった。ここでたぶん中間は連続するというかんがえ方にひとりでにいきついたのではなかろうか。この中間の特異性についての論理は整えるのは難しいが、柳田国男は論理というよりも、文体の実質の力でそれをひとりでにやってしまったといってよい。
『遠野物語』の体験譚の中核に理念を与えるとすれば、この中間は連続しているということだとおもえる。これが『遠野物語』が問いかけてくる問題だ。
[#地付き](平成四年三月、詩人・評論家)
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年譜
明治八年(一八七五年) 七月三十一日、兵庫県神東郡田原村辻川に、父松岡賢次(のちに操と改名)、母たけとの間に八人兄弟の六男として誕生。松岡家は代々医家であるが、父賢次は医学と儒学とをおさめた。母たけは、記憶力のすぐれた人であった。
明治十二年(一八七九年)四歳 辻川昌文小学校に入学。
明治十六年(一八八三年)八歳 昌文小学校を卒業。北条町の高等小学校に入学。
明治十七年(一八八四年)九歳 一家は加西郡北条町に移転。
明治十八年(一八八五年)十歳 高等小学校を卒業。卒業後約一年間、辻川の三木家にあずけられ、和漢の書物を読みふける。
明治二十年(一八八七年)十二歳 八月末、次兄に伴われて上京。上京に際して、自筆詩文集『竹馬余事』を編む。
明治二十一年(一八八八年)十三歳 身体虚弱のため、学校に行かず。長兄の知人小川家の本を濫読《らんどく》。
明治二十二年(一八八九年)十四歳 この頃、「しがらみ草紙」に短歌一首を投稿。
明治二十三年(一八九〇年)十五歳 父方の又従兄《またいとこ》中川恭治郎の感化により文学を志す。次兄の紹介により森鴎外を知る。
明治二十四年(一八九一年)十六歳 高等学校受験のため、開成中学校に編入。
明治二十五年(一八九二年)十七歳 一月、歌人松浦萩坪の門に入る。この頃《ころ》、田山花袋を知る。開成中学校より郁文館中学校に転校。
明治二十六年(一八九三年)十八歳 第一高等中学校に入学。「校友会雑誌」に短歌を発表し始める。
明治二十七年(一八九四年)十九歳 夏、田山花袋と日光に行き、尾崎紅葉に会う。
明治二十八年(一八九五年)二十歳 「文學界」に赤松某の名で新体詩を発表。
明治二十九年(一八九六年)二十一歳 七月母を、九月父を喪《うしな》う。太田|玉茗《ぎょくめい》宅で催された紅葉会に出席し始める。
明治三十年(一八九七年)二十二歳 七月、第一高等学校(第一高等中学校改称)卒業。九月、東京帝国大学法科大学政治科入学。
明治三十一年(一八九八年)二十三歳 七月、田山花袋と伊良湖《いらこ》岬、伊勢を旅する。この時の見聞が最後の著『海上の道』の端緒となる。
明治三十三年(一九〇〇年)二十五歳 七月、東京帝国大学卒業。卒業論文は三倉の研究である。卒業後、農商務省農務局に勤務。早稲田大学にて農政学を講ずる。
明治三十四年(一九〇一年)二十六歳 柳田家を嗣《つ》ぐ。
明治三十五年(一九〇二年)二十七歳 九月、専修学校にて農業政策を講ずる。この頃、和洋の農政学の書物と西洋の文芸書をよく読む。
明治三十六年(一九〇三年)二十八歳 二月、小作騒動視察のため岡山県北部を歩く。内閣所蔵の諸国雑話を耽読《たんどく》。
明治三十七年(一九〇四年)二十九歳 日露戦争|勃発《ぼっぱつ》。横須賀の捕獲審検所の評定官となる。
明治三十九年(一九〇六年)三十一歳 八月、北海道|樺太《からふと》視察旅行。十月帰京。
明治四十年(一九〇七年)三十二歳 二月、イブセン会始まる。
明治四十一年(一九〇八年)三十三歳 五月下旬より約三カ月、九州四国地方を歩く。四月、新潮社刊の『二十八人集』に『遊海島記』を収録。
明治四十二年(一九〇九年)三十四歳 八月、遠野に行く。
『後狩詞記《のちのかりことばのき》』(二月、自刊)
明治四十三年(一九一〇年)三十五歳 この年、新渡戸《にとべ》稲造博士を中心に郷土会を設立。
『石神問答』(五月、聚精堂刊)
『遠野物語』(六月、聚精堂刊)
『時代ト農政』(十二月、聚精堂刊)
大正三年(一九一四年)三十九歳 四月、貴族院書記官長となる。
『山島民譚集』(七月、甲寅叢書刊行所刊)
大正五年(一九一六年)四十一歳 この頃、折口|信夫《しのぶ》、はじめて訪ねてくる。
大正六年(一九一七年)四十二歳 三月二十日から二カ月あまり、台湾、中国、朝鮮を旅行。
大正八年(一九一九年)四十四歳 十二月、貴族院書記官長を辞任。
大正九年(一九二〇年)四十五歳 七月、朝日新聞社客員となる。八月、九月、東北旅行。十二月より翌年にかけて九州、沖縄を旅行。
『赤子塚の話』(二月、玄文社刊)
『おとら狐の話』(二月、早川孝太郎共著・玄文社刊)
『神を助けた話』(二月、玄文社刊)
大正十年(一九二一年)四十六歳 五月、国際連盟委任統治委員に就任。ジュネーヴに行き十二月に帰国。
大正十一年(一九二二年)四十七歳 四月、朝日新聞社論説班員になる。五月、再び渡欧。
大正十二年(一九二三年)四十八歳 十一月、欧州より帰国。
大正十三年(一九二四年)四十九歳 二月、朝日新聞社編集局顧問論説担当となる。
『炉辺叢書解題』(十一月、郷土研究社刊)
大正十四年(一九二五年)五十歳 この年、北方文明研究会を開く。十一月、雑誌「民族」を創刊。
大正十五年・昭和元年(一九二六年)五十一歳 二月、吉右衛門《きつちよん》会(昔話研究の会)発会。六月、南島談話会に出席。全国各地への講演旅行多し。
『山の人生』(二月、郷土研究社刊)
昭和二年(一九二七年)五十二歳 八月、北多摩郡|砧《きぬた》村(現在の世田谷区成城)に移転。
昭和三年(一九二八年)五十三歳 十二月、上田|万年《かずとし》、橋本進吉、東条操らと方言研究会を設立。
『雪国の春』(二月、岡書院刊)
昭和四年(一九二九年)五十四歳 四月、雑誌「民族」休刊。
『日本神話伝説集』(五月、アルス刊)
『民謡の今と昔』(六月、地平社書房刊)
昭和五年(一九三〇年)五十五歳 十一月、朝日新聞社論説委員を辞任。
『ことわざの話』(一月、アルス刊)
昭和六年(一九三一年)五十六歳
『明治大正史世相論』(一月、朝日新聞社刊)
昭和七年(一九三二年)五十七歳
『秋風帖』(十一月、梓書房刊)
『女性と民間伝承』(十二月、岡書院刊)
『山村|語彙《ごい》』(十二月、大日本山村会刊)
昭和八年(一九三三年)五十八歳 五月、比嘉春潮とともに雑誌「島」を発刊。
『桃太郎の誕生』(一月、三省堂刊)
『地名の話その他』(一月、岡書院刊)
『小さき者の声』(一月、玉川学園出版部刊)
昭和九年(一九三四年)五十九歳 民俗学研究を志す者の集まり、木曜会を設立する。
『郷土生活の研究法』(八月、刀江書院刊)
昭和十一年(一九三六年)六十一歳 この年から三年間、全国昔話の採集始める。
『地名の研究』(一月、古今書院刊)
昭和十二年(一九三七年)六十二歳 一月、丸ノ内ビルにて日本民俗学講座を開講、常設一年。五月、全国海村生活調査始める。五月、九月、東北帝国大学にて日本民俗学を講義。六月、十月、京都帝国大学において日本民俗学を講義。
『婚姻習俗語彙』(三月、民間伝承の会刊)
昭和十三年(一九三八年)六十三歳 一年間、丸ノ内ビル日本民俗学講座にて講義。
『昔話と文学』(十二月、創元社刊)
昭和十四年(一九三九年)六十四歳 九月、中国四国地方講演。
『木綿以前の事』(五月、創元社刊)
『狐猿随筆』(十二月、創元社刊)
昭和十五年(一九四〇年)六十五歳 一月、信州へ講演旅行。十月、日本方言学会創立、初代会長に就任。
『食物と心臓』(四月、創元社刊)
『妹の力』(八月、創元社刊)
『伝説』(九月、岩波書店刊)
『野草雑記』『野鳥雑記』(十一月、甲鳥書林刊)
昭和十六年(一九四一年)六十六歳 一月、日本民俗学の建設と普及の功により、朝日文化賞を受く。五月、仙台中央放送局の企画により東北民謡旅行。
『豆の葉と太陽』(一月、創元社刊)
昭和十七年(一九四二年)六十七歳
『こども風土記』(二月、朝日新聞社刊)
『木思石語』(十月、三元社刊)
昭和十九年(一九四四年)六十九歳 十月八日、京橋泰明国民学校において古稀《こき》の記念会。十二月、堀一郎宅にて芭蕉《ばしょう》の俳諧《はいかい》評釈を始める。
昭和二十一年(一九四六年)七十一歳 七月、枢密顧問官に任官。
『笑の本願』(一月、養徳社刊)
『先祖の話』(四月、筑摩書房刊)
昭和二十二年(一九四七年)七十二歳 三月、木曜会は解消。民俗学研究所設立。七月、芸術院会員となる。
昭和二十三年(一九四八年)七十三歳 五月、東京書籍刊の小学中学国語科検定教科書の監修を受諾。
『村のすがた』(七月、朝日新聞社刊)
『婚姻の話』(八月、岩波書店刊)
昭和二十四年(一九四九年)七十四歳 一月、御講書始めに、「富士と筑波」を御進講。学士院会員となる。九月、日本民俗学会第一回年会で講演。十月、島の話を聞く会を始める。十一月、アメリカ人類学協会名誉会員になる。
『母の手毬歌《てまりうた》』(十二月、芝書房刊)
昭和二十五年(一九五○年)七十五歳 七月、国学院大学教授を受諾。この年より三カ年計画で本邦離島村落の調査開始。
『方言と昔他』(一月、朝日新聞社刊)
昭和二十六年(一九五一年)七十六歳 五月より国学院大学にて理論神道学の講座を開く。十月、国学院大学にて日本民俗学会第三回年会が催され、喜寿記念会を行う。記念に『後狩詞記』を復刻。十一月、文化勲章を受く。
『島の人生』(九月、創元社刊)
昭和二十七年(一九五二年)七十七歳 五月、第六回九学会連合大会にて『海上の道』を講演。
『東国古道記』(六月、上小郷土研究会刊)
昭和二十八年(一九五三年)七十八歳 二月、国立国語研究所評議員会会長となる。
『神樹篇』(三月、実業之日本社刊)
『不幸なる芸術』(六月、筑摩書房刊)
昭和二十九年(一九五四年)七十九歳 五月、第八回九学会連合大会で「海上の移住」と題して研究発表。十月、日本民俗学会第六回年会で、八十の賀の祝いを受く。
昭和三十年(一九五五年)八十歳
『柳田国男集』(一月、筑摩書房刊)
昭和三十一年(一九五六年)八十一歳 一月一日、NHKより『米と正月』と題しての三笠宮との対講を放送。
『妖怪談義』(十二月、修道社刊)
昭和三十二年(一九五七年)八十二歳 三月、国立国語研究所評議員を辞す。三月二十二日、NHK放送文化賞を受賞。この月、民俗学研究所解散。九月、民俗学研究所の書籍を成城大学に移す。
『少年と国語』(七月、創元社刊)
『史料としての伝説』(十月、村山書店刊)
昭和三十三年(一九五八年)八十三歳 一月より、二百回にわたり神戸新聞に『故郷七十年』を連載。
『炭焼日記』(十一月、修道社刊)
昭和三十四年(一九五九年)八十四歳 四月、相模《さがみ》民俗学会にて「子墓の話」を講演。
『故郷七十年』(十一月、神戸新聞社刊)
昭和三十五年(一九六○年)八十五歳 一月四日、NHKで「旅と私」を放送。五月十八日、学士院会に出席。十月、慶応大学地人会にて「島々の話」を講演。
昭和三十六年(一九六一年)八十六歳 五月末より仙台旅行。朝日新聞に『柳翁閑談』連載。
『海上の道』(七月、筑摩書房刊)
昭和三十七年(一九六二年)八十七歳 一月、『定本柳田国男集』(筑摩書房)刊行始まる。三月、NHKテレビ「此処《ここ》に鐘は鳴る」に出演。故郷兵庫県福崎町名誉町民になる。五月三日、成城大学にて、日本民俗学会主催の米寿祝賀会が開かれる。この日、柳田国男賞設置が発表される。八月八日、心臓衰弱のため死去。享年八十七。八月十二日、青山斎場にて日本民俗学会葬がとり行われる。川崎市春秋苑に埋葬。九月、遺言により蔵書は成城大学に寄贈された。
(本年譜は、鎌田久子氏編の年譜を参照して編集部で作成した。)