林真理子
夢見るころを過ぎても
目 次
T リリカル篇
物おぼえのいい女たち
石森山の怪――私のヰタ・セクスアリス
ブルーマーの悲劇
肉ダンゴと躾《しつけ》の関係について
赤い夕陽よ、なぜ目にしみる
初恋のあと、私は死にたくなった
初めての愛の告白
雨戸物語
節操《せつそう》なき「男性像」が私を苦しめる
U コミカル篇
私だってインランになりたいのだ
幼なじみの男というのが新しい
商社マンというのは、やっぱりジャズを歌うのだ
私は添乗員がこうして嫌いになった
私はなぜユーミンになれなかったか
美人はみんなつき落とせ
あら、ら、私の顔は小さくなっちゃった
V プラクティカル篇
巷《ちまた》には巷の恋が満ちあふれ
男はかなり強くなくちゃいけない
寝ないが勝ち!
よく似た女
惚《ほ》れてからヤルか、ヤッてから惚れるか
横たわるだけの女に私刑《リンチ》を
みじめさは罪
「東京遊民」とお茶は飲めないぜ
いつでも使用可の男
著者あとがき
T リリカル篇
物おぼえのいい女たち
「世をなす人というのは、自分の子ども時代を実によく記憶している人だ」
という言葉を、ある本の中から見つけた。
なるほど、私がモノにならない最大の原因はそれだったのか。
とにかく私は、記憶力というのが異常に欠落している。電話番号をその場で復唱するということさえ、絶対にできない。おまけに自分の都合の悪いことは、すみやかに忘れさることができる、という特技さえ持っている。
仕事の締切、友人からの小さな借金、すべてこのテで乗り切ってきた。シラばっくれればその場はすむという卑怯《ひきよう》な根性は、いつのまにか私の頭から、記憶するという機能を退化させていったようである。
はっきり言って私は、自分の初潮や初体験の年月日さえ憶《おぼ》えていない人間なのだ。
そんな女がいるとは思えないと、多くの人々は言うだろうが、確かにここに一人います。どちらも冬だったような気がするのだけれども、何月だったのかも忘れてしまった。
この頃《ごろ》私にもインタビューされる機会が増えて、嬉《うれ》しいことにはセクシュアルな質問をされることさえある。
「初体験はいつですか」
などという質問は、美保純チャンになったみたいでゾクゾクするぐらい好きなんだけれども、悲しいかな記憶が定かではない。あの時がそうだとすると、あの時だし、もしあの時ちゃんとああなってなかったら、やっぱりあの時なのよね。女のああいうのってとってもあいまいです。うふふ。だから私はミエも手伝って、たいていの場合気分次第の嘘《うそ》をつく。あんまり嘘をついてきたので、最近では自分でもはっきりした初体験年齢を忘れてしまったような気がする。これはやはり女として恥ずべきことではないかと思い、私は何人かの友人にリサーチしてみた。それによると、やっぱり初体験の年月日を忘れているなどという女は、私ぐらいのものであった。
ある友人は、その日が来ると、「ワタシの記念日」と称し、一人でワインをあけるそうである。その日は必ず男とヤルという女もいた。こういうのは特殊な例としても、ほくそ笑むぐらいのことはたいていの女がしているようなのだ。
記憶力が悪いばかりに、私はまた女の楽しみを一つ失ってしまったみたい。
ところが全く不思議なことであるが、私は少女時代のことはよく憶えていないくせに、最近のことははっきりとこと細かに思い出すことができるのである。もちろんそれは、オトコに関してのことに限られるのだが。
「あの時、あなたは確かにこう言ったわよ。『オレを裏切ったら、お前を殺してオレも死ぬ』ってね」
オトコが真っ青になって否定しようと、私はいつまでもズルズルとあーだー、こーだーと言いつのるのだ。
「四年前のあなたの誕生日の時、私は確かストックマン≠フシャツあげたわよ。だけど二年前の私の時は、確か甘栗を一袋持ってきただけだったわよね。ああいうとこにも、あなたの誠意というのはよく表われてるわよね」
まあ、これじゃ、オトコに逃げられるはずである。
しかし、私に限らず女というのは、どうして自分の都合のいい思い出だけをかき集めることができるのであろうか。
私はふだんも寝つきのいい女だけれども、よくナイト・キャップがわりに、とっておきの素敵な物語を繰りひろげることにしている。つきあったオトコたち(たちというほどいないけどさぁー)とのおいしいとこだけをつなぎあわせると、あーら不思議、私はとってもモテるチャーミングな女の子、本当に幸福に眠れるの。だから私は自分でナンカしたり、電動コケシを使ったりする女の気がしれないのだ。あんなものはイマジネーションでいくらでも楽しむことができるのに、と私は本気で思ってしまう。
というわけで、私はいつ自分がどのようにして女になったか、女にめざめたかということに対し、全く無とんちゃくであるのだが、それでも編集者の男というのはしつこいのである。
「僕はいつも考えるんだけど、林さんのユニークな恋愛論っていうのは、いつはぐくまれたのかと思ってさ」
「そうスか、別にユニークじゃないスよお。ふつうじゃないですかあー」
私は煙草のケムリをプーッと吹きかける。
(一作目がちょっと売れたと思って、最近はだいぶ強気になっているのだ)
「いやぁー、そんなことないよ。すごおくユニークだよ。いいと思うよ」(ネッ、担当のM氏の口調も、『ルンルンを買っておうちに帰ろう』当時から変わったでしょう)
M氏は身をのり出してくる。
「だからさ、今度の本は、林さんがどういうふうにして思春期をおくり、どういうふうに恋愛していったかを中心に本を書こうよ」
「だけどさ、この頃のあたし、本当に男性関係に恵まれてないのよね。最後にしたのがいつだと思う? 去年の八月よ、八月! そんな私が恋愛について書けるのかなあー」
「いいよおー、それでいいよおー、男に恵まれないってことは、それで一つのテーマでもあるし、ぜひやりましょうおー」
最近、M氏は私がおだてに弱いという性格をすっかり見抜き、そこをうまくついてくるのである。
そんなわけで、私は少女時代からの記憶を少しずつ、少しずつ掘り出していこうと思う。しかし、何度でも言うように、私はかなり嘘つきの女だから、全部を信用しないほうがいいと思うよ。だいたい女が書くエッセイなんて、まず百パーセントフィクションなんだから。小説を書くほどの才能もない女たちが、ああいうのでお茶をにごすのだ。ホント。
その点、私の場合はすごお〜く良心的だと思う。八十パーセントはすべて真実であると断言できる。あとの二十パーセントはデティールだと思って許してほしい。
なにしろ私は、極端に記憶力のない人間なのだから、いちいち細かいところを調べていったら筆がすすまないのだ。ごめんなさい。
石森山の怪――私のヰタ・セクスアリス
人はいったいどのようにして、そのことの存在を知っていくのだろうか。
この世には男と女がいて、ある一種の行為を行なうという厳粛《げんしゆく》にして、ややこっけいな事実、それを私以外の子どもたちは、どのようにかぎわけ、自分の知識としていくのであろうか。
石森山は、今思い出しても本当にヘンテコな山だった。畑の真ん中にあるポコッと小さなおデキのような山。そこは松の木がおいしげり、かたちだけのお宮があったように記憶している。小学校に入って、まず真っ先に連れていってもらったのがこの山だった。そこで私たちは何枚かの木の葉を拾い、その後の図工の時間にそれを使って人の顔などを描いたものだ。
だから私は、その山がそんなにイヤらしい山だということは夢にも思わなかった。
「朝、石森山に行くと女のパンツが落っこってるんだぜ」
石森山の近くに住む男の子が、そっと私に教えてくれたことがある。
「ふうん」
私はその意味が全く理解できなかったとはいえ、今、自分がはいているズロースが山の中に落ちている光景は想像することができた。それはやはり恥ずかしいことには違いなく、私は顔を赤らめた。すると、調子にのった男の子は、もっと大胆なことを口にしたのである。
「それによ、アレもいっぱい落っこってるんだ。アレも」
「アレってなあに」
「アレだよ、アレ。きまってるじゃねえか、サックだよ」
私は鉛筆の上にかぶせるサックを思い出し、なぜこのコが、これほど声をひそめるのかよくわからなかったのだ。
「どうして? いいじゃない。誰《だれ》かがお勉強していたのかもしれないじゃないの」
別に私はカマトトぶるつもりはないのだ。後に私は好奇心のおもむくままに、いろんな知識を盗み知って、頭のほうだけはものすごい早熟な少女となるのであるが、とにかく私といえば「思い違いの王者」、性的な体験さえもトンチンカンなことばかりしてしまうのだ。これはなにも少女の時だけと限らず、かなり年をくった後でさえ、私は今思い出すと気が狂うほど恥ずかしいことをいろいろしている。
今から十年以上前、私は江古田《えこだ》に住む一女子大生だった時がある。
その日は素晴らしい秋晴れの日曜日だった。私と友人は駅に向かう道を、あれこれ喋《しやべ》りながら歩いていた。ふと友人が足を止めた。確か武蔵野音楽大学の門の前だったと思う。一人の男が立っていたのである。それがただの立ち方ではない。男は赤いなにかを両手に持って、一人ニヤニヤと笑っていたのだ。それはわりと長くて、ヌメヌメと光っていた。持っていた位置が股間《こかん》で、ふつうの女の子だったらそれだけで気づきそうなものであるが、私は一メートル近くまで近づいても、まだ識別できなかったのだ。(その頃から、私はちょっと近眼だった)
「このおじさんは、なんで道の真ん中で赤いホースを持って、楽しそうに笑っているんだろう」
と私は思い、わざわざ振り返って眺めるという、大胆なことまでやってしまったのである。
「ねえー、あのおじさん、なにやってんの」
私は友人に無邪気に尋ねた。
「ロシュツカンよ」
彼女は吐きすてるように言った。
「ああ、露出管……。きっと水道の工事やっていたのネ」
私はやっと納得して、明るい口調になった。そのとたん友人は、心底あきれたように私をまじまじと見つめ、そして叫んだ。
「あんた、なに言ってんのよぉー、露出漢よぉ、痴漢なのよぉ」
「えー、じゃー」
私は青ざめた。
「ひょっとしてあの赤いのアレ?」
「そうよぉ、アレよぉ」
私は非常に狼狽《ろうばい》した。アレとは知らず、私はまじまじと見てしまったのだ。見てしまったというショックもさることながら、明るく大胆に見つめてしまったという恥ずかしさのほうが、とにかく先に立ち、私はその時めまいさえ感じたものである。
十八歳でこのテイタラクであるから、石森山当時の十歳の私など、どんなに無知であったか想像にかたくないであろう。とにかく私は、女がパンツを脱ぐというのはどういうことであるのか、サックとはどういうものであるのか、全く知らなかったのである。いや、知らなかったというのは嘘であろう。子ども独特の鋭い嗅覚《きゆうかく》でなにかを感じていたのだろうと思うが、その頃から私は相当ずるい子であったから、親の手前、何も知らないふりをしていたほうがいいと思っていたに相違ない。
ある日のことだ。私は友人二人と自転車に乗って石森山に出かけた。大きな石が重なったあたりに、子どもが一人やっと入れる場所があって、私たちはそこを「秘密の場所」とよんで、いろいろな宝物を隠していたのである。死んだヒヨコ、みかげ石、ビーズのおもちゃ……。
その日も私たちは石の上で隠れんぼをして遊んでいた。遠くでカラスの鳴く声だけが聞こえる静かな日だった。
突然、男の子が「シーッ」と人さし指を唇にあてた。彼が指さす方向を見ると、一組のアベックがススキの陰に腰をおろしていた。遠くからだったからはっきりとは見えなかったが、スカーフをまいた若い女と、ジャンパーを着た男だ。なにやら楽しそうに話している。そのうちに男はススキを一本抜いて、女をかまい始めた。女はうるさそうに、しかしにんまりと笑いながら、それを払いのけたりしている。
「もうじきだぞ。やれ、やれ」
と男の子は上ずった声を出した。その時には私はもう、なにが始まるのかわかっていたような気がする。
両親と行く映画館で、ラブシーンが始まると、母はよく、
「こわいから見ちゃダメ」
と私の目を目隠ししたものだ。
きっとあのこわいことが始まるのだろうと私は思った。しかしそのこわいことを、私は急に見たくて見たくてたまらなくなったのである。
突然、甘ずっぱい感情が私の身内を走った。それはオシッコを我慢する時と非常に似ていたので、私は思わず、
「オシッコしたい……」
とつぶやいた。
「我慢するんだよ。もうじきだから」
男の子は小さい声で私を叱《しか》った。
急にアベックの姿が消えた。私たちの視界からはざわざわとしたススキのうねりが見えるのみである。そのすきまから、私は女がかぶっていた赤いスカーフがチラチラと見えるような気がしたけれども、もう我慢できないぐらいオシッコは近くなっていた。
私は石の陰で一人ブルーマーを脱いだ。ほとんど小水は出ず、わずかに雑草を濡らしたのみである。
それを見ながら、私は自分がひどくみだらなことをしているような気がした。
これをもし「性のめざめ」とよぶならば、なんと私の暗い将来を暗示したできごとであったのだろうか。
どうせめざめるのならば、せめてお医者さんごっこの主人公になったとか、幼なじみの男の子になにかされて……というぐらいであってほしかった。それが「アベックをのぞき見して興奮した」というのでは、私もちょっとうかばれないような気がする。
その後の青春時代も、恋愛やセックスにおいて、私はいつも傍観者であり、バイプレーヤーの役割りしか与えられないのである。
ブルーマーの悲劇
有名なCMディレクターで、かつ新進作家の喜多嶋さんに、最近また自慢のタネが一つ増えたのである。
それを見せびらかしたいがために、ある日彼は私を招待してくれた。いや、もっと正確に言うならば、ある男性が招待されて、私はそれにくっついていったというのが本当のところだろう。なぜならその見せびらかしたいというものは、女の私には全く興味がないものだからである。
奥さま心づくしの手料理が出た後、喜多嶋さんは「ふ、ふ、ふ」と低く笑って、私たちを自分の部屋に招き入れた。
「ここだよ、ここ」
と彼は言って、書き机の横の窓を大きく開けた。軒《のき》スレスレに金網が広がっている。前からよく話には聞かされていたが、金網と窓の位置がこれほど接近しているとは思わなかった。石垣のせいでちょうど見上げるぐらいの高さになっている。
この金網は実はタダの金網ではない。隣りの私立女子高の金網なのである。
「もうクラブ活動が終わった時間なんだけどさ、よくここのとこにブルーマーの足がずらっと並ぶんだぜー」
「ほー、いいですね」
と私と同行の男は、冷静を装っているものの、唇がだらしなくゆがんでいる。
「だからさ、今日は泊まっていけよ。明日の朝になれば体育の時間があるしさ。最近うちの最高のもてなしは、一晩泊まってもらって、朝日に輝くピチピチした太ももを見てもらうことなんだぜ。キタジマ・ブルーマー・ツアーって、最近じゃ有名なんだから」
男二人はしばらく感慨深げに金網を眺めていたが、いくら待っていても女子高校生がやってこないのを悟ってか、やがてリビングルームにもどって再び酒盛りになった。
話は当然ブルーマーが中心になってくる。
女性の私に敬意を表してか、私にも一応そのホコ先は向けられた。
「ハヤシはどういうブルーマーをはいてたんだい?」
喜多嶋さんが聞いた。
「そうですねえ……。私の時はまだジャージー素材のものは少なかったみたい。木綿のタンパン式のやつですよね」
などと言っているうちに、私は突然暗い記憶がよみがえってきたのである。
オーダーメイドのブルーマーというものが、この世に存在するということをご存知だろうか。それはいったいどういうシロモノかと人は問うかもしれない。やんごとなき身分のお嬢さまが、学習院入学の際おつくりになる御紋章入りの絹の別あつらえかと言う人もいるかもしれない。
実はこれ、中学校時代の私のご愛用の品だったのである。
今でこそ私はデブ≠ニののしられているが、当時は肥満児≠ニいうかわいらしい名前がついていた。顔も腕もまん丸で、ほっぺはリンゴのように赤かった。しかし特に注目すべきものはその臀部《でんぶ》で、私は十三歳にしてまるで中年女性のような巨大なヒップを持っていたのである。
小学校の時は比較的ルーズな「ツル姫」型をはいていたため、ことブルーマーに関しては苦労した憶えはない。
しかし規則の厳しい中学校では、ブルーマーの色と型はしっかりと決められていた。ショートパンツ型のスマートなものになったのはいいのだけれど、とにかく私のお尻と太ももがピッタリ入るサイズがないのだ。私と母親は、洋品屋の店先でとほうにくれてしまった。
「どうして、あんたはこんなにデブなのよ」
母親はいまいましそうに叱りながら、その足で私を仕立屋に連れていった。こうして、オーダーメイドのブルーマーはつくられていったのである。
しかし、ブルーマーといえば女学生、女学生といえばブルーマー。思春期の乙女の象徴ともいえるそれが、私の場合、規格品で間に合わなかったというところから、私の青春はすでに一抹《いちまつ》の悲劇の色を帯びていたといえるだろう。
このオーダーメイド・ブルーマーを私は三年間にわたってはくことになるのだが、その間にはさまざまな事件が私についてまわった。スリップを脱ぎ忘れて、ブルーマーから白いレースがのぞいているということなどしょっちゅうだったし、とび箱の角にひっかけ中身≠かなり男子生徒の目にさらしたということもあった。
なかでも最も大きなできごとは、やはりダンスの時間に起こったアレだ。
学園祭が近づき、私たち女生徒は創作ダンスの練習に余念がなかった。「海」をイメージして自分たちが振りつけをしたものであるが、その日はみんな張り切っていた。なぜかというと、体育館でバスケットをしていた男の子たちがなにかのはずみで全員見学をしていたからである。まだ校内暴力などという言葉もない時代の田舎の話だ。こんなたわいないことでも、少女たちの心をときめかせるには十分だった。
私はもちろん、いちばんときめいていたクチで、気どってポーズをとり、音楽が始まるのを待っていた。やがてテープがまわり始め、私はひざまずいた。そのとたん、ビリッと布が裂ける音がしたのだ。
私は「まさか」と思った。いくら常日頃《つねひごろ》から信じられないような目にあう私だからといって、この場合話がいささかデキすぎていやしないだろうか。男の子が何十人と見守る中で、ブルーマーが破れる女の子というものはめったにいるものではない。それほど神さまは私に悲劇をお与えにならないはずだ。
「ただちょっと糸が切れただけよ」
私はそう思って、片手でブルーマーのそのあたりをさわってみた。あろうことか、パックリと二つに裂けているのである。
その時、私はきっと笑ったと思う。人間はギリギリまで追いつめられると、ほとんどが微笑をうかべるという。私はそんな人生の深淵《しんえん》を、中学生の時に知ってしまったのである。
私は不気味な泣き笑いをうかべながら、ずるずると後ずさりした。なんとか体育館の壁まで行きついて、私はやっと一息ついてあたりを見渡した。
体育館中の人間が私に注目していた。音楽がかかっているのにかかわらず静寂があった。私は今度は壁に沿って歩き出した。「カニさん歩き」というやつである。その位置から更衣室までゆうに三十メートルはあったと思う。それまでの距離のなんと長かったことか。その間、察しのいい者たちの間からクスクスと笑い声が起こっていた。
その後、この事件は私がオナラをして、そのショックでブルーマーが裂けたという尾ヒレまでついて、広く学校中に流布《るふ》される結果となるのである。
「ブルーマーねえ……。あれははいててそんなにラクなものじゃないわよ。あれをロマンだなんだっていって騒ぐのは男の人だけじゃない」
私は喜多嶋さんに言うともなく、一人つぶやいた。
「だけどさ、女の子のブルーマーってやっぱりかわいいよ。あ、奥さんなんか似合いそうだなあー」
私の連れの男は、酒に酔ったのか好色な目を喜多嶋夫人に向けた。恥ずかしそうにうつむく夫人は、なんとまだ二十一歳、白バラのように初々しい愛らしさだ。喜多嶋氏とは十二歳も違う。なんでも人の噂《うわさ》では、夫人がまだ高校生の時に、一目ボレした喜多嶋氏が強引に自分のものにしたとか。女子高校生、ブルーマー、こうつなげてみると、喜多嶋氏のある趣味が歴然とうかんでくるでしょ。
私の探るような視線を感じたのか、喜多嶋氏は急に落ち着かなくなった。そしてやたらと奥さんにエバり始めた。
「おい、氷がないじゃないか。本当に気がきかないんだから」
「すいません」
そのたびに夫人の真っ白いレースのエプロンが揺れる。そのありさまは、ピチピチブルーマーよりずっと魅力的ではないかと私は思ったものだ。
「オイ、許せねえよな」
帰りのタクシーの中で、男がつぶやいた。
「キタジマがなんであんなにエラソーにしてんだよ。あいつがなんであんな若くて美人の女房をもってるんだよー」
深夜までしこたま飲んだせいか、男はかなりろれつがまわらなくなっている。そしてやたらと「くやしい、くやしい」を連発するのだ。
「だって仕方がないでしょ」
私はふだんの恨みをこの時とばかりに、わざと冷たい口調で言った。
「あなたがそういう人生を選んでるんだから。誰よ、オレは女と一生暮らせない男だっていつも言ってるのは。独身は女タラシの宿命よ」
「オレだってよ」
暗がりの中で見る男の横顔は、今まで見たことがないほど子どもじみて、そして淋《さび》しげだった。
「つらい時はあるんだ。好きな女と一緒に暮らしたいと思うことはあるんだ」
「私がいるじゃないの」
と言う替わりに、私は黙って男の手を握った。男はその三倍ぐらいの力で私の右手を握ってきた。
「これプロポーズかしらん。ついに結婚するんだわ、アタシ」
本当にそう思った。あのオーダーメイド・ブルーマーから始まった、少女としての暗い日々。そんな私にも何人か恋人といえる男は現れた。そして今、私の横で酔っぱらってダダをこねている男が、私の最後の男になるかもしれないという、静かな感動が私を包んだのだ。
それから二か月後、ある《ヽヽ》ショックから立ち直った私は、喜多嶋氏に電話をかけた。
「いつでも遊びにおいでよ。またあいつとさあ」
「困るんですよね。喜多嶋さん、ああいうふうに刺激したから」
「刺激って?」
「ブルーマーの話をして、その後さんざん奥さんといちゃついて。あの人すっかり結婚というのに憧《あこが》れてしまったらしくっていろいろと大変でしたァ」
「よかったじゃないか。オレたち夫婦は、キミのためにわざと芝居をしてやったんだぜ。あれが刺激になったならよかった、よかった」
「それがですね。結婚は猛烈にしたくなったらしいんだけど、私とはしたくなかったらしくって。はっきり言って喜多嶋さんのしてくださったこと、すべて裏目に出ましたよ。今あの人、別の女と暮らしてます」
喜多嶋さんを恨むのは、すべて筋違いというものだろう。
しかし、どうして私はいつもこんな目にばっかりあうの。
肉ダンゴと躾《しつけ》の関係について
「私の母親は昔、女学校の教師をやっていたことがあるんです」
と私が言うと、たいていの人はヘエーッとかなり驚くようである。これはもちろん好意的なものではない。
「その娘がよりによってなぜ……」
とはっきりと口に出しては言わないけれども、これでまた私の生いたちにかかわる謎《なぞ》がまた一つ増えることになる。
「いったいあんたって、どういう育ちをしてるのよ」
と友人の中野ミドリなどははっきりと口に出して言う。真夜中に彼女のマンションに押しかけ、なにか食べ物はないかと冷蔵庫をあさっている私の背に、そのひと言はきつかった。
「いっちゃナンだけど、あんまりいい育ちだとは思えないわね」
「フンだ。そんなことないよーだ」
私はやっと見つけ出したシチューの残りを、冷たいまま皿に盛って言う。
「私んちなんかね、母親が元々教育者でさー、そりゃ躾《しつけ》が厳しかったんだから」
「ふうーん」
彼女はまた例のシニカルきわまりない微笑をうかべてこう言う。
「だけどちっとも身になってないのね」
うるせいやい。この私だって出るとこへ出れば、
「礼儀正しいお嬢さん」
って言われんだぞ。
ところで、こんなことを言うと本当にエラソーだけれど、最近つまんないインタビューが多くって困っちゃう。
「どうしてコピーライターになったんですか」
「どうして本を出すことになったんですか」
おんなじことを何回でも繰り返し言わされる苦痛っていうのは、実際本人ではないとわからないと思うのだが、それにしてもしつこすぎるというもんだ。おまけに私はサービス精神が異常に旺盛なヒトだから、同じ答えを言っては悪いとついつい思ってしまう。私は同じネタを二度と使わないのを身上にしてるし(そうでもないか)、毎回同じ答えでは自分でも飽きてしまう。それで結局はウソをつくか、適当なことを投げやりに言ってしまうのネ。その時私は良心の呵責《かしやく》からか、自分でも「あら、ら」と思うぐらい、美しい口調になってしまうのだ。
「自分でも運がよかったと思ってますの」
「あら、いやですわ。私などふつうの人間ですわ」
と、とびきりの言葉をタンスの引き出しからとり出してくる。
気が合いそうな記者の方なら、お茶一杯で二時間も三時間もひきとめ、
「すいませーん、私たち次の取材がありますから」
と言うまで帰さないのだが、めんどうくさそうな相手だと、慇懃無礼《いんぎんぶれい》というテでなんとか早く帰そうと図ったりする。なんという思い上がり! しかししっぺ返しはあるもので、先日はあるオバサン記者に、
「林さんってお会いしたら、ごくふつうなマジメな方なんですね。本を読んでどんなにおもしろい方かと期待してたのに……」
と嫌味を言われてしまったのだ。ふん。
とまあ、自慢混じりの前置きが長くなったのだが、要は私だってベーシックなものは、非常にキチンとしたところがあるということをまず頭に入れてほしい。
そしてこれが母親の成果かと言うと、私はいささか首をかしげる部分が多い。なぜかと言うと、私の実家は忙しい商家で、私など完全にほうっておかれた。はっきり言えば「野性児」に近いような育ち方をしたような気がする。人に喋《しやべ》る時は、いかにもいいとこのお嬢さん風にいろいろホラを並べたてるけれど、私の幼年時代というのはそりゃー悲惨なものだった。ほら、よくいるじゃない。生意気な上に、顔もぜんぜんかわいくないコ。親せき中の子どもの中で、いちばんお年玉が少ないような子ども、それが私だったのだ。
今でもよく憶えていることがある。
小学校五年生の時だ。両親と弟との四人で街へ食事に出かけた。大きな中華料理店で大食いの一家は何皿もたいらげた。その中に私の大好きな肉ダンゴの一皿があった。私は弟にとられまいといやしくあせって箸を出した。そのとたん、肉ダンゴが一つ、コロコロと私の胸元からころがっていったのである。一張羅《いつちようら》の白いワンピースに、肉ダンゴの軌道どおりの茶色のシミが残ってしまった。あわてておしぼりでふいたりしたのだが、油の強いシミはなかなか落ちなかった。
「じゃ早くうちに帰って洗いましょう」
と母は言ったのだが、私はこの失敗でかなり気持ちが重くなっていたのは確かだ。
飲食の後、デブの一家四人は、またゾロゾロと駅に向かって歩いていった。するとそこで、私たちは遠い親せきのオジサンに出くわしたのだ。
「今日はどこへお出かけに?」
オジサンは聞いた。
「ええ、ちょっとこのコたちを遊ばせにね……」
私は当時からとにかく嫌な性格だと評判の娘であった。しかもその時の母の口調と、よそゆきのワンピースを汚してしまった不愉快な気分がいたく私を刺激したのである。
「あーら、よくいうわよ。お母さんだって目いっぱい食べて、自分だって楽しんだくせに……」
その時母がどういうふうに私をたしなめたのかよく憶えていないのだが、事件はその後すぐに起こったのである。
同じ列車で町に帰ったオジサンは、そのまま駅前の親せきの家に直行したらしい。情報はその家からアッという間に一族に伝わり、夜になってから私の家にもとどけられた。
「落合のオジサンがすごい見幕で怒鳴《どな》ってたわよ。『ハヤシんとこの娘は、ありゃ何だあ。親に口ごたえはする、挨拶《あいさつ》ひとつできない。おまけに食いっこぼしたような服で平気で街を歩いている。親はどういう躾をしてるんだ』ってね」
本当にその頃の私ときたら、世間からそんなふうに言われていたのだよ。
私が自分の母親を立派だ、スゴイと思うのはこんなことがあったからだ。
私が母親で、私みたいなのが娘だったら、まああの頃私は絶対に自殺していたと思うね。なぜなら私は、十何年ぶりに生まれた子どもで、おまけにたった一人の女の子だったのである。母としてはさまざまな期待や美しい夢をいっぱいに抱いていたはずである。
いまだに母になるどころか、妻にさえなれない私でさえ、六本木でセーラー服姿の幼女を見るたびに、甘い想像力でいっぱいになるぐらいだもの。
「女の子が生まれたら、東洋英和に入れよーっと。でもフェリスのほうが将来モテそうだしな」
などと私は本気で考えてしまうほうだ。
なにせ私は女の子が生まれたら、絶対に自分のような女には育ってほしくないという基本ポリシーを持っている。
私は一人の人間としては、そうデキは悪くないほうだと思うのであるが、一人の女性とした場合は、松竹梅《まつたけうめ》の梅のまだ下、ランチサービスの握り寿司《ずし》ランクであろう。とにかく男にモテたという記憶が皆無なのである。やたら妖艶《ようえん》な女になって刃傷沙汰《にんじようざた》をひき起こすという生き方もそれはそれで憧《あこが》れるが、私はそんな高望みはしていないのだ。ただ、たまあにセックスなんかしてみてもいいなあーと思ったり、車が入り用な時に、サッと馳《は》せ参《さん》じてくれるオトコがいればそれでいいのである。だから、
「男に愛される女」
というのを、私の娘には徹底的にたたきこむつもり。幼い頃からレオタードを着せ、自分の体型には十二分の注意をはらうよう育てよう。ピアノとクラシックバレエはみっちりとやらせ、「やめたい」などと泣いたらムチでたたく。髪は一日二百回のブラッシングを義務づけ、資生堂の洗顔クリームで肌をいつも美しく整えられるよう指導しようではないか。
とにかく娘には、私と違う美しい青春を過ごさせてやりたい。たえず男からの誘いの電話が鳴り、週末の予定はデイトでびっちりと詰まるような、そんな日々をおくらせてやりたい。
思えば、私の青春は、あの肉ダンゴの日から暗い扉が閉められてしまったのだ。親せき中の笑いモノになった私は、
「いいわよ、どうせ私なんか……」
と完全にひらき直ってしまったような気がする。
そのまま中学へ入学したものの、ボサボサの髪、フックなんか全部とれっぱなしのセーラー服、ニキビの穴にホコリが詰まったような薄汚い肌。楽しみといえばひたすら食べることだった。
こうして目をつぶると、あの日の私がまざまざとよみがえってくる。文字どおりドテッと茶の間に腹ばいになって、センベイをしゃぶりながら『小説ジュニア』を読みふけっていた私。従姉妹《いとこ》たちから「メスカバの昼寝」と名づけられたあの姿……。
もっとしつけていてくれたらなどと、贅沢《ぜいたく》なことを言ってすいません。
お母さん、あの時の私を生かしておいてくれてありがとう。
赤い夕陽よ、なぜ目にしみる
人は自分の青春というものを、ことさらに美しく飾り立てるものである。
それがどんなに清らかで哀しく、多感なものだったか口々に言いそやす。
しかし私は例によって、なぜか人と同じパターンを歩めないのである。
「忘れ去るにはあまりにも美しく、思い出すにはあまりにも哀しい」
というのは古い映画のコピーであるが、私の少女時代は、
「悲劇というにはあまりにもこっけいで、喜劇というにはみじめすぎる」
という言葉がぴったりするような気がする。
青春の入口で、早くも私はけつまずいてしまうのだ。
もっとはっきり言えば、中学校時代、私は典型的な「いじめられっ子」であり、クラスの「問題児」であった。
私が現在なぜ結婚しない(できない)かというと、男の残酷さや恐ろしさを少女時代に知りすぎたためではないかと思うのだ。
それほど彼らのいじめ方というのは、すさまじかった。私は後に大人になってから、ずいぶんと男に泣かされ続けるのであるが、幸いなことに肉体的危害は皆無だった。一度ぐらいはひっぱたかれたことはあると思うが、それはそれ、男と女の「犬も食わない」というやつで、今思えば甘い思い出というやつだ。ふふふ……。
現在、ごく冷静に分析すると、私はいじめられる女の子の要素をすべて兼ね備えていたのである。
@小学校の時から非常に大柄だった。
背もとびぬけて大きかったが、それ以上にデブということに注目したい。今新聞をにぎわせている「いじめられっ子」はほとんどが肥満児である。とにかくなんらかの肉体的特徴を持っているということは、それだけで標的になりやすいのだ。
Aとにかくぼんやりとした性格だった。
端的に言えばトロい。タレ目、団子鼻《だんごばな》の童顔は当時から変わらず、空想癖は今以上に強かったようだ。
B反応が非常におもしろいコだった。
わずかな言葉で、私はすぐに泣き出したり、学校から逃げ帰ったものだ。今でも一つの情景が目にうかぶ。桃畑の中、私が教室から飛び出したままの上履きで、泣きながら走っている。それを女のクラス委員の辻さんが追ってくる。二人でそのまま一キロぐらいは走ったであろうか。今では二児の母親になっているという辻さん、その節は本当にお世話になりましたぁ。
さて、いじめられっ子を半年もやっているうちに、私はいつ、どんなふうに攻撃が加えられるのか察知できるようになった。
ある日、書道の時間が終わった時だ。私はすずりを洗おうと席を立ったのだが、その時なぜか嫌な予感がじんわりと私を包んで、私はつい足を速めた。しかしその時はすでに遅し。一人の男の子が突然私に襲いかかったかと思うと、墨をふくんだ筆で、私のほっぺたに×印を入れたのである。
「キャー、やめてよ」
私は両手で顔をおおった。するとまるでそれが合図のように、十数人の男の子たちがいっせいに筆を持って、席を立ち上がってきたのである。まるで書道の課外授業のように、彼らは私におどりかかり、顔といわず、腕といわず筆をなすりつけた。恐怖のあまり私は泣き出し、真っ黒い涙がポタポタと頬をつたう。しかし、こんな時にも女の子たちは遠くのほうで、
「やめなさあいよ、またやってるんだから……」
と言うのみで、誰も止めてくれないのである。
今だから言えるのであるが、私は彼女たちの言葉に、ある嫉妬《しつと》を感じとっていた。なぜなら、これは私自身もかすかにわかっていたことなのであるが、こうした男の子たちのいじめ方には、あきらかに性的なにおいがしていたのである。
その前の日も、私はぼんやりと廊下に立っていた。「お知らせ」かなにかを貼《は》り終えたばかりで、私は手のひらに画びょうを山盛りにして持っていたのである。その時、通りかかった「ホリケン」というあだ名の男の子が、ふいに私の手を握りしめた。もちろん私は、画びょうごと私の手を握るかたちになる。
「や、やめてよ、痛いようー」
と泣き叫ぶ私を見つめる、ホリケンのゆがんだ笑い、不気味な目の輝きを私は今でも忘れない。
つまり、私は思春期の男の子たち独特の、サディスティックな欲望の生けにえとなっていたのである。どうせ生けにえとされるのだったら、たとえば放課後の体育館の器具置場でなにかされたとかいうのであれば、それはそれなりに劇的だし、私も小説の一篇ぐらいは書けると思うのだが、それほどの危険を冒すほど、彼らは私に魅力を感じてはいなかったのである。
せいぜい私を無理やりにプールにつき落とすとか、私の椅子《いす》の上に生け花の剣山を置くとか、その程度のことで彼らは満足していたようである。
私の母親は教師によびつけられ、
「お嬢さんは、性格的に欠陥がある」
とよく言われたそうである。
「情緒不安定、感情的」というのは、私の通信簿に必ず書かれた言葉で、あの頃の私は本当によく泣いた。
男の子たちが結成した「ハヤシを百回泣かす会」というのがあって、私がウワーンと涙ぐむたびに、
「よんじゅうはっかあい」
と彼らは凱歌《がいか》をあげるのであった。
少なくとも、十四歳の私は十分に傷ついていたと思う。
先ほども話したように、私は上履きのままでよく学校から逃げ出したものだ。もちろん、誰《だれ》かが追いかけてくれることを期待していたのだろうと思うが、ふり向いても人影がなかった時のわびしさといったらなかった。
私は一人、とぼとぼと歩いて砕石工場が見える土手の横に腰をおろす。
大きな夕陽が工場の煙突によって分割される光景を、今でもまざまざと私は思いうかべることができるのだ。
私は自分のことを、なんと不幸な少女だろうと思った。どうしてこんなに男の子たちに嫌われ、いじめられるのだろうと、何度も何度も考えた。
この後を笑わないで聞いてほしい。
そして私は一つの結論を導き出していったのだ。
「みんな、本当は私のことが好きなんじゃないかしら」
その頃私が愛読していた『小説ジュニア』とか、西谷祥子の少女マンガにも、いじめられる女の子の話がよく出てくる。その女の子は実はいじめられているのではなく、照れ屋の男の子の精いっぱいの愛情表現だったというような内容を私は思い出していた。
「そうだわ、きっとそうに違いないんだわ」
そう思うと、この不幸もなぜか甘ずっぱく、私は自分の肩を自分で抱いて、そのままもの思いの世界に落ちていった。
そうそう、通信簿には、こんな言葉もあったっけ。
「わがまま、空想癖強し」
しかし、現実離れしたエゴイズムというものは、時として少女を不幸から救い上げるものなのである。
初恋のあと、私は死にたくなった
みんな正式な¥於の男の他に、もう一人、初恋の男というのがいるはずである。
言わずとしれた、アイドルというやつだ。
私が中学校時代、グループサウンズは全盛期を迎えていた。タイガース、ジャガーズ、ブルーコメッツ……。今思いうかべても、おもちゃの兵隊さんみたいな衣裳《いしよう》に身をつつんだ若い男たちの姿が何人もうかんでくる。
なかでも特に人気があったのは、なんといってもタイガースで、私の友人たちも毎日、ジュリーだ、ピーだといって大騒ぎしていた。私の幼なじみの百合ちゃんなどは、ファンというのを通り越して、気が狂っているとしか思えないような熱の入れようだった。地方に住んでいるというハンディがあるにもかかわらず、コンサートに行くためにはいくらでも学校をズル休みしたし、プレゼントを買うために缶詰め工場にアルバイトに行っていたぐらいである。
夏休み後の始業式の日、百合ちゃんは私を人気のない廊下によび出した。
「マリちゃんだけにそっと見せてあげる。これ私の宝物よ」
彼女が持っていたのは、レースのハンカチにくるまれた、バラの花びらであった。それも枯れて茶色に変化したやつだ。
「私やっとお金貯めて、夏休みに京都へ行ったのよ。ジュリーのうちを見てきちゃったわ。それで庭からこっそりバラの花びらをとってきたの。あー、マリちゃん、私幸せ、どうしよう」
私は百合ちゃんのこういう心情が、どうしても理解できなかった。
ジュリーが百合ちゃんを知っていれば話は別だ。しかし、彼は百合ちゃんの顔も知らないだろうし、もちろん話もかわしたことがないはずだ。いってみればアカの他人である。他人のために、お金を貯めてモノを贈ったり、家まで見に行くという神経が、私には全く謎《なぞ》であった。いくらイイ男でも、口もきいたことがない人になにかあげるぐらいだったら、私はクラスの小川君に、ガムの一個でもやったほうがいいと思うクチである。
その頃《ころ》から、男に関して私は非常に現実的であったのだ。おまけに思春期独特のツッパリもあって、私はついつまらないことを言ってしまったようだ。
「なによ、タイガースなんてどこがいいのよ。あんな高卒のつまんない男の団体」
なぜそこで高卒という単語が出たかというと、昨夜うちの母親が、成績の落ちた弟に向かい、
「こんなことじゃ高卒で働きに出すよ」
とおどかしており、その響きが妙に頭に残っていただけで別に他意はなかった。
その日、私は家に帰り、縁側で猫のノミをとって遊んでいた。(当時から私はこれが好きだった)すると百合ちゃんと、同じくタイガースファンのミドリちゃんが、真っ青な顔をしてやってきたのだ。
「これ読んでちょうだい」
ノートの切れ端にびっしりと文字が書かれた手紙を置いて、二人は逃げるように立ち去ったのだ。
「私たちはあなたを許さない」
という書き出しで始まる手紙を、私は今でも奇妙に憶えている。それは全く私の理解の範囲を超えた世界からの通信だったからだ。
「よくもタイガースのことを高卒だと言いましたね。そりゃあなたはこれから大学へ行く人かもしれません。しかしいっしょうけんめい音楽をやっている人たちに向かって、そういうことをいうのは、絶対によくないことだと思います。私たちはもうあなたとはつきあいません」
私は読んだ後それを縁側に広げた。猫のノミをその上に集め出したのだ。ちょっと嫌な気分になったのは確かだった。けれども、どうののしられようと、私は歌手とかタレントに興味を持てないし、興味を持つ人間が理解できない人種なのだ。それに百合ちゃんやミドリちゃんは、あまりにも自分の気持ちに酔っている、と私は判断した。そんなに気にしなくてもいいことなのだと、私は自分の心に繰り返し言った。
さて、私に絶交状をたたきつけた百合ちゃんであるが、ずっとその心意気を通してくれれば、私もジュリーの魅力を見直したかもしれない。しかし三日もすると彼女は私とまた遊び始めた。
だから私はファン心理というのを、今でも信用できないのよね。
あの手紙のことなどコロッと忘れた百合ちゃんと私は、ある日甲府へ仲よく映画を見に出かけた。私たちの町にあった笛宝館《てきほうかん》がテレビブームでつぶれた後、私たちは電車で二十分かかる県庁所在地まで出かけなくてはならなくなっていた。少し前までは、笛宝館に両親や弟と一緒によくアニメを見に行ったものだが、建物ごとなくなってからは、映画鑑賞は本当に久しぶりだった。
「『風と共に去りぬ』っていうのは、すごい名作なんだってさ」
百合ちゃんは私につぶやいた。舟木一夫や内藤洋子主演の映画は見たことがあるが、こういう大人の、しかも外国の映画を見るというのは、二人とも初めての経験だったのだ。
ヴィヴィアン・リーが夕焼けの中に立ちつくす、あの有名なシーンでジ・エンドが出た時、百合ちゃんも驚いただろうけれども、周りの客たちもさぞかしびっくりしたことだろうと思う。
セーラー服を着た私は、客席でおいおい泣き出したのである。
「レッド・バトラーかわいそう……。もうもどってこない……。悲しすぎるよお」
とにかくそれまで、私は文化というものに全く触れたことのない田舎の中学生であった。まるで未開人がアスピリンを飲むように、その映画は私の全身にきいて《ヽヽヽ》しまったのである。
それから私に苦悩の日々が始まった。
今まで食べることとマンガにしか興味がなかったこの十四歳の女の子が、突然生きるのが虚しくなったのだ。
朝目がさめる。真っ先に目に入るものは、古びたわが家のふしだらけの天井である。それが悲しくて、私はふとんの中でひとしきり、さめざめと泣くのだ。
「どうして私は、昭和時代に、しかもこんなにつまらない田舎の少女として生まれたのかしら。どうしてアメリカ南北時代に、大地主の美しい娘として生まれなかったのかしら」
レッド・バトラーのあのたくましい笑い顔は、完璧《かんぺき》に私の心を支配していた。
スカーレットのように、抱き上げて階段をかけ登ってもらえたら、真夜中にうなされた私を、子どものように抱きしめてくれたら……。
私は生まれて初めて、男に愛されたいと思うせつなさに泣いた。そして私が初めて愛した男が現実に生きていない男だと認識することは、身が震えるほどの恐怖だった。
信じてもらえないかもしれないけれども、私はあの頃、自殺を決意していたのである。「輪廻《りんね》」という言葉はまだ知らなかったが、いったん死ねば、きっと別の時代に生まれ変わる。あの世で必死になって神さまにお願いすれば、一八六〇年代のアメリカで生をもらえるのではないかと、私は本気で信じていたのだ。
勉強は前から全くやらなかったけれど、遊びやクラブ活動にも私はすべて興味を失ってしまった。田舎の中学生として平凡な日常をおくらなければならないつらさは、やがて責め苦となって、私は一時、食事も喉《のど》にとおらないほどまでになったのである。
こんな気持ちは一か月以上続いたと思う。私は特に自分が多感な少女だったとうぬぼれるつもりはない。うぬぼれるつもりはないけれども、あの自殺願望はやはりちょっと異常だったように思える。
一つだけ言えることは、当時の私は、現実の中に夢見るものがなに一つなかったのだ。十四歳といえば、男の子から手紙の一つももらい、放課後のグラウンドで男の子と立ち話の一つもしてもいい年頃である。しかし、私にはそのようなことはなに一つ起こらなかった。猫のノミとりだけがあの頃、私が夢中になっていたものだ。そしてまた読む恋愛小説で、私は私の夢や憧《あこが》れを育てていった。
あのレッド・バトラーに対する、厭世《えんせい》的思慕は、現実と夢とのギャップによる一種のオルガスムス現象だったと今の私は理解できるのである。
その苦しい初恋をしてから、私はもう百合ちゃんにジュリーの悪口を言うことは決してなかった。
初めての愛の告白
親というのは、娘を必要以上に買いかぶっているものである。
私の友人でちょっと美人なのがいるが、高校生の頃から、彼女の母親はくどくどと「男には気をつけろ」と毎朝念をおし、あげくの果ては「護身術を身につけたほうがいい」と本気で言い出したそうである。
その点、うちの母親はかなり冷静だったといっていいだろう。なにせ彼女は、私が小学生の頃から、
「あなたは図書館の司書になりなさい」
と言い続けていた人なのである。
「あれは一生食いっぱぐれのない職業だからね。女が一人で生きていくためには、なにかちゃんとした仕事を持たなければダメよ」
「女が一人」という言葉に、多少ひっかかったものの、私はそれでも素直にうなずいたものである。
とにかく私はそういう心配は絶対にかけなかったと自認している。(あまり自慢にもならないが)男の子に対する興味はひといち倍あったものの、男の子から興味を持たれるということは、人一倍なかった女の子なのであった。
これは別にウケようと思って、誇張して言っているわけではないよ。中学校、高校の私って本当にブスだったんだもん。このあいだ、ある女の子の雑誌から、私の少女時代の写真がほしいという申し出があり、私は田舎までとりにいったのだが、ひと目見てギャーッと叫んでしまった。
現在の私の、唯一《ゆいいつ》のチャームポイントといえる大きな二重まぶたは、思春期独特の顔のむくみで、まるでお岩さんみたいに脂肪がたれ下がっているし、顔が完全に二重あごなので唇のぶ厚いのがやけに目立つのである。
こんな顔で青春時代をすごしたのかと思うと、自分が今さらながらかわいそうでかわいそうで、涙がこぼれ落ちそうになってくるほどだ。
だからこれから話すエピソードも、すべてその顔ゆえの悲劇だと思って聞いてもらいたい。
天は二物を与えずとはよく言ったものであるが、当時から私はとにかく声だけはよかった。ちょっと鼻にかかった甘い声で、マイクをとおすと、それはいっそう強調されたものである。私は高校に入学すると同時に、放送部に入ったが、私の担当するお昼の番組はわりと評判がよかった。それに自信をつけて、私は山梨放送のラジオ番組のオーディションを受けたのである。
私と同じぐらいの年齢で、山梨県生まれの人間ならば、あの番組はよく知っているはずだ。「テレフォン・リクエスト・ナイター」といって、野球のオフのシーズンに流す一時間半の生番組であった。
ラジオというのが幸いして、私の人気はかなり盛り上がったと思う。私は本名の真理子からとった「マリリン」という愛称でよばれ、ファンレターなどもかなり来たように記憶している。中には「つき合ってくれ」とか、「結婚してくれ」という、ラブレターまがいのものまで入っていたのだ。
あれほど男にモテたという経験は、これからの私の長い生涯で、二度と訪れることがないであろう。そのくらい当時は、私もまだ見ぬいろんな人々からチヤホヤされていたのである。
しかし、その栄光の日々は長く続かなかった。山梨放送がよせばいいのに、「公開放送」などということを考えついたのである。
あべ静江という女性は、やはり地方のDJをしており、公開放送のたびに人気が急上昇し、ついに(一時は)スターの道をかけ登るのであるが、私は公開放送のたびに人気は急下落するのであった。
「あれがマリリンだってさ」
と失望の声で口々につぶやき、うなだれるように帰る少年たち。今だからこんなことを笑って言えるが、その時の私だって胸がズタズタになるぐらいつらかったワ。
同じようなことが、私が通っていた高校でも起こっていた。
ある日の昼休み、私は母の心づくしの弁当をひろげていたのである。おかずは確か玉子焼きと、イカと里芋の煮つけであった。煮つけは夕べの残りを、朝もう一回あたため返したやつである。なんでこんなことを憶えているかというと、それから起こるできごとが、ちょっと里芋と関係あるからだ。
里芋は箸《はし》でちぎるにはちょっと固かった。めんどうくさかったので、私は口を大きく開け、一口にほおばったのである。
その時だ、階段を集団で上がってくる足音が聞こえてきた。それも十人や二十人の足音ではない。後から聞いた話だが、上級生の男子クラス全員四十人が、
「マリリンを見に行こうぜ」
とやってきたらしいのだ。
私はその足音が自分をめがけて来るものとは知らず、里芋を咀嚼《そしやく》しようと必死になっていた。固すぎる里芋と口の中で格闘している姿は、今考えてもみっともいいものではない。
ふと横を見て私は仰天した。
大勢の男の子が窓から鈴なりになって、私を見つめているのである。
「なんだ、あれか!」
四十人の男の子たちは、口を揃《そろ》えて合唱するように怒鳴《どな》った。
「ドヤドヤドヤ」また階段を降りていく大音響。
里芋を口にほおばったまま、唖然《あぜん》とそれを見おくる私の心中をどうか察してほしい。
前置きが長くなったが、私の悲劇はこんなことでは終わらなかったのだ。もっともっとつらいできごとがあったのである。
ある日私が自分の部屋で宿題をしていると、母が階下から苺《いちご》を食べようと声をかけた。もうかなり遅い時間であった。私が牛乳をたっぷりかけ、ピチャピチャとつぶしている時にその電話はかかってきたのだ。なんかいつも食べ物がからんでいるようだが、あの頃はのべつまくなし食べていたのだから仕方ない。
「林さんですね。僕はあなたと同じ高校の三年生で土屋といいます」
と男は言って、いつも私の番組を聞いていること、私の大ファンだということなどを、割合と頭のよさそうな口調で話すのだ。
私は心配になって聞いてみた。
「あのおー、学校で私を見たことありますう?」
「いや、ないけど……」
「はっきり言って、私、ラジオのイメージと大分違いますよ」
「そんなこと関係ないよ」
男はきっぱりと言ったのだ。
私は非常に嬉《うれ》しくなり、思わず愛想のいい受け答えをしたように思う。ラジオの倍ぐらい甘ったるい声を出したような気もする。
その次の日から、電話は頻繁にかかるようになった。朝、私が起きる頃の七時すぎ、昼間私が帰って来る頃の五時すぎ、夜私が寝る頃の十二時すぎ。すべて私の行動を見はからったように、日に三度必ず電話があるのだ。そして一週間後ついに、まだ見ぬ土屋サンは、私のことを、
「好きだよ。この気持ちわかってほしいな」
などと言ったのである。
今ではこんな言葉聞きあきたけれど、というより冗談だと聞き分けられるようになったけれど、この「好きだよ」という言葉は、当時の私が初めて耳にするものであった。
その時の感動をどういったらよいのであろうか。私にもそんな人生が用意されていたのかという安堵《あんど》が、暖かくひたひたと私の胸を包んだのだ。
「あ、どうも、どうも」
私は不器用に応えた。気持ちが動揺していたので、それしか言えなかったのだ。
「キミは僕のことをどう思ってるのかな。教えてほしいな」
「わからないわ」
私はやっと例のつくり声を出す余裕が生まれていた。
「だって、まだ私たち会ったことがないんだもの」
「でも僕は、声を聞いているだけでキミがどんなにやさしくてステキな女の子かよくわかるよ」
私はこの言葉にすっかり感動してしまった。受話器を置いてもしばらくは、私は風景がふわふわしていた。汚いうちの茶の間も、いつもと全く違って見える。蛍光灯がいやに明るく、まるでお星さまみたい。初めて愛を告白された十六歳の女の子なんて、みんなこんなものかもしれないね。
ふと気づくと、父と母がものすごく険しい顔をして坐《すわ》っているのだ。そんな顔を見るのは初めて。どうやら今の電話を聞いていたらしい。その後私は二人にクドクドといろんなことを言われてしまった。なにせ彼らも娘にそんなことを言うのは初めてだから、いろいろとあがっていたらしい。今考えるとずいぶん飛躍した内容であった。
「お前は絶対に男にだまされる」
とか母は言った。
(ふん、いいじゃない。だましてくれるってことは、その前はつきあってくれるってことでしょう)
「男はなにをするかわからないんだから」
(わっ、私なにかされてみたい)
私は心の中ではいろいろ思っていたのだが、口には出さなかった。そして最後におもむろに言ったのだ。
「心配しないでよ。親が心配するほど娘もてずっていうじゃない」
これはもちろん、「女房が妬《や》くほど亭主もてもせず」という川柳かなにかのしゃれなのであるが、全くうけなかった。
しかし、両親は本当になにも心配することなどなかったのだ。
次の日から、土屋サンからの電話はぷっつりと来なくなったのだ。その週、私は掃除当番で、校庭でホウキを使うという、かなり目立つことをしていた。きっと彼は校舎の窓から私を見たに違いない。
私は淋《さび》しいやら腹立たしいやらで、かなりがっくりときてしまった。私も実は土屋サンのことを好きになり始めていたらしいのだ。
それからしばらくたち、三年生の卒業アルバムができた時、私は先輩から借りて真っ先に土屋サンを探した。
鼻の下が短い猿そっくりの写真が載っていた。
私はあの夜の電話を思い出し、ひどく恥ずかしくなった。
あの顔とこの顔で、愛を語っていたのね。
雨戸物語
女の子の雑誌に、一つ連載をもっている。毎月送られてくるその雑誌を見るたびに、ため息につぐため息だ。
昔は高校生がセックスするなんてと、嫉妬と驚きでわなないたものであるけれど、今はそんなのは珍しくない。中学生が同級生同士でいろいろ楽しむご時世なのだ。
「今の若いコは……」なんて目くじらたてるほどオバンではないつもりだけど、とにかく私は中学生同士でセックスすること自体、信じられないのよね。
「十三、四歳やそこらで、からだの機能はちゃんと働くワケ?」
などと私は心配してしまうタチなのである。そんなちっこい奴《やつ》らのセックスなんて、リカちゃん人形のスカートをまくって、パンツをはがすような痛々しさがある。
「あのコたちはさ、結局お医者さんごっこの延長なのよ。自分たちはちゃんとセックスやっているつもりなんだろうけれども、本当は違うんじゃない」
と私が言い出したら、
「そうよ、そうよ」
と友人たちものってきた。
「私たちの年代の時、中学生でやっちゃうコなんてやっぱりいなかったわよね。私なんかすっごくすすんでいるほうだったけれども、初めてナニしたのは大学生の時よ」
「あたしは高三の時だけどさあー、やっぱりすごい罪悪感があって、『もう学校へ行けないんだ』なんて悩んだものよ」
この会話を聞きながら、私はだんだん誇らしい気持ちになってきた。
ああ、なんて美しく清らかな私の青春時代! 桃畑の真ん中に私の通っていた高校はあった。男の子が四分の三を占める進学校で、当然女の子は希少価値のはずだった。ところが、皮肉なもので、こういう学校に来る女の子というのは、勉強一筋の味もそっけもないコばっかり。白ズック靴に、お下げを輪ゴムでとめているようなのが大半で、「日川高校の女」といえば、県下ではブスの代名詞であった。男の子たちの視線は、隣り町にある女子高校に集中していたと思う。ここの女の子は、頭は悪かったが、結構あかぬけてしゃれたのが多かったのだ。
時代は昭和四十年代、まだ「健全な青春」というものが幅をきかせていた時代である。なにせ私たちの高校は、夏木陽介主演のテレビドラマ「青春とは何だ!」のロケ地になっていたぐらいだから、もうホントに文部省推薦の空気が漂っていたものである。
クラブ活動、ファイヤーストーム、総合体育祭前の炊《た》き出し……。この炊き出しについて、少々説明を要するのだが、年に一度、山梨県全部の高校が集まってスポーツを競い合う催し物が当時はあった。
テニス、野球、ウエイトリフティング、サッカーなど、すべての種目が点数制になっており、そのトータルで優勝校が決まるのである。「文武両道」をスローガンにしていた私の高校は、いつも優勝校か準優勝校だった。だから毎年五月が近づくと、学校中がそわそわとし始める。そして、夜遅くまでクラブ活動に汗を流す選手をはげますため、オニギリの炊き出しをするのが恒例となっていた。
「生徒全員が、明日までにお米二合と梅干し五個をもってくること」
というおふれが出される。
ねえー、かわいいでしょう。今の高校生だったら、「そんなものは個人の自由を束縛する」とかいってゴネるんだろうけれども、私たちは本当に素直なイイコだったから、全校生徒がみんなお米と梅干しを忘れずに持ってきたんだよ。ふだんはちょっとツッパッてるようなコも、検便を持ってくる時みたいに、ちょっとふてくされながら米の入ったビニール袋をぶら下げてくる光景はかわいかった。なにしろ千何百人が持ってくるのだから、その量は相当すごいものだったと記憶している。そしてそれを合宿所に運んで、私たち女の子は、せっせとオニギリをつくるのだ。三角巾《きん》とエプロンなんかしちゃってさ。
今でも初夏が近づくと、私は焼きノリのにおいだとか、熱い白米の感触を思い出す。現在私が多くの人々の賞讃のまとになっている「愛らしい無邪気さ」とか、「男性に奉仕する心」というのは、こういう日々が土台になっているのだ。ホント。
そして、こういう高校だったからこそ、私は心安らかに日々をおくることができた。全校生徒でオニギリをつくってはしゃいでいる学校の、「男女交際」などというのは推してしるべしであろう。
いくらブスの女の子ばっかし――とののしられても、それなりにカップルはできていった。そして私たちの高校におけるステディのあり方というのは、自転車を並べて一緒に帰ることであった。甲府盆地が見わたせる桃畑の道を、二つの自転車がゆっくりと帰っていくと、私たちは、
「あ、あの二人あやしい」
と噂《うわさ》し合うのである。しかし、きっとあの二人はキスもかわしたことがなかったと思う。だって生徒はあたり近在の農家の息子や娘たち、土手に自転車をとめてなにか始めようと思っても、すぐ顔見知りのオジさんか誰かに見つかってしまうはずである。
「そうね、あの頃の私たちはホントにかわいかったわね」
ユキエは私の高校の同級生。彼女は在学当時、熱烈な恋愛をしたと言っているのだが、彼女にしたってこんなもんである。
「学校の帰り一緒に帰る以外に、二人でデイトしたことなんかそんなになかったもん。せいぜい山中湖へボートこぎにいくか、八ケ岳にスケートしに行くぐらい。なんせ喫茶店なんて街に一軒もなかったもんねー」
そして私たち二人は、電話で何度も、
「わたしたちって純情だったわねえ」
とほめあったものである。純情もなにも、私は全く男の子から相手にされなかったという諸事情により、高校時代は純情にならざるを得なかったのであるが、それでもこういう話を聞くと異常に嬉しくなるのだ。
私のような逆境のコは、たとえば東京の派手な私立高校へ行くような身の上であったら、どんなにつらい、苦しい日々をおくったことであろうか。せいぜいこんなもんの高校であったから、私はそうひがみもせず、まっすぐに生きてこられたに違いない。
折りも折り、私は休暇で実家へ帰った。列車の窓からはそんなに変貌《へんぼう》を感じない田園風景が横切っていく。
「あたしの町、あたしの青春」
私は胸がしめつけられるような思いにふとかられた。
「こんなふうに私が純情な女に育ったのは、みんなこの風景のおかげなんだわ」一人つぶやいたその時だ。
「ハヤシじゃねぇーか」
という図太い声が聞こえた。向こうの席から男が一人なれなれしく近づいてくる。高校の時同級生だったモチヅキ君だ。あの頃はさわやかでたくましいサッカー少年だった彼も、しばらく見ない間にすっかり若ハゲになり、なんか薄汚い感じ。
「おー、久しぶりだなあ。お前も東京にいるんだって?」
という話から始まり、しばらくは同級生交歓の場面となったのである。
「ねえ、A君どうしてる?」
私は高校時代ちょっと気になっていた男の子の名前を出した。A君と私があえて匿名としたのは、この男の子(もう男かぁ)が、かなり全国的な有名人だからである。ある球技(具体的に言うとわかっちゃう)によって、彼は高校生の頃から全日本代表になり、海外にも遠征したりしている。「ワセダのA」といえば、一時は日本一とうたわれたものである。高校生の頃から彼は大スターで、全くこわいものなしといった感じ。授業中も堂々と居眠りをしていたし、お昼に近くの中華料理屋から窓ごしにラーメンを出前させるなどという芸当は、彼だから許されることだった。このような傍若無人《ぼうじやくぶじん》の振舞いは、もちろん嫌われる人たちからは嫌われていた。特に優等生タイプの女の子たちからは毛虫みたいに拒否されていたね。
ある時、副ルーム委員長をしていたサチエが、授業中ワーッと泣き叫んで教室を飛び出したことがある。みんなはあっけにとられていたけれども、A君だけが一人ニヤニヤしていた。
後で彼女が涙をふきふき語った事件の真相はこうだ。彼女がいつものように、黒板に書かれた英単語を一心に書き写していたところ、A君が首をのばしてこうささやいたそうである。
「サチエ、オレどうしよう。立っちゃったぜ」
この話に私たちはいっせいにどよめいた。
「まー、いやらしい、不潔」
「先生に言いつけてやればよかったのに」
もちろん、私たちは無知もいいとこで、「立つ」ということが具体的にはどんなことをいうのかよくわからなかったけれども、異様な衝撃がそれぞれの胸を走ったのである。
「A君かあ……懐かしいなあ。あの人っていうのは、すごく女の子の間で評判悪かったけれどもさ、私は買っていたわよ。今だから言えるけど、ああいうのをセクシーっていうんじゃない。田舎の女の子っていうのは、そういうのにものすごく潔癖だから、こわがって逃げちゃったのよ」
と私はモチヅキ君に言った。
「いやー、でもあいつはモテたぜえー」
「知ってるわよ。よく部屋に花束とか、ぬいぐるみが届けられてたもんね」
「そんなカワイイもんじゃないよ」
モチヅキ君はニヤッと笑った。
「オレとあいつんちって、すごく近かっただろう。オレが寝てるとよー、夜明け頃毎日トン、トンと部屋の雨戸がたたかれるのさ。あいつが女を送ってくのにオレの車を借りに来るんだ」
(私たちの高校の男の子たちは、田園地帯をいいことに、中学生の頃から無免許で車をのり回し、高三になった頃にはほとんどが車を所持していた)
「ホントー、えー、高校の時から女を泊めてたの、あの人」
「うん、あいつも離れに住んでたもんな。(しつこいようだが説明を加えると、私たちの地方では、ほとんどの農家が母屋とは別に、簡単なトイレや台所がついた隠居部屋をこしらえる。ジイちゃん、バアちゃんが死んだ後は、そこは不良息子の勉強部屋となる仕組みだ。)女を泊めるのなんて毎日さ。その女がよー、そのたんびに顔ぶれが違うのさ。たとえばさ、一級下のバレー部の部長……」
「えっ、あのちょっとかわいいコ?」
「そうそう、それからお前は知らないだろうけど、隣りの女子高の体操部の女」
「へえー!」
「オレたちが三年の時、一年生で生徒会の書記やってた女とかよ」
「すごく成績のよかったコでしょう。お茶の水へストレートで入って……信じられないワ」
「それからよ、オレがもっと驚いたのはよ……オイ、誰にも言うなよ」
「言わない、言わない」
私は必死で前かがみになり、耳を彼の口もとに近づけた。
「図書館の司書の女」
「ギャーッ、あの人、あの時いくつよ! 二十四、五歳じゃない」
「それがAに狂っちゃってさ、あいつがワセダに入る時、一緒に東京についてくっていう騒ぎだったんだぜ」
「ふうーん」
私はがっくりと肩をおとした。なぜか言いしれぬほどの疲労感が私を襲っていた。
「みんなスゴイことをしてたのね……。私ぜんぜん気づかなかったわ」
「そうさ、おまえだけが知らなかったんだよ」
この言葉は鋭く私の胸をえぐったのである。
その晩、久しぶりの実家で私はなかなか眠りにつくことができなかった。モチヅキ君の話に出てくる、「トン、トン」という雨戸の音が、へんになまなましく私には聞こえてきたのだ。
「そうだわ、私だけが知らなかったんだわ」
私が清らかな青春に一人はしゃいでいる間に、みんなは秘《ひそ》かに、「トン、トン」と雨戸をたたいて、大人への階段をかけ上がっていったのだ。
この年齢になって、過去に裏切られるというのが、どんなに苦しくせつないものか、わかってもらえるだろうか。
節操《せつそう》なき「男性像」が私を苦しめる
私が大っ嫌いな雑誌の広告がある。
「早く嫁にいってしまえ」というサントリーの広告で、毎回いろんな名士とか社長が、いかにも高そうなレストランや料亭で愛娘と一緒にいる写真が載っている。
嫌いだけれど、私は必ずこれを読まずにはいられない。
矛盾《むじゆん》しているようではあるが、私は「完璧な幸福」というのを見るのが好きなのだ。
そしてそれと同時に強い反発を感じるのが常である。
そうか、こんなまわりくどい言い方をしなくても、「やっかんでる」と一言いえばいいのか。
私の少女時代というのは、父親によって実に複雑な色彩に塗られていた。
幸福だったといえば嘘になるだろうし、不幸だったといえば、ちょっと言いすぎたかと口をつぐんでしまう。
そんな日々を私はおくったのであるが、私の父親というのは今考えても本当にいいかげんな人物であった。
「お父さんはとにかくあなたにそっくり。お父さんを見ていて嫌なところがあったら、それはそのままあなたの性格だと思いなさい」
と私はよく母親に言われていたものだ。私のだらしなさ、根性のなさ、わがままなところは、すべてこの父親から受けつがれたものらしい。今にしてみれば、つくづくそれがよくわかる。
確かに四人家族の中で、母親と弟は一つのグループをかたちづくっていた。かつては才媛《さいえん》の名をほしいままにしていた母親と、子どもの時から「秀才一直線コース」をたどっていた弟とは、きちょうめんなまじめさが全くよく似ていた。そして劣等生の私と、ダメ親父の彼とは、当然一つのグループを形成するはずであっただろうが、私たちはうちとけた口をきいたことさえあまりなかった。はっきり言えば、顔をそむけあって長いあいだ暮らしてきたと言ってもいいだろう。
今でも思い出す光景がある。
家の裏の国鉄の貨物置き場で、私と友だちは遊んでいた。夕暮れが近づいてきて、母親たちの夕飯のよぶ声が聞こえ始める時刻だった。
その広場と家々との間には、子どもたちがしのびこまないように、大人の胸までの高さの有刺鉄線が張られていた。地方の駅の構内へ行くと、よく見ることができるあの淋《さび》しげな柵である。
私たち子どもは、それを飛び越すことができないので、いつも駅をぬけて遠まわりしたものであったが、時々ヒマな大人がいると、向こう側から抱き上げてくれるのだ。
時計屋のキヨミちゃんのお父さんは、いつもそんな大人の一人だった。柵の向こう側に立って、いかにも大切そうに彼女の肩を持ち上げる。するとキヨミちゃんは、器用に土を蹴ってピョンと飛び上がるのだ。
当時から肥満児だった私には、どうしても真似のできない芸当だった。そして私はそんなことができるキヨミちゃんに、たまらなくうらやましい気持ちをいつも持っていた。それは、飛び越える能力を持っているということよりも、抱きとめてくれる父親がいることの憧《あこが》れのほうがより強かったのではないだろうか。
私もいつかそんなふうに、遊び場からひと飛びで家に帰りたかった。いつもそう思っていた。
ところが、その日はどうしたことであろうか。いつもは家にいないはずの父が、その日に限って家にいたのである。
キヨミちゃんのお父さんと一緒に父は出てきて、私に声をかけた。
「いいかい、こっち側で持ってやるからね」
照れで私は少し無口になっていたと思う。なにしろ「父娘交流」というのが全くない家庭で、そんなふうに父親と接することに私は慣れていなかったのだ。
父親は手をのばして、私のワキの下を抱いた。そして高く持ち上げようとしたがそれはうまくいかなかった。
はっきり言って、あの時父はちゃんと力を出していなかったと思う。なぜならその時も父は、母親が忌《い》み嫌っていた「くわえ煙草」をし、実にいいかげんな腕の持ち上げ方をしていたのだ。
私の腰は中途半端なところまでしか上がらなかった。その結果、私の太ももはズルズルと有刺鉄線の上をはっていったのである。
「ギャーッ」
と私は叫んだ。見ると足もスカートも血だらけになっている。有刺鉄線は、子どものやわらかい太ももを、ざっくりえぐっていたのだ。
「お父さんもお父さんだけど、あんたもあんたよ。ちゃんと足を上げないんだから!」
オキシフルで手当をしてくれながら怒鳴る母親の声を聞きながら、私はあることに気づいていた。
私は最初から不安だったのだ。その不安が、一瞬にせよ、足を上げることをためらわせていたのだ。
つまり、私は父親のことを、まるっきり信頼していなかったのである。
今でもこの傷は、私の太ももに残っている。そして、それはちょうど私の父親への思いのようだ。
自分では消えているつもりでも、よく目をこらすと、ちゃんとはっきりと見えている。
まあ私たちは、この程度の親子関係だったのだ。
ふつう、家庭内において権力をもてない父親をもった娘は、男に対して極端な高慢さを持つか、反対にひたすら憧れるとか聞いた。
私の場合は、あきらかに後者だったようだ。
私は友だちの家に行くたびに、強くてエバる父親というのに異常なまでの興味を持ったのである。
「おーい、ビールをもう一本持ってこい」
などと言う父親を、私は他人の家で初めて見た。
私の父は酒はほとんど飲まなかったし、荒い声もいっさいたてなかった。そのかわり、母の目を盗んでは、いつも外で麻雀《マージヤン》に狂っていたというのは子ども心にも記憶している。
「だってオレは、お前を一回も殴ったこともないじゃないか」
両親の口ゲンカをチラッと小耳にはさんだことがある。
「あたり前でしょう。私が殴られる理由も、殴るような甲斐性《かいしよう》があなたにはないじゃないですか」
完全に父親は母親に言い負かされていた。
それを聞いて、私はますます「強い父親」への正当性を高めていったようだ。
よそのうちのお父さんは、おかずが一皿みんなより多い。お父さんが怒るとみんながシュンとする。
よそで見た新鮮なできごとは、そのままその「正当性」へつながっていった。
そして、思春期になるにしたがって、私の理想の「強い父親像」は、そのまま「強い男像」になっていったような気がする。
「どんな男の人が好きなの」
という質問に、私はバカのひとつ憶えのようにいつもこう言ったものだ。
「時々殴ってくれて、その後そっと『ゴメンヨ』って言ってくれる人」
事実、私はそんな男ばかり好きになっていったのであるが、理想と違うところは、殴りっぱなしでなかなか「ゴメン」を言ってくれなかったところにある。
そしてやや乱暴な男が好みだった時期が終わると、その反動で今度はひたすらやさしい男が好きになった。
現在は、金、権力付き「強い男」が好き、といったところが、いちばん正直なところであろう。
つまり、私の場合全く節操がないのである。理想の男というのが、年齢によってさまざまに変化していくという事実。
そして私は、最近こう考えるようにさえなっている。
「私って、父親の影響ってもんをほとんど受けてないんじゃないかしらん」
はっきり言って、私の父親は私になにひとつ与えてくれなかった。
今の私の人生観というものの八十パーセントが、母親によってつくられたのとそれは対照的でさえある。
つまり、私の父親が私にしてくれた最大のことというのは、私に自由な男性観を持たせてくれたということではないだろうか。
私の友人の一人のように、
「私、パパと似た人じゃなきゃ絶対にイヤ」
などという近親相姦じみた愛情や、その反対に、
「父親みたいな人は絶対にイヤ」
という憎しみを私に持たせることもなかった。
そしてこういう娘は、これから先非常な勢いで増えていくような気がする。
私は知性でなんとか防いだが、世の中の女たちはこの「節操なき男性観」によって、日に日にインランになっていくに違いない。
U コミカル篇
私だってインランになりたいのだ
久しぶりに会った男が、やたらニヤニヤしている。
「どうしたの、話しなさいよ」
と言って、無理やり酒を飲ませたら、ヨダレをたらさんばかりにして、切り出したのはこうだ。
「このあいださぁー、僕、マントルに行っちゃってさぁ」
「まあ、いやらしい」
私はこういう話を聞いた女が誰《だれ》でもするように、眉《まゆ》をひそめた。
「知ってる? 六本木の交差点の近くにいろいろとあるんだぜー。ちょっと高いけど、すごくきれいなコがいっぱいいるんだから」
「ふん、どうせあんなとこの女の子、スケバン上がりばっかりなんでしょう」
私はなぜか腹立たしくなり、つまみのアーモンドをパリッと前歯で割った。
「ところがさ、僕の相手をしてくれたコっていうのが、すごく清純そうでかわいいの。そう、おたくのチエちゃんそっくり」
「え、うちのチエに似てる!」
チエというのは、私のアシスタントをしてくれている女の子で、今年二十一歳。斎藤慶子にウリ二つといわれ、作品の出来のひどさに比べ、私のギャラが下がらないのは、彼女が請求書を持っていくからとさえ世間では言われている。
「信じられないワ、そんなコがマントル嬢をやってるなんて……」
「僕だってそうさ。最初そのコがお茶を持ってきてくれた時、そんなことをするコじゃないと思ったんだよね。僕の相手をしてくれるコは別にいて、そのコはただお茶を持ってきてくれただけだと思ったんだ。こんなコが、『こんなとこでお茶汲《ちやく》みにせよ、バイトしてるのなんかよくないな』って注意しようとしたりしてさ、ハハハ……」
「ふぅーん、だけどそういうコほど遊んでるわよ」
私はまだ見ぬ、チエにそっくりの女の子に対して言いしれぬ不快感をおぼえた。そしてついこんなはしたないセリフを言ってしまったのだ。
「かわいい顔して、あっちのほうのテクニックはすごかったんでしょ」
「ふふふ」
男はまた気にさわる笑い方をした。
「ま、ふつうの女の子が、自分の恋人にするのと同じってとこかな」
ふつうの女の子が、ふつうにするってどんなことじゃと、私は大いに妄想《もうそう》をたくましくしたのだが、これ以上聞くと私の品位が下落しそうなので、それっきり口をつぐんだ。
しかし、胸のモヤモヤはどうしても晴れず、私は伝票を男に押しつけて早めに店を出たのだ。
今でも私はどうしても割り切れない。
そんなかわいい女が、男に身を売っている社会というものに対して、私はとにかく腹を立てているのだ。困ったことに、私のそのいらだちというのは、決して正義だとか道徳に根ざしているものではない。だからこそ始末におえないのだ。
私の心の中の小さな声が、
「いいな、いいな、自分だけずるいことしていいな」
といっているのは疑いようもない事実なのだ。
私たち女というのは、幼い頃《ころ》から母親や教師からふき込まれた「勧善懲悪《かんぜんちようあく》」というものがある。それは、
「ふしだらなことをしている女は、それなりの顔やからだになって、清らかな生活をする女は、身も心も美しいのですよ」
ということであったはずだ。
しかし、私はそれが必ずしもあたっていないことを最近感じるようになってしまってたのである。
私は長年にわたり、『週刊ポスト』の「全国トルコ情報」というのを愛読していた。愛読しているといっても、私は女だからそんな場所に行けるはずもないのだが、写真をしげしげと眺め、「雄琴『A』のかおるさん、畑中葉子をちょっと太目にした顔立ち」というキャプションを読むのが非常に好きであった。
二、三年前まで、そういうページに登場してくるのは、確かにそれ風の女たちばかりだったと思う。もちろん、私の偏見というのも強かったと思うが、化粧も濃くいかにも「トルコ嬢」という感じ。どんなふうに装ったとしても、街に一歩出れば、やはりカタ気の女たちと一線を画すような雰囲気は、小さな写真からもプンプンとにおった。
それが最近はどうであろう。ふつうの女たちとまるっきり変わらない、きれいな若いコばっかりなのである。それどころか、六本木にたむろしている青学《あおがく》や上智の女子大生より、化粧も薄く、はるかに初々しいのである。
からだにしたって、先日の「全国美人トルコ嬢ヌード」というカラーグラビアでよおく観察したのであるが、バストの色とか太ももとかもすごおくきれい。誰だ、
「男を知りすぎた女は、からだの線がまず崩れる」
とか言っていたのは。私なんかこれほど清らかな生活をしているのに、脂肪ですっかり線が崩れてしまっているのだぞ。
グラビアで真っ白い歯を見せて笑っている、まだ二十歳ぐらいのこの女の子は、すでに二千万円以上預金があるそうだ。
「早くたくましい男性を見つけて、お嫁さんになるのが夢でーす」
などと書かれている。
識者は言うかもしれない。
「若い頃、トルコで働いていたような女は、結婚してから主婦売春に走るのだ」
しかし、本当にそうかしらん。女のしたたかさというのは、もっともっとスゴイものなんだから。たとえ何千人の男と寝ていようと、白いウエディングドレスを着た次の日から、貞淑《ていしゆく》な妻となることがいくらでもできるのだ。
こんなもの見せつけられると、私みたいな女は損をしているような気にさえなってくるではないか。私は別にトルコで働きたいとは思わないけれども、
「みんな、いいな、いいな」
という気が起こっているのは事実なのだ。
その心をもっとつきつめていけば、
「人が見ていないところで得をするようなことをして、それで人にわからなければいいんじゃない」
という私のいやらしい心根から発生しているのかもしれない。
ではなぜ、私はそういう女性にならないのか。
まず第一に考えられるのは、からだに自信がないこと。第二に、いい男ばっかりだと話は別だが、私の大嫌いな出腹《でばら》の男が来たりしたらどうしようかと思う。そのことにつきるような気がする。
もし、私がですね、松坂慶子みたいなからだと顔をしていて、毎日私好みの男をあてがってくれると言ったら、私はどうするであろうか。
嬉々《きき》として毎晩、泡と男とたわむれるであろうか。
やはり、それは違うような気がする。
まだ私はなにかを信じたいのだ。そんなにお手軽に男やセックスや金を手に入れてはいけないと、私の胸のなにかが叫ぶ。
そもそも、私はいままでなにと闘ってきたんだっけ。そう、一言で言えば「要領のいい女たち」を私は激しく憎み、彼女たちを地べたにたたきつけようと思って生きてきたのではないか。今さらそういう女たちをまねようというのは、私の美意識と意地が許さない。
私が現在持っているポリシーと取り柄《え》はそれだけのはずだ。
しかし、この腹立たしさはどうやっても静めることができないのである。
幼なじみの男というのが新しい
あれよあれよと思っている間に、なんと私は二十九歳になってしまった。
世間の評価を待つまでもなく、私は完全に「嫁《い》き遅れた」ようなのである。
昔のことを今さら言っても仕方ないと思うが、私は少女の頃から「クラスの中でいちばん早く結婚するだろう」と言われていた。なにせ他に取り柄はなかったし、少女マンガを見すぎた女の子特有の、チカチカまばたきする近眼の目で、
「あたし、早く結婚していい奥さんになるわ」
と言い続けていたのである。
ところが本人の希望とは全く関係なく、運命というのは時として残酷な流れを見せるものである。
ふと気づくと、私は「キャリア・ウーマン」とか「自立する女」として、チャラチャラ、マスコミなんかに登場してくるようになってしまったのだ。
私は私のことを完全に把握《はあく》していなかった。性格ではない。男に与える自分の印象というものをあまりにもわからなさすぎた。
世に「男好きする女」という言葉があれば、その逆の形容詞をいただく女もあろう。私はどう考えてみても、後者の女のようなのである。
思い起こせば、私はずいぶんと長い間、同じ業界の男たちをあしざまにののしっていたところがある。
「広告業界の男なんて、みんな軽薄で女好きよ。私はまるっきり興味がないわ」
興味がなかったわけではない。まるっきり興味を持たれなかったのだ。それがくやしかった。それで彼らを憎んでいた節があることは、今にして思えば否《いな》めない事実であろう。
私だって、一つ仕事が終わるたびに、そのチームのアートディレクターなり、デザイナーに、
「今晩どう? 僕とつきあえば次からもっといい仕事をあげるよ」
みたいなことを言われていれば、彼らの評価ももっと違ったものになったであろう。私の友人で、やはりフリーのコピーライターをしている女の子は、仕事のたびにこうやって口説《くど》かれ、もうノイローゼ状態よとこぼしていたが、私にはただの一回もそんなことがない。
それどころか、
「ハヤシさん、キミね、そんなにベタベタしないでくれる? 次もきっとキミをレギュラーにするからさ」
なんていうのばっかり。
「広告業界にいい男なんていない。絶対にいない!」
と私はしじゅうわめき続けていたが、周りの人々は、みんな私の心中を察し、きっと陰でせせら笑っていたに違いない。そんな被害妄想を抱くぐらい私はモテなかったのである。
そんなある日、私の友人が結婚した。彼女はかなりベテランのスタイリストである。東京プリンスで行なわれた披露宴はかなり盛大だった。おまけに新郎というのがシブい。彼女の高校の時の同級生で、富士通のエンジニアなのである。
この結婚は、しばらく仲間の女たちの羨望《せんぼう》の的になった。
「ああいうのが、いちばんカッコいいのよね」
とみんな口をそろえて言ったものだ。
「仕事をしている間は、業界の男たちとつきあって適当にあしらいつつ、本命はちゃんと隠しとくってのが……」
「しかも相手は堅気《かたぎ》のエリート」
「うらやましいイ〜」
の大合唱であった。
もちろん、この中でいちばん声が大きかったのはワタシ。そうして次の日から、私の中に架空の恋人が存在するようになったのである。
つまり業界の男たちをいっさい無視するのは、昔からの恋人がいるから、というような態度を私はとるようになったのだ。ミエっぱりもここまで行くと立派でしょ。
日本体育大を出て、高校で体育の先生をしているという経歴は、高校時代仲のよかった男の子のを拝借した。
「もう両親も認めてくれてるんだけど、私の決心がつかなくって……」
「私みたいな女じゃなくて、もっとふつうの女の人のほうが、彼に合っているんじゃないかしら」
本当につまらない嘘《うそ》を、よくあれだけつけたものだ。そして自分の嘘に責められ、いつしか実行に移さなければとあせるのが、いつもの私のパターンである。それは良心の呵責《かしやく》というほどのものではなく、嘘をつきとおすには小心すぎる私の性格であろう。
そして私は、中学校から大学までの間で、仲がよかった男の子の顔をあれこれと思いうかべ始めた。
ここでも私は、絶望にさいなまれることになる。
「ああ、どうしてこれほど男に縁がなかったのか……」
とじんわり涙がうかんでくるほど、男の数が少ないのである。さっき話した体育の先生などとっくに結婚しているし、とにかく思い出の男というのもいない。将来のためになりそうな男というのもいない。
過去も、現在も、未来も、真《ま》っ暗闇《くらやみ》ではないか。
「しかし、一人ぐらいはいたはずではないだろうか……」
私は私自身にもミエをはって、とっくにわかっているくせに、無理やり記憶をひっぱり出そうと骨をおった。
いた、いた、探せばいるもんである。たった一人ラブレターをくれた男の子。昔からナイーブな美少年に好かれるというのが私のケースであるが(ほら、すぐ強気になる)、この男の子も、なかなかかわいいコだった。確か頭がそんなによくなかったはずだから(なにせ成績順につくられたクラスで私と一緒だった)、今頃大した生活もしてないと思うが、背に腹は変えられない。とにかく幼なじみの恋人というのが私はほしいんじゃ。
私はさっそく高校時代の友人に電話をかけた。こういう時、私はやたらすばやい行動をとるので有名だ。
「もしもし、ワターシィー、元気ィ?」
めったに電話をかけない友人に、男の話をすぐに切り出すというのは私も気がとがめる。全く話をしてもつまらないコだけれども、とりあえず二十分ぐらいは軽い世間話。
「そう、そう、高校の時同じクラスだったシライ君、あの人今どうしてるの」
「シライ君、あー、あの人ね」
どこの学校にも彼女みたいなタイプがいると思うんだけど、同級生たちのその後にやたら詳しいタイプ。田舎でちょっとスポーツかなんかをしていて、そのアネゴ根性を東京にまでひきずってくる女の子っているでしょう。彼女はまさしくそれなのだ。
「シライ君はね、確か東京でサラリーマンしてるわよ」
「ふうーん」
私はいかにも興味なさそうに、こう聞いた。
「あの人まだ独身なの」
「そう独身よ。だってお正月に帰った時、まだだったもん」
これからが私のスゴイところなんだけれど、シライ君のことなど憶えてもいないけど、急に懐かしくなったから三人で会ってもいいワ、というところまで私はこぎつけたのである。
彼女を含めての再会の場所は、六本木のパブ。私のボトルが置いてあるところだ。
私が店長と親しげに口をきき、なれなれしくふるまえる唯一の店である。そしてシライ君は、十年ぶりに会う、私の洗練された都会的な姿に、あらたな恋の炎を燃やすことになっている。
「僕は君の目がとても好きです」
とシライ君が手紙で書いてくれたおメメに、私は今やグリーンのアイラインまでいれているのである。
約束の時間をちょっと過ぎた頃、例の同級生の彼女がやってきた。いかにも二流企業のOLっぽいスーツ。ま、これなら私の影が薄くなることはない。
私はにこやかに水割りを飲み始めた。ふと目を上げると、傍に一人のオジさんが立っていた。私を見てニコニコしている。
「ま、なれなれしい」
とキッとにらみつけた瞬間、彼女の、「シライ君、久しぶりィー」
という明るい叫び声。なんとこのオジさんがシライ君だったのである。
だけどこんなに変わっちゃっていいわけ? からだはブクブクしてるし、背広を着ているせいかやたらフケてみえる。私にラブレターをくれた時のさわやかな少年のおもかげはない。いや、きっと私はラブレターをくれたということだけで、私の中で彼を美しくつくり変えていたのかもしれない。
しかし、このレベルの男だったら業界の男のほうがずうーっとまし。
その夜は本当に盛り上がりがないまま、私たちは別れた。
さらにくやしいことに、シライ君は別れぎわに彼女にこうささやいたそうである。
「ハヤシさんって、いっちゃナンだけどフケたね。化粧なんかも派手だし、昔のほうがかわいかったのにね」
だってサ。フン!
しかし私は、ここでまた大きな教訓を得た。旧《ふる》い男をテにしたかったら、なるべく早いうちにツバをつけておかなければいけなかったのだ。自分は他の男のツバでベチョベチョになっててもいいけど、とにかくその男はしっかりと確保しておくこと。そして大切な安全弁といおうか、万が一の場合(売れ残った場合)の核シェルターとして大切にとっとくこと。
そしてここがいちばん重要なポイントだが、長い時間かけて自分好みに整えておくこと。
これらのことを怠けてて、いきなりおいしい部分をつまもうとした私だからこそ、ショックは大きかったのだ。
商社マンというのは、やっぱりジャズを歌うのだ
私の「商社マン願望」というのは、はっきり言えば最初はたわいないものだったと思う。
「なんとなくカッコよさそう」
「なんとなく外国へ行けそう」
まあ、女の子だったら誰しも考える程度の好きさ《ヽヽヽ》であっただろうと断言できる。
しかし、いろんなところで書いたり、喋《しやべ》ったりしているうちに、私のこのささやかな願望は、いつしかどす黒い野心にふくれ上がっていったのである。
おまけに気がつくと、私はいつのまにか二十代の終わりにさしかかっていた。友人のほとんどは、嫁《い》くべきところへ嫁って、産むべきものを産んでいる。ミエっぱりの私に、この現状が耐えられるはずはない。
「最後に笑うのは誰だ」
みたいなことを、実は私だって言ってみたいのである。
「一流商社マンと結婚したい」
というのは実はそのへんにあるのだ。
田舎で鼻タレ小僧を遊ばせている同級生たちに、ある日こんな噂《うわさ》がとどく。
「マリちゃんがついに決まったそうよ。お相手は三井物産の社員ですって。来月にはもうデュッセルドルフに行くんだって」
そして彼女たちは口々に、
「さすがねえー」とか、
「高校の時からどっか違ってると思ってたわ」
などと言うはずである。
私はその日のことを考えると、からだ中に異常な快感が走り、いてもたってもいられなくなるのだ。
しかし、よく考えてみると、私と商社マンというのは、それほど縁のない存在でもないような気がする。
だって学生の頃、好きだった男の子が、商社に入ってるんだもん。
今考えても、カツヒコ君というのは相当にランクが上の男だったと思う。
当時早稲田の法学部に通っていた彼は、かなりコマメに私と遊んでくれたものである。麻雀を教えてくれたのも彼だし、夏になると毎年海に連れていってくれたのも彼。オトコを教えてくれたのも……、と言いたいところだが、私たちは清く美しいグループ交際をしていたから、二人っきりで会うということなどはまずなかった。
しかし、私は例によって抜けがけしたくてたまらない女であったから、いろいろと画策を練ったものである。そう、当時から私は男を得ることにかけては、いろいろと謀略をめぐらすタイプの女なのであるが、あまりにも手口が幼稚なため成功に結びつかないだけなのである。
その夜もそうであった。いつものように五人ほどでしこたま飲んで、原宿の裏通りを歩いていた時だった。私はかなり酔っていて、
「カツヒコ君と二人っきりになりたい!」
という気持ちがせつないほど胸を占めてきたのだ。
二叉《にさ》の道があった。
他の三人はゆっくりと右側を歩き出した。
少し遅れて私と彼がいた(もちろんそのような位置になるために、私はしつこく彼に話しかけながら、歩調をかなりゆるめていた)。
私は言ったのだ。
「カツヒコ君、どっかへ行こう」
意外や意外、彼も、
「ウン」
と深くうなずき、私たちは他の連中にわからないように左側の道を歩き始めた。
真夜中の代々木公園は、誰ひとりいなかった(私たちは柵の破れから入ったのだ)。
月がまるで舞台装置のように大きくて、どこかでトランペットを練習している音がかすかに聞こえてきた。
ここでなにかが起こらなきゃ不思議だと思うでしょ。
だけど私と不思議というのは、いつもついてまわる運命なのよね。
二人でベンチに座ったっけ。そしてカツヒコ君はこんなことを言ったっけ。
「僕の心の中には引き出しがあるんだ。そしてたいていの女の子が、この引き出しの中に分類できるんだけど、マリちゃんは僕の引き出しの中に入らない初めてのヒトだよ」
ねえ、なかなかセンスがある男の子でしょう。この一言で事態はかなり盛り上がってきたのであります。
ところが、このセリフが出る頃、すでに私は真っ青になっていた。興奮のあまり、というわけではない。先ほど飲んだビールがきいてきて、もうトイレが我慢できなくなってきていたのだ。
「あ……あのさあ……」
私の声はたぶんたえだえになっていたと思う。
「あ、あたし、トイレ行きたいの」
「そう、僕も行きたかったんだ。一緒に行こう」
ここが彼のエライとこ。二人はかなり早足になって、公園のトイレへ向かったのだ。ところがそこは電気がつかず、鼻をつままれてもわからないような闇があるのみである。
「もう、あたし、ダメだわ……」
私は落胆と、彼への甘えでひどくさし迫った声を出していたと思う。私って本当にバカね。今考えると、どうしてトイレに行きたいのが男に甘える材料になるのだ。
「よし、もうちょっと我慢できる? 東郷神社前のトイレに行ってみようよ」
現在でも表参道というのは、夜になると人通りがバッタリとだえるけれども、八年前というのはまさに暗黒の街であった。そこをカツヒコ君と私は、競歩さながらの速さで必死に歩いていったのだ。
ようやく公衆トイレに飛び込んだ時、私はあまりの安堵《あんど》感から、つい力を込めてしまったような気がする。壁一枚へだてた場所から、カツヒコ君がたてる大きな水音もした。きっと私もあのぐらいの音量だったであろう。
私はいつもこのようにして、チャンスを逃してしまうのである。
カツヒコ君はその後、某大手商社へ入り、じきに社内結婚をしてしまった。お嫁さんとは一度会ったことがあるけれど、いかにも女子大英文科卒、商社勤務といった感じの素敵な女性である。彼女なら、私のように血相を変えてトイレへ飛び込むといったようなことはまずしないであろう。
私の「商社マン願望」には、このようにはかなくつらい初恋の思い出と恨みが込められているのである。
しかし、私は今を生きている人間である。過ぎ去った日々を思慕するのではなく、もっと前向きに「商社マン」を開拓しようではないか。そう私は決心したのである。
やろうと思えばできないことはないのだ。私は高校の同窓名簿を見て、ある人物を発見した。大手商社丸紅《まるべに》に勤務するA君である。彼はとうに結婚したはずであるが、彼の同僚や先輩で結婚をしていない男というのもかなり多いはずである。
「お久しぶりぃー、元気ですかぁ」
私は異常なまでにはずんだ声で、会社に電話をかけた。
「一緒に食事でもしましょうよ。いろいろ話もあるし……」
A君は私の企《たくら》みには気づかず素直に私の誘いに乗ってくれた。
その夜、私はワインを飲みながらいろいろ聞き出しちゃった。
「ねえ、ねえ、商社マンって、どこらへんで遊ぶの」
「うーん、ここだと、あそこらへんかなあー。どう、これからそこの店へ行ってみようよ」
私は嬉《うれ》しさのあまり、思わずナイフをとり落としそうになってしまった。そして、そこのお勘定はもちろん私がもちました。
本当にめくるめくような楽しい晩だったわぁー。
私はあれほどいちどきに、「生きた商社マン」を見たことがない。
彼が連れていってくれた会員制クラブは、商社マンの溜《た》まり場だったのだ。
伊藤忠もいたし、三菱商事もいた。
「さあ、次はどなたかに歌っていただきましょう。三菱商事のキリハラさん、キリハラさん、いかがですか」
とマスターが言った。
キリハラさんがカラオケにすすむ。それにしても商社マンというのは、スーツにしてもどうしてこんなにカッコいいのだろう。高そうな生地といい、ぴったりとした仕立てといい、これ全身商社マンといった感じだ。あれはきっとロンドン出張のおりにあつらえたに違いない。
キリハラさんは歌い出した。もちろん「氷雨」などではない。「ペーパームーン」である。発音もすごくいい。マイクの持ち方も洗練されている。さすが商社マンである。
私はなんとか名刺を渡そうとスキを狙っていたのだが、キリハラさんは私に気づかないフリをして、さっさと席にもどってしまったのだ。
「ね、ね、あのキリハラさんって独身?」
私はA君に尋ねた。しかし、どうして私は男を見ると反射的にこの質問をするのだろう。人間、婚期だけは逃したくないものである。
「うんにゃ、あいつは去年結婚した」
とA君は言う。
「じゃーさ、あのキリハラさんの隣りにいる青いスーツの人は?」
「あ、あれは確かタカハシだっけな。あいつはいるだろう。とっくに」
「じゃ、じゃ、あっちの席にいるトーメンの男は」
「え、あいつか。ちょっと待って。ね、マスター」
A君はわざわざ店の主人に聞いてくれた。
「トーメンのあいつ、なんて名前だっけ。ま、いいや。あいつ結婚してたっけ?」
「シライシさんでしょ。もう子どもさんが二人いますよ」
こうして私は恥も外聞もなく、店に居合わせた商社マンの男すべての「既婚チェック」をしたのであるが、独身者はただの一人もなし。みごとなまでにいなかったね。
私にもようやくわかってきたのだ。カツヒコ君の例にみるまでもなく、商社マンの男というのは、社内の女が食いちらかすものなのね。会社の利益を絶対に外に漏らさないよう、会社ぐるみでがんばっているものなのね。
「商社マンとつきあいたいけれど、不倫の恋はしたくなし」
というのが、私の今いちばんの感想。
しかし、独身の商社マンというのは、果たして本当に、この世に存在しているものなのだろうか。
私は添乗員がこうして嫌いになった
旅行中に起こる、あの異常な心理状態をいったいどう説明していいのであろうか。
とにかく劇的なことを、涙ぐむほど欲してくるのである。なにかが起こらなければ、旅行費用のモトがとれないと思いつめるほど、切羽《せつぱ》詰まった気分になってくるのだ。
十代の頃、初めてパリに行った。
(こういうと、私がいかにもお金持ちの御令嬢みたいだけど、ホントのことを言うと懸賞にあたっただけなの)
その時私が決意していたことは、ただ一つ、
「金髪の青年とゆきずりの恋をして、接吻《せつぷん》とやらをしてくるのだ」
というのだから尋常ではない。
もちろん、フランス語のフの字も話せるわけでもなく、パリジャンが振り返るほどのオリエンタル美女でもない私に、この夢がかなえられるはずはない。そればかりか、フランス人にさんざん意地の悪い扱いを受けて、すっかり私は気が滅入《めい》ってしまった。最後には外に出るのさえおっくうになり、ホテルのベッドで日本から持ってきた女性週刊誌を読みあさるというていたらくであった。
そういう時、気分のたかまりというのは、誰に向けられていくものであろうか。
添乗員に向けられていくのである。
日本交通公社の、あの若い男は今頃どうしているのだろうか。あの旅行中、私はさんざん彼を追っかけまわし、一緒にカメラにおさまろうとさまざまに策を弄《ろう》したものである。
今考えても、あの添乗員はただおとなしいだけのふつうの青年であった。もし東京で会っていたとしたら、格別印象に残っていたとも思えない。しかし、スキー場で男に抱く、あの幻影と同じような理由で、私は彼に夢中になってしまったのである。
その後も私の多感時代は続き、中国を旅行した時も、私は誰かを愛さずにはいられなかった。その際私の標的となったのは、通訳として同行したある文化団体の男性である。
北京大学に留学していたという彼は、もちろん中国語がペラペラで、眼鏡をかけた顔はいかにも日中交流のためにここ十年を捧《ささ》げたという、柔和さと鋭さに満ちていた。
私は片ときも彼の側を離れず、食事の席でもいつも隣りに座るようにした。彼が要人の接待のため、どこかに出かけてしまうような時は、おびえたように彼を探したものである。あれはまさしく、恋する女の目であった。
相手の男性も多少私のことをカワイク思い始めたのであろうか、北京空港で帰りの飛行機に乗る前、
「思い出に」
とか言って、小さな中国製のブローチを買ってくれたのである。その時私は感きわまって、思わず涙があふれそうになったのを憶えている。私に小説を書く才能があったら「北京の恋」という、妻子あるインテリと、愛らしい少女を主人公とした、渡辺淳一センセイもどきのものを書けたのに……。本当に惜しいことをしたものだ。
残念といえば、その男性と帰国してから銀座で会うんじゃなかったなー。
憑《つ》き物が落ちたように変わる私の心って、自分でもホントに恐ろしいと思うワ。
さて二年前にさかのぼるが、私は女の子五人でアフリカのケニアに旅行したことがある。
これは最初からちょっと嫌な予感がした旅だった。なぜなら、私を除いての後の四人はすべて年下で、しかも海外旅行は今回が初めてという連中だったのである。
「五人一組だと、サファリバスが一台専用になるから、ぜひ、ぜひ」
と私は懇望《こんもう》されてそのグループに加わったのであるが、私のような性格の女にはつらい旅行でありました。
そもそも、私は常日頃から、自分をいちばんいい位置におくことを本能的に計っている人間である。だから年上の人、ブスの友人がだあい好き。
その私がですね、自分より若くてかわいらしい女の子を四人引率しなければいけなくなったというのは、ふだんの私に対する運命のお仕置き以外考えられない。
「ちゃんと静かにしましょう」
「ほら、ほら、こっちに並んで」
私は成田空港で、こんなセリフばっかり言わなくてはならないハメに陥ったのだ。なぜなら、その四人のはしゃぎようときたらちょっと筆舌《ひつぜつ》につくしがたいほどで、待ち合い室だろうと、トイレだろうと笑いころげながらピョンピョン飛びはねる。そのたびに、彼女たちより多少年上で、海外旅行の経験もある私は、「保護者のおばさん」の役目を負うことになってしまったのだ。
これは非常に損な役まわりである。私は常に他人にはこれを押しつけているくせに、いざ自分がその立場になると、不愉快で不愉快でたまらなくなったのだ。
それで飛行機に乗ったとたんに、私はすべてを放棄すると共に、年齢詐称をきめ込んだのである。私は彼女たちをおどし、
「私たちは女子大生。私たちは同い年」
と名乗る約束をとりつけた。
今でこそ小ジワが増えたものの、二年前の私は童顔にショートカットという利点もあり、同じツアーの人間たちは誰ひとりそれを疑う者はなかった。そればかりではなく、
「ずいぶんあなたたち騒がしいけど、女子大生ってみんなこんなものなのかもね」
などと嫌味を言った人もいるほどである。
ところで、アフリカツアーというと、さぞかし若者でいっぱい、と思われるかもしれないが、実際には料金も高く、日程も長くなりすぎる。もう海外旅行をやりつくして、「じゃあアフリカにでも」というような、おじさん、おばさんばかりのメンバーであった。
その中にあって、女子大生《ヽヽヽヽ》五人組のグループはいやがおうでも目立ったといっていい。そして最初に近づいてきたのは、やはり中年おじさんのグループだった。このおじさんたちは、すでに成田空港から、
「カメラ一緒に写そ。わしは名古屋で社長やっちょるものだにー」
などとあまりにもコトを急いだため、かえって私たちからヒジテツをくらうことになったのだ。それ以後、このおじさんたちは最後まで私たちを敵視することになるのだ。
そしてその後、私たちに異常接近し、完全にグループに入り込んだ男たちがいる。
あろうことか、それは添乗員の男だったのである。
私はとにかく後にも先にも、あの近畿日本ツーリストの男ほど、公私混同した男を見たことがない。どのくらい私的感情に走ったかと言うと、バスも船もすべて私たち優先。それも自分が必ず同室になるように配慮しているという徹底ぶりであった。
そればかりではない、毎晩真夜中まで私たちと一緒に酒盛りをし、最後の夜など急病人が出たにもかかわらず、かたちだけ医者に見せるやいなや、私たちの待っているケニアのディスコに駆けつけるというありさまぶりであった。
そして彼以外にももう一人、この物語に色を添える人物が登場してくる。千葉から参加した若いイギリス人の英語教師である。
この男二人と、女五人という構成によって、バルザックさながらの人間劇が、アフリカの地に展開されていったのだ。
私はあの時ほど、女というものの弱さやおろかしさ、かわいさを見せつけられたことはない。
私たちはじきに添乗員の男を「ヒロシ」、イギリス人の男を「ロイ」と愛称でよんで、しじゅう行動を共にするようになった。はっきりと何度でも言うけれど、ヒロシにしたって、ロイにしたって、日本にいれば私たちの誰ひとりとして歯牙《しが》にもひっかけないレベルの男たちなのだ。それなのに旅行という一種の隔離された世界の中では、彼ら二人が私たち女の子の中で絶対的な存在にふくれ上がっていくのに時間はかからなかった。
そして私たち五人は、いつのまにか彼らに媚《こ》びをうり始めていた。そして誰ひとりとして気づかないままに、女五人は互いを牽制《けんせい》し合い、観察し合っていくのである。
五日もたった頃であろうか、二人の男はそれぞれの彼女≠私たちの中から選び出していった。ヒロシの相手は、ちょっとボーイッシュな感じのA子ちゃん、ロイの相手はグループきってのコケティッシュな魅力を持つB子ちゃんと決まったのである。夕食の席につくときも、散歩の時も、二人はそれぞれの相手と同行し始めた。あの頃から、女五人の輪に少しずつ影がさすようになった。つまり、A子とB子は、「選ばれたこと」により、他の三人より完全に優位に立ったのである。
目の輝きが違ってきた。表情だってずっとイキイキしてきた。夜のバーでそれぞれの恋人と興じる時の、彼女たちの笑い声は、他の三人を圧するように華やかになった。
そして、こういうことに人一倍鋭くて、不気味なほどに皆を観察しているのは、いつもながら私であった。
それなのに、どうしていつもながら、私は傍観者となることができないのであろうか!
私は帰りの飛行機の中でおいおい泣いてしまうのである。
原因はこうである。左の図を見てほしい。
ヒロシは帰路十八時間を、なるべく快適に過ごそうと、添乗員の特権で席をさっさとこのように決めてしまったのである。
私の胸の中に、小学校時代の嫌な記憶がまざまざとよみがえってきた。
「さあー、フォークダンスの時間ですよ。男の子は好きな女の子と手をとり合いなさい」
そんな時、私はいつもとり残される一人だった。
「こんなこと気にしてないワ」
というふうに、私は上履きで地べたに絵を書いた。顔を上げると涙を見られそうだったけれど、下を向くと鼻水がこぼれ落ちそうになる。だから私はいつもやや正面を向いて、遠くの景色をぼんやりと見ていたような気がする。
やがて先生がやってきて、私と同じようにとり残された男の子を私にあてがい、無理やり手をつながせるのだ。私たちはまるで汚いものでも触れるように、指先だけをちょっとからませて、踊りの輪に入り込む。
男の本能の残酷さに傷つけられたのは、それからも何回もあったと思う。ずうっとずうっとそんなことばかりあったような気もする。
私はやっと大人になって、そのことを忘れかけていた。いや、そういう目にあわないように、自分を庇《かば》い、世間を選んでいたところがある。
その私の努力にもかかわらず、なぜ二十六歳にもなって、四十何万円も支払った旅行で、どうしてこんな目にあわされなければならないのだろうか。
私は添乗員の男を恨んだ。激しく憎んだ。それよりも私がかわいそうで、かわいそうで、私の頬《ほお》はとめどなく涙がつたわったのだ。
私だって、選ばれたかった。
どんなにくだらない男でもいい。気軽な相手として、ごく無意識に選ばれる女になりたかった。
私は眠ったふりをして、毛布を顔までかぶってすすり泣いた。
「さみしいのね、もう日本へ帰らなきゃなんないから」
隣りの婦人が、そっと夫に話しかけていた。
私はなぜユーミンになれなかったか
コンサートや芝居の切符は、ある種の運命が働いているような気がする。近頃《ちかごろ》そんな気がして仕方がない。
行きたくて行きたくて恋い焦がれて、プレイガイドや予約電話に飛びついても、手に入らない時は絶対に手に入らないのだ。それなのにもうあきらめて忘れかけた頃、友人から電話が入る。
「厚生年金のヌレエフなんだけど、一緒に行く人がダメになっちゃったの。あなたどうお」
いつもスペアにされる人間は、それなりによいこともあるものなのだ。
ユーミンのコンサートも、当日に電話がかかってきた。一枚だけチケットがあまってしまったという。彼女のコンサートのチケットはどんなコネやツテを頼っても、おそらく入手困難だろうといわれていただけに、私はいそいそと出かけた。席はなんと前から三番目、おまけに後にユーミンに楽屋で会えるというオマケ付きの豪華コースであった。
それにしても感動というものを、どうして私は人への恨みなしで味わうことができない性格なのであろうか。
ユーミンの豪華絢爛《けんらん》たる舞台を見ているうちに、ときめきはやがて母親への憎悪へと変わっていったのである。
「おかあさん、あなたはどうして私の音楽の才能をのばしてくれなかったんですか」
バイエルを五、六ページやっただけで、行くのをゴネ出した私を、あっさりと許してくれたあなた。あの時ひっぱたいてでも続けさせていたら、私だってもしかしたらこうして黒ラメの衣裳《いしよう》をつけて歌うことができたのかもしれないのだ。
ユーミンは次から次へとドレスを着替え、踊りながらさまざまなヒット曲を歌い出す。客席はものすごい熱気で、人々は「ユーミン!」と口々に叫びながら立ち上がる。それを見ている私は、うらやましくてうらやましくて胸がはりさけそう。そして、私の中に前からひそんでいた恐ろしい考えが、一つのはっきりしたカタチをとり始めた。
「そうなのだ、私はモノを書く人間じゃない。私は芸能界に入るべき人間だったんだ」
だって本当に私って才能があったんだもん。よく友だちを集め、うちのオルガンで、
「はあい、海の情景でえーす。カニさんたちが遊びにやってきました」
と言って即興の曲をつくったものである。
私の友だちはお菓子をあげたこともあるだろうけれども、
「わーっ、本当に海みたいな感じがする」
と口々にほめてくれたものである。
ふつうの親だったら、こういうありさまを見て、
「うん、このコはかなり才能がある。将来は桐朋《とうほう》学園にでも入れてみよう」
と決心するはずである。しかしうちの親は全くそういうことに無関心だった。そのうちに、いつしか私のほうが飽きてしまういつものパターンになっていくのである。
しかし、今の私の音楽に関する無知と言おうか関心のなさは、やはり幼年時代から尾をひいているとしか思えない。そりゃ、たまにはユーミンのコンサートぐらい行きますけどね。先日、ある雑誌のインタビューで、
「大学を出るまでステレオを持っていなかったし、レコードも一枚も持っていなかった」
と答えたところ、そこの部分だけものすごい大反響があった。
「今どきそんな人間がいるなんて信じられない」
というのがおおかたの意見である。だけどこれは全くの事実。なぜ私がこれほど音楽に対して興味がないかというと、すべてはこの異常ともいえるモノグサな体質にある。
「たまには私も教養をしよう」
と思い、ジャズのレコードの一枚も買って部屋のステレオの針をおとす(このステレオも友だちのお下がりの十年前のビクター)。部屋のこちら側で、私は例によって腹ばいになり女性週刊誌を読んでいる。夏目雅子の結婚問題について深く考えている時にレコードが終わる。ひっくり返さなければならないため、私はしぶしぶ立ち上がる。この時かなり腹が立つ。やがて二十分経過する。百恵の近況について思いをめぐらせている時、またレコードが終わる。この時私は本当に腹が立って腹が立って仕方がないのだ。もうレコードなど二度と聞くまいとさえ思う。
いったい他の人たちは、このような問題をどのように処理しているのであろうか。
私は一度この疑問をかなりきつい調子で、友人に問いただしたところ、驚かれると同時に軽蔑《けいべつ》されてしまった。そのようなことを考えること自体おかしいと言われてしまった。そうなのだ。自分は正常な社会生活をおくっていないのではないかと思うのは、私の場合「音楽」という分野からなのである。とにかく私は、こと音楽に関して全く他人とコミュニケーションができないのだ。やれヒューマン・リーグだのバナナラマだという会話が出てくると、たいてい私は口をあけてポカンとしているはずだ。誇張ではなく外国語を聞いているみたい。私は病的にカタカナに弱い体質なので、こういう名前をたとえ十ぺんお習字のお手本に使ったとしてもおそらく記憶できないであろう。先にのべた外国のアーティストの名前だって、雑誌のレコードレビューの中から、一字一句間違えないように書き写してやっと文字にできたぐらいだから、程度がわかるというものだろう。
それにしても、私は不思議で不思議でたまらないのだ。
早稲田のジャズ研にいたとか、マスコミで音楽欄を担当しているという人間ならいざ知らず、そこらへんのニイちゃん、ネエちゃんという一般庶民どもまでが、外国のミュージシャンたちの長ったらしい名前を正確に記憶しているという事実。
そればかりではない。
「今度のデュラン・デュランの新曲はいいぜ」
とか言って、歌詞をちゃんと理解できる英語力。
このことを考えると、私は疎外感のあまり気が狂いそうになるの。
みんなは友情からはっきりと口に出してこそ言わないけれど、私はやっぱり頭が悪いんだろうか。世の中から遅れているんだろうか。
しかし私も明るい日々をおくりたいと思っているから、このことについては深く考えないようにしている。
お酒を飲んでいる時など、誰かが、
「昨日さ、〇〇〇〇〇の新しいレコードを買ったけどなかなかいいぜ」
と言おうものなら、ものすごい勢いでとりあえず話題を自分にひきもどし、
「あのさー、夕べうちの猫がさあー、ついに初体験をしたらしくって腰をヨロヨロしながら帰ってきてさ」
と早口で喋《しやべ》りまくることにしている。
みんなは一瞬痛々しい表情をみせるものの、一応私の話を聞くフリをしてくれるのは、長年の私の努力の賜《たまもの》であろう。
美人はみんなつき落とせ
いったいこれはどういうことであろうか。
私は前作の『ルンルンを買っておうちに帰ろう』の中で、自分がブスだなんて一言も言ってないんだぞ。それなのにいつのまにか世間の評価では、
「ブスのひがみで売ってる林真理子」
ということになってしまったらしい。
著者紹介の写真だって、ものすごい美女に撮れているのをよりすぐり、かなりそのへんを注意したつもりなのに、どうして世の中の人間はひねくれたものの考え方をするのであろうか。
先日もあるインタビューで、
「ハヤシさん、不美人が仕事で成功しようと思ったら、どういうふうにすればいいんでしょうかね」
だって。
私は本当にムッとなって、
「あら、どうして私にそんなこと聞くんですか」
とにらんでやったら、記者の男はあわてて、
「いやー、一般論ですよ、一般論」
とかあわててとりつくろった。
だけど私は執念深いから、ちゃんと雑誌名と記者名をメモしておいたぞ。今にエラクなったら、絶対に復讐《ふくしゆう》してやるんだ。
ある日、もう超有名人になった私は、そこの社長からお食事に招待される。
「林センセイ、うちの雑誌はいかがでしょうかね」
などと社長が聞く。そうしたら、
「ええ、内容といい、時代のとらえ方といい素晴らしいと思いますけれども、ちょっと社員の方の教育がねえ……」
などと言いながら、すでに黄ばんだメモ用紙に書かれた例の記者の名前をよみあげるとしよう。すると社長は非常に恐縮しきって、
「こりゃー、申しわけない。さっそく明日、人事の者をよびつけて……」
ということになるはずだ。
胸がワクワクするような空想にひたっていた私は、ふとあることに気づいた。
今から七年前、私はこれと全く同じことをたえず考えていたのである。
大学を卒業した年に、私はある大出版社を受けた。そこはファッショナブルな雑誌もいっぱい刊行していて、私は少女時代からそれらの大ファンだったのである。
一次の書類と作文はたやすく受かった。その後は筆記と面接で合否が決まるのである。
「あら、私も受験するのよ」
と同級生のT子が言った。
彼女はクラス一の美少女で、在学当時から雑誌モデルやキャンペーンガールをしていたので有名だった。決してツンとした美人ではなく、笑うと八重歯が印象的な、童顔の愛くるしい顔立ちだった。今でも男子学生にいちばん好まれるタイプだろう。
今だから言うわけではないけれど、私はこの女があんまり好きではなかった。いつも男をアホみたいにひき連れて歩く姿も嫌だったし、なによりも彼女の幼さを装っているところがとにかくカンにさわったのである。
彼女は当時まだ珍しいスヌーピーのランチボックスなんかをいつも持っていて、そこにお弁当を入れていた。中身はいつもかわいいオニギリかサンドイッチ。学生食堂で彼女がそれを食べているさまは、かなり人目をひいたぐらいだ。当時からカツ丼《どん》が大好物で、いつも百八十円のC定食を食べていた私とはエライ違いである。
彼女はモデルをしていた関係で、その大出版社とはいろいろコネがあるらしかった。
「もうね、人事のエライ人なんかに紹介してもらっているの」
彼女はさも得意そうに言った。
「その人、私を絶対に入社させてみせるって……。私のことまるで妹みたいにかわいがってくれているのよ」
私は女のこういう言い方っていうのが大嫌い。男が自分に惚《ほ》れているのを十二分に知っているくせに、逃げ方まで愛らしく計算しているのだ。
まあ気の合わない女ではあったが、偶然受験が決まっていたもう一人の女と一緒に、三人で筆記試験に出かけることにした。
場所は確か中央大学の大講堂で、花の女性編集者をめざし、千人近い女子学生が詰めかけてきていた。お茶の水の大通りを、たくさんの若い女がぞろぞろ歩く光景は今でも目にうかぶ。
やがて昼食時間が来て、私たちは近くのマクドナルドでハンバーガーをほおばった。そして再び講堂にもどったのだが、T子は例のスヌーピーバッグから、オニギリをとり出したのである。
「あたし、せっかくお弁当つくってきたのにな……。あなた食べなさいよ」
彼女がすすめたのは、私ではなく、もう一人の友だちだった。
「私、今ハンバーガー食べたからお腹いっぱい」
「あ、そう。じゃ私が食べよーっと」
と言って、T子はさもおいしそうにラップにくるんだオニギリをほおばったのだ。
はっきりと記憶しているけれども、オニギリは三個あった。だからまるまる二個余ったはずなのに、彼女は私に一個たりともすすめてくれなかったのである。
たかがオニギリと言われそうだけれども、私はくやしさで胸がはりさけそうだった。そしてこの時、私がいかにこの女を嫌っていたかはっきりと意識したのである。
さて、肝心の試験であるが、これが意外とスラスラと解けたのである。私は今でも、
「知識は皆無に近いが、雑学はまんざらでもない」
とほめられることがある。マスコミの入社試験というのは、まさにこの雑学を問う問題ばかりだったのである。
一週間後、私は筆記試験合格と、面接の日時を記した電報を受けとった。よせばいいのに、私はT子にさっそく電話したのである。
「あなたも面接に行くでしょ。だから一緒に行こうと思って」
「そう」
電話の向こう口で彼女は冷ややかに言った。
「あたし、筆記で落ちちゃったのよね」
「まあ、ほんとおー」
私はなるべく暗い声を出すように骨をおった。
「私さ、あなたコネがいっぱいあるから、筆記なんて楽勝パスだと思ってた」
「それがダメだったのよ。じゃ面接がんばってね」
電話はアッという間に切れた。第一ラウンドは私の勝ち!
「やはり正義は強いのだ。顔がちょっとかわいいぐらいで世の中は通用しないのだ」
私は嬉しさのあまり、公衆電話から下宿までピョンピョンはねながら帰ったものである。
予想していたことではあるが、一週間後の面接で私ははねられた。しかし、私はそのことについて別に恨みはもたなかった。それどころか一流大学の学生に混じって、よく面接までこぎつけたものであると、秘《ひそ》かな自己満足にひたったほどである。
結局どこにも就職が決まらないうちに、私は卒業式の日を迎えた。そして、その日配布された卒業者名簿を見て、私は目を疑った。なんとT子の就職先に、私も彼女も落ちたはずの大出版社の名前が書かれていたからである。
その日、T子はものすごい豪華な振袖《ふりそで》を着て、あいかわらず男にとり囲まれていた。いつものミニスカート姿とは違って、華やかな女らしさが漂い、やはり彼女は相当の美人だと私は認めざるを得なかった。
こんなことはとっくにわかっていたわ、と私はつぶやいた。そうよ、世の中って確かにこういうものなのよ。
学生時代、不動産会社のアルバイトで、私のほうが先に応募していたにもかかわらず、後から来たちょっと美人の女子大生のためにやめさせられた日……。そんなことを思い出していけば、数限りないほどあるのだ。
けれども、私は男たちをとがめようとも思わない。美しいものを好む、という感情は誰《だれ》にでもあるのだし、それを露骨に出すことを許される立場の男たちは、いくらでもこの世にいるのだ。
そのかわり、私にだって考えはある。私は働いている女で美人というのを、絶対に割り引いて考えることにしているのだ。
「美人で才能がある女」
なんていうのを、私は絶対に信用しない。
本人が好むと好まざるにかかわらず、そこに何人もの男の手が加わっているのを、私は鋭く見つけ出す。彼女たちはいつも、特等席を用意されているのだ。そして本人たちは、男がしつらえてくれたその椅子《いす》を、あたかも自分ひとりで見つけたような顔をして坐《すわ》り込む。りこうな女ほど、後ろで支えてくれている男の手を、見て見ないふりをしている。
私はこういう女たちを、ほとんど憎んでいると言ってもいいだろう。
今だからこそはっきり言う。私はああいう女たちが大嫌い。そして私はもうガマンしないことを心に決めたのである。
「なんで私が、あんな女と一緒にグラビアに出なきゃいけないんですか。私は降りますよ」
「あ、そう。あの女のつまんないコラムを今後も出すっていうのなら、私、連載をやめさせてもらいますからね」
なんてハッキリ言っちゃうわけ。
周りの人は唖然《あぜん》として、
「キミも大人気《おとなげ》ないね」
「そういうことをしてると、評判悪くなるよ」
などと忠告してくれるのであるが、冗談じゃないわよ。今までああいう女たちのために、私なんかさんざんつき落とされてきたのよ。今やっとのことで、みんなにチヤホヤされて少しはわがままを言える立場になった私じゃない。今度は私がつきとばしてどこが悪いんじゃ。
まあ口ではかなり過激なことを言っても、都合が悪くなるとホイホイと迎合するのが私のいちばんよくないところだろう。
現にあの大手出版社にしたって、当時はくやし涙にかきくれながら、
「今にエラくなってあの会社から原稿依頼が来たりしても、絶対に断ってやる」
と何度も誓ったものであるが、ところが、ここからインタビューや原稿依頼が来るともう大喜び。
遺恨はすべて忘れてニッコリとカメラにおさまる。それどころか先日は、ケーキなんか持って編集部へ遊びに行ったりもしてしまった。ほんとに私ってくだらない女。
確かに私の恨みつらみの感情はすさまじいものがあるのではあるが、ただすぐに忘れてしまうという欠点ゆえに、エネルギーにまで転化してくれないのである。
あら、ら、私の顔は小さくなっちゃった
ほんの少し前まで、私は女優とか歌手というのは、デビューした後整形をしているものだと思いこんでいた。
なぜなら、このあいだまで本当にふっくらブタネエちゃんだったのが、あれよあれよという間に顔は小さくなり、目は大きくなり、鼻すじはキッととおるようになっていくからである。
「きっとあれはプロダクションが費用を出して、顔をつくりかえてしまうのに違いない。それにしてもうまくやんなぁー。十仁《じゆうじん》病院の中にも、堀越学園みたいな芸能コースがあって特別のことをやるのかしらん」
などと私は思っていたのである。
ところが、ところがですね、この私が最近急に顔が小さくなってしまったのでありますよ。
前作『ルンルンを買っておうちに帰ろう』を出したとたん、私へのマスコミ攻撃というのはスゴかった。忙しい時などは、毎日二社のインタビューをこなしたものである。テレビ出演もあった。私の笑顔が雑誌の表紙を飾ったりもしたっけ。
そして気がついた時には、「マスコミの寵児《ちようじ》」とまでいかないまでも、「マスコミのお気に入り」ぐらいに私はなっていたのである。
昨日までごくふつうに、家で猫と昼寝をしていたような女の子が、街を歩けば、
「あ、ハヤシマリコだ」
とか言われ、サインを求められることもあるようになったのだよ。
コピーライターの賞をもらったり、お金持ちになった時より、こっちのほうがずっとずっと気持ちよかった。本当に「生きててヨカッタ」と思い、じんわりと涙が出てきてしまった。
いやらしい言い方を覚悟で言えば、あの本一冊で、私は出版業界からがぜん大注目を浴びる身の上となってしまったのだ。
「原稿を――」「インタビューを――」「うちで二冊めを――」と言って、ほとんどすべての大出版社が私に声をかけてきた。
ちょっと想像してほしいんだけど、毎夜毎夜、いろんな出版社の「ご接待」が続いたんだよ。みんなあの『ルンルン――』を読んでいるから、私の手のうちというのをすっかり知っているわけだ。
ミエっぱりで、ミーハーで、権威に弱いという私の三大特徴を、さすが何百倍もの競争をかいくぐって編集者となった方々、すべてお見通しになっていた。有名文壇バーに連れていってもらったし、帰りは黒塗りのハイヤーで送ってもらった。その合間には、
「キミは天才だ。スターの要素をすべて持っている」
「あなたのような書き手をうちは待っていたんですよ」
という非常に心地よいささやき……。
これを十回ぐらい続けてやってもらってごらん。変わらない人間の方がおかしいと思うよ。
もちろん、私は変わりました。
自分でも嫌になるぐらい、ゴーマンで、自信たっぷりの女になるのに、そう時間はかからなかった。ホントに自分でも恐ろしくなるぐらい、そのスピードはすごかったね。
そんなある日、私はある雑誌の編集部のエライ人に食事のご招待を受けていた。場所は例のごとく銀座で、待ち合わせは帝国ホテルのラウンジ。この事実だけでも、私の日常がいかに大きく変わっていったかおわかりでしょう。
私は化粧をバッチリとし、ハイヒールの靴音も高く、帝国ホテルへ出向いた。もちろん行きはタクシーである。その頃から私は電車なんかにほとんど乗らなくなっていたのだ。
「あら、ごきげんよう、お久しぶりです」
私は気どって言ったと思う。
「ハヤシさん、変わりましたねエー」
その出版社の人は、感に堪えぬように言った。
「僕が初めてお会いした時のことを憶えていますか。ハヤシさんが『ルンルン――』をお出しになってすぐの時……」
「ええ、確か三越のライオンの前で待ち合わせしましたねえ」
「あの時、ハヤシさんは確か無化粧でジーパンはいてて……。いやあー、すっかり別人みたいですよ」
「仕方ないじゃん、私、有名人になったし、売れっコになったんだもん」
私は胸の中でつぶやきながら、煙草のケムリをプッとはいた。嫌な女もここまで行くと壮観だと思うね。そして、私はきれいにマニキュアした手を口元にもっていって、上品に笑った。
「いやだわー、そんなことおっしゃっちゃ……。私は変わりませんわ。本を一冊出して、それがちょっと売れたぐらいで変わるわけないじゃありませんか」
「イヤ、もうその口のきき方からして違いますよ。ハヤシさん、僕に対して急に丁寧になったでしょ」
「あーら、私、前から人に対しては礼儀正しい女ですよ」
「イヤ、イヤ、丁寧さが違うよ、ぜんぜん。自分の本心を見すかされまいだろうとか、前と変わらないように見せたいとかいう思いが、人間を急に慇懃無礼《いんぎんぶれい》にするんだよなぁー。僕はあなたみたいな人をいっぱい知ってるから断言できるけど、ハヤシさん、今ねあなたは、有名人特有の第一期症状ですよ」
とその編集者は言った。
しかし、正直いえばこの時ズシンときちゃったな。自分の変化を、ここまで鋭く見抜かれたのは最近ちょっとないことであった。
しかしながら私の有名人症状は、次第に重くなってきた。
まず第二症状として、出歩くのが好きという体質になってきたのだ。
それまで私は、夜ほとんど出かけず、うちでテレビばっかり見ている人間であった。
「ふん、ああいうマスコミによくとりあげられる店とかマスターとかなんか大嫌い。死ね」
とか毒づいていたのであるが、私は急に代官山《だいかんやま》のナントカ、青山のナントカという有名バーが大好きになったのである。
「ハヤシさんですね、お書きになったものいつも読んでますよ」
「あ、an・an≠ナ拝見しました」
などと言われながら、カクテルをさし出してもらうコーコツ感。すぐ私たちの隣りのテーブルには、雑誌の編集部の男たちが飲んでいて、私のほうにチラチラと視線を走らせる。そして、一人がスックと立ち上がり私に近づく。そして名刺をさし出しながらこう言う。
「ハヤシさんですね。『〇〇誌』の△△といいます。一度おめにかかりたいと思っていたんです。お見知りおきを……」
あーん、このうち震えるような喜び。
私がこの頃夜遊びが好きになったわけがわかるでしょう。
そして私はやっとわかったのだ。
私は有名バーやパブが嫌いだったのではない。
そこで無視されたり、ふつうに扱われることが嫌いだったのだ。
こうして、私の化けの皮は徐々にはがれていったのであるが、それをいちばん察したのは、昔からつきあいのあった仕事仲間かもしれない。
私は一つだけ自信を持っていることがあった。自分の口からはナンダカンダと自嘲《じちよう》し続けていたのではあるが、私は性格だけはよい人間ではないかと秘《ひそ》かに思っていて、他人にはできるだけ礼儀正しく、やさしく、心を傷つけないようにと、私は二十何年間を生きてきたつもりだった。ところが事実はかなり違っていたようだ。
私と担当者M氏との最近の会話。
「しかし、どうしてこんなに原稿がすすまないんですか。あなたの言うとおり、山の上ホテルを一週間リザーブしたじゃないですか」
「だって気がのらないんだもん」
私は足を組んで、煙草を切れめなしに吸っている。
「確かに他の出版社が今キミのことをチヤホヤしてるかもしれないけれど、とにかく二作目を出してから、煙草を思い切り吸いなさいよ!」
「あーん、うるさいなあ……。私にだってリズムっていうものがあるんですよ。それを無視してギャーギャー言われるのって、大嫌い!」
この同じ口が、去年の秋、『ルンルン――』をおずおずとさし出し、
「あの、こんなもんでいいんでしょうか。おもしろくなかったら書き直しますから……」
と本当に言っていたのであろうか。
あきれかえってソファにひっくりかえっていた担当者M氏の顔に、深い苦悩と怒りが走る。
だけども、私はもう「ごめんなさい」を言わない女になってしまっているのだ。
思えば少女の頃からずうーっと、私は「ごめんなさい」ばかり言い続けてきたような気がする。
「こんなにつまんないコでごめんなさい」
「気がきかなくてごめんなさい」
そんな私が、やっとこの言葉を言わなくてもすむようになってきたのだ。
いいコのふりをしてみんなから愛されようと努力した日よりも、今のほうがずっと楽しい。自分の感情や言動で、他人を動かせる快感――。これを私は知ってしまったのだ。
これから先、ホントにどうしたらいいのかしらん。
V プラクティカル篇
巷《ちまた》には巷の恋が満ちあふれ
確かに私はモテない女である。
男に言い寄られたとか、クドかれたなどという経験は皆無《かいむ》といってもいい。
私がそう言うと、中にはやさしい人がいて、
「いやあ、そんなはずはないでしょ。あなたが気づかないだけですよ」
などとお世辞を言ってくれるのだが、「針小棒大《しんしようぼうだい》のマリコ」と言われ、自分の都合のいいことはあることないことを言いふらす私が、こと男のことになるとわりと口をつぐんでいるでしょ。それがなによりの証拠である。
私がこの年齢にしては、非常に純粋で、かつ信じ込みやすい性格だということは、近頃周《まわ》りの男たちに不気味な驚異を与えているようだ。なんせ男には慣れているけど、恋には慣れていないから、ものごとすべてを信じてしまうタチなのである。
フラれた腹いせから、いろんな雑誌に書きまくったのでご存知の方も多いと思うが、私は最近、さる出版社の編集者と恋に陥ってしまったことがある。(注・主婦の友社の男ではない)
星のキレイな夜道を歩きながら、男は何度も言ったのだ。
「僕はこんなに素敵な女性に会ったことがありませんよ。ひょっとしたら好きになっちゃうかもしれないな……」
私も憎からず思っていた相手なので狂喜乱舞し、
「うれしい、私も〇〇さん大好き。もうとっくからよ」
と言って彼の腕にしがみついたりもした。
ところが、後からその男の弁によると、
「さすがコピーライター、反応の仕方といい、言葉の選び方といい、やっぱりうまいな」
と感心したそうなのだ。バカ、死ネ! 恋する女は肩書きなんか関係ないんだぞ。
「おまえは絶対に男にだまされる」
少女の頃からよく母親に言われた言葉だ。
私はこの「だまされる」という言葉がどうしても理解できなかった。なぜなら、その頃から私は周りの女たちにワンテンポ遅れていて、男と手ひとつ握ったことがないという晩熟少女だった。まあ本は多少読んでいたから、そっちの方面の知識は満ちあふれて、もう頭蓋骨《ずがいこつ》からはみ出しそう。はっきり言えば、ヤリたくて知りたくてウズウズしていたというところが正直なところだろう。
「だまされるって、どういうことかしらん。お金をとられるってこと? 私は貧乏だからお金じゃないわね。めあてはカラダか? キャッ、うれしい……」
母親の意に反して、私は男にだまされたくてたまらなくなった。
男が一回でも恋したふりをしてくれて、ヤッてくれればそれでいいと思っていた。
モテない少女ほど、初体験に過剰《かじよう》な期待を持たないということは確かに言えるようだ。
「海の見える白いお部屋で、ランプだけつけて……」
なんて本当に考えたことがなかった。
「とにかく一回してみようではないか」
と私は決意を固めたのである。
それは肉欲というのとはほど遠かったと思う。なぜならそう決心したのと同時に、私には別の悩みが生まれたのである。
「男なしではいられないカラダになったらどうしよう」
男となにひとつコトを起こさない前から、私はそれについて非常に心配を始めた。私が親に隠れて読んでいたいわゆる大人の雑誌には、そのテの女が実によく出てくるのだ。悪い男にだまされて、別れたくてたまらない女がいる。けれども男にちょっと肩を抱かれただけで、もうフニャフニャと足を開いてしまう。
そして男は勝ちほこったように言うのだ。
「おまえのからだが、俺と離れられないって言ってるぜ」
すると女はよよと泣きくずれ、唇をかみしめるというのが、たいていの小説のパターンだったと記憶している。
「ヤルのはいいけれど、癖にならない程度にしなければいけない」
などとも私は思った。
その時の気持ちはみごと成就《じようじゆ》し、何年後かの今、私はこのありさまである。全く癖になるどころの話じゃないわよ。
しかし、私の友人の中には、
「やめられない、とまらない」
といった感じの女たちが実に多いのだ。
そして彼女たちは、それを恋愛だと信じ込んでいるから話はややこしくなる。
「生まれてからこのかた、男に不自由したことはないわ」
と豪語する女もいるが、いかなる神の摂理か、実際こういう女には、次から次へと男が現われるものなのである。
私はそういう時、自分の心を静めるために、いつも一つの歌を口ずさむ。
「巷《ちまた》には巷の恋が満ちあふれ、我こよなくロダンを愛す」
つうの。ここで言うロダンとは、もちろんかの名作「抱擁《ほうよう》」である。ずっと以前にこの歌を雑誌で知ってから、それ以来私はこれを碑《いしぶみ》とも、生きる指標としているようなところがあるのだ。
この歌を口ずさみながら下界を見おろすと、友人、その恋人、本当に「巷」をしているのばっかりで嫌になっちゃう、というより気が晴れる。
特に同い年のある友人ときたら、
「よくもまあ、こうくだらないのばっかり次から次へ……」
とため息がもれるのばっかり選び出してくるから、私は割合彼女が好きである。
三か月前まで、彼女はあるカメラマンとつき合っていた。もちろん三流のくだらない仕事ばっかりしているような男であったが、二人で「撮影旅行」と称して、よくみだらに泊まり歩いていたものだ。
つい最近会ったら、彼女は吐きすてるように私にこう言った。
「もお、あんなアホらしい男はいないわよ。こっちからお払い箱よ」
なんでもその男に殴られたらしい。別の男と腕を組んで深夜帰ってきたところを、アパートの近くで待ち伏せしていた男に見とがめられたということだ。
「男と別れるのってむずかしくて仕方ないわ」
と言って彼女はコボしていた。
そして私は気づいたのだが、このテの女たちに共通しているのは、
「男にフラれたことがない」
というものすごい誇り高さなのである。
「たいてい、こっちから一方的に宣告してやるのよ。私ってわがままだからね」
と彼女もいつも言っている。
私は今までそれを、ヨダレをたらさんばかりにうらやましく聞いていたのだが、彼女たちの男のリストを思いうかべれば、さらに別の真実がうかび上がってきたのである。
「こっちからサヨナラできる程度の、くだらない男としかつき合えなかった」
これをいつか面と向かって言ってやろうと思っているのだが、そうでなくても女友だちに評判の悪い私。ほそぼそと続くこの友情は壊したくないためにジッとガマンをしているの。
そこへいくと、さすが私はエライと思う。男にフラれた経験しかないもの。自分で言うのもナンだけれど、私は相当のランクの男にしか惚《ほ》れないというのは確かに言えると思う。
だいたいね、一度でも自分が関係した男は、いつまでも永遠に立派であってほしいものだとは誰でも願うことじゃないだろうか。
街の真ん中でばったり出会って、
「ども、ども」
などと男がバツの悪そうな顔で遠ざかったりする。
その後ろ姿を見ながら、
「あれ、あんなに小男だったっけ」
「あんなにひどい服のセンスだったけかな」
などと感じることぐらい、女にとってみじめなことはないような気がする。
一度でもナンカをした男というのは、私の全存在とまでは言わないまでも、今でも私の分身となっている。なまなましい記憶だとかが、やはりその男を、他の男たちの中からくっきりうかび上がらせているはずだ。
とにかく私をフッた男たちは、全員いい男たちだった。
別れを告げられた後、私は未練と後悔で、長い間ぐちょぐちょ泣き続けたものである。
私の女友だちは、そういう私を、
「ホントにみっともない」
と非難するけれど、キミたちのように、
「けっ、こっちが別れるって言ったら泣き出してさー」
などと言葉を吐くよりも、私のほうがずっとずっと美しいはずである。
別れた後でののしり合う恋なんて、絶対に「巷の恋」に違いないもん。
男はかなり強くなくちゃいけない
編集者の方々とお友だちになると、得することがいっぱいある。
映画の試写会の切符はもらえる、そこの雑誌ももちろんタダでもらえる、東京ディズニーランドに連れていってもらえるなどと、彼らと知り合ってから、私の人生はバラ色になったみたい。
中でも私がいちばん嬉しいのは、活字からではわからない、さまざまな情報を彼らから教えてもらうことである。清純派の歌手の〇子ちゃんが、実はすごい好きモノでマネージャーが毎晩お相手をしている、などといった話を、お酒を飲みながら聞くのはすごく楽しい。
今年になってから、彼らとの話題の中にいちばん多く出てきたのは、なんといっても美里サンと美寿々さんの結婚話であろう。
「美里っていうのは、とにかく最低の野郎だよ」
とたいていの編集者は枕詞《まくらことば》にこれを言う。
「大ぼら吹きで、金は借りても返さない。なんであんな男に美寿々がひっかかったんだろうなあ!」
一時期は寄るとさわると、その話ばっかりであった。これも又聞きであるが、結婚問題でゴタゴタしていた最中、ある芸能レポーターが美里サンについて各方面に取材に行ったそうである。
「そいつがびっくりしてたよ。ふつう人となり≠聞いたりすると、よく言う人と悪く言う人が半々なんだってさ。だけど美里の場合は、すべての人間がメチャクチャ悪く言うって。あんな男は初めてだって、そのレポーターは驚いてたぜ」
「そうそう、僕もあの二人はよく知ってんだよね。美寿々さんの方としか仕事をしたことないけどさ、よく行く店が一緒なの。青山のダイニーズテーブル≠ノさ、よくいちゃついて来てたんだ。ふつうああいう風に顔を知られた女と行く時は、いちばん隅のテーブルをとって、女の背を客の方に向けて座らせるだろ。ところが美里ってのはさ、わざわざど真ん中のテーブルをとって、美寿々を皆からいちばんよく見える席に座らせてんだぜ。だいたいがそういう男なんだ」
もう私のことなんかほったらかして、美里サンの悪口に花が咲く夜が続いたのだ。
私はもちろん、彼らと違ってお二人を個人的に全く知らないのだから、コメントをさしひかえさせていただきます。なんて女流評論家っぽいようなことを言う私の性格だと思う?
いくらテレビや雑誌で見るだけでも、好き、嫌いの判断はピピーッとできちゃうのが、私のたった一つの美点なんだから。
まず私は美里サンっていうの、最初見た時から本当につまんない男だと思ったね。まず顔がイヤ。私のとぼしい男性経験から見ても、あのテの顔はまず下のランクに入る。ぶ厚い唇はいかにもおしゃべりだけが取り柄《え》みたいだし、落ち着きのない二重の目は、聡明《そうめい》さからはほど遠いものだ。また雑誌の記事で拝見している限りにおいても、言うことなすこと吹き出したくなるようなことばっか。
「どうして美寿々サンみたいな頭のいい女の人が、あんな男にひっかかっちゃったのかしら。かわいそうに」
誰もがそうするように、私もいつもそんな言葉でこの話題を締めくくったものだ。
ところが、今年になってから私はがぜん二人の味方になってしまったのである。もし「美里と美寿々を守る会」というのがつくられたら、役不足かもしれないだろうが会長に立候補したいぐらい。いや会長は篠山紀信サンとか有名人がなるだろうから、私は事務局長ぐらいでいい。とにかく私はできる限りの声援をあの二人におくろうと決心したのだ。
「美寿々はかわいそうにな。あんな男にダマされて……」
と誰かが言おうものなら、私は血相を変えて弁護する。
「いいんじゃないですか。一生ダマしてくれたら女にとって、こんなに幸せなことはないスよ」
などと私は言うようになったのである。
私のこの豹変《ひようへん》ぶりは、当然周りの人々の想像力を大いにかきたてることになってしまった。
そうです。皆さまの考えているとおりです。
私の目の前に、ある日突然美里タイプの男が現れたのである。
「自分をつねって、人の痛さを知れ」
こんな格言があてはまるかどうか知らないけれど、私はその男と知り合ってから美寿々サンがよおく理解できるようになったのである。
とにかく強引、とにかくマメ、とにかくオダててくれる。このテで迫られたら女はたまりませんテ。ただ私と美寿々サンとが根本的に違うところは、美里サンは美寿々サンめあて。私の場合は原稿めあてというところであろう。グスッ。
しかし、強い男に心をゆだねることの心地よさ。食前酒も、メニューも、生き方でさえも男が決めてくれることの、うっとりするような甘さ。それを美寿々サンは知ってしまったのね。しかも女としての部分もしっかりと握られてしまったのだから、離れることができないのは、ごくごく当然のことであろう。
私はこの頃、美寿々サンの新婚生活を見るたびに涙ぐんでしまうほどになっているの。彼の好みに合わせて髪を切り、エプロンをつけてかいがいしくお料理する彼女は、とってもきれいで愛らしい。あれだけ勝気で頭のいい女性を、これほど従順な女にしただけでも私は美里サンを尊敬してもいいと思うほどだ。
結局ですね、男なんか強ければそれでいいのだ。実際に強くなくたって、強いふりをしていればそれだけで女は満足できるものなのだ。
私はこう言いきって、自分の言葉に今さらながら驚いてしまう。だって二十九年間、私が生きてきたやり方というのは、この言葉とは全く正反対の方向に、自分を伸ばそう伸ばそうと努力していたところがあるのだもの。
男に頼らない強い女になりたい。一人でも生きていく女になるのだ。男なんてその過程で共にすごすパートナーであればいい。
私は自分でそんなふうに暗示をかけていたところがある。だから恋人にしても、パートナー以上になりそうな男は選ばなかった。実際、最近まで私が好きになった男というのは、ややひ弱な、ナイーブなタイプだったと思う。
その私が、今、
「強い男が好き。その男にすべてをゆだねて生きるのが最高だ」
などと言っている。多くの人々はこれを「退化」だと言うだろう。自立する女にとって、いちばんのタブーだろうということは、私にもわかる。けれども私の感情は、さまざまな理性を裏切って、これに高らかに「YES」を捧《ささ》げてしまったのである。本当に困っちゃった。
だけど私は、他の女たちのために生きるつもりもないし、女の中でリーダーシップをとる気も全くない。私以外の女に向かって旗をふるよりも、私一人だけが愛する男とぬくぬくと幸せになればそれでいいんだもん。
美寿々さんもきっとそれをわかってしまったんだ。だから私も一生懸命応援しますからガンバってね。
私もいつかきっと、美里サンをややましにしたタイプの男を見つけて幸福になります。ホント。
寝ないが勝ち!
しかしどうして、私の周りの男たちというのは、私に対して野心≠持ってくれないのであろうか。
思えばかなりヤバイ場面も、いろいろとあったはずなのである。
たとえば深夜遅く、二人で車をひろったとする。男と私は酔いも手伝って、冗談半分でイチャイチャしたりする。男が気さくな性格だったりすると、運転手にいろいろ話しかけたりもする。
「いやー、これ、オレの女なんだけどさ、顔はブスだけど性格がよくて……」
「なにいってんのよオ」
などと言いながら、車は和気あいあいと深夜の道をひた走る。すると千駄《せんだ》ケ谷《や》などに近づいた頃、運転手のオジさんが突然に言うのだ。
「どうです、どっかホテルへつけますか」
沈黙が車内に漂う。そして男は言うのだ。
「いいから早く六本木に行ってください」
ホントにこんなのばっか。
私は別に、手あたりしだい男とナンカしたいと思っているわけではないのだ。それどころか、私はそういう方面に関してはかなり慎重なほうだと思っている。しかし、今のこの状態では慎重になるというよりも、全く選択の余地がないのだ。とにかく一人ぐらいは誘ってほしい。そして私は断ってみたい。これは矛盾《むじゆん》するようであるが、一応お声をかけていただいただけで、私の女としての面子《めんつ》は立つのである。そして、
「うふふ、私、あの男から誘われてフッてやったワ」
という秘《ひそ》かな喜びで、半年は十分幸せな気分で暮らせるはずなのだ。別に金や体力を使えと言っているわけではない。たった一言発声すればいいだけなのである。しかしなぜみんな、私にそれすらしてくれないのであろうか。
私はあるお酒の席上で、
「なぜ私を誘わないのか」
というアンケートをとったことがある。その結果いちばん多かったのが、
「言いふらされそうだから」
という意見であった。ふーん、やっぱりみんな私のことをよく見てるワ。
中には、
「ハヤシさんみたいな才女に、そんなことをもちかけるのは恐れおおくて……」
と白々しい嘘《うそ》をつく男がいたけど、嬉《うれ》しくってビールをおごっちゃった。
もちろん、私だってそうバカじゃないから、真実の答えっつうのはかなりはっきりと見えているのだぞ。つまり私は、一声運動を起こすには、あまりにも性的魅力というやつが欠落しているのである。どんな女がセクシーかという問題については、話が長くなりそうだから別の機会に譲るとして、まあ私があんまりオイシソーな女ではないということは確かなようである。
だけどもですね、こんなことでめげるような私じゃない。世間を見渡せば、私よりずっとまずそうな女たちが、そう不自由していない時代ではないか。はっきり言えば私だって来年三十路《みそじ》の大年増《おおどしま》、あーなりゃこうなって、こうなりゃあーなるぐらいの手練手管《てれんてくだ》ぐらい知ってらー。今の世の中、男も女もイジキタナイから、ちょっとしたモノのはずみがつけば、行くところまでコロコロころがっていくことぐらいは私にもわかっている。
つまり、私に全くお誘いがかからないというのは、冒頭にのべたように私はきっと断る女であろうとみんな思っているからに違いない。(このくらいウヌボレさせてね)
いみじくもこう言った人がいた。
「男だってヒマじゃないんだから、みすみす断られる女に誰《だれ》がモーションをかけるか」
そう、その通りなのである。
しかし近頃《ちかごろ》の私は、そういうことをいっぱいすれば、いっぱいいいことがありそうなのはよくわかってきてしまっている。
まずお肌がツヤツヤになるらしい。そして瞳《ひとみ》もうるんできて、ブスもブスなりにかなり美しくなっていくものだと聞く。男に磨かれてキレイになって、そしてますます男に誘われやすくなるとは、非常にいい状態ではないか。私など全くこれと正反対の悪循環としか言いようがない。
しかし、それでもなお私はイコジな部分を捨てないであろう。ちっとやそっとでは「物のはずみ」を起こさないであろう。
なぜなら、私はこの「物のはずみ」というやつに、手ひどい洗礼を受けているのである。
その頃の私には、あぶなげな若さがあった。それにもまして、いつ爆発するかわからない好奇心が私のからだのすみずみにまで血液のように流れていて、時々それが信じられない行動を私にとらせたりしたのである。
私は会社の先輩と酔ったあげくに「物のはずみ」を起こしてしまったのである。
それはなんと一年間以上も、私に後悔と苦痛を与えることになるのだ。
それまでの私はあまりにも無知であった。「寝る」ということによって、男と女の間はさらに深まり、ついには相手の愛情をかち得ることができるのだと信じていたフシがある。しかし、私はたった一晩の好奇心のために、実に多くのものを失う結果となるのである。
まず次の日から、私は完全な敗者となった。昨日まで彼いちばんのお気に入りの後輩として、無邪気に思うがままにふるまっていた私が、その日を境に表情まで違ってしまったのである。
「オレのかわいくて明るいマリコ」が、いつのまにか男に捨てられやしないかとオドオドと上目づかいで相手をうかがう女≠ニ変身していった。それを見るのは男としては確かに恐ろしいことであっただろう。今思えば、私は彼に同情してしまう。
しかし、当時の私にはそんな余裕はなかった。みんなのスキを見ては、訴えるような視線を男に投げつけたが、彼はいつもすばやくそれを見事にかわしたものである。
つまり私は彼にとって、「もう一度寝たい女」でもなく、「愛情があったから寝た女」でもなかったのだ。
それがもうちょっと早くわかっていたら、絶対にあんなことをしなかったはずだと、私は毎夜涙にかきくれたものだ。
「いいのよ。前からちょっといい男だと思ってたから、一回試せばもうけものよ」
そんなことを言いきるには、当時の私は純粋すぎたし、なによりも男のことを愛し始めていたのである。
それにしても、失ったものの大きさに比べれば、たった一回のセックスなどどれほどのものがあったのだろうか、と私は思った。
確かに男の腕に抱かれている時は、めまいがしそうなほどの幸福感があったものだが、終わってしまった今はそれほど甘美な思い出も残らない。
セックスというのは、継続するからこそさまざまな感情や記憶が積み重ねられていくもので、一回きりのからだの触れ合いになにほどの価値もないということを私がわかったのは、この時からである。
それよりも、男と過ごした日常のほうが、今となってははるかに強く、せつなく私を苦しめた。私に原稿用紙の使い方を教えてくれた男、深夜の残業で一緒にコーヒーをすすった男、
「マリコはウブすぎて本当に困っちゃうよ」
とからかわれて、額にはじかれた指の感触まではっきりと思い出すことができた。
そのたびに、私は声をあげて泣いたものである。
やはり、私の女としての姿勢はあの時に決まってしまったのだ。男やセックスというもののあやふやさを、私はからだごと感じとってしまったのだ。
そのあやふやさを、スリルだといって楽しむような都会的センスは、これからもたぶん私とは無縁なものだろう。
ひどく古くさく、貞淑《ていしゆく》ぶっているといわれようと私はこの考え方を変えるつもりはない。
なぜなら、一ぺんで男をトリコにするような素晴らしい肉体を持ち合わせていない私の、これが自分を傷つけないためのたった一つの保身なのだ。
よく似た女
『フォーカス』を見ていたら、青島美幸サンの写真が出ていた。しかし、どうして彼女が『話の特集』の編集長と親密そうに車に乗っているのだろう。よく見たら中山千夏サンだった。
頭のよい女の人というのは、よく似ているものなのだろうか。
頭がよくないグループでは、松本伊代と柏原よし恵というのがそっくりだ。落合恵子サンは、文化人を始めるようになったら、急に髪型が道下匡子サンと全く同じになったが、あれは何かのおまじないなのだろうか。(ところで道下サンというのは、いったい何をする人なんですか。『モア』とか『クロワッサン』のグラビアモデルにしちゃブスだと最近まで思っていたんだけれど……)
彼女たちのように有名ではないけれど、よく似ている女というのは、私の周りにもかなりいる。仕事で知り合った女性が、高校の時の同級生にウリ二つだなどというのは、よくある話だ。そしていつも感じるのだが、骨格が似ると音声も似てくるようなのだ。私の昔の友人で、やや蓄膿症《ちくのうしよう》っぽいしゃべり方をする女がいたが、彼女に顔がよく似た女もやっぱり鼻が詰まったような声を出す。だからトータル作用で、ますます似かよった雰囲気がつくり出されるというわけだ。
最近私がめざわりなのに、髪の長い女というのがいる。これがイメージから、ウリ方、ポシャリ方すべていっさい合切《がつさい》そっくりなのだ。
原田美枝子からはじまって、高樹澪、浅野温子、山崎ハコ……髪の長い女というのは、どうして反体制を気どるのだろうか。昔は髪の長い女というのは、内藤洋子の例を見るまでもなくコンサバティヴの象徴だったはずなのだが……。
それが気づいた時は、長い髪は上目づかいの目と過激な発言とワンセットになり、私たちの前に姿をあらわすようになった。
「私ってホントに感受性が強いから、芸能界を生きにくいわ」
と言いたそうな、彼女たちの恨みがましい表情っていうのが私は大嫌い。
しかし、なぜ彼女たちは髪を伸ばしているのだろうか。
もちろん個人的な趣味もあるだろうが、それよりも自分の売れスジ≠ノ沿っていることのほうがずっと大きいように私は思う。何人かのスタッフがそれはつくり出しているんだろうし、もっと頭のよい女だったらそんなことは自分でわかる。
最近、この鉱脈を探りあてた代表的な例が樋口可南子サンだと私は思うよ。実際、映画「戒厳令の夜」に出た頃はヒドかったもん。せっかく脱いだのはいいけれど、このまま死んでいくんだと誰しもが思ったね。だけどどうです、最近のあの輝き方、美しさ。女優特有の魔術もさることながら、あれは売れスジ≠ェわかったものの強味です。絶対。
しかしそうなったとたん、樋口サンは別の女優さんそっくりになっちゃった。あれよあれよという間に最近の彼女は、喋《しやべ》り方とか表情が本当に桃井かおりふうになってしまったではないか。
人間ておかしいね。自分のセールスポイントを把握《はあく》するということが、いつしか知らず知らずのうちに他人を模倣《もほう》していることになるんだから。
私の売れスジ=H それが近頃、わかりすぎるぐらいにわかって困るの。
前作がちょっと売れたため、多くの識者がさまざまに講評をくださったり、分析をしてくれたりした。
それによると、私の最も大きなウリ《ヽヽ》は、「異常ともいえる被害者意識」なんだそうだ。
「ブスでブタで性格悪い」(ブルータス≠ノそう書かれた)女が、華やかな都会に出てきて、華やかな仕事に移ったものの、どうしてもさまざまな違和感はぬぐえない。そこで起こるさまざまな葛藤《かつとう》が私のおもしろさなんだそうだ。
しかし、日を追うごとにこの事態が怪しくなってきたのであります。
私はホラはよくふくけど、嘘《うそ》は比較的嫌いな性質《タチ》。だからはっきり言うと、今の私というのはちょっとデキすぎかな、と思うぐらい恵まれてき始めたのである。
使っても使っても銀行の口座にはお金が入ってくるようになったし、私の特集を組んだ雑誌だって出た。なんと『アンアン・ポパイ別冊』の「サクセス・ストーリー」になって、私の笑顔が誌面を飾っているのだ。
すると不思議なことに、私を長年あれほど苦しめていたブス≠ニいう単語が、なぜか私から遠ざかり始めたのよね。それどころか、テレビに出ている私を見て、
「ハヤシマリコって結構かわいいじゃん。なんであんなにひがんでるんだろ」
っていう声も巷《ちまた》から上がっているのも事実だ。
おまけにデブ≠チていうのも、この頃は努力の甲斐《かい》あって徐々に解消に向かっている。だってすごくお金を使って、ダイエットの専門家についたんだもん。
あと私が苦悶する問題といえば、ただ一つモテない≠ニいうことであろう。こればかりは顔とかスタイルなどのディテールもさることながら、性格が大きく作用する面が大きい。これからの私の大きな課題であろう。
話はとぶようであるが、私は以前から女性司会者の見城美枝子サンというのが嫌いだった。もうずいぶん前の話になるが、ある雑誌で彼女のエッセイを読んだことがある。それには自分がいかにコンプレックスに苦しんだかが書かれていたのだが、それを読んで私はシラけた気分を通り越して猛烈に腹が立ってきた。
「フン、冗談じゃないわよ。結構美人でワセダ出てるくせに、なにが劣等感よオー。読者に媚《こ》びるんじゃないよオー」
この時彼女に感じたイヤらしさが、最近の私にもあてはまるような気がするというのは、あまりにもウヌボレというものだろうか。
しかしですね、現在の私というのは、毎日花束のようにいろいろなお世辞をいただいているの。おまけに性格が性格でしょう。
「あれほど増長する人間も珍しい」
と周りの人が唖然《あぜん》とするぐらい、すっかり舞い上がってしまったというのが現実だ。
それは自分でも薄々とわかっていたつもりであったが、このあいだの記事にはやはりびっくりしたね。ある女性雑誌で八人ほどの女性コピーライターを登場させ、その生活と意見をきいたものであったが、私一人だけがうき上がっていて、ものすごくオッカナイ。
他の女性たちが、
「見た目は華やかそうですけれども、地道でつらい仕事ですよ」
とか、
「収入なんか、傍目《はため》で見るほどよくありません」
などと言っているのにひきかえ、私の強いこと!
「ジミだ大変だなんて言ってると、嘘になるもん。だって私は甘い汁を吸ってる側の人間だから……。はっきり言ってチョロイわよ」
とあっけらかんと言っているのだ。これなら業界の人々に嫌われるわけだと自分でも納得したワ。
しかし、私の性格のイヤらしさは、まだまだこんなものではない。
はっきり言いましょうか。私は『ルンルンを買っておうちに帰ろう』を書いた時と違って、同業者の女たちなんかもう相手にしていないのである。今の私がねたみ、そねみ、標的としている女たちはあの頃と比べて飛躍的にランクアップした。半年前の私だったら憧憬《どうけい》の対象にしていただろう女性たちを、近頃私はライバルと見定めている。
私の嫉妬地獄《しつとじごく》≠ヘまだまだ続くのである。満足ということができない女に、ささやかな成功が手を貸してしまったのだ。
しかし、この永遠に続く道のりこそが、私のエネルギーであり、私のウリ≠セということに、この頃やっと私は気づき始めたのである。
「わ、こわ。そういうところ吉見佑子にそっくりだね。そういえば最近の君、似てるよ」
とある雑誌の編集長。
冗談じゃないわよッ!
惚《ほ》れてからヤルか、ヤッてから惚れるか
先日のこと、ある男性と青山のスナックで飲んでいた。
料理もあらかた食べつくした頃、もう一軒行こうということになって、私たちは立ち上がった。その時、彼は実にさりげなく、
「あ、オレ、コタツの電気切り忘れちゃった。悪いけど一緒に行ってくれる」
と私に言ったのである。
男のマンションは、そこから歩いて百メートルぐらいのところにあった。
実を言うと、私はこの男の文句にひどく感動したのである。
「なんてうまい新手の誘い方なんだろう」
と私は思った。今夜はそこまで考えてはいなかったのであるが、向こうがその気なら、私もことさら拒むこともあるまい。まあ最近めったにないことでもあるしと、かなり胸は高なったのである。
男一人にしては広すぎる、なかなか小ぎれいな部屋であった。私は靴を脱いでリビングを通る時、全く使われていない小部屋があることを発見した。
「もし今夜コトが起こったら、もう私もトシだから図々しく居ついちゃおう。この部屋は私の仕事部屋にしてもいいな」
瞬間的に発想が一大飛躍するというのは、私の癖であるが、この時もすごかった。もう私の頭の中には、「週末同棲《どうせい》」とか、「通《かよ》い婚《こん》」とかいう単語がうず巻き始めたのである。
ところが、男はパチンとコタツのスイッチを切ると明るく、
「お待ちどおさま。じゃ行こう」
と私に声をかけたのだ。
私はあまりのことに、茫然《ぼうぜん》と立ちすくんでしまった。
「あれ、どうしたの。気分が悪いの」
「ううん、別に」
次の店で私が不機嫌だったのは言うまでもない。
思えば、この世で私ぐらい安上がりな女はいないのではないだろうか。コタツ一つで、私はたちまちその気になってしまったのである。
口説《くど》く際の金の使い方や、小道具の豪華さがいい女のモノサシだとしたら、私は下の下もいいところ。ホントに悲しくなってしまうワ。
このあいだもある一流ホテルのラウンジで、女同士で飲んでいた時のことだ。私はごく無邪気に、女性週刊誌で読んだ知識をひけらかした。
「あのさ、ちょっと気のきいた男だと、トイレに立ったふりをして、上のダブルの部屋を予約するんだってね。そしてキーをちらつかせるんだって。女はいいかげん酔ってるし、一流ホテルだっていうんで、すぐOKするんだって。ね、ね、ちょっといいと思わない?」
すると私の友人たちは、唇の端に薄笑いをうかべて、
「あら、そんなのしょっちゅうされてるわよ」
「ホント。最近はホテルのバーに行こうと誘われるとギクッとしちゃって……」
などと言い出したのだ。
私は嫉妬《しつと》のあまり青ざめてしまった。どうして私に今まで、ゴージャスな情事というのはやってこなかったのであろうか。
私は自分のコトの起こし方を、静かに思いうかべてみた。
なんだ、みんなモノのはずみというやつではないか。
私はずっと前、あるオトコとあるコトをしたことがある。その時飲んだり食べたりしたものは、サントリーの缶ビールと、イカのクンセイだったように記憶している。一流ホテルのカクテルとは、あまりにもえらい違いである。いじ汚く、ビールをガブ飲みしたせいか、私は非常に眠くなって、うとうとし始めた。
すると、突然電気が消され、そのようになってしまったのである。
別にカッコをつけて言うわけではないのだが、その時の私には全くソノ気がなかった。それどころか、暗闇《くらやみ》の中で影になったオトコの姿は、急いでいたためか背中が丸まってこっけいな形になり、私はそれに嫌悪感《けんおかん》すら感じたものである。
「ちょっとやめてよ。私はそんなつもりじゃないのよ」
と言おうと思えばいくらでも言えたのであるが、私の口から出たのは、なんと、
「うれしい」
という歓迎の言葉だったのである。
つまり、私は断るのが非常にめんどうくさくなっていたのだ。そしてそれ以上に私はただやみくもに恥ずかしかった。それは夜中にオトコの部屋にのこのこついてきて、酔っぱらって眠りこけた自分への恥ずかしさである。そして変な論理ではあるが、この羞恥心《しゆうちしん》を消す唯一《ゆいいつ》の方法は、最初からその気だったフリをするということだったのだ。
「待ってました。私もそのつもりだったのよ」
と言うほうが、
「やめてよ」
と言うよりも、はるかにみっともなくないような気がしたのである。
ああ、ホントに私って安上がりの女。
そしてさらに不思議なことに、オトコと私とは、この日をきっかけに恋人同士になってしまったのである。
かなりうちとけた頃、そのオトコがひょんなことからこんなことを言い出した。
「男と女のやり方には、二つしかないんだぜ。ヤッてから惚《ほ》れるか、惚れてからヤルかのどっちかだよ」
私はやや被虐的《ひぎやくてき》な思いをこめてこう言ってみた。
「じゃ、私たちは前の方ね。お互いにぜんぜんその気がなかったのに、はずみで一回ヤッちゃって、それから好きになったんだもん」
「いいや違う」
オトコはいつになくきっぱりと言った。
「オレはあの夜、『いい女だな、絶対にヤロウ』と心に決めてたんだもん。そうでなけりゃ部屋に誘ったりしないよ」
私は感動のあまり、涙がこぼれそうになりました。
本当のことをいえば、私はオトコと慣れ親しむにつれて、そのきっかけとなった夜のことが、だんだんひっかかるようになってきていたのだ。
私は正式にクドかれたわけではない。オトコも仕方なくヤッたのではないかという疑いは確かに私の中にあった。しかし、今の言葉で私の心は日本晴れ。あー、嬉しい。これからはこのオトコのためになんでもしてやろうと私は心に誓ったものだ。
「マリコ口説《くど》くにゃ、カクテルいらぬ。真心ひとつもあればいい」
ついつい、つまらない戯《ざ》れ言《ごと》も出てしまった。
まあ結局はこのオトコとも別れることになったのであるが、私は彼に対して一生感謝の心を忘れることはないと思う。
クドかれる時に、贅沢《ぜいたく》な小道具がなければ――という女は確かに多いかもしれない。
しかし、ほとんどの女は、私のようにそう多くのものはのぞまないはずである。
「ほしい」という気持ちをめいっぱいに見せてくれればそれでいいのである。
近頃の男は、女以上に傷つくことをこわがって、あまりにもいろんなかけ引きをしようとしすぎる。女というのは、ちゃんとそういうのを見ているはずなんだよ。
私自身の好みを言わせていただければね、わざわざフロントに行って部屋をリザーブするヒマがあったら、
「おい、行こうぜ」
と言ってさっさと手をひっぱってくれたほうがずっと嬉しい。
もし私の知人の男性が、これを読んでいたら、ここんとこよく憶えておいてね。
横たわるだけの女に私刑《リンチ》を――
私がまだ全く無名の少女だった頃、(ま、今も知る人ぞ知るって感じだけどサ)女性雑誌のグラビアに出てくる女性たちというのは、私の憧《あこが》れだった。芸能人というのは張り合う気持ちもないから、どうということもなかったが、いかにも都会で働いているといった女性たちが、その生活ぶりを披露したり、コメントを載せたりするありさまに、私はいつも小さな羨望《せんぼう》のため息をもらしていたものだ。
「私もいつか、こんなふうに雑誌に出たい」
まあ口に出してこそ言わなかったが、私はマスコミというやつに登場する自分を想像しては、たえず胸を踊らせていたものだ。
私が初めて雑誌の誌面を飾ったのは、(自分で飾る≠ヘおかしいかナ)今から四年前、講談社の『ヤングレディ』という雑誌だった。もちろん市井《しせい》の一人として、「活躍するキャリア・ウーマンたち」というページでである。
雑誌に自分の顔が載る晴れがましさというのは、やはり想像していた以上のもので、私はさっそく田舎の両親に電話をかけた。両親も大喜びで近所に見せびらかしたようだ。その後しばらくは「寄り合い」の時も、母親は大きな顔ができたと喜んでいた。
その気持ちは今でも続いていて、とにかく私はインタビューとかテレビ出演が異常に好きになってしまったのネ。「原稿依頼」だといい顔をしない私が、同じ雑誌でも「ちょっとグラビアに登場を……」とか言われると、急に顔を輝かして「ハーイ、ハイ、ハイ」と言うものであるから、編集者の方々は内心私のことをかなりバカにしているらしい。
だけど仕方がない。そっちのほうがずっと楽しいんだもん。
先日も、有名カメラマンの方に、私の写真を撮ってもらった感激といったらなかった。一流のスタイリストやヘア・メイクの人たちが、ほぼ半日、私のために首っぴきで作業をしてくれる。素敵なドレスを着て、お化粧をした私は、いつもの百倍ぐらい美人。スタジオの中で、私だけにライトがあたり、私のためにだけシャッターが切られる。
あぁこの快感。ホントに生きていてよかったとしみじみ思う。
「毎日こんなことばっかりしていたいな。あ、私モデルになろうかな」
とかなり本気で考えるから、周りの人はかなり恐ろしいらしい。
しかし、私がモデルになったとしても、いったいどんな仕事があるんだろう。せいぜい伊勢丹《いせたん》≠フクローバーコーナーのL判モデルぐらいかな。いや、あれもよく見るとせいぜいグラマーというところで、私のような正統派肥満体は数が少ないみたい。
つまり、私がこうして晴れがましい場に立てるというのは、私が他の分野でちょっぴり活躍しているということに他ならないのだ。そのくらい私にだってわかる。
しかし、この「分野」が、私にとって本当にシンドイんですよねえー。
しかし、考えてもほしい。他の女たちが六本木で男たちといちゃついている深夜、そこからわずか一キロと離れていないところで、フケを落としながら原稿を書いている私。夜ふかしして煙草ばっかり吸い続けるから、目尻《めじり》のシワもこの頃めっきり増えた。唯一《ゆいいつ》の楽しみといえば、いやがる愛猫のシッポをおさえつけ、腹のノミをとるぐらい。
プチン、プチンと、それをつぶす被虐的な快感に、かすかな生きる希望を見出しながら私は考える。
「なんで私は、こんなことしなきゃなんないのよオ。後世に残る小説でも書いてるっていうならイザしらず、こんな雑文を深夜まで書いて、あたら貴重な青春をすりへらして……。ホーントにヤンなっちゃう」
その時、私の脳裏にうかんだのは、今日も事務所にかかってきた二つの雑誌のインタビューとテレビ出演の依頼であった。
「でも、ああいう私の好きなコトをやってもらうためには、こちらのほうもがんばらなきゃ。なんにもしなければ、私なんてふつうの女。どっからもおよびなんかかからないもんネ」
そう思いめぐらしていくうちに、私は以前、これと全く同じ論理をもった時があるという事実に気づいた。
それはどういう時だったか。
はっきり言います。セックスの時だったんです。
他の女の人の場合はどうなのか私にはわからないが、セックスというのは二つの時間帯に分かれるでしょう。
オトコの人にナンカしてもらう時と、こっちのほうからナンカしなきゃいけない時。私はもちろん、ナンカしてもらうほうが好きだけれど、やっぱりそれじゃオトコの人に悪いと思う。それにオトコの人も、つきあうにつれて図々しくなり、
「あーしろ、こーしろ」
と言い始めるでしょう。
まあそれもそんなに嫌じゃないから、私は素直に黙々とやるけれども、その時私の頭にうかぶのは、
「ギブ&テイク」
という言葉である。
ずっと前、まだ私がなんにもしらない少女だった時、女の人は襲われるか、結婚して仕方ないからヤラセルのどちらかだと思っていた。あくまでも受動態だと信じていたのである。
「フーン、こんなこともするのか。でも、後でこうしてほしいからガンバラナクッチャ」
とけなげに私は思い、それなりに義務を果たし続けたと思う。
今の私の仕事の状態というのは、これとまるっきり同じことではないだろうか。
インタビューやチヤホヤされたいという愛撫《あいぶ》を受けたいがために、原稿書きというテクニックに励まなければいけない私。
仕事にしても、セックスにしても、私の思考というのは、いつも同じ原型をもっているらしい。
だからこそ、私はあの女たちが許せないのである。
マスコミのベッドに、ぐでんと横たわって、素敵なことをいっぱいされている女たち。
あれは本当にいったいどうなっているのだ。
たとえば、『アンアン』とかの国内雑誌は言うまでもなく、各雑誌には必ずそれぞれお気に入りの女性たちというのがいる。
ファッションの特集を組んでも、インテリアの企画記事にも、必ずといっていいぐらい彼女たちは登場してくる。ヘタをすると、人生論なんかまでぶち始めるから、私は本当にいらだってくるのだ。
彼女たちの肩書きは、一応スタイリストとか、テキスタイルデザイナーとか、ライターとかいうことになっているが、その分野で有名な女は誰ひとりいやしない。彼女たちの特徴は、モデルといってもおかしくないぐらいの美貌《びぼう》ということで、どんなページに出てもちゃんと絵になるということだ。
「いいじゃない、彼女たちは美しいということで、ちゃんと利用価値があるんだから」
友人たちはそうやって私をなだめるけれど、えーい、腹が立つもんはどうしても腹が立つのだ。
私なんか『アンアン』のカラーグラビアに出るまで、何年かかったと思う? 苦節五年よ。一生懸命お仕事をして、業界のサクセス・ストーリーのヒロインと噂《うわさ》されるようになった時に、私は初めて編集部からお電話をもらったのだ。
私は嬉《うれ》しかった。カメラの前でも緊張しきって、でき上がった雑誌を見たら、ものすごくこわばった顔になっていたのを、今でもよく憶えている。
ところがである。私が出ている次のページをめくったら、また例の女がニッコリ笑っているのだ。
「私の好きなお店」とかいうタイトルで、本当につまらぬ文章を書いている。まあ写真は私と違い、はるかにものなれたきれいな微笑をうかべていたけどネ。
そうなんだ。こういう女は実生活でも男にべたーっといろいろされているに相違ない。
自分からなんにもしなくっても、男が、
「キミは最高だよ、カワイイよ」
なんて夢中でいろんなことをしてくれるのであろう。
そして、最近やっと私もわかったことなのであるが、マスコミというのもこういう男にそっくりな体質を持っているのだ。なんの根拠がなくても、ただちょっといい女ということだけで、しきりに雑誌というベッドに寝かせたがるのだ。
しかし、全国の女性の皆さん、かつての私のように、雑誌に自分の写真が出たら死んでもイイと思っている女性の皆さん、もう少し待っていておくれ。
私がきっと仕返ししてやるからね。
私はもっともっとガンバって、「根拠」をいっぱいつくろうではないか。そしてそれを持った女の底力で、あの女どもを居心地のいいベッドから追い出してやるからね。
みじめさは罪
去年の暮れあたりから、信じられないぐらいインタビューが多くなった。
最初のうちは私もはしゃいでいたから、来る取材はすべて引き受けて、多い日は二件ぐらいインタビューに答えていた。そしてこの時わかったことであるが、日本というのは実に雑誌が多い国なのである。とにかく聞いたこともないようなタイトルの雑誌が次から次へと郵送され、その後から取材記者たちが乗り込んでくる。
私は非常に意地の悪い人間であるから、彼ら、もしくは彼女たちの態度というのをかなりシビアに観察していたと思う。
ドキッとするほど頭のいい人もいたし、腹が立つほど飲み込みの悪い人もいた。それはたとえばメジャーといわれる出版社の編集者に関しても同じことだが、私ごときがそれについてエラそうなことを言うつもりはない。
しかしそうしているうちに、私はかなりおもしろい事実に気づいてきたのである。
私がかなり不愉快な思いをさせられる記者というのは、圧倒的に大手出版社のライターに多いのである。
今回取材を受ける立場になってよくわかったことなのであるが、同じ記者という仕事をしていても、その実態は大きく二つに分かれる。たとえば集英社なら、そこの正社員が直接記事をとりにくる場合と、集英社の仕事をしているプロダクションの社員、もしくはフリーのライターが取材にくる場合とがある。この違いは名刺の肩書きを見ればすぐにわかるのだが、とにかく大手出版社の編集者というのはやたら明るい。
「あたし、『ルンルンを買っておうちに帰ろう』を読んで、本当におかしくって……。今日はハヤシさんの取材に行くの楽しみだったんですよオー」
と、なんの翳《かげ》りもなく言いきるからこっちも気が楽だ。お世辞とわかっていても、一緒に何時間かをすごすのなら、このくらい言ってもらうと私も嬉しくなる。
それにひきかえ、フリーのライターというのはかなりの確率で暗い人間が多い。小さな雑誌をやっている編集者たちの、つつましやかなやさしさや、遠慮がちな愛嬌《あいきよう》というものも彼らにはなかったと思う。(すべてじゃありませんよ。確率、確率の問題です)
最初に雑誌社の名刺を出した後で、
「ホントはですねえー、僕はこういう編集プロダクションの方もやってましてねえ」
とあらためて別の名刺をくれた人が、三人のうち一人はいた。そこにはたいていは早稲田か新宿の住所が書かれていた。
そして、よけいなことを必ず一言、二言いっていくのも彼らの特徴だ。
「いや、僕はあの本、こんなに売れるとは思ってもみませんでしたね。今こういうものが若い人にウケるのかと思っちゃいましたよ」
「僕みたいなクロウトが読むと、わかるところがわかりすぎちゃって、ちょっとツライって感じもしないでもないですけれど、ま、売れればいいんじゃないですか」
結局、彼らの近親憎悪《きんしんぞうお》の標的になるのに、私は絶好の条件を備えているのだ。
まず彼らと同じ世代であること。そしてたった一冊の本で、たいした苦労もせずにマスコミの波に乗りつつあること。そして最後にこれがいちばん重要な点だが、彼らを感嘆させ絶望の淵《ふち》に追いこむような才能はなく、ただ運だけで光っているような女であること。
つまり彼らにとって、決して手の届かない場所に私はいるわけではないのだ。
「もう少しチャンスがあれば」
と彼らが思っている、「もう少し」の地位に私はちょうどいるわけなのである。
そして私も、彼らに非常に近しい感情を持っている。なぜなら私も六年前に、彼らと同じ世界に入ろうと思ったことがあるからだ。本来ならば私は、取材する側の立場にまわっても少しもおかしくない経歴をたどっているわけである。
だからそういう理解は十分持ち合わせているつもりだが、正直いって彼らの態度はカッコ悪かった。昔の私の姿とダブったせいもあるだろうけれど、痛々しくて見ていられなかった。
こういうみじめさに反発するのと同じ速度で、私は大手出版社の編集者たちと親交を深めていくことになる。
ふと気づくと両手の指にあまるぐらい、仲よしの編集者たちもできた。(私を囲む編集者の会というのもつくられたほどだ)
特に私が舌をまいてしまうのは、若い女性編集者たちの優秀さで、頭の鋭さといい、性格のフレキシブルなところといい、よくもこれだけの女性を見つけ出したとほとほと感心してしまう。おまけにみんなすこぶる美人なのである。
「お給料が安いんですよねえー。うちの会社は名前だけはエバってるけど」
などとしょっちゅうコボしているが、結構遊びのほうもお盛んで、いろんな店もよく知っている。はっきり言うと、私はこういう恵まれた人たちの明るさというのが大好きである。いるだけで周りの人の気分をさわやかにしてくれる屈託《くつたく》のなさというのを、私は人間の大切な美点と考えているのだ。
「つまり、私はメジャー路線の人間なのであります」
と私は、あるインタビューで公然と口にした。
「あー、そういうことをはっきり言っちゃうとマズイんじゃないですか」
この記者はどちらかというと、私の好きなメジャー側の人だが、ちょっと眉《まゆ》をしかめた。
「あら、どうしてですか」
「いやー、今の世の中で、私はマイナーな人間よりメジャーな人間の方が好きっていうのはどうもね。どちらかと言うと、地味にやっている人のほうにいい人がいますとかそういう言い方したほうがいいんじゃないですか」
「だって地味めの人に、性格悪い人って多いもん。特に七十年安保をひきずってるようなフリーの男って最低よ。取材をしにきたのになんでこんなに人につまんないことふっかけてくるのよって、私はかなり頭にきたことあるんだから……」
「ふうーん、そういうもんですかねえ」
「私はね、この頃お金と権力を持っている人を、ますます好きになったみたい。みじめじゃないってことは、それだけで素敵なんですよね。私の気分をHIGHにしてくれるし……。私はみじめなことや、それをしてる人たちって、『いい人だな』って思っても絶対に仲よくなれない性格みたい」
「ふうーん」
彼はいささかげんなりしたようにため息をついた。
「だけどきっと林さん、考え方が変わると思いますよ。そんなことずっと思ってる人いないと思うから」
「きっと十年後には私は違うことを言ってるでしょうね。『地道に生きている人の中に、本当のやさしさがある』なんてね。だけど私はまだ若いし、最近やっと思ってることを平気で口に出せる立場にのぼりつめたんです。その気持ちと入れ替わるまで、今のこの気持ちは変わらないと思うわ。あたり前のことだけどサ……。とにかくどんなに嫌な感情でも、持っちゃったものは仕方ないじゃないですか」
と私はふてくされて言った。
「東京遊民」とお茶は飲めないぜ
言っちゃあナンだけど、私はこの年齢の女の子にしては結構お金持ちのほうだと思う。
やろうと思えば、毎晩毎晩ドレスをとっかえひっかえ着て、六本木のパブで飲むということもできるような気がする。ちょっと他の部分を節約すれば、二か月ぐらいは続きそうな気がする。
しかし、私はあまり夜の巷《ちまた》に出かけたことがない。なぜなら私はことお酒に関しては、非常にケチなところがある。つまり、五、六人で飲みに行って私が勘定を払うという運命がくやしくてくやしくてたまらないのだ。しかし私はお金持ちだということを、常日頃《つねひごろ》からエバリたくてたまらない性格である。実際にそうしている。だから自然に、風でフワッと舞ってくるように、伝票が私のところへやってくるのをガマンしなければならないのだ。
おまけに、私は他人と三時間以上同席しなければならないのが苦痛と感じる体質にいつのまにかなってしまったようなのである。なぜなら人と喋《しやべ》る時、私は自分のことが話題の中心にならないと非常に不愉快な性格なのだ。それも「賞讃《しようさん》」とか「感嘆」という要素がないと困る。周りの人にも悪いとは思うのだけれども、こればかりは性格というよりは、すでに私の病気なの。先日などは他の女のことをみんながほめ出したとたん、お酒の味が吐き出したくなるぐらいまずくなってしまったのだから、相当の重症と言っていいだろう。
経済的なこと、疾病《しつぺい》のことなど、いろいろな暗い原因が重なり合って、私を夜の盛り場から遠ざけているのだが、それにしても不思議なのは、毎夜毎夜、ああいうところに出入りしている人種たち、あれはいったいどういう人間たちなのであろうか。
青山とか高樹町《たかぎちよう》の有名なバーに、たまには私だって行くことがある。するといつもそのテの人間たちと会うのである。
彼らは決して団体では来ない。一人、もしくは二、三人でひっそりと飲んでいるのであるが、とにかくやたら目立つのである。私はそれを「有名人光線」と名づけているのであるが、ふつうの人たちと違うオーラがキラキラと発せられているのだ。
先日は乃木坂《のぎざか》のクラブで、加藤和彦さんと安井かずみさんご夫妻をチラッとお見かけしたが、その光たるやすごかった。騒がしい店内十メートル向こうから、なにやら光り輝く物体が近よってきたナと思ったら、加藤さんご夫妻だった。あれは心理的作用がなせるわざであろうか。科学的に分析するとかなりおもしろいものだと思うけどな。
さて、私が酒場で見るオーラというのは、もちろんご夫妻のものとは比べものにならないぐらい弱いものであるが、それでも敏感な私が感じるのには十分な量だ。
「あ、今週の『ブルータス』にチラッと顔写真が出てた人だ」
「あ、『アンアン』のグラビアに出てた人」
なんという名前なのか、どういう仕事をしているのか、全く思い出せないのだけれどもそのテのマスコミにやたら出てきて、なんとはなしに知っている人々を、私は「東京遊民」と名づけている。
もちろん、よく記事を読めばミュージシャンとかイラストレーター、エッセイストなどという肩書きはあるのだろうけれども、そっちのほうの評価はあまり聞かないというのが彼らの特徴だ。
それにしても彼らのカッコよさはただごとではない。男だったらイタリアン・カジュアル、女だったら流行のボロルックをさりげなく着こなし、飲んでいるのだって特別に配合させたカクテルかなんか。店長を「ジュンちゃーん」となれなれしくよび、店内備えつけのバックギャモンに熱中している姿もサマになっている。
他の客、たとえばブティック勤務のブタネエちゃんたちに比べると、はるかに絵になっていることは私は認める。それなりに賞讃もしようではないか。
しかし、やがて私はイライラし始め、ついには胸がムカムカし始めるのである。
「いくら資本主義の世の中とはいえ、誰があいつらをのさばらしているんだ」
と怒鳴《どな》りたい気分になってくるのだ。
半会員制の霞町《かすみちよう》の小粋《こいき》なバー。今こうやって私がジントニックを飲めるようになるまで、私は六年かかっているのである。
コピーライターになりたての頃、私は初めて六本木のパブなる場所に連れていかれた。あの時のみじめなおじけづき方は、今でも悪夢でみるほどだ。自分の着ているカーディガンにスカートという姿に、まず私は気後《きおく》れしてしまった。ライブの音楽に合わせて、からだをちょっと揺らすというすべも私は知らなかった。ましてやフロアなどに出て踊ることもできなかった。その頃勤めていたプロダクションの男たちが、軽やかにステップを踏んで踊りまくっているかたわらで、私は一人で水割りを飲んでいたっけ。その頃おぼえ始めた煙草をやたらふかしながら……。
とにかく私がこういう場所に出入りできるようになったのは、ごく最近のことである。さまざまなつらいことを経て、私はなんとか一人前の人間になった。人さまからはとんでるキャリア・ウーマンとか言われる境遇になった。大理石でできたカウンターの上に軽くヒジをついて、
「ギムレット、ちょっと氷入れてネ」
など言うとき、本当にジワーッと涙が出るぐらい自分に胸をうたれてしまう。しかし、この私よりはるかに店でのさばっている連中が、いかんせん多すぎるのである。しかも私より目立って、はるかにサマになっているのだ。
そしてちょっと声をひそめて言ってしまうと、私は彼らがオッカなくて仕方ないのだ。その感情はもちろん畏怖《いふ》の念から来ているものではない。かといって軽蔑《けいべつ》しているわけでもない。軽蔑するには彼らはあまりにもわからなさすぎるのだ。
とにかく彼らが店に入ってきたりすると、私は急に目を伏せてオドオドし始める。けれども「こわいもの見たさ」という気持ちもあって、チラチラと横目で見たりするからよけい卑屈なポーズとなるようだ。
中にはたまに知っている人がいたりして、
「どうお、元気でやってるのォ」
と聞かれたりすると、
「ハ、ハイ、元気でやっております」
と頭を下げたりするから、酒がおいしくないはずよね。
元プラスチックス≠フスターで、現在はメロンというロックグループのボーカル、佐藤チカさんは、この「東京遊民」の女王的存在ではないかと私は思っている。とにかく過激なファッションと音楽センスで知られている彼女は、街で出会ってもいつもシャックリが絶対に止まりそうないでたちだ。彼女と私とは会えば挨拶《あいさつ》する程度の仲だけれど、私はとにかく彼女がオッカなくてオッカなくて困るのである。もちろん彼女が、そのドスがきいた声とは裏腹にやさしくて素敵な人だということはわかるけれども、私は恐ろしさのあまりあんまり近くに寄ったこともない。(ゴメンネ)
ファッションといい、言動といい、さわるとピリピリするような鋭い「美意識」が彼女にははりめぐらせてあって、それにいったん逆らうようなことをするやいなや、
「フン、ダサイ女、あっちに行けば」
というタンカが飛び出しそうな気がして仕方ないのだ。そんなことは言わないまでも、思われていそうな気がする。
結局、私のように自意識の強い人間にとって、自分より感覚のすぐれた人物は、耐えきれないほど息苦しさをもたらす存在になるのだ。その感覚の鋭さが私をめがけて飛んでくるナイフのように見える時さえある。そして私はいつも彼らに対して身構える。
なぜ佐藤チカのことをこれほど意識しているかと言うと、私の中で、彼女はある基準の役割りを果たしているのである。私の周りの人間で、
「やあ、チカ、元気してるのー」
とスウーッと彼女に入っていける人間と、そうでない人間というのは、はっきりと二分されるのである。そして私は、どちらかというと後者の方に親しみをおぼえる。私により近い感覚を持った人だと判断するわけだ。
とにかく彼女と私とは、全く異なる世界の人である。一緒に小さな仕事を一つしたこともあるし、共通の友人もずいぶんと多いのだが、おそらく彼女とはこれからもお茶一杯飲むことはないであろう。それは彼女自身も望んでいないはずだ。
しかし、どうしてもわからないことがある。彼女と私とは、どうしてこんなに違った人間になってしまったのだろうということだ。
私はある雑誌で、彼女の経歴を読んだことがある。「長野県〇〇高校卒」とそこには書かれていた。長野県と言えば、私の出身地山梨の隣りの県である。つまり彼女も、私と同じように「東京に生まれて、キディランド≠遊び場にしていた」女の子ではないことは確かなのだ。おそらく私が好きだった干し芋も食べただろうし、寒い地方だから冬には母親がこさえてくれた半纏《はんてん》のひとつも着ただろう。おそらく少女時代、私たちは、そう変化はなかったはずである。
いったいいつ、彼女はあのセンスを身につけていったのだろうか。
私にとってこの問いは、推理小説のような不思議さに満ちている。それをつきつめていけば、現在の私の田舎じみた小心さ、センスのなさというのが、どこから発生してくるかわかるはずなのである。
一度彼女に会って聞いてみたいと思いながら、彼女のあまりにも先鋭的なメイクやドレスを見ると、おどおどして声もかけられない私なのだ。
きっと彼女を見る私の目つきは、いつも女探偵のように違いない。
いつでも使用可の男
もう十年以上前の話である。友人たちと酒を飲んでいる最中に、私は、
「いくらダンナのものでも、私、男のパンツなんか絶対に洗わないワ」
と何気なく口に出したことがある。
そのとたん、男の子たちの表情が変わったのにはびっくりした。
「ヤな女だな、キミって」
一人の男の子が強い口調で言った。
「キミみたいな女と、僕は絶対に結婚しないぜ」
彼ばかりでなく仲のいいコたちまで口々に、
「マリちゃん、そんなことを言ったらお嫁に行けなくなっちゃうぜ」
「他の男の前で、絶対にそんなことを言っちゃダメだよ」
などと言い出したのだ。
ちょっとウケようと思った言葉が、思わぬ展開を見せたので、私は泣き出したくなったが、持ち前の意地っぱりな性格から後にはひけず、
「だって本当にそう思うんだもん。男の人のパンツなんて汚いんだもん」
と言い張って、座はさっと白け始めた。
その時、親友のY子が、まあまあといった感じでとりなし始めた。
「Y子ちゃん、キミはどう思う? 結婚してもダンナのパンツを洗わないつもり」
非常に真剣なおももちで、男のコの一人が聞いた。
「あたし? あたしだったら頭からかぶっちゃうわよ」
Y子はおどけた調子で言って、たちまち爆笑がわいた。
この一件は今でも憶えているぐらいだから、かなり強い印象を私の中に残したようなのだ。
つまり、あの当時の私のウリ≠ヘ、ヴァージニティということであって、今の言葉で言えば、完全に私はブリッコ≠オていたのである。
「私、男の人まだ知らないの。だからコワイの。パンツ洗うなんてとんでもないわ」
などというアピールを、私は男の子たちにしきりにしていたのであるが、Y子の女ぶりに見事敗退したわけだ。事実Y子は、その頃少なくても片手の数の男たちと、スッタモンダしていたはずである。
そして私が、このことによって学んだことは、青くさい女の潔癖さなんていうものよりも、男を知った女の暖かさのほうが、はるかに魅力的だということだった。
ホントにもっと早くそのことがわかっていたら、私ももっと男に愛される女になって違う人生を歩んでいたかもしれないわ。
しかし、あれから歳月は流れ、女として私もかなり成長しました。頭からかぶらないまでも、惚《ほ》れた男のパンツぐらい、嬉々《きき》として洗いましょう。(まだやったことはないけどね)
そして、私は少女時代とはまた違った観点で結婚に憧《あこが》れ始めたのである。
とにかく、私は男につくそうではないか。その替わり、私の愛情≠拒否することは許さない。それが夫婦だと私は信じている。
あんまり大きな声では言えない計画ではあるが、私は人妻になったらうんとインランになろうと心に決めているのだよ。もちろん、私は夫によってインランにしてもらうつもり。
他の女はどうだかしらないけれど、私は独身のうちにあんまりソレを知ってしまうことにすごく不安があるのだ。なぜなら恋人というのは、ひどく気まぐれな関係であるから、ある日突然打ち切りというのも十分考えられることだ。その際盛り上がった当方としては、次の男を探して右往左往しなければいけない事態に陥るのではないか――。いつも私にはそんな一抹《いちまつ》の不安があって、いまいちのめりこめないのである。
そこにいくと、夫婦というのは継続の状態でしょう。当然こちらからいくらでも要求できるのではないかと、私としては考えるわけだ。
恋人には「お願いします」とは言いづらいけれど、自分の夫には百回ぐらい言えそうな気がする。そして夫だってそう簡単に拒否できないような気がする。
わー、いいな、いいな結婚って。明日にでもしてみたいな。
「うーん、大胆な意見だけど、ちょっと甘いんじゃないかな」
結婚六年という私の友人。
「キミはさ、夫婦っていうのは毎晩するもんだと思ってるらしいけれど大間違いさ。オレなんかにしても、カカアなんかとヤル気しないもん。いろんな雑誌を見てみろよ。欲求不満のおばさんたちのオンネンたるやすごいじゃないか」
フン、そんなもんわかってますよーだ。
男のああいう言い方って、本当に辛辣《しんらつ》だもんね。
「ネグリジェ姿の女房が、ねっとりした目つきでしなだれかかってくることぐらいゾッとすることはない」
「自分の女房なんかと誰が寝るか」
などと男性は勇ましいことをおっしゃっているけれど、あれは半分本当、半分は照れだと思うね。
男の場合、「夫婦がセックスをする」ということ自体かなりの恥ずかしさを持っているようだ。つまり「女房しかヤラさせてくれない」というふうにとられやしないかと男は恐れているようなのだ。
現に、私の知っている妻帯者は、
「先週、女子大生とホテルに行ってね……」
などと得々と話してくれるけれど、
「夕べ女房を喜ばしてやってね」
とは誰も言いやしない。
また男というのはすごいミエっぱりだから、
「とにかく仕事が忙しくて、とても夫婦生活なんて……」
という言葉をいつも用意しておきたいようなのだ。もちろん、私とて男の中に混じって仕事をしている女だから、そのへんの事情はよくわかる。だけどパーフェクトには信用してないぞ。だって仕事でよく一緒に徹夜したあるデザイナーなどは、
「カンテツ(完全徹夜)すると、男は異常に興奮するのよね。もう誰でもいい! マリコ、やらせろ」
とか言ってとびかかってきたもん。(もちろん冗談で、せいぜいスカートをめくるぐらいでしたけどネ)
まあ私だって、男の人というのがそんなにタフでないことをよく知っているから、そんなにスゴイことを要求しようと思っているわけではない。結婚したからといって、なにも毎晩ナンカしてもらおうなどと大それたことは考えない。
まあ私の理想としては、新婚当初はできる限り数多くコトを持ちたい。そうでなかったらどうして結婚なんかするのだ。
それ以降は、そう無理なことは注文しません。
ただ、私の傍にいつでも使用できる男が横たわって眠っている。しかもその男は法律的にも、私だけが使用可(一応)となっている。
その安心感だけで私は満足できるような気がするのだ。
どんなに愛し合った夫婦でも、いつしか倦怠《けんたい》や憎しみがしのびよっていく。そんな真実を私だって百も承知だ。しかし、私は典型的なデジタル思考の持ち主だから、そのことについて失望したりはしない。
長い人生でいっときだけでも芝居じみた幸せな時があればよいのである。新婚生活の思い出だけで、世の大部分の夫婦たちは何十年ももっているではないか。
だからこそ、ああ私は結婚したい。
著者あとがき
この一冊を書くのは、とにかくシンドかった。
前作を出版して以来、猛烈な忙しさが私を襲ったこともあったけれど、「文を書く」「創作する」ということに、早くも私は飽き始めていたのだ。
文章ではエラそうにいろいろ書いているが、私は生まれつき怠惰な女である。ラクなこと、楽しそうなことに、心とからだがまわれ右≠オてしまうのは生まれつきである。新しく友だちになったマスコミ関係の人たちとキャッキャッ遊んだり、有名人と対談したり、テレビやラジオの番組に出たり、といったことの方が遥《はる》かに私の心をとらえてしまった。ひとり真夜中に原稿用紙に向かい、ペンを走らせるという作業がイヤで、イヤで、私は逃げまわってばかりいた。
この本は、私のそのへんの心理状態がかなりはっきりとあらわれている。私は以前ある場所で、
「私は探検隊長となって、有名人の世界に入り込む。そしてそこがどんなとこか、ふつうの女の子たちにレポートします」
などと発言したことがあるが、はからずもその色彩がたぶんに強い一冊となったようだ。
少女時代からの私の記憶を掘りおこし、ドジでグズだった田舎の女の子が、東京に出てきてささやかなサクセスを手に入れるまでの愛のありさまを中心に、私はかなり正直に書いたつもりだ。最初にのべたように、かなり華やかな現在の地位を手に入れた後の、私のイヤらしさ、弱さ、野心もここでは隠していない。
従って『ルンルンを買っておうちに帰ろう』とは、かなりトーンが違った本になってしまったようだ。これがみんなに受け入れてもらえるかどうかは私にはわからない。
だけど、これだけは言っておきたい。
私にはもう二度と『ルンルンを買っておうちに帰ろう』は書けないだろう。今あれを書いたら絶対に嘘になる。それほど私は変化したのだ。
一九八三年六月一日
角川文庫『夢見るころを過ぎても』昭和61年1月10日初版刊行