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ロストワールド
林 真理子
目 次
第 一 話 聖 夜
第 二 話 形 見
第 三 話 制作発表会
第 四 話 回想その1 一九八六年
第 五 話 朝焼け
第 六 話 回想その2 一九九〇年
第 七 話 うわさ
第 八 話 古 都
第 九 話 東 京
第 十 話 回想その3 一九九〇年
第十一話 打ち上げパーティー
第十二話 最終回
第十三話 緑 風
[#改ページ]
第一話 聖 夜
どこかにひっかけたからと言って、日花里《ひかり》が白い絹編みのセーターを差し出した。
「明日これ着ていきたいから、絶対に直しといてね」
右|肘《ひじ》の上のあたり、毛糸がひっ張られて穴がのぞいている。目を凝らさなくてはわからない大きさであるが、日花里は我慢出来ないらしい。十歳の娘の、洋服に対する執着や几帳面《きちようめん》さに沢野|瑞枝《みずえ》は時々うんざりとすることがある。ソックスも汚れたからといって、朝、昼、晩と三回|穿《は》き替えることがあった。
友人に言わせると、これは幼い頃ベビーシッターに育てられ、自分を構ってくれなかった母親に対する代償行為ということだ。手をかけさせることで母親の自分への愛情を確かめようとしているという。
が、瑞枝には別の見方があった。娘のこの洋服へのこだわりは、まさに父親譲りなのだ。別れた夫もまた自己愛の裏返しのような衣装道楽であった。多分あと二、三年もすれば娘の要求はさらに強く、こと細かくなっていくはずだ。
その日のことを考えて、瑞枝はやれやれと苦く笑う。杞憂《きゆう》というよりは、娘の成長を楽しみに思う気持ちからだ。
このままうまくいけば、日花里はかなり美しい娘になるはずであった。物書きの女独得の醒《さ》めた目で、瑞枝は時々日花里の顔を点検する。睫毛《まつげ》の長い大きな目は自分がそっくり与えたものだが、笑うとめくれて見える厚ぼったい唇は父親のものであろう。昔だったら悩みの種になったかもしれない唇であるが、今の時代は個性的とか愛らしいとか言われるはずだ。
そうした娘のために、セーターを繕ってやったり、ソックスをまめに洗うことぐらいどんなことがあろうか。
瑞枝が裁縫箱を取りに行こうと立ち上がりかけた時だ。居間のファクシミリがリリと受信の音をたてた。四年前、連続ドラマの仕事が入った時にふんぱつして入れた営業用ファクシミリは、紙を吐き出すスピードも大層早い。
瑞枝はまず一枚目を取り上げた。発信元は品川シナリオスクールとある。
「四月からの講師をお引き受けいただきまして、ありがとうございます。講師紹介のプロフィールをお送りいたします。訂正がありましたら十二月二十四日までにご連絡ください」
二枚目の紙片を、瑞枝は全く他人《ひと》ごととして読む。
「沢野瑞枝 本名も同じ。横浜生まれ。立教大学文学部史学科卒業。出版社勤務、フリーライターを経て当校に学ぶ。一九九二年シナリオコンクール入選作の『キラキラ星たち』でデビュー。現代を描く女流脚本家としてヒット作多数」
自分のプロフィールには幾つかの誤りがあると瑞枝は思った。誤りというよりも虚偽といった方がいいかもしれない。
出版社勤務とあるが、瑞枝は一度もそんなところへ所属したことはなかった。瑞枝が学校を出た年も出版社は大変な競争率で、大手はもちろん中堅どころと呼ばれるところまですべて瑞枝は落ちてしまった。幸いなことに大学の先輩が女性雑誌に勤めていて、データーを取ったり、読者の応募ハガキを整理したり、といったような半端仕事をくれた。それがやがて原稿を書くフリーライターへと発展していくのであるが、脚本家としてデビューする際、出版社勤務の方が聞こえがよいということで誰かに入れ知恵された。いちいち確かめる人もいないということがあり、そのまま使っている。
もっとひどいのはヒット作多数≠ニいうところかもしれない。
ちょうど女性脚本家がブームになり始めた頃であったから、三十二歳でデビューしてからはとんとん拍子でことが運んだ。次の年にはゴールデンタイムではなかったものの、連続ドラマの仕事をもらえたくらいである。二人のOLを主人公にしたそのドラマは、平均視聴率が一七パーセントというまずまずの数字を上げ、瑞枝は「テレビ界の新世代」などと言われたものだ。テレビ雑誌から取材を受けたり、三つの局のプロデューサーから打診があったりしたのもこの頃である。
「大ヒットはむずかしいものの、そこそこの数字はとれる脚本家」
という定評が出来かかったのであるが、次のドラマは大失態を演じた。視聴率がひとケタすれすれのところまでいったのである。この時は現場のスタジオの雰囲気も最悪で、まだこの世界に入って日の浅い瑞枝には耐えられないことばかり続いた。プロデューサーから脚本を何回も何回も書き直すように言われ、真夜中にしょっちゅう呼びつけられたものだ。
「瑞枝ちゃんのおかげで、こんなに苦労して痩《や》せちゃったよ。慰めてくれても悪くないんじゃないの」
あからさまに肉体関係を要求されたこともある。
口惜《くや》し涙をさんざん流した後、次に手に入れたスペシャルドラマ枠で、今度は二〇パーセントという高視聴率が出た。が、一度きりのドラマだから人の記憶にはほとんど残っていないはずだ。
六年間で単独のものを含め、五十本ほどのドラマを書いてきたが、三勝七敗といったところであろうか。とてもヒット作多数≠ニいわれる脚本家ではないのだ。
ヒット作多数≠フ脚本家だったら、どうしてシナリオスクールの講師などするだろうか。この半年というもの、どこのテレビ局からも連絡がないのだ。
数年先のスケジュールまで決まっている大物は別として、瑞枝クラスの脚本家だったら、ひたすらプロデューサーからの電話を待つしかない。この半年、二回ほど彼らと食事をしたけれども、どれも仕事と結びつくものではなかった。注文が来ない脚本家というのはみじめなものだ。二年前中規模のヒットが出たドラマをノベライズした時の印税が少し残っている。次の仕事が入るまで、その貯金で喰《く》いつなごうと思っていたのであるが、どう考えても無理なことがわかった。
昔からつき合いのある編集者に頼み込んで、タレント本のゴーストライターやリライトをしたが、それもしょっちゅうある仕事ではない。仲間うちで飲んでいる時に愚痴をこぼしたら、ひとりが講師の席を譲ってもいいと言い出した。来年からNHKの朝の連続ドラマを書くので、とてもそんな余裕が無くなったそうだ。
業界うちでシナリオスクールの講師というのは、ツイていない脚本家が意志的に引くトランプのババのように言われている。ツキがめぐってこないうちは、とにかくこれを手におとなしくしているしかない。少なくとも何とか食べていくことは出来る。
そしてやがてチャンスがめぐってきたら、大急ぎで掌《てのひら》のカードを誰かに引かせるようにすればよいのだ。
瑞枝は自分のプロフィールが書かれたファクシミリ用紙を見つめる。おそらくテレビ局か雑誌社の資料を見てつくったものであろう。ということは沢野瑞枝という脚本家のファイルは、そこかしこに出まわっていることになる。けれども今度も自分は選ばれないのであろうか。プロデューサーの頭から、自分のファイルは完全に消されてしまうのであろうか。
瑞枝はファックス機の上に貼ったカレンダーを見上げる。12という数字と北欧の雪景色を撮った写真がいかにも寒そうであった。四月の番組改編時に向けてそろそろテレビ局が動き出す頃である。バラエティやニュースが増えない限り、一週間に二十四か二十五のドラマがつくられるはずだ。そのうちNHKの大河小説や時代劇といった絶対に声がかかるはずもないものを除けば、瑞枝のチャンスは十八といったところであろうか。十八人の中にさえ入れば、瑞枝は半年間脚本家として生きることが出来るはずである。
瑞枝はあと十日間待ってみようかと考える。ちょうどクリスマスイヴの日である。幸運が起こってもいい頃であった。
「ねえ、お母さん、クリスマスに何を買ってくれるの」
「そうねえ、コートかセーターっていったところじゃないの」
「そんな、コートとかセーターなんてさ、買ってくれてあたり前のものじゃない。そんなのよりさ、ワンピース買ってよ。うんと可愛いバッグとお揃いのやつ」
こんな時、日花里は唇をとがらせる。誰に教えてもらわなくとも、ものをねだる時は生意気にしかも可愛らしくすることだとよく知っているのだ。そんな時、日花里の少女の殻はするりとむけて、中から不意に生々しいものが顔をのぞかせる。
「亜美ちゃんみたいなのが欲しいよ。亜美ちゃんはセンスいいよ」
日花里は近くの公立小学校に通っているのであるが、同級生の中に私立を落ちてこちらに入学してきた派手《はで》なグループがあるらしい。
「亜美ちゃんはね、ヒロミチ ナカノ キュート着てるんだよ。ラルフ ローレン ガールズとかさ、バーバリーも買ってもらうんだよ。すっごく可愛いよ」
「亜美ちゃんのうちはお金持ちなんでしょう。だからブランド品もいっぱい買って貰《もら》えるのよ」
瑞枝はうんざりとして娘をたしなめながら、十歳の少女が着るものもやはりブランド品というのかと奇妙な気持ちになる。
「あのね、うちは今、ちょっと景気悪いの。お母さん、仕事したくてうずうずしてるんだけどさ、なかなかうまくいかないのよ。だからさ、何もしないっていうことはないけどもね、今年のクリスマスにすごい期待をされると困っちゃうわ」
母子家庭独得のあけすけな物言いは、最近成功することばかりとはいえない。娘の顔がたちまち曇っていくのがわかった。
「ねえ、お母さん、うちはそんなに貧乏なの。クリスマスに、本当はものを買って貰ったりしたらいけないんじゃないの」
「そんなことないったら」
瑞枝はわざとのけぞるようにして笑った。
「ほら、昨年さ、お母さんが書いた水曜日の『今夜は帰らない』憶《おぼ》えているでしょう」
「あのドラマ、あんまり見ちゃいけないって言ってた」
「そうだったかしら。ま、いいや。あのね、あのドラマ、すっごくたくさんの人が見ていたの。そしてね、あのドラマをお母さん、小説にしたの。そしたらとっても売れたのよ。ビデオにもなってお金が入ってきた。だからね、お母さんが一年、二年仕事をしなくっても、どうということはないのよ」
本当にそうだったら、どんなにいいだろうかと瑞枝は思った。
「日花里、ご飯を食べに行こうか」
瑞枝はリモコンのスイッチを切った。三十二インチのテレビの画面では、若い女が泣きながら男に愛を訴えているところであった。あざとい場面ばかりで構成しているこのドラマは、現在視聴率のトップを独走している。酒を何度か一緒に飲んだことがある若い女性脚本家が書いたものだ。
やはり今の瑞枝には、他の人間が書いたドラマを見るのは耐えられそうもない。
「いつものファミレスじゃないよ。今日はお母さん、おごっちゃう」
「えっ、どこいくの」
「カジキ亭のハンバーグにシーフードサラダ。ポテトサラダだっていいよ」
「やったーっ」
日花里はガッツポーズをとる。瑞枝は料理をつくるのが何よりも苦手だ。
日花里がもっと幼い時は、料理もしてくれるベビーシッターに来てもらっていた。自分でつくるぐらいなら今でも近くのファミリーレストランへ出かける方を選ぶ。瑞枝の懐具合と機嫌がよければ、駅前の商店街の中にある洋食屋へ行くこともあった。
今日はそちらの方にするというので、日花里はすばやくコートを羽織る。昨年買った紺色のダッフルは、大きめのものを選んだのであるが、袖《そで》からセーターの手首がにゅっと出ている。やはり新調しなくてはならないだろう。
脚本家というのも芸能人と同じ水商売だ。仕事が順調で視聴率もぐんぐん上がっていく、取材費という名目で約束の脚本料にさらに上乗せしてもらう、ノベライズが売れて印税が入ってくる、などという時は、当然気が大きくなってくる。娘のコートなど百枚買ってもいいと思えるほどだ。
けれども今の自分は、確かにツキに見離されているのかもしれないと瑞枝は思った。娘のコートの小ささにしんみりとするようでは、これはかなり気持ちがまいっている証拠ではないか。瑞枝はさあ、行くよ≠ニ大きな声で呼びかけた。
「あのさ、お母さん、今夜はビール飲んでもいいかな」
「ダメっていったって飲むくせに」
「お、言うね。そこまで読まれてるならビールじゃなくてワインにしようかな」
「お母さん、ノリやすいよね。ワインだなんて。すっごいミーハー」
娘の憎まれ口に何か応《こた》えようとした時電話が鳴った。居間の電話ではなかった。
電話の呼び出し音は、ソファの傍に置いた瑞枝の大ぶりのバッグから聞こえてくる。さっきその中から財布とハンカチを取り出し、普段使いの布のバッグに移し替えた。手帳や携帯電話といった嵩高《かさだか》いものは元のバッグの中に入っている。それが鳴っているのだ。
瑞枝が携帯電話を持ったのは昨年のことだ。連続ドラマの仕事が入った時、どうしてもとプロデューサーから持たされた。今は専《もつぱ》ら日花里との連絡用に使っている。日花里がここにいるということは、電話は違う人間からかかっているということだ。が、自宅の電話番号を知っている者はいても、携帯電話の番号を知っている者はそう多くはない。若い人と違って、そうめったに番号を教えたりはしなかった。
「もし、もし、沢野さんですか」
耳に飛び込んできた女の声には記憶があった。マスコミ業界に働く女特有の、早口でやや狎《な》れ狎《な》れしい口調だ。
「私、ニュー東京テレビの奥脇ですけど」
「ああ、文ちゃん……」
テレビ業界では一回仕事をすると、たいていちゃん≠テけで呼び合う。ましてや若い女性プロデューサーで苗字《みようじ》で呼ばれる人間がいたら、相当人気がないと思わなければならない。
奥脇|文香《ふみか》は一本立ちして四年めのプロデューサーである。昨年の春、二時間のスペシャルをつくった仲だ。ドラマの演出をするディレクターに女性は少ないが、ドラマの企画をするプロデューサーはもっと数が少ない。役者の配役をめぐって、芸能プロダクションと駆け引きを繰り返すプロデューサーという仕事は、女性にとってかなり過酷なものであるはずだ。
けれども奥脇文香は、三十歳という年齢には見えぬほど落ち着いた態度で、さまざまな場面に立ち会っていた。テレビの世界に多い、はしゃいで上滑りのところもない。そうかといって偽悪めいたことも口にしない。
ドラマをつくっている間には、嫌なことも幾つか経験したり争いもあった。けれども瑞枝の中で、文香は好ましいプロデューサーのひとりとして記憶にある。
大手のテレビ局の中には、人間的に欠陥があったり、性格異常としか思えない男のプロデューサーが何人かいるものだ。中には大物と呼ばれる者がいるから始末に困る。若い女性脚本家を必ず口説くのが趣味の男がいて、瑞枝も何年か前|強姦《ごうかん》寸前のめに遭ったことがあった。
女性脚本家にとって、自分を認めてくれて、しかも質の高い女性プロデューサーと組めるということは、大きな僥倖《ぎようこう》というものだ。
「ねえ、沢野さん、ちょっとお話ししたいんだけどいいかしら」
プロデューサーからこう電話があったら、それは仕事の話と思って間違いはなかった。
「ええ、もちろん」
こういう時、瑞枝は決してもったいをつけたり演技をしたりしない。喜びを声で表す。
「私、いつでもどこへでも行くわ」
「早い方がいいの。明日かあさって食事をしませんか」
「私は明日でもあさってでもいいけれど」
「それじゃ早い方がいいわ。明日にしましょう」
時間は夜の七時、食事はイタリアンでいいかと文香は重ねて問うた。
「広尾《ひろお》の愛育病院の近くのお店よ。沢野さん、まだ行ったことないかしら」
「あるわけないじゃないの。この頃はずうっと家にいていいお母さんをしていたの。すっかりくすんでしまって、広尾なんて聞くと怯《おび》えちゃうわ」
「よく言うわよ。急にいいコぶっちゃって……」
文香は笑った。受話器の向こうから、テレビ局の空気が伝わってくるようだ。軽い感触の、少々意地悪気な口調はあの世界独得のものだ。ああ、なんていいんだろうと瑞枝は思った。この世でいちばんいきいきとしていてざわめいている場所。自分は再びそこへ手招きされようとしているのだ。
「明日はまだ二十二日で火曜日だから、クリスマスのカップルたちも来ないと思うの。詳しい地図はファックスで送るわ。あ、沢野さんのファックス番号、昔と変わらないわよね」
文香にとって、昨年のことはもう昔と表現されるのかと瑞枝は何やら可笑《おか》しくなった。
「それじゃ、明日、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
最後はややあらたまって電話を切った。ドアの前では日花里が顔をかすかにこわばらせてこちらを見ている。前からよくこんなことがあった。電話の打ち合わせをしていて、ふと顔を上げるとこんな表情をして娘が立っていた。いったんドラマの仕事が始まると母親には朝も晩も無くなる。夜中でも電話一本で呼び出されることがある。幼い頃はベビーシッターが来てくれたけれども、この頃はひとりで留守番をしなくてはならない。またそんな日々が始まるのだろうかと、日花里の目は不安に満ちている。が、仕方ない。娘の目をせつないと感じながらも、母親の幸福は確かに別のところにあった。瑞枝はにっこりと笑いかける。
「日花里、どうやらお母さんにちょっと早めのクリスマスプレゼントが来るみたい」
文香の指定したレストランの前には、大きなクリスマスツリーが飾られていた。せわしなくイルミネーションの色が変わる。まるで来る客を威嚇《いかく》するかのような大きさと光であった。
扉を開ける。どうやら奥行きのある店らしい。思っていたよりもはるかに内部は広かった。ダイニングルームの真中にはやはりツリーが飾られていたけれども外よりもずっとおとなしい。ありきたりの人形やつくりものの雪が飾られ、光る装置はなかった。
黒服の男に文香の名を告げると、奥の席に案内された。男の後に従《つ》いて瑞枝はツリーの傍を通る。何と有名人が多い店だろうかと瑞枝は驚いた。入口近い窓際には、年配の監督と女優のカップルがいた。ツリーの横でワインを飲んでいるのは若手の歌舞伎《かぶき》役者だ。名前は思い出せないが、涼し気な顔はすぐにわかった。
その隣のテーブルには、名バッターから転向したばかりの野球評論家がいる。隣にいる女はバラエティ番組のアシスタントクラスの若いタレントだ。この真冬に大丈夫かと心配したくなるほど胸開きの大きなワンピースを着ている。
時々イタリアンの店で、入口に前菜の皿を並べているところがある。客たちは席に着くために、子牛のカルパッチョやイカのマリネの前を通り過ぎ食欲を刺激させられるという仕掛けだ。有名人たちはこの店にとってどうやら前菜のような役割をしているらしい。奥まった席ではなく、通り路のまわりに具合よく配置されている。瑞枝にとってこれはなかなか効果があることであった。食欲が増すことはなかったが、少なくとも喉《のど》が渇いた。
「何かお飲みになりますか」
と男は尋ね、ビールを頂戴《ちようだい》と瑞枝は言った。
食前酒にビールというのは昔から瑞枝のやり方だ。気取ってキールロワイヤルだ、シェリーだのと言っていたこともあったけれど、甘ったるくて性に合わないということもあった。
もうじきやってくる文香は確かに大切な相手であるが、待つ間ビールを飲むことぐらい許されるであろう。何といっても文香は自分より七歳も年下なのだから。
運ばれてきた小瓶のビールをグラスに満たしながら、瑞枝はあたりを見渡す。中の上、といったところの店であろうか。銀座あたりにある接待用の豪華イタリアンとは違い、味本位で食べさせる店に違いなかった。舌の肥えた有名人たちを集め、客種はとてもよい。おそらくいまいちばんしゃれた店なのだろう。文香がこの店を選んでくれたことに、瑞枝は素直に感謝していた。場合によっては局の喫茶店に呼びつけられることもある。最初から金を遣ってくれるということは、その後も遣ってくれるということであった。
約束の時間を十分過ぎた時、文香が姿を現した。しばらく会わない間に、彼女は少し肉づきがよくなったようだ。黒いパンツスーツといういでたちであったが、太腿《ふともも》のあたりがむっちりしているのが布の上からでもわかった。
しかしそれは文香の美貌《びぼう》を損なうものではない。以前からニュー東京テレビの奥脇文香といえば、誰もがあの美人ねと頷《うなず》くほどだ。普段の彼女は裏方に徹して、ほとんど化粧もしていない。身なりもわざとそっけなくしているぐらいだ。テレビの世界で働く女の共通の悩みであるが、不規則な生活のために肌がかなり荒れてきたことは確かで、
「文香もかなり器量が落ちてきた」
と悪口を言う者もいるが、瑞枝はそうは思わなかった。今の文香は、三十歳という年齢を迎えた女の輝きと力強さとが、ちょうど皮膚を抜けて外に出ようとしている最中に見える。仕事に自信を持つ女のふてぶてしさが、口のあたりに見え隠れするがその風情も悪くない。
「遅れちゃってごめんなさい」
まずわびを口にした。彼女に限らず、ニュー東京テレビは、時間にとても正確だという社風めいたところがある。
「そんなことない。私もさっき来たところよ。お先にビールいただいてるけどいいかしら」
「もちろん。私も同じものをいただくわ」
文香のビールが運ばれてきて、二人は儀礼的にグラスを合わせた。
「久しぶり」
「こちらこそ。文ちゃん、ちょっと会わない間にまた綺麗《きれい》になったわね」
「そんなことない。年中髪の毛ふり乱してるから男からも見離されている」
そういえば昨年一緒に仕事をしていた時は、フリーランスのプロデューサーと同棲《どうせい》をしていたはずだがどうなっていたのだろう。尋ねてみようかと思ったがやはりやめた。いずれにしても一緒に仕事をすれば、そんなことはすぐにわかることだ。文香のいる世界で、私生活をあからさまにしないのは悪徳のように言われているのだから。
男がメニューを持って近づいてきた。二人はそれぞれ自分の好みの食べ物を選び出したが、メインディッシュは魚ということで一致した。あまりビールばかりだとお腹いっぱいになるということで、文香はリストを眺め北の方の白ワインを選び出した。その行為のなめらかさは一年前にはないものであった。
「私もね、沢野さんと同じでビール大好きだったんだけど、やっぱりブームには弱いのよねえ。時代に抵抗出来ないっていうのかなあ、この頃よくワイン飲んじゃうの。我ながらこの性格悲しくなるわよ」
二人は同時に笑い声をたてた。
「それにしてもこの店、随分有名人多いのね。さっき入口近いところで、向井監督と遠山洋子を見たわ」
「ええ、私も挨拶《あいさつ》した」
「この店出来たばっかりなんでしょう。どうしてこんなに有名人ばっかりなんだろう。よっぽどおいしいのね」
「あのね、この店バッピーノ≠ノいたスタッフをごっそり引き抜いてつくったのよ」
バッピーノ≠ニ聞いて瑞枝はすべてを合点した。バッピーノ≠ヘ単なる老舗《しにせ》のイタリアンレストランというのでなく、芸能人、文化人のサロンの趣があった。昭和三十年代、日本人がピザもスパゲティも知らなかった頃、イタリアに留学した大金持ちの男がつくったものだ。
深夜まできちんとした料理が食べられるということもあり、仕事や遊び帰りの芸能人でいつも満席であった。美しい女優を連れた財閥の御曹司《おんぞうし》、ほっそりとした混血青年と、テーブルの下で手を握り合って食事をしている男色の有名作家……十年前の垣間《かいま》見た光景が不意に浮かび上がってくる。
そういえば席に案内してくれた中年の黒服の男をどこかで見たことがあると思った。そうだ、バッピーノ≠フ給仕長だ。常連の客たちと短い言葉をかわしながら、うまく彼らの我儘《わがまま》をさばいていたあの男は、白髪をもう少し減らせば当時のままだ。
「ねえ、沢野さん、来年の予定どうなっているんですか」
瑞枝の追想をたち切るように、文香がいきなり本題に入ってきた。
「予定は何もないわ。母子二人食べるのに困っちゃうから、シナリオスクールの講師でもしようと思っていたところ」
「沢野さんクラスの人でも、そんな淋《さび》しいことを言う世の中なんですよね……」
冗談でしょうと、笑って打ち消してくれるかと思ったのに、文香はしんみりとしたため息をつく。
「私がこの世界に入った頃は、脚本家の時代なんて言われて、脚本家の名前で数字が取れたんですよね。いい脚本貰《ほんもら》えれば、いいドラマがつくれました。だけど今はそうじゃない。脚本も演出もたいしたことなくても、人気アイドルを出せばいくらでも数字取れるんですよ。人気のある人たちを順列組み合わせで主役にしたり、ライバルにしたりする。彼らのスケジュールをまず押さえたもの勝ち。それから企画立てて、脚本家を決める……」
「もういいのよ、文ちゃん。私たちの愚痴をプロデューサーのあなたが言わなくたっていいのよ」
「でもね、沢野さん、やっぱりこのままじゃ、私、いけないと思うんですよ」
きつく唇を結んだ文香を、本当に美人だと瑞枝は思った。
文香は無造作に床に置いたバッグを持ち上げる。プラダの黒いナイロンバッグは、資料が入っているのかぱんぱんに膨れ上がっていた。
「沢野さん、企画書持ってきましたから読んでください」
文香がそれを出すとしたら、多分デザートの頃だろうと思っていたのであるが、彼女は前菜の皿がまだ片づけられていないテーブルにそれを並べる。
彼女は以前から企画書をきっちり書くことで有名であった。プロデューサーの中には、たった一ページしか書いていない紙片に原作を添えて持ってくる者がいるが、彼女は十ページ近く書く。どうやら最初についた先輩に、企画書の書き方を徹底的に叩《たた》き込まれたらしい。原作がないオリジナルな企画だったら、ドラマの大まかな筋立てまで組み立ててくる。
ホチキスで止められた一ページめに、
「三十代の男と女。初めてのノスタルジアが始まる」
という見出しがあった。この後は散文的な企画意図が続く。
「十年前、この国にはバブルという華やかな時代が存在していた。信じられないような金が動き、人々は無邪気に快楽へと身を投じていった。
永遠に続くかと思われたあの喧騒《けんそう》の夜。当時青春時代をおくった人々は、今、中年の入口に立とうとしている。あの日々はいったい何だったのか。青春と、狂乱の日々がぴったり重なる人々にとって、ノスタルジアという行為はさらに苦いものになるのだろうか。
このドラマは、三十代の終わりを迎えようとする男女をとおして、時代のうつろい、もう若くない者の恋などを描いていきたい」
次のページをめくる。
「主人公の女性は、三十代で仕事を持ちひとりの子の母でもある。彼女にはかつてバブルの寵児《ちようじ》と呼ばれた男性と愛し合った過去がある……」
瑞枝は驚いて顔を上げる。目の前にほんのわずか唇をゆるめた文香がいた。マニキュアもせず爪を短く切った指が、心持ち不安気に白いテーブルクロスの上を往復していた。
「川村|絵里子《えりこ》のスケジュールは押さえてあります。彼女もこのあいだの連ドラでコケてから、かなり臆病《おくびよう》になっていたけど、このドラマでもう一回やってみるってすごいやる気になっていますよ」
「そういうことじゃないわよ」
瑞枝は小さく叫んだ。喉《のど》がからからに渇いている。
「このドラマの主人公って、私とそっくり同じじゃないの。これって私のことなの」
「嫌だぁ……」
文香はにっこりと微笑んだ。
「プロがそんなこと言うなんておかしいです」
文香はワインのグラスを持ち上げた。まるで乾杯を促すかのようであった。
「バブルの時代を濃く生きた女性っていうと、やっぱりそういうことになるでしょう。時代の寵児とか、バブルの申し子とか呼ばれた男の人があの頃何人かいましたよね。その人と恋愛して子どもをもうけた女っていうのが、ドラマを考える時、まず頭に浮かんだんです。そうしたら脚本は沢野さんしかいないなあと思って……」
「ちょっと待ってよ。ちょっと待ってちょうだい」
思わず手を伸ばし、グラスの中に入っているものを飲み干した。トスカーナ産という白は、水よりもまっすぐに喉から胃へかけ降りていく。
「私がこの仕事を依頼されたのは、別に脚本家としての手腕を認められたからじゃなくて、特殊な男と結婚していたっていう過去が買われたわけね。私だったらあの頃のことをいろいろ知ってるって思われているわけね」
「沢野さん、そんなことはあたり前のことでしょう」
七歳下だというのに、文香はすっかり落ち着きはらい、まるで悟すような口調だ。
「たとえば時代劇をつくる時、時代劇に強い脚本の人にお願いするでしょう。OL経験の長かった人に、OLものをやってもらいたいと思うでしょう。それと同じですよ。それに私、前々から沢野さんの書くもの好きですから。この企画を通す時も、沢野さんの名前を出していました」
テレビ局の企画会議の様子を、瑞枝はたやすく想像することが出来た。あそこでは俳優や脚本家の名前が、まるで野菜の名のようにとびかうのだ。
「ナスはどう。スケジュールを今から押さえられるかどうかむずかしいけど」
「だけどナスはここんとこ数字がとれないからなあ」
「脚本はキュウリってとこかな」
「いや、いや、もっと言うこと聞くのが若いのにいるだろう」
脚本家の名前で客を呼べた時代はあっという間に終わり、今はどのような顔ぶれが画面に現れるかにすべてがかかっている。このような時代、よほどの大物はともかく、そこそこのキャリアの脚本家は敬遠される傾向があった。プロデューサー側が主導権を握り、ドラマの大まかな内容まで決めるシステムでは、言うがままになる若い脚本家の方が好まれることの方が多い。
このような時に、それほどの実績を持たない自分に、四月スタートのドラマを持たせてくれようとしているのだ。かなり苦労して人選をとおしたと文香は言いたいのだと瑞枝は思った。
「これはコンペじゃありません。うちとしてはぜひ沢野さんにお願いしたいと思ってるんです」
文香の指の動きが止まった。切り札に金のことを言い出そうかどうか迷っているのだと瑞枝は推理する。最初の段階の打ち合わせで、プロデューサーがギャラのことを話すということはあまりない。なぜならば脚本家のランクというのは決まっていて、どのテレビ局もそれを熟知している。わざわざ交渉することもないのだ。が、文香があえてそれを口にしようということは、かなり破格のものを用意するに違いない。
案の定、しばらくして文香は肝心のことを口にし始めた。
「これはうちの方としてもとても力を入れている企画なんです。ギャラの方も出来る限りのことをするつもりで上の方とも話しています。多分一本はお出し出来ると思います」
瑞枝はもう少しでほう≠ニいう声を出すところであった。一本というのは一種の符丁で百万円のことを言う。今まで瑞枝のギャラのランクは、連続ドラマ一本で八十万円といったところだ。いっきに二十万円上げるということは単に金のことだけではない。業界における瑞枝の地位まで上げてくれるということだ。この連続ドラマが成功した場合、瑞枝は百万クラスの脚本家として位置づけられることになるのである。
瑞枝はすばやく幾つかの計算をする。四月スタートの番組なら、特番がはじめに来るからワンクール十一回か十二回というところか。十三回ならもっといいのだが、少なめに見積もって百万円×十一、一千百万円という数字が入ってくる勘定になる。ニュー東京テレビのプライムタイムなら、再放送されるのは間違いないだろう。再放送した場合、脚本料の半分が入ってくる。それにビデオ化もされるはずだから、瑞枝の元にはかなりの金額が入ってくることになるはずだ。
文香の電話を貰うまでは、来年はどうやって食べていこうかと考えていた身が、いっきに千万単位の金を手にすることになる。
けれども、と瑞枝は思う。
これはあまりにもあざとい企画ではないだろうか。事件の当事者に、事件のことを語れというようなものではないか。瑞枝の過去を知っている者から見れば、大変なきわもののように見えるはずだ。
「文ちゃん、正直言って私、あんまり気が進まないの」
そう口に出したとたん、日花里の紺色のコートが急に目の前にちらつき始めた。もし瑞枝がこの連続ドラマを引き受けることにしたら、十着でも二十着でも買えるはずのコートである。
「自分のプライベートを売って、お金に替えるような気がするのよ」
「それはおかしいと思います」
文香はじっと瑞枝を見つめる。黒目がかった大きな目である。年頃の娘なら、この上に色を塗ったり線を描いたりするところであるが、文香はあえて何もしない。化粧を施されていない大きな目は、寒々としているようにも、とても清潔なようにも見える。が、ひとつだけはっきりとわかるのは、こういう目をしている女は、どんなことをしても自分の意志を貫くということだ。
「私、ドラマをつくる仕事をしていてしみじみと思うのは、過去は財産になるっていうことなんです。面白《おもしろ》い過去を持つ人は、それだけですごいことなんですよ。私なんかから見ると、沢野さんなんかとっても羨《うらや》ましいですよ」
「羨ましい……」
「そうじゃないですか。あの頃時代の寵児≠ネんて呼ばれてた人と結婚して、お子さんも出来た。今は脚本家として活躍されている。私からみれば、実だくさんのいい人生だなあって思いますよ」
「実だくさんねえ……」
豆腐や野菜の入った味噌《みそ》汁を連想して、瑞枝は苦笑した。若い女から見ると、自分はそのように表現されるのであろうか。
「もしね、沢野さんが作家だったら、このことを躊躇《ちゆうちよ》しなかったと思うなあ」
文香は強い視線をあてる。まるで睨《にら》んでいるかのような強さだ。
「作家はもっと図太いですよ。自分の過去が価値あるものだったら、いや、価値がなくたって徹底的に面白く書いてちゃんと作品にします。脚本家の沢野さんに、どうして同じことが出来ないんでしょうか」
「小説とドラマとは違うわ。ドラマはもっと生々しいものよ。見ている人の数が違う。何百万人っていう人が見ている。たかだか三万、四万冊売れる本とは比べものにならないわよ」
「だけどドラマだからこそ、別の世界をつくることが出来るじゃないですか」
文香はひとつひとつ粘っこく発音する。このやり方で、今まで人気俳優や所属プロダクションの社長などを口説いてきたに違いなかった。
「私、別に沢野さんのドキュメンタリーをつくるつもりありません。十年前のあの頃のことを描きたいだけです。沢野さんとだったらいいドラマがつくれると思うんですよ。いいですか、ドキュメンタリーじゃなくって、ドラマですよ。物語なんです」
「わかったわ……。しばらく考えさせて」
視線を外したのは瑞枝が先だった。
「二、三日時間を頂戴《ちようだい》」
「わかりました。それじゃクリスマスイヴの日にお電話します」
文香がおごそかに言いはなった。
テレビをつけても、FMからも、クリスマスソングが流れてくる。
この数年、クリスマスが次第に早くなってきていると瑞枝は思った。原宿《はらじゆく》の表参道あたりでは、十一月になるやいなやツリーの形のイルミネーションをとりつける店が出る。みんな少しでも今の不景気風を追い払おうとしているのだ。
瑞枝はセーラム・ライトをくわえながら、FMからの甘ったるい歌に耳を傾けている。このところ禁煙がうまくいっていたのに、文香と会って以来、煙草を日に数本は吸っている。娘の日花里に知られたら、またあれこれ言われるに違いない。学校で煙草の害について教えられて以来、日花里は母親の喫煙を厳しく咎《とが》めるのだ。
日花里が帰ってくるまでに少し空気を入れ替えなくてはと、瑞枝は窓のノブに手をかける。とたんにきりりとした外の冷気が流れ込んできた。瑞枝はしばらくベランダごしに、東京の風景を眺める。この|富ヶ谷《とみがや》の山手通り付近は、中規模のマンションが建ち並ぶところだ。ところどころ昔ながらの住宅も残り、春になるとどこからかこぼれおちたような桜も見られることがある。
が、今は灰色と茶の色彩が続くだけだ。格別に美しくもない平凡な東京の風景である。瑞枝の中でふと甦《よみがえ》る言葉がある。
「ほら、この東京の街を見てごらんよ」
若々しい男の声は、別れた夫のものだろうか、それとも別の人のものだろうか。
「この四年間で、東京の四分の一は建て替わったんだよ。こんなことはオリンピック以来なんだ。ねえ、すごいと思わないか」
あれはいつの頃だったろうか。もう結婚していたような記憶がある。ちょうどウオーターフロント計画というのが世間を賑《にぎ》わせていて、今まで倉庫街だった場所に、カフェ・バーと呼ばれる店が次々と出来た。「TANGO」「インクスティック」といった店は今でもあるのだろうか。テラスに出て潮風に吹かれてカクテルを飲んだり、東京湾をクルージングするのがあの頃は大層|流行《はや》っていた。海の水に映る東京の街は、巨大でどこからどこまでも光に満ちていたものだ。
世界一金持ちで華やかな国になろうとしていた。いや、もうなっているのだと誰もが信じていたあの夜。
誇らし気に東京の夜景を指さしていたのはいったい誰だったのだろうか。
「自分たちでこの街を変えられるんだよ。どうっていうことはないんだよ。今までは誰かがつくった街だったけど、これからは違う。僕たちのつくる街なんだよ」
思い出した。瑞枝の傍にいたのは夫ではない。夫の親友であった建築家の高林宗也であった。
高林は十年前のあの頃も、雑誌にしょっちゅう顔を出す気鋭の建築家であった。それも専門の建築雑誌ではない。未曾有《みぞう》の建築ブームに沸く日本は、建築家という職業にもいっきに光を投げかけた。高林はそのブームをつくったひとりである。東大大学院、イェール大学大学院といった経歴もさることながら、知的で甘やかな風貌《ふうぼう》も人気に拍車をかけた。
『ブルータス』で「八〇年代七人の建築家」という特集をした時も、まっ先に挙げられたのは高林である。
その彼とは離婚以来一度も会っていない。金や子どもをめぐる多くの諍《いさか》いは、夫をめぐるすべてのものを濃い嫌悪で染めてしまった。
「何かあったら相談にのるから」
という高林の電話もそっけなく切ったような気がする。その高林が建築学会賞を受賞したと新聞で知ったのは、今から三年前だったろうか。彼が京都に仕事場を移していたこともその時知った。
高林に連絡をとってみようか。
冬の空気を胸に入れながら瑞枝は考える。彼ならばすべてのことを知っているに違いない。別れた夫が今どこで暮らしているかということも、十年前のあの時代がいったい何だったかということもだ。
瑞枝は高林の連絡先を教えてくれそうな友人の顔をあれこれ思いうかべる。多少からまった糸を丁寧にほぐしていけば、彼と繋《つな》がる線が見つかりそうだ。もっとてっとり早く探したいならば、新聞社か専門誌に電話をすればすぐにわかることであった。
が、瑞枝はアドレス帳を取り出した。ページをめくりながら、自分が離婚を機に、実に多くのものをたち切っていたことを実感する。そこに記されている友人、知人は、すべて瑞枝の手でつくり出していたものである。結婚していた頃は、友人さえ夫が与えてくれていたものだ。
あの頃夫婦ぐるみでつきあっていたのは、夫が歯医者で妻が女優というカップルであった。そこそこの女優であったのだが、妻の方は芸能界で働くことにすっかり飽きて、それよりもヨーロッパや香港で買物することに夢中になっていた。夫の歯医者はまだ三十代半ばという若さであったのだが、信じられないほど金を持っていた。あの頃、どうしてこれほど金持ちなのか全くわからぬ者がいくらでもいたものだ。まともに歯をいじっていたら、どうして妻とお揃いの豹《ひよう》の毛皮など着られるのだろうか。いずれにしても、あの夫婦は瑞枝の視界からはすっかり消えてしまった。妻の方は、時々ミセス向きの雑誌でモデルとして見かけることがあるぐらいだ。
歯医者の夫婦をまじえ、瑞枝と夫、そして高林といったメンバーで何度か食事をしたことがある。
|千駄ヶ谷《せんだがや》に出来たばかりのレストランが女優のお気に入りであった。パリの著名なデザイナーが設計したというその店は、真中に階段がある。初めて訪れた者は度肝を抜かれる、途方もなく大きな階段だ。客はこの階段を降りてテーブルに着く仕掛けである。瑞枝などはハイヒールが不安で一歩一歩踏みしめるようにして降りていたが、女優の方は実にさまになっていた。下のテーブルに座る客たちの目を意識しながら、美しい足を交互に下ろしていったものだ。
「瑞枝ちゃん」
「玲子《れいこ》ちゃん」
と呼び合い、親友の真似ごとをしたこともあったが、もうあの女優と連絡を取る気持ちにはなれない。彼女にしても高林の現住所を知っているとは思えなかった。
あの時代、夜遊びを共にした仲間で、今もしっかりとした絆《きずな》を持っている、などという話は聞いたことがなかった。あの頃、皆を結びつけていた金≠ェ、消滅してしまったのだから仕方ない。
結局瑞枝は、新聞社の学芸部にいる知り合いに高林の連絡先を尋ねた。やはり彼は京都に住んでいた。そういえば彼の出身は奈良だったと瑞枝は思い出す。京都の市外番号が付く長い数字を見たとたん、瑞枝の中で再び躊躇《ちゆうちよ》が始まった。職業的慣れがとっさに幾つかの行動を起こし、昔の仲間の電話番号をつきとめた。が、ここから先に進んでよいものだろうか。
高林と連絡を取る、ということは、とりもなおさず別れた夫の消息を聞くということになる。そこから糸をほぐしていくように、自分は記憶をいったん掌《てのひら》の中にからめようとするだろう。そしてたまった記憶を繋ぎあわせ、彩色をほどこし、物語をつくろうとするだろう。
物書きとしての本能が、今、それを望んでいることをはっきり感じる。
プロデューサーの腹は読めている。あの頃マスコミを賑わせていた夫の私生活をも、ドラマに織り込みたいのだ。別れた妻が脚本家となり、当時バブルの寵児《ちようじ》と呼ばれていた男のことをドラマにする。多分二、三の週刊誌が記事にするだろう。ちょっとした話題にはなるはずだ。
しかし瑞枝は脚本家として抵抗することは出来るはずだ。最初の企画意図とは違うドラマをつくる。どこまで出来るかわからぬが、物書きのプライドに賭《か》けて、自分の考える方向にドラマを持っていって見せる。何よりも瑞枝は、今仕事をしたくて仕方ないのだ。
いつのまにか息が苦しくなっている。「これは書けそうだ」と思った瞬間、瑞枝の呼吸は荒くなる。自分の中で、あらぶる馬を必死で押さえつけているような感触は久しぶりだ。「書ける、書ける」
今すぐにでもパソコンに向かいたい。まだセリフにならない多くの言葉、物語になる前のプロットをとにかく文字にしたくてたまらないのだ。
「お母さん、外、すっごく寒いよ」
居間のドアが開いて、日花里が駆け込んできた。外の冷気を体中に吸い込んできたらしい。日花里が入ってきたとたん、部屋の温度がいっぺんに下がるのがわかった。
「駅前にさ、ケーキのお店がいっぱい出ていたよ。ねぇ、ねぇ、うちはどこのケーキ買ったの。日花里はね、エンジェル屋のイチゴのがいちばんおいしそうだと思ったよ」
「ねぇ、日花里……」
瑞枝は娘の目にしっかりと視線をあてる。この子と二人で生きていくのだと覚悟を決めてから、子ども扱いはしないようにしてきたつもりだ。小学校に入ってからは、家の経済状態や仕事のこともわかりやすい言葉で説明してきた。
「お母さん、また仕事をしようと思うけどいいかな」
「いいよォ……」
日花里の唇が拗《す》ねて曲がった。瑞枝は初めて連続ドラマの仕事をした時のことを思い出す。ベビーシッターがうまくあやしている最中、こっそり家を出ようとするのだが、勘が働くのか、すぐに玄関に走り寄ってきた。行っちゃイヤ、とべそをかいた五歳の娘の顔は、今の無表情を装おうとする顔と全く変わっていないように瑞枝には思われる。またあの日々が始まるのだ。撮影が終わった後、真夜中にかかるプロデューサーからの電話を待つ日々。すぐ打ち合わせをしたい、と言われれば、タクシーを飛ばして、局だろうと神奈川のスタジオだろうと駆けつけなければならない夜がもうじき始まる。
日花里はそれに必死に耐えようとしているのだ。
「やっぱりさ、ちゃんと仕事をしないと、お母さんも日花里も生活出来ないからね。それよりも、お母さん、仕事が好きなの、したくてたまらないの。わかるよね」
「そりゃあ、わかるさ」
「だからさ、また、半年間、いろいろ我慢してもらうわけだけどお願いね。二人で頑張ろうね」
「仕方ない、うちはボシカテイだからね」
日花里は瑞枝がよく使う「母子家庭」という言葉がすっかり気に入り、先まわりして口にすることがある。
瑞枝は苦笑いしながら、シナリオスクールの講師の件を、すぐに断らなくてはと思いついた。
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第二話 形 見
連続ドラマを始めるにあたって、瑞枝はまわりを整え出した。まずまっ先にしたことは、週に三度、掃除と食事の世話をしてくれるパートの家政婦を頼むことであった。フルタイムの女性ならば言うことはないのだが、そこまでの経済力はない。
日花里がまだ幼かった頃、ベビーシッターを頼んだところ、夜中までの延長料金を入れて月に四十万円という額になった。当時は脚本料も安かったため、これを捻出《ねんしゆつ》するのにどれほど大変だったろうか。
瑞枝はこれに懲りて、最小限のことしか他人に頼らないようになった。ドラマを書いている最中、食事は粗末なものになる。出前のピザや、買ってきた弁当になるのもしょっちゅうだ。日花里にはこう言いきかせる。
「お母さんも頑張るから、日花里も頑張ろうね。お母さんは日花里を頼りにしてるんだから、ちゃんと励ましてよね。うちは何といっても運命共同体なんだから」
この「運命共同体」も、「母子家庭」と並んで日花里の気に入っている言葉だ。これを聞かされる時、大人扱いされるのが嬉《うれ》しいのであろう。必ず恥ずかし気に笑うのである。
「わかってるってばさ。私のことなんか気にしなくってもいいからさ」
「気にしないわけはないよ。いつだってお母さんは日花里がいちばん大切なんだもの。でもね、仕事をしている時は、ちょっと順番が狂う時もある。だけどたいして長い時間じゃないから我慢してよね」
クリスマスには二人でケーキを食べ、買ってきたオードブルを並べた。日花里のプレゼントは、厚手のブレザーにした。コートよりもその方がいいからと言ったからだ。
イヴの終わった次の日から、瑞枝は自分の仕事部屋を整理し、クッションも新しいものに替えた。いよいよ戦闘開始、といった気持ちに自分を駆り立てるのだ。
四月スタートのドラマならば、撮影は三月の一週から始めなくてはならない。文香はロケを多くしたいと言っていたから、もっと早く始めたいはずだ。第一稿は一月の半ばまでに欲しいと念を押された。四月から始まる番組を持つ脚本家やプロデューサーは、正月がないと言われている。このあたりでおおまかなプロットを仕上げ、端役にいたるまでのキャスティングをしなければいけないのだ。文香の方からは多量の資料が届けられた。十年前の雑誌や新聞のコピーが大半であるが、中に住宅のチラシが混じっていた。都心といえども、たかだか三LDKの中古マンションに五億という値がついている。どこの国の話だろうかと瑞枝はとっさには信じられない。
「ねえ、文ちゃん、何かに化かされていたような気分。今、どんな豪華なマンションだって二億円しないわよ。それなのに、このチラシ見てよ。埼玉や神奈川のはずれのマンションでも、一億を超しているものがざらなのよ」
すぐに電話をかけたぐらいだ。
「そんなの珍しくありませんよ。うちの会社に一億二千万で代々木のマンション買った人がいるんですよ。別にどうっていうことのないマンションですよ。でも彼に言わせると、今買わないと一生うちを持てないんじゃないかって思ったんですって。今そのマンション、六千万円もしないみたいですよ。泣き泣きローンを払ってます」
「まあ、テレビ局の人はお給料がいいから、払えないことはないでしょうけど……」
瑞枝は言葉を濁した。自分も同じような経験をたどっているからだ。夫と別れた際、さぞかしすごい慰謝料を貰《もら》ったのだろうと多くの人たちに言われたものだ。
が、世間が逞《たくま》しく想像するほど多くはない。あの金の大半を遣って、瑞枝はこぢんまりとしたマンションを買った。自分のうちさえ持っていれば、娘と二人、どんなことをしてでも暮らしていけると思ったからだ。そして後の残りを将来のために遣おうと決意した。以前からの夢であった脚本家を目ざしたのは、以前のフリーライターという職業によるものだ。
シナリオスクールの学費は決して安くなかったが、思いきって一年コースのそれを払い込んだ。
ここまでは離婚した女のかなり恵まれたコースを歩めたのであるが、誤算が幾つか起こった。
景気の悪化に伴い、マンションの価値がいっきに半分になってしまったのである。それどころではない。劇的、としか表現出来ないほど唐突に、あっけなく、夫の会社は倒産し、大きな負債が残された。切羽詰まった夫は、それまでなら考えられないようなちゃちな詐欺まがいの事件を起こし、週刊誌|沙汰《ざた》になったものだ。
弁護士を通して決めた日花里の養育費など、とても払って貰える状態ではなく、どうしたらいいのかと眠れない日が続いた。
が、嬉しい誤算があり、講師の勧めで応募した作品が、テレビ局主催のシナリオコンクールに入賞した。そこの局でドラマ化ということになり、瑞枝は二年足らずでプロの道を歩むことになったのだ。
今思うと、何という危ない綱渡りだったのだろうか。まかり間違えば母子共に、あちら側に落ちていっても少しも不思議ではない状態だった。本当に自分は運のいい人間だとさえ思う。最近はマンションの下落ぐらい、諦《あきら》めるしかないかという境地に達している瑞枝であった。
文香との電話を終え、瑞枝は再び資料に目をやった。
ある経済学者が総合雑誌に書いた文章のコピーである。彼はバブルというものを一九八五年から九一年までと定義づけている。
「筑波博《つくばはく》から湾岸戦争まで」
というわけだ。株価は三万八千九百円まで上がり、余った金は海外へ流れた。ヨーロッパやアメリカに人は繰り出し、高価なブランド品を買い漁《あさ》った。ブランド品ばかりでない。名画と呼ばれるものまで当時の日本人は欲しがったものだ。ある企業が五十三億という値段で、ゴッホの「ひまわり」を買い取ったのはつい昨日のことのような気がする。
好景気が長びくにつれ、企業は慢性的な人不足に陥った。高いアルバイト料金が支払われるため就職しない若者が増え、フリーター≠ニ呼ばれた、という記述を読むと、今度は遠い日の伝説をきいているような気がする。
いずれにしても、あの時代のことをドラマ化するのは至難の業だということを瑞枝はつくづく思い知らされている。そもそも映画やテレビの世界において、いちばんむずかしいのは近過去≠セと言われているのだ。戦後などは、もはや時代劇≠フ部類に入ると言われているが、これはかえってやりやすい。当時を憶《おぼ》えている人が極めて少なくなっているからだ。
けれども六〇年代、七〇年代になってくると制作者たちは非常に苦労する。あの頃出まわり始めたパソコンや電卓機などを見つけるため、電機会社を駆けずりまわった、というのはよく聞く話だ。今回のドラマも八〇年代をどう再現するかにかかっているわけであるが、早くも文香は悲鳴を上げている。
「ロケしようと思っても、どこも潰《つぶ》れているか、全然別の店になっているんですよ」
店に合ったしゃれた格好をしているかどうかで、厳しく入場者をチェックした有名ディスコが、今はカラオケボックスになっていたと文香はため息をつく。
「あの頃、賑《にぎ》わっていた場所を二、三使わないと話題にもならないし、視聴者に懐かしがってももらえない。だから何とかしたいんですけれどもね……」
肝心のウオーターフロントの景色も、この数年で大きくさま変わりをしていて、夜間ロケしか行えないのではないかと言う。
「こうなったら、ファッションに凝るつもりなんですけれどもね。スタイリストの人とも相談して、とにかくあの頃をちゃんと再現しようと思ってます」
あの頃、沢野さんはどんなものを着ていたんですか。さぞかしすごいものを買ってたんでしょうねと、文香は切り込んできたものだ。
結婚していた頃、沢野さんはどんなものを着、どんなことを考えていたのかという質問をうまくかわし、瑞枝は自分とは違う女のキャラクターをつくり上げていた。
文香もこれには賛成してくれたのであるが、主人公の女は二人立てる。主人公の一方は、離婚した後ひとりで子どもを育てているOLだ。どういう職業に就かせるか、いろいろ検討した結果、外資系のシンクタンクに勤める女性ということになった。外資系ならば日本の企業と違い、社員の私生活まで問われることはあるまいというのが瑞枝の考えであった。
「これならいいかもしれない。川村絵里子さん、子持ちの役なんて嫌だなんて、あんまりいい顔しなかったんですよ。外資系シンクタンクのOLなら知的なキャリア・ウーマンっていうイメージで文句ないでしょう」
文香はこうやって、キャスティングのむずかしさを解決していくタイプのプロデューサーである。
そしてもうひとりの主人公は平凡な主婦という設定なのであるが、女子大生時代、金持ちの実業家の愛人をしていたという過去を持つ。この実業家こそ、片方の主人公の子どもの父親である。つまり二人はある時期、同じ男性を共有していたという過去を持つ。
この男性は現在土地がらみの犯罪に巻き込まれ、非常につらい立場に立たされている。二人の女は裁判を傍聴したことにより、十年ぶりで再会するという設定だ。
裕福な男と家庭を持ち、穏やかな生活をしているかに見える主婦であるが、昔の男性のことを忘れられない。実は七歳になる長男は、結婚後も密会を続けていたその男の子どもなのである……。
ただの懐古ドラマにするわけにもいかず、サスペンスの要素を入れることにした。恋愛模様を入れるのはドラマの常套《じようとう》手段であるから、もう一組のカップルをつくりあげることも考えている。外資系の会社に勤めるOLと、かつての夫の弁護を引き受けている弁護士との交流である。
この弁護士のことを思いついたのは、やはり高林の影響が大きいであろう。
高林は一時期、夫の親友ともパートナーとも言われていた。二人で急に海外旅行を思い立つと、三日後に出かけるといったこともしばしばだった。夫は高林のためなら、すぐさま五十億ぐらいの金は用意出来ると豪語していたものだ。
「何だったら仲間に頼んで、五百億をつくってやってもいい。俺は高林にスカイスクレーパーをつくらせたいんだ」
スカイスクレーパー、日本でいちばんの超高層ビルを友人に設計させるという計画は、あの当時の夫にとって、そう荒唐|無稽《むけい》の話ではなかったはずだ。あの頃、法螺《ほら》話と現実との境目は、日に日に消えかかっていた。
やはり高林に電話しなくてはと思いながらも、瑞枝はまだ決心がつかない。
記憶というものは、勝手に浮かんで消えていくように見えて実はそうではない。ちらりとそれが甦《よみがえ》りそうになるたび、体が拒絶してしまうものがある。自然と頭が左右に激しく動き、それを振り落とそうとするかのようだ。
瑞枝にとって、五年間の結婚生活がそれにあたるだろう。幸福な時も確かにあった。金も名もある年上の男の熱烈な求愛は、まだ若かった瑞枝にとって目もくらむような体験であった。当時男には妻がいたが、瑞枝のためなら捨てると誓ってくれたものだ。
「今、女房と別れるとしたら二億は持っていかれるだろう。だけどそれはどうっていうことはない。金は稼げばいくらでも手に入るけれども、君はたった一人なんだから」
そして男は約束どおり妻と別れた。あちら側には凄腕《すごうで》の弁護士がついたため、慰謝料はさらに高額なものになったと聞いた時、瑞枝はほとんど気が遠くなりそうな思いになったものだ。
自分を手に入れるために、億という金が払われたという。世の中に男から愛される女は何人もいるが、自分ほど高価な代償が費やされた女がいるだろうか。自分はそれだけの価値がある女ということなのだ……。
けれども瑞枝はすぐに知らされることになる。
別の女のために妻を捨てることが出来る男は、同じことがもう一度出来るのだ。
世の中には、女に対して特殊な情熱を持つ男がいる。たいていの男は、その情熱を実現することが出来ないが、ごくたまに金の力を持って自分の思うとおり生きる男がいる。夫はそうしたタイプの男であった。
最初の浮気は、日花里を妊娠した時に発覚したが、おそらくもっと早くからそれは始まっていたに違いない。瑞枝の知っている限り、夫は性的に奔放であるとか、変わった嗜好《しこう》を持っているわけではなかった。ベッドの上ではどちらかというと平凡な部類に入る。
その夫が、ひとたび女を獲得するという行為においては、別人のようになった。瑞枝を手に入れた時と同じような熱意を持ち、おそらく同じ程度の金を遣いながら、美しい女たちを愛人にしていったのだ。銀座のホステス、モデルといった他に、結構名の知れた女優もその中にいた。もしかすると当時の異常な成功、普通ではない金の入り方は、夫の精神をも異常なものにしていたかもしれない。
ある夜、瑞枝は尋ねた。
「あなた、女の人をやめることは出来ないんですか」
夫はおごそかに答えた。
「それは人間をやめろということだ」
そうだ、決して最初から不幸だったわけではない。ただ離婚する前の二年間にあまりにも多くの苦しみがあったために、はじめの日々はすべて帳消しになってしまった。
そして瑞枝の中で、高林への感情は微妙である。彼は常に夫と一緒にいたため、夫への嫌悪が彼にも少し染み出しているのかもしれない。
離婚する際に手を貸してくれた弁護士が、
「高林さんもいろいろいい思いをしたから」
という言葉を漏らしたことがある。
「金出してくれる人がいてこその建築家ですからね。高林さんにとってご主人は最高のパトロンだったでしょう。高林さんはあの若さで、都心に好きなものを好きなようにつくれたんですからね」
そんなこともあって、高林とはきちんとした挨拶《あいさつ》もしないまま別れてしまった。年賀状も何年も返事を出さないでいたら、いつのまにか住所が変わったらしい。こんな自分が、今さら連絡を取るのはいかにも厚かましく思える。しかも取材のために会ってくれと言うのだ。
バブル期の日本を描くというので、このところ文香と一緒にいろいろな人間と会っている。あの頃、金持ちの愛人をしていたという女もいたし、マンションをぽんとひとつ買ってもらったというホステスもいた。経済評論家といわれる人から、さまざまな事後処理にあたったという弁護士もいた。
けれども瑞枝はいまひとつ物足りない。他人の借りものの記憶というのは、うまくこちらの体の中に浸透していかないのである。全く知らないことならともかく、あの時代の東京の、瑞枝は中心部にいた。
「違う。あの時のお金の動き方って、そんなもんじゃなかった」
「私なら、もっとすごい話を知っている……」
そんなことはもちろん言葉や顔に出しはしないが、文香は薄々気づいていたのだろう。
今度は沢野さんの知り合いに取材したいと言い出した。
「私はもう、あの頃の人とは交際を絶っているのよ。今さら話を聞かせてくださいって、のこのこ出ていくわけにはいかないでしょう」
そんなもんですかねと彼女は不満そうであった。瑞枝は最近気づいたのであるが、文香は、夫の消息を密《ひそ》かに追っているらしい。北海道にいるとも、どこか海外にいるとも噂されている夫の行方を、いつか遠慮がちに尋ねたことがある。だから高林と会うのは、瑞枝ひとりでこっそりと行わなくてはならないだろう。はしっこいテレビマンのことだから、高林の線から夫の所在を知ろうとするかもしれなかった。
自分の過去を利用しようとする仕事を引き受けるよりも、高林に電話をするのははるかに決心がいる。彼と会ったら最後、パンドラの箱のようにさまざまなものがこぼれ落ちてくるに違いない。パンドラの箱の中には最後にひとつ、希望というものが残されるが、自分に用意されているものは何だろうか。より深い悔恨というものか、それとも憎悪というものだろうか……。
瑞枝が躊躇《ちゆうちよ》している間に、カレンダーが変わった。いや、一枚が変わったのではない。新しい年が来たから、カレンダーは全く新しいものに変わったのだ。以前、取材で知り合った航空会社の広報部が送ってくれる、世界の風景を撮ったカレンダーを毎年瑞枝は居間に掛ける。瑞枝にとって今年の正月は、カレンダーが変わった程度の変化しかなかった。
仕事の締め切りが近づいたために、おせちも雑煮も用意しなかったのである。文句ひとつ言わず、コンビニの弁当を食べる日花里が可哀想になり、二日から|茅ヶ崎《ちがさき》の姉のところで預かってもらうことにした。三つ違いの姉は、香港人のビジネスマンと結婚していて、日花里の幼い頃はあちらに住んでいた。あまり馴《な》じみのない伯母《おば》だが、日花里はおとなしくバッグに着替えを詰め始めた。四、五日預かってもらうつもりである。
「あんまり無理しない方がいいわよ。あなた、目が吊《つ》り上がってるもの」
姉はタッパーに入れたおせちを置いていってくれた。彼女も瑞枝に似て料理が大層苦手である。が、アメリカで教育を受けた彼女の夫はうるさいことをあまり言わないようだ。蓋《ふた》を開けると、市販のものばかりで手づくりのものは何もない。それでも餅《もち》を焼いて海苔《のり》で巻いたものを一緒に食べると、つかの間の正月気分が味わえた。姉が車に日花里を乗せて立ち去った後、瑞枝はやっとひと息入れて、昨日届いた年賀状を見る余裕も出てきた。日花里が仕分けておいてくれたハガキの束を手に取る。三百枚ほどのそれは、たいてい印刷されたものばかりだ。仕事で知り合ったテレビ局のスタッフやプロダクションからのものが多い。
ぱらぱらとめくっているうちに、瑞枝は「あっ」と声を上げた。白いつるりとした紙に、モノクロの写真をはめ込んだハガキがあった。添え書きも何もなく「謹賀新年」とそっけなく書かれた、ありふれた年賀状だ。けれども差し出し人の名前は、瑞枝を驚かせるに充分なものであった。
「高林建築研究所」
という文字と電話番号、FAXやEメールの番号が並んでいる。高林と年賀状のやり取りをしなくなってもう何年にもなる。それなのに今年に限って、まるで瑞枝の心を推しはかったように年賀状が舞い込んだのである。
反射的に電話に手が伸びた。手いたずらをするように、何も考えずに番号を押していた。正月の二日だから高林が事務所にいるわけはない。呼び出し音をいくらか聞いて、ささやかな自分の勇気を確かめるつもりであった。ところが最初の呼び出し音が聞こえたか聞こえないうちに、低い男の声がした。
「もし、もし」
高林に違いないと瑞枝は思った。電話を取り継ぐ従業員は、このように苛立《いらだ》たし気な声を出さないものだ。
「もし、もし」
その口調の強さに、瑞枝はすっかり観念してしまった。もう仕方ない。
「あの、高林さんですか」
「そうですよ」
「私、沢野瑞枝です。郡司《ぐんじ》瑞枝、って言った方が思い出していただけるかしら」
「ああ、瑞枝さんか」
高林の声はとたんにやわらかく、そして若々しくなった。
「久しぶりですね。よく電話をくれましたね」
「年賀状をいただいたものですから。でもまさか今日、会社にいるとは思わなかったわ」
「いくら急ぎの仕事があるからといっても、従業員を正月に働かせるわけにはいきませんからね。朝から僕ひとりでかっかしながらやってました」
「道理でとても怖い声だったわ……」
口に出した後で瑞枝はしまったと思った。自分の声が媚《こ》びを含んでいることに気づいたからだ。緊張がほどけたとたん、懐かしさがにじみ出てそれが奇妙な形になってしまった。瑞枝は態勢を立て直す。
「随分ご活躍のようですね。賞をお取りになったこと、新聞で読みました」
「そちらこそすごいじゃないですか。いつかテレビをみていて、脚本、沢野瑞枝ってどこかで聞いたような名前だなあって思っていたんですよ。そうしたら週刊誌に写真が出ていたんでびっくりしました」
「とんでもない。娘抱えて生きていかなきゃいけないから、息切らしながら何とかやっている状態ですよ」
「日花里ちゃん、大きくなったんでしょうね」
「もう生意気でどうしようもないですよ。まあ、その分しっかりしていますけれどもね」
この後しばらく沈黙があった。こういう場合、儀礼的にどちらかが必ず言うことになっている、
「近いうちにお会いしたいですね」
瑞枝はそれを言い出しかねていた。口に出したのは高林の方である。
「近いうちに会いたいですね。もしそちらにおさしつかえがなければ」
おさしつかえ、という言葉に多くのものが込められていた。
「私もお会いしたいわ。会っていろいろお聞きしたいことがあるの」
今度は高林の方に一瞬|間《ま》があった。どうやら別のように解釈したらしい。
「いいえ、郡司のことを聞きたいわけじゃないのよ。ちょっと高林さんに教えてもらいたいことがあるの」
「僕が脚本家の先生に教えることなんかあるのかな」
警戒というほどではなく、けげんそうな高林の声だ。
「たいしたことじゃありません。昔の東京について高林さんならよくご存知だと思って」
「何だろう、僕でお役に立てることなら何でもしますけど……」
「私、近いうちに京都へお伺いするわ。お時間をつくってくださいませんか」
そんな必要はないと高林は言った。
「僕は今、東京の仕事をしているんですよ。青山のキラー通りに――さんのビルを建てているんです」
彼は有名な日本人のデザイナーの名を告げた。
「だから月に二回ぐらいは東京へ行っています。その時にでも食事をいかがですか」
「いいですね、ぜひ」
瑞枝の頭の中で、スケジュール帳がパラパラとめくられていく。娘をよそに預けたぐらいだ。正直言ってゆっくりと食事をとる余裕などない。けれども今高林に会わなければ、おそらく自分は永久にその意志を失くしてしまうだろうと、瑞枝は思った。
「多分、七日に上京しますよ。その夜はクライアントと食事をしなきゃならないから八日はどうでしょうか」
てきぱきと日時が決められた。
「店ですけど、久しぶりにヴィスコンティ≠ノ行きませんか」
「あそこは経営者が替わって、もうあんまりおいしくないみたいよ」
「じゃスカイ・クルーズ≠ナ魚料理にしますか」
「あそこは確か、昨年の秋に潰《つぶ》れてしまったんじゃないかしら」
そうかあと高林は深いため息をついた。
「ちょっと離れると、東京はすっかり変わってしまいますからね」
「バローロ≠セったら大丈夫だと思いますけど」
バローロ≠ヘ西麻布《にしあざぶ》にある老舗《しにせ》のイタリアンレストランである。経営者も料理の味も変わったわけではないのに、時代の風が今そこには吹いていない。新しい店に客を取られ、あまり流行《はや》らなくなったあの店を見て高林は何を思うのだろうか。
瑞枝はやや意地の悪い好奇心を持つ。バローロ≠ヘ、あの頃夫が気に入っていた店だ。
当時、バローロ≠フ席を確保するのはかなり困難なことであった。特に店の奥の二つの席に人気があり、毎夜ここには誰かしら必ず有名人が座っていたものだ。
若い人気女優が、恋人の肩にもたれて静かに泣いているのを見たこともあったし、女好きで知られる作家が恋人と共に、口のまわりを黒く染めながら、イカ墨のスパゲティを頬ばっているのを見たこともある。
クリスマスディナーという言葉が定着した頃であったが、バローロ≠ヘ若い恋人たちの憧《あこが》れの店だった。いつもの店のレベルから見れば、信じられないほど不味《まず》いメニューに一万五千円という値がつき、それでもイヴの夜は入れ替えでテーブルは二回転したものだ。といっても瑞枝はそのディナーを食べたことがない。店の主人は常連客たちに「イヴの前後は絶対に来ないでね」と念を押していたからだ。あれはもう十年近く前のことになる。
六日後、瑞枝はその店の奥の席に座っていた。十二ほどのテーブルは半分ほど埋まっていた。真中の大きなテーブルに着いているグループは、多分広告代理店の若い社員たちだろう。衿《えり》のバッジを見るまでもなく、値段の高そうなスーツと、場慣れした大きな笑い声とでわかる。
この頃は彼らの業界でも大層締めつけが厳しいと聞いているけれども、屈託のなさは以前のままだ。
「もう一杯、何か飲みますか」
古い馴《な》じみのソムリエが、瑞枝の席の傍に立った。もう約束の時間を十五分過ぎている。食前酒のグラスはとうに空になっていた。
「そうね、今のをもう一杯お願い。とってもおいしかったから」
「でしょう。グレープフルーツを白ワインで割ったんですけど、口あたりがいいって評判いいんですよ」
彼は立ち去ろうとして途中で足を止めた。扉を開けてこちらに向かってくる人影を見、通路を空けようとしたのだ。
高林が、広告代理店の男たちのテーブルの横を通ろうとしていた。
白髪が増えたというのが瑞枝の第一印象である。昔は短く刈っていた髪を、やや長めにしている。そのために黒と白とまだらになった髪が一層目立った。
「遅くなって申しわけありません」
彼は折り目正しい挨拶《あいさつ》をした。
「前の打ち合わせが長びいてしまって……。さぞかしお待ちになったでしょうね」
「いいえ、私の方こそお呼び立てして申しわけありません」
二人はぎこちなく頭を二、三度下げ合い、向かい合って座った。レストラン独得の白くやわらかい光が男の顔を照らした。髪ほどはそう老けていないなと瑞枝は思う。
高林は昔から男ぶりがよかった。自分でもそのことをよく自覚しているらしく、建築家になりたての頃は、よく施主の妻と色ごとを起こしたと酔った席で言ったものだ。
「建築家っていうのは、打ち合わせをする時たいてい奥さんの方とするでしょう。しょっちゅう顔を合わせて、あちらも若くて綺麗《きれい》だったらおかしなことになってしまっても無理はない」
高林は有名な建築家の名を挙げ、二番目の夫人は確か、施主の妻だったはずだと言ったものだ。
瑞枝はそれ以来「施主の妻」という言葉が頭にこびりついて離れない。そこには性的な好奇心と軽い侮蔑《ぶべつ》が込められているような気がして仕方なかった。高林が近くにいたあの頃、自分はどこか身構えていたところがあったと瑞枝は思う。自分もまた「施主の妻」のひとりと見られていることに我慢が出来なかった。
今、こうして向かい合ってみると、高林からは美男子が持つ自意識過剰さがかなり薄れているようだ。その分|闊達《かつたつ》さも消えていて、ごくゆっくりとナプキンを膝《ひざ》に拡げているさまは、間違いなく中年男の動作であった。昔のようにいきなり煙草を吸うこともなかったし、食前酒にビールを頼むこともない。彼は夫より三つ齢下だから、今年四十三歳になるはずだと瑞枝はすばやく計算し、そしてそんな自分に驚いた。
夫以外の男の年齢が、これほど早く出てくるなど思ってもみなかった。「夫より三つ下」という事実が、頭のどこかに残っていたからだと言いわけしたが、それだと夫の年齢もはっきりと記憶していたことになる。
ここの前菜は、何種類か盛られているが、その中に小さなイワシをオリーブ油で焼いたものがあった。
「ああ懐かしいな。おいしいな。これは郡司さんの大好物でしたね。一山、別に盛ってこいって我儘《わがまま》を言ってた。後、イチジクと生ハムっていうのにも目がなかったですね」
「高林さん、あの人は今、どこで暮らしているんですか」
さらりと尋ねていた。食事が終わっても、デザートになっても、自分はそのことが聞けないのではないかと思っていたのであるが、前菜を食べながらすんなりと質問することが出来た。
「今、徳島にいます」
「徳島ですって」
意外さに瑞枝は思わず大きな声を上げていた。ハワイに住んでいると噂があったが、そちらの方がずっと彼らしい。
「どうして徳島なんかに。彼の亡くなった両親は東京の人で、徳島とは縁も所縁《ゆかり》もないはずですけれども」
「今一緒に暮らしている女性が、徳島出身なんでしょうね」
高林は手にしたワインに気をとられるふりをした。
左胸の奥がにぶく痛んだ。まさかそんなはずはないと思ったが、瑞枝の感じたものはまさしく怒りであった。
八年前に別れた夫が別の女と暮らしている。それは彼の性格を考えれば、当然といえるだろう。けれども瑞枝は、他人の事情と聞き捨てることが出来ない。
この八年間、自分は戦ってきた。子どもの養育費も払ってもらえないまま、失踪《しつそう》した夫はあてに出来ぬと必死になって職を探した。もう三十歳は目前だったが、若い学生に混じってシナリオスクールに通い、課題を徹夜で仕上げた。念願の脚本家になってからは、レギュラーの仕事をとるためにどれほどの苦労をしてきただろうか。露骨なことを持ちかける男のプロデューサーをうまくかわしながら、ひとつひとつ実績をつくるしかなかったのだ。
瑞枝は今でも、時計の針が朝の九時を指すと動悸《どうき》が速くなる。連続ドラマを手がけている最中は、担当のプロデューサーから次の日の朝、電話が入る。昨夜の視聴率を教えてくれる時間が、たいてい朝の九時過ぎなのだ。
「夫と別れてからの八年間が、私を本当に自立した大人にしてくれたと思うの」
とまわりの人に言い、自分でもそう信じ込んでいたところがある。けれども今ならはっきりとわかる。あの頃は本当に必死だった。娘を抱え、どうにか生きのびようと、手足をばたばた動かしていたら、やっと向こう岸に着いた、というのが正確なところだろう。
その間、夫は少しも人生を変えていなかったのだ。
「女をやめることは、人間をやめることだ」
と豪語したとおり、どんな苦境に立っても女なしの人生など考えていなかったのだ……。
「沢野さん、ご気分を悪くしたんじゃないですか」
目を上げると心配そうな高林の顔があった。
「いいえ、そんなことはないです。女性と一緒だって聞いて、いかにもあの人らしいなあと思って……」
「まだ正式には結婚してないんじゃないかな。僕もたまに電話で話すぐらいですから、詳しいことはよくわかりません」
こんな情景が何度もあったなと、瑞枝はぼんやりと思い出す。あの頃夫の行先を聞こうと高林に詰めよった時のことだ。
「あなたが知らないはずはないでしょう。いつも一緒にいる高林さんが、何も知らないなんて嘘よ」
「いや僕は何も知りませんよ。本当です」
二皿目の料理が運ばれてきた。菜の花を使ったスパゲティである。おそらく温室ものだろう、春のえぐみには遠かったが、緑と黄の彩りが可憐《かれん》であった。
「ああ、うまいな」
高林はもう一度、小さな歓声を上げる。そこには十年前の、困惑に充《み》ちた若さはなかった。すべてのことに無関心でいようという、狡猾《こうかつ》な優しさがほの見えている。それがかえって彼の口を軽くしているのだ。
「あの人は今、何をしているんですか」
「やっぱり不動産屋をしてますよ」
「まだ懲りないの」
瑞枝はしんから呆《あき》れてしまった。
この世で最も信頼に足るものは土地だ。だって考えてもごらん。今まで土地の値段が下がったことがあったかい。土地の値段はこれから先、ずうっと上がり続けるんだ。こんなに確かですごいものはないんだ……。
夫の口癖を今でも瑞枝は空で言えるぐらいだ。けれども土地は夫を裏切ったのである。あれほど自分を愛してくれた人間を破滅に陥れるために、土地は突然、音をたてて値段を下げていった。そこですぐに引き退《さ》がればよかったものを、夫は踏みとどまろうとした。最後の最後まで、彼は土地を信じようとしていたのである。
「あんな死ぬようなめにあったのに、また商売をしようなんて……。いったい何を考えているのかしら」
「仕方ないでしょう。郡司さんは根っからの不動産屋なんですよ。バブルの時に雨後のタケノコのように出てきた連中とはまるで違う。もっとも郡司さんは不動産屋じゃない。日本に初めて登場したアメリカ型のデベロッパーだって、僕は今でも思っていますけどね」
郡司の父は、赤坂で不動産屋をしていた。雑居ビルの一階の店のウインドウに、べたべたと間取り図やチラシが貼られた、典型的な街の不動産屋である。後に郡司が自慢したところによると、父の父、彼にとって祖父にあたる人物は、その昔、赤坂の芸者にいい借家や、引退して小商いをする時の店舗を斡旋《あつせん》する仕事をしていたという。
「だから三代目っていうことになるんだ」
二十年以上前、この街に異変が起こった。デパートがここに進出しようとする意志を表明したのである。まだ下町の趣が残る周辺の土地が上がるのは必至であった。大手の不動産業者が活動を開始し、古い取り引き業者であった郡司の父に地上げ≠ニいう交渉を命じた。六十近い彼はそのやり方がわからず、二流の大学を出たばかりの息子にすべてを任せた。それが郡司のサクセス・ストーリーの始まりとされている。
郡司は二十三か四になったばかりの若さで、多くの地主をまるめ込むことに成功した。
大手不動産会社からかなりの額を手にすることが出来た彼は、ビジネスの面白《おもしろ》さにめざめた。父親から独立し、自分の会社を設立するのである。
彼が失脚してから出た週刊誌の記事によると、郡司はこの後すぐ「東京の闇の大地主」と呼ばれた韓国人に可愛がられ彼と手を結んだという。郡司は彼の持っている駐車場や空きビルに、次々としゃれた店をつくった。資本は別のところから持ってくる。だから土地を提供して欲しい。店の経営はまた別の連中がやる。とにかくいろんな世界のプロが、自分の持っているものを出し合うのだ。これが新しいやり方なのだと、彼は六十歳の韓国人を説いた。
青山に、西麻布にカフェ・バーと呼ばれる店が大量に出現した、そのきっかけとも言われている。おかげで郡司は、「カフェ・バーの生みの親」として、マスコミに取り上げられることになった。
そして数年後、郡司雄一郎の名はさらに華々しく世に出ることになる。東京ベイサイドに、一千人が踊れるという巨大なディスコをオープンしたのだ。あの「ジュリアナ東京」よりも先がけてつくられた日本最大の店といってもよい。この時をきっかけに、芝浦の倉庫街は変わったとも言われる。
郡司はそれから二つのゴルフ場、四つのディスコの他にいくつかのアミューズメントビルをつくったが、彼が手がけるとその店は必ず当たると言われたものだ。プロデューサー岡田|大貮《だいじ》、インテリアデザイナー松井|雅美《まさみ》らと並び、郡司の名は情報誌になくてはならないものとされるようになった。
「あの頃のことを言っても仕方ないけれども」
瑞枝はもはやパスタを食べる気分にはなれなかった。
「あんな生活をおくった人が、今さら地方の不動産屋なんかやれるんでしょうか」
「もちろんちゃんとやってますよ。ねえ、沢野さん、考えてもくださいよ。郡司さんはまだ四十六歳なんですよ。あなた、まさかあの人が世捨て人のように暮らしていると思っていたわけじゃないでしょう」
「でも、あれだけ人に迷惑をかけたんだから」
「そんなこと関係ありませんよ」
高林は語尾を強めた。
「僕の知人で、やはりバブルの時に大金を手に入れた実業家がいます。名前を言えばあなたも知っているかもしれない。その人は今、何をしているかというと、和歌山の山中で僧侶《そうりよ》をしています。何もかも空しくなったっていうんです」
ああ、あの男かもしれないと瑞枝は思い出す。彼もまた夫と同じように、土地で大儲《おおもう》けした男である。郡司と違って、上ものにはいっさい興味を持たず、右から左へとうごかすことによって巨万の富を得た。郡司とは比べものにならぬほど、きな臭い連中とのつきあいがあり、目立つことを嫌っていっさいマスコミに出なかった男だ。
「ですけれども、そんなことおかしいんじゃないかなって僕は思う。彼だって郡司さんと同じようにまだ四十代なんですよ。罪を犯したわけじゃない。ただ時代に押されて前に出ただけなんです」
「高林さんって、ああいう人たちにとっても寛大だから……」
瑞枝はつい皮肉なひと言を舌にのせてしまった。
「そりゃあ、そうでしょう」
高林も静かにフォークを皿の上に置いた。
「僕はあの人たちにとてもいい思いをさせてもらいました。あの頃、僕たち若手に次々と建物をつくらせてくれた人は、財界人って言われる人たちじゃなかった。世間じゃ成り上がりって呼ばれていた若いオーナー企業家たちだった。ねえ、沢野さん、これはわかって欲しいんだけど、彼らが僕と組んで次々といろんな建物をつくっていったのは、決して税金逃れのためだけじゃない」
「そうなの……」
「そうですよ。パーッとCMでもつくって流せば、その三億なり四億の金はすぐに経費として認められる。ですけどね、コンクリートの建物っていうのは、六十年の減価償却です。経費はその年、六十分の一しか認められないんですよ。それにもかかわらず、郡司さんをはじめ、あの時代の男たちは僕に多くのものをつくらせてくれたんです」
「でもあの人、そんなに高邁《こうまい》な思想に燃えていたとは思えないの」
「そうかもしれません。けれども郡司さんはセンスがありましたよ。何よりも建築っていうものがすごいメディアだっていうことがわかっていた人です」
いつも論議を吹っかけてくる高林のことを、郡司は陰で「青くさい」とこぼしていたものだ。中年となった彼は、言葉や感情をうまくコントロール出来るようになっていたが、時々何かのはずみでこぼれ、流れてしまう。そのことに照れたのか、高林は低くつぶやいた。
「まあ、僕だけ難を逃れて、こうして座っているわけですけれどもね」
「ねえ、高林さんにとって、バブルっていったい何だったんでしょうね。何を思い出しますか」
自分の口調が、物書きの取材質問となっているのを感じたが、それも仕方ないと瑞枝は思った。
「それがね、全くといっていいほどないんですよ」
意外なことに、高林は困惑した表情を見せる。それはどう見ても芝居ではなかった。
「あの頃の記憶、ほとんど無いんですよ。本当に不思議なぐらい無いんです。ただ、面白かったなあ、楽しかったなあ、っていう記憶だけがぼんやり残っている。他の人もきっとそうじゃないのかなあ……」
「そうかもしれませんね」
あの時期、瑞枝は恋をし、変わった男と結ばれて母となった。自分の人生の中でもおそらくいちばん濃く彩られた時間だったろう。それなのに私生活以外のことでは、これといった強烈な思い出がほとんどないのだ。あの頃、誰と食事をし、毎夜どんな店に遊びに出かけたか、思いをじっと集中させれば浮かんでくることは幾つかある。が、それはまだ思い出≠ニいうほど明確な形に孵化《ふか》していないかのようである。
「不思議ね、高校生の頃、何してたかなんてあんなにはっきりと思い出せるのに。お弁当を毎朝くるんでた布の、リンゴの模様まで昨日のことのように思い出すことが出来るわ。それなのに八年前のことが、私の中でいちばんぼうっとかすんでいるのよ」
「でも、それをきっちりと思い出さなくてはいけないんでしょう。仕事なんでしょう」
いつのまにか高林は、瑞枝があの時代のことをドラマに書こうとしていると察したようなのである。
「そうなんです。だから高林さんに、ぜひ当時のことをいろいろ教えていただこうと思って……」
「今も言ったように、僕は何もはっきりとは憶《おぼ》えてはいない。ただ建築のことだけは記録してちゃんと残っていますからね、それは教えられると思う。土地がすごい勢いを持って、その養分を吸って、次々と建物がつくられていくのをこの目で見てきましたからね」
それはそうと、と高林は身をやや正した。
「もう郡司さんとは会わないんですか」
「まだそんな気にはなれません」
もう≠ニまだ≠ニいう言葉が、皿の上で微妙にからまった。
「どんなに材料に困っても、あの人だけには会いたくないって、思ってるんです」
「そう、そう、これを持ってきましたよ」
高林は胸元に手をやり、何かを取り出した。ライターであった。白人女のヌードが稚拙に描かれている。彼は火をつけた。女の髪のてっぺんから、小さな炎が出た。
「別れる時、郡司さんがこれを形見だってくれたんです。結局残ったものは、この程度のものだって笑ってましたっけ」
食事が終わりに近づいた頃、オーナー兼ソムリエの武田が近づいてきた。昔から見事に禿《は》げ上がっていたから、年の経過を感じさせない。顔の艶《つや》など昔よりもいいぐらいである。
「食後に何かいかがですか。いいカルヴァドスがあるんですが」
「ああ、いいですね。それをいただきましょう」
瓶自体が工芸品のようなカルヴァドスを、大切そうに傾けながら武田が話しかけてきた。
「高林さん、お久しぶりですね」
「本当ですね。京都に引込んでしまってからは、とんとご無沙汰《ぶさた》してしまいました」
「あの頃は、よくいらしてくださいましたね。そちらのご主人と」
悪戯《いたずら》っぽく瑞枝の方を見た。
「ご主人じゃないわ。元夫《もとおつと》≠ナしょう」
瑞枝も笑って答えた。ささやかであるが、思い出を共有した者だけがつくり出すぬくもりが、少々はしゃいだ気分をつくり出している。
「失礼、失礼。元夫さんとよくいらしてくださいましたよね。あの頃、郡司さんと高林さんのワインの飲みっぷりといったらすごかった」
「武田さんに、うちは居酒屋じゃないんだからって叱られたことがあるなあ」
「でも仕方なかったかもしれない。あの頃、うちがイタリアンワイン、いちばん揃ってたもの」
「今のワインブームの始まりかもしれないわね」
瑞枝が口をはさむと、違う、違うと武田は手を大きく振った。
「あの時と今とは全然違いますよ。バブルの時の第一次ワインブームは、郡司さんみたいな人が、高いもんばっかり飲んでいましたからね。今のワインブームは、みんな千円、二千円のものでも気に入ったものを楽しんでいる。まるっきり内容が違いますよ」
「そうですよね。郡司さん、ロマネ・コンティが好きだった。後はマルゴーとかモン・ラッシェ。イタリアだとバローロのうんといいやつ。とにかく僕でも知ってるぐらい、高くて有名なのが好きだったんですよね」
「あの頃、ワイン飲む人は限られていましたからね、みんなそういう飲み方をしていたんですよ」
「じゃ、今の方がワインブームが定着していいってことよね」
「いやあ、一概にそうは言えないでしょう」
武田はきっちりとカルヴァドスの栓を閉めた。
「飲まなくてもいい人まで飲むことが、僕はいいことだとは思いませんね」
この店がかなり左前になっているという噂を、瑞枝はふと思い出した。
食後酒を二杯ずつ飲んで二人は店を出た。タクシーをすぐにつかまえる気にはなれず、外苑《がいえん》西通りを青山の方に向かって歩き始めた。
「こんなところにも、オープンテラスがいっぱい出来ているんですね」
冷気を防ぐために、ところどころ透明のビニールシートがかかっていた。まるで工事中のような殺風景なビニールの向こう側から、若い男女のざわめきが聞こえてくる。
「ここなんかまだいい方じゃないかしら。表参道の裏をちょっと入るとびっくりしますよ。狭い道で、車がびゅんびゅん通り抜けるようなところ、緑ひとつないようなところでもオープンテラスが出来ているんですもの」
「流行るっていうのは、そういうことを言うんでしょうね。みんなが切実に欲しくなってたまらない。適してるか、なんていうことを考えるのはずっと後です」
西麻布の界隈《かいわい》は十時過ぎても人が途切れることはない。新年会が終わったのだろう、角の焼肉屋から数人のサラリーマンがふらふらと出てきた。
「相変わらずこのあたりはにぎやかだなあ……」
高林のその言葉は、いかにもとってつけたようだと瑞枝は思った。彼とても十年前の西麻布を知っているはずだ。車が人よりもはるかに多く、交差点はたえず渋滞が起こりクラクションが鳴っていた。毎夜、男性のストリップショーが行われていたビルのあたりには、タクシー難民≠ニ呼ばれていた人々が立ち、車を止めようと必死だった。どちらかの手を上げ、何かに降参するように歩いていたあの人々は、いったいどこに行ったんだろうか……。
「やめましょう」
瑞枝は言った。
「私たちって昔の話ばっかりして、まるでおじいさん、おばあさんの会話みたいね。嫌だわ」
「それはあたり前でしょう。懐かしい人に会ったら誰だって昔話をする」
「でもね、私、少し度が過ぎていたみたい。いくら仕事で、昔のことを調べてるっていってもちょっとおかしいわ。見るもの聞くもの、すべてあの頃と比べているんですもの」
「やっぱり郡司さんとお会いになったらいかがですか」
その言葉は唐突に出たようでもあったし、いつ口にしようかと、高林がさきほどから考えあぐねて舌の上で温めていたようにも思える。
「彼はあなたや日花里ちゃんに会いたがっていますが、まさかあちらからそれを言い出せないでしょう。一回でも会ったら、いろんなことが楽になるかもしれませんよ」
瑞枝は返事の替わりに左手を上げた。さっきからこちらの様子をうかがっていたタクシーがすばやく車体を寄せてきた。
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第三話 制作発表会
〈シーン15〉夜の街
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佳代子と沢村、夜の街を歩いている。いきかう人々。
沢 村「憶えてる? あの頃、毎晩タクシーをつかまえるのに必死だった。君のために、ほとんど死ぬ覚悟で車道に飛び出していったもんだよ」
佳代子「もうやめましょうよ。昔の話ばっかりして、私たち、まるでおじいさん、おばあさんみたいだわ」
沢 村「仕方ないよ。男と女が近づいていくためにはさ、昔話をするのがいちばん効果的なんだからさ」
佳代子の腰に手をまわそうとする。軽くいなそうとする佳代子。
佳代子「あら、沢村さん、私に近づこうとしているわけ」
沢 村「そりゃあ、そうさ。昔からそうだったけど、あなたにはいつもはねのけられていた」
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瑞枝はここでパソコンを打つ手を止めた。このシーンは、三話の中でも特に重要なシーンである。久しぶりに再会した主人公が、かつての夫の顧問弁護士と食事をした後、歩くシーンだ。ここで弁護士の沢村は、主人公に胸の思いを打ち明けるという設定にしてある。
一月に入るにつれ、他局の情報も入るようになってきた。水曜日の十時のプライムタイムに、三つのドラマが競い合うことになるのだが、四月とあって強力なバラエティ番組も誕生しそうだ。人気のアイドル歌手が司会をし、クイズ形式で世界中の美味を特集するという。アイドル、クイズ、世界旅行、グルメと、人々の好物をそれこそごった煮にしたような番組であるが、おそらくこれがいちばん数字を取るだろうというのが業界の評価である。
ドラマでは他局のひとつが、人気女優を使って看護婦ものを始めるという。看護婦ものというのは、最近安定した視聴率をとると言われているのであるが、今回は総合病院でなく、個人病院が舞台になるらしい。
「脚本《ほん》が大岡さんですからね、おそらく昔風のホームドラマ仕立てにするのかもしれませんね」
文香はこのドラマがかなり気になるらしく、プロダクションや俳優たちからあれこれ聞き込んでいるらしい。瑞枝の脚本に関しても、二話めあたりから、いろいろ注文が多くなっている。
瑞枝はディスプレイされている文章を読む。シーンごとに、実際声を出して読んでみるのだ。ここで舌にのせづらい語句をチェックしていく。
主人公が男に発する言葉は、まさしく半月前、自分が高林にしたものである。しかしこういうことを恥じらったりしていたら、とても物を書くことなど出来ない。
瑞枝はパソコンを打ち続ける。新学期が始まり日花里が学校に行き出してからというもの、午後のこの時間帯がいちばんはかどる時間だ。
瑞枝の仕事机の傍には、湯を注ぐだけのインスタント味噌《みそ》汁と、お握りが置かれている。昨夜、夕飯の弁当を買うついでに、次の日の昼食分も用意しておいたのだ。一晩たっているがどうということもないだろう。瑞枝はこういう時、自分が美食家でなくて本当によかったと思う。あそこの店でなければ、出来たてのものでなければ、などと固執することは、それこそ人間の行動をせばめることだ。
これ以上ないほどの粗食を口にしながら、瑞枝が次に書くシーンは、しゃれたレストランが舞台になる。プロデューサーの文香が、人気のイタリアンレストランとタイアップをとった。ロケに便宜を図ってもらいたいという局側の要望と、ドラマに出て宣伝してもらいたいという店側の意向がぴったりと一致したのだ。代官山《だいかんやま》にあるこの店は、主人公たちのお気に入りの場所としてたびたび顔を出すことになるだろう。
〈シーン23〉レストランの中
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
向かい合って食事をしている佳代子と陽介
陽 介「あの、森岡さんのそのスパゲティ、もらっていいですか」
佳代子「どうぞ。私、なんだかもう入らなくて」
陽介、豪快に食べる。
佳代子「いいわねぇ、若い人は。食べっぷりが違うもの」
陽 介「やめてくださいよ。森岡さんと僕、たった八歳しか違わないじゃないですか」
佳代子「八歳違ったら大きいわ」
陽 介「子どもの八歳っていったらまだチビですよ。赤ん坊からチビになる時間なんかどうということないですよ」
[#ここで字下げ終わり]
この陽介というのは、瑞枝が文香と相談して急遽《きゆうきよ》つくり出した役柄だ。佳代子の勤めるシンクタンクの、後輩ということになっている。
主演女優、川村絵里子の事務所では、彼女を出すのを最初渋った。前回のドラマで、絵里子は惨敗している。たて続けに連続ドラマに出演させ、そこで数字が取れなかったら彼女の評価は致命的なものになるはずだ。ほとぼりの冷めるまで、CMぐらいの露出にしておこうという事務所に、文香は日参したという。絵里子自身にも企画書を持ち込み熱心に説得した。
やがて事務所の女社長は、絵里子の出演を条件に、もうひとりのタレント起用を約束させた。バーター(交換条件)というのは、この業界の常識である。それが陽介役の久瀬聡《くぜさとし》だった。
久瀬聡は、かつて大人気のアイドルグループに属していた。そのグループでは二番手という役割であったが、十代とは思えないほど美しく整った顔立ちは、大勢の熱狂的ファンを持っていたものだ。
が、彼は人気絶頂の時にグループを離れた。もう二十歳を過ぎたのに、いつまでも踊ったり、飛んだりするのは嫌だ。もっと本格的な俳優になりたいというのがその言い分であった。
この時彼の行動に、所属していた大手のプロダクションの社長が激怒し、さまざまに手をまわしたと言われている。おかげで独立後、彼の仕事はほとんどといっていいほど無くなり、この一連の騒ぎは週刊誌|沙汰《ざた》にもなったくらいだ。
が、聡は別段気にする風でもなく、この間長期の海外旅行に出たり、劇団で稽古《けいこ》をつけてもらったりしていた。その後すぐ、NHKの大河ドラマのちょっとした役に出演し、カムバック≠ニ騒がれたが、それが最後の華々しさといっていいだろう。
今は商業演劇の舞台に立ったり、時たま映画にも顔を出している。マイペースと言えば言えないこともないだろうが、かつての栄光とは比べることも出来なかった。
おそらく現在の事務所でも、かなりお荷物的な存在になっているのだろう。昨日今日デビューした新人タレントならともかく、バーターとして主演女優にくっつけられるということは、決して名誉なことではなかった。
「名前はものすごく知られているんだけど、今の人気が無い、っていうのがいちばん使いづらいですよね。あそこの事務所もそれがわかっていてお土産持たせるんだから」
文香がこぼしていた。お土産を持たされるというのは、人気タレントの出演交渉に行った際、その条件として別のタレントを押しつけられることを言う。
が、瑞枝自身は意外な拾いものをしたと思っている。最初は仕方なく誕生させた登場人物であるが、一回めの収録を見た限り聡の演技は確かなものがあった。
彼とは以前も一度仕事をしたことがあるが、かつては整い過ぎて軽薄にまで見えた美貌《びぼう》が、年をとると共にいい陰影がついた。それでいて若々しさは失われていない。年上の女を慕う青年のひたむきさがよく出ていた。特に斜めからのアップの表情が何ともいえない。
使いづらいという評判が高かったが、話してみると、きちんとした応対が出来る。役づくり≠ネどという気障《きざ》なことは言わないうえに、しっかりとセリフを頭に叩《たた》き込んでいて演出家とも息が合うようだ。様子をみながら聡の出番を少しずつ増やしていこうと瑞枝は考えている。
携帯電話が鳴り始めた。文香からだ。仕事が始まってからというもの、この携帯電話はもはや彼女専用と化している。
「第四話のことですけどもね」
ほとんど一日おきに会い、毎日数回電話をし合えば、挨拶《あいさつ》などは全く省いた会話となる。
「川村さんと谷川さんの夜間ロケはまず無理でしょう。二人のスケジュールがどうしても合いません、セットで会話するように変えてください」
「わかったわ」
「それからね、子役とのからみも何とかならないでしょうか。どうも扁桃腺《へんとうせん》はらして寝込んじゃったみたいなんですよ」
こうしたことにいちいち腹を立てていたら、とてもドラマの脚本家などは出来はしない。俳優たちのスケジュールの変更、体調の訴えをひとつひとつ聞いてやり、すぐさま中身を変える技をとうに瑞枝は身につけている。別段、ドラマの大筋には関係ない。子役が急病になったら、ドラマの中でしばらく祖父母の家に遊びに行っていることにすればいいのだ。
瑞枝クラスの脚本家だったら、こういう時いかに気持ちよく、迅速に解決出来るかが次の仕事にかかってくる。
「それから、あさっての制作記者会見のことなんですけど」
文香はそこで少々言いよどんだ。
「やっぱり沢野さんも出席していただけないでしょうか」
ドラマが始まる一ヶ月ほど前、どこの局でも制作記者会見をする。新聞の芸能欄の担当者、スポーツ紙、テレビ情報誌の記者たちがどっと集まってくる。話題のドラマや出演者ならば、普通の週刊誌の記者が来ることもあった。
主演俳優や大物の脇役たちと並んで、プロデューサーや脚本家もテーブルに着く。けれども瑞枝は、今回自分が行くこともないだろうと判断した。大物の脚本家ならともかく、知名度がない瑞枝に質問してくる記者などいるはずはないのだ。
脚本が遅れていることもあり、文香もそれに同意してくれた。それなのに突然、瑞枝にやはり出席してくれと言うのである。
「プロデューサーとしてあなたがちゃんと居るわけだし、私がひとり抜けてもどうっていうことはないのよ」
「それがですね」
文香はコホンと小さな咳《せき》をした。
「沢野さんは制作発表会に出席するんですかっていう問い合わせが、何件もあったんです」
瑞枝はああっと思わず声をあげそうになる。やはり世間は自分たちのことを忘れていなかったのだ。瑞枝が郡司雄一郎の妻だったということが、すばやく結びついたのである。
「どうでしょうか。うちとしたら、ぜひ沢野さんに出席して欲しいんですけどもね」
半月前、脚本が最優先です、制作発表会はどうにでもなりますから、などと言っていたのはいったい誰だったのか。文香の変わり様に瑞枝はやれやれといった思いになる。
「本当にお願いします。うちの方から車を出しますから」
瑞枝の沈黙を拒否ととったらしい。文香は最後は懇願口調となる。
「実は上の方から叱られちゃったんですよ。もしかすると沢野さん、欠席するかもしれないって言ったら、何てこと言ったんだって。今度の番組は沢野さんの脚本あってのドラマじゃないかって、とても怒られました」
私の過去があっての、ドラマということでしょうと、瑞枝はつい言ってみたくなるのだが、これ以上プロデューサーを困らせるのは得策ではないと判断した。この仕事を引き受けたということは、何人かの人々から好奇の目を向けられることだと覚悟していた。それがこれほど早く来るとは思わなかったが、避けて通れるわけもなかった。
「わかったわ……。確か一時半だったわよね」
「ああ、よかった。じゃ、お願いします、十二時には局の車をつけときますから」
瑞枝は携帯電話を置いたとたん、立ち上がっていた。クローゼットのある寝室へ歩き出している。あさっての制作発表会に着ていくものが不安になったのだ。
昨年の秋、テレビ局のパーティーに出るために買ったスーツがある。やわらかいクリーム色は、日花里からとても誉められたものだ。それとも仕事先にもよく着ていく紺色のスーツにしようか。あれだと着ていて落ち着くし、いかにも知的な雰囲気がかもし出される。
嫌々ながら出席を承諾したくせに、すぐに着ていくものの算段をする自分の女らしさに瑞枝は苦笑いしたくなってくる。自分の中にまだこのような愚かさが残っていたとは驚きだった。
クローゼットを開ける。脚本家になってからは、数えるほどしか服を買っていない。上質なものではあるが、シンプルな着まわしの出来るものばかりだ。
こんな自分が、それこそ何十枚もクローゼットにぎっしりと洋服を所持していたとは、いったい誰が信じてくれるだろうか。
郡司と結婚した時、彼がまずしたことは、新妻の服をすべて捨て去ることであった。どうしてこんな安っぽい服ばかりと彼はため息をついたものだ。
「君はこれからアルマーニを着なさい。それからシャネルも僕が選んだ形ならいいよ」
あの日の制裁をどうやら今後、自分は受けることになるらしいのだ。
制作発表会は都内のホテルで行われることになった。これはテレビ局側の意気込みを表している。
たいていの場合、制作発表は局のスタジオや会議室で行われる。ホテルやレストランを使い、集まった記者に飲み物や軽食を出すというのは、一時期|流行《はや》った形式であるが、これは金がかかるため最近はそうめったにはしない。
今日の場合、サンドウィッチやカナッペこそは出なかったものの、会場の入口のあたりにジュースやペリエがどっさりと用意されている。
瑞枝は集まった記者たちを眺める。八十人といったところだろうか。まあまあの数だ。おととしのことになるが、ある局で人気絶頂のアイドルと女優を恋人同士の役柄で組み合わせた。あの時は三百人近い報道陣が来てそのことが話題となった。が、中にはアイドル見たさのアルバイトの女の子も混じっていて、顰蹙《ひんしゆく》を買ったということだ。
「皆さま、本日はお忙しいところ、多数お集まりいただきましてありがとうございました」
司会はニュー東京テレビの若い女性アナウンサーである。春を演出してか若草色のスーツを着ている。必要以上にはずんだ声だ。
「これから四月十二日水曜十時スタート、連続ドラマ『マイ・メモリー』の制作発表会を行わせていただきます」
雛段の上に白い布がかかった長テーブルが置かれ、七人の人々が座っている。この席順にはとりきめのようなものがあり、まず真中に主役が座り、それをはさんで二番手が席につく。このドラマは、主役と準主役ということで二人の女優を立てているため、彼女たちは二人並んだ。その両隣に二人の相手役の男性が座る。
向かって左側からプロデューサー、脚本家、いちばん右は止め≠ニ呼ばれる脇役の大物か、あるいは人寄せのためのアイドルの席だ。今回は脇でちらりと出る十六歳の少女が座っている。コンテストに入賞し、大手プロダクションが鳴り物入りで売り出し中の歌手だ。ドラマ初出演ということで、かなり話題になってくれるだろうというのが文香の読みであった。
今日の彼女は、グレイのジャケットに身を包み、いつもよりかなりしゃれた服装だ。が、二人の女優に気をつかってほとんど化粧をしていない。彼女はこういうところを実にわきまえていた。
二人の女優といえば、五分前までスタイリストやヘアメイクがつきっきりで最後のチェックをしていた。川村絵里子と谷川愛といえば、いつも流行のものをうまく着こなすことで知られている。今日の服装は、おそらく女性週刊誌のグラビアにしっかりと載るはずであった。
「それではまず、奥脇文香プロデューサーから、今回のドラマの企画意図をご説明させていただきます」
文香が立ち上がる。
「皆さん、本日はお忙しいところ、私どものドラマのためにお集まりいただきまして本当にありがとうございました」
確か以前一緒に仕事をした時、こういう挨拶《あいさつ》は彼女の上司であるチーフプロデューサーがしたものだ。しばらく会わないうちに、文香は貫禄《かんろく》を身につけ、堂々とした口調になっていることに瑞枝は驚く。
「今、日本は大変な不景気を迎えております。こんな時代だからこそ、十年前のあのバブルというのは何だったのか振り返ってみたいと思いました。考えてみますと、未だかつてバブルをきちんと表現した映画やドラマはありません。それだからこそやってみたいと思いました。このドラマは、幸い、素晴《すば》らしい脚本に最高のキャストを得て、とてもいいドラマに仕上がっております。撮影の方は先月クランクインいたしましたが、出来るだけ当時の雰囲気を再現しようとスタッフ一同頑張っております。どうぞ皆さま、水曜十時スタートの『マイ・メモリー』をよろしくお願いいたします」
こういう時に長々と喋《しやべ》るプロデューサーがいるが、報道陣の目当ては主演の俳優たちなのだから早く切り上げるのが得策というものだ。文香はそれを充分に知っているようであった。
「それでは次に、脚本を担当いたしました沢野瑞枝さん、お願いいたします」
こういう制作発表の場は何度かあったが、やはり瑞枝は緊張している。立ち上がる時、パイプの椅子がぶざまに大きな音を立てた。それでいっそう動悸《どうき》が速くなる。
「皆さま、今日はどうもありがとうございます。脚本の沢野です」
その時、前列に座っていたカメラマンが三人ほどレンズをこちらに向け、続けざまにフラッシュを焚《た》いた。こんなことは今までないことであった。
私を狙っているのだ。
瑞枝は唾《つば》を呑《の》み込む。予想していたこととはいえ、今日来ているマスコミ陣の中で、あきらかに自分を目的にしている者がいるのだ。
「私も実はバブルの時のことをほとんど憶《おぼ》えておらず、資料をいろいろ調べました。あの頃の日本人はたいていそうみたいですね。ただ楽しかった記憶が残っているようです。そんな気分をドラマにしました。どうぞよろしく」
本当はもっと長いスピーチを考えていたが、半分も喋ることが出来なかった。
脚本家の後は、主演女優がマイクを持つ。前の方に陣どっていたカメラマンたちが、次々とフラッシュを焚く。それはとても瑞枝の比ではなかった。
川村絵里子は艶然《えんぜん》と微笑みながら、皆さんこんにちは、と言った。
「森岡佳代子役を演《や》らせていただきます川村絵里子でございます」
固さがほどよく入り混じった声だ。三十を過ぎ、人気女優からベテラン女優へと名称が変わろうとしている今、少々の緊張を演じることで初々《ういうい》しさを出しているらしい。
「私の役はシンクタンクに勤めるキャリア・ウーマンでございます。子持ちで、バブル時代、有名な実業家を夫に持っていたという過去があり、なかなか複雑な女性です。しかもかつて夫のパートナーであった弁護士さんと恋をすることにもなっているんです。脚本を読ませていただいて、こんなに陰影にとんだ役を私に出来るかなあと不安でしたけれども、とても魅力がある女性でしたので、ぜひとも演りたいと思いました。一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします」
瑞枝は、川村絵里子によって書き直させられたいくつかの個所を思い出している。今の殊勝な態度とは別人のような口調で、プロデューサーにあれこれ命じたらしい。が、こういうスピーチを聞いて、いちいち鼻白んではいられない。女優とはそうしたものなのだ。
「それでは次に、佐々木|奈美《なみ》役を演じる谷川愛さんです」
アナウンサーの司会で、準主役の女優が立ち上がる。レースクイーン出身の彼女は素晴らしいプロポーションを誇り、最初はグラビアガールで活躍していたのであるが、ドラマに出してみると意外なほど器用な演技を見せた。女優に転身してからも安定した人気はあるのだが、まだ主役を張れないまま三十に手が届こうとしている。
「みなさん、お忙しいところありがとうございます。谷川愛です」
彼女はそこで不思議なポーズをとった。胸を突き出し、かすかに腰をくねらせてみせたのだ。悪戯《いたずら》っぽく笑いかける。
「バブルの時代を再現するということで、今回は昔のアライアを引っ張り出してみました。ほら、ボディコン時代の象徴的な服ですよね。でも今着てもそんなに違和感がないような気がしますよね……」
やけに体にぴっちりした服を着てきたと思ったら、そんな意図があったのだ。
場内からざわめきが起こった。それは「ああ、そういうものがあった」という懐古の、好意的なものである。カメラマンが絵里子の時よりも勢いづいてシャッターを押す。
どうやら愛は、彼女をすっかり喰《く》ってしまったらしい。
この後、弁護士役の俳優、絵里子を慕う青年を演じる久瀬聡、アイドル歌手などが順番に簡単なスピーチをした。
この後は記者たちとの質疑応答となる。
「何かご質問がございましたら、どうぞ手を挙げてください」
真中に座っている、眼鏡をかけた若い女がまず口火を切った。瑞枝も顔見知りのテレビ情報誌の女だ。
「あの、川村絵里子さんにお聞きしたいんですけど、今回バツイチの役ですよね、いまシングルマザーがとても増えていますけれども、こういう風潮についてどう思われますか」
絵里子がマイクを持つ。
「そうですねぇ、私は結婚もしておりませんし、人の生き方についてどうのこうの言う立場でもありません。けれどもひとりでお子さんを育てる方々ってすごく大変だと思います。それに感服します。私にはとてもそんな勇気がないから、まずは長続きしそうな旦那《だんな》さんから探さなくっちゃ」
たいして面白《おもしろ》いことを言ったわけでもないのだが、会場からしのび笑いがもれたのは、主演女優に対する礼儀というものであろう。
「他にご質問は」
アナウンサーがなぜか媚《こ》びるように首をかしげたとたん、グレイの背広の袖口《そでぐち》が見えた。二列目に座っている初老の男であった。
「脚本家の沢野さんに聞きたいんですけどね」
「はい、どうぞ」
腋《わき》の下が突然収縮したような感じになった。制作記者発表の席上で、名指しされたのは初めての経験である。
「この資料によると、川村絵里子さん演じる女性は、かつてバブルの寵児《ちようじ》と呼ばれる男性を夫に持ち、今は子持ちで働いているとある。となると、これは沢野さんご自身のことじゃないですか」
文香と事前に話し合い、こういう質問もあるかもしれないと覚悟していたのであるが、男の質問は思いの他、瑞枝を動揺させた。舌の上でうまく言葉が踊ってくれない。
「当然、そういうことをおっしゃる方もいると思いましたが……、作品と私生活というのは全く関係ありません」
「関係ないっていっても、この主人公の人生は、あなたの人生そのものじゃないですか」
男は強い口調である。瑞枝は一瞬、夫に恨みを持つ人間ではないかと疑ったほどである。
「このドラマは、沢野瑞枝さん、そのものだと思っていいんですね」
その時、思わぬ場所から思わぬ言葉がとんだ。テーブルに座っている久瀬聡であった。
「そういう質問ってさ、すっごくシラけちゃうんだよね」
聡は冷笑をうかべた。薄く形のよい唇なので、こういう笑いをすると実に意地悪く見えた。
「ドラマなんてさ、みんなでつくりもんを一生懸命本当らしく見せてるんだからさ、どこまで本当で、どこまでが嘘か、なんて聞かれるのがいちばん困るんじゃない」
場内に一瞬張りつめた空気が漂う。ドラマの制作発表というのは、和気あいあいとした中で行われるのが普通である。記者側が役づくりの抱負は、などとあたりさわりのないことを聞き、俳優たちもそれに気のきいた言葉で応《こた》える。たまにスキャンダルがらみの俳優が席に座っていると、そうした質問がとぶが、
「ドラマに関係のない質問はご遠慮ください」
と司会者がたしなめる。といってもそれはそれで華やかなお祭り気分を盛り上げることにもなるのだ。
けれども聡はぴしゃりと、記者の非礼をなじったのである。中年の男は何か言いかけたが、瑞枝がその前に言葉を発した。
「いま久瀬さんがおっしゃったとおりです。今回の主人公は確かに私と似たところがありますけれどそれだけのことです。私の知っていること、感じていることが役立ったらいいなと思って書いていますけれど、脚本家としてそれはいつもしていることですから、何も申し上げることはありません」
さっきの緊張とかすかな恐怖が消えて、なめらかに言葉が出た。最後はにっこりと笑う余裕さえあった。部屋の中の空気が再び動き出したのを見てとって、司会のアナウンサーがすばやく明るい声をあげる。
「それでは次の質問はございませんか……」
記者会見の後は、写真撮影となる。スタッフと出演者一同が並んだ写真、出演者だけの写真、主役だけの写真、主演女優に相手役の男性をからませた写真など、さまざまなバリエーションのものが撮られる。
記者たちが帰った後も出演者たちは解放されるわけではない。忙しいスケジュールをやりくりして皆が揃ったのだ。この後出演者のほとんどは、局へ戻り本読みに入るはずであった。
瑞枝は先ほどからそれに立ち会おうかどうか迷っている。出演者たちが脚本を読み合う場所に脚本家が入ると、セリフの直しをその場で出来て便利なこともある反面、うるさがる俳優もいるのだ。今回の主演クラスの面々は、どのタイプなのか瑞枝は思い出そうとしている。
そうしながら、瑞枝は聡の姿を探していた。人がまばらになった部屋の片隅で、彼は女性記者にあれこれ質問されている最中であった。
彼は瑞枝を見つけると軽く手を上げた。瑞枝もそれに応える。女性記者がやっと離れ、聡がこちらに近づいてきた。
「さっきはありがとう」
「何が」
ぶっきら棒に顔を上げた男の美しさに、瑞枝は少々口ごもってしまう。
「私のこと援護してくれたでしょう。助かったわ」
「いやー、ああいう質問むかつくんですよね。あのオヤジ、フリーの週刊誌の記者なんだけど、昨年かおととしも、制作発表でおかしなことしたんですよ。だから顔を憶《おぼ》えてたからついかーっとしてしまって」
昨年かおととしと言えば、聡とある女優との交際が発覚した頃だ。彼女の方がかなり熱を上げ、ことあるごとにあけすけに惚気《のろけ》てみせた。それに聡は耐え切れなかったのだろうとまわりの者は言う。とにかく、若い男女のよくある恋だったのに、ちょっとタネ切れのワイドショーや週刊誌が、一部始終を報道することになってしまった。
「聡さんも局へ行くんでしょう」
「いや、オレは今日は出番がないから、まっすぐ帰ります」
一瞬ではあるが、瑞枝は自分の脚本をなじられたような気がした。まだ書き始めの頃、バーターで押しつけられた俳優だからと、軽く考えていたのは事実であった。よって出番もそう多くない。
「途中まで送っていきますよ」
「そうしてくれると助かるわ」
今日のところは、自分も本読みに立ち会うこともないだろうと瑞枝は判断する。
二人で地下二階の駐車場に向かった。聡の車はシルバーメタリックのポルシェである。いかにも芸能人らしい車で、瑞枝は乗り込む時に少々気恥ずかしさを感じた。聡がサングラスをかけたからなおさらだ。白人のような横顔を持つ彼と、流行のカラーグラスはとても似合っていた。
「きまってるわね」
ポルシェのシートはかなり傾いているので、体は斜めになり、何か言おうとするとうわずったような声になるのだ。瑞枝はこの仕事を何年していても、芸能人といることに照れてしまう自分に気づいている。
「からかわないでくださいよ」
聡は白い歯を出して笑った。ホテルの駐車場を出た。早春の午後の光がいっきに車の中に飛び込んでくる。
「あのですね」
彼は言った。
「オレ、郡司さんに会ったことがあるんですよ。ずっと昔のことだけれど。オレがめちゃくちゃ忙しい時だったんですけれど、話題の人に人生を学ぶ、なんて企画で、確か『月刊プレイボーイ』で対談をさせてもらったんです」
「そう……」
いかにもありそうなことだ。郡司はあの頃、好んでマスコミに登場していた。決して偽悪的になることもなく、ごくあけすけに自分の成功談を語ったものだ。またそれが似合う時代でもあった。
「郡司さん、すごくカッコよかったですよね。どんなことを喋《しやべ》ったかよく憶えてはいないけれど、男の勝負時はちゃんとわかる、それがわかるのが運がいいってことだって言ったのが印象に残っています」
「あの人らしいわ……」
瑞枝は笑った。郡司はそうしたアフォリズムをつくるのが得意で、それがマスコミが彼に飛びつく理由となった。本人も充分にそのことを意識していたに違いない。
「そう、そう、郡司さんはこんなことも言ってました。あんまり露骨な感じで活字にはならなかったけれども……」
聡はここでちょっとためらう。勢いで口にしてしまったが、やはり言わない方がいいのではないかと迷っているのだ。
「構わないわよ。どぎついこと、あの人言うの得意だったから驚きゃしないわ。聞かせてよ」
「えーと、オレに女がいるかって尋ねたんで、いっぱいいるって答えました。そうしたら、男は喜んでやらせてくれる女が何人いるかで、価値が決まるって言ってました。だけどいつまでも、喜んでやらせてくれる馬鹿な女ばっかり抱いてる男は馬鹿だって……」
「ふううん」
聡の全盛時代と言えば、今から十年前ぐらいだろうか。となると、瑞枝は少し前に郡司と結婚している。彼はどういう意味で言っていたのだろうか。「馬鹿な女」というのは、それまでの浮気相手のことか……。いや、何の意味もありはしない。その場所へ行き、その場限りの、相手の喜びそうなことを言うのが郡司という男であった。別に自分との結婚を指しているわけではなかろう。
「オレ、今度沢野さんと会って、なるほど郡司さんの選んだ女の人って、こういう人なんだろうってわかりました」
「やめてよ。選ばれたけれども、とっくに別れた女よ」
「郡司さんは言ってました。金は甘くていいにおいがする。それにつられて女はいっぱい寄ってくる。だけど中には、そういうにおいに感じない女がいるって。自分の男のにおいだけに寄ってくる女もいる。自分のにおいと金のにおいはごっちゃまぜになってるから、区別するのはむずかしい。だけど出来ないことはないって……」
「だけど男の人って不思議よね。自分のお金や権力に魅《ひ》きつけられる女が、やっぱり好きなのよ。可愛いと思うのよ」
夫が関係を持った何人かの女の顔が浮かんでくる。ずっと昔、ハーフの美人タレントとして深夜番組の司会をしていた女がいた。人気が失くなった後は、銀座のホステスをしていたのであるが、夫はこの女に夢中になった。離婚間際、弁護士に言われ手に入れておいた、夫のカードの明細書には、凄《すさ》まじいまでの女の買物ぶりが記されていた。シャネルやルイ・ヴィトンといった店で、女はそれぞれ百万近い金を遣っていたのである。
「金が目当てだってわかっていても、男はやっぱりそれが嬉《うれ》しいのよ。どうしてあんな女に騙《だま》されるのかって人は思うかもしれないけれど、本人だってやっぱりわかっているのよ。でもね、それが男の度量の大きさのように考えたり、愚かにもなれる自分が嬉しかったりするんじゃないかしら。あのね、私、この年になってはっきりわかったことがあるわ。ある種の男の人にとっては、真心とか誠意なんていうものよりも、女の狡《ずる》さの方がずっと心をかきたてられることがあるのよねえ……」
「オレもわかるような気がしますよ……」
ぼそりと聡が言う。
「オレも前は思ってたことがあります。オレのことを芸能人だとか有名人として見ない、普通の可愛いコとつき合いたいなあって……。でもね、やっぱりそういうコは飽きちゃうんですよ。うんと生意気で振りまわされないと、恋をしてる実感がないっていうか、そうなるとやっぱりつき合うのは、この世界の女になっちゃうんですよ。性悪な女ほど、つき合えるのはオレぐらいかなあ、なんて考えてしまうなんて、やっぱり馬鹿かなあ」
「いいのよ、それでいいのよ。やさしくていいコとつき合いたい、なんていうのは、お金も力もない普通の男が考えることなの。あなたのようなスターは、やっぱりそれだけのエネルギーがあるっていうことなのよ」
その後、まるで自嘲《じちよう》のような言葉がするりと漏れた。
「私の夫だった人も、ちょっとした気まぐれから普通の女を選んだ。当時の彼にとっては新鮮だったでしょう。でもね、彼もあなたみたいに特殊な男だった。私のような女を妻にしたら、エネルギーだって余ってしまうわ。前にも増して浮気にも励むわよね」
勝手に舌が動いていると感じた瞬間、ああ書けると瑞枝は思った。ひと思いに今すぐ、回想シーンのところを書いてしまいたい。
「そこの地下鉄のところで止めて。その方が早いと思うから」
瑞枝は傍らの美しい男に命じた。
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第四話 回想その1 一九八六年
一九八六年五月、二十五歳の瑞枝は青山ベルコモンズの前に立っている。買ったばかりのアニエス・|b《ベー》のグレイのジャケットに、首に巻いているのはエルメスのスカーフだ。瑞枝のことを誰かが、
「少女漫画に出てくるような顔」
と言ったが確かにそのとおりかもしれない。黒目がかった大きな目に薄く小さな唇、首が細くて長い、という条件は、昔だったら文句なしに美人の部類に入ったかもしれないが、今は流行《はや》りの顔ではない。
出入りしている出版社の女性編集者たちの真似をして、ワイズやコム・デ・ギャルソンといった洋服を着たこともあったが、まるで似合わないことに気づいた。自分のような顔立ちでアバンギャルドなものを着たら服に負けてしまうだけだ。この頃はごくおとなしい、普通のOLのような格好に落ち着いているのであるが、編集部の人たちからは、
「いつまでたってもあかぬけないライターさん」
ということになっている。おかげでライターの花ともいえるファッションページを任されたことがない。そうかといって著名人のロングインタビューといった記事は、もっとベテランの力量のあるライターのものだ。
この業界に入って三年めの瑞枝に依頼される仕事といえば、新刊紹介のコラム、飲食店のルポ、といったものが多い。レストランや喫茶店を取材するというのは、細かく骨が折れる仕事で、どこの出版社も新人のライターがやることになっている。最後の試食という、文字どおりおいしい部分は、古手のライターや社員の編集者が出向くことが多いが、その前の取材申し込みや店の撮影といった部分は、瑞枝が請け負うことになっている。
そんな瑞枝にとって、今日の取材は久々に手ごたえのある仕事だ。瑞枝が仕事を貰《もら》っている女性誌に「東京いい男伝」という連載ページがある。芸能人、文化人、スポーツ選手といった人たちの一ページのインタビュー記事だ。が、モノクロで一ページという地味さが割に合わないと、一流の芸能人からは断られることが少なくない。そのため最近編集方針をやや変更し、人気の店のオーナーやシェフといった、いわば市井の有名人に登場してもらうことが多くなった。このページはほとんどレギュラーのような形で、三十代の女性ライターが担当しているのであるが、三回に一度ぐらい瑞枝にも番がまわってくるようになった。
特に今日の取材相手は、かなりの大物だ。郡司雄一郎といって、「カフェ・バー生みの親」とも言われる実業家である。彼に関する記事は、最近他の雑誌にもよく出ている。
瑞枝は青山ベルコモンズの一階にあるコーヒーハウス「珈琲《コーヒー》野郎」をいったん出て、壁際に並んでいる公衆電話の前に立った。
「カメラマンの人と待ち合わせしているんですけど、まだ来ないんですけど……」
「おかしいわねぇ、伊藤君っていうのは、時間に正確なコだから、ちゃんと来ると思うわよ」
受話器の向こうから、担当の編集者ののんびりした声が聞こえてくる。午後二時、遅めの昼食をとったばかりなのだろう。
「でも一時四十五分に待ち合わせしてるんですけど、もう十分近くたっても来ないですよ」
「あのさ、チャールズ皇太子とダイアナ妃が来ているから、そこらで交通規制があるんじゃないかしら」
「そんなことないと思います。パレードも昨日やっちゃったし……」
「ヘンねぇ、もうちょっと待ってみてよ」
「でもあちらのアポイントメントは、二時っていうことでお願いしてますから、もし遅れたら困ります」
「そうよねぇ、今日は確か郡司雄一郎だったわよね、あんな忙しい人がよく取材に応じてくれたわね」
「ええ、かっきり一時間だけだって、秘書の人から念を押されてます」
「随分もったいぶったものね。あの人が売り出し中の頃は、記事にしてあげると大喜びで何時間でも喋《しやべ》ったものだけれどもね。ま、いいや、もうちょっと待ってよ。それで来ないようだったらポケベルを鳴らしてあげるから……」
いい気なものだと瑞枝は思った。本当なら担当の編集者は、今日の取材に立ち会うべきなのだ。それなのに彼女はいろいろな理由をつけて外に出ることを好まない。瑞枝はおかげで、不慣れなカメラマンと二人で出かけなくてはならないのだ。
彼を待つためにベルコモンズの前に立った。五月の青山通りは、もう白いものを着ている人が目につく。目の前を髪を短く刈り上げた少女が二人歩いていく。まるで男の子のような髪が、この頃流行っているのだ。人によっては毎日えり足を剃《そ》らなければならない。が、青々とした剃り跡が奇妙な色気をかもし出していた。
目の前にタクシーが停まり、大きなカメラバッグを持ったカメラマンの伊藤が降り立ってきた。Tシャツにジーンズといういでたちだが、ジーンズの前のチャックにはしっかりと「クローズド」というラベルが縫い込まれている。
「すいません、遅くなっちゃって」
「このまま行きましょう。オフィスはすぐそこだから」
二人は歩き始めた。英国からの賓客を撮るためか、ヘリコプターがビルの間の空を横切ろうとしていた。
青山三丁目の交差点を千駄ヶ谷に曲がる道は、東京オリンピック以降も比較的静けさを保っている地域とされていた。
が、最近変わりようがすごい。輸入ものの文房具を売っている「オン・サンデーズ」という店が、道の向かい側の建物を買い取り、ニューヨークの有名なイラストレーター、キース・ヘリングに壁画を描かせたのは三年前のことであった。子どもの落書きのようなペインティングは、今やこのあたりの新名所となっている。
そのビルの手前に、郡司雄一郎が経営するカフェ・バー「バンコック・ナイト」があった。開店したのは昨年のことなのだがまだ人気が衰えることがない。熱帯樹をふんだんに配して、青や赤といったやや古めかしい感じの照明を使っているのがかえってしゃれていると評判だった。
これより少し前、原宿に大きなカフェ・バーが出来、壁一面の水槽に熱帯魚を泳がして話題を集めたが、「バンコック・ナイト」がオープンしてからは、モデルやタレントといった上客はすっかりこちらにさらわれた感じだ。
郡司雄一郎のオフィスは、このビルの五階にある。そう大きくはないが、コンクリートとガラスを使った、いかにも有名建築家に凝ってつくらせたというビルである。瑞枝は最近、こうした建物に足を踏み入れるとどうも落ち着かない。「コンセプト」とか「ポストモダン」といった言葉が、あちこちから押し寄せてくるような気がするのだ。
今、東京は凄《すさ》まじい勢いで新しい建物が建っている。それらのものは新種の植物のように成長が早く、このあいだ土地をテントで隠していたかと思うと、わずかな間にビルが出来上がっている。が、新種で成長の早い植物によく見られるように、それらの建物は大層アクが強い。だから足を踏み入れたとたん、そのアクに酔ってしまうのではないかと瑞枝は思う。
シースルーのエレベーターで五階に着いた。気恥ずかしくなるほどの明るさである。天井はまるでプラネタリウムのように大きく開かれ、陽光が野放図にフローリングの部屋を支配していた。シミや皺《しわ》を気にする四十過ぎの女は、五分とここにいることが出来なかっただろう。
当然のことながら、郡司の秘書は、二十代の若い女であった。肩パッドが大きく入ったスーツとあまり似合っていない楚々《そそ》とした顔立ちである。敬語の使い方といい、茶の出し方といい、よく訓練されている。
「社長はまもなくまいりますので、もう少しお待ちください」
その微笑み方も、まるでデパートのエレベーターガールのようであった。
カッシーナのソファに座り、瑞枝はあたりを見わたす。ここが応接室ということになるのであろうか。
サボテンに似た観葉植物がぽつんと置かれ、壁には何点もの大きな近代絵画が飾ってある。中にはどうみても、こたつ掛けにしか見えないような幾何学模様の一点があり、瑞枝は思わず器材を拡げているカメラマンの伊藤に声をかける。
「ねえ、ねえ、あれを見て。実家で使ってたこたつ掛けにそっくり。色の配色まで似てるわ。でもこういうのでも、絵ってことになると高いんでしょう」
「そりゃ、高いですよ」
伊藤の声が全く別のところから聞こえてきたと思うと、観葉植物の陰から男が姿を現した。ドアを開けて誰かが入ってくると思っていたのであるが、ここは応接室の後ろにもうひとつ部屋があり、男はそこから出てきたのだ。しかし瑞枝はそううろたえなかった。
彼が郡司雄一郎だとすぐにわかった。写真で見るよりずっと血色がよく、ずっと若く見えた。その分本物は肉がついていて、小太りという表現を冠せられるかどうかのぎりぎりのところにいる。
おそらく都会に住むほとんどの男がそうであるように、彼もどこかのスポーツクラブに入り、必死にトレーニングしているに違いなかった。
「この絵の作者はさ、――っていうんだよ」
十度聞いてもとうてい憶《おぼ》えられそうもない名前を、郡司は実になめらかに発音した。ポーランド系のアメリカ人だという。
「彼の絵はさ、このあいだニューヨーク近代美術館に買い上げられた。君はこたつ掛け、なんて悪口を言ってたけど、キャンバスの中にこんなすごいリズムをつくれるのは彼ぐらいなんだよなあ……」
郡司はひとり頷《うなず》く。明るくて芝居じみたところがある男、それが瑞枝の第一印象であった。
「失礼しました。うちで使っているこたつ掛けに本当にそっくりなもので……」
「いいよ、いいよ。こういう絵っていうのは、正直に素直に感じたものを言ってもらえばいちばんいいの」
それから郡司は、瑞枝の手渡した名刺と瑞枝の顔をじっくりと眺めた。
「君さ、雑誌社の人にしちゃ可愛いね。うちに来る女の編集者は今までブスばっかりだったけど、こたつ掛けって言っても許してあげる」
インタビューをしていて、これほど露骨にからかわれたのは初めてである。瑞枝はさらに言葉を丁寧に粘着性にし、自分の不快感を表した。
「いかがでしょうか、今、時代が自分にぴったり添ってきたという風にお考えでしょうか」
「そんなことはないですよ」
郡司はうきうきとした調子で答えた。薄い黒子《ほくろ》のある唇が楽し気にゆがんでいる。自分の人生訓を語るのが嬉《うれ》しくて仕方ないという男の顔だ。
「世の中に出てくる人って、みんな僕と同じことを言うと思うけれど、僕たちは決して世の中に合わせようとか、世の中に受け容《い》れられようなんて思っているわけじゃないですよ。ただね、こういうことをしたら面白《おもしろ》いんじゃないか、愉快なんじゃないかって、自分のやりたいことを次々と実現していく。それに世の中がついてきている、っていう感じなんじゃないのかなあ……」
「そういうことを言える人って、一握りのとても幸運な方々ですよね。どうでしょう、ご自分のことを、とても運のいい人間だってお思いになりますか」
「あのね、僕は確かにツイてる、運のいい人間ですよ。でもね、運がいいですね、っていうのは他人から言われると腹が立つね」
「あら、腹が立ちますか」
「そりゃそうだよ。やっかみの言葉としか思えないね」
「でも仕方ないですよね。私たち日本人って、土地を扱う人たちに対してまだ偏見がありますもの。松下幸之助さんみたいに、すごい発明をしたわけでもない。そこにあるものを右から左へ動かして、大金を手にするっていうイメージが強いんじゃないでしょうか」
「おやおや、顔に似合わずはっきりものを言うお嬢さんだね」
郡司は唇をとがらせたが、それも芝居がかっていた。
「このところ、新聞社の人なんかも僕のところに取材に来るんだけれども、そのことを口にしたくてむずむずしているのがわかるんだ。まあそれとなくあてこすり言うけどもね」
「男性だったらなおさら思うでしょうね」
「僕はね、そういう偏見と十年以上戦ってきたんですよ。アメリカやカナダをごらんなさい。不動産業者というのは、ちゃんと尊敬される立派な職業なんです。それなのに日本だけは、いつまでたっても不動産屋って言われて不当に扱われている。もし僕に本当の大きな夢があるとしたら、不動産屋という職業の地位を高めることです」
最後の言葉は、嘘に違いないと瑞枝は思った。
「くだらないこと、質問させていただいていいですか」
「どうぞ、僕はくだらないこと大好きですからね」
男の唇には、こちらをからかおうとする微笑が再び見え隠れしている。
「不動産やっている方って、どうして皆さん金ムクのローレックスしているんですか」
「そうかなあ……」
郡司は左の手首を持ち上げ、ストライプのシャツの袖口《そでぐち》からのぞいている時計に目をやった。
「そうでもないですよ。もうちょっと年をとった人だとロンジンが多いし、若い人はカルチェとかミラ・ショーンしてるし」
「そうですかね、私もそんなに不動産やってる方を知っているわけではありませんけれど、街で見かける方はたいていローレックスの金をしているような気がします」
「そうだね、そう言われてみれば、まわりを見渡してもローレックスが多いかもしれない。やっぱり時計っていうのは、男にとって大切なものだし、すぐに目がいくところですからね。それでお金をかけるんじゃないでしょうか」
「今、お金をかけるっておっしゃったけれど、最近、いちばん無駄遣いをしたっていうのはどういうことでしょうか」
「僕はね、そんなに無駄遣いはしませんよ。他人から見てくだらないことでも、僕の中ではちゃんと辻褄《つじつま》が合っているんですから」
「最近クルーザーをお買いになったって、どこかの雑誌で読みましたけれども」
「ああ、あれですね。お得意さんや仲間を招待して時々パーティーもするし、別に無駄遣いっていうことはないんじゃないかな」
インタビューされる側と、質問する側との間に、やや白けた空気が芽生える。郡司と会った時、瑞枝は幾つかの計算をした。大らかでユーモリストを気取っているこの男は、やや挑発した方が面白い言葉を吐くのではないだろうか。が、彼も大人のしたたかさで、瑞枝の質問をうまくかわしてしまう。現代のヒーローで大金を手にした男、というマスコミ側のつくられた構図に、いささか飽きてしまったのかもしれない。
そこへカメラマンの伊藤がやってきて、もう一カット、別のところで写真を撮らせてくれないかと遠慮がちに声をかけた。
「それじゃ、屋上へ行きましょうか。プールがあるんですよ。今までほとんど人に見せたことのないプライベートなプールですよ」
瑞枝と伊藤は、しめたと顔を見合わせた。
プールといえば、これほど成金じみたものはないからである。いい写真を撮れることは間違いない。
屋上には十メートルほどのプールがあり、既に水が入れられていた。奇妙なほど青い水だ。
円柱が何本か立ち、奥の方には御影石でつくったバーカウンターがしつらえられている。しかしまだ季節には早いのか、カウンターの上には酒瓶もグラスもなく、チェアも畳まれたままだ。
「ここでよく泳がれるんですか」
「いや、めったには泳がないよ。このプール、つくった時には会員制にしようと思って、知り合いに声をかけたりしたんだけれども、それも何だか野暮ったいような気がして……」
「じゃ、たまに眺めるだけなんですか」
「そういうこと」
このあたりは高いビルがないため、神宮の緑も視界に入ってくる。車の音もここまで届かず、真昼の都会の屋上はしんとしている。ギリシャ風の円柱のせいだろうか、プールは廃墟《はいきよ》の中の池のように見える。誰も泳がないと聞いたからなおさらだ。
「じゃ、このあたりに立てばいいのかな」
高価そうなスーツのパンツの裾《すそ》が、風にはためいている。ダブルのスーツとプールという組み合わせは不自然でそれだけでひとつの効果があった。
「腕組みでもしてみましょうか。いかにもそれっぽく見えるように」
郡司が不意に発した自嘲《じちよう》的な言葉を、なぜかその後瑞枝は何度も思い出すことになる。
「すごくカッコいいですね。きまってますよ」
伊藤がカメラを片手に、さまざまな角度に動き始める。この構図がすっかり気に入ったのだ。
しばらく撮影が続くのだと、瑞枝はプールに近づいていった。中を覗《のぞ》き込む。先ほどからどうして、このように水が青いのか不思議でたまらなかったのだ。が、すぐにわかった。プールのへりが途中から青く塗られていたのだ。それにしても、これほどどぎつい青に塗らなくてもいいのにと瑞枝は少々|呆《あき》れた。
「沢野さん」
声をかけられて不意に顔を上げた。郡司の視線から、彼が水を覗き込んでいる自分の横顔を見つめていたことに気づいた。
「これで取材は終わりなんですか」
「はい、一時間っていうお約束でした。お忙しいところ、ありがとうございました」
「もっと僕のことを取材してくださいよ」
郡司は笑いかける。
「君、何かさ、意地悪なことばっかり聞いて、あれじゃあんまり仕事にならないと思いますよ」
「そうでしょうか」
「七時になると僕は時間が空きますから、一緒に食事でもいかがですか。成り上がりのことをもっと知りたいと思ったら、ご飯ぐらいちゃんと食べないと駄目ですよ」
思ったとおり、郡司の車は大型のベンツであった。しかも中には自動車電話がついている。これは取付工事費や通話料が信じられないほど高く、東京でも持っている人はなかなかいない。瑞枝はどうしても使ってみたくてたまらなくなった。
「知り合いに電話をしてもいいですか」
「もちろん。地方にもちゃんと通じるよ」
出入りしている雑誌社の番号を押す。ここには仲のいい女性編集者がいるのだ。
「もし、もし、私よ、瑞枝」
「あら、どうしたの、こんな時間」
「あのね、私、今、どこからかけているかわかる。青山通りを走りながらかけているのよ。これって自動車電話なのッ」
「へえー、それにしちゃ、はっきり聞こえるわね。私、自動車電話をとるの、これで四回目ぐらいよ」
「でしょう、私なんかかけるの初めてなんだから」
隣で運転している郡司が、それを聞いて大きな笑い声を立てた。
「ミズちゃん、誰か男の人と一緒ね」
「そうよ、驚かないでね。郡司雄一郎さんと一緒なの」
「えー、あのカフェ・バーをやたらつくった実業家ね」
「そうなの。今日取材に行ったら、たまたま食事に誘われたのよ」
「あのさ、私の声、外に漏れてないよね」
「聞こえない、聞こえない」
「あの人って、女癖が相当悪いらしいから気をつけた方がいいよ」
「そんなんじゃないって、取材の続きなのよ……。それじゃ、また。切るわね」
受話器を置いたとたん、郡司が言った。
「友だちに、あんな男、気をつけろって言われたんでしょう」
「そんなことありませんよ」
「友だちに言ってくださいよ。あなたが僕のことをかなり偏見に充《み》ちた見方をしているから、それをちゃんと訂正してもらおうと思って、今夜誘ったんだって……」
いったん青山通りに出た車は左に折れて根津美術館の方へ向かう。
「どこで飯を食おうかなあと思ったけど、やっぱりダイちゃんのところにしようよ」
ダイちゃん、という名前が誰だか、マスコミの世界にいる瑞枝だったらすぐにわかる。岡田|大貮《だいじ》というハンサムな青年は、「ダイニーズ・テーブル」という有名なチャイニーズレストランのオーナーで、それ以外にも華やかな人間だけが出入りする何軒かの店のプロデュースや経営をしている。
彼と友だちかどうかは、都会のスノッブな人間たちの価値を左右するものであった。
郡司はやや車のスピードをゆるめながら、左手で器用に電話番号を押した。
「あ、郡司だけど、ダイちゃんいるかな」
常連だけが出来るぞんざいな口調だ。
「あっ、出かけてんの。じゃあさ、急いでテーブルつくってよ。綺麗《きれい》なお嬢さんと一緒だから奥のいい席をね……。うん、そこを何とかしてよ。じゃ、五分後に行くからさ」
根津美術館の塀が終わったあたりに、ライオンの彫刻が二頭、門柱替わりに座っている豪壮な邸宅がある。通るたびに瑞枝が密《ひそ》かに「リトル・三越」と呼んでいるところであるが、彼はこの前に無造作に車を停めた。
今をときめくレストラン「ダイニーズ・テーブル」は、目立たぬレンガの建物の地階にある。狭い階段を降りていく途中から、もう人のざわめきを感じることが出来た。店はそう広くない。が、フランス料理風に一品ずつ少量出てくる、卵白と貝柱の煮込みや、エビの蓮《はす》の葉蒸しを食べる人々は、どこの店よりも豪華であった。有名な芸能プロダクションの女社長が、売り出し中のアイドル二人と食事をしている。その隣のテーブルにいるのは、パリを本拠地としているファッションデザイナーだ。男色家という噂の高い彼は、恋人らしい若い男と堂々とワインを飲み交わしている。
席をつくるのに少々時間をくれということで二人はウエイティングバーに座った。郡司は車で来たからと言ってジンジャエール、瑞枝はカンパリソーダを頼んだ。カンパリソーダは、瑞枝が最近やっと憶《おぼ》えた食前酒というものである。
「この店はいつ来てもすごいよ」
郡司はあたりを見わたす。
「東京でもこれだけ客種のいいところは、ちょっとないよね」
「そうですか、郡司さんの『バンコック・ナイト』だって有名人がいっぱい来ているじゃないですか」
「レベルが違うよ。うちがモデルとか若手の脇役クラスだとしたら、ここは主演女優クラスが来る。所詮《しよせん》店の格が違うんだ」
郡司はぐびぐびと音をたててジンジャエールを飲む。
「君もマスコミの人だったらわかっていると思うけれども、もうカフェ・バーなんていうのは終わろうとしている。残るのはこういうきちんとした店なんだ」
郡司はこんな話をした。東京でセレブリテと呼ばれている人たちは、おそらく三百人がいいところだろう。新しい店が出来、オープニングパーティーがある時、彼らが出席すると、それだけで箔《はく》がつく。その店に出入りすると、彼らをめあてにファッション関係、マスコミの人々がやってくる。やがて普通の人たちが姿を現す頃には、セレブリテはどこかへ消えてしまう。
「つまりイタチごっこなんだな。僕はこれまでいろんな店をつくってきたけれども、それはそれで才能を持つ人たちが山ほどいるんだ」
「そうでしょうか」
「そう、例えばこの店のダイちゃんみたいに、東京の夜を変えてしまう人がいる。松井雅美君だってすごいよ。あの芝浦の倉庫街に突然出来た『TANGO』を見た時、もうかなわないかなあ、と思った」
「郡司さん、今話してること、ちょっとメモをしてもいいでしょうか」
「駄目だよ」
郡司はハンドバッグに伸ばしかけた瑞枝の手を押しとどめた。彼のやわらかい手は、瑞枝の手の甲に長く滞在した。
「この店で、そんな無粋なものを出す客なんてすぐ追い出されるよ」
瑞枝は仕方なく指を、食前酒のグラスに伸ばす。
「ねえ、僕の話をちゃんと聞いて欲しいんだけれどもさ、こんな話、五年前だったら法螺《ほら》話として笑われたと思うよ。だけどさ、今はみんな真剣に聞いてくれる。今はそういう時代なんだよ」
郡司は瑞枝の目を覗《のぞ》き込む。それまでの芝居がかったところは消え、僕のことをどうか理解してくれというひたむきさがあった。年上の、しかも初対面の男のこのひたむきさに瑞枝はどう対峙《たいじ》していいかわからない。わずかに目をそらすのが精いっぱいだ。
「埼玉や千葉なんかに行かなくても、東京にはたくさんの土地が眠っているんだよ。汐留《しおどめ》とか東京ベイのあたりへ行ってごらんよ。信じられないほど広い土地が荒れたままになっている。あそこに線路を通す。そして二十四時間、電車を走らせる。それがどんなにすごいことかわかって欲しいなあ……」
「そんなにすごいことなんですか」
「もちろんだよ」
郡司は深く頷《うなず》いた。
「汐留から銀座へは十五分もあれば行ける。あそこに超高層マンションを幾つも建てる。そうしたらどういうことになるか。サラリーマンが仕事を終えたら、家に帰ってシャワーを浴びて着替える。そして夜の街に繰り出す。サラリーマンの生活が根底から変わってしまうんだよ。日本の歴史始まって以来のすごいことなんだ。僕はそういう仕事をしたくてうずうずしているんだ。既にもう幾つかプロジェクトも出来ている。わかるね、君は僕のことを不動産屋だって馬鹿にしているけれど、これからは不動産屋が日本を変えていくんだよ」
どうやら瑞枝の先ほどの言葉を、郡司は腹に据えかねていたらしい。
やがて黒服の男が、テーブルの用意が出来たと告げに来た。郡司はマナーに従って瑞枝を先に歩かせる。たった六、七メートルの行進≠ナあったが、それは瑞枝にとってとても面映《おもは》ゆいことであった。
テレビや雑誌で見た顔が、何人も目に入ってくる。女優でも有名人でもない女は、大層美しかった。それがこのテーブルにつく資格だというようにだ。
彼女はその中でも際立っていた。髪をゆるくアップにし、肩をむき出しにした黒のワンピースを着ている。化粧が濃い、というのではないが、目も唇もくっきりと描かれ、店の暗い照明の下にも映える艶《あでや》かさだ。
彼女は郡司を見ると、軽く目で合図をした。
「やあ、久しぶりだね」
郡司は相好を崩す。
「元気そうじゃないか」
「おかげさまで、郡ちゃんこそご活躍。ねえ、またクルーザーに誘って頂戴《ちようだい》」
「もちろん、いつでも電話をしてよ」
「じゃ、近いうちに連絡させてもらうかもしれない」
「待ってるよ」
それがマナーらしく、郡司は女の連れの男を最後まで無視した。彼女も紹介しない。
「すごく綺麗《きれい》な人ですね」
奥のテーブルの席に座るなり瑞枝は言った。芸能人でないことは確かであるが、あの女のあかぬけた様子はとても普通の女とは思えなかった。
「京都で売れっ子の芸妓《げいこ》だった女だよ」
郡司はこともなげに言う。
「最近僕たちはよく京都へ遊びに行くんだよ。京都は面白《おもしろ》いよね。男を喜ばせることにかけて長い歴史を持ってるもの」
「そういう時に会う女の人なんですね」
「いや、彼女はもう違う。僕の友人が二億だか三億遣って落籍《ひか》せたんだ。てっとり早く言えば東京へ連れてきて愛人にしてるっていうことだね」
「何だか郡司さんの話を聞いていると、みいんなつくりごとのような気もするし、みいんな本当のような気もする」
「本当のことだよ。証明してあげるから、今度一緒に京都へ行こう。本当の贅沢《ぜいたく》っていうのを見せてあげるから」
〈シーン18〉夜・回想
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海の見えるレストランで佳代子と浩一、向かい合っている。
佳代子「池田さんのようにお金持ちで有名な人が、そんなこと言うの、私、信じられないわ。からかわれているとしか思えないの」
浩 一「僕の気持ちは本当だよ。君は好奇心をキラキラさせながら僕の世界にやってきた。そのくせ、僕や僕の金については軽蔑《けいべつ》している。本当に憎らしい、不思議な人だ……」
[#ここで字下げ終わり]
〈シーン19〉夜・回想
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車を停めて話している佳代子と浩一。窓からは東京湾の光景が見える。
浩 一「君みたいな女は初めてだよ。僕は君にいろんなものをあげようとした。それなのに君は、僕のことを心のどこかで笑っているんだ……」
佳代子「笑っていません。ただどうしていいのかわからないだけです」
浩 一「いや、君は心の中でこう思っている。お金で女の歓心を買おうとするなんて、なんて馬鹿な男だろうってね」
佳代子「(意を決したように)池田さん、私はずるい女だと思いますよ」
浩 一「えっ」
佳代子「シャネルやルイ・ヴィトンのプレゼント、レストランでの豪華な食事、そういうもの、私大好きなんです。わくわくします。だけど私にはわかってる。こういうものに喜んだら、池田さんのまわりにいる他の女の人と一緒になってしまうって。だから絶対に嬉《うれ》しくないふりをしなくっちゃいけないって。私、計算してるんです。私、すごくずるいんです」
浩 一「ああ、佳代ちゃん、なんて可愛いんだ」
佳代子を抱き締めてキスをする。
浩 一「僕は君のそういうところに夢中なんだ」
佳代子「(あえいで小さな声で)私が正直でいい子だから?」
浩 一「いや、君が考えているよりもずっとずるい子だから」
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〈シーン20〉昼・飛行機の中・回想
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佳代子「ファーストクラスのシートって、エコノミーの二倍ぐらいあるんじゃないかしら。ふふ、すごいわ」
何度か体を小さくジャンプさせる。
浩 一「もうちょっとしたらリクライニングシートを倒してごらん。まっすぐになるから」
佳代子「本当?」
スチュワーデスがシャンパンを持ってやってくる。
スチュワーデス「池田さま、森岡さま、ご搭乗ありがとうございます。わたくし、ホノルルまでお供させていただくチーフパーサーの盛田と申します。何なりとお申しつけくださいませ」
佳代子「よろしく」
スチュワーデスが去った後で、
佳代子「ねえ、私たちの苗字《みようじ》違ってて、おかしいって思われてるんじゃないかしら」
浩 一「彼女たちだってプロだからね、なんとも思ってやしないさ。今はね、飛行機はファーストクラスから埋まってく。それもみんな苗字の違う男と女だ。でもね、佳代子、もうじき僕たちは同じ苗字になる。この旅行から帰ったら絶対にだ」
佳代子「無理しなくてもいい……」
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芸能人でもないのに、郡司と瑞枝の結婚はマスコミに幾つか載った。といっても、そう大きな扱いではない。週刊誌のベタ記事に出たぐらいだが、小さな分だけ好意的で、
「バブルの寵児《ちようじ》の純愛物語」
といった類《たぐい》のものであった。例外だったのがある写真週刊誌で、これは見開き二ページという大きさだ。ウエディングドレス姿の瑞枝とタキシードを着た郡司が写っているのだが、いつ撮られたのか二人には全く記憶がない。教会とレストランでの挙式と披露宴は、ごく親しい人を五十人ほど招いただけだ。後で電話で取材を受け、初めてあの場にプロのカメラマンがもぐり込んでいたことを知ったのだ。
「豊島園《としまえん》がとりもったシンデレラ物語」
というタイトルがついている。
「雑誌のライターとして取材したのがきっかけで、若き億万長者の心を射止めた沢野瑞枝さんは二十五歳。ご覧のとおり楚々《そそ》とした美人である」
というくだりは、写真週刊誌に勝手に撮られた瑞枝のいらだちをかなり消してくれた。そのことで瑞枝は新婚の夫からどれほどからかわれたことだろうか。
「新郎の郡司雄一郎氏は三十四歳。この名前をご存知なくても、カフェ・バーの生みの親といえば、すぐにああとおわかりいただけるだろう。街の不動産屋から身を起こし、今や人気のカフェ・バーやレストラン、一等地のビルを何軒も所有する立志伝中の人物。若者文化をリードするヒーローとして評判も高い。彼に新婦の魅力を尋ねたところ、
『つき合い始めた頃、プールに行こうと誘ったら当然のように豊島園を指定してきました。プールといえば一流ホテルに行くものだと思っていた僕には、それがとても新鮮でした』
バブルの寵児の心を射止めたのは、意外にもこうした庶民感覚だったようだ」
と、最後は写真週刊誌らしく、やや皮肉にまとめられている。
二人が結婚した次の年一九八七年、郡司は『ブルータス』にも大きく取り上げられた。「金持ち人類学」とうたれたその特集は、こんなリードがつけられている。
「東京じゅうに億万長者が溢《あふ》れている
土地高騰はお伽《とぎ》話を産み落とした
東京と引き換えに地球全部が買えそうだ
金持ちは素敵だと思いたい」
この年、郡司はもう不動産屋と名乗らなくなった。名刺には「アーバン・プランナー」という文字が刷られ、彼は念願だったエリア開発に乗り出していく。
[#改ページ]
第五話 朝焼け
短い夢を幾つも見た。目を覚ましたとたんすべて消えてしまったのだが、夢を見たという気だるさだけは体に残っている。
時計を見る。六時少し前だ。瑞枝はパジャマを脱ぎ、トレーナーとジーンズを身につけた。数年前まで各ドアに放り込んでくれていた新聞を、この頃はマンションの玄関脇まで取りに行かなくてはならない。それがめんどうで、昼近くまで放っておくこともしょっちゅうだ。
けれども今朝はいつもとは違う。ドラマ「マイ・メモリー」の第一回めが放映される日なのである。各新聞のラジオ・テレビ欄がどのような大きさで扱ってくれるか。新番組紹介として、写真入りで大きく載るか、それともただのベタ記事になってしまうか、ドラマの視聴率を左右する大きな問題である。
玄関に出ようとして、ふと気配を感じた。リビングルームのドアを開けると、日花里が既に座っている。温められたミルクとパンを焼くにおいがした。テーブルの上には、新聞が置かれている。
「おはよう、新聞を取ってきてくれたんだ。サンキュー」
「うん」
新聞の畳み具合で、日花里がもう読んだことはあきらかだった。けれども浮かない顔をしている。
瑞枝はすばやくラジオ・テレビ欄を拡げた。写真入りで真中に「試写室」として大きく出ているのは、他局の新番組であった。「マイ・メモリー」は、左上の方にわずか九行の文字だけでまとめられている。もうひとつのスポーツ新聞の方を拡げたが、こちらも同じような扱いであった。
「お母さんのドラマ、随分ちっちゃいよね」
日花里がぽつんと言う。いつもはぎりぎりの時間まで寝ているくせに、新聞が気になって早起きしたのだろう。瑞枝は胸を衝《つ》かれた。
「気にしない、気にしない。最初の時に出なくてもどうってことないのよ。そのうちに人気が出てくるとさ、現金なもんでパーッと大きく取り上げてくれるんだから」
「本当だね」
いつも瑞枝は、自分の仕事について最小限のことしか日花里に話さない。ただドラマを書いている最中は、異常事態に入っていく。ご飯もつくれない時もあるし、掃除、洗濯もおろそかになる。お母さんも頑張ってるんだから、日花里も一緒に乗り切ろうね、ということを繰り返し言うだけだ。けれども日花里は自分なりに情報を集め、不安や期待をつのらせていたに違いない。
夕方六時過ぎに文香から電話がかかってきた。
「いよいよ今日ですね」
「本当。いつものことだけど、こういう日は早く目が覚めちゃうわ。何ごともありませんようにって祈っちゃう」
「それがね、ちょっとよくないんですよ」
「えっ」
「今、うちに入ってきたニュースですけどもね、例の代議士に逮捕状が出たんですよ」
それは今、世間を騒がしている汚職事件である。企業から金を受け取っているとされた国会議員は、保守系のいわばニューリーダーのひとりで、テレビの討論番組などでも活躍していた。ついこのあいだも人気のニュース番組に出演し、
「私は潔白である」
と長々と喋《しやべ》ったばかりだ。
「十時からの『ニュースステーション』なんかも、トップで大きくやると思うんですよ」
「そう……」
「まあ、うちとしてはちょっとツイてない状態ですけどもね。でも今度のドラマはすごく反響もいいですし、あんなチンケな国会議員には負けないと思いますよ」
「私もそう思うわ」
「じゃ、明日の数字楽しみにしててください」
そう言って電話は切られた。
瑞枝はしばらく思案に暮れる。ドラマの六話の直しをしている最中で、いつものように出前でも取ろうと思ったのだが、どうしてもそんな気になれない。
リビングルームで本を読んでいた日花里に声をかける。
「夕ご飯、遅くなってもいい。お母さん、ちょっと駅前まで買物に行ってくるよ」
「無理しなくてもいいよ。ピザでも親子丼でも平気だったら」
「でもね、ここんとこうちは、絶対に野菜不足だよ。お肉買ってくるから簡単にシャブシャブでもしようよ」
「じゃ、私も行くよ」
日花里は立ち上がった。図書館のシールが貼られた背表紙をちらっと見る。聞いたことのない日本の女流作家の名前だ。まるで芸名のような華やかで凝った名前がついている。今の若い子が好んで読む類《たぐい》の本なのだろう。
日花里はごく幼い時から本が好きだった。まだ自分で字が読めない頃は、よく瑞枝に絵本を読んでくれとねだったものだ。これは瑞枝の血のなせるわざだ。日花里の父親というのは、ビジネス書は読んでも、小説というものをいっさい読まない男だった。
「絵空ごとを読んでも時間がもったいない」
とよく言っていたものだ。
マンションの玄関を出てからも、日花里は瑞枝にぴったり寄りそうようにしている。甘えているのかと思ったがそうでもなかった。どうやら今日一日、母親の不安を少しでも救ってやろうと子どもなりに考えているらしい。彼女にしては非常に多弁になった。
「ねえ、深沢さんって、今年の夏休み、ひとりでカリフォルニアに行くんだって。もう決めたんだって」
深沢さんというのは、日花里の会話によく登場する友人である。そう親しいわけではないらしいが、聡明さと大人びているところが、日花里の興味と憧憬《どうけい》をさそっているらしい。
「へえー、カリフォルニアに行くんだ」
「あのね、ホームステイをするんだって。牧場持っている人のところへ泊まって、馬に乗ったり牛乳を搾ったりするって言ってたよ。あのうちのお母さんが、国際感覚つけるために行きなさいって言ったんだって」
「そう、いいわねえ。それでその女の子は英語出来るの」
「深沢さんはね、小学校一年生の時から英語習ってるんだよ。大人になったら留学しようってその時決めたんだって」
「へえー、すごい子だねえ。その時から自分の人生を決めてるなんて」
いい加減に返事をしている自分に、瑞枝はかなり後ろめたさを感じている。いつもだったら娘の話は舌足らずながらも面白《おもしろ》く、楽しくあいづちをうてるのに、今はとてもそんな気分になれない。さっきの文香の言葉が、時間がたつにつれ、ますます大きなものになり瑞枝の心を締めつけていく。
かなり大きな事件が起こってしまった。人々はドラマではなく、ニュース番組の方にチャンネルを合わせるだろう。よりによって、自分の書いたドラマが初めて放映されるという日にどうしてこんなことが起こるのだろうか。もしかするとこのドラマは、先々ついていないことばかりなのではなかろうか……。
「ああ、沢野さん、待ってたわよ」
にぎやかな声に目を上げる。駅前のミニ・スーパーのおかみさんだ。この店は夜遅くまで営業しているうえに、コンビニと違って生鮮野菜や肉が充実している。料理をする時は専《もつぱ》らここで買うようにしているのだが、おかみさんはどうやら雑誌で瑞枝のことを知ってしまったらしい。おかげで行くたびに騒々しい歓待ぶりだ。
「いよいよ、今日からドラマ、始まるわよね」
「ええ、よろしくお願いします」
「もちろんよオ。ちゃんとビデオに予約したからね。絶対見るわよ」
絶対≠ニいう言葉に、思いがけなく瑞枝は心がなごんでいく。
夜の十時になると、日花里は当然のように自分の部屋から出てテレビの前に座った。
その時初めて瑞枝の中で逡巡《しゆんじゆん》というものが始まった。自分の書いたドラマでも、日花里に見せないものがある。ふんだんにベッドシーンが出てくるものを、母子で見る気まずさは、いくら脚本家の家庭でも変わりない。
今度のドラマは、いろいろな意味で娘に見せたくはなかった。どう言い繕ったところで「マイ・メモリー」は、瑞枝の過去が題材になっている。今日一話でも繰り拡げられる実業家との新婚シーンは、間違いなく自分と夫とのことだ。
赤ん坊の時に別れた父親のことを、日花里はほとんど知らない。
「日花里のお父さんは、明るくて頭がよくて、とってもいい人だったけれど、だんだんお母さんと仲よく出来なくなってきたの。友だちだって、もう会いたくないと思うことがあるでしょう。だからお父さんとお母さんはさようならをしたのよ」
という説明がいつまで通用するかわからないが、日花里も今のところ詳しく追及しようとはしない。夫とのことで日花里の担任と話をしたところ、その小学校のクラスでも、離婚した両親というのは珍しいケースではないという。日花里と仲のいいグループの中にもいるはずで、子どもたちは子どもたちなりに情報を集め、自分の中で納得しようとしているという。
「いちばんよくないのは、母親が別れた父親の悪口を吹き込むということですよね。これを聞くと、子どもは本当に悲しくつらい気持ちになるんですよ」
教師に言われるまでもなく、瑞枝は夫のことをかなり美化して娘に伝えてきた。お父さんはたくさんのビルをつくり、東京の街を変えようとした。新聞や雑誌にもたくさん載った有名な人だった。日花里が大人になったらそうした記事の切り抜きを見せてあげる……。
けれども「マイ・メモリー」に登場する夫は、当然のことながら負の顔も見せている。
「女をやめることは人間をやめることだ」
と言い切った夫の好色さは、かなり脚色したとはいえドラマの中にふんだんに出てくるはずだ。そういうものを娘が見て、いったいどう思うだろうか。
「これはつくりものなのよ。ドラマなの。だから本当のことと違うのよ」
と言ったところでたいした効き目があるとは思えない。
タイトルバックが流れ始めた。文香が依頼したのは、若い人に人気のある女性ミュージシャンである。アコースティックギターの、もの哀し気なメロディが流れ始めた。このドラマのための書きおろしの曲である。
時は過ぎて 街は変わり
あなたはもう昔のあなたじゃない
それなのに
どうしてこんなにいとしくなるの
どうしてこんなにせつなくなるの
ああ MY MEMORY so sad
MY MEMORY so beautiful……
ハンディカメラでわざとぶらして撮った、モノクロの渋谷《しぶや》の風景が流れてくる。そしてまず最初に、
「脚本 沢野瑞枝」
という文字が白く浮かんだ。
「やったー、お母さん、カッコいい」
日花里が大きく拍手し、そのとたん瑞枝は覚悟を決めた。いずれ自分たち夫婦のことをきちんと話さなくてはいけないと考えていた。このドラマは必ずしも真実を伝えていない。けれどもそれに近いものがある。いつまでも綺麗《きれい》ごとばかり言ってはいられない。日花里は頭のよい子どもだ。何よりも母親のことを尊敬してくれている。この二つさえあれば、多少つらい事実もきちんと受け止めてくれるに違いない。
タイトルが終わりドラマが始まった。定石どおり、第一話の導入部は主人公の日常生活だ。外資系シンクタンクのオフィスで、外国人に混じって立ち働く女の姿が出てくる。川村絵里子はこういうキャリア・ウーマンの役を演《や》らせると実にうまい。多少英語も喋《しやべ》れるので、外国人と打ち合わせをするシーンというのもそう違和感がなかった。
やがて場面が変わり、絵里子|扮《ふん》する森岡佳代子は疲れ果てて自分のマンションにたどり着く。玄関でヒールを脱ぎながら、佳代子は奥に向かって声をかける。
「ただいまー、遅くなっちゃってごめん。会議が長びいちゃって。今すぐご飯にするからさあ」
そこに七歳になる息子がでてくる。この男の子は、児童劇団の応募者の中からオーディションで決めた。多少こまっしゃくれているのが気になるが、顔立ちが絵里子に似ているのと、セリフまわしがうまいからというのが文香の推薦の弁であった。
「いいよ、いいよ。無理するなってばさ。ピザか何かとってくれればいいよ」
ボーダー柄のシャツを着た男の子が、大人びた口調で言う。
「これってうちとよく似てるね」
日花里がぽつんと言った。
「そりゃ、仕方ないわよ。お母さん、他に子どもがいないんだからさ、子どもが出てくるシーンとなれば、日花里がモデルになっちゃうよ」
「そうかー」
なぜか日花里はこの言葉に喜び、にっと照れて笑った。
やがて前半のCMが始まった。
瑞枝はあらかじめカンパケ≠ニ呼ばれる、完成したビデオを受け取っている。けれどもそれと実際に流れるものとはかなり違っている。ビデオの方は挿入されるCMが入っていないため、見ている者の緊張感を計算出来ないのだ。
瑞枝はCMの最中、あちこちのチャンネルをまわした。思ったとおりニュース番組では、逮捕された代議士の特集を組んでいる。かなりこちらの方に数字が流れるに違いない。全くついていないと瑞枝は舌うちしたい気分だ。
「マイ・メモリー」のいちばんのライバルと目される他局のドラマは、一話めの前半だというのに早くもベッドシーンが始まっている。男の腕の下であえいでいるのは、最近めきめき売り出し中の若い女優だ。ファッションモデル出身の彼女は、抜群のプロポーションを持つことで有名であるが、その乳房の大きさも相当のものだ。シーツで半分隠しているものの、バストの谷間がくっきりと影をつくっている。
いかにも男性週刊誌がとびつきそうなシーンだ。もう二、三回過激なシーンが続けば、彼女の美しく豊かな肢体はすっかりドラマの売り物になるに違いなかった。
リモコンを押し、もうひとつ別の他局のドラマに目をやる。ちょうどここもCMが始まるところであった。しかし化粧品会社に家電メーカーといういいスポンサーがついていることが確認出来た。
「お母さん、もうCM終わっちゃうよ」
日花里が不満そうな声を出した。
「そうだね、ごめん、ごめん」
急いで元のチャンネルに戻した。日花里の言うとおり、既にドラマは進行していた。
CM開けは、主人公の回想シーンで始まる。クルーザーでのパーティーに招かれた佳代子が、実業家の池田に出会う重要なシーンだ。湘南《しようなん》でロケを行っているが、驚くのは当時の風俗をしっかり再現していることだ。
「あの頃のドラマを繰り返し見ました」
と文香は言ったが、そのために優秀なスタイリストを複数頼んだようだ。
女優たちはボディコンと呼ばれる、体にぴったりとしたドレスを着ている。アライア、ピンキー&ダイアンといった名前を、ドラマを見ている女たちは思い出すはずだ。髪は長めのワンレングス、化粧はかなり濃い。
女たちに寄り添う男たちは、ソフトスーツといういでたちだ。スタイリストは池田浩一役の俳優に、ルイ・ヴィトンのクラッチバッグを持たせている。
シャンパンが何本も抜かれ、女たちの嬌声《きようせい》が夜の海に響きわたる。
男たちの会話が小刻みに聞こえてくる。
「ハワイにコンドミニアムを買ったんだよ。日本人が出来るだけ少ないとこって条件つけてさあ……」
「いつでも言ってよ、僕はあそこの会員なんだからさ、いつでも予約取ってあげられるよ」
「ミュージカルはさ、やっぱりロンドンだよ。『ザ・ファントム・オブ・ジ・オペラ』の初演はすごかったよ」
「結婚したい年齢のさ、十の位と一の位を足して九をかけてさ、その十の位と一の位を足して、今までセックスした人数を足す。それから九を引くと、今月君が寝た男の数が出てくる。ねっ、不思議だろ……」
パーティーの喧騒《けんそう》から離れて、ひとり海を見ている佳代子。グラスを片手に池田が近づいてくる。
「君、どうしてあっちの方行かないの」
「あんまり楽しそうじゃないもの」
「楽しい、楽しくないなんて、行かなきゃわからないじゃないか」
「そんなの勘でわかるわ。すっごくくだらないことを話してそう」
いかにも金のありそうな男たちと、彼らを取りまく美しい女たちの笑い声が続く。
「クルーザーのパーティーは、いつだってくだらない乱痴気騒ぎさ。それがわかってて君だって来たんだろ」
「好奇心ってやつよ。しまった、って思った時は、もう船が岸を離れちゃった」
「戻るのにはあと二時間はかかるよ。僕たち二人だけでも楽しくやろう」
池田は、手にしていたグラスを手渡す……。
「ふうーん」
とテレビの前の日花里は大きなため息をもらした。
「お母さんと初めて会った時、お父さんて本当にこんなこと言ったの。なんかイヤらしい……」
「馬鹿ね、これはドラマだってば。お母さんはね、お仕事でお父さんと出会ったの。こんなパーティーじゃなかったわ。これはね、第一回めだからうんと派手《はで》にするために、クルーザーのパーティーってことにしたのよ」
「ふうーん」
けれども日花里は納得した様子ではない。この先が思いやられると瑞枝は思った。今回のドラマに関して、日花里は異様な、と言っていいほど興味を抱いている。父と母との歴史をこのドラマから探ろうとしているかのようだ。
おそらくこのことは、今後脚本を書くうえで大きな悩みになるだろうと思った。瑞枝自身も、娘に対しては「知られてもいい」と、きっぱり割り切ることは出来ないのである。
ドラマの後半で日花里はもう一度質問をした。
「あのさ、お父さんって本当にこんな風にお金持ちだったの」
それは佳代子が初めて池田のマンションを訪れるシーンである。脚本にはただひと言「豪華な部屋」としか書いていないが、スタッフは大層張り切ったらしく、凝りに凝った部屋である。
代官山のマンションをロケしたと聞いているが、当時の流行《はや》ったインテリアがそのまま再現されている。夜景が見えるロフトの部屋は、ミラノ風とでもいうのか、人工の大理石でつくった円柱がある。かと思えば、ところどころ白黒のタイルが貼られているのも懐かしい。実業家のプライベートルームというよりも、売れっ子のアーティストのオフィスという感じがするが、おそらく八〇年代終わりの空気を伝えるためには、この方が有効と判断したのだろう。
「すごいね、お父さんってこんなとこに住んでたんだ」
という日花里の言葉を、もはや瑞枝は無下に否定しなかった。
「お父さんは東京の街を変えようといろんな事業をしていた。あの頃はとっても有名な人だったの」
という瑞枝の言葉を日花里は憶《おぼ》えていて、彼女なりにさまざまな物語を組み立てていったに違いない。
「そうよ、あの頃のお父さんはすごかったわよ」
瑞枝は言った。
「頑張ってたし、時代もよかったから、お金もうんと入ってきた。でももう全然ないけれどもね」
「えっ、全然ないの」
振り向いた日花里の目が、悲し気に曇っていることに瑞枝は驚かされた。
「そうよ、お父さんはあっという間に貧乏になっちゃった。お母さんもひとりになってもっと貧乏になったの。でもさ、頑張ってさ、うちは今、まあまあってとこでしょう。母子家庭にしちゃ、いい暮らししてるよね」
「まあね……」
その後、ややためらいながら日花里は問う。
「お父さんのお金、もう本当に全部失くなっちゃったの。ちょっぴりどこかに残ってないの」
「日花里ってば……」
瑞枝はまじまじと娘を見つめる。もしかすると彼女の中に、夫の嫌悪すべきあの血が濃く流れているのだろうか。
「そんなにお金が好きなの。もっとお金持ちならよかったのにって思ってるの」
「そんなことはないけどさあ、全部失くなっちゃったなんてさ、やっぱりつまんないよね」
これほどドラマが終わるのが、長く思われたことはなかった。いつもだったらCMの途中、日花里は冷蔵庫の中から飲み物を持ってきたりするのであるが、今日はそんなこともなくじっとテレビを見つめている。
困ったのはドラマの後半、池田がなかば強引に佳代子と関係を結ぼうとするシーンである。
「ここが一話めの山場になりますから、もうちょっと派手な感じに」
と文香から書き直しを命じられたところだ。ホテルのスイートルームでロケをしている。
「奥さんがいる人と、こんなことをしたくない」
後ずさりする佳代子に池田は迫っていく。
「佳代ちゃん、僕は本気なんだよ」
「池田さんみたいに遊んでいる男の人に、本気なんてものがあるのかしら」
「馬鹿にするな」
このシーンは演出家もかなり大胆な演技をつけていた。逃げまどう佳代子の服を裂き、池田は上にのしかかっていく。カメラもずうっと寄っていき、ねちっこいキスシーンが長く続く。
このあたりになると日花里は何も言わない。いっそのことチャンネルを変えることが出来たら、どんなに気分が楽になるだろうかと瑞枝は思ったものだ。
やっとエンディングテーマが流れ始めた時、安堵《あんど》のため息さえ漏れた。全くこんなことは初めてだ。もう来週から娘と見ることは絶対にやめようと心に誓った。
電話が鳴り始めた。いつものことであるが、ドラマの第一回めが終わった後は、親しい同業者やテレビ関係者から祝いや感想を述べる電話が何本も入ってくる。
「瑞枝ちゃん、やったじゃないか」
以前一緒に仕事をしたことのあるプロデューサーからであった。
「企画を聞いた時からさ、ニュー東京テレビさんにやられたと思ったよ。バブルの頃のことをドラマにしようなんて、やっぱりあそこはやることが違うよな。こりゃー、きっと数字いいぜ」
このプロデューサーはやたら調子のいい男である。脚本家だったら誰でも飛びつきそうな企画をやたら並べては、自分を口説いたことを瑞枝は思い出す。といっても先のこともあり、瑞枝は出来る限り丁寧に対応した。
「私ね、数字はちょっと心配なの。回想シーンが多くって、ドラマが地味になったような気がする」
「そんなことないぜ。あの頃の雰囲気よく出ていてさ、オレなんかの年代だとぞくぞくってきちゃうよ」
「ねえ、ねえ、川村絵里子って何なのよ。ちょっと老けたわねえ」
いきなりこう言ってきたのは、先輩格にあたる同業者だ。ヒットしたシリーズものを持っているため、この数年は安泰と呼ばれる羨《うらや》ましがられる立場にある。彼は男色家に多く見られるタイプであるが、世話好きで気のいい人間であるにもかかわらず、とにかく口が悪い。
「川村絵里子に、もう二十代の回想シーンは無理よオ。いくらさ、ソフトかけてもさあ、皺《しわ》がミエミエじゃないのオ。ちょっとさ、あんた、絵里子が笑ったとこ見た。おでこに線が走ったのよ。あたし、今度あの子に会ったら、絶対に整形手術を勧めるわねえ……」
瑞枝の脚本に対する感想はなく、女優の悪口だけで電話は切られた。
「沢野さん、思いきったことを始めましたね……」
次に電話がかかってきたのは、若い女性の脚本家である。
「自分の過去まで、ちゃんとこうしてドラマになさるんですもの。私なんかと覚悟が違いますよ。やっぱりプロだと思いました。私たち、書かせたプロデューサーもすごいけれども、書いた沢野さんもすごいって、みんな噂してるんですよ」
前から感じていたことであるが、今回のドラマのことは同業者の間で大きな話題になっているらしい。おそらく好意的なものばかりではなかろう。
「別れた亭主をネタにしても、それでも仕事が欲しいか」
ぐらいのことは、この業界の性格上、言われているに違いなかった。
そして最後に電話が繋《つな》がったのが文香であった。朝とは違い、声がはずんでいる。
「沢野さん、反応上々ですよ。さっきから私、局にいて電話を受け取ってますけれども、あの頃のことを思い出して懐かしいとか、あんな世界があったなんて信じられないとか、いろんな電話が来てますよ」
「そう……」
「この分じゃ、たぶん数字もいいと思いますよ。明日楽しみにしててください」
「そうだといいんだけど」
「つくった人が、何を弱気なこと言ってるんですか。私なんかこれから若い人連れて飲みに行こうかと思ってるんですよ」
もしよかったら出てきませんかという誘いを瑞枝は断った。疲れてとてもそんな気になれないのだ。
居間に戻るともう日花里はいなかった。テレビはつけっぱなしである。日花里のぬくもりを残しているかのようにソファのヘこみもそのままだ。瑞枝は本当にあのドラマを見せてよかったのかという後悔にとらわれた。
仕事場に戻っても、瑞枝はパソコンの前でぼんやりとしている。第一回めの放送を見た後は、なかなか日常の中に入っていくことが出来ないのだ。
瑞枝はあきらめて雑誌をめくり始めた。が、いつのまにかページをめくる手が止まっている。さっきテレビを喰《く》い入るように見ていた日花里の表情がちらついて仕方ない。ひとりで自分の部屋に帰っていったことも気にかかった。
「ひょっとして、父親のことが恋しいんだろうか」
郡司との別離については、日花里がもう少し成長したらきちんと話すつもりでいた。けれどもその前に、ああしたドラマ仕立てで両親の過去を垣間《かいま》見たというのは、十歳の少女にとって刺激が強過ぎたのではあるまいか。
しかし、もう引き返すことは出来ない。ドラマはもう始まっているし、娘は来週も見続けるだろう。初放映の日はただでさえ、視聴率が不安で気がたかぶっている。瑞枝はやりきれぬ思いで、舌うちとため息を繰り返した。最後は雑誌を読むこともやめ、キッチンからウイスキーとグラスを取り出した。
瑞枝は何年も前から不眠に悩まされている。不規則で睡眠不足の日が続いた後は、いざ眠ろうとしても体がうまく反応してくれないのだ。そんな時、寝しなに強い酒を少量口にすることがある。ビールぐらいならともかく、日花里は母親がそうした瓶を手にしていると露骨に嫌な顔をするので、寝た後こっそりとやる。
貰《もら》いもののウイスキーは外国もので、まず強いかおりが鼻につんときた。氷も入れずグラスに半分ほど酌《つ》ぎ、そろそろと飲んだ。酩酊《めいてい》というほどではないが、かすかなめまいのようなものを感じ、その勢いで瑞枝はベッドに倒れ込む。
こうしてさまざまなことを忘れようとしている自分が、瑞枝はひどくみじめに思えた。酔いが静かにまわっていくのを感じながら、瑞枝はもう何年男と寝ていないだろうかとふと考えた。最後にそうした行為があったのは今から三年前、番組制作会社の男とであった。瑞枝より二歳下の彼はなかなかの男前で、何よりも瑞枝に対して積極的であった。仕事関係の男とはかかわり合いを持つまいとずっと思っていたが、もののはずみでついそういうことになってしまったのである。
男は当然のことながら家庭を持っていたから、二人の逢《あ》い引きはホテルで行われた。しかし男はすぐに図々しくなり、日花里が登校した後のこのマンションに通ってくるようになった。そうした世帯じみた情事は長く続かず、半年ほどで別離を迎えた。ただそれだけのことだ。それなのにどうして今夜に限って彼のことを思い出すのだろうか。
まどろみと追憶との境め、クリーム色の靄《もや》の中に瑞枝は入っていく。裸の自分を抱いている三年前の男。それが、いつしか池田役の俳優の顔となり、やがて郡司へと変わっていく。
「ずっと前からこうしたくてたまらなかったんだ……」
男はささやく。けれども男は初めての時、必ずそう言うものだ。夫もそうだったし、夫と出会う前の男も、夫と別れた後の男もみんな同じ言葉を口にしたものだ。男と寝るということは、九〇パーセントの差異と一〇パーセントの共通を確かめることかもしれない。けれどもそれがいったい何だというのだ。自分はこれからどこへ行くのだろう。もしかすると、もう一生男と寝ることもなく、不安と焦燥の道のりをずっと歩いていかなくてはならないかもしれない……。
電話が鳴り、瑞枝ははっきりと目が覚めた。
「はい、沢野です」
反射的に時計を見た。うとうとしていたのはほんのわずかな時間で、時計の針はまだ午前一時を指していない。
「すいません。こんな遅い時間に。高林です、ご無沙汰《ぶさた》しています」
恐縮しているのか、いつもより低い声だ。
「いいえ、いいんです。うちみたいなとこにとっては、宵のくちですから」
自分の声が必要以上に上ずっているのを感じる。たった今見たばかりのエロチックな夢の残滓《ざんし》が、受話器を通じて向こう側に流れいくのを恐れているのだ。
「どうしても電話をせずにはいられなくなったんですよ」
「ドラマを見てくだすったのね」
「ええ、やっぱり僕なんか冷静に見られませんね。あの頃のことをどうしても思い出してしまう。僕たちはもう三十代だったけれども、あれが僕たちの青春っていう感じがしますね。いや、金があって好きなことが出来た分、学生時代の本当の青春よりもずっと楽しかった……」
「これからもっと面白《おもしろ》くなりますよ。当時の人気の店を再現しようっていう案もありますから」
「そりゃあいい。でも、あの男の部屋はひどかったですね」
後半に出てくる池田のマンションのことらしい。
「ミラノ風とロンドン風がごっちゃになっていた。あなたも知ってるとおり、郡司さんはとても趣味のいい人だった。インテリアや美術のことをよく勉強してたから、あんな部屋に住むはずはありません」
「大道具さんにちゃんと言っときます」
その後、二人は何とはなしに微笑み合った。見えなくてもその気配があった。
受話器を置いたとたん、もう眠りは当分やってこないだろうと瑞枝は確信した。さっきまで追っていけば、なんとか捕えられそうだった眠りが、高林との電話の間にずっとはるか彼方《かなた》へ逃げてしまったのを感じる。瑞枝はもうすっかり諦《あきら》めて仕事を始めることにした。再びパソコンの前に向かう。六話のシーン十四は、若い男に求愛され、とまどう主人公の心を描いていく。ここは女優の演技力を信じて、長いセリフで見せ場をつくるつもりだ。キイを打つ。
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佳代子「私はもう若くないの。ねえ、若くないっていうことがどれほどつらいことかわかる。普段はね、気づかないふりをしてる。ううん、たいしたことじゃないって、本当に思える時だってあるわ。でもね、いったん気づいたらもう駄目よ。私には何の資格もないと思っちゃうの。そう、資格なのよ。人を愛するのも愛されるのも資格はいるの。それはね、男の人に抱かれている時、どこかでもうひとりの自分が見ている。その自分が、もうやめて! そんなことやめなさいよって怒鳴り出したら駄目なの。大丈夫よ、体の線もとっても素敵よ、彼も喜んでいるはずよって、もうひとりの私が言う。それが資格よ。今の私、誰が何て言ってもその資格がない。もうひとりの私がOKを出してないの」
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キイを打ち続け、ふと気づくとレースのカーテンが青白く輝いている。もうじき朝が来ようとしていた。
もうじきあれが近づいてくる。朝の訪れのしばらく後、一本の電話がかかってくるはずだ。脚本家に昨夜の視聴率を伝えるのは、たいていの場合プロデューサーの仕事である。初放映の夜も眠ることが出来ないが、その次の日の朝も早く起きてしまう。この仕事を何年やっても瑞枝の小心さは直ることはない。
おまけに今回のドラマは、今までのものとは違うのだ。自分の過去や夫を売り物にしてと陰口を叩《たた》かれながらも、多くのものを込めて書いていった。瑞枝の脚本家としての今後を決める大きな作品である。
信仰を持つ人間は、こういう場合神に祈るのだろうと瑞枝は思った。けれども瑞枝は手を固く握り、大きな不安で潰《つぶ》されそうになる自分に耐えるしかない。数字を聞いたらたとえそれが思わしくないものであっても、対処する方法はいくつかある。けれども今がいちばんつらい。悪い予想ばかりが、次々と頭の中を通り過ぎていくのだ。
やがて瑞枝は、廊下ごしに目覚まし時計の音を聞いた。もう日花里の起きる時間らしい。今日は久しぶりに、娘のために朝食の用意をしようと瑞枝は腰を上げる。自分を勇気づけてくれるものは、娘の笑顔とあの声なのだ。
プロデューサーからの電話は、たいてい朝の九時過ぎにかかってくる。昨夜の視聴率が出揃うのがその時間なのだ。たとえいつも昼頃出社するプロデューサーでも、自分の手がけた番組が放映された次の日は九時には自分の机へ行く。そしておそるおそるパソコンのキイを叩く。すると一日の各局のデーターがすべて映し出される仕組みなのだ。
瑞枝は時計を見る。九時四十分を過ぎていた。これはあまりよい前兆とはいえない。なぜなら視聴率がよかった場合、プロデューサーは一分でも早くと、脚本家に電話をしてくるものなのだ。瑞枝の今までの経験だと、よい知らせは九時半までにはもたらされる。
朝食の食器を洗おうか、そのままにして仕事場へ行こうか、迷って腰を上げかけた時に電話が鳴った。ややあらたまった内容の場合、文香は携帯ではなく自宅の電話にかけてくる。
「もし、もし、起きてましたか」
低い彼女の声に、瑞枝はああ、駄目だったのかと早くも覚悟を決めた。
「起きてたわよ、とっくに。今日みたいな日はやっぱり眠れないわよ」
「それがね、よくないんですよ……」
文香の返事を待つ〇・一秒の間、瑞枝の頭の中にさまざまな数字が行きかう。一三か一五といったところか。話題のアイドルを集め、鳴り物入りでスタートしたドラマならともかく、今の世の中、視聴率は一五パーセントなら成功、一三パーセントなら合格ライン、と言われている。文香があまりよくない、というのなら一三パーセントに近いのだろうか。
「一一・四です」
予想以上の低い数字に、瑞枝は心臓をぎゅっとわし掴《づか》みにされたような気分になる。二時間の単発ドラマで、このくらいの数字をとった苦い経験があるし、何回かシングル≠ニ業界の人々が恐れる八、九パーセント台まで落ち込んだことがある。けれどもニュー東京テレビのプライムタイムで、この数字は今後問題になることは間違いなかった。
「代議士のせいよね……」
「あれでニュースの方に流れましたからね」
けれども他局のドラマの数字を聞くと、それらは決して悪くない。一九パーセントまでいったところもあり、ドラマの部門で「マイ・メモリー」は完敗したということになる。
「ですけど、勝負はこれからですよ」
文香は自分に言いきかせるかのように、唐突に言った。
「この後絶対に伸びてきますから。私は自信がありますから」
最近の若い女性、特にOLにとって、テレビドラマというのは大切な娯楽であり社交の手段である。そのために彼女たちは新番組を一応チェックし、見られないものはビデオに録《と》っても見る。そしてめぼしいものの中から検討し、まわりの評判を聞きながら、今期必ず見るドラマを決めていく。よって第一回めがよければ口コミで必ず数字は伸びる、というのは以前からの文香の持論であった。
そのために彼女は、二年前に同局が手がけたあるヒットドラマのことを例に出す。このドラマは、最初の大きな企画が流れたもので、急遽《きゆうきよ》集められた俳優たちも脚本家も決して一流と言えないものであった。主役の若い女優などは、主演作はこれが初めてという心もとなさでスタートした。
初回は一〇パーセントというていたらくで、早くも打ち切りがささやかれていたほどだったという。ところが途中からプロデューサーと脚本家が、なかば自暴自棄的にメロドラマを思いきり劇画調に変えてしまった。
主人公の恋人をホモセクシュアルな滑稽《こつけい》な男に仕立てていったところ、ここから人気に火がついた。最高視聴率は二八パーセントまでいき、社会現象にまでなるドラマとなったのである。
「私はね『マイ・メモリー』も、きっと化けると思ってるんですよ」
こういう慰めの言葉は、プロデューサーと呼ばれる人種の常套句《じようとうく》だとわかっていても、瑞枝はやはり心が静まっていくのを感じる。
「それにしても一一パーセントっていうのは、ちょっとショックでした」
「私もそうです」
文香の局内での立場が手にとるようにわかる。おそらくこれから上司や編成の人間たちに責められていくはずだ。
「でもね、瑞枝さん、ドラマは必ずしも数字じゃありませんから。『マイ・メモリー』は、社会的にも話題になる大きなテーマですし、誰かがきちんとドラマにしなくてはならなかったことですから」
これもプロデューサーがよく口にする言葉である。心の中では全く正反対のことを考えながらも、
「ドラマは数字じゃありません」
と一応は口にする。こうすることによりスタッフを慰撫《いぶ》し、自分も鼓舞しようとするかのようであった。
「頑張りましょうよ。私も絶対に負けませんからね」
それでも最後にはつい本音がこぼれる。
「それから沢野さん、午後にでも局の方にいらしてくださいませんか。こうなったらきっちり六話を詰めていきましょう」
早めの昼食を済ませた後、瑞枝は家を出た。ニュー東京テレビのある乃木坂《のぎざか》までは千代田線で一本の道のりだ。
ちょうど各局が新番組をスタートさせている頃とあって、地下鉄の車内はドラマの広告がいくつか目立つ。二つ車輛《しやりよう》を歩いて中吊《なかづ》りに「マイ・メモリー」のポスターを見つけた。
主演の女優を中心に四人の俳優が並び、左端にこんなコピーがあった。
「バブルと呼ばれたあの頃。私たちはどんな風に生きただろうか」
「社運を賭《か》けている」というのは、テレビ局のスタッフが半ば冗談で口にする言葉だからあまり信用出来ないにしても、「マイ・メモリー」には今期局側がかなり力を入れていた。ポスターをこうして貼るためにだけでも一千万近い金がかかっているはずだ。それなのに一一パーセントという数字はあまりにもうすら寒い。
言うまでもなくテレビドラマをつくるということは巨大なビジネスである。瑞枝がつき合うのはプロデューサーと何人かの俳優であるが、その背後に何十人という局側の担当者がいて、そのまた後ろには何百人という広告代理店の人間や、スポンサー筋の人間が何らかの形でドラマにかかわっているのだ。
そういう人間のことは普段考えないようにしているが、やはり今日のような場合は自分のしている仕事の大きさに瑞枝は恐怖しているのである。おそらく一一パーセントという数字をめぐって、いろいろなところが動き出しているに違いない。文香は賢いプロデューサーだから、そういうことを瑞枝に悟られないようにするはずであるが、それでもさまざまなことを自分は勘づいていくであろう。
乃木坂駅のコンコースを通り、エスカレーターで上にあがるとそこはもうテレビ局の玄関である。
瑞枝はガードマンに通行証を見せ、六階の制作局に向かった。テレビ局というのは、どこも誰かが悪意を持って操作しているのではないかと思うほど、エレベーターが来るのが遅いところである。
苛々《いらいら》しながら待って、やっと来たかと思うと満員で乗れなかったりする。四台めにやっと空いた機が地下から上ってきた。中に以前一緒に仕事をしたことがあるプロデューサーが乗っていた。
「よっ、瑞枝ちゃん」
彼は眼鏡の奥の目をしばたたかせるようにこちらを見た。
「新しいやつ、大変だねえ」
当然のことであるが、昨夜の視聴率は局中に知れわたっているのだ。
第二制作部に入っていくと、右の奥のデスクに座っていた文香がすぐに瑞枝を見つけた。あらかじめ電話をしておいたので、瑞枝が来るのを今か今かと待っていたらしい。
「食事中なんで、食べながらでもいいですか」
机の上に包みを開けかけたサンドウィッチとウーロン茶があった。おそらくいろいろなところと連絡を取り合っていたため、食事を取る暇がなかったのだろう。
もし昨夜高視聴率をとっていたら、二人で近くのレストランへでも行き祝杯をあげていたはずだ。地下の売店で買ったらしい貧しいサンドウィッチは、そのまま文香の状況を表しているようだった。
制作部の左側には、打ち合わせ用の三つの小部屋がある。サンドウィッチを持った文香がドアを押す。既にディレクターの細井が座っていた。ずんぐりとした四十男であるが、過去ヒットドラマを何本かたて続けに出していた最中、若手女優と噂をたてられたことがある。彼女のマンションを出てくるところを写真週刊誌に撮られたのだ。
「沢野さん、オハヨーございます。お疲れさんですねえ」
彼は磊落《らいらく》さを装おうとしたが、あまりうまくいかなかった。もう少しあたりさわりのない会話をしなければいけないところ、ただちに肝心の部分に入ってしまったのだ。
「いやあ、まいっちゃったなあ。昨夜のことは予想外だったよなあ」
第一回めの放映は、彼の長年の慣習で行きつけの飲み屋で見たが、ママにも常連の女の子たちにもおおむね好評だったという。
「まさか、あんなに裏に持ってかれちゃうとはねえ……」
代議士の逮捕などそれほどの影響はなかった。裏のライバル局のドラマは、おおむね高視聴率をとっているのだ。細井はさまざまな分析をする。あっちのドラマは、あれほど早く長坂|真由《まゆ》が脱ぐとは思わなかった。今どき脱いでも数字はとれるものではないが、やっぱり真由がバストトップまで見せるというのは衝撃だった。こりゃあ、ちょっと不味《まず》いことになったよなあ。
もうひとつのドラマは、人気アイドルグループのメンバーが初主演ということで話題を集めているが、脚本《ほん》がとにかくひどい。あれでは数字は伸びないだろう、などという講評が続いた。どうやらすべてビデオに録《と》り、昨夜のうちに見ておいたらしい。
「それじゃ、そろそろ我々の作戦会議とまいりましょうか」
文香がおどけた調子で言い、小冊子を取り出した。ペラの表紙だけつけた六話の準備稿である。朝、瑞枝がファックスで送った直しの部分も、きちんと装丁されている。
「いちばん肝心なことは、このままラブストーリー兼懐かしいドラマで続けていくかっていうことですよね」
文香は瑞枝に強い視線をあてる。視聴率という魔物に奉仕する、プロの女の目である。
「私はやっぱり、このドラマ、根本的に変えなきゃいけないと思います」
「変えるってどういう風に変えるの」
こういう場合、出来るだけ自分の感情を抑えて冷静に対応する。瑞枝が身につけた処世術であるが、主張するべきことはきちんと主張しなければならない。
「五話では、年下の男とのベッドシーンも入れたし、女同士のとっくみ合いの喧嘩《けんか》も入れたわ。これだけ盛りだくさんにして、しかも根本的に変えるとなったら、『マイ・メモリー』は最初のものとは全く別のものになっちゃうと思うけど……」
「それも仕方ないんじゃないの」
細井はいきなり文香のサンドウィッチに手を伸ばし、ひとつつまんだ。
「僕たちは今、タイタニック号みたいなものなんだから、生き残るためには何でもやらなくっちゃ」
「細井さん、タイタニックだなんて、縁起の悪いこと言わないでくださいよ」
文香が笑ってたしなめたが、その後部屋はしばらく沈黙に占領された。細井のハムサンドを咀嚼《そしやく》する音だけが大きく響く。三人の頭の中にはただ一一・四という数字だけがあった。
テレビ界には幾つかの伝説がある。一三という数字からスタートしたドラマが、あれよあれよという間《ま》に人気が出て、三〇パーセントを超えるドラマになった。ひとりの脚本家が匙《さじ》を投げたドラマを、新人の脚本家が引き受け、そのとたん視聴率がはね上がった……。けれどもそんなことは奇跡に過ぎない。視聴者の気まぐれに不思議な運が取りついて、信じられないような現象が起こったのだ。
瑞枝にもわかっているし、もちろん文香はもっとわかっている。一一・四という数字をこれから上げるということがどれほど困難かということをだ。一一という数字はめったに一五や一六にならない。その替わりすぐに九や八という数字になる。恐ろしくなるぐらいあっさりとだ。
「まさか絵里子さんに脱いでもらうわけにもいかないしなあ」
細井がつまらぬ冗談を口にしたが、誰も反応しなかった。それが準備だったようで、今度ははっきりと言った。
「やっぱり消すしかないでしょう。これしか手はないよ」
瑞枝ははっと顔を上げた。消すというのは殺すということである。
「ちょっと待ってくださいよ。消すっていったい誰を消すんですか」
瑞枝は叫んだ。ドラマの中の主要人物のうち、誰かを殺す。あるいは病気や事故で死なせる。これをすると視聴者の中に驚きと興味が生まれ、ドラマに大きな波が立ち、より劇的な効果が出ると言われている。言ってみれば強力なカンフル注射であるが、あまりの安易さにめったに使用されることはない。
業界で有名な話がある。人気絶頂のトレンディ男優と、それをめぐる三人の女性ということでスタートしたドラマがあったが、どうにもこうにも数字が取れなかった。困り果てた制作側は後半でこの男優を殺してしまい、ドラマをいつのまにかサスペンスものにしてしまったのである。これには視聴者の方が唖然《あぜん》として、数字はいくらか持ち直した。けれども男優とそのプロダクションの怒りは長く続き、このテレビ局側の英断は今ではひとつの笑い話となっているのだ。
「ねえ、おかしなことを言わないで頂戴《ちようだい》。今、誰がいなくなってもドラマはめちゃくちゃになってしまうわ。このドラマの中で必要じゃない人なんて誰もいないじゃないですか」
「坂巻優一さんはどうですか」
答えたのは文香だ。坂巻優一は、主人公のかつての夫、バブルの寵児《ちようじ》と言われた実業家池田役である。坂巻優一は中堅の舞台俳優として活躍した後、テレビに転身して成功をおさめた。嫌味のない二枚目のうえに演技がしっかりしているため、今やドラマの上司や夫役に引っ張りだこの存在である。今度のドラマもスケジュールを押さえるのに苦労したと、文香から聞いたことがある……。
そんなことをぼんやりと思い出すほど、瑞枝はまだものごとの輪郭がはっきりとつかめていない。池田役の俳優を消すなどということはとても正気の沙汰《さた》とは思えなかった。ドラマの主要な柱を、自らの手でなぎ倒してしまうことではないか。
「私もいろいろ考えたんですけど、これは今のうちに手を打たないと大変なことになると思うんです。消すとすれば坂巻さんしかいない。これは自殺か殺人かということから始めれば、ドラマはぐっと変わっていきます」
文香の言葉を瑞枝は遮《さえぎ》った。
「馬鹿馬鹿しい。そんな荒唐|無稽《むけい》なドラマ、いったい誰が見るっていうの」
「それをちゃんとしたドラマにするのが、沢野さんの役目じゃないですか」
細井も頷《うなず》いた。文香と細井は全く同じ目をしている。組織に守られ、その大きさでフリーランスの人間などいつでも切れるのだと了解している人間の目である。坂巻を消すということは、既に二人の間では了解済みのことなのだ。
「じゃ、池田を殺すの。いったいその犯人は誰になるのかしら。妻の佳代子かしらね、それとも愛人だった奈美っていうわけ」
これは皮肉というよりも、あまりにも出鱈目《でたらめ》な提案に対する問いかけであるが、信じられないことに細井はそう、とこともなげに首をたてにふった。
「僕はね、奈美でいいと思ってるんだ。話の筋からすれば奈美しかいないでしょう。彼女は昔、池田と愛し合って彼の子をもうけてる。今の夫は自分の子だと信じているけれどもね。このへんを盛り上げてくれれば、彼女を犯人にしても何ら不自然さはないと思うよ」
「細井さんたら……」
憤怒《ふんぬ》があまりにも高まると可笑《おか》しさに変わるということを瑞枝は初めて知った。自分の意思とは関係なく、ヒステリックな笑い声が二、三度出て、涙さえにじんできた。
「どんなレベルの低い二時間サスペンスだって、こんなストーリーにはならないと思うわ」
「大丈夫だよ、瑞枝さんの腕ならさあ」
細井はにっこりと笑いかけたが、それは媚《こ》びではなく傲慢《ごうまん》さと強引さを示すものであった。
「もともとサスペンス色を出すっていうのがこっちの狙いだったんだから、それが濃くなったと思えばいいんじゃないの」
瑞枝は文香の方に顔を向ける。まさか彼女までこの案に賛成なわけではあるまい。文香はウーロン茶をちゅっと吸って瑞枝を見た。感情を押し殺そうとする時ほど、文香は低い落ち着いた声を出す。
「私は殺人とまではいかなくても、池田は死んでもいいと思いますよ」
池田という名前と沢野瑞枝という名が重なる。今日の視聴率の対応の最中、文香は上司に対してこう言ったに違いない。
「沢野瑞枝は替えてもいいと思いますよ」
ドラマが不振の場合、脚本家が交替するというのはごくたまにであるが、起こらないことではない。
「とにかくこれから詰めていきましょうよ。私たちは出来る限りいろんな手を尽くさなきゃいけないんですよ」
プロデューサーは脚本に関して全責任を持つ。おそらく今日、瑞枝と長時間にわたる打ち合わせをしながら、文香は自分の思いどおりに脚本を変えていくつもりなのだ。
「それからさっき、セキ・プロの関さんとお話ししました。パラダイス・ガールズのメンバー、一人一話、なんとかスケジュールをつくってくれるそうです」
パラダイス・ガールズはセクシーさで売っているロックグループである。アイドルを急遽《きゆうきよ》投入するというのも視聴率|梃入《てこい》れの大原則である。死と誕生、この二つによってドラマを甦《よみがえ》らせようとするのだ。
結局その日、夜の十一時近くまで、瑞枝と文香は幾つかのプロットを検討した。ディレクターの細井は、ロケハンがあるということで三時前には部屋から消えてしまった。
昼間と同じサンドウィッチを頬張りながら、二人でさまざまなディスカッションをする。
池田を死なせるとなると、いったいどのような方法がいちばんいいのだろうか。殺人か自殺か。意外なことに文香は、殺人の方が今後のドラマをつくりやすいという意見だ。
「奈美の夫が犯人だとしたら、それはあり得る話でしょう。十年間、自分の子どもだと思っていたのが、実は池田の子どもだった、っていうのはあり得るかも」
瑞枝は黙ってメモしていく。そんなことが起こるはずはないではないかという嘲笑《ちようしよう》がさっきから体の奥で低くわき起こっているが、同時に文香の言葉からドラマのシーンが具体的に浮かんでくるのも事実であった。夫が犯した罪に女は泣く。それは自分の犯した罪でもあり、そして彼女の人生の総決算の時なのである。バブルの時に軽薄に生きることを憶《おぼ》え、夫も世間をもなめきっていた女が、初めて自分の過去の重さに愕然《がくぜん》とする。この十年間という月日は何だったのだろうかと振り返ってみる。
「じゃ、後半は愛さんがかなり中心になっていってもいいのね」
いつのまにかドラマの変更を、全面的に受け容《い》れている形になった。けれどもそんなことは当然なことで、瑞枝の選択は二つしかなかった。抵抗の姿勢を見せながらもプロデューサーの言うがままになるか、何も言わずに言うがままになるかのどちらかだ。怒って席を立つ、などということは大物の脚本家だけの選択である。瑞枝がもしそれをしたとしても誰も困らぬ。似たようなランクの脚本家が呼ばれ、六話から新しく書き直すだけだろう。
「それから沢野さん、回想シーンはもっと多くしませんか」
文香は何本めかのウーロン茶を飲みながら言う。
「瞬間視聴率もあそこで上がりました。どうやら見ている人は、当時のことが出てくると懐かしいみたいですね。もっと派手《はで》に、もっと贅沢《ぜいたく》なシーンをお願いします。沢野さんが経験なさったことを、そのまま書いてくれればいいんですから」
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第六話 回想その2 一九九〇年
日花里の部屋から「おどるポンポコリン」のメロディが流れてくる。
「なんでもかんでもみんな
踊りを踊っているよ」
あまりにも流行《はや》っている歌なので、瑞枝もこのフレーズはすぐに口ずさめるぐらいだ。二歳になる日花里もこの歌が大層気に入って、ろれつのまわらぬ口で一緒に歌う。娘に甘い郡司は、日花里専用のデッキとCDを買ってきた。おかげでベビーシッターは、朝から晩までこの曲をかけているのだ。
瑞枝は寝室の傍にあるパウダールームで、化粧の最後の点検をしている。今日は、シャネルのリキッドを使い、細くアイラインを入れた。そうすると目のあたりがぐっと華やかになる。誰でも言うことであるが、結婚してからの瑞枝は前よりもはるかに美しくなった。一緒に暮らすようになって、郡司がまずしたことは瑞枝の服を全部捨てることであった。
「安っぽい服っていうのはさ、その人まで安っぽくしてしまう。繊維がぺらぺらしているからさ、光が反射すると女の人の肌がくすんで見えるんだ。若い子ならともかく、二十五歳を過ぎたらいい服を着なきゃ駄目だよ」
特に僕の奥さんになる人ならね、と彼はつけ加えた。
挙式の少し前、郡司はヨーロッパへ連れていってくれた。瑞枝の服を買うためである。瑞枝が飛行機のファーストクラスに乗ったのは、もちろんその時が初めてであった。スチュワーデスがひざまずかんばかりに接してくれることに、瑞枝は嬉《うれ》しいというよりもすっかり怯《おび》えてしまった。
「当然だよ、当然。東京、ローマ間のファーストクラス、幾らするか知っているかい。百二十万円だぜ、百二十万」
その頃から気づいていたことであるが、郡司はものの値段をはっきりと口に出す癖があった。それはふたり分なの、と問う瑞枝に彼は低く笑った。
「とんでもない。ひとり分に決まってるじゃないか。エコノミーに座っている連中の十倍は払ってるんだからさ、どーんと構えていればいいんだよ」
それにしてもと、彼はあたりを見渡したものだ。
「日本っていうのは、やっぱりすごい景気なんだな。見てごらん、ファーストクラスは満席だ。どこの飛行機会社もここから埋まっていくっていうんだから、やっぱり普通じゃないよな」
みんな金があり余って、使いたくってうずうずしてるのさ、と彼はつぶやいた。
ホテルはスペイン階段を上ったところにあるハスラーである。ローマで最高のホテルに泊まるにあたって、郡司はいろいろ手を尽くした。ただの旅行客として泊まるのは彼の矜持《きようじ》が許さなかったから、知り合いの音楽評論家を通じて予約を取った。音楽だけでなく、世界の有名ホテルの評論もしている彼は、ハスラーにも顔がきいたのだ。
スイートルームに泊まったこともあり、二人はゼネラル・マネージャーから直々に挨拶《あいさつ》を受けた。その際、彼はハスラーと銘が入った木製の宝石箱を瑞枝にプレゼントしてくれた。
「まあ綺麗《きれい》、グラーチェ、グラーチェ」
礼を言いながら、瑞枝はふと郡司を見た。瑞枝よりも嬉し気で得意そうな顔をしていた。
そしてハスラーに泊まった四日間、瑞枝は信じられぬほど多くの買物をした。ハスラーの前の階段を降りていくと、ショッピング街はすぐそこだ。コントッティ通りには、グッチ、バレンティノ、フェラガモといった店が軒を連ねている。
もう少し足を延ばすと、アルマーニやベルサーチがあった。アルマーニは、郡司が瑞枝に最も勧めるブランドだ。女を知的にエレガントに見せることにかけて、これ以上のものはないという。男物のスーツは自分が愛用した。
そこで買った七着のスーツをどうやって運ぶのだろうかと瑞枝は案じたのであるが、郡司はこともなげに言った。
「我々はハスラーに泊まっているから、そこに運んでおいてくれ」
ハスラーと聞くと、あきらかに店員の態度が変わった。またいらしてくださいとうまくない英語で世辞を言ったぐらいだ。
せっかくローマに来たのだからと言って、郡司はクリッツィアやフィレといったところにも瑞枝を連れていった。クリッツィアではニットを、フィレでは革のスカートを何枚か買ったが、これは包みが小さいので手に持つことにした。
シーズンでもないというのに、ジーンズ姿のポシェットを下げたたくさんの日本人がひしめいていた。最初に行ったアルマーニの店でも、学生らしい日本人の女が、あれこれいじくっていた。
「アルマーニに、あんな小娘が来るもんじゃない」
郡司は露骨に嫌な顔をした。
「一流店での買い方を知らない。僕たちみたいに挨拶をして、そしてソファに座る。店員に希望を伝えて持ってきてもらう。気に入ったら試着して買う。金持ちっていうのは、こういうことが自然に出来る者のことを言うんだ」
二人で暮らし始めたあの頃、瑞枝はまだ金に対して無邪気でいることが出来た。郡司は若い妻を、金を遣って自分の思いどおりの女性に成長させるという、古典的手法に夢中になった。これはこれで非常にわかりやすい愛情の形であったから、瑞枝は幸福であった。夫と妻、金との蜜月《みつげつ》は二年も続いたであろうか。
郡司が最初の浮気をしたのはその頃だ。いや、瑞枝が気づいたのが初めてといった方が正確かもしれない。相手は銀座のホステスであった。さすがにイタリアというわけにはいかなかったが、郡司は彼女を二泊三日の香港旅行に誘い、思う存分買物をさせてやったらしい。香港シャネルから、スーツの直しをどうするかという連絡が自宅に入り、それですべてが露見した。
まだ若かった瑞枝は怒り、狼狽《ろうばい》し、夫婦共通の友人に相談した。彼らの答えは決まっていた。
「どうせ金がめあての相手なんだから」
この言葉は瑞枝をさらに傷つけた。
妊娠中ですべての感覚が鋭敏になっていた瑞枝は、その言葉の裏にある、
「どうせお前もそのひとりなのだろう」
というニュアンスに勘づいたのだ。
確かに考えてみれば、郡司が自分と結婚したというのは奇跡のようなことであった。別居中の妻以外にも彼には女性が何人もいたからだ。美しさということにおいて、瑞枝よりも上の女たちもいたに違いない。
若いのに似合わず、瑞枝は相当の手練手管の持ち主だという者もいたし、いや、何も知らないところがかえって新鮮だったのだろうと噂している者もいたと後に聞いた。いずれにしても人々が瑞枝のことを、このうえない強運の持ち主だと考えたのは事実であった。遊び相手のひとりとならず、そのまま正妻への道をつき進んだのだ。他の女たちは、妻の選から漏れたために、ずっと、
「金目当ての愛人のひとり」
という蔑称《べつしよう》をつけられる。それなのに瑞枝はたまたま妻になったばかりに、すべての非難から逃れ、ぬくぬくと夫の金を遣えるのだ。夫や愛人への非難は、いつのまにか自分の分け前を取られる子どもの、猛々《たけだけ》しい抗議のように取られていることに瑞枝は気づいた。そして大層傷ついた。もう離婚してもいいと本気で思い、毎晩夫と口論し続け、あやうく早産しかけたほどだ。
ようやく日花里が生まれ、そしてゆっくりと瑞枝は屈折していった。金に無関心でいることが、唯一妻の誇りを守ることだという考えにゆきついたのだ。
瑞枝は口紅をひく。赤味がかったオレンジ色は、シャネルの今年の流行色だ。日本のデパートではなかなか手に入らない。海外の免税店やブティックで、日本女性が大量に買い占めていくと、海外の雑誌に揶揄《やゆ》的に記事になった一本である。瑞枝は知り合いのバイヤーを通じて何本か手に入れていた。
青山にあるインポート・ブティックの、瑞枝は大切な顧客であるため、手に入りづらい香水や化粧品といったものを現地で買ってきてもらうことなどたやすいことであった。
今日は郡司と二人、知り合いの新築パーティーに招待されている。郡司が最近知り合った仲間は、外国で教育を受けた者が実に多い。留学というものが、それまでのエリートのものではなく、日本で落ちこぼれた者たちの受け皿になっていった最初の世代である。みんな聞いたこともないアメリカの大学を卒業、あるいは中退していたが、もともと金持ちの息子である彼らはすこぶる陽気で、やたらめりはりのある英語を大声で喋《しやべ》った。パーティーに妻を必ず同伴するというのも、彼らが向こうから持ち込んだ習慣である。もっともまた別のところでは、みんな自慢の愛人を見せびらかす時もあるようだが、それはあくまでも噂だと郡司は否定している。
瑞枝は自分の化粧が、かなり濃くなっていることに気づいた。今日のパーティーにはおそらく谷沢祥子《やざわしようこ》が来るはずだった。パーティーと言えば、大は大使館のパーティーから、小はホームパーティーまで顔を出す祥子の正体というものが、瑞枝にはまだわからない。ある時はライフ・プロデューサーという名目で女性誌にインタビューされていることもあるし、経営コンサルタントのような仕事も手がけ、財界に出入りも許されているようだ。が、彼女の本業は美術商であると誰かから聞いたこともある。あまりにもインテリアや美術品の知識がない日本人に替わり、彼女がさまざまなアドバイスをし、あるいは海外で買い付けもしてきてやるというのだ。
「大きなホテルが建つ時は、そこのインテリアすべてを手がけます」
などと語っているのを何かの記事で読んだことがあるが、それは嘘だと知り合いのひとりが語ったものだ。
「いわゆる高級|娼婦《しようふ》っていうのが、いちばん正しいだろうなあ。そのつど誰かと寝て、いちばんいい情報をもらって利鞘《りざや》を稼ぐ。ありゃあすごいよ」
三十四歳という年齢のわりには、ぜい肉の全くない体型と外国仕込みの華やかな顔立ちを持ったこの女が、最近郡司に急接近しているといったい何人から聞いただろうか。
今、世の中は空前の絵画ブームというが、郡司はもともとこちらの方面に興味を持っていた。そして今集めるなら、アメリカの現代美術だと力説する。
「何もわかっちゃいない爺《じい》さんたちが、何百億を出して印象派を買うのさ。ゴッホだ、ルノアールだ、教科書に出てるような絵を買っておけば安心だと思っている。だから日本は世界からなめられるのさ」
ついこのあいだも、大昭和製紙の会長が百二十五億出してゴッホを競り落としたばかりだ。
「この頃じゃさ、サラ金のオーナーがさ、印象派を買い漁《あさ》ってディーラーになるとか言ってるんだ。全く笑っちゃうよなあ」
郡司は言う。土地の後に絵が必要になってくるのは当然の話だ。千葉の奥にビバリー・ヒルズを真似た街が出現し、四億、五億の家が建てられ、それが売れている。その時、部屋をどう飾るか、みんな悩んでいるんだ。知っているかい、ヨーロッパやアメリカには必ずコーディネイターと呼ばれる人たちがいる。日本みたいに、壁紙をクロスにしましょうか、塗りにしましょうか、なんてせこいことを言ってるんじゃない。どういう美術品を飾るのか、それをアドバイスする職業だ。
たとえば金持ちが、十九世紀の置物を手に入れたとする。それを応接間に飾っていいものだろうかとコーディネイターに相談する。すると彼はこう答えるんだ。いや、おたくの応接間は私がすべてコーディネイトしていて、十九世紀は十九世紀でもアール・ヌーボー前夜の微妙なところでまとめている。そこにこの置物を飾ったら、すべて台無しだ。何万ドル払ったかわからないけれども、この置物はどこか倉庫に入れておきなさい。
なんていうことをアドバイスするだけで、一回何百ドルという金を取る。
日本でもおそらく、こういう職業が成り立つ時代が来るはずだ。近いうちに、会社の中に美術・インテリア部門を独立させてつくりたい。出来るならば子会社をつくってもいいと思っているんだ……。
こんな郡司の計画の裏に、祥子がいるということは間違いなかった。
これも女性誌からの受け売りであるが、祥子は画家をめざしてヨーロッパ各地を遊学したという。そこで自分の才能の限界を知ると同時に、芸術の奥深さに目覚めた。
「芸術に奉仕するのに、何も画家になるだけが道ではない。素晴《すば》らしい作品を紹介し、その背後にある歴史を解説することが出来たらと思って、この仕事を選びました」
豪勢な巻き髪をした彼女は語っている。
七時をかなりまわった頃、電話が鳴った。郡司からで車をマンションの玄関につけた、もう時間がないからそのまま瑞枝がすぐ下に降りてくるようにということであった。
瑞枝は用意しておいた二本のワインを手に持った。マルゴーとムートン・ロートシルトは、二本で八万はする。円高でドン・ペリニヨンは信じられないような安さになり、そこらへんの若い者さえ飲む。祝いにするなら誰でも知っている銘柄の高価なワインにしなければと、郡司が用意しておいたものだ。
子ども部屋に顔を出し、ベビーシッターに声をかける。
「私は十時にはかえってくると思いますから、よろしくお願いします」
「どうぞ、楽しんでいらしてください」
ここの協会から派遣される女たちは、ベビーシッターと言わず、自分たちのことをナニーと呼ぶ。なんでも英国の上流社会の子どもを育てるナニー制度を見習ったものだそうで、看護婦や保母経験があるものばかり集めたというのが自慢である。おそろしく高い時給をとったが、確かに子どもの扱いは慣れている。
それまでなかなかよその人間になつかなかった日花里が、ここの協会の女たちにかかると今のように機嫌がいい。笑い声をたてながら、CDに合わせて踊っている最中であった。
「日花里ちゃん、お母さん、ちょっとお出かけするけど、ちゃんとお留守番していてね」
瑞枝の声に知らん顔をしている。母親が外出する時はいつもこうだ。瑞枝は苦笑してドアを閉めた。
玄関の姿見の前で、もう一度点検を行う。今日瑞枝が着ているのは、ダナ・キャランのベルベットでつくられたスーツである。彼女はニューヨークで売り出し中の女性デザイナーで、上質の素材で美しいラインをつくる。肩パッドがアルマーニのように大きくないところも気に入っている。いくら流行とはいえ、アルマーニの肩パッドときたら、まるで鎧《よろい》のようにせり出していて、小柄な瑞枝が着るとまるで上着だけが歩いているようであった。
エレベーターを降りる。玄関の前には郡司の黒塗りのベンツが停まっていた。郡司は二年前から、自分専用の運転手を持っていたから、彼がうやうやしくドアを開けてくれた。スモークされた窓の内側では、郡司が何やら喋っている最中であった。携帯を持つ人間がたいていそうであるように、彼もこういう時金の話をしている。
「馬鹿、十二億なんてはした金で話をつけるなんて、お前、どういう考えをしているんだ。あの物件、今いくらかわかるか。いや、来年、どのくらいはね上がるかわかるか。十二億なんて先方も本気で言っているのか」
郡司は妻が傍らに座っても、しばらく会話を続けた。どうやら最近、転売した土地をめぐってのやりとりらしい。
「全く信じられないよな。若い奴っていうのは、土地ってものが全くわかってないよ」
携帯のボタンを切りながら郡司は言った。
「今の値段のことしか考えられないんだ、その土地がどんな風に成長して、一ヶ月後にはどのくらいの値段になっているのか全くわかってない」
商業地の中の、半端な土地を新入社員に試しに任せたところ、信じられない安値で手を打ってしまったというのだ。
「高林の話を聞いたかい」
高林というのは、もはや夫の親友といってもよい存在になりつつある建築家である。
「このあいだ、関西の金持ちが東京に家を建てたいって言うんで、いろんなところをあたったって言うんだ。ところが、今どき東京の山手線内で、一坪一千万以下の土地があるわけないだろうって、どこもそっけなかったらしい。ところが、代々木上原《よよぎうえはら》に一坪七百万で百坪出たって言うんだな。大急ぎで行ったら、ほんの一瞬の差で別の人間が買ってしまったんだ。高林もその金持ちもがっかりしたらしいんだが、一週間たってびっくりした。先週七百万だったものが千二百万で売りに出てるっていうんだ。たった一週間だぜ。買った不動産屋を調べたけれど、昔ちょっとつき合いのあったちんけな業者さ。あんなところまで、強気で商売している世の中だからなあ……。うちなんかもうなまじ小さな商いなんか手を出せないんだから、その分大きく稼がなくちゃいけないのに、そういうところが、若い奴らには少しもわかっていない」
郡司は会社のことを妻にもよく話す。理解出来ていようといまいとお構いなしに喋り続ける。それは自分のことを身近なものにわかってもらいたい願望というよりも、たえず自分の興奮を誰かにぶつけていたいだけなのだということが瑞枝にもわかっている。
車は青山通りにさしかかった。今日出かけるところは、ファッションメーカーの社長の家である。彼はこの数年、若い女性を中心にめきめきと業績を伸ばしてきた。パリやイタリアもののコピーではないかという声も多いが、良質の生地を使い、決してまがいものには見えない独自のブランドを開発した。マスコミの使い方もうまく、タイアップ広告は、彼によって洗練されたとも言われている。彼は三十代の若さで、一坪二千万近いと言われる青山の一等地に、豪邸を新築したのだ。設計は高林である。エドワード鈴木らの名前と並んで、彼に家を依頼することはもはや都会人のステータスであった。
青南小学校に近づくと、若い男性が何人か立って車を誘導していた。
「南条のパーティーにいらっしゃる方ですか」
郡司の運転手がそうだと告げる。
「臨時の駐車場をご用意しているので、そちらの方にお進みください。降りられる方は家の前でどうぞ」
いったい何人が招待されているのかしらと瑞枝はつぶやいた。
「ごく身内の新築パーティーだって言ってたけど、この分じゃかなり呼んでるんじゃないのかな。なにしろ派手《はで》好きな男だから」
このあたりは昔からの比較的こぢんまりとした家が多いのであるが、オーナーの邸《やしき》はすぐにわかった。コンクリートの壁が半円を描く、まるで要塞《ようさい》のような邸だ。
「相変わらず、コンクリートを使ってらあ。高林って、本当に先生そっくりなんだから」
郡司は親しい者だけが許されるぞんざいな言葉を吐いた。先生というのは、高林の師匠にあたる著名な建築家である。七十過ぎた今でも、大きな公共建物は彼が腕を振るうほど、厳然たる勢力を持っている男だ。
これまた凝った鉄製のドアを開ける。中はホールになっていて、既に三、四十人の人々がざわめいていた。おそらく大人数のパーティーを開くために、考え抜かれた部屋であろう。部屋の壁面に沿って、つくりつけの大きなソファがあった。外国式に靴は脱がないようになっていて、床暖房のぬくもりが石をとおして伝わってくる。
向こうには水銀灯に照らされた中庭と、グランドピアノが見えた。南条という男は三回結婚しているが、一度めはモデル、二度めは女優、そして三度めの妻はソプラノ歌手である。
「金が出来て、趣味が高尚になるにつれて、女のランクも上がった」
というのが専《もつぱ》らの評判だ。といっても新しい妻は、ソプラノ歌手といってもたいして売れていないらしい。三十過ぎても日本に帰れず、留学先のミラノでうろうろしていたところ、偶然通訳をしてやった南条を射止めたという噂である。おそらくあのピアノを使って、南条は自慢の妻の歌声を二、三曲披露するはずだ。
「やあ、遅かったじゃないか」
南条が二人を見つけ、近寄ってきた。彼のトレードマークである蝶《ちよう》ネクタイは、今夜は銀のドット柄である。それは見事に禿《は》げた彼の頭部と似合っていないことはない。
「すごい家じゃないか」
郡司の言葉に彼は唇をゆるめた。
「この家は普通の家じゃない。今までの僕のコレクションを飾りたい、美術館みたいなうちにしてくれって言ったんだ」
南条もまた、郡司と競うようにしてアメリカ現代美術を収集しているのである。郡司は壁面の絵に目をやって低くうなった。
「ジャスパーだな」
黄色、赤、ブルーといったカラフルな色で数字が描かれているリトグラフだ。ソファの上に、一から十まで行儀よく揃えられていた。
「全部揃えるのは大変だったよ」
南条は得意さを隠しきれないように、手にしたシャンパングラスをいっきに飲み干した。
「これは限定四十部で、今、日本に来ているのは、三部か四部っていうところだろう」
「確か八六年のニューヨークのサザビーズで、二十五万ドルで落札されたもんだろう。今はどのくらいするか知らないが」
「さすが詳しいな」
南条は小声で話すために体をぐっと近づけてきた。葉巻を吸っているもの独得の甘い口臭がした。
「ここに集まっている連中も、金があり余っているもんだから土地と株の話ばっかりしている。だけどもっと文化の方にも目を向けるべきだよな」
文化という言葉に、瑞枝は思わず吹き出しそうになったが、南条はそれには気が付かず話を続ける。
「その点絵はいいよ。目を楽しませてくれて、いい気分にしてくれて、何年かたてば完璧《かんぺき》に儲《もう》けさせてくれる。もっとも俺はここの絵を売るつもりはないけれどもね」
その後二人は、最近ジム・ダインの新作を手に入れた知り合いの噂話をした。なんでも日本橋の老舗《しにせ》の美術商の息子が、今までの茶道具などをやめてアメリカ現代美術を扱い始めた。芝浦の倉庫を改装してギャラリーをつくったのだが、オープニングの際、大々的に披露されたのがこのジム・ダインの新作だったというのだ。
「三千万はしただろう」
「いや、もっとしたかもしれない」
こういう時、最近熱心に美術のことを勉強している郡司は一席ぶたずにはいられない。
「だけどまだこれからだよ。いろんなものがあるよ。ジャックスン・ポロック、デ・クーニング、サム・フランシス……、アンディ・ウォーホルやリキテンシュタインなんてとんでもなく高くなってきてるけど、彼らの価値がわかるのはさ、今の俺たちなんだ。あと三十年もたってみろよ、彼らの作品はさ、今の印象派みたいにもてはやされる。そしてきっと東南アジアの新興成金なんかが、大金積んで買いにやってくる。本当の投資ってそういうもんじゃないか」
「そりゃ、そうだとも」
南条があいづちをうった。
「今、印象派を買う奴の気が知れないよ。それも出どころがちゃんとしてる数十億、何百億かのものを買うならいざしらず、たかだか数億か十億ぐらいの絵を買い漁《あさ》ってるんだ。あんなもん、ニセ物ばっかりに決まってるじゃないか。欧米のユダヤ人たちがさ、昔、タダ同然で手に入れた二流、三流のものをここぞとばかり大放出してるんだ。それを有り難がって買っている日本の成り金連中ていうのは、ババをつかまされてることに気づかないのかな」
若さと、自分たちの美意識を信じきっている無邪気な南条の言葉が、夫のそれとそっくり同じことに瑞枝は驚かされる。おそらく祥子から似たようなことを吹き込まれているに違いない。
ちょうど時を見計らっていたように、人々の群れから祥子が抜け出してきた。ひと目でバレンティノとわかるラメ入りのスーツを着ている。もともとはっきりとした目鼻立ちの女であるから、意識して外国仕込みの厚化粧を避けているようだ。それとおっとりとした口調が、多くの男たちに錯覚を与える。
「何を話していらしたの」
祥子はあどけなく小首をかしげた。
「いや、そこのジャスパーがすごいって、南条君にほとほと感心していたところですよ」
妻を意識して、郡司は敬語を使ったが、それがかえってぎこちない空気をつくった。
「隣の部屋もご覧になってよ。あっと驚くようなバスキア、ジャン=ミッシェルもあるのよ」
「バスキアとはねえ。ハマってますねえ……。このあいだ早死にしたばかりだっていうのにもう手に入れたんですね」
「だってねえ、聞いて頂戴《ちようだい》」
あきらかに瑞枝を意識してのことであろう、いきなり祥子は南条の腕にすがりついた。
「南条さんって、本当にいい生徒さんなの。とってもお利口で努力家なの。一生懸命美術のことを勉強してくださったのよ。もう、祥子から優等賞をあげたいぐらい」
三十四歳の彼女が、童女のように自分のことを祥子と呼ぶことに、二人の男はさほど奇異を感じていないようであった。
「このあいだも、祥子さんにニューヨークへ連れていってもらって、いろいろ勉強させてもらったんだ。画廊をそれこそ何十軒も見た。いやあ、本当に楽しかったよ」
連れていってもらったといっても、祥子の費用はすべて南条がめんどうをみたに違いなかった。
「ねえ、まだ他の部屋を見ていないんでしょう。二階もすごいわよ。回廊が素晴《すば》らしいの。採光が計算されつくされていて、さすが高林さんだって、私うなっちゃったわ」
「この家、来月号の『新建築』に載ることになっているんだ」
祥子に寄りかかられたままの南条が言う。
「僕はあんまり出したくなかったんだが、高林の奴がさ、この家はおそらく九〇年代を代表する住宅になるはずだからって、うまく口説かれちゃって……」
その高林の姿を瑞枝だけが見つけた。ジャスパーを眺めているようなふりをしているが、背中がこちらを意識しているのがわかる。
「あなた、どうぞ案内してもらいなさいよ。ちょっと知ってる人が来たから挨拶《あいさつ》してくる」
「それじゃ、私がガイドしてさしあげるわ。私、設計の時からいろいろ相談にのってあげているから、この家のことは隅から隅まで何でも知っているのよ」
祥子は南条から郡司へ視線を移した。けれどもさすがに腕をからめたりはしない。
「じゃ、ちょっと、見させてもらおうかな」
郡司はさりげなさを装おうとしていたが、あまりうまくいかなかった。どこまで気づいているのだろうかというふうに、ちらりと瑞枝の方を見る。
新しい来客が姿を現し、南条はちょっと失礼とその場を離れた。ほんの短い間であるが、郡司と瑞枝、そして祥子が残される。夫はなかなか動こうとはしない。瑞枝は夫の不器用さが少々意外であった。自分はまだ確信というところまで至っていないのだ。どうしてもっと自然に振るまうことが出来ないのだろうかと、苛立《いらだ》ちさえおぼえる。
いちばん老獪《ろうかい》なのがやはり祥子であった。
「じゃ、瑞枝さんは後で私がご案内するわ。今ね、高崎建設の高崎さんご夫妻も二階をご覧になっているのよ。さあ、行きましょう」
二人がドアの向こうへ消えるのと入れ違いに、高林が近づいてきた。今夜の彼はミッドナイトブルーのジャケットを着ているが、いつもどおりタイはしていない。
「ようやく行ってくれたか……」
やれやれといった表情だ。
「僕はね、彼女が大の苦手なんですよ。この家についても、さんざんふりまわされてしまった。彼女はロンドンのアート・スクールをお出になっているそうだから、僕の設計じゃ気に入らなかったらしい。自分の作品をつくるっていう考えはすてて、美術を主人公にした家を設計しなさい、なんてさんざん説教されてしまいましたよ」
「まあ、そういうアドバイスをなさるのがご商売だから、仕方ないんじゃないのかしら」
口に出してしまった後で、何という皮肉を言ってしまったのだろうかと瑞枝は後悔した。夫と噂のある女と二人が目の前で消えた後で、妻と夫の友人がする会話ではなかった。けれども少々酔ってでもいるのだろうか、高林はいつになく饒舌《じようぜつ》だ。
「世の中に金があふれてくると、ああいう得体の知れない人間もどうっと出てくるんですよね。知ってますか、彼女、南条君みたいな若い金持ちには現代美術を売りつける。そして爺《じい》さん連中にはね、印象派を勧めてるんですよ。もちろん仲介料をがっぽりとってね。印象派っていっても、たいしたもんじゃない。数億円ぐらいで買えるものなんか知れているでしょう。そういうクズみたいなもんをどこからか集めてくるんですよ」
瑞枝は最近読んだ週刊誌の記事を思い出した。マルコーというマンション会社が、新商売を始めたというのだ。それは絵画の投資会社である。都内の土地は、もう上がるところまで上がってなかなか手が出せないものになった。それにひき替え、絵画は確実な将来性があるということらしい。マルコーが探してきた数千万から十億ほどの絵画を、一口五百万円から一千万円ほどの金額で会員が分担して権利を持つ。そして五年後か十年後に、その絵を競売にかけ、分担額に応じて利益を分ける。この間、絵画はマルコーがつくる美術館に飾っておくというのだ。
「絵はもちろん、印象派が中心らしいわ」
「馬鹿馬鹿しい」
高林は吐き捨てるように言った。
「絵なんてものは、自分が所有していなければ何にもならないものじゃないか。今、みんながいい家を欲しがる。家を建てたら今度は家具と絵だと騒ぐ。でもね、家と家具は金次第でどうにでもなるけれど、飾るものはどうしようもない」
「そんなこと言っていいのかしら」
「いや、本当のことですよ。僕レベルの建築家に頼もうとするセンスがあれば、僕はどうにでもしてさし上げます。だけどね、飾る絵や彫刻はどうにもならないよ。急に勉強を始めたからって、すぐに立派なコレクターになれるわけでもない」
「それって、うちの夫や南条さんに聞かせたいわね」
瑞枝は次第に愉快な気分になってくる。つい先日も郡司が購入した絵画の代金に、背筋が寒くなるような思いをしたばかりだ。現代美術は、印象派などに比べるとずっと廉価だというが、三枚、四枚まとめて買えば同じことである。
あたりが騒しくなった。蘭の鉢植えやワインの包みを持った客が、次から次へとやってくる。テレビでよく見る若手の衆議院議員が、美しい妻を連れて登場するとすばやく人の輪が出来た。
近くのレストランから出張して来ているウエイターたちが、料理を皿に盛り客に運んでいる。差し出されたオードブルの盛り合わせを、高林はひょいと受け取った。
「食べませんか」
瑞枝に勧める。何気なく口に入れたトリュフオイルの味が、ふと瑞枝の心をなごませた。
「でも……」
言葉がするりと出てきた。
「でも、郡司は彼女のことをとても信頼しているわ。いずれマルコーみたいに、美術やインテリアの会社を彼女と一緒にやりたいと思っているみたい」
「郡司さんはちゃんと物ごとをわかっている人ですよ。ビジネスマンとして計算しているところはちゃんと計算している」
高林はキャビアの粒がたっぷりのったカナッペを頬張りながら言った。
「おそらく郡司さんは、彼女の人脈が魅力なんでしょう。僕が見ていてもびっくりするぐらい、彼女はいろんなところにもぐり込んでいる。このあいだある企業に呼ばれて、新社屋の相談にのってくれと言われたんですが、その会議にも彼女は参加していた。そう、そう、最近発足した通産省の審議委員会のメンバーにもなっているっていうんですから、あれにはたまげたなあ……」
「私には、まるっきりわからない世界だわ」
「でもね、彼女みたいな人間が活躍出来るっていうのは、それだけ日本が豊かに、余裕を持てたっていう証拠ですよ。貧しい国ではこんなことはあり得ない。このパーティーに来ている人間の半分は、十年前の日本だったら存在しなかったはずですよ」
いつのまにか黒いドレスの女がピアノを弾いている。瑞枝も聞いたことのあるプッチーニの曲だ。
「いよいよ奥方のお出ましかな」
高林が後ろを振り返った。
「郡司を呼んできた方がいいかしら」
瑞枝は二階の方向を見た。パーティーの主催者側の妻が、これから歌おうというのだ。客たちも談笑をやめ、ピアノのまわりに集まり始めている。南条がいかに歌手の妻を愛し、誇りにしているか知らないものはいない。彼の妻が歌うとなれば、神妙に聞かなければいけないことは誰もが知っている。
「大丈夫ですよ。歌声が聞こえれば戻ってくるはずですよ」
ピアノが終わるとまばらな拍手が起こった。それが突然大きな拍手に変わったのは、南条の妻が姿を見せたからだ。
南条の会社でつくる洋服は、ボディコンブームをつくったともいわれ、九号サイズの女でもきついほどの小ささである。けれども藤色のソワレを着た彼の妻は、どうみても十三号といったところか。目のやり場に困るほど豊満な乳房を半分近く見せている。外国暮らしの女に多く見られる濃く太いアイラインであるが、たっぷりとした白い肌に似合っていないこともない。
「みなさん、こんばんは」
彼女は艶《つや》やかな声で言った。
「今夜はお忙しいところ、ようこそわが家のオープンパーティーにいらしてくださいました。ここは私と主人が、みなさんと共に楽しむためにつくった家です。私の友人たちにも協力してもらって、コンサートを開く予定もありますの」
彼女はぽっちゃりと笑窪《えくぼ》がある両の手を、胸の上で組んだ。
「今夜は秋の夜にふさわしいものを聞いていただこうと思ってますの。昨年は大変なオペラブームで、世界中からいろんな歌劇団が来ました。『アイーダ』がとっても話題になりましたけど、まずはその中から『おお、私の故郷よ』をお聞きください」
瑞枝は夫と祥子が姿を消したドアの方に目をやる。が、二人の気配はない。瑞枝はさりげなく高林の側を離れた。
南条の妻は、挨拶した時の優し気な風情とはまるで別人のようだ。眉《まゆ》を上げ顎《あご》に力を入れ、野太く高い声を震わせている。
その声を背に聞きながら、瑞枝は静かに歩き始めた。ドアは開けはなたれていたから、音をたてることなく次の部屋に行くことが出来た。
コンクリートの壁がアーチ型をつくっている。ここの家の主人が美術館のような、と言ったが確かにそのとおりだ。床近くからライトが階段に淡い光を投げかけている。オペラのアリアは聞こえるものの、そこには静寂が漂っていた。
吹き抜けになっている二階は、まだ本がほとんど入っていないつくりつけの棚が続いている。そしてところどころ奇妙な形のオブジェが置かれていた。どうやら南条は一階を絵画、二階を彫刻のスペースと決めているようだ。チョコレート型のねじられた手のような置き物がある。その陰に光るものがあった。さっき見た祥子のバレンティノのスーツだとわかるのに時間はかからなかった。彼女の腰に手をまわし、激しく唇を吸う郡司の姿も見えた。
足音をさせないように、瑞枝はその場を離れた。来た時と同じように静かに階段を降りる。現場を見たのは初めてであった。今まで女からの手紙やメッセージを偶然目にしたことがある。嫌がらせとしか思えない、無言電話も一度や二度ではなかった。受話器の向こう側で息を潜めてこちらを窺《うかが》っているのは、女だと直感でわかった。そんな自分の鋭さが悲しいと思った。
ところがたった今、抱き合っている夫と女の姿を見たばかりだというのに、瑞枝の神経はとぎすまされているどころか、ひどくぼんやりとしている。目撃したものを、怒りや悲しみに変えるどこかの中枢神経が麻痺《まひ》したかのようであった。
夫と祥子の姿は、あそこに置かれていたオブジェのひとつだったのではないか。二人は抱き合うことにより、何かの模倣をしようとしていたのではないだろうか……。
アリアを聞く人々の輪の中に、瑞枝はまたすんなりと入り込むことが出来た。高林の隣が、瑞枝が抜けたままの空間を保っていた。このことによって、瑞枝は自分が留守をしていた時間がひどく短いことを知る。
南条の妻は声を振り絞り歌っている。彼女の発声と共に、豊かな乳房が上がったり下がったりする。人々は歌を聞くよりもそれを見物しているかのようであった。歌っている女の顔を、これほど間近で見たことはなかった。決して美しいとは言えない顔だ。鼻の穴が拡がり、力むあまり赤く充血している。顎は完全な二重になり、そこにも力が入ってぷるぷると震えている。
彼女が歌い終わった瞬間、人々の間からほっと安堵《あんど》のため息が漏れたほどだ。けれども大きな拍手が起こった。
「すごく長い歌でしたね」
高林が瑞枝の耳に口元を寄せてそっとささやいた。
「永遠に終わらないかと思いましたよ」
瑞枝はとっさに返事をすることが出来ない。歌の終わりは、ぼんやりと現実離れした時間の終わりであった。
――夫は他の女と抱き合っていた――
その事実がいっきに全身にまわり、吐き出そうとしたら、瑞枝はしゃっくりをつづけざまにしてしまった。
「大丈夫ですか」
「平気です。ちょっとお酒がまわったのかしら」
南条の妻は二曲目を歌い始めたが、しゃっくりのおかげで、瑞枝は人々の輪から自然に遠ざかることが出来た。
「気分が悪いんじゃないですか。郡司さんを呼んできましょうか」
いいんですと叫んだとたん、しゃっくりは止まった。
「郡司はこの後、もう一軒寄っていくらしくって、私に先に帰ってもいいって言っているんです」
どうしてそんな嘘がすらすらと出てくるかわからない。が、それが夫の今の心境であることには間違いなかった。
一刻も早くこの家を出たい。誰かが南条の妻のことを、本格的な舞台に立つことなど到底不可能な、三流の歌手だと言ったけれどもそれは本当のことだろう。長々とアリアを歌っているけれど、力を込めると高音部が濁ってくる。もうこんな歌をこれ以上聞くのはまっぴらだと思った。
「このコンサート、いつまで続くかわからないから、僕ももう出ようと思っていたところです。送りましょうか」
「お願いします」
二人は南条の妻に背を向けて歩き始めた。非礼な行為かと思われたが、それにつられて帰ろうとする者が三人ほどいた。
この夜のために借りたらしい空き地は臨時の駐車場になっていて、大型のベンツがぎっしりと並んでいる。まるでこの世の中にはベンツという車しか存在しないようであった。
そうした中で高林が近寄っていったのは一台の国産車である。が、車好きの夫のおかげで、瑞枝はそれがセルシオという車だとすぐわかった。最近発売されたこの車は、トヨタがベンツクラスの国産車をという考えのもとにつくられた高級車だ。ものすごい人気で、今から予約をしても一年半から二年待たされるという。
早々とこの車を手に入れたところに、高林の今の立場と経済力とが現れていた。人気の新進建築家として、高林はさまざまなマスコミで取り上げられるほどだ。都心の話題の建築物を幾つか手がけているが、その背後には郡司たち、いわゆる新興のデベロッパーたちとの結びつきがあった。はなから大御所と呼ばれる建築家には相手にしてもらえなかった彼らは、やがて若手の中から才能あるものたちと手を組み始めた。今の建築ブームは、あり余るほどの資金と若い世代同士の結託とで成り立っていると郡司は言ったものだ。
セルシオはまだ新しいもので、革のにおいがぷんぷんした。内装も高林は最高のものを指定したらしい。
「いい車ですね」
「でしょう」
車のことを自慢する時、たいていの男は少年のようになるものであるが高林もそうであった。
「僕もこのあいだまで外車崇拝者だったけど、このセルシオに乗って考えが変わりましたよ。どうです、静かでしょう。居住性っていうことで言ったらこれはベンツ以上です。今の日本っていうのは、本当にたいしたもんですよ。車だって何だって国際的なものをつくることが出来る。僕はこのセルシオに乗るたびに日本の底力を感じますよ」
「郡司もこの車をとても欲しがっているの。八方手を尽くしているんだけど、来年までは無理だって言われてるんですよ」
「そうか、そう言われてみれば、まだ郡司さんにはこの車、見せてなかったなあ」
「あの人、欲しいものには我慢出来ない質《たち》だから、取られちゃうかもしれないわ」
「そりゃ、大変だ、気をつけなきゃ」
さっき不貞の現場を見たばかりの夫のことを、こんな風にのんびりと噂出来る自分のことが瑞枝は不思議で仕方ない。けれども、別の男と二人、真新しい車に乗っているということも、極めて小さな不倫というものかもしれなかった。瑞枝はふと愚かしいことを考える。夫の裏切りを知った妻は、同じことをしても許されるのだろうか。そうすれば心が晴れるということは可能なのだろうか。
いや、そんなことがあり得るはずはなかった。自暴自棄というのは、瑞枝の性格からして最も遠いものだ。そんな経験が何度もあるわけではなかったが、瑞枝はその場の感情にすべてを支配させようものなら、後に何百倍もの後悔に苦しむことを知っていた。そんなことが出来るのは一部の頭の悪い女だけだ。
車は天現寺の交差点に向かって走っている。もうじき家は近い。家では娘が待っている。そして娘をあやしながら、瑞枝は大きなものを待つことになる。郡司が帰ってくる。どうして黙って先に帰ったりしたのかと瑞枝のことをなじるに違いない。そうしたら瑞枝も黙っていられるはずはなかった。自分が目撃したものを口に出し、夫を責め、詰め寄っていくだろう。今まで小さな膿《うみ》をいじいじと出していた傷口だが、今日は切開という手術を施さなくてはならない。それはもしかするとすべての終わりを覚悟することかもしれなかった。けれども瑞枝にそうした修羅場を迎える決意があるかといえば、正直いってもの憂い気分や畏《おそ》れの方が先に立つ。家が近づくにつれて、瑞枝はこれから起こり得る場面を先送りしたいという小心さが次第に強くなっていくのをどうすることも出来ない。従って無口になった。
「日花里ちゃん、まだ起きてるのかな」
高林が明るい声を出す。
「もう大きくなってるでしょうね。このあいだ会ったのは確か……」
「高林さん」
瑞枝は言った。
「どこかお酒を飲めるところに連れていってくれませんか」
飲みに連れていってくれという瑞枝の言葉に、高林が驚くかと思ったがそうでもなかった。
「どこへ行きましょうか」
彼はのんびりとした声で言った。
「飲むとなると車を置かなくてはならないから、事務所の近くになりますがそれでもいいですか」
高林の事務所は代官山にある。昨年まで渋谷の雑居ビルの中にあったのであるが、複合ビルを設計したついでに、ペントハウスを自分好みにつくり、そこを借りているのだ。瑞枝は実際に行ったことがないが、雑誌のグラビアなどで見て知っている。天井からの陽光が降りそそぐ広々とした部屋で、何人もの若い所員がデスクに向かっていた。中央にはここの事務所が手がけた作品の真白い模型が並べて置かれ、よくその前で高林は写真を撮られている。
代官山ヒルサイドテラスをしばらく行ったところで高林は車を停めた。
「店はすぐそこにあるんですけれども、今車をうちの駐車場に入れてきますから……」
瑞枝はひとり残された。ちょうど目の前に公衆電話がある。先ほどからずっと気になっていたことを解決するために瑞枝はコインを入れる。
「もし、もし……」
呼び出しが三回もしないうちに、ひどく愛想のいいベビーシッターの声がとび込んできた。瑞枝の家では二つの電話回線を持っているが、ひとつの電話は留守番電話にしておくので出なくてもよい。が、もうひとつの電話はごくプライベートなもので、こちらから何かあった時だけにかけるため、受話器をとって欲しいとベビーシッターには言いふくめてある。だから彼女は女主人からだということを既に知っているのだ。
「あ、中村さん、ご苦労さまです。日花里、どうしてますか」
「まだ起きてますよ。今、テレビを見てるところです。ご機嫌いいですよ」
「そうですか、あの、私、もしかするとちょっと遅くなるかもしれないの。時間延長していただけるかしら」
「いいですよ」
彼女の声の明るさは変わらない。延長料金となるとこれまた料金がとんでもなくはね上がるうえに、十一時過ぎるとタクシーで帰すことになっている。彼女にとってはそう嫌な取引ではないはずだ。
「それから主人から、何か連絡ありましたか。別々の知り合いにつかまっちゃったもんだから……」
「いいえ、何もございません」
そう、と受話器を置いた。いつのまにか高林が後ろに立っている。最後の言葉を聞かれただろうかと、瑞枝はとっさに振り返る。
「お待たせしました。三、四分歩きますけれどもいいですか」
当然のことながら、高林は何ごともなかったかのように振るまう。肩を並べて歩くようでいて、ほんのわずかに後ろの位置にいる。クライアントの妻と、建築家という立場を充分にわきまえているかのようだ。
以前、郡司から聞いた噂話をふと瑞枝は思い出した。高林がいかに女にもてるかという例として、施主の妻との話を持ち出したのだ。ずっと以前のことらしいが、家を新築しようとした若い実業家の夫婦がいた。その妻は高林と打ち合わせを繰り返すうち、彼にすっかり夢中になってしまったという。
「高林の方も女房と別れてくれると思って、その奥さんはご亭主と離婚したらしいんだな。ところがとんでもない、彼はそれっきり知らん顔だ。あいつは女に優しいし、まめなんだけれども実際はとんでもなく冷たいところがあるんだよな。だけど建築家ってみんなそういうもんかもしれないよな。芸術家の熱さと、理系のクールさをもってなきゃ成功しない職業だからな」
高林が自分に時折見せてくれる気遣いも、源を辿《たど》れば決して純粋なものでないことぐらい瑞枝にもわかる。瑞枝の夫は、高林の大スポンサーなのだ。けれども瑞枝はこの男と一緒にいると居心地がよい。余計なことは聞かないし、自分からも喋《しやべ》らない。家族ぐるみのつき合いとなりつつある今も、年下の瑞枝に向かって必ず敬語を使う。こういうところが実に好ましかった。
高林が連れていってくれた店は、旧山手通りに面したビルの二階にあった。窓が横に長く大きくとってあり、そこから走る車のヘッドライトの流れを見るようになっている。席はすべてカウンターに面していて、まだ若いバーテンダーがグラスを磨いていた。いちばん端の席にカップルが一組、ぴったり身を寄せて夜景を眺めていた。
「やあ、いらっしゃい」
バーテンダーは笑いかける。水商売の男とは思えぬほど嬉《うれ》しさを素直に出す。
「ユミちゃんはどうしたの」
「お客さんに誘われて、大相撲見に行ってますよ。枡《ます》席が取れたそうです」
「さすが、銀座出身だよな。行くところが違うもの」
高林の言葉にバーテンダーはふふっと、また楽し気に笑った。真白い歯が印象的な人懐っこい子だ。高林が何も言わぬのに、彼の名を記したボトルと水割りのセットを目の前に置いた。
「僕はいつもこれですが、瑞枝さんはどうしますか」
「私も同じものをいただきます」
が、瑞枝は今、高林が口にしたことが妙に気になって仕方ない。
「ここの経営者っていうのは、銀座に勤めていた人なんですか」
「そうですよ。まだ三十になっていない若い女性です」
新婚の頃、郡司に何度か銀座のクラブへ連れていってもらったことがある。一流と呼ばれる店に勤めるホステスたちの、完璧《かんぺき》ともいえる姿に、瑞枝はすっかり気後れしてしまったものだ。毎日美容院へ行ってつくられる結《ゆ》いたての髪、全く落ち度のないマニキュア、よく手入れされた肌に凝った化粧、そして鮮やかな色のスーツや和服、ひとつ間違えると下品になるかもしれない過剰さが、シャンデリアの下では銀座ならではの洗練と華やかさをかもし出していたものだ。
けれどもこの店の、あっさりした趣味は男性的と言ってもいい。人工大理石にステンレスを使い、ひと頃|流行《はや》ったハイテックのにおいさえする。銀座に勤めていた女性だったら、もっと別の嗜好《しこう》を持つものではなかろうか。
「彼女はあんまりお金を持っていなかったし、もともとがあっさりした趣味の女の子だったんですよ」
高林が、そのユミ子という女について長い物語を始めたため、当初の気まずい気分はすっかり消えてしまった。そもそも夫の友人と二人きりで酒を飲む場合、話題を選ぶのは大層むずかしい。普通の男と女ならさりげなくかわすことが出来る、色っぽい話はもちろんタブーである。いちばん無難なのが夫に関することがらなのであるが、それは今いちばん瑞枝が避けたいものだ。
そのことを勘づいているのかわからぬが、高林は瑞枝が会ったこともない女の話を長々と喋った。それはかなり面白《おもしろ》いものであった。
ユミ子という女性は、銀座八丁目にある一流半といったランクの店の、ナンバー|2《ツー》ぐらいのホステスだったという。といっても有名女子大中退の経歴からくる頭の回転のよさは抜群で、愛らしい容姿とあいまってかなりの数の固定ファンをつくっていた。
彼女は自分にとても尽くしてくれたと高林は言う。といっても男と女の仲、というわけではない。今もそういうことはしょっちゅうあるらしいけれども、二、三年前、まだ自分の事務所が苦しかった頃、月末になるとユミ子がふらっと現れる。そして机の上にある領収書を持っていってくれるのだ。
「何にするんですか」
「誰でも知っている大企業の総務や秘書室の人たちが、そういう領収書を買ってくれるんですよ。どうせ税金に払うぐらいならといって、じゃんじゃか金を出してくれるんですよ」
彼らは自分たちの行きつけの店の、ホステスにまで言う。
「いいともさ、どんな領収書だって持ってきてくれれば、ちゃんとお金をあげるよ」
ユミ子の話では、ひと月に二百万の領収書を現金化してくれた、ある商社の課長がいたということだ。だが彼らが、それとひき替えに女たちの肉体を要求したわけではない。そんな野暮なことはしなかった。
「接待ゴルフをする時にね、彼女たちが来てくれればいいんです。それで顔が立つわけです」
ユミ子は最初、自分の領収書をせっせと渡したらしいが、女ひとりの生活では限界がある。さすがに美容院やエステティックサロンのものは受け取ってくれないから、親しい高林に目をつけた。
「ちょっとォ、もっと領収書ないのォ、見つけなさいよ≠ネんて、あらいざらいまとめて持っていってくれる。そして次にはぱしっと現金を持ってきてくれる。あれは本当に有難かったなあ……」
ユミ子という女性とは何もないと高林は言ったが、おそらくそう深刻ではない男女の関係は続いていたのだろう。長年の領収書の礼に、この店はほとんど無料で設計したと高林は物語を締めくくった。
「そのユミ子さんっていう人、気っぷがよくてとても面白そうな人ね」
意地悪く聞こえないように瑞枝は応《こた》えた。
「いやあ、彼女みたいな子は、今も銀座や六本木にいっぱいいると思うなあ。僕は思うんですけれどもね、今は皆がパトロンごっこをしている時代なんじゃないでしょうか」
「パトロンごっこ」
「そうです。企業の課長は、銀座のホステスのパトロンになったつもり。そのホステスは、僕みたいな若い独立してる男のパトロンになったつもり。みんなが自分の使える力やお金を出し合って、そういう気分をふわふわ楽しんでいるんじゃないかな」
パトロンごっこ……、瑞枝はつぶやいてみる。これは夫に対する痛烈な皮肉というものではないだろうか。郡司は今、幾つかエリア計画に参加しているが、必ず建築家は高林を指名する。自分が実権を握るものならば、どんなことがあろうと高林を使った。
高林が最近青山につくった複合ビルは、「丘のある建物」と名づけられ、大きな建築賞の候補にもなったともいう。これも郡司の会社の所有するものである。こうした郡司の厚意も、高林は密《ひそ》かに「パトロンごっこ」と呼んでいるのではなかろうか。
「そろそろ帰りますから……」
うっすらと肌寒くなった気分で、瑞枝は立ち上がった。
高林は腕時計を見る。
「もう十一時近いですよ。家までお送りします」
「結構です。タクシーを拾いますから」
「いや、この時間じゃもうタクシーはつかまらない」
左手を挙げ、バーテンダーを呼んだ。懐から黒革の手帳を取り出し、番号を告げる。
「悪いけれど、ここの会社の車、一台呼んでくれるかな」
「わかりました」
彼はいったんひっ込んだものの、いくらたっても戻ってこない。さっき新たにカウンターに座った客も、オーダーが出来ず苛立《いらだ》ち始めたほどだ。
「すいません」
メモを片手に彼がカウンターの前に立った。
「ここの番号にいくらかけても、ずうっとお話し中です」
「どうも有難う。全くここのところ、タクシーの呼び出しが繋《つな》がったことがないよ。でも奥の手があるんだ……」
彼はまた手帳を開いた。
「ここにもう一回かけてくれないかな。この番号はお得意だけに教えてくれる秘密の番号だから、すぐにかかると思うよ」
「へえー、そんなものがあるの」
瑞枝は思わず手帳を覗《のぞ》き込んだ。瑞枝自身、日花里が生まれてからはめったにないことであるが、夜外出先でタクシーがつかまらず、郡司の運転手に来てもらったことが何度もある。
「広告代理店の奴にこっそり教えてもらったんですよ。うちの名前を使って呼び出してもいいって。マスコミや商社なんかよく使うところには、この秘密番号を教えているみたいですね」
さすがにその効果はあって、バーテンダーは今度はすぐに戻ってきた。
「一回でかかりました。この車番です。あと七分ぐらいで着くそうです」
「サンキュー」
高林は立ち上がった。
「ついにユミちゃん、帰ってこなかったね。会えなくって残念だったって伝えといてよ」
「高林さん、どうせ明日かあさってはいらっしゃるじゃないですか」
「そりゃあそうだけれどもさ、今日は大切なお客さまと一緒だったから、紹介したかったんだ」
「じゃ、ぜひまたいらしてください」
バーテンダーの青年は、瑞枝に向かって頭を下げる。こうした気のきいた若者を使い、しゃれた店を代官山に出すユミ子というのは、いったいどんな女性なのだろうかと瑞枝は思いをめぐらす。その時、「祥子ねえ……」という甘たるい声がふと甦《よみがえ》り、ああ、嫌だと瑞枝は首を激しく振った。
ひとりで帰れると瑞枝は言い張ったのであるが、そんなことは出来ないと高林は譲らなかった。
「こんな時間、大切な奥さんをひとりで帰したりしたら、僕が郡司さんに叱られてしまいますよ」
その郡司は今頃別の女といるはずだと、瑞枝は口に出してしまいたい衝動にかられた。パーティーの席に戻り、妻が先に帰ったと知ったら、郡司はどのように思うであろうか。祥子との接吻《せつぷん》の場面を見られてしまったと焦るだろうか。
いや、そんなことはないと瑞枝は断言出来る。夫婦として暮らしてきて、瑞枝は夫の、奇妙なほどの楽天主義に驚くことが何度もあった。すべてのことを自分に都合よく解釈し、決して悪い方にはとらない。自分には決して不運が舞い降りてこないという自信が、幾つか不用心なことをつくり出していることには考えが及ばないようだ。そうでなかったら、どうして女からの手紙を自分が運転する車のダッシュボードに入れておいたりするのだ。どうして妻も同席しているパーティーの物陰で、他の女を抱き締めたり出来るのだろうか……。
車が並木橋を越えようとする時、不意に言葉がついて出た。
「高林さん、私とっても不安なんです……」
こういう時何がですかと、高林は聞かない。大丈夫ですよと深く頷《うなず》いた。
「郡司さんのお仕事は順調です。あと十年たてば、彼は日本を代表するビジネスマンになると信じている。それまで日本はもっともっと発展するはずですよ……」
瑞枝の問いを高林は別の風に受け取っているのであるが、それについて訂正することは出来ない。
「やだねえ、もう混み始めているよ」
タクシーの運転手が舌うちをした。渋谷駅前の交差点は、流れ込むタクシーと乗用車、駅の行列を離れて一刻も早く車をつかまえようとする人々で溢《あふ》れかえっていた。よくタクシー難民≠ニマスコミが揶揄《やゆ》する人々だ。
「ちょっと前まではさ、電車がある十二時前まではさ、ここもスムーズに流れたんだけどさ、今の人は電車が走ってる時間でも、すぐタクシーに乗るからこの騒ぎですよ」
運転手はまんざらでなさそうなため息をつく。道の真中まで歩いてタクシーを停めようとする人々が多いため、どの車ものろのろと走らざるを得ない。瑞枝の中で今度は夕方聞いたメロディーが鳴り始め、それは執拗《しつよう》にリフレインし始める。
「なんでもかんでもみんな
踊りを踊っているよ」
そうだ、郡司も誰もかもみんな踊り狂っているのだと瑞枝は思った。
[#改ページ]
第七話 うわさ
第二回めの視聴率を、文香は一〇・七パーセントと告げた。
「ですけれども、私、まだ悲観していませんよ」
きっぱりと言った。
「ワイドショーのプロデューサーに話して、主役の二人をゲストに出してもらうつもりです。それとドラマのテーマが面白《おもしろ》いということで、雑誌からの取材がいっぱい来ているんです。私はこういう方面から盛り上がっていくと思っているんです」
いつものことであるが、文香の前向きの口調に瑞枝はいったんひき込まれそうになる。けれどもよく考えてみれば、局のプライムタイム、会社側も力を入れていた連続ドラマで一〇パーセントという数字はあまりにもひどい。もしかすると、いや、かなり高い確率で、この業界の人々がシングル≠ニ呼んで忌み嫌う事態に突入することも考えられた。
「まいったなあ……」
瑞枝は思わず敗北の言葉を漏らした。
「まさかこんな数字になるとは思わなかった」
「私だってそうですよ」
文香の声は怒りを含んでいたが、それはもちろん脚本家や俳優たちに向けられたものではない。視聴者というこのうえなく気まぐれなものに憤《いきどお》っているのである。
「『ネクスト・ラブ』が三〇超したっていうんで、みんな騒いでいますけれど、あんなもの、コミックを何の芸も工夫もなくドタバタドラマにしたものを、みんなが喜んで見ているかと思うとがっかりしちゃいますよ」
でもね、私は絶対に負けませんからと、最後は口癖が飛び出した。
「午後からまたちょっと来てくれませんか。今日は七話をじっくりと詰めていきたいんですよ」
「わかったわ……」
受話器を置いたとたん、疲労がいっぺんに体のあちこちににじみ出した。このところ朝もだるい。覚悟していたこととはいえ、昼となく、夜となく、瑞枝の携帯電話は鳴り続ける。相手は文香からで、今、収録中であるが至急このセリフを直して欲しい。今、本読みの最中であるが、俳優の誰それが言いづらいセリフだとクレームをつけている。ちょっと来てくれないか、などという依頼が来る。
おそらく文香は絶対に認めないであろうが、前回まあまあの視聴率をあげたドラマの時よりも、彼女はずっと神経質になっている、それがこうして脚本家への頻繁な呼び出しとなって表れているのだ。
が、たとえどれほど肉体が疲れていようとも、現金なもので高視聴率をとれた時には、そんなものは全く苦にならない。俳優もディレクターも、裏方の端々にいたるまで一種の躁《そう》状態の中でドラマはつくられていく。けれどもこれとは反対に、視聴率がジリ貧になっていく場合、ドラマづくりはかなりの精神力が必要になってくる。
スタジオの空気はとげとげしくなっていくし、俳優たちの機嫌もよくない。セリフへの文句が出るのもこんな時だ。さらに追い打ちをかけるように、二回めの放映の後、ぼちぼちと出てきたテレビ評も決して温かいものとは言えなかった。
辛口で知られるある女流評論家は、
「セットも俳優もちゃちで見ていられない」
と週刊誌の中で切り捨てている。
「バブルの時といえば、我々の中でまだ印象がはっきり残っている。それぞれの強い思い出もあるだろう。そこらの時代劇のようにお手軽にはつくれるわけがない。それを承知であえてバブル時代を再現しようとした制作者の意欲は買うが、それならばもっとお金をかけなきゃダメ。出てくるインテリアや店の安っぽいことといったらどうだ。私は仕事柄、あの頃かなりの金持ち連中を見てきたが、彼らの生活はもっとゴージャスで面白かった。また川村絵里子の回想シーンはかなりつらい。過去と現代の二重構造にしなかった方が、ずっとすっきりとしたはずである」
テレビ情報誌の中の評は、それほど感情的ではなかったが、鳴り物入りでスタートした「マイ・メモリー」が意外な低視聴率をかこっている理由として、OLの共感が得られなかったことと分析している。
「今、ドラマを支えているOLたちは、二十代前半とバブル期には小学生か中学生だったはずだ。バブルの恩恵を享受していない年代である。彼女たちが今、十年前の夢のような話を聞いても、単にシラけるだけに違いない。そうした意味で『マイ・メモリー』は、完璧《かんぺき》にターゲットをはずしたことになる」
この評に対して、文香は「何もわかっていない」と怒りをあらわにした。
「私たちは最初から、OLを狙ってませんでしたからね。あの頃二十代だった人たちに焦点を合わせていたわけですから」
そうかといって、三十代の主婦からの動きはまだ起こってはいないのである。ただひとつ新聞のドラマ評に、
「あの頃のことを思い出して懐かしい」
という三十四歳の主婦からの投稿が載ったがそれだけのことであった。
その他にも「マイ・メモリー」に関して、小さな幾つかの記事は出たらしい。主だったものは文香がファクシミリで送ってくれたが、あまりにも小さなものや、瑞枝が読んで気分を悪くするようなものは彼女の判断で止めていたようだ。
それを瑞枝に教えてくれたのは、例の口の悪い、男色家の脚本家であった。
「ちょっとォ、いろいろひどいことを書かれているじゃないの」
「数字が悪いばっかりに、いろいろ叩《たた》かれてもう落ち込んでいるの」
「でもこれはひどいわねえ、ドラマのことじゃなくって、瑞枝ちゃんのことだものね」
「えっ、何のことかしら」
「まだ読んでなかったの。『週刊ファイン』の記事よ。じゃ、私、今すぐ送ってあげるわ」
彼がいそいそと電話を切ってから、二分もしないうちにファクシミリが作動し始めた。
そう大きくはない半ページほどのコラムであるが、
「あざといドラマづくりの悲しい結果」
というタイトルがつけられ、瑞枝の小さな顔写真もあった。
「四月スタートの各ドラマの視聴率が出揃ったが、『ネクスト・ラブ』『明日もきっと』などが健闘する中、思わぬ不調をかこっているのが、ニュー東京テレビの『マイ・メモリー』である。これは脚本を沢野瑞枝氏が担当することで注目を集めた。
沢野瑞枝氏といえば美人脚本家として有名であるが、郡司雄一郎氏の元夫人としての方が通りがよいかもしれない。郡司雄一郎氏は、バブル時代名を馳《は》せた青年実業家。絶頂の頃は都内に幾つかのビルを所有し、資産数百億と言われたいわば伝説の人物である。『マイ・メモリー』は、あきらかに郡司氏がモデルと思われる男性が登場し、それをめぐる女性たちが描かれている。いわば沢野氏は、自分の過去を切り売りしてこのドラマを書いたわけだ。こういうあざといことを思いつくテレビ局もテレビ局だが、引き受けた沢野氏も相当のもの。といってもこの低視聴率で、局内では早くも打ち切りの噂が出ている。あざといドラマづくりの悲しい結果とあいなった」
これを何十回も瑞枝は読み返した。「あざとい」、「自分を切り売り」という文字が目に入るたび、同じ痛みが何度も通り過ぎる。そして傷の中に、何十回も指を入れ、血と肉をえぐり出していくような気分だ。どこかで、こうなるのはわかっていた、とささやく声がする。今までも脚本を書いてきて、中傷を受けたことがある。汚らしい噂をたてられたこともある。が、この仕事だけは別だった。やる前から、こうした言葉を吐きかけられることがわかっていたような気がした。
たとえ視聴率が悪く、テレビ評でこきおろされたとしても、脚本は書き続けなければならなかった。
こういう時、パソコンを打つ指が重くなる。瑞枝にしてみれば荒唐|無稽《むけい》としか言いようのないストーリーを、何とか見られるようなドラマにしていくのは大層つらい。決して自暴自棄にならないように、自分の中の大きな力で、自分自身を支えてやらなければならなかった。
ある地方都市の盛り場で、池田浩一の死体が発見される。非常階段からの転落死で、他殺の疑いが濃い。参考人として元妻である佳代子は、事情聴取を受ける。しかし犯人は意外なところにいた。かつて池田の愛人として、思う存分|贅沢《ぜいたく》な生活を楽しんでいた女が、今は主婦となっている。が、彼女のひとり息子は池田の子どもであった。それを知った彼女の夫は、事実を確かめるべく池田のところへ出向き、言い争ううちに彼を手にかけてしまう……。
乱暴ともいえるこのストーリーを、緻密《ちみつ》な会話でリアリティを持たせ、場面展開で見飽きさせないリズムをつくっていく。テレビ局の人間により思わぬ方向に進まされたドラマを、瑞枝の力で元の色を留《とど》めるようにするのは、大層骨のおれる仕事である。瑞枝は何度も手を休め、仕事机の上の缶コーヒーを飲んだ。キッチンまで行き、コーヒーを淹《い》れることが出来るのはよほど余裕がある時である。ここまで切羽詰まってくると、立つ時間ももどかしい。コンビニエンス・ストアで買った缶飲料やサンドウィッチを並べておくことになる。
携帯電話が低く鳴り始めた。こんな時間にかかってくるのは文香からに決まっている。瑞枝はやや乱暴に電話をとった。
「はい、もし、もし」
「あの、オレですけれども」
語尾がくぐもる話し方に特徴があった。おとといスタジオで会ったばかりの久瀬聡であった。
「あら、元気、どうしてたの」
芸能人と話す時、自然に瑞枝の声のトーンは上がる。この業界のうきうきした空気を、自然に演出しているのかもしれない。
「いやー、今、原宿にいるんですけど、ちょっとお茶でもしませんか」
瑞枝のマンションから原宿までは十分とかからない距離である。
「だけどもね、今かなりつらい状況なのよ。私が、今、どんな格好かわかるかしら」
「わからない」
「Tシャツにジャージーのズボンを穿《は》いてるの。もちろん化粧はしてなくて髪はぼさぼさ。それで缶コーヒーぐびぐび飲んでる」
「構わないよ、そんなの」
怒ったように聡は言った。
「ジャージーをさ、ちょっとジーンズに替えてさ、それでいいんじゃないの。オレ、沢野さんの近くに今から行くけど……」
瑞枝は時計を見た。十一時半を少しまわったところである。
「うちの近くに来てくれても、ファミレスもないわ。私が今からタクシーで原宿まで行くから。でもね、多分お酒は飲めないと思う。コーヒーを一杯飲むぐらいなら」
「それでもいいですよ。僕も車で来ているから」
言われたとおり、表参道のクエストビルの前でタクシーを降りた。見憶《みおぼ》えのあるシルバーメタリックのポルシェが停まっている。降りてくるのかと思ったが、聡は窓を開け、こちらに来るように手招きする。
「原宿ってさ、どこも夜が早いんだよね。オープンカフェもどこも閉まってる。後はあっちのファミレスぐらいだよ」
「私は構わないけれど……」
「でもさ、俺は一応芸能人だから」
聡は笑った。薄闇の中でも、白い歯と、甘い目元は、確かにその通りだと思わせる魅力に溢《あふ》れていた。
「青山通りまで走ると、遅くまでやっているケーキ屋さんがあるけど」
「いいわね」
若葉をたっぷりとたくわえた欅《けやき》が夜目にも猛々《たけだけ》しい表参道を、ポルシェは通り過ぎる。青山通りまであっという間だ。けれども聡はケーキ屋のある左へ曲がらず、そのまま走り抜ける。
「青山のケーキ屋さんに行くんじゃなかったっけ」
「気が変わった。それよりも高樹町《たかぎちよう》から高速へ乗りましょうよ」
「そんなの駄目よ。私、仕事をほっぽり出して来たんだから、すぐに帰らなくっちゃ」
「大丈夫だってば。コーヒーを飲む時間ぐらいで帰るからさ」
瑞枝は呆《あき》れた、という風にため息をついたが決して嫌な気分ではない。この美しい青年の強引さに、次第に快活な気分になっていくのを感じる。仕事柄、俳優たちと飲んだり食べたりする機会は多いが、こんな風に二人きりでドライブするのは珍しいことだ。瑞枝は昔、ドラマの打ち上げの後、送ってくれた二枚目の俳優に口説かれたことをふと思い出した。けれどもあの時と今とは違う。当時の瑞枝は充分に若かったけれど、今はもうそうではない。けれども傍らに座る青年は充分に若く美しかった。だから間違っても、瑞枝が自惚《うぬぼ》れ心を起こすことはなかった。
「オレ、沢野さんに謝らなきゃいけないかもしれない」
羽田方面に曲がりながら聡はぽつりと言う。
「謝るって、私に、何を」
「ほら、瑞枝さん、このあいだ『週刊ファイン』にひどいこと書かれたでしょう」
何のことを言っているかわかった。瑞枝が過去を切り売りしていると書いたコラムだ。
「あれを書いたオヤジ、あの男ですよ。ほら、記者会見の時に、つまんない質問をするからさ、オレがヘンなこと聞くなよ、って遮《さえぎ》ったでしょう。あの男です」
思い出した。いかにも慣れたように手を挙げた初老の男だ。このドラマは、瑞枝の過去を描いたものだと考えていいのかと、粘っこい声で問いかけてきた。
「あのオヤジ、前にもさ、別の記者会見でオレのつき合ってた女のことを聞くからカチンと来てあんなこと言っちゃったけど、あれでオレたちのドラマのことを恨みに思っちゃったんじゃないかなあと思って」
「そんなこと」
瑞枝は少し大げさ過ぎる声で笑った。
「いくら何でも聡ちゃんとは関係ないわよ。あちらだって一応のプロだから、恨みでものを書いたりしないわよ」
「そうかな、ああいう奴ら、案外セコいから」
「だけど嬉《うれ》しかったわ」
「何が」
「あなたが今、オレたちのドラマ≠チて言ってくれたことよ。いい言葉だなあと思って……」
「そりゃ、そうだよ。カッコつけ過ぎかもしれないけれど、オレはいつもドラマつくってる時は、皆同じ船に乗っているんだって思ってるよ」
「私たちの船は、タイタニックにならなきゃいいんだけどね」
冗談のつもりで言ったのであるが聡は笑わなかった。
「オレ、『マイ・メモリー』好きですよ。オレの役はそんなに出番がないけれど、ちゃんと記憶に残る言葉が必ず用意されている。オレの役も好きだし、ドラマとしてもいいドラマだと本当に思ってます。それは皆も同じじゃないかなあ。そりゃ数字取れれば嬉しいけれど、それといいドラマに出るっていうのは、違うことだと思っている」
「どうもありがとう……」
アイドル出身であるが、見かけとはまるで違って聡はインタビューが苦手だ。気のきいた面白《おもしろ》いことが言えず、朴訥《ぼくとつ》といっていいほど言葉をひとつひとつ不器用に選んでいく。そんな聡の言葉が、素直に瑞枝の心に浸《し》みていった。
「あら」
夢から醒《さ》めたような声が出た。目の前に突然夜の飛行場が開けてきた。
「大変、もう帰らなくっちゃ。コーヒー三杯分はたっぷりと飲んだわ」
「ここまで来たんだから、飛行場の近くまで行こうよ。もう一杯コーヒーを飲むと思って」
「コーヒーはもうたくさん」
瑞枝は笑った。
「四杯も飲んだら眠れなくなるわ。それに今夜は池田さんを殺した後どうするか、一生懸命にやらなきゃいけないし」
「あれはひどいよな」
聡は乱暴にハンドルを切った。ポルシェという車は、道路の凹《へこ》みを忠実に体に伝えるが、慣れてくるとその震動が妙に心地よい。
「ドラマの途中で、坂巻さんを突然消しちゃうなんて信じられないよ」
まだ四話を収録している最中だが、その話は俳優たちに伝わっているらしい。
「そう言われるとつらいけど、何とかこの事態を打開しなくっちゃね」
「じゃオレも消されちゃうんだろうか」
聡は悪戯《いたずら》っぽくこちらを見た。こんな時、彼は目のあたりにアイドル時代のなごりの媚《こび》をにじませる。
「そんなことはないわよ。あなたは若くって、何も悪いことをしていないんだもの」
「悪いことをすると殺されるんだ」
「ドラマの上ではそうなってるわね」
「だけどさ、ドラマの中の陽介はかなり悪いよ。好きな女にはぐいぐい迫ってさ」
「そんなことは男としてあたり前のことじゃないの。ちっとも悪いことじゃないわ」
「そうか、いいことを聞いた」
カーステレオからは、瑞枝の聞いたことのないロックの曲が流れていた。瑞枝はそれが男と自分を隔てるものだと思う。今、傍らに座っている男は自分よりも八歳若い。それが選曲に表れている。
深町を過ぎ、車はマンションの前に停まった。
「どうもコーヒーご馳走《ちそう》さま」
「うん、四杯もおごった」
瑞枝は笑おうとしたがうまくいかなかった。男の目が光っている。年下であるということなど全く関係ない、その瞬間の男に共通した強い視線である。唇をふさがれた。抵抗しようと思ったがなすがままにされることにした。たかがキスぐらい、という気持ちが頭の中にある。男の唇は執拗《しつよう》だった、まるで乳を吸う赤子のように力を込める。
〈シーン24〉歩道橋の上・夜
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陽 介「こんな気持ちは初めてなんだ。初めて本当に、女を好きになったような気がする」
佳代子「三年たった時、あなたは同じことを言うわ。今度はもっと若い女にね」
陽 介「そんなことはない。今までも言ったこともないし、これから先もない」
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三回めの視聴率が一二パーセントと告げた後で文香は言った。
「でも頑張りましょうよ。この頃は電話や投書もとても多いんですよ。これはね、とってもいい傾向だと思っているんです」
どういう時でも、必ず前向きに考える文香の若さと性格に瑞枝は好感を持つが、もはやすべてのことを言葉どおりに受け取ってはいない。もしかすると局内部では打ち切りの話は進んでいるのかもしれなかった。けれども脚本家の読みとして、一二パーセントというのは、ドラマが持続されるには充分な数字である。もちろん低調≠ニ評価されるであろうが、制作者側はたとえ〇・一パーセントでも数字が上がると心持ちはずっとよくなるものだ。「マイ・メモリー」は、下がり続ける危機を何とか脱したと考えてもいいかもしれない。
最近はシャワーだけにしていたのを、ゆっくりと湯船に浸《つか》り、その後日花里と久しぶりに食事に出かけることにした。
「焼き肉でもお鮨《すし》でも、日花里の好きなところでいいよ」
「そう言われても悩むよなあ……」
日花里は唇をとがらせる。嬉しくて仕方ない時に、こういう不機嫌そうな顔をするのが娘の癖だ。ピンク色のふっくらとした唇にわずかに皺《しわ》が寄った。親の目から見ても美しい少女だと思う。仕事柄、何人もの子役を見てきたし、オーディションにも立ち会ってきた。けれども日花里ほどの子どもはいなかったような気がする。
別れた夫は、どう見ても美男子の範疇《はんちゆう》には入らなかった。愛敬《あいきよう》のある大きな目が、二枚目という静けさから遠ざけていた。けれどもその目が娘に遺伝されると、長い睫毛《まつげ》に縁取られたニュアンスのある瞳《ひとみ》になっている。自分にそっくりと言われている目だが、この表情の豊かさは夫のものも受け継いでいる。瑞枝はつくづくと血が繋《つな》がることの不思議さを感じた。
「どうしたの、私の顔なんかつくづく見ちゃって」
「いや、日花里ってさ、大人になるとかなりの美人になるんじゃないかって、お母さん、今一瞬期待しちゃったよ」
「まあね」
日花里は照れて、クッションをぽんと蹴《け》った。
「だけどさ、クラスに近藤アリサちゃんとか、丸山|理奈《りな》ちゃんとか、もっと可愛いコいっぱいいるよ」
「でもきっと日花里がいちばんだよ」
「サンキュー、でもさ、お母さんもそう悪くないと思うよ。その髪とさ、ずうっと穿《は》いてるジーンズ何とかしてさ、お化粧すればさ、結構いいよ、綺麗《きれい》だよ」
「まあ、どうもありがとう」
しばらくしてから、インターフォンのブザーが鳴った。瑞枝よりも先に日花里が受話器を取った。瑞枝もあわてて近寄っていったのであるが、少女のすばやさにはかなわない。
「はい、沢野です! あ、久瀬さん、こんにちは、私、日花里です」
「こら、貸しなさい」
「はい、はい! わ、どうもありがとう」
途中から強引に受話器を奪おうとしたのであるが、それも大人気ないと瑞枝は舌うちしながら様子を見守る。
「ねえ、お母さん、久瀬さんね、日花里ちゃんも一緒にご飯を食べましょうだって!」
日花里の目がきらきらと輝いている。十歳の娘にも、テレビに出る男に対する、好奇心と憧《あこが》れがあることに瑞枝は驚かされた。
「ねえ、ねえ、いいでしょう。もううちの下まで来ているんだって」
「もし、もし、聡ちゃん……」
やっとのことで受話器を娘から返してもらった。
「あんまり突然だからびっくりしちゃうわ。こういうことをされると困っちゃうんだけれども」
「すいません。家に帰ろうとしてちょうどおたくの前を通ったもんだから。ねえ、三人で焼き肉に行きましょうよ。西麻布のすごくおいしい店を知ってますから」
三人≠ニいう言葉が、奇妙な温かさを持って瑞枝の胸に響いた。接吻《せつぷん》したばかりの男と娘とで食事をするのは気恥ずかしさをおぼえるが、こだわること自体変に勘ぐられても困る。普段は母と二人で、あるいはひとりきりで食事をしている日花里がこれほどはしゃいでいるのだ。二人よりも三人で食卓を囲む方がはるかに楽しいことを本能で知っている。それならばここで断るのも気まずくなるだけだと瑞枝は判断した。
「わかったわ、じゃ五分後に下に降りていきますから」
受話器を置いた後で、瑞枝は娘を軽く睨《にら》んだ。
「仕方ないわね、あんたが先に話して喜んじゃってるもんだから、お母さん、断れなくなっちゃったじゃないの」
「だって、あの人、お母さんのお友だちでしょう。だったらご飯食べるの、いいじゃない」
「あのね、仕事の人は決してお友だちじゃないの。日花里にはまだわからないかもしれないけれど、お友だちっていうのは、一緒に仕事をしない人のことを言うの」
文香の顔をちらりと思い出した。
「だからね、お母さん、こういうことはあまり好きじゃないのよ。わかった」
マンションの前の暗がりの中でも、聡の姿はすぐ目に入った。グレイの軽いジャケットを羽織り、リネンの白い衿《えり》を出している。胸元にチェーンを光らせているのが芸能人らしいといえるが、彼の場合は下品ではない。
「こんばんは、突然押しかけちゃってすいません」
「本当ね」
瑞枝は娘の手前、わざとそっけなく言った。
「娘の日花里です」
「こんばんは」
さっき受話器を取った時とは別人のように、日花里ははにかんでいる。前歯で下唇を押さえるようにして微笑んだ。
「こんばんは、日花里ちゃん、よろしくね。えーと、幾つだっけ」
「十歳です。もうじき十一歳になりますけど……」
「もう年のわりには、おしゃまでどうしようもないのよ」
「でもすっごく可愛いね。十歳のわりには背も高いし」
「そうなの。クラスでも二番めぐらいなの」
聡との会話が、娘をはさんで女友だちのようになっていくことに瑞枝は安堵《あんど》する。この方がずっと気が楽というものだ。
道路に出ると真っ赤なベンツのワゴンが停まっていた。
「今夜はこれに乗ってきてよかった。ポルシェじゃ、後ろに乗るのやっぱり狭いもの」
「すごいわね。いったい車、何台持ってるの」
「二台だけだよ。男の芸能人って、たいていがカー・フリークじゃないかな。僕なんかそれほどでもないけれど、高木さんはフェラーリとか入れて五台持っていると思ったけど……」
ドラマの共演者の名を挙げた。知名度はそこそこあるものの、決して売れっ子の俳優というわけではない。「マイ・メモリー」でも四番手の脇役である。この世界に何年いても、瑞枝は彼らの懐のからくりがよくわからぬ。あちこちに出演している女優の内情が決して豊かでなかったり、地味な古手の俳優がすごい豪邸に住んでいたりする。
聡にしてもタレントとしてのピークは過ぎているはずであるが、こうしてポルシェとベンツをかわるがわる乗りまわしていられるのだ。
「さ、日花里ちゃんは助手席に座ってよ」
「ありがとう」
「大丈夫、足、気をつけてね」
聡はさりげなく日花里の腰に手をかける。紺色のプリーツスカートが一瞬、身をひこうとして揺れた。娘のそんな動きを初めて見たと瑞枝は思った。
聡がワゴンを停めたのは、交差点近くの小さな店である。まるでイタリアンレストランのようなしゃれたつくりで、店内にはジャズが流れている。いかにも業界風のカップルが多く、聡が入っていっても目も止めない。
常連らしく、聡は隅の目立たない席に案内された。
「日花里ちゃんは何が好きかな。やっぱりカルビがいいのかな」
聡は日花里を自分の隣に座らせ、メニューを拡げてあれこれ世話をやく。彼が子ども好きだったのは意外だった。
「姪《めい》ごさんか、甥《おい》ごさんがいるの」
「いや、オレは弟だけで、奴まだ結婚していないよ。オレはそんなに子どもが好きってわけじゃないけど、こういう可愛い子は別ですよ。ブスな子が、横でギャーギャー言ってたら蹴っとばしたくなっちゃうけど、日花里ちゃんはおとなしくっていいよ」
照れた時の癖で、日花里は何も聞こえないようなふりをして、一心にメニューを眺めている。
「あのね、この石焼きビビンバっていうのを食べたい」
「いいよ。でもそれはご飯だから、いちばん最後でいいんじゃないかな。その前に特上カルビとか特上ロースをばんばん食べようよ」
「あんまり贅沢《ぜいたく》させないでね」
瑞枝は自分のメニューをぱたんと閉じた。場所柄、どれもかなりの値段であった。
「うちは母子家庭だから、焼き肉に行っても並カルビって決めてるの」
「でもさ、並カルビって脂が多いからさ、デブになるよ。日花里ちゃん、デブになるの嫌だろ、ね?」
おどけた風に首をかしげるので、日花里はやっと笑った。
「あのね、クラスに私と仲のいいコがいるんだけど、すごく太ってるんだよ。大人のスカートをはいてるんだよ。でも顔はすっごく可愛いの。ニコニコしててとってもいいコだよ」
「ふうーん、お兄ちゃんもそのコに会ってみたいなあ」
聡はいかにも感心したように言った後、やってきた店員に注文を告げる。
「えーとね、キムチとオイキムチ、特上のタン塩と特上のカルビ、特上のロースをそれぞれ三人前……」
「そんなに入らないわよ」
「オレが食べるから大丈夫」
確かにそのとおりで、聡の食べっぷりはたいしたものであった。彼はもともと酒は強くないらしく、冷たいウーロン茶を飲んでいるが、その分気持ちよい食欲を見せる。あるリズムを持って、肉を網の上に置き、裏返し、口に入れていく。
日花里のこともたえず気にして、
「俺のお箸《はし》でいい?」
と断ってから、ひょいと肉片を皿に入れてやる。熱々のカルビに味噌《みそ》を垂らし、サンチュで巻いて渡してやる。その合い間にたえず火加減に気を配り、網の上に肉が並んでいるように箸をせっせと動かしていく。
「何かすごいわねー、名人技を見てるみたいだわ」
大ジョッキの生ビールを飲んでいる瑞枝は、ただただ感心するばかりだ。
「こんなに焼き肉の食べっぷりのいい人、初めて見たわ。普通男の人って、お酒ばかり飲んであんまり食べないものだけど」
「前の事務所にいた時に鍛えられたもの。ほら、若い男ばかりだったから、食べに行くのはやっぱり焼き肉ってことになるよね。若いのが割り勘で食べるんだから、すごい生存競争だよ。それにさオレはいちばん年下だったから、先輩のも焼いて、自分のも食べなきゃならない。だからオレ、焼き肉の食べ方って自信あるよ。いちばん効率よく、うまく食べられる自信がね……。ほら、沢野さん、そこ、そこ、焼けてるよ」
さすがに瑞枝の分はとってくれないので、あわてて箸を出さなくてはならなかった。追加で特上カルビをもう二人前頼む。
「日花里ちゃん、そろそろ白いご飯を食べようか。ビビンバ食べられるようだったら後でオーダーすればいい。その前にカルビで白いご飯食べるとうまいぞ」
「うん、そうする」
瑞枝の見ている限り、日花里はいつもの倍の肉を口にしている。火を囲み、若い男のエネルギーにひきずられることにより、いつもは苦手なタン塩も嫌がらず食べている。瑞枝としてはあまり認めたくないが、これほど楽しそうな娘をみるのは久しぶりであった。
「もう日花里、お腹がいっぱいだよー」
甘えるようにプリーツスカートを左手で押さえ、それを聡に見せた。
「お腹がはちきれそうになっちゃった」
「そんなこと言わないでさ、一緒にデザートを食べようよ。ここのアイスクリームは最高なんだよ。たらっと蜂蜜《はちみつ》がかけてある」
「アイスクリームかあ……」
日花里はもったいぶって、思いきり悩むふりをする。
「食べちゃおうかなあ……」
結局ぺろりとたいらげた。
こちらに払わせて欲しいという瑞枝の願いを全く退け、聡は自分のカードを店員に渡した。
「そんなこと言わないでよ。オレも今夜はすごく楽しかったんだから」
聡は二人をマンションの前で降ろした。
「久瀬さん、今日はどうもご馳走《ちそう》さまです。とてもおいしかったです」
日頃瑞枝が厳しく躾《しつ》けてあるので、日花里はこういう時、きちんと頭を下げる。
「こっちこそ楽しかったよ。日花里ちゃん、またおいしいものを食べに行こうか」
「うん」
「そうだ、ちょっと待ってて」
聡は降りたばかりの運転席に手を伸ばし、シートの横から一冊の雑誌を取り出した。意外なことにパソコンの専門誌である。その裏表紙をびりりと破き、ボールペンで何やら書き込んだ。
「これ、オレの携帯だからさ、いつでも電話してよ。日花里ちゃんがひとりでご飯食べなきゃならなくなった時とかさあー」
「ありがとう」
日花里の目は大きく見開かれ、頬にぱっと赤味がさした。ぼんやりと予定していた時期よりも五年も早く、娘のそんな顔を見てしまったと瑞枝は思い、何かひと言を口にせずにはいられない。
「本気にしちゃ駄目よ。久瀬さんはとっても忙しいんだから」
「でも、日花里ちゃんだったら、いつでも大歓迎だよ、じゃーね」
聡は瑞枝の方ではなく、日花里の顔を見て手を振った。日花里がなかなか立ち去らないので、瑞枝も一緒に車を見送ることになる。赤い車が大通りを曲がったのを確かめてから、二人は玄関に向かって歩き始める。
「お母さん、私さ、携帯の番号教えてもらったの初めてだよ。だってさ、クラスに持ってる人あんまりいないもの」
「あたり前でしょう。小学生で携帯持ってる子がいるわけないでしょう」
「そんなことないよ。塾に行ってる人とかはさ、帰り遅くなるからって持ってるよ。心配だから親が持ってけって言うんだってさ」
「あのね、言っておくけれどもね」
瑞枝は乱暴にマンションの鍵《かぎ》を中に入れた。
「久瀬さんに電話なんかしないようにね。お世辞でああいうことを言ってるんだから。大人のお世辞を子どもが信じちゃいけないの」
「でもあの人、すごくいい人だったよ」
「いい人でも、言ってることと思うことは違うことがあるのよ」
やっと鍵が開いた。さあ、と娘の肩を押そうとしてまた背丈が伸びたことに気づいた。自分はもしかすると、この娘に嫉妬《しつと》しているのかと思い、馬鹿馬鹿しいと瑞枝は笑い出したくなってきた。
全くどうしてそんな気分になったのかわからない。瑞枝は仕事場に戻り、引き出しから一通の手紙を取り出した。それはおととい届けられた航空便で、差し出し人は高林だ。
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お元気でご活躍のことと思います。
今仕事でシカゴに来ています。メディアセンターのコンペの、五人のうちの一人に選ばれたのです。
アメリカの好景気はもう終わりとされていますが、僕が見る限りまだまだ底力がある。このメディアセンターにしても、民間の力で建てられるのです。今、アメリカはかつての日本のように世界中の金が流れ込んでいる、というのをつくづく感じます。いや、かつての日本と比べること自体、不遜《ふそん》なことかもしれません。バブルの頃、僕らは、
『日本を一個売れば、アメリカが四個買える』
などとはしゃいでいましたがとんでもない話です。大きさも違えば資源も全く違う。どうしてあれほど思い上がったことを考えられたのか本当に不思議です。
長々と近況を書いてしまいましたが、そんなわけでドラマの第二回、第三回は見ることが出来ませんでした。けれどもおそらく快調に進んでいることでしょう。
僕はあなたにお会いして以来、昔のことをよく思い出します。懐かしく楽しい気持ちでいっぱいになります。けれども喪失感は全くありません。それはまだ僕たちが充分に若いからでしょう。今、僕が六十歳だったら全く違う感情を持ったかもしれない。失ったものはあまりにも大きいと思ったでしょう。しかし僕はまだ四十代、あなたは三十代です。そして好きな仕事を持ち、自分の場所を得ている。こういう場所から眺める過去が、いかにきらびやかで楽しかったとしてもどれほどの価値があるのかということをちらっと思ったりします。僕たちは、まだ後ろを振り向く時期が来ていないのではないのかとも……。うまく言葉に出せなくて申しわけありません。先日スケッチブックを整理していたら、あの頃走り書きした詩が出てきました。笑ってやってください。
未来の記憶へ向けて
空白の重さが、空白の意味を冒すだろう
死と生の交歓の丘
異質の他者をつなぎとめる
精神の自由と緊張とが
形態と配列に置きかえられる
多くの出会いと別れがあって
歴史は書きつがれていく
なにものにもとらわれぬ
みずみずしい心が
歴史の重い扉に手をかけるとき
自由は深く形式とかかわりながら
新たな空間を満たすことだろう
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瑞枝は手紙を引き出しの奥に再び仕舞った。おそらく高林の言葉を確かめたくて、こうして手紙を開けたのだ。彼は言っている。
「僕たちが充分に若いからでしょう」
「喪失感は全くありません」
高林は四十三歳、自分はもうじき三十八歳になる。これは男と女の違いというものだろうか。
鏡を取り出さなくても、瑞枝は自分の顔のどのあたりに皺《しわ》が発生しているかわかる。鼻の横の毛穴が目立ち始めたのは、おそらく皮膚全体がたるんでき始めたからであろう。
そんな外見よりも、何よりも変わったと思われるのが精神のあり方である。諦《あきら》めというのではないが、瑞枝はもう自分のこれから先の人生を読むことが出来る。そこそこの仕事をしながら、あと十年はこの仕事で何とか食べていけるはずだ。脚本の仕事が来なくなっても、今までの伝手《つて》で雑誌のリライトや単行本のゴーストライターをすれば、生活していけないこともあるまい。
今までの延長で短い情事や恋愛もあるだろうが、それも四十代半ばまでだろう。子どもがいる中年女が再婚した例が世間にはなくはないが、たいていが不幸な結果で終わっている。そんなことはまっぴらだった。相手も傷つかず、こちらも傷つかない程度に、時々秘密の交渉があればそれでよい。そして日花里もやがて美しい娘に成長するだろうし、瑞枝もいろいろなものを手放しながら、分別ある四十代、五十代の女になるはずであった。
これほどまでに明確に自分の人生を読める者を、
「充分に若い」
とは言わないはずだ。少なくとも瑞枝の中で若さのイメージは、曖昧模糊《あいまいもこ》とした苛立《いらだ》つものである。それなのにどうして高林は「僕たちは若い」とこれほどまでに自信を持って口にするのであろうか……。
携帯が鳴り出した。耳にあてる。文香からであった。
「瑞枝さん、明日の打ち合わせ、大丈夫ですよね」
「ええ、もちろん。二時に行くわよ」
おかしなことを言うものだと思った。今日の昼間、やはり文香から別のことで電話があり、明日の時間を確認したばかりだ。
「ねえ、ねえ、私、いいこと聞いちゃった」
文香の声が笑いを含んでいる。この業界の人間が、こういう笑いをするのは、男と女のことを話題にする時だ。
「瑞枝さん、さっき聡ちゃんとデイトをしてたんですって」
そう驚きはしなかった。おそらく三人でいるところを誰かに見られたのであろう。この業界でのニュースの伝わり方の早さというのを瑞枝は既に知っている。
「デイトっていっても、子連れで焼き肉を食べてたのよ」
ことさらおかし気に言い、笑い声までたてた。
「聡君が近くまで来たって電話をくれたもんだから、娘と二人さんざんおごってもらったのよ」
「なあんだ、私に教えてくれたプロダクションの人、日花里ちゃんのことまでは言わなかったものだから。別のことで電話くれた時、さっき店に久瀬聡が入ってきたから挨拶《あいさつ》しようとしたら、瑞枝さんがいたから遠慮したって言ってましたよ」
西麻布という土地柄、店にはそれらしき男女が何人かいたが、そのうちのひとりが芸能プロダクションの人間だったということらしい。こちらは記憶がなくても、彼らは瑞枝たちの顔をよく見知っている。
「せっかくだから、そういう派手《はで》な噂はどんどん立ててもらいたいけれど、聡ちゃんが可哀想よね。十歳近い年上の子連れのおばさんじゃ」
「そんなこともないと思いますけれどもね」
今日の文香はいやにねっとりとした喋《しやべ》り方をする。
「あの人って、若い女優やタレントともつき合うけれども、本当は年上好みなんですよ」
「そうなの」
「知りませんでした? 前の事務所の女社長といざこざを起こしたのも、男女の仲がもつれたからって言われているんですよ」
「まさか……。あそこの社長っていえば、私も名刺交換ぐらいしたことがあるけれど、確か四十代半ばだったんじゃないかしら」
「でもね、そういうつき合いだったのは確かなんですよ。あのコって、何か年上の女をとろけさせるようなところがあるじゃないですか」
「そうかしらね。私は別に何も感じないけれども」
空港まで強引に連れていかれ、突然キスされたことを思い出さないわけにはいかなかった。同時にこうした時、噂をたてられた本人に対する嫌悪がわいてくる。それは嫉妬とは全く違う感情であった。
「だから私も今回、年下の恋人役にキャスティングしたんですけれども、彼、やっぱりいいですよね」
「そうね。あの年代であれだけ演《や》れる俳優も珍しいわね」
「でも瑞枝さん、気をつけてくださいね。この頃は年下の男が流行だから」
「私はそういう趣味はないから大丈夫」
電話を切った後も不快さは続き、これには瑞枝も意外であった。
聡は仕事でつき合う俳優のひとりに過ぎない。自分に対して、多少積極的なところを見せているが、これは芸能人独得の気まぐれというものだろうと瑞枝は踏んでいる。それでもこちらの気持ちを窺《うかが》うような文香のもの言いが、癇《かん》にさわって仕方ない。
「本当は年上好みなんですよ」
「前の事務所の女社長といざこざを起こした」
などという言葉によって自分が少しずつ汚されていくような気分にさえなる。「年上の女」という言葉に含まれる卑猥《ひわい》さや、からかいの調子をまだ若い文香は気づいていないかのようだ。
気づくと瑞枝は頬に手をあてている。最近、仕事の途中でこの行為をすることが多くなった。三十一、二の頃まで瑞枝は掌《てのひら》の内側と皮膚とはぴったりと重なったものだ。けれども今、中指の下あたりにわずかな隙間が生まれている。少しずつ皮膚が垂れていること、自分が確実に老いに向かって進んでいくことを確かめることは、今までの瑞枝にとって決して嫌なことではなかったはずだ。それなのに、どうして今、つまらぬ噂と幾つかの言葉に、これほど自分は傷ついているのだろうか。
瑞枝は引き出しに手をかける。その中にはもう何度も読み返した高林からの航空便が入っている。その中の文章はもう空で言えるほどだ。
「僕たちが充分に若いからでしょう」
「後ろを振り向く時期が来ていないのではないのかとも……」
もしこれから恋をするとしたら、自分は多分同年代か、その上の男とするだろうと瑞枝は思う。自分の三十八歳という年齢を境に、瑞枝の中で世界はいつしか二分されている。自分をもう中年だと言う世界と、ごく自然にまだ若いと言ってくれる世界とだ。後者の世界だったら、自分はのびのびと呼吸をし、楽しくふるまうことが出来るはずである。瑞枝のまわりにも、年下の男が好物という女が何人かいたが、その気持ちがどうしてもわからない。
若い男と一緒にいると、自分まで若い気分になると必ず言うのであるが、それはベニヤ板で覆った全くのまやかしの若さだ。女の方は見てはいけないものを見ない振りをし、聞いてはいけないものに耳を塞《ふさ》いでいるに違いない。そんなみじめさと引き替えに、女はいったい何を手に入れるのだろう……。
ああ、今夜はおかしい。いつもは無造作にそのあたりに置いてある若さに関する思いが、いちどに自分めがけて飛び込んでくる。自分を思考させ、悩ませる。若い男と食べた大量の肉のせいだ。
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第八話 古 都
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おっしゃるとおり、Eメールというのは確かに便利なものですね。こういうものがあるのはずっと前から知っていましたが、若い人たちがやるものだと思い込んでいました。
今まで事務所にお電話する時も、秘書らしき女性の方が出てくるので何とはなしに気後れしてしまいましたが、これだったらいろんな質問もさせてもらえます。
昨日、六回めの視聴率が出ました。一四パーセントという数字はたいしたことはありませんが、ヒトケタになるのも時間の問題だとか、打ち切りになるだろうなどとさんざん叩《たた》かれた割には、よくここまで這《は》い上がってきたものだと皆で喜んでいます。ドラマの視聴率というのが、こういう風に上がっていくのは珍しいのですよ。一回め、二回めによくなかったら、後はひたすら下がっていくのみですから。
下がりっぱなしのドラマを書き続けなければならない脚本家のつらさというのは、おそらくわかっていただけないでしょう。今まで仲間と思ってやってきたプロデューサーやディレクターたちが、とたんに不機嫌になり、こちらに冷たくなります。
そして私はドラマの中で、主人公の元夫《もとおつと》を殺すというすごいことをやってのけました。ドラマを突然サスペンス調にして、この後の話もつじつまを合わせるなんて、我ながらすごい離れ技だと思いました。けれどもこのおかげで視聴率が上がったのですから、視聴率というのはいったい何だろうかと思ってしまいます。
少し愚痴を長く言い過ぎました。こんな業界の話、高林さんには退屈なだけでしょう。昨日、プロデューサーから京都ロケのOKが出ました。私はあの時代を描くのに、どうしても京都を無視することは出来ないとずっと思っていました。
郡司だけでなく、東京の男たちは週末になるとどっと京都へ流れたものですよね。街のちょっとした不動産業者まで、京都ですっかりいい顔になり舞妓《まいこ》さんを連れ歩いていたのを憶《おぼ》えています。
私はあの賑々《にぎにぎ》しさや馬鹿馬鹿しさを、回想シーンで使えたらと思っています。プロデューサーは、シナハンに一緒に行こうと誘ってくれましたが、それは断りました。ごくプライベートに一泊だけと考えています。
そこでお願いなのですが、半日ほどおつき合いいただけないでしょうか。女ひとりでは行けないお店も多いので、高林さんがいてくださると心強いのです。それよりも昔のお話もいっぱい聞きたい。都合のよい日にちを教えてください。
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[#地付き]沢野 瑞枝
新しい京都駅が出来てから、人の流れはすっかり変わってしまったようだ。八条口の銘店街のさびれようときたら、どこか違う駅へ間違って降りてしまったかと思ったほどだ。駅前には、どぎつい色彩のカラオケの看板が出ている。五月終わりの既に強くなった陽ざしの中、客待ちのタクシーはまるで車体の屋根を灼《や》かれるためにそこに並んでいるかのようだ。じりじりとした苛立《いらだ》ちが長い列から伝わってくる。
中型にしようかと思ったが、黒塗りの車体が暑苦しく、瑞枝はグリーンと黄色の淡色の小型タクシーの前に立った。ホテルの名を告げると、運転手は機嫌よく走りだした。高林が予約してくれたホテルは、京都市内のはずれにあるからである。
「あんまり人がいないようだけれども、五月の今頃って、ゴールデン・ウイークも終わってシーズンオフなのかしら」
うなじに白髪が目立つ運転手に瑞枝は話しかける。
「あきまへん、ほんまにあきまへんわ」
痩《や》せた後ろ姿からは想像もつかないような大声が返ってきた。
「ゴールデン・ウイークも例年に比べたらぐっと人が少なかったですわ。今やったらそろそろ初夏のシーズンですけどな、ぜんぜんあきまへんわ。私も長く運転手してますけどなあ、こんな年は初めてですわ。ほんまに不景気っていうことと違います?」
「そうなんですか……」
景気の悪さを訴える運転手の怨嗟《えんさ》の声は東京でもよく聞くが、京都のそれはもっと切実さを含んでいた。観光地というものの脆《もろ》さかもしれない。
タクシーの窓から瑞枝はあたりを見渡す。京都に来たのは十年ぶりだ。いや、もっとたっているかもしれない。新婚の頃、その前の恋愛時代、郡司は瑞枝をいろいろなところへ連れまわした。京都もそのひとつであった。生まれてこのかた、舞妓というものの実物を見たことがないという瑞枝の言葉をおかしがって、都踊りに連れていってくれたのは確か、結婚する少し前だったかもしれない。
歌舞練場の前にある行きつけのお茶屋の二階に、地方も含めて七人ほどの芸妓《げいこ》、舞妓が並んだ。芸妓は確かにすっきりと美しかったが、舞妓は厚化粧と豪華な衣装の他にはこれといって印象はない。彼女たちはわずかに、
「へえ、おおきに」
「へえー、そうどすかあ……」
とあいづちをうつばかりである。舞妓の中に、玉虫色の口紅を下半分しか塗っていない少女が混じっていた。
「ああ、あれは見習いさんっていって、ちゃんとしたデビュー前の舞妓なんだ。君に見せようと思って呼んどいた」
もの慣れた郡司の口調であった。
あれは結婚してすぐの、夏の盛りであった。郡司といつもの遊び仲間たちが集まり、嵐山《あらしやま》の料亭で宴を張った。
七人ほどのグループに、芸妓、舞妓が同じ数はいたのではなかっただろうか。食事が半ば過ぎた頃、仲居が声をかけた。
「舟のご用意が出来ましたのでどうぞいらしておくれやす」
料亭の庭づたいに川に出る。そこには鮎《あゆ》舟が用意されていた。料亭の紋入りの提灯《ちようちん》が幾つも下がり、お祭り気分を盛り上げていた。
「揺れるから気をつけてください」
男衆《おとこし》たちがしっかりとささえる中、まず客たちが乗り込み、その後、芸妓、舞妓と続いた。彼女たちはこういうことには慣れているらしく、絽《ろ》の衣装の裾《すそ》を乱すこともなく、舟の縁《へり》を乗り越えてくる。
法被《はつぴ》を着た男が静かに櫂《かい》を動かし始めた。
岸を離れた舟の中では、宴の続きが始まった。一流の格式を誇る料亭は、舟の中とはいえ器に手を抜くようなことはない。こぶりのバカラのグラスに、再びビールが注がれた。
「舟の上は酔いが早いどすえ。気をつけてお飲みやっしゃ」
整い過ぎた顔のうえに日本髪が似合うため、やや険があるように見える年嵩《としかさ》の芸妓が、瑞枝にビールを注いでくれた。
「やい、豆富久《まめふく》……」
グループの中でも、毎週のように京都に来て遊び慣れている不動産業者が、舞妓をからかい始めた。
「お前、舟の上だぞ。もしおしっこしたくなったらどうするんだ」
「さっきから嫌なことばっかり言うて、もう知らんわ……」
観世水《かんぜみず》を染め抜いた大|振袖《ふりそで》に、楓《かえで》の模様の絽綴《ろつづれ》を締めた若い舞妓は、愛らしく頬をふくらませた。
「うちら、ぎょうさん修業を積んでるから、なんぼでも我慢出来ます」
修業≠ニいう言葉に男たちが笑った。
「さ、さ、焼けました。熱いうちに召し上がってください」
仲居が焼きたての鮎を藍《あい》染めの皿に盛って勧める。この舟の後ろには、板前を乗せた料理舟がぴったりと寄り添っていたのだ。
彼らはプロパンガスとグリルを載せ、さきほどから揺れる舟の上でずっと鮎を焼き続けていた。
夏のこととて、遊覧舟は何|艘《そう》も出ていたが、料亭の紋の提灯の下、芸妓、舞妓をどっさり乗せた舟はこれひとつだ。中で鮎をむしり、酒を飲む一行にカメラを向ける者もいた。あの豪奢《ごうしや》な夏は、ゆらゆらとどこへ流されていったのだろうか。
ホテルのフロントに、高林からのメッセージが届いていた。
「お着きになったら、事務所の方にお電話ください」
瑞枝があまり好きになれない、ねっとりとした喋《しやべ》り方の秘書が出て、高林に取り継いでくれた。
「やあ、わりと早く着いたんですね」
「ええ、ちょっと街をぶらぶらしようかと思って」
「おつき合いしましょうか」
「いいえ、とんでもない。夕食をっていう約束だったんですから。場所を指定してくださればそこへ行きます」
「あのですね、僕はいろいろ考えたんですけれどもね……」
突然高林は饒舌《じようぜつ》になった。
「京都はそろそろ床≠ェ始まっちゃって、結構予約が取りづらいんですよ」
床≠ニいうのは、鴨川《かもがわ》沿いにつくる夏向きの桟敷の座敷だ。
「食通って言われる友人にいろいろ聞いたんですけれども、沢野さんはちゃんとした料亭の方がいいですか、それともカウンターでもいいですか」
「おいしければどっちでも」
「でしょう。僕もそう思って、実はもう予約しました。先斗町《ぽんとちよう》に最近出来たところで、すごい評判らしいですよ。まだ女性誌なんかに出てませんから、行くのは今のうちだって友人は言ってました」
「それは楽しみだわ」
「わかりづらいところにありますから、僕がお迎えに行きましょう。六時半に予約しましたから、六時十五分にホテルのロビーでいかがでしょうか」
「わかりました」
電話を切った後、瑞枝はベッドに腹這《はらば》いになり持ってきた本をぱらぱらとめくった。
体が奥の方から溶けていくように心地よい。考えてみると、昨年の暮れから脚本書きに追われて、まるで囚人のような生活をしてきたのだ。風呂《ふろ》もシャワーだけにし、食事は出前かコンビニエンス・ストアで買ったもので済ませた。
仕事のためだと言いわけしてここまで来たが、この京都への小旅行は、ささやかな自分への褒賞のつもりだ。それにしても東京から離れたことで、これほど解放された気持ちになれるとは思わなかった。視聴率がわずかずつでも上がっていることが幸いして、文香が気持ち悪いほどの機嫌のよさだ。
「本当は私が行かなきゃいけないところなんで、経費はちゃんと請求してくださいね。領収書を貰《もら》ってくれればそれでいいですから」
気前のいい申し出まであったのだ。瑞枝の心も次第に浮き立ってくる。
どのくらいたったのだろうか。
電話の音で目が覚めた。
「もし、もし、フロントでございますが、沢野さんにお迎えの方がいらしています」
ベッドサイドの時計を見た。確かに六時を十五分過ぎている。ほんのうたたねをしているつもりだったのに、なんと三時間以上も眠っていたことになる。
「すいません、迎えの人を出していただけますか」
すぐに高林に替わってくれた。
「申しわけないんですけれども、あと十分だけ待っていただけます」
「ああいいですよ。予約がちょっと遅れてもどういうことはありませんから、ゆっくりしてください」
受話器を置き、大急ぎで洗面所に走った。はっきりと寝乱れている髪に大急ぎでブラシをあてた。口紅を塗り直そうとして、唇の脇に白い筋を見つけた。どうも子どものように涎《よだれ》を垂らして寝ていたらしい。この何ヶ月の疲れが、雫《しずく》となってこぼれ落ちている。けれども昼寝のせいで、肌がとたんにいきいきしてきたのは確かだ。瑞枝はいつもはマスカラだけの目に、リキッドのアイラインをひいた。
シャワーでも浴びたいところだけれども、とてもそんな時間がない。シャツだけを着替えて部屋を出た。
エレベーターを降りると、フロントの前に所在なさげに立っている高林の姿があった。ちょうどチェック・インをする客で混み合う時間であったが、彼の姿はすぐ見つけることが出来た。紺色のジャケットにネクタイはなく、変わり衿《えり》のシャツを着ている。自由業、それもクリエイターと呼ばれる男たちだけが似合う不思議な形の立ち衿である。
「お久しぶりです」
「いやあ、こちらこそご無沙汰《ぶさた》しています」
二人はなぜか照れて頭を下げ合った。それまでに航空便やEメールで、かなり心情の深いところまで吐露し合っている関係にしては、会うことがあまりにも少ない。文通欄で知り合った二人が、初めて待ち合わせをする時のように、いつもぎこちなさがつきまとうのだ。
「お待たせしてすいません」
「いいえ、お仕事をしてらしたんじゃありませんか」
まさか涎を垂らしてぐっすりと寝ていたとも言えず、瑞枝は思わずくすりと笑った。そのとたん、ああと高林が声をあげた。
「あなたが笑うなんて珍しいな」
「そうでしょうか」
「そうですよ。僕と会うたびにいつもむすっとしているから、何か気に障ることを言ったのかと気になりますよ」
自分は高林の前で、不機嫌な顔をしている。思いがけないことを言われたと思った。彼と会うのが楽しくないとでも言うのだろうか。
郡司と暮らしていた頃というのは、いわば瑞枝の最盛期であったかもしれない。世間のものさしによればそうなる。瑞枝は玉の輿《こし》にのったと言われ、写真週刊誌にまで載ったほどなのだ。高林はいわば、当時の瑞枝を知る証人である。その彼につけ込まれないように、あなどられないようにと、たえず気を張っているのが表情に出るのだろう。
その夜、高林が案内してくれたのは、先斗町の露地にある小さな料理屋であった。京都で評判になっている、というだけあって、カウンター席はほぼ満員だった。いちばん隅に箸《はし》がセットされていて、そこが二人の席だということはすぐにわかる。
「まずはビールといきましょうか」
高林は熱いおしぼりで、顔をぬぐった。彼らしくない粗野な動作だ。おそらく地元ということで、東京にいるよりもずっとリラックスしているのであろう。
「ビールもろたら、その後は日本酒、冷やでお願いしますわ」
カウンターの中の主人に話しかける言葉にもはっきりとした訛《なまり》があった。男の京訛は奇妙な色気がある。まるで思いがけない秘密を探ったような気分だ。
「あ、僕、勝手に注文しちゃいましたけど、沢野さんは何がよろしいですか」
「私も同じもので結構です」
灘《なだ》の酒の小瓶が、氷を詰めた透明の器に入れられカウンターに置かれた。若いおかみさんが、薩摩《さつま》切子のグラスを手渡してくれた。昼寝をたっぷりした後の熱っぽい体に、冷えた酒がしみいるように入っていく。気がつくと三杯たて続けに呑んでいた。
「まるで小さな極楽だわ」
瑞枝はつぶやく。
「おとといまで、目を吊《つ》り上げて徹夜で仕事してました。その私が、京都にいて、おいしいもの食べて、おいしいお酒を呑んでるなんてまるで夢みたい……」
「じゃあ、もっといきましょうよ」
高林は瓶を取り上げ、瑞枝のグラスに傾けた。そうしている間にも二人の前には、皿が運ばれる。冷やしたガラス皿に盛られた鱧《はも》であった。
「まあ、鱧なんて今年初めてだわ。私ね、そもそも関東の人間だったから、鱧を食べたのは京都が最初よ。十何年か前、郡司と来た時が初めてだったの」
「ねえ、沢野さん」
高林がグラスを置いた。
「今日はゲームをしましょう。今夜だけでも昔の話をいっさいしないんです」
「それは無理ですよ」
瑞枝は箸を置いた。
「だって私、今ドラマを書いているんですよ。十年前のことを一生懸命思い出そうとしている。それが仕事なんですよ」
「だけど仕事だからって、何も無理やり昔のことばかり思い出さなくてもいいでしょう。せめて今夜ぐらい、別の話をしましょう」
「別の話ってどんなことかしら」
「例えば、未来を語るっていうことですよ」
二人は同時に声をたてて笑った。
「未来を語る、なんて言い方、高校生がするもんじゃないかしら」
「ちょっと言い方がまずかったかもしれないな。じゃ、近況を語りましょうよ、近況」
「未来から近況か……。急にガタッて下がっちゃったような気がするわ」
「確かにそうだが、昔のことをいじいじ思い出したりするよりもずっといい。僕はね、前にも話したと思いますけれども、三十代には三十代の、四十代は四十代の過去との接し方があると思いますよ。僕が見ていてあなたのそれは、六十代の人と同じです。とても危険なことだと思います。だいいちそういうことをしたら、老けてしまうじゃありませんか」
「そんな心配は大丈夫。私はもうとっくに老けていますから」
「とんでもない……」
高林は瑞枝の目を覗《のぞ》き込む。そして彼の視線はゆっくりと瑞枝の斜めの顔の、さまざまな場所に移っていく。唇の横、さっき涎が垂れていた場所であるが、そこには二本の皺《しわ》が刻まれている。そう目立つものではないが、これほどの近さから見つめられればはっきりと確認出来るだろう。そして顎《あご》のたるみも、やわらかく肉が落ちていく兆候も、この位置ならば彼の目には入るはずだ。
狎《な》れ狎《な》れしい不遠慮な視線を瑞枝が許しているのは酔いのせいばかりではない。そこに同世代の男としてのいとおしさが込められているからだ。
「あなたはちっとも老けてなんかいませんよ。それよりもずっと綺麗《きれい》になったんじゃないかな」
「まあ、そんなこと言ってくれるなんて、お世辞でも嬉《うれ》しいな」
「お世辞じゃありませんよ。あの頃のあなたというのは、まだ子どもじみたお嬢さんでした。僕らは郡司さんが若い美人を貰《もら》ったと騒いだけれども、実はそんなに羨《うらや》ましがってはいなかったかもしれない。あの頃のあなたは……」
「高林さん」
瑞枝は言った。
「昔のことは言わないっていうルールを持ち出したのはそちらよ」
「こういう前向きの話はいいんですよ」
彼はきっぱりと言った。
「あなたは以前よりも、ずっと魅力的になっている。僕はこのあいだお会いして驚きました。まるで別の女の人に会ったみたいだったからですよ」
「高林さんも、久しぶりに会ったらすっかり口がうまくなっているんでびっくりするわ。前だったらこんなこと、絶対に言わなかったと思うんだけれども」
瑞枝はやんわりとたしなめる≠ニいうニュアンスにならないように、注意深く言葉を発した。高林の言っていることだけを聞くと、かなり露骨に接近してきているように思われるのであるが、いつもの男たちのいつものやり方とはまるで違う。
彼は生まじめなおももちで、幾つかの言葉を口にするのである。自分の発している言葉の重さに、まるで気づいてはいないかのようだ。日本語を憶《おぼ》えたての外国人が、無意識に「愛している」とか「惚《ほ》れている」などと喋《しやべ》るのに似ていて、瑞枝はどこまで身構えていいものかわからないのである。
「いや、僕は本当にそう思っているのですよ。あなたはまだ若くとても綺麗だ。再婚はなさらないんですか」
とんでもない、こんな年の女を貰ってくれる人なんかいるものですか、などというありきたりなことは言いたくはなかった。
「子どもを連れて必死でしたもの。そんなこと考える余裕もなかったわ。もし高林さんが、私のこと変わったっておっしゃってくださるなら、やっぱりいろいろなことがあったからだと思うの。苦労した、なんていう言葉は好きじゃないけれども、やっぱり大変だったもの」
会話がやっと瑞枝の望んだ方向に落ち着いたが、今度は妙にしんみりしてしまった。それに最初に気づいたのは高林の方だ。
「でもたいしたものですよ。テレビであなたの名前を見ると本当に嬉しい。あの甘ったれの若い奥さんが、よくここまでやってきたと思います。視聴率だってだんだんよくなってきているんでしょう」
「ええ、まだわかりませんけれども、徐々に下がっていくっていう恐怖からは逃れられそうです」
「それで京都ロケをやることになったんだ」
「ええ、終回かその前の回に、間に合うかどうかという、ぎりぎりのスケジュールですけれど何とかなりそうです。プロデューサーがやる気になってくれているものですから……」
「あの頃の京都は楽しかった、なんて言いっこなしですよ」
高林はかすかに微笑んだ。
「思い出しごっこはしないというのが今夜のルールです。とにかく二人でいろいろなところへ行きましょう」
瑞枝としては古い花街を歩く心づもりであった。郡司やその仲間に連れられていったお茶屋が何軒かある。京都でも三本の指に入るという歴史を持つある店では、勤王の志士たちが新撰組《しんせんぐみ》に切りつけられた際の柱傷が残っていて、瑞枝はそれを興味深く眺めたものだ。京都のそうした店は格式と誇りが大層高いと言われているが、郡司たちは難なくその敷居を乗り越えていった。
「伝統だ、プライドだなんてお高くとまっているけれども、あいつらだって金が好きなんだからな。京都なんて所詮《しよせん》、金のある方へある方へとなびいて生き抜いてきた街じゃないか。俺たちのことを内心どう思ったって、みんな頭を下げてくるんだからな」
京都はあの頃の郡司たちにとって、新しく与えられたおもちゃであった。彼らはひとつひとつ老舗《しにせ》に挑んでいった。一流の財界人しか相手にしないと言われていた店の、いつしか常連となっていく喜びは、おそらく伸び盛りの男たちがどうしても手に入れたいものだったろう。京都にも郡司たちと同じような立場の男たちはいて、彼らはいつしか仲のよいグループになっていた。
郡司にも京都に行くたびに必ず行動を共にする男がいた。室町《むろまち》の呉服問屋の若社長である。過去からの遺産を守り抜こうとする西陣《にしじん》に比べ、新興の室町はその分冒険によって羽ぶりがよかった。洋服のデザイナーにつくらせた振袖《ふりそで》があたりにあたり、彼は祇園《ぎおん》でも宮川町でも顔であった。彼はどうやら郡司の遊びの指南役を勤めてくれていたらしい。
あの頃郡司の友人の中で、億という金を使って芸妓《げいこ》や舞妓を落籍《ひか》せた男たちが何人かいる。これは瑞枝の勘であるが、郡司にも正式ではないが、特定の愛人はいたようだ。
「京都の女っていうのはすごいよな……。男を喜ばせることと騙《だま》すことをとことん知ってるよ。東京のそこいらの女とは、女の格がまるっきり違うっていう感じだよ」
そんな感嘆を漏らしていた郡司が京都のことを言わなくなり、同時に妻を同行することもなくなった。
かつて夫とその仲間たちの得意の絶頂だった時代の痕跡《こんせき》がこの街にはある。後に読んだ何かの記事によると、京都の多くの店は東京の不動産業者たちを完璧《かんぺき》な成り上がり者と見下し、昔からの客とはきっちり区別していたという。器も座敷も二流のものをあてがい、ずっと高額な料金を取った。そして信じられないような大金を使わせた女たちも、男の零落によって元の場所に帰ったとある。
瑞枝はかつて何度か訪れた、そうした店にも伝手《つて》を頼って上がるつもりであったのだが、高林が許さなかった。
「京都はもっと面白《おもしろ》いところがいっぱいあるんですよ。古くさいところへ行くのはやめましょう」
二人は先斗町から寺町を歩いた。カラオケのネオンや、目立つことだけを狙った奇妙な形のビルなど、地方都市の繁華街によく見られるけばけばしさだ。ここがとても京都などとは信じられない。
「ここは昔からこんな風でしたよ。むしろ変わったのは北山通りや白川通りでしょう。バブルの頃、ここいらの地価がぐうんと上がって街が郊外に伸びていった。実験的な建物が次々と出来て、北山通りは一時期高松通り≠チて言われたぐらいだ」
「高松通り≠チて何ですか」
「二百メートルごとに、高松伸さんがビルを建てていったんです」
彼は京都在住の著名な建築家の名を挙げた。
「今でも建築科の学生が、ぞろぞろ見学に来てますよ。京都の人間っていうのは、案外新しものがり屋です。自由な発想や才能を持つ人っていうのは、とても尊敬されますよ」
「でも京都がこんな風になってしまうなんて……」
瑞枝はあたりを見渡す。髪を茶色に染めたノースリーブのワンピースの少女が、若い男とからみ合うようにして通り過ぎるところであった。洋風居酒屋と書かれた看板の下から、若者たちのグループが出てきたが、このまま別れがたいらしく円陣を張って何やら奇声を上げている。
「私はやっぱり古い京都の街並みが好きだわ。しっとりして落ち着いていて、とてもほっとするもの……」
「でもね、京都の人間もここに住んで生活しているわけです。京都の人間だけ昔どおりの生活をしろ、不便な古い家に住めっていうのは理不尽な話でしょう。街なんていうものは日ごと変わっていくものですからね」
「高林さん、随分冷たい言い方をするのね」
「だってそうでしょう。その時代時代の生活があって、今の容器と合わなくなるのはあたり前の話です。すべての建築家というのは、新しいものをつくる論理を鍛えている人種ですよ」
「それはいつもうまくいくの」
「もちろんうまくいかない時もある。でも僕たちはいつも新しい革袋をつくりたい。古い革袋よりも新しい革袋の方が、ずっと魅力的だということを見せるように努力してるんです」
高林は一軒の町家の前に立った。あたりのビルにはさまれ、もじもじと古さを保っているような家である。木の引き戸を開けると、思いもかけぬコンクリートの壁と、石の階段があった。階段を降りていくと、細長い空間にずらりと洋酒の瓶が並べられていた。初老のバーテンダーがいらっしゃいましと頭を下げる。外見の斬新《ざんしん》さに比べると、内部はごく普通のバーだ。
このバーは、以前会員制のクラブであった。それを脱サラした主人が居抜きで買い取ったという。
「この椅子も贅沢《ぜいたく》なクラブだった頃のなごりでしょう。今はとてもこんな金のかかることは出来ませんよ」
「昔の経営者はどんな人だったんですか」
「よくある話ですけれども、芸妓だった女性ですよ。金持ちの男に店を出させたんでしょう。時々連れてこられたことがありますけれども、僕はね、京都によくある、元芸妓がやっているバーや飲み屋がどうも苦手です」
「そうですか、男の人にしては珍しいわ」
郡司たちはお茶屋遊びにも熱中していたが、やわらかい京都言葉を話すママがいる、こぢんまりとしたバーにも足繁く通っていたものだ。そこに馴《な》じみの舞妓や芸妓を呼び出してはいっぱしの通ぶっていたのを思い出す。けれどもそんなことを今夜は口にしてはいけないのだ。
「僕は京都の女性、いわゆる接客のプロと言われる女性が年ごとに苦手になっているんですよ」
高林はさりげなく近づいてきたバーテンダーに、スコッチの二杯めを頼んだ。彼は以前よりもずっと酒が強くなったような気がする。先ほどのカウンター割烹《かつぽう》で、既にかなりの量の日本酒を飲んでいるのだ。
「京都の街も人も、すごい勢いで変わっている。それなのに彼女たちだけは変わらない。外見はあんなに綺麗《きれい》で女らしいのに、男や金に対する考えはそら恐ろしいものがありますよ。明治、大正の頃と全く変わっていないんじゃないかなあ」
「高林さん、よほど手ひどいめにあったのね」
「いやあ、彼女たちは僕のような金のない男は、はなから相手にしませんよ。ただ僕は彼女たちに感心してるんです。苦手だけれども、やはりすごいと思ってるんです。こんな世の中だけれども、金持ちの男はどこかにいるはずです。そして彼女たちはそういう男を見つけて、きっと生き抜いていきますよ。京都の色街は息もたえだえだ、なんて言われているけれど、彼女たちはきっと自分の生き方をつらぬき通す。それを見ていると、おっかなくて僕はとても近づけないんです」
少し酔ってしまったかな、と言いながらも高林はグラスを飲み干した。
「もっと瑞枝さんのことを話してくださいよ」
沢野さんがいつのまにか瑞枝さんになっている。
「私のことなんか話してもたいして面白くないと思うわ」
女がこんな時必ず言うありきたりの言葉を、何とはなしに舌にのせた。
「この後の仕事の話をしてくださいよ。今度のドラマの後は、もう決まっているんですか」
「そうですね、視聴率をもうちょっと引っぱっていけたら、かなりの確率で仕事にあぶれないんじゃないかしら」
以前仕事をしたプロデューサーから電話を貰《もら》ったのは四日前のことだ。
――やあ、瑞枝ちゃん、「マイ・メモリー」、調子上がってきてるじゃない。この頃は数字もいいしさ。うちともさ、近いうちにつき合ってほしいな。そのうちに食事でもどうかな、いろいろ話したいこともあるしさ……。
こうした口約束ほどあてにならないものはないが、テレビの仕事はこの軽さから始まることが多い。来年にでももうひとつ連続ドラマの仕事をすることが出来たら、収入面でも精神面でもどれほど安定することが出来るだろう。
「私はテレビの仕事、好きなんですよ。そりゃあ、普通の人たちから見ると、水商売のようなところはいっぱいありますけどもね、やっていてやっぱり楽しいし、充実感があります」
「あなたを見ていると、それがよくわかります」
「連続ドラマをもっとたくさん書きたいし、出来たらNHKの仕事もしてみたい。もちろん朝や大河の枠じゃありませんよ。あそこの水曜ドラマは脚本家にとてもいい仕事をさせてくれるんです……」
喋《しやべ》りながら、自分は少し酔いがまわってきたようだと瑞枝は思った。
「それから映画の仕事もしてみたいわ。おかしいでしょう、私、そんなに映画なんか見ていないのに、映画の脚本は書きたいんです」
「そんなことはない。映画なんかしょっちゅう見ていなくっても、本質がわかる人は何でも出来ます」
「それから、それから……」
どうしたことだろう、希望とか夢というものは口にし始めたとたん、急に湧いてくるものなのだろうか。瑞枝は今まで自分のことを、近視眼的な、三ヶ月先のことしか考えない人間だと考えていた。娘と二人、なんとか暮らしていけば充分だと思っていたはずだ。ところが次々と言葉が浮かんでくる。
かなり酔っているのかもしれない。
「それから……」
「それから、どうしたんですか」
高林がじっと目をのぞき込む。ふと瑞枝は胸がいっぱいになった。
「日花里が一人前になったら、私もひとりで暮らしてみたい。それから人生をやり直したいんです」
「やり直す、なんて言葉を使っちゃいけない。それは負けた人が言うことです。あなたは充実していると今言ったばかりでしょう」
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おとといはとても楽しかったです。遅くまでつき合ってくださって本当にありがとうございました。
けれどもあの時、僕はかなり酔っぱらっていて、いろいろつまらぬことを言ったのではないでしょうか。このEメール、お気に障ったらすぐに消してください。
僕はあの夜、あなたと未来というものについてお話ししたと思います。けれどもまだ話し足りないような気がするのです。
これは昔話のようになって、僕が決めたルールに反するのですが、決して過去のことを語っているのではありません。もう十年前になるでしょうか。日本がバブル真っ盛りの頃です。ピーター・アイゼンマンという建築家が日本にやってきました。僕がイェールにいた時代、彼に知己を得ていました。アメリカでもその名を知られた建築家です。彼は僕と友人を、宿泊先のホテルオークラのバーに誘ってくれました。彼とはかなり長いこと話をしていたのですが、どんな内容だったのかよく憶《おぼ》えてはいません。けれどもひと言だけ今でもはっきりと思い出すことがあるのです。
あなたは世界中、いろんなところで仕事をしているけれども、いったいどこの都市が好きですか、と僕は尋ねました。すると彼は即座にニューヨーク、ミラノ、東京と答えました。他の都市はみんな過去を向いているけれども、この三つだけは未来を向いている。だから私はこの三つの都市を愛するのだと。
僕は建築家というのは、基本的にこういう人間だと思います。お気楽と言われればそれまでですが、常に未来を向いているものなのです。どんな時代であろうと、どんな境遇であろうと、未来を信じているからこそ、建築というものをやっていけるのです。
そんな僕から見ていると、あなたの過去の向き方にはとても違和感をおぼえます。仕事だとは割り切れない執着のようなものを感じるのです。そして僕は、あなたを向かせる過去というものに嫉妬《しつと》しているのではないかと思う時があります。
けれどもこれだけは信じて欲しい。僕があなたに魅《ひ》かれているのは、あなたがかつて郡司瑞枝だったからではありません。美しく愛らしかったあなたに全く興味が無かったといえば嘘になるけれど、それは僕の心を揺り動かすようなものではなかった。
けれども沢野瑞枝として再び僕の前に現れたあなたはまるで違っていました。大人の女として多くのものを身につけ、しかも美しくなっていた。僕にとって過去はまるで関係ない。僕は建築家ですから未来しか見ていません。そしてその目であなたも見ています。
迷惑だったらこのメールを消してください。けれどもまた会ってください。
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[#地付き]高林 宗也
[#ここから2字下げ]
先日はいろいろとお世話になり、ありがとうございました。
メール、確かに読みました。何も見なかったふりをしようと最初は考えました。けれどもそんなことは今の私には似合いません。はっきりとお返事を差し上げるべきだと思ったのです。
あのメールを読んだ時、私はとても嬉《うれ》しかった。正直に言います。とても嬉しかったのです。特にあなたが、かつての郡司瑞枝だから魅かれているわけではない。今の私だからとおっしゃってくださったのは、これからの励みになります。
私もまた高林さんにお会いして、いろんなことをお話ししたい。いろんなことを聞いてもらいたいと思います。けれども、と私を遮《さえぎ》るものがあるのです。あなたには家庭があり、奥さまもお子さんもいらっしゃいます。それがどうした、今の世の中、不倫ぐらいどうということもないという意見もあるでしょう。私は独身ですし、ある意味では自由なはずです。けれども物書きのひとりとして、私は二人の筋書きがすべて見えてしまうのです。
あなたは建築家というのは、たえず未来を見る人間だとおっしゃいます。けれども私に言わせると、妻子ある人との恋愛に未来はありません。その先にあるのは悔恨と悲しい別れだけです。それに耐えられる若さが私に残っているかと問われると、私はとまどってしまうのです。
決して道徳的なことを言っているのではありません。私がもしちょっとした恋愛を楽しもうという気持ちでいたら、喜んであなたの気持ちに飛びついたことでしょう。けれども私たちはこの間から、未来についてずっと話をしてきました。あなたの口から語られる未来はとても清々《すがすが》しく貴いもので、今、この世で信じられるたったひとつのもののような気がします。それだったら私もそれを手に入れてみたいのです。みすみす悲しみと後悔が待っている場所に行きたくはないのです。臆病《おくびよう》と笑ってください。でも小心さからこんなことを言っているのではありません。それをわかって欲しいのです。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]沢野 瑞枝
[#ここから2字下げ]
メール読みました。確かに僕の言っていることは矛盾しています。妻子ある中年男が何のたわごとを言っているのかと、あきれられたことでしょう。けれども僕の心の中に沢野瑞枝という人がしっかりと棲《す》みついてしまったのは確かなのです。僕たちには出会いがあり、何か始まりの予感があった。それを大切にしたいと考えるのはいけないことでしょうか。
来週の木曜日に上京します。電話をさせてください。決してすげなくしないでください。お願いします。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]高林 宗也
[#改ページ]
第九話 東 京
高林が木曜日にやってくるという。忙しいのを理由に、会うのをよそうかと瑞枝は考えた。事実ドラマは、終盤戦に向けて慌ただしいペースになっている。途中で準主役を死なせたために、ドラマの後半はその辻褄《つじつま》合わせでどれほど苦労しただろうか。そしてそれはまだ続いているのだ。
けれども、自分はやはり高林に会うだろうと瑞枝は思った。彼と深入りする気はない。そうしてはいけないと自分に言いきかせている。けれども彼がそれを欲し、懇願するシーンにはどうしても立ち会いたかった。自分は拒否するつもりであるが、高林に求愛をされてみたい。
その時の彼の表情を見てみたい。彼の声を聞いてみたい。もっと単純に、瑞枝は何度でも彼と会ってみたいのだ。そうした自分の感情を好意の萌芽《ほうが》と気づかないほど、瑞枝は若くもなかったし愚かでもなかった。だから瑞枝は悩む。最近にないほどの甘やかな悩みであった。
こんな気持ちになったのは何年ぶりだろうか。本人たちは恋という言葉をその都度口にしたが、実は情事というものに過ぎないとはなからわかっていたあの幾つかの関係。あれらと高林とは全く違っている。短い間ではあったが、自分と高林とは何とたくさんの会話をかわしたことだろう。散歩と会話とで成り立っていた少女時代の恋は別として、こんなことは久しぶりといってもよい。体を寄せる前に心を寄せようと相方が努力しているのだ。
いや、ひょっとして体を寄せることはないかもしれない。瑞枝がそのことを拒否する気持ちでいるからである。
四十代の男と、三十代後半の女とのプラトニック・ラブというものはあるのだろうか……。
瑞枝はふと考えたが、打ち消したり茶化したりする気分には全くなれなかった。高林は愛を打ち明け、自分もそれに反応している。そしてこのままいったら、自分たちはまっすぐに男と女の関係になるはずだ。瑞枝はその単純さに畏《おそ》れを抱いているのである。
考えてみると、自分と高林とは奇妙な関係だ。最初に会った時、瑞枝は彼の親友にして大スポンサーの妻という関係だったのである。この微妙な力関係は未だに尾をひいていて、高林は知り合った時のまま瑞枝に敬語を使う。
この不思議さのまま、瑞枝は自分たちが世にあまり存在しないつき合いを持ってもいいと思っている。それがどういうことなのかよくわからぬが、男と女として好意を持ち合ったまま、決して泥沼にはまらぬ関係だ。
瑞枝は最後に関係を持った男との不快な記憶をたぐり寄せる。家族で海外旅行へ行ったと聞いた時、苦く固いものを噛《か》んだような気分になったものだ。彼は当然のことながら家庭を持っていたが、そう狡猾《こうかつ》な男ではなかったから、決して妻の悪口は言わなかった。
若い女が相手だったら、離婚や妻との不和をほのめかすということもしただろうが、瑞枝の年齢からしてそんな手段を使うこともないだろうと判断したようだ。だから瑞枝の問うままにさまざまなことを口にした。
「ごく普通の中年の夫婦だよ。仲も悪くなけりゃよくもない。お互いに必要としているからくっついている」
その彼が夏休みに、家中揃ってバリ島に行ったと聞いた時、瑞枝は自分でも意外なほどの衝撃を受けた。ちょうど瑞枝は仕事が途切れていた時である。こちらは不運やトラブルをひとり抱え、悪戦苦闘している最中に向こうは妻と二人の娘を連れて、南の島で遊んでいるのだ。自分の知らないところで、家庭や子どもという若木をすくすくと育て、それを愛《め》でている男が口惜《くや》しかった。自分だけが損をさせられていると思う感情は、不倫をしている女独得のものである。この際、女は独身だろうと、結婚していようと関係ない。自分との情事を楽しむと同時に、家族という確実なものも楽しんでいる男を、得ばかりしていると憎むのだ。
そして結局、瑞枝とその男とは別れた。大人同士のことであるから、これといって修羅場もなく淡々としたものであったが、君とだったらもっと長くうまくやっていけると思っていたのに、という言葉に瑞枝は傷ついた。ものわかりのいい女と思われることは、この場合屈辱であった。三十代の子連れの離婚した女なら、もっと割り切ってくれると考えていたのだろうか。
男と女のゆきつく先、体と体を合わせることには甘く蕩《とろ》けるような罠《わな》が仕掛けられていると瑞枝は思う。どれほど高尚な知的な会話から出発しようとも、男と女との仲をありきたりのどろりとしたものに変えてしまう。
高林が今までの情事の相手といくら違っていようとも、情事を持ってしまえば同じことなのだ。彼には三人の子どもがいるという。十年前は二人であったが、その後ひとり増えたらしい。
ひとりかふたりだったら、瑞枝はもっと心穏やかにいられただろう。けれども三という数字に瑞枝は最初からひるんでしまう。今の世の中において、三人子どもを持つということは夫婦仲が強固であることの証《あかし》である。高林も子煩悩に決まっている。そんな彼と自分とが、どうしてつき合うことが出来ようか。今までのように食事をしたり、酒を飲むのはよい。けれどもそれ以上踏み込む決心はつかない。いつしか瑞枝は自分の描くシミュレーションドラマに、いくつものノーを出していくのである。
瑞枝の予想していたとおり、高林からの電話は木曜日の午後にかかってきた。
「今、お忙しいですか」
挨拶《あいさつ》抜きで彼はまず問うてきた。あのEメールの後で、あきらかに口調が変わっている。抑えようとしても緊張がにじみ出ていた。
「ええ、忙しいです」
あまりにもそっけない言い方をしたと思ったが仕方ない。瑞枝としても緊張しているのだ。
「でも会っていただけますよね」
高林の声には切実さがある。けれどもそれでは二人のぎこちない空気をさらに増幅させることに気づいたようだ。急に饒舌《じようぜつ》になった。
「このあいだからやっていたキラー通りのビルがやっと完成します。あのビルの近くにはとてもおいしいイタリアンレストランがあるんですよ。家族だけでやっているこぢんまりとしたところですが、味は抜群です。ぜひご案内したいなあとずっと思っていたんです」
断ろうかどうしようかと瑞枝は迷う。何度も考えていたことなのに、いざとなるとやはりとっさに返事が出来ない。京都での夕食が最後の豪華な食べ物となり、東京に帰ってきたら相変わらずコンビニ弁当の日々が待っていた。せいぜいが日花里の分と二人、荒っぽい野菜|炒《いた》めを作るぐらいだ。自分に好意を持ってくれている男と二人、向かい合って食べるイタリア料理などというものに心も胃袋も餓《かつ》えていた。
どうということもない、と瑞枝は判断を下す。今までも高林とは食事をしてきた。もちろん自分はそれ以上の関係を持つつもりはないのだから、ひとときの美食とときめきを共にしたとしても、何ら問題はないだろう。むしろ高林との食事は、自分の決意の固さを示す試金石になるはずであった。
「今夜は駄目だけれども、明日ならどうにかなるかもしれないわ」
自分でも傲慢《ごうまん》だと感じる言い方となった。
「そうですか。それならば待ち合わせは何時にしましょうか」
「スタートは早くしませんか。まだ仕事に追われている状態なので早く帰りたいんです」
「わかりました。それでは六時半ということにしましょう。えーと、店はわかりづらい場所にあるんで、どこかで待ち合わせませんか」
「いいですよ。高林さんはどこをご存知かしら」
「そうですね、僕でもすぐにわかるといったら、やっぱりベルコモンズですか。あそこの一階にコーヒーハウスがありますから、六時二十分でどうでしょう」
瑞枝ははっと息を呑《の》む。ベルコモンズの一階は十二年前郡司を訪問するために、カメラマンと待ち合わせた場所である。
ベルコモンズなどというのは、その後も何回となく行った場所だ。特に待ち合わせには便利だった。青山にうとい人間でも、あそこなら迷うことはない。なまじ流行のオープンカフェを教えたりするよりも、はるかに確実であった。
いつもは何気なく発音しているベルコモンズ≠ニいう言葉が、偶然とはいえぬ大きな力を秘めているような気がした。あの日、ベルコモンズの一階のコーヒー店でカメラマンと落ち合い、郡司のところへ取材に出かけた。その時から瑞枝の人生が大きく変わり、それは今へと繋《つな》がっている。日花里という存在がなによりもそのことを証明している。高林は日花里という巨《おお》きな惑星のまわりを飛ぶ、小さな星のひとつかもしれない。どちらも郡司というものがもたらしてくれたのは確かであった。郡司と出会うことがなかったら高林と会うこともなかった。そして歳月は流れ、高林は今自分に求愛しているのだ。どうしようもないほど魅《ひ》かれているとも言った。このことを純粋に解釈してよいのだろうか。
男には征服欲というものがある。瑞枝の見ている限り、高林は露骨な野心家ではなかったが、そうかといって学究肌というのとも違う。教養という口あたりのいい衣で包んでいるものの、建築家という職業に求められる世俗性も、計算高さも、充分に持ち合わせている男である。そうでなかったらどうして売れっ子と呼ばれるひとりになれただろう。
その彼が瑞枝を求める理由のひとつに、スポンサーの妻だったということが挙げられまいか。高嶺《たかね》の花、などという存在ではなかったが、あの頃の瑞枝は高林にとって決して気のおけない相手ではなかったはずだ。高林と郡司とはほぼ同年配で、世間的にはお互いに尊敬しあう仲間ということになっていた。しょっちゅう二人で飲み、よく海外旅行にも出かけたものだ。意地悪な見方をすれば、高林の持っていた学歴や知性に、郡司が憧《あこが》れを抱いていたとも言える。けれども金の出どころを見れば、二人の上下関係はあきらかであった。後に郡司がすべてを失った時、彼の弁護士は言ったという。
「結局いちばんいい思いをしたのは、あの建築家だったんじゃないか」
が、同時に高林が屈折した感情を抱いていなかったとは誰が言えるだろうか。彼は本当に郡司と友情を結んでいたのであろうか。とにかくその妻は、今充分に手の届くところにいる。男だったら触手を伸ばしてみたいと考えても不思議ではなかった。
まだ少し季節には早いかと思ったが、瑞枝は麻混のベージュのワンピースを着た。そう高価ではないイタリアのデザイナーのものだ。鏡に映してみると、まだ自分の胴まわりがきちんとしたくびれを持っていることがわかる。中年と言われる女だったら、まず着こなせないデザインだろう。
薄手のスカーフをしようかと思ったが、かえって野暮ったくなると思いピアスだけにした。貴石の小さなものだ。
瑞枝は昔から宝石というものに全く興味を示さない。結婚前に二人でヨーロッパ旅行に出かけた時、郡司はすぐに恋人の嗜好《しこう》に気づいたようだ。
「そうだなあ、君の年齢でダイヤなんかちらつかせると、老けてしまうかもしれないなあ」
などと少々残念な様子だった。後に彼と離婚する際、ほとんど処分しなくてはならなくなった膨大な数の服を整理しながら、瑞枝の姉がため息をついたものだ。
「こんなにたくさんの洋服を買ってもらったんだったら、どうして宝石にしなかったのよ。十枚のアルマーニで、いいダイヤが一個買えたじゃないの」
確かにヴァン・クリフの婚約指輪以外に瑞枝はこれといったものを持っていない。香港人と結婚している姉は、宝石はこういう時の女の財産になるのにと口惜しがった。けれども瑞枝はむしろさっぱりとした気分になったものだ。どれほど高価なものであろうと、いったん着てしまった衣服はただの古布になる。いさぎよく捨ててしまうことも可能だ。けれども宝石の生々しさはいつまでも残るはずであった。何よりもあの頃の瑞枝は、
「宝石を買ってもらった女」
という語感に潔癖にこだわっていたに違いない。
今日しているピアスは、つい最近青山のブティックで買ったものだ。昔、夫に買ってもらったものは何ひとつ身につけていないという思いは、瑞枝を自然と高揚させている。
高林の声が不意に甦《よみがえ》る。
「あなたは別人として僕の前に現れた」
この言葉ぐらい、瑞枝の人生を肯定してくれるものがあるだろうか。宝石などに執着を持たず、衣服も捨てた自分をきちんと評価してくれていたのである。
瑞枝は待ち合わせのコーヒーハウスへと入っていった。奥の二人がけの席に腰かけ、高林は何やら書きものをしていた。近づいていくと気配を感じたのか顔を上げた。やあと笑いかける。はにかんだ四十男の顔もなかなかいいものであった。
「何を書いているの」
わざとぞんざいに瑞枝は言った。席に着くなり、ノートに手を伸ばすという不作法なことをしたのは、あきらかに照れていたからだ。
「落書き帳ですよ。いつも持ち歩いて思いついたことを書いている」
建物のラフスケッチがあったかと思うと、その傍に人間の顔のデッサンも描かれている。詩句のようなものがところどころ走り書きされていた。
「このあいだメールで送ってもらった詩も、これに書いてあるのね」
「でもあんなものを送って、僕はとても後悔しているんですよ」
ここで二人は初めて顔を見合わせた。それまでテーブルの上の小型のスケッチブックしか見ていなかったのである。高林はいつものように変わり衿《えり》のシャツを着ている。髪の型がほんの少し変わっているような気がした。
「まるで高校生の男の子が書いたみたいな文章だったでしょう」
「でも高林さんがどういう人か、とってもよくわかったわ」
「どういう人間だとわかったんですか」
思わず女が目をそらさずにはいられない視線だ。
「そりゃあ、高林さんはものすごくロマンティックな人だなあって……」
「僕の年齢でそんなことを言われたら、半分馬鹿だって言われているようなもんじゃないですか」
「そんなことはないわ……」
それっきり会話は途切れてしまった。瑞枝は運ばれてきたアイスコーヒーに口をつける。ロマンティックの定義をしようと思ったのだが、それがとても困難だということがわかる。あんな風なメールを寄こすこと自体、ロマンティスト以外の何者でもないと思うのだが、それを口にするのはやはり憚《はばか》られる。メールを送られた自分がひどく自惚《うぬぼ》れているようだ。
やがて二人は店を出て、青山墓地下に向かって歩き始める。途中で不意に瑞枝は足を止めた。
「ねえ、ここに昔、キャビアハウスがあったの憶《おぼ》えているかしら。確か十年以上前にオープンしたのよ。シャンパンにキャビア、スモークサーモンだけを出す店だった。私、オープンパーティーの時に行ったからよく憶えている。招待客にじゃんじゃんシャンパンを抜いて、キャビアをどっさり出してくれた。みんなが大丈夫なのかしらって不安がるぐらい豪勢だったけど、案の定……あら」
瑞枝はくすっと笑った。
「ごめんなさい。昔の話をしないっていうのはルールだったわね」
「あれは京都ルールですよ」
「東京ルールは」
「楽しい話だったら、昔の話をしてもOKということにしましょう」
最近このあたりは広い空き地が目立つ。建物を取り壊したはいいが、この後どう処理していいのかわからぬ土地が多いのだ。元ガソリンスタンドだった空き地を左に曲がったところに、あかりが見えた。イタリア語の控えめなネオンサインが光っている。
「この店です。ちょっと歩かせてしまいましたね」
テーブルが五つほどのこぢんまりとした店である。品のいい初老の女がテーブルに案内してくれた。そう高価な店ではないらしく、隣はOLの四人連れだ。テーブルの上にはワインの瓶が並んでいる。女だけで割り勘で食べる時独得の、みんな寛いだ楽し気な表情である。
「ここの料理はコースになっていて、メインを選ぶ仕組みです」
高林がメニューを指して言った。
「東京はこういう店が増えましたね。アラカルトにしない分、材料のロスが少なくて安い値段に出来る。バブルの後はフランス料理店がすごい勢いでつぶれましたけれども、みんな材料に金をとられ過ぎたんです。フランス料理のアラカルトだと、客が注文しようとしまいと、フォアグラやトリュフ、デザートのチーズといったものをいつも用意しておかなければならなかった。だけど空輸したフォアグラなんかは傷みが早い。あれでみんなやられたんでしょうね」
「高林さん、随分詳しいのね」
「そりゃそうですよ。建物をつくる時、最初からレストランの店舗が入ってくることが多いですからね。いろんなことが耳に入ってきます」
二人がメニューを眺めている間、壁にひかえていた女が近づいてきた。
「今日はスズキのいいものが入っておりますけれども」
「じゃ、私はそれをグリルにしていただくわ」
「僕は肉にします。僕はここのレバーの煮込みが大好物なんですよ」
黒いワンピースに身を包み、カトリック系の女教師のような女はにっこりと微笑んだ。そしてかしこまりましたと退《さ》がっていった。
「奥でつくっているシェフは、どうもあの女性の息子らしい。もうひとり息子がいますけれど彼はソムリエをしています。もうじき出てくるでしょう」
「家族でやっている店って本当なのね」
「だけどここの店はうまいですよ。本場で修業してきた息子の夢をかなえるために、一家で協力しているっていう感じですね」
瑞枝ははっと息を呑《の》んだ。床においたバッグを探りあてようとした自分の左手が、白いリネンのテーブルクロスの下で、しっかりと高林によって握られていたからだ。
「今夜来てくれるとは思わなかった。本当にありがとう」
二人は壁を背にしていたから、手を握り合っていることは隣のOLたちの席からは見えない。けれども声を潜めたため、高林のそれはひどく掠《かす》れている。
「もしかしたら怒って来てくれないんじゃないかって考えたりしました」
「どうしてかしら。お返事はちゃんと出したじゃありませんか」
瑞枝は力を込めて、からめられた高林の指をはらいのけた。不意を衝《つ》かれたのか、瑞枝の指はすぐに高林の指から解放された。そのあっけなさが物足りないと思った。けれども瑞枝の指は、テーブルクロスの上できちんと組まれる。まるでもう捕らわれることはしまいと防御しているようにだ。
「だけど僕はずっと不安でした。男ってこういう時、不安でたまらなくなるんじゃないでしょうか」
「高林さんみたいな人が、不安になるなんておかしいわ」
「どうしてですか」
「だってメールでいつも言ってるじゃないの。建築家っていうのは、いつも前向きで未来を見ている職業だって。そういう人に不安なんてないんじゃないかしら」
「それはおかしな理屈ですね。僕は建築家である前に男ですからね……」
高林はそこで何か言いかけてやめた。もうひとりの息子、ソムリエをしている口髭《くちひげ》を生やした男がすぐそこに来ていたからだ。
「いらっしゃいませ」
低い声まで彼は母親とよく似ていた。彼が手渡してくれたメニューを子細《しさい》に眺め、高林はトスカーナの白を選び出した。
「でも私、そんなに飲めないわ。今日はすぐに帰って仕事をしなきゃいけないんです」
「そんなに最初から警戒しないでください。いつもの瑞枝さんでいてください」
男がすぐに瓶を持ってきたので、二人は話を再び中断して乾杯をした。
「今日は来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ、京都ではお世話になりました」
ワインはちょうどいい具合に冷えていて、瑞枝はあっという間にグラスの半分を飲み干していた。これから始まろうとすることの予感に喉《のど》がひどく渇いている。
「瑞枝さん、僕のことを何て図々しい男だと呆《あき》れているんでしょうね。僕も自分でことのなりゆきにびっくりしているんですよ」
それはゲームであった。すぐ隣のテーブルには、好奇心たっぷりといった年代の女たち四人が座り、近くの壁にはソムリエがいる。彼らにところどころ聞かれても構わない言葉を駆使し、男は瑞枝を口説こうとしているらしい。
前菜の盛り合わせが運ばれてきた。野菜のマリネ、ホワイトソースにからめたそら豆、生ハムなどがほんの少しずつ綺麗《きれい》に盛られていた。
「とてもおいしい」
瑞枝は言った。
口の中に入れた生ハムの塩味と、ワインのさわやかさとがとてもよく合った。
「高林さんは東京に来るたびに、おいしいレストランへよく行くのね」
「そんなことはない。仕事がたて込んでいる時は、そこいらの定食屋や牛丼屋に入ります。だけど今日は瑞枝さんと一緒だから、どこかいいレストランへと一生懸命探しました」
「まあ、ありがとう」
気づくと男が時々ナイフとフォークの手を休めてこちらを見ている。Eメールで瑞枝への気持ちを書いてからというもの、高林は驚くほど大胆になっている。図々しいといえば大層図々しいのであるが、指と同じようにそれを振り切るのは少々つまらぬような気もしてきた。だからこういう場合女がよくするように、瑞枝は自分のことを茶化してしまう。
「でもこんなに素敵なレストランに来るんだったら、もっと若い女の子との方がよかったんじゃないかしら。こんなおばさんとじゃ、申しわけないような気がするわ」
「そういう言い方って、瑞枝さんらしくないですよ」
高林の声は軽い怒りさえ含んでいる。
「あなたは自分に自信があり過ぎるものだから、そういう露悪的な言い方をしますけど、それってよくないと思います」
「あら、そんな……」
瑞枝は狼狽《ろうばい》のあまり、グラスをリネンの上に置いた。もっと軽い反応がくるものとばかり思っていたのだ。
「他の男だったら、きっと今までこう言ったはずだ。そこいらの若い女の子と一緒にいるよりも、あなたと食事している方が百倍も楽しいってね。あなたは何回もそういう男の言葉を聞いて、自尊心をとても満足させている。でも女の人だったら、鏡を見ればすぐにわかるはずでしょう。白雪姫の王妃みたいに、答えは鏡から聞いているはずですよ」
「それは高林さん、女のことを知らなさ過ぎるわ」
ワインの酔いが体の隅々までまわってきた。こうした時でなければするはずもない、男と女の妥協点のないくねくねとした議論が始まろうとしていた。結論が出るはずもない、後になってみると前戯のように思える議論だ。
「鏡はいつも同じ答えをくれるとは限らないわ。日によってはすごく自信を持たせてくれる時もあるし、ある時はものすごく落ち込む時もある。日によってはまるっきり違うものなのよ」
「じゃ、今日はどうなんですか。僕と会う時というのは、瑞枝さん、かなり自信に充《み》ちてきているんじゃないかな。あなたの態度にそれは表れていますよ」
「そんなことはないわ」
「あなたの心の内は読めますよ。妻子持ちの中年男が何かおかしなことを言っているってね。私ほどの女が、どうしてそんな男と一緒にいなくっちゃいけないんだろうかって」
瑞枝は思わず隣のテーブルに目をやった。若い女のひとりが何か言い、残りの三人がそれに対してどっと笑いころげている最中だった。
「そんなことはないわ……」
瑞枝はいくらか声を潜める。
「メールでも言ったはずよ。私は正直言ってとても嬉《うれ》しかったって。でも私たち……」
私たち≠ニ発音した後で、その言葉の重さに瑞枝はたじろいだ。もはや共犯者の態勢をとっているのと同じことではないか。
「先が見えているじゃありませんか」
「どういう先ですか」
「高林さんには家庭もあるし、私には子どもがいる。この先おつき合いしても、つらいことばかりだと思うわ」
「どうしてそんなことがわかるんですか」
「私はドラマ書きだから、最終回までちゃんとわかるんです」
高林は笑い出した。
「どんな最終回なんですか。話してください」
「二人ともさんざん苦しんだ揚げ句、男は家庭に戻るのよ。ドラマではたいていそうなるのよ」
「でも思い出は残るじゃないか」
高林の目に光が宿っている。女を歓喜させ同時に困惑させるあの強い光である。
「時代が変わって、金や家や別荘や、名誉を失くした人を僕はさんざん見てきた。だけど思い出だけは失うことのない唯一のものだと思わないかい。僕はこの頃、人間というのは思い出をつくるために生きているんじゃないかと考えているんだ」
「そのために悲しいめにあっても?」
「どうして悲しいめにあうと決めつけるのかな。瑞枝さんは暗いドラマを書き過ぎなんじゃないか」
「だからあんまり視聴率がパッとしないのかしら」
二人は何とはなしに笑い合った。
「でも私は、刹那《せつな》主義になりたくないの。刹那的に生きられるのは若い人だけの特権なの」
「刹那というのは、未来も過去も考えないことを言うんですよ。僕たちは違うじゃないか」
永遠に続くかと思われる堂々めぐりであった。けれども食事はメイン料理が終わり、デザートが運ばれようとしていた。
食事が終わった。髭《ひげ》のソムリエがやってきて、食後にいいカルヴァドスがあると勧めたが高林は断った。
「もう勘定をお願いします」
彼の性急さは、今まで流れていた時間のリズムを崩そうとするかのようであった。もうじき何かが起ころうとしていると瑞枝は思った。そんなことは誰にでもわかる。前菜のような男と女の会話が終わり、後は行動だけが残っているのだ。
ソムリエとその目線に送られ、二人は扉を押して外に出た。キラー通りに出る脇道は、右手が空き地、左手がクラシカルな様式をとるファッションメーカーのオフィスビルとなっている。窓にいくつかあかりがついているが人影はない。大手の建設会社の名を記した、空き地を覆う黄色のテントの前で高林は足を止めた。瑞枝の肩を抱く。そしてごくなめらかな動きで、瑞枝の顎《あご》を指で持ち上げ唇を押しつけてきた。彼の少量の唾液《だえき》と共に、今まで二人が共有した時間のなごりが流れ込んできた。赤と白のワインのにおい、パスタの中に入っていた大蒜《にんにく》のにおい、そしてデザートのカスタードクリームのにおい。気づくと目を閉じてそれを味わっている瑞枝がいる。こうなるのは自然なことなのかもしれないと、瑞枝の中の何かが静かに頷《うなず》いている。
「やめてください」
と瑞枝がつぶやいたのは、儀礼的なものだったと言ってもいい。高林もそれに気づいたようだ。
「どうしてですか……」
「人が来るかもしれないから」
別の答えはいくらでも口にすることが出来たのに、瑞枝のそれは男がいちばん欲する類《たぐい》のものになってしまった。
「それじゃ、人の絶対に来ないところへ行こう」
「そんなところがあるのかしら……」
「あるとも。僕の泊まっているホテルの部屋がそうだ」
「高林さん……」
ためらいは既に消えている。けれどもここで男の心に大きく刻まれる言葉は発さなければいけないと、瑞枝の女としての誇りが命じていた。けれどもうまい言葉が見つからない。
「私たち、そんなことをしていいのかしら。後できっと後悔することになると思う……」
「瑞枝さん」
高林は最後まで言わせなかった。
「もう僕から逃げないでください」
手を握る。さっきテーブルクロスの下で握ってきた時よりも、はるかに強い力であった。
「今僕はここであなたを逃したら、もう二度とあなたを手に入れることは出来ないと思う。僕は今夜|賭《か》けをしたのです。どうか僕を勝たせてください」
高林が泊まっているのは、紀尾井町《きおいちよう》にある巨大なホテルであった。東京の住居を引き揚げてからというもの、上京の際はいつもこのホテルを使っていると聞いたことがある。
午後の九時を過ぎたばかりのロビーは、まだ人の出入りが多く、奥のコーヒーハウスの入口には短い行列さえ出来ていた。エレベーターの前には白人の大柄な夫婦が立っていて、ベルボーイが先導しようとしていた。エレベーターに一緒に乗り込んだとたん、彼らの強い体臭に包まれた。香水も混じった獣じみたにおいの中、高林はもう一度瑞枝の手を握る。ここまで来ても安心出来ないという風にだ。
十四階で白人夫婦とベルボーイが降りた。17という数字がひとつ残され、パネルの中で光っている。やがて電子レンジとそっくり同じ音がしてエレベーターの扉が開いた。大股《おおまた》となった高林は右手へと行く。角をひとつ曲がり、二つ目のドアにカードキーを差し込む。一回めは赤いエラーランプが点滅し、二回めに緑色になった。厚いクリーム色のドアを彼は押す。
ごく普通のツインの部屋であった。それが高林の清潔さを表しているようだと瑞枝は思う。この部屋がもしかダブルの部屋だったり、もっと広いセミ・スイートのような部屋だとしたら、きっと自分は白けてしまったに違いない。そんな男と部屋を何回か見たことがある。衝動を装っているように見せかけて、連れていかれた部屋がスイートということはよくあることだ。おまけにテーブルの上にシャンパンとグラスが二つ置かれていたりしたら目もあてられない。
この部屋の小さな応接セットのソファの上に、高林の黒革のボストンバッグが置かれていた。きちんと閉まっていないから、白いシャツのようなものがはみ出ている。それも好ましかった。けれども瑞枝の観察もそこまでで、高林に後ろから抱きすくめられる。彼は喉元《のどもと》に手をやった。まるで瑞枝の頸動脈《けいどうみやく》を確かめるバンパイヤのように、指で撫《な》でそして唇を押しつけた。
「本当に来てくれたんだ……」
二人の三歩後ろには、昼間メイドによってきちんとメイキングされたベッドがある。高林は体の位置を変え、瑞枝をそこに誘導しようとした。
「ちょっと待って」
瑞枝は最後の要求を出した。このままベッドに倒れ込むなどというのは、若い男女にだけ許されることだ。三十八歳の瑞枝には、それなりの準備と点検が必要であった。
「バスを使わせて頂戴《ちようだい》」
何かが中断されたがそれは仕方ないことであった。
シャワーを勢いよく出しながら、瑞枝はふと日花里のことを思った。三年前の最後の情事の時には、これほど強くはっきりとは浮かんでこなかった娘の顔だ。
娘の父親と別れてからも、この体にひとりではない何人かの男性を迎え入れた。そしてもうひとり新たに瑞枝は男と関係を結ぼうとしている。しかもその男は日花里のことを知っているのだ。幼い彼女の頬を撫でたり、抱き上げたことさえある。その男と今から母親は結ばれようとしている。
罪悪感というものはなかったが、不思議だと思う感情はこみ上げてくる。どうしてよりにもよって、そんな男と自分とは寝ることになったのだろうか。運命という言葉は美し過ぎて今の瑞枝には信じる気にはなれない。ただ高林の言うとおり、逃れることは出来なかったのだと確かに思う。今、瑞枝のまわりでいちばん魅力がある男といえば高林であった。そしていちばん瑞枝を欲しているのも高林である。それが一致したのだ。
すべてのものを脱ぎ捨てた瑞枝は、今シャワーキャップを被《かぶ》ろうと鏡の前に立つ。髪を持ち上げようとした時、腋《わき》の下にうっすら揃い始めたむだ毛を見た。瑞枝は思わず苦笑いをする。
こんなことは今までしたことがない。男とホテルへ来たのに、腋毛を剃《そ》っていなかったなどという失策を瑞枝は犯したことがなかった。結婚していた頃、瑞枝は大金をかけて永久脱毛をしていたほどなのだ。あれから十年近い歳月が流れ、完全に電気分解処理されていたはずの腋の下に、ちらほらと毛が生えるようになった。そして瑞枝自身が自分の腋のことなど気にかけない女になっている。
こんな自分をそれでも高林は抱こうというのだろうか。
後悔はさせたくないと激しく思った。まだ彼に対する欲望は芽生えてはいない。けれども後悔はさせたくないと思う気持ちも情熱ならば、自分も既に彼を欲し始めているのかもしれなかった。
瑞枝はアメニティが入っている籠《かご》の中からカミソリを取り出した。二つ入っているからひとつ使ってもどうということはないだろう。石鹸《せつけん》をつけてそろそろと剃り始めた。こんなことはおととしの夏以来だ。とても滑稽《こつけい》な姿で自分でもおかしくなってくる。間違いなく三十八歳の女がそこに立っていた。
どうにか両腋を剃り終えた。熱い湯をかけすべての痕跡《こんせき》を消す。わずかに残っていた洗剤を洗い流そうとしたら乳房がぷるっと震えた。
母乳で娘を育てたというのに形は崩れていない。これで高林を喜ばせることが出来たらと瑞枝は娼婦《しようふ》のように、自分でそれを持ち上げて子細に観察する。
どうしようかと考えた結果、瑞枝は最後の下着だけをつけ、その上からバスタオルを巻きつけた。おぼこな娘ではあるまいし、きちんと衣服をつけてバスルームから出ていくのも白々しい。
部屋は既に電気が消され、ベッドサイドのほのかなランプだけが点《つ》いている。シーツが大きな山を描いて盛り上がっている。間違いなく大人の男が潜んでいるのだ。
瑞枝が近づいていくと、高林は右手で大きくシーツを持ち上げ、瑞枝を招き入れる。毛布は足元の方にずらしているので、軽いシーツが帆のように風をはらんだ。彼は上半身裸であった。抽象柄のトランクスが瑞枝の目に飛び込んでくる。まるで若い男のような下着だと思った。
瑞枝は就寝だけが目的のように、ためらいなくベッドに腰をおろし、四肢を伸ばした。ベッドの半分は、高林の体温を既に蓄えていたが、洗いたてのシーツが湯上がりの体に大層心地よい。一瞬間があったかと思うと、瑞枝は強い力で抱きすくめられ、唇を吸われる。今までの地面に垂直に立っていた時のキスと、寝床の上で男がおおいかぶさってくる時のキスでは、当然のことながら全く違っていた。唇に男の重みのすべてが込められているようであった。
「髪が……」
やがて唇を離した高林がささやく。
「髪が濡《ぬ》れているよ」
彼は狡猾《こうかつ》であった。髪を拭《ぬぐ》うふりをして瑞枝のバスタオルの結び目をするりとほどいた。瑞枝の乳房があらわになる。バスルームの鏡の前ではきちんとした大きさと張りを持っていたはずなのに、三十八歳の筋肉は瑞枝を裏切る。こうして横たわっていると、乳房がほとんど水平になってしまうのがわかる。幼女のようなかすかなふくらみの上に、瑞枝の年齢と母であることを示す果実のような乳首がある。それは男の唇を待ちかねてはっきりとした固さを持っていた。
「なんて素敵なんだ……」
高林の声が急に遠ざかる。身を起こして瑞枝の体を鑑賞しているからだ。
「イヤ」
瑞枝は腹のあたりで丸まっていたシーツの端をぐいとひき上げた。
「あかりを消して頂戴」
「どうして、こんなに綺麗《きれい》な体、もっと見せてよ」
男の声がまたすうっと近づいた。男の手で掬《すく》い上げられると乳房はまた、立っていた時の大きさを取り戻したようであった。最初はやさしく噛《か》まれ、最後はがりりと歯を立てられた。そしていささか早いと思われたが、高林は瑞枝の中に入ってきた。スタンダードのツインしか予約していなかった彼だが、避妊具はきちんと用意していた。
「僕は君にひとつ嘘をついていたかもしれない……」
すべてが終わった後、高林は瑞枝の髪の生えぎわをしきりになぞっている。
「昔の君には興味がないようなことばかり言っていたけれども、あれは実は嘘だ」
そんなことは初めて聞く意外なことのような気もするし、ずっと前から知っていたような気もする。
「最初は若くて可愛い女の子、っていう感じだった。正直言って、幸せいっぱいではしゃいでいるっていう感じだった」
「あなたも、初めて会った頃、とてもとっつきにくい感じだったわ」
「仕方ないさ、あの頃はコンペも片っぱしからうまくいって僕の得意絶頂の頃だから」
ベッドの上で二人はいつの間にか、回顧という行為を始めていた。
「最初に君のことを綺麗だなあと思ったのは、日花里ちゃんがお腹の中にいた時だ」
「まさか、嘘でしょう」
孕《はら》んでいる女に男が興味を持つなどとは、考えたこともなかった。
「本当だよ。秋の頃かな、皆で箱根へ遊びに行った時のことだ。皆はゴルフに出かけたけれども、君はチャコールグレイのワンピースを着てテラスに座っていた。ちょっと目立ち始めたお腹を庇《かば》うようにして椅子に座っていた。あの時の君はスケッチしたいぐらい綺麗だった」
「あの時のことね。箱根へ行ったのは憶《おぼ》えているけれども、どんな服を着ていたかまでは憶えていないわ」
「僕は憶えているとも」
高林はきっぱりと言った。彼の指は次第に下がっていき、瑞枝の唇に触れた。まるで言葉を封じるかのようだ。
「その次に君を強く意識したのは、パーティーの夜だ。憶えているかな、南条さんの新築パーティーだった。君は何か思いつめたような顔をして、どこかへ連れていってくれと言った。そして二人で代官山の小さなバーへ行った」
「そのことは、はっきりと憶えてる……」
高林の指が邪魔して、くぐもった声になった。
「郡司が女と抱きあっているのを見たのよ。パーティーの最中、二階で二人でキスをしていたわ。いろんなことがあったけれど、現場を見たのは初めてだった」
「わかってたよ……」
「ねえ、高林さん」
瑞枝は自分の指で、高林の指をどかした。
「私もずうっと自分に嘘をついてた。私は離婚をしたんじゃない。夫に裏切られて捨てられただけなのよ。私はずっとそのことで傷ついていた。とても、とてもね……」
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第十話 回想その3 一九九〇年
十月三日に東西ベルリンの壁が崩れた。テレビは朝から晩までこのニュースを流している。
「ほら、俺の言ったとおりになったじゃないか」
郡司は勝ち誇ったように言ったものだが、瑞枝にはそんな記憶が全くなかった。
「二人でヨーロッパへ行った時さ、ドイツへも行こうかどうかって相談した時にさ、俺が言ったはずだよ。もうじき東西の壁が無くなるんだから、その後でもいいよって。ヨーロッパも世界ももっと面白《おもしろ》いことになるって」
「そうだったかしら……」
瑞枝の反応が気に食わなかったのか、郡司はぷいと立ち上がった。このところ必ず毎朝飲んでいる野菜ジュースも半分残したままだ。郡司の仲間うちで、かつての「紅茶キノコ」のような熱狂をもって、この野菜ジュースはもてはやされている。なんでも有名な医学博士が考案したもので、有機農法でつくられた大根、大根の葉、ニンジン、ゴボウなどを充分煮出すのだ。これによってガン予防になるばかりか、体質が別人のように改善されるということで郡司は知り合いから勧められ、熱心に飲むようになった。
ジュースをつくるのは当然瑞枝の役割となった。三日おきにつくってはガラスの瓶に入れて冷やしておくのだ。このところ肥満を気にし始めた郡司は、朝食にこのジュースとトーストだけをとる。
「いってらっしゃい」
日花里に離乳食を食べさせている瑞枝は、座ったまま声だけかけた。
「今日も遅いわよね」
「ああ……」
赤地にイチョウの柄を織り出した、エルメスのネクタイをいじりながら郡司は答えた。先週の金曜日もこのネクタイを締めていたはずだと瑞枝は思った。おそらく今夜、このネクタイをプレゼントしてくれた女に会うに違いない。夫の密会場所はわかっている。二年前青山に会員制のスポーツクラブが出来た。入会金が一千万円、年会費が百五十万円という金額はスポーツクラブが乱立している折も、やはり世間を驚かせた。スポーツクラブといっても、中にレストランやバーも完備しているうえに、二十室ほどの贅沢《ぜいたく》なホテルがある。郡司はどうやらこの部屋を使っているらしい。瑞枝も家族会員になっているのであるが、ある時から妻が来るのを好まなくなった。小さな子どもをベビーシッターに預けて、何も運動をすることはないと言うのだ。
ある日クラブからの請求書を見つけた。クラブでのマッサージ代、レストランの飲食代と共に、ホテル一泊分の料金がつけ加えられていた。
二人はどうやらシャンパンを飲んだらしい。チーズの盛り合わせというのも、明細書につけ加えられていた。
おそらく相手は谷沢祥子だろうと瑞枝は見当をつけている。今までのようにホステスやモデルだったら、郡司はそこいらのシティホテルを使ったはずだ。秘密を守れるクラブのホテルを利用しているからには、かなり用心を必要とする相手だろう。
美術品と家具の販売とアドバイスのための会社を、祥子と共同経営するという話がどこまで進んでいるのか瑞枝にはわからない。最近いろんな女性誌に、祥子は美術コーディネイター、あるいは経営コンサルタントといった肩書きで登場してくる。バレンティノのスーツを完璧《かんぺき》に着こなし、外国生活の証《あかし》のような長く美しい脚を優雅に組んで、インタビューに答える彼女が陰で「高級|娼婦《しようふ》」と呼ばれていることをいったいマスコミの何人が知っているだろうか。全く彼女にまつわる噂をすべて教えてやりたいぐらいだ。彼女はヨーロッパ各地の大学で美術を専攻したことになっているが、実は二十二、三の頃ローマで愛人生活をおくっていた。相手は信じられないほど肥満した、祖父ほどの年齢だったという。その後、日本に帰ってからも関係を結んだ男は何十人となるだろう。中には大物の政治家や官僚、財界人たちがいる。どれも老人ばかりで、郡司のような三十代の男は珍しい。だから深みにはまってしまったのではないかとまわりでは噂をしているようだ。
これは広告プロダクションに勤める知人が教えてくれた、彼女にまつわる逸話であるが、三年前|老舗《しにせ》の薬品メーカーがフランスの古城でCMロケをすることになった。そこにどういうわけか祥子が口をはさんできたのだ。彼女はどうやらそこのメーカーの社長と寝たばかりらしかった。広告部門のアドバイザーという肩書きで、彼女はある日突然スタッフを指揮し始めたのである。彼女はこんなことを言ったという。フランスの上流社会というのは、とても敷居が高い。日本から来たコーディネイターごときでは相手にしてくれないだろう。自分は留学以来、あちらの世間にはとても顔が広いのだ。もっといい城を見つけてやることも出来るし、そこの持ち主とも知り合いである。日本のスタッフだけでは心もとないので、ぜひフランスに行ってくれるようにと社長から頼まれた。ここはすべて私に任せるようにと祥子は言ったという。
ところが彼女が見つけてきたのは、フランスで最もみすぼらしく小さな城で、スタッフたちは大慌てで元の場所に戻らなければならなかった。が、彼らを驚かせたのは帰国後のことで、祥子は「企画・コーディネイト料金」として、四百万を要求してきたというのだ。
「ああいう女が活躍できるのも、日本が豊かになった証拠ですよ」
と高林は以前言ったことがある。けれども瑞枝は祥子の、やたら強調したウエストのくびれや、銀色に塗られたマニキュアを思い出すたびに身震いしたいほどの嫌悪感がこみ上げてくる。水商売の女性たちならまだ我慢出来た。彼女たちは表にしゃしゃり出てくることはない。それなのに祥子といったらどうだろう。ヨーロッパの文化を伝える知的な女ということで、瑞枝のめくる雑誌の中にまで侵入してきているのだ。
「日本人の方にはまだ理解出来ていない、夜の服装についてお教えしましょう。ヨーロッパではラメやスパンコールの入ったものは、原則として夜着るものとされています……」
そんな文章の横に、大きく祥子の写真が載っている。年齢よりもずっと若く見える彼女であるが、目尻《めじり》の皺《しわ》が気になるのだろうか、不自然なほどのソフトフォーカスで撮っていた。ああ嫌だ、どうしてこんなものを目にしてしまったんだろうかと、瑞枝は乱暴にページを閉じた。
それにしても何という世の中だろうかと思う。エッセイスト、何とかコーディネイター、何とかコンサルタントという怪し気な肩書きをつけた女たちがマスコミの世界を跋扈《ばつこ》している。特に祥子のように、海外で勉強してきたという女たちの経歴ときたら、たいていは眉《まゆ》つばものだという。
彼女たちは一様に「帰国子女メイク」と呼ばれる濃いあくどい化粧をしている。けれども普通の女たちは、彼女たちのとなえる「ヨーロッパでは」「アメリカでは」という言葉を憧憬《どうけい》をもって耳を傾けるのだ。
瑞枝はふと自分もあのまま仕事を続けていたらと考えることもある。フリーライターの仲間で、最近少女小説に転向した者が何人かいるのだ。とにかく文章さえ書ければいいと、ライターや作詞家の中から若い女がかき集められた時がある。全く小説など書いたことがない者たちだったが、出版社側の言うとおりやってみたという。瑞枝も一度、知り合いから送られてきたものを一冊読んだことがあるが、改行ばかりでページ半分は空白であった。彼女にも「桜木ななこ」という顔が赤らむようなペンネームがつけられていた。とても小説とは呼べないような内容だったが、文庫といっても二十万、三十万売れたらしい。彼女は最近|世田谷《せたがや》に三LDKのマンションを買ったという。これほど安易に本が出せる時代ならば、自分とても仕事を続けていたら著者という立場になったかもしれない。瑞枝は最近ようやく気づいた。玉の輿《こし》と人は羨望《せんぼう》を込めて言ったが、その陰には軽い侮蔑《ぶべつ》がいつも潜んでいることをだ。
瑞枝はシンデレラ物語のヒロインとして、もはや伝説中の人物となりつつある。フリーライターをしていた頃の友人が、こんな噂話をしてくれた。仲間のひとりが先日、漫画家と婚約したばかりだというのだ。
「ヒロ・大竹っていうのよ。知っているでしょう」
彼の名前は知らなかったが、書いている漫画には憶《おぼ》えがあった。話題になっている少年漫画で、プロレスの世界を舞台にしているものである。その漫画は一巻ごとに二百万部売れ、ヒロ・大竹という男は、この何年か漫画家長者番付のベスト3に入っているという。彼は今年四十二歳になるが、若い貧乏時代に女房に逃げられて以来、ずうっと独身を通していたという。それが取材に来た二十代の契約社員の女にひと目|惚《ぼ》れしたのだ。
「彼女さ、このあいだ講談社のパーティーにやってきたのよ。すごいエンゲージリングしていてね、あんな大きなダイヤ、見たことないわ。ウズラの卵みたいなのよ。あのコもね、指が重くってもう原稿を書くのが大変で、大変で、なんて言うのよ。私たちもう口をあんぐりしちゃったわ」
彼女は途中で瑞枝の不快そうな表情に気づいたようだ。
「郡司さんはヒロ・大竹とは違うわよ。漫画家は浮き沈みがあるけども、郡司さんはちゃんとした実業家だもの。あなたは一生安泰よ」
瑞枝は身に浸《し》みてわかったことであるが、金持ちの男と結婚した女には、ずうっとさまざまな風聞がついてまわる。そして最後にこう締めくくられるのだ。
「本当に運がいいのよ、本当にうまいことやったんだから」
やがて瑞枝は少しずつ、元の社会から押し出されていく。おそらくその億万長者の漫画家と結婚した女も、孤独を知っていくだろう。金を持っている男というのは、原則的に妻が働くことを好まないものである。彼らの理想は、美しく着飾りきちんと化粧した妻が、やや不満気な表情で常に待っていてくれることだ。最初の頃、いろんな場所に瑞枝を連れまわしていた郡司であるが、日花里が生まれてからというもの、家の中に居ることを望むようになった。
もちろんこれはそう不幸なこととは言えない。娘は可愛らしかったし、ベビーシッターに預けさえすれば、瑞枝はいつでも買物や食事に出かけられるという自由と贅沢《ぜいたく》さは確保されていた。けれどもそれは、郡司の浮気を知るまでだ。特に祥子の出現は思いのほか瑞枝を打ちのめした。
「あなたは私みたいな平凡な女と結婚することはなかったんじゃないの」
思わず口に出して言ったことがある。
「でもね、私をこういう女にしたのはあなたよ。私はただあなたの望むとおりの女になっていっただけなのよ」
瑞枝は郡司の前妻に会ったことがない。けれどもいろんな噂は嫌でも耳に入ってくる。郡司は常々公言しているとおり器量好みだ。美しくない女など何の価値もないとはっきりと言ったことがある。従って彼の妻も大層|綺麗《きれい》な女だったようだ。
「もしかすると、瑞枝さんよりもあちらの方が美人だったかもしれない」
ある時酔った友人が、こんな失言をしたことさえある。郡司が赤坂の不動産屋の若|旦那《だんな》をしている頃に、部屋を探しに来た女子大生にひと目惚れをしたというのだ。若くして成功を手に入れた彼に「糟糠《そうこう》の妻」という言葉はふさわしくない。けれども彼の前妻というのは茨城の地主の娘で、郡司の独立に関してはかなりの援助があったという話だ。
裕福に育った彼女は、すぐに派手《はで》な金の使い方を憶え、郡司も少々|辟易《へきえき》していたという。子どもが欲しいという彼の欲求にも耳を貸さず、しばらくイタリアで暮らしてみたいなどと言い出したらしい。これにはさすがの郡司も怒ったそうだ。
そういう話を聞くと、瑞枝は自分が選ばれた理由がひどくつまらぬものに思えてくる。もしかすると郡司は、自分のことを家庭的な従順な女とでも考えていたのではないか。すぐに子どもをつくり、巣づくりを楽しむ女。適当な贅沢を与えていれば、それに満足しておとなしく夫を待っている女に見えたのかもしれぬ。
瑞枝は思う。自分はひょっとして妻というとても損な役まわりを与えられたのかもしれないのではないだろうか。いちばん得をしているように見えて、実は男の愛情と興味がいちばん薄れる場所に座らされたのではないだろうか。
そして郡司がどんな女を求めていくかというと、祥子のような華やかなあくの強い女なのだ。世間の評価がどうであれ、郡司は彼女に夢中になっている。彼女のために皆に反対されても別会社をつくろうとしているほどなのだ。
女性雑誌に載っていた祥子のコメントがこんな時にまた不意に浮かんでくる。
「ヨーロッパの上流社会の女性たちは、安っぽい女に見られることを何よりも嫌います。最初のデイトの仕方、男性への電話のかけ方、プレゼントの受け取り方など、今でも驚くほどたくさんのルールがあるのです……」
口で言っていることと、行動していることとが全く正反対の女と、瑞枝はつぶやいてみる。そしてその嫉妬《しつと》が、決して純粋でないことに気づく。三年前だったらこんなことはなかった。娘を得た今、その嫉妬の中には多くの功利的なものが含まれるようになっているのである。
別れる時、前の女房に二億円払ったと郡司は豪語しているが、実際はその四分の一ぐらいであったと瑞枝は他から聞いたことがある。今どき五千万円といったら、郊外の小さなマンションも買うことが出来ないであろう。郡司に新しい女が現れ、いや、とっくに何人も出現しているのであるが、結婚したいほどの女が現れたら、自分と日花里とはどうなるのか。五千万円の慰謝料で捨てられるのか。郡司は娘を大層可愛がっているのでかなり手厚いことをしてくれるはずだが、瑞枝は今までの生活をすっかり捨てることになる。
夫名義のゴールドのクレジットカードを好きなだけ使える生活は、決して瑞枝が望んだものではない。いつのまにか与えられたものだと主張したところで、拒否しないということは要求したことになる。何よりもそれが嫌いかと問われれば、瑞枝は否と答えることになるだろう。その気持ちを深くつき詰めていけばいくほど、瑞枝は自分の心の中に不純なものを感じる。金持ちの男と結婚した女というのは、ずうっとこの不純さにつきまとわれ、悩まされるに違いない。男がもし貧しかったら、自分は本当に結婚したのか、今の男を本当に心から愛しているのかと自問自答する。夫が不誠実だったらなおさらだ。瑞枝は夫に対して決して寛大なわけではない。何度か問い詰めたことさえある。けれども心の中には、現場を見たわけでもなく、大きな証拠をつかんだわけでもないと言いわけする、だらしない自分がいた。
それでは南条の新築パーティーで、抱き合っている二人はどうだったのか、あれは現場を見たと言えるのではないか。が、郡司はきっとこう答えるはずだ。
祥子さんは外国暮らしの長かった人だ。キスなんてああいう人たちにとってほんの挨拶《あいさつ》替わりなんだ。僕だって男だからね、酔っぱらった時にふざけてそのくらいのことをすることはあるよ……。
瑞枝の中でこんな言いわけを組み立て、自分に答えていた。この三年間こんなことばかりしていたような気がする。夫をとことん責めることをせず、自分で自分の好みの答えをつくり出しては慰撫《いぶ》しているのだ。そしてやはりこれは不純というものであり、世間の人々は鋭くこれを察知している。だから瑞枝を含め金持ちの女に対し、人々は軽い侮蔑《ぶべつ》を言葉の端々に含ませるのである。
瑞枝は最近昔の仲間とはほとんどつき合わず、郡司のまわりにたむろする人間の中から、自分によく似た女と仲よくするようになった。女優の諸山玲子《もろやまれいこ》もそのひとりだ。彼女は大金持ちの歯科医と結婚し、ほぼ引退状態となっていた。
女優と結婚する歯科医が、普通の勤務医であるわけもなく、多分にいかがわしさと金を持ち合わせていた。彼の家は代々大きな病院を営んでいるのであるが、さほど成績のよくなかった彼は、やっとのことで三流の歯科大にもぐり込んだ。彼の父親は次男である彼のために、赤坂の一等地に豪華なクリニックを建ててやり、瑞枝も治療してもらったことがある。
有名人がやたら好きなことを除けば親切な陽気な男であるが、以前夫婦で揃いの豹《ひよう》の毛皮のコートを着て現れ、瑞枝をぎょっとさせたことがある。
二人の間には子どもがなく、玲子は暇をもて余しているらしい。よく瑞枝を誘い出した。
その日二人が食事をしていたところは、西麻布の「ウォール」の五階にあるイタリアンレストランである。一時期のカフェ・バー・ブームも去り、交通の便の悪い西麻布はややさびれかけているという評判であった。そこに巨大な煉瓦《れんが》づくりのビルが誕生したのである。ニューヨークの高級ディスコによく見られるような、男ぶりのいいドアマンがビルの前に立ち、客をチェックすることで一躍有名になった。
最近は会員制のクラブが大流行で、青山のレストランの二階には、会員だけが集うプール・バーや図書室のある隠れ家のような店がある。この「ウォール」も厳選した会員システムをとっており、会員だけが中のサロンを使える仕組みだ。玲子の夫もここの会員となっているので、あとで行ってみようと彼女は言った。
「ここの会員になるのはむずかしいから、芸能人も大物ばかりよ。このあいだも――」
玲子はそう声を潜めることなく喋《しやべ》り始めた。テレビ中継をやるような豪勢な式を挙げたばかりの芸能人夫婦が、サロンで誕生日パーティーをしていたという。
「ねえ、もう一本ワインを頼まない。今日は大丈夫でしょう」
「日花里のベビーシッターさんには、十時までって言ってるけれども、電話をしておけばどうということないわ」
「じゃ、赤をもう一本頼もうよ」
窓際のテーブルで食事をしていた四人連れが立ち上がった。その中の女に見憶《みおぼ》えがある。この「ウォール」をプロデュースしている会社の女社長であった。塚本ジューンといって、有名な写真家|篠山紀信《しのやまきしん》の前妻である。息を呑《の》むような華やかな美貌《びぼう》は、トップモデルとして活躍していた頃と少しも変わりない。けれども彼女は持ち前の聡明さで、幾つものディスコやレストランを次々と成功させ、大変なやり手という評価を得ていた。この東京の夜を操る女王のひとりである。
「相変わらず綺麗《きれい》ねえ……」
玲子がため息をついた。
「どうしたら、あんなにいつまでも綺麗でいられるのかしら」
「やっぱりばりばり働いているのがいいんじゃない。緊張感っていうのがあるのよ」
「そんなこと言ったら、瑞枝ちゃんや私はすぐに老けちゃうってことかしら」
玲子は口をとがらせた。瑞枝よりも三つ齢上《としうえ》であるから今年三十三歳になるはずだが、目のまわりの皮膚は全くたるんでいない。女優の現役時代、一、二度整形手術をしたと噂で聞いたことがある。もしかするとごく最近も手入れをしたのかもしれない。玲子の住む赤坂には、アメリカ帰りの凄腕《すごうで》の美容整形医がいるという話だ。金持ちの女や芸能人たちが連日押しかけているという。
「私もね、この頃ちょっと仕事をしたいと思ってるの」
「ドラマに出るの」
「とんでもないわ。もう若い子たちの時代で、私なんかせいぜい脇のちょい役よ。そうかといってなまじ名前も知られているからプロデューサーたちも使いづらいと思うの」
玲子はこういう種類の女にしては珍しく、自分のことを冷静に見ることが出来る。瑞枝の気に入ってる点だ。
「『同・級・生』みたいなこの頃のトレンディドラマっていうやつに、もう私みたいなオバさんはお呼びじゃないわよ。私ね、着物雑誌のモデルなんかは今でもやりたいと思っているんだけど、パパがいい顔をしないのよ」
彼女は子どもがいないのに、同い齢の夫のことをパパと呼ぶ。
「外で遊ぶのは構わないけれども、仕事をされるのは嫌みたいなのね」
「うちのもそうよ。自分の女房にライターなんかさせたくないって」
「あら、面白《おもしろ》そうな仕事じゃないのねえ」
「いろんなところへ行って、頭を下げて記事をまとめてくる仕事なんか下品だって。彼とはそれで知り合ったんだけどね」
そこへ注文した赤ワインが運ばれてきた。デキャンタに移したいというソムリエを玲子は制した。
「それほどのものじゃないからいいわ。すぐに飲みたいから注いで頂戴《ちようだい》」
ソムリエはやや不満そうに栓を抜き始めた。常連でなければ出来ないような傲慢《ごうまん》な態度で、玲子はテイスティングをする。その美しいしぐさには女優の驕慢《きようまん》さも含まれていた。
「ねえ、玲子ちゃん」
瑞枝は問うてみた。
「ドラマをつくるってむずかしいのかしら。脚本を書くってどうなの」
「脚本家なんて簡単になれるわよ」
あら、不味《まず》いワインと吐き捨てるように玲子は言った。
「このあいだ飲んだ時は結構いけて、名前を憶えていたのにね……。そう、脚本家よね、そりゃあひどいのがいるわよ。もう私が手直しして自分のセリフで言いたいって思う時もしょっちゅうよ」
「そうなの……」
「まあチャンスさえあれば、プロデューサーに気に入られて単発で一、二本書くなんてことは簡単なんじゃないの。問題はその後ね。ドラマっていうのは視聴率っていう化け物がついてまわるから、それをコンスタントにとらなきゃいけない」
「それじゃ、橋田|寿賀子《すがこ》なんて大変な人なんだ。おしん≠ネんか五〇パーセント近くいったんでしょう」
「あんな大物になるのなんか特別の人よ。ひょっとして瑞枝ちゃん、脚本家になりたいの」
「私の夢っていうやつよ」
瑞枝は少し後悔した。女優というプロの世界にいた人間にとってみれば、なんとも甘っちょろい願望に思えるだろう。
「日花里の手が離れたら、シナリオの勉強をしたいって考えることがあるの。昔から映画は好きだったし、書くことをもうちょっと形にしてみたいなあって思ってるのよ。でもこれ、もちろん夢よ、夢よ。夫が許してくれるはずないものね」
「おたくのグンちゃんも、いろいろ我儘《わがまま》そうだから……」
玲子は後の言葉を濁した。この頃こういうことが多い。郡司の噂を始め、何か言いかけた後、人は言葉を呑《の》み込むようにするのだ。うっかりしたことは言えないと、舌と体が身構えてしまうらしい。それは女のことだったかもしれないし、やや翳《かげ》りを見せ始めた郡司の会社のことかもしれない。いずれにしても、夫に関して瑞枝よりも世間の方がずっと詳しいのは確かなことなのである。
「それよりも例のパーティーに行くんでしょう」
玲子はとってつけたように話を変えた。パーティーというのは、パリの有名ブランドが主催するデザイナーのお披露目会である。大切な顧客である日本に向けて、デザイナーが交替したことの挨拶《あいさつ》をしたいというのだ。
今から三年前のこと、やはりフランスの化粧品メーカーが、新しい香水の披露パーティーをバンコクのオリエンタルホテルで開いたことがある。日本から有名人や編集者二百人を招待し、チャーターした飛行機で連れていった。イブニングドレス、ブラックタイ着用の南国の夜の豪華さは今でも語りぐさになっている。今度のパーティーは、どうやらあの大夜会に対抗するつもりらしい。
「ぜひパーティーに出て頂戴って、ユキさんから何度も電話がかかってくるわ。彼女ものすごい張り切りようなのよ」
黒岩ユキは玲子と瑞枝の共通の友人である。いや、華やいだ場所にいる女だったら誰でもユキのことを知っているに違いない。彼女はPR会社の女社長をしている。ヨーロッパのブランドが日本進出する際、その会社の宣伝、広報関係を請け負うのだ。人脈が何よりもものを言う世界であるから、大きな広告代理店などではなく、ユキのような小まわりがきく人間が活躍することになる。
ユキは三十代半ばといったところだろうか、スポーツで鍛え抜かれた全く隙のない体と、アイラインをくっきり入れたいわゆる「帰国子女メイク」とが年齢不詳の雰囲気を漂わせている。ユキもパリ大学卒業、フィレンツェに留学といった経歴を持つが、こちらの方は祥子と違ってうさんくさい目で見られることはない。明治の元勲《げんくん》を曾祖父《そうそふ》に持ち、母親は有名な翻訳家である。ユキはごく若い頃、フランス人と結婚して子どもをひとりつくったが、すぐに別れてしまった。けれどもそれも、
「いかにもお嬢さんがやりそうなやんちゃな過去」
ということで好意的に見られている。
とにかくユキは、マスコミや有名人の間に多大な力を持ち、最近話題となったパーティーを幾つか仕切っている。おそらく今度のデザイナーお披露目、初来日を祝う会も盛大なものになるだろう。
「やっぱりあそこのドレスを着なきゃまずいんだろうかって、皆が言ってるわ。だけどね、一回きりのパーティーで、二百万も三百万もするオートクチュールをつくるのもどうかと思うわ。それにもう時間がないから、私は昔のものを着るか、プレタで間に合わせようと思っているけれども、瑞枝ちゃんはどうするつもり……」
が、瑞枝の頭の中には着ていく衣装のことなどなかった。おそらくそのパーティーには祥子も来るに違いない。大きなものは大使館主催のレセプションから、小さなものは個人の新築パーティーまで、小まめに顔を出す祥子のことである。今年の東京の夜会を代表するような、派手派手《はではで》しい席に来ないことはまずないだろう。
彼女と会うのは、あの南条の家でのパーティー以来だ。夫と抱き合ってキスをしているところを瑞枝は見た。けれども二人はそのことには気づいていないはずだ。祥子は瑞枝と出会いさえすれば、何の屈託もなく近づいてくるだろう。他人の夫を奪った女独得の明るさ、図々しさ、そして居直りが彼女を多弁にするはずだ。瑞枝はそれに耐えられそうもなかった。
「私、たぶんあのパーティーにはいかないと思うわ」
瑞枝はワイングラスの柄を、中指でコツコツとはじく。玲子とは仲がよかったが、郡司の不貞を打ち明けるつもりはなかった。玲子が全く何も知らない人間であったら、夫と祥子とのことを話したかもしれない。
「まあ、そうだったの。そんなことがあったの。信じられないわ」
他人の驚きと憤《いきどお》りの表情というのは、意外なほどこちらの心を癒《いや》してくれるものである。けれども夫と祥子とのことは、もはや周知の事実といってもいい。二人はこれから美術関係のニュービジネスを始めるパートナーなどと言っているようであるが、そんなことを信じている者はほとんどいないだろう。郡司の女好きも、祥子の不行跡もあまりにも広く世間に知られていた。もし瑞枝が夫のことを相談しようとしたならば、玲子の顔にはやはり≠ニいう表情が走るだろう。手ごたえを得た喜びも生まれるはずで、そんなものを見たら瑞枝は目の前の女友だちを憎むはずであった。
「ここのところ、娘をうちにおいてまで派手な場所に行くのがとても億劫《おつくう》になっているのよ。玲子ちゃんなんかとごはんを食べたりするのは楽しいんだけど、あまり人の多いところは苦手になっちゃったのよ」
「駄目よ、そんなこと言っちゃ」
玲子は外国人がするように、ひとさし指を立てチッチッと左右に振った。
「私もね、そんな時があったの。パーティーに出るのがめんどうくさくなったのよ。ドレス選んで、美容院行ったりするのが急にかったるくなったの。そうしたらパパからすごく注意されたわ。そういうのが嫌になったら、女はすぐに老けちゃうんだって。パーティーに出ていく心の張りが、女を綺麗《きれい》にするんだって。パーティーは祝ってやる他人のためなんかじゃない、実は君自身のためにあるんだよって言われて、私なるほどなあって思ったわ」
瑞枝は、この東京で夜な夜な繰り拡げられる多くのパーティーのことをふと考えた。うちに届けられる招待状だけでもかなりの数がある。郡司の会社宛に来るものを入れたら凄《すさ》まじい数になるだろう。新しいディスコやレストランの披露パーティー、出版パーティー、映画の完成パーティー、格別の理由はなく、ピンクシャンパンを飲む会、ペトリュスを飲む会というものもあった。有楽町のフレンチレストランで開かれた、トリュフを存分に楽しむディナーというのに郡司と出席したばかりでもある。フランスから空輸したトリュフを使っての美食の集いということで、まず手元のパンを割ると、中に黒々とした艶《つや》を持った見事なトリュフが丸のまま入っていた。皆、何か急ぐように夜な夜な集うのが最近の都会の風習である。
驚いたことに、次の日ユキから電話がかかってきた。
「ねえ、玲子さんから聞いたんだけど……」
三ヶ国語を自由に操る彼女は、かなり早口である。
「来週のパーティー、出席してくれないって本当なの」
「ええ、どうしようかと思っているのよ。とても派手なパーティーみたいで着ていくものもないし……」
「駄目よ、駄目。そんなの困るわ」
叱りつけるような口調である。
「瑞枝さんはあの店の大切なお得意さんですもの、絶対にいらして頂戴《ちようだい》。そりゃね、芸能人の方もいっぱい来てくださって、あそこのドレス着てくれるわ。でもご存知だと思うけど、あれはほとんど貸し出しよ。それで今、プレスはてんやわんやですって。みんな新作のいいのを着たがるから」
「そうなの……」
「ドレス着てわざわざ来てくれる人に失礼だけれども、中にはどうも着こなしていない人も多いわよね。だからこそ瑞枝さんみたいに、ご自分で何着も持っているお得意さんに来て欲しいのよ」
なめらかな口調であるが、相手に嫌と言わせぬ強引さがある。たいていの人間は、ユキの背景に対する畏怖《いふ》の念と、彼女と友人であることの誇りを捨てたくないために、言われたことを承諾してしまうのだ。
「でもね、着ていくものがないのよ」
「瑞枝さん、昨年あそこのソワレ買ったじゃないの。裾《すそ》にビーズがたっぷりついているやつよ。あれ、とても素敵だったわ」
女というのは、他人の衣装を自分のもの以上に把握しているものだ。ユキもめざとくどこかで見ていたらしい。
「あら、それじゃなおさらだわ。昨年のドレス、ユキさんまで憶《おぼ》えてるなんて。ますます着ていけなくなっちゃう」
「大丈夫よ。今年もあそこはとてもよく似たラインを出しているのよ。それに私みたいに広告の仕事をしているから、すぐにピンと来るだけで、パーティーに来ている人たちにそんなことわかりゃしないわ」
「でもね、そこに来る人っていったら、目の高い人ばかりでしょう。やっぱりね……」
愚図っているうちに、いつのまにか今年のプレタポルテを買うことになってしまった。ユキはプレスの方にかけ合って、幾らか値引きさせると約束してくれた。既製服といってもイブニングとなればかなりの金額となるはずだったが、それは構わないと思った。いつのまにか瑞枝の中で、祥子と立ち向かう決意が芽生えている。派手にふるまってはいるが、内実は苦しいというのが祥子の評判だ。新しいドレスなど着てこられるはずはなかった。
ところがその日の朝になって、郡司が自分も行くと言い出した。
「どうせ招待者の名前は、夫婦連名になっているんだろう」
「だけど今夜は大切な接待があると言ってなかったっけ」
「そっちへ出ようと思ったけど、村田さんたちも今夜パーティーに行くって言ってるからさ。何かやたら派手で面白《おもしろ》そうっていう話だよ」
それに女優やタレントもいっぱい来るっていうから楽しみだな、と郡司はつけ加えた。自分の女好きという習癖を、こんなふうに一般的なジョークにする時は、彼に後ろめたいことがないという証拠である。瑞枝は夫と二人連れで出かけるパーティーのことを想像する。今夜は絶対に離れ離れにならないつもりだ。最近腹のあたりに目立つ肉がついたというものの、着慣れているせいか夫のタキシード姿はそう悪くない。それに寄り添う妻の自分は、高価な新作のイブニングドレスを着ている。誰が見ても若くして成功し、すべてを手に入れた輝かしい夫婦に見えることであろう。そこには祥子が寄ってくる隙などありはしない。もし今夜、彼女に敗北感を味わわせることが出来るならば、瑞枝は何でもするつもりであった。
「じゃあ、五時までには戻ってきて頂戴。三田《みた》の三井|倶楽部《クラブ》だから、夕方車が混むかもしれないわ」
「わかった。じゃタキシード出しといてくれよ。このあいだつくったやつ」
郡司とその仲間たちのFl熱はずっと続いていて、今年はモナコまで見物に出かけた。信じられないような金を遣って、クルーザーを予約したのである。その後、どういう心境だったのか、郡司はロンドンへ寄り有名なテーラーでタキシードを注文してきた。しかも三着いっぺんにだ。そのタキシードがやっとのことでロンドンから届いたばかりなのである。約束の期日を過ぎても何の連絡もなく、郡司は会社のファックスを使ったり、国際電話を秘書にかけさせたりしていたらしい。おそらく今日のパーティーに出かけようと思い立ったのは、新しいタキシードを着てみたいという気持ちがあったからだろう。
このところ郡司の衣装道楽はますます度を越してきた。七メートルはあるクローゼットが、すべてアルマーニのスーツで占められていても、なおも買い続ける。もしかすると女好きという嗜好《しこう》と、着るものに対する執着とは、ぴったりと比例するものなのだろうか。どちらも肌につけるものだ。必要からではなく趣味で選ぶものであり、とにかく金がかかる。そのうえなかなか捨てることが出来ない……。ああ何て馬鹿なことを考えるのだろうかと、瑞枝は苦く笑った。
美容院の帰り、瑞枝は予約しておいたネイルサロンに出かけた。美容院でもマニキュアはしてもらえるのであるが、やはり専門店の方がはるかにうまい。
店に入っていくと、庭に面した窓際の席で、若い女が足を投げ出して座っていた。ペディキュアが済んだばかりで、足の爪を乾かしているのである。人の気配で女は振り返った。
「あ、瑞枝さん、久しぶり」
少々にぎやか過ぎる声を出す彼女は加奈子《かなこ》と言って、有名な芸能プロダクションの社長夫人である。最近は映画製作にも乗り出し、そのことごとくが当たっている彼女の夫は今や大変な羽振りだ。ハリウッドにも進出する、いやもう既にロサンゼルスに音響スタジオを買った、などという記事がしょっちゅう週刊誌に出ている。
加奈子は二十四歳という若さで、二人の子どもの母親だ。十九歳だった彼女は新人タレントとしてデビューすることが決まっていたのであるが、そこの現場に立ち合った四十五歳の社長がひと目|惚《ぼ》れしてしまったというのだ。が、これにはさまざまな説がある。加奈子が計画的に妊娠をし、それまで子どもに恵まれなかった社長に離婚を迫ったという者もいる。自殺未遂の真似ごとまでして、とにかく大金持ちの男との結婚に成功したというのだ。
こんな噂が未だに流れるのも、社長夫人となった加奈子の評判がよくないせいであろう。彼女は育児によって失われた青春を取り戻すかのように、毎晩|派手《はで》に遊びまわっている。幼い子どもたちをベビーシッターに預けたまま、六本木のカラオケやディスコに入り浸っているのだ。芸能人も多く出入りしているところで、加奈子はどうも若い俳優と恋愛ごっこをしているらしい。高級カラオケクラブの片隅のソファで、いちゃついている二人を見たという話が瑞枝の耳にまで届くぐらいになっている。
「いつまであの社長が我慢出来るのだろうか」
と世間は、半分不安に半分面白がって眺めているところがある。
けれども加奈子の方はほとんど屈託がなく、どうやら瑞枝に対して勝手なシンパシーを感じているようだ。パーティーやこうしてネイルサロンでたまに会うぐらいなのであるが、いつも親し気に声をかけてくる。
「瑞枝さんも、今夜のパーティーに行くんでしょう」
「ええ、そのつもりだけれど」
「終わったらどこかへ遊びに行かない。今度ね、青山に会員制のものすごくいいカラオケが出来たのよ。黒服がいっぱいいてちゃんと仕切ってくれて、普通の人は入ってこないわ。私ボトルを入れたばっかりだから、ねえ、行きましょうよ」
瑞枝は加奈子の隣の席を勧められる。加奈子の椅子の足元には、彼女の年齢には不似合いのエルメスの大ぶりのバッグが置かれていた。
「今日は玲子さんも来るんでしょう。だったら女だけで踊りに行かない。『GOLD』のVIPルームに席をとっておくわ」
「ところがねえ、残念なことにうちのダンナも一緒なのよ」
瑞枝の傍に白衣の女が座り、ヤスリで爪を磨き始めた。夜遊びの相談をする二人の女の会話は、午後のネイルサロンにまことにふさわしいものといってもいい。
「あら、私、さっき郡司さんに会ったわよ」
加奈子が赤く爪を塗った左足をひょいと上げる。冬だというのに、贅肉《ぜいにく》のない長い足は綺麗《きれい》に灼焼《ひや》けしていた。
「ウォーキングマシン使ってたわ。一生懸命で私には気づかなかったみたいだけど」
加奈子たち夫婦も同じスポーツクラブの会員なのだ。肥満をしきりに気にしている郡司は、暇な時間が出来るとすぐに車で十分もしないクラブへと行く。あまり泳ぐのは得意ではないからマシンだけを使う。時々は人工芝のある部屋でゴルフレッスンを受けることもある。
それを知っている瑞枝であるが、なぜか嫌な予感がした。加奈子の口ぶりでは郡司はひとりでいたらしい。あたり前だ。体型があらわに出るジャージの短パン姿で、夫は女と会ったりするはずはない。ましてや子どもにかまけて最近は全く行っていないというものの、家族会員として瑞枝も登録されているスポーツクラブなのだ。そんなところへ女連れで来るはずはなかった。問題はその後のことだ。スポーツクラブの中には、付属施設としてホテルがある。二十室しかないがほとんどがセミ・スイートタイプの贅沢《ぜいたく》なホテルだ。郡司がここを情事の場にしていることを以前から瑞枝は気づいていた。うっかりとこちらに送られてきた請求書の中身によると、郡司はスポーツクラブで汗を流した後、エレベーターでホテルの階へ降り、そこを夜まで使うのだ。その種類のホテルではないので、きちんと一泊料金をとられていた。
だから郡司がスポーツクラブにいた、と聞くだけで瑞枝は嫌な気分になる。せっかちで忙しい夫は、最近すべてのことを兼ねようとする。中でも彼が最も気に入っているのは、体を鍛えることと色ごととを一緒にすることらしい。それがほぼ同時に出来る場所が、入会金一千万円の都心のスポーツクラブだったということだ。
瑞枝は返事をするのを忘れていたらしい。が、加奈子は気にする様子もなく別の噂話へと移っていった。
それは浮気が露見した夫の話だったり、レーサーとしても有名な俳優に、親の遺産まで貢がされそうになっている人妻の噂だ。が、加奈子が自分の子どもたちにほとんど無関心なことに瑞枝は好意を持つ。子どもを持つ他の女たちときたら、こういう時に喋《しやべ》ることはただひとつだ。
あの学校は小学校から入れるよりも、幼稚園から受験させる方がずっとむずかしい。
あそこのご主人は、学園の評議員として一人枠を持っているらしい……といった話題は瑞枝が最も苦手とするものだ。
瑞枝の中にこれ以上欲張ってはいけない、これ以上下品になってはいけないという抑制が働き始めたのはいったいいつ頃からだったろうか。いくら多くの金を得ても、所詮《しよせん》郡司と自分とは成り上がりと呼ばれる人種なのだということは次第にわかってくる。だが似たような人間がひしめいている今の世の中、そうした連中とばかりつき合っているからたいしてみじめな思いをしたこともない。劣等感にさいなまれることもなかった。けれども上流階級の子弟が集まる学校などに、自分の子どもを入れたらどうなるか。それにつき合おうとして、みっともない背伸びをしている友人や知人を何人も見てきた。中には自分の学歴すら偽る者もいる。
幸いなことに、郡司もこのもの狂おしいほどの受験熱に冒されてはいなかった。いずれ日花里は近くの公立に入れればよいと言っている。それを頼もしく思うこともあれば、愛人ほどに実は娘は関心をもたれてはいないのではないかと疑うこともあった。
「それじゃお先に。三井|倶楽部《クラブ》であいましょうね」
ペディキュアが乾いた加奈子は、ストッキングもはかずに立ち上がる。ヨーロッパの女のように素足に直接パンプスを履いたが、灼《や》けてひき締まった脚だから違和感はない。
瑞枝の方は紫色のドレスに合わせて、黒に近い赤のマニキュアをしてもらった。ラメでも埋め込もうかというネイリストの申し出を断り、早く乾かすためのドライヤーをかけてもらう。
車に戻った時はもう三時を過ぎていた。この後紀ノ国屋ストアに寄り、日花里とベビーシッターのために簡単に食べられるものを買うつもりであった。ちょうど駐車場から出ようとする大型のベンツがあり、苛立《いらだ》っていた時に自動車電話が鳴った。マニキュアを剥《は》がさないよう注意深く取る。
「もし、もし、僕だ」
郡司からであった。
「やっぱり今日、行けなくなった。悪いけど君ひとりで行ってくれないかな」
三井倶楽部の広い庭は、黒塗りの車でぎっしりと埋まっていた。瑞枝にしてもハイヤーに乗っている。郡司が運転手付きの車ごと帰ってこないので、急遽《きゆうきよ》電話で呼び出したのだ。酒を飲むかもしれない場合、瑞枝は決して自分の車を運転しないことにしている。それにイブニングドレスを着て、ハンドルを握っている図はどう見ても滑稽《こつけい》であった。
三井倶楽部の玄関は煌々《こうこう》とテレビのライトがつけられ、両脇をマスコミの人間たちが囲んでいる。ワイドショーや週刊誌のカメラマンたちが、今夜ここにやってくる芸能人や有名人たちを撮ろうと待っているのだ。こうした中、ドレス姿で中に入ろうとするのはかなり勇気がいる。もっとも彼らは瑞枝が普通のゲストだとわかるやいなや、いっせいにそっぽを向いた。その目は新しく到着したハイヤーのドアにすばやく向けられていた。階段を上がる。
中は歩くのもやっとのありさまであった。知り合いを見つけようにも、なかなか前に進めない。ようやく大広間からテラスに面した部屋にたどり着いた。ここはやや人口の密度がゆったりとしている。
それにしても最近これほどドレスコードが守られているパーティーも珍しいのではないだろうか。男はタキシード、女は裾《すそ》までのドレスがほとんどだ。デザイナーがパリから連れてきたという、見上げるほど背の高いモデルたちが、最新のドレスを着て中を練り歩いている。そうかと思えば「ブラボー! 世紀末」という招待状に書かれたコピーどおり、退廃的な雰囲気を出そうと、女装した男たちの一団がいた。彼らは六本木のその種類の店から連れてきたという。派手《はで》なビーズのドレスにオーガンジーのストールをかけ、なぜか風船を持っている者もいる。金髪のカツラをつけ、本物の女よりもゆたかな胸を半分以上もドレスから覗《のぞ》かせている男は、バンドの音に合わせてしきりに体をくねらせていた。
テレビでよく見る歌手や俳優たちもいたし、作家も作曲家も、何をやっているかよくわからないが、とにかく有名人と呼ばれる男女も正装してそこにいた。これだけのメンバーを集めるユキの手腕はたいしたものといってもいいが、彼女は体にぴったりとしたマーメイドスタイルのドレスを着て、気さくなことで知られる宮さまと一緒であった。確か妃殿下の方がユキとそう遠くない親戚《しんせき》にあたるはずだと瑞枝は思い出す。ユキに挨拶《あいさつ》しようと歩き始めた時、後ろからむき出しの肩を叩《たた》かれた。
「瑞枝さん、遅かったのね。お待ちしていたのよ」
祥子であった。
祥子はエメラルドグリーンの上着に、シフォンのロングスカートを合わせている。中国風の上着は凝った刺繍《ししゆう》がほどこされてはいるが、名前のとおったデザイナーのものではないらしい。ヨーロッパのドレス専門店で買った一着という感じだ。
「あら、ひとりなの。郡司さんはどうしたの」
祥子は首をかしげる。細い首にこれは本物らしいハリー・ウインストン独得のデザインの首飾りが揺れていた。
「いつもだったら、お二人でいらっしゃるのにどうしたの」
猫がやわらかく腹を踏まれた時のような、甘い声で祥子は言った。いかにも楽し気に微笑んでいる。秘密を起こし、秘密を握っている人はよくこんな表情をするものだ。
「この女は、夫と待ち合わせをしているのだ」
瑞枝は一瞬にしてすべてのことを察した。
祥子がパーティーに来ることを知って、夫は欠席したのだ。いくら何でも二人揃って脱け出すことは出来ない。おそらく郡司は例のホテルで祥子と待ち合わせをすることにしたに違いない。
「ねえ、瑞枝さん、すごいパーティーだと思わない。さすがにユキちゃんねえ、普通だったらこれだけの人は集まらないわ。でもね、人が多過ぎてこれだと息が詰まりそう。おまけに食べ物があっという間になくなったのよ。お酒だけはいっぱいあるけれども、取りに行くのが大変よ……」
祥子は狎《な》れ狎《な》れしく、ぴったりと瑞枝に寄り添った。裸の腕が瑞枝の裸の腕に重なる。人気のプワゾンのかおりがした。彼女は意外なほど毛深く、やわらかい生毛《うぶげ》を肌に感じた。軽い吐き気さえする。女というのはどうして寝取った男の妻に対して、これほど親し気に接近してくるのだろうか。
自分の罪がまだ露見しているはずはないという買い被《かぶ》りと勝利感とが、女をとても優しく親切な人間にする。
「ねえ、瑞枝さん、喉《のど》が渇いたでしょう。何か飲み物をとってくるわ。でも、こういうのは殿方の仕事よねえ……」
男性のことを殿方という女は、瑞枝のまわりではこの女だけだ。
「あっ、成瀬君がいるわ。ちょうどよかったわ。ねえ、成瀬君……」
人の肩がつくり出す海が偶然開けると、そこに成瀬が立っていた。祥子は君≠テけをしているが、彼は三十になったばかりの若さでゲームソフト会社の社長である。彼の横には、小柄な美しい妻が立っていた。今夜の主人公であるデザイナーの新作とひと目でわかる銀色のドレスをまとっている。
「ねえ、成瀬君、私たちのためにシャンパンを取ってきてくださらない。私たち、喉が渇いて死にそうなの」
隣に妻が立っているにもかかわらず、成瀬は快く立ち去った。まるで高校生のようなきゃしゃな体つきに、強い近視の眼鏡をかけている。彼のめざましい成功を「おたく族の英雄出現」と書いたマスコミがあったが、確かに彼を見ているとそんな気がする。
「ユリコちゃん、ごめんなさいね。おたくの大切なご主人をお使い立てしてしまったわ……」
祥子はいつのまにか妻の傍に立ち、ねっとりとした声を出している。彼女がこの大金持ちの夫婦に接近しているのはあまりにも有名であった。
「今夜のドレス、なんて素敵なの。ユリコちゃんは何でも着こなしてしまうんですもの、成瀬君も買ってあげる甲斐《かい》があるっていうものよね」
成瀬は初婚であったが、この妻は再婚である。短大を卒業するとすぐに結婚したので、八歳になる男の子がいるという。けれども成瀬にとって、彼女は高校時代の初恋の女性であった。巨万の富を手にした彼は、人妻である彼女にプロポーズしたという。その時、五十億という預金通帳を見せたという逸話があるが、これは面白《おもしろ》過ぎるので誰かのつくり話であろう。
いずれにしても、郡司や加奈子の夫のように、金を手にしたとたん妻を取りかえるのがあたり前のような世の中において、成瀬のこの純情は美談として伝えられているのである。
やがてシャンパングラスを二つ手にした成瀬が向こうから戻ってきた。人混みで苦労したらしく、全く似合っていないタキシードの前がかなりはだけていた。
「まあ、成瀬君、ありがとう」
祥子は大きな声で礼を言い、グラスを受け取る。それで役目を果たしたと言わんばかりに、成瀬夫婦はその場を離れた。
「ねえ、成瀬君って今、うちを建ててるのよ。松濤《しようとう》の一等地よ。建築費だけで五億かけるっていう話なのよ」
祥子はさも重大なことを打ち明けるように、口を瑞枝の耳元に寄せてきた。
「それでね、うちのインテリアをすべてあのユリコに任せるって言ってるのよ。ねえ、信じられる。このあいだまで団地に住んで、スーパーの家具売り場しか知らなかったような女が、家具はイタリアじゃなけりゃって、ミラノに買い付けに行くのよ。女って三日もあれば、スーパーの家具からミラノへ行くのがあたり前になるのね。ああ、怖い話だわ」
この女がありったけの悪意を込めて罵倒《ばとう》しているのはユリコではない。この自分なのだと瑞枝は思った。
向こうでカメラのフラッシュが幾つも焚《た》かれていて、その真中に玲子がいた。いくら最近仕事をしていないといっても、女優は女優である。やはりこういう時、マスコミは目ざとく見つけるものらしい。玲子はごくシンプルな黒いイブニングドレスを着ていたが、「ブラボー! 世紀末」というパーティーのテーマを意識してか、アールヌーボー風のアクセサリーを身につけていた。高めに結《ゆ》ったシニオンもよく似合っていて、今夜の彼女はいつもの十倍美しい。こういう場に立つと特別の光をはなつ女優というものに、瑞枝は今さらながら目を見張る。
玲子は瑞枝を見つけ、今すぐそこへ行くからという合図の笑顔をおくった。けれども隣に祥子の姿があることがわかると、露骨に嫌な顔をした。何でも玲子の古くからの友人で洋食器の輸入をしている男が、色と仕事がらみで祥子によってさんざんなめにあったという。それ以来玲子は、祥子のことを「詐欺師」と呼んではばからない。それをもちろん知っている祥子は、そわそわと目をあちこちに動かし始めた。
「ちょっと失礼……。室田《むろた》産業の室田さんが来てらっしゃるわ。今度あそこまたひとつ浦安にホテルを建てるの。だからいろいろ相談にのっているのよ……」
パーティー慣れしている人独得のすばやさで瑞枝の脇から離れた。後には香水の香りと悪意が残される。本当に不思議だ。夫の愛人だという証拠も幾つか手に入れているし、祥子の方は祥子の方で、言葉の端々に巧みに毒を注入してくる。それなのに瑞枝は祥子を拒否することが出来ない。特に公の席では彼女を親し気に受け容《い》れてしまうのだ。妻としての矜持《きようじ》が祥子を嫌悪することを許さず、その心理をわかっている祥子はますます狎れ狎れしく寄ってくるという悪循環が続いている。
「いったいあの女、何なのかしらね」
人々の間をすり抜けて、やっと近づいてきた玲子が言った。
「裏の人間はそれらしくおとなしくしていればいいものを」
憎々し気に振り返る玲子の香りもプワゾンだ。三年前に発売されたこの香水は大変な人気で、今では東京の女の十分の一がつけているといってもよい。「毒」という名前が、少なくともこの二人の女にはぴったりだ。
「あら、郡司さんは今日来ないの」
今夜六回めの質問だ。
「急に用事が出来て行けなくなったって……」
「あら、そうなの……」
意味あり気な表情もあとの五人と同じだった。
結局パーティーでは何も口に入れることが出来ず、瑞枝は玲子たち夫婦と六本木のスイス料理の店に寄った。タキシードとイブニングドレスでもそれほど違和感のないところということで、玲子の夫が選んだ店だ。シャンデリアにペルシャ絨毯《じゆうたん》、ピアノの弾き語りという設定は確かに豪華であったが、タキシードの男はウエイター、イブニングの自分たちはピアニストにしか見えないのではないかと玲子は笑った。
が、瑞枝は緊張のあまり冷肉のオードブルが口に入らない。さっき手洗いに行くついでに、スポーツクラブの中のホテルに電話をかけたのだ。こういう場合、
「郡司さんという方は、そちらにお泊まりでしょうか」
などと聞いては相手に用心される。泊まっていることを前提として、さりげなくしかも急いだ風にかけることが大切だということを、瑞枝は誰にも教わらなくても知っている。不実な夫というのは、自然と妻にさまざまな知恵を授けてくれるものだ。
「郡司の部屋につないでください」
ごく事務的にそう言ったところ、専門のホテルマンでないフロントの女はすぐに対応してくれた。
「はい、お待ちください」
こうした場合、妻が誰でも願うように、
「郡司さまはお泊まりになっておりません」
という言葉をもちろん瑞枝は期待していた。けれども相手の女は、明るくこう言うではないか。
「今、おつなぎいたします」
呼び出されたら大変なことになる。いくら呑気《のんき》な郡司でも、誰にも知らせていないはずのホテルの電話が鳴り、それがとったとたん切れたりしたらやはり不審に思うだろう。
「あ、いいわ。届け物があるから持っていきます。何号室だったでしょうか」
「五七二号室でございます」
一流のホテルだったらまずはここまで教えてはくれまい。いくら高額な料金をとるといっても付属施設のホテルであった。次の瞬間、瑞枝は「五七二、五七二」と夫の情事の現場の番号をすっかり暗記していた。
「悪いけど、お先に失礼するわ」
メインの料理を頼まなかったのを幸い、瑞枝は立ち上がる。オードブルと、ワイン二杯分の見当の金をテーブルの上に置いておくのを忘れない。いくら金持ちの男と結婚していても、玲子の吝嗇《りんしよく》さは仲間うちで有名だ。生まれ育ちがわかるという者がいたが、割り切って考えればどうということはない。あまり詮索《せんさく》しないところも瑞枝の気に入っているところだ。すんなりと店を途中で出ることが出来た。
郡司が入っているスポーツクラブは、公社の宏大《こうだい》な跡地を民間開発したものである。エントランスもゆったりとしたつくりで、瑞枝を乗せたハイヤーは、ゆるゆると坂道を上がっていく。
玄関前の駐車場に郡司のベンツを見つけた。運転手の原田が、車内灯をつけてスポーツ新聞らしきものを読んでいるのもわかる。郡司の専用車の運転手を務める、この初老の男の心理が瑞枝には理解出来ない。埼玉の自動車販売会社に勤めていた後、タクシーの運転手となり、新聞の募集欄を見て郡司のところへやってきたのだ。無口な大柄な男である。自分よりもはるかに若い男の運転手となり、こうして情事の間もじっと待ち続ける彼の心の底はいったいどうなっているのだろうか。金のために割り切っているといえばそれまでだが、瑞枝はその心の奥を探ろうとするといつも怯《おび》える自分に気づく。正直言って瑞枝はこの男が怖いのだ。黙って屈辱に耐えている人間というのは、常に他人に畏《おそ》れを与えるものかもしれない。
玄関で瑞枝はそそくさと車を降りた。イブニング姿の自分が目立たないはずはない。もし原田に見つかったりしたらめんどうなことになる。けれども原田が乗っている車の前には、もう二台大型の外車が並んでいた。
フロントに立っていた男が、軽く微笑をおくってきた。たまにしか来ない瑞枝の名はとっさに出てこないようであるが、会員であることはすぐにわかったようだ。
「いらっしゃいませ」
おそらく上のバーを使う客だと思ったのだろう。不審そうな表情はなかった。瑞枝はエレベーターのボタンを押す。スポーツクラブのある階でもなく、レストラン階でもない。ホテル階の5という数字を押すのは初めてだ。すぐに赤い不吉な色に点滅した。
小さな愛らしい音をたてて、エレベーターの扉が開いた。そこには静かな空間が広がっている。花を織り込んだ絨毯に花柄の壁紙と、気恥ずかしくなるほどロマンティックな内装だ。これで廊下が広くなかったら、ヨーロッパの安宿に見られたに違いない。
指示どおり右に曲がると、すぐに五七二号室があった。瑞枝はとっさにドアに耳をあてる。自分がこれほど浅ましい行動をとるとは、今の今まで考えたこともなかった。けれども夫がいるとわかったドアの前に立ったとたん、瑞枝はごく自然に身をぴったりと押しつけていた。人に見られても構わないと思った。瑞枝の戦っている恐怖はただひとつ、夫と祥子とがその真っ最中だったらどうしようかということだけである。
瑞枝はそれを見るのが怖い。もし裸の夫と女がからみあっている光景を見たら、自分は大きな悲鳴を上げてしまいそうだ。考えてみると、瑞枝はまだ現場≠ニいうものを見たことはなかった。死体と同じように、それが存在することはわかっていても、考えるだけで畏れおののくものはいくらでもある。屍臭《ししゆう》のように、夫のまわりには女の噂や情事の痕跡《こんせき》がからまっていた。けれどもまだ瑞枝は殺人現場≠ノは立ち会っていないのである。
引き返すことはいくらでも出来た。けれども瑞枝の中で、はっきりとした決意が芽生えている。
「勇気を出すのだ」
勇気を出して確かめるのだ。そうしなければ自分はずっと後悔することになるだろう。得体の知れない噂というものに苦しめられるよりも、つらい現実を見て失望することが今の瑞枝には大切なのだ。失望はゼロになるということであろうが、ゼロにならなければ自分はずっとなすすべもなく、一生立ちすくむだけだろう。
瑞枝はドアをノックした。その際ミラーを自分の手で塞《ふさ》いだ。ミラーごしに自分の姿を発見されるよりも、暗くなったそれを不審に思う方がドアを開けてくれる確率は高くなるだろうと考えたのだ。
その賭《か》けはあたり、瑞枝は「はい」という夫の屈託のない声を聞いた。銀行で呼ばれた時のような、明るく善良な返事に瑞枝は打ちのめされる。自分はルームサービスのサンドウィッチに間違えられているのではないだろうか。
ドアが内側から開いた。そこにはバスローブ姿の郡司が立っていた。バスローブをまとった男は、たいてい間が抜けて見えるものであるが彼もそうだ。白いもこもことした布地は、彼の肥満し始めた体をはっきりと見せている。
「どうしたんだよ、いったい」
夫の顔は見ないようにして、瑞枝はするりと中に入る。広い部屋であった。ドアに近いソファに女が座っている。幸いなことに女は服を着ていた。女は祥子ではなかった。祥子よりもはるかに若く、はるかに美しかった。栗色に染めたウェイブした髪が、女がただのOLでないことを表している。
女は不愉快気に顔をそむけた。横顔も綺麗《きれい》だ。郡司が近づいてくる。瑞枝は当然のことながら、まず自分に声をかけるだろうと信じた。どんな言いわけをするのか、そして自分は夫を許すのだろうか。
ところが郡司がすり寄っていったのは、妻ではなく、もうひとりの女の方であった。
「怒らないでくれよ」
彼は言った。
「まさか、女房が来るなんて思わなかったんだ……。怒らないでくれよな」
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第十一話 打ち上げパーティー
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こんなメールはすぐに消してくださいね。もし誰かに見つけられたら大変なことになります。なぜなら僕はこれから熱い熱いラブレターを書こうと思っているからです。
僕は今、あなたにとても感謝しています。もしあの時、あなたに拒絶されていたら、僕はもう一生おめにかかることが出来なかったかもしれない。あなたが素直に僕のものになってくれた時の喜びというのは、おそらくあなたが考えている以上のものだと思います。あなたと別れ、京都の家に帰ってからもずうっと落ち着かなくて自分の部屋に閉じこもっていました。そうして本当に偶然に一冊の本を見つけたのです。
柴田翔《しばたしよう》の『されどわれらが日々――』です。あなたは読んでいないかもしれないけれども、僕の世代だったらほとんどが目を通している本です。僕は典型的なノンポリ学生でしたし、そもそも僕らが大学に入学した時は学生運動はもう消えかかる寸前でした。けれどもあの熱い日々の感触は少しはわかるつもりです。
本の中でこんな一節がありました。
思い出は 狩の角笛
風のなかで声は死にゆく
これは堀口大学の『月下の一群』からの引用ですけれども、僕はああっと思いました。確かに人の記憶の中で、音というのは消滅しているのかもしれませんね。僕はあなたの着ていた洋服の色や、髪型、そして笑い顔まではっきりと思い出すことが出来るのに、やはり声を甦《よみがえ》らすことが出来ません。ただあなたの笑い声がとても可愛らしかったことだけは、はっきりと記憶にあるのです。
そして僕たちの生きたあの時代というものも、次から次へとフィルムのようにいくらでも浮かんでくるのに、やはりそれは無声映画の世界です。その中で僕たちはチャップリンのように、せかせかと滑稽《こつけい》なことをしているのです。
笑ってください。あなたに僕はさんざん言いました。
「過去を振り返ってばかりいることは、後ろ向きに生きることだ」
それなのにあなたを手に入れてからというもの、僕は過去を追い求めることに夢中になっている。十年前のあなたの姿を思い出すことによって、その時のあなたまで所有しているような気になっているのです。
なんて勝手な男だろうかと笑ってくださっても結構です。久しぶりに恋というのは何て単純なものだったのだろうかと嬉《うれ》しいのです。愛する人の現在だけではなく、過去も自分のものにしたいのです。
また来月東京へ行きます。あなたに会うためです。僕はつくづく愚かな男ですね。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]高林 宗也
瑞枝はしばらくディスプレイの中の文字に見入った。
「風のなかで声は死にゆく」
という言葉を口に出してみた。高林は人の記憶の中で、声は消えてしまうと言ったけれども本当にそうだろうか。瑞枝は思いをこらしさまざまな声を再現しようとした。するとそれはたやすく出来た。幼い時の日花里の笑い声、母にねだる時の甘い声、不愉快なことであるが、郡司の声とてする。
「僕に女をやめろって言ったって無理だよ。僕は彼女たちから活力をもらってるんだよ。向こうだってそれはわかってるはずだよ……」
そして初めて結ばれた時の、高林のささやきもする。
「君はなんて素敵なんだ。なんて素晴《すば》らしい体をしているんだ……」
セックスをするということは、共通の秘めやかな記憶を持つことで、その中で声は大きな要素になる。相手が街中では決して発しないかすれた声を聞き、その思い出を所有することだ。高林はこう言っている。
「愛する人の現在だけではなく、過去も自分のものにしたいのです」
そこに未来≠ニいう文字はない。もちろん故意に彼は使わなかったのである。もし自分たちが十九歳の恋人同士であったら、ラブレターは未来≠ニいう文字で埋まっていたはずだと瑞枝は思う。が、そう考えることはそれほど不快ではない。おそらく高林はとても誠実な男なのだ。自分に妻子がいて別れることは出来ない、ということを最初から言っておきたいのだ。
自分たちはこれからどうなるのか。そんなことは聞かれなくてもわかっている。高林はこれから月に一度か二度、上京するたびに瑞枝と会うだろう。もうめんどうな手続きや口説きはいらない。一度肌を触れ合った男女のなめらかな手順で、二人は情事の時を持つだろう。それはどのくらい続くのか。瑞枝が四十になる前か、それとも五十になる前か。ふともの憂くなっている自分に気づく。恋というものの見取り図があらかじめ出来ているのは、不倫と呼ばれる形態の特徴である。ごくごくまれな成就を除けば、出口ははっきりと大きく描かれているのだ。
ディスプレイが変わった。
「このページとチェックされたメールを削除します」
瑞枝はクリックした。それにしても便利な世の中だ。後ろめたさを持つ恋人からの恋文は、誰の目にも触れることなくこうして消滅されていくのである。
次をクリックする。地図が現れた。
「マイ・メモリー」打ち上げパーティーのお知らせとある。赤坂にあるエスニックレストランで行われることを前から聞いていた。
ドラマの撮影が終了した後、出演した俳優やスタッフたちでパーティーを行うのが、この業界のならわしだ。どんな端役でもたいていの出演者に声をかけるから、参加人数は百人以上という大がかりのものになる。
「マイ・メモリー」の視聴率は少しずつ尻《しり》上がりに伸びていって、先日の九回めの視聴率は関東地区で一五・二パーセントを記録した。打ち切りをささやかれたドラマにしては大躍進といってもいい。おかげで打ち上げパーティーも明るいものとなりそうだ。瑞枝は過去何回かこの打ち上げを経験しているが、やはり低視聴率だったものはみなの意気が上がらない。プロデューサーの挨拶《あいさつ》も湿ったものになりがちだ。が、十五という数字になったら、
「好評のうちに終わることが出来……」
というありきたりの言葉も皮肉に聞こえないだろう。
「日花里、日花里ちゃーん」
瑞枝は廊下に出て、居間にいる娘に声をかけた。テレビを見ているのかと思ったら、日花里は本を読んでいた。図書館のシールが貼られたそれは外国人の著者の名前が書いてある。瑞枝は本を手にした娘の横顔があまりにもおとなびていることに驚き、少しの間立ち止まる。
「どうしたの」
「あのね、明日にでも久しぶりに買物に行こうと思って」
「お母さんが買物に行くなんて珍しいね」
「来週打ち上げパーティーがあるのよ。ビンゴの商品を買いに行かなくっちゃならないから一緒に行ってよ」
打ち上げパーティーでは必ずといっていいほどビンゴが行われる。賞品を提供するのは主演クラスの俳優、原作者、脚本家といった人々である。つまり収入が多いとされている者が、苦労した裏方の人々をねぎらおうという意味がある。瑞枝は今までポラロイドカメラ、小型のオーディオ、旅行クーポンといったものを出してきたが、現金や商品券を持ってくる者も多い。いつだったか人気俳優が「家賃三ヶ月分」と書いた目録を提供し、それを当てた照明の若い青年が大喜びしたというエピソードも伝わっている。
「今度はさ、お母さんも頑張ったけど、みんなも頑張ってくれたから、ちょっとふんぱつしようかと思ってるんだ。ねえ、何がいいと思う。最新のビデオカメラなんかどうかな」
「いいんじゃない」
日花里は本からやっと目を離した。
「久瀬さんも、今CMで流れてるあのハンディカメラが欲しいなあって言ってたよ。ほら撮ったものをすぐ見られるっていうあれだよ」
瑞枝の中にはっきりとした不快感がわく。どうやら自分の留守に、聡はしょっちゅう日花里に電話をかけてくるらしい。このあいだは、白金《しろがね》に新しく出来たサンドウィッチハウスに連れていってくれたと日花里は言ったものだ。
「あのね、日花里、あんまり久瀬さん、久瀬さんて言わないほうがいいよ」
「えっ、どうして」
日花里は大きく目を見開く。睫毛《まつげ》が濃く長いために、まるでアイラインをひいているように見える目だ。
「久瀬さんはすごく忙しい人なの。お仕事だっていっぱいあるんだから、あんまりあんたみたいな子どもに構っている時間はないの」
「そんなのおかしいよ」
本をぱたんと閉じた。
「久瀬さんはいつも言っているよ。日花里ちゃんといるとすっごく楽しいって。私の話、いつも笑って、もっと話してくれって」
「あのねえ、それは久瀬さんがやさしい人だからなの」
次第に苛立《いらだ》ってくる自分に瑞枝は気づいた。
「それにお母さんとの仕事の関係もあるのよ。お母さんに気を遣ってくれている分、日花里にもよくしてくれるの。日花里もお母さんの子どもだったら、そういうところ気づいてくれなきゃ」
「へんなのォ」
日花里は立ち上がった。娘の背丈が、日頃思っているよりもずっとあることに瑞枝は圧倒される。
「そんなの久瀬さんと私のことだよ。お母さんがいろいろ言うなんておかしいよ。まるでヤキモチ焼いてるみたい」
瑞枝はあっけにとられた。しばらく言葉が出てこない。おかしなことを言うなと一喝するのは簡単であったが、そうすると怒りを誤解される。瑞枝はうろたえ、
「とにかくね……」
ようやく言葉を繋《つな》ぎあわせていく。
「お母さん、日花里が子どもの頃から芸能界の人とおつきあいするのは反対なのよ。出来るだけこっちの世界に来て欲しくないの」
ある俳優の子どもの話を思い出す。大スターを父親に持つ彼女は、子どもの頃からお年玉がそれこそ百万近い金額になったという。
映画やコンサートの切符は関係者からただで貰《もら》ってあたり前、その後友人をひき連れて楽屋へ行くのはあたり前、という育ち方をした結果、彼女は日本の高校には適応出来ず、今はアメリカの学校にいる。留学とは名ばかりで、麻薬所持で何度か逮捕されているというのが業界の専《もつぱ》らの噂だ。大スターでなく、瑞枝ほどのささやかな権力の脚本家でも、仕事欲しさに近づいてくる芸能人はいくらでもいる。久瀬の場合別の要素が加わっているからもっと複雑なのだ。それは到底日花里には説明出来ないことであった。
けれども日花里の発した、
「まるでヤキモチを焼いているみたい」
という言葉は、驚くほど執拗《しつよう》に瑞枝の神経にまとわりついた。たかが子どもが何気なく発したひと言ではないか。あの年齢というのは、テレビで憶《おぼ》えたシリアスな表現を使ってみたいだけなのだ。そして大人の反応を見ようとしているのだと、瑞枝は何度も自分に言いきかせようとする。けれども娘が、そうした生々しい言葉の意味を充分に知り、それを使ったという事実は瑞枝を打ちのめした。あと十年、いやとんでもない、あと四、五年もしたら、日花里はこう言うに違いない。
「私と彼のことだもの、お母さんは関係ないでしょう」
まるでその予兆のような言葉を日花里は口にしたのである。瑞枝は高林とのことを絶対に娘に知られてはならないと決心する。
そして打ち上げパーティーの日が来た。瑞枝はそのことを日花里には伝えなかった。久瀬も当然出席するパーティーである。
「久瀬さんによろしくね」
と娘に言われたりしたら、自分はまた隠やかではいられないような気がする。瑞枝はとにかく久瀬と娘にまつわるすべてのことが気にくわないのだ。
いろいろ考えた結果、瑞枝は黒のサマーニットに黒のワイドパンツという組み合わせにした。パーティーといっても、最後の撮影の後の流れで行われるから、みんなくだけた格好である。二次会、三次会と夜を明かすこともあるから、男性もネクタイをしていないことがほとんどだ。といっても、その日現場には加わっていない脚本家が、そうだらしない格好をするわけにはいかないから、瑞枝はニットの上にこれもシルクを編んだ白いストールを羽織った。冷房を調節してくれるうえに、絹の光沢でぐっと華やかになる。
これに合うアクセサリーをと、宝石箱をかきまわしていたら電話が鳴った。
「もしもし、僕です」
二人で秘密の時を持ったとたん、男は名乗らなくなるものであるが高林もそうであった。彼からのEメールはあっても、電話はあれ以来初めてだ。彼の声には自信とかすかな図々しさが滲《にじ》んでいる。この微妙な加減も関係を持たなくては気づかないものだ。
「メールで話したとおり、明日、東京へ行きますけど会えますよね」
「わからないわ」
照れと男に対する反撥《はんぱつ》とで、高飛車な口調になる。まるで二十歳の女のようだ、と瑞枝はすぐに後悔したが仕方ない。
「今日はドラマの打ち上げパーティーなの。きっと帰ってくるのは明け方になると思うわ。昼過ぎまでぐったり寝ているはずよ。いつもそうなの」
「でも夜までやっているわけじゃないだろう」
高林の声には軽い苛立《いらだ》ちが含まれる。一度体を許し合った男女なら、どんなことがあってもすぐ会いたがり、すぐ求め合うはずだと信じきっている男の無邪気さが含まれている。
「でも細かい仕事がいろいろたまっているの。ドラマのおかげで、女性雑誌からエッセイを頼まれたりしているの。それもやっておかなきゃいけないし……」
「そんな意地悪言うもんじゃない」
彼は怒りを爆発させた。もちろんそれは痴話|喧嘩《げんか》ととれるような小さなものである。
「僕は君に少しでも早く会いたくって、仕事をやりくりしてきたんだ。それはわかっているだろう」
「ええ……」
甘やかな感情に心が充《み》たされていく。こんな風に、男に強い口調でものを言われるのは久しぶりだ。
「だったら君の方でも算段をつけてくれ。明日の夕方電話をするよ」
音の切れた受話器を持ち、ああ、また恋が始まるのだと瑞枝はしみじみと思った。娘やベビーシッターに言いわけをし、夜、タクシーをつかまえる日々。締め切りのことを頭の中で計算しながら、それでも男に溺《おぼ》れようとする瑞枝がいる。男はみんな同じだなどと下品なことを言うつもりは全くないが、恋の手順はよく似ている。ましてや離婚してから八年、瑞枝の相手は常に妻帯者であったから、わずらわしさやその種の用心も全く同じであった。うまくいっている時は、それを恋の切実さとすり替えることも出来たが、そうでない時はおきまりのみじめさがつきまとうことになる。
いずれにしても始まる前から、別れのことは考えることはないのだ。別れは決められたものだとしても、その間|昂《たか》まりやときめきを高林はきちんと自分に与えてくれるはずだと瑞枝は思う。そして宝石箱をまたいじり始める。宝石箱といっても本物の石はふたつかみっつで、後はたいていイミテーションだ。瑞枝はシルバーのイヤリングと腕輪を選び出した。イタリアのデザイナーもののそれは、いかにも初夏の装いにふさわしい。連続ドラマを書いている最中は、打ち合わせ以外外出することもなかったから、陽にあたらぬ瑞枝の肌は青白かった。昼日中に見たら、かすかなたるみも加わり、不健康に人の目に映るかもしれない肌も、こうして蛍光灯の下ならばぬめぬめと白く光っている。瑞枝は黒と銀色で統一された姿をもう一度鏡に見入る。まだ充分美しいとはっきりと思う。男に愛されることも、男と寝ることも許される女の姿かたちをしている。こんな幸福を噛《か》みしめるのは本当に久しぶりで、やはり瑞枝は高林に感謝すべきなのだ。
定刻の十分前にレストランに着いたのだが、席はほとんど埋まり、みんなビールを飲みかわしていた。聞いたところによると撮影が思ったよりも早く終わり、みんなすぐにこちらへ流れてきたということだ。
たいていのドラマがそうであるが、最終回というのは主な出演者がほとんど揃うような筋書きになっている。よって打ち上げパーティーは、この最終回の撮影後に行われることが多いのだ。
「マイ・メモリー」では、池田のつくったビルが壊されることになり、それを主要人物が見守るというシーンで終わっている。主人公の森岡佳代子はアメリカで就職が決まり、子どもと共に移り住むことになるという終わり方はいかにも安易であるが、この際仕方ない。何しろ元夫《もとおつと》である池田浩一を途中で殺してしまったために、あちこちに綻《ほころ》びが生じてしまったのだ。秘《ひそ》かに池田の子を生み育てていた佐々木奈美だが、やがて夫がその事実を知ることになる。怒り狂った彼は池田につかみかかり、その揚げ句に殺害してしまうというストーリーを書きながら、このドラマはいったいどうなるのだろうかと瑞枝は暗澹《あんたん》たる気持ちになったものだ。ところがこのあたりから、
「話がジェットコースターのように展開していく」
などとテレビ評で言われ、少しずつ視聴率が盛り返してきたのである。
今夜みなが機嫌よく打ち上げパーティーが迎えられるのもそのためだ。これがもしシングル≠ニ、思いきり侮りを込めて言われるひとけたの視聴率だったりしたら、パーティーは全く違う雰囲気のものになっていただろう。
「あっ、瑞枝さん、待ってたの。こっち、こっち」
文香が目ざとく見つけ、中央の席に連れていく。無礼講の打ち上げパーティーといっても、もちろん序列というものはしっかりとあり、このテーブルは主演クラス、プロデューサー、脚本家のためのものである。佳代子役の川村絵里子や佐々木奈美役の谷川愛などが、この店名物のタイビールでしきりに乾杯していた。
「沢野さん、ごめんなさい。とっくに始めちゃったのよ。撮影がうまくいって、みんなこの店に三十分も早く着いたの」
こういう時、人気女優といっても実に如才ない絵里子がにっこりと笑いかけてくる。
「もちろんですよ、どうぞ、どうぞ」
席に着きながら、瑞枝は反射的に聡の姿を探した。彼は隣のテーブルにいる。そこはディレクターたちと準主演クラスの席であった。
聡もメインテーブルに座る立場であるのだが、それよりも若いディレクターたちと一緒の方がいいらしい。ビールではない濃い色のグラスを手にしていた。黒いシャツを着ている。いつものように上のボタンをはずし、チェーンを覗《のぞ》かせていた。瑞枝を見ると頭を軽く下げ笑いかけてくる。彼のこの屈託の無さは当然といえば当然であるが、瑞枝はやや物足りない。もし彼が自分に好意以上のものを持っているとしたら、もっと陰影にとんだ表情をするものではないかと思う。
やがてお決まりのセレモニーが始まった。ドラマ局長が挨拶《あいさつ》をし、次にプロデューサーである文香がマイクを握った。既にアルコールが入っているスタッフの間から「フミカちゃん」というかけ声がとぶ。
「皆さん、本当にありがとうございました」
頭を下げる。
「最初は皆さん方にもいろいろご心配をおかけしましたが、数字も回を追うごとに上がっていって、今日という日を迎えることが出来ました。バブルという時代をもう一度見直すという、私たちの挑戦を視聴者の人たちがわかってくれたんだと思います。本当に皆さん、頑張ってくれてありがとうございました」
局長の時よりもはるかに大きな拍手が起こった。次は瑞枝の番だ。立つ前から既に緊張が始まっていた。こういう場合脚本家というのは孤独である。現場を共にした人たちの一体化した熱気からは、一歩退いたところにいた。裏方や小さな役の俳優たちの中には、瑞枝の顔も知らない者たちが多いに違いない。
「脚本を担当させていただきました沢野瑞枝でございます」
もう一度自分で名乗り頭を下げる。
「今度の仕事は私にとって、楽な仕事とはいえませんでした」
文香たちに向けて皮肉に聞こえるだろうが仕方ない。視聴率が上むいてきたからこそ口に出来る言葉である。
「脚本家として、これほどドラマづくりがむずかしかった仕事はなかったような気がします。あの時代を再現し、いろいろなことを問いかけ、しかも見ている人たちに喜ばれるものをつくる、ということに正直言ってめげそうになったこともあります。けれども何とかやり遂げることが出来たのは、素晴《すば》らしい俳優の皆さん、スタッフの皆さんのおかげだと思っています。本当にありがとうございました」
文香の時ほどではないが、温かい拍手が起こった。初回、二回と視聴率が全くふるわなかった時、脚本の書き直しどころか、ドラマ全体を大きく変更させられたことを多くの人たちが知っていた。
「終わりよければすべてよし……か」
佐々木役の俳優がつぶやいたのが聞こえた。
主演俳優たちの短いスピーチの後は乾杯となり、壺《つぼ》の栓をいっきに抜いたように、喧騒《けんそう》が店の隅々まで充ちていく。タイの衣装を真似た制服のウエイターたちが、次々と料理の皿を運んできた。香料の強い料理が食欲を誘い、ビールやワインが次々と抜かれる。今日の出席者は百三十人ぐらいと文香が言った。安価なエスニック料理店といっても、かなりのかかりになるはずだ。が、こういう予算ももちろん制作費の中には組み込まれていたし、俳優たちのプロダクションの社長やマネージャーたちが、お祝いといって金一封を包んでくるのがこの業界の習わしである。時代の先端をいくドラマの世界は、意外なことに村社会のさまざまなシステムによって成り立っているところもあるのだ。
それは二次会、三次会の流れを見ていてもよくわかる。主演クラスとプロデューサーの行くべき次の店は決まっていたし、そこに端役の者や下っ端のスタッフは参加出来ない。誰もがさんざん酩酊《めいてい》しているようであるが、自分の次に行くべき店や帰るべき時間帯のクラスはきちんと把握しているのである。脚本家は席順だけは高い。瑞枝が二次会に連れていかれた店は、六本木の星条旗通りにあるパブであった。どうやら川村絵里子の行きつけの店らしく、奥の方には広いテーブルが用意されている。文香の隣に瑞枝は座った。その前には下着のようなワンピースを着た谷川愛がいる。レースクイーンあがりとさんざん陰口を叩《たた》かれた彼女であるが、一作ごとに力をつけ今度のドラマでも主役の絵里子を食ってしまうような演技を見せた。しかしもうじき、彼女は全裸の写真集を出すことが決まっているのだ。
「このまま、ちょっと頑張っている女優の座に座るのは嫌。いつも何かにチャレンジしていたいから」
と語っていたワイドショーの彼女を瑞枝はふと思い出す。女優というのはつくづく不思議な人種だ。出自がよくない女ほど、ステータスや女優の格といったことに異常にこだわる。映画に出たがり、賞を欲しがる。脱いだりすることも徹底的に嫌う。ところがあるポジションを確保したとたん、急に大胆なことをし始めるのだ。愛の全裸の写真もそのひとつで、人々はこれをこっそり「先祖がえり」と呼んでいる。
ワインに目がない絵里子が指示して、ラフィット・ロートシルトの栓が抜かれた。一本では足りぬから二本抜く。ここはワイン専門のパブらしく、三本めからは通好みのイタリアのワインとなった。七人の人々で六本のワインを飲み終えた頃、聡が店に入ってきた。どうやら途中から合流する約束になっていたようだ。
聡はかなり強引に、瑞枝と文香の間に割り込んできた。かなり飲んでいるらしく、アルコールのにおいを漂わせている。
「あのさ、瑞枝さん、さっきの挨拶、もっと言ってやったっていいんだよ」
瑞枝はあわてて左右に目を配ったが、会話は幸いなことに絵里子が主導権を握ったところである。主演女優のそう面白《おもしろ》くないジョークに、皆が笑い声をあげていたところだった。
「だってそうじゃないか、脚本《ほん》をあんなに勝手にいじられちゃったんだぜ。坂巻さんは突然殺されちゃうし、オレはさ、レイプまがいに年上の女に迫って揚げ句の果てはふられるんだからさ、もうめちゃくちゃだったよ」
「それは、私の脚本家としての腕が足りなかったからよ。役者さんにそういうこと思わせちゃ失格よね」
「そんなんじゃないよ。オレたち局のやり方にかなり腹を立ててたんだ。その証拠に今日は坂巻さん来てないじゃないか」
池田浩一役の坂巻優一は、京都撮影所にいるということで欠席していた。が、打ち上げパーティーにはかなり無理しても出席出来るようにと、マネージャーや事務所がスケジュールをやり繰りするものだ。やはり坂巻は途中降板させられたことに腹を立てているに違いない。
ドラマの筋立てが大きく変わり、かつてバブルの寵児《ちようじ》と呼ばれた池田浩一はビルの非常階段からつき落とされ死亡することになっている。よって回想シーン以外、池田役の坂巻の出番は無くなってしまうと文香とディレクターが説明にいった際、
「まあ、テレビの世界ではたまにあることだし、他に仕事も入っているから」
と一応了解してくれたという。ところが降板をめぐって、一部の週刊誌があれこれ取り沙汰《ざた》し始めた頃から坂巻はとたんにむくれてしまった。視聴率不振の原因が坂巻にあり、その責任をとってドラマの中で殺されなければならなかったと、面白おかしく書きたてたところがあったからだ。
「はっきり言って、ドラマのテンポは途中から変わっちゃうしさ、登場人物のキャラクターも別人みたいになっていったんだから、演《や》りにくくて仕方なかったよ」
「だからね、それはね、私の力不足なのよ。皆さんには迷惑かけたと思ってるわ」
文香の耳に聡の言葉はとうに届いているはずであるが、賢い彼女はひたすら絵里子のお喋《しやべ》りに耳を傾けているふりをしている。
打ち上げパーティーというのは、間違いなく「祭りの後」で、この時俳優やスタッフたちの鬱積《うつせき》が爆発することも多い。共演中憎からず思っていた男と女が関係を結ぶのも、この打ち上げの夜と言われている。誰もが熱さを持て余し、何かにぶつける夜だ。
絵里子がやがて、有名女性脚本家の噂話を始めた。彼女が同性愛の趣味を持っていることを、この世界で知らない者はいない。よって彼女のドラマに起用される女優のほとんどは、お手つき≠セと言われている。絵里子の話によると、その中に若い人気女優が加わったという。最近では珍しいほどの古典的|美貌《びぼう》で、CMでもめきめき人気が出ている女優だ。
「私、その話、聞いたことがある」
愛がいかにも嬉《うれ》しそうに大きく頷《うなず》いた。
「あのコ、男の人との噂がいっさい立たないのはレズだからって言ってたわ。ラブシーンやベッドシーンをやらないのはそのためだって」
「いいわよねえ、レズならば週刊誌やワイドショーに追っかけられることもないし、ずうっと清純派で通るんだからさあ」
絵里子はくっくっと笑って、自分でグラスにワインを注いだ。他の人々もかなり酔っていたから、もう気を遣ったりはしない。
「ねえ、もう出ようよ」
「えっ」
瑞枝は驚いたように顔を上げたが、聡がこの店に戻ってきたのは自分を誘うためだったという気がずっとしていた。
「この近くにいい店があるから、二人で飲みに行こうよ」
いきなり腕をとられ、彼と一緒に立ち上がっていた。
「あのさ、オレたちちょっと抜けるけど、すぐに戻ってくるから」
「なんだよ、沢野さんを口説く気かよ」
ディレクターの一人が軽口を叩いた。
「そういうこと。成功したら戻ってこないから、その時はよろしく」
おお頑張れよ、若い人は元気ねえ、などというさまざまな声に送られて二人は外に出た。こういうことに照れたり困惑するほど瑞枝は若くもなかったし、純でもなかった。中座するときは残っている人々に、この程度のサービスをするのは当然であろう。とはいうものの聡の沈黙が長過ぎた。表通りまで聡はただ黙って歩く。時折すれ違う若いOLなどが、久瀬聡だとささやくから、瑞枝は気が気ではない。こういう風に顔が知られた相手だと、すぐにどこかの店に入ったほうがずっと気楽だというものだ。
防衛庁の前に出た。乃木坂の方に向かっていく。人通りはぐっと少なくなった。
「随分遠くまで行くのね」
聡はやっと口を開いた。
「瑞枝さん、腹|空《へ》ってるだろ」
確かにそうだ。パーティーでは飲んでばかりで、ろくにものを食べていない。
「韓国人のおばさんがやってる、すごくうまい店があるんだ。オレがよく夕飯食べに行くところ」
裏道でもしゃれた店が建ち並ぶ乃木坂に、よくこんな店が残っていたと感心するような木造の二階建てであった。引き戸を開けるといきなりカウンターだ。おばさんといっても四十半ばの女が、何かを煮ている最中であった。端の方には二組のサラリーマンがいて、ひっそりと酒を飲みかわしている。
「久しぶりだね、忙しかったの」
女は全く訛《なま》りのない声で話しかけてくる。韓国の女特有の透きとおる肌をしていて目が大きい。美人といってもいいぐらいだ。それなのに聡はおばちゃん、おばちゃんと連発する。
「ビールね。いつもの煮物とサラダ、それから後はジョンを焼いてよ」
「焼き肉は出ないの」
「そういうことを言うと、おばちゃんに怒られるよ」
聡はおかしそうに笑った。
「おばちゃんはさ、韓国料理っていうとすぐに焼き肉、焼き肉って言われるのに頭に来て、この店を始めたっていう人だもの。ここは韓国の家庭料理だけで、焼き肉なんか絶対に出さないよ」
「そうなの……」
突き出しの白和《しらあ》え、大根と牛肉の煮物などがカウンターに並べられた。大蒜《にんにく》の味が日本のものとは違うが、肉の旨《うま》みが大根にしみていて旨い。二人はビールで乾杯した。
「お疲れさんでした」
「聡君、本当にどうもありがとう」
さっきからずっと飲んでいるのに、あらためてアルコールが体に浸《し》みわたっていく。主演の俳優たちと一緒で、やはり緊張し続けていたのだろう。このビールでいっきに酔ってしまいそうだと、瑞枝は心の隅で赤信号を出した。
「でもまだ、ご苦労さんじゃないかもしれない。放送がまだ三回残ってるもの。ここでずっこけたら今までのことがおじゃんだわ」
「大丈夫だよ。ここまできたら数字は上がることがあっても下がることはないよ。最初の頃は正直言ってひやひやしたもんなあ。シングルになるのも時間の問題だって言われた」
何度も脚本を書き直させられた。主人公のかつての夫を殺すという大がかりな変更をしたが、それと同時にきわどいシーンもたっぷり入れるようにしたのだ。絵里子が演じた年上の女を慕う聡が、強引に彼女に迫っていくシーンもそのひとつである。ソファに押し倒し、ブラウスをひき裂かせた。ディレクターはこれに粘っこい演技をつけ、最後にはスカートに顔を埋めさせたりもした。絵里子も聡もプロの俳優であるから、こういうことに文句をつけず、この回から視聴率は上がったものだ。けれども彼はそのことを決して快く思っていないらしい。
「オレさ、もう文香さんのドラマには出たくないよな」
「あら、そうなの」
「文香ってさ、綺麗《きれい》な顔をしてるけど、結構きつい性格だよね。いくら数字を取るためだって言ってもさ、脚本はめちゃくちゃ変えるわ、無理なスケジュールつくるわ、あの手この手使うもんな。相当あざといって評判だよ」
「あのね、女であの若さで、プロデューサーやるっていうことがどんなに大変かわかるかしら。あざといって言われるぐらいじゃなけりゃ駄目なのよ」
「だけどさ、あの女、途中で脚本家替えようとしてさあ……」
「ストップ!」
瑞枝は掌《てのひら》で聡の口を塞《ふさ》いだ。
「それ以上言わなくてもいいわよ。文香さんと私、これからまた一緒に仕事をしていくかもしれないし……」
不思議な感触があった。聡の口を封じようと押しつけた掌に、温かくやわらかいものを感じた。なんと聡は唇だけではなく、舌をあて動かしているのだ。驚いて手を離そうとした瞬間、手首をつかまれしばらく固定される。瑞枝の指の上からのぞく聡の目と、瑞枝の目とがからみ合った。そして手首がはずされる。瑞枝は自分の左手をカウンターの下でそっと見る。掌の感情線のあたりにねっとりとした唾液《だえき》がついていた。それをストールの端で拭《ぬぐ》った。
「日花里が……」
瑞枝はもう一度ビールのグラスに口をつける。
「日花里があなたに夢中なのよ。いろいろ構ってくれているみたいでありがとう。あの子とっても喜んでるのよ」
「お礼を言いたいのはこっちの方だよ。あの年頃の女の子って本当に面白くってさ、こっちが遊んでもらっているっていう感じかな」
「今にあの子、あなたと結婚したいって言い出すんじゃないかって思うぐらいよ」
聡と一緒になって笑いたかったのであるが、彼はそうしなかった。真面目な顔つきにさえなる。
「あと八年待ってくれたら、それもアリかもしれないな。日花里ちゃんすごい美人になりそうだものな……。えーと日花里ちゃんが十八歳、オレが三十七歳かあ……。そんなにへんな組み合わせじゃないよな」
「馬鹿なこと言わないで。自分もちゃんと結婚して子どもを持つことを考えたらどうなの。そっちの方がより現実的ってもんでしょう」
思わず声を荒らげていた。
「なんかおっかないな。もちろん冗談ですよ。いくらオレだって、そんな淫行《いんこう》まがいなこと考えるわけないだろう」
「私だって本気で怒ってるわけないわよ。ただ母親として、娘をそんな風な目で見られるのは嫌なのよ」
「へんなの。結婚なんて突然言い出したのはそっちだろ」
いつか日花里が口にした、
「お母さん、ヤキモチを焼いているみたい」
という言葉が、何かのはずみで生々しく甦《よみがえ》ってくる時がある。もしかすると自分は折を見て娘を笑い者にしようとしたのではないだろうか。母と娘といっても、やることは女同士の嫌がらせと変わりない。
やがて女が次々と料理を並べ始めた。ジョンと呼ばれる韓国風ピカタもうまかったし、胡麻《ごま》が入ったサラダも残さず食べた。最後にオックステールのスープを二人で分け合って食べ終わると、瑞枝は満腹のあまり身動き出来ないほどであった。
「ああ、こんなに食べたのは久しぶりだわ」
思わず下腹をさすり、中年女独得のポーズではないかとひとり赤くなった。
「さあ、次の店に行こう」
「さっきの店に戻るんでしょう。でも多分すごく大蒜くさくなっているはずよ。嫌がられないかしら」
「だからもう一軒、別のところへ寄っていこうよ」
交差点の手前を右に折れた。しばらく歩くと左手に巨大なディスコが見える。バブルがはじけた後につくられたもので経営が危ぶまれていたが、タクシーが停まり黒服に迎えられて、次々と客がこれまた大きな階段を上がっていく。
「ディスコなんて嫌よ。もうお酒と食べ物をさんざん入れて、体が動かないわ」
「そんなところへ行きはしないよ」
しばらく行くと道は急に細くなる。六本木は不思議な街で、大通りを一本入ると突然いきどまりの路地があったり、墓場が広がっていたりする。その道も無理やり開発されて取り残されたような場所だ。しもた屋の民家が続き、シャッターを下ろした小さな酒屋があった。この先は中規模のマンションが幾つかあるだけだということを、瑞枝は知っている。
「ねえ、どこへ行くの」
「オレがいちばん行きたいところ」
聡は瑞枝の腰を引き寄せキスをする。舌を乱暴にからめてくる。確かに大蒜のにおいがする。二人で同時に食したものだから甘い官能的なにおいだ。瑞枝は思い出した。この細い道の左手を折れると、ホテルがある。六本木に古くからあるその種類のホテルだ。場所柄かなり高級といってもよい。瑞枝も二、三度行ったことのあるホテルだ。
「瑞枝さん、いいだろう」
「何がよ」
「オレがいちばん行きたい場所に、一緒に来てくれるだろう」
「あなたが行きたくたって、私が行きたいとは限らないじゃないの」
「でも来てくれなきゃ嫌だ」
何日か前の高林の誘いと比べている自分に気づいた。やわらかく懇願していく四十代の男と違い、聡は若さをむきだしにする。まっすぐに突き進むことがいちばん効果的と知っている、知恵のある獣の狡猾《こうかつ》さだ。
「酔っぱらってこういうことをするのって、いちばんよくないと思うわ。さあ、さっきの店に帰りましょう」
瑞枝は余裕を持って、この男の策略をしばらく楽しむことにした。若く美しい男が、こうしてはっきりと自分に迫ってくるというのはやはり嬉《うれ》しい。快感が湧いてくる。問題なのは、この快感をどの程度にまでしておくかということである。男を軽くいなし、キスまでにとどめておくのは大人の分別というものであろう。が、この場合快感は発火までせず、やがて燻《くすぶ》ってくるに違いない。そうかといって、このまますんなりとホテルへ入り、快感を全開させることには抵抗がある。高林と結ばれたのはつい最近のことなのだ。二週間の間に、二人の男と食事をし、その帰りにホテルへ行くなどということは、やはりしてはならないことであった。
が、何のために。瑞枝の中でささやく声がする。アルコールと満腹感によってもたらされる、あの気だるい奔放な声だ。二人の男と寝たとしても、それをいったい誰が知るというのだろうか。自分は罪悪感を抱くほど片方の男を愛しているのであろうか……。
瑞枝は沈黙する。その心の隙と半ば開いた口腔《こうこう》をめがけて、聡は強引に舌をねじ入れてきた。大蒜《にんにく》のにおいがさらに強くなった。これを嫌う人がいるというのは不思議だ。自分が食べたものであれば、これほど豊かでやさしいにおいはない……。
「ね、ね、いいだろう」
唇を離して聡は言った。
「言うことを聞いてくれなきゃ嫌だ」
年上の女とつき合っていたという噂は、本当だったのだろう。駄々っ子のように攻めてくる。しかしそれは確かに耳に快い。
「あんなところへ入ると……」
瑞枝は言った。
「あなたみたいに顔を知られているのは大変よ。有名人はそんなことをしちゃ駄目よ」
「馬鹿言ってらあ、そんなこと関係ないだろ」
瑞枝は左の手首をつかまれる。ひきずられるというのではない。瑞枝はきちんと自分の足で歩き、ホテルの入口をくぐる。
心配しているようなことは何ひとつ起こらなかった。入口でも廊下でも、二人は誰とも出会わなかった。すんなりと鍵《かぎ》を渡され、エレベーターに乗る。
聡は瑞枝の手を握ったまま鍵を開ける。ドアを開けたとたん、冷気が二人を包む。前の人間の気配やぬくもりをすばやく消そうとでもするように、強過ぎる冷房がかけてあった。瑞枝は寒いわ、と言い、調節する器械は無いものかとあたりを見渡した。
この種類のホテルに来るのは何年ぶりだろうか。結婚する以前の若い頃、当時の恋人と何度か利用したことがある。このホテルも経験済みだ。六本木という土地柄と料金が高いこともあり、落ち着いたしつらえになっている。派手《はで》な柄の布団と、大きなビデオ装置が普通のホテルと違っているところだろう。
「あ」
瑞枝は後ろから羽がいじめされた。逃れようとしたが若い男の力にかなうはずはない。聡はぐいっと瑞枝の首を人形のそれのように扱う。やわらかい素材で出来ていて、自分の意のままに曲がることが可能だと思っているようだ。後ろにまわされ、激しく唇を吸われた。その間、聡の両手はしっかりと瑞枝の胸をつかんでいる。首の後ろと乳房に痛みを感じた。快楽と紙ひと重の粘っこい痛みである。
「ちょっと待って……」
つかの間の自由を許された唇で、瑞枝は早口になる。
「シャワーを浴びさせてよ」
「嫌だよーっと」
奪った帽子を返さないと頑張る小学生のような口調である。
「今すぐでなきゃ嫌だ」
再び唇が塞《ふさ》がれた。今度は腰を強くつかまれ、瑞枝は体のバランスを失う。よろけたとたん膝《ひざ》にベッドの縁を感じた。そのまま実に上手に瑞枝と聡は布団の上に倒れ込む。
まず太ももに冷気を感じた。ワイドパンツとストッキングが脱がされていくのがわかった。この若い男は、胸よりもまず下半身をむきだしにしようとしているらしい。
「電気、暗くしてよ……」
この願いも拒否されるかと思ったがそんなことはなかった。瑞枝の閉じた瞼《まぶた》の裏に闇が降りてくる。瑞枝は安堵《あんど》のあまり少し脚をゆるめた。
今度は胸に冷気がやってくる。聡は若い男の性急さを見せた。ニットは全部脱がされることはない。たくしあげられたまま愛撫《あいぶ》が始まった。当然のことであるが、指も舌も、その動かし方は高林と違っていた。ほんの些細《ささい》な違いであるが、それは瑞枝に多くのものをもたらす。
瑞枝の体に時々痛みが走る。聡が歯をたてるからである。多分、皮膚のあちこちに痕《あと》が残るはずだ。
その歯が乳房に迫ってきた時、瑞枝はかすかに身をよじった。いちばん年齢が出る部分である。聡は自分に似合った年頃の、果実のような乳房をたくさん知っているに違いない。こうして水平に寝ていても、たっぷりと誇らしく盛り上がる乳房、噛《かじ》るとこりこりと音がする乳房だ。
自分が高林と比べているように、聡も暗闇の中、他の女の感触と比べているはずだ。男と女はこうしてこっそりと、お互いに裏切りをしていくのかもしれない。
瑞枝はあまりにも多くの考えが頭をめぐり、すぐにそこに行きつくことが出来ないと考えた。けれどもそんなことはなかった。やがて聡は瑞枝の中に入ってきた。早いリズムをつくる。女を快楽へ導くよりも、まず自分が楽しもうとするような自分勝手な早さである。それなのに自分でも意外に思うほど、瑞枝は早く達してしまった。まず声が漏れ、それを押さえようと自分の左手の人さし指と中指を口の奥深く入れてしまった。
が、瑞枝の指は、すばやくそれを察した聡に抜きとられる。罪を犯した人間のように、瑞枝の両手は強くシーツに押さえつけられる。よりどころが何もないせつなさに、瑞枝は一層大きな声を上げた。体の自由をすべて奪われているというのに、あの波が押し寄せてきている。
瑞枝の声は悲鳴に近くなる。もしかすると、助けて≠ニ叫んでいたかもしれない。
気づくと聡が頬をぴったりと重ねていた。彼の息も荒く生ぬるい。おそらく同じ時に彼も行くべき場所に駆け上がったのだ。しばらく二人はそうしていた。
「瑞枝さん、好きだよ……」
その後、彼がつぶやいた言葉はごく平凡なものであった。
「すごく素敵だったよ。最高だよ……」
なんと優しい青年なのだろうかと瑞枝は思う。こうして年上の女のために、きちんと言葉をかけ、賞賛を与えようとしているのだ。
「そう、どうもありがとう……」
これほど落ち着いた普通の声は、ベッドの上で出すべきではないと思う。けれども仕方ない。照れがいちどきにやってきたのだ。十分前、自分はあられもない声を出し、自分から大きく脚を拡げていった。反省などはもちろんしていないが、照れというはじらいの感情は少しは起こってくる。
「オレ、瑞枝さんとずうっとこうしたかったんだ。わかっていただろう」
確かにそんな気もするけれど、頷《うなず》くことは憚《はばか》られた。
「知らなかったわ」
瑞枝の声は、次第に昼の色彩を帯びていく。
「そんなことはないよ。オレがずうっと好きだったの、瑞枝さんはよく知っていたはずだよ。オレ、絶対にあんたとこうなるって思ってた……」
「私って、よっぽど好き者に見えたのね」
「違うよ。オレがこんなに好きなの、あんたに伝わらないはずはないと思ってたんだ……」
だからさ、あんなに図々しく瑞枝さんのマンションへ行ったりもしたんだよ。オレは案外気が小さいところがあるから、嫌われたりしたらどうしようかと本当はびくびくもんだったんだよ、と聡は言葉を重ねていく。
彼は声のいい役者と言われているが、全くそのとおりだ。この近さで、シーツにくるまれた温度と湿度を保ったままの声を出すというのはなかなか出来ることではない。瑞枝は耳からの心地よさに酔いそうな自分に、また照れたりする。
「そうなの。私はあなたってロリコン趣味で、うちの日花里がめあてかと思ってたわ」
よせやいと、彼の声のバランスがやや崩れた。
「将を射んとすれば、っていうやつだよ。もちろん日花里ちゃんは可愛くて大好きだけど、他に突破口がなかったんだよ。彼女とうんと仲よくしてれば、そのうちに瑞枝さんと仲よくなれると思ってた」
勝利感など起きるはずもなかった。瑞枝は日花里の年を数えている。今十歳の娘が男を知るのは、あと七年か八年後だろうか。いや、今の子どもだったら五年後ぐらいかもしれない。その時日花里は母親と同じ場所に立つ。男と寝ることが出来ない女は絶対的に不利だけれども、日花里はもうハンディを負うことはないのだ。そうしたら聡は今と同じようなことを言うだろうか。将≠ヘ日花里となり、瑞枝は馬≠ノなる可能性の方がはるかに大きい。
「今日は楽しかったわ」
瑞枝は声のトーンを落とし、男の耳に口を近づける。これはねぎらいの言葉というものだ。以前別のドラマで書いたことがある。年上の女としては、この種類の言葉を口にするのがマナーというもので、相手の男はぐっと気持ちが楽になるはずである。
「私もすごくいい思い出になったわ。今夜は打ち上げパーティーだから、何か楽しいことがあるといいなあと思ったら、それがかなったわけ。聡君、サンキュー」
男の唇に軽くキスをした。けれども聡の唇は反応しなかった。彼の唇は怒りのために強く結ばれている。
「あんたって嫌な女だな」
彼は叫んだ。
「これっきりにするつもりだろうけれども、絶対にそうはさせないからな」
夜が明けるよりも前に家に帰った。
日花里を起こさないよう、ドアを開ける音、歯を磨く音にも気をつけるのだが、娘はこのところ耳ざとくなっている。
「お母さん、昨日は朝四時ぐらいまで起きてたでしょう」
「キッチン行って、何かつくってたよね」
などと口にすることがある。瑞枝が日花里の年齢だった頃は、揺さぶられようと、傍らで呼ばれようとも朝まで目を覚まさなかったものだ。夜中に何度か起きるという日花里が、ある種の鋭さを持っているというのは否めない事実である。まさか聡とのことを気づくはずはないと思うが、これからは言葉の端々まで注意しなくてはならないと、瑞枝はかなり億劫《おつくう》な気分になってくる。
化粧を落とし、ベッドに行く直前、ふと思いついてノート型パソコンを開けた。予想していたとおり、高林からのメールが入っていた。
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今日の打ち上げパーティーはどうでしたか。僕はもちろん経験したことがないけれど、きっと楽しいものでしょう。もしかしたら、うんとお酒を飲んでいるかもしれませんね。
でも明日、僕と会う余力は残してくれていますよね。いつもイタリアンばかりで申しわけないけれども、京都にはあまりイタリアンのおいしい店がないので、ついイタメシということになってしまいます。このあいだの店で七時でいかがでしょうか。もし都合が悪い場合は、携帯の方に電話をしてください。けれども僕をがっかりさせないでくださいね。
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瑞枝はしばらく画面を眺めている。高林と寝た時のことが鮮明に、こと細かに浮かんでくる。不思議だ。たった二時間前、別の男と体をからませていたというのに、彼との記憶はこのメールのようにただちに消却されることはない。
ひどくもの憂くなっている自分に気づいている。露悪的な気分になって、女友だちにこのことを話してみたらどうなるだろうか。瑞枝のまわりに、眉《まゆ》をしかめる女などひとりもいるはずはなかった。それどころか、賛えられ、羨《うらや》ましがられるはずである。
「なんといいことばっかり。いっぺんにツキが来たのね」
などと言うに違いない。
「四十代のいい男と、若くてハンサムな男から迫られるなんて、本当に羨ましいわ」
けれども瑞枝はことのなりゆきを、自分で茶化す気にはなれない。二人の男と自分との邂逅《かいこう》に運命のようなものさえ感じるのだ。自分の過去をドラマに書くことによって、過ぎ去っていったはずの歳月からひとりの男が浮かび上がった。そしてそのドラマをつくる過程でもうひとりの男が姿を現したのである。
それまで全く男性との関わり合いがなかったわけでない。けれどもそれは「情事」という名前がふさわしいものばかりである。彼らは約束もしなかったし、誓うこともなかった。男が自分のことをどう扱おうとしているかは、言葉や肌の手ざわりでわかる。男の帰り方でわかる。女の帰し方でわかる。それに比べて、高林はあきらかに違っていた。もちろん金や社会的地位を持っている男だからそううぶなことはない。けれども心をつくし、手間をかけ、女の心をこちらに寄せようとする真摯《しんし》さは伝わってくるのである。
聡の方はよくわからない。たった今、寝てきたばかりだというのに、若い男の心は計りかねる。
「私は決して淫乱《いんらん》な女じゃない」
瑞枝はひとりごちた。
「二人の男とセックスを楽しみながら、同時につき合うなんてことは出来るわけがない。だからどちらかを選ばなくてはいけないのだ」
そうなってくると高林の方が、望ましい相手と言えるだろう。年齢や経歴による教養や知識は持ちながら、建築家という職業の持つ若々しさやロマンティシズムもたっぷり有していた。一緒にいると楽しいという恋愛の第一関門を、彼はらくらくと越えている。けれどもそれは不倫の相手ならば、という前提がつく。
瑞枝は決して自分を道徳的な女だとは思っていない。事実何人かの妻ある男とつき合ってきた。けれどもまた同じようなことが繰り返されるのかという思いは、一層濃くなっていて、それが瑞枝をもの憂くさせている原因なのである。
といっても、恋愛が始まる時期の、あのうきうきした熱っぽさや、華やいだ感情は今回も発生しているのは確かなのである。瑞枝はパソコンのキイを打ち始めた。
「今、打ち上げパーティーから戻ってきました。はっきり言って午前さまです」
ついでに若い俳優とホテルへ行ってしまいました、と続けたい衝動にふとかられた。相手を嫉妬《しつと》させたいという思いは、やはり愛情が芽生えている証拠なのだろうか。
「やはり脚本を完成させたことで、心も体もはしゃいでいるのでしょう。ひと眠りしたら、いつもの元気を取り戻せると思うので、七時のお約束了解しました。といっても、小さな原稿の締め切りが残っているので、食事を終えたら失礼するつもりでおります」
なんと嫌らしい文章なのだろうかと思った。初めて肌を合わせた男と女が次に会う時なのだ。どちらもそのことしか考えていないはずなのに、瑞枝は先まわりして婉曲《えんきよく》に断ろうとしているのである。が、瑞枝はもっと大きなものを望んでいるのだ。それは四十代の高林が、二十代の聡の積極さで自分を激しく求めてくることである。
その時携帯電話が鳴って、瑞枝は心臓が大きく揺れた。真夜中というよりも、夜明けに鳴る携帯というのは、ひどく人の心をおびやかすものだ。誰かはわかっている。こんな時間かけてくるのは聡に違いない。
「もし、もし、オレです」
高林もそうだ。一回肌を重ねた男というのは、決して名前を口にしようとはしない。
「オレだよ」
「僕だけれども」
という代名詞を使うことにより、自分が女にとってたったひとりの男であることを誇示しようとするかのようだ。
聡は低く言った。
「もう寝ようとしてる頃かなあと思って」
「寝ようとしてるんじゃなくって、寝ているところよ」
瑞枝は意地の悪い声を出した。おそらく聡はいつもこうして、家まで送ったばかりの女に電話をしているのだろう。
「ごめん、起こしちゃったかなあ」
意外なほど素直に聡は謝罪した。
「いいわよ、別に。また寝れば済むことなんだから」
「あのさ、瑞枝さん、今夜は本当に楽しかったよ」
若い女は、こういう場合何と言うのだろうか。私もよ≠ニ甘くささやくのが礼儀なのだろう。瑞枝は応《こた》えない。今何かを言うと、すべてが嘘っぽくなるような気がした。
「信じてくれないかもしれないけど、オレ、前から瑞枝さんのこと好きだったんだよ。前のドラマの時からいいなあと思ってたけど、今度仕事を一緒にしてますます好きになったような気がする……」
「そう、どうもありがとう」
「そういう言い方やめてくれよ。オレは真剣なんだから」
「あのね、年をくってる女ってとても疑い深いものよ。そういう言葉、嬉《うれ》しく思っても本気にはしやしないわよ」
「年をくってるっていっても、オレとたった九歳しか違わないじゃないか」
瑞枝はドラマの十話の会話を思い出している。森岡佳代子と三山陽介とのラブシーンだ。
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陽 介「年上だっていうことで、あなたにひけめを感じさせたりはしない。本当に愛しているんだ」
佳代子「年齢差っていうのはね、雪だるまみたいなものなのよ。ごろごろころがっていくうちにどんどん大きくなっていくものなの。愛情だけではどうしようもならない。私はそれがわからないほど馬鹿じゃないわ」
陽 介「馬鹿になったっていいじゃないか。二人でどんどん阿呆《あほう》になって、他人に笑われるぐらい愛し合おうよ。うんと馬鹿になって幸せになろうよ」
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かっきり七時に瑞枝はイタリアンレストランの扉を押した。予想していたとおり、高林は既に来ていた。いつものように変わり衿のシャツを着ているが、新しいものだろう、青味を帯びるほどに白い。その白さが彼の心意気を表しているようである。
「先日はどうも」
「いいえ、こちらこそ」
二人はぎこちなく頭を下げ合った。このあいだのように、高林が主導権を持ちメニューが決められていく。
「前菜はルッコラのサラダでいいとして、パスタはアラビアータはどうですか。この店はこれが売り物ですから」
「アラビアータって、あの大蒜《にんにく》と唐辛子が入った辛いやつよね」
「瑞枝さんは大蒜が嫌いですか」
「そんなことはないけれど……」
ここに来る前、瑞枝は口臭止めの錠剤を飲んできた。昨夜聡と食べた韓国料理の名ごりはかなり強烈だったらしく、日花里に、
「お母さん、何食べてきたの。すごく大蒜くさいよ」
と悲鳴を上げられたばかりである。大蒜のにおいは、今の瑞枝にとって情事の残滓《ざんし》、精子のにおいに他ならない。いっぺんに二人の男と関係を持つというのは何と大変なことなのだろうかと、瑞枝はため息をつきたいような気分になってくる。
「私、アラビアータはやめておくわ。クリーム味のソースのものにします」
「そうですか。じゃ僕がアラビアータをいただこう」
この後、店を出た時点で高林はキスをしてくるに違いない。二日続けて自分は、大蒜のにおいがする男の唇を受けることになると瑞枝は思った。
メニューが決まったところで、二人は白ワインで乾杯をする。ドラマの打ち上げおめでとうと言った後で、高林は「僕たちのために」と小さな声で付け加えた。
「今度ぐらい、東京に来るのが待ち遠しかったことはなかったよ」
彼は瑞枝を凝視する。その目の中にはひたむきさがある。若い聡と変わりないほど強い光だ。四十代の男がありったけのものを込め、自分を駆り立てようとしているのがわかる。高林は今、幸福なはずだ。瑞枝は自分がまだ、男にこんな幸福を与える力が残っているとは思ってもみなかった。瑞枝はようやく張りつめていた心がやわらぐのを感じる。
男に幸福を与えることの出来る充分に美しい女、それが私なのだ。
「私もそうかもしれないわ。メールを貰《もら》うの、とても嬉しいから」
にっこりと微笑んだ。高林がまぶし気にまばたきをする。
店を出たところで、予想していたとおり高林は瑞枝の肩に手をかける。唇を重ねてきた。かすかな大蒜のにおいは、やはり聡を思い出させた。昨夜の大蒜臭はもっと強烈で、汗のにおいが混じっていたはずだ。
「今日も……」
高林はささやいた。
「僕のところへ来てくれるだろう」
瑞枝は首を横に振る。自分でも意外なほどとっさにその動作が出た。
「今日は都合が悪いのよ」
「そうか、アレなんだね」
高林が優しげに頷《うなず》いたので、瑞枝はかすかな嫌悪を感じた。時々こういう男がいる。女と関係を持ったとたん、生理日のパターンを頭の中に記憶させようとするのだ。高林は自分との性関係をいち早く日常化しようとしているのだと瑞枝は思った。
「じゃ、もう一軒飲みに行こうよ。近くに僕の大好きなバーがあるんだけれども」
「メールでも言ったとおり、今日は仕事がたまっているの。娘もずっとほったらかしにしていたから、今日ぐらいは早く帰らなくっちゃ」
「でも、僕といる今日ぐらいは、ゆっくりしたっていいじゃないか」
高林の反論に瑞枝はかすかに笑った。それに勇気を得たようで、高林は瑞枝の手を強く握る。
「ねえ、何か怒っているの」
「そんなことはないけれども、ことがあんまり性急に進むからとまどっているのかもしれないわ」
「だって恋っていうのは、いつも性急なものでしょう」
この男は自分が考えているよりもはるかにロマンチストだと、瑞枝は高林の顔を眺める。もちろんロマンチストでなければ、こんな風に女のことを口説けるはずはなかった。
「だって私たち、十年以上前から知り合っているのに、それが最近になって突然いろんなことが起こるから、ちょっとびっくりしているの」
「仕方ないよ。あの頃君は人の奥さんだったんだから」
高林は再び瑞枝にキスをする。
「いいさ、僕たちにはたっぷり時間があるんだ。ゆっくりやっていこうよ」
このあいだと同じように、二人の目の前にゆっくりとタクシーが現れた。瑞枝は手を上げてそれを停める。
「じゃ、ゆっくり体を休めてね」
高林が窓の向こうで小さく手を振った。瑞枝は深くシートに身を沈める。かろうじて二日間の間に、二人の違った男と寝るという事態だけは避けることが出来たのだ。自分は決して道徳的な女ではない。が、少なくとも美意識だけは持っていたらしいと瑞枝は少々|安堵《あんど》する。
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第十二話 最終回
連続ドラマの最終回を、脚本家はさまざまな形で見る。プロデューサーや主演俳優たちとホテルのスイートを借り切り、パーティー形式で見る者もいれば、たったひとり自分の部屋で見るという者もいる。どちらかといえば後者の方がほとんどだろう。
テレビの前のソファには、いつのまにか日花里が陣どっていた。最初の頃、きわどいラブシーンがあったため、瑞枝は娘と一緒に見ることを避けていたのであるが、今日の分はどうということもないだろう。瑞枝の中には、最終回の原稿がしっかりと残っている。
回想シーンとして、華やかな祇園《ぎおん》の夜の光景が出てくる。芸妓《げいこ》や舞妓《まいこ》たちに囲まれ賑《にぎ》やかに酒を酌《く》みかわす男たちがいる。あの頃週末となると、新幹線を使って東京から遊びにやってきた東京の男たちである。その中心に池田がいる。このあたりはどぎついほど呆《ほう》けた演出がされている。そしてその間に二つの場面が挿入され、最後は池田の死後、彼のビルが取り壊されるというシーンになるはずだ。森岡佳代子、佐々木奈美といった、かつて彼を愛した女たちが集まってくる。そして過去ではなく、未来の夢を語って女たちは散り散りになる。カンパケと呼ばれるビデオは既に見ているが、やはりテレビの画面で実際に見るのとは印象がまるで違う。
連続ドラマ「マイ・メモリー」は、わずかずつではあるが視聴率が上がり、前回はついに一五パーセントを記録した。二〇パーセントを超すドラマが幾つかある中、手放しで喜べる数字ではないが、一五といえば誰しもが成功≠ニいうはずである。再放送やビデオ化も決まりつつあり、瑞枝の元には脚本料以外にも決して少なくない金が入ってくることになっている。まとまった金が入ってくるということは、瑞枝の気持ちをどれほど穏やかにしていることだろうか。昨年の暮れ、シナリオライターの学校の講師をしようか、やめようかと悩んでいた時とまるで心持ちが違う。
聡とのことは、仕事上全く起こり得ないことではなかったかもしれないが、あの時の自分だったらおそらく高林のことは受け容《い》れなかったはずだ。子どもを抱え、女ひとりで頑張っている自分を見くびっているのかと、いらぬ邪推さえしたかもしれない。
瑞枝は冷蔵庫から缶ビールを取り出す。やはりこのドラマの最終回を見るにあたっては、さまざまな感情がわき起こるはずだ。九時半からのニュースが終わり、長いCMが始まった。インターフォンが鳴る。すばやく受話器を取った日花里が告げた。
「久瀬さんだよ。今下に来ているんだって」
久瀬が玄関まで来ているといっても、瑞枝はそう驚かなかった。ドラマの最終回が放映されるという最後の日、彼ならばきっと強引なことをするだろうと、ちらりと考えたことがあったからだ。
日花里は当然のことのように、入口のオートロックを解除した。
「こんばんはー、お邪魔します」
わざとらしいほど賑やかな聡の声がした。日花里と玄関で何やらふざけあっている。やがて日花里は、白いスーパーの包みを持って居間に戻ってきた。
「久瀬さんがこれ、冷蔵庫に入れといてくれって」
「お祝いのお夜食の材料」
すぐ続いて聡が顔を出した。しばらく会わない間に髪を少し短くしている。今の流行なのだろう、前髪を片方だけ垂らしているのも彼にはよく似合っている。瑞枝を見て微笑んだが、真っ白い歯のせいで共犯者の卑しさはない。単純に会ったことの嬉《うれ》しさに溢《あふ》れている。
「さあ、早く座ってよ。もうドラマが始まるわ」
瑞枝はいつもどおりそっけなく言ってソファを指さした。
「ビールなら冷蔵庫の中に入ってるから勝手に飲んでよね」
「サンキュー、いただきます」
日花里をはさんで三人、テレビの前に座った。思っていたよりも居心地は悪くなかった。
やがて聡が登場すると、日花里が小さな声で「カッコいいよ」と顔を見上げた。聡が演じる三山陽介は、佳代子を慕う年下のエリートサラリーマンという設定である。甘い端正な顔立ちにもかかわらず、聡はスーツ姿がさまになっていて、決して水商売のようには見えない。踊りやスポーツで鍛えた、がっしりした肩幅のせいだろう。
佳代子は陽介のプロポーズを断り、子どもを連れてニューヨークへ転職することを告げる。
〈シーン6〉昼・高層ビルの中庭
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佳代子「三山君、本当にありがとう。あなたが私に自信を与えてくれたの。私でもまだ男の人に愛されることを教えてくれた。それが私にとって、生きる力になったの」
陽 介「それって、僕はまるでアテ馬じゃないか」
佳代子「バカね。アテ馬っていうのは、他に男の人がいる時に使う言葉よ」
陽 介「いずれにしても、僕はとても損な役まわりだったってわけだ」
佳代子「どうして。私は今まで男の人でこれほど感謝した人はいないわ」
陽 介「感謝しても、愛してくれるわけじゃない……」
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日花里が「これ、くさいセリフ」とつぶやき、聡はシーッとたしなめた。
磊落《らいらく》さを最初装っていたが、自分が出ているシーンとなると、聡の顔に厳しさが漂う。本番の最中、モニターでチェックしている時と全く同じ表情だ。自分の演技はもちろん、照明の具合、演出などを確かめているのである。
が、中のCMが終わった頃から、ようやくリラックスしたらしく、軽口を叩《たた》き始めた。回想シーンの祇園での場面となると、ちぇっちぇっとしきりにつぶやく。
「いいよなあ、こういうロケがあって。オレなんかたいてい、お台場のビルの中をいったり来たりだったもんなあ」
「今度|演《や》る時は、お金持ちの役がいいわね」
瑞枝は笑った。
「ついでに好きな人と、ちゃんと結ばれる役にしてくださいよ、先生」
ふざけた口調の中に聡は深い暗号を込めてきたが、日花里の手前、瑞枝は無視をする。
やがて最後のシーンになる。渋谷でロケをした。取り壊されるビルを探して、ディレクターがあちこち歩きまわったというが、その甲斐《かい》があって街中のいい絵が撮れている。
池田は死に、彼が絶頂の頃建てたビルも銀行の手によって取り壊されることになった。それを眺めている佳代子。いつのまにか奈美が傍にいて立っている。奈美の子どもが、実は池田の子どもとわかり、奈美の夫は殺人を犯した。けれども彼女はわびることはない。なぜなら佳代子は、もはや池田の妻ではないからである。彼をかつて愛した女ということで、今や二人は同じ立場にいる。
〈シーン62〉昼・繁華街の一角・工事中のビルの向かい側
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奈 美「これで何もかも失くなってしまうのね」
佳代子「ビルが失くなるのも、人が死ぬのもあっけないもんね」
奈 美「あの人って、結局何も残さなかった」
佳代子「そんなことないわ。私にも、あなたにも子どもをひとりずつ残してくれたじゃないの」
奈 美「でもそれだけじゃ淋《さび》し過ぎる。私ね、またあの時代が来ればいいな、って思うことがあるの。あの時、本当に楽しかったもの」
佳代子「そんなのは無理よ。タイムマシンがない限りはね」
奈 美「年をとるってやっぱりつらいわ。過去のことばっかり思い出すのよ」
佳代子「私思うの。どんな人にも青春があるみたいに、この国にも青春があった。いいえ、青春っていうよりも、大人の最後の輝きかな。私たちの青春とこの国の輝きがぴったり合った時があったのよ。だから私たちは過去にこんなに固執してしまう運命を背負ってしまった。でももうそれは忘れなきゃ」
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瑞枝の目から、突然熱いものが流れ始めた。
どうしたことだろう、この最終回は既にビデオで見ている。最後のシーンは、二度ほど書き直しているから、ほとんど空で言えるほどだ。それなのに瑞枝の目から、涙が流れ落ちもう止まることはない。
「どうしちゃったのかしら、私」
急いでティッシュペーパーをとり、ちんと鼻をかんだ。不安そうにこちらを見ている日花里の顔がある。子どもの前で泣くなどというのは、今までしたことがない。
「自分でも泣けてきちゃうぐらい感動的なセリフ書いたのね。たいしたもんだわ、私」
おどけて取り繕おうとしたのであるが、まだ涙は止まらない。かえって白々とした空気が拡がるだけであった。
「あっ、オレさ、お好み焼きつくろうと思ったんだけど、紅生姜《べにしようが》買い忘れてきたよ」
聡が突然、突拍子もないほどの大声を出した。
「ちょっと買いに行きたいんだけどさ、近くのコンビニ教えてくれないかな」
日花里ではなく、瑞枝に向かって言っている。
「日花里ちゃん、ちょっとお母さんを借りてもいいかな」
「いいよ。もちろんだよ」
日花里もことの事態を察したらしい。こっくり頷《うなず》いた。瑞枝はといえば、ただぼんやりとしていた。涙は後から後から出てくる。これを止めるためには、とにかくテレビの前から遠ざからなくてはいけないということだけがわかった。何のためらいもなく、聡の後を従《つ》いていった。玄関を出る時、ハンドバッグと一緒にティッシュの箱まで抱えた。
来客用の駐車場スペースに、先日見たベンツのワゴンが停まっていた。そこの助手席に座ったとたん、さらに激しい感情に襲われ、瑞枝は声をたてて泣いた。娘の前では決して出せない獣のような声が出た。
どのくらいたったのだろうか、顔を上げるとまっすぐにフロントガラスを見ている聡の横顔があった。
「そろそろ、車出してもいいかな……」
「紅生姜を買うためにね」
自分で言い、その語感のおかしさにふっと笑ってしまった。
「泣いたり、笑ったり、忙しい人だね」
「仕方ないわよ、このドラマ、特別だったもの。数字が上がらなくて筋立て変えたり、人を殺したりって、いろんなことをしたなあと思い出したら、どうにも涙が止まらなくなってしまったのよ」
「気持ちわかるよ。よかったら、もうちょっと泣けば。気分がすっきりすると思うよ」
車は高速のランプに向けて走っていく。
車の中で瑞枝は喋《しやべ》り続ける。
「私、やっぱりこの仕事はつらかったかもしれない。自分では意地でもそんなことはないって頑張っていたんだけれども、佳代子と私とが、ぴったりと重なってこちらを責めてくるの。最後のシーンのセリフ、自分で書いたのに、こちらの胸をぐんと射してくるの」
「私たちの青春とこの国の輝きとがぴったり合った時があった。だから私たちは過去にこんなに固執してしまう運命を背負ってしまった、っていうやつだね」
「一回見ただけでよく憶《おぼ》えられるね」
「一応役者ですからね」
車はお台場を降りた。この近くにいつもロケで借りていたビルがある。佳代子と陽介の勤務先という設定だ。そのビルを通り過ぎ、日航ホテルの方へと向かう。週末はカップルでにぎわうこのあたりだが、平日とあって行きかう車も少ない。現代建築の粋を凝らした建物が並ぶ未来都市は、闇と静けさに包まれている。建設中のビルの傍で聡は車を停めた。木立ちが途切れた向こうに海が見える。レインボーブリッジのあかりが、半分だけの腕輪のように輝いていた。
「ここでだったら、思いきり泣けるよ」
「そんな風に言われて、泣ける人がいるのかしら」
けれども鼻水と共に、涙が再びゆっくりと頬を伝わってきた。瑞枝はティッシュペーパーを取り出す。
「不思議ね。若い時っていうのは思いきりわーって泣くと、もうそれっきりカラッとしてしまうのに、年をとると涙はいくらでもだらだら出てくるの。我慢して涙を貯め過ぎちゃうせいかしら」
「いつものあんたのよくない癖だよ。自分のことを年寄りみたいに言うのってさ」
「あなたも三十代後半になったらわかるわよ」
瑞枝の喉《のど》から叫びのような声が出た。
「とてもつらいわ。つらいのよ。まだ若さはかなり残っている。だから自信や自惚《うぬぼ》れを完全に捨て去ることは出来ない。だけどね、もう昔みたいなことは起こらないってわかってる。だからつらいのよ」
「昔みたいなことって、こういうこと?」
聡は瑞枝に向き直る。幼い少女にするように瑞枝の前髪をゆっくりとかき上げる。額を男の手でむき出しにされると、女はもう抵抗することは出来ない。素直に男の唇を受けた。
「あんたは素敵だよ、綺麗《きれい》だよ。これからだってあんたにキスをする男はいくらでも出てくるよ」
「でも本気じゃないわ。三十女にするキスなんて、その先が見えているわ」
「どうしてそんなことがわかるんだよ」
聡の声は怒りのためにくぐもっている。
「あんたはいつだって、自分で自分をおとしめるようなことを言う。もう若くないとか、もうオバさんだとか言うけどさ、それって違うよ、とか、そんなことないって他人に言ってもらいたいだけなんだよね。あんたってすごく嫌な女だよな」
「嫌な女のところなんか、来なければいいじゃないの」
「好きになったんだから仕方ないだろ」
再び聡の手が伸びてきた。髪に触れるのかと思ったがそうではなかった。瑞枝の乳房はわし掴《づか》みにされる。同時に唇を吸われる。さっきのいとおしむようなキスとはまるで違う。聡の前歯が、瑞枝のそれにあたってちかちかとかすかな音を立てた。舌と一緒に唾液《だえき》が瑞枝の口腔《こうこう》に注入される。それだけでは終わらない、前戯としてのキスだ。やがて聡の手は、乳房から瑞枝のウエストまで降りてきた。そしていっきにスピードを早め、スカートをたくし上げた。
「ちょっと待ってよ」
瑞枝は聡の唇から逃れ、やっと言葉を発した。
「まさかここでするつもりじゃないんでしょうね」
「そんなことわかんないよ」
「やめてよ。あなただって一応有名人なんでしょう。こんなところでカーセックスなんて出来るはずないわよ」
いくら人通りがないといっても、時おり車のヘッドライトが二人に光を投げかけていく。瑞枝は聡の無軌道さに呆然《ぼうぜん》としてしまう。
「私たち紅生姜を買いに来たんでしょう。それがどうしてこんなことになるのよ」
「わかんないよ。あんたが泣くからいけないんだよ」
「泣いてる女を見たら、したくなるなんて、あなた、ちょっと変態じゃないの」
聡はもう何も言わず、瑞枝の体に自分の重さをかけてくる。瑞枝の頭は窓ガラスに押しつけられた。車の中でそんな姿勢は出来るはずはないと思ったのだが、瑞枝の脚は可能なほどに拡げられていく。片方の足はシートの布のやわらかさ、もう片方はダッシュボードの固さを感じている。
ズボンのジッパーを下げる音がした。聡は本当にそうしようとしているのだ。
瑞枝は何年か前、ドラマの中でこうしたシーンを書いたことを思い出した。車の中で別れ話をしていた若いカップルが、突然仲直りということになり、その場で愛しあうのだ。脚本《ほん》読みの後、何かの折に雑談していた時だ。当時人気絶頂だった主演の若い女優が、
「私、カーセックスってあんまり好きじゃない。だって痛いんだもん」
と口走り、皆が苦笑いしたことがある。
角度を確認しようとしているのか、瑞枝の上半身は何度か上下させられる。やがてやや体を倒した体勢になった。
「もう、やめてよ……」
最後に抵抗したが無駄であった。いつ人が通りかかるか、車のライトに悪戯《いたずら》されるかと瑞枝は気が気ではない。そのことを聡もわかっているらしく、瑞枝の上半身は脱がされることなく水色のカットソーはそのままだ。ワゴンの車体が高いことを計算に入れ、下半身だけで結ばれようとしているらしい。
やめてよ、と瑞枝はもう一度言ったが、自分の体が充分過ぎるほど潤っていることはもうわかっている。聡の中指が入ってくるたびに、瑞枝の中でからめとろうとする粘り気のある水分が、いくらでも湧いてきているのだ。こんな場所で、こんな格好でと、瑞枝は恥ずかしさのあまり目がくらみそうになるが仕方ない。車の闇の中で、瑞枝の下半身が、時折チューインガムを噛《か》むような音をたてる。
「瑞枝」
いつのまにかさん≠ェ消滅していた。
「瑞枝、本当に好きだよ」
聡がゆっくりと入ってきた。高林とは違うリズムが始まる。若いから決して速いというわけではない。まず相手の反応を見ようとするゆっくりした動きがあり、その後次第に小刻みになっていく。
「どうしようもないぐらい、好きだ」
その後は体だけが語り始めた。瑞枝の体の中に一本の杙《くい》を入れ、彼は震動を送ってくる。声など立てまいと瑞枝は思った。こんな車の中で、下着を膝《ひざ》までずり下げられたまま、自分が達するはずはない。が、その目標は途中から揺らいでいく。閉じた瞼《まぶた》の裏側が、刷毛《はけ》で塗られたようにさっと白くなっていく。中に薄桃色も混ざる。それを見極めようと目を凝らしていくうち、頭の後ろが一瞬空洞になった。もうじき何かを掴まえられそうだと瑞枝は思う。が、その時聡が耳元でささやいた。男が許しを得ようとする時の、あの小さなせっぱ詰まった声だ。
「オレ、もう駄目だ。いってもいいかな……」
駄目、と言おうとしてそれが悲鳴となった。自分から発せられているとはにわかに信じられない、鋭いひきずるような声が出る。何も掴めないもどかしさが固まりとなり、瑞枝の体の中をまわり始めた。ぐるぐるとまわり、そして遠ざかっていった……。
二人が同時に果てたのを見はからったように、車が続けて何台か通る。瑞枝はゆっくりと起き上がって、手早く下着を元の位置に戻した。
「どこかドライブしてよ」
ミラーに顔を映してみる。
「セックスした三十分後に、子どものところには帰れないわ」
そうだねと聡は頷《うなず》く。
結局広尾の天現寺まで車を飛ばし、深夜までやっているカフェで珈琲《コーヒー》を飲んだ。聡は意外なことに両刀遣いのようで、店名物のシフォンケーキにたっぷりと生クリームを添えうまそうにたいらげる。
「瑞枝も半分食べろよ」
食べかけの皿を差し出した。
「ちょっと待ってよ……」
瑞枝はあたりを見渡す。場所柄、この店はおしゃれな客が多い。時間も十二時近いこともあり、隣のテーブルでビールを飲んでいるカップルも普通のサラリーマンとOLには見えない。今のところ知り合いとは会わないが、マスコミ関係や芸能界の連中が多いところには違いなかった。こんなところで名前を呼び捨てにされ、ケーキを半分ずつ食べたらどんなことになるだろうか。
自分はともかく、聡は顔を知られている。たちまち格好の噂となるだろう。それに車の中であわただしく結ばれたとはいえ、二人はさっき性行為をしていた仲なのだ。そういう男女から漂ってくる甘たるい疲労や、だらしなさというのは薄暗い店の中でもはっきりとわかるものだと瑞枝は気が気ではない。
「こんなところで、瑞枝≠ネんて呼ぶのやめて頂戴《ちようだい》」
声を潜めて言った。
「他の人が聞いたらへんに思われるじゃないの」
「へんに思われたっていいじゃないか。オレたちは独身同士なんだからどうってことないよ」
「あのね、私は女だからそんな呑気《のんき》なことを言ってられないの……」
言いかけてやめた。隣のテーブルの女があきらかに聞き耳をたてているのがわかったからだ。男との会話を楽しんでいるようにみせかけながら、こちらに注意をはらっているのはすぐにわかる。不自然な表情であいづちをうったりするからだ。不快さで瑞枝は茶碗を置いた。
「いいわ、もう帰りましょう。後は車の中で言うわ」
ワゴンのシートに座り、シートベルトをかけている最中、待ちきれない言葉がほとばしり出てくる。
「ねえ、もうちょっと気を遣ってよ、私に」
「オレは充分に遣っているつもりだけど」
「あなたはいいわよ。私のようなオバさんでも手に入れたらちょっとした勲章の切れっ端ぐらいにはなるかもしれない。だけど私は違うわ。年の離れた若い男に入れ揚げているって皆の嗤《わら》いものになるのよ。遊び相手ならいくらでもいるでしょう。もうこれっきりにしましょうよ」
車の中でやすやすと抱かれたことの後悔が、今となってこみ上げてくる。
「あなたは気まぐれにしていることが、女の方を傷つけたり、評判を落としたりすることだってあるのよ。それがわからないほどあなたも子どもじゃないでしょう」
「オレは本気だよ」
赤信号をひとつ無視して、聡は外苑《がいえん》西通りを走る。
「あんたが考えている百倍ぐらいオレは本気なんだ」
若い男の口にする本気≠ニいうのは、いったいどんなものなのだろうかと瑞枝は鼻白む気分になる。少なくともセックスだけの相手ではないということを言いたいのだろうか。
「オレは瑞枝と結婚したいと思ってるんだ」
驚きがまずやってきたが、全くそれだけかというと嘘になる。聡と初めて結ばれて以来、もしかするとという思いは、ほんのかすかなものであったが瑞枝の胸に凝固物を残している。たとえ千分の一だろうと、二千分の一だろうと、結婚という可能性を必ず考えるのが女の本能というものだから、自分を図々しいというのはあたらないだろう。けれども瑞枝はその千分の一の可能性を持っていた自分を打ち消したくて、けたたましく笑う。
「馬鹿なことを言わないでよ。そんなことが出来るわけないでしょう」
「どうしてだよ」
この時、聡は一瞬気弱そうな表情になり、瑞枝は大層腹が立った。
「言わなくたってわかるでしょう。私はあなたよりもずっと年上だし、子どもだっているのよ。そんな私と初婚で人気者のあなたと結婚出来るわけないじゃないの」
「そんなことないよ。オレ、日花里ちゃんのことが大好きだし、仲よくやっていけると思うよ」
「そんなのは、他人の子どもだから無責任に言えることよ。あなたの若さで、他人の子どもを育てることなんか不可能よ。一生後悔するわよ」
「そんなことないよ。オレは日花里ちゃんのこと、本当に可愛がるよ。それにさ、オレたちが一緒になればいずれ子どもだって出来るわけじゃないか」
瑞枝はこれには心底驚き、まじまじと男の横顔を見つめた。まだ綺麗《きれい》な線を保っている二十代の男の顔から喉元《のどもと》を凝視する。この男は自分に子どもを産ませようとしているのか。それは新鮮な感情であった。考えてみれば三十八歳の自分に、妊娠の可能性がないわけがない。相手が若い男だったら、かなりの確率で孕《はら》むことになるだろう。それを含めて聡は自分に求婚しているのだ。
「やめてよ、そんなこと……」
ため息のような声になった。
「そんなの無理だわ、とてもとても無理だわ……」
マンションの前で私を降ろしてと、瑞枝は命じた。時間も時間なので、聡も素直にそれに応じる。
「でも夜食の材料、どうしようか」
「何を持ってきたの」
「豚肉にキャベツにモヤシ、お好み焼きの材料だよ。明日、つくりに行ってもいいかな」
「私がつくるわよ」
「無理だと思うね。日花里ちゃんが言ってた。お母さんは本当に料理がヘタだって。何か焼くと生煮えか焦がすかのどちらかだって。オレの得意料理、とても瑞枝に任せておけないよ」
「あのねえ……」
瑞枝は男の方を見る。ここでひと言きついことを口にしなければ、いっきに体も心もなだれ込んでしまいそうだ。
「もしこれからも家に来るんだったら、日花里の前で絶対、私のことを呼び捨てにしたりしないで頂戴」
「おっかないなあ」
ちょうどエントランスに到着した。決して豪華ではないが、普通のサラリーマンには少々厳しいといったレベルのマンションである。駐車場にはそれにふさわしい車が並んでいる。ベンツもあることはあるが、たいていは高級国産車だ。そこの前に車を停め、聡は瑞枝の肩を抱こうとする。
「うちの前は絶対に駄目。それに今日、何度もしたじゃないの」
「関係ないだろ」
別れのキスは思いのほかあっさりしたものであった。
「じゃ、オレ、明日の夜っていうより今夜、お好み焼きつくりに行くよ」
瑞枝はようやく男の手から解き放たれて車から降りた。地面に足をつけた瞬間、左足のつけ根がにぶく痛んだ。初めての体験で無理な姿勢をとったのがたたったらしい。
ドアを開ける。思っていたとおり日花里はとうに寝ついたようだ。リビングルームの小さな照明を残し、後はすべて消えていた。瑞枝は安堵《あんど》のため息を漏らす。聡との情事の残滓《ざんし》を漂わせたまま、やはり娘の元に帰ることは憚《はばか》られた。
テーブルの上に日花里のメモがあった。子どもの文字というのは、背丈と同じようにちょっと目を離した隙にぐんと伸びる。日花里はいつのまにか、年齢よりもはるかに大人びた文字と文章を書くようになっていた。
「お母さん、仕事のことでとてもつかれているみたいで心配です。でもとてもいい最後だったと思いました。大変だったでしょうけど、やっぱりお母さんはすごい。よかったねという電話がいくつもあったよ。TNSテレビの高橋さん、奥村さん」
奥村というのはよく電話をくれる、毒舌で男色家の同業者である。
「それから徳島の郡司っていう人」
もう一度目を凝らした。
「徳島の郡司っていう人」
という日花里の文字が確かに綴《つづ》られている。別れた夫、郡司が電話をかけてきたのだ。
彼は日花里に父親だということを名乗ったのだろうか。日花里は父親だと察したのだろうか。日花里は自分の元の姓が郡司だともちろん知っている。けれども郡司と相手が口にしたとしても、父親の親戚《しんせき》のひとりと思ったかもしれない。大人びているといってもまだまだ子どもだ。郡司という名前を聞いて、縁者の誰かだろうかと深く詮索《せんさく》はしないような気もする。とにかく日花里から聞いてみないことには何もわからない。先方の電話番号は書かれていないので確かめるすべは他になかった。
瑞枝は時計を眺める。午前一時をすぎていた。いくら何でも寝ている子どもを起こすことは出来なかった。明日、朝食の時にいろいろ聞いてみようと瑞枝は考えたが、それまでにまだ七時間近くあることに気づいた。今夜は眠れそうもない。八年前に別れた夫から突然電話がかかってきたのだ。郡司はドラマを見ていたのだろうか。
「マイ・メモリー」の放映が始まる時に、瑞枝は徳島にもこれが流れるかどうか調べておいた。その結果徳島の地元局の中にニュー東京テレビの系列はなく、放映はされないということがわかり、瑞枝はどれだけ安堵しただろうか。もし毎週ドラマを見る郡司の視線があることを知っていたら、自分はかなり萎縮《いしゆく》してしまったに違いない。その郡司から最終回が終わった日に電話がかかってきたのだ。これはいったいどういうことなのだろうか。
落ち着かない心をなだめるためにビールでも飲もうと立ち上がった時、いきなり電話が鳴った。仕事柄、こうした遅い時間の電話は珍しくないというのに、瑞枝は虚を衝《つ》かれて生唾《なまつば》をごくりと呑《の》んだ。郡司だ。別れた夫からの電話だ。夫と最後に話をしたのは七年前のことだろうか。事業が不振となり、約束していた日花里の養育費がどうしても払えなくなったという話し合いの最中であった。
郡司が親しい友人のひとりと数え、絶頂期にはさんざん飲ませ、海外旅行にも連れていった弁護士が匙《さじ》を投げたように言ったものだ。
「無い袖《そで》は振れない、っていうのは本当でしょう。まさか郡司さんもこんな世の中になるとは思ってもみなかったんでしょうね」
奥さんの方が裁判を起こしたとしても、金も時間もかかりますよと悟されていた頃、郡司から直接電話がかかってきたのである。
あの時どんなことを話したのか瑞枝はほとんど記憶にない。ただ嫌な言葉をお互いに吐き合ったという思いだけがある。別れた男と女というものは、あれほど金のことで醜く争うものだろうかと自分自身信じられないような気持ちになったものだ。
ひとり娘の養育費でさえ、郡司はねぎろうとしたのである。
「別れた女房への未練や憎しみがごっちゃになって、金をこれ以上出したくないっていうことよね」
と女友だちにこぼしたところ、やはり離婚を経験している彼女は笑い声をたてた。
「女はたいていそう言うけれど、それは美し過ぎる解釈よ。相手はただ本当にお金が惜しいだけなの」
それは本当だったかもしれない。しばらくして郡司は債権者たちの前から姿をくらまし、週刊誌|沙汰《ざた》にもなったほどだ。養育費のことはうやむやになったどころか、それを口にすることさえ憚《はばか》られる雰囲気になった。
「どうせたんまりと慰謝料を貰《もら》ったのだろう」
というのが世間の評判だったからだ。実際瑞枝が手にしたものは、人々が噂した金額の五分の一で、それも最初の何年かの生活費と自立のための投資に大半は消えてしまった、といっても皆は本気にしないだろう。離婚した女など珍しくもないが、金持ちの男と別れた女は偏見と好奇の目に晒《さら》されていくものだ。郡司のことを憎んだことはない。憎んだことはないけれど、怯《おび》える気持ちは残っている。また金や子どものことで激しく争う自分が出現するのだろうかという思いだ。どこからこれほど豊富な語彙《ごい》が舌の奥に隠されていたのかと驚くほど、口汚い言葉がほとばしり出た。全くあの時の自分を、聡や高林に見せたいぐらいだ。恋する気持ちなど瞬時に失せてしまうに違いない。
受話器をとろうかとるまいかと瑞枝は迷っている。執拗《しつよう》にそれは鳴り続け、やがて途切れた。今度はバッグの中の携帯電話が音をたてる。郡司からではない。自宅の電話番号は知り得ても、携帯の番号がわかるはずはなかった。
「ああ、つかまった」
高林の声だ。携帯特有のきいーんと割れた声になっている。
「今どこにいるの」
「家よ。さっき帰ってきたところよ」
「実は郡司さんから、僕のところへ電話があった」
「知ってるわ。私の留守中にかかってきたみたいね」
「大阪に出張中、ホテルで最終回を見たらしい」
「大阪で見たんだ……」
「週刊誌なんかでこういうドラマがあるということは知っていたけれども、実際に見るのは初めてだったらしい」
「怒っているのかしら」
口に出したとたん、何という気弱なことを言うのだろうかと瑞枝は自分を恥じた。さまざまな葛藤《かつとう》の末、自分の過去と夫とのことを書くことに決めたのだ。物を書く人間として、相手の思惑などに構っていられないのだと自分に言いきかせてきたではないか。
「いや、怒ってはいない。あの殺される男は、自分がモデルになっているんだろうかと笑っていた。だから僕が多分そうだろうと答えたんだ」
「うちの電話番号は、それであなたが教えたのね」
「いや、前に弁護士から聞いて知っていたようだ。弁護士からちゃんと君に連絡するように、子どもとも会うようにって言われていたらしいけれども、なかなか気持ちの整理がつかなかったようだね」
そりゃ、そうよ、養育費だってちゃんと払えなかったんだから、という言葉をかろうじて呑み込む。金の話を、自分を慕う、寝たばかりの男にするのはやはり憚られた。
「彼は君のことをとても喜んでいる。こんな風に一流のテレビ局で仕事が出来る脚本家になったんだなって、しみじみと言っていたよ」
「そう……」
しかし心が感傷に傾いていくことはなかった。二人の男が自分のことを話していたらしい。高林は最近、瑞枝と再会したこと、それからも時々会っていることを郡司に告げただろう。けれども当然のことながら、関係を持ったことは話さなかったはずだ。その時の男の優越感が瑞枝には想像出来る。かつては高林の大スポンサー、パトロンとまで言われた郡司だ。その男の妻だった女と、高林は寝たばかりなのである。おそらく瑞枝の近況を楽し気に教えてやったことだろう。
「どうしたの」
瑞枝の沈黙が長かったのだろう、高林が優し気に問うてくる。
「ちょっと嫌な気分にさせてしまったかな。でも折を見て、やっぱり彼とは会っておいた方がいいよ。僕はいずれ……」
ここで彼はしばらくためらった。
「いずれ君とのことを話すつもりだよ。彼とは長いつき合いだから、君とのことを隠すつもりはない。許しを得るなんてことは必要ないけれども、やっぱり僕の気持ちは話しておきたいんだ」
「高林さん」
瑞枝は言った。
「今、この電話、どこからかけているの」
「えっ、どういうこと」
高林はけげんそうな声をあげたが、すぐに瑞枝の意図するところがわかったようだ。
「京都の、僕の部屋だよ」
高林の自宅に瑞枝は行ったことがないが、誰からかあらましを聞いたことがある。ローコストで建てた実験的な家で、雑誌にも何度か登場したという。三人の子どもがのびのびと育つよう部屋の仕切りを出来るだけ無くし、その分リビングが広く取ってある。ところどころが吹き抜けになっていて、陽光がたっぷり注ぐ家。そこの一角に彼の書斎はあるのだろう。家の電話を使うと、万が一内線で妻が聞くとも限らない。だから高林は音が悪くても携帯でかけてきたのだ。
「こんな時間悪かっただろうか。でも郡司さんからの電話があったことを伝えたかったし、君の声も聞きたかったんだ」
どうしようもないくらいにと、彼はつけ加えた。
「そう、どうもありがとう」
不倫と呼ばれる、男性とのつき合いはこれが初めてではない。それなのにどうしてこれほど不愉快な理不尽な思いになるのだろうかと瑞枝は思う。「出鼻をくじかれる」という言葉がいちばんぴったりとする。まるでラストシーンから観てしまった映画のようだ。高林が先まわりして、何かを口にすればするほど瑞枝は白けた感情がわいてくるのをどうしようもない。
彼が別れた夫と関係しているせいだろうか。
自分の前に若い男が現れ、求婚してきたせいだろうか。
たぶんこの二つが複雑にからみ合っているに違いない。それに白けた気分になっても、醒《さ》めた気持ちにはならないのは確かで、次から次へとひねくれた思いを持ち言葉にしてみるのも、瑞枝の心の中で高林に甘えたいと願う心があるせいだ。瑞枝は自分の欲の深さがそら怖しくなってくる。相手の男を困らせて、自分への愛情を確認したいなどという行為は、若い女だけの特権だ。それなのに三十八歳の自分はそれをしてみたくてたまらないのである。この単純でサディスティックな行為をしないことには、今夜のよじれた感情は直りそうもなかった。
「自分の部屋から君に電話をするのは、そんなに嫌かい」
「別に……。男の人って大変だなあと思っただけよ。これからあなた、そんな風に電話をかけてくるわけね。夜、こっそりと自分の部屋で」
「僕を困らせないでくれよ」
高林は早口に、いっきに声は低くなる。
「何度も言っていると思うけれども、僕は君への愛情を消すことが出来なかった。どうしても出来なかった。それがこんなに責められることだろうか」
自分と高林は堂々めぐりをしているのだと瑞枝は思う。恋は始まったばかりである。愛していさえすればいいではないかと男は言い、この恋は最初から終わりが見えていると女は拗《す》ねているのだ。けれども男と女の堂々めぐりが、常に痴話|喧嘩《げんか》に変わっていくように、二人の会話にいつのまにか甘さが漂ってきたことを瑞枝は認めざるを得ない。
「悪かったわ」
瑞枝は言った。
「私、今日はちょっと気が昂《たか》ぶっているのよ。ドラマの最終回を見て泣いたぐらいちょっとおかしいの。そこへ郡司からの電話がかかってきたりしたものだから……」
おまけに若い男に車の中で抱かれ、プロポーズされたのだ。
「わかるよ」
いろいろ大変だったものねと、高林はつけ加えた。こんな時の慰め方は、四十を過ぎた男の優しさと誠実さに充《み》ちている。聡の若さだったら、これほどしみじみとした声は出ないであろう。
「私ってプライドの高い嫌な女なのよ。そのくせ警戒心が強いときている。だからあなたとの気持ちにもなかなか素直に応《こた》えることが出来ないのね」
「そんなことはないよ」
高林の声はわずかだがかすれてきた。エロテックなことをほのめかそうとする時、男が出す声だ。
「僕はもう君をもらった。本当に嬉《うれ》しかったよ……」
瑞枝はふと思いをめぐらす。高林とはあと何回会うことになるのだろうか。十回だろうか、二十回だろうか。東京と京都では会う頻度が少なくなるだろうから、その分二人のつき合いの期間は長くなるだろうと瑞枝は頭の中ですばやく計算する。時々小説や映画でそういったストーリーがある。深く愛し合う男女が、十年、二十年と秘《ひそ》かに歳月を重ねていく物語だ。しかし自分も高林もそんなタイプではない。激しく求め合う瞬発力は持っていても、十年という時間を共有しようとする持続力は持ってはいないだろう。
三年というところか。三十代後半の女にとって三年という月日は大きい。もしかすると適齢期の二十代半ばの女のそれと匹敵するほどかもしれなかった。三十代から四十代になる。肉体的にはそれほどの変化はなくても、心はしっかりと四十代というものに縛られていくはずだ。三十代の今だったら、かなり躊躇《ちゆうちよ》しながらも、男の前で体を開いていくことが出来る。けれども四十代になったら同じことが可能だろうか。
「私の青春を返してよ」
ずっと以前、ドラマの中で若い女にそんなセリフを言わせたことをふと思い出した。
高林の電話を切った後、瑞枝はベッドに横たわり、ごく短く浅い眠りをとった。目覚まし時計の音で起きる。七時だった。最近これほど早く起きたことはない。日花里はひとりで牛乳を温め、パンを焼いて食べる。
瑞枝は冷蔵庫からベーコンと玉子を取り出し、フライパンをレンジにかけた。賞味期限をいくらか過ぎていたベーコンであったが、脂が溶け、うまそうにゆっくりと縮れていく。現金な母親だと言われそうだが仕方がない。今朝の瑞枝は、日花里に対して幾つか負い目をつくってしまったのだ。
まず昨夜、聡と再び関係を持ってしまったこと。郡司から突然電話がかかってきて、それを日花里が直接とってしまったことなどだ。特に慎重を期するのは後者で、さりげなく日花里からいろいろ聞き出さなくてはならないだろう。
十五分を過ぎた頃、日花里がダイニング・キッチンに姿を現した。既に身支度を整え、白いポロシャツに灰色のスカートを合わせている。この頃学校で流行《はや》っている髪型らしく、ゆるく三つ編みを結っている。それが子どもらしくないほど整った顔立ちの日花里にはよく似合っているが、後ろの分け目がじぐざぐ模様をつくっていた。瑞枝は子どもの頃、母親に髪を結ってもらったことを思い出し心が痛んだ。分け目が汚らしいとみっともないからと言って、母親は櫛《くし》の柄の尖《とが》ったところで、つつうと線をひくようにしたものだ。朝食をつくってやれないことはさほどのこととは思わなかったが、髪を結ってやれないことがこれほどつらいとは意外だった。ましてや日花里は、人が必ずそのことを口にするほど美しく育っているのだ。
「昨日はごめんね」
瑞枝は皿にベーコンエッグを盛りながら後ろ向きで言った。
「泣いちゃったりして、お母さん、どうかしてたね」
「別に……。仕方ないよ。お母さん、いろいろ大変だったんだから」
「久瀬さんにあの後、話を聞いてもらってお母さんすっかり落ち着いたよ」
子ども相手につい言いわけが出る。が、いくら鋭いところがあるといっても、車の中で何が起こったか十歳の日花里に想像できるはずはなかった。
「それからさあ……」
瑞枝は娘のためにトーストにマーガリンを塗ってやる。もっと薄くてもいいよと日花里は言った。
「昨夜、徳島の郡司っていう人から電話があったでしょう」
「うん」
「その人、何か言ってなかった」
「何かって」
「だから、その……」
言い澱《よど》んだ母親の言葉の間に、日花里は斬《き》り込むように言葉を発する。
「あの人、お父さんでしょう。日花里だね、元気かいって言ったわよ」
「そうなの……」
体中から力が抜けていくようだ。今までも別に父親のことを隠してきたわけではない。折に触れて少しずつ話そうと決めていたのであるが、その折がなかなか来なかった。それなのにドラマが始まり、突然父親が電話をかけてきたりと、瑞枝が守りながら少しずつ調節しようとしていたものが、堰《せき》を切ったように流れ出してきたのだ。
「あなたにもっといろいろ話してからと思ったけど、その前に悪かったわね」
「別に。どうってことないよ。あ、お母さん、牛乳|噴《ふ》いてるよ」
あわてて走り寄った。レンジの上の小鍋《こなべ》に泡が立ち上がり、こぼれ落ちようとする寸前であった。あわてて火を消す。全く牛乳というのは悪意のように、ほんの一瞬目を離した隙に、突然沸騰し鍋からはみ出そうとするのだ。それを茶碗《ちやわん》に注いでやると日花里はこくこくと飲み始めた。その動作から瑞枝は、夫からこの娘に伝わったものの濃度を探ろうとする。瑞枝が見たところ、日花里は父親よりも自分から貰《もら》ったものの方がはるかに大きい。今のところ、夫に似たしぐさや言動でハッとすることはほとんど無いと思うのは、おそらく瑞枝の欲目というものであろう。
「お母さんてば、そんなに気にすることないよ。クラスの中にもさ、お父さんとお母さんが離婚した人は何人もいるもの。うちだけが特別じゃないよ」
こんな風な醒《さ》めた物言いを、郡司は決してしなかった。率直なようでいて、実はうきうきと自分に酔っている者特有の、テンションの高い喋《しやべ》り方をしたものだ。
「それで、電話で何て言ったの」
わざと主語を抜かして問うた。
「えーとね、お母さんいますか、って言うから、今ちょっと出かけてますって言ったの。いつもこんな時間までいないのって聞くから、そんなことはないって答えたよ。お仕事の間は朝から晩までうちの中に閉じこもってたって。今日はドラマの最終回だからお出かけしたの、って言ったら、そうかあって言ってた。また明日電話するって」
郡司の質問が瑞枝には気に入らない。いつもこんな時間にいないのか、という口調には非難が込められている。妻と子どもを捨てた男に、そんなことを尋ねる資格があるのだろうか、余計なお世話というものだ。
「日花里、お父さんのことよく憶《おぼ》えてないよね。日花里が二つになった時のことだもの」
「そうだね、全然憶えてないね」
口癖の「別にィ」が出るかと思ったのであるが、素直に頷《うなず》く日花里がいっそう不憫《ふびん》になった。
「いずれお父さんと会う機会はあると思うの。日花里がどうしてもすぐに会いたいって言うんなら、そうしてもいいけれど」
「私はどっちでもいいよ」
日花里は今度は、パンを噛《かじ》り始めた。前歯が二本出始めたことを気にしているから、あまり大きく口を開かない。近いうちに歯の矯正をさせなくてはならないだろう。
「だけどさー、日花里って呼ばれた時はびっくりしちゃったよ。だってさ、男の人でそんなこと言うの、死んだ横浜のお爺《じい》ちゃんぐらいだったもの」
「そうね、本当にそうね」
日花里が日頃接している男たち、友人の父親や近所の商店主、聡にしてもみんなちゃん≠つけるはずだ。日花里と呼び捨てにされたことは、新鮮な驚きだったに違いない。
瑞枝はふと、昨夜車の中で聡に「瑞枝」とささやかれたことを思い出した。さん≠竍ちゃん≠ェ省略されることにより、女は自分が男に所有されていることを知る、あの歓びの瞬間。母と娘、二人の女は、ほぼ似かよった時間に同じ体験をしたことになる。
ベーコンエッグの皿を残し、日花里は立ち上がった。
「これ、せっかくつくったんだから食べなさいよ」
「いいよ。私、朝はあんまり食べない。ミルクとパンだけだもの」
日花里が出ていった後、それは瑞枝が食べることになった。気をつけて焼いたつもりであるが、黄身が固まり裏側が焦げていた。インスタントコーヒーを淹《い》れ、それで流し込むように喉《のど》に入れた。最近これほど早く起きたことはないので瑞枝とて食欲がない。テレビをつけた。ワイドショーの最中であった。有名女優に離婚の動きがあるといって、リポーターたちが追いまわしている。彼女は瑞枝が来年書くことになる連続ドラマの主演候補のひとりだ。事務所からほぼ内諾を得たが、相手役の俳優のことで少々|揉《も》めているとプロデューサーは言ったものだ。
離婚しなくても、離婚してもこちらはそう損はしないはずであった。たとえ離婚という事態となったとしても、独身になって最初のドラマということでマスコミが押しかけるはずだ。
それにしても郡司からの電話はいつかかってくるのだろう。出来たら昼間、日花里のいない時間であって欲しいと、瑞枝は時々電話に目をやる。
ワイドショーのトップニュースが終わり、名前を聞いたこともないようなタレントの結婚披露宴風景の画面が流れたとたん、電話がリリと音をたてた。
九時十五分だ。この時間だったら文香からに決まっている。昨夜のドラマの視聴率を知らせる電話だ。
「瑞枝さん、おはようございます」
文香の声ははずんでいる。いい数字が出たのだ。
「昨夜の最終回、ついに一六いきました……」
「まあ、本当……」
改編期にあたる四月は、どこの局もドラマに力を入れる。人気のアイドルたちのスケジュールを押さえ、まずは話題づくりを先行させたところも多い。そうしたドラマの、二四、五パーセントという数字からみれば、一六というのは決して高いとはいえない。とはいうものの、主に三十代の俳優を揃え、過去を回顧するというテーマの「マイ・メモリー」は、健闘したと言えるだろう。なにしろ一時期は打ち切りをささやかれ、大幅に内容を変更したドラマなのだ。
「瑞枝さん、本当にありがとうございました。瑞枝さんのおかげで何とかここまで来ました」
「そんなことはないわ。全部文香ちゃんの力よ。あなたが最後まで力を抜かないで頑張ったからよ」
かなり空々しい会話である。最初、視聴率が全く伸びなかった頃、文香たちは秘《ひそ》かに脚本家を替えようとしていたのである。結局それはしなかったものの、文香は強引に内容を変えさせ、男性主人公を殺してしまうという乱暴なことをやってのけた。ストーリーの辻褄《つじつま》を合わせるために、瑞枝は何度眠れぬ夜を過ごしただろうか。この先の展開をどうしていいのかわからず、本気で仕事を降りてしまおうと思ったことさえある。日花里がいなかったらおそらくそうしていただろう。
しかしもうそれも済んだことだ。途中でどんなトラブルが起ころうとも、仕事が無事に終わりさえすれば、素知らぬ顔をして仲よく握手し、また一緒に仕事をしましょうと言い合うのがこの業界のならわしである。文香も当然その例にならった。
「いろいろ大変なことがあったけれど、やっぱり瑞枝さんとお仕事してよかったわ。また一緒にしてくれますよね」
「もちろんよ」
瑞枝は頭のなかですばやく計算する。一六という数字をとったならば、次の企画の際も脚本家として瑞枝の名前が挙がるはずだ。文香のローテーションからして、来年の仕事は間に合わないが、さ来年のレギュラーを頼まれる確率は高い。瑞枝は三年間連続でドラマを書くことになる。これはもう売れっ子脚本家と呼ばれる範疇《はんちゆう》に入るだろう。
文香からの電話を切ったとたん、また電話が音をたてた。最終回の視聴率を聞いたスタッフの誰かだろう。
「もし、もし、沢野です」
ほんの一瞬、沈黙があった。
「お久しぶりです。郡司です」
あっ、と声をたてた。彼から電話が来るとは予想していたのであるが、まさかこれほど早い時間にかかってくるとは思ってもみなかったからだ。
「起きてたかな、悪かっただろうか……」
郡司はしきりに気を遣うが、それも愉快ではない。昨夜彼は日花里に、お母さんはいつもこんな時間に出かけているのかと尋ねたという。夜遊びをして、朝寝坊する女だと最初から決めつけているのではないだろうかと、瑞枝が最初から肩をいからせているのは、やはり相手が別れた夫だからだ。
「昨夜、あの子の声を聞いてびっくりしたよ。別れた時はほんの赤ん坊だったからな、あんなにちゃんと大人の喋り方をするとは思っても見なかったよ……」
なんと呑気《のんき》なことを言っているのだと瑞枝は思う。二歳の娘が十歳になる間、郡司はいったい何をしていたというのか。弁護士を交えてきちんと約束した月々の養育費でさえ、いつのまにかうやむやにしてしまったではないか。
「いやー、昨日、ホテルで初めて君のドラマを見てびっくりしたよ。高林から薄々は聞いていたけれども、本当に昔の僕たちがモデルになっているんだね」
「全部が全部っていうわけじゃないわ。あの頃の生活を書いていったら、自然にそうなってしまったのよ。別にあなたがモデルっていうことはないわ」
瑞枝は用心している。おかしな言いがかりをつけることはないと思うが、嫌味のひとつ口にされても仕方ない立場だ。けれども最終回を一回見たぐらいでは、たいして中身をつかんでいないだろうと瑞枝はたかをくくっているところもある。
「でも、とても懐かしかったよ。嬉《うれ》しい、っていう感情もあったかな」
受話器を通しても、郡司の声が昔と微妙に違っているのがわかる。あの頃の彼はとても通る声をしていた。大声をたてているというのでもない。ただ人と何かを話し、何かを命じているのが楽しくてたまらないというように、声は太さと強さを持ち、携帯電話からはみ出しそうであった。今、郡司の声はあきらかに低くなっている。おそらく白髪が増えているはずだと瑞枝は思った。男の声の落ち着きと白髪の量は、ぴったりと比例するものだ。
「君も頑張っているんだなあと思って、僕は本当に嬉しかった。こんなことを言っても嘘に聞こえるかもしれないけれど」
そう言ってくれるとこちらも嬉しいわ、と瑞枝は答えたが、本気半分、礼儀半分といったところであろうか。恩讐《おんしゆう》のかなたに≠ニいうおそろしく古めかしい言葉をふと思い出したが、もちろん自分はそんな気分にはなれない。別れた夫と手を取り合い、お互いに苦労したねと言い合うには瑞枝は若過ぎたし、記憶はまだ生々しい。
「大阪に来ているんですってね」
「何だ、高林からもう電話が入ったのか」
郡司はかすかに不満そうな口調で言った。まさか昨夜のうちに、彼と瑞枝が電話で喋っているとは思ってもみなかったようだ。
「高林さんは心配して電話くれたのよ。突然あなたから電話が来たら、私が動揺するとでも思ってみたんじゃないの」
瑞枝は出来るだけつき離した言い方をする。いずれ話すつもりなどと、高林は感傷的なことを言っているが、自分と高林とのことは、元の夫に毛ほども勘づかれてはならないのだ。
「とにかく君が元気で、本当に嬉しいよ……」
郡司はため息のようなものを漏らしたが、いかにもわざとらしかった。どう次の言葉を口にしたものかと、一生懸命間《ま》≠つくっているのがわかる。後ろから空港特有の華やかな雑音が聞こえてくる。間延びしたアナウンスと人のざわめきだ。
「今、空港からかけているの」
「そう、このすぐの便で、博多《はかた》へ行くんだ」
大阪や博多に出張とは、随分忙しいのねと言おうとしてやめた。相変わらず不動産の仕事をしていると聞いていたが、内容を聞くのは怖かった。みじめな話をされるのは嫌だし、そうかといって強気のほら話はもっと聞きたくなかった。
「一度会わないか」
早口で郡司は言った。
「前からそういう機会があれば、と思ってた。さ来週に東京に行くことになっている。その時でもちょっと会ってくれないだろうか」
「考えておくわ」
それほどやすやすと郡司の言うとおりになるものか。しかし瑞枝には弱味といおうか多少後ろめたいところがある。昨夜最終回を迎えた連続ドラマは、この男がいなければ書けなかったのだ。露悪的な言い方をすれば、何ヶ月かこの男を材料にして、瑞枝は金を稼いでいたことになる。小一時間会うぐらいのことはしてやってもいいのではないか。
「でも日花里とは、まだ会わせられないわよ」
「わかってるよ。そんなことわかっているさ」
それでは東京に着いたら連絡をする。この番号でいいんだねと念を押して、郡司は電話を切った。
瑞枝はベッドに向かい、そのまま横になった。こうした自堕落な昼寝も、連続ドラマの仕事が終わったからこそだ。それに昨夜以来いろいろなことがあった。
ドラマの最終回を見終わったとたん、いっぺんに幾つもの出来事が押し寄せてきたのである。自分のつくったドラマを見て、子どもの前で泣くなどという失態を犯してしまった。その後聡とドライブへ行き、車の中でセックスをするという初めての体験をした。しかも彼は、瑞枝に対して求愛どころか求婚してきたのである。いずれ僕たち二人の子どもだって出来るしと言われ、瑞枝は心底驚いたものだ。そしてうちに帰ったら、高林からの電話があり、低い声で愛をささやかれた。おまけに朝になったとたん、別れた夫の声を聞いた。その合間には文香から、ドラマの高視聴率を聞かされた。
まるで本当にドラマの最終回のようだと瑞枝は思った。最終回はドラマの主な出演者を、可能な限り出演させるというつくりが一般的だ。誰かの出発《たびだち》を祝ってパーティーを行ったり、見送りに出るというのはよく行われる手法である。
まさに瑞枝の人生の中での主要人物たちが、昨夜から今朝にかけてすべて出揃ったのだ。今、このまままどろんだら夢を見るだろうと思いながら意識が薄れていったら確かにそうなった。
瑞枝はパーティードレスを着て、花がたくさん飾られたどこかの広間にいる。美しい服を着た美しい女たちが笑いさざめいている。やがてそれが、夫と関係を持っている女ばかりだと瑞枝は気づいた。祥子がいる。その隣に立っているのは、昔タレントをしていたハーフの女だ。芸能界で売れなくなった後は銀座でホステスをしていたのであるが、彼女は帝国ホテルのインペリアルタワーで一日に三百万近い買物をした。郡司のカードの明細書を偶然見て、あまりの金額の大きさに瑞枝は声も出なかった。彼女とは会ったことはないが、名前を聞いてすぐにわかった。深夜のバラエティ番組でしばらくアシスタントをしていたからだ。
後ろにいるのは二十歳そこそこの若い女だが、郡司がいちばん金を遣ったのは彼女だったかもしれない。誰でも知っている名門女子大の学生で、実は郡司は二股《ふたまた》も三股もかけられていたのである。愛らしい顔をして凄腕《すごうで》の娼婦《しようふ》のようなことをやってのけていた女だ。
「どうしてこうくだらない女ばかりなんだろう」
瑞枝が怒りを込めて言いはなったとたん、すぐ近くから郡司の声がした。
「何を言うんだ。お前こそ売女《ばいた》じゃないか。自分がどんなことをしたか、胸に手をあてて考えてみろよ」
夢の中で声は消えていくと言ったのは高林だ。けれども郡司の声は張りがあり、部屋中に響きわたる。電話の時とはまるで違う。彼は昔の声を取り戻していた。
「この女は大変な喰《く》わせ者なんだ。俺の親友と寝たと思うと、今夜は若い男とくっついている。昨夜なんか、車の中でしたんだぜ」
祥子をはじめとする女たちは、まあと、いっせいに顔をしかめた。
「俺のおかげで、一生出来ないような贅沢《ぜいたく》暮らしをしたんだ。慰謝料だってちゃんと払ってやった。それなのにこの女は、ずうっと不満を持っている。俺のことを恨《うら》んでいるんだ……」
これは夢の中のことなのだという意識は確かにある。あと少しすれば瑞枝は覚醒《かくせい》するはずであった。それなのに瑞枝は、郡司の言葉に大層傷ついている。
違う、そんなんじゃない、あなたは誤解しているわ、と声をたてようとしたが、瑞枝の喉《のど》からは何も出てこない。罰を下された人魚姫のように声を失ってしまった。違う、違う、と必死で口を動かしていたら、いつのまにか天井の蛍光灯がはっきりと見えた。やっと目が覚めたのだ。
枕元の時計をみた。横になってから三十分もたっていない。短いうたたねの時ほど嫌な夢をみるものだということを経験上知っていたが、本当にそのとおりだ。
瑞枝はのろのろと立ち上がってキッチンに立った。ウーロン茶を飲もうと思い、冷蔵庫を開けると、買った憶《おぼ》えのない高級スーパーの袋が入っていた。中に豚肉、キャベツ、モヤシ、山芋が入っている。夜食をつくるといって聡が持ってきたものだ。彼は今日も来ると言っていたが、自分はそれを許したのだろうか。よく憶えていない。
聡の強引さがうとましい時もあるし、素直に嬉しい時もある。彼に大きく魅《ひ》かれていることは確かであるが、その感情はいつも不安がつきまとう。若い男の心をどこまで信じていいのだろうかと、瑞枝は自分に問うている。そこへいくと高林との関係ははるかに安定感があった。
「もう先が見えている」
というのは、瑞枝が彼を困らせたい時によく使う言葉であるが、先が見えているからこその慣れ親しんだ感情である。恋人としては、高林の方がはるかに自分に適しているといえるだろう。ふさわしい、というのではない。組み合わせとして有利という意味だ。
三角関係に陥ったり、二人の男から愛されたのはこれが初めてではない。学生の時や若い頃に、華やいだ苦悩がつきまとったことがある。あの時代の瑞枝は、ひたすらあの苦悩と困惑を楽しんでいればよかった。けれども今は違う。子どものことが視界に入ってくるのだ。
その日花里は三時過ぎに帰ってきた。連続ドラマの仕事が終わって、誰よりも喜んでいるのは彼女かもしれない。この数ヶ月の間、髪を乱した母親は仕事場に閉じこもっているか、そうでなかったら打ち合わせのために外に出ていた。家でゆったりとしている母親の姿を見るのはよほど嬉しいらしい。このところ寄り道をしないでまっすぐに帰ってくるのだ。
「お母さん、あのね」
ランドセルを置くなり言った。
「木田先生がさ、昨夜のお母さんのドラマ見たって。すっごくよくって泣いちゃったって言ってたよ」
木田先生というのは、日花里の担任の教師である。四十にもうじき手が届く、二人の子どもの母親だ。自分の方の育児にかまけて、学校行事にあまり熱心ではないと親たちの評判はあまりよくない。日花里も格段慕っている様子はなかったのだが、自分の母親のドラマを誉めてくれたとなると話は別らしい。
「お母さんのセリフって、胸にじーんとくるんだって。もうこれで最終回かと思うと、本当につまんないわって言ってた」
「ふうーん」
木田という教師の風貌《ふうぼう》を思い出す。自分と同世代とはちょっと考えられないほど老けている。パーマっ気のない髪をショートカットにし、瑞枝が最後に会った時は小太りの体を全く似合わないトレーナーで包んでいた。あの女教師が、自分のドラマに泣いたというのはにわかには信じられない。たぶん子ども相手にやや大げさに言ったのだろう。それに賞賛の言葉を聞いても、喜びよりも反感の方が大きい。学校で娘に対し、そういう会話を持ちかけたというのは瑞枝の好むところではなかった。「マイ・メモリー」は夜十時台の放映で、ベッドシーンもふんだんにある。娘と一緒に見るのはやめようとしたぐらいなのだ。せめて学校では、日花里を多くのものから遠ざけておきたかった。まさかクラス皆の前で言ったわけではあるまい。おそらく昼休みの通りすがりに何気なく日花里に告げたのだろう……。
「ねえ、今日、久瀬さん来るんでしょう」
不意に日花里が尋ねた。ちょうど彼女もジュースを出そうと冷蔵庫を開け、昨夜の袋を見つけたのだ。
「どうかしら、わからないわね」
「きっと来るよ、だって材料、置きっぱなしだよ。特製のお好み焼きつくってくれるって言ってたんだもの。今日、きっと来るよ」
黒目がちな大きな瞳《ひとみ》が光っている。昨日突然泣きだした母親のことを、心の中でなじっている目だ。
女性雑誌から頼まれていた短いエッセイを、やっと書き終えた時は夕方になろうとしていた。最近この種類の仕事が多い。ドラマにからめて、
「バブル、あの時代の女たちはどう生きたか」
「バブルを知っている女たちの今」
などというテーマで、原稿依頼が来るのだ。
同じように書く仕事ではないかと言われそうであるが、脚本とエッセイとでは勝手が違う。エッセイはそう改行するわけにもいかず、テーマを明確に短い文章で書かなくてはならない。何度も書き直し、わずか八百文字の文章に三時間近く費やしてしまった。
「もう夕ご飯つくる元気が失くなったよ。外に出かけよう。日花里の好きなものでいいよ」
声をかけた。
「だけどさあ」
日花里は驚いたように目を見張る。そして抗議のために口をとがらせた。
「久瀬さんが来るんだよ。お好み焼きをつくってくれるんだよ。私たちがいなくなったら困るじゃない」
「久瀬君は来ないったら」
瑞枝は苛々《いらいら》しながら言った。
「あのね、あの人はとっても忙しいの。昨日は暇だったかもしれないけれど、今日はどうだかわからない。ああいう人をあてにしていたら、夕ご飯食べそびれてしまうわ」
「だけどさ、お出かけするのはよくないよ。私、出前のピザでいいよ。そんなにお腹|空《す》いてないし」
必ず三十分以内にお届けしますというピザを、この数ヶ月もう何枚注文したことであろう。あの油っこいにおいをかぐだけでもうたくさんと、日花里は言ったばかりではないか。それなのに聡のためならば、今夜のメニューはそれでいいと言い出したのだ。娘の心の粘っこさに、瑞枝はかすかな嫌悪をおぼえる。
「お母さんは、あそこのピザだけはもうご免よ、どうせ出前にするなら、ひさご屋の親子|丼《どん》にするわ」
「じゃ、私もそれでいいよ……」
出前を注文した後、瑞枝は仕事場に戻り本を読み始めた。来年予定の連続ドラマは、オリジナルではなく、若い作家の原作を使うことになっている。瑞枝は名前を聞いたことがないが、最近女性の間で非常に人気がある作家ということだ。原作本だけでなく、作家の他の著作も読んでいてくれとプロデューサーから六冊渡されていた。改行の多い詩のような文体だが、こういうものが若い人に受けるのかと瑞枝は文字を追う。その時、インターフォンが鳴る音がした。
「お母さん、久瀬さんだよ。お好み焼きをつくりに来てくれたんだって」
ドアから顔を出した日花里が、勝ち誇ったように笑った。
「今日は本当に暑いよねえ」
言葉どおり聡は、白いシャツを着ている。昔風の開襟シャツなのが、かえって最近の流行なのだろう。その代わりいつものチェーンをはずしていた。なめらかな浅黒い胸元の肌の上に、細かい黒子《ほくろ》がいくつか散らばっているのが見えた。瑞枝はそれを知っているような気がしたし、初めて見たような気もする。
「日花里ちゃん、昨夜はご免ね、お腹空いたんじゃないか」
「そんなことないよ。あの後すぐに寝ちゃったし……」
日花里の言葉は瑞枝を動揺させる。昨夜聡と交わったのはこのマンションの中ではない。東京ベイエリアの暗闇の中だ。日花里が何も知っているはずはないのだが、「早く寝た」という言葉は、まるでこちらに対しての気遣いのように思えて仕方がない。
「あのさ、今日は焼きソバの玉も買ってきたからさ、デラックスダブルといこうよ」
昨日とは別な店の袋を高く掲げた。日花里は彼の腕に、まるで小猫のようにじゃれつく。
「わー、おいしそう。私ね、お好み焼きってあんまり食べたことない。焼きソバが入ってるのなんか初めてだよ。でも大好きだと思う」
娘のうきうきとした様子は、瑞枝に不安をもたらす。この居心地の悪さは、いったいどう言ったらいいだろうか。三角関係、という言葉に思いあたって瑞枝はうろたえる。自分はいったい何を考えているのだ。幼い娘の幼い感情をどうして恐れたりするのだろうか……。
瑞枝は自分の思いつきを早く追い払おうと、いつものように棘《とげ》のある言葉を口にした。
「久瀬君が来るかどうかわからなかったから、もう出前を頼んじゃったわ。親子丼、もう来る頃かもしれない」
「日花里、親子丼なんかいいよ」
激しい口調だった。
「そんなの、とっといて明日食べればいいよ。私、久瀬さんのお好み焼きを食べるから」
その時、まるでタイミングを見計らっていたようにインターフォンが鳴った。二人前の親子丼が届いたのだ。瑞枝と日花里は見つめ合う。日花里の目にははっきりとした決意がある。もし聡の気分を悪くするようなことがあれば、許さないと母親を射るように見ている。
やがてドアのチャイムが鳴った。財布を持った瑞枝が出ていく。見慣れない男が岡持ちを持って立っていた。
「毎度ーッ、ひさご屋です。今日は暑いですねえ」
聡と同じ言葉を口にした。手渡された赤絵の丼《どんぶり》はほかほかと温かい。こんな季節に親子丼を頼むのは珍しい客かもしれなかった。
テーブルの上に親子丼を二つ置く。紙に包まれた小さな発泡スチロールも一緒だ。この中には今どき珍しいほどの発色剤を使った、真黄色の沢庵《たくあん》が二切れのっているはずだ。
沈黙が続いた。たかが親子丼ふたつに、母と娘の思惑がからみあっている。
「OK、じゃ、こうしようよ」
聡が突然大きな声を出した。
「この親子丼、すっごくおいしそうじゃん。オレもすっごく腹減っているからさ、これ、ご馳走《ちそう》してよ。三等分すればさ、そんなにたいした量じゃないだろう。その後、お好み焼きつくるからさ」
「そうだね、そうしようよ」
日花里はにっこり笑った。こうした笑顔になると、彼女はいっぺんに十歳の少女の愛らしさを取り戻す。いそいそと棚の前へ行き、小鉢と箸《はし》を持ってきた。仕方なく瑞枝も茶を淹《い》れる。冷蔵庫の中をのぞき、貰《もら》いもののラッキョウやつくだ煮といったものを小皿に盛る。ちまちまとした皿や醤油《しようゆ》差しを並べると、丼物だけのわびしいテーブルも急に家庭の色彩を持った。
日花里は親子丼の蓋《ふた》を大切そうに開けた。もう冷めて湯気は上がらない。
「じゃ、日花里、久瀬さんから半分、お母さんから半分もらうよ」
「ちょっと待ってくれよ」
聡が大きな声を出す。
「日花里ちゃん、算数の時間に割り算もう習ってるだろう。二個を三で割れば、三分の二じゃないか。オレとお母さんから半分ずつ貰えば、半分と半分で日花里ちゃんは一個親子丼を食べることになる。日花里ちゃんだけが得をするんだよ」
「あっ、そうか」
「だからさ、こうして、日花里ちゃんはこの丼とこの丼から三分の一ずつ取るんだ」
聡はそれぞれの丼に箸をつきさし、上手に飯と具をすくった。何のためらいもなく瑞枝の丼にも箸を伸ばす。そして日花里のために新たな丼をつくってやった。聡は思いのほか箸づかいがうまく、日花里の丼はつぎはぎが見えないように玉子の具を平らに整えてある。
「それじゃ、いただきまーす」
二人は同時に声を上げた。そのとたん、さっきまで三角関係という言葉を瑞枝に連想させたとげとげしさは、またたくまに消えてしまった。気恥ずかしくなるほどやさしい空気に、食卓はつつまれている。
「ねえ、日花里ちゃん」
鶏肉を口に入れながら聡が言った。
「オレって、君のお母さんのこと、大好きなんだ」
お好み焼きに、焼きソバをつけようかどうしようかといった口調で聡は続ける。
「何年か前に会った時も、素敵な人だなあと思ってたけど、今度仕事を一緒にするようになったらますます好きになっちゃったんだ。オレは結婚するつもりなんだけど、日花里ちゃんも賛成してくれるよねえ」
「何を言うのよっ」
瑞枝は叫んだ。
「あなた、何を言い出すのよ。子どもの前なのよ」
「だって結婚したら、日花里ちゃんはオレの子どもになるわけだろ。だったらまっ先に相談しなきゃ、ねえ……」
聡は日花里の顔を覗《のぞ》き込む。やめて、やめてとその場に割って入ろうとしたが、うまく声が出ない。その時瑞枝がとっさに思い浮かべたことは、娘がどれほど傷つくかということであった。思春期というにはまだ早いが、この頃の日花里は表情も振るまいも多彩なニュアンスを持つようになっている。幼女とは違うむずかしい年齢なのだ。それなのに聡は、娘の心に何の作戦も前置きもなく、大きなものを投げかけたのだ。異性として初めて意識し始めた男から、「お母さんのことが好きだ」と言われたら、少女はどのように反応するか。そんなことは脚本家でなくてもわかる。十歳の娘の心は、とてもこんな重さに耐えられるはずはない。
おそるおそる瑞枝は娘の顔を見る。が、そこに表れていたのは、驚きでも怒りでも悲しみでもなかった。日花里の顔は単純なあどけない歓喜に溢《あふ》れているではないか。
「私、そうじゃないかと思ってた」
大きく頷《うなず》く。
「久瀬さんがお母さんのこと、好きなんだろうなあってずうっと前からわかってたよ。お母さんも久瀬さんに意地悪なこと言うけど、きっと好きなんだろうってこの頃やっとわかった」
「そうなんだよ」
聡は日花里の肩を抱き寄せ軽く叩《たた》く。
「オレさ、日花里ちゃんのことも大好きなんだ。だからさ、三人で仲よく暮らそうよ、な」
「ちょっと待ってよ。冗談じゃないわ」
やっと声を取り戻すことが出来た。娘の肩を抱き、早くも父親のようなしぐさをし始めた聡に謀られたと怒りがわいてくる。
「日花里、自分の部屋へ行ってらっしゃい。お母さん、久瀬さんと大切な話があるから」
「話が終わったら、すぐにお好み焼きしてあげるからさ」
聡は全く悪びれた様子はなく、ドアを開けて日花里を送り出した。瑞枝はテレビをつけボリュームを上げる。娘に会話を聞かれたくない用心だ。
「いったいどういうことなの。どういうつもりなのよ」
「どういうつもりって、オレは自分の思っている本当のことを、ちゃんと話したつもりだけど」
瑞枝は男の目を見る。アイドルという特殊な時代を経てきた男の目は、切れ長で美しい。自分がもし、もう少し若い女だったら、何も後先考えずにこの目に溺《おぼ》れてみたいと思ったかもしれない。けれども三十八歳の瑞枝は、多くのものをその目から読み取ろうとするあまり、いつも疲れて苛立《いらだ》ってくるのである。
「オレはさ、あんたとのこと隠しごとするつもりはまるっきりないんだよ。あんたと結婚するっていうことは、日花里ちゃんも自分の家族にするっていうことだろう。そうしたら最初から話すのはあたり前じゃないか」
「馬鹿馬鹿しい」
瑞枝は首を横に振った。
「私たち、何も約束したわけじゃないわ。私たちはただ――」
セックスをしただけなのよ、という言葉は、いくら聞こえない場所にいるとはいえ、娘のいる家の中で発することは憚《はばか》られた。
「約束はしていないけれど、オレたちは好き合っている仲だと思うよ」
瑞枝の心を察したのか、聡はそう表現した。
「あんたはオレのことをちゃんと好きになってくれたと思う。オレは自信があるんだ。何度でも言うけどオレは本気なんだよ。いろんなことがあったけど、こんな気持ちは初めてなんだ。こんな気持ちは初めてだなんて、そんなことを今まで女に言ったことはない。初めて使う」
「あのね、私とあなた、何歳違うと思っているの。年上で子連れの女なんて、あなたが世間の笑い者になるのよ」
口に出したとたん、これは大きな媚《こび》で譲歩でないかと気づいた。女が自分の弱味を言うということ自体、男に対しての告白なのである。
「そんなこと、まるっきり関係ないよ」
聡は舌うちして瑞枝を凝視する。物わかりの悪い年下の女をさとす男の顔だ。
「今どきそんなことを気にする人間は、誰もいやしないよ。少なくともオレたちの世界にはいるもんか」
「あなた、自分の立場を考えなさいよ」
今度は瑞枝が教え込もうとする番だ。
「あなたは芸能人なのよ。人気がいちばん大切な職業なのよ。そういうあなたが、何もハンディを背負うことはないじゃないの」
「あのさ、オレのことを誤解しているみたいだけど、オレは昔、そういう人気っていうやつにさんざん苦しめられてきた。もう気にする人間になるまいと思って、役者になったんだ。あんただったらわかってくれると思うんだけど」
瑞枝は切れ切れに知っている、聡の過去を繋《つな》ぎ合わせようとする。十代の頃、アイドルグループのひとりとしてデビューした聡は、それこそ一世を風靡《ふうび》したものだ。雑誌のグラビアやテレビはもちろんのこと、キャラクターグッズとして子どもの下敷きやバッグにまで登場した。けれども二十歳をいくらか過ぎると、移り気な少女たちの心は、もっと若い男の子のグループへと移行した。聡たちがグループを脱けたというニュースは、そう大きく取り上げられることはなかったと記憶している。
グループの中で、いちばん手堅い道を選んだのは聡だったろう。他のメンバーは、三十代を目前にして時々バラエティ番組や、旅番組のリポーターに顔を出す程度のタレントになったが、聡は俳優としての道を歩んでいる。舞台にも挑戦し、厳しい演出家の訓練にも耐えた。もはや主役となる輝きは薄れてしまったかもしれないが、容姿が優れていて確実な演技をすることから、三番手、四番手クラスのキャスティングに必ずといっていいほど名前が挙がる。そのことに対して、聡はなみなみならぬ自負を持っているに違いない。だから、
「人気なんかとはもう関係ない」
という言葉が飛び出したのだ。
「とにかく」
瑞枝は言った。
「私はまだ何も決めているわけじゃないのよ。それなのに娘にあんなことを言われるのは本当に困るのよ」
「だったら決めてくれよ」
聡は瑞枝の手を握る。どこかで日花里が見ているような気がして、思わず指が中に縮こまってしまった。
「オレは結構いい人間だよ。あんたが考えているよりずっと真面目で正直だよ。オレ、瑞枝とだったら、きっとうまくやっていけると思う」
「どうしてそんなことがわかるの……」
瑞枝≠ニ呼ばれたせいで、声がずっと小さくなった。
「決まってるだろ。オレが女をこんなに好きになったのは初めてだし、オレの子どもを産んでもらいたいと思ったのも初めてなんだ。うまくいかないわけないよ」
「そんなこと、本気で考えているわけ……」
瑞枝はまじまじと男の顔を見つめる。この男の楽天性にはこのあいだも驚かされたばかりだ。瑞枝と結婚し、新しい家庭が出来ることを全く疑っていないのだ。
「私を幾つだと思っているの。そんな風に簡単にいかないわよ。世の中なんてあなたが考えてるほど単純じゃないのよ」
「でも人って結婚する前ってみんな単純になるもんだろ。みんな幸せになることだけを考えて、エイって川を飛び越えるじゃないか。オレたちに出来ないはずはないよ」
あなたの考えていること、よくわからないわと、瑞枝は握られている指を一本一本はずした。
「つき合ってすぐプロポーズしてきたり、うちの日花里におかしなことを言い出したりして、あなたってどうかしてるわよ」
「まだわかんないかなあ」
聡は再び瑞枝の手を握る。さっきよりもずっと強くだ。
「今度の仕事が始まってからずうっと、オレは瑞枝を見つめてきたんだ。だけどあんた、近寄ってく隙がないからさ、まずは日花里ちゃんと仲よくした。そうしてるうちに日花里ちゃんも大好きになって、三人で暮らせたらいいなあと思った。もちろん結婚したら、オレたちの子どもすぐにつくるけどさ……」
瑞枝はやっと自分の不安の源流にいきあたる。家庭に対する聡の幼さは、いったいどういうことだろう。自分の望む形そのものを、明日にでもつくれると考えているのだ。
「あのねえ、家庭っていうものはリカちゃんハウスを買ってくるようなわけにはいかないの。私は一度失敗したからはっきり言うわ。あなたが頭の中で考えているみたいにうまくはいかないのよ」
「だけどさ、人間っていうのはやっぱり結婚したい女とは結婚しなくっちゃいけないんだよ。欲しいものは絶対に手に入れなきゃ」
聡は瑞枝の髪に触れる。瑞枝がそこにいることをきちんと確かめようとするかのようだ。彼もマスコミであまり口にしないから、聡のデビュー前のプロフィールを詳しくは知らないが、よほど幸福な生いたちか、そうでなかったら悲惨な幼年時代を過ごしたのではないだろうか。聡のこの強引さと楽天的なところは、普通に育った人間のものではなかった。
「あなた、私に二度めの失敗をさせるつもりなの。いくら何でもそれは困るわ」
瑞枝は自嘲《じちよう》という行為をしようとしたのであるが、思いもかけないほどの明るい笑い声になった。聡はそれを全く別の風に解釈したようだ。
「オレだって明日結婚しようって言ってるわけじゃないよ。ただちゃんとオレのことを見てくれよ。そういう対象としてさ。それから日花里ちゃんに隠しごとはよそうよ。会う時は堂々と会おうよ。オレ、もっとこのうちに来るよ」
不意に立ち上がったと思うとドアを開けた。廊下の右側に向かって声をあげる。
「日花里ちゃん、お母さんとの話、もう終わったからこっちへおいでよ。お好み焼きつくるからさ」
スキップするような足取りで日花里が現れた。娘の前髪が乱れていることを瑞枝は見逃さない。おそらくベッドにうつぶしていたのだ。
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第十三話 緑 風
ランチに白のグラスワインを頼んだ。それを半分ほど飲んだところに、豆のサラダが運ばれてきた。表参道のこの店は、オープンカフェにしては料理がうまいことで知られている。瑞枝はこの後、甘鯛《あまだい》の蒸したものをオーダーしているが、それも悪くない。
目の前に座る文香は、焼きたてのバゲットがおいしいとちぎって食べ始めた。そうしながらもワインのお替わりを頼む。文香に会うのは打ち上げパーティー以来でもう二週間たつ。忙しいプロデューサーの常で、もう新しい企画に入っているようだ。詳しくは言わないけれども、どうやらスチュワーデスを主役としたドラマらしい。
「それも昔の、憧《あこが》れのスチュワーデス物語じゃありませんよ。今、契約スチュワーデスってものすごく安い時給で働かされているんです。普通のOLよりずっと悪いくらい。会社によっては機内清掃もやらされるんですよ。そういう時代のスチュワーデスをやってみたら面白《おもしろ》いんじゃないかと思って……」
今期ニュー東京テレビは五本のドラマを制作したが、二〇パーセントの視聴率を超えるものは何もなかったという。「マイ・メモリー」が二番めの数字をとったぐらいだから後は知れている。
「他のテレビ局だって同じようなもんですよ。どうもドラマが、そろそろ飽きられているっていうような気がして仕方ないんですよ」
「本はとうに読まなくなって、CDも売り上げが落ちて、それでドラマを見なくなったら、夜若い人たちはいったい何をしてるのよ」
「さあ、わかりませんよ」
文香は首を横に振った。
「ドラマだって見るのに体力が必要ですからね。時間に間に合うように必死で帰るのが、もうかったるくなったんじゃないかしら。世の中すべて、かったるい、かったるいだから不況がこんなに長びくんだと思いますよ」
その後は愚痴になった。テレビ局といえば、ふんだんに金が遣えるところと思われているらしいがとんでもない話だ。うちの会社ではタクシーチケットなどとうに廃止になっている。文房具を請求する時は、もう一度机の中を見ましょうという標語のポスターがあちこちに貼られ、その貧乏たらしいことと言ったらない。
「撮影が早く終わりそうな時は、お弁当を出すのをやめるようにっていうのは、上からもかなりきつく言われてるんですよ。テレビ局がお弁当までケチるようになるなんて、信じられない話でしょう」
文香は運ばれてきたワインをぐっと飲み干す。昼間にしてはいささか乱暴な飲み方だ。
「お弁当もひどい話ですけれども、もう制作費全体がどんどん削られているんですよ。うちは昔から一社提供の番組が多かったのに、この頃はどんどんスポットに替わってるんです」
スポットというのは十五秒の短いCMで、いわば時間をコマ切れにして売買するようなものだ。
「制作費がどんどん少なくなって、いちばん可哀想なのは業者さんですよね。エキストラやクレーンの料金を値切りに値切って、本当にこっちが悪者になってる気分ですよ」
おそらく瑞枝がドラマに携わっている時は言えなかったことに違いない。テレビ局の内情は時々瑞枝の耳にも入ってくるが、今まで大げさ過ぎるのではないかと多少たかをくくっていたところがある。瑞枝の知っているテレビの世界は、億という単位が動き、注文した弁当を何十個も余らせるところであった。
「私もバブル入社っていうやつですから、テレビ局ってそういうところだってずっと思ってましたよ。何しろ入社前の研修行く時もグリーン車とってくれたし、毎回の食事もすごかったもの。あの頃はタクシーも交際費も使い放題。私、フグやフランス料理っていうの先輩に連れられていってやたら食べましたよ」
たった八年前のことなのにと、文香はまたグラスに手を伸ばす。
「それでね、私、こんな世の中だから結婚でもしようかと思ってるんです」
「まあ、それはおめでとう」
瑞枝は忙しく頭をめぐらす。まだ若く美人プロデューサーとして知られる文香にはさまざまな噂がある。人気俳優に口説かれるのはしょっちゅうらしいし、フリーランスのプロデューサーと同棲《どうせい》していたのも本当らしい。その後、上司と深い関係を持っていると誰かに聞いたこともあるが、まさか略奪愛などというものではあるまい。
「嫌だなあ、瑞枝さんたら、あれこれ考えているんでしょう」
文香はくっくっと笑った。
「いま頭の中に浮かんだ男の人は、みんな違いますよ。もうありきたりの話で恥ずかしいんですけれども、大学の同級生です」
相手は大手の出版社で、雑誌の編集をしているという。
「出版社もうちと同じように景気がすっごく悪いんですけど、彼のところは大きいし給料もまだかなりいいんです。二人合わせれば何とかなると思って……」
瑞枝は文香を見つめる。薄いベージュの上着に生成《きな》りのシャツを合わせていた。相変わらず化粧は薄いが、上手にシャギーの入った髪形といい、流行の口紅といい、どう見ても都会の最先端の場所で生きている女だ。
その彼女の口から、これほど殊勝な言葉が出てこようとは思ってもみなかった。
「文香ちゃんって、もっと長く独身を続ける人だと思っていたけど」
「みんなからそう言われましたよ」
文香はまるで他人《ひと》ごとのように頷《うなず》いた。
「三十代に入ってからすぐが、仕事でも男の人でもいちばん面白い時だって。彼をもう少し待たせてもいいんじゃないかって皆に言われました。でも私、今までと同じことを続けるのかと思うと、もういいかなあっていう気分になっちゃって……」
「あなたの若さで、そんなこと言うのは早過ぎるわよ」
「でもね、私の同級生たち、三十とか三十一になったとたん、バタバタ結婚していますよ。焦っているならば、二十代の時にしそうなんだけれど、みんな三十代になるといろんなことを思うみたいですね」
有名大学の文学部を卒業している文香の同級生たちは、マスコミ関係に就職したものが多いという。
「こういう仕事をしていてね、三十代の女って遊べると思うみたいですね。遊べるっていうとちょっと言い方が悪いけれど、奥さんいる男の人たちがよく声をかけてきます。本気だって言ってくれる人もいるけれど、でもね、私たちもう二十三、四の若い女とは違いますからね、そんな寄り道は出来ないんですよ」
寄り道という言葉に、瑞枝は思わず苦笑した。
「今から不倫始めたとしたら、三、四年それに費やされてしまいますからね、気づいたら三十代半ばになっちゃいますよ。うちにもいますよ、そういう人。ほら下条陽子さん」
下条陽子というのは、ニュー東京テレビのアナウンサーである。かつては看板ニュース番組を担当していたこともある人気者だったのだが、最近は小さな記事ひとつ見たことがない。確かに三十代の終わり、自分と同じぐらいの年だったかもしれないと、瑞枝は思いをめぐらす。
「あの人と上司との件は、知らない人はいませんでしたからね。下条さんが十歳若かったら、今の女子アナブームにひっかかって大スキャンダルになるところでしたよ。下条さんってあんなに綺麗《きれい》で素敵な人なのに、決断力がないばっかりにあんなになっちゃってって思いますよ」
「でも好きならば仕方がないわよね」
自分でも陳腐極まりないと思われる言葉が出た。
「でも私この頃、人を愛するという感情と、人間が幸福になる手段って別の二本柱じゃないかって考えるようになりました」
おやおやと、今度ははっきりと発音して瑞枝は文香の顔を見る。マスコミ関係の女性に共通していることであるが、文香も老いと若さが複雑にからみ合っていた。あかぬけた服装や髪形は同年代の女よりも、はるかに溌剌《はつらつ》とした印象だが、目のまわりには慢性的な睡眠不足による疲れが沈着している。肌理《きめ》も荒い。
「恋愛って確かに楽しいものだけれども、私ぐらいの年齢になると、何回も経験しているからもうだいたい見当がつくっていう感じですよね。だから今さらすごいリスクを負ってまで、不倫をしてみようなんて思わなくなりました」
まるで自分の心を見透かされているようだと瑞枝は思った。高林と自分の関係がまさしくそうだ。いくら愛を告白され、こちらも心を動かされたとしても、妻ある男との恋に何の未来もないと考える自分を、何という功利主義者だろうかと恥じていたところがある。ところが文香はまだ若く、独身であるところから、このことをあっけらかんと口にする。
「私たちの仕事なんか明日どうなるかわからない。テレビ局だって大赤字を出す時代ですもの。保守的になったって瑞枝さんには言われるかもしれないけど、私、今、確実なものが欲しいんです。家庭とか、子どもとか……。そんなもの持ったら、仕事との両立で大変なことわかってるけど、この時機を逃したくないんですよね」
「そうよね、そうかもしれない」
瑞枝は日花里の顔を思い出す。娘の顔だけは、この世でたったひとつ動かぬ、自分が生きた証《あかし》だと思う。が、そんなことを他人相手に口に出すことは憚《はばか》られた。
「ねえ、ところで瑞枝さん」
身の上話を長時間しないところが、文香の特徴のひとつである。そろそろ本題の仕事をしなければと思ったらしい。
「来年の予定、どうなっているんですか」
探りを入れてきたが、そんな情報はとうに文香の耳に入っているはずだ。他局で来年の一月から、瑞枝は連続ドラマを書くことが決まっている。「マイ・メモリー」は一応の成功を見たということなのだ。
「そうねえ、いろいろとお話はもらうんだけどもねえ……」
瑞枝ものらりくらりとかわしていく。ここが昨年の瑞枝と違うところだ。あのクリスマスの頃、瑞枝には全くといっていいほど仕事がなかった。シナリオスクールの講師でもしようかと思った矢先に、文香からの電話が入った時は嬉《うれ》しかった。けれども今の瑞枝は、駆け引きする余裕をすっかり身につけている。
「瑞枝さんもすっかり売れっ子になったのは承知していますけど、やっぱり一緒に仕事をしたいなあ……」
文香の方も瑞枝の腹のうちをすっかり読んでいて、わざと無邪気なもの言いをする。
「秋からの十時の枠を、また私が任されることになったんです。来年のことでまだ何も決まっていないんですけどもね、瑞枝さんにまた書いてもらいたいと思って……」
「そうねえ……」
新春からの連続ドラマと、秋からの連続ドラマを手がけるというのは、脚本家にとって何とも幸運なケースである。収入的なこともさることながら、これで社会的認知度や業界での力はぐっと高まるはずであった。
「文香ちゃんの耳にはもう届いていると思うけれども、春からCXでやるのね。それからそんなに間を置かないで書くって、大丈夫かなあって心配なの。ちゃんとしたものが書けるかなあって……」
瑞枝も文香に合わせて、おぼこい口調になるが、仕事をすることは依頼された瞬間から心に決めていた。問題なのは、今の微妙な力関係をいつどこで、どういう風に逆転させるかだ。このあいだのようなことはまっぴらだと思った。視聴率が低いことを理由に、脚本を何度書き直させられただろうか。揚げ句の果ては、途中からストーリーを変えて、男性主人公を殺すようにと命じられたのだ。もうあんなことは二度とご免だ。
けれども、今の瑞枝の立場は、すっかり強いものになっているかといえばそうでもない。
最終回の一六パーセントという数字は、健闘といったところで、大ヒットというのでもなかった、テレビの世界では、シンデレラ物語が幾つも存在している。途中で降りたベテランに替わり、新人の脚本家が急遽抜擢《きゆうきよばつてき》されたところ、ドラマは全く別のものになった。彼女はそれまでの古めかしいドラマを、みずみずしいラブストーリーにつくり替え、視聴率はまたたく間《ま》に二〇パーセントを超えた。またある新人女性脚本家は、あまり数字が取れない時間枠の、しかも企画が何度も流れ、ほとんどプロデューサーが破れかぶれになっていた仕事を引き受けた。そのドラマは回を追うごとに視聴率が上がっていき、ドラマ史上に残るほどの人気番組となった。彼女たちは、今や押しも押されもせぬ人気脚本家としてこの業界で大きな地位を持っている。自分はとてもあそこまでの成功には至っていない。
今度の連続ドラマの依頼は、文香との人間関係によるものだろうと瑞枝は判断する。それならばあまり駆け引きするよりも、素直に引き受けた方が得策というものだ。
それにテレビ局がいくら不景気だといっても、瑞枝のギャラはこのあいだ定められたものより下がることはあるまい。一本八十万クラスの瑞枝を、百万を超すランクにしてくれたのはやはり文香なのだ。今後のためにも、瑞枝は感謝を込めてこう言うことにした。
「だけどもし、私に任せてくれるっていうなら嬉しいわ。文香ちゃんとなら頑張って、またいい仕事をするつもりよ」
「瑞枝さん、嬉しい」
文香はまるで同性愛の女のように、瑞枝の手を軽く握った。
「またいいドラマをつくりましょう。私、もう今からいろんなことを考えているんですよ。たとえば大人の男女の純愛ものとか……」
「純愛ねえ……」
早くも瑞枝の頭の中で、切れ切れのままではあるが、さまざまなアイデアがいきかう。
「今の世の中、純愛なんかどうなのかしら。しかも大人の男と女のことなんでしょう」
「でもね、結構そういうものが流行《はや》りそうな気配なんですよ。もう濃厚なものじゃなくて、精神的なものにいくかもしれない。このあいだヒットした映画も、純愛を狙ってあたりましたからね」
文香もすっかりプロデューサーの表情に戻り、いくつかの分析や統計結果を口にした。最近の不景気で企画がすっかり通りにくくなり、今まで自分の勘で話をしていたことが、広告代理店並みの理屈を用意しなければならなくなったと愚痴を口にする。
「最近の若い女性の傾向は、なんて、会議で知ったようなこと言いますけどね、みんなの腹の中は同じ。他局であんなのが流行ったんだったら、うちもちょっと変えて同じことをしようっていうのが、いちばん正直なところじゃないかしら」
最後は笑った。青山通りの音楽事務所に用事があるという文香と一緒に、瑞枝も少し歩くことにした。散歩がてらに外苑《がいえん》前のブティックでも覗《のぞ》くつもりであった。表参道から裏道を抜けていったら、はからずもキラー通りに出た。ベルコモンズへ出るこの道は、かつて郡司のビルがあったところである。文香はそのことを口にした。
「よく知ってるわね」
「だって郡司さんに関する資料、いっぱい読みましたからね。確か、このあたりにあったはずですよね」
「もう無いわ。ほら、そこの駐車場になっているところよ」
瑞枝は指さした。
「たいして大きくなかったけれども、ものすごく凝ったビルでね。エレベーターはシースルーになっていて、中は途中から吹き抜けになったりしていたの。あんまり斬新《ざんしん》なビルだったから、人手に渡った後も使い道に困ったらしいわ。一時期はファッションメーカーに貸していたらしいんだけど、そこも景気が悪くなって出ていったみたい。いっそのことって言うんで、去年つぶして駐車場にしてる」
パーキングメーターの看板が出ていたが、場所柄稼働率はよいようだ。九割ほどが埋まっていた。
「へえ、じゃあ『マイ・メモリー』のラストシーンとまるっきり同じじゃないですか。あの時もビルが取り壊されるところで終わるんですよね。そうか、瑞枝さん、このことをドラマにしたんだ」
瑞枝は駐車場の前に立つ。嫌でも十二年前のことを思い出してしまう。カメラマンと待ち合わせをして、あのビルを訪れた。イタリア製の家具が置かれ、少々量が多過ぎるのではないかと思われるほどに花が飾られていた。オフィスビルというのに、資料や機器といった雑多なものはどこかに匿《かくま》われ、ショールームのようなひやりとした、現実感のない空間が拡がっていた。働く女たちも誰もが若く美しかった。客が来たら茶を淹《い》れるだけで、後は足を組んでぼんやりと日がな一日座っているだけではなかろうかと思われるほどであった。生きて働いているOLという感じはまるでしなかった。
「ここにあったビルが、跡かたもなく消えてしまう気分って、どんなものなんでしょうかね」
文香が突然あからさまともいえる質問をする。
「それもただのビルじゃない。ご主人が持っていたものでしょう。それが無くなっちゃうなんてつらくないですか」
「仕方ないんじゃないの。私のものだったら口惜《くや》しかったかもしれないけれども……」
どうやったらうまく説明出来るだろうか、と瑞枝は沈黙する。そして、別に自分の気持ちを的確に表現する必要などないのだとやっと気づいた。
「あの時代のことを、みんな夢みたいだったって言うけれど、本当にそうかもしれない。月並みな言い方になるけど、この土地は最初から駐車場で、郡司のビルが建っていたことの方が嘘みたいな気がする。そしてね、おそらく郡司もそうだろうけれども、私たちは若いうちにたくさんのものを失ったんで、それが傷になっていないのよ。年をとってからならともかく、失うスピードがあまりにも早かったんで、呆気《あつけ》にとられていた、っていうのがいちばん正しいんじゃないかしら。私のまわりでも無一文になった人がいるけど、みんなたいてい明るいわね、びっくりするぐらい」
「そういうもんなんですかねえ……。いろんなものを失っても明るくいられるなんて」
文香は腑《ふ》に落ちぬ表情でそこに立っている。麻混のベージュの上着に、陽ざしがあたり、場所によっては白く輝いている。こうした初夏の光でさえ、もの哀しく感じる日が自分たちにも訪れるのだろうかと瑞枝はふと思った。
「若さっていうのは、それだけですごいことなんじゃないかしら。私のまわりの男たちは、三十代や四十代の初めに失敗をしたから、あんな風にめげないんだと思うわ。自殺したなんて話、ひとつも聞いたことがない。みんなそこそこ、いろんなところで頑張っているんだと思うわ」
今日の自分は、どうしてこれほど説教がましいことばかり口にするのだろうか、と思ったけれども仕方がない。舌が勝手にまわっていくのである。それはやはり文香の意外な告白によるものと、今日という特別の日のせいだろう。
「郡司さんもそうなんですか」
「多分そうでしょう」
瑞枝は自然に唇がほころんだ。意気消沈している郡司など想像も出来なかった。
「今、あの方はどうしているんですか。確か四国の方にいるんですよね」
「それがね、今日会うことになっているのよ」
昼食時からの不思議な気分につられて、瑞枝はつい重大なことを文香に漏らしてしまった。
「えー、あの方と会うんですか」
文香は驚きを隠さない。目が大きく見開かれているが、その好奇心は若い女のものというよりもマスコミ人種のものであった。
「そうなの。最終回の放映の日に電話があってね、東京へ出て行くから会おうって。その日が今日なのよ」
「なんかドラマみたいな話ですね。私のまわりで、別れたダンナに会うっていう人は結構いるし、珍しい話でも何でもないけれど、瑞枝さんの場合やっぱりすごいですよね。だってずっと連絡してこなかったんでしょう」
「まあ、子どものことやいろいろあって、弁護士さんを通じては多少あったんだけれどもね……」
瑞枝は打ち明けたことを後悔し始めた。これほどまでに露骨に興味を持たれると、最初は全くといっていいほど感じなかった、わずらわしさや嫌悪といったものが、じわじわと腋《わき》の下の汗のようににじみ出てくる。もしかすると自分は、別れた夫に会うことにかすかにはしゃいでいて、それでつい喋《しやべ》ってしまったのではないだろうかと反省さえした。
文香と途中で別れ、外苑前のいきつけのブティックへ向かった。服を買おうとしたのはほんの気まぐれだが、それもおかしな風に勘ぐられているかもしれない。
たそがれの見極めがなかなかつかない初夏であったが、約束の時間が近づいてきた。
どうしようかと迷った揚げ句、瑞枝は昼間買ったばかりの紺色のジャケットを羽織った。イタリア製のこのジャケットは、夏ものにしては信じられないような値段だ。一見平凡な色と形をしているが、目を凝らせば極上の生地と仕立てだということがわかるだろう。昔から着るものにうるさかった郡司が気づかないはずはない。
全く別れた夫と会うことが、これほど緊張するものだということを誰も教えてはくれなかった。着ていくものも考えなければならないのが腹立たしい。友人のひとりで離婚係争中の女がいる。子どもの養育費で揉《も》めているので、夫と会うときは出来るだけ貧乏たらしい格好をしていくと教えてくれたが、女の意地にかけてそんなことは出来なかった。金まわりがいいらしいと思われるのも不愉快だが、少なくともみじめな生活をしていないというのは胸を張って示したかった。なにしろ日花里の養育費も、途中からうやむやにした男なのだ。女ひとりで子どもを育てることが、どれほど大変なことか、想像出来ぬほど馬鹿な男でもないはずだから、謝罪のひと言もあるだろう。
謝罪されるのはそう悪い気分ではないが、それを鷹揚《おうよう》に受け取める自分でいたかった。
そもそも二人が会う場所についても、瑞枝はあれこれ思いをめぐらしていたものだ。ホテルのレストランやバーなどでは絶対に嫌だ。まさか別れた夫が、部屋を予約したと誘うはずもないが、ホテルの周囲にまとわる甘く華やかな、ややだらしない空気を郡司と共有する気はまるでなかった。
もし郡司が、ホテルのロビーかバー、などと言ったらどうしようかと案じていたのであるが、彼が指定した場所は西麻布のイタリアンレストランである。かつての彼のいきつけの店で、瑞枝が高林と初めて待ち合わせをした場所だ。
「あそこの主人も元気でやっているのかな」
電話で郡司はのんびりと言ったものだ。
「オレなんか行くと、幽霊でも出たみたいにびっくりするんじゃないかなあ」
「そんなことないでしょう。このあいだ久しぶりに行ったら懐かしがっていたわ」
口に出して瑞枝はしまったと思った。もしかすると今の言葉がきっかけで、高林と出かけたことが露見するかもしれない。たかだか一回食事をしたからといって、二人の仲を推理されることもないだろうが、とにかく高林とのことは絶対に知られてはならないと考えているうち、瑞枝はひとり舌打ちした。間男をしたわけではない。別れた夫に対して、どうしてここまで気を遣わなくてはならないのだろうかと、滑稽《こつけい》さと口惜しさとが入り混じった奇妙な気持ちになる。
時間どおりに店に着くつもりだったのに、青山通りが意外なほど混んでいて、結局ドアを押したのは約束の七時を十分過ぎていた。
「もういらしてますよ」
ウエイターがわけ知り顔に頷《うなず》いたのが気に入らないが、彼に従《つ》いて店の奥に進んだ。郡司の背が見える。八年ぶりであるが、それがかつての夫の背中だということはすぐにわかった。日本人にしては背の肉が厚く、スーツがよく似合うというのを自慢していた夫の肩だ。郡司はこの店の主人と何やら話をしていた。瑞枝に気づいたのは主人の方である。いらっしゃい、という声に郡司は振り返った。
瑞枝が予想していたとおり、郡司はかなり太っていた。こちらを向こうと首を向けた時に、二重|顎《あご》となっている肉も一緒に揺れたほどだ。けれども太った分、彼の陽気さは一層強調されることになった。
「やあ、久しぶり」
彼は手を上げた。多少の照れはあるものの、瑞枝が危惧《きぐ》していた屈折や暗さはまるでなかった。
「今、郡司さんといろいろ話してたんだけど、もう懐かしくって、懐かしくって……」
主人はいそいそと壁際の椅子をひき、瑞枝を座らせた。瑞枝は郡司と向かい合うことになる。やはり白髪も増えていた。郡司が正確に、平凡に、中年男への道を歩いていることに瑞枝は驚き、そしてかすかに安堵《あんど》している。
「予約する時、もうオレの名前なんかとうに忘れてると思ってたけどさ、いつもの席を用意しときますよ、って言われて嬉《うれ》しかったなあ……」
「何言ってるんですか。郡司さんのことを忘れるはずないでしょう」
二人の男は瑞枝の前ではしゃぎ始めた。どうやら郡司は瑞枝とすぐに二人きりになることにためらいがあり、主人の方はそれをすばやく察しているらしい。
「もうさ、オレみたいに落ちぶれた人間なんか相手にしてくれないと思ってたよ」
「何言ってんの。あの頃、頑張って仕事してた人はみんな今、落ちぶれてんの。だからいいの、いいの」
主人はわざと露悪的な言い方をし、郡司は楽しそうにふふと笑った。
「まずは二人の再会を祝ってシャンパンといきますか。とっておきのがあるけど」
「オレはさ、昔みたいに高いのはもう頼めないからさ、良心的な値段のやつを頼むよ」
「わかってますってば。僕に任せておいてよ。郡司さんの好みは、ちゃんと頭の中に入ってるからさ」
主人が去った後、二人はやっとお互いを見つめ合った。
「君は昔と少しも変わらないね。いや、前よりもずっと若く綺麗《きれい》になったくらいだよ」
二人きりになって、郡司が初めて発した言葉があまりにも陳腐でありきたりなので、瑞枝はにっこりと笑った。が、郡司はそれを好意的なものと解釈したようである。言葉をさらに重ねる。
「君の名前を初めてテレビで見た時はびっくりしたよ。同姓同名だとばかり思っていた。だけど弁護士の村上さんや高林から話を聞いて、君が活躍してるって聞いた時は本当に嬉しかった。本当に嬉しかった……」
「責任から逃れられると思ったわけね」
別れた夫に会うに際して、瑞枝はさまざまなシチュエーションを思い描いていたが、その中に恨《うら》みごとを言うという項目も確かにあった。このくらいの皮肉を口にするのは、それほど美意識からはずれることでもあるまい。
「そりゃあ、君や日花里に対してはすまないことをしたと思っているよ。だけどね、村上さんにも言ったとおり、何年かかけても約束したことは実行する……」
そこへ主人がシャンパンを運んできた。見慣れないラベルのものである。
「これは僕からのサービス。日本にはなかなか入ってこない――社のものですよ」
彼は長たらしい名前を口にしたが、郡司はそれについて反応しなかった。もうワインへの好奇心は失くしてしまったらしい。そういえばこの店で、いったいどれほどの金をワインに遣っただろうかと瑞枝は思う。今のように本格的ワインブームが来る前のことで、ただ高くて有名銘柄のものならよしとする風潮があった頃だ。イタリアンレストランだというのに、郡司はフランスワイン一本|槍《やり》で、マルゴー、ペトリュスといった、今思い出しても顔が赤くなるような名が通ったものだけを毎晩のように飲んでいたはずである。
二人は無言で乾杯する。シャンパンのせいで、郡司の謝罪は中途半端に終わった。が、その方がずっといい。丸顔で二重瞼《ふたえまぶた》の彼に、謝罪や悔恨といったものはまるで似合わないからだ。
「今、どんなことをしているの」
とたんに郡司は饒舌《じようぜつ》になった。こんな世の中だけれども、探せば使い道のある土地と金はかなりあるものだ。特に地方の婆さんたちの金を持っていることといったら、ちょっと信じられないくらいだよ。もう銀行など信用していないから、僕が箪笥《たんす》貯金していたものをうまく運用してやる。一人が信用してくれれば、後は仲間をいくらでも紹介してくれるものだ。このあいだは大阪の半端な土地をうまく分割して住宅を建てる仲介をした。資金の無かった建設会社は大喜びだったし、多額の利子で婆さんたちからも感謝された。
シャンパンは半分ほど空けて、後は赤ワインにした。郡司がリストを見て選んだものである。グラスを斜めにして色を確かめる。時々まわしてみる。幾つかのしぐさを彼の手が憶《おぼ》えていた。
そりゃ、もう昔みたいなことが起きるはずはないさと、郡司は言った。僕だってそのくらいのことは充分にわかっている。だけどさ、人間っていうのは愚かなもんだからな、いつか時間がたつと、つらいことをストンと忘れて楽しい方へ行くものなんだ。
僕が大学生の頃、石油ショックっていうのがあった。君だって少しは憶えているはずだよ。あの時は日本中が葬式みたいになってさ、銀座や新宿のネオンが消えたよ。トイレットペーパーが店頭から失くなって、やたら節約術みたいなものが流行《はや》った。日本人は生き方を変えなきゃいけない、って皆が言ってたもんさ。ところがさ、十年たつうちには、みんなそんなことは忘れてしまった。石油ショックの前に戻るどころか、もっともっと大はしゃぎだ。トイレットペーパー買うために行列してた女たちと、海外でブランド品を買い漁《あさ》ってた女は同じなんだぜ。今に見てみろよ。あと三年たったら世の中変わるぜ。みんな貧乏や節約にはうんざりしているからな、何かのきっかけをつかめばまた派手《はで》なことが起こるはずだ……。
最近これほど楽天的な幼稚な論を聞いたことのない瑞枝は、ふふと小さく笑った。その意味をさすがに気づいたらしく、郡司はかなりむきになる。
だから言っただろう、僕だって昔みたいなことになるわけはないって思ってるさ。あんなことがもう一度起きることがおかしいよ。日本中にツキというやつが雨のように降り注いできた。雨はいつか小降りになると思ってた。だけどあんな風に突然ストンとやむとは、誰も考えていなかったんだよ。でも仕方ないだろ。僕たちは若かったんだ。誰も失敗した時のやり方を教えてくれなかった。
僕はね、今ふたつの心と戦っているんだ。ひとつはね、ひきずり込まれそうな甘い誘惑さ。お前は三十代の時に信じられないぐらい、贅沢《ぜいたく》で楽しいことをさんざんしたじゃないか。あれを思い出として時々は取り出して楽しんで、これからの人生を地味にひっそりと生きていけっていう声がする。それからもうひとつはね、チャンスは絶対にあるんだ。失敗や挫折《ざせつ》を知ったお前は、もう十年前のお前じゃない。次の波がやってきたらうまく乗れよっていう声さ。今の僕はこの二つの声の、とても中途半端なところにいるのかもしれない。だから徳島に住んで、時々は大阪や東京に出かける暮らしをしている。
途中で瑞枝は、ある質問をしなければいけないことに気づいた。今までの会話の進行具合からいって、決しておかしな風にとられることはあるまいと判断する。
「もう結婚はしたの。女の人と一緒に暮らしていると聞いていたけれど」
「それがね……」
郡司は深刻そうにふと眉《まゆ》を寄せたが、それが演技であることはすぐにわかった。
「昨年の暮れに籍を入れたんだよ。子どもが産まれたもんだから」
「まあ、それはおめでとう」
どうして高林は自分にそのことを告げなかったのだろうか。まさか傷つくとでも思っていたのだろうか。
「それで男の子なの、女の子なの」
「女の子だよ、またしても」
またしても≠ニいう言葉に、瑞枝の心はびくりと反応した。別れた夫に妻が出来ようと、子どもが産まれようと、意外なほど動じないものだという友人がいたが、それは嘘だ。日花里にまだ見たこともない妹がいるという事実は、単純でまっすぐな嫌悪さえもたらした。別れた後、母と娘とで何とか頑張って生きている間に、郡司は新しい家庭をつくっていたのである。
「もし私が、今みじめな暮らしをしていたとしたら、あなたのことをとても恨んでいたと思うわ」
酔いも手伝って、瑞枝は正直なことを口にした。
「この場でバカヤローって水ひっかけて、養育費はどうした、って怒鳴るところだわ」
「そうだろうな」
郡司は頷《うなず》く。
「だけど今の女房は本当に苦労してるんだ。子どもを産むか産まないかで相当悩んでたしな。今だって本当に僕と一緒になってよかったのだろうかと考えているよ。君が考えているような幸福な家庭とはまるで違う。足場は組んだものの、突然キャンセルを喰《く》らうかもしれない建設現場みたいなもんさ」
瑞枝はさらに痛烈なひと言を舌にのせるつもりだったのであるが、うまく頭がまわらない。郡司が言いわけをしている最中、急激に怠惰さが全身をまわってきたようだ。
「もう済んだことだ。とっくに終わったことだ」
という声が、瑞枝をふっと怒りから解き放った。
食事が終わろうとしていた。エスプレッソのお替わりを頼みながら、郡司は財布からクレジットカードを取り出す。それが黄金に輝いていることが瑞枝には意外だった。破産した人間でも時がたてばゴールドカードを持てるのだ。
おそらく郡司の人生は、カードや家庭を手放し、また手に入れることの繰り返しなのではあるまいか。
コーヒーを飲み終えて二人は店を出た。主人がドアの外まで送ってくれる。
「郡司さん、またいらしてくださいよ。本当に待ってますよ」
「東京には時々来るんだけど、おたくは敷居が高くってね」
「ご冗談ばっかり。またおたくの食堂みたいに使ってくださいよ。今日は郡司さんに会えて本当に嬉《うれ》しかったですよ」
主人の言葉はまんざら世辞とも思えなかった。瑞枝は再び、この店で郡司が遣っていた金の多さを思う。それは十年前のことなのだ。十年前というのはそれほど昔のことではない。記憶が風化するには短過ぎる時間だ。思い出はまだあちこちに、ねっとりとまとわりついている。レストランのテーブル、通りの角のハンバーガー屋、ベルコモンズ、ピーコックストア、時々夜遅く買いに出かけたビクトリアのケーキもそのままだ。人々はよく時のうつろいを口にするが、時間というのはもっとしたたかで強靭《きようじん》なものだ。角が剥《は》がれ始め、さらさらと砂が漏れるようになるまで最低二十年はかかる。
やっとわかった。十年では何も変わりはしない。街も、人の心もだ。とうに終わったことだと別の声がしても、やはり心は傷ついていく。別れた男の言葉によって血は出ないまでも、赤い切り傷はつけられていく。けれどもそのことは瑞枝に不思議な喜びをもたらす。
まだ自分が生々しい精神、健康な傷つきやすい心を持っていることが嬉しかった。
「私はまだ老いてはいない」
そしてあなたもだと、瑞枝は先に歩く郡司のえり足のあたりに呼びかけている。
食事を終えたらすぐに別れるつもりであったが、タクシーを停めることもなく二人はゆっくりと青山通りを歩き始めた。ベルコモンズの前で、郡司は立ち停まる。
「ここを右に曲がったところだ」
何を言いたいのかわかる。ここの先、キラー通りを五十メートルもいかないところに、かつて郡司の所有していたオフィスビルがあったのだ。
「信じられないよな。僕は三十三歳の時にあのビルをつくったんだ。金を貸してくれた銀行も銀行だけど、建てた僕も僕だよなあ……」
「偶然、昼間前を通ったわ。でもビルはとうに消えて駐車場になっているわ」
「そのくらい知っているさ」
郡司は低い声でつぶやいたが、それは今日彼が初めて見せた怒りというものであった。
「いつもタクシーで通る時も、見ないようにしてきた。でも今日、君と一緒だったらもう一度行けそうな気がするよ」
「そう、じゃあ行ってみましょうよ」
郡司と反比例して、なぜか快活になった瑞枝は大きく歩き始めた。
夜の駐車場は、昼間よりも車の数がぐっと減っている。みんな路上駐車をするせいだ。
「ビルってつぶしてしまうと、こんな狭い土地だったのかってしみじみ思うよなあ。この土地の借金のために、あんなに苦しんだのかって……」
「でもあの頃は、空き地なんてつくる間がなくて、ビルがどんどん建っていたから、誰もそんなことに気づかなかったわけね」
郡司は小さくふふっと笑った。キラー通りは夜閉まる店が多く、この暗さでは彼がどんな表情をしているかはわからない。
「そういえば高林が言っていたな。土地は絶対に人を裏切らない。土地が未だかつて下がったことがあるだろうかってね」
「あら、それはあなたのセリフよ」
「いいや、奴からの受け売りだ。彼の当時の口癖だった」
そして郡司は振り向いた。穏やかな声だ。
「高林は君とつき合いたいらしいね。結婚していた時から、彼が君のことを好きだなと感じていたよ。このあいだちょっとそのことに触れたら率直に告白してくれたよ。君とまた会うようになったら、もう自分の気持ちにブレーキが利かなくなったそうだ」
「いいえ、それはないわ」
瑞枝は言った。否定する大きな力は、新たな別の力を揺り動かしていく。
「高林さんとおつき合いすることはないわ。なぜなら私、もうじき結婚するから」
ほうと郡司は瑞枝の顔を眺め、それによって二人の男がどのような会話を交わしていたかが想像出来た。
「私よりずっと若い人よ。でもね、幸いなことに日花里がとってもなついているの。三人できっとうまくやっていけると思うの。それに……」
誰にも告げたことがなく、自覚もしなかった決意が、急に成長し、膨れ上がり、瑞枝の体内から出ようとしていた。
「私、すぐに子どもをつくるつもりよ。相手も欲しがっているから、また新しい家族をつくるわ。私ね」
また生きていくことに決めたの、という言葉を瑞枝は喉《のど》の奥深く匿《しま》った。この言葉を告げるのは、やはり聡でなくてはならなかった。その代わり、別の質問をする。
「ねえ、私たち充分に若いわよね。ピカピカに若いわよねえ、もう一度やれるわよね……」
「あたり前じゃないか」
瑞枝は駐車場に視線を向ける。喪失の跡ではなく、再生の証《あかし》が浮かび上がるのを目を凝らして見るためだ。そこにはただ闇があるだけであった。けれども瑞枝は目を離さない。これほど心を込めて見つめるものが幻《まぼろし》であるはずはなかった。
角川文庫『ロストワールド』平成14年6月25日初版発行
平成18年2月15日3版発行