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ピンクのチョコレート
林 真理子
目 次
猫を連れて
ピンクのチョコレート
真珠の理由
四歳の雌牛
ランチタイム
偶然の悲哀
赤い糸
眠れない
勤め人のいえ
第一話 崖の下の電話
第二話 姫始め
第三話 夢
第四話 川のそばの家
第五話 女子校育ち
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猫を連れて
キヨスクの前に立ちふさがるようにして、大層太った男が週刊誌を選んでいる。あれこれ迷っていてなかなか決めない。しばらく後ろで待っていたユリだが、たまりかねて男の脇腹《わきばら》の方から手を伸ばした。
「ビールを頂戴《ちようだい》」
その時男は顔を斜めに傾けてユリの顔を見た。細く垂れ下がった目のあたりに軽い非難の色が走るのがわかった。こんなに若い女が昼間からビールを飲むのかと言いたげだ。
しかしユリにとっても新幹線の中でビールを飲むなどというのは初めての経験だ。いつもはウーロン茶かホットコーヒーなのだが、今日はどうしてもビールを飲みたいと思った。ウーロン茶でもなく、コーヒーでもなく、ビールこそが、平日の旅立ちにはぴったりなような気がする。
会社を休んでしまった。今までも夏期休暇や有休をとったことは何回もあるが、今日のように電話で突然それを告げたのは初めてだ。しかも一日だけの休みではない。
「だから何日間休むのか、ちゃんと言ってくれなきゃわからないじゃないか」
さっき駅から電話した時の、係長のいらだった声が、耳たぶのあたりにこびりついている。
「えっ、田舎に帰るの? だからいつまで居るかわからないって。谷本君、親御さんの具合でも悪いのか。黙ってたらわからないじゃないか」
最後は女のように裏声になっていた。あの係長の声をまた聞くことがあるのか自分でもわからない。ただ今日は会社に行きたくない、ただそれだけをいまは考えている。
十時過ぎのひかりは、時間が中途半端なことがあってかなり空《す》いている。自由席は六分の入りといったところだろうか。ビールを片手に自分の席に戻ると、ユリの足音を聞きつけてゴミ[#「ゴミ」に傍点]がニャーッと二回ほど鳴いた。
「静かにしなさいってば」
ユリは布製のフラットシューズで、籐《とう》のキャリーバッグを軽く蹴《け》とばす。ゴミ[#「ゴミ」に傍点]も主人のただならぬ様子を感じとったのか、それきり鳴くのはやめて籠《かご》の中をうろうろと歩き始めた。といっても小さなものだから、からだをこごめながら回転しているといった方がいいかもしれない。
すべてはこの猫が原因だった。三か月前の雨の夜、ポリバケツの陰で鳴いていたのを見つけた。あと二メートル移動すれば不動産屋の軒先へたどりつき、濡《ぬ》れずにすむはずなのに、その猫は雨のあたる路地で鳴いているのだ。その愚かさがなんとも哀れで、ユリは思わず抱き上げた。
本当に小さな猫だった。白い毛が水を含ませた刷毛《はけ》のように雨でぐっしょり濡れているのでますます小さく見える。両手で抱きかかえるようにすると、胸と腕との隙間《すきま》から落ちてしまいそうだ。ユリは手のひらをからだにぴったりとつけその上に乗せた。
猫はユリの顔を見ることなく、視線を下に落としたまま鳴き続けた。仔猫《こねこ》の鳴き声というのは意志を持たない呼吸と同じだ。鳴き続けるのが自然なことだとでも言うようにその声はやまない。もしかすると腹を空かして鳴いていたのかもしれないが、その猫は生まれ落ちた時から、飢えているのが自然だから、どちらにしても同じことだ。
そんな猫を、冷たく濡れた地面にどうして戻すことが出来ただろう。そんなことが出来るのは血も涙もない人間だけだ。ユリは熱い血を持ち、涙もろい目を持つ二十二歳の女の子だったから、もちろんそんなことはしなかった。幸い底が広い紙袋を持っていたので、その中に仔猫を入れアパートに連れて帰った。冷蔵庫の中の牛乳を少し温めてあたえると、仔猫は驚くほど大きな舌の音をさせてそれを飲んだ。
自分のところへ二、三日置き、すぐに飼い主を見つけるつもりだったのに、この頃の東京で猫をもらってもいいなどという人はめったに現われない。たまにいたとしても、シャムやチンチラの純血種でなければ嫌だという。新聞の「ペットあげます」というコーナーに、もう三度も出しているのだが載せてもらったことがない。
そうしているうちに、昨日の夜がやってきたのだ。夜の十時四十三分、ユリが部屋のスイッチを点《つ》けたと同時にチャイムが鳴った。ドアのミラーを覗《のぞ》くと、太った管理人の妻が立っていた。猫を見られたら大変と、寝室の六畳に入れ引き戸を閉めた。寝室といってもあとは四畳半のダイニングキッチンがあるだけの1DKだが、猫を隠す場所ぐらいはある。何とか鳴かないでくれと祈りながら、ユリの方は首だけをドアから出した。
「何ですか」
出来るだけ無愛想な声を出したら、相手も思いきり唇をへの字に曲げた。そして曲げた唇をゆがめるようにして発音する。
「谷本さん、あんた、猫を飼ってるんですって」
「えっ」
ユリは、とっさにとぼけた表情をつくろうと目をうかせたのだが、彼女が断定的に口を開いた方がずっと早かった。
「しらばっくれないでよ。お隣の人から言われているのよ。谷本さんって帰りがいつも遅いのに猫を飼っている、その猫が夕方になるとニャーニャー鳴いてうるさいって」
ゴミ[#「ゴミ」に傍点]と名づけた猫は大人になってからはごくおとなしく、ユリが帰ってくるとエサをねだるために、ほんのしばらく声を発するだけだ。だから、ユリの留守中ゴミ[#「ゴミ」に傍点]はベッドの上に寝そべっているか、窓から下を眺めているものだと思い込んでいた。それなのにひっきりなしに鳴いていたという。
「こんな狭いとこで飼ってたら、猫だって迷惑なんじゃない。お隣さんは言ってたわよ。猫もノイローゼになるかもしれないけど、私もノイローゼになるって」
イラストレーターと名乗る、おかっぱの年齢不詳の女を思い出した。しかしここでユリは引き下がることは出来ない。たとえ負けるとしても、自分の権利は主張し、相手とやり合うことは大切だ、というのは、この二年間の都会暮らしで彼女が身につけたものだ。
「でもそんなこと言いますけどね、このアパートに入る時に、そんな規約ありませんでしたよ。私、不動産屋さんにも見せてもらってなかったもん」
「ありましたよ。石油ストーブ禁止っていう項目と同じぐらいはっきりと書きましたけどね」
「でも私、見てないわ」
「ねえ、谷本さん」
女は急に卑し気な表情になった。
「いまはっきり言わせてもらうけど、あなたって共同生活にとても欠けるところがあるんじゃないかしら。あなたが守らないのは猫のことばっかりじゃないでしょう。あなたのとこ、しょっちゅう男の人が来て泊まっていくらしいけど、そういうのも困るのよねえ」
ああっとその場にしゃがみ込みたいような羞恥《しゆうち》が襲った。そしてその羞恥は昨日の真夜中に怒りとなり、明け方にはなんともいえない空《むな》しさに変わったのだ。脱力感というのはこういうことを言うのだろうか。何をするにも力が入らず、コーヒーを淹《い》れる気にさえならない。冷蔵庫の中のミネラル・ウォーターをらっぱ飲みにした。
六時半に起き、トイレに入って身じたくをする。そして七時過ぎにコーヒーとプレーンヨーグルトの朝食を摂《と》るという手順を崩してしまったら、あとはもう壊れてしまった朝を、なすすべもなく見ているだけだ。
ああ、嫌だ、嫌だ。猫のことも本当に腹が立ったが、それよりも気が遠くなるほど恥ずかしかったのは、訓男《のりお》とのことを皆が知っているということだ。しかも今、ちゃんとした恋人ならばともかく、この二か月は、電話があったりなかったりの状態が続いている。最後に会ったのは先月のことで、大層酔っぱらったまま不意に現われたのだ。そんなのは嫌だとユリは何度も言ったのに、洋服のままダイニングキッチンの床に倒された。リノリウムの床の感触と、すぐ目の前のスリッパがみじめで、小さな声で抗議したけれど、もしかしたらそれは途中で違った声に変わったかもしれない。ああしたものも隣の女に聞かれていたと思うと、なんだか泣きたくなってくる。
ああ、嫌だ、嫌だと、もう一度猫のキャリーバッグを蹴《け》った。ゴミ[#「ゴミ」に傍点]が悪いわけではないことはわかっているけれど、この煩《わずら》わしさというのは他に持っていき場がない。世の中には気軽に猫を捨てられる人もいるというのに、自分はどうしてそれが出来ないのかと今度は別の腹立たしさがこみ上げてくる。
「ねえ、そんなことすると可哀想《かわいそう》だよ」
目を上げると通路を隔てて座っていた青年が、いつのまにか歩いてきてすぐ傍にいた。
「猫だってさ、こんなとこに連れて来られておびえてるんだからさ、そんなふうにポカポカ蹴ったら可哀想だよ」
「ちゃんと加減しながらやっているから大丈夫」
相手の男が自分と同じ程度の若さだとすぐわかったので、ユリもぞんざいな口調になる。そうかといって馴《な》れ馴《な》れしくされないよう、唇のかたちをいくらか固くしておくことを忘れない。
「ねえ、ねえ、ちょっと見せて。僕、わりと猫、好きなんだ」
男はするりとユリの隣の席に場所を占め、キャリーバッグの中を覗《のぞ》き込んだ。視線を感じるのかゴミ[#「ゴミ」に傍点]はニャーといささか気弱く鳴いた。
「仔猫かと思ったけど、もう大人だね。名前は何て言うの」
関係ないでしょ、と言うことも出来たのだが、男があまりにも屈託なく笑いかけてくるので、ユリはつい奇妙な名前を教えてしまった。
「ゴミ[#「ゴミ」に傍点]っていうのよ」
「えっ、ゴミ[#「ゴミ」に傍点]ってあのゴミ」
「そう、ゴミバケツの横でミャーミャー鳴いてるのを拾ったからゴミ[#「ゴミ」に傍点]っていう名前にしたのよ」
「なんか情けないやつ」
男はくっくっと笑った。白くて綺麗《きれい》な歯だけれど大きな八重歯があるために若い、というよりも幼く見える。フード付きのジャンパーといういでたちからみてもおそらく学生だろう。都会に住む若い女の習慣として、ユリはそろそろと身元調査にかかる。もしかするとこれから何時間かを同行するかもしれないのだ。いくつかの質問をするのはあたり前だろう。男の感じはそう悪くない。あとは会話をしてもいいレベルに達しているかどうかだ。
「学生なの」
「ううん、もう卒業しちゃったよ。東京で研修を終わってさ、これから大阪へ帰るとこ」
そういえば男の口調には、はっきりした関西なまりがある。この人なつっこさ、陽気さも大阪の男と聞けば納得がいった。
「君、学生」
男は首をかしげるようにして、ユリに問いかけてきた。ディスコやスナックの薄闇《うすやみ》の中、おそらく何十回とこの質問をしてきたのだろう、さりげない切り出し方は、とても慣れたものだった。
「ううん、もう働いてるわ」
「どこに勤めてるわけ」
「言っても知らないと思うわ」
「そう」
男は気分を悪くした様子もない。ふんふんと彼が軽く頷《うなず》いた拍子に、新幹線はホームを離れた。客はもう名古屋まで乗ってこない。男が移ってきたから、通路の向こう側の席も、二人が座っている後ろも空《あ》いたままだ。そのことに安心したように、男は煙草を取り出した。感心なことに、吸ってもいいかと問うてくる。
「どうぞ、構わないわ」
訓男もヘビースモーカーだった。この頃の若い男には珍しくたて続けに吸う。彼が来ると狭いアパートの部屋は、息苦しくなるほど煙が充満し、その後何日も何日も煙草のにおいがした。けれどそれはもちろん嫌なことではない。夜帰ってきてドアを開けると、幸せのなごりのようなヤニのにおいが漂ってきて、そしてゴミ[#「ゴミ」に傍点]がミャーと鳴く。そんな日々に満足しようと思ったこともあったのだけれど。
「働くって嫌だよね。本当にオレ、ずっと憂うつだった」
男は言葉とは裏腹に、うきうきと体を揺らしながら言う。
「あのさ、府中の山の中へ入ってさ、毎朝六時に起きてマラソンだよ。たいした会社でもないのにさ、会社の歴史とか、重役の訓示みたいなのがあってさ、オレ、このまま帰ろうかと思っちゃった。他にも何人か同じこと考えてるのがいてさ、いっそのこと皆でストライキを起こそうかと考えたんだよ」
男はそこでいくつかの面白いエピソードを話してくれた。研修中、どうしても酒を飲みたくなり、決死隊をつくって山の中を歩いたという。
「ところがさ、研修センターの左の方にコンビニがあってさ、ちゃんとビールなんかも売ってんだぜ。オレたち右側へ行ったばかりに、何キロも歩いたんだから、本当にバッカみたい」
そのエピソードよりも男が情けなさそうに肩をすくめた動作がおかしくて、ユリは思わず薄く笑ってしまった。すると男はそれに勇気を得たようで、さらに馴《な》れ馴れしい質問を始めた。
「ねえ、ねえ、いつもどこで遊んでるわけ」
「私はこのあいだまで学生の人と違って、そんなに遊んでないわ。たまに渋谷《しぶや》へ行くぐらいかな」
「ねえ、ねえ、渋谷、どこが多いの」
「うーん、道玄坂《どうげんざか》の方かな。センターの近くはこの頃避けてる。だって若いコがものすごく多いんだもん」
「ねえ、道玄坂にさ『ポテト小僧』っていう店あるの知ってる」
「ああ、ポテトフライとか、ポテトのパンケーキでビール飲ませるとこでしょう。いつ行っても混んでるとこ」
「そお、そお、そお」
男はわざとらしい偶然に、大層興奮して鼻を鳴らす。
「あのさ、あそこオレの友だちがバイトしてたことがあってよく行くんだよ。安くておいしいよね」
「本当、安くておいしいわ」
やりきれない思いのまま、猫をキャリーバッグに入れて家を出た自分に、どうしてこんな他愛ない会話が出来るのか不思議でたまらない。悪いけど黙ってて、眠りたいの、と言えば言えないことはなかったのにユリはそうしなかった。うまく言えないけれど、会社を休み、猫を連れて郷里に向かっているという非日常的な緊張感の中、いつもそこらで会い、いつも軽口をたたくような相手と喋《しやべ》り合っている。そのことがいくらかユリを安心させていた。
その時またゴミ[#「ゴミ」に傍点]が爪《つめ》をがりがり言わせたかと思うと、三度ほど続けて鳴いた。
「こいつお腹が空いてるんじゃないかな」
「そうかもしれない。でもね、乗物酔いして吐くかもしれないから、こういう時にエサをやれないのよ」
「でもさ、喉《のど》が渇いてるかもしれない。ちょっと待ってて、何か探してくるよ」
立ち上がった姿を改めて見ると、かなり背が高かった。野放図《のほうず》に足が伸びていて、薄茶色のチノパンツがよく似合う。出て行く時もドアに頭がつっかえそうだ。
ユリはさらに深く腰をおろす。男が居なければ居ないで、心地よい静寂があった。ユリは軽く目を閉じ、シートを少し下げた。
突然広島の実家へ帰ったら、母親はなんと言うだろうか。最初は多少|嬉《うれ》しそうにしていても、猫を見るときっと嫌味のひとつも言うに違いない。
「相変わらず勝手なんだから。猫が飼えないなんてわかりきっているじゃないの。そして最後は親に押しつけようとするんだよね」
勝ち誇ったような口調になるだろう。二年前の騒ぎを思い出す。地元の短大を出たユリがそのまま残らず、絶対に東京へ行くと言い張った時のことだ。東京へ行けばろくなことがない、お前はひとり娘としての責任がないのかと母親はついには涙さえ流した。母親が泣いた、ということのショックと嫌悪とでユリはどんなことがあってもあの時家を出ようと決心したのだ。
いま、猫をこうして家に運ぶのは、ユリにとってひとつの敗北なのだ。そしてもしかしたらユリは勝ちを譲ったという安堵《あんど》のあまり、そのまま家に帰ってしまうのかもしれない。不貞腐《ふてくさ》れたまま、実家の自分の部屋に戻るかもしれない。完敗というやつだ。けれども他にどんなやり方があるというのだろう。
猫を道端に捨て去ることは出来ない。それほど可愛《かわい》がった憶《おぼ》えもないけれど、猫は自分になつき、エサは毎晩もらえるものだとわかってしまった。そんな猫をどうして捨てることが出来るだろう。そうかといって引き取ってくれる友人もいない。もちろん訓男はなんの力にもなってくれなかった。
男が席に戻ってきたのは、もうじき名古屋に着きますとアナウンスがあった頃だ。水を入れたプラスチックの蓋《ふた》を手にしている。
「いやあ、水を持ってこようとしたんだけど、今の時間、弁当を食べる人っていないんだよ」
鼻の頭のあたりに、かすかに汗をかいている。
「ちょっと汚いけど、誰かが弁当の殻を捨てたら、その蓋《ふた》を拾おうと思って、クズ入れの横に立ってたんだ。あ、このドア、開けてもいい?」
キャリーバッグの蓋をドアと言ったのがおかしかった。
「ほら、ゴミ[#「ゴミ」に傍点]出ておいで、水だぞ、汲《く》んできたばっかりのおいしい水だぞ」
ゴミ[#「ゴミ」に傍点]は不安気にキャリーバッグから首を出し、左右をせわしく眺めた。腰をうかして出ようか、出るまいかと迷っているのだが、その上半身がいつもよりずっと頼りなく見える。
「ねえ、君がちゃんと声をかけて安心させてやりなよ」
男はきっぱりと言う。
「飼い主なんだから、よしよしって撫《な》でてあげなよ。そうすれば猫だって安心して水を飲むよ」
ユリは仕方なく手を伸ばし、ゴミ[#「ゴミ」に傍点]の首すじに触れた。猫はニャーッと媚《こ》びたように鳴き、腰をほんの少し落とした。
「さあ、ゴミ[#「ゴミ」に傍点]、水を飲め。ゴミ箱から拾ってきた皿だけど文句言うなよ。なにしろお前の名前はゴミ[#「ゴミ」に傍点]なんだからな」
その言葉が効《き》いたのか、ゴミ[#「ゴミ」に傍点]はそろそろと首を伸ばし水のにおいを嗅《か》いだ。そして所在なげにゆっくりと水を飲み始めた。
「やった」
「よしよし、いいコね」
二人は同時に言い合い、そして顔を見合わせた。どちらからともなく微笑《ほほえ》みあう。男の八重歯はそうみっともないものではない、案外もてる要素かもしれないとユリは思った。
名古屋に着いた。中年のサラリーマンのグループが七人ほど降り、四人の老人が乗り込んできて、平日の自由席はまた人が少なくなった。
この頃になると、弁当やつまみを売りに来るワゴンがせわしくなる。男は呼びとめて缶ビールを二本買った。一本をごく自然にユリに渡す。
「サンキュー」
売店で買ったビールは、なんとはなしに飲みそびれて窓のところに置いてある。それなのに新しいビールを買ってくれた男の気づかいが嬉《うれ》しかった。手渡されたビールはよく冷えていて、喉《のど》の奥までいっきに気持ちよくとおった。ユリは男のようにふうっとため息をついた。
「ねえ、昼間のビールっておいしいね」
「最高だよ。だけどさ、もうこんなこと無理だよな、昼頃にビールなんてさ。サラリーマンには無理だよな」
「そんなことないんじゃない。サラリーマンでもうちの部長とか課長は、お得意さんと打ち合わせしながら、昼でもビールを飲んでるわよ」
「そこまで行くのに何年も待たなきゃならないんだろ。やだよなあ、これから先」
走り過ぎる風景の中に、花がいくつも混じっている。桜は三分咲きだとニュースで言っていたけれど、今日のこのやさしい陽ざしで、スピードを早めたに違いない。白い花は梅だろうか。
「ねえ、昼ごはんさ、途中下車して食べない」
男がひとりごとのように言った。
「こんなにいい天気だしさ、せっかく知り合ったっていうのに、このまま別れるなんてつまんないよ。ねえ、京都で途中下車してお昼を食べよう」
京都という言葉は、ユリの心を自分でも驚くほどはずませてしまった。京都へは修学旅行以来行っていない。京都の桜は綺麗《きれい》に咲いているだろうか。それを見ながらおいしい弁当でも食べるのは確かに楽しそうだ。
「でも猫がいるから……」
「僕が持ってやるからさ。そんなバスケットぐらいわけはないさ。それに僕たちのボストンバッグはロッカーの中に入れておけばいい」
それでユリの心は決まった。
新幹線がホームにすべり込むと、約束どおり男はキャリーバッグを右手に持ち立ち上がった。背の高い彼と、猫を入れた籠《かご》との組み合わせはなにやらおかしみを誘う。
「さあ、どこへ行こうか。オレは大阪だからわりと京都には詳しいんだよ。八条口からタクシーに乗って、円山《まるやま》公園の桜を見て、芋棒《いもぼう》なんてどうかな」
「おまかせします」
地上に着いたとたん、声が少し固くなっている。全く初対面の男とこんなふうに遊びに出かけてもいいものだろうか。東京ならいざ知らず、ここは行楽地で、こんなふうにしていることも小さな旅というものかもしれない。
タクシーに乗ったとたん、ゴミ[#「ゴミ」に傍点]はせわしく鳴き出した。どうも興奮しているようだ。
「お客さん、猫でっか」
運転手がバックミラーごしにこちらをじろりと見る。
「でもバスケットに入れとるで、おじちゃん」
急に関西弁になった男は、
「オシッコも大丈夫ですから。タオルを何枚も敷いてるし」
それきり運転手は何も言わず、円山公園に着けてくれた。公園は思っていたよりも大変な人出だ。どうやら各地からの観光客が集まっているらしい。旗を持ったバスガイドが何人もいる。
桜はかなり早かった。ニュースでいったとおり三分咲きというところだろうか、やっと咲き出した花のすぐ傍には、かたくななまでに固いつぼみがあったりする。とはいうものの、まぶしい春の陽ざしの中で見る薄紅の桜は、他の花にはない高貴な華やかさがある。ふと吸い込まれそうな凄《すご》みも桜独特のものだ。
「カメラを持ってくればよかったな。いいや、写ルンです≠ゥ何かを買って記念写真を撮ろうよ」
男の提案にユリは首を横に振った。
「そんなことしなくてもいいわよ。私たち、新幹線の中でちょっと知り合って、そしてこのままさようならをするんですもの、二人一緒の写真なんておかしいわ」
「ちぇっちぇっ、へんなこと言うなよ」
男は腹立たし気に足元の小石をころばす。その様子は十歳の少年のようだ。
「君のこと、お、可愛い、オレのタイプじゃん、って思ったから、こうして誘っているわけじゃないか。そんなふうに突っぱねる言い方はやめろよ」
男がはっきり方針を示してくれたので、ユリはずっとやりやすくなる。心の中をうち明ける、というのではなく、この場合は方針だ。どんなふうに思っているかではなく、どんなふうにしたいかを彼は口にしたのだ。もう気まぐれを装ったり、テレビドラマに出てくるような友情≠ネどということを演じたりしなくてもいい。
「でも写真を撮るのは私の趣味じゃないわ」
ユリは言った。
「そういうのって、本当の恋人だけがすることよ」
あとは小さな声でつけ足しながら、訓男といったい何枚の写真を撮ったろうかとユリは考えている。ユリはいつも二人の写真を撮りたがったけれど、めんどうくさがったのは彼の方だ。それにドライブやスキーに行かなければ写真を撮ることもない。いつもユリのアパートで会い、たまに近所のスナックへ行くぐらいだったから、二人で撮った写真はせいぜい三、四枚というところだろうか。
「子どもの頃から写真は大っ嫌いだったんだ」
彼はよく言ったものだけれど、二人の写真をもし他の女に見られたら困る、というのが真相ではないだろうか。そう、ユリは知っていた、自分が彼のたったひとりの女ではない、ということを。
鳴けばうるさがって、そのくせ気が向くとしつこくゴミ[#「ゴミ」に傍点]の腹を撫《な》でていた訓男。彼は男にしては長くやわらかい指を持っていたから、喉《のど》のあたりの愛撫《あいぶ》にゴミ[#「ゴミ」に傍点]は気持ちよさそうにいつも身をよじっていたものだ。
そう、ゴミ[#「ゴミ」に傍点]は私なんだ、とユリは思った。いつもあのアパートで訓男が来るのを待っていた。淋《さび》しかったし、ひもじかった。本当にひもじかった。だから温かいミルクのような言葉やセックスが欲しかったんだ。
「ねえ、どうする」
キャリーバッグを持った男が話しかける。
「いまの店でも断わられちゃった。ペットお断わりだって」
「そう……」
「びっくりしちゃうよな。たかが猫一匹連れているだけで、どこの店もシャットアウトなんだもんな」
「…………」
桜は確かに綺麗《きれい》だけれど、それをじっと見続けているのにも飽きてきた。二人は白い花を咲かせている大木の下に立った。そろそろ陽が翳《かげ》ってきている。かすかな冷気が、真横からしのび寄ってきていた。
「ねえ、どうする」
男がなじるように言った。このまま新幹線に乗り郷里に帰ればいい。そんなことはわかっているのにからだがどうしても動かない。
「ねえ、ゴミ[#「ゴミ」に傍点]の奴《やつ》が可哀想だぜ」
男の声には狡猾《こうかつ》さがにじみ出始めた。それはユリがもう何度も経験しているあの前触れだ。
「どっか行ってさ、バスケットから出してやろうよ。オレさ、知ってるところあるんだけど、静かで感じいいよ。ホント」
ゴミ[#「ゴミ」に傍点]が低く鳴いた。それは男に従《つ》いていこうとするユリを非難するようにも、促すようにも聞こえた。
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ピンクのチョコレート
自分の彼が、バレンタインの日にトラック一杯のチョコレートをもらう……。
まるで冗談のようなことが、私にとっては現実に起こってしまうのだから嫌になってしまう。
二月が近づくと、伸吉がチョコレートの山の中に埋もれている写真が、あちこちの雑誌に出る。プロダクションが総がかりで、手紙やプレゼントの整理に追われているという記事も一緒だ。
冗談といえば、こちらの方がずっと冗談っぽい。私の知っている伸吉は、女の子に騒がれたこともないし、成績だって悪い、てんでさえない男の子だったんだ。中三の学園祭にギターをひき、フミヤの真似をした時から、ちょっとモテるようになってきたけど、それでも私の人気には届かなかったと思う。
自分でこんなことを言うのはナンだけど、私はずっと成績がトップクラスだった。顔だってタレントの誰それに似ているとよく言われたものだ。
伸吉はそんな私に憧《あこが》れて、ずっとラブレターを寄こしていたんだ。あのコは漢字をよく知らないし、字だってものすごく汚かった。そんな伸吉とどうしてつき合うようになったかっていうのは自分でもうまく言えない。
伸吉が勝手に、私のことを恋人だと皆に言いふらして、気がついたらそんなふうになってた。それに伸吉のことをよく見ると、笑った時の、いたずらっ子みたいな顔も可愛《かわい》かったし、それに性格も他のコと比べれば男っぽいところもあった。私に迫ってきた、しつこい上級生を殴った時は、すごくびっくりしたけどやっぱり嬉《うれ》しかった。
そして、その後初めて私たちはキスしたんだ。伸吉はケンカで唇を少し切っていたから、キスをした時塩っからい血の味がした。それがちょっと大人っぽいような感じで、私は気に入っている思い出だ。
セックスしたのは、それからずっと後で高校に入ってから。伸吉は私と同じ県立高校へ行きたくて必死で頑張ったんだけど、つけ焼刃はそうきくもんじゃない。そこらへんの地域でいちばん程度が低いっていわれる商業高校へ行くことになった。
「チェッ、チェッ。制服が本当にイカさないんだぜ。オレ、恵《めぐみ》と同じ高校に行きたくて生まれて初めて勉強したのによオ」
そんなことを言う伸吉が可哀想《かわいそう》になって、そして私はすべてのことをOKしてしまったんだ。
それをしちゃってから、私も伸吉もちょっと変になったみたい。もうお互いのことしか考えられなくなって、会えない時は毎晩長電話してた。
伸吉が歌手になりたいって言ったのも、電話でだ。
「オレ、東京のレコード会社にデモテープを送ったんだ。恵、なれるかな。オレ、歌手になれるかな」
「もちろんよ。だって伸吉は才能あるもん」
なんて私は答えてたけど、世の中そんなに甘っちょろいもんじゃない。だって伸吉の歌なんて、学園祭の時に一回聞いただけだけど、ミスチルとサザンをごちゃまぜにしたような感じだ。それに声もよくない。デモテープの反応はまるっきりなくて、そのたびに伸吉はがっかりしてたけど、私はあたり前だと思ってた。
だから伸吉がオーディションで準優勝した時、いちばんびっくりしたのは私かもしれない。
「オレ、東京来ないかって誘われてんだ。な、すごいだろ。レコード会社のディレクターが来たんだぜ」
夜、自転車を走らせて私の家までやってきた伸吉は、息せききってやたら興奮していた。
「オレ、東京でスターになるからよ。そしたら恵のこと、呼んでやるぜ。二人で青山とか六本木のマンションに住むんだ」
伸吉の親は最初は反対したらしいが、すぐにあきらめたらしい。伸吉のうちはなんと五人兄弟なのだ。下から二番目の男の子が一人ぐらい欠けても仕方ないと思ったんだろう。
伸吉が東京へ行く日、駅まで見送りに来たのはお母さんだけだった。
「新聞に載るような人にだけはなるんじゃないよ」
そのことばかりしつこく言っていたっけ。
「新聞に載るようになったら、人間おしまいだからね……。いいかい、わかったね」
ところが、三か月もたたないうちに、伸吉は全国紙の芸能欄にどおんと出たのだ。
「今年、最も期待されるロック界のホープ」
伸吉が北村和樹というカッコいい名前になるってことは聞かされていたけど、年が急にひとつ若くなっていたのは、この時初めて知った。それよりもっとびっくりしたのは、伸吉の経歴だ。
「資産家の三男として生まれ、名門県立高校に入学したが、やがて家庭と学校に反抗して中退。ロックへの道を歩み出す」
伸吉のうちは町の金物屋だし、本当は四男だ。それにそこに書かれてあった高校の名前は私が通っているところで伸吉のとは違う。
「仕方ねえんだよオ。プロダクションとかレコード会社のやつらが勝手に話をつくっちゃうんだから」
伸吉は電話の向こうで、すこし照れたように言った。なんでも寮に入れられているとかで、部屋には電話がないのだ。食堂にあるピンク電話からかけるために、伸吉は十円玉を両手に山盛りにしているらしい。時々、
「あー、あと七個しかねえよオ」
という悲鳴が聞こえる。
「な、恵、オレのこと愛してるだろ」
「もちろんよ」
「オレと離れてて淋《さび》しいだろ」
「もちろんよ」
伸吉は、私のもちろんよ≠ニいう言い方がとても好きなんだそうだ。
「な、な、オレ、絶対にスターになれるよな」
「もちろんよ」
そこでプップッという音が入り、電話は切れるのだ。
高校二年の春休み、私は東京へ出かけた。下高井戸の叔父《おじ》ちゃんのところへ泊まることになっていたけど、伸吉はちゃんとホテルをとっておいてくれた。
「叔父さんとこには、夜遅く帰ればいいだろ。それまでは二人いっしょにいられる」
部屋に入って、初めて伸吉はサングラスをはずした。伸吉はすごく目立っていて、さっきもお茶を飲んだ一階のコーヒーハウスでも、女の子たちが騒ぎ出したのだ。
「もしかしたらカズキじゃない」
「ウッソー」
あたりかまわず大声をあげた。
「先に部屋に行っててくれよ」
テーブルの下で、こっそりキーを渡しながら伸吉が言った。
「オレ、あいつらをちょっとまいてから行くからさあ」
伸吉が立ち上がると同時に、歓声が起こった。どうやら近くの私立高校の生徒らしい。カーディガンやブレザーを着ていたけれど、年齢は私と同じぐらいだ。
「ねぇ、カズキでしょ。そうよねぇ」
「ウッソー、本物よ」サインをねだる。
伸吉はいかにもうるさそうに、あごをしゃくり上げた。
「他のよ、客の迷惑になるから外に出ようぜ」
「やだーっ、ウッソー、サインをしてくれるのオ」
「あーん、カメラを持ってくればよかった」
はしゃいでいる女の子たちに囲まれるようにして、伸吉の黒のコートが遠ざかっていくのを確かめ私は廊下に出た。
ホテルになんか入るのなんて初めてだったから、エレベーターに乗る時は胸がドキドキした。
キーには四ケタの番号が書いてあって、その上二つの数字は階をさしていることは何となく知っていた。だけど十七階に、キーどおりの一七二八号というのがちゃんとあるのを見つけた時は嬉《うれ》しかった。慣れないことばかりで、私は少し疲れていたのかもしれない。部屋にあったベッドに、思わず倒れ込んでしまったほどだ。
部屋は思ったよりずっと広かった。ベッドが二つあって、大きな窓からは、高いビルがいっぱい見えた。
天井を見ているうちに、私はちょっと不思議な気持ちになった。伸吉が有名になって、昔の同級生から「すごいじゃん」と騒がれても、私はいまひとつピンとこなかったと思う。毎晩のように電話があって、話してるだけじゃ、伸吉はまるっきり変わっていないのだ。
わがままで甘ったれで、そして私に惚《ほ》れきっている。いろんな悩みごとやグチを話し、そのたびに私はアドバイスをしてあげているのだ。
それなのに、さっき見た伸吉は、私よりずっと堂々としていてカッコよかった。サングラスをしているのも、いかにも芸能人っぽい。
それだからといって、私がなにもひけめを感じることはないのだ。私は自分に言い聞かせた。
さっき見た東京の女の子は、「オリーブ」とかに出てくるような洋服を着てたけど、私だってそうみっともないことはないと思う。今度の東京行きのために、私はお母さんに頼んでおこづかいをもらい、街のブティックで買い物をしてきたのだ。紺のハーフコートは前からのものだけど、ジーンズの上はオレンジ色のセーターを着てる。これもブローチも流行っぽいものだ。
外から見てる限りじゃ、私は東京っ子となんにも変わるとこはなかったと思う。
そんなことを考えてたのは、ほんの十分ぐらいだったかもしれない。すぐにドアをノックする音が聞こえた。
「オレ、シン」
中に入ってくる時、伸吉はちょっと左右を見た。そしてそんなのはあんまり好きじゃないって私は思った。
「さっきのコたち、どうしたの」
「玄関のとこでサインしてやったら、案外おとなしく帰ったよ。あのくらいの人数なら聞きわけがいい。団体で来られるとおかしくなるけどよ」
「そう」
もっといろんなことを聞きたかった。たとえば、そういう女の子たちの中に、好きになったコはいなかったのとか、そういうこと。でもそんなことを聞くのは、やっぱり恥ずかしかった。なぜって、いつも好きだよって言ったり、ヤキモチをやいたりするのは伸吉の方だ。いくらあっちが有名になったからって、その関係は崩したくない。
「なんだよ」
不意に伸吉が言った。
「せっかく会ったっていうのにブスッてしちゃってさ」
「ブスッてなんてしてないわよ」
「オレなんかさあ、今日恵と会うために必死だったんだぜ。取材二つキャンセルして、ようやく時間つくったんだから」
「私だったら一人でもよかったのよ。まっすぐ叔父ちゃんちへ行けばいいんだし……」
「なに拗《す》ねてんだよオ」
伸吉はそう言いながら私の肩を抱いた。顔を上向きにしてキスをする。伸吉とこんなことをするのは半年ぶりだ。近くに公演があった時、ごく内緒で伸吉は故郷に帰ってきたのだ。
久しぶりに伸吉の唇を味わいながら、自分はやっぱりちょっと拗ねていると思った。
「オレさ、ずっと恵に会いたかったんだから。オレが好きなのは恵だけだぜ。本当だから……」
オレンジ色のセーターを、ちっとも伸吉がほめてくれず、すぐに脱がそうとしたのが私には不満だったけど、そんなことすぐに忘れた。
窓から夕闇《ゆうやみ》が入ってきている。私は少し眠っていたらしい。五時間も新幹線に乗っていたんだもの。中で駅弁を食べただけなので、私はお腹が空《す》いていた。目を覚ましたとたん、お腹がくくうって小さい音をたてた。
「恵のいやしんぼ」
伸吉が腕を伸ばして私の顔をつついた。脇《わき》の下の毛が、前よりずっと濃くなったみたいだ。さっきコーヒーハウスで騒いでた女の子たちは、誰一人としてそんなことを知らないんだと思ったら、やっと私は笑うことができた。
「なんか、ルームサービスで頼もうか」
「どっか外に連れてって」
「それもいいけど時間がないし、さっきみたいに恵が嫌な思いをするよ」
伸吉が私の髪を撫《な》でた時、枕元《まくらもと》の電話がリリリってオルゴールみたいな音をたてた。
あんなにびっくりしたことってない。私はとっさに伸吉にしがみついた。さっきの女の子たちが電話をかけてきたと思ったのだ。
だけど伸吉は、最初からそれがわかってたみたいに、平然と受話器をとった。
「もし、もし……僕」
私の方を振り向く。
「マネージャーだよ。山崎さんって言うんだ」
私はこんな場所まで教える伸吉を一瞬恨んだけど、それは仕方ないことらしい。
「うーん、じゃあね。あと三十分ぐらいでこっちに来てくれる」
伸吉はすまなそうな目でこちらを見た。私は胸までシーツをひっぱり上げ、体をくるんでそのままバスルームまで走っていった。私はお化粧はほとんどしていないけど、きちんと洋服をつけ、髪を直すのに三十分は少なすぎるぐらいだ。
それでも山崎さんっていう人は、たっぷり時間をとって、一時間後に部屋にやってきた。プロダクションのマネージャーっていうから、私はジャンパーにジーンズっていう恰好《かつこう》を想像していたのだが、彼はきちんとしたスーツ姿だ。三十歳になるちょっと前だろうか。派手めなネクタイさえなければ、ふつうのサラリーマンに見えたかもしれない。
「伊藤恵さんだね」
山崎さんは言った。
「よくカズキから話を聞いてるよ。田舎で彼のガールフレンドだったんだって」
私はガールフレンドではなくて恋人で、それに過去形で語られることはない。私はそう言おうと思ったけれどやっぱりやめた。山崎さんはきっと伸吉の大切な人なのだろう。それなのに怒らせることはしたくなかった。
「カズキ、八時にはTBSに入ってくれよな」
「特番に出んだよ」
伸吉は得意そうにニコッと笑った。
「このあいだ出したシングルが、いきなり六位なんだぜ。まいっちゃうよな」
「衣裳《いしよう》はもう楽屋に届けといた。ここを出る時は僕と一緒に出た方がいい」
「ヤマさん」
伸吉はいつのまにか私の肩を抱き寄せていた。
「その後は何もないだろ。彼女に待っててもらうよ」
「ああ、いいとも。その間僕がお相手していよう」
「じゃあ、恵、終わったらまた会える。静かなところだったら、一緒に行けるよ」
「悪いけど僕もご相伴《しようばん》させてもらうよ。君たち二人だけじゃ目立ちすぎる」
私はそれほど素直な性格ではないのに、いつのまにか頷《うなず》いていた。山崎さんには得体の知れない迫力があって、逆らってはいけないような気がしたのだ。
そして三十分後、私たちはTBS前の喫茶店にいた。私のためにジュース、自分のためにコーヒーを注文して、山崎さんは煙草をふかしはじめた。私の知らない外国の煙草だ。
「あのう、番組って、もう始まってるんですか」
「ああ、見たかったんだね。あそこはスタジオが狭くて部外者はあんまり入れない。もし見たいようだったら今度きっとつれてってあげる」
「そういうことじゃなくて、山崎さん、シンのそばにいなくてもいいのかと思って……」
「カズキには付き人がいる。僕はさっきディレクターに挨拶《あいさつ》したからいいんだよ」
「マネージャーって、付き人とどう違うんですか」
山崎さんは苦笑しながらも、プロダクションの仕組みについていろいろ話してくれた。それで私は、山崎さんがその中でエリートといわれる人だということ、そしてそんなに悪い人じゃないってことがだんだんわかってきた。
「カズキと君は、中学校時代からすごく仲がよかったみたいだね」
「そうですね。シンはすっごくよく手紙や電話をくれましたね。どっちかっていうとヤキモチやきだったかな」
「わかるよ。君はすごく可愛《かわい》いもの」
「やだーっ」
私は赤くなった。お世辞だとわかっているけれど、山崎さんのような人にそんなふうに言われるのはやっぱり嬉《うれ》しかった。
「本当だよ。東京にも君ぐらいの子はなかなかいないよ。田舎じゃさぞかし目立っただろうな。カズキのやつ、なかなか女を見る目があるよ」
私がうつむいた時だ。山崎さんが不意に尋ねた。
「ところで、その手紙っていうのはどうなってるの」
「どうって……。私の部屋にありますけど」
「それを僕に預らせてくれないかなあ」
私は意味がよくわからなかった。
「預るって……」
「あのね、君のことは今日会ってみて、すごくいい子で信用がおける子だと思う。でも僕はカズキを守ってやらなきゃいけないんだ。最近多いんだよね。昔の写真や手紙を雑誌社に持ってく女の子が。だから一応、用心に用心を重ねることになってるんだ」
「私、そんなことしません」
私は大きな声を出していた。
「もちろん、そんなことはわかってるさ。だけどカズキがもっと大きなスターになっていくためには、つまずきそうな小石はあらかじめ拾っておかなきゃいけないんだ。わかるかな」
「嫌よ。シンからもらったものは私のもので、あんたたちに渡すことはないと思う」
その時、山崎さんの表情が少しずつ変わっていくのが確かにわかった。今までのやさしいお兄さんっぽいところは消えて、目つきが鋭くなってきたのだ。口調もねっとり意地悪い。
「あのね、僕はすごく忙しいの。それなのにどうして君とこんなふうにお茶飲んでるかわかる」
「わかるわけないでしょ」
私はやっといつもの調子をとりもどしてきた。
「カズキはアイドルなんだから、恋人なんかいてくれちゃ困るの。しかも田舎の同級生なんかだとみんなががっかりするの。だからさ、ここんとこは君が涙を呑《の》んで欲しいのよね。つまりさ、今回を最後におとなしく田舎に帰って、カズキと別れて欲しいのよね」
もう少しで私は笑い出すところだった。涙を呑むとか、別れろなんていうのはテレビの中の話だと思っていたのに、まさか自分にそんなセリフが浴びせられるなんて考えたこともなかった。気の弱い女の子なら泣き出したかもしれないけど、私は絶対にこんなおじさんの脅《おど》しにのるもんかと思った。
「そんなの、個人の自由でしょ。あんたたちにそんな権利はないと思う」
「それがあるんですよね」
山崎さんはにっこりして、仕立てのよさそうな背広の肩をそびやかした。
「あのね、お嬢ちゃん、スターを一人育てんのにね、どのくらいのお金と手間がかかると思ってんの。つまりビジネスなの。大人がやってる仕事をね、お子さんの恋愛ごっこでめちゃくちゃにされちゃたまらないわけ。大人をね、甘くみるとね、怖い目にあうかもしれないよ。お嬢ちゃん」
そしてまたふふふと低く笑った。
「殺されるかもしれない……」
本当にそう思った。殺されなくても、もう二度とシンに会えないようなことをされるかもしれない。私の強気もそこが限界だった。気がつくと、私は逃げるようにしてその店を後にしていたのだ。
世間知らずの田舎娘が、山崎さんのような人を相手にできるわけがなかった。そして私ははっきりここで言っておきたいのだけれど、あの時店をとび出したのはただ怖かったからだけじゃない。不気味さとぞっとするような不潔さに負けてしまったんだ。叔父ちゃんのうちに向かう電車の中で、私は涙がとまらなかった。自分が可哀想《かわいそう》だったっていうよりも、あんな人たちの中で暮らしている伸吉のことが、可哀想で可哀想でたまらなかったんだと思う。きっと……。
その後、いろんなことがあった。伸吉が私を田舎まで追ってきて大騒ぎになったこと。東京からえらい人たちが来て、伸吉のお父さんたちといろんなことを話したこと。伸吉がどうしても私と結婚するんだと言い張ったこと。言えることは、あの頃私も伸吉もすごく子どもだったっていうことだ。
そうかといって、今の私たちが大人だっていうわけじゃない。だけど二年たち、十九歳になってみると、とてもいろんなことが落ち着いてきた。
私はあの時伸吉と約束したとおり、東京の大学生になった。親は地元の学校に行かせようと必死になってたけど、私はやっぱり伸吉の近くに来た。
そして伸吉は押しも押されもしない大スターだ。少なくとも私はそう思う。なんでも担当をはずされた山崎さんはカズキなんて自分の操《あやつ》り人形だ。今年中にきっと消えるさ≠ネんてさんざん言ったらしいけど伸吉は頑張った。作曲とピアノを勉強して、ただのアイドル歌手をやめにしたんだもの。この頃はアルバムを出せばすぐにチャートに出る。コンサートもすごい人気だ。
そんな伸吉と、ふつうの女子大生の私が二年間も続いてるなんて、誰が見ても不思議だろう。
それでも一応二回ほど別れている。一回目はアイドル歌手、二回目は映画で共演した女優を伸吉が好きになったからだ。どっちも私のかなう相手じゃなかったから、私はおとなしく身を退《ひ》こうと思った。伸吉は後で私の策略だと言ったけれど、本当に黙って別れようとしたのだ。
「なんだ、なんだよぉ。他の女を好きになったぐらいで、オレのことを捨てるのかよオ」
何日かたって、酔っぱらった伸吉は呂律《ろれつ》のまわらない声で私をなじり、すごい力で私を床に押したおした。そして私たちはまた恋人同士になったのだ。
だけど、これと同じことはあと五、六回は起こるに違いない。まわりには、いつも綺麗《きれい》な女の人がいっぱいいて、伸吉は惚《ほ》れっぽい男だ。だけど伸吉が謝れば、きっと私は何度でも許してしまうだろう。
私たちはたった十九歳なのに、まるで中年の夫婦のようになっていた。あんまりいろんなことがありすぎて、それに耐えたり、秘密を守ろうとしているうちに、何十年も一緒に暮らしたような静かさがまとわりついてしまったのだ。
「恵をいじめやがってバカヤローッ。オレたちに何かしようとしてみな、いつでも歌手をやめてやらあ」
二年前、そんなふうにわめきちらした伸吉は、少しずつおりこうさんになった。
「オレたち、こんなふうにうまくやってるんだから、なにも話さなくてもいいことは話さなくてもいいよな。波風が立つだけだもんな」
はっきり聞いたことはないけれど、伸吉の胸の中を開いてみると、こんな言葉が置いてあるに決まってる。
「恋人? そんなめんどうくさいものいねえや。女も楽器も、弾きたい時に弾かせてくれるのが最高だぜ」
そんなコメントも、どこかの雑誌で見たことがある。
そんな時、少しも不愉快にならない私が、バレンタインデーが近づくにつれ胸騒ぐのはどうしてなんだろうか。
今日も伸吉のマンションへ行くと、リビングルームは足の踏み場もないほどプレゼントでごったがえしていた。
「事務所あてじゃなくて、管理人とこに持ってくるのがいるんだよなあ」
これは内緒らしいが、メーカーのチョコレートは、そのまま買い取ってくれる業者がいるらしい。やっかいなのは手づくりのチョコレートとか、自分で包装してあるやつだ。
「中に何が入ってるかわからないだろ。スタッフみんなが手分けして持ってってくれるんだけど、それでもとてもおっつかないよ。オレ、甘いものなんか大嫌いなのに、どうして毎年チョコばっかりくれるのかな」
「贅沢《ぜいたく》言うんじゃないわよ。世の中にはチョコが欲しくてたまんない男の人がいっぱいいるんだから」
そう言いながら、私はベッドルームにたまっている伸吉の下着を持ってきて、洗濯機の中にほうり込む。簡単な掃除や洗濯をしてくれるおばさんが、週に二回やってきてくれるのだが、伸吉は下着だけは私に洗わせる。週末につくってあげる野菜だけの煮物は、私と伸吉の故郷の味だ。
同棲《どうせい》をしようと思えばできないことはなかったが、なぜか二人の話題にも出なかった。プロダクション側があの一件以来、私たちのことを大目に見てくれるようになった頃、伸吉は作曲を始めて一人きりの空間を大切にするようになっていたのだ。
明日は伸吉のオフだから、今夜はたぶん泊まっていくことになる。私はお風呂《ふろ》にお湯を張り、冷蔵庫から缶ビールを二本出した。
リビングルームでは伸吉がビデオを見ている。古い時代のシンガーたちのドキュメンタリーだ。
「ねえ、部屋があったかすぎるみたい」
缶ビールを手渡しながら言った。
「これじゃ、チョコレートが溶けちゃうかもしれないわよ」
「溶けたって構やしないよ」
「チョコっていうのは、溶けると始末におえなくなるよ。どろどろしてはみ出したりして……」
「めんどくせえな」
伸吉はソファの後ろにもたれかかる。
「女っていったい何考えてんだろな。こんなもんで男の心をこちらに向かせられるなんて思ってんだもんな」
「遊びよ。遊びでチョコを贈ってるのよ」
「そうかな。オレ、だいたいチョコレートの色って嫌いさ」
「チョコはチョコの色じゃない」
「黒っていうんでもなくて、茶色っていうんでもない。ほら、よくさ、学校行く途中で犬のクソが落ちてて、あれが乾くとチョコと同じ色になるじゃん」
「汚ーい」
「なんかさ、女の心のどろどろしたもんが結晶になって、それがチョコになるような気がするのさ」
「それは考えすぎなんじゃない。異常にもらうシンだから出てくる発想よ」
「そうかな。毎年二月になるとさ、犬のクソ色したカタマリがどーっと送られてくるじゃん。オレ、それ見ると気が重たくってさ」
ビデオでは黒人の女がブルースを歌い出した。その肌の色は、伸吉の嫌っているチョコレート色だ。
もしかしたら、伸吉はチョコレートにひっかけて私に何か言おうとしているのかもしれない。そんなことをふっと思った。私のことは好きで、必要としているけれども、いつか心の中でチョコレートとなっていくのかもしれない。
「ピンクのチョコレートがあればいいのにね」
そんな言葉が不意に出た。
「あったぜ。確かピンク色のハート形チョコ」
「そんなんじゃなくて。軽くてバラ色のチョコ。あげる人ももらった人も、少しも負担に感じないチョコレート」
早くバレンタインデーが過ぎればいい。そうすれば、もう少しうまく無邪気な恋人たちをやっていられるのに。
画面ではチョコレート色の女が、哀《かな》し気な声で「アイ・ラブ・ユー」と歌っていた。
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真珠の理由
「激しい女だなあ……」
感嘆とも、いとおしさとも、そしてかすかな怖《おそ》れともとれる声でよく彼はつぶやく。腕をからませ、そして足をからませても、私はもどかしい。もっと強く彼と私とを密着させ、お互いの皮膚の中に入っていけたらと思う。肉を分け入り、そして骨と骨とがしっかりと組み合わさったら、やっと私は満足できるかもしれない。けれどそれは不可能だから、私は時々、彼の肩を噛《か》む。後で赤く歯型の残ったそれを、指で確かめ、もう一度彼は言う。
「激しい女だなあ……」
私は髪をゆるく編み込みながら、振り返る。
「あら、それがよくって私とつき合っているんでしょう」
知り合って三年たつけれど、私たちはまだお互いに夢中だ。このことについて友だちは不思議がるけれど、私はいつもこんなふうに言う。
「あたり前じゃないの。私たちはふつうの人より、恋する能力がずっとすぐれているんだもの」
初めて秀児に会った時から、私にはわかっていた。これはちゃんと一騎打ちの出来る男だって。宣戦布告をし、堂々と戦える相手だってすぐにわかったのだ。秀児はある劇団で演出をしている。若者だけの劇団で、本多劇場で時々公演をするといったら、あああそこかと頷《うなず》く人も多いかもしれない。お客はかなり入るのだけれど、劇団経営が楽なはずがなく、秀児は時々テレビドラマの制作を手伝ったりしているのが現状だ。
けれども芝居にかける情熱は大変なもので、大学時代からこの仕事につくことを決心していたという。
彼のいいところは、芝居をやる人がもっている独特のくすみや、嫌味がないところかもしれない。ゴールデン街なんか決して行かないし、汚いジャンパーも着たりしない。テレビの方でまあまあお金をもらうから、結構しゃれた恰好《かつこう》をし、私を六本木に連れて行ってくれる。
それほど背の高い方ではないけれど、肩幅があるからとても大柄に見える男だ。そして何よりも眼。他の若い男たちの中では見ることが難しくなった、強い光をたたえた眼だ。きつすぎもせず、そうかといって今風の愛嬌《あいきよう》でもっているような眼では断じてない。
彼は他の男たちとは違う。その境界線の柵《さく》のように、彼のやや切れ長の眼はすっと引かれている。夜、暗闇《くらやみ》の中で私をせつなくさせる眼だ。
そして彼も言う。
「オレにもすぐにわかったよ。加奈がそういう女だって」
私は平凡なOLだ。空間プロデュース会社などと銘うっているが、結局は街の不動産屋だ。まあ、社長の名誉のためにひとこと言わせてもらうと、原宿や青山の買い占めでたっぷり儲《もう》けた彼は、単に不動産をいじるだけの仕事に飽きたらしい。そしていくつかのホールをつくり、そこでのイベントを手掛けるようになった。
私はそれまでただのOLだったけれど、多少目端がきくということで、突然「プランナー」という名刺を持たされた。彼と出会ったのはその頃だ。実際やっていることは、社長の秘書的な小間使いだったけれど、打ち合わせにも参加するようになってすぐの春だった。
芸能人や有名人を何人も呼んで、ホールのオープニングパーティーが開かれることになった。社長は当時流行していた、エスニック風にことを始めたいと思ったらしい。なんとかという民族舞踊団が呼ばれ、会場のあちこちにヤシの木が置かれた。そしてこのパーティーを演出したのが秀児だったのだ。
「最初に加奈を見た時から、ピーンと来たよ」
彼はさらに言う。
「これは久しぶりに手ごたえのある女だってな。ひっかけ甲斐《がい》があるって、かなり張り切ったよな」
その時、私たちがどんなことを話したのかよく憶《おぼ》えていない。ただ当時大層人気のある俳優をめぐって、小さないさかいをしたような気がする。ふつうこういう場合、女がその俳優のことを誉《ほ》め、男はけなすものだけれど、私たちの場合は違っていた。
「あのわざとらしさがたまらないのよ。自分は本当はドラマなんかに出ている人間じゃない、もっと深く生きてるんだってことを思わせるために、女性雑誌でお説教をたれる。ああいう男を見ていると、本当にいらいらしてきちゃうの」
「でも君は彼が出てる『こんなふうに愛されて』を毎週見ているんだろう」
「そうよ、あれは日本中の女の子がみんな見ているわよ。だってドラマとしちゃ、すごくおもしろいんだもの」
「だったら、俳優としての彼を認めてやっているっていうことだろ。素直に、好きって言ってやれよ。雑誌でいろいろ喋《しやべ》るなんて、オマケみたいなもんさ。それで判断されるなんて、役者にとっちゃつらいよ」
「あら、そうはおっしゃいますけどね、私たちはテレビに出てくる人の肉声≠、雑誌で確かめるところがあるんだから、そういう感想を持つの、あたり前でしょう」
もう一人の会社の女の子が、うまくとりなしてくれなければ、私たちは激しい口論を始めていたかもしれない。彼が後で言うには、全くもって勝手な理屈だったが、私が途中でやめないところが気に入ったという。たいていの女はああいう時、
「そうかしら」とか、
「そうはいっても……」
などといって言葉|尻《じり》を濁すのだそうだ。
「オレはとにかく、リングから降りない人間っていうのがわりと好きなんだ」
彼は言ったものだ。けれども私たちがすぐに恋人になったかというと全然そうではない。勝気でプライドが高く、自意識過剰気味の私たちは、しばらく相手の動向をうかがっていたところがある。少しでも先に「好き」と言った方が負け、というゲームをしているような日々が三か月続いたと思う。
そしてよくある話で恥ずかしいのだけれど、いつもよりお酒を飲んだ真夜中、不意に抱きすくめられて、私たちの関係はやっと始まった。
「ずうっと前から、こうしたかったんでしょう」
ベッドの中で私が尋ねると、彼は初めて素直にああと頷いた。
「じゃ、どうしてすぐに、こうしなかったの」
私は鼻をくすんと鳴らして、彼の肩にすり寄せていった。
「こういうことをして、君にぴしゃりとやられるのが怖かった」
「えー、私が断わると思ってたの」
「自信はあったけどね」
「じゃ、どうしてすぐに、こうしなかったの」
といって、甘い堂々めぐりは、小一時間も続いたと思う。今までの分をいっきにとり戻すかのように、私たちは何度も抱き合った。そう、その時も彼は言ったのだ。
「激しい女だなあ……」
その時、彼の声は限りない賞賛と尊敬にあふれていたような気がする。
彼がその話をしたのは、朝飯を食べている時だった。たまに彼は泊まっていくことがあったが、その時はほとんど何も食べない。ミルクをほんのちょっとたらしたコーヒーを一杯飲むだけだ。けれども休日の朝は、ブランチといって、私は彼にいろんなものを食べさせるようにした。卵を落としたスープだとか、アスパラガスのサラダ、そしてこんがりと注意深く焼いたトーストとかだ。
彼のギャラが入ったり、私の給料日後だと、この朝食にワインがつく時もある。ブランチにワインという記事を、どこかの女性雑誌で読んでさっそく真似したのだ。もともと呑《の》んべえの彼に異存があろうはずもなく、一本を二人であけた後は、またベッドに行くこともある。
その朝は、白いワインだった。それほど高くないカリフォルニアワインだったけれど、琥珀《こはく》色がかった透明のそれに遅い陽ざしがゆったりと映えて、私の部屋の狭いダイニングキッチンも、贅沢《ぜいたく》な恋人たちの場所に変わった。
「なあ、加奈は真珠のネックレスを持っているかよ」
不意に彼は尋ねたのだ。
「持ってるわよ。もちろん。ほら、先週も映画を見に行く時にしてったじゃないの。黒のセーターに、シフォンのスカーフをしてさ、その上にぐるぐる巻いたじゃない。あなた、センスがいいって誉《ほ》めてくれたと思うわ」
「あんなイミテーションじゃなくってさ……」
なぜか秀児は、じれったそうに言った。
「本物の真珠だよ。あのな、女の子が生まれると誕生日ごとに、ものすごくいい真珠をひと粒買うんだってさ。そうすると、結婚する頃には上等の真珠のネックレスが出来て、結婚式につけられる。これってすごくいい話だと思わないかい」
「そんなの、つくり話よ」
私は反射的に叫んでいた。
「前に本で読んだことがあるけど、そんなの外国の話でしょう。日本でやってる人なんかいないわ。それにさ、よく考えてよ。女の子が結婚する時って、二十三か四よ。本当に誕生日ごとに真珠を買っていたとしても、二十三粒か二十四粒。それっぽっちでネックレスが出来ると思う」
そう言いながら私は、真珠のネックレスがいったい何粒あるのか全く知らない自分に気づいた。それどころか、本物の真珠なんか見たこともない。たまにホテルのアーケードなどで、真珠のネックレスやブローチを見たことがあるけれど、ああいうものはおばさんがするものだと思っていた。
私にはイミテーションの真珠で充分だ。ジーンズとセーターに組み合わせることもあるし、なんでもない日のプレーンなシャツの時に胸につけると、急にそのあたりが華やいでくる。私は真珠というものはそういうものだと思っていた。それにしても秀児は、どうして真珠のネックレスのことなど言い出すんだろうか。
「だからさ、ちょっとそんな話を聞いたんだよ」
彼は私の眼を見ないようにして、オレンジジュースを飲み干す。
「ちょっといい話だと思ってさ。それで君に言ったんだよ」
「そんなの嘘《うそ》っぱちだって言ったでしょう」
私は力を込めて言った。
「女って、男の気をひこうとしてよくそういうことを言うのよ」
「別に女の子から聞いたわけじゃない」
「女が男に言わなくて、どうして、誰がそんなこと言うの」
私は彼の横顔を睨《にら》みつけた。私のその時の怒りは、すべてのことの予感で、すべてのことの始まりだった。
秀児は私にとって、そう忠実な恋人だとは言えなかったと思う。ほんの時たま、街で知り合った女と彼は寝たし、そのことを不用意に漏《も》らすこともあった。もちろんその後で、派手な喧嘩《けんか》はよくしたが、私は彼を許してきたような気がする。なぜなら私の恋人は確かに魅力的だと考えることは、他の女が寄ってきても仕方ないと諦《あきら》めることに似ていたからだ。けれども秀児は最後にこんなことを言う。
「加奈を本当に悲しませるようなことはしないから、わかってくれよな」
なんてムシのいいことを言うのだろうと口ではなじりながら、私はいつのまにか秀児の髪をかき上げている。固くて脂気《あぶらけ》のない髪は、まるで幼い男の子のようだ。私はやわらかい茶色の髪を持った男を、どうしても手離すことができない。
秀児の固い髪も爪《つめ》も、肌の色も、そして体毛の濃さ加減もちょうど私の好みにかなっていて、私はそのことを時々奇跡のように考えることもあった。そしてこの奇跡を守り抜くために、どんなこともしようと決心した私だ。
秀児が真珠の話をし始めてから二週間たち、私はいくつかのことに気がつくようになった。秀児が日々、いろんな発見をしているということを私は発見するのだった。
「なあ、クルミの入った菓子ってうまいよなあ」
ひとり言のようにつぶやいたことがある。
「オレって甘いものは駄目だと思ってたけど、砂糖を減らして、クルミの味だけで焼いたやつ、あれって結構うまいよなあ」
なんて無邪気で馬鹿な男なんだろうか。女はこれだけで新しい女が、ケーキを焼くのがうまいということをすぐに察してしまうのだ。
桜の木って毛虫がついて大変らしいぜと不意に言う時もあった。私はこれによって、桜の大木を持つ庭の、そこに佇《たたず》む女を想像してしまう。そして彼女の胸元には誕生日ごとに足してもらっている、白く輝く本真珠があった。
「ねえ、本当のことを教えて頂戴《ちようだい》。私が傷つくんじゃないかって遠慮はしないで。私はただ本当のことを知りたいだけなの」
私は玲子《れいこ》を新宿の喫茶店に呼び出した。玲子は秀児と同じ劇団で舞台美術の助手をしている女だ。同い齢《どし》ということもあり、前から私とは気が合った。
「あのねえ、何ていうのかしら。ま、ちょっとした気まぐれだと思えばいいんじゃないの」
言いづらいことを口にする人がよくそうするように、彼女も身につけたものをぐすぐすといじる。金色の動物たちが踊るブレスレットは確か誰かのインド土産《みやげ》だ。
「本当に気まぐれよ。なぜってね、あの二人、まだ恋人っていうわけじゃないと思うもの」
あの二人≠ニいう言葉が、その時私をどれほど傷つけたか、おそらく玲子は気づかなかっただろう。そうでなくてはこんなふうに話を続けるはずはない。
「ま、可愛《かわい》いお嬢さまに好意をもたれて、秀児のやつぼーっとしてる、いまはあの二人、そのレベルなのよ」
今年の春のこと、俳優の紹介で一人の女子大生がやってきた。いろいろな雑用を手伝わせて欲しいと言ってきたのだ。今までもファンと称する若者が、出たり入ったりするところだから、そんなことは少しも珍しくなかったが、彼女が目立ったのは有名女子大の学生だったこと、言動が並みはずれておっとりしていたことだという。
「なにしろね、皆で遅くまでお酒飲んだりする時があるじゃない。するとさ、店から電話をかけるの。近くまで迎えに来てくれってね、私は見たことはないけど、白いベンツがやってきたという話よ」
もちろんこんな話が、おもしろかろうはずはない。
「どうしてそんなお嬢さまが、お芝居をやろうなんて思うわけ」
「ま、結構この世界、お坊ちゃまもお嬢さまも、ここに来る頃には相当ドロップアウトしてるわよね。あんなふうに純粋培養されたまま、芝居やろうっていうのも珍しいわ」
その優子という女子大生は、最初からいたく秀児のことを気に入っていたという。なんでも悩んでいる時にきついことを言われ、結局それが救いになったというよくあるパターンだ。
「お嬢っていうのは、案外大胆なのよね。バレンタインの時も、堂々とみんなの前で、秀児にチョコを渡すのよ、無邪気ぐらい怖いことはないわよねえ……」
そして玲子は何本めかの煙草に火をつける。今どきヘビースモーカーなどまるで流行《はや》らないのに、芝居をする者はそうであらねばならぬと思ってでもいるように、彼女はすぐ煙草を指にはさむ。よく見ると彼女のウェイブがとれかかった髪は先がとても赤茶けている。こんな女たちの中で、その優子とかいう女は、さぞかし目立ったに違いない。
「あのねえ、気にすることはないと思うの。高校生のノリなのよ、高校生。秀児もまんざらじゃないと思うけれど、それ以上どうすることもできるはずないじゃないの」
私は自分にたくさんのことを言いきかせた。これが何だっていうんだろう。本当にたわいない話ではないか。若くて綺麗《きれい》な女の子に、秀児がちょっとやにさがっている。ただそれだけの話ではないか。
けれども四日目のこと、いつものように秀児が私の肩に手をかけた時、私はそれを乱暴にはらいのけていた。
「やめてよ」
どうしてこんなことを口にするのだろうと、私は問いたくて秀児の顔を見る。自分の心がわからないから相手のことを見つめるなんて、私には初めての経験だった。
「他の人に出来ないことを、私にするなんて最低よ」
私にしては珍しく彼に甘えていた。攻撃という真正面からやる方向でなく、拗《す》ねて彼の心を確かめようとした。それが証拠に、私は語尾をゆるくした喋《しやべ》り方をしていたはずだ。そうすれば秀児も、彼にしては珍しい苦笑いというものをするに違いない。
〈やめてくれよ。何考えてんだよ。お前までがつまんない噂《うわさ》にあれこれ惑《まど》わされるなよ〉
〈いいじゃないか、可愛いコと仲よくして、何が悪いんだ〉
ところが彼の言葉は、予想したどれでもなかった。
「お前までそんなこと言うなよ。これ以上オレを苦しめないでくれよ」
「苦しむですって」
私の喉《のど》の奥から悲鳴のような声が出た。苦しむ、苦しむですって、自分の男が、他の女のことで苦しんでいると今、確かに言った。こんな時、女はどうしたらいいのだろうか。
「オレ、加奈にいつ言おうかってそればかり考えていたよ」
ばかばかしい。高校生みたいな交際なんでしょうと言いかけて、私はすべての言葉を呑《の》み込む。秀児は私に告白しようとしているのだ。
「なに、その女子大生とデキちゃったってわけなの」
私はことさら下品な問い方をする。彼とその相手をおとしめることが、いまいちばん手っとり早い腹いせというものだ。
「なによ、そのカワイコちゃんから責められて断われなかったっていうわけ。泣かれて、とりすがってきたの」
「彼女の名誉のために言うけど……」
彼女≠ニいう発音に私はあやうく絶望しかかるところだった。秀児から何人もの言いわけを聞かされてきた。今までの女は、みんなカノジョだった。通りすがりの女であることを証明するように、秀児はカノジョのョ≠鼻から抜けるような音でつぶやく。その男がこの上ないいとおしさを込めて彼女≠ニ言ったのだ。私はああと両手で顔をおおう。
けれど耳をふさいだ方がよかったかもしれない。その後にもっと残酷な言葉が待っていたのだから。
「彼女の名誉のために言うけれど、誘ったのはオレだ。彼女からそんなことをするはずがない」
「そうよね。すごいお嬢さまなんですって。ベンツがお迎えにくるようなお嬢さまなんですってね」
「ベンツなんか来やしない。お父さんのセルシオだ」
「何だって同じよ。そのコはね、たぶん真珠のネックレスして、クルミのケーキ焼くんでしょう。あんたって下品よ。そうよ下品な男だから、そういう女に魅《ひ》かれるのよ。でも恥ずかしいと思わない? そういうことってものすごく恥ずかしいと思わない」
「ああ、恥ずかしいよ」
秀児はふてくされた少年がよくするように、左手をポケットに入れ、かすかに肩をいからせた。
「だけど仕方ないじゃないか、オレ、こんなの初めてなんだよオ」
その言い方も、まるでいつもの秀児とは違う。
「あんなにやさしくて、あんなに純粋な子、初めてなんだよ。オレが守ってやらなきゃどうしようもないじゃないか」
全く秀児の口から、こんな陳腐《ちんぷ》な言葉を聞こうとは思っていなかった。これ以上聞きたくないと、私は結論を叫んだ。
「わかった。それであなたは私と別れたいって言うのね」
そう言ったとたん、私はどんなことをしても秀児を放したくないと思ったのだ。その決意はまるで闘志とそっくり同じだった。みなぎるような力が爪先《つまさき》から起こり、それは太ももをはって肩に登り、首すじを震わせたのだ。私は「イヤッ」と大声をあげ、秀児に抱きついた。床の上を二人はごろごろと転がり、何十回というキスをした。もっともそのキスは私が上になった時に行なったことが多かったけれど。
「激しい女だよな……」
やがて身を起こした秀児が感に堪えぬように言った。その中にかすかな諦《あきら》めとやさしさがあるのを、私は決して見逃さなかった。
「激しい女だから愛したんだって、あなた前から言っているじゃないの」
「そうさ。だからオレの気持ちもわかってくれよ」
秀児の口調がいつのまにか共犯者のそれに変わっていることに、私はかすかに安堵《あんど》した。
「加奈とあいつはまるっきり違うんだよ。だからオレは悩んでる。迷ってる。きっと近いうちに結論を出すよ。だからわかってくれよ。オレのことを責めたりしないでくれよ」
責めるつもりはなかった。ただこれからのことを注意深く見守るつもりだった。もし秀児の心があちらに傾けば、私はきっと戦う。そのことをはっきり告げた時、秀児は悲し気に首を横に振った。
「そんなの無理さ。あいつが戦えるはずないよ。あいつはただ待っていることしか出来ない女なんだよ」
私はそれから長い間、秀児の話を聞いてやった。聞いてやったというのはおかしな言い方だが、私は少し混乱していたのだ。たったいま、自分が秀児に対してどういう立場をとればいいかわからない。とりあえず私は、昔からの恋人として古女房≠フように振るまおうと考えたのだ。
私は母親のように彼の手をとり、彼の苦悩を聞いてやった。こうすると、ほんの少しだけれど私は心が落ち着く。自分で自分を誉《ほ》めたくなる。この世は、男と女の色恋|沙汰《ざた》だけではない、無償の、崇高な愛というものが出来るかどうか試してみたい……。
などということをぼんやり思ったのもつかの間で、私は秀児の言葉に次々と打ちのめされる。
「オレ、どうしていいのかわからない。あいつのことを考えると、からだがじいーんとなって、居ても立ってもいられなくなる。こんな気持ちは初めてなんだよ」
そして私はわかる。初めて≠ニいう言葉ほど、他の女を傷つけるものはないのだ。
「私はどうなの。私の時は初めてじゃなかったの」
私はわざと意地の悪い質問をした。
「加奈の場合はまるっきり違うよ。最初からオレとぴったりきた。オレのものだっていう感覚があった」
そしてここで秀児は、彼にしては珍しいため息をついた。これこそ私が初めて聞くようなものだった。
「お前とは別れられないよ。どうしていいのかわからない。だからこんなに悩んでるんじゃないか」
だけどわかってくれと、彼は続ける。
「優子っていうのはさ、なんていおうか、他の女とまるっきり違うんだ。こう白くて、ふわふわしててさ、いろんなことに耐えられないんじゃないかと思うんだ。だからいまオレは、あいつに対していろんなことができない。言葉で説得したりは無理だ。わかってくれよ」
男の身勝手がつんと心に沁《し》みてくる。けれども私は怒って立ち上がることも、秀児に平手打ちをくらわせることもできない。そんなことをしたら、優子との差がますます拡がるだけではないか。
自分と似た女なら、勝つ自信はいくらでもある。今までだって打ち負かしてきた。けれども全く違う女は、いったいどうしたらいいのだろうか。
私はまだ見ぬ優子という女におびえていた。清らかで、無邪気で、愛らしい女におびえない女がいるだろうか。私のように、地方から出てきて、ハングリーなにおいをあちこちに染み込ませている女にとって、いちばん苦手な女なのだ。
何日かぐったりと考え込んだ揚句《あげく》、私は結論を出した。そう、今までどおりにするのだ。私の中でひとつの音が、ちかちかと発信されている。それは「タタカエ、タタカエ」と発しているのだ。けれど最初から勝負がわかっている戦いではないか。私はきっと勝つだろう。優子という女は何も言えず、うつむくだけだ。そして私は勝って負けるのだ。彼女は負けることによって、秀児の心を自分のものにする。
そんなことは充分にわかっているけれど、私は彼女に会わなければならない。ぐずぐずと思い悩むことほど嫌いなことはないのだ。心が芯《しん》のように固まっていって、そこから少しずつ腐臭が発せられるような気がする。
だから私は電車に乗った。優子の住む街に向かう郊外電車の下りは、とても空《す》いていて、何人かの学生が声高《こわだか》に話しているだけだ。劇団の近くで会ってもよかったのだが、秀児や他の人たちに見つかるのが怖かった。
「日曜日はあまり遠くへ外出するのを家の者が嫌います。近くでよろしかったら」
電話の中の優子の声を思い出している。秀児には言わないで頂戴《ちようだい》、わかりました、などという会話もくっきりとうかびあがる。確かに綺麗《きれい》な声だった。東京で生まれ、ずっと東京に住んでいなければ出せないようなやさしい声だ。
私はといえば、いかにもイメージにふさわしい恰好をしていたと思う。ゴルチエのパンツに、ISのランニング、Gジャンといういでたちだ。うまく言えないけれど、私は自分の役割をうまく演じようとしていた。
そして約束の時間きっかりに、優子はファミリーレストランのドアを開けた。私が思ったとおりの長い髪をしている。目はそう大きくないけれど、涼やかでいかにも品のいいかたちだ。これでもう少し鼻がほっそりしていたら、かなりの美人といっていいだろう。丸くてぽちゃっとした鼻は、彼女をやや幼く野暮ったく見せている。
意地の悪い視線はそのまま続いて、私はとても不思議なものを発見した。それは彼女の紺色のジャケットにつけられたカメオだ。カメオのまわりに、レースのように真珠が飾られている。
真珠の好きな女というのに、私はまたまたおじけづく。イミテーションのじゃらじゃらしたものならともかく、私は本物をひとつも持っていなかった。
「このたびはどうも」
私はとてもへんてこな挨拶《あいさつ》をした。
「でも私たち、一度は会っておいた方がいいと思うの」
優子は予想どおり俯《うつむ》いた。こうすると睫毛《まつげ》が長いのがとてもよく目立つ。たんねんにマスカラを塗った睫毛。きっと彼女の自慢なのだろう。
「秀児はいまとても悩んでいるの。私とも別れられないし、あなたのことも好きだって言うわ。だからね……」
舌がうまくまわらなくなった。私はいったい何を喋《しやべ》ろうとしているのか。状況説明をしている時ではない。単刀直入に「秀児と別れてくれ」と言えばいいのだ。
優子が不意に顔を上げた。
「私、別れませんからね」
私は息を呑《の》んだ。その言葉の強さにではない、こちらに視線をゆったりと送る優子の目が、熱っぽく光っているのだ。それは残忍な、といっていいほど明るく光っていた。
「私は絶対に嫌。秀児さんは私のことを愛してると言っているわ。そして私も同じ気持ち。こんな私たちに、どうしてあなたがあれこれ口をはさむことができるのかしら」
真珠のカメオのブローチが、荒く上下している。もう一度優子は言った。
「あなたがこれ以上、秀児さんにちょっかい出すようだったら、私も黙っていないわ。どんなことしてもあなたと切れてもらう。ねえ、女と男のことに、古い、新しいもないと思いません、愛されている方が勝ちなのよ」
優子の傲慢《ごうまん》な笑いに、私は一瞬|見惚《みと》れた。気取っている時よりも、こうした彼女の方がずっと綺麗だ。そしてこの顔を、おそらく秀児は知らないだろうと思ったら、急に笑いがこみあげてきた。
やめよう、やめようと思っても、くっくっと私の喉《のど》から音が吐き出される。
秀児はなんてお人よしなんだろう。私のことを激しい女だって……。この世に激しくない女などいるはずはないではないか、それが何もわかっていない単純な男……。ああ、おかしい。
優子が気味悪そうにこちらを見つめている。その顔と私はそっくりだと、やっと私はわかった。
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四歳の雌牛
タンを四切れ網の上に置いた。ここのタンは冷凍などではない。赤紅色にてらてら濡《ぬ》れて、真中に白い筋が走っているいくつものアカンベー≠ェ、ガスの火で少しずつ縮まっていく。やがて脂《あぶら》がにじみ出る瞬間、さっと引き上げて舌の上に載せるのが肝心なのだ。
「なあ、内田のことどう思う」
広瀬さんはタンと同時にビールも口の中に入れたので、もごもごとよく聞きとれない。だから私は知らん顔をして、箸《はし》でタンをつまむ。いつも焼き過ぎると注意されるけれど、私は広瀬さんよりも二テンポほど長く肉を網の上に載せておくのが好きだ。
焼肉を食べている二人は、絶対にデキているとよく言われるけれど、私と広瀬さんとは確かにデキていた。私は二十四歳で、広瀬さんは四十二歳だけれど、やっぱり誰が見てもそういう風に見えるに違いない。
いまから二年前のことだ。モデルをしている私は、パンフレットの写真を撮るために、処女航海の豪華客船に乗った。モデルといっても、私ひとりの写真が出るわけではない。そこには三十人ほどの私レベル、つまり素人にケ[#「ケ」に傍点]の生えた程度のモデルたちが集められ、デッキのプールや、ディスコルームではしゃいでいる写真が撮影されたのだ。
そうはいっても仕事はとても楽だった。撮影はパンフレット、テレビ、雑誌を含めて何回かあったが、私はその他大勢という役割だし、常に全員が出ているわけでもない。ローテーションからはなれている時は、自分の部屋で昼寝をしようと、寄港した南の島で遊んでいようと勝手だった。ギャラは本当に安かったけれど、これはオイシい仕事だったかもねと、仲間の恭子と話し合ったものだ。
処女航海だったから、船には有名人たちが何人か乗っていた。女優さんとか歌手、作家、それにテレビや広告代理店、出版社のエラい人たちもいっぱいいた。若いモデルなんかだと、マスコミの人たちにコネをつけようと、わざと目立つ場所でキャッキャッやったりしているが、私や恭子ぐらいの年になると、世の中にそううまいことが起こるもんじゃないことを知っている。
「チャンスなんていつでも、なるようにしかならないのよね」
と私も恭子も口には出さないけれど、そう思っていたはずだ。私は仙台の生まれで、高校時代に地元のプロダクションにスカウトされた。デパートのチラシやパンフレットなどに結構売れていて、あのまま短大に通っていたら、地方のちょっとした有名人として歯医者の奥さんぐらいにはなっていただろう。野心というほどせちがらいものではないが、あの頃の私はツッパっていたなあとしみじみ思う。東京に出て行きさえすればなんとかなると本当に考えていたのだから。
恭子に詳しい身の上話をしたこともないけれど、きっと彼女も私と似たりよったりの人生を歩んできたに違いない。いやだ、人生だなんて言葉を使ってしまった。カラオケで「マイウエイ」を歌うおじさんたちに人生という言葉は似合うかもしれないが、二十年とちょっとしか生きていない私たちは何ていったらいいのだろうか。道のり≠ニいうのもちょっと堅過ぎる、そう、今日までのこと≠ニいうのがぴったりだ。
そして私の今日までのこと≠フ中で、広瀬さんと出会った日と、その後のことはくっきりと二分割されている。彼と知り合う前まで、私の日々というのは晴れているわけでもなく、そうかといって雨が降っているわけでもなかった。私は確かに野心というものを持って東京に出てきたのだけれども、それがとてつもなく流行遅れのものだということがすぐにわかった。私は若いタレントの女の子のように、
「オーディションに友だちが勝手に応募して」
などと図々しい嘘《うそ》をつく気もなかったけれど、何とはなしに東京へ出てきたの、と人に言いわけするぐらいの知恵は身につけたのだ。私はこの知恵を固守するために、何とはなしに夜の街に出かけ、何とはなしに時々男の人たちと寝た。そんなことをしたのは、東京に出てきてからだ。仙台時代、私は男の人とそういうことをする時、好きだからとか、愛しているからとか、いろんないいわけをしたものだけれど、そういうことをいっさい消して、頭の中をすうっとハッカみたいに白くすると、それは罪悪感も嫌悪もなかった。ただ、次の日の朝、男の人があっけらかんとあくびをして、
「ここからいちばん近い駅はどこだっけ」
とか、
「途中まで車で送ろうか」
などと歯磨きしながら言うのを聞くと、私はとても恥ずかしくなり、シーツをギュッと耳の上までひっぱり上げた。彼との約束や、次に会う日のことを必ず考える私が恥ずかしかった。昨夜何とはなしに℃рヘ男の人とベッドに入ったのに、朝、そこから這《は》いずり出る時は、いつも目的を持ってしまう。その目的を持つことが、私の健康さなのかしらと考えることもあったし、だから私はいつまでたっても野暮くさく、売れないモデルなんだと悲しくなる時もあった。
広瀬さんに会った日、空も海も少し彩度の違ったコーラルグリーンだった。コーラルグリーンというのは、今度の旅で私が初めて知った言葉だ。
「南の海のコーラルグリーンを、真白い客船から眺める日」というパンフレツトの文章を私はずっと憶《おぼ》えていたから、この海の色はコーラルグリーンというのだと思っていたのだ。空の色も海に似ている。海と空の色をさかさまにしても誰も気づかないんじゃないだろうか。
私はその時デッキに立ち、ぼんやりと頬杖《ほおづえ》をついていたと思う。ちなみに頬杖をつくというのは私の得意のポーズだ。二、三度一緒に仕事をしたカメラマンは必ずといっていいほど私にそのしぐさをさせる。こうすると目が拗《す》ねたようになってとても可愛《かわい》いんだそうだ。
頬杖と同じぐらい私が自信を持っているのがヒップで、丸くきゅーんとあがっている。ウエストの後ろに肉がないから、お尻《しり》はますます張り出して見える。これでもうちょっと足が長く、かたちが綺麗《きれい》だったら、私も男性誌のグラビアに載ることが出来たかもしれない。
デッキの手すりに頬杖をつき、思いきりヒップをつき出した私の姿はかなり目立ち、後で広瀬さんが言うには、
「くらくらっときた」
ぐらい魅力的だったそうだ。私のほかにも、ハイレグやTバックの大胆な水着の女の子はいくらでもいたけれど、男もののシャツをさらっと羽織り、そこからヒップを見せていた私はピカイチだったと広瀬さんは断言する。
「あの時僕はわかったんだ。このコを手に入れさえすれば、わくわくするような日が始まるって」
わくわくしたのは私も同じだった。船の上で広瀬さんはちゃんとした社交ダンスのステップとブリッジを教えてくれた。船をおりてからは贅沢《ぜいたく》をすることとセックスを教えてくれた。すぐにわかったことだが、実は私はこの二つが大好きだった。少なくともブリッジよりもずっと早く、私はすごく感じる体位を覚えたし、イタリアンレストランで食前酒に何をたのめばいいかを会得《えとく》したと思う。本当に楽しいコーラルグリーンの日々が始まった。若い娘と、金持ちの足長おじさんの組み合わせは、あの頃やたらと聞いた話だけれども、私は違う。私は恋をしていたと思う。
白金にあるホテルの、やたらとベランダが広いデラックスダブルの部屋で、私は広瀬さんの肩を噛《か》みながら幸せだった。安心していた、といってもいい。私は久しぶりに男の人と寝るちゃんとした理由を手に入れたのだ。それは好き≠ニいうたった二つの文字だったけれど、あると無いとでは大違いだ。私は赤ん坊のように広瀬さんのざらざらした顎《あご》に胸を押しつけ、安堵《あんど》して足を開いた。私はそれほど馬鹿な女ではなかったから、結婚など望まなかったけれど、一生ずっとこのままコーラルグリーンの日々が続けばいいなあと祈っていた。広瀬さんのグレイのベンツに乗り、車の中から二人いきつけの店へ電話をし、いつもの席は空《あ》いているかと尋ねる。そしてその席で常連客だけに許される、メニューに載っていない料理をたのみ、特別製のワインを飲む。ちょっと酔っぱらった私を広瀬さんは車に乗せ、これまたいつものホテルに運ぶ。ここの従業員たちは、私たち二人の顔を見るとにこっと微笑《ほほえ》みかけてくるほどだ。
「いらっしゃいませ」
客商売だったら、我々みたいなカップルには知らん顔をしているべきだと広瀬さんは言ったけれど、私は彼らのまるでお帰りなさい≠ニいう風な笑顔にどれだけ救われただろうか。うまく言えないが、あの人たちの笑い顔や、広瀬さんを好きだという心によって、私はすべてが許されるような気がした。許される、というのはセックスのことだけではもちろんない。広瀬さんは私にいろんなものを買い与えてくれ、慣れない頃はちょっと空恐ろしいほどの気分になったものだ。
イタリア製の深い紺色のシルクの下着、アルマーニのカクテルドレス、シャネルの甘い色のスーツ、プラチナと金で出来たブレスレット。広瀬さんはまたも私にレクチャーしてくれる。
「こういうものは、絶対に女は自分で金を出して買っちゃいけないんだよ」
パリのオートクチュールや宝石店を一度見に連れて行ってやりたいよ。アトリエでの受注会ともなれば男たちがやってくる。うんと綺麗な女を連れてね。ああしたドレスや装飾品というのは、男たちが好きな女のために買ってやるものなんだ。だからこそ男は一生懸命働いて成功しようと思うんだよ。
こんな男の人が傍にいてくれたのだから、当然といえば当然だが、私はとても綺麗になった。広瀬さんの言うとおり、長かった髪を肩のちょっと上ぐらいまでのボブにした。しょっちゅう美容院でケアしてもらわなくてはならない髪ほど、エレガントに見えるものなのだそうだ。そして私はこれに小さな金のピアスをして、白いバレンティノのスーツを着る。広瀬さんは靴にもうるさくて、履くんだったらグッチかフェラガモ、ヒールの高さは五センチだ。
私の身なりがぐんとよくなったので、仕事仲間がいろんなことを言った。金持ちの男に愛された女の子は他にもいるのに、私だけがやっかまれるのは、ドレスがあまりにも似合い過ぎるからだと広瀬さんは言った。
「でも私のこと、着せかえ人形みたいだ、っていう人がいるわ」
「とっても素敵なことじゃないか」
広瀬さんは私のソニアのセーターのボタンを、ちょっと乱暴にはずしながら言った。
「由水《ゆみ》ぐらい美人じゃないと、こんなやわらかい色のニットは似合わないよ。由水は何でもちゃんと着こなす。君は生まれた時から、ディオールのベビィ服を着て、ティファニーのベビーリングをはめてたみたいだ」
私は幸福のあまり涙が出てきそうになる。女としての最高の誉《ほ》め言葉だと思った。
「由水は素直なところがたまらなくいい。君は最高の生徒だよ」
「生徒って」
「教えたことを何でも吸収するし、買ってあげたものは何でも自分のものにして着こなしてしまう。全く君はすごいよ」
ソニアのセーターを脱がされ、私はラベンダー色のブラジャーだけになる。絹の服よりも高価なブラジャーがあるなんて、私は広瀬さんに会うまで知らなかった。ずうっと先も彼にいろんなことを習い、いろんなことを与えられるに違いないと信じていた私は、なんて幼稚で世間知らずだったんだろう。
広瀬さんが時々雑誌のグラビアに登場するのを、私は本当に誇らしい思いで見つめたものだ。どの雑誌も「美容界の風雲児」という風な形容詞がついていた。広瀬さんは美容師から出発し、中央線沿線にいくつもの美容院をチェーン展開するようになったのだ。パリの有名美容院と提携して、シャンプー類も販売するようになりこれもあたった。四年前にはベイ・エリアにエステティック、スポーツクラブ、ディスコを合わせた巨大なショップをつくり、いろんな雑誌に紹介されたのを、知り合う前の私もよく憶《おぼ》えている。
けれども広瀬さんが言うには、このショップがすべての躓《つまず》きの始まりだったという。建築資金がおそろしくかさんだうえに、大手の広告代理店にいいように牛耳《ぎゆうじ》られた。その割には客足がばったりで、気づいた時には銀行の融資も打ち切られたという。
広瀬さんは文章にすれば三行ぐらいのことを口にしただけで、こまごまとしたことは私に話さない。仲よしの恭子に言わせると、そういうことは奥さんにするんだそうだ。
「やっぱり愛人に愚痴《ぐち》は言えないんじゃないの。やっぱりこうして考えると、由水みたいな立場って得よね」
彼女にしては珍しく、大きなため息をついた。
「嫌なこと、煩《わずら》わしいことはいっさい耳に入らないでさ、楽しい時だけのつき合いなんだもの」
私はとても侮辱されたような気がしたけれど、もし広瀬さんが会社のことや、銀行のことをこと細かく話してくれてもとても困ると思った。私は男の人からそういう話を聞いたことがない。そもそも相談ということをされたことがないのだ。私は映画やテレビドラマに出てくるように、広瀬さんが深刻そうな顔をしたり、ワイシャツの衿《えり》を乱してやけ酒を飲むのにつき合わされたらどうしようかと考えたが、心配することは何もなかった。
一か月ぶりにやっと会うことが出来た日、広瀬さんは、デザー卜はもう頼んでおいたからね、という風な調子で、つまりいつもと全く変わることなく、私にこう告げたのだ。
「会社はどうにか残りそうだが、銀行も入って大変なことになる。前のようにはいかないよ。僕も由水と別れなくちゃならない」
「私、広瀬さんとお別れするの」
「そういうこと」
この明るさは、きっと男の人独特の強がりというものなんだわと、私はやっと自分を納得させる。
「僕はね、今度のことで自分にいちばんつらいことを課したんだ」
会津出身の広瀬さんは、ちょっとイントネーションがおかしく、私は課す≠貸す≠ニ思い、とっさに何のことかわからなかった。
「僕は銀行にもどこにも申告していない、僕のいちばん大切なものを手放すことにしたんだ。それが君なんだ、わかるかい」
「わかるわ」
そのわかるわ≠ニいうのはカス≠ェ課す≠ニいうむずかしい言葉だとやっと理解したという意味だったが、広瀬さんは満足げに頷《うなず》いた。
これは私が何度か経験した別れ話というものだった。違っているのは、それまで別れの気配というものははっきりと誕生し、成長し、そしていちばん大きくなった時に決定的な言葉がくるものなのに、広瀬さんとの場合、まず最初に言葉が来たのだった。それに今までの男たちは別れ話をした後、もう私には二度と触れようとはしない。それなのに広瀬さんと私は、もう一度別れ話をするという名目で会い、その都度ホテルへ行った。
そして今日は四回目の別れ話の日で、広瀬さんが連れてきてくれたのは鹿浜の焼肉屋だ。
ここはおもて向きは、ごく普通の焼肉屋だけれど、実は東京の美食に飽きた人たちが通う店であった。名前を聞くとびっくりするような有名人たちが、調理場横の便所の横で靴を脱ぎ、それを持って奥の板の間に座る。そしてアルマーニやベルサーチのスーツの肘《ひじ》を、脂でべとべとしたデコラのテーブルにのせると、やがて前菜が何皿か運ばれてくる。レバーの刺身、脳味噌《のうみそ》、子袋といったもの。すべて生だ。
「こういうものはちょっと……」
と尻込《しりご》みしている人ほど、こわごわ口に入れたとたん、賞賛のあまり興奮の極みに達してしまう。
「なんだい、このうまさは。この脳味噌ときたら、全くフォアグラじゃないか。この生のホルモンのうまさに比べたら、ロースやカルビなんて子どもの味だね」
しかし次々と運ばれてくる子どもの味≠ノ、たいていの人は絶句する。脂と赤身が最高にして最適のバランスを保っている、ぶ厚い霜降り肉。火にかけると、脂は溶けて甘いにおいをたて始める。そして歯で噛《か》むと、肉は舌の奥に牛の蜜《みつ》をそっと送り込んでくれるのだ。肉の蜜。肉汁ではなく蜜。まだ若くしなやかな牛たちの人生を凝縮した蜜。
本当にそうだ。私なんかよりも四歳の雌牛の方が「人生」という言葉がずっと似合う。
そして広瀬さんの大好物のタン塩が、もう一度運ばれた時に彼は言ったのだった。
「なあ、内田のことどう思う」
内田さんは広瀬さんの遊び仲間で、年も同じぐらいだったはずだ。この焼肉屋にもふと思いついて、都心から一時間半、車をとばしてやってきたことが一度あるような気がする。
「僕は由水のことを愛してる。まだ未練たらたらなのはよくわかるだろう」
私はタンを注意深く箸《はし》でつまみながら深く頷いた。
「僕がいまいちばん心配なのは、会社のことじゃなくて由水のことなんだ。こんなこと言うとイヤらしいけど、僕は由水に贅沢《ぜいたく》をさせた。君に僕の好きなブランドを着せたり、おいしいものを食べさせたりするのは、僕の生き甲斐《がい》だったからね。僕が心配なのは……」
広瀬さんはちょっと上目づかいに私のことを見る。
「僕なしで君がこれからどうやって生きていくんだろうということなんだ」
「心配しないで、何とかやっていくから。この頃雑誌の仕事も増えたりしたから大丈夫よ」
「そんなことじゃない。君がまたあの野暮ったい、田舎くさい女の子に戻るかと思うと僕は悲しくなってしまう」
「私って、そんなに田舎っぽかった」
「ああ、最初の水着でぐぐってきたけど、服を着たらひどかった」
この言葉はさすがに私を傷つけたけれど、私は黙ってタンを噛《か》みしめる。
「わかるかな、由水は僕が二年間かけてつくった作品みたいなもんなんだ。君の髪は一週間に一回はカットしなきゃいけないようになっている。それと同じように今の君には、僕みたいな男が必要なんだ。たえず君を注意深く見守ってケアしてやる男が。僕は内田に君のことを相談した。そうしたら彼は約束してくれたんだ。由水のことをめんどうをみるって」
「めんどうをみるってどういうこと」
私はついに箸を置いた。本当にわからなかったからだ。課す≠ニいう言葉の百倍ぐらいめんどうをみる≠ニいう言葉がわからない。
「それは内田が僕の代わりをするっていうことだ」
「嫌よ、私」
とっさに拒否の言葉が出、同時に私は怯《おび》えた。
「私、品物じゃないわ。お妾《めかけ》さんでもないの、私、広瀬さんのことが好きでつき合っていたのよ。そんなに別の人に乗り替えるなんてこと出来ないわ」
「わかってる、わかってる」
隣のテーブルには中国人の家族がいて、母親が赤ん坊を指さしながら何かいうと、皆がどっと笑った。この店の主人は日本人だが、若く綺麗《きれい》な奥さんは中国人なのだ。その関係で韓国《かんこく》の人よりも中国人のお客が多い。隣のテーブルの喧噪《けんそう》を確かめ、広瀬さんはまた喋《しやべ》り続ける。
「だけど僕は由水のことが可愛い。このままずっと流行のものを着て、うまいものを食って幸せに過ごさせてやりたい。それにな、由水はもう今の暮らしから脱け出せないよ」
「そんなことないと思う……」
私の声は少し小さくなったはずだ。リサイクルショップで買う、二シーズン前の服。撮影の時に持参する靴のかかとが擦り切れているとカメラマンに注意されたこともある。恭子と割り勘で食べるお鮨《すし》。若いサラリーマンに声をかけられ、食事をご馳走《ちそう》になると裏口から脱け出したこと。
あの日々がもう一度始まるのだということに、どうしても実感がわかなかった。
「由水は資質があった」
広瀬さんは力強く言う。
「お前は贅沢なことがサマになる女になったんだぞ。そんな女はこの日本に何人もいやしない。それなのに元に戻るっていうのか。冗談じゃない。なあ、内田はいい奴《やつ》だろう」
といわれても、私は彼がどんな人だったか、好きか嫌いか確認をすることが出来ない。一時期、彼らと毎晩夜遊びしていた時期があったというのに、その輪郭をはっきりとうかべられないのだ。
知っているのは丸顔に二重まぶたの内田さんはとても若く見えるということ、慶応のボート部にいたという大男だということ。
「内田は僕みたいな成り上がりと違う。ちゃんとしたバックグラウンドを持ってる。もう由水を悲しいめにはあわせないよ」
突然内田さんの顔がアップになる。まるでカメラのレンズを調整したみたいにだ。内田さんは広瀬さんととても違う。同じ遊び好きの中年でも、内田さんは銀座の老舗《しにせ》の何代目かだ。ものの言いようやしぐさに、お坊ちゃん育ちらしい甘さがある。けれどもそれだけの人だ。
「僕は内田だったら由水のことを頼める。な、とってもおかしな話さ。人が聞いたら非常識な話だと呆《あき》れるだろうけど、僕たちの場合、ちっとも不思議でも何でもないと思わないか。僕たちだったら、こんな関係も成り立つよな」
その僕たち≠ニいう言葉の温かさに、私はうっかりと酔ってしまったのかもしれない。私はもう強い拒否の表情を見せなくなっていたようだ。
「それじゃ、乾杯」
広瀬さんは図々しくビールのグラスを近づけた。
「何のために乾杯なんかするの」
「由水が幸せになってくれるように。僕が願うのはそのことだけさ。それからさ、もうじきここに内田が来るよ」
「えっ、私、そんなこと聞いてないわ」
「いいってば、まかせておけってば」
広瀬さんは初めて見せるような強い大人の男の表情になった。もうこれ以上文句を言わせないぞという強さ。それは狡猾《こうかつ》さと紙一重だ。
「とりあえず今夜は三人で飯を食って、おおいに飲もう。彼もすごく楽しみにしてるんだから」
柱の「スタミナ苑さん江」と書かれた時計を見た。八時十分前だった。きっと内田さんとは八時、区切りのいい時間に約束したのだろう。七時過ぎ頃から話を切り出し、私は三十分あれば説得出来ると男二人は踏んだのだろうか。憤りが胸をかすめたものの、それよりも諦《あきら》めが私の全身をつつんだ。私はすぐ反射的にコンパクトを取り出し口紅を直した。
「ふうーん」
広瀬さんが皮肉の混じった目で私を眺める。
「ごねていた割には、やけにいそいそと化粧を直すじゃない」
「だって……」
言いかけてやめた。だってもしかすると、私の新しいパトロンになるかもしれない人だもの。そんな嫌味《いやみ》が口に出来たらどんなに気持ちがいいだろうかと思ったけれども、私にそんな勇気があるはずはない。それよりも私はさっき広瀬さんが私に見せた視線が怖かった。
そして私が予想していたとおり、八時きっかりに内田さんがやってきた。金のローレックスの左手に、ルイ・ヴィトンのクラッチという姿は随分嫌味なものだが、大男の内田さんが少し身をこごめるようにしていると、それはそれでかたちになるものだ。
「よおっ」
「よっ」
「お前んとこ、あの後も大変だったな」
「まあな」
「ま、いいさ、日経にも載ったぐらいだからたいしたもんさ」
内田さんは私の前にどっかりとあぐらをかき、そして私にやっと気づいたという風に小首をかしげた。
「よっ、由水ちゃん、久しぶりだね。何だか会うたびに美人になっていくね」
「この年頃の女はみんなそうだよ。一枚一枚、何かを脱ぎ捨ててくみたいに綺麗《きれい》になっていく」
まるで保護者のように広瀬さんが言った。
けれども私に関する話題はそれきりで、男の人二人は新しくビールを注文し、いくらか小声で喋《しやべ》り始めた。銀行の負債、従業員のカット、徹底した合理化といったまるで遠い世界の話だ。
やがてまた新しく肉が運ばれてきた。さっきの肉よりも、行儀がよい赤身のロースだ。薄めの切り身がきちんと並べられている。あまりにも鮮やかな赤なので、いくつもの牛のぱっくり裂けた切り口を見ているみたいだ。けれどもその連想は食欲を減退させるものではない。人に食べられるために生まれ、育てられる一頭の雌牛。私が足を拡げるように、彼女も官能的に切り口を拡げ、さあお食べなさいと叫ぶ。私の乳、私の性器もすべてお食べなさいと。
その時、私は奇妙な感触に気づいた。私のミニスカートの太ももにやわらかいものがあたっている。ふと顔を上げる。
「だからその銀行からの役員を、どううまくコントロール出来るかがなあ、お前の経営者としての手腕で……」
内田さんだ。内田さんは素知らぬ顔のまま、足首を使って私の膝《ひざ》を撫《な》でているのだ。私の肉づき、私の性欲、そして私の感度といったものを、この私の新しい主人は待ちきれず確かめようとしているのだ。そして私はそういうことをされても、決して怒らない蓮《はす》っ葉《ぱ》な女だと思っている。いい服といい靴、うまい料理のために、男を乗り替えようとしている女。それが私だ。
私は彼の足首の動きに逆らわず、さらにもものやわらかいところに触れられるように膝を心もち拡げた。そしてロースを網の上から引き上げ、軽く噛《か》んだ。さっきよりいくらか薄い牛の蜜《みつ》の味。
四歳の雌牛の方が、私よりも「人生」という文字が似合う。本当にそうだと思った。
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ランチタイム
十二時を過ぎたばかりだというのに、客はまばらだ。
窓際の席に座ってメニューを見たとたん、映里子《えりこ》はすぐにその理由を了解した。ランチメニューが三千五百円もするのだ。昼休みにサラリーマンが食べに来る値段ではない。
初老の男が二人、向かい合ってナイフとフォークを動かしている。その隣の席に中年の女が三人座っていたが、いたっておとなしい。京橋という土地柄だろうか。これがもう少し銀座の方に行くと、女たちは俄然《がぜん》にぎやかになるのだ。
誰でも言うことだが、最近、有名レストランのランチタイムは、中年女性のグループに占拠されている。食べ歩きの楽しさをすでに知ってしまった彼女たちは、昼食ならばと、どんな一流レストランでも、臆《おく》することなくやってくる。
同じような服装をした女たちが、ああいうふうに集っていると、それだけで老けてみえるが、案外、映里子と同い齢《どし》ぐらいかもしれない。
映里子は来月三十歳になる。その誕生日が来るのはつらいものよ、と友人は口々に言うけれど、多分何ごともなくやりすごしていけるだろうと思っている。この三、四年、時が急速に流れていくのを、他人《ひと》ごとのように見ているところがあった。
自分が独身のままで三十女になることが、信じられない不運のようにも、ごく当然のなりゆきのようにも感じられる時があったが、最近は後者の方が強い。
なるようになるさ、というのが、いまいちばん正直なところだろうか。
そうかといって、現在が充実し、満ち足りているかというと決してそうではない。マーケティングのリサーチをすることは、学生時代からの希望だったし、業界でも大手の会社に入れた時は嬉《うれ》しかった。けれどもいつまでたっても、重要な仕事は男たちがすばやく握ってしまう。
入社したての女の子を連れ、地方のスーパーマーケットの価格調査をしている時など、映里子はいらだちとも、あきらめともつかない小さな舌打ちが出た。それを若い女の子に聞かれまいと、あわてて消すと、今度は苦い唾液《だえき》が込み上げてくる。
それでも自暴自棄を起こさなかったのは、いくつかの理由があった。まわりには映里子と似た境遇の女たちが実に多かったのだ。
この東京に、三十すぎて一人で働いている女はいくらでもいる。彼女たちに共通しているのは露悪的な明るさと、独特の人生観であった。
慰めとも励ましともつかない諧謔《かいぎやく》を、酒まじりに聞いているうちにいつしか心が晴れる。そんな毎日だ。
そして、女たちのそんな楽天性をささえているのは金であった。都会に住んで、気のきいた女たちだったら、かなりの収入は保証されている世の中だ。
映里子にしても、ボーナスの額に魅《ひ》かれて、現在の会社にとどまっているところがある。給料はそうたいしたことはないが、夏と暮れの賞与は、ふつうの会社員に聞かせると目をむくような多さだ。
深沢の1LDKのマンションに住み、外国ブランドの洋服も買えた。もともと姐御《あねご》肌の映里子は、若いボーイフレンドたちのために散財することもあった。
直樹もその一人だ。
二年前、映里子の部屋で開いたビア・パーティーに誰かが連れてきたのがきっかけだ。大学院を出て、医療器具メーカーに勤め始めたばかりの直樹はいかにも初々しかった。思わず、にっこりと笑いかけたくなるような童顔で、綿シャツを着ていると高校生といってもとおりそうだ。
「わー、可愛《かわい》い!」
少し酔っていた映里子は、直樹の頭をいいコ、いいコと撫《な》でた。こういうことには慣れているらしく、直樹は怒らない。はにかんだ笑いをうかべただけだ。笑うと清潔な白い歯がのぞいて、ますます幼く見える。
「あなた、ビールなんか飲んでいいの」
からかってしつこく頭を撫でる。直樹はからだつきも小柄で、身長は映里子と同じぐらいだ。髪に手を伸ばす時も、背伸びしないですんだ。
「ひどいな。これでもサラリーマンなんですよ」
抗議した声はかなり高く、変声期の頃の男の子のようだ。映里子はまた笑い出してしまった。
「ごめんなさい。可愛い男の子を見ると、ついからかってみたくなって……」
「可愛い男の子」という言葉にも、直樹は全く腹をたてない。それどころか、おどけて子どもじみた動作をする。
彼の前歯は二本、やや大きめになっていて、それが水中に住む小動物を思わせた。その前歯が彼の顔を幼く見せる大きな原因なのだと映里子は納得し、その発見がなぜかやたら嬉《うれ》しかった……。
約束の十二時を十五分すぎて、やっと直樹はレストランに現われた。グレイの落ち着いたスーツを着ている。黒服の長身の男に先導されても場違いな感じはない。貫禄《かんろく》という、直樹にはいちばん似つかわしくない言葉をふと思い出した。
「すいません、急に呼び出したりして」
「いいのよ。今日はヒマだし、ゆっくりできるわ。それより、あなたの方こそ、忙しいんじゃない」
「なにしろ急なことでしたからね、整理や引き継ぎに追われてます。ま、その分、仕事からははずされましたから、自由に時間はとれますけど」
おとといのことだった。直樹から電話がかかってきた。今度の異動で、四月からデュッセルドルフに赴任することになった。その前にぜひ会いたいと言うのだ。
「本当は夕食でもと思ったんですけどねえ……」
直樹は、ウエイターからメニューを受け取りながら言う。
「みんなが送別会を開いてくれることになって、それでスケジュールがびっしりになってしまった。僕が空《あ》いている夜は、映里子さんが忙しい……」
「ご免なさいね。こっちも先約があって」
向山のことをちらっと思いうかべた。女友だちが紹介してくれた男で、証券会社に勤めている。女友だちとその恋人、映里子と向山という四人でいつも飲んでいたのだが、来週の金曜日、二人きりで会いたいと彼の方から言われたのだ。
多分、二人の仲を発展≠ウせたいに違いない。
ダブルデイトから恋人になるというやり方は、映里子たちの間では好まれるシステムだ。
なにしろ忙しいし、男と女のきっかけが、そう街中にころがっているというわけでもない。
仲のいい女友だちに紹介してもらった男の方がはるかに信用できるし、なによりも手っとり早いというものだ。おまけに、女同士の絆《きずな》も深くなる。
映里子はこのやり方で、今まで二人の恋人を手に入れている。運命ともいえない偶然によって見つけた男たちよりも、質がよかったと自分でも思っている。
今度の金曜日から、向山はもしかすると自分の恋人になるかもしれない。彼は三十二歳で、当然結婚を考えているわと、紹介してくれた女友だちは言う。そう言われると、それが目的で男と会っているようで、映里子は多少|煩《わずら》わしくなる。
「どうしたんですか、映里子さん。メニューを見ながら、じっと考え込んじゃったりして」
「あら、そう……。お肉にしようか、お魚にしようかって迷ってたのよ」
「考えることないですよ。ここは魚の方がずっとおいしい」
「そう、よく来るのね」
そう問いかけながら、映里子は自分の声に多少とげがあるのを感じた。
昼食で三千五百円もするのだから、夜ともなれば、かなりの料金だろう。あまり名前を聞かない店だが、内装も凝《こ》っているし、従業員の躾《しつけ》もいい。こういうところにしじゅう出入りする直樹は、映里子の知らない顔を持っているようだ。
この二年間、気が向くと映里子は直樹を誘い出した。
イタリアオペラの切符が取れたのよ。行かない?
知り合いが西麻布にお店を出すの。そのオープンのパーティーに招かれたんだけどいかが?
よっぽどの理由が無い限り、直樹は断わらなかった。きちっとスーツを着て、約束の場所に現われる。小柄な男ほどおしゃれだというが、直樹もそうだ。渋い色彩だが、スーツはかたちがやわらかいものだ。時々ハッとするほど鮮やかなイタリアンカラーのネクタイを締めてきたりするが、それも案外似合った。
背は低いが均整はとれた体つきだ。童顔はきちんとスーツを着ると、甘い顔立ちという方がふさわしい表現になる。マナーも心得ていて、コートを後ろから着せてくれたりもする。
どこへ連れて行っても恥ずかしくはなかった。
自分の自由になる男がいて、その男は若く綺麗《きれい》だ。映里子は十分に満足し、高いチケットや食事代もためらいなく払った。直樹のいいところは、そのつどきちんと礼を言い、無理にその場で支払おうとはしない。代わりに、映里子の誕生日やクリスマスには、しゃれた贈り物をしてくれる。
そんなところも、映里子が彼を大いに気に入っている理由だ。
しかし、その直樹がすでにいくつかの世界を手にしているという事実は、映里子にとってそう喜ばしいことではない。できることなら初めて出会った日のように、綿シャツを着てはにかんだ少年のままでいて欲しいと思った。
けれどもこれは我儘《わがまま》というものだろう。
「こんな店はたまに接待で使うぐらいですよ。でも、いつ来ても落ち着けていいんだよな」
直樹はさりげなくメニューを閉じ、ウエイターに「甘鯛《あまだい》のバターソースかけ」と告げた。映里子も同じものを注文する。
「何か飲みますか」
「そうね。ビールぐらい飲んじゃおうかな」
今日はさしせまった用もないので、銀座を少しぶらついて帰るつもりだった。
「ビールはやめて、ワインにしましょうよ。その方がいい」
直樹は珍しく自己主張をする。
「そうね、ワインでもいいわね」
そう言っても昼間から何杯も飲めるわけでもなく、白のハーフボトルを一本注文した。
「じゃ、乾杯」
二人は同時に口にした。いつもならこんな時、その場の主導権をとるのは映里子のはずなのに、直樹がいち早く「乾杯」と音頭をとろうとしたからだ。
「じゃ、元気でいってらっしゃい」
不思議な違和感から映里子は口早になった。
「慣れない土地でしょうから頑張ってね」
「ええ、僕みたいな若手が、支社に行くのは初めてのことなんです。かなりプレッシャーがありますけど、何とかやります」
考えてみれば、社会人としての直樹を、映里子はほとんど知らないのだ。しかし今度の赴任といい、有名な私大の大学院を卒業していることといい、直樹がエリートと呼ばれる男であることに間違いはなさそうだ。
「デュッセルドルフっていうのは、どんなところなのかしら。私、パリには二回行ったことがあるけど、ドイツには足を延ばしたことないわ」
「とにかく日本人が多いところですよ。日本の企業が並んでいて、歩いてるのはほとんど日本のビジネスマンという通りもある」
「へえー、そうなの。じゃ暮らしやすいわよね。私の友だちの商社マンで、アフリカに行かされたのがいるけど、ああいうのって悲劇よ。彼、一人じゃ耐えきれないって言って、あわてて結婚しちゃったけど……アハハ」
映里子は声をたてて笑う。直樹は、やや困惑したように唇を静かにゆがめた。
オードブルの小さなテリーヌの後、ウエイターが主菜の皿を運んできた。鯛の切り身が、ピンクのマスクメロンのような皮を見せて横たわっている。
黄色く光るバターソースを映里子はナイフで丁寧にどけた。三十近い女として、こういうものはできるだけ避けるようにするのが習慣だ。
口に入れる。舌の上に鯛のかすかな甘味が残っているうちに、傍らのパンをちぎって噛《か》んだ。小ぶりのフランスパンは焼きたてらしく、意外なほどうまかった。
「これ、おいしいわね」
とつぶやいたとたん、口が急になめらかになった。いつも二人でいる時のように、直樹をからかってやろうという気分が生まれてくる。
「三沢君はどうなの?」
「何がですか」
「決まってるじゃないの。デュッセルドルフに連れて行こうって思う女の子はいないのかっていう話よ」
「そのことなんですけどね」
直樹はナイフとフォークを皿の上に置いた。
「赴任が決まったとたん、人事の人に言われちゃったんですよ。結婚の予定はないのか。もしあるんだったら行く前に大急ぎで式を挙げろ。もしそれが駄目なら、とりあえず婚約だけでもしておけ」
「ま、余計なお世話よねえ」
直樹の顔をのぞき込むようにしながら、映里子は笑う。笑いながら、どうしてこの男といると笑ってばかりいるのだろうかとふと思った。
直樹は黙っている。そのまま皿に目を落としているのが哀《かな》し気にさえ見える。
「ねえ」
笑いを誘おうと、映里子はもう一度言った。直樹は不意に顔を上げる。
「あの、僕と一緒にデュッセルドルフに行ってくれませんか」
「えーっ」
映里子は大きな声を上げた。それは少々大きすぎてコミカルといってもいいぐらいになった。
「私が? 三沢君と」
言ってしまった後しまったと思った。これはあまりにも、男の心を傷つけるというものだ。しかし映里子は全く混乱していた。恋愛は人並以上に経験してきたつもりだ。男と二人で酒を飲みに行けば、どういうことをつぶやき、どういう目くばせをするかも十分に体得《たいとく》している。相手が自分を欲しているかどうかということは、たいていの場合|勘《かん》でわかった。
けれども直樹の場合は、予感というものが無かったのだ。もちろん彼が、自分に好意を寄せているのはわかっていた。しかしその好意というのが、年上の女に対する純粋な友情と甘えだと長いこと思っていたところがある。
それ以上のことを、どうして考えられようか。それは三十近い女のプライドというものだ。
映里子のまわりでも、年の離れた男を恋人にする女は何人もいる。けれどもそれは、三十をかなり過ぎた、映里子から見ると中年の域に達した女だ。映里子のような年齢なら、まだ年|恰好《かつこう》の似合った男はいくらでも用意されているのだ。
口に出して言ったことはないが、年下の男とつき合う連中は、すでにいくつかのことを諦《あきら》めている女だと映里子は内心|軽蔑《けいべつ》している。なによりもみじめな感じがした。
若い男をひきとめるために、どれほどの努力をしているのだろう。恋人が去って行かないかと、絶えずきりきりと嫉妬《しつと》に苦しめられたりはしないのだろうか。
直樹を大っぴらに連れて歩いていたのは、それが肉体関係のない年下のボーイフレンドだからだ。それゆえにおしゃれなのだ。
若い男との性をむさぼる女は、それだけで意地がいやしい気さえする。
「私は、あなたより、ずっと年上なのよ」
やっと言葉が出た。
「私みたいなおバアちゃんを相手にしなくたって、あなたにはいくらでもいるでしょう」
「やだな、映里子さんは」
直樹は咎《とが》めるように言った。
「僕たち、四つしか違わないんですよ。今どき四つぐらい何でもないでしょう。映里子さんみたいな人が、年上だからどうのこうのなんて言うの、おかしいですよ」
男の目はひたむきで、今度は映里子が目を伏せてしまう。
「デュッセルドルフ行きが決まった時、僕は映里子さんのことを真先に考えたんですよ。一緒に行ってもらいたい人って、やっぱり映里子さんしかいないって結論を出したんです……」
直樹がここまで言いかけた時、ウエイターが近づいてきた。魚料理の皿と、サラダボールを下げ、デザートを置く。
アイスクリームに、苺《いちご》のムースがかかっている。いかにも春らしい色彩だった。
いったん退《さ》がった後、黒服の男はすぐにコーヒーを持ってやってきた。二人の茶碗《ちやわん》に注ぐ。その間、やっと映里子は態勢を整えた。
「あのね、三沢君はいますごく焦っていると思うの。ドイツへ一人で行くのは嫌だってね。それで手近な私を選んでくれたと思うんだけど、そういうのって違うと思うの」
男の後ろ姿を確かめて、映里子は言った。自然と小声になる。
「これって、一生の問題だから、軽々しく考えない方がいいわよ」
「そんなことない」
直樹はきっぱりと言う。
「前から思っていたんですけど、僕は映里子さんといる時がいちばん楽しかった。若い女の子たちなんかじゃいつも物足りなかったんですよね。映里子さんとならドイツも楽しいと思うな。ヨーロッパなんて地続きだから、どこにでもすぐに行けますよ。パリも近いし、冬になれば、映里子さんの好きなスキーも、思う存分出来る」
まるでピクニックに誘うような口調だが、これは映里子の胸の中に突然大きな動きをもたらしたのだ。
デュッセルドルフ。それも悪くないなとふと思った。学生時代はロンドンに留学したいと本気で考えていたこともある。
あそこに行きさえすれば、新しい世界が開けることは間違いないのだ。
昨日も報告書をつくりながら、何度も舌打ちをした。まわりには誰もいなかったから、思う存分大きな舌打ちをした。クライアントにこれでは提出できないと、つくり直しを命じられたものだ。
中堅スーパーの地方出店に関する調査。この地域は比較的高学歴の主婦が多い。ファッション感覚も鋭く、五人に二人は洋服を東京で買う……。
それがいったいどうしたっていうんだろう。ワープロを何度もしくじった。やっとのことでまとめ上げた後、女友だちを呼び出し、渋谷《しぶや》のバーへ行った。カウンターの隣に座った男がしつこくからんできた。
マンションに帰った時は、かなり酔っていて、やっとの思いで化粧を落とした。CDを二枚聞いているうちに、いつのまにか寝入ってしまった……。
来年も、おそらく再来年も続くだろうこの生活にいま自分の考えひとつでピリオドがうたれるのだ。それもなかなか素敵なかたちで。
桃色のムースの上に、まだ見たことのないドイツの風景が重なる。ロマンティック街道というところがある。雑誌で目にしただけだが、まるでおとぎ話に出てくるような街だ。休日にはあそこに行くことになるのだろうか。
ヨーロッパだったら、スキー場もいいところが山のようにある。冬ならちょっと遠出をして、スイスに行くこともできるはずだ。パリだって飛行機でひとっ飛びと聞いている。買い物が思う存分できる街だ。
少女じみた空想で、映里子は息苦しくさえなる。
これはもしかしたら、チャンスというものかもしれない。ハイミスの自分が、退屈な生活から突然ヨーロッパの街へと飛ぶのだ。おそらく、友人たちはみんな羨《うらや》ましがるだろう。
語学を勉強するのもいい。前から書きたかったエッセイを書くというのも考えられる。知り合いに雑誌社の女性編集者がいるが、彼女に頼んでドイツの暮らしをレポートさせてもらうのはどうだろうか……。
そこまで来て映里子はかなり自分を恥じた。どうしたことだろう。まるで頭の弱い小娘みたいなことばかり考えている。
もう少し冷静になってみよう。お前は目の前にいる男を夫にすることができるのだろうか……。
直樹はこちらを心配そうに眺めながら、コーヒーをすすっている。男にしては薄い、小さな唇だ。この唇にまだ触れたことはない。
「この男と寝れるの、寝れないの?」
映里子の中の声が、結論を急《せ》かす。
ちょっと待って頂戴《ちようだい》と、映里子はコーヒー茶碗に手を伸ばした。
パリの郊外を車で走らせる自分、サン・モリッツでスキー板を持つ自分のそれはいくらでも空想できるのだが、その傍に直樹はいない……。
でも頑張れば、なんとか出来ないこともないかもしれないと映里子は思う。この男に愛情がわかないのは、まだ寝ていないせいだ。
ランチタイムにプロポーズされたのが悪かった。これが夜で、食後酒でも飲んでいる時だったら事態は変わっていたかもしれない。
きっと映里子はその後すんなりとホテルへ行っただろう。ベッドの上の直樹は、意外な一面を見せるかもしれない。朝まで抱き合って眠り、映里子がそのことを口にすれば、すべては完璧《かんぺき》にうまくおさまるのだ。
が、いまからでも遅くはない。映里子はこう言えばいいのだ。
「この話、もうちょっと考えさせて。そして明日か、あさっての夜、ゆっくり話し合いましょう」
そして向山との約束をキャンセルすればいい。がっちりした肩と、大きな二重の目が気に入っているが、あの程度の男ならこれからも手に入るかもしれない。
目の前の男は、いま映里子にプロポーズをし、二週間後に一緒にドイツへ行こうと誘ってくれているのだ。
「愛せるか、愛せないか」
映里子は最後のジャッジを下そうとした。そう、こう思えば気持ちがらくになるかもしれない。男はみんな同じだなどと暗い傲慢《ごうまん》なことを言う気はないが、世の中のたいていの男はそれほど悪くないものだ。
現代でもたくさんの女たちが、見合い結婚という形態に身を任せているではないか。見合いで夫を選ぶには、自分には情熱というものがありすぎる。長いこと映里子はそう思っていた。けれども、その結果が、いくつかの男との別れだったではないか、と思う。
その情熱は他のことに向ければいい。直樹を見合いで知り合った男と考えればことは簡単なのだ。
風貌《ふうぼう》も性格も悪くない。条件としてはかなりいい。さあ、こう言えばいいのだ。「YES」。もったいをつけるというのなら、さっき考えたとおり、ゆっくり考えさせてと言って、明日かあさっての夕食を約束すればいい。
映里子があまりにも長いこと黙っているので直樹は不安にかられたようだ。おずおずと声をかける。
「僕って、ちょっと強引すぎるかなあ。突然のことでとまどっているんでしょう」
「そんなことないわよ」
どうしてこんなに意地の悪い声が出るのだろうと、映里子は驚いた。
「びっくりしたことは確かだけど」
「そうですね。僕が前からちゃんと言っておけばよかったんだ。だけど映里子さんは、いつでも僕のことを子ども扱いするから、言い出すチャンスがなかったんですよ。でも僕にしても、自分の気持ちに気づいたのは、ついこのあいだのことだから」
ああ、この歯だと映里子は思った。ほんの少しだけれど前歯が二本大きい。
「あなたって――」
全く関係ない言葉が、口から飛び出した。
「あなたって、子どもの頃、ビーバーちゃんって呼ばれてなかった?」
「ああ、よくわかりますね」
直樹はきょとんとして答える。
ああ、やっぱり駄目だと、映里子は絶望に襲われる。最初に会った時から、そのことに気づいていた。可愛いコねと頭を撫《な》でた。そんな男と、どうして愛し合うことができるだろうか。
この世の中には、どうしてもベッドを共にすることができない男というのがいるのだ。嫌いだからとか、醜いからというわけではない。そういうふうに運命づけられた男だ。
どれほどくだらなくても、どれほど憎んでいても寝てしまう男がいるのと同じように、ビーバーのような歯で齧《かじ》られるのを好む女はいるかもしれない。けれども映里子は違う。違うのだ。
女というのは、声がいちばん正直らしい。自分にプロポーズしてくれた男に、できるだけ愛らしく接しようと思うのに、声がさきほどから映里子を裏切る。低い声で、映里子はこう続けた。
「私たち、やっぱりそんなふうにはならないんじゃない」
「そうかなあ」
「そうよ。最初からそんなふうにつきあってこなかったんですもの。いまから心を入れ替えようとしても駄目」
「そうかあ、やっぱりなあ」
直樹が素直に引き下がろうとするので、映里子は怒りさえわいた。男の明るさを不意に憎いと思った。
「あなた、ものごとをイージーに考えすぎるんじゃない。あっちでよおく考えて、本当に自分に合った人を探しなさいよ」
ナプキンをたたんで立ち上がった。
「じゃ、元気で行ってきてね。向こうについたら手紙でも頂戴《ちようだい》」
長い夢からさめたような気分だ。寝汗のように、脇《わき》の下が湿っている。
「わかりました。手紙書きます」
こう言って直樹は伝票を手にした。初めてのことだ。
「それじゃ、ご馳走《ちそう》さま」
そう言った後、いつもこの言葉は直樹が自分に言っていたということに気づいた。
「だから、あたり前じゃないの」
扉を開けながら、映里子はひとり舌打ちした。扉を開けると、窓から見ていたはずなのに三月の陽ざしが驚くほどまぶしかった。
直樹を待たずに、映里子はランチタイムの帰りを急ぐ人々の群れに加わる。明日もたぶんそうするように。
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偶然の悲哀
世の中には色ごとが雨のように降りそそぐ女がいるが、私の場合、偶然の事件というものがよく私の肩をびっしょりと濡《ぬ》らす。それはあまりにも多く、あまりにもつくりものめいているので、物書きということを差し引いても人は私のことを嘘《うそ》つきのように思うようである。
こんなことがあった。今から二十年近くも前の話であるが、あたかも一篇の短篇小説のような出来事であったから、今でも鮮明に憶《おぼ》えている。
安藤有紀子は大学の同級生であった。私たちは朝から晩までほとんど行動を共にしていたのであるが、親友と呼ぶには彼女はいささか眩《まぶ》し過ぎる存在であった。華やかな美人で、濃い化粧をするととても女子大生には見えなかった。あの頃の女子学生というのは、たいてい私のようにジーンズ姿でろくに口紅をひかないものであったが、彼女は高価な注文服にきつくアイラインを入れていた。そうすると彼女は若い女優か、あるいは金持ちの老人に囲われている女のように見えたものだ。
といっても、彼女の化粧やおしゃれというのははなはだ気まぐれなもので、着飾るための努力をよく彼女は放棄する。若い美女には全く珍しいことであったが、有紀子は大変な出不精であったのだ。へたをすると部屋着のままで、煙草をくゆらしながら一週間も過ごすことがある。大学にもほとんど行かず、一年留年したのだから、その外出嫌いは徹底していた。どうやら私と知り合う前に、いくつかの男出入りや社交生活があったらしいのだが、すっかりそうしたことに飽き、二十二歳の彼女は隠遁《いんとん》生活を送っていたところであった。彼女の庵《いおり》は青山の一等地にあるマンションで、三部屋に広いバルコニーが付いていた。そのバルコニーで、彼女は部屋着とも寝巻きともつかない白いジャージーのワンピースを風にそよがせ、植木に水をやる。唐突に彼女は何かに深い愛情を注ぐのだ。彼女のこの時の相手は、ユーカリの植木であった。
「植物って人間の言葉がわかるんだって。ほら、私たちが喋《しやべ》ってるのがわかって、照れて揺れてるでしょう」
私は単に風にそよいでいるとしか思えなかったのであるが、彼女に媚《こ》びて、本当にそうねと、さも感に堪《た》えぬように頷《うなず》いたものだ。その頃の私の役割といえば、青山の庵にいりびたり、世間話などをしていく里の女、といったところではなかっただろうか。
有紀子は私にさまざまな話をしてくれた。たまに化粧をして外に出かけると、落とさずにそのまま寝入ってしまう彼女の肌は大層荒れている。そしてその整った美しい顔と白っちゃけた肌は、私に寂寥感《せきりようかん》というものをももたらし、彼女の言葉はひとつひとつ胸に沁《し》みわたっていくのだ。
「私は今まで人とそんなに争ったことも憎んだこともないけれど――」
本当にそうだ。有紀子は恋人以外の人間に、それほどの情熱を燃やす人間ではないことにとうに私は気づいていた。
「一度だけ大喧嘩《おおげんか》をしたことがあるのよ。それはね、大げさな言い方をすればちょっと私の人生観を変えるような出来事だったわ」
これでも私だって十八歳の時はものすごいねんねだったのよ。純情で世間知らずで怖がりでねと、有紀子は少し煙草のヤニのにおいがする息を吐きかけながら話し始めた。
上京した彼女はすぐさま原宿にある女子会館に入れられたという。金持ちのお嬢さまたちをきちんとお預りしますと宣言し、大層話題になったあれだ。しかしいくらねんねだったといっても、有紀子のような娘に二か月もいられるわけもなく、彼女はいろいろと策略を練った。その結果親に幼なじみの親友と暮らすから、女子会館を出たいと訴えたのだ。
「その女の子の名前はねえ、〇〇って言うのよ」
有紀子は風邪薬の箱の上にボールペンで、おそろしく画数の多い苗字《みようじ》を書いた。古代、帝《みかど》に仕えた者の子孫のような名前であった。
「むずかしい変わった名前ね。普通の人じゃちょっと読めないよ」
「うちの方の田舎に時々ある名前よ。でも東京の人にはきっと読めないでしょうね」
下に続く名前は〇〇春子という。苗字とはうってかわって平凡な名前だ。中学校、高校を通じて大変な優等生だったという春子は、有紀子の父親に絶大な信頼があったそうだ。北陸で一、二を争う地場産業の社長をしていた有紀子の父親は、愛娘《まなむすめ》の条件を呑《の》み、投資を兼ねて青山のマンションを購入した。少女二人が住むには贅沢《ぜいたく》過ぎる環境である。もちろん有紀子の父親は、娘の親友から家賃を取ったりはしない。生活費は折半という取りきめだったというが、同じ十八歳といっても有紀子は目を剥《む》くような額の仕送りを毎月|貰《もら》う娘、春子の方は昼間働きながら二部の大学に通う娘であった。春子の家は普通の、というよりやや貧しい方に属する地方のサラリーマンで、娘を東京の大学に通わせる余裕がなかった。おまけに春子は絶対大丈夫と言われた地方の国立大学を落ちてしまった。運命に立ち向かおうとするけなげな親友の姿に、有紀子はすっかり心を打たれた。そして愚かにも同情という、同い齢《どし》の女友だちに絶対与えてはいけないものをふんだんに差し出してしまったのだ。こうした無邪気で配慮のない善意が、相手の心にどれほど暗い憎悪の芽を育てていくか、有紀子が気づいたのは何と一年以上もたってからだ。
ある日久しぶりに帰省した有紀子は、田舎の生活にすっかり飽きて三日も早く戻ってきた。そして青山のマンションのドアを開けた彼女は、脱ぎ捨ててある靴の多さと流れてくる音楽に唖然《あぜん》とする。
「つまり春子が私の留守にパーティーをしていたのよ。大学の友だちを集めてね。自分は金持ちの娘で、親戚《しんせき》のマンションをひとりで借りている。表札に安藤っていう名前があっても気にしないでチャイムを押してね。名義上親戚の表札を出しているの。私はひとり暮らしで、とっても素敵に暮らしているの、みたいなことを日頃言っていたのね。だから玄関から入ってきた時の私を見た彼女の顔ってなかったわ。真青になっちゃってね。そしてぷいと横を向くの。私はすべてのことを察してあげて、親戚の手伝いに来ている女のふりをしたわよ。水割りの氷をつくってやったり、料理も運んであげた。だけどそのことがますます彼女の気持ちを怪獣みたいにさせたのね。その後すぐに喧嘩別れよ」
私も若かったし馬鹿だった、同い齢の女が二人、肉親でもないのにうまくいくはずがないわよねえと、有紀子はため息をつき、私はいつものように、
「有紀ちゃんは本当にお人よしなんだからァ」
と慰《なぐさ》めたものだ。しかし私の心はその春子という少女に強く打たれた。どんなにつらかっただろうかと、私はそのパーティーの夜をせつなく想像するのだった。
うまく言えないが彼女は失敗した私の前任者、とても近いところに居た女なのだ。私の中に意地の悪い興味が全く無いと言ったら嘘《うそ》になるが、私はいつしか春子のことを熱心に有紀子から聞き出すようになった。
「そういう暗い女って、やっぱりブスなんだろうね」
「あのね、蟹《かに》みたいにエラが張ってんの。おじさんみたいな顔」
なぜかはしゃいだ声を出す有紀子は、私に何枚かのスナップ写真を見せてくれた。厚化粧をし胸の大きく開いたワンピースを着た有紀子(彼女はそういう服装がとても好みであった)の傍に、浅黒い肌の少女がいた。蟹というのは大げさとしても確かに四角い形の顔だ。どの写真もしっかり唇が閉じられているのが、彼女の負けん気を示しているようだった。醜いというわけでもないが、艶《あで》やかさや可憐《かれん》さといったものがまるでない。頑《かたく》なな融通のきかなさが表情に現われている。とても十八歳とは思えないほど、ぼったりした色香をかもし出す有紀子とは対照的だ。
その頃私は田端にある小さなアパートに住んでいた。そのアパートは全く掘り出し物といってもいいところで、土地持ちの老人がそう阿漕《あこぎ》なことを考えずに建てたものだ。家賃も安かったし、広い中庭もあった。中庭の正面が地主の家、庭をとり囲むように三棟のアパートがあり、少しずつ広さが違い、少し家賃が違うようになっていた。
ある日、定められたブロック塀の前にゴミを出しに行った私は、真新しいポリバケツの前で足が止まった。震えるほどの興奮と驚きがきた。そのポリバケツには太いマジックで黒々と「〇〇」という名前が書かれていたのである。おそらく常用漢字には載っていないだろうその文字は、冬の陽ざしを浴びてまがまがしい呪詛《じゆそ》のようにも見えた。
「春子に違いない。春子がここに引っ越してきたのだ」
私は身内から震えるような感動に包まれた。それは懐かしさといってもいいものだ。こんな偶然があっていいものだろうか、東京で何万、いや何十万あるアパートの中で、私と春子は再会したのだった。それは確かに再会といっていい。しばらくたって月末、大家に家賃を支払いに行った私は、やはり同じ目的で来ていた春子と、ばったり玄関先で会ったのだ。春子は写真よりもはるかに大人びていた。うっすら化粧をし、そう安物には見えないスーツだった。おそらく昼間のOLとしての顔だろう。
「〇〇春子さんでしょう」
私はにっこりと笑いかけた。春子の顔にけげんそうな色が拡がる。東京で彼女の姓を正確に発音する人間など皆無の経験だったに違いない。
「安藤さん、知っているでしょう。私、有紀子の友だちなのよ」
私は春子の表情の変化を一瞬たりとも見過ごすまいと目を凝《こ》らす。その時、私の胸を満たしていたものはほとんど残忍な歓喜というものであった……。
「ええ話やあ」
私が最初にこのエピソードを披露《ひろう》した時、鶴田|純夫《すみお》はしみじみと首を振ったものである。
「物書きっちゅうのはな、こういう偶然を引き寄せる磁気を持ってるか、持ってへんかっちゅうのが肝心なんや。その点、カメはすごい、本当に恵まれてるなァ……」
カメというのは私のニックネームで、もちろん本名の亀山洋子からとったものだ。十八年前、純夫とある同人誌の会合で出会った時、
「ツルとカメが揃《そろ》ってこりゃあめでたい」
と皆に囃《はや》したてられた。それも私の偶然を引き寄せる力といえるかもしれない。純夫はその頃豊島区役所に勤めていた。大阪弁で喋《しやべ》る男というのは、大声で押し出しが強いという私の概念は、純夫によってうち破られたといってもいい。彼がぽつりぽつりと口にする大阪弁は、しみじみとした優しさに溢《あふ》れ、彼の人柄そのものだった。
私たちの属していた同人誌は、東京の数ある中でもかなり有力誌とされ、野心満々の人間たちが、その頃でも時代遅れとされていた文学論をよく戦わせていたものだ。それなのにいちばんおっとりと目立たない純夫が、ある雑誌の新人賞を獲《と》ったのだから世の中はおもしろいものだ。彼の書くものはリリカルで民話のような趣《おもむき》があると評され、一度は芥川賞候補となったこともある。
純夫より二年遅れてデビューした私は全く鳴かず飛ばずで、食べるためにつまらぬ男とつまらぬ結婚をした。小説を続けさせてくれるのが条件だったのに、飯の仕度が遅い、風呂《ふろ》がわいていないと小言で私を責めた。ただひとつの収穫は、男が大変なミステリーファンであったために、棚にあった彼のハヤカワ・ミステリをそれこそむさぼるように読んだことだ。離婚して後、短いミステリーを書いて知り合いの編集者に見せたところ、意外なほど誉《ほ》められた。十年前のことだ。何冊か書くうち、一冊がテレビ化されてかなりヒットした。とても売れっ子の仲間入りは無理だとしても、ミステリーはノベルスがあるので、そこそこの印税は入る。私は独身時代の純夫に何度か金を貸してやったことさえあるのだ。
が、私たちの同人誌の出世頭は、相変わらず純夫ということになっている。純文学を捨てた私は二番手ということらしい。その純夫だが筆一本で食べていけないからと、ずっと区役所生活を続けていたが、結婚を機に勤めを辞めた。通訳兼翻訳家という稼ぎのいいインテリの妻が、文筆に専念することを勧めたのだ。もともと純夫の本の大ファンだったという規子《のりこ》は、少々アイラインの濃い痩《や》せぎすの女である。幼い時から父親の仕事の関係で、アメリカやヨーロッパを転々としたという。
「私は日本で故郷というものを持たないから、だからこそスミオの書くものに魅《ひ》かれたのかもしれないわ」
などと喋る規子が私は苦手である。その日本語の発音と同じように、心もとても平坦《へいたん》なような気がする。この女が怒ったり、楽しそうに笑ったりするのを見たことがない。仲間うちに言わせると、
「可愛気《かわいげ》がないを通り越して、カスみたいな女」
ということになる。朴訥《ぼくとつ》このうえない純夫と、半分外国人の妻との組み合わせは、私以外の人間から見ても奇異にうつるものらしい。
「そないに言わんといて。あいつはな、俺《おれ》の本の一番のファンなんや。俺のことを日本で一番の作家や、天才やと思うとる。俺にとっては有難いで」
と庇《かば》うのも純夫らしい。
いま、彼は死の床にある。前からそう酒は飲まないかわり、やたら煙草を吸う男だった。マイルドセブンを手から離さず、前歯四本はヤニで黒ずんでいる。
「そんなに吸うと肺癌《はいがん》に間違いなくなるよ」
私はたえず注意をしたのだが、今年体の具合が悪いと言い出した時は手遅れだった。ただし肺ではなく肝臓の方だった。
「開けたんですけど、もういろんなところに転移していて手の施しようがないって。すぐに先生は閉めてしまわれたんです。これから放射線でやっていくけれども、奇跡を信じるより他ないって……」
そう言って泣き崩れる規子を初めて見た。奇妙な言い方かもしれないが、夫の病を得て、規子は極めて普通の妻になった。自分の仕事も断わり、夫の看病に専念し始めたのである。その様子は全く献身的で、私や仲間は彼女を見直したほどだ。純夫をちゃんと個室に入れてやり、こざっぱりとしたパジャマを着せる。食欲のない夫を気づかい、特製の野菜ジュースやかゆをつくった。
「こないやさしくされると、俺ってやっぱり死ぬんとちゃうかァ」
規子が席をはずした際に、純夫が私にささやいたことがある。純夫には初期の肝硬変と言っているらしいが、おそらくおおかたのことを気づいているに違いない。
「何言ってんのよ。規子さんはね、あなたが病気になって、あらためて愛を確認したんじゃないの。しばらくは大切にしてもらったら」
純夫はもともと痩せていた男だったからそうひどく窶《やつ》れが目立たない。人淋《ひとさび》しい分前よりも多弁になり、私はもうじきこの男があの世に行くなどということが到底信じられないのだ。
とはいうものの、純夫の病名はいつのまにか編集者たちには伝わっていた。
「亀山さん、鶴田先生、どうもよくないっていうじゃないですか」
私のところへ何本か電話が入ってきた。純夫は人気作家ではないが、一部に根強いファンを持っている。たまに出る単行本をそれこそ心待ちにしている人たちで、かつては規子もそのひとりだった。ある雑誌の編集者は、もしかすると追悼文を書いてもらうかもしれませんから、亀山さんよろしくお願いしますよと、こちらの神経を逆撫《さかな》でするようなことを口にする。何か嫌味を言おうとしたがやはりやめた。もともと編集者というのは、理由が何であれお祭り騒ぎが大好きな種族なのだ。
けれども大森ユリ子が訪ねてきた時、私は大いに愚痴をこぼした。
「ねえ、どっかの雑誌じゃもう追悼記事を書いてさ、後は死亡時刻を入れるだけだっていうじゃないの。私なんかあの男を見舞いに行ってても、死ぬなんてことがまるっきりピンとこなくて、涙ひとつこぼれやしない。それなのにマスコミの人たちって、とっくに彼を死人にしちゃってるのよ」
「そうですね。恥ずかしい限りですよ。もう言葉もありません」
ユリ子は唇をゆがめてうなだれた。彼女はもう三十五、六歳という年になるだろうか。まだ彼女が入社して間もない頃、初めて担当した作家が私だったのだ。入社したてといっても、アメリカの大学院に留学していた彼女は、当時二十五は過ぎていたのではないだろうか。学者の父があちらの大学で教鞭《きようべん》をとっていたため、ユリ子はずっと南部で暮らし、いったん日本に帰国して大学を卒業した後、また向こうの大学で学んだのだ。このあたりの経過は規子と似ているが、ユリ子の方が努力して日本に馴《な》じもうとするけなげさがあった。
規子がアメリカ風の化粧や洋服を好むのに比べ、ユリ子は意識して清楚《せいそ》に装おうとしている。髪もパーマをかけず、まっすぐなまま肩までおろしていた。日本とアメリカとの狭間《はざま》でおそらく相当の苦悩があったに違いないと私は見ている。
「出版社に勤めるのはずっと私の夢だったんです。アメリカにいる頃、父の書棚にあって私が憧《あこが》れていた作家たちに会えると思ったらとても嬉《うれ》しかった」
とはいうものの、最初は翻訳要員のように使われ、作家をなかなか担当させてくれなかったという。
「常識も何もなくて、とんでもないことを仕出かすと思われていたんじゃないかしら」
たいていの帰国子女というのはクールなところがあるがユリ子も例外ではない。非常に社交的に見せながら、こちらと自分との距離を計っている。私たち普通の日本人のような粘っこいつき合いは苦手のようだ。その代わりいったん心を許すと、ユーモアがあり誠実だというのも彼らの特徴である。
ユリ子と私とはそうしょっちゅう会うわけではないが、この四、五年で非常に親しい間柄になった。彼女の勤める出版社は文芸書で有名なところで、ユリ子の担当する作家も純文学を書いている者が多い。ミステリーに転向した私などとはもう用がないはずなのに、ユリ子は足繁《あししげ》く私のマンションを訪ねてくる。三年前の夏には一緒に香港を旅したことさえあった。
ちょうど昼どきだったので私は鰻《うなぎ》の出前をふたつ取り、ユリ子は自分の分を財布から出して払った。作家と編集者といっても私たちはそんな仲なのである。私が食後のコーヒーを淹《い》れ、ユリ子が梨《なし》をむいている時だ。
「私、亀山さんにお願いがあるんですけどね」
「何かしら」
などと私は反射的に答えたが、編集者が願いごとといったらひとつしかない。原稿依頼なのだ。しかし彼女の部署でミステリーを出版するわけもなく、おおかた別の編集部から頼まれた短いエッセイか何かだろう。
「どうしたのよ。早くおっしゃいよ」
「実は私、鶴田さんのお見舞いに伺いたいんですけれど」
彼女の口から鶴田の名前は唐突《とうとつ》だった。担当していたと聞いたこともない。しかし編集者だったら、何かの繋《つな》がりがあっても不思議ではないだろう。
とはいうものの私は多少不快な気持ちになった。ユリ子でさえこの機に乗じて、純夫の手記でも取ろうというのだろうか。
「彼に会うのはとてもむずかしいと思うわねえ」
私は言った。
「本人の希望で、とても親しい編集者とも会わないそうよ。あの人は昔から、プライベートなところをきっちりさせていたからね。今あの人の病室へ出入り出来るのは、奥さん以外は私と、あとお兄さんぐらいのものかもしれないわよ」
「だから私、亀山さんにお願いしているんです」
それは怒り声だったから、私は驚いて顔を上げる。ユリ子の目が燃えているのが見えた。
「私、どうしても会いたいんです。ですけれど、亀山さんにお願いするしか手段がないんです」
「あなた、まさか、そんな……」
「そうなんです。もう五年ぐらいになります」
ユリ子は不貞腐《ふてくさ》れたように口をとがらせた。美人、というのではないが、きめ細かい肌と涼やかな目が年よりもずっと若く見せている。まっすぐな髪でおかっぱ風に伸ばしているのも、日本人形のように見せようという演出なのだ。
「仕事を頼んだことはありません。私がよく行く新宿のバーに、彼もよく来ていたんです。その縁からつき合い始めたんで、今まで誰にも気づかれなかったと思うんです」
普通の女だったらとんだ演歌の一節となるところであるが、ユリ子は淡々と、読んだ本のストーリィを語るように喋《しやべ》る。その様子が誰かに似ていると私は場違いな疑問にとらわれ、そしてすぐに答えが出た。ユリ子と規子はそっくりではないか。
「それにしても……」
私はかすかな皮肉と揶揄《やゆ》を込めてこう言わずにはいられなかった。
「奥さんもそうだけれど、あなたも変わっているわね。あんな貧相なじじむさい男にまいってしまうなんて。あなたぐらい頭がよくって魅力的な女が、どうしてあんなおじさんを好きになるの」
「自分でもよくわかりませんけどね」
こんな時、女が必ず口にする陳腐な言葉をユリ子は発しかけたが、すぐに調子を変えた。
「鶴田さんはとても素敵ですよ。日本の男の人だけが持っているやさしさや含羞《がんしゆう》みたいなものがあるんです。私にはそれがとっても新鮮でした。積極的に近づいていったのは私です。私はご存知のように結婚っていうことにはこだわりませんし、一生このままでもいいと思っていたんです」
ユリ子があまりにもなめらかに喋り出すので私は不安になる。物書きというものは、自分の気持ちを流暢《りゆうちよう》にあからさまに語る人間に対し、いつも奇妙な警戒心を持つのだ。
「でも偶然よねえ……」
久しぶりに、けれども私にとっては充分に慣れ親しんだひと言が出た。
「こんな偶然ってあるかしら。私といちばん親しい編集者のあなたと、いちばん親しい男友だちが恋人同士だなんて。私はそう勘が悪くない方だと思うんだけど、まるっきり気づかなかったわ。噂《うわさ》にもならなかったし」
「会う時は、鶴田さんの新宿の仕事場で会ってました。外に出ると噂になるからって。よく作家の人って、平気で愛人連れまわす人が多いけれど、鶴田さんはそれを嫌っていましたからね。あの部屋、泊まれるようになっていますから、一週間ずっと居続けたこともあります」
まばたきひとつせずに、ユリ子は言った。
「といっても私は鶴田さんを束縛する気もありませんでしたし、私も束縛されたくありませんでした。大人の関係なんて気取っていたんですけれど、やっぱり駄目ですね、癌《がん》でもう助からないかもしれないって聞いたら無性に会いたくなったんです。テレビドラマに出てくる馬鹿な愛人のように泣き叫んだりしませんから、一度だけでもおめにかかれないでしょうか」
ユリ子の目の縁が赤くなっている。冷静に喋っているようであるが、精いっぱい気を張っているのだと私は気づいた。
「そりゃね、私も何とかしてあげたいけれど、奥さんがずうっと付き添っているのよ。私があなたと一緒に行ったらきっとへんに思われるわ。編集者は誰ひとりとして来ていないんですもの」
「奥さんが留守の時はないでしょうか」
「むずかしいわねえ……。個室に自分用の簡易ベッドまで持ち込んでいるんだもの。あの人が外出するっていえば、せいぜい売店へ行くぐらいよねえ」
でも何とかしてみるわと私が言うと、よろしくお願いしますとユリ子は頭を下げた。そうすると華奢《きやしや》に見える首から肩のあたりに、むっちりとやわらかい肉がついているのがわかる。私は殉教者のような風貌《ふうぼう》を持つ純夫が、この首をなめたり吸ったりしたのかと思うと、自分でも始末におえないなまめかしい嫌悪にとらわれた。
それにしても偶然というのは起こるものだ。
それから二日後、純夫に頼まれていた本を持って私は病院を訪れた。癌の末期患者にはよくあることらしいが、純夫は小康状態を得てとても元気がいい。食欲もあるし、本を読む意欲も出てきたと私に笑顔を向ける。これでたいていの家族は誤解してしまうらしい。このまま奇跡が起こって回復に向かうのではないかと信じてしまうのだ。
規子の方が疲れが出て、目の下がうっすらと黒ずんでいる。けれどもトレードマークのアイラインを忘れないのは立派だった。私は計量するための小便の壺《つぼ》が積まれた、病院の共同便所の鏡に向かい、目のまわりを黒くふちどる規子の姿を思いうかべるといささかぞっとした。
「規子さん、たまには家に帰ったらどうなの。長期戦になりそうだってお医者さんはおっしゃってるんでしょう」
「結構帰ってますよ。そんな日は兄嫁が来てくれるんで交替しているんです」
そのローテーションはどうなっているのだろうか。うまくいけば純夫とユリ子を会わすことが出来るかもしれない。
「家へ帰って、ゆっくりお風呂《ふろ》につかって、前だったらそのまま死んだように眠るんです。けれど今は駄目なの。いろんなことを考えてしまって」
黒いラインのために、目が充血しているのがはっきりとわかる。
「私がこうしている間に、夫の愛人がやってきたらどうしようかって思うと、居ても立ってもいられないんです」
「まあ……」
私の驚き方に不自然なところはなかっただろうか。繕《つくろ》うために私は一瞬視線をはずそうとし、すぐに思いとどまった。そんなことをしたら、規子はすぐに気づいてしまうに違いなかった。
「愛人だなんて、そんな……」
「ねえ、知ってたら教えてくださいよ。亀山さんは彼のつき合っていた女の人のこと、ご存知なんじゃありませんか」
規子はまるで私がその相手であるかのように睨《にら》みつけた。妻というのは、こういう場合秘密を握っている人間を、愛人と同じぐらい憎むものだ。
「ねえ、ねえ、規子さん、ちょっと待ってよ」
私は年上の女にふさわしい分別くさい声としぐさをした。
「あなたどうして夫に愛人がいるって考えたりしたの。純やんのことは昔から知っているけれど……」
そんな器用な人じゃないわと言いかけて私は絶句する。同人誌時代からの彼の恋愛騒動をいくつか思い出したからだ。なるほど彼が女たちを魅《ひ》きつけなかったかと言うと嘘《うそ》になる。
「奥さんと愛人を両天秤《りようてんびん》にかけて、うまくやっていくような人じゃないわ。それにあなたたち、とても仲よくいっていたじゃないの」
「仲よくいっていたといっても、兄妹っていうか作家と秘書のような関係でね。私たちこの二年間、夫婦生活がまるっきりありませんでしたもの」
私ははからずも三日の間に、妻と愛人の双方から大胆な言葉を聞くことになった。入院してすぐのことですけれどもと、規子は話し始める。ベッドの下のくず箱から使いきったテレフォンカードを二枚発見したのだという。編集者との連絡といっても大したことはなく、それも規子がしていた。しんみりと話をする相手といったら、ただひとりの肉親である兄であるが、彼は三日に一度は顔を出す。
「しょっちゅう誰かに電話をしているらしいんですよ。それなのに彼が公衆電話の前にいるのを一度も私が見ていないのって不思議でしょう。その頃は私夜になると家に帰っていたんだけど、ある日看護婦さんから注意されたんです。消灯過ぎた後もこっそりベッドを抜け出して奥さんと話しているみたいですけど、もうやめて下さいってね。もちろん私のところに電話なんかかかってきませんよ」
「そうなの」
しんから同情の声が出たのが自分でも不思議だった。
「でも、もしもよ、もし万が一、純やんに愛人がいたとしたらどうするつもりなの。その女の人と今さら喧嘩《けんか》をしたり、取り合いするつもりでもないでしょう」
今さら≠ニいう言葉の残酷な響きにどきりとしたが、もう引き返せなかった。
「こんなことを他人の私が言うのもなんだけれども、今は純やんがどうやったらいちばん幸せで快適に過ごせるかっていうことを考えてあげるべきじゃないのかしら」
目をつぶるべきことは目をつぶってと、私は言ったつもりなのであるが、そうした日本的言葉のすり寄り方は相手には通じなかった。
「亀山さんだって一回結婚したことがあるからおわかりでしょうけど、結婚した人の裏切りって私には許せないものなんです。私、純夫が元気な時もきっと責めたと思う。彼が私を裏切ったまま死んでいくとしたら、私は絶対に許せないわ」
「つまり真相を追及したいっていうわけね」
「そういうことになります」
「でも真相がわかったらどうするの。必死で病気と闘って、それでも生き抜こうとしている人を責めて追いつめて、それでどうするつもりなの」
「…………」
「私はあなたたち夫婦のことはわからないけれど、もっと大人になったらどう。ね、この期《ご》に及んでみっともないことしないで頂戴《ちようだい》。私、純やんの友だちとしてお願いするわ」
「でも、亀山さん」
規子の目から不意に涙がこぼれ落ちる。うろたえたのはこちらの方だ。私は昔から同性の涙にとても弱い。特に気が強い女が不覚にもこぼす涙には降参だ。
「私、阻止したいだけなんです。純夫とその女の人が会うのをやめて欲しい。せめてそのくらい考えることがいけないでしょうか」
「わかったわよ、わかったからもう泣かないで頂戴」
廊下の隅の喫煙室の一角だ。パジャマ姿の老人がすぐそこで煙草をくゆらしている。私は規子の泣いているさまを人に見られまいとしたのだが、彼はこちらに視線をあてることもない。ここは病院なのだ。人の涙は見慣れているし、それを見ないようにするマナーが存在している場所だということを私は忘れていた。
「とにかく何とかするわ。私がきっといい方法を考えてあげるからね」
何という偶然だろう、私はおとといもこれと全く同じ言葉を発しているのだ。
日曜日の朝、私とユリ子は病院のエレベーターを上がって行った。面会時間の始まりよりかなり早い時刻だが構うことはない。私たちは急がなければならなかった。今頃、規子は自由が丘にあるマンションのブザーを押している頃だ。
それにしてもユリ子の住む街と、この病院とがほんの三駅しか離れていないのは、なんという偶然だったのだろうか。これほど近くなければ、規子も病院を抜け出して夫の愛人を訪ねようなどと思わなかったに違いない。私は何ひとつ嘘《うそ》をつかなかった。おととい規子にユリ子の家の住所と地図を渡し、こう言ったのだ。
「一度きちんと話をしてみたらどう。この女の人、私が調べてあげたわ。私も知っている編集者よ」
亀山さんも一緒に行ってという言葉を私はふり払った。
「規子さんらしくないわ。そういう場所には一人で行きなさいよ。私ね、人の地《じ》が出る場所へ行くのは嫌いなのよ。規子さんもそうだけれど、相手の女の人もね、外国暮らしの長い、すごく理性的な人よ。あなたたちだったら、きっと冷静な話が出来るはずだから二人で会いなさい」
そして電話がかかってきたのは、昨日夜遅くなってからだ。
「亀山さん、私、思いきって明日、行ってみます。病室でぐずぐず考えていても暗くなるだけだから。日曜日の朝だったら、相手の人も多分いるでしょう。でも、こういう場合はやっぱり電話をかけてから行くべきなんでしょうかねえ」
いや、そんなことはない。前触れなしで訪問するようにと、私は規子に忠告した。
「愛人の家へ行くのは、やはり不意に行くのがいちばん流儀にかなっているんじゃないかしら。相手はまだ化粧もしていないし、部屋も散らかっている。その場所で強く言うことも出来るでしょう」
そんなシーンを最近私は書いたばかりなので、いいかげんな理屈をつけた。けれども規子はまっすぐに私の言葉を取って、
「なるほど、そうですよね。そういうものかもしれませんね」
としきりに頷《うなず》くのである。規子の受話器を置いた音を確かめた後、私はユリ子の家の電話番号を押した。そして私の企《たくら》みを話したのである。今日留守だとしても、どうせ規子は近いうちにユリ子に会うだろう。けれども絶対にユリ子を夫に会わせはしない。そういう女なのだ。だったらば規子をユリ子のところへ向かわせ、その隙《すき》に純夫とユリ子を会わせるしかなかった。
病室の扉を押す。あおむけになった純夫は人の気配で目を開けた。私の姿を見て何か言いかけたが、すぐにユリ子を発見し唇の動きが止まった。
「よお」
これは照れた時、彼がよく発する言葉なのだ。
「なんや、君、来てくれたんか。忙しいのに悪かったなあ」
布団をずらして起きあがろうとした。こういう時もユリ子は手を貸すでもない。淋《さび》し気な微笑をうかべたまま立ちつくしている。
「来てくれなんでもよかったのに。僕はまだ死なへんつもりやからなァ」
「すぐに退院するとしても、一度はお見舞いに来るつもりだったの。そうしなきゃ私の気がすまないから」
いかにも素っ気ない二人のやりとりがあったが、その言葉の端々に体を重ね合った男女の狎《な》れ合いを確かに感じ、私は顔をそむけた。
「私、外に行ってるから。ま、二人でゆっくりお話しててよ」
廊下の片隅。ガムテープで破れを繕っているソファをわざわざ選んで腰をおろした。私は二十年前のことを思い出している。純夫にも言っていない本当の話だ。
春子に初めて会った時、私は有紀子の友人だと名乗りはしなかった。ごく巧妙に近づき、時々はお互いの部屋を行き来するぐらいの仲になった。そしてある夜、たまたま私のところへ遊びに来ていた有紀子を、春子の部屋へ連れ出したのだ。青ざめた顔の春子と、こわばった表情の有紀子の前で私は叫んだ。
「えー、何ていう偶然なのォ。春子さんがあの春子さんだなんて」
今、病室で繰り拡げられている男と女の邂逅《かいこう》はすべて偶然がなせるわざではない。今、ユリ子の味わっている悲哀はところどころ私の手が介在している。そのことに私は喜びを見出す人間なのだ。決して主人公になれない人間はこのようにして暗い楽しみを手に入れる。若い時から私のその癖は消えていない。
けれども仕方ないことなのだ。長いこと自分さえ気づかないふりをしていた、もうじき死んでいく男への愛を、こうでもしなければどうやってなだめられるというのだろう。
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赤い糸
厄年《やくどし》のことを言い出したのは、母の睦子《むつこ》だった。電話の向こうで息をひそめるようにして言う。
「女の三十三っていうのは本厄《ほんやく》でしょ。あんたはこういうことが嫌いだろうけど、やっぱり行っといた方がいいわよ。あれもあることだし……」
あれというのは、現在進行中の真由美《まゆみ》の縁談のことに違いない。
二か月前、祖父の七回忌でのことだ。祖父は八十三歳の大往生《だいおうじよう》だったこともあり、話はもっぱら死者よりも生きている者たちの方に集中した。その中でもいちばん注目を集めたのは、なんといっても孫の真由美だったといっていい。
「真由美ちゃん、まだひとりだったっけ……。そろそろ嫁《い》ってもいいころだね」
親戚《しんせき》の女のそんな問いかけに、睦子はいかにもいまいましそうに声を荒らげた。
「そろそろだなんて。この娘《こ》、今年で三十三歳なんですよ」
「へえー」
五人ほどがいっせいに声を上げた。
「そんなになるかね。おじいちゃんが死んだ時、大学生ぐらいかと思ってた……。いや、いやそんなはずはない。確か玉美《たまみ》ちゃんと三つ違いだよね」
「そう、玉美ちゃんより三つ上」
睦子は真由美の従妹《いとこ》の年齢をしっかり記憶していた。
「それなのに玉美ちゃんとこのいちばん上の子はもう小学校へ入るっていうのに、この娘はまだ一人」
膳《ぜん》がもうけられた夕刻になっても暑さはなかなかひかず、睦子は額に麻のハンカチをあてたままさかんに喋《しやべ》り続ける。真由美はその横でビールを手酌《てじやく》で何杯も飲んだ。娘を他人に喋る時の、母のこんな偽悪的な言い方にはもう慣れていた。それなのにどうして、うすら笑いをうかべる余裕さえないのだろうかと真由美は思った。
理由はわかっている。法事に集まった女たちがいけないのだ。上は七十歳の大叔母《おおおば》から、下は二十二歳の従妹まで、みんな真由美にどこかしら似ていた。面長《おもなが》の顔立ちや、首が長いからだつき。結婚式の親族の写真を眺めた時、どこが新郎と新婦に属する人々を分ける境界線か、はっきりひと目でわかる血の繋《つな》がり。そんなものをどの女も持っていた。それなのに、その親しさを拒絶するように、女たちはあきらかに真由美とは違う。ほとんどみんな夫と子どもを持つ、あるいは持っていた女たちだ。二十二歳の従妹もぽってりと腹が大きい。そのことが真由美をほんの少しうろたえさせ、気まずくさせるのだ。
もともと自分は、世の中に逆《さか》らうような生き方をしてきた女ではないと真由美は思う。いい男がいたら結婚したいと思っていたし、恋愛も何回かした。それなのにさまざまなすれ違いや偶然が、男たちと真由美を別れさせた。次の恋に期待をかけたり、前の男をいとしんだりしているうちに、気がついたらこの年になってしまったというのがいちばん正直なところだ。もちろん、その間に焦りや屈折がなかったといったら嘘《うそ》になるが、そんな時は仕事に夢中になるふりをした。実際仕事はそうおもしろくないことはなかった。真由美は外資系のPR会社で、海外向けパンフレットの編集をしている。
「真由美ちゃんはいま流行《はや》りのキャリアウーマンっていう人だし、ハイカラな仕事をしてるんだから、結婚なんてあまりしたくないんじゃないの」
叔母の質問に人々の視線がまたまた集まった。
「そんなことないわよ」
真由美はやっとにっこり笑うことができた。こんな時出てくる答えは、もう何度も言っているから、すらすら出てくる。
「ボーッとしてたらこんな年齢になっちゃったけど、いつでも嫁ぐ気はあるの。こんなおばちゃんでもいいっていう人がいたら、お願いしますね」
そのとたん、安堵《あんど》したように人々はいっせいに微笑《ほほえ》みをもらした。
法事の日のことなど、本人はすぐに忘れてしまったのだが、この日の真由美の発言はさまざまな波紋を巻き起こしたらしい。
「そんな年になっていたのか」と親戚たちは一様に驚き、なんとかしなければと多くの者は言ったという。祖父の代に不動産と木材の輸入を中心とする同族会社がつくられ、それは今も続いている。小さな繁栄を保つ一族がそうであるように、真由美の親戚も結束が固かった。萩原《はぎわら》の娘が売れ残ってしまったというニュースは、彼らの間を何度も往復した。母からの電話が急に多くなったと思ったら、急に縁談が三つも持ち込まれた。どれも睦子に言わせると、「あんたみたいないかず後家《ごけ》にはもったいない」話だそうだ。真由美自身もよくこんな男たちが残っていたと思うほど、輝かしい経歴が釣書《つりがき》には綴《つづ》られていた。
「この方が、みっこ叔母ちゃま大推薦の方。三十八歳でおひとりっていうのはね、ずっと外国を転々としてたからですって。お勤めの会社でもエリート中のエリートなんだけど、いずれお父さんの会社を継ぐんじゃないかっていうのが叔母ちゃまの意見」
真由美は男の顔を注意深く眺めた。二十代の最初の頃、やはり睦子はこのようにして何人かの男たちの写真を並べたものだ。その頃、真由美にとって結婚はまだぼんやりと遠いものであり、それゆえにひどく羞恥《しゆうち》を伴うものであった。
「やだあー。こんなの。太った男って私の好みじゃないわ」
トランプのカードのようにつまみ上げたりもした。
いま三十三歳の真由美は、丁寧に写真を扱うようになっている。もしかしたら自分の人生の鍵《かぎ》を握っている男が、そこにいるかもしれないからだ。けれどもどう見ても、唇が厚く、がっしりとした肩を持つ男が、自分の夫になろうとは思えない。この男と肌を合わすことなど想像もできないのだ。真由美はふと、大学時代の友人のことを思い出した。彼女は見合い結婚をする人間など信じられないと言い張ったものだ。
「だってアレをするかもしれないって最初からわかってる人と、まじめに会えると思う? できっこないでしょ」
真由美はその気持ちがよくわかるような気がした。三十すぎて、二十歳の小娘だった頃の言葉に感心するというのはおかしな話だったが本当だった。女もこの年になると、自分がどのような男とかかわりを持つか、はっきりとわかるようになる。本能的に見ても、この男は、断じて交《まじ》わることのないであろう男だった。
もちろん母の睦子にこんなことを言いはしない。
「石油会社だったら、また転勤で外国へ行くかもしれないでしょ。私、外国で暮らすのはもう嫌よ」
大手の印刷会社に勤める父親に従《つ》いて、真由美は八歳から三年間シンガポールに住んでいたことがある。帰ってきてから、日本語がおかしいといって随分友だちに意地悪をされた。それを知らない睦子でもないのに、大きく聞こえるように舌打ちをする。
「また、これよ……。我儘《わがまま》言える年かどうか考えてごらんなさいよ。お父さんも言ってたけどね、これが最後のチャンスなのよ。たまたまお祖父《じい》ちゃんの法事があって、みんながあんたに気づいてくれた。親戚《しんせき》だから、みんなあんたのために一生懸命なんじゃないの」
「だからって、どうしても決めなきゃいけないってことはないでしょ」
「決めろとは言ってないでしょ。いい機会なんだから、どんどん会ってみればいいじゃないの」
「だって会う気にもなれないんだもの」
「男の人なんて、実際に見てみなきゃわからないわよ」
そんなふうにせつかれてした見合いだったがやはり失敗に終わった。男は釣書に書かれていたよりはずっと背が低いような気がしたし、なによりも気になっていた唇の厚さは近くで見ると滑稽《こつけい》なほどで、しかもまくれ上がっている。
「この男とキスするぐらいだったら死んだ方がマシだわ」
と思ったら真由美は薄く笑っていたらしい。咎《とが》めるような目で男が真由美を見た。その夜のうちに「年まわりがどうも……」という、ほとんど意味不明の断わりの言葉が男からもたらされた。
睦子の機嫌は日を追うごとに悪くなった。
「私はね、女でも自分ひとりで自分の人生を切り開いていくように育てたかったのよ。だから世間の母親みたいに、あんたにいろいろうるさいことを言ったつもりはないわ。その揚句が、この年になっても結婚できないなんてね」
「だってお母さん、結婚なんてどうだっていいって、よく言ってたじゃないの」
「そりゃあんたが、まさか三十すぎても一人でいるなんて思ってもみなかったからね」
母と娘は電話でよくそんなことを言い合った。八年前から真由美は家を出てひとり暮らしをしている。三年前にはワンルームだが小さなマンションも買った。あの頃睦子はよく部屋に遊びに来てはしきりに感心していたものだ。
「眺めがいいし、どこも狭いけど便利にまとまってるわね。こんなふうにのびのびすごせるなら、女ひとりもいいかもしれないわね」
そんな睦子が、近頃しきりに口うるさくなっているのは、叔母たちがいろいろなことを言って来ているからに違いない。祖父は長寿の上に子福者《こぶくしや》で、七人の子どもがいた。そのうち五人が女で、みんなそれぞれ結構羽振りのいい暮らしをしている。暇と善意をもて余している年齢だ。
「ねぇ、真由美ちゃんのこと、いつまでほっとくつもりなの」
と深刻そうに言う口ぶりまで目に見えるようだった。
ところがそのうちの一人から、思いがけない話が持ち込まれた。
「ねぇ、隆ちゃんのこと憶《おぼ》えてる?」
もう真夜中といってもいい時刻に、睦子からいきなり電話がかかってきた。隆というのは、いちばん年若の叔母の、義理の弟だった。逗子《ずし》の桜山にあるその家に、夏休みよく真由美は遊びに行ったものだ。叔母たちが住んでいる家の隣には、松林をはさんで大きな母家があり、そこには叔母の舅《しゆうと》、姑《しゆうとめ》たち、そして夫の兄弟たちが住んでいた。真由美が海に行く時は、必ず隆かすぐその上の姉が連れて行ってくれたものだ。真由美より四つ年上の隆は、その頃はもう中学生だったはずだが、別段恥ずかしがるふうもなく、水玉模様の水着の真由美と一緒に泳いでくれた。
中学に通うようになってから、逗子や海からは遠ざかってしまった真由美だが、隆と聞けば、ぼんやりとその顔や日に焼けた肩を思い出すことができる。今ごろはさぞかし、いい父親になっていることだろう。
「ところが違うんだって」
心なしか睦子の声ははずんでいた。航空会社の広報部に勤める隆は、しばらくアメリカに留学していたこともあって、未だに独身だという。たまたま実家に泊まりがけで帰ってきた時、叔母の雪枝、隆にとっては兄嫁が真由美のことを話した。そして今度の話になったという。隆が言うには、ぜひ自分も立候補してみたい。真由美ちゃんなら子どもの頃から知っているし、あかの他人と見合いするよりいいのではないだろうかということだった。
「願ってもない話だと思うのよ。私はもう隆ちゃんのこと顔も思い出せないけど、確か頭のいい子だったはずよ。雪枝も人柄は保証つきだっていうのよ。これもお祖父ちゃんのお引き合わせかもしれないわよね。そうよ」
睦子は一人で言っては一人で頷《うなず》いているようだ。今すぐ婚約が決まりそうな勢いだ。真由美ちゃんは小さい時とても可愛《かわい》かった。さぞかし美人になっているだろうという隆の言葉に、真由美は面映《おもは》ゆいものを感じたが、それでも甘やかな思いが胸に残った。幼い時代を共有しているという事実はすでに彼が真由美のすぐそばまで近づいていることのような気がする。
隆との見合いは、親戚同士なのだから大げさなことはやめようという雪枝の提案で、逗子の家で行なわれた。隆の父親はすでに亡く、雪枝たち一家が今は母家を使っている。昭和の初期に建てられたという家は、潮風で壁も屋根もすり切れたようになっている。白いレースのカバーがついたソファなどは今では見られない古風な形だ。そして家やソファと同じように、隆自身が老《ふ》けていることに真由美は驚いた。分け目が広くなった髪が、端整な顔立ちだからなおさら目立つ。深いしわに両側を囲まれた薄い唇は、意地悪気といってもいいほどだった。
「あなたがまだ一人だったとは驚いたな」
二人っきりになったとたん隆は言った。
「私も……」
そう言いながら、真由美はなぜ隆が結婚できなかったか、漠然《ばくぜん》とだが分かるような気がした。
「突然の話で驚いただろう」
「そうね。もう会わなくなって二十年近くたつんですものね」
「一回|渋谷《しぶや》ですれ違ったことがあるよ。男の人と一緒だから声をかけなかった」
そんな時の隆の唇は、気のせいかますます皮肉っぽくゆがむ。
「昔の話でしょ。ボーイフレンドと映画でも見に行ったのかもしれない」
真由美はさり気なく答えた。
「どうして結婚しなかったの」
隆は何本目かの煙草に火をつけた。日本のものではない。
「わからないわ。本当に自分でもわからないの」
真由美はかすかに首を横に振った。なんだか久しぶりに会った昔の同級生というような気がする。懐かしさはあるのだが、それは成長することのない赤子のようにうずくまったままだ。それに隆と向かい合っていると、自分の中にあったバラ色のものが少しずつ裏切られていくような気がするのだ。
「真由美ちゃんさえよかったら、僕はそのつもりなんだ。どう?」
突然隆は言った。
「あんたもそうだろうけど、僕もいろんなことがあった。正直なことを言うとね、僕、これからいろんな女の人に会ってゴチャゴチャするのが嫌なんだ。真由美ちゃんなら、家のことなら何から何までよくわかってるし、ちょうど僕はいま結婚したいなと思ってる。お互いに愛だ、恋だという年でもないし、僕たちのこと考えてくれないか」
完全に裏切られたと真由美は思った。今日、ここに来るために、何度化粧を直し、洋服のことで迷っただろうか。真由美の中ではすでに小さな物語が出来上がっていて、それによるとあの海辺の日々に、隆は真由美に淡い初恋の思いを抱いていたことになっている。だから、もしかしたら、二人はたやすく恋愛におちていくことができるかもしれない。髪にブラシをあてながら、真由美はそんなことを考えたりもした。それなのに隆の態度ときたらどうだろう。他を探すのがめんどうくさいから、手っとり早く、昔から知っている真由美に目をつけたと言わんばかりだ。
「このまま帰ってしまおうかしら」
どこかでそんなささやく声がした。けれども真由美は最後までにこやかにその場にいたのは、叔母たちへの気がねがあったこと以上に、隆の次にまた見知らぬ他人に会うことの恐怖だったといってもいい。見合いなどというものはすればするほど、慣れてどうということも無くなると世間の人は言うが、もうまっぴらだと真由美は思っている。ここで隆を失うことは、また延々と続く男たちとの出会いを意味した。それによく考えてみれば、真由美が冷たいと思う隆の態度は、大人の分別だととれないこともないし、むしろ非は自分の方にあるのかもしれなかった。三十三歳になった今、もう真由美は恋愛して結婚することなど大層困難なことになっている。それなのにまるで小娘のようにあれこれ考えることの方が、確かに愚かさに満ちているのかもしれない。
そんなふうに思いながら、見合いの後、真由美は隆に会い続けた。いろいろなことを差し引いても隆にはさまざまな美点があった。アメリカ暮らしが長いから、すべてに物慣れている。さり気なくワインのヴィンテージを確認するさまは、見ていても気持ちよいものであった。真由美はあまり人に言ったことがないが、スノッブな趣味がかなりあって、男にもそれを要求した。以前つき合っていた男が、目の前であきらかに店の者に恥をかかされた時は、真由美の方が血が凍る思いをしたものだ。その点、隆は真由美の見栄を満足させる男だった。英語ばかりかフランス語も少し喋《しやべ》れる。一人何万円という鴨《かも》料理を食べさせるという有名なレストランへ行った時は、正確な発音でオーダーし、フランス人のギャルソンを喜ばせたものだ。
おまけに睦子の話によると、逗子の家では隆の新居のために土地を用意するという。
「海辺に素敵な家を建てればいいじゃないの。そんな時はうちのお父さんも黙っていないと思うよ。親戚《しんせき》同士なんだからよく話し合って、二軒の家で援助すればいい」
ここまで周りが固まっているというのに、隆と真由美の仲はずるずると長びいていた。隆は評判の店をよく知っていて、真由美をよく連れ出してくれるのだがそれだけで終わりだ。手を握るわけでもないし、送ってきてくれる時も肩ひとつ抱こうとしない。単刀直入に「僕たちどうかな?」と聞いたのは最初の時だけで、その後はごくゆったりとふるまっている。真由美の出方を見ているようだ。
「もしかしたら、私たちこのまま友だちになっちゃうかもしれないわ」
冗談混じりに電話で告げたところ、睦子は騒ぎ出した。それが今度の、
「もしかしたら厄年だから、話がうまくすすまないんじゃないか」
ということになったのだ。
「雪枝は、外で食事したりするお金や時間がもったいないじゃないのって、ぶつぶつ言ってたわよ。どうしてあの二人、さっさと決めないんだろうって首をひねってたけど……」
ため息と共にもう一度念を押す。
「やっぱり厄年のせいなのかしらねぇ」
「まさかぁ、厄年なんて迷信でしょう」
「そんなことはないわよ。昔の人はちゃんといろんなことを考えてたんじゃない。女の三十三っていえば、からだも調子が悪くなってくる頃だし、旦那《だんな》が浮気したり、子どもが病気したりいろんなことがあるでしょ。それでちゃんと厄除《やくよ》けして、気持ちを落ち着けろってことじゃないかしらね。この頃の若い人も、ちゃんと行ってるって聞いてるわよ」
そう言われて急に気持ちが動いた。あれほど嫌がっていた見合いをした頃から、急に従順になっている自分に真由美は気づいている。実家にいた時は、睦子と喧嘩《けんか》ばかりしていた。睦子の押さえつけるような言い方はいつも腹がたったし、就職した人間に門限があるというのも我慢できなかった。それより何より、あの頃真由美は、恋人といる時間を一分でも多くつくりたかったのだ。
よく会社の帰りに待ち合わせて、都心のホテルへ行った。大きめのバッグの中には、小さなドライヤーを密《ひそ》かにしのばせていた。そして九時までには髪を整え、部屋を出た。男はまだベッドに横たわっている。すぐさま引き返して、その腋《わき》の下にもぐり込めたらどんなにいいだろうと真由美はよく思ったものだ。
だから家を出て、荻窪《おぎくぼ》に小さなアパートを借りた時は本当に嬉《うれ》しかった。男は時々泊まっていっては、真由美のつくった料理を食べ、その後はたわむれながら一緒にシャワーを浴びた。
大学を卒業したことよりもあれは大きな変化だったと真由美は思う。男のために自活を始めた時、自分のどこにこんなにたくさんの力や熱が隠されていたのだろうと真由美は驚いたものだ。それまでひとり娘で、ぬくぬくと暮らしていた自分が、密かに戦うことを覚えたのだ。
それにしても、あの男とはどうして別れることになったのだろうか。
日曜日の東海道線は空《す》いていた。ボックス席のあちこちが埋まっているだけだ。
窓ぎわに座ると、真由美はハンドバッグからキャンディを出してひとつ口に入れた。昔から列車に乗る時の癖だ。子どもの時、おとなしくさせようと、睦子が必ず飴《あめ》やキャンディを手に握らせたためかもしれない。
その睦子は、最後まで川崎大師に従《つ》いて行くと言い張ったのだ。
「いいわよ。三十三の厄除けに、母親つきそいなんてみっともないわよ」
怒鳴るようにして電話を切ってしまった。真由美が若かった頃、睦子ももう少し気概《きがい》ある母親だった。真由美が通っていた女子大はお嬢さま学校として知られていて、在学中から婚約したりする同級生が多かったものだが、そんな時もよく睦子は言ったものだ。
「結婚のハクをつけるために大学へ行くんじゃ、親も先生たちもうかばれないわよ。やっぱり女もちゃんと働いてモトをとってもらわなきゃ」
そのくせ真由美をいつまでも手元に置きたがったり、門限を決めたりと首尾一貫しないところは山のようにあったが、きっぱりとしたいい母親だったと思う。その睦子が、娘をどうしても嫁《とつ》がせたいと、おろおろと悩むだけの女になってしまっている。
もしかすると、睦子は淋《さび》しいのではないかと思う。もう六十をすぎているというのに、孫を抱くことができない。その焦りが、この頃の睦子にため息をつかせるのだ。
「まさかね、あんたがこの年まで一人でいようとは思わなかったわよ」
それはこっちのセリフだわよと、思い出すたびに真由美は苦く笑った。自分が普通の女と違うなどと、今まで一度も思ったことはない。いや人並み以上の頭脳と魅力に恵まれていると自惚《うぬぼ》れているところさえある。そうかといって、傲慢《ごうまん》なところもないつもりだ。
品川をすぎた頃から、線路の両側は小さな家々で埋まるようになった。秋晴れの陽に、布団や洗濯物を干しているのが見える。自分が決心しさえすれば、あの小さな家々よりも、はるかに広いしゃれた家は手に入るのだ。湘南《しようなん》に建つ白壁の建物をたやすく真由美は想像することができる。
けれどもいまつきつけられているものに頷《うなず》いた瞬間、自分の人生はそこでほとんど息たえてしまうと思うのはどうしてだろうか。三十三年間生きてきて、何回か恋をし、そしてたどりついたものは隆で本当にいいのだろうか。
窓の外に、不意にさまざまな光景がうかんで消えた。駅のホームでたたずむ真由美と男がいる。他の人にわからないように、コートの下で手と手を握り合っている。
「真由美が別れるっていっても、僕は別れないよ。もう遅すぎるよ。とり返しがつかないよ……」
あれは四度目の恋だ。
そうだ。いつの夏の日だったろうか。こうして男と二人、列車に揺られていたことがある。海を見に行こうと突然男が言い出したのだ。水着を持っていないと言う真由美に、男は少し怒ったようにささやく。
「いいんだよ。僕以外に真由美ちゃんは見せちゃ駄目なんだ」
「真由美」「真由美ちゃん」「マユ」、さまざまな呼び方をする、さまざまな男たちのせつなげな顔を、真由美ははっきりと思いうかべることができる。
「いいじゃないの。それだけの思い出があれば、どんな男とだってこれからおとなしく暮らしていけるわよ。そろそろ潮時《しおどき》よ」
何人かの女友だちはそう言い、真由美があまりにも少女じみていると笑ったものだ。けれどもと、真由美は問うてみたくなる。あんなに男たちから激しく愛された自分が、どうしてそう愛してもくれない男と一生を共にしなければいけないのだろうか。そしてもう自分は人から愛されることもなく、残りの人生をすごさなければいけないのだろうか。
いいえ、そんなことはない。真由美の中で必死で答える声がする。隆は自分のことを愛し、欲してくれようとしているのだ。そうでなかったら、どうして結婚を望むだろう。そう思い安堵《あんど》したとたん、今度は別の疑問が頭をもたげる。
それだったら、あの男たちはどうなっているのだろう。あれほど愛しているとささやいても、結局は誰ひとり真由美のそばに残ってはいないではないか。
もしかすると――そんなことはないと思いながら、真由美の頭のしんに暗いカーテンがさっとかかる。彼らは全部遊びか気まぐれで、本当は誰ひとりとして、真由美のことなど愛してはいなかったのではないだろうか。
気がつくと真由美の頬《ほお》に涙が流れていた。あわててマフラーで隠したがもう間に合わない。隣の席に座っていた少女が二人、けげんそうな顔で真由美を横目で見ている。昔、真由美がそうだったように、大人が泣くなど信じられないに違いなかった。
不思議な女の子たちだった。八つか九つぐらいだろうか、日曜日だというのにセーラーの制服を着ている。横浜にある名門の女子校に通っているらしい。きちんとはいたソックスといい、定規が見える手提げ袋といい、どう見ても通学姿だ。ひどくおとなびた顔をして真由美を眺めている。
「なんでもないわよ」
というかわりに、真由美はちょっと微笑《ほほえ》んでみせた。少女たちは安心したように膝《ひざ》に置いた手を再び胸まで持ち上げた。アヤトリをしていたらしい。その子どもっぽさがやっと真由美を安心させた。いつもそれで遊んでいるのか、黄色の毛糸はだいぶ毛羽だって汚れている。おかっぱの少女は、もう一人の少女がつくったアヤトリをすくおうとするのだが、なかなかうまくいかない。
「だめよ。指を一本間違っただけで、ぜんぶこんがらがっちゃうよ」
本当にそうだと真由美は思った。自分は指をどこかで間違えたのだ。好きな男と恋をして結ばれるという、誰でも出来ることがどうしても出来なかった。そしていま、三十三歳の秋の日に、ひとり厄除けの行事に出かけようとしているのだ。
黄色の毛糸は、少女の指の中でせわしく動き、そしてかたちを変えた。
「そういえば――」
真由美はぼんやりと遠くの空を見た。赤い糸の言いつたえを、ずいぶん最近まで自分は信じていたような気がする。めぐり合い、結ばれる運命の男女の小指には赤い糸があって、それはきっと結ばれているという。隆の小指の先に、自分へと続く赤い糸があるとはどうしても思えなかった。それよりも、まだ会わない男が、この広い世界にいると思うことの方が正しいような気がした。しかし、どうやったらその男とめぐり合うことができるのだろうか。
真由美はいまなにもかも捨てて、いちからやり直してもいいと思ったりもする。アヤトリのひもをほぐすように、パッと両方の手を離すのだ。しかしそういうことをしても、その男にたやすくたどりつくことができるとは真由美は思っていない。これから愛し合う男を探すことは、灯台の無い暗い海へひとり漕《こ》ぎ出すような気がする。
自分にはそんな強さや意地はもう微塵《みじん》も残っていないことがわかるから、真由美の目からは再び涙がこぼれ落ちるのだ。
車掌が間のびした声で「次は川崎」と何度も告げる。少女たちはとっくにアヤトリのひもをどこかにしまっていた。
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眠れない
明日は早めに出るよと言って、夫が寝室のドアを閉めたのと、居間の電話が鳴ったのとはほぼ同時だった。夜遅い電話をとる時、誰もがそうするように私は壁時計を眺めた。十二時を五分過ぎている。美和子からに違いない。最近テニスクラブで知り合い、急速に仲よくなった美和子は広告代理店に勤めている。私にはよくわからないが、ディレクターといって責任ある仕事をしているそうだ。彼女は夜帰宅すると、よく私に電話をかけてくる。とりとめもない会社の話や、年下の恋人の愚痴などを長々と話す。夫の帰りが遅い時は、私も興にのって相手をしてやるのだが、困るのは彼が家に居る時だ。夫は美和子のことをとても嫌っている。一度も会ったことのない人間のことをどうしてあれほど悪《あ》しざまに言うことが出来るだろうかと思うほどだ。マスコミの仕事をしていて、しかも離婚歴のある女など、夫にとって理解し難いものなのだろう。
「だいたいな、まっとうな勤め人のうちに、こんな時間電話をしてくるなんて普通じゃないよ」
最後には必ずこうつけ加える。
夫が寝室に入って行った後でよかったと私は思った。私はそうおとなしい妻というわけではないが、男の機嫌がいったんこじれるとどれほどめんどうかということは充分に知っていた。だいいち不機嫌な夫の傍で、女友だちと電話をしても楽しいはずはない。
けれども今なら美和子の相手になってやることは出来る。
「もしもし」
私はほんの少し相手を咎《とが》めるために語尾を強めた。美和子は愉快な気のいい女なのであるが、多少図にのるきらいがある。夜の十二時過ぎの電話は、いくら何でも遅過ぎるということをはっきりと示した方がいい。
「もしもし」
すんでのところで私は受話器を乱暴に置くところであった。向こう側からはこちらを窺《うかが》う沈黙が伝わってくる。何度も悩ませられたことのある悪戯《いたずら》電話だと思ったのだ。
「俺《おれ》だよ……。笠井だけど」
その時の犯人よりも、低く暗い声がして、それと正反対に私はあーら、あらとけたたましく喉《のど》をのけぞらせた。電話をかけてきたのは、二年前に別れた私の元の恋人である。長いつき合いで、若かった私が彼に夢中になった時期もある。けれども私はいま混乱している。何よりも意外だった。本当に彼が私に電話をかけてくるとは思ってもみなかったのだ。他の男と結婚すると告げた時も彼は冷静だったし、それをとうに予感していたようなことさえ口にした。プライドの高い男なのだ。それより何より彼は私に対してどれほどの執着があったというのだろう。かなり鈍感で、自惚《うぬぼ》れの強い女でも、五年間もひとりの男とつき合えばすべてのことが見えるものだ。私は彼のまわりにいる女たちに傷つき、そのことを否定しない彼にその一千倍ぐらい傷ついたものだ。つき合い始めた最初の頃は、取り繕《つくろ》うぐらいの誠意を見せていた男が、やがて怠惰に女との残滓《ざんし》を見せるようになった。つまり長いつき合いの間に、私はいつしか男になめられていたのだ。その結論を下した時、私はそれほどみじめではなかった。その時は既に夫が登場していたからだ。私と彼との別れは、女友だちから賞賛されるほど、後腐れのないすっきりしたものではなかったか。私はフィアンセを確保した後、一方でつれない男に引導《いんどう》を渡すという理想のかたちを果たしたのである。
あまりにもうまくいった別れは、私に当然|淋《さび》しさをもたらしたが、それに続く結婚準備やウェディングドレスといったものにすぐかき消された。どこにでもころがっているよくある話だ。私の友だちもたいていこんなことを経験している。そしてまれに、ごく低い確率で、綺麗《きれい》に別れたはずの男から電話がかかってくる。けれども私はそのひとりではないと思っていた。いまこの電話を受け取るまではだ。
さあ、どうやって対処しよう。私は舌で上唇の先をなめた。さっき夕飯に食べた里芋《さといも》の煮付けの甘さがまだ残っている。とりあえず私は家事もきちんとこなす貞淑な人妻なのだ。そのことを相手にきちんと知らせておく必要がある。だから驚いてもいけないし、迷惑そうにしてもいけない。私は明るい声で続けた。
「久しぶりね。嬉《うれ》しいわ、思い出してくれるなんて」
「違うよ、そんなんじゃないよ」
男は獣のようにうなる。
「思い出したんじゃないよ。毎日考えてたんだよ」
私がかつて熱望していたものが、五年ほど遅れて突然目の前につき出されたのだ。その時間のずれに私は当惑していいはずなのにどうしたことだろう。純粋な混ざりっ気なしの歓《よろこ》びに、私の体は射られたようになった。次の言葉を探すことさえ出来ないほどにだ。
「いつもいつもお前のことを考えてんだよ。どうしようもないよ。俺、何度も電話をしかけてそしてやめてんだ」
男はひどく酔っていて、それは減点の材料にすべきなのかどうかと私は迷う。かつて泥酔した男の姿をあれほど何度も見ていたのに、私はその判断が出来ないのだ。
「いま、どこにいるの」
「新宿だよ、新宿」
男の告げた店の名が、いちどきにいくつもの記憶をつれてきた。多分道順も、路地の入り方もしっかりと私の中にあるはずだ。私は大急ぎで口紅をつけ、コートを羽織ってタクシーに乗る自分の姿を想像した。けれどもそんなことはテレビドラマの中でだけ起こるはずだ。私には洗わなければいけない皿があり、パジャマに着替えて横たわらなくてはならない寝室があった。
「とにかくあんまり酔っぱらってない時に電話して頂戴《ちようだい》よ。ねっ」
私は多分下宿のおばさんのような声を出したと思う。にこやかに諭《さと》す声だ。
「それからもうちょっと早い時間にね」
「そんなこと関係ねえだろ」
彼は怒鳴り、私は昔、そんな風な声を何度聞きたかったことだろうかと思い出す。彼は欲望が昂《たか》まると駄々っ子のようになるタイプの男であった。
「近いうちに会ってくれよ。そのくらいしてくれてもいいだろう」
「そうね、考えとくわ」
「ちえっ、気取るんじゃないよ、うまくやってんのかよ、亭主と」
「そりゃあ、もう」
「ふうーん、だけどそんなこと俺と関係ないよ。とにかく会ってくれよ、近いうちにさ。いいかい、俺の新しい電話番号言っとくぜ。三二……ちゃんと聞いている?」
私の指は空《くう》をもがく。ひとつの賭《か》けをした。もし手近にメモするものをつかんだら彼の電話番号を書き取る。もし見つからなかったらそのふりだけして復唱する。時計をどかしてみた。電話を置いた飾り棚の上には、一枚の紙片さえ発見することが出来なかった。
「わかった、七三一九ね……」
ところが最後の数字を発音したとたん、私はとり返しのつかない思いに襲われる。舌にのせた数字は私の脳味噌《のうみそ》のどこにもひっかかることなく、またたく間に消えてしまったのだ。
「ちょっと待ってて!」
私は叫び、飾り棚の引き出しを開ける。そこには硬い表紙の電話帳と、クリーニング屋の控えがあるだけだ。苛立《いらだ》った指はもうひとつ下の引き出しにかかる。雑誌から切り抜いた料理記事が詰め込んであった。私は余白の多い茄子《なす》のグラタンの切り抜きをつまみ上げた。けれどもボールペンも鉛筆もない。ない、ない、ない、ない。
「悪いけど、もうちょっと待ってて!」
私は受話器を置き、テレビの前まで走った。ビデオのラベルを書くためのサインペンを傍に置いていたはずだ。それはたやすく見つかり、私は安堵《あんど》のため息をもらす。そしてまた電話機の前に戻った時、私はいくらか息をはずませていたはずだ。
「ごめんなさい、もう一度言って……」
「なんだ、メモしてなかったのか」
男はあきらかに不機嫌そうだ。私が謝罪し、彼がなじる。私たちはいつのまにか二年前の力関係に陥っていた。それは私にとってとてもよく体になじんだ洋服のようなものだ。とうに捨ててしまったはずなのに、その着心地のよさや、気に入った衿《えり》の感じはまだ記憶にしっかりとあった。
「電話を呉《く》れよな。いつでもいいから」
電話番号をもう一度告げながら男は既に厚かましさを滲《にじ》ませている。さっきまで懇願といってもいいほどの哀《かな》しさがあったのが嘘《うそ》のようだ。
「そんなことわからないわ。私だって忙しいもの……」
「だって君は仕事もやめて専業主婦になったんだろ。暇で暇で仕方ないはずだよ」
「そんなことないわ。毎日しなきゃいけないことが山のようにあるのよ」
「とにかく電話呉れよ。頼むよ」
「わからないわ。だいいち女の人が出たりすると嫌だもの」
「そんなもん、居ないって言っただろ」
「いまはね。でも来週になったらわからないもの」
「来週も居ない。これから先もずっと居ない」
「嘘ばっかり言ってるわ」
私は気づく。これが痴話喧嘩《ちわげんか》でなくて何だろう。甘やかにお互いを責めていく小さな戦いを、夫が眠る部屋の隣でしてもいいものだろうかと私が問い、電話ぐらい構わないじゃないのと私が答えている。
「電話呉れ」
男はあえぐように言った。
「来週も、その先も君のことばっかり考えてるはずだから」
そして電話は切れた。これは勝利というものである。結婚した私に、男がここまでの未練とめめしさを見せたのだ。幸福で華やかな女友だちには時折訪れていた勝利を私も手にしたのだ。私はこれで満足すべきだと思う。が、私の目の前には、電話番号が記された茄子のグラタンのつくり方がある。私はそれを元の引き出しに戻した。
何も破ることはない。ここにこれがあるとしても、私は全く何も存在しないかのように振るまうことが出来るはずだ。自信があった。
私は台所へ行き、さっき夫が食べた夕食の皿を洗った。そしてガスレンジを磨き、布巾《ふきん》をすすいで窓辺に干した。
そして今度は洗面所で自分の顔を洗い、歯を磨いた。私は電動歯ブラシを使っている。ぼんやりと鏡の前に立ち、軽い振動に身を任すのが私は好きだ。その後でゆるく編み上げていた髪をほどき、パジャマに着替えると私は少女のように見える。化粧をすべて落とした後でも、私の唇はまだ充分に赤いことを確認した。
寝室に入ると、夫は私のベッドの側に背を向け軽い寝息をたてていた。おそらく彼も気づいていないことだろうけれど、結婚一年たった頃から、彼は壁の方に向いて眠るようになっている。
「おやすみなさい……」
私は必ず声をかけるのだが、それに応えることはほとんどない。背を向けるようになったのと時を同じくして、夫は寝つきもとてもよくなっているのだ。
「ねえ、もう本当に寝ているの」
私は小さな声で呼びかけてみる。ひとつ想像していたことがあった。寝室に行ったはずの夫は、ドアに耳を押しあて、私の会話を盗み聞きしているのではないか。そしてすべてを悟り、私をなじるのではないか。そうしたら私は泣いて謝ろう。
「確かに昔つき合っていた人よ。とても酔っ払ってかけてきたから電話を切るに切れなかったのよ」
けれども夫の薄い耳たぶは、心地よい睡眠を証明するかのように静かに上下している。夫が真夜中の電話を気にとめることなく、これほど安逸な睡眠をむさぼっていることに私は腹を立てた。昔の恋人からでなく、これが聴覚による暴行魔だったらどうするのだ。夫は私を助けてはくれない。夫は何らの危惧《きぐ》も感じず、私がいつものように皿を洗い、ベッドにもぐり込んでくると信じている。何という怠慢さだろうか。
だから私はひとつのことを許した。それは夫が眠る傍で、昔の男のことを思いうかべることである。
枕元《まくらもと》のスタンドを消し、バラの模様のシーツを顔まで引き上げた。準備はいい。
「電話呉れ」
男の最後の言葉が私はいちばん気に入っている。彼は命令を下す時がとてもいいのだ。そして私は昔、何十回、何百回となく闇《やみ》の中で行なわれた命令を思い出す。息が荒くなった。
いくら若く恋人同士だからといって、どうしてあんなことが出来たのだろうか。思い出の中で、男も私も限りなく放恣《ほうし》になる。全くどうしてあんなことが出来たのだろうか。もし今私があのような行為の片鱗《へんりん》を見せたら、夫は眉《まゆ》をひそめるに違いない。今の私にとって、性はゆるやかな規則性を持つものだ。例えば汚れた食器は洗うように、朝食に野菜ジュースを出すように、決まって土曜日の夜それは行なわれる。
私はそれを不満に思っているわけではない。あの闇の中でいくつかの冒険、いくつかの不道徳は既に私が手放したものだ。もう得られることが出来ないものを嘆くほど今の私は不幸ではなかった。
不幸ではないけれど、夫はしばしばよく眠る。例えばこんな夜、私が揺り起こしたいような夜も夫はぐっすりと眠っている。だから私は思いをめぐらす。もうとうに手放したと考えていたものは、実はたやすく取り戻すことが出来るのだ。
明日の朝、引き出しを開け、茄子のグラタンの切り抜きをつまみ上げてもいいのではないだろうか。すぐには電話をしない。男が焦《じ》れ、諦《あきら》めかけた頃に番号を押す。彼はきっと会ってくれと言うだろう。会うぐらいはいい。一緒に酒を飲む。途中で彼は苛立《いらだ》ってくるだろう。私はもう他の男のものなのだ。私は胸の開いた服を着る。人にも言われ、自分でも気づいていることだが、結婚してから私は胸元に薄く白い脂肪がついた。二十八から九にかけて、三十前の人妻だけが持つ輝く脂肪だ。それを別れた男にさんざん見せびらかす。男は苛立ちのあまり怒り出すだろう。自分を裏切ったと言い出すだろう。そして私はにこやかに応える。
「裏切ったのはあなたの方よ」
男は私に許しを乞《こ》う。私は許してもいいと思う。そして男は乱暴なやり方で私を誘うだろう。私は目を見開き、そして怒ってみせる。
「私はもう結婚してるのよ。それもとっても幸せな結婚をよ。どうしてそんなことが出来ると思うの」
男は必死になる。昔あれほど私がたやすく与えていたものを、一度だけでもいいからと跪《ひざまず》かんばかりだ。そして私は男の哀願に負ける……。
男のアパートは以前のままだろうか。電話番号が変わったということは引っ越したことになるが、それでも私が無理やり連れて行かれる部屋は、CDと本で埋まりそうなlDKだ。男はすべての私の手順を知っている。どこをどう押せば、私から力が抜けていくかも知っている。男の代わりに今度は私が命令を下す番だ。もう経験することがないと諦めていたさまざまなかたち、そしてもう聞くことがないと思っていたいくつかの卑猥《ひわい》な言葉を男に吐いてもらう。
なんて素敵なんだろう。私は恥ずかしいほど大きく鼻を鳴らした。そしてそれはとてもたやすく手に入る。明日茄子のグラタンをつくるつもりで引き出しを開ければいいのだ。
夫を裏切ることになるが、夫はいつもぐっすりと眠る。妻は皿を洗うこととグラタンをつくることしか望んでいないと信じているから、こんな風に安らかに眠るのだ。夫に言わなければいい。男と会い男のアパートに行くことなど簡単だ。美和子か誰かの名前を出し、女友だちのところへ遊びに行ったと言えばいいのだ。他の男に抱かれた汗を流し、他の男によってつけられた歯型をパジャマで隠し、私は何くわぬ顔でベッドにもぐり込む。けれどもきっと夫は隣で、すやすやと寝入っているはずだ。眠っている夫が何か気づくはずはない。現に夫は、私が昔の男と電話で喋《しやべ》り、こうして夢想していることさえ気づかないではないか。
気づかないということは、何も知らないということだ。相手が何も知らないということは何も起こらないということだ。
私はあの引き出しを開けるような気がする。そして三日後、昔の男の目の前で大きく足を開いている自分の姿が見える。
「ああ、どうしたらいいんだろう」
もしかすると犯すかもしれない罪の大きさに私はおののく。本当にどうしたらいいのだろう。明日の朝、私は引き出しを開けるのか。
とにかく明日の朝、光の中でもう一度考えよう。闇の中で結論を下してはいけない。けれども眠れない。この夜と私の迷いは永遠に続くかのようであった。
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勤め人のいえ
第一話 崖の下の電話
定期検診で糖が少し出て以来、奥脇《おくわき》はつとめて歩くようになった。一時は家から駅まで徒歩で行こうと試みたことがあるのだが、これは四十分近くかかり断念した。その代わり、バス停で降りた後、わざと遠まわりして家に帰る。
彼の家はマンションと団地の中間、といった表現がぴったりする建物で、五年前にある有名不動産会社が売り出したものだ。
「高台のクオリティライフ」
という、わけのわからぬチラシの文句を未だに彼は憶《おぼ》えているが、何のことはない、山を切り崩した台地の上にある。幅の広い階段のすぐ下はバス停で、朝にはここに長い行列が出来る。雨が降ると、排水管から水が流れ出し、ちょうど窪地《くぼち》になっているバス停のあたりに溜《た》まるので、住民にえらく評判が悪い。
ある晩、いつものようにバスから降りた奥脇は、マンションへと上がる階段に足をかけたのだが、ふと思いついて左にまわってみた。台地を半周したところは、肌をえぐられた小さな山があり雑木が繁《しげ》っている。このあたりの地主である農家の、新築した屋根とパラボラアンテナが、月の光で小面憎《こづらにく》いほどはっきりと見えた。
整地された台地と裏山との間には、境界線のように細い道がある。奥脇がためらわずに歩き出したのは、一度通ったことがあるからだ。彼の記憶にあるその道は、人が通るのがやっとのほどの狭さだったが、あれは草も木もおい繁る夏だったからだろう。引っ越した直後、娘の美弥《みや》を連れてあちこち探険した時に見つけたのだ。
確かマンションの裏側、給水塔の立っているあたりに出るはずだと思ったらやはりそうだった。そして前庭にまわり、マンションの玄関に立った時には、既に二十分が経過していた。からだがほかほかと温まっていて、コートを脱ぐ手も早くなる。
「いい道を見つけたよ。階段をのぼらないで、裏にまわればいいんだ。山道みたいなのがあってすごくいい運動になる」
奥脇はこれらの言葉を用意して、リビングルームのドアを開けた。が、彼の発すべきものは、妻によって遮られる。
「ちょっと待ってて」
「お帰りなさい」
二つの意味を込めて、和美は夫には無言で片手を上げる。そして電話の相手には、はっきりと言葉で伝えた。
「悪いけど、ちょっと待っててくれるウ」
受話器を片手でおさえながら、和美はおそろしい早口で奥脇に向かって言った。
「いま、ちょっと大切な話をしてるのよ。お魚はテーブルの上、煮物はチンして。美弥、パパにご飯よそってあげて頂戴《ちようだい》」
「だってこれ見てるもん」
小学六年生の娘は、テレビを指さし、母親を睨《にら》みつけた。
「だって≠カゃないでしょ。ママはいま、良ちゃんのママと大切な話をしてるんだから」
このあたりになると、奥脇はすっかりめんどうくさくなってくる。
「いい、いい。さっき呑《の》んだ時にかなりつまんだから。お茶漬けにして喰《く》うよ」
「やあね。ご飯いらないんだったら言ってくれればいいじゃない。今日はうちで食べるようなことを言ってた癖に……」
この不満の言葉をなぜか間のびしたようにゆっくりと口にした後、和美は再び「お待ちどおさま」と受話器にかぶりついた。
「だからね、それははっきりしなきゃいけないと思うの。そもそも皆で出し合って木下先生にお祝いをって言い出したのはあの人よ。それを抜けがけするなんてねぇ……そうよオ」
奥脇はもちろん妻のこうした長電話を好んでいるわけではない。最初の頃は叱《しか》りつけたり、皮肉を口にしたこともある。しかしいつのまにか妻の、
「だってとっても大切な用件なのよ」
という言葉に押しきられてしまった。奥脇には想像もつかないことなのであるが、和美のまわりは常に「大切な用件」で埋めつくされているようなのである。美弥を通わせている塾で母親同士のごたごたが起こり、趣味の書道の先生は、高齢のためにしょっちゅう具合が悪くなる。そのたびに和美は、女たちと連絡を取り合い、こまごまと相談をし、解決に向けて電話をしまくる。これに歯向かうことなど不可能だということに、奥脇は既に気づき始めている。
電話をいったんやめ、自分のために汁をあたため直せということは、
「娘が可愛《かわい》くないのか」
「ひとり暮らしのお年寄りが気の毒でないのか」
ということになってしまうからだ。
奥脇はジャーから飯を盛り、テーブルの上に盛られていた銀ダラの煮つけと漬け物で、茶漬けを食ベ始めた。娘はそれをいいことに相変わらずテレビに見入ったままだ。茶漬けの用意をすることなど三分もかからない。妻と口争いを始めれば小半刻《こはんとき》はかかる。こちらを選んだのは生活の知恵というものだろうかと奥脇はぼんやり考える。
「だからね、ああいう人はもう私たちとは違うの。同じように考えるから腹も立つんだってば……。そうよ、そう、そう。ああいう強い、常識も何もない人に、私たちみたいな普通の主婦がかなうわけないじゃないのオ……。そうよオ……」
タラを頬張《ほおば》った奥脇の前で、妻はかすかに腰をひねってみせる。奥脇と二つ違いだから三十八歳になるが、腹部や腰のあたりにそう肉はついていない。最近ゴルフスクールに通い出したせいか、背筋もびしっと伸びてそれなりに綺麗《きれい》な女ざかりの線を見せている。
妻は夫と向かい合って喋《しやべ》るよりも、電話の相手と話す方がはるかにいきいきとして若やいで見えた。そんな和美が奥脇は不思議でたまらない。彼は昔から長電話というものをしたことがないのだ。昔|気質《かたぎ》の親から、用件が終わったらさっさと切るように躾《しつけ》られていた。向こうの顔も見ないままに、どうして心情を吐露し、第三者の憎悪まで口にすることが出来るのだろうか。家庭というものがある。世間というものがある。奥脇にとってその二つは毅然《きぜん》とした膜によって隔てられているのであるが、和美は違う。いくつもの穴が開いていて、そのいくつもの穴からはべろんと電話の線がのびている。
「もしもし、もしもし」
そう、子どもの頃つくった糸電話だ。妻は毎晩多くの糸をたぐりよせ、喋り続けているから、奥脇と向かい合った時は疲れ果てて言葉があまり出てこない。それは奥脇も同じだ。今夜は少しはずんだ心になり、あの裏道のことを話そうとしたのだが、いつのまにか言葉は唾《つば》となり、茶漬けの湯と共に胃の中に消えてしまった。そういえば、あの道の先、崖《がけ》の下には公衆電話があった。あの電話はいったい誰が使うのだろうか。うちのこの電話のように、夜十時までほぼふさがっているものもあれば、人通りの無い場所でぽつんと待っている電話もある。まあ、そんなことはどうでもいいのだがと、奥脇はちゅっと奥歯をヨージでせせった。
その電話が使われているのを初めて見た。奥脇が裏道を歩き出して四日めのことだ。その夜は温度が急に下がったかわりに、星がいつもより明瞭《めいりよう》に歯ぎれよく輝いていた。崖下の闇《やみ》の中にうかぶ電話ボックスは遠くからでもよく見える。
奥脇の目をひいたのは、電話をかけている男の後ろ姿が、自分とそっくり同じだったからだ。トレンチコートを着、左手に書類袋を抱えているところも似ている。こごめるようにした肩のあたりが、二、三度上下した。奥脇が道をのぼり始めて振り向いたのと、男がテレフォンカードを抜きとろうとからだをまっすぐにしたのとほぼ同時だった。
男に見憶《みおぼ》えがある。下の階に住む今井という男だ。東京で降りる駅が近いので、電車の中で時々言葉をかわす。確か背の高い妻がいて、和美と同じ書道教室に通っているはずだ。
可哀想《かわいそう》にと、奥脇は苦笑した。おそらく彼の妻も和美と同じように、夜になると受話器を握りっぱなしなのだろう。会社の用でも思い出して、それで家に帰る前にかけているのだろう。
しかし、待てよと奥脇は考える。どうして二十分近くもかかる距離をかけて、こんなところまで電話をかけにくるのか、仕事の電話なら、女房の電話をいったん切らせ、暖かい部屋でゆっくり話したらいいだろう。今井の妻とは顔見知り程度の仲だが、亭主の電話を許さないほど饒舌《じようぜつ》にも我儘《わがまま》にも見えない。
女か。そうか、それだったらつじつまが合う。女房や子どもがいるところで、まさか電話はかけられまい。
奥脇はよくバス停で会う今井の姿を頭にうかべた。彼はどういうわけか茶系のスーツが好きらしい。しかし茶のスーツを一着も持っていない奥脇に言わせると、あれはとてもむずかしい色だ。たいていの日本人の男には似合わない。よほどおしゃれか、よほど背が高いか、よほど美男子でないと浮いた感じになってしまう。
しかし今井はどの条件にもあてはまらない。女房が立派な体格なのにひきかえ、これといって特徴のない中背の平凡な顔立ちだ。茶色のスーツは彼を貧弱に、ますます野暮ったく見せている。
あの男に女がいるはずがないではないかと結論を出し、玄関に立った。家に帰ると和美は珍しく電話ではなく、アイロンをかけていた。なんでも美弥が明日どうしてもこのブラウスを着るのだと言い張っているという。しゃれっ気と電話っ気というのは同時に芽ばえるものらしく、今度は美弥のクラスメイトから電話がかかってきた。延々と喋り始める。電話を引き寄せ、左手でコードをからめるようにする姿は、母親にそっくりで、奥脇は次第にいらだってきた。
「おい、いいかげんで切らせろよ」
「大丈夫、キャッチホンにしてるから」
「そんなことじゃない。子どものうちから長電話なんて。喋りたいことは明日学校に行ってすればいい」
「子どもなりのコミュニケーションっていうのがあるのよ。あのコ、クラスの子に人気があるからね。もうちょっとしたらやめさせますよ」
奥脇はふと今井のことを話してみたいような気分になった。
「な、あんな人里離れた電話ボックスでこそこそ電話するなんて、やっぱり相手は女だよな」
そんなふうに軽い調子で言えば、格好の夫婦の話題になるのはわかっているのだが、やはりはばかられる。このマンションで流れる噂《うわさ》の早さというものを、間接的であるが奥脇は知っている。ここは黙っているのが男同士の連帯というものだろう。男たちは沈黙によってコミュニケーションするものなのだ。
暮れの日曜日だ。奥脇の会社もこの日から年末年始休暇に入る。和美から頼まれて住居用洗剤を買いに行った奥脇は、もはや習慣となりつつある裏山へ向かった。
電話ボックスに男がいる。それが今井だとすぐにわかったのは茶色のジャンパーと、肩の細さのせいだ。あの日以来、バス停で彼を観察したところ、今井のからだの特徴は男にしては狭い肩幅だということを奥脇は発見したのである。
よほど回れ右をしようとしたのであるが、冬の夕暮れの闇は秒ごとに濃くなっていく。スーツではなく、普段着の今井はあの時よりも無防備になっているようだ。後ろ向きではなく、横向きになり受話器に向かっている。
そこだけ明るい四角い箱はちょうど人形ケースのようである。しかし中にいるのは美しい人形でなく、少々くたびれた四十男だ。しかし男はなにやら笑っている。今井が白い歯を持っていることが、奥脇には意外だった。
綺麗な歯だけではない。今井が秘密さえ持っていることに奥脇は驚いている。今まで秘密を持つというのは、若い人間たちだと思っていた。奥脇のような年代で秘密を持つというのは、よほど選ばれた特殊な人間だと考えていた。ところがどうだろう、あのむさい茶色のスーツを着、花や木の具象柄のネクタイをつけた男は秘密を持っている。そしてその秘密を持続させるために、家を出、こうして四角い箱に逃げ込んだのだ。
今井は再び笑顔を見せたと思うと、今度は深刻な表情になる。その眉《まゆ》のあたりに、彼と女との関係の深さが表れているようで、奥脇はため息をついた。そしてため息が、羨望《せんぼう》のそれであることに気づき、一瞬照れた。まるで初めての恋を親友から打ち明けられた中学生みたいじゃないか。自分の知らない世界があると知った甘酸っぱい哀《かな》しみ。
もちろん奥脇の会社の中にも、不倫をしている連中はいたし、彼自身もその一歩手前の感情を持ったこともある。しかし、自分の階下の茶色の服を着た男が、これほど家から近いところで秘《ひそ》やかな糸を紡いでいたという事実は、彼に深いものをもたらす。
「全《まつた》く、生きてりゃ、いろんなことがあるよな」
奥脇は家にまっすぐ帰る気になれず、再びコンビニエンスストアに向かった。本屋は駅前に行かなくてはないが、ストアの中にも何冊か文庫本がある。何か一冊買おう。このまま家に帰り、リビングの椅子《いす》に座ったなら、今井のことをつい和美に喋《しやべ》ってしまいそうだ。
たいして面白いものはなかったが、ビジネス書の文庫を二冊買い、ついでにチーズとピーナッツの袋を買った。正月休みにウィスキーでも飲《や》りながら読むつもりだ。
階段を通り過ぎ、裏山に向かった。あの電話ボックスは、もはや奥脇にとって親しいものになっている。右手に見えるマンションのあかりも今日は数が多い。あの中で平凡に中年期を生きている人間ひとりひとりに、掌で囲むような幸せや、秘やかな時間があるのだという思いで奥脇は寒風の中を歩く。
電話ボックスには当然のことながら、もう今井は居なかった。そのかわり女がいた。ショートコートから見えるジーンズをボックスのガラスにこすりつけるようにしている。きゅっと腰がくびれる。話に夢中になった時の癖だ。和美だった。受話器に向かって喋っている救いを求めるような真剣な表情は、奥協が初めて目にするものであった。時々伏し目になるのは、拗ねているとしか考えられない。
奥脇は後ずさりした。わが家の居間の空間がそのまま切り出されて電話ボックスの中におさまっている。それだけのことだと言いきかせても、足は別人のように後ろに動く。驚きよりも、怒りよりもただ恐怖に支配されて彼は後ずさりする。
第二話 姫始め
姫始め≠ニいう古風な言葉を、最初に口にしたのは西村だった。
「お前んちはもう姫始めを済ませたのか」
唐突に聞いてきた。
「やあねえ」
下山の妻の陽子は、もう照れ笑いする年でもない。質問をした西村ではなく、夫の方を軽く睨《にら》んだ。
「こんなくたびれた夫婦に、もうそんな質問をしないで頂戴《ちようだい》よ」
「いくらくたびれていようと、よぼよぼだろうと、正月は儀式としてそういうことをするもんさ」
西村の言葉に、そうだ、そうだと調子にのるのは山崎である。どちらも下山と陽子の学生時代からの友人だった。
「俺《おれ》だってさ、正月からこっちくたびれ果ててたけど、二日の夜に頑張ったさ」
「あら、あれって二日にするものなの」
陽子が素頓狂《すつとんきよう》な声をあげる。気のおけない友人たちとの新年会とあって、さきほどから酌《つ》がれるままに飲んでいた。
「私はまた、除夜の鐘と共にするもんだと思ってたわ」
「冗談じゃないよ。大晦日《おおみそか》なんかたいてい紅白見てミカン食べて夜明かしするじゃないか。どうやって女房と仲よくなれるんだよ」
「ふうーん、なんか私、勘違いしてたわ」
陽子はおどけて、自分のこめかみのあたりをコツンと叩《たた》く。そんな動作をするととても三十六歳には見えない。
「それにしても西村は元気だよなあ」
山崎はわざとらしいため息をつく。
「姫始めなんてことを思い出して、実行してるだけでも立派だよ。俺なんかもうそんな勇気も元気もない」
「四十にして役立たずか」
「女房相手にはな」
男たちはいっせいに笑った。陽子は「まっ」と怒ったふりをする。
「珠美《たまみ》さんに言いつけちゃおうかしら」
珠美というのは山崎の妻で、陽子とも面識がある。小柄で透きとおるような肌をした友人の妻のことを、ふと下山は思い出した。陽子より二つ下だから三十四歳になるだろうか。昨年の夏、山崎の家で会ったが、とても三人の子どもがいるとは見えない。髪を若い娘のように肩のあたりでカールさせ、ヘアバンドでまとめているのも好ましかった。あの女だったら、自分はひょっとして欲情というものを持てるかもしれない、などという考えがかすめるのは、かなり酔っている証拠だと下山は思った。
その後男たちの話はぐっと落ちて、勃起力《ぼつきりよく》だの、濃度だのという言葉が飛び出した。山崎がなぜか声をひそめて言う。
「このあいだ女房が雑誌の記事を見せてくれたんだが、それによると俺たちの年だと、週に一回が平均らしい」
「ウソよ、そんなのウソだったら」
陽子は大げさに手を振る。
「誰か西村さんみたいな人が平均上げてるのよ。うちなんか、そりゃあ、もう清い関係が続いてますよ」
「おい、おい」
こういう場合、どの夫でもするように下山は妻をたしなめてみせた。
「うちの恥を人に言うもんじゃない」
おどけた調子で言ったから、もちろん他の男二人は笑った。
「本当よ。本当にもう清い関係。私、このまんま尼《あま》さんになれるんじゃないかと思うわ」
女というのはよく第三者を介入させ、こうした不満を口にすることがある。下山は妻がどこまで本気で言っているのか確かめようと、しばらくその横顔を見つめた。夕方からさんざん飲み食いしているから、口紅があらかた剥《は》げている。しかし飽食したあかしである薔薇《ばら》色が唇を彩っているのでそう醜くはない。軽く二重にくびれた顎《あご》といい、つやつやした頬《ほお》といい、どう見ても満ち足りた中年の女だ。
妻が不幸なはずはないと、下山は確信に近い感情を持っている。この四年来、西村や山崎が新年にやって来るのも、下山が一戸建てを構えたからだ。団地や狭い賃貸マンションの彼らのところでは、こんなふうにゆったりと寛《くつろ》げない。ガレージには陽子のための小型車もある。そんな物質的なこと以上に、二女にも恵まれ、夫婦仲も決して悪くない。そもそも四十にもなって、浮気をほとんどしたことがない男がいるだろうか。ほとんど、というのは、仕事柄海外へ行くことが多い下山は、取り引き先からよく接待≠ニいうことで女をあてがわれるからだ。しかしこのもてなしもエイズが蔓延《まんえん》する以前のことで、今はさっぱりとしたものである。
妻を最後に抱いたのは、もう思い出せないほど前、確か昨年の秋頃だったはずだが、仕方ないではないかと下山は言いたい。忙しい働き盛りの男が、そうちょくちょく妻を抱けるものか。そのかわり、自分はさまざまなものを提供してきた。陽子の性格もからだも自分がよく知り抜いている。派手な目鼻立ちや気質に似合わず、性に関しては淡白といっていい。若い時ならいざ知らず、子どもを産んでからははっきりとそう言いきれるようになっている。
そうは言っても、今夜の恨みがましい言葉ときたらどうだろう。座を盛り上げるための、軽い芝居だと下山は思うことにした。
その夜、客が帰った後、下山は妙に居心地の悪さを感じた。ベッドに入っても、隣の妻の様子が気になって仕方ない。陽子は眠りにつく前に、軽くシャワーを浴びる習慣がある。廊下を隔てた浴室で湯を使う音が聞こえ、それが下山を落ち着かなくさせるのだ。
子どもたちはお年玉めあてに、郊外の祖父母のところへ泊まりがけで行っている。今夜あたり、妻を抱いてもいいような気がした。しかしそれを実行するには、下山の自尊心というものがある。悪友たちのよた話に刺激されたように思われるのは口惜しい。
「まあ、そんなにあわてることはないさ」
下山は思う。正月休みはあと二日間もあるのだ。明日かあさって、それらしきことをすればいいだろうと結論を出したとたん、あくびが出た。このところめっきり酒が弱くなったようだ。酔いのすぐ後ろに睡魔が控えている。「色気より睡気《ねむけ》」というのは、若い者に対してのものではなく、案外中年のためにあるのかもしれないとふと思った。
翌朝七時半に電話で叩《たた》き起こされた。同僚の岸田の声で、ゴルフのメンバーがひとり来られなくなったという。〇〇カントリーといえば、下山の家から電車で四十分ほどのところだ。九時半のスタートなら充分間に合う。
正月休みでかなり退屈していた下山は、その誘いにすぐさま応じた。
「さっそく打ち始めっていうわけね」
パジャマの上にカーディガンを羽織った陽子が、茶を淹《い》れながら言う。打ち始め≠ニいう言葉に下山は卑猥《ひわい》なものを感じ、ひょっとしたらあてこすりを言っているのかと思ったほどだ。
「朝っぱらからヘンなこと言うなよ」
「ヘンなことって何、どこがヘンなの」
陽子はきょとんとし、下山は自分の言動を少し恥じた。そんなことが原因でもないだろうが、ゴルフはさんざんの出来で、握り≠ヘ岸田のひとり勝ちだった。開いていた店があったので、駅の近くでビールを飲んだ。暮れの二十八日から数えて、これで一週間たて続けに飲んだことになる。普段も飲酒する日が続くことがあるが、量が違う。休みの酒は野放図にとめどなく入るなと言ったら岸田も頷《うなず》いた。
おまけに家に帰ってからもウィスキーの用意をさせた。
「ぐでんぐでんに酔ってきちゃって。あなた、ゴルフをしに行ったの、それともお酒を飲みに行ったの」
いったんはふくれっ面をするが、すぐあっさりとあきらめるのが陽子のいいところだ。水割りをやる下山の傍でテレビに見入る。
「本当にお正月って同じような番組ばっかり。出ているタレントもみいんな同じなんだから区別がつかないわよねえ」
指さしあれこれ言うのだが、下山はその名前すら知らない。
「お前もちょっと飲めよ」
「いらない。昨夜ちょっと飲み過ぎちゃった」
ちらっと舌を出す。その少女じみたしぐさは、二十年近く前の陽子の姿を下山に思い出させた。友人の紹介で会った陽子は、体育を専門とする短大に通っていた。将来は体育の教師になるつもりだという陽子は、それこそはちきれんばかりの体をしていて、ニットを着るとやや尖《とが》った乳房のかたちがあらわになった。それはブラジャーによるものだということが後にわかるまで、下山はほとんど気が狂わんばかりになったものだ。
東京の下町で、おばあちゃん子として育った陽子はもの堅いところがあり、結婚が完全に決まるまでキス以上のことを許そうとはしなかった。あの吐き気に近いほどの欲望はすっかり姿を消してしまったけれど、自分はやはりこの女を欲していると下山は思う。愛しているなどという言葉は、夫が妻に言うものではないが、それはちゃんと存在している。それを知らしめるために、やはり今夜妻と同衾《どうきん》すべきであろう。
下山は自分が好きな妻のいくつかの箇所を頭に思いうかべる。三十を過ぎた頃から、そのいくつかの場所はとてもやわらかくなり、下山を迎えやすくなっている。下山がいつも寝ころぶソファのアームの薄い汚れのように、クッションのように、妻のからだには下山がつくったいくつかのくぼみがある。
けれどそれはめったに使わない。自分専用のくぼみがある喜びと、それを使おうとする積極性とは別のものだ。
とても睡《ねむ》くなった。ウィスキーを飲みながらソファでうたたねし、途中で暖かくした寝室のベッドに入る。なんという快感だろう。妻のことは好きだ。けれども眠りへと続く極楽を遮ってはならない。下山はいつのまにか鼾《いびき》をかいていた。
次の日、彼は少し自分が反省していることに気づいた。考えてみるとセックスには礼儀という要素があるのではないか。特に夫婦の間ではそうだ。自分が知っている限り、陽子は決して好色な女ではないが、生きているからには夫に抱かれたいのは当然だろう。子どもを二人産んだ女のからだは、本人の意思とは関係なく応えることもある。
それにしても西村は、新年そうそうつまらぬことを言ってくれたものだ。昨年の記憶を必死でたどると、正月休みのある夜、ごく自然にそんなことがあったような気がする。それなのに今年は姫始め≠ネどという言葉を吹き込まれたために、何やらすっかりそのことを意識してしまったではないか。
明日から会社が始まる。子どもたちも祖父母のところから帰ってくるだろう。もし姫始め≠するとしたら今夜しかないと思うと、宵のうちから下山は困惑していた。そしてこんな夜に限って、衛星放送は昔のメロドラマの映画を流す。
「ねえ、これ、昔見なかった」
到来ものの羊羹《ようかん》を切りながら陽子が言った。下山は今夜は久しぶりに飲んでいない。
「そうかな、憶《おぼ》えてないよ」
「やだあ、私が短大卒業した時、謝恩会の会場まで迎えに来てくれて、二人で銀座ヘ行ったのよ」
そうだった。この映画を見ている最中、下山は陽子の手をずっと握りしめていた。あの時彼女の手をぐっと引き寄せ、自分の哀《かな》し気にいきり立っているものに触れさすことが出来たらどんなにいいだろうかと彼は考えたものだ。下山は十六年後、妻になっている女の肩をそっと抱いた。妻の肩は二十歳のあの頃よりも肉がつき、はるかに丸味を帯びている。ちょっとキスでもしてみるかと思い、下山は妻の唇を吸った。しかし頭のどこかでこんな声がする。
「女房とする[#「する」に傍点]のに、どうしてこんな手続きを踏まなきゃいけないんだ」
とはいうものの、陽子は嬉《うれ》し気に何度もごくんと喉《のど》を鳴らした。久しぶりにソファでしてみるか、と下山は考える。新婚時代に戻ったつもりで、情熱的にところ構わず=Aというやつもたまにはいいかもしれない。
「やあよ……」
陽子は拒否する。
「ベッドでちゃんとしましょうよ」
ちゃんと≠ヘよかったな。下山は苦笑いする。女っていうやつは、すぐに手順というものをつくり、それからはずれるとぶうぶう文句を言うんだから。
「じゃ、あっちへ行くか」
下山が声を発したのと、チャイムが鳴ったのとほぼ同時だった。
「誰かしら、こんな時間」
陽子は五秒前とは全く違う声で、ドアのあたりを振り返った。そして身づくろいしながら小走りに出て行ったと思うと、やがて悲鳴のようににぎやかにまくしたてる声がした。
「まあ、まあ、本当にごめんなさいね」
「いやあ、昼までご機嫌だったんだけど、夕飯食べてたら、どうしてもママと寝るんだって泣き出してね」
陽子の両親と一緒に暮らしている義兄の声だ。
「あなた、圭次さんが可奈《かな》と文香《あやか》を送ってくださったのよ」
小学校二年生の可奈は、母親恋しさと眠たさですっかりべそをかいている。
「さあ、さあ、ベッドヘ行きましょう」
「カナ、今日はママと寝るう……」
「はい、はい、だからもう泣かないの。おじちゃんが困っちゃうでしょ」
娘が腰のあたりにすがりついている妻の後ろ姿を見ながら下山は思った。
そうさ、しなくたっていいじゃないか。こんなにおだやかで、こんなにうまくいっている。礼儀や正月の行事だからといって無理にすることもない。いっそのこと姫始めなんかずっとずっと後にして、どこまでそれ抜きで仲よくやっていけるかやってみようじゃないか……。
そして下山は微笑《ほほえ》んで、義兄のためにスリッパを出した。
第三話 夢
喜美子の夫の早川は、陽性で言葉惜しみしない男である。家に帰ってきても、あれこれ妻に話しかける。
「いいわねえ、ああいうダンナだと。うちなんか怒ってるみたいにむうっとして、必要最小限のことしか言わないわ」
羨《うらや》ましがる友人もいるが、喋《しやべ》る夫というのはそれはそれで気苦労があるものだ。早川のように会社であったさまざまなことを愚痴るというのは、外から持ち込んだ垢《あか》を妻にもなすりつけるようなものだと喜美子は思う。
いっそのこと、会社のことは何ひとつ話さない夫の方が清々《すがすが》しくて、妻も気を遣わずに済むというものだ。
けれども今さら文句を言うことは出来ない。十二年前、結婚退職をした喜美子は、早川が帰宅するやいなや、会社の話をあれこれ聞きたがったものだ。
「へえー、野間課長ってやっぱり飛ばされるわけ」
「そうなの、斎藤さんと秘書課のあのコ、やっぱり結婚するのね」
現在は違うらしいが、あの頃、早川と喜美子が勤めていた繊維メーカーは、社内結婚するとどちらかが辞めなければいけないという不文律があった。もちろん男の早川が辞めるはずもなく、依願退職の用紙を書いたのは喜美子の方である。
社の皆から祝福され、花束をもらっての結婚退職でも、やはり淋《さび》しさは癒《いや》されない。喜美子は仕事の好きな有能な女子社員だったから、不満はたえずくすぶり続けていたはずだ。だから夫の帰るのを待ちかねて、会社の噂《うわさ》話をあれこれ聞いた。早川も手ごたえのある妻との会話を楽しんでいたようだ。
けれどもそれがいま裏目に出ている。あの頃早川はまだ若く、可能性というものを信じていたに違いない。社内の派閥や人事のことをあれこれ口にする時、あきらかに彼はいきいきしていて、同時にゲームを横目で楽しむ子どものような冷めた目も持っていたはずだ。
「あいつら、全く何を考えてんだろうなァ」
というのが早川の口癖だった。あいつらというのは上司や会社の幹部たち、彼が無能で権勢欲が強いとみなしている男たちで、自分はあんなふうにみっともないことはしないと早川は断言した。
「ああいうじいさんはもう奥に引っ込んで、もっと俺《おれ》たち若いもんの意見を聞くべきなんだよ」
いま三十八歳の早川にあの時のような元気はない。運≠ニいう言葉をしきりに使い出すようになったのはこの二、三年のことだ。
「俺は本当によくわかったよ。サラリーマンっていうのは結局は運なんだってな」
手酌《てじやく》でビールを飲みながら言う。
「俺なんかチャンスあたえてもらってないもんな。仕事が出来るか、出来ないか、見定めてもらうことさえ出来ないんだぜ。四十前後っていえばよ、勝負がつく時なんだがなあ」
早川は入社以来営業畑を歩いているが、この部署こそいちばんピンキリがあることを喜美子も知っている。喜美子の時代もそうだったが花形は第二課で、ここは主に海外の販路を開拓しているところだ。早川はここの新しいプロジェクトチームに加わりたくてたまらないのである。新聞ダネにもなった新製品がらみだから、内外の注目を浴びることは間違いない。早川がいる三課から何人か応援に出ることになっているのだが、彼はこれを機に、地味な問屋まわりから逃げ出したいと考えている。
「だけど倉本が行くっていう噂《うわさ》だしなあ。あいつ、ほら昔から何かこういう時、目立つのがうまいだろう。調子いい奴《やつ》だよ」
倉本というのは、喜美子も昔からよく知っている早川の同期だ。よくうちに連れてくるくせにこういう時に平気で悪口を言う。
「それにあいつって、平沢さんと同じ一橋だろう。一橋だとうちの会社、数が少ないからやたら結束が固いんだよな」
平沢、という言葉を聞くと、ほんのわずかであるが喜美子の心の中に刺《とげ》が出来る。その刺のせいで息苦しくなる。一時期すっかり消えたと思っていたのに、このところまた刺はちくりと顔を出すようになった。なぜなら昨年から、平沢は常務に就任したからだ。いくら博多《はかた》の大支店といっても、地方に赴任した後あらぬ方向に進んでしまうエリートたちは何人もいたが、平沢は本社に戻り将来の社長候補のひとりとなったのである。
「昔はさ、平沢さんも俺たちと同じフロアにいて、結構親しく口をきいてくれたのにな。今はさ、ちょっと近寄れなくなってきちゃったよな。やっぱりさ、横山のように長期計画を立てて――」
やはり同期の名前を口にする。
「せっせとゴルフをして、重役候補のめぼしいのにコネつけとくっていうのが頭よかったんだろうなあ」
この頃早川は、着替える前にまずビールを飲むというのが習慣になっている。残業が多くて疲れる。しかもその残業は昔と異なり、
「他人のやった仕事の後始末だぜ。だらだらと時間だけかかる」
ということで、喜美子はそのだらしなさを黙認しなければならなくなった。ネクタイをゆるめ、ボタンを二つはずして飲む姿は、寡黙ならばそれなりにさまになるのだが、ぺらぺら喋り続けるから始末におえない。
「あんな軽い男の、いったいどこがよくて結婚するのか」
十二年前、部長だった平沢の言葉がふとよみがえるのはこんな時だ。しかしあの時の喜美子はその言葉が嫉妬《しつと》にしか聞こえなかった。
「軽いとは思いませんよ。あれでなかなかしっかりしています。明るくておもしろい男だということは認めますけれど」
「君みたいに若い女というのは、男の明るさとか、おもしろさにしか価値を見出せないみたいだな」
平沢は笑った。あの頃彼はもう太り出していたから笑うと頬《ほお》がたるみ、その顔は随分老けたものになったはずだ。そして喜美子は、自分がどうしてこんな中年男を好きになったりしたのだろうかと考えた。それよりも早川の、少し髪を刈り上げた耳のあたりや、白い歯の笑顔の方がずっといいと思った。考えてみると、あの時の平沢は、今の早川よりひとつ上なだけだ。
切れ者といわれていた平沢が、どういう加減か大層親切にしてくれたことに嬉《うれ》しくなって、喜美子は彼に抱かれたことがある。たった四回ほどの関係だったから、全く噂にもならなかったはずだ。
早川と同時進行していたから、このことは女友だちにも誰にも言わなかった。ただひとつ痕跡《こんせき》が残っているとしたら、今でも時々人から誉《ほ》められる小さな真珠の指輪だ。これは平沢が香港出張の際買ってきてくれたもので、初めてのプレゼントはそのまま結婚祝いとなった。
「随分早く結論を出したもんだね」
平沢は苦笑した。
「もうちょっと仲よく出来ると思ったけど」
「私もそう考えたこともあったんですけど」
退職する時期も決まり、もう怖いものなしの喜美子ははきはきと答えた。
「もうちょっとおつき合いしたいと思ったことがあるんですけど、私、もう若くないし、プロポーズしてくれる男もいるし、いま決めようと思います。もう寄り道は出来ないんです」
あまりにもあっさりした別れだったのではないだろうかと喜美子は考える。もう少し平沢との間で数を重ね、陰湿な関係をつくった方がよかったかもしれない。そうすれば喜美子は、平沢に対して貸し≠つくることが出来ただろう。
二階でさっきからしきりに物音がする。小学生の徹《とおる》が机を動かしているに違いない。どちらに似たのかわからないが、ひとり息子の徹は神経質なところがあり、机の位置が気になって勉強に身が入らないと、しょっちゅう模様替えをしているのだ。神経質なだけあって真面目《まじめ》な努力家の彼は成績はとてもいい。私立中学は無理でもせめて高校は望むところへ入れてやりたいと思う。そのためにも夫にはもう少し頑張ってもらいたいのだが、早川は妻に甘えてさまざまなことを口にする。
「こりゃあ、来年あたりは子会社かもしれない」
「いっそのこと、中年デューダでもしてみるか」
「スパゲッティ屋の親父になるのもいいかもしれない」
早川の会社では多角経営の一環として、イタリアンレストランのチェーン店をつくった。
出世をあきらめた四十代の男たちの中に、店長を志願する者が少なくないという。スパゲッティ屋の親父になるとはそういうことなのだ。
いくら弱気になっているとはいえ、こういうことをぬけぬけと口にする夫を、喜美子は嫌悪するものの、夫の未来も運命もそれはもはや喜美子自身のものだ。もし夫の行く末が暗く恵まれないものだとすれば、喜美子もその愛する息子のそれも同じことになる。
だからこうして手をこまねいて見ているのが、喜美子はとてもつらくせつない。どうにかしたいと本気で思った夜、喜美子は夢を見た。
夢の中で自分は平沢に抱かれている。快感にのたうちまわっているのは、三十代で人妻の喜美子でなく、若く、ピンクの口紅をさした喜美子だ。
その時に何か叫んだりつぶやいたような気がしたが、目を覚ますと何も憶《おぼ》えていない。ただ抱かれた、ということだけがぼんやりと甘くこめかみのあたりに残った。
あまりにも淫《みだ》らな夢というのは、覚めてからも恥ずかしい。喜美子は喉《のど》のあたりを押さえ、洗面所に立ちつくしていた。
鏡には、そろそろ中年期に入ろうとしている女が映っている。子どもを産んでからというもの、下腹のあたりにめっきり肉がついたが、鏡は小さいからそれは映らない。肌は皆に誉められる。エステティックに通っているわけでもないが、しみひとつなく、きめのこまかい肌だ。口の両端に発生し始めた皺《しわ》がなければ、二十代でとおるかもしれない。
こんな自分を平沢はどう見るだろうか。早川が家に持って帰る社内誌を見ると、平沢はかなり太り、顎《あご》がたっぷりした二重になっている。しかしそれも貫禄《かんろく》といえないことはなく、背が高いから大男という印象の方が強い。
こんな平沢に喜美子は電話をする。
「ご無沙汰《ぶさた》していて申しわけありません。早川です。旧姓桜井ですけれど」
彼はそれが特徴のよくとおる大声で、やあ懐かしいねえ、元気にしているかい、とでも言うだろう。それに勇気づけられて喜美子はこう言う。
「ちょっとお時間をつくっていただけませんか。いろいろお話したいことがあるんです」
平沢はきっと承諾するだろう。それは自信がある。彼は気さくな男だったし、なにしろ自分と彼との間にはある秘密があるのだ。
問題はそれからだ。今のこの自分に、平沢は興味を持ってくれるだろうか。いや、そんなことはありえないと喜美子は首を横に振る。もう相手は地位も金もある男なのだ。その男がどうして、くたびれかけた主婦に食欲をそそられるものか。
無意識のうちに手を洗おうと蛇口をひねった。勢いのよい水の音がする。
まるで小説のようなことを考えていると、喜美子は顔を赤らめた。自分の肉体とひき替えに夫の昇進を頼む女。まさか本気でその気になったわけではない。おかしな夢をみたので、とんでもない想像をしてみただけなのだ。
けれども平沢と自分とは寝た。たった四回だがこれを利用しない手はないのではないだろうか。
「奥さまに話します」
とでも言ってみるのはどうか。誘ったのは平沢さんです、私たちは四回ほどホテルへいきました。
馬鹿馬鹿しい、もう十二年も前のことなのだ。今さらそんなことを言われて困るのは喜美子の方ではないか。しかし、色仕掛けも脅迫も駄目だとなると、ただひとつ残っているのは、
「昔の縁にすがる」
ということではないだろうか。あの頃、密会のホテルで平沢は言ったものだ。
「君のことを本当に可愛《かわい》いと思っている。君のために何でもしてあげたいよ」
いまあの思い出は平沢の中でどのような地位を占めているのだろうか。短い間でも体を重ねた女が窮地に立っているのならば、それを何とかしてやろうと思わないのか。喜美子を幸せにする力を、平沢は持っているのだ。
洗面所がいきなり開いて、息子の徹が顔を出した。
「母さん、何やってんだよオ。早く出てくれよオ。歯を磨けないじゃんか」
「あ、ごめんなさいね」
喜美子はもう自分の背に届こうとしている息子に洗面所を譲った。
「母さん、なんだかぼうっとしてたのよ」
「頭がのぼせちゃったの?」
歯ブラシを動かしている最中だから、よく聞き取れない。
「違うわ、ここに立ったまま、いろんな夢を見ちゃった」
「えっ、どういうこと」
「あのね、あるはずもないいろんな夢。あのね、人間って勇気が失くなると、口に出して喋《しやべ》るか、夢を見るかのどっちかなのね」
「僕、よくわからない」
ぺっとうがいをしながら彼は言った。
「いいの、いいの。もうみんなすんだことなの。ただちょっと夢を見ただけなの」
自分だけに聞こえるように喜美子はつぶやいた。
第四話 川のそばの家
家を建て、女はさらに元気になり、男はさらに元気を失くした。
家が完成するまでの二年間にわたる、妻のあの狂気にも似た熱意を、今でも大西はぼんやりと思い出すことがある。あの時からもう始まっていたのだ。
日曜日ごとのモデルハウスめぐり、そして部屋にうずたかく積まれた住宅雑誌。そういうものを見るたびに、大西の中でざわざわ音をたてて疲労が積み重なっていくのがわかるのだが、妙子は違っていた。目はとたんに輝き、舌はよくまわり出す。「家」のかたちや写真は、彼女に大いなるパワーを供給するかのようであった。「家」の前では二人の子どもたちも存在が薄れたらしく、よく実家に預けられては泣いていた。大西がそのことを注意しようものなら、妙子の目が吊《つ》り上がった。
「私はこの子たちのために一生懸命なのよ。狭いアパート暮らしで育つのと、素敵な一軒家で大きくなるのと、どっちが幸せだと思っているの」
ほとんどあきらめていたマイホームだったのに、ある幸運が訪れて妙子の目の前に「家」は燦然《さんぜん》と輝き出したのだ。妙子の実家が、千葉のはずれに持っていた土地を使ってもいいと言い出した。何十年にもわたって借家人が頑張っていた家がひょいと空《あ》いたのであるから、それはまさに幸運といってもいい。土地のことがきっかけとなり、家を建てるならと、妙子の父親が生前贈与してくれることにもなったのだから、これはもう大幸運というものだ。
妙子はそう馬鹿な女ではないから、このことを鼻にかけたり、恩着せがましく言ったりはしない。けれども建てられた家が、すべて彼女の意思と好みによってつくられたことは明白である。家づくりの最中、夫が自分の千分の一も情熱や歓《よろこ》びを持っていないということがわかった時、妙子はこう言ったものだ。
「もうあんたなんか頼りにしない。そのかわり私に任せてちょうだい」
あの頃の大西はとにかく忙しく疲れていた。家づくりのわずらわしさから逃れるためだったら、妻のどんな要求も呑《の》むつもりだった。だからはっきりと口にしたのだ。
「君の好きなようにやればいいさ」
妙子はここで夫の証文をとったことになる。後に小さなトラブルが起こるたびに、妙子はこの証文を取り出したものだ。
「あなたは何もしなかったのよ。任せてくれるって言ったのよ」
この時から大西はクレームをつけることはいっさいやめた。家は出来上がりつつあったし、妻はもはや大西の敵ではない。さまざまな専門用語さえ熟知していた。とにかく家さえ出来ればいい。三畳ほどの大きさであるが、新しい家には大西の書斎(この言葉を妙子は全く照れもせずはっきり発音した)もあるという。もう広げたパソコンを片づけることもない。会社から持ってきた書類も広げられる。
大西はこのことを楽しみにしようと心に決めた。うまく自分の心を駆りたてれば、部屋を持つ喜びと、家を持つ妻の喜びが重なるように見えるかもしれない。そうすれば妙子から、
「全く張り合いのない人」
と責められることもないだろう。
七か月かかって家は完成した。ピーナッツ畑の中に建つそれを初めて見た時、大西は困惑と羞恥《しゆうち》のためにうつむいてしまったものだ。もちろん工事中に何回かその家を目にしたことがあるが、こうして完成品をまのあたりにすると思わずため息が出る。グレイの板張りの家は、まるでおとぎ話に出てくるようだ。小さな白いバルコニー、切妻《きりづま》屋根、ドアはなんとピンク色に塗られている。
「このあたりで、これだけ本格的なアーリーアメリカンスタイルは珍しいのよ」
妙子はあきらかに興奮していた。引っ越しを手伝ってくれた女友だちに家をあちこち案内するのだが、あせるあまり何度か足を滑らせそうになったほどだ。
「私、子どもの時に『赤毛のアン』を読んでね、写真集も買ったのよ。あの時から大人になって家を建てる時は、絶対にアンの家みたいにしようと決めていたの」
「赤毛のアン」という本をもちろん大西は手にしたことがない。手にしたことはないが、まあ、どういうものかということぐらいは知っている。アメリカかカナダの女の子の物語だろう。時々テレビで見た「大草原の小さな家」に似ている時代の話らしい。
三十二歳になる妙子が、「赤毛のアン」「グリーン・ゲイブルス」と言うたびに、大西ははなはだ奇異の念にうたれるのだが、同い齢《どし》の女友だちは驚いたりしない。それどころか小さな出窓や木の床を眺める目には、純粋な賞賛がある。
「いいわねえ、本当に羨《うらや》ましいわ。子どもの時の夢がかなったんですもの」
それを聞いて大西はぞっと身がすくんだ。自分は十歳の女の子が夢みた家に、三十過ぎて住まなくてはならないのか。
けれども大西はじっと耐えた。彼はもともと争うことが嫌いな性格である。なんとも気恥ずかしい家であるが、妻と子どもが喜ぶのならば、それでよしとしなければならないと何度も自分に言い聞かせた。千葉のはずれに越したせいで、通勤時間は四十分ほど長くなり、例の「書斎」に居る時間などほとんど無いが、それも我慢しなければならないと思った。
それに何といっても、新しい家に引っ越した当初は、木の香りが漂う中、マイホームを持てたという昂《たか》ぶりが、やはり大西の心にもあったはずだ。妙子の言うとおり、自分たちはとても幸福な一家かもしれないという考えが通り過ぎることもある。
大西がつくづく疲れたと思ったのは、一年たちアーリーアメリカン風≠フグレイの外壁が、少し色褪《いろあ》せてきた頃だ。大西は勘違いをしていた。家が出来上がりさえすれば、妙子の仕事、妙子の情熱はそこで終わると思っていたのだ。しかし彼は何と無知だったのだろう。女と家との恋愛は、相手の生誕によってさらに濃密になっていくものらしい。
妙子は末の娘を自転車に乗せ、しょっちゅう出歩くようになった。行く先は隣町の雑貨屋で、そこには可愛《かわい》いものがいろいろ揃《そろ》っているという。新しく買ったパイン材の家具(これは娘のままごとセットに入っているものと実によく似ている。昔風のやわらかいかたちで、花と鳥のタイルがはめ込まれていた)に合うというレースのテーブルクロス、丸い鏡などが運び込まれた。この家では箒《ほうき》も、赤いギンガムチェックの上着をまとっているのだ。
こうした家具や小物と同じように、妙子はますます饒舌《じようぜつ》になっていった。週末ともなると必ずといっていいくらい妙子の友人が、二人、三人と連れ立ってやってくる。そして必ず同じようなことを言うのだ。
「まるで『赤毛のアン』が出てきそうなおうちね」
どうやら「赤毛のアン」というのは誉《ほ》め言葉に使われているらしいと大西は合点した。合点はしたが納得は出来ない。ゼラニウムの鉢を置いた出窓や、ギンガムチェックの箒の前で、着古したセーターを着た自分は、いったいどんな顔をすればいいのだろう。
妙子は夫婦で友人を接待することを好んだから、大西が「書斎」に逃げ込もうものなら露骨に嫌な顔をする。
「あなたはホストなんだから、ちゃんとお客さまをもてなしてよ。そうでなかったらみんな居心地が悪いわ」
ホステスだけでなく、ホストというものも存在するのかと大西はとまどってしまう。美人がいるならともかく、妙子の女友だちは似たような三十代の女たちばかりだ。彼女らにビールを酌《つ》いでやったりするのがホストだとしたら、随分情けないものではないか。大西がぼやくと、妙子がやり返し、これまた口喧嘩《くちげんか》となった。
「みんな私の大切な友だちなのよ。どちらの友人だろうと、夫婦でもてなすのが本当でしょう。あなたの友だちだって連れてきなさいよ。私、ちゃんともてなしてあげるから」
そう言われても、こんなへんぴなところへ、会社の誰が遊びに来るものかと大西は思う。駅を降りると中規模のスーパーとパチンコ屋があるが、大きな開発はなされていないので、家が無秩序に建っている。その何軒かに一軒かが、自分のうちとそっくりなアーリーアメリカン風なのに、大西は最初仰天した。まわりの状況など全く考えないピンクやブルーの家が建っているのだ。
そしてそうした家々は、大西の家と同じように変わったかたちの郵便受けや、ネームプレートがかかっている。世間の思惑など気にしない、若い娘のような家が、世間には案外多いと考えると、安堵《あんど》のような憤怒のような不思議な気持ちがわく。
そんな店があることを大西は全く知らなかった。いつもより早く帰ってきた夜、すぐに家に向かう気にならず、時たま行くパチンコ屋に入った。景品を替えて店を出たのは九時少し前だったろうか。少し歩きかけた時、大西は見知らぬ看板が出ているのを見つけた。
「あすなろ」
そのありふれた名前をとても好ましいと思った。新宿や池袋ならともかく、こんな新興住宅地で悪企《わるだく》みなど出来るはずはない。地元のサラリーマンや、近くに畑を持つ農家の男たちを常連にしているからだ。引っ越してからこのかた、いきつけの店を決めようとめぼしいところを何軒か入ったが、どこもこのあたりの勤め人の給料を知り抜いているような金額だった。
看板の出ている路地を入ってみる。「あすなろ」は雑居ビルの地下にあった。このところ帰りが遅い大西は気づかなかったが、開店してからそう日にちはたっていないらしい。少しくたびれかけているが、開店の花が二つ外に出ている。店名が書かれた木のドアも清潔だった。
「いらっしゃーい」
しかしドアを押したとたん聞こえた女たちの声に、大西はしまったと思った。今まで行ったところは、ママひとりに、せいぜいアルバイトの女がひとりという類の店ばかりだ。これほど女が多い店というのはろくなことがない。さんざん酒をねだられたり、フルーツをとってくれとせがまれたりする。まあ、いずれにしても、この街でたいしたことが起こるわけがないと大西は覚悟を決めた。
客は近くのピーナッツ農家とおぼしきジャンパー姿の男が三人いるだけで、そう大きくない店のわりに五人のホステスとはどうしたことだろうか。
その理由は座るなりすぐにわかった。色が浅黒く目の大きな女たちは日本人ではない。おそらくフィリピンから来た女たちだろう。それもまだ日が浅いと大西は見た。いらっしゃいと精いっぱいつくり笑いをするさまは、そうすれていなかったし、何より女たちの何人かは薄物を着ていたからだ。
異国の冬に寒そうに身をこごめている、南国の女たちの哀れさが胸にきた。大西はフィリピンやタイから来たホステスがあまり好きではない。自分が何やらむごいことをしているような気分になる。どんなに美しいフィリピン娘より、不器量で年をとっていても日本人の女の方がずっといいというものだ。
だいいち女たちと話すことなど何もないのだ。案の定、大西の席に着いた若い娘は座るなり、いきなりカラオケブックを渡す。
「カラオケ、どうですか、うたわないですか」
おそらく接客がまだ出来ない彼女たちに、店側は客にカラオケを歌わせるよう教えているに違いなかった。しかし大西は酒とパチンコは好きだが、カラオケは好きではなかった。接待で嫌でもマイクを手にしなければならないことがある。ひとりで飲む時にまで、どうして歌を歌わなくてはならないのだろう。大西が手を振って拒否すると、水割りを運んできた日本人のホステスが、これは非常に練れた笑顔で言った。
「あら、それだったら、ハルエちゃんとデュエットしたら。ハルエちゃんはすごく歌うまいですよ。日本語は歌から憶《おぼ》えたぐらいだもの」
ハルエちゃんと呼ばれた若い女は、にっこり誘うように笑った。しかしまだどこかぎこちない。
「ハルエちゃんっていうのか」
「はい、そうです」
「君、フィリピンのどこから来たの」
「とおくの、みなみのほうです」
おそらく自分のことは詳しく説明しないように言われているのだろう。飲むうちに少しからかってやろうという気が生まれた。日本語もたどたどしい娘をからかいでもしなければ、間がもたないではないか。
「そうか、じゃハルエちゃんのうちは、ヤシの葉っぱで出来てるんだろう。そうじゃなかったらバナナの葉かな」
「そんなことはないよ」
かぶりをふる動作は、まだあどけないといってもいい。
「わたしのうち、トタンのやねだよ。かわのちかくで、とてもきれい。かわのそばでおひるねをしたり、さかなをとったりするよ。かわのそばだからすずしいよ」
「そうか、ハルエちゃんのうちは川のそばなのか」
やしの木に囲まれ、川のせせらぎが聞こえる小さな家を、なぜかたやすく大西は想像することが出来る。そんな家に住みたいとは思わない。住めるはずがないからだ。しかし今これからグレイの家、クリスマスケーキの上に載っているような家に帰ると考えると、ぐらりと酔いがきた。
「だいじょうぶですか」
したたか酔ったふりをして、目の前の娘にしがみつき甘えられたらと思う。けれど大西は立ち上がって、
「勘定をして」と言った。
第五話 女子校育ち
玄関のチャイムが鳴った時、妻の由美はちょうど二歳になる娘のおむつを替えている最中だった。
「あら大変、もう来ちゃった」
持ち上げていた娘の足を放り投げるようにしておろし、すっくと立ち上がった。そして台所に居る母親に声をかける。
「ママ、あとお願いね」
吉村は読んでいた新聞を置き、やれやれと娘の方に向き直った。突然放ったらかしにされ、裸の尻《しり》がむき出しになっても、娘の瞳《ひとみ》は泣くわけでもぐずるわけでもない。きょとんとした顔で吉村をながめている。その顔は彼よりも妻によく似ている。少し垂れ気味の大きな目は、呑気《のんき》で明るい性格を約束しているようだ。
由美が玄関を開ける音がし、同時に春の空気のような賑《にぎ》やかな声がなだれ込んできた。居間に居ても吉村はその声の持ち主が誰だかわかる。四人の女たちはかわるがわるこの家に遊びに来ているから、既に吉村とも顔馴《かおな》じみなのだ。
「浩さん、ちょっと来て。みなが挨拶《あいさつ》したいんですって」
由美の呼ぶ声に、吉村はちっと舌打ちをした。休日の朝なのでパジャマの上にカーディガンを着ていることを、由美は知っているはずではないか。それに迎えに来るだけだから、玄関からすぐ出て行ってしまうと言ったのは誰だ。吉村は寝室にとって返し、すっぽりかぶれるセーターにやみくもに頭をつっ込んだ。
「やあ、いらっしゃい。ちょっと上がってお茶でも飲んで行きませんか」
なにも妻の友人におもねる必要は全く無いが、そうかと言ってこれまで築き上げてきた自分の評判を崩すことはない。考えてみると由美と結婚して四年間、吉村は彼女の友人たちに誉《ほ》め言葉でうまく調教されてきたような気がしてならない。
「あなたってとっても評判がいいのよ。優しくて紳士だって。奥さんの友だちに冷たくする人って案外いるわ。私、みなに羨《うらや》ましがられて鼻高々よ」
それを裏づけるように女たちも口々に言う。
「私も結婚するんだったら、吉村さんみたいな人って決めてるの」
「外国に行くお仕事の方ってやっぱり違うわ」
こういう時の夫のあるべき姿というものも、吉村はそれとなく体得《たいとく》した。誉め言葉にやに下がるのは言語道断だし、いい気になっていつまでも話し込むのもいけない。加減を見計らって、
「みなさん、どうぞごゆっくり」
と別室か外へ出て行くのだ。今までこのやり方で吉村はとてもうまくやってきたと思う。しかし妻の友だちに笑顔を見せるのが、億劫《おつくう》になる日とてある。おまけに妻たちは今朝から一泊の旅行に出かけるという。いい気になるなよ、というのが吉村の正直なところだ。
ルイ・ヴィトンやソニアの小型バッグを手にした四人の女たちは、「いいえ、とんでもない」「このまま出かけます」という拒否の言葉まで笑いさざめくように口にする。二十七歳。結婚していない女はひとりだけで、あとはみな人妻だ。みな驚くほどよく似ている。幼い子どもがいるにもかかわらず、髪がいつも美しくセットしたてのようになっているところも、短めにカットされてはいるが必ず塗られているマニキュアも、笑顔の明るさも何から何までよく似ている五人だった。
「そりゃそうよ。私たち、幼稚園から短大までずうっと一緒だったんですもの」
吉村のそんな言葉に、由美は得意そうに答えたものだ。一学年百人しかいなかったから、みんなの顔は知っていた。だけどやっぱりいちばん気が合ったのは、中等部の時にバスケット部で一緒になったこの五人だという。
短大を卒業する時に五人は誓い合った。これからもずうっと仲よくつき合っていこう。結婚をし、子どもを産むと、女の友情など壊れてしまうと言うが、自分たちだけは絶対にそんな真似をすまい。いつも連絡を取り合おう。そして一年に一度、五人一緒に旅行をする。これは皆が母親になろうと、お婆さんになろうときっと実行するのだ……。
吉村からみれば少女じみた馬鹿馬鹿しい約束だが、彼女たちは実行した。メンバーの出産が重なったおととし、昨年だけはさすがに中止となったが、子どもが親に預けられるようになった今年から、また旅行は復活したのだ。
「さあ、ママたちはお出掛けですよ。瞳ちゃん、さあ、バイバイしましょうね」
由美の母、吉村にとっては義母になる晴子が瞳を抱いて玄関に現われた。これから瞳を自分の家に連れて行けるので、顔が娘たち以上にほころんでいる。
子育てに忙しい盛りの主婦が、友人と泊まりがけの旅行に行く。こんなことが可能なのは、彼女たちの親がみな東京住まいで、比較的裕福に暮らしているからだ。しかも吉村に言わせると信じられないほど娘に甘い。今日も晴子は吉村に気を遣う風でもなく、いそいそと娘の荷物を手伝ったりしている。今、由美が着ているクリーム色のスーツは、晴子が買ってやったものだ。お歳暮にもらった商品券が使いようがなく困っているからというのが名目だが、由美はこの服以外にもいろいろものをねだっているらしい。
晴子自身も大層おしゃれな女で、今も甘いピンクのカーディガンを羽織っている。同じ五十代の女でもこうも違うものかと、吉村は九州の自分の母親を思い出す。晴子はここに来るのに、この桃色の服を着、自分で車を運転してきたのだ。
こんな晴子や由美のことを、大層好ましく思ったこともある。結婚前のことだ。九州の田舎に育った吉村にとって、由美はたとえようもなくまぶしく見えた。名門といわれる私立の女子校ヘ幼稚園から入り、何の苦労もしていない女は、その分|無垢《むく》で愛らしかった。
少女のうちから、友だちとホテルのレストランに出入りし、行きつけの店もある。女たちだけで集い、相談し合い、くっくっと笑いさざめくさまは、都会の幸福な女の証《あかし》のようだ。学生時代、吉村はそうした女を遠くから眺めているだけだったが、いい学校を出て一流企業にいったん身を置くと、彼女たちの方から近づいてきてくれる。由美は上司が紹介してくれた娘だった。そんな自分を幸福だと思ったこともある。五年前のことだ。今は白々としたものを含みながら妻とその女友だちを見送っている吉村だ。
女たちはバッグを取りに行った由美を待ちながら、晴子に向かって瞳の愛らしさについて誉めそやす。
「おばさま、最近工藤先生にお会いになってる?」
「いいえ、お噂《うわさ》聞くだけよ」
「工藤先生、来年退職でしょう。私がいる間に、とにかく早く子どもを産んで試験受けさせなさいって口癖だったのにね」
「でもまだ残ってらっしゃる先生もいるし、みんなの娘さんならなんとかしてくださるでしょう」
「いいえ、おばさま。今年なんかなんと四・八倍よ。うちの娘なんてもう入れないかもしれない。工藤先生の定年は痛手だわァ」
由美の他にはもう一人のメンバーのところに娘がいる。この二人は顔を合わせさえすれば、二つと三つの娘の進学について、あれこれ情報を交換しているのだ。由美は断言する。どうしても娘は自分の母校に入れると。そうよ、そうよと、他の女たちも口々に言う。
あんなにいい学校があったかしら、私たちクリスチャンじゃなかったけれど、神の存在、人に対する愛というものを教わったわ。それにこの友情! こんな本物の友情が、たかだか三年や四年で育つと思う? 十六年間も私たちは一緒だったんですもの、どんな時にも助け合うって約束し合ったんですもの。
誰かがコロンをつけているらしい。吉村はどこからか聞こえてくるような女たちのリフレインと、甘い花のにおいでむせそうになってきた。
「そろそろ急いだ方がいいんじゃないかな。千代田線から東京駅まではかなり歩きますよ」
吉村は大層注意深く言葉をはさんだ。そうでなかったら、女たちの会話は昼過ぎまで玄関で続いていたかもしれない。
「もしもし吉村さんのお宅ですか」
その電話がかかってきたのは、夜の十時過ぎ、外食を終えた吉村がちびりちびりとビールを飲んでいた時だ。
「私は西脇と申します。家内がいつもお世話になっておりまして」
「ああ、西脇さんですね。お久しぶりです」
一度夫を交えての食事会の時に会ったことがある。色白というよりも、女のように肌がすべすべと美しい、ぽっちゃりとした男だ。代々木八幡《よよぎはちまん》の方で歯科医を開業していると聞いた。子どもはまだない。
「あの、今日家内は、おたくの奥さんたちと一緒に伊東ヘ行っていますよね」
「ええ、同級生があっちのホテルへお嫁に行ったとかで」
「あのう、まことに申し上げにくいお願いなんですが……」
西脇の声は彼のからだと同じように、ねっとりとからみつくようだ。
「そこのホテルに電話をかけ、奥さまを呼んでいただけますでしょうか。それからさりげなく、うちの家内がいるかどうか確かめていただけないでしょうかねぇ」
随分おかしなことを言うものだと思った。女房が本当にそこに居るかどうか心配ならば、自分で電話をすればいいではないか。薄気味悪い男だ。吉村は遠まわしに断わった。
「それならば恥をしのんで申します。今日家内が出かけてから、京都のホテルから電話がありました。本日こちらでお召しになる和服一式、さきほど宅配便で確かに届きました、という電話です。私は妻を信じようと思いますが、それでも確かめるのが怖いんです」
かかわりあいになるのはやめようと思いつつ、吉村は三十分後に彼の依頼を承諾していた。彼の迫力に負けたというよりも、吉村もまたわき起こってくる疑惑と不安をどうすることも出来なかったからだ。
「わかりました。適当な用事をつくって妻を呼び出してみましょう。それからおたくの奥さんも」
「よろしくお願いいたします」
由美が教えてくれたホテルの番号は正しく、すぐにフロントの女が出た。このことに吉村はほっと胸を撫《な》でおろす。
「吉村由美という者をお願いします。女だけの五人の――」
言いかけてハッとする。
「いや、四人のグループで来ているかもしれないが……」
「しばらくお待ちください」
若い女の声は、はっきりと次のことを告げた。
「はい、吉村さま、四名さまで五〇七号室にお泊まりです」
その欠けた一人が、由美かもしれないという思いが、一瞬胸をかすめた。
「どうしたの、電話なんかしてきて」
由美は少し酔っているらしい。少し語尾を伸ばすように喋《しやべ》るが、機嫌がいいのは電話でもわかる。
「ふうー、もうこれで五回も温泉に入っちゃった。そしてその後ビールで、乾杯よォ」
「西脇さんもか」
電話をかけるためのうまい言いわけも用意していたのだが、吉村の口からとっさに出たのは、妻をなじる言葉だった。
「西脇さんを出しなさい。出せるはずはない。彼女はそこに居ないんだろ」
「あのさあ……私、公衆電話からかけ直すから。いいわね」
三分後にかかった電話は、さっきよりも甘く子どもじみていた。どうやら由美は夫を共犯にする心づもりらしい。
「やっぱりバレちゃったみたいね。あのダンナがあなたに電話をしたのね。嫌な人、困るわ、そんなの」
「困るも何もないだろう。おい、お前は自分がどういうことをしているのかわかっているのか」
吉村は思いきり怒鳴っているつもりだが、由美はこたえていないようだ。それどころか打ち明け話さえする。
「あのね、あの人のところうまくいっていないのよ。彼女は今年ぐらいに別れたいって言ってる」
生ぐさい息がにおってきそうだ。こうした女だけでするはずの内緒話をしさえすれば、男は、夫さえも女友だち≠ノなれると由美は思っているようだ。
「そんなことは関係ない。西脇さんはまだちゃんとした奥さんなんだ。お前たちは不倫の片棒かついでんだぞ」
「だって仕方ないじゃないの」
由美は今度は完全に不貞腐《ふてくさ》れている。
「何年か前に約束したのよ。まだ独身の頃よ。夫以外に好きな人が出来たら、みなでかばってあげる、アリバイもちゃんとつくってあげようって」
「お前、何てこと言うんだ」
怒りでなかなか言葉が出てこない。
「じゃお前が不倫する時は、みなにアリバイつくってもらうのかっ」
「あーら、私は大丈夫、だからこうして話してるんじゃない」
そして由美は言った。
「私がこんなこと話したなんて、他の人には絶対に言わないで。私、みなに叱《しか》られちゃう。絶対の秘密だったのに、つい言っちゃった、あなたがあんまり怒るから。でも黙っててね。女同士で固い約束したのよ、だから破れないのよ、絶対によ」
角川文庫『ピンクのチョコレート』平成9年8月25日初版発行
平成18年4月10日17版発行