林 望
テーブルの雲
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目 次
テーブルの雲
甘
十万円のマグロ
アンコの美
消えたお菓子たち
ピッツァとコーク
二本の柿の木
イギリス的休暇
山河へ
夕暮れ巴水
一つの幸福
翻訳の不可能なる
私の教え方
サトウのもう一つの顔
チューブの風
酸
車窓の冷凍蜜柑
風景を見る目
池の幻影
蝋燭文書の夢
父の腕時計
「じつに、くだらない……」
運命の力
洋行先生緑蔭清談
マタタビ採り
『青猫』の頃
父の激励
しびれる
大学院時代のことども
息子のダンディズム
鹹
平目を討つ
醤油の民
酒の品ということ
ホーロー讚
おこめ
いちご煮
風土と好尚
大探検時代
志を述ぶるということ ――『澀江抽齋』を読んだ頃――
不才なる人は……
徳良先生
信彦先生
春の心変り
苦
祖父の遺戒
タイヤは日に干して……
電柱の南無阿弥陀仏
珍景論
街角のモダニズム
見果てぬ夢
人体の不思議
裸体主義の伝統
座右の銘
悠々と独歩せよ
国語嫌いの少年
恐るべき学園祭
ゴールは遠く
読む方法について
本を作る
甘党
蕎麦の食べ方
天才にして奇人
イギリス人の夢
辛
やせ我慢の理由
独立のシンボル
米、がんばれ
「おもてなし」の深層
給食の個人主義
不可思議なる職業
母国語の問題
パソコンの時代と読み書き
買える図書館
何が読みたいか?
マスク
車の窓から見えるもの
祖母の発明
私の御先祖主義
雨の日に――あとがきにかえて――
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テーブルの雲
我ら卓子《てえぶる》のうへに
ひとむらの雲がある
その雲は慾情《よくじやう》である
その雲は憂愁である
その雲はまた追憶である
雲はいつも我らの悲しい情熱を見下ろして
ほろほろと雨を降らせるであらう
我らの卓子が
いつも濡《ぬ》れてゐるのはこの理由《わけ》である
その雨は悔恨である
その雨は夢想である
その雨はまたすべての時間を巡歴して
ふたたび蒼穹《さうきう》へ差しのぼつて行くであらう
雨はいつも我らの蒼白な希望を蒸発して
うらうらと天上するであらう
我らの卓子のうへには
この故《ゆゑ》にいつも雲が覆《おほ》つてゐるのである
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甘 あまい
十万円のマグロ
何事にも「センス・オブ・プロポーション」ということが大切である。すなわち「比率感覚」とでも言おうか。
たとえば、着るものについて考えてみる。
「着こなす」ということは、いったいどういうことだろうか。それはこういうことだと私は理解する。
私が大学時代にお教えを頂いた、今は亡《な》き森|武之助《たけのすけ》先生は、もともと非常に裕福な家の御曹司《おんぞうし》で、若い頃《ころ》からお金に不自由したことは少しもない方だった。鎌倉の広壮な西洋館に悠々《ゆうゆう》と住み、いつも一見して英国製の生地《きじ》と分る仕立ての良いスーツを着ておられた。なにしろ資産家で、大学の給料などは先生にとってはほんの小遣い程度のものだったらしい。
もう二十年以上も前になる。ある日、先生は新しい背広をあつらえたという話をされたことがある。
「昨日、英國屋で背広をこしらえたが、このごろはずいぶん高くなったね」
と言われるので、私はおそるおそる値段を伺ってみたのだった。すると先生は、こともなげに答えた。
「一着三十五万円さ、だから二着だけにしておいたよ」
その当時、私はまだ非常勤の講師で、給料などは高々月五万円くらいのものだったから、これはまったく住む世界が違う人なのだなぁ、という気がした。そのころの三田には西脇《にしわき》順三郎さんとか高橋誠一郎さんとか、有名な先生方がおられたが、どなたも長身|痩躯《そうく》、身に瀟洒《しようしや》な高級スーツをまとって、それがまたじつによく似合って格好良いのだった。森先生もこうした古き良き慶應《けいおう》ボーイの一人で、地味ながら打ち込みのしっかりした重厚な生地で念入りに仕立てられたスーツは、少しも気障《きざ》でなく、一分の隙《すき》もなく身についておられた。それは、いつも上等の洋服を身につけている人だけが手に出来る「着こなし」なのであった。
一着三十五万円の背広(今なら七十万円にも当ろうか)を、躊躇《ちゆうちよ》なく二着買えるセンス、それはつまり七十万円という金額が別段の苦もなく払えるという収入の有る人にして初めて持てるのであろう。そうすると、月給二十万円の若いサラリーマンでは到底かなわぬ話であるということがわかる。いや、月賦《げつぷ》で買えば三十五万円のスーツだって買って買えないことはないだろう。しかし、その月給の二倍近い一張羅《いつちようら》のスーツを彼が自在に着こなせるとは思えない。必死の思いで一点豪華的にそういう高価な服を買って、おどおどして着ているなんて、哀《かな》しいじゃないか。
で、私は考える。クレジットにしろ現金にしろ、いっぺんに三着買って、それでもあまり心の痛みを感じないで「まぁ、いいかな」と思える程度がその人の着こなせる服の範囲である、と。これは私の信念であると言ってよい。月給二十万円ならば、せいぜい五万円の既製服、それが正しい答えである。これをセンス・オブ・プロポーションというのである。一点豪華主義なんか、私は認めない。
さて、その森先生のお宅に伺った時のことである。
「おい林、君は一サク十万円のマグロを喰《く》ったことがあるか」
そういう金銀宝石のようなマグロなどもちろん食べたことはなかった。ありませんが、と答えると、先生は「じゃ是非食べていきたまえ」といって、ご馳走《ちそう》してくださった。なんでも、この三浦で上がる内地のマグロで、高過ぎて商売にならないからと言って、知人の船持ちが持ってきてくれるのだそうだ。
しかし、結局のところ、私にはその一サク十万円のマグロがおいしいのかまずいのかよくは分らなかった。そういうのを、いつも食べているわけではないゆえ、ほかに比べようがなかったからである。当時月給五万円の私にとって、十万円のマグロなどはまったく不必要なもので、それは私のセンス・オブ・プロポーションからすれば、食べるに及ばない物だったわけである。そういうものをたまに食べても、正しい判断はできない。これはセンス・オブ・プロポーションにはずれた服をよく着こなすことができないのと同様、「食べこなす」ことができないのである。「あぁ、高いものをたべている、有難いものを口にしている」と思ったらそれはむしろ「食べ物に食べられている」ので、正当に味を評価することはできぬ道理である。
では、服を一度に三着買うのと同じような意味で、どのくらいが食事(外食)についてセンス・オブ・プロポーションにかなうだろうか。私は、その値段のものを仮に一週間食べ続けるとして、それでも心の痛みを感じないで「いいやな、まぁ」と思える程度がその人にとっての「食べこなせる」範囲であろうと思っている。自分のことを告白するのは恥ずかしいけれど、私自身は、たとえば昼御飯に八千円もの金を払うのは「いやだなぁ」と思うであろう。そうして、|夕食ならば《ヽヽヽヽヽ》、五千円くらいのものを一週間毎日食べても、べつに何とも思うまい。しかし、それが一万円を超えるとなると「ちょっと気がとがめる」という感じがする。一食二万円もの物は食べる気がしない。エンゲル係数みたいな意味での金額の絶対値の割合ではないのだ。要は、こっちがそう思うか思わないか、なのである。仮に、収入を全部食べ物につぎこんでしまっても、まったく心の負担を感じないのなら、それはそれでセンス・オブ・プロポーションに叶《かな》っていると言ってもよい、それがその人の人生の全《すべ》てだという意味において。
だから、私は「五千円の食通」である。
なんというケチ臭い食通だ、と森先生はきっと空の上で笑っておられるだろう。その程度で偉そうに食べ物のことなど書くなと軽蔑《けいべつ》する「グルメ」の方もおられよう。しかし、私は一向に平気である。五万も十万もする一流料亭の料理などを、私は食べたこともないし、食べようとも思わない。それは、一サク十万円のマグロが私にとって「食べる必要のないもの」だったのと同じことである。そうして、そういう料亭の法外な食事を食べる人にしてからが、いったいどのくらい自分のお金で食べているだろうか。社用族や接待などは、初めからセンス・オブ・プロポーションの埒外《らちがい》にある。ただ、自分のお金で一食五万円のものを「まぁ、いいよな」と思えるようになったら、その時は(そんな時はきっと来ないだろうけれど!)おもむろに五万円の食通になるだけのことである。(いや、その後、実は一度だけ某高級料亭の十万円の飯をごちそうになったことがあるのだが、何の感動も覚えなかった。つまらぬものを食べた、と思ったに過ぎない)。
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アンコの美
和菓子の|めでたさ《ヽヽヽヽ》は、つきつめて行けば、「アンコの美」にたどりつくだろう。味も香りも、そうして見た目の色や形も。
いやいや、たとえば打《うち》菓子や干《ひ》菓子のようにアンコとは直接関係なさそうなものもあるにはあるけれど、ふつう和菓子といったら、八割以上の確率で「練りきり」や「羊羹《ようかん》」または「団子」「饅頭《まんじゆう》」といったアンコものを想像するに違いない。
とりわけ、私は東京の人間だから、「漉《こ》し餡《あん》」を愛する。アンパンなどでも、やはり桜の花の塩漬《しおづ》けをヘソにあしらった、あのしっとりした漉し餡パンの方が、がさつな粒餡の小倉餡パンより格段と好ましい。
私のアンコ好きは徹底していて、ただのアンコだけを買ってきて賞味することさえある。
夏、私は信州の山荘に避暑するのがならいであるが、その山荘のある信濃《しなの》大町《おおまち》には、隠れた名品とも評すべきアンコを売る店があるのを知っている人は多くはないだろう。この店は大日向製菓という何の変哲もない和菓子屋である。その直売の店ではもちろん普通の和菓子も買うことができるけれど、私が買うのはいつもアンコだけ、いわば「プレーンアンコ」である。この店の「プレーンアンコ」は町のスーパーマーケットでも買うことができるが、どちらにしても風味|頗《すこぶ》る愛すべき、良い餡である。勿論《もちろん》漉し餡で、ペナペナしたプラスチックの器に、シャモジでこてこてと入れたそのままの感じで売られている。その「手で詰めました」というところがまた良いじゃないか。
で、普通はこれを買ってきて、延ばして汁粉にしたり、皮に包んで郷土菓子のオヤキを作ったりするのに使うのだろうけれど、私はそんな面倒なことはしない。
餡自体の味がよいから、そのまま食べるのがもっとも美味《おい》しい。夏だから冷蔵庫でひんやりと冷やしておいて、それを適当にナイフで切りだし、熱いお茶とともに食べる。用いられている砂糖は白砂糖ではないらしい。それで刺激のない丸い甘さと、それと釣合《つりあ》った必要にして充分な塩味、この正直なアンコは、さながらひやりと口に入ってきて、舌の上で溶けながら渋い茶の味を引き立てる。
朝飯の時には、そのままジャムの感じで、バターをつけたトーストにのせてパクリといったりもする。
この他にも、じつはもっと美味しい「秘密の食べ方」があるのだけれど、それをここに書いても多分誰も信じないだろうから、フフ、その「秘密の食べ方」は教えてあげない。もしどうしても知りたい、という人は、拙著『音の晩餐《ばんさん》』(徳間書店・集英社文庫)に書いておいたからそちらを御参照あれ。
東京では、虎屋《とらや》の「練りきり」を愛する。正直言うとべつに虎屋でなくたってよい。ともかく私は「練りきり」という菓子そのものがまたとなく好きなのだ。けれどもさすがに虎屋のは、王者の風格というか、大ぶりでどっしりと鷹揚《おうよう》な風情《ふぜい》があるところがめでたい。
あのねっとりとした口触り、豆のさらりとした質感と手に持ったときの重い存在感、それでいて爽《さわ》やかな甘み、美しく練られた色彩と形、四季折々の季節感……。
げに「練りきり」こそは、アンコの固まりにして、もっとも和菓子らしい和菓子だといっても良いだろう。
ところが、和菓子屋を経営している古くからの友達に聞いてみると、この「練りきり」がこの頃はさっぱり売れないのだそうだ。
「そりゃ、店で見てると、ああいうアンコだけっていうようなものはさっぱり売れないぜ。特に若いお母さんみたいな人は、子供にアンコを喰わせるのをすごくいやがるみたいでね、スアマとかそんなものばっかり買っていく。ドラ焼きだってアンコは抜いて食べさせたいってくらいの感じだからね……」
と彼は憮然《ぶぜん》とした表情で言うのだった。これだから、アンコものをいやがる子供たちがふえているのも道理である。いやはや、嘆かわしいことである。苦々しいことである。
豆と砂糖だけで出来ている「練りきり」のようなものは、脂肪分だの添加物だのに満ちたいわゆる洋菓子なんかより、子供の健康に良いことは火を見るより明らかである。それにこの頃の和菓子は昔ほど甘くない。和菓子屋さんの方でもそこのところは充分に研究しているのである。私は、スナック菓子やケーキなんかを食べさせるくらいなら、子供には断然和菓子、ことにアンコものを食べさせたい。
アンコといえば、もう一つ私の愛してやまないアンコがある。これは厳密には「和菓子」とは言わないだろうけれど、神楽坂《かぐらざか》「紀の善」の「粟《あわ》ぜんざい」である。
私が女子大の教師をしていた時分、ときに学生たちにさそわれて、甘いものなんかを食べに行くことがあった。私はまったくの下戸で甘党だから、そういうときにはちょうど良いのだ。そんなわけで、この「粟ぜんざい」も、もう十年以上昔に、学生たちに連れられて初めて見参していらい、俄然《がぜん》病みつきになった。
一般に私は甘味屋の汁粉とかぜんざいとかを好まない。甘すぎてうんざりするのである。しかしこれは、こればかりはまったく違うのだ。
熱い湯気を上げる炊《た》きたてのみずみずしい粟飯、その薄黄色い豊満な粟飯の上に、淡い藤色《ふじいろ》の熱い餡が品良くのせてある。その色彩、椀《わん》の中の風景を想像して頂きたい。餡自体はもちろん相応に甘いけれど、良い豆と砂糖で練ってあるらしくて、その甘味にちっとも嫌味《いやみ》がない。色といい味といい、あっさりしていかにも江戸風に小粋《こいき》である。しかも、それ自体はまったく甘味のない柔らかな粟飯との組み合わせ、それによって私の舌は、餡の甘さと粟飯の無味の間を行きつ戻りつして、少しも飽きが来ないのである。下手な汁粉なんぞを食べると、小さな椀一杯でさえ、もてあますことがあるのに、この「粟ぜんざい」に限っては決してそういうことがない。たっぷりした器に盛られたのをペロリと食べてしまっても、「なんだ、もうなくなった」と飽き足りない思いがするくらいだ。まことに口は正直である。
けれども、この「粟ぜんざい」は寒い季節しかやっていないから、桜が満開になるとその年はもう終りである。また木枯しが吹き始めて、さてそろそろ食べに行くかな、と思うころまで。
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消えたお菓子たち
いま思い起こしてみると、私たちの少年時代(昭和20〜30年代)には、ずいぶんと不思議なお菓子がたくさんあった。森永ミルクキャラメルなんてのはその当時から今まで生き残っている数少ない古典的銘菓の一つで、あれは言ってみればキャラメル界のシーラカンスであります。一粒三百メートルという分ったような分らないようなキャッチコピーで売っていたグリコキャラメルなんかは、あの頃一箱五円で、その箱のうえに小さな別の箱が付属しており、そこに木で出来た汽車だとか、およそそのたぐいの役にも立たない小さな玩具《おもちや》がはいっていた。私たちはこのオマケ欲しさにせっせとグリコを買ったのである。これと拮抗《きつこう》する勢力は「紅梅キャラメル」といういかにも日本的な名前のキャラメルで、味からいうとどうもグリコよりは一段劣るもののように思われた。しかし、こっちはなんだかカードのようなのがくっついていて、それを集めるとなにかが貰《もら》えるというシステムだったような気がする。それからもう一つはスキーキャラメル、これは赤い地に白でスキーヤーの絵が描いてあるパッケージで、たしかカバヤ製菓の製品だったか。どうして「スキー」なんだか、それは一向に分らない(もしかすると猪谷千春《いがやちはる》選手の銀メダルと関係があるかしら……)けれど、ともかくそれはグリコや紅梅にくらべるといくらか高級なキャラメルという感じだった。
チョコレートでも、明治や森永のいわゆる板チョコは今も昔もさして変りはない。けれども、あの頃、遠足というと必ず私たちが持って行ったものに「シガレットチョコレート」とチューブ入りのペースト状のチョコレートがあった。シガレットの方は、ほんとの煙草《たばこ》のようなパッケージに入っていて、紙巻き煙草そっくりに紙で巻いた棒状のチョコが入っていた。私たちはそれを大人の真似《まね》をして指に挟《はさ》み、「スパーッ」なんて言いながら食べるのが楽しみだった。チューブの方は小さな絵の具ほどのチューブに練り状のチョコがつまっているもので、これはチューブの口に直接|唇《くちびる》を接して、チュウチュウ吸うように舐《ねぶ》るのである。楽しい遠足のバスの中で、あっという間になくなってしまうチューブのチョコなんか、あれはあれでとても美味《おい》しかったよなぁ。こういう、もう無くなってしまったお菓子を今食べたら、いったいどんな味がするのであろうか、さて。
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ピッツァとコーク
たしかあれは、小学校の二年か三年か、その頃《ころ》のことだろうと記憶する。そうすると今から三十年以上も前のことになる。
隣に電通に勤めている人があって、たぶんその宣伝の関係であろう、それまでまったく口にしたことがなかったコカコーラというアメリカ渡来の飲料を飲ませてくれたことがあった。当時はまだ、コカコーラなどは日本に入ってきておらず、ふつう町では買うことができなかったのである。
サイダーのように泡《あわ》だって、しかも色は醤油《しようゆ》のように真っ黒である。これは不思議だ、と思ってさっそく一口飲んでみると、なにやら煎《せん》じ薬《ぐすり》のようである。煎じ薬にサイダーを入れて飲むに等しい味がする。私は閉口して二口目はどうしても飲めなかった。アメリカ人はずいぶん妙チクリンなものを飲むものだと呆《あき》れ返り、いかにも納得できかねる気がしたのを、今なおはっきり覚えている。
それから中学生の頃、イタリアの名画『鉄道員』というのを見ていたら、主人公の親子が、なんだか屋台のようなところで、お好み焼きに似たものを買って食べるシーンがあった。あれは何かなぁ、と思っていると、彼らはそれを、歩きながらパクリと食べた。すると、食べるそばから、まるでお餅《もち》のように|何か《ヽヽ》がビヨーンと延びた。イタリア人の親子は、それを舌先でつるつるっとたぐり寄せて、器用に、かついかにも旨《うま》そうに食べた。
あの餅のようなお好み焼きのようなものを、一度食べてみたいものだと思っていたら、暫《しばら》くしてそれはピッツァというイタリア料理だと知れた。あの餅のようにビヨーンと延びたものは、なんとチーズだという。私は不思議の感にたえなかった。なぜと言って、日本にはその頃、チーズといえばパクパクしたプロセスチーズしか存在しなかったからである。
しかし、その後暫くして、私は、たしか六本木の「ニコラス」だったかどこかその辺で、初めてこのピッツァというものを口にしたのだった。コークの時と違って、これは最初に食べた時から、なんてまた旨いものだろう、と思った。
その時私は、たぶん高校生だったかと思われるが、その頃にはすくなくとも都会地では、コークはもはや当り前の飲物になっていた。いつのまにか、私もあの薬のようだと閉口したコークを、好んで飲むようになっていたが、それがいつどのようにして、嫌《きら》いから好きへと変ったのか、一向に記憶がない。つまり、気がつくとすっかりコーラの愛好者になっていたのである。
さて、その最初にピッツァを食べたとき、私はコーラを飲みながら食べた。どうしてこんなことを覚えているのか不思議であるが、熱く脂《あぶら》っこいピッツァと冷たくてシュワッとしたコークは絶好の組み合わせのように思われた。だから私はいつもそうして食べた。
ピッツァはそれほど高くなくて、しかもおなかが一杯になったし、それにちょっとおしゃれでかっこいい感じがしたので、しょっちゅうピッツァを食べてはコーラを飲んだ。
しかしながら、モッツァレッラのように熱で融《と》けるチーズは、氷で冷たく冷やされたコーラなんかと一緒に食べると、胃の中で凝固してずいぶん消化が悪かったのではあるまいかと思われる。そのせいかどうか知らないけれど、やがて私は胆嚢《たんのう》をいたく患《わずら》って散々の目にあった。ピッツァのように脂肪分が甚《はなは》だしいものは胆嚢にはまことによろしくない、と医者に止められて、それから私はピッツァを食べなくなった。それでも大学生のうちは、コーラはガブガブやっていたけれど、これも卒業して大学院に進み、結婚する頃にはあまり飲まなくなった。
今では、ピッツァもコーラも一年に一、二度くらいしか口にしない。
ところで、最近はどこでも、アメリカ式の配達ピッツァ屋がたくさん出来た。電話で注文すると、適宜トッピングを案配して、熱いうちに配達してくる。
ガールフレンドと一緒に、洒落《しやれ》たつもりで六本木「ニコラス」のピッツァをコーラと一緒に食べていた頃を思うと、隔世の感があるけれど、最近の配達ピッツァは「なんだか違うなぁ……」という気がしてならぬ。むろん、昔のほうが旨かったように感じるのである。
たしかに現代のファーストフード的調理方法にも問題があるに違いない。しかし、それはたぶん、昔のピッツァとコークには、未来とか希望とか、恋愛とか不安とか、そういう「若き日」の味がしたからであろう。そういうのを、英語では Sentimental reason というのである。つまり、私が歳《とし》を取ったということである。
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二本の柿《かき》の木
今から三十年ほど前、父が小金井に家を建てたので、新宿の官舎から引っ越してきた。そのとき、庭にまだヒョロヒョロの柿の木を植えたら、これがまことに良い柿で、それから毎年大きな艶々《つやつや》とした実を付けた。つるりとした口触りの甘い柿で、秋には、いつもたくさん飛来するヒヨドリやムクドリと実の取り合いになった。
それから、十年程たって、同じ小金井市内だが、駅の反対側に引っ越した。私が結婚して、二世帯で住むには前の家が手狭になったからである。
そのとき、もうすっかり太い立派な木になっていた柿の木の枝をはらって、今の庭に植え替えたが、植木屋は「こう大きくなってからでは、うまくつくかどうか分りませんよ」と危《あや》ぶんだ。事実、春先に引っ越して、一月くらいたっても、柿の木は一向に丸太のまんまで芽ぶかなかった。けれども、幹に触ってみると、ザラリとした皮の下にたしかに温かな生きている感じがあって、心配はしなかった。
やがて五月になるころ、突然丸太ン棒のあちこちから浅緑色の若葉が吹き出して、すっかり息を吹き返した。
間もなく息子が生まれた。
その頃《ころ》、近所の農協で作物の品評即売会があったので、実の尖《とが》った大きな渋柿を買ってきて干柿を作った。すると、その内の一個が腐って落ち、そこから柿の実生《みしよう》が生えた。私はそれも大事に育てることにしたのだった。
一茶に「柿を見て柿を蒔《ま》きけり人の親」という句がある。その時こんな句を思い出して、これが「柿を|植え《ヽヽ》けり」じゃないところが言い得て妙だと思っておかしかった。
さてそれから、今では大木になった甘い柿の木は毎年大きな良い実を付ける。一方渋柿の木は毎年|僅《わず》かばかりあまりぱっとしない実を付けるのだが、いつになったらあの最初に買ってきた親柿のような立派な実を付けるだろう。
そう思ってどっちも平等に可愛《かわい》がっているうちに、あの時生まれた息子はいつのまにか大学生になった。
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イギリス的休暇
日本人はいつも「何か」をしたがっている。
日本語の「休暇」という言葉の中には、「どこかへ出かけて何かをする」または「何かをするためにどこかへ出かける」という含意があるらしい。夏のホリデイの季節になると、全国各地の名所旧跡、各観光地、何とかランドと、どこも人で一杯になってしまうのは、その現れである。で、「何もしないためにどこかへ行く」という人は極めて希有《けう》である。
しかし、と私は考える。
私の家では、休暇は原則として「何もしない」ことにしている。
私はまず酒を飲まない。だから酒に酔うことで心を休めようなどという考えは全くない。つねに正気のままである。そのうえゴルフもしなければ、テニスもスキーも、碁将棋も、何もやらない。それで、たいてい夏には信州の山荘につれづれと籠《こも》り居て、時に、思い立って子供たちと一緒に、日帰りで日本海へ海水浴に行ったりする。また、春には近場の温泉に出かけて、ごろごろして帰ってくることはある。が、ただそれだけである。
それゆえ、さーて、夏休みの計画はどうしよう、などと旅行案内書をひっくり返し、ツーリスト会社に相談し、などということは全くない。ほとんど何も計画しないからである。
もうずっと昔、まだ学生だった時分には、私は一夏じゅう信州に隠居していた。そして時には冬も、とにかく学校の休みの時期にはいつもこの山奥の山荘にいて、棹《さお》の先の赤《あか》蜻蛉《とんぼ》を眺《なが》めたり、前面の山を絵に描いたり、ただそこらを歩き回ったりして過ごした。
さすがに大学院に進んで学問に精出すようになると、同じく山籠りをしていても、毎日勉強ばかりして暮らした。そのうち、結婚して子供が生まれた。
私が、林間緑蔭の座敷の座卓で研究をしていると、よちよち歩きの息子がいつも隣に並んで「べんきょう」するのだった。自動車の絵を描くベンキョーをしていたのである。私は時々研究の手を休めては、息子に自動車の絵を描いてやった。勉強に倦《う》むとそのまま寝ころんで昼寝をした。空に雲が浮かんでいた。
夏休みはいつもそうして過ぎていった。
やがて一家でイギリスに住んだが、この時も私は研究に忙しくて、ほとんどどこにも行かなかった。僅かに数日間スコットランドへ旅行したが、ただボンヤリと行って帰って来ただけである。しかし、イギリス人は、休暇というとどこか田舎の家を借りて、何もせずに過ごすのが当り前である。悠然《ゆうぜん》として何もせずにいること、それが豊かであるということなのだ。だから私たちの休暇はイギリス的なのだった。
その息子も大学生に、下の娘は高校生になった。二人とも日頃はよく勉強するけれど、暇な日は何もしないで、漫画を読みつつだらだらと寝そべったりしている。それを見てこの子らの父と母は、ウフフフフと思うのである。
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山河へ
「夢はいつもかへつて行つた 山の麓《ふもと》のさびしい村に……」
と夭折《ようせつ》の詩人|立原道造《たちはらみちぞう》は詠《うた》っている。信州の浅間高原がそのモデルであるに違いない。私が「ふるさと」という言葉を思うとき、いつもこの詩編が脳裏をよぎる。
私の家は、もう江戸時代から今の東京に住み、親類も一切東京にあって、いわゆる「郷里」という意味での「ふるさと」は、この東京以外にはまったく存在しなかった。夏休み、とりわけお盆の頃になると、クラスの友達はたいてい「田舎に行くんだ」と言って、お父さんかお母さんかの郷里へ行ってしまったものだったが、私たちはどこにも行くところがなかった。父は、それゆえ、もう四十年近く前に、「ふるさと」を作るのだと言って、信州の北アルプスの麓、高瀬川《たかせがわ》の渓谷に小さな山荘を造った。当時はまだ、高速道路などどこにもなく、中仙道《なかせんどう》や甲州街道といった主要国道でさえ、ほとんどまったく舗装されていない砂利道だった。もうもうたる砂塵《さじん》を上げて、その砂利道の国道を走り、山を越え、盆地を抜け、また峠を越え、野を行き、行き行きて信濃大町のその山荘にたどり着くまでには、延々十二時間近い時間がかかったものだった。
それまで蒸し暑い東京の夏に慣れていた私たちは、しかし、信州の冷涼な山荘にたどり着くと、体の隅々《すみずみ》まで新しい空気に満たされるような心地がして、それはなにものにも代え難い快さだった。父自身は仕事でそう長く滞在はできなかったけれど、やがて私たちはいつも夏の間はその涼しい川辺の山荘で過ごすようになった。
ずっと後に、イギリスに行くようになって、そのイギリスの夏を経験すると、世界中にこれほど気持ちのよい夏はまたとないのじゃないかと思った。が、考えてみると、あの信州の夏は、じっさいイギリスの夏とよく似ているのだった。緯度の違いで、イギリスのように「いつまでも暮れない長い長い夕暮れ」こそなかったけれど、乾燥した空気、涼しい風、朝のひいやりした葉末の露、行く雲、豊かな自然、そのどれもイギリスと信州に共通した美質である。明治の初めに日本にやってきたイギリス人が、暑い東京の夏に閉口して、浅間山麓《あさまさんろく》軽井沢に、彼らにとっての「ふるさと」を発見したというのは、けだし当然のことだと思われた。反対に私は、イギリスの風土の中に、私にとっての「ふるさと」信州の、風や雲を発見したというわけである。
今でも、イギリスへ行かない夏は、私は必ず信州で過ごす。東京の熱帯的な夏は我慢の限度を超えている。こういう所ではとうていものなど考えることは不可能である。夏が近付くと、イギリスか信州の山河か、私の心はいつもそのどちらかへ帰って行くのである。
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夕暮れ巴水
何年か前の夏、大英博物館の日本ギャラリーでは、日本の木版画の通常展示をやっていた。その近代日本木版画を代表する画家として数点を掲げられてあったのは、川瀬巴水《かわせはすい》であった。私は昔から巴水が好きで、彼の作品を見ていると、そこに何とも言えぬ懐《なつ》かしさというか、深く豊かな風趣を感じずにはおられない。そうして、こういう感性はたぶん、日本でよりも外国で広く受け入れられるのではないかと、漠然《ばくぜん》と考えて来た。この展示の責任者はクラーク君という若き俊英だったが、国貞《くにさだ》を主とする浮世絵版画の専門家たるクラーク君は、しかし、多くの巴水作品を前にして、どうも浮かない表情を示した。そうして、「林さんは、こういうのが面白いと思いますか?」と訝《いぶか》しそうに尋ねるのだった。
私は答えた。「ああ、僕はとても面白いと思うよ、もっとも、大英博物館にあるのは巴水の作品としてはあまり上出来のがないけれどね」
彼の目にはしかし、巴水の版画は一種のマンネリズムと映っているらしく、結局「面白くない」という意見に終始したのである。大英博物館の所蔵する巴水作品は、どういうものか色調の明るい単調なものが多く、これだけ見てはたしかに巴水は面白からぬというのももっともな気がした。それから間もなく、アメリカのS博士とクラーク君と三人で話をする機会があった。その時、S博士が吉田博の画業に触れ、率直に「もうあれにはウンザリですよ。どれ見たって同じ。ま、いわゆるポスターアートでね」とにべもない見解を述べた。吉田の版画にはたしかにそういう精神性の浅さがあって、奇麗なだけの装飾画といわれても仕方がない。そのとき、クラーク君が「林さんは巴水が大好きなんですよ」と言った。すると、S博士は苦笑いを浮かべながら、「まぁ、それは吉田よりはずっとマシですがねぇ……」と語尾を濁した。つまり、彼らはいずれも巴水の版画をそれほど高くは評価していない、ということである。
どうしてだろう、私はそこに一つの問題点を見る思いがした。マンネリズム? それはそうかもしれぬ。しかしどうであろう、浮世絵版画というものは、そもそもそれ自体偉大なるマンネリズムの世界ではなかったか。歌川派の、葛飾《かつしか》派の、そのどれをみても、絵をある一定の型の中で捉《とら》えていこうという態度には変りがない。巧拙は無論あるにせよ、だいいち同じ名前を何代も襲名していくこと自体、そのマンネリズムの制度的表明なのだ。そういう浮世絵としての形式主義には目をつぶって、巴水らの風景版画についてのみその類型性をうんぬんするとしたら、それはたしかに偏《かたよ》った見方である。たぶん、彼ら西洋人の目に映る浮世絵は、その圧倒的なエキゾチシズムに有無を言わせぬ力があったのである。それはかのジャポニスム運動とヨーロッパの印象派の関連を思えば容易に想像がつくに違いない。それゆえ、そういうエキゾチシズムからの脱化を目指した巴水らの新しい版画については、彼ら日本絵画の専門家は、専門家であるがゆえに、急に覚めた視点で見てしまうのではなかったか。
さて、巴水は明治十六年五月十八日、東京芝の組糸屋の長男川瀬文治郎として生を享《う》けた。彼自身は幼少から絵を描く事を好み、画家になりたいという希望は早くからきざしていたが、家業の桎梏《しつこく》はそれを許さなかった。そのことが彼の一生を決めたのだともいえる。というのは、後に家業が傾いて終《つい》に破産におよび、結果として彼がその制約から逃れた時には、既に二十六歳になっていた。それまで親の目を盗んでランプの光で錦絵《にしきえ》の模写などに出精していたことが一方で彼の視力を著しく損なうもととなり、他方またその年齢は日本画家として本格的な勉強を始めるには晩《おそ》きに失していたのである。それゆえ、彼は鏑木清方《かぶらぎきよかた》に入門を乞《こ》うたが、その年齢の故に日本画の勉強にはおそすぎると断わられ、むしろ洋画を学ぶべきことを諭された。それによって彼は俄然《がぜん》白馬会洋画研究所に通うて洋画の写生を学んだという。この過程で、彼が洋画の遠近法や、空気の把握の方法など技術的なことを獲得しただろう事はもちろんとして、また、ジョン・ロバート・カズンズなどを先達とし、やがてターナーやコンスタブルらによって大成される西洋風景画の作品に接することが出来ただろうと推量されるからである。
こういう迂路《うろ》を経由して、しかし、彼は終に鏑木門下の郷土会に席を連ねることを許される。これが第二の出発である。ここで、鏑木門下の俊英伊東深水の木版画を目にしたことが、彼に木版風景画家としての道を開かせる。すなわち彼は自信のある風景写生を携えて、渡辺版画店の門を叩《たた》き、後に一生の美術プロデューサーともなる渡辺庄三郎に巡り合うのである。
こうして世に出たのが処女作の『塩原おかね路』である。塩原は彼の伯母の嫁入先で、少年の巴水はそこで大変|可愛《かわい》がられたといわれる。自然、彼はこの塩原に懐かしい床しい気持ちを抱いていた。それがこの作品を趣深いものにしているのであろう。
ところで、この作品について、巴水自身は「私はフランス人でカットをかいている人(誰だか忘れた)の線をとり入れた」と述べている。それが誰だかは分らないが、事実アールヌーヴォ風のくねる線やうっとりと疲れたような色彩感が漂っているように思われ、日本的な風景画家巴水の出発点における、ヨーロッパ絵画の影響を思わずにはいられない。そういう個々の影響は別にしても、もっと大切なことは、彼が「風景」というものをどう見たかという、その一番根幹のところで、ヨーロッパ近代の風景画の介在を想定してしかるべきだろうと思うのである。すなわち、それ以前の浮世絵―錦絵の系譜の中で、風景画というものは何をテーマとして来たか。たとえば『富嶽百景』に代表されるように、「名所旧跡」「風光|明媚《めいび》」がそれであった。それに尽きていたといっても良い。しかるに、イギリスをはじめとするヨーロッパの近代風景画の潮流は、とりわけコンスタブルなどに著しいように、何でもない景色、日常の空間にこそ究極の風景美があることを教えたのである。私が巴水の風景画について、最も大きな魅力を覚えるのはここである。
続いて発表された『東京十二題』はその意味での見事な結実といってよいが、例えば『夜の新川』にしても、そのどこに「名所」や「風光明媚」があろうか。ここにあるのは川辺に建つ二|棟《とう》の蔵とその間の夢のような光(自注によればガス灯の光)である。それで、日本の懐かしい美しい風景を、日本人なら誰でも茫然《ぼうぜん》とするような造形と色彩で描き出した。しかもその光と影のあわいはかのレンブラントなどを彷彿《ほうふつ》せしめる。
巴水の成果の最大のものは、その空や水の色彩である。これは刷り師との綿密な討議によって編み出されたものに違いないが、そのタブローとしての感性はかかって巴水の功績に帰せらるべきであろう。
ところで巴水は明るい人なつこい性格で、江戸っ子らしい洒脱《しやだつ》な風も持ち合わせていたが、一方でいつも何かこう淋《さび》しい無常観のようなものにつきまとわれてもいたらしい。それは彼が子供に恵まれず、命とも頼む写生|帖《ちよう》百八十八冊を震災で焼いてしまったりして家庭的には必ずしも幸福ではなかったことと関係があるかもしれない。しかし、たぶん彼の心の中には、永井荷風がそうであったような、近代の都会人の喪失感のようなものが本質的に横たわっていたのだろうと私は推量する。『新大橋』の雨に打たれる人力車の灯、『明石町の雨後』の波止場にたたずむ犬や遠景の煙突の烟《けむり》、『小樽《おたる》の波止場』に肩を寄せる二人の男……ああ、どれもこれも淋しいアンニュイが横溢《おういつ》しているではないか。それは詩で言えば萩原朔太郎《はぎわらさくたろう》の世界に近い。
ところが面白いことに、彼は極端に近眼であったために、遠くの景色は良く見えなかったらしい。しかもそのため、夜はまったく筆を取らなかったと伝えられている。にもかかわらず、彼の作品には、圧倒的に夕暮れや宵闇《よいやみ》の風景に秀作が多く、昼間の景色や美人画などは、遺憾ながら魅力に乏しい凡作に終始しているのである。それは例えば『ゆく春』や『元箱根見南山荘風景集』などを見れば一目にして明らかである。しかし、彼には風景画の天才が具《そな》わっていた。視力の弱小を補う為《ため》に、風景の細部に亙《わた》る厖大《ぼうだい》な写生をものし、それを西洋画的な構図と日本的な色彩でまとめ上げるという類稀《たぐいまれ》な能力を持っていた。『笠岡|之《の》月』に見られるような、殆《ほとん》ど真っ暗な異色の画面の中にしっかりと描きこまれたディテイルを見よ、その屋根の向こうの月白《つきしろ》のかそけさを見よ。ここに風景画家としての巴水の古今独歩の境地が見て取られなければならぬ。或《あ》る意味で、こうした細部までの描き込みが、彼の絵にマンネリズムをもたらしたかもしれないことは否《いな》めぬにせよ、それを棟方志功《むなかたしこう》や恩地孝四郎《おんちこうしろう》らと比較してあれこれと非難するのは間違っている。それよりも、巴水が日本の風景画の新しい局面を開いた、その積極面に人は注目しなければならないのだ。
思うに、巴水は私たち日本人の心の中にあるあのしみじみとした夕暮れの空気、暮れ泥《なず》む風景の中の寂寥感《せきりようかん》、それをもっとも良く表現した。それは日本的空気遠近法とでも言ったらよかろうか。ともあれ、巴水は、もっとも純粋に日本の夕暮れを、その空気の中の淋しい人々の生活や心までも含めてけざやかに表現した最初で最後の画家だったと私は考える。
巴水は昭和三十二年十一月二十七日、胃癌《いがん》の為最愛の妻に看取《みと》られて静かに往生した。その絶筆は『平泉金色堂』であるが、ここでもまた、雪の金色堂の淋しい夕景と一人の雲水の姿が描かれている。塩原の夕景に出発した巴水は、平泉の夕暮れに終ったのである。それゆえ、人もし、巴水を呼ばんとならば「夕暮れ巴水」の名を以《もつ》てするのが、もっともふさわしい、私はそう思うのである。
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一つの幸福
大英博物館が、その規模の雄大なる点において、また蒐集品《しゆうしゆうひん》の広範周到なる点において、博物館世界に覇《は》を唱える存在であることは、多くの人が認めるところであろうけれど、いまや帝国主義の時代はすっかり終焉《しゆうえん》し、反対に民族主義が高揚する時世になってくると、その大英博物館の蒐集品はイギリスの帝国主義的略奪の結果であるという意見が起こり、それぞれの国に略奪したものを返すべきだなどと声高に議論する人があらわれた。しかしながら、こういう議論は極めて一面的で、あまり説得力を持たないと私は考える。
仮に、もしイギリスがそれらの文物を外国で蒐集してここへ持ち帰らなかったとしたら、と仮定してみる。
文化遺産というものは、それが何であるか正しく認識され、その価値を正当に評価されることによって初めて、文化遺産として存在しはじめるのである。したがって、それを認識評価できる学問の存在しないところでは、いかなる貴重な文物といえども、単に「虫喰《むしく》いだらけの汚い本」であったり「泥《どろ》の中に時々ある何かのカケラ」であったりするに過ぎない。それは、かのモース博士によって「発見」されるまでは、その考古学的意味をまったく認められていなかった大森|貝塚《かいづか》のことなどを考えてみれば容易に理解されるであろう。
だから仮にやや略奪に近いかたちでそれがイギリスに持ち帰られたにせよ、それによって、その当該の文化遺産は初めて学問としての光を当てられ、輝かしく歴史に登場したとも言えるのである。逆にもしそうなっていなかったら、あるいは現地で何等の意義を認められないまま、空《むな》しく散逸し、朽ち果て、あるいは焼失し、もしくは盗賊の蹂躙《じゆうりん》するところとなっていたかもしれないのである。
東洋に関していえば、有名な「燉煌文書《とんこうもんじよ》」など、その良い例である。今世紀初頭に中国辺境の燉煌で発見された夥《おびただ》しい文物は、イギリスのスタイン、フランスのペリオ、日本の大谷大学探検隊などによって、分割買収され、それぞれの国に持ち帰られたのだが、それは結果的に、これらの文物の価値を世界に知らしめ、そのすべてを安全に保存せしめるよすがとなった。それがもし当時の政情不安定な中国にそのままあったら、今日のようにまとまって保管され、世界中の研究者に普《あまね》く公開されるようになっていたかどうか、すこぶる疑わしい。
大英博物館には、スタインの将来したそれが厖大《ぼうだい》に所蔵され、ほぼ完璧《かんぺき》な状態で保存されて、多くの研究者を益していることは明らかな事実で、そのこと自体まったく非難するには当らない。そしてこのことは多かれ少なかれ、ここにあるすべての文化遺産について言い得ることだろうと推量されるのである。
私の調べている日本の古い文献に関して言えば、もっとはっきりと、それは略奪的なものではなかったことを証言しうる。おそらく、略奪というような形でイギリスに持ち帰られた本は、ただの一冊も無いに違いない。
以前は大英博物館と大英図書館は一緒であった。それが比較的近時に分れて別組織となったのである。で、書物については原則として大英図書館に移管されることになったが、一部たとえば「絵本・絵巻」のようなものはもとの大英博物館に残されている。
それらの文献は、大部分、幕末明治に大活躍した天才的外交官にして篤実《とくじつ》な日本学研究者であった、アーネスト・メイソン・サトウによって、日本で|正当に買いとられ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、丁寧に持ち帰られたもので、それを彼は縦横に読み、日本理解の資料とした後は、決してわたくしすることなく、タダのような値段で公開の博物館や図書館に譲渡したのである。私財をなげうって買ったものであるから、普通にはなかなか出来ぬことである。
その結果、これらの文献は、震災にも遭わず、戦禍《せんか》も受けず、風水害にも際会せぬ安息の地を得て、その後百年余りの年月を閲《けみ》してきた。イギリスは冷涼な気候で、夏は乾燥しているから、本の大敵の害虫はまったく棲息《せいそく》することができず、虫喰いの害に遭うこともまぬかれた。
しかも、書物にとって最大の敵であるところの「人間」――それは書物を汚し、傷《いた》め、時には故意に切り取ったりする――は、この国では日本の本については存在していないに等しかった。
こうして、八世紀から十九世紀に至るまでのおおむね五万冊にも及ぶ古典籍は、頑丈《がんじよう》で安全な大英博物館などの書庫の中で、百年の長い眠りについていたのである。今日それらは眠りから覚めつつあるけれど(それを起こそうとしているのは他ならぬ私たちである)、正直言って、それは書物にとっての一つの幸福な眠りだったことは間違いないのである。
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翻訳の不可能なる
イギリスのケンブリッジ大学で、書物を相手に息のつまるような生活をしていたときのことである。
ケンブリッジ大学の日本学科の主任教授はリチャード・バウリング君という、日本語の滅法よくできる人である。彼は森鴎外《もりおうがい》の研究をして、あの浩瀚《こうかん》な『鴎外全集』をすべて読破したのだそうである。日本人だってそんな人は滅多といるものではないから、私ははなはだ感心してしまった。その後、彼は『紫式部日記』の英訳を公刊したりして、広く日本文学のために大いに気を吐いているのである。
そのバウリング君と、ある日、鴎外の文章について議論したことがある。
私は、かねてより、鴎外の小説の中では『澀江抽齋《しぶえちゆうさい》』が白眉《はくび》であろうと思っている。この作品が、なにしろ好きでたまらないのである。
しかるに佐藤春夫は、鴎外の作品の中で、もし一作を選ぶとしたら『雁《がん》』だろうと述べ、『抽齋』については次のように論じている。
「いわゆる史伝小説の雄篇《ゆうへん》『澀江抽齋』は先生の晩年に到達した境地で定評ある代表作でもあり鴎外先生ならではの大作、力作という点も第一のものであろうが、この作は先生の学才が詩才を圧倒しているような点でこの一作だけでは満足しかねる。尤《もつと》もこの作にだって一種の詩情は横溢《おういつ》しているが、一般読者はそれに気づくまい」(河出書房新社、日本文学全集15、月報、昭和38年刊)
なるほどさすがに佐藤春夫の炯眼《けいがん》は、この作品について微妙なところをよく衝《つ》いている。詩情は横溢しているけれど、それは一般読者には知覚され難い、か。
バウリング君が聞いた。
「林さんは近代日本文学の中で何が好きですか?」
私は言下に答えた。
「そりゃ、なんといっても『澀江抽齋』です。鴎外の……」
その答えは、バウリング君を満足せしめなかった。彼はしきりに首を捻《ひね》り、私の顔を疑わしげに眺《なが》めた。
「それはまた、どうしてですか?」
「どうしてといったってね、ウーン、やっぱり文章が良い。散文として、あの力は、古今独歩です」
私は思っているとおりを答えたけれど、これまた理解されなかった。
「でもね、林さん、あの作品は私たちイギリス人から見たら、全然面白くないよ。あれは小説とすら言えないかもしれない」
こんどは私が首を捻る番だった。
「どうしてさ? 面白いも面白い、非常に面白いけどね、日本人からすると……」
「だってね、あれは西欧的な目から見るとね、単に事実を羅列《られつ》してあるだけ、と映るよ」
「そうかなぁ」
「たとえばね、『抽齋』を英語に翻訳しようとするだろ。そうするとね、ただ何月何日抽斎はどこへ行ってどうした、とかね、ただそれだけの繰り返しになっちまうわけだよ……それは意味がないよ、文学としては……つまり、すくなくともそれはノヴェルの名に値しないってわけでね、そうじゃないか」
それはそうかもしれない、と私は思った。鴎外はあれほど外国語と外国文学に通暁《つうぎよう》して、うんざりするほど厖大な翻訳を残したけれど、なんぞ図らん彼自身の作品のもっとも芳醇《ほうじゆん》な結実は、まったく外国語には訳しがたい、訳したところで誰人をも感心せしめない、というのである。皮肉なことだといわねばなるまいけれど、日本人と生まれて、日本語を母国語として、そうして初めてあの颯爽《さつそう》たる鴎外散文の世界をアプリシエイト出来るのだとすれば、それはたしかに私たち自身の、一つの幸いだったかもしれない。
むかし、三島由紀夫は、その著『文章|讀本《どくほん》』(昭和34年刊、中央公論社)の中で、『寒山拾得《かんざんじつとく》』の一節を挙げて、泉鏡花の文体と比較し、対照的でありながら、並びに近代の名文の双璧《そうへき》であると称揚している。
『寒山拾得』の、
「閭《りよ》は小女《こおんな》を呼んで、汲立《くみたて》の水を鉢《はち》に入れて來《こ》いと命じた。水が來た。|僧[#底本では旧字体]《そう》はそれを受け取つて、胸に捧《ささ》げて、ぢつと閭を見詰めた。(以下省略)」
の部分である。これについて、三島は次のように感想を述べている。
「この文章はまつたく漢文的教[#底本では旧字体]養の上に成り立つた、簡潔で|清[#底本では旧字体]淨《せいじやう》な文章でなんの修飾[#底本では旧字体]もありません。私がなかんづく感心するのが、『水が來た』といふ一句であります。この『水が來た』といふ一句は、漢文と同じ手法で『水來ル[#底本では小さな「ル」]』といふやうな表現と同じことである。しかし鴎外の文章のほんたうの味はかういふところにあるので、これが一般の時代物作家であると、閭が小女に命じて汲みたての水を鉢に入れてこいと命ずる。その水がくるところで、決して『水が來た』とは書かない。まして文學的|素人《しろうと》には、かういふ文章は決して書けない」
とこのように、その文章の特質をものの見事に言い当てているのは、さすがに天才的文章家三島らしい。
そして彼は、さらに言葉をついで、
「鴎外の文章は非常におしやれな人が、非常に贅澤《ぜいたく》な着物をいかにも無造作に着こなして、そのおしやれを人に見せない(略)といふやうな文章でありまして、駈《か》け出しの人にはその味がわかりにくいのであります」
と言っているのだが、こういうところを読むと、これは先の佐藤春夫と同じことを言っていることがわかる。
「水が來た」、それは思うに全く英訳を拒否する文章である。仮に英語で言えばたぶん「The maid brought a bowl of water」とでも言わねばなるまいけれど、それではまったく英作文の例文みたようで、とてもそこに文豪鴎外の文章の精髄がこもっているようには見えぬ。
だから、それを外国語の翻訳でしか読むことの叶《かな》わない外国の人には、結局鴎外の文章の真の味わいは、容易に諒察《りようさつ》せられぬであろう。また、バウリング君ほどの日本語の達人をもってしても、鴎外のこの単純にしてなお豊かな詩情をたたえた文章の味わいは、なかなか感得できぬものと見えるのである。
それでは、単純ならばそれが良い文章なのかといえば、それは勿論《もちろん》そうではない。もしそうなら小学二年生くらいの幼童のものした「きょうカレーをたべた」などという文章こそ、そのもっとも精美なるものだということになるであろう。じじつ、このごろでは四歳だか六歳だかの年端《としは》もいかない子供に、いたずらなる文章を綴《つづ》らしめて、もって天才少年作家などと、やくたいもないことをいうものがあるけれど、もとより取るに足らぬ。
中国で発達した所謂《いわゆる》山水画の世界では、ただ手先が器用で、巧みに目に見える形を模し、それらしい風景を描いたとしても、それだけでは味わい深い山水にはならぬ、と教えた。東洋の絵画は、簡潔と省略を尊ぶ。それは、空間恐怖のようにみっしりと形を描き、塗り重ねて、全部の画面を隅々まで埋め尽くす西欧的なスタイルとは、明らかに一線を画している。すっと一筆の墨を白紙に掃いて、それで山や、河や、時には動植物や人物までも表現することがある。
さてその一筆の墨が、ただに幼童のイタズラ書きになるか、それとも神韻縹渺《しんいんひようびよう》たる名画になるか、の分れ目はじつに「書巻《しよかん》の気《き》」の有無というところにかかっている。
いかに絵画的の才能が非凡であって、子供の頃から巧みに描くことができようとも、それは手先の技、職人芸というに留《とど》まる。絵のなかの景物が、生き生きとした精彩を放ち、その人物が深いメッセージを語るのは、その絵の作者が、どれほど多くの書を読み、研鑽《けんさん》沈潜を重ねたかということによる、というのである。こういう思想が、文人画というものを生んだ力なのであった。
文久二年に生まれた鴎外は、既に五歳の幼きより論語の素読を授かり、あたかも神童の誉《ほま》れ高かったことは、有名な事実である。学は和漢洋の三才に亙《わた》り、その読書は絶倫で、それらがしっかりと骨肉の間にしみこんでいたのが、鴎外という人である。
そういう人にして、初めてこの「水が來た」が書けるのである。『高瀬舟』にしろ『堺《さかい》事件』にしろ、あるいは『じいさんばあさん』にしろ、みなこういうしっくりした簡潔な文体の中から、馥郁《ふくいく》と書巻の気が立ち上るのを、私は感じる。なにかこう風韻のようなものの向こうに、潔《いさぎよ》い意志とか、奥ゆかしい心とか、そういう一見古くさく見えて、実は時代を超えた普遍性を有する懐《なつ》かしいものが……つまりは人間というものがほの見えてくるのだ。
これらは決して難しい作品ではない。読めば誰でも分る。誰でも理解出来るという点においては、漱石《そうせき》の小説などより数倍分り易《やす》い。にもかかわらず読者の数は漱石が鴎外を圧倒しているのは、ひとえにこの「水が來た」の美学が、初心者には理解されないせいであろう。
国語の嫌《きら》いな人や、文章を苦手とする人は、『上手な文章の書き方』などという下らぬ本を開くよりは、まずこの鴎外の分り易いものを三読されよ。そして、何か感ずるものがあったら、必ず『澀江抽齋』を読まれよ。再読三読、そして、ああ日本語にはこんなに美しい文章があったかと、驚かれよ。げに翻訳の不可能なるところに、私たちの魂が宿っているかもしれぬのである。
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私の教え方
もうずいぶん昔のことのような気がするけれど、私は大学院博士課程在学中の二十五歳から三十歳になるまで、慶應女子高校で国語の先生をしていた。教えたのは、もっぱら古文で、他には少しばかり漢文と作文指導を担当した程度だから、まず、古文の先生だったといってよい。
慶應は全員内部進学が原則で、いわゆる受験勉強は考慮する必要がないので、のんきと言えばのんきな授業だった。若かった私が考えたことは、古文といえども、私たちの世界とそして心と一繋《ひとつな》がりのものなのだ。決して、古典文法を覚えたり分析したりするための材料なのではない、というそのことであった。だから、もっとも大切なことはなにかといえば、それは子供たちに「文学の面白さ」を味わわせてあげることである。この信念は今でもまったく変わらないし、変える必要もない。
しかも、古文といっても、それは外国語ではない。私たちの日常の言葉にそのまま繋がっている母国語の文章である。だから、基本的に読めば解《わか》るはずなのだ。解らなかったら、そのところは懇切に説明して解らせてやればよい。それをなにかクイズ式に難しく切ったり貼《は》ったり隠したりしてわざわざ解りにくくして教えるには及ばない。習うより慣れろ、そしてより多く読むこと。
そう思って、私はごく簡単な基礎だけはやったけれど、あとは原則的に文法をまるごと教えるなんてことはしなかった。ま、文法的に難しいところに遭遇したら、そこだけ説明すればそれでたくさんだ。まして古語の活用なぞを暗記させるなんて必要がどこにあるものか。そんな手間暇をかけるくらいなら、そのぶん沢山の作品を読み、もっと長いものを味わい、それで自然に古語の世界に慣れ親しんでいくようにすれば、効果はもっと上がるに違いない。
そう思って、古文の教科書を見てみると、これがいかにも無味乾燥である。せっかくの麗《うるわ》しい文学作品を、あれもこれもと欲張るあまり、どれもみな細切れの断片にしてゴタゴタと羅列《られつ》してある。これでその面白さが感得できたら、天下の奇跡である。したがって、私は、この教科書というものをほとんど使わなかった。そのかわり、自分でせっせとプリントを作って、おのれの信ずるところに従って、もっと面白いテキストを自作していった。
たとえば『平家物語』だったら、この物語の面白さは、主にその栄枯盛衰の大きな「時の流れ」と、そのなかでの小さな人間の営為と哀歓にあるだろう。だから、つまり「宇治川の先陣」なんてのだけをやるのじゃなくて、全体のなかから、一つの流れを抽出して読むということにした。かくて或《あ》る年は「俊寛」だけを追跡して、その一部始終を読む、また或る年は「能登守教経《のとのかみのりつね》」の物語、また或る年は女人哀話のシリーズ、というように、自分でテキストを組み立てて読んだ。そのやり方は、すべての講読作品に及んだので、準備はたしかに大変だった。けれどもその「大変」は、やってて面白くもあり、ためにもなった。もちろん受験ということを考慮しなくてよいという条件は、なによりも有り難いことではあったけれど。
それに、文部省選定の教科書には、ひとつの偏向があった。注意深く「性愛・色恋」のたぐいを除去してあるのである。これを除去しては日本の文学はスカスカの滓《かす》になってしまう。
たとえば、西鶴《さいかく》だったら好色物などはあまり取り扱わない。それで『永代蔵』だの『胸算用』だのが主となる。しかしながら、近世の作品を扱うならば、『好色一代男』などの代表作を避けてはその面白さは味わえない道理である。そこで、私はもっぱら『好色一代男』を読むことにした。
相手は高校一年か二年の女の子ばかりであるが、別段なにの不都合もありはしなかった。思春期の子供たちにとって、愛とか性とかは、大きな関心事である。その関心事を偏狭《へんきよう》な道徳観によって忌避すれば、いきおい古文などは自分たちに関係のない絵空事となるだろう。古文だって、私たちと同じ悦《よろこ》びや苦しみを描いているのだよ、とそう伝えてあげたかったのである。
だから、また『古記事』をやった時でも、日本武尊《やまとたけるのみこと》が尾張の宮簀媛《みやずひめ》と結婚しようとしたときに、折|悪《あ》しく姫が生理になってしまったので結婚を延期したという話など、あえて削除することなく、そのまま読んだ。平然として読んだら、生徒たちも平然として聞き、だれも冷やかしたりはしなかった。
そういうことで、古典は今の私たちと同じ水準に戻ってくるのである。
もっとも、これは相手が慶應女子高校の生徒だったからこそできたことかもしれない。
現在私は東京芸術大学で、やっぱり日本古典文学を専門に教授しているのだが、文学の授業に対する考え方は昔も今も変わりがない。要するに、どうやったら面白く読むことができるか、というそのただ一点である。
私自身、大学では近世文学(江戸時代の小説や詩歌)を専攻していたが、正直いうと、やはり文学としては『源氏物語』や『平家物語』などのほうが面白いと思っている。だから、今は、近世のものはほとんど取り扱わない。『源氏物語』、『平家物語』、『百人一首』が主なところで、それに『松の葉』という元禄《げんろく》期の歌謡集をいくらか読んでいる。そしてそれらの読み方は、作品によって一定でない。
たとえば、『源氏物語』ならば、その「恋愛」の状況、気持ち、歓喜や悲哀、それらの不易なることどもを、ともかく現代のことばで精密に分かりやすく説き聞かせる、とそれに尽きる。つまり、『源氏物語』の面白さ奥深さは、決して決して『あさきゆめみし』なぞと同日の談ではないのだよ、とそれを知らしめたいのである。
いっぽう『平家物語』は、これとは全然違う。『平家』は口承文芸である。目で読んだのじゃなくて、耳で聞いて楽しむ、そういう風に書かれた作品なのだ。だったら、ここは一つ私が琵琶《びわ》法師になって、全体をさっさと読み聞かせようじゃないか。
私は古典の朗読には、ちょっと自信がある。声も謡曲や声楽でおさおさ怠りなく鍛えてある。ともかく、出来るだけ意味が把握しやすいように、正確に区切り、適切に抑揚を施しながら、講釈師よろしく朗々と読み上げる。
学生たちはごく少人数で、それをただ聞いているだけである。それでもしなにか解らないところがあったら、さっと挙手して尋ねてよいが、ほとんど細かな語注には及ばない。だいたいの流れが把握できて、耳に聞いて快いリズムが感得できればそれでよいのである。それが『平家』を読むということなのだ。
こうしてすでに二年間でほぼ全巻読了というところまでたどりついた。この講義には、面白いことに欠席者がほとんどない。
さてまた、『百人一首』はもっぱら古注集成の古典的な方法と、「何が問題であるか」を探させる頭の訓練である。そこらの注釈書をちらちら見て、それで解った気になっちゃ困るよ、ということなのである。で、この三十一文字の小さな世界のなかに、総ての天地・人生が包含されることを学びたい。和歌ったって俵万智《たわらまち》だけじゃないのである。
俳句を読むときは、これは徹底して「イメージトレーニング」である。そこに凝縮されたイメージを、なんとかして生き生きと脳裏に思い浮かべさせたい。
『松の葉』のような歌謡を読むのは、色恋の勉強である。日本の文学が、いかに色恋ばかりで持ちきってきたか、それを知らないと読書が切実にならないからである。
で、これらを一言で言うならば、要するに「文学は|お楽しみ《ヽヽヽヽ》なのだよ」ということ、それに尽きるのである。
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サトウのもう一つの顔
外交官にして同時に学者である、とそういう二つの顔を持つことは、イギリスの外交官に通有の尊敬すべき美質であると言ってよい。なかんずく、『神道』『日本文学史』等の驚嘆すべき著述を著したウイリアム・ジョージ・アストンと、それより二つ年下の敏腕外交官アーネスト・メイソン・サトウの二人は、その学問的功績において著しいものがあることは、歴史上特筆に値するであろう。ここでは、そのうち特にサトウの人となりについて、あまり知られていない側面から、いささか光を当てて見たいと思うのである。
サトウは一八六二年(文久二年)に通訳候補生として初めて日本の土を踏んだが、そのとき彼はほとんど日本語を知らなかったらしい。歳《とし》いまだ十九歳で、ロンドン大学を繰上げ卒業して間もないころのことだった。来日後、彼は早速日本語の修得に努めたけれど、時にまだ明治維新までは六年の以前のこととて、役に立つ教科書などは、事実上皆無の状態だった。そのうえ、日本語の先生も極端に少ない状況のなかで、いかに彼らが悪戦苦闘して日本語を身に付けていったか。いみじくもサトウはその著書『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳、一九六○年刊、岩波文庫)の中で述べている。「当時の私たちは一語も英語を知らぬその国の人を相手にして勉強したのだ。文章の意味を知る方法は、小説家のポーが『黄金虫《こがねむし》』の中で暗号文の判読について述べているのと、ほとんど同様のものであった」
そういうふうにして試行錯誤しながら、サトウは天才的素質と超人的な努力によって、瞬《またた》く間に日本語の達人となっていくのである。現在ケンブリッジ大学図書館に保存されているサトウの勉強ノートを見ると、『国史略』『山陽先生行状』『好逑伝《こうきゆうでん》』『日本外史』『江戸|繁昌記《はんじようき》』『孟子《もうし》』『近世|野史《やし》』『通議』『日本紀神代巻《にほんぎじんだいかん》』『土佐日記考証』等、まことに多方面に及んでおり、しかもその多くが漢文体の書物であることに注目したい。それも、一八六五年(慶応元年)から一八七二年(明治五年)までの八年間にわたって殆《ほとん》ど毎日、営々として学び、孜々《しし》として努めている有様には、まったく感心させられる。ことは、隠居の道楽ではないのである。この幕末維新の多端な難局に対処して、日々外交官としての息つく間もない激務をこなしながら、その業余の勉強であることを思うと、この人は、げに並の人ではなかったのだということが痛感される。
『一外交官の見た明治維新』によると、サトウは最初|御家《おいえ》流の毛筆を習ったが、暫《しばら》くしてそれが商人用の通俗な書体であることを知り、やがて高齋単山《たかさいたんざん》という先生について端正な唐様《からよう》の楷書《かいしよ》法を学んだとある。つまり、サトウは御家流と楷書の両様を書き分けることが出来たのである。
その勉強の初期に彼がノートに書き付けたペン書きの日本字を見ると、決して上手とは言われない「外人流」に過ぎないのだが、そこから飛躍して、書道を修めるというところに奥深い知日家としてのサトウの面目が窺《うかが》われようというものである。
明治十年に至って市川清流という人が『標註|刪修《さんしゆう》古事必読』という書物を出しているが、その巻頭にサトウが墨痕《ぼつこん》も鮮やかに「益詞美雋《えきしびせん》」という毛筆の題字を揮毫《きごう》している。それには「英国静山書/Ernest Satow」と署名があって「薩道氏」「静山」という印が押されているのである。さすればサトウは「薩道・懇」という名乗りの他に、「静山」という号をも持っていたのである。
これがただの道楽でないことは、彼が残した夥《おびただ》しい毛筆の文字をみれば分る。たとえば、サトウは生涯《しようがい》におおむね五万冊に及ぶ日本古書の大コレクションを作り上げたが、その上に、自ら筆を取って、三たびその蔵書目録を編んだ。その文字はいずれも雄渾《ゆうこん》で、とても外国人の筆跡とは信じ難いのであるが、これなど、その便宜からいえば、ペン書きにするほうが遥《はる》かに簡単だったに違いない。が、心を込めて毛筆を揮《ふる》い続けたサトウ、その面影《おもかげ》を私はなにか奥ゆかしいものとして想起するのである。
そのうちのあるものの紙背に、サトウが日本語の会話文例を書き並べたノートが書かれてある。それも見事な毛筆で、例えば「全体、老人《としより》だの、ヘボ儒者なんざぁ、七面倒な理屈を並べ立てて、世間のコゴトを謂《い》ひたがるもんですね」などとある。彼の生き生きとした口調が躍如としているではないか。
要するにサトウという人は、日本語の通訳として来日したのだが、ただ言語のみに留《とど》まらず、ひろく日本文化一般についての透徹した知識を目指したのである。
そもそもサトウがその厖大《ぼうだい》な古書コレクションを作り上げた動機も、たぶん日本の歴史や文学、思想、哲学等々の各方面にわたって、十全に勉強したいと欲したからに相違ない。それゆえ、これらの本には、彼の自筆の書き入れが少なくなく、また、その蒐集の態度は広く遺漏《いろう》なく集めるという見識に貫かれて、世の好事家《こうずか》的コレクションとは明らかな一線を画している。
それにまた、サトウは(外国人としてはたぶん世界で初めて)謡曲を習った人でもある。その先生は、さきの新潟|奉行《ぶぎよう》で幕臣の白石島岡という老人であった。こういうこともまた、当時の人種差別的一般状況を勘案すれば、それがいかに希有《けう》のことで、サトウがいかに非凡の人であったか、思い半ばに過ぎるというものである。
そして、なかんずく、私が厚い尊敬の念を覚えるのは、サトウの、蔵書に対する無私の態度とでもいうべきものである。彼は、盟友のアストンが『日本文学史』を著述するに当って、ほとんど一万冊近い蔵書を惜しみなく貸与し、終生その返還を求めなかった。これがアストンの死後ケンブリッジに収められて、今日に至っているアストン文庫というものの実体である。その他、後輩の日本語研究者バジル・ホール・チェンバレンに対してもまた数千冊の古書を贈与して、その研究を大いに助けるところがあった。これはチェンバレンの弟子上田万年を経由して、現在日本大学の図書館にある。
しかしながら、サトウの蔵書は大部分大英図書館にある。それを現在私たちが調査中であるが、その質の善良、量の厖大、分野の広範、いずれも個人蔵書としては世界に冠たるの地位を失わない。
こうしたサトウの業績を想《おも》うとき、そこには必ずや、彼の日本に対する深い愛情と、日本文化についての偏《かたよ》らない理解があったことが、看取されるのだ。
歴史上の偉人の、|歴史にあらわれない人となり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のようなものを、残されたその蔵書が雄弁に物語る。それを読むことができるということは、たしかに書誌学者の至福であるかもしれない。
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チューブの風
ロンドンでは、いつも地下鉄に乗って大英図書館へ通った。
ゴトゴトと動く木製のエスカレーターで地下深いプラットホームへ降りていくと、途中から煙いような小便臭いような匂《にお》いがしてくる。ホームには、ごく原始的な電光掲示があって「MORDEN via Charing cross 3mins/MORDEN via Bank 7mins」というような具合に、次と、次の次に来る電車の行先と待ち時間を教えてくれるのだが、これは全く当てにならない。三分と出ていても、それが本当に三分後にやってくることは稀《まれ》だからである。やがて、表示が二分になり、一分になり、それでも一向に来ないで、しまいに時間表示が消えてしまったりすることもある。
しかし、そんな表示にかかわりなく、ホームで待っている人たちの表情がふっと変って、「お、電車が来たぞ」という顔つきになる時が訪れる。電車のやってくる方向のトンネルから、ヒューッとホコリ臭い風が吹き出してくる瞬間である。
ロンドンの地下鉄は、チューブという通称が示すとおり、多く一線路当り一本ずつの丸い鉄筒を地下に埋めるという簡便な工法が用いられて来た。で、電車そのものも、トンネルの大きさにピッタリと合わせて丸く角の取れた形にデザインされているのである。そうすると、電車自体が換気のためのピストンという働きをするわけで、電車は夥しい空気を前方に押し出しながらやってくる。それがこの「チューブの風」である。
チューブの風が吹いてくると、電車を待っている人たちの髪が一斉《いつせい》に揺れる。やがて電車が止まる。駅によっては車体とホームの隙間《すきま》に注意せよという意味の「Mind the gap!」というくぐもったアナウンスが呪文《じゆもん》のように響き、鈍い音を立ててドアが閉まり、そうして、人々を乗せて、電車は再びチューブの闇《やみ》の中へ消えて行くのである。がらんとしたホームには、次の電車の到来を告げるサインが空《むな》しく光っている、またチューブの風が吹いてくるまで……。
私は、いつもこのチューブの風に吹かれながら、あぁ、これがロンドンだ、と思った。いつかロンドンを舞台にした哀《かな》しい恋物語を書いて、その恋人の巡り合いと別れの場面に、きっとこのチューブの風を吹かせてみよう、と思ったりもした。題名は『チューブの風』として、と……。
最近、ロンドンに行ってみると、木のエスカレーターは急速に鉄製の新式に置き代わり、あの寝惚《ねぼ》けたような牧歌的改札もすっかり機械化されつつある。黒く汚れていた壁はどんどんきれいに塗り替えられ、ついこの間まで残っていた前世紀の遺物的な雰囲気《ふんいき》は今や全く消え失せようとしている。それはいかにも寂しかったが、しかしホームに立ってみると、あのチューブの風だけは、昔とちっとも変っていなかった。その吹き方もホコリ臭い匂いも。
『チューブの風』は、フフ、いまだ書かない。
(補記 その後、一九九五年十一月に、私は澤嶋優というペンネームで『スパゲッティ・ジャンクション』という長編恋愛小説を集英社から出版した。白状すると、この小説こそ、ここで言う『チューブの風』にほかならない。興味ある方は、ぜひ御一読下さい。)
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酸 すつぱい
車窓の冷凍|蜜柑《みかん》
東洋人には昔から不思議な性癖があった。この四季の恵み豊かな自然の中で、それぞれの季節のいわゆる「旬《しゆん》」の食べ物を口にしたいと願いながら、反面また、なんとかして季節外れのものをも食べてみたいと念願してやまなかったのである。それで、中国の『二十四孝』などを見ると、雪の積もった厳寒の季節に春の食べ物の竹の子を食べたいとか、氷の張った川で魚をとって刺身を食べたいなどということが、老人の願いの大きなものとして出ている。初物を食べると寿命が延びるなどというのも、いわばそういう意識の延長上にあるのである。これが、一方で促成栽培ということを発達させ(これは江戸時代からあった)、もう一方で古くは「ひむろ(氷室)」などを作らせる贅沢《ぜいたく》へと発展したのである。
この氷の長期保存や利用ということに関しては、日本は歴史的に世界の最先進国であったといってもよいと思うのであるが、しかし、それは所詮《しよせん》一部の金持ちや貴族の道楽という域を出なかった。
近頃《ちかごろ》私は、とんと鉄道で旅行をしなくなったので、今でもまだあるかどうかよく知らないけれど、私たちが少年だった頃には、旅行というとカチカチに凍らせた蜜柑がつきものだった。
まだ蒸気機関車が走り、列車には冷房もなく、夏は窓を開けて走った頃の話である。ターミナル駅の発車ホームには必ず、四角い保冷ケースに入ったカップ入りのアイスクリームと、赤い網の袋に入った冷凍の蜜柑が売られていたものだった。
この冷凍の蜜柑なんてものは、それほど特筆すべき美味ではないと思うのだが、たしかにそれは、夏の旅行の|嬉しい気分《ヽヽヽヽヽ》の象徴だったといってもよい。買った時には、まだカチカチに凍っていて、皮を剥《む》くことも出来ない。それが、ゴトンゴトンと列車が動きだし、横浜を過ぎる頃には、窓から吹き込む熱風に融《と》かされて、まわりが柔らかくなり、露を帯びて手の中で冷たく濡《ぬ》れていた。それを私たちは「ツメタイ、ツメターイ!」などとはしゃぎながら、そろそろと剥いて食べた。皮は融けてふやけたようになっていたけれど、中身はまだ凍っていてシャキシャキとシャーベットのような歯ざわりだった。こういう果物の冷凍が始まったのは今世紀の初頭のことだそうであるが、それは昔のセンスでいえば王侯貴族の楽しみにも匹敵するものだったろう。季節外れの蜜柑を、しかもこの暑い夏に凍らせて食べる、それがどれほど豊かな気分を味わわせてくれたか、現代の子供にはもはや理解の外《ほか》かもしれぬ。いや、もっと昔、それが最初に実用化された頃のことを想像すると、それはまさに「雪中の竹の子」にも匹敵する、めくるめく贅沢であったに違いないのである。
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風景を見る目
イギリスには富士山がない。
このことの意味は、風景ということを考える上で、かなり重要な位置を占めると私は考える。
ひとつの国民が、何をもって「美しい風景」と感じるかということは、じつのところかなりそれぞれの国に個有の文化的な問題だと言ってよい。まずは、私たち自身のことを反省してみるところから始めよう。
中国の瀟湘《しようしよう》八景になぞらえた近江八景だとか、天橋立《あまのはしだて》・松島・厳島《いつくしま》の日本三景だとか、あるいは、もっと甚《はなは》だしく富士山の名勝だけを集めて富嶽《ふがく》百景だとか、日本では「美しい景色」というものに一定の型があるように思われる。それはどちらを見てもまことに徹底していて、いわば何らかのステレオタイプにあてはめて鑑賞するとでもいおうか、景色には「見るべき景色」と「見るに値しない景色」とがある、というようにはっきりと区別しているのである。
まず海辺ならば、白砂青松、さしずめ三保の松原あたりがその代表でもあろうか、緩やかに湾入した海岸線、穏やかに寄せる波、白く輝く清潔な砂浜、そして適宜傾斜し湾曲した松林、とこれが「|正しい《ヽヽヽ》海辺の美景」である(その風呂《ふろ》屋の壁画的美景!)。こういう類型の中に虹《にじ》の松原だとか高砂《たかさご》の松だとか、それはもう数え切れないくらいの、海辺の景色が含まれる。一方また、「松島」型のリアス式海岸の景色ならば、切り立った崖《がけ》、入り組んだ海岸線に、これまた穏やかな波と日本晴れ、そして島々に緑なす松、とこういうふうに決まっていて、この種の海岸としては、くだんの松島のほかに伊豆の南部西部、また伊勢志摩などがあげられようか。
そして、川ならば、滝、渓谷、と相場が決まっていて、中流以下は通常あまり鑑賞の対象にならないことになっている。
さて、山ならば「富士」。薩摩《さつま》富士、蝦夷《えぞ》富士、有明《ありあけ》富士、ナニ富士、カニ富士、と日本中いたるところに富士がある。富士が無いところでは、人工的に富士を造ってまで、とにかくあの円錐形《えんすいけい》の山容を愛《め》で続けて、もう千年以上過ごしてきたのである(もちろん、富士信仰というものもそこに考えておかねばなるまいけれど)。
こういう風景に対する一種の固定的発想法は、その背後に、たとえば「歌枕《うたまくら》」というような文学的定型発想が隠されていることに留意すべきである。それはすなわち、日本人が「この景色は美しい」と感じるとき、その裏には、そこに宿る魂のようなものを想定しておかねばなるまいということである。
「歌枕」というのは、なかなか分りにくい概念であるが、要するに、その土地土地に鎮《しず》まっている、ある種の魂、精霊というようなものが、その景物のなかに宿っていると考えるのである。そしてそれを歌に詠《よ》むことによって、その土地の魂を言葉で鎮魂することが出来ると考えられている「特別の土地」のことである。この場合「枕」はもとより「魂の宿るところ」の意味にほかならない(だから、子供の頃よく叱《しか》られたように、枕を踏んづけたりしてはいけないのである)。
こういう発想法が、進んで、「ものの見方、味わい方」を固定させる。
たとえば、春の景色ならば「桜の花」……すなわち吉野山の桜、それも桜ならば「散りぎわ」、花曇りに一陣の風、と果てしなく厳格に規定し、動かなくなっていくのである。すると、吉野山は、夏の深い緑に覆《おお》われた頃などは誰一人顧みない、ということになる。
紅葉ならば立田川、そこへ時雨《しぐれ》がパラパラと降りかかって、とか、三保の松原ならば爛漫《らんまん》たる春の午後、天神の梅には鶯《うぐいす》、嵯峨《さが》の竹林には雀《すずめ》、とさながら「画題」のごとく景色は固定され、春の立田川だの、吹雪の三保の松原だの、カラス飛ぶ竹林、なんてのは通常は鑑賞に値しないと看做《みな》されてきた。まして、普通の田畑の景色なんかは、とうてい鑑賞の対象とはなり得なかった(そういうものが絵画的鑑賞の対象になるのは、下って近代の到来を待たねばならなかった)。
そういうことどもの、象徴的存在が、初めに言った「富士山」である。「富士山」の意味というのはそういうことである。試みに日本人の子供に、「お山の絵を描いてごらん」と言ってみると、まずたいてい富士山のような円錐形の山を描くであろう。山はそういう格好をしていなければ美しくない、という感じなのである。もっとも、中国の山水が移入されてからは、たとえば妙義山のような巍峨《ぎが》たる山容の山もそれなりに愛好されるようにはなったけれど、所詮《しよせん》その感じは借り物だし、結局富士にはとうてい敵し得ないに違いない。まして、アルプスのような切り立った岩山の景色は、畏《おそ》れ敬いこそすれ、それを「美しい」とはなかなか感じることが出来なかったのである。
こういう思想は、おしなべての風景を「美しいから見るべき場所」と「どうでもよい見るに値しない場所」とに差別化する。
見よ、いかに多くの日本人が「名勝」を見るためにのみ旅行をするか! 目的は、さながら「絵葉書のような名勝」を見ることである。だから、それまでの道中は「どうでもよいクズ」と看做《みな》される。したがって、彼らは目的地の絵葉書的名勝に着くまでは景色なんか見ないで、ひたすら酒を飲んでよっぱらったり、カラオケを歌ったりして、別の楽しみにうつつを抜かしているであろう。窓の外には風景は存在しないかのようである。それゆえ、これらの「どうでもよい景色」は破壊し、抹殺《まつさつ》しても大事ないと考える。かくて、日本は、大半の殺風景な景色と、ごく一部の名勝地とに画然と分れてしまった。
ところで、こういう風景の鑑賞態度は、すくなくともイギリスにはまったく通用しない。
極端にいうと、イギリスには上に述べた意味での名勝地というようなものは存在しない。ローモンド湖のほとりで、悲しい恋をしたね、という歌を歌ったからとて、それはローモンド湖が特別の名勝であることを意味しない。それは他の何湖でもじつは構わないのである。それに対して「ちはやぶる神代もきかず立田川|唐《から》くれなゐに水くくるとは」と在原業平《ありわらのなりひら》が歌うとき、その立田川は多摩川ではあり得ない、とそういう違いがあるのである。
では、イギリスは美しくない国なのだろうか。
そんなことはない。むしろそれは正反対で、イギリスは世界でもっとも美しい風景を持つ国の一つである。
そのイギリスの風景の美しさとはなんだろうか。
まず、遥々《はるばる》とひろがる大地である。イギリスの大地は地図で見るとずいぶん狭小のようだけれど、それは実際のイギリスを知らない人の感覚である。イギリスには山がない。いや、もっと正確にいうと、山はあるけれど、ごく低い山ばかりで、それもスコットランドやウエールズの一部に偏在しているに過ぎぬ。国土の大半は平地であるが、しかしその平地は、関東平野のように真っ平らなのではない。日本の平野は沖積《ちゆうせき》平野で、いわば自然の埋め立て地である。しかし、イギリスの平野は寛闊《かんかつ》に波打つ年老いた丘の連続である。そこは水利に乏しく、地味は痩《や》せ、日本的な意味での農耕に適さない。そういうところに、イギリスの民は、草の種を蒔《ま》き、石で塀《へい》を築き、運河を通し、木を植え、何百年もかかって整備し、美しく風景を作り上げてきたのである。
それからまた、ムーア(moor)と呼ばれる荒れ地である。代表的なのは西のダート・ムーア、北のノースヨーク・ムーア。ムーアにはヘザーとかゴースなど、荒れ地に特有の背の低い草木が生え、それが、累々《るいるい》たる石の原を覆って冷涼な風に揺れているのである。そこには野生の馬などが住むばかりで、人間は殆《ほとん》ど居ない。
さらには、荒々しい海岸線である。松の木も白砂もない。石灰岩の白い崖《がけ》が目路《めじ》遥かに続き、禿《は》げ山《やま》のように背の低い草に覆われた岬《みさき》には、いつも強い風が吹いている。その景色は荒涼として人を峻拒《しゆんきよ》するかのようだ。
さてまた、ピクチャレスクな村々のたたずまいである。ロンドンを一歩出れば、そこは既に緑なす田園で、曲折する道を行くと、あちこちで美しく古びた村の家々に遭遇するであろう。白い壁の萱《かや》ぶき屋根、石積みの農家、煉瓦造《れんがづく》りのマナーハウス、十五、六世紀の建築などは一向に珍しくもない。
それらの、移りゆく景色の中、車を走らせて行くのは良い気持ちである。窓の外は、どこもここも、心の浮き立つような美景ばかりで、一瞬もカラオケなんかにうつつを抜かしてはいられない。
けれども、ではその美しい景色は何という場所ですか、と聞かれたら大抵のイギリス人は困却するだろう。なぜといって、そこは富士山や三保の松原のような意味での名勝地ではないからである。まったく無名の普通の土地、そこにこそイギリスの風景の魂は宿っている。イギリス人が「イギリスは美しい」と言うとき、それはそこらの村の家々の景色や、なんでもない牧草地の風景を対象としていることが多い。
イギリスの風や太陽や雨や、それらの風景画が見つめているものは、じつは「何でもない風景」であるにほかならない。その|何でもない風景を見る目《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が、またその風景を美しく作ってきたのである。このあたりの消息は、かのコンスタブルの風景画をあれやこれや想像することによって、容易に理解されるであろう。
あぁ、たしかにイギリスには富士山はない。しかし、別の言葉でいえば、イギリスは全土が富士山なのだとも言えるのである。
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池の幻影
陸軍参謀本部が明治十七年に測量して同十九年に出版した五千分の一の九枚組東京地図がある。近年復刻されたのを手に入れて、これを眺《なが》めているとまことに飽きない。
この五千分の一という縮尺は極めて詳細なもので、さながら飛行機に乗っていにしえの東京上空を行くが如《ごと》くである。参謀本部はよほど集中的に人手を投入してこの地図を作ったらしく、維新からまだいくらも経《た》っていないこの時期に、ここまで徹底的に正確を極めた地図を作ったのは驚くべきことである。なにしろ、一つ一つの建物の形まではっきりと描かれているのだ。
まだ飛行機というものの無い時代で、逐一地上を歩いて測量して回ったことを思うとそれは尋常な努力ではなかったことが推量される。
江戸時代には参勤交代の制度のおかげで諸侯の江戸屋敷が至るところにあった。それらは維新で多く接収されたり取り壊されたりしたが、それでも明治のはじめにはまだ少なからず残っていた。そうして、それらの屋敷には、ふつう広大な日本庭園が付属しており、池があり、木々が茂っていた。で、これらの庭々に植木を供給し手入れするために、江戸近郊には夥《おびただ》しい園芸(植木)農家が存在し、それらはそのまま美しい林地をなしていただろう。幕末から明治にかけてやってきた多くの外国人が、等しく東京を美しい都市として賛美したのは蓋《けだ》し過褒《かほう》ではなかった。江戸から明治初期の東京は世界でも例がないほど緑に満ちた美しい田園都市だったのである。
概して言えば、明治この方の百年あまりは、その清々《すがすが》しい田園都市を食いつぶして、殺風景な町に作り変えてきた歴史であると言ってもよい。たとえば、どれほど多くの池が失われたか、それをこの地図で検証すると思い半ばに過ぎるものがある。
今、こころみにその第七号図『東京北西部』によって見てみよう。これは市谷《いちがや》・牛込・早稲田辺をカヴァーする地図であるが、この中で一番大きな池は意外にも戸山が原にある。すなわち、今の早稲田大学文学部と学習院女子部の間の公園地は、この時代には緑なす丘に抱かれた巨大な池だったのである。おそらく、鴨《かも》や雁《がん》や白鷺《しらさぎ》などが打ち群れていたことであろう。
そこから今の早稲田通りを神楽坂の方へ上って、矢来町牛込警察のあたりまで来ると、そこにもまた広々とした緑地に囲まれた大小の池があったことが分る。あるいは、今のフジテレビのある所のすぐ南には細長い窪地《くぼち》があって、そこにも二つの池があったのであるが、それを現代の実景から想像することは難しい。この池の周囲は沼沢地《しようたくち》のようになっていて、それを囲む斜面は林だったと見えるから、これなども今残っていたらたいそう眺めの良い緑地公園になっていたであろう。
嘆いても昔は帰らない。しかし、いささかの閑暇を得て、古い地図でも子細に眺めて見たら、この百年の間に私たちが失ったものがいかに大きかったかということが分ろうというものである。
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蝋燭文書《ろうそくもんじよ》の夢
もう何年か前に亡《な》くなられたが、遠藤諦之輔《えんどうたいのすけ》という古書修補の名人があった。ただ職人として腕が良かったというばかりでなく、最晩年に至るまで、研究熱心な古書修補学の先進的学究でもあった。もともと宮内庁書陵部の修補専門官だったが、定年後は小金井の自宅を仕事場として、ごく貴重な筋の良い文献だけを心を込めて修補された。
その頃私は慶應義塾大学の斯道《しどう》文庫という文献学の研究所の研究員だったが、折々文庫の貴重書を修理するという時には、私が大切に遠藤さんのところまで持参して、修補が済むとまた取りに伺った。遠藤さんは少しももったいぶったところのない方で、私などが行くといつも仕事場に入れてくださり、「こういう虫喰《むしく》いはね、こんな風に裏打ち紙を手でちぎってね、一つずつとめるんです」などと懇切に隠さず教えてくださった。それがどれほど書誌学の勉強になったか分らない。
あれは何だったろうか……具体的な書名は既に忘れてしまったが、ともかく室町時代の大振りな写本だった。その本は一度水に濡れて紙がくっついて固まり、その上から真っ黒くカビが生えて、手も足も出ないほど傷《いた》んでいた。遠藤さんのところに持っていくと、包みを開けるなり「ははぁ、こりゃひどい。斯道文庫はいつもやりがいのある仕事を下さいますねぇ」と苦笑された。それから暫《しばら》くして伺うと、遠藤さんはちょうどそのくっついた紙を剥《は》がし終ったところだった。「水でくっついたものは水で剥がします。もっとも乱暴にやると朱の墨が流れちまうので、そこが問題でね」と言って、複雑慎重な仕事のあらましを包まず話してくださった。それからまた暫くして、修理が終った。取りに行くと、見違えるように美しく修補されたその本が高雅な気品を放って目の前に置かれていた。「一世一代の大変な仕事でした。けれどもこの仕事をやらせていただいたおかげで、正倉院の蝋燭文書を手掛ける自信が付きました」と遠藤さんは微笑《ほほえ》まれた。
蝋燭文書というのは真っ黒く固まってしまった古い御物《ぎよぶつ》の巻物で、その棒のように固まった姿が昔の和蝋燭みたいなのでそう呼ばれるのである。私は本当に遠藤さんに蝋燭文書を手掛けさせて上げたいと思った。また遠藤さんでなければそれは出来ないだろうとも思った。
しかし、それから間もなく遠藤さんは突然死んでしまった。蝋燭文書の修補はとうとう永遠に見果てぬ夢となった。
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父の腕時計
父親の話をしようと思う。
私の父は、林雄二郎といって、今は第一線を退いて日本財団の特別顧問をしているけれど、もともと所得倍増計画などに携わった経済企画庁の官庁エコノミストだった。
その父が、もうずいぶん昔、戦後の経済復興計画に関与していたころ、それはたぶんもう四十年も以前になるだろうか、何か国際会議の随員として海外へ出かけて行ったことがある。
その時父は、記念にオメガの腕時計を買ってきた。むろん自分の腕にはめるために買ってきたのである。まだ超薄型なんていうテクノロジーの開発される以前で、ずいぶんと厚ぼったい、そうして重厚な腕時計だった。しかし、その時計は当時として最新の自動巻き機能を備えており、ゆすると中でカタンカタンと巻き上げオモリが回転するのが感じられた。
まだ多くの時計は竜頭《りゆうず》をジコジコと巻き上げる方式で、クォーツなどというハイテク仕掛はまったく登場していなかった時分のこととて、このオメガの自動巻きは先進技術として目を瞠《みは》らせるに足るものだったに違いない。当時家の柱にかかっていた「柱時計」はいわゆる振子式のゼンマイ仕掛で、毎日一定の時間に、踏台にのって、チョウチョのような形の大きな金具でギュウギュウとネジをまいていた、そんな時代だったのである。国産品の品質はまだ本場欧米のそれには遠く及ばず、いってみればパーカーの万年筆とかオメガの時計とかは、その頃舶来上等の代名詞的存在だった。
父はその最新型を自慢して、「これはこうしてオモリが回転してその力でネジを巻くから、何もしなくても動き続けるのだよ」と、わざとらしく時計をゆすって見せたりした。そういうとき私は、「そうするとしかし、夜寝ている時なんかは止まっちまわないのかなぁ」と余計な心配をしたものだった。「ナーニ、昼間の動いているうちに充分ゼンマイを巻いておくから寝てる間くらいは大丈夫なのだよ」と父は笑って教えたけれど、そうすると「じゃ、巻き過ぎてゼンマイを巻き切ってしまいはせぬかなぁ」とまたもや心配になった。それが巻き過ぎもせず、止まりもせぬところにこのオメガの新式の大した発明があるもののように思われた。
それ以来父は、いつでもこの時計をして「ちっとも狂わない」と甚《はなは》だ感にたえたように言い言いした。そうして、何年かに一度ずつ代理店に持っていって、オーバーホールをしては大事に大事に使った。
やがて私が大学に入った時だったか、父は記念にやっぱりオメガを買ってくれた。それは、父のそれよりも遥かに進歩した薄型で勿論《もちろん》自動巻きのスマートな機械だったが、使い始めて間もなく、洗面所で木の床に落したら、あっけなくガラスが外れて壊れてしまった。その故障は代理店で直してくれたけれど、修理にずいぶんと時間がかかり、しかも直ったのちもどんどん遅れていって、一向に正確に動いてはくれなかった。それで、またもや修理に持っていくと、しばらくして「これでもう大丈夫です。正確に動くことはテスト済みですから」といって返されてきた。ところが、私の体から、なにか時計に悪い「気」でも発しているのか、その時計は私の腕にはめるとすぐとまたどんどん遅れ始めるのだった。
そのうち、世の中は安いクォーツや液晶表示のデジタル時計の時代になった。私は暫く抵抗していたけれど、私のオメガは父のそれのようには忠実に動いてくれなかったせいもあって、とうとう黒い合成樹脂に覆われたデジタル時計に乗り換えた。それいらい、私はこの軽くて正確無比なごくごく安物のデジタル時計を愛好しているのである。いま使っているのはその何台目かであるが、カシオのワールドタイムという、文字盤の中に世界地図が描かれてあって世界中の時間が瞬時に見られるという機種で、イギリスとしょっちゅうやり取りしている私のような人間には最も便利である。
ところで、驚いたことに、父はその古い古いオメガをいまだに愛用していて、その文字盤はすっかり黄ばみ、あちこち傷だらけになってはいるけれど、機能そのものはまったく健在であるらしい。
オメガの時代の人間である父に対して、オメガはなんだか悠久《ゆうきゆう》という感じの時間を刻み続けて四十年が経《た》った。一方デジタルの時代の子である私には、カシオの賢い電池時計がせわしなく時を刻んで、これは、五年に一度くらい、電池が切れるとともに買い換える。
しかもそういう何十年も前の古い時計が、いまだに修理可能なように部品が供給されているということ自体驚くべきことで、この時計の存在自体たしかに「オメガ的時間」といってよいのであろう。
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「じつに、くだらない……」
今から思うと、その頃《ころ》森武之助先生はまだ五十六歳かそこらだったのだが、大学二年生の私たちから見ると、ずいぶんおじいさんに見えた。長身の背を曲げるようにして、教室に入ってこられると、ちらりと私たち学生の方を一瞥《いちべつ》されたきり、何だ面白くもないという顔つきで、すぐに講義を始められた。それはいかにも軽妙な感じの池田|弥三郎《やさぶろう》先生とは好対照で、とっつきの悪い、おっかない先生のように見えた。
講義は文学史で、江戸時代の小説の歴史を講じられた。
だいたいが、先生の声はくぐもったような低い声調で、教室のちょっと後ろの方へ行くともう聞こえなかったが、さりとて一番前の方で聞くのは、先生に睨《にら》まれているようで気が進まなかった。要するに私たちは先生が恐《こわ》くてしょうがなかったのである。荒い声を出されるとか、鉄拳《てつけん》を振るわれるとか、そういう野暮な種類の恐さではない。先生の|こわさ《ヽヽヽ》は、もっぱらその「目」にあった。
講義中、先生は講義ノートを見られるかたわら、顔をノートから上げて学生の方をご覧になることがあった。そういうとき、先生の視線は漠然《ばくぜん》と教室の空中を泳がれるのではなく、いわば「睨みつける」ように学生ひとりひとりの目を正視されるのだった。お前らが勉強していないことくらい分っているぞ、と言っておられるようなその目つきはいつも少年のように澄んでいて、目が合うと、こちらの視線をはねかえして、網膜に突き刺さってくるようだった。
不埒《ふらち》な学生だった私は、したがって、たいてい先生の視線の射程から外れるあたりに席を取ったものだったが、そうすると困ったことに今度は先生の声も射程外になってしまって、先生がおっしゃったことを一向に聞き取ることが出来ないのだった。
講義はまことに坦々《たんたん》としたもので、江戸初期の仮名草子から幕末の合巻本に至るまで、江戸時代の小説の展開を辿《たど》って行かれたが、なにしろ、殆《ほとん》ど聞こえなかったので、どんなことを話されたものだかよく分らない。おおむね、まず作品をあげてその概略を話され、それからこの作者なり作品なりについて文芸的な意味での評価を下されるのだった。そのような締めくくりの批評を述べられる前には、たいがい喉《のど》にからんだタンを払われるように微《かす》かに口を開いて咳払《せきばら》いをされる。だから、その直後には少し声がはっきりして、批評のところだけは、射程外にいる者たちにも辛うじて聞こえて来るのである。が、私の印象に残っている限りでは、どういうわけか、それらはたいてい否定的な評価なのだった。
「これが、まーったく、くだらない悪ふざけばかりの作品で」とか、「これもまた、じつはまるで類型に過ぎないものです」とか、「これまた、なーんにも取柄《とりえ》のない無性格な男が、意味もなく泣いたり笑ったりするような、馬鹿《ばか》げた作品で……」などというように、次々と繰り出される一刀両断的な批評のところだけが、その声の調子、言葉の抑揚、すこし首を斜めにされて学生たちを睨みつけられるその仕草などとともに、今も彷彿《ほうふつ》と思い出される。
若かった私は、なんというくだらない馬鹿げた作品ばかり取り上げる先生だろう、と呆《あき》れてしまったが、そうはいいながら、不思議なことにそういう先生の弟子となって、実際くだらない作品ばかり多い江戸時代文学の研究者になってしまったのだった。
やがて、卒論、大学院、と森先生の膝元《ひざもと》で過ごしたのだったが、その間、指導らしい指導は殆どしていただいた覚えがない。しかし、それは先生が教育者として無能だったとか怠慢だったとかいうことでは決してない。いま、自分も教職にあって思うのだが、森先生は本当に優れた教育者だった。教育はただ知識を教えることではない。そんなことより大事なのは、弟子が「自分で自分を育てる」のを、どれだけ我慢強く見守ってやれるかということである。小乗的な二流の先生は、つい我慢しきれなくて口出しをし、弟子の自ら伸びる力を曲げてしまう。大乗的な一流の先生(つまり森先生のような)は、余計なことを教えない。教えずにじっと我慢していてくださる。その間に弟子たちは、試行錯誤しながら、自分で自分を育てて行くのである。
「これもまた、じつに、くだらない作品で……」と江戸時代の俗小説を切り捨ててやまなかった先生が、私たちの論文や研究に対して、「これもまた、じつにくだらない研究で……」と内心苦々しく思われたことも再々あったに違いない。けれども先生は、あの純真な眼差しでこちらの心の中まで静かに見通して無言で諭されるばかりで、口に出して「指導」されることはついになかった。そのことが、私にとっては、一生の御教えであったと、今になってつくづく思い当るのである。
教壇に立って、学生と対峙《たいじ》しながら、ときどき私は先生の口調を真似《まね》てみることがある。「三十度を超えるような暑い日に勉強なんかすると、頭が馬鹿になりますから……」などと言って学生をケムにまく時とか、文学史の講義で、ひとしきりくだらない小説の筋を話してから、「これが、じつに、くだらない作品で……」などとやっつけるとき、私の心の中には、あのなつかしい森武之助先生が、いますが如く蘇《よみがえ》って来るのである。
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運命の力
私たち夫婦は同い年で、いわゆるクラスメイトである。慶應大学の国文科で三年間一緒に過ごしたのだが、かといって学生時代から恋人だったのかと思われては困る(いや別に困りはしないけれど、事実に反する)。
よく、恋愛結婚ですか、それともお見合ですか、などと聞かれることがあるけれど、世の中にこの二つしか結婚というものがないように思っている人が多いのは、まことに怪しむべきことで、なにしろ私たちの場合は、そのいずれでもない、と言わざるを得ないのだ。
では何かというと、そうさなぁ、「運命結婚」とでもいうところか、とそう答えるのが一番当っているだろう。
クラスメイト同士だから、もちろんお見合ではない。しかし、学生時代の私たちは、単なる|お友達《ヽヽヽ》以上の何ものでもなかったのである。しかも、私は一年生の時の遊び過ぎと二年生の時の病気がたたって、二年から三年になるとき立派に留年し、結果的に妻の方が上級生となって先に卒業してしまった。そんなわけでじつのところ一緒のクラスに在籍したのは二年生の時の一年間だけだから、それほど親しくするチャンスとてもなかったのである。
その上、どういうわけか国文科の女子学生の間での私の評判は散々で、頗《すこぶ》る女ったらしの不真面目《ふまじめ》男のように「誤解」されていたのに対して、彼女は至極真面目な優等生だった。つまり正直のところ、「相手にしていただけなかった」のである。それでも、色白で可愛《かわい》かった彼女に、私は勇気を振るって電話を掛け(これは本当です。私は意外に純情だったのである)交際を申し込んだことがある。そのときの彼女の返事は「あなたのような不真面目な人とは三十秒だっておつきあいする時間はありません!」というニベもないものだった。あとで聞いたところでは、これを脇《わき》で聞いていた彼女の母親が「男の方に対して、ああいうひどいことを言うものじゃありませんよ」とたしなめたそうである。
かくして、私たちはまるで無関係のまま卒業し、彼女は大手の銀行に勤め、私はそのまま大学院に進んで一年余りの月日が経った。
二十四歳になったばかりのある春の日、私は友人のO君の結婚式に招かれてホテルオークラに行った。その日は朗《ほが》らかな春の良日で、朝起きると私はどういうわけか突然に彼女に手紙を書く気になった。それはまったく理解を超えた天来の衝動にほかならなかった。ところが、やがて出かける時間になったので、私はその手紙を書きさして家を出たのである。
ホテルについて、廊下でうろうろしていたところ、廊下の向こうの角から、ひょいと彼女が現れた。彼女は彼女で、全然別の結婚式に列席するために、そこにやってきたのである。その時、頭の中でジャジャーンと銅鑼《どら》が鳴ったような気がした。
こうして出合い頭にばったりと再会したとき、すべてが決ってしまったようなものである。その日私は彼女を家まで送り、それから何回か会ったあと、二ヶ月程で婚約し、半年後に結婚した。聞けば、あのホテルで再会したその日、彼女も電車の中で突如私のことを思い出し、「チェッ、なんだこりゃ」と思ったのだそうである。だからホテルの廊下の向こうに私の姿を認めた時、彼女の頭の中でもジャーンと銅鑼が鳴ったのであったらしい。
誰もがこういう不思議な経験をするのかどうか、それは知らない。しかし、以上書いたことはまったく正真正銘の真実で、何の誇張も脚色もない。
「こりゃぁ、運命かもしれない」
そう口に出して言ったかどうか、それは覚えていない。しかし、お互いにそう思ったことは事実で、たぶん「かくなる上は仕方がない、結婚するか」とそのくらいのことは言ったような気がする。
私の場合、何か人生の節目節目に、こういった不思議な事が起こる。それを後に私たちは「御先祖様のお示し」と思うようになった。だから、私たちの結婚は恋愛でもお見合でもなく、「運命の力」だったと、今顧みて思うのである。
五月の良い日に、私は紋付を着て彼女の家へ正式の申し込みに行った。妙に畏《かしこ》まって、お嬢様を頂戴《ちようだい》したい、という旨《むね》を申し述べると、彼女の父親が俄《にわ》かに座布団《ざぶとん》から下りて正座し「謹んでお受けします」と横綱伝達式の角力《すもう》取りみたいなことを言った。みんな照れながら、それでもなかなか麗《うるわ》しい景色だった、と今も微笑ましく思い出される。
まだ私たちの娘は十六歳だから、当分先のことであろうけれど、やがてこういう日がやってこよう。その時にやはり御先祖様が運命をお示しくださって、良い青年がやってきたら、私も座布団から下りて畏まり「謹んでお受けします」と言うことにしよう、とひそかにそう思っているのである。
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洋行先生緑蔭清談
「先生もなんでしょう、最近洋行から御帰朝になったについちゃ、だいぶんと珍談なぞがござんしょうねぇ。まぁもともとお嫌《きら》いな道でもなし、ちょいとこのソレガシにもお教えが願いたいもんですな」
「いやいや、あたくしてぇものが、ぜんたい堅いうえにも堅い人間だからね。全日本石部金吉組合の組合長てぇくらいのもんですからね、なにしろ。とは申せ、なにごとも学問と心得てですな、このね、あたくしも、エー、ずいぶんと彼《か》の地のいわゆるなんですな、ほら例のちょっといけない種類の物をね、ま人並には、いや人並より少ーし詳しく観察研究を加えては参りましたがね、いや御披露《ごひろう》に及ぶとなると、こまりましたなぁ」
「そもそも、どこが一番の違いです、わが国と欧州のワジルシ(注、ポルノ本の意の大和言葉)世界は?」
「さよう、まずごくおおまかに一口でこれを言ってしまえばです、基本が違いますな、その人間の肉体というものについてのね、そのォ……認識の根幹がね」
「ほほう、それはまたどういう塩梅《あんばい》式です」
「キミ、ひとつ真夏のミュンヘンへ行ってごろうじろ、ってもんです、ミュンヘンのね、イングリッシャーガルテンてえところにね、毎日裸体主義者が出ます、それも三人五人てぇな生易しい数じゃありませんよ、二百人三百人てぇ具合式だ、これが……フフフ、そうすると、なんだろ、キミのように頭脳がワイセツに出来ている仁は、なにかヨコシマなことを想像するだろ。いけませんよ、それじゃ日本の警察と一緒ってもんです。裸体自体がワイセツだってぇ考えかた自体がどだいいけませんよ。だいいち西洋じゃ人間の肉体てぇものは神がオノレの肉体に似せてお造り遊ばしたってぇくらいのもんです。裸体それ何の恥ずるところあらんや、だ!」
「なぁるほどねぇ。じゃそのガルテンってところでは白日青天みな裸体ってわけですか」
「あぁ、そうとも。裸体ったってジイサンバアサンが背中の流しっこしてる湯治場みたいなものを思い浮かべちゃいけませんよ。言ってみれば老若男女こぞって、って図です。いや、そりゃきれいなもんだ。でね、実はこの主義にはずっと昔にディーフェンバッハという畸人《きじん》の絵描《えか》きが居てね、それがこの人間は裸体自然をもって貴しとすってんでね、実行して歩いた。そうですな、本朝で言や、例の『全身顔にせよ』の及川裸貫《おいかわらかん》さんの元締の格でね。あの国は全体寒いんだから、偉いもんですよ」
「先生、ドイツのラカンさんの話じゃなくて、そのワジルシの話が願いたいんですがね」
「せわしい男だねキミも。だんだん順序でこう行くからさ、あせっちゃいけませんよ……そこでさ、いいかい。だからね、あちらではね、裸になって人前に出るとか、裸を衆人の鑑賞に供えるなんてことは、べつに何の不都合もないってことです。こりゃギリシャローマ以来の伝統ですよ」
「するってぇと、裸だけじゃ、こりゃワジルシにはならないってもんですね」
「あぁ、御明察。そのとおりですよ。だからね、本来は裸に対するワイセツ感はあまりない。問題はね、ほらアダムとイヴなんてんで、禁断の林檎《りんご》を食べたのがいけない、つまりそのエロス的行為に及ぶってのがけしからぬ罪だ、とこういうわけなんだね、行為《ヽヽ》が。それをキリスト教的倫理観が、見ちゃいかん、しちゃいかんと抑圧を加える、そうすると、そこを見たいとなるのが人情でね。西洋ではな、エロスというものは罪と背中合わせなんですな。分るかね、キミの脆弱《ぜいじやく》なる頭脳ではちと荷が重いかな。そこでだね、ヨーロッパ大陸のものは、たとえば、ホモ・レズの同性愛とかね、子供や獣を相手にするなんてぇ、まあどうもけしからぬ趣味とかね、又はサド・マゾ、その一部門たるボンデージあるいは、スパンキングなんてのが格好の素材となると、かくの如《ごと》しさ」
「なんです、そのスパンキングてのは?」
「あぁ、これはそのたとえばね、修道院とか女学校の寮とかそういう規律厳しきところでだね、破戒密通とか、そういう|いけない《ヽヽヽヽ》ことをした修道女だとか女生徒なんてののお尻《しり》を出してね、ペンペンするってぇか、つまりお仕置もののことさね。つまりなにがワイセツで男どもの劣情を刺激するかということは、一見単純で生理的なことのように見えますがね、どうしてどうしてさにあらず、じつはこれがすぐれて文化的というか、社会の文化的構造と密接不可分の関係にあるということである」
「どうも先生の話はむつかしくていけない。そう興奮しないで、もっとこう易しく願いますよ」
「いや、何をいうか、キミは。あたくしはちっとも興奮なぞはしていませんよ。ただ道理の至極というものを述べただけでね。エヘン……ともあれ、あちらのものはね、裸体よりも行為それ自体だ、しかもじつにまた即物的でね、あたくしがドイツで見学した映画なんてものも、まことにどうも恐れ入ったしろものでね。男一人で三人の若後家を喜ばしむるてぇ趣向です。これには、ハッハ、笑いました。それはね、男が、ムフフフ、尻の所に後ろ向きに人工ペニス、つまりは西洋張形ですな、こいつを装着して、牛の角じゃあるまいし前後両方向に向いて二本のペニスがあるかたちになる。しかして前より一人、後ろより一人と、二人の女が取り掛かってな、前へ突かんとするときは後ろは抜かんとし、前を抜き差しせんとするにおいては後ろを突き倒すという次第で、ハッハッハ、よく考えたものではあるがね、で、もう一人はってぇとね、機械仕掛の電動道具で、こうブイーンとイカされちまうってわけさ。こいつだけはどうも割が悪いな、どうでもいいけれど……いやいやつい話が脱線してしまった、……ともかく肉体はこれを肯定する。だからワジルシかそうでないかの境目ってのはね、性行為それ自体を行ってるかどうかってことでな、ま、動作決定説とでも言うかな。だからね、かのガルテンの方でも素っ裸の若い男女なぞが熱烈に抱き合って接吻《せつぷん》してるんだがね、それだけでは公然にワイセツ行為をなしたことにはならぬらしい」
「すると、先生、日本はどういうことに……?」
「さよう、日本では……昔は裸体ということで羞恥心《しゆうちしん》を感じるというのはな、まぁ、とりわけ女の下半身に限られていた。胸を隠すなんてのはありゃごくごく新しいことです、いや世界的にみれば、あの乳房を乳当てによって隠蔽《いんぺい》するというのは、これは西欧世界のごく風変りな習俗に属する。あれは奇習ですよ、奇習! あたくしが若かった頃にはね、温泉場なんぞに行くと、こう宿の前の道に縁台を出してね、そこにずらっとおカミさんやら娘さんやらが並んで夕涼みなんかしてたもんです。そういう時は腰巻一丁でね、胸は平気で丸だしですからね、電車の中でおっぱいだして赤ん坊に乳をやるなんてのも、こりゃまた平気の平左だった。それ故《ゆえ》、だね、上半身を出して化粧する女、なんて絵はね、こりゃまったく春画や|あぶな絵《ヽヽヽヽ》の範疇《はんちゆう》には入らない」
「そうですか、じゃ昨今|流行《はや》りの巨乳なんてのは?」
「あぁ、あぁ、もっとも下らない。昔の日本の男はね、あんなものを見ても、ははあ、牛だね、どうもありゃぁ、とぐらいしか思やしないよ、じっさい」
「では伺いますがね、日本人は何に感じたんです?」
「ずばり、シモハンシンだな」
「ははあ、シモですか、やっぱり」
「シモです。例の久米《くめ》の仙人《せんにん》だってね、女の乳なんぞ見たって、墜落しやしないよ。あれはふくらはぎを見たんで、つい邪念が起こって通力が失せるんだからね、つまりは劣情を刺激された、とこういうわけさ。……まだある。歌舞伎《かぶき》芝居だってね、もとはと言えば出雲《いずも》の阿国《おくに》という美形の女が念仏踊りをやる、踊るってことは跳ねるってことだよ、そうすりゃ、このね、着物の裾《すそ》んところから、ふくらはぎだの、どうかすると太股《ふともも》なんてのがチラリチラリと見えるだろ、これですよ、エロチシズムってのはね、日本人の男にとってのさ。こっちは動作より前に肉体そのものに既にワイセツ性が宿ると考える、それが伝統になってるんだから仕方がない。そもそも大昔の神話なんぞを読むとだね、人間の体にはもともと汚《けが》れがある、とこういう塩梅式だ、とりわけ女の体は血の汚れというものがある、出産とか月の障《さわ》りとか、みなこれ血の汚れとして忌避隠蔽するわけだ。そこに、羞恥心や性的刺激の中心が求められるってわけでね」
「すると、こうワジルシのほうも、シモですか」
「アァ、シモだね。少なくとも浮世絵のワ物なんかを見てもね、女の上半身には殆ど全く何の注意も払っていない。ひたすらシモ半身です。ご覧、あんまりひどいのはお前さんのように血気の者には毒だから、まあ上品なところを見せて上げるとね、こりゃ『文の便り』って、江戸時代のラブレターの書きようを教えた、まあバカな本だがね、ここに『男女交合秘伝』とあるだろ」
「こういうクニャクニャした字で書いてあっちゃソレガシには読めませんが」
「じゃ読んでやろう……フムフム、フッフッフ、ムヒヒハッハッハ、なるほどなるほど」
「先生独りで楽しんでちゃずるいですよ」
「あぁ、そうか分った分った、いいかここにこう書いてある、『男女ひそかに対面し、話しなどするに、女の顔赤くなるは心中に淫慾《いんよく》の念きざすしるし也《なり》。其時男子の玉茎を女人の玉門にあてがふべし』とさ、どうだ単刀直入なもんだろう。いい気なもんだね、女の顔が赤くなるだけで、その先を全部パスしていきなり玉門にあてがうところまで行っちまうんだからなぁ……唯《ゆい》シモ主義ですな、日本は。で、こっちにはもともとキリスト教的な禁欲主義なんぞありゃしなかった。禁欲抑圧のあるところに、必ずその反世界としての変態性欲が出現する。サドやマゾッホなんぞが彼の地に出現したってのは決して偶然でない。その意味では、日本では性そのものがタブーではなかったのでな、いきおい変態的なことよりも、性行為そのものを陰陽道的に解析したり錬磨《れんま》したり、とある意味では健全、小市民的です。それと、覗《のぞ》き趣味。日本のワジルシにはね、必ずこう、物陰から|覗く人《ヽヽヽ》が配置される、それによって見る人は覗き見的にその視点に同化する寸法だな、江戸時代の小説には豆男物と言ってね、一寸法師とか蠅男《はえおとこ》みたいな主人公があちこちの閨《ねや》を覗いて回るなんてしょうもない趣向があるがね、その覗き趣味の一変形です。そうして、その隠されたシモ半身を覗くというところに大興味があるんだから、そういう性的風土の中ではサド・マゾ的な風潮は助長されない。それが顕著に出て来るのは明治になって儒教的道徳による禁欲純潔主義が抑圧を加えるようになってからでしょうな」
「すると先生、あのAVのモザイクなんてのは?」
「おうそれさ、それこそ人間の肉体それ自体、つまりとりわけ女の陰毛とか性器とかだな、そういう|モノ《ヽヽ》に対する伝統的抑圧、隠蔽意識ってものがこういう形に結実するのだな、つまり、それだからその見えない部分を妄想《もうそう》して劣情を刺激するというわけでな、こりゃぁ屈折してるね、ナニ、あたくしが研究したところでは、あのモザイクの無いやつを見ると何もしてなかったりしてな、ひとつも面白いことはない、いや先だってもね……」
洋行先生の清談ますます佳境に入るや緑蔭|涼風裏《りようふうり》にキョキョキョとホトトギスの鳴きて渡りぬ。さては虚のまた虚か、夢のまた夢か、はた覚えずなりぬ。
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マタタビ採り
このごろはすっかり行かなくなったが、十五年くらい前までは、夏は蓼科《たてしな》の山奥の山荘で過ごすことが多かった。その別荘地を管理する会社のKさんは、この辺りで生まれ育った人で、そこらの山に滅法詳しかった。そうして、何も分らない私たちを、夏はマタタビ採り、秋は茸《きのこ》狩りに連れていってくれたものだった。
マタタビは正しくはミヤママタタビというのだそうで、その名のとおり、山奥の古木にまつわりつく蔓性《まんせい》の植物である。Kさんは「マタタビィ採り行きましょ」と朴訥《ぼくとつ》な信州弁で誘いに来てくれる。見れば地下タビを履いて、腰に竹の編み籠《かご》を括《くく》りつけ、万全のそなえである。私たちも恐る恐る運動靴に軍手というようなおぼつかぬ拵《こしら》えで、あとに従った。
Kさんは見晴らしの利《き》く崖《がけ》っぷちなどに立つと、手かざしをしてそこらの斜面をぐるりと眺め回した。そうして、目敏《めざと》く何かを見つけると、やおら指さし「あれあれ、あれせ。あの大きな木んところに、葉っぱの半分白くなったマダラみたいな蔓草《つるくさ》がからみついているでしょ。あれが、マタタビせ。さぁ、行って採りましょ」とそんなことを言ってずんずん崖をおりていった。やがて目的の古木のところにたどり着くと、ひょいひょいと身軽に枝に身を委《ゆだ》ねて、あっという間に登って行く。私たちも真似をして枝の低いところにつかまってみたが、とうてい彼のようには登ることができないのだった。ところが生憎《あいにく》マタタビは枝の高い日当りの良いところに沢山なっていて、下のほうにはあまり実っていないのである。Kさんが籠に一杯採る間に私たちは辛うじて一握りも採れれば良い方だった。Kさんは気の毒がって、私たちにたくさん分けてくれた。
マタタビの実は、キーウィを青くしてうーんと小さくしたような姿の果実である。味も、よく熟したのは甘くてジューシーでとても食べやすい。Kさんたち地元の人は、それを塩漬《しおづ》けにしたり、マタタビ酒を作ったりして賞味するのだったが、私はそのどちらでもなく、そのまま生で食べたり、または砂糖で甘く煮て、爽《さわ》やかなジャムを作ったりした。ジャムはその実のなっていた高い空の、青い空気の香りがするようだった。マタタビは、たまに店で売っていることもあるけれど、あの山奥のそれのような美味ではない。Kさんも今はその会社を辞め、マタタビのジャムも、口にしなくなって既に久しい。
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『青猫』の頃
手元に二冊の汚れた新潮文庫がある。昭和四十年第十三刷の『月に吠《ほ》える』と、昭和三十八年第六刷の『青猫』である。どちらも実は、私が高校生の頃早稲田の古本屋で買ったものであるが、とりわけ『青猫』の方は愛惜して常に懐中に携行していたので、角は丸くなり、あまつさえ背のあたりに大きな染みが付いてしまっている。たぶん鞄《かばん》の中で弁当の汁か何かが付いたものであろう。
いま、それらの古びたページを開くと、過ぎ去った帰らぬ日々が胸中に去来して、なんだかいたましい思いにとらわれる。そのところどころに丸印を付けてあるのは、当時とりわけ愛誦《あいしよう》した作品であろう。
たとえば「群集の中を求めて歩く」がそうだ。
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私はいつも都会をもとめる
都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪《なみ》のやうなものだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲の|ぐるうぷ《ヽヽヽヽ》だ
ああ ものがなしき春のたそがれどき
都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか……
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当時私が通っていた都立戸山高校は、新宿と早稲田の中間くらいの所にあって、屋上から望めば、黒々とした新宿のビル群が見えた。さしあたり、私にとっての都会というのは、その新宿の雑然たる街路であったろう。折節の、春の愁《うれ》いとでもいうような少年らしい憂鬱《ゆううつ》の中で、私はようやく大人になろうとしていた。そうして家庭の無風状態から、朔太郎のいわゆる「都会」の中へ出て行こうとしていたのである。
無論しかし、私は無頼《ぶらい》の徒となったわけでもなく、当時流行のフーテンの群に投じたわけでもない。
ラグビー少年でもあった私は、髪は短いスポーツ刈りにし、日に焼けて浅黒い健康な顔色をしていた。たぶん人から見れば、神経症の青白い朔太郎とはまるで無関係な種類の人間に見えたに違いない。しかし、私はひそかに詩を読み、その言葉の呪術《じゆじゆつ》に陶然として、朔太郎や三好達治の模倣のような言葉をこっそりとノートに書き付ける毎日を送っていたのだ。
当時、早稲田大学近くの官舎に住んでいた私は、高校からの帰り道、いつもあちこちの古本屋を冷やかして歩いた。たぶん『青猫』もそんなふうにして買ったものであったろう。その頃私はまた、忙しい受験勉強の合間に、時折新宿の裏町を彷徨《ほうこう》することがあったが、それはまったくこの『青猫』を気取っていたのである。
級友の中には、早くも紅灯《こうとう》の巷《ちまた》に出入《しゆつにゆう》する早熟な男もないではなかったが、私は甚《はなは》だ幼稚で、本当の放蕩《ほうとう》にはすこしも興味がなく、ただ、憂鬱そうな顔をして、新宿の街路を南から北へ東から西へ、さまよい歩いていたに過ぎない。
さて、そういうとき、心の中では何を思ったか。
[#ここから3字下げ]
鬱蒼《うつそう》としげつた森林の樹木のかげで
ひとつの思想を歩ませながら
仏は蒼明の自然を感じた
どんな瞑想《めいそう》をもいきいきとさせ
どんな涅槃《ねはん》にも溶け入るやうな
そんな美しい月夜をみた。
「思想は一つの意匠であるか」
仏は月影を踏み行きながら
かれのやさしい心にたづねた。
[#ここで字下げ終わり]
この「思想は一つの意匠であるか」という詩編にもまた、丸が付いている。こういうぞっとするような言葉の美しい配列を脳細胞に刻みつけながら、私は朔太郎という詩人を一つの奇跡だと思った。そして、言葉というものが、どれほどの奥行きと、どれほどの艶麗《えんれい》さを持ち得るものか、あたかも金縛りにあったように、思い知ったのである(今でも私は、朔太郎の、これらの言語魔術の呪縛から逃れられない)。
思うに、私にとっての朔太郎は、最初に出会った「文学」だったのである。その後、漱石を知り、鴎外を読み、古典の世界に進んだが、散文では鴎外の『澀江抽齋《しぶえちゆうさい》』に勝るものを見ず、詩では朔太郎、とりわけ『青猫』以上の作を知らぬ。
評論家的な意味で、私が『青猫』を「理解」したかどうかとなると、これは怪しいものである。しかし、表現としての言語の美を味わい尽くしたという意味では、じつは自ら些《いささ》か恃《たの》むところが無いでもないのである。
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父の激励
私たちが少年だったころ、父は経済官僚として、ひどく忙しい生活をしていた。それゆえ、よそのお父さんたちのように日曜日にキャッチボールをしてくれたとか、遊園地へ連れていってくれたとか、およそそういう記憶がない。だいいち普通の日は、朝は早くから出かけてしまい、夜は私たちが起きているうちには帰ってこなかった。だから平日の夕食に父がいたことはほとんどまったくなかったといってよい。それでいて、たまの休みの日には、むずかしい顔をしてせっせと原稿を書いていたり、または本を読んでいたりで、話しかけると「考え事をしているのでウルサイ」などとおこられたりした。そのかわり、そういう休日の夕食のときなどは、いつも朗らかで、フランスの珍談など、愉快に話をして飽きなかった。それゆえ、私たちは、父親というものは、日頃は仕事、休みの日は勉強、そうして食事のときは愉快に|おしゃべり《ヽヽヽヽヽ》をするものだと思いながら育ったわけである。
とはいえ、彼もまた、子供たちに対して|いちおう《ヽヽヽヽ》父親らしくしたいという気持ちはあったに違いない。そういう「罪滅ぼし」みたいな気持ちは、父の場合「食べ物を買ってくる」という形で表現されるのが普通だった。
私が中学三年生で、ちょうど高校受験の勉強にいそしんでいたときのことである。父は突如として、見たこともないほど巨大で上等なバナナを山のように買って帰ってきた。そうして「望《のぞむ》が勉強をしているので陣中見舞いにこれをやろう」というようなことを言った。私は、なんでまたバナナなんだろうと思いながら、その胸が焼けそうな大バナナを黙々として食べ「ありがとう」と礼を言った。そうして希望の高校に受かった。
それから三年|経《た》って今度は大学受験になった。私はなかなか勉強家だったので、毎日夜遅くまで一生懸命机に向かって受験勉強に励んでいた。すると、父がこんどは新聞紙にくるんだスッポンを買ってきた。そうして「受験をするには精をつけなければいかん」と言った。私も母も、この奇体なる激励に首をひねりながら、それでも母が必死で料理し、食べたら旨《うま》かった。そこで「これは旨い。ありがとう」と礼を言った。これがスッポンを食べた最初である。そのせいか私はめでたく大学に合格したが、よりにもよって生きたスッポンを買って帰ろうと思うに至った父の心理は、いまだによく理解されない。
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しびれる
遺憾ながら、具体的な名前を失念してしまったのであるが、近世のドイツを統《す》べていたある精力絶倫の君主が、おのれの生命と活力の永劫《えいごう》ならんことを希求して、当時の名高い医学者にその方途を探らせたことがある。その時、この医学者と生理学者と化学者と、そして幾分山師的素質をも兼ね具えた御用医者が発明した方法とは、次のようなものであった。
即ち、全く窓の無い一辺五メートル程の小部屋を作り、出入りは厳重に気密を図った小さなドアから行うこととする。この部屋には、一方の壁に直径十五センチ程の丸い穴が開いていて、その穴には、ぴったりとガラスの導管がはめ込んである。さて、この部屋に、十三歳の処女を五人、全く裸にして押込め、暫《しばら》くそのまま放置する。かかる小空間に、体温の高い若い女が五人も居るわけであるから、程なくその体温で部屋の空気が暖められ、空気は次第に膨張して、一方の壁に設けられた通気管を通して、外へ流れ出てくる。王は、おもむろにその導管に鼻を接して、この処女たちの体から発した芳醇《ほうじゆん》なる香気を胸一杯に吸入するというのである。
果たして本当にこの装置を以《もつ》て王が長命を得たかどうか、それは定かでない。しかし、何だか分る気がするではないか。
似たような話は、中国にもある。有名な、唐の玄宗皇帝が、まだ楊貴妃《ようきひ》に巡りあう以前のことである。彼は若い頃はなかなかの名君で、国は平らかに治《おさま》っていた。その玄宗が、冬の寒い頃、世にも麗しい方法で暖を取ったことが知られている。まず、後宮の美女の中から二十人程の嬪妃《ひんひ》を選び出して、これを自分の座る玉座の周りに隙間《すきま》無く立たせる。すると、如何《いか》なる寒風も、これらの乙女たちの体温で暖められて、皇帝の所には馨《かぐわ》しい暖風となってほのかに届いてくる。これを「風流陣《ふうりゆうじん》」と言った、と物の本には書いてある。
ある号の「クウォーク」誌によると、リンゴとバナナの区別すらつかなかった「鼻オンチ」の青年が、異性のTシャツの匂《にお》いを嗅《か》ぎ当てるテストでは、正確にこれを識別し、しかもこの実験に参加した男女とも、同性のTシャツやパンツを嗅ぐのは嫌《いや》だが、異性のそれについては、寧《むし》ろ欣然《きんぜん》としてこれに当ったというのである。
女ばかりではない。男でもたとえば光源氏のような理想的美男ともなると、全身から馨しい匂いを発し、その歩いたあとには、ほのぼのと残り香がたちこめた。これを「追い風」と言った。学習参考書などでは、これを「衣《きぬ》に焚《た》き込めた香の匂い」だと説くのであるが、蓋《けだ》し人の心の奥深さを知らない、女学校の石頭先生的な愚かな考えである。私は男であるから、若く美しい青年の体から如何なる匂いが発せられるか、知りもしないし、また興味もない。しかし、紫式部のような女たちには、それが「心を痺《しび》れさせるもの」として、感覚せられたのに違いない(実は既にこの男の体から発せられる性的誘引物質は一つだけ解明され、フッフッフッ、それを配合した男性用の香水が発売されている)。翻《ひるがえ》って、私は長らく女子大の教師であったから、若い美しい女たちの体から、名状し難い芳香が放たれているのを知っている。これは香水や化粧品の匂いではない。そういう人工的な香料のはざまに、鼻腔《びこう》を穿《うが》って男の理性を麻痺《まひ》させる毒が紛れているのを、私は知っている。ところが、何という皮肉であろうか、この「痺《しび》れ薬」は、女たちが結婚して子供などを産むに及んで、跡形もなく消えてしまうのである。すると、男たちはハタと正気に返る。正気に返ったところで、男たちの周辺には、良い香りのする若い娘たちが、うようよしているのである。しかし、嗚呼《ああ》! 女たち自身は、ついぞそのことに気が付いていないらしい。おしなべて、世のおとこおんなの悲喜劇は、こうした罪な匂いに発祥するのであるかもしれぬ。人間、下半身には別の人格がある、などというのは、かかる消息を言うのであるが、思うにこれはやはり一種の性フェロモンというべきものであろう。
性フェロモンの誘惑によって惹起《じやつき》される性的衝動が、極めて原始的なあるいは動物的なものである以上、いかに理性を道徳を錬磨《れんま》したところで、これを十全に打消すことは出来|難《がた》い。恐らくは、脳味噌《のうみそ》の内部に於《お》いて性衝動を司《つかさ》どる部位が、たとえば鼻の粘膜から来た匂いを感知する部分と極めて近接し、ぬき難い連続性を有しているのに違いない(だからこそ、なべて動物は百里の彼方《かなた》の異性を匂いで発見して匹偶《ひつぐう》を得、種の保存が可能になるのだ)。浜の真砂《まさご》は尽きるとも、世に下着|泥棒《どろぼう》なぞの種は尽きまじく思われるのは、案ずるに当然至極の道理であったのだ。
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大学院時代のことども
慶應義塾大学院の修士課程に進んだのは、私が二十三歳の年だったから、それから早くも四半世紀近い年月が流れ去ったことになる。なんだか遠い昔という気もするいっぽうで、昨日のことのように鮮明に思い出されるところもある。それだけ、私の一生にとっては大切な時代だったということかもしれない。
当時は、大学院は修士課程二年と博士課程三年はまったく別の存在で、修士課程に入るには、大学四年の時に入試を受け、そうして博士課程に入るには、修士論文を書きながら別に博士課程の入試をもう一度受けなければならないことになっていた。そして、それはだんだんと専門的に難しくなっていく仕組みである。
学部のころの私は、好き嫌いの激しい学生で、近世文学のこと以外はいっこうに勉強した覚えがない。ところが、大学院の入試問題というのをみてみると、古代から近代まで満遍なく出題されるようであった。さて、これは困ったと思って、それから私はにわかに折口信夫《おりくちしのぶ》などを読んだ。修士課程の入試問題は、比較的小さな出題がいくつも出る形式で、むろんすべて論述式だった。もう何が出題されたかすっかり忘れてしまったけれど、連句の渡りを解釈・鑑賞する問題やら、古事記のなにかやら、あれこれと答えた記憶がおぼろげにある。博士課程の問題は、これに比べるとなにか茫洋《ぼうよう》としたつかみ所のない出題であるのが普通で、それだけ、付け焼き刃では歯が立たないのであった。私の受けた時は、なんでも「文学におけるリアリズムについて述べよ」というようなことだったような気がする。がさて、この問にどう答えたか、もう忘れてしまった。
大学院に入ってみると、そこは想像していた以上に恐ろしく勉強をさせられるところだった。なにしろ、たしか修士課程の定員は一学年六人かそこらで、そのなかには古事記、万葉から漱石、太宰《だざい》まであらゆる専攻の学生が含まれる。ということは各時代一人ずつというほどのことであった。早稲田などとはことかわり、修士課程というのは、ようするにまだ本当の専門課程ではない、というのが慶應の考え方であった。学部の時の勉強などはノーカウントである。大学院になって、はじめてほんとうの「方法」を学ぶのだという考えだったのであろう。修士課程の二年間に、必修で八科目を履修することになっており、その外に、個人指導のような形で修士論文があったのだが、この八科目を二年に分けて四科目ずつ取るということは、原則として許されなかった。私たち一年生六人は、この八科目をすべて一年生の時に取ってしまわなければならないという慣例だったのである。ところが、この八科目には、古代から中古・中世・近世・近代と総《すべ》ての時代が網羅《もうら》されている。それを各自の専攻が何であれ、すべて取らなくてはならないのである。私たちは、だから、古代専攻の学生も近代専攻の学生も、みな机を並べて、おなじことを勉強したのである。
それは一見不合理不能率のように見える、しかし、その後、高校の先生になり、大学の教師になり、また今のように作家業を兼ねるようになると、あのころのごった煮のような勉強が、どれほど有り難かったか分らない。若い頃に、はやばやと専攻に分かれて、ごく小さな世界に取り籠るといういまの学生たちを見ていると、それではもっとなにか「大きなこと」が見えないじゃないか、と気の毒な気がするのである。
今から思えば、そのころ慶應の大学院にはまことに錚々《そうそう》たる教授陣が揃《そろ》っていた。その最長老は折口信夫の高弟佐藤|信彦《のぶひこ》先生で、この先生はほんとうに偉い先生だったが、いったいどのように偉かったかについては、本書の「信彦先生」の章に述べてあるので、ここには書かない。
佐藤先生は『万葉集』と『源氏物語』の輪読演習を、私の指導教授森武之助先生は『キリシタン版天草本平家物語』の本文研究と江戸前期貞門・談林|俳諧《はいかい》の集『紅梅千句』『大坂独吟集』の輪読を、またタレント教授としても有名だった池田弥三郎先生は、芸能史の一環として能の『翁《おきな》』の詞章の解読を、孤高の世界的言語学者亀井孝先生は国語学の手ほどきを、漢文界の重鎮藤野岩友先生は『楚辞《そじ》』講読を、そうして須藤松雄先生は志賀|直哉《なおや》の評論的講義を、というふうにそれは一種壮観ともいうべき景色であった。
これだけの数と質の授業に、たった六人の学生で立ち向かうのである。当然のことながら、その勉強は並大抵でなかった。なにしろ、それらはほとんどが演習式なので、ただぼおっと聞いていれば済むというものではない。だれかがレポーターとなって、研究発表の形で進行しなければならなかった。そうすると、毎週一回半くらいの割合で担当が回ってくる。担当になった者は、先生を前に一時間半みっちりと発表しなければならない。その上で、先生たちの厳格なる試問になんとかして答えなければならないのだ。たまさか同じ週に佐藤先生と森先生と池田先生の発表が重なったりすると、その一週間は(決して大げさでなく)ほとんど寝る暇がなかった。
とりわけ、佐藤先生の『万葉』などは、たった一首の歌を解釈するのに、古今の既存注釈書は、総て調べてノートに書き抜き、問題点を抽出し、それについて、語や表現の『万葉』・『古事記』等における用例を網羅《もうら》して、それを根拠として自分の解釈はかくのごとしと述べなければならないのだった。「こうだと思います」などといい加減なことを言ってごまかそうとしても、たちまち「その根拠はどこにありますか」と突っ込まれて立ち往生してしまう。それはほんとうに恐ろしい授業だった。
森先生の『天草版平家物語』は、通称「ハビアン抄」と呼ばれるこの口語訳『平家物語』ダイジェストの、底本として用いられたテキストは何本であったかということを探求するもので、この考究の為《ため》には、夥《おびただ》しい『平家』諸本のうち、主要な十本くらいについて、徹底的に正確な対校表を作って行かなくてはならない。その上で、ポルトガル式ローマ字で書かれた「ハビアン抄」の原本と精密に比較するという方法なので、これはどうやっても頗《すこぶ》る時間がかかった。しかし、それによって、私たちは、八幡《やわた》の藪《やぶ》知らず式に混乱を極めている『平家物語』の本文の系統について、概《おおむ》ねのところを窺《うかが》うことができたのは本当に幸いなることだったと言わねばなるまい。
また森先生の『紅梅千句』『大坂独吟集』の輪読は、これまた大変な準備が必要で、苦労した授業の一つだった。なにしろ、当時は、これらの作品については注釈のようなものはほとんどなかった。そこで、まず、『俳諧類船集』『便船集《びんせんしゆう》』『毛吹草《けふきぐさ》』などの俳書を引いて語と語の「付け合い」を摘出する。これが、しかし、まだ索引などは全然できていなかったので、片端から順に読んでいくというようなやり方をしなければならなかった(私は手間を省くために索引を作ろうとしたことがあるが、それは完成しないうちに索引が刊行され、手許《てもと》にカードの山が残った)。さらには、句の中に現れる一つ一つの語や表現について、その用例を逐一《ちくいち》求め、社会背景を探り、それから、それが古典作品や能や浄瑠璃《じようるり》などの出典を持つらしい場合は、それも探り当てなければならなかった。ところが当時はまだ『謡曲二百五十番集索引』などもできておらず、これまた、片端から読んではカードをとるという迂遠《うえん》な方法で勉強したのである。
そうやって、寝る間も惜しんで勉強したのが、私たちの大学院時代なのだが、そのころたとえば『俳諧類船集』のようなものを、片端から読んだということが、江戸時代の言語感覚を掴《つか》む上で、非常に役にたったし、また、能や浄瑠璃や室町物語や説経節や幸若舞や様々の漢詩文などの古典をせっせと読んでは記録を取ったことなども、あの頃でなければできなかったことだったなと今は懐かしく思い出すのである。
現代は総てが便利になり、たいていの作品には完備した索引が出版されているから、今の学生たちは、さっさと索引を用いて能率的に用例検索など済ませることであろう。殆《ほとん》ど総ての歌集を網羅《もうら》したCD‐ROMなんてものさえできているから、それはそれで喜ぶべきことにはちがいない。しかし、その一方で、ああいう古典的で不能率な勉強法がもたらすメリットも忘れてはなるまい。
その過程で、私はそれまで接したこともなかった、多くの古典作品に、若く柔軟な頭で縦横に接することができたのだし、それによって、たとえば西鶴でも近松でも、ある作品が、あるいはある作者が、その背後に抱えている厖大《ぼうだい》な文学の地平を、大きく把握することができたからである。西鶴を読むと能のなにがしが思い浮かばれ、能のなにがしから、平安文学が想起され、平安文学にはまた、唐代の漢詩文が髣髴《ほうふつ》し、というふうに、文学の世界が広々としたネットワークとして心に落ちついてくる。それはひとえに、この慶應方式の、修士の間は専門に限定しないスパルタ式訓練のおかげだったと思うのである。
それから四半世紀が経って、お教えを頂いた先生方は多く故人となってしまわれた。よくは知らないのだが、もしかすると今や慶應もかつてのようではないかもしれない。
しかしながら、今もういちどあの密度で読書をしたいと思っても、時間はないし、目はかつてのように鮮明ではないし、なにもかも思うに任せぬことのみである。そうなって初めて、あのころのことがしみじみと有り難く思い出されるのである。
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息子のダンディズム
大学二年になった息子が、イギリス留学のため、成田を飛び立っていった。子供の頃《ころ》から手塩にかけて育ててきた息子で、それが、親元を離れて遠いイギリスで学問の修業をしてくる、と言って出かけていった。いつのまにか、こいつめずいぶんと大人になった、と私たち夫婦は密《ひそ》かに喜び、いっぽうでちょっと寂しい感じも味わった。
思い出すと、私が初めてイギリス留学の途に就いたのは、いまから十二年前、もう三十五歳になってからのことであった。行った先に知る人もなく、入国の時に一年のヴィザを貰《もら》えるかどうかもおぼつかず、英語にもからっきし自信がなくて、ほんとうに心細かった。ショボショボと景気の悪い雨の降る夜で、オジサン風のスーツを着てのパッとしない旅立ちだった。そんな情けない事がふと思い出された。
息子は、私たちの教育方針のしからしむるところか、それとも天性の質か、極めて独立独歩の人となった。そうして、自分は学問をすると宣言して、その基礎として英語を勉強の為イギリスに留学すると言いだした。むろん私たちは、何の反対もなく、私たちにできる限りの助力を与えた。しかし、学校の手続きなど、彼は自分でとっとと実行し、あれよあれよと言う間に、すっかり手はずを調えてしまった。
そうして、出発の日は、たちまちに迫ってきた。
「僕は一切振り返らないよ」
私と妻のほかに、妻の母つまり彼にとっては祖母、の三人が見送りに行く、と言ったとき、息子は、ちょっと緊張した表情でそう言った。
空港の通関口の所で、彼は「じゃ、行って来ます」と言った。私は「せいぜい、たくさん恥を掻《か》いてくるようにな」と、柄《がら》にもない教訓を与えた。息子は、さっと向こうを向くと、そのまま愛用のスペイン製ギターを抱えて、足早に階段の向こうへ降りていった。妻はさすがにすこし涙ぐんで見えた。私たちはそのまま二階のロビーから、搭乗《とうじよう》口への通路を見ていた。やがて、青いセーターをぐずぐずに着た息子が、通路を通って行くのが見えた。彼は、その言葉どおり、最後まで一切振り返らなかった。それで、まったく平気な態度で、すたすたと搭乗口の方へ消えていった。
私はそれを見送りながら、自分は初めてイギリスへ旅立った時、ちょうどあそこで振り返って手を振ったっけ、ちょっと涙が出そうになったよなぁ、と十二年前の夜を思い出した。そうして、小柄な息子の「背中のダンディズム」に密かに拍手を送った。
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鹹 しほからい
平目を討つ
天に代わりて不義を討つ、というわけではないけれど、先日妻に代わりて平目を一匹討ち果たしたので、その顛末《てんまつ》を報告することにしたい。
ある知合いの方から、生きたままの平目を一匹|頂戴《ちようだい》した。元来私は、シャケとか鯉《こい》、または鰺《あじ》や鰯《いわし》なんかならば幾度も捌《さば》いたことがあるけれど、平目には初見参で、極端に言えば切先の立てども分らぬ。そこで、この平目と一緒に入っていた捌き方の説明図を研究しつつ、あとは寿司《すし》屋の職人の手捌きなんぞを思い出しつつ、取りかかることにした。
「さーて、では只今《ただいま》から手術を始めます」というと、妻も息子も娘も「どれひとつ見物しよう」といって台所に集まってくる。
まず首と尾の一部を切って血を抜け、とある、エイエイグシグシ、と庖丁《ほうちよう》を入れると平目は驚いてビクビク動く。そいつを逃さず押えつけて、尾を鉤《かぎ》に引っ掛けてぶら下げ、五分くらい吊《つる》しておく。そうするとポタポタ血が出て、色や匂《にお》いが良くなるのだそうである。平目がビクッと動くと「オオッ、動いた」と息子、すると「痛そうだね」と娘。血はそれほどダラダラ出るわけでもない。「蛙《かえる》の解剖の経験からするとね、その傷口に蒸留水をかけると出血がスムースにいくかもしれないよ」、息子がさっそく学校の勉強を平目に応用する。「お風呂《ふろ》の中で手首を切って自殺するって、あれだね、お兄ちゃん」と娘は妙な知識をここに応用する。血が抜けたところで、まな板に奴《やつ》を横たえ、首を落すという段取りである。エイッと気合いを入れて介錯《かいしやく》をつかまつると、首の骨を断つ瞬間に全身がバタバタ悶《もだ》えた。「ギョエーー!」と子供たちが叫ぶ。こうして、五枚下ろし、皮|剥《む》き、刺身となって哀れ平目は口中の藻屑《もくず》と消えたのである。その間見物専門の妻が「そこちょっとぐちゃぐちゃになったんじゃない」などと余計な批評を加えると「カーチャンがやればもっとグッチャグチャになるじゃないか」と子供がやり込めた。ハッハ。で、骨や頭は潮汁《うしおじる》となって成仏《じようぶつ》、これにて平目討ちの顛末は一件落着。めでたし。
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醤油《しようゆ》の民
「九州へ行ってきた。そしたらさ、なんだかこう醤油が甘いんだよね、実際」
「やっぱり、醤油なんてものも土地土地で多少好みが違うでしょうからね。関西は例の薄口ですし……」
「わたしゃ、どうもあの薄口ってのはあんまり好きじゃないね、塩辛いばっかりで醤油の旨《うま》みってものが薄いよ、あれは。煮物の色はきれいに仕上がるかもしれないけれど、関東の人間にはどうもね、一般的には使い難《がた》い」
「九州はどちらにいらしてたんですか」
「うんまぁ、ちょっと講演でね、福岡へ。それでついでに、すこーし足を延ばして志賀之島《しかのしま》とか、呼子《よぶこ》ってね、佐賀の方の漁港へね、わたしの好きなイカを食べに行ってきた」
「なにか特別のイカなんですか、そこは」
「いや、こないだ食べたのはヤリイカの立派なやつだった。だけどね、それが港の桟橋《さんばし》に面して料理屋があってね、店の真中にデカイ水槽《すいそう》がある。で、その中に上がったばかりのイカがたくさん泳がしてあってね、頼むよってぇと、アイヨってんで、その場で上げて刺身で半分、残りはイカ天にしてくれて、まぁ定食コースみたいになってる。なにしろ、活《い》きてるからね、ピカピカして、旨いんだ、これが。ところがさ、そこでもどこでも刺身の醤油がばかに甘い、まぁ東京にも刺身醤油ってすこしドロッと濃くって多少甘いのがあるじゃない。あれですよ、いってみれば。でもわたしが思うにはね、刺身も寿司もやっぱり東京式にあっさりとした普通の濃口《こいくち》醤油が飽きが来なくて旨いような気がするけどね……ところで今日は、良いイカは入っているかい」
「ええ、うちも今日はヤリイカが活きで入ってます。ひとつ出しましょう。刺身でいきますか、それとも握りましょうか」
「そうだなぁ、じゃ握って、それからその足の付け根っていうか、クチバシのところのコリコリした軟骨風のところあるじゃない、あそこを刺身にしてくれる? それからゲソはちょっとゆでて甘いタレつけてね、ハハハ、なにせ馬鹿《ばか》なイカ好きだからね、わたしってものがね」
「なんですか、イギリスなんかじゃ、醤油は手にはいりますか」
「あぁ、入る入る。今じゃケンブリッジみたいな田舎へ行ったってチャーンとキッコーマンの瓶詰《びんづめ》売ってる。中国人のスーパーでね。もっともどうやらマレーシア工場製らしいけれどね。ロンドンにはまったく日本の醤油がなんでもあるよ」
「イギリス人も醤油を使うんですか、そうすると」
「ウーン一概には言えないな。なにしろ階級ってものがあるからね、あの国には。中流以上だと、ちょっと東洋趣味があって、けっこう醤油なんかもシーズニング(味付け調味料)として使うけれど、労働者階級になると保守的であまり自分では使わない。だけどまぁ、中国料理が非常に一般的だからね、自然と醤油の味には慣れてるわけです」
「中国の醤油はまたちょっと違いましょ、日本のとは」
「ウン、おおきに違う。中国のは刺身醤油に近くて、甘くてドロリの口だからね、でね、面白いことに、中国人自体、イギリスでは日本の醤油の方が旨いなんて言ってる……」
「ははぁ、そうですか」
「大塚滋《おおつかしげる》さんていう人の『しょうゆ 世界への旅』という本を読むとね、十八世紀に作られたディドロの百科事典にはスイとかソワとかいう名前で醤油のことが出てるって書いてある。でね、それには肉料理にごく少量用いると肉の旨みを頗《すこぶ》る引き立てる、とあるそうだ。ショウユというのからなまってスイとかソワになるんだろう、つまり英語のソイソースってのもおんなじでね、大豆のことをソイビーンズというのは醤油を作る豆だからそう呼ぶんだそうだ」
「ヘエッ、フランス料理にもそんなに古くから使われたんですかね、わからないもんですね」
「イギリス料理にはグレービィスープっていって、馬鹿に色の濃い塩辛いスープがあるけれど、あれは多分醤油で味を付けるに違いない、と睨《にら》んでいるんだ、じつは。イギリス伝統のウースターソースなんてのも醤油の模倣ってのがほんとのところらしいよ」
「ハイ、イカゲソの付け根んところね」
「これこれ、フッフ、でさ、醤油はいろいろ特徴があるけれど、たとえばさ、インドの人はカレーばかり食べるから、体からカレーの匂いがする。アラブの人は羊の脂《あぶら》の匂いがする。韓国の人はニンニクの匂いね。だから日本人はたぶん外国人からすると、醤油の匂いがするんじゃないか、と思うわけ……でね、あるときイギリス人のガールフレンドに聞いてみたんだ。俺《おれ》たち日本人は醤油の匂いがするんじゃない? ってね」
「そしたらどうしました」
「いいや、全然なにも匂わないってさ」
「ハイ、イカの握りね」
「だからね、こういうことです。醤油ってのはさ、肉によし野菜によし、魚に勿論《もちろん》よし、で万能調味料でしょ。だから、日本人は何にでも醤油をかける。それでいて、醤油という調味料はまったく後に濁りを残さない、潔《いさぎよ》いところが日本人じゃありませんか」
「最近ね、フランス料理のシェフをやってるアタシの友達がね、店をたたんじまったんですよ。そいつは四年もフランスに行って修業して、腕の良いコックなんですがね……いろいろ頑張《がんば》ってやったけれど、日本にいる限りぜったい醤油には勝てないってんです。それで、もうやめた、ってんで……これほんとの話ですよ」
醤油がどれほど優れた調味料であるか、外国に暮らしてみると却《かえ》ってよく分るというものである。
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酒の品《しな》ということ
私は酒を飲まない。いや正確にいうと「飲めない」のである。ところが、こういうと、世の中には無茶な人がいて、
「そりゃハヤシさん、あなた訓練が足りないからですよ。いや不肖この私もです、若い頃《ころ》は一向に下戸でしたがね、ま、世の中に出て先輩たちに訓練されて、今では酒無くて何のこの世ぞ、ですよ。あなたもそういう青いことを言わずと、まあ一つ練習してごらんなさい」
などと、したり顔で教訓したりする。酒を飲まないものは一人前の人間にあらず、という勢いである。
こういう人がいるから、時として急性アルコール中毒で死ぬ人が出たりするのである。困ったことである。
では、私が酒を飲むとどうなるか。
私も、じつは自分が酒を飲めない体質だということを、最初は知らなかった。それで、大学生になったときに、ご多分にもれず、クラブの歓迎会でビールを一、二杯無理やりに飲まされて、たちどころにひっくりかえった。それから一昼夜ひたすら吐き続けて散々の目にあったが、それでも何事も練習だと思って、繰り返し試みてはみたのである。しかし、実際は、その度に悶え苦しむだけのことで、ついにはパブロフの犬のように「酒=吐き気」というのが条件反射になってしまったのである。今でもビールの匂いは直ちに吐き気とつながっていて、まことにああいうものを飲む人の気が知れないという感じがする。
その後、庭でなった梅の実で梅酒をこしらえたところ、あまりに良い匂いなので、茶匙《ちやさじ》に一杯だけ、ちょっと嘗《な》めてみたことがある。このときはテキメンにアレルギー発作をおこし、急性の喘息《ぜんそく》のようになって、息がまったく出来なくなってしまった。家人が慌《あわ》てて救急車を呼ぶという騒ぎになったが、幸い量が少なかったので、命に別状はなかった。けれども、もしヤミクモに「イッキ、イッキ!」などとやらされたら、たぶんあえなく一巻の終りであったろうと思うと、まったく背筋がぞっとするのである。酒飲みの諸君は、だから、ゆめゆめ人に酒を強制するような愚行を犯してはならぬ。酒は、好きな人が、自分の楽しみとして、ゆっくりと、好きなようにたしなめば、それでよろしいのである。
そこでこれより「酒の品」ということにつき少しく愚見を陳《の》べる。
幸いに死にもせず齢《よわい》五十に近い今になってみると、それなりに酒の席にも数多くはべり、さまざまな酒飲みの生態を、シラフであるのをよいことにじっくりと冷静に観察させていただいた。そうすると、まことに酒の力というものは恐るべきもので、仏の浄土じゃないけれど、上品《じようぼん》、中品《ちゆうぼん》、下品《げぼん》の分かちがあって、いかに日頃きれいごとを言っていても、その人が上等の人か下等の輩《やから》か、ごまかすところもなく露顕してしまうのだった。
タレント教授として有名だった慶應義塾大学の故池田弥三郎先生などは、さしずめこの上品中の上品の人だった。先生は大変にお酒がお好きで、また弟子たちを集《つど》えて賑《にぎ》やかに酒盛りをされることも多かった。私自身は先生の直接の弟子ではなかったから、その酒盛りに参ずることはそれほど多くはなかったけれど、学科の旅行や正月の祝いなどの折に、いつも先生が座の中心にあったのを、よそながら眺《なが》めていた。また、先生と東京下町の旨いものを食べ歩く会、というのを数人の友人たちとやっていたことがある。その時も、先生はいつも朗らかに、いかにも美味《おい》しそうに、飲みかつ食べ、陶然と、けれども品良く宝塚の歌を歌い、または江戸の俗謡を吟じなどして倦《う》まれなかった。その間、先生が乱酔|狼藉《ろうぜき》に及ばれるとか、朦朧《もうろう》たる口調で大言壮語されるとか、その種の嘆かわしい態度を見せられたことはついに一度もない。
しかし、先生が上品《じようぼん》の酒飲みたるゆえんは、その先にある。
こういうときシラフの私は、座の隅《すみ》っこに小さくなって、歌も歌わず、大声も出さず、ただ黙々と料理を食べているというのが常態だったが、先生はそういう私にまで、いつもぬかりなく視線を配っておられ、
「おい、ハヤシ、ご馳走《ちそう》を食べてるか。コイツァ、しょうがねぇなぁ、なにせ特異体質だからなぁ。せめてたくさん食べていけよ」
と、そう言って、決して酒を強《し》いたりまた下戸ゆえに疎外したりということをされなかった。そればかりか、どんなに愉快な酒席でも、ある時間がくると、ぴたりと閉会を宣言せられ、酒飲み組の学生のひとりに会計方を命じられるのだった。私がシラフだからといってそういうことを命じられるということはされないのである。酒を飲む者は、どんなに酒を飲んだとしても、なすべきことはきちんと出来なければいけない、それが先生の飲酒哲学だったからである。
私にとっての幸いは、慶應で直接にお教えを受けた故森武之助先生もまた、同じように上品の酒飲みでいらしたことである。先生はまた一段と大酒飲みだったが、いくら飲んでも顔色ひとつ変えられなかった。そして、飲むほどに酔うほどに、清談粋話、静穏な声調で愉快な話柄《わへい》を次々と披露《ひろう》されて、脇《わき》で聞いているのは本当に楽しかった。しかし、お正月に年始の会に伺うと、「ハヤシは甘党だからなぁ」とおっしゃって、黄色い栗《くり》キントンを山のように出してくださるのだけは、正直ちょっと閉口だった。
まだまだ他にも何人かは、こういう立派な上品の飲酒家を存じ上げているけれど、しかしそれは酒飲み全体の中でいえば大海の一滴と言おうか、まったく例外的な存在に過ぎないのである。
中品は、最も多い。これはまず普通の酔っぱらいである。酔うに従って段々と正体を失うが、こっちとしてはあまり迷惑は被《こうむ》らない。ただ、この種の人は時折人に酒を強いることがあるのでちと困る。こういう人とは、酒の席では大切な話はしないことにしているけれど、シラフの時はもちろん信用しないわけではない。
下品の輩は、酒乱のたぐいで、これは日常小心翼々として善良らしく振舞っていながら、ひとたび酒を喫するや、面相は変じ、大声をみだりに発して勇豪を装い、陽《ひ》の高いうちから、はや盃《さかずき》を舐《ねぶ》るというようなだらしない人間であって、こんな連中は、必ず人に酒を強いてやまぬ迷惑千万な小人《しようじん》どもである。こういう種類の人は、たとい彼がシラフの時であろうとも、私は一切信用しないことにしている。
そして、私が非難してやまないのはこの下品の輩で、池田、森両先生のごとき上品の人とだったら、もう一度酒席を共にしてみたかったとさえ思うのである。
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ホーロー讚《さん》
ちょっと俗な言い方になるけれど、昔の道具には触って快い、なにかこう「持ちごたえ」のようなものがあった。たとえば、黒光りする鉄の鍋《なべ》、重い木の蓋《ふた》のついたお釜《かま》、しっくりと柄《え》の太い片手鍋、頑丈《がんじよう》な竹のザル等々、それを触って仕事をすることに「果報」を感じるような力が込められていた。
それが、どうも面白からぬものになってきたのは、あの薄っぺらいアルマイトの調理器具、ペナペナしたプラスチックのザルなんぞが元凶に違いない。合成樹脂の白いまな板とくると、私のもっとも忌《い》み嫌《きら》う種類の道具で、いくら衛生的かしれないが、ああいう道具の上でなにかをしようとはついに思わない。持った感じが、触った感触が、じつに不愉快である。庖丁《ほうちよう》がコツンと当るその刃の衝突する感じが、まことに論外にいやである。それから、ステンレスの鍋やフライパンというもの、これもどうかと思う種類の器具である。私は、ステンレスの鍋で湯が沸騰《ふつとう》するときのビシビシと水を痛めつけるような感じや、あの始末におえない焦《こ》げ付きやすさを、いかにも憎むのである。
ここに、私が愛してやまない、調理器具のお手本ともいうべき道具がある。安くて丈夫な白いホーロー引きのザルと計量ジャー、それに平底ボウルである。
ザルは、むろん全部鉄で出来ていて、取手が付いていて、しかも足がある。鉄だから重い。それで、頑丈な足がしっかりと支えるので、流しの中でしっかりと大地を踏み締めて立っている。そこへ、茹《ゆ》でたてのスパゲッティをザァッとあけるとしようか。このとき私は煮え立つ重い大鍋を両手に持って、そのままザルの中にぶちまける。なにせこいつは自分の足で立っているので、手で持ったり押さえたりする必要がない。で、盛大に湯をあけると、もうもうたる湯気の向こうにツルリと茹で上がったスパゲッティが見えてくる。そこで、鉄の丈夫な取手を持って、一気に湯を切るのだ。そのときの安定した気持ちの良い持ちごたえ! ペナペナプラスチックなんぞは、話にもならぬ。これは、イギリスの片田舎の骨董市《こつとういち》で買った。新品だってむろん手に入るのだが、こういうものは古物がよろしい。なんだかイギリスのおばあさんの微笑《ほほえ》んだ顔がザルの向こうに見えてくるようでネ。蕎麦《そば》を茹でてよし、ジャガイモを茹でてよし、どうして日本人はこういう良い道具を使わないで、プラスチックのザルなんか使うのだろうと、不思議でしょうがない。
計量ジャーは、いつぞやドイツのデュッセルドルフに行ったときに、町のスーパーマーケットで買った。ジャーが透明でなければならないと思うのは単なる思い込みに過ぎないので、実際はそんな必要はさらにない。計量の機能は、この内側に付けられた目盛りで充分に果たされる。それどころか、流しに置いて上から水を注ぐその位置関係と視線の方向からして、実はこの方が使いやすいのだ。そのうえで、たとえば火の側《そば》に置いても平気、落しても壊れず、このジャーの重宝なことは、使ってみるとよく分る。水を量るのに使って便利なことはもちろんだが、この形のおもしろさ、質感の重厚さからして、たとえばドライフラワーを飾ったりしてもそれなりに眺められる。
ボウルもまた、ドイツの同じスーパーで買ったものだ。大中小と三種類あったが、旅先のこととて中と小を三つずつ買った。たとえば、天ぷらを作る時に、各種の材料を小分けにして、このホーローのボウルに入れておく。普通の丸いボウルに比べて、底が平らで安定なことこの上ない。小さいから場所を取らないし、だいいち見た目にきれいで料理を楽しくしてくれる。夏ならば、この白いボウルに氷水を入れ、そこに朱色に熟した枇杷《びわ》の実を幾つか浮かして、ヒンヤリと食卓に供する、なんてのも美しかろう。
そして、大事なことは、三つともその重宝さもさることながら、手に持ったときの、あのしっくりと「持ち重り」のする、その快い触り心地なのである。
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おこめ
米という字を分解すれば「八十八」、米がわれわれの口に入るまでには、農民が手を尽くすこと八十八度、春夏秋冬に及ぶ辛苦がこめられているのだぞ、などと私たちはもっともらしい語源説(というか教訓説)を聞かされて育ったものだった。そして、それだから「米は一粒も無駄《むだ》にすまい」、また「一口の米は八十八回ずつよく噛《か》んで、感謝していただけ」などとも言われたのを覚えておいでの方も少なくないに違いない。
けれども、ごく一部の、なにか特別な食養生法を信奉し実践しているのでもない限り、そういう「八十八度噛む」などということを実行している人はめったとあるものでない。実際は、たとえば昼食などは実質五分かそこらでガツガツと掻《か》き込み、食休みもそこそこにお次の人と交替するとか、ツルツルと蕎麦をのみこんで(蕎麦をモグモグとよく噛んでいたひにはせっかくの味が台無しになるというものだ)薬味の葱《ねぎ》を歯にひっつけたまま出ていくとか、およそそんな風に殺風景なのがほとんどだろう。
それで、日本人はせっかちで働きすぎだとか、生活に余裕がないとか、これをある意味での「生活の貧しさ」に結び付けて説くむきもないではないが、いや、ちょっと待ってもらいたい。
象徴的な(あるいは倫理的な)意味はさておくとして、じっさい「味わう」というタームズで見れば、米はほんとに八十八回も噛む必要がある食品だろうか。栄養学的にまた医学的にはそうした方が消化が良くてよろしいのかもしれない。けれど、曇りのない目で見れば、米はもっとも柔らかな主食の一つで、それほど必死になって噛む必要はないものであるに違いない。
たとえば寿司《すし》。あの江戸前の寿司を、グチャグチャといつまでも噛んでいたのでは、もう食べる甲斐《かい》がないというものだ。寿司をつまむときは、パクッと頬張《ほおば》って、さっさと軽く噛んで、ぐっとのみこんじまうのが一番おいしい。ねっ、そうでしょう。農民への感謝を心に念じつつ瞑目《めいもく》して、寿司をいつまでもいつまでもニチャニチャ噛んでいたら、そりゃやっぱりおかしいじゃないか。
寿司の飯などは、飯の中ではもっとも固くしっかりと炊《た》かれるものであろうけれど、その寿司にしてからがかくの如《ごと》くである。飯は喉《のど》をスッと滑っていくのである。まして、病人食たるお粥《かゆ》とくると、これは最初から噛まずとそのままのみこんでも大事ないようにできている。
総じて柔らかいことは良いことなのだ。
すなわち、日本人の「食事」の根本を探ってみると、「柔らかくて噛まなくとも大丈夫」ということが、ことのほか重要なファクターになっているのである。
だいいち、まず日本人のタンパク源たる魚介類、これは概《おおむ》ね柔らかなものである。そんなことはない、じゃスルメはどうだ、などという人は相当根性の曲った人である。よろしいか、スルメは、あれは御飯のおかずではありませぬ。あれは酒のみがニチャニチャ噛んで、しみったれて酒を飲むための道具であります。わが国の伝統では酒を飲むことと食事とはまず別の事柄《ことがら》と考えるのである。魚肉というものが西洋の獣肉に比して、充分に軟質な食品であることは自明のことである。魚は箸《はし》でもむしって食べられるが、一般に獣肉は箸ではむしれない。そこで、この「柔らかなもの」に慣れた我々の口が、たとえば牛肉のようなものに関してさえ、「魚肉のように」柔らかなことを求める(豚肉だって、西欧のそれに比しては日本の豚は非常に運動不足で肉が軟弱である)。こうして、霜降りで箸でも割って食べられる程に軟弱な肉が作られるのである。そんなものを美味しがるのは魚肉民族たる我々だけで、西洋人はそういう風には感じないのが当り前である。
柔らかな御飯と軟質な魚肉というのが、相性の良い組み合わせだとしたら、西欧的な固く筋っぽい獣肉には、当然しっかりと固いパンというのが、相方《あいかた》にふさわしかろう。それゆえ、パンを主食的な感じで食べるフランスのようなところでは、パンはあのしっかりと噛みごたえのあるフランスパンとなった。
こうして、狩猟牧畜民族である西欧人は、いやでもよく噛まなきゃのみこめない食物をゆっくり|噛みながら《ヽヽヽヽヽ》味わうようになり、この「噛む習慣」が西欧人の顎《あご》の骨を充分に発達させた結果として、彼らにはいわゆる乱杭歯《らんぐいば》や反《そ》っ歯が比較的に少ないのである。逆に、日本人のように、柔らかい食事を好んで、あまり|噛まないこと《ヽヽヽヽヽヽ》に美学を見いだしてきた民族では、顎の骨が未発達に終り、結果的に歯並びの悪い人が多くなったということだ。
要するに、われわれは、滑りの良い柔らかなものを、あまり噛まずに、のみこむがごとくにして食べたいのである。「八十八回噛め」などという標語は、そういう「噛まない習慣」に対する反措定《はんそてい》なのである。それは、だから百万回唱えても無駄である。
私たちの食生活が、米を中心として、その周りに柔らかな魚肉とおとなしい野菜を組み合わせるという形であるかぎり、「噛まない方が美味しい」というこの皮肉な事実は変りようがない。いや、この頃は日本人だってずいぶん肉を食べるじゃないか、などといっても駄目である。なにせ、日本では肉さえも「御飯のように」ふわっと柔らかく飼い慣らされてしまったからである。
そういう風に見ていくと、日本人が近頃ずいぶん米を食べなくなったとはいっても、食文化の中心として米は筆舌に尽くし難く重要な「意味」を担《にな》っていることが分る。
先日東京新聞に、農民作家の山下|惣一《そういち》さんが、「米は安すぎる」と書いておられた。計算すると、十キロ五千円の米でも一|膳《ぜん》あたり三十円に過ぎないそうである。私も、この山下さんの意見に百パーセント賛成である。コメは大事だ。どんなに税金を使っても、日本のコメ農業を保護するのは国家百年の大計に叶《かな》うものである。だいいち「日本の米は高い」などと言っている人にしてからが、その何倍も高いパンを平気で買って食べてるじゃないか! パンならば百円出しても高くないけれど、農家の人たちが辛苦して作った米は三十円でも高いと言うのは、それは亡国の民というものである(ちなみにカリフォルニア米だってロンドンでは日本の米と同じように高い)。
栄養的に見ても、味覚的に見ても、また、以上述べてきたような文化的肉体的条件から見ても、米は日本人にとって最良の主食で、国内自給体制は必ずや堅持すべきものと考える。私は生まれてこのかた都会暮らしで、農業に従事したことは全くないけれど、そういう人間でも米が高いと思っている人ばかりではないのである。
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いちご煮
『徒然草《つれづれぐさ》』にこういうことが言ってある。
「よき友三つあり。一つには物くるる友、二つにはくすし、三つには智慧《ちえ》ある友」
「論語」の「益者三友」というのをもじったものであるが、その筆頭が「物くるる友」であるのが、いかにも愉快である。これを隠者兼好の、質素な生活を支えてくれる友に感謝しているのだなどと説くけれど、そんなに難しく考えなくともよいだろう。単にプレゼントを貰《もら》えば嬉《うれ》しいよ、とニヤリとしている彼を想像する方が当っているかもしれない。こういう良き友を私は何人も持っている。これは人生の幸いに違いない。その良き友の一人Kさんが、最近「いちご煮」というものの缶詰《かんづめ》をくれた。郷里|八戸《はちのへ》の名産ですといって下すったのである。これは、八戸以外の地方ではあまり馴染《なじ》みのない料理である。
「いちご煮」といったって、あの赤くて甘い果物の苺《いちご》とは毫《ごう》も関係がない。これは、ウニとアワビを澄ましの汁で煮たもので、味は主として塩味である。どうして、ウニとアワビの潮汁のようなものをわざわざ「いちご煮」なんていうのだろうか。名は体を表さないじゃないか、と思うのだが、説明によると、このかすかに白濁した澄まし汁のなかにつぶつぶしたウニと白いアワビがボォッと霞《かす》んで見える風情《ふぜい》が、春霞に見はるかす野の苺にさも似ているというところからそう呼ぶらしい。ホホゥ……。
こういう郷土料理は本来その場所に行って、現地の人の家庭料理で味わわなければ本当の味は分るまいと思うのであるが、缶詰でもまあまあどんなものか見当くらいは付く。Kさんが「必ず青ジソを刻んで入れてくださいね。青ジソですよ、要領は!」と念を押したので、そのとおりにした。かすかに甘味があって、上品な海の香りが立ちのぼる。一缶はそのまま汁として頂き、もう一缶は炊き込み御飯にした。こちらには青ジソだけじゃなくて葉ワサビも刻んで添えたら、いっそう旨《うま》かった。Kさんに、ぜひ地元でイチゴ煮を食べたいものだと言ったら、「それが海岸のほうの小さな食堂で食べるのが美味《おい》しいのですよ、ほんとはネ」と教えてくれた。なるほどそうか、そうなるとこれはKさんに案内してもらわなくてはなるまいが……。いやいや旨いもののためには千里の道をも遠しとせずして行くべし、しかし八戸の海岸まではちょっと遠いなぁ。
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風土と好尚《こうしよう》
海外旅行に行くというので、お茶漬《ちやづ》け海苔《のり》や梅干しを持参して、たとえばパリのホテルで梅干しなんぞを嘗《な》めている人の気が知れない。
いや、恥ずかしながら、自分も最初はそうだった。初めてイギリスに渡った時、私は梅干しだの日本茶だの、そういう故国の香りのするものをそれなりに持っていった。
ところが、行ってみて驚いた。梅干しなんかちっとも食べたくないのである。日本茶も、特にイギリス人にご馳走《ちそう》するとか、日本から年長のお客さんが見えたとか、そういう特別の場合を除いて、一向に口にしたいとは思わなかった。そのうちに、たとえば朝食に御飯を食べたいなどという気は全く失《う》せてしまった。それどころか、朝になるとあの薄いイギリスの食パンを焼いて、濃く美味しくいれたミルクティを飲んで、ベーコンエッグでも食べれば、それで至極満足した。あぁ、俺《おれ》もすっかりイギリス風になってしまった、と勝手なことを思いながら帰国すると、すぐにその日から御飯が食べたくなった。おやおや、やっぱり俺も日本人だったよなぁと思って、また次にイギリスに行くと、今度はその着いた日から、なんだかスイッチがパチッと切り替わるように、またまたパンと紅茶が良くなって御飯なんか願い下げだという感じになった。そこで私は考えた。
なるほど、食物の好尚というものは、かならずしも個人の嗜好《しこう》ばかりでもないものだ。あれは空気の感じとか、水の味とか、なにやらこう風土のようなものと密接に関《かか》わっているらしい。
思えば、ヘミングフォード・グレイの館《やかた》に住んでいた時分は、よく窓辺にヘンデルなんかかけながら、牧草地の風景を窓外に見て、紅茶を飲んだものだった。その風景とか風とか、光とか音とか、全《すべ》てが調和して、楽しい気分をもたらしてくれた。帰ってきて、日本の家で、同じようにしたいと思っても、日本的な風景の中を塵紙《ちりがみ》交換が大声で通ったりして、一向に調和がとれないのだった。なるほど、この場合は梅干しに日本茶がよく似合うわけである。
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大探検時代
「おい、この穴の奥のほうで骸骨《がいこつ》が発見されたっていう話だぞ」
赤土の崖《がけ》に穿《うが》たれた横穴の奥には、あやかしの闇《やみ》が潜んでいる。
そこは、吸血|蝙蝠《こうもり》が跳梁跋扈《ちようりようばつこ》し、苔《こけ》蒸した人骨が散乱し、秘密の隠し戸の向こうに底知れぬ地底世界が広がり、ひとたび入ったら最後、二度とこの世界には戻ってこられない、かもしれないとそんな気がした。
少年だった私たちは、手に手に蝋燭《ろうそく》や懐中電灯を持ち、背中のナップサックには水筒や非常用食料(つまり乾パンとかビスケットとかですが)を携行して、おそるおそるその闇の中へ進んで行った。赤土の壁には、なんだかぬるぬるするような苔がびっしりと生え、澱《よど》んだ黴《かび》臭い臭《にお》いが充満していた。
「蝋燭が消えたら炭酸ガスが溜《た》まってるってことだからな、すぐ逃げないと死ぬぞ」
隊長格のM君(この男も今は立派な画家になっている)が訳知り顔で言う。その顔にも、やっぱり怖《お》じ気《け》が漂っている。
狭い入り口からわずかに差し込んでいる外の光は、まもなく失《う》せて、洞穴がやや曲折した向こう側は、もはや全く漆黒《しつこく》の闇だった。懐中電灯の光の輪の中に、大きな百足《むかで》がうごめいていた。それだけで、私たちははやくも逃げ腰になり、臆病《おくびよう》な私などは、「ねぇ、出ようよ、もう」と嘆願したりした。
もしかして、この穴の奥の方が複雑に入り組んでいて、二度と戻れなくなったらどうしよう、私の頭の中には、よろづの恐怖が渦巻くのだった。
しかしながら、その横穴は、ちょっと曲がった先ですぐ行き止まりになり、どう調べても秘密の隠し戸などはなさそうだったし、そこにある筈《はず》の人骨も一向に発見されなかった。私たちは、半ばホッとして、半ばはガッカリして、小走りに入り口の方へ駆け戻った。
団塊の世代に生まれて、昭和三十年に小学生になった私たちの少年時代には、戦時中にたくさん掘られた防空|壕《ごう》が、まだあちこちに残っていた。とりわけ、大岡山にある東京工業大学の構内、呑川《のみがわ》のほとりの赤土の崖には、それらがいくつも並んでいて、学校から帰ってただ遊んでいれば良かった暢気《のんき》な私たちの、格好の探検場所になっていたのだった。
親から見れば、はらはらするような危険な遊びであったかもしれない。しかし、こういう探検を通じて、私たちは、少しずつ「独立」ということを知ったのだ。
いま、たとえば『スタンド・バイ・ミー』などの映画を見ると、ああ、たしかに私たちにもああいう独立への胎動があったなぁ、と思い当たる。危険と背中合わせであったけれど、その「大探検時代」が私たちを大人にしてくれたのである。
現代、この管理され尽くした時代に、果たしてあの洞穴は残されているだろうか。遥《はる》かな昔を思い出しながら、私はコンピューターの中でしか探検することを許されていない今の少年たちを気の毒に思うのである。
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志を述ぶるということ ――『澀江抽齋《しぶえちゆうさい》』を読んだ頃――
二十八歳で慶應の博士課程を終えたとき、私にはいまだ定まる職がなかった。恩師の森武之助先生はそのとき既に定年で退職され、私は舵《かじ》を絶え行方も知らぬ船に乗って漂流しているような心細い身の上となった。結婚して既に長男が生まれていた。どうしたものであろう、この先どこかに職を得ることは出来るだろうか、と暗然たる思いに苦しみながら、しかし、私は阿部隆一先生のもとでひたすら書誌学の勉強に励んでいた。
ある時、阿部先生のお供をして伊豆の横山重さんの所へ本を見せて頂きに行った。もうずいぶんな御高齢で、立居が少し御不自由のように見えた。「君は何をしているかね、仕事は?」と横山さんに聞かれて、私は「まだ職はありません」と答えた。すると、横山さんは顎《あご》を撫《な》で撫で「ホッホウ、それはエライ」と褒《ほ》めてくれた。無職を褒められたのは嬉《うれ》しいような哀《かな》しいような気分だった。
その頃、私が愛読していたのは、森鴎外の『澀江抽齋』である。この名高い史伝小説は「三十七年如一瞬 學醫傳業薄才伸 榮枯窮達任天命 安樂換錢不患貧」という抽斎の「述志」の詩で始まっている。三十七歳の抽斎は弘前《ひろさき》藩の医官で、既に三子の父であった。鴎外は書いている。「しかし抽齋は心を潛《ひそ》めて古代の醫書《いしよ》を讀《よ》むことが好《すき》で、技《わざ》を售《う》らうと云《い》ふ念がないから、知行より外の收入は殆《ほとん》ど無かつただらう」。これから先どうなるか分らない。けれどもこういう生き方を亀鑑《きかん》として、志を身後百歳《しんごはくさい》に致すのも天の命《めい》かもしれぬ、と私は一介の青書生《あおしよせい》に過ぎない己れと抽斎を重ね合わせて、そこにそこはかとない慰安を見出《みいだ》していたのである。
やがて今の職に就き、幸いがあってイギリスに渡った。抽斎が志を述べた三十七歳の年、私はイギリスのケンブリッジにあった。古典籍の目録を作るべく、ケンブリッジ大学図書館の片隅《かたすみ》で、心を潜めて書物に対峙《たいじ》していたのである。栄枯窮達は天命に任す、か……。苦しいことばかり多い研究生活の中で私は、いつも『澀江抽齋』を思った。
その後、私はイギリスに就いての本を何冊か書いて、世の中にいささか身の置き所を得るようになった。しかしそうなった今でも、『澀江抽齋』は常に座右にある。その岩波文庫の頁《ページ》を開けば、そこに抽斎の志と私の修行時代が息づいているからである。
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不才なる人は……
いったいどういう子細で、本居宣長《もとおりのりなが》の『うひ山ふみ』を読むに至ったのか全く記憶がない。もしかすると高校の古文の授業か何かで読んだのかもしれないけれど、漠然《ばくぜん》とそうではなかったような気がする。
ともあれ、高校生の私は、この偉大なる学者の「学問入門」を読んで、ずいぶん嬉しい感じがしたことを今でもはっきり覚えているのである。
宣長はこう書いている。(引用は、昭和九年刊、岩波文庫)
「まづかの學《まなび》のしな/″\は、他よりしひて、それをとはいひがたし。大抵みづから思ひよれる方《かた》にまかすべき也。いかに初心なればとても、學問にもこゝろざすほどのものは、むげに小兒《せうに》の心のやうにはあらねば、ほど/\にみづから思ひよれるすぢは、必ズ[#底本では小さい「ズ」]あるものなり。又面々好むかたと、好まぬ方とも有リ[#底本では小さい「リ」]。又生れつきて得たる事と、得ぬ事とも有ル[#底本では小さい「ル」]物なるを、好まぬ事得ぬ事をしては、同じやうにつとめても、功を得ることすくなし。(中略)詮《せん》ずるところ學問は、たゞ年月長く倦《うま》ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、學びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也」
学問というものは、こうしなくちゃいけないという一定のきまりがあるわけではない、各自の能力と好き嫌《きら》いに従って、それぞれ好きなように勉《つと》めよというのである。当時、受験校として有名だった都立戸山高校の生徒だった私は、数学はこうしなくちゃいかん、古文はこうなくてはならん、英語は、地理は……等々とがんじがらめの状態にあったなかで、本居宣長ほど偉い先生が、各自好きなように励め、と教えているのを知って、あたかも百万の味方を得たような気持ちになったものだった。ただ継続は力なりとあるぞ、と私は、秀才ばかりひしめいていた名門高校で、いくら勉強しても所詮《しよせん》第一流の秀才にはかなわない、と諦《あきら》めていた心の闇《やみ》の中に、すこしく光が射《さ》して来るのを感じずにはいられなかった。
続いて宣長はこうも言っている。
「才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル[#底本では小さい「ル」]物也」
早熟な級友たちは早くも小説のような物をものし、または詩集を綴《つづ》り、深刻そうに人生の諸問題を討究して、能天気な少年であった私を内面から脅かした。
その頃から、なにやら運命的に、文章を書きたいという気持ちを持っていた私は、級友たちの大人らしい(しかし実は幼稚な)同人雑誌なぞを横目で見ながら、いつかきっと俺だってと思って、ひそかに詩を書いたり小説めくものを作ったりして飽きなかった。どちらかと言えば、そのころの私は、学者になるよりは詩人か作家になりたかったのである。
後に慶應義塾大学の入試の面接で「感銘を受けた書物は?」と聞かれて、とっさに「『うひ山ふみ』です」と答えた。「ほほう、どうしてかね?」と重ねて問われて、私は即座には答えることが出来なかった。なにやら要領悪く答えていると、「つまりは学問論的に興味を持ったということかね」というようなことを試験官が言った。なんだかちょっと違うなと思ったけれど、「はぁ、そうです」と答えた。
その後、運命の悪戯《いたずら》で私は学問の道に進んだが、その間《かん》折にふれて、本居宣長のこの教えを思い出した。文芸評論的な「論文学問」の方に進まずに、まったく地味な実証主義の書誌学などという方面に進んだのも、ある部分自分の「不才」をよく自覚していたからである。つまり、努力と忍耐、そういうものにはちょっとは自信があったということである。そしてその忍耐と努力の実証の学問が、私にものを見る方法や文章を書く筋道を教えてくれた。なるほど「不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有」ったのである。
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徳良《とくら》先生
生涯《しようがい》にただ一度だけ、カンニングをしたことがある。
小学校の一年か二年か、今はもう記憶が定かではないのだが、ともかく、それは、国語の書取りのテストだった。
ごく小さい頃から、私は国語の読み書きが達者で、町を歩きながら、難しい看板の漢字などをすらすらと読んでは大人たちを驚かせたものだった。別段私の両親が、とりたてて英才教育を施したとか、そういうことではないのだが、言ってみれば、文字を読んだり書いたりということに、これはたとえば虫を取ったり裏山を探検したりするのと同じような、なにかこう特別な興味のようなものを自然と持っていた、ということだったのであろう。
当時、私たちの学校にはプールがなく、水泳の季節になると、ちょっと離れた赤松小学校という古い小学校まで、いわば「貰《もら》いプール」をしに行ったものだった。
その道々、質屋の看板をみて先生が「あれは何と読むか」と皆に聞いたことがある。質という字を「しち」と読むのはじつはちょっと特殊な読み方で、小学校の一年や二年では普通読むことは難しいのである。案の定、誰も答える者がなかったけれど、私はその読みを既に知っていた。そこで、背が小さくて一とう前を歩いていた私はすかさず、「シチヤ!」と答えたのだった。「おっ、よく知ってるなぁ」といって先生に褒められたのが、幼心にはとても得意だったに違いない。だからこそ四十年もたった今になってもそのことを覚えているのだろうと思うのだ。
ところが、ある日の書取りのテストに「老人」という字が出たことがある。その「老」の字のオイガシラの下の片仮名のヒのような部分を、私は左右反対向きに書いてしまったのだった。漢字には絶大の自信を持っていた私は、これが悔しくてならなかった。そこで私は、その部分をさっと消ゴムで消して直すと、ずうずうしくも、休み時間に先生の所へ持って行き、採点の間違いだと申し立てた。
担任の先生は、徳良一夫先生という、まだ大学を出たばかりの若い男の先生だったが、私の言い分を黙って聞き、それから、しばらくじっと私の目を見つめ「では、直してあげよう。これで百点だね」と言って、点数を付け直してくださったのだった。
子供の浅知恵で、そういうこざかしいことをしたのなど、大人の目から見ればすぐ知れたに違いない。しかし、先生はそれを叱《しか》ることよりも、「人はだませても自分の心は欺《あざむ》けない」という厳粛な事実を、そういう形で教えてくださったのだろう。
事実、私はこの行いを非常に恥じて、その時の恥ずかしかった心持ちを、今でもはっきりと思い出すことができる。無論、それから二度とそういうことをしたことはない。教育とは、つまりこういうことであるに違いない。
私は少年のころ大変にいたずらな手に負えないところのある子供だった。しかし、徳良先生は、このキカン坊の悪タレ小僧を不思議に可愛《かわい》がられ、運動神経が鈍くて鉄棒の逆上《さかあ》がりが出来なかった私に夏休み中ずっとつき合って、とうとう出来るようにしてくださったこともあった。
また、「林は字がキタナイなぁ、まるでミミズが這《は》ったようじゃないか!」といって日記を書くことを義務づけられ、毎日欠かさず添削をしてくださったのもこの先生である。
あるとき、江の島へ遠足に行ったことがある。江の島には頂上にちょっとしたタワーがあって、これに皆でのぼるのだが、私は昔から高所恐怖症で、そういうコワイ所へは一切のぼらない、ということに自分で決めていた。皆が行くと言っても、そんなことは私の知ったことではない、とそのように思った私は、「僕はこういう高い所へはのぼらないことにしていますから」と、頑《がん》として言いはって、ついにそのタワーの下の階段に一人腰掛けて、皆の下りてくるのをポツネンと待っていた。そのときも、徳良先生は「いやなら、行かなくてよいから、必ずそこで待ってるように」と私の自由にさせてくれたのである。
皆と同じことをするのは、日本のような風土の中では安全な処世術である。それに反抗することは、権威に盾突くことでもある。しかし、誰もが空を見上げているときに、一人だけ地面を見つめているということがあっても良《い》いじゃないか、と私は思うのだ。それはたしかに偏屈かもしれない、しかし、人が見ないことを見、人と違う所に目をつける、権威や俗論に目を曇らされない、そういう心の持ち方こそが、学問や文学にとって、じつは最も大切なことではないかと思うのだ。
「皆と同じようにする」というのが、日本の教育の基本にあって、個人的行動はとかく協調性がないというふうに忌避されるなかで、もしこのキカン気の少年の担任が徳良先生でなかったら……。私はつくづくと天の配剤の妙を思うのである。
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信彦《のぶひこ》先生
慶應の国文科に、その昔、佐藤信彦という教授があった。この先生は、国文学者としては一流なのだが、世間的にはまったく無名でほとんど論文もなく、こんにちその名前を知っている人は多くはあるまいと思われる。
短く刈り込んだ白髪に、金のツルの上品な縁なし眼鏡を掛けた姿は、写真で見る佐藤春夫にいくらか似ていた。その学問は折口信夫《おりくちしのぶ》の門流に属し、慶應では古代中古の文学を講じておられたが、私たちの学生時代はちょうどその定年前後に当っていた。なんでも偉い先生だということは聞いていたけれど、小柄《こがら》なこの白髪の老人のどこがそんなに偉いのかは、なかなか分らなかった。ただ、この信彦先生が学部を卒業した時の卒業論文は僅《わず》か原稿用紙七枚の短いもので、それがしかし、碩学《せきがく》折口信夫を驚倒させた名論文だったのだとか、その種の伝説が幾つも伝わっていたのである。
私は学部の二年生の時に信彦先生の『源氏物語』講義を受講したが、飽きて途中から授業に出なくなってしまったのは、今から思うと残念なことである。思うに、そのころの若かった私には源氏の面白さなんかちっとも理解できなかったのに違いない。巨大な階段教室の、遥《はる》か遠くの教壇に、先生はぼつぼつと歩いて登壇してくる。それから、黒い皮鞄《かわかばん》を教卓の上に置き、その鞄を枕《まくら》にしてマイクロフォンを横たえると、鞄の中から紺表紙のテキストを出して、椅子《いす》に座ったまま坦々《たんたん》と講釈していった。巻は『竹河《たけかわ》』だったろうか、内容はもとより何も記憶していないのだが、開講後間もなく、先生が「源氏もこの辺まで来るとずいぶん文章が易しくなります。これは源氏のほうが易しくなるんで、諸君の実力が付いたんだと勘違いしてはいけません」とそんなことを言われて、口辺に微《かす》かな笑みを宿されたことが思い出される。
さて、大学院では『万葉集』の演習を受けた。信彦先生は、私たち黄吻《こうふん》の学生たちにとっては大変に恐ろしい人で、大学院の小さな演習教室に先生が小柄な体を現すとそれだけで部屋中の空気が一気に引き締まるような気がした。恐ろしいと言っても、先生の恐ろしさは、乱暴な声調で人を脅かしたり、或《ある》いは鉄拳《てつけん》を振るったりというような野蛮な恐ろしさでは全然ないので、よく通る声で静かに話されるその存在それ自体から放射される理知の力の圧倒的な迫力とでもいうようなものであったろう。
さて、あるとき万葉の授業で「……はしきよし妻のみことも 明け来れば門に寄り立ち、|衣手を折り返しつつ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》夕されば床うち払ひ ぬばたまの黒髪敷きて何時しかと嘆かすらむそ……」という長歌が出てきた。問題はこの「衣手を折り返しつつ」である。私たちは、新旧の注釈書をあれこれとひっくり返し、「袖口《そでぐち》をまくり返す」のだろうとか「裏返しに着て寝る」のだとか解釈して解ったつもりになっていた。むろんこれはそうすると恋しい人に夢の中で逢《あ》えるという、古いオマジナイなのである。すると、信彦先生はいっこうに感心しない顔で首をひねり、「喧嘩《けんか》に行くんじゃあるまいし」とか「それじゃまるで古着屋の店先だね」とか酷評を加えるのだった。そうなると私たちには何がいったい正解なのか、全然分らなくなった。ずいぶん長いこと考えさせた挙げ句、先生は「つくづく教育というのは忍耐ですね」とつぶやかれて、それからこんな風に諭された。
「いいかい、夢で逢いたい、というのは相手の魂に、どうかここへ飛んできて私のしとねに入ってきて、とそう呼びかける気持ちです。それなのに腕捲《うでまく》りしたり裏返しに着たりする理由がありますか? そんなことをしたら魂は逃げていってしまう。こういうことを考えてごらん、お母さんが小さな子供に向かって『さぁ、寒いからお母さんのお布団《ふとん》にお入り』という時、どうしますか。布団の肩口をちょっと折り返して、さ、ここへお入りって呼ぶのじゃありませんか。『衣手を折り返し』だの『夜の衣を返してぞ寝る』だのいうのは、つまりそういうことでなくちゃ呪術《じゆじゆつ》としての意味がない……」
私はこれを聞いて、「アッ!」と思った。そうか、なるほど、解釈というのはこういうことか。文献だけに囚《とら》われて人間の自然な感情を閑却《かんきやく》すると、解釈は形骸化《けいがいか》した学匠沙汰《がくしようざた》に堕し、結局何も分らない。私はこの時の新鮮な驚きを二十年以上|経《た》った今でもくっきりと想起することができる。そうして、なるほど信彦先生は偉い、と思った。古典は古典にして、しかし古典ではないのである。古典は古典ながら、しかも「私」であり「今」なのだ、とそういうことを知ってから、私は確かに古典は面白いと思うようになった。それは一見「自分勝手な解釈」に似ているけれど、その実は全然違う。広い文献の見渡しがあって、しかもその向こうにいつも温かな目が「人間」を見つめている、その洞察力《どうさつりよく》のみがそれを可能にするのだ。論文の本数や世間的名声などでは計れない本当の教育者の姿を私は佐藤信彦先生の上に見たのである。
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春の心変り
その日は良い春|日和《びより》で、日吉のキャンパスは新入生とその父兄でごった返していた。私はその日から慶應義塾大学の学生となり、人波にもまれながら、ひとり入学式の会場へ向かってだらだらと歩いていた。
たいていの新入生は晴れ晴れと輝くような表情で、嬉《うれ》しそうに銀杏《いちよう》並木の下を進んでいたが、私はそれほど嬉しいとも思わず、むしろ鬱々《うつうつ》として楽しまない表情であったかもしれない。
高校時代、私はそれほど成績優秀だったというわけではなく、一生懸命勉強している割には、東大の合格圏すれすれという程度のところをうろうろしていた。
どこを受けようかなぁ、という時になって、私は一応第一志望は東大の文V、第二志望は慶應の文学部、と決めたのだった。一つ違いの兄は高校から慶應に行っていて、毎日楽しそうに遊び暮らしていたし、ま、慶應も悪くないかな、と思ったからである。実際に東大を受けてみると、一次試験は何とか通ったものの、二次試験となると、だいいち数学なんかは問題を見たとたんに、「お、これは解けない」ということが分かった程度で、事実そのうちの一題を試みてみた結果では、蜒々《えんえん》と割り切れない計算が続き、まるで宇宙船の軌道計算を筆算しているような気がした。だからあれは間違いなく○点だったろう。従って不合格だったのは、是非もない当然の道理だったのである。
いっぽう、慶應の文学部はばかに簡単で、国語はほとんど満点に近い点数だったろうし、数学は無いし、英語は前の年に出たのとほとんど同じ問題がまた出ていたりして、別段な苦労もなく合格してしまった。
それでも私は「よし、では来年もう一度東大にチャレンジしてみよう」と思い、とりあえず滑り止めの慶應に入学して、捲土《けんど》重来を期することにした。
だから、入学式の時点では慶應に骨を埋めるつもりはなかったのである。そこで学生服も高校の時のまま、それに慶應のバッジだけつけて、うろうろと入学式に出て行ったわけである。
すると、銀杏並木のあたりで、上級生らしい慶應ボーイ風が私を呼び止め、「キミキミ、慶應では、そういう風に衿《えり》に徽章《きしよう》なんか付けないのが伝統だよ。すぐ外したまえ」とキザな口調で教訓した。私は、慶應というところは嫌味《いやみ》な奴《やつ》がいるところだ、と内心不愉快になった。そうして、こういうところはさっさと見切りを付けて東大に行くに限る、などと横風なことを考えていた。
ところが、いよいよ新学期がはじまってみると、文学部のこととて、華やかな女子学生で教室はまるで花が咲いたようだった。地味な都立高校から来た私は、たちまち花の色に迷って、三日ほど経《た》ったころには、もはや東大のことなどすっかり忘れてしまった。
それから私は慶應で充分に遊び、充分に勉強させてもらった。その日々は今にして悔ゆるところがない。つまりそれが、私には最も良い選択だったのである。
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苦 にがい
祖父の遺戒《ゆいかい》
もう二十年近くまえに死んだ祖父は、海軍の軍人だったが、茨城の農家の出で、質素に育ったせいで食べ物にも酒にも一向に趣味がなかった。その祖父が珍しく私たちに食べ物のことで教訓をしたことがある。
「河豚《フグ》を食べてはいかん」というのである。彼はその昔、軍務で下関に赴いた折、御当地名物の河豚を出されたのだそうである。関東の人間は(関西人とはこと変り)じっさいそれほど河豚というものに執着をもっているわけではないし、郷里北関東の農村ではそういう物は口にしたことがなかったのであろう。祖父は、しかし、立派な口髭《くちひげ》を鼻下《びか》に蓄《たくわ》えた軍人として、まさかしりごみもならず、痩《や》せ我慢して恐る恐る出された河豚を食べてみた。河豚の毒は即効性ではないので、暫《しばら》くたたないと当ったか無事だったか分らない。
「ところがだ、その夜寝床に入ると、なんだかこの舌先がシビれるんだね。……あぁ、これでおれも一巻の終りだ。しまった、やっぱり喰《く》わなければ良かった、と、そのとき返す返すも後悔した……ああいうものは、士大夫《したいふ》たるもの、喰ってはいかんねぇ」
けれども、これは祖父の考えすぎだったと見え、翌朝祖父は無事に目を覚ました。
「アーアァ、助かった!」と、その朝祖父は九死に一生を得た思いがしたそうである。
それ以来祖父は終生河豚は口にしなかったばかりか、折々この話をしては禿《は》げ頭を撫《な》で撫で「河豚をな、喰ってはいかんよ」と諭したものである。
それで、私などもこの遺戒を遵守《じゆんしゆ》して、齢《よわい》三十に及ぶまで河豚というものは一切口にしなかった。しかし、三十歳を過ぎて、東横短大に就職すると、そこの学科長の久保田芳太郎先生は大変な食通で江戸っ子で、「家訓で河豚は頂きません」としりごみする私を、ある河豚料理屋に連れていった。そうして「まぁ、家訓は家訓として、一度死んだ気になってお食べなさい」と誘惑したのだった。「ではほんの一切れだけ、味見に」と河豚刺しをつまんだのが家訓の破り初めだった。その時河豚チリを散々に食べて、家に帰ると、なんだか舌先がシビれていた。「あ、しまった、やっぱりジイさんの教訓を守っとけばよかった」と甚《はなは》だ後悔しかけて、よくよく考えるとそれはチリ鍋《なべ》の熱さによる舌先のヤケドに違いなかった。
思うに祖父の遺戒は、ハッハ、アツモノに懲《こ》りてナマスを吹いていたのである。
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タイヤは日に干して……
ロンドンに初めて渡ってすぐ、私は自動車を買おうと思った。
なにしろ、もうこの二十二年以上、一日として車に乗らない日はないというほどの運転好きで、ことに公共交通が日本よりずっと不便なイギリスにいては、まさか車無しの生活というものは考えられなかったのだ。
着くとすぐに、私はロンドン近郊の中古車屋を検分して回った。フム、すると驚いたことに、この国では中古車というものが、甚《はなは》だ高直《こうじき》である。日本だったら当然スクラップになっている筈《はず》の「走るクズ鉄」みたいなのが、結構な値段で売られている。それは一見するとアコギな商売のようだが、実はそうでない。例えば、日本で十万円で買えるようなボロ車を買ったとする。これがイギリスでは、さよう、二十五万円くらいはする。ところが、もしこのボロ車を一年間乗り回して(まず二万キロくらいも走って)それから同じ中古車屋に持っていったとする。その場合、日本ではまず買い戻してはもらえないだろう。タダで引き取ってくれれば良い方だ。ところが、イギリスの場合は、かかるポンコツをちゃーんと売値の半額くらいで引き取ってくれる。そうすると、中古車屋の方では、それにまたある程度の利幅を乗せて再販売するわけだから、なるほど中古車の価格はいつまでたっても安くならない筈である。
したがって、ややお金に不自由していたその頃の私にとって、買い易《やす》い車はなかなか見つからなかった。
散々苦労した挙げ句、私は近所のアーチウェイというあまり感心しない土地|柄《がら》の、あまり芳《かんば》しくない中古車屋で一台のオースチン・ミニを買うことに決めたのだった。
コクニー訛《なま》りで調子の良い中年イギリス男(たぶんこれが主人だろう)とアラビア人らしい人相の悪い青年がやっている店だった。ミニの程度はまあまあだったが、日本円で四十万円くらいもした。虎《とら》の子の貯金をはたいて契約して、数日後に車を受け取りに中古車屋へ行くと、店のオヤジが困却した顔で出てきた。
「それが、じつは困ったことになった。昨日、車検を取りに行ったら、その途中で車軸が折れてオシャカになっちまったんだ。代りにこのトヨタはどうだ」
そんなばかな、と思ったが、しかたがないのでボロのトヨタを買った。この言い訳が本当だったかどうか、それは分らない。
暫くして、友人の何樫《なにがし》君にこの話をすると、彼は真顔で言った。
「林さんはそりゃ好運でしたよ」
「どうしてさ?」
聞いてみると、かれは二十万円のミニを買って間もなく、なんと運転中に、どさっと床が抜けたというのだ。これは嘘《うそ》のようだがホントの話である。
しかし、さすがのトヨタも氏より育ち、すっかりイギリス流で、あちこちと故障ばかりするのだった。
まず買ってすぐプラグが四本とも駄目《だめ》になっていることが分った。早速この車を売り付けた中古車屋へ行って文句をいうと、口先ばかり調子のよいオヤジが店の奥から怪しげな三流品のプラグを出してきて、しょうがないという顔をして付け替えてくれた。
するとまもなく、今度はクラッチがバカになった。
それからすぐに排気管が折れて、ガクンと落っこちてしまった。
それも直すと、次にはディストリビュータが壊れた。
こういう度重なる貴重な経験によって、私はすっかり自動車の修理を覚え、いつも一通りの消耗部品と充分な工具を持ち歩くようになった。
苦難と経験は人を賢くするのである。
ところが、これも買って間もない頃《ころ》、私は重大な危険に気が付いた。タイヤである。このタイヤが、よく見ると、溝《みぞ》なんかは殆《ほとん》ど残ってなくて、しかも横ッ腹がデコボコと変に膨《ふく》れているのだ。これで高速道路などを走ると必ずや命に別状があるだろう。
私は早速また、かの中古車屋へ文句を言いに行った。すると、今度はアラビア人の青年が出てきて、あっさり「じゃ、交換しましょう」と言った。その口調は正直そうで、彼は第一印象ほどには悪い男ではないらしかった。
それから彼は、事務所の横で雨曝《あまざら》しになっている古タイヤの山の中から、いくらかマシなのを選んで黙々と取り替え始めた。
「オイオイ、もうちょっとマトモなのはないのかい」
と尋ねると、彼は人懐《ひとなつ》っこい表情を浮かべて言った。
「いや、これくらい雨曝しになってるのがちょうど良いんです。僕の故郷のエジプトではね、新しいタイヤはゴムが軟弱でいけないといって、わざと一年くらい屋根の上に上げて日に曝しておきますから。そうするとゴムが硬くなってちょうど良いってね……」
なるほど、広い世界にはそういう不思議な習慣の所もあるかもしれないが、ウーム、鰺《あじ》の開きじゃあるまいし……、私は砂漠《さばく》の灼《や》けつく陽光にじりじりとタイヤが干されている景色をふと想像したのだった。
こうしてまた私は一つ利口になった。けれども、間もなく私は新品の(すなわち、ゴムの軟弱なる)タイヤを買って付け替えてしまったので、このエジプト流日干しタイヤの良し悪《あ》しは今に知れない。
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電柱の南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》
「しかしなぁ、どうもアタシは車がないと元気が出ないからなぁ」
私は電話の向こうのTに食い下がった。
Tは、呆《あき》れたような声でこう言い返す。
「そりゃね、お前、とんだ考え違いというものだぜ。なにせ、ここは日本とかイギリスとかアメリカとかさ、そういう普通当たり前の考えが通用しないところなんだからさ。運転はぜひにもやめておいたほうが賢明だとおもうね、これはもう年来の友人としての衷心《ちゆうしん》からの助言だ……、たとえばね、俺たちもうこっちに何年と住んでる駐在員にしてからがさ、決して自分で運転しちゃいけないという会社の内規になってるくらいでね」
Tは決して運転が下手というのでない。むしろ、長い運転歴をもった、上等のドライバーなのだ。
「しかし、十分な注意をしてさ、そろそろと転がすくらいならまぁ、ダイジョブじゃないか、正味」
「お前もわからないやつだなぁ、なにしろね、こっちはレンタカーにしたって、『保険』というものが一向に完備していない。だから万一事故を起こしたら、そりゃ大変なことになる。悪いことは言わないから、やめとけよ、運転だけはさ」
私は、不承不承に彼の助言を容《い》れて、台湾でレンタカーを借りるのは止《や》めることにした。
やがて、飛行機が高雄国際空港に着いた。
Tが周さんという中国人運転手の運転する社用車で空港まで迎えに来てくれた。
それでも、私は運転がしたくてたまらない。だいいち車がないとまるで羽をもがれた鳥のように、身動きがままならない気分である。急に自分の周囲の世界が小さく縮んでしまったように思われる。歩いて行ける範囲などは、車の行動半径に比べればほとんど無視し得るくらいに小さい。私は釈然としない気分でTの社用車に乗り込んだ。雑然たる高雄の街路を走りながら、ああ、これが俺《おれ》の運転する車だったら、そこの道を曲がってみるのに、あの山のてっぺんまで行って、見おろしてみたらどんなだろう、とか次々に想像が膨らんでくる。
やがて、車は高雄の市街に入る。だだっぴろい街路を、縦横無尽に、それこそ一切の秩序無く車が右往左往して走る。ははぁ、これだな、Tが言ってたのは……なるほどこの無秩序の中を走るのは骨が折れそうだ。
そのうち、私は妙なことに気が付いた。この運転手は赤信号でも停車することなく右折していく(台湾は右側通行だから右折は日本の左折に相当する)。してみると、台湾の規則では信号の如何《いかん》にかかわらず交差点は常時右折可なのであるらしい。
「台湾はどの交差点も常時右折可なのか?」
私がそう尋ねると、Tがうんざりした表情で答える。
「いやさ、常時右折可じゃないさ。見ててみろ、この車だってさ、たとい赤信号だとて、左右から車が来なければ右折・左折・直進そのいずれでも、まったく自由に通過する。法規なぞだれが守るものか。ぶつからなければそれでいいじゃないか、と、こう考えるのが台湾流というものだからな」
「しかし、それは危ないなぁ」
「ああ、いかにも危ない。だから台湾の交通事故は日本の六倍の数に上るそうだ」
やがて、車は市街を抜け、郊外に出る。そこで私は妙なものに気が付いた。あちこちの電柱に「請専念、南無阿弥陀仏」と大書してあるのである。
「おい、あの電柱の『南無阿弥陀仏』ってのは、なんのおまじないだい」
Tはめんどくさそうに答える。
「知らんなぁ。まあなにか信心深い人が道祖神みたようなつもりで書くのじゃないか」
すると、だまって私たちの会話を聴いていた運転手の周さんが口を開いた。
「違いますよTさん、あれはね、あの電柱の付近で死亡事故が出たってことですよ」
なーるほど、そうなのか。そうしてみると、なるほど街道の至る所に夥《おびただ》しく死亡事故現場が存在している。
「だから言ったじゃないか。ともかくさ、この国ではね、死亡時の補償金のほうが入院だの何だのの長期の費用よりはずっと少なくて済むらしい。それでな、乱暴な奴になると、なまじはねたくらいでは後が面倒だってんで、わざわざ戻って轢《ひ》きなおしていくんだそうだ」
フーム、私はつくづくと考えた。それが本当なら、これはまた大変な国に来てしまったものだ。そうして、そんなことを夢にも考えずに楽しく運転することができる国に生まれた幸せをしみじみと考え直した。
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珍景論
北区滝野川の陸橋を渡りながら、つらつら考えた。
中仙道《なかせんどう》が埼京《さいきよう》線をまたぐ陸橋は、よくみると随分と古いもので、戦後間もなくか、もしかすると戦前に造られたものかと想像される。もっとも、確かめたわけではないから、ほんとのところは分らない。
で、その、陸橋が妙である。どこが妙かというと、コンクリートの欄干に、変な凹凸《おうとつ》が付けてあるのである。詳しく説明すると、こうである。すなわち、その欄干は主として荒い川砂利があらわになっているコンクリの四角いフェンスのような部分と、その前後に、コンクリート柱に支えられた円筒形の鉄棒の手摺《てすり》のような部分からなる。そして、そのコンクリートのフェンスのような部分に、ちょうど額縁のごとく無用のデコボコが付けてあるのである。つまりそういう「モダンな」デザインを施してあるのである。じつを言えば、こんな形の橋はちっとも珍しくはなく、どこにだってあるありふれたデザインに違いない。よくよく見てみると、なるほど昔はこんな「モダンな」欄干をよく見かけたなぁ、と、そこはかとなく思い出されるに違いない。しかし、それではどうしてこんな所に、わざわざ面倒な工事を敢《あ》えてして凹凸型のデザインを施したのだろう。そんなことは当り前のことだが、つまりその当時「これがカッコイイ」と工事の責任者か設計者かが思ってしまったからなのだ。それを「カッコイイ」と思わせる何かこう風潮のようなものがあったからなのだ。
さて、それで、こんどは月島から深川の方へまっすぐに延びている清澄《きよすみ》通りを走ってみる。佃島《つくだじま》の方から北上して、左に清澄庭園が展開する辺り、この辺に至って、「ア、ア、アアア」と思わない人がいたら、その人は昭和四十年以降に生まれた青年であるか、もしくは風景というものに全く感受性の欠けた人であるから、このエッセイを読んでも時間の無駄である。
なにが「ア、ア、アアア」かというと、風景の時間がそこだけ止まっているのである。といっても、別段古い木造の建物が並んでいる京都の町屋というようなものを思い浮かべてはいけない。すぐにそういうものを思い浮かべる人は、すでに頭がかなり固定観念という病に冒されていると思われる。何の変哲もない、いや正確に言えば、昭和三十年くらいまでは何の変哲もなかった(けれどもしかし、今日ではすっかり|変哲のある《ヽヽヽヽヽ》)商店街の街並みである。お茶屋、ハンコ屋、菓子屋等々まったく当り前の商店街なのだが、その建物が実に古色|蒼然《そうぜん》としていて、珍しいのである。昔、まだあちこちの表通りに都電が走っていたころ、東京の「表通り」の商店街は、みなこんな風だった。だから、初めて、まったく偶然に、このところを通りかかった時、私の心は直ちに三十年余の歳月を遡行《そこう》して、野球帽をかぶり半ズボンで走り回っていた、あの少年時代へ回帰して行ったのだ。
この商店街の建物は昭和四年に建築され、戦災にも遭ったけれど、当時としては珍しい鉄筋コンクリートで出来ていたため、通りに面した一部は焼け残ってその焼け残ったところに合わせて復元されたのだそうである。で、その建物の角のところに、やはり「妙なデコボコ」が付けられているのである。滝野川の陸橋とおんなじ趣味だ。これもまったくの単なる「デザイン」であって、機能的には無用のものに外ならない。建物の角のところが何となく寂しいので、ここに三段ばかりの四角いデコボコを施したらいかにも「モダン」で美しかろう、とその建売り商店街の無名の設計者が思ってしまったのに違いない。
さて、そこから清澄庭園のほうへ回り込んでみると、そこに深川図書館という古びた図書館がある。これも多分表通りの商店街と同じ頃の建物ではないかと想像されるのだが、この壁にもまた、似たような三段ほどのデコボコが付けられていて、それがこの建物を、単調な官立建築の退屈さから僅《わず》かに救っているように見える。そんな所に目を付けて見ると、この図書館の裏口のところの塀《へい》に告知板のようなものが設置されていて、その両側で塀が雁行《がんこう》形にデコボコと入り組んでいるのも注目される。なんだか分らないけれど、そういう風に無用の凹凸を付けると、それがモダンな形である、と信じていた当時の一般的な風潮がこうした諸々《もろもろ》の例によって推定されるのである。
いま、ロンドンの風景などを思い出してみるに、ちょうど一九三○年ころに建てられたいわゆる近代的なコンクリートの工場建築などの建物に、これとよく似た「デザイン」としてのデコボコ(または凹凸)が施されている例が少なくなかったように思われる。おそらくそうした近代的趣味はアメリカがその発信地だったのだろうと想像され、広く見れば、そのころのラジオとかトースターとかいった家庭用品のデザインにも、ある共通した凹凸の趣味が認められるであろう。
ところで、大切なことは、こうした建物の趣味がいずれも無名の(たぶん建築会社の)設計者の想に出たものだということである。
歴史というものの皮肉は、「当り前の事柄は残らない」ということである。歴史は普通の無名の市民が日々営んできた「当り前の生活」を、ある意味で無視するところで成り立っている。大きな事件、偉大な人物、そういう|普通でない《ヽヽヽヽヽ》事実の厖大《ぼうだい》な集積をわれわれは「歴史」と呼ぶのであった。そうしてみると、たとえば建築の歴史というようなものも、ガウディ、ル・コルビジェ、いわば普通でない建物、偉大な建築家の作品というエキセントリックなものの集積にほかならない。
しかし、ほんとうのところ、戦後の木造平屋の都営住宅の哀《かな》しいような陰翳《いんえい》、公団住宅のあの殺風景な連なり、はたまた今日各地にはびこるタイル貼りの「高級マンション」、そういう無名のなんでもない建築の集積としての風景が、|その時代《ヽヽヽヽ》の風景というものなのだが、幸か不幸か、わが国では、ひとつの時代の風景を破壊してそれに置き換える形で次の時代の様式が現れる。一方、イギリスでは、旧様式は原則として保存されながら、並立的に新しい様式新しい風景が現れる。これはヴィクトリアン、あれはチューダーと数百年来の諸様式がそれぞれ肩を並べて重なりあいながら、全体として風景を形成していく国々と違って、わが国はどんな建築にも「耐用年数」という限度があって、それを超えることは原則として許されない。
かくて無名性のなかに息づいている時代の様式やそれに支えられた風景は、やがて私たちの前から跡形もなく消えて行ってしまうであろう。その中であのデコボコのように、たまさかの僥倖《ぎようこう》によって生き残った「時代の破片」は、都市の片隅《かたすみ》で、人に知られないようなかそけさで、それらを「珍し」として観察する人を待ち受けているのかもしれない。
今日ではすっかり「珍しい」ものになってしまったこれらの景色は、実はかつて最も普遍であったもの、つまり無名の人々の手に成る「無名の様式」のかなしい生き残りなのである。
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街角のモダニズム
ロンドンの街を歩いていると、羨《うらや》ましくてならないことがひとつある。
街の建物が古いまま残っていて、歴史やその歴史の中を生きてきた人々の心が、さながら凍結され凝固して、不思議な風韻を漂わせているからである。たとえば十九世紀末から今世紀初頭くらいの建築だったら、街中至るところにある。それは、しかもただそこに「在る」だけじゃなくて、立派に「生きて」いて、歴史というものの連続性を目に見える形で訴えかけてくるのである。
ひるがえって、わが国では、かの鴨長明《かものちようめい》が「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と、いみじくも嘆じたごとく、街も人も常に変って行くもので、その有為転変《ういてんぺん》の中に、歴史も人も、いやすべての「存在」の実相があると観じてきた。街の景観やそれを形づくっている個々の建物などが、落花流水、はかなく散り失せてわずか数十年の命をしか保ち得ないのも、けだし当然のことだと言わなくてはなるまい。
しかし、こういうことがないだろうか。たとえば、つい半年前までずらりと商店が並んでいた「見なれた」街並みであったものが、時に利あらず、地上げの憂《う》き目に遭って、あっという間に空き地になってしまう、そうすると、さてこないだまであれほど見なれていて、毎日のように買物をしていた、その街並みの「どこに」「何が」あったか、はてすっかり思い出せない、どんな景色だったのかも、すでに全く忘却のかなたに消え失せている、とそういう経験が……。風景の、追憶の、国籍喪失者!
人は、なんでもない景色やあえかな匂《にお》いや、そういうはかない「もの」との抜き難《がた》い関連のなかに「人生」を生きているのである。そうすると、その景観があえなく消滅してしまった途端に、すでにあれほど強固《きようご》な記憶と見えていたものが、あっさりと跡形もなく崩れてしまうわけである。浦島太郎が、龍宮城《りゆうぐうじよう》から帰り来て、まったくおのれの郷里を認識し得なかったのは、ひとえにこの身近な景観が消滅していたそのことによる。
つまり、山や川や、そういう変らない景色よりも、どんどん変って行く身近な街並みのほうが、私たちにとってのもっとも切実な「記憶の鏡」なのだということを、もっとよく考えておかなくてはなるまい。
しかし、考えてみれば、木と紙で出来ていた私たちの国の家屋が、地震の多い国土の中で、それ自体滅び易いものだったことは、これはどうしようもない事実である。だから、そのことを悲しむには当らない。けれども、本来まだまだ命脈を保ち得るはずの、立派なコンクリートの建物をまで、単に流行遅れで使いにくいからというような理由で、何の未練もなく破壊してしまうという、この近視眼的傾向は、なんとしても悲しまずにはいられない。それはそういう跡形もない街並みの破壊によって、そこに息づいていた人々の「思い」をまで、洗いざらい抹殺《まつさつ》することを意味しているのである。
そのようにして、東京の街は、どんどん変って行く。
「昔恋しい銀座の柳」など、どこにもありはしない。それは、今では、もはやその柳を恋しがる人がすっかりいなくなったということと等価であるかもしれない。
それでもなお、私の中の「臍曲《へそまが》りの魂」は、ロンドンの街に見られるような変らぬ景観、そこに地縛霊のように張り付いている重層的追憶を求めてやまない。しかししかし、ロンドンと違って、悲しいことにそれは、東京では極めて「珍しい」景色に属するのである。
なんでもない街並みは、その|ありふれているがために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、失われ易い。そうすると、五、六十年前にまるで当り前だった景観は今日極めて稀《まれ》な「風景の化石」と変じ、今日もっとも見なれた景色は、数十年の後には、必ずやもっとも見出《みいだ》し難《がた》い「珍景」となるであろう。
そういう目で街を観察しながら歩いていると、所々で「おやっ」と思うような風景に出会うことがある。
晴海通《はるみどお》りを下って、築地の「岩間陶器店」の角を左に折れたところに同店の倉庫があるのだが、たとえばこの建物に少しく注意してみたい。この倉庫の正面に立って、ぐいと振り仰ぐと、そこに私の愛してやまない古い「東京の風景」がほの見えてくるからである。
社長の岩間博さんに伺ったところでは、この倉庫は昭和七年に設計され同八年に竣工《しゆんこう》したもので、設計施工したのは藤原|武太郎《たけたろう》という大工さんだそうである。戦災にも遭わなかったこの好運な四階建て倉庫は、前面がくすんだ茶褐色《ちやかつしよく》の「引っ掻《か》きタイル」で覆《おお》われ、西欧的な鉄格子《てつごうし》の開き窓が三階と四階にそれぞれ四つずつ並んでいる。これがこの倉庫のひょうきんな顔である。げに「引っ掻きタイル」は、大正から昭和初期の時代によく用いられ、その頃のモダンな趣味の申し子だったのだ。
こんにち、マンションなどの外壁にタイルを貼《は》り巡らしたスタイルは、もっとも現代的な様式として多くの人の目に親しいに違いない。それと同じように、このモダニズムの時代には、くすんだ褐色の「引っ掻きタイル」が、西欧的なそして当代的な様式として、理屈抜きで喜ばれたのである。しかも、この岩間陶器店の倉庫は、別に名のある建築家の設計にかかる名建築というわけではない。一介の大工さんが当時の趣味を取り入れて建てたのである。いわば、当時ありふれた建築物に過ぎなかったのだ。それが、今見るとどうだろう。この一つの時代を、懐かしく美しく表現しつつ、圧倒的な存在感をもって、この築地の一角に鎮《しず》まっているではないか。
よく見ると、この建物のずっとテッペンに近いところに、何やら白い四角いものが見える。これを望遠鏡でしげしげと観察してみると、横十枚縦十二枚の総計百二十枚のタイルで出来た巨大な商標モザイクであることが分る。白地に藍《あい》の手描《てが》き染付タイルであるが、これは瀬戸へあつらえたものだそうである。この百二十枚の巨大な面積一杯に、笑顔の布袋《ほてい》さんが悠揚《ゆうよう》迫らぬ筆致で描かれている。左手には軍配をもち、右手は人差し指を立てて何かを指し示しているようだ。そして、その肩のところにこれも雄渾《ゆうこん》な字で「商標」とのみ書かれているのである。
「昔は、この倉庫の前の通りに都電の引込線が通ってましてね、その停留所で電車を待つ方々が、よくこの上の方の布袋さんを見上げていられましたなぁ……」
岩間さんはそのように昔を懐かしまれるのだった。
その都電も、今はもう無い。
が、その頃この停留所で布袋さんを眺《なが》めた人が、いまもしも再びここに立ってこの倉庫を振り仰いだとしたらどうだろう。心は、数十年の月日をたちまち遡行《そこう》して、眼前に輝かしい青春時代が立ち現れるかもしれない。
とはいえ、この建物もすでに老朽|蔽《おお》い難く、いまは危険防止のためのネットに覆われ、近く取り壊されるのだそうである。
「あの布袋さんはどうなるのでしょうか」
「さぁて、そのまま壊されるということになるんでしょうなぁ」
こうしてまた、一つの風景が消えていく。それを私たちは悲しんではいけないのかもしれないけれど……。
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見果てぬ夢
紙と木で出来ている日本の家屋はなにしろ燃え易《やす》いから、家の中で火を飼い慣らすのはなかなか困難なことに属する。
「いろり」は、その見事な解答で、壁のどこからも離して、ということは大きな部屋の真中に、しかも不燃材である灰に包んで火を燃やすという仕組みなのだった。そうしておいて、火を微妙に調節しながら小出しに燃やすのである。すると、人々はその小さな火の回りにうずくまって煖《だん》をとる、というあのいろり端《ばた》の風景になるわけで、それは椅子《いす》とテーブルの西洋式生活には当然ながらマッチしない。家屋と室内生活の近代化(ということはつまり西欧化)に伴って、いろりが急速に滅びていったのは蓋《けだ》しやむを得ない趨勢《すうせい》であったろう。
一方、子供の頃読んだ西欧の御伽話《おとぎばなし》の絵本や、向こうのテレビドラマなんかを見ると、天井の高い堂々たる部屋の壁に立派な煖炉《だんろ》があって、その中では薪《まき》が盛大に赤黄色い炎を立てて燃えているのだった。西洋人たちはその火を囲むようにゆったりと安楽な椅子を置いて、パイプをくゆらしたりしながら、暖かそうに話をしている。私たちは、狭苦しい公団住宅なんぞに暮らしながら、あのアメリカやイギリスの、つまりは西洋人たちの悠然《ゆうぜん》たる暮らしぶりをどれほど羨《うらや》ましく思ったことだろう。その西欧的生活の象徴とも言うべきものは、ほかならぬシャンデリアとマントルピースだった。
そこで、すこし生活に余裕が出来てくると、建売り住宅などに、不釣合《ふつりあ》いなシャンデリアと、形だけのマントルピースを付けるのが流行したことがある。そういうのは、じっさい哀《かな》しいスノビズムで、たった九尺の高さの木の天井に燦然《さんぜん》たるシャンデリアがきらめき、鉄平石なんかを貼《は》りつめた見せかけの煖炉《だんろ》の中にガスストーブが燃えているのなどは、戦後という時代の嘘《うそ》くささを象徴して余蘊《ようん》がなかった。こういう薄っぺらい西欧趣味は、しかし、やがて段々すたれ、今日ではもっと本格的な(ほんとの煖炉のある)洋風住宅が現れてきたのは、ちょっと喜ばしい。
けれども、私たちの世代が、貧しかったあの時代に「羨ましいなぁ」とため息をついたあの気持ちは既に脳味噌《のうみそ》の奥深く刷り込まれ、抜き難い「憧《あこが》れ」となって残った。それ故《ゆえ》、私がイギリスに暮らすことになったとき、まず夢見たものは、どっしりとした煖炉のある部屋で、盛大に薪を燃やして、炉辺談話に時を過ごすことだった。
ロンドンで親しくしていたスティーヴンという友達は、煖炉に火を起こす名人で、マントルピースの焚《た》き口に新聞紙をヒョイとかぶせるようにして、簡単に薪やコークスを燃え上がらせて見せた。かくて私は、俄然《がぜん》、煖炉の燃やし方を学んだのである。ははァ、煖炉ではああして火を起こすのか……。
後に、ケンブリッジ大学に招かれて、家族でイギリスに暮らすことになったとき、だから、「ついについに余《よ》もヴィクトリア時代風の煖炉のある部屋の主となりて、何十年来の夢を果たすべきの時至る」と胸がわくわくした。そうしたら、スティーヴン直伝《じきでん》の技をもって、思うさま薪を焚いてロッキングチェアで本を読むのだ。
やがて、イギリスについた。家はケンブリッジのスタッフが捜しておいてくれた。「林さんは日本人だから新しい便利な家がいいでしょう?」といって案内された家を見て私はヘナヘナと力が抜ける思いがした。そこは戦後に出来た新興住宅地の情ない安普請《やすぶしん》で、天井は低くドアは薄く、煖炉なんぞは影も形もありはしなかった。そのかわりに、一向に効かないラジエターと壊れかけたガスストーブ……。あぁ、あぁ、私たちがひたすら西欧風を学んでいるすきに、やんぬるかな、イギリスでは日本式の安普請を学んでいたのである!
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人体の不思議
人体というものは不思議である。
パリで中華料理を食べていたとき、豆腐の中に、硬い石が入っていたのを、私は勢いよく噛《か》み砕いてしまった。ガリンという音と共に滅法《めつぽう》な痛みが脳天に走り、目から稲妻《いなずま》が出たかと思った。私は、この店で、|豆腐で歯を痛めた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》初めての客となったが、こんなのはあまり自慢にはならない。で、その日から、この右の奥歯が恐ろしく痛んで、もはや豆腐も噛めない程になった。
イギリスへ帰って、さっそく歯医者に行った。歯医者に「豆腐で歯が割れた」と言うと、彼は笑いながら子細に奥歯を調べて言った。
「フーム、この右の奥歯にはごくごく細ーいひびが入っておるな。しかしこの程度のひびを貼り付ける方便もないが……、どうするね、なんならいっそサッパリと抜いて上げてもよろしいが」
サッパリと抜かれてはたまらないので、私は我慢することにした。すると、不思議じゃないか、あれほどビリビリと痛んだのが、二週間もすると、薄皮を剥《は》がすようにおさまり、だんだんものを噛んでも大事ないようになった。
かくて日本に帰ってきた頃には、くだんの奥歯で煎餅《せんべい》さえ噛むことが出来るくらいになっていたが、それでも物が歯に当る角度によっては、目のくらむような激痛が走って私を悩ませた。ところが、ある日車を運転しながら煎餅を齧《かじ》っていると、突然かの右の奥歯がポロリと欠けた。その歯のカケラは案外もろくて、そのまま噛んだらグズグズ崩れたので、煎餅と一緒に食べてしまった。しかし、その奥歯の欠けは神経には触らぬ程度の軽微なものだったので、すぐ歯医者で表面を平らに削ってもらって一件落着となった。すると、驚くべし! その日を境に、さしもしつこく私を悩ましていた痛みが、嘘のように消えてしまったのだ。以来、何でも斟酌《しんしやく》なしに噛み砕いて一向に平気である。
あぁ、助かった、と思って喜んでいたら、そうは問屋が卸さなかった。この歯の一部欠落によって口の中のたたずまいがちょっと変ってしまったらしい。その結果、その欠けた歯でしょっちゅう舌を噛んでしまう事故が起こるようになったのである。人体のシステムはまことに精妙である。一つが狂うと次々と狂ってくる。だから、豆腐で歯を痛めたりすると、これは一生たたるのだとつくづく感じ入った。
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裸体主義の伝統
「ミュンヘンにいるうちに是非ご覧になるといい」
ドイツ人のリヒト君は、そういうとニヤリと笑った。
「で、そのイングリッシャーガルテンてのは、どこにあるんです」
「じゃ、こうしましょう。今日の午後、イングリッシャーガルテンへ、一緒に行きましょう。ただし、今日はこんなに天気が悪いから彼らは出てませんよ、きっと」
イングリッシャーガルテン(Englischer Garten)というのは、ミュンヘン中心部にある庭園の名前である。そのまま訳せばイギリス庭園ということになる。
行ってみるとそこは、東京でたとえればちょうど日比谷公園というような位置にある大きな公園で、その日はたまたま土曜日だったせいか、散策する人たちで賑《にぎ》わっていた。この市街の真中の緑地公園に、何百人ものヌーディストが集まるというのである。なんだか俄《にわ》かに信じ難い話だった。ほんとにこの雑踏する場所にヌーディストなんか来るのだろうか。リヒト君は、ゆるゆると自転車を押して歩きながら、なんでもないことのように話した。
「ほら、あれがチャイニーズタワーです。ヌーディストはね、こっちじゃなくてもっと北のほうの、小川の岸辺あたりにたくさん出ます。むかしは警官が取り締まったのだけれど、そのうち衆寡《しゆうか》敵せずというか、あんまり切りなく来るので、しまいに諦《あきら》めて解禁というようなことになったんです、今は全く自由、ハハハ。天気の良い午後にね、行ってごらんなさい。ちょっと前にアメリカの雑誌が報道して世界中に有名になってね、そしたらますます数が多くなった。別にそこらへんの普通の道端に寝転がったりしてますから、誰でも見られますよ。でもね、写真を撮るのだけはよしておいた方が無難です。前にカメラを構えて殴られたってやつがいましたからね」
月曜日の夕方、図書館での仕事が終って外に出てみると、陽《ひ》はまだ中天にカンカンと照っていた。暑い日である。私はリヒト君の勧告を思い出して、そうだ、今ならヌーディストが見られるかもしれないと思って、再び自転車を借り、イギリス庭園の北の方へ行ってみた。行ってみて私は我と我が目を疑った。
ムムム、たしかにリヒト君の教えたとおり、公園の中央を流れる水の澄んだ小川の岸辺を占領して、おびただしい数の老若男女が、一糸|纏《まと》わぬ裸体で、のんびりと日光浴をしている。多くは若者で、アアッ、十七、八歳かと見える美しい女の人が、|私の歩いている道の方へ足を向けて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》「大の字」になって堂々と寝そべってるじゃないか。
私は、ジコジコと自転車を押しながら、左右に視線を及ぼして、もっとよくよく観察したいと、心の中では思ったけれど、いざこういう状況になると思うようにはいかない、なんだかこっちが照れてしまって、不覚にも、妙に生真面目《きまじめ》に正面を向いて通り抜けてしまった。その間、おかしなことに「私は偶然、知らずにここを通りかかってしまいました」と、心中、自分で自分に嘘の言い訳をしたりしているのだった。
それでも視野の及ぶ限り観察を加えた結果では、男女ほぼ同数、おおむね百人以上は集まっているようだった。視野の端のほうで、天使のように美形の女の子が、小川から水を滴《したた》らせて上がってきた。オオッ、と思ってついそっちの方を振り向くと、折悪《おりあ》しく、続けてハゲ頭のおじさんがブラリと岸に上がってくるのを真っ向から見てしまった。なかなか思うようにはいかないのである。
中年の夫婦らしい人もあれば、小さな子供を連れた家族もあり、中には白昼この公共の場所で、しかも二人とも完全な裸体で、ぴったりと抱き合って熱烈にキスしているカップルもある。しかし決して猥褻《わいせつ》な感じはしない。私は、すっかり毒気をぬかれてしまった。
けれども、この町にかかる人々が集まるについては、じつは歴史的背景があるのである。
一八九二年まで、この町にカール・ヴィルヘルム・ディーフェンバッハ(一八五一―一九一三)という畸人《きじん》が住んでいた。この人はもともと画家であるが、一種の自然主義者で、菜食主義、裸体主義を標榜《ひようぼう》して、今で言うヒッピーのような生活をしていた。ちょうど彼がミュンヘンにいた頃、森鴎外もこの町に滞在して、ロットマンの丘というところで、ディーフェンバッハの半裸体の姿を目撃したことは彼の『独逸《ドイツ》日記』に出ている。
たかが裸体主義といっても、そこに哲学的思索が相添うているところにドイツのドイツたるゆえんがある。イギリス公園のヌーディストにも、なにせ明治のディーフェンバッハ以来の長い伝統があったのである。
イギリスに帰ってから、ある日、私はイギリス人の友スティーヴンと、ロンドンのハムステッド・ヒースを散策していた。
「なにしろ、ミュンヘンじゃ、町なかのハイドパークみたいな所にまるっきりヌードの人が群れてるんだもんな。いや驚いたよ」
「ウーム、ドイツ人はイギリス人に比べると肉体や欲望ということに肯定的だからして、その分|羞恥心《しゆうちしん》には欠けるってわけでね」
天気の良《い》い暑い日で、池のほとりではたくさんの男女が日光浴などをして遊んでいた。しかし勿論《もちろん》みんな着衣で、全裸の人などは一人もいない(フランスと違ってイギリスにはトップレスの人さえまずいないのである)。そう言いながらふと見ると、いましも立ち上がった若い男が、半ズボンのわきから、ダラリとペニスを露出しているのが目に入った。
「見ろ、あいつを。イギリス人だって肉体に対して肯定的なやつがいるぞ、ヒヒヒ」
するとスティーヴンは苦々しい顔を作って言った。
「ナント、あれは……ウーム、やつは下半身だけドイツ人との混血に違いない」
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座右の銘
「人は誰でも自分が思っている以上のことができる」
だれが言った言葉でもない。何かに出ていた格言というのでもない。
この言葉は、私が自分の経験のなかから摘み取ってきた思いである。
むかし、二十代のころは、定まる職もなく、前途にあまり希望ももてず、悶々《もんもん》とした思いを抱いて、非常勤の仕事をあれこれとやりながら、勉強を第一、仕事を第二、という心組みで毎日を辛うじて過ごしていたものだった。
そのころ、私がもっぱら手がけていたのは、中国唐代の俗小説『遊仙窟《ゆうせんくつ》』の文献学的基礎研究だった。要するに、この作品の二十四本ほどあるさまざまのテキストを相互によく比較して、その違いと一致点を比較研究して、それによって、この難解きわまる小説の本文の正しい原型に迫ろうというのであった。それと同時にまた、江戸時代の中期以後に夥《おびただ》しく生産された「浮世草子」という大衆小説のジャンルについて、その実際の文献の総調査という、これまた気の遠くなるような研究も同時に進行させつつあった。睡眠時間はせいぜい四、五時間、寝ている時間と食事と風呂《ふろ》とトイレの時間を除けば、一日中ともかく机に向かって勉強ばかりしていた。いつ果てるともしれないこういう研究をしたとて、むろん誰に認められるというあてもなかったけれど、それでも、誰もがまだ手を付けられなかった未開の大陸を探検するような楽しみもあった。
やがて、東横女子短大という学校の専任講師になり、ようやく定収入を得るようになったが、同時にそれは厖大《ぼうだい》な雑務や講義のための勉強に時間を割かれるという苦悩と引き替えだった。
三十歳になり、無給研究員を兼務していた文献学の研究所|斯道《しどう》文庫の紀要に、『八文字屋刊行浮世草子書誌解題』という、かねての研究の一部を論文の形で発表し、また東横短大の紀要には『遊仙窟の諸本につきて』という長い論文を書き、同時に同大学の二十五周年記念論文集にも『遊仙窟本文|校勘記《こうかんき》』という論文をほぼ同時に発表した。まったく過酷な執筆状況だったけれど、ともかく死にものぐるいで書き上げたのだった。
それから、しばらくして、私は単身イギリスに渡り、かの地に眠っている古典文献の調査にとりかかった。いったい自分一人の力で出来るだろうか、出来たとしても発表することが許されるだろうかという不安のなかで、粘り強く真面目《まじめ》に調査し、交渉した結果、『ロンドン大学東洋アフリカ校所蔵貴重書書誌解題ならびに目録』の作成に成功し、やがてまた六年間の日子《につし》を費やして(その間ずっと四時間睡眠というような日々が続いたため、私はほとんど過労死寸前の状態になったけれど)、『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』という著作を世に出したのだった。そうして、『イギリスはおいしい』という一般書としての処女作が出たのも、ほぼこれと同時である。
いずれも、諦《あきら》めてしまったら決して成らない仕事だった。またあらかじめ自分の仕事量を忖度《そんたく》して「そんなのとっても無理だよなぁ」と自分に限界を認めてしまったら、やはり成りはしなかったことであろう。
しかし、私は決して諦めなかった。一見出来るとは思えないほどの仕事の量と質を自分に賭《か》けて怯《ひる》まなかった。世の中の人が、酒を飲んだりゴルフをしたりして遊んでいる間に、ともかく出来るだけの努力は傾けてみた。すると、始めるときにはとうてい無理かのようにみえた、厖大な仕事が出来てしまった。「有限の仕事は真面目に努力を続けさえすればやがて必ず終わりが来る」といつもそう心に念じて、我慢に我慢を重ねた結果が実ったのである。いってみれば、そのようにして私は自分でこの言葉を見つけだしたのである。
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悠々《ゆうゆう》と独歩せよ
子供が生まれた時、私たちは、天にも昇る嬉《うれ》しさを味わった。ほぼ三年間望んで授からなかった末に生まれてきた子だったからである。さしあたり、どうやって育てるかという確信があったわけではない。むしろ、最初の子の時は無我夢中だったというのが当たっているだろう。しかし、私たちには私たちなりの考えがあって、なにか既成の育児書などに頼らずに、夫婦共同して最善を尽くすことで育てたいと思ったのだった。
まず、最大の目標は、この子たち(私たちには、いま大学生になった男の子と、高校生の女の子がいる)を、「ひとかど」の人物に育成することである。「ひとかど」とは、文字どおりなにかどこかひとつ「かど」があることだ。「かど」は、突出して目に立つところ、とそんな風に考えたらよかろうか。それがただどこかの大学の一芸入試みたいに、なにか得意技があればよい、なんてのじゃなくて、それが社会の役に立つレベルでのことでなければならぬ、それが私たちの考える「ひとかど」である。素人|天狗《てんぐ》じゃなにもならないのである。なにごとか立派なプロとなって悠々と独歩せよ。しかし、それは、考えてみれば大変な茨《いばら》の道である。突出して目立つからには、人から打たれることもあるだろう。みんな横に並んで目立たぬように仲良く手をつないで、というこの日本の社会の中では、こういう考え方は異端である。みんながなにをやっていようと、自分がやりたくなければやらなくてよい。そのかわり、それによって生ずる孤独には耐えなければならない、それが「ひとかど」の原理である。そうなるためには、まず「おのれ」が大切だ。おのれを持《じ》して譲らない勇気が必要だ。しかし、命や身体が損なわれては元も子もない。したがって、危険なことには決して近づくな。かくのごとく私たちは教えてきた。
できるだけ、彼らが望むことは叶《かな》えてやろう。望まぬことはやらなくて済むように力をかしてやろう。なにか悪戯《いたずら》をしても、その理由を聞いてことの善し悪《あ》しを説諭しよう。絶対に殴ったり怒鳴ったりはすまい。彼らがなにかにチャレンジして、失敗しても家に帰ってくればすべてが許される、とそういう場所(家庭)を用意しておいてやろう。そうして、家の中では、しょっちゅう冗談ばかり言って、猥褻《わいせつ》なことも下らぬことも、すべてそのまま見せて育てよう。水清きに魚|棲《す》まず、俺《おれ》たちもしょせんは矛盾に満ちた人間なのだ、聖人君子ぶることはすまい。男女の差別は一切排除しよう。いつもじっと彼らを見守っていよう。そのようにして、一生懸命、全力を尽くして仕事も子育てもやろう。これが私たちの個人主義的子育ての原理である。結果はこれから出るけれど、すくなくとも、大勢に流されない人間に育ちつつあるだろうことだけは信じてもよさそうに思われるのである。
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国語|嫌《ぎら》いの少年
子供の頃《ころ》、私はちっとも本を読まない少年だった。人並に少年文学全集の類《たぐい》は家にもあったけれど、そういうものをじっと座って読むのはあまり得意でなく、原っぱで「駆逐水雷《くちくすいらい》」などという軍国時代のなごりのような遊びにうつつを抜かしていたというのが本当のところである。学校の国語の教科書に出ている文学作品のごときは、最も面白からぬもので、そういうのを無理に読まされて、読後感想文なんぞを書かされるのはまことに往生の極みだった。
従って、小学校から高校に至る「現代国語」の授業は、私にとって常に「退屈」と同義語だったのである。
しかし、高校生になったときに、まるっきり読書の経験を欠いていた私は、なんだか難しい本を深刻に読んでいる同級生に対して、いくらか焦《あせ》りのようなものを感じないではいられなかった。
今から思えば、そのころ深刻そうに難しげな本を読んでいた級友たちにしてからが、いったいどれほどそれを理解し、アプリシエイトしていたのか、実際は心許《こころもと》ないことだと思うのだが、そのころはこれでなかなか容易ならぬことのように思われた。
少年たちは往々にしてこういう劣等感や競争心から本に取りついたりするもので、ま、要するにそれは一種の「青春のファッション」に過ぎないのである。
そのようにして、私は、高校二年生の頃にようやく「本を読む」ということを覚えた。早熟な秀才たちに比べると、なにしろスタートが遅かったので、読書量となると、いまだに彼らに追いつかないに違いない。
元来私は極めてエモーショナルな人間で感受性も人よりはいくらか鋭いところがあった。だから、その頃、私のもっとも愛読したのは、萩原朔太郎《はぎわらさくたろう》である。少年の心は、ある意味では神経衰弱であり、いつも何かに苛立《いらだ》ち、劣等感にさいなまれている。だから、この病的な詩人が、そのころの私に与えてくれた精神の慰安は決して小さなものではなかった。私は、退屈な「現代国語」の授業を白眼視し、俗物の国語教師を心底|軽蔑《けいべつ》しながら、ひそかに朔太郎の呪術《じゆじゆつ》に心酔していたのである。
私は、本は自分で買って読むものだという信念を持っている。図書館で借りて読むのは、どうも頭に入らない。まして、図書館で、赤の他人に混じって何かを読むのはおおきに苦痛である。これは小学校以来、今に至るまでまったく変らない。
やがて、大学に入っても、依然として私は大した読書家にはならなかった。ただ、大学院の時、初めて森鴎外の『澀江抽齋《しぶえちゆうさい》』を読んで、こりゃぁ大したものだ、とはなはだ感じ入った。けれども、高校生の私がこれを読んだとしても、どうだろう、たぶんちっともその良さは分らなかったに違いない。それで、分らぬままに「読んだが、つまらなかった」という印象記憶だけが残ったかもしれぬ。ああ、早熟な読書は、かくのごとく、時に人生にとって有害ですらあり得るのだ。
思うに、近代の散文で、『澀江抽齋』を凌駕《りようが》するものは、いまだ出現しない。私が書誌学という学問に進んだのも、元はといえば、この鴎外先生の作品と無関係ではないのである。
昔の国語嫌いの少年は、こうしていま、国語の教師になった。本を読まなかった少年は、何の因果か、長じて本を書くようになったのである。
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恐るべき学園祭
あぁ、ことしもあの恐るべき学園祭の季節がやってきた。
どうして「恐るべき」かというと、それは学校中めったやたらと食べ物屋ばかりになってしまうからである。
そもそも、私は、この十何年かの女子大教師生活で学んだ結果として、現今の女子大生の味覚をまるっきり信用していない。
だいいち、今の学生の母親たちが、ろくなものを食べさせていないらしい。ハンバーグとかカレーなんてのはむろんよく知っているけれど、たとえば「鰯《いわし》のフライ」となってくると、まず半分くらいは、
「食べたことなーい」
と言うであろう。鰯でもそのくらいのもので、一度「飛び魚のフライ」で試してみたら、クラス中で一人しか知らなかった。
まして、鰯を指で開くなんてことは、知ってる女子大生がいたら、ひざまずいて拝んじまうくらいのものである。女の子たちが知らない、ということは、まして男の学生どもは更に輪を掛けて知らないだろう。夜明けは遠いのである。
味覚というものは、子供の頃からの「刷り込み」がものをいうことは、これ常識である。その子供の頃に、心のこもった、ヴァラエティに富んだ食生活を経験していないのであるからして、大人になって俄《にわ》かに「家政学」なんか勉強しても無駄無駄! それはいわゆる「畳の上の水練」、いいかえれば「死んだ知識」にしかなりはしない、ということはこれまた理の当然ではあるまいか。
お料理やお裁縫が好きだから家政科に来たんだろう、などと思うのは大きな間違いで、ナニ、高校生が学科を選ぶのは、ほとんど偏差値とか偶然とかによるのである。そこで、英語の嫌いな英文科学生、古文の苦手な国文科学生、などというのが盛大にいるのと同様、味音痴や手先の不器用な家政科学生なんか、今や、ちっとも珍しくないのである。
学生たちが京都に行く相談をしている。聞いていると、ナニガシ屋という料理屋のお弁当が「オススメ」だから「絶対行こーねーっ」とか言って騒いでいる。その頃、私はちょうど京都に行く機会があったので、良い幸いにこのナニガシ屋に行って、くだんの弁当を喰ってみた。
客席は、そこらじゅう女子大生とOLばかりである。
さて、この「オススメ」の弁当はいかがであったか。
あっさり言ってしまうと、それはそれはショウモナイ味であった。職人がもう客をばかにしているとしか思えない低劣な味で、盛りつけもぞんざい、器もいいかげん、これじゃあ学生食堂の定食と良い勝負だ、と思って呆《あき》れたが、その結果、私は半分も食べるに及ばなかった。ま、そりゃ、女の子向けのいい加減な雑誌の記事のいうことなんぞを信用する方がどうかしてるというものであるが、でも、万一マグレ当りということだってあるかもしれない、そう思った当方がこれはバカでした。
それはともかく、現今の女子大生の味覚は極めて保守的である。つまり|自分の知っているもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》しか口にしようとしない、とこれが紛れもなく一般の傾向である。もちろん例外だってあるけれど、例外はあくまでも例外である。たとえばロンドンで、当地に語学留学中の若い女の子なんかにきいてみると、ほとんどイギリスらしい独特の食べ物なんか食べていない。食べないばかりか、知りもしない。知らぬばかりか、知ろうともしない。これはインテリジェンスの欠如ということである。いいかえれば頭脳が幼稚だということである。さらに酷評すれば、味覚的にはドッグフードだけで満足してる犬なんかとさして変りがないということである。それは困りますね。なにしろ、こういうのがまた母親になって、味音痴の子供をどんどん再生産していくわけだから……。
さて、そういう恐るべき人たちが、学園祭ともなると、にわかに思い立って食べ物屋をやろうってんだから、これはどうしたって「恐るべき」ことが出来《しゆつたい》せずにはおかない。
ウドンをやっている「店?」に入った。この場合教師は最大のお得意さんで、まぁ視察を兼ねて教育的配慮から彼女たちの作ったものを食べることにしているわけである。さて、ウドンですが、ウドンといったってばかにしちゃいけない。ああいう味のあるような無いようなものは、ツユが全《すべ》てである。ツユをちゃんと作って、熱い状態で食卓に供する、これが原則である。しかるに、このウドンは、ちいさなドンブリにウドンばっかり入っていて、ツユは申し訳のようにかかっている。いやウドンをかき分けて箸《はし》で掘り出したらようやくツユの顔が見えた。こんなところに隠れておいでとはツユしりませんでした、というくらいのものである。それも、しかし、塩水に若干色の付いたくらいのもので、日向《ひなた》水のようにぬるかった。学園祭だからいい加減でよろしいというものではないだろう。ところが出口のところで、友達らしい女の子が「お世辞じゃなくて、ウン、ホント美味《おい》しかったヨォ」と、その店の子に言っているのが聞こえた。私は、やれやれ、この子は本気でそんなことを言ってるんだろうか、と甚《はなは》だ恐れ入った。
次に焼きソバを食べた。
焼きソバというものは、お祭りには欠かせないアイテムであるけれど、もちろんあれは蒸した中華|麺《めん》を野菜や肉なんかと一緒にいためてソースで味をつける、というのが下世話な食品としての焼きソバの本格であります。
さて、そこで、この学園祭の焼きソバは、というと、鉄板の上でいためてはあったけれど、そしてソースで味はつけてあったけれど、やんぬるかなソバ自体が蒸してない生の中華麺だったのである。こういうものは一口以上口にすることは難しい(試してごらんなさい、ネチョネチョで粉臭くて名状し難《がた》いものだから)。にもかかわらず、そこらにいた女子学生たちは、平気でパクパク食べていたので、私はなにやら荒涼たる気分になった。
教室というものは本来食事を供するようには出来ていない。だからウドンがさめてしまうのもやむを得ないという言い訳は出来るかもしれぬ。
けれどもね、そういう教室で食べ物屋なんてものをやろうとしか思い付かない女子学生一般の意識、それこそじつはもっとも「恐るべき」ことがらではなかろうかと、私はひそかに天を仰ぐのである。あぁ、学園祭の秋!
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ゴールは遠く
大学ラグビーの王者を決する早明ラグビーを観戦にいった時のことである。
明治のフィフティーンが、サァッとグラウンドに駆け出て来た。場内から潮のようなどよめきが沸き起こり、国立競技場の見上げるような大スタンドには紫紺の応援旗が波のようにうち振られる。フィフティーンの背中には緊張と誇りの混じり合ったような硬い表情が見える。こうして紫紺と白のジャージが青い芝生の上に散って行くのを見ていると、遠い日々が夢のように思い出された。
まだ、ラグビーが今のような大騒ぎにならなかった昭和三十九年から四十二年ころ、つまり高校の三年間と大学一年にかけて、私もまたラグビー少年の一人だった。大学一年の時に腰をいためてやめてしまったけれど、ラグビーが私の青春時代の大きな一部分であることは動かない。
私は都立戸山高校を卒業して慶應に進んだのだが、当時の都立高校はあの悪名高い学校群制度以前で、まさに文武両道、勉強もするけれど運動もなかなか強かった。東京の高校ラグビー界では日比谷高校とわが戸山高校が都立の雄で、全国大会出場こそ果たせなかったけれど、予選のベスト16、どうかするとベスト8あたりまでは勝ち残る実力があった。その戸山高校のジャージは明治大学とまったく同じ紫紺と白のストライプだったのである。
TBSのニュースキャスターの料治直矢《りようじなおや》さんや俳優の山口|崇《たかし》さんは、戸山高校ラグビー部の先輩に当る。顔つきや体格からして、料治さんはフォワード、山口さんはスタンドオフかウイングあたりでもあったろうかと想像されるのだが、私は体が小さかったのでスクラムハーフだった。
そのころ、ラグビー少年たちの聖地はなんといっても秩父宮《ちちぶのみや》ラグビー場で、全国大会予選の決勝戦をこの秩父宮で闘うことが、私たちみんなの夢だった。
結局その夢は実現しなかったけれど、私はたった一度だけ秩父宮の芝生にトライを果たしたことがある。高校二年の早春、新人戦のゲームでのことである。今となってはそのゲームの結果は忘れてしまったが、自分がトライしたその周辺だけは、妙にはっきり覚えているのである。
秩父宮メインスタンド南端の下に、控室からグラウンドへの通路があって、私たちは秩父宮での初めての試合を前に、その入口のほとりで緊張に青ざめながら、入場の時間を待っていた。
時間になった。
「さ、行くぜ」という主将の声を合図に、私たちは暗いスタンド下から、明るく広々とした芝生のグラウンドへ一気に駆け出していった。がらーんとした秩父宮ラグビー場の上空は重く垂れ込め、早春の淡雪がチラリチラリと舞っているのだった。砂利だらけの硬い校庭に慣れた足には、芝生のグラウンドはふかふかと柔らかくて、足が宙に浮いているような感じがした。
国立競技場のフィールドでは、両校のフィフティーンがキックオフの位置につこうとしている。もはや場内は興奮状態である。旗の数では圧倒的に明治が多い。そこらじゅう明治だらけである。よくみると、中には、顔を紫紺と白の絵の具でシマシマに塗りたくり、頭に妙なハゲのカツラをつけ、ばかに長い紫紺のビニールコートを着て、ビールなんぞをあおりながら、スタンド中を駆け回っている学生風がいたりする。タワケめ! 明治大学の学生なのだろうけれど、まったく世も末である。場内の若い観客の多くは学生風で、しかも女の子を伴った「サークル活動」という様子で浮かれている。そういうのが、プロ野球かサッカーのワールドカップの応援よろしく、間断無く大声を発し、ウエーブを起こし、なんだか大混乱という感じである。どうやら、ラグビーの規則はもちろん、あの英国的アマチュアリズムの総本山ともいうべき麗《うるわ》しい紳士的伝統など、なにも知らずに来ているらしい。
あぁ、時代は変ったのだ。
硬派の禁欲的スポーツだったラグビーは、もう昔の語り草となりおおせたのかもしれない。
いや、言うまい言うまい。
私は強《し》いて目をグラウンドに転じた。
私自身は慶應の出身だから、この試合は早明いずれの味方でもないのだが、この明治の応援の狂躁《きようそう》状態を見るにつけ、どうでも早稲田を応援したい気持ちがしてくるのだった。
キックオフ早々、早稲田がペナルティゴールと守屋のトライで一方的にリードを奪った。よーし! あまりにもあっけない展開だった。ウム、これはもしかすると、早稲田の華麗なるライン攻撃が見られるかもしれない。私はちょっと胸が熱くなった。ディフェンスラインを巧みにステップして切り抜けると、あれよあれよという間にゴールへ運んで行くその速度、その飛燕《ひえん》のような身のこなし。よくイギリス圏のチームが見せてくれる、これでもかこれでもかというバックスの波状攻撃とフォワードのフォロー、そういうラグビー本来のスピーディな面白さが見られるかと思ってわくわくしたのだが……、正直言って、興奮させてくれたのはそこまでだった。
早稲田も明治もボールが手につかない。ちょっと回すとすぐにポロリと落してしまう。スクラムは回転したり崩れたりして、何度も何度も再スクラムだ。フォワードはごたごたと混乱の中でボールを奪い合っていて、ラインへの美しいヒールアウトがちっともない。たまにラインへ回ったかと思うと、きれいに攻撃ラインが出来ているのに、スタンドオフあたりがキックしてしまって、パスをつないでいく、あの手に汗握る運動がない。
私は少なからず退屈してしまった。
と、二十二分になったころ、早稲田のスクラムハーフ堀越が、突如オープンサイドをついて、見事なステップを切りながら、明治のラインを突破していった。おお、いいぞいいぞ、これだ、こう来なくちゃ、ア、ア、危ない、フォローはどうした、フォローが続かない、と思った瞬間、堀越は明治のディフェンスに倒されていた。
あの日の対戦相手は日本学園という私立高校だった。たしか黒地に白の帯の入ったジャージで、体格は私たちより一回り大きく、いかにも強そうに見えた。
けれども、実力は見た目よりは伯仲《はくちゆう》していて、前半、戦況は一進一退を繰り返していた。どちらもたいして点を取ることは出来ずにいたような気がする。
相手方陣地の二十五ヤード線付近、右のタッチラインから十五ヤードくらい入ったところでマイボールのスクラムになった。
ボールイン。
ボールは、あっという間にヒールアウトされた。主将のT君が何か叫んでいる。敵のディフェンスはオープンサイドに集中して、ブラインドには一人しかいない。スクラムの背後でボールをつかんだ私は、ブラインドへ展開しようと思ってスタンドオフのO君を見ると、かれは既にオープンの方へステップを切り始めていた。右のウイングのI君にパスしようとして、ふと敵のブラインドサイドを見ると、誰もいない。相手のスクラムハーフは私をマークしないでバックスの方へチャージに行っているらしい。私は、夢中でスクラムの脇《わき》をすりぬけ、そのままブラインドを駆け抜けた。どういうわけか、相手のディフェンスはばらばらで、ゴールラインまで一|条《すじ》の細道が、ぱっとあいて見えた。
たったの二十五ヤードが遠かったけれど、私はタックルにも遭わず、斜めにゴールラインを駆け抜けて、右隅《みぎすみ》にトライしてしまった。夢中でタッチダウンすると、インゴールの芝生はふだん踏まれていないせいか、足首がもぐる程に深く、ボールはまるで布団《ふとん》の上に置いたように、ふわっと地面についた。
相手も味方も、まさか私がブラインドを衝《つ》いてトライするとは思っていなかったらしく、驚いたような顔で走ってきた。私はふと正気に戻ると、ディフェンスがまったく付いてきていなかったことを知って「しまった!」と思った。「……こんなことなら、もう少しインゴールを回り込んでゴールポストの真下にタッチすればよかった……」
ハーフタイム。ますます大騒ぎはひどくなって、その妙な興奮が後半まで持ち越した。後半四分、明治の永友がPGを狙《ねら》うが、場内の騒ぎは収まらない。
場内アナウンスがプレースキックに際しては静かにしろと繰り返し叫んでいる。
結果、このキックは失敗に終った。こういう大事な一瞬に、かかるバカげた場内放送をしなければならないとは、そもいったい何事だろうか。こんなとき、何も言われずとも、場内水を打ったように静まり返るイギリスのラグビー試合を思い出して、私は泣きたい程の怒りを覚えた。
呆《あき》れ返っていると、十六分、永友がゴール前のモールからブラインドを衝いて、あっという間にトライしてしまった。あ、やった。私は、思わずあの秩父宮での初トライを思い出したが、国立競技場のインゴールはふかふかした芝生ではなくて、乾き切った薄っぺらい人工芝なのだった。
ノーサイドの笛が鳴ったとき、私は思った。
「もうこんな騒ぎは沢山だ、さあ静かな秩父宮へ帰ろうじゃないか!」
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読む方法について
「では、みんな四十ページを開いて……今日から、中島|敦《あつし》の『山月記』を読みます。お、ハヤシ、中島敦について、何か知ってることがあったら言ってみろ」
「知りません」
「知らないか、読んだことないか、何も?」
「はい」
「そうか、じゃみんなはどうだ。この中で中島の作品を一つでも読んだことがある者、手を上げろ」
「ハイ!」
「よし、マスダさん。何を読んだ?」
「中学生の時に『山月記』を読みました」
「どうだったか、読んでみて?」
「難しくてわかんなかった」
「どこが、難しかった?」
「言葉が難しくて、何を言っているのかわかんなかった……」
「そうだな、中島の作品は、中学生にはちょっと難しかったかもしれないな。じゃ、先生がちょっとだけ説明するぞ、読む前に……みんな51ページの作者の紹介をちょっと見て、お、タカナシ、お前読んでみろ、そこんとこ」
「ナカジマアツシ、一九○九年(明治42年)五月五日、東京に生まれる、ウンヌンウンヌン……」
「はい、ちょっとだけ補足します。中島敦は今でこそ有名な作家だけれど、生前はほとんど無名だった……まあ、みんなも読んで分るとおり彼の文章は随分漢字が難しいな、これどうしてだと思う? ……実は、彼のお祖父《じい》さんは中島|撫山《ぶざん》といって、漢学者だった。そのほか、そのお父さんも、綽軒《しやくけん》といってやっぱり漢学者だったんだね……そればかりか、そのお父さんの兄弟も揃《そろ》って学者という家庭に育った、それが彼の教養や作風に大きく影響しているんだ、分ったか。ともかく今では有名になったが、それは主に死後有名になったので、早死にした関係で、生涯《しようがい》に作品は二十作程度しか残っていない……ま、ともあれ、まずは読んでみよう。最初に先生が朗読します。難しい言葉や漢字がいっぱい出てくるから、よーく聞いて、チェックしながら読むように。それから、先生が読むのに合わせて各自黙読するんだぞ……それほど長い作品じゃないけれど、読みながらこの全体を段落に分けてみるように……エヘン、では行くぞ……ロウサイノリチョウハ、ハクガクサイエイ、テンポウノマツネン、ワカクシテナヲコボウニツラネ……
……………………
……マタ、モトノクサムラニオドリイッテ、フタタビソノスガタヲミナカッタ。……はい、では、いま一読してこの作品から受けた感想をノートにメモしてごらん、はい始め!」
……………………
キンコーンカンコーン……
「お、きょうはもう時間になった。じゃ、みんな今手元のノートに書いたメモをもとに、家に帰ってそれを四百字程度の感想文を書いてくる。いいね、これは次回までの宿題。では、これで終ります」
* * *
「『山月記』の二時間めに入ります。さーて、みんなちゃんと感想文書いてきたかな? ……よし、ハヤシくん、ちょっと読んでみろ」
「はいっ、感想文……まず、この作品を読んで最初に僕が感じたことは、言葉が難しい、ということです。それから、詩人だった人間が、急に虎《とら》になってしまうという設定は、不思議で、ありえないことという感じがしました。それでも、こういうふうに作者が書いたのは、それによって人間の執念とか、そういうことを表現したかったのかな、と思いました……」
……………………
もういい加減にしよう。これは、ある教科書会社が出している『山月記』の「教師用指導書」の授業計画モデルをもとに、若干肉付けして、それらしく作ったものである。このあと、この指導書は各段落の要旨を押さえ、それぞれに「見出し」を付けさせる。それからその、段落のうち、主題と関連のありそうな段落はどれとどれかを発表させ「作品構成の妙について説明する」とある。ははぁ、なるほど。続いて、各段落ごとに、語句の解釈読解を進め、「|袁※[#「にんべん+參」unicode50aa]《えんさん》が李徴《りちよう》の詩について感じた疑問について考えさせ」たり、彼の「臆病《おくびよう》な自尊心、尊大な羞恥心《しゆうちしん》について、似たような経験がないか発表し合わせ」たりしつつ、「結末部の余韻を味わわせる」とある。フーン。で、最後にもう一度第二次感想文というものを家庭学習用に宿題として与え、それからその「課題の感想文に基づいて、この作品の主題について話し合わせる」のだそうだ(皆さん覚えがあるでしょ、こういうの)。
で、結局、何を教え込みたいのかといえば、「現代では恐ろしい勢いで、人間性の崩壊、人間の解体が進行している。こうした時代にあっては、李徴の自己崩壊の恐怖とその結末としての醜悪で恐ろしい異物への転化は、決して虚誕《きよたん》な変身|譚《たん》としてでなく、リアリティを帯びた切実なものとして我々に迫るはずである」ということなのだそうである。ハッハッハ。
こういうことをべんべんと述べるのが教師用の「指導書」というもので、殆《ほとん》どの人はこういう書物を目にする機会はないことと想像されるが、そのじつはまぁ、こんな程度のものである。いったい、中島の『山月記』をこんなふうに「切実なもの」として読む人が本当にいるんだろうか。こんなことを、この指導書の筆者は、本気で思ってるんだろうか。私にはどうしても信じられない。現代国語というのが、こういう指導書を鵜呑《うの》みにして、いわば「手垢《てあか》のついた」方法で行われている以上、それが退屈と同義語であるのも無理はないのである。
こうした、不可思議に道義的で、いたずらに「真面目《まじめ》」な、そうして重箱の隅をつつくような方法で、しかも一定の方向に強制された「制度的」な読み方で押し付けられる結果、ほとんどの人は、指導書の筆者の案に相違して、こういう作品を少しも「切実なもの」としては読まなくなってしまう。しかも、せっかく快速な漢文調で緊張感を保って書かれてあるものを、五時間も六時間もノンベンダラリと段落に切ったり、妙な分析なんかを加えたりする結果、そのリズムもテンポもすっかり意識の向こうに消え失せ、なんだかダラダラした作品のように感じられてしまうのである。そこで、ほとんどの生徒たちは、中島敦と聞いただけで、あぁ、あのやたら難しくて理屈っぽいやつか、とウンザリした気分で思い出す、というわけである。
それは困るじゃないか!
言葉が難しい。それはそうである。これは漢文の読み下しのようなものだから、難しいのも当然である。
しかし、心配するには及ばぬ。必ずその一々には語注が付いているから、それをさっさと参照しながら、スピードを出して読んで行くのがよい。テーマはなんだろうか、|自分の人生と重ね合わせて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》考えるべき点はなにか、などということは、すべて余計なことである。ともかく、この快速な文章を舌頭に転がすつもりで、まっすぐに読み(できれば音読し)、あっという間に読み終る。そうすると、なんとなくすーっとした気分があるであろう。それから、次にたとえば、『名人伝』などに読み進む。これはもう少し易しい。易しいし、第一面白い。そこで、次に、すこし長い『李陵』をやってみる。これは難しいことばもあるけれど、全体が歴史小説としての結構をもっているので、ぐんぐんひきつけられる。言葉の難しいのなんか、やがてちっとも気にならなくなる。こうして読み進めて行くうちに、やがて中島の難しい言葉遣いもさして気にならなくなる。
それから、『斗南先生』に行ってみよう。
これは、趣が全然ちがって、ほとんど難しい言葉は出てこない。すらすら、すらすらと読めるに違いない。そして、この主人公「斗南先生」というのは、中島敦の実の伯父に当る実在の人物で、それを見つめる視点人物三造は、むろんほかならぬ中島敦自身である。これは、漱石などを読んだ人なら、じゅうぶん面白く、しかも楽に読めるに違いない。そして、それを読むことによって、作者の屈折した内面がたしかに見えてくる。
さて、こうして、もういちど元へ戻って『山月記』を再読してみる。「あぁ、なるほど……」とうなずくか、それとも「なーんだ」と思うか、「ウーム」とうなるか、それはすべて読者に任されているのである。もちろん何も感じなかったら、それはそれでよい。今は感じなくとも、いずれ何かの折に読み返して、あっと感動するかもしれぬし、一生無縁で終るかもしれない。それはどちらでも人生にはちっとも切実な問題ではないのである。そういうことを、無理に一定の型にあてはめて、変に深刻ぶって、人生の大問題みたいに読まなければいけない、というような一種の教条主義、それは文学にもっとも遠いものである。
そして、文学作品というものは、それをどんなふうに読もうと、または一切読まずにいようと、あるいは評論家や学者のように分析的に読もうと、それはまったく各自の自由で、|読む側それぞれの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》「問題意識」がそれを適切に読ませ感じさせてくれる。それ以外には、読む方法などありはしない。感想文を書いたり読んだり、ましてそれをもとに話し合ったり、などは、すべて無用のことである。
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本を作る
学術書というものが、どれほど採算に合わないものであるか、一般には理解の外であろう。通常、書店で売っている書物というものは、最低三千部くらいを初版で刷った場合、三千円前後の値段だろうか。しかし、学術書は一|桁《けた》違う。全部で五百部とか七百部も刷ればオンの字で、しかも再版はしないから、値段はそれに応じて目の玉の飛び出るような額になる。たかだか五百ページ程度の本が二万五千円などということも珍しくない。それでも、学者の先生たちは「著書」という実績が欲しいので、そういう常識外れの本を出したがる。そこが|付け目《ヽヽヽ》の出版社というものも、当然存在し、法外な値段を付けて本を「出してやり」、しかもそれを殆《ほとん》ど著者自身に買い取らせたりする。これだから学者は貧乏になる一方である。
それは、じつにばかばかしいじゃないか、と私は考える。
以前、ケンブリッジ大学の文献目録をイギリスで出版した時に、本文は難しい外字の多い日本語だったので、私たちは自力で「組み上がり版下」を用意しなければならなかった。まだ、ワープロやパソコンが未発達の時代で、予算も乏しかった。もう十年余り前のことであるが、ともかくシャープの「書院」というワープロで入力して版下を作ることになった。これが私とコンピュータのつき合いの始まりである。その後、ワープロもコンピュータも目ざましく発達し、この目録は結局MS―DOSマシンで編集してレーザープリンターで出力することになった。
しかし今、私は専《もつぱ》らマッキントッシュを使っている。入力・編集からオフセット版下作成までの一貫した作業と、グラフィック操作までを含めた流れの中で比較すると、おしなべてのMS―DOSマシンは小学校一年生、マッキントッシュは大学院の博士課程ほどの違いがある。
原稿を手で紙に書く、などということに私は何の価値も見いださない。そういうことをなんだか神秘化して「ものを書く」ことの秘儀のようにもったいぶる人を私は何人も知っているけれど、それは単なる「迷信」に過ぎぬ。
原稿を書くのは、EGワードというワープロソフトで書く。それをページメーカーというDTPソフトで編集して、版下にするときは、そのままライノトロニックなどの超高精細写植出力にかける。JIS規格外の所謂《いわゆる》外字なんてものは、DOSマシンのように蚤取《のみと》り眼《まなこ》で点々を塗りつぶしてばかな手間をかけて作ったりする必要は更にない。私はグラフィック画面に字を呼び出して、さっさと切り貼《ば》りして一文字一分間くらいでどんな外字も作ってしまう。マッキントッシュはそれを文字テキストの中に混ぜて貼り付けられるのでまことに都合がよい。漢文の訓点だろうと、謡《うたい》の節付けだろうと、まったく自由自在である。こうして版下まで自分で作ってしまうと、印刷|迄《まで》の間に「無知な他人」が介在しないので、校正を何度もするというような無駄な手間と時間は完全に省くことができるうえに、製版までのコストは約四分の一である。売れないことが前提の学術雑誌や書物などこそ、こういう方法がもっともふさわしいと思うのだが、やんぬるかな学者の世界は旧弊|固陋《ころう》にして、いまだに「紙とペン」信者が多いのである、嗚呼《ああ》!
ともあれ、私は、今では、どんな学術論文でも可能な限り自分で版下まで用意することにしている。時間も金も有限なのだ。無駄は無い方がよろしい。
で、「活版印刷の中に僕の論文だけマック写植オフセットで混ぜたって、見分けはつかないよ」と豪語しつつ、私は学校の紀要にこの方法で論文を出した。出来上がってきたのをみて、ある人が言った。
「すぐ見分けがつきますよ。だって林さんの所だけ版面《はんづら》がキレイ過ぎるもの!」
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甘党
盆暮は、日本では贈物の季節である。私も人並に、お世話になった方々に、毎年心ばかりの品物をお贈りするが、いつでも妻と二人で、あの方にはこれ、この方にはそれと、念入りに選んで贈るものを決めることにしている。
その品選びの基準は、まず原則として「食べ物」であること。食べ物は後に残らないので、潔《いさぎよ》い感じがするからである。
で、その食べ物で、何を贈るかということは極めて単純な原理で決める。自分で食べてみたいなぁ、うまそうだなぁ、と思うような物、ということ、これに尽きるのである。
むかし、恩師の森先生が、御健在だったころ、御中元に精力剤として大きなヤマノイモを差し上げたことがある。その時、「かの一代男|世之介《よのすけ》が女護《によご》の島に船出せんとて持参せしも、このヤマノイモなり」などとザレごとを書いてお届けしたら、先生からたちどころに手紙が来た。
「貴君より種々御研究をお申し越しにつき、私もいささか愚考せるところを申します。そもそもこのヤマノイモというものに二種あり。本草綱目《ほんぞうこうもく》に曰《いわ》く……」という調子で、真面目《まじめ》のような戯《たわむ》れのようなことが洒落《しやれ》た調子で書いてあった。私はこの手紙を読んで本当に嬉《うれ》しくなった。そうして同時に、先生が私の贈物を喜んでくださったことが行間から惻々《そくそく》として伝わって来るのだった。
しかし、世の中はままならない。私が酒を口にしないことは、このごろようやく周知のところとなって見当外れにウイスキーなんぞくれる人がいなくなったのはまことに御同慶のいたりだが、そうすると今度は、「じゃ、ハヤシは甘党だろう」と勝手に決めて、甘いものばかりくれるのは実際困ってしまう。酒を飲まないからとて、甘いものばかり喰《く》うわけではない。海の幸山の幸、日本には天然自然うまい物も多きに、そういう物をくれる人はほとんどない。
しょうがないから、私は人に贈るついでに、いつも|自分宛にも《ヽヽヽヽヽ》、何かうまそうなものを選んで贈るのである、トホホ。
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蕎麦《そば》の食べ方
蕎麦の食べ方、といっても、「通はおツユをちょっと付けて、薬味は入れずに……」とか、そういうウンチクに類したことを開陳しようというのではない。
最近、女子学生たちと一緒に蕎麦を食べると、じつに薄気味悪い感じがする。どうしてかというと、みな(これはもうまったく例外なく)黙々と下を向いて、なんだか蕎麦を一本ずつ手繰り寄せるように、チビチビ、チビチビ、音もなく食べるからである。ぐいっと箸《はし》でつまんで、一気にズスススッとすすりこむなんてことは、間違ってもしない。
「みんな、そんなふうにしずしずと食べるけれど、どうして? お母さんに、そういうふうに食べろって教わりでもしたかい?」
「そうじゃないんですけど、わたし先生みたいにズスッて音を立てるの、どうやるのか分からないんです。やってみてもうまく行かなくて、むせたりしちゃうもんですから……」
聞くとみな異口同音にそういうのである。では、熱い紅茶をそんなふうに音も立てずにしずしずと飲めるか、というと、それもうまくできないのである。きまってこう言うのだ。
「わたし、猫舌《ねこじた》なんです」
女の子だけかと思っていたら、この頃《ごろ》は男でも音無しの手繰り喰いが少なくない。カップルで蕎麦屋へ来て、幽霊のように音もなく蕎麦を食べている、とそういうのが珍しくないのだ。男のやつは、たぶん彼女に見くびられちゃならじと、女の真似《まね》をしているんだろう。
しかし、蕎麦というものは(ウドンでもラーメンでも同じであるが)さっさと食べなくては、伸びてしまってうまくない。冷たい蕎麦は温まってモサモサになり、ラーメンはツユを吸って真っ黒になってしまうまで、のろのろグズグズ食べているのは、これは作った人に対して失礼というものだ。それだから、彼女たちの様子を見ていると、ちっとも美味《おい》しそうに食べない。「イヤイヤ食べている」という感じである。結局、あんなにしかめっ面《つら》してモタモタ食べているってのは、味なんか分からないってことだよな、と私は心のなかで罵《ののし》りながら、「君はお上品な食べ方をするんだねぇ」と言ってみる。けれども、それが皮肉だということに気の付く女の子はこれまた皆無である。あぁ!
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天才にして奇人
世の中には不思議なことがあるものだと思った。
ドイツにF博士という、天才にして奇人と称すべき人がいる。私は、さる人に紹介されてこの天下の変人のF博士の家へ泊めてもらったことがある。念のために言っておくと、F博士はれっきとした日本人であるが、ドイツ人にドイツ語を教えているという大学者である。
博士は南ドイツの美しい風光の中に、チロル風の瀟洒《しようしや》な住宅を建てて優雅に暮らしていた。
私が博士をお訪ねしたのは、もうずいぶん以前のことで、まだベルリンの壁もチャウシェスクもバリバリに健在の頃だった。西ドイツのすぐ隣には東ドイツという強大な(と思われていた)軍事国家があって、その背後には好戦的なることをもって恐れられていたソビエト赤軍がりゅうりゅうと腕を撫《ぶ》し、剣を磨《みが》いて控えているという感じだった。
「このあたりはこのように平和な美しい景色だけれどね、キミ、実際は剣呑《けんのん》きわまりないところですよ。なにしろ、国境のすぐ向こうに東ドイツ軍とソビエト軍が今にも攻め込んで来ようと臨戦態勢で展開している。そこでです、私はこの家を造るときに、もし戦争が起こっても少なくとも三年間は自活出来るようにありとあらゆる知恵を絞りましてね、この家を|備え万全《ヽヽヽヽ》の構えにこしらえたわけです……」
というわけで、彼はこの山荘風の家の地下に、なんと八千リットル入りの大石油タンクとセントラルヒーティング用の大型ボイラー、それとは別に夜間電力を使った三百リットル入りの給湯タンク、万一電力が途絶え、石油が無くなったときに備えて、居間には大きな煖炉《だんろ》をこしらえ、そこで燃やすべき三年分の薪《まき》をこれは家の軒下にぎっしりと積み上げてある……。
「これでまぁ三年間は大丈夫、ですが、これに使った費用はいくらだと思う? 日本円でわずか百二十五万円ですよ、たったの、ハッハッハ」
博士は意気|軒昂《けんこう》に笑うと、すぐにまた真剣な表情で眉《まゆ》をひそめ、言葉をついで言った。
「しかしね、何と言ってもここは東ドイツと地続きだ、戦争が始まるとたちまちソ連の戦車が攻め込んできますよ、いやこれは火を見るより明らかです。ハンガリーやチェコの時のことを見ても分るようにね、疾風迅雷《しつぷうじんらい》のごとく攻め込んできて、財産は略奪され、女たちはまあどしどし犯されちまうだろうね。そうなっちゃ大変だから、僕はベンツを買ったわけです。これだと丈夫で故障しないし、ずいぶんと荷物が積めるから、そこへ最小限の荷物を積んで、ソ連軍が来る前に家族を連れてさっさと逃げる。そうすると、たとえばどの街道が遮断《しやだん》されるか、僕はよく研究してかくかくしかじかの山道を通って、というとこまで調べてある。で、チューリッヒへ逃れ、そこから日本へ脱出する手筈《てはず》をつけてあるわけで……」
こういって、博士は会心の笑みを浮かべるのであった。フーム……だけど、そんなふうにさっさと逃げちまうんじゃ、三年分の備えは必要ないような気がするがなぁ、私はなんだか釈然としないものを感じずにはいられなかった(ところが、ソ連も東ドイツも雲散しちまった結果、実際は三年分の備えもベンツも必要なかった!)。
「でね、この家を建てるについては、ひとかたならず心を砕いたのですがね、しかし僕はここをずいぶんと安く手に入れたのですよ、じつは……」
こういって博士は不思議なことを語り始めた。
この家の敷地は、市が販売した分譲地だったのだそうである。ところが、この敷地には、北半分を斜めに横断するように水道管が埋設されていた。その水道管の上には家は建てられない決まりなので、どうしても家は敷地南端に寄せて建てなければならない。というわけで分譲地のうちこの区画だけが売れ残っていたのだそうである。困った市は平米九千円だった価格を八千円に値下げして博士に売ったという。すると千平米のこの区画について、市は百万円の損をしたことになる。この百万円の損害については、あげてここに水道管を通した水道会社に責任があるわけだから、市は水道会社に百万円の損害賠償を請求する権利があるであろう。そりゃそうですね、そこまではよくわかる。
ところが、F博士はここで俄然《がぜん》ハッスルしたのだった。「いいかね、キミ、僕はこの土地を市から譲り受けた、ということは、このもともと市が持っていた損害賠償請求の権利も共にわが手に譲り受けた、とこういうのが道理じゃないか。そこで、僕は水道会社に乗り込んで行って、この損害をうけた百万円を現在の請求権者たる僕に支払え、とこう要求したわけだ、はっはっは」
常識で考えると、博士は既にこの水道管のおかげで百万円得しているわけだから、このうえ水道会社に損害賠償の請求をする権利はないような気がするのだが、そういう常識が通用しないのが法律の不可思議なる世界で、またそれを請求しようなどと思い付くというのが学者の不可思議なる脳味噌《のうみそ》なのである。
さすがに、理屈|居士《こじ》のドイツ人の水道会社といえどもこれには呆《あき》れて、最初は「あなた頭がおかしいんじゃないの」という挨拶《あいさつ》だったそうであるが、そんなことでめげる博士ではなかった。何度も交渉の末に、博士はこれを裁判所に訴え出た。すると、まったく道理に合わぬことに、純法解釈的にはF博士の言い分が正しいのだそうで、勝ち目はないと見た水道会社の方は、ここに及んで俄《にわ》かに和解を申し込んできたそうである。
こうして、博士は、土地を百万円安く手に入れた上に損害賠償和解金六十万円を手に入れ、その土地の上に三年分の備えを施した要塞《ようさい》のような家を建て、なおかつ国外逃亡用のベンツを運転してドイツ人にドイツ語を教えるために大学に通っているのである。ハハハ奇奇妙妙。
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イギリス人の夢
"Nothing is written!"
ロレンスは絶望していく。なにもかもが空《むな》しかった。努力は、なにものをも生み出しはしなかった。
ロレンスは絶望のうちに砂漠《さばく》のアラビアから、緑なす祖国イギリスへ帰り、そこで唐突に死んでしまった。
四時間にも及ぶ名作映画『アラビアのロレンス』は、そのロレンスがオートバイ事故であっさりと死んでしまうところから始まる。空しかったロレンスの生涯《しようがい》が、死によって一場の夢と消え、文字どおり「無」に帰したところから、すべては回想されているのである。
T・E・ロレンスはだらしのない軍人だった。彼は典型的な個人主義者で、その意味ではすこぶるイギリス的人格だったと言い得るだろう。しかし、軍隊という組織は、それ自体、個性や個人の意志というようなものと相容れない。そういう「なまぬるい感傷」を圧殺するところで、この殺人システムは成り立っているのである。
映画は、ロレンスを天才的戦略家というようには描いていない。むしろ自省《じせい》的で優柔不断な、軍人失格の男が自分自身と必死で闘った記録として、この物語を構築しようとしているかのようである。トルコ軍とドイツ軍によって制圧されているアラビアを解放する目的でロレンスは派遣される。彼はしかし、けっして勇躍その軍務に赴いたというわけではなかった。それが、ファイサル王子に謁見《えつけん》して、そのイギリス人軍事顧問の俗物根性(つまりは常識的判断)に対する反感から、不可能と思われていたアカバ港攻略を宣言するのである。手勢はファイサル軍の精鋭わずか五十名、それで神が造った地球上最悪の土地とアラビア人たちの間でさえ恐れられていた「ネフド砂漠」をラクダで横断して、油断している敵を背後から襲ってアカバ港を攻略しようというのである。アラビア版のひよどり越えである。誰が考えても無茶な計画だった。ネフド砂漠は途中にオアシスも井戸もない。二十日の内に横断を終えなければラクダは死に、それはロレンスたちの死をも意味する。果たして酷熱の中の難行軍だった。しかしあと半日で砂漠を渡り切って井戸のある所に到着するところまでやってきた。と、その時、ロレンスは部下のガシムが、ラクダから落ちて行方不明になっているのに気が付いた。夜の明け切る前に井戸へたどり着かなければ、横断は成功しない。アラブ人の隊長アリは、もはや捜しに行くのは不可能だと断定する。居眠りをしてラクダから落ちる、そういう者はそこで死ぬのが神の思《おぼ》し召《め》しだというのだ。砂漠の民には砂漠の民の掟《おきて》があるに違いない。
「ガシムの寿命はここまでだったのです。それは既に定まった運命というものです」
そうアリは言うのだったが、ロレンスは肯《がえ》んじない。
そうしてロレンスは断固として言い放つのだ。
「Nothing is written!(何も定まってなどいない)」
ロレンスにとっては、人間の努力によっては全く動かすことのできない「運命」などあるはずはなかったのである。そのとき、ロレンスの強情に怒り狂ったアリは、独りガシム捜索に向かうロレンスの背中に向かって、
「English! English!」
と罵《ののし》る。つまり、これがイギリス人なのだ。
イギリスの国土も自然も、そこに住み努力を重ねてきた国民のその歴史的努力の成果だった。そういう人工的風土に生まれ育ったロレンスにとって、努力はすべてを動かすことのできる魔法の鍵《かぎ》だったのである。この「Nothing is written!」という希望に満ちた彼の意志が、その後の軍上層部の腹黒い企《たくら》みや、ファイサル王子の無気力、それにアラブ人の Governability の欠如による部族対立と士気の低下、そういう悲しむべき状況の中で、やがて絶望に変り、あの緑なすイングランドへ帰りたいという退嬰《たいえい》的気分へと落ち込んで行く。この映画はそういう「悲劇」であって、決してロレンスの武勲を称揚するための戦争映画ではないのである。ロレンス役が若きシェークスピア俳優ピーター・オトゥールでなければならなかった理由はそこにあったのであろう。
"But tomorrow, who knows?"[#「"But tomorrow, who knows?"」は太字]
『イマジン』というフィルムを見た。ジョン・レノンが殺されてから早や十年以上|経《た》った。この映画は、彼が死んでから、そのインタビューフィルムを中心として、ビートルズの出発から崩壊、そしてレノンの死に至る道筋を、乾いた筆致で坦々《たんたん》と描いた傑作である。
ビートルズは、私たちが少年だった時代に、遠いイギリスから不思議な波光を送り続けていたパルサーのような存在だった。ヒットチャートにビートルズの曲ばかり二曲も三曲も並んだりした。そのころ私はイギリスに対して何の興味もなかったし、行ってみたいとも思わなかった。今、その頃のレコードを聞いたり、またコピーバンドの演奏に接したりすると、懐《なつ》かしさよりも哀《かな》しさが先に立つのは、おそらくそれが二度と戻らない少年時代への感傷をかきたてるからである。少年から大人へ、それはつまり喪失の歴史にほかならないのだ。
レノンはすでに億万長者で、何万坪もの大邸宅に住み、しかし、人生に倦《う》んで財産や名声によっては癒《いや》されない孤独に苦しんでいた。数々の奇行やヨガへの傾倒など、みなその表れである。彼らもまた喪失したものを埋め合わせるすべを知らなかったのである。
ある日、レノンの大邸宅に一人の浮浪青年が現れる。彼はレノンの詩的世界に憧《あこが》れるあまり、文学と現実の境界を見失って、さまよっていたのである。レノンはそういう若者たちに対して、大きな責任を感じていたらしい。
彼は、この怪しげな青年に丁寧に応対し、答える。その中で、彼自身の詩は言葉の遊びで、必ずしも意味があるとは限らないと言い、一番新しいアルバムの中に現在のすべての気持ちが表現されている、それは夢だ、というようなことを言っている。
「It will last whole life on that dream,
………It's all over………」
はっきり聞き取れないのだが、レノンは青年に向かってそう言っているように聞こえる。
ところで、一九六四年に発表されたヒット曲"I'll follow the sun"という曲はこんな文句で始まる。
One day you'll look to see I've gone
For tomorrow may rain
So I'll follow the sun
いつの日か君は、
僕がいなくなってしまったことを知るだろう
しょうがないじゃないか、明日は雨かもしれない
だから僕は、こうして陽《ひ》のあるうちに、
太陽をおっかけて行くんだから
無責任な逃避の歌のようにも聞こえる。しかし、この美しい歌は、遠い所へ永劫《えいごう》に逃避してしまったレノンの、遥《はる》かな予言のようにも読まれるのである。
それから彼はかのオノ・ヨーコに巡り合った。それ以後のレノンが一段と奇行をくりひろげて、世の顰蹙《ひんしゆく》と賞賛をふたつながら浴びたことは、いくらか記憶に新しい。それを世間ではヨーコのせいのように思って、彼女のことを悪く言う人が多かったけれど、じつはすべてレノンの孤独との闘いの形だったのである。ヨーコはそれを必死に支えていただけだと見るべきである。その奇行の一つ、ベッド・インのインタビューの時に、彼はこれが一つの平和へのアピールであると胸を張り、それが随分世界に知られるようになった、と喜んでみせたあとで、
「But tomorrow, who knows?」
とつぶやくのである。「明日、それをいったい誰が知ろう?」。そうして、その言葉どおり、レノンは何の脈絡もなく、忽焉《こつえん》として死んでしまった。
"I'll be going home to England, retired to private life, I suppose, a little pleasant country and dogs, and a few books........., every Englishman's dream really"[#「 "I'll be going home to England, retired to private life, I suppose, a little pleasant country and dogs, and a few books........., every Englishman's dream really"」は太字]
義和団事件を描いた大作『北京《ペキン》の55日』は列強連合軍の戦いぶりをアメリカ的に能天気に描いた作品で、いってみればバンブー・ウエスタンとでもいうような作品だが、ここにデイヴィッド・ニーヴン扮《ふん》するイギリス公使が出てくる。彼はイギリス人らしく穏健で、個人としては和平を望んでいるのだが、公人としては断固対決を主張せざるを得ないという立場になる。義を重んじ忍耐を尊《たつと》ぶというイギリス人の基本的美質を、ニーヴンはよく表現して、秀逸な演技を見せる。物語は、しかし、結局チャールトン・ヘストン扮する騎兵隊風のアメリカ海兵隊長の活躍でなんとか列強軍がもちこたえて、援軍が到着するという、おめでたい筋なのだが、その騒動が決着し、北京城に平和が訪れる。その時、この戦いで最愛の息子を喪ったイギリス公使が城の上から町を見下ろしてこう言うのである。
「イギリスへ帰って、引退しようと思うんだ。で、きれいな田舎に住んで、犬たちと、少しばかりの書物……、あぁ、それはイギリス人誰もが描く夢なのだがね……」
ロレンスも、レノンも、たぶんこのイギリス公使も、最後は同じ夢をみて、そうしてその夢の中に、哀しく辛《つら》い人生を解き放った、のかもしれない……。
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辛 からい
やせ我慢の理由
ユーノス・ロードスターを買った。
私がこういう車を買ったについては、その「性能」を買ったのではない。「快適な居住性」を求めたのでもない。いわば、それによって幻の自分を、見果てぬ夢を、手に入れたのである。
エンジンは直列四気筒一六○○cc、DOHC自然給気百二○馬力の、どちらかと言えば凡庸な性能である。もちろん、二座ロードスターだから二人しか乗れないのだが、それも随分と窮屈なシートで身動きが出来ない。それで、なおかつ、乗り心地は世に言う「快適」とは正反対で、ゴツンゴツンと道路|凹凸《おうとつ》を忠実に拾って脳天に響き、幌《ほろ》を掛ければ小柄《こがら》な私でさえ頭が天井につかえるかと思われるくらい低い。荷物を置こうかと思うと、どこにもその場所がなく、物入れといっては車検証ケースもろくに入らない程狭いグローブボックスと小さなセンターコンソールがあるだけで、ドアポケットすらない。トランクだって、半分はスペアタイヤが占領していて鞄《かばん》を二つも入れたら一杯になっちまうほど小さい。そのほか、トヨタの車が標準で備えているような便利で小器用な装備は何一つありはしない。しかし、それでもなおかつ、こういう車をよくぞ作った、と心から賞賛の気持ちを禁じ得ないのだ。それはこういうことである。
私たちがまだ学生だったころ、「外車」といえば、クロームメッキをピカピカ光らかしたアメリカ車か、黒塗りの大きなベンツか、それでもなければイギリスのライトウェイト・スポーツカーをさして言ったものだった。とくにこのブリティッシュ・ライトウェイト・スポーツは、MGBとかトライアンフTR4とか、MGミゼットとか、オースチンヒーレー・スプライトとか、ちょっと変ったところではロータス・ヨーロッパとか、みんな元気で洒落《しやれ》ていて、私たち車好きの憧《あこが》れを掻《か》き立ててやまなかった。その時代には日本の車だって負けてはいなかった。ホンダが有名なS600・800を出して世界の喝采《かつさい》を浴びたのもこの時代だったし、トヨタも八○○ccの非力な空冷エンジンを軽量流力ボディに載せて、愛すべき二座スポーツクーペで頑張《がんば》っていたのだった。天才アレック・イシゴニスの設計になる名車ミニとそのスポーツチューンたるモーリス・ミニ・クーパーが世界のラリーやレースで大活躍をしていたのも、やっぱりこの時代だった。しかし、その頃《ころ》の私たちはまだ概《おおむ》ねお金に不自由していた学生の身分だったし、大学出の初任給が一万六千円などと言っていた時代に、百万円をゆうに超える値段だったミニなどは、まったく高嶺《たかね》の花だったから、私たちはせめてプアマンズ・ミニと呼ばれていたホンダのN360で心を安んじるほかはなかった。
その後、日産がフェアレディZを出して、アメリカで圧倒的なファンを獲得し、イギリス軽量スポーツの雄、MGBやミゼットを駆逐する勢いとなった。いっぽうMGBもミゼットも、アメリカの新安全基準をクリアするために、鼻先に妙な黒いウレタンバンパーをひっつけた結果、やんぬるかな大宮デン助みたいな顔になってしまい、あのダンディなイギリス流デザインは台無しになって、結局その命脈を絶ったのである。
それから幾星霜《いくせいそう》、私たち団塊の世代は、今や社会の第一線に立つ年代になった。それに従って相応に経済力も身に付けた。自動車も、一台だけじゃなくて、自分専用のセカンドカーでも持とうか、と思い始めた頃になって、私たちはハタと気が付いたのである。
もうあの瀟洒《しようしや》なロードスターMGBもトライアンフTRシリーズも遥《はる》かの昔に生産中止になって、今ではヴィンテージ・カーの範疇《はんちゆう》に入る。程度の良《い》いのを手に入れるとなると、容易なことではない。ホンダのS800も同じことだ。あのころのブリティッシュ・スポーツカーの性能などは鎧袖《がいしゆう》一触、ものの数ではないというような、鬼面人を驚かす高性能の車は、今や日本中に満ち満ちている。ミゼット程度の性能では、たぶん今日の軽自動車にだって勝てないかもしれぬ。
けれども、あのころ果たせなかった憧れを満たしてくれるような車は、今の日本、まるで無いに等しいじゃないか。ドイツのポルシェやBMWの向こうを張るような高性能スポーツカーや、ベンツを仮想敵に見立てた高級サルーンは、いくらでもある。けれども、高速道路を弾丸のように疾走することを金科玉条とするのでない、イギリスのライトウェイト・スポーツカーみたいな、愛すべき、そうして人間的な車は、いつの間にかどこかに置き忘れられてきてしまったらしい。
はたして、みんながポルシェみたいなスポーツカーを望んでいたのだろうか。はたして誰もがベンツみたいな重厚なサルーンを運転したかったのだろうか。
きっとそんなことはなかっただろうと私は想像する。
モーリス・ミニ・クーパーが生産中止となり、BLMCミニ、オースチン・ミニ、ローヴァー・ミニと受け継がれた今となっても、この「走る合理性」ともいうべき「ミニ」という車は、日本では依然として高い人気を保っている。発売以来実に三十五年余りである。それはイギリス本国よりもどこよりも、日本人《ヽヽヽ》が喜んで買う車なのである。それはなぜか、よく考えてみなければなるまい。
古典的というよりは原始的と言ってもいいくらいのエンジン。狭い室内。硬い乗りごこち。開かない窓、等々。およそポルシェやベンツなどのドイツ車とは正反対のベクトルをもったこの小さな名車が、売れ続けていることの意味を問え。私たち団塊の世代の男たちは、多くあの頃の夢を心に抱きながら、せめてその「夢の化石」とも言うべきミニを支持し続けてきたのだ。
ミニという車は、実際に運転してみると分かるけれど、こう、なんと言ったらよいか、四本のタイヤに直接自分の手足が接続しているとでも言ったらよいだろうか、すみずみまで自分自身の感性と神経でコントロールし、自分自身の手足で操る、「自分」と「大地」が直接につながっているという実感がある。それが貴いのだ。
こういうミニや、MGBを生んだイギリスという国はいったいどういう国であるか。
イギリスの田園は美しい。
緑に覆《おお》われた道は、左右に曲折し、上下に昇降して、進むにしたがい次々と新しい景色が展開する。イギリスの平野は、どこまでもどこまでも丸いゆるやかな丘の連続である。道は、丘から丘へ、見晴らしの良い穏やかな斜面をのんびりと進んで行くのだ。春は美しい若草、咲き乱れる花々。北の冷寒な天地は、夏といっても暑さを感じることはなく、乾燥した爽《さわ》やかな空気が、涼しい風となって明るい野を渡って行く。黄葉《こうよう》の秋の野には、折々細やかな軽雨《けいう》が降るけれど、それもたいして濡《ぬ》れない程度の雨だ。そして、緯度が高い割には、メキシコ湾流の影響で温かな冬。雪もたいして降りはしない。
ピクチャレスクなイギリスの風土のなかで、小さくて、きびきびと小回りが利《き》く車、そうしてなかんずく、広々とした空や野を、どこまでも見渡しながら走って行くことができるライトウェイト・ロードスターのような車が、どれほど喜ばしい存在であるか、イギリスの野面《のづら》の風景を知っている人は容易に想像できるに違いない。
以前、ケンブリッジに住んでいたころ、近所にモーガン・プラス8を運転して通勤する四十歳前後のイギリス紳士がいた。暗く曇った冬の朝、凍《い》てつくような空気を切り割《さ》いてモーガンの排気音が近付いてくる。ちらちらと雪が降っていようとも、彼は平然とオープンのまま、厳しい顔つきで、いつも同じ時間に走りすぎて行くのである。モーガンのごときも自動車としては全く原始的なもので、彼がこういう車に高性能や居住性を求めていたのでないことは一目|瞭然《りようぜん》である。では彼は単にカッコつけていただけなのであろうか……。私は、そうは思わない。彼は必ずや、その強い腕力や人並以上の忍耐力を必要とする旧弊なオープンカーを|運転すること《ヽヽヽヽヽヽ》に、余事《よじ》には代え難《がた》い「楽しさ」を味わっていたに違いない。
イギリスの田舎の道は狭くて曲りくねっている。そういう細い田舎の道を、イギリス人たちは昔、馬に跨《またが》ったり、または二人乗りの軽便な小型馬車を操ったりしながら、往還したのである。その|馬の代り《ヽヽヽヽ》の車たち。天地は小さく、隣町は近い。アメリカのように広漠《こうばく》たる荒れ地のなかに遠く離れて町々が散在しているというわけではない。ナニ、急ぐ必要はないのである。
どういう車を作るか、ということは、すなわちその国の風土と国民性を映しているのである。だから、イギリスのライトウェイト・スポーツが映しているものは、悠揚《ゆうよう》として急がない国民性と、小ぢんまりと完結した穏健で美しい風土だということができるであろう。
こういう点では、ヨーロッパ大陸はずいぶん違う。アウトバーンや太陽の道、とにかく、真っ直《す》ぐな大道を、まっしぐらに突っ走って行く。こういう所では小回りが利いて見晴らしが良いなどということは二の次である。まず丈夫で重厚であること、途方もなく高性能なエンジンやブレーキ、長い時間乗り続けても疲れない快適な居住性が第一に求められるだろう。ベンツやポルシェやBMWやシトロエンや、およそ大陸の自動車が志向するものは、イギリスのライトウェイト・スポーツとは正反対のベクトルであるに違いない。
ところで、翻《ひるがえ》ってわが国はどうであろうか。
狭い国土、細い道、穏健な気候(ただし雨の降り方は寧《むし》ろ熱帯的でイギリスとは全然違う)、明らかな四季の運行。それは大陸的であるよりはイギリス的である。二百キロを超える猛スピードで突っ走って行くような大陸的高速道路など薬にしたくもありはしない。しかも、日本人は、昔から自然に対して閉鎖的対立的であるよりは開放的融和的だったのではなかったか。
こうしてみると、アメリカ車のように巨大でドイツ車のように高性能な車は、ほんとうに私たちの心のなかに欲していたものだったろうか。ホントは、広々とした青天井のもと、気持ちのよい外気に顔をなぶらせながら、小さな車を思いのままにくるくると操縦してみたいのではないか。そのためには、色々な不便や性能の不充分なんかちょっと我慢したっていいじゃないか。
私は、やせ我慢してユーノス・ロードスターに乗る。そうすると、|わざと《ヽヽヽ》こういう不便な車を作ったマツダの技術者たちに喝采を送らずにはいられないのである。
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独立のシンボル
『スタンド・バイ・ミー』という映画を見た人は、それが男の子たちの独立の物語であることに気が付いただろうか。
主人公の少年たちは、偶然なことから、河の向こうのどこかに、列車に轢《ひ》かれて死んだ少年の死体があることを知ってしまう。恐《こわ》いもの見たさでそれを見に行くというのが概ねの筋だてであるが、じつはこの「死体」というものそれ自体、「大人の世界」の不条理、言い換えれば「汚《けが》れ」の象徴に外ならないのだ。どこか、河の向こうのような別の世界には、恐ろしい不条理、忌《い》むべき汚れが私たちを待ち受けている。それを見ないで済ませようと思っても、そうはいかない。なぜなら私たちはみな大人になりたかったのだから。誰もみな、汚れのない子供のままではいられない、それが世の中の真実というものである。
女の子たちにとって、それは「初潮」というかたちでいやおうなくやってくる。確実に、極めて目に明らかなかたちで、しかも「汚れ」そのものの姿でやってくる。何の快感もなく(それどころか、しばしば痛みや不快感をともなって)、自らの意志も全く関与できないというのに、体のなかから突然に血液が流れ出てくる。それを止めることもできないし、その意味も自明なかたちでは納得されない。こんな不条理なことがまたとあるだろうか。女の子が男の子より一足先に、突然大人になってしまうのは、このために違いない。女の子たちが早々と大人になるのは、体が大人になって、それが大人の始まりであることを学校などで教育されるからではない。そういう単純なことではなくて、つまりは、彼女たちは不条理を知ってしまうからなのだ。そして、それゆえにまた、女の子たちの独立の物語なんてものは、映画として成立しないのである。
けれども男の子たちにとっては、そういう画然たる「出来事」のかたちでは大人の世界は訪れてはこない。男の子にとっての、たとえば「精通」などというものは、寧ろ「欲望」もしくは「快楽」ないしは「排泄《はいせつ》」の問題であって、少しも不条理なことではない。だから、それは男の子に大人の世界をかいま見せてくれるような事件ではついにないのである。どうだ、男どもよ、自分がいつ初めて射精したか、覚えているかね。少なくとも私は全く覚えていないが……。
さてまた、女の子たちよ、そんなこと知らなかったろう?
男と女は、こうして大人の世界にはじめて直面する「その時」を全然ちがったかたちで迎えなければならないのである。
ところで、『スタンド・バイ・ミー』だが、主人公の男の子たちが、家出をするようなかたちで河向こうの死体捜し探検に出かけて行くについて、いくつかの重要な場面がさりげなく描かれていることに注意する必要がある。
その第一は主人公(語り手=視点人物)のやや女性的な少年が、今はなき憧れの兄から貰《もら》ったヤンキースの野球帽を、町のチンピラ(悪=おとな)に奪われてしまうシーンである。大人と子供は、その子供の成長の過程では、むしろ対立的な関係に位置し、大人たちの抑圧は子供の自己実現を妨げる障壁としてその前途に立ちふさがる。彼にとっては、ここが大きな「試練」と見るべきであろう。
第二は、鉄道の鉄橋を渡って行く場面、枕木《まくらぎ》の下には深い谷底が透けて見える。それは、たしかに恐ろしい場所で、それを渡ること自体「試練」にほかならない。少年たちの成人には、およそこういう儀式的試練が必要で、それを民俗学の用語ではイニシエイション(年齢通過儀礼)というのだが、まぁそれはどうでもよい。このとき、少年たちのなかで一番デブッチョでドジな一人が、鉄橋をよつんばいになっておそるおそる渡っているうちに、シャツの胸ポケットにさした「櫛《くし》」をおっことしてしまう。何でもないようなシーンで、多くの人は見のがしてしまうかもしれない。しかし、この櫛は、いったい何であるか? たしか、この櫛は、少年が、死体発見者の名誉(?)に輝いて新聞社のインタビューを受けるときに「かっこつける」ためにという、いわば極めて幼稚なあるいは無邪気な目的で持ってきたものだったかと思われる。それを、彼は、|家から《ヽヽヽ》持ってきて、|試練の鉄橋の上で《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、言い換えれば子供の世界と大人の世界を隔てる河の上で、なくしてしまうのだ。こういえば、それが何を意味するか、明らかになったであろう。
つまり、それらの、「ヤンキースの帽子」や「かっこつけの櫛」は、少年たちと家族との絆《きずな》なのだ。
大人になるために、河を渡らねばならない。そのときには、家族という、母親の子宮に胎盤でつながって以来の「関係=絆」を捨てて行かなければならないのだ。あの映画は、そういうことをメッセージとして述べているのである。だから、向こう岸について、死体を発見して、そうして大人になった少年たちの表情は、ある達成感と不安とに満ち、しかしながら、えもいわれぬ「寂しい」表情に彩《いろど》られている。独立して、大人として生きていくことは、なによりも孤独を知ることであるからだ。「家庭の中の不条理」というかたちで、「大人」になる女の子たちには、こういう消息もおそらく理解の外であろう。
スピルバーグの『太陽の帝国』という映画を見ただろうか。ここでも、主人公は一人の少年である。彼は上海《シヤンハイ》に生まれ育ったイギリス人で、第二次大戦のさなか、運命のいたずらから両親と離れ離れになってしまう。そうして、各地の収容所を転々としながらも、けなげな明るさを失わない。そして、彼にとっての「家族との絆」は写真や玩具《おもちや》やガラクタの詰まった古い皮鞄《かわかばん》である。彼はいつも、どこへでもそれを持っていって、ベッドの脇《わき》に置いておくのだ。
しかし、唯一《ゆいいつ》の友であった日本人の少年飛行兵が、目の前でアメリカ兵に射殺されたとき、彼は、不条理と汚れをいやおうなく突き付けられる。少年は、こうして|心の中の河《ヽヽヽヽヽ》を渡って、向こう岸≠ヨたどり着くのだ。
このとき、彼はずっと大事にしてきた皮鞄を、泣きながら海に投げ捨てる。この瞬間が、この映画のクライマックスであることは疑いがない。思うに、ここでポーンと抛《ほう》り捨てられたのは、じつは鞄ではない。本当はその鞄に詰まっていた「少年時代」や「家族との絆」をこそ、彼は捨ててしまうのだ。それが、彼にとっての独立だったのである。
だから、後に、戦後両親とめぐりあっても、彼はもはや再び、あの飛行機好きの、可愛《かわい》らしい少年ではありえない。その大人になった少年の瞳《ひとみ》に宿る底知れない「虚無」を見るがよい。男の子が、大人になるというのはそういうことなのだ。スピルバーグが言いたかったのは、そういうことなのだ。
だから、これらの映画は、女の子が見ても分らない。そういう意味で、「ヤンキースの帽子」や「櫛」や「鞄」を捨てたことのない未熟な男が見ても、やっぱり分るまい。
男の子にとっての「独立」というのは、かくもかなしい出来事なのである。
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米、がんばれ
私の家では、八郎潟《はちろうがた》干拓地の農家から、直接注文で「あきたこまち」を買って、もっぱらそれを賞味している。艶《つや》があって、甘くて、美味《おい》しい米である。これは、いつだったか、八郎潟の干拓地の農地の米が、農水省の減反政策の押し付けによって、むりやり青田刈りを余儀なくされ、それに反撥《はんぱつ》した志ある農家の青年たちが直接販売に踏み切ったところ、これを違法として、交通の遮断《しやだん》など様々な妨害が行われている、というニュースをテレビで見て、なんだか我慢がならない気がしたからである。遠く都の一市民として、これは放ってはおかれぬ、この上は義を以《もつ》て助太刀《すけだち》致す、とそういうような思いがしたからである。
だいたい、日本の農林官僚は目先のことしか見ていないのではあるまいか。農業は百年|河清《かせい》を待つ心がけでなければならぬ。三十年くらい前までは、食糧増産で笛を吹いて八郎潟を干拓しておいて、いざそれが出来たころには、米が余ったからとて、減反減反と農業を圧迫する、そしてその穴埋めに補助金を恵んでやろう、というような政策はもっとも下の下策である。
そうじて、日本の米が「高い」というのは誤った考え方である。
私は日本の米は全然高くない、と思っている。
たとえば我が家で買っている八郎潟のアキタコマチは大体五キロで三千円である。これは米の小売価格としてはまず中くらいに属するであろう。で、この五キロのパックを四人家族で食べてちょうど十日間で消費する。ちなみに私の家の家族構成は私と妻と、大学生の息子、それに高校生の娘、の四人家族であるから、これまた世の中の標準と言ってよいに違いない。
すると、計算はしごく簡単で、要するに四人の人間が一日に食べる米の量は五百グラム、金額にして三百円に過ぎない。つまり一人あたま七十五円。これで朝昼晩と息子の弁当までまかなって、充分足りるわけである。もっともうちはあまり大喰らいではないので、夕食でも御飯は小さな茶碗《ちやわん》に一|膳《ぜん》だけだから、大食漢の家ではこの倍も食べるかもしれぬ。でもね、それでも一日六百円に過ぎぬ。
仮に会社の昼休みに喫茶店でコーヒーを飲んだとする。そのコーヒー代は我が家の四人家族一日の米代に相《あい》匹敵するのである。また、百害あって一利なき煙草《たばこ》の一箱の金額がほぼそれに当る。気取った小さなフランス風ケーキ、これが一個四百五十円なんてのはこれまた珍しくない。するとこれ一個でうちの一・五日分の米が買える計算である。
もういいだろう。要するに、米の価格というものは、まったく高いものではない。全国の農家の方々が、暑さ寒さの中、営々として作った米が、こんな吹けば飛ぶような値段で手に入ることを私は瑞穂《みずほ》の国の八百《やお》ヨロズの神々に感謝したいくらいである。
食管制度の財政的|破綻《はたん》なんてことも、いっこうに構わないじゃないか、と私は思っているのである。生産者米価と消費者米価の逆ザヤだって、それが一種の国家の安全保障だと思えば何でもない。税金でその赤字を賄《まかな》うのは国民の等しくなすべき「我慢」である。
アメリカの米がどれほど安いか、そんなことは百も承知二百も合点であるが、そんなふうに安いからというだけの理由で、日本の農業を滅ぼして、米までもアメリカに依存するようなことはあってはならぬことである。それはまったく亡国の策にほかならぬ。米も肉も、麦も果物も、なにもかもアメリカの意のまま、とそうなったら、そのとき誰が一体日本国民の生命の安全を保障してくれるのか。よろしいか、アメリカは|日本国の為に《ヽヽヽヽヽヽ》アメリカの米を買えと言っているわけではないのである。事実はその逆である。
ところが最近、信州の野づらを眺《なが》めているうちに気が付いたことがある。減反政策が始まった頃には、あちこちに休耕田が目立ち、そこに雑草が繁《しげ》って「田園まさに荒れなんとす」という感じだったのだが、このごろでは、そういう荒れた田園はずっと減り、かわりに蕎麦《そば》の白く可憐《かれん》な花が風に揺れているところが多くなった。休耕するかわりに、蕎麦を栽培する農家が増えたのであろう。そういうふうにして賢く農業が再生されていくことは望ましいことである。これなら日本はまだ大丈夫だ、と私はひそかに喜んだ。そして、私たち都市生活者が農村を裏切ることがあってはなるまい、とも思った。
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「おもてなし」の深層
「おもてなし料理」という言葉がある。
誰かしかるべきお客様を招いて、普段は食べないような特別のご馳走《ちそう》をする場合の言い方である。そういうことは当り前で、世界中共通かと思っていると、そうではない。じつは、こういう考え方は、ある意味で日本的(又は東洋的)なのであって、その背後には「客」というものをめぐる民俗的意味付けが潜んでいることは、ふつう一般には案外気が付かれていないかもしれない。
「客」という字を訓でなんと読むか。「キャク」という読みは、もうすっかり日本語として定着した漢字音なので、今ではこれを訓に読む場合はほとんどない。
しかし、昔の日本語の中ではしばしば訓で読まれることがあった。で、これは「まれびと」または「まろうど」と読むのである。どっちも同じ言葉で、要は「稀《まれ》びと」なのである。そうして、そのように言う場合、その「客」という観念の向こうには、何か大切な節々に、|まれまれ《ヽヽヽヽ》どこか遠い所からはるばるとやってくる「神(祖霊)」なり「精霊」なりというようなモノが印象されている。
そのような意味で、もっとも大切なのは祖先の魂を招いて酒食をともにする儀礼であるが、その代表的な場は、正月とお盆である。中でも、お正月というと、一家総出であれこれとご馳走を作り、新年に客(目に見えぬ祖霊や、現実の生きたお客様や)を迎えて、盛大な「おせち(御節)料理」をいただくのは、そのもっとも分かり易《やす》い例である。
したがって、お正月以外でも、お客を招いたときはどうしても「ご馳走」を作らなくては気が済まないというのが、われわれ日本人の習慣というか性癖というか、こうした傾向はじつのところ、まことに根が深いのである。
家族と一緒にケンブリッジに着いて間もなく、ケンブリッジ大学の先生をしているC君(イギリス人)が、歓迎の意味で、自宅へ夕食に呼んでくれたことがある。
さきに拙著『イギリスは愉快だ』にも縷々《るる》書いておいたとおり、イギリス人にとって、一番簡単な社交の場は「ドリンク」と称する一種のパーティである。この場合はたいていワインくらいが飲物の主たるもので、せいぜいピーナツやクラッカーといった程度のごく簡単なもの以外食べ物は出ない。この種のドリンクには、しかし、ちょっとした仕事の関係者とか、あまり親しくない人でも呼ぶわけで、われわれが知っているパーティというものに一番近い。次は「ティー」で、これは相当に沢山の食べ物と一緒に大量の紅茶(ミルクティー)を飲むのである。この場合はふつう自宅へ呼ぶ形式をとり、それゆえ、個人的にかなり親しい人しか呼ばれない。そして最後に「食事」に呼ばれるのであるが、こうなると明らかに人間的信頼で結ばれたある一定の人しか招待にあずかることはできないのである。
こういう意味における「夕食への招待」だから、それはもちろんその背後に私とC君とのごく親しい人間関係が存在したわけである。したがって、彼らにとってはこの会食は大切な交際儀礼であり、呼ばれた方としても、それなりにワイン一本ていどの手土産を携えて行くのが礼儀である。
してみると、食事への招待が「稀な事」に属していること、手土産というような儀礼が介在すること、という点でこの習慣は外形的には日本の「まれびと」を迎えての正式な会食にちょっと似ている。しかし……。
食事が始まるまで、別の、まぁ日本風にいえば応接間とでもいうような部屋で食前酒を飲みながら、おしゃべりをする。食事のときに、ダイニングルームとは別の部屋で、食前酒とくつろいだおしゃべりに一時を過ごすというのも、イギリス式の正餐《せいさん》のひとつの約束事である。
食事の用意ができた。ダイニングルームに招じ入れられて、見るとテーブルにはきれいにアイロンの当てられたテーブルクロスがかけられ、美しくしつらえができていた。で、その日の献立はどんな塩梅《あんばい》であったか。
「マカロニチーズとスイートコーンに茹《ゆ》でインゲン、デザートにチョコレートケーキ」、これだけである。
マカロニチーズというのは、チーズを混ぜた一種のマカロニグラタンであるが、この日は、中にニシンがたくさん入っていた。これが、巨大なキャセロールに入って、ドカンと食卓に運ばれてくる。おかずも主食もありはしない。出たのはただこれだけである。
正直にいうと、この中に入っていたニシンはひどく骨だらけだったので、嚥《の》み込むまでが大変な作業だった。マカロニやチーズとごたごたに混じり合った魚の骨を口の中で分別して、しかも礼儀を損なわぬように品良く口から出すのはかなり難しい仕事である。私は子供たちが骨を喉《のど》に刺しはしないかと気が気でなかった。しかし、さりとて他には茹でた野菜しかない。私たちは、ただ黙々と骨を噛《か》み砕いては恐る恐る嚥み込むのだった。
この骨だらけのマカロニはちょっと特別な例だけれど、そうでなくとも、イギリス人のディナーはたいてい肉(または魚)一品、それに野菜を付け合わせて、という程度で終りである。そのかわりその一品はかなり大量にこしらえ、なおかつずいぶん大きなしかもヴォリュームのあるデザートを用意するのである。
以上はかなり正式のディナー(夕食又は昼食)の実際であるが、親しい間柄の場合は、それほど大ごとでなく、もっと気軽に「どお、飯でも喰《く》ってかない?」というようなことを言われる場合もなくはない。
我が友スティーヴンの場合がそうだった。
彼の家にはしょっちゅう遊びに行ったものだったが、そういうとき、夕方頃になると、彼は親切に「ぼちぼち飯でも喰うかい」と誘ってくれることがあった。当然、私は遠慮する。すると、彼は「なに、遠慮には及ばない。何もたいしたものは作りゃしないんだからさ……」などと重ねて勧めてくれるのだ。んじゃ、というので一、二度ご馳走になったことがあるのだが、こういう場合はホントにその「何もたいしたものは作りゃしない」という言葉通り、食べるものは驚くべく質素だった。
「フランスパンとチェダーチーズだけ」ということもあったし、また「レンズ豆のシチューと食パン」ということもあった。そのいずれにしても、我々が「夕食」という言葉から想像するものとは大きく隔たっていた。
さて、これらをはじめとして、概してイギリス人の食習慣に一つの法則めいたものを見出《みいだ》すとすれば、それは、「少種類のものを大量に食べる」ということである。
こうした法則というか、イギリス人の癖のようなものは、階級の上下、場のケ・ハレを問わない。
実を言うと、この「少種類多量」の原則はイギリスに限ったことでもないらしい。フランソワーズ・モレシャンさんに伺ったところでは、食通の国フランスだって、普通は「少種類多量」なのだそうである。結局、一つの品をたくさん食べたい、というのが西欧人一般の傾向だというのだ。だから、映画『バベットの晩餐会《ばんさんかい》』のように贅沢《ぜいたく》と技量の限りを尽くしたフルコースというのは、あれはやはり例外であるらしい。いや例外だからこそああして映画のテーマになり得るのであろうと思われる。
以前、私の父が中国の知人を訪ねた時の話である。
Kさんというこの中国人は、日本に留学していたことがあるのだが、その頃父はずいぶんKさんの面倒をみていた。その後Kさんは留学を終えて帰り、満州のある町で出世して偉くなっていた。父はKさんのもてなしに驚いて帰ってきた。そうしてこう言った。
「ごく普通の質素なアパートだったよ。でね、お料理は全部彼の奥さんの手料理さ。ところがこれが出ること出ること大きなテーブルの上に、作るに従って並べていくとね、やがてテーブルの上は皿でいっぱいになっちゃう、そうすると今度はその皿の上に二階だてに皿を重ねて行くんだね。途中まで数えていたけれど、もうとても全部は数え切れない。もちろんちょっとずつ食べたけれど、全種類はとうてい食べきれなかった……」
中国の王侯貴族の豪勢なご馳走として「満漢全席《まんかんぜんせき》」というものがあることは、すでによく知られている。これは何日も食べ続けるというのだから、壮絶なる食事といってもよろしかろう。しかし、どうもこのときの父の経験談を聞くにつけて、中国では、かくのごとく壮絶なまでに多くの種類のものを食べるということが「ご馳走」という概念の基底にあって、そうすると一つ一つの品はどうしたって沢山は食べられないから、結果的に「多種類少量」ということにならざるを得ないのだろう、と思われた。日本の中華料理でも、たとえば十人いたら概《おおむ》ね十種類の料理を注文して、それを十人で少しずつ「分けて食べる」というのが適切だということになっている。こういう法則のもとでは、人数の多い盛大な食事ほど「多種類少量」が甚《はなは》だしくなるに違いない。しかし、それはなにも中国だけのことではない。
私は普茶料理を愛する。普茶料理は、黄檗禅《おうばくぜん》の流れを引く中国料理の日本的一変形ともいうべき精進料理だが、私は東京下町のある有名な店に折々食べに行く。そうすると、非常にリーズナブルな値段のコース(たとえば一人前七千円くらいの)でも、なんと四十種類に及ぶ手の込んだ料理がずらりと出てくる。したがって、一つ一つの料理は本当に少ないけれど、全部あわせると相当な量に上るであろう。じじつそれで、いつも人生の幸せを感じるほどの満腹状態になって帰ってくるのである。
思うに、こういう風に、ちょっとずつ沢山の種類の味わいを舌の上にのぼせたいというのは、中国・日本をはじめとする汎《はん》アジア的食味|嗜好《しこう》であるかもしれぬ。懐石料理、幕の内弁当、お寿司《すし》から、大衆食堂の日替り定食に至るまで、チマチマとあれこれ取り合わせて食べるのでなければ、なんだか満足が行かないのである。昔の、式三献などという礼式にのっとった正餐の献立なんかを見ると、こういう「多種類少量」はさらに徹底的で、次から次といつ果てるともなく多くの品が列せられるのである。そして、それが甚だしいほど、正式で礼にかなっていると看做《みな》されるのである。
日本人がフランス料理などでも、アラカルトで頼むのでなくて、とかくコースで注文したがるという傾向も、およそこの流れのなかで捉《とら》えられるかもしれない。
さて、こうした日本人の食習慣は、必然的に「まれびと」を招いた時(すなわち神とともにする正儀《せいぎ》としての会食意識が残っている)、「とにかく沢山の種類の料理を並べなくちゃ」という強迫観念となって現れる。正月のオセチ料理なんかでも、じっさい種類・量ともに食べ切れないほどの料理を用意しておかなければ安心できないというのは、決して「正月三が日は店が休んでしまうから」というような表面的な理由からではないのである。
こういう無意識界にまで入り込んでしまった食習慣は、従って、なかなか変革しがたい底力をもっている。
先日、テーブル・コーディネーターのワンダ宮島さんと話す機会があった。その時宮島さんが「どうして日本の方は、自宅へお客さんを招かないで料理屋やレストランを使うのでしょうか。それはとても残念ですね」と言われた。たまたまその場にいらした田村真八郎博士が「それは日本人は自分の家に自信がないからですよ」と答えられたけれど、宮島さんは納得されないようだった。
思うに、田村さんの仰言《おつしや》ることも正しい。しかし、それだけではないだろう。もう一つの大きな理由は、このお客さんを呼んだときの、「とにかく沢山の種類の料理を並べなくちゃ」という強迫観念にある、と私は思っている。お客さんを呼んでおいて「マカロニグラタンだけ」というわけにはどうしたっていかない、とわれわれは考える。このことはテーブルを美しくセッティングするとか、そういう程度のことではとうてい償われない、無意識の民俗だ。なによりもそれは遠来の客、すなわち「まれびと(=神)」に対する無礼に当るのである。
文化の違いは表層では捉えられない。そのもっと深層を探ってみると、長い歴史と無意識下に沈んだ信念が現れる。日本人も西洋人も、そういうことをよく知って、互いの儀礼の表面的な違いから感情の行き違いを起こさないようにしなければなるまいと思うのである。
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給食の個人主義
私の娘は、小学生のころ不思議な性癖があった。
毎月学校から「今月の献立表」というものが配布され、私の家の台所の壁にはそれが貼《は》ってあるのだが、毎朝、学校へ出かける前に、娘はその日の給食のメニューを母親に読み上げさせる。そして、「げっ、まずそう!」などと一言批評してから出かけるのである。今日の給食はなんだろうなどということは知らずに出かけたほうが、昼の楽しみがふえるだろうにと思うのだが、どうもそうではないらしい。
それはともかく、そのメニューの読み上げを毎朝聞いていると、これがすこぶる美味《おい》しそうである。はなはだ贅沢《ぜいたく》である。
ある日は「ワカメ御飯と白身魚の野菜あんかけ、付け合せにお浸し、ヨーグルト、デザートにミカン」。またある日は「こぎつね御飯にメルルーサの南蛮漬《なんばんづけ》、味噌汁《みそしる》、それとヨーグルト」、ウームこれも食べたいなあ。「ビビンバにかきたま汁、牛乳と、栗《くり》」。ナニ、ビビンバ? そういうものが給食に出るとは、これはびっくり。ビビンバとくると私の無二の好物なのだ。いやいや、そんなことで驚いてはいけない。「|ししじゅうしい《ヽヽヽヽヽヽヽ》に豚汁、牛乳」なんて日もある。この「ししじゅうしい」ってのは、どうやら沖縄料理であろう(「じゅうしい」は漢字を宛《あ》てれば「雑炊」とすべき沖縄方言だから)。
どうです、和・洋・中・韓・琉《りゆう》とその多彩なこと、まったく感歎せずにはいられない。
思い返せば、私たちの少年時代はどんな風だったろうか。
哀《かな》しいことに、私たちの小学校時代は、まだ終戦後の貧しさが尾を引いていた時分で、給食なども、従ってまことに貧しかった。そのころとしては、栄養士の方々は奮闘精励、乏しい材料と不足がちの予算をやり繰りしてせいぜい子供たちの空腹を満たすべく涙ぐましい努力をしてくれていたのに違いない。
しかし、何といっても主食はあの味もそっけもない、それでいて大きさだけは充分に大きなコッペパン(このコッペパンなんてものも、このごろでは一向に見かけなくなったが、あれはいったいどこへ行ってしまったのだろう)と、池の鯉《こい》に喰《く》わせる麩《ふ》のようなパフパフする食パンに限られていたし、そこへグニャグニャにとろけている銀紙包みのマーガリンを付けて食べるものと決まっていた(このまずいまずいパンを六年間も問答無用で食べさせられつづけた後遺症で、私はその後も長いことパンが嫌《きら》いだった)。たまに、べっとりと甘いピーナツクリームとか真っ赤な苺《いちご》ジャムなんかが付いてくることもあったが、そういう時は、それでもなにやら得したような気がしたものだ。
壜詰《びんづ》めの普通の牛乳はいまだ出現せず、進駐軍払い下げの脱脂粉乳がせめてもの栄養補強源というわけだった。クラスの女の子たちは、たいてい目をつぶったり鼻をつまんだりして、いやいやこの脱脂粉乳を飲んでいたけれど、私自身はそれほどまずいものとも思わなかった。あれはアメリカでは豚の餌《えさ》なのだとか、缶《かん》のなかにハンマーだかネジマワシだかが入っていたとか、悪口を言う人は一杯いたけれど、私は功罪|秤《はかり》にかければ、明らかに「功」の方が勝ると信ずる。いやあの頃《ころ》育ち盛りの私たちを栄養的に支えてくれたのはたしかにあの、生ぬるい脱脂粉乳だったじゃないか、と大いに弁護したいと思うのである。
とはいえ、それでいて、おかずの方は容赦なく和風のものが出たりするのだった。これがそもそもいけなかったのではあるまいかと思うのだ。たとえば、カレーがあるのにライスがないという、このじつに情けない感じ!
あのころは鯨肉が安い食肉の代表株で、給食にはこの鯨の揚げ物なんぞがしきりと登場したものである。鰯《いわし》も、フライなどの形で給食の食卓を飾ったけれど、そのいずれにしろ、私たちは御飯というもっとも食べ易《やす》い(そしておかずにマッチする)主食を与えられることがなかった。黒いような色をした鯨の立田揚げやチクワのてんぷら、それに衣ばかり厚いハムカツなんぞを(結構ウマいと思いつつ)かじりながら、私はいつも「あーあ、これで御飯があったらなぁ」と長大息したものである。
こういうことを思い出してみると、現代の小学生たちは本当に恵まれた給食生活(そんな言葉があるかなぁ)を送っているなぁ、と心底|羨《うらや》ましい気がする。これはおおきな進歩である。それは間違いないし、たしかにめでたいことである。
けれども、ひるがえって考えてみると、もう一つ違った形の進歩が考えられても良いのではないかと思われる。それについてこれから、少しく書いておきたいと思うのである。
一九八六年の春から一年間、私たち家族はイギリスのケンブリッジに住んでいたことがある。私がケンブリッジ大学の客員教授として招かれたからである。
そのとき息子は小学校四年生、娘は幼稚園の年長組だったが、イギリスの小学校は複式学級を原則とするので、それぞれ三・四年組と一・二年組に編入することになった。
これからすこし詳しく述べようとするのは、そのイギリスの小学校の給食のことである。この小学校は、セント・ルークス小学校といって、いわばごく普通の公立小学校である。いや厳密にいうと、英国国教会立ともいうべきもので、校長はアンダーウッド先生という髭《ひげ》の牧師さんだったが、しかし、実際のところ殆《ほとん》ど宗教色はなく、日本の市立町立とかいうような当り前の公立小学校と何も変りはないのだった。
この小学校は、ケンブリッジの中心からすこし北に外れたあたりにあって、その辺はおもに労働者の住む地域だったから、全児童の七割ほどを占めるイギリス人生徒は、従って労働者の子女が多かった。
けれども、この学校はまた、ケンブリッジの諸小学校の中で特に外国人の教育に力を入れるという方針で運営されている二校の内の一つで、日本風にいえば、ややインターナショナル・スクールめいていたと言ってもよい。だから、生徒たちの中には、アジアやアフリカ、アメリカ、アラブなど世界中からケンブリッジにやって来ている人々の子供たちも多く含まれていた。
そういう、肌《はだ》の色も、母国語も、文化的・宗教的背景も、みなとりどりの生徒たちに、まったく無料で懇切な英語教育を施し、学用品もこれまた完全に無料で配布し(教科書もノートも鉛筆も画用紙も粘土もなにもかもタダで学校から支給されるのだ)、いじめられたり疎外されたりしないように、念入りに目を配り、威張らずどならず、粘り強く真面目《まじめ》に責務を果たそうと努力しているイギリスの先生たちの熱意と、それを支えているこの国の教育制度には、しょうじき頭が下がる思いがした。
それゆえ、単純に計算テストなどの結果からのみ見て、イギリスの小学校教育は日本より遅れているなどと思ってはいけない。それは浅はかな考え方である。いや、むしろある意味ではまったくその逆だと言ってもよいのである。
ただ、給食(英語では School dinner という。昼御飯なのにディナーというのは、昼に一番盛大に食べるということを意味している)だけはある程度の自己負担があったが、それとてもしかし、日本の小学校の給食費と同じくらいのごく安い負担に過ぎなかった。
いま手元の記録を見てみると、二人の子供の給食費は合わせて週九ポンド四十五ペンスとある。すなわち、ひとり毎週千円強というところである。
上流階級の子供たちが通う一流のボーディングスクール(寄宿舎学校)ではもちろん食事は全員一様にお仕着せであるらしい(こっちのほうについては、私はよく知らない)。それもごくまずいものを強制的に食べさせるというかたちで、忍耐と質素を旨《むね》とする英国紳士の心意気を養成するのだそうであるが、一般の学校はそんなことはない。
セント・ルークス小学校では、給食には原則として個人の自由が認められていた。
すなわち、入学すると、まず「給食をどうするか」について選択することが出来る。選択|肢《し》は三つある。
第一は、給食を食べる。
第二は、パックランチすなわちお弁当を持っていく。
第三は、自宅へ帰って食べる。
宗教的な、あるいは経済的な、もしくは健康上の、または信念上のさまざまな理由で、給食はだめだという人もいるに違いない。そういう人々に対して、イギリスの体制は極めて寛容で、基本的に「個人の自由」を認めているのである。
こう書くと、日本だってそれは認められている、という反論が聞こえて来そうである。しかし、私はそうは思わない。入学に際してまずどれにしますか、と尋ねることを原則と心得る(すなわち、どれを選ぶかは全く個人の自由で、その選択に関しては何等の理由を必要としない)社会と、特に何等かの理由を申し立てて給食を拒否するのでないかぎり問答無用で給食にさせる、という社会とは、その一番根本のところで大きな違いがある、と私は考える。
では、私たちはこのイギリスの学校でどうしたか。
美味しいものもまずいものも含めて、その国の食べ物をよく食べ、よく味わうことは、すなわちその国の文化と人間をよく知ることの第一歩である。てんぷらは食べるけれど、刺身や寿司《すし》は食べない、という外国人がいたら、その人は日本の文化に対して受容的でないと見てよい。文化を日常の一番根底のところで受容できないならば、その上部構造の理解はとうてい覚束《おぼつか》ない、というのが私の信念である。
しかし、そうはいっても味覚というものは、本質的に慣れ(特に幼少時の「刷り込み」)が左右するので、大人になってからイギリスの料理に慣れようとするのは、かなり無理がある。
従って、もし自分の子供を将来イギリスでも不自由なく暮らせるようにしたいと思うならば、子供の時にある程度強制的にしかも長期間「慣れさせる」ことが必要だし、それが、こういう外国の学校に入った場合に現地の子供たちと良い人間関係を作り上げるためのもっとも良い近道だと思うのだ。
私たちは、だから、迷わず給食を選択することにした。
ところが、イギリスの小学校の給食は、日本と違って、うんざりするように単調な献立が続くのだった。
例えば、ソーセージとベイクドビーンズ、マッシュポテト、グリーンピースの茹《ゆ》でたの、チップス(=フライドポテト)、ミートパイ、スコッチエッグというような、これはもうどこにでもあるような、単純にして平板な味わいのイギリス料理が、ごく狭い範囲で繰り返されるのである。そして、パンとか御飯とかいうような形のいわゆる「主食」は全然出ない(いや、正確に言えば、このマッシュポテトやチップスが主食に該当するのだが……)。
そのソーセージやスコッチエッグなどが、我々のふつうの感覚からするといかにまずいものであるか、ということは拙著『イギリスはおいしい』に縷々《るる》述べておいたので、ここでは再説しない。
ともあれ、すでに四年生になっていた息子は、もともと我慢強い性格であったせいもあって、別に文句も言わずにこの単調な給食を食べ続けた。
しかし、娘のほうはまだ幼かったし割合食べ物に神経質だったので、どうしてもこの給食を食べたがらないのだった。学校に行き始めて二日間、彼女はひたすら泣き続けて給食を食べようとしなかった。これには先生たちもよほど困却したとみえて、三日目にはとうとう、学校から「パックランチにしたほうが良いと思います」という手紙が届いた。
性急に無理をして学校生活全体をスポイルするよりは、各人の適応の仕方に従って、無理なく馴染《なじ》んで行くべきだというのが、イギリス的な考え方だったのであろうと思われる。
しかたがない。私たちは娘については無理をしないでパックランチを持たせることにした。すると、彼女はどうしたわけか「ジャムサンドだけがいいの」と主張して、毎日毎日飽きもせずジャムサンドだけのお弁当を持っていった。もっとも、私たち日本人は夕食にいちばん重い食事をとるので、昼食はジャムサンドだけでも、まあ大過無かったのである。
そのころ、娘のクラスにはもう一人だけ日本人がいた。だから、(当然といえば当然だけれど)彼女はもっぱらこの日本人の少女とくっついていて、なかなかイギリス人やそのほかの子供たちと馴染もうとしなかった。また多少はイジメのようなこともあって、彼女のイギリス生活は、必ずしも愉快な出発ではなかったのである。
やがて、夏休みになった。夏休みの長さは、日本もイギリスも別にかわりはない。
九月になると、学年が改まって、担任の先生も変った。
そうして、給食のやりかたにも、少しばかりの改良が加えられた。学校から麗々しく刷り物が配られてきて、それには「本校では、生徒の自主的選択を重んじ、給食をより楽しく充実したものとするべく、新学期からカフェテリア方式を採用することに致しました」とあった。
娘のクラスの日本人クラスメイトは夏休みのうちに帰国してしまって、秋の新学期からは、彼女はクラスで只《ただ》一人の日本人となった。私たちは、きっとそれは彼女にとって良いことに違いないと思った。
私たちは、いつになったら娘が「ジャムサンド」に飽きて給食を食べたいと言い出すかと楽しみにしていたが、果たせるかな、とうとうその時がやってきた。
「もうジャムサンドは飽きたから、わたしも給食でいい」と娘が言うので、これ幸いと新学期からは、そのようにしてもらうことになった。
新学期になって暫《しばら》くしたころ、「このカフェテリアというのはどんなんだい?」と息子に聞いてみると、彼はあっけらかんとした口調で答えた。
「いやぁ、別に出るものは今までと変りないんだよ。だけどね、今まではね、今日はミートパイとグリーンピースと決まってたら、クラス中みんな揃《そろ》って同じものだったのがね、今度は長いテーブルに三種類くらいの物が並んでてね、コレって言うと、オバさんがそれを皿にドカッとのっけてくれる。ただそれだけのことだよ。どっちにしてもあんまり美味しくはないけどね」
結局、献立が単調なことは一向に変りないのである。
こうして、閉口しながらも子供たちはだんだんイギリス流の給食生活に馴染んでいった。
やがて、秋も深まったころ、私は何気なく「今日の給食に何食べた?」と聞いてみた。すると、また息子が飄々《ひようひよう》とした風情《ふぜい》で答えた。
「ンーと、ソーセージとマッシュポテト」
「他にどんなものがあったの?」
「グリーンピースとかベイクドビーンズ、それから、生のニンジンとかぁ、なんだかグチャグチャしたパイみたいの……」
「へー、旨《うま》そうじゃない」
「いや、ちっとも美味しくないよ、特にベイクドビーンズはヤッキー!」
すると娘が脇《わき》から助太刀をして言った。
「そう、あれはベー、超ヤックなの、ネッ、お兄ちゃん!」
ヤックとかヤッキーとかいうのは、イギリスの子供言葉で「まずい」という意味である。しかし、イギリスのソーセージが、「超まずい(子供風に略せばチョマズ)」ことは私自身つとに閉口頓首しているところだったので、私はさらに言葉を継いで、息子に尋ねた。
「でもさぁ、ソーセージなんか、まずいじゃない。どうして他のものにしなかったの?」
すると、息子が不本意らしい表情で答えた。
「ソーセージは美味しいよ」
いや、イギリスの小学校の給食で、少なくとも我々のセンスからすれば、美味しいソーセージが出るはずはないのだ(イギリスのパン粉だらけのソーセージに関しても『イギリスはおいしい』に委曲を尽くして述べてあるゆえ、是非参照されたい)。
しかし、これを食べ続けることおよそ半年にして、彼の味覚にはこの貧しい味のソーセージ(イギリスの子供言葉ではバンガース bangers という)が「美味しい」というコードと結びついて刷り込まれたのである。
しめた、これでもう心配ない、と私は思った。
息子がソーセージを美味しいと感じ始めたこと、娘がジャムサンドに飽きて給食のほうが美味しそうだと思い始めたこと、子供たちが日本人とじゃなくてイギリス人や韓国人や中国人やの様々な子供たちと一生懸命意思の疎通を図り、お互いの家を訪問しあったりして遊び始めたこと、英語が格段に解り始めたこと、それらのことはみな同じ根に萌《も》えいでた枝や葉に外ならないのであろうと思惟《しゆい》された。
そこで私は考える。豊かな私どもの国の給食が、かくのごときイギリスの貧しい給食に学ぶことがありはせぬか、と。
それは、すべての子供たちが、基本的に給食について「選択の自由」を与えられている上に、さらに一段と徹底してカフェテリア方式の選択制を採用する(その実際の食物の旨いまずいやバラエティはひとまず置くとして)、こういう方向の「進歩」について日本の給食ももう少し考える余地はないだろうか、ということである。
じじつ、娘の場合、こうして無理な給食の強制をせずにジャムサンドばかりのお弁当を根気よく続けた結果が、逆に自発的な給食への参加という形に結実していったのだ。
この寛容な個人主義的方法を、給食の「もう一つの進歩」として考えていくことが必要ではあるまいかと思うのだ。それは決して贅沢でもわがままでもなく、国際化時代の教育のあるべき姿だと私は信ずる。
昔に比べると、現代の学校給食は、さまざまな問題を内包しながらも、格段と豊かに、ヴァラエティに富んだ姿へと変貌《へんぼう》を遂げてきた。それを羨ましく思うのは、最初に書いたとおりである。けれども、ごく一部の実験的な学校を除いて、日本では生徒一人一人の自由意志を尊重するというベクトルでの改革はあまり顧みられることはなかったのではあるまいか。
給食の時間に家へ帰ってしまう子供がいたっていいじゃないか。ジャムサンドばっかりお弁当に持ってくる子供がいたっていいじゃないか。
いろいろ難しいことがあるだろうということぐらい分っている。けれども、イギリスの小学校で出来ることが、どうして日本の学校ではあまり考慮されずにきたのだろう。不思議といえば不思議なことである。
ことは給食だけに限らない。どうだろう、日本の学校は、全員揃って「団体生活になじませる」ことばかりを金科玉条としすぎてはいないか、私自身はいつもそのことが気になって仕方がないのである。
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不可思議なる職業
あるパーティに招かれた。
じつにくだらないパーティで、正直言って時間の無駄《むだ》だったと、不愉快になった。
そもそも、そのパーティというのは、ある奨学財団が催したもので、その財団が助成した留学生たちの、まぁ言ってみれば「同窓会」とでもいうようなものだった。ナンノナニガシというような代議士だとか、文部省のおエラがただとか、そういう|リッパな《ヽヽヽヽ》方々がわざわざ御臨席になったところをみると、それなりに意義深い催しであるらしかった。しかし……。
どういう素性の人たちであるか、それは私の知るところではない。ともかくなんだか知らないけれど、妙に派手な着物をきて、途方もなく厚化粧をほどこした女たちがずらりと並んで客を出迎えたのに、私はまずもって驚いた。驚いたばかりでなく、はなはだ呆《あき》れ果てた。
これがコンパニオン嬢というものだということは、いかに世間知らずの私とて知らぬわけではない。それが日本という世界の田舎国の、|うるわしい《ヽヽヽヽヽ》伝統であることも承知している。いわゆるゲイシャフジヤマ的伝統である。
パーティが始まった。壇上では、歴々たる貴顕紳士がたの、厳粛にして退屈きわまるアイサツが蜒々《えんえん》と続いている。私は、自分の表情が段々「憮然《ぶぜん》」となっていくのが分った。ミナサマガタノゴケンショウト、ザイダンノマスマスノゴハッテンヲ祝しての乾杯が終ると、ようやくパーティ本番になった。やれやれ。
しかしそれにしても、四方オジサンだらけである。それも、知らない人ばかりである。料理は、例によって例のごとく、中央の大テーブルにローストビーフのごときもの、スモークトサーモンや寿司のごときもの、と盛りだくさんに並べてある。いわゆるビュフェ式である。どれも、別段にうまそうではない。ファーア、と私は大《おお》欠伸《あくび》をしながら、遠いイギリスのことを思い出した。
……イギリスでは、おしなべてパーティというものは、男女の数に著しい不均衡を生じないように、あらかじめよく計算して客を選定し招待する。そうして、たとえば結婚式のレセプションというような場合でさえ、普通ビュフェ式に料理を供するのである。大きなテーブルに沢山の料理が並べられる、とそこまでは日本と変りはない。しかし、イギリスの人々は、そのテーブルの前に行儀良く並んで(日本のように我勝ちに群がるのではない)、なごやかに会話しながら、順序良く、自分の好きなように、皿を料理で満たしていくのである。それから、立食式に立って食べることもあり、各自テーブルについて座って食べることもあるけれど、いずれにしても、必ず男と女がほど良く混じり合って、愉快に会話して時が過ぎる。ビュフェ式でなく正餐《せいさん》式の場合は、もっとはっきりと男女同数に招き、ホスト(主催者側の主人)がここは誰、そちらに貴女《あなた》、と男女が交互に座るよう差配する。すると常に男女とも「両手に花」の状態で食卓につくわけである。嗚呼《ああ》、楽しかったナァ……。
「どうぞ!」と鼻先に皿をつきつけるやつがいる。イギリスの思い出にふけっていた私は、はっとしていやおうなく現実に引き戻された。つるりとした顔つきの、ばかに痩《や》せた女である。そのコンパニオン嬢が、勝手に皿になにがしの料理をとって、私に「喰え」と言ってつきつけているのである。あまつさえ、そのうちの姉さん株らしい小ざかしい顔つきの女が、配下の年若い女に「お料理をお取りして……水割りをお作りして」などと盛んに差配している。
これを世の中ではサービスというのかもしれない。
くだらぬサービスである。まったく無用の差し出た振舞いである。ビュフェというものは、各自がそれぞれの腹の具合と、舌の好尚《こうしよう》に従って、自由に自主的に食事を楽しむための方便にほかならぬ。それを、こうしてどこの馬の骨とも知れぬアカの他人に、かってに決められてなるものか。それではビュフェにする意味は皆無である。
およそ、このパーティに限らず、日本ではビュフェ式のパーティにおいて、妙な風習が罷《まか》り通っている。たとえば、男は男どうし、女は女どうしで固まって座る、というつまらぬ習わし。それから、男たちは座ったまま酒なんか飲んでいる、そこへ、女の子たちが中央テーブルから料理をまとめて取って(四人分も五人分も取ってくる)運んでくる、というサービスをする風習。もし、自分の分だけとって、一人で食べている女の子がいたりすると、きっと「あの子は気が利《き》かない」とかなんとかいって、非難されることだろう。女の子ばかりでない、私などは、そういう場合、ほかの人が何を食べたいかなど一向に興味がない。それゆえ、自分の食べたいものを自分の分だけ皿にとって、さっさと食べる。そうすると、なんだか自分が妙に利己主義であるように見えてきて、どうも愉快でない。まして、女の子の場合など、察するに余りあるというものである。嘆かわしい限りである。
かくのごとき悪習と、男ばかりのパーティにコンパニオン嬢を呼んで鼻の下を伸ばしている弊風《へいふう》との間には共通の根っこが存在する。それは、料亭というような場所に、男ばかり集まって、酒を飲みながら密談し、芸者などがその男どもに酌《しやく》をするためにはべる、という構造である。さすがに料亭だの芸者だのというものは昔ほどには行われなくなった。しかし、それはじつのところコンパニオン付きパーティという形に姿を変じて、前よりもっと盛んになっているらしい。それになぞらえて、普通の会社のパーティなどでも、女の子たちはそういうサービスをするのが当然のつとめだと、馬鹿《ばか》な男どもが(時には女たち自身も)心得違いをしているのである。
女たちよ、怒れ!
私は、ほんとうに情けなく思うのだ。これが日本の現実かと思うと、トホホと涙が出てくる。初めに述べた某財団の場合など、その最悪の例である。いやしくも学術的助成、それも海外の留学生に助成をするアカデミックな筈《はず》の団体が、かくのごとき田舎紳士的会合をもうけてテンとして恥じない。そのときたくさん参加していた外国人たちはどう思ったであろう。いや、外国人がどう思うかではない。一個独立の人間として、私はこの日本的悪習慣を是としないのである。
こんな愚劣なことはもうやめようじゃないか。
パーティには男女同数を呼ぶようにしようじゃないか。
コンパニオン嬢なんていう不可思議な職業は廃止しようじゃないか。
自分のものは自分でとって食べようじゃないか。
自分の飲物は自分で差配しようじゃないか。
当り前の事を当り前にやろう、ただそれだけのことである。
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母国語の問題
大学時代、もう二十年以上も昔のことになるけれど、同じクラスにAさんという女子学生がいた。色が白くてグラマーな、ちょっと魅力的な大人っぽい女の子だった。
けれども、正直言って、私はこの人がちょっと苦手だった。なんというのか、態度がふてぶてしくて、あからさまにいうと人を馬鹿にしているとしか思えないふしがあったからである。
いま冷静に考えてみると、たぶんそれは私の思い過ごしで(私は恥ずかしいことによくそういう勘違いをする)、彼女の方ではべつにそんなつもりはなかったのだろうと思うのだが、そのときはそうは思えなかった。
ともあれ、彼女は、たとえばいつもカーディガンの袖《そで》を通さずにルーズに肩にはおったりして、ちょっとだらしないモンローウォーク風の歩き方をし、教科書類はベルトで束ねて胸の前に抱えていることが多かった。まぶたにはかなり濃いアイシャドウを施し、たいていクチャクチャとガムを噛《か》んでいたし、あまつさえ、ジェーン・マンスフィールドのように逆毛立てたアメリカ人みたいな髪型をしていた。垢抜《あかぬ》けない都立の受験校から来た純情な少年だった私が、こういう女子学生になんだかついていけない気がしたのは、けだし当然かもしれぬ。
しかし、私が彼女にもっとも不愉快なものを感じたのは、そういう外見上のことについてではない。外見だけのことなら、もっと派手な女学生だっていくらもいたのである。では、なにが私に拒否反応を起こさせたか。
それは「言葉」である。たとえば返事のしかた。
ふつうわれわれは、相手の話を聞きながら、もしそれが同じ年の人間どうしならば「ええ」とか「うん」とか言って相槌《あいづち》をうつだろう。もしそれが目上の人だったら「はい」とか「はあ」とか言うだろう。ところが、彼女は相手が同輩だろうと目上だろうとお構いなく、はすっぱに鼻へ息を抜きながら「ハハン」というか「ンフン」というか、ともかくそういうふうな返事をするのだった。
彼女は、いわゆる帰国子女だった。高校時代アメリカにいたというのだが、この鼻持ちならない返事の態度はたしかにアメリカ生活の後遺症だったに違いない。いま、イギリスで長く暮らして、イギリス人とつきあうようになってみると、相手の言うことをたしかに自分として肯定しながら「分かりました賛成です、それで?」という含意の場合は「Yes」とか「Ya」というふうに相槌を打つけれど、意見として中立もしくは未定の場合はこの「ハハン」という返事になるのである。
しかし、日本ではそういう受け答えのしかたは著しく礼を失した感じになるのであって、この点でAさんにはその気はなくても、結果として相手を馬鹿にしたように聞こえたわけである。これは大きな問題である。
またここに別の帰国子女、H君という男の子の例がある。彼はお父さんの仕事の関係で長いことイギリスに育ち、高校生の時に日本に帰った。それで、ある名門都立高校に入ったのだが、そこではなかなかうまく適応できなかった。先生とうまく行かないのだという。
私が彼に初めて会ったとき、正直な第一印象は「えらくナマイキな少年だなぁ」という感じだった。とにかく彼はまったく敬語を使わないのである。ご両親とも腰の低い立派な人格の方なので、その息子さんのふてくされたような、人を人とも思わないような態度には少なからず驚かされたものだった。しかしその後、少しずつ親しくなっていくに従って、このふてぶてしい態度が、必ずしも彼の人格を表現しているのでないことが分ってきた。打ち解けて話をしているときの彼は、けっこうはにかみやで、居丈高な感じはちっともしないのだったが、それでもやはり言葉遣いだけはついに直らなかった。これでは、普通の高校生を相手にしている高校の先生からは「鼻持ちならぬやつ」と受けとられてもしかたがないな、と思われた。しかもイギリス育ちで英語は自家|薬籠中《やくろうちゆう》のものである。高校の英語の授業などさぞまだるっこしいことだったろう。それゆえ先生の方から見れば「こいつ、ちょっとくらい英語が出来るからって教師を馬鹿にしやがって」と思えたかもしれない。
こういう相互の誤解がだんだん増幅して、彼の場合不適応となって表れたものと推量された。
いまここに二つの例を上げたのは、母国語の社会性ということについて述べようとするためである。言語には「意味を伝える」という機能と、もう一つ「心を表現する」とでも言ったら良かろうか、意味を越えた社会的コミュニケイションの機能がある。日本語の場合、特に敬語というすぐれて社会的な「言語の制度」が存在するので、ことはますます面倒である。|母国語として《ヽヽヽヽヽヽ》日本語を話すものは、常に自分と相手との年齢、地位、親疎《しんそ》、性別、好悪《こうお》など、関係性のファクターを勘案しつつ、適切な言葉を選択して使わなければならない(だから日本人は常に相手の年齢や地位が気になるのである)。これは英語国民には分らない日本人特有の問題に違いない。
ところで、ではわれわれはどのようにして、その社会的言語システムを身につけるのだろうか。
敬語は大人になってから俄《にわ》かに身に付けようとしても、たいていうまくは行かない。敢《あ》えて言えば言葉遣いは「育ち」で決まるのである。これは階級的な問題ではない。要は親がちゃんと社会の一員として定まる位置を持ち、それによってたとえば親類のオバサンと、またたとえば上司の人と、もしくは友人どうし、そのそれぞれの場合にどういう風に言葉を使うか、そのお手本をきちんと子供に示せるか否《いな》か、ということで全《すべ》ては決まってしまうということである。それは子供が「子供社会」の暢気《のんき》な言語環境から大人社会の複雑なそれへと成長していく段階で、自然と親を見習うことによって初めて身に付くのである。つまり日本人どうしの複雑な社会関係の存在が言語修得の前提として必要だということである。
もし彼がその段階で外国にあって、特に外国の学校に通って育つ場合、日本語は「家庭の中」にしか存在しないということになる。家庭の中の言語は根本的にそういう複雑な社会性が欠如しているのであるから、彼はそれを見習うことができないまま、大人になってしまうであろう。考えてみていただきたい。親子は敬語を使っては話さないのが当り前である。また仮に親子で敬語を使って話すとしても、上下関係のある第三者が介在しないと敬語は本質的に意味を持たない。
漢字や文学や、いわゆるブッキッシュな知識としての日本語は努力次第で身に付けられる。それは水村美苗《みずむらみなえ》さんの『續《ぞく》明暗』などが充分に証明している。しかし、いま言った意味での相対的社会的機能は、帰国子女の場合にもっとも身に付けにくいものに違いない。Aさんの「ハハン」もH君の不適応もじつはそういう深い根に生えた枝葉だったのである。
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パソコンの時代と読み書き
いっぱしのパソコン使いのような顔をして、パソコン雑誌に出たりしているけれど、正直に言えば、私はいわゆるヘビーユーザーというようなものでは決してない。思えば、このコンピュータという道具とつきあい始めたのは、もう十一年ほど以前にもなろうか。最初にとりついたのは、NECのPC6001というおもちゃのようなコンピュータだった。以来|幾星霜《いくせいそう》、文豪V50、書院シリーズ三種、PC8801、9801、PC286V、マッキントッシュSE30、マックUFX、パワーブック170、マック・クアドラ800、パワーブック190と使って現在に至っている。
この間、ごく初期に僅《わず》かばかりBASICで原始的プログラムをものしたほかは、その種のことにはいっこうに手を染めずにきた。要するに、コンピュータという暗箱のなかがどうなっていようと、それは私のあずかり知らぬこと、私の興味は、もっぱらキーボードからこちら側だけにある。それも、私の仕事というのが、そもそも国文学者と作家ということだから、そのいずれにしても表計算ソフトなどには用がない。データベースも住所録管理に使う程度で、いわゆる学問的なデータの蓄積や検索には現状では使いにくい。容量も不十分、またデータの保存性もいまだ不安定だからである。コンピュータ通信も私の興味の埒外《らちがい》にある。一時は、通信ネットワークに入っていたこともあるのだが、その実体はほとんどが無用の「おしゃべり」に過ぎなかったので、時間と金の無駄だと悟ってすべての通信から手を引いた。こんごとも、まずモデムを買い直してもういちど通信を始めようとは思わない。
しかしながら、パソコンユーザーとしては、きわめて精力的な使い手であるとは言えるだろう。なにしろ、一日の大半はディスプレイを睨《にら》み、キーボードを打っているわけだから。
その用途は、まずほとんどはワードプロセッシングである。それから、試験問題を作ったり、または論文のオフセット版下を作ったりするための「ページメーカー」、年賀状や献呈本のリスト作成のための住所録管理はデータベースで行う。そのほかは、たまにペイントソフトを用いて絵を描く程度で、ゲームなどはつまらないから一切やらない。
この十年あまり、コンピュータやワープロとつきあうようになって、いちばん変わったことは、とにかく文章を書くのが速くなったことである。現在|厖大《ぼうだい》な量の文章をこなせるのは、ひとえにコンピュータのアシストあってのことである。いや、文章を考えるのが速くなったわけではない。それは以前と変わりがないのだが、ただ手書きではその考える速度に手が追いつかなかったのに、キーボードからのローマ字入力をするようになってから、手が発想速度に追いつくようになったということである。やり始めの頃は、なにかこの「変換」というプロセスに違和感があったものだったが、一月もするうちには慣れて何も感じなくなった。それで、今ではまず何を書こうかと思いながら、コンピュータの前に座る、そうするとだんだん考えが浮かんでくるというのが習いとなった。なにぶんコンピュータは推敲《すいこう》自由なので、思うままに一次草稿を書き、それから、注文に合わせて適宜寸法を詰めたり伸ばしたりする、そうしてピタリと注文のサイズにあわせることが容易になった。もうこの利便性を知った身は、二度とあの手書き文化のなかには戻ることができない。しかし、その半面、コンピュータがないと何も書くことが出来なくなってしまったのは、一種のデメリットに違いない。
コンピュータはあまりにも日進月歩する。二年も使うとはや時代遅れになり、つぎつぎと機種を更新していかなくてはならない。これもちょっとしたデメリットだ。それで、数多いコンピュータ雑誌(これという愛読誌はない)に目を曝《さら》すときも、もっとも熱心に見るのは広告ページと新機種の紹介記事である。いわゆるプログラミングに属する記事や、ゲーム関係記事など、まず読まない。いっそ極めて詳細な充実した紹介・広告だけの雑誌があってくれたらいいのに、と思うことすらある。
いままで九八・マック両方を使ってきて、現在はすっかりマックだけで仕事をしている。しかし、ウィンドウズ95なども発売され、ハードウェアも驚くほど安くなったことだから、もういちどウィンドウズマシンを試みようかと思わぬでもない。マックは、印刷が遅いのと、その際にとかくトラブルが多く、この点はウィンドウズに一日《いちじつ》の長《ちよう》がありそうに思われるからである。いずれにしろ、ビジネスの土俵でがっぷりにくめる競争相手(選択|肢《し》)があるのは、我々にとって望ましいことである。
つまるところ、戦後五十年、コンピュータが市民権を得てから、ほぼ十年という現代は、あたかも維新後三十年ころに活版ジャーナリズムが世の中を制覇《せいは》した時代にも似て、確実に「読む・書く」という営為に大きな変化が起こりつつある過渡期であるということである。
おもうに、このコンピュータ時代には、小学校で徹底的にキーボード操作を教えるべきである。
また、振り仮名付きの本をどんどん読ませることと、最初からコンピュータによるワードプロセッシングを教えること、それが新時代の読み書き教育のあるべき姿で、漢字の書き取りなどは、かならずしも必要のないことかもしれぬとさえ思うのだ。手書き入力だの音声入力などは、速やかに文章を書くという本質からするとナンセンスであって、しょせんキーボードを素早く操作して入力するのにかなうはずがない。日本語のような複雑な文字体系を持つ言語においては、手書きの書体や音声を認識して文字に変換するのには、キーボードからの単純な変換よりも、理論的に、はるかに複雑な解析プログラムを必要とするからである。そして、コンピュータで書くと文章が間延びするなどという根拠のない迷信がすっかり払拭《ふつしよく》されたときに、ほんとうの意味でのコンピュータ時代が到来するのである。それはもうすぐそこまで来ている。
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買える図書館
書誌学者という仕事の性格上、世界各地の図書館で過ごす時間が長い。
にもかかわらず、じつを言うと私は図書館が好きではない。こういうことを言うと不見識なようで気がさすのだが、こと「読書」というタームズにおいて言うならば、私はほとんど図書館を利用しない人間である。人から借りた本、というのは、読んでも身に付かないというか、なにかこう心の重要な部分に記銘されないというか、読んだことが|生きた知識《ヽヽヽヽヽ》として蓄積していかないのだ。「読む本」はすべからく買って読むべし、というのが私のかねてからの持論である。そして、買ってひとたび書庫に入った本は、決して売ったり捨てたりしない。それも私の信念である。その本がいつも座右にある、ということ、それが読書の記憶をいつも反芻《はんすう》させ、印象を心底に固着せしめるのだ、と私は考える。
高校時代、私は早稲田に住んでいたので、学校の帰り道や散歩のついでに、いつも古書店を冷やかして歩いた。それは私の読書を著しく進展させたけれど、学校の図書室というところには一向に行かなかった。大学生になっても、私は読書の目的で図書館を利用した覚えが殆《ほとん》どない。そのかわり、年じゅう本屋にばかり行っていた。けれども書店は、図書館と違って蔵書目録なんかないので、目的の本を捜すというのには甚《はなは》だ不便だった。捜しあぐねて店の主人に聞くと「さぁて、どうでしたかねぇ……」などといかにも頼りないことが多かった。
それから、長じてイギリスのケンブリッジに行き、そこでもやっぱり図書館で仕事をしながら、図書館の本は殆ど読まないで、しばしば「ヘファーズ」という本屋に出かけた。この書店は、ジャンル別に整然と分類して棚《たな》に収めてあり、そのセクションごとに当該の分野のスペシャリストがデスクを構えて控えていた。それゆえ、捜している本について彼らに尋ねると、たちどころに適切な返答が返ってきた。これはまるで図書館のようだ、と私は甚だ感心した。ただ、違う点は、そこに所蔵されている書物は、欲しければすぐその場で買うことが出来るということである。言わば「買える図書館」なのだ。
ひるがえって、ヘファーズのような書店は、わが国にはほとんどない。しかし、学問というものの発達のためには、そういう書店こそ、じつは是非必要だと思うのである。
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何が読みたいか?
本質的に私は読書家ではないので、定まった読書の方法など私の生活のどこを見回してもありはしない。しかし、それでも、ちっとも困らない。
世の中に横行している、「〇〇文庫百冊の本」とか、「青春時代に読んでおくべき名著百冊」とか、そういう決め付け方を私は好まない。それは傲慢《ごうまん》な態度というものである。百人には百色の顔があるように、人の心も、育ち方も、興味も経験もみな違う。だから、それぞれの心のなかの問題意識だって、一人として同じ人はない道理である。いやしくも問題意識が違う以上、「読むべき本」などと押し付けることが正しい態度とはとうてい思えない。「この本は面白いですよ」と勧めることは出来ぬでもないが、それとて、自分には面白くても他人にはどうだか、全然分からない。そんなことは、つまり大きなお世話なのだ。
それゆえ、学校で夏休みの読書課題なんてのを出して、無理やりに、言うところの「名著」を読ませるなぞ、じつのところ感心したことではない、と私は思う。
戦前、旧制高校の時代にはデカルト・カント・ショーペンハウエルなんてのが「必読書」だった。今日哲学科の学生か、よほど哲学好きの人でもなければ、そんな本を読みはしない。一昔前にはサルトルなんぞの実存主義あたりが一世を風靡《ふうび》していたが、現代の学生にそんな読書を求めても無駄である。つまり、「名著」と言い、「必須《ひつす》の教養」なんて言ったところで、せんずるところ「流行」に過ぎないのである。
問題は、「今自分は何が読みたいか」である。青年時代の私にとっては、寺山修司や萩原朔太郎が大きな慰安だった。それは閉塞《へいそく》的な状況に対する、|幻想の抜穴《ヽヽヽヽヽ》だったからである。ともかく、今の自分にとって、一番興味が持てるような本を、|気楽に寝ころがって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》読む。嫌《いや》になったらやめてよい。いずれ、本当に読むべき時がきたら、嫌でもまた読むだろうから。もしそういう時が来なかったら、それは結局自分には|縁無き書物《ヽヽヽヽヽ》なのである。
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マスク
冬になると、とかく風邪が流行《はや》るゆえ、町を歩くのはなかなかに剣呑《けんのん》である。そもそも、私は常日頃《つねひごろ》どこへでも自動車を運転して行くので、電車というものには一年に数回程度しか乗らない。酒を飲まないから所謂紅灯《いわゆるこうとう》の巷《ちまた》にも出入《しゆつにゆう》せず、デパートや劇場といった人混《ひとごみ》みにも極力出ないことにしている。また煙草《たばこ》を自ら吸わないのはもちろんのこと、煙草を吸う人と同席するのも嫌である。私の車の中も執務室のなかも、いっさい厳重に禁煙としてある。そこで、おのずから喉《のど》や鼻の粘膜に抵抗力がなく、たまに電車に乗ったりすると、たちどころに喉が痛くなるのである。
これを防ぐのに、私として二つの方法がある。
一つは、外出したら、直ちに鼻から塩湯をグングンと吸い込んで鼻と喉の粘膜を洗滌《せんじよう》することである。この「鼻洗滌」を一日に少なくとも朝昼晩と三回、執《と》り行う。おおかたの風邪はこれで防げる(これは慣れると実に気持ちの良いもので、一日でもせずにはいられない。しかし、うまくやるにはちょっとした練習が必要で、いやナニすぐマスターできますが……)。
もう一つは、マスクを掛けることである。
それも、単なるガーゼのマスクじゃなくて、いろいろと空気を濾過《ろか》するしかけのついたハイテク式のやつが望ましい。近頃ではまた、風邪のウイルスを九十九パーセント食い止めるという画期的マスクが発明されたので、これは私などには大福音である。実際使ってみると何かとても良い感じがする。
そもそも、私は鼻のアレルギーがあって、特にダニやハウスダストに強い反応が起きる。ところが困ったことに私は書誌学者ゆえ、ホコリだらけの書庫に出入りして、ダニのたかった古い本なんかを扱わなくてはならない。すると、クシャミが連続して、涙は絶えず下《くだ》り、その症状はひどい花粉症と選ぶところがない。これに対しての唯一《ゆいいつ》の防止法はやっぱりマスクである。
というような次第で、私は書誌学の仕事をするときは、かならずマスクを持参して、それでものものしく鼻と口を覆《おお》い、辛うじて調査に励むというわけである。
で、こんなものはマスクと外来語で呼ぶくらいだから、当然、世界各国にひろく使われているに違いないと、信じ込んでいた。ところが……。
大英図書館で文献調査に精出していたときのことである。私は例によって何の疑いも感じず、白い大きなマスクを掛けて、江戸時代の古書に向かって仕事をしていた。
すると、どうも私のそばを通る人が、みなジロジロと見て通る。中には「ハッ」としたように視線をそらす人もいる。それがどうしてだか、私には分らなかった。
やがて、閲覧室の奥の事務所から、閲覧室長の中年婦人が出てきて、私の席に歩み寄り、いかにも不審に堪えないという表情で話しかけた。
「その顔に掛けているものは何ですか?」
「はぁ、これは、マスクというものですが……」
「いやまことに風変りなもので、初めて見ましたが」
「日本では珍しくも何ともないんだけれどなぁ」
「で、それは何のためにしてるんです?」
「本のホコリと乾燥した空気から鼻や喉の粘膜を守るためですが……」
そこまで説明すると、彼女はいかにも感心した風情《ふぜい》で大きくうなずき、
「まぁ、なんという素晴らしいアイディアでしょう」
と褒《ほ》めつつ、マスクの構造をよく観察して去った。
そう言われてみると、たしかにイギリスではまったくこのガーゼマスクというものを見かけない。見かけないばかりか売ってもいない。思うに、このマスクというものも、本来はヨーロッパから伝来したものだろうけれど、肺病の予防とかそんな風の意味付けを経て、日本で独自にここまで発達したものと見える。ではイギリスにはマスクというものが全く無いのかといえば、それはそうでもない。ただし、それは、町なかを自転車とかオートバイで走る人々が、ボロ車から排出される夥《おびただ》しい煤煙《ばいえん》や、風に舞うホコリから喉鼻を守るためにものものしく掛けている黒い皮製のあるいは合成樹脂製のガスマスクみたいなやつに限られる。そういうマスクをしている人は、従ってちょっと覆面でもしているように見え、そのままの姿ではけっして室内には入ってこない。入ってきたらそれは覆面強盗かなにかそんな異様な感じがするのであるらしい。だから、所もあろうに図書館の閲覧室の中で、本を見るのにマスクを掛けている私の姿は、いかにも不可思議で、怪しい不審者という印象を持たれたに違いない。それでわざわざ閲覧室長が私の真意を質《ただ》しに来たのだ。
われわれが無意識に使っているものが、時にヨーロッパ人には不気味な感じを与えることがある。マスクも実はそういうものの一つにほかならないのである。
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車の窓から見えるもの
どこへ行くにも自分で車を運転して行く。電車には一切乗らない。嫌《きら》いなのだ。
「お迎えのハイヤーを出しますから……」
講演などに行くときには、たいてい主催者からそういう申し出がある。にもかかわらず、私は車の運転席に座って、みずからハンドルを握って出かける。人の運転する車に乗るのも、やっぱり嫌いなのだ。
電車やバスのような公共交通機関に乗ると、見ず知らずの他人と不必要に接近接触しなければならないのが、まずなによりもいやだ。ほかにも理由はいっぱいあるのだが、ともかく、電車に乗ると一日中不愉快でしょうがない。ハイヤーといえども、運転手は赤の他人だ。赤の他人と同じ車に乗っていることは電車のなかにいるのと同じように不愉快だ。それに、私はあの後部座席に乗るのが非常な苦痛である。子供じみたことを言うようだけれど、前席のシートのヘッドレストが邪魔になって前の景色が見えないからである。だから黒塗りの高級車を運転手に操縦させて、自分は後ろの席でふんぞり返って新聞なぞ読んでいるオジサンたちの気が知れない。
ハイヤーやタクシーで行くのが喜ばしくない理由は、じつはもう一つある。自分の思うように止めたり曲がったりできないことである。それはこういうことである。
私は、運転席に座って車を転がしながら、その目はいつも四方八方を観察している。その心にはいつもあれこれの描写や文章が思い浮かんでいる。
「あ、あのビルの形は面白いなぁ」
そう思ったら、すぐにでも車を止めてそのビルを子細に観察し記録したい。「おお、この景色はなんだか懐《なつ》かしいぞ」とそう思ったら、その場に車を止めて、しばし、その懐かしさの因《よ》って来《きた》る所以《ゆえん》を探査したい。
そして、あるいはスケッチを試み、写真を撮影し、メモを取り、暫《しばら》くその風韻を網膜の裡《うち》に味わう。車にノートとボールペン、そしてカメラが常備してあるのはその為《ため》の用意である。
人の運転する車では、こうはいかない。
たとえば、町を走っていて、ふっと横を見ると、なんだか気になる路地がある、とする。早速、私は車頭を巡らしてその路地に入っていくだろう。車の入らないような細い路地だったら、どこか近くに車を停《と》めて、それからテクテク歩いて探訪に出かけるかもしれぬ。
たとえばまた、海岸を走っていて、突如、この崖《がけ》の下には何があるだろうと気になったりもする。その時はまた、近くの安全な所に車を置いて、ただ崖っぷちを覗《のぞ》くためにのみ足を運ぶかも知れない。
そういう時、もし他人が運転している車だったら、いちいち「あ、今のところで停めて」だの、「ここでUターンしてさっきの路地まで戻ってよ」だのとはなかなか言いにくい。いつぞや、地方に出かけたときに、地元の友人が車で迎えに来てくれた。それは有り難《がた》いのだけれど、彼の運転で走っている間に、十カ所くらいの、(私の目から見て)面白い景色に遭遇したのだったが、彼には一向に面白くもない風景だったので、ついに一枚の写真を撮るにも及ばず、あたら通過してしまったのは、まことに心残りだった。あっと思った風景との出逢《であ》いは、世に言う「一期一会《いちごいちえ》」だからである。
私は自動車の窓から、いつも景色を見ている。視線が、いつも風景の隅々《すみずみ》まで探索し続ける。が、その風景はひたすら「私の目」にとっての、「私の心」にとっての「面白味」だから人には分からない。それだけに、どこに何があるか、私にとっては津々《しんしん》たる興味の源泉なのだ。
風景に対して常に自由でありたい。それもまた、私が電車やバスを愛好しない大きな理由である。だって、電車の窓から眺《なが》めて「お!」と思うようなものが見えたとしても、電車やバスは止まってはくれないじゃないか。
だから、取材に行くときも、必ず出先でレンタカーを借りる。それで自分で運転して回る。そういう消息を理解しない、気の利《き》かない編集者などになると、
「では安全の為にハイヤーを雇いましょう」
などというのが困りものだ。
なにが安全なものか。はばかりながら私は、二十歳で免許を取って以来二十七年間、ほとんど無事故無違反に近く、毎日運転し続けて既に六十万キロほどにもなる優良運転手である。見ず知らずの他人におのれの大事な命を預ける気には、それゆえ決してならない。
私は、いわゆる観光名所というようなもの、ご当地一の名店なんてものに一向に興味がない。
興味は、常に「路傍」にある。
無名の、日常の、そこらの生活の風景の中にある。それを拾い集めるのは、ひたすら、自分の目と脳味噌《のうみそ》とである。観光ハイヤーなどに乗せられて、有名観光地を案内なんぞされるのは、おおきに迷惑、時間の無駄《むだ》である。そういうものは絵はがきとガイドブックでも見ておけば事足りる。
電車やバスやハイヤーで行くのは「点と線」である。
けれども、私は自分で運転して行くから、ものを見る範囲が「面」となる。この違いが分からないで、ただ表面に見えるもの、誰もが見るものだけを見て、それでなにかを見た積もりになるのは「愚か者の満足」である。
「そこに|在る《ヽヽ》ものを見よ」
それが私のモットーである。車はその為の足であり、目であり、手であり、そうして脳である。私にとって、車を運転するというのは、そういう営為なのだ。車窓から景色が見えるというのは、そういう事柄《ことがら》なのだ。
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祖母の発明
どう贔屓目《ひいきめ》に見ても、私の父方の祖母はお料理が上手だとは言えなかった。
林の家は、江戸時代には直参の武士だったということであるが、御維新で徳川様に随身して駿河《するが》へ下り、その後明治になって深川のほうで神官になった。これが林の家の本家筋で、私の方はむしろその分家に当るらしい。それで、私の曾祖父《そうそふ》は当時開校したばかりの海軍兵学校に進み、その息子(祖母の兄)も同じく江田島へ行った。ところが不幸なことに、どちらも若くして死んでしまったので、家の名を上げるに至らなかった。そこで、やはり江田島出の祖父は、家運再興を嘱望《しよくぼう》されつつ、林の家つき娘であった祖母の所へ茨城の農家から養子に来たのだが、これはしかし、結局大して出世もせず退役してしまった。
祖母は、夫が軍人で留守勝ちだった家を守り、三人の息子を皆ひとかどの学者に仕立てたばかりか、戦後は、戦争未亡人となった娘の子供たちをも訓育して、並びに学者に育て上げた。気も強かったけれど、ユーモアのセンスに富んだ立派なお祖母《ばあ》さんだった。
そういう育ち方の士族の娘だった祖母は、所謂《いわゆる》御家人言葉で話した。なにか美味《おい》しいものをひとに勧めるときは「なかなか、うもうござんすよ」などと言ったりした。また、もう今では使われない言葉であるが、皿などを隣同士で共用しようというときは「オモヤイにしましょう」と言ったりもした。私たち子供にものを食べさせるときは、決まってそれが何の薬であるかを教えるのだった。いちいちはもはや覚えていないけれど、黒豆なら「これは喉《のど》の薬」、シジミなら「目によござんすから」という調子だった。味付けは江戸風の塩辛い殺風景な味で、冷めたてんぷらなども一向に意に介しなかった。
この林の家に、一つの珍しい正月料理が伝承されている。別に名前はないのだが、私たちは「いも玉」と呼んでいる。じゃがいもを茹《ゆ》でてつぶし、なかにミジン切りにした人参《にんじん》と三つ葉またはパセリなんかを生のまま入れて直径三センチくらいの玉に丸め、粉と卵をまぶして浅い油で転がして揚げる、というもので、特にこれといった味付けはしないことになっている。しかし、濃厚な味のおせちに飽きた口には、これが不思議に優しく美味しい感じがするので、みな大変に愛好しているのである。なんだか和洋折衷で、どういう由来のあるものか分からない。けれどももしかすると、大昔の青山学院に学んだハイカラな祖母の、これは洋風発明料理だったのかもしれない。
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私の御先祖主義
何年か前の一月の半ばのことである。
私たちは一家して墓参りに行った。
私の家のお墓は、父方は青山墓地の乃木《のぎ》将軍のお墓の近くにあり、母方は烏山《からすやま》の寺町にある。それゆえ、この両方を順に平等にまわると、それでまったく一日つぶれてしまうのである。
御彼岸でもないのに、正月早々、なんでまた墓参りなぞに行くのだと、人は怪しむかもしれぬ。物好きといえば物好きだ。しかも、べつにまた命日とかなにか、そういう特にいわれのある日だというのでもない。
じつは、その年の二月に息子が高校入試を受験するについて、その合格をお願いしに御先祖様の墓へ詣《もう》でてきたのである。それから、ついでにこの一年の家中の安全と仕事の成功をも一緒にお願いしてきたのである。
ふつうは、入試の合格祈願とくれば、東京だったら湯島の天神様かなにかそういうところへお詣《まい》りして、絵馬なんぞを奉納したりするものと相場が決まっているのだが、私はそういう風には考えない。
思うに、天神さんは、あれは「他人」だ。いくら菅原道真《すがわらのみちざね》公がエラくても、私たち一家とは何の血縁もない。遺伝子的に全く無関係である以上は、天神さんが特に私たちの願いだけを叶《かな》えてくれるという義理もあるまい。では御賽銭《おさいせん》が多い方の願いから順に叶えるのかというと、まさかそういうわけでもないだろう。それにこの時期、全国の天神様には受験生が津波のように押し寄せる。そうすると、天神さんがいかに全能の神であろうとも、その無数の願いを逐一聞き届けるのは、なかなか難儀なことに違いない。そうなると、やはり全部は聞き届け兼ねるという場合だってなくてはならぬ道理だ。
そこへいくと、青山と烏山の地下に眠っておいでの御先祖たちは、これは正真正銘私たちの血縁者で、他に赤の他人の願いを聞き届けるいわれはまったくない。ただひたすら、直接自分たちの血を引く(すなわち遺伝子を継承している)子孫のためだけを思っていればよろしいわけである。したがって、もちろん私たち子孫以外にその墓に詣でる人などあるはずもなく、雑踏をかき分けて参詣《さんけい》する必要もない。しんしんとした寒気《かんき》と静けさの中を、ただ私たちだけが苔《こけ》を踏んで訪ねて行くばかりだ。
まずはよくよくことわっておかなくてはならないのだが、私は本来的に全く無宗教の人間である。八百《やお》ヨロズの神も極楽浄土の仏も(キリストやアッラーはもちろんのこと)信じちゃいないのだ。坊さんや神主が偉いとも思わぬし、牧師や神父が清廉《せいれん》だとも信じない。みんな同じ人間であって、それ以上でも以下でもない。したがってまた、葬式だの法事だの、あるいは御彼岸だのクリスマスだのというようなことにも、まるで関心がない。そういうのは、単なる社会的約束ごとに過ぎないので、そんなときだけ敬虔《けいけん》そうな顔をして御経を上げてもらったりすることに大した意味があるとは考えない。
したがって、これから私の「御先祖主義」について、すこしく述べてみたいと思うのだが、それは何等の宗教的色彩をもつものではない。あえて言えば日本の民俗的原始的死生観とはなにがしかの縁を有するかとは思うけれど、それは一般的な意味での「宗教」とは違うものであるに違いない。いや、そういうドグマ的倫理的な宗教の体系とは全然無縁なもので、むしろ、家庭とか血縁とか遺伝子とか、そういうレベルでごくごく個人的に漠然《ばくぜん》と夢想している事柄《ことがら》に過ぎないのだということを、ここで特に強調しておくのである。
私たちが現在のように何かというと墓参りに行くようになったのは、決して古くからのことではない。はっきり言ってしまえば、それは自分自身子供を持つようになってからのことである。
私たち夫婦には、どういうわけかなかなか子供が授からなかった。三年近い年月が過ぎて、もしかしたらもうこのまま子供には縁がないかもしれない、と少し諦《あきら》めかけていたころ、ひょっこりと子供が出来た。
そうして男の子が生まれた。
病院へ駆けつけてみると、ひよわそうな赤ん坊がちんまりと寝ていた。痩《や》せていてたいして赤くもなく、しわくちゃの顔は数年前に死んだ私の父方の祖父に似ていた。生まれたばかりの赤ん坊と九十一歳で死んだ祖父が似ているというのも妙な話だったが、口をあけてアクビなんかをすると、たしかにあのなつかしいお祖父《じい》さんの面《おも》だちが、そこはかとなく想起されるのだった。そして、この子は祖父が死んでから、林の家に初めて生まれた男の子だったので、
「この子はきっとお祖父さんの生まれ変りだろう」
と、私たちはみなで言い言いした。
けれども、どこの家でも同じことだが、子供を育てるのは、しょうじき大変な大事業だった。四六時中飲ませたり食べさせたり、オムツをかえたり、おぶって寝かせたりして、特に母親たる妻は寝る暇もなかった。
そういう子育てというものを実際に経験してみると、なるほど子供というものは親の「時間」と「生命力」を問答無用で吸いとって、それで大きくなるのだということが有無を言わせず実感されるのだった。
しかし、それで、私たちがこの子に何かを求めようという気になっただろうか。私たちの生命力や時間と引き替えに、夢中で子供を育てたそのことに対して、私たちは何ものをも求めようとは思わない。いつかこれを「親孝行」みたいな形で返してもらいたいなどという気持ちは、露ほどもありはしない。年取ってから老残の身を養ってもらおうために今から掛けておく一種の保険みたいな心持ちで子供に向い合ったことはただの一度もない。
子供は、無事に大きくなって、立派なひとかどの人間になってくれさえすれば、それで全ての私たちの努力は報われるのである。道を誤って、下らない人間になってしまわれては困る。そうならないためには、私たちは、どんなことでも、できる限りの力を尽くすであろう。
私は「学問のためには命を投げうって」などという気はさらさらない。まして、いま勤めている学校や、あるいはプロジェクトなどのために身命を賭《と》する覚悟なんぞ毛の先ほどもありはしない。それは、単なるビジネスに過ぎない。私たちが自分の命を賭けるのは、自分と自分の子供たちのためだけである。
すなわち、「子育て」という事業が、他のいかなることとも違っている点は、それが全く無償の努力であるというその一点である。そのほかの行いは、たとい一見無償の奉仕のように見えようとも、そこには意識するとしないとに拘《かかわ》らず、きっと何らかの反対給付をもとめるなにものかが介在するであろう。ところが、自分の子供を育てることに限っては決してそういうことがない。
したがって、黙っていても親は子供のために無償の努力を涙ぐましく重ねるであろう。しかし、子供はそれを親に返すには及ばない、と私は考える。自分が親の時間と生命力を吸いとって大きくなったぶん、こんどはそれをさらに彼らの子供たちに注げばそれでよいのである。それで収支決算はちゃんと償われる。無償の愛情は、常に一方通行なのである。
私たちはそれからまた三年|経《た》ってようやく第二子をもうけた。こんどは女の子だった。
こうして、子供を育てながら、私たちが悟ったことは「自分の子供は無条件に可愛《かわい》いが、他人の子は可愛くない」というこのあまりにも当り前なことだった。
こういういかんともしがたい事実から推量して、もし自分の子供が、他人の子供によって危害を加えられるような状況に遭遇したとしたら、私たちは躊躇《ちゆうちよ》なくその他人の子供を排除して自らの子供を保護しようとするに違いない(だから、たとえば『菅原伝授手習鑑《すがわらでんじゆてならいかがみ》』みたいに、忠義のために自分の可愛い子供を殺すなんてことには、なんのリアリティも同情も覚えない。そんな芝居は人情の自然に反するので、私はちっとも面白いと思わないし、ましてや感激なんか全然しないのである)。
そこで、(ここのところには若干の問題が残るけれど)、もしこの世に「不滅の魂」または「霊魂」というようなものが存在すると仮定するならば、その霊魂は何を思うだろうか、と想像してみる。もしまた、仮に、私が何らかの事情で死んでしまったとする。その場合、霊魂となった私が、何を一番願うだろうかと考えると、それは疑いなく自分の血を引く子供たちが無事に立派に成長してくれること、そのことだけを痛切に望むに違いない。目に見えぬ霊魂になった私は、いつも子供たちのそばに居て、彼らが危険な目に遭わぬように、剣呑《けんのん》な道を取らぬように、彼らの心に向かって必死に働きかけるものと思惟《しゆい》される。それは私の妻にしてもまったく同じことだろうし、私以外の概《おおむ》ねの人たちも同じであるに違いない。
こういう事実を、いったいどのように説明できるだろうかと私はかねがね考えていたが、最近動物行動学者の竹内久美子さんの『男と女の進化論』など一連の著作を読んで、なるほどなぁ、と横手を打った。
おしなべて生きとし生けるもの、この現にある生命体は、その太古から連綿と継承されている「遺伝子」の「乗物」に過ぎない、というのである。私たちは、こざかしいことを言っていても、じつはこの「利己的な遺伝子」のために動かされている有機的機関と説明できるというのである。したがって、かならず自分の遺伝子を持った子供は可愛いと感じ、それは他人の遺伝子を持った子供と排他的に対立的に認識されるというわけである(詳しくは竹内さんの著書をお読みください)。ホトトギスの卵をウグイスが温めるというような一見すると無償の奉仕のように見える行為でも、よく考えると、それによって自分の卵が蛇《へび》などに食べられてしまう確率は確実に低くなるわけで、なるほどちゃんと親の子供(=遺伝子)保護という面で辻褄《つじつま》が合っているではないか。
子供をつらつら観察していると、この「遺伝子」というものはじつに玄妙なるものであることが痛感される。いま、私たちの二人の子供についていえば、顔の一つ一つの部品、ものの考え方、手足の運動のスタイル、そのどれをとっても、複雑精巧に私たち両親の遺伝子のモザイクであることが分る。手の格好は母親そっくりであるのに、楽器を弾くときの指の動かし方はなんと父親に生き写しであるとか、これはたしかに生まれつきの何かで決まっていて、いくら練習してもそれで指の動かし方が変るというものではないのだ。そういう一つ一つの不可思議としか思えないような仕組みを詳細に観察した結果、私たちは一つの結論に到達した。すなわち、性格や行動様式がたしかに遺伝子によってコントロールされている以上、「意志」のようなものもまた、遺伝子の上に何らかの形で、精妙に書き込まれているに違いない、と。
私は、霊能者でもなければ(いや寧《むし》ろ私はそういう能力に人一倍欠けるほうである)、動物行動学者でもないから、その辺のところがほんとうはどうなっているのか、よくは知らない。しかし、一種のロマンティックな想像として、自分が死んでも、そのあと子供や孫たちが自分たちの願いや意志までも遺伝子のなかに継承していて、それを霊魂の私たちが守ってやれるとしたら、なんだかこの上ない心の慰安を感ずるじゃないか。
こうして、私は、私たちの体のなかに、私たちを愛してやまない御先祖たちの遺伝子の意志が宿っていると考えることにした。そしていつも御先祖様が私たちの周辺にいて、有形無形さまざまな形で私たちを守ってくれていると思うことにしたのである。
禿《は》げ頭をつるりと撫《な》で回しながら、茨城弁で面白いことを言っては、笑っていた海軍職業軍人の祖父(私の息子として生まれ変ったと私たちが言っていたのは、この祖父のことである)。祖父は軍人としては一向にウダツが上がらなかったけれど、しかし、彼はじつは軍人なんかには向いていなかったのだ。そのほんとの意志は文人として生きることだったに違いない。だから、三人も息子(実際は四人いたけれど一人は早世)がいながら、あの軍国時代に、誰一人職業軍人になろうとはしなかった。しかも、西洋史学者の長男(すなわち私にとっての伯父)が徴兵で海軍に取られたとき、祖父はこっそりと海軍上層部に手を回して、彼が危険な前線に配置されないよう、ひとかたならず努力したらしい。そうして、次男である私の父は経済学・社会工学、四男の叔父は国語学の、いずれも学者になった。これをはじめとして、一族|殆《ほとん》ど学者の道に進んだのは偶然や環境のせいばかりとは思えない。たしかに私の家に共通の遺伝子の意志が存在したという気がしきりとするのである。
いっぽう、母方の祖父はもう私が小さな子供の頃に死んでしまったので、あまりはっきりした記憶はないのだが、なんでもよく晴れた秋の日だった。私は祖父に肩車されて、当時|堀切《ほりきり》の裏町にあった祖父母の家へ行ったのだった。電車のガードがあって、それをくぐると道が直角に曲っていた。その曲り角に裸電球の街灯があって、私は祖父の肩の上でそれらの風景がゆっくり動いて行くのをなんだか珍しいものでも見るように眺《なが》めていた。記憶はただそれだけのまったく断片的なもので、どういう意味があるのか分らない。
この祖父は、自身非常な工夫家で、大学を出るような学問こそ無かったけれど、次々に新式の機械などを発明したものであったらしい。
祖父母の家の庭には鶏が飼われていたが、鶏が卵を産まなくなると、祖父が自分でつぶして肉にして食べた。釣《つ》ってきた魚を捌《さば》いたり、おまじないを唱えながら正月の七草の調理をしたりするのも、みな祖父の役目だった。私の母は、女の子ながら、顔も性格もその祖父にそっくりだった。新しいもの好きで、手先が器用で料理が得意、工夫を好んで音楽的素養があるというのは、そのまま母を通過して私の遺伝子の一部に組み込まれている。こうした共通の性格を持った孫の私を、祖父はこよなく可愛がって、重いのにいつもそうやって肩車で家へ連れて帰ったのだそうである。
今思い出しても、不思議でならないことがある。
詳しくは「運命の力」に書いたけれど、私たち夫婦は大学時代のクラスメイト同士だった。それが卒業してからの不思議な偶然の出会いによって唐突に結婚し、三年あまりたって息子が生まれた。
その頃私は、まだ慶應女子高の非常勤講師で収入などは笑っちまうような薄給だった。しかし、有難《ありがた》いことに学問に対して非常な理解を持っていてくれた双方の両親のお蔭《かげ》で、経済的にはちっとも困窮するということなく、ひたすら地道な学問(書誌学)に励んでいたのである。やがて東横学園女子短大の講師になったが、そうなっても、私の最大の希望は、どうにかして母校慶應の斯道《しどう》文庫という研究所に、恩師の後任として戻りたいということだった。それは祈るような気持ちだった。
いよいよその後任人事が決まるという時が来た。
私はその直前に、やはり家族揃って墓参に出かけた。
青山墓地に着いて、閼伽桶《あかおけ》や花束を持ち、墓地の細道を歩いているときに、息子が「お花は僕が持つよ」と言った。そこで彼にそれを持たせて歩き始めた。すると何としたことか、花束が息子の手からスルリと地面に落ちた。慌《あわ》てて拾い上げると、花束の真中の大きな白菊の花が、ポロリと落ちていた。首の落ちた花を見て、私は「あぁこれは人事は駄目だよということだろう」と思ったが、果たせるかなそれはそのとおりになった。私には、このときの出来事は単なる偶然とは思えない。私の行く末をいつも見守ってくれている先祖の魂が、「もう慶應に恋々とするのはやめたがよい。もっと良い道があるぞ」と前もって知らせてくれたものと思えるのだ。
それから間もなく、私はもはや母校に戻ることを諦め、新しい道を求めてイギリスへ渡ることになった。そこから、すべての運勢が開けてきたのである。
いま、当時を振り返って、もしあのとき私が慶應へ戻っていたらどうなったろうか、とつまらぬ想像をしてみることがある。そうだとしたら、おそらく私の人生は今とは全然違ったものとなっていただろう。けれども、それが今のこの道より良いものだったとはとうてい考えがたい。御先祖様はこうしてちゃーんと私に一番良い道を用意しておいてくださったのだ。
こういう経験から、私は、最善を尽くしながら、それでも案に相違した結果しか得られなかったならば、その案に相違したほうの道が、「御先祖様のお示し」なのだと納得するようになった。そうすると、無用の痛みや苦しみは感じないで済む道理である。
そうして、何かあるごとに、懐《なつ》かしい祖父母の眠るお墓へ参って、水を注ぎ苔を掃《はら》って、心の中で話しかけることにした。むろん、御先祖様たちはなにも答えてはくれない。けれどもそうすることで、またなにか大切な折々には、不思議な形の「お示し」を下さるに違いないという気がするのである。
[#改ページ]
雨の日に――あとがきにかえて――
思えば、世の中は不思議である。
私は、少年の頃、一つも本を読まない、つまりそれはごく普通の男の子だった。けれども、それでは、少年の私がものを知らない蒙昧《もうまい》な子供だったかというと、全然そうではなかった。むしろその正反対で、私は小さい頃からクラスの中の|物知り博士的《ヽヽヽヽヽヽ》な少年だったのである。それは、一つに、私をとりまく世界が「面白いこと」に満ち溢《あふ》れていて、日々その観察と考察に明け暮れていたからである。
雪が降れば、さんさんたる降雪のさなかに立って、袖《そで》に雪の結晶を受け、その幾何学的な形を観察して倦《う》まなかったし、雨が降れば、直ちに庭にいでてその「にわたづみ」に草木の小船を浮かべ、又は、棒切れで掘り進んでは水路やダムを作り、これまた日の暮れるのを覚えなかった。夏の林間には、カブトムシあり、蟻《あり》の巣あり、山には胡蝶《こちよう》、海には磯虫《いそむし》、花をむしり枝を折り、気が付けばいつしか陽《ひ》は西山《せいざん》に傾いていた。
友達のない孤独な少年だったのではない。毎日が朗らかで何の曇りもない、幸福な少年時代だった。それでも私は、いつも何かを一生懸命に観察して、それを絵に描いたり、または架空の動物などを空想したりして、一人楽しむのに余念がなかったせいで、ついぞ本を読むところまで思いが至らなかったのであろう。学校の勉強は、学校で真面目《まじめ》にやっていたので、家へ帰ってまで勉強をしたり読書をする必要などなかった。自然や町や友達や、先生や大人や、御用聞きのオジサンや、とにかく自分を取り囲む全《すべ》てのものが先生だった。そういう「三つ子の魂」が、長じて、イギリスを面白がり、食味を探索し、ひいては古典を甘なう魂と変じたのであろう。
この本は、そういう「三つ子の魂」の集大成であるが、そこには、少年の私、青年の私、イギリスの私、そして現在の私と、いろいろな私がいる。辛《つら》いことも懐《なつ》かしいことも、楽しいことも哀《かな》しいこともある。
そういうことをそこはかとなく書き綴《つづ》るうちに、ついに一冊の本になった。「テーブルの雲」という題名の寓《ぐう》するところは、巻頭の詩に陳《の》べてある。
「A BOOK FOR A RAINY DAY」という副題は、一八〜一九世紀イギリスの美術史家ジョン・トーマス・スミスの自伝的随筆(?)の題名を拝借した。イギリス人の友達に聞いたところでは、雨の日の徒然《つれづれ》に読む本、という意味に加えて「人生晴れの日ばかりにてもなし」というほどの含意もあるのだそうである。
最後に、この本を編集するに当って力を尽くしてくれた新潮社の寺島哲也君ならびに文庫版の編集に尽力してくれた福島知子さんと、たくさんの有益な助言を与えられた柴田光滋さんに心からお礼を申し上げる。
一九九六年七月其日
[#地付き]雨中のつれづれに 著者
この作品は平成五年九月新潮社より刊行され、平成八年十月、十章を加えて新潮文庫版が刊行された。