十二月二十日(土)
迷宮街・北酒場 一九時一七分
思っていたよりも、と巴麻美(ともえ あさみ)は目の前の夫、後藤誠司(ごとう せいじ)に感想を告げた。夫といってもまだ籍は入れていない。麻美の両親が古風なため(後藤は若い頃に両親とも死別していた)に、籍を入れるのは式が終わったあとだと譲らないのだった。面倒だと思うと同時に、この二人だったら籍を入れることを忘れるのではないかと不安だった。麻美はそのあたりはいい加減だし、夫は従わなくても実害のないしきたりには非常に無神経だったから。まあ、麻美が会社を辞めて京都に引っ越す四月には、失業保険をもらう必要上籍は入れるだろうが・・・。
思っていたよりも自分は嫌われていないみたい。その言葉は初めて迷宮街を訪れ、買取商社の責任者である夫に連れられて食堂に座って感じたことだった。それまでの電話では、当面の間君が来ても居心地が悪いぞと言われていたからだ。女二八才、いまさら無言の悪意におびえることはない。迷宮街という場所を見たくて、なにより会社のお金で京都旅行がしたくて(月に一回、単身赴任の家族が赴任者に会いに行く旅費を負担する制度があった。厳密にいえば籍は入っていないから単身赴任にはあたらないのだが、そのあたりは二人とも社内にコネがある)訪れることにした。テストに不合格したあたりではつまらない、疲れた、淋しい、と毎晩電話してきた夫が案の定仕事がはっきりしてくるとかまってくれなくなったのがつまらなくもある。数ヵ月後には二人暮しが始まるということで最後の独身生活を楽しむつもりだったが、いざ夫に遠くにいかれると、実はかなりの時間一緒にいたのだなと実感させられてしまったのだった。
妻のほっとしたような感想に、夫はしくじったんだと残念そうな顔をした。あなたは仕事がやりにくくなったんだろうけど、私はいずれここに住むことになるんだから。そっちのほうがありがたいんですけど。内心では思うが言わない。一度仕事に熱中すると周囲の気持ちなどを忖度しないことはよく知っているし、いつまでも嫌われていて勤まる仕事ではないからどこかでまとめるつもりではいたのだろう。そのあたりの手腕は信頼していたから、四月に自分が引っ越してくる頃には問題ないだろうと安心していたのだ。
しくじった? と問うと脇から声がかけられた。
そこにいたのは二人の女性だった。二人とも麻美よりも背が高く、同じように髪を短くまとめている。身体から活力があふれているようで少し気おされてのけぞった。より背の高いほう、精悍といえる顔立ちの女性が夫に対し、昨日はありがとうございましたと頭を下げた。夫は彼女らを見上げたまま笑ってどういたしましてと答える。
なごやかなやり取りを笑顔で観察した。どうにも、昨日この女性が困っていたときに夫が助けたらしい。心から感謝の念を述べる女性――手の甲からして麻美と同じか少し下くらいで、女の自分から見ても美しかった――に対して夫の悪相は完璧に制御され、つまり最重要顧客に対する顔だった。これが『しくじり『の内容だろうなと想像がついた。妻ですと紹介されて笑顔で会釈した。
二人が去っていったあと、あれがしくじった相手かと小声で訊いてみた。夫は苦いものを飲み下すようにうなずいた。
そもそも迷宮探索事業に関してはゼロサムゲームではない、というのが夫の基本前提だったという。現時点でこそ探索が停滞しているから収穫となる成分も少品種多量になりパイの取り合いになりかねないが、理事たちが少なくとも第九層に達し、さらに希少な化学成分も発見されているのだそうだ。停滞を乗り越えるには理事たちのような常識を外れた能力が必要となり、目の前の宝の山にどうしても到達できない状況に絶望した探索者がじりじりとリタイヤしていくのが現状だったという。夫がこの街でやるべきことの一つ目はこの状況を、彼の会社が主導権を握って打破することなのだ。その成果をもって現在の定額買取を変動相場に一気に切り替える。そうすることによって、買取においての高い利益率を実現することができるだろうというのがこの街に来て一週間で彼が描いた当面のビジョンだった。そのためには、もちろん現状を打破する方策も必要だったが、いざそれを実現した際にしっかりと交渉できなければいけない。夫の嗅覚は、その交渉相手が事業団ではなく探索者の総意とでも呼べるものになると確信していた。となれば交渉相手を絞ることが必要となる。まさか三〇〇人以上の一人一人と話すわけには行かない。まず第一に全員に納得してもらうのは不可能だし、第二に可能でもコストがかかりすぎる。反対意見をねじ伏せ理性的に合意できる誰かを探索者の中に見つけられないか――それを最終目標として、まずは一人一人をよく知ること、適任者に少しずつ発言力を持たせる(本人には気づかせずに)こと、探索者全体にまとまって交渉しようという気風を根付かせること。理想は労働組合を作らせることだという。
そのためには探索者たちが団結して立ち向かうべき敵を商社側に作るのがいちばん楽で、その役は自分以外いない。そのためのジャブとして探索者の一人に内部分裂の画策を匂わせることで警戒心をあおったのだが――もっとも影響力のある人物に結果的に協力することで、その人物が抱きつつあった自分に対する警戒や反発が消えてしまったのではないか。時期をおけばまた燃え上がらせることはたやすいが、一つ目の石が奏効した手ごたえを感じていただけにもったいないとも思うのだった。
でもまあ、と慰めた。その時は損得で助けたんじゃないんでしょう?
憮然としてうなずく。まあ、そのあたりが田垣専務の言うところのケツの青さなんだろうな。
「それでいいんじゃない? そういうところがなかったらいま私はここにいないだろうから」
それでも未練がましく複雑そうな表情に小さく吹き出した。
真壁啓一の日記 十二月二十日
街全体が静かな一日だった。午後から今年の初雪が降り始めたから、というのもあるだろうけど小林さんの送別会(さすがに道具屋に勤めていただけのことはあって、送別会に出くわした人たちがみんな立ち寄っては彼女と乾杯していた)が昨日大変な騒ぎだったから反動でぐったりしているのだろう。今朝は探索に行く目覚ましが普段より少なかったし、明らかに止めたまま寝入っているやつらがいた。
この街では毎日のように人が死んでいる。最近は親しくしていた相手に不幸はなかったけど、昨日は三人も失った。第二期募集のごく初期にテストをパスし、ほとんど同じスケジュールで探索していた人たちももう半分残っていないのだ。親しくしている部隊はもう津差さんのところだけだ。
いつか自分のところにも死神が、という不安は確かにある。けれど去年からずっと探索を続けている部隊も確かにいる。彼らは俺たちと何が違うんだろう? いちど、全員バラバラになって先輩探索者たちの部隊に出稽古に行かせてもらうのはいいアイデアかもしれない。
寒かったこともあって、午後からはずっとモルグで過ごした。翠は真城さんに連れられて昨日ボロボロになったコートの買い物に付き合わされたらしい。『誤字発見! 値札にゼロが五つついてる!』というメールが送られてきて笑った。似合いもしない高い洋服着て戻ってきたら笑ってやろうと待ち構えていたが、存外に似合うので驚いたな。これは翠がどうというよりも真城さんの見立てだろう。この人はいつもおしゃれでテレビ局の取材でも一番映っていたのもこの人だったし。
そういえば街を出る途中の小林さんを見かけた。隣りには結婚される方だろうか? 以前見かけた男性が歩いていた。お幸せに!
せめて、小林さんだけでもお幸せに。
十二月二一日(日)
大迷宮・出入り口階段 一五時二三分
ツナギの素材や厚さには職業と体力に応じて差はあったが、ブーツはみな同じものだった。スキーのブーツを皮製にしたと思えばいいだろうか。スネの半ばまで覆う牛皮には足の甲に二箇所、足首〜すねに二箇所の留め金があり調節/着脱ができる。かつては紐を使用していたが、皮素材に殺した化け物の爪がめりこみその死体を引きずることになってしまい魔法の火の海に飲み込まれた事故があり、すぐに脱げるように改善を重ねられた結果だった。靴底にはゴルフシューズを思わせる鋲が打ってあり、それがコンクリートを削る音が狭い階段に反響する。
迷宮街から地下へとつづく階段の途中だった。地上に近いために大規模な掘削工事を行うことができたここは階段状にコンクリートでならされていた。しかし(登山道の丸太の階段によく見られるように)その一段は人間には微妙に広く、下りはともかく上りは苛立ちを感じさせる。ことにはじめての第三層挑戦を終え心身ともに疲労している部隊にはなおさらだった。
無事で何よりどころか上出来の成果だった。第三層で数回の遭遇をし、緑龍四匹という第三層では最悪のケースにも快勝していたのだから。わが妹ながら――と笠置町翠(かさぎまち みどり)は妹の葵(あおい)を見直す思いだった。この妹は木曾でもその高い才能を称揚されていた。いつも一緒にいたから気づかなかったもののその魔法を使う速度、判断、距離感覚はすばらしいの一言に尽きた。本人の話ではもう未修得の術はあと数種類しかないということだ。探索者では素質・修練ともに高田まり子(たかだ まりこ)という第一期の女性が最高峰とされていたが、妹もそれに劣らないのではないかと思っている。ともあれ、妹の力もあって今日も無事に探索が終了した。翠も最近ではしばしばかすり傷を負うようになり、今日は初めて毒気にもあてられたがすぐに気づいて活性剤を使用したので事なきを得た。問題があったといえば活性剤は使い捨ての注射器で使うのだが、昔から注射が嫌いだったので他人にやってもらうこともできず、自分では手が震えて目をつぶってしまうのでなかなか血管に刺さらず、ひじの裏が麻薬中毒患者のように針の痕で腫れていることだけだった。これはなんとかしないとと思う。かといって常日頃練習できるものでもなかったが。
それかけた思考が今日の反芻に戻されたのは、すぐ前を歩く真壁啓一(まかべ けいいち)の背中を見たときだ。緑龍との戦いの時、前衛三人でもっともスピードがあり距離感覚の優れている彼は当然のように先行した。しかし第二層と違ったのはその直後につくべき青柳誠真(あおやぎ せいしん)と自分が出遅れたことだ。緊張と恐怖が葵の術を待とうと思わせてしまったのだった(少なくとも自分はそうだ)。真壁は二人の恐怖など知らぬかのように鉄剣をひっさげて一匹の懐に飛び込もうとしていた。そして翠はその右側の緑龍が首を真壁に向けるのを見た。
常識で考えれば真壁が一振りで目の前の緑龍を絶命させることはない。であれば二匹の緑龍から反撃を受けることになる。反射的に翠は脳裏にいくつかのイメージを描いた。それは魔法使いの初歩の術で生き物を金縛りのようにし動きを止めるものだった。本来では戦士には教えられないが、翠は家庭の事情で同時に術も使えるように教育されている。実戦で使うのは初めてだった。地上では一度使ったことがある。
コールもなしに緑龍たちがぎりぎりの範囲になるように魔法を発動させた。初めてにしては上出来で四匹の緑龍のうち真壁に注意を向けている二匹の動きがふらついた。ほっと息をつき、そして驚愕に目を見開く。
真壁が跳躍していた。両手で構えた鉄剣を振りかぶりながら。そして思い切りそり返した上半身の力を空中で解放し、振り下ろされた鉄剣の先端が緑龍の頭蓋骨を叩き潰した。完全に絶命している緑龍の懐に膝をつく。そこに葵の「いーち!」というカウントが響いた。その声にギョッとしたように身体を震わせ、緑龍がいない側へと飛びのいた。
緑龍をすべて巻き込んだ吹雪が突如として発生し、小型のワゴンカーほどの大きさのトカゲはすべて表皮を凍結させて力尽きたのを見届けてから、釈然としていない表情で立ち上がった真壁に駆け寄りその襟首をつかんだ。どういうつもりだ、と。四匹いてあんな無茶をするなんて死にたいのか、と。跳躍も大上段からの振り下ろしも強い力を剣先に乗せることができる攻撃法だったがそれだけに隙が大きい。一対一でも薦められないのに乱戦で使うなど言語道断だった。無事でいるのは奇跡に近い。安堵で思わず涙が浮かんだ。
「ごめん。勘違いした」
涙に戸惑う様子は予想外に冷静だった。初めての第三層挑戦、うわさに聞いた強敵との遭遇で恐慌状態になったというものでもなさそうだった。勘違い? と問うと真壁は翠を驚かせることを口にした。
寸前に緑龍が二匹とも縛られたと思ったんだ。葵が一発目に派手な魔法を使えない事情が何かあるのなら、動けないでいるうちにとにかく数を減らさないといけないと思った。その時は二匹とも反撃がないと思っていたから飛込みさらに振り下ろしで体重を乗せて一匹は殺そうと思ったんだけど。でも、その後に葵の吹雪が起きたんだから俺が勘違いしていたんだろうな。いやいや未熟未熟。
ぽかんと口を開けた翠の反応をあきれたためかと思ったのか、真壁は表情をあらためて心配をかけた、以後気をつけると頭を下げた。そして死体を切り取っているところへ走っていった。緑龍の死体は初めてだったために、先輩探索者が残したファイルと見比べながら切り取っている。すでに経験によってどのあたりの部位が貴重な成分を多く含有しているかあらかた調べられていた。
あの一瞬で緑龍が朦朧としたことに気づき、二匹の身体の死角である自分にはすぐには攻撃が来ないことを判断し、葵に攻撃魔法が使えない事情があると推測し、危険を顧みず跳躍して慣性を乗せた攻撃を成功させ、その直後の葵のカウントで自分が勘違いしたこと(実際は勘違いではなかったが)に気づいて吹雪の効果範囲から逃れるだけの跳躍を行う。整理してみれば一つ一つは難しくはないが、全てをあの緊張のなかで行うとなると奇跡に思える行動である。それを自然に行ったのだ、あの男は。ふっと従兄のことを思い出した。木曾の修行場において天才と称されたあの従兄を父が誉める点はその判断力と眼力だという。どんなすぐれた能力も的外れのタイミングで的外れの場所に向けられたら意味がない。孝樹はありとあらゆる点で凡庸だが、その一点では俺よりもはるかに優れていると。同じものをこの理論先行の戦士に感じていた。意外な人間に芽が吹いたのかもしれない。
地上についた。お疲れさま! と白衣を着た技術者が微笑んだ。小柄でショートカットのその女性の笑顔に真壁の顔がだらしなくゆるむ。この顔を見ている限りそんな凄みはないんだけどなあ、と苦笑しながら携帯電話の電源を入れた。探索者は道具屋で剣とツナギを受け取り併設されている更衣室で着替えてから入り口まで街なかを歩いてくる。ほとんどの私物は更衣室のロッカーに預けられていたが、携帯電話だけは持ち歩くことが奨励されていた。いつ誰が救助を必要とするかわからないからだ。スネあてや篭手と同じ材質の携帯電話ホルダーも販売されている。翠の携帯電話には連絡は入っていないようだった。視線を移すと治療術師の児島貴(こじま たかし)が受話器を耳に当てたまま険しい顔をしている。翠ちゃん、と受話器を耳から離して声をかけた。今日からちょっと東京に戻る、と。もしかしたら明後日でも帰れないかもしれない。そして常盤浩介(ときわ こうすけ)の顔を見る。常盤も同じように電話を耳から話したところだった。俺のところにもメッセージが入ってました、と言うその顔は蒼白で険しかった。何があったのだろう。
真壁啓一の日記 十二月二一日
第三層への初挑戦は無事に終了した。第三層では最強の怪物である緑龍に対しても無傷で勝利した。本当に強いなうちの部隊というか笠置町葵は。他の五人が束になっても彼女一人にかなわない自信がある。
それでも強い化け物の代名詞とされている緑龍を幸運とはいえ俺も殺すことができたというのが非常な自信になった。訓練場では俺が一歩進むと津差さんは二歩進み、翠は実は五歩先にいるというコンプレックスしか感じられない状態だから地下でないと自分の成長が確認できない。俺は強くなったかなと翠に訊いたらいまさら何言ってるのと呆れられた。ついでにいまの俺ならライオンと戦えるかなと訊いたら「冗談だよね」とのことだった。まだ出会っていないけど第三層には熊の化け物がいるのだそうだ。が、それもあくまで人間より一回り小さいという。分厚い毛皮と太い手足と鋭い爪とで危険な相手だけどもしも野生のヒグマとその熊がやりあったら一発で吹き飛ばされるだろうと言っていた。ライオンとガチンコで勝てるなんて、この街じゃ橋本さんか拳銃使った星野さんくらいじゃないかということだった。アフリカ大陸ってすごいんだな。ちなみに理事である笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)氏でも象にはかなわないと言っていた。
「うちのお父さんでもさすがに素手じゃ難しいと思うな」
素手かよ。
地上に戻ったら児島さんと常盤くんに連絡が入っていた。詳しくは話さなかったが、東京に戻らなければならない用事ができたと夕方の新幹線に乗っていった。もしかしたら水曜日の探索は中止になるかもしれない。
夜、バーカウンターで小川さんと話しながら飲んでいたら真城さんに拉致された。真城さんの部隊も今日第四層に潜っているらしい。何の話だったかというと、自分たちが第四層にアタックする際に縄梯子で大穴を使って時間短縮を狙いたいから第一層の縄を守る役を一人十万で引き受けないかというものだった。別に俺はかまわないですけど、第二層、第三層も守らないとどっかで切られたらそこで終わりませんか? と尋ねたら虚を突かれたらしく唸っていた。三つも部隊を雇ったらさすがにコスト割れするのだろう。かといって第二層で切られたらおよそ二〇メートル のダイブを余儀なくされる。この人でもきっと死ぬ。
その後、もっと救助を制度化できないものかと話してみた。恩田くんたちの時には西野さんが真城さんの恋人だったし、鈴木さんは真城さんに気に入られていたうえに彼女の部隊の落合さんと同室だからきわめて関係が深い。俺にとって恩田くんや西野さんは仲間意識を抱いていた相手であり恩田くんとは小寺の遺体を回収したときに暗黙の誓いのようなものを交わしていた。成果がなかったとはいえあの救援隊は個人的な縁を強くもつ部隊だから組まれたものだ。現に毎日のように遭難する部隊があるのに俺が救助に参加したのは初めてのことだった。第二期に高坂新太郎(こうさか しんたろう)さんという戦士が率いる部隊があったが彼らは救助の要請を全て断られて壊滅した。
「お前のところが遭難したら、あたしは助けに行くぞ。それじゃダメなのか?」
俺に限ればそれでいい。でも、もっとビジネスライクに救助を期待できる仕組みを誰も作ろうと思わなかったのか?
一時期はそういうのもあったのだそうだ。各人が自分たちに賞金をつける。救助してくれたらその額を支払うということだ。しかしこの街の探索者は基本的に金には淡白だった。うまく機能しないまま迷宮街のホームページに賞金を登録するサイトはまだ残っているがそこに記入されているのはもう壊滅したメンバーだけだという。
力が全てだし死と隣り合わせだから安全確保もプリミティブになるしかないと女帝は言った。人間として深い関係を築くしかないのだと。この人がつねに誰かしらと恋仲になっているのもそのためかなと思ったらそれがわかったかのように私は一人じゃよく眠れないんだと笑った。さびしそうだった。
これを書いている途中に翠から電話。彼女の両親が娘たちの友達と食事をしたいらしい。
「素手だったら象より弱いと思われる」人間と食事。箸の持ち方が汚いくらいで鎖骨を折られそうだ。
十二月二二日(月)
西荻窪・二木克己の通話 一二時四二分
「あれ、花園さん携帯の番号変えました?」
『お? おお。十月くらいに酔って店に忘れたらしくて。連絡してなかったか』
「相変わらずですね。お仕事はいかがですか?」
『信じられんが六時半起きにも慣れたよ。人間ってすごいな。ところで真壁のことなんだけど』
「啓一が何か?」
『あいつ今学校に行ってるか?』
「いえ、学校辞めて京都に行ってますよ」
『迷宮街か』
「そうです。どうかしましたか?」
『いや、今度うちで流す迷宮街の特番に、どうもあいつみたいな奴が映ってたから気になって。名前も経歴も同じなんだが』
「いやそれ啓一です。一一月からずっと京都で切った張ったしてますよ」
『・・・そうか、まあ机に座ってるのが似合う奴でもなかったけど、じゃあ神野とは別れたのか?』
「・・・いえ、相変わらず睦まじいですよ」
『そうか・・・』
「何か?」
『いや、編集で見てるんだけど一人仲良さそうにしている相手がいてな。迂闊に流すと真壁に悪いことしちまいそうだし、かといって結構重要なシーンの背景だからできれば流したいし――で、あいつの番号がわからなかったから、悪いけどお前から真壁に訊いておいてもらえないか?』
「――いや、その女の人はたぶん神野も知ってる人ですよ。笠置町さんて人じゃないですか?」
『おう、それそれ』
「なら問題ないでしょう。いい番組作ってください」
『そりゃよかった。――お前来年からフジテレビだって? ライバルだな』
「そうなんですよ。そのうち花園さんに時間できたら、お酒おごりますからいろいろ教えてください」
『おう。年明けにでも連絡するわ。じゃあな』
「失礼します」
新小岩・通夜会場 一七時三四分
今回も簡単にねじ伏せられると江副文雄(えぞえ ふみお)は思っていた。最後に会ったときその男はあくまで平身低頭しており、意識不明の友人を心配すると同時にそれよりも強く美奈子の死に罪悪感を感じていたのだから。だから、奴の通夜に出席したのはあくまで念押しの意味だった。間違いなく関係者でもあることだし。しかし悔やみを告げた後で賠償金の支払いを同じように続けるように確認したところ返答は思いもよらないものだった。まったく自然に断られたのだ。
江副は愕然とし、そして怒りを感じた。うちの娘は殺されたんだ。奴が死のうがそれは代わりはない。賠償金は断固として払ってもらう。それが人の道ではないのか。男はまったく動じず(その時点でもう別人を見る思いだった)、お支払いはしないつもりです。どんな法律でも私に請求することはできないはずですがと言った。
たたみかけようとして呑みこんだ唾がのどの奥でひきつったような声をあげる。その瞬間、江副は自分がおびえていることを知った。友人たちはよく言ったものだ。迷宮街で毎日切りあいをしているなんてヤクザよりたちが悪いやつらではないのかと。そんな連中とよく交渉などできるものだと。交渉らしい交渉をまったくしなかったことを隠して江副は誇ったものだった。なにしろ自分は美奈子を失ったんだ。奴も意識不明だからといって責任を取らずにいいはずがない。事故を起こすような人間を許していた周りの奴らにも責任があるはずだ。四の五の言わせない。
若い男の形をした現実はそんな虚勢をふきとばしてしまった。立ち尽くす江副に一礼すると児島貴(こじま たかし)はその場を立ち去った。最後にようやく、それでは美奈子がかわいそうだと搾り出すことができた。児島は立ち止まり振り向いた。
「お嬢さんにはあくまでお悔やみを。それでも私が賠償金をお支払いしたのはお嬢さんのためではありません。友人が意識を回復した際に山のような借金があっては苦労するだろうと思ったからです。友人がもう目を覚まさない以上それは必要ありません。失礼します」
その瞳には何の感情も読み取れず、江副は悟らされた。この男にとって死は無価値なのだと。死者とそれをとりまく人間の想いすべてがこの人間には無価値なのだと。事故から八ヶ月という月日が、通帳に振り込まれる金額を悲しみを和らげるものから新築の住宅ローン返済の一要素に変えたように、たった一ヶ月の迷宮街での生活はこの男の何かを変えてしまったのだ。自分の知っている人間たちとは少し違う何かに。
江副は全身が安堵で温かくなるのを感じた。賠償金を当てにしていたローン返済、友人達へ散々誇って見せた挙句の無様さ、そういったすべてのものを一時忘れていまは児島が去ってくれたことが嬉しかった。
迷宮街・北酒場 二三時一七分
真壁啓一(まかべ けいいち)を笑顔で見送ってから、神田絵美(かんだ えみ)は真城雪(ましろ ゆき)の猪口に日本酒を注いだ。迷宮街の女帝はすでに相当酔っており真っ赤な顔でにこにこと自分を見つめている。なんだってわざわざ引っ掻き回すようなことを言うかねー、とため息と一緒につぶやくと真城は一息に猪口を空けた。私はあの二人が好きだからね。
「二人とも今ならまだ笑ってこの街を出て行けるから。きっかけがあるところから片付けたいじゃない」
それに、顔も見たことのない東京の誰かよりはいつも可愛がってる女の子の恋を応援したいもんだよとつぶやく。神田もそれには同感だった。
「私はあまり洋服を選ばないからわからないけど・・・そういうもんなの?」
真城は年下の男にこう言ったのだった。お前さんは東京の彼女が大好きなんだろう。それは見てりゃわかる。これまでのあたしの度重なる誘惑にも負けないんだから(そこで神田と真壁は同時に吹き出した。およそ真壁を扱う態度に誘惑が混じっているとは思えなかったからだ)。でもね、あの子にとってはお前がいちばんお似合いなんだよ。
「あたしはこれまで何百着も服を買ってきた。そのうちの九九.九%はもちろん自分が気にいって自分に似合うから買った服さ。でもね、ほんのたまにだけど、ああ、この服は多分世界であたしがいちばん似合う、っていうのに出会うもんなのよ。それはどっちかというと自分が着たいものとは違うんだけど、でもそういう服がいちばん愛着感じるし、着てて安心できるんだなあ。あんたにとってのあの子はそんな服だよ」
いちばんて、と真壁は苦笑した。彼はまだ二二才。これからの人生はこれまでの人生の数倍の長さであり行動範囲は数十倍の広さを持っている。数え切れないこれからの可能性を考えればおさおさ「いちばん」など言えないことをよく知っているのだろう。その表情に割り箸を立てて見せた。
「お前ならこれからいくらでも今の彼女やあの子よりもいい女と出会うけど、あの子がお前以上に向いている人間と出会うことは、たぶんもうない。それはなによりあの子の性格だけど、まあ可哀想な生い立ちってのもある」
だからって、と抗議する声は少しずつ警戒心を強めてきたからだろう。傍で聞いていた神田が意外に思ったように、彼もおそらく単なるおふざけだと思っていたのだ。だが思いのほか女帝は真剣だった。
だからって、今考えられる最高の女を逃す選択肢は俺にはありませんよ。
わかるかもしれないし、わからないかもしれない。どっちにしろあの子はまだお前のことどうとも思っていないだろうし。まあこういう意見もあるって覚えときな。穏やかになった顔はその話の終結を宣言していた。真壁はその唐突さに苦笑して他の話題を始めた・・・。
ふっと意識を現実に戻す。そしてとろんとした目をしている女に尋ねた。そういえば鈴木秀美(すずき ひでみ)はどうしているのか、と。女帝は表情を曇らせた。ずっと閉じこもっている、と簡単な答えだった。
「一度行ってみたんだけどね。お茶も出してくれたしきちんと受け答えしてた。でも翳は晴れてないな」
どういう状態なのか容易に想像できた。実感できたと言ってもいい。彼女もまた何人も親しい人間を失っているのだから。でも、と思う。面白いもの見たさで自分の意志でやってきた自分がそうやって瞳に翳を宿すのは自業自得かもしれない。だが家庭の事情でやってきたまだ一八才の娘(なんと! 自分と干支が一緒なのだ! 一気に老け込んだような気がする)となるとまた違う痛ましさを産むのだった。
「そっか、この街に縛られたらもう遅いよね」ぽつりとつぶやく。
「あの子たちは早いところこの街から出て行ってもらいたいね。無邪気に笑っていられるうちに」
突っ伏したショートカットから寝息が聞こえる。そっとその頭をなでた。
真壁啓一の日記 十二月二二日
日陰の雪もほとんど溶けた暖かい一日。
常盤くんからメールあり。以前書いた、事故を起こして意識不明だった彼らの友達が亡くなったのだそうだ。今日が本通夜、明日は葬式だけど明日の午後中に帰ってくると言っていた。残りの四人で話し合った結果、水曜日は予定通り潜ることにした。彼らは俺たち戦士と違って頭脳労働だから(それって日本で一番歩いている頭脳労働じゃないか?)俺たちほど毎日の調整は必要ないのだそうだ。
今日は久しぶりに入所のテストを受けてみた。津差さんに誘われたのだ。退屈だったし、自分の身体能力も高まっていると思うのでその確認のためにも面白い。二人して徳永さんにお願いしたら、不合格だったらパスを取り消すと脅された。そして全員の前で「この二人は第二期の初日に突破して、第二期のエリートチームの一員になっている。どれだけの体力が必要か実感するように」とのありがた迷惑な紹介まで受けた。やりづらいことこのうえない。
徳永さんが安心して紹介したように、土嚢運びはまったく問題にならない作業になっていた。体力が底上げされているし何より一度クリアしたという自信がある。簡単なのも当たり前かな。午前だけやって退屈だったので、津差さんに俺の分の土嚢も任せて逃げ出した。さすがに四〇キロはつらそうだった。ていうか捨てましょうよ。
どうして津差さんがわざわざ試験を受けなおそうと思ったかというと、彼らの部隊に新しく入った治療術師がきっかけらしい。的場さんがもっと穏やかなグループに抜けるということで新しく鍛え上げようとスカウトした人が、なんというか、「俺には理解不可能」だそうだ。「バトル・ロワイヤルになんか光の戦士とか言っていっちゃってる女が出てくるだろう? オブラートかかっているけど根っこはあんな感じだ」という。迷宮探索を、悪の世界に対する聖戦だと思っているような言動がたまに見られるのだそうだ。なんでこんな人間があの試験をパスできたんだと疑問に思ったということ。午前が終わって、「ともかくこれがクリアできるなら変人にしても筋金入りだ。うまい具合に乗せれば伸びるかな?」とつぶやいていた。津差さんの部隊はそれぞれ個性的過ぎて大変だと思う。それにしても、死体をお金に替えるシステムを聞かされた時点で俺たちのやっているのは所詮殺戮で侵略で略奪なんだと気づいてもよさそうなものだけど。天然は怖いね。
テスト中では面白い人に会った。買い取り商社の担当者である後藤誠司(ごとう せいじ)さんだ。この方はかれこれ三度この試験を受けて脱落しているらしい。でもこの人もう三十代後半じゃないのか? 合格したら最年長の探索者になるかもしれない。
モルグの前で神田絵美(かんだ えみ)さんが大工仕事をしているところに出くわした。徳永さんの家に作った犬小屋が大反響で、今度はハムスターの家を作っているのだそうだ。ハムスター用といっても小さな水槽くらいの大きさがある。中はプラスチック管やらなんやらで楽しそう。床は二重底で下には木炭を敷き詰めることで「消臭ばっちり!」だそうだが、これって原価いくらですか? と訊いたら「私の工賃ゼロだから!」と笑顔が返ってきた。商業ベースには乗せられないこれもまた迷宮街特産品だな。
おしゃべりをしつつお手伝いをしてその流れでご飯を食べに行った。当然のように真城さんにつかまりいろいろとくだを巻かれる。西野さんがいなくなったあとでまだ次の恋が見つかっていないらしく結構荒れ気味だった。
「真壁、今日一緒に寝る相手いないんだけどお前来るか?」
「俺、一度寝ると結婚しようって言い出しますよ」
「・・・それってこの街の女には最強の口説き文句の気がしてきた」
うなずく神田さん。この街にいると、連れ出してくれる王子様を期待しちゃうよねーということだった。それまで色々あったから、なかなか抜け出すきっかけがつかめないし今更再就職もする気にならないし、かといって遊んで暮らすほどお金はないしということらしい。
「ただ、女も三十才になると王子様だからってすぐには喜ばないけど。服のセンス、馬の乗り方、もちろん王子様自身・・・」
いや全然口説けてないだろうそれじゃ。笑う。
今夜は星がきれい! だ。でもきれいな星空を見ると東京の空が懐かしくなったりする。上空にわだかまったスモッグが地上のネオンを反射して、うっすらと明るい空。それはもちろん喜ぶべきものじゃないけれど、俺にとっては思い出の空だから。
ちなみに津差さんは四〇キロ持ってあれから歩ききったそうだ。狂ってる。
十二月二三日(火)
迷宮街・買取商社オフィス 一〇時四七分
後藤が勤める会社は商社だったし、何しろ前代未聞の分野だったので製品抽出に適した研究機関はもっていなかった。だから迷宮出入り口に併設されたそれはこの街の構想ができあがった一昨年の冬から急遽、国内各研究機関から人員と機材を集めるかたちで成立したあばら家のようなものである。その割には問題なく機能してきたのは、なんといっても予想される利益が大きかったために初期投資を大きくつぎ込めためだ。開設当時にアメリカの科学雑誌に掲載された紹介文を読む限りでは前任者の思い切りと人物鑑定眼の卓抜なことがうかがえた。とはいえ集められた各人はあくまで寄せ集めでしかなく、迷宮内部に特化した研究を深めていく意気には欠けると感じることがしばしばあった。その観点でいえば、迷宮内部の研究をすることを半ば予想しつつやってきた昨年度から今年度の入社組こそが会社として期待すべき人材たちなのだった。
その中でも、と後藤誠司は目の前に座っているジャージ姿の女性を眺めた。三峰えりか(みつみね えりか)はほとんどが大学の化学系学科を卒業しただけの技術者たちのなかできちんと大学院を修士までおさめ、この街に来るために博士をあきらめた俊秀だった。年下の技術者たちをよく指導し既存の研究員たちにも一目置かれている。
「休みのところ呼び出してしまってすまない。言ってくれれば出勤日でよかったんだけど」
いえ別に暇ですから、と笑った顔には化粧気がない。聞けば彼からの電話が入るまでジョギングをしていたし、訓練場から商社の出張所まで走ってきたのだという。そして興味津々の態でテストはどうだったかと訊いてきた。変わり者の新所長がこれまで三度探索者の体力テストを受けていることはよく知られていた。最後の休憩が終わったあと、とうとう立てなくて脱落したと説明すると、お疲れ様でしたと微笑んだ。彼女もそのうち試験を受けようと思っているのだという。
「どうして?」
当然の疑問は覇気のある瞳に迎え撃たれた。もっと地下のことを調べてみたいんです。そのためにはまず地下に行かなくちゃ。
「だってこの時代に魔法だなんてあるわけないじゃないですか」
この街でそれを駆使して戦っている人間を一年半見つづけてなお断固とした物言いだった。念じただけで火がついたり傷が治ったりなんて、もうね、アホじゃないかと。からくりは絶対にあるはずなんです。
「話を聞くと、いろんなイメージを描くんだそうです。それだけで火がついたり眠くなったり、とても信じられません。でも実際そうしている。この街が私に対する壮大なドッキリでもない限り事実ですよね。だったら物理的な原因があるはずです」
探索者の魔法使いに頼み込み、母校の実験室で同じようにイメージを描いてもらった。結果は変化なしだった。ありとあらゆるツテをたどりいろいろな研究室にその女性を連れて行った。どこでも判別できず、もちろん炎など生まれず。しかし、実際に三峰もビデオ映像を見たことがあるが、地下においては突如として火の海が生まれるのだった。だからといってすなわち超自然の力の存在を意味することにはならない。何かしらの物理的な変化は必ず起きているのだ。そして地下にあってはそれが物理的に火の海を呼び起こしている。ただそれをキャッチするだけの検査ができないだけだ。もっと調べたいと思い、自分の無力を痛感した。
「今の日本の設備でダメなら海外の最新のものを使えばいいんです。そのためにはもっと情報を発信してみんながお金や機材を出そうと思うようにしないといけません。私じゃダメならもっと優秀な人を招けばいいんです。そのためにはそういう人たちに居心地のいい環境を作らないといけません」
後藤は苦笑した。
「なるほど、科学者は商人とは違うな――その考え方はうちの会社の利益に反すると思わないか?」
彼女の思うままに機材を集め人員を招く金はさすがに現在の利益ベースでは捻出できない。それでもあえてするのなら、会社が迷宮に対して握っている特権的な立場を(少なくとも部分的には)開放しなければならない。彼女は知らないことだが、そうするべきだというコメントは非公式とはいえ世界各国から毎分のように寄せられているのだ。だからこそ会社はその特権を手放そうとはしない。そんな動きはどうしてもつぶそうとするはずだった。
「でも、これは会社の利益とかいうレベルの問題じゃないはずです!」
まあ落ち着け、と一瞬だけ真顔になった。覇気あるとはいえまだ二五才の娘はその顔にしゅんとしてうなだれた。
「これから先はオフレコだ――早くて二年後、遅くても五年後にはうちを辞めてもらうことになると思う」
娘はきょとんとして、続いて傷ついた顔になった。「クビですか?」
後藤は苦笑した。
「いや、それはノーだ。そしてもう一つノーといえば、君の現状認識だな。君は、うちだけがこの問題に携わろうとしているように表現したが実際は違う。世界の一流の科学者の大半は迷宮内部を調べたくてうずうずしているんだ。それを感じることはないか?」
若い科学者はすぐにうなずいた。他の研究機関に機材を借りにいったときに当然そこの人間と触れ合っているのだ。
「ところが、いろいろなものが複雑に絡み合った結果うちが特権的な位置を占めている。当座の利益を守るという理由でな。でも周囲はそれを許さない。会社はいまその特権を守るために必死になっている。だから君もまだその考えを口に出すな。最悪殺されかねないぞ」
まさか、と笑う顔に、もう一度真顔になってみせた。笑顔は凍りつき視線が泳いだ。
「人間は一回の食事のために人を殺すし、企業はもっと軽いもののために人を殺させるということを覚えておくように」
はい、と唾を飲み込む顔にうなずいた。
「地下にいるのが知能の低い怪物だけだったら別にかまわなかった。けれど明らかに人類以外の文明が地下五〇メートル以下にあるような痕跡が見られている。これはうちだけで独占していいもんじゃない」
生物学、社会科学、文化人類学、あるいは宗教学や哲学? どの分野になるのか三峰も後藤もわからない。しかしその重要性は二人にも十分に理解できる。その層まで研究者を下ろすことも、死体をそのまま地上に持ってくることを依頼しているわけでもないための「研究不可能」という現実を口実にその重要性には目をつぶってきたが、いつまでも無視していい問題ではないのは明らかだった。とはいえ、それだけ広範囲にわたる研究をする組織も資金も人員もこの街にはないし一社では用意できないものだった。
「ときに、青色LEDの件は知っているか?」
三峰は虚を突かれてうなずいた。これまで赤色や黄色では実現していた発光ダイオード(LED)を青色でも実現する発明をした研究者が、会社がそれによってあげた利益に対して報酬が少ないとして訴訟を起こした事件だった。確か、来年二月あたりに東京地裁の判決が下されるはずだ。
「まさか要求どおりの二〇〇億なんて馬鹿な結果が出るとも思えないが、あれは企業と研究者との関係に激震をもたらすだろう――その機を利用して、うちの研究者達に、外部から集めた人間を加えて包括的な研究団体として独立させる流れに持っていきたいと思っている。この街に特化した研究財団でもいいし、京大や京産大あたりの複数の研究室を母体にしてもいいし。二年から五年、その間で優秀で説得力のある研究者のリストアップとコネクション作りをお願いしたいのだが」
三峰はすっかり混乱したようだった。おそるおそるといった風に声をあげる。
「いくつか質問いいですか?」
一つ目は二〇〇億円は馬鹿げてますかというものだった。なるほど科学者は商人じゃないなともう一度苦笑して、馬鹿げていると即答した。発明だけで金が稼げるわけじゃない。それを商品にし、販路を確保し、値段を折衝し、製造して輸送するありとあらゆる手はずを整えてはじめて発明は金になるのだ。それを、単純に何百億円もうかったから払えというのでは商業原理を無視すること甚だしかった。売り方を知らずにすばらしい野菜を腐らせている農家は世界中にいるものだ。金を稼ぐには製造から先のプロセスもまた必要で、その研究員はそこにはまったく貢献していなかった。二〇〇億円は多めにふっかけただけだろう。
二つ目はどうして企業と研究者との関係が変わるのかというものだ。それも答えは簡単だった。雇用時の取り決めを無視して事後に追加の報酬を請求するというのは商売の世界では言語道断の行為である。契約書類以外のものを後付けで要求するビジネスマンなど、少なくともまともな商業道徳の世界ではどれだけ捜しても見つからないだろう。あの訴訟で企業体は研究者というものが本質的に話の通じない生き物だと気づいたはずだ。それを裁判所がねじ伏せるのならばいい。しかし世論を見ても企業側にある程度以上の支払いは命じられるだろう。契約して費用が計算できていたはずの社員が、ある日突然巨大な報酬を請求してそれを法律が保証する――悪夢としか思えないそれが現実になったとき、果たしてこれまでどおり研究者を養えるか。それに死蔵特許の問題もあった。
「死蔵特許?」
たとえばある会社がタイヤ製造のラインを数十億円かけて新設したとする。もし、その翌日にそこで雇っている研究者がそのタイヤをはるかに超える良質の新タイヤを開発した時、会社はその特許をどうするだろうか? 早々に特許をとり他社がそれを販売できないようにしてから新設したラインの設備投資が回収できるまでは既存のタイヤを製造販売するはずだ。問題なのはその新タイヤの特許だった。会社としては単に眠らせておくだけのものに高い金を支払う気にはなれないだろう。しかし発明者は、他社にその特許を売り渡せば自分の発明が実用化される上に莫大な特許料が入ると知っているのだ。誘惑を退けられるだろうか? そこで楽観的になれる人間はビジネスには向いていない。そして、その誘惑を実行しようとして世論を巻き込み裁判沙汰になったときの結果は火を見るより明らかだった。
判決次第では、優秀な研究者は利益の源泉であると同時に危険な火種にもなりうると企業は認識するだろう。早々に研究者を手放すことはないだろうが、大学などの独立した研究機関から競争原理にのっとって成果を買い取るという形態に緩やかに推移していくはずだ。そう後藤は考えていた。
当然その考えにはいまは必死になって特権を守っている首脳陣も到達するだろう。なにしろ明日世紀の発見が起きてもおかしくない迷宮内部だから、扱いを一歩間違えれば第二第三の青色LED訴訟が生まれない保証はないのだ。後藤はそこを突くつもりだった。何しろ会社にとっての火薬庫は担当者である後藤にとっての火薬庫でもある。研究機関の切り離しは必須で急務だった。そして、その経緯で沢山の価値あるコネクションが生まれるだろう。それは後藤には魅力的なものである。
「最後の質問ですけど、どうして私なんですか?」
自分には人を見る目も優れた頭脳も人徳も組織力もない。社会人になってまだ二年目だ。ただ、ここに来れば面白そうだからという理由で面接を受けただけで、とても期待通りのことが勤まるとは思えない。
「知りたい、研究したいという熱意だけで探索者になろうと思うような人間以上に適任者がいると思うか?」
三峰はしばらく考えて、よく考えてみますと頭を下げた。
真壁啓一の日記 十二月二三日
翠の一言にドキッとさせられる。
最近北酒場でよく噂されているのよねーとのことだった。この娘は生まれか家庭環境かわからないけれど非常に耳がいい。しかも入ってきたもの全てにとりあえず気を配っているらしく、離れたテーブルの会話などを突然耳打ちしてきたりする。由加里の証言によればディズニーシーでミッキーマウスの中の人の「腹減った・・・」っていう言葉も聞き取ったそうだからもしそうなら(普段の様子からして実話に思える)たいしたものだと思う。ちなみに中の人といえば由加里と日光江戸村に遊びに行ったとき、元気一杯で「にゃんまげに飛びついた」由加里が汗臭いのに気づき思わず「お、お疲れ様です」って言ってたこともあったな。中の人も大変だ。
そんなことはともかく翠が道を歩いていたり雑誌を立ち読みしていたり八宝菜を食べていたりすると「あれが笠置町翠だってよ」「なんか強そうじゃねえなあ」という会話を聞くことがあるそうだ。「噂話はかまわないけど、私は強い!」 翠力説。
正直思い当たる点はある。翠の知らないところで日記に書いているからな。東京に来るまでだから一一月の一六日までか? それまでは読んでいる人間がいるかもしれない。ものすごくマニアックなグーグル検索(「迷宮街 土嚢 小林さん」とか)なら結構上位に出るかもしれなかった。そのあたりで出くわした人間が一六日まで読んでいれば、翠の鬼武者ぶりを刷り込まれていたとしてもまったく不思議じゃないのだ。
説明するのも面倒というかきっと脅されて読まれるので黙っていたけど、翠がそいつらの胸倉掴んで白状させないことを祈ろう。とりあえず「ゆがんだ生い立ちってのは悲しいなあ、自意識過剰だぞ」そう言っておいた。
昨夜は自警団で、初めて喧嘩の仲裁をした。仲裁? と言えるのだろうか。アパート街で酔っ払いの探索者同士が植木などを叩き落しながら殴り合いをしていたので、黒田聡(くろだ さとし)さんが二人ともの鎖骨を折って(!)木賃宿までひきずって個室に叩き込んだ。いくら翌朝には治療術師に治してもらえるといっても鎖骨って・・・。黒田さんは、こうでもしないと抑止力にならないと言う。まあ確かに社会的制裁というものの効果がかなり薄い探索者には実際に痛い目にあわせるしかないのかもしれないが・・・。こうしてこれまでやってきたのなら、それがこの街流ってことか。釈然とはしないけど。
今日の訓練は午前午後みっちりと、星野さんにつけてもらった。恩田くん一行の救出で縁ができてから星野さんとは挨拶するようになっているけど、稽古をつけてもらったのは今日がはじめて。この人教えるのうまい。自衛隊員だというけど、それよりも中学校くらいの教師が似合いそうだ。
そういえば明日はクリスマス・イブ。遠距離恋愛中の俺には何の関係もない日。夕方、真城さんと越谷さん、それに内藤くんが「ノー モア クリスマス!」というプラカードを持って大通りを歩いていた。なにをやっているんだか・・・。
明日は混ぜてもらおう。
十二月二四日(水)
千葉大学・軽音楽部部室 一〇時一八分
ボン、ボンと腹に響く音を立てながら前田がベースを調弦している。その音にあわせてコーヒーの表面はさざなみを立てていた。じっとそれを見つめていたら、浮かないねと前田が声をかけてきた。俺はけっこう覚悟ができてたけど。その言葉に佐々木明子(ささき あきこ)はあいまいにうなずいた。そうだった、と自分をたしなめる。彼も死んだんだった。いま、彼女のこころを占めていたのは別のことだった。
「常盤もなあ」
非難めいた前田の言葉にどきりとする。まさにその男のことを考えていたからだ。
「薄情な奴だな。葬式に出ないで帰っちまうってのは」
それは違うだろう、と明子は心の中で応えた。彼女が留守電にメッセージを吹き込んだのは亡くなったと聞いた二時間後の午後二時。京都でそれを受け取って、夜には東京に着いていたのだから。それを非難することは、少なくとも、葬式で初めて顔を見せた前田はしてはならないはずだった。しかしそうも口にできないわだかまりがあった。薄情ではないけど、結果的に彼の行動は薄情なのだ。何に対して?
私たちに対してだ。本通夜での彼の視線を思い出した。あそこにあったのは冷たさだろうか? 借金を背負うために学校をやめた彼についていけず、他の男に乗り換えた女が受けるべき当然の視線だったろうか? 何しろ今までの人生で似たような視線を受けたことがないからなんとも判断しようもないのだが、違うという気がした。あの底冷えは冷たいのではなく醒めているといった方が近い気がする。彼の視線を受けた瞬間に、考えておいたありとあらゆる自分の不義理の言い訳が消えてなくなった。彼にとって大事なのは友人の葬式だけであって、そのためだけに東京に来たのだとわかったから。
げんき?/うん/それはよかった。
会話はそれだけだ。それだけで常盤は視線をうつし、一緒に京都に行った先輩が誰かと話しているところに歩いていった。
答えがなかったことを同意に受け取ったか、前田が続けて彼を非難している。その言葉の裏にはかつての明子の恋人を貶めたいという気持ちがあるのだろう。卑しいはずのその本心になぜか明子はほっとした。
事故を起こした友人がいて、金さえあれば延命できる。だから大学をやめて深夜のコンビニと日雇いのアルバイトをする。それは、正しいか正しくないかという観点で見れば正しい。善いことか悪いことかという観点で見れば善い。
その友人が背負った賠償金を、「目覚めたときに借金漬けだと困るだろうし、遺族の悲しみはどうにかして癒さないといけないから」という理由で肩代わりする。それは、正しいか正しくないかという観点で見れば正しい。善いことか悪いことかという観点で見れば善い。
友人が死に、知らせを受けて駆けつける。その友人をいたむ気持ち、別れを哀しむ思いは一度の通夜で満たされた。帰るべき場所があり早く帰らないとそこの同僚達に迷惑をかける。だから葬式に出席せずに帰る。それは、正しいか正しくないかという観点で見れば正しい。善いことか悪いことかという観点で見れば――少なくとも、死者と彼自身に対してはそれで善いはずだ。
彼は何も間違ったことはしていないし責められるいわれはない。でも、非のないそれらの行動を積み重ねて眺めた時、背筋を走るこの冷たさはなんだろう? 後味の悪さはなんだろう? 彼が友人のために背負ったものの万分の一も協力せず、葬式に出席しないというただ一点だけで非難している目の前の男に安心と親しみを感じるのはなぜだろう?
当たり前だ。人間は弱く、だからこそ他人の甘えや弱さを許そうと思う。そうしてみんな迷惑をかけてかけられて歩いていくものではないのか。それを、弱さを許さないのではなく許すも許さないもお前など気にしないと示されたときのそのうすら寒さ――心細さ。もし私たちに対して配慮をもつならば、葬式にも出席してほしかった。その後で会話をさせてほしかった。そうすることで、意識不明になった友人を見捨てた――金も出さずに快癒を祈り心を痛めるだけならそれは見捨てたと一緒だろう――自分たちの後ろめたさも晴れたのに。二人が葬式に出ず誰とも笑いあうことなく帰っていったことで自分たちはそれを晴らす最後の機会を失った。あとは忘れるしかない。
まだ生きている人間を見捨てられるのなら、その後ろめたさを忘れるのも簡単だろう?
皮肉に笑いながら、一言そう憎まれ口を叩いてくれたらよかったのに。
常盤とは語学クラスの仲間だった。フランス語の授業の前に集まって訳を見せ合ったあの時間、とはいっても全員の目当ては常盤が作ってくる完璧な下調べのノートだった。几帳面で整った字からは想像つかない派手な赤い髪をした男は、それを惜しげもなく見せながらちょっと皮肉な目をして自分たちの怠けに対して嫌味を言うのだった。悪意ある、しかしやさしい瞳でそう言われることで自分たちは怠け心を正当化できた。しかし、フランス語の予習とは比較にならず重いこの後ろめたさに対して彼は処方箋を示さなかった。あのときの瞳で軽い嫌味を言ってくれたらどんなに楽だったろう?
なぜ、処方箋を与えずに彼は帰ったのか。自分たちを許していないから報復のつもりなのか? それだったらどんなにいいだろうかと思う。何しろ自分たちはされるだけのふるまいをしたのだから。また、既に彼の中では自分たちは配慮する対象から外れているからか? それも――悲しいが――仕方ないと思う。だが、もしも、万が一、彼がそういうことを思いつかなかったら? 大多数の気持ちを想像する心を無くしてしまっているのなら? それが迷宮街での生活によって起きた変化なら?
「――行かなくちゃ」
レストランは七時からだよ、という間の抜けた前田の声。今の恋人を少しの間だけじっと見てから、トイレにでも行くように部室を出た。そして携帯電話の電源を切った。
迷宮街・東西大通り 一六時一三分
私もパレードいいですか? という娘の顔を見て津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は怪訝に思った。そこにいたのは笠置町姉妹の妹だったからだ。色恋は不器用という印象の姉妹だったけれど、妹の葵はなんとか彼らの部隊の罠解除師と関係を築きつつあると思い込んでいたからだ。どうしてまたクリスマスイブに「ノーモアクリスマス!」のプラカードを持ったパレードに加わりたがるのだろう? 津差の肩の上に座っていた星野由真(ほしの ゆま)がその疑問を端的に口に出した。
「葵もカレシいないんだぁ! かっこわるぅ!」
言葉は鞭のように葵の身体をうち、屈託ない娘の言葉に津差と葵は顔を見合わせて苦笑した。
「そういう由真はどうなんだ? ん? あたしに偉そうなこというわりにはなんでこんなとこにいるんだ?」
自衛隊員を父親に持つ娘はつんと上を向いた。父親の星野幸樹(ほしの こうき)は特に美男というわけではなかったが、この娘は十分可愛い部類に入るだろう。まあ、まだ小学生ならカレシもなにもあったものではなかったが。
「由真くらいになるとね、ボーイフレンドが多いからこういう大事な日は公平に誰とも遊ばないの!」
「――という漫画を多分昨日あたり読んだんだろうな」
津差のまじめくさった言葉に葵は吹き出し、由真はその天然パーマの頭を何度も叩いた。反応がないと見るや両手で目をふさぐ。しかし津差は危なげなく歩いていた。そして常盤くんとは遊びに行かないのか? と尋ねる。葵は唇をとがらせた。
「東京から急用が美女の姿でやってきました」
相変わらず両目をふさがれたまま津差は彼女を見下ろした。目をふさいでもうろたえている様子のない男を、肩の上の小学生が怪訝な顔で覗き込んでいる。
「おやおや、よりによってこんな日に。でもそれは怒っていいと思うぞ。約束をやぶられたわけだし」
そうでしょうかと心配そうな顔。ようやく回復した視界の中央には不安げな娘がいた。別につきあってるわけでもないし、きれいなひとだったし・・・。
恋愛沙汰に関して正解を出せると思えるどんな自信も津差龍一郎の中にはない。だからそのままにしておいた。まだ若いのだし、こうやっていろいろと学ぶのだろう。
でもまあ、それでも常盤にはヤキを入れておくことにしよう。肩の上の娘とやりあう笑顔を眺めながらそう思った。
真壁啓一の日記 十二月二四日
『ノーモアクリスマス!』 パレードは首謀者の真城さんが突然「いやホントごめん! マジで! あとよろしく!」と言いながら裏切ったものの、参加人数二四人と犬三匹という立派な成果をあげた。馬鹿ばっかりだ、この街。先頭は真城さんに選んでもらった高級服に身を包んでかっちり化粧をした翠。馬子にも衣装と口に出したら予想していたとしか思えない速度で右ストレートが飛んできたところからしても、みんなに同じことを言われたのだろうな。それほど綺麗だった。おかげでモテない奴らの淋しいデモ行進にならずに済んだかな。
パレードは迷宮街南部の野原でスタートして大通りを中心に練り歩くような感じだった。途中買取商社の前で立ち止まり、探索者の待遇改善であるとか怖い顔のくせに美人の奥さんはいけないとかシュプレヒコールを行っていた。恩田くん探索のときに手配をしてもらって以来、越谷さんたちは後藤さんと親しくしているらしい。俺は見たことがないが、翠によると「美女と魔獣」というくらい奥様はきれいな人なのだということ。後藤さんはそりゃもう大変な顔の方(この人と二人で飲んでぽつりと「やっぱり男は顔で決まるな」と言われたら俺には慰めが思いつかない)なので、そんなきれいな奥さんはけしからんということで俺たちも「誘拐は犯罪です」とか「ブサイクの誇りを忘れるな」だの叫んでいたら、どたばたと後藤さんが降りてきた。椅子の敷物を頭にかぶりモップ構えて。馬鹿ばっかりだ、この街。
パレードは北酒場で解散し、とはいっても解散で帰ったのは犬と飼い主(さすがに入場不可)だけでみんなで食事をした。俺は翠と落合香奈(おちあい かな)さん、葛西紀彦(かさい のりひこ)さんとすぐさま飲みに。今でこそこんなパレードに加わっているけど、たまたまだよ! 普段はきちんと相手がいるんだからね! という二人の過去の話を聞かせてもらった。
ただ別れに死別が入ってくるあたりが、なんともこの街らしくやりきれない。
さて、遊んでばかりだと思われるのもしゃくなので本日の成果も書いておこう。昨日の昼過ぎには京都に戻ってきていた二人の準備も万全ということで、第三層への二度目のアタックを行い無事に終了した。以前先輩たちに知らされていたように、この層はスピードが速い。怪物たちがねぐらにできるような物陰がそこかしこにあるために気を抜ける瞬間が訪れない。ここではっきりと現れてきたのは笠置町姉妹と俺たちとの差だった。能力でまだまだ及ばないのはもちろんだけど、あの二人には基本的に『常在戦場』の心構えができているのだと思う。緊張することなく周囲を警戒するという根本的な姿勢、それができているから歩いていても消耗しないが、俺たちはいわばおびえながら過ごすことになる。それは身体の疲れを産む。思えば日曜日の第一回のアタックは無我夢中だったし、何より戦闘と戦闘の間隔が短かった。だから集中力が切れる前にあらかじめ決めていた目標の戦闘回数をこなすことができたのだろう。
今回は間隔が長かった(広かった? どっちが正しい日本語かな?)ために、戦っていない時間でも消耗してしまった。リーダーの翠はそれに気づかず、俺はスピードに慣れていたはずのいなばにわき腹を大きく切られる羽目になった。すぐにふさいでもらったけど。地上に戻ってのミーティングでそのあたりの問題点を話し合ったが、笠置町姉妹にしても育ってくる過程で身についた心構えを伝授できるはずもなく、このあたりは先輩たちに聞くしかないだろう。でも慣れるしかないのかもしれない。
しばらくは第三層でも戦闘を少なめにと話を決めて児島さんと常盤くんに謝ったら、彼らはもうお金には困っていないのだということだった。治療費を払う相手が死んでしまったし、であれば賠償金を肩代わりする義理はないということ。葵がこの街を出て行くのかと心配そうに訊いたが二人ともまだそれは考えていないようだった。何をするにせよ、まとまった金は必要だと言う。その通りだ。
何をするにせよ、という言葉ではっと我に返った。俺はここに何をするために来たのだろう? 何を達成したらここを出て行くのだろう? 甘えを捨てて強くなりたいという思いをもってここに来たけど、わかったのは殺し合いをしても望むような強さは得られないということだった。大学に入りなおすか、就職するか、あるいはほかの事をするか――俺は今後何をしたくて、そのためにこの街ではなにができるんだろう?
そういえば、第一期の人たちにそういうことは訊けない。彼らには他に行く場所がないように見える。神田さんの言葉を思い出した。何かに縛られてしまい、きっかけがないと出て行けないのだと。そうなるまでにここを出ないといけない。迷宮街以後の人生、そろそろ真剣に考えよう。
十二月二五日(木)
迷宮街・北酒場カフェテリア 九時一一分
過去、七一人のベトナム戦争従軍者を取材したことがあったがその際に強く感じたことは彼ら戦争経験者は一様にそのことに関して口が重くなる傾向があるという事実だった。ありもしない戦争経験(それは映画のあらすじに酷似していた)を自分の記憶として吹聴したロナルド=レーガン元大統領のような自己欺瞞でもない限り、他の人間の取材経験からしても人間には従軍体験を秘しておこうという傾向があるようだった。しかし同時に同じ経験をもつ者同士ではそれについて語りたがるという傾向も見られるのも事実だった。そこにはなにがあるのだろうか? 非経験者には畢竟理解されないというあきらめだろうか? 戦争という人類の業について語るには仲間意識を必要とするのだろうか? ともあれ迷宮街を通して現代日本に関する本を書こうと思い立った小川肇(おがわ はじめ)は、そのアプローチ方法を決めるために先人が残した取材メモをくまなく読み込んだ。そしてそこに見つけたのは、従軍者と同じ種類の秘密主義である。迷宮街の探索には、どうも戦争経験と同じような心理的な枷があるらしい・・・。
そこで小川が選んだアプローチはバーテンになることだった。それは的を射ていたようで、馬鹿正直にフリーライターなどという名刺を差し出しては決して聞かれないだろう生々しい迷宮内部の状況が、それを話す声と表情をおまけにして毎日自分に降り注がれる。アルコールによって大げさになっているにしても、聞き手も同業なだけに虚偽の可能性は低い。取材方法としては上出来だと自負していた。
たまにはこういうこともあるしな、と目の前の男女を眺めた。男は第二期の探索者の中でも優れた戦士である津差龍一郎(つさ りゅういちろう)といい、女は迷宮街の探索者の関係者だという。名前は佐々木明子(ささき あきこ)と紹介を受けていた。年齢は、二十歳になるかならないかだろうか? 詳しい経緯は知らないが、明子の知り合いの探索者の状態について部外者である自分の意見を聞きたいのだそうだ。小川の職場でもある北酒場はまだ昼前の時間ということで人気は少ない。ここ数日の陽気に誘われて京都の街に繰り出しているのかもしれない。
一通りの説明は受けていた。その常盤という探索者がこの街に来た経緯、知人の死、通夜から葬式にかけての態度に明子が抱いた恐れ。この街にやってきたがすげなく追い返され、しかしその事情をあとで聞いた津差が木賃宿に部屋を取った彼女を訪ねて事情を聞いたのだという。津差はそれで判断に困った。
「葬式なんてのは死んだ人間のためじゃなくて生きている人間のためにやるもんです。常盤がその男性の治療費を払っていたのなら、最後まで面倒を見るべきだと思います。でないと周囲が納得できません。受けとった者だけではなくて与えた者も、与えた分だけの責任を負うのが人間社会ってもんじゃないでしょうか」
津差の言葉にうなずいた。
「まあこれは俺がそう考えているってだけで、通夜に出るだけで義理を果たしたと判断する人間がいたところで不思議じゃありません。けれど、つい数ヶ月前までそばにいた女性が、以前はそうじゃなかったと断言する。だとしたらそこには変化が起こったんじゃないかと思うんです」
うなずいて、内ポケットからタバコを取り出した。二人に向けると明子は頭を下げて一本受け取った。火をつけてやる。
「他人の治療費や賠償金を肩代わりする経験は大変なものでしょうから、普通にしてたって変わってしまうかもしれない。でも、それがもしもあいつがこの街に来たことで起きた変化だったら、あいつはここから離れるべきなんじゃないかと思いまして」
煙を呑みながら大作りの顔を眺めた。この街で他人の心の中まで気にかける人間は珍しいな、と思う。
「まず、津差さんが見落とされている点が一つあると思うのですが」
灰皿に灰を落とし込みつつ言葉を選ぶ。
「アメリカでは、成人女性の一〇人に一人はレイプされたことがあるという統計があるのですが」
いぶかしげな表情。続けた。。
「私はあの国で暮らしたことがあります。成人女性の友人も数十人おります。一人としてそのような方はいらっしゃいませんでした」
「――その質問をできた、ということ自体がいないということでしょうね」
その通りだ。いかにも男性不信、いかにも精神に傷を負っているような様子を示していたなら恐ろしくてそんな質問などできるはずがない。質問できたという事実それ自体が彼女らの過去の健全さの目安になった。
「一方で、あるセラピストの中には六七〇の臨床例のうち過去に性的虐待を受けたケースが八割七分にのぼるという報告をしているものもあります」
神妙に言葉を待つ二人。
「私の友人三〇人ほどいて、一人も過去にレイプされたものがいない一方、あるセラピストの所を生理不順や偏頭痛や腰痛、肥満などで訪れる女性の八七%はレイプされているのだそうです。これはいくらなんでも異常な数字といえないでしょうか。さらに甚だしきはそのセラピストの臨床報告ですが、彼の患者たちは催眠による過去逆行やカウンセリングの結果過去の性的虐待の事実を『思い出し』『一度思い出すと鮮明にそれについて語る』ようになるといいます。それではやはり、私の友人たちの一割は過去に性的虐待を受けていて、彼女たちがたとえば肌荒れや便秘に悩んでセラピストの扉をノックしたら、その記憶を『思い出す』のでしょうか? ほとんどの人間が抑圧された忌まわしい記憶を抱えていきているのだと? そう思いますか?」
「それよりは――」タバコを吸って少し度胸が出たのだろうか、明子が口を開いた。
「カウンセリングによってその記憶を作られた可能性のほうが高いと思います」
小川は深くうなずいた。
「人間の記憶は簡単に変えられるし、捏造することもたやすいものです。そして結局のところ、私たちが何かを行うときその指標に従う『こころ』と呼ばれるものは知識の積み重ねでしかありません。知識の積み重ねから選択肢をいくつも作り出し選んでいるだけで。そして本人にもっとも影響を及ぼす知識は体験――と本人が思い込んでいるもの――です。ところがその体験も、専門家のカウンセリングや催眠治療によってたやすくねじまげることができる」
二人の顔を見た。
「二人は何もおっしゃいませんでしたが、私が常盤さんの行動で強い疑問をもつ点が一つあります。――どれだけ親しい友人であっても、学校をやめてまで治療費や賠償金を負担するという決断自体がまともではないと思いませんか?」
津差は虚を突かれた顔をした。明子はその横顔を眺めていた。
「佐々木さんは、常盤さんがそのような決断をなされたのをご覧になって罪悪感をお感じになられたのではありませんか? だから常盤さんの行動が異常なものだという正常な判断ができなかった。けれど、明らかにその判断は常識を逸脱しています。――常盤さんともう一人の児島さんという方、どちらがその判断をされたかご存知ですか?」
「わかりません。わかりませんけど――浩介なんじゃないかと思います。印象ですけど」
「行動だけ伺うと、常盤さんという方は純粋で努力家、正義感が強くまた自分の信念に忠実なところがあるように思えますが、それは原理主義者の特徴でもあります。原理主義的な観念の持ち主は、逆境や変化への柔軟な対応能力に欠けることがありますから、困難に際してはかたくなに自分の信じるものに視線を集中してしまうことが多々あります」
津差の顔を眺めた。
「常盤さんにとって迷宮探索は困難なものでしたか?」
「この街で迷宮探索を簡単にこなしている人間なんていませんよ。それは笠置町姉妹でも同じことです」
うなずき、私の推測ですが、と前置きした。
「常盤さんという方にとってこの一ヶ月は大きなストレスだったのではないでしょうか。返せるともわからない金銭的な負担、日々の死の恐怖、自分の決定を悔やむ気持ち、それを認めたくない自負心・・・。それらが彼の基盤となる体験、たとえば大学でのあなたとの時間などを小さくよわめ、事故に遭われたご友人、自分自身、この街での人間関係くらいにまで世界を狭めてしまっているのではないかと――所詮想像で、正解などわかりませんけど」
三人はしばらく黙っていた。
「もし」
明子が口を開いた。
「もしそうだとして、私たちは嫌われてもいいとしても、それ以外の人たちに対してまたやさしく、関心をもてるように、そう浩介がなるためにはどうしたらいいと考えますか?」
必死な表情にすまないと思う。自分はすこし本を読んでいるだけの物書きにすぎないのに。
「とりあえずは経過を見守るべきだと思います。金銭という問題がなくなり迷宮探索が彼にとって自由意志でやめられるものになった以上ストレスはかなり軽減されると思いますから。でも理想はやはり精神科医から何らかの薬を処方してもらうことでしょうし、あるいは恋をするのもいいのかもしれません」
理想はどんなタイプの女の子でしょうね? と津差の質問に考えた。
「まずは常盤さんが一緒にいて幸せと感じられるのが大前提で、その上では感情を隠さず表面に出し、陽気で価値観が多様な人が向いていると思います」
津差は過去を思い出すように視線を斜め上にあげた。そしてにんまりと笑った。
「あるいは常盤くん自身も回復したくて無意識に選ぶものなのかも――ひとり心当たりがいます」
「その人は、浩介のことをどう思っているんでしょう?」
津差はじっと明子を見つめた。
「そこが問題だね。じゃあ、これからちょっと誤解を解きにいこうか!」
真壁啓一の日記 十二月二五日
気分が悪い。
原因はわかっている。津差さんの部隊の新しい治療術師、幌村幸(ほろむら みゆき)くんと話したからだ。彼は俺より一つ年上、一浪して東大だそうだ。努力の結晶と安泰な将来の可能性を蹴って迷宮街に来た彼はそういった経歴を隠すでもなく誇るでもなく屈託なく笑っていた。二十歳を越しているとは思えない童顔で無邪気に自己紹介と握手を求める彼に、俺は最初は心からの笑顔で接していた。彼の周囲にはとりまき――あえてその言葉を使う俺はいやな奴だろうか?――が同じ笑顔で俺を見つめていた。
キミが真壁くんか! と幌村は俺の自尊心をくすぐるような尊敬をこめた視線で驚いてみせた。第二期では屈指のエリート部隊を率いているらしいね!
実力胆力判断力で翠に説得力や人間の厚さで青柳さんに遠く及ばない俺が『チーム笠置町』を率いているなんて、この街の誰に聞いたってそんなこと言いはしないだろう。俺のことを知っているのならば、うちの部隊の下っ端の兵隊だってことも同時に聞いている(それはもしかしたら『女傑の尻に敷かれている』という表現かもしれないが。俺と翠の関係に対する誤解は根強く行き渡っている)はずだった。それなのにこんな間違いをしてみせる。そのあたりからもう信頼できなかった。というより、きらいだこの男。この男も、この男の取り巻きの妙にだらしない笑顔もきらいだ。早々に逃げ出してきた。まあ、こいつが何をたくらんでとりまきを集めようとしているか知らないけれど、それが通じるのも所詮第二期の探索者のあいだだけだろう。何より部隊の中には津差さんがいる。心配するようなことはないはずだ。
さて、いくつかお知らせ代わりのメモを。例のNHKの放送日が判明しました。一月一一日(日)の午後一一時かららしい。楽しみだ。あとは理事夫婦との食事会が明日に。二七の夜からは由加里が来るから同席できないところだったから好都合だったな。素手なら象より弱い人間とはやっぱり話してみたい。メンツは津差さん常盤くん神田さん俺、笠置町一家で八人。いろいろ聞きたいことをまとめておこう。最後に今年の迷宮街の営業は二七日までで、来年は一月三日から開始することにした。俺たちは、笠置町姉妹が五日まで実家に帰っているということで初探索は一月七日に。ぽっかり空くな。
二七〜二九は由加里が来て、二九の夜は木村さんが顔を出すらしい。三〇から一週間お休みになるか。旅行でも・・・実家、帰るか。気が重いな、学校辞めたこととか話すの。
十二月二六日(金)
真壁啓一と笠置町翠の通話 一二時三〇分
「はい翠です」
『真壁です』
「うん、どうしたの?」
『いまどこにいる?』
「伊勢丹。孝樹にいちゃんと」
『お、おお! ということは?』
「下川さんと」
『なんだ、二人きりかと期待したけど――ってことは、水上さんも夕飯一緒に?』
「ううん、京野菜食べに行くって」
『まあ、まだ助かるな。で、どうするつもりだ? 口裏合わせるにも俺にも状況教えてもらえないと』
「・・・やっぱその話出るかな」
『出ないだろ、なんといっても津差さんとかもいるわけだから。でも万一出た時の方針くらいは決めてもらわないと――京都駅前だな、そこで二人から切れろ。俺も行くから』
「・・・」
『彼女と一緒にいるところにどれだけついて歩いても、水上さんの中では妹のままだということはわかってるな?』
「――はい」
『メシは食ったな?』
「はい」
『じゃ、駅前地下街のコーヒー屋で三〇分後に』
「真壁さん」
『うん? 何だ?』
「ありがとね」
『地上でも地下でも世話になってるしね。少しでも返せて嬉しい』
迷宮街・北酒場 一八時二〇分
朝会の列で最後尾を譲ったことがなかった。小学校に入学した時点で一四三センチ、中学校入学時には一七六センチ、中学生活で一九二センチまで伸び、あとは大学までかけて現在の二〇三センチになりそこで止まった(正直ほっとした)。そんな珍しい人生を過ごしていた津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は二つのことを確信している。殴り合いでは結局体重が重い人間が勝つということ。そして殴り合いがいくら強くても一個の人間としての評価においては何の役にも立たないこと。
目の前に迷宮探索事業団の理事である笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)を見て、後者はすんなりと納得できた。平地が多いアメリカ・中国・オーストラリアといった国の良質安価な農作物と日々戦いつづける農民であり二人の娘を素直で父親を尊敬する女に育て上げた父親である。人間ではどうしたってかなうわけがない。
それでも、と思う。それでも殴り合いならば体重の重い自分が勝つだろうと思っていた。笠置町翠(かさぎまち みどり)の父親だということはわかっているから、武器を持たれてどうにかなるとはもとより思っていない。それでも素手で組み合いになれば自分の筋肉と骨格の前に敵し得ないだろうと、そう思っていた。その予想はたやすく否定されることになる。
身長は真壁啓一(まかべ けいいち)より低く自分よりは三〇センチは下のはずだ。向かい合ったら彼の視界は自分の腹筋で埋め尽くされているだろう。身長はなくても筋肉質、というものでもない。まるで日舞か何かの師匠ででもあるかのようにその四肢はほっそりしていた。戦士とかいう以前の問題として農民と言われても納得できない細さだった。それでも津差は一目でわかったのだ。たとえ素手でも自分は赤子扱いされるのだろうと。理由がまったくわからずに確信する――それは明らかに、まともな人間のあるべき状態ではない。声をあげたのはそのような気持ち悪さがあったからだろう。
「俺と君と? 腕力で?」
テーブルについてすぐ、まだビールも来ていない時だった。私と理事とどっちが腕力が強いと思いますか、という津差のぶしつけな質問に理事は驚いた顔をした。君のほうが強いに決まっているだろう? 当然のような顔を見て質問を間違えたことを悟る。私と理事とどっちが素手では強いのでしょうか? 言い直した。
そりゃ俺だな。しゃらっとした言葉に頭を下げる。私もそう思います。でもどうしてだかわかりません。
酒を飲みながらする話じゃないんだが、とあごひげを震わせてから視線を津差に置いた。まただ。視線を当てられるたびに『切られた』と思わせられる。この感覚も他の人間、例えば訓練場の橋本辰(はしもと たつ)からですら感じないものだった。ちなみに娘の笠置町翠(かさぎまち みどり)からは、ふとした瞬間に恐怖を感じることがある。――あ、今この娘は俺の壊し方を考えている――そう実感する瞬間がたびたびあった。この街の前衛はただ一人を除いて同じ感覚を味わっているらしい。後衛たちがそれを感じないのは、彼女にとってはどんな状況でも光栄相手であれば自分が勝つという自信があるからだろうと皆で合意していた。ただ一人、真壁だけがそれを感じていないのは、家来を壊そうと思う姫はいないのだから当たり前だ。
「拳銃を使う人間に必要な能力はなんだと思う? 引き金を引いたら一〇〇%弾丸が出ると仮定してだ」
津差は頭の中で映画のシーンを思い浮かべた。思いつくままに狙いをつける能力、動きを予想する能力、ぶれずに引き金を引く能力と列挙してみる。理事はうなずいた。
「一くくりにしてしまうと弾丸を的に当てる技術だな。どうしてそれだけでいいんだ?」
「鉄砲で撃たれたら普通は壊れるからです」
そう、とヒゲの中年はうなずいた。お前さんはどんな相手でも触れたら壊せるというわけじゃない。俺は相手が生き物であればなんだって壊せる。この違いは――そこでビールが運ばれてきた。津差はあたりを見回した。この物騒な会話に興味を示しているのは自分以外に同じく前衛の真壁だけだった。すいませんと頭を下げて、続きはあとにと態度で示す。理事はうなずいてジョッキを持ち上げた。
迷宮街・北酒場 二〇時三二分
「あ、また転んだ」
北酒場には時ならぬ特設リングが出来上がっていた。その中央で行われている見世物を眺めながら落合香奈(おちあい かな)は呟いた。派手な音と一緒に歓声が沸きあがる。いま転んだのは高田まり子(たかだ まりこ)の部隊の前衛で、神足燎三(こうたり りょうぞう)という三〇代前半の戦士だった。第一期の初日に試験をパスした彼は、この街の探索者ではもっとも年季が長い。ちなみに、現在ここにいる探索者でこの街にもっとも長くいる人間は壇隆二(だん りゅうじ)という治療術師がいる。彼は最初事業団の事務員として着任したが、辞表を出して探索者に志願した。
「四五秒。また当たったよ雪」
神足が挑戦する前に、真城雪(ましろ ゆき)が予言したのだ。四〇〜四五秒でしょ、と。五秒の余裕があるとはいえ先ほどから六連続で当てていた。誉め言葉に対してはこれでメシ食ってますから、と笑い返す。
先ほどから行われているのは理事を相手にした相撲大会だった。ルールは少しだけ違い、理事は両手親指を後ろで縛っており、足技は禁止されていた。つまり腰と肩だけでいなさなければならないということだった。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)という第二期屈指の戦士から始まったそれは腕に覚えのある戦士たちの挑戦を呼び、しかしこれまで七戦していちばん長持ちしたのが今の神足の記録である。日々怪物たちと殴り合っている戦士たちが両手を縛られている五〇代の男性に七人連続で転がされたのだ。三〇秒ももたずに。
「雪だったらどれくらいもつ?」
落合が最強の女戦士に水をむけた。彼女は後衛だからよくわからないが、その動きの素早さ正確さには定評があるのだという。真城はすこし考えてから、四〇秒くらいと呟いた。でも、みんなの見てる前で転ぶなんてイヤだからねと釘をさす。声が大きかったのは期待を込めて視線を送る第一期の探索者たちに言って聞かせるためだろう。
ざわ、と見物客が揺れたのは北酒場の入り口に越谷健二(こしがや けんじ)が現れたからだ。顔に大きな青あざをもち青面獣という異名を奉られている彼が現在の探索者では最高の戦士だというのは衆目の一致するところだった。事情がわからないまま理事の前に引っ張り出され、雲の上の人物にぎょっとした表情をした。しかしルールを説明されてその目に闘志がわきあがると、皆が立ち上がって土俵を取り囲んだ。それでも真城たちのテーブルからは見えるように人垣が欠けているのはこの街の女帝に気を使ったためだ。これまでは泰然自若としていた理事が越谷を見て腰をほんの少しだけ落とした。その動きにどよめきが起きる。最前列で観戦していた高田まり子が「一分いけるかどうかで賭けるわよ! 一口千円から!」と声をあげた。即座にトトカルチョが始まる。みな一〇口単位で買っていた。ほとんどは一分以内だった。
香奈、と真城が落合に声をかけた。キャリアウーマンを思わせる風貌の女性は得たりとばかりに立ち上がった。
「一分以上に十万円」
落合が小走りに向かった先は、第二期の探索者たちの一団。女性だけのそのテーブルに声をかけると全員が立ち上がった。そして総計五人が何気ない顔をしながらトトカルチョに書き込んでいった。真城雪の友人が一〇万円も賭けたとなれば追従する人間が現れて儲けが少なくなる。それをわかって買い役を別に雇ったのだった。
五分後、協力者に一人一万円ずつ払い戻しをしてからテーブルの上の札束を数えた。一勝負で十万円が三九万円に化けていた。
「たとえば翠ちゃんだったらどれくらい持つ? 橋本さんだったら?」
その質問に考え込んだ。橋本さんだったら、おそらく理事があの状態なら勝つんじゃないの? という答えに驚いた顔をした。それもまた不思議な話だが、理事のこれまでの戦績はそう思わせるほど圧倒的なのだ。
「翠ちゃんは五〇〜五五秒ってところじゃないかな」
視線を送った先では理事と津差を除いて笠置町姉妹、その母親、真壁啓一と常盤浩介(ときわ こうすけ)、神田絵美(かんだ えみ)が談笑していた。双子の妹の顔が真っ赤になっているのは酔いだろうか? 冷やかされているのだろうか? 真城は立ち上がった。場内がどよめいた。全員の期待を受けて苦笑し、同じように期待している真壁をじっと見つめた。お前がやれ、とその顔に命じる。
「ここに三九万ある! 一分以上もつ方に賭けるよ! 誰かカウンタいない?」
場内がどよめき、高田の持つノートがあっという間にひったくられた。
呆然としている真壁の顔にウインクしてみせる。お前はそろそろ自信を持ったほうがいい、そう心の中で語りかけた。
真壁啓一の日記 十二月二六日
京都の冬は厳しいというけれど、まだそれほどは実感していなかった。理由はいくつかあると思う。去年の寒さなんてそれほど意識していないというのが一つ、明らかに東京にいた頃より筋肉の量が増えたので気温に左右されにくくなったというのが一つ、そしてなにより冷蔵庫の中に毎週降りていく生活をしているから寒さには鈍感になっていると思う。
明日もぐったら今年の探索は終了、明日の夕方から青柳さんはどこかのお寺の行事に出席するということで明日は第二層とエディの部屋だけということに決まった(第三層に降りるまでの一本道が長いのだ。そこだけで一時間くらいかかる)。よって今日の訓練もお休み気分でジョギングとストレッチ、筋トレだけ午前中五時間で済ませた。
午後からは京都駅前で洋服を買う。ゼロが五つもあるようなものを買う勇気はまだなく、でも伊勢丹なんだから出世したと言えるだろう。明日は十〜十五万くらいの稼ぎだとして、先月アタマから六〇日間、三日に一回ずつ潜っているとして二〇回もぐった結果の現在の貯金額は一八一万六〇〇〇円になった。今日ひさしぶりに記帳してびっくりした。いつもATMのレシートは見ずに捨ててるからな。
夜からは笠置町姉妹の両親である理事夫婦とお話をした。お父さんの隆盛さん(で漢字はいいのかな? 初日にもらったパンフレットに当然名前があるだろうけど、二日目くらいに捨てちゃったから今すぐは調べられない)は少し前から毎週一度は訪れて地下に潜っているらしい。第何層くらいに行くんですか? と訊いたら第九層と答えが返ってきた。そんなに深いのか。第十層は座標の特定が難しく、瞬間移動の魔法を使っての救助ができないために放置しているのだそうだ。だからそこよりももっと深いのかもしれないと言っていた。
精鋭部隊のメンバーは訓練場の教官たちと隆盛氏、そして翠の従兄の水上孝樹(みなかみ たかき)さんという方だ。前に書いたかな? 身長は俺とそう変わらず、でもものすごく強い人だ。訓練場の橋本教官とどちらが上か? という答えには「二人とも同じようなものだが、信頼がおけるのはやっぱり橋本」らしい。年齢が上ということもあるけれど、そこまで能力を高めた過程が違うのだそうだ。笠置町姉妹や隆盛氏、水上さんなどは特別な家系に生まれたのだが、橋本さんや笠置町姉妹のお母さんである茜さんなどは普通の生まれをしていたのがその高い素養を見出されて鍛えられたらしい。笠置町ママや橋本さんは「遠州産」と呼ばれている。師匠が「遠州」と呼ばれる老人でとても厳しく、「遠州産」は粘り強さに定評があると言っていた。笠置町夫人は七才で弟子入りして一二才で卒業、やっぱりつらかったと笑っていた。ちなみに才能にあふれた魔法使いである葵は六才から始めて二一才の今にしてまだすべての魔法を使いこなしていない、つまりその母親の一二才に達していないわけで、師匠の厳しさと笠ママの才能が思いやられた。この人は世界で一〇〇人程度日本でも二人しかいない、地上でも自力で最高難度の魔法が使える超人だという。ぱっと見ただけでは保護者会に――いや、おしゃれだから卒業式の謝恩会だな――に参加する母親にしか見えないけれど。
どうしてお嬢さんにこういう技術を教えたのですか? と直截な質問が神田さんからあった。隆盛さんは相当酔っていて、心身の鍛錬うんぬんと始めたけれど、その奥様がにこやかに「国から助成金がでるから」と切り捨てた。毎月一〇万円、彼らの長老が認めるほどの技術を身につけたと認定された人間には維持費が与えられるらしい。一度認定されたら取り消されることはないし、こんなことが起きるなんて思ってもいなかったから得に感じたのだそうだ。二人で二〇万、その助成金がなかったらとても娘二人を育てるなんてできなかったと隠れた達人の述懐である。
そうはいっても娘二人にはそこまでは望んでいないらしく、鍛え上げて普通の人間とは違ってしまった感覚を現実にあわせて矯正するために「身の程を知らせるために」迷宮街にやったのだそうだ。この二人の動機は最下層にあるわけじゃないんだな。やっぱりこの迷宮を切り開くのは青柳さんのように特別な感情を抱いているひとの役目なのだろう。
そのほかには農業のこととか人間のこととかいろいろお話をした。そのあとで突然座興が持ち上がった。津差さんと隆盛さんとの相撲である。隆盛さんはハンディとして両手親指を背中で結んだ動きにくい姿勢。それでも一七秒で転がされていた。津差さんのタックルを両肩で受け止めるのだからとんでもない。その後神足さんや葛西さんなどが挑戦したがみな三〇秒もたず、探索者最強の越谷さんが一分一〇秒と貫禄を見せつけたがみんなレベルの違いを思い知らされることになった。
俺もやりましたよ。真城の姐御が何を考えたのかそれまでの賭けで獲っていた四〇万円程度を「一分以上もつ」に賭けた結果、まっとうな鑑定眼を持つ人たちが「もたない」に張って大変なことになった。それは別にかまわない(人の金だしね)のだけれど「いや真壁じゃ一分もたないだろ」「もっと早いだろ」とか言われるとなんだか男として失格のような気がする(何のことやら)。
結果は四二秒だった。よくもった方だと誉めてやりたいし、何より力を入れた隆盛さんが親指をしばるひもを引きちぎってしまったことが自信になった。それだけ本気を出させたということじゃないだろうか? 結果は俺の反則勝ちで、たった一人俺の勝ちに賭けていた翠が総取りかと思われたが金額が一〇〇万を超えていたので理事の横槍でドローになった。
大健闘の秘訣は思い切り身体を落として動きが大きいけど予想しやすい太ももを抱えるようにしたことかな。それまでの相撲を横目で眺めていてわかったのは、距離をおいたら強力な突進で跳ね飛ばされるし、かといって肩や骨盤などのよく動く部分をつかんだらいなされて転ばされてしまうのだ。それがわかったのも国村さんから人間の動き方を常に考慮する思考法を叩き込まれていたからだな。それでも隆盛さんは強力だった。何しろ、ほんの小さな動きで上から肋骨を落とすだけで身体がペシャンコにつぶされそうになるんだから。動きの一つ一つが思い出される。怪物相手の一〇〇回のチャンバラよりもいい経験になったと思う。
ご夫婦は鈴木秀美さんをすごく気にしていて(ご両親とは知り合いらしい)誘ったのだけど断られてしまった。見かけなかったから実家に戻ったのだと思ったのだけど、この街にまだいるらしい。ずっと部屋にこもってしまっているそうだ。心配だな。
十二月二七日(土)
迷宮街・北酒場カフェテリア 一〇時二三分
ぼんやりとコーヒーの表面を眺めていたら、視界の端っこにすっとピーナッツの皿が差し出された。見上げるとバーテンの小川肇(おがわ はじめ)がこちらを眺めていた。手にはドリンクバイキングのマグカップをもっている。甘いにおいはココアだろうか。「遠慮しないで、昨日の残りだから」と笑ってから、隣りに、椅子ではなくテーブルにちょこんと腰掛けた男に神田絵美(かんだ えみ)は微笑んだ。このバーテンとは年が近いこともあって親しくしている。
今年はもうおしまい? という問いに神田はうなずいた。本当は今日までの予定だったが、昨日他グループへの救助部隊に参加した戦士が第三層で思わぬ被害を受け、ツナギの補強が間に合わなかったためだ。明日からは韓国旅行の予定だったので当面暇をつぶせるような大工仕事もない。図書館の本はすべて返してしまっている。リーダーの女戦士は朝からおめかしして出かけていった。とても暇だった。
テーブルの上に突っ伏して、両手を思い切り伸ばす。隣りに座る小川が肩甲骨のあたりを親指で押し始めた。コリがほぐされる感覚に喉の奥でうなった。
「さすがに年末で少し人が少なくなってきているね」
突っ伏したままうなずく。去年の正月はこの街にいたが、普段はお祭り騒ぎの好きなこの街でも大晦日は地味に過ごして意外に思ったものだった。だから今年は焼肉を食べることにしたのだ。バーテンという職業に勝手に抱いていたイメージに反してごつく太い指が背骨と肩甲骨の間に重さを与えてくる。あまりの心地よさに脱力しながら、みんな実家に帰っているわけじゃないんだけどねと答えた。少なくとも第一期の探索者たちで里帰りをする人間はごく少数派だった。
そうなんだ? と意外そうな声。それはそうだろう。どんなに無精な人間でも実家があれば正月くらいはと呼ばれるものだし、たまにはいいだろうと思うものだ。でもそれはこの街には当てはまらなかった。
「半年から一年くらいかな・・・家族が疲れてくるんだよね」
疲れる? いぶかしげな問いに顔をあげ、指圧が上手なバーテンの顔をみつめた。
「うん。怒られる内容が変わってくるの。最初のうちは、なんでそんなに危険なことをするんだって怒られるのね。私の身体を気遣ってくれるのよ。私も申し訳ないな、心配かけてるなって。でもそのうち、親不孝だって怒られるようになるのよ。両親をこんなに心配させてどういうつもりだって。最初の頃は、頑張るから大丈夫! って笑えば済むんだけど、さすがに親不孝呼ばわりされちゃねえ・・・」
ふっと思い出したのは父親の顔。私の人生なんだから好きにさせてよ。神田にとっては――口調は厳しくなってしまったが――当然の主張だったその言葉への返答は、勘当という小説の中でしか触れたことのなかった二文字だった。あきれ果て、涙が出てきてその夜のうちに実家から出て行った。「荷物は全部処分して」と書置きだけ残して。それからまったく家族とは話していない。
テーブルに腰掛けながらこちら側の右手だけで指圧してくれていた男はふっと彼女に覆い被さるようだった。反射的に緊張すると、左手がそっと頭を伏せさせた。右親指が首の付け根に置かれる。自分の肩の抵抗の強さに驚く思いだった。こんなに力が入っていたのか?
数分後、お疲れ様と肩を叩かれた。神田は起き上がり両肩を回してみた。驚くほど軽く動く。
ありがとうと微笑んでピーナッツを一つつまんだ。
京都市・地下鉄国際会館駅 十一時二三分
車両に乗り合わせた女性は目的地が同じようだった。決して美人ではないがほんわりと柔らかい印象が少し気になっていたが、出迎えてくれて手をつなぐ相手がいる女を追っていても仕方ない。それよりも、と男の方に意識を向けた。ひきしまった身体つきと立ちのぼる雰囲気は彼が通常ではありえない修羅場を経験していることを感じさせ、彼が迷宮探索事業団と契約している探索者であることを推測させた。年のころも自分と同じくらいだし、身体能力は高そうだが身のこなしはまだまだぎこちない。探索者でも第二期にあたるのではないだろうか。であるならば妹――鈴木秀美(すずき ひでみ)という名前でまだ一八才――を見知っている可能性は高かった。
彼の名前は鈴木秀矩(すずき ひでのり)という。現在は二二才、大学に入る際に二年間浪人したから現在で大学の二年生だった。父親に命じられてこの街にやってきた妹、もともと家族にそれほど頻繁に連絡するタイプとも思えなかったし、現在の進展を調べる限り身の危険はないだろうと思っていたから放置していたのだが、妹の同級生たちから心配する声が寄せられたので兄である自分が差し向けられたのだった。
――すごいと思えるような人間に出遭えたら戻って来い。
コタツで鍋を囲みながらの父の言葉には秀矩もうなずくところがある。四年間の時間差そして性別による訓練の過酷さの違いは兄妹のあいだに大きな差をつけていたものの、妹の才能は身内ながら大変なものだと思っている。小太刀、投擲、格闘術(日本拳法と合気道の合成のようなもの)、隠行、径脈の知識、医療。一を聞いて十を知るその成長ぶりはしかし、才能だけで納得できるものでもなかった。おそらく心底からこういった技術の習得が好きなのだろう。自分とは大違いだ、と苦笑する思いだった。秀矩は他人を壊すよりは昆虫の生態を調べる方が性にあっている。来年四月からはオレゴンでアリの巣の生態観察プログラムに参加するつもりだ。
妹の部屋にある時代劇などをたまに流し読みしながら、妹はこの時代に生まれてりゃよかったのになと思わないでもない。明らかに現代は、ハットリくん以外の忍者にとっては住みにくい世界になってしまった。食卓で娘が話す学校での出来事、その言葉からは友達(よく家に連れてくるが、最近の女子高生はおとな顔負けの色気だ!)が大好きなこと、毎日の生活が楽しいことは感じられるものの、出会う人たちに対する尊敬の気持ちは感じられなかった。そしてそんな毎日に心底退屈しているのが感じられた。
世の中にはまったく尊敬できない人間などない、と秀矩は知っている。妹がそれを感じられないのは、価値観の根底が身につけた技術――ひいては生命力や戦闘能力――におかれているからではないかと父と話していた。そうであれば、その価値観だけは広げてやらなければならない。それが父としての義務だろう。そうして父は未成年の娘を京都に追いやったのだ。生き死にの現場にあっては人間のありとあらゆる部分が際立つ。戦闘能力や生命力などとはまったく無縁の大きさ強さを娘が見つけてくれれば。父にはその願いがあった。
よし、と気を落ち着けて目の前の二人に後ろから声をかける。振り返った男の顔にはいぶかしげな、しかし気さくな表情が漂っていた。それが一瞬でこわばった。とっさに恋人を背中にかばう動きに彼女だけが怪訝な顔をする。すごいな、と秀矩は目の前の男を見直した。自然体でいたというのに、一目で自分の能力を感じ取ったのだ。よほど才能ある人間に囲まれているらしい。首の裏が見えるまで頭を下げ驚かせたことを詫びた。男の緊張が消えていった。
妹を探しに来た、と言い名前を告げたら男は期待通りに知っていると返答した。
「鈴木さんと同じ部隊の男とは友人でした。鈴木さんともなんどか食事をご一緒したことがあります。アパートの場所までは知りませんが、一緒にシェアしている人の電話番号は知ってます――」
受話器を耳に当て、数秒して顔をしかめた。ついで他の番号にかけたようだった。
「――ああ、翠? 真壁です。鈴木さんのお兄さんが鈴木さんにいらっしゃっているんだけど、彼女のアパートの場所わかる? ――うん? ああ、それは大丈夫だと思う」
ちらりとこちらを見る。
「どこからどう見ても鈴木さんのお兄さんだから――由加里? うん、もう回収した。ああ、悪いね。じゃあ街の入り口で」
電話機をたたみ、自分は部屋を知らないが、知っている人間に案内させるから一緒に行こうと言ってくれる。礼を言ってからどうしてそこまでしてくれるのかと訊いてみた。
「つらいもの見て落ち込んでるだろうけど、俺たちじゃ何もできないから」
つらいもの? いぶかしい思いは態度に出たか、再び男――真壁というらしい――が四肢を緊張させた。慌てて謝る。
「恥ずかしながら、妹からの連絡がないから様子を見に来たんです。友達にも一八日くらいから途絶えていると言いますし。よければ妹に何があったか教えていただけますか?」
真壁は沈痛な表情を見せてうなずいた。三人は並んで歩き出した。
真壁啓一の日記 十二月二七日
今年の探索はすべて終了。昨日も書いたように今日は第二層までの探索とエディの部屋だけで早めに終わらせた。もう年末だからだろうか? エディの部屋も新参(といっても、俺たちと一ヶ月弱しか違わないんだけど)の部隊が二部隊いるだけだった。彼らは地力がないのでそれぞれ二回で終了。初心者の戦いを見ていると、人間はどのあたりが動かしづらいのかとかよくわかる。いやそれがわかったところで地下での戦いに益があるわけもないし、地上で素人さんと喧嘩する場合にも必要ない(今の俺なら陸上の選手でもない限り逃げ切れる)知識なんだけど。例えば大学の体操部にOBとして指導に行った際などは非常に役に立つと思う。
・・・あれ? 退学してしまった俺はOB.になれるのだろうか? もと副部長だったとしても? とりあえず体操部のペナントには名前を入れてもらえるらしいけど。
先日翠が言っていた、自分の噂が一人歩きしているのではないかという疑問だけどそれが一部分判明した。新参探索者の進藤典範(しんどう のりひろ)くんの話だけど、俺が東京に帰る前までの日記のログが一部で流通しているらしい。慌てて読み返したものの、鬼より怖い真城姉さんとはまだ親しくなる前のことで書いていなかったからほっとした。迂闊なことが書かれたログが目に入りでもしたら、まあ姉さんはネット徘徊などしない種類の人間だろうけど、何をされるかわかったものじゃない。その次におっかない翠についてもこの頃は美人だとかいろいろ書いているのでこちらも安堵する。でも進藤くんにはなるべく広めないようにお願いしますと言っておいた。そんな日記の存在を知ったらパスを教えろと言ってくる人間が殺到しそうだ。
進藤くんの部隊は生き残るだろうなと思える。進藤くんがまず身長一八五センチくらいのがっしりタイプであること。体格に優れた(うちでは青柳さん)こういう戦士が一人いると後衛は安心するものだそうだ。安心は緊張をほぐし、それが一瞬の勝機を掴ませる。俺は第二期では皆が認めるナンバー三だし、翠は説明の要もないほど優秀な戦士だけれどそれとこれとは話が別なのだ。死ぬ姿が思いつかない人間に守られている、という安心感が後衛の能力をすべて引き出し、第三層に降り立った今ならよくわかるけど、結局生き残りの鍵を握るのは術師たちだから。もう一人の戦士である斎藤直哉(さいとう なおや)さんは年長だけど落ち着きのあるタイプで、込み入った話をまとめる説得力がありそうだ。うちだと青柳さんだな。最近では緊急時以外は翠と葵が提案し、他の三人が修正や要望をあげ、それを青柳さんがまとめるという形になっている。多数決ではなくあくまで話し合いで、意見を却下される人間にも納得させる会話能力はその後のチームプレイに禍根を残さないという点で重要だった。三番目の戦士である海老沼洋子(えびぬま ようこ)さんは俺が出会ったなかでは四人目の女戦士(一人は既に故人になっている)だった。この街でも七人だとのこと。翠や真城さんといった美人ばかりを見てきた俺にはどうも女戦士=美人の意識があったけど、彼女は男っぽい、険しい顔立ちだった。まだ二十歳前ということで肌はきれいなんだからお化粧すれば変わるんだろうけど。ああ、そうだ。宝塚の生徒にこういう顔が多いと思う(彼女らは美人ぞろいではないのだ。ひどい言い方だけど、むすめ役をのぞいては女子プロレスに近い)。彼女は、申し訳ないけれど今の時点では特筆すべきことはないように思える。そもそも女が前衛で生きていくのは大変なことだ。真城さんはああ見えて腕力もあるけどそれ以上に脚力がすごい。あの人の訓練は主に跳躍ばかりで、津差さん用並みに重い剣をその重さも利用して振り回している。第三層でてこずる戦士タイプの怪物がいるのだが、真城さんの剣は防御しようと上げた相手の剣ごと頭蓋を粉砕するのだそうだ。いっぽうの翠は多分神様かなにかに「絶対負けない」という主人公の特典を与えられているのだろう。相変わらず実力が縮まった気がしない。ともあれいずれは筋力で男に負ける以上、女戦士には何かが必要なのだと思う。彼女はまだそれを見つけていない。見つけないで第二層までは行けるだろうけど、いつまでも見つからないようなら多分翠か真城さんがあきらめさせるのだろうな。
この部隊が生き残ると思う理由の第一は罠解除師にある。倉持ひばり(くらもち ひばり)さんというこの女性は笠置町姉妹や鈴木秀美(すずき ひでみ)さんと同じようにもともと訓練を受けているサラブレッドなのだ。他の男の目はごまかせても俺の前には無力だ。まあ、確信に変わったのは笠置町姉妹との再会をやかましく喜んだからだけど。彼女は鈴木さんとは違って生粋の罠解除師だそうだけど、罠解除師が優れていることの部隊へのメリットは大きい。一つにはもちろん怪物たちの残した罠を解く時点で下手糞ならやってしまう、お宝を壊してしまうミスがなくなるということ。もう一つそれ以上に大切なことは、エネルギーの流れを読むことで怪物の接近を早く感じ取れるということだ。うちの常盤くんも第二期では屈指と呼ばれているけれど、翠ですら気づかない曲がり角の影の奇襲を何度発見したかわからない。そして戦闘時ではほとんどすることがない罠解除師はそれだけ広く戦局を見ることができ、的確な指示が出せるのだった。うちでもこれまでは翠もしくは葵が指示を出していたが、それをだんだんと常盤くんにシフトしようとしている。
二人の術師はこの街に来て初めて探索者になっただけあってよくわからない。けれど、順を追って階層を降りていけば強力な部隊になるだろう。仲良くしたいものだ。というのも、彼らはタカ派の部隊だったからだ。タカ派の部隊で親しいところがあれば、欠員(用事や死亡)が出た時に相互に代打を頼みやすい。三原さんが初日に俺を誘ったように、ある程度経験を積んだ部隊はいわゆるマイナー・リーグを持つ傾向があった。俺たちも第二期の出世頭だしそろそろそういうことを考えてもいいだろう。そのあたりの選別と折衝は俺に一任されている。彼らは第一候補だった。
地上に戻ってシャワーを浴びながら由加里が来ることを話したら、クリスマスプレゼントは買いましたかと常盤くんに訊かれた。これを由加里が読むのは帰ってからだろうから書いてしまうけれど、もう断然ばっちりです。由加里の写真持って越谷さんを引っ張り出して京都じゅうの宝飾品店をまわりました。そう話したら「これもいかがですか?」と石を渡された。さては話題の魔法の石か? と思ったけれど違って、黒光りする石の表面に花が開いていた。化石だ。
怪物のお宝のほとんどは他の怪物の身体の一部が干からびたもの(お弁当?)だったり貴石や宝石の原石だったりする場合がほとんどだけど、結構高い確率でこうやって化石を持っていることがある。暗闇の中では当然化石化した昔の生き物を見て楽しむこともないだろう。どうして化石を持つのだろう? と常盤くんに訊いてみたら、たぶん自分の匂いをつけて身分証明にするか、あるいは所属するコロニーの証明に使うんじゃないでしょうかと推測してくれた。他にもよく持っているものとして炭のかけらがあるけれど、確かに化石や炭のようにある程度の硬さがあって内部にたくさんの孔があいているものは特定の匂いを留めておくにはちょうどいいだろうな。彼らはおそらく狩猟階級だろうけど、自分のコロニーに帰るためには持っている炭や化石の匂いを頼りに嗅ぎ戻らなければならないのかもしれない。ともあれ黒い石に浮き上がる花(現在の花では、ニリンソウに近い)の可憐さが気にいったので、これもプレゼントとしてもらうことにする。
そしてお仕事終了! 商社の詰め所には土曜日だというのに後藤さんが出ていて、シャワーあがりにシャンパンを振舞ってくれた。この人は仕事もきちんとやっているらしいけど、前のお父さんじゃ絶対にしないあからさまな人気取りをどうどうとやるところがかっこいいと思う。「これはごますりです!」と胸を張られてされてしまうとこっちも苦笑しつつ受け入れざるを得ないし、そしてシャンパンはおいしいのだ。酔いがまわったのか「由加里ちゃんに会いたいー!」 としきりに駄々をこねる一名に二九日の夕方まで俺の携帯に電話をしないことをきつく命じて駅まで出迎えに来た。何だかんだと言って一ヶ月ぶりだものな。邪魔はされたくない。
そして今、ロイヤルスイート(!)のパソコンからこれを書いている。既に一度真城姉さんの部屋を見ていた俺は心の準備ができていたけど、初めて見る由加里には衝撃は大きかったようだ。呆然と、「入学式で泊まったリーガより豪華だ」と呟いていた。リーガて。今も蛇口をひねっては悲鳴を、ベッドルームを覗いては悲鳴を、テレビ画面をつけては悲鳴をあげている。立派に稼げる男になったと見直してくれただろうか?
でも晩飯はこれから北酒場。
津差さんや女帝、神田さん越谷さんなど見てみたい人間が山ほどいるらしいけど・・・邪魔は、されたく、ないのだが・・・今夜無事にこの部屋に戻ってこれるのだろうか。
十二月二八日(日)
迷宮街・宮殿 八時二七分
夢オチだったのか、とぼんやりとした世界の中で思った。明日死ぬかもしれないと思って眠れなかった夜、皮膚を裂く刃物の痛み、生き物の死体を削り取る刃とどろりとした鬱血が流れ出す感触、親しかった人間の死に「死んじゃったのか」としか思わない異常性・・・そりゃそうだ、夢に決まってる。どこから見ても臆病で平凡な大学生の自分が迷宮探索に飛び込むわけないじゃないか。
ほら、部屋には嗅ぎなれたコーヒーの匂いが充満している。由加里が親戚から送ってもらっているという、新潟の喫茶店で販売されている粉。「朝だよ」という声が聞こえた。三度呼ぶ声を無視すると彼女はため息をついて起こしてくれるのだ。ほら、足音が近づき、小さい掌が肩に当てられ――唇を何かが甘噛みする。小柄な身体、小さな頭にふさわしい小さな前歯の感触が気持ちよかった。
長い楽しい夢だった! でも、醒めてくれてよかったと心から思う夢でもあった。真壁啓一(まかべ けいいち)は目を開いた。目の前に見慣れた恋人の顔、そしてその背後には見慣れた彼女の部屋――ではなく朝の光にきらめくシャンデリア、さらさらと肌触りのよいシーツ、そして高い天井には染みひとつない。ここは、どこだ? 眠い頭で考えた。
「どうしたの?」
あたりを見回す男にその恋人――神野由加里(じんの ゆかり)は怪訝な顔をした。
「ここ、どこ?」
「えーと、日本」
なるほど、もう少し狭くお願いしますと気持ちを込めてうなずいた。
「じゃあ、関西」
「・・・もしかして迷宮街?」
恋人はうなずき、真壁は脱力した。そりゃそうだろう。あんなリアルな夢があるはずないじゃないか・・・。
「どうしたの?」
いや、と苦笑いして手を差し伸べ小さな肩を抱き寄せた。こんな小さくて可憐な生き物は久しぶりだった。この街の女たちは(非探索者もふくめ)どこか人品が骨太である。だからだろう、昨夜の北酒場では日ごろ親しくしている人間がすべて集まっての大宴会になってしまった。最初は二人で端っこの席を取って、行き交う人を一人一人実況解説する予定だったのだ。自分達の席に来なさいという女帝真城雪(ましろ ゆき)の命令も断固として(平身低頭で)つっぱねた。しかし、一瞬だけトイレに立って戻った席にはもう自分の恋人はいなかった。拉致された彼女はアマゾネスたちの集団で笑い転げていた。その隣りにあいている椅子は自分のためのものだろう。不承不承座ったら、津差龍一郎(つさ りゅういちろう)が「こっちに円テーブル二つくっつけてあるぞ」といらぬことを言った・・・。
カップにコーヒーを注いでいる恋人を横目で見る。ロマンチックもくそもないクリスマスディナーだったろうけど楽しんでくれただろうか? その顔はいきいきとしているようだった。
夕べの感想を訊いてみた。真城さんきれいだった! と返ってきた。写メールに四枚も顔写真もらっちゃった! という言葉に苦笑する。確か自分の顔写真は一枚しかなかったし、「きっと見ないし、ていうか男は顔じゃないよ」と言っていたのを思い出したのだ。
洋風のお金持ちがベッドで朝食を食べる際に使うような小さなテーブルを二つ用意し、いちどやってみたかった! と笑ってから隣りにもぐりこんだ。にこにこと自分を見上げる顔に合点する。つまりテーブルを置いてやる執事役は自分がやるのだろう。ベッドから降りて、上に載せられているパンとサラダ、スクランブルエッグの朝食をこぼさないように彼女の前においてやった。真壁はこの街に来てから朝食を食べないようにしている。コーヒーカップだけ持って由加里の隣りに腰掛けた。
枕もとの観光ガイドを開く。今日立てていたプランを説明しようとすると由加里は首を振った。いいよ、と笑う。
「啓一が見せたいと思ったものならなんでも嬉しいから」
お、おう。と幾分照れながらコーヒーをすすった。甘党なので普段はココアかジュースになる。だからコーヒーの香りは隣りにいる娘の記憶に直結していた。でも、と恋人が声を上げた。今日は九時までにこっちに戻りたいな。翠さんとモルグに泊まる約束しているから。
「なんでまたわざわざモルグに?」
その質問に指を折って数えた。一つ、この部屋は五年に一泊くらいでいい。分不相応だよ。それには真壁も深くうなずいた。目覚めてからこれまでの数分間で「ここは自分の居場所ではない」という意識が生まれつつあった。二つ、モルグで寝てみたい。普段啓一がいる場所だし、なによりあの殺伐とした雰囲気がたまらない。お化け出ないかな。三つ、翠さんとよく話してみたい。昨日の夜ではまだ何か憂鬱な感じだったし、乙女トークでしか解消できないものがあるのよ。いつも啓一がお世話になってるんだからね。四つ。小指を伸ばして意地悪く笑った。
「先ほど今月のおつとめが来ました。今夜は一緒には寝られません」
突然の生々しい言葉。うろたえた様子は顔に出たのだろう。残念だったね! でも夕べは滑り込みでよかったじゃないと恋人が笑った。照れ隠しに今日の観光は大丈夫か、この街で寝ていてもいいぞと言うと、娘は笑いをかみ殺しながらあたしはいつも楽なの知らなかったっけと答えた。そうだ。いつもこの会話では照れ隠しに真壁が身体を気づかい、恋人がこう返すのだった。
「啓一、変わらないね。――よかった」
白い小さな、マニキュアの塗られていない手が髪をなでる感触。それでも片手はしっかりとパンのかけらを口に運ぶ姿に真壁は笑い、お前の食い意地も変わってないよと答えた。
迷宮街・笠置街姉妹のアパート 一三時二十五分
妹の名前を呼びながらドアを開けたら見知った顔が振り向いた。部隊の仲間の常盤浩介(ときわ こうすけ)だった。最近妹と仲がいい。お邪魔してますという顔に微笑んだ。
「今日私帰らないから、ご飯つくるならいらないよ」
「りょうかい。どこに行くの?」
モルグ、と答えた。一泊千円で利用できる、広間にずらりと二階建てベッドが並んだ宿泊施設である。
「由加里さんと女同士語りあおうって約束――なに、二人ともそのえらくアジのある顔は」
い、いえ、と常盤が視線をそらした。妹もなんでもないとあやふやに笑う。要領を得ないまま笠置町翠(かさぎまち みどり)は扉を閉めた。
迷宮街・落合と鈴木のアパート 一四時四四分
それではよろしくお願いします、と頭を下げると妹――鈴木秀美(すずき ひでみ)と同居している落合香奈(おちあい かな)という女性は心細げにうなずいた。あと一日でも一緒にいてあげたら、いいえ、お正月くらい実家に連れて帰ったら。妹の世話を億劫に感じているのではない、心から心配してくれている顔にもう一度頭を下げた。そして笑った。
「あれには今が正念場です。ご存知のとおり、あれは大変優れた地力をもっています。この苦しみを自分で乗り越えられないようならその地力が逆に妹をねじまげてしまう。心の弱い人間は強い力をもってはいけない。そして、誰だって自分ひとりで強くなるしかない」
昨日、久しぶりの兄の顔を見た玄関で妹は泣き崩れた。同室の女性が帰ってくるまで一時間くらいだろうか? 自分の胸にずっと顔を押し付けながらぐずっていた。夕食をいただいて、ベッドに入った妹にせがまれて部屋の片隅で毛布にくるまった。深夜の三時ごろだったろうか? 駅まで案内してくれた青年が語ってくれた一部始終を妹が自分の言葉で教えてくれたのは。全て話し終えて、自分がああしていればという遅すぎる後悔を全て吐き出して、ことんと眠りに落ちた。そして今にいたるまでずっと眠りつづけている。
「西野さんという方はとてもご立派だったようですね」
落合は虚を突かれた顔をした。妹の悲しみを、同い年の少年の死だけと直結させていたのかもしれない。もちろん悲しみの原因はそこだったが、心を砕くその衝撃の直前にでも西野太一(にしの たいち)という人物を目の当たりにしたことは妹を救うだろう。眠りに落ちる直前、私は西野さんのようになれるだろうかと問い掛けられた。心からそう願えばな、という言葉がその耳に届いたかどうかはわからない。しかし部屋を出る直前も寝顔の口元にあった安らかな表情を見れば、たとえ届いていなくてもいつかは自分で知るだろうと確信できた。
「鈴木の家の人間はこんなことじゃ折れません。落合さんも、遠慮せずにあれをどんどんこき使ってやってください。それも気晴らしにはいいでしょう」
彼女は、なんとか自分を納得させたようにうなずいた。
真壁啓一の日記 十二月二八日
今年も残すところあと三日。日記をつけ始めたのが十一月一日だったから、もう二ヶ月も続いたことになる。最初の頃にあった「明日死ぬかもしれない」という切迫感はいまはもうない。別に死なないと思っているのでもなく、死んだら死んだで仕方のないことだと受け入れてしまったのだ。結局、不注意ならば自動車のハンドルを切り損ねるし、運が悪ければ上から鉢植えが降ってくるものだ。
じゃあどうして日記を? と自分でも思うけど、それはきっと日記に書くために色々と楽しいことをしようと思うからなのだろう。一日が終わってメモ帳を開き、さあ今日は何をしたんだっけ? どんな楽しいことがあったんだっけ? と思い出さなきゃいけないようだとまるでその日を無駄にしてしまったような強い後悔を感じるのだ。その後悔を忘れないため、毎日書きつづける。
「啓一、一〇年はな、三六五〇日しかないんだぞ」 うちの爺さんの言葉だ。そうだ。一〇年は三六五〇日しかないのなら一日を無駄にしていいはずがない。この日記も毎日を積極的に過ごすための動機の一つに確実になっているのだから、続けないといけない。
それに、俺が書き残して公開することで、西野さんという気分のいい人が、小寺という愉快な男が、神崎さんというエレガントな色男が、今泉くんという前向きな美少年がいたことをみんな思い出してくれるだろうし。あー、やっぱり日記の動機はネガティブなのか。楽しまないと。
今日は由加里という楽しい生き物がいたのでとても充実していた。由加里は「寒い! 温泉に入りたい!」と言っていたけど、二七日の雪がまだ残っている可能性を考えて北は避けることにした。ということで銀閣〜平安神宮〜青蓮院〜新福菜館〜三十三間堂〜清水寺〜都路里〜高台寺と見て歩いた。年末だからかな? 日曜なのに人手が少ない気もする。喜んでくれたようでよかった。
夕食は久保田早苗(くぼた さなえ)さんに教えられた料亭へ。以前青柳さん、久保田さん、神崎さんと行って一人五万円取られたところだ。今回は二人ともお酒は控えめだったので適度な金額で済んだ。でもご馳走した人間にプレッシャーになるので金額は書かないでおく。いつもの暮らしが質素だから(宴会がない日は無料の定食だけで生きているんだから)、たまにはこういうハレの日があってもいい。その後、祇園の美観地区みたいなところを二人で歩いた。
由加里は今夜は翠と語り合うらしく、約束の時間まで男モルグに設置されたテレビを見ながら待った。木賃宿の建物は二階が男モルグ、三階が女モルグだけど、女モルグは男子禁制だが女性は男モルグには往来自由なのだ。その場にいた葛西さん、児島さん、津差さんらとテレビを見ながら話した。このあたりは居残り組らしい。
二七日から三日までは商社の買取が行われないから探索もお休みだけど、それは地上の理屈だ。当然地下のやつらがさまよい出てくるのを防がないといけない。煌々とライトが照らす階段は怪物たちを近寄らせないものだけど、さすがに四〜五日も俺たちが降りていかないようだとチャレンジャーな奴らが登ってこないとも限らなかった。そんな時に実戦経験の少ない自衛隊員だけで無事に済む可能性は低い(鉄砲は人間に対しては最強の武器だけど、それは人間が鉄砲を理解しているからだ。鉄砲を知らない存在相手では単なる命中率が悪いダーツに過ぎない)。だから、迷宮街に残る探索者たちから志願者を募って第一層を巡回して示威行動をすることになっていた。報酬は一日三万円、そして去年は一月一日の探索者にはお餅サービスがあったらしい。実家に帰るのも憂鬱だし俺も居残り組になろうかな。お餅は徳永さんの家族が音頭をとって、事業団職員の方々が臼と杵でついてくれるという。そっちに加わるってのもいいな。
由加里を見送ってから津差さんと飲む。彼の部隊の幌村幸(ほろむら みゆき)くんの話題になった。才能はすごいな、と津差さんは認めた。しぶしぶ、という感じだった。でも、俺たちのやってることを正当化する態度はどうにも鼻につく、らしい。多分、歴史上の侵略は大概そうだったんだろう(少なくとも末端では)けど、どこからどう見ても悪である行為に「大義」とか「正義」と言われると腹が立つという。まったく同感だ。
俺はまったく同感だけど、問題なのは緊張感に満ちた毎日を過ごす探索者が心のより所とするために幌村くんの意見に感化されつつあるということだった。もちろん長い間ここで過ごしてきた第一期の人たちには惑わされる人たちはいない。津差さんの意見だけど、誰かの正当化を必要とする程度の人間は遅かれ早かれ淘汰されるのだと俺も思う。
でも、ここでまた問題を難しくするのはエディの部屋の存在だった。極めて早い動きと低い殺傷力を持ち、つくりものだから殺しても罪悪感を感じないあの黒人の訓練場があることで探索者の成長の速度と生存確率は跳ね上がった。あまりに新規探索者が死なない/逃げださないものだから、来年の四月二〇日までと予定していた第二期募集を二月末までに繰り上げようかという案もあるくらいなのだ。エディの部屋は、これまで生き死にのきわで行われていた成長という行為を容易にしてしまった。その結果、これまでなら要求された覚悟の量をもたないで能力だけ高まる人間が増えていく気がする。
でも、結局は宗教も同じなのでは? という俺の意見に津差さんはうなずいた。極端な原理主義者でもない限り、現代の信仰もつ人たちは上手にそれを利用している。宗教の定める禁忌で都合の悪いものは上手に無視しながら、精神的な安定だけをうまく取り入れている。すぐれたバランス感覚。幌村の意見に感化されるのも、とりまきたちにとってはその程度なのでは? 津差さんは深く、そして苦い顔でうなずいた。
そうだ。苦い顔の理由は俺にもわかる。
経典はもう新しい言葉を吐かない。けど幌村はこれから何を言うかわからないのだ。
俺たちの会話を聞いていた小川さんがとりなすように言った。それほどには問題にならないと思います、と。少なくとも当面は、と。どうしてか? と訊いたら、小川さんの見る限りでは探索者は結局のところ現実主義的だという。自分が信じる価値観で相手を心底認められないかぎり、共感はしても狂信には陥らないと。この街の探索者の根底にある価値観はなんですか? と訊かれた。
そりゃもう文句なく生き残る力だ。てことは、この街で幌村が教祖を目指すには笠置町パパを超えなければいけないということか。
多分人類じゃムリ。
十二月二九日(月)
迷宮街・木賃宿 七時四二分
高崎和美(たかさき かずみ)は階段の上に男の影を見つけて顔をこわばらせた。木賃宿と呼ばれる彼女の勤め先、三階部分は基本的に男子禁制なのだ。四階から上に行くために通る可能性は確かにあるが、男性はエレベーターを使用するように暗黙の了解ができあがっている。怒鳴りつけてやろうと身構えて、人影の顔がこちらを向いたのを見て思いとどまった。親しい顔は困りきっており自分を見て心からほっとしているように見える。何か事情があるのだろうと思ったからだ。しかし連れてきた息子の隆一にはそういった配慮はまだ早かったようだ。
「あー! 啓一覗きだー! 覗きー! 啓一が覗きー!」
いっしょに連れてきた探索者の娘、星野由真(ほしの ゆま)も覗きー! と和する。
真壁啓一(まかべ けいいち)は傷ついた顔をした。高崎は息子の頭を軽く叩いて黙らせどうしたのかと問いかけた。
「うちの彼女がまだ中で寝てるんですけど、誰かに起こしてもらおうと思って・・・」
非探索者だという。だったら一目瞭然なので軽く請合って中に入った。小学五年生の息子は、二年生の女の子をつれて階段を駆け上がっていった。探索者の一人、津差という男のところに遊びに行くのだろう。
洗い立てのシーツをソファの上においてモルグを見渡す。探すまでもなく、この広間で使われているベッドは一つしかなかった。彼はきっと出てくる人を捕まえて起こしてもらうように頼むつもりだったのだろう。他の宿泊者がいないから高崎がこなければずっと待ちぼうけを食わされるところだった。
そのベッドに近づいて苦笑した。二段ベッドの下のフロア、狭いそのスペースに女の子が二人並んでいる。寝巻きですらないところを見ると、話し込んでいるうちに面倒くさくなって寝てしまったのだろうか。片方の娘には見覚えがあった。理事の娘でよくここにも本を読みに来る探索者だ。名前は笠置町――なんだか、一文字の植物の名前だったと思ったが思い出せない。顔をあわせると常に軽く会釈してくる(理事の娘というお嬢様育ちの割には)いい子だと思っていた。
それが、と床上に散らばる化粧品を眺めてため息をつく。もう一度理事の娘の顔を見た。常日頃の顔は化粧気は最小限だったのに、今朝はかなり積極的で好戦的なメイクになっていた。もう一人の娘(こちらが真壁の恋人だろう)に教えてもらっていたのだろうか? そう、整った顔立ちによく映える化粧だったはずだ。シーツや枕、隣りに眠る娘の頬でかき乱されていなければ。真壁の恋人の頬も赤やら青やら華やかな状況になっていた。二人を揺さぶる。
うあ、と声をあげて二人同時に目を覚ました。それを確認してベッドを後にした。
背後でお互いの顔を笑いあう声が聞こえる。気遣わしげに突っ立っていた真壁を追い払うように手を振った。
「当分準備できないだろうから、北酒場でお茶でも飲んで三〇分もしたらまたおいで」
真壁は情けなそうな顔をした。
迷宮街・迷宮出入り口詰め所
常盤浩介(ときわ こうすけ)は、読んでいた文庫本から視線を上げた。目の前には白衣を着た女性が一心に書き物をしている。さきほどまで隣接する製品の抽出ブースにこもっていたから、検査結果を整理しているのだろうか。ここは迷宮の出口を囲むように建てられた建物の一室だった。普段は事業団の職員がつめているが、現在は探索者の有志が代わりに管理している。管理、といっても単に常駐し、化け物が登ってくるのを防いだり暇なら練り歩きに降りるだけなのだが。今日詰めている探索者は七人だった。前衛が三人と治療術師が一人、魔法使いが一人、罠解除師が一人、そして常盤である。常盤以外の六人は今部隊を組んで地下に降りていた。第一層を適当にうろついて怪物たちへの示威行動を行っている。
こと戦闘においてそれほど貢献できない罠解除師である常盤が詰め所にいるわけは、その留守を守るためだ。示威部隊の隙をついて怪物が階段を登って来たとしたらそれはサイレンの音を詰め所に響かせる。すると銃器を持った自衛隊員が階段途中で拳銃を構え、発射の指示は常盤が行うのだった。罠解除師である常盤は怪物の所在を視覚ではなくエーテルの様子で掴むことができ、有効射程ちょうどでの発射指示が可能だった。
まあ、とショートカットの頭を眺めながら思う。去年も出てきたことはなかったらしいし、何事もないだろう・・・。それよりもだ、と目の前の女性に話し掛けるタイミングをうかがっていた。小柄な女性――三峰えりか(みつみね えりか)という成分抽出の研究員がシャープペンシルを置いて首をぐきりと動かした。
「あ、あの」
緊張のあまりか声が上ずる。三峰はびっくりした顔でこちらを見つめ、吹き出した。
「うん、なんですか?」
「三峰さんて、もしかして高槻秀彦教授の下にいたことありませんか?」
彼女は目を見開いた。
「うん、そうだけど・・・。どうしてわかったの?」
やっぱり! と常盤はせきを切ったように話し出した。俺も高槻ゼミにいたんです。ここに来るために学校を辞めちゃったんですけど。たんぱく質の電気抵抗に関する去年の論文を読ませてもらいました。他がドクターばかりなのに、たった一人マスターで協力者に名前が載っているのはすごいです。三峰先輩、伝説の人なんですよ。サインください。
まあ落ち着けと憧れの先輩が両手を上げて、後輩は我にかえった。先輩は懐かしそうに常盤をじっとみつめた。自分の真っ赤な髪の毛にも怖気づいてはいないようだった。
「高槻ゼミなんだ? 懐かしいなあ。先生はお元気?」
先日東京に帰ったときにはお元気でした、と答えると微笑んだ。そしていぶかしげな顔をする。
「でも、あなたと会ったことないよね。去年までなら学部生にも知り合いはいたんだけど。すれ違いだったかな?」
そうです、と常盤はうなずいた。そのゼミ室に顔を出し始めたのが去年の十月の基礎演習がきっかけで、三峰が就職したのはその年の四月だった。
でもどうしてドクターにならずにここに来たんですか? 教授がものすごく惜しんでいました。その言葉に三峰は笑った。からりとしたいい笑顔だった。
「研究に必要なのは機材でも立場でもないわよ。面白い題材とやる気だけ。私にはやる気があるし、ここよりおもしろい題材が他にあるかしら?」
常盤は感銘を受けてうなずいた。その通りだ。話が終わったと判断した女研究者は書き物に戻り、再びそれを邪魔したのは一五分考えたあとだった。その通りだ。やる気があるならなんでもチャレンジしてみるべきだろう。あの・・・、という言葉に顔をあげた先輩におずおずと申し出た。
「何でもいいですから、俺もお手伝いさせてもらえませんか? 俺は実際に戦わないんで、その分いろんな観察をしてこれると思います。今はデジカメを持ち込んでますけど、ビデオも使えます」
こくりと唾を飲み込んだ。不安だった。どこの馬の骨ともわからない自分の手が必要なほど、この女性は困ってはいないだろう。なんといっても恩師が絶賛する人なのだ・・・。
三峰えりかはにっこりと微笑んで手を差し伸べた。あたしの手伝いは大変だよ? と言いながら。常盤はこぼれる笑顔を隠すこともできずその白い手――研究者に似つかわしく細くて長い指――を握り締めた。思ったより強い力が握り返してきた。
真壁啓一の日記 十二月二九日
ふー。さあ、カレンダーにまたバツをつける日々が始まる。今度は三月九日。ゼミの女性陣の卒業旅行の前、由加里だけ関空出発にしてくれるとのこと。あと二ヶ月とちょっとだ。夕べ越谷さんに訊いたら鞍馬温泉までは自転車が簡単に通行できるくらいの雪だというのでまずは鞍馬温泉に連れて行った。なんでも夕べは話し込んでいるうちに銭湯の時間が過ぎていたらしく、朝一番に風呂に入りたがったからだ。それでも雪が残っていたときに俺の運転では不安だったので暇そうだった津差さんに運転をお願いした。ついでに星野さんのところの由真ちゃんと、高崎さんの息子の隆一くんも一緒に行くことに。由真ちゃんはすっかり由加里になついた。由加里は子どもの相手が上手だと思う。いいお母さんになるんだろうなって一体何を書いているのか、俺は。
鞍馬温泉を出たのが一時過ぎで由加里の新幹線は一五時だったから遊ぶにも時間がなく「ハンバーグハンバーグ!」 と叫ぶ子どもたちの熱意に押されてびっくりドンキーでお昼ご飯にした。そのまま俺たちは京阪に乗り京都駅に向かう。なんだかどたばたしていたけど湿っぽくならなかったのはいいかな。また二ヶ月とちょっとで会えるんだし。
で、由加里を見送った後俺は本屋で立ち読み。入れ違いに木村さんがやってくるのを迎える約束をさせられていたのだ。由加里だって国際会議場まで一人で来たというのに。久しぶりの木村さんは相変わらず男前で、でも少し太ったかな。卒論でずっとこもりっぱなしなのだろう。この人は痩せすぎで背も高いのでこのくらいがちょうどいい。
街に着いて木賃宿六階のセミダブルの部屋を取ってあげたらその時点で「ご苦労」とお払い箱になった。酒につき合わされるのかなと覚悟はしていたけど、それまではしゃぎ過ぎで疲れていたから正直助かった。北酒場に行くとまた宴会に引きずり込まれる気がしたのでコンビニでお弁当を買って食べた。昨日の夕方、由加里がシャンプーセットを買うために寄ったときにレジにいたのが織田さんだったので、今日は根掘り葉掘り訊かれることに。この人も暇なんだなあ、きっと。元旦もこの街で餅つきに参加するらしい。
さあ、もう寝よう。
迷宮街・ミニストップ 二〇時五七分
ぱっと見た限り普通の地方都市って感じなんだな、というのが夕方から歩き回った木村ことは(きむら ことは)の印象だった。あえて違いを探すなら車の往来が少ないから車道を平気でママチャリが走っていること、道行く人間のうち肥満者の率が甚だしく低いこと、外国人と老人が見られないこと、きちんと区画整理されて猥雑さを感じさせないことくらいだろうか。あ、あとこれだ、とコンビニの棚の前で思う。健康系の雑誌がものすごく多種にわたり並んでいる。やっぱり身体が資本だからだろうか。そして成年男子向けの雑誌の種類が少なかった。狭い街のたった一軒のコンビニでは男たちも買い控えるのだろうか?
うーん、と一二月二四日発売の雑誌『ターザン』の表紙を眺める。東京で気になったが買えなかった本だった。旅の恥は掻き捨て、ここで買っていこうか・・・手を伸ばした。
「あれ? 木村さん?」
雑誌をもったまま凍りつき、おそるおそる横を見るとそこには見知った女性が立っていた。東京に遊びに来たときに会ったことがある彼女の名前は笠置町翠(かさぎまち みどり)という。ゼミの仲間の近況日記の中ではなじみの深い名前だったが、彼の日記が一般お断りになってからは少し安否を気にしていた。無事に生き延びているらしい。
「あ、ああ、翠ちゃん」
さっと雑誌を背後に隠し笑顔を浮かべた。
「木村さんも来てたんですか? 由加里さんは今朝までいましたよ」
「うん、知ってる」
「真壁さんと一緒じゃないんですか?」
「いや、せっかく知らない土地に来てるのにあんな顔見てもしょうがないよ。迷宮街を見てみたかったから来たわけだしね」
あんな顔って、と翠は苦笑した。そして不意に表情が翳った。
「真壁さんって東京にいた頃とは変わったんですか?」
うん? と駅に着いてからの同級生との会話を思い出した。確かに動作対応に余裕ができた気がする。でもそれは、三日に一回のチャンバラを生き抜いて当然自信もついた結果だろうと思っていた。わからないねと答えた。ホテルに部屋取らせてそのまま追い払ったから。ひどいな、と翠は苦笑した。
「由加里さんが気にしてたみたいなんです。東京に戻ったら木村さんも気をつけてみてくれませんか?」
そうだね、と木村はうなずいた。一時はこの娘が二人の障害になるのではと思ったこともあった。しかし目の前で真剣に気遣う表情はそれが杞憂だと教えてくれている気がする。気をつけるよ、と笑った。女剣士は微笑んだ。
そして視線を下に落とした。
「・・・ええと、一冊買うのも二冊買うのも同じですよね。ね? 私の分も買ってくれませんか?」
やっぱり気づかれていた。木村はため息をついて同じ雑誌をもう一部手にとった。表紙にはその号の特集が大書してある。
そこには「あなたのSEXは最高?」と書いてあった。
十二月三〇日(火)
迷宮街・迷宮出入り口詰め所 一二時三二分
腹減った腹減ったと唱和しつつ示威部隊が地上に戻った。留守番役の太田憲(おおた けん)、落合香奈(おちあい かな)がお疲れ様と出迎え、ビニール袋の中から折り詰め弁当を取り出した。そして大きなお鍋。これは落合が北酒場のコックに頼んで作ってもらった豚汁である。昨日はなかった、さすが常盤と香奈ちゃんじゃ違うなという黒田聡の言葉に、泥と血に汚れたツナギの全員がありがとうございますと頭を下げた。落合香奈は苦笑して三角巾を頭に巻く。普段からキャリアウーマンのような格好をしている彼女は今日もダークグリーンのパンツスーツ。その上におさんどんの割烹着を着て三角巾を巻く姿は非常にほほえましい。
入れ違いに出て行った自衛隊員を見送って、津差は部隊の罠解除師である太田に小声で訊いた。なんか込み入った話をしていましたよ、という視線の先には苦虫を噛み潰したような星野幸樹(ほしの こうき)が座っている。星野さん、その話が鬱陶しくてお昼休みにこっちに逃げてきたのに追っかけてきたんです。
「星野さんお疲れさまです」
迷彩服を着ているということは、探索者としてではなく公務員として詰めているのだろう。うん、と仏頂面でうなずいてから、軍人は思い出したように津差に礼を言った。昨日彼の娘を温泉に連れて行った件だった。いえいえと恐縮した。
「ゆかりおねえちゃん、って由真がうるさかったが、真壁くんもいたのなら理事のお嬢さんのことか? 名前を間違えているか?」
「いえ、違います。ゆかりさんてのは啓一の彼女ですよ」
えー! と太田ともう一人、先ほどまで示威部隊に参加していた鯉沼昭夫(こいぬま あきお)が驚きの声をあげた。なんだ? と二人を見やると顔を見合わせ、鯉沼が口を開いた。この男は星野の部隊の治療術師で、アマゾネス軍団の一人鯉沼今日子(こいぬま きょうこ)とこの街で出会い結婚したという珍しい経歴を持っている。真壁くんに彼女がいることに驚いて、加えてそれが笠置町さんじゃないことにさらに驚きました。その言葉に津差は苦笑した。ほとんどの男たちは笠置町姉妹(特に姉)に畏怖の念を抱いている。彼らにとって表面上は家来のように扱われながら実際は女傑に君臨している真壁にもまた端倪すべからざるという思いを抱いていたし、実力で劣る真壁がそれを成しえているのは恋だの愛だのという人間関係におけるレアカードのおかげだと思い込んでいたのだ。二人をすぐ近くで見ている津差には彼らの関係は腑に落ちるものだったが、それほど親しくない太田や鯉沼ではそう思うのも無理はない。
そうか、と星野はうなずいた。やさしかった、やさしかったとうるさかったから、笠置町嬢のイメージとは合わないと思っていたという。今ごろはくしゃみでもしているだろうか? と津差は笑いをかみ殺した。
「ところで津差。青柳から打診のあった件は聞いているか?」
流れで一緒に食事をすることになり豚汁の紙皿を持ちながら、星野が津差に話し掛けた。ああ、と鯉沼や葛西紀彦(かさい のりひこ)といった最精鋭部隊の面々がうなずく。思い当たることがあるらしい。
「知りません。なんですか?」
星野の話では、一月中旬から下旬にかけて笠置町部隊の人間をそれぞれ第四層に達している四部隊に出稽古させてもらえないかという打診が青柳誠真(あおやぎ せいしん)から各部隊のリーダーになされたらしい。第四層を経験し、できれば成功している部隊の空気に触れるのが目的だという。啓一の考えそうなことだなと津差は興味を持った。
「俺たちとしても異議はない。現状は相変わらず第四層で頭打ちだからな。高田さんが瞬間移動の術を身に付けたからあそこの部隊だけは今後第四層を起点にしてスタートできることになったが、それでも後進の育成と全体の能力の底上げはやらねばならない課題だからな」
津差がこの街にやってきた日、二〇〇人以上すでに探索者がいた。いわゆる第一期と呼ばれるものたちだ。しかしそれも今や一二〇人程度に減っていた。ほとんどが第四層に挑戦して壊滅したのだが、それまで第二層でくすぶっていたものたちがとうとう笠置町部隊に追い抜かれてあきらめるケースが最近出始めていた。ともあれ、第一期だけでまとまっていても仕方がないと星野は言う。現時点で第一期探索者だけで組んでいる部隊は精鋭四部隊を含む一二部隊で、残りは第一期と第二期の混合部隊になっているのだ。現に第一期で先輩にあたる鯉沼も津差に対しては年長者として丁寧語を使用している。精神面でも壁はなくなったのだろう。青柳の提案はそういう状況に合致していた。
だが、と星野は言う。精鋭部隊とはいえ第四層では油断はできない。出稽古を許すメンバーは厳選するという。星野、高田まり子(たかだ まりこ)、真城雪(ましろ ゆき)、湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)のリーダー四人で話し合った結果、七人が出稽古を許すとしてピックアップされた。
「七人も?」
津差は意外だった。彼らのレベルに達しているのは笠置町姉妹くらいだと思っていたからだ。お前がそんなことじゃ困るな、と星野は笑った。笠置町姉妹、津差、真壁は誰も悩まなかったと星野は言う。そうなのか。
「あとは鈴木秀美(すずき ひでみ)――彼女が望めばだがな――と倉持ひばり(くらもち ひばり)、それと久米篤(くめ あつし)だな」
二人は知らなかったが、笠置町姉妹と同じサラブレッドだそうだ。どうにもこの迷宮は、自分たちの生活の糧だけではなく超人の卒業試験にも利用されているらしい。
「お前にとっても悪い話じゃないと思う。考えておいてくれ」
とりあえず発起人と思われる真壁に狙いを聞いてみよう。そう考えながらうなずいた。
宮島・民宿 二二時三四分
ふううううううと息を吐く声が聞こえる。なんとなしに妻のその声を耳に留めながら、笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)は目の前の男のコップに焼酎を注いだ。彼は奥島幸一(おくしま こういち)という名で、笠置町夫婦と同じく政府から月一〇万円の助成金とともに緊急事態への即応を依頼されている『人類の剣』だった。穏やかな顔からは想像もつかない剣の達人で、四つ奥島が年上で、ずっと剣の腕を競ってきたものの一度だって勝ったことがない。もし奥島と喧嘩するようなことになったら切り合いはあきらめ、一目散に逃げるか魔法で勝負するしかないと思っている。
ここは広島県は宮島。迷宮での今年最後の探索を終えてからこの島で民宿を営む知人を訪ねたのである。
ふううううと相変わらず続く声に、妻が軟体になって崩れていくのではないかと無気味な想像が頭をよぎり、マッサージチェアを振り向いた。溶けもせず妻はそこにいたが、ふっと隆盛は違和感を感じた。
「茜、おまえ少し太ったか?」
少しどころじゃないわよ、とけらけらと笑う顔はアルコールで真っ赤になっていた。この二日で二キロ太っちゃった。出てくるもの全部おいしいんだもの。奥島さんは料理の腕でもあなたに完勝だわよ。開き直られて憮然とする隆盛に、奥島が笑って焼酎のビンを差し出した。
私、太る体質なのよね。あの子たちも絶対太るわ。常盤くんも真壁くんもそんなこと想像もしてないでしょうけど。
まだあいつらが翠や葵とどうこうなるって決まったわけじゃない。むっつりとつぶやいた。もちろん若い頃にきちんとさまざまな経験をしている隆盛はわかっているのだ。娘二人がそれぞれ隣に座った男たちに好意を抱いているということは。しかし「わかる」と「認める」には大きな隔たりがあるのだった。それが「心地よく受け入れる」になったら接点すら見つからない。
そうは言ってもなあ、タカよ。奥島が笑った。彼は一姫二太郎。二九歳になる姉は助成金ももらっている『人類の剣』だったものの、子どもの世話が忙しくて迷宮街には関わっていなかった。娘なんてえのは、父親が惜しいと思ううちに嫁に出しちゃった方が結果的には後悔がないもんだぞ。そうよー、と茜が賛成した。ぶすっとして小魚の佃煮をつまんだ。
「それはそうと」
茜が声をあげた。
「奥島さん、ふとした時に遠州を感じることない? 遠州の孫弟子だったよね?」
遠州を? と奥島は眉根を寄せた。遠州とはある老人の名で、剣術から魔法まで心得を持ち諸国を漫遊しては『人類の剣』を育て上げた伝説の男だった。隆盛は会ったことはないが、たとえば茜は直弟子にあたるし目の前の男は本人の言うように孫弟子である。訓練場の橋本という戦士も弟子だったはずだ。
「・・・確かにな、けれどあの老人は人間というよりは化け物の類だ。もう死んで二〇年経ったか? それくらいじゃ消えないような残り香があってもおかしかないだろう。何しろ遠州だからな」
そうかもね、と茜はつぶやいた。
「というよりも、迷宮街にいたからじゃないのか? あの街の戦士たちは橋本くんを見ているわけだから、大なり小なり孫弟子だと思ってもいいのではないか?」
そうかな、そうなんだろうね、と妻はつぶやいた。腑に落ちていない声だった。
真壁啓一の日記 十二月三〇日
葵「大丈夫だよ。豪勢なもの作る気ないし。ネコの手も一つあるし」
翠「にゃー。食器洗うにゃー」
葵「いやそれ準備じゃないから。片付けだから」
翠「にゃー。熊肉でよければ裏山から狩ってくるにゃー」
葵「いやおせちに熊肉使わないから」
今年もあと二日。由加里が来てサボったためにすっかりなまった身体を朝からずっとほぐしていた。汗がすぐひくくらいの速度で三時間ほど走っあとで慎重にクールダウンする。大学時代に買ったジョギングシューズももうへたってきた。今年のうちに買っておけばよかった。
走っている途中に里帰り前の笠置町姉妹が挨拶に来た。冒頭の会話はそのときのもの。両親が温泉に行っているために明日は葵一人でおせちをつくらなければならないと聞いて大変だねとねぎらいに続いたものだ。帰省がうれしいのかな? 翠がおかしくなっていた。
午後からは(道具屋も今日からお休みのため)鍛冶棟にツナギと剣を取りに行った。明日から二日まで示威部隊に加わるためだ。鍛冶棟では片岡さんがもくもくと剣を鍛えていた。普通のものより細く長いそれは真城さん用と一目でわかる。でも新品が二本も並んでいるのはどうしてだろうと訊いたら、いわゆる強化剣だという答えだった。地下で発見される石を埋め込むことで剣やツナギを強化できることはもう広く知られているが、そうやって強化するときの最良の鉄成分配合や石を埋め込む位置などを調査するために、幾人かの探索者がサンプルとして選ばれている。例えば怪力で剣にものすごい金属疲労を与える津差さんであったり、冷静なので感想を詳細に伝えてくれる星野さんであったり、軽く長く、遠心力をフルに活かして戦う真城さんなどがサンプルとして選ばれている。ちなみに身長一七五センチのサンプルは精鋭部隊の一つ湯浅さんグループの戦士である内田信二(うちだ しんじ)さん。第二期屈指とはいえ、やっぱりおいしい役目は俺なんかには回ってこない。
片岡さんはサービス休出で、現在は基本的に鍛冶棟全体がお休みということ。それでもトンテンと音がしているのは示威部隊の修繕をしてくれているからだ。彼らもみんなサービス休出である。みんな、俺たちの死亡確率を一厘でも下げるために頑張ってくれているんだなと柄にもなく感動してしまった。これで片岡さんの話題が風俗オンリーじゃなかったら素直に尊敬できるんだけど。
迷宮入り口の詰め所に道具を置きに行ったら常盤くんと技術者の三峰えりか(みつみね えりか)さんが英語の雑誌をはさんでお話をしていた。三峰さんが常盤くんに講義をしているみたい。みたい、というのは英語の論文が題材だからほとんどの単語が英語そのままで出てくるからわけわからないのだ。昔ルー大柴という芸人が和製英語混じりの日本語でしゃべっていたけれど、あんな感じかな。でも内容は論文レベル。道具だけ置いて退散する。
クリスマスは一部とはいえそれらしい雰囲気があったけど正月はあまり騒がないみたいだ。めっきり人間が減っただけ、という街は非常に淋しい。俺たちがやっているのはそれまで平和に(かどうかは知らないけど)暮らしていた化け物たちのところに押しかけていって虐殺しているという、弁解しようのない極悪行為だ。けど、それだってなくなれば一つの街から活気が失われてしまうんだと実感できた。なんだかやるせない。
北酒場も年末体制で、昨日今日と中華のメニューが注文できない。明日あさっては洋食が注文できず、二日三日は和食が注文できなくなるらしい。みんなお休み取りたいだろうに働いてご飯食べさせてくれるんだな。感謝の気持ちを込めてワインをボトルで頼んだ。二本空けたあたりに津差さんが来て何か話したけどあまり覚えていない。なんだったんだろう?
十二月三一日(水)
迷宮街・道具屋倉庫 一〇時八分
昨日からお店はお休みで、早起きの必要はなくなった。それは嬉しい。でも憂鬱な仕事だわ、と鶴田典子(つるた のりこ)は倉庫のスイッチを手探りで探しながら考えた。迷宮街の道具屋は商売をする上で非常に大きなメリットを享受していた。最大のものは競合する他店がないために(価格は常識を超えた高騰をしないように事業団から厳しく監視されていたが)かなり正確に入庫量を調整できるということだ。これは大きい、と自身も滋賀県で酒屋の娘として育ち商学部に在籍している鶴田にはよくわかる。しかしそれ以上に恵まれているのは、街の設計のときに事業団から広大な倉庫を割り当てられた点だ。街を南北に走る大通り沿い、南端にあるこの倉庫には軽トラを五台停められる駐車場と、サッカーが二ゲームできそうな収納スペースがある。所有者は事業団で、道具屋に低料金で貸し与えられている倉庫だった。
しかしね、と鶴田は思う。場所に余裕がなければ頭をふりしぼってナップザック問題に挑戦するのだろうが、余裕があったために雑然と商品が詰まれていた。道具屋のスペースの端に立って眉をひそめる。このカラーボックスは自分のアパートのものと同じはずだ。同時に入荷したからわかっている。同じ色だったと思ったけれど? 指をさっと触れてみて、分厚いほこりで色が変わってしまっているのだと気づいた。慌ててもどした指がほこりを上げ、げほげほと咳き込む。私はぜんそくの気があるのに! 去年は小林さんがいたから任せられたのに・・・。
自分より新しいバイト二人に視線で合図した。彼らが手近な棚に取り付いた。それを見届けて鶴田は伝票の束を取り出す。
「商品名カラーボックス、発注者は笠置町葵(かさぎまち あおい)さんでーす」
「そのまま」
「はーい」
「商品名木材。発注者は神田絵美(かんだ えみ)」
「そのまま」
「了解」
二人から交互に棚の商品のタグが読み上げられる。これらは探索者が道具屋に代理注文を依頼した商品だった。こちらからの連絡ミスか、注文者の受け取り忘れかもっと根本的な理由か、ともあれ買主に出会えずにいる製品たち。料金は前金でもらっているからこうして放置してしまっているのだった。それを年に二回の棚卸で整理する。憂鬱な仕事だ。
「商品名火鉢。発注者は西谷陽子(にしたに ようこ)」
「えーと・・・そのまま」
「了解」
「商品名マグカップセット。発注者は大木邦人(おおき くにひと)さんでーす」
「そのま・・・いや、返品」
「はーい、返品、と。あたしもらっていいですか?」
陶器の写真が刷られている箱を、もの欲しそうに持ち上げるアルバイトに微笑んだ。
「いいけどちょっと待ってね」
微笑を浮かべたままで。真顔になんかなれるものか。
「遺族に確認するから」
顔色がさっと青ざめた。まだ高校生だろうか? 彼女はたしか事業団職員の娘だったはずだ。昼間はまずこの街におらず、夜は出歩かない彼女はこの街特有の光景にあまり免疫がないのだ。
「商品名、アグリッパ胸像。発注者は今泉博(いまいずみ ひろし)」
「・・・・」
「鶴田さん?」
「え、ええ。大丈夫。返品で」
「了解」
憂鬱な仕事だ。唇を噛んだ。
迷宮街・出入り口詰め所 十一時二五分
「昨日も来てたんですか?」
国村光(くにむら ひかる)の驚きの声に星野幸樹(ほしの こうき)は頷いた。昨日は自衛隊員として、今日は探索者としてだと言う生真面目なその顔に藤野尚美(ふじの なおみ)が敬意のこもった視線を向けた。
「まあつまりあれだわ」
遠慮のない言葉は縁川さつき(よりかわ さつき)のものだった。
「星野さんち、きっと今大掃除してるんだわ」
ぎくりとした表情に、落合香奈(おちあい かな)があら図星だわとつぶやいた。なあんだ、という空気の中で自衛隊の士官は落ち着き払って掃除はきらいなんだと言った。
さてそろそろご飯だわね、と時計を眺めて落合が手を打った。すでに午前の示威行動は済ませていた。普段の探索とは違い示威の場合は階段付近を徹底的に殺し尽くす。その結果、日が経つにつれ階段付近からは怪物の気配が消えていくのだった。昨日に比べて早い時間での切り上げのわけはそれだった。
誰か、北酒場に行って中華スープもらってきてよ――その言葉をさえぎるように、詰め所の扉が開いた。
「鈴木さん・・・」
真壁啓一(まかべ けいいち)があいまいな口調でつぶやくのを落合は聞いた。最近少しずつ元気になった一八歳の娘に、何かあったら詰め所においでと言い残して出てきたことを思い出す。何かあったのだろうか? 心配になって訊くと、真壁さんと星野さんにきちんとお礼を言わなきゃと思って、との答えだった。部隊の壊滅からもう一〇日過ぎたがその間一度も外出していなかったのだから、当然礼も言えていなかったのだ。落合は嬉しくてうなずいた。
真壁の前に歩み寄りぺこりと頭を下げる背中は、まだ心細さを感じさせるものの大分ましになったようだ。いや、うん、元気になったならよかったと嬉しそうで照れくさそうな真壁の顔。二人の様子に思わず頬がゆるむ。うん。もう大丈夫だ。
ついで星野に頭を下げると、いくらなんでも十日も連絡がないのはちょっと礼儀にかけるぞと自衛隊員は諭した。すいませんでした、としゅんとする肩を見て落合は反射的に言い返そうとした。まだまだ未成年なんだぞ。それなのに大変な目に遭ったんだ。少しは優しくしてやったらどうなんだこのヒゲ公務員。
「ということで、罪滅ぼしに北酒場までひとっ走り行って弁当を取ってきてくれ。真壁はスープだ。一〇分でやれ」
「一〇分ですか?」
真壁がぎょっとしたように立ち上がる。そりゃちょっとムリでしょ、車道横断するわけにも――
「九分五〇秒」 星野は耳をかさずに視線を時計に落としている。
わっかりました! と叫んで秀美は駆け出していった。慌てて真壁が後を追った。
真壁啓一の日記 十二月三一日
俺には腕力も体力もないけど、反射神経とスピードはあるつもりだった。だから、そう、きっと五キロはあるツナギのせいなのだろう。鈴木秀美(すずき ひでみ)さんに駆けっこでまったく追いつけなかったのは。
今日から二日まで詰め所で示威部隊に加わる。今日のメンツは俺、星野さん、国村光(くにむら ひかる)さん、藤野尚美(ふじの なおみ)さん、縁川さつき(よりかわ さつき)さん、落合香奈(おちあい かな)さん。国村さんは前に身体の使い方を教わった週末探索者だ。藤野さんはその恋人で同じく週末探索者。国村さんは名古屋の会社、藤野さんは横浜の会社ということで、この街で一緒に正月を過ごそうと思ってやってきたという。だったらのんびりしていればいいと思うのだけど、「みんなと話すのは楽しいから!」 藤野さんに言わせるとそうらしい。
縁川さんは高田さんの部隊の治療術師だ。この方はご実家が近くということで、「なんかお餅食べ過ぎたから」と言いながら急遽今朝参加した。当然ツナギも用意できておらず訓練場のものを着ていた。早口で流れるような関西弁で星野御大にもまったく遠慮がない。そして落合さんは昨日に引き続き参加してくださった。くださった、というのはこの方はこの街にコネがたくさんあって、北酒場からなんと中華スープを取り寄せてくれた方だから当然の敬意をこめたのだ。
スープは俺が取りに行ったのだけど、同行したのは鈴木さんだった。彼女を残して部隊が壊滅してから一二日かな。ずっと見かけずに実家に帰ったのだと思っていた(お兄さんが迎えにきていたみたいだし)けれど、どうやら復活したみたい。誰かいいひと紹介してくださいよーと言われたので真剣に考えようと思う。
さて、示威遠征は午前一回午後二回の計三回だった。けれど遭遇は午後に三回あっただけ。平和なもんだ。デモンストレーションも兼ねて地下で国村さんに稽古をつけてもらった。国村さんいわく、俺は成長が早いそうだ。この人はすごい人なので単純に嬉しい。
生き残るヒントを探したくて、最精鋭の四部隊に出稽古をさせてもらえないかと思っている。俺からじゃ取り合ってもらえないと思ったから、青柳さんに打診をしてもらっているはずなんだけど・・・。話がないから、断られたのかな。
あー、でも、鈴木さんが元気が出てよかった。これから鈴木さん落合さん津差さん葛西さんとご飯を食べる予定です。みんな嬉しいから鈴木さんにどんどん飲ませようとするんだろうな。でも彼女は未成年なんだから俺がしっかり守らないと。
迷宮街・落合と鈴木のアパート 二三時五七分
トイレでげえげえと戻す音がする。
水が流れる音。
それがおさまると、うめき声。
また何かを吐く音。
落合香奈(おちあい かな)は濡れた髪にタオルを押し当てながら、雑誌のページを繰った。もちろん損をするとはわかっているが、それでも福袋は大好きなのだ。明日はどういうルートで買いにいこう。
トイレから再びうめき声が聞こえてきた。いや、呪詛だろうか? まあまあまあまあ! とサラリーマンか何かのように同居人のグラスにワインをついでいた真壁啓一への。
もうすぐ年が変わる。
一月一日(木)
迷宮街・タコ公園 一〇時四二分
女性たちが一様に視線を泳がせしりごみしている。その顔にはありありとおびえが浮かんでいた。
であれば、とその輪の外側の男たちを見つめたが皆が視線をそらした。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)はため息をついた。いくら慎重な俺でもこんな問題は予想できんよ、と思いながら。
迷宮街事業団に勤務している家族たちが行った新年の餅つき大会、最初は行くつもりはなかった。予定変更は七歳の少女の姿をとってやってきて、惰眠をむさぼっていた午前十時にどんどんと扉を叩いたのだった。どうしたの? と星野幸樹(ほしの こうき)の娘由真に訊くと「お餅をつこう!」という。暇なので行ってみることにした。そういう地域の催しに経験がなかったから。
モルグを出ると由真は当然のように肩車を要求した。ははんなるほどと津差は合点した。おそらく小学校の友達もたくさんいるだろう中に、この大きな乗り物で登場したいのだな? 笑って肩車をしてやると、髪の毛を掴んで操作するつもりらしい。はいはいと指示どおり歩いていった。通りがかった探索者の一人に肩の上から手を振る姿はご機嫌そうで、乗り物としても嬉しい。。
そうして三つの臼と杵、もち米が湯気を立てる広場にやってきた。事業団の家族達が、おそらく街中ではみかけられているのだろうが、この巨人と最初の接近遭遇にどよめいた。由真がうれしそうに足をぶんぶんと振る。右ほほに一発いいのが入った。
当然のように杵を渡され、あらかた米がつぶされた臼の前に引っ張られる。たちまちに周りに見物の人だかりができた。由真を左肩に移すと片手だけで軽々と杵を持ち上げる。どよめきの声を聞いて嬉しさのあまり暴れる由真をしっかりと抑えたまま、軽く杵を振り下ろした。衝撃音に続いて劣らない歓声と拍手が沸き起こり、それが静まったとき「ほら誰かひっくり返さなきゃ!」と当然の意見が出てきた。そして主婦達は顔を見合わせた。
一瞬後にわきあがった私ダメ怖いの輪唱。数秒待って津差は、自分がつかなければいいのだと思い至った。取り巻いている男たちに杵を差し出すものの(柄を持ったまま手首の力だけで杵を静止させているのもおびえさせる原因だったがもちろん津差は気づかない)、男たちも今の怪力パフォーマンスのあとによく続くものもいない。
「あたしがやる!」 と決死の顔でコンビニのアルバイトである織田彩(おりた あや)が前に出た。と、その肩に手が置かれた。彩ちゃんじゃたぶん風圧だけで吹き飛ぶわよ。無理はしないことだよ。そう諭して津差を見る女性――織田の呟きを聞くところでは中村という姓らしい――と視線がぶつかった。
つよい光に一瞬だけたじろいだ。化け物たちにも、それよりも恐ろしい探索者たちにもひるんだことのない(ちなみに理事夫婦は別だ)自分が、だ。さっと腕まくりをしてペットボトルの水を手にかけるその女性から視線が離せない。年のころは三〇よりは少し下だろうか? しかし自分よりは年上だろう。背はひょろりと高かったがスタイルが良いというわけでもなく凡庸な顔立ち、穏やかな配色のセーターとズボンはどこにも目を惹く要素などない。しかし、その瞳だけは別だった。薄皮一枚内側では覇気が燃え上がっていることをありありと示す双眸。彼女は杵の脇に膝をつくとおびえた風もなく津差を見上げて笑った。右手は商売道具なんだ。つぶしたら嫁にもらってもらうからね。
笑顔を浮かべ、合いの手に合わせて杵を振り下ろす。ちょっとテンポが外れている肩の上の小学生の合図も耳に入らず、視線が細い首にさまようのをなんとか押しとどめて。ふと、つぶすのもいいかなと一瞬思い慌てて振り払った。
真壁啓一の日記 一月一日
昨日は夕方からずっと雨でどうなることかと思ったけれど、今日はいい天気! こんなことなら黒田さんたちとご来迎を拝みに行けばよかった。それでも木賃宿の屋上から眺める朝もやの京都市街は非常にきれいだった。洗濯物も乾きそうだし。
本日もまた示威部隊に参加。今日の面子は鈴木秀美(すずき ひでみ)さん、国村光(くにむら ひかる)さん、俺、落合香奈(おちあい かな)さん、藤野尚美(ふじの なおみ)さん、西谷陽子(にしたに ようこ)さん、久米篤(くめ あつし)さん。久米さん西谷さんとは初めてお話しした。久米さんは背が低く(翠くらいかな?)、一見して華奢な感じだ。でも第一期の準精鋭部隊にいるんだから大変なものだと思う。この人は治療術師である。西谷さんは精鋭四部隊の一つ湯浅さんの部隊の魔法使いで、昨日まで鈴鹿だったのよーとお饅頭を持ってきたように車が大好きで有名な人だ。京都に普段履きの自動車、鈴鹿にレース用の自動車を持っているのだとか。探索から上がるとすぐに鈴鹿に行ってしまい、探索前夜に帰ってくるこの人は、迷宮街で出会うと幸せになるレアキャラだと言われていた。はぐれメタルの類だな。車趣味という骨っぽさはその外見からはまったく感じられなくて、髪は染めずにさらさら頬はぽっちゃりして、確かによく焼けているけど一重まぶたがやさしげなほわっとしたタイプの人だ。のんびりした滋賀弁で「ほんにねー」といつも穏やかに笑っている。
今日は第一回の示威遠征を八時〜一〇時、第二回を一二時〜一四時にして終わりにした。一五時からはお餅の差し入れがあるから、返り血と泥に汚れた姿を見せてはいけないという配慮だった。
前衛が俺と国村さんしかいなかったので鈴木さんが前衛に繰り上がった。この人の戦闘能力は女帝のお墨付きで、でも実際に目にした人は真城さんしかいないために都市伝説になっていたけれど、目の当たりにしたらそれ以上にすごかった。やっぱり階段下で稽古をつけてもらったのだけど、こっちの呼吸を縫ってのんびりと入り込んでくるその動きにまったく対応できない。橋本さんや真城さんの動きは、映画のフィルムのコマとコマの間で動かれているような気がする純粋なタイミングとスピードの問題だ。でも翠や鈴木さん、そして翠パパは頭は働いているのに身体の反応速度が鈍っているときを読み取って距離をつめられるような。間合いの詰め方にもいろいろあるものだ。
ここに来て思うのは、ドラゴンボールは荒唐無稽じゃなかったんだなということ。あのマンガ、次から次へと出てくる強敵に後半はぐったりしたけどあながち間違いじゃないのだ。だってこう見えても俺は、学生時代に酔って喧嘩して負けたことがない(ヤムチャ)。それなのに津差さんには到底かなわず(天津飯)、その津差さんは翠に相変わらず手玉に取られる(ピッコロ)。その翠は越谷さんの前ではねじ伏せられる(べジータ)かと思ったら、越谷さんは橋本さんにいまだ一太刀も当てていないという(フリーザ)。そしてそれらすべてを圧倒する翠パパ(セル・・・でよかったか?)だ。強くなることを目標においてしまったら絶望的なこのヒエラルキーは、けれどもジャンプコミックスではなくて現実の話だ。本当に世界は広いと思う。きっと世の中には翠パパが手も足も出ないような生き物がいるんだろうな。鯨とか。
シャワーを浴びて、分厚い迷宮の扉に施錠し、自衛隊の方にあとをお願いした頃詰め所にお餅がやってきた。何故だかそこに津差さんがいた。黒田さんと来迎を見にいったのではなかったのかな? お餅つきは朝からだったというのにご苦労様なことです。からみ餅きなこ餅あんこ餅、みんなおいしかった。それにあわせたように落合さんがお汁粉の汁を北酒場からもらってきた。宅配寿司のおせちも頼んであったし立派な正月気分だった。
国村さん、藤野さんと話す。迷宮街にいて死の危険がありながら平日は日常生活にいる日々とはどういうものだろう? とずっと興味をもっていたからだ。二人とも共通するのは「会社には(友達には)言えないよ」ということだった。国村さんいわく「月曜日に来ないかもしれないとわかったら仕事回してもらえないから」 まっとうな人間関係と探索活動を両立させるのはとても大変だよという藤野さんの言葉が印象的だった。「とても大変だけど、悪いのは選んだ私たち。だから知らせなかったりなるべく深い関係にならなかったり配慮は必要だと思う」
そうか、そういうものかもしれない。とりあえず実家には知らせるべきだろうか? と意見を訊いたら「親をだますな」とその場の四人から怒られた。
藤野さんがこの街に来た動機は、当時交際していた男性を追ってだそうだ。その方は「いまはもういない」そうだけど、まあ由加里が来ても二〇キロの土嚢を持つことすらできないけど、うん。心配のあまり当時の仕事を辞めて追ってこようと決心させるほど、明日恋人が死ぬかもしれないという毎日は厳しいのだとわかった。
同じく恋人を追ってこの街に来たというケースはもう一人いるという。女帝だ。誰を追ったかって? 正解は三月九日に。
早稲田・奥野道香のマンション
淡々と定期巡回をする。以前はサッカーチームのファンサイトが中心だったが、ネット上にはおもしろいエッセーを書く人がいることを最近知ってからは、毎晩一回はお気に入りをクリックするようにしている。お気に入りの一つ、おもしろくはないがもうちょっと別の理由のために毎晩見ているサイトを開いた。その理由とは、生存確認。まあ、何かあれば恋人から泣き声の電話がかかってくるのはわかっているのだが。
あけましておめでとうございます。真壁啓一です。
旧年のご厚情に感謝申し上げるとともに、本年もご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
私はいま、かつてない過酷な環境で潤いのない生活を送っております。
どれくらい大変かといえば、年賀状を書き忘れるくらいです。
ごめんなさい。
ふっと眉をひそめて机の上の年賀状を手にとる。ぱらぱらと差出人を確認したが彼の名前はなかった。そうだ。何か足りないと思っていたが、真壁からのネタ年賀状がなかったんだ。楽しみにしていたのにあの野郎。
そして、真壁からの年賀状がないことに即座に気づけなかった自分を少し考えた。彼が東京にいたならば絶対に気づいたはずだった。
その、彼我の距離。
一月二日(金)
迷宮街・三峰えりかのアパート 八時二八分
この迷宮街のアパートを気に入っている一番の点は化石燃料の暖房器具を使えることだ。ポリタンクを地上から三階まで運び上げるのは大変だけど、彼女が目指す探索者の試験は二〇キロの土嚢を持って歩きつづけるというものだ。一八キロのポリタンクで音を上げていてどうする! と自分に叱咤している。それでも、こうやって男手があるときは頼ってしまうのだが・・・。
ぽかぽかと暖かくなってきた室内に、隣りのベッドからうめき声が上がった。布団がもちあがり、裸の男の肩が覗いた。さむいさむいとまたもぐりこむ姿に軽く眉をしかめた。時計を見ればもう一〇時だった。修司、と恋人に声をかける。もう起きなよ。私もう行くよ。
何でだよ、と布団の中から抗議する声。二日から仕事なのか?
まただ、とうんざりした。大学時代から交際している恋人は今年でサラリーマン四年目になる。もともと利発で人受けがよかったから今の会社でも期待されて結果も出しているらしい。が、根底には仕事は所詮生きていけるだけの金を稼ぐためのものという認識があった。それはそれで正しいのだと思う。誰かに義務感をすりこまれて身を減らすよりはよっぽどいいことなのだろう。だが、自分の夢を実現するために仕事を選び会社を選び、その選択が間違っていなかったと最近になって実感することしきりの三峰との間には温度差が生まれてしまうのだった。かたや京都かたや東京と住む位置が離れているからこそ温度差は深刻な問題とならずに済んでこれたが、こうやって近くにいるともどかしくいらだたしく、辛い。鏡を見た。昨日の涙はほとんど目立たないようだ。ばれたらあの子に気を使われてしまう・・・。
仕事じゃないけどね、施設は使わせてもらえるし探索者の話を落ち着いて聞けるいい機会なんだから。修司も来ない? 探索者に頭のいい子がいるんだよ。見た目はごろつきなんだけどね。そうそう。その子も高槻ゼミなんだよ。教授の最新の研究の話とか詳しく知ってるんだ。話すと面白いよ。
布団の中からはもごもごと返答があった。何を言っているのかはまったくわからなかったが、Yes/Noのどちらを伝えようとしているのはよくわかる。盛り上がった布団にちらりと軽蔑の視線を投げると立ち上がった。
迷宮街・ミニストップ 十一時三五分
今日まではいらっしゃいませの代わりに「あけましておめでとうございます」を挨拶にするつもりだった。通りすがりの客がほとんどいない迷宮街支店ではそのような親しみが無視されることはほとんどない。たった今の言葉も大きな笑顔に受け止められた。もう一度、あけましておめでとうございます津差さんと繰り返す。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)はおめでとうと微笑んだ。
いつもどおりに二人分以上の食料をカゴに詰め、レジに持ってきた津差に昨日の話をする。この街の住民有志で集まった餅つき大会、休みと食事と甘酒をはさみながらとはいえ大の男でも音をあげる労働だった餅つきを、この探索者は(肩に誰かしら子供を乗せながら)都合四回もつききって息も乱れていないのだから信じられない。そのことを話すと「肉体労働者ですから」と得意げに笑われた。
料金を告げ受け取る。ありがとうございましたと元気のよい声を送り、さあジュースの補充をしてしまおうとバックヤードに振り向こうとした足が止まった。津差がまだカウンターの前にいる。お釣りを間違えたか? とっさに思ったのはそれだった。他のミニストップの店舗は知らないけど、この店のレジはまだお釣りが自動で吐き出されるタイプではなかったからだ。なぜか自分はたまにそういうミスをする。
視線の高さに腕が見える。お釣りのお金はしまわれていて、心配が外れていたことを確認してから見上げた。なんとも微妙な逡巡を浮かべて自分を見下ろしている。どうしました? と訊いたらいやいやなんでもない、と言いながら出ていった。
なんだったんだろう?
竜王町・真壁啓一の実家
まだ話中だよ。ネットに接続しようとして果たせずに真壁啓一(まかべ けいいち)は舌打ちをした。母親は本家の正月の集まりの片付けに駆り出されている。この家にいるのは父と自分だけ。親父どのは、かれこれ四〇分間もどこに電話しているのだろう? これでは日記に書き込めない。今日も示威行為に参加していると知っている由加里は、更新がないことを不安に思うだろう。大きく伸びをした。
ノックの音にどうぞと声をかけた。真壁は部屋を見回し、入ってきた父親に椅子を薦めて自分は床に座った。椅子に座る彼をまっすぐに見上げると、父親がすこし居心地の悪そうな顔をした。
「さっきは殴って悪かった。痛むか?」
真壁は首を振った。殴られるのには慣れてますから。それと、今日は怒られるために帰ってきたんだから。その答えに父親はそうかとだけ答え、話の接ぎ穂を探したようだった。
「なぜ相談もしなかった」
真壁は考え込んだ。この部屋に落ち着いてからずっと考えていたことだ。今にいたるも答えはわからない。とりあえず可能性の高いものを口に出してみた。反対されると思ったんだ。
「そりゃ、するにきまってる。あそこに行きたいという気持ちは、俺には理解できないがお前はそう感じたんだろう。だけどそれは、四年近く大学に通って目の前にあった学士と引き換えにするほどのものか? 卒業してから行くという選択肢は考えられなかったか?」
真壁は考え込んだ。あの時は、すぐにでも行かなければいけないと思ったのだ。第二期の募集が早めに切り上げられる可能性が高くなった今にしてみれば正しい判断だったとわかる。また、初日に試験をパスしたからこそ笠置町姉妹という安全装置と部隊を組めたのだから結果論では最適の時期だったのだとわかる。しかし、それらはもちろん自分があせって退学した理由にはならなかった。
「質問を変えよう」
真壁はうなずき、ごめんなさいと言った。自分でもわからないと。
「あの街で何が手に入ると思ったんだ?」
強さ。それは即座に回答できた。もちろん腕力でも体力でも生命力でもない、一人の人間として毅然とある強さ。それが自分には決定的に欠けており、死を目の前にして追い込めば鍛えなおせるかと思ったのだった。
「――鍛えなおせると思った、か。つまり、鍛えなおせなかったのか?」
みじめな思いでうなずく。
「今いる場所で手に入らない強さを他の場所に逃げてつかめるはずがないってことだけはわかったよ」
そうか、と父親はつぶやき、そしてふと立ち上がると部屋を出て行った。すぐにグラス二つとスコッチを抱えて階段をあがってきた。思わず「氷もチェイサーもなしですか?」と訊いてしまったが返答はない。
グラスになみなみと琥珀の色が満たされた。
「それでもお前は立派になったように見える」
そうかもしれない。隣りにある死ではなく、しかし自分はいろいろなものを見聞きしたと思う。
「あの街じゃ、みんな必死だから。大学にもいい友達はいたけどやっぱりオブラートに包まれてた。あの街だと剥き出しでぶつかってくるからさ。いい友達ができたんだ。一つ下の女の子で見てるだけで、話しているだけで勉強になる。何度も命を助けられたし。他にもすごい人がいる。本当に、これまで見たこともなかったようなすごい人たちを何人も見たよ」
そうか、と父親はうなずいた。目を細めて息子を見やる顔は、もしかしたら嬉しいのかもしれない。
「その話はまた聞かせてもらうが、今後どうするつもりだ?」
うーん、と黙り込んだ。ずっと考えて、まだ見つかっていないことだった。漠然とだけど思い描いている職業はあった。しかしどうやってそれになるのか、どんな資格が必要なのか、なにより生活していけるのか、何一つわからない。正直にそれを話した。父親は真剣に聞き、すこしほっとしたようだった。つまり、ずっとあの街で地下に潜るつもりじゃないんだな? 真壁はしっかりと答えた。
「あの街にずっといたら、俺はきっと死ぬ。それはわかってるんだ。でも、まだ今の程度なら大丈夫、死なないでいられるって奇妙だけど確信もある。それが感じられる間はできるだけ軍資金を稼ごうと思う。そしていろいろ調べようと」
しばらく二人で黙って酒を飲んでいた。父が、母さんには、とぽつりとつぶやいた。
「お前に任せておいても――心配だが――大丈夫、いや、お前の好きにやらせるべきなのはわかった。だが母さんには言うな」
「大学を辞めたことも?」
「それはお前から言え。東京でフリーターでもやってると言え。母さんは怒るだろうがそれぐらいは罰だ。だが迷宮街のことは言うな。母さんはきっと調べて心配になる」
何気なくうなずいて、そしてはっとした。そういう父親だって息子に言われるまで迷宮街のことなど知らなかったはずだ。どんな場所で、どれだけ家族が心配するのかなど詳しいことは知らなかったはずだ。なぜなら父親にとっても異界の話だったのだから。
それを今「母親に気づかれるな」という。つまり、今はもうあの街の危険を知っているのだ。知って理解して、母親には絶対に知らせてはならないと思った。真壁がネットにつながらないとぼやいていた四〇分間、それは父親が電話をしていたためか? それともどこかのホームページ――たとえば迷宮探索事業団の報告――を見ていたのではないのか? 死亡率一八%という数字を見ていたのではないのか? 父は凝視に気づかず、まだ半分くらい残っているグラスをぐいとあけた。こんなに酒が強くなかったはずだ。その手が少し震えているように見えるのは気のせいだろうか?
唐突に立ち上がり背を向けた。母さんが帰ってきたら降りて来いとだけ言い残して部屋を出て行った。真壁は慌てて立ち上がりその背中に深く頭を下げた。
真壁啓一の実家 一月二日
えー。去年の夏以来の実家倉庫から真壁啓一です。母親が挫折したガーデニングの機材がまるまる運び込まれることによって、俺の空間だった部屋は完璧に倉庫になりました。ショックを受けたのは、俺が好きだった歴史マンガシリーズが全てはとこに持っていかれたこと。そりゃ、もう読まないからかまわないんだけど一言欲しかったなあ。
両親にはこっぴどく怒られました。父親には殴られました。母親には青い顔でもう一度大学に入りなさいと言われました。まあそれはムリだけど、うちの両親は顔が広いから近藤教授にダメもとで打診してくれるつもりらしいです。それはありがたく受けることにしました。迷宮街を去ってどうするにせよ、やっぱり学士は持っておいたほうがいいから。俺は成績はよかったし、近藤教授には今でもメールで近況をお知らせしている。今年度の内にもどれば休学にできるようにしておくとは、最後に顔を合わせたときに言われていたことでもあったから。
そういったことをお話して母親には落ち着いてもらった。実のところ近藤教授がなんと言おうと一度受理された退学が覆ることはないと思う。だから「特例措置ムリ」と母親に突きつけられる前に彼女が納得するくらいの何かを見つけないといけない。
さて、実家に顔を出して大学をやめたことを話した。懸案が一つ片付いたので明日からどこかに旅行にでも行こうかと思っている。確か二木も実家に戻っていたはずだ。二人に会いに行ってみようかな。
一月三日(土)
大迷宮・第一層 七時三分
準備はよろしいですか? と高田まり子(たかだ まりこ)は仲間たちを見回した。うなずく顔ぶれは一様に緊張している。もし少しだけ事情を知っているものがいたら奇異に思ったことだろう。彼女が『魔女姫』という異名を奉られる探索者中最高の魔法使いであり、たった一人すべての術を修めた逸材であることを知っていたら。そして、彼らがいるのが迷宮第一層、階段を降りてすぐのおよそ怪物と出会いようもなく出会ったところで脅威にならない場所だと知っていたら。精鋭四部隊と呼ばれる彼らが緊張感を表に出すような場所ではないと知っていたら。しかし誰一人としてふざけている様子はなく、高田は表情を確認してツナギのポケットの中から一枚の紙片を取り出した。すでにくたびれきっているそれは、彼女が何度も見直したものであることを示している。高田はもう一度その内容――数字の羅列だった――を瞳に焼き付けると目をつむった。
周囲に警戒の視線を送りつつ、魔女姫を見守っていた神足燎三(こうたり りょうぞう)はぎょっとして周囲を見渡した。第一期の初日に試験をパスした最古参の生き残りである彼、戦士の他に治療術師の素質もあった彼には周囲のエーテル総量の異変が感じられたのだ。これは――かつてなく強力だった。それも、信じがたいことだが身体の中に入ってくる。自分を包む空気が変質するような魔法使いの術の感覚、あくまでも肉体の状態が変化するような治療術師の術による感覚、そのどちらとも違うそれは、身体を構成するものの隙間にエーテルが入ってきているような。めまいを起こす自分を叱咤した。この術の直後自分達が訪れる場所、そこは怪物の群れの中心かもしれないのだ。意識をしっかり持って、対応できる姿勢を調えないと・・・。そして視界に黒田聡(くろだ さとし)の顔が入った。エーテルを無意識のうちに利用して武器防具を強化する素質を備えた彼にとってこの状態は、神足が感じるよりもっと負担の大きいものらしい。その顔は真っ青で歯を食いしばっていた。
隙間にくまなく入り込んだエーテルが膨張するように感じられた。これは、と恐怖を感じる。身体が内部からほぐされる――
この世から自分の存在が消えた。
そして生まれた。
見慣れた第四層独特の、鍾乳洞のように磨きぬかれた壁が視界に入った。どうやら術による瞬間移動は成功したらしい――いや!?
足の裏に地面がない! その感覚に恐慌を起こし、じたばたと身体を動かした。境周(さかい あまね)が驚きの咆哮をあげた。そして接地した。ぐきりと右足首に痛みが走る。まずい。全身が総毛だつ。自分が満足に戦えない状態で、もしここが化け物に囲まれていたら――。その心配を打ち消すように視界に化け物の姿が映った。囲まれている!
その恐怖が染み渡るより早く、化け物は背を見せて走り去っていった。およそこれまでの日々で聞いたことのない恐怖のわめき声を上げながら。悲鳴は一〇秒続き、後には静寂が残った。「円陣」 高田まり子の声にびっこを引きつつ位置を確保する。そして、足をくじいたと申告した。
高田は額の汗をぬぐった。訓練場の鹿島詩穂から第四層で転移に適した場所の正確な座標を教えられていた。魔法使いにとって一番大切なものは術を起動する力ではなく距離をつかむ感覚だ。日々その訓練を欠かさない高田は、二〇〇m向こうにいる人間との距離を誤差五センチで目測することができた。だから、目標位置の座標設定は完璧なのだ。でも一つ見落としをしていた。
魔法使いが術を使うとき、自分を基点にしてそこからの距離を指定して起動する。その「自分」という二文字が魔法使いによって大きく違っていた。高田の場合は自分のヘソがそれにあたる。しかし例えば西谷陽子(にしたに ようこ)は胸を基点にするというし笠置町葵(かさぎまち あおい)は頭だという。鹿島詩穂はどこだったのか? それを確認していなかった。普段まったく気にする必要のないことだったから。
おそらく、と三〇センチほどの落下距離を考えながら推測した。鹿島はおそらく胸を基点にしている。だから、「地上から**メートル**センチ下に転移するの」と説明されたとき、彼女はその高さに「胸」を合わせるつもりで指示したのだろう。しかし、自分はそこに「ヘソ」を持っていった。その高さのずれが小さな墜落を引き起こしたのだ。
縁川さつき(よりかわ さつき)が神足の右足首に手を当てて治療している間、以上の事情を手短に説明した。黒田が身震いしその誤差が逆じゃなくてよかった、と呟いた。その通りだ。皆がいっせいにうなずく。
もし、鹿島が「ヘソ」の位置として指定した高さに高田が「胸」の高さをあわせようとしたら? おそらく膝から下が地面と同化していたはずだ。自分の肩を抱いて目をつぶり、安堵の息を吐いた。
高崎市・巴麻美の実家 一〇時二九分
その言葉を待っていたのよ、と巴麻美(ともえ あさみ)はお茶を飲み込んだ。そして小さく息を吸い込み、愚痴の最初を切り出した。そりゃあたしだって、実家に帰ってのんびりおせち食べたかったわよ。東京に二人でいるよりはご飯出てくるところでお酒飲んでる方がいいんだから。でもあの野郎!
あわただしい正月が一段落して彼女は実家に帰ってきていた。明後日からはもう仕事がはじまる。のんびりしていられるのも残りわずかだった。遅すぎる帰郷の娘、勝手なことを言うのだろうと待ち構えていた両親だった。が、予想に反しての娘の愚痴に母親はちょっと面くらい、対面を待ちぼうけにさせられていた父親は剣呑な顔つきをした。やくざの親分に見える父親のこと、少し表情に緊張が走ると周囲がはっとする凶相になる。
この正月、大晦日からずっと遊園地をまわっていた。三〇日の夜に東京駅で出迎えたと思ったらそのまま舞浜へ、ミラコスタでの年越しかしら、あらステキと胸をときめかせていたら舞浜にいたのは日中だけ、夕方から町田へ移動した。元旦は町田の駅前のホテルで目を覚まし、午前中は近くの遊園地、午後からは水道橋だった。そして新宿発の最終バスで富士山が見えるところまで移動する。富士の裾野で絶叫マシーンに乗らされてまた高速バスで東京に戻り、後藤はそのまま会社に向かってしまった・・・。
どうせ結婚するのだから、これからいくらでも正月は来る。自分が選んだ男が優先順位のかなり高い場所に仕事を置いていることもわかっている。二八才にもなればそういったことすべてを理解するべきだし許容する気持ちもあるが、それでも愚痴の一つも言わないと収まりがつかないのだった。
このようなことをずらっと並べたら、さすがに両親兄夫婦ともに唖然としたようだった。遊園地、ねえ・・・。と母親が呆然と呟く。まさか年末年始に四つの遊園地をはしごする新婚夫婦がこの世にいようとは、それが自分の娘だとは思いもしなかったのだ。ふざけてる話でしょ! と愚痴をまき散らす娘にもあいまいにうなずくだけだ。非現実的すぎてどう判断していいのかわからない。
まあ、なんだ、と父親がとりなした。
男にとって仕事ってのは大切なもので、たまには何よりも優先しなけりゃならんときもあるんだ。家計を支えるのは彼なんだから、仕事について文句は言っちゃいかん。古風な父のその言葉に家族で苦笑した。それを一段落として、お仕事はどうするのと義姉が訊いてきた。五月までは引継ぎのために勤めることにしていたが、それからは漠然と辞めるつもりだった。しかし会社側からは京都支店の事務欠員にどうだという申し出がなされていた。麻美は首をかしげた。
「何しろ誠司は出る杭は打たれるタイプだし、頑張りすぎて人柱を選ぶときは第一候補だから私の稼ぎ口も持っておきたいんです。だから乗り気なんですけど――」
問題でも? 兄の言葉にこの三日を思い返した。
「すまん、すまんって私に謝りながらもあんな強行軍するくらい大変なお仕事だったら、すぐ近くにいて支えてあげる方がいいのかなと今回思ったの。まだ決めていないけど、迷宮街の食堂でウェイトレスでもするのがいいかもしれない。京都支店だとどうしたって私が先に家を出ることになっちゃうから」
それがいいだろう、と両親がうなずいた。彼が仕事のやりすぎで人柱になったら、とりあえず辞めてうちに来ればいい。彼なら次の勤め先はいくらでも紹介できるからしばらくのんびりすればいい。
ちょっと、人の旦那勝手に無職にしないでよ。麻美は笑った。
迷宮街・出入り口詰め所 一九時一分
資料室から漏れてくる不審な音で三峰えりか(みつみね えりか)は目を覚ました。寝てしまっていたことに気が付いて、慌てて顔の下に敷かれていた手紙を見下ろす。よだれの跡がついていないことにほっとした。自分は寝言もいびきもないけれどそのかわりよだれをたらす傾向がある。どうでもいい落書きならともかく眼下にあるのは海外の知己に対する英文レターだ。目上の人に当てるそれは、礼儀として万年筆(セレニテという非常に美しいお気に入り)でものされていた。慣れない直筆、日本語に比べれば慣れない英文、書き損じが許されない万年筆。眼下にあるのはそれらを通り抜けてきた紙片だったが一滴のよだれにはそれらすべてを台無しにする破壊力がある。
相変わらず資料室の物音は続いている。自衛隊の人たちは何を・・・と思い、彼らを呼ぼうと考えた。しかし一瞬で思い直す。資料室にあるのは三峰たちがこれまで積み上げた研究成果だ。紙よりも内容に価値がある極秘事項だ。この場合阻止すべきは盗まれることではなく読まれることなのだ。立ち上がり、手元にあった文鎮を握り締めた。探索者を目指して運動している人間の力を見せてやる。
日が落ちすでに暗い通路に扉の隙間から漏れ出る光。たまにそれがさえぎられるのは、侵入者が歩き回っているからだろう。扉の脇にぴたりとはりついて息を整えた。足音が止まるとは読みふけっているということ。そのタイミングを待った。
そしてドアを蹴り開けた。同時に思い切り金切り声をあげた。女手で侵入者をどうにかできるなどと最初から思っていない。読むのを邪魔し、自衛隊が駆けつけるまで無事でいられればいいのだ。仰天した侵入者が振り向いた。
「みみみ三峰さん、なにやってるの?」
上司がそこにいた。
呼び寄せてしまった自衛隊員にバツわるく、お茶でも入れましょうかという申し出を笑って断られてから、二人して資料室に腰掛けた。今日までお休みじゃなかったんですか? という質問に後藤誠司(ごとう せいじ)は休みだよとなんでもないように答える。その視線は一心に本日の買取結果を見つめていた。何か気になることでも?
「高田さんの部隊が今日から第五層だろう? 取ってきた成分に違いが出てるかなと思って」
上司が言うには、彼がいま推進している計画にはものすごい金額が必要になるらしい。それだけの利益の減少を投資として理解してもらうためには、探索が下層に及べばそれだけ利益率が向上するという説得の材料が必要なのだった。なんとか資料は見つかったから、これから検討するのだという。閉めておくからもう帰っていいよ、と言われたがそばに座っていた。たった一部隊の収穫量を理解するのにそんなに時間はかからないはずだ。だったら質問されたときのためにいてあげよう。
後藤は紙片に視線を落としながら、きちんとお休みは取った? と話しかけてきた。まさにいまこの場にいる人に気遣われてもなーと心の中で元日は休みましたよとの答えに視線が飛んでくる。視線を感じて動悸が早くなった。やっぱりまだこの顔は怖い。
「あんまり根詰めないようにね。君に期待しているのは週四〇時間でCを取ればいい仕事じゃない。週二〇時間でもいいからAプラスしか認めない仕事なんだから」
相変わらず高く評価してくれるボスに少し感動して、大丈夫ですと答えた。年末年始は午後三時にはあがったし、きちんと恋人とも会っています。いまこの街に来てるんです。
「それならなおさら彼に時間を割いてあげたらいい」
そして、仕事のために誰かに負担をかけるのは辛いことだと呟いた。ふっと気になった。正月三日にここにいる所長、たしか新婚の奥さんが東京にいるのではなかったか。ほうっておいて大丈夫なのだろうか? しかし直截には訊かず、奥様はどういう方なんですかと振ってみた。ボスは顔を上げた。三峰はさらにはっとなった。今までのすべてがまだ優しいと思えるその悪相を見て、ああ、これが制御できていない素の顔かと納得する。こんな表情の生き物とずっと一緒にいようと思うなんていったいどういう女性なんだろう? 話の接ぎ穂だった質問だけど急に興味が湧いてきた。
制御できていないのは表情だけではないらしい。嬉しそうに「写真見る?」 と訊いてきた。ぜひ!
富士山を背にして思わず声が漏れるほどきれいな女性が笑っていた。いい女だろう? といかにも子供のような声に微笑んだ。認めてくれるのは嬉しかったし能力とバイタリティは尊敬していたけれど、どうにも怖かったこの所長を好きになれる気がしてきた。写真を返すと、しばらく二人とも黙っていた。
「あの、読んでてわかります?」
「なんとか。資料と首っ引きだけどね」
その資料を読むだけでもたいしたもんだと床に積み上げられた図冊の山を眺める。よし、と後藤は立ち上がった。
「今日はこれくらいにしておく。明日は探索者の試験なんだ」
あら、と驚きの声を上げた。自分も試験を受ける予定だったからだ。今日は恋人には床で寝てもらうつもりだった。
真壁啓一の日記 一月三日
二木にふられたのでだらだらとすごした一日。今年の甲府はまだ雪がつもらない異常気象で安心して車を動かせた。矢坪にあるほったらかし温泉までドライブ。昔連れられていった頃は「秘境!」っていう感じだったけど、道も舗装されて駐車場も広くなって施設も綺麗になっていた。鞍馬温泉の雄大な山々を至近に見る眺めもすごいと思うけど、富士山を眺めながらのこのお湯は別格だと思う。
母親が機嫌を直してくれたので久しぶりのほうとうを食べた。お土産に大量に買っていって、笠置町邸で皆に振舞うことにしよう。
一月四日(日)
木曾谷・笠置町家 十一時二四分
どうして子どもたちになつかれるのだろう? とは笠置町葵(かさぎまち あおい)の積年の疑問だった。子どもの相手がうまいわけでもなく笑顔がいいわけでもなく、それでも近所や親類の子どもたちにはよくなつかれた。今日も正月とて集まってきていた子どもたちがデパートへ買い物(お年玉をもらったからね)に出てようやく息をつけた。
大変だったねえ。通りがかった双子の姉がちょっとうらやましそうな表情でオレンジジュースのコップを置いてくれた。一卵性双生児だから同じ顔なのだが、姉の方はまったく子どもたちに人気がない。怖がられているみたいだ。どちらかといえば、自分より姉の方が子どもたちに対して穏やかに接するのだが。
姉と入れ替わりに下川由美(しもかわ ゆみ)が入ってきた。従兄の水上孝樹(みなかみ たかき)の婚約者で、昨年末から挨拶も兼ねて本家に泊まっている。午後には東京に戻るから挨拶に来たのだろう。するりとコタツに足を差し入れて、「ほりごたつー」と嬉しそうにつぶやくのももう何度目だろうか。ずっとこの山里で暮らしてきた葵には当然のものだったから、この義理の従姉になる女性の喜びようがおかしくもありくすぐったくもある。下川はみかんを一つ手にとって丁寧に剥きはじめた。そして、小声で自分の名前を呼ぶ。なんだろう? ささやき声に近い言葉が聞こえるように、顔を彼女のそばに寄せていった。
「翠ちゃんてさ、孝樹のこと好きなんじゃない?」
反射的にのけぞり、その顔をじっと見た。自分の直感が正しいかどうか、好奇心のある顔だ。心配ではなく。三歳年上、そして社会人としてもう四年過ごしているという。人生の先輩に甘えることにした。
「子どもの頃からあこがれてました」
「あー、気のせいじゃなかったか・・・。孝樹はああだから気づいてないよね。他のひとは?」
みんな、私たちが子どもの頃から見ているから、と答えた。気づいているのは自分と母だけで、心配している。
下川はうなずき、眉をきゅっと寄せた。こうすると年齢よりも年上に見える。私は心配していいのかな? 警戒しないといけないのかな?
「心配って誰に対してですか?」
「翠ちゃん。――いや、ね。はじまりが気になってたの。そりゃ孝樹にもいいところの一つや二つはあるから、好きになる子が現れてもおかしくないしそれが従妹でもおかしくないわ。けど、それは翠ちゃんがいろいろな男性を見て比べた上でならの話であって、子どもの頃の憧れが二一歳にもなって続いてたら、翠ちゃんのためによくないと思うの」
ああ、この人は心配してくれている。葵は嬉しかった。もちろん心配していられるのは自分の立場に自信があるからだ。まだスタートラインにもついていないこの状態を恋愛ゲームに例えるとしても、自分の勝利が揺るがないことを確信しているから心配できるのだ。だからこそ姉の最初の失恋に一番塩を塗りこめる立場のこの人が、姉を思いやってくれることが嬉しい。
ねえねえ、真壁くんてのはどうなのよ。翠ちゃんがとっさに名前出すくらいなら親しいんじゃないの? 翠ちゃん綺麗なんだから、その子をそそのかせばどうにかならない?
「いや、ちゃんと彼女いるんですよ。熱愛中のが。いなけりゃほっといてもまとまると思うんですけど」
うまくいかないね、と由美は苦笑した。ま、協力できることとか相談したいことあったらいつでも言ってね。その言葉にありがとうございますと頭を下げた。
迷宮街・訓練場 一七時五七分
斬撃のたびにあげられる気合の声も甲高く感じられる。進藤典範(しんどう のりひろ)は少し苛立って木剣を弾いた。軽くないだつもりだったが、最近自分の筋肉は予想以上に大きな力を出すようになっている。相手の木剣が手から離れ転がった。海老沼洋子(えびぬま ようこ)はすぐに木剣を拾うでもなくその手のひらを憎々しげに睨んでいた。
「終わりにするか? 昨日の今日で疲れが抜けていないだろう?」
海老沼はのろのろと木剣を取り上げると、また進藤に向き直った。その瞳には悔しさが燃え上がっている。悔しさと、怒りが。何に対してかはわからない。自分の無力に対してであってほしいと思う。
もう悲鳴だかなんだかわからない声で大上段に振りかぶった。進藤はかっとなって強めに胴を打った。命が惜しければ大上段からの攻撃はやめること、それは放任主義の教官がわざわざ教える鉄則だった。そんなことも忘れるほど、冷静さを失っているのか。女戦士は痛烈な打撃にうずくまる。そして自分を見上げる顔には――非難の色。どうして自分は責められなければならない? 進藤は怒りよりも戸惑いを感じた。
一二月も半ば、自分が試験をパスした日は合格者はたった二人だった。自分と目の前の女だ。テスト生の証明書と北酒場、木賃宿の場所だけを知らされて迷宮街に放り出された二人がその日一緒に行動したのは当然のことだった。翌日の属性と職業決定もいっしょに行動した(二人だけではなかった。前日に教官が地下に潜っていたとかで、二日分の合格者一二名がその場にいた)のも当然だった。しかし、その流れのまま部隊を組んでしまったのは正しい判断だったのだろうか。
訓練場は学校の体育館のような形になっており、出入り口のほかにも東西に外に出られる扉があった。零度近い地下で戦う状況を再現するために真冬でも全て解放されていた。自分かなり苛立っている。頭を冷やした方がいいだろうな、と視線をその扉の一つに向けた。そこからはグラウンドが見える。そこでは新規探索者の試験が行われて、まさに結果が出たようだった。女性だろうか? 小柄な人影が飛び跳ねている。試験に合格したのだろう。あの重労働のあと寝転がらずに飛び跳ねられるなんてタフな女性だ。
また、甲高い声。ぐっと下半身に力をこめると低く身体を落としてその声に向かってタックルした。筋肉質だがあくまで華奢な女性の身体を肩に感じる。みぞおちに肩を入れられて呼吸が止まり脱力した身体を軽々と持ち上げた。受身を取れ、と冷たく命じて地面に叩きつけた。すぐ近くで訓練している古参の戦士がギョッとしたようにこちらを眺める。
今日は終わりにしよう。やさしくすらある口調で告げてタオルを取りに歩いた。
あの、小柄だけどタフな女性。あの女性はどんな職を選ぶつもりだろうか? もしも戦士を考えるなら、止めてやりたい。やはり女では、よほどの事がなければ成功するのは無理なのだ。同日に合格した二人にすでに歴然として生まれた差がそれを証明していた。
真壁啓一の日記 一月四日
新学期が始まったら一度近藤教授に会いに行くことを約束させられ、実家から帰ってきた。確かに近いうちに東京に遊びに行くのはいい考えだな。
北酒場に顔を出したら買取施設の技術者である三峰えりか(みつみね えりか)さんの探索者試験合格を祝うパーティーが開かれていた。さすがに男たちの華! だからたくさんの探索者が祝おうとつめかけたが、まるでタカラジェンヌを囲むお茶会か何かのように彼女の円卓を中心として、女帝が完璧に席を差配していた。ガサツで下心が見える人間ほど外に追いやられているみたい。定食を持って端っこの方に座って食べていたら常盤くんに釣り上げられる。常盤くんはすっかり酔っていた。とても嬉しかったみたいだ。
なんだか興奮してよくわからなかったみたいだけど、例の英語論争から彼女に心服してしまったらしい。それはもう仔犬が飼い主になつくようで、葵が不愉快にならなければいいけどと心配になってしまう。
どうして探索者に? と三峰さんに訊いたら研究のためだときっぱりとした答えが返ってきた。なんの研究ですかと訊いたら何でも! と。どうしてあんな化け物が大量にいてこれまで見つけられなかったのか、どのような生態でどのような社会を営んでいるのかから始まって各個の化学成分のさらなる利用方法まで。ありとあらゆる知的好奇心が彼女を呼んでいるとうっとりと語った。正直よくわからない。目指す職業は魔法使いで、魔法使いといえばこの人である魔女姫高田まり子(たかだ まりこ)さんを隣りに捕まえて予行演習に忙しかった。
高田さんが簡単に書いたスケッチ、それを思い浮かべてもらって素質をチェックした。訓練場のような特殊な場所でもなければ極端な変化は現れないものだけど、高田さんには肌に触れれば十分わかるらしい。最初、数秒して言いにくそうにあなたには素質がないみたいと判定をくだした。
三峰さんは却って喜んでしまった。そして高田さんを放さずにしきりに今は? じゃあコレでは? と訊いている。同じ円卓の人間がそろそろ飽きはじめた頃に高田さんが驚いたように「うまくできてる」とつぶやいた。
その後はすごかった。普通なら難しいイメージをすべて簡単にこなしてしまった。伝説に残る魔女姫の試験のようにその反応の強度が大きいわけではないけれど、正確に脳裏に像を描く反射速度は大変なものがあると高田さんのお墨付きが出た。やっぱり頭のいい人は何か違うのだろう。
一月五日(月)
迷宮街・スーパーマーケット 一二時一三分
科学技術ってすばらしい。
目の前で両側に開いていくガラスのドアを見て、三峰えりか(みつみね えりか)は感動のあまり泣きたい思いだった。昨夜はなかった筋肉痛は、今朝ベッドから身を起こすことすら難儀にさせていたのだ。こんなドア開けていられるものか。よろよろとスーパーの一角、薬局のコーナーに向かった。白衣を来たのっぽの女性がその歩みに苦笑しつつ眺めている。その顔に向かってなんでもいいから筋肉痛を和らげるものを! と頼むとまあちょっとお待ちよと奥に消えてしまった。
スーパーの一角とはいえ、ここでは迷宮街唯一の診療所で出された処方箋での薬の販売もしている。客を待たせるためにソファが並んでいた。そのうちの一つ、見知った顔を見つけて隣りに腰をかける。
「真壁くんこんにちは」
ソファに深く沈んでいた真壁啓一(まかべ けいいち)は薄目をあけて三峰を見やった。そして幾分ぐったりした表情でにっこりと笑う。風邪? と訊くとうなずいた。戻ってきた薬剤師が彼の前に薬の袋を差し出した。病人とは思えないキレで真壁は立ち上がるとそれを受け取り、頭を下げる。
「――けっこう熱があるらしいけど頭もはっきりしているみたいだからよく寝てりゃ心配ないさ」
何でもないような言葉にふーんとうなずいた。それよりも筋肉痛だ、と薬剤師に向き直った背中に真壁の声がかけられる。
「三峰さん合格おめでとうございます」
ぎょっとして振り向く。にこにこと祝福の笑顔がそこにあった。ついで、でもどうして探索者に? という質問がなされた。ありきたりなやり取りはしかし三峰を慌てさせた。
「嘉穂さんやばい! この子頭はっきりしてないよ! 昨日この会話したもん私!」
「え? そうなのかい?」
二人の視線を受けた病人がゆっくりと店内を去っていく。薬剤師はその背中にお待ちよ! と声をかけた。ゆっくりと真壁が戻ってくる様子を眺めながら、三峰は携帯電話を取り出した。
「ああん、真城さんは今もぐってるし、津差さんは番号知らないし、そっか、常盤くんが同じ部隊だね」
戻ってきた病人をソファに再び座らせる薬剤師を眺め、額に手を当てた彼女がぎょっとする様子を眺めながら呼び出し音を聞く。通話の向こうの声が今日もお手伝いできることありますか? と弾み、うん。至急手伝ってもらいたいことがあるのよと答えた。調査研究のお手伝いじゃないんだけどね。心の中で舌を出す。
仙台市・青葉区 一七時四五分
約束の場所には一五分前に着いた。もう、この距離を自転車で走らなくなって四年経つ。しっかりと時間を読み違えてしまった。寒いなあ、いやだなあ、退屈だなあと最後のカーブを曲がって開けた駅前には見知った人影が一つ。よかった。これで退屈だけは紛らわせる・・・。
「克巳ー!」
神野由加里(じんの ゆかり)は大学の同級生でもある男に声をかけた。ポストに寄りかかってタバコをくわえていた二木克巳(にき かつみ)がその声でふりむく。かすかに笑いうなずいた。
神野も時間を読み違えたか。そばに停まってすぐに投げかけられた質問にうなずき、克巳も? と訊くと道が舗装されててあっというまについちまったと苦笑した。変わったなというつぶやきに、まるで別の町だよと答えた。四年見なければ、政令指定都市のベッドタウンなどというものはすっかり様変わりしてしまうものだった。ずっと住んでいる友達はみなそれを嬉しそうに、少なくとも迷惑ではないように語る。しかしそれは、日々変わりつつある風景を見つめて少しずつの変化を少しずつ受け入れた人間だからもてる感想なのだ。自分のように、たまに訪れた人間はその不在の間に景色が変わってしまったという現実を突きつけられるのだ。そこに自分が抱いていた思いなど全て無視した結果だけを。そして、日々その暮らしに関わっていない自分には畢竟不満を抱く資格などはないという事実も同時に思い知らされる。少しだけ血の気が引くような孤独感。
人間も同じだ、と由加里は目の前の男を見た。二木からの年賀状は、彼が趣味でしているハイキングの写真が使われていた。日付は一〇月二六日。一一月一日よりも少し前。そこに写っている男は目の前の男より少し痩せていたし、その頃は髪の毛はボウズだったがいまは少し長い。すぐ記憶にあった友人の顔とその顔を見比べて、正月の朝は笑ったものだった。その小さくない変化を由加里がすんなりと受け入れられているのはその間、ちょくちょく顔を合わせていたから。大学で、ゼミで、あるいは退屈している由加里を二木が連れ出して遊びに行った先で。時が経てば誰でも変わるなんてことはわかっている。でも自然に受け入れるためには一緒にいなければならないんだと痛感したのはこの年末のことだった。
「実家の方、お客さんで大変なんだって?」
「へ? なんで?」
きょとんとした二木の顔。由加里は首をかしげた。
「啓一が克巳の家に泊めてもらおうと頼んだら拒否されたって泣いてたよ」
心なしか同級生は動揺したようだった。
「ああ、あれね。二日か三日かな? あの頃は立てこんでたわ。今日は静かなもんだけど」
年末、啓一に会ってきたんだろう? 元気にやっていたか? 質問ににっこりとうなずいた――うなずこうとした。元気だったよ。かなりマッチョになってたのと、結構傷ができてた以外は変わってなかったな。あんまり。
「あんまり、か」 二木はつぶやいた。
「仕方ないよ」
そう。仕方ない。まだ当面恋人の生活は京都に、自分は東京にあるのだ。ずっと一緒にいるという選択ができない以上、変化を受け入れられなくてどうする。今後いつまでその関係が続くかわからないのだから、音を上げるわけにはいかない。社会人になればこの距離は縮められるだろう。自分だって収入が増えるし、喜んで恋人は金を出すはずだ。
そりゃ変わるよな。二木のつぶやきを聞く。毎日命がけなんだもんな。その言葉にはっとした。
「ん? どうした? なんか悪いこと言ったか?」
気を使う顔に笑顔で首を振る。気がつけば両手のひらをしっかり握り締めていた。ずっと認めたくなかったその事実を親友が言い当てたのだと気づかせてはならない。彼は気に病むだろう。
自分と恋人との距離は京都と東京という地理的なものではない。自らのために探索者としての人生を選んだ人間と、それを決して選べない人間の距離なのだ。
――お金じゃ解決できないよ、これは。空を見上げるとぱらぱらと小雪。
迷宮街・木賃宿 一九時二一分
エレベーターに乗ると人は階数表示を眺めてしまう――そんな言葉を以前テレビの中から聞いたことがある。最近では『エレベーターに乗ると階数表示を見てしまう人が多い』という法則もまた有名になり、あえて他を、前方か、足元か、携帯(これは多い!)か、あるいはどこか別の世界かを眺める人間が増えてきた。しかしすぐ下に顔があるその娘にはまだそういった自意識は希薄なようだった。口を半開きにし、移り変わる数字をぽけーと眺めるその横顔を盗み見ることが最近の常盤浩介(ときわ こうすけ)のひそかな愉しみでもあった。年齢では二才上だがどうしてもそうは思えない。
地上階につき、歩き出す。玄関を押し開けて出た夕闇の寒さに自然に手をつなぎながら食事と明かりのある場所へと向かった。そして大丈夫かな? と呟く。笠置町葵(かさぎまち あおい)は怪訝そうな顔をした。
「二人で残しちゃって」
ああ、と笑った。心配いらないよ。普段だって翠の方が強いのに、真壁さんグロッキーなんだから。襲いかかったって間違いは起きっこないって。楽天的な言葉に首を振った。いやいやそうじゃなくて。
「なに?」
「真壁さん、翠さんには甘いでしょ。ムリしてさらに風邪こじらせるんじゃないかな」
笠置町姉妹をホームで出迎えた常盤の口から真壁啓一(まかべ けいいち)が風邪でダウンしたと聞いて、笠置町翠(かさぎまち みどり)はだらしないなあと笑った。せっかくお土産を買ってきたのに、今夜でなくなっちゃうんじゃないの? 桜肉の刺身と野沢菜漬けを軽く叩いて笑っていたが、いざ北酒場でそれを広げて少ししたらもじもじし始めた。本当になくなりそうだね。取り分けてあげようか。葵にご機嫌を伺うように聞く。妹はため息をついた。とっておくのも面倒だし見舞いがてら持っていってあげよう。望んでいた言葉を言ってやる。表情がぱっと明るくなった。
普段はモルグに寝泊りする男だったがさすがに安静すべしとて、今夜は六階の個室を取っている。部屋に担ぎ込んだ当事者である常盤が見舞いのためにと要求したので鍵は簡単に渡してもらえた。部屋の中は病人特有のよどんで湿った空気で満たされていたが、しかし病状自体はずいぶんとよくなったのか熱は微熱程度にまで引いているようだった。
小皿に取り分けてラップをかけた馬肉と野沢菜を冷蔵庫に入れて立ち去ろうとした三人に、いや、そのうちの一人に病人から声がかかった。しょんぼりしてるぞ。実家でなんかあったか。聞くくらいならできるぞ。姉はぎくりと立ち止まり、形だけ遠慮してから再度勧められ部屋に残った。
「あー、真壁さんの具合ね。忘れてた。うーん、でも、翠の世話慣れてるし」
そして正直つらかったのよーと愚痴をこぼし始めた。正月にあわせて帰省した木曾に、姉の憧れの人である従兄も来ていたのだという。それは当たり前のことであり、だからこそ帰省前の姉は浮かれていたのだが、問題は従兄が恋人を連れてきていたことだ。そして今年のうちには結婚するつもりだと公表したこと。葵は浮かれて登ったはしごを外されて墜落する人間を目の当たりにしたわけだ。
落ち込んでいることが周囲にバレてはいけない、親族の一人になる女性に失礼をしてはいけない、笑顔笑顔、必要のないところでも笑顔。たまにしか会わない古老たちは「翠ちゃんも愛想よくなって」「京都にやったのは正解だった」と喜んでいた(おかげで今年のお年玉は一五万を越えた)のだが、常日頃姉を見ている自分にはその姿だけで悲しくいたましく、鬱陶しい。ものすごく疲れた年末年始だった。正直なところ、今夜くらいは解放されたいと思っていたところだった。真壁が寝込んでいると聞いて愚痴を聞いて欲しかった姉も落胆しただろうが、度合いで考えれば自分の方が大きかったと思う。
それらの事情を聞き終え、厄介者を病人に押し付けたのか、とじろりと視線を送った常盤の表情がぱっと明るくなった。じゃあ、今夜翠さん部屋に戻ってこないかな!
あほですか、と言下に否定された。いくらなんでも夜っぴて話につきあわせるような無茶はしません。三〇分も話したら帰ってくるでしょう。だから――
「だから、ご飯食べたら今夜は部屋を取ろう?」
立ち止まり自分を見上げる笑顔、きれいな鼻梁をかるく指でなぞった。
一月六日(火)
大迷宮・第一層 一〇時三七分
地下に住む化け物たち、ありとあらゆるデータに疑問符が塗りたくられている生き物たちとはいえ同じく生物である以上(一部生物ではなかったが、運動する物体である以上)なんとなく強弱はわかるものだ。青鬼は赤鬼に比べて背が高くがっしりしており銅剣も長く、その分だけ当たったときの被害が大きく思える。骸骨はどうにも脳みそがなさそうなのでトリックなどはすべて無駄になる気がする、などなど。こちらが想像できるのであれば当然先方も可能だろう。前衛と後衛、後衛は抜き身の刀剣を掲げることはないし、前衛のように見るからに分厚くまた金属質な輝きをしたツナギを着ているわけでもない。何より前衛は後衛よりも体格において優れていた。だから化け物たちの中で少しでもそういう判断をできる者たちはなんとか前衛の盾をかいくぐろうとする。そしてとにかく相手に死傷者を出そうとする。その点だけで、この化け物たちの社会における戦争でも士気低下による潰走が勝敗を決する第一の要因だと想像できた。もちろん当然探索者にはそんな推測をしている暇はない。彼らの脳裏に刻まれるのはたった一つ。『後衛を守れ』『俺たちを守れ』である。
その観点からすると屈強な体格の戦士というだけで後衛から人気を得るのは当然だった。身長一八〇センチと一七〇センチ。一〇センチの差というのは片手指だけで表現できる程度のものなのだがこれが人間の身長となると大きく違う意味を持つ。人間は縦に大きければ横にも大きくなるものだし、戦士という筋肉を鍛え上げる職業であればなおさらだ。一八〇センチと一七〇センチの二人の戦士では筋力も体力も違うのだろうが何より邪魔さ加減が違う。つまり突破を試みる化け物を阻止する力が違うことになる。
もちろんそれは体格に劣る戦士に対する周囲の評価が厳しくなることを意味する。たとえば女性のような。
既に数回目の地下探索だった。「お邪魔します!」 と魔法の合言葉を叫んで駆け込んだ空間、こちらを認識して銅剣をかかげる青鬼たちに突進した。向こうも戦意は十分として逆に前衛の突破を試みる。「寝とけオラ!」 という魔法使いの言葉とともに化け物たちの幾匹かの動きが緩慢になったが、三匹がまだ動ける様子だった。海老沼洋子(えびぬま ようこ)は緊張の唾を飲み込んだ。そのうちの二匹は明らかに自分に向かってくる! ニ対一にはまだ慣れていない。瞬時に判断する限り、中央を走る進藤典範(しんどう のりひろ)の手が空くはずだった。彼を待つべきか? 待ってニ対ニであたるべきか? 一瞬だけ悩む。
そのままの突進を選んだのは、自分の力を見せてやるという敵愾心から。しかし彼女は知らなかった。この街の死因の最たるものとして古参探索者に認識されているものは化け物の爪や牙というものではなく『分に過ぎた戦意』であることを。一匹の青鬼がバックステップをかけた。つられてその化け物に一歩を踏み出す。そのわき腹を小さな肢が蹴り飛ばした。バランスを失って倒れた。
「馬鹿エビ! 起きろ!」
進藤の声に跳ね起きると青鬼は二匹とも後衛に向かっていた。一匹に対して進藤が突きを繰り出す。それは青鬼をしとめるには至らなかったが、彼から理性を奪い進藤に釘付けにするだけの怪我は負わせることができた。しかしあと一匹は後衛に届く。魔法使いの小柳直樹(こやなぎ なおき)が悲鳴をあげた。先ほどまで金縛りの術を発動していた彼のことだ。集中のために(前衛を信じて)閉じていた目を開いてやっと至近に迫る青鬼に気づいたのだろう。
悲鳴をあげる二人の術師の前に罠解除師である倉持ひばり(くらもち ひばり)が立ちふさがった。これも後衛にふさわしく武器はない。しかしその脱力の程度は前衛よりもはるかに落ち着いている。
倉持のツナギは純白である。驚くべきことに地下に潜り始めてからこちら、純白以外のものになったことがない。他の人間が多かれ少なかれ返り血や泥水で汚れる中、そのツナギだけは純白でありつづけた。エーテルを巧みに操作する彼女は無意識のうちにツナギの表面を薄くコーティングし、腰掛けたときなどの汚れの粒子を払い落とさせることができる。そう。それほど強力なことはできないが、罠解除師は物理的な影響を及ぼすことができる。これもまた純白の手袋をひらりと舞わせた。
ぐらりと青鬼の身体が揺らいだ。右足が、左足よりさらに左側に着地する。まるで右から左へと強風を受けているような様子だった。もちろん地下に風の吹くはずもなくその青鬼以外にどんな影響も見られない。しかし青い毛皮をまとい銅剣をひっかついだ化け物は左に左にと流されていった。怒りの声を上げながら青鬼は固まった後衛の脇を走り抜けていく。
「ごめんなさい!」 声を上げて、走り抜けた青鬼を追う海老沼。倉持は油断なくその背を見守っていた。鉄剣をつきたてその青鬼にとどめをさすまでじっと見守っていた。その瞳は冷淡だった。
真壁啓一の日記 一月六日
台風一過。といいたくなるほどいい気分だ。昨日の朝、原因不明の体調不良に見舞われたけれど一日かけて水を飲んでは吐いてを繰り返した結果、かなりいい感じに身体をクリーンにすることができた。やっぱり運動しないで食べてばかりいたのが原因だと思う。難儀な身体になったもんだ。
訓練場では笠置町姉妹と再会。彼女らも昨日戻っていたらしく、今日一日で身体を探索用まで絞り込むのだそうだ。お餅食べ過ぎたと笑うほっぺたは冗談ではなくふっくらとしている気がする。でも、まさか普段あれほど運動していて基礎代謝の高い人間が六日お餅を食べ過ぎるだけで見てわかるほど太るものだろうか? やっぱり気のせいだろう。
葵にあわせてペースをゆっくりと、午前中はずっと走って午後から打ち合い。翠いわく、かなりよくなってきたという。やっぱり翠パパに相撲の稽古をつけてもらえたのがよかったのではないだろうか。人間の身体ってのは思うよりも動くものだ、と実感しさえすれば自分でも動かそうとするし、動かそうとすれば動くものなのだ。あとは鈴木さんに稽古をつけてもらえたのもいい経験だった。彼女はナイフを二本持って戦うスタイルで、二本使うときの動かし方、注意の引き方など教えてもらった。当然それはナイフを持っていなくても生きる。早く予想外に動かせば相手の注意を少し向けることができる。
と有意義な訓練をして早めに切り上げた。笠置町屋敷に常盤くん児島さんと一緒にお邪魔してほうとうを食べる。木曾の姉妹は慣れっこらしいけど常盤くんと児島さんは味噌味の中にかぼちゃが入っているという感覚を不思議に感じていた。俺なんかが東京で食べる味噌鍋にかぼちゃが入っていないことを疑問に思うようなものなのだろうな。
今年の初陣を済ませてきた津差さんとモルグでお話をする。津差さんは仲間に恵まれず、まだ第一層だそうだ。治療術師の幌村くんが化け物を見分けられるようになる治療術を今回で身につけたから、次回からは第二層だとのこと。え? それってものすごく成長が早い、と思って訊いたら津差さんもうなずいていた。性格はともかく才能は天才に近いと思えるのだそうだ。
中村さんというひとを知らないかと津差さんから訊かれる。この街で働く女性なのだそうだ。どうして探しているかは教えてくれなかった。中村? ありきたりな名前だから当たり前なのだけど、どこかで会ったような気がする。結構最近に。熱にうなされて夢でも見たかな?
落合・神野由加里のアパート 二二時一七分
頭の中でいろいろな理由が渦巻く。立ちくらみに似た感覚に意味もなく自分の頬に触った。鎖骨、肩、そこに実体があることを確かめていく。
問題は理由ではなく意図だった。自分しか読者がいないこの日記において恋人は誰から何を隠そうとしたのか。
昨夜、日記が書かれていないことに心配して電話をかけた。呼び出し音にも誰も答えず三件のメッセージ容量は自分の声だけで埋まった。そうしてやりきれずに自分の友達でもある女性に電話をかけたのだ。彼女は熱を出して寝ているんだと教えてくれた。ぐっすり寝ているんだろうから、今夜はそっとしておいてあげたら? と。
そして言った。顔を見たけど意識はしっかりしてたよ。悪いとは思ったけどちょっと愚痴を聞いてもらっちゃったんだ。
再会は訓練場ではないはずだ。誰から、何を隠そうとしたのか? 頭の中で組み立てる必死の言い訳がむなしく闇に吸い込まれていく。
一月七日(水)
迷宮街・訓練場 九時二分
ずらりと試験生が並んでいる。橋本辰(はしもと たつ)はごきりと首を鳴らした。『人類の剣』でありこの国でも十本指に入るだろう戦士であっても長時間の運転はこたえた。昨夜はぎりぎりまで名古屋にいて、妻と子がすうすう寝息をたてる中、ガムをかみながら車を運転してきたのだ。迷宮街にたどりついたのはもう十二時で、今朝は妻は起きてこなかった。息子は――この寒い中ジョギングに出かけた息子におかしく思う。もとより自分が『人類の剣』だから何の気なしに教えた剣術、息子にはあいにく際立った才能はないものの中学生の剣道県大会で個人戦ベスト四になったのはさすがは我が子と思っていた。しかしそれで天狗になるあたりがまだまだだなと。そう。天狗になっていたのだ。間違っても冬休みにジョギングをするような人間ではなかった。何があったのかと妻に訊いたら「お餅つきですごい人を見た」のだそうだ。すごい人? 誰だ? ほら、あのでっかい人。
そうか、津差か。たしかにあの巨人は中学生の自負心などこなごなに砕くインパクトがある。自分がかつてある老人を前にして実感した「今のままでは自分はこうはなれない」という絶望感と同じ種類のものを津差の巨躯は子どもたちに与えるのかもしれない。
そう、戦士になるには体格は重要だった。正月四〜六日と体力テストを突破した人間は総勢にして七八人。大盛況だった。やはり一年の計としてここにあわせて満を持して参戦したテスト生が多いのだろう。体格的にもかなり期待できるものが散見された。一人一人の目の高さに視線を合わせ横にないでいく。それががくりと下がった。
低いな! と思う。どうせ戦士はムリだからここはパスすればいいのに――とまじまじと見たその女性、おそらく一四〇センチ台前半に位置するその女性の顔には見覚えがあった。口がぽかんとひらく。
「三峰さんですか?」
三峰えりか――商社の買取技術者――はにっこりとうなずいた。女性用のツナギでもさらにぶかぶかで、わざわざベルトを持ってきてウェストできっちりと締めていた。それが腰の細さを目立たせている。
何やってるんですか、と橋本は呆れた。この技術者の知的好奇心は常々実感しており、この娘のボスからはその知的好奇心の充足にはできる限り配慮してもらえるように、費用が発生したらすべて請求してくれるようにと頭を下げられていた。何をやってるんですかそんなところで。調べたいことがあったら言ってくれればきちんと場を作りますよ。あーあーそんな七五三みたいなツナギ着ちゃって。こっちにいらっしゃい。
小さな科学者は呆然としたように七五三、と呟いてから再び笑顔を浮かべた。いえ、今日は適性検査だというから来たんです。その言葉を聞いて、いやそれは確かに適性検査の日ですけどね、と橋本は子どもに対するような穏やかな口調で説明した。もう立派な社会人だとわかっているが、普段の白衣ならまだしもぶかぶかのツナギで小柄な身体は子どもと対しているような気分にさせるのだ。探索者になるには体力テストがあるんですよ。適性検査には特例がありますけど、体力テストには特例は認められないんです。いくら三峰さんでも試験は受けていただかないと。
だから、きちんと合格したんです。胸をはる姿にその周囲の――連番で並んでいるからおそらく同日に受験した者たち――に視線を移した。一様にその言葉を肯定するうなずきを見せた。腕を組んで深く唸った。大の男でも音を上げるあの体力テストにこんな小さな身体で。大変なことだった。
「それはそれは」
橋本はにっこり笑った。失礼を申し上げました。そのお詫びといってはなんですが、戦士の試験は特例でパスにして差し上げます。そう言って斜め後ろの事務員を振り返った。四二番は戦士は不合格で。
こぼれる笑いとムキになる反論の声。冗談じゃないです。どこが特例ですか。私は全種目合格するつもりなんですから。特例なんていりません。絶対にパスしてみせます。
あーはいはい、と橋本は先ほどの言葉を取り消した。笑いをかみ殺しながら、こと戦士に限っては体格的な限界はあるのにと思う。しかし本人が希望するなら試験を止める理由はなかった。
もちろん結果は予想通りになった。
真壁啓一の日記 一月七日
今年初めての探索は悪くない成果で終わった。第二層、延々と続く降り口への道で化け物たちに出会わなかったのが大きい。ほとんど消耗せずに第三層に到着した。まずは真城さんたちから依頼されていたことを済ませる。例の、西野さんと鈴木さんが登ってきた縦穴が、第三層ではどこにつながっているのかという調査である。女帝は相変わらず縦穴を使用してショートカットする狙いをあきらめていない。最初は俺たちを雇ってアマゾネス軍団が第四層に降りている間――つまり一日ずっと縄梯子を守らせるつもりだった。しかし第二、第三層で化け物に縄梯子を切られたらどうするのさという俺の言葉にその計画は頓挫した。今度の計画はもっと気合が入っていた。繊維でつくられた縄梯子ではなく金属製のはしごなどを下ろしてしまい、彼女の軍団が各層を通過するそのタイミングだけを他の探索者に守らせるというものだ。アマゾネス軍団は精鋭四部隊と呼ばれていて、それくらいになるといわゆるマイナーリーグと呼ばれる親しく交流する部隊がある。その部隊に第三層を、俺たちのところに第二層を、どこか適当な部隊に第一層を、探索の合間に時間を決めて守らせようというつもりらしかった。なるほど、確かに一日のうちたった二回三〇分ずつだったら一人二〜三万でやろうという気にもなる。
そのためには俺たちが自力で縦穴の淵までたどり着かなければならない。しかしそこはいまだ未到達地区に分類されていた。岩盤に完全にさえぎられているか、あるいはもっと厄介なエーテルの壁に道をふさがれているか。どちらかを調査し岩盤だったら掘削をこころみ、エーテル流だったら熟練した罠解除師に解除して道をあけてもらう。そのための事前調査である。
訪れた第三層のそこは、俺が見てもちょっとやばいと思うほど強烈に何かが流れていた。あれだ。NHKか何かの番組で見た、鉄鋼工場で見られる水圧のカッター。迂闊に指を突っ込んだらなくなりそうな勢いで何かが流れている。常盤くんがしばし絶句して「これはムリでしょ」と呟いた。それでも不思議なことに、向こうからなら通れそうだという。本当に、理解を超える現象ばかりが起こる場所だな、地下ってのは。ともあれ女帝の企ては第三層においてはムリっぽかった。
それにしても、色々おこる不思議な出来事、できることなら理屈を知りたいものだ。商社の技術者である三峰えりか(みつみね えりか)さんという方はとうとうそれが嵩じて探索者になってしまった。だからできる限り協力できることはしたいと思う。
そう、その三峰さんは今日の適性試験で戦士以外の全職業に素質を認められて見事魔法使いになった。常盤くんはそのお手伝いがしたくてうずうずしているようだけど葵のそばにいる今の状況を離れるのもためらわれるという。探索者の恋人同士といえばまず濃い沼夫婦が挙げられる。鯉沼夫婦はかたや星野さんの部隊かたやアマゾネス軍団と別れているけれどそれは二人ともが治療術師だから特別で、恋人同士はたいがい一緒にいたがるしその気持ちはよくわかる。毎日どちらかがどちらかの安否を気遣って不安にくれるなんて大変だから。そういうこともあって常盤くんにはうちに残るように勧めている。それでも三峰さんという頭がよくて好奇心旺盛な科学者が地下に潜るというのは探索事業において一つの契機になりうると俺は思っているから、できる限り彼女(の部隊の、ではなく)の安全は守りたいと思う。それは精鋭四部隊のリーダーも同意してくれて、そのために(真城さんは独自に前衛として誘っていたのだけど)鈴木さんを三峰さんの部隊の罠解除師として勧めた。鈴木さんの返事は「考えてみます」だった。彼女も何か、考えているみたいだ。それはそれで嬉しい。
あ、話が前後したかな。今日は戦闘自体は問題なく済んだのであまり書くことはないのだ。
地上に戻ってからアマゾネス軍団プラスアルファの新年会に引きずり込まれた。その場で進藤くんがいろいろと真城さんにアドバイスをもらおうとしていたけど、それは彼の仲間の海老沼洋子(えびぬま ようこ)さんについてのことなんだけど、なんだかなあと思う。女性で強い=真城雪という単純な図式でアドバイスを求められても真城さんも困るだろう。まずもって体格が違うし(真城一七二センチ、海老沼一六五センチ)、得意とする戦法も違う。というより本人が訓練場で稽古をつけてもらわない限り伝聞じゃ改善されないことだろう。もちろん進藤くんもそれはわかっているのだろう。わかっているけど、それでも訊かないといられないのだ。うーん、仲間に恵まれない部隊のリーダーは大変だ。もしかして初期は翠にも心労をかけていたのだろうか。きっとそうなんだろうな。感謝しないと。
一月八日(木)
新宿・商社の本社ビル 十一時四七分
どんなにきっちりとルールが決められていても、いや、決められているならなおさら細かなところで目こぼしの余裕は必須だと巴麻美(ともえ あさみ)は考えている。それは事務員でも同じこと。違うのは、事務員相手のお目こぼしはささやかなもので済むということだ。備品のクリアファイルを持って帰ったり、販促用のポスターを友達に配ったり、お茶菓子をオフィスデポで買って経費で落としたり――これだけのことで職場の華が明るくなるのだから可愛いものだ。とはいえ夫のように、上司がそれを黙認することを奨励すべきとまで言い出すのも馬鹿らしいとは思うが。ちょっとした小ずるい甘えは、こそこそと目を盗んでやりそれをなんとなく見逃されるからこそいいのだから。
そしてこれもまた許されてしかるべき甘えだわと胸を張りながら、彼女は勝手知ったる他フロアを歩いていく。目当ては後輩にあたる事務OLだった。彼女の配属当時に仕事を教えた縁で仲良くしているし、今ではもう少し関係が深い相手だった。後輩――大沢美紀(おおさわ みき)の後頭部が見えて足を止めた。その周囲にスーツ姿の男性が二人立っていたからだ。込み合う新宿のオフィスビルだから、あまり並ばずに昼食を食べるには五〇分には職場を出たいところだ。それを邪魔するかのように後輩に仕事をふる無粋者は誰だろう? 相手によっては追い散らしてやる。今年で二八才、伊達にお局さまの仲間入りをしつつあるわけではないのだ。目を凝らした。え? アレは――
「誠司? どうしてこんなところにいるの?」
驚きの声に内縁の夫である後藤誠司(ごとう せいじ)が振り向いた。そして笑顔になる。
「その言葉はそっくりそのままお前に返そう。まだ業務時間は終わっていないぞ」
夫とはいえ社内での序列は上。あ、いや、とごまかしながらそのそばまで歩いていくともう一人の人物が誰だかわかった。結婚披露の場で少しだけ話したことのあるその男性は、社内でよりも経済誌の記事で見かける方が多い顔だった。田垣専務! と直立する。おそらく正体に気づいていなかった周囲の若いビジネスマンがぎょっとしたように背筋を伸ばした。
「こんにちは、麻美さん」 田垣功(たがき いさお)取締役に好好爺という表情で会釈をされて恐縮した。これから誘いに行くつもりだったので降りてきてくれたとは好都合だ。もし良ければ昼食をご一緒しないかね?
ああ、そうかと納得する。後輩は重要な取引先の娘だと聞いたおぼえがあった。利発で素直で仕事ができる娘だったのですっかり忘れていたが、縁故で入社するほどなら専務と知り合いであってもそれほど不思議はない。大沢は夫がこのビルにいた間そのアシスタントをしていた縁もあり(彼女に紹介されたのだ)、久しぶりに東京に来ていた夫との食事の場に誘われたのだろう。お供しますと笑顔を向けてから、夫にはこっちに来てるなんて知らなかったよと苦情を言った。
「夕方までには戻るつもりだったからな。会議が難航すると思ってたから、昼はコンビニ弁当で済ますつもりだった」
とはいえ教えてくれればちょっと会話くらいはできただろうに・・・。相変わらずだ。田垣と顔を見合わせて苦笑した。
最高権力者の一人が公認したサボリを止められるものがいるはずもなく四人は連れ立って役員用エレベーターに向かった。結婚生活はどうかねと専務に問われ、別居中である以外は満足ですと笑った。後ろでかつてのコンビが話している会話を耳にとどめる。
「恩田さんってお元気ですか? 真琴が知りたがってました」
「――恩田? 恩田。すまないけど、名前を知っている探索者なんて一握りだから――恩田信吾(おんだ しんご)?」
「ああ、たぶんそれです」
「・・・真琴さんはどうして知りたいの? いや、どうしても知りたいか、話のついでに知りたくなったのかどちらだった?」
「どうしてもって感じではなかったと思いますけど」
「じゃあ、近況はわからないって伝えておいて。強い希望じゃなければ知らない方がいいだろうから」
なんとなく沈黙が落ちる。なるほど夫は大変なところにいるのだなと実感した。
迷宮街・北酒場 一九時三二分
「だいぶお疲れじゃありませんか?」
高田まり子(たかだ まりこ)の気づかう声に後藤誠司(ごとう せいじ)は首を傾げたが、同席の三人はうなずいた。相変わらずの酷薄な人相、なんとか和らげようという努力がほほえましい顔は相変わらずだったけれど、北酒場の照明のもとでは目の下のクマが目立ったのかもしれない。確かに夕べの資料作成、今朝のプレゼン、新幹線車内でこれから出す資料作成と一睡もしていない。しかしそれはいつものことだ。ビジネスのほとんどの局面では拙速が巧遅にまさることからも、後藤には睡眠を軽視する傾向があった。大丈夫ですよとこともなげに言うとテーブルに感心したような空気が流れた。
北酒場の端に円卓をわざわざ移動し周囲に近づく者のないようにしている。迂闊に近づいた探索者――以前、後藤が救助連絡に関わったときにいた青年だった――が真城雪(ましろ ゆき)に追い払われてからはその空気を察してか近づくものはない。ここに来て予想と外れたことはたくさんあるが、最大のものがこの点だった。この街に集まる探索者たち、自分では想像もできない決断をしてこの街に集い自らの力を頼りに生きていく無頼漢たちは、無頼漢の集まりでありながらもきちんとした序列、秩序を成立させているのだった。事前の情報収集として読んだ雑誌、インターネット上の記述、もと探索者の女性の話などからは読み取れなかったものだったが、救助という互助の必要があることからかその秩序は強く各探索者を縛っている。序列を決するのは肩書きではなく年齢ではなく(とはいえこと探索と離れた日々の事例を解決する上では年功が大きな判断材料になっているようだったが)、探索の進度だった。ここにいる四人は――と歴戦のつわものたちを眺める――そのヒエラルキーにおいて最高位に位置する精鋭四部隊と呼ばれる部隊のリーダーである。新幹線車内から頼み込んでこの場を作ってもらったのだ。
星野幸樹(ほしの こうき)――陸上自衛隊の二尉を勤める自衛官にして戦士。三四才。七歳になる娘がいる。
真城雪――女帝、レディ・アマゾネスなどさまざまな敬称を奉られる女戦士。二八才。影響力と美貌とで並ぶ者がいない。
高田まり子――魔女姫の異名を捧げられた女魔法使い。探索者中随一の実力を誇る。二八才。内弁慶の気があり信頼されたかどうかわかりやすい。
湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)――探索者中随一の実力を持つ治療術師。二四才とまだ若いためか、探索の方針に関して意見を言うことはほとんどない。が、このようなミーティングに必ず呼ばれることからも一目は置かれているらしい。
着任当初は海千山千の探索者たちとどう交渉していくか悩んでいた。が、彼らに混じって酒を飲み話を聞くうちにそれほど難しいことではないのかとも思えてきた。交渉が同じ方向を向いている限りは。彼らに利益のある提案をしている限りこの四人の同意さえ取り付けていれば決定は問題なく浸透すると思われた。それが、探索者への対策が未然で時期尚早に思われたこの時期から重用な提案を開陳する理由だった。
まずは隣りにいる男性を紹介する。こちらもまた新幹線車内から連絡して、駆けつけてもらった大阪の機械設備製造業者の営業担当者だった。名を堀井太一(ほりい たいち)と言う。外回りの営業にふさわしい日焼けした顔をくしゃくしゃにして堀井は名刺を配ってまわった。女帝がたいち、と呟いた。まだ若い湯浅は名刺をもらうという行為がめずらしいのか紙片をためつすがめつしている。
「どういうお話ですか?」
最年長者である星野が切り出した。はい、と後藤はうなずいてパンフレットを取り出し四人に配った。それは堀井の勤める会社のもので、商品ラインナップがずらりと並んでいる。あら、と声を上げたのは高田でさすが女性というべきだろう。ディズニーランドのメリーゴーランドの写真の前で嬉しそうな視線を堀井に投げた。
「メリーゴーランドを作ってらっしゃるんですか?」
堀井が顔をくしゃくしゃにして笑い頭をかく。おかげさまで納品させていただいてます。
「ひょっとして、迷宮街に遊園地を作るんですか?」
嬉しそうな女帝の声に男二人が苦笑した。後藤は首を振って自分が作成した一枚の図を配った。
四人ともがその図に釘付けになった。よし! とその反応に心の中で快哉を叫ぶ。
それは迷宮内部の写真から起こしたイメージスケッチだった。溶岩を思わせる洞窟は第一層〜第三層のいずれかであることを示している。天井、壁面、真に迫るような質感はあたかも迷宮内部にいるようだったが、奇妙なことに地面がなかった。断崖を思わせる壁面が地面があるべきところからさらに下へ下へと降りている。
探索者ならば一度は目にしたことがある、第一層濃霧地帯の奥にある大穴だった。ある事故をきっかけに、第一層から第四層へと貫く縦穴であることがわかっていた。
そこまでならば写真で撮れるもの。イメージスケッチにはそこに後藤が売りたい商品が描かれていた。人間の胴よりもなお太い鋼鉄の円柱が組み合わされ、洞窟の壁面にビスで留められている。それらの骨組みが支えるのは一つのゴンドラだった。ゴンドラは小さなエレベータくらいの大きさがあり、そのはるか上にある巨大な滑車にぶら下がっていた。それはとても詳細なスケッチだったからいまにもゴンドラが穴の底へと潜っていきそうだった。――いや、と後藤は四人の顔色を見てほくそ笑む。彼らの脳裏ではすでにこのゴンドラは地中へと潜っている。
その絵が示すものをきちんと咀嚼してもらうまで、いくらでも待つつもりだった。とはいえ待つその時間は後藤にとっても甘露だった。自分が提示した商品を、客が欲しくてたまらんと夢中になる瞬間。ありとあらゆる営業の辛さがこの一瞬に思い出され脳内で麻薬と化す至福の時間。これは何度味わってもいいものだ。
星野幸樹はしきりに口ひげをしごいていた。湯浅貴晴は絵から目を離さずにテーブルのビールジョッキを口につけ、それが空であることに気づいてテーブルにもどし、数秒後ふたたび口につけて今度こそ苦笑した。高田まり子には目立った動きが見られなかった。瞬きさえもしなかった。そして真城雪は口元に子どものような、しかし勇ましげな微笑を浮かべて絵を見つめていた。
三分は待ったかもしれない。もう何度目だろうか、またもや空のビールを口につけた湯浅が我に返ったようにテーブルを叩いた。それが合図になって三人が夢から醒めた。
「これはまだできていないし、作るとも決まっていないでしょう。後藤さんが私たちにまず見せたということは何か協力できることがあるのかと思いますが?」
表情を改めた三人を見回しておごそかに言った。そうです。私は商売人ですし、ここでの利益をもう少し高めないとこんどの四月には路頭に迷います。これはあくまでも商品で、お買い上げいただかなければなりません。そのお話をこれからさせていただきたいのですがよろしいですか?
一斉にうなずかれる頭。その前にとりあえずはということでビールのお代わりを頼んだ。
「問題はですね」
真城が後藤の顔をじっと見つめた。
「これを買うか買わないかじゃないと思うんですよ。堀井さんは遊園地の器具を作られているんでしょう? 問題は、こんな野暮ったいものじゃなくてホーンテッドマンション仕様にするか、ジャングルクルーズ仕様にするか、あとはええと――」
「シンデレラ城でしょ、やっぱり」
あれかよ! と愕然としたように男二人が魔女姫を見つめた。
真壁啓一の日記 一月八日
今日はパトロールの日なので早めに書く。今日から津差さん部隊の佐藤了輔(さとう りょうすけ)さんと野沢康平(のざわ こうへい)さんも参加することになった。これで、第二期でパトロールに加わっている人間は八名になる。笠置町翠(かさぎまち みどり)、津差龍一郎(つさ りゅういちろう)、鈴木秀美(すずき ひでみ)、俺、塩崎傑(しおざき すぐる)――この人は俺たちと同じ時期からの生き残りで、今は第一期の部隊に混じって第二層を探索している――、相馬一郎(そうま いちろう)――この人も初期の戦士で、なんだかわからないけど、新参の人たち専用の代打のようなことをしているらしい――、そして佐藤さんと野沢さんだ。ちなみに加えていいかどうかの判断というのは訓練場の教官である橋本さんがやっている。この人、一部の戦士に稽古をつけているかあくびをしているかしかしていないけど、きちんとひとりひとりを見ているんだな。
いつもどおり六時に他の探索者の目覚まし時計で起きて外に出たものの、どんよりとうす曇りのうえに昨夜のうちにうっすらと雪が降っていたらしく、こういう日は怪我をしやすいので三時間くらいずっとグラウンドを早足&ショートジョグだけですごした。さすがに他の人も暖かい布団が恋しかったのか、ジョギングの人間も少なかった。落合さんは・・・まあ寝てるんだろうけど、境周(さかい あまね)さんまでいないのは意外だった。そういう誘惑には屈しなそうだし、東北の方だから寒さには強いのかと思っていたんだけど。
一〇時くらいから翠が現れたので彼女のアップを待ってから稽古をつけてもらった。お餅を食べ過ぎたと言っていて、肥ったというのは嘘じゃなかったか、身体の動きが悪いぞと言ったら――まあ、俺は鈍感だから。女性は大変だ。
とはいえこれまでも何度かそういう時期があったはずなのに気づけなかったのが、今回はその影響に気づいた。やっぱり俺は上達しているのだと思う。
早々に切り上げ「部屋で寝てる」という翠と一緒にあがる。とはいえどこにも出かけるつもりもなく、笠置町邸に置いてもらっている本を取りに行った。というのもうちの両親から「退学とりやめで休学にできませんか?」という打診を受けた近藤教授からの連絡で、「そのあたりはなんとでもなる」と言われたから。そのときに、たとえ復学はしなくても卒論を書き上げたら見てもらえるという話になったからだ。やっぱり勉強する習慣は残さないと、と身近に常盤くんを見ていると思う。そういえば、野沢さんは夜学に通っている。その授業料を稼ぎ出すためにこの街にいるのだ。
てか頭錆び付いているし。モルグでうんうんと唸っていたら津差さんに覗き込まれた。津差さんが言うには、バーテンの小川さんは実はバーテンが副業で、本業は国際政治系の雑誌(・・・『フォーサイト』とかかな?)に記事を書くフリーライターなのだそう。わからないところがあったら訊くとしよう。
鈴木秀美の電子メール
ユッコにアキ、元気ですか? お久しぶりの姫です。
なんか心配かけちゃったみたいだね。兄貴が来たときにはびっくりしたよ。
連絡しなかったのはごめんなさい。ちょっといろいろあって、気持ちの整理がつきませんでした。
今も・・・まあカラ元気も元気って感じです。
話せるようになったら話すね。私は元気でやっているし、もうしばらく地下には潜らないので死ぬこともないです。
うん。でももう大丈夫です。二人とも受験が終わったら一度和歌山に帰ろうかな。こっち寒いし(それかよ)。
大検の勉強を始めました。専門学校に通ってます。ここに来るときには楽勝って思えた大検だけど、一発で受かるためにはやっぱり準備が必要みたい。でも、美少女で忍者で腕っぷしが強くて優等生(調子に乗ってきたぞ/ていうかほとんど女の子に対する誉め言葉じゃないし)な秀美姫には楽勝であるのは間違いないかな。
大検取ったらどっちの大学に進もうか、とちょっと考えています。・・・亡くなった友達の画材をもらったのね。で、本を見ながらスケッチとかしてます。忍者だから(友達なんだからつっこめよな)器用で上手に描けるんだけど、その人が描いていたみたいにはならない。結構奥が深いみたいで、四年間一生懸命勉強してみるのもいいかなーと考えています。
うーん、まだまだ姫は本調子じゃないけどとりあえず生きてるよーというご連絡でした。じゃあね!
心配かけてごめんね。ありがとうね。
一月九日(金)
迷宮街・木賃宿 一六時一三分
階段を下りてゆくと好きな俳優の声が聞こえてきた。木賃宿の二階と三階は二段ベッドが並ぶモルグと呼ばれるフロアだった。どちらにもテレビが設置されており、常に何かしらの番組が映し出されている。いつも可笑しく思うのは、ここでもまたほとんどの時間はNHKもしくは教育テレビが流れていることだった。病院の待合室ではいつもそうだったのだが、まさか子どもと老人がいないこの建物でもそうなるとは予想外である。NHKと教育テレビにはチャンネルを繰る手を落ち着ける魔力があるのかもしれない。
今はもちろん民放で、過去の連続ドラマの再放送と思われた。そのセリフには聞き覚えがあったからだ。声に誘われるように神田絵美(かんだ えみ)は二階のテレビのスペースに歩いていった。
「神田さん。今日は潜ってたんじゃなかったんですか?」
テレビの前に並んでいる男たちの中から聞きなれた声が神田を迎えた。ソファから首を捻じ曲げて彼女を迎えている顔には大きな青あざ。探索者中最強の戦士と称えられる男だった。名を越谷健二(こしがや けんじ)という。何が楽しいのか大の男で満員のソファを眺めると、越谷が得たりとばかりに自分の隣りに場所をあけさせた。微笑んで座る。
なんだか雪が、地上でやりたいことがあるって言ってね。第三層だけで終わってきたんだよ。神田のその言葉にやりたいこと? という質問がかぶさった。うん。探索者の説得工作だって。
「ああ、これですか」
ソファに座っていた進藤典範(しんどう のりひろ)がそれまで眺めていた紙片を差し出した。そこには昨夜後藤誠司(ごとう せいじ)が開陳した竪穴をつらぬくゴンドラの図と、彼がそれを探索者たちに販売する上での条件が書かれていた。神田はそれを受け取り、まずは条件の紙を眺めた。どんな絵かは探索の間中リーダーの真城雪(ましろ ゆき)に聞かされていたからだ。
「五〇%減か・・・進藤くんには辛いねえ」
販売条件は、現在定額で買い取られている死体中の化学成分を、相場と連動した価格にしたいというものだった。現在の採取量をもとにしたシミュレーションがそこには描かれていた。第一層での買い取り価格、平均して五〇%減。第二層は二七%減。第三層は変化なし。第四層は一五%増額。なるほど、希少なものには高い価格をということか。それはそれで納得できる。もちろん納得できるのは、神田がすでに第四層で稼いでいるから、つまり一五%とはいえ収入が増えるからだ。
「まあ、第二、第三へと降りていく動機になりますからいいと思います」
進藤の頼もしい言葉にあいまいに笑う。彼はまだ第二層を知らない。第三層を知らない。だからこうやって希望をもてるのだ。この街には、探索を進行させるという熱意を失ってなお(足を洗って地道に稼ぐ気概をも失ってもいるのだろう)地下にしがみついている者たちが存外に多い。彼らは既得の利益を手放そうとはするまい。多数決ならば圧倒的にこちらが不利なその交渉を、基本的に善良でしかも自信家の娘に任せておいていいものだろうか? 不安になって隣りの男を見つめた。越谷くん。
「なんですか?」
この件が落ち着くまで、雪が他の探索者と交渉する際には張り付いてくれない?
青あざのために青面獣と呼ばれている男は沈黙した。同じ不安を抱いたのかもしれない。
頼むよ。あの子は結局君の言うことしか聞かないから。続けたその言葉に越谷はうなずき立ち上がった。頼まれた以上今から張り付くつもりらしい。さすがに歴戦の戦士は決断が早い。見送って後姿に頭を下げた。
「でもさ、これはうまくいくのかなあ」
改めてスケッチを見てそうつぶやいた。進藤が興味をそそられたようだった。お? 図画工作の第一人者から見れば難ありの設計ですか?
テレビを見ていた全員の意識が自分に向いたことを感じてすこし緊張した。もう三〇になるのに恥ずかしいが、見知らぬ男性の相手はすこし面倒に感じる。それでも説明の仕方を考えて、とりあえず進藤にひとつ質問することにした。電気を運ぶ送電線があるでしょう?
ありますね、と進藤がうなずく。それが何か?
「あれはどうして化け物に切られないんだと思う?」
進藤は沈黙して他の男たちを眺めた。みな首を傾げるばかりで答えを言おうというものはない。私の推測なんだけどね、と前置きをしてから言葉を続けた。
「送電線が切られないのは、あれが何をするためのものか怪物たちがわからないからだと思うの。彼らはきっと電気を知らないよね。知らないから、迷宮に設置されたライトが実はよそから燃料を運ばれてきているものだって想像できない。だから当然、送電線を切ればライトが消えるっていうことを想像できない。だから、切る必要がない」
進藤はしばし考えて、ああ、そうかとうなずいた。そういうことですね。そういうことか。・・・でもこのゴンドラは。
「鉄を鍛えて剣にしている怪物たち、それはきっとふいごを実用化していることだと思うの。ふいごを作るような文明を持っている生き物が、滑車の原理を理解できないと思う? ゴンドラが上下に移動するのを見てあの滑車とぶら下げる鎖を見たら、どうしたってそれを壊そうと思うでしょ。そして、こういう大きな機械の場合は設置するのはまだ楽だけど、壊れた時に交換修理するのはものすごく大変なのよね」
自分が怪物だったら? 敵の一群がそれに乗って地下に下りていく乗り物があれば、その弱点がわかればとりあえず壊そうとするはずだ。
でも、と進藤が異議をはさむ。もしかしたら、第一層の化け物は俺たちが第一層を素通りして降りていくことを歓迎するのかも知れませんよ。もしそうなら壊されないのでは? 神田はうなずいた。もちろんそうだ。その可能性はある。しかし。
「ゴンドラの弱点を見抜く可能性があり、それを壊す能力を持っている生き物がそこにいるなら、絶対壊されないためのなんらかの対処が必要なんじゃないかしら。それができない限り私は賛成できないわね」
なるほど、と進藤はうなずいた。
西麻布・大沢真琴の実家 二二時五分
わざわざありがとう、と礼を言って電話を切る。そして大沢真琴(おおさわ まこと)はため息をついた。迷宮街にいるはずの知人の消息、もしやと思って尋ねてみたがやはり知らないという。仕方のない話だった。小さいとはいえ街なのだから。
彼女が迷宮街に向かったのは自由を求めてのことだった。高級住宅地に生まれ育ち幼稚園からエスカレーターでお嬢様短大に入った。卒業すると家に押し込められ、習い事と社交に忙殺される日々。絵に描いたような箱入り娘はしかし自分から檻を突き破ることもできず、何かのきっかけを待ち焦がれながら二三歳にまでなった。そしてきっかけが新聞記事としてやってきた。
習い事のために家を出てそのまま新幹線に乗り京都へ。家が騒然とする前に父親の携帯電話に直接電話をかけた。一度でいい。自分で何かやってみたいんです。少し連絡しないけど、日雇いの仕事で安いホテル暮らしだけど一人で生きてみたい。受話器ごしに切々としたそして何より思いつめた様子が伝わったのだろうか、父親はしばらくして好きにせよと言ってくれた。家業をついだ社長業とはいえ長年の人生経験が、娘の危うさを感じていたのかもしれない。条件は二つだけ。携帯電話を契約し番号を教えること、いつでも戻りたくなったら気後れせず戻ってくること。彼女は電話ボックス内で頭を下げた。
体力テストは大変だったものの、師範の資格すら得ている日本舞踊は強靭な身体を作ってくれていた。なんとかパスして仲間を求めた。次に何が起こるか予想できず、しかしそれら全てに自分で立ち向かえる日々。彼女は幸せだった。
最初にできた仲間は同日に試験をパスした戦士で小俣直人(おまた なおと)といった。今思えば明らかに下心があったものの、当時は気づかず親切な人にめぐりあえて嬉しいわと喜び、小俣と一緒にさらに仲間を探した。それは順調に済んだ。
リーダーは一つ年下になる恩田信吾(おんだ しんご)という戦士だった。責任感にあふれ、まっすぐな瞳に好感をもった。自分にとって単なる逃げ場だったこの街、だからどういうところかまでは詳しく知らなかった迷宮街に対して恩田は明確なイメージと目的をもっており、その話を聞くのは楽しかった。恩田は言う。一般の探索者はまだ第四層までしか降りていないんだ。でも、理事の報告では少なくとも第十層まであるって事業団の文書には書いてあった。俺は川口浩になりたいんだ。
大沢家ではテレビ画面に水曜スペシャルが映る事は決してない。だから、恩田の言葉にも「そうなの」とにこやかに笑うことしかしなかった。そんな様子を見て恩田は戸惑い、川口浩を知らないとの返答にお嬢様なんだなあと笑った。まあどことなくそんな感じするけどね。
しかし恩田の態度はそれからも変わらず、彼女が今でも思い出す光景がある。あれは迷宮街に着いて三日目だったろうか、探索者を集めて報酬の支払いなどについての説明が行われた場だった。すでに探索者でも評判になっていた美人姉妹、女だてらに体力テストを危なげなく突破した双子を見かけての会話だった。ほら、と隣りに座った恩田をつついて言った。あの人たちかわいいね。恩田はちらりと見て、気のないようにああそうだねと言ってまた資料に目を落とした。それが嬉しかった。客観的に自分があの姉妹に劣るのはわかっている。しかし、夕べ仲間たちと飲んで酔っている時に恩田が自分をきれいだと誉めてくれたその言葉、それは双子に向けるものよりもずっと気分が入っているものだったから。
それが最後のいい思い出になるのだろうか。それから先のことはあの街では良くあることとて繰言に終わる。初陣で部隊は潰走しメンバーは四散した。生と死を目の当たりにした衝撃の覚めやらなかった彼女は眠れずに真っ赤な目で京都駅発の新幹線に乗った。ただ一人見送りに来てくれた恩田ともろくに話はできず、新幹線に乗り込む直前に「達者で」と言われたのが最後の会話になった。
回想を打ち切りため息をつく。そうか。無事にやっているとだけ知ることができれば、少し気が楽になったのに。
そしてふと思い出した。従妹の言葉のうちの一つ、彼女の仕事の上司でいまは迷宮街にいる人間がNHKの特番で放映されるということ。それはもしかして、あの街の様子をテレビで見られるということなのではないだろうか? 雑誌ラックからテレビガイドをとりだした。NHKの欄だけを眺めていく。あった。一月一一日(あさってだ!)の午後一一時から。
まじめだしかっこいいとは思うけど、テレビの前でしゃべる可能性は低いだろう。でも、後ろをとおりがかることはあるかもしれない。だって、彼は気配り屋だったからメニューやらお手拭やらなにやらかやら、北酒場ではちょこまかと動き回っていたから。あの店のシーンを写せばきっと背後を通り過ぎる。確信があった。
無事ならいいな、そう思いながらその欄を切り抜いてコルクボードに止めた。ビデオに撮ることにしよう。
真壁啓一の日記 一月九日
今日も晴れ。訓練場では海老沼洋子(えびぬま ようこ)さんに稽古をつけてあげる。この子は身長一六五センチということで重量も筋力も(戦士としてやっていくなら)絶望的に足りない。というより問題はそれ以前。剣筋は悪くないと思うし視野も広いと思うのだけど、普段の鉄剣よりははるかに軽いはずの木剣ですらふった後体勢を崩してしまうのは、体格に比べたとしても下半身が弱すぎると思う。そんな身体であの体力テストをクリアしたんだから根性は人並み以上にあるのだろう。だから、地道に体幹を鍛えて足腰を鍛えていけば、きちんとした動きはできるようになる――そう励まして終わった。
言っていないこともある。一つは、そうして初めて入り口に立つわけで、相変わらず体格のデメリットは存在するということ。そして、探索においては、特に前衛においては、無力な人間にはそれほど時間的な猶予はないということ。死んでしまったら成長もくそもない。本心を言えば彼女はあきらめた方がいいと思う。しかしそれを言うのは俺の仕事じゃない。
もし活路を探すとして体格的に最も近いのは翠だろう。けれど翠は一五年にわたって身に付けた体さばきがあるし剣術がある。そしてなにより体力的にはそこらの男たちより上だし筋力もある。だから参考にはならない。翠より少し低い鈴木さんはそもそも違う次元にいる気がする。
夕方、真城さんに呼び出された。話自体は夕べから広まっている、迷宮内の縦穴(西野さんと鈴木さんが這い登ってきた奴だ)に上下移動のゴンドラをつけようというものだった。俺たちも第三層に向かうためには二時間弱は歩かなければならない。それがショートカットできるのなら大歓迎だ。それに、第三層をメインに稼いでいる俺たちには当面稼ぎに大きな変動はなさそうだ。だから反対する理由はない。そう答えたら、部隊の他の仲間にも訊いておいてということだった。承諾する。
真城さんはこの一晩で別人のように綺麗になった気がする。もちろん美貌はもともとだ。けど、今の生き生きした姿を見ていると昨日までの顔はやっぱりどんよりとして鬱屈していたのだとわかった。それほど嬉しそうだった。真城さんが何を求めてこの街にいるのか知らないけど、この人は本当にもっと地下へ地下へと探検したかったんだなとこっちまで嬉しくなってきた。
ただ、交渉する相手は俺たちだけじゃなくて、もっと厄介な人たちもいる。普段は無料の特典で暮らしており、たまに地下に潜ってはお金を取ってくる部隊だ。それはそれで認めるべき選択なのだけどどうにも尊敬する気にはなれない人たち。第一期の大半を占めるその人たち、第二期でも早々に心をくじかれて同じ選択をした人たち、その数は実は全体の七割を超えるという話だった。真城さんがどの程度の賛成を取り付けたらゴンドラが(そして買い取り価格の変動が)実現するのかわからないけど、彼らも当然説得しなければならないだろう。がんばって欲しいなと思う。――無茶しないで欲しいと、そしておかしなことに、俺は六歳も年上の女帝が傷つかないことを祈っている。
でもまあ、ぴったりと越谷さんがついているから大丈夫だろうな。
一月十日(土)
越谷健二と真城雪の通話 六時一〇分
「・・・何事よいったいこんな時間に」
『俺は今日もぐるけど、俺がいない間も説得を続ける気か?』
「あたりまえじゃない。時間は惜しいのよ」
『止めても無駄か――じゃあ、一つだけ約束してくれ』
「なに? できることならするけど」
『くすぶってる奴らに何を言われて腹が立っても、「だったらお前達も深く潜ればいい」とだけは言うな』
「・・・なんでよ。正論じゃない」
『ああ、正論だ。正論だけど、それを言ったら議論が止まる。雪は探索で挫折したことはなかったな』
「あったらもう逃げ出してるわよ」
『俺はある』
「・・・美香のとき?」
『ああ。心が砕かれるってのは誰にでもあるもんだ。確かに雪にはそういう弱さはわからないだろうけど、それを無視したらすべて終わるぞ。――雪自身のためにもよくない。だから言うんだ』
「・・・わかった、約束する。――健二」
『なんだ?』
「無事でね」
『ああ。起こしてすまなかった。おやすみ』
迷宮街・鍛冶棟 一二時三二分
片岡宗一(かたおか そういち)はその紙片を見下ろして口をへの字にまげた。その紙片自体は昨日事業団職員の一人から見せられたもの、コピーがコピーを生んでおそらく今では今朝の朝刊の数よりも多く出回っているであろうものだった。
ちなみに一〇〇〇人を超える住人が住むこの街だが新聞配達というシステムは存在しない。各紙とも注力するにはパイが小さすぎるからだというし、あるいは理事が強引な勧誘を厭うたのだという話もある。新聞は毎朝七時に道具屋と北酒場に入荷され、読みたいものはそこで買うことになっていた。一部の人間(例えば笠置町葵のような)にとっては新聞よりも重要なスーパーの特売チラシは迷宮街の随所で配布されているために住民からは苦情の声はあがっていなかった。さらにちなみに、競争がまったく存在しないこの街であってもある程度以上の値引きセールを実施するように事業団からスーパーには厳命が下され、外部の相場との価格差をチェックする専門のアルバイト(おもに事業団職員の家族)が毎日六名ずつ配置されている。競争がないのに高値もつけられず特売をさせられるスーパーはさぞかし迷惑だろうかと思いきや、まずもって入荷量をかなり正確に予想できること、そして特売には消費を掘り起こす作用もあるため別に命令されなくてもやるからやはりこの店は恵まれている、とはドライ担当で副店長を務める春日部咲(かすかべ さき)のコメントだった。
昨夜見せられた紙片、そのときはへええと思って作業にかかった。あくまでも探索者でない自分にはそのありがたみはわからなかったし、絵を見る限りその巨大さは自分たち鍛冶師ではなく建設会社の分担だと思えたからだ。それが、仕事が始まると同時に理事と訓練場の魔法使い教官の訪問を受けた。意見を訊きたいという。
「なんとかね、少なくとも五年は壊されないくらい頑丈にしたいのよ」
笠置町茜(かさぎまち あかね)――迷宮探索事業団の理事の一人であり、主に色々な決め事を行っている主婦だった――はそう切り出した。大変な実力をもつ魔女で探索者は一様にその前では萎縮するらしい。現にその隣りにいる鹿島詩穂(かしま しほ)も訓練場の教官を務めるほどに強力な魔女だという話だったが理事を横にして普段の伸びやかなところがなくなっているように思える。もちろん片岡にはそのあたりの感覚はわからない。少し痩せればもっと魅力的なのにと他人事ながら惜しく思う程度だった。
いやムリでしょうというのが片岡の回答で、金属の強度にはまったく疎い魔女二人は接ぎ穂を失って絶句した。
「この絵、描いたのはおそらくその設備業者の技術者でしょう。だとしたらこれ以上ないくらい頑丈に軽量になるように描かれていますよ。それでもこの鎖では脆すぎる。縦穴であるということは空気の移動が激しいということです。その分風化も早いでしょう。普通にしておいても五年は難しい。その上壊そうとするものがいるんでしょう?」
そっかー、と理事はソファにもたれた。鹿島がボールペンの尻でこめかみを掻いた。
「このゴンドラを痛める原因としては何が考えられます?」
そうですね、と考えをめぐらせる。
「まずは空気です。おそらく鉄鋼の表面をステンレスで覆うのでしょうが、鎖は擦れ合うのでその部分のステンレスははげてしまう。そこで酸化が起きます」
鹿島はメモを取りながらうなずく。
「ついでゴンドラの重さ。正確にはどれだけになるかわかりませんが、ゴンドラだけでおそらく一.五トンは下らないでしょう。そこに完全装備の探索者が六人乗り込む。これでおよそ五〇〇キロ。それをさらに上下動させるとなるとどれだけの負荷が鎖と滑車にかかるか。それから、これだけシンプルなメカニズムであれば怪物たちが用途を理解する可能性は高いでしょうから悪意のある怪物がいれば壊そうとするかもしれない」
「怪物はどうにもならないわね」
鹿島と二人して理事を見つめる。他の二つはどうにかなるとでも言うのだろうか?
「風化と強度の件は、今ある石をうまく利用してどうにかできないかな?」
ああ、なるほどと思う。理事はこれを訊きにきたのだ。そうして考えた。探索者の協力もあって、迷宮内部で特産される不思議な石が金属の強度を高めること、その影響分布のおおよそのあり方はわかってきた。現に、石をツナギの金属糸にも応用した試作品第一号を本日まさに越谷健二(こしがや けんじ)という戦士が着て潜っているはずだ。そう。これを作る現場の人間としっかりと打ち合わせをすれば、かなり要望に沿えるものができると思えた。なんとかできると思います、もちろん私がその工場につめるのが大前提ですがとうなずいた。理事は嬉しそうに笑った。
「それでもこれだけの器材をどうやって穴の淵まで運ぶおつもりですか? 車は使えないので全て手で運ばなければなりませんが」
「それについては考えがあります」
そう言って隣りに座る訓練場の教官を見つめた。
「鹿島詩穂。あなたに一つ禁術を授けます。使いようによってはこの星を壊せるほどのものだからあくまで私の許可なくしては使えないようにはするけれど」
鹿島の顔がこわばる。その顔は蒼白だった。
「まさか――リトフェイト」
理事がこともなくうなずいた。やり取りが理解できない片岡はただ見守っている。
世田谷区・馬事公苑 一四時四二分
苦い顔で受話器を置いた恋人に熱いお茶を淹れなおしてやる。ありがとう、という憮然とした顔に共通の上司である中本勝(なかもと まさる)がどうした? と声をかけた。お勤めのほうか?
水上孝樹(みなかみ たかき)はうなずいた。お勤めとは、彼の家柄に下された特別な役目をいう。今はそれにのっとって週に一日特例の休みをもらって京都に行っていた。もっとも、と下川由美(しもかわ ゆみ)は相変わらず不機嫌そうな恋人の顔を見ながら思う。今の仕事だって十分お勤めの範疇に入るものだった。ここ馬事公苑で管理を依頼されている宮内庁用の特別な馬、血筋からして高貴なその馬の世話は余人にはできず、この施設では水上だけがその身に触れることを(馬に)許されていた。だから彼はここに勤めているのだ。最近はその恋人である自分も認められるようになり、手から飼葉を食べてくれるようになったし引き綱も付けさせてくれるようになった。それでもブラシのかけ方がすこし雑だと見抜かれて鼻面でこづかれる。もちろんこっちもなんだこの馬めとお返しに引っぱたいてやるのだが――何しろ上司の目を盗んでの戦いなので分が悪い。
うちの叔母は、と水上は苦々しげに言う。隻頼(せきらい――馬の名前だ)の世話がどんなに大変かわかってないんですよ。わかってないから、こともあろうに一週間ぶっ続けで京都にいろなんて無茶を言う。冗談じゃないです。
とはいえそちらも大事なんだろう? 中本は宥めるように言った。特例の休みを与えるようにという宮内庁からの依頼を迎えたのは中本で、疲れた、もうあんな連中に頭下げられたくはないとぼやいていた。上司からすれば、ここで水上にゴネられてまた偉いさんがやってくる面倒な事態は避けたいのだろう。隻頼の世話だったら宮内庁から人を派遣してもらえばいいから、旅行のつもりで行ってこい。
でも、と水上は不満げだった。確かにあの人たちなら隻頼も世話をさせますよ。けれどたった二日任せただけでストレスに感じるんです。一週間も会ってやらなかったらどうなることやら。――
言葉をさえぎるように中本が手を上げた。そのあたりは隻頼に我慢してもらうんだな。というより、ここで下村くんだけじゃなくて他の厩務員にも懐いてもらえるようにしたいと思うんだ。でないとお前たち、新婚旅行にも行けないだろうが。
あ、と口をあける横顔を見つめる。その表情のまま数秒いただろうか、それからもっともらしくうなずいた。
「確かに皆さんにも隻頼の世話をできるようになっていただかないと問題でしょうね。ええ。そのためにも一週間ほど、なんならもう少し仕事を離れることにします」
まじめくさった恋人の顔に下村は吹き出した。くすくすと笑いながら、そうだ、私も同じ時期に休みをとって京都に行くことにしようと思いつく。実際は行かなくとも、行く予定にはしよう――脳裏には一つ悪だくみ。
真壁啓一の日記 一月十日
今日の女帝。
「まさかこんな下賎なところに住まうハメになるとは思わなかったわ」(わずかな着替えだけ持って木賃宿を見上げたセリフ)
今日は探索の日。とても危ない局面があった。何度目かの戦闘で死体食いといわれる小柄な生き物(骸骨やなにかと同じく、死体が動かされているようだ)と戦闘を交えた。こいつは筋肉を痙攣させる成分を爪に仕込んでおり肌を切られてそれを注入されると身体が思うように動かなくなってしまう。全力疾走のあとで太ももがガクガクと震えるような状態が全身にあると思えばいい。回復するためには活性剤のように注射器状の中和成分を打つのだけれど何しろ全身が痙攣しているから正確に血管に針を刺すことができない。ということで治療術師が術で直すか、周囲に危険が迫っていなければいちど麻酔薬(テレビドラマの中のクロロホルムみたいなもの)で意識を失わせ、それから注射するようになっている。
今日の死体食いとの戦闘、こともあろうに同時に青柳さんと常盤くんがその毒を受けた。なんとか死体食いたちは切り殺したのだがその治療で判断ミスを犯してしまったのだ。青柳さんは盾なので早く回復させなければならないから児島さんが術をかけてすぐに回復させた。一方常盤くんは俺が押さえつけて翠が薬をかがせて、それから注射した(練習のために翠がやった。三度失敗した。常盤くんも可哀想に)。しかし麻酔薬が醒めるまでには一〇分程度の時間がかかる。一〇分ものあいだ、怪物の接近を感づいていくれる常盤くんは眠っていたのだ。五分でそのことに気づいた。三人で三角形に陣を張り注意をしながら壁際まで常盤くんを引きずって警戒する。常盤くんがうめき声を上げてふっと気が緩んだその一瞬、それを(おそらく機会をうかがっていた)怪物に見抜かれたのだろう、突然の強襲を受けた。
振り向いた視界には人間よりすこし小さいサイズのクマがいた。そしてその足元をぴょんぴょんとウサギの形をした白い毛皮が飛び跳ねている。死体食いと同じく痙攣毒をもち鋭い爪と強い力のクマと、速くて予測できない動きと鋭い牙を持ついなばという、考えるだに嫌な取り合わせだった。しかもどちらも五〜六匹以上はいた。
それから先のことは実ははっきり覚えていない。無我夢中で常盤くんの前に踏ん張りいなばの突撃を四回受け止めた。無傷なんてのは最初からあきらめて首の血管、鎖骨、腕の腱、足の腱、股間に来る打撃だけかわしてあとはされるままになった。それらが経過した直後に突進してきたクマに跳ね飛ばされた。たたらを踏んで踏みとどまったところでクマの一匹にかぶとを横殴りにされる。そこで意識を失った。
それは五秒くらいだったらしく、目を開いたら戦いは終わっていた。態勢を立て直した葵が広範囲の化け物だけを一発で殺し尽くす術を使ったからだ。翠に抱えられていたが彼女もこめかみを切ったらしく顔半分が真っ赤に染まっていた。水ばんそうこうですぐに止血はしたものの、傷が残るかもしれないという。綺麗な顔に傷いって、ご両親が悲しむなと言ってようやくほっとしたように笑った。そのとき気づいたけど泣いていたらしい。優れた剣士でも痛みは別なのだろう。もともと俺たちに比べて怪我を負う回数が格段に少ないから痛みにも慣れていないのだろうな。
それより重傷は青柳さんだった。この人のところにもクマが殺到し、とても守りきれないと判断したこの人は葵を抱え込んで背中をえぐられるに任せたのだ。毒気に痙攣毒、そして出血多量。必死の思いでふりかけた水ばんそうこうと児島さんの治療術、どれが欠けても危なかったのだと翠が教えてくれた。
本当に、危なかった。俺たちじゃなければ、そして誰かの運勢がほんの少し悪ければ今ごろ誰かしら死んでいたと思う。
そこで気がくじけて早々に退散した。青柳さんのツナギの背中もズタズタになっていたし。
木賃宿に戻ったら、庭の一角、神田さんの日曜大工スペースから犬の鳴き声がした。見るとそこには真っ黒なでっかい犬がいて、ログハウス風の犬小屋があった。星野さんの娘さんである由真ちゃんと高崎さんのお子さんの隆一くんがその犬と戦っていた。犬とはいえ一メートル以上あるそいつにはかなわなかったみたいだけど。高崎さんに訊いたら、なんでも徳永さんの社宅(官舎?)が立て替えなのでご家族はアパートに引っ越し、その間飼い犬のセリムは木賃宿であずかることになったらしい。この街ができてまだ四年経っていない。それなのにどうして官舎を建て替えるのかと訊いたらこれからさらに増えるこの街の電力消費を抑えるために一軒一軒を天気熱による温水と発電の機能などを備えたものに替えていくのだそうだ。なんだっけ? OMだとか、OLだとか、なんとかソーラーという工法らしい。これも後藤さんの提案でバックの商社の力、何より街全体を変えてしまうというスケールメリットで破格の建設費と工数を実現したのだとか。そのかわりにこの街をその工法のモデルタウンにするらしい。後藤さんというのはやることがなんでもスケールがでかいと思う。
ここで最初の真城さんのセリフになる。セリム(徳永さんの家の犬)が木賃宿に来るならあたしも! ということでしばらくの間木賃宿の六階に部屋を取ることにしたのだ。でもロイヤルスイートにある洋服を全部移動させたら部屋に入りきらないので向こうもそれまでどおりお金は払うという。奇特な人だな。
それにしても下賎て。
一月十一日(日)
落合・神野由加里のアパート 一七時二八分
「おや、克巳も早いね」
奥野道香(おくの みちか)の言葉にテレビの前に座っている同級生が振り返って笑った。いま来たところだよ、という彼の名は二木克巳(にき かつみ)といい、大学ではゼミそしてフットサルのサークルでも同期にあたった。この部屋の主である神野由加里(じんの ゆかり)ともゼミは一緒である。国際政治学そして地政学を中心に学ぶそのゼミの同期ではあと有田俊二(ありた しゅんじ)、木村ことは(きむら ことは)、そして退学したが真壁啓一(まかべ けいいち)という人間が親しく交流していた。
卒論もあらかたメドが立った年明け、そのうちの一人神野の部屋に集まった理由は新年会だがそれだけではなく、この場にくる予定ではない真壁に関するものである。彼が大学を辞めて赴いた街そして就いた職業が昨年末にテレビ局に取材され、今日はその番組が放映されるのだった。真壁自身も座談会のような席にはつきテレビカメラの前でしゃべったという。もしかしたらそのシーンが採用されるかも知れないし、とりあえずは背景として映る可能性が高いという情報はゼミの先輩から仕入れていたので久しぶりのその元気な姿を酒の肴にしようという魂胆だった。
番組は十一時からだけど、宴会はそれより早く始めよう。七時スタートを目安にして時間ができたらいつでも来てねと家主に言われていたこともあって奥野が到着したのは五時半。てっきり一番乗りかと思っていたから先着の人間がいたことは意外だった。卒論どうだい、できあがったよ、いいなあ、という会話を交わしながら視線を移すと、家主である娘が両手を持ち上げたままもの問いたげに微笑んでいる。右手にはウーロン茶のペットボトル、左手にはメロンの缶チューハイ。無言で左手を指差すと神野はにっこりと笑った。
「克巳はあれから啓ちゃんには会っているの?」
いや、と二木は首を振る。花彫酒家(彼が上京した際に集まった新宿の中華料理屋だった。杏仁豆腐がとんでもなくうまい)以来だから奥野と同じだろう。会ったのは由加里と姐御だけじゃなかったかな? 有田はどうだったか。
会ってないって、と答えをはさんで神野は奥野の前にグラスを置いた。そこに緑色の炭酸アルコールを注いでいく。少々暑い室温に冷たいサワーはさぞかしおいしく感じることだろう。
グラスを持ち上げる手がふと止まった。視線はテーブルの上、ウーロン茶が湛えられている二つのコップに違和感を感じたのだ。なんだろう? と思いながらアルコールを喉に注ぎ込む。うまい。
大きく息をついて気がついた。並ぶグラスにはびっしりと水滴。それがしたたり落ちてできた水の輪が卓上には五箇所ある。
いま着いたばかりと先客は言った。それが本当なら、わずかな時間にグラスに水滴がびっしりとうかび、しかもその位置が二箇所ではなくて五箇所もあるのは少し不思議なことではないだろうか。
迷宮街・男モルグ 二二時四五分
うわあ! と進藤典範(しんどう のりひろ)は声を上げた。木賃宿の二階、いわゆる『男モルグ』と呼ばれているフロアに置かれているテレビの前を見てのことだ。普段は二〜三人が座っているだけのソファにはぎっしりと男女あわせて六人がならび、その足元にも銀色のマットを敷いて座り込んでいるものもいる。そしてソファの周囲にはずらっと人だかりができていた。
「ここには誰も来ないと思ったんだけどなあ」
俺もだよ、と星野幸樹(ほしの こうき)の部隊の戦士である葛西紀彦(かさい のりひこ)が苦笑した。彼は第一期の最精鋭の戦士だから当然としてソファに座っている。膝の上にノートパソコンを広げ、背後からそれを二人ほどが覗き込んでいる。
仕方ないな、と苦笑して肩がけにしていた袋の口をあけた。ペットボトルのお茶と紙コップを取り出してから、念のためにと入れておいた折り畳みの椅子を取り出す。準備いいな! と真壁啓一(まかべ けいいち)――第二期最強と呼ばれる戦士の一人で、床に敷かれた銀マットの上であぐらをかいている――が笑った。
「いいでしょ。釣りの必須アイテムですよ。ところで葛西さんは何をしているんですか?」
ああこれ? という返答はネット上の匿名掲示板にアクセスしているのだという。匿名掲示板にはテレビに対して実況をする人たちがいるのだそうだ。せっかく自分たちが映るのだからリアルタイムで感想を見るのもいいと思ったのだ。
へええ、と周りの人間も画面を覗き込む様子を眺めていたら、「これいいな」と聞きなれた声がした。探索者屈指の巨人・津差龍一郎(つさ りゅういちろう)だった。進藤は振り向き顔がこわばった。
釣り人の必須アイテムである折り畳みの椅子の上に巨大な身体が座り込もうとしていた。
「津差さん動くな!」
必死の思いで叫ぶ。座っちゃダメだ。それは自分のだとか人のものを取っちゃいけないとか言う以前に津差さんがそれに座るというのは間違ってる。それ上州屋で一個三百円だったんだぞ。
「ああ、大丈夫だろう。こう見えても俺、結構軽いぞ」
ぎし、といやな音をさせて津差の顔の高さが落ち着いた。快適快適、という言葉の二つ目の「て」までは発音しただろうか。ぐしゃりとしか表現できない音とともに津差は床の上に座っていた。折りたたみの椅子はその巨大な尻に隠れて見えなくなってしまっている。
「進藤よう」
申し訳なさそうな津差の声。進藤はなんですか? と訊きかえした。
「これ、安物だよ」
「・・・俺もそう思います」
京都市・縁川邸 二三時三分
おーい、と名前を呼ばれて縁川かんな(よりかわ かんな)は壁の時計を見上げた。おっと、放送が始まったみたいだわとココアのマグカップを持って部屋を出る。障子を開けたら自分と姉以外の一家九人がコタツにおさまっていた。揃いも揃ってミーハーなんだからと苦笑するが自分だって人のことを言えた義理ではないだろう。
「お姉ちゃん映った?」
コタツに入るかあるいは火鉢を抱え込むかしてテレビを注視している家族たちのお目当ては、もう一人この場にいない姉のさつきだった。彼女は酔狂にも探索者となり迷宮街に住んでいて、今日のNHK特番には「背景で映ってるかもしれない。なんか宴会やってるとき隣のテーブルで飲んでたから」と看過しえない情報を送ってきていたのだ。
二週に一度は帰ってくるので姉の顔に飢えているというわけではなかったが、ブラウン管の中に知り合いが映るかもしれないという誘惑は家族の誰にも大きかったらしい。いつもは遅い父親もいまはコタツの首座を占めている。一人では少し余るそのスペースにかんなはもぐりこんだ。家父長の権力が強いこの家でこんなことが許されるのは末娘の特権である。父親が剥いていたミカンを断りもなく口に運ぶ。父は何も言わずに新しくミカンを剥き始めた。今度は自分が食べるものよりも丁寧に白い筋をとっている。母親が苦笑した。
見覚えのあるオープニング音楽が終わって、場面は体育館を思わせる板張りの空間になった。床には四角いマスを作るように何本も白線が引かれ、ぼやけた背景の中で幾人もの男たちが素振りをしたりストレッチをしたり打ち合ったりしている。焦点は最初、遠いところで腕立て伏せをしている男とその背中であぐらをかいている娘にあわせられていた。娘が抱えている木刀にかんなの意識がぴんと反応する。父親から渡されるミカンはペースを落とさず口に運ばれている。
上下動する娘の視線が一点に向けられ、そしてカメラに物問うような表情を向ける。かすかに頷いてから相変わらず上下動する背中で立ち上がり、軽く下で上下動をしている男を蹴った。下の男は五〇キロはあるだろう物体が自分を蹴ったにも関わらずにその動きに影響は見られない。男の人だっていってもあれはすごい、とかんなは感心した。
それにしても、明らかに演出されていることがわかってしまうその女性の仕草である。見ている方としては「これが探索者の普段の姿なの? 本当に?」と意地悪い気持ちを抑えられない。
白いマスの中に歩み入る女性、視線は先ほど見た一点に据えられている。そちら側の画面の端からもう一人の女性が現れた。同時にうわあ! と縁川家が揺れる。その女性はヒョウ柄だったからだ。最初に映っていた男女ともくすんだ灰色のツナギだったために、その華やかさは幾倍にもなって彼らを打ったのだった。そして――ちらりと兄の姿を盗み見る。呆けたように口を半開きにし、画面の中の美貌に見とれているその顔。横目で盗み見るそれにもっと若いある顔が重なった。塾での授業中、その塾でも一・二を争う可愛い子が黒板に答えを書くときに自分のとなりに座る男子生徒が浮かべる表情だった。
ええいこんちくしょう! 男の子ってのは女を顔だけでしか判断しないんだからもう!
最初に画面に映っていた野暮ったいツナギを着た女性もかなり整った顔立ちだったが、そういうことを全て無視してかんなは彼女の応援をすることに決めた。画面の中で二人の女性が向かい合い、挨拶代わりに木剣と木刀の切っ先を軽くぶつけあう。
迷宮街・男モルグ 二三時七分
真壁啓一(まかべ けいいち)が怪訝そうに声を上げた。
「あれ? 真城さんのヒョウ柄って地下用ですよね? カラビナついてるし」
両手をあけながら大量の食料や救急用品などを持ち歩かなければならない地下行動時に使用するツナギには、円形のカラビナと呼ばれる留め具がたくさんついている。それはもちろん地上の訓練では必要のないもので、現に画面の中で打ち合っている笠置町翠(かさぎまち みどり)のツナギにはついていなかった。剣先が引っかかったら危ないそれをわざわざ身に着けている理由はといえば、
「いやまあテレビですからね」
葛西紀彦(かさい のりひこ)が言ったそのことにつきるだろう。真城雪(ましろ ゆき)とはそういった目立ちたがりの行動が実に似合い、すんなりと受け止められる女性だった。
「こう見ると真城さんって隙でかくないすか? 俺どうして訓練で勝てないんだろう」
画面の中で繰り広げられる剣技の応酬を見つめながら進藤典範(しんどう のりひろ)は腑に落ちないようにつぶやいた。それにはソファを占めている越谷健二(こしがや けんじ)が答える。まあ相手が翠ちゃんだからだろ。あれって結構いやーな位置に剣先置いてるぞ。第一期の戦士たちは一様に、二期の戦士である津差龍一郎(つさ りゅういちろう)と真壁もうなずいているのを見て、進藤はかすかに焦りのようなものを感じた。
「そういうもんですか・・・」
「あれ? 笠置町さん2ちゃんで名前知られてる」
画面を覗き込んでいる葛西が声を上げた。
「まじで? ・・・あ、ほんとだ。『どっちかが笠置町翠のヨカーン』って、なに? 翠ちゃん有名人ですか? 親父さんの関係かな?」
進藤と真壁はそっと視線を見交わした。どちらも疑問を晴らそうとはしない。
京都市・縁川邸 二三時二二分
「あれさつきちゃんじゃない?」
「どれ?」
「ほら後ろのテーブルの黒いノースリーブ着てる人」
京都の大学に通うために居候している従姉の指すところをじっと見る。後姿しかわからないが、あの変な位置にあるつむじは間違いなく姉だった。しかし。
「どうかな。人違いじゃない?」
従姉も何か悟ったようだった。
「そうかもね。おっとコメントがはじまる。えーと、なに? 大学を退学してこの街に来た人?」
すごいなー、信じられないなーと従姉の言葉を聞きながらかんなは祈る思いだった。まだ高校生である自分ですら酒癖の悪さというものをありありとイメージできるのは、ひとえに姉のおかげだった。人一倍日焼けには気をつけている白い肩は真っ赤で、それは十分すぎるほどにアルコールが回っていることを示している。となれば画面の中で何をやらかすかわかったものではない。
「あ、ああ・・・」
うめく声は兄から。兄も同じ心配をしていたようだった。画面の中の「姉に似た人」は白い二の腕を惜しげもなくさらして隣りに座る男の首にしなだれかかっていた。寄りかかられる男の表情が真剣に困っていて、にやついたりしていないのがまだ救いだろうか。とにかく、とその場にいる少なくとも三人は一つのことを祈っていた。あの黒い服の女性が自分達の親戚だと判明しないまま終わってほしい、と。このまま後頭部だけで終わってほしいと。
先ほどから機嫌よくミカンの皮を剥いていた父の指が止まっているのだ。
「あ、ああ。終わった」
大げさな従妹の呟きは三人の気持ちを代弁したものだった。黒い服の女性――いまとなっては明らかに彼らの親戚である縁川かんな(よりかわ かんな)とわかる女性――はその横顔をテレビカメラに晒したのみならず隣りの男性の頬にキスしていた。
「いたい!」
目に刺激痛。なんだろう? 涙のにじむ片目をおさえながら無事な片目で攻撃が加えられた方角を見る。
父の無骨な指がミカンの皮を握りつぶしていた。
落合・神野由加里のアパート 二三時二五分
「すっげー! 啓ちゃんがしゃべってる!」
「ほんとだよ、ってか痩せたな啓一!」
「かっこよくなってるよね!」
ロープウェイに乗っているときのように、急激な気圧の変化に鼓膜が張り詰めて唾を飲み込むまでは外の音がなんとなく別の世界の出来事になってしまうような、あの感覚で会話を聞いていた。頭の中では画面の中、恋人の言葉が響いている。
「自分の感じ方、考え方が日々プリミティブに言い換えれば動物的になっていくことにある日気づいてものすごく怖くなることがあるんです。俺たちは金を稼ぐのと同時に何か別のものに変わっていってしまっているんじゃないかって」
そんなことはないはずだ。肩にそっと手をあてた。唇の形のアザは消えてしまったけれども感触は残っている。あれは変わっていなかった。変わっていなかったはずだ。しかし脳裏に鳴り響く。
・・・別のものに変わって・・・
花巻市・熊谷書店 二三時三一分
帳簿とレジのお金があわない。熊谷繁美(くまがい しげみ)が必死に記憶をたどっていたものの、妻の声にそれを中断された。ちょっと来てー! ネズミが出たときのようなその声に驚いて居間のふすまを開けた。そこには両親と去年入籍した妻の桂(旧姓は小林)がコタツを囲んでおり、妻が自分にむけてテレビを指差していた。
「この子この子! この子が今泉くん!」
おお! と驚いて画面を見ると、かわいらしく整った顔だちの男の子が頬を上気させてしゃべっていた。そうか、と納得した。この子が何度も聞かされていた、妻の教え子なのだろう。自分の夢を嬉しそうに語る将来の売れっ子画家を目を細めて見守った。
「元気でやってるんだ・・・」
妻の話ではこの撮影は一ヶ月以上前の話だったはずだ。ほかならぬ妻自身も映されたと言っていたはずではないか。それをすっかり忘れて画面の中の笑顔を昨日か今日のもののように受け止めている妻をかわいらしく感じる。
中野・大沢美紀のマンション 二三時三五分
「ああっ!」
突然の奇声に大沢美紀(おおさわ みき)はびくりとしてカップを動かしてしまった。残り少なかったからこぼれた紅茶は少なくて済んだが、何をそんなに驚いているのか――視界の中では従姉の大沢真琴(おおさわ まこと)がテレビをじっと見つめている。満面の笑みだった。
テレビを見せてほしい、録画もしてほしいと従姉が言ってきたのは昨日の夜のことだ。彼女はかつて迷宮街という京都の一つの街で地下に潜っていたことがある。そのときの仲間が映っているかもしれないというのだ。彼女の家ではその街についての話題はなんとなくタブーとされており、一人暮らしをしている美紀を頼ったのだった。
番組開始してしばらく、かつて自分のボスで現在は迷宮街担当の責任者になっている人間のインタビューなどに笑いながらすごしていたが、場面がどこかのお店にクリスマスの飾り付けをするシーンになった途端にこの奇声だった。
「なに? 恩田くんてひと?」
「そうそう! うわー。こんなにたくさん棒運んでる・・・」
そして感慨深げに、ただうわー、とつぶやいていた。
「元気でやってるんだ、恩田くん・・・よかった」
そんな従姉の様子を眺めながら美紀はただ紅茶をすする。
落合・神野由加里のアパート近所 二四時二分
さあ、燃料を追加しよう! と叫んだ木村ことは(きむら ことは)はもう本日は夜明かし決定であると態度で明言しており、補給部隊に命ぜられた二木克巳(にき かつみ)、神野由加里(じんの ゆかり)はコンビニに向けて歩いていた。
元気そうでやっててよかったなー、と嬉しそうにつぶやく二木の横顔にうなずく。必死の思いで。
交差点。青い色が点滅し、同行者は小走りで走っていった。神野も頭では走らないとと思うが身体が言うことを聞かない。先ほどまで放送されていた番組の最後のシーン。迷宮に下りていく探索者たちの背景に彼女は恋人の姿を見つけた。他の誰もわからなかったようだったが彼女にはわかったのだ。待ち合わせの場所に立つ背中を探したのはもう百度ではきかないくらいなのだから。そして隣りに立つのはこれまた見覚えのある女性。恋人が世話になり言葉どおりの意味で何度も命を助けられたという女性だった。気丈だけど繊細で、すっかり友達になった女性だった。二人は一緒に出かけるところのようだった。そう。それは彼の日記に書いてあるから知っていた。撮影の二日目、その女性と一緒に神戸の動物園にパンダを観にいったと読んだし彼からも聞いている。
でも、確か――確認するのが怖かったが――他の探索者の男性、そして女性の双子の妹と四人で行ったのではなかったのか? 二人並んで自動販売機のボタンを押す恋人とその仲間。そのすぐ後ろには彼らがレンタルしたとおぼしき車があった。そう。たまたま二人だけで、これから合流するのだろう。そうに決まっている。しかし一つのことが違和感を与えていた。
どうして車は軽自動車だったのだろう? 同行した男性は大変な大男でマーチを頼むことすら選択ミスと恋人自身が書いていたはずなのに。
ポケットから携帯電話を取り出す。この年末、何度か恋人が油断している横顔をそのカメラで撮った。十枚近くの画像のうちたった一つ満足できたそれ、寝顔をじっと見つめる。
どうして軽自動車だったのか? 本当に四人で行ったのか? もし二人だけならどうしてそんな嘘をついたのか?
「答えてよ」
視界がにじむ。画面の中の寝顔はもちろん動かない。
真壁啓一の日記 一月十一日
今日は進藤くんと海老沼さんに稽古をつけてあげた。進藤くんはその体格もあってまったく問題なし。運動神経もいいみたいだし、あとは慎重に場数を踏むだけだろう。でもまあ、改めて思うのは津差さんのすごさだな。巨大な進藤くんよりも津差さんはまだ七センチ背が高く当然それだけの打撃力があるのだけど、それでいて進藤くんより動きが速いのだから。
海老沼さんはなんだか気になる。どうも彼女、自分が弱いのは女だから仕方ないんだ、と思っているように感じてしまう。自分が女だから筋力に劣ることを自覚するのは大切なことだけど、それを自覚したところで死が遠ざかるわけでもないし一緒に潜る仲間はたまったものじゃない。それなのに、「私は女だから・・・」 と(悪く言えば)ふてくされているような態度に少しむっとしてしまった。
年明け下旬から第一期のメンバーに混じって第四層を経験する計画があったのだけど、それが急遽早まった。今週から。というのも、迷宮内部で特産される石を利用した武器を使用しているサンプル戦士たちがかわりばんこに大阪に行ってゴンドラを作る業者さんと打ち合わせをするのだそうだ。湯浅さん部隊の内田信二(うちだ しんじ)さんの代わりに翠が一三日、星野さんの代わりに俺が一四日にそれぞれ潜ることになった。緊張するな。
そして今夜、NHKの放送が行われた。先月に収録があったあれだ。
俺も出ていました! なーんか「俺たちはこの街で変わってしまうのでは・・・」 って画面の中で心配していた。確かにあの頃はそんな感じだったな。でも今は杞憂だと思える。心がけ次第では。由加里も変わってないと言ってくれているし。
映ったのは二つのシーンだけ。訓練場で上に翠を乗せて腕立てしているところと北酒場でそのコメントをしているところ。真城さん、星野さん(少年野球の監督をしているところを密着された)、桐原さんに比べたら少ないけど、でも名前が出たし立派なものだと思う。よしよし。
一月十二日(月)
大迷宮・第四層 一二時二二分
「津差さんは、まあ、当然だな」
その言葉が頭にこびりついている。精鋭四部隊の一角、魔女姫こと高田まり子(たかだ まりこ)が率いる部隊の罠解除師のコメントである。精鋭部隊へ第二期で侵攻意欲があり優秀な人間を出稽古させようという試み、まず一人目として選ばれたのが自分だった。緊張と恐怖に小刻みに震える膝を抑えながら集合した道具屋の前、若林暁(わかばやし さとる)という罠解除師は言ったのだった。お前なら自分たちに加わるのも当然だと。
自分は確かに――それはわかっている――自分は確かに第二期の戦士の中では強力な一人なのだろう。そのことは自覚している。それでも当然のように笠置町翠(かさぎまち みどり)や真壁啓一(まかべ けいいち)という戦士たちの同列あるいは上に並べられることは妥当とは思っていなかった。
結局はでかいだけの男じゃないか。その思いがある。確かに並外れた筋力は部隊の仲間が砕けない化け物の鎧を両断するし、広い歩幅は普通よりも早い踏み込みを可能にする。しかし身体というものはもって生まれたもの、いわば努力して手に入るものではなく、それだけで優れた戦士たちよりも上に並べられることには憤りと――恐怖を感じていた。これを鵜呑みにしてはならないと思う。
ここまで強く考えるようになったのは、真壁啓一の戦闘時の動きを見たからだった。今年に入ってからデジタルカメラのかわりにデジタルビデオを携帯するようになった常盤浩介(ときわ こうすけ)が、その大学時代の先輩にあたる技術者に見せるために上映していたその光景、技術者は怪物たちの動作に注目していたが、津差は真壁の動きから目を離せなかった。
どうしてそこまで確信をもってかわせるのか、切りかかれるのか――後ろに目でもついているのか?
突進するクマに跳ね飛ばされ、もう一匹に頭を叩かれたシーン。最初の衝撃(テープには映っていなかったが、それまでにもいなばと呼ばれる化け物の突撃を数度にわたって受けているらしい)で状況がつかめなくて当然だったのに、かぶとを張り飛ばされる直前に首をねじっている。目で見た風景がそのまま身体を動かす命令に直結されているような、これは一体何事なのかと呆然として画面を見た。
ぞわり。鳥肌が立った。同時に脳裏にその化け物の情報が映し出される。正式名称をシェイド、通称をのっぺらぼうと呼ばれる人間(のような生き物)の上半身だけが空中を漂う化け物。密度をコントロールすることができるらしく、しばしば生物にガス状でしのびより絡みつくようにして実体化し縛り付け、倦怠と呼ばれる澱のような疲労物質を注ぎ込む。この倦怠はどうしても晴れる事がなく、身体的精神的な老衰をもたらした。この感覚は、と理解する。自分の上半身に絡みつくようにのっぺらぼうが密度を増しつつある。その両手が十分な質量をもったとき、自分の身体は羽交い絞めにされ倦怠が注がれるのだろう。今ならまだ、数歩移動するだけでそれから逃れることができる。しかし津差は動かなかった。
俺と真壁の差は、と恐怖にガチガチと鳴る歯をかみ締めながら考える。俺と真壁の差は、持っている物差しの差だ。俺はセンチメートル単位の物差ししか持っていない。しかし真壁は、おそらくミクロン単位まで正確に測れるものを持っている。冷静に扱うという前提であれば、物差しの精度の差は限りなく大きい。何しろ一四・.九二センチで何かに衝突するとわかっているとすれば、自分は一四センチで回避しなければならないのに真壁は一四・九一センチまで踏みとどまれるということなのだから。距離感覚だけではなくありとあらゆるもの、時間、自分の身体の使い方、体力的な限界、まあ女の扱いはお世辞にも上手とはいえないと思うが、およそ戦闘に関するありとあらゆることにその精度の高い物差しは活用されているように感じる。
その差は生まれついてではないだろう。これまでの人生で自然に培ったもののはずだ。であれば、自分にだって鍛えられるはずだ。その鍛錬は命がけでなければならない。たとえ、自分の身体にまとわりついているのっぺらぼうの実体化を極限まで耐えるような――恐怖であごの筋肉が震え、うまく奥歯をかみ締めることができない。
誰かの叫び声がした。しかししっかりと目を閉じ肌に意識を集中させているからよく聞き取れない。まだだ、まだだ、まだだ――汗が流れていくのが一ミリの単位で感じられる――まだだ、まだだ――悲鳴のような声が鼓膜より早く肌を叩く。空気が大きく揺れ、何かが自分に近づいてくる気配。前衛の誰かが自分を突き飛ばそうとしている――まだだ、まだだ。
そして大きく目を見開いた。
大迷宮・第四層 一二時二三分
もともと地下の温度は低く零度に近い。それでも、のっぺらぼうと呼ばれるその化け物が現れるとさらに二〜三度涼しくなるような気がした。こいつは地上に持っていったらクーラー代わりにならんかしらね、といつもどおりにのんびりと考えて、高田まり子(たかだ まりこ)の顔がこわばった。そうだ。今日は初心者を連れてきている。彼はきちんとのっぺらぼうについて学習してきているだろうか? 視線を送ると立ち尽くしており、その表情は緊張しているようだが――明らかに彼を目標に実体化を始めた化け物を気づいているのかいないのか、両目をしっかりと閉じて歯を食いしばった顔からは読み取れない。なんといっても今日初めて地下での顔を見る相手なのだから。
見る間に実体化していくおぼろげな上半身。それは、もしも性別があるのであれば女性なのかもしれない。ツナギの両腕に絡める腕はなまめかしく、目鼻のない顔は津差龍一郎(つさ りゅういちろう)の顔を親しみさえ込めて覗き込んでいるように思える。しかし――たとえ親しみを感じられたとしてもそれを受取るわけにはいかないけれど。目を閉じるとまだ、のっぺらぼうの腕に抱かれて急速に老化していったある女性自衛官の映像が浮かぶ。あれは同じ女性としていやだ。
津差は動かない。すさまじい緊張を見る限り、津差も確実に感じ取っている。その上でギリギリまで何かを測っている。この階層でなお自分を試せるなんてすごい男だわ、と感心した。
「ちょっと! 津差さん! 気づいてる!?」
治療術師である縁川さつき(よりかわ さつき)が悲鳴をあげた。彼女からは津差の表情が見えない。だから無警戒の棒立ちに思えるのだろう。すっと片手を上げてその焦りをとどめた。邪魔をしてはいけないと思ったのだ。どんどんと実体化が進んでいく――
無言で黒田聡(くろだ さとし)が動いた。彼も津差の表情を見て静観してはいたが、さすがに冗談にならない状況だと第四層を潜り抜けている経験が教えたのだろう。実体化を終えようとしているのっぺらぼうの腕の中から弾き飛ばそうと手を伸ばした。そしてその手が届くかと思われた直前津差が動いた。抱きしめるようにまわされた腕にかまわず、両腕を左右に跳ね上げる。
高田の耳はぶちぶち、という嫌な音を拾った。完全に実体化を終えているその腕、鋭いツメでツナギを貫き倦怠感をもたらす何かを注ぎ込もうとしたその腕が引きちぎれる音だった。
咆哮。ときの声でもなく雄たけびでもなく、それは獣の叫びだった。
両腕をはねあげたまま、さらに上半身を大きく回転させた。それは人間というよりも巨大なミキサー、しかし刃ではなく回転するするのは丸太だった。高田は――おそらく他の仲間たちも見た。表情がないと思われていたのっぺらぼうの顔がいびつにこわばるのを。明らかにこの化け物は、非常事態に対して通常よりはるかに高密度になって硬度を高めようとしていた。それが表情の変化として現れているのだった。相手を抱きしめたと思ったらその腕を引きちぎられたのだ。その対応も当然かもしれない。しかしこれまでの一年以上の探索で一度として見たことのない形相だった。
片腕はちぎられたが片腕のツメはしっかりとツナギに食い込んでいた。それは怪物にとって幸か不幸か。振幅の大きさ回転の速度ともに常軌を逸した旋廻をする巨人に引きずられるようにその身体が振り回される。
ツメが外れた。
うおっと悲鳴をあげてしゃがみこんだ神足燎三(こうたり りょうぞう)の頭の上を片腕がひきちぎられたのっぺらぼうの身体が飛ばされていく。それはゆうに三メートルの距離を飛び鍾乳洞を思わせる壁面に――めり込んだ。
普段よりも早く静寂が訪れたのは、津差を除く全ての人間が――おそらく、他の生き物が様子をうかがっていたらその生き物も――息を潜めていたから。五人の仲間達は荒く呼吸する大男と、密度を高め硬質化したのが仇になったか壁面を完全に陥没させて埋まっている化け物を見比べた。
「初めて三原さんの戦いを見たときは、あんな驚きはもうないと思ったけど――」
縁川が気の抜けたように呟く。高田はうなずいた。これは、もう、なんというか――理解に苦しむ。
剣を抜くことなくこの階層でも厄介な化け物を撃退した新米探索者は、額の汗をぬぐいながら満足げに笑った。
迷宮街・北酒場 一九時七分
その衝撃よりもその音が、その音よりもその光景がもたらす驚きが北酒場をしんと静まり返らせた。まさか――。皿を運ぶもの、酒をつくるもの、食事をするもの、ジョッキを傾けるもの、その場にいる全てが一様に同じ思いを抱き目を疑ったはずだ。まさか、真城雪(ましろ ゆき)をひっぱたく人間がいようとは。しわぶき一つない酒場、その中でただ一人暴力を行使した越谷健二(こしがや けんじ)だけが平然としていた。
「約束をしたはずだな、雪」
一番呆然としていたのは殴られた当人だった。何が起きたのかわからないという顔で真っ赤になった頬を(腫れているかもしれないくらい、くっきりと痕が残っていた)そっと抑え、たっぷり一呼吸のあとにしょんぼりと肩を落とした。
「ちょっと頭冷やしてくる――中山さん、言い過ぎました。すみません」
とぼとぼと酒場の出口に向かう足取りに皆が道を開け、その姿が出口から消えるまで見送ってから越谷は腰をおろした。そして対面に座る男に頭を下げる。年の頃は三〇代になるかならないか、探索者には似つかわしくなく少し肥り気味の顔は目の前の出来事にまだ魂を抜かれているようだった。
まあ飲みましょう、と自分のジョッキを男――中山義経(なかやま よしつね)――のジョッキにかるくぶつける。あ、ああと口の中でもごもごと呟き中山はビールを喉に流し込んだ。
第一層から第四層へとつらぬく上下動のゴンドラを設置する――その計画はすでに見切り発車されていた。建造メーカーは鍛冶師と探索者の一部に対するヒアリングを始めるし、設置を仲立ちする商社ではすでにゴーサインも出た。訓練場の教官は機材運搬に必要な術を学ぶために斎戒に入り、その間の魔法使い訓練場は理事夫婦が面倒を見ている。建造工事も一月二三日〜二六日ということで決まりつつあった。その中で遅々として進まないのは探索者の説得であり、自然とそれを担当することになった真城雪には焦りが募っていた。
もとより探索者の合意が必要なのではない。探索者が事業団と交わした契約書にはすでに買い取り価格は事業団が自由に設定する旨明記されており、買取価格に不満があれば潜らなくて結構と法的には言い張れた。しかし事務を監督している徳永幹夫(とくなが みきお)はせめて探索者の五〇%プラス一票の同意がなければ許さないと言い張っている。「明らかに外の世界に対する強者である探索者のあなた方だからこそ、弱者の意見が反映できるシステムを遵守しないといけないのではありませんか」その態度は探索者の少なくない人数に影響を及ぼした。例えば第二期探索者の戦士である真壁啓一(まかべ けいいち)などは、「何かしらのルールを定めた上での決定でなければ、たとえ建設が決まっても作業には協力しない。もちろん自分は建設に賛成するが」と明言しており、彼の部隊を含む相当数の第二期探索者がそれに賛同していた。
探索の進度が深くなればなるほど利益はあがるが、浅いところで停滞している部隊には利益が少なくなる――世間一般で考えれば当たり前のその決め事も圧倒的多数が『浅いところで停滞』しているという現状では意味合いが変わってくる。それはつまり、『浅いところで停滞』するのが普通であり、深いところまで降りられることは特異であることを示していた。何しろ第一期探索者は延べ一万五千人、第二期になってからでもすでに二千人近い人間が訪れているというのに第四層に達しているのは四部隊二四名のみ。今回の料金改定で利益があがるのは第四層以下なので〇・一四%というたった一握りだけがその恩恵に浴する計算になる。いくら実力主義の現代、さらにそれが著しい迷宮街とはいえ常識で考えて許していい改訂ではなかった。
だからこそ、と目の前で酒を飲んでいる男を見て越谷は思う。だからこそ、徳永の態度(理事の直々の願いすら突っぱねたらしい!)は正しいのだし、目の前の男の抵抗も正しいのだし、真壁を筆頭とする良識派も正しいのだし、そして自分たち精鋭部隊が説得役として真城雪を選ぶのも正しいのだった。
アルコールによって少しは回復したか、中山が自分の顔を見つめた。いつから、と思う。いつからこの人はこんなに肥ったんだろう? 自分がこの街にやってきた時この男には命を救われた記憶があった。とてもかなわない、と思わせる斬撃の強力さにすくみあがったのを覚えている。それがいつしか、週に一度だけパスを更新するために地下一階に潜るようになっていた。肌はアルコールでくすみ、責任感と覇気とで輝いていた目は濁ってしまった。その姿勢は他の探索者にも伝播し、女帝は苦々しげに『腐ったミカン』と呼んでいる。
いつか自分もそうなるのだろうか? 脳裏に浮かぶのは二つの顔。笠置町姉妹のようなサラブレッドではなく、それまで格闘技の経験もないのにここに来て二ヵ月で恐ろしいほどの成長を見せた二人の戦士の顔。かたや体格でかたや一瞬の判断力で自分をはるかにしのぐ二人には早晩追いつき追い越されるはずだ。自分が積み上げた一年と少しが才能ある人間の二ヶ月にかなわないと認めるその恐怖、その事実に自分もまた堕落するのではないだろうか? 自分がついていくのが難しいから、他人の足を引っ張ってやればいいという卑劣さに毒されるのではないだろうか? 自分の限界に出会うのが怖いから、危険のない場所だけをうろつく臆病さに沈むのではないだろうか? 少なくとも、絶対にそうはならないという自信は身体のどこにも見られない。
「なあ」
中山の声に意識を引き戻された。
「今度から雪ちゃんじゃなくてお前さんが交渉役になってくれねえかな。あの子相手だとおっかなくって」
越谷は静かに首を振った。俺たちの旗は、やっぱりあいつが振らないとダメなんです。
「あいつだけが、きっとあいつだけがこの街に来た時の熱意、希望、ポジティブさというものを欠けることなく持っていられる人間だから。あいつが探索者全体の気持ちを盛り上げこれから引っ張っていくことになるだろうから。力の限り降りていってやる――そんな気持ち、中山さんも昔は持っていたのではないですか?」
ぐ、と詰まった。
「他の誰でもないあいつが先頭で旗を持っているからこそ、探索は続いていくんだと思います。どうかつぶさないでやってください」
筋力に劣る女帝の戦法は、体重と遠心力を乗せた剣先で叩き潰すというもの。隙が大きいその戦法を続けていくのは大変な恐怖だろう。それをかけらも感じさせずに敵中に突っ込んでいくその姿がどれだけの探索者に勇気を与えていることか。
何度でもお願いにあがります、そう言って越谷は頭を下げ、中山は黙りこくった。
真壁啓一の日記 一月十二日
津差龍一郎(つさ りゅういちろう)重体。今もまだ自分の部屋で寝ているはずだ。
第二期の有望な探索者が精鋭四部隊に出稽古に行くという企て、今日は津差さんが先発隊として出ることになった。出稽古先は魔女姫高田まり子(たかだ まりこ)さんの部隊で、ここは数日前に境周(さかい あまね)さんが亡くなったので誰かの代役というわけではなし。俺も気になったのでトレーニングが終わった後出口の詰め所で待つことにした。
詰め所には久しぶりの三峰えりか(みつみね えりか)さんがいて、彼女は四日に探索者の試験に合格したもののまだ地下に潜っていないという。何をしているのか? と訊いたら東京の大学に詰めていたのだそう。魔法使いが術を起こすためにイメージを描くその時の身体的変化を調べていたらしい。体表の温度は当然のこと湿度やら電気抵抗までありとあらゆる検査を行ったけど変化は見られなかったとファイトを燃やしていた。今度、もっと設備が充実したアメリカの大学に(技術を独占したい会社側には内緒で)行くそうだ。じゃあ自腹ですか? と訊いたら、そこは上司の後藤誠司(ごとう せいじ)さんが会社には内緒でお金を出してくれるらしい。後藤さんという方はものすごく長いスパンで判断する方なんだなあと思う。もちろん近距離には自分の営業実績を上げるという目標を立てるけれども、それよりもまず社会的に見て意義のあることをしようという気持ちがあるような。単に長期的視野で偉業を成し遂げようと望む人ももちろんいるのだろう。けどそういう人は俺たち凡人には理解しづらいし熱意を共有もできない。でも後藤さんはまず自分の短期的利益を明確にするからその動機を理解しやすいし、同じように短期的中期的な利益を相手にも提示するから判断もしやすい。たとえば五〇年後に後藤さんが歴史の教科書に載っているとしても俺は驚かない。自慢はするけどね。何しろ一緒に土嚢を運んだ仲だから。
地上に戻ってきた津差さん、無事だったのだけどシャワーをあびて買取査定を待つソファでいきなり眠り込んでしまった。額を触るとすごい熱。探索者ならたいがい経験する緊張のあまりの発熱だった。津差さんはずっと第二層が限度だったのだからそれはわからなくもない。けど、初日に熱出した俺と比べるとなんだか悔しく思う。もうなんというか、心身ともに格が違うということなんだろうな。
魔女姫部隊の戦士である黒田聡(くろだ さとし)さん、神足燎三(こうたり りょうぞう)さんと三人がかりでとうとう一二〇キロを越えた津差さんを部屋に叩き込んでから、これほどの発熱であるからには相当消耗しているだろうという神足さんの意見にしたがって薬局で栄養剤を買い込むことにした。薬剤師の中村嘉穂(なかむら かほ)さんに栄養剤くださいといったら「その年で女喜ばせるのに薬使ってどうする!」 と、会話のキャッチボールが成立しないほどのどまんなか剛速球を投げられた。この街の女性は総じてたくましいけど、たくましさでは嘉穂さんと女帝は双璧を張る。
津差さんが寝込んでいると言ったら、「あのでっかいのだったら普通の栄養剤じゃ効かないよ」 と特別なのをブレンドしてくれた。それはありがたいけれど渡されたときのコメント。
「女の子ひとりでは見舞いに行かせないようにおしよ」
何を飲ませるつもりなんだこの人。
お手製の栄養ドリンクを持っていったときにはちょうど目を覚ましていて、おいしそうに飲んでいた。そのときはかなり回復していたように思えたんだけど、夕食済ませてもう一度見に行ったらうんうんうなっていた。いま津差さんが寝込んでいる原因は本当に緊張なのだろうか?
まあそれでもこの人は化け物だ。高田さんはすっかり津差さんを引き抜くつもりでいる。
一月一三日(火)
迷宮街・南北大通り 一〇時四七分
自動ドアを通った笠置町葵(かさぎまち あおい)を雨の匂いが迎え出た。おっと、と思う。朝には振り出しそうだった雨、念のためにリュックに折り畳み傘を入れてよかった。自分は。自分を待っている男は――いた。かなり大きな折り畳み傘をさしてぼんやりと車の往来を眺めている。彼が肩から下げているスポーツバッグはドラえもんのポケットの類に思えた。とにかくなんでも入っている。以前、そこから突然現れた紅茶の魔法瓶でお茶をしたこともあった。当然折り畳み傘の二本や三本は入っているのだろう。
「おまたせー」
常盤浩介(ときわ こうすけ)は振り向いてにっこりと笑った。最近は、とその笑顔を見て思った。最近は少しだけ笑顔が気楽になったのではないだろうか。最初にあった頃からもちろん仲間である自分にはやさしく気安かったが、その頃はなんだか前方しか見えていない人のようだった。その頃の彼にはそうさせるだけの経済的な事情があったが、一緒にいて気詰まりするような壁を感じることもたびたびあった(少なくとも他の部隊の女性探索者はそう言っている。双子の姉は今でも遠慮されていると感じているが、これはまあ、男性の探索者のほとんどすべてが彼女に対して抱く畏怖もあるだろう)。でもそれは最近はとても和らいでいる。経済的な問題が解決したこともあるし、おそらく――すこし妬けるが――大学時代の先輩と出会ってやりたいことが見えてきたためでもあるのだろう。
降ってきたね、午後から晴れるらしいけどね、そんな会話を交わして自然と傘のうちに入った。
中に入って待っていればいいのに。そう言ったらやっぱり怖いからと苦笑を浮かべた。建物の中には自分の父が来ていて、今日は父に弁当を作って届けにきたのだった。だらしないなあ、と思う。先日夕食をともにした時も常盤はかちんこちんに緊張してしまっていた。おおらかに笑って食事をしていた真壁啓一(まかべ けいいち)とは大違いだと少々がっかりしたのだった。
「いやいや、真壁さん別に翠さんとつきあってるわけじゃないし」
比べられても心外だ、との言葉にそうだったわ、と意表を突かれた思いだった。ずっと姉の想い人といえば従兄だったのが、最近では自然にその位置を仲間の戦士が占めるようになっていたから勘違いをしていたらしい。
結構時間がかかったね、との言葉は責めているととられないようにとの気遣いが感じられる。それを好ましく思いながらもうーんと生返事をした。話題は姉のことだった。
姉である笠置町翠(かさぎまち みどり)はたった今地下に潜っている。湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)という治療術師が率いる精鋭部隊の一角に出稽古で加わっているのだ。部隊としての生死を分ける一線を知るために、現在成功している部隊に加わりたい――真壁のその意見は双方の同意を得、厳選された第二期の探索者たちが加わることになった。候補として許されたのは七名で自分の部隊からは自分と姉、そして真壁が認められた。いくらなんでも三人行く必要はないだろうと自分はパスしている。実際は一緒にいるこの男に待つ苦痛を味わわせたくなかったからだ。ともあれ姉はいま地下四階にいる。多分大丈夫だろうとは思うが、考えるだけできゅんと胸が苦しくなる。不安要素を最近見つけたからだ。
先日、部隊は一つの危機に出会ってなんとか乗り越えた。戦士の一人である青柳誠真(あおやぎ せいしん)は重傷、真壁も一時的に意識を失うというかなり危険な事態だった。その時の姉の行動がまだ頭に引っかかっている。自分の術で戦闘は終結した。それはかなり広範囲の怪物を即死させるものだったので物陰に隠れていようがお構いなしに死んでいたはずだ。だから比較的安全だったとは考えられる。また、真壁の出血も相当のものがあり放置が許されるものではなかった。それでも、行動の順位としては青柳の回復、翠と青柳、自分とで警戒態勢の再建、真壁の治療、そして翠の治療だったはずだ。それくらいのことは姉にもわかると思ったのに。戦闘が終了したのを見届けて崩れ落ちた真壁(本人はクマに頭を殴られた時点で意識がないと言っているが、実際はその後一度いなばの打撃から常盤をかばっている。つまり彼は無意識でも生き残るための優先順位がわかっている)に悲鳴をあげて駆け寄ったのだ。怒鳴りつけて警戒に加わらせようと思って見たその顔、久しぶりの泣き顔にあっけに取られ、これじゃ役に立たんとあきらめて自分だけで(奥歯が震えるのを我慢しながら)警戒を続けた。
問題に気づいて飲み込むような遠慮はもう部隊内ではなくなっているから、他の誰もその行動の言語道断さに気づかなかったのだろう。だからあとで個人的にしっかりと注意して反省させたのだが――
全体よりも特定の個人の安否を優先されたら一緒に潜ってなんかいられない。そういう弱さが姉にあるのであれば、いくら剣術が達者だろうと肝が太かろうと探索者として、武人として失格だと思う。そのあたりのことを父に訊いてみたのだった。
「あれもまだ子どもだし、やっとできた恋人なんだから仕方ないだろう」
父は相変わらず娘たちに甘い。その一言で終わってしまった。姉の従兄への思いを悟られないように誤解を解消させずにおいたからそれ以上続けることはできず、もやもやとした思いでその場を去った。弁当箱を返すついでに夕飯を食べに行くという父の言葉にいやだなあと思いながら。
隣りを歩く男の顔を見上げる。ん? と微笑むその顔にこちらも笑顔を返し、しかし頭のどこかで冷静に告げる声がある。この男を見捨てる覚悟はもうできている、と。部隊全部とこの男一人だったらきっと私は迷わない。それは、ともに死線をくぐるものの最低の礼儀だ。しかし、姉にはその覚悟があるのか? あの反省で割り切れるようになったのだろうか?
迷宮街に双子を送り出す父は、しかし別々の言葉を与えた。自分には「月一〇万を目指してがんばって来い」と。姉には「まずいと思ったらすぐに逃げて来い」と。それは単にえこひいきだと思っていたが違う。
父から見て姉は相当に危ういのだろう。なんとかしなきゃ、と唇を噛んだ。雨の寒さの中、指先をやさしく暖めてくれるこの男を死なせないためにも。
真壁啓一の日記 一月一三日
出稽古シリーズ第二弾は笠置町翠(かさぎまち みどり)。感想は
「やっぱり他の仲間が頼れると楽だね!」
くっそー菓子折りか? 菓子折りでも持っていけばいいのか?
昼前からは雨が降ったけれどどんよりと曇りの朝。いつもどおりにジョギングに出たら、久しぶりに落合さんと一緒になった。話題は自然と境周(さかい あまね)さんの話になる。境さんは第一期だったけど、どうやって日々過ごしているのかあまり知らなかったのだという。確かに迷宮街で見かけるのは朝のジョギングくらいだったような気がする。朝六時に走っているのだからこの街に住んでいたんだろうけど・・・。私生活を良く知らないという点では同じ部隊の黒田聡(くろだ さとし)さんでも俺たちと同レベルらしく、緊急時連絡先に電話をしてみたら現在使われていなかったそうだ。俺たちはつとめてお互いの事情を探ろうとしない。それは悲しみを深くしないために自然と身についた知恵だけど、悲しみが深くならない分だけ淋しい。どっちがいいのかはわからない。
雨が降り出したので屋根の下に移って津差さんと少し打ち合った。津差さんは昨日の寝込み方が嘘のように完全復活しているようだった。寝込む前より調子がいいとは本人の談で、嘉穂さん配合の薬を飲んだその後三時間、身体が熱くて熱くて仕方がなかったのだがシーツが台無しになるほどの汗をかいたら却って体調が良くなったとか。市販か? と問われたので嘉穂さん特製と教えておいた。
そういえば、津差さんが以前探していたのも中村さんだけど、まさか嘉穂さんじゃないだろうな。あれほど個性のある人物なら津差さんが知らないはずはないだろうし。
それにしてもあれだ。薬飲んで「久しぶりにヘソまで着くかと思った」って言ってたけど、久しぶりにってのは冗談だよな。ヘソなんて俺今までついたことないよ。ちょっと信じられないな。
そのまま移動して詰め所で翠を出迎え、北酒場に再集合して第四層を生き抜くためのハウツーを教えてもらった。部隊全体のあり方は、他に倉持ひばり(くらもち ひばり)さんと久米篤(くめ あつし)さんが出稽古を終えてから話し合うけれど、それ以前に俺が第四層から生還するためにできる準備はすべてする必要がある。二人の話を総括すると、怪物自体は第三層とそれほど変わるわけではない。しかし壁面が水にぬれてまるで秋芳洞のような雰囲気になるために音の反響と光の反射が強いから、その点はある程度予期しておいた方がいいとのこと。そして、戦士の分際で怪物の接近を感じ取ろうとは思うなとも言われた。壁面の問題もあるし敵のレベルが総じて高いこともあるしで、俺たちが気を配るよりはそれ専門の訓練を受けている罠解除師に任せたほうが安全だという。任せきり、罠解除師が接近を告げない限りは緊張も筋肉も弛緩させておけとのことだった。罠解除師が接近を感じ取れなかったら死ねばいい。そういう覚悟が精鋭四部隊にはあるらしい。つまり、それだけの信頼を部隊内で築けなければ降りてはいけないのだ。
夕食は家で食べるという(笠パパが来ているらしい。冗談で誘われて正直そそられたけど遠慮しておいた)翠と別れて津差さんと飲み。その場に魔女姫と縁川さつき(よりかわ さつき)さんがやってきて津差さんをスカウトしていた。冗談で「俺は誘わないんですか」と言ったら「あなたたちの部隊はきちんと調和しているからね」とやんわりと断られた。大人だ。津差さんは迷っているようだった。先に進むためにはいい話だとしても、古くからの仲間に愛着もあるのだろう。
今日はモルグにずっと携帯をおきっぱなしだった。由加里さんごめんなさい。もう遅いから電話しないけど無事で元気にやってます。
一月十四日(水)
迷宮街・訓練場 十一時二五分
敵は手加減してくれないのにどうして教官が手加減しなければならん? 父親の口癖だった。だからその教えを叩き込まれた鈴木秀美(すずき ひでみ)もまた、訓練場では一切の手加減をするつもりはなかったし、戦乱の世の中でもなし、他に職はいくらでもあるこのご時世でわざわざ素質のない人間を戦士として鍛え上げるつもりはなかった。だから海老沼洋子(えびぬま ようこ)に頭を下げられて木剣を手に打ち合ったときもすぐに引導を渡そうと思った。
それでも「もう一本」の声に付き合っていたのは何かに引っ掛かりを感じたからだ。なんだろう?
両刀を左右に垂らしたまま無造作に間合いを超える。右の剣先をかすかに動かした。海老沼の眼球がそれにつれてぶれる――そうだ、これだけの動きでもフェイントを見つけて引っかかるのがまず不似合いなのだ。経験を積んで、胴体を見るだけで四肢の動きを予想できる水準にまで達していなければ気づけない程度のかすかなフェイント。目の前の未熟な戦士には当然必要ないが、自分にとってはもう癖のようになってしまったこの高次元の剣術、探索者の戦士にあっても気づけるのは理事の娘くらいではないだろうか? そして左手の斬撃を繰り出す。右に向いている眼球からでは察知できないように、いちど肘ごと後ろに引いてから繰り出している。右に引っかかったならば、こちらに対応できるはずがない一撃だった。
カシ、と音がしてその木剣がはじかれた。まただ、ともはや焦りを感じずに納得した。これまでどうしても引っかかった点が何かわかったのだ。この女性は、体力も筋力もスピードもまだまだだが視野が異常に広い。それこそ、赤ちゃんが生まれた直後にもっている視野の広さをこの年で維持しているのではないかと思われた。左の剣を防いだ海老沼の剣を軽く右で払った。そして返す刀で肩を打った。
「もう一本!」
秀美はにっこりと笑った。ちょっと休憩しましょう。しかし海老沼は必死の形相でもう一本と叫んだ。
「強くなりたいんですよね。だったら休憩しましょう。そして、休憩後はちょっと二刀を試してみませんか?」
二刀? きょとんとした顔にうなずく。
賭けですけど、もしかしたら海老沼さんはそっちの方が向いているかもしれませんよ。
言葉では「もしかしたら」と控えめにしている。しかしもう少しだけ自信があった。それが伝わったのか、一つ年上のいかつい女はうなずき、気が抜けたようにその場に座り込んだ。
迷宮街・出入り口詰め所 一四時三五分
会話をしたことはなかったが面識はあった。先月の半ば頃、探索者の救助にすこし協力した際にその場にいたからだ。その翌日にも妻と食事をしているときに女帝真城雪(ましろ ゆき)にくっついて挨拶にきたはずだ。理事の娘で――名前は、翠。そう。笠置町翠(かさぎまち みどり)だったと思う。双子の妹がいて、そちらは葵といったはずだ。自分ですらその圧倒的な存在感を感じ取れる剣の達人である理事の薫陶よろしきを得る天才女剣士。若年そして実戦経験の少なさにも関わらず道場で彼女より強い剣士は数人しかいないという評判だった。そんな剣豪にしては、なんだかそわそわしているようだけど。しきりに腕時計と壁掛け時計に視線をやる姿を意外に感じる。
ともあれ理事の娘であり有力な探索者である女に無礼はできないと二度ほどお茶を淹れていた。
何を待っているのかな? その問いに、自分よりも一〇歳以上年下の娘は恥ずかしそうに笑った。仲間の戦士が今日、第四層に潜っているんです。ほんとうに危なっかしい人だから心配で。第四層でも大丈夫でしょと昨日保証しちゃったから、それで死なれたら寝覚め悪いですから。
なるほど、とうなずきながら奇妙に思う。第四層まで探索の足を伸ばせばどうしたって帰還は一六時以降になるはずだ。まだ壁の時計は一四時半である。あと一時間半以上待つつもりだろうか?
気分転換のために話し掛けてみた。そういう、他の部隊との交流はよく行われるの? 答えは否だった。今日潜っている戦士の発案なのだそうだ。生き残るため、少しでも深く潜るためには部隊を超えて経験の共有を行うべきではないのかと。後藤は感心した。その真壁という若者には面識はないが、探索者にもそういう動きがあるのだということに励まされる。心強く思っていたら娘の方が話し掛けてきた。ゴンドラの設置は順当に進んでいるんですか?
「探索者内での賛否には私は関わっていませんが、設置自体は行われるものとして進んでいますよ」
でも、と娘は不思議そうな顔をする。徳永さんは、合意を得られなかったら許さないと言ってますけど。
「それは、私の提示する価格基準を許さないということらしいですよ。合意を得られなかったら現状の第一層第二層での買い取り額は据え置きで、第三層第四層の利益をがくんと下げる料金提示もまた一案として行っていますから、そちらを採用するのでしょう」
でも、それって――言葉に詰まる。そのとおり。努力すればするほど報われない報酬体系の事業が長続きするはずはない。もしもそんな体系が採用されたら近い将来に探索事業は頓挫するはずだ。その恐怖感は後藤にもあった。内心では切り出すタイミングは大失敗だったと後悔していた。探索者で触れ合った人間が皆積極的だったこと、ゴンドラの思いつきに自分自身が酔ってしまったこと、そして何より早く結果を出そうと焦ったこと、それらがこの状況を招いていた。もちろん無料で自分の非を認める営業などいないし、それに、こういうときの自分の運の強さを信じていたからなんとなく楽観視していた。
いや、違う。苦笑する。大失敗して路頭に迷っても結婚を解消して(まだ内縁であることだし)新宿駅地下にでも行けばいいだけのことだと思っているから気楽でいられるのだろう。そんな覚悟の人間がひっぱる事業は不幸だなと思わないでもないが、やるだけやってダメなら死ねばいいという性分はもう変えられないので気にしないことにしている。
卓上の電話が鳴った。ぴり、と空気が緊張する。後藤は受話器を取り上げた。
「・・・ああ、はい。一名ですね。あとどれくらいで? 三〇分、わかりました」
受話器を置いて、再び取り上げた。内線につなぐ。
「安置室? 一つベッド用意してください。葛西紀彦(かさい のりひこ)さんの部隊で男性が一名」
電話の向こうの担当者とは会えば冗談を言うくらいの親しみはあったが、しかしお互いつとめて事務的にする受け答えだった。誰かの死の処置は――もう慣れたとはいえ――好きになれない。
ん? 葛西? ふっと思い出したのは精鋭四部隊のメンバー表だった。そのなかの一つ、自衛隊員である星野幸樹(ほしの こうき)が指揮する部隊の戦士の一人が葛西紀彦、いま電話をかけてきた当人ではなかったか? そして目の前の娘の仲間が出稽古に向かった先というのも――
すいと向けた視線が理事の娘のものとぶつかった。こちらを凝視する瞳、口元はかすかに動いている。何かをしゃべろうとしているのだが、声が漏れていないような。後藤は目をそらした。
「葛西紀彦という男性からの連絡だった。一人死亡したから安置室をあけてくれと。亡くなった方の名前は聞かなかった。すまない」
いえ、と小さく首を振って、口元に手を(か弱いと思えるほど細く感じられた指だった)やろうとして、手首が机の茶碗を倒した。あ、と小さな呟き。視線は広がる液体を眺め、しかし湯気の立つお湯が自分に向かっていることをわかっていないようだった。後藤は慌てて立ち上がりハンカチでそのお湯を防いだ。思ったよりも熱いお湯に悲鳴をかみ殺した。
迷宮街・鍛冶棟 一六時二三分
この数日は菜食だけで過ごし日々の半ばを瞑想に費やしている。高度の精神集中の末に研ぎ澄まされた心身には熱と活気が渦巻く鍛冶場は辛かった。今日の分の集中がこれで台無しだろう。理事はいい顔はしないはずだった。それでも外出したのはあるの男性の様子が気になったからだ。街を駆け巡った知らせに――誰も思いもしないだろうが――余人に劣らず衝撃を受けているであろう男性の様子が。目的の人物は鍛冶場の奥まったところでツナギと鉄剣の山の前に立っていた。一つ一つを手にとって一瞥するだけで修理を担当する鍛冶師を割り振っていく。訓練場の教官の一人である鹿島詩穂(かしま しほ)はその背中に声をかけられず立ち尽くした。普段のかっちりしたスーツ姿ではなく真っ青なジャージを羽織った彼女を若い鍛冶師がものめずらしそうに眺めて通り過ぎた。
鹿島が見つめている男の名は片岡宗一(かたおか そういち)という。もう三十代の半ばを過ぎた熟練の鍛冶工だった。粗野で大作りの外見の与えるイメージとは違い、材料工学を博士課程まで修めた俊秀でもある。鉄鋼会社に勤めていたところをどういう縁か前任の商社責任者に引き抜かれてきた。以後、迷宮内部の扉、電気と電話の設備、探索者の武器防具にいたるまでおよそ金属が絡んだ問題で彼の意見を仰がぬものはない探索事業の影の功労者でもある。
その功労者は最近一つの目標に文字通り心血を注いでいた。迷宮内部で特産される不思議な特性をもつ石をもって武器防具の性能を向上させることがそれだった。
内心では複雑な心境なのだろう、と常々思いやっていた。必死の思いではじき出した鋼鉄の配合率、剣先のフォルム、ツナギの金属糸の量と編み方――片岡が信じて仕えてきたそれら現代科学の成果を軽々と凌駕したひとかけらの石を認めることに敗北感を覚えたとしてもおかしくはなかった。しかしこの鍛冶師は何も言わずに頭を切り替えその石を利用してなお効率の良い活用法を追い求めた。その行動を支えているのは自分が探索者たちの生命を預かっているのだという責任感と義務感。口にこそださねど鹿島は感動していた。
そして今日、石の効率的な活用法を探るためのサンプルとして協力していた剣士が死んだ。真壁啓一(まかべ けいいち)というその場にいた戦士の証言によれば、巨大な昆虫の群れの一匹の体当たりを肩で受け止めたその戦士――越谷健二(こしがや けんじ)の上体が思いもよらずにぶれ、がら空きになった喉に他の昆虫の角がめり込んだのだという。最後の瞬間を見た罠解除師も言っているが「たった一匹の衝撃であそこまで上体が崩れるなんて思わなかった」とのことだった。それを聞いて鹿島はある会話を思い出した。どれくらい前だったろうか、この石の活用の仕方を話し合った際のことだ。ツナギにも石の効果を及ぼすことに対して片岡は反対したのだ。硬度が上がるから切る、刺すに対しては効果があがるが、純粋な打撃はそのまま身体に伝えてしまうと。それを体さばきでカバーするから大丈夫だと請合ったのがほかならぬ越谷だった。
最後に一枚のツナギが残された。喉もとから下が化け物のものではない鮮血に染まり、左肩から覗いた金属糸が不気味にきらめいている。片岡はそれを抱え上げるとしばしの間じっと見つめていた。
数日の斎戒をもって敏感になっている肌が空気の揺れを伝えてきた。眼を凝らすと眼前の男の首、肩、腕、全てが小刻みに震えていることがわかった。何か言いたかった。あなたのせいではないのだと。ものには運不運があるのだと。どうにかしてその心中の嵐を鎮めてやりたかった。しかしただ背中を見つめているしかできない。
震えが止まった。鍛冶師は一度だけ大きく息を吐き出すと、ツナギの布地が破れた部分に顔を近づけた。そして損傷を丹念に調べ始める。
魔女は少しだけ安堵して、邪魔にならないようにその場を立ち去った。
事務棟・インターネット閲覧室 一八時三分
トン、トンとキーボードの端を指で叩いている。この椅子に座ってから一五分、いつもなら一日分の日記を書き終えて席を立っている頃だ。しかし今日は一文字も書くことができずにいた。大きく伸びをして、真壁啓一(まかべ けいいち)は視界の隅に立っている人物に気づいた。表情が気まずそうにゆがむ。同じ表情が笠置町翠(かさぎまち みどり)の顔にも表れていた。こめかみにはバンドエイド、そして貼られた布地からもれるほど大きな青アザができている。
「ごめん」
奇しくもまったく同じ言葉が重なった。お互いの顔をはっとして見やり、そして同時に苦笑に変わる。ごめんな、ともう一度真壁が言うと翠は首をゆっくり振った。
越谷健二(こしがや けんじ)という戦士の死体を運ぶためのタンカを取りに階段を駆け上がった真壁に対し、なぜかそこにいた翠がしがみついたのだった。気が焦っていた真壁はどけという言葉とともに翠を突き飛ばし、痛みの悲鳴を無視してタンカを引っ担ぐと地下に駆け戻った。
血を洗い流し死化粧を施した越谷を囲んで初めて自分がしたことを知り、慌てて探したが見つからなかった。すぐに連絡するべきだったが自分もまだ気が立っていることを感じて謝罪は翌日にしようと思っていたところだ。どこで聞きつけたのか、それでもありがたかった。今日のうちにせねばならなかったことが一つできたのだから。
しかし、もう一つは――ウェブ日記の記入画面が映ったブラウザを最小サイズに縮めた。何を書けばいいのかまったくわからないでいる。
「どうしたの?」
おずおず、といった声にもう一度翠を見やった。メールのようなもの。毎日由加里に送っているんだけど。
「書くことが一杯ありすぎて困ってるんだね」
真壁はうなずいた。そして首を振った。その通りだ。そしてその通りじゃない。伝えなければならないことがたくさんある。それは確かだけど、どうすれば伝わるのかわからないんだ。俺の文章能力とかいう問題じゃない。多分、何を書いてもこの街を知らないあいつには理解できないと思うんだ。
「理解できない人間に軽々しく語っていいこととは思えないんだ、今日のことは」
そうかもね、と翠はうなずいた。しばらく黙って、真壁はもう一度名前を呼んだ。呼ばれた娘は首をかしげる。
「逃げだと自分でもわかっているけど――悪いけど、俺はもう終わりにする。この街を離れるよ」
女剣士はしばらく黙り、そしてさびしそうに微笑んだ。それがいいよ。そしてもう一言。真壁さんが死ぬところを見ないで済むのは嬉しいよ。
悪いな、と苦笑いするともう少しはっきりした笑顔が返ってきた。ねえ真壁さん、飲みに行こうよ。北酒場じゃなくてタクシー呼んでさ。
「いいね。けど薄暗いところに行こう。顔のアザ、結構目立ってるから」
翠はそっと指先でこめかみを抑えた。そして微笑んでうなずいた。
神野由加里のアパート 二三時四二分
もう何度目か忘れたくらい発信ボタンを押した。返ってくるのは相変わらずの呼び出し音だった。ため息をつきもう一度リロードのボタンを押す。相変わらず、昨日の日付の日記が再表示された。
携帯電話を繰り、一つの電話番号を表示させた。しばらくじっと見つめるが、すぐに表示を消す。その繰り返しだった。
携帯電話が震えた。はっとして表示を見ると待ち望んでいたものとは違う名前。しかし慌てて着信ボタンを押した。
「連絡ないよぉ、克巳ぃ」
『お前が見える方にもないか? 俺も電話してるんだけど』
「連絡ないよぉ」
『落ち着け! 大丈夫だって! きっと酔っ払って寝てるんだよ』
「連絡ないよぉ」
『だから』
「もういやだよ」
『――』
「ねえ私何すればいいの? どうすれば啓一帰ってくるの? 教えてよ、ねえ、教えてよ」
『お前、落ち着け! ――ええい! ちょっとレンタ借りて京都に行ってくるから待ってろ!』
迷宮街・木賃宿前庭 二三時五二分
この匂いは――セリムはぱちりと目を開いて家から飛び出した。いつも遊んでくれる人間だ。ブラシをかけてくれて、家を掃除してくれて、たまには散歩に連れて行ってくれる。食事を与えてくれるご主人様と同じくらい大好きな人間だった。
「セリムー。元気?」
おや? と思う。いつもならいきなり取っ組み合いしてくれるのに。顔をぺろりと舐めてみるとされるがままになっていた。おかしいな。と、大好きなその人は自分の首筋に顔をうずめた。そして小さく震えだした。
「セリムー。今日、ここにいていい?」
いつもは一緒に遊びながらも圧倒的な強さを感じる相手だった。でも今夜は違う。か弱くはかなく、守ってやりたくなる。首筋を甘噛みして家の方に引っ張ろうとした。相手はきょとんとして自分の身体と家とを見比べた。
そしておずおずと小屋の中に入ろうとする。お尻がつっかかったが、何とか中で向きを変えることができた。セリムも苦労してあまったスペースに入り込む。
窮屈な中で並んだ。尻尾でぱたりぱたりと腰のあたりを叩いてやる。狭い中で暴れたからすっかり乱れた髪を舐めて整えてやった。相手はされるがままになりながら、低く柔らかく自分に話し掛けてくる。何を言っているのかは当然わからない。
翌朝、いつものようにジョギングをしようと通りがかった落合香奈(おちあい かな)は、犬小屋の中で黒い犬と並ぶ自分たちのリーダーの寝顔を見つけて立ちすくむことになる。
一月一五日(木)
迷宮街・木賃宿 六時一二分
一時間の仮眠だけで朝六時少し前にはたどり着いた。二木克巳(にき かつみ)は迷宮街の検問外で車を停め、徒歩で街の入り口へと向かった。検問という言葉のもたらすイメージとは違い徒歩の人間であれば何時であろうと通過できるようだった。木賃宿の場所は係員が教えてくれた。
昨夜、ドライブインに入るたび信号で止まるたびに電話をかけた。しかし誰も出ることはなかった。実のところ無事だろうと思っている。何かあったのであれば遺品(いやな言葉だ!)を整理するだろうし、そうしたら電話の着信に対して連絡をするはずだからだ。特に神野由加里(じんの ゆかり)の話によれば、昨日は真壁と笠置町という女性は別行動をしていたらしいから、万一のことがあればその女性から由加里に連絡がいくはずだった。
何度も電話をかけてくる由加里にもそういうことを説明しながら慰めつつ、違和感を感じた。すっかり仲良しになったと話していた笠置町翠(かさぎまち みどり)の名前を発音する際の、苦いものを飲み下すようなためらいを疑問に感じたからだ。ともあれ、今朝の時点でも由加里にも非常の連絡がないからには無事なのだろう。発見したら一言注意して、午前中は眠って午後から観光案内をさせよう。夕飯くらいはおごらせてもいいはずだ・・・意識して楽観的に考える。
そして六階建ての建物が見えてきた。ホテル風の一階入り口から判断するにここが木賃宿と呼ばれる建物なのだろう。中に入ってモルグというところを探させてもらい、いなければ朝を待って食堂で様子を聞くか――
「え、二木?」
入り口から出てきたジャージ姿の男が自分を見て目を丸くしていた。真壁啓一(まかべ けいいち)は想像していたどんな姿よりも遠く、ミネラルウォーターのペットボトルを手にすっきりとした顔をしている。膝から力が抜けた。
「無事か! ・・・よかった・・・」
安堵の視界の中で、あれ? ええと? と不得要領の表情をしている。それが改まってはっとした。自分のミスに気づいたのだ。
「そうだよ。お前昨日生存報告してねえだろうが。飲みでも行ってたのか?」
あ、はい、と頭をかく姿に苦笑した。
「俺らにゃいいけど、神野には無事だくらいの連絡はしろよな――あいつ泣いてたぞ」
うん、はい、ごめんなさいとしおらしい。二木はぱん、と両手を打った。
「まあ無事なら何よりだ。とりあえず今からでも神野に電話しろ。そして、俺の分の宿代と今日の観光の金全部出せ。宿はモルグでいいから」
はい、とほっとしたように微笑む顔の何が気に障ったのだろうか。
気が付いたら殴っていた。
親友は上体をぐらりと揺るがして、しかし踏みとどまった。
「やっぱダメだ――。今日は顔見ない方がいいや。帰るわ」
迷宮街・木賃宿 六時一三分
遠ざかる背中に何も言えずに見送ってから、殴られた頬に手を当てた。痛みはなかったが、それ以上に罪悪感が心を蝕んでいた。
「いやあ、珍しいもの見せてもらったよ」
真壁啓一(まかべ けいいち)はぎょっとして周囲を眺め渡した。誰もいない。視線を下げるとログハウス風の犬小屋の中から黒い犬と女性の顔がこちらを眺めていた。その想像外の情景に思わずのけぞる。
「いやその格好もかなり珍しいですよ。――なにやってんです? そんなところで」
ちょっとね、と言いながら真城雪(ましろ ゆき)は小屋の入り口から出てきた。――出てこようとした。小屋の内部で犬がつぶされているのだろうか、きゅーんという声が聞こえてくる。
「ほら言ったろ? 私たちと外の人では一番大事なところでズレが出るんだって。翠ちゃんにしとけばいいのにさ」
真壁は苦笑して、コートについた芝と犬の毛を払ってやった。それはものすごく翠に失礼な発言だと思いますよ。それに俺、そろそろ社会復帰しようと思います。ズレがあるのがわかったからには俺が外の人に戻らないと。
どんな想像ともちがい、女帝と呼ばれる女の顔はぱっと明るくなった。そうか! と満面の笑みを浮かべる。
「あれ? 俺っていらない子でした?」
おどけた言葉にバカね、と笑った。大事だから、明日死ぬ場所にはいて欲しくないに決まってるじゃないか。お前が死んでもやっぱりあたしは落ち込むからさ。その言葉に真壁は表情を改めた。
「ああ、ええと、越谷さんのことは――」
女帝は穏やかに微笑んでうなずいた。朝の光の下では泣きはらした目がはっきりとわかった。とうとう健二まで死んじゃったよ。これで本当に一人になっちゃったな。真壁は何も言わなかった。女帝真城雪が京都にやって来た理由、噂では聞いていたが本人の口から確認したことはない。しかし誰に対しても好き勝手に振舞うこの美女が唯一おとなしく従う姿を見てもその関係の深さは想像できた。
目の前で越谷健二(こしがや けんじ)という次元の違う戦士の死を見たとき、それがこの街なのだとわかった。どれほどの実力があろうが依然として死が隣りにいる街。自分が死ぬその時まで大事な人の死を見つめなければならない街。
迷宮街に縛られる、とは眼前の女性がしばしば口にする言葉だった。昨日死んだ男性――花と宝石が好きで怖い顔に似合わず気配りをしていた――その死をもって今また実感する。人の死は心に降り積もり、いま自分が生きていることへの後ろめたさとその仲間に入る日を待ち望む気持ちを生む。そうして迷宮街に文字通り縛られる。大事な人を失いつづけるこの女性にもいつか離れられる日がくるのだろうか。
あたしみたいになったら遅いんだよ。
本当に口に出したのか、それとも自分の想像の中での言葉なのかわからない。ただ想いを見透かされたことにぎょっとして女帝の顔を見つめた。今度は実際に口を開いた。
「翠ちゃんをだまして連れて行ってあげてくれないかなあ。お前にはわからないかも知れないけど、あの子はきっと遅かれ早かれ死ぬよ。お前には彼女がいるだろうから抵抗あるだろうけど、この街から引き剥がしたあとでふっちゃえばいいんだし」
「・・・それを俺にしろと?」
ムリならいいけどね。できるとも思ってないし。その言葉にすみませんと謝る。
探索の準備を整えた一団が通り過ぎていく。緊張の表情からまだ日が浅いグループだとわかった。なんとなく見送ってから女帝は大きく伸びをした。
迷宮街・訓練場 一〇時二五分
左右からほぼ同時に斬りこみが送られてくる。真城雪(ましろ ゆき)はふーん、と感心しながらも余裕を持って両方とも弾き飛ばした。そして軽い前蹴りをみぞおちに叩き込む。うずくまって下がった頭を左手の裏拳で払い、がらあきになった首筋にそっと切っ先を当てた。殴られた衝撃から回復した瞳が同時にこわばる。なるほど、と真城は木剣を肩に担いで傍らの娘を見やった。
「なるほど、エビちゃんは視界が広いってことね?」
娘――鈴木秀美(すずき ひでみ)は嬉しそうにうなずいた。そしてどうでしょう? と問う。女帝は見上げてくる海老沼洋子(えびぬま ようこ)と視線を合わせた。第二層だっけ? 真剣な表情がうなずいた。確かにこの広い視界で相手のスキを見つけるのが容易になり二刀でそこを突きやすいとなれば、第二層程度ならかなり渡り合える気がする。何しろあの階層ではまだ鉄剣をはじき返すような硬度の化け物は出てこない。正直なところあと一ヶ月くらいは第一層で実戦経験を積みつつ身体能力を鍛えるべきだとは思うが――女戦士の苦しさは誰より彼女がよく知っていた。
探索者にもっとも必要な能力とは、実は生き残る能力ではない。一人では地下に潜れない以上仲間を見つけ、その仲間から必要とされるいわば営業力が第一に必要なのだった。そのためには生命力に劣る女性はどうしても不利だった。自分のアマゾネス軍団も今でこそ精鋭部隊の一角を担っているものの、当初の結成理由は各部隊から弾き飛ばされた女たちの寄り合い所帯だったほどである。仲間たちが第二層にチャレンジをするという、そのときに水を差してしまったらおそらく海老沼は解雇される。そして、第一層で仲間から解雇されるような女戦士を欲しがるような部隊にろくなところはなかった。彼女はなんとしてでも最初の仲間たちに食いついていなければならない。なにしろ部隊のリーダーが海老沼に対して好意的で理解を示そうとしている。確か部隊内にサラブレッドが一人いて彼女に批判的だったが、リーダーがその意見を抑えているとも聞いた。そこ以上に理想的な居場所はないはずだ。
「まあ、これくらいできれば絶対ムリってことはないと思うな」
ホッとしたようなその顔に笑みを向ける。ようやく自分の進む道が見えたね、との言葉にしっかりしたうなずきが返ってきた。
「確かに体力的に劣る女は戦士には向かない」
語って聞かせるつもりで話し始めた。目の前にいる娘は一昨年の自分だった。あの頃の自分は先輩となる女戦士もおらず全て手探りで見つけなければならなかった。だが、今この娘には自分がいる。できることは教えてやれる。それが嬉しい。
「それは確かなことだよ。でも、女戦士だからこそ有利だって面もあるんだ」
怪訝そうな顔に続けた。確かに筋力体力ともに劣る自分たちは、それに代わる何かを探し出してそれに特化しなければならない。自分は跳躍と長く重い剣によって過重を倍増する剣術だし、笠置町翠(かさぎまち みどり)は太刀ゆきの速さと正確さだ。鈴木秀美は相手の急所を見抜く能力とそこを突く器用さ。どう考えても津差龍一郎(つさ りゅういちろう)にはなれない女だからこそ、何か一つ武器を決めてそれを研ぎ澄まさなければならなかった。
「でもね、津差龍一郎になれないって意味では男だって同じなんだよ」
第四層までなら男たちもその性別からくる筋力でやっていけている。しかしいつかそれだけでは通じない日がくるはずだった。そのときになにを武器にするか、同じ悩みは男の戦士たちにも来るのだった。
「だけど、ある程度実績を積み重ねて癖がついてしまったらなかなか変えられるものじゃないからね。それにいろいろなやり方を試すには階層が低いうちがいいのはもちろんだけど、ひとたび第四層に達した人間がそれより浅い階層に戻れるはずもないし。そういう壁に早くぶち当たる私たち女は、考えようによってはラッキーなのかもしれない」
海老沼はあまり納得していないようだったが、鈴木は深くうなずいた。
「ともあれ、方向は決まったとしてもエビちゃんはまだまだ身体能力も鍛える余地はありそうだよね。今度国村くんとか真壁とかに紹介してあげるから、トレーニングの方法を教わるといいよ――授業終了ということでいいかな?」
ありがとうございます、とぺこりと頭を下げた。生き残るんだよ、と祈る気持ちで肩を叩いた。
真壁啓一の日記 一月一五日
今日から迷宮街内部限定で日記の一般公開だ。とりあえずは部隊の仲間たちにパスを教えて見てもらっている。みんなにやにやしたり奇声をあげながら読んでいた。まあ、読み返してみると密度濃く行動した相手は翠以外にはいないし、彼らには懐かしい日々を再確認するようで楽しいのだろう。問題の翠は青蓮院で泣いているところを見られたと知って真っ赤になっていた。こまごまと隠してもらいたいなあといわれたのでそれは対応するつもり。仲間たちの検閲が終わったら、今度は他の探索者に広めていこう。
ふと思ったのは今泉くんのところをどうするかだけど、これはもう神田さんや織田さんとかに訊くしかないんだろうな。青柳さんは、いま(小林さんが)結婚生活で幸せになっていれば死を知っても大丈夫だろうと言っていたけど。
これは一般に開放するべきだと思う、という児島さんの言葉に励まされる。明日死んでも誰かが知っていてくれると思えるのは励みになる、だそうだ。
その後俺が抜けた後はどうしようという話になった。そこで児島さんも現在就職活動中で、おそらく四月からは勤めだすという話を聞く。就職活動といっても以前勤めていた製紙会社の営業さんに戻るという話みたい。俺が今月末、児島さんが三月中ごろと一気に二人抜けるわけだ。
俺が抜けた後どうしよう、とこれまでもおぼろげに考えていた中では進藤典範(しんどう のりひろ)くんを引き抜くといいかと思っていたけど、彼は自分の部隊の統括が面白そうで脈はなさそう。それよりは、ゴンドラの設置でもう一度がんばってみようかと思う人が第二層でくすぶっているあたりにいるだろうから、その人たちに募集をかけようという話になった。
俺がやめるという話をみんな喜んでくれて、気が早いけれど、『出所祝い』のパーティーの話になった。「腕によりをかけて鍋をつくるよ!」 と葵。え? お店じゃないの? 「あたしも手伝うよ!」 と翠。え? 食えるものが出てくるの? そんな話で終始した。別に裏切り者とか落伍者とか言われても気にしないけど、祝ってくれるのはやっぱり嬉しい。
一月二三〜二六にはゴンドラの設置工事がある。きちんと探索者の合意が取れていれば俺たちも作業や警備に参加する予定だ。二六日、星野さんだか真城さんだかが最初のゴンドラ乗車者になるのを見届けて二七日に帰ろうと思う。それまでに京都の観光をしつくしておかないと。
落合・神野由加里のアパート 二二時一二分
パスワードが違います。
画面に映ったその文字に首をかしげた。そして思い当たる。仲間へ公開するためにパスを変えると電話で言っていたし、新しいパスはメールで送られていたはずだ。メールソフトを立ち上げ、受信フォルダの一番上のものをクリックした。太字になっている未読のメールのタイトルは「新パス」というもの。
頭ではわかる。自分の名前、真壁の名前、そして二人がはじめて結ばれた日を組み合わせたパスなどを他人に教えられたら困ってしまう。だから当り障りのない真壁の名前と誕生日を組み合わせたものでいいのだと頭ではわかる。でも。
――今日はダメだ。今日はどうしても新しいパスを打ち込む気になれない。キーボードのシャットダウンボタンに手を伸ばす。明日になったらこの気持ちも治まっているだろう。
きっと。
迷宮街・道具屋 六時一五分
探索者の朝は早いと皆は言う。それにしても、自分たちに比べればどれほどのものがあるかとは鶴田典子(つるた のりこ)は思っている。道具屋に勤務する彼女の業務には早朝これから探索に赴く人間のツナギと剣、基本的な救急用品と行動食のザックを渡すというものがあった。ほとんどの探索者は二日おきに探索をするものの、たまに訪れるなか一日の探索者にも当然対応しなければならない。つまり鍛冶棟から最終便で運ばれてくる(八時だ!)ものなどは翌日の朝のうちに念のためパッキングしなければならなかった。その作業のために毎朝道具屋アルバイトの早番は五時半勤務開始だった。そして時にはこちらの想像を覆すような変則的な客も訪れて作業を遅らせてくれる。今朝はそんな客と二連続で遭遇する珍しい日だった。
「津差龍一郎です」
はーい津差さんねー、と既に見慣れた巨体に笑顔を向けてバックヤードに振り向いた動きが止まった。また振り返る。
「津差さんて昨日も潜ってませんでした?」
見上げるような位置で笑顔がひらめく。ええ、連荘です。
「連荘です・・・って、ツナギまだ上がって来てませんよ?」
探索を終えて道具屋に返却された装備品は四時、六時、八時の三便で鍛冶棟に運ばれる。そして翌日に洗濯/修復が行われて出来上がったものから二時、四時、六時、八時の各便で道具屋にまた運び込まれた。つまり、もっとも短いスパンでも探索と探索の合間には一日おかなければならないことになる。昨日の夕方にこの男からツナギを受取り鍛冶棟に送ったばかりだった。当然今はまだ鍛冶棟で汗と血と泥に汚れたまま積み上げられているはずだ。
ごつい笑顔が口を開こうとした時、バックヤードの扉が開いてアルバイトの女の子が顔を出した。津差さんのありますよー。
「今度から二部隊で潜ることにしたんです。ツナギも剣も二つ作りました」
なるほど、とアルバイトの子からずっしりと重いツナギを受取りながらうなずいた。そしてザックの中身を確認してその子を呼び止める。行動食が一人分しか入ってないよ、津差さん用の行動食セット作ってちょうだい!
ご迷惑をおかけします、と頭をかく巨人に笑顔でツナギを渡し、剣はいつもどおりにカウンターへの仕切りを開けた。この巨人の扱う剣だけは、その異常な重量のために迂闊に持つとふらついてカウンターを壊しかねない(かつて小林というアルバイトが実際にガラスを割った。そしてその時からさらに三キロ重くなっている)ので特例としてカウンター内部に入ってもらっている。鶴田が両手をもってしても持ち上げられない鉄の塊を軽々と片手で持ち上げる巨人に、行動食は着替えた後で受け取りにきてくださいと伝えた。広い背中が更衣室に消えていった。
「海老沼洋子です」
はーい、海老沼さんでーすとバックヤードに声をかけたら一分ほどして一セットが戻ってきた。それを渡すと怪訝そうな顔をしている。
「あの、もう一本剣があるはずなんですけど」
ええ? すみませんととりあえず謝罪して、バックヤードに声をかける。海老沼さんの剣もう一本ないー?
どたばたと背後で物音がするなかとりあえず横にどいてもらった。二刀流は久しぶりだわー、とちらりと女戦士を横目で見た。ツナギはあるのだから先に着替えればいいのに、もう一本の到着を待つつもりらしい。その神経質そうな様子が過去のある戦士と重なった。
はーい、すみませんでしたと声がして皮の鞘に包まれた切っ先が顔をのぞかせた。それを両手で持ち、やっぱり軽いわねと思いながら女戦士に渡した。彼女はおそらく今日が二刀流での初陣だろう。ツナギを抱えて女子更衣室に向かう背中を見送った。以前二刀流にチャレンジした戦士はそういえばどうなったろうか? 記憶を探りながら笑顔で探索者をさばいていく。ああ、そうそう。あの日を最後に二刀流はやめたんだったわ。死亡したからなのか一本に戻したからなのかまでは思い出せない。
迷宮街・事務棟 二二時一三分
大事な用件がない限り探索者の体力テストには立ち会うようにしていた。だから第一期からこちら、体力テストをパスした人間をもっとも数多く知っているのは彼だったろう。いま、この街を去ったが探索者登録を取り消していない探索者たちの名前を眺めながら、よみがえる数多くの思い出に口もとのほころぶ思いだった。
ゴンドラを設置するにあたり変動相場に基づく価格体制に切り替えること――その是非を問う無記名投票の対象に、街を去った探索者たちを加えることに対し反対する声が数多くあげられたがすべて黙殺した。その声をあげる人間たち(理事を含めて)の心にあるのは探索事業を自分たちだけのものとする排他的な意識だったからだ。世間的に見て特異なことをしているからこそ、当事者以外の一般的な判断を意識して取り入れるようにしなくてどうするのか。その信念が、立場でははるかに上である理事に対する強い姿勢を支えていた。もちろん何らの関係もない人間の意見まで聞く必要はないだろう。しかし一度は探索者として登録し探索事業に対して自分なりの判断を下せる(そしてその結果探索事業から離れた)人間にも理解されるような事業でなければ推進する価値はない。頑固かもしれないが、探索事業に頓挫されたら路頭に迷うという彼なりの利己的な理由でその孤立化を恐れていた。
「迷宮街にいい印象持ってるはずないじゃないですか。そんな人たちにも票を与えたらほんとに探索自体が潰れますよ」
妻と一緒に犬の散歩をした朝、なんとなくついてきた女戦士はそのように恫喝とも取れる発言をしたが徳永はたしなめた。反対意見を言うかもしれないからという理由で発言権を与えないようなやり口がうまくいったことはないと。それは道理であり彼女もわかっていたのだろう。女戦士はしゅんとして、それを感づいたか連れていた犬が慰めるように身体をこすりつけた。
この男は――この街を去って久しいその名前はしかし懐かしいものではない。怪物をとらえた自分の写真のあまりの迫力に素質を実感し、報道カメラマンとしてなんとかフリーで食っているものだ。ニューズウィークなど海外の雑誌にはよく撮影者として名前を残している。送ったところで日本にいるかなと苦笑しながら宛名シールを封筒に貼り付ける。
この女は――教官に魔法使いの才能を誉められたと笑顔で報告にきた娘だったろうか? 初陣で部隊は崩壊し翌朝には街を離れたと聞いていた。宛名シールを貼る。
この男は――チェック漏れだ。サインペンでバツを書き、赤い字で<死亡>と大書する。
俺たちがやりますよと部下たちは言ってくれた。彼らが思いやってくれたことが示すように、この作業に費やされる時間だけ残業をしたら今日の帰りは午前様になるだろう。それでも誰かに任せるなど考えられなかった。ゆうに三千枚を超える宛名シールを貼りながら徳永は祈る思いになる。この街での経験が彼らをかたくなにしていないようにと。
彼らが挫折した挑戦をなお継続している仲間たちの飛躍を、どうか応援してくれるようにと。
真壁啓一の日記 一月一六日
昨日のせっかくの決意にもかかわらず今日は観光できず地下に潜っていた。いやいや、探索者の本分は探索であるからにはしょうがないのだけど。
「辞めるよ」といってからなんだかお客様になってしまったのかな? 今日は手加減されていたような気がする。敵に。それとも一度第四層で緊張の緩め方(罠解除師の信頼の仕方)を掴んだからだろうか、通常時と戦闘時の切り分けがより上手にできたようで疲労が少なく済んだ。
探索終わった詰め所で進藤くんの部隊と鉢合わせた。第三層の俺たちと第二層(今日かららしい)の彼らとが帰りで一緒になるなんて珍しいと思ったら、調子がよかったので第二層をひとしきり回ってからさらにエディの訓練場にいたらしい。熱心だこと。調子が良かったという言葉にあれ? と思った海老沼さんだけど、今日はへこたれていないようで倉持ひばり(くらもち ひばり)さんと上機嫌でお話をしていた。腰には短めの鉄剣が二本。二刀流かあ。かっこいいな。
地上に出てATMの数字を久しぶりに確認してぎょっとした。思っていたよりも結構多い。これなら、次に何かはじめるまで食べていけそうだ。父親は実家に戻って来いと言っているけれど、実家のあたりでは探している職はなさそう。父親がツテでいろいろなところに声をかけてくれているけれど、やりたいこと自体がニッチだからなあ。俺自身に実績があるわけでもないし。しばらくはプーでもいいかと考えている。いや卒論書くのもいいか。
木賃宿に戻ったら張り紙が出ていた。買い取り価格変更の賛否を問う投票を行うので、来週火曜日までに事務棟に来いとのお達しだった。案の定北酒場では真城さんが古参探索者のうち損をすることが確定している人たちの説得を続けていた。越谷さんが亡くなって誰も女帝を止められない、と一瞬心配したけれどこの人はそれ以来大変な自制心で暴発を抑えている。その姿勢が少しずつくすぶっていた探索者たちにやる気を起こさせているような気がする。でも喜んでいいのかどうかわからない。だって、やる気を起こして下層に下りるというのは死の危険が増すことだから。
ああ、辞めるという決定をした時点で俺はもう探索者じゃなくなったのかもしれない。
下川由美と水上孝樹の通話 二二時三七分
『もしもし孝樹?』
「おう、もう京都に着いたか?」
『それなんだけどさ、実家の用事ができちゃってそっちに行けなくなっちゃったよ』
「あら。なんか大変なこと?」
『ううん、父上が娘と一緒にいたいっていじけてるだけ』
「いやそりゃ大変なことだろ。嫁に出しちゃったら遊べないんだから」
『そう言ってくれる男はなかなかいないよ、できた男だねえ』
「おい、いま誰と比べた」
『それはともかくだ』
「誰とだー!」
『やかましい! で、USJのチケットって日付指定じゃない』
「そうなのか?」
『渡したときに見なさいよ。日付指定なのね、で、明日行かないと無駄になっちゃうの』
「まあいいさ、たいした金額じゃないし」
『もったいないでしょう! だから翠ちゃんでも誘っていっておいでなさい』
「ええ? 翠ちゃん? いやいいよ別にわざわざ行かなくても」
『だめ。行きなさい。そして次回私をエスコートしなさい』
「・・・ああ、真壁くんと行ってこいってプレゼントすりゃいいんだ」
『まあそれでもいいけど、翠ちゃん正月に話したとき行きたがってたのよ。捨てるくらいならあの子にあげてね』
「ああわかった。それにしてもなんだ? 結婚前に妹ぶん相手に点数稼ぎか?」
『姉の心境になっちゃうのよね、あの子見てると。じゃあそういうことでよろしく』
「おう。俺戻るの水曜だから」
『了解。元気でね』
笠置町翠と真壁啓一の通話 二二時五七分
『あいよう、真壁です』
「翠です」
『うん、どうした?』
「明日ヒマ?」
『お寺めぐり』
「USJのチケットがあるんだけど」
『あ、行きたいな』
「孝樹兄ちゃんにもらったの。由美さんが来れなくなったからって」
『・・・』
「真壁さんと行って来いって」
『・・・お前はアホか?』
「え」
『アホなのか? どうしてそこで一緒に行こうと言わない? デートのチャンスじゃないか』
「そ、そうなのかな」
『あー俺明日忙しいんだ朝から昼寝とかで。だから水上さんにもう一度お願いしなさい』
「チャンスなのかな」
『決まってるだろうが? 明日昼間この街で見かけたらナイフ投げるからな』
「いやそれ死ぬから」
『明日夜帰ってこなかったら酒をおごってやる』
「・・・」
『いい機会だよ、なんだったら俺から水上さんに頼んでやる。がんばれ!』
「あ、う」
『がんばれ! 男見せろ! ゲージ使え!』
「う、が、がんばってみるよ」
一月十七日(土)
迷宮街・訓練場 九時二三分
前に打ち合ったのはたしか先週の半ばだったはずだと思い当たり、進藤典範(しんどう のりひろ)の背中に冷たいものが走った。その時にもとてもかなう気がしなかった巨人は、今はもうなんだか別のひどく遠いものになってしまったような気がする。訓練用の木剣は並外れた体格の二人には軽すぎて型を確認するように打ち合うだけだったが、呼吸を合わせてゆっくりと打ち合うその剣筋が先週よりも格段に厳しくなっている。この戦士は――と向かい合う津差龍一郎(つさ りゅういちろう)の汗一つかかない顔を畏れをこめて見つめる――恐ろしいのは、これほどの肉体的な素質に恵まれながらなお研鑚を惜しまない一点だった。なんと彼は部隊を掛け持ちするたった一人の戦士になってしまった。最精鋭の部隊で極限に挑み、そこで得た教訓をもとにそれより穏やかな階層で修正する。戦士にとっては理想的な鍛錬の方法だが心身ともにはげしい緊張にさらされるためやろうと想像したものすらいない。この巨人にしてそれに挑むのは果たして無謀か否か、いや、この男ならやり遂げそうな気がしてならない。
軽いはずの木剣の衝撃が腰に響く。負けじと少しだけ速めに繰り出した一撃は、木剣の腹を篭手の金具ではじくことでいなされた。唖然とし、なんだかしょんぼりして一歩跳び退ってかわすと、姿勢を低くしてその腹に肩から突っ込んだ。遠くで歓声が聞こえ疑問に思う。一方で津差はといえば、一八五センチ九二キロのタックルはさすがにこたえたらしく右足を一歩引いて衝撃を受け止めた。だがそれだけだ。
「あーもう腹立つな! 畜生!」
却ってすがすがしく笑ってタオルと水のところに歩いていく。いやいや進藤もかなりいい線いってるって、という巨人ののんびりとしたフォローに苦笑しながらペットボトルをとりあげ、口をつけた。京見峠というところで湧き出てくる水をわざわざ汲みに行った冷水は、運動に渇いた喉には柔らかく甘い。自分のボトルには目もくれず手を差し伸べる津差に渡した視界がその背後に不思議なものを捕らえた。
学校の体育館を思わせる訓練場には入り口のほかにも外への出入り口がある。そこに明らかに探索者ではない若い女性がへばりついていた。五〜六人はいるだろうか。他の出入り口にも幾人かずつへばりついている。二人の視線を受けた一団が嬉しそうにどよめいた。
「なんだかファンの子らしいぞ」
津差は興味なさげに答えた。ファン? 誰の?
俺たちのじゃないだろうな、という言葉にそりゃそうだとうなずきながら、ほぼ習性に近い動きで一人一人の顔を見定めていく。お、と思う。結構好みの子がいるじゃないか。でも誰のファンなのだろう? 黒田聡(くろだ さとし)だろうか? 湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)は普段こっちには来ないし・・・。
誰かのファンであるところの女性たちが大きくざわめいた。ゆーきさーん、という声が聞こえてくる。ゆーき? 野村悠樹(のむら ゆうき)? 剣術よりも空手が得意なぱっと見たところ長距離トラック運転手としか思えないあの男? いやまさかと視線をめぐらせそしてその人物が視界に入った。身長一七〇センチすこしでほっそりした体格、白と黒のシマウマ模様のツナギを身につけた女性はその声があがるたびに困ったように手を振りながら歩いてくる。なるほど「雪さん」かと納得した。
「ねえこれは何事なの?」
真城雪(ましろ ゆき)は二人に訊いた。テレビの放映でファンができたんでしょう、と津差の答えになるほどと納得した。確かに女帝はかなり長い時間映っていたし、その精悍な美貌は登場した探索者の中で際立っていた。それでもわざわざ貴重な土曜日をこんなところに来るかねえ? 進藤には理解できない。女帝も苦笑して、今度はサービスを込めて手を振っている。先ほどより大きな歓声があがった。
ふと思った。同じく美貌が際立っていた一人の少年、彼を見るためにやってきた人間もいるのだろうかと。はるばる地下鉄の最終駅までやってきてお目当てが既に死んでいると知ったらどう感じるのだろうと。嫌な気分がして頭を振った。
とにかく、せっかくだから誰か声をかけてみることにしよう。
迷宮街・境内 一二時二〇分
それは奇妙な光景だった。しんしんと雪が降り積もる冬の日、身が白くおおわれることもかまわず二人の女性が立ち尽くしている。その前には小さな木製のテーブル、上には家庭調理用のデジタル計量器が乗っている。計量器の上には小さなぬいぐるみが座っていた。有名だからピンガというペンギンのぬいぐるみだと気づく者は多いだろう。
つもる雪は計量器の液晶を覆い隠し、その度に傍らのもう一人の、まだ娘といっていい年齢の女性が表示が見えるようにぬぐっていた。この女性は天候にふさわしく分厚いコートと毛糸の手袋、耳当て。しかしもう二人は神社の神職がつかうような古式ゆかしい装束を身にまとっていた。
中年も後半にさしかかった小太りの女性が、まだ若い女性の二の腕に手をかけている。そして小声で指示をしていた。
見るものがいたらさぞかし驚いたことだろう。どんな原因があるのか知らず、デジタルの表示が少しずつ減っていく。降り積もる雪で増えこそすれ減る道理はないはずなのに――先ほど一〇〇gを突破した数値はさらにさらに、明らかにゼロをめざして進んでいった。
「さすがに実力はもう十分なのよね」
小太りの女性が二の腕に当てた手を離してうなずいた。そのままゼロにしてごらんなさい。若い女性はうなずき、数値が明らかに速度を増して減っていく。そしてゼロになる前に人形がふわりと浮き上がった。
「おおお! 浮いてる!」
先ほどから液晶の雪をぬぐっていた娘が驚きの声を上げた。小太りの女性が低く「固定」と呟き、若い女性は全身の力を抜いた。
「わかった?」
迷宮探索事業団の理事であり、この国屈指の魔女である笠置町茜(かさぎまち あかね)は傍らの疲れたように肩で息をする女性を見やった。こちらは訓練場の教官の一人である魔女鹿島詩穂(かしま しほ)という。鹿島はしっかりうなずいた。
「ポイントは、対象に浮く力を与えるわけじゃないってこと。重力をほんの少しだけ、その質量に応じてゆるめてやるってことよ。そうすれば遠心力で浮き上がるから」
はい、とうなずいてから意外そうに呟いた。禁術というわりにはほんのちょっとしか重力を減らさないのですね。確かに制御は大変だけど、これなら別に禁術にする必要はないのではありませんか?
理事はその言葉にうなずき、じゃあちょっと重力をゼロにしてみてと気軽に命じた。鹿島も気軽にいまだ浮いているぬいぐるみに視線を当てた。
そしてぬいぐるみが消失した。
「ええ!?」
愕然として走り寄る。雪が積もりつつある周囲まで探したもののぬいぐるみはどこにも見られない。
娘が持ってきたコートに袖を通しながら、理事はこともなげに言った。きっと今は衛星軌道上だわね、と。もしかしたら隕石の一つも粉砕しているかもしれないよ。地球の自転による遠心力ってとんでもないものなのよ。それを強力な重力でなんとか地面に縫い付けられているのが私たちなの。だから重力を遮断してやればあっという間に飛ばされるわ。そして表情を改める。
「これを人間にかけたら完全犯罪になるし、地下の地盤にかけたら大地震が起きる。重力を弱めるってだけなら禁術にはならなかったわよ。けれどゼロにできる以上やっぱり覚悟のないものには教えてはならないのよ。注意して使ってね。チカンされたくらいで使っちゃダメよ」
表情をひきしめてうなずく。そしてぬいぐるみのために黙祷した。気にいっていたのに・・・。京都で買えるだろうか?
迷宮街・北酒場 二三時二分
北酒場の一隅、長方形の卓が並ぶ個所で目当ての二人を見つけた。部隊の仲間の戦士である真壁啓一(まかべ けいいち)はすぐに自分に気づいたらしく、ジョッキを持つ手を上げた。その隣りでは姉の翠がぐったりと突っ伏している。笠置町葵(かさぎまち あおい)は驚いた。双子の姉が酔いつぶれたところなど見たことがなかったからだ。
いや、それでもと思い直す。この戦士の日記の中では落ち込んだ翠を酔いつぶしてホテルに叩き込んだという描写があったはずだ(それを読んだ仲間たちが誰一人として「何かしたんじゃないのか」と思わないのは人徳だろう)。
毎度、と挨拶する真壁に笑顔を向けて、とりあえず姉の隣りに腰をおろした。経緯を問う。今朝上機嫌で出かけていった姉のデートの相手は憧れの従兄ではなかったか? それがどうして仲間の隣りで酔いつぶれているのだろう。真壁が語る事情は単純だった。六時ごろ、モルグで本を読んでいたら翠がやってきて飲まないかと言われたというそれだけ。従兄と何かあったのだろうか? との疑問に真壁は首を振った。そんなことは言っていなかったな。
「じゃあどうしてここまで酔っ払っているんでしょう?」
現実はバラ色じゃないってことだろうなと真壁は言った。現実?
「ずっと憧れてた相手とさあデート、思ったより楽しくなくて心もときめかず、せっかくの機会を楽しめない自分に焦り、相手をイヤに感じる。それまでの自分が築き上げた思いが崩れてしまうような不安。お子の頃にそういうことなかったか? 初めてのデートで馬鹿みたいにディズニーランドに行って話が続かなくなってトラウマになるような」
そしてジョッキを傾ける。
「このお嬢さんの片思いは水上さんを身近に見続けてのものではなくて、お子の頃のイメージを自己本位に膨らませたドリームだからなあ。土曜日大繁盛でうんざりするほど並ぶUSJ、それも朝から天気崩れてる――そして相手の男は他の女のことで頭がいっぱいという状況を楽しめる女なんていないだろう。百年の恋も冷めるさ」
それはそうかもしれない。ならばそれを知ってあなたはけしかけたのか? チケットが手に入って最初に誘ったのは目の前の男だとは姉から聞いていた。それを強引に従兄を誘うように勧めたのだと。酔いつぶれている姉の髪をなでながら放った非難に真壁はあっけらかんとうなずいた。
「お子の頃からのドリームをいつまでも飼ってていいわけないだろう? どこかで醒まさないといけないよ。もしもドリーム飼ったまま憧れの相手に結婚されてごらん。一生引きずっちゃうぞ。それなら、ちょっと嫌な思い出でも『一緒に遊んだけど楽しくなかったし疲れたな』という感想を植え付けておいたほうがいいんだ。おそらく水上さんの婚約者の――下川さん? ――彼女もそれを狙っていたんだと思うよ。でなけりゃ火曜まで水上さんいるんだから、平日にチケットを取るに決まってるさ」
でも、と釈然としない思いで答えた。それは、なんというか、ひどい。翠がかわいそうだ。
「そうだな、かわいそうだ。俺も心が痛むよ」 まったく痛んでいない顔でしゃらっと言ってのける。
「でも、かなわない憧れに縛られて今後生きていくのかと思うと、俺が口出しする問題じゃないのかもしれないが、つらかった。だから荒療治させてもらった」
酔いつぶれる姉を眺める視線は暖かく、ほっとしているようだった。双子だからか同性ゆえか、自分が見えていないものをこの男は見ているのかもしれない。姉のことを第一に考えていることだけは信じてもいい気がした。ならばそれはそれでいい。
「これであとは時間次第でふっきるだろうさ。ふっきったらいい女なんだから男なんぞいくらでも寄ってくるだろう。これがこの三ヶ月の礼になるとはとても思えんが、俺にできるのはここまでだろうから仕方ない」
暖かい言葉には淋しげな翳りがあるような気がする。少しだけためらってから、来月にはこの街にいない男はそっと手を伸ばし、突っ伏している女の頭をなでた。
真壁啓一の日記 一月一七日
普通夢なんてものは起きて一〇秒も覚えていないもの(少なくとも俺はそうだ)だけど、その朝のいやーな汗にまみれた夢ははっきりと覚えている。第四層を上から見下ろしていた。葵らしき真っ青のツナギをつけた誰かが誰かを抱き起こし、覆い被さる青柳さんの黒いツナギ、児島さんの黄色いツナギは確認できた。さて、抱き起こされているのは誰だ? 俺か翠か常盤くんか。いずれにせよ後味の悪い夢だ。
もちろん予知夢なんかじゃない。だって俺は恩田も西野さんも神崎さんも境さん越谷さんも夢に見なかったから。でも、辞めるのが目前だからって気を抜くなという兼好法師あたりのお告げであることは信じていい気がする。外はどんよりと曇っていていやな気分になったけどいつもどおりにジョギングとストレッチをした。
訓練場では横目で津差さんと進藤くんの打ち合いを見ていた。こっちも海老沼さんと一緒に国村光(くにむら ひかる)さんの授業をうけていたからわからないけれど、津差さんがどんどん神崎さんを思わせる剣筋になってきている気がする。なんというか、今までは自分の身体がどこまで動くのかわかっていなくてできなかった動きができることに気づいたような。塀の上から飛び降りられなかったお子が、ある日それができることに気づいて今後は通学路をショートカットするような。お子というにはでかいけど、確かに(偉そうだけど)身体の効果的な使い方ということに関して津差さんはまだまだだったと思う。今日見る限り、それを改善するレールに乗っているようだった。というよりもその化け物となんとかやりあえる進藤くんってなんだよ。彼はまだやってきて二ヶ月にならないはずだ。親からもらったもので妬みたくないけど、やっぱり素質での違いはあるんじゃなかろうか。
真城さんが登場して詰め掛けていたファンの皆様が大変な騒ぎになった。テレビ放映によってその美貌が全国に放映されたからか。翠もかわいそうに。打ち合いのシーンでアップになっていたけど相手が女帝じゃな。
お昼になってあがろうとしたところで津差さん進藤くん葛西さんに食事に誘われた。真城ファンの子たちと食事に行くんだけど来ない? という話だった。めんどくさかったのでパス。津差&葛西はノーモアクリスマスパレードの首謀者だったけど、進藤くんは「俺には必要ないですよ」って言っていたような・・・?
午後から観光。といってもここまでくると思い出を濃くすることしか考えられず、青蓮院と横綱ラーメンで午後が潰れてしまった。天気が悪くて自転車では行動できず、かといってバスが億劫なのでタクシーを使ったのだけど、京都の碁盤部分でタクシーってのはあんまり機動的な乗り物ではないのがわかった。明日は晴れるといいな。
夕方から翠と飲み。翠はUSJに行ってきたそう。いいなあ。水上孝樹(みなかみ たかき)さんが婚約者にすっぽかされたというので代打になったらしい。でも土曜日で混雑、そして午前中雪が降っていたのであんまり楽しめなかったそうだ。それでも日付指定チケットだから消化しないと問題になるしということで水上さんが来るべき本番に備えてメモする付き添いをしたという。そのメモはもらいたいところだな。
水上さんは先週水曜からこっちに来て、火曜日までいるという。目的は石集め。ゴンドラを怪物が壊さないように、風化しないようにと大量の石で強化するために連日第九層に潜っている。街全体がゴンドラ設置に向けて動き出して活気が出てきた。なんとなく、変動相場是非の投票は圧倒的多数で可決される気がする。第一期の最初の頃は粗野だが大変な挑戦の意気――フロンティアスピリット?――があったと神足燎三(こうたり りょうぞう)さんという最古参の戦士は懐かしく振り返るが、今の空気はその頃に近いのだそうだ。
縦穴のイメージ画は相変わらず蔓延している。それを見るたびに先月一九日、救助隊が下りたあとの防衛の時間を思い出す。西野さんたちの死はゴンドラを設置するためのものではないし本人たちもそんなこと望んではいないだろう。それでもその死が何か大きくて前に向かうための物を産んだと思えれば少なくとも俺の心は和らぐ。
明日投票に行くつもりだ。
一月一八日(日)
迷宮街・事務棟 十一時〇分
好きか嫌いかで分けるなら好きの部類に入る男だ。それでも娘たちが結婚したい相手として連れてきたとしたら悩むところでありやんわりと反対するだろうというのが、迷宮探索事業団の理事である笠置町茜(かさぎまち あかね)が死体買取の責任者である後藤誠司(ごとう せいじ)に対して抱く感想だった。好もしい、とは思う。酷薄な容貌を見慣れることはないだろうが同時にこちらを怖がらせまいとする気配りを伝えてくることで相殺しているし、何よりこの男は嘘は言わない。もちろん秘すべきことは黙っているはずだが事業団側でも調べれば手に入るような情報は自分に都合の悪いことであろうとも伝えてきた。そして請け負ったことは必ず実行する気骨がある。前任者は好々爺の表情をしながらそのあたりがけっこう油断ならなかった。そのいい加減さが夫とは妙に馬があったようだったが、自分にとっては的確に簡潔にやるべきことだけ考えて実行するこの男の方がやりやすいと思う。
それでもアポイントを入れられると緊張する。何しろ『人類の剣』といえば金儲けに関しては素人よりも甘い(月に一〇万円も何もせずとも手当てが出るならかなり金銭感覚にゆるくなる。実際、彼女が指導している習字教室はよくてトントン、お茶菓子代金がかさんで赤字の月が多かった)自分が、基本的に自社の利益しか考えない相手と話し合わなければならないのだから。だから打診に対して一〇時と時間を指定したものの迎える気分は暗かった。それが少しでも和んだのは、同行してきた女性の存在があったからだ。
身長は低く、娘たちとほぼ同年齢と思われる女性はかしこまって名刺を差し出した。その緊張する表情から探索者かと思ったが名刺には商社の名前が印刷されていた。『主任研究員 三峰えりか』と記載されている。この街を散歩しているとよく見かける姿だった。好奇心に満ちた視線であたりを見回しながら躍動的な歩調で歩くおちびさん。一五〇センチもない身長がかもす幼さとあいまって、見かけるたびに娘たちにもあんな可愛げがあればいいのにと思わずにいられない。大げさに表現するならファンだったと言っていいだろう。応接室に二人を通し事務の女性がお茶を置いてからしげしげと三峰を見つめた。彼女は居心地悪くあいまいに笑ってから、ボスにあたる男と視線を交わした。そして話を切り出した。
彼女が机に置いたのはどこにでもある石のようだった。さては例の石の変種かと思い手にとったものの何の変化もない。ひねりまわして眺めてみたがそこらに転がっている石のように思える。これは? という疑問をこめて三峰の顔を眺めたところ化石ですと簡潔な答えがあった。
「怪物がしばしば宝物として化石や炭を携帯していることは以前から知られていました。化石や炭は匂いをとどめておくのに適した構造をしていますから、自分の属するコミュニティを示すための名刺代わりだと私たちは漠然と推測しています」
そうか、と納得する。実は彼女は第一層しかもぐったことはない。そしてそこには電気設備が完備されているから迷宮内部には灯りがあるものだと思っていた。しかし基本的に地下は漆黒の世界だ。視覚で判断できない分だけ他の感覚器官に頼るところが多いのだろう。匂いをとどめやすい石をエーテルでコーティングして名刺にするというのはありそうだ。でもそれが何か?
「調査しましたが、この化石、まだ日本では発見されていない種類のものでした」
数秒かけてゆっくりと考えた。小柄な科学者はさらに続ける。サンプルは少数しかありませんでしたが、発見される化石のうち六割以上が日本で未発見のものでした、と。
「――たまたま見つかっていなかっただけという可能性は?」
小柄な女はうなずいた。もちろんその可能性が一番高いと思います。日本国内でも化石の発掘調査はまだ発展途上の段階ですし、私が調べたサンプルはあまりに少数ですからデータとしての信憑性はまったくありません。そう言ってお茶をすする。しかし。
「現在発見されているものだけでもありとあらゆる地域に分布しています。中国の西部でしか発掘されていないものもあれば、北アメリカ中部でしか見られていないものもあります。まるで、大迷宮に世界中の化石が集まってきたかのような印象を受けるほどに」
疑問には思っていたんです、と三峰は言った。けれども科学者である彼女は予想外の出来事には慣れている。自分でまったく理解できないデータと出会っても、これにはちゃんと理由があって自分が無知だから理解できないだけなのだということがわかっている。だからわからないことはわからないままにデータを集めていた。当時の仮説は二つだった。
「一つはもちろん、京都の地下でもこの種の化石が産出されるのだが私たちがそれを知らないのだということ。一つは迷宮は海の底を通って日本から世界各地へ、少なくとも中国西部と北アメリカ中部とはつながっているということ」
しかしそこで一つの話を聞いた。魔法使いの訓練場でイメージトレーニングにいそしんでいた非番の午後だった。最高難度の魔法では、なんと瞬間移動を実現するという。
「それを聞いたとき、実用品ではなくて装飾品の一種なのかなと思ったんです。匂いをとどめる機能ではなくて化石の種類そのものに価値を見出しているのなら、珍しい海外の化石を輸出入する仕組みがあってもおかしくありません。海外の地下の穴とも瞬間移動でつながっているのであればそういう貿易業者がいるとも思えます。そういう化け物はいそうですか?」
その言葉に、『人類の剣』たちの部隊の報告を思い返した。確かにかなり高難度の術を使いこなす化け物の存在は確認されている。瞬間移動もできるものがいると考える方が正しいだろう。しかし、それはやはり危険な行為だった。習字教室と自宅の土間との移動に使っている自分はこの世でも数人といない才能の持ち主だからやっているのであって、並みの術者なら二の足を踏むだろう。そう考えて、難しいができる化け物はいるだろうと答えた。その言葉にずっと黙っていた後藤が口をはさんだ。難しいとはその瞬間移動を使った貿易システムで海外の化石を安価に供給することがですか? うなずいて応える。では、と商社の二人が顔を見合わせた。やはり第二層の化け物でも頻繁に持っているのは不自然だな。
後藤が表情を改めて理事を見つめた。
「私の仮説は四つです。最初の三つは三峰と同じもの、四つめは、化け物がコミュニティ単位で中国西部やあるいは北アメリカ中部、その他の土地から移住されていたのではないかというもの」
それは――絶句する。何者かがわざわざ京都に化け物を数万匹という規模で連れてきたと? 一体何のために?
「それは、ちょっと、にわかには納得できませんね」
後藤は手を振った。この場で正解はわからないと思います。今後とも三峰には調査を続けさせますし、何かわかったらお知らせいたします。ただ、一つだけ確認させていただきたい。もしも四つ目の仮説が正しく、それを行った何者かと交渉が可能であれば事業団としては何を望まれますか?
意外な言葉にビジネスマンの顔をまじまじと見る。そして理解した。立ち退きさせることができれば探索事業も終わりにできる。その選択肢を提示されたら事業団はどうするのか?
「正直に申し上げれば、わが社としてはこのまま継続させたいと思っています。探索事業から上がる利益はわが社にとって重要ですから」
視線を送られた三峰が後を続ける。
「研究者としても、貴重な研究題材を手放すのは惜しいと感じています」
なるほど、と合点した。この二人は何か一つの意思がこの大迷宮を作ったとなかば以上確信している。確かに京都市中にこんな化け物たちが住んでいてこれまで千年以上噂すら立っていないというのは明らかに不自然だった。なにか一つの意思が目的を持ってここに大迷宮を築いたのだとしたら、それを持続させるか撤収させるかはその意思次第ということになる。商売人であり科学者である二人は持続させることを望み、その歩調を事業団とあわせる必要を感じたのだ。
そして考える。探索事業が続くことは良いことだろうか? ――世界にとってなんかわからない。自分にとってはどうだろう? 明らかに益だった。ずっと無用の長物だと言われていた『人類の剣』に対する待遇はかなりよくなった。理事として活動することで、各地に隠れていた同業者たちとの交流も増えた。夫婦そろっての理事の報酬で家計も楽になった(今年夏には夫婦で海外旅行にもいけそうだ!)。心身ともに強靭なため普通の男には満足できないだろうと思っていた娘たちにも恋人ができた。一人は後継者を育てなければならないという義務も高田まり子という稀有の才能を持つ女性を弟子にすることでクリアできた(旦那は目をつけていた戦士を先日失ったが、いずれ別の才能は現れるだろう)。そうだ。悪いことは何もない。あとは適当な時期を見計らって娘たちを引退させ、徳永という事務員にもっと権限を与えて自分たちは名誉職くらいに収まれば・・・。
そしてそれもこれも全て大迷宮あってのことだ。何も迷うことなんかない。正直に、迷宮があってくれた方が私個人は嬉しいわねと答えた。後藤は野心的な笑みを見せ、ではなるべく迷宮は維持する方向でいきましょうと手を打ち合わせた。
部屋を辞そうと立ち上がる二人、技術者に何気なく訊いてみた。もしも海外からコミュニティをつれてきたとして、それが京都地下に定着するまでどれくらいの時間がかかると思う?
「そうですね、生殖能力が高そうですから世代間のサイクルは短いと思います。七年を一世代として二世代一四年。おそらく二〇年くらいあれば定着するのではないでしょうか?」
来客は去り、ふたたびソファに沈む。二〇年か、と小さく呟いた。
真壁啓一の日記 一月十八日
仲間うちでの了承も取れ、いよいよ日記の迷宮街開放。ここでは親しい人以外には単に掲示板に書き込むだけで済まし、俺の最終日二六日までは苦情を受け付けることにする。ここでいう数人の親しい人というのは真城さんと津差さん、あとは掲示板を見ない可能性が高いコンビニの織田さんだけ。織田さんには店頭で簡単に事情を知らせてURLのメモを渡した。一緒にバイトしてる男の子が「ナンパっすか!」と言っていたけどそりゃ古いシチュエーションだ。津差さんはものすごく津差さんらしく「別にいいよ、何書かれてても」だそうだ。そして真城さんはものすごく真城さんらしく「私の魅力を損なうような描写があったら即座に削除させるので、お前も検閲に立会いなさい」とまたもやロイヤルスイートに招待(連行)された。
特に不満はなかったらしく許可が出たけれど、翠のプライベートがかなり書かれているのは本人に了解を取れたのかい? と心配するのが結局この人らしい。俺もそのあたりは全削除するつもりだったがなんだか本人がさっぱりとしていたのだからそのままで公開することにする。「別に気にしないし、何年か経ったらいい思い出になるよきっと」といい笑顔だった。強くなったなあとしばし父親の心境。
今日はいい天気だったので、翠、進藤くん倉持さんとドライブに出ることにした。昨日の雪が残っているので運転に自信がなかったけど、倉持さんは翠と同じ木曾の出身で雪道の運転には慣れていた。途中で海老沼さんの話題になったけど、彼女は二刀流に適性があるらしい。両手に剣を持ってる背中ってのは安心感を与えてくれるもんだわと倉持さんが感心していた。噂では倉持さんは海老沼さんを部隊から外すようにと提案していたらしいけど、いちど頼りになるとわかったらからっと意見を改めるところが大人だなと思う。「あの子にはオシャレを教え込むわよ。これからは余裕も出るだろうから」と嬉しそう。助手席に座っていた翠の耳を掴んで「この子は私がどんなにうるさく言っても日焼け止めすらつけなかったから」と昔話を教えてくれた。笠置町姉妹や水上孝樹(みなかみ たかき)さんとは家が近所で遠縁の親戚にあたり、子どもの頃から二人の遊び相手をしてあげていたという。強気の翠も頭が上がらないようでそういう姿を見ているのはなんだか面白い。
ドライブの先は、京都生活の残り少ない俺のために観光地である大原と嵯峨野に連れて行ってもらう。さすがは観光地、ほとんど除雪されているし車が通るには支障ないくらいだった。有名な渡月橋も見たし、人力車にも乗ったし。人力車では案内されるままに湯豆腐のお店に連れて行かれた。そこで意地悪をして「もう少しこのあたりを散歩してからこのお店でご飯を食べるわ」と言ったらお兄さんは困っていた。そりゃそうだ。観光客を店に連れて行くことで臨時収入のお小遣いを稼いでいるんだから。もちろん意地悪は言葉だけで湯豆腐を食べる。晴れとはいえ寒いからおいしい。
いろいろなところを見てまわった。野々宮神社で真剣にお祈りするほかの三人を見て面白かったり。いやだねえ、独り者は。
迷宮街に帰ると織田さんからの伝言があった。特に問題ないのではということ。掲示板の反応では特に何もなし。もともと個人攻撃に属することは書いていないからだろう。
明日はまた探索。辞めると決めてからは残りの探索回数を指折り数えるようになってしまった。おそらく、探索目的で潜るのは明日がラストになる。明日潜ったらなか二日だと二二日。その日に潜ってしまったら二三日の工事開始(大量の物資運搬と警護作業)に参加できないから。投票の結果いかんでは二三に探索で潜ることにしているけど、きっと可決されるだろう。なんとなく空気でわかる。
まさか物資運搬&警備で死ぬこともないだろう。だからあと一日だ。なんとか生き延びよう。
一月十九日 月曜日
迷宮街・鍛冶棟 一八時三五分
本日の探索者が使用した剣とツナギが大量に運ばれてくる。山積みになったそれを目の前にして片岡宗一(かたおか そういち)は二人の若者に視線を送った。一人がタグを読み上げつつそれを片岡が見やすいように掲げ、片岡が決めた担当の鍛冶師をもう一人がタグのコードとともに記入する。各鍛冶師の能力に過不足なく、労働量に不公平が出ないように割り振らないと片岡の主任としての信頼が問われる難しい仕事だった。これが最後の便、進藤典範(しんどう のりひろ)という戦士の鉄剣を自分担当に割り振ってから、他にないかと声をかけた。ありませんとの答えにそうかとだけ答える。
時間外労働をしてまで重量とフォルムを決定した二本の剣。二刀流になるんだという女は確か今日が探索の日だったはずだ。それがどうして鍛冶棟に運ばれてこない?
推測できる原因は四つあった。一つはもちろん、今日なんらかの理由で探索を行わなかったということ。一つはやはり一刀に戻し、そのために気づかなかったというもの。一つは一本あるいは両方ともが損害が軽微で片岡の判断を仰ぐまでもなく分類されたということ。そして一つは次回からもう必要としなくなったということ――やめたか、死んだか。
それ以上考えるのをやめた。彼の肩には依然として三五〇人を超える人間の命がかかっているのだから。
迷宮街・北酒場 二一時二一分
何度目かの深呼吸。それでも指先の震えはとまらない。伏せた視線の先に組まれたそれをじっと見つめるそぶりで拒絶しておきながら、肌は外界のことを懸命に探っていた。ちらちらと視線が送られてくることを感じる。そのたびに心が痛む。その視線、おそらく心配してくれている親戚たちの視線に応えなければならないとはわかっていた。しかし、もしも、心配しているのではなかったら? あなたがついていながらみすみす死なせるとは何事かと責められたら? 倉持ひばり(くらもち ひばり)は拒絶しているのではなく恐れているのだった。
首筋にぴたりと冷たいものが当てられた。思わず奇声をあげて背筋が伸びる。視界の先にはたまに見かける顔が笑っていた。たしか、アマゾネス軍団の罠解除師で――落合香奈(おちあい かな)といったと思う。落合は向かいに座ると手にもっていた缶コーラを差し出した。この寒いのにきんきんに冷えているそれに戸惑ったが、手に持って見るとその冷たさが気持ちいい。心の中の嵐が表出しているのか、手足顔の末端が真っ赤になって熱をもっていることに気がついた。誘惑のままに缶を額に当てる。そうしてようやく人心地ついた気がした。
「ミスしちゃったね」
投げられた声はあくまでも優しかったが、内容は彼女に非があると告げていた。やっぱりそうなのだ。眼前に起きた前衛二人の死。誰の肩にも死が乗っているこの街で、さらに日々を敵と接触しつつ生きる前衛だからその悲劇は各人の実力不足と割り切っていいはずだった。しかし何かが告げていた。二人の死は自分にも原因があったと。確信に近い直感に反論できないまま心を苛まれている。自分は何を間違えたのだろう? すがる思いで同業の女を見つめた。実力では自分のはるか下にいながらも経験ではまったくかなわない相手。
「濱野くんから一通り話は聞いたけど、実際はどういう感じだったの?」
苦いものをかみ締める思いで記憶をたどり、話し出した。その心とは裏腹に淡々とした声。
――大迷宮第二層にて、倉持ひばりが徘徊する怪物の集団を感じ取ったのは彼らから一一〇メートルの距離をおいてだった。敵の数は八体、体格と移動速度からクンフーと呼ばれている人型で格闘技術に長けた化け物と推測された。その旨を伝えると前衛は鉄剣を抜き放ち後衛はフードをしっかりとしめた。そしてそのまま前進する。七〇、五〇とカウントしていく中、不意に群れが加速した。しかしなおかなりの距離がある。落ち着いて倉持は警告を発した――
落合はうなずき続きを促す。
――どちらの奇襲ということもなく戦闘が始まった。索敵の結果どおり化け物は八体、優れた体術でしばしば後衛にまでも被害を与えてくるクンフーと呼ばれる化け物だ。倉持は背後に後衛の仲間たちを集めながら空気中のエネルギーを操作する。自分たちを中心に緩やかに風を、地面には水流を再現する。これができるのはこの街では彼女と訓練場の教官だけだろう。もちろん強い意志さえあれば後衛に届く程度の妨害だが、極限の戦闘下ではこれだけで十分接近しようという意思を阻むことができた。今回もそれはあたり、こちらに来ようと身構えていた二体が前衛たちに向きを置き換えた。
ライトによって強調されている壁面の陰影が一瞬だけかき消された。クンフーが三体固まっているところに突如発生した火の海は、その中で膝を尽き崩れ落ちる姿を飲み込みながら火炎の鞭を振るっている。それがさらに一体を捕らえた。勝った、と倉持は確信した。だから残りの四体が一人の女戦士のもとに殺到することに気づかなかった。
小柄な女戦士にさらに小柄なクンフーたちが取り付き、残り二人の前衛が救出に駆け寄るや四散した。そのまま迷宮内部を駆け数メートル先で横道に飲み込まれる。こうなってはもう追跡はできない。そして倉持は自分の喉が悲鳴をあげるのを聞いた。女戦士の首が一八〇度ねじれていたからだ――
その後、警戒体制を敷き第一層に向かって戻る途中でニコチンとよばれる煙状の化け物に出会った。知能などあると思えないその化け物はしかし魔法を使うことができ、火炎を飛ばす術によってもう一人の前衛が力尽きた。最初の戦闘が終わった直後にきちんと回復させておけば死ぬことなどなかった。しかし仲間の死と恐怖に背突かれるように回復もせずに地上に向かったのだった。そのあっけなさに、死ぬときは所詮そんなものかという気もする。そこで自力での帰還はあきらめて地上に救援を求めた。倉持が出稽古に出た縁で湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)がもう一人の仲間の戦士とともに救援に駆けつけた。
ぽん、と手が頭に乗せられる。それを感じて視界が涙でにじんだ。私は、と鼻声で問い掛ける。
「私は何を間違ったんでしょう? 私がきちんとしていればああはならなかった、という気がするんです。でも自分が何をどう間違えたのかわからなくて」
「出稽古に出たときのこと聞いたよ。湯浅くんが驚いてた。敵を発見できる距離が一〇〇メートル以上あったって。私だって一〇〇メートルぎりぎりがいいところだから、さすがはサラブレッドと思ったもんだ――でもね、私はそれだけ先の敵を感じられたとしてもそれを実際に告げるのはせいぜい六〇メートルくらいまで接近したあとにしてる」
はっと顔をあげる。敵の接近を知ったら即座に知らせるべきではないのか?
「目に見えていないものに警戒するって疲れるものなのよ。私たちは実際に感じ取れるから集中力がもつけれど、目にも見えない場所に敵がいるよと言われて緊張を開始したら、実際に遭遇するときにはへとへとになっちゃう」
親戚の話を思い出した。訓練場の教官である洗馬太郎(せば たろう)は一五〇メートル先の怪物の気配を感じ取るらしい。それを聞いて案外たいしたことはないのだなと思ったことがあった。『人類の剣』ともなれば二五〇メートル以上先の気配さえ気づけると、それくらいの実力差はあると教えられてきたからだ。それがさらに自負心を呼び起こし、できるだけ早く怪物の存在を感じ取り伝えることに心を砕いてきた。しかし洗馬が一五〇メートルでそれを告げるのは、仲間たちの精神が耐えられるのがその時点と判断したからではないのだろうか。何しろ彼女を教えた師匠がはっきりと「洗馬の索敵範囲は三〇〇メートルを超える」と言ったのだから。目の前の女や訓練場の教官が仲間に向けている思いやりを自分は抱いたことはあったろうか? ない。そこには教官に対する意地、自分の実力に対する自負心しかなかった。あまつさえ仲間たちに対し「導いてやっている」とすら思っていなかったか。
仲間たちの気持ちを想像した。降ってわいたように自分たちの仲間になったサラブレッド。その索敵能力、罠解除能力、後衛を危険から遠ざける能力をはじめいざ地下にあっての胆力も自分たちがかなうとは思えない。そのサラブレッドが当然の顔をして一一〇メートル先の怪物の存在を告げるのなら、自分たちはそれにきちんと対応せねばならないのだ。しかしそうは思っても一朝一夕にして強靭な精神力を身につけられることもなく、しかたなく直前までは心身を弛緩させることを覚える。罠解除師が場所を認識しているという甘えのもとでの弛緩。だから、五〇メートルに達してこちらに気づくと同時に疾駆してきたクンフーに対応できなかった。そして女戦士は首の骨を折られた。そういうことか。
「湯浅くんの話を聞いたとき、ちょっと注意しとかなきゃいけないかなとは思ったのよ。だから二人の死の責任は私にもあるわね。私たちは、敵を見るよりも前に味方に気を配らないといけないわ。一人一人の体調、意気込み、緊張の度合い、そういったもの全てを判断して探索の舵をとらなきゃいけないわ。だって私たちだけが戦闘に参加しないんですもの。怪物と接近していくという事実を一人で抱えているのは確かに疲れるしつらいことだわ。でもこれが私たちの仕事の一つでもあるんだから、甘えちゃいけないのよ」
そして飲み終わった缶を机において立ち上がった。
「そして、あなたの仲間たちにも問題はあるわね。何より自分の命なんだからあなたの警告は早すぎて疲れると意見を言わなければならなかった。でも、遠慮したのか意地を張ったのかできなかった。これまではね。これを教訓にいい関係を築けるといいわね」
再び頭に置かれた手が髪の毛をくしゃくしゃにする。立ち去る足音を聞きながら、ぽろぽろと涙がこぼれた。それでも自分の雰囲気はやわらいだのだろう。様子をうかがっていた親戚の姉妹が駆け寄ってくるのが感じられた。そして――聞きなれた足音が三つ。生き残った仲間たち。
こんな泣き顔を見られるのはいやだなとちらりと思う。でも仕方ないのだろう。ふたたび同じことを繰り返さないように、仲間たちと対等の関係を築くためには。
真壁啓一の日記 一月十九日
また訃報。進藤くんの部隊の海老沼さんと斎藤直哉(さいとう なおや)さんがそろって死んだ。まず海老沼さんがクンフーの集中攻撃で首の骨を折られ、地上へと急ぐうちに斎藤さんが魔法攻撃を受けたのだという。斎藤さんの死は、きちんと負傷を回復させておかなかった(俺たちよりも練度の低い部隊なのに水ばんそうこうを各人二個しか携帯していなかったということに驚いた)ことが原因だったけど、海老沼さんの死はもっと根源的な問題を示唆しているように思うので書く。
四匹に同時に襲いかかられたら普通の戦士ならその場で迎え撃ったりはしない。手が空いているほかの前衛の方に飛び込んでお互いを利用して死角を殺すのは当然の動きだった。もちろん橋本さんがわざわざ教えてくれるはずもないが、例えば俺たちは初陣前の団体訓練で翠に叩き込まれたし、第一層で対集団の戦闘を繰り広げるうちに自分で見出すか先輩の部隊に質問する。そういう当然のプロセスをふっとばして第二層に入り込んだのだからこういう結果は当然と思えた。水ばんそうこうの少なさとあわせて進藤くんの部隊には(俺自身はすごく有望だと思っていたということは俺の目は節穴なのだ)あるべき準備が感じられない。そして俺はその原因がエディの部屋にあるのではないかと思う。
確かにエディと切りあう事は大変な訓練になる。あれほどの速度で動く生き物は第四層でもまだ出会わないし、筋肉の動きからも心理的なものからも動きを読むことができない。エディと戦うことで気配を察知することも純粋な戦闘能力も高まり、第一層での死亡率は大きく減ったことは確かだった。しかし、と昔のことを思い出すのだ。
小学校時代、隣りの南巨摩第二小学校がドッチボール大会で山梨一になったことがある。交流ある学校ということで俺たちの学校の選抜チームと練習試合をすることになった。選抜チームに選ばれていた小学校六年の俺は勝つ気で、しかしまともにやっても勝てないことはわかっていた。俺はそのチームで三番目に強かったけど、相手チームのビデオを見る限りその俺がかろうじてレギュラーのギリギリというレベルだったからだ。
実力でかなわなければ奇手を使う。奇手という言葉は小学六年生の俺にはなかったけれど、俺の背骨には染み付いていたらしく俺たちは徹底的に奇手を練習した。そして当日申し入れた。どうせだから、ボールを同時に三つ使って勝負しないかと。王者の余裕は奇妙なその申し出を受け入れさせ、そして俺たちは圧勝した。どんなに個人の能力が高くても連携が巧みでも、所詮ボール一つだけのことだ。あと二試合もすれば慣れて俺たちにも勝つに決まっていたがいきなり三つ使うのであれば普段から慣れていた俺たちのほうに分がある。
エディがどんなに速くても強くても、エディとだけ戦っていたのでは対集団戦闘の経験は身につかない。しかしある時期以降の第一層の探索者たちはエディの訓練場に依存する傾向が目立った。青鬼も五匹いれば千変万化の攻撃をしてくるし、それをしのぐことがひいては第二層以下で総勢二〇匹近くなる敵との戦いの素地を作るはずだった。しかし進藤くんたちはそれらが不十分なまま各人の戦闘能力の向上だけを見て第二層に挑む資格ありと判断した。そしてこの結果を生んだのではないだろうか。
生き死には運不運とよく言われる。しかし今回のことは防げる、少なくとも防ぐ努力はできる死だった。俺はそう思う。かといって何を他の探索者にさせることもできないけど、そう思うことだけは書き残しておこうと思う。
さて、今回がおそらく最後の探索だった。俺はすっかりやる気でいたけれど、他の皆が示し合わせて第一層をくまなく練り歩くことに決定された。たしかに一番長い時間を過ごしたのは第一層だし、恐怖や喜びや苦しみやいろいろな思い出が詰まっているのもここだった。だから適度に化け物を追い散らしながらあちこちを眺めてまわった。エディとも一対一で無傷で勝ったし、うん、最後に落ち着いてこの目に焼き付けられたのはよかったかな。どうせ二三日からは移動と戦闘であわただしいだろうから。
ゴンドラ設置による料金改訂に対する投票、探索者の分は結果が出た。投票総数三六四票のうち、賛成二七四票反対七一票棄権一九票。この時点では俺たちも設置作業に協力しそうだ。けれど明日の昼から木曜日の昼までネットを使ったもと探索者の投票があり、これが実数二〇〇〇とも三〇〇〇ともいう数だから実は俺たちの結果なんか簡単に吹き飛んでしまう。ただ、俺たち現在の探索者の結果も投票時に知らせるから、俺たちを応援するつもりでいてくれるなら賛成にいれてくれるだろう。だから楽観視している。
だって、俺がこの街を去ったあともやっぱり翠や津差さんには活躍してもらいたいと思うから。みんな同じ気持ちだろう。
真壁啓一と父親の通話 二二時三分
『はい、真壁です』
「あ、親父どの? 啓一です」
『おお、元気か?』
「元気でやってます。それでなんだけど、二月アタマにそっちに戻ろうと思って」
『どうした? 同窓会か何かか?』
「いや、一時のことじゃなくてね。今日の探索で終わりにしました」
『・・・そうか』
「我ながらギリギリだったと思う。あと一〇回潜ってたら死んでたんじゃないかな」
『・・・そうか。それでどうして来月なんだ?』
「うん。とりあえずは二六日まではこっちの工事のお手伝いをして、それから一度東京に戻るつもり。親父どのが調べてくれた竜王の体操クラブ、あれをちょっと挑戦するつもりです。それと並行して近藤教授には卒論を出そうと思ってる。しばらくはあずさで学校に通うことになるかな」
『・・・つまり、もう万一のことは考えないでいいんだな?』
「うん。まあ車に轢かれるとかまでは保証できないけど、地下ではもう大丈夫だよ」
『・・・そうか、そうか。――そうか。じゃあ二月といわず、少し西の方を観光して来るといい』
「それもいいかなあ。――親父どの」
『なんだ?』
「心配かけてごめんなさい。じきに帰ります」
一月二十日(火)
花巻市・熊谷書店 八時一二分
店頭からはアルバイトとともに検品をしている妻の声が聞こえてくる。二〇日は各種雑誌の入荷日なので検品作業も書籍並べのアルバイトだけでなくレジの女性にも入ってもらっているくらいだから、自分もすぐに行かなければならないのはわかっていた。しかし視線は一通の書面に吸い付いて離れない。それは彼がかつて関わった組織からのものだった。
迷宮探索事業団というその組織では、今回成分買取の料金改定を行うにあたりまだ探索者登録を抹消していない人間にも賛否を問うのだそうだ。その文面にはネット投票する際の探索者番号とパスワードが併記されていた。これまでの探索者保護とも思えた完全定額買取から各成分の需要に応じる変動買取へ。それは市場経済から見れば当然の流れだけれど、ちょっと厳しいと思ってしまうのは再販制度に慣れているからだろうか? 苦笑する。
改訂自体には賛成の熊谷を縛り付けているのは改訂までの背景だった。濃霧地帯奥の巨大な穴――あれか、と懐かしく思い出す――は実は第四層まで直結していた。商社がそれを貫いて上下動するゴンドラを設置する、引き換え条件としての買取額改訂だった。なるほど、いよいよ迷宮探索が事業団主導から企業主導に移行するのだなと感慨深い思いがある。探索活動は英雄的事業でもなんでもない、単なる商業行為なのだということをいよいよ企業側が出し始めたということだろうか。詰め所出口でお茶を飲んでいるだけの好々爺はやっぱり油断ならない商売人だったのだ。
そして、書面にはどうして縦穴であると判別されたのかの事情も詳細に書いてあった。死亡者の実名が書いてあるほどに詳細に。
「サイクルスポーツが一部!」
「はーい、オッケーです」
「あれ? この雑誌先月売れ残ってたわよ。売れないのに仕入れてるの?」
やかましい、と苦笑した。その雑誌は迷宮街で仲の良かった戦士がよく読んでいたものだった。普段は穏やかだったが、自転車レースの事に関しては興奮して顔を赤くしてしゃべっていたものだ。フランスで行われるレースのライブ放送を見ようと、皆でお嬢と呼ばれていた女のロイヤルスイートに押しかけて飲んだときのことを覚えている。自転車、ダンス、生け花、ビリヤード、飲食店経営、エトセトラ・・・。こんな片田舎になぜ? と思われるだろうそれらの雑誌が入荷されては返品されていくのは彼らを懐かしむからだ。あるいは陰膳なのかもしれない。遠い西の街で毎月好きな雑誌が読めるようにとの。彼らはいまも元気でいることだろう。
元気でいて欲しいと心から思う。
「こらー! 寝てるのか!」
愛する妻の声。もう一度視線を書面に、そのなかの一つの名前に落とした。
数秒の逡巡ののち、熊谷は紙片を折りたたむとポケットにねじ込み店内へと続くドアを開けた。
京都駅地下街・喫茶店 一〇時三二分
言いたいことはたくさんあった。つい先日会ったばかりじゃないか。不安ならどうして言ってくれなかったんだ。勝手に決めて押し付けられても困る。だいたいもう次がいるってのはなんだ。それら全てを押しつぶしたのは、恋人の話がまだ続いていたから。初めて大声で喧嘩した翌朝にこれじゃ埒があかんと笑いあって「頭に血が上っているときは、相手の言葉を絶対にさえぎらないようにしよう」と決めたことを思い出したからだ。あの朝、これまで引っかかっていた大きな何かを乗り越えたような気がした。それはとても温かい思い出だったからその決定だけはないがしろにしたくなかった。
しかし、と目に涙をたたえながら吶々と話す神野由加里(じんの ゆかり)の顔を見て思う。多分、一つや二つ乗り越えた達成感くらいで安心していいようなことではなかったのだ。遠距離も、片方が生死の境にいるという状況も。視線を下げると小さく細い指がきゅっと組まれていた。普段から白いその指は力の入れすぎでさらに血の気が引いていたが、何より真壁啓一(まかべ けいいち)の意識を奪うのはその指先だった。うっすらと塗られたピンクのマニキュアが(爪はまるく整えられているのに)心に刺さる。目の前の恋人は決してマニキュアを塗ることはなかったはずだ。どういう心境の変化かはわからない。食べられなかった食べ物が実は食わず嫌いだったということを発見するような、その程度の些細なことなのだろう。だけど一つのことだけはわかる。
どんな些細な変化であろうと、それが恋人の中に起きた瞬間自分はこの娘を放っておいたのだと。遠い場所にいたのだと。
感極まったのか、恋人の――恋人ではなくなろうとしている娘の左眼から涙が零れ落ちた。流れていくそれが自分のこわばりもほぐしていくような気がして右手を差し出した。娘はびくりと身をすくめるが伸ばされる腕を避けようとはしない。卓上のナプキンでそっと涙をぬぐった。
言葉が途切れた。何を話されたかまったく覚えていない。一つ息を吸い込んだ。
「当面連絡はしたくないな。由加里も克巳も大事な友達だけど、しばらくはムリだよ。この街から出て落ち着いて、新しい彼女でもできたら木村さんを通じて連絡する――克巳とはうまくやっていけそう?」
困った表情にまた涙がにじんだ。そして自分を殺したくなった。俺は最低だなと呟いて苦笑した。
最低な振る舞いしかできないようなら立ち去るべきだ。伝票を手に取り財布から小銭を並べる。そして席を立った。女はただうるんだ目で自分を見上げている。そっか、店で俺が立ってももう立ち上がらないんだ、由加里は。そんなことを他人事の考えた。
「いかんね、ドラマみたいな捨て台詞が思い浮かばない」 そう言って見せた笑顔に涙をたたえた顔も苦笑を返した。それが引き金になったのかまた涙がこぼれ、差し伸べられた小さな手が袖を掴む。思ったよりも強い力にたじろいだ。
渾身の努力でそっとそれを外させた。感情だけで動くとろくなことがないのはこの街で知ったことだ。もう他の男を選んだ女が罪悪感と情だけで選択を覆すのは間違いだろうし、それをつなぎとめようとするのも間違いだ。
「達者で」
レジに向かう。ガラスに自分たちが座っていた席が映るのに気づきあわてて視線を外した。そこに座る娘が自分の背を見送っていても見送っていなくても傷つくことがわかっていたから。
西麻布・大沢真琴の実家 一一時八分
記載されているURLは投票受け付け画面への直通だったらしく、自分の探索者番号とパスワードを打ち込んだ。表示される画面はシンプルなもので賛成と反対の二文字の下に二者択一のボタンが置いてあるだけだ。あとは自分の名前とコメントを書く欄もある。上段にはそれまでに筆記で行われた探索者の投票結果が表示されており、それは大多数が自分たちの探索がさらなる地下へと続くことを望んでいることを示していた。
彼も望んでいたことだ。ちらりと机の上の紙片に視線を送る。これからきっと、彼が嬉しそうに話してくれた『水曜スペシャル』の世界になるのだろう。彼はもうその世界に挑戦できないけれど、それでも自分が礎になったと知れば少しは安らいでくれるかもしれない。賛成に黒丸をともして送信ボタンを押す。
真壁啓一の日記 一月二十日
今日は八時起き! もう本格的な探索はないのだと身体が知ったからなのか、モルグで六時に出て行く探索者たちの目覚ましや準備の音にもまったく邪魔されず眠っていられた。身体の方もきちんと早起きして動かないと命に関わると知っていたのだ。だから命の危険がなくなった今では眠りたいだけ眠っていられる。起きて時計を見て八時と知ったときの感動よ。
しかし今後も肉体労働系で生きていきたいからには早朝のジョギングの習慣は維持しないと。明日からは精神力で六時起きになるわけでそれはそれで憂鬱なことだ。
一〇時に駅前につくように自転車を駆る。夕べ親父どのに勧められたとおりに西国を観光するのもいいかと思ったから、旅行ガイドを物色するために。萩の焼き物はお袋さまの影響で好きだから、ここで萩に逗留するのもいいのかな。まあ、とりあえずは東京に戻ってからだろうけど。萩なら別に東京から飛行機でも簡単にいけるだろう。秋芳洞は・・・洞窟は当分いいや。
食事したりごちゃごちゃあって街に戻ったのは結局夕方になってしまっていた。ふっと覗いたパソコンコーナーでは人だかりができている。もと探索者たちのネット投票の結果がリアルタイムで更新されているのだそう。なんでも投票者が名前とコメントを書く欄があるらしく、懐かしい名前を見るのが楽しいのだといっていた。俺には街を去ることで別れた人というのはそれほどいないけど、たとえば小林さんの旦那さんの熊谷さんなんかはとても長い激励のコメントと一緒に賛成してくれたらしく、星野さんが感慨深そうにしていた。
むしょうに安っぽいものが食べたくなって夕ご飯はコンビニで菓子パンやらスパゲッティやらおにぎりやらを買い込んだ。レジを済ませた瞬間に翠から電話で飲もう! と誘いがあったけれどちょっと遅かったね。持込で参加しろと言ってくれたけど億劫なのでパス。今日は卒論の資料を読みつつ早々に寝てしまおう。
一月二一日(水)
迷宮街・スーパー内部薬局コーナー 一四時二五分
自分の肉体の威圧感はよくわかっているから普段はことさらゆっくり歩くようにしているし、穏やかに話すようにしている。それだからこそ子どもたちもじゃれついてこれるのだ。自分のような人間がせかせかと動いていたら誰だって危うきに近寄らずを採用するに決まっていた。だからスーパーの通路を歩く早足は例外であり、そして客たちは恐れおののいたように津差龍一郎(つさ りゅういちろう)の前に道をあけた。
急ぎ足の向かう先は薬局コーナー。カウンターに両手をつくとすみませんと声をあげた。奥からちょいとお待ちよと返事がもたらされる。大作りな顔がいぶかしげにしかめられた。今の声、どこかで聞き覚えがないだろうか?
「はーいはいはい、・・・と。いちばん似合わないのが来たね」
中村嘉穂(なかむら かほ)は物怖じもせずに巨人の顔を見上げて笑った。そして一拍おき覚えてないかい? と問い掛ける。餅つきの時に一度会ってるんだけどね。
凝視する視線が我に返り、あ、ああ、覚えてますと津差は答えた。
「で、なんだい?」
あ、いや、と気を取り直す。この前栄養剤を調合してもらったと聞きました。そう答えたらのっぽの女薬剤師はあけすけな笑みを浮かべた。
「ちょっと、前に真壁って子にも言ったけれどあんたの年齢で女喜ばせるのに薬に頼っちゃいけないよ。地力ありそうなんだからそれで勝負おし」
下品な物言いに戸惑う。以前真壁から渡された栄養剤、そのあまりの効果に驚いたところ薬剤師の独自の調合だと聞いた。現在訓練場で行われているトーナメント、ベスト四を決める次の相手にはちょっとかないそうもない。だからその薬剤師に集中力を高めたりするドーピングを期待したのだが・・・説明しようかと一瞬思い、それを打ち消した。
「そうですね。反省しました。――ところで中村さんは温泉はお好きですか?」
「この国で温泉嫌いのおばちゃんはいないよ。そしてあたしも立派なおばちゃんさ」
二七〜八と思っていたがもう少し年上なのだろうか? あるいは若返りの秘薬でも調合しているのかもしれない。まあ津差にとっては年齢などどうでもよかった。大切なことは目の前の女が最初に言っている。
そうだ。女を喜ばせるのに薬を使ってはいけない。
温泉好きか――戦意が昂揚してくる。
真壁啓一の日記 一月二一日
今日みたいなことがたびたびあればいいのにと心から思う。今日一日の見稽古で俺は五倍くらい強くなった気がするからだ。今日のビデオ、徳永さんが会場に五台設置したカメラの映像は明日の夜には迷宮街内部ならネットで観られるらしい。そして来週にはビデオで販売するという。これは絶対に買わないと。
明後日からの作業開始にほとんどの有力部隊が駆り出されるために、ほとんどの有力戦士たちが暇だった今日、真城さんの発案で剣術トーナメントを行うことになった。もちろん俺も面白そうだから参加する。相手に恵まれればベスト一六くらいはいけると思ったからだ。結果は一回戦敗退だったけれどね。でも相手が精鋭四部隊の戦士の一人である小笠原幹夫(おがさわら みきお)さんだったから仕方ないとは思う。
オーソドックスな剣術だと思って踏み込んだら柔道だかなんだかの心得があるらしくひっくり返されて負けた。何度思い返してみてもまったく対処法がわからない、まさに完敗。運が悪かったと思う。
大会は結局黒田聡(くろだ さとし)さんの優勝で幕を閉じた。下馬評でも黒田さん、国村さん、野村悠樹(のむら ゆうき)さん、真城さん、翠、神足燎三(こうたり りょうぞう)さんのいずれかだろうと言われていたなかで筆頭に挙がっていただけに順当といえばいえたのだろう。でも、全ての試合、特にベスト八を決めるところからはもう誰が勝ってもおかしくないと思えた。特に飛び入り参加した鈴木秀美(すずき ひでみ)さんと黒田さんの試合、真城さんと湯浅さんの部隊の秋谷佳宗(あきたに よしむね)さんという方の試合、そしてわざわざ会社をサボってかけつけた国村さんと神足さんの試合は運動するもの全てが参考にするべき人間の動きの芸術というか、早くビデオが欲しいと思う。
そんなこんなで今日はずっと皆で過ごした。夜からはうちの部隊の男連中だけで酒を飲んだ。児島さんも三月アタマから前の会社に復職することを正式に決めたそうだ。おめでとうございます。あとの二人は当面この街にいるらしい。
今月末で街を出てもたびたびは遊びにこいと二人は言ってくれたけど、俺と児島さんは顔を見合わせてあいまいに笑うだけだ。これはもうこの街の人間全てが読んでいるからちょっと書きにくいのだけど、俺は、いちどここを離れたらもうしばらくは京都の駅にすら降りられないと思う。降りたらこの街に来たくなるから。来てみんなの様子を知りたくなると思うから。そしてこの街がどういうところかは知っているつもりだ。
自分が死地にいればこそ他人の死亡確率を受け入れられるのだと、辞めることを決意して辞めた後の生活を現実のものとして考えるようになって初めてわかった。今の俺には、皆が明日死ぬかもしれない境遇がつらい。そばにいたら引き剥がしたいと思い、しかしできない弱い関係性を憎んでしまうと思う。それは残る人たちの邪魔にしかならない。みんな誤解のないように願うけど、俺はきっとみんなともう連絡をとらないと思う。でもそれは思いが薄まるからじゃなくて、普段は封印しないといけないほど強いものになってしまうからです。
芥川だっけかが書いていたと思う。自分が成人になると同時に親が死ぬ社会がいいとか。俺も同じように身勝手なことを考えている。自分が探索者を辞めると同時に、せめて俺の好きな人たちくらいは辞めてくれたらいいのにと。
えーと、酔っている時に文章を書くものじゃないということがわかっていただけましたか。なら結構です。
一月二二日(木)
大迷宮・第三層 一二時一三分
水滴の音はほんのかすかなものだったけれど、それは広く大きく響いた。かき消すものがなければどんな小さなものでも存在を発揮するものだ。大迷宮第三層にあたるそこは完全な静寂に満たされていた。
無音はそのままに空気だけが揺らいだ。溶岩を思わせる床にところどころある水溜りがさざなみを立てる。眺め渡すものがいればそのさざなみはある一点を中心に放射状になっていることに気がつくだろう。
その中心に当たる個所、地面から一メートル五〇センチくらいの中心がゆらりとうねった。焚き火の上昇気流をはさんだ向こうの景色が歪むように、そこでは不規則な光の屈折が生まれているのがわかる。そして空気をほとんど動かさずそれでも空気中の何か物質がその一点に集中し始めた。
中心地点の密度が高まり向こう側の景色が見えない漆黒の一点が生まれた。それはどんどんと大きさを増していく。当初は球状に膨らんでいた漆黒の塊は膨らむにつれ複雑な形をとるようになった。人間の形、六体。
漆黒の彫像に色がついた。そこには六人の男女が立っていた。その中で、あごひげを蓄えた男が油断なく四方に視線を送り、大丈夫だと呟いた。
「はい」
ぽんぽんと手を打ち鳴らした女性は笠置町茜(かさぎまち あかね)という。主婦の概念を具体化したようなふっくらとした笑顔はその身を包む厚ぼったいツナギがおよそ似合わない。ここが第三層の転移地点だからね。みんな覚えておいてね。その言葉に残りの五名――ツナギを着て日本刀を腰に差した笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)以外は武器を持たず彼に比べたら薄いツナギを身につけている――は目を閉じた。
目を開いて各人が思い思いにメモを取っているその動作が落ち着いたとき、ツナギをきた男性の一人が怪訝な表情を見せた。彼の名前は緑川浩一郎(みどりかわ こういちろう)という。一重まぶたの細い目も鼻梁も唇もあごも皆細いという印象を与える顔は普段の無表情とは違う不安げな視線を隣りにいる女性に送った。それを受けるのは対照的に下膨れでふくよかな顔つきの女性。探索者の一人で神田絵美(かんだ えみ)という。
「どうにも雰囲気がおかしいと思いませんか?」
「うん。ゾクゾクするね。なんだか敵意をぶつけられてるみたい。第二層はこうじゃなかったよね」
「この場所だからでしょうか」
「そうでしょ? 私たちのツナギだけで編成がおかしいなんて見分けはつかないはずだし、人数もいつもどおりの六人。普段の探索者との違いに気づくとは思えない。違うのは足を踏み入れているこの場所だけだもの。ここってもしかして彼らにとって大事な、たとえば宗教的な意味をもっているのかもしれないね」
だとしたら――神田は続く言葉を飲み込んだ。会話を聞いていた全員が同じ考えに至ったことを知っているので口に出す必要がなかったからだ。出したくなかったからともいう。だとしたら、明日から始まるゴンドラ設置作業は強く組織的な妨害を受けるのではないだろうか? これまでの経験から彼らにはコミュニティ間の戦争があると推測されている。それはつまり戦略も戦術も存在するということ。設置工事を防衛するメンバーは厳選し、実力以下の階層を守るように配分している(誰にとっても実力以下ではない第四層には、教官クラスの助っ人をあと六人投入する予定だ)が、それでも一箇所を長時間守るための緊張の継続は大きな負担だろう。そこに指揮系統を一本化した怪物の連合軍でもやってきたら――。
「今日、星野さん暇かな」
訓練場の教官である鹿島詩穂(かしま しほ)がぽつりとつぶやいた。そう、六人以上の戦闘経験などない自分たちではおぼつかないことも自衛隊という軍隊の士官である星野幸樹(ほしの こうき)ならば回答を持っているかもしれない。少なくとも座学はしているはずだ。今からでも各防衛部隊の指揮官を集めて講習会を行うべきだろう。
「みんな座標はメモした? 間違いない? じゃ、第四層に行くわよ」
理事の女性が周囲を見渡した。同意のうなずきを確認した直後、六人は消えうせた。たちまちにして静寂がよみがえる。
地下とはいえ生物がいるべき場所にはふさわしくない静寂が。
世田谷区・馬事公苑 一九時四二分
気をつけてね、と伝えて下川由美は受話器を置いた。昨日帰ってきたかと思った恋人は今日の昼番が終わった後また新幹線で京都に向かい、到着したとの連絡だった。今日は夜番なので昨日の夜恋人が職場に顔を出したときにちょっと話しただけである。その声がえらく久しぶりに感じる。
いいことあったの? と同僚が声をかけてきて曖昧に微笑んだ。まさか正直に説明するわけにもいかない理由だったからだ。恋人の従妹からUSJのチケットをプレゼントされたということ、わざわざ言うほどのことではない。この安堵感を伝えるには自分がどれだけ心を痛めていたか説明する必要があった。そしてそれはできない。安堵感には恋人の親戚が一つふっきったことを温かく喜ぶ気持ちと、そしてやはり心の中に小さくわだかまっていた不安感が払拭されたこともあるのだから。
ドアが開いて厩務員の一人が駆け込んでいた。由美ちゃん! 悪い! と声をかけてくるその髪の毛はわらでまみれている。説明させずに下川は立ち上がり厩舎へと駆けて行った。原因はわかっている。あの見事な栗毛の馬の件だろう。
隻頼(せきらい)と呼ばれる皇室から委託されている馬にはさまざまな伝説ができていた。いわく言葉を解する。いわく人の心が読める。いわく人の死を予見することがある。いわく世界にたった一人しか背に乗せない。何をバカなことを、と実際に世話する由美は思っている。馬の脳みその容量には限界があるから言葉を解するなどできるはずがない。この馬が明らかに人を選び気高く振舞うその背景にあるのは、宮中育ちで何代も何代も世話人にかしずかれて育った経歴だろうと推測していた。不思議な話だが、宮中というその場所では普通の態度をとる馬よりも気高く気難しい馬の方がありがたがられ子孫を残す可能性にも恵まれていたはずだ。そうするうちに気高さ遺伝子(そんなものがあるのか知らないが)の強いものだけが宮中では生まれるようになった。それだけのことだと思っている。だから遠慮なく引っぱたく。
ところが気後れを感じる先ほどの厩務員などはどうしても腰が引けて隻頼も傲慢に乱暴になる。それが掃除する尻を鼻面で押されてわらに(そして馬糞に)顔をつっこむ結果を呼ぶのだ。負けてはいけない。
隻頼は淋しそうだった。たった一人なついている男は昨日一日そばにいただけでまたいなくなってしまった。最近では丸くなって他の厩務員の世話を受けるようになりつつある(転ばせるが)から不自由はしないものの不足は感じるらしい。他の厩務員に比べてまだマシだった下川を呼ぶことが多々あった。
「ほーら、どうした? 隻頼」
いつもは気高くぷいと顔をそむけるその馬は、なんだか不安げに鼻面をこすりつけてきた。おかしいな、と思いながらそっとたてがみをなでてやる。
「どうした? おなか減った? なあに?」
しばらくなでてやったらようやく落ち着いたのか、普段どおりに顔をそむけた。憎らしくもほっとしてその場から立ち去ろうとすると、はっとしたように低くいななく。
――えーと。
何か不安でもあるのだろうか? ともあれこんな心細げにしている馬をほうってはおけなかった。たとえそれがいつも殴りあう仲であろうとも。視界に他の厩務員が通りがかった。ちょっと! と声をあげる。気難しい馬がびっくりしたようにこちらを向いた。
「ごめん! 隻頼が落ち着くまでここにいてあげるから、椅子とヒーター持ってきて!」
なんとなく寝袋も必要になる気がする。それにしても何がそんなに心細いのだろう?
迷宮街・虹の湯 二〇時六分
シャンプーを泡立てながらの鼻歌を、隣りでおきた妙な声がかき消した。うおっ! というそれは驚きと恐怖。決して銭湯で聞こえていいものじゃない。どうした? とちらりと視線を送ったらその男は浴場の入り口を向いたままぽかんと口を開けている。
名栗透(なぐり とおる)も視線を送った。そして同じようにあごが下がった。
現在ここ迷宮街には明日からの短期工事に駆り出された作業員たちが集まっている。入浴には銭湯を使うようにと指示されたものの五〇人近い労働者風の体格の人間で浴場は狭苦しく感じられた。ブルーカラーならではの筋肉の海。探索者たちは日々危険と立ち向かっているらしいがそれならば工事現場で日々暮らす自分たちも同じこと。少なくともこの三日間この街は自分たちの前に息を潜めると思っていた。
それがたった二人の人間に覆された。
一人は長身痩躯。かすかに脱色した髪が肩口まで流れている。しかし弱々しさはまったくみられないのはそのグロテスクなまでに浮き上がった筋肉の段差があるからだ。そこには数え切れないほどの切り傷の後が見られる。そしてもう一人。おそらく二メートルくらいありそうなその背丈は決してのっぽの印象を見せず、なぜならその上腕でも過酷な労働で鍛え上げられた自分の太もものように太い。浴場の混雑に困惑したようなその顔は、しかし自分たちの雰囲気や体格にはまったく影響されていなかった。
驚いたのは彼らも同じらしかった。長髪の男がうわあと呟く。答えたのは巨人だった。
「あ、あれじゃないかな。明日から工事してくれる人たち」
間延びした声に、おお、と長髪の男が納得の顔をする。
「せっかくだからゆっくりはいってもらおうか」
「そうだね。じゃあ狭いけどナミーの風呂借りていいか?」
「うん」
そんな会話のあとで二人は浴場から出て行った。その会話が聞こえたのは当然そこを埋め尽くした労働者たちがぴたりと沈黙していたからだ。名栗は夕方のことを思い出した。普段着ているトビの作業着ではなくわざわざ支給されたツナギはずっしりと重く動きづらかった(女性探索者たちが着る重量らしいが、それは嘘だろう)。しかし安全のためにそれを着用しろという。なにを馬鹿なと思ったものだ。あの作業着は十分安全で作業もしやすい最高のものだ。そして何より各人がデザインに趣向を凝らしている自分たちのユニフォームなのだ。それを脱いでこんな地味なツナギなど誰が着るものか。そう思っていた。
あれを着たほうがきっといいぞ。二人の身体を埋めた切り傷が諭している。
名栗が出るまで浴場はしんとしたままだった。日給一五万円の意味をようやく知ったのだ。
迷宮街・出入り口詰め所 二一時三五分
もういちど隊員を召集したのはもちろん緑川浩一郎(みどりかわ こういちろう)の報告に不安を感じたからだ。とはいえ部隊のリーダーとして仲間の心配をしたわけではない。大量に投入される一般人作業員の護衛として地下に潜る部下たちの心配だった。くつろいでいる中集められた明日の地下警備の面々を見渡した。そして簡潔に質問をした。明日は俺たち自衛隊員と探索者と作業者が入る。守るべき人間はそのうちのどれだ?
怪訝として見交わされる視線。一人の若い士官が代表して探索者と作業者ですと答えた。あー、やっぱりなと思う。
「それは考えを改めろ。俺たちの任務はこの三日間、地下で作業者の死者を一人も出さないことだ。探索者は何人死んでもいい。化け物を殺す上で探索者も撃ち殺した方が効率がいいようなら躊躇せず引き金を引け」
し、しかしと若い士官は口篭もった。彼らだって日本国民で納税者です。その言葉には単にそれがどうかしたか? とだけ言い捨てた。沈黙が訪れる。
「あいつらの命を言い訳にしてためらうな。あいつらは望んでここに来たんだ」
そうじゃないとお前らがあぶない、と心中で付け加えた。日々危険に挑んでいる探索者はほうっておいても自分で生き残る。しかし指揮があっての行動に慣れきっている彼らの死への不安はどうしてもぬぐえない。確かに上官から受けている命令は「地下での作業員の死者を一人も出さないこと」だ。自衛隊員と探索者が何人死のうがかまわないと考えている。しかし、自分が心に課したものはまた別だ。こいつらを一人だって死なせたくない。
真壁啓一の日記 一月二一日
迷宮街が大変なことになってます。この街ではあまり見かけないトビ風のでっかいズボンはいた人たちが徒党を組んで歩き回っています。こちらが大人数で乗り込む以上先方からも組織的な反撃を受ける可能性がある、とは夕方から行われた緊急ミーティングで星野さんが言っていたことだけど、正直な感想を書かせてもらえば殺せば済む化け物よりも殴られても殴り返せない(戦士で探索者登録をしてしまった人は、格闘技の有段者やプロボクサーと同じくらい喧嘩したときの罪が重い。ていうかおっかないよ彼ら。常盤くんや児島さんみたいな髪の色だよ)彼らの集団の方がよっぽど怖い。
でも俺も迷宮街では先輩だから負けていられない。大通りを歩いていると彼らに鉢合わせることがわかるから小道をたどっている。ここまで追ってはこれまい、となんだか逃走ものドラマの気分だ。
馬鹿なことを書いていないで二つ大事なことがあったのでそれを書いておこう。一つは迷宮街の外に住んでいるもと探索者たちのネット投票の結果が出た。有効票数が六二九票のうち賛成が六二九票。一〇〇%でした。俺たちの挑戦は心から応援されているんだと心強くは・・・もちろんならない。分母は三千にも及ぶもと探索者のうち五分の一しか投票していない、つまり賛成できない人は俺たちに関わることすら拒否したということだから。俺はどうなるだろう? たぶん賛成に入れると思うけど。でもたとえば、初日に壊滅した恩田くんの部隊にいた人なんかの気持ちを想像すると、もう思い出すことすらいやな日々なんじゃないだろうか。ここを出て行った人の五人に四人は関わりたくないと思っている、という事実をこそ、俺たちは頭に入れておいた方がいいだろう。
その結果を受けて、参加するかどうかの態度を保留していた俺たちを含むいくつかの部隊が明日からの作業を手伝うことになった。明日からの日程は以下のようになる。
二三日⇒第一層への機材搬出と骨組み建設。(念のため夜間警備)
二四日⇒ゴンドラ設置、テスト運用。第二層、第三層の乗降口建設。
二五日⇒第二層、第三層の防壁設置。第四層の乗降口建設。
二六日⇒作業予備日。
俺たちの部隊が参加するのは二三日の運搬(七時〜十時)、二三日の夜間警備(一八時〜二〇時)。
そして二四日の第三層の作業警備(七時〜一六時)。
もし残作業があれば二六日。なければその日に記念撮影をするらしい。
記念撮影といえば、ゴンドラ設置の作業に関してたまに機材会社の技師さんがいらしたとき、よく真城さんや星野さんなどが集まって記念撮影をしていた。なんで? と訊いたら
「だってプロジェクトXに放映されるためには中庭で記念撮影しなきゃでしょ!」
とのこと。確かにあれに出てくる人たちって記念撮影が好きだな。作業に臨んで初日朝と最終日に集合写真を撮るらしい。最終日にちゃんと映れるようにがんばる。
一月二三日(金)
大迷宮・第一層 七時八分
分解できずに五〇キロを越える部品は重力遮断で重量を減らして運搬することになっていた。だから目の前の太い鉄柱を束ねた山はその対象なのだろう。こんな巨大な塊をどう運ぶのか想像もつかないが、ともあれ自分のするべきことをするだけだ。作業はいくらでもあり時間は少ないのだから。鹿島詩穂(かしま しほ)は自分の背丈ほどもありそうなその山の前で目を閉じた。意識の触手を伸ばしその物体にからめ。塊としての情報が全て脳裏に描けるようになったら均等に重力の影響を遮断していった。習得してからずっと毎日訓練しているだけのことはある。我ながらスムーズに制御できていると思う。
それは油断だったのか? 総毛だつ感覚の直後に意識の触手が乱暴に引きちぎられた。予想外の異変に目を見開くがその視界には圧倒的な存在感を誇っていた鋼鉄の円柱の山は見られない。さては――頭上を見上げたが迷宮の天井には穴などあいていないし、何かがぶつかった様子も見られなかった。
「ほらほら詩穂、さぼってないでこっちの軽くして!」
背後の声に振り返る。理事の笠置町茜(かさぎまち あかね)がドリルなどをつめたコンテナを指差していた。はっと思い至る。
「茜さん、ここにあった鉄柱をどうかしましたか?」
「え? 運ぶの大変そうだから一足先に穴の淵に飛ばしたけど」
他者を強制転移させる術が世の中には存在する、とは聞いたことがあった。しかしそれは伝説の中の話であって「八歳でハーバード大学を主席卒業する天才児」や「オレンジ色の光で人間を気絶させてチップを埋め込む小さな生物」や「元特殊部隊員でテロリスト集団を一人で退治しつつ美女とキスする合衆国大統領」と同じ種類のものだと思っていたのだ。
それはともかく、と無邪気に視線を移しては巨大な部品を消滅させている理事を見て思った。どうやって術を使っていくかもう一度計画を練ってこの人を御さないと、好き勝手にやらせて引っ掻き回されたらすぐに疲れて気絶してしまう。
大迷宮・第一層 八時二〇分
洞窟というのだから富士のふもとの風穴や氷穴を思い浮かべていたが、それは良いようにも悪いようにも裏切られた。あれほどには狭苦しくなく、電気が完全に通っているので暗くもないことは嬉しい予想外だった。しかしライトは両側の壁から照らされるために自分たちの影は長く伸び、その長い影でも左右の壁面には達しないことがその広さを実感させ心細くさせた。目を凝らした壁面にはいくつもの切れ目がある。同行する探索者たちが常にその切れ目に視線を置いていることからも、そこには雰囲気だけではない実際の危険があることが想像できた。探索者たちの緊張は自分たち作業員に重くのしかかり、若い奴らは自然と神経が昂ぶっているようだった。名栗透(なぐり とおる)のすぐ脇で交わされる会話は普段ならば声を潜めて秘して行われるべき種類のものだったが、動きの少ない洞窟の空気を広範囲にわたって震わしそして本人たちもそれを改めようとしないのはやはり常態とは違うのだった。
秘すべき会話、同行の探索者の一人がいい女だと誉めそやすそれは彼女の耳にも伝わっているだろう、しかし彼女は何も聞こえないか、まったく興味がないかのように視線を壁に当てたまま歩を同じくして歩いていく。そのブーツの裏地につけられた鋲がたまに神経をさかなでる音を立てた。他に生まれる音はといえば自分たちの機材がぶつかり合いこすれ合うものと会話だけに過ぎない。自分たちの集団五人を囲むように二集団の探索者総計一二人が囲んでいるから倍以上になる彼らのほうがよっぽど静かだった。そのツナギにはいたるところに金属製の輪がついておりリュックサックや小物入れやいろいろなものがぶら下がっているが、金属は露出しないようにぶつかり合わないようにとの心遣いから生まれる音はゼロに近い。
真っ赤なツナギを身に付けた若い男が口を開いた。
「敵です。前方六五メートル右横穴。こちらに気づいています。青鬼か赤鬼、四匹」
「歩調はこのまま。二五メートルで北条部隊は半月陣。壁を利用して皆さんをお守りして。私たちだけで片付けるわ。青柳さんと児島さんは半月陣に加わってください。葵は私たちの援護、常盤くんはそのサポート。真壁さん、もう辞めるからって気の抜けたところ見せないでよね。二匹は任せるわよ」
いい女、と呼ばれていた女性だった。自信に満ちはっきりした下知に彼女より年長者の多い一団がいっせいにうなずいた。無遠慮に噂をしていた若い奴らがその様子にしんと静まった。
「最後まで信頼ないんだなあ俺は。――ああ皆さん。ちょっと騒がしくなりますが、皆さんはきちんとお守りしますので自分の身の回りだけ気を配っていてください」 オレンジのツナギを着た男がのんびりと笑う。
五〇メートル。赤いツナギの男が平然と口にした。探索者たちの様子はそれまで普通に歩いているときとまったく変わらないようだ。作業員たちは、おそらく自分の奥歯がガチガチと鳴っているありさまと大差ないだろう。
「三五メートル。来る」
そこで奇声が聞こえ、名栗は驚いて立ちすくんだ。設置されたライトの死角から沸いて出たかのような小柄で毛むくじゃらの生き物が四匹走り寄って来ている。その手にもっているのは短い剣、そしてその目に燃やしているのは純粋な敵意だった。崩れそうになる膝に両手をつけて支える。手を下げたために荷物袋が地面とぶつかり大きな金属音がした。
上半身からして震えているのだろう、視野はできの悪いハンディカメラの映像のように焦点を結ばなかった。その中でオレンジと緑のツナギ姿が滑らかに動くと小さな生き物は全て地面に倒れ伏した。
「うーわくっそ! 真壁さんもしかしてわざと!?」
「うん、狙った。だっていい女いい女って誉められてガチガチだったじゃん翠」
その会話を聞き女性に視線を移した。ようやく揺れがおさまりつつある視界の中で、わずらわしげに袖で顔をぬぐう姿が見えた。ヘルメットのつばから滴るのはあの生き物の血液だろうか? とりあえず水気だけをふき取った顔は半面が凄絶にどす黒く染まっている。若い奴らは気を飲まれたように返り血にまみれた美少女を眺めていた。
大迷宮・第一層 一〇時三〇分
男の子なら誰だってあこがれる職業があると水上孝樹(みなかみ たかき)は思っている。「運転手さん」がそれだ。それもタクシーなどではなく電車やバスといった巨大なもの、飛行機や船という非日常的なもの、そして工事現場の機械を操作する姿も子どもの心を惹きつけてやまないだろう。少なくとも、第一層だけの作業である今日はのんびり休んでいていいと言われているにもかかわらずに濃霧地帯の奥までやってくるほどには自分の心を惹きつけている。目の前ではキャタピラーで移動するショベルカーのようなものが、壁面に太い鉄柱を打ち込んでいた。うわー、と視線がそこから外せないでいる。時折濃霧地帯の奥から撃剣の音が聞こえてくるが無視した。この階層でわざわざ自分が出張る必要もないだろう。
作業員たちは最初は濃霧地帯の白さに驚いているようだったが、実際に作業が行うあたりは彼らの往来でかなり視界がはっきりしている。支障は何も出ていないようでてきぱきと岩盤を削りボルトを打ち込み足場を組んでいた。
「休憩!」
時計を見て中年の作業員が声をあげると、各人は足場の上でおのおの腰をおろした。人間の動きがなくなれば視界が白に埋め尽くされる濃霧地帯よりは、足場の上のほうが休憩に向いていると判断したのだろう。それはわかる。しかし縦穴の最下層は第四層でおよそ三〇メートルほどもある空中なのだ。そこの足場で命綱もつけずに休憩できる精神力はどういうことだろう。すごいすごい! と感動を分かち合おうと周囲を見渡すが探索者たちは濃霧地帯の奥で警備にあたっていた。真剣に従妹たちの恋人でも連れて来ようかと悩んでしまった。でも、妹の方にばれたらものすごく怒られるから、呼び寄せるにしても内緒にしないといけない。
そこに自分より少し年上の作業員が通りがかった。名栗さんと声をかける。彼は怪訝そうに自分を見た。警備をするでもなく、かといって探索者から敬意を受けている自分の存在は不思議なのだろうか。それにはかまわず自分も足場に登っていいか? と質問したら命綱をつければ、と快諾してくれた。嬉しい。
「で、命綱はどこですか?」
名栗が眉をひそめて休憩している連中に声をかけた。返答は地上にありますよとのこと。さすがはプロと感動していると、会話を聞きつけた自衛隊員の一人がハーネスつきのザイルを持ってきてくれた。これなら安心だと早速腰に取り付ける。慎重に足場を歩き出した。金属の足場とブーツの裏の鋲がきしんで嫌な音を立てる中、そろりそろりと作業員たちが休憩する方に歩いていった。下を見下ろすと何も見えない。下層は未到達地区であり電灯が設置されていないのだから当然だが、それがとても高いところにいる感覚をもたらした。
どうですか? と少し若い金髪の男が声をかけてきた。にっこりと笑って楽しいです、と答える。場所をあけてくれたので支柱にすがりつきながらそこに腰をおろした。
数分して休憩終了の声がかけられた。身軽に足場の上ですれ違う作業員たちが落ち着いてから、再び支柱にすがりつくようにして立ち上がる。ゆっくりと足場を進んで地面の固い感触を得たときやはり全身の力が抜けた。前方の濃霧の奥からはまた斬り合いの音が聞こえてきた。ちょっと顔をだそうか? とふと思った。午後になったらショベルカーを運転させてくれるというのだ。やっぱり自慢したいと思う。でも面倒だから戦闘の音は無視する。
大迷宮・第一層 二一時一七分
仲間たちが怪物を意識し警戒できるのは視界に入ってからのこと。数度の探索でそれはわかっていた。しかしこの濃霧地帯においては仲間たちの視界は著しく狭く、よほど近づかない限り警告しないことにしていた。往来する怪物たちの集団、その行動からこちらの存在に気がついているかどうかを判断し、戦闘が回避できないものだけを教える。倉持ひばり(くらもち ひばり)が怪物たちを感じ取るセンサーはすでに一二〇メートルに達し、それは横穴の中まで走査するために常に同時に一〇体以上の怪物を感じていた。それらがみなこちらに来るようならば問題はない。しかしその九割以上は自分たちの存在に気づかず、獲物を探しては遠ざかっていく。誰にも負担させることができない監視の作業は、発見し次第仲間たちに知らせていたこれまでのやり方よりはるかに消耗の度合いが強かった。額の汗をぬぐう。
仲間には仮眠を取るように言ってある。二〇時から二二時までの二時間、自分と佐藤良輔(さとう りょうすけ)の部隊だけで守らなければならないからだ。ちなみに佐藤の部隊には普段は津差龍一郎(つさ りゅういちろう)という戦士がいるが、部隊を掛け持ちする彼は今回の警備においては高田まり子(たかだ まりこ)が率いる精鋭部隊と行動をともにしている。よって暫定的に佐藤がリーダーだった。とはいえ誰も不安を訴えるものはいない。佐藤は第二期の中でも屈指の戦士であり先日行われたトーナメントでも素晴らしい成績をあげているのだから。
「お疲れさま」
そう言って缶ジュースが差し出された。リーダーの進藤典範(しんどう のりひろ)は機転をきかせて今夜は保温ボックスを持ち込んでおり、中には暖かい飲み物が詰め込まれている。コーンポタージュをありがたく受け取り、頬に押し付ける。その表情が翳った。
センサーにまた怪物の一団が入り込んできている。珍しくわき目もふらない動きはこちらを目指してのものだろうか? ん?
人数が多い。すぐ脇にいた進藤に皆を起こすようにサインを送った。進藤はうなずくと仮眠を取っているメンバーの元に駆け寄った。その音だけでほとんどの仲間が目を開いている。仮眠をとるようには言っているが、眠るほど安心もできなかったのだろうか。その間にもセンサーにはぞくぞくと怪物の反応が入ってきていた。
「――倉持さん」
佐藤の部隊の太田憲(おおた けん)が小声で話し掛けてきた。それにうなずく。もはや一団と呼んでいい怪物たちの先陣は太田のセンサーにも入り込んだのだった。
「進藤くん」 我ながら緊張で固い声。心の中で舌打ちする。
「すぐ地上に連絡して援軍を要請してください。おそらく私たちを目指してかなりの数の赤鬼青鬼、こそ泥がやってきています。数は現段階で一五〇匹ほど」
進藤の顔は恐怖でこわばり、臨時に設置してある電話機に駆け寄った。
「マカニト使える人っている?」
念のための質問には魔法使いが二人とも首を振った。広範囲に影響を及ぼす術があれば戦局は変わるが、なければあくまで援護がやってくるまで局地的な魔法と戦士たちだけで防ぐしかない。しかしまさか一五〇匹以上の軍団とは。完全に甘く見ていたようだった。奥歯が震える。
真壁啓一の日記 一月二三日
本日の警備終了。今日は九時から物資運搬作業、一〇時から職人さんたちの護衛を行った。そのまま俺たちは継続で一一時〜一四時までは濃霧地帯で警備。たまーに怪物の群れに遭遇するだけで特に問題なく。第一層なら別に怖いこともない。でもそんな余裕を言っていられるのは、俺たちの警備にあわせて水上さんがついてきてくれたからだろう。笠置町姉妹を心配してのことだと思うけど、この人が(なんだかリフト動かして遊んでいたけど)後ろにいるというだけで、笠置町姉妹も目じゃない安心感に包まれる。この人のもとにあるのはたった一人の人間の力だけど、それは離れた場所にいる俺たちをも安心させるほどのもので、人間の修練っていうのはすごいと思う。
そしていったん地上に戻り、一八時から二〇時でもう一度夜間警備についた。怪物というくらいだから夜行性かな? と漠然と思っていたけど二時間いてまったく遭遇はなし。怪物とはいえ夜は眠るのかな? それにしても光など入って来ない地下なのにどうやって昼と夜を判断しているのだろう。不思議だ。怪物たちはコミュニティ単位に別れているから、このコミュニティは昼に行動する、このコミュニティは夜に行動するといった風にそれぞれで違いがあるものとばかり思っていたのだけれど。
それにしても日に二度地下に潜るというのはすごく精神的に疲れるから戦闘がなくてよかったと思う。
と、たった今湯浅さんから電話がかかってきた。地下にいる部隊から援軍要請があったという。待機しているメンバーじゃ足りないかもしれないので俺も行ってくる。
行ってきた。あれだ。俺たちは根本的に甘く見ているか、やり方が間違っている。これからミーティングだ。
三人死んだ。
一月二四日(土)
迷宮街・出入り口詰め所 六時四二分
秋谷佳宗(あきたに よしむね)の戦いぶりをさして「踊りのよう」と表現する連中は、当然彼のもう一つの顔を知っているからそういうのだろう。しかしそれを差し引いたとしても背筋が常に伸びて安定した下半身の動きは優雅な印象を見るものに与えた。しかしそれは今は見られない。普段ならば足さばきを多用して位置を変えながらの戦いが得意な秋谷であったが、今はただ両足を止めて怪物の群れを押しとどめていた。
鉄剣を一閃そして一閃する。その都度に目の前にいる青鬼の頚動脈、目、鎖骨といった一撃で戦闘不能になる個所に黒い穴がうがたれていく。効率を重視して軽く小さく当てている剣先はムチのようにそこにあるべき肉をえぐっていった。本当だったら一撃で行動不能にしなければならないのだが、こうも数が多いと――見上げた視界、激しい動きでかなり吹き散らされた白い霧の中に赤い光点が数え切れないほどに光っている。とにかく戦闘不能にし放置し、失血死を待つしかなかった。当然そいつらはじたばたと暴れるので邪魔になるがそれは仕方がない。
ぐん、と下半身が重くなった。機械的に目の前の一体の喉、利き手親指の筋を切り飛ばしてから視線を足元に送る。右足首に瀕死の青鬼が噛み付いていた。放置したツケがこれだ、と暗澹たる気分になる。経験があるが、最後の力を振り絞って噛み付いたこの化け物のあごを外すのは難儀だった。一歩下がって壊すか、そう思い威嚇のつもりで眼前の赤鬼を袈裟懸けに切り下ろした。防御が間に合わない一閃はその毛むくじゃらの身体を斜めに両断する。押し寄せる勢いがやみ、その死体のまわりに空間が生まれた。
さて、と視線を再び足首に送った瞬間にその頭部が壊れた。銀光を追うと怪物の群れに視線を置いたままの野村悠樹(のむら ゆうき)がいる。この戦士は隣りで戦っている自分の異変に気づいていたのだった。そしてあっさりと怪物の頭部を破壊してのけた。助かった! と声をかけると野村は口の端だけで笑った。その顔は返り血で真っ黒になっている。口の周りだけが肌色なのは、無意識にその血を舐めとっているからだ。怪物の血だと思わなければその適度な塩分は意外に美味なのだった。やれやれ、これじゃどっちが化け物かわからないな。
「焼くよ! 下がって!」
アマゾネス部隊の女魔法使いの声。ようし一息つけるか、と後退しようとした足がとまった。見下ろせば今度は二匹の化け物がしがみついている。ぞっとした。
カウントは進んでいる。ちょっと待て、と声をかけたが止まらない。もう神田絵美(かんだ えみ)は集中に入っているのだ。自分の責任で術の効果範囲から逃げ出さないとならなかった。しかし足が動かない。
「――ファイヤー! ちょっとヨシムネ! なにやってるのよ!」
最後のカウントで目を開いたのだろうか。神田の悲鳴が聞こえた。しかし発動した術はもう戻らない。真っ白い霧が顔に押し寄せてきた。かすかに熱を伴っているそれが高熱の水蒸気のように思えた。そしてオレンジ色の炎。間に合わない。自分は巻き込まれる。
下半身が炎に飲み込まれたが不思議と熱さも痛みもない。そんなものなのかな、と思う。そして中央の炎柱から伸びた炎のムチが人間の手になって自分の肩を掴んだ。これが死神の腕か、とどこか待ち望んでいたような気持ちで納得した。これは最後の、そして自分の人生で最大級の経験だ。よーく目を見開いてしっかりと見よう・・・。
「ヨシムネ! ヨシムネ! 朝だよ! 寝るなら部屋で!」
夢の中の動きと連動しているのか、開いた視界に見覚えのある顔が飛び込んできた。先ほど夢の中で自分を焼き殺してくれた女魔法使いだった。夢とはいえ死を体験したその衝撃でぼんやりしている頭で、迷宮出口の詰め所の一角を見回した。昨夜、予想もしなかった反攻をなんとか撃退してから彼ら最精鋭の戦士たちも地上で待機を命じられた。どうやら椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。
窓からは陽光がさしこんでいる。時計を見たら七時少し前になっていた。
「神田さんおはようございます」
おはよう、と魔女はコーヒーのカップを差し出した。ミルクと砂糖がたっぷり入っていて甘い。疲労が抜けていく気がした。次いで状況を質問する。あれから二度目の攻撃はなかったの? なかったという言葉にうなずいた。総数二〇〇匹以上の攻撃は、防衛に当たった二部隊の奮戦、そして瞬間移動の魔法で救援に駆けつけた自分たちの働きでその半分近くを殺してのけた。縦穴までの道はたいへん歩きにくいことになっている。視界の悪さに比べて大量の屍骸が散らばっているからだ。
「あれから誰か死んだ?」
ううん、と神田は首を振った。結局昨夜の死者は、化け物の集団に襲われた当時の防衛メンバーである佐藤良輔(さとう りょうすけ)、内藤海(ないとう うみ)、長田弓弦(おさだ ゆづる)だけということだ。あれだけの熱戦の割には被害は軽微といってよかった。とはいえ先日進藤の部隊に加わったばかりの長田はともかく、第二期では屈指の戦士と魔法使いである佐藤と内藤の死は今日からの作業にとって痛かった。
「湯浅、真城両部隊はとりあえず一五時に再集合だって。もうみんな部屋に戻ってる。普段モルグを使っている人は申し出れば個室のお金を払うって。まあ六階の部屋の金額じゃないんだけどね」
秋谷は立ち上がって伸びをした。解散の前にそういう説明があったのなら起こしてくれればよかったのにと言うと神田は微笑んだ。
「すごく安らかな寝顔だったから寝かせておこうと思ったの。なにか夢を見ていたの?」
回答は期待していないらしく部屋を出つつある背中に答えた。死んだ夢だよと。神田の動きが止まった。
「――安らげる夢だね。じゃあまた午後に」
迷宮街・出入り口詰め所 六時五三分
仲間の死には慣れている。地下は自分たちにとってあまりに過酷であり世の中には運不運というものが歴然としてあるからだ。しかし安置室に並んだ三つの屍を前にして津差龍一郎(つさ りゅういちろう)はやるせない思いを抑えられなかった。理由はいろいろあったが、最大のものはそれが自分の不在中に起きた死であることだろう。精鋭四部隊の一角として本日の護衛に備える意味で津差は昨夜十分な睡眠を命じられて従っていた。彼らが死んだとき津差が何をしていようとその運命は変わらなかったにせよ、その死の瞬間自分は惰眠を貪っていたという意識は心の奥で罪悪感という名の毒を湧き立たせていた。しかしそれよりも根源的な問題があった。津差は安置される死体の前で両手を合わせると、顔を覆う白布をとりあげる。頭蓋を割られたというその顔は、しかし血をぬぐい裂けた部位をつなぎ合わせた今では造形に異変を感じることはできない。青白く血の気の引いた様子からさすがに生きているようには見えないが、なんだかよくできた人形のように思えた。
安置室の扉が開いた。津差さん、と声がする。昨夜の襲撃を生き延びた太田憲(おおた けん)だった。襲撃を撃退したあと部屋に戻りこれまでずっと眠っていたのだろう。少しやつれはしても疲労は感じられない表情に頷いた。そして頭を下げた。それまでずっと一緒にやってきた仲間のはずだった。それなのに、もっとも危険な瞬間に自分は眠っていたのだ。
一度下げてしまうともう頭があげられなくなった。そんな肩に太田がそっと手を置いた。
「立派だと思いますよ」
顔だけあげてその顔を盗み見る。三つの死体を眺めるその表情には少なくとも悔恨は見られない。
倉持さんが奴らの接近を感知してから、アマゾネスたちが飛んできて後ろから挟み撃ちにするまで一分三〇秒でした。相手は二〇〇匹以上いました。一分半も俺たちは持ちこたえたんです。これくらいの犠牲者は少ないってものじゃありませんか? そして、一番役に立ったのがあの二人です。津差さんは――
太田は男にしては小柄だった。だから頭を下げても自分の方が少しだけ視線が高い。どうしても相手を見下ろしてしまうこの体格を、今はものすごく疎ましいものに感じる。
津差さんはずっと海を信用していませんでしたよね。あいつは確かにふらふらしているところがあった。詩のためにこの街にいるって言いながらもじゃあどうやって詩で稼ぐのかってのが俺たちにはまったく見えなかった。多分本人もわかっていなかったんじゃないかな。何のためにこんな危ない場所に来ているのか、是が非でも生き延びて達成したい目的はあるのか、津差さんはそういうことで不安に感じていたでしょう。生きることへの執念がない仲間はいつか落とし穴になるものだと思っていませんでした?
言い当てられ津差は愕然とした。自分では隠せているつもりだった。しかし態度の端々にもしかしたら現れていたのかもしれない。少なくともこの男が正確に読み取ったくらいには現れていたのだろう。それではもしかして本人にも悟られていたのだろうか。
いなかった、と考える理由はなかった。屈託なくジョッキをぶつけてきた数日前の顔を思い出した。自分に信頼されていないと実感していながらあの笑顔を向けていたのだとしたら、内藤の心にあったものはなんだったのだろう?
昨夜の三人の死の原因に、海の不覚悟というものはありませんでしたよ。うん、少なくとも――と太田は続ける。
「少なくとも、夕べのあいつは認めてやってほしいな。あいつが頭を割られたのって接近戦が始まってすぐ、横穴を伝った奴に殴られたんです。それからずっと気にもしていないように術を使いつづけ、治療術師が誰も気づかないくらいだったんだから。そして神田さんの術が炸裂して援軍が来たとわかってようやく倒れた。勝手な想像ですけど、殴られた時に助からないってわかったんじゃないのかな。だから治療のために術を使わなくなる瞬間を惜しんだ。あいつと佐藤がいなかったら真城さんたちは俺たちの死体とご対面でした」
津差はしばらくの間、二人の遺体を眺めていた。そういうことじゃないんだ、と言い返したかった。自分が危惧していたのはまさにこれだったのだと。自分こそが生き延びようという気持ちの希薄さが、他の人間を生かすための無茶につながるのではないかという恐れだったのだと。そしていまその通りになった。すぐに治療すればもしかしたら治ったかもしれないのに、そして誰でも即座の治療を要求する権利があるのにそれを行使せずに死を受け入れる。確かにその行為によって他の八人が助かったのだろう。戦局全体を掴んでいた太田がいうのだからそこに間違いはないはずだ。だけど自分が死んでしまってそれでいいのか? と問いたい。特に内藤には問い詰めたかった。津差は妹と会っているのだ。兄を心から心配する瞳を見ているのだ。
しかし言葉にならない。昨夜自分はそこにいなかったのだから。すべてがただ悲しかった。
静かに太田の名を呼んだ。
「遺族への連絡は俺がするから」
「お願いします」 ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。受取る指先、体格に似て太いそれがかすかに震えた。表面に現れた動揺はそれだけだった。
迷宮街・出入り口詰め所 七時八分
葵ちゃん! と嬉しそうな声がして真壁啓一(まかべ けいいち)はそちらを見やった。そこにはそろそろ壮年を過ぎようかという男性が一人立っていた。笠置町葵(かさぎまち あおい)に向かって笑顔を向け久しぶりだなあ、大きくなってと肩を叩いている。葵もそれに嬉しそうに笑顔を返していた。どこから見ても和やかな再会の風景、だから真壁があとじさり葵の双子の姉にぶつかったのはシチュエーションの問題ではない。キャラクターの問題だった。
「どうしたの?」
こたえようとして言葉にならず、視線を二人の方に送った。ああ、と納得したようだった。
「お父さんのお友達の奥島さん。事業団の理事でもあるんじゃなかったかな? 今日明日は手伝ってくれるんだって」
そして少し眉をしかめた。そういえば、真壁さんの日記に登場してたじゃない。
嘘だろ、と苦笑した。いくらなんでもこれほどの存在感の男性とすれ違えば気づくはずだ。日記に書くほど近くにいて覚えていないなどありえなかった。
「書いてあったってば。うちのお父さんより強い生き物がこの世のどこかにいるんだろうなって。奥島さんがそうだよ」
呆然としてその男性を見つめた。彼は何かがぎっしりと詰まった布袋を常盤浩介(ときわ こうすけ)、児島貴(こじま たかし)に持たせているところだった。視線がこちらに向き手招きされる。背筋が自然にぴんと伸び駆け寄った。
「お兄ちゃんもこれ持っていってくれな」
渡されたそれはずっしりと重い。中を見ていいですか? と尋ねたらあっさりとうなずかれた。
おそるおそる袋の口を緩め覗き込む。中には使い古されたゴルフボールが大量に入っていた。
あー奥島さんだと聞きなれた声が近づいてきた。笠置町姉妹の従兄にして本人も優れた戦士である水上孝樹(みなかみ たかき)がこれまたツナギ姿で歩いてくる。お久しぶりです、と深く礼をしてから笑顔を見せる水上に怪訝な思いをした。もっとこの人にはプレッシャーを受けたはずだ。向かい合うだけで手のひらに汗をかくような。それがこの男性の横に並ぶと子どもも同然に思えた。
迷宮街・第二層 九時二四分
昨日から全てが信じられないことばかりだった。場所に限定して発生する、自分の手のひらも見えなくなってしまうような白い霧、それが一つの地帯だけにわだかまって動かないこと。噂では聞いたけれど、本当に人間以外の二足歩行の化け物が剣を持って襲い掛かってくること。それを眉一つ動かさず切り捨てる人間がいること。自分たちでは何人がかりでも持ち込めない重量になっている機材箱をたった一人が担いでくること。北酒場という居酒屋でオススメの料理を教えてくれた青年が、その二時間後には死んでしまったということ。中年女性が「いきますよ」と言った瞬間に周囲の風景が豹変したこと(瞬間移動だという!)、自衛隊員が一般人の指示に従って作業用ライトの設置を行うこと。そして今、自分たちの耳に間断なく鉄と鉄がぶつかり合い苦痛と怒りと絶望を含んだ悲鳴が聞こえてくるこの状況。全てが信じられないことばかりだった。いや、ちがう。信じたくないのだ。もういい。早くこの場所から出て行きたい。でないと頭がおかしくなりそうだ。明後日は作業予備日? 勘弁してくれ。今日中にでも終わらせてやる。
誰も私語を交わさず妙に作業効率がいいのは全員そう思っているからかもしれない。
大迷宮・第三層 九時四二分
間断なく化け物たちは押し寄せてくるが通路の広さには限界がある。三部隊九人の戦士が並ぶと二〇mあまりの通路を全てふさぐことができた。陣形としては前衛で防ぐもの、傷ついたら交代するもの、さらに予備として九部隊二七人の戦士たちが順番に戦闘し、タイミングを見計らっては術者たちが最前列の直後まで上がり術を放つようになっていた。本日の作業の眼目である第三層、工事が開始されてからすぐに開始された怪物たちの反攻は第一層のような人海戦術とは違い統率だっており、互いをカバーしつつまた治療術師もいる敵との戦いは否応なく膠着するものと思われた。それは問題ではない、と黒田聡(くろだ さとし)は思っている。一つには自分たちの目的は工事が終わるまで時間を稼ぐことだから長期化はむしろ望むところだということ、そして一つは今日から加わった助っ人である。奥島幸一(おくしま こういち)という事業団理事でもあるその男性は、この街の戦士ならば否応なく気づくその力を持ちながらも「今日は剣を使う気ないんで、お前ら頑張れよ」 と言ってのけた。冗談なのか? 同じ人間を助ける気がないと? その不満も相手が悪く誰も言葉の真意を確認できないまま最初の襲撃を迎え撃ったとき、ようやく奥島が何を言いたいのかわかった。
彼は都合七つもの布袋を足元に置き、珍しい鉄製品をリュックから取り出した。アルファベットの『Y』の字をかたどった金属製の棒、Yの字の二股の先端を太いゴムがつないでいる。子どもの頃はよくこれでカラスやスズメや幽霊屋敷と噂される家のガラスを狙い打った、いわゆるパチンコだった。しかし懐古の玩具に違和感を与えているのはそのサイズだった。黒光りする金属製の棒は野球のバットの握りほどの太さがあり、伸びる両肢の長さは大人の肘から手首ほどもある。重量はゆうに二〇キロを越すだろう。ゴムバンドは以前経験したパラグライダーの命綱ほどの幅があった。それを無造作に持ち上げ、布袋を二つ(これも、探索者の男たちが両手で担いだものだ!)肩がけにした。
ゴムバンドが空気を切り裂き叩く音は広い迷宮の両端の壁に反響した。そして迫り来る怪物たちの中、そびえる緑龍の頭が一つ消滅した。頭ではわかる。頭では、このちょっと大げさな玩具から弾き飛ばされたゴルフボールが緑龍の頭部を粉砕したのだとわかる。しかしどうしても信じられない。黒田はかつて、探索者の一人星野幸樹(ほしの こうき)が同じく緑龍の頭を拳銃で撃ったところを見たことがあった。そのときは、緑色のキチン質の皮膚に小さな黒点がうがたれただけだった。拳銃ですらこのように消滅どころか破裂すらしていなかったのに。
それ、拳銃並みですか? 呆然として訊く。馬鹿言っちゃいけないよと答えが返ってきた。銃弾ってのは空気抵抗を考えられた形状だから、遠距離になればなるほど鉄砲の方が有利に決まってるじゃないか。まあ初速は俺のパチンコのほうが速いけどな。
背筋が凍る。それを危険を知らせる感覚がかき消した。ゴルフボールの雨をかいくぐった敵がすぐそこに迫ってくる。緊張と恐怖を実感しながらもしかし気分は昂揚していた。先方がどんな戦術を選択しようとも治療術師が怪我を回復させようとも、こっちは無慈悲に数秒に一匹ずつ即死させる男がいる。あとは目の前の敵を防ぎ後背を守るだけだ。訓練された大型犬の頭を叩き割った。
迷宮街・第三層 十一時四分
一体何匹いるのか。数度の突撃を受け止め跳ね返し、疲労で朦朧としている頭で思った。隣りでやはり肩で息をしている笠置町翠(かさぎまち みどり)が「ちょっとごめんなさい! 休ませて!」 と叫んだ。俺もそろそろ休むか。しかし理事の娘が抜けて弱体化するわけだから、自分と同等に頼れる第一期の戦士が必要だった。後ろで待機しているのは誰だ? と声をかけると「光岡です!」 と第一期の戦士が名乗りをあげた。悪くはないが、もうひとふんばりかな。せめて隣りの戦士に誰がくるか確認してから――
肌が総毛だった。しかし嫌な感じはしない、警戒でも恐怖でもない、単に肌が異常を伝えてきた。その違和感に耐え切れず、目の前のネズミ面に鉄剣を叩きつけてからちらりと横を見た。そして横の戦士と視線が合った。
そうか、と納得する。
お前にはエーテルを無意識に利用する才能があるという説明は受けていた。無意識にというくらいだから本人にその自覚はない。しかし訓練場では自分と同レベルの仲間たちが苦戦する化け物に自分はまったく苦戦してこなかったその事実は不思議に思っていたから、その説明を聞いて「ああ、そうだったのか」 と納得したのは確かだ。それでも『迷宮内では最強の』という言葉は失礼だと思う。とにかく今までその才能を理解はできなかったのだ。それが覆った。
隣りにいる男は真壁の部隊の戦士で青柳誠真(あおやぎ せいしん)という名前だった。よく話したことはなかったが、副業が僧侶という変り種の一人だ。彼も自分と同じ種類の才能があると聞いていた。その彼が隣りで臨戦体勢になった瞬間にわかったのだ。自分と隣りにいる男の才能が。
肌がピリピリとしている。空気中のエーテルが全て自分たち二人に集まってくる気がする。振り下ろす剣が妙に軽く感じられる。そのくせ迎え撃った鉄剣を叩き折った刀身は腰まで化け物を切り裂いた。その一撃に、続こうとしていた化け物が後じさり攻勢が一瞬やんだ。
「青柳さん! 大変なことが起きてますね!」
「まったくです! 次からはぜひ同じ部隊になりましょう!」
これまでの仲間への義理もしがらみもない。自分たちはまとまって行動すべきだと心から思った。しかしその昂揚感をかき消して警告がもたらされる。先ほど受けた左腕への切り傷の痛みがなくなっていた。まずい、とぞっとする。あまりの興奮状態でいまは痛みを忘れてしまっているらしい。いくら身体が調子よく感じられても、痛みすら判断できないようでは好ましい状況ではない。代わり時か、とちらりと傷口に視線を落とし、そして絶句した。
ツナギを切り裂かれ補修の布地をあてることもしないまま戦っているそこには浅いが広い切り傷があるはずだ。しかし今見下ろすと、それは完全に治癒していた。血で汚れた中、うすいピンク色の皮膚が復活している。誰かに治療されたか? いや、基本的に要請しなければ治療されないはずだった。その答えは身体を駆け巡る活力がおしえてくれた。この身体は、軽い治療術並みの回復力を持ちつつある。それもこれも隣りにいる戦士との相乗効果だった。他には考えられない。
突然その感覚が消えうせた。愕然として隣りを見る。
第一期の戦士の一人がもと僧侶の身体を引きずっていた。首筋からは大量の出血。怪我の具合を調べるまでもなく黒田は何が起きたのかわかった。あのぞっとするような、半身を引きちぎられたかのような喪失感。
鉄剣を振る腕が重い。疲労は相変わらずのはずで、いま彼を襲っているのはなまじ経験した絶好調の反動だった。俺も死にかねないな、と冷静に思い誰が待機しているかを後背に問うた。「津差」と返答は短く力強い。交代! と叫んで巨人とすれ違った。
同じ部隊にはなれなかったな、と一瞬だけ残念に思った。
大迷宮・第三層 十二時五九分
熱意に満ちた顔が再び意見を上げに来た。この男は、とその正義感は好ましく思いながらも苛立ちを抑えられない。星野幸樹(ほしの こうき)は部下にあたるその士官を睨んだ。
「俺たちにも防衛に加わる許可をください!」
やかましい、と取り付く島なく無視する。この場ではあいつら探索者のほうがお前らより強いって事実を認めろ。
しかし彼らも国民でしょう!? というその声はもう悲鳴に近かった。彼らが命をかけているのに――壁際に積まれ、保護色のカバーがかけられた小山を見て言葉が詰まった。手を伸ばしてその襟首を掴み、顔のぎりぎりまで引き寄せる。うろたえる表情を睨み据えた。
「銃剣道でなんとかなる相手じゃねえぞ? お前らが貢献するには銃を使う必要があるが、お前が懐に持ってる銃も弾も火薬もお前のものじゃねえんだよ。任務に使うために国から貸されたものなんだ。そして任務にはあいつらの命を守ることは入っていない。こんなことで弱音吐くな」
そして乱暴に突き飛ばす。
「その弾は探索者の壁が崩れた時に使うもんだ。そしてそのときはまだ俺たちの中でまだ生きてる奴らがいても気にせずなくなるまで撃ち尽くせ。今吼える力があったらその覚悟練っとけ」
「星野さん、今のは失言ですよ」
聞きなれた声に視線を向けると二人の男が歩いてきていた。ツナギは返り血に汚れているがまだまだ二人とも無事な様子である。片方は第二期の戦士の一人で真壁啓一(まかべ けいいち)、もう一人は理事の甥だとかいう水上孝樹(みなかみ たかき)という戦士だそうだ。水上とは初めて会話するが、身のこなしからわかるその実力に背筋が伸びた。士官を突き飛ばすと彼は来客に遠慮して立ち去っていった。
「『俺たち』の中でまだ生きている奴、って星野さんを探索者に数えないでください。星野さん撃ち殺していいわけないでしょ。今は迷彩服着ているんだから、あくまで自衛隊のボスとして設置工事を守るための判断してくれなきゃ」
おどけた言葉と裏腹に真壁の顔は真剣そのものだ。状況が悪いことを実感しているのだろう。
猛攻が始まってから二時間が経った。一向に勢いは弱まることもなく、理事はすでにゴルフボールを撃ち尽している。今はそのかわりに鎖につけられた分銅を振るっており、その分銅はゴルフボールのスリングショットよりも多くの化け物を殺していた。津差ですら大なり小なり怪我を負い何度か交代している中で理事だけが疲れる様子もなく淡々と戦闘を続けている。『人類の剣』という超常の存在の恐ろしさを実感する思いだった。で? と真壁に問う。茶飲み話をしに来たのなら水筒を取ってくるが? 水分と栄養補給はしっかりと義務付けられている。真壁は首を振ってから水上を見た。水上が一礼して口を開いた。
「五人貸してもらえませんか。地下の探索に慣れて腕の立つ人間を」
いぶかしい表情で先を促す。
「この状況は明らかにおかしい。もう私たちはかれこれ千匹以上は地獄に送っているはずです。敵の構成も変化してきて、明らかに子どもであったり非戦闘職であるひ弱な化け物も現れはじめている。相手の判断には足し算も引き算もないような気がします。この戦争に関しては」
それは星野もおかしいと思っていた。出がけに商社の技術者に話を聞いたところ、怪物たちの体のサイズ、移動手段、地下だから耕作などできない環境などを考えて一層につき全てのコミュニティあわせても三〜四万程度だろうと推測されていた。未開部族だからそのうちの戦闘階級が二五%だとしても七千五百〜一万匹。もちろん推測が外れている可能性はあるが、もし当たっているとしたら戦闘階級の一割以上を失っていることになる。そんな戦争を続ける指揮官がいるはずがない。絶対に退けない理由があるのではないか? しかしそれがわからない。水上は壁面の一つを指差した。
あの横穴は化け物が出入りできるサイズだけど、あそこからはまだ誰も出てきていません。そして私の勘が告げているんです。あの奥に何かあると。なにより防衛地点からゴンドラ設置場所までの壁面で怪しいところってあそこだけですから。とりあえずあそこの横穴を広げてもう少し調べてみたいと思います。でも私には探索の経験がほとんどない。戦うことならできますが。だから、その経験を持った人たちを五人貸していただけないでしょうか。
星野は考え込んだ。横穴の奥に何かこの事態を打破する可能性があるとは限らない。しかしないとも限らない。その為に第三層を探索できるような人間を一時的にせよ防衛線から裂くのは難しい判断だった。しかし悩んだのは一瞬だけ、隣りで紹介者たる自分の役目は済んだと、防衛線にちらちらと視線を送っている男を見た。突然自分の名前を呼ばれて真壁は驚いたようだった。
「お前が率いろ。最精鋭部隊のリーダーを動かすわけにはいかないが、パニックになるような奴にも任せられん。お前と水上さん、あと四人選べ」
冗談でしょ、という言葉を眼光で黙らせる。真壁は一瞬だけ呆気に取られたようだったがすぐに表情を改めた。
「葵、常盤くん、児島さん、――南沢さん」
「翠ちゃんは連れて行かないのか」
水上の声は責めるでもいぶかしむでもなく淡々としている。
「後衛には完全に安心してもらわなければいけません。あの横穴は入り口さえ広げれば中は広いようでした。であればサイズの大きな前衛が後衛に安心感を与えます。津差さんか南沢さんで考えれば明らかに頼れるのは――」
説明の言葉は流れるようだったが、それが突然途切れた。苦しげな表情は小刻みに震えていた。
「すみません。四人には本当に申し訳ないと思っています。――でも、俺たちのほうが危険だって気がするんです」
視線を斜め下に、言葉を搾り出すように。そんな場所に翠を連れて行きたくないんです。すみません。そして視線をあげた。
「俺にはリーダーはムリです。俺の代わりに、たとえば黒田さんとか」
星野は頭をかいた。
「その言葉だけでもお前を推すよ、俺は。お前は私情と効率を結びつける方法を知っているみたいだ。基本的にずるいんだろうな。そして、そういう奴じゃないと危なっかしくて任せられん」
そして水上に視線を移した。
「五分で準備を整えます。それで宜しいですか?」
水上は満足げに頷いた。じゃあ五分間支えてきます、と呟くと軽い足取りで防衛線へと向かっていった。真壁は緊張感が途切れたかのようにその場に片膝をつき、しかし懐からは地図を取り出した。
大迷宮・第一層 十三時〇分
完成! 嬉しそうな声に、油断なく濃霧地帯に置いていた視線を後ろにやった。事業団理事で優れた魔女である笠置町茜(かさぎまち あかね)が設置なったゴンドラの中で笑っている。すでに第一層の工事は終わっており、その場には進藤典範(しんどう のりひろ)が指揮する護衛一部隊と理事しかいなかった。そのせいか、昨夜のような組織的な攻撃どころか遭遇さえ起きなかった。
おいでおいで、と招き寄せる手に駆け寄った。
ゴンドラは天井に取り付けられた滑車にぶら下がっている。ぶら下げる部品はイメージ画では鎖だったが、実際には太いワイヤーとなっていた。それはいい。視線を下にずらしていく。ワイヤーは八本に別れゴンドラの上部八点をつなぎとめていた。その接合部分で怪しくきらめくのはこの迷宮特産の石。理事たちが馬車馬のように働き、精鋭四部隊が自分たちの装備を後回しにして供出して集めた石はふんだんに使用されてこの設備を護っている。それはいい。問題は、と改めてゴンドラを見やった。
ゴンドラの基本の色調は、緑。少し潰れた球状をしたそれは、ワイヤーと結びついている八点それぞれを頂点とするふくらみを備えていた。およそこの国で暮らすものならば見失いようのない、それは野菜の一つかぼちゃの形をなしている。乗降口には両開きの扉がついておりそれにはロココ調の細工が施されていた。ゴンドラ内部から外をうかがう窓ガラスの縁取りも金色のツタ模様。そして極めつけはゴンドラ下部に取り付けられた四つの車輪だった。
何度見ても納得ができない。自分は今後これに乗ることになるのか? 本当に?
自問自答している進藤をよそに、仲間の倉持ひばり(くらもち ひばり)が声をかけた。彼女は理事の親戚にあたるという。
「茜おばさん、これってやっぱり一二時過ぎるとカボチャに戻っちゃうの?」
理事は眉をしかめて首を振った。ほんとはそうしようと思ったんだけどね。もしも時計が狂って誰かが乗っているときに一二時だと判断したら、何人ぶんかのプレス死体が出来上がっちゃうからね。にっこりと最高級の笑顔にぞっとしてあいまいな微笑を返す。
じゃあ入って、と皆を手招きした。五人がぞろぞろと入っても内部は狭苦しくは感じなかった。さすがに外見はカボチャの馬車に似せたとしても、内部にはクッションなどはつけられないらしい。金属を剥き出しにしたベンチは地下の空気に冷やされて、ツナギ越しにもひんやりと冷気を伝えてきた。斜め向かいに座った進藤にこりゃ、座布団がいるねと話し掛けた。
「もっと光を!」
理事が呟くと天井のライトが蛍光灯の光をともした。おおおと五人から拍手が響いた。次いで理事は、夏は夜! と呟いた。モーターが起動する音が鳴り響き、機械の暖気が始まったことがわかった。
「各階に移動するには合言葉を使います。枕草子の序文、春夏秋冬のフレーズね。第一層から第四層にあわせて覚えておくように。各階からゴンドラを呼びたいときは上へまいります、下へまいりますのどっちでもいいわ。でも気分出して言ってほしいな」
暖気が終わったのか、本格的にモーターが回転する音が始まった。そして一度の衝撃の後ゆっくりとゴンドラが降下していった。再び五人の間から拍手がわき起こる。倉持は窓から下を眺めた。各層の高度差は数メートルしかなくすぐに第二層の上空に出た。驚いたことに第二層では本日の予定であるタラップはおろか、明日の予定だった防護のための柵まで完成していた。ゴンドラから見えるところにまで怪物たちの死体が転がっているところから一時は危なかったのだろうと推測できたが、今は全てがゴンドラを見て歓声を上げているようだ。懸命に数える。六〇人がそこに並んでいた。第二層の警備についていた探索者はほとんど第二期で一三部隊七八人。死者は一二人だろうか。被害は決して少なくはない、しかし満足していい結果だと思う。
大迷宮・第三層 十三時六分
ちょっと、ごめん。呼ばれてやってきた南沢浩太(みなみさわ こうた)はそう断ると床の上に大の字になった。たちまちのうちにいびきをかき始める。その姿に真壁啓一(まかべ けいいち)は自然と頭を下げた。自分が無茶を言っていることがわかったからだ。
大きく伸ばされた四肢、ツナギはすでに補修の布をさらに補修するようにボロボロになっていた。それだけ防衛線の最前線にいることが過酷なのだが、それよりも先に理由があった。
現在第三層に展開している部隊は第一期をほとんどとする十二部隊七二人。その中に、第四層まで到達している精鋭四部隊と呼ばれる部隊は二部隊しか加わっていなかった。真城雪(ましろ ゆき)、湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)両名が率いる部隊は昨日未明の第一層での反攻に対して援軍として駆けつけ、その後大事を取ってその二部隊は詰め所で常駐していたのだった。各人のツナギは現在鍛治棟で修復され、一五時に再び両部隊は集結する。それまでは休息をとることが彼らの任務だった。湯浅の部隊は秋谷佳宗(あきたに よしむね)、内田信二(うちだ しんじ)、小笠原幹夫(おがさわら みきお)栗村真澄(くりむら ますみ)、西谷陽子(にしたに ようこ)、そして湯浅の六名。アマゾネス軍団は真城、落合香奈(おちあい かな)、神田絵美(かんだ えみ)、野村悠樹(のむら ゆうき)、鯉沼今日子(こいぬま きょうこ)、そしてここにいる南沢浩太。この巨人は詰め所での仮眠を泥と返り血で汚れたツナギでとっただけで今日の八時半の集合に現れたのだった。さすがに心配した高田まり子(たかだ まりこ)、星野幸樹(ほしの こうき)両リーダーが同行を拒否したものの肯んぜず、黒田聡(くろだ さとし)の「ここで口論していたら、真城さんたちがここにくるまでこの人は帰りませんよ。そしてアマゾネスたちが来たら当然の顔をして降りてくるだけです。いま、休むってギアはないみたいです」 という言葉にしぶしぶながら同行を認めたのだった。正直なところ、星野の部隊は先日越谷健二(こしがや けんじ)という超一級の戦士を失い新たに仲間にした狩野謙(かのう けん)にはその代わりとしてはまだ不安なところがあったので助かるといえば助かる。それに津差龍一郎(つさ りゅういちろう)といいこの男といい巨大な肉体には周囲に安心感を与えるだけの力強さがあった。
甘えているのはわかっている。しかし、ただでさえ不安な自分の指揮で不慣れな闇の中を進むのだから、他人を思いやる余裕は自分にもなかった。本人が大丈夫だと言うのだから甘えるしかないと思っている。
「真壁さん」
いつのまにかそばにきていたらしく、固い表情をした笠置町葵(かさぎまち あおい)が自分を見上げていた。事情は訊いた? という言葉にうなずきが返ってきた。すまない、危険だと思うけど一緒に来て欲しい。その言葉に葵は私は平気だけど、と相変わらず表情が固い。
「どうして翠を外したの?」
用意した回答を読み上げようとして動きが止まった。ここで嘘を言うようでは信頼されない、と思ってしまう。それは即座であるべき自分の指示に逡巡を与えるかもしれない。なにを言われてもいい。自分についてきてくれる人間に嘘は言いたくない。両目をまっすぐに見た。作業員のガスバーナーの光が葵の顔半分を照らした。
「俺のわがままだ。危険なところに連れて行きたくなかった」
葵はじっと自分を見つめたまま動かない。数秒して大きく息を吐いた。翠、きっと怒るよ。真壁はうなずいた。
「やだからね私。お願いだから真壁さん帰る日までには仲直りしてよね」
まずは生きて帰ろう。そう答え、騒がしいブーツの音に顔を向けた。残りの三人が小走りにこちらに向かっていた。
いびきがやんだ。かと思うとそこには一九〇センチちかい筋肉の塔が立ち上がっていた。少なくとも、と葵が呟いた。
「どういう理由があろうとも、今に限っていえば前衛で頼もしいのは翠よりは南沢さんだわ」
真壁は残りの五人を見回し、懐から第三層の地図を取り出した。
大迷宮・第三層 十三時二五分
お前のそれいいなあ、と呟いた声は低く小さかったために津差龍一郎(つさ りゅういちろう)はまず自分の正気を疑った。化け物たちはさすがに力押しの愚を悟ったか今では五〇メートルほど離れた個所で陣を敷き、しきりに威嚇の声をあげている。それは絶えることなく壁面に反響して決して近くない距離にも関わらず、探索者たちの陣にあっても大声でなければ会話が成立しない状況を生み出していた。だからその中でこんなかすかな、ささやきともいえる呟き声が耳に届くはずがないのだ。幻聴か、実は疲れているのかな、とこきこきと首をひねった。津差自身はまだまだ戦える。ツナギのポケットから探索者基本セットの一つ、Gショックの懐中時計(迷宮街限定!)を取り出した。一三時二五分。周囲を見渡すとほとんどが津差と同じように地面に座り込み、肩で息をしている。
これじゃいっそのこと接敵している方が楽かもしれないと少々の焦りとともに感じた。電気設備の未設置な場所であるために、既に作業が終わり八基の作業用ライトのうち六基を防衛線を照らすために使用しているとはいえ、迷宮内部はあくまでも普段慣れている状況よりも暗い。その中で間断なく響く威嚇の声は実際に姿が見えない分だけすさまじい恐怖心をもたらしていた。
そんなことを考えていたら頭をこづかれた。なんだ? と思い見上げると理事である奥島幸一(おくしま こういち)が自分を睨んでいる。慌てて直立したら奥島はうろたえたようにあとずさった。すみません、なんですか?
いや別にそれほどかしこまることじゃないんだが、お前の剣は頑丈でいいなと言っただけだ。そう言う奥島の手元は鎖の先端の分銅、ひしゃげてしまったそれを新しいものに付け替えている。津差の剣は調査のために鍛冶棟から貸与された特別製だから気づかなかったが、普通なら武器が壊れるほどの戦闘を経過してきたのだった。替えの鉄剣は大量に置いてあるが自分の使い慣れたサイズというわけにはいかない。今後これがネックにならなければいいけれど。とにかく理事には、自分のは特別製ですからと微笑んだ。
その微笑を地響きが曇らせた。これだ。先ほどから何度か聞こえてくるこの無気味な音は一体なんだろう? しかも今度の地響きは――近い。それはもしかして、怪物たちが後退した事とかかわりがあるのだろうか? 暗闇は自分の心も侵食しているらしく全てが不安に感じる。馬鹿を言うな、と自分を叱咤した。もしも敵さんに手っ取り早く俺たちを撃退する手段があるのなら、もっと早く使っているはずじゃないか・・・。
取り留めのない思案はさらに意外なもので中断された。さらに大きくなっている地響きを圧するほどのそれは背後から聞こえる喜びの歓声だった。こんな状況で、誰が? 奥島も気になったらしく、兄ちゃんちょっと振り向いてくれないかと小声が届いた。これほどの達人となると、この威嚇と地響きと歓声の中でも届かせるささやき声を使えるらしい。津差は振り向いた。
少なくとも地響きの正体はわかった。上下にうがたれた縦穴を異様なものが降りて来ていた。転移の術ですぐに第三層に来た津差はそれを見たことがなかったのだ。外見にこだわる性格でもなかったので迷宮街に広まっていたゴンドラのイメージスケッチも見ないでいた。だから、作業用の照明を浴びながらゆっくりと降りてくるカボチャの馬車は理解を受け付けなかった。説明しづらいものが降りてきていますとだけ答え、実際に見てもらおうと思って敵のいる方向に視線を戻した。代わりに振り返った理事は自分よりも事態を把握したらしく、もうゴンドラは動くのか! と喜びの声をあげた。これで作業員と自衛隊員を帰せるな!
そうか、やっぱりあれは趣味の悪い悪夢ではなくゴンドラなのか。自分は今後あれに乗るのか。自分がその窓からにこにこと外を覗いている姿を想像した。そのアンバランスは却って愉快に感じられ口元が緩む。
「ナミー! 無事!? ナミー!」
聞き覚えのある声はアマゾネス軍団のリーダーである真城雪(ましろ ゆき)のものだった。津差はもう一度時計を見下ろした。彼女たちの部隊は一五時に集合して到着は早くても一六時のはずだ。どうしてこの時間に来ている? ナミー、返事をしてよ! という悲鳴のような真城の声、おそらく仲間の危険にいても立ってもいられなくなったのか。しかしこれは、正直ありがたい。まだ続く歓声はゴンドラが出来上がったこともあるだろうが、彼女たちがやってきたことにも向けられているはずだ。
疲労を忘れさせてくれる浮き立つような気持ちを突き動かされ、津差は腹の底から咆哮した。隣りで理事がぎょっとしたように見上げてからにやりと笑い同じく野太い叫び声をあげた。疲れきった探索者たちも、自衛隊員も、作業員たちもみな和し洞窟内部を震わせる。怪物たちの威嚇の声は完全にかき消されていた。
大迷宮・第三層 十三時三五分
たぶんビンゴですよ水上さん。作業員たちがプロの面目躍如であっという間に広げて二人ずつなら通れるようになった空間に入り込んですぐ、常盤浩介(ときわ こうすけ)が言った言葉だった。壁を抜けたそこはかなり広くまっすぐに東に向かっている。ヘッドライトでかすかに照らされる程度に両側の壁は広かった。ビンゴの理由をおねがい、とリーダーである真壁啓一(まかべ けいいち)が促すと常盤は続ける。
「いくつかの点で変なんです」
まず一つは小動物の気配に至るまで感じられないこと。
そして一つは――床の一端をライトで照らす――あそこ、おそらくおおきな出っ張りがあったのに均されてます。歩くのに邪魔だからです。明らかにここを平らで集団が歩きやすい場所にしたい意志があるということ。
そして何よりも、前方からとんでもない質量のエーテルが吹き寄せてます。児島さん、葵ちゃん気をつけて。ここで術を使ったら通常の何割増しかになると思うよ。二人も緊張で青白い顔で頷いた。彼らにもわかるのだろう。
小動物の気配に至るまで? と訊きかえした言葉に頷きが返ってきた。ええ。怪物の気配もまったく――言葉がやむ。
「どうした?」 児島貴(こじま たかし)の言葉を受けて、問うような視線を真壁にあてた。言ってみろ、という思いを込めてうなずいた。
「この通路の突き当たり、距離五〇メートルくらいのところに生き物がいます。全部が俺たちより一回り大きなサイズの、今まで見かけなかった感じです。それ以外のエネルギーがあんまり濃密なんでこの距離まで気づきませんでした。数は三〇匹ほど。こっちを警戒しているようですが、攻めてくるつもりもないようです」
そして、勘ですけど何かを守っているんじゃないかなと付け加えた。
真壁は水上孝樹(みなかみ たかき)に視線を送った。自分とは天と地ほどに実力が違う戦士は肩をすくめた。俺は考えないよ。君が死ねといったら死ぬから遠慮なく言ってくれ。他の皆が一斉に頷く。
真壁は考え込んだ。これまで出会ったことのない種類の生き物、そして何かを守ってでもいるような布陣。何かに執着しているような怪物たちの攻勢。そういった全ての鍵は、目の前にいる化け物たちが握っているように思える。問題は奴らをどうするかだ。第三層が精一杯の自分たちの部隊、強力な戦士二人にドーピングされているとはいえ攻め込むのは荷が重いのではないのか。幸い、物音から察する限りでは化け物たちの攻勢はやんでいるようだ。一度戻り最強の布陣で望むべきではないのか。
肌を何かが通り過ぎていった。真壁さん! と術師三人となぜか水上が自分の腕を掴んだ。
「奥から俺たちの来た方に何か飛んでいきました」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、もときた方向からときの声が聞こえてきた。硬直している集団をよそに、再び戦闘の音が響き渡った。
「勘だけで指示して本当に申し訳ないと思います。でも、今の攻勢は奥にいる何かが命令を飛ばしたからのような気がします。奥にいるのがそんなに重要な存在なら、殺さないといけない。そして今はどうやら時間がありません――」
「ひとことで言え。俺たちをなめるな」
低い声は頭一つ高いところから降ってきた。大型の草食獣の穏やかさをイメージしていた巨人、今まで一度も目が合ったことのない彼の射抜くような視線とはっきりした言葉。真壁は気おされ、つばを飲み込んだ。
「奴らを殺します。死んでください。俺が死んだら常盤が指揮をとって逃げるように」
返事は待たず走り出した。
大迷宮・第三層 十三時三五分
ゴンドラはひっきりなしに上下動を行っていた。積めるだけの作業員を積み込んだカボチャの馬車は最上層に行き、そこでは五人を二部隊で守る体制ができている。作業員の数は残り一〇名。一人減るごとに星野幸樹(ほしの こうき)は肩の荷が下りていくのを感じていた。そしてそばにいる部下に隊員を集めろと命令した。
「星野さん、ナミーたちの方に援護隊で行きたいんだけど」
真城雪(ましろ ゆき)の表情は必死そのものだ。長い付き合いの星野はこの女性の情の深さをよくわかっていた。仲間の一人が自分が寝ていた間も地下で危険に立ち向かい、なおかつ集団を離れてさらに危険かもしれない探索行に赴いているという状況が耐えられないのだろう。星野はもちろん反対だった。しかし目の前の剥き出しの感情をなだめる言葉が見つからない。
「ダメですよ真城さん」
会話を聞いていたのかそこには笠置町翠(かさぎまち みどり)が立っていた。真城と同じように、仲間たちがいま危険かもしれない場所に赴いている娘。自分に知らされずメンバーから外された娘はしかし平静なようだった。
「孝樹兄ちゃんと南沢さんがいて戻ってこれないなら、私たちが何人で行っても二重遭難です」
ぐ、と真城は言葉につまる。
「真壁さんは絶対に戻るって伝言していきました。だから戻ってきたらひっぱたくでもなんでもしてくれって」
二十歳そこそこの娘の整った顔、頬は震えて目は涙がにじんでいる。
「だから待ちましょうよ。おとなしく待ってないとひっぱたけないから。もっとも私はたくさんパイを作って全員の顔に叩きつけてやる気ですけど」
張り詰めていた女帝の空気がゆるんだ。そうだね、と翠の肩に手を置く。ただのパイじゃアレだから、唐辛子の味のとか作ろうか。そうですよ。娘は笑い、涙がこぼれた。
そのとき、これまでひっきりなしに響いていた威嚇がやんだ。三人ともがそろって防衛線を見つめる。そして一瞬後、すさまじいときの声が響いた。殺到する足音。
「行くぞお前ら! あたしらだけでこれから一時間支えるよ!」
女帝が高らかに叫ぶ。気力の充実している最精鋭の一角部隊が同じく声をあげ、女帝に従って走り出した。その斜め後ろには理事の娘であるサラブレッドも走る。星野はそれを見送ってから、集合した自衛隊員二〇人を眺めた。
「もう俺たちの守る相手はいなくなった。あとは俺たちもとっとと帰るだけだ。でも俺たちを護衛する探索者の部隊がまだ準備できていないって連絡が入った」
隣りにいる士官がくすりと笑う。ゴンドラだけが開通しているこの状況で、上層のそんな最新情報をどうやって取得したというのだろう。しかし誰もその点はとがめない。彼らは上官の性格を知悉していた。彼らにとっても待ち望んだ時がやって来たと皆が気づいている。長かった、と心から思う。
「で、だ。上の準備ができるまであと二時間くらいはあるらしいからな。ここらで実弾訓練をやってもいいと思うんだが。もちろん何か言われたときには俺の名前を出していい。ちょっと向こうまで」
と、戦闘が始まった防衛線を指差す。
「ちょっとあっちまで行って、今日用意してきた国民の血税を全弾撃ち尽したい奴はいないか? 反対の奴は手を挙げてくれ。そいつらはここで待機だ」
ああ、もちろんと部下に当たる士官二人のうち一人が付け足した。何が起きても責任はここの三人で止めるから。
「どうだ?」
星野の確認にも一つとして手はあがらない。全ての視線が命令を待って、上官でありいま死線にいる者たちの仲間である男を見つめている。鉄と鉄のぶつかり合う音が響く。
大迷宮・第三層 十三時三六分
児島貴(こじま たかし)がたった一つ欠かさない訓練がある。それは山中で地面を見ないように走ることだった。山に慣れれば足の裏にも目ができる、とある登山を趣味とする探索者に教えられて以来無理を承知でやっている訓練だった。全職種共通で必要なことだったら他の人間にも勧めただろう。しかしそれだけの効果を確信できないままに空いた時間を見つけては比叡山のふもとまで出かけては斜面を転げ落ちている。
理由は治療術師の重要な役割にある。迷宮内部の化け物たちに対しては戦士たちよりも術師のほうがはるかに強力な攻撃力を持つように、敵方の術師たちの行動によって部隊の生死が決するのが地下での戦闘だった。そして治療術師には、敵方の術師のイメージ集中を阻害して無力化する術がある。これを敵よりも早くかけること、それが治療術師の重要な仕事の一つだった。訓練はそのためのものだ。敵に対して走って近づく際、視線を常に敵の術師に置けるかどうか、常に術師との距離を掴んで影響距離に入った瞬間にその術をかけられるかどうか、それをつきつめようと思ったら足元に視線を送っている余裕などないのだ。足の裏に目ができればそれが実現できるのではないか。
特に、と視線は怪物たちの一点、ただ一匹小柄な化け物に据えている。奴は効果範囲に入ると同時に何らかの術をかけてくるだろう。奴の技量がもしもこちらの魔法使いと同じだけあったら自分たちは近づくこともできずに死ぬ。慎重に距離を読みイメージ集中を開始した。小走りに運ぶ足は不規則なでこぼこに惑わされずその身体を運んでいく。
大迷宮・第三層 十三時三六分
葵! と先頭左翼を走る真壁啓一(まかべ けいいち)から声がかかった。俺を援護しろ! 二人はいい!
背中にべっとりと汗をかく緊張と恐怖の中で改めて、すごい人だと感嘆した。先陣をきって走りながらも自分が一番弱いことを簡単に認め、自分は全員が生きるためには死んではならないことを理解し、自分を守るために術を使えと要求する。この男には、いわゆる男の意地とかそういうものはないのだろうか? もとよりその指示は自分の思惑と同じ、これまで温存していた吹雪の術のイメージを開始した。
「吹雪起こすよ! 念のため普段より一〇メートル距離おいて! ごー!」
走りながら集中を開始する。ぞわ、と嫌な予感がした。あまりに濃密なエーテルが、目の前の集団たくさんの戦士たちに守られた生き物に集まっている。つややかな毛皮を身体にまきつけて比較的小柄なその化け物の精神集中が痛いほど感じられた。自分が利用すべきエーテルをかなり横取りされているのがわかった。
あれは、まずい。自分がやろうとしていることよりもっと大変なことが起きつつある。
祈るような気持ちで隣りを見ると既に児島貴(こじま たかし)が両目をつぶり集中していた。
嫌な感じが掻き消えた。そして児島が小さくガッツポーズをつくる。やった、と葵は思った。一番厄介な敵の術を封じられた。あとは、戦士たちが接近する前に自分がどれだけ減らせるかだ――。この濃密なエーテルならば、あの屈強な怪物たちでも殺せる気がする。意識を集中し外部の音が消えていく。探索を開始した当初は周囲に対して無防備になるこの瞬間が恐怖だった。最近はまったく感じたことはない。絶対に守ってくれる、ではなくこの人たちに守られなかったならそれはしょうがないというくらいに信頼できるようになったのだった。自分はいい仲間に恵まれたと術を起動するたび感じていた。
「にー!」
身体じゅうをぞっとするような冷気が満たす。
「いーち!」
手を差し伸べた。冷気が球状となってそこから放たれた。
「寝たら死ぬぞー!」
目をぱっちりと開いた。そして信じられないものを見た。
予想した個所に猛吹雪が起きていた。予想通りに普段よりも広い範囲にちいさなホワイトアウトを生み出している。しかし。
それが被害を与えるべき化け物たちは一匹として立ってはいなかった。
全ての化け物、自分が術をあてるつもりのなかった集団の右手側にいる化け物たちですらすべて突っ伏していた。
「ええと、何が起こったの?」
誰にともなく呟く。
「わからない」
恋人がこれも呆然としたように応えた。
大迷宮・第三層 十三時三六分
先陣を切って走り出した背中を追った。あくまで冷静に、いい奴らだな、と気分が昂揚した。こいつら――大きな男は違うらしいが――だったら可愛い従妹たち(意識の中では妹だったが)を任せて安心だ。激戦を数秒後に控えてなおその心は落ち着いている。眼前にいるどの生き物も、何十匹集まっても剣士としての自分には遠く及ばないことを知っているから。まあ、そこの大男だとちょっときつく、従妹の恋人が戦うのは無茶ってものだけど。その背筋がぞくりと逆立った。自然と前方中央に視線が吸い寄せられた。そこに何かいやな予感がわだかまっている。
あー、けっこうしゃれにならない術使うつもりだあいつ。とりあえず封じるか。
走りながらイメージの集中を開始しようとした矢先、その嫌な予感が掻き消えた。後ろで小さく喜びの波動。部隊の治療術師が自分より早く気づき、先手を打って封じたらしい。本当にいい奴らだな。うん。一人として死なせるのは惜しいな。
よし、俺もとっておきを使おう。
なるべくなら使うな、術に頼れば剣筋が乱れると師匠に厳命されていた治療術の一つ。誰しもが持っている回復する力を裏返し活力そのものから奪ってしまう殺戮のための術。あくまで剣士たることに誇りを持っていたから自らにも使うことを禁じていたが、こいつらを活かすことに比べればそんな自分ルールは馬鹿げたことに思えた。
一瞬だけイメージを集中させ、次の瞬間には解き放った。
目に見えるどんな光も生まず耳に聞こえるどんな音も震わさず、ただ死を象徴する力が前方広範囲に広がていく。化け物たちが全て倒れ伏したのを確認して術を切断した。
大迷宮・第三層 十三時三七分
もとの皮膚の色がどうだったのかわからない。しかし六人で見下ろすその化け物の肌は、明らかに不自然な紫色をしていた。禁術の産んだ死の不健康な何かに満たされたその身体はしかしまだ息があり、ずるずると奥へと這っていく。
「なんだかかわいそう」
笠置町葵(かさぎまち あおい)の呟きに真壁啓一(まかべ けいいち)は頷いた。ああ、かわいそうだ。でもこいつらは話が通じないし、俺たちの経済的な事情とは共存できない。そして俺たちより弱い。だからこいつらは死ぬんだ。葵はうなずいた。それだけのことだ。必死に這いずるその姿は、勝者のおごりどころかいつか自分も、そして人間自体がこのようになることを予感させた。かわいそう、という彼女の言葉は目の前で逃れようと這う生き物ではなく、ついに闘いから逃れられない生物全てに向けられたものかもしれない。
唯一の術者だったそれは壁面のくぼみに入り込んだ。そこから濃密なエーテルが流れてくることは戦士である真壁にもわかった。そしてもう一つ。何か、白い岩のかけらだろうか? それを抱え込んだ怪物の身体の不自然な紫が薄れていく。
「真壁さん! こいつ回復――」
言葉よりも早く真壁の剣先がその首筋を貫いていた。最後の化け物は絶命した。
「これが鍵でしょう。普段は争ってる化け物たちがコミュニティ同士で同盟を組んで、非戦闘員まで投入して奪還したかったもの」
乱暴に死体を蹴ってどかしたそこにあるのは二つの拳大の石だった。片方は熊で、片方は蛙だろうか? そのくぼみの前に並べられた獣の皮、金属片などを見てもわかるように、それは何か地下の化け物たちにとって宗教的な意味を持つのだろう。共通で管理すべき聖なる存在。
これを奴らのところに投げ込みましょう。うまくいったらコミュニティ同士で奪い合いをしてくれるでしょう。うまくいかなくても、どこかゴンドラから離れたところ、俺たちの手の届かないところで再び祀ってもらえれば、とりあえず上下動は邪魔されずに済みます。最悪のケースだとこの回復機能でさらにきつい闘いになるかもしれませんが――俺は返したい。損得じゃなくて、奴らがここまで必死になって守るほど大切なものだから。
反論はない。真壁はツナギのポケットにそれぞれその石を収めた。
じゃあ戻りましょう。走れますか? 全員が頼もしい頷きを返した。
京都市・久保田早苗のアパート 一九時四二分
箪笥の上には二つの写真立て。両方ともに自分は映っているが、ともにいる人間が違っていた。一つには、一人の男性と男の子そして自分。一つには、一人の男性と自分。
片方はかなり前に伏せられ今ではうっすらとほこりが積もっている(それはちょっと掃除をサボりすぎたと自分でも思うけど)。一つは毎朝スカーフを選ぶ自分に笑顔を向けていた。
そっとその写真を指でなぞった。四角の中で笑う、髪を短く刈った男性は今はもうこの地上にいないらしい。そう、彼の仲間だという男の子から連絡があった。
写真立てを伏せ、畳の上にぺたんと座った。もう涙は出そうにない。あとはするべきことをするだけだ。カレンダーの日付を見た。月を越して来月まで延びるその矢印は探索者志願のテスト期間を示している。探索者でもあった恋人から聞いていたテストの方法、それに応じた体力を備えなければならない締め切りの日付を示してもいた。
結局、と先ほど注ぎ、すっかり冷めてしまったお茶の表面を眺めた。薄い緑色の湯面には思いつめた女の顔が映っている。結局、こころを満たすためには自分でその場に赴かなければならないのだろう。打つべき仇は少し重くなってしまったけれど。夫と、息子と、夫になってくれたかもしれない男性と――左手をそっと下腹部に当てる。明日、朝一番で産婦人科に行こう。探索者になっては子どもは育てられないのだから。
夫と、息子と、夫になってくれたかもしれない男性と、まだ性別もわからない、生まれて来るはずだった子の仇。彼女が失ったものを地下の化け物たちに返してもらわなければならない。お茶を口に含んだ。味など感じずにぬるい液体を飲み下した。
真壁啓一の日記 一月二四日
無事生還。無事生還。
無事生還。
薄情なようだけど、自分がいま生きてこれを書いているというのが何よりも嬉しい。
今日は朝九時から準備ならびに警備を開始し、一四時半で第二層と第三層の工事がすべて終わるまで地下で戦っていた。予定では今日の作業はタラップ、送電線、電話線の設置だけだったけど、作業員の方々が驚異的な作業効率を発揮してくださったお陰で防護柵の設置まですべて終了した。所詮これは個人の日記だけど、作業に携わった小室工務店、尾崎電機、黒澤設備工事、永井工務店各社の皆様ならびに第二層作業責任者の名栗透さん、第三層作業責任者の渡辺隼人さんには心からお礼を申し上げたいと思う。冗談でもなんでもなく生き残った探索者全てにとっての命の恩人なのだから。もし両階層の工事が明日に持ち越し作業道具を残置する必要があったとしたら、それを縦穴に落とされないために夜間警備を配置しなければならなかった。昨日の夜、第一層の夜間警備ですら三人死んだってのに第二層第三層同時となったらどれだけの被害者が出たかわからない。今回の工事の最高殊勲は誰がどう考えても作業にあたられた方々だ。
それでも探索者にも被害が多く出た。
第二層では七八人中(プラス訓練場の四教官、鈴木秀美さんのお兄さんと奥島理事のお嬢さん)で一二人が亡くなった。
有川夕子(ありかわ ゆうこ)さん
大野ふみ(おおの ふみ)さん
君田信明(きみた のぶあき)さん
小早川了(こばやかわ りょう)さん
斉藤あきら(さいとう あきら)さん
齋藤亮介(さいとう りょうすけ)さん
鈴木智英(すずき ともひで)さん
中山義経(なかやま よしつね)さん
八戸順(はちべ じゅん)さん
林由起夫(はやし ゆきお)さん
的場由紀(まとば ゆき)さん
水野圭一(みずの けいいち)さん
第三層では七二人中(プラス奥島理事、水上さん、自衛隊員としての星野さん、最後に駆けつけたアマゾネス軍団五人)七人が亡くなった。
青柳誠真(あおやぎ せいしん)さん
加藤田保(かとう たもつ)さん
久米篤(くめ あつし)さん
月原浩(つきはら ひろし)さん
富崎和歌子(とみさき わかこ)さん
藤野尚美(ふじの なおみ)さん
縁川さつき(よりかわ さつき)さん
亡くなった方についてはまだ多くは書かない。親しかった方もお話したことのない方もいるし、迷宮街で見かけたら思わず目を奪われてしまう方もいたし、部隊の仲間だったひともいる。まだ多くは書けない。ただ冥福を祈りたい。
明日の作業は、今日結局参戦せずに終わった湯浅さんの部隊、終盤だけで疲労がまだ浅いアマゾネス部隊、明日のために召集された『人類の剣』たちで現場警備を行い、星野さん、高田さん部隊が詰め所で待機することになっている。俺たちは足手まといということで休養を命じられた。正直ありがたい。おそらく俺は、明日はもう何もできないと思う。もちろん俺だけが大変だったわけではないけれど、俺にとっては今日の出来事は負担が大きすぎた。
それでも鍛治棟の片岡さんにお願いして明日の昼にはツナギを修復してもらう予定だ。だから、昼からはずっと俺も待機に加わろうと思っている。地下ではなにが起きるかわからないし、俺だって何かの役に立てるということを今日ちょっと自覚したから。それに、もう着ないと思うと綺麗な状態で記念撮影しておきたいし。ああそうだ。午前中に荷造りとかしておいたほうがいいな。翠の部屋に置いてある本も回収しないと、ってあの部屋の棚一段が全部俺の本なんだよな。他の洋服とかとまとめて実家に送ってしまったほうがいいだろう。
夜はゴンドラ設置パーティー。どうせだから俺の送別会も兼ねて俺の飲み代をタダにしてくれないかな。明後日は一人で一日かけて京都の思い出の場所とかを回って歩こうと思っているから、みんなとゆっくり話す機会はその場だけなんだよな。どうせ飲ませよう潰そうとするだろうから事前に牛乳とグレープフルーツをたっぷり摂っておかないと。ていうかホントみんなと話したいんだから、俺には飲ませないでくださいよ。
本当に、生きていられて嬉しい。寝よう。
一月二五日(日)
迷宮街・笠置町姉妹のアパート 九時七分
ドアベルの音には予感があった。覗き窓からはそのとおりの男の顔が見えた。
「毎度」
この男がここ京都で染まった唯一の言葉遣いだ。みんな多かれ少なかれ、とくに北陸や中部、そしてなぜか東北の出身者は一様に語尾に「〜や」がついていく中でこの男だけは意地でも共通語だった(うかつに関西風の発音になるとわざわざ言い直したりしていた)なかで、たぶん本人も気づかずに感染してしまった西の商売人の挨拶。
「おはよう、真壁さん」
真壁啓一(まかべ けいいち)はにっと笑った。昨日の激戦の疲れはすっかりぬぐわれたらしい。
「おはよう。翠いる?」
双子の姉の在非を問う。笠置町葵(かさぎまち あおい)は首を振った。いや、今朝早いうちから出て、三時ごろに戻るって。真壁は意表を突かれた表情をし、そして残念そうに腕を組んだ。
「翠に預けている本を取りに来たんですよね?」
ああ、葵は日記を読んでくれたんだね? さすがに翠は読んでないか、と納得したように笑う仲間を部屋に招じ入れた。今朝出かけるときに翠に訊いたんですよ。真壁さん来るかもしれないよって。そうしたら、勝手に入ってもっていってもらっていいって言ってましたよ。
「へ? 俺は自分の留守中に部屋に入られるのは怖いけど・・・。まあ、女の部屋にはエロビデオはないだろうから別に探られて困る腹もないってことかな?」
また返答に困ることを。苦笑して双子の姉の部屋に通し自分は共有の部屋にとどまった。そして畳まれて壁に立てかけてある段ボール箱を手にとった。
いま姉の部屋にいる男、彼が預けた本を取りに来ることはその日記から知っていた。姉は知らなかったと彼は思っているようだったが、わざわざそこだけぽっかりと読み落としてでもいない限り姉も知っているはずだった。何しろ疲労で倒れそうだった自分たちは死者の確認をしないまま部屋に戻り、彼の文章で犠牲者の名前を知ったのだから。そこだけ読んでいてその後の数行を読んでいないとは常識的に考えてありえない。
ではどうして姉は背突かれるように家を出て行ったのか。眠いだろうし近所迷惑だとわかっているのに昨夜遅くから部屋の掃除をはじめたのはなぜだったろう。彼が来たら使うように渡してくれと託されたこの段ボールはどう考えてもわざわざコンビニからもらってきたものだった。
姉の部屋に段ボールを持っていく。これ、よかったら使いますか? 男は無邪気に笑った。助かった!
共有の部屋に戻りコタツに足をさしいれた。隣りの部屋からは相変わらず作業の音が聞こえる。
もう逆転の目はないだろうか? ない。他の女のことで頭がいっぱいの男と一緒にいて楽しいはずはない、とは隣りの男の言葉だった。自分もときどき感じる(もっとも自分の場合は、「他の女」ではなく「他の女が象徴する何かガクジュツ的なこと」だとわかるから我慢できるのだが)から納得できた。だが、姉とあの男ではダメだ。相性は悪くないと思うけど、肝心の男はいま東京にいる恋人のことしか考えていないと傍から見てわかる。
手無しだな。あきらめてミカンを手にとる。
大迷宮・第四層 十一時二八分
それを疑ったことはなかった。狩人としての自分の能力、狩組の指揮官の常識(さきほど死んだ。ざまを見ろ!)、稼ぎを待っている妻たちの貞節、現在臨時に同盟を組んでいる隣りの村落の行動、いまこの瞬間でもこれだけ疑う対象があったが、これだけは疑ったことはなかった。すなわち自分がどういう存在なのかということを。自分はカスルでアザクだ。両親譲りの頑強な肉体をもって狩猟階級となるように育てられ、立派な戦士たちを生ませるために三人までの妻を持つことを許された特権階級。そういうアイデンティティだけは疑ったことはなかった。なかったのだ。しかし。
自分は何か別のものなのではないか? という疑問が一瞬前から心に芽生えていた。自分は実は――信じられないことだが――『神』だったのではないか? と。
アザクにだけ与えられる甲冑を窮屈に感じられる。それはそうだ。自分は『神』なのだからこんなちっぽけなものに縛られているような存在ではない。からりと剣が床に落ちた。その手を見ると、正に目の前で篭手が内側から裂けた。そして、これまでとは違う腕が現れた。青い二の腕は太い筋肉が束になっており、そこにはこれまであった体毛が見られず表面はなんだかひび割れている。指は四本しかなかったはずなのに、七本ある。アザクの手ではない。これは『神』の手だ。眠りに入る前に、聖火を囲んで祈祷師が話してくれる伝説の存在。そして『神』は自分だったのだ。
視界が高い。隣りのアザク――見覚えがある気がするが、名前は思いだせない。一瞬だけその名前を失ったことを悲しんだが、その喪失感もまたすぐに失われ一つの衝動がその心を支配した。
ひれ伏しているこの生き物たちを殺そう。
大迷宮・第四層 十一時二九分
さ、次の術をと鹿島詩穂(かしま しほ)は気軽な気持ちで視線を移した。昨日の第二層の激戦とは違い、心身ともに余裕があるのはこの日のためにさらに投入された『人類の剣』たちの存在感のお陰だった。自分の師匠や兄弟子、初めて挨拶した数人。彼らが戦闘の緊張感を少しずつ肩代わりしてくれて、自分もそうだし探索者代表として参加した二部隊ものびのびと戦えている。これは、昨日第三層のような特別な事情がない限り(今のところないような気がする)今日は死者なしで終わるかもしれない。
移した視線が信じられないものを見た。人間より少し小柄な敵の集団の後方に何か巨大なものが生まれようとしていた。思わず手が口元に伸び、悲鳴を押し殺す。
直立すれば二メートルにもなろうかというその巨躯は青銅を思わせる光沢のある皮膚で覆われている。着衣のない四肢は人間とはまったく違う原理で構成される筋肉が浮き出ておりその怪力を想像させた。巨大な身体に比して頭部は小さいのだが、左右に伸びる長大な角(羊の角のようにゆるい螺旋を描いている)のために全体としてはバランスが取れていた。鹿島はそれを文献の中で読んだことがあった。自分の使用できるような術は全て圧殺する特性を秘めた、自分が操る魔法それ自体で出来上がっているような凶暴な存在。一般人から畏れられる自分たちですら畏怖を篭めてその呼称をささげる一族の一角だった。それを悪魔と呼ぶ。
「青い悪魔・・・」
同じ衝撃を他の『人類の剣』たちも感じたらしく恐怖の波動が走り抜けた。女帝と呼ばれている探索者の横顔は硬直し小刻みに震え、それは遠目にもその生き物の力を実感したということを示している。やっぱりこの人センスがいいなとちらりと思った。
ざ、と波が広がるように戦闘相手の化け物たちがひれ伏した。眼前の脅威である自分たちの存在をすっかり忘れているその行動は、彼らもまた青い悪魔に何かの想いを抱いていることをうかがわせた。おかげで茫然自失の探索者サイドも助けられた。とはいえ自分に背を向けてひれ伏している生物に剣を突き立てる気力はないようで、こちらもまた呆然として依然として膨らみつづける青い生き物を見つめている。
「ああ、だいじょうぶよ。気にしないで目の前のを殺してって」
一人のんきな声は理事、笠置町茜(かさぎまち あかね)のものだった。いい機会だから実験できなかった術を試してみただけ。猿渡さんはソコルディは習得していなかった? 問い掛けられて鹿島の師匠が首を振った。そして興味深そうに青い悪魔を眺める。
「イタコの術・・・あれが」
世界のどこかにいる生物から、その生物を定義する情報を抜き出して別の生物に埋め込むという禁術の一つだという。そのごく初歩のもの、ある知識だけを抜き出して自分に埋め込むものはイタコとして現在の日本でもたまに見られる(九九%はインチキだったが)ものだ。それをつきつめて、生き物を構成する情報をコピーしてしまうことで別種の生き物に変えてしまう。それだけではなくコピーするときに自分の下僕として敵を殺すように命令を書き加えることもできる。
これが禁止されるのも当然だし、迂闊に実験できないことも当然だった。コピー元は定義情報を抜き取られることでこの世のなんでもない、たんなるたんぱく質とカルシウムの液体に変わってしまうわけだし(だから、たぶんこの世のどこかで一匹青い悪魔が消滅しているはずだ)、媒体として選ばれた生き物は自分の定義情報を上書きされるわけだから術が切れてももとには戻れない。さらに媒体を自由に動かすことでどんな犯罪も可能になってしまう。こういうものを見るたびに、術を生み出した先人たちに対する嫌悪感に身が震えるのだった。
「うーん!」
と、こちらはそういった鹿島の抱いている嫌悪感や罪悪感とは無縁の声で理事がつぶやいた。
「理想を言えば蚊とか蟻とかどこでもいる生き物を霊媒にできたらいいんだけど・・・とりあえずあのサイズの霊媒がいないとむりだなあ」
なんて人だ、その力と精神に恐怖すら感じながら凝視する視界の端が爆発した。ひれ伏した敵集団の真中、すでに三メートルを越える大きさにまで膨らんだ青い悪魔を中心として猛吹雪が生まれている。魔法の原理でできているあの化け物は自分が術で傷つかないことを知っている。だから自分を中心にして吹雪を起こすことになんのためらいもない。ひれ伏している怪物たちが瞬時に氷の彫像に変わっていった。
術の範囲から外れた化け物たちは愕然と顔を上げ、次いでわれ先にと洞窟の奥、横穴の奥へと逃げていった。
「これでしばらく一休みできるわね」
理事はそう呟いてちらりと青い悪魔へと視線を送る。周囲を見渡し殺すべき相手を探しているらしい青い悪魔が突然消えうせた。溶け崩れるように形を失い、それまでの巨躯にふさわしい大量の粘液が地面にぶちまけられた。唐突に洞窟内部に静寂が生まれる。化け物たちはかなり遠くまで逃げていったらしい。
鈴木秀美の電子メール
ユッコにアキ、元気ですか。夢にまで見ただろう秀美さんです。とまあ、先週会ってるんだからありがたみも五〇%増しくらいかな?(増えるのかよ)
あの日なんだけど、迷宮街に帰ったら雪ふってたよ。もうなんというか、私みたいな女にはこの街はつらすぎると思ったね(くちびる紫で/相変わらずだなお前)。うん。
えーと、カボチャの馬車設置計画というのがあって、この二三日はそれに参加してました。私がよじ登った結果、上下につながっているとわかった穴があってそこにカボチャの馬車のゴンドラを通そうというイベントでした。カボチャの馬車て! となんというかあいた口がふさがりません。センス良すぎ。添付画像はカボチャの馬車から手を振っている私の写真です。ちょっと今度、貸衣装屋でドレスを借りてもう一度写真を撮るつもりでいます。汚れないように歩く方法も倉持さんという人に教えてもらってできるようになったしね。
設置計画自体はそれほどの苦労もなく終わりました。私は地下一階で馬車設置の警備と、作業をしてくれた人たちを地上までお届けするのをサポートしました。もっと深いところではけっこう大変だったみたいだけど。
探索者として復帰するというお話は結局なくなりました。けれどアルバイトはすることになって、そのゴンドラを使うために認定試験があるんだけどその試験官をやってくれないかと理事のおばちゃんとうちのお父さんから依頼されました。なんだかクマと蛙のぬいぐるみ(なんでクマと蛙? わけわかんない)を朝一〇時までにそれぞれ決められた場所において、その日試験を受ける人たちが持って来れなかったら夕方六時以降に回収するというお話でした。基本給は月二〇万円で試験の準備をすると一回五万円らしいです。月に三回やると月収三五万円! この街のスーパーではカップヌードルが一一八円(外税)なので、えーと・・・とにかくカップヌードルよりはいい食生活になりそう(電卓がなかったらしい/すでに割り算は忘れた/そんなんで大検大丈夫か自分)。ちなみにそれを引き受ければ北酒場というお店の定食はタダになるので暮らしていく分には困りません。あとは、ほかの人(この人はすっごく身体の使い方が上手な人。名前忘れたけど)が新しく探索者生き残りのための教室を開くらしく、そこに体術と応急処置の講師として招かれています。こちらが一教室六〇分で二万円。
なんというか、これまで女の子としての青春を全て棒に振って修行人生を送ってきたけれど、それがこの月収二〇万円と歩合給ですべて報われた気がします(安い青春だな)。
ということでちょっと忙しくなってます。大検の予備校、試験官、講師、生きていくって大変。でも時間を作っていろいろ遊ぼうと思っています。
ユッコもアキも、この間は勉強でいそがしいのに時間をとらせてごめん。どうしても会いたかったので。次に会うときは女子大生だね! がんばって!
ではまた。
真壁啓一の日記 一月二五日
地上で待機していた高田&星野隊すら臨時に出る必要がなく、第二期の一〇部隊による第一層の移動護衛だけで工事が全て終了した。最終日、一番大変だと思われていた第四層だったけれどもたくさんの助っ人のお陰で無事に済んでよかったと思う。俺も午後から詰め所で待機して第一層の移動を手伝ったけどまったく問題がなかった。終わった。ほっとした。
荷造りはすべて済んで、午前中のうちに全部実家に送ってしまった。コンビニから送ったけど織田さんがすごく喜んでくれた。俺とはほとんど話したこともなかったのに、そんな関係の人間であっても無事に出て行くのは嬉しいのだろう。やっぱりきつい街だな、ここは。明日はどこに行くの? と訊かれたのでコースを伝えたらぜひ昔の町並みを見ていってもらいたいと地図を書いてくれた。あと、時間があったら彼女が通う京都産業大学にも行ってみる予定。「びっくりするよ!」だって。考えてみたら俺は自分の通う大学と、大昔の彼女が通ってた富士短期大学しか知らないんだよな。指定校推薦だったから受験で大学めぐりはしなかったのだ。だから楽しみだ。明日は晴れるし自転車で回ってみようか。ちなみに俺の無印マウンテンバイクは常盤くんに売ることにした。明日は磨いてやらないと。こいつも役に立ってくれたから。
夕方からはゴンドラ設置パーティーが行われた。最初は探索者有志でいつもはちょっと手が出ない和洋中の高価格料理を食べようというお話だったのだけど、偶然通りがかって耳に挟んだ理事の笠置ママと後藤さんの
「そういうことやるのにどうしてうちに費用とか飾り付けとかビンゴの景品とか請求してくれないんですか!」
「ご、ごめんなさい」
という会話の結果いきなり参加費無料になった。それにしても、後藤さんというのは面白い人だ。そうやって進んでお金を出そうとしているのに、そしてゴンドラができる日程を熟知している責任者なのに、自分ではパーティーをやろうという意識はないみたいだから。ゴンドラ設置もこの人には単なるステップでしかなかったのかな?
明日の日記を最後にして、明後日からはこの日記は一般公開される。そのために今朝読み返していて思ったのだけど、俺って実はすごく個人攻撃をしていたのだった。津差さん部隊の幌村幸(ほろむら みゆき)くんに対して。どうしてこれまで誰からも苦情が出てこないのだろう? と彼と仲の良かった人に訊いたら「別にいいじゃん」 で済ませてしまったのだそうだ。かなりひどいことを書いていると思うけど。
で、その幌村君は昨日の作業終了後にこの街を出て行った。そしてもう一つ不思議なことを津差さん部隊の太田さんから聞いたけど、幌村君は俺たちよりも遅くここに来て、津差さんはその才能を天才に近いと表現していたけれど、それでも常識的に児島さんより先に行っていることはありえないはずだ。でも、二三日の夜の攻防では重傷を負った進藤くんに対してどんな傷も一瞬で直してしまう最上級の治療術を使ったらしい。児島さんでもまだ無理、探索者中でも一〇人といないはずなのに、どうして幌村君が使えたのだろう。最後に謎をたくさん残して去っていったな。とりあえずこの文章をもってしてフォローにかえ、苦情もないことだし俺の個人攻撃部分も残すことにした。個人攻撃をするような人間だということを読んでいる人にわかってもらったほうがいいだろう。
探索者には嬉しいニュースが発表された。国村さんが会社を辞めてこの街に住み着くのだそうだ。とはいえ探索者になるのではなく、生き延びるための効率的な体の使い方などを学ぶ教室を開くつもりらしい。国村さんの身体能力教室か・・・。しばらく東京に戻るのは延期して通いたいぞ。これのお陰で、死亡確率は少しだけ下がると思う。講師はとりあえず国村さんと鈴木さんで、おいおい教官たちにもお願いしていく。事業団が車体だけ作った迷宮探索という車は、商社がレールを引くようになり、探索者がエンジンを整備するようになった。これは一つの契機だろう。国村さんとちょっと話す機会があった。自分には、みなの生存確率を上げる能力があることは知っていたと、でも決心がつかなかったと言っていた。藤野さんが腕の中で死んでようやく自分のやるべきことを理解したのだと。俺にも講師に加われと冗談を言っていた。
材料面で商社のてこ入れがあったらしく素晴らしい料理の数々で、みんな飲んで騒ぐより食べる方に夢中な夢のようなパーティーだった。お陰でそれほど酔いはまわっていない。明日は朝から行動できそう。ちなみに明日の夜は俺の送別会を有志でやってくれるという。最後になってタダ酒を二日飲めるなんて夢みたいだ。
一月二六日(月)
名古屋市・国村光の職場 九時一八分
大仰にならぬよう気をつけつつ、少し時間をもらえないかと上司に頼んだ。自分たちの残業申請書に判子を押していた彼はその手を休め、国村光(くにむら ひかる)を見上げる。この場でいいか?
できれば別室でとの言葉に立ち上がった。
小さなミーティングルーム、扉にかかれた「会議中」の欄に青いマグネットを移動させて二人向かい合って座った。で、なんだ? と軽く促され国村は辞意を告げた。
「すみませんが、仕事を続けられなくなりました。辞めたいと思います」
予想に反し上司は喜怒哀楽を表に出さず、そうか、とうなずいた。その様子に自分はいらない子だったのか? と辞意を表明しつつもすこし悔しいのは勝手な心の動きだった。そんな思案を弾き飛ばすような言葉を上司は続けた。
「京都に行くのか?」
絶句する。会社には秘していたはずの週末の過ごし方、この男は気づいていたのだろうか? どうしてご存知ですか? と問うと彼はあいまいな表情でうなずいた。ネットで迷宮街の日々をつづっている日記があるのは知っているか?
国村はうなずいた。真壁啓一(まかべ けいいち)という第二期の戦士の手になるそれを彼も読んだことがある。自分が独自に学び、他の人間が驚きはすれど理解はできなかった体術、少なくともその価値を正確に理解している彼を大したものだと思ったものだ。だがあれは、と考え込んだ。
「知っています。でもあれは、確かまだ迷宮街の探索者にしかパスを知らされていなかったと思いますが」
そう言うと上司は頭をかいた。ルール違反で俺は読んでいるんだ。
ネット上でそのパスが流れているというのは容易に想像できた。本人も近日中に一般公開すると書いているしそのこと自体には問題はないだろう。探索者を志す人間が参考にするためならばともかく、普通の生活を営む人間が自分のことに気づくほど読み込むとは思ってもいなかった。
「パスを教えてくれたのが女房の妹でな。よくその日記に出て来るんだが」
探索者なのですか? うなずきが返ってくる。
「女房は両親を早くに亡くし親戚とも疎遠で、たった二人の姉妹だった。その妹が危険な探索者になって連絡が滞りがちだったことを不安に思っていたのだが、妹がそれを和らげようと特別に女房にパスを教えたんだ。自分に何かあったら必ずその若者は書くだろう、だからそれを読んで特に描写がなければ便りがないのは良い知らせだと思っていいということでな。俺も結婚式の時に妹には会っていたが、その時と変わらず無邪気な振る舞いが伝わっているようでついつい読んでいた。それでお前の名前を見つけた」
沈黙。そして、藤野さんという女性は――と訊きにくそうな言葉。国村はうなずいた。恋人でした。
「事情は日記で読んでわかるつもりだ。本来ならお前に抜けられたら困る。けれど、あの日記を書く子がお前があそこに行くことで安全が増すというのなら、お前はそれをするべきなんだろうと俺も思う。女房の妹も死なずに済む可能性が増えるとしたら、絶望的だが近藤や和田を鍛え上げる方を選ぶ。まあ公私混同だな」
上司は立ち上がった。すぐにでも行きたいのだろう? 国村はうなずくと、二週間後で辞められるように書類は通しておくと言ってくれた。有給は幾日残っている?
「七日です。消化していいんですか?」
そうか、とうなずく。じゃあ今週木曜から来なくていい。
「水曜までに送別会ができなかったら東京には顔を出せよ」
ミーティングルームを出る背中に深く頭を下げた。
京都市・伊勢丹デパート 一四時五分
「あら」
「おや」
「わーい」
「・・・・」
京都駅前伊勢丹デパートの六階で三人が驚きの声をあげた。真壁啓一(まかべ けいいち)はデパートを歩く人間には似つかわしくなく空身でにこにことその三人を見ている。ちょうどよかった! という笑顔になにがだいと真城雪(ましろ ゆき)が問い返した。
「最後に抹茶パフェを食べようと思ったんですけれど、高台寺まで行くの億劫で、でも伊勢丹店だと行列ですからね、パフェ行列に男一人って精神的にきついんですよこれが」
きつい、と言いながらも食べる気まんまんだったのだ。神田絵美(かんだ えみ)が吹き出した。時計を見下ろせば二時少し過ぎ、早めのお茶でもいいかもしれない。なれなれしく自分と笠置町翠(かさぎまち みどり)の間に入り、二人の肩を抱いて歩き出す男を苦笑して見上げた。視界の端に彼と同い年くらいの娘の表情が入る。部隊の仲間であり最後の日に一緒にパフェを食べられることを喜ぶべき表情は、しかしうろたえたように怯えたように自分の肩に置かれた手と男を見比べていた。心の中でため息をついた。
午前中はどこを見ていたの? との質問には「京産大を見てから横綱ラーメンと新福菜館と第一旭」 と笑顔が向けられる。最初の大学はともかく、他はすべてラーメン屋。お陰でおなかいっぱいです、と腹を叩く姿にさすがに翠が苦笑し、オヤジくさいよ真壁さんと小さく呟いた。真壁も笑う。
「お? 翠も洋服買ったね? どういうの?」
春用のカーディガン、というそれはまだ気が早い薄緑の上質なもので、綺麗な顔立ちのこの娘にとてもよく似合ったから衝動買いをしたものだ。へええ。明日それで見送ってよ。真壁の言葉には寒いからいやだよとつれない返事。
列の最後尾についた。同じように三時に食べたいと思った客たちだろうか、行列は予想よりも長い。
「ところで」
とこれまで黙っていた真城が訊いた。
「無事に生き延びて由加里ちゃんは喜んでいた?」
ええ、まあ、とうなずく。次いで翠のいつ結婚するのかという問いに若い! と三〇を越えた神田などは感心してしまう。いやいや! 俺無職だし! 当分結婚なんて考えてないからと手を振ると、でもぜひ式には呼んでよねと笑った。聞いていて痛いなあ、と視線を動かすと真城も同意の表情だった。
真壁が表情を改めた。ところで南沢さんの様子はいかがですか?
彼女たちの部隊の戦士である南沢浩太(みなみさわ こうた)はゴンドラ設置作業でもっとも戦った人間だろう。二三日の夜に援軍として駆けつけてから二四日の第三層攻防戦では常に最前線で戦い、さらに昨日の第四層の護衛もこなしてのけた。それを周囲が許したのは十分余裕があると思われたからだ。しかし昨日の工事が終わり、地上に戻った瞬間、彼は文字通りその場に倒れた。それ以降ずっと真城のロイヤルスイート(いま彼女は木賃宿に個室を取っているから無人である)で昏睡しているらしい。術による治療は効果がなく、医者に見せたら疲れているだけだから、眠りたいだけ眠らせて起きたら食べたいだけ食べさせるしかないとの見立てだった。彼の回復を待つ必要があったから、本当ならすぐにでも第四層の探索を開始したい二人がここで買い物をしているのだ。
具合はもう回復に向かっており、今朝はやくに一瞬だけ目が覚め仲間の罠解除師である落合香奈(おちあい かな)が作って持ち込んでいたスープとおにぎりを全て平らげトイレを済ませたと思ったらまた眠ってしまった。今ではロイヤルスイートの一室を使って剣術トーナメントならびにゴンドラ設置作業の記事ホームページを作っている落合がついでに看病をするかたちになっている。
それらを説明すると真壁はほっとしたように微笑んだ。無事でよかった。今日起きたらお礼を言いたいな。夜中でもなんでも呼んでくださいよ。二人はうなずいた。
はるか前方で女の子三人組が店内に吸い込まれた。列が少しだけ前進する。神田が、そして真城が気にかけていたある人間関係も結局はのろのろとしか進まず、明日になったらお店が閉まってしまうことになった。あとはどっちかが――いや、片方はきちんと彼女がいるからダメか――強引に歩み寄るしかないのだが、二人の様子をみたらそれも期待できないようだ。
もう詰みだよ、雪。心の中で自分の部隊のリーダーに語りかけた。まだまだ一発逆転を狙っていそうなこの女がとんでもないことをしでかすような不安がある。それは絶対に止めないといけないなと年長者の気分で思う。
迷宮街・出入り口詰め所 一七時二一分
顔なじみの買取担当の娘が手元に回されてきた紙片に目を落とした。そして表情がこわばり、普段なら読み上げる紙片をそのまま差し出した。どれどれ、と進藤典範(しんどう のりひろ)はそれを覗き込んだ。そして娘の絶句の理由を知った。
商社が設置したゴンドラが正式に事業団に売却された。そして商社は代金を受け取った。代金とは、値段設定方法の変更。本日二六日からは成分の取引量などに基づいた変動相場になり、探索者側にはその金額で売るか売らないかの選択肢しかない。試算では第一層で産出する化学成分の価格は半減とあった。だからここにある数字はちっとも理不尽ではない。試算よりはましではある。しかし、自分は半減という言葉だけでは結局想像できていなかったことを痛感していた。
隣りに来ていた倉持ひばり(くらもち ひばり)がその紙片を覗き込んだ。そしてあれまあと笑った。
「驚いた」
彼女の顔を見下ろし言う。倉持はしかし、わかっていたことじゃない、と笑った。わかってたことじゃない。でも私たちは今後あのゴンドラで下に降りていくでしょう? 第一層でも――ええと、四割減?――で済んでるんだよ。たとえば第四層だったら一五%増し以上になっているんじゃない? 屈託ない笑顔。そのとおりだ。下へ下へと降りていく覇気と実力があればこうやって笑っていられるのだ。みじめな気分でサラブレッドの顔をじっと見つめた。昨日の夜、地上で待っていた自分たちに落合香奈(おちあい かな)が読み上げた死亡者の名簿。探索者として到底かなわない、と思わせられていた者たちの名前も散見された。第三層ですらそういう場所なのだ。
降りていくしかないんだ、と自分を奮い立たせようと努力する。でなければ、この収入で覇気のない人生を送ることになる。死の危険を冒して可能な限り地下へ地下へ、この街に来た先月なかば、実はそういう選択を自分はしていたのだといま実感した。
自分たちを見守っている仲間たち(一人は代打だったが)を眺めた。ゴンドラができることで探索者の二極化がおきるだろうとは話し合われていた。収入が少ないとはいえ安全なところで頻繁に稼ぐ者たちと、危険を冒して突き進む者たち。だが二極化は起きないかもしれない。生半可な覚悟では探索活動が続けられない時代が来ている気がする。
迷宮街・北酒場 一八時二二分
笠置町葵(かさぎまち あおい)が席を立った隙にその席を奪った。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は隣にやってきた真壁啓一(まかべ けいいち)が笑顔とともに差し出すコップにビール瓶を傾ける。
「どうでした? 今日潜ってみて」
そうだな、と津差は何かを思い出すように視線を上げる。
「俺にはカボチャの馬車は似合わない」
「・・・当たり前でしょ。なに言ってんだこのオッサンは」
そして吹き出す。うかつに想像してしまったのだ。しばらく二人でひとしきり笑っていた。
「うん。確かに第二層のあの道を歩かないで済むってのはすごく楽だな」
「ああー、やっぱり」
「まあしばらくは照明の設置工事だからな。あのゴンドラで都合六部隊が第四層に挑戦するから交代で電話と照明を設置していくとして、今月中はそれで手一杯だろう」
「津差さんならどこまででも降りていきますよ。がんばってください」
そう言ってから座ってなお高い位置にある顔を見上げた。ほんの三ヶ月前、この男は自分より強くまっすぐで、それでいてまだ同じ種類の存在だったような気がする。しかし今、こうして隣りに座りついさっきまで死線を踏んでいたはずの笑顔を見て思った。人類ができるとしても、自分には無理なことはあるのだと。それはこういう男のために開かれた道なのだろう。
「正直お前さんには辞めてもらいたくなかったけどな」
「初日組も気づいたら津差さんだけですか」
「――やっぱり死なないで済むってことはいいことだな」
真壁は深くうなずいた。そして津差のグラスをビールで満たすと立ち上がった。
「お気をつけて」
「お前もな」
差し出された手を握り、これが最後だと思い渾身の力で握りつぶそうとする。
巨人は穏やかに微笑んでいる。
迷宮街・北酒場 一八時三〇分
その顔色を見て、真壁はいかん、と思った。首筋まで真っ赤な児島貴(こじま たかし)はもうすぐ人語を理解しない状態になり、そして常識を理解しない行動をするようになる。
「いろいろありがとうございました」テーブルに身を乗り出して児島に怒鳴った。隣りの進藤典範(しんどう のりひろ)となんだか笑いあっていた黄色い髪の男はまだ理解力があるらしく、真っ赤な顔で微笑んだ。
「こちらこそ世話になったよ」
「児島さんも東京に?」
彼も少ししたらこの街を離れると聞いていた。お金を稼ぐ必要もなくなり、これまで勤めていた会社に復帰することが許されたのだそうだ。
「うん。ちょっと早めるかもしれない」
「そうなんですか?」
児島の手にあるのはスコッチだろうか? うん、とうなずいてからそれを一気にあける。危ないところだった、と真壁は思った。
「今回の設置作業で死人が多く出たし、大規模な再編成が起きると思う。離れるにはいいタイミングだろう」
「なるほど。じゃあお仕事始まるまでは旅行でも?」
「そうはいかないだろうな。腹が見苦しくなる前に結婚式を挙げたいというのが一人いるし」
「え?」 進藤と二人顔を見合わせた。
「八月に生まれる」
「ええ?」
迷宮街・北酒場 一八時四〇分
顔を寄せてきた笠置町葵(かさぎまち あおい)は首筋までがもう真っ赤に染まっていた。普段はゆるくウェーブのかかった髪を今はまとめあげ、ポニーテールにしている。姉とは違い色を抜いていない烏羽玉の後れ毛が妖艶に揺れた。ふっと視線の先には星野幸樹(ほしの こうき)と話しているこの娘の恋人が見える。真壁はいたずら心を出して葵の顔に自分も顔を寄せた。
「真壁さんにはいろいろと訊きたかったよ」
囁き声。真壁は苦笑した。
「これだけ長い間一緒にいて訊けないことはあと一年一緒にいても訊けないことだと思うぞ」
「じゃあ今訊く――男を浮気させないコツは?」
「ああん? なに? 常盤くんに不穏な気配? 相手はやっぱりみつ――」
わざと高く上げた声は、おそらく意識のすべてをこちらに向けていただろう常盤浩介(ときわ こうすけ)の耳にも当然届いたようだった。彼はそれまで星野に向きあっていた身体をこちらに向けた。
「だーかーらー! 教授に顔合わせしてくれるのと研究の材料になるのが引き換えなんだって!」
対する葵は冷え冷えとした視線。薄皮一枚内側に潜む含み笑いにも、当事者である常盤だけは気づけない。
「二泊だもんなー。ちょっと信じられないなー」
「葵ちゃんのためにこっちの大学選んでるんじゃないか! 真壁さん教えてくださいよ、バカ女を信用させるコツがあったら――」
「なんだとこの野郎! もう一遍言ってみろ!」
常盤の言葉が途切れたのは、気色ばんだ翠が怒声をかぶせたからだけではなかった。真壁と翠の見つめる中、自分との会話を突然中断された自衛官が常盤の首筋をつかんでいた。首根っこをつかまれた若者はか、か、か、と息にならない悲鳴をあげている。
「うん、まあ、俺のほうが円満のコツを教えてもらいたいくらいだ。ところでバカ女ってのは由加里のことか?」
「え、あ、かは、うう」
その言葉にも常盤は目を白黒させるばかり。真壁は葵と顔を見合わせて笑った。
迷宮街・北酒場 一九時一五分
トイレから戻って騒乱の一角を俯瞰すると、最大級の騒音を発してもおかしくない人間が端のほうでぽつんと座っていた。真壁は手近なテーブルからパエリヤを取り上げ、その前にどかんと置く。ご注文の品です。真城雪(ましろ ゆき)はその言葉に微笑む。真壁は向かいに腰掛けた。
「いろいろありがとうございました、姉御」
うん、とうなずく視線はあたたかく、心底から喜んでくれていることが伝わってくる。しかしその奥には悲しみを感じさせた。ええと、あの、とおずおずと問いかける。
「も、もしかしてまさに今日男と別れてきたとか?」
バカね、と年上の美女は笑った。大丈夫。円満だよ。そしてしげしげと真壁の顔を眺めた。
「ああーもうこの顔見られないと思うと・・・まあ別にいいか。美男子でもなんでもなし」
調子が出てきたぞ。真壁は苦笑する。
「俺って本当に祝福されている?」
「お前は本当にいい奴だった」
「なぜ過去形?」
茶化す言葉にも微笑は動かない。
「お前は本当に――」 女帝は身を乗り出し、真壁の首に手を回した。ひんやりとした髪の毛とほてった肌が頬に心地よさを与えた。
「ちょっ、真城さん?」
真壁が見ても上質とわかる黒いカーディガンはパエリヤの中に突入してしまっていた。身を離そうとする動きを予想外に強い力が押しとどめる。
「――いい奴だった。バカで、お調子者で、頭が悪くて、要領が悪くて、不器用で、バカで、いい奴で、バカだった」
「・・・せめて最後をいい単語で締めませんか?」
「うん? 何か言ったか?」
「いいです別に。――真城さんていい匂いしますね」
「う、うるさいな!」
慌てたように突き放され、顔を見合わせて、そして同時に吹き出した。
迷宮街・北酒場 一九時三五分
もうアルコールはいいやと向かったドリンクバイキングのスペースには黒田聡(くろだ さとし)の姿があった。彼はパーティーには参加していなかった。もともとそれほど親しく話をしたわけではなかったし、離れた場所に席を取る彼の隣には明らかに探索者ではない女性が座っていたから。先週の人とは髪型も身長も違うな、ということは皆が思っても誰も口に出さない。そういうことになっている。
「お疲れ」
グラスをセットしウーロン茶のボタンを押しながら真壁は頭を下げる。
「今度東京に遊びに行くよ。案内してくれ」
真壁は首をかしげた。この男は甲府出身の自分よりはきれいな共通語を使っているのだが――。
「あれ? 黒田さんて出身は?」
「千葉」
「・・・じゃあわざわざ」
「女子大生がいるところに案内してくれ。まだツテあるだろう?」
真壁は苦笑して、テーブルで目の前の男性を待っている娘をちらりと覗き見た。先週とは違う娘はただ一つ共通点がある。それは、外見だけで考えれば女帝には及ばないにしても笠置町姉妹よりは美貌であるということ。世の中って不公平、と思わざるを得ない。
「・・・ひとり、すごい美女がいますけど」
「ようし、それでいこう」
しっかりと握手を交わした。しかし実のところその片方はこの野郎懲らしめてやると思っている。
迷宮街・北酒場 二〇時一二分
あ、と視線を移して思った。隅のほうのテーブルで食事を取っている男性、あれは。
話したいな。しかし親しい相手でもないし。そう思っていると近くを北酒場のウェイトレスが通りがかった。手には刺身の盛り合わせ。それはどこの? と尋ねるとあなたたちのところと答えが返ってきた。
運んであげるよ。ありがとう! 正直あの人たちもう怖くってさ。テンション高すぎ。
疑われることもなく手に入れた大皿を持ってそのテーブルに近づいた。後藤誠司(ごとう せいじ)という商社の責任者は笑顔を浮かべる。真壁の接近に対してか刺身盛り合わせの効力かはわからない。
「こんばんは、後藤さん。ええと、僕は――」
「真壁くんだね? 今日で終わりなんだって?」
「僕のこと、知ってるんですか?」
日記を読んだ、という言葉になるほどと思った。この人はすごい商売人なのだ。商売の相手が書いた日記は当然目を通すし、書いた人間を知らないとどの程度信頼できるかわからないからには自分のことも見ていたのだろう。お恥ずかしい、と頭をかく。後藤は笑顔で椅子を勧めた。
「真壁くんは学士は取れそうなのかい?」
「それは大丈夫みたいです。まあ卒論ばっちり書かないとですけど。成績は良かったし、教授がすごく動いてくれて」
「・・・そうか。サラリーマンになる気ないか?」
「ええ?」
予想外の問いかけににきょとんとしてしまう。
「うちの会社でよければ、人事にプッシュするけど」
「いや、それは、またまた」
信じられず笑い飛ばそうとするが、後藤の顔は冗談を言っているようではない。それを察して真壁は背を伸ばした。
「やりたいことがある?」
「ええ」
恐ろしい顔つき、と皆は言う。しかし真壁はそれは感じなかった。造作はともかく、中にあるのは信頼できる人間だと感じられるからだろうか。後藤はうなずいた。
「ならそれをやるといい。大きいことをするには会社に入るべきだけど、好きなことをするには一人でいるべきだ」
「後藤さんにはいろいろ教えていただきたかったです」
この街にはあらゆる面で尊敬できる人間はたくさんいた。しかし、存在自体が途方もない、と思えるのはこの人くらいだったと思う。その思いを感じ取ったか、少しの間敏腕の営業マンはまだ学生の年齢の男を見つめていた。
「まあ、今の君はまだまだ若いな。君が二八になってまだ俺から学べることがあると思ってたら、そのときは気軽に茶でも飲みに来てくれ。俺がどこにいるかは絶対にわかるだろうから」
「はい! ぜひ!」
迷宮街・北酒場 二一時五分
いちばん話したい相手は、一番話したいからこそ長くかかると予想ができたために後回しにしていた。その結果がこれである。笠置町翠(かさぎまち みどり)は微妙に騒ぎの中心からずれたところですうすうと寝息を立てている。
その隣に真壁は腰掛けた。おーい、と小さく声をかける。
「あれ? 翠寝ちゃった? おーい、おーい、起きろー」
返答は深く長い寝息だった。かすかにいびきも漏れている。
「おーいー」
「・・・・・」
肩に手をかけようとしたのを見かねてか、少し離れたところから津差龍一郎(つさ りゅういちろう)が声をかけてきた。
「いや、寝かせておいてやれよ」
そういわれると真壁もしぶしぶと立ち上がった。
「・・・あーあ、最後になるからいろいろ話したかったんだけどな」
「明日の朝でいいじゃないか」
その言葉には首をかしげてみせる。
「うーん、いかにもお別れ! ってのは苦手なんですよね。早いうちにさらっと出て行こうと思ってるんです」
「そうか――だったらちょっとひっぱたくか」
あれ、と酔いのまわった頭で真壁は思った。自分の『ひっぱたく』と、この男の『ひっぱたく』は少し違うみたいだ。その手は握り締められ高く振り上げられている。われに返って寝ている娘との間に身体を割り込ませた。
「いやちょっと待って。それきっと壊れるから。この女でも壊れるから」
「そうか?」
「寝かしておいてあげましょう。考えてみたら、迂闊なこと言いそうだから」
その場を離れて歩き出す。その足を津差の言葉が止めた。
「真壁」
「はい?」
「相手が飛び出してきたとしても、やっぱり跳ねちゃったら手当てが必要だと思うぞ」
たっぷり数秒して、真壁はさびしそうに笑う。
「手当ての技術がまったくない人間でもですか?」
「――まあそうだな。お前には待っている人間がいるんだもんな」
迷宮街・宮殿 二一時四二分
「こんばんはー」
ノックして開かれた扉の向こう、落合香奈(おちあい かな)に真壁は笑いかけた。落合も笑顔を返して部屋に招き入れる。
真城雪(ましろ ゆき)が常に押さえているロイヤルスイートの一室だった。今でこそあるじは木賃宿に住まっているが、その代わりに現在ではある戦士とその看病人が利用している。
「南沢さんはいかがですか? 目が覚めたって」
「うん、さっきシャワーを浴びに行ったからそろそろ出てくるんじゃないかな?」
それから、信じられる? と。
ナミー、昨日の夜からこれまでご飯二升食べてるよ。
「二升? いや少ないくら――え? 升? 二合ではなくて?」
いやいや、と落合は首を振る。二升だよ。二十合とも言うよ。よっぽど疲れたんだね。
「何十人もの命を救うってのは、やっぱり大事業なんですねえ」
しみじみとした真壁の述懐に落合もうなずいた。何十人も救うというその表現が大げさでもなんでもないことは、この街のすべての探索者が知っている。
扉の音、そしてのんびりとした声で名前を呼ばれた。
短パンだけはいて上半身裸の巨人がそこに立っていた。全身いたるところに残る傷跡は、もちろんこの数日以外のものがほとんどだろう。それに自分の身体も程度こそ違えど同じような有様になっている。それでも真壁は自然と頭を下げた。
下げた首筋に低い声が降ってきた。ありがとう、と。顔を上げると巨人は笑っていた。
「俺のほうでも、真壁くんにはお礼を言いたいと思っていますよ。よく俺を選んでくれたって」
真壁はさらに深く頭を下げる。
真壁啓一の日記 一月二六日
これが最後の日記になる。一一月一日から始まって、途中書いてない日があるとはいえ三ヶ月。自分の中でも日記をつけた最長記録だ。いろいろ勉強になった。書いておく、っていうのは頭を整理するためにいいな。この街を出ても、当然ウェブじゃないとしても日々のことを書いていこうと思う。
今日からゴンドラ運用開始。高田さん部隊、湯浅さん部隊が降りていった。アマゾネス軍団は南沢さんが結局回復していないため、星野さん部隊は星野さんがお仕事ということで明日以降になった。でもゴンドラによって探索は飛躍的に進んでいくんだろう。さっそく体感してきた津差さんの手ごたえありというコメントにそれが感じられる。肝心の買取価格の件だけれど、それまで試算で出されていた第一層から五〇%減、二七%減、変更なし、一五%増というものははずれて、結局三八%減、二〇%減、一五%増、三四%増だとのこと。すごいな! これまで第三層で普通に戦うと二五万円は稼いでいたけどそれが二七〜八万になるってことか。真城さんのロイヤルスイート暮らしは安泰ということだ。
今日は朝一番で事務棟に行き、探索者登録を抹消してきた。別にそのままにして街を離れてもお金がかかるわけでもないし、ゴンドラ設置などの場合は一票もらえる。だからそのままにしたらと薦められたけどすっぱり抹消することにした。自分なりのけじめかな。
その後、自転車を駆って横綱ラーメンで遅い朝食、新福菜館でおやつ、第一旭で昼食をラーメンを食べる。もうしばらく京都には来ないから食べ納め。考えてみたら横綱ラーメンは京都だけじゃないんだけど。その後抹茶パフェを食べ納めしようかと伊勢丹に行ったら偶然買い物中の真城さん神田さん、翠と鉢合わせた。ちょうどいいと一緒にお茶にする。
そのまま青蓮院へ。ここはこの三ヶ月本当にお世話になった。実は、日記に書いたよりもずっとたくさんの回数ここに来ていた。日記に書けないようなものをここに捨てさせてもらった。えーと、どんなものを祀っているところか知らないけどありがとう。
夜は俺の送別パーティー。みんなと少しずつでも話せて嬉しかった。本当に、元気で。
とことん飲まされそうになったので、南沢さんが回復したという連絡を口実に抜け出てきた。南沢さんはすっかり元気になっていた。ほっとする。ムリを承知での願いを聞いてもらったからな、この人には。北酒場を出るときには見舞いを終えたら戻って来いと言われたけれどいまここにいる。このままモルグに帰るつもりだ。門出を二日酔いで迎えるなんてごめんこうむる。携帯も切ってある。
でもこの日記はなんの役に立つのだろう? ゴンドラができて変動相場制になることによって探索者の雰囲気は一変するだろう。そんなことは俺にもわかる。だから、これから迷宮街に来ようかと迷う人にとってそれほど価値のあるものにはならないだろう。そんなことは俺にもわかる。もちろん無料で残しておけるから(有料オプションは月に一八〇円かかるけど、とりあえず三万円ほどはぶちこんである)このままだけど、どっちでもいいから残す、ではなくて何かの役に立つと思いたい。
でもまあ、自分の価値や必要性を本人では決して確信できないように、俺がわからないだけでこの日記はこれから何かの意味をもつのだろうな。もてばいいな。
誰か価値を見出してくれますように。
明日でこの街を去る。今日もモルグで眠る。
一月二七日(火)
迷宮街・笠置町姉妹のアパート 七時五〇分
くらくら痛む頭を落ち着けようと水を口に含む。明らかに飲みすぎたのは、やっぱり仲間と別れるのがさびしいからだ。いろんなことを話して、いろんなことを聞いてもらった相手だ。命を助けて助けられた濃い付き合いをした相手だ。一年しか年上じゃなかったけれど尊敬していた。思わず泣きそうになって、でも自分だけ泣くのはいやだからがんばって飲んだ。その結果がこれだ。ああ、気持ち悪い。
電子音が聞こえ、めずらしいなと思った。姉も携帯を持ってはいたがこの狭い街ではそれほど電話やメールのやり取りはされない。ちょっと歩けばたいがい見つかる距離にいるからだ。それもこんな朝っぱらから――と壁掛け時計を見た。まだ九時だ。もう一眠りしようかな。
誰からのメールだろう? ふっと浮かんだのはある男の顔だ。昨日、別れを惜しんで自分が泣きたくなった顔。あれが、最後の最後の大逆転で姉にラブコールを――なんてことはないな。もう完全に脈はない。一時はいいかなと思ったんだけど。
そう、特に従兄への片思いを断ち切らせようとして企んでからの脈のなさっぷりはすごかった。お前そこまで素っ気無いと、女としての自信もへし折れるんじゃないのかと心配になるくらい。不自然に思えるくらい。
「真壁さんも無理してたのかな」
呟く。きっとそうなんだろうな。
しかしもう終わったことだ。彼は東京で再び恋人の腕の中に戻る。もう姉のことなど思い出すことはないだろう。人間はそばにいる人を愛するようになると昔のひとは言っている。そういうことだ。
さあ、いなくなる人間のことは忘れよう。もう一眠りしよう。鼻をすんとすすりあげる。
迷宮街・検問前 八時一二分
迷宮街は街から外部を護るために出入り口一つを残して壁に囲まれている。出る者はそこで簡単な荷物のチェックを受けた。真壁啓一(まかべ けいいち)は屈託なくバッグを渡し、背後を振りかえった。
見慣れた街並み。
もう見ることのない街並み。
「はい、いいですよ」
かけられた声を無視してじっと街を眺めていた。さあ、ここで振り返ったらもう二度と街は見ない。この街は昨日の中にうずめてしまう。うずめてしまおう、全部。
係員は声をかけずに真壁をそっとしておく。
京都駅・山陰方面ホーム 九時七分
朝ご飯は食べない主義だったが、売店を見てたまにはいいかなと思った。最後になにか、京都駅でしか買えない駅弁を買っていこう。やっぱり旅は駅弁だと思う。コンビニでおにぎりやパンを用意したほうが割安だとはわかっているが、そこでしか買えないものは従うべきだ。
メニューを眺めていたら鮎寿司が視界に入ってきた。少し胸が痛んだ。かつて、京都の高級な料亭で鮎寿司をご馳走した顔を思い出したからだ。当時恋人だった女性は感動で瞳をうるませて美味しい美味しいと喜んでくれていた。
次いで口元が楽しげにほころんだ。もう一つの思い出が浮かんだからだった。あれも京都駅だった。ホームはこことは違い、東京への新幹線ホームだったけれど。
「鮎寿司一つください」
聞き覚えのある声。似た声のひともいるものだとそちらを向く。笠置町翠(かさぎまち みどり)の顔を呆然と見つめながら、聞き覚えのあるのも当然だ、と納得した。翠は肩で息をしている。
「――どうして、ここに?」
両手を膝につけてちょっと待て、と身振りで示された。
「――餞別くらい、買ってあげようと思って」
そして荒い息の中で鮎寿司ご馳走するよ、と。車内で食べなよ、と。
「いや、そうじゃなくて――ああ、ええと、ありがとう。――いやそうじゃなくて」 あたりを見回す。
ここって山陰行きの普通電車のホームだよ。どうしてここにいるのがわかった?
落合・神野由加里のアパート 九時八分
コーヒーカップを持ってコタツの脇に行くと、神野由加里(じんの ゆかり)は携帯電話の画面をじっと見つめていた。さっきからずっとこれだ。誰からのメールを待っているの? 二木克巳(にき かつみ)がそう問い掛けると、うん、と生返事で携帯を渡された。画面を見る。発信者にこの娘の名前があるところから、誰かへ送信したメールだとわかった。
『おはようございます、由加里です。啓一が今日街を離れるのに、日記にみどりちゃんのことが書いていないのがちょっと心配になりました』
視線を上げる。恋人は難しい顔をしたままだ。これって、お前――。反応はなく、読み進める。
『みどりちゃんは私がもう啓一と別れて二木君とつきあっていることを知っていますか?』
「私はね」 コーヒーの湯気を顎に当てるその顔は苦しそうだった。
「私はね、やっぱり啓一のことが大好きなんだよ」 そして小さな声で怒る? と問われた。克巳は軽く微笑んで視線を画面に戻す。
『もし知らないのなら、お願いだからみどりちゃんの方から歩み寄ってあげてくれないでしょうか。啓一はバカだからヘンなことにこだわるし、いつも頭で行動するし、バカだし、変な気を使うし、なんかプライド高いし、』
・・・大好き? これが? 苦笑して顔を上げると怯えたように反応をうかがう視線とぶつかった。
「俺も啓一のことが大好きだぞ。妬けるか?」
いや、妬けるわけないじゃない。苦笑する。克巳も笑った。
『みどりちゃんに私のことを言わなかったのならば、それはみどりちゃんのことが大事だってことだから。みどりちゃんの気持ちはわからないけど、もし他にいま好きな誰かがいなかったら啓一のそばにいてあげられないでしょうか。せめて、連絡をとりあうくらいには』
克巳は暖かい気持ちで小柄な娘を見つめた。そうだろう? 妬けないだろう? 同じように俺だって怒らないよ。俺たちがあいつを大好きだなんて当たり前のことじゃないか。
『そっちの状況が全然わからないでピントはずれかも知れません。そうだったら笑って消去してください。大好きです。啓一も、みどりちゃんも。だからお節介しました』
メールはそこで終わっていた。克巳はぽんと手のひらをその小さな頭に置く。
「いや、やっぱり少し妬けるな、ああ」
由加里は目にいっぱい涙を湛え、顔をくしゃくしゃにして笑った。
京都駅・山陰方面ホーム 九時一〇分
さすがにサラブレッドというべきか、あっという間に呼吸が整った。そしてなんでもないように「萩に行きたいって言ってなかった?」 と。真壁啓一(まかべ けいいち)はうなずいた。そう、確かに言っていた。しかしそれよりも多い回数、(意識して)「東京に戻る」 と言っていたはずだ。どうしてこの娘は自分が東京に行かないと思ったのだろう? それともセンサーかなにかついているのか? とうろたえる気持ちは心中が動揺しているから。気を抜くと目の前の娘に取ろうと決めた態度を守れないから。
はい、と鮎寿司を渡された。ああ、ありがとうと木偶のように呟いてそれを受け取った。笠置町翠(かさぎまち みどり)は寂しそうに微笑んだ。
「もうちょっとね、もうちょっと何かしてあげたいんだけど。これがこの三ヶ月の礼になるとはとても思えないけど、私にできるのはここまでだろうから仕方ないね」
まっすぐに見つめてくる瞳は潤んでいる。視線を外そうとして一つ息をついて、しかし視線はそのままにとどめた。外せなかった、というのが正しい。
口をついて出たのは自分でも予想外の言葉だった。
「俺からも最後に、鮎寿司を買ってやるよ」
きょとんとした表情。あ、えーと、うん。ありがとう。
大きく息を吸い込んだ。
「よかったら一緒に食べよう――車内で」
目を見開く。綺麗な頬を涙がこぼれて流れた。右のこめかみにはうっすらと傷跡。アザだけだと思っていたものは、光線の加減であとが見えてしまうらしい。
翠はひとつ息を吸い込んで、答えの言葉を呟いた。
ホームに電車がやってきた。危険な位置に立っていた者でもいたのだろうか? 警告の汽笛が空気を震わせ、轟音があたりを満たす。不器用な求愛への返事はそれによってかき消された。それがどんな返事だったか、向かいに立つ男にきちんと届いたかどうか、それはきっと二人だけが知ればいいことなのだろう。
和風Wizardry純情派 終