レポートの組み立て方
木下是雄
--------------------------------------------------------------------------------
筑摩eブックス
〈お断り〉
本作品を電子化するにあたり一部の漢字および記号類が簡略化されて表現されている場合があります。
〈ご注意〉
本作品の利用、閲覧は購入者個人、あるいは家庭内その他これに準ずる範囲内に限って認められています。
また本作品の全部または一部を無断で複製(コピー)、転載、配信、送信(ホームページなどへの掲載を含む)を行うこと、ならびに改竄、改変を加えることは著作権法その他の関連法、および国際条約で禁止されています。
これらに違反すると犯罪行為として処罰の対象になります。
目次
1 レポートの役割
1.1 レポートとは
1.2 大学生のレポート
1.3 社会人のレポート
2 事実と意見の区別
2.1 事実と意見――言語技術教育との出会い
2.2 事実とは何か 意見とは何か
2.3 事実の記述の比重
3 ペンを執る前に
3.1 レポート作成の手順
3.2 主題をきめる
3.3 目標規定文(主題文)
3.4 材料を集める
3.4.1 頭の中にあるものを引きだす方法
3.4.2 調査・観察・実験
3.4.3 図書・新聞・雑誌
3.4.4 図書館
3.4.5 書店の利用
3.4.6 ノートのとり方
3.5 いろいろの制約
3.5.1 長さの指定
3.5.2 引用について
3.6 レポートの構成
3.6.1 表題
3.6.2 レポートの標準的な構成
3.6.3 起承転結について
3.6.4 構成案のつくり方
4 レポートの文章
4.1 読み手の立場になってみる
4.2 叙述の順序
4.2.1 重点先行
4.2.2 新聞記事
4.2.3 記述・説明の順序
4.2.4 論理展開の順序
4.3 事実の記述・意見の記述
4.3.1 事実を書くには
4.3.2 意見の記述
4.3.3 事実と意見の書き分け
4.4 レポートの文章は明快・明確・簡潔に書け
4.4.1 明快な文章
4.4.2 明確な表現
4.4.3 簡潔
4.5 パラグラフ――説明・論述文の構成単位
4.5.1 パラグラフとは何か
4.5.2 パラグラフの構成
4.5.3 文章の構成単位としてのパラグラフ
4.6 すらすら読める文・文章
4.6.1 文は短く
4.6.2 逆茂木型の文
4.6.3 逆茂木型の文章
4.6.4 首尾一貫しない文
4.6.5 まぎれのない文を
4.6.6 文は能動態で
4.6.7 並記の方法
4.6.8 漢語・漢字・辞書・その他
4.7 文章の評価
5 執筆メモ
5.1 原稿の書き方
5.1.1 原稿用紙の使い方
5.1.2 区切り記号
5.1.3 文字の大きさ・字体・その他
5.2 出典の示し方
5.3 表と図
5.4 読み直し 修正
脚注一覧
文献
問題の解答
あとがき
著者略歴
1 レポートの役割
1. 1 レポートとは
辞書には,たとえば1)
レポート《名》@研究・調査などの報告書.A学生が提出する研究結果の小論文.B新聞,雑誌などの報告記事.=リポート.英 report
とある.
この書物でレポートというのは上記の@,Aだ.これらはふつう誰か(上司,教師など)の要求に応じて書くものである.したがって特定の読み手――多くの場合にレポートを要求した人と同一人――を予想して書くことになる.この点で,不特定多数の読者を予想して書く論文とはちがう.
レポートを書く上での最も基本的な心得は次の二つである.
(a) レポートには,調査・研究の結果わかった事実を客観的に,筋道を立ててまとめて書く.この部分がレポートの主体で,これだけで終わっていい場合もある.
(b) レポート中に書き手の意見が要求される場合には,それが(事実ではなく)意見であることがはっきりわかるように書く.意見の当否を検討できるように,意見の根拠を明示しておくことが肝要である.
つまり,レポートに書くべきものは,事実と,根拠を示した意見だけであって,主観的な感想は排除しなければならないのである〔注1〕.この点に,レポートといわゆる作文との大きなちがいがある.
レポートで事実を述べるのは,その事実に関してレポート作成者が持っている(あるいは,新たに得た)知識を読み手に伝えるためである.
研究・調査・伝達・教育などによって得られる,または伝えられる知識
を情報(information)という.このことばを使えば,レポートの使命は,レポート作成者の持つ(あるいは,新たに得た)情報とそれに関する作成者の意見とを読み手に伝達することだといえる.
情報ということばは,内閣情報局という用例が示しているように,昔は「事件や状況についての知らせ,とくに機微に属する知らせ(intelligence)」の意味に使われていた.この本の中では,上に記したような現代的な意味に使う.「1989年11月9日,東ドイツの国境が開放された」というのも一つの情報,「『徒然草』226段には『平家物語』の作者は信濃前司行長だと書いてある」というのも一つの情報,また「6は2でも3でも割り切れる」というのも一つの情報である.
日本はいま,工業化社会から情報化社会――情報の生産・収集・伝達・処理を中心として発達する社会――に移行しつつある.情報化社会では,レポートが大きなウェイトを占めることになろう.この書物は,そのことを見通してレポートの組み立て方・書き方を解説しようとするものである.
1. 2 大学生のレポート
大学生のレポートの読み手は教師だ.教師の関心の中心は書き手(学生)にある.学生が,与えられた課題についてどれだけ学習・調査・研究したか,またそれをどれだけきちんとレポートにまとめたかが,教師の関心事なのである.
学生が書かされるレポートは,学習レポートと研究レポートとに大別できよう.前者は,講義で教えるべき内容を課題として,それについて自習させることを目的とするもの;後者は,教師が与えた課題について学生が主体的に調査・研究し,多少とも独自の見解に到達することを期待するものである.研究レポートは研究論文の習作とみてもいい.どちらの種類のレポートにしても,レポートを書くこと自体の練習をさせるのが目的の一つである.
この書物では,大学生のレポートの中では,研究レポートだけを対象として取り上げる.文科系(人文科学系,社会科学系)の学生に要求される研究レポートは,読書,文献探索,実地調査,アンケートなどの方法によって事実〔注1〕を集め,それにもとづいて自分の考えをまとめて書くものである.この書物では,主としてそういうレポートの書き方を述べる.理科系の実験レポートの書き方も,材料(事実)の集め方のちがいを別にすれば,大筋においてこれと変わらないが,文科系のレポートとくらべて形式が固定されており,また,記号・式・図の扱い方その他,特別の心得を必要とする面もある.これらについては私が別に書いた書物2)を参照されたい.
日本の学校教育では,欧米諸国にくらべて,学生・生徒に研究レポートを書かせることが格段に少ない.しかし私は,1. 1節の最後に述べたように,社会の情報化が進んで職業生活におけるレポートのウェイトが大きくなってくれば(米国の会社ではレポートを書く能力が昇進に直結するといわれる),日本の学校でも欧米なみにレポート教育に力を注ぐようになるにちがいないと考える.
参考のために,米国のある大学のレポート教育の様子を報じた手紙3)を転載しておこう.これは,東京のある女子短大の学生だった O 嬢が米国留学中に出した便りの一部に,私がいくらか手を加えたものである.彼女は在学中に1年間コロラド大学に留学し,1982年9月に帰国,もとの短大に復学して卒業した.
O 嬢からの便り
――レポートの書き方を習う――
前略.……前便に書いたように,コロラド州のボウルダーという,ロッキー山脈のまっただなかにある美しい町に移りました.そこでコロラド大学の学生になったのですが,正規の学生になる前に,3カ月のあいだ,外国人入学者のための予備教育のクラスにはいりました.
この3カ月でいちばん苦労したのは「レポートの書き方(How to Write a Research Paper)」というコースです.このコースは私たち日本人学生にとっては地獄でした.アメリカでは小学生のころからこれに似た訓練がはじまっているのに,私たちはそういう教育を受けたことがなかったからです.
ここでいうレポートは図書館その他で資料を調べて書くもので,大学に進むと毎週のようにレポートを書かされることになります.予備教育のクラスでの「レポートの書き方」では,レポートを書く手順や形式を,実際にレポートを書きながら学んでいくのです.
次に,私の書いたレポートの一つを例にして,どんなことをするのか説明しましょう.私が書いたのは「マス・メディアに対するニュース統制」という題のレポートです.マス・メディアとは新聞,雑誌,映画,ラジオ,テレビなど,大勢の人々に情報をつたえる媒体の総称です.
1. 話題を確定する
「マス・メディアについて」というのが与えられた課題だったのですが,こんな漠然と大きいテーマ全体についてレポートを書くことは許されません.先生から「あなたはマス・メディアの中のどの媒体について書くか」,「どういう点について書きたいのか」,「テレビ一つにしても,ニュース,娯楽番組,ドキュメンタリーとさまざまの番組がある.どれについて,どんな観点で,何を調べるのか」と問い詰められます.私はニュースが政府によって統制されている実情を調べたかったので,最終的には題名を「マス・メディアに対するニュース統制」とし,おもに新聞とテレビのニュースに対する統制について調べることにしました.
ところが,実際に資料を集めはじめてみると,これでもまだ話題が大きすぎることを痛感しました.話題はしぼりにしぼらなければいけないのですね.
2. 主題文(thesis sentence)を書く
次にこのレポートはその話題についてどういうことを書くのかを明示した文(または短い文章)を書きます.この主題文がレポート全体の書きだしにもなるのです.もっとも,最初に書くのは予備的な主題文で,資料調査が進むにつれて書き直すことになるのがふつうです.
私が最初に書いた主題文をお目にかけましょう.
どこの国でもニュースには政府の統制が及んで色が着いている.あるニュースは政府部内にとどめられて新聞,テレビに流れない.政府があるニュースの印刷,放映をさしとめる例もある.文献によってその実情を調べ,ニュースを受けとる側ではどう対処すべきかを論じる.
この主題文〔注2〕にしたがって,私はレポートの中で政府によるニュース統制の実例を示し,〈着色〉された報道がどういう影響を及ぼすか,また読者あるいは視聴者はこれにどう対応すべきかを論じることになります.つまり,この主題文が,レポートを構成していく際の羅針盤になるのです.
実のところ,資料を集める前にこんな主題文をひねりだすことは私にとってはむずかしく,また不自然に思えました.日本でのレポート書きでは,資料調査を進めながら考え,その途中で書きはじめて,目的や結論などは最後になってから確定するのがふつうだったからです.
3. 参考文献を集める
次に自分の主題に関連する文献の探索にかかります.
大学の広大なキャンパスには大きな図書館がいくつもあり,朝8時から夜12時まで満員のことがしばしばありました.「レポートの書き方」のコースの初日に私たちは,中央図書館で,資料のさがし方についての講義を受けました.
主題をきめてからは,毎日,図書館にカンヅメでした.最初に,件名目録の「マス・メディア」の部を見ます.そこには,マス・メディアに関する本の書名,著者名,その本の分類やその本がどの図書館のどこにあるかを示す図書記号などを書いたカードが何百枚もならんでいます.その中から自分の目的に合いそうなものをえらび,実際に本をさがしだして当たってみます.役に立ちそうな本は,1冊につき1枚ずつ,7.6cm×12.7cmのカードに
図書記号,著者名,書名,出版社,出版地,出版年
を書きこんでいきます.これら(図書記号を除く)をその本についての書誌事項(bibliographical data)といいます.
図書館には,本のほかに何十年ぶんもの新聞や雑誌も保管してあり,またこれらの新聞・雑誌の記事の索引があります.索引によってさがしだした記事は自分でコピーを取り,また要点をカードに記入します.
4. 最初のアウトラインをつくる
アウトライン(outline)というのは骨組み(大筋)のことです.最初に,これからどういうことを調べ,調べたことをどういうふうに配列して結論に至るかを考えて,大ざっぱなアウトラインをつくります.これが,参考文献を選択しながら読んでいくときの指標になるのです.
私が最初に書いたアウトラインは次のようなものです.
序論 新聞記事 テレビのニュース マス・メディアが人々に与える影響 マス・メディアに対する対処法 結論
最初に書いたアウトラインは,資料調査が進むうちに少しずつ変わってきます.そして,資料調査が終わってレポートの執筆にかかる前に決定版のアウトラインをつくることになるのですが,これについては6で述べます.
5. ノート・カードをつくる
えらびだした本や記事を読んで,あとでレポートを書くときに使いやすいように気をくばりながら,ノート・カードをつくります.これには10.2cm×15.2cmのカードを使います.
要領は,
(a) カードはおもてだけを使い,インクで書く.
(b) 1枚のカードには一つのことしか書かない.
(c) 本や記事の中身は,場合によって要約したり,自分のことばで言いかえたり,またあるときは原文どおりに引用したりする(これらの区別がわかるようにシルシをつけておくこと).
(d) 書名(略名で可)とページ番号を(必要があればその記事が何行めにあるかも)明記する.
(e) 内容を見分けやすいように,カードの上端に「項目」を記入し,カードは項目別にまとめておく.
6. 決定版のアウトラインをつくる
カードづくりには何日もかかりますが,それがすんだところで,レポートの詳細な組み立てを示す〈決定版のアウトライン〉をつくります.実例を見たほうがわかりいいでしょう.T,U,……は章名;A,B,……は各章のなかでの見出しになる項目です.1,a,(1),(a) などはその項目の説明で,たとえば項目 A について1で概括的に述べたことを,a,(1),(a) と順を追ってこまかく具体的に説明するかたちになっています.
T 序論
最初に主題文を書く.次に,主題文で要約して述べたことを本論ではどんな組み立てで具体的に述べるかを説明する.
U 本論
A 新聞記事
1 日本の新聞と米国の新聞とをくらべる.
a 記事の取材範囲
(1) 日本では全国紙が優勢で,そのためもあって日本の新聞のほうが国外のニュースがずっと多い.
(a) 多くの国々からのいろいろな見解がのっている.
(b) ………
(2) 米国の新聞は地方紙が優勢で,そのためもあって国外のニュースは少ない.
(a) ………
B テレビ・ニュース
………
C ………
………
V 結論
………
7. レポートそのものを書く
ここまでの長い準備段階を経て,やっとレポートそのものを書く運びになります.もっとも,ここまでくれば,あとは〈決定版のアウトライン〉に沿って,ノート・カードの内容をきちんと配列・連結して本文を書き,結論を導きだすだけです.
とはいうものの,いくつかの注意がいります.
(a) レポートでは,結論の章以外には自分の意見を書きこまないこと.レポートの主眼は,調査した事実や人々の意見を,自分の目的にしたがって配列・連結して「資料に語らせる」ことにある.その部分(本論)に自分の主観を混入させてはいけない.
(b) 事実の記述は例で裏づけること.
たとえば「同じ偏りをもった情報が多方面から与えられると,人々はそれを信じてしまう傾向がある」などと書いても,具体的な例をあげなければ説得力がない.
8. 文献表と参考書目録
レポートでは,本や記事の内容を引用するたびに必ずその出所を明記しなければなりません.本文中の引用部分には引用番号を付記し,本文のあとに文献表をつけて,引用番号順に著者名,書名以下の書誌事項,および何ページから引用したかを列記します.
参考書目録は利用した本の一覧表で,各々について書誌事項を列記します.これがレポートの最後のページになります.
以上の記法には細部にわたってきまりがありますが,くわしいことは省略します.
9. 仕上げ
入念に読み返し,手を入れて,形式どおりにタイプして表紙をつければ仕上がりです.
(後 略)
以上に引用したのはアメリカのある一つの大学で要求されているレポートの書き方である.そこに書かれている方式は,この書物で私が主張するところと完全に一致しているわけではない.しかし,大筋では合致しているし,また,ほかの国ではレポート教育がどれほど重視されているかを知るためのいい資料だと思うので,あえて長文を引用した.
1. 3 社会人のレポート
大学生の書くレポートの形式は大体きまっているのに対して,社会人の書くレポートは内容も形式も多種多様である.調査報告,研究報告,技術報告,業績報告,出張報告,等々はみなこれに属する.
これらのレポートの多くは済んだことの記録という性格をもっているが,同時に明日の仕事のための有用な資料になっていなければならない.明日の仕事の役に立たないものは,社会人のレポートとしては失格である.
その意味で,社会人の書くレポートはその内容――そこに盛られた情報――が生命だが,レポートの形式,表現も大切な役割を負っている.ひとが読んでくれないレポートは役に立たない.読みやすく,ズバリと要点をつかめるように書く工夫が肝要だ.
忙しい上司は手っ取り早く結論を知りたがる.次に示す某社の技術報告4)のような型破りの書き方を試みるのも一案であろう.
A 装置の信頼性の解析
1 序言
A 装置の信頼性〔注1〕を調べる目的で,次の3種類の調査をおこなった.
() ………
() ………
() ………
以下はその調査結果の報告である.この報告にはなお次の資料がふくまれている.
(a) ………
(b) ………
(c) ………
2 結果のまとめと対策
2. 1 結果のまとめ
この装置で故障(誤動作)が起こるのは,……という作業条件の場合,平均○○時間に1回の割合である.設計時の目標:「故障率○○時間に1回以下」には達していない.表1以下に,装置の各部で平均としてそれぞれ何時間に1回の割合で故障が起こったかを示す.
2. 2 対策
今回の信頼性解析の結果にもとづいて,次のことを提案する.
() ……用の現用の電源(……)を,信頼性の高い……または……にとりかえること.これによって故障率は○○時間に1回から○○時間に1回の割合に減少するであろう.
() 装置の各連結部における漏洩が全体にどんな影響をおよぼすかを解析すること.これにもとづいて対策を講じれば,故障率をさらに下げる可能性がある.
3 信頼性解析の際の仮定
…………
4 故障率のデータの取り方
…………
5 結果についての論議
5. 1 電源部 ………
5. 2 ……部 ………
5. 3 ……部 ………
5. 4 その他 ………
このレポートを受けとった課長は,全文をこまかく検討し,おそらく何カ所かについて質問をし,再検討を求めるだろう.部長は,2. 2までは読むだろうが,それ以下は眺めるだけかもしれない.
念のためつけ加えれば,1と2. 1で述べてあるのは〈事実〉,2. 2はこのレポートの筆者の,あるいは筆者のチームの,〈意見〉である.
2 事実と意見の区別
2. 1 事実と意見――言語技術教育との出会い
前章でも〈事実〉,〈意見〉ということばがたびたび出てきたが,レポート・論文の類を書くときに第一に必要な心得は,この二つをはっきり別ものとして取り扱うことだ.欧米では,事実と意見(自分または他人の考え)とを峻別する訓練が言語技術教育の礎石とされているのである.
言語技術教育については後にくわしく述べるが(2.1節),一口にいえばこれは
コミュニケーションの道具としてのことばの使い方
を教える科目だ.欧米では言語技術は教育の基幹科目の一つとみなされている.
この章は,私と言語技術教育との出会いから話をはじめることにしよう.
1976年に,2年間アメリカで月の化学の研究をしていた同僚が帰国して,お子さんたちがヒューストンの小学校で使っていた国語の教科書を見せてくれた.硬い表紙で分厚い21cm×24cm判の,きれいな色刷りの本5)だ.5年生用のを手にした私は,たまたま開いたページに
ジョージ・ワシントンは米国の最も偉大な大統領であった.
ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領であった.
という二つの文がならび,その下に
どちらの文が事実の記述か.もう一つの文に述べてあるのはどんな意見か.事実と意見とはどうちがうか.
と尋ねてあるのを見て衝撃を受けた.そのページのわきには,
事実とは証拠をあげて裏づけすることのできるものである.
意見というのは何事かについてある人が下す判断である.ほかの人はその判断に同意するかもしれないし,同意しないかもしれない.
という二つの注が,それぞれ枠囲みのなかに印刷してあった.
同じ教科書の4年生用の巻には次のような章があり,そこにも上と同じ注がならんでいた.
事実か意見か
次に書いてあることをお読みなさい.
この背の高いアメリカ人は世界でいちばん機敏な男でした.
「ハワハニの新しい学校」というのはあるお話の題です.
どちらが事実の記述ですか.事実とは何でしょう.事実と意見とはどうちがいますか.事実と意見の例をあげてごらんなさい.次に書いてあるのはどれが事実でどれが意見ですか.
1. 私たちアメリカ人はほかの国の人より機敏です.
2. このお話によると,ジョゼフは小屋に住んでいました.
3. 私たちが読んだのはすばらしいお話でした.
4. この島の土着民は争いを好まぬおとなしい人たちでした.
5. 彼らの国のことばはおかしなことばです.
ある種の見解,たとえば上記の1と5とは問題を起こすことがあります.なぜでしょう.(以下略)
読者は,問1,3,5には迷わず「意見」と答えられるだろう.問2は? そのお話の本を見ればたしかにそう書いてあるのだから,これは〈事実〉だ(くわしくは2.2節参照).それでは問4は? これは読者におまかせしよう.
私は先に,事実と意見とを截然と読み分けさせる教育に「衝撃を受けた」と書いた.すこし長くなるが,その理由を述べておこう.
自然科学の世界では,研究論文の発表の場は学会誌その他の学術雑誌である.論文が投稿されると,雑誌の編集者は,その論文のテーマの専門家に閲読を依頼する.閲読者のおもな任務は論文の内容が掲載に値するかどうかを判定することだが,そのほかに,「論文の表現を評定し,必要なら修正意見を述べてほしい」という注文がつく.私の専門の物理の場合には論文は原則として英語で書いてある.さてその英文に手を入れはじめると,はじめに〈考え(意見)〉として述べてあったことがいつの間にか〈事実〉として扱われていたり,議論の大切な前提の記述が落ちていたり,前後の脈絡がみだれていたりして,修正というよりもむしろ書き直しに近くなる場合が多い.つまり問題は英語以前で,論文の組み立て自体が落第ということが多いのだ.
「はじめに〈考え〉として述べてあったことが,いつの間にか〈事実〉として扱われて……」と書いた.「そんなことが……」と思われるかもしれないから,一例をあげておこう.
大磯は,冬,東京より暖いと信じられているが,私は,夜は東京より気温が下がるのではないかと思う.夜間,大磯のほうが低温になることにふしぎはない.暖房その他の熱源が少ないし,第一,東京にくらべてはるかに空気が澄んでいて,夜は地面から虚空に向かってどんどん熱が逃げて行くからである.
この文章では,第1文で「私は,夜は東京より気温が下がるのではないかと思う」と筆者の〈考え〉として書かれていたことが,それを受けた第2文では「夜間,大磯のほうが低温になること」と事実あつかいになっている.ここでは,第1文に述べてある〈私〉の考えが仮にあたっているとして,それに対して〈私〉の判断――ふしぎはない――を述べるのだから,次のように書かなければならないのである.
夜間,大磯のほうが低温になるとしても,それにふしぎはない.
この文章は随筆の一節だから,原文のままでも大してさしつかえはない.しかし,レポートや学術論文の中では,この種の〈考え(意見)〉と〈事実〉とのスリカエは許されない.その結果として不当な結論が導きだされかねないからだ.学問の世界では,事実と意見とは黒と白ほどちがうのである.
実はこの種の混同が日本人の論文にはしばしば見られるのだが,ほかの国からの投稿にはそういう例がまずない.国際学術誌の閲読者としての私の経験によると,非英語国からの投稿には英語はひどいのがあるが,それは英語を直せばすむことで,論文の組み立てに手を入れなければならない例は稀なのである.「どうして日本人だけが……」と思っていた私は,前述の米国の教科書を見て,目を開く思いであった.こどもの時からの教育が全然ちがう!!――このとき受けた衝撃が尾を曳いて,いま私にこの書物を書かせていると言っても過言ではないのである.
同じ教科書の5年生用の巻の第8単元「書くこと」の見出しは次のようなものだ.
書くことの歴史 印象 ある有名な作家 文を結合すること レポートの書き方(主題のえらび方 図書館の利用 メモのつくり方 インタヴューの仕方 荒筋を立てる 文献の引用) ことばの使い方(動詞の過去形 いろいろな国のことば 立証できないことを言うとき) 新聞について(第1面 見出し どんなことがニュースになるか 書き出しの文 記事の書き方 社説) 総合問題 こんなこともやってみたら?
これは読む本ではなくて教室で使う教科書だから,意外なところに意外なトピックがならんでいるきらいがある.しかし,日本の小学校の課程で「書くこと」を教える〈作文〉とはまったく趣がちがうことは読みとれると思う.
この単元で新聞とならぶ大きなテーマは〈レポートの書き方〉である.上記の見出しの中に見られるような手ほどきを受けたあとで,サンディーという5年生の女の子が,「紙の歴史」という課題について250語(日本文にして500〜600字)のレポートを書かされることになる.彼女は,紙の歴史は250語にまとめるには大きすぎる問題であることに気づく.そして〈パピルス〉に話題をしぼって,図書館で材料を集め,近所に住んでいる古代エジプト史専攻の大学教授にインタヴューして,別掲のようなレポートを書き上げるのである.読者は,1. 2節に引用した「O 嬢からの便り――レポートの書き方を習う――」に
アメリカでは小学校のころからこれに似た訓練がはじまっているのに
という一節があったのを思い出されたことと思う.
--------------------------------------------------------------------------------
パピルス
パピルスは,古代エジプトで,少なくとも5000年前に発明された.つくるのはむずかしかった.まずナイル河の岸でパピルスという水草を取ってきて,くき(茎)をほそくさいた.それを平たくならべて一層にし,その上にこれと直角方向にならべた層をかさね,なん層かかさねた.それを,水につけたあとで,重いつち(槌)でたたいた.できあがったパピルスは,つるして日にあててかわかした.
そのあとで,表面をこすってなめらかにした.最後にのりではって10メートルもつなげて,まきものにした.
エジプト人がパピルスを発明するまでは,人々はねんど板や石の上に字を書いていた.それにくらべてパピルスは持ちはこびがらくで,字も書きやすかった.
パピルスは紙ほど書きよくはない.パピルスに書くときには,穴をあけないように気をつけなければならなかった.パピルスは,空気がかわいているとひびがはいるし,しめっているとはげてバラバラになりやすかった.もう一つの欠点は,紙とちがって,糸でとじて本にすることができないことである.もし今でもパピルスが使われているとしたら,わたくしたちの教科書は,まきものになっているだろう.持ちあるくのがたいへんだろう.
--------------------------------------------------------------------------------
この教科書を見る機会を得たことによって私は,日本の国語教育には大きく欠落している要素があり,そのことが日本の学問の進展にも影を落としていることにはじめて気づいた.
そこで私は,たまたまその翌年(1977年)に当時つとめていた学習院の教育問題調査会に国語教育分科会ができたとき,その座長を買って出た.私はもちろん国語教育にはシロウトだが,この分科会のメンバーは半数以上が国語以外の専門であった.
その会で,第2次大戦後の国語教育の針路をきめるのに貢献された輿水実氏をお招きしたりして勉強しているうちに,私たちは,欧米諸国での国語教育〔注1〕は
(a) コミュニケーションの道具としてのことばの使い方,すなわち言語技術(language arts, communication skill)の教育
(b) 他人の書いたものを読んで理解し,鑑賞することを教える読解(reading)の教育
の二本立てであり,この二つの比重がほぼ等しいことを知った.コミュニケーションというのは,事実・状況・意見(考え)・心情(気持)などを他人に伝えることである.情報・意見・心情の伝達といってもいい.ことばによってこれらを伝えるのに必要な心得を示し,その方法を身につけさせるのが言語技術教育である.
私たちは,半年あまりの検討の末,現在の国語教育に最も不足しているのは言語技術教育だ;これを強化しなければならぬ,という結論に到達した.もっとも,言語技術の対象のうち,心情の伝達に関しては従来の作文教育が成果をあげている.したがって問題はことばによって事実や状況を正確につたえ,また自分の考えを整然と主張するための言語技術の教育・訓練だ――というのが私たちの認識であった.
私が先に米国の〈国語の教科書〉と思って手にとって見たのは,実は言語技術の教科書〔注2〕だったのである.言語技術の教育は欧米では小学校から高校まで続けられている.また米国の大学では,作文(English composition),説明・論述文の書き方(エクスポジトリー・ライティング,expository writing),レトリック〔注3〕(rhetoric,修辞学)などの名で呼ばれる言語技術の科目が,学生の専攻を問わず,一般教育課程で必修とされている.そのへんのちがいが,彼我の研究者の論文を書く能力の差となってあらわれている(2.1節)のである.
日本と欧米では事情がちがうので,日本で言語技術教育をはじめるためには独自の教科書を開発しなければならない.私たちの仲間は,1978年から10年かかって,小学3・4年生用1冊6),同5・6年用1冊7),中学生用1冊8),高校生用1冊9)の教科書シリーズを試作した.これは,前述の考えにしたがって,心情の伝達は度外視して,もっぱら情報を正確に伝え,意見を理路整然と述べることの訓練をめざした言語技術教科書である.
これと平行して私は,1979年から81年にわたって雑誌『自然』に理科系の大学生,社会人のための言語技術解説を連載した.それをまとめたのが『理科系の作文技術』である.今回の『レポートの組み立て方』は,一般社会人,文科系学生を対象とし,内容をレポートの組み立て方・書き方にかぎった言語技術解説――『理科系の作文技術』の姉妹篇――と考えていただきたい.
情報を正確につたえ,意見を整然と述べるための言語技術教育は,文学教育でない作文教育といってもよろしい.従来の国語教育は大体において文学教育であった.そうでない国語教育も必要だ,というのが本節で述べた私の主張である.ただし,私は決して文学教育としての国語教育を否定する者ではない.私自身,それから得たところがたいへん大きかったと思っている.日本の感性をつたえ,育てるために,今までの種類の国語教育が果たすべき役割は,情報化時代になってますます大きくなったものと考える.しかし,文学教育でない国語教育もなくてはならない――と私は信じるのである.
2. 2 事実とは何か 意見とは何か〔注1〕
前節は米国の小学校用の言語技術教科書の「事実と意見」の章の紹介にはじまった.そこでの事実と意見との定義は,
事実とは証拠をあげて裏づけすることのできるものである.
意見というのは何事かについてある人が下す判断である.ほかの人はその判断に同意するかもしれないし,同意しないかもしれない.
というものであった.しかし,おとなの世界では,この説明をもう少し突っこんで検討しておく必要がある.
いくつかの書物を引用したレポートの中の,書物Aに関する部分に
この本の著者は1942年生まれである.
と書いてあったとする.この記載は事実かどうか.「証拠をあげて裏づけ」しようと試みて首尾よく裏づけできれば問題なく事実だが,レポート作成者の記憶ちがい,あるいは書きまちがいで,ほんとうは1943年生まれだったということもありうるだろう.しかし,その場合にも,レポートを書いた人はこのことを事実として書いたので,自分の考え(意見)として述べたわけではない.
この種の混乱を避けるために,今後はある記述が「事実である」という言い方はしないことにする.日常会話で「それは事実です」といえば「ほんとうです」の意味だが,今の例のように,「事実として書いた」ことが実は「ほんとうではない」ことがありうるからである.
そこで改めて,事実ではなくて事実の記述を次のように定義する.
(a) 自然に起こる事象(某日某地における落雷)や自然法則(慣性の法則);過去に起こった,またはいま起こりつつある,人間の関与する事件の記述で,
(b) しかるべきテストや調査によって真偽(それがほんとうであるかどうか)を客観的に判定できるもの
を事実の記述という.
つまり,事実の記述は真《しん》(ほんとう,true)の場合と偽《ぎ》(ほんとうではない,false)の場合とがあることになる.先ほどの
この本の著者は1942年生まれである.
という記述は,著者略歴やしかるべき名簿を見るなり,あるいは戸籍謄本を調べるなりして真偽を確認できるから事実の記述である.しかし,もしその本の著者が1943年生まれだったとすれば,これはほんとうではない;偽《ぎ》の〈事実の記述〉なのである.
ある記述が事実の記述であるかどうかは,書かれた内容を見れば判定できる.それがテストや調査によって真偽を客観的に判定〔注2〕できるはずのことかどうかを見ればいいからだ.しかし,その記述がほんとうかどうかは,一般には読んだだけではわからない.テストや調査をしてはじめてわかるのである.
他人の言ったこと,または何かに書いてあることを,「その人の言ったこと」として,あるいは「何々に書いてあること」として述べるときには,それは引用の記述であるという.引用の記述は文科系の大学生の書く研究レポートでは格別に大きな比重をもつが,これは,出所を確認する道が示されていれば,事実の記述とされる(2. 1節参照).それは「その人がそう発言した」あるいは「その文献にはそう記述してある」のが事実だという意味で,発言または記述の内容は必ずしもほんとうのことではなくてもいい.たとえば,Aという書物に
家宣は徳川幕府の第七代将軍になった.
と書いてあったとすると(実際には七代将軍は家継で,家宣は六代将軍),
A書によれば,成人してのち,家宣は徳川幕府の第七代将軍になった.
という引用の記述は事実の記述とされる.
引用ということといくらか関係するが,事実にも,自分が直接に見たり聞いたりして知った事実と,他人の口や筆を通して知った事実とがある.前者を直接経験の事実,後者を伝聞の事実と呼んで区別する.新聞の報道記事は,大部分,記者が伝聞した事実の記述である(ある事件の現場に記者が居合わせるという確率は小さい).
意見は,一口にいえば,事実に対比すべきものとしての〈考え〉である〔注3〕.
意見は幅のひろい概念で,次のようなものがふくまれている.
推論(inference) ある前提にもとづく推理の結論,または中間的な結論.
例:彼は(息をはずませているから)走ってきたにちがいない.
判断(judgment) ものごとのあり方,内容,価値などを見きわめてまとめた考え.
例:この短篇は彼女の最高の作品である.
意見(opinion) 上記の意味での推論や判断;あるいは一般に自分なりに考え,あるいは感じて到達した結論の総称.
例:駅および車内の放送は必要最小限にとどめて,騒音防止につとめるべきだ.
問題に関係のある事実の正確な認識にもとづいて,正しい論理にしたがって導きだされた意見は,根拠のある意見,妥当な意見――sound opinion――である.出発点の事実認識に誤りがある場合,または事実の認識は正確でも論理に誤りがある場合には,根拠薄弱な意見――unsound opinion――になる.レポートで意見を述べる場合には,その意見は上記の意味で〈根拠のある〉ものでなければならない.単なる主観的な判断は,レポートにはなじまない.
仮説(hypothesis) 真偽のほどはわからないがそれはテストの結果を見て判断するとして,仮に打ち出した考え.意見の中にかぞえられるが,〈仮の意見〉である.ここでテストといったのは,その考えを支持する材料または反証になりそうな材料の吟味を意味する.
正当な手続きを踏み,先入観にとらわれずに吟味をおこなった結果がその仮説を支持すれば,仮説は理論に昇格する.いま進化論と呼ばれるものは,最初は仮説であった.ダーウィンは30年にわたって動植物のいろいろな種の地域的な分布を調べ,また古生物学的・発生学的・比較解剖学的なデータを集め,育種実験をおこなって,その検証につとめた.
理論(theory) 証明になりそうな事実が相当にあるが,まだ万人に容認させる域には達していない仮説.たとえば進化論.
すべての人が容認せざるをえないほど十分な根拠のある理論は法則(law)と呼ばれ――たとえばエネルギー保存の法則――,これは意見ではなく事実のカテゴリーに分類される.人文・社会科学の分野には,理論は存在しうるけれども,いま述べた意味での法則は「ない」と言ってもよかろう.
先に述べたように,事実の記述は真か偽か(正しいか誤っているか)のどちらかだ.つまり,数学のことばを借りれば事実の記述は二価――two-valued――である.これに反して意見に対する評価は原則として多価――multi-valued――で,無数の評価が並立する.ワシントンは米国の初代の大統領であったというのは事実の「正しい」記述だが,偉大な大統領であったという意見に対しては,「そのとおり」,「とんでもない」,「まあ,ある面では……」,等々,人によって評価が異なるのが当然なのである.
事実の記述の〈真〉という評価に対応して,意見に〈正しい〉という評価がありうるか.私の考えでは,意見に対して正しい,正しくないという評価が許されるのは,事実に対する推測,推定の場合だけだ.「今日は,海は荒れているだろう」という推測は,行って見れば正しいかどうかがわかる.「この椿はたぶん白椿だ」というのも,花の時節まで待ってみればわかる.そういう場合にかぎるのである.
事実の記述と意見とのちがいを詳述してきたが,事実と意見とを異質のものとして感じ分ける感覚をこどもの時から心の奥底に培っておくことが何より大切である.この感覚が抜けている人は,科学,あるいはひろく言って学問の道に進むことはむずかしい.また,この感覚のにぶい人はたやすくデマにまどわされる.
米国の言語技術教育では小学生のときから徹底的にこの区別の訓練をしていることは先に見たとおりだが(2. 1節前半),私たちの試作した小学3・4年生用の教科書のなかでこどもにこの区別を教えようとする章11)の一節を引用しておこう.
まことは,学級園の畑に向かう途中で,大きな胡瓜を抱えたひろしに会う.畑に来てみると,自分たちの育てた胡瓜がもがれている.まことは先生といっしょにひろしを探して,「その胡瓜,ぼくたちのを取ったんだろ」と口げんかをはじめる.
……先生がたずねました.
「まことくん,きみはひろしくんがきゅうりを取っているのを見たのかい.」
「だって……ぼくたちのがなくなっているんだもの.」
「いや,見たかどうかをきいているんだよ.」
「見てはいません.でも,ひろしくんが持ってたきゅうり,ぼくたちのによくにているんです.」
「きゅうりは,みんなよくにているさ.だから,きみは,ひろしくんが取った,と思ってしまったんだろうけど,取っているところを見もしないで,取ったときめてしまうのはよくないよ.」
(中 略)
そのとき,
「先生!」
「まことくん!」
と,砂《すな》場《ば》の方からじろうたちがかけてきました.じろうは,大きなきゅうりを,さしだすようにしてかけてきます.
「先生,ほら,これ,ぼくたちのきゅうり.大きいでしょう.」
「まことくん,見ろよ.これ,ぼくたちのだよ.」
「きみがそうじ当番なので,ぼくたちで取ったんだ.」
(後 略)
【問題2. 1】 次の文は事実の記述か.〇(はい),×(いいえ)で答え,理由を述べよ.
(1) 私は,自分のしたことは正しかったと信じている.
(2) 『平家物語』によると,腰越にとどめられた義経は大江広元に書状を送って窮境を訴えたという.
(3) 鎌倉駅は東海道線にある(問題4. 1(4.3節参照)).
(4) 明日は必ず9時に出社してください.
(5) 私がそのとき「しまった」と思ったのは事実である.
【問題2. 2】12) 次の引用文は,ある新聞の1982年4月19日の朝刊第1面の記事である.
サケよ元気で戻れ
子供らの夢を背に
稚魚10万匹旅立つ
――多摩川――
快晴の18日午後,東京,神奈川の都県境の多摩川二子橋下流で「第1回サケの旅立ちを励ます会」が開かれた.多摩川の浄化運動を続けている住民団体「多摩川にアユを戻す会」(織戸四郎会長,会員2,000人)が水産庁の試験放流許可を受けて行ったもので,長洲一二神奈川県知事ら沿岸自治体,農林水産省,建設省関係者らが両岸の子どもたち約3,000人とともに稚魚約10万匹を放流した.
この日の同地方は最高気温16.8度.平年より1.5度低かったが,風もなく,青空にツバメやカモメが群舞する絶好の“放流日和”.上,下流ともピクニックの人出でにぎわい,放流会場へも正午過ぎから家族連れや子供会の会員たちが続々と押しかけ,河川敷に特設された桟《さん》橋《ばし》に行列.一人ひとりがそれぞれ小さなプラスチックバケツで20〜30匹ずつを「早く元気で帰っておいで」と祈るように流れへ放した.
1月15日に北海道・根室から送られてきた受精卵が,栃木県那須郡小川町の同県水産試験場でふ化,さらに数日前から多摩川のイケスで川水になじんだ上での旅立ち.苦労を共にした関係者の喜びを背に,稚魚たちは川を下り,約2万5,000キロ,3〜4年間の長旅に向かった.
上の記事のうち,「この日の同地方は……」以下の記述の各部に,下の区分にしたがって傍線を引け.
ア 記者自身の直接経験した事実の記述と思う部分には .
イ 記者が他人から伝聞した事実の記述と思う部分には .
ウ 記者の推測・判断の記述と思う部分には .
エ 他人の推測・判断(一般におこなわれている推測・判断をふくむ)の記述と思う部分には太字.
【問題2. 3】 狭義の〈意見〉に関するかぎり,「正しい」意見というものは存在しないと書いたが(2.2節),次の意見は「正しい」意見といってもいいのではないか.
リンをふくむ洗剤は,海や湖を富栄養化させ,植物プランクトンを増殖させて水質汚濁を起こすので,使用を禁止すべきである.
2. 3 事実の記述の比重
レポートの骨格となるべきものは事実の記述である.読者はたぶん,1. 2節に引用した「O 嬢からの便り――レポートの書き方を習う――」の中に
レポートの主眼は,調査した事実や人々の意見を,自分の目的にしたがって配列・連結して「資料に語らせる」ことにある.
という一節があったのを記憶しておられるだろう.この一節は,大学生の書くレポートだけでなく,社会人の書くさまざまなレポートにも通じるのである.
たとえある一つの意見を主張するのが目的のレポートであっても,意見だけを書いて「ぜひとも……すべきだ」などと強調してみても読者は納得しない.この場合にも死命を制するのは意見の根拠となる事実の記述であって,事実の裏打ちがあってはじめて意見は説得力をもつのである.レポートに述べる意見はすべて根拠のある意見――その問題に関連する事実の正しい認識にもとづいて,正しい論理にしたがって導きだされた意見――でなければならぬことは(2.2節),くりかえすまでもあるまい.事実から意見に至る考えの筋道が自明な場合には,意見の根拠となる事実だけを述べ,それだけで打ち切るのが最も強い主張法になることもある.
事実の記述は,一般的でなく,特定のもの,こと,場合に関するものであるほど,また抽象的でなく具体的であるほど,読み手に訴える力が強い.たとえば,
欧州の一部や米国では,勤務時間の観念がきわめてはっきりしていて,1分もむだにせずにはたらく代わりに,時間がくればあと数行で完結する書類のタイプも中断して,さっさと帰ってしまうような習慣のところが多い.そういう国でも,大学や研究所の実験家には例外が少なくない.
という記述の裏づけとして,この後につづけて
あかあかと電灯のついている窓をのぞいてみれば,たいていは実験器具や器械のならんだ部屋である.
などと一般的なことを書いても印象はうすい.しかし,次のように特定的,具体的な記述で裏打ちすれば13),「なるほど」とうなずく人もあろう.
私はむかし S 助教授(当時)が書かれたローレンスのスケッチ14)をよく思い出す.ローレンスは原子核実験に使う粒子加速装置サイクロトロンの発明者で,S 助教授はその研究所から帰国されたばかりであった.
……だから彼の(サイクロトロンの)コントロールデスクでの装束程様々なのはない.シャツの袖をまくり上げた姿,よごれた上張りをひつかけたのはよいとして,テニスの服装やら,モーターボートの帰りで防水布で出来たジャケットかと思ふと,宴会の帰りで夜の11時過ぎにソアレに着飾つた奥様を研究所の油に汚れた椅子にかけさせて,タキシードの儘で,発振器のスウィッチボタンを夢中で押して居る姿はよく見受ける所である……
ローレンス,時に三十代の後半,「実験者たる者はその実験とストラッグルすべき」だと言いはなった彼の,脂ののりきった時代であったろう.
3 ペンを執る前に
3. 1 レポート作成の手順
この章では,主として文科系の学生の書く(書かされる)研究レポート〔注1〕について,執筆前になすべき準備作業を解説する.
理科系の実験レポートでは,レポートを書こうとするときにはすでに実験は終わり,主体となるべき情報は手中にあるのが原則である.これに反して,文科系の研究レポートでは,いわばレポートの課題を与えられたときにはじめて研究・調査がはじまるのが実情であろう.また,調査の対象は主として図書,雑誌,新聞の類の文献であろう.本章はこういう事情を想定して書くのだが,社会人の書くさまざまなレポートのための準備作業のためにも参考になるものと考える.
まず,文科系学生の研究レポート(以下,レポートと略称)の作成手順を概説することからはじめるのが順序であろう.
話を具体的にするために,私がかつて学習院大学で「表現法」(一般教育)を担当していたときに学生に配ったプリントを利用することにしよう.私は毎年,夏休みの宿題として400字詰め原稿用紙十数枚の研究レポートを書かせていた.夏休みは7月20日ごろからだが,大学の図書館を利用して文献調査をする便宜を考えて,その一月ほど前に課題(毎年ちがう)を与えた.図に示したのは,1987年の夏休みの宿題の説明に使ったプリントである.ただし,( )内に示した数字は本書で参照すべき章または節の番号で,これは今回あらためて記入した(もとは『理科系の作文技術』の節番号がはいっていた).
課題は「世界の中における日本のコメ農業」,「男女雇用機会均等法〔注2〕」の二つの中から一つをえらばせる.400字詰め原稿用紙15枚(6,000字)以内という指定で,そのうち2/3以上が事実の記述(2. 2節)であり,その事実の記述にもとづいて自分の意見を組み立てることを要求している.事実の記述といっても,大学生のことだから,なまの情報(自分自身が直接にことに当たって得た情報)は少なく,いろいろな文献からの引用(2.2節)が主体になるだろうということは,出題者の計算にはいっている.
以下,「作業の手順」の中の流れ図を中心として,レポート作成のための準備作業の解説を進めよう.
上記の二つの課題のどちらかをえらんだら,自分は,その課題に包含されるいろいろな問題の中で何を取り上げてレポートの話題(サブジェクト,subject)とするかを考える.「世界の中における日本のコメ農業」にしても,「男女雇用機会均等法」にしても,きちっと資料を示しながら15枚のレポートで取り扱うには余りに大きな問題だから,もっと小さな,具体的な話題に集中しなければならないのである(1.2節,2.1節).話題選定のためには,課題に関連する資料に,ある程度,当たってみることが必要だろう.もっとも,今の例のように時事問題が課題とされた場合には,新聞やテレビのニュースを通じてのかねてからの関心によって,取り上げるべき話題がおのずからきまってくることもあろう.
話題をきめただけの段階で,つまり「……について論じる」ときめただけで,いきなり書きはじめようとしてはいけない.まずその話題について十分に考えをめぐらし,自分としてはこう考える,こういう結論に持って行きたい――という見通しを立てなければならないのである.資料の調査も終わっていないこの段階で結論を確定するのは無理な話だ.したがってここで考えるのは仮の目標,いわば結論の試案である.その後の研究・調査の進行にともなってこの結論は修正される――ある場合には正反対になる――かもしれない.しかしとにかく,できる限りの予測と考察によってこの段階で結論を〈想定〉しておかないと,その後の資料調査(研究)を効果的に進めることができないのだ.
このやり方は,研究という知的生産作業の基本戦略の一つである.私は自然科学畑の人間だが,実験的研究も,次の一節が示すように,結果の予測を持った上で計画すべきものと信じている.
……すべての実験には結果の予測があるはずである.価値のある実験は,「とにかくやって,どうなるか結果を見よう」という無邪気な実験ではなく,「多分こうだから,こうなるはずだ」という作業仮説〔注3〕を持って計画され,「そうなるかどうかを見る」ものでなければならぬ.よく,「結果の予測をもたずに無心に実験をやれ」という.研究を知らぬ人の説であろう.「こうなるはず」という推理がなくて,何を基準にきみの〈手〉は実験条件を設定するのか.また,自然がきみの眼前に展開する劇のなかから,きみの〈眼〉はいったい何を見ぬこうとするのか!?……
この引用のなかの〈実験〉を〈資料調査(による研究)〉,〈実験条件〉を〈資料調査の方針〉と読みかえれば,私の言いたいことは通じるものと思う.ただし,「結論を想定して資料調査を進める」のは,書き手の想定した結論に対して有利な資料だけを採用することを意味するのではない.調査には予測が必要だが,調査の結果には無心に対応しなければならない.これは,実験的研究の場合に,作業仮説に反する実験結果が出てくれば素直に仮説を撤回して新しい作業仮説を立てなければならないのと同じことである.
自分の書くレポートのなかである話題についてあることを結論しよう,主張しよう,つたえようとするとき,それをレポートの主題〔注4〕(thesis)という.いままで述べてきたことは,
まず仮の主題(主題の試案)をきめて,それから資料調査にかかれ
と要約できる.
次の仕事は,仮の主題を主題文(thesis sentence. thesisということもある)のかたちに書いてみることだ.ただし,主題文というのは主題を短い文〔注5〕またはごく短い文章にまとめたもののことである.これは,自分は何を目標としてそのレポートを書くのか,そこで何を主張しようとするのかを示す文または文章だから,この書物では目標規定文と呼ぶことにする.この段階で書くのは,仮の目標規定文だ.
仮の目標規定文を書いたら,それをにらみながら,これからどういうことを調べるか,また調べたことをどういうふうに配列して結論に至るかという構想を練る.これは,1. 2節の「O 嬢からの便り」で,〈最初のアウトライン〉と書いてあったものに相当する.
そこではじめて,レポートの材料となる事実の蒐集,調査に着手する.文科系学生の研究レポートならばこれには主として図書館を利用することになるが,課題が時事問題の場合には新聞やテレビのニュースにも気を配らなければならない.また,アンケート,実地調査などによって有用な資料がえられる場合もある.
仮の目標規定文の線に沿ってあつめた資料がその主題を支持すれば,そこで主題は確定し,書き手は構成案(1. 2節の「O 嬢からの便り」では〈決定版のアウトライン〉)の作成に進むことになる.もし資料調査を進めるうちに結論ないし主張を変更する必要が生まれれば,主題を修正し,新しい主題に合わせて目標規定文を書き直して,以上の過程をくりかえすことになる.
以下,上記の手順を,順を追って解説する.
3. 2 主題をきめる
課題が与えられたとき,話題をえらび,主題をきめるにはどうするか.私が大学生諸君に勧めたいと思うやり方を,3. 1節で紹介した二つの課題:
A 世界の中における日本のコメ農業
B 男女雇用機会均等法
を例にとって説明してみよう.
この二つは,ともにいまの問題,時事問題であるという点では同列だが,レポートの課題としてはかなり性格がちがう.A では,主として客観的,数値的な統計資料にもとづいて議論をすることができる;ところが B では,「いざ数値的な資料を」と思うと壁にぶつかり(たとえば生理休暇,育児休暇等の実態をつかむことはむずかしい),資料として引用できるのは主として当事者の談話,識者の意見などに限られてしまうからである.
出所の明らかな引用は事実の記述とされるから(2.2節),B についても,課題 A,B に関するレポートに対する要求(3.1節):
内容の2/3以上が自分の調査にもとづく事実の記述であること
をみたすことはむずかしくない.しかし,引用する談話や意見は多かれ少なかれ主観をふくむので,A とはちがって,レポートの議論の根底に他人の主観が入ってしまうことは避けられない.このへんの事情は,文学に関するレポートを書く場合にも共通であろう.
問題点をさがす
A,B どちらの課題にしても,新聞(とくに第1面)に眼を通している人ならば,ある程度のことは知っているはずだ.そうでない人は,少し前からの新聞,雑誌を引っくりかえしたり〔注1〕,大きな本屋の書棚を見渡したりして,若干の予備知識を得ることが出発点だろう.
A,B のような時事問題ではない課題――たとえば「日本語の歴史的変遷」とか「気候と文明」とか――が与えられた場合には,百科事典に当たることから始めるのが常道である.このための百科事典の使い方に関しては3. 4. 3節参照.
とにかく,立ち読み程度の大ざっぱな予備知識を背景にして,課題に関してどんなことが問題点になりそうかを,順序はかまわず思いつくままに書きならべてみるのが第1段である.これを私は〈思いつくままのメモ〉と呼んでいる.表3. 1は,ある学生が課題 A,B に関してつくった〈思いつくままのメモ〉と考えていただきたい.
この表にはたくさんの項目が並んでいるが,誰にしても頭の中からこんな項目がズラズラ出てくるわけではない.時間をかける――あいだに休みをおいてときどき考える――ことが必要だ.私は,この種の仕事は電車の中ですることにしている.車内用には,大型のカード(たとえば B6判,182mm×128mm)を使うのが便利だ.考えるだけでなく,書き上げてみることが助けになるのである.書いたものを眺めているうちに,別の項目が頭に浮かんでくることがある.関係のあるものに共通の符号(●とか,△とか)をつけてみるのもいい.
表3.1 課題A,Bに関して思いつく問題点(順序不同)
--------------------------------------------------------------------------------
A 世界の中における日本のコメ農業
輸入を自由化したら? 貿易摩擦 牛肉・オレンジとの関係 保護貿易 食管制度 商社が輸入したら? 米価のきまり方 国際価格を支配するもの 穀物自給率 耕地面積 農業の規模 減反 農業人口の変化 米信仰 日本人の米食依存度の変化 日・米の国民感情 中国,タイ,etc 各国のコメ生産量 ジャポニカ(日本型のコメ)とインディカ(ほそ長いコメ) 自給は絶対必要か? 非常時対策 備蓄 世界的不作の可能性 人口増 世界規模での食糧需給の将来 ……
B 男女雇用機会均等法
どんな法律か(名称,成立・施行の時期,……) 労基法との関係 男女平等とは何か 差別とは? 婦人運動 生理休暇 出産休暇 育児休暇 男性の育児休暇? 保護と平等とは両立するか? 同一労働同一賃金 深夜労働 出張は? 転勤 アメリカ式の「保護廃止・平等」論 欧州では「保護二分論」 日本は無原則? 母性保護と一般女子保護 労働の権利 深夜業禁止への反発 タクシー運転手プロフェッショナルの立場 男性労働者の立場 労組の立場 育児後の再雇用 技術の進歩 ……
--------------------------------------------------------------------------------
レポートの話題をえらぶ
表3. 1にあげた項目には,そのままレポートの話題(サブジェクト)―― 3.1節参照――として取り上げるのにふさわしいものも含まれているけれども,多くはそれには問題が小さすぎる.別の言い方をすれば,視点が局部的すぎる.
レポートの話題としては,これらのいくつかを一つにまとめた問題,あるいはいくつかに共通な問題点をえらぶのが適当である.話題の構成・選択に当たっては,次の四つのことを吟味する.
(a) その話題は自分にとって魅力的か.自分はそれに積極的な興味を感じるか.
(b) 自分はそれについて何かの考え――意見――があるか.
(c) 自分はそれについてある程度の予備知識をもっているか.
(d) その話題についてのレポートは,指定された長さ(原稿枚数)におさまりそうか.
最後の点 (d) に関しては,項目の組み合わせ方を変えれば話題は大きくも小さくもできることを注意しておこう.
レポートの主題をきめる
レポートの話題をきめたら,次に,その話題についてどういうことを調べて,どういうふうにまとめようか(どんな結論にもって行こうか,どんな意見を主張しようか)と考えをめぐらす〔注2〕.これは,レポートの主題を構想するということだ.この段階できめた主題は〈仮の主題(3.1節)〉で,あとで修正することになる可能性のあるものだが,前述のとおり,充実した研究レポートを書くためには,いちおう主題をきめてから資料調査にかかることが肝要なのである.
どういうふうに考えを進めて,話題をえらび,(仮の)主題をきめるのか.A,B 二つの課題についてその例を示そう.以下は,架空の大学生が考えをめぐらせながら頭の中でつぶやいている独白と見ていただきたい(したがって,以下に展開する考察は,必ずしも的を射たものとは限らない).
A 世界の中における日本のコメ農業
日本は米国からコメの輸入制限を撤廃することを求められているが,「輸入を自由化すれば日本のコメ農業は潰滅する」という予測が強い.日本産と米国産のコメの価格に大差があるからだ(それにしても,タイ米はたぶん米国米よりもっと安いだろうが,輸入を自由化したらほんとうに米国米が入ってくるのだろうか?).なぜ日本のコメは高いのか,それを調べてみよう(レポートの話題の候補として検討してみよう).
表3. 1A でこれに関連しそうな項目を拾ってみると,
食管制度 米価のきまり方 国際価格を支配するもの 耕地面積 農業の規模 減反 農業人口の変化 日本人の米食依存度の変化 各国のコメ生産量
などがある.
自分の考えでは,日本のコメが高いのは,根本的には
(a) コメ農家の経営規模が小さい
からにちがいない.これは主として地理的な制約による.山地が多くて,水田をつくれる場所の総面積が小さい;また傾斜地に田をつくることが多い.傾斜地では必然的に1枚1枚の田が小さくなり,機械化作業がむずかしい.したがって,大規模経営はできない.
歴史的には農業人口が多かったこともコメ農業の零細化の一因だったろうが,今では農業人口は激減しているはずだ.しかし,その代わりに,
(b) 農家の生活水準が上がった
ことが米の生産コストを押し上げていると思う.
このほかに,
(c) 食管制度による政府の補助金
(d) 国民一人当たりのコメ消費量が減ったための減反のかたちでの生産制限
も米価を押し上げているだろうが,これらは「日本のコメが高い」ことの根本要因ではあるまい.それよりも,外国産米との価格の比較の上では
(e) 円高が日本米を割高にしている
という要素が重要だろう.
(a),(b) に関しては,日本以外の米産国(中国,タイ,米国,その他)のコメ農業の条件との数値的な比較が必要だが,自分としては
主として自然条件によって,副次的には日本の経済的発展によって,国産米の生産コストが他国米より相当に高くなることは避けられない.日本のコメ農業の将来計画は,このことを前提として立案するほかない
ものと思う.このことを(仮の)主題として,この主張を裏づけるために資料調査を進めよう.
読者は,上記の(仮の)主題を読んで「なんだ,そんなことはわかりきってるじゃないか」と期待を裏切られたかもしれない.しかしこの結論を,他人の論説から結論を借用するのではなく,自分の手で客観的・数値的な資料をあつめて裏打ちしようとすると,ことは簡単でない.私は,確実な事実にもとづいて一つの考えを構成することがレポート作成の基本と考えるので,こういう,いわば〈平凡な〉主題についてレポートを書いてみることも十分に価値があるものと信じる.それが,主題のきめ方の解説に当たって,あえてこれを第1例にえらんだ理由である.
B 男女雇用機会均等法
念のために正式名称を調べてみると15),
雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律(1985-05成立,1986-04施行)
という長ったらしい名前で,勤労婦人福祉法の改正と労働基準法の一部改定とが内容なのだという.この法律が生まれた背後には,婦人差別撤廃条約を批准するために国内法を整備しなければならないという事情があったらしい.
この法律(というより法律改正)は,その基礎になっている概念や思想の中に対立する要素がふくまれていて,一種の妥協の産物らしい.このレポートでは,争点の一つである「男女平等と女性保護とは両立するか」という問題を掘りさげてみよう.
表3. 1B でこれに関連しそうな項目を拾ってみると,
男女平等とは何か 差別とは? 婦人運動 生理休暇 出産休暇 育児休暇 同一労働同一賃金 深夜労働 出張は? 転勤 アメリカ式の「保護廃止・平等」論 欧州では「保護二分論」 日本は無原則? 母性保護と一般女子保護 男性労働者の立場 労組の立場
などがある.
自分には,同一価値の労働には同一賃金を支払うべきだという「同一労働同一賃金」の原理は,きわめて自然なものとみえる.しかし,この原理をみとめれば,企業の論理としては,男女平等と女性保護とを両立させることはできない.保護規定のために女性の就労時間がへればそれだけ賃金がへり,月収の面における男女平等が成り立たなくなるからである.米国では,男女平等に徹して,女性保護措置を全廃しようとしているというが,これは,「男女平等に徹する」のがいいことかどうかは別として,とにかく一つの首尾一貫した方針である.
一方において自分は,女性には出産と哺育という種族保存のための不可欠の仕事がある以上,国家としてはぜひ女性保護のための施策を講ずる必要があるものと考える.欧州では,母性保護の施策(出産休暇,育児休暇,その他)と一般女性保護の施策(生理休暇,深夜業禁止,その他)とを区別して,前者は残し,後者は廃止しようとする動きがあるらしいが,これは合理的とはいえない.若い女性はすべて潜在的母性だからである.
同一労働同一賃金の原理を認めた上で男女平等と女性保護とを両立させる道はないか.自分は,女性保護規定のために生じる賃金格差を,民族保存の旗印を掲げて,国家が補償するほかないと思う.
そこで自分は,このレポートでは,主として図書,雑誌,新聞によって男女の雇用機会均等化に関する識者の意見と各国の対処法とを調べ,それにもとづいて
同一労働同一賃金の原理にしたがえば,企業の論理では男女平等と女性保護とは両立しない.しかし,女性保護はぜひ必要である.男女平等と女性保護とを両立させるためには,女性保護施策のために生まれる男女間の賃金格差を,国家が補償するほかない.
ということを主張しようと考える.これを仮の主題として資料調査に着手しよう.
以上,二つの課題
A 世界の中における日本のコメ農業
B 男女雇用機会均等法
を例として,主題のきめ方を
問題点をさがす レポートの話題をえらぶ レポートの主題をきめる
の3段階に分けて詳述してきた.主題の選定はレポートの死命を制する作業だから,整理の意味でもう一度,やさしい例題について,その要領をくりかえして解説しておこう.
やさしい例題16)
「学生食堂」という課題を与えられて10枚のレポートを書く場合を想定する.この課題は,上記の課題 A,B とはちがって,大学生諸君に身近なもの,必ずしも文献調査という手段によらなくても,実地調査によって資料を得ることのできるものである.
まず,課題に関して思いつく問題点を列挙してみよう.
この種の項目をたくさん集めるには,前記のように(3.2節),大きなカードに,思いついた項目を書きならべて表にしてみるのが有効な手段である(表3. 2).
表3.2 課題「学生食堂」に関して思いつく問題点(順序不同)
--------------------------------------------------------------------------------
大学生の食生活と学生食堂 学生食堂の衛生状態 各大学学生食堂の食べくらべ 学生食堂のメニュー 定食中心方式とカフェテリア方式 市中食堂と学生食堂との価格の比較 大学周辺の飲食施設 休暇中の経営の問題 学生食堂の経営形態(生協,市中食堂に委託,校友会等の自営,……) 栄養学的な検討……
--------------------------------------------------------------------------------
次のステップは,その表をにらみながら,レポートの話題(サブジェクト)をえらぶことだ.話題はその表の項目の一つでもいいし,いくつかを組み合わせたものでもいい.前記のとおり(3.2節),次のようなことを考えて話題を選定するのである.
(a) それについて自分は強い関心があるか.
(b) それについて自分の意見を立てられるか.
(c) それについての自分の予備知識は?
(d) それについてのレポートは指定された長さにまとめられるか.
たとえば,今の表を眺めていて「学生食堂のメニュー」に目が留まったとする.そうだ,自分は本学の学生食堂のメニューについていつも「もっと変化がほしい」,「何かが足りない」と感じている (a).この不満を分析してデータを積み上げればレポートを書けるだろう.これはおそらく原稿用紙10枚に手頃なテーマだ (d),……という調子で,ひとまず〈本学の学生食堂のメニュー〉をレポートの話題の候補としてえらんでみるわけである.
そこでいきなり書きはじめてはいけないのは,3. 1節で述べたとおりだ.レポート作成にはその話題について何を主張するか(主題)をきめてかからなければならない.これは上記の (b) に答えることである.そのためには,「もっと変化がほしい」,「何かが欠けている」という漠然たる不満を具体的に見きわめる必要がある.これは (c) の〈自分の予備知識〉の不足を補充することになる.
この場合に「漠然たる不満を具体的に見きわめる」には,二つか三つ,よその大学の食堂を食べあるいてみるのがいいだろう〔注3〕.ある大学の学生食堂で昼食をたべて様子を見ると,一皿盛りの,ひじきと油揚げの煮つけだとか,ほうれん草のおひたし,ちりめんじゃことわかめの酢のものなどがあって,値段も安い.「ああ,うちの学生食堂のメニューにはこういうもの――ヴィタミンやミネラルを手軽に補給できる小皿料理――が足りないのだな.それで〈何かが欠けている〉と感じるのだ」と気がつく.そこで,話題の中身にメニューの栄養学的な検討(表3. 2の最下段)を加えることにして,次のように(仮の)主題をきめ,腰をすえて材料集めに着手するのである.
本学の学生食堂のメニューを検討して栄養面の配慮が不十分なことを指摘し,その対策としてメニューに野菜,小魚,海藻等の小皿料理を加えることを提案する.
3. 3 目標規定文(主題文)
3. 2節に述べた要領で話題をえらび,主題をきめたならば,レポート作成の重要な手順として,その主題を最も簡潔なかたちに書いてみることを勧める.これを主題文または目標規定文と呼ぶことはすでに述べた(3.1節).この書物ではもっぱら目標規定文ということばを使うのは,これをレポート作成の指標として活用しようという考えがあるからである.
目標規定文は
何を目標としてこのレポートを書くのか,そこで自分は何を主張するのか
を示した文(またはごく短い文章)である.これを明文化することには次の二つのメリットがある:
(a) 一字一句を吟味しながら簡潔な目標規定文を仕上げることは,主題――レポートのエッセンス――を明確化するのに役立つ.
(b) 目標規定文と照らし合わせながら資料を探索・取捨選択し,またレポートの構成を検討することによって,レポートがすっきりと筋のとおったものになる.
前節で扱った三つの例題について,(b) の目的で参照するのにふさわしい形に目標規定文を書くと,たとえば次のようになる.
このレポートでは,国産米は他国米と生産コストにおいて太刀打ちできるはずがないことを明らかにし,日本のコメ農業の将来計画はこのことを前提として立案するほかないことを主張する.
このレポートでは,同一労働同一賃金の原則をみとめる以上,男女平等と女性保護とは相容れないことを論証し,この二つを両立させるためには,保護施策のために生まれる男女間の賃金格差を国家が補償するほかないことを主張する.
このレポートでは,本学の学生食堂では栄養バランスの配慮が足りないことを具体的に示し,その対策として野菜,小魚,海藻類の小皿料理をメニューに加えることを提案する.
レポート作成に当たっては,少なくとも初心者は,まず上の例のような目標規定文を書き,それからその目標に収束するように資料をあつめ,レポートの構成を考えるべきである.
こういう風にちゃんと目標を定めた上で資料調査にかかっても,材料があつまるにつれて最初に考えた目標――結論――では具合がわるいことがわかってくる場合がある.また,あつめた資料を整理してレポートを書いていくうちに,論理の流れの必然として結論が当初に予定したものとずれてくる場合もある.書くことは考えること,考えを明確にすることなので,書き進むうちに,空《くう》で考えたときの論理のアラが見えてくるのである.最初に考えた主題を仮の主題,それに対応する目標規定文を仮の目標規定文と呼んだのは,この故であった.
もし途中で目標を修正することになったら,私は,目標規定文を書き直して全部の作業をはじめからやり直すことを勧める.一貫して明確な目標意識をもって組み立てたレポートでなければ,スカッとした切れ味は出せないからである.
前にも述べたが(3.1節),「明確に目標を定めてレポートを組み立てよ」というのは,資料を調査するうちにみつかった都合のわるい材料,レポートの結論を支持しない材料は捨ててしまえということではない.この点に関しては3. 6. 2節の〈論議〉の項(後節3.6節)を参照されたい.
3. 4 材料を集める
文科系の学生の研究レポートでは,ふつう,最初にレポートの課題が与えられる.学生はその課題にふくまれる話題の中から適当なものをえらび,その話題に関して自分が主張しよう,つたえようとする主題をきめて,それについて材料を集め,考察をまとめてレポートを書くことになる.つまり,〈研究〉とレポート作成とは表裏一体で,作業の全期間を通じてレポートが念頭にある.
理科系の学生の場合には,実験(理論的な研究の場合には考察・計算)が終わって結論が出るまでは,レポートのことは念頭にないのがふつうだ.レポートのことを考えるのは,材料が整ってからあとなのである.
社会人の書くレポートは,この二つのタイプのどちらかであることもあり,その中間の場合もある.
以下に書くことは,主として,文科系学生が研究レポート作成のために材料を収集する際の便を考えたものだ.しかし,ほかの場合にも参考になるはずである.
レポートで,主題を展開し,裏づけるための材料は,およそ次の三つの方法でえられる:
(a) 自分の頭の中から引きだす(眠っている記憶を呼び起こし,いくつかの記憶を結びつける).
(b) 実地調査(自身でものに当たり,ことに当たって調べる),観察,実験などの手段によって入手する.
(c) 図書,雑誌,新聞などの文献から引用する.テレビ,ラジオのニュースその他を見たり聞いたりするのも,これと同類と考えておこう.
文科系のレポートの材料は主として (c) によってえられる.この意味で,図書館の利用法が大きな比重をもつことになる.理科系の場合には,(b) にウェイトが置かれることが多い.
3. 4. 1 頭の中にあるものを引きだす方法
私たちの脳の中には,自分自身の体験や,他から学んだ知識などの 厖大な記憶が眠っている.その中には,主題を展開し,裏づけるために役立つものがたくさんある.それらを呼び起こすにはどうするか.
私自身は,何日か――本格的な論文ならば何週間か,何カ月か――のあいだ主題をあたためるのを常とする.つまり,始終そのことを考えているわけではないが心のどこかにそのことが潜んでいる,折に触れてそれが浮かび上がってきてしばらくのあいだ集中して考える――という状態をつづけるわけである.
表3.3 3.4節の材料を集めているときにつくったメモ
--------------------------------------------------------------------------------
カード ノートのとり方 調査(もの,こと) 実験 観察 interview その manner 図書・雑誌・新聞 縮刷版(さくいん) さくいんの使いかた解説 頭の中にあるもの 神経回路網 連想 TV radio 百科事典(何でも,ただし新しい情報は欠けている) condensed information イミダス 現代用語辞典 自己の体験 なまの情報 辞典と事典 参考図書(reference books)の定義 年鑑 年表 統計表 分類 DC NDC UDC 「すべての知識の分類」は妄想 司書 件名目録 著者目録 書名目録 専門事典 記憶を引きだす 伊藤正男 時実利彦 キーワード 情報検索 大書店の利用 自己の体験 整理 information retrieval ……
--------------------------------------------------------------------------------
〈考えている〉ときに念頭に浮かぶもの,こと,項目を,何でも,順序はかまわず,私は大きなカード(3.2節参照)か手帳に書きこむ.これを〈思いつくままのメモ〉と呼ぶのは,表3. 1,3. 2などの場合と同様だ.実例として,私が本節の主題をあたためているあいだにカードに書きこんだ〈思いつくままのメモ〉をお目にかけよう.
前にも書いたが,こういう項目を紙に書いて,それをにらみながら考えることが大切だ.眺めているうちに,落としていた項目がみつかったり,二つの項目のあいだに思いがけぬ関連を発見して新しいアイディアが生まれたりする.
したがって,できあがったメモの順序はいわばデタラメで,不要の項目もふくまれている.本文を書くときには主題を展開する順序を考えてメモにある材料を整理・再配列し,幾つかのものを捨てるから,表3. 3から本文の姿を思い浮かべることは到底できないだろう.
表3. 3に示したような私のメモは単語の羅列に近いが,考えを短い文にして書きならべる流儀の人もある.単語にせよ,短文にせよ,それらを書きこんだメモを利用して文章を組み立てていく技術として,川喜田二郎氏の KJ 法17)も一度は試みてみるべきだろう.
3. 4. 2 調査・観察・実験
ここで調査というのは文献の調査ではない.実際にもの,ことに当たり,また人に当たって目,耳,口をはたらかせておこなう調査のことである.調査は,いちおう結論を想定して――レポートの(仮の)主題を定めて――その当否を問いかけるかたちで進めるべきものであることは既に述べた(3. 1節).
調査の手段である観察と実験とを特記したのは,この二つの調査法がそれぞれ次のような性格のものであることを強調しておきたかったからだ.観察は,客観的な情報を得る目的で,目をみはって対象を見ることだが,たてまえとして対象の状態を乱さずに(対象が人間であればその人の心理に影響を与えないように気をつけて)あるがままの姿で見ようとする点に特徴がある.実験は,これに反して,対象が自然であろうと人間であろうと相手に積極的にはたらきかけて,ある条件を与えたときに相手がどう振舞うかを見ようとするものである.
調査,観察,実験の具体的な方法は,それぞれの分野の専門書にゆずるほかない.ここでは,レポート作成に当たって必要な注意を一つだけ述べておく.それは,統計的な調査に関するものである.
統計というのは「同じことがらを多くの対象(あるいは多くの場合)について調べてその結果を数字的にあらわすこと」といったらいいかと思うが,ぜんぶの対象についての調査(全数調査)は実行不可能なことが多いので,ふつうはその一部――これを標本(sample)という――だけに当たってみることになる.
たとえば,A 大学の学生は通学(片道)に平均何時間かけているかを調査する目的で,20人の学生(標本)にアンケート〔注1〕をして,平均67分という結果をえたとする.これから単純に「A 大学の学生は平均として通学に片道1時間強をかけている」と結論するのは早計に過ぎる.まず,その標本が A 大学の全学生の代表とみるにはかたよりすぎたものである危険がある;第2に,その標本は A 大学の全学生の代表とみていいものだったとしても,標本についての平均値は,偶然による変動のために全学生についての平均値とはくいちがっていることが多いからである.
たとえば,最寄り駅の入り口でアンケートをしたとすると,その20人の標本には,大学周辺に下宿している学生がふくまれていなかったかもしれない.そうすると,大学周辺に下宿している学生が多い場合には,この20人はかたよった標本ということになる.
もとの集団すなわち母集団――いまの例でいえば A 大学の全学生――を代表するような標本,かたよっていない標本をとりだすにはどうすればいいか.標準的なやり方は,母集団(全学生)から無作為抽出(任意抽出ともいう.random sampling)によって標本をえらびだすことである.無作為抽出は,さしあたり,全く偶然にまかせた無秩序な取り出し方,もう少しくわしくいえば,母集団の構成要素はどれも皆おなじ確率で取り出されるはずであるような取り出し方,と考えておいていただきたい.
無作為抽出標本であれば,それについての平均値(標本平均値)は母集団についての平均値(母集団平均値)と一致するかというと,そうは問屋がおろさない.1度めに無作為にえらんだ20名の平均通学時間と,2度めに無作為にえらんだ20名の平均通学時間とはぴったりは合わないことは常識であろう.したがって,一般には,どちらも全学生の平均通学時間とぴったり一致するはずはない.先ほど,20名についての平均値は,「偶然による変動のために」全学生についての平均値とはくいちがっていることが多い――と書いたのは,このことである.
ただし,無作為抽出標本の場合には,標本平均値が母集団平均値にどれぐらい近いと考えていいかを評価することができる.つまり,標本平均値を母集団平均値の近似値とみなすとき,その近似値の信頼度をきちんと評価することができるのである.信頼度は,もちろん,標本が大きくなるほど(大勢の学生について調べるほど)高くなる.
上に述べた標本平均値の偶然変動の影響のために,〈平均値の差〉の読み方にも注意がいることになる.A,B 二つの母集団からとりだした標本の平均値をくらべたとき,A からの標本の平均値のほうが大きくても,それは必ずしも A 母集団の平均値が B 母集団の平均値よりも大きいことを意味しないのである.話をわかりやすくするために,A 大学と B 大学との学生の小遣い月額を比較する場合を考えよう.そのために,両大学の学生のなかから無作為抽出によってそれぞれ何名かずつをえらんで調査したとする.このとき A 大学生のグループ(標本)の小遣い月額の平均が B 大学生のグループの平均値より多かったからといって,「A 大学生のほうが豊かな生き方をしている」ときめこんではいけない――というのが上に述べたことである.標本平均値と母集団平均値とが一致することは稀なのだから,これはあたりまえのことだ.
もっとも,A 大学生から無作為にえらんだ学生何名かのグループの小遣い月額の平均が B 大学生のグループの平均値よりも格段に多ければ,A 大学の学生のほうが豊かに暮らしているという推論の確からしさは増す.一般的にいえば,標本平均値の差が大きければ大きいほど,母集団平均値自体に差があるという推論の信頼度は高くなるのである.推論の信頼度には標本の大きさ――何名の学生について調べたか――も関係するが,ここでは立ち入らない.
いま述べた最初の例題(通学時間)は統計学〔注2〕における〈母集団平均値の推定〉の問題の一例であり,第2の例題(小遣い月額)は〈平均値の差の検定〉の問題の一例である.私たちは,これらに類する問題に,人生のいたるところで遭遇する.そこで判断を誤まらないためには統計学の初歩の心得が必要なのだが,残念なことに日本の大学の文科系学部では,おそらく経済学部を除いて,統計学を教えていない.私は,文科系の読者に,社会的な問題を考えるための必須の素養として,適当な入門書――たとえば文献18――によって,せめてその概念だけでもつかんでおくことを勧める〔注3〕.無作為抽出のやり方も,統計学の入門書に解説してある.
インタヴューについての注意
ここでインタヴュー(interview)というのは,駅の入り口で自分の仲間の学生たちに通学に何分かかるかを尋ねるのとはちがって,専門家その他に教示や意見を仰ぐ場合のことと考えていただきたい.
とにかく相手の時間を取って教えてもらう,あるいは意見を仰ぐのだから,礼をつくすばかりでなく,相手の迷惑を最小限にとどめるように心がけることが肝要である.以下,そのポイントを述べる.
(a) 事前に相手の著作や業績を調べておく.
(b) 事前に先方の許諾をえる.日時や場所に関しては,こちらの希望(いくつかの日時や場所)を述べてみることは差支えないが,あくまでも先方の意向にしたがう.こちらの身分,インタヴューの目的を明らかにし,もし録音などの希望があればその可否を尋ねておく.訪問前に相手に具体的に質問事項を示すことができればいちばんいい.
(c) 質問事項を書いたメモを手にしてインタヴューすること.質問事項は,どうしてもその人に聞く必要があることを中心として,約束の時間内におさまるように計画する.
(d) 事後,かならず礼状を書き,レポートができたらそのコピーを送る.
3. 4. 3 図書・新聞・雑誌
3. 4節のはじめに述べたように,文科系の研究レポートの材料は,主として図書・雑誌・新聞(およびテレビ,ラジオの報道番組など)によって得られる.これらの利用法についての一般的な解説は本書の任でないが〔注4〕,ものを調べる手掛かりを提供する参考図書,新聞の縮刷版,および索引の使い方のことを述べておこう.
参考図書(reference books)
百科事典,専門事典,辞典,白書,年鑑,年表,地図などのように,広範な知識・情報を集約したかたちで提供して参照の用に供する図書を参考図書という.これらの中には数量的なデータを得るのに役立つものもある.図書館では,通例,参考図書は一室にまとめて閲覧者の便をはかってある.
文科系大学生が研究レポートを作成する場合,もし課題が自分の専攻分野に属するものであれば,直接に専門的な図書・雑誌に当たってみることもできよう.しかし,そうでない場合には,まず課題についての概観を得ることが先決だ.そこで手掛かりをつかんではじめて,専門的な図書・雑誌にアプローチすることもできるようになるのである.
この目的には,まず百科事典(encyclopedia)の類に当たるのが定石である.百科事典は,おおげさにいえば人間の有するあらゆる知識を辞書のかたちに配列して解説したものだから,簡潔に問題の概要をつかむには最も適している.
百科事典を使いこなすには索引――ふつう最終巻をあててある――を活用する必要がある.次の実例によってその要領を味得していただきたい.
3. 2節で「男女雇用機会均等法」という課題を与えられてレポートの主題をきめる過程を説明した.この課題をもう一度とりあげることにしよう.これは時事問題だから,そのものずばりの解説を百科事典に期待するのは無理である.たとえば,いま私の手許にある平凡社百科大事典20)の刊行は1984〜85年だから,1985年5月制定のこの法律がのっている見込はない〔注5〕.しかし,男女雇用機会均等法という略称〔注6〕からわかるとおり,この法律は男性と女性との労働条件のちがいを取り上げて,その差をなくそうとするものにちがいない.これは昔からの問題だから,当然,百科事典によって問題の背景を知ることはできるはずだ.以下,上記の百科事典によって探索をこころみることにしよう.
問題は,どういう見出し項目〔注7〕を引けば所要の情報がえられるかである.第8巻(スク‐タイシ)で「性差別」という見出し項目を,第9巻(タイス‐ツン)で「男女差別」という見出し項目を探してみても,両方とも見当たらない.そこで考えを変えて,第7巻(シユ‐スキ)で「女性の労働」あるいは「女性の職業」を探してみるが,これらもない.
こういう探し方は,重い,分厚い本を次々に引っぱり出さなければならないので甚だ能率がわるい.そこで索引が偉力を発揮するのである.索引(第16巻)には,全15巻にふくまれている見出し項目と,見出し項目の解説文中のキーワードとが,すべて,アイウエオ順に配列されている.キーワード(key word)というのは書名・論文表題や文章・句の中で検索のカギとして役立つ重要なことばのことで,この百科事典の索引では見出し項目は太い活字(ゴチック体)で,その他のキーワードはふつうの活字(明朝体)で印刷されている.そして各々に,それが何巻の何ページに出てくるか,そのページの左,中,右のどの欄にあるか,さらに,解説文の中だけに出てくるキーワードに関しては,それが何という見出し項目の解説文中に出てくるのかが示されている.したがって,どういうことば(キーワード)で引きはじめても速やかに所要の見出し項目に到達できるし,万一それがうまくいかなくても,気軽に別のキーワードに切り替えて探索し直すことができるのである.
たとえば,「性差別」から出発してみよう.索引を見ると,これは明朝体活字の項目(したがって解説文にふくまれているキーワードの一つ)で,そこには
4-633(均等待遇),7-684(女性解放),8-235(性)
という記載がある.しかし,男女雇用機会均等法の背景を調べるには,見出し項目「女性解放」,「性」は適当と思えない.第4巻633ページの「均等待遇」は役に立つかもしれないが,ぴったりではなさそうだ.
あらためて,こんどは「女性の労働」,「女性の職業」を探してみよう.「女性」ではじまる項目はたくさんあるが(27項目),女性の労働,女性の職業はない.そこで女性を婦人といいかえてみる.「婦人」ではじまる項目もたくさんあり(45項目),その中に「婦人労働」がみつかる.これも明朝体活字の項目で,その中に
7-623(職人),682(女子労働)
という記載がある! 「女性の労働」で探したからみつからなかったので,この百科事典では「女子労働」が見出し項目になっていたのである.第7巻682ページの「女子労働」の項には竹中恵美子,香川孝三両氏による解説があり(竹中氏の分はいささか難解だが),レポートのための資料調査の出発点として十分な情報が盛られている.
ついでながら,「性差別」→「均等待遇」とたどってみると,「均等待遇」(4-633)の解説文にも,ある程度,役に立つ情報がある.そして,解説文の最後に女子労働(女子労働の項を見よ)という指示があるので,結局,7-682の「女子労働」にたどりつけるのである.
百科事典は,執筆・編集・出版に時間がかかるから,最新の問題――時事問題――には追いつけない.このことには先にも触れたが,時事問題に関してやや百科事典に近い役割をつとめるものとして『イミダス』,『現代用語の基礎知識』21)の類をあげることができる.前者は文献15として1987年版を引用しておいたが,同年以来,毎年あたらしい版が出ている.後者は1948年から刊行を開始し,同じく毎年改訂されている.
百科事典以外の参考図書について簡単に触れておこう.
専門事典としたのは次の類である.
日本史年表(岩波書店,1985) 世界史年表(岩波書店,1985) 岩波西洋人名辞典(岩波書店,1985) 世界地名大辞典(朝倉書店,1974-76) 最新世界各国要覧(東京書籍,1985) 年中行事辞典(東京堂,1981) 記号の事典(三省堂,1986)
日本古典文学大辞典(岩波書店,1983-85) 日本近代文学大辞典(講談社,1977-88) 和歌文学辞典(桜楓社,1984) 俳句辞典(桜楓社,1984) 新潮日本文学小辞典(新潮社,1981) 日本語百科大事典(大修館,1988)
岩波理化学辞典(岩波書店,1987) 物理学辞典(培風館,1984) 化学大辞典(共立出版,1981) 岩波生物学辞典(岩波書店,1986) 地図辞典(平凡社,1981)
最新スポーツ大事典(大修館,1987) 音楽大事典(平凡社,1979)
辞典(辞書,字引)は解説を要しないだろう.
官公庁の出す白書は,政府が政治,経済,社会などの各方面についての現状分析や将来の展望などをまとめて出す報告書で,多くの資料が盛られている.白書(white paper)の名は,英国政府が議会に出す報告書の表紙の色に由来する.
環境白書(環境庁) 教育白書(文部省) 経済白書(経済企画庁) 国土利用白書(国土庁) 通商白書(通商産業省) 防衛白書(防衛庁) 外交青書(外務省)など30種類あまり
年鑑・年表は,年1回の定期刊行物で,次の例のように貴重な資料がある.
朝日年鑑(朝日新聞社) 読売年鑑(読売新聞社) 時事年鑑(時事通信社) 世界年鑑(共同通信社) 日本統計年鑑(総務庁統計局) 日本国勢図会(国勢社)
理科年表(丸善) 天文年鑑(新光社) 美術年鑑(美術年鑑社) 音楽年鑑(音楽之友社)
地図も解説不要だろう.
ここでは触れる余裕がないが,テープ,ビデオテープなども参考図書に準じて扱われるものになりつつある.
新聞の縮刷版
古い新聞記事を探しだすのは大変な仕事だったが,縮刷版が普及したのでらくになった.縮刷版は,通例,新聞を A4判に縮写して,1カ月ぶんずつまとめ,記事内容の分類別の索引をつけて製本したものである.主な新聞の縮刷版は,どこの図書館にもそなえつけてある.古い記事をさがすには,年刊の『読売ニュース総覧』が便利である.
縮刷版が出る前の比較的あたらしい記事は,古い新聞で探すほかない(図書館などの綴りこみが便利).毎日新聞資料室などに問い合わせるという方法もある(有料).最近は,パソコン通信で記事を入手することもできるようになったという.
索引(index)
百科事典の引き方の解説(3.4節の参考図書以下)で,索引の使い方の一端は理解できたことと思う.
ふつうの単行本でも,学術書であれば巻末に索引がついている(文科系の学術書には索引のないものもあるようだが).また,学術雑誌は通例,1巻が終わるごとに(1年ぶん12冊を1巻としている例が多い)通巻の索引がつく.新聞の縮刷版にも索引がついていることは,上記のとおりだ.
これらの索引を生かして使えるかどうかで,図書・雑誌の利用価値は格段にちがってくる.ことに研究レポートのための材料収集の目的で図書をあさるときには,索引が特別のウェイトをもつ.以下,索引の使い方に習熟するための道しるべとして,私がむかし書いた随筆22)の一部をお目にかけよう.
‘さくいん’について
1953年のイギリスの Everest 隊は,1921年来の宿題をみごとに解決して,世界の最高峯の頂に第一歩を印した.この遠征の全貌は,遠征隊のリーダー John Hunt の著 The Ascent of Everest(Hodder & Stoughton, London, 1953)のなかに整然とえがきだされている.
この書物の巻末には,全行程の日程表,計画の基礎となった考察,装備,酸素の問題,医学および生理学報告等の貴重な内容を盛った Appendix(付録)があり,さらにきちんと索引がついている.山のぼりの本に索引はめずらしい感じを与えるかもしれない.こころみに最初の数行をひろってみると,
‘Abominable Snowman’ see Yeti (‘忌むべき雪男’とでもいうか.Yeti はその土語)
Accidents (事故),110,129,142,143,192
Acclimatization (高度順応),10,76,78,79,82,90,242,249-50,260,270-2,274 ; routes,85
Advance Base Camp (前進ベース・キャンプ,前進根拠地),33,107,114,134,137,153,154,163,169 ; life at 154-7 ; planning for,244,245 ; see also Camp IV
Adventure, need for, 231-2
Age, of climbers, 24,271
という調子である.いま手許にないのでたしかでないが,Tilman の The Nepal Himalaya にもちゃんとした索引があったと思う.
Hunt の本は,はじめて8,000m 級の登頂に成功したフランス隊(1950)の報告―― Maurice Herzog : Annapurna, premi・/font>re 8,000 ――の文学的光彩に富んだ叙述にくらべると,ずいぶんじみである.もちろんそこにも簡潔な名文が人に迫る章句は数多いが,一番感動的なのはむしろ積みあげられた組織的行動の全体としての美しさであろう.人をヒマラヤに駆り立てるのは Herzog であっても,ヒマラヤ遠征に役に立つのは Hunt であるという言い方も許されるかと思う.たとえ山のぼりの記録でも,そういう性格をもった本には索引(index)が必要なのである.
索引をつけるのは,著者の側からいうとかなりやっかいな仕事である.特に Hunt の本のようにそのことばが出てくるページを全部ひろう方針をとれば一層めんどうである.しかも,読者の側にそれを利用する心構えがないと,結果はまったくの無駄骨折りに終わる.索引を使いなれない読者のために,Hunt の本を例にとって,その利用法を解説してみよう.
ヒマラヤ遠征隊を組織するときに隊員の年齢の問題は非常に大きな意味をもつ.Everest の読者はおそらくこの本のどこかにそれについての議論があったことを記憶しているだろうが,いざ必要になったときに本文をめくってすぐそこを見つけだすことは大変むずかしい.そのとき索引の Age, of climbers, 24,271 の1行が役に立つ.P. 24には Hunt 自身の,また p. 271(Appendix)には生理学者 Pugh と医者 Ward のこれについての見解がある.
つぎに acclimatization(高度順応)についての知識を再確認しようとして索引を見ると,この重要な問題に触れている個所は当然非常に多いので,どこを見ればいいのかちょっと判断に苦しむ.しかし,引用に特に重みのかけられている pp. 249-50,pp. 270-2(ともに Appendix)を見れば,前の場所には高度順応の基本計画,後の場所には生理学,医学的考察があり,大体の要領は得られよう.さらに,この遠征でどんな所にのぼって高度順応を得ようとしたかは,同じ項の routes の指示にしたがって p. 85をめくれば,高度順応のために Everest のまわりの山を歩いたときの道すじの地図があっておよそのことがわかる.
(後 略)
学術書の索引の使い方も上記の要領と変わらない.学術書では,索引には,そのことばの定義が与えてあるページ,またはそのことばを説明してあるページが引用してあるはずである.複数のページが引用してある場合には,通例,定義または説明のあるページ番号が太い活字(ゴチック体)で印刷されている.
3. 4. 4 図書館
1. 2節「大学生のレポート」の「O 嬢からの便り――レポートの書き方を習う――」に出てきたように,文科系学生の研究レポート作成の主要な舞台は図書館である.もっとも,そこに出てきた米国の大学とちがって,日本の大学では専門書の多くが中央図書館から学部・学科ごとの図書室に移されている例が多いので,事情がふくざつになる.しかしそのへんの詳細は大学によってちがうので,ここでは中央図書館の利用法だけについて簡単に解説しよう.
資料の探し方
最初に,資料探しのおよその要領を図3. 1(流れ図)に示す〔注8〕.以下の記述で用語の右肩につけた番号@,A,……は,図3. 1の中の番号@,A,……に対応している. 前記のように(3.4.3節),図書館ではふつう参考図書は一室にまとめてある(参考図書室@).資料探しの質問に応じてくれる参考係(reference service)Bのオフィスはその附近にあることが多い.参考係の司書〔注9〕Cは老練の人であることが多く,おどろくほどいろいろのことに通じていて相談にのってくれる.何でも気軽に尋ねてみることだ.
資料検索に利用する図書目録については後述するが(図書目録の項),最近コンピューターによる図書データの管理が急速に進んできていることを注意しておく.図書館によっては図書資料に関するくわしいデータがコンピューターに入れてあり,端末機を利用して,著者名や書名による検索だけでなく,キーワード(3.4.3節)による資料探索もできるのである.また,図書館のあいだを結ぶデータ通信網によって,他の図書館の所蔵図書の検索Lも瞬時にできるようになってきた.
十進分類法
日本の図書館では,ふつう日本十進分類法(NDC,Nippon Decimal Classification)にしたがって図書の分類目録をつくり,また書物を配架してある.十進分類法では,図書の全体を番号0〜9の10個の大分野に分け,各大分野をまた0〜9の10個の中分野に分け,各中分野をまた0〜9の10個の小分野に分ける.そして,たとえば第2大分野の第5中分野の第3小分野には253というように番号をつけるのである.表3. 4に,上位2桁の数字があらわす100区分の分野を示しておく.図書の分類カードのならべ方,書架や図書の配列などは,多くこの数字の順によっている.
表3.4 日本十進分類表(NDC)上位2桁の数字が示す分野
--------------------------------------------------------------------------------
0 総記
00 総記
01 図書館
02 図書.書誌学
03 百科事典
04 一般論文・講演集
05 逐次刊行物
06 学会,団体,研究調査機関
07 ジャーナリズム.新聞
08 叢書.全集
09
1 哲学
10 哲学総記
11 哲学各論
12 東洋思想
13 西洋哲学
14 心理学
15 倫理学
16 宗教
17 神道
18 仏教
19 キリスト教
2 歴史
20 歴史総記
21 日本史
22 アジア史.東洋史
23 ヨーロッパ史.西洋史
24 アフリカ史
25 北アメリカ史
26 南アメリカ史
27 オセアニア史
28 伝記
29 地理.地誌.紀行
3 社会科学
30 社会科学総記
31 政治
32 法律
33 経済
34 財政
35 統計
36 社会
37 教育
38 風俗習慣.民俗学
39 国防.軍事
4 自然科学
40 自然科学総記
41 数学
42 物理学
43 化学
44 天文学.宇宙科学
45 地球科学,地学,地質学
46 生物科学.一般生物学
47 植物学
48 動物学
49 医学.薬学
5 技術
50 技術.工学
51 建設工学.土木工学
52 建築学
53 機械工学
54 電気工学
55 海洋工学.船舶工学
56 金属工学.鉱山工学
57 化学工業
58 製造工業
59 家政学.生活科学
6 産業
60 産業総記
61 農業
62 園芸.造園
63 蚕糸業
64 畜産業.獣医学
65 林業
66 水産業
67 商業
68 運輸.交通
69 通信事業
7 芸術
70 芸術.美術
71 彫刻
72 絵画.書道
73 版画
74 写真
75 工芸
76 音楽
77 演劇
78 スポーツ.体育
79 諸芸.娯楽
8 言語
80 言語総記
81 日本語
82 中国語
83 英語
84 ドイツ語
85 フランス語
86 スペイン語
87 イタリア語
88 ロシア語
89 その他の諸言語
9 文学
90 文学総記
91 日本文学
92 中国文学・東洋文学
93 英米文学
94 ドイツ文学
95 フランス文学
96 スペイン文学
97 イタリア文学
98 ロシア文学
99 その他の諸文学
--------------------------------------------------------------------------------
NDC 以外に,ときどき国際十進分類法(UDC,Universal Decimal Classification)が使われる.UDC の分類表では自然科学が27%,技術が56%を占めるので,その方面で利用されることが多い.この他に,国立国会図書館分類表のように,十進法によらないものもある.
十進分類法は学問の進展に追随できるものと考えられていたが,自然科学や技術のほうでは,大分野とはいわないまでも少なくとも中分野と見るべき全く新しい分野が生まれることがあり,既成の分野にすでに0〜9の番号が割り振ってあったために不自然が生じているのが現状である.
図書目録
図書館に必ずそなえてあるのは,カード形式の著者目録Fと書名目録Gだ.これらは各書籍の書誌事項を記したカードを,前者では著者名の,後者では書名の五十音順または ABC 順に配列したものである.書誌事項(bibliographical data)というのは,1.2節の「O 嬢からの便り」でも触れたが(1.2節),
著者名(編者名をふくむ) 書名 版表示 出版地 出版者 出版年 総ページ数 サイズ
などのことだ.叢書,全集などの1冊である場合には,そのシリーズについての記載も書誌事項にふくまれる.
カードには,これらのほか,必ず図書記号が記入してある.図書記号にはその本の分野を示す十進法分類表示の番号(表3. 4では上位2桁の数字によって中分野までを示したが,図書記号ではもっと桁数を増してさらに下位の分野別まで示す)がふくまれている.本は十進分類法にしたがって配架してあるから,著者目録または書名目録によってその本のカードをみつけて図書記号を知れば,その本に到達するのは容易である.
著者目録,書名目録のほかに,分類番号順にカードを配列した分類目録Eも用意されている.これによって,その図書館には,ある分野に属するどんな蔵書があるかを知ることができる.
1. 2節に引用した「O 嬢からの便り――レポートの書き方を習う――」には,図書館で件名目録Dによって文献を探す話が出てきた.件名目録というのは,問題別にその問題に関する図書を集めた目録だが,残念なことに日本の図書館では件名目録の整備は進んでいない.多くの場合には,上記の分類目録でがまんするほかあるまい.
書籍ではなく雑誌に関しては,各図書館にその館の所蔵雑誌目録Iがあるはずである.
その図書館の蔵書にかぎらず全国的な視野で図書,雑誌を探すには,以下のものをはじめとして多くの書誌,目録がある.くわしくは図書館の参考係に尋ねられたい.
日本の参考図書編集委員会編:『日本の参考図書――解説総覧』(日本図書館協会,1980)『全日本出版物総目録』(国立国会図書館,1948以降年刊) Union Catalog of Foreign Books in Japan(国立国会図書館,1958以降年刊) 学術情報センター編:『学術雑誌総合目録』(紀伊國屋書店,1987.全国の大学・研究所の学術雑誌所蔵の状況がわかる) 日本新聞雑誌調査会編:『日本新聞雑誌便覧』(マスコミ資料センター,1962以降年刊) 国立国会図書館編:『雑誌記事索引』(紀伊國屋書店,1948以降季刊.日外アソシエーツ刊の累積版あり)
3. 4. 5 書店の利用
新刊書が図書館にはいって閲覧に供せられるには何カ月かかかる.その事情もふくめて,図書の探索,ことに新刊書の探索には大書店が役に立つ.東京駅八重洲南口を出て数分のところにある八重洲ブックセンターは,「出版社・政府機関その他が現に市場に出している(つまり品切れでない)書籍は全部そろえる」ことを標榜しているだけあって,訪問に値する.丸善,紀伊國屋は,和書では八重洲ブックセンターにかなわないが,洋書ではこれにはるかにまさる.こういう大書店には,書籍取次店とつながった端末機があり,書名や著者名が多少あいまいでも検索できるし,在庫の有無を知ることもできる.
3. 4. 6 ノートのとり方
図書館などで調べたこと,あるいは実地調査,インタヴューなどの結果は,ノートにとる.
1. 2節に引用した「O 嬢からの便り――レポートの書き方を習う――」には,コロラド大学で教えているやり方が紹介してある.それは,
(a) まず図書館の目録で役に立ちそうな本を探して,1冊につき1枚ずつ,その本の書誌事項(3.4.4節)を記入したカードをつくる〔1.2節 文献カードという〕.
(b) これとは別に,えらびだした本や,雑誌・新聞などの記事のメモ,あるいは抜き書きを,1項目につき1枚のカードに記入していく〔1.2節 ノート・カード〕.
というものであった.
私の勧めるやり方は少しちがう.文献カードはつくらず,文献は,みつけだした順に番号をつけて片はしからルース・リーフのノートに列記していく.次の要領である.
文献リスト
1. 林四郎編『日本語の教育』応用言語学講座第1巻(明治書院,1985).
2. 石田敏子:『日本語教授法』(大修館,1988).
3. 「『日本語』の本相次ぐ」朝日新聞(東京)1989-04-02 朝刊第16面.
4. J. C. Richards : The Context of Language Teaching (Cambridge University Press, 1985).
5. 畠弘巳:「外国人のための日本語会話ストラテジーとその教育」日本語学,1988年3月号.
6. 日本語教育学会編『日本語教育事典』(大修館,1982).
…………
調べた文献の要所要所のコピーを取った場合には,それもこのノートに貼りこむ.ノートはおもてページだけを使うことにし,コピーの大小にかかわらず,一つのページには一つのコピーしか貼らない.コピーには上記の文献番号(自分がつけた番号)と,もし必要ならばコピーをとったページ番号を書きこむ.
ノート・カードのつくり方はコロラド大学方式と本質的にちがわない.私は B6判(182mm×128mm)またはA6判(148mm×105mm)の無地のカードが好きだ.内容の量に応じて,大きい字で書くことも小さい字で書くこともできるからである.書くのは鉛筆でもペンでもいいと思う.
(a) 1枚のカードには一つのことしか書かない.
(b) 本や記事の中身は,場合によって要約したり,自分のことばで言いかえたり,またあるときは原文どおりに引用したりする(これらの区別がわかるようにシルシをつけておく).
(c) カードの上端に「項目」を記入する.
等の点に関してはコロラド大学方式に準ずる(1.2節).ただし,出典は上記ノートの文献番号(自分がつけた番号)を使って示す.また,私はカードには必ずそれを書いた年月日を記入しておく.
3. 5 いろいろの制約
レポートには,原則として長さの指定がある.また,執筆に当たって心得ておくべき制約がいくつかある.
3. 5. 1 長さの指定
レポートには,「何字以内」,「原稿用紙何枚以内〔注1〕」,「レポート用紙何枚程度」というように長さの指定があるのがふつうだ.「何字のレポート」というのは,正味の字数をかぞえるのではない.段落ごとにきちんと改行して清書したときの原稿枚数に換算して理解すべきものである(たとえば5,000字以内という指定は,400字詰め原稿用紙に清書したとき12.5枚以内におさえるようにという意味である).
欧文で何語というのも,字義どおりに語数をかぞえるのではない.英文の場合には,1行に m ストローク打てるようにセットしたタイプライターで,1枚に n 行の割合で打った原稿を mn/6語ぶんと換算する.つまり,語間のあき(スペース)をふくんで6字を1語とかぞえるのだ.
長さのほかに,用紙の大きさが指定される場合もある(表3. 5参照).
表3.5 紙の大きさ(JIS)
--------------------------------------------------------------------------------
A4判 297mm×210mm
A5判 210×148
A6判 148×105
B4判 364×257
B5判 257×182
B6判 182×128
A0判は1189mm×841mm,B0判は1456mm×1030mm.これを半分,半分,……に切った寸法(mm以下は切捨て)をそれぞれ A1,A2,…;B1,B2,…判とする.
--------------------------------------------------------------------------------
長さの制限は,当然,主題のえらび方,材料の盛りこみ方を制約する.せまいスペースに無理に多くのことを書こうとしても,やたらに突つき散らすだけに終わって,有効な議論はできない.説得力のある,充実した議論を展開するためには,長さに応じて主題をしぼり,材料を精選しなければならないのである.
「400字詰め原稿用紙何枚」という制限の下でどれだけのことを書けるか.その見当をつけるには,本書の1ページはほぼ原稿用紙(400字詰め)1.6枚に当たることを知っていると役に立つだろう.岩波新書,中公新書などの新書1冊は400字詰め原稿用紙350枚内外というのも一つの目安になる.アナウンサーがニュースを読みあげるのは1分間に350〜400字のテンポである.
本書の1ページは12級の写植文字26字詰め25行になっている(5. 1. 3節参照).
3. 5. 2 引用について
はじめてレポートを書く人たちに対しては指導者は,「1冊の本だけにおんぶしてレポートをつくってはいけない」と注意するのが常である.その根拠は次のようなことであろう.
(a) レポートは,元来,自分の立てた方針によって材料(資料)を集め〔注2〕,その材料にもとづいて自分の意見をまとめるべきものである.
ところが,
(b) 1冊の本だけに頼ってレポートをつくると,その本の著者の意見(すなわち他人の意見)に支配されやすい.
(c) 仮に,その本の著者の意見ではなく,その本に事実として記述されていることだけを引用するとしても,次の二つの問題が残る.
() 〔注3〕 どの〈事実〉をえらびだして記述するかの選択に,著者の考えがはたらいているはずである.
() 〈事実〉として記述してあるものの中に,その本の著者が事実――ほんとう(真)である――と信じているにすぎないものが混入している恐れがある.
つまり,文献からの引用を主材料とするレポートは,一つの参考文献だけではなく,いろいろの立場で書かれた文献をひろく渉猟・吟味した上で書かなければならないのである.
私は,大学生に研究レポートを書かせるときにはいつも,
内容の2/3以上が自分の調査にもとづく事実の記述である
ことを条件とする(3.1節参照).文科系学生の研究レポートではふつう〈事実の記述〉の大部分は文献からの引用だが,その場合には文献が,上記のとおり,ひろい視野であつめたものであることも付加条件として要求する.
引用の仕方については,いろいろの約束がある.出典の示し方(次の例文の 佐多稲子23) という記法,その他)についての技術的な話は5. 2節にゆずり,ここではレポートで引用文をどういうふうに書くべきかを解説する.
原文の一部をそのまま(原文どおりに)引用する場合には,原文が短ければ,カギカッコ「 」でかこんで,たとえば,
佐多稲子は「自分のことから文章作法というような文を書くのは,大変むつかしい.いったいどうやって自分は文章を書いているのだろう,と改めて考えてしまう」と言っている.……
というようにする.長い文章を引用するときには,アタマを1字か2字下げて次のように書く.
三島由紀夫24)は
われわれは今日,外国文学および外国文化のあらゆる概念が,一つ一つそのまま日本語に移管されうるといふ幻想を抱いてゐます。(略)先にも申しましたやうに,日本人は西洋の抽象概念を語るものをもたなかつたので,それを明治までは漢語で代用してゐましたが,たまたま西洋の文化が輸入されて,西洋の抽象概念が輸入されるにしたがつて,日本人はいままでもつてゐた漢語の新しい組合せによつて,新しい概念を表現したのであります。いま私が使つてゐる概念といふ言葉ですら,ドイツ語のベグリッフ Begriff の訳であります。(略)
と述べている……
念のため説明を加えると,「三島由紀夫は」「と述べている」はレポートの本文だ.そのレポートの中で三島のことば「われわれは今日,……Begriff の訳であります.(略)」を引用するには,上に示したように,アタマを2字下げて書くのである.
もしそのレポートが印刷されるのであれば,引用文のところだけ小さい字を使うという方法がある.本書では,引用文はアタマ(左端)を2字下げて小さい字で印刷し〔注4〕,引用文の上下を半行ずつあけるというやり方をとっている.
いずれにしても,原文をそのまま引用する場合には,かなづかい,漢字の使い方その他も原文どおりにするのがたてまえである(上の三島由紀夫の文章の引用参照).それができない場合には,たとえば「常用漢字,新かなづかいに改めた」というような注記が必要になる.
レポート作成者が原文を要約して引用する場合もある.原文どおりの引用か,自分の手による要約かを明示するのは,レポート作成者の義務である.上記のカギカッコでかこむ記法,あるいはアタマを下げてしるす記法を使えば,特にことわらないかぎり,原文どおりの引用とみなされる.要約して引用する場合には,たとえば,
木下順二25)は若いときには芥川龍之助の文体を手本にするつもりだったと書いている.
というように地の文として書くか,あるいはレポート作成者の要約による旨を注記すべきである.
私信や,私的な対話でえた情報などは,原則として引用すべきでない.あえて引用する場合には,相手の許可をえて,そのことを明記しなければならない.
公刊されるレポートを書く場合には,引用に関して,著作権のことを念頭におく必要がある.著作権法(文献26参照)の第32条には,
公表された著作物は,引用して利用することができる.この場合において,その引用は,公正な慣行に合致するものであり,かつ,報道,批評,研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない.
とある.
「公正な慣行」,「正当な範囲」が何を意味するかは明示されていないが,私の理解は次のとおりだ.まず,「公正な慣行に合致」するためにはきちんと出典を示す(5. 2節参照)ことが絶対条件である.これを守れば,諸種のデータ,公刊された論文・著書の要旨などは自由に引用してよろしい.要旨の範囲を越えた引用が「正当」と認められる範囲ははっきりしないが,私自身は,
(a) 引用文が400字以内,
(b) 引用文が自分の書く全文の2割以内
であることを一応の目安と考えている.
「正当な範囲」を越える場合には著作権者(および儀礼として著作者)の許諾をえなければならない.また,図面,写真などを転載する場合には必ず著作権者〔注5〕の許可をえる必要がある.これらの場合には,後日のことを考えて,依頼状を書き,書面で返事をもらっておくことを勧める.
3. 6 レポートの構成
レポートといっても,第1章に述べたようにいろいろの種類があり,したがってその構成も固定したものではない.1. 3節に例として示した技術報告のように,いわば型やぶりの構成が効果的な場合もある.
しかし,最初にことわったように,この書物では文科系学生の研究レポートの書き方に主眼を置くので,以下この節ではその種のレポートだけを考えることにする.
3. 6. 1 表題
先に述べたようにレポートは,通例,課題が与えられ,それに対して自分で話題をえらび,主題をきめてから書くものである.レポートの表題は,その主題を具体的に示すものでなければならない.
表題が短いことはもちろん望ましいが,もっと大切なのはレポートの内容――主題――を適切に示すことだ.短いが一般的・抽象的な表題よりも,多少は長くても具体的に内容を明示したもののほうがよろしい.情報化社会では,表題が〈最も短い抄録〉として役立つことが要求されるからである.
本書では,準備段階で主題をきめたらば,まずその主題を目標規定文(主題文)のかたちに書き,それをにらみながら材料を集め,レポートを作成する――という手順を強調してきた.表題は,その目標規定文のエッセンスを抽出したものと考えるべきだ.以下,3. 2節で例題とした三つのレポートについて,3. 3節に書いた目標規定文とならべて表題の案を示してみよう.
例題 A(課題: 世界の中における日本のコメ農業)
【目標規定文】
このレポートでは,国産米は他国米と生産コストにおいて太刀打ちできるはずがないことを明らかにし,日本のコメ農業の将来計画はこのことを前提として立案するほかないことを主張する.
【表題】
宿命的な国産米の生産原価高
例題 B(課題:男女雇用機会均等法)
【目標規定文】
このレポートでは,同一労働同一賃金の原則をみとめる以上,男女平等と女性保護とは相容れないことを論証し,この二つを両立させるためには,保護施策のために生まれる男女間の賃金格差を国家が補償するほかないことを主張する.
【表題】
男女平等の要求と女性保護との矛盾
例題 C(課題:学生食堂)
【目標規定文】
このレポートでは,本学の学生食堂では栄養バランスの配慮が足りないことを具体的に示し,その対策として野菜,小魚,海藻類の小皿料理をメニューに加えることを提案する.
【表題】
本学学生食堂の献立の栄養学的検討と対策
ここに表題として示したのは,必ずしも最善のものではない.目標規定文と表題とを読みくらべながら,読者がもっといい表題を考え出されることを期待する.
3. 6. 2 レポートの標準的な構成
最初に,従来,標準的とみなされていた
序論・本論・結論-型
の構成を解説する.これを A 型の構成と呼ぶことにしよう.
そのあとで,私がこれから標準とされるようになると信じる構成,すなわち情報化時代の要求に合う構成を紹介する.それは
概要・序論・本論・論議-型
で,以下ではこれを B 型の構成と呼ぶ.A 型とのおもなちがいは次の3点である.
(a) 「ポイントを真っ先に書け」という情報化時代の要求に沿って〔注1〕,レポート全体の〈概要(結論の要旨をふくむ)〉を最初に書く.
(b) 結論は,A 型の場合のように独立の〈結論〉という節を立てて書くのではなく,〈本論〉の一部としてその末尾に入れる.
(c) 〈論議〉(あるいは〈考察〉)という節を設ける.ここで自分の調査・研究とその結論とを,第三者になったつもりで検討するのである.
A 型(序論・本論・結論-型)の構成
これは古典的な構成で,今でも文科系の研究論文にはこの型のものが多く,したがってレポートもこの型にのっとることを要求される場合が少なくない.最初に A 型の解説をするのは,そのためである.
序論(序言,はしがき,などとも呼ばれる)は,英語でいえばイントロダクション(introduction),ドイツ語でいえばアインライトゥング(Einleitung)だ.これらのことばが示すとおり〈導入部〉であって,読み手を本論にさそいこみ,抵抗なく本論にはいっていけるように準備を整えるのがその使命である.
その内容としてふつうに要求されるのは,
(a) 本論でとりあげる問題――話題――は何か.
(b) その問題をなぜ――どんな動機によって――とりあげたのか.
(c) その問題の背景はどんなものか.
(d) レポート作成者はその問題についてどんな調査・研究をこころみたか.
という解説だろう.これに加えて私は,たとえ古典的な A 型の構成をとるにしても,(d) につづいて必ず
(e) そしてどんな結論(見解,主張)に到達したか.
を簡潔に示すことを強く勧めたい.
(c) では,問題によっては従来おこなわれてきた研究を手短に紹介することが必要である.
本論(body)は,() 調査・研究のやり方と,() それによって明らかになった事実とを述べる部分で,レポートの大半のスペースを占める.
() 調査・研究のやり方
序論の (d) では調査・研究の方法を2〜3行にかいつまんで述べるのだが,ここでは実際にやったことを具体的に述べなければならない.文献調査の場合であれば,レポートを読んだ人が追認調査を試みることができるだけのデータを提供すべきである.
() 調査・研究の結果
これはレポートの核心となる部分だが,文献調査の場合にはその材料はすでにノート・カード(3.4節)のかたちになって手中にあるはずである.
いくとおりかの調査(文献調査だけとしても何カ所かでの調査)をおこなった場合には,まず () で調査のやり方(行動)を列記し,次に () でそれぞれの調査でえられた結果を列記するという方法もある.また,調査のやり方(行動)ごとにそれぞれ方法と結果とをまとめて述べるという記述法もある.読む者の立場で言うと第2の記述法のほうが読みやすいが,この記述法をとる場合には,最初に「これこれの調査・研究をおこなった」という概観を与えておくことが必要だ.
本論の内容となるものは事実である.「O 嬢からの便り」によると(1.2節),コロラド大学方式では,本論の中に書くべきものは事実だけであって,レポート作成者の意見を書きこむことは許されないという〔注2〕.私の判断では,これは事実と意見とを峻別する心的習性の確立をねらった教育的配慮であろう.私も,はじめてレポートを書く人にはこのルールを守ることを勧める.しかし,すでに初心者の域を脱した人は,この禁制にこだわる必要はないと思う.要所要所で筆者の判断・意見が加わるほうが,レポートは読みやすくなるからである.ただしその場合には,それが筆者の意見であることが明瞭にわかるような書き方をしなければならない(4. 3. 2 節参照).
結論の部のおもな役割は,A 型の構成の場合には,
(1) 本論の ():「調査・研究の結果」を簡明に列挙してまとめる.
(2) それにもとづいて自分自身の見解(主張)を組み立てる
ことである.これに付随して
(3) そこでおこなった調査・研究の意義を述べ,将来の問題を展望する
例も多い.また,調査・研究,あるいはレポートの起草にあたって特に世話になった人・機関があれば,結論のあとに1行あけて簡潔に謝辞をしるす.
結論のあとには文献表,および付録(もしあれば)が続く.文献表については後に述べる(5. 2 節).
B 型(概要・序論・本論・論議-型)の構成
この項で述べるのは,私がこうあるべきだと考えている現代的構成である.スペースの節約のため,読者は A 型の構成の項をすでに読まれたものとして解説する.
概要では,レポートの内容(結論をふくむ)を最も簡潔に述べる.表題の次,序論の前に置かれるけれども,この部分は,レポートを書き上げてからそのエッセンスを洗いだして書くべきものである〔注3〕.まず,どんな問題――話題――について,どんな目的で,どんな方法で,調査をおこなったかを書く.次に,その結果わかったことを簡明に,しかしできるだけ具体的に列記し,最後に調査の結論として自分の主張したいことを述べる〔注4〕.
長さの制限があるから情報をできるだけ濃縮しなければならないが,見出しリストのように項目をならべるだけで終わったり,電報文のような書き方をしたりしてはいけない.きちんとした文章で書かなければならないのである.また概要は,本文を見ないで読んでも意味が通るように気をつけて書く必要がある.要するに,概要はミニ・レポート(ミニ論文)のつもりで書くべきなのだ.
序論の書き方は A 型の場合とあまり違わない.A 型の場合に列挙したことの中で,(a) は,「概要に書いたからもういらない」と思うかもしれないが,本文は概要を読まずに読んでもちゃんと筋が通らなければならないので,やはり必要だ.(b),(c) は,概要には要らないが,序論には必要な要素である.(d) は2〜3行程度にまとめて,詳細は本論で書く.(e) は,本論の最後にガッチリ書くことになるから,序論に書く必要はない(重点先行で結論を早く見たい読み手は,概要から読みはじめるはずである).
本論の書き方で A 型の場合と大きく異なるのは,A 型の場合に述べた (),() の次に,(本論の中に)結論――調査の結果にもとづいて自分の主張したいこと――を書くことである.() に書いた調査の結果から結論をみちびく論理的過程を明記すること,また結論はあいまいさを排除して明確に書くことが肝要だ.
論議または考察と呼ばれる部分――英語でいえばディスカッション(discussion)――では,自分の調査のやり方やそれによってえた結果,またそれからみちびいた結論を,かりに第三者の立場に立って見直す.序論から本論までは問題設定,調査,結論とひたすら一本道を押し進むのだが,ここでガラリと立場を変えて自分の研究をよそから眺め,残っている問題点を指摘・検討するのである.調査の不十分だった点の反省,ほかの人の調査・研究の結果ないし結論との比較,もしそれらが自分のえた結果ないし結論と喰いちがっていればその理由の吟味,などがこの節の内容になる.簡単にいえば論議の節は自分の書いたレポートに対して自己評価をする場である.
A 型にせよ,B 型にせよ,実際にレポートを書く場合に,§1. 序論,§2. 本論,§3. 結論 あるいは,概要,§1. 序論,§2. 本論,§3. 論議 というような見出しをつけることは必ずしも適当でない.見出しのつけ方については,あらためて3. 6. 4節の終わりで述べる.
3. 6. 3 起承転結について
最初に,なぜ起承転結について特に一節を設けるのかを説明しておこう.
2. 1節「事実と意見――言語技術教育との出会い」の中で
米国の大学では,作文(English composition),説明・論述文の書き方(エクスポジトリー・ライティング,expository writing),レトリック(rhetoric,修辞学)などの名で呼ばれる言語技術の科目が,学生の専攻を問わず,一般教育課程で必修とされている.
と書いた.修辞学というと多くの人は「読者に感動を与えるように思想を最も有効に表現する方法を研究する学.美辞学」という『広辞苑』の説明に近いものを思い浮かべるだろう〔注5〕.しかし,米国の大学の一般教育でレトリックとして教えられているものは,前にも注記したように(2.1節脚注),これとはだいぶニュアンスがちがって,
言語によって情報や意見を明快に,効果的に,表現・伝達するための方法.あるいはその方法論.
なのである.
米国では,日本の国語・国文学科に相当する英語学科(Department of English)で,最も基本的な科目として上記の意味でのレトリックの授業がおこなわれており,したがってその専門家がたくさんいる.その人たちのあいだで,近年,〈起承転結〉が関心を惹いているらしく,いくつかの論文が出ている.「日本には,われわれのレトリックとはちがう,kishotenketsu(または ki-shoo-ten-ketsu)というレトリックがあるらしい」というのだ.しかし私は,起承転結というレトリックは文学的効果をねらったもので,レポートや論文とは無縁だと考える.そのことを本節で明らかにしておきたいのである.
起承転結は,元来,絶句と呼ばれる漢詩の組み立て方である.絶句は四つの句から成る短詩で,はじめの句で言い起こして次の句で承け,第三句でその意を転じて終わりの句で全体を結ぶ.ここに示したのはその一例で,唐の詩人,李白の「汪《おう》倫《りん》に贈る」と題する七言絶句である27).絶句には一句五字の五言絶句もある.
--------------------------------------------------------------------------------
贈汪倫
李白乗舟将欲行
忽聞岸上踏歌声
桃花潭水深千尺
不及汪倫送我情
汪《おう》倫《りん》に贈る
李白 舟に乗りて 将《まさ》に行かんと欲す
忽ち聞く岸上の踏《とう》歌《か》の声
桃《とう》花《か》潭《たん》の水は深さ千尺
及ばず汪倫が我を送る情《こころ》に
汪倫は酒つくり。李白はその酒を味わいにきて滞在、いま去らんとする.歌声に岸の上を見れば,汪倫が村人と手をつなぎ、足ぶみをして歌っている。舟は桃花潭の淵の上をすべって行く。その水は深いが、私を送ってくれる汪倫の情には及ばない。
--------------------------------------------------------------------------------
起承転結の構成は,人の心を動かす文学的効果をもっており,話し上手といわれる人のスピーチはこういう組み立てになっていることが多い.また,情報の伝達よりも「人の心を打つ」ことに重きを置いた従来の作文教育では,文章を起承転結の順に組み立てるように指導する教師が多かった.おそらくその影響で,上記の米国のレトリックの研究者たち――ハインヅ,デネット,その他――は,起承転結を日本語の散文の典型的な構成法と受けとって,そこに少なからぬ戸惑い――文化摩擦――を感じているのである.
ハインヅの論文28)の〈概要(著者抄録)〉の後半を引用しておこう(意訳).
……この種の表《ス》現《タ》形《イ》式《ル》は ki-shoo-ten-ketsu と呼ばれる.‘Ki’で話題(トピック)を導入し,‘shoo’でそれを展開する.‘Ten’で関連のはっきりしない論点に急に飛び移る.そして‘ketsu’で結ぶのである.第2言語として英語に習熟しようとする日本人にとっての陥《かん》穽《せい》(落とし穴)は‘ten’と‘ketsu’というスタイルに馴れすぎていることだ.‘Ten’で導入される情報は欧米の読者にとっては〈無関係〉としかみえないものだし,‘ketsu’についていえば,日本語では〈結論〉の定義が英語とはちがうらしい〔注6〕.
ハインヅや デネット29)は,起承転結を日本の説明・論述文(expository writing)のレトリックと受けとっている.事実また文科系の論文には起承転結-型のものもあるらしいが,私は,起承転結は本質的に漢詩の(それも絶句や律詩の)表現形式であり,仮にこのレトリックを散文に借りてくるとしても,それは人の心を動かす文学的効果をねらう場合にかぎるべきものだと理解している.私自身は,スピーチその他でこのレトリックを借りることはあるけれども,論文を起承転結-型で書こうと思ったことは一度もない.ハインヅやデネットが起承転結を日本の説明・論述文のレトリックと受けとっているのは誤解と言うほかないが,責任の一半は日本の作文教育にあるのかもしれない.
レポートは,調査によってえた事実を積みあげ,それにもとづいて自分の考えをまとめて書くものだ.最後に自分の考えを主張する際にも,考えの根拠となる事実を客観的に示し,それから自分の意見を組み立てる筋道を明示して,あとは読み手の知性の判断にまかせるべきであって,読み手の心情に訴えることは厳に慎まなければならない.したがって,レポートの序論・本論・結論(B 型の構成の場合には結論は本論にふくまれるが)という流れは起承転結とは無縁であるべきである.
ただし,私が B 型と名づけた概要・序論・本論・論議-型の構成には,序論から本論への流れを離れてそれを第三者の目で見直す論議という節がある.ここでは,そこまでの流れとものの見方が一変するので,論議の節は転だと言ってもよろしい.この場合には結論は本論のなかに書きこまれるので,全体の構成は「起承結転」になるとみていいわけである.
3. 6. 4 構成案のつくり方
3. 6. 2節でレポートの構成についての大局的な議論を試みた.そこでのおもな論点は,A 型(序論・本論・結論-型)か B 型(概要・序論・本論・論議-型)か;また序論,本論,等々にそれぞれどんな内容を盛るべきか,ということであった.実際に執筆するためにはもう少しこまかい計画が必要だ.そのやり方を解説しよう.
諸君の手許にはすでに〈思いつくままのメモ(3. 4. 1節)〉,調査でつくったメモやノート,文献を調べながらつくっていった〈ノート・カード(3. 4. 6節)〉などが積み上げられているはずだ.また,それらの材料を集めるうちに,いろいろと考えが進んで,頭のなかでは自分の見解,主張が固まりつつあるはずである.以下に述べるのは
(a) 目標規定文(3. 3節)をにらみながら,
(b) 集めた材料とそれらについての考察とを
スッキリと筋のとおったかたちに配列する作業である.
三つのやり方を紹介する.まずこんな方法を試みてから,だんだんに自分に合うようにやり方を修正していくのがいいだろう.はじめの二つはレポートの大筋のイメージができている場合,三つめは内容が複雑多岐で筋を立てることがむずかしい場合のやり方である.最後に,見出しのつけ方についての注意をつけ加える.
構成表をつくるやり方
A 型の構成の場合の序論と結論,B 型の構成の場合の序論はそれぞれ一つの節(section)ですむ.本論は,たとえば調査のやり方,調査の結果,結論(B 型の場合)というようにいくつかの節に分かれ,場合によっては節の中がまたいくつかの小節(subsections)に分かれるだろう.
こういう組み立てを前提として,大きな紙に,図3. 2にその一部を示したような構成表を書いていくのがここで述べるやり方である.書きこむのは主としてレポートで取り上げるべき項目だが,必要に応じてメモを加えたり,そこで引用すべき文献の番号――自分でつくった文献リスト(3.4節)の番号――を入れたりする.項目も,メモも,自分だけにわかればいいのだから,自由に略名や符牒を使ってよろしい.要点は,
(a) 思いつくままのメモ,ノート・カード,その他を点検して,必要な項目を落とさないようにすること,
(b) 構成表の同じ段階のところには,ほぼ同格のものがくるようにすること
の二つである.
こういう表を書きながら,記述の面で関連させなければならない項目にしるしをつけていく.図のように鉛筆の線で結んでもいいし,カラー・ペンを用意しておいて互いに関連のある項目を同色の枠でかこってもいい.そして,これらのしるしをにらみながら,どういう順序に項目を配列すれば話が往きつ戻りつすることを避けられるかを考えるのである.
この構成表は,1. 2節の「O 嬢からの便り――レポートの書き方を習う――」の中の〈決定版のアウトライン〉(1.2節)と本質的に同じものである.
スケッチ・ノート法
上記のやり方が項目主体なのに対して,これはパラグラフ(段落)主体の方法だ.一つ一つのパラグラフに書きこむべき内容を,短い文または句――スケッチ・ノート――にまとめてカードに書きこむ.この場合も,自分だけにわかればいいのだから,略図を描いても符牒を使ってもよろしい.そして,パラグラフをどういう順序に並べ,どういう節・小節に仕切れば最も明快な叙述になるかを検討するのである.この場合も,内容に共通点のあるカードに同じ色のしるしをつけると具合がいい.
成案ができるまでのあいだに,はじめは一つのパラグラフに書くつもりで1枚のカードに記入したことの内容を分割して2枚のカードに分けたり,逆に2枚のカードを1枚に統合したり,……というような修正がおこなわれるのは当然である.
カードによる整理・収束法
これは,上記の二つの方法とはちがって,内容が複雑でまとめ方の見当がつかない場合の構成案のつくり方である.
スケッチ・ノート法でもカードを使うことにしたが,あれは,いくらか慣れてくればカードなしでもできる.レポート用紙にスケッチ・ノートを書きならべ,それに番号を振っていけばいいのである.しかし,ここで述べる方法は,カードの使用を大前提としている.
20年近く前,大学紛争の嵐が吹き荒れたころの話だが,私は大学改革案の検討委員会の報告――レポート!――のまとめを頼まれたことがある.16カ月にわたる審議の厖大な議事録があり,テープがあり,私自身が会議でとったメモもあったが,内容はきわめて多岐で,しかも同じ問題がくりかえして論じられていて,報告書の構成案をつくることは容易でなかった.
私は,資料ぜんぶに通しページ番号を打ち,拾いあげるべき項目ごとにカードをつくり,各カードにその項目が出てくるページ番号を書き入れた.カードは数百枚に達した.次にそれを,将来ひとつの小節にまとまるだろうと思われるグループごとにゴム輪でとめた.一つのグループに入れるカードは数枚以下として,まとめた束にそのグループの内容をあらわすことば(小節見出し)を書いた色カードをつけた.これはたいへん時間のかかる,神経のつかれる仕事であった.
次の段階として,小節グループ――いまゴム輪でくくった――の中で一つの節にまとまりそうなものを集めて新しいグループをつくり,その内容をあらわす色カード(節見出し)をつけた.ここまでくれば,節グループをまとめて一つの章に入れるべき内容を集積するのは容易である.こうして私は,大きな紙の上に,図3. 2に似た章,節,小節の段階構成案――目次案――を書きおろした.
そこで目次案の順にカードの束をほぐして読んでいくと,いろいろと修正を要する点がみつかってくる.しかし,これだけの準備があれば,最終目次案を仕上げるのにそれほどの手間はかからなかった.最終目次案には,もちろん,各項目がもとの資料のどこどこのページ(多くの場合に複数)に出てくるかを記入してある.
私は,ひとりの助手にてつだってもらって,たしか三日二晩で目次をつくり,あとは一瀉千里に本文を書いて,合計一週間で10章44節(印刷して B5判,本文65ページ,付録22ページ)のレポートを書きあげた.
このときの私のやり方は KJ 法の技術に負うところが大きい.関心のある読者には,KJ 法の発案者,川喜田二郎氏の『発想法』の一読を勧める.
見出しについて
レポートのように情報伝達を主目的とする文書では,こまめに見出しをつけてどこに何が書いてあるかを見やすくすることが大切である.節,小節の表題も見出しだが,それ以下の,たとえばこの「3. 6. 4 構成案のつくり方」という小節でいえば「構成表をつくるやり方」,「スケッチ・ノート法」,「カードによる整理・収束法」,「見出しについて」というような小見出しをつけることにも気を配らなければならない.
「3. 6. 2 レポートの標準的な構成」では,レポートを序論,本論,結論(A 型の場合)または概要,序論,本論,論議(B 型の場合)と分けて論じたが,これは必ずしもこれらの名前をもった節をつくれという意味ではない〔注7〕.少なくとも本論は,ふつう,一つの節におさめるには長すぎるから,図3. 2に例を示したように適当な表題をつけて節,小節に区分する.
図3. 2では序論,本論,……の別をページの中央(左右の中央)に枠がこみで記入したが,これはなくてもよろしい.
節,小節の番号のつけ方にはいろいろの流儀がある.本書では,3. 6. 4というように,最初の数字が章番号,次の数字が節番号,三つ目の数字が小節番号を示している.これは自然科学の分野でよく使われる方式である.文科系の研究レポートに主眼をおいたレスターの教科書『レポートの書き方』30)では次のやり方がいいとしている.
T.
A.
1.
2.
a.
b.
(1)
(2)
(a)
(b)
B.
1.
2.
a.
b.
(1)
(2)
U.
A.
これは
U. 本論
A.調査の方針
B.米作農家の経営規模
1. 日本で水田をつくれる土地の総面積
2. 農家1戸の耕作面積
…………
というように,格が下がるにしたがって1字ずつ右にずらして書く方式である.1. 2 節の「O 嬢からの便り」の中にある彼女のレポートでは,およそこの方式にしたがって節,小節の番号をつけ,見出しをならべてある.
4 レポートの文章
この章ではレポートの文章の書き方を解説する.ただし,最初の節(4. 1)は前章「ペンを執る前に」と本章との中間的な性格のものである.
4. 1 読み手の立場になってみる
他人に読んでもらう文書はすべて,
A 誰がこれを読むのか.
B 自分の書くことについて,その読み手はどれだけの予備知識があるだろうか.
C その読み手はどういう目的で,何を期待してこれを読むのだろうか.
D その読み手が真っ先に知りたいのは何だろうか.
という四つのことをよく考えて,書く内容をえらび,それらをどういう順序に書くかをきめ,表現の仕方を検討しなければならない.
Aで「誰がこれを読むのか」と書いた.読み手は,手紙なら特定の個人だ.研究論文の場合にはその方面の専門家であり,家庭用電気器具の取り扱い説明書の場合には不特定多数の使用者――主として主婦――だろう.
レポートの場合には,読み手は多くの場合にレポートを要求した人と同一人である.社会人の書くレポート:調査報告,研究報告,業績報告,技術報告,出張報告などの読み手は,原則として,ひとりまたは何人かの上司だろう.
Aこのレポートを読むのは誰か,Bその人はどれだけのことを知っているか,C何を期待してこのレポートを読むだろうか,D真っ先に知りたいと思うのは何だろうか――を考えずに書いたレポートはまず落第である.部長に出す調査報告に,たとえ自分でははじめて知ったことであってもその方面の専門家には常識であるべきことを長々と書いたら,苦い顔をされるにきまっている.
大学生の研究レポートの場合のA,B,C,Dの吟味に関しては,事情がもう少し複雑である.社会人の書くレポートは,そこに盛られた新しい情報が,レポートを要求した上司の仕事に役立つかどうかによって評価がきまることが多い.しかし学生の研究レポートの場合には,課題を与えた教師はその課題についてすでに相当の知識を持っていて,学生のひと月やふた月の調査・研究ではその上に出ることはむずかしいのが通例である.したがって教師の評価の基準は,学生のレポートが自分にとって新しい情報源として役立つかどうかということではない.前にも書いたが(1. 2節),大学生の研究レポートは研究論文の習作という性格をもっている.したがって教師の側ではもっぱら学生が
(a) 実力相応に調査・研究を進めたかどうか,
(b) その結果を踏まえて自分の見解を組み上げたかどうか,
(c) そしてきちんとした構成,表現のレポートにまとめ上げたかどうか
に着目するのである.
つまり大学生の研究レポートでは,A,B,C,Dでいう〈読み手〉として,現実の読み手である教師ではなく,一般的な読み手――自分と同格あるいはもう少し上の読み手――を想定してかからなければならないのだ.
先にA,B,C,Dとして列挙した項目について考えをめぐらすこと,もし必要ならそれらを適当な手段によって調べ上げることを,読み手の分析(audience analysis)という.
1986年に機会にめぐまれて私は,米国の大学や会社では小型コンピューター(パソコン,ワープロなど)のマニュアル(manual,取り扱い説明書)の書き手(テクニカル・ライター〔注1〕,technical writer)をどうやって教育・養成しているのかを見て歩いた.そのときに,至るところで強調されたのは
マニュアルの立案の出発点は〈読み手の分析〉だ.
ということであった.パソコン,ワープロのマニュアルを書く場合にも,読み手について調べるべきことは,おおざっぱに言えば上記のA〜Dと変わらない.しかし,パソコン類のユーザーの使用目的や予備知識の程度は多種多様だから,まさに〈分析〉が必要なのだろう.
残念ながら日本のワープロ,家庭用電気器具などのマニュアルには,A,B,C,Dをちゃんと考えて書いたとは思えないものが多い.私はかつて,某社の電気炊飯器のマニュアルについて,A,B,C,Dの配慮がたりないために読み手(主婦)が如何にとまどい,憤慨するかをスケッチしてみたことがある31).
レポートの場合には読み手の〈分析〉というほどの手数はいらない.しかし項目B,C,Dについて「相手の身になったつもりで思いめぐらす」心がけはぜひ必要だ.また書いている最中にも,書いてから読み返すときにも,「これで読み手にスラッと通じるだろうか」,「ほかの意味にとられる心配はないだろうか」と自分の文章をきびしく見直す気配りがいる.自分の書きつつあるものを絶えずもう一人の自分――〈他人の眼〉をもった自分――が点検しているという境地を目標とすべきである.
自分の書いたものが読み手に如何に受けとられるかを知るためには,読み手がそれを読んで理解しようとつとめているときの反応を見るのがいちばん直接的だ.これを利用してマニュアルの表現を改良しようとする編集技法――プロトコル〔注2〕による修正(protocol-aided revision)――が,最近,米国で発展しつつある.しばしばレポートを書かなければならない立場にある人には参考になると思うので,カーネギー・メロン大学の英語学科助教授(レトリックと文書設計担当)カレン・シュライヴァーの学位論文33)によってその一端を紹介しておこう.彼女はテクニカル・ライターの養成に当たっている新進の研究者である.
〈プロトコルによる修正〉は,
(1) 原稿を,その原稿の想定読者の代表とみていいような人に,(大声で)音読させる.
(2) そしてその人に,読みながら心に浮かぶことを,何でも遠慮なく口にしてもらう.
(3) それをテープに入れ,テープを起こした記録(プロトコル)を検討しながら原稿に手を入れる
というものである.読み手が音読しながら引っかかったり,読み直したりすれば,それはその部分がその読み手には「スラッとは通じない」ことを意味する.
実例を示そう.次に引用するのは,眼球の〈硝子体〉についての短い解説で,雑誌「タイム」や「ニューズウィーク」の読者層を想定読者として書かれたものだ.
硝子体
硝子体は眼球の3分の2を充たしている透明なジェリー状物質で,眼でものが〈見える〉ためにはなくてはならぬ存在だ.硝子体は,光をつたえる一方で,網膜に圧力を加えてその位置を保たせる.硝子体が一様なジェリー状の塊としての弾力を失うと,網膜剥離の危険が生まれる.出血も視力障害を引き起こす――これは重症の糖尿病のときに起こりやすい.どちらの場合も失明の恐れがある.硝子体がだめになったときには,代用材料として,蛋白質の一種のコラーゲン〔注3〕を使うことができる.動物の組織からコラーゲンを抽出して,傷ついた眼に注射するのである.この蛋白質は,硝子体の一時的な代替品としてすぐれている.蛋白質は徐々に吸収され,約4週間のうちに新しい眼液ができてくるのだ.この間,蛋白質は視力の回復を促進する.
以下は,これを読まされたある大学1年生の残したプロトコルである.
硝子体
硝子体は眼球の3分の2を充たしている透明なジェリー状物質で,
OK,眼球の3分の2はこの,透明でジェリー状のものなんだな,それが硝子体というわけだ.
眼でものが〈見える〉ためにはなくてはならぬ存在だ.
OK,つまりこのジェリーみたいなものが,どうしてか判らないけれども,よく見えるかどうかを左右するんだな.
硝子体は,光をつたえる一方で,網膜に圧力を加えてその位置を保たせる.
OK,網膜ってのは眼の部品だな,どんなものかは判らないけれど,とにかく眼の部品なんだ.そしてこの,硝子体――というものは,光を通すだけじゃなくて,網膜が動かないようにしているわけだ.よし,わかった.
硝子体が一様なジェリー状の塊としての弾力を失うと,網膜剥離の危険が生まれる.
そうか,硝子体がおかしくなると,網膜は動きはじめて,どこか変なところに行ってしまうらしい.
出血も視力障害を引き起こす,
出血(hemorrhaging)っていうのは――血が出るとあとに傷跡が残ったり何かする,あのことだろう,
これは重症の糖尿病のときに起こりやすい.出血も視力障害を引き起こす.
おやおや,硝子体の話をしていたのに,突如として出血の話になった.硝子体から,失明の原因に話題が切りかわったようだな.ま,いいや.
どちらの場合も失明の恐れがある.
そうだ,こんどは失明の話になったんだ…….いやいや,そうじゃない.また硝子体の話が出てくる.
硝子体がだめになったときには,代用材料として,蛋白質の一種のコラーゲンを使うことができる.
硝子体がだめになったときには,別の蛋白質のコローゲンを代わりに使える…….
動物の組織からコラーゲンを抽出して,傷ついた眼に注射するのである.
そうか,このコラーゲンとかいうものを動物から取り出して,眼の中に入れるのか.まず硝子体を眼からぬきとるんだろうな,そうしないとコラーゲンを入れる場所がない.しかし,そうは書いてないぞ;そうじゃないのかもしれない.
この蛋白質は,硝子体の一時的な代替品としてすぐれている.
じゃあ,いつまでも使えるんじゃないんだ.しばらくの間ならいいというわけだ.何かもっと長く使えるものがあるんだろう,あとでその話が出てくるのかも…….
蛋白質は徐々に吸収され,約4週間のうちに新しい眼液ができてくるのだ.
そうか,それじゃあその臨時の代用品が少なくとも4週間はもつのだろう.そうして,この蛋白質がもとどおりの眼液を再生する――眼液って何だろう,どこにも書いてなかったぞ.だけど,硝子体の一部にちがいない.そこで,この新しい蛋白質は吸収される,OK,硝子体が再生されるわけだ.
この間,蛋白質は視力の回復を促進する.
OK,つまり,蛋白質が吸収されて,新しい液ができる,その一方で蛋白質は視力の回復を促進する…….しかし,どうやって回復を促進するのか書いてないじゃないか.視力の回復の助けになると天下りに言ってるだけだ.まあ,いいとするか…….
このプロトコルを丹念に読むと,読み手にスラッとわかるように説明・論述文を書くこと(expository writing)のむずかしさがよくわかるだろう.
4. 2 叙述の順序
この節では,説明すべきこと,論述すべきことがいろいろあるとき,どういう原理で叙述の順序をきめるべきかを述べる.
4. 2. 1 重点先行
報告・説明の文章や,ある考えを主張するのが目的の文章では,真っ先にいちばん大事なポイント(要点)を書く――重点先行で書く――ことが情報化時代の要請である.レポートも,もちろんその例に漏れない.この点で,そろそろと言い起して,それを承けてようやく本論にはいっていく起承転結式の書き方(3.6節)は,現代のレポートには向かない.
本格的なレポートの構成として B 型の構成――概要・序論・本論・論議-型――を勧めた(3.6節)のは,正にこの重点先行主義に沿ったものである.そこでも述べたように,〈概要〉には,どんな問題について,どんな目的で,どんな調査をおこなってどんな結果を得たか,その結果にもとづいて自分は何を主張するか――つまり,そのレポートのポイントを簡潔に書く.特に重要なのは調査の結果と自分の主張だ.大学生の研究レポートなら提出を求めた教師は必ず全文を読んでくれるが,社会人の書くレポートでは,忙しい上司はまず概要を読んで,さてそれから本文を見るかどうかをきめる場合が少なくない.つまり,自分の労作を読んでもらえるかどうかは多分にこの〈概要〉にかかっているのだから,レポート作成者はそこに自分の調査・研究のエッセンスをつめこむように努力しなければならないのである.
従来の方式にしたがって A 型の構成――序論・本論・結論-型(3.6節)――でレポートを書く人にも,私は表題の下に上記のような概要を書いておくことを勧める.
短いレポートでいくつかの節に分けるにおよばぬようなものでは,概要を独立させて書く必要はないが,書きだし部分(書きだしの文またはパラグラフ)に概要の役割をつとめさせることによって,重点先行の方針を守るべきである.そのためには,書きだしに目標規定文(3. 3節)を使うのも一つのやり方だ.
次に示す二つの例は大学生の短いレポートの書きだし部分の実例で,目標規定文を補強したものを書きだしのパラグラフとしている.このレポートを書かせたとき私の与えた課題は「学生食堂」で,長さは10枚(4,000字)以内という指定であった.例1のレポートは「生協食堂」,例2のは「本学の学生食堂に望むこと」という表題がつけてあったものである.
【例1】 生協食堂
生活協同組合に参加している大学は全国に158ある.生協食堂には,カフェテリア方式でベルトコンベア式の下げ膳台を備えたものが多い.ときどき臨時のメニューを組んだり,デザートを供したり,楽しく食べさせるための工夫がこらされている.千葉大学の様子を中心に述べる.
【例2】 本学の学生食堂に望むこと
本学の学生食堂の代表的な料理を栄養面から検討する.主な問題点はヴィタミンとミネラルの不足,塩分過多である.さしあたりの対策として,野菜,小魚,海藻類などの小皿料理をメニューに加えることを提案する.
(このレポートの目標規定文は,3. 3節に,また表題の改良案は3. 6. 1節に示してある.)
もしすべてのレポートが上の二つの例の要領で書きはじめてあれば,読み手は書きだし部分を読むだけで本文の梗概をつかむことができる.かりに学生食堂の担当者が業務改善の参考として学生たちにレポートを求めたものとすると,数十通のレポートの書きだし部分だけをひろい読みしていけば,自分の必要とするレポートをえらびだすことができるわけだろう.
本格的な論文につける著者抄録(author's abstract)は,正に同じ目的のためのものだ.これは長いレポートにつける〈概要〉と本質的に同じもので,通例200〜400字のスペースが与えられるから,上の例1,例2にくらべればはるかに充実した内容を書きこむことができる.今日,自然科学系の学術雑誌の論文では,原則として本文の前に,研究のやり方と結果とを簡潔にまとめた著者抄録が印刷されていて,読者はそれを見て本文を読むかどうかをきめるのである.
4. 2. 2 新聞記事
重点先行主義の書き方を学ぶ上で,新聞記事の書き方はいい参考になる.大きな記事では,見出しの次に,本文とは組み方を変えて,記事のポイントをまとめてあるのにお気づきだろう.これはレポートの〈概要〉に当たる部分で,リード(lead)という.次に示すのは1989年9月4日の毎日新聞(東京)夕刊3版の社会面の半分ちかくを占めた上野・輪王寺の火災の記事(写真大小2葉,地図1葉つき)の見出しとリードである.
子授け大師さん炎上
上野・輪王寺
徳川幕府ゆかり 「天海僧正像」も灰に
強風 大護摩会の後
「子授け大師」として知られる東京都台東区上野公園14の5の天台宗,輪王寺開山堂(両大師)で4日未明,火災があり,江戸時代に造られた本堂をはじめ同時代初期の木像で重要文化財の「天海僧正坐像」など徳川幕府ゆかりの品々を焼失した.国の重要美術品の鐘楼などは延焼を免れた.同寺では3日昼,百人以上の参拝者を集めて「大護摩供御祈とう会」が行われたばかり.寺の関係者によると,境内には午後6時の閉門後も浮浪者などが入り込むこともあるといい,上野署では失火,放火の両面から原因を調べている.
忙しい人はこのリードだけを読んで他に目を移すかもしれないが,そういう読者にもこれで要点はすべてつたわる.多くの読者は,リードに誘われて先まで読み進むだろう.
リードでは,最小限の字数に要点をすべて盛りこまなければならない.この心得はレポートの〈概要〉を書くときにも共通である.読者は,上のリードに盛られた情報の密度をくわしく評価してみられるといい(私は上のリードの「同寺では」以下はもっと切りつめるべきだと考える).
4. 2. 1節で,短いレポートで〈概要〉を独立させて書くにおよばぬ場合には書きだしの文(またはパラグラフ)に〈概要〉の役割をつとめさせるべきだ――と書いた.新聞記事でも同じことがおこなわれており,独立したリードがない場合には書きだしの文(またはパラグラフ)がリードとして役立つように入念に書いてある.次の例を見よう(朝日新聞(東京)1989-09-06朝刊13版第2社会面.写真つき).
光るメダカの「子」誕生
東大・軽部教授ら ホタルの遺伝子注入
メダカの卵子にホタルの遺伝子を注入して,生まれる直前のメダカの「子」を光らせることに,東京大学先端科学技術研究センターの軽部征夫教授,民谷栄一助教授らと東洋水産のグループが成功し,5日,東京で開かれている海洋バイオ技術の国際会議で発表した.
グループが用意したのは,発光酵素をつくるホタルの遺伝子に,それを細胞で働かせるための「スイッチ」をつないだ環状の遺伝子だ.これを,メダカの卵子の直径約百数十ミクロンの核の部分に注射した後,受精させた.
受精卵が育ち,目や体の区別ができて,ふ化間際になった段階で,うっすらとした輝きを高感度の光の検出器でとらえた.これをコンピューターで処理したところ,肉眼では見えない輝きが画像として浮かび上がった.目の部分を除いて全体に輝いており,「この濃淡の様子を詳しく調べることで,スイッチが遺伝子を体のどこで働かせたかをつかめる」とグループ.
ふ化後も,発光酵素が働くことは確かめられている.軽部さんは「酵素づくりが盛んになるよう工夫すれば,『光るメダカ』が泳ぐ姿を見ることも」と話している.
こうした発光酵素を生物の体に入れる研究では,86年に米カリフォルニア大学サンディエゴ校のグループがタバコを光らせることに成功している.
全文を引用したのは,一つには複雑な内容のポイントをつかんで最も簡潔に要約する要領を見ていただきたかったから,一つには新聞記事のリードとレポートの〈概要〉とのちがいを見ていただきたかったからである.もし研究者自身がこの研究のレポートを書くなら,その第1パラグラフに書くべきことは,上記の書きだし文の中では「メダカの卵子にホタルの遺伝子を注入して,生まれる直前のメダカの『子』を光らせることに成功した」という部分だけだ.そのほかの部分は,新聞記事のリード(の役割をつとめるべき文)だから必要なので,レポートの〈概要〉(の役割をつとめるべき文)としては不用のものである.
上に引用したメダカの例文は科学記事だから,レポートや論文を書くのと同様の順序で,まっすぐに筋を通して書いてある.しかしこれは新聞記事としては例外であって,ふつうの報道記事では,リード(またはその役割をつとめる文,またはパラグラフ)のあとには,事件のまわりをくりかえしてグルグルまわりながらいろいろの角度から眺めた記述がつづく.原則として重要なことほど早く出てくるから,読者はどこで止めてもそれなりにあまり偏らない情報を得ることができるわけである.先の輪王寺の火災の記事の本文は正にその方式で書いてあったが,長いので引用できなかった.
グルグルまわりながら断片的な描写をこころみる新聞記事の書き方は,系統的であるべきレポートの模範にはできない.しかし,重点先行主義という点では,新聞記事から学ぶべき点が多い.
4. 2. 3 記述・説明の順序
調査報告,事故報告その他,情報伝達を目的とする記述・説明文〔注1〕では,まず大づかみな説明によって概観を示してから細部の記述にはいることが肝要である.
まず概観を
記述・説明文の具体的な例として,道案内をとりあげよう.
私の考えでは,道案内には地図(略図)を描くのにまさる方法はない.ことばは一次元的なもの(一列につながったもの)――事の経過とか,筋の通った推理とか――をつたえるには適しているが,二次元,三次元的なものの形や配置をつたえる段になると弱い.到底,図におよばないのである.
しかし,ことばだけで道案内をする訓練は,言語技術教育(2. 1節)の基礎として大切なものだ.実用的にも大事なことは,電話の場合を考えてみればわかる.
私は,学習院大学で,一時,一般教育課程の「表現法」という講義――というよりむしろ演習――を担当していたが,その中の演習としてよく「最寄りの駅(またはバス停)から自宅への道順を,図は使わないで文章で説明せよ」という問題をやらせた.その答案を読んでいると,ぼんやりとながら道案内には二つの流儀があることがわかる.一つは
駅を出るとすぐ左手に果物屋がある.そのとなりがそば屋.この通りを進んで行って郵便局の角を左に曲がると……
という微視型の記述;もう一つは同じことを
駅前の道は山手線に直交している.それを山手線の外側に向かって進み,約200メートル先で,駅からかぞえて三つめの四つ角を左に曲がると……
と表現する巨視型(あるいは幾何学型)の記述である.女性には第1の型が多いように思う.私自身は第2の型を好む.
巨視型の叙述のほうが全体をつかみやすい.したがって,私がそちらを好むのは,叙述の順序として「概観から細部へ」をたてまえとせよと主張することと無縁でない.しかし,私がここで強調したいのは,くわしい説明を巨視型でするにせよ,微視型でするにせよ,まず最初に
目的地は,駅から山手線の外側に向かって200メートル行き,左に50メートル入ったへんにある.
と大づかみな見当を示せ,歩く道筋の説明にかかるのはそれからだ――ということである.「200メートル」という言い方ができなければ「2,3分あるいて」でもいい.こんな見当だけで目的地にたどりつけるわけではないが,こういう概観的な像がないと,そば屋から郵便局まで,いつも不安を抱いて歩くことになる.
道案内にかぎらず,ひとにものを説明するときには,まず大づかみに全体像を与えることが肝腎なのだ.調査報告,事故報告の場合も同様である.その実例としては,4. 2. 2節で引用した新聞記事のリードを,もう一度,読み直してみられるといい.
細部の記述の順序
記述・説明文ではまず概観を与えてから細部の記述にかかれ――と説いた.その〈細部〉の記述の順序をきめる要素は何か?
書くべき中身が概念的にいくつかの枠(カテゴリー)に分類できる場合には,まずその分類にしたがって記述を進めるのが第1の原則である.たとえば,近年における消費者物価の動きを展望するのならば,食料費,住居費,被服費,光熱水道費,等々に分けて記述・考察する;もし必要があればさらに下位分類におよんで食料費を穀類,生鮮魚介,肉類,乳・卵,野菜・海藻,等々に分ける――というのがその一例だ.分類した各項目をどういう順序にならべるかは,何らかの論理により,あるいは習慣によって自然にきまる場合が多い.
この原則による分類ができない場合には,大小の順,空間的配列の順,時間的な配列の順,などにしたがう記述を考えてみるべきだろう.
空間的配列による順序とは「北から南へ 東から西へ」,「上から下へ 左から右へ」,「入口から奥へ」というような順序だ.
事件の報告の類は,原則として時間的配列の順に,つまり,ことが起こった順に書くべきであることはいうまでもない.作業の説明や,機器の取り扱い説明書の類も,概観を与えた後のくわしい記述は,実際の手順にしたがうのが当然である.
ただし,事件の報告では,重点先行主義にしたがってまず事件のヤマ場から書きはじめ,あとでことの起こりにさかのぼるのが適当な場合が少なくない.
また,機器の取り扱い法などは,「実際の手順にしたがって説明する」といっても,必ずしも〈本番〉のときの手順ではなく,〈まずやってみる〉ときの手順にしたがうほうが適当な場合が多い.たとえばカメラの取り扱い説明書は,ふつう電池の入れ方,フィルムの入れ方,巻きあげ方を説明してから,ファインダーの覗き方,ピントの合わせ方にはいっていくが,私はこれは実際的でないと思う.新しいカメラを手にした人は,フィルムなどは入れずに,まずファインダーを覗き,ピントを合わせ,巻きあげレヴァーを操作してシャッターを切ってみるだろう.それが自然でもあり,合理的でもあるのだから,説明書はそういう順序に書くべきである〔注2〕.
上記のほかにも,記述・説明文の叙述の順序をきめるにはいろいろの原理があろう.いずれにしても,肝腎なのは,
(a) どういう順序で書くかを思い定めてから書きはじめ,途中でその原則をおかさないこと;
(b) どうしてもその原則を守れなくなったら,いさぎよく原則を立て直して最初から書き直すこと
である.書き直しにはハサミとノリが役立つ.机のひきだしによく切れるハサミとスティック糊を常備しておくといい.
レポートを読むとき私がいらいらさせられるのは,一定の順序がなく思いつくままに書きならべた(としか思えない)文章である.特に,同じもの,あるいは密接に関連するものに関する記述が,何のことわりもなくあちこちに散らばって出てくると,腹が立つ.
4. 2. 4 論理展開の順序
レポートで,調査の結果を述べる記述・説明文とならんで主役をつとめるのは,論理を展開する文章――論述文――である(この書物では,この両者を一括して説明・論述文と呼んでいる).論述文は,理論を内容とするもの(たとえば数学,理論物理学やある種の哲学,法律学などの論文)と説得を目的とするもの(たとえば環境保全についての所見)とに大別できる.この種の文章の叙述の順序として考えるべきことは何か?
理論と呼ぶのにふさわしい理論を述べる文章では,内容――前提と論理の組み立て――によって叙述の順序がきまってしまうので,文章論としては議論の余地がない.ただし,同じ前提から出発して同じ結論に到達する論理の筋道は必ずしも一つでない(初等幾何の証明のやり方は一つとかぎらない).研究の過程で自分が最初にその結論にたどりついた筋道が最短径路であることはむしろ例外で,多くの場合には,結論に到達してから振り返って道を探すと,もっとまっすぐな,わかりやすい道がみつかるものである.レポートは他人に読んでもらうものだから,最初に自分がたどった紆余曲折した道ではなく,こうしてみつけた最も簡明な道に沿って書かなければならない.
説得を目的とする論述文の場合には,いま述べたような純粋理論の叙述にはない恣意性がある.それだけ叙述の順序の自由度が増し,順序のえらび方によって説得の効果もちがうことになる.たとえば,
(a) 従来の説,あるいは自分と反対の意見の人の説を展望し,その欠点を指摘してから自説を主張するか.あるいはその逆に,まず自分の考えを主張し,それにもとづいて他の説を論破するか.
(b) まずいくつかの事例をあげて,それにもとづいて自分の主張したい結論をみちびくか.その逆に,まず主張を述べてからその例証をあげるか.
(c) あまり重要でない,その代わり誰にでも受けいれられる論点からはじめてだんだんに議論を盛り上げ,クライマックスで自分の最も言いたいこと――多少とも読者の抵抗の予期される主張――を鳴りひびかせるか.その逆に,最初に自分の主張を強く打ち出して読者に衝撃を与えるか.
(a),(b),(c) ではそれぞれ叙述の順序が正反対な一対《つい》の叙述法を比較してある.どの対についてみても,後段の叙述法のほうが重点先行の原理に合っている.日本人は概して前段の叙述法を好み,欧米人は後段の方式を採ることが多い.私の考えでは34),このことの根底には,
(1) 日本語の構文規則(シンタックス,syntax)は SOV 型(主語・目的語・動詞-型)で,決定的な役割を負う動詞が最後にくる
のに対して,
(2) 絶対多数の欧語は SVO 型(主語・動詞・目的語-型)の構文規則にしたがっていて文の主要部が先行する
というちがいの,根深い影響があるのであろう.
4. 3 事実の記述・意見の記述
事実と意見との区別については第2章で詳説した.またその章の末尾,2. 3節では
(a) レポートの根幹となるべきものは事実の記述であること,
(b) ある意見を主張するのが目的のレポートであっても,その説得力は意見の根拠となる事実の記述に左右されること
を強調した.本節では,これを受けて,レポートの中での事実の書き方,意見の述べ方,両者の書き分け方についての注意を述べる.
4. 3. 1 事実を書くには
事実の記述だけを取り出して考えれば,必要な注意は次の三つに尽きる.
(a) その事実に関する情報の中で,何を書き,何を捨てるかを十分に吟味せよ.
(b) それを,ぼかした表現に逃げずに,できるだけ明確に書け.
(c) 事実の記述には主観の混入を避けよ.
いちばん大切な (a) については,具体例をあげて以下にくわしく述べる.(b) は4. 4. 2節の主題になるので,そちらを参照されたい.(c) は事実の記述の意義(2. 3節)に照らして当然のことだが,うっかりすると事実の記述のなかに「すぐれた」とか「便利な」とかいう主観的な修飾語(句)を書きこみやすいので注意.これは事実の記述の客観性をスポイルする.
(a) でとりあげた「その事実に関する情報の中で,何を書き,何を捨てるか」という問題の議論にはいろう.
1989年2月16日,横浜港の浅野ドックで定期検査中のインド船が爆発・炎上し,10人の死者が出るという事件があった.以下の引用は,翌日の朝日新聞夕刊社会面の半分近くを占めた遺体発見の模様の報道35)(の一部)である.
船内の模様が,安否を気遣う家族らに伝えられたのは午前3時過ぎ.浅野ドック構内の社員食堂のテレビが,「船内で10人の遺体発見」と報ずると,画面を食い入るように見つめていた人たちの輪が「ワーッ」と泣き崩れた.家族の一人はテーブルに顔を伏せたまま,肩を震わせながら,「どうして,こんな死に方をしなければいけないの」と,何度も握りこぶしをたたきつけた.
同じ夕刊の第1面の,同じ事故に関する,これもページの1/3近くを占める報道では,遺体発見の部分は次のようになっている.
……この結果,機関室内の温度が低下したため,17日午前1時過ぎから捜索を始めたところ,まず最上部から2番目の第2層で男女各1遺体を発見,午前7時46分までに全遺体を収容した.全員の身元が確認された.
事故当時,犠牲になった10人はいずれも機関室の最下層の第4層とその床下で作業をしていたことから,爆発後に階上へ自力で逃げようとして力尽きたらしい.発見された遺体は,2層の2遺体はやけどによる損傷が激しかったが,その他の遺体は,衣服もあまり焼けておらず,顔がすすけた状態だった,という.
どちらの記事も,多少は意見が混入しているが,ほとんど事実の記述――テストや調査によって真偽を確かめられること――だけだ.しかし,同じく遺体発見時の状況を報じているのに,私たちに伝わってくるものは全然ちがう.
これから二つのことがわかる.
第1は,あること(たとえば事件)について「事実を記述する」としても,どういう事実をえらびだして書くかによって,効果――たとえば読み手の心のなかに生まれるそのことのイメージ――は全く異なるということである.何でも全部書けばいい,と思うかもしれないが,それはできない相談だ.そのことは,眼前の机がどんな机かを文章で人につたえようとしてみればすぐわかる.事実を文章に書くときには,何と何を書くか,選択するほかないのであり,その選択の方針しだいで全くちがうことが伝わることもありうるのである.
上に引用した第1面の記事からは,起こったことの骨組みを最少の字数でつたえよう,できれば今後の参考資料として役立つ記録を残そう,という内容選択の方針が読みとれる.これに反して社会面の記事の内容は,その場の雰囲気をつたえよう,読者の感情に訴えようとしてえらばれているようだ(欧米の一流紙にはこういう描写はまず見られない).
いまの新聞記事を読んでわかる第2のことは,「悲愴な」,「胸が裂けるような」,「暗然と」,というような主観的・心情的な修飾語はいっさい使わなくても,適切な事実の記述をならべさえすれば,それだけで十分に(時として過度に!)心情を伝えうる――ということである.
レポートでは心情的な要素は排除すべきなので(1. 1節),心情のつたえ方には深く立ち入らないが,私の考えでは,文学作品でも,読み手の心に強く迫るのはいわゆる心情的な表現ではなくて,精選された事実の叙述である.
読む人に訴えるのに心情的,主観的なことばが無益だとは言わない.しかし,事実だけに語らせるのが最高の文章作法であろう.「事実に語らせる」には,無数の関連事実のなかから表現の核となるべき事実をえらびだして,するどい照明を当てなければならない.そういう事実を発掘する眼力を養うことが,文章修業の真髄であろう.
レポートの中の事実の記述では,上に引用した二つの新聞記事のうち,社会面ではなく第1面の記事のほうの内容選択の方針にしたがうべきことはいうまでもない.
もう一つ,レポート,特に大学生の研究レポートに多い引用の記述(2. 2節で述べたように,これは事実の記述とされる)についての注意をつけ加えておこう.それは,ある人の発言または文章を引用するときには,どの部分をどういう形で引用するか,十分に配慮しなければならないということである.へたをするとその人の真意が歪曲されて伝わることになる.
【問題4. 1】 以下は,東京駅経由で平塚に行こうとする人(この近辺の地理を知らない人)のための道案内である.文中の事実の記述の選択は適切か.
@東京駅で東海道線の下り普通列車に乗る.A原則として7番線か8番線から出るが,9,10番線から出るのもある.B大船までは横須賀線と平行して走るが,ここで鎌倉・逗子・横須賀方面に行く横須賀線と分かれて,藤沢・辻堂・茅ケ崎を経由して平塚に着く.C東京・平塚間は普通列車で六十数分である.D平塚には急行も止まる.
4. 3. 2 意見の記述
レポートにおける意見の記述についての注意は次の三つである.
(a) 誰の意見なのかを明示せよ.
(b) 自分の意見は,できるだけ明確に,ぼかさずに書け.
(c) 意見の根拠(となる事実)と,それからその意見を立てるに至る筋道とをきちんと書け.
「誰の意見かを明示せよ」というのは,他人の意見は〈その人の〉意見として引用し,自分の意見は,自分が責任を負う覚悟で〈自分の〉意見として書けということだ.レポートで決してしてはならないのは,他人の意見を自分の意見のような顔をして書く,あるいは他人の意見とも自分の意見とも取れるような形で書くことである.他人の意見は引用してよろしい.しかし,誰の意見であるか,どこから取ったものであるかを明記した上で,その人の真意をそこなわないように気をつけて引用しなければならない.
自分の意見は,
私は,……と考える(想定する,推論する,思う,感じる,……).
というかたちで書くのが基本形だ.次にその一例を示す.
私は,この火事の原因は漏電であったと考える.
この文から頭(私は)と足(と考える)を取り去ってしまうと,
この火事の原因は漏電であった.
と事実の記述のかたちになる.こう書くことが許されるのは,火事が漏電で起こったことを「証拠をあげて裏づけする」ことができる場合だけであって,推定の範囲にとどまっている場合にはちゃんと頭と足をつけて書かなければならない.
もっとも
私は,函館の夜景は日本一うつくしいと思う.
というような場合には,頭と足を取り去って
函館の夜景は日本一うつくしい.
としても,依然として意見の記述と受けとれる.これは,この場合に主張の核になっていることば「日本一うつくしい」が,主観的なもの――主観的判断を表すもの――だからである.
日本語の特性として,主格が〈私〉であることが前後の文脈から明らかな場合には,上記の「火事の原因は漏電」のような例でも,頭を省いて
この火事の原因は漏電であったと考える.
とすることが許される.しかし,原則としては頭をつけて責任の所在を明らかにしたほうがいい.同じ理由で私は,「函館の夜景は日本一うつくしい」のような場合にも,なるたけ頭(私は)と足(と思う)をつけて書くことを勧める.
先に
自分の意見は,自分が責任を負う覚悟で〈自分の〉意見として書け
としつこく書いたのは,誰の意見だかはっきりしない無責任な書き方が氾濫しているからだ.以下はその例である.
この火事の原因は漏電と考えられる.
この火事の原因は漏電と思われる.
この火事の原因は漏電と見てもよさそうだ.
この火事の原因は漏電であろう.
このうち最も頻繁に使われているのは,「と考えられる」,「と思われる」の二つだ.この場合の助動詞「れる」,「られる」は,「当然の成り行きとしてそういう考えになる」,「自然にそう思えてくる」という意味の自発の助動詞,または「と考えることができる」という意味の可能の助動詞として使われているのだろう.これは最終的な判断を相手にゆだねて自分の意見をぼかした言い方である.理屈をいえば,「……と考えられる」が自分の考えはちがう――と言って逃げる余地を残してあるわけだ.レポートでは,こういうあいまいな,責任回避的な表現は避けて,はっきり「私は……と考える」,「私は……と思う」と書くべきである.
4. 3. 3 事実と意見の書き分け
事実と意見の書き分けについてはすでに2. 1節で
大磯は,冬,東京より暖いと信じられているが,私は,夜は東京より気温が下がるのではないかと思う.夜間,大磯のほうが低温になることにふしぎはない.暖房その他の熱源が少ないし,……
という例文をあげて論じた.そこで私が主張したのは,この文章では第1文で「私は,夜は東京より気温が下がるのではないかと思う」と筆者の考え――意見――として書いたことを,第2文では「夜間,大磯のほうが低温になること」と事実あつかいにしているのがよろしくない;ここでは第1文の〈私〉の考えが仮に当たっているとして,それに対して〈私〉の判断(意見)――ふしぎはない――を述べるのだから,
夜間,大磯のほうが低温になるとしても,それにふしぎはない.
と書かなければならない,ということであった.意見の書き方の基本形(4. 3. 2節)にしたがえば
夜間,大磯のほうが低温になるとしても,それにふしぎはないと私は考える.
と書くことになる.
一つの意見(推論,判断,仮説,……)に対して意見を述べるときには,たとえば上記のように,意見を述べる対象が事実ではなくて推論,判断,仮説,……であることを明示しなければならないのである.
レポートでは,事実の記述か,意見(考え)か,判断できない文を書いてはいけないことはいうまでもない.たとえば
事故直前には,機は,おそらく時速350キロで南東に向かって飛んでいた.
という文は,レポートの中の記述としては落第である.「時速350キロ」が推定(意見)であることは明らかだが,「南東に向かって」が事実の記述なのか,推定なのか,はっきりしないからである.もし「南東に向かって」が事実であれば,たとえば
……機は,南東に向かって,おそらく時速350キロで飛んでいた.
と書くべきであり,またそれが推定であれば
……機は,推定時速350キロで,たぶん南東に向かって飛んでいた.
とでも書くべきだ.
もう少し微妙な例として
A 氏の説によれば,群発地震の後でイサキやイワシの漁獲量が激減したのは,地震で海底が陥没したり,海中の崖がくずれたりしたので海中が濁り,磯付きのイサキや沿岸の浅いところを回遊するイワシがこれをきらったためだろうという.
という文を検討しよう.
群発地震の後でイサキやイワシの漁獲量が激減した
のは,真偽は別として(2. 2節参照),明らかに事実の記述である.また,それが
イサキやイワシが濁りをきらったためだろう
というのは明らかに A 氏の仮説(意見)だ.しかし,
海底が陥没したり,海中の崖がくずれたりした (1)
のは事実の記述なのか,A 氏の仮説(意見)の一部なのかわからない.また
海中が濁り (2)
も,事実の記述なのか,A 氏の仮説(意見)の一部なのかわからない.(1),(2) に関しては,(1) も (2) も仮説,(1) も (2) も事実,(1) は仮説だが (2) は事実,(1) は事実だが (2) は仮説,という四つの場合が考えられるので話は複雑になる.
上記の飛行機の話や魚の話のように事実か意見かで人を迷わせる心配をなくすためには,執筆にあたって次の心得が必要である.
(a) いま書いているのは事実か意見かをいつも念頭において書く.書いたあとで,逆にとられる懸念はないか,また読み手が事実か意見かの判断に苦しむことはないかと入念に読みかえす.
(b) 事実の記述の中には意見を混入させない.
【問題4. 2】 最後の例文は,もし (1) も (2) も事実であれば,たとえば次のように書き直してそのことを示すことができる.
群発地震のあとの海底調査で,海底の陥没や海中の崖くずれが観察され,海が濁ったのはそのためとされた.A 氏の説によれば,地震後のイサキやイワシの漁獲量の激減は,磯付きのイサキや沿岸の浅いところを回遊するイワシがこの濁りをきらったためだろうという.
これにならって上記の例文を,
() (1) も (2) も仮説である場合,
() (1) は仮説だが (2) は事実である場合,
() (1) は事実だが (2) は仮説である場合
について,それぞれそのことがはっきりわかるように書き直せ.
4. 4 レポートの文章は明快・明確・簡潔に書け
4. 1節「読み手の立場になってみる」,4. 2節「叙述の順序」,4. 3節「事実の記述・意見の記述」と,レポートの文章を書く際の基本的な心得を述べてきたが,ここからは,以上を踏まえて,具体的な文章表現の話にはいる.まず本節で私がレポートの文章はかくあるべきだと考える姿をスケッチする.ついで4. 5節で,明快な文章の礎石であるパラグラフ(段落)の組み立て方を解説する.4. 6節は,すらすらと読める文・文章を書くための,ややこまかい,具体的な注意で,これは長い節になろう.最後に,4. 7節で文章の評価についての私の考えを述べる.
明快,明確と似たようなことばを並べたが,この書物で明快な文章というのは
すじが通っていて一読すればすぐわかり,二通りの意味にとれるところのない文章,
また明確な表現というのは
ぼかしたところがなく,ずばりと断定的な表現
を意味するものとお考えねがいたい.「二通りの意味にとれるところのない文章」とは,どの文も一義的にしか(一つの意味にしか)読めないように,つまり意地わるく読もうとしてもほかの意味には読めないように書いてある文章のことだ.
レポートの文章は明快・明確で,また,それ以上は削れないほど切りつめた,簡潔な文章であってほしい.
4. 4. 1 明快な文章
明快な文章の第1の条件は,文章全体が論理的な順序にしたがって組み立てられていること,論理の流れが自然で,一つの文と次の文とがどういう関係にあるのか即座にわかることである.第2の条件は,一つ一つの文が正確に書いてあって,文の中のことばとことばとの対応がきちんとしていることだ.二通り以上に読めて読み手を迷わせるような文があってはならないことは,いうまでもない.
明快な文章の姿を見ていただくためには,まず明快でない文章を分析してお目にかけるのが有効だろう.次に示すのは,ある報告書の序文の一部(にいくらか手を入れて,原文よりはやや読みやすくしたもの)である.説明の便宜上,各文に番号をつける.
@留学生の学習目的が専門的で高度の専門用語を使用するような場合には,その分野に必要な日本語が留学生に課せられることになる.Aもちろん,専門用語の学習は専門別におこなうべきで,一般日本語の教育にこれを組みこむことは無理である.Bしかし多くの留学生は高等教育を受けるために来日しており,彼らは専門領域の用語・表現を学習する必要に迫られている.Cそして,彼らのために用意された各専門領域用の日本語教科書は絶無に近く,またそのための教授法も確立されていない.
D専門領域を日本語教育のために分類することはむずかしい.Eしかし,理工学の分野は大まかに考えてこれ以外の学問分野と区別して考えることができる.Fそしてまた日本の科学技術の高水準をめざして日本にくる留学生の数は急増しつつある.
G以上の事情を考え合わせて,私たちは科学技術用日本語の教育のための調査研究をおこなうことにした.
この文章で筆者が何を言いたいのか,見当がつかないではない;しかし,「わかった」とはとても言えない――というのが読者の実感であろう.
上記の文章が「明快でない」理由の分析を試みよう.
第1文:「学習目的が専門的で高度の専門用語を使用するような場合」とあるが,誰が使用するのか? この文では「留学生が」としかとりようがないが,ほんとうは「多くの専門用語が使用される場合」と書くべきだろう.そうなると,その前の「学習目的」も「学習分野」と書き直したくなる.
「その分野に必要な日本語」というのは「専門用語」と同じ意味か? 疑問を残したまま読み進んでいくと,これは実は第3文の「専門領域の用語・表現」を意味するらしいことがわかる.「専門領域の表現」とは,その分野で習慣的に使われるものの言い方のことであろう.
この第1文は,このほかの点でも「ことばとことばとの対応がきちんと」していない,正確に書けていないのである.次のように書き直せば,いちおう明快になる.
留学生の学習分野が専門的で,高度に専門的な用語が多く使われる場合には,彼らは,専門用語と,その分野に特有な日本語の言いまわしとを習得しなければならないことになる.
第2文:文頭の「もちろん」はひとりよがりで,読み手にはうなずけない.
この文の内容は学校側での教育の方法論で,第1文とはかけ離れている(なぜここでこんなことを書くのか,論理の流れがわからない).
第3文:「しかし」とあるので読み手は第2文と反対の内容を期待するが,書いてあることは第1文のくりかえしに近く,第2文とは無縁だ.
第4文:内容が,冒頭の「そして」から読み手が期待するものと全くちがう.
第5文:何を言いたいのか,よくわからない.おそらく
学問をいくつかの分野に大分けしてそれらの分野ごとに専門別日本語教育をするとしても,その分野の分け方がむずかしい.
という意味のことを言いたいのか?
第6文:第5文が原文のままでは,第5文とのつながりが不自然である.第5文をいま書き直したようにすればつながる.
第7文:これも,冒頭の「そして」から期待する内容とは離れている.「しかし」にせよ,「そして」にせよ,原文の筆者は接続詞の使い方がわかっていないのではないか.
「そして」を生かして第6文と論理的につなぐには,
そしてこの分野こそは専門別日本語教育の必要度の最も高い分野なのである.日本の,高水準の科学・技術を学ぶために来日する留学生の数の急増がそのことを明示している.
とでもするほかあるまい.
通観していちばん問題なのは,論理的な組み立て――叙述の順序,文のつなぎ方――が混乱していることだ.第1文と第3文とは半分以上かさなり,そのあいだにある第2文は両方から浮いている.第3文と第4文とをつなぐのは,「そして」ではなく,むしろ「それにもかかわらず」であるべきだ.第5文の出だしは唐突だし,第6文とのつながりもよくない.第7文は補強しないと第6文につながらないことは,いま見たとおりだ.……
私の書き直し案は次のとおりである.各文の頭の番号は,それが原文の何番めの文に対応しているかを示す.
B多くの留学生は,専門の高等教育を受けるために日本にきている.@B専門の勉学のためには,多くの場合,専門用語とその領域で使われる日本語の言いまわしとを習得する必要がある.Cしかし,そのために用意された専門別の日本語教科書はないに等しく,そのための教授法も確立されていない.
Aこの種の専門別日本語教育を一般日本語教育の枠の中に組みこむことは無理で,AD学問の全分野を適宜に分類して各分野ごとに実施するほかあるまい.
DEどう分類するかはむずかしいが,理工学分野を一つの単位とすることには異論がなかろう.この分野こそ,実は,専門別日本語教育の最も必要な分野なのである.F日本の,高水準の科学・技術〔注1〕を学ぶために来日する留学生の数の急増がそのことを明示している.
G以上の事情を考え合わせて,私たちは科学・技術用日本語の教育のための調査・研究をおこなうことにした.
書き直し文と原文とを読みくらべてみると,「論理の流れが自然で,一つの文と次の文とがどういう関係にあるのか即座にわかる」(4. 4. 1 明快な文章)ことが如何に大切かわかるだろう.また,くわしく検討すれば,書き直し文のほうが「文が正確に書いてあって,文の中のことばとことばとの対応がきちんとしている」こともわかるはずである.
今の書き直しでは「二通り以上に読めて読み手を迷わせる」文の修正例が出てこなかったが,これについては4. 6. 5節を参照されたい.
4. 4. 2 明確な表現
日本文学研究者ドナルド・キーン(米国コロンビア大学教授)が次のように言っている36).
「鮮明でない言葉はフランス語ではない」という言葉があるが,日本語の場合,「はっきりした表現は日本語ではない」といえるのではないか.……数年前に日本人に手紙を出したが,その中に「五日間病気でした」と書いたので,友人は「日本語として正確すぎる」と言って「五日ほど」と直してくれた〔注2〕.小説の人物の年齢も多くの場合,「二十六,七歳」となっていて,二十六歳とも二十七歳ともはっきり定められないようである.……
キーンの言うとおり私たちには,はっきりと,明確にものを言うことを避けようとする習性がしみこんでいる.私は,これは,長年のあいだ,いわば同族だけがせまい四つの島にとじこもって鼻つき合わせて暮らしてきた結果だと思う〔注3〕.そこでいちばん大切な生活の心得は,異を立て角つき合わぬこと,みんなに同調することであった.交渉の仕方もこれに準拠して,自分の意見を明確に主張して正面から相手にぶつけるよりは,ぼかした表現によって相手の意向を問いかけ,相手がきめたような形にして実は八分通りは自分の意向を通すのをよしとしてきたのである.
そういう言語環境のなかで育ってきた私たちは,レポートを書くときにも,「あまり明確な,断定的な書き方をしては読む人にわるい」と思う.また,「ほかの考え方をする可能性だってあるのに,自分の意見を一方的に読み手に押しつけるのは図々しい」,「自分の見方が全面的に正しいとは言い切れない.読み手に裁量の余地を残しておかなければ……」などと考える.その結果として私たちは,レポートの中でも「……である」の代わりに「……であろう」と書き,「自分は……と考える」の代わりに「……と言ってもよいのではないかと思われる」と書きたくなるのだ.
しかし,学問の世界は冷たく澄んだ世界で,そこでは自分の考えを明確に言い切ることが必要である.表現をぼかし,断言を避けて論争を不徹底にすることは学問の進歩をさまたげる.また,一刻をあらそって情報が飛びかう実務の世界でも,誤解の余地のない言い方,明確な表現の必要が増しつつある.私は,レポートの中では,
事実の記述にせよ,自分の意見にせよ,できるかぎり明確に,ぼかさずに書く
ことを強く勧める.キーンが言うように,私たちは無意識のうちにぼかしことばを使う傾向があるが,「ほぼ」,「約」,「ぐらい」,「たぶん」,「らしい」等々のぼかしことばを入れたくなるたびに,それがほんとうに必要なのかどうか,厳しく吟味すべきだ.
今まで「……ではないかと思われる」と書いていたところに「自分は……と考える」と書くには覚悟がいる.「ぐらい」,「らしい」を削るにも勇気がいる.しかしレポートでは,確実なこと,自分がそうだと思うことは,はっきりと,明確に書くべきなのである.
念のためにつけ加えるが,これはレポートには不確実な情報,推測,想像の類を書いてはいけないという意味ではない.たとえば(3.2節参照)
欧州では,母性保護の施策と一般女性の保護の施策とを区別して,前者は残し,後者は廃止しようとする動きがあるらしいが,これは合理的といえない.若い女性はすべて潜在的母性だからである.
というように,不確実な情報:
欧州では,……動きがあるらしい
は,不確実だということをはっきり示したかたちで書くべきである.ただし,それについての自分の考え:
これは合理的といえない.若い女性は……だからである.
のほうは明確に,断定形で書かなければならない.後者を
これは合理的とはいえないかと思われる.若い女性は……
などとぼかした形で書くのは悪い習慣である.
4. 4. 3 簡潔
私はかつて『理科系の作文技術』の序章を,チャーチルの言を引用して次のように書きはじめた.
1940年,潰滅の危機に瀕した英国の宰相の座についたウィンストン・チャーチルは,政府各部の長に次のようなメモを送った.
われわれの職務を遂行するには大量の書類を読まねばならぬ.その書類のほとんどすべてが長すぎる.時間が無駄だし,要点をみつけるのに手間がかかる.
同僚諸兄とその部下の方々に,報告書をもっと短くするようにご配意ねがいたい.
() 報告書は,要点をそれぞれ短い,歯切れのいいパラグラフにまとめて書け.
() 複雑な要因の分析にもとづく報告や,統計にもとづく報告では,要因の分析や統計は付録とせよ.
() 正式の報告書でなく見出しだけを並べたメモを用意し,必要に応じて口頭でおぎなったほうがいい場合が多い.
() 次のような言い方はやめよう:「次の諸点を心に留めておくことも重要である」,「……を実行する可能性も考慮すべきである」.この種のもってまわった言いまわしは埋め草にすぎない.省くか,一語で言い切れ.
思い切って,短い,パッと意味の通じる言い方を使え.
くだけすぎた言い方でもかまわない.
私の言うように書いた報告書は,一見,官庁用語をならべ立てた文書とくらべて荒っぽいかもしれない.しかし,時間はうんと節約できるし,真の要点だけを簡潔に述べる訓練は考えを明確にするにも役立つ.
チャーチルのメモは,ほとんどそのまま,情報化時代のレポートの書き方の指針としても役立つ.彼の言う意味での簡潔さは,大学生のレポートでも必要だが,とくに社会人の書くレポートではその評価を大幅に左右することになる.
4. 4. 1節にならって,簡潔でない文章の吟味からはじめよう.次に示すのは,学術面における国際交流の促進計画に関する,ある役所の報告書の書き出しの一節である.
@学術研究は,真理の探究を目指す普遍的な知的活動であり,その成果は広く人類共通の資産として蓄積されるものである.Aまた,研究の発展は,異なる経験や思考法を持つ人々の間の交流によって触発されることが多いのは,歴史の教えるところである.B学術研究のこれらの特性に照らし,国際的な交流・協力を行うことは,その内在的要請であり,研究活動を進める上で,必要かつ不可欠の要素と言えよう.C学術国際交流の意義は,研究上の各種の交流・協力活動を通じ,我が国の学術水準の向上に資するとともに,世界の学術研究の進展に寄与することにあるが,さらには,国際社会における我が国の立場にも好ましい影響を与えることになるであろう.
もっともらしいことばを並べ立ててあるが,中身の大部分はあまりに当然のことで,ポイントはその中に埋没しており,たいていの人は読む気をなくすだろう.第1〜第4文に短評を加えれば次のとおりである.
第1文:「普遍的な知的活動」などと気取ったことばは使ってあるが,中身はこの書類を読むほどの人ならば百も承知のことだけだ.第一,ここに書いてあることは,この文章の主題である「研究上の国際交流の必要」につながっていない.チャーチル流に言えば,この一文ぜんたいが「埋め草」だ,削れ――ということになるだろう.
第2文:「研究の発展は,異なる経験や思考法を持つ人々の間の交流によって触発される」というところは,学術の国際交流がなぜ必要かの一つのポイントを衝いていてよろしい.しかし,「歴史の教えるところである」は,実例をあげないかぎり,ことばの遊びに終わって無力である.こういう一般的な言い方は,特定的・具体的な例で裏打ちしなければ説得力をもたないのだ.
第3文:「学術研究のこれらの特性に照らし」と「その内在的要請であり」は埋め草.
第4文:前半はあたりまえのことで,お飾りが多すぎる.「国際社会における我が国の立場にも好ましい影響を与えることになるであろう」というところは残す価値がある.
以上の検討にしたがって原文を書き直してみると,次のようになる.
学術研究の発展は,異なる経験や思考方法をもつ人々の間の交流によって触発されることが多い.したがって,国際的な交流・協力は,研究活動を進める上で欠くべからざる要素である.この種の交流は,学術の進展に役立つばかりでなく,国際社会におけるわが国の立場にも好影響を与えよう.
埋め草を刈りはらった結果,書き直し文は原文の半分の長さになったが,読者はこの短い文章のほうが説得力があることに気づかれただろう.チャーチルの言うように,「真の要点だけを簡潔に述べる訓練は考えを明確にするにも役立つ」のである.
最後に一言.「簡潔に」というが,短ければいいというものではない.必要な要素はもれなく書かなければならない.必要ギリギリの要素は何々かを洗いだし,それだけを,切りつめた表現で書く.一語一語が欠くべからざる役割を負っていて,一語を削れば必要な情報がそれだけ不足になる――そういうふうに書くのが,レポートの文章の理想だ.
【問題 4. 3】 次に示すのは,上に引用した報告書の原文の中で,私が例文として引用した部分につづいているパラグラフ(段落)である.これを簡潔に書き直せ.
しかしながら,我が国は地理的関係上,他の先進諸国から孤立する傾向にあり,また言語上の不利もあるため,学術国際交流を活溌にするには,研究者を含め関係者の特段の配慮と積極的な取組みが必要とされる.その上更に現時点においては,学術の国際交流・協力を強く推進すべき要請が次に述べるような諸事情から生じている.
ア ………….
イ ………….
ウ ………….
4. 5 パラグラフ――説明・論述文の構成単位
段落という日本語があるのにあえてパラグラフということばを使うには理由がある.その解説からはじめよう.
4. 5. 1 パラグラフとは何か
段落という概念は,岩波国語辞典(第4版,1963)が
長い文章をいくつかのまとまった部分に分けた,その一くぎり.
と言っているように,かなり漠然としたものだ.新しい段落は,行を変え,アタマを1字さげて書きはじめるのが明治以降の〔注1〕しきたりである.このしきたりを守って書かれた一くぎりの文の集合を形式段落と呼び,それがさらに意味の上でも一つのまとまりを示している場合には意味段落と名づけるのが国語教育界の慣習らしい.
ここでいうパラグラフ(paragraph)は,一言でいえば
文章の一区切りで,内容的に連結されたいくつかの文から成り,全体として,ある一つの話題についてある一つのこと(考え)を言う(記述する,主張する)ものである.上記の意味段落にやや近いが,パラグラフは,4. 5. 2節にくわしく述べるように,もっと限定的な性格をもっている.欧文――ことに説明・論述文――はパラグラフを構成単位としてきちっと組み立てられるので,欧米のレトリックの授業(2. 1節)では,文章論のいちばん大切な要素としてパラグラフの意義,パラグラフの書き方を徹底的に教えこんでいる.
極端な言い方をすると,「まず一つ一つのパラグラフをきちっと書き,それらを積みあげ,ゆるぎなく連結して文章を組み立てよ」というのが欧米流の(説明・論述文の)文章作《さく》法《ほう》である.パラグラフを煉瓦,文章を煉瓦建ての家と思えばいい.煉瓦がやわでは堅固な家はできない.
日本式の段落は,いわば一つづきの文章のほうが先にあってそれを便宜的に切ったもの――という趣があって,パラグラフとは大分ちがうようである.
私は,日本語でも,レポート,論文,取り扱い説明書などの文章は,パラグラフの概念をしっかり把握して,以下に述べるルールを守って書くべきものと信じる.
4. 5. 2 パラグラフの構成
上にパラグラフとは何かを一文で述べたが,例文38)によって具体的に説明しよう.
日本は工業化社会から情報化社会に移り変わりつつある.かつて日本製が世界を席巻したカメラやテレビは,韓国・台湾などが主生産国になりつつある.自動車も同じ道をたどりかけている.やがて日本は,製品ではなく技術(すなわち情報!)を生みだし,輸出することによって経済力を維持することになるだろう.
先に,パラグラフとは「文章の一区切りで,内容的に連結されたいくつかの文から成り,全体としてある一つの話題についてある一つのこと(考え)を言う(記述する,主張する)もの」と述べたが,その意味はこの例でおわかりいただけるかと思う.このパラグラフでとりあげた話題――トピック(topic,段落話題)――は〈日本〉だ.そしてこのパラグラフは日本が「工業化社会から情報化社会へ移り変わりつつある」ことを述べているのである.
パラグラフには,そのパラグラフで何を言おうとするのかを一口に述べた文――パラグラフの中心文(トピック・センテンス,topic sentence)――があるのがたてまえである.上の例では第1文「日本は工業化社会から情報化社会に移り変わりつつある.」が中心文だ.
パラグラフにふくまれるその他の文は,
(a) 中心文で一口に述べたことを具体的にくわしく説明するもの――展開部の文という――
か,あるいは
(b) そのパラグラフと他のパラグラフとの関係を示すものでなければならない.つまり,中心文と関係のない文や,中心文と反対のことを言う文を同じパラグラフに書きこんではいけないのである.中心文はこの意味でパラグラフを支配するわけだ.上記の例文では第2文以下が展開部で,第2,第3,第4文は,中心文の内容を具体例によって説明して中心文の主張を支援している.
本書では,3. 1節で述べたとおり,レポート(一般にいえば一つの文章)でとりあげる対象をそのレポート(文章)の話題(サブジェクト)といい,その話題についてそこでつたえよう,あるいは主張しようとすることをレポート(文章)の主題という;そして,主題を一文にまとめたものを主題文または目標規定文と呼ぶ.パラグラフについて先ほど定義したトピック(段落話題)と中心文は,それぞれレポート(文章)の話題と主題文に相当するものである.
中心文
先の例文では中心文はパラグラフの頭にあったが,パラグラフの最後にくることもあり,真ん中へんに置かれることもある.上記のパラグラフは次のようにも書けるのである.
かつて日本製が世界を席巻したカメラやテレビは,韓国・台湾などが主生産国になりつつある.自動車も同じ道をたどりかけている.やがて日本は,製品ではなく技術(情報!)を生みだし,輸出することによって経済力を維持することになるだろう.日本は工業化社会から情報化社会に移り変わりつつあるのである.
かつて日本製が世界を席巻したカメラやテレビは,韓国・台湾などが主生産国になりつつある.自動車も同じ道をたどりかけている.日本は工業化社会から情報化社会に移り変わりつつあるのだ.やがて日本は,製品ではなく技術(情報!)を生みだし,輸出することによって経済力を維持することになるだろう.
報告・説明・論述などの文章では,重点先行主義(4. 2. 1節)にしたがって各パラグラフの頭に中心文――パラグラフの要旨を述べた文――を書くのがよろしい.この4. 5節はこの方針で書いてあるので,各パラグラフの第1文だけを抜きだしてならべてみると,次のとおり,ここまでに書いたことの要約ができあがる(注記のパラグラフは省略).
4. 5 パラグラフ――説明・論述文の構成単位
段落という日本語があるのにあえてパラグラフということばを使うには理由がある.……
4. 5. 1 パラグラフとは何か
段落という概念は,岩波国語辞典(第4版,1963)が
長い文章をいくつかのまとまった部分に分けた,その一くぎり.
と言っているように,かなり漠然としたものだ.……
ここでいうパラグラフは,一言でいえば
文章の一区切りで,内容的に連結されたいくつかの文から成り,全体として,ある一つの話題についてある一つのこと(考え)を言う(記述する,主張する)もの
である.……
私は,日本語でも,レポート,論文,取り扱い説明書などの文章は,パラグラフの概念をしっかり把握して,以下に述べるルールを守って書くべきものと信じる.……
4. 5. 2 パラグラフの構成
上にパラグラフとは何かを一文で述べたが,例文によって,具体的に説明しよう.……
パラグラフには,そのパラグラフで何を言おうとするのかを一口に述べた文――パラグラフの中心文(トピック・センテンス,topic sentence)――があるのがたてまえである.……
パラグラフにふくまれるその他の文は,
(a) 中心文で一口に述べたことを具体的にくわしく説明するもの――展開部の文という――
か,あるいは
(b) そのパラグラフと他のパラグラフとの関係を示すもの
でなければならない.……
中心文
先の例文では中心文はパラグラフの頭にあったが,パラグラフの最後にくることもあり,真ん中へんに置かれることもある.……
報告・説明・論述などの文章では,重点先行主義(4. 2. 1節)にしたがって各パラグラフの頭に中心文――パラグラフの要旨を述べた文――を書くのがよろしい.……
欧米流の作文教育では,「中心文はパラグラフの頭に置け」と強く言う.したがって,彼らの書いた説明・論述文では,各パラグラフの第1文だけをひろい読みしていけばおよその内容がつかめるのが通例である.
「各パラグラフの第1文ひろい読み」は,彼らにとっては慣用の速読の手段だ.ところが,そのつもりで日本製のコンピューターその他のマニュアルをひろい読みしても,さっぱり要領をえない.大体,マニュアルのパラグラフの構成が今ここで解説しているようになっていない.これが,海外で日本のマニュアルの評判がわるいことの一因である.
すべてのパラグラフを中心文を頭に置いて書けば,文章はたしかに読みやすく,わかりやすくなるが,日本語の場合にはそういう書き方をするためには相当の努力がいる.これは,私の考えでは,日本語の文の組み立て方――構文規則――に由来する.4. 2. 4節の最後でもリマークしたように,多くの欧語は SVO 型で,文頭の主語に述語がすぐつづく.SOV 型の日本語では,文の要《かなめ》ともいうべき述語が文末にくる.頭の中で考えるときも同じ順序のはずだ.この事情を反映して日本語では,どちらかというと中心文をパラグラフの最後に置くほうが書きやすいのである.
こういう事情があるので私は,先に「報告・説明・論述などの文章では各パラグラフの頭に中心文を書くのがよろしい」とは述べたが(4.5.1節),「是が非でも」という気はない.ただ,大原則としてパラグラフには中心文を書くべきだということは言っておきたい〔注2〕.中心文のないパラグラフは締まりのないものになりがちである.
展開部
展開部は中心文の内容を読み手に納得させる役割を負っているから,この部分を書くには十分に考えをめぐらして実例その他の材料を探しだす必要がある.材料が具体的,特定的であるほど説得力が増す.もう一つの心得として,わき道にそれず,できるだけ中心文と直結した書き方をすることが大切だ.
次の例文39)を見よう.
@明治・大正時代の日本の学校は受信型教育に徹して,外国語読解教育に異常に力を入れたが,外国語による教育は(ほとんど)おこなわなかったことは特筆に値する.A初等・中等教育が全面的に日本語でおこなわれたのはもちろん,高等教育(大学)でも,外国人教師を一時的に必要とした特殊科目を除けば,全科目の授業が日本語でおこなわれたのである.
第2文は,中心文(第1文)で「外国語による教育は(ほとんど)おこなわなかった」と要約的に述べた内容を具体的に詳説してはいるけれども,なぜそれが「特筆に値する」のかを納得させるには役立っていない.
次のように書いたらどうだろうか.
@明治・大正時代の日本の学校は受信型教育に徹して,外国語読解教育に異常に力を入れたが,外国語による教育は(ほとんど)おこなわなかったことは特筆に値する.A東南アジアその他で「日本では物理(化学,医学,……)をなに語で教えていますか?」と質問された経験のある方は少なくないのではないか.B日本は,物理学を自国語で教えることのできる数少ない国の一つなのだ.
この書き直し文の展開部:第2,第3文は,具体的,特定的な事実をあげて「外国語による教育は(ほとんど)おこなわなかった」ことがなぜ特筆に値するのかを力強く説いている.しかし,第2文が中心文と離れた書きだし方をしてあるので,読み終えてから一瞬考えないと中心文とのつながりがわからない.また,「外国語による教育は……」の内容は明・瞭とは言いがたい.これを,すらすら読めて「なるほど」と思うパラグラフに仕上げるには,展開部をたとえば次のように充実させることが必要なのである.
明治・大正時代の日本の学校は受信型教育に徹して,外国語読解教育に異常に力を入れたが,外国語による教育は(ほとんど)おこなわなかったことは特筆に値する.初等・中等教育が全面的に日本語でおこなわれたのはもちろん,高等教育(大学)でも,外国人教師を一時的に必要とした特殊科目を除けば,全科目の授業が日本語でおこなわれたのである.あたりまえ――と思われるかもしれないが,今日でも,開発途上国では高等教育は自国語ではできないのがふつうだ.東南アジアその他で「日本では物理(化学,医学……)をなに語で教えていますか?」と質問された経験のある方は少なくないのではないか.日本は,物理学を自国語で教えることのできる数少ない国の一つなのだ.
4. 5. 3 文章の構成単位としてのパラグラフ
4. 5. 2節では一つのパラグラフの内部構造を問題にしたが,こんどは一つの文章はどういうふうにパラグラフに分割すべきか,パラグラフの長さはどれぐらいにするのがよろしいか,パラグラフ間の関連はどうあるべきか,を考えよう.
トピックの立て方
パラグラフは,全体として,ある一つのトピック(段落話題)についてある一つのこと(考え)を言う(記述する,主張する)ものだ――と述べたが,トピックは大きくも小さくも選べる.「パラグラフの書き方」をトピックとして長いパラグラフを書くこともできるし,「中心文の書き方」,「展開部の書き方」,……をそれぞれトピックとして,もっと短いパラグラフに分割することもできる.
一つの文章をどれだけのパラグラフに分けて書くのが適当か.文章自体が非常に短い場合には,いくつかのパラグラフに分ける必要はない.前にも触れたが(4.5.2節脚注)レポートの〈概要〉,論文の〈著者抄録〉は一つのパラグラフにおさめるのが通例である.もっと長い文章では,当然,主題をいくつかのトピックに分割して,各トピックにそれぞれ一つのパラグラフを割り当てることになる.
3. 6. 4節「構成案のつくり方」で扱ったのは,つまりパラグラフの長さを支配するトピックの立て方の問題であった.そこで述べた〈構成表〉に関して「表の同じ段階のところには,ほぼ同格の項目をならべよ」と言ったのは,どの段階にならんだ項目をトピックとしてパラグラフを立てるかを考える便宜のためである.これに対して〈スケッチ・ノート法〉は,はじめからパラグラフを単位としてレポートの構成を考えるやり方であった.そこで「一つ一つのパラグラフに書きこむべき内容を短い文または句にまとめてカードに書け」と言った,その「短い文または句」は取りも直さず中心文の原型で,磨きあげれば中心文になるはずのものである.
パラグラフの長さ
パラグラフの長さはトピックの立て方に密接に関連する.多くの人は,文章を書くときに,パラグラフの長さを考慮に入れてトピックの立て方をきめているのであろう.
一文だけのパラグラフは原則として書くべきでない.それが許されるのは
(a) いくつかのパラグラフでつづけて扱ってきた問題から次の新しい問題に移る,その移り変わりの文を書くとき(たとえば「ここで逆の面から問題を見直そう.」),
または
(b) その一文が何行かにわたるもので,前後のパラグラフから独立してまとまった内容をもっているとき
だけと考えたほうがいい.
複数個の文から成るパラグラフの長さには制限がない.欧米には,パラグラフの長さがいろいろに変化するのが〈いい文章〉の一つの条件だという考えの人もある.「標準的な長さは?」と無理に訊かれれば,私は「目安として200字.長くても400字以内」と答える.長すぎるパラグラフは人に読む気を失わせる.みじかすぎるパラグラフがつづくと,散漫な印象を与える.
パラグラフの連結
レポートの中のパラグラフの配列には必然的な流れがあるべきだ.パラグラフの最初につなぎのことばが書いてなくても,冒頭の中心文を読めば,これから書かれることと,今までに書いてあったこととの関連が自然にわかるのが本来である.
しかし,前にも述べたように,中心文をパラグラフの末尾や中間に置きたい場合があり,中心文がないほうがいい場合もたまにはある.そういうときには,パラグラフの頭に,先行するパラグラフとの関係を示す文または句を書くことを怠ってはいけない.読み手は,パラグラフが変わればトピックが変わることを期待する.こんどのパラグラフでは話題はどちらに向かうのか,それを示すのは執筆者のつとめである.
4. 6 すらすら読める文・文章
本節で書くのは,読みやすく,誤解のおそれのない文・文章を書くための,どちらかといえば微視的な心得である.文章の話も出てくるが,力点は文の書き方にある.
レポートは内容が生命なので,読めばすらすらと読み手の頭にはいるような,すなおな文・文章を書くことが望ましい.そういう文・文章を書くことを目標において,読みにくい文や文章―― 一括して難読文と呼ぶ――の読みにくさの要因を検討しよう.
難読文の中には,内容自体がむずかしいので考え考え読み解くほかないものもある.たとえば数学文にはそういう例がある.しかし,世の中の難読文の絶対多数は,中身が歯ごたえがあるからではなくて,書き方がよくないために読みにくいのだ.以下で問題にするのはそういう難読文である.
私の考えでは,そういう難読文に2種類ある.一つは文の構造,あるいは文章の組み立てに難点があるもの,もう一つはわかりにくい(あるいは読みにくい)語句が多いものである.機械でいえば,設計がわるい場合と部品がわるい場合とがあるのだ.
まず,文の構造がわるい場合から話をはじめよう.
4. 6. 1 文は短く
構造のわるい文と,それをどう直せばいいかということについては4. 6. 2節以下でいろいろのタイプを挙げて議論するが,それらについて一貫していえるのは,長すぎる文を書くと妙な構造になって読み手をなやます場合が多いということだ.このことからレポートの文――ひろくいえば一般に実用文――は
短く,短くと心がけて書くべきだ.
という経験則が生まれてくる.
ある人は一文平均50字が目標という.私も短く,短くと心がけてはいる.しかし,本質的な問題は文を頭から読み下してそのまま理解できるかどうかであって,読みかえさなくてもすらっと文意が通じるように書けてさえいれば,字数にこだわることはないと思う.試みにこの書物の何箇所かを調べてみたところ,ときどき一文100字を越す長文も出てくるが,平均は60字内外であった.
文を短く書くことばかりに気をとられると,接続詞がふえたり重複が多くなったりして,文章はかえって長くなりがちである.
4. 6. 2 逆茂木型の文
まず,次の例文を見ていただきたい.
@高校卒業後すぐにAK 市の T 自動車にB入社,C営業部門に配属されたDA は,EO 市の T 自動車にFこれも高卒直後にG入社してH経理を手つだい,I2年前,J一家の K 市転居にともなってKK 市の T 自動車にL転勤してきたMB とN知り合って,OやがてP結婚した.
読者は,Eでキツネにつままれ,I, Jでまた五里霧中の感を味わわれたことだろう.
この文は,図4. 1のように一本の樹(横倒しにして描いてある)に似た構造になっている.図で@,A,……と番号をつけた線のところに例文で@,A,……とした句をはめこめば,全文の構造―― 一つ一つの句が他の句とどういう関係にあるか――が一目でわかる.図は左から右に向かって読み進むように描いてあるものとご理解いただきたい.
図で見られるとおり,この文の幹《みき》は「DA は MB と N知り合って,OやがてP結婚した」という部分なのだが,A,B それぞれの頭に複雑な修飾節――大枝――がついているので,読んで行くときになかなか主役 A,B の姿が見えない.どこが文の幹なのかわからない.そこに読みにくさの主因があるのだ.もう一つ,Eの枝(O 市の T 自動車に)からはじまる修飾節と,Iの枝(2年前)からはじまる修飾節とが,共にそこまでに読んできたこととかけ離れた語句ではじまっていることが読者を迷わせる.読み手はここでキツネにつままれ,また五里霧中になるのである.
私は図のような構造の文を逆《さか》茂《も》木《ぎ》型《がた》の文と呼ぶ.ご承知と思うが逆茂木というのは,ヨロイ・カブトの時代に,敵が攻めこんでくるのを防ぐために樹を伐り倒して尖った枝を外に向けて並べてつくった障害物のことだ.
長い文はとかく逆茂木型になりやすい.これは
修飾節や修飾句は名詞の前に置く.
という日本語の構文規則と深く関係している.英語その他の欧語では,長い修飾節や修飾句は,関係代名詞(which,who,……)や分詞形を使って,名詞の後に置くことになっている.したがって,先の例文のように逆茂木型で主役の姿が見えてこないという例はまずない.
先の例文のような逆茂木型の難読文を書き直す要領は次のとおりである.
(a) その文を,いくつかの短い文から成る一つのパラグラフに書き直す.
(b) 原文で前置修飾節がついていた名詞――いまの例文では A さんと B さん――が,書き直し文ではそれぞれ一つの文の主語として登場するようにする.
(c) パラグラフの中の各文は,なるたけ前とのつながりを浮き立たせるように書きはじめる.
この方針にしたがって先の例文を書き直してみよう.
A と B とは職場結婚である.A は,高校卒業後すぐに K 市の T 自動車に入社し,営業部門に配属された. B は,これも高卒直後に, O 市の T 自動車に入社して経理を手つだっていた.ところが, B の一家は2年前に K 市に転居したので, B も K 市の T 自動車に転勤した.そこで二人は知り合い,やがて結婚した.
第1文は原文にはないものだが,パラグラフの中心文としてつけ加えた.これは重点先行(4. 2. 1節)の原理にもかなっていて,このパラグラフをわかりやすくしている.
実は,書き直す前の原文は,ある役所の調書から取ったものだ.役所の文書には,この例のように,長くて逆茂木型で,いっぺんにはとても読み下せない文が多い.いま示したような要領で,わかりやすく書き直してもらいたいものである.
書き直しの話を先にしてしまったが,ほんとうは「読みにくい逆茂木文を書かない」ための心得を先に書くべきだったかもしれない.それは,当然,(a),(b),(c) と似たものになる.
(a') 書きたい内容を短い文に分割して書く.
(b') やむをえず文が長くなるときも,長い前置修飾節は使わないように気をつける.ことに,修飾節の中の語にごちゃごちゃ修飾句をつけないようにする(前の図でいえば,大枝にはなるべく小枝をつけない).
(c') 文または節は,なるたけ前とのつながりを浮き立たせるように書きはじめる.
文が逆茂木型になりやすいのは修飾節前置型の日本語の宿命で,私たちは,ある程度の逆茂木文なら始終つき合わされて慣れっこになっている.たとえば
長い航海を終わって船体のペンキもところどころはげ落ちた船は,港外で,白波を蹴立てて近づく検疫のランチの到着を待っている.
という逆茂木文(大枝が2本)を,たいていの読者は格別の抵抗を感ぜずに読まれるだろう.
この文が逆茂木型なのにすらすら読めるのは,「長い……はげ落ちた」,「白波を……ランチの」の二つの修飾節を構成する語句が(「検疫の」だけを除けば)一筋の自然な流れに乗っているからである.前記(b')の言い方を借りれば「小枝が(ほとんど)ついていない」からだ.
つまり,逆茂木型の文はすべていけないわけではない.私自身は
逆茂木文を書かないようにしじゅう心がける.もし書いたものが逆茂木文になっていることに気付いたら,次のチェックによって書き直すべきかどうかをきめる.
という方針をとっている.チェックの方法は
しばらく時間がたってから,他人(読み手) になったつもりで読み直して,すらすら読めるかどうか判断する.
というものだ.もし読み手がとまどうおそれがあると思ったら,私は必ず書き直す.
【問題4. 4】 次の逆茂木文を,読みやすいように書き直せ.
最も特徴的なのは,第1楽章のはじめの音形が全楽章を通じて精巧に織りこまれている循環形式によって全曲が有機的に構成されていることである.
4. 6. 3 逆茂木型の文章
文・の話が先になったが,文章にも,逆茂木型で読み手を悩ますものがある.それぞれの文の書きだし方が唐突で,前の文とどうつながっているのかわからないので抵抗を感じる文章にはときどきお目にかかる.中には, 4. 6. 2 節の逆茂木型の例文(職場結婚の話) と同じように,文章の最後まで来て振り返らないと文章ぜんたいの筋がわからないものもある.筋――論理性――を尊ぶレポートや論文では,逆茂木型の文章は特にきらわれる.
レポート,論文の実例をあげると長くなるので,逆茂木型の文章の例としていちばんわかりやすいタイプについて,やや形式的な説明をしてみよう.取り上げるのは,
@私の調査によると○○○○という事実がある.AX 氏は△△△△ということを報告している.BY 氏は□□□□という観察をしている.Cこれらを考え合わせて,私は××××××と結論する.
というタイプだ.@,A,Bがそれぞれ一つの文である場合もあるし,それぞれがパラグラフである場合もある.いずれにしても,〈私〉の調査の内容〇〇〇〇,X氏の報告の内容△△△△,Y氏の観察の内容□□□□が別々で見かけ上あまり関係がないと,読み手はCが出てくるまでどこに連れて行かれるのかわからず,逆茂木にぶつかっている感を味わわされるのである(図4. 2のA).
これは,
私は××××××と考える.それには三つの根拠がある.第1に,私の調査によると〇〇〇〇.第2に,X氏の報告によれば△△△△.第3に,Y氏は□□□□という観察をしている.
という組み立ての文章にすれば(図4. 2のB),最初から全体のつながりがわかるのでずっと読みやすくなるはずだ.
英国の物理学者レゲットがこんなことを言っている.
日本語では,いくつかのことを書きならべるとき,一つ一つの文の内容や相互の関連が一つの段落を読み終わってはじめてわかる――ひどい場合には文章ぜんぶを読み終わってはじめてわかる――ような書き方をすることが許されているらしい.英語ではこれは許されない.一つ一つの文は,読み手がそこまでに読んだことだけによって理解できるように書かなければならない.また,一つの文とその前の文との関係が,読めば即座にわかるように書かなければならないのである.
レゲットは,理論物理の研究のために京大,東大に何度か滞在したことがあり,数カ国語(日本語をふくむ)の達人だ.彼は,日本の物理研究者が書いたたくさんの論文の英語に手を入れてくれて,その経験にもとづいて「科学英語の書き方についてのノート――日本の物理学者のために」というエッセイ(英文)を書いている40).上記の引用はこのエッセイからのものであり,また図4. 1も,実は,その中の図にならったものである(もとの彼の図は文章の構造の説明のためのものだが,私はこれを文の構造の説明に流用した).
レゲットが上記の引用で言っているのは,「英語では逆茂木型の文章を書くことは許されない」ということだが,私は,少なくともレポート,論文に関するかぎり,日本文に関しても彼の注意をそのまま生かすべきだと信じる.
文章の構造の問題は,そのまま講演の組み立ての問題でもある.国際学会の席上で,日本人研究者はよく,図4. 2のAに示した組み立ての講演をする.そういうとき欧米人の聴衆は「これらを考え合わせて,私は……」ということばが出てくるまで,逆茂木に直面したように途方に暮れた顔をして聞いている.彼らが聞きなれている話は図のB型なのである.
討論の場面で欧米人が
「はい,私もそう思います.(Yes, I agree.)」
とか
「いや,私はそうは思いません.(No, I don't think so.)」
とか,まず結論を言ってから理由の説明にかかるのに対して,日本人は,
「そうですね.しかし……ということもあるし,……ということもありますから,その考えは無理だと思います.」
というような根拠先行型――図4. 2 A――の応対をするのもこれと同質の問題である.
これらの違いは
日本人はまず根拠または理由を述べてからポイントにはいることを好む.欧米人はまずポイントになることを言ってから根拠あるいは理由を述べる習慣である.
と要約できる.どうしてそういうことになるのか.
4. 6. 2節で,私たちが逆茂木型の文を書きやすいのは,修飾句・修飾節前置型の日本文の構文規則のせいだと述べた.いま述べた「ポイント(結論)先行か,根拠先行か」ということにも,私は構文規則の影響が大きいと思う.多くの欧語は SVO 型 (主語・動詞・目的語-型)で,文の主部が文頭にある.したがって,文のポイントが真っ先に出てくる.これに反して日本語は SOV 型で,決定的な役割をもつ述語が最後にくる.その影響で,文章でも,日本人はポイントを最後に置くほうが書きやすいのだ――と私は考えるのである.
日本語の文章は,ポイントを最後に置くほうが書きやすいことは私も認めるけれども,それにもかかわらず,私は,レポートや論文の文章はポイント(結論)先行で(図4. 2Bの型で)書くべきだと信じる.この考えを理解していただくためには,次の引用が役立つかもしれない.
私は,1988年夏の LSP (language for specific purposes,特定の目的のための言語)に関する国際シンポジウムで,(略)こう述べた.
……言語というものは,他人に考えをつたえるための道具であるだけではなく,自分で考え,思案し,推理するための道具でもある.そして推理は,誰だって因・果の順で進めるのだ.日本語で話すときには,この順序のとおりに,まず理由を述べてから最後にポイント――結論――を述べる.日本語の一つの文の中の語順も同様で,いちばん大事な述語――決定的な役割をつとめる――は文の最後にくる.
したがって,私の考えでは,ものを考えたり推理したりするには,ヨーロッパ語より日本語のほうが向いている.(略)しかし,言語をコミュニケーションの道具として見る段になると……(私の考えは変わる).自分の考えをひとにつたえるためには,ヨーロッパ語の流儀でまずポイントを述べ,それから理由を述べるほうがよろしい.
帰ってから,ある米国人にこの話をして,意見をきいてみた.彼の反応は,私には意外なものだった.
「ぼくらだって,当然,理由を先に考える.結論はその後からだ.しかし,ぼくらは,ひとに話すときには結論から先に言うようにしっかり教育されているんだ.」
「ポイント(結論)先行か,根拠先行か」の話が長くなったが,逆茂木型の文章は,根拠先行の叙述方式のために生まれるものだけではない.いろいろのタイプがあるのだが,もう一つのタイプだけ例を挙げて説明して,この節を終わることにしよう.
それは次々の文の書き出しが薮から棒で読む人を戸惑わせる文章(4. 6. 3節冒頭)である.実例を示すために,私がパラグラフの展開部の書き方を説いた解説文41)の一部を引用しよう.それは
A さんは食べものの味に強い関心を持っている.おいしいものを食べ歩くことに興味があるし,自分が包丁を握ることにも熱心だ.買物に行った魚屋,肉屋,八百屋の店頭で,彼女の眼はらんらんと輝く.
というパラグラフを,中心文はそのままとして展開部を書き直せという演習に関するものであった.以下はその解説からの引用である.
実例として,「A さん」のパラグラフ(第1文が中心文)の展開部を別の材料を使って書きかえることを考えてみよう.何年か前に A さんが,祇園祭の宵に,賀茂川べりの料理屋の河原に張り出した床《ゆか》(露天の板張りの涼み場)で京料理にたんのうしたことがあったとする.この逸話は彼女が「味に強い関心を持っている」ことを説明する材料として活用できるだろう.しかし,
A さんは食べものの味に強い関心を持っている.京都には長い伝統を背負ったうまいものがある.五年前の夏, A さんは祇園祭を見に行った.……
という調子で書いたのでは駄目だ.中心文,第2文,第3文が離れすぎていて,その関係が読みとれず,読み手の関心をそそらないからである.余計な要素は切り捨て,中心文との関係を強調して,
A さんは食べものの味に強い関心を持っている.祇園祭の宵,賀茂川べりの料理屋の河原に張り出した床《ゆか》での彼女の食べっぷりを紹介しよう.……
と書きだせば,まとまった段落ができよう.
上の引用のなかで「駄目」と評した文章が,私が4. 6. 3節の冒頭で「それぞれの文の書きだし方が唐突で,前の文とどうつながっているのかわからない」と書いた逆茂木型の文章の典型なのである.
4. 6. 4 首尾一貫しない文
文の組み立てが首尾一貫しない文も,逆茂木型の文や文章と同じように,読み手に抵抗感を与える.それがどんなものかを説明するには例をあげるのが早道だろう.
例1 一層の充実が地域の声として聞かれる.
例2 ここで問題となるのは,交通が渋滞する朝夕には,駅までバスで1時間もかかる.
例文1は,「充実」を主語として書きはじめたのに,途中で書き手の念頭にある主語が変わってしまって「……聞かれる」とむすんである.「一層の充実が」を受けるのならば,「地域の声として要求されている」としないと首尾が合わない.「聞かれる」のほうを生かすのならば,主語を「声」に変えて「『一層の充実を』という地域の声が聞かれる」とでもしなければならない.この例のように途中で主語が入れ替わったために首尾一貫しない文をねじれた文という.
首尾一貫しない文は,ねじれた文とはかぎらない.たとえば例文2では,主部「問題となるのは」を受けることばが抜けている.最後に「ことである」を加えないと首尾が合わない.
首尾一貫していない文は意外に多い.大学生諸君のレポートでこちらの頭にはいる前に引っかかってしまう文の多くは首尾が合っていないのである.
長い文はとかく首尾一貫しないものになりやすい.次に示すのは, K 市の広報誌からとった例である. K 市は米国の D 市と姉妹都市で, D 市で「日本芸術祭」を開催し,そこに K 市民70人から成る使節団を送った.以下はその報告の第2パラグラフの冒頭だ.
外国の都市と姉妹都市,友好都市の縁組をしている都市は全国に数多くあるものの,行政サイドでの交流が主で,今回のような一般市民を中心とした親善使節は,本市にしても D 市にしても初めての試みだけに,全国の注目を受け,この成果は今後の親善交流のあり方までも問われる重要な訪問でもあったといえる.……
一文で142字の長文で,書き手が文をまとめる能力の限界を越えたものとみえる.「行政サイドでの交流が主で」という節は,どこにどう結びついているのか.「本市にしても D 市にしても初めて」ということが,どうしてこの使節団が全国の注目を受ける理由になるのか.「この成果は」という主部――かたちの上では全文の主部――に対して「重要な訪問でもあった」という述部は対応せず,全くねじれているではないか.「訪問でも」の「も」は何を意味するのか.――長すぎる文を書くと,とかくこういう始末になるのである.
短く切って,原文の筆者の意図を推量しながら筋を通してみると,次のようになる.
外国の都市と姉妹都市・友好都市の縁をむすんでいる都市は数多くあるが,多くは行政面のことで相手の都市と交流しているだけだ.今回のように一般市民中心の使節団を姉妹都市に派遣した例は珍しいので,全国から注目された.これは,本市にとっても D 市にとっても初めての試みだったことはいうまでもない.こんどの訪問の成果は,姉妹都市・友好都市間の今後の親善・交流のあり方をあらためて考えさせるほど,重要なものであったと言ってよかろう.……
いまの例の原文のように「首尾一貫しない」文を書かないための心得は次のとおりである.
(a) 内容を整理して,短い文に分割して書く.
(b) 一つ一つの文を,「主語は何か」を明瞭に意識して書く(必ずしも主語そのものを文中に書きこまなくてもよろしい.しかし書き手は,何を主語として書いているのかを常に念頭に置いていなければならない).
(c) 文を書くたびに,主部と述部との対応を確認する.
【問題4. 5】 次の文を,首尾一貫した文に書き直せ.
(1) アルミニウム製錬は,電力を大量に消費する工業の代表のようなものなので,新しい製錬法を開発する努力もしているが,電力の安い地域で製錬することも計画されている.
(2) 私は文化部に属しているので,大学祭は日ごろの部活動の成果を発表する大切な機会である.
4. 6. 5 まぎれのない文を
いく通りかに読めて,どちらの意味なのか迷うような文を書いてはいけない.私信や,ある種の文学作品ではわざとそういう文を書くこともあるが,レポートや論文は
理解できるように書くだけでなく,誤解できないように書かなければならない42)
のである.
以下いく通りかに読める文(多義文)の例をあげてみよう.
例1 黒い目のきれいな女の子(がいた).
これは,物理学者・今井功氏(筆名ロゲルギストT2)によると,8通りに読める43)(図4. 3参照).
a) 黒い目のきれいな女,の子(男?)
b) 黒い,目のきれいな女,の子(男?)
c) 黒い目の,きれいな女,の子(男?)
d) 黒い,目のきれいな女の,子(男?)
e) 黒い目の,きれいな女の,子(男?)
f) 黒い目のきれいな,女の子(女)
g) 黒い,目のきれいな,女の子(女)
h) 黒い目の,きれいな,女の子(女)
d と e とはいささか無理かもしれないが,ほかは確かにそうも読める.
この種の,修飾語(句)がつづくための多義性は,多くの場合に
(a) 修飾語(句)の順序を変える(原則として,修飾語(句)をそれが修飾すべきことばに密接させる),
(b) 適当にコンマ(たて書きならば読点、)を入れる
ことによって解決できる.
例2 この経験則は,木村が最初に注目した関係である.
この例文は二通りに読める.〈最初に〉の位置を変えてみてもはっきりしない.しかし,
(1) この経験則に最初に注目した研究者は木村である.
(2) 木村は,最初,この経験則に注目した.
のどちらかのかたちに書けば誤解のおそれがなくなる.実をいうと,この二つのかたちに到達するまでに,私は2,3回の書き直しを試みた.「誤解できないように」書くためには,何度でも文を組み立て直し,そのたびにまた疑いの目をもって読み直してみる執念が必要なのである.
例3 A さんと B さんは高校時代からの親友だ.
これは技術英語の専門家,平野進氏のつくった通信講座用の問題からの借用で,日本語では文中の主語を省くことが許されるために,次の二通りに読める.
(a) A さんと B さんとの間柄は,高校時代から親友の関係にある(A と B との関係).
(b) A さんと B さんとは,高校時代からの私の親友である(A と B との間柄は不問).
例4 は より5倍おおきい.
この文は=5 の意味か? =+5 の意味か?
例5 まだ,全員きていない.
「ひとりもきていない」のか,「きている人もあるが,全員はそろっていない」のか?
この種のあいまい文の例はまだ幾らでも挙げられる.
逆茂木型の文(4. 6. 2節),逆茂木型の文章(4. 6. 3節)や首尾一貫しない文(4. 6. 4節)については,それぞれそういう文や文章を書かないための心得を示してきた.しかし,一通りにしか読めない文,まぎれのない文を書くにはどうすればいいかということになると,残念ながら私は一般的な指針を持ち合わせない.
一つの文を書くたびに,読む人はこれをどうとるだろうかとあらゆる可能性を検討する
ほかないようだ.私はこの検討を,ものを書くときの責務として自身に課している.
いま「まぎれのない文を書くための指針を持ち合わせない」と書いたが,例5としてあげたような全称表現(全員,全部,みんな,すべて,……)を否定するかたちの多義文に関しては,ある程度,対策を示すことができる.例5は,全体否定〔注1〕すなわち
まだ,ひとりもきていない (1)
の意味にもとれるし,部分否定すなわち
きている人もあるが,まだ全員はそろっていない (2)
の意味にもとれる.この種のあいまいさを避けるための第1の心得は,
全体否定には,全称表現を否定するかたちの文は使わない
ことだ.上記の (1) はこのルールにのっとっている.「ひとりも」の代わりに「誰も」としてもよろしい:
まだ,誰もきていない. (1')
もし上記のルールを拡張して
全称表現を否定するかたちの文は,まぎらわしいから,いっさい使わない
ことにすれば問題は一挙に解消する.このためには,部分否定文 (2) の代わりにたとえば
きている人は一部だけだ. (2')
などと書くことになる.しかし多くの読者は,例5と (2') とは「つたえる雰囲気がちがいすぎる」と不満を感じられるだろう.
そこで私は,否定文のあいまいさ(二義性)を解消させるための第2の心得として,
全称表現を否定するかたちの文で部分否定をしたい場合には,それが部分否定であることを明示するようなことばを必ずつけ加える
ことを提唱したい.上記の (2) は,「部分否定であることを明示するようなことばをつけ加えた」例である.
全体否定と部分否定に関する議論が長くなったが,レポートや論文ではこのどちらかのタイプの文を書くことがしばしば必要になるので,あえて煩をいとわなかった.
「全体否定か部分否定かを簡単明瞭に書きわけることができないのは,日本語が非論理的だからだ」と言う人もあるが,これは日本語特有の問題ではない.たとえば英語でも,4.6.5節の脚注に書いてある簡単なルールにしたがって両者がきちんと区分されているとは言い切れないのである.
ご参考までに,全称表現を否定するかたちの文をどう受けとるかを,学習院初等科の5年生40名(男20,女20)について川嶋教諭がしらべた結果を表に示しておく44).
全体否定と部分否定の問題については,なお,数学者,細井 勉氏のくわしい議論45)を参照されたい.
4. 6. 6 文は能動態で
受け身(受動態)の文が目につくようになったのは,日本が欧米文化の洗礼を受けてからだろう.受け身濫用の例は,学者と呼ばれる人たちの書くものに特に多い.たとえば
これでエタノール〔注2〕が恒温性動物によって分解され,有効なエネルギー源であることは認められるが,それならば,次の問題が提起される.
「エタノールの化学エネルギーは如何に利用されるのか.」
こういう受け身の使いすぎは,欧語の影響だと思う.私が学生のころ英語の論文の書き方をならったときには,「客観的であるべき学術論文では,著者があらわに姿を見せることは好ましくない.I(私)という代名詞は絶対に使うな.受け身の文で書くのがいちばんよろしい」と教えられたものである.実は,近ごろは欧米の学者のあいだでも受け身文の追放運動がはじまっているのだが,欧文の堅い書物や論文にはまだ受け身の文が多い.おそらくその影響で,日本の学者には,日本語でも受け身で書きたがる人が多いのだろう.
しかし,日本語の文は,受動態で書くとひねくれて読みにくくなる.上記の例文は,次のように能動態で書けば,すらりと読みやすくなるのである.
これで,恒温性動物はエタノールを分解して有効なエネルギー源にしていることがわかる.そこで次の問題が出てくる.
「これらの動物はエタノールの化学エネルギーを何に使うのか.」〔注3〕
能動態で書くと,読みやすくなるばかりでなく,文が短くなることが多い.これには,日本語では必要のない場合には主語を書かないですむという事情も関係している.たとえば「……と思われる」,「……と考えられる」を単に「……と思う」,「……と考える」と書き直せば,多くの場合に,主体が〈私〉であることは明白なのである.
上に触れた欧米における受け身排撃の動きは,
受け身の文では「誰がそれをするのか(したのか)」がぼやけてしまう.主語を明示した能動態の文で,責任の所在を明らかにせよ.
という論拠に立っている.そこで思いだすのは1951年のこどもの日に制定された児童憲章の総則である.
児童は,人として尊ばれる.
児童は,社会の一員として重んじられる.
児童は,よい環境のなかで育てられる.
とあるが,これは,いったい誰にその責任があるとして書いたものか?
4. 6. 7 並記の方法
まず次の二つの文を見ていただきたい.
いずれにしても,肝腎なのは,どういう順序で書くかを思い定めてから書きはじめ,途中でその原則をおかさないこと;どうしてもその原則を守れなくなったら,いさぎよく原則を立て直して最初から書き直すことである.
私の考えでは,このことの根底には,日本語の構文規則は SOV 型(主語・目的語・動詞-型)で,決定的な役割を負う動詞が最後にくるのに対して,絶対多数の欧語は SVO 型(主語・動詞・目的語-型)の構文規則にしたがっていて文の主要部が先行するというちがいの,根深い影響があるのであろう.
4. 2. 3節および4. 2. 4節からの引用だが,前者は100字,後者は138字の長文で読みにくい.実はこれらは4. 2. 3節および4. 2. 4節では次のかたちで書いてあるのだ.
いずれにしても,肝腎なのは,
(a) どういう順序で書くかを思い定めてから書きはじめ,途中でその原則をおかさないこと;
(b) どうしてもその原則を守れなくなったら,いさぎよく原則を立て直して最初から書き直すこと
である.
私の考えでは,このことの根底には,
(a) 日本語の構文規則は SOV 型(主語・目的語・動詞-型)で,決定的な役割を負う動詞が最後にくる
のに対して,
(b) 絶対多数の欧語は SVO 型(主語・動詞・目的語-型)の構文規則にしたがっていて文の主要部が先行する
というちがいの,根深い影響があるのであろう.
ベタに書いたものよりもずっと読みやすく,また中身がくっきりと見えるだろう.条件その他をいくつか並べて書くときには,この例のように番号をつけて,読む人に「これと同じような内容がいくつか続きますよ」と予告するのが親切なやり方である.これは長い文をいくつかの短文に分割するのに似た効果をもち,しかも短文を並べるより字数が少なくてすむ手法だ.
上記の例では番号 (a),(b) ごとに改行してある.そのほうが読みやすいのだが,列記する内容が簡単な場合,あるいはスペースがかぎられている場合には,改行せずに続けてもよろしい.
文の構造(機械でいえば設計)の問題はこれぐらいにして,語句(機械でいえば部品)の話にはいろう.
4. 6. 8 漢語・漢字・辞書・その他
レポートや論文は内容で勝負すべきもので,文章はさらりとしていて読みやすいほどいい.そういう意味で,堅い漢語,むずかしい漢字,見なれないことば,などはできるだけ使わないようにすべきだ.たとえば「……することが不可欠である」,「当初の予測」,「……が可能である」,「可及的速やかに」などという言い方は避けて,「ぜひとも……する必要がある」,「はじめの予測」,「……ができる」,「できるだけ早く」としたい.「可及的」もその一例だが,「○○的」ということばはなるたけ使わないようにしたいものである.
「漢語やむずかしい漢字は使うな」というのは,常用漢字表にない漢字や音訓は使うなという意味ではない.この枠を越えないと適切な表現ができないことがある.そういうとき私はいろいろと言い方を変えてみるが,どうしても満足できなければ,あえて常用漢字の枠を越える.
何を漢字で書き,何をかなで書くかという問題に関連して,字面(じづら)の白さのことを述べておこう.これは,文・文章がすらすら読めるかどうかをきめる大切な要素と私が考えるものである.まず次の二つの文を見くらべていただきたい.
(a) 文章を機械に 譬えると,読み難い文章は,設計が悪い(文・文章の組立に難がある)場合と,部品が悪い(語句の選び方が良くない)場合とがある.
(b) 文章を機械にたとえると,読みにくい文章は,設計がわるい(文・文章の組み立てに難がある)場合と,部品がわるい(語句のえらび方がよくない)場合とがある.
パッと見たとき (a) は全体として黒っぽく,(b) はそれにくらべて白く感じられるだろう.〈字面の白さ〉というのはそういう意味だ.
私は,適当に白い文章を書くことが,現代の読者に抵抗感なく読んでもらうための条件だと思う.そういう考えに立って,私自身は原則として表4. 2のような書き方をする.「原則として」とことわるのは,かなばかりが続く文――白すぎる文――は読みにくいから,時には「ふたたび」を「再び」,「おぼえる」を「覚える」と書くこともあるという意味である.実はいま「かなばかりが続く文」と漢字〈続〉を使ったのもその1例だ(表4. 2参照).約言すれば私は,〈適当な白さ〉を目安としてその場,その場の記法をきめるのである.
漢語・漢字の話のついでに辞書のことに触れる.
読者は,「しじゅう文章を書く人は漢字もよく知っているだろうし,語彙も豊富にちがいない.だから辞書のやっかいになることは少ないだろう.」と思うかもしれない.この推測の前半は正しいが,後半は事実に反する.私の知るかぎり,作家と呼ばれる人たちの座右にはいつも何冊かの辞書があり,彼らは何かのたびに辞書のページを繰っている.
読者も,今日以後,レポート・論文はもちろん,およそ他人に見せる文章を書くときには必ず机上に辞書を置き,「この字はこれでいいのかな」,「このことば(漢語にかぎらない)はこういう意味に使ってもいいのかな」とチラとでも疑問を感じたら即座に辞書をひらく習慣をつけるべきだ.これは正に習慣の問題であって,いちどその習慣がつけば辞書を引くことは億《おつ》劫《くう》でなくなる.
私の手許に何種類かの国語辞典があるが,いちばんよく使うのは『学研国語大辞典』と『例解新国語辞典』46)である.前者は,ことばの意味を,単なる言いかえによって示すのでなく,内容的にちゃんと説明しよう〔注4〕と努力している点,また用例が多い点で比較的すぐれていると思う.後者は中学生用の辞典で,ものを書くときにはその意味で参考になる.
上記の2冊は私の,個人的な好みのはいった選択である.これから国語辞典を買おうとする人には,鈴木喬雄氏が自身で長年にわたって国語辞典を比較検討した結果をまとめた『診断・国語辞典』47)の一見を勧める.
ふつうの国語辞典のほかに,文章を書くときには,類語や反対語を集めたシソーラス(thesaurus)を手許に置いておきたい.「もっとピッタリとしたことば」をさがすとき,「似たことばの使い分け」を考えるときなどに役立つ.日本語では,今のところ,『類語国語辞典』48)がこの目的に使える唯一のシソーラスかと思う.
もう一つ,漢字の字画をたしかめるとき,送りがなのつけ方を調べるときなどに便利な辞典として『岩波現代用語辞典』49)の類を1冊そなえておくといい.『朝日新聞の用語の手びき』50)も参考になる点が多い.
専門用語については専門事典(3. 4. 3節)を参照されたい.本節の〔注4〕で英語辞典のことに触れたが,私自身の好みにかたよることを許していただいた上であえて1冊の英語辞典をあげるとすれば,ランダム・ハウスの辞書を推したい.この辞書は小百科事典としても役立つ.
4. 7 文章の評価
この章のおわりに,私の流儀の文章評価法を紹介しておこう.それは,文学的な文章もいちおう対象にふくめてはいるけれども,説明・論述文の評価に重点をおいたものである.
私が説明・論述文と呼ぶのは,報告の文章,説明の文章,自分の考えを述べる文章などだ.レポートの文章は,当然,このカテゴリーに属する.前述のように(2. 1節),英語ではこれらの文章を書くことを一括してエクスポジトリー・ライティングと呼び,それが教科の名称にもなっている.
私の考えでは,文章の評価は一次元的に扱うべきものではない.つまり,ある文章が,右端に名文,左端に悪文があるものさしのどのへんに位置するか――というような見方をするべきものではない.それでは,学校の成績という一つのものさしだけによって人の才能を評価するのと同じことになってしまう.文章も,人の才能も,多くの側面についてそれぞれに別のものさし,たとえばものさしA,ものさしB,……を当てて測るべきものであり,Aの面(たとえば明晰さ)ですぐれたものとBの面(たとえば優美さ)ですぐれたものとの間で優劣を論じてもはじまらないのである.
文章評価用のものさしとして,私は図4. 4のA〜Iをえらぶ.ある文章を評価するためには,A,B,……のそれぞれの面について10点満点の評点をつけ,それを,図4. 5に示したように,それぞれのものさしの上に点を打って記入する.ものさしの刻み方は,図4. 4のものさしAに記入してある0,5,10でわかるだろう.図4. 5はAが10点,Bが8点,……,FとGとIとが0点の場合で,記入した点を結んだ多辺形が示してある.
文章に対する評価をこういう多辺形――評価多辺形――で示そうというのが私の考えなのである.図4. 5は典型的なレポートの文章に対する評価の一例で,A〜Eに関する評点が高い.文学的な文章ならば,GやHの評点が高く,多辺形が円の下半分に張り出してくることになろう.
ものさしA〜Iについて説明を加える.
Aは,文章全体の要旨がすぐにつかめるように書いてあるか,ということだ.評価の基準は,「最初に要点を」という重点先行主義(4. 2. 1節)が守られているか,もし3. 6. 2節に述べたB型の構成のレポートであれば最初の〈概要〉にレポートの内容と結論とが簡潔にまとめてあるか,というようなことである.
Bの〈読みやすさ〉には,図4. 6に示したように,およそ三つの評価のポイントがある.パラグラフ構成(4. 5節)がしっかりしていて,どこに何が書いてあるかがすっきり見通せるほどよろしい;文は短いほうがいい(4. 6. 1節);また読み手に引っかかりを感じさせる堅い漢語やむずかしい漢字の類――障害物――は少ないほどいい(4. 6. 8節).この三つのポイントについての総合評点をものさしBに記入するのだ(図4. 5ではこれが8点).
ものさしC以下の評点の記入法も同様である.
Cは文章の簡潔さの評価を示すものさしだが,これについては二つのポイントがある(4. 4. 3節).「必要なことは洩れなく書き,必要でないことは一つも書かない」方針を貫いてあるか.また,文章を十分に切りつめてあるか.
Dでとりあげた文章の〈明晰さ〉には多くの大切な要素がある.まず,事実と意見がはっきり書き分けてあるか;意見・主張は具体的・特定的な事実の記述によって裏づけてあるか(2. 3節).文は,途中で主語が変わってねじれたり,あるべきことばが抜けたりせず,首尾一貫しているか(4. 6. 4節).いく通りかの意味にとれて読み手を迷わす文はないか(4. 6. 5節).文と文との論理的なつながりがはっきりしているか(4. 4. 1節).
Eの〈明言の度合〉でとりあげるのは,事実の記述にせよ,自分自身の意見にせよ,どれだけ明確に,ズバリと書いてあるか(4. 4. 2節)という点についての評価である.
Fの〈礼儀正しさ〉は,尊敬語・謙譲語表現や,読み手の心理を顧慮した遠まわしな表現などにどれだけ意を用いてあるか――ということだ.これはレポートには無用の要素だが,説明・論述文でも相手に直接に呼びかけるかたちのもの(たとえば手紙)を書くときには無視できないことになる.
Gにいう〈暗示性〉は,その文章が言外にどれだけの示唆をふくんでいるか,どれほど連想をかき立てるか,というようなこと.これは文学的な文章には必須だが,レポートの文章では心して排除すべき要素だ.後者では,すべてを明示することをこそ心がけるべきである.
Hとしてとりあげた文章の〈訴える力〉は,一つには内容と表現がどれほど読み手の心の共鳴をさそうかによってきまる.もう一つの要素は意外性であろう.予期せぬ場面で,また予期せぬ角度から照明を当てられると,読み手の心がゆすぶられるのだ.
Iで文章の〈音楽性〉と言ったのは耳慣れぬ言い方かもしれない.しかし,テンポ,リズムは文学的な文章の評価の一つの要素として多くの人が認めるものだろう.文章のメロディーというのは通じないかもしれないが,たとえば宮沢賢治の文章を読むと,私の耳にはさまざまなメロディーが高く鳴り,低く響くのである.
以上で,わたくし流の〈評価多辺形〉方式はご理解いただけたかと思う.図4. 5を説明する場合にも触れたが,レポートの文章はA,B,C,D,Eの評点が高く,Gの評点がゼロであるべきである.F,H,Iの評点も,ゼロであってさしつかえない.
ここにあげたものさしA,B,……,Iのえらび方は私の流儀のものだ.読者がそれぞれに,自分の好みに応じてものさしをえらんでみられるのも一興であろう.
5 執筆メモ
この章にしるすのはレポートを実際に紙の上に書いていくときの心得――どちらかというと技術的なメモ――だが,やや異質的なものとして,仕上げの際の読み直しの話が加わる(5. 4節).
以下の記述では,書いたレポートが印刷される場合のことを念頭におく.小文字の部分は印刷用原稿に関する事項と受けとっていただきたい.
5. 1 原稿の書き方
本節で〈書く〉というのは,文をつくり文章にまとめる作業ではなく,文章を紙の上にしるすことを意味する.レポートもワープロで書くことが多くなっている.また手書きの場合には,横ケイのいわゆるレポート用紙に書く場合が多いだろう.それにもかかわらず,本節では原稿用紙に手書きする場合の心得を述べる.それがわかれば,ほかの場合は,「これに準ずる」としてさしつかえないからである.
5. 1. 1 原稿用紙の使い方
パラグラフがかわるときには改行し,行のアタマのマス目を一つあけて書きはじめること;コンマ,ピリオド〔注1〕やカッコその他の記号には原則として一マスずつをあてること,などは常識だろう.これらの記号がつづく場合にも一つに一マスずつをあてるべきだろうか? 確立された規則はないが,私自身は次の学習院初等科方式51)にしたがうことにしている.
(a) ピリオドと,とじるカッコすなわち)や」などがつづく場合には,つづく順序にはかかわらず,その二つを一マスに入れる.
(b) コンマ,ピリオド,とじるカッコが行のアタマにくる場合には,前の行の最後のマスにつめて入れてしまう(したがって,行末の一マスにのように合計三つを入れる場合も起こりうる).
(c) はじめのカッコが行末にくる場合には,カッコにはいる最初の字を,のように同じマスにつめて入れてしまう.
これらに関連して,次の規則も書いておこう.
(d) ダッシ(――),リーダー(……)などは2字ぶんとみなして二マスに書く.
印刷用の原稿で,上記の (b) にしたがって,行末のマスに他の文字や記号といっしょにコンマ,ピリオドをつめこむ場合には,私はコンマ,ピリオドに「入れよ」の記号()をかぶせて注意をうながすことにしている.こういう場合に印刷面では,行末にちょっとはみ出したかたちで――ブラサゲて――コンマやピリオドを入れたり,その行の字間にアキをつくって行末の字を次の行のアタマに送ったりすることになる.
レポートでは,文中にアラビア数字(1,2,……)やローマ字綴りのことばを入れる場合がある.ローマ字綴りのことばは,そのことばの前後に1/2角《かく》(1/2マス)ずつあけて,活字体で書くのがたてまえである(ただし a は ,g は でよろしい).大文字には1角をあて,小文字は1角に2字いれて書くのが標準とされている.ローマ字綴りのことばが文頭にくるときには,
Information というのは……
のように,大文字で書きはじめる.ローマ字綴りのことばが行末にきて,ことばの途中で切れるときには,切ることが許されている場所(どこで切っていいかわからなければ辞書を見よ)でハイフンを入れて切る.元来ハイフンを入れるべき場所がたまたま行末にきた場合(たとえば man=made の n で切れるとき)には,二重のハイフン( = )を入れて切ってそのことを示す.アラビア数字の書き方は,ローマ字の小文字に準じて,1角に2字入れるのが標準である.
5. 1. 2 区切り記号
文章や文の中の区切り記号のうち,コンマ(縦書きならば読《とう》点《てん》、),ピリオド(縦書きの文書または横書きの公用文書では句《く》点《てん》。)以外のものについて略説しておく.
セミコロン(;)はもともと日本文にはない記号だが,横書きのレポートの中では便利に使える.これは一口にいえばコンマの親玉で,コンマより強く,ピリオドよりは弱く区切りをつけたいときに使う.本書ではしばしばこれを使っている(例:1.2節,4.4.1節).
コロン(:)も,もともと日本語にはないが便利な記号だ.コンマより強く,セミコロンよりは弱い区切り記号で,それにつづいて書くことがそこまでに書いたことの詳細,あるいは説明,あるいは要約であることを示す(たとえば3.2節,4.6.5節),一口にいえば〈すなわち〉だと思ってよかろう.例を示すのにも使われる(たとえば4.4.3節).
なかぐろあるいはなかてん(・)は,「図・表の使い方」,あるいは「絶句は起・承・転・結の四つの句から成る」というように,並列,並列連結をあらわす記号である.このほかに,欧語をカナ書きする場合に語の切れ目をあらわすのに流用される.例:トピック・センテンス.また,チェック・イン,チェック・アウトのようにハイフンの代わりに使われることもある.
ダッシ(――)は,形式ばらない場合にカッコ(後出)やコロンの代わりに使われる.私は本書のなかでこれをたくさん使っている.その理由の一つは,きちっとした文にすると複雑な構造になり,読みにくくなるものが,ダッシを使うと比較的スラリと読めるようになるからである.たとえば
そういう文・文章を書くことを目標において,読みにくい文や文章――一括して難読文と呼ぶ――の読みにくさの要因を検討しよう.
(4. 6 節)
などは,きちっと書こうとするとかなり面倒なことになる.これは,日本語には欧文の関係代名詞に相当するものがないことと関連している.
ダッシは,上の例のように挿入節(句,語)を両側からはさんで使うのが本来である.しかし私は,次のような変則的な使い方をすることがある.
その影響で,文章でも,日本人はポイントを最後に置くほうが書きやすいのだ――と私は考える.(4. 6. 3節)
この文はダッシをとってしまっても(あるいはダッシをコンマでおきかえても)読める;しかし,ダッシで一息いれてそこまでの文をまとめてから「と私は……」と受けるほうが読みやすくなる――と私は思うのである.こういうダッシを私は〈総括のダッシ〉と名づけている.
リーダー(……)は「以下おなじようなものが続くが省略する」,あるいは単に「以下省略」をあらわす記号である.
カッコの類にはいろいろあるが,ふつうに使うのは
丸カッコあるいはパーレン〔注2〕( ),角カッコあるいはブラケット[ ],ブレース{ },カギカッコ「 」,二重カギカッコ『 』,山カッコあるいはギュメ〔注3〕〈 〉
ぐらいだろう.
会話の文をカギカッコではさむのは常識である.このほかにカギカッコは,他の文章または文からの引用に使う(3. 5. 2節).また,ある一つの考え,観念をはっきり浮き立たせて書くのに使うこともある.4. 3. 1節で
「事実に語らせる」には,無数の関連事実のなかから表現の核となるべき事実をえらびだして,するどい照明を当てなければならない.
と書いたのはその一例である.
二重カギカッコは,『ことば――言語技術2――』のように書名を引用するときに使う.またカギカッコの中にさらにカギカッコを入れたいとき,後者を二重カギカッコにするという使い方もある.
ギュメは,あまりひろく用いられているわけではないが,私は
(a) いわゆる……と言いたいとき,
(b) ことばを特別な用法で使うとき,
(c) そのことばに特に注意を惹きたいとき
に使うのに適していると思う.おのおのの用例を示せば
日本の小学校の課程で「書くこと」を教える〈作文〉とはまったく趣がちがう……(2. 1節)
〈字面の白さ〉というのはそういう意味だ.(4. 6. 8節)
「こうなるはず」という推理がなくて,何を基準にきみの〈手〉は実験条件を設定するのか.また,自然がきみの眼前に展開する劇の中から,きみの〈眼〉はいったい何を見ぬこうとするのか!?(3. 1節)
表5.2 写植文字の大きさ
--------------------------------------------------------------------------------
14級
シェークスピア(W. Shakespeare)は,1564年,この町の富裕な皮革商の長男
13級
シェークスピア(W. Shakespeare)は,1564年,この町の富裕な皮革商の長男と
12級
シェークスピア(W. Shakespeare)は,1564年,この町の富裕な皮革商の長男として生ま
10級
シェークスピア(W. Shakespeare)は,1564年,この町の富裕な皮革商の長男として生まれた. 町のグラ
--------------------------------------------------------------------------------
表5.3 活字の大きさ
--------------------------------------------------------------------------------
10ポイント
シェークスピア(W. Shakespeare)は,1564年,この町の富裕な皮革商の長男
9ポイント
シェークスピア(W. Shakespeare)は,1564年,この町の富裕な皮革商の長男と
8ポイント
シェークスピア(W. Shakespeare)は,1564年,この町の富裕な皮革商の長男として生ま
7ポイント
シェークスピア(W. Shakespeare)は,1564年,この町の富裕な皮革商の長男として生まれた. 町のグラ
--------------------------------------------------------------------------------
5. 1. 3 文字の大きさ・字体・その他
最近は印刷に写植文字を使うことが多い.本書の本文では,12級の写植文字を1行に26字詰めにし,1ページに25行ずつ入れてある.写植文字のサイズは,1辺0.25mm を1級(Q とも書く)としてあらわす.表5. 2に写植文字の大きさを示す.旧来の活版印刷用の活字は,表5. 3に示したサイズである(日本では,活字の1辺1/72in(インチ)=0.35mm を1ポイント(P)とする).
印刷面における見出し,注そのほかの字の大きさを自分で指定しようとする場合には,表5. 2または5. 3を参考にして,表5. 4にならって原稿に(赤で)指定を書きこむ.
太い写植文字または活字には,おおざっぱに言って,ボールド()とゴチック(ゴチック)の二通りの字体がある.ふつうは,太字の指定――表5. 4のように,太くすべき字の下に赤の波線を引く――をすればボールドで印刷される.特にゴチックにしたければ,ゴチと赤で付記する必要がある.
アルファベットには,上記の2種類の太い字のほかに斜体(イタリック,)の字がある.これは,原稿の字の下に赤で直線を引いて指定する(表5. 4).「ふつうの立体(ロマン,roman)の字で印刷せよ」と明示したい場合には,字の上に赤で記号 をかぶせる.ギリシャ文字は肩に赤でギと書いて注意する.
欧語で書名をしるすときには斜体の字を使う約束である(5. 2節参照).「この距離を kmとすれば」という場合の のように量をあらわす文字も斜体で書く. kmという例のように,単位をあらわすローマ字は立体にし,その前を1角か1/2角あける約束である.例:300 km,55 DM(ドイツマルク).
この節の最後に,字体とは異質だけれども,傍点( )のことに触れておきたい.アルファベットには斜体(イタリック)があり,立体(ロマン)で組んだ文章のなかで,あることば,またはある文に注意を惹こうとするときに便利に使える.日本の活字や写植文字にはこれに相当するものがない.太字(ボールドまたはゴチック)はあるが,文章の中に組みこむと目立ちすぎて美観を損ずる.そこで,日本文の中で斜体の役目を演ずるものとして,傍点をつける記法が登場するのだ――と私は考えている.
5. 2 出典の示し方
引用の仕方については3. 5. 2節で述べたが,そこでは出典の示し方――それはどの文献からの引用であるかを示す方法――には触れなかった.一つ一つの引用についてその出所を明記することはレポート作成者の義務である.そのやり方はおよそ二つに大別できる.
(a) 番号方式:「田中3)によれば……」,または「田中〔3〕によれば……」というように,そのレポートで引用する文献に引用順に番号をつけ,レポートの最後(長いレポートでは各章末)に番号順に各文献の書誌要素(表5. 5参照)をしるす.同じ文献を何回も引用する場合には,いつも初出のときと同じ引用番号を使う.
(b) ハーヴァード方式:「田中(1980)によれば……」というように著者名と発表の年をしるし〔注1〕,レポートの最後(長いレポートでは各章末)に,第1著者の姓の ABC 順またはアイウエオ順に,各文献の書誌要素をならべる.
複数の著者による文献を引用するときには,本文中では,初出のときにはなるたけ全著者の姓をならべるが,2回目以降は「田中ら4)」のように書くのが通例である.ただし,後記のように,レポートの最後(長いレポートでは各章末)にのせる文献表では,必ず全著者名をならべる.
次の例のように一つの引用のなかに二つ以上の出典をあげることは好ましくない.
71) 上田良二:「論文を書くにあたっての心構え」,日本物理学会会誌 16(1961)345;『Journal の論文をよくするために』増訂版(日本物理学会,1975),p. 127.
コンピューター処理をするときに困るからである.今の例ならば文献71と文献72とに分けて書くのが現代的だ.
本書の巻末の文献表は,この点に関しては模範的でない.
書誌要素というのは表5. 5に示したものである(この表には,雑誌の記事,または図書の一部を引用するときのことだけが書いてある.その他の場合については文献52参照).
著者が複数の場合,書誌要素としては必ず全員を記載しなければならない.もとの文献が和文ならば漢字で姓・名を書き,欧文ならばローマ字で,名は頭文字だけをしるす.日本人著者の書いた欧文を引用する場合には,著者の姓名は,著者自身が用いているローマ字綴りをしらべてそれにしたがうのが筋である.
雑誌名は,和文誌は原則として省略をせずに正式名称を書く.欧文誌名は国際規格にしたがって略記する.これにもとづいた日本規格は文献52にある.欧文書名は斜体(イタリック)で示す.
出典の書誌要素の示し方にはいろいろのスタイルがある.理工系の論文や著書の中の引用では,スペース節約のために引用文献の題名(雑誌論文の場合には表題,著書からの引用の場合には章名)を省くのがふつうだが,レポートでは省かないほうがいい.次に示すのはレポート用のいろいろの引用形式の見本である.
雑誌記事の引用形式の例:
5) 福井直樹:「生成文法の目標と方法」,言語17(1988)No. 11,36.
12) 門脇厚司「若者の男女観に見られる“新男類”の予兆」,学遊3巻(1989)5号,44ページ.
中澤よしお(1986)「戦友会 40年の残照」,中央公論,1986年9月号.
太字の数字は巻をあらわす慣例(第1例の17).最後の数字はページをあらわす.通巻ページを打ってある雑誌では,号を省略して通巻ページを示すことが多い.
図書からの引用形式の例:
15) 司馬遼太郎:「天山の麓の緑のなかで」,シルクロード第6巻『民族の十字路 イリ・カシュガル』,(日本放送協会,1981),p. 9.
29) カール・シュミット(川北洋太郎訳):『憲法の番人』(第一法規,1989),p. 34.
30) 大塚久雄:『社会科学の方法』,(岩波新書,1966),p. 102.
このほかに,本書の巻末の文献表が参考になろう.たとえばその中の文献35は,新聞記事の引用の仕方の例である.
最後に,レポートを定期刊行物(たとえば雑誌)の類に投稿するときには,その刊行物の規定,慣習に合わせて書誌事項をしるした文献表を準備しなければならないことを注意しておく.
5. 3 表と図
表と図は,レポートの中で,しばしば重要な役割を演ずる.
ふつうのレポート(たとえば大学生の研究レポート)では,表や図は本文中に書きこむか貼りこむかする.レポートが印刷される場合には,一つの表,一つの図ごとに別紙に書き(すべて原稿用紙と同じサイズであることが望ましい),本文中にそれぞれの挿入位置を明示する.
表と図(写真をふくむ)には必ず番号をつける.レポートの種類によっては,読み手はしばしば表や図に最初に着目する――それだけしか見ない読み手もある――ので,表や図には,番号につづいて必ず説明(キャプション,caption)を書く.説明は,原則として本文を読まないでもその表や図の中身を理解できるように,きちんと書かなければならない.表では表の上に,図では図の下に説明をつけるのが原則である.
印刷用の図や写真の原稿のつくり方については,私が別に書いたもの53)を参照されたい.
5. 4 読み直し 修正
レポートをいちおう書き終わったら,清書にかかる前に,丹念に読み返して手を入れなければならない.特に留意すべき点は次のとおりである.
(a) 事実として書いてあることには客観性があるか.データはどれぐらい確実か.
(b) 意見――考え――として書いてあることは,誰の意見かはっきりわかるように書いてあるか.
(c) 各パラグラフに中心文があるか.パラグラフは中心文を展開したものになっているか.
(d) 文のならび方は論理的な流れに乗っているか.文のつなぎ方が唐突で読み手に抵抗を感じさせるところはないか.
(e) いちど読み下しても理解できず,読み返してはじめてわかるような逆茂木型の文はないか.
(f) ひとり合点で説明を省いたために読み手をまどわせるところはないか.
ワープロを使って原稿を書く場合には,大幅の修正・書きこみも容易にできる.しかし,不用意に修正すると,思い直してもとのかたちに戻ろうとしても戻れなくなるので注意.手書きの場合にはその危険は少ないが,修正・書きこみが重なると読みにくくなる.そうなったら思い切って書き直すほうがいい.書き直してみると,ゴチャゴチャの修正稿では見えなかったアラが見えてくる.また,書き直しながら反芻しているうちに,「ここは別の意味にとられるかもしれない」と気づいたり,「ああ,これならピッタリ」という表現に行きついたりするものである.
表5. 6に示したのは,元来,印刷物の校正用の記号だが,手書き原稿の修正にも便利に流用できる.
重要なレポートの原稿は,提出前に,いちど他人に読んでもらって,意味のとりにくいところ,そのほか改良を要するところの指摘を受けることを勧める.傍《おか》目《め》八《はち》目《もく》ということばがあるが,自分では何気なく書いたことがひとりよがりだったことを思い知らされたり,思いもよらぬ受けとり方をされてギョッとしたりして,必ず得るところがある.読んでもらうのは,レポートの内容を大体は理解できる人,しかし詳しくは知らない人がいい.もしその人が文章に関心のある人なら,理想的である.
読んでもらう人がみつからないときには,原稿をしばらく(できるだけ長い期間)寝かせておいてから自分で読み返す.忘却が目を新鮮にし,アラがよく見えるようにしてくれる.
脚注一覧
1 レポートの役割
1.1 レポートとは
〔注1〕 感想もひろい意味での意見の一種だが(第2章参照),「美しい」とか「おもしろい」とかいう感想は根拠を挙げて当否を検討することのできない性質のものである.
1.2 大学生のレポート
〔注1〕 〈事実〉には文献からの引用をふくむ.第2章参照.
〔注2〕 ここに紹介してあるコロラド大学式の(?)主題文の書き方は,私の勧める方針とは少しちがう.私の方針については3. 3節参照.
1.3 社会人のレポート
〔注1〕 逆にいえば故障率.
2 事実と意見の区別
2.1 事実と意見――言語技術教育との出会い
〔注1〕 自分の国のことばを教える科目を〈国語〉と呼ぶのは日本だけらしい;英米では English,仏では Fran・/font>ais,独では Deutsch,……という科目名である.これは自国語を世界の諸言語の中の一つとして教えようとする姿勢を示すもの――と私は受けとっている.
〔注2〕 米国では小学校用の言語技術の教科書が何種類か発行されており,私が見たのはその一つにすぎない.
〔注3〕 現代語としてのレトリックは,言語によって情報や意見を明快に,効果的に,表現・伝達するための方法論を意味する.
2.2 事実とは何か 意見とは何か
〔注1〕 本節の内容は文献10の第2章(本書の著者が執筆)と重複するところがある.
〔注2〕 その判定の確実さにいろいろの程度があるのは,ことに人間の関与する事件の記述の場合,やむをえない.
〔注3〕 事実は,ことばによる記述の対象にはできるが,元来ことばの世界の外のものである.これに対して考えは,ことばによって組み立てられるもの,ことばの世界の中にあるといってもいいものだ.〈事実の記述〉と書いた一方で〈意見〉と書くのは,この事情の反映である.
3 ペンを執る前に
3.1 レポート作成の手順
〔注1〕 1.2節参照.
〔注2〕 正式名称は「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」.
〔注3〕 研究を進める目的で,かりにあることを仮定して推論を進め,あるいは実験を試みて,仮定の当否を検討することがおこなわれる.その仮定を作業仮説(working hypothesis)という.〈仮説〉ということばについては2.2節参照.
〔注4〕 この書物では,話題,主題という語を,学習院言語技術の会で定めた定義にしたがって使う.『理科系の作文技術(1981)』の中では,私は〈主題〉という語を,むしろこの書物でいう〈話題〉に近い意味で使っている.
〔注5〕 この書物では文(sentence)と,文をならべてつくる文章と,二つのことばを区別して使う.
3.2 主題をきめる
〔注1〕 新聞のバックナンバーに眼を通すには図書館が便利だ.3. 4. 3節参照.
〔注2〕 多くの場合には,この段階で資料に軽く当たってみる必要があろう(次の〔注3〕参照を見よ).
〔注3〕 この課題に関しては,これが「資料に軽く当たってみる」(前の〔注2〕参照)ことに相当する.
3.3 目標規定文(主題文)
3.4 材料を集める
〔注1〕 何人かの人に同じ質問をして回答を求めること.仏語 enqu・/font>te に由来する.
〔注2〕 近代的な統計学.数理統計学ともいう.
〔注3〕 私は,文科系の人のための統計学入門書――数学的な厳密さに拘泥せず,ごく限られた数の式,多くの図と,豊富な実例によって考え方の基礎を教える書物――があるべきだと思うが,なかなかみつからない.文献18は,ややこれに近いかなと思う1冊である.
〔注4〕 文献探索法についての一般的解説書として,文献19をあげておく.
〔注5〕 男女雇用機会均等法案(労働省作成,1984年5月)は第7巻1074ページの「深夜業」の説明文中に引用されている.
〔注6〕 3.2節参照.
〔注7〕 平凡社百科大事典では独立項目と呼んでいる.
〔注8〕 この図は学習院大学図書館事務長佐野眞氏提供の資料によるところが多い.記して感謝の意を表する.
〔注9〕 図書館で図書の整理・保管などの専門業務に当たる職員.
3.5 いろいろの制約
〔注1〕 いまの日本では,単に「原稿用紙何枚」といえば,400字詰めを意味することになっている.
〔注2〕 3. 4節参照.
〔注3〕 (),()に関しては2.2節の再読を勧める.
〔注4〕 本文は写植12級,引用文は11級(5.1節表5. 2を見よ).
〔注5〕 著作権者とは,著作権(=著作財産権,copyright)をもっている個人または法人.著作権というのは,著作物を複製,翻訳,映画化し,あるいは放送,興行等に使用する経済上の排他的権利のことで,著作と同時に著作者にこの権利が生まれるが,これは他人に譲渡することができる.公刊に際して出版者に譲渡される例が多い.
広義の著作権には,このほかに,著作人格権がふくまれる.これは著作者その人に専属して移転性のない権利であって,この権利の故に,著作者にことわらずに著作者の氏名・称号を改変したり,著作物の内容や表現を変更したりすることは何人にも許されないのである.
3.6 レポートの構成
〔注1〕 4.2.1節参照.
〔注2〕 文献に記載してある他人の意見の引用は事実の記述のカテゴリーに属するから(2.2節),本論に書きこんでよろしい.
〔注3〕 はじめに概要を書くと,概要に書いてあることがレポートの本体の中にないという失態を演じる危険がある.
〔注4〕 後述の〈論議〉の節の内容は,ふつう,概要には書かない.
〔注5〕 手許の何冊かの国語辞典に当たってみたが,大部分は上記の『広辞苑』に近い古風な釈義を与えている.例外は,〈修辞〉に「ことばをえらび,使いかたをくふうして,表現を効果的にすること.またその技術.レトリック」という釈義を与えている『例解国語辞典』(三省堂,1984)である.
〔注6〕 この文でハインヅが言いたいのは,「だから,こういう日本的スタイルで書いた文章をそのまま英語に移しても,英文として筋の通ったものにはならない」ということであろう.
〔注7〕 「概要」は一つの節とみなすべきでないから節番号はつけない.
4 レポートの文章
4.1 読み手の立場になってみる
〔注1〕 テクニカル・ライティングというのは,元来,科学・技術情報を明快につたえる文書を書くことだが,今日ではテクニカル・ライターといえばマニュアル書きの専門家を意味することが多い.
〔注2〕 プロトコル(protocol)に相当する日本語をみつけるのはむずかしい.ランダム・ハウスの英語辞書32)の “protocol” の項に,第6義として,「見たままを正確に,手心を加えずに述べたもの」とあるのが,ここでいうプロトコルの意味である.
〔注3〕 硬蛋白質の一種で,結締組織の主成分.
4.2 叙述の順序
〔注1〕 説明・論述文とのちがいについては4.2.4節参照.
〔注2〕 近頃のカメラは電池を入れないと動かないものが多い.その場合には,当然,最初に電池を入れる(フィルムは入れない)ように指示することになる.
4.3 事実の記述・意見の記述
4.4 レポートの文章は明快・明確・簡潔に書け
〔注1〕 科学と技術とは別ものなので,私は科学技術という書き方を好まない.
〔注2〕 この場合には私は,日本的言語習慣に染まった日本人としてではなく科学者として,「友人」氏に賛成する.病気の初めと終わりは画然としたものではないからである.
〔注3〕 もっと詳しい議論は別のところ37) で述べた.
4.5 パラグラフ――説明・論述文の構成単位
〔注1〕 昔の文章には段落はなかった.欧語の文章も古い時代にはそうだったらしいが,たぶん18世紀ごろまでにパラグラフの概念が確立され,パラグラフごとに改行してアタマを1〜3字さげる記法がおこなわれるようになった.日本文の「行変え,1字さげ」の記法はそれを輸入したものである.
〔注2〕 小説,随筆その他の文芸作品は話が別である.またレポートや論文でも中心文の必要がない――慣習として中心文を省く――場合もある.一つの例は〈概要〉または〈著者抄録〉で,これは通例,全文を一つのパラグラフに書き,スペース節約のため中心文は書かない.また,序論のなかで主題に関する従来の研究を一つのパラグラフにまとめて紹介するときにも,中心文を省くことが多い.
4.6 すらすら読める文・文章
〔注1〕 読者はたぶん,英語の授業で
(a) Not と all との組み合わせは部分否定をあらわし[All students have not come yet.],
(b) Not と a または any との組み合わせ――名詞の前に置く形容詞としては no のかたちになる――は全体否定をあらわす[No (=Not a) student has come yet.]
と習ったのをおぼえておられるだろう.(1)や次のページの(1')は not a,not any に相当する言い方である.
〔注2〕 エチル・アルコール.
〔注3〕 原文の「如何に利用されるのか」の〈如何に〉はどういう意味かはっきりしないが,先を読むと〈如何なる用途に〉の意味であることがわかる.
〔注4〕 国語辞典の解義は単なる言いかえにすぎないものが多く,外国の辞典――たとえば英語辞典(いわゆる英々の辞典)――にくらべてひどく見劣りがする.このことは,たとえば「あるく」を大型の国語辞典で引き,‘walk’を大型の英語辞典で引いてみればすぐわかる.この点で学研は比較的すぐれている――と私にはみえるのである.
4.7 文章の評価
5 執筆メモ
5.1 原稿の書き方
〔注1〕 横書きの公用文書ではコンマと句点 。 を使うことになっている.理工系の学術雑誌などではコンマとピリオドを使っている例が多い.その他の区切り記号の使い分けについては,5. 1. 2節参照.
〔注2〕 印刷用語.英語 parenthesis に由来する.
〔注3〕 同上.フランス文の引用符《 》(guillemet)に由来する呼び名.数学の記号としては〈 〉は平均値を意味する.
5.2 出典の示し方
〔注1〕 同じ著者が同じ年に発表したいくつかの文献を引用するときには,1980a,1980b,……のようにする.
5.3 表と図
5.4 読み直し
文献
1) 『学研国語大辞典』(学習研究社,1978).
2) 木下是雄:『理科系の作文技術』(中公新書,1981).
3) 文献8の14章「アメリカ便り その2――レポートの書き方を習う――」,p. 102.
4) 文献2,p. 38.
5) H. Th. Filmer, G. E. Coon, A. Leffcourt, B. B. Cramer and N. C. Thompson (Levels A〜F), J. Martin and D. C. Olson (Levels G & H) : Patterns of Language (American Book Co., New York, 1977). Level A は1年生,H は8年生(日本なら中2)用.
6) 学習院言語技術の会編『ことばの本1――わかりやすい言い方・書き方――』(学習院,1980,1982改訂).
7) 学習院言語技術の会編『ことばの本2――わかりやすい言い方・書き方――』(学習院,1982).
8) 学習院言語技術の会編『ことば――言語技術1――』(学習院,1984).
9) 学習院言語技術の会編『ことば――言語技術2――』(学習院,1988).
10) 言語技術の会編『実践・言語技術入門』(朝日選書,1990).
11) 文献6の第2章「見たこと・考えたこと」.
12) 文献8の第2章「サケの放流――事実と意見 その2――」から.
13) 木下是雄:「科学と実験」,大河内一男編『学問と読書』(東京大学出版会,1967)p. 260;木下是雄,熊谷寛夫,戸田盛和『物理学の部屋』(学生社,1970) p. 60.
14) 嵯峨根遼吉:「ローレンスについて」,『岩波講座物理学』月報第4号(岩波書店,1939).
15) 『イミダス1987』(集英社,1987)p. 1062.イミダスは Innovative Multi-Information Dictionary, Annual Series の略だという.
16) 文献10の第1章.
17) 川喜田二郎:『発想法』(中公新書,1967).
18) 田畑吉雄:『やさしい統計学』(現代数学社,1986).
19) 斉藤孝,佐野眞,甲斐静子:『文献を探すための本』(日本エディタースクール出版部,1989).
20) 平凡社百科大事典,全16巻(平凡社,1984〜85).
21) 亀井肇編『現代用語の基礎知識』(自由国民社,毎年刊).
22) 木下是雄:「‘さくいん’について」,『物理』月報5(小山書店,1956).
23) 佐多稲子:「自分に取り組んで」,安岡章太郎編『私の文章作法』(文春文庫,1983)p. 53.
24) 三島由紀夫:『文章読本』(中央公論社,1959)p. 31.
25) 木下順二:「志賀的文体と芥川的文体」,安岡章太郎編『私の文章作法』(文春文庫,1983)p. 65.
26) 文化庁:『著作権法ハンドブック』(著作権資料協会,1974).
27) 吉川幸次郎,三好達治:『新唐詩選』(岩波新書,1952),p. 85による.末尾の解説は吉川の注解を木下が短縮したもの.
28) J. Hinds : “Contrastive Rhetoric : Japanese and English”, (Text 3(1983)No. 2, 183(Mouton Publishers, Amsterdam).
29) J. T. Dennett : “Not to Say Is Better than to Say : How Rhetorical Structure Reflects Cultural Context in Japanese-English Technical Writing”, IEEE Trans. Professional Communic. 31 (1988), No. 3, 116.
30) J. D. Lester : Writing Research Papers, 2nd ed. (Scott, Foresman & Co., 1976).
31) 木下是雄:「もう一つの国語教育 6.読む人の心理」,婦人之友 1987年6月号.
32) The Random House Dictionary of the English Language, Second Edition Unabridged (Random House Inc., New York, 1987).
33) K. A. Schriver : “Teaching Writing to Anticipate the Reader's Needs : Empirically Based Instruction” (Carnegie-Mellon 大学の,レトリックの Ph. D の学位論文).
34) 木下是雄:「異国人とのコミュニケーションのむずかしさ――自然科学者の立場から――」,日本語学 1989年9,10,11月号.
35) 朝日新聞(東京)1989-02-17夕刊17面.
36) ドナルド・キーン(Donald Keene):「日本語のむずかしさ」,梅棹・永井編『私の外国語』(中公新書,1970)p. 154.
37) 木下是雄:「日本人の言語習慣を考える」,中央公論 1986年9月号.
38) 木下是雄:「国語教育に望むこと」,国語教育 1988年11月号.
39) 内容的には木下是雄:「受信型教育から発信型教育へ」,『物理・山・ことば』(新樹社,1987) p. 233から.
40) A. J. Leggett : “Notes on the Writing of Scientific English for Japanese Physicists”,日本物理学会会誌 21(1966)790〔『Journal の論文をよくするために』(日本物理学会,1975)に再録〕.
41) 木下是雄:「もうひとつの国語教育 8.段落」,婦人之友 1987年8月号.
42) E. H. McClelland (1943) : J. Chem. Educ. 20 (1943) 546. R. Barrass : Scientists Must Write (Chapman & Hall,London,1978)の p. 4を通じて引用.
43) Logergist I2:「カネオクレタノム」,自然 1967年5月号〔ロゲルギスト:『第四物理の散歩道』(岩波書店,1969)に再録〕.
44) 文献9の第4章参照.
45) 細井勉:『イプシロン・デルタを理解するために――数学のまわりの論理と日本語』(日本評論社,1982)p. 179以下.
46) 『例解新国語辞典 第2版』(三省堂,1987).
47) 鈴木喬雄:『診断・国語辞典』(日本評論社,1985).
48) 『類語国語辞典』(角川書店,1985).
49) 『岩波現代用語辞典』(岩波書店,1981).
50) 『朝日新聞の用語の手びき』(朝日新聞社,1981).
51) 文献7の第9章「原稿用紙の使い方」.
52) 『SIST ハンドブック――科学技術情報流通技術基準――1989年版』(日本科学技術情報センター,1989).
53) 文献2の9. 6節.
問題の解答
【問題2. 1】
(1) × 彼がそう信じているかどうかを,テストや調査によって明らかにすることはできない.
(2) 〇 『平家物語』を調べれば,そういうことが書いてあるかどうかが判明する(そこに書いてあることが真(ほんとう)であるかどうかは,(2) が事実の記述かどうかとは無関係).
(3) 〇 これは事実の記述だが,偽の記述である.
(4) × これは命令または依頼の文で,事実の記述でも意見でもない.
(5) × 本人にとってはいかに事実でも,ほかの人には真偽を確かめる方法がない.
【問題2. 2】
この日の同地方は最高気温16.8度.平年より1.5度低かったが,風もなく,青空にツバメやカモメが群舞する絶好の“放流日和”.上,下流ともピクニックの人出でにぎわい,放流会場へも正午過ぎから家族連れや子供会の会員たちが続々と押しかけ,河川敷に特設された桟橋に行列.一人ひとりがそれぞれ小さなプラスチックバケツで20〜30匹ずつを「早く元気で帰っておいで」と祈るように流れへ放した.
1月15日に北海道・根室から送られてきた受精卵が,栃木県那須郡小川町の同県水産試験場でふ化,さらに数日前から多摩川のイケスで川水になじんだ上での旅立ち.苦労を共にした関係者の喜びを背に,稚魚たちは川を下り,約2万5000キロ,3〜4年間の長旅に向かった.
【問題2. 3】
「……水質汚濁を起こす」までは事実の記述で,これは〈正しい〉記述であろう.それから「使用を禁止すべきである」と結論するのは,論理的に悪くない立論の一つである.ただし,これ以外にも筋の通った意見をいく通りか立てることができる(たとえば「汚水を捨てる前にリンを取り除く処理をするべきである」).したがって,「使用を禁止すべきである」が〈正しい〉意見だ(そのほかの意見は正しくない)とは言えない.意見に対しては〈正しい〉という評価はなじまないのである.
【問題4. 1】
Bは本質的に不必要な記述(わき道)なので,とったほうがすっきりする.ただし,下車の準備のことを考えると,「平塚の一つ前の駅は茅ケ崎」という情報だけは残したほうがいいか.
【問題4. 2】
たとえば次のように書き直す.
() A 氏は
(1) 群発地震のために海底が陥没したり,海中の崖がくずれたりした;
(2) また,このために海中が濁った
と考え,地震の後でイサキやイワシの漁獲量が激減したのは,磯付きのイサキや沿岸の浅いところを回遊するイワシがこの濁りをきらったためだろうという.
() 群発地震のために海中が濁った. A 氏によればこれは海底が陥没したり,海中の崖がくずれたりしたためで,彼は,地震の後でイサキやイワシの漁獲量が激減したのは,磯付きのイサキや沿岸の浅いところを回遊するイワシがこの濁りをきらったためだろうという.
() 群発地震のために海底が陥没したり,海中の崖がくずれたりした. A 氏は,地震の後でイサキやイワシの漁獲量が激減したのは,おそらくこのために海中が濁り,磯付きのイサキや沿岸の浅いところを回遊するイワシがこれをきらったためだろうという.
【問題4. 3】
たとえば次のようにする.
しかし,わが国は先進諸国から地理的に遠く離れており,また言語的にも孤立しているので,学術国際交流を活発にするには関係者の格段の努力が必要である.国際交流・協力を,今日,とくに推進しなければならぬのは,次のような事情による.
ア ………….
イ ………….
ウ ………….
【問題4. 4】
この曲の最大の特徴は全曲が循環形式によって有機的に構成されていることだ.第1楽章のはじめの音形が,全楽章を通じて精巧に織りこまれているのである.
【問題4. 5】
(1) アルミニウム製錬は,電力を大量に消費する工業の代表のようなものなので,当社では,新しい製錬法を開発する努力もしているが,電力の安い地域で製錬することも計画している.
(2) 私は文化部に属している.文化部にとっては,大学祭は日ごろの部活動の成果を発表する大切な機会である.(「文化部にとっては」を「その私にとっては」とする可能性もある.)
あとがき
私がこの本の読者と想定しているのは,主として人文・社会科学系の学生諸君とわかい社会人諸氏だ.
かつて私は『理科系の作文技術』(中公新書,1981)でレポート,論文の組み立て方・書き方――ひろくいえば説明・論述文の書き方――を解説した.さいわいこの書物は世にいれられて,いまだに版をかさねており,何人かの方からは「文科系にも有用」との評をいただいた.しかし,これはもともと理科系の研究者・技術者のために書いた本だから,例文その他が理科系に偏している.「こんどはもっと一般の人たちに受け入れられやすい形で」という筑摩書房の要望で,この『レポートの組み立て方』を書くことになったのである.
最初,私は社会人諸氏のレポート作成の手引き書をつくるつもりで案を練った.しかし,仕事のレポートは調査報告,研究報告,業績報告,出張報告,等々と多種多様で,各論をならべつくすのは私の手に余り,一般論は薄味なものになってしまう.迷ったあげく私は,文科系学生(人文・社会科学系)の研究レポートに的をしぼって,材料を集め,レポートを組み立てる方法を具体的に解説することにした.社会人諸氏に仕事のレポートの書き方の基本を見ていただくためにもそれが一番有効――と考えたからである.
「理科系のくせに文科系の研究レポートの書き方に口をはさむとは……」と呆れられるかもしれないが,私は大学で文科系の一般教育の「表現法」を何年間か担当して欧米式の研究レポートのつくり方をコーチしたことがあるので,全くのシロウトというわけではない.実は,その頃の学生諸君の習作のいくつかを(原形のままではないが)この書物の中で利用させてもらっているのだ.いちいち名前を挙げないが,その人たちの顔を思い浮かべてひそかに感謝しているところである.
長い引用を許してくださった大沢久美子夫人(1.2節 の O 嬢)と Dr. Karen Schriver (4.1節),貴重な資料を提供してくださった佐野眞氏(3. 4. 4節),その他この本の誕生をたすけてくださった方々に厚く御礼を申しあげる.
1990年2月 木下是雄
上記の「あとがき」は,『レポートの組み立て方』が B6判の「ちくまライブラリー」の1冊として1990年に発行されるときに書いたものだ。この版はいま第13刷が出まわっているが,これに加えてこの本を「ちくま学芸文庫」の1冊として文庫判でも出したいとの申し出があった。これに応じて本書が生まれた次第である。
1994年2月 木下是雄
木下是雄(きのした・これお)
1917年生まれ。東京大学理学部物理学科卒業。学習院大学理学部教授、学長を経て同大名誉教授。専攻は物理学。専門研究のかたわら、ロゲルギスト同人の一員として『物理の散歩道』(岩波書店)、『新物理の散歩道』(中央公論社)を著す。また、若い研究者・技術者のための『理科系の作文技術』(中公新書)は、専門領域をこえて多くの読者に迎えられた。その他主な著書に『物質の世界』(培風館)、『スキーの科学』(中公新書)、『物理・山・ことば』(新樹社)などがある。 本作品は一九九〇年三月、ちくまライブラリーとして刊行され、一九九四年二月、ちくま学芸文庫に収録された。
レポートの組み立て方
--------------------------------------------------------------------------------
2002年3月22日 初版発行
著者 木下是雄(きのした・これお)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
(C) Koreo KINOSITA 2002