いぬかみっ 11
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「ずっと前からあなたのことが好きでした」
啓太のもとに届いた一通のラブレター。いったい誰が啓太に!? いや、差出人の名前はあるけど、そんなばかな! 突如起こったラブレター騒動は、ようこ、新堂ケイ、カオル、ともはね、はけ、仮名史郎を巻き込んでタイヘンなことに……!
このほか、才女にして美麗、トリプル200(!?)の異名を持つ仮名史郎の妹が啓太の家にやってくる話や、世界を飛び回る薫の犬神たちの話、ほんわり温かいたゆねの話などなど、全部で7話。オール書き下ろしでお届けします!
ISBN4-8402-3603-8
CO193 \510E
発行●メディアワークス
定価:本体510円
※消費税が別に加算されます
有《あり》沢《さわ》まみず
第8回電撃ゲーム小説大賞<銀賞>を頂く。東京生まれパキスタン育ち。牡牛座のB型。最近、カイロプラティックに行きました。背骨がすごいすっきり。びっくりしました。
【電撃文庫作品】
インフィニティ・ゼロ冬〜white snow
インフィニティ・ゼロA春〜white blossom
インフィニティ・ゼロB夏〜white moon
インフィニティ・ゼロC秋〜darkness pure
いぬかみっ!
いぬかみっ! 2
いぬかみっ! 3
いぬかみっ! 4
いぬかみっ! 5
いぬかみっ! 6
いぬかみっ! 7
いぬかみっ! 8 川平家のいちばん長い一日
いぬかみっ! 9 ハッピー・ホップ・ステップ・ジャンプ!
いぬかみっ! 10
いぬかみっ! 11
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イラスト:若《わか》月《つき》神《かん》無《な》
もうすぐ師走、今年もそろそろ終わりですね。過ぎた日々を振り返れば〆切かライブの思い出しかありません。ノォッ!ノォッ!ノォッ!ちょっ……どういうことー???インドア過ぎますよ、若いのに。というわけで来年に期待☆(ムリ)
http://tune9.air-nifty.com/candyfloss/
カバー/加藤製版印刷
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「ふむ。川《かわ》平《ひら》薫《かおる》は実にかわいそうなことをしたな」
赤《せき》道《どう》斎《さい》は淡《たん》々《たん》と無表情にそう言った。せんだんは彼を冷然と見《み》据《す》え答えた。
「ええ、本当に」
圧倒的な魔《ま》力《りょく》を誇っていた怪物である。得《え》体《たい》の知れない理想を掲げ、吉《きち》日《じつ》市《し》と川平家を混乱のどん底に落とし込んだ張本人だ。だが、せんだんはなぜか赤道斎の言葉にあまり嘘《うそ》を感じなかった。
恐らく彼は本当に川平薫の運命を気の毒≠ノ感じている。
そう思えた。
そしてその事が逆にせんだんを不《ふ》愉《ゆ》快《かい》にさせた。彼が作り出した魔《ま》導《どう》人《にん》形《ぎょう》クサンチッペや〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉が薫消滅の遠因を作ったのは間違いないのだ。この男、いけしゃあしゃあと!≠ニせんだんが何か口にする前に赤道斎がにやっと笑ってそれを遮《さえぎ》った。
「確《たし》かに私がしくじった部分も大きかった。それは認めよう」
彼は顔色ひとつ変えることなく言った。
「私を非《ひ》難《なん》する事で心が休まるというのならそれも甘んじて受けよう。だが、お前はそんなつまらぬメス犬《いぬ》神《かみ》ではないだろう? 感情と事実を取り違え、判断を誤るような愚《おろ》か者とは違うのだろう? 真の長《おさ》としての血を継《つ》ぐ唯《ゆい》一《いつ》の者よ。理解せよ。本当の大《おお》元《もと》の原因は川平薫自身が抱えていたものだぞ?」
せんだんがぐっと言葉に詰まった。赤道斎は抑《よく》揚《よう》を欠いた口《く》調《ちょう》で、
「少なくとも私は川平薫の宿《しゅく》願《がん》を解いてやった。あの者の父と妹を解放してやったのは紛《まぎ》れもなく我《われ》なのだぞ?」
「そ、それを恩に着せようというのですか? だから、許せ、と」
「違う」
赤道斎は首を横に振った。
「我に罪悪感はない。後悔もない。許して貰《もら》っても貰わなくてもそれはもうどちらでもいい。ただ次の道筋を示してやる事が出来るのは我だけだと、そうお前に伝えたかったのだ」
「……だから、私を呼んだのですか?」
「そうだ」
赤道斎は頷《うなず》いた。
「だから、お前だけを呼んだのだ。赤き髪の犬神よ。もっとも義理堅く、忠義深い犬神よ。そしてお前自身、機《き》会《かい》を見て我を訪れるつもりだったのだろう? 世界に向かって旅立つ前に。なにしろなんの手がかりもないのだからな。川平薫が世界のどこかにいることは分かっていてもそれではそれだけではあまりにも雲を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》むような話だ」
せんだんはぐっと拳《こぶし》を握った。
横を向きながらそれでも凛《りん》とした品格は崩《くず》さず、
「フラノの未来視はまったく役に立ちませんでした。あの子はただ空が見える≠ニ。ともはねの人探しもなんの反応も示しませんでした。どこかにいるのは分かるんだけど親指がすごくぐるぐるするばっかりですぐ分からなくなっちゃう≠ニ。それが精一杯だったようです。赤《せき》道《どう》斎《さい》」
彼女はゆっくりと時間をかけて赤道斎に鋭《するど》い視《し》線《せん》を向けた。
「私は慈《じ》悲《ひ》にすがるつもりはありません。対価が必要ならばそれはすぐに払いましょう。あくまで等分に契約どおり。ですが、あくまで拒絶するなら私は私の持てる全《すべ》てのつながりを使って今度こそあなたを滅ぼします。薫《かおる》様の居場所を知るなら其《そ》れを教えなさい。どこにいるのか、なにになっているのか、分かっていること全てを」
返答は?
と、せんだんは無言で赤道斎を睨《にら》み続けた。
しばし沈《ちん》黙《もく》が場を支配した。
やがて赤道斎が、
「すごく哀《かな》しい」
と、一言そう言った。相変わらずの無表情、胡《う》乱《ろん》な目がどこを見ているか分からなかったのでせんだんは思わず、
「は?」
と、少し間の抜けた返答を返した。赤道斎は淡《たん》々《たん》と告《つ》げた。
「すごく哀しい、と我《われ》はそう言ったのだ」
「そ、それはまたなんでです?」
かなりペースを崩《くず》されてせんだんがそう問い返した。赤道斎はさも当然のことのように、
「お前があまりにけんか腰だからだ。我を信用しないからだ」
心なしか傷ついているようにそう言う赤道斎にせんだんは戸《と》惑《まど》ったように、
「はあ」
「せんだん」
赤道斎ははっきりと彼女の目を見て、名前を呼んだ。
「お前が想像している以上に我は川《かわ》平《ひら》薫を気に入っていたのだぞ? 確《たし》かに我は我の道を阻《はば》む者なら即座にその存在を滅しよう。そこに容《よう》赦《しゃ》や慈悲の感情というものは存在しない。だが、同時に我は我以外の者の手によって存在を滅せされそうな人間がいたら即座にそれを助けよう。そこに理由や対価など存在しない。それは我もまた人間だからだ」
「何が、言いたいのですか、赤道斎? もう少しかいつまんで話して下さい」
「つまりだ。我もまた少しは川平薫を探す方法を考えていた、ということだ」
せんだんが驚《おどろ》いたような顔になった。赤道斎は深く頷《うなず》いた。
「一つ、絶対に完《かん》璧《ぺき》な方法がある」
「そ、それは?」
「〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉を作り直すことだ」
せんだんが息を呑《の》んだ。だが、すぐに赤《せき》道《どう》斎《さい》は首を横に振った。
「だが一点だけ問題がある。確《たし》かにその手段は完《かん》璧《ぺき》だし、穴はない。川《かわ》平《ひら》薫《かおる》は確《かく》実《じつ》にこの世に蘇《よみがえ》るだろう。ただ忘れてはいないだろう? 我《われ》は大《だい》妖《よう》狐《こ》に苦《く》渋《じゅう》を呑まされてから〈大殺界〉を作り上げるまでに実に三百年という歳《とし》月《つき》をかけているのだぞ?」
「三百年……」
「今度は基本的な構造は憶《おぼ》えている。それほどはかかるまい。恐らくは百年。大妖狐を霊《れい》力《りょく》補充に徹《てっ》底《てい》的《てき》に協力させて五十年。機《き》能《のう》を川平薫を元の状態に戻す、ということだけに限定させて二十年。他《ほか》の犬《いぬ》神《かみ》や人間どもがありったけの素材を提供して十年。しかし、それ以上はどんなにがんばっても縮《ちぢ》まらない。だからこその絶対|願《がん》望《ぼう》具現化≠ネのだ」
「十年」
せんだんは口元を手で覆《おお》い考え込んだ。
「いいえ、そんなに待てません。私たちはともかく人間の薫様にとって十年は」
「分かっている」
赤道斎は胡《う》乱《ろん》な目で頷《うなず》いた。
「それだけかかればあやつがなんになっているにせよ、形態変化あるいは本当の死を迎えている可能性もあるからな」
せんだんがぐっと唇《くちびる》を無言で噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだ。赤道斎が言った。
「だが、勘違いするな。これはあくまで〈大殺界〉で川平薫がいなくなった現実を消去し、ゼロから奴《やつ》を再現する≠ニいう事実の作り変えにかかる時間のことだ。普通に川平薫を探し出す分にはこれほどの時間はかかるまい」
「ですが、その方法こそ」
「せんだん。フラノにともはね、と言ったな? 未来視や探知の術を使う犬神の名は」
突然、赤道斎がそんなことを言い出したのでせんだんは不《ふ》審《しん》そうに問い返した。
「ええ、その通りですが……それがなにか?」
赤道斎は頷いた。
「一定の霊力を集め、流れる因果の過程を指先や脳《のう》裏《り》で感知する。実に基本中の基本の技だ。だが、同時にひどく応用|範《はん》囲《い》の広い技でもある。そして当然、その程度の技は大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》たる我も心得ている。ほら、お前のところのともはねが人探しをする場合のように」
そう言って彼は自《みずか》らの股《こ》間《かん》を指差した。
くるくると小さな親指を回して探知の術を使う可愛《かわい》らしいともはねのそれに対して赤道斎はきっと股間の……。
「そ、そこらへんの説明はして頂かなくて結構です!」
せんだんが素早《すばや》く声を張り上げた。赤面している。赤《せき》道《どう》斎《さい》は胡《う》乱《ろん》な瞳《ひとみ》のまま、
「まあ、とにかくだ。何が言いたいのかというと、それほど得意ではないが、未来視や人探しの探知くらいなら今の抜《ぬ》け殻《がら》のような我《われ》でも出来るということだ。恐らくはそのともはね、やフラノ、よりもっと上手《うま》くな」
せんだんが少し感心したように頷《うなず》いた。ようやく赤道斎の言わんとしている事が見えてきたのだ。
「では……あなたは薫《かおる》様の手がかりが掴[#「掴」はunicode6451]《つか》めたのですか?」
その問いに赤道斎は首を横に振った。
「掴[#「掴」はunicode6451]んだ、といえば掴[#「掴」はunicode6451]んだし、掴[#「掴」はunicode6451]んでない、といえば掴[#「掴」はunicode6451]んでいない。いいか? せんだんよ。そもそも川《かわ》平《ひら》薫は完《かん》璧《ぺき》だった〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉に存在を消滅させられかけたのだぞ? その際に邪《じゃ》魔《ま》が入って辛《かろ》うじて現《げん》世《せ》とつながりを持っているようだが、そんな強引なことをしたからこそ逆に捻《ね》じ曲げられた因《いん》果《が》律《りつ》の因子があまりにも多くなり過ぎて川平薫近辺の運命が分からなくなってしまっているのだ。なんでも川平|啓《けい》太《た》がぶつかってそうなったらしいが」
くくくっと赤道斎は笑った。
「いずれにしても因果係数は複《ふく》雑《ざつ》にして不《ふ》鮮《せん》明《めい》。あまりに偶発的に過ぎる。普通の者にはたとえ未来を見ようとしても見えないし、人探しはあまりに曖《あい》昧《まい》な霧《きり》に隠《かく》されてしまっていることだろう。だが、私は違う。せんだん」
赤道斎はきっぱりと言った。
「世界各国に散り、著名な占《うらな》い師《し》や千里眼を訪れよ」
「……」
「それが私の見た未来であり、手がかりだ」
「期待して……あなたの言葉を信じてよいのですか?」
「よい。お前たちの努力の過程で川平薫は必ず見つかる、と思う。我は思う」
せんだんの表情はぱあっと明るいものになった。赤道斎は力強く頷いた。
「案ずるな。お前たちが心を込めて人間の占い師たちを探して回れば必ず更《さら》なる手がかりは得られる。より鮮明に見えてくる何かが必ずあるはずだ。我はそのように見た。ただ」
「ただ?」
「これは確《かく》定《てい》したことではないのだが」
彼は珍しく言葉を濁《にご》して視《し》線《せん》を伏せた。せんだんは忍耐強く先を促《うなが》した。
「赤道斎。ただ、なんですか?」
「ただ。もしかしたら何かの代《だい》償《しょう》が必要になってくるかもしれない。例えば薫を取り戻すのに、お前の命が必要になってくるような……そんなことだ。我が見たのは太古のなにか≠ニ代償≠セ。せんだんよ、お前は」
彼は目を上げ、まっすぐに問いかけた。
「その覚悟があるか? 例えばおまえ自身の命と引《ひ》き換《か》えに川《かわ》平《ひら》薫《かおる》を助けるような場面があったとして」
せんだんは赤《せき》道《どう》斎《さい》の言葉を遮《さえぎ》った。
優《ゆう》美《び》に。
同時に力強く微笑《ほほえ》んで。
「赤道斎。私は薫様の犬《いぬ》神《かみ》です。私程度の身ですむようなことなら迷いなく」
赤道斎は深く頷《うなず》き、せんだんは礼を述べて部屋から退出していった。せんだんたち川平薫の犬神が世界中に発《た》つ二日前の出来事だった……。
スイス。アルプスの山河に近接した風《ふう》光《こう》明《めい》媚《び》な小国である。永世中立国であり、チョコレート、精密|機《き》械《かい》。チーズにハイジ。カウベル、緑《みどり》豊《ゆた》かな景色。湖に白鳥とどこか牧歌的なイメージの強い国であるが、反面、徴《ちょう》兵《へい》制《せい》を敷《し》いて、各家庭に核シェルターを常備しているくらい対外的な戦争を常に意《い》識《しき》した強い国でもある。
観《かん》光《こう》立国でもあり、驚《おどろ》く程《ほど》信用の高いプライベートバンクを国の政策として抱えている。そんなスイスのレマン湖に程近い、とある地方都市のホテルの一室に二人の少女がいた。
「ふう。この紅《こう》茶《ちゃ》、美味《おい》しいわね」
ジノリのティーカップを唇《くちびる》から離《はな》し、せんだんが溜《ため》息《いき》と共にそう呟《つぶや》いた。
「カンヤム・カンニャムっていう名前のお茶だって。面《おも》白《しろ》い名前だね」
メニューを見ながらいぐさがくすっと笑ってそう言った。
ちなみに彼女はフランス語で書かれた注釈をごく普通に読み下していた。この旅で実に十四カ国語の言語を習得したいぐさであった。そしてせんだんもまたヨーロッパを中心に回っていたお陰で英語、フランス語ならかなり喋《しゃべ》れるようになっていた。
実際、発音に関してだけなら現地の人もびっくりするくらい流《りゅう》暢《ちょう》だ。このルームサービスを注文したのも実はせんだんなのだった。
率直に言って彼女には水が合っていた。
このヨーロッパという土地は。
もちろん行方《ゆくえ》不明になった薫《かおる》を捜すために粉《ふん》骨《こつ》砕《さい》身《しん》。各地に散った仲間たちに的《てき》確《かく》な指示を出しつつ、自《みずか》らはいぐさと共にヨーロッパ全土の高名な占《うらな》い師《し》を尋《たず》ねて回り、何か手がかりを見つけ出そうとしていた。
事実、薫が邪《じゃ》星《せい》と暮らした古城をとある湖の底に見つけることが出来たのはせんだんの功《こう》績《せき》だった。
だが、彼女はその忙しいさなかにもこちらの石《いし》畳《だたみ》が続く古風な風《ふ》情《ぜい》の町並みや、空に向かって聳《そび》えていく美しいステンドグラスの堅《けん》牢《ろう》な教会や、白い衣《い》装《しょう》をまとった聖歌隊の行列などを目のはしでしっかりと楽しんでいた。
元々、魂《たましい》がこちらにあるんじゃないかと思うくらい、薫が帰ってきた後、「日本じゃなくってこっちに住まないか?」と言ったら大喜びするくらい、この歴史ある、格式ある、ハイソな雰囲気が気に入っていた。
今もすっかり浸《ひた》り切ってホテルのアフタヌーンティーなどを楽しんでいる。
このホテルのやや古びてはいるものの、目に華《はな》やかな内装が気に入っていた。モーニングを着たコンシェルジェの仰《ぎょう》々《ぎょう》しいサービスが気に入っていた。
せんだんはもうすっかり気分はヨーロッパ貴族だった。
今日《きょう》は少しくらいの贅《ぜい》沢《たく》は自分に許していた。
何しろ、世界に散った仲間が一堂に会す日なのだから。
ちなみに彼女とお茶《ちゃ》を同席しているいぐさは平凡なアップルティーをお行《ぎょう》儀《ぎ》良く啜《すす》っていた。仲間たちのナンバー3である彼女はせんだんと行動を共にしながら改めてせんだんに対する親愛の情を深くしていた。
もちろん恥《は》ずかしいのでそんな事はあまり口にしないが。
ここ最近のせんだんは本当に献身的だった。お気に入りの服が汚れるのもいとわず険《けわ》しい荒れ地に住んでいる高名な霊《れい》能《のう》者《しゃ》や占《うらな》い師《し》を積《せっ》極《きょく》的《てき》に訪れては少しでも有益な情報がないか一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、聞き出そうとしていた。
いぐさは何度もせんだんが豪《ごう》華《か》なオペラハウスの前で立ち止まり、羨《せん》望《ぼう》の眼《まな》差《ざ》しでその石造りの建物を見つめている光景を目《ま》の当《あ》たりにした。幾度か「気分転換に行ってみない?」と持ちかけたがせんだんは頑《がん》として首を縦《たて》に振らなかった。
どうやら「薫《かおる》が帰ってくるまでは好きなモノを我慢する」と願《がん》をかけているらしかった。
あるいは筆頭の犬《いぬ》神《かみ》でありながら主人の苦悩に全く気がつくことが出来なかった己《おのれ》をずっと責めているのか。
せんだんはあれ程《ほど》好きだったウインドーショッピングもきっぱりと止《や》めていたし、服を新たに購《こう》入《にゅう》する事もなかった。
ただひとえに、愚《ぐ》直《ちょく》に薫を捜し続けた。
いぐさはその姿を見て心の中で密《ひそ》かに誓っていた。
いつか薫《かおる》を捜し当てることが出来たらきっとせんだんと薫と三人で最高に格式の高いオペラを見にいこうと。これ以上ないくらい贅《ぜい》沢《たく》に着飾り、装《よそお》い、全部、全部、せんだんの趣《しゅ》味《み》で押し通すとびきり豪《ごう》華《か》で、華《はな》やかな一日を作ろうと。
その時は自分もせんだんの趣味に合わせたひらひらの服を着る覚悟だった。
「きっと薫様だって付き合ってくれるよね。白いタキシードにバラでもつけて」
いぐさはまた微《かす》かに笑った。
彼女はここ最近せんだんとは別行動を取ることが多かった。
いぐさは主にインターネットの海に深く沈んだ。電子の編《あ》み目《め》を浮遊するありとあらゆる細かい情報を拾い集め、分析し、世界中に散った仲間たちに送って徹《てっ》底《てい》的《てき》にサポート役に徹《てっ》した。同時にいぐさにはデイトレーディングで資産を増やし、彼女らに安定した活動資金を送付する役目もあった。
ごきょうやたちは必要最低限の金《きん》額《がく》しか要求してこなかったが、いまりとさよかがしょっちゅう「カネ、オクレクレ」と連絡を入れてくるのが心配だった。
全く一体どこで何をやってるのだか。
いぐさはそれでも仲間たちと久《ひさ》方《かた》ぶりに会う日を迎えて心が浮き立つのを感じていた。
まるでコミケ前の眠れぬ夜のような……。
いぐさはその時、ほんのわずか哀《かな》しそうな顔になった。
今年の夏コミはさすがに参加できなかったなあ
組んだ手に顎《あご》を乗せ、アンニュイな微笑を浮かべる腐女子一名。
せっかく、自信作が書き上がって今度こそサークル参加しようと思っていたのに
せんだんが不《ふ》思《し》議《ぎ》そうにそんないぐさを見つめている。
と、そこへ。
「う〜、あっついね!」
「だれ? アルプスは涼しいって言ってたの。ぜんぜん暑いじゃない、夏は」
ぎいっとドアが開いて双《ふた》子《ご》の犬《いぬ》神《かみ》、いまりとさよかがごく何気ない様《よう》子《す》で入ってきた。二人とも灰《はい》色《いろ》の旅装にかなり大きなリュックサックを背負っている。せんだん、いぐさ共に立ち上がって叫んでいた。
「いまり、さよか!」
「!」
興《こう》奮《ふん》して駆《か》け寄る二人をよそに、いまりがややうんざりしたように、
「すとっぷ。そういうお涙ちょうだい的なすきんしっぷ我《われ》々《われ》嬉《うれ》しくない」
と、片手を上げて制した。さよかもうんうんと頷《うなず》いている。
「そ〜そ。我《われ》々《われ》、ちょっと疲れたのでさっそくお風《ふ》呂《ろ》にでも入りたい」
いぐさがちょっと虚《きょ》を突かれた表情になった。
「あ、うん」
怪《け》訝《げん》そうに、
「一体どうしたの、二人とも?」
「べっつにい〜」
と、いまり。
「そうやって久しぶりの再会程度ではしゃぐほど我々幼くないものでね」
はんと鼻で笑ってさよか。せんだんが腰元に手を当てた。
「なによ、あんたたち? 感じ悪いわね」
「感じ悪くて結構」
「そ〜そ。くーるにいこうぜ、くーるに、せんだん。もうオトナなんだから」
そう言って二人はぞろぞろと洗面所に入っていった。せんだんといぐさもやや拍子抜けたように顔を見合わせた。
別に感《かん》激《げき》の対面を期待していた訳《わけ》ではないが、三ヶ月以上もお互いに顔を合わせていなかったのだ。もう少し何かあっても良いと思うのだが……。
双《ふた》子《ご》は実にあっさりしていた。
「なにかあったのかな?」
と、いぐさがせんだんにそっと囁《ささや》く。せんだんは肩をすくめてみせた。
「さあ?」
と、その時。
「うう」
「嘘《うそ》だよ」
洗面所の扉《とびら》の隙《すき》間《ま》からひょっこりといまりとさよかが首を出した。二人ともうるうると涙目になっていた。
「寂《さび》しかったに決まってるじゃないか!」
「会えて嬉《うれ》しかったに決まってるじゃないか!」
「でも、強がっちゃったんだよ! 我々そういう性格だから」
「せんだん、いぐさ」
二人はくすんと啜《すす》り上げる。
「わ〜ん」
「二人ともまた会えて本当に嬉しいよおお〜〜〜〜!!」
そう言っていまりとさよかが洗面所から飛び出してきた。これにはせんだんもいぐさも思わず胸がぐっと詰まってしまった。いつもいい加減で悪ふざけばかりしている二人が。
こんなにも素直に。
自分たちとの再会を喜んでくれている!
せんだんもいぐさもたちまち涙目になり。
「わ〜ん!!!」
いまりはせんだん。さよかはいぐさとそれぞれ抱き合って、手を握り合い、ぴょんぴょんと跳《は》ね飛びながら再会を思いっ切り喜び合った。しばらくの間、賑《にぎ》やかで明るい声に部屋中が包み込まれていた。
ひとしきり歓《かん》喜《き》の挨《あい》拶《さつ》がすみ、いまりとさよかがひと風《ふ》呂《ろ》浴びてきて、さらに追加でルームサービスを注文した。
お風呂から上がってさっぱりとしたいまりとさよかは満足そうにソーセージやチーズを頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》張《ば》っている。
この時ばかりはせんだんもいぐさも大いに二人を甘やかしていた。
「ほら、道中は大変だったでしょ? もっと食べたらどう? これも美味《おい》しいわよ?」
せんだんがにこにこ笑いながらチョコレートを勧《すす》めた。
「はい、お茶《ちゃ》のお代わりをどうぞ」
いぐさが後ろに回って銀《ぎん》のティーポットで給仕をしてくれる。双《ふた》子《ご》は普《ふ》段《だん》、こんな風《ふう》に取り扱って貰《もら》える事があまりないので満足そうにうんうん頷《うなず》いて我《わが》儘《まま》言っていた。
「せんだ〜ん。お口にジャムがついちゃった。ふいて〜」
「いぐさ。お茶が熱《あつ》いよ〜、ふ〜ふ〜して」
甘ったれたいまりとさよかに「しょうがないわねえ〜」と言いつつもにこにこと世話を焼くせんだんといぐさ。その良好な関係はしばらく続いた。互いにどんな事をしてどんな事があったかを報告し合って話の華を咲かせた。
話題は結構尽きなかった。
いまりとさよかがメキシコで道を間違えて奇妙な遺《い》跡《せき》に迷い込んだ話をすれば、せんだんといぐさは東欧の山中で狼《おおかみ》男《おとこ》たちの一団と遭《そう》遇《ぐう》した話をした。今度はいまりとさよかがアトランタの双子コンテスト(世界中から千組以上の双子が集まり、どの双子が一番上手《うま》く以心伝心出来るか、息の合った運動が出来るかを競《きそ》うコンテスト)で準《じゅん》優《ゆう》勝《しょう》した話をして、せんだんといぐさがマフィアに追われていたルポライターをイタリアからイギリス行きの船に逃がした話をした。
「はあ、そっちもいろいろあったんだね」
いまりとさよかが感心したように声をそろえた。せんだんが苦笑し、いぐさがしみじみ頷いている。
「でも、お互い無事にあえて本当に良かった……」
と、そこで彼女は何か思い至ってふと何気なく尋《たず》ねた。
「そういえば、二人とも。随《ずい》分《ぶん》と沢《たく》山《さん》活動費が必要だったみたいだけど何に使ったの?」
いぐさとしては特に他意なく聞いていた。
『カネオクレ。チョットイロイロヒツヨウダガシンパイスルナ。センダンニハナイショニナ。ワケハアトデハナス』
の文面を彼女は特に疑問に思う事なく送金処理していたのである。
だが、せんだんはいぐさ程《ほど》騙《だま》されやすくはなかった。
上品な仕《し》草《ぐさ》で啜《すす》っていたティーカップをカチャと下ろし、凄《すご》みを利《き》かせた声で、
「私……聞いてないわよ?」
じろっといまりとさよかを見つめた。
「どういうこと?」
ぎくっとした様《よう》子《す》でいまりとさよかが身をこわばらせる。それから、
「こ、このめがね!」
「余計なことを!」
そう口走った。いぐさが目を丸くしていた。せんだんは静かに言った。
「いまり、さよか」
声は静かだった。
顔は笑顔《えがお》だった。
だが、早く言う事言わないと酷《ひど》い目にあうわよ?
目がそう語っていた。
いまりとさよかが慌《あわ》てて、
「あ、いや! ほんと! ほんとうに必要だったんだって! マジでマジで!」
「だって、賭《か》け事《ごと》に勝たないと占《うらな》いの結果を教えてくれないって言ったんだもん。あの爺《じい》さん!」
いまりとさよかは口々に喚《わめ》き立てる。
せんだんが訝《いぶか》しげに、
「かけごと?」
「そ〜さ。大体せんだんが指示したんじゃないか! ミシシッピー州のブライアン・マコナーつう奴《やつ》だよ! あのスケベ爺さん、あたしらの身体《からだ》をどうしても欲しがってさ」
「つうか、まあ、あたしらのこと気に入ってさ、養女にしてやるからずっと自分とこ残れって言ってたんだけどな」
双《ふた》子《ご》の話を要約するとこうだった。
彼女らが訪れたアメリカ南部の高名な千里眼ブライアン・マコナーは皮肉屋で気《き》難《むずか》しい老人として知られていた。広大な敷《しき》地《ち》面《めん》積《せき》を誇る館《やかた》にたった一人で住み、占《うらな》いの依頼ももうほとんど受けず、いわば世捨て人のように暮らしていた。双《ふた》子《ご》はそんな岩のように頑《がん》固《こ》な老人のもとを訪れて薫《かおる》の居所を占ってくれ、と頼み込んだのである。
最初はすげなく門前払いを食らった。
だが、そんな事でめげる双子ではなかった。彼女らはろくに言葉も喋《しゃべ》れないのに、ラテンアメリカ人もびっくりの陽気なノリでずっと長い旅を重ねてきたのである。
まずふてぶてしさが違う。
逞《たくま》しさが違った。
彼女らはマコナー氏の寝室まで押しかけ、騒《さわ》いだり、甘えたり、脅《おど》したり、すがったりありとあらゆる手を使った。
マコナー氏はこの喧《かまびす》しい双子の犬《いぬ》神《かみ》から逃《のが》れるべくベッドの中に潜《もぐ》り込んだり、トイレに立てこもったりしたが無《む》駄《だ》だった。彼女らは人《じん》外《がい》の特性を使ってありとあらゆるところまで追いかけてきた。
マコナー氏は怒《ど》鳴《な》ったり、怒ったりしながらも次第に双子のペースに巻き込まれ、いつしか掛け合いのようなコミュニケーションをとるようにまでなっていった。
ところが。
ちょうど一週間|程《ほど》過ぎた頃《ころ》、憔《しょう》悴《すい》し切ったマコナー氏がある朝目を覚ますとそれまであれ程騒いでいた(勝手に冷《れい》蔵《ぞう》庫《こ》の中のものを食べたり、超大型テレビでコメディ映画を見て馬《ば》鹿《か》笑いしていた)双子の姿がすっかりと見えなくなっていたのである。屋敷の中はしんと静まり返っていた。マコナー氏はふん、と鼻を鳴らした。
「まったく根性なしの娘どもめ。もうちょっと骨のあるところをみせればわしだって少しは考えてやらんものを」
彼はほんの少し動《どう》揺《よう》を見せ。
そして、その事に自分自身気がついて、その湧《わ》き起こった感情を自分自身で認めまいと慌《あわ》てて首を振って。
「本当にいなくなってせいせいしたわい!」
と、ふいっとそっぽを向き、思わず声を上げた。
彼が視《し》線《せん》を向けたのは庭の方。
そこは驚《おどろ》く程の変《へん》貌《ぼう》を遂《と》げていた。ぼうぼうだった下草が綺《き》麗《れい》に刈り込まれ、鬱《うっ》蒼《そう》と茂っていた木々が丁《てい》寧《ねい》に剪《せん》定《てい》されていた。花《か》壇《だん》が整《せい》備《び》され、沢《たく》山《さん》の花が咲き誇り、鳥が枝に止まって可《か》憐《れん》な歌を歌っていた。
見違える程|活《い》き活《い》きとした庭園がそこにはあった。
そして肩にかけた手ぬぐいで顔の泥を拭《ふ》いていたいまりと芝《しば》刈《か》り機《き》を使っていたさよかがマコナー氏に気がついて手を振ってきた。
「お〜い、爺《じい》さん、今起きたか?」
「どっだ? 我《われ》々《われ》の技術はすっごいだろう? ちょっと庭が荒れ放題だったから気になってやってやったんだ。別に御《お》代《だい》は請《せい》求《きゅう》しないけど、払いたかったら別に払ってもいいぞ?」
しばらくマコナー氏はぽかんとしていた。
それからやがてゆっくりと彼の皺《しわ》に覆《おお》われた顔が歪《ゆが》んでいき、
「ふは!」
とうとうそれは高らかな笑い声になった。
「わはははははは! まったく思いもかけないことをする奴《やつ》らじゃ! ずうずうしいにもほどがある! わははははは! 気に入った! 気に入ったぞ、双《ふた》子《ご》ども! わははははは!」
それは実に気持ち良さそうなマコナー氏十年ぶりの破《は》顔《がん》大《たい》笑《しょう》だった。
双子はきょとんと互いに顔を見つめ合った。
「だいじょうぶか、あの爺さん?」
「さあ?」
頭をとんとんと指差すいまりに小首を捻《ひね》るさよか。だが。
その一件がアメリカでもっとも気《き》難《むずか》しい占《うらな》い師《し》と噂《うわさ》されるブライアン・マコナーの心を開いたのは間違いのない事だった。きっと他《ほか》のどの犬《いぬ》神《かみ》にも真似《まね》出来ない事だっただろう。
ところがその気に入られっぷりが今度はやや行き過ぎた。マコナー氏が、
「わしはお前らの賑《にぎ》やかでずけずけと本当のことを言うところが気に入った。犬神? 要するにこっちで言う妖《よう》精《せい》のシモベみたいなもんじゃろう? かまわん、かまわん。わしの養女になってずっとここにおれ。そうしたらお前たちの言う、探し物とやらを占ってやってもいいぞ?」
双子が慌《あわ》てた。
「あほか!」
「私らがかまうんだつう〜の!」
マコナー氏はにやっと笑った。
「ダメか? この家のものは好きにしていいし、わしが死んだら全部お前らにやる。庭も弄《いじ》りたいほうだいじゃぞ?」
双子はちょっと言葉に詰まった。
確《たし》かにこの家の調《ちょう》度《ど》品《ひん》は面《おも》白《しろ》いし、爺さんも悪い奴ではなさそうだし、庭も興《きょう》味《み》がある。
だが。
「爺さん。すまないが」
「私らみたいなのを本当にそこまで気に入ってくれる気持ちはありがたいんだが」
「「私たちには帰るべき場所と仲間がいるんだ」」
珍しくきっぱりと真《ま》面《じ》目《め》な顔をして双子が声を揃《そろ》えた。
「ごめんな!」
「本当にごめんなさい」
二人はぺこりと丁《てい》寧《ねい》に頭を下げた。マコナー氏はちょっと肩をすくめた。元からある程度、こういう答えは予想していたようだ。さして落胆もせず、悪戯《いたずら》っ子《こ》のように笑い、
「ま、それならそれで仕方ないさ。じゃがの、年老いたわしのお遊びにちょっと付き合うくらいの時間はあるじゃろう? ん?」
そう言ってぽんぽんと双《ふた》子《ご》の肩を叩《たた》いた。
いまりとさよかは思わず顔を見合わせた。
「それでだな!」
と、現在に戻っていまりがせんだん相手に力説していた。さよかが溜《ため》息《いき》と共に首を振る。
「この爺《じい》さんがな、すっこい不良老人でな。ポーカーが三度の飯より大好きなんだ。隠《いん》棲《せい》しているくせにカジノだけは毎週行ってるくらい重度のばくち好きでさ、私らずっとそれにつきあわされてたんだ」
「そ〜そ」
「そうだったの」
と、いぐさが労《いた》わるような微笑を浮かべた。
「きっとそのお爺さんもずっとお一人で寂《さび》しかったのね」
「金《きん》額《がく》にして一万ドル勝ったら占《うらな》ってやるっていうからさ」
「私ら一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、それで頑《がん》張《ば》ったのさ」
「だいたい一週間くらいかな? 寝ている時以外はず〜と三人でポーカーしてたんだよ!」
「大変だったわね〜」
と、いぐさがすっかり信じきってそう言った。双子がにやっと互いに笑い合い、それからすぐにその笑《え》みを消して、さも苦労した、と言わんばかりにもっともらしく頷《うなず》いてみせた。
だが、せんだんだけはそう簡《かん》単《たん》には騙《だま》されなかった。
「いまり、さよか」
と、落ち着いた声で呼びかける。
「な、なに?」
「なにさ? リーダー」
双子の声が強敵を相手に裏返った。せんだんは目を細め、慎重に問いかけた。
「二、三|確《かく》認《にん》させて貰《もら》ってもいいかしら?」
「ど、どうぞ」
と、いまり。
「え、えんりょなく」
と、さよか。せんだんは、
「まず一つ。マコナーさんは最終的に占《うらな》いの結果を教えてくれたのかしら?」
いまりが少しほっとした顔になった。さよかが胸を張って言う。
「もっちろんさ! 最後にはちゃんと全部教えてくれたよ。根はいい爺《じい》さんだったからな」
「なら」
せんだんは二人に考える暇を与えぬよう素早《すばや》く尋《たず》ねた。
「そんな良い人があなたたちからお金を……ちょっと普通じゃない大金を巻き上げるものなのかしら? 私が調《しら》べた限り、ブライアン・マコナー氏は偏《へん》屈《くつ》であっても決して強欲ではなかったはずよ」
「あ」
と、いぐさも声を上げた。彼女もまたじとっとした目つきで、
「そういえば、最終的に一万ドル分勝った*《わけ》だよね? 占いの結果を教えてもらえたのなら。それなのにどうして逆にお金がなくなっているの?」
ぎくっと双子が身を強《こわ》張《ば》らせた。
せんだんが腰元に手を当てずいっと顔を近づける。いぐさが眼鏡《めがね》をずり上げ、きらんとレンズを光らせた。
「うう」
双《ふた》子《ご》は身を寄せ合い、小さく縮《ちぢ》こまった。だが、無言の圧迫は続く。そして最終的には、
「いまり?」
「さよか?」
せんだんといぐさ両方の圧力に負けて双子がばたばたと手足をばたつかせた。
「わ〜ん、ごめんなさい!」
「ついそこでバクチの魅《み》力《りょく》にはまっちゃってその後行ったラスベガスで有り金すっちゃったんだよう!」
せんだんといぐさが同時に、はあっと深い溜《ため》息《いき》をついた。
以後、三十分|程《ほど》双子はせんだんからガミガミ叱《しか》られ通しだった。せんだんは右手の指を立て、左手を腰元に当てていかにいい加減な生活態度全般が良くないか散《さん》々《ざん》説教した。
最後には苦笑したいぐさがとりなしてようやく場が収まった。
せんだんも、
「まあ、結果的には上手《うま》くやってくれたんだし、あなたたちも無事だったからね」
そう溜息をつき、矛《ほこ》を収めた。いまりとさよかがほっと胸を撫《な》でおろしていた。
「ところで」
せんだんが声の調《ちょう》子《し》を変え、真顔になった。
「マコナー氏には占《うらな》ってもらったのよね。一体なんという結果が出ていたのかしら?」
「ああ、それな」
いまりが頷《うなず》いた。彼女の目配せを受け、さよかがポケットから紙切れを取り出した。その紙にはなにやら英語で書かれていた。
「『いたるところにあり。切り開くもの、突き止める。いずこにもおらず、淀《よど》む。黒衣の背信者が一人いる。やがて太古の神が現れるだろう』」
せんだんは読み上げ、また今度は無言で読み返した。いぐさも横合いから覗《のぞ》き込み、その意味を頭の中で検討している。いまりとさよかは彼女らを見上げながら、
「あとの占い師さんたちは大体、以前に報告した通りだよ」
そう言った。
「そう……」
と、せんだんはマコナー氏の占い結果を咀《そ》嚼《しゃく》するように頷いた。
「せんだん、この黒衣の≠ニいうフレーズが気になるね。ほら」
そう言っていぐさが今まで机の上に載《の》っていたノートをめくってみせた。世界中の様《さま》々《ざま》な占い師から得た手がかりをいぐさが丁《てい》寧《ねい》に書き記《しる》したものだ。
旅立つ前、せんだんといぐさはネットや書《しょ》籍《せき》から名高い占い師を二十名ばかりピックアップしていた。そして彼らが住んでいる地域を大まかにヨーロッパ、アメリカ、アジアとアフリカに分け、占《うらな》いや遠《とお》見《み》のメッカであるヨーロッパはせんだんといぐさが自《みずか》ら、比較的事前情報が得やすかったアメリカはいまりとさよか、広大で未知な事が多いアジア、アフリカはごきょうやをリーダーにたゆね、フラノ、てんそうの四人を派《は》遣《けん》し、それぞれその地域の占い師を訪問させていた。
ごきょうやをリーダーにしたアジア、アフリカ地域の人数がもっとも多かったのは単純に移動|距《きょ》離《り》が長いのと、事前|調《ちょう》査《さ》であまり有効な情報を得ることが出来なかったためである。それ故《ゆえ》、ごきょうやたちは現地で直接、聞き取り調査に当たって有能な占い師たちの噂《うわさ》を自ら収集しなければならなかった。
だが、冷静沈着な彼女はきちんと任務を果たし、当初想定していた占い師以上の実力者を何人も探し出し、その結果をせんだんたちに定期的に送ってきてくれていた。
他《ほか》にも双《ふた》子《ご》が送信してきた情報がある。
大《たい》概《がい》の占い師は口頭でその結果を伝えるので残念ながら細かいニュアンスの違いまでは分からないが、
「ほら、これも」
と、いぐさが指さすように何人かの占い師が、
『黒い衣』
というフレーズを使用していた。
「なんだろうね、これ? いったい、何を意味しているんだろう?」
と、いぐさが小首を傾《かし》げている。その間、双子たちは残った食べ物をぱくぱくと咀《そ》嚼《しゃく》しながら、
「いつかまたあの爺《じい》さんのとこも遊びに行ってやらんとな」
「だな〜」
とか、頷《うなず》き合っていた。せんだんは口元で扇《せん》子《す》を広げ(あ、その仕《し》草《ぐさ》久しぶり、といぐさが思っていた)、じっと思《し》慮《りょ》深《ぶか》く考え込んでいる。それから、
「まず私たちにとって有益な情報を与えてくれていそうな人を絞り込まないといけないわね」
そう言った。
せんだんたちは当初予定していた占い師以外にもざっと五十名近くの霊《れい》能《のう》者《しゃ》を、現地の口コミを元に訪れてみた。比較的、評判の高い、信頼出来そうな人を特に念入りに選《えら》んで、だ。だが、それでも明らかに金《かね》儲《もう》けしか考えていないインチキ霊能者やトンチンカンな答えしか返してこない自称占い師にうんざりする程《ほど》出会った。
「とにかく私たちを一《いっ》見《けん》で人間でない、と見抜けなかった人は論《ろん》外《がい》ね」
せんだんはそう言っていぐさが書いたノートに印をつけていった。ついで双子からも当時の状況を聴《ちょう》取《しゅ》して彼女らを即座に人《じん》外《がい》と見抜けた人に丸をつけていく。いまりがにやっと笑った。
「マコナー爺《じい》さんなんか私らが入っていく前にもう私らに気がついて声を出してたよ」
「『なんじゃ、犬くさい奴《やつ》らじゃの。お前たちの主人を探せというのか? 言っておくがわしはもうなんもせんぞ』って」
さよかがうんうん頷《うなず》いて、言い添える。
せんだんはその言葉を聞いてマコナー氏に特に二重丸をつけた。
「あと、あまりにも曖《あい》昧《まい》すぎるもの、意味をなさない占《うらな》いは削らないと……」
さらにふるい落とす。結果、信頼出来そうな情報はマコナー氏のも含めて全部で十くらいに絞られた。
「あ」
と、いぐさがその時、声を上げた。せんだんが目を細め、双《ふた》子《ご》がひゅ〜と口笛を吹《ふ》いた。
「みごとに浮き上がってきたわね……この単語が」
せんだんが静かな声でそう呟《つぶや》いた。その信頼出来そうな十の占い全《すべ》てに『黒衣の』というキーワードが記《しる》されてあったのだ。
なんとなく一同は黙《だま》り込んだ。
どこか暗い気配《けはい》を帯びた言葉が炙《あぶ》り出《だ》しのように紙面に浮かび上がってきたのを見て、場の空気が急に沈み出した。そしてそれをかき消すようにしてせんだんが良く通る声で告《つ》げる。
「まあ、どちらにしてもごきょうやがこれから持ってくる情報を加味しないとまだなんとも言えないわね」
その言葉にいぐさも慌《あわ》てて頷き、いまりとさよかは「はいは〜い」と片手を上げた。
「で、そのごきょうやたちはいつごろ来るの?」
いぐさが時計を確《かく》認《にん》して小首を傾《かし》げた。
「もうそろそろ着いても良いころだとは思うけど……」
彼女らが旅をしている間、様《さま》々《ざま》な名うての占い師たちから「厄《やっ》介《かい》な探し物かい? だったら、俺《おれ》じゃなくってペルシャのイブン・ハサットを訪《たず》ねるといいよ」とか「う〜ん、すまないね。私ではどうにも複《ふく》雑《ざつ》ずぎて分からないよ。ただペルシャのイブン・ハサットなら何か分かるかもしれない。訪れてみるといい」というアドバイスを貰《もら》っていた。
『砂漠の大《だい》賢《けん》人《じん》』という異名を持つ特別の中の特別な占い師、全てを見通す水晶の目<Cブン・ハサット。
ごきょうやは色《いろ》々《いろ》な紆《う》余《よ》曲《きょく》折《せつ》はあったものの行方《ゆくえ》不明だった彼を見つけ出し、何か重要な示《し》唆《さ》を得たらしいのだ。
その事はごきょうやから国際電話で報告を受けていたものの、詳細はまだ聞いていなかった。
もしかしたら一気に薫《かおる》に迫る情報を得ることが出来るかもしれない。
そんな期待を込めて一同が戸口を見やったまさにその時。
「よいしょ」
そんな小さなかけ声と共にスーツケースを下げた小柄な少女が現れ、
「おお、みんなちゃんとそろってるな。遅くなってすまない」
大人《おとな》びた微笑を浮かべ、周囲を見回した。銀《ぎん》色《いろ》の髪に切れ長の瞳《ひとみ》。
「ごきょうや!」
一同、びっくりしたような声を上げた。
「せんだん、変わらないようでなにより。いぐさ、余裕を持った送金ありがとう。お陰さまで快適な旅を続けられたよ。いまり、さよか。相変わらずお前たちは元気そうだな」
落ち着いた物腰でそう言いながら一人一人の手をぎゅっぎゅっと順番に握っていくごきょうや。その所作は決してオーバーなものでも芝《しば》居《い》がかったものでもなかったが、少女たちには分かる「また会えて本当にうれしいよ」という気持ちが精一杯込められていた。
せんだんもいぐさもいまりもさよかもちょっとうるっときていた。
ごきょうやは相変わらず冷静沈着だった。ほんの少し日焼けしている以外は外《がい》観《かん》にほとんど変わりがなかった。なでしこを除けばもっとも年上で、仲間の間で一番、バランスの取れた良《りょう》識《しき》派《は》である。
こういう異国の土地でも変わらない彼女を見るとなぜか皆ほっと出来た。
「ごきょうや、あなたも無事でよかった……ところで他《ほか》の三人は?」
そう言ってせんだんが周囲を見回した。
ごきょうやはちょっとばつが悪そうに、
「実はせんだん。フラノとてんそうに関しては私の独断で既《すで》に日本に帰したんだ。それにたゆねも早々に日本に帰したい」
せんだんがちょっと目を丸くした。
「え? どういうこと?」
「まあ、それに関してはおいおい話すとして……あ、いけない。たゆねがまだだ」
彼女はそう言って慌《あわ》てて廊下に駆《か》け戻っていった。それから程《ほど》なく旅姿のたゆねの背中をゆっくり押しながら帰ってくる。たゆねはなぜか小汚い壷《つぼ》を小《こ》脇《わき》に抱え、ぼけ〜と天《てん》井《じょう》を見ながら歩いていた。
そして、
「たゆね!」
「おお、ひっさしぶり!」
という双《ふた》子《ご》の挨《あい》拶《さつ》にも一切反応を示さない。さらに突然、にへらあ〜と不気味に笑ったかと思うといきなり首をぶんぶん振って、
「せんだんはそんな風《ふう》に裸で踊ったりしない! ウソツキ!」
思いっ切り虚《こ》空《くう》にヘッドバットをかました。双子がびっくりして尻《しり》餅《もち》をついている。一体なんつうことを叫んでいるんだ? せんだんが「んな?」と思わず眦《まなじり》を吊《つ》り上げた。
ごきようやが深く溜《ため》息《いき》をついた。
そして彼女は語り始めた。
一体、旅の間に何があったのかを……。
それは例えばこんな感じだった。
啓《けい》太《た》が和室でテレビを見ている間、腹筋をしている。
「いやあ、最近、なまってきたからな〜」
とか言いながらリズム良く「ほっほっ」と上体を上下させた。ちなみに重し代わりにそこら辺にいた河童《かっぱ》を適当に頭上に抱えている。
「くけえ〜」
河童が所在なげに鳴いていた。
そして啓太は近くで塗《ぬ》り絵《え》をしていたともはねと「若草物語」を読んでいたカオルに声をかけた。
「お〜い、悪いんだけどさ、どっちか俺《おれ》の足首を押さえててくれないかな?」
そう頼まれた瞬《しゅん》間《かん》、
「はいはい! あたしやりま〜す!」
と、ともはねが元気良く立ち上がる。同時に控え目ながらカオルも片手を上げた。
「あ、私が」
そして振り返ったともはね。カオル。二人の視《し》線《せん》がばちっと絡《から》み合う。
「カオル様! あたし、やります、から、いいですよ!」
ともはねが一言一言区切って、強気でそう言う。
腰元に手を当てたりしている。むっと睨《こら》んでもいた。だけど、カオルも引いてはいなかった。申《もう》し訳《わけ》なさそうな弱気の表情ではあるものの、
「あ、でも、ともはれ。私」
「ですから、あたしの名前はともはねですったら! カオル様!」
「ご、ごめん。ともはね」
ちらっと啓太を見て、
「私、やりたいの」
はっきりときっぱりとそう言う。
「啓太お兄《にい》ちゃんのお手伝いをしてあげたいの」
うう。
ともはねが怯《ひる》んだ。
こうまではっきりそう言われて怯んだ。
一応なんのかんの言っても相手は川《かわ》平《ひら》家《け》の血筋を引くモノで、目上の存在なのだ。ともはねとしてはここは引かなければならないかもしれない。
だが。
「で、でもでも〜。啓太様のお手伝いはあたしの役目で」
まだ往《おう》生《じょう》際《ぎわ》悪くともはねが指をこねくり回して上《うわ》目《め》遣《づか》いでそう言う。啓太は啓太でそんな少女たちのやり取りに全く気がつかず、
「お〜い、どっちでも良いから早くしてくれよ!」
脳天気に腹筋のピッチを上げていった。
「くけくけえ〜♪」
河童《かっぱ》だけが喜んでいた。ふと。
見つめ合っていたカオルが表情を緩《ゆる》めた。
「じゃあ、二人で一《いっ》緒《しょ》にお手伝いしようか。どう?」
そう申し出る。
ともはねは逡《しゅん》巡《じゅん》した。ここはカオルの申し出を受けるべきか、あくまで我《が》を張り通すべきか。だが、カオルの表情は実に魅《み》力《りょく》的《てき》な、なんとも優《やさ》しげなモノだった。思わずともはねがほやんと気を抜きそうになる程《ほど》それは見事な見事な、犬を扱う者の表情。
下手《へた》したら薫《かおる》や啓《けい》太《た》よりもずっと上手《うま》い犬を懐《なつ》かせる雰囲気の作り方。
ともはねは慌《あわ》てて首をぶんぶん振った。
『ゆ、油《ゆ》断《だん》ならないわ、この子!』という横目でカオルを見やる。
「……や、やりますね、カオル様?」
しかし、自《みずか》らの才にまだ気がついていないカオルはきょとんとしている。
「なに? なんのこと?」
話が全く噛[#「噛」はunicode5699]《か》み合っていなかった。
一方、その部屋に更なる混乱が飛び込んでくる。
それは、
「ちょっとケイ! あんたなに勝手に人の家に入ってきてるのよ!」
ぎゃいぎゃい喚《わめ》いているようこと、
「あ〜、もううるさいな!」
耳を塞《ふさ》いで大声で叫び返している新《しん》堂《どう》ケイだった。ようこは空中を横《よこ》滑《すべ》りしながら新堂ケイの耳元で文句をずっと言い続けている。
「だいたいもう御礼をしにくる必要はないって言ったでしょ? あんた、邪《じゃ》魔《ま》なの! 邪魔なのよ! 邪魔なの! もう来なくて良いの!」
だが、ケイはきっぱりと宣言した。
「私は川《かわ》平《ひら》君に用があって来てるの! あなたの言うことなんか一切聞きません!」
彼女はゴスロリ風のぞろりとした黒いワンピースを着ていた。それからきょとんとして騒《さわ》ぎを見ている啓太に向かって、腕にかけていたバスケットを差し出し、
「あ、川平君。ちょっとクッキーを焼いてきたんだけど、食べる? もちろんこれも命を救って貰《もら》った御礼だからぜんぜん気にしないでね?」
少し頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を赤らめて上《うわ》目《め》遣《づか》いで見る。
「お、おう」
と、怪《け》訝《げん》そうにそれを受け取る啓《けい》太《た》。
むっき〜と怒ってるようこ。
はらはらしているカオルと「あちゃあ」と顔を覆《おお》っているともはね。そんな騒《さわ》ぎが起こっているとある日のことだった。
そして、その晩の事。
かつて死《しに》神《がみ》に魅《み》入《い》られし新《しん》堂《どう》ケイは川《かわ》平《ひら》啓太|宛《あ》てに書く手紙に苦《く》慮《りょ》していた。彼女はアンテイークの机に向かい、古風にも万年筆を使って便《びん》箋《せん》にこちょこちょと文字を書いていた。
『私はあなたのことがとってもフォーリングラブ!』
それからすかさず紙を握ってくしゃくしゃにする。
「あ〜、だめ! だめ! これじゃあ、ただの頭のおかしな女だわ! ただでさえ、年上だから引かれやすいのに……」
自分の文才のなさにがっかりし、ぽいっと屑《くず》籠《かご》に紙を放った。
屑籠の周りには同様にして打ち捨てられた紙くずが無数に散らばっていた。彼女は溜《ため》息《いき》をついた。
「はあ、大体なんで私、こんなことくらいで苦労しているのだろう……」
腕の中にがばっと顔をうずめる。
「同《おな》い年くらいの子はもっと普通に恋人とか作って普通に人生をエンジョイしてるのに」
自分ときたらまるで小学生のように訳《わけ》の分からないもやもやした気持ちを持て余している。
好きになってしまった高校生の啓太にどうアプローチしていいか分からない。
もうじき二十一にもなるのに。
でも、無理もない。
彼女は長い間、時を止められていたのだ。笑う事も、泣く事もせず、ただ漫《まん》然《ぜん》と死を待ち続けている間、少女らしい感情など一《いっき》切《さい》打ち捨てていた。
もちろん恋心なども。
だから最初は気がつかなかった。これが一体どういう気持ちなのか、と。ただ、『なんだか最近、川平君のことを考えている時間が長くなったな〜』と漠然と思っているくらいだった。
本当に最初は小さな女の子が持つような曖《あい》昧《まい》な好意にしか過ぎなかった。
それが変わってきたのはごく最近の事だった。
死神の呪《じゅ》縛《ばく》から解き放たれ、徐《じょ》々《じょ》に徐々に家運が上向きになってきて、さすがに全盛期とまではいかないものの、充分セバスチャンと二人暮らししていけるくらいのお金が入ってくるようになってきた。
今は二人で散らばった(死神の影《えい》響《きょう》を考え、セバスチャンが故意に他人《ひと》に委《い》譲《じょう》していた)新《しん》堂《どう》家《け》の財産を回収しつつ、管財人を立て、正《せい》確《かく》な資産の把握に努めているところである。上手《うま》くいけば失ってしまった家屋なども買い戻せるかもしれない。そうセバスチャンが語っていた。そしてそれと同時に新堂ケイは通信教育で高卒の資格を得るべく勉強も開始していた。
いずれ大学にも進学したいし、もっとスポーツや旅行などもしてみたかった。
彼女は長い間、失ってしまった貴重な青春の時をなんとか取り戻そうと必死だった。
そして。
おかしな事にそうやって彼女が生きる事に前向きに取り組み始めたとたん、最初、啓太がともはねと同《どう》年《ねん》齢《れい》くらいに見間違えた発育不全の身体《からだ》がみるみると成長をはじめたのだ。
もっともまだ年相応とはいかず高校生くらいの外《がい》観《かん》ではあるが。
それでも以前とは比べ物にならない背の高さ、凹《おう》凸《とつ》のつき具合だった。
ブラジャーも必要になったし、服もほとんど全《すべ》て買い換《か》えた。
そしてそれに従って心も変化していった。大人《おとな》の見《けん》識《しき》と高校生の身体。それが今のケイの状態だった。
「でも」
彼女は溜《ため》息《いき》をつく。
「こういった気持ちの問題はまだ私、小学生くらいなんだろうな」
いや、今時の小学生だったらきっともっと上手くやるかもしれない。
ケイは自分の思いをどう啓太に伝えていいか分からない。
それでも。
ケイはゆっくりと顔を上げた。練習しなければ話にならない。
再びペンを取り上げた。
またじいっと文面を考える。
恐らく背伸びして洒落《しゃれ》たことを書こうとするから無理が起こるのだ。最初は等身大にゆっくりと不器用な自分の思いの丈《たけ》を綴《つづ》ればいい。
そうだ。そうしよう。
最初、啓太と出会った時の気持ちを思い出して……。
無《む》為《い》に過ごしてきた自分。
投げやりに生を扱ってきた自分。
弱い気持ちを押し隠《かく》して諦《てい》念《ねん》したふりだけをただ続けて。
命を懸《か》けて戦ってくれる啓太を鼻で笑ったあの時。
だけど啓太はたった一言言ってくれた。
「だけどさ」
思えばあの瞬《しゅん》間《かん》から自分はもう既《すで》に救われていたのかもしれない。
「俺《おれ》にはお前の歌どうしても小さな子が『生きたい』、『生きたい』って泣き叫んでいるようにしか聞こえなかったんだよ」
なぜ戦うのか?
という問いに軽く笑ってそう答えてくれた。
思えばあの瞬《しゅん》間《かん》から自分はもう既《すで》に恋に落ちていたのかもしれない。
ケイはゆっくりと文章を綴《つづ》り始めた。
今度は確《かく》実《じつ》にしっかりと。
自分の言葉で。
『突然、こんな手紙を私から受け取ってさぞびっくりしていると思います。でも、どうしても気持ちが抑えられないのでお手紙を差し上げます。ごめんね。読みにくい文章かもしれないけどそれは我慢してください』
ケイは微笑《ほほえ》んだ。
『川《かわ》平《ひら》……ううん。ここでは啓《けい》太《た》君って呼ばせてください』
そう。
こういう時くらい少し馴《な》れ馴れしくても構わないだろう。
『ずっと前からあなたのことが好きでした。あなたの仕《し》草《ぐさ》、あなたの身体《からだ》、あなたの考え方何もかもが大好きです。唐《とう》突《とつ》過ぎるって感じるかもしれないけど、初めて会ったときからそう思っていました。本当に衝《しょう》撃《げき》的《てき》な出会いだったよね?』
ケイは死《しに》神《がみ》の一件を思い出していた。
『あなたには本当に沢《たく》山《さん》助けられました。いつの間にかあなたのことが私の中ですごく大きくなっていったんです。ごめんね。でも、もしかして年上は嫌いかな? それともそんなことじやなくって私の外《がい》観《かん》が気になる?』
ケイは自分の胸をちょっと見下ろしてみた。
どう見ても高校生くらいの身体だ。
『でも、これでも心は立派な大人《おとな》のオンナなんだよ』
そこでケイは自分で書いた大人のオンナ≠ニいうフレーズが気に入って、くすっと小さく笑いながら、
『あのね、あなたも多《た》分《ぶん》、察しがついていると思うけど私は男の人との経《けい》験《けん》がほとんど……ううん、正直に言うね。まったくありません。でも、そこら辺の不足はなんでもサービスしてあげることでぜひ埋め合わせて頂きたいと思います』
悪乗りを始める。
『どんなえっちなことでもしてあげるよ、啓太君になら。ベッドの上では従順なシモベになります。どんな無理なプレイでも受け入れます。それにお望みなら逆に私が啓《けい》太《た》君を襲《おそ》ってあげる。女王様になってあげても良いです。だから私と付き合わない? お返事聞かせてください』
そう書き上げ、「あははは」と心地《ここち》よく笑った。
「まあ、いきなり、こんな手紙|貰《もら》ったら普通引くよね〜」
文面を読み返し、何度も頷《うなず》いた。
まあ、最後は悪ふざけが少し過ぎたけど本番に向けた良い練習が出来た[#「本番に向けた良い練習が出来た」に傍点]。
とりあえず書き出しが分かっただけでも大《だい》収《しゅう》穫《かく》だった。
ケイは満足そうにん〜と大きく伸びをした。
いずれにしてもケイはまだはっきりと啓太に気持ちを伝えるつもりはなかった。何しろ最初の事件以降、啓太にはまだ二度しか会っていないのだ。そんな状態で啓太に告白しても向こうは困るだけだろうし、自分に勝ち目もない。
それよりもっと親密になって、もっと自分の事を知って貰って、自分自身も啓太の事をさらに良く知ってからタイミングを見計らうつもりだった。
決して遅過ぎもせず、早過ぎもしないタイミング。
そしてその時こそこんなおふざけでなくきちんとしたラブレターを書き上げて、自分の名前を最後に署名して啓太に送るつもりだった。
だが、それまでは。
「ん。もっともっと気合入れて川《かわ》平《ひら》君に会いに行かないとな」
また差し入れするものを考え、ほっこりとにやける新《しん》堂《どう》ケイだった。
その次の晩、川平|宗《そう》家《け》の住まう本家の一室では間延びしたやり取りが繰《く》り広げられていた。
「あいはあいだからあいすまいる?」
木彫りの人形がカタカタ足を踏み鳴らして小首を傾《かし》げていた。
彼の目の前ではテレビがついててヒューマンドラマが放送されていた。
『なんやまた随《ずい》分《ぶん》とべタな台本やなあ。今時ようやらんでこんな難《なん》病《びょう》もの』
ちゃぶ台の上に載っていた小型の給湯ポットみたいな機《き》械《かい》がパタパタと外部につけられたパネルを回転させてそうコメントしていた。後ろの箪《たん》笥《す》にとまっていた木彫りのニワトリがこけ〜と羽を広げた。
ここは川平本家の居《い》候《そうろう》、赤《せき》道《どう》斎《さい》のシモベたちに与えられた六《ろく》畳《じょう》間《ま》だった。
各関節が球で繋《つな》がれており、身体《からだ》を動かすたびにカタカタと音を鳴らすのが魔《ま》導《どう》人《にん》形《ぎょう》クサンチッペ。そして、木彫りのゴツゴツとしたニワトリが変幻自在のコスプレ製《せい》造《ぞう》機ソクラテス。元々は超巨大な筐《きょう》体《たい》に収まっていたが、諸事情によって復活してからはコンパクトに作り変えられたのが〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉である。
それぞれ主《あるじ》、赤道斎を慕《した》う、彼の創造物だった。
現在、三者三様、大人《おとな》しく川《かわ》平《ひら》宗《そう》家《け》や仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の監《かん》督《とく》の下、更正プログラムに従事していた。
特にクサンチッペは一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、人間の事を学習して良い子になろうとしていた。
こうしてテレビを見る(一応、教育上良いか悪いか、見る番組は〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉がチェックしていた)のもその一《いっ》環《かん》だった。
クサンチッペは小首をかしげ、〈大殺界〉を振り返った。
「ところであいってなに?」
そう尋《たず》ねる。一《いっ》瞬《しゅん》、〈大殺界〉も返答に困った。意外に深い質問だった。彼はそれから、
『あ〜、つまりは好き、ということや』
と、とりあえず無《ぶ》難《なん》にそう答えておいた。この答えでそう間違いでもないだろう。クサンチッペは反対側に小首をかしげる。
「すき?」
『そ〜や。まあ、好きのちょっとあくの強いバージョンと思ってればだいたいあってる』
「きらいのはんたい?」
『そ〜や』
と、相変わらずおっとりと〈大殺界〉
『お前さん、好き、という感情くらい分かるやろ?』
木彫りの人形はぐるぐると首を回した。それからカタコト足を踏み鳴らし、
「わかる。ますた、すき。おまえ、すき」
『お〜きに』
と、笑いを含んで〈大殺界〉
クサンチッペは木彫りのニワトリをぺちぺち叩《たた》きながら、
「こいつもすき」
そう言った。こけ〜とソクラテスが嬉《うれ》しそうに羽を広げた。クサンチッペはさらに考える。
「あとあと」
それから彼はもう一人人間の名を挙《あ》げた。
「かわひらけいたもけっこうすき」
『ほう』
〈大殺界〉が意外そうに声を上げた。さすが変わったもんに好かれはるお人や、とか思ったがそうは口に出さず、
『それはええこっちゃな。そうやって仲間以外のもん好きになるってのはだいぶ人間に近づいた証《しょう》拠《こ》やで』
幾《いく》度《ど》か外装のランプを点滅させて頷《うなず》く。クサンチッペは突然、
「あれ、なにやってるんだ?」
そう言ってまたテレビを指差した。〈大殺界〉はそちらに注意を向ける。それから、
『あ〜、あれはラブレターちゅうもんを書いているところや』
ちょうど余命いくばくもない主人公がヒロインへ向けて思いの丈《たけ》を切々と便《びん》箋《せん》に認《したた》めているところだった。
『あ〜やって、好き、ちゅう気持ちを文面にして届けるやり方や』
魔《ま》導《どう》人形はしばらくじっと考えていた。
『まあ、ちょっと古風やけどな、いかにも人間的な行為やな』
魔導人形はじっと画面を見つめていた。
完《かん》璧《ぺき》な記《き》憶《おく》回路を持つ魔導人形はそして、
「おれ、かわひらけいたにらぶれーたかく!」
高らかにカタコトとそう宣言した。
「おなじようにかいて、にんげんのこころもっとわかる〜」
ソクラテスがこけ〜と羽を広げていた。
同じ時刻、川《かわ》平《ひら》本《ほん》家《け》の奥《おく》座《ざ》敷《しき》では川平|宗《そう》家《け》が大スクリーンの前で正座をしてゲームをやっていた。
「ん」
じっと横スクロールで流れる文字を睨《にら》み、
「なるほどなるほど。やっぱり『灼《しゃく》熱《ねつ》のオーブ』を『永遠の夢の都』で予《めらかじ》めとっておかなければならなかったわけじゃの」
と、頷《うなず》く。それから近くの文《ふ》机《づくえ》によっこいしょっと移動し、その上に置いてある和紙にこちょこちょと走り書きでメモを書き記《しる》した。
「いや、なかなかに複《ふく》雑《ざつ》なものじゃの最近のゲームは」
その後、大《おお》真《ま》面《じ》目《め》な顔で紙を取り上げ、今までの記述を念入りに確《たし》かめる。和紙には他にも『仮《かり》名《な》≠パーティーから外した状態で王に会う』とか『鉄巨人を倒すには三番目の影《かげ》をテルトーン』などとゲームの攻略に必要な情報が記されてあった。
川平宗家がやっているのは最近発売された大作RPGゲーム『イービルファンタジーV』だった。普《ふ》段《だん》、シューティングやアクションゲームが専門であまりRPGをやらない宗家だが、この『イービルファンタジーシリーズ』だけは例外的によくやっていた。実は昔このゲーム会社の社長を霊《れい》障《しょう》から助けた事があった。
その社長が宗《そう》家《け》の趣《しゅ》味《み》がゲームと知って義理堅い事に、自社で発売される全《すべ》てのゲームを只《ただ》で送ってきていたのだ。
そのため宗家も、
「まあ、タダならやってやるか」
と、こうやってメモをまめに取りつつ、ゲームにせっせと勤《いそ》しんでいるのだ。
と。
『でろでろでろでろ〜ん』
宗《そう》家《け》がステータス画面にしておかなかったため、オートエンカウントが起こって画面上に氷の魔《ま》人《じん》≠ェ現れた。
「しまったしまった!」
宗家は年に似合わぬ身のこなしでしゅいんとまたスクリーンの前に跳び戻ると早速コントローラーを取り上げ、
「ほ!」
と、掛け声をかけてリアルタイムシミュレーションバトルに戻った。その際、急に立ち上がったため、文《ふ》机《づくえ》が揺《ゆ》れ、その上に置かれていた封筒が机と壁《かべ》との間に落下してしまったことに気がつかなかった。
「むう。なかなかに強敵じゃの。MPが足りるかどうか……」
熱《ねっ》心《しん》に氷の魔人との戦《せん》闘《とう》に意《い》識《しき》を注《そそ》いでいる。と、そこへ、
「宗家様」
ふわっと襖《ふすま》を透過して白《しろ》装《しょう》束《ぞく》の犬《いぬ》神《かみ》はけが現れた。
「お呼びでしょうか?」
彼は恭《うやうや》しく一礼してそう言う。
「おう」
宗家は上《うわ》の空《そら》で返事を返した。
「悪いんだがの、その机の上にある手紙を啓《けい》太《た》のところまで届けてくれんかの?」
「はい? ……手紙?」
はけは宗家が振り返らず指差した方向を見やって小首を傾《かし》げる。それから苦笑した。
「あ〜はいはい、これですね」
文机一杯に和紙が散らばっていた。
はけはその数枚の和紙の端《はし》をとんとんと整《ととの》える(礼《れい》儀《ぎ》上、文面は読まなかった)と丁《てい》寧《ねい》に折り畳《たた》み、引き出しの中から取り出した新しい封筒に入れた。きちんと封もする。
「これを啓太様のところに届ければよいのですね?」
はけが封筒を手で掲げて一応の確《かく》認《にん》を取った。
宗家は未《いま》だ振り返らず大きく頷《うなず》いた。
「うん。それじゃ! でも、届けるのは今日《きょう》じゃなくって明日《あした》でいいぞ……うお、はけ≠ェ死んだ!」
「なんです?」
はけが優《ゆう》美《び》な顔をしかめ、問い返した。
「いきなり縁《えん》起《ぎ》でもない」
「なに気にするな。仲間の一人にお前の名前をつけておっての……他《ほか》には啓《けい》太《た》≠ニようこ≠フパーティーじゃ。いかん。このままだと啓太≠ワで死んでしまいそうじゃ」
はけは納《なっ》得《とく》し、それから苦笑した。彼は立ち去り際《ぎわ》、
「まあ、お楽しみもいいですが、ゲームは程《ほど》ほどにしてくださいよ? 目が悪くなります」
宗《そう》家《け》は目まぐるしく動くリアルタイムバトルにきちんとついていきながらこちらもふっと微笑《ほほえ》む。
「まあ、良いではないか。老い先短い老人のささやかな楽しみ」
「そういうことをあなたが言うと嫌《いや》味《み》にしか聞こえないんです」
はけは「かなわない」とでもいうように肩をすくめ、さらに穏《おだ》やかな慈《いつく》しむような目で宗家を見やると、
「では、仰《おお》せのとおり届け物は明日《あした》に回して、とりあえず夕飯の買い物に行ってまいりますよ」
そう言ってとんと畳《たたみ》を蹴《け》り、天《てん》井《じょう》に透過して消えた。
『でれれれででででれ〜』という不吉な音楽と共に、
「あ、全滅した……」
と、呆《ぼう》然《ぜん》と呟《つぶや》く宗家だけが後に残った。
同時刻。
啓《けい》太《た》は和室でテレビを見ながら嫌《いや》そうな顔をしていた。
「なんだよ? 俺《おれ》明日《あした》、一番運勢悪いのかよ?」
星座|占《うらな》いの結果、彼の星座がワーストだったのだ。啓太はそばにいた河童《かっぱ》を頭上に抱え上げ、
「でもま、占いなんてあてにならないよな?」
「くけえ〜♪」
高い高いされて河童が嬉《うれ》しそうに鳴いていた。
そして翌日。
空が不吉なくらいに晴れ渡った一日だった……。
啓太は居間代わりの和室で寝転がってテレビを見ていた。珍しいことにその時、啓太の周りには河童しかいなかった。
気《け》だるい昼下がり、啓太はクッションに寄りかかってふわっと欠伸《あくび》をした。壁《かべ》に背を預けた河童もうつらうつらと舟を漕《こ》いでいる。
「ん〜、いい感じで眠いにゃ」
むにゃむにゃと口を動かし、啓太そう呟《つぶや》いた。と、その時。
「失礼しますよ、啓太様」
ふわっと壁を透過してはけが現れた。啓太は半目で、
「うお〜い、はけ。久しぶり」
そう片手を挙《あ》げる。はけは恭《うやうや》しく一礼してから告《つ》げた。
「啓太様もお変わりなくなにより」
「かわらねえさ」
啓太はにへら〜と笑って言う。
「平和そのものだよ、俺は。なあ〜、河童?」
河童は「くけ?」と鳴いて、小首を傾《かし》げた。寝ぼけた口のはしから挺《よだれ》が糸のように垂《た》れている。はけはちょっと苦笑した。それから懐《ふところ》の手紙を取り出し、啓太に向かって差し出す。
「これは我《わ》が主《あるじ》よりの書状です。その場でお返事を頂けたら、とのことです」
「あいあい」
啓太はそれを受け取り、封を切った。
それから大欠伸を一つして、
「なあ、はけ。なんか眠気覚ましにさ、お茶《ちゃ》でも入れてきてくれねえかな?」
そう言った。はけは微笑《ほほえ》み、頷《うなず》く。
「かしこまりました。では」
そう言ってから彼はふわっと天《てん》井《じょう》に飛び上がり、消えた。啓太は彼を見送り、ん〜と伸びをすると受け取った手紙を読み始めた。程《ほど》なく彼は大きく首を傾《かし》げる事になる。
「なんじゃ、こりゃ?」
一方、啓《けい》太《た》から用事を言いつかったはけは台所に向かった。何度かこの屋《や》敷《しき》は訪れた事があるので台所がある場所も正《せい》確《かく》に分かっている。はけは天《てん》井《じょう》からにじみ出て、影のようにその場に姿を現した。
と、そこでようこがガスコンロに向かって、何やら大《おお》鍋《なべ》でことこと煮込んでいた。ミニスカートにエプロン姿。前かがみで木製のお玉をかき回しながら小声でぶつぶつ呟《つぶや》いている姿がどこか魔《ま》女《じょ》めいていた。
はけがその背中に声をかける。
「ようこ。せいが出ますね」
と。そのとたん。
「ひ!」
ようこがまるで不意打ちで背中を叩《たた》かれた猫みたいにぴょんと膝《ひざ》を曲げてジャンプした。それからはけの姿を認め、
「も〜、はけかあ。びっくりさせないでよ」
笑いながら抗《こう》議《ぎ》した。
はけも微笑《ほほえ》みを浮かべながら、
「お料理中|申《もう》し訳《わけ》ありません。実は啓太様がお茶《ちゃ》を所《しょ》望《もう》されておりまして。おちゃっぱと急《きゅう》須《す》の場所を教えていただけると大変助かります」
「ケイタがおちゃを欲しがってるの?」
「ええ」
「ん〜、分かった。じゃあ、手が空《す》いたら私が持っていくから」
「いえ、それには及びません。私が」
はけがそう言ったとたん、ようこが笑ってちちっと指を振った。
「は〜け。いい? 台所はオンナの誇りある聖域よ。その家のことはその家のオンナに任せなさいな」
はけはちょっとびっくりしている。
それから穏《おだ》やかに優《やさ》しく微笑み、
「分かりました。では、お茶の件。確《たし》かによろしくお願《ねが》いしますよ」
丁《てい》寧《ねい》に一礼してふわっと壁《かべ》に同化し、消え去った。
ようこはん〜と伸びをし、
「よし、とっとと下ごしらえ終わらせちゃおうか」
真剣な顔になってお玉を再びかき回し始めた。
一方、啓《けい》太《た》ははけが持ってきた書状を縦《たて》にしたり、横にしたり、裏から見たり、光に透《す》かしたりして一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、意味を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》もうとしていた。だが、幾ら読んでも、
『啓太≠先頭にしてデラリア城に入る』
とか、
『砂漠のダンジョン内は右−左−左−左−右の順番で曲がる』
とか、訳《わけ》の分からない箇条書きしか書いていない。なんだこりゃ?
啓太はぽけ〜と彼を見上げている河童《かっぱ》を振り返り、
「ばあちゃん」
不安そうな顔になった。
「……少しぼけたのかな?」
頭の横をとんとんと指で叩《たた》いてみせる。
「くけっ♪」
と、河童が鳴いていた。
啓太がその書状を机の上に置いて考え込んでいると外から
「啓太様〜、なんか変なのが来てますよ?」
という声と共にフラノが入ってきた。見れば彼女は木彫りのニワトリを胸元に抱えていた。
「こけ!」
ニワトリが啓太の顔を見て嬉《うれ》しそうに羽を広げた。啓太はちょっと嫌《いや》そうな顔になった。フラノが面《おも》白《しろ》そうに、
「この子なんか手紙を持ってきたみたいなんですよねえ」
そう言ってニワトリをぐいっと突き出した。そのとたん、ニワトリは前足に掴[#「掴」はunicode6451]んでいた封筒をぽとりと畳《たたみ》の上に落とす。それからばさっとフラノの胸から飛び立って天《てん》井《じょう》近くを二、三度旋《せん》回《かい》するとこけ〜と鳴いて外に飛び出て行ってしまった。河童がよちよちとその後をついていく。フラノがなぜかおかしそうに大笑いした。啓太はため息をつきつつ(赤《せき》道《どう》斎《さい》関連のモノが訳の分からない行動をとるのはいつもの事である)木彫りのニワトリがおいていった手紙を取り上げた。
そこには、
『ラブレター』
と、大書されてあった。
啓太の目が点になった。フラノが「ほうほう」と興《きょう》味《み》深《ぶか》そうににじり寄って来る。
「ラブレター。誰《だれ》からでしょうか? あの子がわざわざ持ってきた訳ですから……もしかして赤道斎から?」
「お、おいおい嫌《いや》なこと言うなよ〜」
それは実は魔《ま》導《どう》人《にん》形《ぎょう》クサンチッペが人間の心を勉強するために送ってきたものなのだが、啓《けい》太《た》はそんな事情を知らないのですごく不安そうな顔になる。普通なら絶対にありえない事でも赤《せき》道《どう》斎《さい》なら平気でやってきそうだった。『男《だん》色《しょく》に目覚めた』とか言って。だから、彼は万が一の可能性を捨て切れないで封を切ることに躊《ちゅう》躇《ちょ》していた。
にやにや笑っている若《じゃっ》干《かん》意地悪なフラノ。
と。
その時である。
遠くのほうからもの凄《すご》い甲《かん》高《だか》い声と共にどたばた駆《か》ける足音が近づいてきた。
「川《かわ》平《ひら》君! 川平君! 川平君はいる!?」
それは新《しん》堂《どう》ケイの声だった。彼女は汗びっしょりの姿で扉《とびら》から飛び込んでくると、息を荒げ、
「よかったここに」
それから彼が手に持っている封筒を目に留《と》め、
「そ、それはなに?」
目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた。啓太はその剣《けん》幕《まく》に驚《おどろ》きながらも封筒をかざし、
「いや、見ての通り『ラブレター』らしいんだけど」
そのとたん、新堂ケイが神がかった跳《ちょう》躍《やく》を見せた。「$&$#($#!」言葉になっていない何かを叫びつつ啓太の腕にしがみつき、その手に握られた封箇を毟《むし》り取り、再度後ろに跳躍。
現役の犬《いぬ》神《かみ》使いと犬神が唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》とする程《ほど》の身体能力を見せつけ、
「こ、これは何かの間違いなのおおおおおおお!!!!」
そう叫んで封筒を抱えたまますてててと遁《とん》走《そう》した。
しばらく啓太もフラノも固まっていた。
互いに顔を見合わせそれから、
「お、おい! ケイ! いったいなんなんだよ!」
ようやく啓太が我《われ》に返って新堂ケイを追いかけ始めた。フラノもその後に続いた。
どたばたと足音が通り過ぎ、遠ざかっていく。新堂ケイははあっと深い溜《ため》息《いき》をついて腰を落とした。啓太たちが追いかけてくる前に一番手前の部屋に飛び込んでやり過ごしたのである。
古典的な手だが、どうやらその作戦が上手《うま》くいったようだ。
倉庫代わりに利用されているその部屋はダンボールや木《き》箱《ばこ》が山《やま》積《づ》みになっている。その中で新堂ケイは壁《かべ》に背を預け、
「は〜〜〜、あぶなかったあ」
と、深々と嘆《たん》息《そく》した。
本当に間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》のところで助かった。
あのどうしようもないおふざけで締《し》めくくったエッチなラブレターもどきをセバスチャンが余計なおせっかい心(プライバシーを尊重したため、冒頭部分しか読まず封に入れたようだ)を発《はっ》揮《き》して勝手に川《かわ》平《ひら》家《け》に送ってしまった、と知ったのが今朝《けさ》だった。
ケイは激《げき》怒《ど》と同時に真《ま》っ青《さお》になった。
あんなの啓《けい》太《た》に見られたらそれこそ取り返しのつかないことになってしまう。
とりあえず、
「はっはっは、いや、なに礼には及びませんぞ、お嬢《じょう》様。これで思い切れましたでしょう?」
とか寝言をほざいているセバスチャンを五、六発フライパンでどついておいて全力でこちらに向かって駆《か》けてきた。その速度はマラソン選《せん》手《しゅ》を遥《はる》かに凌《りょう》駕《が》していた。
死にたがってとにかくひ弱だった新《しん》堂《どう》家《け》最後のお嬢様の姿はもうそこにはなかった。
ただ限りなくケモノに近いオンナが一人いる。
とりあえず封を開け、中を確《かく》認《にん》しておく。
「えっと」
便《びん》箋《せん》に書かれた文章を読んで、
「ん?」
ようやく新堂ケイは己《おのれ》の間違いに気がついた。
「なに、これ?」
鼻の頭に皺《しわ》を寄せる。
同時刻、啓太とフラノは新堂ケイを捜して屋《や》敷《しき》をうろうろしていた。
「たっく、あいつなんなんだろうな?」
「あの方、赤《せき》道《どう》斎《さい》に格別何かの思い入れがあるのでしょうか?」
「え? もしかして新堂ケイが……赤道斎を好きだとでもいうのか?」
と、とんでもない誤解をされている新堂ケイ。
フラノがもっともらしく頷《うなず》いて見せた。
「なにしろ道ならぬ道こそ恋の茨《いばら》道《みち》なのですから」
あの二人にそんな接点なんてあったのかなあ?≠ニ啓太が見当違いに首をひねっている。と、そこへ廊下を滑るように進みながらはけがやってきた。
「おや、啓太様」
「おう、はけ」
啓太が片手を挙《あ》げ、はけに声をかけた。
「お前さ、新堂ケイ見かけなかった?」
「はて。新堂ケイ……死《しに》神《がみ》の一件のお嬢様ですよね? お見受けいたしませんが。こちらに遊びにいらしているのですか?」
「ん。まあ、そんなとこ。とりあえず見つけたらちょっと捕まえておいてよ」
啓《けい》太《た》はそう言って歩き出そうとする。それを今度ははけが呼び止めた。
「あ、啓太様、お茶《ちゃ》は」
「あ、それあとでいいや!」
「それと宗《そう》家《け》様のお手紙は」
「あ〜、あれな。なんかよく意味が分からなくてさ、ばあちゃん大丈夫なのかな?」
啓太はちょっとボケたのかな?≠ニいう意味合いで言っている。
「まあ、お前も読んでみてよ。さっきの部屋の机に置いてあるからさ」
そう言って啓太はフラノと連れ立って行ってしまった。
はけは怪《け》訝《げん》そうにそれを見送った。それから再び廊下を移動し始めた。
同じ頃《ころ》、新《しん》堂《どう》ケイはそおっと四《よ》つん這《ば》いで先|程《ほど》まで啓太たちがいた部屋に舞《き》い戻ってきていた。やっている事がほとんど空《あ》き巣《す》じみている。彼女はきょときょとと周囲を見渡し、とりあえず啓太たちが戻ってこないことを確《かく》認《にん》してから、先程自分が掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んで飛び出た手紙を机の上にそっと返しておいた。
お医者様から聞かされました。私はもう長くはないでしょう。ですから今、どうしてもあなたに伝えておきたいことがあるのです
という文章から始まるなんだかものすごく重病な人からっぽい手紙である。
それはクサンチッペがテレビから丸写ししただけあってところどころ要点が良く分からず全体的にはまるで意味不明だった。ただ、間違いと分かった以上、これは返しておかないといけない。
では、セバスチャンが勝手に出したケイの手紙は一体どこにあるのだろうか?
ケイは慎重な手つきで机の上の啓太の私物をそっと漁《あさ》った。
そしてはけが間違えて持ってきた宗家のテレビゲーム攻略メモを手に取る。
「なにかしら? これ」
その時である。
彼女の研《と》ぎ澄《す》まされた感覚は音もなくこちらに近づく何者かの気配《けはい》を感じ取っていた。
「!」
ぎらんと彼女の目がケモノの光を帯びる。ケイはその攻略メモを手に取ったまま、ものすごい勢いで横回転すると押入れの中に飛び込みぴしゃっと襖《ふすま》を閉じた。
間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》。
「おや?」
はけが小首を傾《かし》げて扉《とびら》から透過し、現れた。
「どなたかいらしたのでしょうか……」
新《しん》堂《どう》ケイは押入れの中で息を殺していた。だが、幸いなことにはけはそれ以上|詮《せん》索《さく》することもなくするすると机に近づき、今しがたケイが置いておいたクサンチッペからの手紙を手に取った。
はけはそれを宗《そう》家《け》から啓《けい》太《た》にあてた手紙、と思い込んでいるのである。
彼はそれを熟《じゅく》読《どく》し。
何度も何度も熟読し。
最後に、
今まで生きてこれて私は本当に幸せ者でした。ありがとう
という一文を読み。
ぽてんと横に倒れて気絶した。
えええええええええええええええええええ〜〜〜〜〜〜〜〜????
押入れの中でケイが声にならない突っ込みを入れていた。
一方、ようこはその頃《ころ》、台所でコンロの火を落とし、手紙の束《たば》に目を通していた。
「ふんふん。けっこ〜、電気代使っちゃったね。水道代はただだからいいけどやっぱり広すぎるよ、この家。ん〜と、次はなにこれ? くるまの広告? 別にいらな〜い」
ぽいぽいと必要な手紙とそうでないものをより分けていく。
その隣《となり》で神妙そうな面《おも》持《も》ちのともはねが突っ立っていた。
日に一度郵便受けから新聞や手紙をとってきて家の住人にそれぞれ手渡すのがともはねのお仕事だった。ようこはそして最後の一通。酷《ひど》く簡《かん》素《そ》な封筒に入れられた手紙の封を切った。
差出人の名に「仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》」とある。
「え〜と、先日、川《かわ》平《ひら》薫《かおる》の遺《い》留《りゅう》物《ぶつ》の検索に関して本局の許可を取ったところ該《がい》当《とう》する法令により=c…なにこれ?」
それからようこは宛《あて》先《さき》を良く見てみる。
川平啓太様、と書いてあった。ようこは「も〜」とともはねに文句を言った。
「これ、カリナさんからケイタ宛に来た手紙でしょ? 間違えて読んじゃったじゃない」
ともはねは無言だった。
逆にようこが怪《け》訝《げん》そうになる。
「どした?」
ともはねは困った顔をした。
「あのさ、ようこ」
「なに?」
ようこは台所の壁《かべ》に背を預け、すらりと長い素《す》足《あし》を組んだ。微笑《ほほえ》む。
ともはねは、
「え〜と、ダイレクトメールとか公共料金とかはようこに手渡せばいいんだよね?」
と、尋《たず》ねた。腕を組んで頷《うなず》くようこ。
「ん」
「で、他《ほか》の人|宛《あて》に来た手紙は普通読んじゃダメなんだよね?」
「と〜ぜんじゃない?」
「そうだよねえ」
ともはねはそう言いながら隠《かく》し持っていた本当の最後の一通をようこに手渡した。
ちらっとようこを上《うわ》目《め》遣《づか》いに見上げる。
「でも、こんなの来てるんだけど?」
ようこの身体《からだ》が硬直した。
そこには『川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》様へ 新《しん》堂《どう》ケイより』と書かれてあった。
ようこは固まったままじっとその手紙を見つめている。
先|程《ほど》ともはねに言った手前、封をびりびり開けて中を覗《のぞ》いて見ることが出来ない。以前のようこだったらそれを躊《ちゅう》躇《ちょ》なくやっていただろう。「こ、こんな手紙いかがわしすぎるもの!」とでも叫んで。
だが、精神的に成長を遂《と》げたようこはそれ故《ゆえ》にこそ外聞もあってその手紙を盗み見る事が出来なかった。
でも、読みたい。
すごく読みたい。
なんて書いてあるのかと〜っても知りたい。
「うう。と、ともはね子さん。こ、これはダメ。ダメよ、ケイタあてに来た手紙なんだから」
あくまで無理しているようこ。するとともはねがふうっとため息をついた。彼女は似つかわしくない労《いた》わるような笑《え》みで言った。
「あのね、ようこ」
「な、なにかしら、ともはね子さん?」
ひくついているようこ。ともはねは彼女の手をそっと優《やさ》しく取った。
「あのね、あたしはあんたの味方だよ。啓太様はやっぱりあんたと一《いっ》緒《しょ》にいるのが一番良いと思う。新堂ケイさまじゃなくってね。だから、あたしはそれを応援したい。ほら」
そう言ってともはねは手で目《め》隠《かく》しをするポーズをとって見せた。ようこは感《かん》激《げき》の面《おも》持《も》ちになる。
「ともはね子……」
それから彼女はようやく気がかりから解き放たれ、えらい勢いで封をびりびり切り始めた。ともはねは指の隙《すき》間《ま》からちらっとそれを見ている。ようこが中から便《びん》箋《せん》を取り出し、今まさに読もうとしたその時。
「お〜い、ようこ。新《しん》堂《どう》ケイ見なかったか?」
啓《けい》太《た》とフラノがそう言いながら部屋に入ってきた!
ようことともはねは全身の毛を逆《さか》立《だ》てた。
はわはわはわっと阿《あ》波《わ》踊《おど》りのように浮き足立って踊るようことともはね。
それから、
「し、しんどうけい? 見てないわよ、ぜんぜん。これっぱかりも。つうか来てるの? あいつまたわざわざ」
ようこが大《おお》慌《あわ》てで手紙を背《はい》後《ご》に隠《かく》して、背中越しに封筒に入れ直そうとした。ともはねが必死でフォローに回っている。
だが、二人とも慌ててやっているため、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》から来た封筒に新堂ケイから来た手紙を間違って入れ、ケイの手紙だと思って、仮名史郎からの手紙を握りつぶしてしまっている。しかも二人ともそのことに気がついていない。
啓太は怪《け》訝《げん》そうな顔つきになった。
「ん? ……おまえらなにやってるの?」
ようこは脳天から明るい声を出した。
「え、え〜と、ほら。手紙のチェック! あのね、ほら、ごめん。間違えてカリナさんから来た手紙開封しちゃった!」
「いや、それは別にいいんだが」
「はい!」
啓《けい》太《た》はようこから手紙を受け取って(差出人は仮《かり》名《な》になっているが実際に入っているのはケイからの手紙)小首を傾《かし》げた。
「ま、いいか。とりあえずケイ見つけたら捕まえておいてくれよな。いくぞ、フラノ」
「はいは〜い♪」
啓太がまた歩き出し、フラノが片手を挙《あ》げてそれについていく。ようこはそれを見送ってほっと安《あん》堵《ど》の吐《と》息《いき》をついた。だが、
「ようこ! 大変大変!」
ともはねがくしゃくしゃに丸めていた手紙を広げて真《ま》っ青《さお》になった。
「さっきの逆だったよ〜! 間違えて新《しん》堂《どう》ケイさまから来た手紙を啓太様に渡しちゃった!」
ようこも慌《あわ》てる。
一方、自《みずか》らの手紙がそんな状態になっているとは露《つゆ》知《し》らないケイは突然、気絶してしまった白《しろ》装《しょう》束《ぞく》のはけに取りすがっていた。
「ちょ、ちょっと! あんただいじょ〜ぶ? しっかりしなさい?」
美しく目をつむっている彼の身体《からだ》に馬乗りになり、頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》をぺちぺちと叩《たた》く。
だが、医学|知《ち》識《しき》のないケイにはどうして良いか分からなかった。ましてや相手は犬《いぬ》神《かみ》だ。と、そこへ、
「あの、啓太お兄《にい》ちゃん」
と、カオルが入ってきかけ、
「!」
ケイと死んだように横たわっているはけをじっと見つめ、
「……」
何も口に出さず、またぱたんと扉《とびら》を閉めた。それからたたたたっと怯《おび》えたように廊下を駆《か》ける足音。ケイは大慌てでカオルを追いかけた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! あんたなんか変な誤解してるでしょ!? まちなさ〜〜〜い!」
それとほぼ同じ頃《ころ》、啓太とフラノは偶然、廊下で特命|霊《れい》的《てき》捜査官仮名|史《し》郎《ろう》と行き会っていた。
「あっれえ〜、仮《かり》名《な》さま!」
フラノがびっくりしたような顔で叫んでいた。啓太も驚《おどろ》く。
「うお、なにやってるんだ、あんた?」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は謹《きん》厳《げん》に頷《うなず》いた。
「無断であがりこんですまない。ただ、どうしても急に手紙の返事が必要になったのでな。直接、返事を伺《うかが》いに来た」
「あん? 手紙?」
「なんだ? まだ届いて……ふ」
仮名史郎は小さく笑う。
「今、お前の手にあるのがまさにそれだ」
「ああ、これか」
啓《けい》太《た》は掲げて見せた。
「なにこれ?」
「ん?」
仮名史郎は少し迷う。実はお役所的な手続きに関する説明と幾《いく》つかの確《かく》認《にん》事項を列記したモノを送っていたので、
「いや、口頭で説明するより実際に読んでもらった方が早いだろう。そんなに手間ではないはずだ。お前の返事を早急に聞かせてもらえるとありがたい」
「ん。分かった。今読めばいいのか?」
「頼む」
啓太は額き、封筒から便《びん》箋《せん》を取り出すと読み始めた。フラノも横合いからひょっこりと顔を出して覗《のぞ》き見している。
その冒頭にはこんな事が書かれてあった。
『突然、こんな手紙を私から受け取ってさぞびっくりしていると思います。でも、どうしても気持ちが抑えられないのでお手紙を差し上げます』
啓太の目が点になった。
「どうした、川《かわ》平《ひら》?」
と、真《ま》面《じ》目《め》な顔の仮名にそう尋《たず》ねられ、
「あ、ううん。いや、なんでもねえ……」
そう言いながらも啓太はなんとなく一歩、仮名史郎から離《はな》れて文面に目を走らせた。
『ごめんね。読みにくい文章かもしれないけどそれは我慢して読んでください川平……ううん。ここでは啓太君って呼ばせてください』
いや、俺《おれ》は別にそう呼んで欲しくはないんだけど。
そう内心で突っ込みを入れながら啓《けい》太《た》は便箋をめくる。
そこには更に過《か》激《げき》な事が書いてあった。
啓太の額《ひたい》から次第に汗が滴《したた》り落ち始めた。変な顔をしている仮名史郎。
ちなみにこの時点でフラノは悶《もん》絶《ぜつ》して脱落している。
啓《けい》太《た》は我慢しながら先を読み進む。
『ずっと前からあなたのことが好きでした。あなたの仕《し》草《ぐさ》、あなたの身体《からだ》、あなたの考え方何もかもが大好きです。唐《とう》突《とつ》過ぎるって感じるかもしれないけど、初めて会ったときからそう思っていました。本当に衝《しょう》撃《げき》的《てき》な出会いだったよね?』
啓太は栄《えい》沢《さわ》汚《お》水《すい》の一件を思い出していた。
『あなたには本当に沢《たく》山《さん》助けられました。いつの間にかあなたのことが私の中ですごく大きくなっていったんです。ごめんね。でも、もしかして年上は嫌いかな? それともそんなことじやなくって私の外《がい》観《かん》が気になる?』
すっげえ滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》気になる!
啓太は恐れおののきながら怪《け》訝《げん》そうな顔をしている仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》を見つめる。
どう見てもどう考えても立派なマッチョだ。
『でも、これでも心は立派な大人《おとな》のオンナなんだよ』
そ、そうだったのか!
『あのね、あなたも多《た》分《ぶん》、察しがついていると思うけど私は男の人との経《けい》験《けん》がほとんど……ううん、正直に言うね。まったくありません。でも、そこら辺の不足はなんでもサービスしてあげることでぜひ埋め合わせさせて頂きたいと思います』
啓太はがくがくと震《ふる》え始める。
怖い。
この目の前にいるイキモノガひたすらコワイ。
そして、
『どんなえっちなことでもしてあげるよ、啓太君になら。ベッドの上では従順なシモベになります。どんな無理なプレイでも受け入れます。それにお望みなら逆に私が啓太君を襲《おそ》ってあげる。女王様になってあげても良いです。だから私と付き合わない? お返事聞かせてください』
最後まで読み終えて。
彼の中でぷつんと何かの大事なものの糸が切れた。
「ふふふ、そうだったのか……知らなかったよ……俺《おれ》知らなかったよ、仮名さん」
「ん? そうか?」
と、あくまで真顔の仮名史郎。
「そんなに意外なことでもないと思うのだが」
「いまさらそういうこと言う?」
「言うとも。(お役所仕事では)必然的に導《みちび》かれる過程だ。で、お前はどうするんだ?」
「どうする?」
そう問いかけられ、啓太はゆらあっと暗い影《かげ》の差した顔で振り返った。
いつの間にか彼の指先には限界に近い量のカエルの消しゴムが握られていた。
「な、ちょ、ちょっと待て!?」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が叫んだ。
「一体なにを怒っているんだ? そんなに(法手続き的には)無理なことは訊《き》いていないだろう!?」
「あははははははは! 無理! これが無理じゃないと言うか、仮名史郎!」
啓《けい》太《た》は乾いた笑い声を立て、首を一度二度ぐるんぐるんと回した。それから凄《せい》絶《ぜつ》な笑《え》みを浮かべ、
「これが」
すうっとテイクバックの姿勢をとる。目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》く仮名史郎。
「俺《おれ》のこたえだああああああああああああああああ!!!!」
ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ!!!!
大《だい》爆《ばく》発《はつ》が起こる。
命からがらそこから逃げ出す仮名史郎。
「ま、まて! まて! 話し合おう! 川《かわ》平《ひら》啓太!」
「まだいうか、この!」
ここで息の根を止めなければ。
そんな鬼の形《ぎょう》相《そう》で啓太が追いすがってくる。必死で逃げる黒《くろ》焦《こ》げの仮名史郎。そこへようことともはねが行き会って、
「あ、仮名さん! 手紙を!」
と、言いかけたが既《すで》に錯《さく》乱《らん》してカエル消しゴムを辺《あた》り一面無差別にばら撒《ま》いて投げる啓太に悲鳴を上げる。
「いやあああああああああああ!!! な、なんなの一体?」
そこへ更に、
「ひ、ひとごろしいいいい!!!」
と、泣き叫びながら駆《か》けてくる川平カオルと、
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! あんた、よりにもよってそんな、人聞きの悪い!」
追いすがる新《しん》堂《どう》ケイがいた。
大パニック。しっちゃかめっちゃか。様《さま》々《ざま》な誤解が解け、ようやく啓太が落ち着き、カオルがケイから逃げなくなるまで実に半日以上かかったという
ちなみにケイの書いたラブレターは啓太が放ったカエルの爆《ばく》砕《さい》によって黒焦げになり、うやむやになってしまった。ほっと安《あん》堵《ど》の吐《と》息《いき》をついたケイとそれを疑《ぎ》心《しん》の目で見つめるようこ。
余《よ》談《だん》だが川《かわ》平《ひら》宗《そう》家《け》は無言で帰ってきた後、ひたすら涙を流しながらきゅっと抱きついてくるはけにひどく困《こん》惑《わく》したという……。
そんなある日のお話。
「はあ? そんな仮《かり》名《な》さん急に」
携《けい》帯《たい》電話に向かって啓《けい》太《た》が文句を言っていた。
その日、たまたま啓太の隣《となり》には『赤毛のアン』の文庫本を読んでいるカオルしかいなかった。カオルは彼が、
「だっからさあ、ど〜してあんたいつもいつもそ〜唐《とう》突《とつ》なのかな? 俺《おれ》だって予定の一つや二つあるんだぜ?」
と、グチグチ通話先に文句を言っているのを聞いて、『ああ、また仮名|史《し》郎《ろう》さんから急な依頼が来たのかな?』と思っていた。
『確《たし》かに仮名さんの仕事ってペイは良いんだけど、あの人と関《かか》わると訳《わけ》の分からないことばかり起こるから割に合わないんだよね〜』と啓太がぼやいているのを何度か聞いた事がある。だけど、なんのかんの言って面《めん》倒《どう》見《み》の良い啓太は最終的には仮名史郎の依頼をなし崩《くず》し的に受けてしまう事になるだろう。
その程度には川《かわ》平《ひら》啓太という人間が分かってきていたカオルはくすっと本のページを捲《めく》りながら微笑《ほほえ》んだ。
と、その時。
今の今までめんどくさそうだった啓太の声が一変した。
「え? マジ? 本当に?」
カオルがぴくっと顔を上げた。
その声の変化にはどこか聞き覚えがあった。見れば啓太の顔がへにょおっと崩《くず》れていた。
「ほんと? も〜、仮名さんったら、からかったらボク怒るからね?」
声が実に軽《けい》薄《はく》な調《ちょう》子《し》だ。
ふわふわと今にも踊り出しそうに身体《からだ》を揺《ゆ》すっている。目元がだらしなく垂《た》れていた。それから彼は、
「お〜、まっかせてよ、それくらい。俺と仮名さんの仲じゃない。おっ安いご用さ♪」
さっきとは全く違う台詞《せりふ》を吐いていた。
カオルはいや〜な予感がしていた。
啓太はしばらくにこにこと仮名の話を聞いていたが、
「うん、わかった。もうこっち来てるんだね? うん、うん。全然ノープロブレム!」
そう言ってかちゃっと通話ボタンを切った。それから急にはっとした表情になり、慌《あわ》てて周囲を見回した。
どうやらようこがそばにいないか確かめているらしかった。カオルは自分でも意《い》識《しき》していないどこか冷ややかな半目になって、
「……啓太お兄《にい》ちゃん。なにか女の人|絡《がら》みで仮名さんからお仕事が来たの?」
そう言った。そのとたん啓太がびくっとした表情になった。
「え? な、なんで分かったんだ?」
『わからいでか!』
と、内心カオルは思ったが口には出さなかった。無理をしてひくつく頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》をこらえ、
「う、うん。なんとなくそう思ったの」
それだけ言った。すると啓《けい》太《た》がにたあっとまた表情を崩《くず》して、
「そっかあ。カオルは鋭《するど》いなあ。そうともさ」
彼はカオルの髪をくしゃくしゃ撫《な》でながら、
「仮《かり》名《な》さんのすっごく綺《き》麗《れい》な妹がこれからうちにやってくるんだってさ! なんでも俺《おれ》に是《ぜ》非《ひ》会いたいんだって!」
カオルはそれを聞いて絶対、絶対しばらく啓太に張りつこうと思った。
その仮名さんの妹のためにも。
この家の平和のためにも。
「なんかねえ〜、もんのすごい才女らしいぜ、仮名さんの妹」
仮名さんの妹を出迎えるべく啓太が庭を歩きながら、そう言っていた。カオルは彼の横をちょこちょこついてきながらうんうん頷《うなず》いていた。
「なんでもトリプル200の異《い》名《みょう》があるんだと」
と、啓太が説明する。カオルが小首を傾《かし》げた。
「トリプル200?」
「お〜。えっと仮名さん前になんて言ってたかな? まず若くして大学の助教授で、IQがなんと200」
カオルが目を丸くした。
IQ200と言えばそんじょそこらにはいない半《はん》端《ぱ》ではないくらいの天才だ。啓太はつくづく感じ入ったように、
「俺なんててきと〜にやってたらチンパンジーと同じくらいの数字が出ちゃって再検査させられたからな〜」
それはそれでどうかと思うが。
カオルは冷や汗を掻《か》いている。
ちなみにカオルはかなり優《ゆう》秀《しゅう》で学校の検査でもIQ140という一般人を遥《はる》かに飛び抜けた数値を叩《たた》き出したことがある。
それから考えてもIQ200は高過ぎた。
「あとな、スポーツや芸術分野にも秀《ひい》でていて貰《もら》ったトロフィーや賞《しょう》状《じょう》が全部で200あるんだと」
はあっとカオルが溜《ため》息《いき》をついた。
彼女は運動神経は決して悪くないが、絵の素《そ》養《よう》も、音楽の才能もまるでないのでそういう人の話を聞くと率直に感心してしまう。
「あと、異性から告白された回数が実に200」
最後に啓《けい》太《た》がそう付け加えた。
カオルはただただ感心していたが逆に啓太はちょっと苦笑していた。
「まあ、ここまで揃《そろ》ってると逆に胡《う》散《さん》臭《くさ》いよな。仮《かり》名《な》さんの欲目も入ってるからさ、あんまり額《がく》面《めん》通りに受け取るのもどうかと思うけど」
啓太はくすくすと笑った。
「まあ、でも、美人なのはたぶん間違いないと思うよ? 仮名さん、ああ見えて面《つら》だけはいいしさ」
「……で、その妹さんはどういう目的でいらっしゃるんですか?」
カオルがそうやって何気なさを装《よそお》って問いかける。
啓太はうひっと不気味に笑った。
「だからあ、俺《おれ》に興《きょう》味《み》があるんだって。なんかねえ〜、俺のこと仮名さんから聞いてど〜しても直《じか》で会いたいって大学の研究室から飛び出してきちゃったんだってさ」
「そう、ですか」
カオルは小さく幾度も頷《うなず》いていた。
やっぱりようこが出かけている今、この家の安《あん》寧《ねい》を守れるのは自分しかいないようだった。凄《すご》い美人を目《ま》の当《あ》たりにして啓太が暴《ぼう》走《そう》するようなことがあったら身を挺《てい》してでもそれを止めなければならない。ようこや、ともはねや、そしてちょっとだけ自分のためにも。
カオルがそんな事をうんうん考えているといつの間にか家の敷《しき》地《ち》と森の境《きょう》界《かい》線《せん》のところまでやって来てしまった。
「えっと、羽根飾りの付いた帽子を被《かぶ》ってるからすぐ分かるらしいんだけど」
啓太が小手をかざして森に続く小道をみやる。
と。
その時。
ずしん、と一度地面が揺《ゆ》れた。
「ん?」
啓太が眉《まゆ》をひそめた。
「地《じ》震《しん》か?」
ずしん。
また大地が揺《ゆ》れた。梢《こずえ》が震《ふる》え、小鳥が慌《あわ》てたように飛び立つ。空気が鳴《めい》動《どう》する。気配《けはい》が殺《さっ》気《き》立っていく。
ずしん。啓《けい》太《た》もカオルも焦《あせ》ったように周囲を見回し、ようやく気がついた。
ソレは、ゆっくりと。
だが、確《かく》実《じつ》に背《はい》後《ご》から近づいてきていた。
ずしん。
地《じ》響《ひび》きがまた聞こえ、やがて啓太とカオルはすっぽりと黒い影《かげ》で覆《おお》われた。「ふご〜しゅこお〜〜」という人間とは思えない呼吸音。冷や汗をたらたら流しながら啓太とカオルがゆっくりと同時に振り返った。
「あ」
啓太が口をあんぐりと開けた。
「!」
カオルが口元を懸《けん》命《めい》に両の拳《こぶし》で押さえ、悲鳴を堪《こら》えた。
「あんぎゃあああああああああああああああああああ!!!!」
だが、啓太が我慢出来ずに叫んでしまう。
いつの間にかそこに。
謎《なぞ》の生命体が立っていた!
全く。
見た事もないフォルム。超重量の筋肉。それがソレの全《すべ》てを形成していた。喩《たと》えて言うと六千五百万年前に絶滅した恐《きょう》竜《りゅう》にどういう訳《わけ》かゴリラの血が入り混じり、突然変異で悪夢のような進化を遂《と》げたような。
だが。
ソレは驚《おどろ》いた事に人間のスカートを穿《は》いていた!
もちろん、通常の十倍サイズだが、明らかにスカートに見える布きれだ。しかもピンクだ。上半身は逞《たくま》しく盛り上がり、松の根のようにごつごつとした二の腕が鋲《びょう》を打った革のベストからぬうっと覗《のぞ》いている。
「あ、あの」
ソレがそれを振るえば恐らくコンクリートくらいなら楽々と粉《ふん》砕《さい》出来るだろう。
圧《あっ》搾《さく》機《き》のような分厚い手。
「えっと」
ようやく気分を落ち着けて啓《けい》太《た》が恐る恐る尋《たず》ねた。
「あなたなん……いえ、どなたなんですか?」
良く良く見れば確《たし》かに人間の形をしていた.
どうやら人間らしかった。
恐らく多《た》分《ぶん》きっと。
でも、一番はゴリラに似ている。
「あ、あろは〜」
啓太、ちょっと頭が白くなってハワイの言葉で挨《あい》拶《さつ》してみた。
ソレ。
と、しか言いようのないソレの眼球がぎろっと動いた。ちなみにソレは頭部と思《おぼ》しき場所に覆《ふく》面《めん》レスラーのような革のマスクを被《かぶ》っていた。
だから最初、実体がよく把《は》握《あく》出来なかったのだ。
あとスカートから覗《のぞ》く毛むくじゃらの足は裸足《はだし》だった。
「き、きこえてます?」
ソレが大きく一度、頷《うなず》いた。
啓太はちょっとほっとした。どうやら意志の疎通はなんとか可能なようだ。と、その時、今の今まで息を呑《の》んでただ固まっていたカオルが驚きの声を上げた。
「あ!」
そしてソレの頭上を指し示す。
啓《けい》太《た》も同時に気がついて思わず目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた。
ソレ。
は、派《は》手《で》な羽根飾りのついた帽子を被《かぶ》っていた。
「ええええええええええええええ???」
啓太が思わず叫んでいる。
「これが仮《かり》名《な》さんの妹〜〜〜〜!!!???」
色《いろ》々《いろ》なモノが信じられなくなった瞬《しゅん》間《かん》だった。
「ごふふふごふ」
ソレ。
いや、暫《ざん》定《てい》的《てき》仮名|史《し》郎《ろう》の妹≠ヘ浅い呼吸を繰《く》り返していた。どうやら咳《せ》き込んだり、笑ったりしているのではないらしい。
「ええ〜?」
啓太がショックのあまりちょっと精神退行している。
「でも、まさか本当に仮名さんの妹?」
嫌《いや》々《いや》をした。
「嘘《うそ》だよね? え〜?」
「で、でも、ほらあの人、目印の帽子を被ってますし」
カオルがまた指をさした。
被っている、というかちょこんと帽子がソレの頭の上に載《の》っている。
「がふがふ」
ソレがまた肩を震《ふる》わせ、呼《こ》気《き》と吸《きゅう》気《き》を繰り返した。
「え〜?」
啓太は妙な半笑いで口元を拳《こぶし》で押さえ、
「だって、おい、待ってよ。待ってくれよ.コレの一体どこがどートリプル200なの?」
カオルは大|真《ま》面《じ》目《め》な顔で顎《あご》先《さき》に指を当て、
「え〜と、身長と体重とそれと」
じっとソレを上から下まで見下ろして、
「胸囲ではないでしょうか?」
「なにそのびっくりニンゲン数値! つうか才《さい》媛《えん》関係ないだろう、それ!」
「がふうううううおう!!!! おうかああ! おうかあ!」
突然、ソレが胸を両手でばんばんゴリラのように叩《たた》き出した。
「な、なんだ? 突然、ドラミングを始めたぞ?」
「……きっと正解≠チて言いたいんじゃないでしょうか?」
まるでジャングルの奥地に霊《れい》長《ちょう》類《るい》の研究に来たかのような二人。
「おうおう!」
ひとしきりダンダン胸を叩《たた》くと、ソレ恐らくきっともしかしたら仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の妹≠ヘ懐《ふところ》に指を突っ込み、ぬうっと一枚の紙切れをそこから引っ張り出した。
「お? なんだなんだ? 今度はなんか胸部から取り出したぞ?」
「だ、ダメですよ、啓《けい》太《た》お兄《にい》ちゃん。一応曲がりなりにも女性なんですからそんなまじまじと胸を見つめちゃ」
「おんな……なのかなあ?」
啓太とカオルがひそひそやっている間、ソレはずいっと啓太に紙切れを差し出した。啓太はそれを受け取り、
「ど、どうも」
と、冷や汗を掻《か》いて礼を述べた。
カオルも横合いから啓太の手元を覗《のぞ》き込んでみる。
『この子の取り扱いマニュアル〜命を失わないために〜』
そう書かれてあった。
しばし沈《ちん》黙《もく》。啓太も、カオルも、ソレもしんと黙《だま》り込んでいた。やがてようやく啓太が半泣き、半笑いで言った。
「はは、そうかあ。妹の『取り扱いマニュアル』かあ。仮名さん、ご親切にありがたいなあ」
「おうおう!!!」
ソレがまた同意するような鳴き声を上げた。
カオルが読み下していく。
「え〜と、『まずたっぷり水をあげてください。水が足りなくなると暴《あば》れ出します。ホースで直接、水をぶっかけるくらいでちょうど良いです。あと過度に日に当てると目も当てられないくらい暴れ出します。退屈しても暴れ出しますが、興《こう》奮《ふん》してもやっぱり暴れ出します。過度な刺《し》激《げき》は厳《げん》禁《きん》です。たいへん繊《せん》細《さい》な感受性の持ち主なので断じて怒らせないように。暴れ出します。ひどく』」
「結局どうやったって暴れ出すんじゃねえか!」
と、全力で突っ込む啓太。すると恐らくきっと仮名さんの妹≠ェ手をだらりと垂《た》らすモンキーウォークでゆっくりと身体《からだ》を左右に振りながら庭の中心に向かって歩き始めた。
啓太とカオルは顔を見合わせ、
「お、お〜い! 仮名さんの妹!」
「まってくださ〜い!」
慌《あわ》てて後を追いかけ始めた。
そして同時刻。
そこに全く予想をしていなかった客を迎えて大いに驚《おどろ》いているようこ、ともはね、フラノの三人の姿があった。
ようことフラノはスーパーからの買い物帰り。ともはねは自室でお薬を作っていたところだったのだ。居間に集まってきたところに本当に思いがけなく川《かわ》平《ひら》薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》、序列六位てんそうがうろうろと何かを捜しながら歩き回っていた。
「うわ! て、てんそう?」
と、目を丸くしてようこ。ずっと海外にいっていたはずの彼女が全く前触れなく家に戻っている事にも驚いたが、さらになぜか彼女は水の入ったバケツを手に持っていた。しかし、ともはねはそんなこと全く気にせず、ぴょんとてんそうに飛びついていく。
「わ〜い、てんそう。おかえり!」
同時にフラノも駆《か》け寄っていく。
「本当にてんそうちゃんだ! 大きくなりましたね〜久しぶりですね〜」
抱きつき、すりすりするフラノとともはね。もみくちゃにされるてんそう。だが、てんそうは彼女にしては珍しくきっぱりと二人を遮《さえぎ》った。
「みんな。ただいま。でも、緊《きん》急《きゅう》事態。一刻も早く捜し出して欲しいモノがいるの」
ようこたちは怪《け》訝《げん》そうに顔を見合わせた。
「ウクライナの大《たい》樹《じゅ》の精?」
ようこが大きく眉《まゆ》をひそめて皆を振り返る。
てんそうにしてはかなりの長《ちょう》広《こう》舌《ぜつ》で喋《しゃべ》った後、彼女はまた部屋から急ぎ足で出ていった。ともはねもフラノもてんそうとは付き合いは長いがあんなに切迫した様《よう》子《す》の彼女を見るのは初めてだった。
「そう言ってたよね、確《たし》か」
ともはねも腕を組んでもっともらしく首を捻《ひね》る。
「とにかく探しましょう! みんなで急いで!」
フラノがみんなを急《せ》き立てた。
一同、頷《うなず》き合い、部屋から出た。
てんそうは簡《かん》単《たん》に事情を説明していた。つまり薫《かおる》の捜索に役立つウクライナの大樹の精《せい》霊《れい》を、遥《はる》々《ばる》海を越えて連れてきたのは良いがこの家のどこかではぐれてしまったこと。元々が木の精霊なので、とにかく渇きに弱いという事。一刻も早く水を補給して欲しい事。なんでも良いから水を溜《た》めてそれをぶっかけてやれば良いという事。
で、でも一体、どんな外《がい》観《かん》をしているの、その精霊って?
と、ようこが尋《たず》ねたらてんそうは一言、
一目見ればすぐ分かるから
そう言い残していた。
「でもさあ、そう言われても困るよね?」
手洗い場でバケツに水を溜《た》めながらようこが言った。
と、その時。
「あ」
廊下の角を曲がってきた一人の女性がこちらに気がつき、声を上げた。
それはとても綺《き》麗《れい》な女性だった。ブロンドで青い目。白いブラウス。身長は比較的高いが、華《きゃ》奢《しゃ》で品格のある女性。
その女性が、
「た、たすけ!」
と、目に涙を浮かべ、よろめきながらこちらに近づいてきた。
これだ!
と、少女たちは思った。
これこそが大《たい》樹《じゅ》の精《せい》霊《れい》だ、とそう思った。
その証《しょう》拠《こ》にほら。
「たすけて……」
渇きに耐えかねて物欲しそうに手を伸ばしている。
そう思った。
だから、
「ほ〜ら、水だよ!」
少女たちは満《まん》面《めん》の笑《え》みでその美女に水をぶっかけていくことにした。
「え? ちょ、ちょ! ま!」
その美女は驚《おどろ》いて何か言いかけているようだが少女たちは一切気にしなかった。
「えいえいえい!」
ともはねはホースから直接顔面に向かって放水する。
「ほ〜ら、お水ですよう。元気出してくださいね♪」
バケツで頭から水をぶっかけるフラノ。
何か喋《しゃべ》ろうとする度《たび》、水が呼吸器に入り、息が出来ない美女一名。涙と鼻水でぐっちゃぐちゃになっている。
「な? ぶ! だ、だから水を! やめ! やめてくだ!」
しかし次の瞬《しゅん》間《かん》。
「え〜い! しゅくち!」
ようこがトドメとばかりに大量の水を彼女の頭上に転送して一気に解き放ったがため。
「あだだだだだだだだだだだだだだだ!!!」
どどどどっと滝のような水が一気に辺《あた》りに降り注《そそ》ぐ。
美女はぺしゃっと水圧で潰《つぶ》れた。きゅうっと目を回す。
少女たちはその時点になってようやく放水を止《や》め、不安そうに互いの顔を見合わせた。どう見てもその様《よう》子《す》は水を好む精《せい》霊《れい》のモノとは思えない。
「あれえ? これ?」
小首を捻《ひね》り、
「……だれ?」
がっくと大《たい》樹《じゅ》の精霊≠ノ間違われた仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の妹は首を垂《た》れた。屋《や》敷《しき》内を歩いているところで巨大な怪生物と遭《そう》遇《ぐう》。思わず悲鳴を上げて逃げ出し、その拍子に帽子を落っことしたなんて誰《だれ》も想像がつかなかったのである。
一方、その頃《ころ》、啓《けい》太《た》とカオルはうっほうっほと歩いていく仮名史郎の妹(だと思い込んでいる)の後を必死で追いかけていた。
「お〜い、帰ってこい! え〜と、うほ子さん! 仮名うほ子さん!」
勝手な名前をつけて呼んでいる啓太。
「戻ってきてください、おねがい!」
一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、呼びかけているカオル。
ソレはぶ〜らぶら手を揺《ゆ》らしながらきょろきょろと周囲を見回した。それから薫《かおる》の邸宅で一番大きなブナの木に向かって歩いていき、意外な程《ほど》の身軽さでするすると登り出した。実は木の精霊として他《ほか》の木に挨《あい》拶《さつ》をしたいのと、暑さを避けるためなのだが、啓太はそんな事は全く思わない。
やっぱりゴリラだ!
内心|酷《ひど》く感得していた。
「おいこら! ちょっとまて! ごりぽん! 帰ってこい!」
「お〜い、危ないですよ!」
だが、ソレは啓太たちの呼びかけには全く答えず、見る間に樹上目指して登っていく。
「ち!」
啓太は舌打ちを一つすると自《みずか》らも一番手前の太い枝に手をかけ、
「あ、あぶないよ。啓太お兄《にい》ちゃん!」
びっくりしているカオルの制止を振り切ってソレの後を追いかけた。
「まったく世話の焼ける!」
「うほっうっほほ!」
実に楽しそうに身体《からだ》を揺《ゆ》すりながら登っていくごりぽんこと推定|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の妹=Bその後をソレに負けないくらいの身軽さで追いかける啓《けい》太《た》。
そしてはらはらと手を組んでその様《よう》子《す》を下から見守っているカオル。
と、その時。
「ここにいたの……」
彼女の隣《となり》にいつの間にか立っている少女がいた。
カオルがびくっと身を強《こわ》張《ば》らせる。
全く見た事のない顔立ち。
ひょろりと背が高く、前髪で目が隠《かく》れている。カオルが「あ、あなた誰?」と、問いかけようとしたまさにその瞬《しゅん》間《かん》。
「あ」
と、小さくその少女。てんそうが口を開けた。
反射的にその視《し》線《せん》を追ってカオルも振り返り、思わず口元を手で押さえ叫ぶ。
「きゃ、きゃあ! 啓太お兄《にい》ちゃん!」
木の上で啓太が一瞬ずるっと足を滑《すべ》らせ、落下しかけたのだ。ずるずるっとそのままもの凄《すご》い勢いで彼の身体《からだ》がずり落ちていく。だが、彼は強引に幹に身体を寄せ、腕でぎゅっと木の表皮を抱きしめ、事なきを得た。
「だ、だいじょうぶ!」
と、しばらくしてから額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》い、下に手を振って見せる啓太。カオルがほっと安《あん》堵《ど》の吐《と》息《いき》をついて胸を撫《な》で下ろした。無表情にその様《さま》を見守っているてんそう。
啓太はさらに「うほほ、うほほ」言ってる物体を追いかけた。
「こ、こら! うほ子!」
「うほ?」
上で振り返るうほ子。
ようやく下から啓太が登ってきていることに気がついたようだ。二人の視線がばちっと絡《から》み合う。それから……。
「うほ?」
彼女。
恐らく女であろううほ子は啓太と自分の位置関係をじっくりと頭に入れた。啓太はちょうどほぼ真下にいる。そして。
「あ」
啓太は冷や汗を掻《か》いた。
「ば、ばか俺《おれ》は別に!」
慌《あわ》てて否定に走る。
真下。
ということはスカートの中身が啓《けい》太《た》の位置からだと丸見えになっているという事である。うほ子は考えた。見られてしまっている。
スカートの中身を。
「うほ」
それから。
両手を頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》に当て。
「いやん!」
と、赤くなっていやいやをするうほ子。
そこだけ日本語を喋《しゃべ》ってる。
「いやん≠カゃねええええええええええええええええええ!!!!!」
その瞬《しゅん》間《かん》、両手を木の枝から離《はな》したうほ子の身体《からだ》が凄《すさ》まじい質量と化して啓太の上に一気に倒れかかってきた。
視界一杯に広がる暗い影《かけ》。
啓太、絶叫。
二人まとめて自由落下。
「あぎゃあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
めりめりめきばしゃ!
凄まじい音が轟《とどろ》いた。枝が何本も一気にへし折れ、それを巻き込みながらうほ子と啓太が一体と化して地上に落下していく。
ばきべきぼきっ!
カオルが極限まで目を見開き、
「けいたおにいちゃあああああああああああああああああん!!!!」
叫ぶ。
同時にてんそうも走り出していた。
ぼこん。
そんな砲丸がめり込むような音を立てて啓太とうほ子が地面にぶつかる。舞《ま》い散る土煙。木片、木の葉。
クレーターのような跡。
「うほほおう」
うほ子が頭を両手で押さえゆっくりと上半身を起こした。そしてその下から啓太が、
「あでででで……あででで」
半《はん》死《し》半《はん》生《しょう》で這《は》い出してきた。推定重量二百キロが無防備な身体《からだ》の上に落ちてきたのである。普通の人間だったら間違いなくぺしゃんこになって即死していただろう。
だが、啓《けい》太《た》はなんとか辛《かろ》うじて生きていた。
「け、けいたおにいちゃん!」
と、裏返った声で駆《か》け寄ってくるカオルに、
「お〜〜」
と、右手を振る余裕さえある。
が、その右手が妙にぷらんぷらんしていた。啓太「ん?」と目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》く。なんか痛い。良く見ると肘《ひじ》のところからぽっくりあり得ない方向に折れ曲がっていた。
なんか完全に指先が逆になっている。
たいへん気持ち悪い感じだ。
「なんじゃこりゃあああああああああああああああああ!!!!!」
叫ぶ啓太。そのひどい有《あり》様《さま》を見てカオルがふらっと気を失って、倒れ込んでしまった。
「いで! いでででで! かなり本気でいてえ!」
ようやくその時、激《げき》痛《つう》を自覚してもんどり打つ啓太。カオルは完全に気絶している。てんそうが溜《ため》息《いき》をつき、こりこりと頭を掻《か》いた。
それから彼女はずんぐりと座って啓太の様《よう》子《す》を見ていたうほ子に近づき、その背中をぺちっといきなり平手で叩《たた》くと、
「啓太様をさっさと元に戻しなさい!」
彼女には珍しくかなり厳《きび》しい口《く》調《ちょう》でそう命令した。
うほ子はこくこくっと素直に頷《うなず》く。それからゆっくりと啓太にその分厚い手をかざした。するとその瞬《しゅん》間《かん》、驚《おどろ》くべき事が起こった。
啓太の身体がぽわっと青白く光ると、まるでビデオの逆戻しをかけたようにみるみると手が元に戻っていったのだ。
「え? な、なんじゃこれ?」
啓太が驚きの声を上げていた。手をプラプラさせてももう痛くもなんともなかった。同時にてんそうが一礼をしている。
「啓太様。たいへん失礼を、致しました……ごめんなさい」
さらに。
「ぼわあ〜〜〜〜!」
と、うほ子が言っている。啓太、目をぱちくり。
「このモノが新たに加わります、大《たい》樹《じゅ》の精《せい》霊《れい》です。ウクライナで捕《ほ》獲《かく》しました。特技は人の身体を癒《いや》すヒーリング。性格は見た目と違ってしゃい。ちょっと見た目以上に暴《あば》れん坊だから気をつけて取り扱って。以上」
ものすごく簡《かん》略《りゃく》化《か》した説明を一度しててんそうがぺこりと頭を下げた。その後ろでうほ子も「うほほ」っと鳴いて見よう見まねでお辞《じ》儀《ぎ》をしていた。ちょっと可愛《かわい》い。
それに対してようこは、
「はあ? な、なにそれ? もしかしてこれもうちに住むの? ちょっと困るんだけど! ねえ? ものすごく困るんだけど!」
一家を切り盛りする立場として焦《あせ》ったようにおろおろうろたえ、
「はあ、おっきいですねえ」
「おっきいねえ」
と、ともはね、カオルの年少二人はぽかんと口を開けてうほ子を見上げ、フラノが、
「あ〜、これがごきょうやちゃんが言っていた次の子なんですねえ。てんそうちゃん、大変だったんじゃないですか? この子日本につれてくるの?」
にこにこ笑いながらそう言った。
てんそうは深く頷《うなず》いた。
「乗せる船がちょっと……でも、大丈夫。意外に気立ては良いから。以後よろしく」
「よろしくじゃねえよ!」
と、それまで黙《だま》っていた啓《けい》太《た》がいきなり叫び出した。今、彼らは揃《そろ》って中庭に立っていた。啓《けい》太《た》の抗《こう》議《ぎ》を聞いてようこもまた前に出てきて文句を言った。
「そ〜よ! だいたいこんな大きな子、食べさせるだけで大変でしょ? うちそんな余裕ないよ? いつだってじり貧なんだから!」
「だいじょうぶ」
てんそうは無表情に答えた。
「これは水をたっぷり与えておけば大《たい》概《がい》、平気。あとは雑草や落ちてる木の実を食べるくらい。そんなに大食いじゃない」
「え? そうなの。だったら別にいいけど」
「お〜い! そんなんで簡《かん》単《たん》に納《なっ》得《とく》するなよ、ようこ! 大体だな! なんでお前らうちにこんな訳《わけ》の分からないモノばっか連れてくるんだ?」
「全部ごきょうやの指示」
「そ〜なんです。これはぜんぶがぜんぶこれはごきょうやちゃんの命令なんです」
てんそうが頷《うなず》き、フラノも笑いながら手を上げる。啓太は眉《まゆ》をひそめ、
「だから、なんでごきょうやはそんな意味不明の指示を出しているんだよ?」
「しらない」
と、てんそうはにべもない。けらけら笑っているフラノでは全く埒《らち》が明かない。やはりここは智《ち》謀《ぼう》ごきょうやの帰りを待つしかないのだろうか?
啓太はため息をつき、それでも何か一言言ってやろうと大きく口を開いたまさにその時、
「いや! いやあ!」
金切り声を上げ、洋《よう》館《かん》の方から妙《みょう》齢《れい》の女性が駆《か》けてきた。見ればとりあえず気を失ってしまったので冷たいお絞りをあて、和室に寝かせてきた仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の妹その人だった。
悲鳴を上げ、泣きじゃくる彼女の後ろからわらわらとてるてる坊主そっくりな砂漠の精《せい》霊《れい》が追いかけてくる。
どうやら好奇心|旺《おう》盛《せい》な彼らの興《きょう》味《み》の対象になったのだろう。
「め、目が覚めたら! 目が覚めたらアレが一杯いて!」
と、啓太に飛びついてぶるぶると震《ふる》える。啓太、こんな時だというのについ「にへえっ」と相《そう》好《ごう》を崩《くず》してしまった。美少女|揃《ぞろ》いの彼の周りに唯《ゆい》一《いつ》いない大人《おとな》の香《かお》りが激《はげ》しくした。
当然、ようこがムッとした顔になって啓太に詰め寄る。同時にふわふわと追いついてきた砂漠の精霊の一匹がうほ子に興味を持ってつんつんとつついてみた。
すると、うほ子が、
「うんがああああああああああああああああああ!!!!」
と、キングコングばりに怒って暴《あば》れ始めた。早速、新しい移住者を取り囲む好奇心旺盛な砂漠の精霊。ぶんぶんと鬱《うっ》陶《とう》しい彼らを追い払うべく腕を振り回し始める大《たい》樹《じゅ》の精霊。
吠《ほ》える。ジャンプする。猿《さる》。
場は一気に混乱に陥《おちい》る。
その様を見ててんそうが、
「相変わらずね」
一言|抑《よく》揚《よう》なくそう言った。隣《となり》でフラノが腹を抱えて、死ぬ程《ほど》笑っていた。
余《よ》談《だん》だが仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の妹が川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》に接触|調《ちょう》査《さ》して書き上げようとしていた論《ろん》文《ぶん》、
『怪異の特異点〜モノノケ誘《ゆう》引《いん》フェロモン仮説に関する一考察〜』
は結局、白紙に戻ってしまったという……。
その日、啓《けい》太《た》がくつろいでいる和室には四人の少女がいた。一人は『ロビンソンクルーソー漂流記』を読んでいるカオルで、もう一人は携《けい》帯《たい》ゲームに没頭しているともはねで、更にもう一人がお煎《せん》餅《べい》を囓《かじ》り、奥様向けのワイドショーを見ながらうんうんといちいちコメンテーターに相づちを打っているフラノであり、最後がぼうっと膝《ひざ》を抱え込んでまるで危ない人みたいに天《てん》井《じょう》を見上げているてんそうだった。
ちなみに年少の二人はぐだあっと横たわっている啓太にぴっとりと寄り添っている。
啓太は、
『うちの人口密度も随《ずい》分《ぶん》と増えたなあ』
とか、ぼんやり考えていた。
この少女たちの他《ほか》にも河童《かっぱ》とか、てるてる坊主みたいな砂漠の精《せい》霊《れい》や、ゴリラみたいな大《たい》樹《じゅ》の精霊(通称うほ子)がいるのだ。
『なんかうち、モノノケの寛《くつろ》ぎサロンみたいになりつつあるよな』
なんだか明るい諦《てい》念《ねん》と共にそんな事をしみじみ思っている啓太。
と、そこへ。
「おっは〜ん。みんな、新作のチョコレートケーキ出来たよ? 食べてみるみる?」
ミニスカートにエプロン姿のようこが上《じょう》機《き》嫌《げん》で部屋の中に入ってきた。彼女はふわふわと踊るような足取りで啓太に近づいてくる。
そのため。
「あ」
立ち位置的にその短いスカートの中身(しましまパンツ)が啓太に見えてしまう形になった。
「あ! も、もうケイタのえっち♪」
ようこはそう言ってどこか嬉《うれ》しそうにスカートの裾《すそ》を押さえ、一歩ひょいっと後ずさった。啓太が慌《あわ》てて起き上がり、赤面して言う。
「ば、ばか! 何度も言うけどな、だったら、そんな短いスカート穿《は》くな!」
「え〜? ケイタったらあ。それってもしかして独占欲?」
「ちげえよ!!!」
「短いスカート、ケイタだってキライじゃないくせにい」
くすくす笑いながらようこ。そんな二人のやり取りを黙《だま》って見ていたフラノがふと感心したような声を出した.
「はあ。ようこちゃんも恥《は》ずかしがったりするんですねえ」
その聞きようによってはバカも風邪《かぜ》をひくんですね〜≠ンたいな物言いにようこがムッとしたような表情になった。
「ちょっとなによ、それ、フラノ?」
「あ〜」
フラノはのんびりと笑いながら言った。
「気に障《さわ》ったらごめんなさいです。でもですねえ、なんか意外で」
フラノは付け加えた。
「ようこちゃんってそういうのあまり気にしない子だとフラノは個人的に思ってましたので」
その言葉にようこはなぜかちらっと啓《けい》太《た》を見た。
それから上《うわ》目《め》遣《づか》いでぺろっと赤い舌を出し、
「まあ、わたしもちっとは変わったってことよ」
そう言った。
どこか楽しそうに。
フラノは感心したように幾《いく》度《ど》か頷《うなず》いた。
「婦女の嗜《たしな》みですねえ」
すると今度はようこが眉《まゆ》をひそめた。
「というかフラノ。わたしからすればあんたこそまるで物事に恥《は》ずかしがらないように見えるんだけど?」
その言葉に今までゲ〜ムに没頭していたともはねがポーズボタンを押し、顔を上げた。うんうんと頷く。
「そ〜そ。フラノこそあたし恥ずかしがってるの見たことないよ?」
それに追《つい》随《ずい》して起き上がった啓太もまた言った。
「そ〜だよな。お前こそ前に序列争いのとき、十八禁キャラとか言って平気で俺《おれ》の前で胸出そうとしてたじゃないか」
するとフラノは皆を見回し、
「え〜? そんなことないですよ? あれだって啓太様に選《えら》んでいただこうとした精一杯のサービスですけど本当は恥ずかしいは恥ずかしいんです。ほらあ」
そう言ってからなんといきなりぺろんと巫女《みこ》服《ふく》の襟《えり》元《もと》をはだけて見せた。その瞬《しゅん》間《かん》、フラノの豊満な乳房が丸ごと外気に晒《さら》される。
本当に無造作に。
ぽろんとぺろんと乳房が露《ろ》出《しゅつ》した。
一同絶句した。
あまりの行為に空間が凍《こお》りついた。しかし、フラノはその空気を全く読まず、
「いやん。やっぱり恥ずかしいです」
と、頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を押さえ、嫌《いや》々《いや》をした。少し赤くなっていた。
しかし、あくまでその程度だった。
「ぶほ!」
半瞬遅れて、啓太が鼻血を吹《ふ》いて仰《の》け反《ぞ》った。
フラノは実に美乳だった。
大きくて、白く、形の良い。
それとピンク色の……。
「ふ、ふ、ふらのおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
ようこがようやく我《われ》を取り戻して金切り声を上げる。ともはね、カオル共に目を丸くしていた。啓《けい》太《た》が上半身を元に戻し、どこかイッてしまった目で、
「フラノ、ないすがっつ! ないすさーびす!」
手をわきわきさせながらどさくさに紛《まぎ》れてフラノの乳を思いっ切り揉《も》もうとする。だが、その突進を、
「けいたあああああああああああああ!!!」
と、ようこがヘッドロックで押さえ叫んだ。
「早く、それ! それしまいなさい、フラノ! しまいなさい!」
「え〜?」
「いいから!」
「は〜い」
そう言われてフラノはもたもた胸を服の中にしまい込んだ。啓太が悲痛な叫びを上げる。ようこがぎりぎりと更に啓太の頭を締《し》めた。
そこでフラノはにっこりと笑って指を立て、
「これでフラノが恥《はじ》知らずな娘《むすめ》じゃないことがお分かり頂けましたか?」
いけ図《ずう》々《ずう》しくそう言ってのけた。もうどこから突っ込んで良いか分からないようこ。
「ふ、ふらの。あんたねえ」
頭痛を抑えるようにこめかみを指で押す。
しかし、フラノの傍《ぼう》若《じゃく》無《ぶ》人《じん》ぶりはそこで止《とど》まらなかった。
「実はですねえ。本当に恥《は》ずかしがらないのはわたしではなく、実はてんそうちゃんだったのです」
そう言って出し抜けにてんそうのシャツを後ろからばっとはだけさせた。てんそうのブラジャーをつけた胸が露《あら》わになる。
肌色のどこかおばさんくさいブラジャーだ。
フラノはやってはいけない事をやっていた。
完全に一《いっ》線《せん》を越えていた。
「ほらあ」
と、得意そうにそう言うフラノ。てんそうは顔色一つ変えていない。啓《けい》太《た》が再起動した。
「ないすじょぶ! ないすすぴりっつ! ふらの! てんそ〜〜〜〜〜う!」
と、てんそうの胸に顔を埋めようとした。
その瞬《しゅん》間《かん》、ようこの怒りが頂点に達した。沸《ふっ》点《てん》を超える。
「この」
目にケモノの光が宿り、そして、
「いいかげんにしろおおおおおおおおおおおおおお!!!」
啓太を抱え込んで一気にジャーマンスープレックスを放った。実に綺《き》麗《れい》な弧《こ》を描いて啓太の頭が畳《たたみ》の上に叩《たた》きつけられた。
「ぐえ!」
啓太が潰《つぶ》れたカエルのような声を上げる。それからようこは啓太をぺいっと脇《わき》に放り、起き上がり、
「あんたも大《たい》概《がい》にしなさい!!!」
腰元に手を当て、がみがみフラノを叱《しか》った。
最後の方には、
「ふええ」
フラノがちょっと涙目になる程《ほど》それは凄《すさ》まじいものだった。
ともはねとカオルが溜《ため》息《いき》をついている。そして啓太は。
薄《うす》れゆく意《い》識《しき》の中でとあるアイデアを思いついていた。
その晩。
フラノが、
「ようこちゃん、最近、まるでせんだんちゃんみたいです」
ふかふかの枕《まくら》を抱えながらそう言っていた。唇《くちびる》をとがらせ、
「とってもとっても口うるさいです。フラノに厳《きび》しいです」
「いいことだと」
隣《となり》でてんそうがぼそりと呟《つぶや》いた。
「思う。というかあの場合、それが当然」
二人はてんそうの部屋にいた。共に寝《ね》間《ま》着《き》に着替え、ベッドの上でぐだぐだと無《む》駄《だ》話《ばなし》をしながら寝っ転がりお菓子を摘《つま》んだり、ジュースを飲んだりしている。仲の良い二人だけの寛《くつろ》ぎタイムだった。時計はもうじき十二時を指そうとしていた。
と、その時。
こんこん。
部屋の外でノックの音が聞こえた。
フラノとてんそうが顔を見合わせた。
「誰《だれ》でしょう?」
「さ、あ?」
てんそうも首を傾《かし》げる。それからフラノが声を上げた。
「は〜い、どうぞ! 鍵《かぎ》は開いてますから勝手に入ってきてくださいな!」
するとぎいっと扉《とびら》が開き、なぜかもの凄《すご》く生《き》真《ま》面《じ》目《め》な顔をした啓《けい》太《た》が部屋の中に入ってきた。彼は後ろ手にドアを閉めると渋い声で、
「邪《じゃ》魔《ま》するぜ、二人とも」
そう言った。フラノが目を丸くし、てんそうがぽかんと口を開けた。
「はいい? な、なんですか、啓太様?」
「随《ずい》分《ぶん》と夜《よ》更《ふ》け」
抗《こう》議《ぎ》、というより単に時刻の確《かく》認《にん》をしているかのような調《ちょう》子《し》でてんそうがぼそっとそう呟く。啓太は『分かってる。全《すべ》て分かってるけど何も言うな』とでも言うように手を広げ、
「まあ、非《ひ》常《じょう》識《しき》な時間の訪問つうことは百も承知さ。だけどな、ちょっとどうしても気になることがあってこうしてきちまった。いいか?」
そう言って彼は少女らの返答も待たず、化《け》粧《しょう》台《だい》の椅《い》子《す》を引っ張り出すと勝手にそこに腰を降ろした。フラノが毒《どく》気《け》を抜かれ、
「あ、はあ、どうぞ」
と、後から席を勧める。啓太は「ふう」と溜《ため》息《いき》をつき、顔を手で覆《おお》った。
しばらくの沈《ちん》黙《もく》。
かなり長い間の沈黙。啓《けい》太《た》は何事か考えているようだった。フラノ、てんそうが顔を見合わせる。それから意を決したフラノが、
「あ、あの啓太様?」
と、恐る恐る声をかけたところでようやく啓太が顔を上げた。
「由《ゆ》々《ゆ》しい」
彼は一言そう呟《つぶや》いた。眼光は鋭《するど》く、この世のどこでもない景色を見ている。
ひじょうにシリアスな雰囲気だ。
「へ?」
と、素《す》っ頓《とん》狂《きょう》にフラノ。てんそうはいつの間にかマイペースにお茶《ちゃ》を啜《すす》っていた。
「由々しいと」
啓太はふっとアンニュイに笑った。
「そう言ったのさ」
「ああ、はあ〜」
フラノが妙に納《なっ》得《とく》している。啓太はふうっと溜《ため》息《いき》をつくと、ちらっとてんそうを見《み》遣《や》り、気の毒そうに、
「このままだとてんそうに恋の訪れはないな」
「え?」
フラノがてんそうを振り返り、小首を傾《かし》げた。
「てんそうちゃん、がですか?」
「ああ、今日《きょう》のことを見て俺《おれ》は確《かく》信《しん》したぜ」
しかし、そんな二人のやり取りは全く我《われ》関《かん》せずと、てんそうはポッキーを端《はし》からこりこりと囓《かじ》っている。
「はあ」
と、フラノ。啓太はやや危《き》機《き》感《かん》を煽《あお》るようにして叫んだ。
「フラノ! これは乙女《おとめ》として異常なことなんだぜ!」
びくっとしたフラノの肩を揺《ゆ》さぶって叫ぶ。
「お前、友達としてこれは黙《だま》ってる場合じゃないぞ!」
「へえ?」
先《さき》程《ほど》から似たような間《かん》投《とう》詞《し》をひたすら繰《く》り返して目をぱちくりさせているフラノ。それからようやく弱々しく上《うわ》目《め》遣《づか》いで啓太に向かって尋《たず》ねた。
「あ、あのですね、フラノちょっと啓太様が仰《おっしゃ》ってること、よく分からないんですけど?」
啓太は一《いっ》瞬《しゅん》だけにやっと笑った。
食いついた!
そんな感じだったが、その雰囲気は即座に押し殺し、また沈《ちん》鬱《うつ》ないかにもてんそうの将来をただ憂《うれ》うような口《く》調《ちょう》に戻って言った。
「いいか? フラノ。男が女にもっとも魅《み》力《りょく》を感じる瞬《しゅん》間《かん》。それはどんな時だと思う?」
「ん〜」
フラノは顎《あご》に手を当て思い悩む。
「例えば病気をしているところにやってきておかゆを作ってあげたり、掃除をしてあげたりする時ですか?」
「おしい。あいや、それもあるけどもっと別」
「じゃあじゃあ、幼なじみで文句を言いながらも朝起こしに来てくれたり、『これ、義理なんだからね!』ってつんつんしながらチョコレートを渡したりする時ですか? いわゆるツンデーレっていう」
「……どこからそういう単語を仕入れてくるのか知らんけど違う」
「え〜と。たゆねちゃんがそうですよね!」
「あのさ、そういう精神的なことじゃなくってもっとなんつうのかな? 直接的なこと」
「直接的なこと……」
フラノは小首を傾《かし》げる。
「じゃあ、アレですか『ああ、とっても身体《からだ》が火《ほ》照《て》ってるの!』とか『今日は寝かせないから!』とかいうような台詞《せりふ》を扇《せん》情《じょう》的《てき》な格《かっ》好《こう》で言う奴《やつ》ですか? いわゆるベッドの上では大胆な女《め》豹《ひょう》系《けい》?」
啓太はん〜とこめかみを指で押さえ、首を振った。
「惜しいけどそういうのともちと違う」
さすが犬《いぬ》神《かみ》の中の最天然系で自称十八禁キャラ。他《ほか》の子とは全く違う会話が楽しめそうだった。
もしかしたらちゃんと上手《うま》くやれば他のどの犬神よりも仲良くなれそうな気がしてきた。
「あのさ、じゃあ、分かりやすくなでしこちゃんを例に出そうか?」
啓太がそう言うとフラノは楽しくなってきたのかころころと笑って頷《うなず》いた。
「はい!」
ちなみにてんそうは一人寝っ転がってカタログ雑誌を読み耽《ふけ》り始めた。
「いいか? まずなでしこちゃんを想像してみ?」
フラノはそう言われ、目を閉じると、
「うむむむむ」
難《むずか》しい顔で一《いっ》休《きゅう》さんみたいに左右の指を頭に当てるポーズを取った。それから、
「はい、できました!」
そう叫ぶ。啓太は笑いながら、
「よし。じゃあ、そのなでしこちゃんにだ、例えば俺《おれ》が胸を思いっきり触ったとする。一体どんな反応が返ってくる?」
「えっとですね」
フラノはまるで実際にその場を見ているかのようにゆっくりと喋《しゃべ》った。
「怒ってます。えっとにっこり笑ってます。でも、怒ってます。恐《こわ》いです。明らかに殺意を秘めています」
啓《けい》太《た》はごくりとつばを飲み込んだ。
それからフラノは付け加えて、
「あ、タイヘンです。そこに怒ったようこちゃんもやって来ます。ようこちゃんとなでしこちゃん笑い合っています。最強タッグ結成です。啓太様、焼かれてます、焼かれてます! 生身のまま高温で焼かれて黒こげです! ついでヤクザキック! ヤクザキック!」
「余計なところまで想像しないでいい!」
思わずぶるっと身《み》震《ぶる》いしてから啓太が叫んだ。
すると急にフラノが真顔になって目を開けた。啓太にぐいっと顔を近づけ、
「な、なんだよ?」
と、後ずさる啓太に向かって一言。
「えっとですね、啓太様。このフラノが時々、未来予知出来るのはご存じですよね?」
じいっと顔を見つめながらそう言う。啓太は頷《うなず》いた。
「あ、ああ。それがどうかしたか?」
「でも、ですね。啓太様、それをあえて言わないこともあるのです」
「ん? 未来を予言するとその人にとって良くない場合か?」
「ええ、それもあるんですけどねえ」
フラノはにこっと笑って言う。
「例えば朝になれば必ず日が昇る、とかご飯を食べれば必ずおトイレに行く、というようにあまりにも当たり前な未来です」
啓太はごくりとつばを飲み込む。
「あの、それってもしかして」
「はい〜。フラノにはほぼ毎日、啓太様がようこちゃんに折《せっ》檻《かん》されている光景が見えてますよ!」
啓太絶句。フラノはころころと笑い出した。
「啓太様って本当に丈夫ですねえ〜」
彼女はさらに付け加えた。
「あとあとですね〜。啓太様、近い将来、必ずまた信頼している女の人に裏切られますから!」
啓太はさらに愕《がく》然《ぜん》と膝《ひざ》を突いた。
フラノだけはおかしそうに笑っている。てんそうはふっと苦笑して、また別の雑誌を手に取った。夜は深々と更《ふ》けていた。
「ま、まあ、とにかく、だな。話を元に戻そう」
ようやく気を取り直した啓《けい》太《た》がこほんと咳《せき》払《ばら》いをしてからそう言った。フラノは聞き分けの良い生徒然と、
「はい!」
と、片手を上げる。啓太は、
「ん〜。普通になでしこちゃんの胸を触った、ってのがまずかったな。えっとだな、フラノ。もう一度、なでしこちゃんを想像してみ」
「はいしましたです〜」
フラノはまた何かを念じるようなポーズを取る。他《ほか》の者にも彼女の頭上に楚《そ》々《そ》としたなでしこの像が浮かんでいるのが見えるかのような集中ぶりだった。
啓太は満足そうに一つ頷《うなず》き、
「よし、じゃあ、例えばだ、俺《おれ》が本当に偶然、明らかに過失と分かる触れ方で、なでしこちゃんの胸を触っちゃったとする。なでしこちゃんは一体どういう反応を取っている?」
その言葉にフラノは、
「え〜とですね『や、やだ。啓太様! 気をつけてくださいね!』って赤くなっておっきな胸を両手で押さえてます!」
啓太はぐっと親指を立てた。
「そうだ。じゃ、次。俺となでしこちゃんがプールに行ったとする。なでしこちゃんは白いビキニだ。で、俺がなでしこちゃんのナイスバディをあくまで健《けん》康《こう》的《てき》かつ爽《さわ》やかなスタンスで褒《ほ》めちぎる。どういう反応が返ってくる?」
「『も、もう! あんまりじろじろ見ないでください!』って赤くなってまんざらでもなさそうに身体《からだ》を両手で隠《かく》してます」
と、あくまで声《こわ》色《いろ》を使って答えるフラノ。啓太は腕を組みうんうんと頷いた。
「よ〜し。じゃあ、フラノ。このなでしこちゃんどう思う?」
「え、どうって?」
「まあ、思った通りに。女の子の目から見ても結構|可愛《かわい》いだろう?」
「そうですねえ。恥《は》ずかしがってるのがタイヘン良い感じです。夜のおかずナンバー1候補です!」
啓太は最後の方は華《か》麗《れい》に無視して、
「じゃあ、今度はもう一度、最初に戻ろう」
指示を出す。
「なでしこちゃんが一切|恥《は》ずかしがらない、てんそうみたいな性格だったと仮定してみ? それでさっきのシミュレーションをやり直してみるんだ」
「は〜い。えっとうっかり胸に触ったら『……』全く無反応だし、水着を褒《ほ》めても『それはどうも』って相変わらずむひょうじょ……ああ〜〜〜〜〜!!」
そこでフラノは何かに気がついたように目を開け、叫んだ。啓《けい》太《た》が愛《まな》弟《で》子《し》の成長を見守る師《し》匠《しょう》のようにうんうんと頷《うなず》く。
「どうやらお前も分かったようだな」
「は、はい! 恥ずかしがらない方があんまり魅《み》力《りょく》的《てき》じゃないです! なんかこうぐっとスケベ心に響《ひび》かないです!」
「そう。それがなにより大事なのさ! いいか? フラノ! 男はただ単に女《にょ》体《たい》が見たいんじゃない! 見られて、触られて恥ずかしがる『羞《は》じらい』がなければ画《が》竜《りょう》点《てん》睛《せい》を欠《か》く! つまりは福《ふく》神《じん》漬《づ》けのないカレーのようなものなのさ!!!」
「うう、フラノ、とっても目が開かれた思いですう!」
フラノ、がっしと啓太の手を握る。
啓太も感《かん》涙《るい》に咽《むせ》んでフラノの手を握り返した。
「わかってくれたか、フラノ!」
突っ込むニンゲンが誰《だれ》もいないのであくまで暴《ぼう》走《そう》する深夜の二人だった。
ちなみにてんそうは読書にも飽《あ》きてぼうっと天《てん》井《じょう》を見上げていた。
「と、いうことでだ」
そこで啓太はまた咳《せき》払《ばら》いを一つした。仕切り直しだ。ここからは慎重に話を進める必要があった。あくまでもどこまでも善意を装《よそお》い、ちょっとアホなフラノとぼうっとしたてんそうを騙《だま》すために。
「俺《おれ》としては、だな。本当にこれはあくまで好意で言ってるのだが、てんそうのそういった性格をなんとかしてあげた方が良いと思う」
「はあ」
フラノがちらっとてんそうを見やって言った。啓太はどこかやましそうに横を見ながら、
「いや、てんそうはさ、折《せっ》角《かく》魅力的な素材なんだからさ、そうやってきちんと羞じらいを持った方がもっと魅力が出るだろう?」
「まあ、それはそうですねえ〜」
フラノが顎《あご》に指を当て、考え込んだ。それから小首を捻《ひね》って、
「でも、どうやって?」
その問いに啓太は我《わ》が意を得たりとばかりに、
「だ、だからさ、そこはやっぱり世間一般的に恥《は》ずかしいと思える感情を植え付けてやるのが大事だと思うんだ。それにはさ、繰《く》り返しで覚え込むのが一番いいんだからさ、お前が一《いっ》緒《しょ》に協力してやってだな、俺《おれ》の前で恥ずかしい格《かっ》好《こう》や、恥ずかしいポーズを一杯すれば」
その時、フラノが目を鼻の方に寄せ、顔をぐいっと近づけてきた。
「啓《けい》太《た》様」
啓太はどきっとした。
「は、はい。なんでせう?」
つい敬語になる啓太。フラノはじいっと啓太を見つめながら、
「もしかしててんそうちゃんのことを口実にこのフラノやてんそうちゃんにえっちなことを沢《たく》山《さん》させようとか企《たくら》んでますか? 今日《きょう》みたいに」
全く図《ず》星《ぼし》中の図星をさされて啓太が彫像のように固まった。
フラノはそのままにいっと笑って顔を離《はな》した。
「でもでもですねえ〜。残念でした♪ それはもう出来ないのでした!」
なかなかに侮《あなど》れないフラノであった。彼女は言う。
「実はですね〜、フラノとかはそうしてあげても別にいいのですが、ようこちゃんと約束をしてしまったのです。もう啓太様の前でおっぱいやお尻《しり》を見せないと。あとですね〜。身体《からだ》に触れさせるのもダメなのです。それをやってしまうとようこちゃんに後で死ぬほどフラノたちが怒られてしまうのでそういうのはもうしないんです」
啓太はがくっと膝《ひざ》を突いた。
己《おのれ》の詰めの甘さとようこの手回しの良さに噎《むせ》び泣いた。男泣きに泣いた。だが、フラノの方はフラノの方で何か別のモノに火がついたようだ。
「そうですねえ〜。でもまあ、そ〜いうのは抜きにしてもソレはソレで面《おも》白《しろ》そうですね♪」
フラノはそう言うとぱちっと指を鳴らし、
「じゃあ、ちょっと待っていてくださいね!」
ぽわんと天《てん》井《じょう》に飛び上がって、透過し消えた。
後にはぽかんと彼女が消えた後を見上げている啓太と軽く肩をすくめているてんそうだけが残った。
その後、フラノは実に様《さま》々《ざま》な品を屋《や》敷《しき》中《じゅう》から掻《か》き集めてきた。
「てんそうちゃんにもきっとどっか恥ずかしい≠ニ感じるポイントがあるはずです。それを探すのもまた一《いっ》興《きょう》!」
禿《はげ》のカツラにピンクのネグリジェ。なんだか分からないけど金のトロフィーやフライパン。新聞紙や妙な同人誌まである。
「てんそうちゃん! 遊びましょう♪」
「……私で@Vぶの間違いじゃないの?」
てんそうがぼそりとそう問いかける。フラノがけたけたと笑った。啓《けい》太《た》は成り行きについていけずフラノに尋《たず》ねる。
「あ、あのさ、これから何が始まる訳《わけ》?」
「まあ、啓太様は黙《だま》って見ていてくださいなくださいな♪」
そう言ってフラノは出し抜けにてんそうの着ているパジャマに手をかけた。それから啓太の視《し》線《せん》に気がつき、
「あ、啓太様はやっぱりちょっと目を隠《かく》していてくださいなくださいな♪」
啓太にばさっと毛布を被《かぶ》せる。
「うわっぷ! な、なにするんだ、いきなり!?」
「はいは〜い。暴《あば》れたり、約束破ったりしたら即ようこちゃんに告《つ》げ口しますからね?」
「う、ぐ」
啓太は大人《おとな》しく正座してそのままの姿勢を取った。どうやらフラノがてんそうを着替えさせているようだ。見たい。それを見たい気持ちは激《はげ》しくあるが、ここはやっぱり我慢しよう。
啓太はそう決断してしばしの時を待った。
程《ほど》なく、
「はいは〜い。ご開《かい》陳《ちん》です!」
フラノが啓太の上にかかっていた毛布を取り払ってくれる。目の前の景色を眺めて啓太が感《かん》嘆《たん》の吐《と》息《いき》をついた。
「ほう!」
そこで。
「いや、これは驚《おどろ》いた。お前、なんつうか」
てんそうは青と白の布地が重なるようなビキニの水着姿になっていた。ついで銀《ぎん》色《いろ》のミュールを履《は》いている。
「モデル体型なんだな、てんそう?」
てんそうはフラノにつけられたのかマネキンのような不自然なポーズを取っていた。足を左右交差させ、身体《からだ》の上半身だけを捻《ひね》り、片方の腕を腰に付け、もう片方の手を虚《こ》空《くう》に伸ばしている。
顔はちょっと上向き。しかし、全く微動だにしていないのが凄《すご》かった。
「へへへ、てんそうちゃんは本当にモデルでもやっていけると思いますよ〜」
フラノがちょっと得意そうに鼻の下を指で擦《こす》った。
実際、てんそうの身体つきは綺《き》麗《れい》だった。女性にしてはやや身長が高く、ヒップやバストが薄《うす》く、手足がやや長いがそれがこういうポーズを取るととても美しく映《は》えて見えた。きっとこんな場所ではなく、ファッションショーの花道でも颯《さっ》爽《そう》と歩いていたら沢《たく》山《さん》の賞《しょう》賛《さん》の声をかけられただろう。
「しかもてんそうちゃんの凄《すご》いところはほら」
フラノはてんそうの手足を捻《ひね》り、今度は全く違うポーズを取らせた。
片足を大きく上げ、首を曲げ、手と手が複《ふく》雑《ざつ》に絡《から》み合う前《ぜん》衛《えい》的《てき》な格《かっ》好《こう》だ。
しかし、それでもてんそうはひと度《たび》ポーズが決まるとぴくりとも動かなくなった。啓《けい》太《た》は思わず拍手をしていた。
「うお、すげえな! これちょっとした特技だな!」
というか無表情なてんそうの顔立ちと相《あい》まって本物のマネキンのようにも見える。前髪で目元を隠《かく》したマネキン。
「でも、当たり前ですけどこんなことでは恥《は》ずかしがらないんですよねえ、てんそうちゃん」
フラノが残念そうに腕を組み、首を振った。
それから、
「こんなことをしてみたらどうでしょうか?」
無表情なてんそうの頭にひょいっとハゲヅラを乗せた。ひょろりと一本だけ毛が伸びている良くコントとかで使われるようなアレだ。
てんそうがとっている奇妙なポーズと相まってかなりシュールな景色を作り出すことに成功していた。
「ぷ」
啓太は思わず口元を押さえた。
「じゃあじゃあこんなアレンジだと?」
フラノは更にてんそうに鼻《はな》眼鏡《めがね》をかけさせた。
大きな丸メガネに不格好なつけ鼻がついているアレだ。
「ぷ、くく!」
啓太は必死で噴《ふ》き出すのを堪《こら》えている。スレンダーでモデル体型の女が水着で鼻眼鏡、ハゲヅラ。変なポーズを取っているのだ。
これでおかしくならない訳《わけ》がない。
だが、フラノはあくまで大|真《ま》面《じ》目《め》にてんそうの顔を覗《のぞ》き込んで聞いた。
「てんそうちゃん、恥ずかしくなってきましたか?」
「ぜんぜん」
てんそうが抑《よく》揚《よう》なく首を振った。啓太はむしろ感心していた。
「はあ、てんそう。お前も大《たい》概《がい》付き合い良いな。フラノに振り回されて疲れないのか?」
するとその一言でてんそうは奇《き》天《て》烈《れつ》なポーズを取るのを止《や》め、すうっと背筋を伸ばして真《ま》っ直《す》ぐに啓太を見て、
「フラノの訳の分からない行動に付き合うのは慣《な》れているから」
一言そう言った。
「大丈夫、です」
「てんそうちゃん」
「一応、友達だし」
「てんそうちゃ〜ん♪」
フラノがてんそうに飛びつき、頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を押しつけ、幸せそうにすりすりする。それをされるがままに受け入れているてんそう。啓《けい》太《た》はちょっと笑って、
「そっか」
と、手を頭の後ろで組んだ。
「ではでは、『てんそうちゃんの恥《は》ずかしがるところ見てみたいチャレンジ』第二弾。じゃ〜ん♪」
フラノがそう言って膝《ひざ》を突き、手をひらひらさせる。
啓太は被《かぶ》されていた毛布を自《みずか》ら取り、てんそうの姿を認めて、
「おお〜」
と、拍手をした。てんそうはぞろりとした古式ゆかしいドレスを着ていた。赤いショールを羽《は》織《お》り、貴婦人然とした扇《せん》子《す》を持っている。
「というか、それ?」
啓太が眉《まゆ》をひそめる。
「せんだんの着てる服なんじゃないのか?」
「『はいはい、皆さん。ちゃっちゃと集まるように』」
てんそうが扇子をぱたぱたさせながら抑《よく》揚《よう》なくせんだんの真《ま》似《ね》をした。啓太は内心『やっぱみんなあの格《かっ》好《こう》は恥ずかしいって思ってたんだな』と頷《うなず》いていた。
フラノはしみじみ溜《ため》息《いき》をついて、
「はうう……ちょっと会っていないだけなのにもうフラノはあの口《くち》喧《やかま》しいリーダーがとっても恋しいですねえ」
そう言いながらもフラノはてんそうの頭に何気なく先|程《ほど》のヅラと鼻《はな》眼鏡《めがね》を乗せていく。啓太がうぷっと口元を両手で押さえた。
なまじフォーマルな格好をしているのでビジュアル的な面で落差が激《はげ》しかった。
特にてんそうが大|真《ま》面《じ》目《め》な顔をしているのがなおおかしい。
「はあ、みんな早く帰って来ないかなあ」
フラノはそう言ってご丁《てい》寧《ねい》にカーニバルに使うようなキラキラの羽根飾りをてんそうの肩に取り付けた。大真面目に。
てんそう無表情な顔でくねくね踊り出す。
啓《けい》太《た》はたまらずお腹《なか》を抱えて笑い出した。
「わはははははははははははは!!!! や、やめ! ちょ、やめ!」
「全く。薫《かおる》様はどこにいらっしゃるのやら」
フラノは片手を頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》に当てつつ、ぱっぱっともう片方の手で花《はな》吹雪《ふぶき》のように細かい紙切れを宙に放った。
その中をくるくると無表情にピルエットするてんそう。
悶《もん》絶《ぜつ》気味の啓太。
「お、お前らてんそうを恥《は》ずかしがらせたいのか、俺《おれ》を笑かしたいのかどっちなんだよ!?」
だが、てんそうは一《いっ》向《こう》に恥ずかしがらないのであった。
「ではではだいさんだ〜ん。今度はもっと別アプローチです!」
フラノがそう宣言した時、啓太はもう完全に己《おのれ》のスタンスを決めていた。これはもうフラノとてんそうによる賑《にぎ》やかしショーなのだ。
そう割り切ってすっかり観《かん》客《きゃく》モードと化す。
図《ずう》々《ずう》しくもベッドの上に寝そべり、サイドテーブルに置かれていたポテトチップスを摘《つま》みながらやんやと喝《かっ》采《さい》を送った。
「よ、待ってました!」
ちなみに今回、てんそうは着替えていなかった。ヅラと鼻《はな》眼鏡《めがね》をとった正装姿で何やら同人誌のようなものを広げていた。
啓太はちょっと気になってフラノに向かって尋《たず》ねた。
「ん? なんだそれ?」
フラノは得意満面と言った。
「はい〜。十八禁の小説です!」
「それを……どうするんだ?」
「てんそうちゃんに朗読して貰《もら》います。いまりちゃんとさよかちゃんのお話ではなんかも〜特《とく》濃《のう》にえっち本なのだそうで、それを読み上げて赤くなって貰う羞《しゅう》恥《ち》プレイです♪」
「ほほ〜」
啓太が『今《こ》宵《よい》のワインはロマネコンティです』とソムリエから聞かされたワイン愛好家みたいな表情になった。
「それはそれは美味《おい》しい趣《しゅ》向《こう》だな」
「ではでは、てんそうちゃん、ど〜ぞ♪」
そう促《うなが》されてんそうが前に進み出てきた。ぺこりとお辞《じ》儀《ぎ》を一つしてから文面を淡《たん》々《たん》と、抑《よく》揚《よう》なく読み始める。
「『それはひどく奇妙な出会いから始まった』」
啓《けい》太《た》が瞳《ひとみ》を閉じ聞き入っている。
「『元々は接点のない二人だった。だけど、とある事件が二人を結びつけた。クリスマスの夜に起こった不可解な事件』」
啓太がうんうん頷《うなず》いている。てんそうの朗読する物語はやがて佳《か》境《きょう》に入っていく。青《せい》道《どう》斎《さい》と名乗る最強の魔《ま》導《どう》師《し》を退《しりぞ》けた二人。
そこにいつしか愛が芽《め》生《ば》え、禁断の感情が生じ……。
啓太の目がそこでぱっかりと開いた。
小首を捻《ひね》る。
どうもてんそうが語る物語が官能小説っぽくないのだ。いや、正《せい》確《かく》に言うとその雰囲気は十二分に醸《かも》し出しているのだが、啓太が望んでいるベクトルとはまるで違うというかむしろ望んでいない方向というか。
しかも登場人物たちの名前になんとなく聞き覚えがあった。
川《かわ》田《た》米《よね》太《た》に瀬《せ》名《な》智《ち》郎《ろう》。
「んんんんんんん?????」
顔中に疑問符を浮かべる啓太。一応、女性の登場人物(とうこ≠ニかかげしこ≠ニか)は出てくるには出てくるのだがなんだかあくまで当て馬くさかった。
この物語の書き手は女性にはほとんど興《きょう》味《み》がないようだった。
むしろ川田米太のイトコ、川田マワルが妖《あや》しげな目《め》線《せん》で米太を見ていたりする。啓太は「お、おい!」とひそひそフラノに耳打ちした。
「なんなんだ? この小説。いったいどこから持ってきたんだよ?」
するとフラノがさも当然のように、
「なに言ってるんですかあ? いぐさちゃんの今度の自信作に決まってますよ!」
「な、なにい?」
啓太が驚《おどろ》いている間、てんそうはクライマックスシーンを読み上げていく。
「『生まれたままの姿でベッドに入った二人。そして智郎は米太の身体《からだ》をその逞《たくま》しい腕で抱き寄せ』」
「わあああああああああああああああ!!!!」
絶叫してばさばさ手を振る啓太。
一番最近のトラウマを直《ちょく》撃《げき》され、怯《おび》えている彼だった。
「と、とにかくこの路線は禁止!」
ぜいぜいと息を荒げて啓太が言っていた。フラノが不満そうに頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を膨《ふく》らます。
「ええ〜? フラノはちゃんと最後の結末が知りたいですよ? 啓太と史《し》郎《ろう》が果たして結ばれたのか否《いな》か!」
「むすばれねえよ! つうか、名前違うだろう。米《よね》太《た》に智《ち》郎《ろう》!」
「でも、いぐさちゃんも大胆なのを書きますよね〜。こういうのを仮《かり》名《な》様攻め、啓太様受けっていうんですか?」
「だから、名前ちげえって言ってるだろう! 俺《おれ》に受けも攻めもねえ!」
そんなやり取りをやっている。ふとぴくっと今まで置物のように突っ立っていたてんそうが顔を上げた。
「あ」
「ん? どうした、てんそう?」
「てんそうちゃん。なにかありましたか?」
啓《けい》太《た》とフラノがそちらを振り返る。てんそうは無言でてくてく歩くと出し抜けに廊下に続く扉《とびら》を開いた。
「今、誰《だれ》か外で立ち聞きしていた……」
彼女は首を突き出し、きょろきょろと左右を見回した。
「ようこ?」
啓太がびくっと小動物のように身をすくませている。だが、てんそうは首を振り、
「気のせいみたい……」
そう呟《つぶや》いてまた扉を閉めた。フラノがちょっと意地悪そうに啓太に向かって言う。
「啓太様、そんなにようこちゃんが恐《こわ》いんですかあ?」
「は! ば、ばか言うなよ! ようこが恐くて川《かわ》平《ひら》啓太がやってられるか!」
「『ようこが恐くて川平啓太はやってられない』名言ですね〜、それ」
「は、はは。あたぼうよ!」
「啓太様、足が少し震《ふる》えている……」
と、微《かす》かに微笑《ほほえ》んでてんそう。啓太は空《から》威《い》張《ば》りで胸を張った。
「だ、大体だな! ようこは一度寝つくと滅《めっ》多《た》なことでは起きてこないし、もし起きてきて文句があるならすぐ部屋に飛び込んでくるし、そ、そうなったら俺は正々堂々と謝《あやま》る! 謝っても許して貰《もら》えないかも知れないけどとにかく土《ど》下《げ》座《ざ》して、逃げる!」
「強いんだか、情《なさ》けないんだか」
てんそうがまた微笑んだ。
啓太はふとその時、とある事に気がついた。
「あっれえ」
そう言えば。
てんそうはいつも前髪をすだれのように下ろし、目を隠《かく》していた。今、ふと彼女が微笑んだ瞬《しゅん》間《かん》、その髪越しに彼女の目と視《し》線《せん》が合ったのだ。
ひどく澄《す》んだ綺《き》麗《れい》な目をしていた。
啓《けい》太《た》はなんの気なしにてんそうに近づき、
「あんのさあ、やっぱお前、前髪は上げておいた方が可愛《かわい》いんじゃねえか?」
そう言って彼女の額《ひたい》に手をやると、全く無造作に髪をぱさっと掻《か》き上げた。
その瞬《しゅん》間《かん》、啓太は絶句した。
今までに全く見た事のないような美少女がそこに立っていた。フラノまで「ほえ〜」と感《かん》嘆《たん》の吐《と》息《いき》をついていた。それだけ前髪を上げたてんそうの顔立ちは整《ととの》っていた。
いや、というか単純な造《ぞう》作《さく》のバランスだけを問うならば可愛い子|揃《ぞろ》いの薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》の中でも出色かもしれなかった。
「う、うそん」
啓太が思わず呆《ぼう》然《ぜん》と呟《つぶや》いている。それから更に信じられない事が起こった。
あの。
あれだけ鉄《てつ》面《めん》皮《ぴ》、無表情を誇っていたてんそうが前髪を上げたとたんかあっと見る間に赤くなったのだ。彼女は目《め》線《せん》を左右に泳がせか細い声で囁《ささや》く。
「は、はずかしい」
そして手を縮《ちぢ》こませ、子《こ》鹿《じか》のようにうち震《ふる》え、
「啓太様……あまり直《じか》に見つめないでください」
そう言った。
啓《けい》太《た》の脳天にずきゅ〜んと何かが走り抜けた。これだ!
何かが叫んでいた。
これなんだよ、俺《おれ》の求めていたモノは!
「それだ! その羞《は》じらいだよ、てんそう!」
啓太は嫌《いや》がるてんそうの両手を押さえ、叫ぶ。
「てんそう! てんそう!」
なぜに持っているポテンシャルをフルに生かさない!
啓太はそう主張したくててんそうにぐっと近寄った。しかし、『前髪』という遮《しゃ》蔽《へい》物《ぶつ》を失ったてんそうははにかむ少女と化してイヤイヤをする。
前に進む啓太。
後ろに下がるてんそう。そして、
「あ!」
てんそうがよろけ倒れ込んでしまう。形的にのしかかる啓太。彼の名誉のために付け加えておくと、この時の啓太に邪心は一切なかった。
ただ彼は言いたかったのだ。
「お前、もったいないよ! そんだけ可愛《かわい》いのに!」
純真なる女の子への愛情である。その叫びである。
だが。
結果的にはそうは見えなかった。
「へえ」
世にも冷たい、絶対|零《れい》度《ど》に近い呟《つぶや》きが背《はい》後《ご》から聞こえてきた。啓太はぴしっと固まった。その呟きの主はさらに付け加えた。
「フラノだけでは飽《あ》きたらずこんな真夜中にてんそうまで押し倒して」
啓太は強《こわ》張《ば》った笑《え》みでぎしぎしと背後を振り返った。
そこに鬼が立っていた。
羅《ら》刹《せつ》がぽきぽきと拳《こぶし》の骨を鳴らしていた。
「よ、よ、ようこ?」
声がかすれ震《ふる》えている。ようこは凄《せい》絶《ぜつ》な笑みを浮かべ、「うふふふ」と乾いた声を発した。
「や、ま、まて! こ、これにはわ、わけ」
とにかく啓太の身体《からだ》が瘧《おこり》のように震えていた。腰が砕《くだ》けていた。ようこはぽっと口の端から炎の吐《と》息《いき》を吐き出した。あまりの怒りに彼女の炎術が勝手に発動しているのだ。
ほとんど鬼《き》女《じょ》だ。
「ほんと。ありがとうね、わざわざ起こして知らせてくれて、カオル」
ようこは「くふふ」と笑いながら啓太ににじり寄っていく。その彼女の背中越しにどこか後ろめたそうな顔のカオルがそっと顔を覗《のぞ》かせていた。
「あ〜、さっきの気《け》配《はい》はカオル様だったんですねえ〜。あはは、これは啓《けい》太《た》様、裏切られてしまいましたね〜」
けたけたと元気良く笑ってフラノがそう言っている。だが、啓太の耳にその言葉はもう遠い。
「ま、まて! こ、ころさな」
「とことん地《じ》獄《ごく》で反省なさい!!!!」
ようこの怒りが木《こ》霊《だま》する。
ちゅどおおおおおおおおおおおお〜〜〜〜〜〜〜〜ん。
それからしばらくてんそうが自分の部屋では寝泊まり出来なくなる程《ほど》の爆《ばく》発《はつ》はそうして起こった。
「Tea or coffee?」
高度一万メートル以上の上空を日本に向かって飛ぶジャンボジェットの中でそう尋《たず》ねられ、たゆねはわたわたとした顔になり、それから実はあまり大した事は聞かれていない事にようやく気がつき、こほんと咳《せき》払《ばら》いを一つすると、
「え、えっと、じゃぱにーずてぃー。ぷりーず。あります?」
にへらっと愛《あい》想《そ》笑いを浮かべて、上《うわ》目《め》遣《づか》いでそう尋《たず》ねた。
すると金髪のスチュワーデスは一拍間をおいて、
「Sure! We have one」
見事な営業スマイルを浮かべ、押していたカートの中から緑《りょく》茶《ちゃ》のティーバッグを取り出すとそれをカップに入れ、お湯を注《そそ》いでインスタントながらちゃんとした緑茶を入れてくれた。たゆねは両手で包むようにそれを受け取り、
「さ、さんきゅう」
と、ぎこちなく笑って礼を述べた。スチュワーデスは、
「It's our pleasure!」
また華《はな》やかに笑うとカートを押して次の席に向かった。たゆねはどっと溜《ため》息《いき》をついた。かなり長いこと世界を歩き回った割に未《いま》だに金髪|碧《へき》眼《がん》の外人が大の苦《にが》手《て》だった。不《ふ》思《し》議《ぎ》な事にアジア人とか黒人に対しては何も感じないのに、西洋風の彫りの深いニンゲンにはなんだか問答無用で苦手|意《い》識《しき》を感じてしまう。そこら辺がせんだんとは対照的だった。
たゆねはそこで気分を落ち着かせるためにお茶を一口|啜《すす》り、
「はあ」
また溜息をついた。
やっぱり気分が落ち着かなかった。大体、こんな大きな鉄《てっ》塊《かい》が宙に浮いていて空を飛んでいる時点でたゆねの身体的感覚からすればかなり異常な事なのだ。その上こんなファーストクラスの席に座らされ、機《き》内《ない》サービスまで受けている。
いくら日本に帰るためとは言え、居《い》心地《ごこち》悪い事この上なかった。
「ん?」
そこでたゆねは何か引っかかるモノを感じ、小首を傾《かし》げた。
一体、何に自分は不《ふ》審《しん》な点を感じたのだろうか?
頭を押さえた。
なんだか忘れてはいけない事を忘れている気がする。こめかみをぐりぐりと押し、今度は機内をぐるりと見回してみた。
ファーストクラスのスペースにはいかにも裕福そうなお客が沢《たく》山《さん》乗っていた。
恰《かっ》幅《ぷく》の良い眼鏡《めがね》をかけた白人の中年男性。
赤いスーツに赤いつば広の帽子を被《かぶ》った黒人女性。難《むずか》しい顔で経済新聞を読んでいる日本人のビジネスマン。
一つ一つの席がゆったりと広く、前後左右どちらにもスペースをたっぷり取っている。席の前には液晶テレビが備えつけられており、くつろげるよう毛布や枕《まくら》の貸し出しも行っていた。
「あれ?」
たゆねはまた辺《あた》りを見回してみた。
なんだか変だ。
違和感があった。
でも、自分ではそれが具体的になんなのか上手《うま》く指摘出来ない。ただ、気分が変なのだ。なんというかパズルの一ピースだけ違うモノがはまっているようなそんな感じ。
と、その時。
「!」
「なんだ? いったいどうした!?」
乗客の間からどよめきが湧《わ》き起こった。
見ればスチュワーデスが数人、酷《ひど》く慌《あわ》てた様《よう》子《す》で後部座席から前方の操《そう》縦《じゅう》席《せき》に向かって駆《か》けていくところだった。
いかに緊《きん》急《きゅう》事態だろうと訓練された国《こく》際《さい》線《せん》のスチュワーデスが慌てている様《さま》など乗客に見せては決してならない事だ。その事を知っている乗客も驚《おどろ》いてたし、そんな事は全く知らないたゆねも周りの驚いた様子から異常を感知していた。
外《がい》観《かん》の強気な態度とは裏《うら》腹《はら》にかなり恐《こわ》がりな彼女は腰を浮かしかけ、おろおろと周囲を見回す。
「な、なんだろう? なんなんだろう?」
口の中で小さくそう呟《つぶや》く。
隣《となり》の席の白人男性がしきりに窓の外を指さしていた。
がくんと一度|飛《ひ》行《こう》機《き》が水平を失った。
悲鳴と怒《ど》号《ごう》が辺りを飛び交《か》った。
「What ! ?」
「な、なに? なに?」
また機体が上下。荷物の幾《いく》つかがふわっと宙を浮き、たゆねは思わず悲鳴を上げていた。次の瞬《しゅん》間《かん》、がつんと重力が戻り、荷物は床《ゆか》に叩《たた》きつけられた。悲鳴。
機体はかろうじて高度を維持しているが、いつ空中分解してもおかしくないと思えるほどがくがくと激《はげ》しく揺《ゆ》れている。
と、そこへもの凄《すご》く切迫した口《く》調《ちょう》の機内アナウンスが流れ始めた。
「乗客の皆様へお知らせしております! 現在、機長と副機長がコックピットで心中しているのが発見されましたあ! あたし、前々から怪《あや》しい仲だったと思っていたんですう、畜《ちく》生《しょう》! てめえら職《しょく》場《ば》不《ふ》倫《りん》かよ! しかも男同士! あほかああああああああああああああ!!!! 死ぬならてめらだけで死にやがれ! FU○K!」
そこで慌《あわ》てて窘《たしな》める声。マイクの主《ぬし》は咳《せき》払《ばら》いをし、
「し、失礼しましたあ! つい感情的になってしまいましたあ。えっと、そこで皆様タイヘン申し上げにくいのですが」
乗客は一度ぴたりと動きを止め、ごくりとつばを飲み込んでアナウンスの次の言葉を待った。
「どなたか飛《ひ》行《こう》機《き》の操《そう》縦《じゅう》経《けい》験《けん》のある方はいらっしゃいませんでしょうか?」
その瞬《しゅん》間《かん》、乗客室にパニックが湧《わ》き起こった。わ〜と錯《さく》乱《らん》して叫ぶ男。泣き出す女。神に祈り出すシスター風の老女。なんだか知らないけど口中にチョコレートを頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》張《ば》り始めた太った子供。ナイフを振り回す刺青《いれずみ》の男。
エコノミークラスから人が何人か乱入してきて殴り合いを始めた。
なぜかそれぞれボクシンググラブをはめたりしている。
たゆねはどさくさに紛《まぎ》れてキスしようとしてくる男を横に転がし、シートベルトを外して立ち上がった。
「ど、どうしよう?」
おろおろと天《てん》井《じょう》を見上げる。
「どうしたらいいんだろう?」
そこへまたアナウンス。
「たりほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!! 現在、機体は順《じゅん》調《ちょう》に落下中!」
ぎゃああああああああああああああああ!!!
と、客室から悲鳴が迸[#「迸」はunicode902C]《ほとばし》った。
「誰《だれ》か、飛行機操縦出来る者はいやがらねえのか!?」
飛行機は空をまるで雪上のように滑《すべ》っている。とても立っていられない。みんながみんな座席や誰かの手に必死でしがみついていた。空中をカツラやなぜかバースデーケーキがものすごい勢いで後部にすっ飛んでいく。
アナウンスが続く。
「ええい! じゃあ、ヘリコプター操縦士免許? 船舶一級免許? 特殊車両免許。ええい、くそ、こうなったらしかたねえ! 緊《きん》急《きゅう》制《せい》御《ぎょ》システムを発動させるためにバスト八十五以上あるオンナ!」
床《ゆか》にうずくまり頭を抱えて震《ふる》えていたたゆねはそこで「ん?」
と、顔を上げた。
「は、はい?」
なんでおっぱいがこのジョウキョウニカンケイアルンダロウ?
訳《わけ》が分からない。
一体なんなんだ?
だが、たゆねがきちんと考え込むよりも前にコックピットの方から這《は》い進んできたパーサーがたゆねを見つけて顔を輝《かがや》かせた。
「お、おお! あなたこそは間違いなくバスト八十五以上ありそうだ!」
彼は。
そのハンサムなパーサーはたゆねの腕をぐっと掴[#「掴」はunicode6451]《つか》むと辺《あた》りに向かって叫んだ。
「みなさん! だいじょうぶ! もうだいじょうぶです! 安心してください! どうやら我《われ》々《われ》は助かりそうです!  ここに巨乳の女性が一人います!  彼女に協力してもらいましょう!」
震《ふる》え、泣き叫んでいた乗客からも一斉に希望の眼《まな》差《ざ》しが返ってきた。
彼らは口々に叫ぶ。
「きょ、にゅ、う! きょ、にゅ、う!」
「頼んだぞ、おじょうちゃん!」
わ〜と湧《わ》き起こる歓《かん》声《せい》。拍手に口笛。全く事態についていけずきょときょとしているたゆね。
「へ? へ?」
パーサーはたゆねの腕を引っ張ると、彼女を強引にコックピットに誘《いざな》った。
キャノピーから見ると機体がもの凄《すご》い勢いで空を切って落下しているのが分かる。
二つの操《そう》縦《じゅう》席《せき》から垂《た》れ下がった手が堅くそれぞれの手を握り合っていた。これが心中し合ったパイロットたちなのだろうか?
「ひ? し、しんでいる?」
たゆねが思わず身をすくませる。パーサーがすかさず操縦席と彼女の間に割って入った。
「そちらは見なくていい。こっちを見て」
彼は力強い声で言った。たゆねはぎくしゃくと頷《うなず》く。
「いいこだ」
彼。
どっことなく川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》に似ているパーサーはにこっと微笑《ほほえ》んだ。
たゆねはこんな時だというのにちょっと赤くなった。そして彼の言う通り、パーサーの指先に視《し》線《せん》を移した。
そこに一枚のパネルがあった。
「いいかい? これがUEEKOS(超特殊巨乳|緊《きん》急《きゅう》制《せい》御《ぎょ》装置)だ。いちおう、テロや今回みたいな想定外のケースに備えた装置なんだけど今は難《むずか》しい説明は省《はぶ》く。使い方は簡《かん》単《たん》」
たゆねはふんふんと頷く。
「ここに二つの丸があるだろう?」
「ありますね」
パーサーは大《おお》真《ま》面《じ》目《め》な顔で、
「ここに君のおっぱいをむぎゅっと押しつけてほしい。ぴったりとお乳が合わさるように。先っぽがちょうどこの同心円にはまるようにね」
「あ?」
「むろん生でだ。きちんとブラを外してむぎゅっと」
あんぐり口を開けるたゆね。なんつうこと言ってるんだ、この人?
パーサーはさらに言《い》い募《つの》る。
「非《ひ》常《じょう》識《しき》なのは百も承知している! だが、この装置は巨乳でないと限定解除出来ないシステムになっているのだ! 頼む! 我《われ》々《われ》を助けると思ってそこにおっぱいをむぎゅっと押しつけてくれたまえ!」
「ちょ、ちょっとちょっと!」
「たのむたのむたのむ! そうすれば自動|操《そう》縦《じゅう》で機《き》体《たい》は安定するんだ!」
たじろぎ逃げようとするたゆねの手をぎゅっと掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んでパーサーが詰め寄った。顔がマジだった。
「え? ええ?」
ひたすら混乱しているたゆね。ナニソノフザケタシステム?
と、その時、飛《ひ》行《こう》機《き》が更に急角度で降下を始めた。
後部の客席から絶叫と泣き叫ぶ声が聞こえてくる。よろけるパーサーとたゆね。パーサーが叫んだ。
「はやく! もう時間がない! このままだと我々は!」
ところがまたがくんと機体が揺《ゆ》れたのでパーサーは操縦席の方に転がり落ちる。
「ちょ! だ、だいじょうぶですか?」
駆《か》け寄り助け起こそうとするたゆね。それをパーサーは制した。
「くるな! 私のことより君は早くUEEKOS(超特殊巨乳|緊《きん》急《きゅう》制《せい》御《ぎょ》装置)を!」
彼は顔面血だらけだった。それを手で押さえ叫ぶ。
「我々の命は君に! 君の手に! いや、君のおっぱいに!」
たゆねは焦《あせ》った。
おろおろと周りを見回し、それから考えた。
自分が一人がんばれば。
それでみんなが助かるのだ。今は恥《は》ずかしがっている場合などではない。
たゆねは決然と頷《うなず》くと上着をたくし上げ、ブラを外そうとして。
おっぱいをパネルに押しつけようとして。
ふと。
ふと気がついた。
「あ!」
それから彼女は思いっ切り叫んだ。
「『そもそもパスポート持ってないボクが客席に座っている訳《わけ》がない! ウソツキ!』」
そう言ってがつんとヘッドバットを前に繰《く》り出した。
その瞬《しゅん》間《かん》。
辺《あた》りの景色《けしき》が何もかも幻《まぼろし》のように溶け出して彼女はたった一人|薄《うす》暗《ぐら》い貨物室にいた。
密航同然。
というか密航そのものなのだが、忍び込んでいる飛《ひ》行《こう》機《き》の中。
辺りには一《いっ》緒《しょ》に運ばれている貨物が雑然と並んでいて、中にはケージに入っている子犬などもいる。その子犬がしきりにたゆねに向かって吠《ほ》え立てていた。たゆねはふうふうっと荒い息をつくとぎろっと手に持った古びた壺《つぼ》を睨《にら》んだ。
「またやったなあ〜!」
その中から「うえひゃひゃひゃひゃ!」という実に楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
たゆねはぎりっと歯《は》軋《ぎし》りを一つした。
壺の中に入っている春の精《せい》霊《れい》こそが問題だった。
ごきょうやの話ではこれこそが薫《かおる》探しの切り札の一つとなるそうだが、たゆねはそれ以上細かい説明は受けていなかった。その点、ごきょうやに詳しく問いただしたが、こういう訳か彼女は曖《あい》昧《まい》な表情で言葉を濁《にご》すのみだった。
『とにかく、これを無事に日本まで送り届けてほしい』
そう重ねて言われ、たゆねは「わかった」とそれ以上は何も聞かず引き受けたのだった。
本来の序列はたゆねの方が上であるものの、たゆねはごきょうやの判断力をとにかく信じて旅の間中、ずっと彼女の指示に従ってきた。
『本当なら私が直《じか》にもって帰った方がいいのだが』
と、申《もう》し訳《わけ》なさそうに言い淀《よど》むごきょうやに対してたゆねは、
『いいよ、いいよ。ごきょうやはよーろっぱでどうしても寄りたいところがあるんだろう? これはボクが先に持って帰るって。それにどうやらボク、こいつに気に入られているみたいだしさ』
そう言って朗《ほが》らかに笑って見せた。
はにかみながら無言で赤くなったごきょうやが珍しくてちょっと可愛《かわい》かった。
たゆねはそれが面《おも》白《しろ》くてさらに言《い》い募《つの》る。
『ま、今まで大変だったしさ、たっぷり甘えておいでよ久しぶりにあの人に[#「あの人に」に傍点]』
『か、からかうな! ちょ、ちょっと話をさせて頂くだけだ!』
今まであまり接点のなかったごきょうやとかなり親密になれたのがこの旅の大きな副産物だった。たゆねはせんだん、いぐさ、双《ふた》子《ご》とは今までよく喋《しゃべ》ってきたが、ごきょうや、フラノ、てんそうとは山にいる時も、薫《かおる》の家でもそこまで沢《たく》山《さん》話す機《き》会《かい》がなかった。宿の明かりの下で、時には野宿している焚《た》き火《び》の隣《となり》で深く深く仲間を知ることが出来た。
彼女らの意外に色《いろ》々《いろ》あった過去も。面《おも》白《しろ》かった事も、哀《かな》しかった事も。それまでの主人たちとの思い出も。
年若い犬《いぬ》神《かみ》として先輩たちに色々と聞けたのは本当に得がたい経《けい》験《けん》だったと思う。
そんな訳《わけ》でたゆねは一度、スイスでせんだんたちと合流した後、ほとんと時間を空けず、この悪戯《いたずら》で人に幻覚(ちょっとエッチな奴《やつ》)を見せるルーマニアの春の精《せい》霊《れい》≠抱えて日本に向かったのである。
飛《ひ》行《こう》機《き》が滑《かっ》走《そう》路《ろ》に着陸するとたゆねはそっと貨物室から透過して税関を飛び越え、空港の外に出た。ちゃんと旅行代理店を通して正規の航空券は買って(リコンファームしてないだけ)いるのだが、なんとなく後ろめたい気持ちが抑え切れなかった。こういう時、人《じん》外《がい》というのは疚《やま》しいものだと思う。
たゆねはそのまま飛んでいこうか交通機関を使って帰ろうか迷ったが、荷物(壺《つぼ》)も重たいので結局、普通にシャトルバスに乗る事にした。ちなみに今の彼女はジーンズにやや小さめのリュックサックを背負っている。頭には中折れの帽子。ぱっと見た感じ、どこかに日帰りのハイキングにでも行ってきたような印象だ。
もともと彼女はそんなにモノを必要としない上に当座の荷物以外は予《あらかじ》め日本に送っておいたのである。
とりあえず窓口で前払いのお金を払い、チケットを貰《もら》ってからオレンジと黒のシャトルバスに乗り込む。一応、壼は風《ふ》呂《ろ》敷《しき》で包んで胸に抱え込んでおいた。この壺、小さい割りにやたらと重かった。
指定の席に座り、ふうっと溜《ため》息《いき》をつく。
程《ほど》なくバスが発進し、窓に映る景色が後部に流れていった。
それをぼんやり見ながらたゆねは、
「はあ、久しぶりだな、日本も」
自然と心が浮き立つのを感じていた。
まずこの壺を確《かく》実《じつ》に川《かわ》平《ひら》薫|邸《てい》まで届けなければならない。そしてごきょうやから国際電話がかかってくるのを待って現状報告をする。だが、その後は彼女が帰国するまで若《じゃっ》干《かん》時間が空くはずだった。
まずたゆねは町に出てお腹《なか》一杯すき焼きを食べるつもりだった。
いぐさから活動費として貰ったお金も少し余っている。
そのお金でまずはお腹《なか》をいっぱいにし、その後はバッティングセンターにでも行って、さらにプールで泳ぐ。その後はともはねとか連れ出してジョギングでも行くのもいいかも知れない。
親しみ慣《な》れた家の周りの森。
いまりとさよかの植物園。古びた教会や敷《しき》地《ち》内《ない》に点在するログハウス。静《せい》謐《ひつ》でありながら賑《にぎ》やかだった我《わ》が家《や》の光景をまじまじと思い返し、たゆねはいかに自分がホームシックに陥《おちい》っていたかをよく自覚した。
あの石造りの母《おも》屋《や》が懐《なつ》かしい。
自分の部屋のベッドがとても恋しかった。
「へへ」
たゆねは笑いで誤《ご》魔《ま》化《か》し、鼻をすすった。
「そ〜いえば、ふらのとてんそうは先に帰ってるんだよな」
同じごきょうや組だったからフラノもてんそうも別れてからそんなに時間が経《た》っていないのだが、それでも早く二人に会いたかった。それとともはね。
「あの子、ちょっと大きくなったかな?」
今がきっと育ち盛りのはずだ。
もしかしたら見違えるほど背が伸びているかも知れない。たゆねは彼女にお土産《みやげ》を買ってきていた。
それを手渡す瞬《しゅん》間《かん》が今から楽しみだ。
そんな事をつらつらと考えているとなんだか不《ふ》思《し》議《ぎ》と眠くなってきた。そういえば飛《ひ》行《こう》機《き》の中ではあまり眠れなかった。たゆねは額《ひたい》をガラス窓に押し当てるとうとうととまどろみ始めた。
吉《きち》日《じつ》市《し》に着くまでしばし仮眠を取ろうと思って。
そして。
再び目を覚ます。
「たゆね、たゆね」
そう肩を揺《ゆ》すられたからだ。
ふと目を開けるとそこに川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の顔があった。かなり生《き》真《ま》面《じ》目《め》な彼の顔。
「けい、たさま?」
たゆねはぼんやり寝ぼけているので彼がそこにいる事に疑問を抱かず、目をこすった。
「さ、ついたよ」
彼がそう言った。
「ああ、そうですか」
たゆねはただとろんとそう言い返した。なんだか変だな〜と思いつつ、彼に手を引かれるまま、バスを降りた。いつの間にか辺《あた》りは雪景色になっていた。
ゆらゆらと辺りを舞《ま》う粉雪。
なんだか見たことのない荒涼とした光景。一応、土産《みやげ》物《もの》屋《や》が軒《のき》を連ねているのだが辺《あた》りはすっかりと寂《さび》れ、どこもかしこも全く人《ひと》気《け》がなかった。
ドコここ?
「あ、あり?」
と、きょろきょろするたゆね。
その間、バス(いつの間にか古い乗り合いバスになっていた)はバス停から走り去っていった。啓《けい》太《た》はコートの襟《えり》を立てるとなんだか時代がかったスーツケースを手に持ち、
「いこう、たゆね」
たゆねの手を引っ張った。
なんというか明《めい》治《じ》時代の文《ぶん》豪《ごう》みたいな深い愁《うれ》いを帯びた横顔をしている。
「え? ええ?」
たゆねは流されるまま、白黒の景色の中を歩き出した。
なんで啓太とこんなところにいるのかさっぱりだった。
程《ほど》なくなぜか崖《がけ》っぷちに建っている古びた日本|旅《りょ》館《かん》に辿《たど》り着いた。引き戸を開け、中に入ると、上がりかまちのところでダルマストーブが赤々と火を灯《とも》していた。啓太は自分の肩に積《つ》もった雪を払い、ついでたゆねの衣服についた雪も手で払ってくれた。
「あ、どどうも」
と、たゆねが少し赤くなってたどたどしく礼を述べた。
啓太はふっと微笑《ほほえ》んだ。
たゆねがどきっとするくらいの優《やさ》しい口《く》調《ちょう》で、
「そんな他《た》人《にん》行《ぎょう》儀《ぎ》はもうよせよ、たゆね」
「あ、は、はあ」
いや、ボクと啓太様って完《かん》璧《ぺき》に他人だと思うのですけど?
という言葉をなんとなく発する事が出来ず、たゆねは雰囲気に呑《の》まれている。不用意に大きな声を出せないような、そんな薄《うす》暗《ぐら》い、どこか背徳的な気配《けはい》がこの旅館には濃《のう》厚《こう》に漂っていた。
啓太が記帳を済ませている間、広間を見渡す。
コッチコッチと柱時計が時を刻んでいる。
それにガラスケースに入ったオコジョや狸《たぬき》の剥[#「剥」はunicode525D]《はく》製《せい》。赤い虚《うつ》ろなガラスの目玉が怖い。たゆねはぶるっと身《み》震《ぶる》いをした。それから印《しるし》半《ばん》纏《てん》を羽《は》織《お》った陰気な番頭の先《せん》導《どう》を受けて良く軋《きし》む長い廊下を歩き、雪の中庭に面した日本間に案内された。
その間中、啓太はずっとたゆねの手を握って離《はな》さなかった。
たゆねは顔を赤くしながらも彼に付き従っていた。
「ごゆっくり」
と、番頭が不気味に笑ってから襖《ふすま》を閉める。啓《けい》太《た》がコートを脱ぎ、
「じゃあ、まず身体《からだ》も冷えたし、一《ひと》風《ふ》呂《ろ》浴びてこようか?」
大人《おとな》びたどこか寂《さび》しげな口《く》調《ちょう》でそう言った。たゆねは催《さい》眠《みん》術《じゅつ》にでもかけられたようにこくりと頷《うなず》いてしまった。
「あ〜、はい」
彼女がようやく我《われ》に返ったのは廊下のどん詰まりにある男女別に分かれた暖簾《のれん》を潜《くぐ》り、脱衣所で服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になって誰《だれ》一人先客のいない露《ろ》天《てん》風呂の熱《あつ》い湯に身を沈め、もうもうと沸《わ》き起こる湯《ゆ》気《げ》の中で深々と溜《ため》息《いき》をついた時だった。
「はあ」
それからジワリジワリと正常な感覚が戻ってくる。
それから急速な焦《あせ》り。
「ええええええええええええええええええええええええええええええええ????」
たゆねは自分自身に突っ込んでいた。
ボク、一体何やってるんだ?
ばっしゃばっしゃとお湯を手で叩いた。
たいへんだ! たいへんだ!
なんだか分からないけどこのままだと大変なことになってしまう!
たゆねはわきゃわきゃとお湯の中で一人|錯《さく》乱《らん》している。すると湯気の向こうから啓太の声が聞こえてきた。
「お〜い、たゆね。そこにいるのか?」
「へ? け、け、けいたさま?」
たゆねは上《うわ》擦《ず》った声で返事を返した。思わず両手で裸身を抱え、身を縮《ちぢ》こめてる。
やばいやばいやばいぞ〜、ボク!
「あ、あの、ちょ、ちょっと!」
どぶんとお湯の中に顎《あご》のところまで沈み込む。啓太のシルエットが白いもやに浮かび上がり、やがて本人が現れた。
「どうやら中は男湯と女湯が繋《つな》がって混浴になってるみたいだな」
「こ、こんよくう?」
たゆねは真《ま》っ赤《か》になり、お湯から突き出ている彼の上半身をなるべく見まいと目を泳がせた。
啓太は大人びた表情で目を細め、
「たゆね」
と、言っていた。
「は、はい?」
と、たゆね。
「後悔しているのか? 何もかも捨てて俺《おれ》と来てしまった事を?」
たゆねはようやく。
そこでようやくこれがまた春の精《せい》霊《れい》が見せている幻《まぼろし》だということを悟った。どうやら二人で駆《か》け落《お》ちでもしたシチュエーションらしい。啓《けい》太《た》は哀《かな》しそうな顔で、
「俺にはもう何も残ってないんだ。ようこも捨てた。川《かわ》平《ひら》の名前も捨てた。もう俺にはお前しか残っていない」
「そ、そんな」
「いや、なのか?」
「いや、というかなんというか」
「たゆね」
啓太が。
裸の啓太ががしっと手を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んで顔を近づけてくる。たゆねは。
たゆねは。
「あ、啓太様……」
一《いっ》瞬《しゅん》、目を閉じかけ。それから、
「やっぱりだめええええええええええええええええ!!!! 『ボクと啓太様はそんな関係じゃない! ウソツキ!』」
がんとヘッドバットを前に繰《く》り出した。
気がつけばたゆねはシャトルバスの中に座っていた。がばっと周囲を見回す。そのリアクシヨンに周りの乗客が驚《おどろ》いていたが、たゆねはそれに構わずほうっと安《あん》堵《ど》の溜《ため》息《いき》をついて背もたれに深々と身を預けた。
それからムッとした顔で壺《つぼ》をこつんと叩《たた》いておいた。
中から小さく「くへへへ」と笑う声がした。
たゆねはやれやれ、と肩を落とす。
いつも思うのだが。
意外に状況や雰囲気に流されやすい自分がちょっと怖かった。
やばかった。
赤くなる。
バスが吉《きち》日《じつ》市《し》についた。たゆねは今度こそ自分の足でバスを降りるといったん荷物を足元に置き、ん〜と伸びをした。久《ひさ》方《かた》ぶりの故郷というのは実に良いものだ。
たゆねは元気よく「うん」と頷《うなず》くと荷物を取り上げ、前に向かって歩き始めた。
町の中心部から商店街。噴《ふん》水《すい》の方へ。
休日だけあって人通りもそれなりに多い。見覚えのあるファーストフード店にスポーツ用品店。
ざわめきも、空気も全《すべ》てなにもかも心地《ここち》良い。
と。
「ん?」
たゆねはすぐに思いっ切り眉《まゆ》をひそめた。
なんだか街を行《い》き交《か》う人たちのみなりがおかしいのだ。明らかに異常だった。女性は皆普通である。だが、男が変だった。みんな女性用の下着を頭に被《かぶ》っているのだ。
ごくナチュラルに。
まるでそれが至《し》極《ごく》当たり前の行為であるかのように。
ぴしっとしたスーツ姿のサラリーマンがブラジャーを頭に被って携《けい》帯《たい》電話に向かって怒《ど》鳴《な》っていた。
「君〜、そんなことじゃ困るよ! もう学生じゃないんだ、もっと社会的な常《じょう》識《しき》というものを身につけてくれ!」
お洒落《しゃれ》な若者二人が頭にそれぞれ黒のパンツと白のパンツを載《の》せ合い、笑っていた。
「でっさあ、バイト仲間がさ、レジのお金使い込んじゃって」
「え〜、それってありえなくない?」
小学生がお子様用のパンツを被《かぶ》り、お年寄りがTバックをハチマキのように頭に巻いて練《ね》り歩いている。
どの男も、どの男も。
そしてそれに関して誰《だれ》も突っ込んでいない。
「んあ」
たゆねは呆《あき》れて口を開ける。
そのまま半目で視《し》線《せん》をずらすと街頭掲示板のポスターが目に留《と》まった。そこには下はふんどし、頭に下着を被ったマッチョがにかっと白い歯を見せて写っており、
『健《けん》全《ぜん》で明るい社会を育成するためにちゃんと下着を頭に被りましょう!』
という標語が書かれてあった。
たゆねはふうっと溜《ため》息《いき》をついた。更にもう一回ふうっと溜息をついた。
それから、
「『ボクの街はこんなにおかしくない! ウソツキ!』」
ぐっと頭突きを前にする。
その瞬《しゅん》間《かん》、幻《まぼろし》がかき消え、辺《あた》りはごく普通の景色に戻った。男も女も違和感のない当たり障《さわ》りのない格《かっ》好《こう》をして歩いている。
「ふん」
たゆねは鼻で笑って抱えていた壼《つぼ》をぺちぺち叩《たた》いた。
「あのね、さすがにこれはボクでもすぐに気がつくよ。騙《だま》すんならも〜ちょっと気の利《き》いたことしてくれないかな? こんな街が実在するわけないだろう?」
あっさりと幻覚を見破った余裕からなのかたゆねが蔑《さげす》むようなそんな軽口を叩いた。
壺の中から、
「うぐう」
ちょっと悔《くや》しそうな春の精《せい》霊《れい》の声が聞こえてきた。たゆねがくすっと笑った。
「さ、もうちょっとでうちだよ」
と、その時、視界に妙なモノが映る。
「んえ?」
彼女の目が大きく見開かれた。彼女の前を悠《ゆう》々《ゆう》と女性用のパンツを頭に被った一人の男が横切ったのだ。一《いっ》瞬《しゅん》、まだ幻覚の中にいるのかと思ったが違った。
彼の後をたちまち二人の警《けい》官《かん》が追いかけていき、
「ちょっとあんたなにやってるの!?」
手を伸ばす。その下着を頭に被った男は振り返ると明らかに焦《あせ》った顔で、
「ぱ、ぱんつを頭に被るのくらい自由なはずだ! 官《かん》憲《けん》横《おう》暴《ぼう》反《はん》対《たい》! ワタシは後世のことを考え断固としてパンツを頭に被り続けるぞ! ワタシはガンジーだ! 改革者だ! まっはあとおまあがんじいだ!」
駆《か》け出していく。追いかける警《けい》官《かん》。
「またんか、このヘンタイ! 貴様の主義主張は署でゆっくりと聞いてやる! つうか後世じゃなくってたった今、更正しろ! この奇人変人伝記列伝が! ガンジーに謝《あやま》れ!」
どったばったと慌《あわただ》しい雰囲気。どうやらこの街ではごく日常的に見られる単なる普通のヘンタイ≠フようだ。周りの通行人もちょっと驚《おどろ》いていたがすぐに自分のペースを取り戻し、ざわめきが蘇《よみがえ》る。
たゆねは「ん〜」
と、大きく伸びをした。
「やっぱ、帰って来たんだな〜、吉《きち》日《じつ》市《し》!」
ちょっとイヤな実感の仕方だった。
むしろ壺《つぼ》の中の精《せい》霊《れい》が黙《だま》り込んでいた。
吉日市の中央部を抜け、森の中に入って行く。木《こ》漏《も》れ日《び》の下、荷物は重くても足取りは軽快だった。自然と鼻歌が出てきた。心が浮き立った。これから向かう自宅で何をしようかたゆねは考え考え歩き、自然な感じで壺に喋《しゃべ》りかけていた。
「だっからねえ、うちのお風《ふ》呂《ろ》は特別製なのさ」
壺からは何も返事が返ってこなかったがたゆねは一切気にしなかった。
陽気に話し続ける。
「温泉が引いてあってさ、周りは熱《ねっ》帯《たい》の植物でフルーツが食べ放《ほう》題《だい》でさ、暖まった後、スポーツドリンクとか飲むと最高なんだよ!」
彼女は小首を傾《かし》げる。
「あ、でも、今は啓《けい》太《た》様がいるのか……どうしよう、ちょっと不安だな」
先《さき》程《ほど》の幻覚を思い出して少し赤くなる。
「ま、ま、まあ、でもようこもいるし大丈夫かな、そこら辺は」
あえて強気にそう言い放って笑った。彼女はくすくすと、
「ようこもどうなってるのかな? あいつもちょっと変わったみたいだけど……さっわがしいんだろうなあ、相変わらず」
啓太とようこのところは二人だけでも充分に騒《そう》々《ぞう》しかったのだ。それにともはねが加わって、フラノ、てんそうまでいる。後きっと彼女らが連れ帰ったはずの精霊たちも。
たゆねは笑いながら指を折った。
「しっかし、いったい何人いるのかね? というかボクらがいたころとそう変わらないんじゃないのかな? えっと、啓太様にようこにともはねにフラノにてんそうに精霊たちに」
そこでたゆねはふと指を折るのを止《や》めた。
「そうだ」
彼女は呟《つぶや》いた。
いささか抑《よく》揚《よう》を欠いた口《く》調《ちょう》で。
「帰ったらあの人[#「あの人」に傍点]がいたんだ」
日本を出る前、ほんの少しだけ会った少女。顔だけは薫《かおる》とそっくりなくせに薫とは似ても似つかない雰囲気の少女。本当のカオル。じゃあ、自分たちが捜し求めているのは?
一体|誰《だれ》?
風がさやさやとたゆねの傍《かたわ》らを吹《ふ》き抜けた。
「そっか」
心が急速に冷え込んできた。
いったい自分は何に浮かれていたのだろうか?
苦笑する。
ちょっと日本に帰ってきたらこの様《ぎま》だ。まだ自分たちは主人を見つけてもいないのに。
苦しみ、消えてしまった心|優《やさ》しい主人を見つけていないのに。
「ボクは相変わらずダメダメだな」
たゆねは首を振り、
「もっともっと気を引《ひ》き締《し》めないと」
と、呟きかけたその時。
彼女は息を呑《の》んだ。本当に衝《しょう》撃《げき》を受け、一歩、よろめいた。
「う、うそ」
彼女は真《ま》っ直《す》ぐ、前を見つめていた。森の切れ目。川《かわ》平《ひら》薫|邸《てい》の敷《しき》地《ち》が見える境《きょう》界《かい》線《せん》上に川平薫その人が立っていたのだ。彼はにこやかに笑っていた。
両手を広げて立っていた。
「おかえり、たゆね」
そう言って。
白いズボンに少し胸元を開けた麻《あさ》のシャツ。十本の指には全《すべ》て指《ゆび》輪《わ》がちゃんとついていた。
たゆねの目から涙があふれた。
「う、うそ」
声がかすれた。首を何度も横に振る。
だが、川平薫は消えなかった。確《たし》かにそこに存在していた。彼は言った。
「本当におかえり、たゆね。長い旅、辛《つら》かったろう? さあ、おいで」
「う、うそ」
たゆねはよろめくように、夢《ゆめ》心地《ごこち》のまま薫に近づいていった。心の中ではずっと「薫様、良かった。薫様」とそう呟いていた。薫はにこやかに笑いながら手を広げ、微動だにしなかった。
ずっとたゆねを待っていてくれた。
そして。
たゆねはその時、何もかも悟った。
これもまた幻覚だ、ということに。
残《ざん》酷《こく》な幻覚だった。
そのことを悟って彼女は泣いていた。ぽろぽろと我《われ》知らず泣いていた。
「これは」
彼女は嗚《お》咽《えつ》をこらえた。
「この悪戯《いたずら》はちょっとひどいよ、春の精《せい》霊《れい》さん」
森の切れ目で立っていた薫《かおる》が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに小首を傾《かし》げた。たゆねは彼にちょうど触れるか触れないかくらいまで近づき、そっと彼の胸元に頭を押しつけた。
「違う。ボクらが……ううん。ボクが」
ぐすっとしゃくり上げた。
「ボクがもっと強かったら使える犬《いぬ》神《かみ》だったらあの時、なでしこが願《ねが》いを機《き》械《かい》に述べている間くらいあの人形を押しとどめることが出来たんだ。ごめんなさい。今思い返せば」
彼女は泣きながら言う。
「あの時、ボクが本気になっていたら薫様よりも誰《だれ》よりも早くなでしこのところに飛べていたはずなんだ。あの時、ソレが出来たのはきっとボクだけだった。せんだんにも誰《だれ》にも出来なかった。きっとボクだけが」
声がかすれる。
「ボクだけが出来たんだ。それを。薫《かおる》様の身代わりになれたんだ……でも」
膝《ひざ》をがくっと地につける。
「ボクは怯《おび》えてしまったんだ。身体《からだ》がすくんでしまったんだ。そう! そうさ! ようやく分かったよ! 『ボクが! ボクが臆《おく》病《びょう》者《もの》で力が足りなかったから薫様は消えちゃったんだ! 薫様はここにはいない。ウソツキ』」
彼女がぐっと頭を押し付ける。
薫の幻がすうっと消えた。
「そしてごめんなさい……」
たゆねはそのままの姿勢で泣き続けた。彼女のすすり泣く声が森の静間に吸い込まれていった。しばらくして壼《つぼ》の中からそおっと毛むくじゃらの犬とアライグマをかけ合わせたような奇妙な生き物が姿を現した。
ソレは泣いているたゆねをおろおろと見つめ、
「ゴ、ゴメンネ?」
掠《かす》れた小さな声で喋《しゃべ》った。
おどおどと彼女の頭を同じく毛むくじゃらの前足で撫《な》で、
「ヤリスギテゴメンネ? ナカナイデナカナイデ」
なんとか慰《なぐさ》めようとした。それから急に何かの気配《けはい》に気がついて慌《あわ》てて壺の中に引っ込む。たゆねの身体に影《かげ》が差しかかった。誰かが家の方からやって来たのだ。
「たゆね?」
それは川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》だった。
短パンにアロハシャツを着た啓太は困《こん》惑《わく》したように言った。彼女の目《め》線《せん》にしゃがみ込み、
「おまえ……こんなところでなにやってるんだよ?」
その瞬《しゅん》間《かん》、たゆねがわっと泣きながら啓太に飛びついた。しがみついた。
泣き出した。
「薫様が! 薫様をボクは!」
自分でも何を言ってるのか分からなかった。だが、啓太はふっと笑った。
「だいじょうぶ」
ぎゅっとたゆねを優《やさ》しく抱っこしてやった。
「だいじょうぶ」
たゆねはわんわん泣《な》き喚《わめ》いた。日本を離《はな》れた心細さ。薫を失ってしまった自責の念。彼をまだ捜し出せない焦《あせ》り。そんなことをたどたどしい言葉で一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》啓太に訴えた。
伝えようとした。
啓《けい》太《た》は黙《だま》ってそれを聞いていた。
かなり長い間、それを黙って聞き終えた後、啓太はたった一言だけ言った。
「だいじょうぶ。俺《おれ》が必ずなんとかしてやるから」
気負うことなく、さりげなく。でも、力強く。
笑って。
一体どれだけそうしていただろう。一体どれだけの時間たゆねは啓太の腕の中にいただろう。やがて彼女は啓太からそっと身を離《はな》した。啓太は無言でいる。
たゆねは小さく言った。赤くなって。
「ボクは」
しばらく迷ってから、
「でも、ごめんなさい。ボクは啓太様にはなるべく頼らないようにします。ええ、それがいいと思います」
そうぽつりと呟《つぶや》き、はっとしたように慌《あわ》てて言い直した。
「あ、ご、ごめんなさい。それは別に啓太様が嫌いとかそういう訳《わけ》じゃなくって! いえ、セクハラする啓太様は大嫌いなのですが、ちがくてなんというか」
「なんというか?」
「薫《かおる》様は!」
それから考え考え大きく頷《うなず》いた。
「そう」
自分に言い聞かせるようにふと息を吐きながら、
「薫様はボクらが……ボクたち薫様の犬《いぬ》神《かみ》がみんなで助けないと意味がないと思うから!」
ようやく答えを見つけたのか、いつもみたいに真《ま》っ直《す》ぐ言い切った。
「だから、ボクは啓太様にはなるべく頼りません! ボクはボクらだけでなるたけ頑《がん》張《ば》って薫様を助けようと思います!」
啓太はしばらく無表情だった。
それからにかっと笑って手を頭の後ろで組み、
「それでいいんじゃね?」
一言そう言った。
たゆねはぱあっと明るい表情になった。「分かって貰《もら》えた」という気持ちで身も心も軽くなった。
そうして啓太とたゆねは二人並んで仲良く話し、そして啓太の軽いボディタッチにたゆねが笑って本気でどつきながら家路についたのだった……。
ところで余《よ》談《だん》ではあるが啓《けい》太《た》と一《いっ》緒《しょ》に家に戻ってきて、
「あ、川《かわ》平《ひら》君。ケーキ焼いてきたんだけどどう? あ、もちろんこれは命を助けてもらったお礼だから気にしないでね?」
「というか、ケイ! あんたしつこ〜〜〜〜い!」
「啓太様〜、シミュレーションゲームが解けませ〜ん。手伝って!」
「あ、あの啓太お兄《にい》ちゃん。この数学の問題が分からないんですけどよかったら……」
と、女の子たちがわらわら群がってる様《さま》を見て、
「う、うそ〜! 『啓太様がこんなに女の子にもてる訳《わけ》がない! ウソツキウソツキ!』」
と、たゆねは彼女がいない間にすっかり様変わりしてしまった現実がどうしても信じられず、しばし壁《かべ》に頭突きを止《や》めなかった。
ローマ。トレビの泉。ポーリ宮殿の壁《かべ》と一体となった造りで、中央にネプチューン、左手にデメテル、右手にヒギエイアの像が建てられている。
元々はヴェルジネ水道の終端施設としての泉であったが場所を替《か》えた後、今の様式になった。
サンピエトロやサン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会、アウグストゥス帝|廟《びょう》などと並ぶローマでも有数の観《かん》光《こう》名所であり、世界各国から集まってきた観光客がガイドブックとカメラを片手に歩き回っている姿が常に絶えることがない。
泉に背を向けてコインを投げ入れると再びローマに戻ってこられるという伝説があり、今も目の前で銅貨を投げ入れたアメリカ人のカップルが自分たちのコインがきちんと水の底に沈んだのを確《かく》認《にん》した後、盛大に笑い合っていた。
夏の日が照り返す泉の縁《ふち》には沢《たく》山《さん》の人が腰を下ろしており、比較的、広い泉の周囲も人口密度が高く見える。
「あついな」
ごきょうやは手すりに背を預けた姿勢で、軽く片足をぶらぶらさせていた,珍しくモスグリーンのワンピースというフェミニンな格《かっ》好《こう》をしていた。
「どうしてこんなにあついのだろうか。実に困ったモノだ」
彼女はまた抑《よく》揚《よう》なくそう言ってきょろきょろと辺《あた》りを見回し始めた。どこか落ち着かない風《ふ》情《ぜい》であった。ぐるっと泉の縁をなぞるように視《し》線《せん》を動かした後、また元の位置に戻す。それから手持ち無《ぶ》沙《さ》汰《た》のように手を泉の中に入れ、軽く掻《か》き上げた。
跳《は》ね上がる水《みず》飛沫《しぶき》。煌《きら》めく光。泉に面した通りにはジェラートを売っているアイスクリーム屋があり、そこでオレンジのジェラートを買った男の子が家族の許《もと》へ駆《か》けていく。ごきょうやはその姿を目で追った。
と。
通りの向こうから一人の男が現れた。
ごきょうやの心《しん》臓《ぞう》がとくんと音を立ててはねた。
もう二十年以上も会っていない。
それなのに一目で分かった。身体《からだ》中《じゅう》の細胞という細胞が彼を覚えていた。
「そうた……ろうさま」
声が掠《かす》れてしまった。男はどこかばつが悪そうにごきょうやに近づいてきて、
「よ、よう」
一言そう言った。
それが元《もと》犬《いぬ》神《かみ》使い川《かわ》平《ひら》宗《そう》太《た》郎《ろう》と彼の犬神だったごきょうやの再会だった。
「変わらないな、お前は。まあ、犬神なんだから当たり前っちゃ当たり前だが」
それが彼の第一声だった。ごきょうやは一《いっ》瞬《しゅん》、彼の姿に見ほれてから、
「あなたは」
赤くなり、早口で、視《し》線《せん》を逸《そ》らすようにして言葉を返した。
「あなたはだいぶ変わりましたね。随《ずい》分《ぶん》とおじさんくさくなりました」
それから悪戯《いたずら》っぽく笑って宗《そう》太《た》郎《ろう》を見上げた。
「昔はもっと可愛《かわい》らしかったのに。残念です」
宗太郎は苦笑した。
「まあ、実際|俺《おれ》はもうおじさんと呼ばれる年なのさ、ごきょうや」
色の入った眼鏡《めがね》をかけた割とハンサムな風《ふう》貌《ぼう》は十代の頃《ころ》のままだ。だが、色白だった少年時代と違い今の宗太郎は随分と日に焼け、瞳《ひとみ》には確《たし》かな落ち着きが生じている。射抜くようだった眼光は包むような優《やさ》しさを帯び、物腰もはきはきと動いていたあの頃と異なり、どこか泰《たい》然《ぜん》としている。
『啓《けい》太《た》様もいずれこんな大人《おとな》の男性になっていくのだろうか』
ごきょうやはどこかくすぐったいような気持ちで宗太郎を見上げた。
不《ふ》思《し》議《ぎ》なことに彼の声を聞いたとたん、あれだけ混乱していた気持ちは当時のままの気安い、華《はな》やいだものに変化していた。
「なんにしてもこうしてまた会えて本当にうれしいですよ、宗太郎様!」
「ごきょうや」
宗太郎は言葉を選びながら一つ咳《せき》払《ばら》いをした。
「俺は……なんというか、その、すまない」
ごきょうやは頭を振った。
「いいえ。もうそのことは仰《おっしゃ》らないでください」
彼女は微笑《ほほえ》み、宗太郎の手を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んだ。
「あなたにはあなたの事情があり、私たちを手放さざるをえなかった。二十年前から頭では分かっていたことを私はようやく最近、きちんと心と身体《からだ》で理解しているのです。もう恨《うら》み辛《つら》みもありません」
「えっと」
宗太郎がちょっと冷や汗をかいていた。
「……ということは逆に言うとつい最近までは俺のこと恨んでいたの?」
ごきょうやは悪戯っぽく笑って、
「宗太郎様。ご存じなかったのですか? こう見えて私は結構執念深いのですよ? も〜毎日のように薄《はく》情《じょう》なあなたのことを呪《のろ》っていましたとも」
宗太郎が笑顔《えがお》のまま硬直している。ごきょうやは朗《ほが》らかに笑い出した。
「あはは、嘘《うそ》。嘘ですよ、宗太郎様! 大丈夫です。少しの間尾を引いていたのは事実ですが」
彼女はきゅっと宗太郎の手をさらに握った。
普《ふ》段《だん》の彼女を知るものなら驚《おどろ》くくらい童女めいた仕《し》草《ぐさ》。
「あなたの息子さん。啓《けい》太《た》様と出会ってからはちゃんと全《すべ》て吹《ふ》っ切れましたよ」
そう言われ宗《そう》太《た》郎《ろう》は不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな顔になった。
「啓太が?」
「そう。啓太様です」
ごきょうやは微笑《ほほえ》んだ。
それから二人は近くのオープンカフェに移動し、軽くお茶《ちゃ》をしながら積《つ》もり積もった話をした。ごきょうやは彼がいない間の川《かわ》平《ひら》家《け》の話。特に宗太郎の母に当たる宗《そう》家《け》や彼の息子啓太とその犬《いぬ》神《かみ》ようこの騒《さわ》がしい毎日の話などをした。川平家の人間が比較的|血《けつ》縁《えん》関係に淡《たん》白《ぱく》とはいえ、ごきょうやが啓太の素《そ》行《こう》をちょっと困った顔で説明しつつも、その人間性だけは大いに褒《ほ》め称《たた》えるとさすがに宗太郎もくすぐったそうな顔になった。逆に宗太郎は宗太郎でこちらでの暮らしぶりや行方《ゆくえ》不明になった薫《かおる》の手がかりについて言及する。
「まあ、俺《おれ》も俺なりに調《しら》べてみたんだが」
と、宗太郎は前置きをし、
「やっぱりイブン・ハサットつう占《うらな》い師《し》が一番みたいだな。ちょっと図《ず》抜《ぬ》けた存在みたいだ。こいつのところに行けば行方不明の人間は大抵見つかるらしい」
宗太郎は考え考え、
「ただな、問題はペルシャのどっかにいる、つうえらい漠然とした情報しかないってことだよな。こいつに会えれば薫を見つけるのも容易《たやす》いと思うんだけど」
するとごきょうやは酷《ひど》く曖《あい》昧《まい》な表情になった。
やがて言いにくそうに、
「実はですね」
「なに?」
「えっと」
一息に言う。
「実はもう接触済みなんです。私。イブン・ハサット氏と」
「!」
宗太郎は驚いた表情になった。続いてどこか居《い》心地《ごこち》悪そうに下を向いているごきょうやを見つめて大笑いする。
「あははははは! さすがだな、ごきょうや。昔と同じく仕事が速い!」
ごきょうやはぶんぶんと首を横に振った。
「いえ、そんな。これは断じて私だけの力ではありませんので」
「で?」
宗《そう》太《た》郎《ろう》が突然、真《ま》面《じ》目《め》な顔になった。
「いったいどんな結果が出たんだ? そのイブン・ハサットから託《たく》宣《せん》を受けて」
興《きょう》味《み》津《しん》々《しん》と前に身を乗り出す。
「会ったんだろう? そいつと」
ごきょうやはさらに小さく「え〜と」
それから、
「実は、私が会いに行った時にはもう既《すで》に死んでいたんです、イブン・ハサット氏」
今度こそ宗太郎が目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた。
しばらく沈《ちん》黙《もく》が場を支配した。宗太郎は目をぱちくりさせ、
「ど、どういうことだ?」
と、ごきょうやに問いかける。ごきょうやは困ったような顔で説明を始めた。
単独でイランの一地方を訪れていた時、偶然、イブン・ハサットの住む住居を見つけてしまったこと。ただ、彼は二日前に亡くなっていて近所の人たちがひっそりと葬《そう》儀《ぎ》を執《と》り行う準備をしていたこと。
ただ、驚《おどろ》いた事にイブン・ハサットはこれから訪れるであろうごきょうやに向けてメッセージを残していたこと。
宗太郎はぽかんと呆《あっ》気《け》に取られた表情になった。それから改めて深い溜《ため》息《いき》と共に首を振り、
「すごいな……ということはなにか? そのハサットつう男は自分の死後のことまで見通してたって訳《わけ》だな? 今まで一度も会ったこともないお前っていう犬《いぬ》神《かみ》がやがて自分の死後、訪れてくることや主《あるじ》を捜しているってことまで」
「ええ」
と、歯切れ悪くごきょうや。宗太郎は面《おも》白《しろ》そうに先を促《うなが》した。
「さすが占《うらな》い師《し》の中の占い師全《すべ》てを見通す水晶の目≠セな! で、イブン・ハサットはなんてお前に言い残していたんだ?」
「はい」
ごきょうやは下を向きながらぽつりぽつりと話していった。
「えっと、実は私もハサット氏が亡くなる直前に遺《ゆい》言《ごん》を直《じか》に聞いたモノからしか言《こと》伝《づて》を受け取っていないので詳しい理由とかは全く不明なのですが」
と、前置きをして、
「薫《かおる》様を捜し出すにはなんでも太古の記《き》憶《おく》を残す℃l体の精《せい》霊《れい》を吉《きち》日《じつ》市《し》にそろえる必要があるらしいのです」
「せいれい? なんでまた?」
「さあ? そこら辺のことはハサット氏は語ってくださらなかったと、そのメッセージを聞いたモノは申しておりました」
「ふ〜ん」
宗《そう》太《た》郎《ろう》は顎《あご》を撫《な》でる。ごきょうやは宗太郎の目を出来るだけ見ないように、
「ただ、その代わりどの精《せい》霊《れい》が必要なのか、彼らが住んでいる場所や交渉方法は事細かに指示を残してくださってました。お陰《かげ》様で私は今のところ三体までは必要な精霊を探し出すことに成功しています。四体の精霊が揃《そろ》えば自然と道が開ける、とハサット氏は言っていたらしいのですが」
「……」
宗太郎は無言でじっとごきょうやを見下ろしていた。ごきょうやは堅くなっている。やがて、
「うん。さすが、ごきょうや。いい仕事振りだな!」
そう言ってくしゃくしゃとごきょうやの髪を撫でた。
ごきようやは耳元まで赤くなった。
昔からそうだった。
控えめなごきょうやは手柄をこれ見よがしに報告することはなかったが、そうやって褒《ほ》められることを実は誰《だれ》よりも強く待ち望んでいた。二人の関係は昔のママに戻ったかに見えた。
時が巻き戻っているかのように。
だが。
「あ、いかん」
歳《さい》月《げつ》は否《いや》応《おう》なく確《かく》実《じつ》に流れているのだった。
もう二人は若き犬《いぬ》神《かみ》使いと彼の一番のお気に入りではなくなっていた。
「すまん、ごきょうや」
宗太郎が申《もう》し訳《わけ》なさそうに手を合わせた。
「おれ、そろそろ行かないといけない」
ごきょうやは一《いっ》瞬《しゅん》、きょとんとした。まるで事態の把握が出来ていないかのように。二十年前『主《あるじ》の行くところならどこへでもついていけていた自分』に戻っていたかのように。
だが、彼女はすぐに溜《ため》息《いき》をついて現状を認《にん》識《しき》し直した。
「おくさま、のもとへですか?」
じいっと宗太郎を見つめる。宗太郎は冷や汗を掻《か》きながらも頷《うなず》いた。
「うん、悪い。二時間で戻るって約束してあるんだ」
じとっとした目。それからごきょうやはふてくされたようにふいっと横を向いた。
「どうぞご随《ずい》意《い》に」
「いやあ、あのその」
「ええ、早くご家庭に戻って差し上げてくださいませ。一度捨てたオンナのことなど一切お気になさらず。私はこうしてこの喫《きっ》茶《さ》店《てん》が閉じるまでコケのように座っておりますので」
「そ、そんな人聞きの悪い!」
ごきょうやはつ〜んとそっぽを向いていた。だが、やがてくすっと笑う。やや力なく。それでも諦《あきら》めとそれを乗り越えた明るさを持って。
「そうですね。まあ、でも、また気が向いたら会ってやってください。この昔のオンナに」
「ん? うん」
宗《そう》太《た》郎《ろう》は真《ま》面《じ》目《め》な顔になった。ごきょうやはそっと彼の二の腕を甘《あま》噛[#「噛」はunicode5699]《が》みする。
「本当にお元気で」
昔やっていたように。かみかみ。かみかみ。二度、三度と良く噛[#「噛」はunicode5699]む。宗太郎は目を細め、
「うん、ありがとうな。必ず」
また彼女の頭をそっと撫《な》でた。
手を振って去って行く宗太郎。それをじっと見つめるごきょうや。やがてほうっと溜《ため》息《いき》をついて深々と腰を落とした。込み上げてくる様《さま》々《ざま》な感情をゆっくりと噛[#「噛」はunicode5699]《か》み締《し》め、目を瞑《つむ》って余《よ》韻《いん》に浸っていたまさにその時。
「ごきょうや、偉かったですね。ちゃんと宗太郎様の仰《おっしゃ》ることをききわけて」
小さな声がそっと背《はい》後《ご》から聞こえてきた。
その瞬《しゅん》間《かん》、ごきょうやの全身から汗が吹《ふ》き上がり、目が大きく見開かれた。
いつの間にか彼女の背後に誰《だれ》かが座っていた。
注意深い彼女が全く気がつかなかった。その何者かが。
そっと言葉をつむいだ。
「宗太郎様。改めて見ると啓《けい》太《た》様に本当によく似てらっしゃいますね」
カップからお茶《ちゃ》をすする音。
「でも、薫《かおる》様にはあまり似ていない」
「な、なでしこ?」
ごきょうやは掠《かす》れ声で呟《つぶや》いた。ゆっくりと振り返る。
背後のテーブルに一人の少女が座っていた。
彼女もまた振り返りざま、
「でも、良かった。あなたが宗太郎様ときちんとお話できて。私もずっとそれが心配だったから」
気《き》遣《づか》うように笑顔《えがお》で言った。
「ま、まさか?」
ごきょうやは怯《おび》えたような顔で、
「ずっと見張っていたのか?」
優《やさ》しそうな微笑を浮かべたなでしこに向かってそう尋《たず》ねた。なでしこはおかしそうに首を横に振った。
「まさか! なんで私が仲間であるあなたを見張らなきゃいけないんですか?」
「なでしこ」
「ごきょうや。どうやら精《せい》霊《れい》さん、三体までは見つけたみたいね」
「あ、ああ」
ごきょうやがイブン・ハサットの自宅を訪れたその時。
彼の亡《なき》骸《がら》に一人の先客がそっと寄り添っていた。
ごきょうやよりも一足先に彼を捜し出していた少女がいたのだ。
ごきょうやも良く知る彼女は微笑を浮かべ、イブン・ハサットの最後の遺《ゆい》言《ごん》をごきょうやに口頭で伝えてきた。ごきょうやはそのことをまだ誰《だれ》にも言っていない。
夕日が差し込む部屋の中、干《ひ》からびたようにベッドの上で死んでいる老人とその傍《かたわ》らで穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》んでいる少女の対比が今もありありとまぶたに残っている。
なでしこは笑った。
「では、最後の一体もぜひ早く見つけてください」
そうして。
彼女は。
黒衣の<Gプロンドレスを着たなでしこは声だけはまるで以前と一《いっ》緒《しょ》で。
「がんばって薫《かおる》様を早く早く見つけてあげましょうね♪」
ぐっと愛らしく拳《こぶし》を握ってみせる。
「大丈夫ですよ。絶対」
希望に満ちた言葉を明るい声で述べた。
「私たち仲間の力をあわせればきっときっと薫様もすぐに見つかるはず!」
満《まん》面《めん》の笑顔《えがお》。
ごきょうやはぐっと唇《くちびる》を噛[#「噛」はunicode5699]《か》み締《し》め、頭《こうべ》を垂《た》れた。
その仲間≠ニいう言葉が。
今はなぜかとても遠く聞こえて感じられた……。
あとがき[#「あとがき」は太字] [#小見出し]
なんかギリシャを旅していた時の話が評判良かったので、前回に続いて。
当時はまだ大学生でした。一月ばかり、寝《ね》袋《ぶくろ》を担いで安宿を転々としながら旅していました。アテネのパルテノン神殿やロードス島の遺《い》跡《せき》などの古代の建《けん》築《ちく》物《ぶつ》の時代を超越した精《せい》巧《こう》さ、重《じゅう》厚《こう》さに驚《おどろ》き、エーゲ海のエメラルドのような色合いにびっくりして、道中知り合った変わった人たちとの話に感《かん》銘《めい》を受けました。
安宿にも泊まっていましたが、キャンプ場があるところでは設備も良いし、お金の節約にもなるので積《せっ》極《きょく》的《てき》に野宿してました。降るような星空の下、隣《となり》のドイツ人カップルのテントが風もないのにぎしぎし揺《ゆ》れているのを横目で見ながらMDでGAOの「サヨナラ」をずっと聞いていたのが心に染《し》みているよい思い出です……。
他《ほか》にも記《き》憶《おく》に残っている人たちでは前巻に書いたルーマニア人のゲイ(滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》頭の良い人でした)、ギター片手にヨーロッパを回っていたセルビア人などがいますが、特にアテネのドミトリーで同室になったアメリカ人のバックパッカーが印象強かったです。
彼、同室になった時からすごく身体《からだ》が怠《だる》そうで、何かしきりにぶつぶつ言ってるので訳《わけ》を聞いてみたらどうやらつい最近、昏《こん》睡《すい》強盗にあったのだそうです。
ヒッチハイクをしている時にドライバーから勧《すす》められたクッキーを食べたら大量の睡眠薬が混入されていたらしく昏睡。目覚めたらアテネの病院だったそうです。なんでも身ぐるみ剥[#「剥」はunicode525D]《は》がされ、路上に放置されているところを警《けい》察《さつ》に助けられたとか。
で.ようやく退院してきて今はパスポートの再発行を待っているのだそうですが、普通そんな目に遭《あ》えばもう旅をするのがイヤになるのが普通なのに彼は、
「いや、まだアメリカには帰らないよ。お金はこれからバイトでもして稼《かせ》ぐし、俺《おれ》の旅はまだまだ終わってない! ほんと今回は良い勉強になった!」
なんか陽気な顔でワン○ースのキャラみたいににかっと笑って言ってました。ああ、若いって素晴《すば》らしいな、と当時、自分も若かったのにそんなことを思ってました。
あれ? オチがないぞ?
今回も大変お世話になりましたサトーさん、若《わか》月《つき》さん、ありがとうございました。
それと毎度手にとってくださる読者の皆様。
「いぬかみっ!」もっともっと面《おも》白《しろ》くしていきますのでぜひ、最後までお付き合いくださいませ!
[#地付き]有《あり》沢《さわ》まみず