いぬかみっ! 10
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物件名   中古住宅
敷地|面《めん》積《せき》  二千八百二十六|平《へい》米《べい》
建物専有面積 六百六十二平米
構造  石造り二階建て(地下一階)
築《ちく》年数 築四十七年
間取り 二十六LLDDKK アトリエ 屋根裏 温室(温泉) ログハウス 修道院つき
最寄り駅 吉《きち》日《じつ》中《ちゅう》央《おう》駅より徒歩一時間
温泉権つき
備考:若《じゃっ》干《かん》の霊《れい》障《しょう》あり 気をしっかり保てる方、向き
吉日市のはずれの森、奥深く、元修道院だったその建物はひっそりと聳《そび》え立っていた。まるでこの世のいずこかに消えてしまった主人をじっと無言のまま待ち受けているかのように。
降りしきる霧《きり》雨《さめ》の中、ひっそりと。
「ううう」
今、川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の犬《いぬ》神《かみ》ようこが中庭からその石造りの建物を見上げて感動の涙を流していた。
「長かったわ……本当に長かったわ」
彼女はそっと袖《そで》口《ぐち》でその涙を拭《ぬぐ》い、困窮生活に堪《た》え忍んできた糟《そう》糠《こう》の妻のように、
「最初は六畳一間。次が河原《かわら》。段ボールハウスでずっと生活してきて、そこも追い出されて、とうとう最後は猫の居《い》候《そうろう》にまで落ちぶれて」
「悪かったな」
啓太がぶすっとした声で答える。ようこはふるふると首を横に振った。
「いいの。わたしはケイタと一《いっ》緒《しょ》にいられるだけで、それだけで幸せだったから」
彼女は弱々しい笑《え》みで首を振る。それから一転、ミュージカルの登場人物のようにくるっと一回転すると明るい声で、
「でも、でも、とうとうわたしにもこんな立派なおうちに住める日が!」
膝《ひざ》を突き、ひらひらと手をひらめかせた。
「つうか、そのみょうな演技|止《や》めろ」
啓太が半目で突っこむ。ようこはてへっと笑った。それから彼女はすてててっと啓太の許《もと》に駆《か》け寄り、
「でもさ、ケイタ。なんだって急にここに住むことにしたの? もっと適当なおうちならいろいろあったのに。ここ大きすぎてかえって不便かもよ?」
啓太の顔を覗《のぞ》きこむ。
「ん〜」
啓《けい》太《た》は頭を掻《か》いた。
「まあ、なんとなくだな」
彼はそう言ってちょっと遠くを見た。ようこは彼のことをじっと見つめる。それからにこっと笑った。
「ケイタ。わたしはケイタが何を考えているのかちょっと分かるよ。なんでケイタがここに住もうとしているのか、ケイタがどこを見ているのかちょっとだけね。えへへ、凄《すご》いでしょ?」
「お前……」
啓太は少し驚《おどろ》いたようにようこを見《み》遣《や》った。ようこは彼の腕を胸元に抱えこみ、
「まあ、でも、関係ないね、わたしは。ケイタが一体どういう考えでも。わたしはとにかくただずっとケイタと一《いっ》緒《しょ》にいるだけだから、ね♪」
そう言って「えへへ」とまた笑って、すりすりと額《ひたい》をこすりつけた。
啓太は微笑《ほほえ》みを浮かべた。
自分の一番の理解者である少女の頭を撫《な》でる。くしゃくしゃと、
「行くか?」
「うん、早速、入ってみようよ! この家に!」
そうして二人は手に手を取り合って、霧《きり》雨《さめ》の中に佇《たたず》む洋館に向かって歩き出した……。新しい生活に向けての第一歩を。
「だから、アボガドロ定《てい》数《すう》の求め方はファラデー定数と素《そ》電《でん》荷《か》との比から求める訳《わけ》だな。で、dogがつけ回す、foxが騙《だま》すcatが碇《いかり》を上げる」
川《かわ》平《ひら》薫《かおる》邸《てい》の一室。
十畳程の畳《たたみ》敷《じ》きに押し入れと床の間と日本風に改装されたその部屋で啓《けい》太《た》はこたつに足を突っこんで勉強をしていた。頭にははちまきを巻き、傍《かたわ》らには番茶の入った湯飲みを置き、参考書を積《つ》み上げ、ノートに鉛筆を走らせる。
古典的な受《じゅ》験《けん》勉強スタイルである。
実際、彼はかなりまじめにやっていた。
「p、qは素数でp>qとするとき、整《せい》数《すう》rが存在するのは、p=4、q=1の」
ただそのやり方は酷《ひど》く変わっている。
特定の一教科に時間を割《さ》くのではなく、ほとんど十分間隔で次々と参考書を取り替えていくのだ。さっきまで数学の基《き》礎《そ》解析を解いていたかと思うと次はもう古文の『更《さら》級《しな》日《にっ》記《き》』を読みこんでいる。移り気な彼独特の不《ふ》思《し》議《ぎ》な勉強法だった。
リズム良くノートを取っ替え、引っ替え、相当のってるところでふすまを開けて廊下から一人の少女が入ってきた。
薄《うす》いブルーのパーカーに赤と黒のタータンチェックのミニスカート。形の良い素足を剥[#「剥」はunicode525D]《む》き出《だ》しにして、スリッパだけは履《は》いている。
犬《いぬ》神《かみ》のようこである。
彼女は片手になぜかデジタルのビデオカメラを持っていた。それを回しながらゆっくりと啓太の周りを旋《せん》回《かい》し出した。
「はい、これがケイタです。最近べんきょ〜してます、一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》です。えらいです。見えてますか? せんせ〜。来年、せんせ〜みたいになるんだそうです。動物のお医者さんです。大変です」
啓太は「ん?」
と、眉《まゆ》をひそめて顔を上げた。ようこは構わず、
「えへへ。けっこ〜ハンサムさんでしょ? あのね、こういうこと大きな声で言うとケイタ調《ちょう》子《し》に乗って他《ほか》の女の子のところに走って行くからこれはここだけの秘密です」
「おい!」
「おい、って言ってます。なんか怒ってるみたい。はい、ケイタ。にっこり笑ってえ〜!」
ぐいっとカメラを近づけるようこ。
啓太はそのレンズを指先でぐいっと下に押して胡《う》乱《ろん》げに、
「だから、なにやってるんだよ、おまえは?」
そう尋《たず》ねた。ようこは一度こたつの上にカメラを置いてからにこっと微笑《ほほえ》んだ。
「うん! レポート提出♪」
「レポート提出?」
まだまだ胡《う》乱《ろん》げな啓《けい》太《た》に対してようこは軽快に、
「あのね、天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》のせんせ〜がね、これまでのことを話したらね、すっごい興《きょう》味《み》を示してね、それはすごいサンプルだからぜひ君たちの生活を細かくビデオに録《ろく》画《が》して提出してくれって言われてこれ渡されたの」
「なんじゃ、そら?」
「あのね、特にケイタのこと気にしてたよ。あとは住んでるところとか普《ふ》段《だん》やってることとか映しなさいって」
「……なんか胡《う》散《さん》臭《くさ》いな。人んちのことがなんでそんなに知りたいんだ、その先生?」
「さあ? 『もしかしたら歴史に残る』とか『安《あ》倍《べの》晴《せい》明《めい》以来の』とか訳《わけ》の分からないことを言っていたけれども、みんないい人たちばかりだよ。だって、わたしの」
と、言ってなぜか赤らむ頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を押さえて首を振るようこ。
「ケイタのえっち♪」
その論《ろん》旨《し》の飛《ひ》躍《やく》(天地開闢医局で一体ようこはなんの検査を受けてるのか)はあえて冷や汗を垂《た》らしながら突っこまず啓太は言った。
「ま、まあ、その辺はいいや。いいようにやってくれ」
「お勉強、お邪《じゃ》魔《ま》?」
「ん?」
啓太はもう生物の参考書に視《し》線《せん》を落としながら上の空で返事を返した。
「別に。うるさくなければなにしたっていいぞ〜、ミトコンドリア、ゴルジ体、リボソーム」
「えへへ。うるさくなければ?」
「ああ、うるさくなければ、な。核の中から遺《い》伝《でん》子《し》が命令っと」
ようこはくししと拳《こぶし》を口元に当てて笑うと啓太にぴとっと後ろからすり寄った。それから胸の先っぽを押しつけるように上下する。
「ケイタはえらいよね〜」
たゆん。
ぐにゅんと最近、心なしかサイズを増した胸が啓太の背中でひしゃげ、変形する。ようこはしかしどちらかというとえっちな口《く》調《ちょう》ではなく、
「こうやって薫《かおる》の家で薫のことを待っていながらきちんと将来のことも決めててさ、やる時はやるんだもん」
「おしべとめしべが」
「えっちな本やビデオだってぜんぶ捨てちゃったしさ、ナンパもしなくなったし」
「えっちな関係を」
「だから、ケイタはいつだってわたしの自慢だよ♪」
そう言ってようこは後ろから伸び上がるとちゅっと啓《けい》太《た》の頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》にキスをした。手と足が艶《なま》めかしく背《はい》後《ご》からぎゅっと絡《から》まる。
啓太の理性が突然、ぷちんと糸のように簡《かん》単《たん》に切れた。
「よ、ようこ!」
一度、キスした仲である。
一度、好きって言ってしまった仲である。もう止めるものもあんまりない。思いっきり振り返ってようこのことをぎゅっと抱《だ》き締《し》める。
「きゃ♪」
と、嬉《うれ》しそうにようこ。だが、興《こう》奮《ふん》して鼻息を荒げた啓太の手がミニスカートの奥に潜《もぐ》りこんだのを見計らって、ようこはくすくすと笑い出した。
その手を軽くぺしっと叩《たた》いて、
「だ〜め。それは啓太がだいがくせいになってからって決めたでしょ?」
「うう、ようこ〜ようこ〜」
啓太はう〜と唇《くちびる》を突き出してようこを押し倒そうとする。ようこはさらに笑いながら啓太のおでこを押し返し、
「ごめんね。ついいつもみたいにからかいが過ぎたね」
彼女はするりと彼から離《はな》れるととんと立ち上がって距《きょ》離《り》を取った。
「じゃあ、ケイタがお勉強がんばれるようわたし今日《きょう》はちょっと奮《ふん》発《ぱつ》してお夕食作ってくるからね。待っててね♪」
そう言って後ろ手に弾《はず》むような足取りで部屋から出て行ってしまった。
啓太、がっくり。
それからちょっと時間が過ぎて啓太が勉強していると今度は賑《にぎ》やかな声が聞こえてきた。
「たっだいまあ! ようこ〜、言われた通り、敬《けい》愛《あい》堂《どう》でチョコレートケーキ四つ買ってきたよ!」
キュロットスカートに青いセーターを着たともはねが元気良くふすまを開けて中に入ってくる。彼女はチョコレートケーキの入った紙袋を捧《ささ》げ持つときょろきょろと辺《あた》りを見回し、
「あれ? ようこはどこですか? 啓太さま」
そう尋《たず》ねた。
啓太は鉛筆を走らせながら、
「ん? 台所じゃないのか?」
と、顔も上げずにそう答えた。ともはねはふむふむと頷《うなず》くと、チョコレートケーキをこたつの上に置き、やおら勉強している啓太の腕をまるで銭《せん》湯《とう》の暖《の》簾《れん》のように潜《くぐ》り抜け、彼の膝《ひざ》の上にもぞもぞと座った。
啓《けい》太《た》は特にそれに関してはなにもコメントせず、
「If a body catch a body comin' through the rye」
と、ともはねの頭越しに英語のテキストを見て、音読している。
「えへへ」
ともはねは自分のポジション確《かく》保《ほ》とばかりにすりすりとお尻《しり》を動かす。そこへさらに別の存在が部屋の中に入ってきた。
「……お邪《じゃ》魔《ま》します」
清《せい》楚《そ》なワンピースにハイソックスを身につけている。外《がい》観《かん》、十一、二|歳《さい》。黒いおかっぱの髪に抜けるような白い肌をしている。
川《かわ》平《ひら》カオル。
この世のどこかに消え去った川平|薫《かおる》の実の妹であり、彼女の父親が仕事兼薫の捜《そう》索《さく》のために海外へ出てしまったため、現在は啓太と同居しながら日本の学校に通っている美少女である。彼女はしばらくためらった末、大きく息を吸いこんでから一息に言った。
「すいません。もの凄《すご》く変なことをおたずねしますがさっき啓太たち『ペルシャの砂漠は暑かった』ってトイレの近くで仰《おっしゃ》いましたか?」
ともはねは「何を言ってるのだろう、この人は?」という顔で小首を傾《かし》げてカオルを見つめている。
一方啓太は上の空で、
「あ〜、でも、日本の梅雨《つゆ》もそ〜とう鬱《うっ》陶《とう》しいけどな……平均気圧は約1013ヘクトパスカルっと」
とか、返事を返した。カオルは困ったように眉《まゆ》をひそめた。
「でないのだとしたらちょっと問題があるかも知れません」
彼女は啓太にもまだあまり慣《な》れていなかった。ともはねだったらなにかあったら啓太の腕を遠《えん》慮《りょ》なく引っ張って立ち上がらせるところだろう。
代わりにカオルは、
「なんだか妙な声が廊下で聞こえたんです。啓太。大事なお勉強の最中、本当にごめんなさい。でも、よかったら私と一《いっ》緒《しょ》に来ていただけますか? 泥棒だったりしたら私一人では危険なので」
と、バカ丁《てい》寧《ねい》に頼みこんだ。
啓太はちょっと顔を上げてその真剣な様《よう》子《す》を見て取ってから苦笑した。
「はいはい、分かった、分かった。そんなに恐《きょう》縮《しゅく》して言わなくてもいくよ。あいしゃるご〜ういずゆ〜」
「……ありがとう、啓太」
カオルはぺこりと頭を下げた。少し赤くなっている。ともはねがぴょんと啓《けい》太《た》の膝《ひざ》の上から飛び降り、カオルが二人から距《きょ》離《り》を取るようにそそくさと先《せん》導《どう》し、三人はぞろぞろと部屋から出て行った。
いったん部屋が無人になる。
しばらくして入れ違いにようこがひょっこりとふすまの戸を開け、
「あれ? ケイタ、どこ行ったのかな?」
辺《あた》りを見回す。
彼女はお玉を肩に当てていた。溜《ため》息《いき》をつく。
「この家、ちょっと広すぎで使い勝手が悪すぎだよね。誰がどこにいるのかすぐ分からなくなるんだもん。入れ違いも多いし……ケイタ、ちよっとケイタ! ふぁっくすってのが届いてるよ! ぴかぴか光ってるってば!」
そしてまた部屋から出て行った。彼女は気がつかなかったが、こたつの上に置かれたビデオカメラの電源がずっと入ったままだった……。
それからしばらくしてともはねとカオルと啓太が部屋に戻ってきた。
「やっぱりカオル様の空《そら》耳《みみ》だったんじゃないですか? その変な声」
ともはねがそう指摘するとカオルがしゅんとなった。彼らはカオルが変な声を聞いた、というトイレを中心に幾つかの部屋を見て回ったが、なにも異常は発見できなかったのだ。
「そうかしれないです。ごめんなさい、啓太とともはれ。無《む》駄《だ》足《あし》を踏ませてしまいました」
彼女は申《もう》し訳《わけ》なさそうにそう言って頭を下げた。ともはねがん〜と腕を組んで考えこむ。それからはっと気がついた。
彼女の名前は「ともはね」であって決して「ともはれ」ではないのだ。
慌《あわ》てて訂正しようとしたところで、啓太がふと手を叩《たた》いた。
「あ、そ〜いやさ、この屋《や》敷《しき》なんかシスターの幽《ゆう》霊《れい》が棲《す》んでたろ? あいつじゃないのか?」
その言葉にともはねが訂正を一《いっ》瞬《しゅん》忘れて「ん〜」と指を顎《あご》に当て考えこんだ。
それから首をふるふると横に振り、啓太を見上げる。
「違うと思いますよ。あの子じゃないです。あの子はきっと今寝てます」
「寝てる?」
「はい。あの子が活動を始めるのは夜の十時半以降で、絶対に夜明けまでなんだそうです。って、薫《かおる》様……お兄様の方が仰《おっしゃ》ってました。はい。今、午後の四時半ですからあの子じゃないですよ?」
「ふ〜ん、じゃあ、やっぱりカオルの空耳なのかな」
ナチュラルに幽霊を同居人かなにかのように語る啓太とともはね。そのような存在が自分の起居する場所に存在すると初めて知ったカオルは軽く冷や汗を流している。
するとその時、
「あ、あれ?」
彼女はこたつ布《ふ》団《とん》とテレビセットの真ん中。
先《さき》程《ほど》まで啓《けい》太《た》が座っていた辺《あた》りに奇妙なモノが落ちていることに気がついた。手にとって広げてみる。それは女物のパンツだった。
目を丸くし、怪《け》訝《げん》そうに啓太の方を見やるカオル。
啓太とそれが上手《うま》く結びつかなかった。
見たところ自分のものではない。
ともはねのものとも違う。一度、一《いっ》緒《しょ》にお風《ふ》呂《ろ》に入ったから知っている。彼女のパンツはもっと子供っぽいものだった。
するとようこのものなのだろうか?
いったいなんでようこのパンツがこんなところに落ちているのか?
ちょうどその時、
「あ! ケイタ、ここに戻ってたんだ!」
外からようこが部屋の中に入ってきた。彼女は、
「あのね、ケイタ。さっきからふぁっくすがちかちか鳴って」
と、言いかけてともはねがこたつの上に置いたケーキの入った小《こ》箱《ばこ》を見て、目を細める。
「ようこ。言われたとおり敬《けい》愛《あい》堂《どう》のチョコレートケーキ買ってきたよ」
「ありがと、ともはね」
彼女はうっとりと箱を指先で撫《な》で、ともはねに礼を述べた。最近ともはねとカオルという二人の育ち盛りが扶養家族として増えてしまったため物いりが多く、ようこはようこなりに倹約してチョコレートケーキを買うのをずっと我慢していたのだ。
「一月ぶりのチョコレートケーキ……」
しかもとびきりの高級品である。
じゅるっとつばを飲みこむようこ。そんな彼女に向かってカオルが「これ、あの」とおずおずとパンツを差し出そうとするが全く気がついていない。
代わりに啓太が尋《たず》ねた。
「なんだよ、ようこ。俺《おれ》に用があったんじゃないのか?」
「え?」
「だから、ファックスがどうとか」
「あ、いっけない。そうだそうだった」
彼女はようやくチョコレートケーキから意《い》識《しき》を引《ひ》き離《はな》し、ぺちっと額《ひたい》を叩《たた》いた。
「あのね、ケイタ。さっきからふぁっくすがぺかぺか光ってるの。だけど、わたし扱い方がよく分からなくて」
「ん? ファックス受信してるのか?」
「うん。なんか紙が足りないみたい」
「分かった分かった。ちょっと見てくるよ」
啓《けい》太《た》は頷《うなず》きながら部屋を出て行く。ようこが彼の後を追いかけ、ふとなにかを思い出したように振り返った。
「あ、そうだ。あんたたち! わたしが折角片づけたのに食堂の辺《あた》りごちゃごちゃにしたでしよう? 花《か》瓶《びん》とかが倒れてたよ? 遊ぶのは良いけどちゃんと後でかたしてよね!」
腰元に手を当て少女二人に文句を言う。
「え?」
「なんのこと、ですか?」
ともはねとカオルが怪《け》訝《げん》そうに問い返す。ようこは顔をしかめ、
「ま、今日《きょう》はちょこれーとけーきを久しぶりに食べられるからね。あんまり怒らないでおいてあげる」
そう言って今度こそ部屋を出て行った。ともはねとカオルは顔を見合わせる。
「……アレなんのことでしょう? ともはれ」
「さあ?」
カオルに問いかけられ小首を傾《かし》げるともはね。それからまた自分の名前が「ともはね」であって「ともはれ」ではないことに気がつく。
すっかり間違えて覚えられているのだ。
「あ、あのですね! カオル様!」
しかし、彼女が訂正をする前にカオルは何事か考えこんだ表情で部屋から出て行ってしまった。パンツを握ったまま。
ともはねは慌《あわ》てて彼女を追いかける。
「だからですね、カオル様ったら!」
そしてまた部屋は無人となった。
しばらくして。
「な、なにこれ? どういうこと!!!」
というようこの凄《すさ》まじい声が部屋の中で響《ひび》き渡る。
そこにはようこ、啓太、ともはねが立っていて三者三様でこたつの上を見つめていた。ともはねは訳《わけ》の分からない恐怖の表情で、啓太はようこに対して怯《おび》えたように。
ようこは激《げき》怒《ど》に身体《からだ》中《じゅう》を震《ふる》わせていた。
なんと。
こたつの上に置かれていたチョコレートケーキの入った箱《はこ》がいつの間にか開封され、中身が無《む》惨《ざん》に食い散らかされていたのである。
そして、これが平《へい》穏《おん》な川《かわ》平《ひら》薫《かおる》の留守宅を揺《ゆ》り動かす事件の始まりであった。
啓《けい》太《た》はファックスを取りに電算室まで行って、ようこは台所でちょっと仕事をして、ともはねはカオルを追いかけたけど廊下の途《と》中《ちゅう》で見失った結果戻ってきたところで三人部屋の前で偶然|鉢《はち》合《あ》わせしたのである。
中に入ってみたら見事にこの惨状だった。
まずようこは目に涙を浮かべ、「あうう〜」と呻《うめ》きながら箱《はこ》に手を伸ばした。開け口のあちらこちらに汚く付着したチョコレートクリームを人差し指でぐっと拭《ぬぐ》った。
それを口先に運び、
「あまい」
うるうると泣きながらそう呟《つぶや》く。啓太とともはねがその後ろで気まずそうに互いに互いを見つめ合った。
ようこはついで辛《かろ》うじて箱の底に半分残っていた飾りの砂《さ》糖《とう》菓子を指先でそっと摘《つま》み、
「かわいそうに。こんな酷《ひど》い食べられ方をして」
それを口の中に入れてもぐもぐと泣きながら愛《いと》おしむように食べた。
「こんな愛のない食べ方……ひどいよね。ひどすぎるよね」
それは確《たし》かに乱《らん》暴《ぼう》に食い散らかされていた。啓《けい》太《た》が「おい。ようこ、大丈夫か?」と彼女の肩に手を伸ばす。
チョコレートケーキをなによりも愛するようこの落胆は見ていて非常に痛ましかった。
とたん。
ようこがくるっと振り返って啓太を涙目で睨《にら》んだ。
「ケイタ! このチョコレートケーキを食べたのケイタ?」
啓太が慌《あわ》てて滅《めっ》相《そう》もないというように手を振る。
「そ、そんな命知らずなことしないよ! 俺《おれ》じゃない! 俺じゃないって!」
「ホントを〜?」
ようこが恨《うら》めしげに啓太を下からねめ上げる。
「ほ、ほんとさ! ほんとうだよ! 誓って俺はやましいことはしていない!」
啓太は引きつった笑《え》みで後ろへよろめくように後退する。ようこがそのままのジト目で今度はともはねに目《め》線《せん》を移動させる。
ともはねは、
「!!!!」
と、声にならない悲鳴を上げ、首と手を全力でぶんぶんと振る。
あたしやってないよ!
と、全身で叫んでいた。
ようこはまるで妖《よう》怪《かい》のようにぬらあっと這《は》い寄ると啓太とともはねの口元の匂《にお》いをふんふんと嗅《か》いだ。
疑い深い暗い眼《まな》差《ざ》し。
「ひ!」
「な、なんだよ?」
「う〜ん、チョコレートの匂いがしない。あれだけ食べていたらきっと匂うのに」
ようこは怪《け》訝《げん》そうにそう言って腕を組んだ。首を捻《ひね》る。啓太とともはねはほっとしたように言《い》い募《つの》った。
「だ、だから俺たちじゃないってば!」
「そ〜だよ。あたし、そんなつまみ食いなんてお行《ぎょう》儀《ぎ》の悪いことしないもん!」
「じゃあ」
ようこは困《こん》惑《わく》したように半目になる。
「一体|誰《だれ》がやったってのよ? 他《ほか》にいないでしょ? まさかカオルがやったってこと?」
と、この場にいない唯《ゆい》一《いつ》の人物の名前を挙《あ》げた。カオルはまだ部屋に戻ってきていなかった。
「ん〜」
ともはねが指先を顎《あご》に当て、啓太がもっともらしく頷《うなず》く。
「そ〜だな。あいつはもっとそんなことしそうにないな。かといって俺《おれ》たちの中の誰《だれ》かとも思えない」
「うう、わたしのちょこれーとけーきいい〜」
ようこが涙目でいじけ始めたので啓《けい》太《た》が彼女の頭をくしゃくしゃ撫《な》でて慰《なぐさ》めてやった。するとようこは啓太の肩で取りすがってしくしく啜《すす》り泣いた。
「一月ずっと我慢したのに〜おうちの家計苦しかったからずっと我慢したのに〜」
「よしよし」
と、啓太。
「では、啓太様。内部の人間ではないとして、ならばこれは外から来た人の仕《し》業《わざ》なのでしょうか?」
ともはねが啓太を見上げてきまじめに尋《たず》ねた。啓太は頷《うなず》く。
「その可能性が高いな。この家はひじょ〜にだだっ広いからな。誰か入ってきてもまず気づかないだろうし、さっきカオルが聞いた変な声つうのが気になる。俺もまず間違いなく外部犯の犯行だと思うが」
それから彼は部屋のある一点に気がつき、にやっと笑った。
「まあ、でもことの真相は意外に簡《かん》単《たん》に分かると思うぞ」
「どういうこと?」
ようこが不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな表情で顔を上げ、ともはねが「あ」とこたつの上に載っていたデジタルビデオカメラを指さした。
ようこが持ってきたもので。
それはずっとスイッチが入ったままだった……。
「ねえ、ケイタ。これ本当にテレビで見れるの?」
ようこが興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに腰を屈《かが》めて覗《のぞ》きこんでくる。啓太はテレビセットの前にしゃがんでこちゃこちゃと配《はい》線《せん》を弄《いじ》りながら答えた。
「ああ、大丈夫。こうやって映像|端《たん》子《し》にこのケーブルを差しこんでやれば……ほらよっと」
ビデオカメラの再生ボタンをぴっと押すとテレビに画像が映った。
「すっご〜い」
とようこが感嘆の声を上げ、啓太は得意げに腕を組んでみせた。
「これでこの部屋に起こったことの一部始終が分かるぞ」
それから彼はテレビの真《ま》ん前《まえ》からちょっと離《はな》れた場所に移動して胡座《あぐら》を組んだ。
ようこがそんな彼にしなだれかかるようにして肩を預け、ともはねは彼のお膝《ひざ》の上に座って映像のチェックが始まった。
「なんだか謎《なぞ》解《と》きみたいでどきどきしてきますね!」
ともはねが啓《けい》太《た》を見上げ、ぱたぱたと尻尾《しっぽ》を振った。啓太は苦笑しながら彼女の頭をくしゃくしゃ撫《な》でてやった。
「まあ、こうやって盗み食いの物的|証《しょう》拠《こ》を直接拝むっていう機《き》会《かい》はそうそうないからな」
ようこがぐっと拳《こぶし》を握りこんだ。
「なんにしろ、ちょこれーとけーき食べた犯人、ぜったいぜったい許さないんだから!」
ようこ以外の二人がちょっと引いている。それからまず最初に上下にぶれた映像がテレビに映ってようこの声がスピーカーから聞こえてきた。
『はい、これがケイタです』
こたつの前に座っている啓太が映る。
『最近べんきょ〜してます、一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》です。えらいです。見えてますか? せんせ〜。来年、せんせ〜みたいになるんだそうてす。動物のお医者さんです。大変です』
画像の中の啓太は「ん?」
と、眉《まゆ》をひそめて顔を上げた。ようこの声だけが聞こえてくる。
『えヘへ、けっこ〜ハンサムさんでしょ? あのね、こういうこと大きな声で言うとケイタ調《ちょう》子《し》に乗って他《ほか》の女の子のところに走って行くからこれはここだけの秘密です』
『おい!』
『おい、って言ってます。なんか怒ってるみたい。はい、ケイタ。にっこり笑ってえ〜!』
そんなようこの声と共に啓太の顔がずずいとアップになる。すると啓太の手が伸びてきて、レンズをぐいっと下に押しやった。
ちょうどその頃《ころ》、
「ケイタ、わたしの声なんか変だね? 変じゃない? なんかわたしじゃないみたい!」
と、現在のようこが興《こう》奮《ふん》したように啓太の肩を揺《ゆ》すって、啓太がしっと唇《くちびる》に指を立てた。
「録《ろく》音《おん》したモノはみんなそう聞こえるんだよ。つうか、いいから黙《だま》ってろ」
カメラはこたつの上の参考書などを映し出していた。二人の声だけが聞こえてくる。
『だから、なにやってるんだよ、おまえは?』
『うん! レポート提出♪』
やがてがたっと音がしてカメラはこたつの上に据《す》えられた。今度は映像がぶれることもなくちょうど良い角度で啓太とようこを映し出す。
それから二人の様《よう》子《す》が画面に暫《ざん》時《じ》流れた。
『こうやって薫《かおる》の家で薫のことを待っていながらきちんと将来のことも決めててさ、やる時はやるんだもん』
『おしべとめしべが』
『えっちな本やビデオだってぜんぶ捨てちゃったしさ、ナンパもしなくなったし』
「ん〜、ここら辺はあまり関係ないよな。早送りするか?」
その啓《けい》太《た》の問いにようこがこくりと頷《うなず》いた。
「そうだね。この時はそもそもチョコレートケーキがまだ部屋に来てなかったしね」
ともはねだけがなにも言わずじっと画面を見つめている。ちょうどようこが啓太の背中に胸を押しつけて、啓太ががばっとようこにのしかかった辺《あた》りで早送りが始まる。
二人のいちゃいちゃしたやり取りがちゃかちゃかと目まぐるしく動く。
啓太もようこもちょっと赤面していた。
ともはねはくるっと振り返って啓太とようこを見つめ、にこっと世にも無邪気な微笑《ほほえ》みを浮かべるとまたなんにも言わず画面に向き直った。
啓太もようこも居《い》心地《ごこち》悪く、咳《せき》払《ばら》いしたり、半笑いで身じろぎをする。
なんとなくキスシーンを子供に見られた両親のような構図である。
それから画面の中のようこが啓太から離《はな》れて、
「あ、わたしがここで出て行くね」
と、ようこが指摘したところで啓太は突然、はっとなにかを思い出した顔になった。彼は、
「そ、そうだな。やっぱりここら辺は関係ないからもっと先まで飛ばすか」
と、言いながらさらに早送りのボタンを押そうとした。
「ともはね!」
そのとたんようこが叫んだ。啓太のその態度にぴんと響《ひび》く女の勘があったのだ。ともはねは彼女の意を受けて即座に動いた。
啓太の手をかい潜《くぐ》ってビデオカメラの再生ボタンをぽちっと押す。
啓太が、
「あああ!!!」
と、なにか叫んでいたが間に合わなかった。
がっしとようこが啓太を後ろから羽《は》交《が》い締《じ》めにしていた。
その間、テレビ画面は部屋の中に一人残された啓太を映し出していた。ようこを見送ってしばらくがっくりとしていた啓太は、
「んん〜」
と、突然、立ち上がり、背伸びを一つした。
それから彼はようこが出て行った方に歩いていった。画面から一度、消える。どうやらようこが確《かく》実《じつ》に去ったことを確《たし》かめていたようだ。
それで勉強に戻るかと思いきや、
『くふふんふんふん♪』
訳《わけ》の分からないテンポで鼻歌を歌いながら部屋の隅に歩いていき、畳《たたみ》にしゃがみこむと、
『くふふふん!』
と、畳の縁《ふち》をだんと叩《たた》いた。するとその一《いち》撃《げき》で畳がずれて浮き上がる。画面の中の啓太はその端《はし》を握るとすかさず横にずらした。
「や、ちがう! ソレちがう!」
現実の啓《けい》太《た》が必死で否定しているが、ブラウン管の中の啓太は、
『まあ〜、ずっと勉強ばかりもやってられないからな。息抜き息抜き』
と、床《ゆか》下《した》に手を伸ばして大量のエッチな本やビデオを取り出していた。畳《たたみ》の下がちょっとした秘密の貯《ちょ》蔵《ぞう》スペースになっていたのだ。画面の中の啓太はさらにほくほくとした顔でエッチな本を捲《めく》り始める。
「……」
ようこはじと〜という冷ややかな目つきで啓太を振り返る。啓太、ぱやぱやと訳《わけ》の分からない踊りを踊った。
ともはねがご丁《てい》寧《ねい》にちょっとビデオを巻き戻しをして、
『えっちな本やビデオだってぜんぶ捨てちゃったしさ、ナンパもしなくなったし』
という部分を再生してみせる。
さらに連続再生。連続再生。
『えっちな本やビデオだってぜんぶ捨てちゃったしさ、ナンパもしなくなったし』
『えっちな本やビデオだってぜんぶ捨てちゃったしさ、ナンパもしなくなったし』
『えっちな本やビデオだってぜんぶ捨てちゃったしさ、ナンパもしなくなったし』
ようこがふう〜と溜《ため》息《いき》をつく。
怒りを堪《こら》えるように、
「ま、まあ。でも、仕方ないよね。ケイタがそんなに簡《かん》単《たん》にえっちな本を諦《あきら》められるとは思っていなかったし、息抜きだって必要だし」
と髪の毛を掻《か》き上げる。啓太がちょっとほっとした顔になったところでともはねがさらに映像を先に進めた。
画面の中の啓太が同じく秘密のスペースに入っていたメモ帳を取り出して、
『え〜と、美《み》由《ゆ》紀《き》ちゃんと昌《まさ》子《こ》ちゃんに引っ越した挨《あい》拶《さつ》しておかないと、な』
と、携帯電話でいずこかに電話をかけている。ようこの目がすうっとさらに糸のように細くなった。啓太がひいっと口に手を入れている。
『あ、美由紀ちゃん? おれおれ! かわひらけ〜た♪』
どうやらそれは女の子の名前と電話番号を記《しる》した秘密のアドレス帳のようだった。
『ナンパもしなくなったし』
というフレーズのリフレイン。
何度もリフレイン。
確《たし》かにえっちな本も許そう。ビデオだってたまに見るくらいなら目をつむる。
だが。
「ケイタ」
こればかりは。
別だ。
ようこがぽきぽきと手の甲を鳴らしながらゆっくりと啓《けい》太《た》に近づいていく。にっこりと。
「ケイタ」
空《そら》恐《おそ》ろしい声。
「な、なに?」
啓太が引きつった悲鳴を上げる寸前の顔になり、ともはねが腕を組んでうんうんと頷《うなず》いたところで。
「この浮気者おおおおおおおおおおお!!!」
ちゅど〜ん。
という爆《ばく》音《おん》が起こった。
「啓太様。これに懲《こ》りたらもうああいうえっちなことはダメですよ?」
ともはねが黒こげになってひくひく痙《けい》攣《れん》している啓太の傍《かたわ》らにしゃがみこんでめっと指を立てている。啓太は返事も出来ない状態だった。
なぜならようこがぎりぎりと足をエビ固めで決めているから。ふんぬ、ふんぬと関節の限界までそれを引っ張るようこ。それから、
「さ、ともはね。あのエッチな本とメモ帳はあとで処分することにしてテレビの続き一《いっ》緒《しょ》にみようか?」
と、ぼろぞうきんのようにぺいっと啓太を脇《わき》に放る。ともはねも、
「うん!」
と、素直に頷き、二人はビデオの再生ボタンを押した。啓太がその後ろであくまで黒こげのままだった。
その後、画面の中では時間が経過して『啓太がエロ本とアドレス帳を元の場所にしまいこみ何食わぬ顔で勉強を再開する場面』、『チョコレートケーキを持ったともはねが部屋の中に入ってくる場面』、『ともはねが問題のチョコレートケーキをこたつの上に置き、カオルがやってくる場面』、『カオルが啓太とともはねを引っ張り出して三人が部屋を出て行く場面』が順番に映し出された。
「ここら辺はまだ手がかり映ってないね」
と、ようこが言ってともはねがこくこく頷いていた。
まるで仲の良い姉妹だ。ようこがともはねを膝《ひざ》の上に乗せてやっている。ちなみに啓太はまだ後ろの方でひくひくしていた。
と、その時、今まで姿を見せなかったカオルが部屋の外からふすまを開けて中に入ってきた。彼女はまず黒こげの啓太を見てびくっとして、ようことともはねに向かってなにか口を開きかけたが、結局、なにも言葉にすることはなく彼女らのちょっと後ろにちょこんと座りこんだ。
そしてテレビ画面ではなく、なぜかようことともはねの様《よう》子《す》をおずおずと上《うわ》目《め》遣《づか》いでじっと見つめ続ける。なにか眩《まばゆ》いモノでも見るようなそんな表情。
ともはねだけがそんなカオルにちらっと目をやる。
ふいにようこが声を上げた。
「あ、なんか入ってきたよ!」
見るとそれは……。
「あ、あれ? 留《とめ》吉《きち》?」
チョッキにマントを羽《は》織《お》った猫《ねこ》又《また》の留吉だった。小さな猫がちょこちょこと画面の端《はし》から入ってくると、
『啓太さん? ようこさん? いませんか? 遊びに来ましたよ〜』
と、周囲を見回している。ともはねが困《こん》惑《わく》した声を出した。
「まさか猫さんが犯人?」
自分でも信じられないようだった。
画面の中の猫《ねこ》はいったんこたつの上に上がり、チョコレートケーキの入った箱《はこ》に目をやると瞳《ひとみ》をつむってくんくんとその匂《にお》いを嗅《か》いだ。
だが、すぐに彼はそれに関しては興《きょう》味《み》を失ったようだ。ぴょんとこたつの上から飛び降りると画面からいったん姿を消した。
さらに声がして、
『じゃあ、この中でお昼寝でもしてしばらく待たせて貰《もら》おうかな』
ごそごそとこたつ布《ふ》団《とん》の中に潜《もぐ》りこむような気配《けはい》がある。ようこが声を上げた。
「ともはねそこで一時ストップ!」
ともはねが即座に停止ボタンをおした。
「とりあえず留《とめ》吉《きち》が犯人じゃないとは思うけど」
ようこはこたつの中に手を突っこんだ。
「何か犯人のことを知ってるかもしれないからね」
この中でまだ留吉が昼寝をしているならば当然チョコレートケーキを食べた何者かが犯行に及んだ時も居合わせたはずだ。
ようこがこたつの中からぐいっと柔らかいモノを引っ張り出す。
しかし。
それは。
「え?」
「な、なんなのこれ?」
と、ともはねとようこが目を丸くし、カオルだけがやっぱりというような顔をしていた。
それは色とりどりのブラジャーやパンツだった。
本来、留吉が入っていったはずのこたつの奥にパンツやらブラジャーが大量に押しこまれている。しかも当の留吉の姿はなく、
「あ、これわたしのブラ! パンツ! え〜?」
代わりに全《すべ》てようこの下着ばかりである。
こんなところに入れた覚えなど断じてないし、そもそも留吉との関係性が分からない。ようこは焦《あせ》ったようにそれらを掻《か》き分け、電灯に透《す》かし、確《かく》認《にん》してみる。
「どういうこと? え? なんで?!」
チョコレートケーキが誰《だれ》に食べられたのか? という謎《なぞ》を解いていたのに結局さらに別の謎が増えてしまった。
一体、誰がこんなところにようこの下着を押しこんだのか?
「留吉がやったの?」
というようこの問いにともはねが反《はん》論《ろん》を加えた。
「違うと思うよ。きっと猫《ねこ》さんが入った時にはこの下着はなかったんだと思う。あれば猫さんすぐに気がついてると思うし」
「じゃあ、誰《だれ》なのよ? チョコレートケーキを食べたのと同じ奴《やつ》?」
と、その時、おずおずと背《はい》後《ご》からカオルの声が聞こえてきた。
「あのですね、ようこ。私さっき気になってお洗《せん》濯《たく》場《ば》にいったらようこの下着だけ全部なくなってたのです。私とともはれのはちゃんとあったけど……きっとそれだと思います」
ようこがはっとした顔になった。
「ともはね。びでおの続きを見せて!」
「う、うん」
ともはねも困《こん》惑《わく》を隠《かく》しきれないまま、再生ボタンを押す。
するとそこに映っていたのは……。
「やっぱり」
「う!」
と、カオルが口元を押さえる。留《とめ》吉《きち》がこたつの中に潜《もぐ》りこんでしばらくしてから部屋の中に着物姿にごま塩頭の男がほっかむりをして入ってきた。
異様な気配《けはい》。
彼は風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包《づつ》みを肩に担ぎ、用心深い目で周囲をきょろきょろ見回している。
「く。こんのお〜」
ようこが拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》め、震《ふる》える。
それはこのご町内を騒《さわ》がせる高名な下着ドロ『親方』その人だった。
「こいつまた性《しょう》懲《こ》りもなく!」
彼は忍び足で画面の中央までやってくると、
『ふう。相変わらずここは奇妙な屋敷だな……』
溜《ため》息《いき》をついた。ようこがテレビ画面に向かって怒《ど》鳴《な》る。
「奇妙なのはあんたよ、このドヘンタイ!」
親方はそこでどっかりと腰を落とし、戦利品の詰まった風呂敷包みを床《ゆか》におろした。ほくほく顔でひもを解き。
パンツを。
ブラジャーを。
一つ一つ愛《め》で、頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》ずりする。
ようこの肌にぷつぷつぷつと蕁《じん》麻《ま》疹《しん》が湧《わ》いていく。ともはね、どん引き。異様なVTRに後ろの方で見ていたカオルが「ひっ」とまた悲鳴を上げ、思わず黒こげの啓太の腕にしがみつく。それからすぐに赤くなってささっと身を離《はな》した。
その間、
『う〜む。相変わらず質の高い品《しな》揃《ぞろ》えだ。職《しょく》人《にん》魂《だましい》がうずくぜ』
いそいそと下着を分類しながらそんなことを呟《つぶや》く親方。どうやら洗《せん》濯《たく》場《ば》でようこの下着を盗《と》ったのもこの男のようだ。
ようこ、怒りで頭が沸《ふっ》騰《とう》しかかってる。
と、その時。
『う!』
親方の表情が焦《あせ》りを帯びたようなモノになった。
彼はじっと廊下側の方に耳を澄《す》ました。どうやら誰《だれ》か近づいてきているようだ。親方は大《おお》慌《あわ》てで下着を回収しにかかった。
しかし、間に合わない。
彼はそこでとっさにこたつ布《ふ》団《とん》を上げるとそこにぐいっと持ってきた下着の全《すべ》てを押しこんだ。それから自分も続けてその中に隠《かく》れようとするが、あいにく親方は比較的大柄なので腰がつっかえて上手《うま》く入れない。仕方がないので転がるように畳《たたみ》を這《は》うと押し入れの戸を開けてその中に飛びこんだ。
間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》。
部屋のふすまが開く音がして、誰《だれ》かが中を覗《のぞ》きこむような気配《けはい》がある。だが、その人物はカメラが映し出す範《はん》囲《い》には入ってこず、またふすまを閉じて立ち去ってしまった。ほとんど同時にこたつの中からもぞもぞと寝ぼけ顔の留《とめ》吉《きち》が出てきて、
『あ、あれ? 誰か今来ました?』
きょろきょろと辺《あた》りを見回した。
彼の耳にはようこのパンツが一枚引っかかってる。そしてそれははらりと畳の上に落ちた。
「あ!」
と、カオルが声を上げた。それは彼女がこの部屋で先刻拾い上げたものと全く同じ柄《がら》のパンツだった。
「そういうことだったんですね……」
と、彼女が妙に納《なっ》得《とく》したような声を上げている。その間、ようこが、
「ともはね、一時すとっぷ!」
と、映像の停止を求め、こき、こきっと拳《こぶし》を鳴らしながらゆっくりと押し入れの方に近づいていった。
顔には不気味な、不気味な笑顔《えがお》。
「ふふふ。今までの生涯で感じたことのない、これが本当の痛みなんだって痛みを五《ご》臓《ぞう》六《ろっ》腑《ぷ》に染《し》みこむようにじっくりと味わわせてあげるわ」
ゆっくり。ゆっくりと映像通りならば親方が潜《ひそ》んでいるであろう押し入れへ向かって。ともはね、カオルもどきどきした顔でその様《よう》子《す》を見つめている。
そしてようこは押し入れの戸に手をかけ、
「さあ、覚悟なさい!」
一気に開け放つ。
しかし。
なんとそこには。
ニンゲン、本当に驚《おどろ》きすぎると悲鳴もろくに出てこない。
なぜか下着ドロの代わりに素っ裸の仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が膝《ひざ》を抱えこむようにしてじっと座りこんでいたのだ!
支える戸がなくなったのでゆっくりと前のめりに倒れこんでくる仮名史郎。
良く見ると白目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いている仮名史郎。
どうっとまるで死体のように俯《うつぶ》せになる仮名史郎。
しかも素っ裸。
しばらく沈《ちん》黙《もく》している少女たち。
仮名史郎は相変わらず逞《たくま》しい尻《しり》をこちらに向けたままぴくりとも動かない。
ぴくりとも動かない仮名史郎の尻。
彼女らの脳《のう》裏《り》で様々な単語が頭を交《こう》錯《さく》し始める。
え? なんで? 裸? え? だって、中に入ったのは下着ドロのはずなのに? というか仮名さん? え? なんで裸なの? 尻?
それから……。
「いっやあああああああああああ!!!!」
「な、なに? うわあ! うわあああ!!!!」
「!!!!!!」
少女三人、けたたましい悲鳴を上げる。パニック。
「いやいやいいやあああ!!!! な、なに死んでるの? 仮名さん、どうしたの?」
「いいい!!! いい!!!」
「!!!!!!!」
特に年若い二人は涙目になっている。当たり前だ。押し入れの中に入ってるはずの下着ドロの姿が消えていて、代わりに仮名史郎が入っていて、しかも彼は素っ裸で、おまけに死んだようにぴくりとも動かないのだ。これで驚かなかったら本当にどうかしている。
ようこなんかパニックが過ぎて、
「ちょ、ちょっと! 仮《かり》名《な》さん! どうしたのよ? 一体どうしたのよ?」
げっしげっしと近くにあった座《ざ》布《ぶ》団《とん》で思いっきり仮名|史《し》郎《ろう》の頭を叩《たた》いていた。
「死んでるの? 死んでるの?」
ともはねがぱたぱた走り回りながら尋《たず》ねる。いささか過呼吸気味になってるカオル。と、その時。
「う、うう〜〜ん」
喉《のど》の奥で唸《うな》りながら仮名史郎が身を起こし始めた。固まっている少女たち。彼女らの見ている前で仮名史郎は起き上がると後頭部を痛そうに押さえ、
「つ」
それからはっとしたように辺《あた》りを見回した。
「あ、あいつらは? あいつらはどこにいった?」
ようやくようこたちがこちらを唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》と見つめていることに気がつく。彼は自分の状況もわきまえず固まっているようこに駆《か》け寄るとがっしとその肩に手を置き、
「大変だ、ようこくん! 私が君のところのお風《ふ》呂《ろ》を使わせて貰《もら》っていたら」
「い」
「え?」
ぷらんぷらんとなにか非常に。
益《やく》体《たい》ないものが下の方でぶら下がっている。
そんな気まずい光景を目《ま》の当《あ》たりにしてしまったようこが渾《こん》身《しん》の右ストレートを放ちながら叫んでしまった。
「いっやあああああああああああああああああああああああああ!!!!」
こきんと非常に良い角度で仮名史郎の顎《あご》にはいるパンチ。クリティカルヒット。
再び岩のように崩《くず》れ落ちる仮名史郎。だが、そのことをとがめ立てする少女はこの場に誰《だれ》一人としていなかった……。
結局、昏《こん》倒《とう》した仮名史郎は黒こげの啓太に重ねるようにして一時保管された。その上に厳《げん》重《じゅう》に布団を掛けてとりあえず見苦しいモノが見えないようにしておく。
「これはほんとおお〜〜〜〜にみすてりーだわ!」
ようこが力強く溜《ため》息《いき》をついた。ともはねがこくこくと頷《うなず》く。
「本当だね。チョコレートケーキを食べた犯人を捜していたのに、猫さんがいたところに下着の山があって、泥棒さんがいたところに仮名様がいて」
「しかも裸だったね」
頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を赤くしたカオルがちらっと布《ふ》団《とん》の山に目をやった。
「あたし、こんがらかっちゃうよ!」
と、ともはね。
「分からないことといえばもう一つ」
カオルがおずおずと付け加えた。
「あの、えっと、その下着好きなおじさんが隠《かく》れる原因となった人《ひと》影《かげ》です。結局、中に入ってこなかったから分からないけど、きっと私たちの中の誰でもないですよね? いったい誰なんでしょう?」
「そんなのびでおの続きを見れば全部分かるよ! ともはね!」
ようこが命令してともはねがまたぽちっと再生ボタンを押した。止まっていた画像は留《とめ》吉《きち》からようこの下着が一枚はらりと落ちるところから始まる。
猫《ねこ》はそのことにも気がつかずしばらくぼうっとしている。
と、そこへふすまを一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》開ける音がして、
『くけけけ?』
と、河童《かっぱ》の鳴き声が外から聞こえてきた。留吉がそちらを振り向く。
『あ、どうもお邪《じゃ》魔《ま》してます』
『くけ?』
『うん。僕は啓太さんのところに遊びに来たんです。啓太さんは?』
『くけくけ! くけえ〜』
『あ〜、見あたらないんだ。じゃあ、一《いっ》緒《しょ》に啓太さんを探しに行きましょうか?』
留吉は画面をてくてく横切ると部屋の外に出て行ってしまった。またふすまの閉じる音。『くけえ〜』という鳴き声がだんだん遠ざかっていく。
そしてようやく、
『ふはあ〜』
押し入れの戸を開けて、親方が中から転がり出てきた。大きく息をつく。
顎《あご》の下の汗を拭《ぬぐ》い、
『危ないところだったな。ここは相変わらず訳《わけ》の分からない輩《やから》が徘《はい》徊《かい》しているし、戦利品は諦《あきら》めてでもとっととおさらばした方が得策かもしれん』
そう言って彼は首を振ると出口の方へ向かった。だが、程《ほど》なく、
『わ! わ! わああああああああああああああああああああ!!!!』
というけたたましい悲鳴を上げながら尻《しり》餅《もち》をついて画面の中に戻ってくる。同時にそれを見ていたようこ、ともはね、カオルもまた声にならない絶叫を上げている。
「な!」
「!!!」
「!!!!!!!!!!!」
目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いている少女たち。彼女らがそんな状態になるのも無理はなかった。テレビには世にも奇っ怪な、おぞましい光景が映し出されていたのだ!
「ひい!」
たまらずともはね、カオルがようこに抱きつき、ようこも彼女らをきっつく抱《だ》き締《し》め返す。脳がでんぐり返りそうになる映像。
『な、なんだ! なんなんだ、てめえは!』
親方が震《ふる》える指でさすその先。
その先にぬらあっとまるで風に吹《ふ》かれる風船のように全裸の仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が宙に浮きながら滑りこんできたのだ。
重力をまるで感じさせず。
腕をだらりと垂《た》らし。
白目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》き。
まるで幽《ゆう》霊《れい》のように、水平に流れこんでくる。吹きこんでくる。
全裸の仮名史郎!
『ぎゃ、ぎゃああああああああああああああ!!!!』
しかもそれはなぜか水面下の藻《も》のように親方に絡《から》みつく。ぬらりぬらりと。まるで恨《うら》み言でもあるかのようにぬらありと全裸の仮名史郎が。
その腕が。
足が。
執《しつ》拗《よう》に絡みつく!
『ひ! ひ! ひいいいいいいいいいいいい!』
こけつまろびつ親方が逃げる。
しかし、全裸の仮名史郎が上空からねっとりと追いすがる。さわりさわりと押しつぶす。
少女たち、全員絶句。
下手《へた》なホラーより遥《はる》かにたちが悪い!
『ぎひいい! ひいいいいいいいいいい!!!』
親方ももう壊《こわ》れている。
狂った笑《え》みを浮かべ、懸《けん》命《めい》に全裸の仮名史郎を押し返す。しかし、てごたえなく、確《かく》実《じつ》に絡んでくる裸の仮名史郎。
筋肉質。
ぬめえっとその生気のない頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》が親方の頬[#「頬」はunicode9830]に押しつけられ、手が親しげに肩に回される。妙に生温かいその感触まで感じ取れるような。
まさに悪《あく》夢《む》!
「な、なにこれ? なんなのよ、これえ!?」
かすれ声のようこ。口を開けたまま凍《こお》りついているともはね。唯《ゆい》一《いつ》、カオルだけが、
「あ、あれ? 今、誰《だれ》か別の人の声が聞こえませんでしたか? 異国の言葉のような」
だが、彼女がもっと詳細なコメントをする前に、
『あ、うわああああああああああああああああああ!!!!』
と、恐怖が頂点に達した親方が渾《こん》身《しん》の力を込めて横合いに仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》を受け流した。その瞬《しゅん》間《かん》、タイミング良く彼の身体《からだ》が流れていって開けっ放しだった押し入れの中にすぽっと入る。親方のその後の動きは命がけ故《ゆえ》に迅速だった。
飛びつくように戸を閉めると思いっきり身体で押さえつけたのだ。
『ひ! ひ! ひい!』
しばらく全裸の仮名史郎は中でかたこと暴《あば》れていた。だが、やがてそれは静かになって、
『ふうううううううう』
親方ががっくりと肩を落として息をついたところで完全にその動きを止めた。親方はしばらく瘧《おこり》のように震《ふる》えているばかりだった。
無理もない。人の脆《もろ》い精神では発狂しかねない程《ほど》の状況だった。彼は良く戦ったといえよう。だが、親方の不運はまだ続いた。
『げ! や、やばい!』
また誰《だれ》かこの部屋に近づいてくる気配《けはい》がしたのだ。親方は跳《は》ね起きた。それから逃げようとする。一度、自分が隠《かく》れた押し入れを見やる。
あり得ない!
今は全裸の仮名史郎が入っている。
こたつもダメ。押し入れの上の天《てん》袋《ぶくろ》はいくらなんでも小さすぎて入れなかった。恐《きょう》慌《こう》状態に陥《おちい》った彼はそこで何度か足踏みをし。
はっと気がついた。この下に空洞がある!
彼は慌《あわ》てて畳《たたみ》を捲《めく》ってみる。ビンゴ!
啓《けい》太《た》が作っていたエロ本用の貯《ちょ》蔵《ぞう》スペースだった。親方はその中に飛びこむ。畳を元通りに頭に持ってきてそれを被《かぶ》るようにそっと置いた。
ぱたんと音がする。刹《せつ》那《な》。
『やっぱりカオル様の空《そら》耳《みみ》だったんじゃないですか? その変な声』
という声と共にともはねがまず部屋の中に入ってきた。
そして、啓太とともはねとカオルが画面の中で話し合っている間、現在のようこだけはゆらりと立ち上がって、秘密の貯蔵スペースにそっと近づいていく。
「なるほど、なるほど。押し入れじゃなくってそっちだったのね。そっちにいた訳《わけ》ね」
畳のふちに手をかけ、よいしょと持ち上げる。
中には仰《あお》向《む》けになった姿勢の親方がちゃんと入っている。強《こわ》ばった笑《え》みでこちらを見上げ、
「こ、こんにちわ〜」
「しね、このドヘンタイ!!!」
ようこの全く容赦ない最大|攻《こう》撃《げき》が文字通り棺《かん》桶《おけ》のようなスペースに叩《たた》きこまれたのはその瞬《しゅん》間《かん》だった……。
黒こげの啓《けい》太《た》に、白目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた全裸の仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》、ぷすぷすと未《いま》だに煙を上げている親方が積《つ》まれているまるで火《か》葬《そう》場《ば》のようにしんとした一角。
ともはねとカオルはできるだけそちらを見ないようにしていた。
「さ、真実の解明までいよいよもう少しだよ!」
ようこが腕まくりをしてそう宣言した。ともはねもカオルも力強く頷《うなず》いた。
元々は一体、誰《だれ》がチョコレートケーキを食べたのか?
という単純な犯人捜しである。
それが不可解な事実が積み重なって、積み重なって今や完全に訳《わけ》の分からない事態に陥《おちい》っている。大体なんで仮名史郎が素っ裸で宙に浮いていたのか?
「恐らく」
と、カオルが言った。
「いや、もう間違いなくここにいる人たち以外の何者かがこの家にいるのだと思います。きっとその者による術か何かではないかと」
「そ〜いえばさ」
と、ともはねがぽんと手を叩《たた》いた。
「ようこさ、さっきあたしたちが食堂を汚したとか言っていたよね?」
「あ」
と、ようこも何かに気がついた表情になる。
「あれ、あんたたちじゃなかったんだね。ごめん」
「きっと先ほど私が言ったこの部屋を覗《のぞ》き見した者もそうなのでしょう」
「確《たし》かに。仮名さん、あいつら≠ェど〜とかって言ってたもんね」
彼は特になにか悪いことをした訳ではないのに、ついパンチでノックアウトしてしまったのである。さすがにようこもばつが悪そうな表情になる。
「まあ、とにかくビデオを見てみようよ!」
ともはねがそう言って元気良く再生ボタンを押す。ちょうどそこへ外から河童《かっぱ》と猫《ねこ》が帰ってきた。彼らは怪《け》訝《げん》そうにしながらもとりあえず手近な女の子たちのところに寄っていって一《いっ》緒《しょ》に画面を見上げ始めた。
映像が流れ、再度、啓太、ようこ、カオル、ともはねの順で部屋から出て行った後、真相が分かった。
「な、なに? あれ?」
ようこが目を丸くしている。それはこの場にいる全員同じ気持ちだった。テレビ画面の中、ふすまを開けて奇妙なモノたちがわやわや言いながら現れたのである。
それは全くおかしな格《かっ》好《こう》をしていた。
ちょうどタコさんウインナーのような形で、下がびろびろと動いていた。大きさは留《とめ》吉《きち》や河童《かっぱ》程《ほど》。きょろりとした目と腹話術用の人形のようなたらこ唇《くちびる》があり、原色のカラフルな外面は柔らかい光《こう》沢《たく》を帯びていた。
なんというか前《ぜん》衛《えい》的《てき》なてるてる坊主とでも言うか。
「う、うちゅうじん?」
と、ともはねが首を捻《ひね》った程それは見たことのないフォルムをしていた。
そして、聞いたこともない言葉でぺちゃくちゃ互いに話し合っている。そのうちの一つがチョコレートケーキの箱《はこ》に興《きょう》味《み》を示した。
『×$&、&%$$#?』
『%#、&$!』
他《ほか》のモノもわらわらとチョコレートケーキの箱に寄ってきた。ぽわっとてるてる坊主たちが青白く光るとそれで勝手にチョコレートケーキの箱《はこ》が開き、左右にある布きれのような手でぱくぱくと小さな口にチョコレートケーキの欠片《かけら》を運んでいる。
「こ、こいつらが犯人だったんだ……」
ようこがしばし怒ることも忘れ、呆《ぼう》然《ぜん》と呟《つぶや》いていた。
「でも、コレいったいなんなのでしょう?」
困《こん》惑《わく》しきった表情でカオルが呟いたその時。
「ペルシャの砂漠でお世話になった精霊《ジン》≠ウんたちですよ!」
部屋のふすまがからっと勢い良く開いて酷《ひど》く聞き覚えのある声がした。同時に画面の中で全く同じ声が響《ひび》く。
『こら! 今度はつまみ食いですか? も〜、あとでちゃんとご飯を作ってもらいますから少しはじっとしていてください!』
てるてる坊主たちが恐《きょう》縮《しゅく》した様《よう》子《す》もなくゆれゆらと揺《ゆ》れる。その間に巫女《みこ》姿。ふんわりとした黄《おう》土《ど》色《いろ》の髪の女の子が画面の中に現れる。
彼女は精《せい》霊《れい》たちをめっと指を立てて叱《しか》っていた。
ようこ、ともはね、カオルが画面の中と現実を交互に見やって驚《おどろ》きの声を上げる。
特にともはねはそれ以上に歓喜の感情を爆《ばく》発《はつ》させて、
「フラノ!」
と、叫んで立ち上がっていた。
なんとそこに川《かわ》平《ひら》薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》序列第七位フラノがVサインを作って立っていた。
「時の経《た》つのは早いモノで皆さん、本当にただいまです!」
満《まん》面《めん》の笑《え》みで。
「フラノ、日本に戻りましたです!」
彼女の後からふよふよとその奇妙なてるてる坊主たちが続けて入ってきた。
みんな呆《あっ》気《け》にとられていた。
「だからですね。私は予《あらかじ》めファックスで帰ってくることをちゃんとご連絡したんですよ!『お達者ですか? こちらは暑いです。砂ばかりです。たゆねちゃんが一番、啓《けい》太《た》様を恋しがってます。てんそうちゃんはお新《しん》香《こ》とご飯を食べたがってます。フラノはお刺《さし》身《み》が良いです。でも、お達者です。風薫る季節。明るい太陽の日。色々連れて帰ります。フラノ』って」
啓太は確《たし》かにその文面を読んだが結局最後まで意味が良く理解出来ず、捨て置いていたのだ。
「あ、あのさあ。あんた、それは良いんだけどこれは一体なんなの?」
と、ようこがふよふよ浮いているてるてる坊主たちを薄《うす》気《き》味《み》悪そうに指さして尋《たず》ねる。
「お客様です!」
堂々と胸を張ってフラノがそう言う。
「日本に遊びに来てみたいと仰《おっしゃ》るから一足早くフラノが船でお連れしたのですよ〜。あとフラノもよく分からないですけど、この人たちこう見えて薫《かおる》様捜しになんかとっても役立つみたいです。詳しくはもうじきごきょうやちゃんが帰ってくるのでごきょうやちゃんにでも聞いてみてください」
「ごきょうやも帰ってくるの?!」
勢いこんでともはねが尋《たず》ねる。フラノがにこにこと頷《うなず》いた。
「はい! 近いうちに一度。必ず」
「あ、あとさあ。フラノ」
ようこがぽりぽりと頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を掻《か》きながら尋ねた。
「どうでもいいけど、仮《かり》名《な》さん、裸でふよふよ浮かせたのもこいつらなの?」
その問いにフラノは一度、きょとんとした。それから精《せい》霊《れい》たちに向かって、
「、($%%…&%$$#?」
と、聞いたこともない言語で問いかける。驚《おどろ》いたことにフラノは彼らの言葉をある程度習得しているようだった。すると精霊の一つが、
「&$#%&##%……##%%##%」
と、同じような調《ちょう》子《し》でなにか答えを返してきた。「はあはあ」とフラノが頷く。それから彼女は皆に向かって、
「え〜とですね。なんでも『我《われ》らがこの家の入浴場を見学していたらその人が裸で入ってきて、我らの姿を見てひどく驚いてタイルで滑って転んで勝手に後頭部を打ってしまった』」
と、通訳を始めた。
「%$#&、(%$、(%$##」
「『気絶した彼を放ってもおけず、仕方ないので我らは我らの力で宙に浮かしてとりあえず一番近くにいたニンゲンに介抱を頼もうとした』だ、そうです」
「押しつけた、の間違いじゃないの?」
ようこが白い目になる。
「$%&(($$##%$##!」
「『とにかくこれからしばらく世話になるので宜《よろ》しく頼む』だ、そうです」
「は? な、なに勝手に決めてるのよ! うちはただでさえ家計が苦しくてチョコレートケーキもろくに……あ〜〜! そういえばあんたたちよくもわたしのチョコレートケーキを勝手に食べたわね!」
「&$$%&¥」
「『まあまあ、そう言わず。綺《き》麗《れい》なお嬢《じょう》さん』」
「こ、こら! 近寄ってくるな! し! し!」
しかし、精霊たちはふよふよと懇《こん》願《がん》するようにようこの周りに群がり寄ってくる。ようこが逃げる。ともはねが思わず笑い出した。
フラノがにこにこしながら通訳を続ける。まだ目を丸くしているカオル。そして、今の今までずっと気絶していた啓《けい》太《た》がようやく起き出し、
「うわ! な、なんだ? あんたこんなところでなにやってるんだよ!?」
素っ裸の仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》を見やって悲鳴を上げる。
騒《さわ》ぎはますます大きくなっていく。
ずっと静かだった川《かわ》平《ひら》薫《かおる》の留守宅にそうやって賑《にぎ》やかさを取り戻したのだった。
吉《きち》日《じつ》市《し》の南部にはかなり大きめのスパがあった。地下1000メートルから温泉を直《じか》に引いているのが売りで、大小の露《ろ》天《てん》風《ぶ》呂《ろ》の他《ほか》にも薬湯や打たせ湯、ミストサウナなどが揃《そろ》っていた。また男女兼用スペースでは水着で温水プールに入浴することも出来た。
休日はかなり混んでいるそこで。
犬《いぬ》神《かみ》使い川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の声が響《ひび》き渡った。
「おし、見つけたぞ! 白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告《つ》ぐ。カエルよ、破《は》砕《さい》せよ!」
どかんと水柱が立ち昇り、飛沫《しぶき》がプールサイドに飛んでくる。海水パンツ姿の啓太が顔を腕で庇《かば》いながら相棒の名を高らかに呼んだ。
「ようこ! 行ったぞ!」
おろろろ〜〜〜ん。
水柱の中から空に逃げようとしたのは不定型な形を取った雑《ざつ》霊《れい》だった。すかさずその進行方向を犬神のようこが塞《ふさ》いでちちっと指を振った。
雑霊は様々な形を取りいななく。
「おろろ〜ん」
まるで前後左右を見回して逃げ場を捜すかのように揺《ゆ》らめいた。
ようこは目を細めてくすっと笑った。
「だいじゃえん!」
健《けん》康《こう》的《てき》な白いビキニを着た彼女がさっと指を立てて叫んだ。次の瞬《しゅん》間《かん》、紅《ぐ》蓮《れん》の炎が天窓の近くで湧《わ》き起こり、雑霊を包みこみ、一気に焼き尽くした。「やったね」とようこがポーズを決めて、啓太がふうっと安《あん》堵《ど》の溜《ため》息《いき》をついた。
それはいつものちょっとした仕事だった。
温水プールに出るお化《ば》けをなんとかしてくれという依頼を受け、奥に潜《ひそ》んでいた雑霊を見つけ出し、見事に退治したのだ。
啓太とようこの実力からすれば実に簡《かん》単《たん》な任務だった。
終わった後はスパの経営者から感《かん》謝《しゃ》されて貸しきりで温泉を堪《たん》能《のう》させて貰《もら》った。しかし、本当の事件はその後起こったのだ……。
ようこはふんふんと鼻歌を歌いながら女子更衣室で背中に手を回し、水着のホックを取っていた。するとその動作に合わせて若々しく張りのある乳房がぷるんとあらわになった。
「思いこんだら命がけ♪ 俺《おれ》たちゃ、にんきょ〜にんきょ〜集団やくざXう〜」
さらにようこは啓太が最近はまってるテレビ番組『任《にん》侠[#「侠」はunicode4FE0]《きょう》侍《ざむらい》』のオープニングテーマを口ずさみながら指先をパンツのゴムにかけ、するりとずりさげた。つま先を上げ、しなやかに長い足をゆっくりとそこから引き抜く。実に優《ゆう》美《び》かつ官能的な仕《し》草《ぐさ》である。
均《きん》整《せい》のとれた白い裸身が鏡《かがみ》に映る。艶《なま》めかしく水にも濡《ぬ》れている。ようこはだが、どちらかというと子供のように軽やかに跳《は》ね回ってステップを踏んで、
「どんな時だって日本刀一本で事務所にぶっこむぜ♪ 邪《じゃ》魔《ま》する奴《やつ》はしゃぶ! どす! 必殺指つめあた〜〜く!」
スパに備えつけられた厚手のタオルで身体《からだ》を拭《ふ》いて、思い出し笑いを一つする。さっき啓《けい》太《た》は水辺で足を滑らせ、溺《おぼ》れそうになっていた。正《せい》確《かく》にはようこが抱きついて胸を押しつけようとしたらそれに驚《おどろ》いてプールに落っこちたのだ。
「も〜、ケイタったら相変わらず可愛《かわい》いんだから♪」
啓太とのやりとりはいつだって彼女を幸せにする。彼女は濡れた髪を掻《か》き上げ、それから脱衣かごの中に手を突っこんで、
「ん?」
と、眉《まゆ》をひそめた。
服はある。シャツにスカートと靴下もある。それなのに肝《かん》心《じん》の替えの下着がなかった。彼女ははっと思い出した。
ここに来る時、水着を予《あらかじ》め着用して来た。小さい子が良くやるような単純な失敗だが、ようこは早く新しい水着姿を啓《けい》太《た》に見せたくて、替えの下着を持ってくるのを完全に忘れてしまっていたのだ。
「う〜、どうしよう?」
頭を抱えてしゃがみこむ。
このまま水着を着用しておくのは気持ち悪くて論《ろん》外《がい》だし……。
「ま、いっか♪」
ここから家まではそんなに遠くないし、楽《らっ》観《かん》的《てき》なようこはとりあえず下着無しで服を着ることに決めた。
誰《だれ》にもばれないよね?
ちょっとくらいなら良いよね?
そんな甘い考え。
しかし、彼女は程《ほど》なくその決断を深く悔《く》いるようになったのだった……。
スパの受付ロビーで啓太が待っていた。
彼は備え付けのふかふかのソファに座って、スポーツ新聞をぱらぱらと捲《めく》っていた。ようこは彼を発見すると、ぎくしゃくとどこかぎこちない動きで彼に近づいていった。引きつった愛《あい》想《そ》笑いで、
「は、はは。ケイタ、お待たせ〜」
と、声をかける。啓太は広げかけていた新聞を膝《ひざ》の上に置いて不《ふ》審《しん》そうに尋《たず》ねた。
「おう……どした? 腹でも痛いのか?」
ミニスカート姿のようこはどういう訳《わけ》か膝《ひざ》頭《がしら》を押さえるようにして前《まえ》屈《かが》みになっていた。彼女は慌《あわ》ててぶんぶんと首を横に振る。
「な、なんでもないよ! わたしは変わりなく元気だよ!」
啓《けい》太《た》は「そうか?」と小首を傾《かし》げたが、深くは追及しなかった。
「ん。じゃあ、ちょっと待っててな。今、これ読み終わるから」
「あ、うん」
座っている啓太と立っているようこでは位置的に悪い。彼がもう少しかがめばとてつもない光景が見られてしまう。
ようこはあせあせと彼の反対側に移動し、対面のソファに腰をかけた。それから、
「!」
ぴょんとバネのようにその場で跳《は》ね飛ぶ。
あ、あぶないあぶない!
なにを考えてるのだ、わたし?
それこそ短いスカートでは致命的な体勢だ。ようこはスカートの端《はし》を手であせあせ引っ張り、整《ととの》え直した。
幸い啓太は新聞に没頭していてようこの一連の動きに気がつかなかったようだ。しかし。
なんというか……。
一枚布きれがないだけでこんなにも心細く股下がす〜す〜するものだとは思わなかった!
ようこは今、膝上十センチのミニスカートを穿《は》いていた。紺《こん》のフレア地でひらひらの装飾がついたスカートだ。ようこは基本的にこういうちょっとセクシーかつ可愛《かわい》い格《かっ》好《こう》が大好きなので好んでこのミニを着用しているのだが、それが今では薄《うす》紙《がみ》でも巻いているようにとても頼りなく感じられた。
付け加えて言うとブラをつけていない胸元もすごく不安定だった。
幸いシャツの上にジャケットを羽《は》織《お》っているので胸の形が丸ごと見えてしまうことはないのだが……。
頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》が勝手に熱《あつ》くなった。
啓太にスカートの中身を見られたらどうしよう?
かつて丸裸を見られてもなんとも感じなかった自分が今ではもう信じられない。今ならたぶんきっと恥《は》ずかしさで死んでしまう。
ああ、死んでしまう!
その前に啓太を殺そう。いや、殺しちゃダメダメ!
啓太を殺してわたしも死ぬ〜。
とか、ようこが一人脳内でわきゃわきゃやってると、
「お待たせ。じゃあ、そろそろ買い物行こうか?」
と、新聞を読み終えた啓《けい》太《た》がにこやかに声をかけてきた。ようこが「え?」と焦《あせ》る。
「……すぐ帰るんじゃないの?」
つい上《うわ》目《め》遣《づか》いでそう尋《たず》ねてしまう。啓太が苦笑した。
「おいおい、しっかりしてくれよ。生活用品が足りないから依頼料|貰《もら》ったあとデパートで買い物して帰ろうって言ったのお前だろ?」
「あ、うん。そういえばそうだけど」
「さ、行こうぜ」
と、啓太が優《やさ》しく手を取ってくれる。ようこはついついふにゃんと幸せな顔になってぽてぽて歩き出してしまった。最近、啓太が優しくしてくれるのがとても嬉しい。しかし、スパを出たところでまた恐怖に戦《おのの》いた。
忘れていたが今日《きょう》は風がとても強い日だった……。
「だからさあ、俺《おれ》は留《とめ》吉《きち》に言ってやったんだよ。カツオブシの善《よ》し悪《あ》しは見た目じゃ分からないって。だけど、ともはねもカオルも育ち盛りだしさ、ま、貰えるモノなら貰っておいてもいいのかなって思って」
啓太がなにやら一人で喋《しゃべ》って笑ってる。ようこは上の空だった。
時折、吹《ふ》いてくる風に合わせてスカートの裾《すそ》を押さえこみ、内股で歩く。さやさやあっと冷たい空気が内股を撫《な》でた。
パンツを穿《は》いている時には全く感じたことのない感覚に思わず、
「あひゃ」
と、妙な声を上げるようこ。
「な、なんだ?」
と、びっくりしたように啓太が振り返った。
「……今の変な声出したのお前か? どした?」
ようこは慌《あわ》てて首を横に振った。
「な、なんでもないの! なんでもないのよ、ケイタ!」
そこへびょおうっと砂混じりのかなり強い風が吹きつけてきた。
「うお! うぷ!」
啓太が思わず顔を押さえてる。ようこは大慌てで前だけは懸《けん》命《めい》に押さえた。しかし、咄《とっ》嗟《さ》のことで後ろが間に合わず、薄《うす》い布地がお尻《しり》の方でふわ〜と浮かび上がる。
「!」
思わず目を見開くようこ。
見られた!
今、後ろを歩いている人がいたら確《かく》実《じつ》に見られた!
息せききって背《はい》後《ご》を振り返ると幸い辺《あた》りに人《ひと》影《かげ》はなかった。反対側の車道にも誰《だれ》もいない。ただ人間はいなかったがその代わりちょうどお食事中の野良《のら》猫《ねこ》が一匹、ゴミバケツの上に座って驚《おどろ》いたような顔でこちらを見ていた。
む。
えっちな猫め!
「しゃ!」
ようこが両手を挙《あ》げてそう威《い》嚇《かく》すると野良猫は大《おお》慌《あわ》てで塀《へい》を乗り越え逃げていった。猫からすると災《さい》難《なん》極《きわ》まりない。別に見たくて見ていたわけではないのだ。しかし、ようこはぶつぶつと口の中で小言を呟《つぶや》きながら首を振っていた。
「全く……あとできちんと口止めをしておかないと。最近の猫は油《ゆ》断《だん》がならないんだから〜」
目に入ったゴミを指で取っていた啓《けい》太《た》が聞いてきた。
「いててて……おい、今なんか言ったか?」
「言ってない、言ってない」
ようこは取《と》り繕《つくろ》ったように笑った。啓太の手をぎゅっと取って、
「さ、お買い物いこ。いこ♪」
前に歩き出す。
幸い十五分|程《ほど》歩いてデパートに辿《たど》り着くまで大きな障害はなかった。
入り口の前の道路でなにやら工事をやっていたので啓《けい》太《た》とようこはそこを迂《う》回《かい》して自動ドアを潜《くぐ》った。エントランスの周りは化粧品売り場で、地下に下りていく階段とエレベーター広場が横手にあった。
休日の昼間ということもあってそれなりに人で賑《にぎ》わっていた。ようこはほっと安《あん》堵《ど》の溜《ため》息《いき》をついた。
とりあえず建物の中に入れば安心だろう。風は遮られるし、ちゃんと注意すればスカートが捲《まく》れてしまうこともない。
だが、すぐに己《おのれ》の認《にん》識《しき》の甘さに気がついた……。
デパートの中にはエスカレーターという代《しろ》物《もの》があったのだ。
「おい? どうしたんだよ? 早く上に行こうぜ?」
啓太がエスカレーターの手前で手を差し招いていた。三階のサニタリー売り場で石けん入れやタオルケットを買う予定なのである。それはようこも楽しみにしていて安くて可愛《かわい》い小物は予《あらかじ》め折りこみチラシなどでチェックしていた。
ただ、このエスカレーターだけは頂けなかった。
この角度だとスカートの中身を見られてしまう危険性があるのだ。しかし、これ以上、躊《ちゅう》躇《ちょ》していても啓太が不《ふ》審《しん》に思うだけだし、なにより後ろで待っている親子連れが困《こん》惑《わく》しているようだ。ようこはなむさんと祈ってエスカレーターに飛び乗った。
啓太は前を向き「え〜と買う物は他《ほか》にフライパンと菜《さい》箸《ばし》だな。それにあと」と指折り生活|必《ひつ》需《じゅ》品《ひん》を数え上げている。
その間、ようこはお尻《しり》を懸《けん》命《めい》に両手で押さえていた。
内心では、
『これは女の子の嗜《たしな》みだもんね〜。階段やエスカレーター上がるときはみんなこうやってるから別に不自然じゃないもんね〜』
と、己に言い聞かせているのだがその妙に逼《ひっ》迫《ぱく》した緊《きん》張《ちょう》感《かん》は拭《ぬぐ》いきれていなかった。さらにつけ加えるとようこがそうやってヒップを押さえているがためにより一層その丸みが強《きょう》調《ちょう》されているきらいがあった。ミュールを履《は》いたすらりと長い足の根本を薄《うす》い布地が覆《おお》い隠《かく》し、辛うじてぎりぎりを裾《すそ》が誘《さそ》うように揺《ゆ》れている。なんとも艶《なま》めかしい。
心細くて頼りない。
そこでようこはぎくっとなった。
エスカレーターの後ろに乗っていた三|歳《さい》くらいのお子様が「ボク疲れた〜」というようにしゃがみこんだのだ。
母親の方が「しかたがないわねえ」という顔をして頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》に手を当てていて、その子が何気なく目《め》線《せん》を上げる。それから思いっきり目を丸くして、
「ねえママ! 前のおねえちゃんパンツはいて」
「しゅくち!」
ようこの容赦ない一声が響《ひび》き渡った。
「ま、まさひろちゃん?」
ついでにお母さんの方も、
「しゅくち!」
遠くに飛ばしておく。考え事をしていた啓《けい》太《た》がびっくりした顔になった。
「な、なんだ? どうした?」
ようこは大《おお》慌《あわ》てで啓太の腕を手に取った。
「だ、だいじょうぶだいじょうぶ。なにも起こってないよ? 世界は今とっても平和だよ?」
「いや、だけどおまえ確《たし》かしゅくち≠チて?」
「ううん。くしゃみをしただけ」
「くしゃみ?」
「そ〜。ちょっと湯冷めしたみたい。ほら、くしゅん。くしゅん。しゅくちゅん。ねえ?」
「……いや、かなり無理があると思うが」
「しゅくちゅんしゅくちゅんしゅくちゅん!」
「わ、わかった、わかった……大丈夫か?」
「うん、へ〜きへ〜き。えへへ♪」
心配してくれる啓太が何より嬉《うれ》しい。
ようこは頬[#「頬」はunicode9830]を赤らめ、幸せそうに啓太の腕に額《ひたい》をすりすりした。とりあえずエスカレーターを上がりきってその場はしのぐ。
だが、まだまだ前《ぜん》途《と》は多《た》難《なん》だった。
三階にはサニタリー用品が置いてあった。啓太は色とりどりの歯磨き粉が並んだ棚《たな》を抜け、石けん入れを手に取った。
「あ〜、これだと石けんの減り具合がちょっと見にくいな。もっと中が透《す》けて見えるタイプの方がいいよな〜」
と、中を透かすようにして覗《のぞ》き見る。ようこどきっとした顔で、
「な、なかは別に見なくてもいいと思うよ? 透けてみなくても別にいいと思う」
あせあせ手を振った。啓太は、
「でも、入ってるか入ってないの分からないだろう?」
と、石けんのことを聞いている。だけどようこは、
「ちゃ、ちゃんとはいてるもん!」
パンツのことが念頭にあった。しかし、
「ん〜」
啓《けい》太《た》は考え事をしているのでその会話のちぐはぐさにぜんぜん気がつかない。
「ま、お前がそういうなら」
と、その緑《みどり》色《いろ》の石けん入れを手に取り、それから啓太は笑った。
「あ、これはダメだ。ほら、見ろよ、これラベルがめくれちゃってる」
「めくっちゃだめえ〜〜〜〜!!!」
というめちゃくちゃな会話。啓太、目を白黒。ようこはくっすんと涙目だった。
同じく炊事用具売り場では、
「ん〜。えっと、フライパンはこれで良いのか?」
「うん。テフロン加工だし、柄《え》のところも長さ充分だね。妙め物がしやすいと思う。うちにはもう鍋《なべ》があるから今夜からでも美味《おい》しいご馳《ち》走《そう》を作ってあげられるよ♪」
ようこが指を立て明るくそう言ってのける。啓太は感心したように、
「ほ〜」
しかし、ようこはなぜかフライパンの柄をきゅっと握り、
「……そしていざとなったらこれでケイタの脳天めがけて思いっきり」
ぼそぼそと薄《うす》い半目でそう呟《つぶや》く。啓太は冷や汗を掻《か》いた。
「な、なんか言った?」
というような会話を経《へ》て彼らは一通りの買い物を終え、四階へと上がった。
「えっとここで買う物はっと」
啓太がとんとんと指で自分の頭を叩《たた》いて確《かく》認《にん》している。
「そうだ。ついでにちょっと必要な参考書があったな。ようこ、連絡通路渡ったところにある書《しょ》籍《せき》売り場行くからまずそっちつきあってくれ」
「あ、うん」
ようこの視《し》線《せん》はちょっと離《はな》れた場所にある女性用の下着売り場に向かっていた。そこには色とりどりのブラとパンツが陳列されていた。そして妙《みょう》齢《れい》の女性たちが沢《たく》山《さん》出入りしていた。ようこの目には彼女らは実に楽しげに見えた。
屈託なく下着を物色しているように見えた。
ああ!
自分も今すぐにでもあそこに混ざって心ゆくまでパンツを漁《あさ》りたいのに!
だから、啓《けい》太《た》に、
「それともお前もなんかここで買っておく物あるのか?」
と、尋《たず》ねられ思わず喜色満面で、
「うん! ぱ」
と、答えかけてはっと思い直した。確《たし》かにパンツは買ったからといって帽子や靴のようにその場で即座に身につけられるものではないのだ。
危ない危ない。
「うう」
少し涙目でわたわたする。啓太は怪《け》訝《げん》そうに、
「ぱ……なんだって?」
「ぱいなっぽ〜」
「は?」
と、啓太が聞き返すとようこはちょっと壊《こわ》れ気味なくらいの陽気さで、
「ぱいなっぽ〜。ぽ〜♪」
それからててててっと踊るように駆《か》けていった。
「ほら、早く来ないと置いていくぱいなっぽ〜?」
訳《わけ》の分からない語尾をつけて啓太をくいくい差し招いた。啓太、唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としていた。
「なあ、お前、本当に大丈夫なのか? さっきから明らかに様《よう》子《す》が変だぞ?」
連絡通路を渡って別館に来たところで啓太が心配そうにそう尋ねてくる。ようこは「えへ、わたしケイタがなに言ってるかよく分からないヨ?」というように悪戯《いたずら》っぽく舌を出し、顎《あご》に指を当てて知らんぷりを押し通した。
啓太は溜《ため》息《いき》をついた。
「ま、なんだかよく分からないがあまり無理をしないようにな。最近色々あったし……俺《おれ》はちょっと参考書探してくるからお前はここで待ってろ」
「うん!」
ようこは元気にそう頷《うなず》き、テナントの本屋へ後ろ髪を引かれるような感じで去っていく啓太を見送って手を振った。
それから彼の姿が見えなくなったとたん、どっと溜息をついた。
疲れた。傍《かたわ》らの陳列ケースに手を突く。そこはオモチャ売り場だった。目の前にはゲームソフトが並べられており、横手にはレゴや縫《ぬ》いぐるみが、奥の方に女の子向けの着せ替え人形が置いてあった。
ようこは何事かに気がついてててててっとそっちへ駆けていった。
着せ替え人形はひらひらのドレスをまとっている。ようこはもの凄《すご》く真剣な顔でそのスカートを捲《めく》ってみた。
「なまいきな!」
思わずそう吐き捨てる。着せ替え人形もちゃんと白いパンツを穿《は》いていた。しかもワンポイントのイチゴマークまで入ってる。
別に隠《かく》しても意味ない癖《くせ》に!
穿いていても穿いていなくてもす〜す〜しない癖に!
試しに他《ほか》のばびーだか、ぼびーだかを捲っても結果は同じだった。
「人形のくせに!」
やっぱりみんなきちんとパンツを穿いていた。
近くにいた女の子がぽかんとそんなようこを見上げていて親が「見ちゃいけません!」というようにそそくさと彼女から引《ひ》き離《はな》した。
ようこは悲《ひ》劇《げき》のヒロインのようにくらくらと額《ひたい》に手を当ててよろめいた。
「ああ、ぱんつが……ぱんつさえわたしにあればどんな時でも無敵なのに」
頭が沸《わ》いた人のように「ぱんつ、ぱんつ」と幾度か呟《つぶや》く。
と、そこへ無邪気な声が聞こえてきた。
「あ、いた!」
はっと振り返ると先《さき》程《ほど》エスカレーターから上の階に飛ばしておいたお子様がようこを見つけてキラキラと目を輝《かがや》かせていた。振り返って一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》母親を呼び、
「ママ! ほら! いたよ、ほら! さっきのパンツを」
「しゅくち!」
「はいていないお姉《ねえ》ちゃん」という声と共にかき消えるお子様。ついで、
「ま、まさひろちゃん!」
お母さんも一《いっ》緒《しょ》のところに飛ばしておいた。ふい〜と額の汗を拭《ぬぐ》うようこ。どうやら世界はパンツを穿いていない女に酷《ひど》く厳《きび》しいようだ。
ようこはう〜う〜唸《うな》りながらうろうろと辺《あた》りを歩き回り始めた。
幸い啓《けい》太《た》はまだ本屋から帰ってこない。彼が戻ってくる前になんらかの対策を考えておかないといけない。先程の下着売り場でパンツを購《こう》入《にゅう》し、トイレなどで穿いてしまう、という手はどうだろうか?
ちょっとリスクが高そうだが……。
ようこはしばし迷った後大きく頷《うなず》いた。
やるなら今しかない!
ようこが決然と、でも内心どきどきしながら足早に歩き始めたその時、向こうの方から大きなわめき声と争う物音が聞こえてきた。
「待て! ちょっと待て! 私の話を聞け! 不当だ! これは断固とした差別だ!」
気になってちょっと首を伸ばしたようこはずるりとずっこけた。見れば頭に黒いレースのパンツを被《かぶ》った男が警《けい》備《び》員《いん》二人に連行されていくところだった。
彼女も見たことのある変態親方≠ェ、
「ちょっと待て! 盗《と》ったものならともかく私は正当にお金をこのデパートで払って、きちんとレジを出てから下着を頭部に着用しただけだ! いったいなんの問題がある? 靴買って履《は》いて帰るくらい誰《だれ》でもやってるだろう? 値札をちゃんと取ったあと帽子を被って帰ったりもするだろう? なんでそれが女性モノの下着だと怒られるんだ? 納《なっ》得《とく》がいかない! 断然納得がいかない!」
あ〜、はいはい。
と、でも言うように警備員がめんどくさそうに親方を引っ立てていく。親方がふと喜色を浮かべて呼びかけた。
「おお! そこにいるのは川《かわ》平《ひら》じゃないか!」
見れば参考書を買い終えた啓《けい》太《た》がどよめいている買い物客たちの間に入り交じって立っていた。親方は地《じ》獄《ごく》で仏とばかりに彼にすがりつこうとする。
「言ってやってくれ! こいつらに物事の道理を諭《さと》してやってくれ! 我《わ》が同士、裸《ら》王《おう》よ!」
「……お知り合いの方ですか?」
警備員が少し冷ややかに近寄ってきた。場合によっては「あなたにもお話を聞かせて貰《もら》いますよ?」というように啓太を警戒して見つめている。
啓太は大きく深呼吸をした。それから、
「いいえ、こんな人見たことも聞いたこともありません。全くの赤の他人です。めんどくさいんでとっとと吊《つる》すところに吊してやってください。その方が当人のためだと思います」
にこっと笑ってそう言ってのけた。
「わ〜〜〜、覚えてろ〜〜〜〜!」
親方が暴《あば》れてる。警備員二人は力強く頷《うなず》き合って親方をしょっ引いていった。未《いま》だにざわめいている買い物客。店員たちが「お見苦しいモノをお見せしました」と謝《あやま》って回ってようやく場が静かになっていった。
啓太ははあっと溜《ため》息《いき》をついている。
「全く。他《ほか》にやることないのかね、あいつらは……」
ようこは初めて。
本当に生まれて初めて変態に同情していた。確《たし》か今のようこの状態も「なんとかちんれつざい」で法律的には「たいへん、いけないこと」なのだ。
パンツを穿《は》いていないことがこんなにも危険だったなんて!
警察に捕まったら一体なにをされるのだろうか?
苛《いじ》められるのか?
ぶるぶる。
ようこは恐る恐る啓《けい》太《た》に近づいていった。きゅっとその袖《そで》を指で摘《つま》む。
「あ、あのね、ケイタ」
「ん? どうした?」
「ん。ん〜。ん〜〜〜〜。えっと」
「なんだよ?」
「わたしが捕まってもどうか優《やさ》しくしてください……」
「はあ?」
と、訳《わけ》の分からない啓太。ようこはしくしく涙目だった。
ようやくこうやく全《すべ》ての買い物を終えて二人は一階に降りていた。今度はエレベーターを使ったので下から覗《のぞ》かれる心配はなかった。ただ、これから風の強い往来に出なくてはならない。それを考えるとようこは気持ちが重くなった。
同時に啓太は先《さき》程《ほど》から、
「あっれえ。そういえばなんか他《ほか》に買わなきゃいけないものあるの忘れてるな。なんだっけ?」
と、首を捻《ひね》ってる。
しきりに指を折っていた。そしてようこもまたこれから家に帰るまでどうやって啓太にスカートの中を見られないようにしたらいいかという考えに耽《ふけ》っていた。すると突然、彼女の脳《のう》裏《り》に稲《いな》妻《ずま》のように素晴《すば》らしいアイデアが閃《ひらめ》いた
忘れていた!
すっかり忘れていたが自分にはしゅくち≠ニいう切り札があるのだ。その力でパンツだけ自分のお尻《しり》に転送するぐらいお茶《ちゃ》の子さいさいである。
くくくっと思わず笑ってしまう。
最近、自分が妖《よう》狐《こ》であるという自覚がとみに薄《うす》れてるようだ。まあ、それはそれで良いことでもあるのだが……とりあえず目標地点は先程の女性用下着売り場。この距《きょ》離《り》なら霊《れい》力《りょく》的《てき》には全く問題ない。ただ、お金を払わずに商品を持ってきてしまうという倫理的問題があるがそれは後からきちんと支払いに行けばいいだろう。
今は要するに「きんきゅ〜じたい」という奴《やつ》なのだ。
乙女《おとめ》の沽《こ》券《けん》に関《かか》わるのだ。
ようこが大《おお》慌《あわ》てで指を上げるのと、正面エントランスの自動ドアが開くのと、啓太が振り返るのがほとんど同時だった。
「あ〜、そうそう。よ〜やく思い出したよ。買い忘れたもの。確《たし》か俺《おれ》の」
表からは工事のがんがんがんという音。
それに伴ってふわっと風が中に吹《ふ》きこんでくる。ようこのスカートがひらりと舞《ま》い上《あ》がる。丸見えになる。全《すべ》てが。
丸見えに。
「……パンツを」
啓《けい》太《た》とようこが顔を見合わせる。お互い固まってる。かあっと赤くなっていくようこ。そして啓太が一言。
「なんではいていないの?」
と、恐る恐る言った瞬《しゅん》間《かん》、悲鳴が轟《とどろ》いた。
「いっやああああああああああああああああああああああ!!!!!」
ちゅど〜〜〜〜〜〜ん、という爆《ばく》音《おん》。噴《ふ》き上がる爆発。
「なんでだあ〜〜〜!」
という啓太の悲鳴。相変わらずの二人であった。
その日、ともはねは河童《かっぱ》と庭で相撲《すもう》をとっていた。切っ掛けはなんとなく。廊下で目があった瞬《しゅん》間《かん》、二人の間で電気が走ったのである。
「む」
ともはねは足を止め、半目で河童を見つめた。
「くけえ」
河童もぴたりと歩みを止め、ともはねを見つめ返した。
さながら剣《けん》豪《ごう》同士のような。
じりじりとした足運び。
相手の力量を探《さぐ》る目つきである。片や啓《けい》太《た》を慕《した》って居着いた小さな犬《いぬ》神《かみ》。片や良く分からないけどなんとなくいる水辺の妖《よう》怪《かい》。
二人ともこの家で起居を共にしているいわば仲間である。が、一つ。最近、二人の間でどうしても譲《ゆず》れぬモノが出来、なんとなくその関係はきな臭《くさ》くなっていた。
啓太がこの家の主。
それはもう満場一致で動かないことだった。相変わらずスケベででたらめながらも最近では妙な落ち着きと不《ふ》思《し》議《ぎ》な爽《さわ》やかささえ感じさせるようになった犬神使い。続いてようこが二番目である。
ほとんど一家の主婦として振《ふ》る舞《ま》う彼女はこの家のナンバー2として実にふさわしいと言えよう。ともはねも河童もようこには一目置いていた。
三番目はニンゲンの川《かわ》平《ひら》カオル。まだ態度がぎこちなくこの家に完全に溶けこんでいるとは言《い》い難《がた》い彼女だったが、やっぱりどうしてもちびっ子犬神や河童から見れば目上の存在だった。さらに四番目が最近帰ってきたフラノ。そしてその客分格の精《せい》霊《れい》たち。
ここら辺は微妙なのだが、元々フラノはともはねより序列が上だったし、未《いま》だなんのためにこの家にいるのか分からない精霊たちだったが、得《え》体《たい》の知れない力を持っていることは薄《うす》々《うす》感知出来た。
すると。
当然というか、なんというかこの家でどちらがより上なのか、正《せい》確《かく》にはどちらが最下位なのか、という争いがともはねと河童の間で起きたのである。
「ま、まけないもん!」
ともはねはさすがに「くけくけ」しか言わない水《すい》棲《せい》生物に負ける訳《わけ》にはいかないので挑戦状代わりに河童に向かってびしっと指を突きつけた。
幼い外見に反して結構負けず嫌いな少女なのである。
対して河童も、
「くけえ〜〜〜!」
と、鼻息荒く胸を張った。
そしてちびっ子|犬《いぬ》神《かみ》と河童《かっぱ》は庭に出て相撲《すもう》を取った。行《ぎょう》司《じ》はなんとなく狩り出された啓《けい》太《た》である。彼はめんどくさそうにタバコを吹《ふ》かしながら、
「は〜い、見合って見合って〜」
と、適当に手を振る。
河童とともはねががっしとぶつかり合う。ともはねの方が確《かく》実《じつ》に大きくて重い。河童はともはねの腰元くらいしかない。
だが、
「くけええええええ!!!!」
「いやああああああああああああああああ!!!」
一応、相撲は全河童族のお家芸なのである。ともはねは足を取られあっさりと地面に放り投げられた。
「くっけけえ!」
えっへんと勝ち誇る河童。が〜んとショックを受けているともはね。
ふわっとあくびをし、持ってきた床《しょう》机《ぎ》に腰を落とし、本を読み出す啓太。
「う、ううう」
ともはねはしばし歯がみしたが、
「まだ決着はついてないもん!」
再び河童《かっぱ》に向かっていた。そして数秒後、自分より二回り小さな河童に放り投げられる。
「くけえ〜〜!」
「いっやあ〜〜〜〜〜〜〜!!!」
結果、十連敗。そんな一日だった。
その後、ともはねは完《かん》膚《ぷ》無《な》きまでに河童に負けた悔《くや》しさからえぐえぐ泣き、啓《けい》太《た》に頭を撫《な》でて慰《なぐさ》めて貰《もら》い、そして自室に引《ひ》き籠《こも》った。
以前、ようこを倒そうとして酷《ひど》い目に遭《あ》ったが、彼女は懲《こ》りるということを知らなかった。『身体《からだ》が強くなるお薬』を作ろうとしたのである。
ところがその際にあまりに強烈な悪臭が生じてしまったため、ようこから苦情が出て、やむなくともはねはその夜、洋館から抜け出し、ちょっと離《はな》れた森の奥に機《き》材《ざい》一《いっ》式《しき》を持って行って最後の仕上げを行った。
三日間|干《ほ》したマンドラゴラに、タヌキの霊《れい》薬《やく》、満月の夜にしか咲かない彼《ひ》岸《がん》花《ばな》に、霊泉の岩に生《は》える金《こん》色《じき》こけ。ひょっとしたら二度と手に入らないかもしれない貴重な材料をとろとろと透明になるまで煮込む。
実はともはねのお薬造りはある程度の根拠があって行っていることだった。昔、川《かわ》平《ひら》薫《かおる》が魔《ま》導《どう》具《ぐ》を収集していた際にたまたま家に紛《まぎ》れこんだ百年以上前の薬学の本を基《もと》にしているのである。本当かどうか分からないが表紙に天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》謹《きん》製《せい》の文字があるのでそこ関連の書物なのかも知れない。
とにかくともはねは時折気が向くと、その本に記《しる》してあるレシピ通りに薬を作って実際に試してみたりしていた。書いてある文章が難《むずか》しくて調《ちょう》合《ごう》が当てずっぽうだったり、材料が不完全にしか手に入らなかったりするので効果の方はまちまちだが、今回に関してはぜひとも成功させたかった。断じて河童に負け続ける訳《わけ》にいかない。フラスコに残った液体に仕上げのニンニクソース渡《わた》り猫《ねこ》の髭《ひげ》入《い》りを加え、ごくんとつばを飲みこむ。
それから覚悟を決めて、一気に呑《の》みほした。
そして。
ともはねは……。
気を失った。
目覚めてみたら既《すで》に夜が明けていた。ひくしゅん、と可愛《かわい》らしいくしゃみが出る。鼻を朝《あさ》露《つゆ》に濡《ぬ》れた草がくすぐっていた。
身体がじんわりとしめっている。
「あうう?」
ともはねはぽけら〜と上半身を起こして辺《あた》りを見回した。
木々の間をミルク色の霧《きり》が重苦しく漂っていた。
「あふやふあう〜」
ぽやぽやぼけた顔で身体《からだ》中《じゅう》を撫《な》で回してみる。良く分からないけどなんとなく違和感を覚えた。だけど、ともはねはその細かい違和感の正体について特に深く考えることもなくよろりと立ち上がった。
「やっはははははは!」
なんとなくハイになって笑ってみる。まるでお酒にでも酔ったような感じだった。
「あふ」
ともはねはいったんひっくとしゃっくりすると、千《ち》鳥《どり》足《あし》で洋館がある方に向かった。歩いていくうちに徐々に目が覚めていく。
それと同時に段々と不安になってきた。
言ってしまえば無断外泊してしまった訳《わけ》である。もしかしたら啓《けい》太《た》やようこが心配しているかもしれない。怒られるかもしれない。
どきどきとしながら足を速める。
そういえば。
力はちゃんと強くなったのだろうか?
薬は効《き》いたのだろうか?
ともはねは歩きながら自分の手を見下ろしてみた。拳《こぶし》を幾度か開閉してみる。特に違いは感じられなかった。
いや、それどころか身体のバランスが酷《ひど》く悪くなったような気さえする。
足の運びがぎこちなくなった感じだ。
ともはねは思いきってぽ〜んと地面を強く蹴《け》ってみた。心なしか以前より高く飛んでいる気はする。だが、林を渦《うず》のように巻いている細かい霧のために確《かく》証《しょう》は得られなかった。ともはねはとりあえず薬の効果を確《たし》かめるのは後にして、そのまま真《ま》っ直《す》ぐに空を飛んで川《かわ》平《ひら》啓太が寝泊まりしている一室の窓に向かった。
ふぉんと小さな音を立てて窓ガラスを透過。
中に飛びこんだ。そのとたん、盛大なイビキがともはねを出迎えた。ともはねはほっと安《あん》堵《ど》の吐《と》息《いき》をついた。
見れば寝《ね》間《ま》着《き》姿の啓太が腹を丸出しにして、いぎたなく涎《よだれ》を垂《た》らして寝ていた。ついで同じくネグリジェ姿のようこがすやすやと宙を漂いながら寝ている。
「良かった……」
どうやら夜家を抜け出したことはばれていないようだ。壁《かべ》にかかっている時計を見ればまだ朝の六時半。皆が起きてくるにはまだちょっと早い時間だった。
「えへへ〜」
ともはねは寝こけている啓《けい》太《た》に近づくと、なんとなくぽんぽんと頭を叩《たた》いた。さらに啓太の隣《となり》に腰掛け、額《ひたい》を彼のお腹《なか》の辺《あた》りにすりすりする。
ともはねは寝ている啓太の隣で一《いっ》緒《しょ》にお休みするのが大好きだった。
いつものように彼に寄り添おうとしてふと気がつく。
なんだか啓太の匂《にお》いが変なのだ。
といって別段、イヤな印象ではない。
「あ、あれ?」
なんだか。
「あれ?」
変だ。
いつもなら気にならない……。
微妙な、匂いが。
「あれれ?」
気になる。なんだか勝手に頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》が赤くなる。どきどきする。ともはねはそっと目をつむり、さらに啓太の匂いを深く嗅《か》ごうと顔を近づける。
その時。
「ちゃい! め!」
ようこの声が聞こえた。ともはねはどきっとして反射的に気をつけの姿勢を取った。恐る恐る振り返ると、
「も〜、あんたたち! ちょこれーとけーき食べちゃ、め!」
ようこがむにゃむにゃ寝言を言いながら横に漂っていくところだった。ともはねはばくばく脈打つ胸を押さえ、ほっと安《あん》堵《ど》の吐《と》息《いき》をついた。
なんだか良く分からないけど妙な罪悪感があった。
どきどきがまだ収まらない。
ともはねは首をすくめるとそおっと足音を忍ばせ、部屋から出て行った。まず一晩外で汚れた身体《からだ》をお風《ふ》呂《ろ》で洗って着替えようと思った。
廊下を一列|縦《じゅう》隊《たい》で砂漠の精《せい》霊《れい》たちがぷかぷか浮いている。良く見ると彼らはその大きな目をつむってすやすや寝ていた。
ともはねはくすっと笑ってそっとそのうちの先頭の奴《やつ》を小突いてみた。すると砂漠の精霊たちはまるでビリヤードの玉のように順《じゅん》繰《ぐ》りに当たっていって、そのまま一《ひと》塊《かたまり》にすい〜と廊下の暗がりの奥に消えてしまった。
ともはねはあっはは、と大きく声を出して笑った。
階段を下り、足音を弾《はず》ませ、屋外に出る。相変わらず濃《こ》い霧《きり》に覆《おお》われた庭を抜け、温室に飛びこんだ。
更衣室で威勢良く上着を脱ぎ、下着を脱ぎ、パンツに手をかけたところでようやく気がつく。
「あれ?」
服が。
「縮《ちぢ》んじゃった?」
脱ぎ捨てたいつものキュロットスカートを手に取ってみる。格別小さくなった風ではない。でも、そういえば着ている時随分と窮《きゅう》屈《くつ》だった。
パンツの両端をびろ〜んと伸《の》ばしてみる。
こちらも異常はないようだ。
「あ、あれれ?」
その代わり。
「!」
自分の胸にたゆたゆ弾む妙な物体がある。
上げてみる。
たゆたゆ。
押してみる。たゆん。身体《からだ》を震《ふる》わせてみると少し遅れてその胸の物体も震えた。
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ともはねは目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》き、ようやく気がつく。大《おお》慌《あわ》てで鏡《かがみ》の前に立ってみた。湯《ゆ》気《げ》で曇《くも》った鏡《きょう》面《めん》を手で拭《ぬぐ》い、洗面台によじ登らんばかりにして中を覗《のぞ》きこむ。
やっぱり!
「あたし、おっきくなってるううううううう!!!!」
鏡の前には見たことのない少女が立っていた。
しかも結構胸も大きかった。
「あ、あわわわ」
ともはねはどろんと尻尾《しっぽ》を出し、その周りをくるくると回ってみた。呼吸が激《はげ》しく、具体的にどうしていいかまるで分からない。
目が回る。
心《しん》臓《ぞう》がどきどきいってる。
それからともはねはなぜだか仲間たちが使っていた個人用のロッカーに赴《おもむ》き、勝手に下着を漁《あさ》ると、
「はわわわわわわ」
と、目をくるくる回しながら手当たり次第にそれらを取り上げ、
「はわはわわわわわ〜」
片《かた》っ端《ぱし》からおぼつかない手つきでつけてみた。いぐさのは全然|窮《きゅう》屈《くつ》で入らなかった。なでしこのだとちょっと大きすぎる。
なんなんだろう、あの子? と思った。
ブラジャー選《えら》びは結構|難《むずか》しかった。
ぽ〜い、ぽ〜いと放っていき、最後にたゆねのスポーツブラがようやく合ったのでフックをぱちんとつける。
「よし!」
なにがよしなのだかまるで分からないが、大きく力強く頷《うなず》くとまた洗面台によじよじよじ登り、鏡《かがみ》を覗《のぞ》きこんでみた。
「あう?」
鏡の中でも女の子が小首を傾《かし》げていた。
「え、えへ?」
愛《あい》想《そ》笑いをしてみる。
向こうも照れたように笑っている。手を振ってみた。向こうも振り返してくる。格《かっ》好《こう》つけたポーズで髪をふぁさっと掻《か》き上げてみた。
いつものともはねだったら全く様《さま》にならないが鏡の中の女の子はかなりそれらしく、どきっとするくらい色っぽく見えた。それが今や自分なのだ。まだ信じられないが。唇《くちびる》に指を当ててようこが良くやるような流し目ポーズもしてみる。
それから泣き真似《まね》、笑い真似。力こぶに威《い》嚇《かく》の歯を剥[#「剥」はunicode525D]《む》く仕《し》草《ぐさ》。しばらくして徐々に徐々に。
「くふふふふ」
喜びが込み上げてくる。大きくなれた喜びが。
お子様から脱却出来た喜びが。
「やったああああああああああああああああああ!!!!!」
ともはねは思いっきり高く飛《と》び跳《は》ねた。
いったいどういう訳《わけ》だか、『身体《からだ》が強くなるお薬』を作ろうと思ったら『身体が大きくなるお薬』が出来上がってしまったらしい。
だが、まあ、この際、結果オーライというべきだろう。ともはねにはこの方が遥《はる》かに望ましい。それに厳《げん》密《みつ》な意味では違うのかもしれないが、『大きくなること』と『強くなること』はことともはねに限って言えば同義語だった。
彼女はとりあえずつったか、つったかその場で踊ってひとしきり喜びを昇《しょう》華《か》させてから、またゆっくりと鏡《かかみ》を覗《のぞ》いてみた。
細長い手足。
すらりとした身体《からだ》。豊かな胸。
「くふふふ〜」
自然と笑《え》みがこぼれてくる。きゅっとしまった胴回りに丸い小さなお尻《しり》。年上の仲間たちが持っていていつも自分が羨《うらや》ましがって見ていたものだ。ごきょうやは一番肌が綺《き》麗《れい》だった。たゆねは一番スタイルが良かった。
なでしこは胸が大きかった。せんだんは気品のある身体つきをしていた。
いまり、さよかはおいて他《ほか》の少女たちはやっぱりオトナの身体をしていたのである。お風《ふ》呂《ろ》に入る度《たび》、自分の小さな子供子供した身体を見て密《ひそ》かに溜《ため》息《いき》をついたものだ。
だが、今やその全《すべ》てが自分にある!
胸だって、足だって、お尻だって。
仲間うちではなでしこ、フラノ、たゆねなどが肉づきが良い感じだった。対していぐさ、せんだん、ごきょうやなどはほっそりタイプだ。
大きくなった自分の身体つきはどちらかというといぐさたちに近かった。
後恐らく仲間うちで一番手足が長い。
胸が大きくお尻が小さい。髪も長くなっていた。しなやかな、ケモノのような印象がある。あえていうなら。
そう。
ようこの雰囲気にとても良く似ていた。
「ん〜」
ともはねはくるくるとまた辺《あた》りを回ってみた。動きも随分と軽快だ。どうやらこの身体にもだいぶ慣《な》れてきたようだ。ともはねは自分でも意《い》識《しき》せずようこのように口元に拳《こぶし》を当ててしのび笑った。
「くししし!」
それからぽ〜んとブラジャーもパンツも脱いでお風呂場に飛びこんだ。
お風呂場は相変わらずもうもうと湯《ゆ》気《げ》が立ちこめていた。いまり、さよかが丹誠を込めて手入れしていた植物がうっそうと茂り、誰《だれ》が連れてきたのか良く分からない原色の鳥や小《こ》猿《ざる》などが住んでいる。
まるでジャングルのような環《かん》境《きょう》だった。
その中を素っ裸のともはねが手ぬぐい一つ持ってすてててと駆《か》けている。
それからふと足を止めて小首を捻《ひね》った。
いつもなら「ほきゃきゃきゃ!」とか「ふわ〜〜!」とか鳥やら猿やらが喧《やかま》しく鳴いているのに今日《きょう》に限ってはしんとしている。
いったいどうしたのだろうか?
ともはねはちょっと考えたが「まあ、いいか」と思って再び弾《はず》む足取りで浴《よく》槽《そう》に向かった。身体《からだ》がオトナになった喜びがなににも増して大きかった。
手ぬぐいをちょっとお行《ぎょう》儀《ぎ》悪く振り回しながら鼻歌を歌っていたともはねの足がまた再び止まった。
今度はぎよっとした顔になる。
「な、なに?」
冷や汗を掻《か》いていた。
彼女の視《し》線《せん》の先には妙な物体が転がっていた。白い大理石の上に不《ふ》思《し》議《ぎ》なオブジェのように大の字になっているそれは犬《いぬ》神《かみ》のフラノだった。
驚《おどろ》いたことに彼女は素っ裸のまま、「くか〜」と寝息を立てていた。
いぎたなく涎《よだれ》も垂《た》らしている。
「……」
ともはねはぎこちなく近づいてみる。つんつんと指先で脇《わき》腹《ばら》辺《あた》りを突いてみた。すると、
「う〜ん。白パンダが赤パンダを食べてしまいました」
訳《わけ》の分からない寝言を呟《つぶや》いてフラノはころんと寝返りを打った。豊満なお尻《しり》をくりっとこちらに向けている。ともはねは赤面した。
自分の同《どう》僚《りょう》の犬神でありながらフラノはともはねにとって良く分からない存在だった。きっとそれは一番仲の良い、姉貴分であるごきょうやにとっても同じ事なのだろう。独自の価《か》値《ち》観《かん》で、独自の世界に生きる犬神。
なんで素っ裸でここに寝ているのか良く分からないが。
「フラノ? フラノ?」
ちょっと揺《ゆ》すってみても起きそうにない。ともはねは溜《ため》息《いき》をつき、とりあえずその場から離《はな》れることにした。きっとフラノにはフラノなりの理由があってあえてここに素っ裸で寝ているのだろう。
きっと自分にはあまり理解出来ない理由で。
ともはねはちゃんと備え付けの石けんで身体を洗ってから湯《ゆ》船《ぶね》の中に入った。要所要所が大きくなった自分の身体を洗うのはとても楽しかった。
じっくりと時間をかけて手足をこすった後、お風《ふ》呂《ろ》にどぼんと飛びこむ。
「うふふふ!」
嬉《うれ》しさが込み上げてきて一度顔を水面に沈めてからまた上げた。顔をお湯でしゃぱしゃぱ洗い、また楽しくなってきてすい〜と平泳ぎで広い湯《ゆ》船《ぶね》を泳ぎ回った。ライオンの顔をした給湯口を手でタッチし、反転する。
それからシンクロナイズドスイミングのようにほっそりと長くなった自分の足を上げてくるくる回ってみたりした。
ポーズを取る。ぱしゃっとあえてお湯を跳《は》ね上げる。
楽しかった。
ひとしきりお湯と戯《たわむ》れた後、ようやくともはねは物事を落ち着いて考え始めた。
「これ、いつまで続くのかな?」
もとよりこの状態が長続きするとは思っていない。
確《たし》かともはねが参考にした薬の本にはある程度の霊《れい》力《りょく》を消費すると自然と元の状態に戻ると書かれてあった。それはいったいどれくらいなのだろうか?
出来るなら啓《けい》太《た》に自分の大きくなった姿を見て貰《もら》うまでは保《も》って欲しい。
それと……。
「河童《かっぱ》!」
ともはねはぱしゃっと拳《こぶし》を突き上げる。
うんうんと引《ひ》き締《し》まった表情で幾度か頷《うなず》く。元々は河童に相撲《すもう》で勝つために使用したドーピングなのである。ここできっちりと相手に勝ってどちらが格上か示しておかないと折角大きくなった意味がない。
ともはねはざぱっと立ち上がってまず河童を捜し出すことにした。
だが、再戦を申し込む前にとりあえずたゆんと揺《ゆ》れた胸の感触が面《おも》白《しろ》かったので、もうちょっと揺らして遊んだ。
お風《ふ》呂《ろ》から上がる途《と》中《ちゅう》、さっきと変わらない体勢で「くか〜」とフラノが寝息を立てているのを見て、
「ふ、ふらの? とりあえずあたし先に上がるからね? ここ居《い》心地《ごこち》良いのかも知れないけどもっとちゃんとした場所で寝た方が良いよ?」
そう声をかけてみた。
しかし、フラノは、
「白パンダむざん〜」
と、寝言で答え、くるっと反対側に寝返りを打っただけだった。ともはねは冷や汗をかきつつとりあえずその場を後にした。
なんで裸なんだろう?
脱衣所で身体《からだ》を拭《ふ》いて、軽く髪を乾かしてから着る服に悩んだ。自分が今朝《けさ》まで着ていた服は小さすぎる上に濡《ぬ》れているので着られない。
そこでまず先《さき》程《ほど》ぽんぽんと放り出した仲間たちの下着をとりあえず元のロッカーに戻した後、彼女らの服を改めて借りることにした。
それはちょっと楽しい選《せん》定《てい》作業だった。
なでしこのエプロンドレスやいぐさのブラウスなどを取り出して悩む。だが、あまりぴんと来ない。そこでいまりとさよかのスカートなども合わせてみたがこれもイマイチだった。最終的にともはねは、たゆねのダメージジーンズにてんそうの藍《あい》染《ぞ》めのシャツを着ることにした。さらにせんだんのイヤリングを耳につけ、なでしこの落ち着いた色合いのネックレスを首にかける。トータルで見てごちゃごちゃとした、だが、元気な印象だった。
最後に髪をツインテールに結んで鏡《かがみ》の中でにっと笑ってみせる。
良い感じだ。
ともはねは明るく笑うと温室から外に飛び出した。
再戦を挑むべく河童《かっぱ》を捜して洋館中を駆《か》け回る。ぽんと床《ゆか》を蹴《け》って一気に三階まで跳《は》ね上がる。さらに空中で反転。壁《かべ》をもう一度蹴って外に透過した。ともはねは空中でぴたっと静止。「ん」と目をこらす。
どうやら知覚能力も大幅に向上しているようだった。
庭の奥。樫《かし》の木の根本ですやすやと寝ている河童をすぐに見つけた。ともはねは両手を広げ、
「ぎゅ〜ん!」
と、あっという間に近づく。空中でまたぴたっと急ブレーキをかけ、河童に向かって大声で、
「おっきなさい! こっらあ! もう一度、相撲《すもう》やるよ!」
だが、河童は丸くなって木の根本に寄りかかったまま寝息を立てているばかりだった。ともはねはつま先からちょんと地面に降り立ち、河童の小さな肩をゆさゆさ揺《ゆ》らした。
「こら! 起きなさい! 河童さん! 河童さんったら!」
しかし、河童は先程のフラノばりに「くか〜」といぎたなく涎《よだれ》を垂《た》らしたままぐらぐらと揺れているばかり。
ともはねは溜《ため》息《いき》をつき、とりあえず河童を抱え上げるとすぐ近くにある食堂棟に向かった。
そこで水でもぶっかけて起こそうと思ったのだ。
かなり重厚な造りのログハウス。それが川《かわ》平《ひら》薫《かおる》邸《てい》の食堂だった。台所やパントリーと渡り廊下で繋《つな》がっており、奥の方にソファなども置かれている。
さらに最近では川平薫にまつわる品々を置いたスペースも設《もう》けられていた。ともはねが河童を抱えながら中に入るとそこに先客がいた。
「あ、あれ? カオル様?」
ともはねは怪《け》訝《げん》そうに小首を傾《かし》げた。見れば青い寝《ね》間《ま》着《き》にナイトガウンを羽《は》織《お》ったカオルが中央の円卓に突っ伏してすやすやと気持ち良さそうに寝ていた。
彼女の顔の横にはマグカップが置かれており、中にはちょっと冷めかかったミルクが入れてあった。
ホットミルクでも飲んでいるうちに寝こけてしまったのだろうか?
ともはねはカオルに近づき、肩を揺《ゆ》すった。
「カオル様? もしもし? こんなところで寝ていると身体《からだ》に毒ですよ?」
犬《いぬ》神《かみ》のフラノと違って人間のカオルは風邪《かぜ》を引いてしまう可能性がある。だが、カオルは起きなかった。
ともはねはちょっと眉《まゆ》をひそめた。
「カオル様! カオル様ってば!」
カオルは「ん」と小さく呟《つぶや》き、さらに腕で顔を抱えこむようにして頑《がん》強《きょう》に起きることを拒んだ。ともはねは考えた。変だ。明らかに変だった。
彼女が知る限りカオルは決して寝起きの悪い方ではない。むしろこんな風に無防備な寝顔を見せる事なんて今までただの一度もなかった。
そういえば……。
この家に戻ってきてから起きている人間にただの一人も会っていなかった。
ともはねの背中につうっと冷たい汗が流れた。
ようやくこの家に漂う違和感に気がついた。庭から屋《や》敷《しき》全体を取り巻くようにして流れる重苦しく、暗い色合いの霧《きり》。ともはねは河童《かっぱ》をテーブルの上に置き、大きく深呼吸を一つした。さらに目をつむり、意《い》識《しき》を集中させる。
見つけた。
自分でもびっくりするくらい感覚が研《と》ぎ澄《す》まされていった。
異物を捉《とら》える。
ともはねは毅《き》然《ぜん》とした表情で顔を上げるとくんと思いっきり跳《ちょう》躍《やく》して、屋根を透過。一息に屋敷の上空まで躍《おど》り上がった。
「ほ。気配《けはい》を殺したわしを簡《かん》単《たん》に見つけ出すとは! なかなかに聡《さと》い娘《こ》じゃの!」
そこにちぎれ雲に乗った奇妙な老人が邪悪な笑いを浮かべて待ち受けていた。
ともはねは厳《きび》しい表情を浮かべたままだった。啓《けい》太《た》やようこや河童やフラノ、カオルが寝こけたままなのはこいつのせいらしかった。
「あんた、誰!?」
小さなソファベッド程《ほど》の大きさの灰《はい》色《いろ》の雲。そこに茶《ちゃ》色《いろ》い道士風の服を着た老人がまるで蟾《ひき》蜍《がえる》のようにちんまりとうずくまっていた。破れた編《あ》み笠《がさ》を被《かぶ》り、自分の身長よりも大きな杖《つえ》を肩に担ぐようにしてこちらを見ている。
破《やぶ》れ傘《がさ》の下で黄《き》色《いろ》いぎょろ目が行《あん》灯《どん》の炎のように輝《かがや》いていた。
「隙《すき》を見てお前さんも眠らせてやろうと思ったんじゃが」
ともはねが叫んだ。
「おじいさんね、みんなを眠らせていたのは!」
老人がふぉふぉふぉっと歯の抜けた口で笑った。
「いかにも。いかにもこのわしがこの家の者が起きぬよう『眠《ねむり》霧《ぎり》』の呪《じゅ》法《ほう》をかけたのじゃが……お前さん、見たところ若い犬《いぬ》神《かみ》じゃな。どうしてわしの術にかからなかったね?」
「あたしは離《はな》れた場所で寝てたの!」
ともはねが空中で足を踏みならす。老人が顎《あご》髭《ひげ》をしごいた。
「ほうほう。家の外におったからか……」
「それより答えなさい! なんでこんなことをしたの!」
「お前さんの質問にいちいちわしが答える義理もないが」
老人は顎髭をしごき続けたまままたにたりと笑った。
「まあ、美味《おい》しく食べるためよ」
「た、たべる?」
ともはねは冷や汗を掻《か》いた。老人は、
「そうよ。わしの好物は若くて活《い》きの良いぴちぴちとした霊《れい》力《りょく》での。こんなところにまとめて眠っておったのでついつい食指が動いてしまった訳《わけ》じゃよ。で、美味しく順番に霊力を啜《すす》ってやろうとしたらお前さんが現れたのでな、様《よう》子《す》を窺《うかが》っておったのじゃよ」
ともはねはむう〜と眉《まゆ》をひそめた。
彼女の知《ち》識《しき》の中に『邪悪な道に堕《お》ちた邪《じゃ》仙《せん》』という存在があった。元々は位の高い仙人だった者が私欲に溺《おぼ》れ、己《おのれ》の欲望のためのみに仙術を使い、道を踏み外してしまった結果の怪物である。だが、元が神仙だけあってその力は他《ほか》の魔《ま》物《もの》とは比較にならない程強く、敵に回すと厄《やっ》介《かい》極《きわ》まりない相手でもある。
通常、犬神一匹でなんとかなる相手ではなかった。だが、ともはねは全く臆《おく》さなかった。彼女はびっと相手に向かって指を突きつけると宣言した。
「おじいさん!」
「ほ?」
「今すぐ啓《けい》太《た》様たちの眠りを解きなさい!」
「ほお〜?」
邪仙は驚《おどろ》いて目を丸くする。さらにともはねは言《い》い募《つの》った。
「じゃないと」
彼女は全力で叫んだ。
「おじいさんのことあたしがぶっ飛ばしちゃうんだから!」
ぶっ飛ばしちゃうんだから!
彼女は一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》胸を張ってそう繰《く》り返した。
しばしの沈《ちん》黙《もく》。次の瞬《しゅん》間《かん》、その邪仙は身体《からだ》を爆《ばく》発《はつ》させるようにして笑った。
「ほっほうほほほほほう! ほうほほほほほほほほほほ!」
ともはねが悔《くや》しそうに叫んだ。
「な、なに笑ってるのよ? あたし、本当に怒ってるんだからね! やるったらやっちゃうんだからね!」
「ほうほう」
邪《じゃ》仙《せん》は目を邪悪に細める。身体をすくめるようにして呟《つぶや》いた。
「いや、これが笑わずにはいられるかね? わしをぶっ飛ばす? 主《あるじ》のいない犬《いぬ》神《かみ》がただ一匹で? 断っておくがわしが予《あらかじ》め獲《え》物《もの》を眠らせておくのはわしが弱いからではないぞ? むしろ相手を不必要に砕《くだ》いてしまうので面《めん》倒《どう》がないように眠らせておくのだぞ?」
「だから、なによ! あたしはさっさと眠りを解きなさいって言ってるの!」
邪仙は溜《ため》息《いき》をつき、
「わしがこの場から立ち去れば自動的に眠りは解けるよ」
酷《こく》薄《はく》な笑《え》みを作って肩をすくめた。
「だが、そんなことは起こりえまい。それより、身の程《ほど》知らずの小娘は躾《しつ》けてやらないとな。お前さんはあえて眠らさずちょっと怖い目に」
邪仙は最後まで口上を述べることが出来なかった。もの凄《すご》い速度でともはねが距《きょ》離《り》を詰めてきていたからでる。
ぎゅおんと残像が残る程の速さで。
「はわ! わあああああああああああああ!!!!」
邪仙が紙《かみ》一《ひと》重《え》で上空に飛び上がってかわさないといけない程の攻《こう》撃《げき》を見《み》舞《ま》う。単純に拳《こぶし》を上から下に振り下ろす。
それだけで青白い霊《れい》気《き》が大気を切断してとんでもない破裂音を立てた。
「は、はわ?」
邪仙はかなり距《きょ》離《り》を取ってから口をばくばくさせた。二百年ぶりくらいに心《しん》臓《ぞう》がばくばく音を立てていた。
あり得ない。
あり得なかった!
「な、なんじゃ、今の?」
どう考えても一介の犬《いぬ》神《かみ》が繰《く》り出してくる攻《こう》撃《げき》ではなかった。
「……大《たい》妖《よう》くらすじゃったぞ、今の?」
そっと袖《そで》と袖の間からともはねを盗み見る。
だが、そのともはね自身|怪《け》訝《げん》そうに遥《はる》か下の方で小首を傾《かし》げていた。自分の手を見つめ、ぐるぐると肩を回している。
どうやら今のは何かの間違いだったようだ。
どだい、ただの犬神に自分を倒す力があるとは思えない。
邪《じゃ》仙《せん》はそう無《む》理《り》矢《や》理《り》自分自身を納得させ、結《けっ》跏《か》趺《ふ》坐《ざ》の姿勢を取ると、印を結んだ。
「延々円々延々! 炎きたれ!」
地《じ》獄《ごく》の業《ごう》火《か》のような炎が一気に彼の手元から噴《ふ》き出され、猛烈な勢いで下降するとともはねを押し包んだ。
ともはねがはっとして目を見開いた時にはもう既《すで》に炎は渦《うず》を巻いて幾《いく》重《え》にも彼女を責めさいなんでいた。
「ほほう!」
邪仙が歓喜の声を上げた。
だが。
「こんな炎なんか!」
その炎の中からともはねの凛《りん》とした声が響《ひび》き渡った。
まるで仲間たちを叱《しっ》咤《た》するせんだんのような凛とした姿勢で。
「あたしに力を貸して、紫《し》刻《こく》柱《ちゅう》!」
紫の結界に包まれてともはねが炎の裂け目から姿を現した。
「全部、消えちゃえ!」
彼女は毅《き》然《ぜん》とした表情で、手を振るう。すると無数の六角形を組み合わせた紫《むらさき》の結界が破裂して、瞬《しゅん》時《じ》に紅《ぐ》蓮《れん》の炎もまた霧《む》散《さん》する。
「は、はわ?」
邪仙は驚《おどろ》きのあまり目を丸くしていた。その間、ともはねは言い放った。
「おじいさん! 降参しなさい! あたしは怒ってるんだから!」
「笑止!」
邪仙は笑《え》みを消すとさらに結跏趺坐のまま、印の形を変えた。
「麗《れい》々《れい》霊《れい》々《れい》麗々! 氷きたれ!」
彼の背《はい》後《ご》の空間がぐにゃあっと歪《ゆが》んでそこから氷の散弾が高速度で撃《う》ち出されていく。まるでガトリングガンのように氷の礫《つぶて》が次々とともはねに飛来し、殺到した。
ともはねの目がすうっと落ち着いた色合いを帯びた。大人《おとな》びたごきょうやのような冷静さで無数の氷の軌道を的《てき》確《かく》に読み、超高速のステップを踏んで避《よ》けていく。
目にもとまらぬ。
だが、ちゃっちゃっと華《はな》のある舞《まい》。その度、ツインテールが揺《ゆ》れる。彼女がつけた衣《い》装《しょう》が風を切って唸《うな》る。
「!」
段々と接近してくるともはねを見て邪《じゃ》仙《せん》は目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》く。
「お、おのれ! 囂《ごう》々《ごう》轟《ごう》々《ごう》囂々、雷きたれ!」
だけどそれより早く、
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》! 紅《ぐ》蓮《れん》!」
ともはねが縦《じゅう》横《おう》無《む》尽《じん》に手を振るう。すると正確にそこから深《しん》紅《く》の衝《しょう》撃《げき》波《は》が十本走って邪仙の元へ瞬《しゅん》時《じ》に到達した。
「一人だけどみんなの分!」
周囲で巻き起こる目も眩《くら》むような閃《せん》光《こう》。爆《ばく》発《はつ》。
「ぐ、ぐわ!」
辛うじて直撃を回《かい》避《ひ》したものの大きく体勢を崩《くず》されてしまった。そこにともはねが殺到していく。
邪仙は焦《あせ》った。さらに印を結び、
「隆々流々隆々、岩きたれ!」
天空から直径百メートルはある超巨大な岩《がん》盤《ばん》を召《しょう》還《かん》して思いっきり振り落とした。仮にともはねがそれを回《かい》避《ひ》しても間違いなく下に建っている薫《かおる》の家が粉々に壊《こわ》されてしまう。
その邪悪な意図に気がついたともはねの目が深紅の輝《かがや》きを帯びる。
「あああああああああああああああああああああああ!!!!」
彼女の真《ま》っ直《す》ぐな怒りはさながらたゆねのように。
突進、急上昇と共に爆発を起こす。
「な! な! な!」
邪仙は我《わ》が目が信じれない。ともはねの真っ直ぐに突き出した拳《こぶし》が岩に激突した瞬間、巨大な岩盤は跡形もなく粉々に砕け、一気に周囲に飛散したのだ。
「な、そんな」
バカな。
バカな。
あり得ない。あり得ない。
と、息を呑《の》む。それからありとあらゆる秘術を繰《く》り出してともはねの接近を阻《はば》もうとするがその全《すべ》てをともはねは信じられない速度で無効化して近づいてくる。徐々に邪《じゃ》仙《せん》は気がついていく。ともはねの動きのソレは明らかに犬《いぬ》神《かみ》のソレではなく。
彼女が浮かべている笑《え》みは破《は》邪《じゃ》顕《けん》正《しょう》たる犬神のソレではない。
この戦い方はもっと禍《まが》々《まが》しく、もっと強大で、もっと孤高なモノのソレだった。縦《じゅう》横《おう》無《む》尽《じん》に跳《は》ね回り、美しく、時に残酷に攻《こう》撃《げき》を加えていく。
「こ、これは」
彼女の背《はい》後《ご》に見えてくる。
彼女が一番最初に出会った圧倒的強者。その圧倒的な戦いぶりを心の底から、目に焼きつけていた彼女が完《かん》璧《ぺき》にトレースしているソレ。
「きゅ、きゅうびの!」
強大な牙《きば》を剥[#「剥」はunicode525D]《む》くナニかが彼女の後ろに一《いっ》瞬《しゅん》だけ幻《まぼろし》のように映って。
「ケモノ!」
と、思った瞬間、ともはねは一瞬で邪仙の目の前をすり抜け、いつの間にか彼の頭上に浮かび上がって冷ややかに彼を見下ろしていた。
許せぬ者に断罪を加えるなでしこのように。
宣告を下すはけのように。
青白く光り輝《かがや》いている。
「おじいさん。あたし言ったよね?」
彼女の透《す》き通った声に邪仙の震《ふる》えは止まらない。その感情を殺した瞳《ひとみ》に震えが止まらない。
「あ、あ」
「言ったよね? あたし怒ってるって! あたしの仲間を! 家を! 啓《けい》太《た》様を! 薫《かおる》様の大事な思い出を! よりによって壊《こわ》そうなんて」
「ゆ、ゆ、ゆるひて」
「だめ。許さない」
「お、おねがい! おねがひします! ゆるひてくださいませ!」
邪仙はもう恥《はじ》も外《がい》聞《ぶん》もなく、長年生きてきた年《とし》甲斐《がい》もなく惨《みじ》めに惨めに雲の上で土《ど》下《げ》座《ざ》をして許しをこうた。
「ほ、ほんの出来心だったんですじゃ! おゆるひを! おゆるひを! おじひを! おじひを!」
さっきまでとは一転。打ってかわって米つきバッタのように頭を下げる。その胸の悪くなるような態度をともはねはしばらく無感動に見下ろしていたが、
「ふう」
すうっと力を抜いてくるっと背を向けた。
「分かった。ならば、もうしない。さっさとここから立ち去ってね」
そう言って自《みずか》ら歩み去ろうとする。溜《ため》息《いき》をつく。その瞬《しゅん》間《かん》、今の今まで鼻水を垂《た》らして泣いていた邪《じゃ》仙《せん》がにやあっと邪悪に笑った。
杖《つえ》を振りかざし、ともはねのその無防備な背中に渾《こん》身《しん》の術を叩《たた》きこもうとする。
「くらえ!」
しかし。
ともはねの中のようこ、せんだん、なでしこ、いぐさ、たゆね、ごきょうや、てんそう、フラノ、いまり、さよかが同時に叫んでいる。
『ともはね、後ろ!』
完全に油《ゆ》断《だん》はない。
幾たび一《いっ》緒《しょ》に戦って身に染《し》みこんだ彼女たちの戦いのリズムが教えてくれる。外《げ》道《どう》な相手がどんなことをしてくる可能性があるかと。ついで彼女の中の啓《けい》太《た》がにっと親指を立ててそれを下にくいっと向けた。ともはねは元のともはねに戻って元気良く笑う。
無邪気に、振り向きざま。
「ひ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜さつ!」
ぐうううっと拳《こぶし》を弓のように引き絞り。
目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いて驚《おどろ》いている邪仙のどてっ腹めがけてただもっともシンプルな攻《こう》撃《げき》を。
「ともはね、ぱんち!!!!」
叩きこむ!
その破《は》壊《かい》力《りょく》は率直にして、必殺。
ただ全《すべ》ての邪悪なモノを打《う》ち砕《くだ》く破邪の力。その権化。
「ぐ!」
一度、邪仙はぐいっとしなって。
次の瞬間。
「ぐぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
ぐおんと一《ひと》塊《かたまり》になって一気に天上に向かって吹《ふ》っ飛ばされていき。
そして。
「はあ、すっきりした!」
と、ともはねがくるっと背を向けたとたん、星のようにきらんと一度だけ光って消えた。ともはねは元気良く足を踏み出すと、いそいそと地上の啓太たちの眠る部屋に向かった。完全勝利だった。
ともはねはふらあっと窓ガラスを透過すると中に転がりこんだ。ひとしきり戦い終わったらなんだか急《きゅう》激《げき》に眠くなってきた。
心地《ここち》良く。
微睡《まどろ》んでいく。同時に身体《からだ》が少しずつ、少しずつ元のサイズに戻ってきている。だが、ともはねはそのことに気がつかず、ほとんど無《む》意《い》識《しき》の動きで「くか〜」と未《いま》だ鼾《いびき》をかいて寝こけている啓《けい》太《た》の脇《わき》腹《ばら》にしがみつき、
「あふう」
小さく欠伸《あくび》を噛[#「噛」はunicode5699]《か》み殺した。啓太は相変わらずお日様の匂《にお》いがした。
安心出来た。
それからしばらくしてようやく起き上がった啓太が苦笑していた。彼の傍《かたわ》らにいつの間にかともはねが潜《もぐ》りこんで来ていてぶかぶかの服を着ていた。年不相応にサイズの大きなブラジャーまでつけている。
どこかで背伸びして遊んでいたのだろうか?
いずれにしても子供らしく、可愛《かわい》らしかった。
幸せそうにすよすよ寝息を立てているともはねの頭をよしよしと撫《な》でて、
「全く。こいつはいつまで経《た》ってもお子様だな!」
啓太より早く起きて寝室に入ってきていた河童《かっぱ》がえっへんとともはねの頭の辺《あた》りで威張っていた。
「くけ!」
この日、相撲《すもう》の再戦を挑んだともはねがまた河童《かっぱ》にこてんぱんに負けたのはとりあえず別の話である……。
「え〜、啓《けい》太《た》様。またお出かけするんですか?」
不服そうにそう言っているのは犬《いぬ》神《かみ》のともはねだった。川《かわ》平《ひら》カオルは読んでいた『犬の心がよく分かる本』から目を上げ、居間の光景を見つめた。
「あ〜、仕方ないだろう、俺《おれ》だって行きたかねえよ! あんな変な会合」
川平啓太は憮《ぶ》然《ぜん》と言い返しながらジャケットを羽《は》織《お》った。
ともはねは彼のお出かけを阻止しようとするかのように丸くなって啓太の足《あし》下《もと》にぐいっとまとわりつく。
「ねえ。そんなことならずっとうちにいましょうよ〜。あたしと一《いっ》緒《しょ》にカルタしましょうよ〜」
まるでだだっ子だ。それを背《はい》後《ご》からぐいっと引っ張ったのはフラノである。つい最近、海外から帰ってきた自分の兄に仕える犬神で、予知能力を持つ、ということくらいしかカオルは彼女のことを知らない。
後いつも巫女《みこ》のような服を着ていて、にこにこ笑っているということくらいしか。
フラノはぐいっとその豊かな胸にともはねを包みこむと、
「ともはねちゃん! 我《わ》が儘《まま》はメっですよ? カルタはこのフラノと一緒にやりましょうね〜」
そう言ってむぐむぐ呻《うめ》いているともはねを柔道の押さえこみの要領でぐいっと押さえつけ、啓太に向かって言った。
「さ、啓太様! ご安心めさってとっとと行っちゃってください!」
啓太はぴっと額《ひたい》に指を当てて礼を述べた。
「おう、悪いな、フラノ!」
彼はそう言ってふすまを開けてたったか出て行く。
「あ」
カオルが『行ってらっしゃい』と声をかけようかどうしようか迷っている内に見えなくなってしまった。カオルは目《め》線《せん》を伏せ、小さく呟《つぶや》く。
「行ってらっしゃい」
しかし、その声は小さすぎて誰《だれ》にも聞こえない。なんでも啓太はとある霊《れい》的《てき》問題児たちの更生プログラムに参加しているのだそうだ。自分の兄が消えてしまい、自分が氷の中から目覚める契《けい》機《き》になった事件の問題児たち。
それ以上は、
「んとに、しちめんどくさい奴《やつ》らだよ」
と、顔をしかめて啓太は深く語らなかったが、他《ほか》にも勉強や生活のための仕事などとにかく彼は常に多忙なのであった。
「啓太様は本当に最近、お疲れ様ですね〜」
フラノは感心したようにそう呟き、ようやくともはねをその胸元から解放した。ともはねは目を白黒させてからぷはっと大きく息を吐《つ》くと、
「あ〜あ、啓《けい》太《た》様、行っちゃった」
しょんぼりとそう呟《つぶや》いた。ちぇっと足でこたつ布《ふ》団《とん》を蹴《け》っている。
カオルは『犬の心がよく分かる本』をぱらぱら捲《めく》り返して、
子犬はあまり構って貰《もら》えなくなると家具などで悪戯《いたずら》をするようになります
という記述を読んで心|密《ひそ》かに頷《うなず》いていた。
フラノが彼女を慰《なぐさ》めるようににこにこと頭を撫《な》でた。
啓太がいなくなったとたん、室内の空気が急に静かになった。彼は別に騒《さわ》いでいたわけではない。ただこたつに向かってかりかり勉強していただけである。
しかし、ただそれだけで妙に居《い》心地《ごこち》の良い空気を彼は自然と形成していた。
ともはねは彼の背中に自分の背中を預けゲームをやっていたし、フラノはフラノで彼の近くで鼻歌を歌いながら洗《せん》濯《たく》物《もの》を畳《たた》んでいた。
広大な兄の邸宅で自然と犬《いぬ》神《かみ》たちは啓太のいるこの小さな和室に集まるようになっている。兄とは全く似ていない粗野なイトコだがようこ、ともはね、フラノの心を惹《ひ》きつけてやまないなにかを彼は持っているようだ。
カオルはちょっと暗い気持ちになった。
この間、挨《あい》拶《さつ》しにいった宗《そう》家《け》から『近いうちに犬神使いとなるための正式な訓練を受けないか?』と内々で打診され、カオルは迷いに迷った末、返事を保留していた。
ともはね、ようことは未《いま》だにほとんどうち解けられない。
フラノに至っては意思の伝達すら難《むずか》しい。
こんな状態で果たして自分は犬神使いなどになれるのだろうか?
元々、引っこみ思案だった性格は氷の中で眠っているうちにさらに磨《みが》きがかかってしまったようだ。
カオルが沈みこんでいると部屋の中にようこが元気良く入ってきた。
「お〜す! ケイタはも〜行った?」
「あ、ようこ」
「くふふ。今ね、わたし台所でちょこれーとけーき作ってるの!」
ようこはうっとりと呟いた。
「まったくこの家は設備がじゅ〜じゅつしていていいわね。なんで早くこのことに気がつかなかったのかしら? 自分で作ればちょこれーとけーきすごく安上がりだし、こだわりも沢《たく》山《さん》盛りこめるのに」
「ようこちゃん、何かお手伝いましょうか?」
と、フラノに尋《たず》ねられ、ようこはこたつに足を突っこみながら首を振った。
「だいじょ〜ぶ。今はオーブンを使ってるところだから。またあとで頼むわ」
それからようこ、フラノ、ともはねは女の子三人で姦《かしま》しく話を始めた。カオルは本を読む手を止めて何度かその会話に加わろうかどうしようか迷った。だが、楽しそうに笑い合う彼女らの中にどうしても上手《うま》く入っていけず、そのうちそんな幸せそうな彼女らの邪《じゃ》魔《ま》をすることさえ申《もう》し訳《わけ》なく感じられて、そっと物音を立てないように部屋から出た。
ふすまを閉じたところで話し声がぴたりと止まる。
背《はい》後《ご》に視《し》線《せん》を感じていた。
どうやら彼女らにいらない気《き》遣《づか》いをさせてしまったらしい。カオルは訳もなく赤くなり、足早に逃げるようにそこを立ち去った。
保《ほ》護《ご》者《しゃ》である父親が兄を捜すために再び単独で海外に飛び出していってしまったのでカオルは啓《けい》太《た》と暮らすようになった。
自分の父親ながら生活態度全般でいい加減な男だった。
カオルは兄とこのでたらめな父親に育てられた。
父親は主にEUを舞《ぶ》台《たい》に活《かつ》躍《やく》するオカルトライターだった。ジャーナリストとは名乗っていたが実際は自分が面《おも》白《しろ》いと思うことはなんでも首を突っこむなんでも屋だった。妻には逃げられ、子供たちからは呆《あき》れられていた無軌道な男だったが、それなりに優《ゆう》秀《しゅう》な記事の書き手ではあったらしい。フランスとイタリアでそれぞれ著作が何作かあるのだそうだ。
カオルは一度だけイタリアの国営テレビに出演している父親を見たことがある。
なぜか正装をしていて、鋭《するど》い目つきでもっともらしいコメントを述べていた。もっとも『とあるアルプスの寒村で行われる豚レースの実況|中《ちゅう》継《けい》とその歴史的起源の解説』だったのだそうだが、兄共々えらく感心したモノだ。
『お父さんもあんな格《かっ》好《こう》が出来るんだね〜』
普《ふ》段《だん》はアメリカの暴《ぼう》走《そう》族《ぞく》みたいなサングラスとチェーンじゃらじゃらの危ないファッションを好んでしていた。いい年してそんなでたらめな父親だったので、鉄砲玉のように家を一週間、二週間空けることもざらだった。
だが、カオルはさして寂《さび》しい想《おも》いをしたことがなかった。
家の近くには仲の良いご近所さんが山《やま》程《ほど》いてなにくれとなくカオルの面《めん》倒《どう》を見てくれたし、なにより双子の兄がいた。
カオルは常に優《やさ》しい微笑《ほほえ》みを浮かべている兄が大好きだった。柔和な外《がい》観《かん》に似合わず芯《しん》の強い兄を尊敬していた。
そんな兄の記《き》憶《おく》がある日、突然、ぼやける。
高らかな哄《こう》笑《しょう》と、意《い》識《しき》の断絶。父親が追いかけていた幾つかの事件に潜《ひそ》む、邪悪な存在により父親共々|襲《おそ》われたのだ。
そして氷《こおり》漬《づ》けの日々。
気がつけば時が流れ、自分の外観は全く変わらず、周りの環《かん》境《きょう》だけ変化して、自分は日本にいる。
気がつけばここにいる。
父親と暮らしていた頃《ころ》は知るよしのなかった自分の血の原点である川《かわ》平《ひら》家《け》と犬《いぬ》神《かみ》たちという奇妙な存在と共に。
そのことを考えると酷《ひど》く不《ふ》思《し》議《ぎ》な気がした。
事件の一部始終を聞かされた後、カオルはもちろん父親と共に兄を捜したいと願《ねが》い出た。しかし、それは当の父親からも、宗《そう》家《け》からも、そして啓《けい》太《た》からも反対された。
『お前が帰りを待っていないとお兄《にい》ちゃんが一人で帰ってきた場合、可哀《かわい》想《そう》だろう?』
と、諭《さと》され、結局、カオルはその言葉に従った。
その説得を額《がく》面《めん》通りに受け取ったからではない。
自分がタフな父親の足手まといになることが容易に理解出来たからだ。カオルは『我《わ》が儘《まま》言っちゃダメだ。我慢しよう』と、自分に言い聞かせ、宗家の勧めに従って、川平啓太の家に住まわせて貰《もら》っている。
いや、元々ここは兄の家だったから兄の家に間借りしている啓太の世話になっている、と言った方が正《せい》確《かく》なのだろうか。
一度、この家に残る兄の気配《けはい》を求めて、隅々まで歩き回ったことがある。大きな教会やおかしな植物で一杯の温室。
ログハウスで出来た食堂や、石造りの廊下。
結局、兄が暮らした証《あかし》というのはろくに発見出来なかったが、代わりに兄の犬神たちが残した生活の跡だけは山《やま》程《ほど》見つけることが出来た。
ダンベルやエキスパンダーなどのトレーニング器具。ゴージャスな服で一杯のワードローブ。難《むずか》しそうな本がぎっしりと並んだ本《ほん》棚《だな》。医務室みたいに人体標本や聴《ちょう》診《しん》器《き》が置かれた個室。その一つ一つを見ていると兄を慕《した》う犬神たちの個性豊かな生活が容易に思い浮かべられた。
そしてそのことがなぜかカオルの心を寂《さび》しくさせた。
カオルが廊下を歩いているとふよふよと向こうから色とりどりのてるてる坊主のような集団がやってきた。
ちょっと前からこの家に居《い》候《そうろう》している砂漠の精《せい》霊《れい》たちだった。
カオルはおずおずと会《え》釈《しゃく》する。
すると向こうが、
「%#$%、((()&$##、」
訳《わけ》の分からない言葉を発し、大《おお》仰《ぎょう》に頷《うなず》いた。それからまたふよふよと宙を漂って温室の方に去って行ってしまった。
一体、なにが楽しいのだか、彼らはそうやって日がな一日、屋《や》敷《しき》内を漂ってあっちこっちを見学して回っている。あるいは啓《けい》太《た》が居間にいる時などは一《いっ》緒《しょ》にテレビなどを興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに覗《のぞ》きこんでいた。
彼の周りをぷかぷか浮きながら、
「&#$&、(〜、%%!」
「)、%$$$&、$?」
などと訳《わけ》の分からない言葉でしきりに語り合ってるので、
「え〜い、邪《じゃ》魔《ま》!」
と、啓太がカーテンのように彼らを掻《か》き分けている光景を良く見ることがある。
カオルはさらに歩を進めて玄関の方に向かった。
途《と》中《ちゅう》、よちよちと向こうから歩いてくる河童《かっぱ》に出会った。カオルはぎこちない笑いを浮かべて手を振った。
「こんにちわ、カッパさん」
すると河童は
「くけ?」
と、カオルを見上げ、それから、
「くけけけけ」
と、両手を挙《あ》げると、一目散にカオルの脇《わき》を走り抜けてしまった。カオルは溜《ため》息《いき》をついた。
「嫌われちゃってるのかな、私?」
自分は寂《さび》しいんだ。
はっきりとそう自覚したのは食堂の一角を見たときのことだった。専用の台が置かれたその上には様々な兄の私物が並べてあった。愛用していた笹《ささ》の絵が描《か》かれたマグカップ。大切に使いこんである型の古い携帯電話。丁《てい》寧《ねい》な字で少女たちへの指示が書かれたメモ帳、ナイフで綺《き》麗《れい》に削ってある鉛筆の束、etc、etc。
そして写真立てに飾られたスナップ写真の数々。そこはさながら薫《かおる》の記念碑だった。彼がこの家で生きてきた証《あかし》がそこにはあった。そしてその上の壁《かべ》には模造紙が貼《は》られ、サインペンで兄の犬《いぬ》神《かみ》たちの強い決意表明が記《しる》されてあった。
『なんとしてもぜったいぜったい薫さまを取り戻す! たゆね』
『なんとなく世界の右っかわにいる気がしますよ、薫様 フラノ』
『連絡はまめに。各自、健《けん》康《こう》管理に気をつけてくれ。じっくりやろう ごきょうや』
『薫様に受けた御恩。今こそ返させていただきます いぐさ』
『もっちろん私らが薫様をいの一番に見つけるのさ! ……あと植物園の管理、ほんと、頼みますよ? 啓太様? いまり』
『しんぱいだな〜。私らが帰ってきたときに全部枯れたりしていたら本当に怒りますからね、啓《けい》太《た》様? さよか』
『がんばろう てんそう』
『薫《かおる》様のお陰で私たちは本当に幸せな犬《いぬ》神《かみ》でした。今度は私たちが薫様に幸せになって貰《もら》う番です。せんだん』
などなど。
そしてその下に小さな子供子供した字で、
『みんな帰りを待ってるよ! ともはね』
と、書かれてあった。
そこにはカオルの知らない兄の姿があった。犬神使いとして犬神たちに慕《した》われている兄の姿があった。
小さい頃《ころ》は兄が自分の代わりに世界に対して代弁してくれた。カオルは優《やさ》しい兄というフィルターを通して世界を見ていられた。
だけど、今その兄はおらず、自分が見たこともない少女たちが彼を追いかけている。
大好きだった兄はもう自分だけのものではない。
そのことが酷《ひど》く寂《さび》しく感じられた。
川《かわ》平《ひら》家《け》の血を引くニンゲンは基本的に寂しい、という感覚を持たないのだという。
確《たし》かに父親とか啓太を見ているとそういうネガティブな感情とは無《む》縁《えん》の陽気さを持っている。川平本家の祖母と同様、きっと無人島でも、地《じ》獄《ごく》の果てでも一人っきりで闊《かっ》達《たつ》と生きていくのだろう。そのことがカオルを余計に寂しくさせた。
川平家のニンゲンは決して寂しがらない。
だけど、自分は兄が恋しい。娘をおいて海外に気楽に出て行く父親が正直、恨《うら》めしい。啓太やようこたちの輪《わ》の中に入っていきたい。
その気持ちがより強く証明してしまう。
自分は川平家のファミリーには入っていない寂しがり。
おかしなおかしなジレンマ。
カオルはもの悲しい気分になって家を出た。振り返って一度ようこに断ってから行こうかと思ったが、あの明るい雰囲気の中にもう一度入っていく勇気もなく、うなだれるようにしょんぼりと洋館を後にした。
森の中の洋館から吉《きち》日《じつ》市《し》の中心部まで歩いて一時間以上かかった。それでもカオルはてくてくと森を抜け、市街地に向かった。
目的地は本屋。
もっと色々な本が読みたかった。
海外でも家庭内では普通に日本語を使っていたし、喋《しゃべ》ったり、聞いたりはほとんど不自由はなかったが、読み書きがまだ若《じゃっ》干《かん》苦《にが》手《て》だった。
編《へん》入《にゅう》した中学校でも国語の授業についていくのがけっこう大変だった。
それでもカオルは日本語の本を読むことが好きだった。縦《たて》書きの柔らかな文字が奏《かな》でるリズムは心地《ここち》良い、と思った。それゆえこうして自分でも読めそうな本を探しに時々|吉《きち》日《じつ》市《し》の商店街にやってくる。
市街地のかなりの部分が損《そん》壊《かい》してしまったが、吉日市は今もの凄《すご》い急ピッチで再建を続けていた。そのあまりの急《きゅう》激《げき》さに『鉄骨が夜、勝手に組み上がっている』、『ある日、建設員が仕事場に行ったらいつの間にか家が建っていた』という都市伝説まで囁《ささや》かれ始めているくらいだ。
活気がそこかしこに充ち満ちている。
「まいどうありがとうございます〜」
本屋で手芸の雑誌を一冊買って店員の挨《あい》拶《さつ》を背中で聞いてカオルは本屋を後にした。腕《うで》時《ど》計《けい》を見てみる。まだ午後二時半。お財布にはまだ少しお小《こ》遣《づか》いが残っていたのでカオルは近くのファーストフード店に入った。
コーラを単品で注文してストローで刺激のある冷たいジュースを飲みながら雑誌をぱらぱらと捲《めく》った。しばらくその行為に没頭する。
一通り雑誌を読み終えてふと顔を上げると今まで意《い》識《しき》していなかった店内のざわめきが耳に入ってきた。
休日だけあって店内はかなり混んでいた。
家族連れに、友達同士に、カップル。
「おい、正《しょう》太《た》郎《ろう》。ピクルスいらないのか?」
「うん、いらない。パパたべて〜」
「あのさ、だから、あのパンキョーのノートが欲しいんだよ。あの教授、出席は重視しないみたいだしさ、今からでも単位とれるんじゃないかって」
「おっけ〜。じゃあ、社会学の過去問と引き替えね?」
「ねえ、相《そう》くん。今度の連休、どうする? 本当に湖《みずうみ》いく?」
「ああ、郁《いく》美《み》にもルアーの使い方教えてやるよ。面《おも》白《しろ》いぞ〜、バス釣《つ》り」
みんな誰《だれ》かと話している。みんな誰かと笑い合っている。カオルは急に胸の中が寒々としていく感覚を味わっていた。
残りのコーラが酷《ひど》くぬるく感じられてそれ以上飲む気になれず、カオルはトレイを両手で持つと席を後にした。
独《ひと》りぼっちは寂《さび》しくて、でも、どうしていいか分からない。人のざわめきの中に気軽に入っていけない。楽しくなれない。
上手《うま》く笑えない。
カオルは雑誌を抱え、とぼとぼと道を歩く。
と。
その時、カオルの視界の中にわあわあ言っている声が聞こえた。顔を上げたカオルが思わず口元に手を当て、悲鳴を上げそうになる。
「動いちゃダメ! 動いちゃダメだよ!」
「危ないな、おい……」
買い物袋を提《さ》げたおばさんが叫んでいる。スーツ姿の男が眉《まゆ》をひそめて足を止めていた。車が高速で行《い》き交《か》う車道の中央。
そこで灰《はい》色《いろ》の痩《や》せた小犬がひゃんひゃん鳴きながら座りこんでいた。恐らく腰が抜けているのだろう。身体《からだ》全体が小刻みに震《ふる》え、後ろ足がひくんひくんと痙《けい》攣《れん》していた。
首《くび》輪《わ》をしている。恐らく飼い主の手からはぐれた小犬。
そう咄《とっ》嗟《さ》に見て取ったカオルの判断は早かった。
赤信号。
車の流れが止まる。
その瞬《しゅん》間《かん》を見|過《あやま》たず彼女は、
「お、おい!」
という誰《だれ》かの制止の声を振りきって前に向かって踏み出していた。ガードレールを一挙動で飛び越え、停止した車の間を鮮《あざ》やかなステップで切り抜け、小犬の許《もと》に迫る。
彼女自身気がついていなかったが。
その身のこなしはやや常人|離《ばな》れしていて、瞳《ひとみ》の琥《こ》珀《はく》色《いろ》が強く輝《かがや》いていた。
近づく。
手を伸ばす。
しかし、その一瞬前に小犬が身体を反転させて反対側に駆《か》け出していた。車の流れを潜《くぐ》り抜け、「ひゃんひゃん!」
吠《ほ》えながら路地に向かってかき消えた。
「待って!」
体勢を立て直したカオルは再び子犬を追いかけ始めた。
昔から犬は自分にとって特別な存在だった。
近くに同世代の子供があまりいない環《かん》境《きょう》で犬はいつも大事な友達だった。撫《な》でたり、遊んだりしてどれだけ無《ぶ》聊《りょう》を慰めて貰《もら》ったか分からない。犬ならばたとえ世界のどの犬だろうと放ってはおけなかった。あの小犬はまた車道に飛び出して、今度こそ車にひかれてしまうかも知れない。そんなことは耐えられなかった。
駆《か》ける。
駆けていく。声を頼りに。
ひゃんひゃんという鳴き声を頼りに。
ところが声は聞こえるのだが完全に見失ってしまう。カオルは冷や汗を掻《か》く。どこだ?
周囲を見回す。
どこだ?
そうしてまた駆け出す。
その時、どんと肩がぶつかってしまった。
「いってえなあ、おい!」
不《ふ》機《き》嫌《げん》な声が聞こえてきてカオルははっと顔を上げた。
「ご、ご、ご」
反射的に謝《あやま》ろうとするが声がつかえて上手《うま》く出ない。恐怖で身体《からだ》が強《こわ》ばっていた。見れば高校生くらいの男の子たちだった。
ガラの悪そうな不良。カオルが今まであまり見かけたことのないタイプの少年たちだった。
「お〜?」
そのうちの一人。
カオルがうっかりぶつかってしまったニキビ面《づら》の男の子がカオルの顔を覗《のぞ》きこむようにして言ってきた。
「なんだ、おまえ? 俺《おれ》はいてえつってんだぞ、こらあ? なめてっところすぞくらあ!」
カオルはカタカタと震《ふる》えながら、
「ご、ご、ご」
なんとか謝《しゃ》罪《ざい》の言葉を述べようとするがままならなかった。焦《あせ》る。日本語が上手く出てこなかった。小犬を探さなきゃならないのに。頭が白く飽《ほう》和《わ》してしまった。とんでもない相手にぶつかってしまった、と思った。彼らはまだニキビの残る不良のランキングで言ってしまえば「ちょっといきがってる」程度の少年たちなのだが、うぶなカオルには名うてのギャングのように恐ろしく見えた。
少年たちのうちの残りの二人がにやにや笑いながら、
「おいおい仁《じん》ちゃん許してやれよ〜」
「まったく仁ちゃん鬼だよな〜」
とか言っていた。要するに単なるからかいなのだ。いくら彼らだってカオルのような年《とし》端《は》もいかない少女相手に本気でメンチを切るわけがない。
ちょっと脅《おど》かして、遊んでいるだけ。
「ご、ごめんなさい!」
と、カオルが思いっきり頭を下げれば、
「ああ? 謝《あやま》ってすめば警《けい》察《さつ》いらねえんだよ!」
足を思いっきり踏みならして脅《おど》かしつけた。ほんの軽いお遊び。暇《ひま》つぶし。
しかし。
今回に限ってはそれが高くついた。
さらにカオルに近づき、カオルが頭を庇《かば》って悲鳴を上げようとしたまさにその時。
「なるほどなるほど。お前ら警察はいらないわけだな?」
半目になってずいっと彼の背《はい》後《ご》から現れたのは。
「ひゃんひゃん!」
なんと例の小犬を小《こ》脇《わき》に抱えた川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》だった。彼はリーダー格の肩にぬらあと反対側の腕をかけ、
「うちのカオルが迷《めい》惑《わく》をかけたな。なら、これからもっと心を込めて謝《しゃ》罪《ざい》するから是《ぜ》非《ひ》、一《いっ》緒《しょ》に来てくれ。具体的にいうとそこの路地裏|辺《あた》り」
「な、なんだ、てめえは?」
不良たちが一斉に驚《おどろ》きの声をかけた。彼らは全く啓太の気配《けはい》に気がつかなかった。そしてそれはカオルも同様で突然の啓太の出現に大きく息を呑《の》んでいる。
「こ、この! 離《はな》せ!」
不良が腕を振り回す。別の少年が彼の身体《からだ》を捕まえようとする。
「てんめえええ!!!」
しかし、落ち仙人たちの集う猛《めん》省《しぇん》蘭《らん》土《つ》≠ナ体術を厭《いや》と言うほど叩《たた》きこまれた啓《けい》太《た》にとって街の不良程度の裏を取るなど訳《わけ》はなかった。彼は向かってきた少年の脇《わき》をするりとすり抜け、その背中と襟《えり》首《くび》を手で押さえつけ、めんどくさそうに言う。
「お〜い、あんたらこいつらに謝《あやま》るの手伝ってくれよ。なんかうちのカオルがぶつかってしまったみたいでさ、一人で謝ってもなかなか許してくれないみたいなんだよ」
すると背《はい》後《ご》から、
「ほうほう、川《かわ》平《ひら》さんの保《ほ》護《ご》下《か》にある女性にちょっかいをかけるとは命知らずな……宜《よろ》しい。私も微力ながら詫《わ》びを入れるのをお手伝いしましょう」
まずシルクハットにマントを羽《は》織《お》った妙な男が現れた。にこやかだが、気味が悪いくらい気配《けはい》の全くしない紳士。そしてその後から、
「お〜、そりゃ、大変だ! わははははは!」
胸の前でかぽんかぽんと腕を交差させ、和服姿の中年男が続く。さらに、
「なに? なにか問題でも生じたのか?」
むっつらした胡《う》乱《ろん》な瞳《ひとみ》の男が現れる。最後にあくびをしながら野性的な印象の男が、
「なんだ? こいつら? なんだ? いかれたかっこうして……お前の敵か、ケイタ?」
にやりと笑う。
「なら、喰《く》ってやるか、ん?」
さらに別の異様な風《ふう》体《てい》の男たちが道のあちらこちらから次々と湧《わ》いて出る。少年たちは知らない。野性的な印象の男は吉《きち》日《じつ》市《し》を遊び半分で半《はん》壊《かい》させた最強最悪のケモノ大《だい》妖《よう》狐《こ》、胡乱な瞳の男はそれに匹敵する力を持った伝説の大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》赤《せき》道《どう》斎《さい》。
詳細は分からない。
だが、その並はずれたプレッシャーは感じ取れる。
尋《じん》常《じょう》でないことは粟《あわ》立《だ》つ肌が教えてくれる。
さらにぞくぞくと集まってくるのは川平啓太を英雄とも慕《した》う街のヘンタイたち。たちまち少年たちの周りに人垣を作った。
啓太は小犬の頭をよしよしと撫《な》でてから、にやっと笑って言う。
「じゃあ、みんなで心を込めて詫びを入れてくれるか?」
男たちが「おう!」と野太い声を上げた。ごつい拳《こぶし》を突き上げる。少年たちから青白い悲鳴が上がった。
ひゃんひゃんと小犬が嬉《うれ》しそうに吠《ほ》えた。
「あ、いや! やめて!」
「ゆるすゆるすから!」
「ゆるしてええええええええ!!! 警《けい》察《さつ》呼んで!」
しかし、男たちは、
「まあまあ、そう仰《おっしゃ》らず」
「心を込めてお詫《わ》びしますから!」
「そ〜れ、祭りじゃ、祭りじゃ!」
と、少年たちを軽やかにまるで荷物のように頭上に担ぎ上げると路地裏にぞろぞろと連れ去っていってしまった。
唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としているカオル。
そして、啓《けい》太《た》がぽりぽりと頭を掻《か》いて呟《つぶや》いた。
「たま〜に役に立つんだよな、あいつら」
暴《ぼう》力《りょく》的《てき》な行為は一切なかった。
恫《どう》喝《かつ》すらなかった。
ただごつい肉体の凄《すさ》まじく濃《こ》い£j衆たちが入れ替わり立ち替わり少年たちに謝《しゃ》罪《ざい》をしたのである。
「おう、ごめんな」
「すまんな」
「許してやってくれ」
手を握って涙を浮かべられたり、抱《ほう》擁《よう》されたり、髭《ひげ》をすりすりされたり。
「ふむ。まあ、許せ」
と、なぜだかズボンをかちゃかちゃ脱いで赤《せき》道《どう》斎《さい》。げらげら笑いながら大《だい》妖《よう》狐《こ》が、
「あ〜、悪いな。癪《しやく》だがあの坊主には世話になってるんで……わるかったな」
「すいません! すいません! 謝《あやま》りますう〜。メイドの服を着て、眼鏡《めがね》をかけて『ご主人様、ごめんなさあ〜いっ』って、うは! うは! うあははあはははは!」
「すまん。自《みずか》らにムチを打とう! そうだ! どうせなら君が俺《おれ》を打ってくれ! お詫びに君がイヤらしい俺を打ってくれ! ああああああ!!! 強く! 強く俺を打ってくれ!」
十《と》重《え》二十重《はたえ》に訳《わけ》の分からないやり方で謝られる。正直、ヤクザに長ドスで頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》をぴたぴたされるより遥《はる》かに怖い。少年たちは泣きながら必死で謝っていた。
「ごめんなさ〜い!」
恫喝より遥かに怖い謝罪があるのだと生まれて初めて理解していた。
一方。
啓太とカオルはヘンタイたちに後を任せて、小犬の飼い主を捜して回った。十五分もしないうちに小犬を探していたまだ年《とし》端《は》もいかない女の子とその母親と出会った。正《せい》確《かく》には向こうの方からこちらに気がついてきのだ。
小犬がひゃんひゃん鳴きながら少女の胸元に飛びこんだ。その間、母親の方が恐《きょう》縮《しゅく》しきったように啓《けい》太《た》にお礼を述べていた。
「もう人通りの多いところでリードを離《はな》すなよ」
「うん、ありがとうお兄《にい》ちゃん!」
啓太は屈託なく手を振って笑っていたが、カオルはじっと複雑な面《おも》持《も》ちでその姿を見やっていた。自分が捕まえきれなかった小犬が啓太にすっかり心を許してじゃれかかっていたのが酷《ひど》く印象に残っていた。
帰り道。
「あ、あのごめんなさい」
カオルは歩きながら啓太に向かって頭を下げた。啓太は苦笑して手を頭の後ろで組んだ。
「あ〜、気にするなって」
しかし「本当に申《もう》し訳《わけ》ない」という想《おも》いが彼女をうなだれさせる。自分が情《なさ》けなくて涙がじんわりとにじんできた。ふがいなかった。
そんなカオルの様《よう》子《す》を見て取って啓太が静かな声で言った。
「お前、俺《おれ》に迷《めい》惑《わく》かけた、って思ってるのか?」
「え?」
と、カオルが顔を上げた。啓太はにいっと笑う。
カオルの髪をくしゃくしゃと優《やさ》しく撫《な》でながら、
「お前は本当に良い子だな、カオル」
なぜだか。
その言葉だけで我慢していた涙がぽろりと溢《あふ》れ出てくる。カオルは慌《あわ》ててそれを指先で拭《ぬぐ》う。いったいどうしたんだろう?
その一言がたまならなく心のなにかを締《し》めつける。
啓太は淡々と続ける。
「でもな、婆《ばあ》ちゃんが言ってた。血が繋《つな》がってるとか、一《いっ》緒《しょ》の家に住んでいるのだけが家族の条件じゃないって。互いに迷惑かけあう≠フが本当の家族なんだって。良いときだけじゃない、悪いときも共に分かち合うのが家族だって。相手が辛《つら》いときは笑って一緒にいてやれって」
カオルは訳もなくただただ涙を流し続ける。
「本当はずっと辛かったんだろう? 大好きな兄がいなくなってて。全く違う環《かん》境《きょう》に放り出されて、時の流れに取り残されて。って当たり前だよな」
カオルはもう嗚《お》咽《えつ》を堪《こら》えることが出来ない。
啓太は優しくカオルを抱っこする。
「よしよし」
ようやく思い出した。
昔。
兄が今の啓《けい》太《た》と全く同じ台詞《せりふ》を自分にかけてくれた。
君は本当に良い子だね、カオル
兄も自分を優《やさ》しく抱《だ》き締《し》めてくれた。
でもね、甘えたいときは甘えていいんだよ
泣きながらカオルは叫んだ。
「お兄《にい》ちゃん! お兄ちゃん!」
ぎゅっと啓太を抱き締め返す。
街中だというのに、辺《あた》りに通行人が沢《たく》山《さん》いて奇異な目で自分たちを見ているというのになぜだかカオルは全く気にならなかった。
啓太は暖かな匂《にお》いがした。とってもとても懐《なつ》かしい匂い。
しばらくしてカオルは泣きやみ、はれぼったい涙目で啓太を見上げた。
「あのね、啓太。ならば私も」
ぐすんひっく。
「ん?」
「私も川《かわ》平《ひら》家《け》の、あなたの家族なのですか? 一《いっ》緒《しょ》にいていいんですか?」
啓太はあっけらかんと笑った。
「あったりまえだろう!」
くしゃくしゃと頭を撫《な》で、
「お前の兄貴が帰ってくるまでは俺《おれ》がお前の兄貴の代わりだよ」
「啓太?」
涙でぼやける視界の中。
「お兄ちゃん?」
カオルは初めて兄と啓太を重ね見ていた。
それから二人は並んで家路についた。啓太が自然と差し出す手を握ってカオルは話し出す。一人だと気分の滅《め》入《い》る薄《うす》暗《ぐら》い森の小道が二人だと、こうして手を繋《つな》いで貰《もら》ってるととても楽しい散策みたいな気分になってくる。
「啓太。あの、お願《ねが》いがあるのですけどいいですか?」
おずおずと窺《うかが》うようにそう尋《たず》ねる。
「おう?」
啓《けい》太《た》は気楽に鼻歌を歌いながら聞き返した。
「なんでも言ってみし」
「は、はい」
カオルは赤くなりながら、でも、嬉《うれ》しそうに言う。
「こ、これから」
早口で。
「啓太のことを啓太お兄《にい》ちゃんって呼んで良いですか?」
啓太は一《いっ》瞬《しゅん》きょとんとした。
それから破顔する。
「おう、なんでもいいぜ。好きに呼べ! 啓太様でも、そこのハンサムガイでも」
「そ、そうですか」
カオルは小さくこくこくと満足そうに頷《うなず》く。それからきゅうっと啓太の手を握る手に力を込めた。不《ふ》思《し》議《ぎ》なくらい温かい気持ちになれた。
もう寂《さび》しくはなかった。
かっぽ〜ん。
こ〜ん。
窓の外の鹿《しし》威《おど》しが閑《かん》雅《が》な音を立てている。川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》ははあっと息をつき、足を湯《ゆ》船《ぶね》の外に引っかけるちょっと自《じ》堕《だ》落《らく》な姿勢で薬草湯を堪《たん》能《のう》していた。
「いやあ、極楽極楽♪」
頭の上の白手ぬぐいをちょっと直してから、
「やっぱ風《ふ》呂《ろ》に入っている時くらい一人でゆっくりくつろぎたいもんだぜ」
確《たし》かに彼が今自宅としている川平|薫《かおる》の家にはとんでもなく贅《ぜい》沢《たく》な風呂が備えつけられているのだが、彼はイマイチそこでほっとすることが出来なかった。油《ゆ》断《だん》していると河童《かっぱ》やら訳《わけ》の分からない砂漠の精《せい》霊《れい》やら素っ裸のともはねやらフラノやら、背中流しに来るようこやら、時にはただで温泉を浴びに来る特命|霊《れい》的《てき》捜査官や渡《わた》り猫《ねこ》がひっきりなしに訪れてきた。
全然、くつろげない。
その点で川平本家のこの風呂は多少、手狭なモノの安心して湯船に浸《つ》かっていることが出来た。決して、
「啓太様〜! 遊びましょう!」
と、ともはねが乱入してくることも、
「啓太様! ほら、啓太様! ほらほら!」
と、フラノがなにが楽しいのだか電動水鉄砲でお湯を撃《う》ってくることも、
「くけ! くけ! くけ!」
無理に河童が湯船に入ろうとしてくることもない。
「こ、こら! お子様にしてもせめて前は隠《かく》せ!」
とか、
「や、やめ! ぷは! フラノ、やめ!」
とか、
「そんなに熱《あつ》いなら無理に入るなよ……」
と、半目で突っこむ必要もない。さらに加えて、
「お〜い、はけ!」
と、大声で叫べば、
「はい? お呼びになりましたか? 啓太様?」
と、片目を黒髪で隠した有能な犬《いぬ》神《かみ》がすうっと浴室の壁《かべ》を透過して傍《かたわ》らに現れた。啓太は満足そうに目を細め、言った。
「なあ、はけ。お風呂上がりに冷えたビール用意しててなあ」
実に高校生にあるまじき発言である。当然、はけは形の良い眉《まゆ》をひそめた。
「啓太様、しかし、それは」
だが、啓《けい》太《た》はその諫《かん》言《げん》に対してだだをこねるように手足をばたつかせた。
「やだやだ〜! 俺《おれ》はビール飲みたいんだ! 湯上がりのぷはあがやりたいんだ!」
はけは苦笑した。啓太は一転、浴室の縁《へり》に手をかけ、子《こ》猫《ねこ》が甘えるようなきらきらした目で懇《こん》願《がん》する。
「なあ、いいだろう? はけ。俺だってさ、手弁当でこうやってここまで来てる訳《わけ》だしさ、そういう役得あってもよくね?」
はけはちょっと考えこむ。彼にとって啓太はいつまでも手のかかる、だが可愛《かわい》い存在なのだ。ふっと微笑《ほほえ》むと、
「……分かりました。でも、主《あるじ》には内《ない》緒《しょ》ですよ?」
そう言ってまた壁《かべ》の中に透過して消えた。啓太が歓声を上げた。
「やっほ〜! びーるびーる!」
ぱしゃぱしゃっと飛沫《しぶき》が跳《は》ね上がった。
少なくともこの時までは啓太は幸せだった。
その彼が五分後。ひくひくと震《ふる》えていることになる。
原因は、
「ふむ。悪くないな。ところで川《かわ》平《ひら》啓太。もう少し詰めて貰《もら》えるとたいへん助かる」
と、呟《つぶや》いて啓太の入っている浴《よく》槽《そう》に無《む》理《り》矢《や》理《り》体格の良い身体《からだ》を押しこんでくるのは赤《せき》道《どう》斎《さい》であり、
「よ〜、ケイタ。水くさいだろう? お前、風《ふ》呂《ろ》に行くなら行くでオレも誘《さそ》えよ!」
と、反対側からさらに湯《ゆ》船《ぶね》に入ってくる大《だい》妖《よう》狐《こ》であり、彼の目の前で、
「おふろおふろおふろ!」
と、カタコト手足を鳴らして踊っている木彫りの人形だった。
「だああ〜〜〜、お前らうっとうしい!!!!」
啓太の叫びが木《こ》霊《だま》し、かぽ〜んとまた一度|鹿《しし》威《おど》しが鳴った。
「仕方なかろう? 我《われ》らとて風呂には浸《つ》かりたいのだから」
赤道斎が胡《う》乱《ろん》な半目を向けてそう言ってくる。大妖狐がばしゃばしゃっとお湯を顔にかけながら、
「ふあ〜、いい湯だ」
と、のんきな声を上げ、木彫りの人形がカタコト鏡《かがみ》の前で股《こ》間《かん》を突き出す妙なポーズを取っている。さらに同じく浴室の扉《とびら》から入ってきた特命|霊《れい》的《てき》捜査官が下半身をタオルで隠《かく》しながら気の毒そうな顔で言った。
「まあ、そういうことだから諦《あきら》めてくれ、川平」
啓太はばっしゃりと顔をお湯につけた。
吉《きち》日《じつ》市《し》を遊び半分で崩《ほう》壊《かい》させた伝説の魔《ま》物《もの》大《だい》妖《よう》狐《こ》。
それに匹敵する力を持つ魔導師|赤《せき》道《どう》斎《さい》は現在、川《かわ》平《ひら》本家に寄宿していて、特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》及び川平|宗《そう》家《け》の監《かん》督《とく》を受け、更生プログラムに従事していた。瓦《が》礫《れき》の山と化した吉日市が信じられない程《ほど》速いスピードで復興を遂《と》げている陰《かげ》にはこの二人の力があった。
真夜中、人知れず市街地に赴《おもむ》くとその魔力と霊力で建物を復元、もしくは工事の作業過程を促進させていたのである。
だから、鉄骨が空を飛び、家が勝手に建っていくという都市伝説は実は事実なのであった。啓《けい》太《た》は時々、仮名史郎と共にその作業に立ち会って、いつも脇《わき》道《みち》に逸《そ》れがちな大妖狐と赤道斎を叱《しか》ったり、フォローしたりしていた。
邪星に取りこまれている間に力の大半を奪われたとはいえ、今の大妖狐も、赤道斎もその気になれば啓太や仮名史郎など鎧《がい》袖《しゅう》一《いっ》触《しょく》で打ち倒すことが出来る。
だが、彼らは今までのところ比較的、従順に言うことを聞いていた。大妖狐はようこと、赤道斎は仮名史郎と交《か》わした約定がそれぞれ足かせになっていた。
ようこは強く言ったのである。
『いい? 今度、暴《あば》れたら本当にキライになるからね? これから生まれてくる孫だって抱かせて上げないし、ほんと〜のほんと〜に親子の縁《えん》を切るからね?』
大妖狐はおろおろと答えた。
『そ、そんな! 老い先短いオレのたった一つの楽しみが!』
『わ、か、った?』
『……はい』
しゅ〜んとして大妖狐。その脇《わき》で啓太が冷や汗を掻《か》いていたのは言うまでもない。一方、赤道斎の方は仮名史郎が慎重に相手の言《げん》質《ち》を取って契約を結んだ。
『今、大妖狐がこちらについている以上、あなたには一切勝ち目はありません。総掛かりでやれば恐らく大妖狐抜きでも今のあなたを倒すことは充分可能でしょう。でも、赤道斎。我《われ》らはそれでもあなたとあえて共存の道を選《えら》びたいのです』
『随分と恩着せがましい物の言い様だな、我《わ》が子孫よ。ついでにお前たちがアレを倒さねば私は助からなかった、とでも付け加えるのか?』
『ええ。借りを作ったまま、というのはあなたの流《りゅう》儀《ぎ》ではないでしょう?』
『ふむ』
赤道斎は顎《あご》に手を当てしばし考えこむ。それから、
『一つ条件がある。それをそちらが飲むのなら、私がお前たちに借りを返す≠ワでお前たちと行動を共にするのもやぶさかではない』
『条件?』
『クサンチッペと〈大殺界〉の再《さい》構《こう》築《ちく》を許可することだ』
『それは……』
『案ずるな。〈大殺界〉も、クサンチッペもお前たちを害するような力は一切つけない。これは魔《ま》導《どう》師《し》として絶対に約束しよう』
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》も考えこむ。それから一言。
『では、私の方からも条件を一つ』
『なんだ?』
と、胡《う》乱《ろん》な目で赤《せき》道《どう》斎《さい》。仮名史郎はこほんと咳《せき》払《ばら》いしてから、
『これから断固として下半身を露《ろ》出《しゅつ》させないで頂きたい!』
ふっと赤道斎が笑った。
そういう訳《わけ》で、大《だい》妖《よう》狐《こ》と赤道斎は微妙ながらも啓《けい》太《た》たちと行動を共にする間柄になっているのである。こうやって互いに裸になって風《ふ》呂《ろ》に入ったりもする。
狭い湯《ゆ》船《ぶね》に肩を押しつけ合って。
「だあ〜〜! だから、なんだって無《む》理《り》矢《や》理《り》、一《いっ》緒《しょ》に入ってくるんだよ!」
啓太が喚《わめ》く程《ほど》に。
しかし、大妖狐はマイペースに「うい〜」と満足そうに湯船でくつろいでいるし、赤道斎は仮名史郎に背中を流させて、
「うむ、うむ」
と、頷《うなず》いている。どいつもこいつも不必要に体格が良く、目障りなくらいに筋肉がついている。川《かわ》平《ひら》本家の浴室は確《たし》かに湯船、洗い場共に一般家庭のモノより遥《はる》かに広いが、これだけガラの大きな男たちがいると肌色ばかり目について。
なんというか……。
非常に腹が立つ。ついでにどういう訳だか、クサンチッペが男たちの股《こ》間《かん》を順番に覗《のぞ》きこんでいって最後に啓太のところで止まって、
「YOU LOSE!」
と、妙に達者な英語でびしっと宣告する。
「うるせえ!」
啓太はばちっと木彫り人形の頭を叩《たた》く。それから、
「ああ、やだやだ。俺《おれ》はもう上がらせて貰《もら》うからな!」
と、股間を白手ぬぐいで隠《かく》して立ち上がった。そこへ大妖狐が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに声をかける。
「なんだよ? ケイタ? もう上がるのか?」
啓太は即答した。
「ったりまえだろ! 大体、何が哀《かな》しくてこんなところで男四人、詰まってなきゃならないんだよ?!」
「だが、男同士の裸の付き合いというのもかなり大事だぞ?」
と、大まじめに赤《せき》道《どう》斎《さい》が口を添える。啓《けい》太《た》が一言の元に切って捨てた。
「俺《おれ》はそういう付き合いはしないようにしているの!」
と、その時。
「わ〜ったよ。ならば、ここが広ければ良いんだな?」
大《だい》妖《よう》狐《こ》が妙に茶《ちゃ》目《め》っ気《け》たっぷりにウインクしてそう言った。
「じゃあ、広くしてやるよ。待ってな」
と、彼は簡《かん》単《たん》に立ち上がって、
「おら、ここ! でっかくなりやがれ!」
手を振るう。その瞬《しゅん》間《かん》、信じられないことが起きた。がくんと浴室の縮《しゅく》尺《しゃく》がいきなり伸びたのだ。床《ゆか》も天《てん》井《じょう》も壁《かべ》もゴムのように伸びるとたちまち十畳|程《ほど》だった浴室が百畳程のだだっ広い空間に変《へん》貌《ぼう》する。啓太も仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》も目を丸くしていた。
にやっと笑って大《だい》妖《よう》狐《こ》。
「ほう」
ただ一人それを目を細めて冷静に見やった赤《せき》道《どう》斎《さい》が、
「霊《れい》力《りょく》で空間の比率を無《む》理《り》矢《や》理《り》変えたか? 相変わらずでたらめだな……」
「おっきい、おっきい!」
木彫りの人形がかたこと足を踏み鳴らして喜ぶ。「すげ」と啓太が感心して中を見回している。仮名史郎だけが複《ふく》雑《ざつ》な表情をしていた。
「大妖狐。無益な霊力の行使は……」
「ん〜」
大妖狐は片耳を小指でほじりながら、
「昔ほどの本《ほん》調《ちょう》子《し》じゃねえけどさ、これくらいなら問題ないだろ? シロウ。あの街直す程度は全く問題ないぜ」
そう言ってちろっとなぜか赤道斎の方を見やって笑った。
「まあ、この程度は古今東西、無敵の大妖狐さまにとっては朝飯前つうことだな」
「ほお」
赤道斎の目がきらんと冷たく光った。その間、啓太が、
「じゃあ、俺はこの辺で」
と、機《き》嫌《げん》良く浴室から出ようとする。その腕を仮名史郎がはっしと掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んだ。イヤそうに振り返る啓太に対してくいくいと赤道斎を指さしてみせる。
赤道斎もまた立ち上がって、
「まあ、だが、思想がやや安易だな。何もかもただ大きくすれば良いというモノではない。物事はすべからく美しくなければな」
ぱちっと指を鳴らした。
するとそのとたん、浴室が素晴《すば》らしくゴージャスなモノに変わった。床《ゆか》には金《こん》色《じき》の玉《たま》石《いし》が敷《し》き詰められ、湯《ゆ》船《ぶね》はクリスタル製に代わり、不細工な狛《こま》犬《いぬ》の口が盛大なお湯をどばどば流す。
かなり偏《かたよ》った趣《しゅ》味《み》の風《ふ》呂《ろ》。
壁《かべ》にはマッチョがポーズをとった絵画がかけられ、奥の方にはなぜかサボテンが植えられ、重たそうな花《か》瓶《びん》があちらこちらに飾られている。
「どうだ? 随分と美しくなっただろう?」
無表情に赤《せき》道《どう》斎《さい》がそう言った。ついで、
「まあ、この程度は大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》たる我《われ》にとっては朝飯前の朝立ち、と言ったところなのだがな」
ふんと腕を組んで大《だい》妖《よう》狐《こ》を見やる。大妖狐がにやりと笑った。赤道斎はあくまでふり○んで堂々と立っている。二人の筋骨隆々の身体《からだ》をお湯がしたたり落ちる。暖かい浴室内になぜかひんやりと冷たい空気が流れ始めた。大妖狐が嬉《ろれ》しそうにつうと片手を上げ、赤道斎が一歩前傾の姿勢を取った。仮名史郎の目配せを受け、啓《けい》太《た》がまず大きな声を出した。
「だあ! おまえら、またつまんねえ意地の張り合いやめろよ!」
二人の間に立ってぶんぶんと手を振る。
赤道斎は顔を背《そむ》け、大妖狐はにやにや笑ったままだった。
表面上は仲良く行動を共にしている。
と、言っても積《せき》年《ねん》の宿敵同士である。そう簡《かん》単《たん》に緊《きん》張《ちょう》関係はなくならないようだった。というより悪戯《いたずら》好きな大《だい》妖《よう》狐《こ》が定期的に寡《か》黙《もく》な赤《せき》道《どう》斎《さい》に対してちょっかいをかけている、というのが正しい見方なのかも知れない。
ようこの脅《おど》かしが効《き》いているので大《おお》暴《あば》れは出来ないが、遊び相手は常に欲しているらしい。今回も風《ふ》呂《ろ》に行く赤道斎に大妖狐が面《おも》白《しろ》がって便乗。なにか起こるのではないかと心配した仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が同道したのがこの混雑の原因らしい。
そしてその二人の小競り合いを常に仲裁するのが啓《けい》太《た》の役目だった。
大妖狐、赤道斎共に一目置く彼がいれば大《たい》概《がい》の場合はなんとかなった。
だが。
今回ばかりは間の悪いことが起こった。
クサンチッペ。
ある意味で、吉《きち》日《じつ》市《し》を崩《ほう》壊《かい》させた張本人であり、現在は大人《おとな》しくて良い子≠ノなるために一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》勉強をしている魔《ま》導《どう》人形が、
「ん〜」
きょときょとと赤道斎と大妖狐の股《こ》間《かん》を見つめ、
「ちょっとだけますたのかち!」
と、カタカタ足を鳴らしてしまったのである。「げ」と青ざめる仮名史郎。一《いっ》瞬《しゅん》で部屋の空気が凍《こお》りついた。
いや〜な感じだった。
「ふ」
赤道斎が勝ち誇って余裕たっぷりで腕を組む。
「まあ、それは一《いち》目《もく》瞭《りょう》然《ぜん》だがな」
明らかにムッとした表情の大妖狐が、
「おい! なに勝ったつもりでいるんだよ! そんなボケ人形の言うことなんて……いや、ってか、そもそも物事は大きさじゃねえんだろう、赤道斎!?」
「ん?」
赤道斎が蔑《さげす》むような目線で大妖狐を見下ろす。
「貴様のはそれに加えて美しくもない」
「なら、そもそもてめえのは美しいのかよ!! この右曲がり野郎!」
啓太が耳を覆《おお》う。嘆く。
『お〜、いやだいやだ。こんな会話聞きたくない!』
必死で首を振って現実|逃《とう》避《ひ》しようとする。しかし、その間に事態は進んでいく。裸の大妖狐と赤《せき》道《どう》斎《さい》がじりじりっと緊《きん》張《ちょう》感《かん》を高めていく。
普《ふ》段《だん》は游び半分の大《だい》妖《よう》狐《こ》がちょっとマジになっている。対して今回に限っては赤道斎の方が余裕ありげに見えた。
「まあ、どう取《と》り繕《つくろ》うと貴様の負けだがな、大妖狐」
「やっかましい、このどヘンタイ!」
大妖狐がぼっと炎を片手に浮かばせる。赤道斎もにやりと笑って青白い光を片手に溜《た》めた。啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が互いに頷《うなず》き合い、
「まて! ちょっと待てって!」
「頭を冷やしなさい、赤道斎!」
それぞれ啓太が大妖狐、仮名史郎が赤道斎の前に飛び出る。
手を広げた。
裸で。しかし、その身を挺《てい》した阻止行動も空しく、大妖狐、赤道斎共に手に持った炎と光の球を投げ合う。
「たわ!」
「うおわあ!!!」
啓太が仰《の》け反《ぞ》るように、仮名史郎が横合いに飛んだ瞬《しゅん》間《かん》。
ぶつかり合った二つの力が中央で炸裂し、凄《すさ》まじい閃《せん》光《こう》が巻き起こった。爆《ばく》風《ふう》。
「ぎゃああ!! あっちあっち!」
髪に引火してたまらずお風《ふ》呂《ろ》に飛びこむ啓太。仮名史郎が咳《せ》きこみながら叫んだ。
「二人とも! 落ち着け! いい加減、無益なことは止《や》めたまえ!」
だが。
「はは、無《む》駄《だ》だぜ、シロウ!」
「そうだな。たまにはこういう息抜きもなければ身体《からだ》が腐ってしまうからな!」
大妖狐が目をランランと輝《かがや》かせ、宙に舞《ま》い上がり、赤道斎が両足を踏ん張り、力を溜《た》める。古《いにしえ》より幾多となく戦い、その度《たび》に辺《あた》りに甚《じん》大《だい》な被害を与えた伝説の魔《ま》物《もの》と魔導師がぶつかり合う。風呂場で。
裸で。
なんのかんの言っても赤道斎と戦うのは楽しくて仕方ないのだろう。
大妖狐が笑った。
「はっはあ! 踊れ、稲《いな》妻《ずま》!」
眼下に向けて落《らく》雷《らい》を落とす。仮名史郎が目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》き、逃げる。赤道斎もまた不敵な笑《え》みを浮かべ、手を広げる。
「この程度」
ばっちんととんでもない音がして赤道斎の眼前で雷《かみなり》が消失する。ただその衝《しょう》撃《げき》までは緩《かん》和《わ》されず横合いにいた木彫りの人形が水平に吹《ふ》っ飛ぶ。
「くそ! てめえら! いい加減にしやが! ぶ!」
啓《けい》太《た》が湯《ゆ》船《ぶね》からざばっと立ち上がって吠《ほ》えたが吹っ飛んできた木彫りの人形にぶつかって再度もんどり打ってお湯に転げ落ちる。
今度は仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が怒った。
「おい! 君たち! これは完全なる約束違反だぞ! 自《じ》重《ちょう》したまえ!」
「ちがうね」
天《てん》井《じょう》近くで楽しそうに大《だい》妖《よう》狐《こ》が言った。
「ここでいくらどんぱちやっても外には影《えい》響《きょう》ねえからこれはようこが言う悪いこと≠ノはならねえんだよ! モノだって一切|壊《こわ》さないしな!」
「全くその通りだな」
と、赤《せき》道《どう》斎《さい》も頷《うなず》く。
「我《われ》はお前たちとは敵対しない約束をしたがこの者とはその限りではない」
詭《き》弁《べん》である。
「まあ、軽い運動のようなモノだと思って貰《もら》いたい」
要するに二人とも口実をつけて暴《あば》れたいだけなのである。言葉を失っている仮名史郎の隣《となり》に啓太が駆《か》け寄り、
「仮名さん、こいつら口で言ってもわからねえよ! 力ずくで止めないと!」
「そ、そうだな」
仮名史郎が頷き、二人同時に腰元に手をやる。しかし、
「げ」
「しまった……」
二人とも今現在素っ裸で主武装であるカエルの消しゴムやエンジェルブレイドがない。それがなくてはろくな攻《こう》撃《げき》も出来ない。
その間、大妖狐が、
「じゃ、本格的に行くぜ? 赤道斎」
「能書きはよい、大妖狐。我はいつでも受けて立つ」
危ない状況になってきている。
啓太と仮名史郎は顔を見合わせ、猛《もう》然《ぜん》とダッシュした。とりあえずこの浴室の外に出ようと扉《とびら》に向かったのである。
ところが。
「ん〜〜〜〜〜〜!」
「こ、この!」
扉がどうやっても開かない。それを横目で見ていた大妖狐が、
「いや、無理だぞ? この場所は今、屋《や》敷《しき》とは因果的に切《き》り離《はな》しているから。力じゃどうやってもあかねえよ」
と、ナチュラルにそう言う。啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が青くなる。こんな状況下で、荒れ狂う暴《ぼう》風《ふう》雨《う》のような怪物じみた二人が狭い空間でぶつかり合うのに真っ裸でいなければならない。
冗《じょう》談《だん》ではない!
啓太と仮名史郎が焦《あせ》る。その間、
「ほうら、大《だい》妖《よう》狐《こ》! よそ見が過ぎるぞ!」
赤《せき》道《どう》斎《さい》がふわっと片手を挙《あ》げると床《ゆか》に敷《し》き詰めてあった握り拳《こぶし》大《だい》の金の玉が次々に浮かび上がった。そして次の瞬《しゅん》間《かん》、一斉に、さながらビリヤードの玉のように互いにぶつかり合いながら大妖狐に向かって縦《じゅう》横《おう》無《む》尽《じん》に襲《おそ》いかかった。
「ほ!?」
大妖狐は一《いっ》瞬《しゅん》、目を奪われた。
赤道斎の攻《こう》撃《げき》パターンは大体知っていたがこんな術は初めてだった。そのため反応が若《じゃっ》干《かん》遅れてしまった。
「いでいでいでででで!」
かんかんかん!
派《は》手《で》な音を立ててぶつかり合う金の玉が大妖狐を押し包む。
「いてえええええええええええ!!!」
素っ裸にそんなモノを喰《く》らえば当然、痛いに決まっている。
「ふは! いいざまだな、大妖狐! 我《われ》は予《あらかじ》めこの時のことを想定していたのだ、抜かったな!」
下で赤道斎が勝ち誇った。そばで木彫りの人形が同じように腰元に手を当て腰をカクカク動かした。同時に大妖狐が叫ぶ。
「だあああああああああ!!!! しゃらくせえ!」
ばっと力任せに両手を振るう。
すると金《こん》色《じき》の玉が吹《ふ》っ飛び、今度は室内のあちらこちらに跳《は》ね返って、
「うわ! ぎゃ、ぎゃああああああああああ!!!」
「ば、ばか! 大妖狐、人を巻き込むな!」
啓太や仮名史郎も跳《ちょう》弾《だん》を浴びて悲鳴を上げる。さらに腕を組んで余裕をかましていた赤道斎の頭にも横合いからすこ〜んと当たった。
よろめく赤道斎。
「ぬう。ならば」
人差し指をおでこにつけ目をつむる。それからかっと目を見開き、
『確《かく》たる印に向かって飛んでゆけ、黄《おう》金《ごん》の玉』
びっとその人差し指を大《だい》妖《よう》狐《こ》に向かって突きつけた。瞬《しゅん》時《じ》。
「しゅくち!」
大妖狐が空間転移して湯《ゆ》船《ぶね》の上に現れた。代わりに赤《せき》道《どう》斎《さい》が指を突きつけた天《てん》井《じょう》に黒いバッテンが現れ、
「うっほ! あぶねえあぶねえ!」
そのバッテンに向かって猛《もう》烈《れつ》な勢いで金《こん》色《じき》の玉が殺到していった。まるでターゲットを見つけた猟《りょう》犬《けん》さながらだった。
ごんごんと激《はげ》しい音を立てて金色の玉はぶつかり合い、ひしめき合い、とうとう天井をごっそりとえぐり取る。ごとっと天井の一部が落下してきて、床《ゆか》で粉《ふん》砕《さい》。
砂煙を上げた。
ぞっとしている仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》と啓《けい》太《た》。
「ますた、つかまえたよ!」
その時、いつの間にか大妖狐の後ろに回りこんでいた木彫りの人形が声を上げた。見ればがっちりと後ろから大妖狐を羽《は》交《が》い締《じ》めにしている。
「おろ?」
大妖狐がきょとんと振り返っている。
「よくやった、クサンチッペ!」
赤道斎が胡《う》乱《ろん》な瞳《ひとみ》で労《ねぎら》った。
『確《かく》たる印に向かって飛んでゆけ、黄《おう》金《ごん》の玉』
びっと指を突きつける。大妖狐がにやっと笑ってまた転移した。代わりにその場に残ったクサンチッペの胸に大きなバッテンマークが浮かび上がった。
次の瞬間。
「ぶらぶばばばわああらはらあ!」
四方八方から金色の玉がクサンチッペに殺到してきて激《げき》突《とつ》した。まるで踊っているようにきりきりと舞《ま》うクサンチッペ。
目を回している。
「お、おのれ」
珍しく感情を露《あら》わにして赤道斎が怒った。対して大妖狐は彼をからかうように思いっきり「い〜」をした。
「にがさん!」
赤道斎が呪《じゅ》文《もん》と共に指を突きつける。しかし、また僅《きん》差《さ》で大妖狐はそれをかわした。代わりに別の場所にバッテンマークが浮かび上がる。
そこに殺到する金色の玉。
ついで彼の魔《ま》力《りょく》がどんどんと過剰供給されていって、他《ほか》にも千《せん》両《りょう》箱《ばこ》や珊《さん》瑚《ご》の枝。はては絵画から花《か》瓶《びん》まで壁《かべ》から剥[#「剥」はunicode525D]《は》がれてそのバッテンに向かってもの凄《すご》い勢いですっ飛んでいく。
「く! この!」
だが、啓《けい》太《た》とて黙《だま》って見ていた訳《わけ》ではなかった。
「好き勝手やるのも大《たい》概《がい》にしやがれ!」
思いっきり助走をつけると赤《せき》道《どう》斎《さい》の横っ腹にドロップキックをかました。
「ぶべ!」
赤道斎が万歳するような格《かっ》好《こう》で横に吹《ふ》っ飛ぶ。床《ゆか》を滑る。同時に仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が赤道斎を押さえこもうと走った。
「邪《じゃ》魔《ま》をするな」
むくっと上半身を起こし、あくまで大《だい》妖《よう》狐《こ》を狙《ねら》おうとする赤道斎。しかし、仮名史郎が彼の手を押さえこんだため、中《ちゅう》途《と》半《はん》端《ぱ》な位置で指が伸びて。
『確《かく》たる印に向かって飛んでゆけ、黄《おう》金《ごん》の……あ』
「え?」
もの凄《すご》いところにバッテンマークが刻みつけられてしまった。
そう。すなわち。啓太の股《こ》間《かん》。
「う、うそ?」
青ざめ自分の下半身を見下ろす啓太に、
「に、にげろ! 川《かわ》平《ひら》! 逃げるんだ!」
蒼《そう》白《はく》になって仮名史郎が叫んだ。啓太が恐る恐る顔を上げると、
「ぎゃ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
浴室内にあるありとあらゆるモノが一斉に啓太の股間めがけて殺到してきた。
「は、はぶ! おぐ!」
まず金の球。
「で! いで! いでででで!」
かんこんきんかんと連続して当たってくる。
「いて、いてえ! いてええええええええ!!!」
だが、悶《もん》絶《ぜつ》している暇《ひま》はない。
「いで! あで! いででででえ!」
股間をガードし、懸《けん》命《めい》に珍妙な格《かっ》好《こう》で啓太は浴室を走る。さらに重量級の狛《こま》犬《いぬ》が飛んでくる。間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》転がって避《よ》ける。
だが、他《ほか》の小物が避けきれず当たる。
「は、ほ、ほぐ! あぐ!」
腰が砕《くだ》けそうになるほど痛い!
痛い!
「いで! いで! いでえええ!!」
情《なさ》け容《よう》赦《しゃ》なく突き刺さってくるサボテン。
「つうか、とげがいてえ! 刺さってる! サボテン刺さってる!」
さらに金の玉。玉。玉。
「く、くだける! くだけちまう!」
恐怖に顔が歪《ゆが》んでいる啓《けい》太《た》。仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が叫ぶ。
「にげろ! にげるんだ、川《かわ》平《ひら》あああああああああ!」
もはやこのままだと啓太の将来が取り返しのつかないことになってしまう。ふらふらになりながらも命からがら走り出す啓太。時折、サボテンがお尻《しり》の方から突き刺さってきて、飛《と》び跳《は》ねて悲鳴を上げる。
「いてえええええええええええええええ!!!」
おまけに意《い》識《しき》を失ってぐったりしたクサンチッペがまるでモノのようにずるずると床《ゆか》を滑りながら啓太を追いかけている。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああ!!!」
振り返って大《おお》慌《あわ》てで速度を上げる啓太。大《だい》妖《よう》狐《こ》の方はそれを空から見て無責任に大笑いしていた。
だが、その態度は高くついた。
「捉《とら》えた」
床に立つ赤《せき》道《どう》斎《さい》がにやりと笑った。はっと気がついた時には遅かった。自分の顔に見事なバッテンマークが浮かんでいる。
『確《かく》たる印に向かって飛んでゆけ、黄《おう》金《ごん》の玉』
次の瞬《しゅん》間《かん》、がんがんがんがんがんと殺到してきた金の玉の直《ちょく》撃《げき》を顔面に受けて、大妖狐はきゅうっと目を回す。そのまま、ぼとっと床に落下した。
赤道斎が高らかに笑い声を上げた。
「あはははははははははははははは!!! バカめ! バカめ! 最後の最後で勝つのはこの大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》たる我《われ》なのだ!」
落ちてきた大妖狐をげしげし足で踏みにじる。
「ど〜れ、敗者の証《あかし》として全身の毛という毛を剃《そ》ってやろうか!」
「いい加減にしろ!」
ぐしゃん。
後頭部に重たい花《か》瓶《びん》の一撃を受けてぐるんと赤《せき》道《どう》斎《さい》が白目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いて前向きに倒れこんだ。荒い息をついた仮名史郎がその花瓶を持っていた。
「ふう〜」
彼は持っていた花瓶が手のひらでかき消えるのを認めて溜《ため》息《いき》をついた。見れば部屋中を乱《らん》舞《ぶ》していた金の玉やサボテンや狛《こま》犬《いぬ》が拭《ぬぐ》い取ったように消え去っていった。恐らく造り主たる赤《せき》道《どう》斎《さい》が意識を失った瞬《しゅん》間《かん》、存在する力を失ったのだろう。同時に浴室の内装も元に戻り、どんどんと縮《しゅく》尺《しゃく》が小さくなっていく。
「なんとか収まったようだな」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は溜《ため》息《いき》をつく。
どうやら大《だい》妖《よう》狐《こ》と赤道斎という桁《けた》外《はず》れの怪物を完全に調《ちょう》教《きょう》するにはまだまだ時間がかかりそうだった。それもただ自分たちの物差しだけで考えるのではなく、彼らの性格や特性をきちんと考《こう》慮《りょ》に入れて、だ。
定期的に、人に迷《めい》惑《わく》をかけない形でガス抜きもしてやる必要があるのかもしれない。
「君もご苦労だったな」
仮名史郎はしくしく泣きながらしゃがみこんでいる啓《けい》太《た》に向かって声をかけた。
「もうお婿《むこ》にいけない〜もうお婿にいけない〜」
彼はしきりにそう言っていた。
「本当に」
仮名史郎が冷や汗を掻《か》いて言う。
「ご苦労様だったな」
全《すべ》てが万事解決したかに見えた。だが、しかし。
「あ、あれ?」
と、啓太が不安そうに顔を上げる。仮名史郎もとうに気がついていた。
「ちょ、ちょっと狭くなりすぎじゃ」
「ま、まさか」
周囲を見回す。どんどんと浴室が小さくなっていく。元々は十畳|程《ほど》だったのだがそれが度を超えて。
今はもう六畳半くらいしかない。
しかも止まらない。
「う、うわ! 天《てん》井《じょう》まで低く! お、おい、こら! 大妖狐起きろ!」
「赤道斎! 赤道斎!」
二人は必死で昏《こん》倒《とう》している怪物二匹を揺《ゆ》すり起こそうとする。
「うわ! わああああ!!!」
だが、起きない。仮名史郎が蒼《そう》白《はく》な顔を上げて。
「た、たいへんだ、川《かわ》平《ひら》。どうしよう?」
「は? どうしたの?」
と、啓太。仮名史郎、泣き笑いの表情で。
「赤道斎が息をしていない……」
数秒の沈《ちん》黙《もく》。その後、啓《けい》太《た》の叫び声。
「な、なにいいいいいいいいいいいいいい!?」
四畳半。
それだけ狭いスペースにがたいの良い男四人+木彫りの人形。
「おお、狭い! 狭い!」
「おい、こら! 赤《せき》道《どう》斎《さい》! お前、こんな時だけ普通の人にみたいに簡《かん》単《たん》に死んでるんじゃねえよ!」
「と、とにかく心《しん》臓《ぞう》マッサージを!」
えいえいっと赤道斎の胸部を押す仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》。かくんかくんと揺《ゆ》れる赤道斎。
三畳。
もうあり得ないくらい男たちが密着し合っている。変なところに大変イヤなモノが当たったり、触れていたりする。
「ぐ! 苦しい!」
「す、すね毛が! すね毛が口にい!!」
「川《かわ》平《ひら》! 人工呼吸だ!」
こんがらかった姿勢で仮名史郎が叫ぶ。断固として拒否する啓太。
「イヤだ! 絶対にイヤだ!」
「位置的に私ではもう無理なのだ! 頼む!」
もうどうしようもないくらい狭い空間に男たちがひしめき合っている。裸体で。しかも、具合良く、というか悪《あく》魔《ま》的《てき》状況というか赤道斎の無表情な顔が自動的に啓太の目の前にせり上がってきている。
必死で顔を背《そむ》ける啓太。
「死ぬ! このままでは本当に死んでしまうぞ、川平!」
でも、全力で顔を反対側に逸《そ》らす啓太。目をつむり、脂《あぶら》汗《あせ》を流している。
「うおおおおおおおおお!!!! ベンジャミン!!!」
仮名史郎が誰《だれ》かに今《こん》生《じょう》の別れを告《つ》げている。
啓太は思う。
自分は生きなければならない。
喩《たと》え。
そう。喩えそれが死ぬより辛《つら》くても。
思いっきり息を吸いこんで。
目を見開いて。
そして。
しばらく経《た》ってあまりにも啓《けい》太《た》たちの帰りが遅いのを不《ふ》審《しん》に思ったはけが浴室に向かったところ、男四人が黙《だま》って放心したように天《てん》井《じょう》を見上げていたという。
なにがあったかは……。
聞けなかったのだそうだ。
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》が寝こんでしまった。
なんでも川平本家で世にもおぞましい目に遭《あ》ったのだそうだ。
本人は頑《がん》として真相を語らないが、それはほんの小一時間でげっそりと頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》がやつれ、目の下にクマが出来る程《ほど》の衝《しょう》撃《げき》であったらしい。
啓太は家に帰って来るなり布《ふ》団《とん》を引《ひ》っ被《かぶ》ってうんうん唸《うな》って、時々、思い出したように「唇《くちびる》が〜、厚ぼったい唇が〜」としくしくと泣いていた。
大変だ。実に可哀《かわい》想《そう》な状態であった。ついでに怪《け》我《が》も負っているらしい。これまた周囲の者には深く語らなかったが、そこもだいぶ痛いようだった。
「いてえよう、将来が不安なほどいてえよう」
と、哀《かな》しそうにしくしく泣いていた。実に気の毒だった。
可哀想だった。
だが。
そう。
言ってしまえば、こと川平啓太≠ニいう少年に関しては、その程度のことは実は比較的良くあることなのでもあった。
以前もマッチョなふんどし男たちに全身を舐《な》め回されたことがあった。
スクール水着で街中を走り回ったこともあるし、全財産を失って橋の下に住んでいたこともある。他《ほか》にも赤ん坊になって下水道に流されたことや、素っ裸で街の中に放置されて留置場送りになったこと等々。
なんやかやで一ヶ月に一《いっ》遍《ぺん》くらいは普通の人間だったら二度と立ち直れなくなるくらいの災《さい》難《なん》に見《み》舞《ま》われるのが川平啓太という少年の常なのであった。
だから、ようこもともはねも啓太がふらふらになって帰ってきた時、
『ああ、またいつも通り酷《ひど》い目に遭ったんだな』
と、思って、
『も〜、ケイタったらしょうがないんだから。わたしがいっぱいいっぱい慰《なぐさ》めてあげる♪』
『よし! じゃあ、あたしが精一杯お世話してさしあげよう!』
と、二人決意したのである。
ところが……。
「こ、これはどういうこと!」
「あうあうあう〜」
その前に実は先客がいた。
川平啓太の従妹《いとこ》、カオルであった。
「け、けいたお兄《にい》ちゃん。本当に大丈夫なのですか?」
彼女は心配そうに啓太の布団に寄り添っていた。正座。軽く啓太の布団を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んでいる。かなり初《うい》々《うい》しい感じだ。
ようこやともはねのように啓《けい》太《た》が酷《ひど》い目に遭《あ》うのにまだ慣《な》れていない。
本当に本当に不安そう。
啓太もびっくりしたように、
「あ、いや、だいじょうぶ、だいじょうぶ」
身を起こした。カオルは自分でも意《い》識《しき》しないまま啓太の顔にぐいっと自分の顔を近づけて、
「あ、あの、本当になにがあったんですか、啓太お兄《にい》ちゃん?」
と、問《と》い糾《ただ》した。啓太は困《こん》惑《わく》して答える。
「あ〜、う〜ん」
「よかったら話してください!」
ずずいと顔をさらに寄せてくるカオルの肩を押し返し、啓太は苦笑した。
「いや、実はさ」
川《かわ》平《ひら》本家で起こったことを語って聞かせた。素っ裸での乱《らん》闘《とう》から股《こ》間《かん》への連続的な打《だ》撃《げき》の話。啓太としてはようこにいつも話しているような調《ちょう》子《し》で喋《しゃべ》っている。
『あははは、ケイタ、本当に災《さい》難《なん》だったねえ〜』
と、言って軽く笑い飛ばして欲しいのである。
ところがカオルはまず自分が啓太に顔を近づけ過ぎていたことに気がつき赤くなり、さらに男の裸の話で身を小さくし、股間話で真《ま》っ赤《か》になった。
恥《は》じらってる。恥じらっている。
それでも、その恥ずかしさを押し殺して、
「そ、それで啓太お兄ちゃん。病院には行かなくてもいいんですか?」
と、聞いてきた。むしろ啓太の方が調子が狂った。
「あ、いや、別にまあそこまで酷いダメージじゃないから」
「で、で、でもお」
カオルはもじもじする。
「お、男の人にとって大事な、その大事な場所だと思いますしお医者さまに見て貰《もら》った方が」
啓太はそこで、
「いやいや、この程度でいちいち医者に行ってたら俺《おれ》の人生、半分以上医者通いだよ」
いったん冗《じょう》談《だん》にして茶化《ちゃか》しかけたがカオルが本気で自分の身体《からだ》を案じてくれているらしいことに気がつき、
「ん〜」
優《やさ》しい目になった。
「いや。マジで大丈夫だって。本当に本当に平気。心配してくれてありがとうな、カオル!」
そう言って彼は従妹《いとこ》の髪をくしゃくしゃ撫《な》でた。カオルはさらにぽんと顔を上気させた。正座したまま、カチンと硬直する。
「あ、い、い、い、いえいえそんな!」
でも、啓《けい》太《た》がどうやら本当に元気らしいことを知って少しほっとしていた。啓太は、
「へへへ」
と、カオルの髪をさらに両手でくしゃくしゃにする。困《こん》惑《わく》しつつも、ちょっと幸せそうなカオル。撫《な》でて貰《もら》いやすいよう頭をついっと差し出している。
とても良い雰囲気だった。
同時にようこは、
「ううう」
と、どろんと出した尻尾《しっぽ》の先端をがじがじ噛[#「噛」はunicode5699]《かじ》っていた。一方、ともはねは同じく自分の尻尾をくるくると猛《もう》烈《れつ》な勢いで追いかけている。
共にストレスからくる逃《とう》避《ひ》的《てき》行動だ。
と、その時、背《はい》後《ご》からのんびりとしたフラノの声が聞こえてきた。
「あっれえ、なんだか啓太様とカオル様、随分と仲良しこよしになってますねえ〜」
見れば彼女は湯飲みを載せたお盆を持っていた。フラノはさらに啓太たちの方に向かいながら明るく声をかけた。
「啓太様! ご所《しょ》望《もう》の温かいお茶《らや》ですよ! お茶《ちゃ》請《う》けにおはぎも持ってきましたからフラノもお話の仲間に入れてください!」
そしてフラノはててててっと歩いていくとそのまま啓太とカオルの間にちょこんと座ってにこにこと一方的に話し出した。
なんだかとっても和《なご》やかな光景だった。
啓太は苦笑しつつもフラノの話を聞いているし、カオルも義理堅く正座したままうんうんと頷《うなず》いている。ようことともはねは顔を見合わせた。自分たちがいないのに啓太の周りに良い感じに女の子が集まっている。
「あ、ありえないわ!」
「あうあうあうあうあう〜〜〜〜〜!!!」
ようこ、ともはねはちょっとしたパニックに襲《おそ》われていた。
今まで啓太に関してこんな心配などしたことがなかった。彼はいつでもようことともはねだけのものだった。彼がどんなに頑《がん》張《ば》っても他《ほか》の女の子は見向きもしなかったし、むしろ啓太が露《ろ》骨《こつ》な態度に出れば出る程《ほど》可《か》及《きゅう》的《てき》速《すみ》やかに女の子は彼の許《もと》から離《はな》れていった。
だから、ようこは啓太を独占出来たし、ともはねもまたようことは違ったポジションで啓太に甘えることが出来た。
二人の立ち位置は微妙に違っていたが、だからこそ互いにちゃんと居《い》心地《ごこち》の良い関係を構成していたのである。
だが。
最近、明らかにその安《あん》泰《たい》ぶりが崩《くず》れてきた。
最大の原因は……。
「あ、赤くてなってるわ!」
ようこがき〜と悔《くや》しげにどこからか取り出したハンカチを噛[#「噛」はunicode5699]《か》み締《し》め引っ張った。目の前でカオルが啓太の褒《ほ》め言葉を聞いて頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を染《そ》め、上《うわ》目《め》遣《づか》いになっていた。
そのちょっと潤《うる》んだ瞳《ひとみ》は恋する少女を思わせた。
ようこの観《かん》察《さつ》ではカオルはようこの位置に割りこんでくるように見えていた。一方、ともはねもともはねなりに気分を害していた。
「うう〜、啓《けい》太《た》様に撫《な》でて貰《もら》ってる」
カオルがくすぐったそうに首をすくめる仕《し》草《ぐさ》。それはいつも自分が、自分だけがやって貰っていることだった。
ともはねは普《ふ》段《だん》あまり感じることのない感情に囚《とら》われている。
「ようこ、あたし、ちょっと黒い気分……」
う〜と唇《くちびる》を尖《とが》らせる。ようこは少し驚《おどろ》いたようにともはねを見下ろす。
「ほ〜、あんたもいっちょまえに」
彼女はそこで年長者らしく顎《あご》に手を当てもっともらしく考えた。
「お子様も少しは成長すると言うことか。まあ、でも、お子様はあくまでお子様同士、お子様リーグで競いあっていて欲しいのよね。ここはやっぱり」
彼女はうんと頷《うなず》く。
「ちゃんと確《たし》かめないとね、女は女同士」
それからてててっと歩いていくと驚いているカオルの手をいきなり引っ張り上げた。
「な、なんですか、ようこ?」
「いいからいいから!」
そう言ってようこはにっと笑って反対側の手を振ると、
「カオルはちょっと借りてくね〜」
と、呆《あっ》気《け》にとられている啓太に向かってそう告《つ》げた。ともはねもその後をすてててっと小走りでついていく。二人はびっくりしているカオルを半ば抱え上げるようにして部屋から出て行った。フラノが突然声を出して笑った。
「あははははは、面《おも》白《しろ》そうです! フラノも行ってみますね、啓太様!」
そして彼女もふらふらと踊るような足取りで部屋を後にした。
後には、
「な、なんなんだ?」
あくまで事態についていけていない啓《けい》太《た》だけがただ一人残った。
「くきゃあ〜」とか「くかかかかか!」とか謎《なぞ》の生物の鳴き声が聞こえてくる川《かわ》平《ひら》薫《かおる》のお風《ふ》呂《ろ》場《ば》。今、そこで四人の女の子がお湯に浸《つ》かっていた。
ようこ、ともはね。それに事態が分からずひたすらおろおろと困っているカオル。脳天気に笑っているフラノの計四人である。
ようことともはねが互いに真剣な表情で見つめ合った。
「では、これより女は女同士! 第一回立ち位置判定を行います。『恋人』OR『妹』それが問題です!」
ともはねだけが大まじめにぱちぱちと拍手をする。フラノがけらけらと笑った。カオルがたまりかねたようにようこに声をかけた。
「あ、あのようこ。これはいったいなんなの?」
半ば拉《ら》致《ち》されるように部屋から引っ張り出されて洋服を強引に剥[#「剥」はunicode525D]《は》ぎ取られ、無《む》理《り》矢《や》理《り》お風呂に入れられて、犬《いぬ》神《かみ》たちに囲まれているのである。
カオルとしては訳《わけ》が分からない。
だが、ようこは、
「しゃらっぷ!」
と、カオルを制し、ずずいと顔を近づける。
「まず。大前提。なによりカオル、あんたケイタのこと好き?」
その質問にカオルは驚《おどろ》いた表情になった。だが、他《ほか》の犬《いぬ》神《かみ》たちまでも興《きょう》味《み》津《しん》々《しん》と自分を見つめていることに気がつき、頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を朱《しゅ》に染《そ》め、困ったようにもじもじとしてから、
「そ、それは……その、えっと啓《けい》太《た》お兄《にい》ちゃんはとっても優《やさ》しいですし、頼りになりますし」
と、呟《つぶや》き出す。
だが、ようこはそんなことは一切聞いていなかった。代わりにいきなりぶっ飛んだ質問を一つかました。
「では、肝《かん》心《じん》の問い一! あなたはケイタとえっちがしたい?」
カオルは思わずぶっと噴《ふ》いた。あまりといえばあまりな質問だった。しかし、不幸なことにその無体ぶりに突っこむニンゲンはこの場に誰《だれ》もいなかった。啓太がいれば「お、お前、いきなりなんてこと聞いているんだ!」とでも叫んだのかも知れないが、ただ大まじめな顔のようこが無言で顔を近づけてくる。
その圧力に押されて、カオルはじりじりと後退していった。だが、背中が浴《よく》槽《そう》にぶつかりそれ以上、動けなくなる。どうあっても質問には答えねばならないようだった。そう覚悟を決めたカオルは一気に首元まで真《ま》っ赤《か》になった。
俯《うつむ》き、顔の半分を水面下に沈めて、ふるふると首を振る。それが恥《は》ずかしがり屋なカオルの精一杯だった。
そのとたんようこが嬉《うれ》しそうな声を上げた。
「妹ポイント+1! まあ、それはそうよね〜」
それに対してともはねが「う〜」と唸《うな》った。今度は彼女が勢いこんでカオルに尋《たず》ねた。
「カオル様! 啓太様とお話ししているときにどきどきしますか?」
「あ、あの」
「しますか? しませんか?」
ついっと顔を近づけてともはねが再度真剣に尋ねた。カオルはまた真っ赤になり、蚊《か》の鳴くような声で、
「う、うん。ちょっと……だけ」
と、答える。すると今度はともはねがわ〜いと両手を挙《あ》げた。
「恋人ポイント+1!」
ぱっしゃぱしゃと調《ちょう》子《し》に乗ってお湯を周囲に跳《は》ねとばす。同時にようこが複《ふく》雑《ざつ》そうな表情で親指の爪《つめ》を噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだ。
ともはねがにこっと笑って付け加えた。
「あたしは啓太様とお話ししていると、ただ嬉しいだけですよ!」
二人がやっているのはカオルの立ち位置判定だった。カオルが啓太に対して一体どういう感情を保《も》って接しているかで、二人の今後の生活がかなり変わってくる。もしカオルが啓《けい》太《た》に対して恋心を抱いているならようこが、あくまで妹のように慕《した》っているだけならとともはねがそれぞれ最強のライバルを迎えることになる。
だから、二人とも必死だった。
勢いこんで再びカオルに質問を浴びせようとする。と、その時。
「あ〜〜、ようこちゃん、ともはねちゃん! そういう質問だったらぜひぜひこのフラノにもしてあげてください!」
突然、嬉《うれ》しそうにフラノが立ち上がって叫んだ。豊満な上半身をお湯から突き出したまま、ちちっと指を振った。
「こう見えてもフラノだって十八禁キャラなんですから♪ なにがどうなるかなんていつだって分かりませんよ?」
「な〜によ?」
ようこが胡《う》乱《ろん》げにフラノを振り返った。
「あんたもケイタのこと好きなの?」
「はい、今はとってもお気に入りですよ。啓太様はとっても面《おも》白《しろ》いです!」
彼女はなぜかフラダンスを踊りながら喋《しゃべ》った。
「啓太様はほんと不《ふ》思《し》議《ぎ》な方ですよね〜。あれだけちゃらんぽらんでいい加減な方なのに、人より弱い者。はぐれた者。寂《さび》しい人。異端な方々にはすごくお優《やさ》しい。そしてお強い。フラノはこう見えてしっかり外れ者ですから啓太様に心《こころ》惹《ひ》かれるのも無理はないのです」
フラノはそこでちょっと溜《ため》息《いき》をついた。
「でも、ですねえ。残念ながらフラノはもうそういうことはしないのです。もう百年フラノが若かったら分かりませんけどね」
「……どういうこと?」
ようこが声のトーンを落として尋《たず》ねる。珍しくフラノは年《とし》経《へ》た犬《いぬ》神《かみ》の表情で微笑《ほほえ》む。
「ようこちゃん。それはとっても楽しい道なのです。暖かくて、素晴《すば》らしくて思い出深く、最高に幸せだったのですけど、でも、もう一度歩こうとは決して思わない道なのです。たった一度だけでよい道なのです」
その言葉にようこが考えこむ。カオルだけが不《ふ》思《し》議《ぎ》そうにようことフラノの顔を交互に見つめている。フラノがなにかまじめなことを言おうとしているのは分かるが、彼女のしゃべり方が相変わらず曖《あい》昧《まい》過ぎて良く分からない。
年若いともはねもフラノが正《せい》確《かく》になにを言っているのかまでは理解出来なかったが、朧《おぼろ》気《げ》ながらのイメージだけは多少|掴[#「掴」はunicode6451]《つか》めた。
彼女もまた幾《いく》歳《とし》月《つき》を生きる犬神なのであった。
そういえば。
思い出していた。『フラノ』というちょっと不《ふ》思《し》議《ぎ》な名前はフラノが一番最初に仕えた主人につけてもらったのだそうだ。
その主人とフラノの間になにがあったのかは知らない。だけど。
「あんたはその思い出をずっと大事に持ってるの?」
ようこが問いかける。フラノは両手を万歳のように挙《あ》げた。
「はい! このフラノの名前と共に。フラノが朽《く》ち果てるその時まで」
「そっか」
ようこもまた微笑《ほほえ》んだ。その時。
「ちょ、っと!」
がさがさっと茂みを掻《か》き分ける音と共に、少女の怒った声が聞こえてきた。
「かえしなさい! 私の帽子!」
ようこがびっくりしたように皆の顔を見回した。他《ほか》の少女たちも聞き覚えのない声だったので、皆、怪《け》訝《げん》そうな表情をしている。
すると彼女らの目の前を、
「きゃきゃきゃきゃ!」
ピンク色の帽子を小《こ》脇《わき》に抱えた小《こ》猿《ざる》が走り過ぎていった。続いてその後を、
「待ちなさいっての! こら! この泥棒猿!」
息切れして一人の少女が追いかけてきた。
猿は、
「きゃきゃきゃ!」
と、帽子を頭に被《かぶ》ってまた嬉《うれ》しそうに向かい側の藪《やぶ》に飛びこんでしまった。
「もう!」
と、少女が地《じ》団《だん》駄《だ》を踏む。それからようやく自分を呆《あっ》気《け》にとられた様《よう》子《す》で見つめている少女たちの存在に気がつき、
「あ」
と、目を丸くする。それから急に笑い出した。
「な〜んだ。ここ、お風《ふ》呂《ろ》場《ば》になっていたのね。随分と面《おも》白《しろ》い作りになってるじゃない。さすがあなたたちね、ようこ」
そう言って親しげな様子でようこに向かって呼びかけてくる。
「玄関の場所が良く分からなかったからこっちに来ちゃったの。そうしたらあのお猿さんに帽子を取られちゃって」
ようこはびっくりしたままだ。
「え? えっと? 誰《だれ》?」
少女はまたくすくすと笑った。それから悪戯《いたずら》っぼく、
「分からない?」
すうっとスカートの裾《すそ》を摘《つま》んで持ち上げて見せた。
「まあ、無理もないか。ちょっと背が大きくなったからね」
見たところ十五、六|歳《さい》。ようこと同じようなスタイルではつらつとした笑顔《えがお》。ただ、服装だけがちょっとぞろっとしていて、長いスカートにブラウスがアンティークドールめいていた。顔立ちもどことなく洋風だ。
「あ、あれ?」
ようこは目を細め、記《き》憶《おく》の糸を手《た》繰《ぐ》ってみる。
どこかでこの少女を見た覚えがある。声も聞き覚えがあった。
「『早く死にたい。もう私のことは放っておいて』」
突然、少女がそんなことを言い出した。ようこの顔がみるみる驚《きょう》愕《がく》に強《こわ》張《ば》っていく。
それから、
「あ、あんた!」
心《しん》底《そこ》びっくりしたように、
「新《しん》堂《どう》ケイ!」
思いっきり叫んだ。その少女。
かつて死神に魅《み》入《い》られて、全《すべ》てを諦《あきら》めていた新堂ケイがにっと笑って答えた。
「ご名答。本当に久しぶりね、ようこ」
「あ、あ、えええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜???」
ようこは立ち上がり、ただ震《ふる》える指をケイに突きつけた。顔立ちは変わってない。だが、その身体《からだ》つきが全く違っていた。
前のケイはともはねとそんなに変わらない背の高さだったのである。
「まあ、時間がまた元通り私にも流れるようになった、ってところからしら?」
ケイはそう言って茶《ちゃ》目《め》っぽく肩をすくめて見せた。他《ほか》の少女たちは成り行きについて行けず、ただようことケイを見比べているばかりである。
ようこは混乱した頭を必死で整《せい》理《り》して、
「ん? 待って。あんたそもそもなんでここにいるの?」
するとその質問でケイが初めて動《どう》揺《よう》を示した。
「あ、え〜とさ、なんというかその」
彼女は慌《あわ》てて言《い》い募《つの》る。
「あ、そうそう! お礼に来たのよ、お礼!」
「お礼〜?」
ようこがいぶかしげに目を細める。ケイはぱたぱたと手を振った。
「そ、そう。つまりね、最近ようやく死神の呪《じゅ》縛《ばく》も解け始めて、ちょっとお金が入るようになったからね、啓《けい》太《た》くんとあなたにお礼をしに……啓太くんはここにはいないの?」
ケイはきょろきょろと辺《あた》りを見回す。ようこはじいっと疑わしげにケイを見ている。ケイはその視《し》線《せん》に気がつき、なぜか急に赤くなって、
「な、なによ!? お礼よ! お礼に来ることのなにがいけないの!?」
「わたしなんにも言ってない……」
「そ、そう?」
ケイはじりじりと踵《きびす》を返し、
「ま、まあ。とにかく私は啓太くんに用があるから。また」
そう言って手を振ってその場を立ち去ろうとした。とたんにようこが叫んだ。
「怪《あや》しい!」
同時にともはねとフラノがお湯の中から立ち上がっていた。
「ケイ! あんた一《いっ》緒《しょ》にお風《ふ》呂《ろ》入っていきなさい!」
三人でケイを羽《は》交《が》い締《じ》めにして、
「きゃ! ちょ、ちょっと何するの!」
「女は女同士! お風呂の中で尋《じん》問《もん》た〜〜〜〜〜〜いむ!」
みんなでよってたかってケイの服を脱がしにかかる。びっくりしているカオル。大まじめな顔のともはねと笑っているフラノ。
ようこは叫ぶ。
「全く! ケイタ、最近|油《ゆ》断《だん》ならないんだから!」
木《こ》霊《だま》するケイの悲鳴。
少女たちの歓声。
そしてそれをちょっと遠くの場所から見ていた執事のセバスチャンがそっと溜《ため》息《いき》をついた。
「全く……相変わらず不器用なお嬢《じょう》様《さま》だ」
喧《けん》噪《そう》から少し離《はな》れて、がらんとだだっ広い食堂に彼は一人っきりだった。少女たちが出て行った後、ここにやってきた。電気も点《つ》けず、星明かりだけを頼りに手《て》酌《じゃく》でくいっと洋酒をマグカップから呷《あお》る。
「へへ、やっぱ上物だな、これ。はけからお見《み》舞《ま》い代わりに貰《もら》ったんだけどな」
彼。
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》はそう言ってにっと笑った。
「そういやさ、お前とはあんまり酒を飲んだことなかったな。仮《かり》名《な》さんとかようことは何回かあるんだけど。婆《ばあ》ちゃんもないみたいだし」
彼は円卓の上に直接座っていた。左足を横に投げ出し、右足を立てて抱えこむような姿勢を取っている。
目の前にはビーフジャーキーやらポップコーンなどのおつまみが散乱していた。啓太は角《かく》瓶《びん》から洋酒をマグカップに注《つ》ぎ、また口に含んだ。
「お前、飲めないってことはないだろうな。川平の血を引いてるわけだし、酒は弱いってことないよな」
彼の声は低く、小さい。
はっきりと喋《しゃべ》ってはいるが、すぐに部屋全体を覆《おお》う闇《やみ》に紛《まぎ》れ、消え入ってしまう。彼の口元から足《あし》下《もと》辺《あた》りだけが青白く浮かび上がって見えた。
その口元がまたにいっと笑《え》みを浮かべた。
「そういやさ、カオルの奴《やつ》がさ。ん〜、まあ、相変わらずちょっとこの呼び方に違和感あるけどさ、お前の妹がさ、ようやくちょっと話してくれるようになったよ。俺《おれ》のこと『お兄《にい》ちゃん』だってさ。正直、嬉《うれ》しいよ」
啓太はくくっと肩をすくめる。
「俺は一人っ子だったからな。そういうのはなんだか嬉しいよ。知ってるか? お前が昔、初めて川平本家にやって来たときやっぱり俺は嬉しかったんだぜ? 弟分が出来たってな。将《しょう》棋《ぎ》もしたな、色々と遊びを教えてやったな。あんまり変な遊びを教えたからでも、婆ちゃんに怒られたな、はは、懐《なつ》かしいな」
啓太はまたくいっと杯《さかずき》を呷った。
「はあ」
溜《ため》息《いき》をつく。
「ともはねは元気だぞ? あいつはきっとすげえ大物になるよ。いつか俺なんかが扱えないくらいとんでもない犬《いぬ》神《かみ》にな。だから、お前も早く」
首を振る。
「カオルもさあ、すげえ良い子だよ。本当に川平家のちゃらんぽらんな部分が出なくて良かったよ。ちゃんと学校も行ってるし、最近は友達も出来たみたいだ。そうそう。あいつすげえ勉強できるって知ってたか? 国語だって成《せい》績《せき》いいんだ。本も良く読むし。全く俺《おれ》もまあ、あいつの前であんまアホばっか出来ないからガラにもなく勉強しているよ。はは」
雲が流れて、部屋が完全な闇《やみ》に覆《おお》われた。
だが、啓《けい》太《た》の淡々とした、だが暖かみのある声は変わらない。
「カオルはようこの手伝いもしているよ。そうそう。ようこ。お前、昔ようこのこと心配してたみたいだな? 今はも〜完全だ。ぜったいぜったい大丈夫。すっごく俺によくしてくれて、優《やさ》しい心を持ってくれた。俺の一番、可愛《かわい》い奴《やつ》だ」
また雲が流れ、月明かりが彼を照らし出した。啓太は再びアルコールを口に含む。
「フラノ。帰ってきたぞ? あいつ、相変わらず面《おも》白《しろ》い奴《やつ》だな〜。なんか知らないけど変なてるてる坊主たちと一《いっ》緒《しょ》だ。お前のところの犬《いぬ》神《かみ》たちは本当に賢《かしこ》くて、良い奴らだな。お前を元に戻す手はずを着々と進めてるみたいだ。なあ」
と、啓太は呼びかけた。
「今、お前はどこにいるのかな? 俺にはお前の声が聞こえないよ」
啓太はきゅっと拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めた。
「なあ、温室はちゃんと管理しているぞ。風《ふ》呂《ろ》にはいつだって入れる。家も綺《き》麗《れい》にしてある。なあ、薫《かおる》」
そう言って彼は目の前の棚《たな》に置かれた川《かわ》平《ひら》薫の写真に向かって呼びかけた。
「しょうがなかったんだよな、お前は。俺には言えなかったんだよな。誰《だれ》にも言えなかったんだよな。その辛《つら》かった過去。どうしようもない呪《じゅ》縛《ばく》。まったく俺はアホだよな。なんにも大事なことに気がつかず、お前の前でへらへら脳天気に笑ってばかりいた」
淡々と。
だけど、どうしようもない激《はげ》しさをうちに秘めて。
「悔《くや》しかったさ」
彼は再び繰《く》り返した。
ぐうっとまたもう一度、拳《こぶし》を握る。
「お前が叫びを押し殺しちゃってたから。自分一人で、たった一人で全部抱え込んじゃってたから。なでしこちゃんも、きっと。声が聞こえなかったんだ」
『助けてって叫び声が』
彼はぽつりと呟《つぶや》く。
「なあ、俺はずっと悔しかったんだ。どうにもしてやれなかったことが。お前やなでしこちゃんをなんとかしてやれなかったことが。死ぬほど。ずっとずっと」
だからさあ。
と、彼は震《ふる》える声で呟く。
「今度こそ」
彼はとんと円卓の上から降りる。笑っていた。
「今度こそどこにいてもいい。どんな形でも良い。思いっきり、魂の底からお前のその叫び声を上げろ」
そうしたら。
「世界中のどこにいても必ずお前を助けてやる!」
数分後。
啓《けい》太《た》はぎゃいぎゃいと騒《さわ》がしく自分を呼ぶ女の子たちの声を聞き、苦笑する。すっかり元のちゃらんぽらんで明るい啓太の表情に戻って軽く片手を上げ、背を向ける。
そして、食堂を出て行く間《ま》際《ぎわ》に一言。
「薫《かおる》。早く帰ってこい。この家はとっても暖かいぞ!」
あとがき[#「あとがき」は太字] [#小見出し]
今回は『いぬかみっ!』を書き上げた土台みたいな体《たい》験《けん》談《だん》を。実は僕、大学時代はよくバックパックで海外に行ってました。懐《なつ》かしいな〜。一泊百八十円の宿とか泊まったり、キャンプ場に泊まって野宿を繰《く》り返したりしてました。
ギリシャとかは一月近くうろうろしてたんですよ。
で、観《かん》光《こう》ガイドを見ていたらすごく興《きょう》味《み》を引かれる記述がありました。
『ヌーディストビーチ』
そう。女性も男性も、老いも若きもすっぽんぽんになる海水浴場のことです。海外にはところどころあるんですよ、そういうところ。しかも幸いなことに必ずしも全員すっぱらかになる必要はなく、水着着用でも全然OKらしいのです。僕、行きました。作家志望者としてなんでも体験しておくことはのちの創作に必ずプラス……嘘《うそ》です。
半分以上、えっちな期待で行きました。
と、ところがありり?
女性があんまりいません。というか、いない。あれ?
おとこ。ばっかり?
砂浜に点在しているヌードな方々は男ばかりでした。皆、日焼けして、筋骨隆々な身体《からだ》をサラした白人男性ばかり。
で、そこで本当に偶然、これは自分でもびっくりしたのですが、アテネのドミトリーで同室になったルーマニア人の男性とそこでばったり再会したのですよ。で、
「なにやってるんだ、おまえ?」
と、怪《け》訝《げん》そうに尋《たず》ねられ、事の顛[#「顛」はunicode985A]《てん》末《まつ》を話したところ、
「バカだな〜。ここはヌーディストビーチはヌーディストビーチでも男性専用……まあ、その手の人たちが来るところだぞ」
と、笑われました。
「うえい!」
大《おお》慌《あわ》て、平《ひら》謝《あやま》りで帰りました。というか、あなたはそっちの人だったんだ!?
恥《は》ずかしいやらなにやら。こういった経験が色々|積《つ》み重なって、自分の中で熟《じゅく》成《せい》されて『いぬかみっ!』になっている気がします。閑話休題。いよいよ、『いぬかみっ!』も十巻の大台ですよ。足かけ四年、ひとえに読んでくださった皆様のお陰でここまでこれました。
ありがとうございました!
また今回もお世話になりました、サトーさん、若《わか》月《つき》さんには深く御礼を申し上げます。
[#地から1字上げ]自宅にて  有《あり》沢《さわ》まみず