いぬかみっ! 9 ハッピー・ホップ・ステップ・ジャンプ!
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何でも願いを叶えてくれる秘薬を巡り、ようこと薫の犬神=11人の女の子たちが大バトル! 勝者を決めるのは、一人一人がルールを定める犬神伝統の白骨遊技=Bガチンコの筋肉勝負から早口言葉対決、挙げ句に啓太脱がし勝負まで、もう何でもありのめちゃくちゃな状態に……。
果たして、勝者となったのは? そして秘薬の行方は?
この他、みんながセーラー服で登場する犬上女学園を舞台にした話や、寒い雨の日にようこがお昼寝するほのぼのとした話など、全5編。さらには若月神無先生のコミックも1編収録!
ますますハイテンションの第9巻!
ISBN4-8402-3396-9
CO193 \530E
発行●メディアワークス
定価:本体530円
※消費税が別に加算されます
有《あり》沢《さわ》まみず
昭和51年、パキスタン育ち。牡牛座。第八回電撃小説大賞〈銀賞〉を頂く。代表作は「インフィニティ・ゼロ」と「いぬかみっ!」。最近、座骨神経痛気味に腰が痛く、運動不足を痛感しています。
【電撃文庫作品】
インフィニティ・ゼロ冬〜white snow
インフィニティ・ゼロA春〜white blossom
インフィニティ・ゼロB夏〜white moon
インフィニティ・ゼロC秋〜darkness pure
いぬかみっ!
いぬかみっ! 2
いぬかみっ! 3
いぬかみっ! 4
いぬかみっ! 5
いぬかみっ! 6
いぬかみっ! 7
いぬかみっ! 8 川平家のいちばん長い一日
いぬかみっ! 9 ハッピー・ホップ・ステップ・ジャンプ!
イラスト:若《わか》月《つき》神《かん》無《な》
春ですね。このうららかな季節を迎えるたびに、「今年こそは花粉症になるんじゃないか?」とビクビクドキドキしています。花粉症になってしまわれた方はもちろん大変なことと思うのですが、毎年放置プレイされる方も正直しんどい……。
http://tune9.air-nifty.com/candyfloss/
カバー/加藤製版印刷
天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》。
その実態|全《すべ》てが謎《なぞ》に包まれた日本のモノノケたちを癒《いや》す専門|医《い》療《りょう》機《き》関《かん》である。そしてその不《ふ》可《か》思《し》議《ぎ》な団体から送られてきた一個の小包が世にも壮絶な戦いの引き金となった。
のちに第三次|犬《いぬ》神《かみ》大戦〜川《かわ》平《ひら》の役《えき》〜と呼ばれるようになった死《し》闘《とう》の幕開けである……。
川平|薫《かおる》の邸宅。
その食堂に今十人の少女たちが集まっていた。夏の暑い日にふさわしく全員、短いスカートやらだぼっとしたハーフパンツやら涼しげな白いワンピースを身につけている。華《はな》やいだ若々しい少女たちばかりなのだが、この日ばかりはどうにも沈《ちん》黙《もく》が目立っていた。
「で、これが問《もん》題《だい》のその瓶《びん》なんだね?」
と、たゆねが声に出して尋《たず》ねた。改めて言わずもがなのことを口に出しているので当然、誰《だれ》も返事をしない。
少女たちはじっとテーブルの上に置かれた赤茶けた色合いの小瓶を見つめていた。よくジャムなどを入れておくような口の広いタイプで、大きさは手のひらに乗るほどである。色の白いいぐさが眼鏡《めがね》を細い指でかけ直して、
「……ここに書いてあること本当なの?」
と、己《おのれ》のリーダーに向かって問いかけた。せんだんは目を細め、瓶を見つめるばかりで肯定も否定もしなかった。
代わりによく通る声で、
「ごきょうや、もう一度、文面を読み上げてくれる?」
と、ごきょうやに向かって命じた。白衣を無《む》造《ぞう》作《さ》に着こなして端《たん》然《ぜん》と場に臨《のぞ》んでいたごきょうやは黙《だま》って頷《うなず》くと、樫《かし》の木製の椅《い》子《す》を引き、静かに立ち上がった。こっほんと咳《せき》払《ばら》いを一つし、綺《き》麗《れい》に澄《す》んだ声で問題の手紙を読み上げた。
「『前略、お元気でしょうか〜。こちらは暑いですね。ムジナが夏ばてしてて困ります。きょろきょろきゅ〜。ところで一つ言い忘れてたんですけど、あなたこの前、定期検診で来た時、実は僕の一万人目の患者さんだったんですよね〜』」
と、妙に軽い文体を淡《たん》々《たん》と朗読するごきょうや。少女たちは一心に聞き入っていた。
「『そこでまあ、粗品というか、記念品というか、ちょっといいものあげちゃいます。ま、君たち人《じん》妖《よう》にしか効かないんですけどね』」
そこでごきょうやはわずかに息を継いで、
「願《がん》望《ぼう》充《じゅう》足《そく》汁《じる》=v
一気に。
「『これはね、ホンモノです。五百年に一度しか咲かない金《こん》剛《ごう》マンドラゴラの煮汁とか、寝起きの悪い海《かい》竜《りゅう》の角《つの》とか色々と貴重なもの使ってるから、運気と霊《れい》気《き》が一時的にものすごくあがるんです。ま、たいがい、君の思ってる願《ねが》いごとは叶《かな》うじゃないかな?』」
そして締めくくる。
「『追伸。その薬は一人分しか効力がないから他《ほか》の子たちにはあまり見せびらかさないようにしてね〜 あなうめ博士』」
ごきょうやが無言で着席した。しんと場が静まりかえった。
しばらくしていぐさが再び同じ疑問を発した。
「……本物なのかな、これ?」
今度はせんだんもそれに答えた。
「まあ、文面を読む限りは間違いないみたいね」
傍《かたわ》らのともはねを振り返った。確《かく》認《にん》するように、
「これは伝《でん》書《しょ》鷺《さぎ》が運んできたんでしょう?」
「そ〜だよ!」
ともはねが片手をあげて元気よく答えた。
「あたしがね、お庭で遊んでたら空から真《ま》っ赤《か》な帽子を被《かぶ》った鷺さんが降りてきてね、はいって前足で手渡してくれたの!」
「鷺は天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》の使いだからね」
「あのね、羽できちんと敬礼してまた空に帰って行ったんだよ」
と、ともはねが言い添える。せんだんはさらに手を伸ばしてごきょうやからから手紙を受け取り、問題の箇所を指さした。
「それにこの筆跡は確《たし》かにあなうめ博士本人のものだと思うわ」
一同は健《けん》康《こう》診断のたびに自分たちが世話になっている白髪の老人のことを思い出した。超|凄《すご》腕《うで》のモノノケ専門医であり、天地開闢医局の統《とう》括《かつ》部長でもある変わり者。彼ならこういう代《しろ》物《もの》を持っていても別に不《ふ》思《し》議《ぎ》はないし、ぽいっと無《む》造《ぞう》作《さ》に送ってくるような風変わりな行為も納得できた。そこで俄《が》然《ぜん》、贈《おく》り物の信《しん》憑《ぴょう》性《せい》が高まってくると、
「じゃあ、じゃあ、これはいったい誰《だれ》宛《あて》で送られたモノなのでしょうか?」
と、フラノが小首を傾《かし》げて尋《たず》ねた。
「……まあ、この手紙に書いてある通り、あなうめ博士の一万人目の患者になった子なのでしょうけどね」
せんだんはふうっと軽くため息をついた。
「それがこうなっちゃってて宛先が読めないのよ」
せんだんが封筒を指さした。『川《かわ》平《ひら》家《け》の犬《いぬ》神《かみ》……様』と達筆で書いてあって、……の部分が滲《にじ》んでいてよく読めない。
「ともはねえ〜」
と、たゆねが腰元に手を当ててともはねを睨《にら》んだ。ともはねがえへへ、と照れ笑いして恐《きょう》縮《しゅく》した。庭先で駆け回っていた彼女が手をよく拭《ふ》かずに握って、さらに付着した泥を慌てて引っ掻《か》いて取ろうとしたためにかえって判別が難《むずか》しくなってしまったのだ。
「肝《かん》心《じん》要《かなめ》の部分が読めないようだね」
ごきょうやが口元に微《かす》かな苦笑を浮かべて腕を組んだ。
「ともはね、誰《だれ》宛《あて》か確《たし》かめなかったの?」
と、いぐさが封筒に目を向けながら慎《しん》重《ちょう》に尋《たず》ねた。ともはねがふるふると首を横に振った。
「役立たず!」
と、たゆねが非《ひ》難《なん》して、ともはねがむうっと唇《くちびる》を尖《とが》らせた。
そこへ今の今までずっと沈《ちん》黙《もく》を保っていた双《ふた》子《ご》の犬《いぬ》神《かみ》いまりとさよかが、
「くくくく」
「ははははは」
「けけけ」
「ほほほほほ」
突《とつ》如《じょ》、馬《ば》鹿《か》笑《わら》いを始めた。彼女たちは「はいはいはい」とかけ声をかけて手《て》拍《びょう》子《し》を打つとリズムよく喋《しゃべ》り始めた。
「いやいやいや、皆さん、わっるいね〜。これねえ〜、私らのとこにきたもんなんだよ」
「そ〜そ」
「いや、あなうめちゃんも全く義理堅いというか」
「律《りち》儀《ぎ》というか」
「言ってたさ。言ってたよ? 私らが一万人目だって。記念品を後で贈《おく》ってくれるって。わっるいね〜というわけでねえ〜」
「これ、私らのもんね? 文句ないね?」
いまりとさよかがそうやって何気なく瓶《びん》に近づく。瓶を二人占めする気だ。せんだんが目をつぶって一声命じた。
「てんそう」
「あ、こ、こら! 何をする!?」
「こいつ、てんそうのくせになかなか力が強いぞ!」
後ろからひょろりと背の高いてんそうが二人の襟《えり》首《くび》を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んでいる。いまりとさよかがジタバタ暴《あば》れたが身じろぎ一つしなかった。
せんだんはそんな彼女らを一《いち》瞥《べつ》もせず仲間たちを見回した。
「という訳《わけ》で自己申告なさい。誰か心当たりのある者は?」
「この瓶を貰《もら》う心当たり?」
「そう」
「……分からない。だって、ほら、前回のはほとんど全員で行った訳《わけ》だしさ」
と、たゆねが困ったように肩をすくめた。いぐさが頷《うなず》いた。
「そうね。誰《だれ》が一万人目でも別におかしくないですね」
「だから、私らだって言ってるだろ!」
「わ〜ん、横《おう》暴《ぼう》だ〜! 誰も信じてくれない! ニグレクトだ! 訴えてやるう!」
双《ふた》子《ご》が必死で叫んでるが誰も聞いていなかった。そこへしばらくどこかへ行っていたなでしこが食堂に帰ってきて薫《かお》り高いアイスティーを各自のグラスに注いで回り始めた。せんだんが彼女をちらっと見やって尋《たず》ねた。
「なでしこ、あんたじゃないの、この一万人目?」
なでしこは微笑《ほほえ》んで首を横に振った。
「残念だけど、心当たりは。わたしかもしれないし、そうじゃないかもしれないし」
「……そう」
せんだんは少し俯《うつむ》いた。その途《と》端《たん》、一同は喧《けん》々《けん》囂《ごう》々《ごう》と議《ぎ》論《ろん》を開始した。ごきょうやが理知的に意見を言えば、たゆねが感心したように頷いて、いぐさが同意して、ともはねが机をばんばん叩《たた》いて、フラノが何が楽しいのか笑っていて、いまりとさよかがジタバタ暴《あば》れていて、てんそうが顔色一つ変えずそんな彼女らを両手に抱え込んでいる。
珍しく十人全員|揃《そろ》っているから姦《かしま》しいことこの上なかった。
いったい誰|宛《あて》に来たのか?
その薬を使う権利を持っているのはいったい誰か?
それが問《もん》題《だい》だった。
「一番、簡《かん》単《たん》な方法はあなうめ博士に直接、聞いてみることだけど?」
と、なでしこがせんだんの隣《となり》に着席して彼女の横顔を見やった。
せんだんは首を横に振った。
「それは私も考えたけど」
モノノケ病理の大家あなうめ博士はしょっちゅう研究旅行と称する放浪の旅に出ていて所在不明なことが多かった。健《けん》康《こう》診断がない時期には天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》のスタッフですら行方《ゆくえ》を探すのが困《こん》難《なん》なのだそうだ。
「ならばわたしたちで考えるしかないのかな?」
と、なでしこが小首を傾《かし》げた。
「ん〜」
せんだんは迷ってる。
「あるいはわたしたちで選《えら》んじゃう? どうせ誰がその一万人目でもおかしくない訳だし」
なでしこが笑い混じりにそう言った。
「よし」
せんだんはぽんと一つ手を叩《たた》いた。なでしこの一言が彼女の心を決定づけたようだ。
「そうね。ここはもうそれしかないようね。みんなちょっと聞いてちょうだい」
その一言で全員はぴたりと喋《しゃべ》るのを止《や》めた。そのままの姿勢で顔だけせんだんに向ける。せんだんは、
「みんなに単刀直入に聞きます。この薬がほしい人!」
と、声を張り上げた。
ほぼ全員。
揃《そろ》ったように挙《きょ》手《しゅ》した。ともはねがほとんど机の上に乗り上がって、双《ふた》子《ご》が折り重なるように前のめりになって、ごきょうやもてんそうも控えめだが確《かっ》固《こ》とした態度を示していた。フラノに至っては胸を張るように両手を挙げていた。せんだんは自分も軽く片手を挙げてからたった一人だけ手を挙げていない少女を見やった。
「あんたはいいの? なでしこ?」
「あ、うん。わたしはいいから。みんなで決めて」
と、なでしこが穏《おだ》やかに笑ってアイスティーを口に含んだ。からんとグラスの中で氷が涼しげな音を立てた。
せんだんはそれ以上、特に彼女には念を押さず、
「わっかりました。みんなこれが欲しいのね?」
そう尋《たず》ねた。
なでしこを除いた全員がこくこくと頷《うなず》いた。
物質的にはテレビゲーム、園芸の苗、クロッキー帳やら、高い本。精神的には薫《かおる》と遊ぶことや彼から可愛《かわい》がられること。いくらでも欲しいモノがあるのである。犬《いぬ》神《かみ》とはいっても心の中は若い女の子なのである。
わくわくとした表情でせんだんを見つめている。
誰もが思いもかけぬプレゼントを期待している。
せんだんはそんな彼女らに向かって言い渡した。
出てくる答えは自《おの》ずと一つだった。
「では、白《はっ》骨《こつ》遊《ゆう》戯《ぎ》≠ナ勝者を決めたいと思います!」
一斉に場がどよめいた。
「え、ええ〜、ちょっと待って! あれはちょっと」
たゆねが一番、大慌てでせんだんに食い下がっていた。
「あれはやめようよ、ねえ!」
「ダメ。もう決定事項」
せんだんがきっぱりと却下した。逆にいまりとさよかが高揚していた。彼女らは腕まくりをすると、
「よ〜し」
「よしよしよし」
「きたあ! 白《はっ》骨《こつ》遊《ゆう》戯《ぎ》≠ミさしぶり〜!」
彼女らは互いに手と手を合わせ、早速ストレッチを開始した。ごきょうやが苦笑して、いぐさが考え込んでいる。誰もがざわついている。そんな中で一人、きょとんとしているのが小さなともはねだった。
「ねえねえ、白骨遊戯≠チてなに?」
と、一同を見回した。しかし、各人それぞれ声《こわ》高《だか》に抗《こう》議《ぎ》したり、相《そう》談《だん》し合ったりで誰もともはねを注視していない。
「ねえってば! なにそれ!? なんなの!?」
だが、相変わらず皆、わいわいがやがややってるばかりでともはねの質問に答えてくれない。とにかくそれは大きなイベントで、何か犬《いぬ》神《かみ》たちが興《こう》奮《ふん》するようなことらしい。活気づいている仲間から蚊帳《かや》の外にいることが我慢できなくて、
「ねえええええええ!!! ってば!」
と、思いっきりテーブルを叩《たた》いた。
ようやく皆は喋《しゃべ》るのを止《や》めてともはねを見てくれた。ともはねが息せき切って尋《たず》ねた。
「白骨遊戯≠チてなに? なんなの?」
「白骨遊戯≠ニいうのは」
落ち着いた声でそれに答えてくれたのは少し離《はな》れた位置に移動していたなでしこだった。彼女はちらっとなぜか柱時計を見やってから続けた。
「元々は私たち犬神が何かここぞという時に物事を決める儀《ぎ》式《しき》の一つなの」
「まあ、今はなんというのか互いの力量比べみたいな意味合いの方が強いけどね」
と、せんだんが言い添えた。たゆねが脅かすように両手を広げた。
「大変なんだぞ〜。も〜、知力体力全部使うんだから!」
「え? え〜? やっぱりよく分からないよ? なにそれ?」
ともはねが目を白黒させる。せんだんが軽くため息をついた。
「そうね。最初からわかりやすく説明しましょうか。いい? まずね、正式な作法では骨を一本用意するの。ただ、今はそれに代わるレプリカを用意するけど」
「え? 骨?」
「そう。白骨遊戯≠フ由来はそこから来てるんだけど……要するにね、その骨を囲んで車座になって誰かが代表で骨を回すの。するとその先が一カ所で止まるでしょう? そうしたらその人がまず主人≠ノなるわけ」
「えっと、それはルーレットみたいなもの?」
「そう。だけど、ルーレットとは違ってここからが本番。まず主人≠ノなった人が最初にその回の競《きょう》技《ぎ》を決めるの。競技の内容とルールをね。それは知恵比べでもいい、体力勝負でもいい。とにかくなんでもいいから厳《げん》密《みつ》な勝ち負けのあるゲームを行って一番、負けた者がそこから脱落していくの」
「……もう遊べないの?」
「そう。そしてそれを何度も繰《く》り返して、最後の一人になった人が勝ち。簡《かん》単《たん》でしょ?」
「う〜ん」
ともはねが唸《うな》った。
「まだよくわからない」
「まあ、やっていけばそのうち分かるよ」
と、たゆねが軽く笑った。いぐさが教え諭《さと》すようにともはねと目《め》線《せん》を合わせた。
「だからね、とにかくできるだけ多く主人≠ノなった方が得なの。そうすれば自分の得意な競技を選《えら》んで戦えるでしょう?」
「あるいは手《て》強《ごわ》い相手の弱点をつくという作戦もあるけどな」
と、ごきょうやが付け加えた。いぐさが首を振る。
「そこまではまだ考えなくていいと思う。とにかくビリにならないこと。これが大事だよ」
「う〜ん」
ともはねがまだこんがらかった顔をしている。フラノが大きく万《ばん》歳《ざい》をした。
「でもでも、とっても面《おも》白《しろ》いんですよ、これ。賢《かしこ》くて強い人が有利なことは確《たし》かに間違いなんだけど、運も関係あるからフラノだって最後の一人になったことありますし」
「戦略性はあるな。あと相手の動きをよむ醍《だい》醐《ご》味《み》がある。まあ、言ってしまえばゲームの一種だからあまり気負わずにとりあえずやってみるといい」
と、ごきょうやが頷《うなず》いた。
「という訳《わけ》でなでしこ。あなたも参加しなさい」
せんだんにそう命じられ、なでしこが困ったように眉《まゆ》をひそめた。
「う〜ん、せんだん。わたしは本当に見ている側でいいんだけど」
「ダメ」
せんだんは首を横に振って強行に言い渡した。
「あなたも知っての通り、白骨遊戯≠ヘその場にいる犬神全員が参加する。それが絶対のルールよ」
「でも」
「どうしても嫌《いや》ならさっさと負けなさい。それは別に止めないわ」
「くす」
その時である。
どこからともなく含み笑いが聞こえてきた。
「くくくく」
楽しくて楽しくて仕方ないという調《ちょう》子《し》である。薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》たちが咄《とっ》嗟《さ》に周囲を見回す。笑い声はますます高まっていく。そして、
「誰《だれ》だ!」
と、たゆねが誰《すい》何《か》したその途《と》端《たん》、
「あはははははははは、そのげーむつまりはこのわたしも参加できるってことね!」
どろんと白い煙が立ち昇ってくるっと前に一回転したようこがその場に現れた。皆が囲んでいる円卓の中央に見事に着地する。
それから彼女はふぁさっと大きなケモノの尻尾《しっぽ》を手で払って立ち上がると、
「せんだん。事情は聞かせて貰《もら》ったわ! そのお遊びわたしも特別に参加してあげる!」
びっと左手を腰元に当て、右手でせんだんを指さした。
「な!」
と、たゆねが激《げっ》高《こう》して立ち上がる。せんだんが片手でそれを制した。彼女は格別の驚《おどろ》きも動揺も示さず座ったままようこに問い返した。
「……あなたもこれに参加したいの?」
落ち着いた声だった。
ようこがにいっと笑った。
「と〜ぜん♪」
とんとんとテーブルの上でヨーデルのようなステップを踏んだ。
「わたしは色々したいことあるんだもんね〜♪」
素《す》足《あし》でテーブルを踏み踏み、皆の前を回っていく。
「ケイタと楽しいことたくさんするんだもんねえ〜♪」
「か、かって言うな! かって言うな!」
たゆねがどもりながら威《い》嚇《かく》する。
ようこがそんな彼女をあざ笑うようにけたけた声を立てた。
「あ〜ら? そのはっこつなんちゃらは犬神なら誰でも参加できるのでしょう?」
「ぐ! 確《たし》かにそれはそ〜だけど」
と、たゆねは加勢を求めるように仲間たちを振り返った。せんだん以外は皆、気まずそうに視《し》線《せん》を逸《そ》らしたり、俯《うつむ》いたりした。
ともはね一人がきょとんとしている。
あとなでしこ。
彼女は落ち着いた仕《し》草《ぐさ》でアイスティーを飲んでいた。
「あ、あの」
その時、恐る恐る片手を挙げたのはいぐさだった。彼女は皆の注視を浴びて少し頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を赤らめながらも意見を述べた。
「わたし、別にようこが参加してもいいとは思うんだけど……あの、そもそもこれってあなうめ博士から好意で貰《もら》った記念品な訳《わけ》でしょう? だから、ようこはごめんね? これ別に意地悪で言ってるわけじゃなくってそもそも記念品を貰う資格があるのかなって思うんだけど」
その正《せい》論《ろん》にたゆねが嘆《たん》息《そく》して大きく拍手を贈《おく》った。ところが意外な人物がそれに対して反論を加えた。
「あ、でもね、いぐさ」
と、彼女。
なでしこは微笑《ほほえ》みながら告げた。
「ほら、ここ。宛《あて》先《さき》が薫《かおる》様の犬《いぬ》神《かみ》って別に特定してないでしょう? 実はようこさんとわたしは一《いっ》緒《しょ》に定期検診に行って一緒に申《しん》請《せい》やってるの。だから、ようこさんへの贈り物がここに届く可能性だって十分あると思うわ」
「……なるほど」
と、いぐさが納得したように顎《あご》に手を当てて考え込んだ。その反応にたゆねがいささか慌てた。
「待って! じゃあ、もしかしてこいつも白《はっ》骨《こつ》遊《ゆう》戯《ぎ》≠やるの?」
その言葉に少し苦笑しながらもせんだんが答えた。
「公平の観《かん》点《てん》から断る理由はないみたいね」
「そんなあ〜」
わ〜いと腰元に手を当ててステップを踏むようこと蒼《そう》白《はく》になって立ちつくしているたゆねが対照的だった。
そうして世にも激《はげ》しい戦いの幕が切って落とされた。
どよどよ。
がやがや。
薫の家のボルテージが上がり始めている。少女たちが興《こう》奮《ふん》して話し合ってる。ある者は目をつむって静かに思念を凝《こ》らしている。ある者は一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、紙になにやら作戦を書き記していた。白骨遊戯♀J始まで少女たちには十五分の猶《ゆう》予《よ》が与えられていた。
まずせんだん。
赤い縦《たて》ロールにいささか暑そうにも見える生地のしっかりした服を身につけていた。ニーソックスにエナメルの靴がいささか古めかしいが、立ち居振る舞《ま》い全《すべ》てに華《はな》やかな品性があった。犬神たちのリーダーであり、全ての決定権を握る彼女は落ち着きを払ってなでしこと談《だん》笑《しょう》していた。
そこに王者の余裕が感じられた。
毛並みの確《たし》かな、血筋のよい者の自覚がにじみ出ていた。もちろん、彼女は負けるつもりなど毛頭ない。実際は何か強烈な願《ねが》い事がある訳《わけ》でもないのだが、とにかくはっきりと己《おのれ》の力を目下の者に示すつもりだった。
そして彼女と笑いながら話しているなでしこ。
相変わらずの割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿《すがた》でほんわりとした笑《え》みを浮かべている。彼女はすでに戦《せん》線《せん》を放棄しているかに見えた。
気負いというものが全く見受けられなかった。
その隣《となり》の眼鏡《めがね》をかけたいぐさ。
彼女はほっそりとした白い二の腕が剥[#「剥」はunicode525D]《む》き出しになっているパフスリーブのワンピースを着ていた。さっきから前のめりになって紙に何やら書きつけているのも彼女だ。細かい、丁《てい》寧《ねい》な字で紙がみるみると埋まっていく。
過去、彼女がこの白《はっ》骨《こつ》遊《ゆう》戯《ぎ》≠ナ勝ったことはただの一度もなかった。いぐさは確かに理《り》論《ろん》派《は》で細かい分析や洞察には長《た》けていたが、大局的な物の見方にやや欠けるところがあった。さらに他《ほか》の者にがちんこの体力勝負を選《えら》ばれると彼女には全く勝ち目がなくなった。
欲しいものがあるというより、恐らくそんな自分の苦《にが》手《て》意《い》識《しき》を払《ふっ》拭《しょく》したいのだろう。
たゆね。
実は年若い彼女も白骨遊戯≠ナ勝ったことはなかった。体力勝負なら絶対に負けないのだが、精神的な脆《もろ》さをつかれると実に弱かった。
今まで四回このゲームをやってるがそのいずれも最初の一回目で脱落という体《てい》たらくぶりである。心中期するものがあるのだろう。大きく深呼吸を繰《く》り返して気を鎮《しず》めていた。それからちらっと目を開けてようこを見やり、心底|嫌《いや》そうな顔をした。
そのようこはなんの根拠もなく双《ふた》子《ご》相手に高笑いしていた。
もちろん彼女もこの白骨遊戯≠ヘ初めてである。だが、彼女にはかつて薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》九人をまとめて叩《たた》きのめした、という明《めい》確《かく》な自負があった。実際、白骨遊戯≠ヘそう簡《かん》単《たん》な肉体勝負ではないのだが、とりあえず単純なようこはもう勝った気でいた。
そしていまりとさよかはある意味で、一番、要注意人物であるそのようこにおべんちゃらを言って取り入っていた。
とりあえずおだてておいて、いざとなったら盾《たて》にしよう
という魂《こん》胆《たん》が見え見えである。だが、そういった擬《ぎ》似《じ》的《てき》な同盟関係を結ぶのも有効といえば有効だった。付け加えると彼女たちは結構、この手のゲームに強かった。ようこが高笑いしている脇《わき》でちらっと小《こ》狡《ずる》い笑《え》みを浮かべ、顔を見合わせあったりしている。
ところでそんな少女たちの中で一番、優《ゆう》勝《しょう》に近いのは誰《だれ》かと言えばやはり白衣を身にまとったごきょうやであろう。
知力体力ともにバランスのとれた彼女は時には策略を用いることもできたし、冷静に物事に対処することができた。
実際、せんだん以上に彼女はこの白《はっ》骨《こつ》遊《ゆう》戯《ぎ》≠ナ勝ってきている。
静かに目をつむって考え事をしているごきょうやの隣《となり》で興《こう》奮《ふん》したようにお喋《しゃべ》りしているのはフラノだった。豊満な身体《からだ》を袴《はかま》で包み、髪に大きな花飾りを付けている。突《とっ》拍《ぴょう》子《し》もない語り口が特徴の娘で特にこれといった強みはないのだが、唯一運だけは強いのでひょっこりと優《ゆう》勝《しょう》したりもするから侮《あなど》れなかった。
そしてそのお喋りを表情一つ変えず、じっと聞き入ってるのがひょろりと背の高いてんそうだった。ジーンズにカッターシャツという男っぽい服装である。彼女は特に望みがあるわけでも、絶対勝とうという野心がある訳《わけ》でもなかった。
ただ、仲のよいフラノかごきょうやが勝てばいいな〜と漠然と考えていた。
最後にともはねはほとんどお祭り気分でぴょんぴょんと皆の周りを跳《は》ね回り、はしゃぎ回っていた。
皆と遊べるのが楽しくて楽しくて仕方がないという様《よう》子《す》だった。
彼女の中には打算も何もない。
だが、ここに川《かわ》平《ひら》薫《かおる》か啓《けい》太《た》がいたらもしかしたら彼女を大穴で推《すい》薦《せん》したかもしれない。秘めた力に限って言えば彼女はせんだんにも、たゆねにも負けていなかった。
という少女たちのインターバルがあって、
「では、お待ちかね。これより白骨遊戯≠行います!」
せんだんの宣《せん》誓《せい》があり、少女たちが一斉にわっと拍手した。よ〜しよしと高ぶる気持ちを必死で抑えている者、くすくすと笑っている者。静かに目を見開く者。せんだんは台所にあった大きなスプーンを手に取ると、
「では、これを白骨の代わりにします。先の丸い部分が先端という扱いね。それと順番は長《おさ》の私から。異存はないですね?」
誰《だれ》も何も述べなかった。しんと場が静まりかえっている。
「では」
せんだんはゆっくりとその身体を伸ばし、円卓の中央部にスプーンを据えた。次に一呼吸おいて、
「えい! 白骨さん。美味《おい》しい美味しい白骨さん。次の主人≠ヘ一体だ〜れ?」
そのスプーンを指で勢いよく回転させた。おお、と少女たちの間からどよめきがわき起こった。皆、食い入るように回転するスプーンを見つめている。誰が最初のお題《だい》を決めるのか、でずいぶんと有利不利が決まってくるから当然だ。
熱《ねっ》心《しん》に見つめる少女たちの目《め》線《せん》に絡《から》め取られていくようにして徐《じょ》々《じょ》にスプーンの回転力が弱まっていった。
やがて、
「あ!」
と、誰《だれ》かが声を上げた。一《いっ》瞬《しゅん》だけ自分の前に止まりかけたたゆねが、
「ボクだ!」
と叫んだがスプーンはさらにもう少し回って、
「あ、あれ?」
一人の少女の前で止まった。
「あ、あたし?」
小さなともはね。彼女がきょとんとしたように自分を指さしていた。一同から落胆と失望の吐《と》息《いき》が漏れた。
唯一、せんだんだけが苦笑気味に、
「ともはね。という訳《わけ》でお題《だい》を決めていいわよ?」
「え? で、でもお」
ともはねは困ったようにきょろきょろと周囲を見回した。実際、彼女はこの白《はっ》骨《こつ》遊《ゆう》戯《ぎ》≠ノ参加するのは初めてなのだ。とにかく指針というものがまるで分からない。するとそれを見て取ったたゆねが、
「よし! ともはね、特にお題《だい》がないなら勝ち抜き腕《うで》相撲《ずもう》大会にしよう!」
同時にいぐさが少し慌てたように、
「ともはね、漢字の書き取りテストなんてどうかな?」
さらに一同が好き勝手に自分の得意分野を述べ立てた。せんだんが手を振った。
「こ〜らこら! みんなともはねに決めさせなきゃダメでしょう?」
「でも、せんだん。ともはねは今回が初参加なんだし、とりあえず特例として選《えら》びなおさせてもいいんじゃないかしら?」
なでしこがやんわりとそう意見を述べた。ともはねがこくこくと頷《うなず》いた。
「あ、あたしもそれがいいな。とりあえず訳《わけ》が分からないもん。一回|様《よう》子《す》が見たい」
「そう?」
せんだんはちょっと考えてから比較的、あっさりと了承した。
「じゃあ、選び直し」
次に中央に置かれたスプーンに向かってもう一度、手を伸ばし、
「白骨さん。美味《おい》しい美味しい白骨さん。次の主人≠ヘ一体だ〜れ?」
指先のスナップを効かせて回転させる。勢いよく回ったスプーンは今度も徐《じょ》々《じょ》に失速してとある一カ所で止まった。
「くふふ」
両手で口元を押さえてそう笑ったのはようこだった。スプーンの先端はまっすぐに彼女を指さしていた。
少女たちが一斉にどよめき、特にたゆねが露《ろ》骨《こつ》に「げ」という表情をしていた。ようこはぴょんと素《す》足《あし》でテーブルの上に飛び乗ると高らかに宣言した。
「あのね、お題は野《や》球《きゅう》拳《けん》!」
「げ」
と、そこで他《ほか》の少女たちも一斉に声を上げた。
「や、や、やきゅうけん?」
と、今まで仕切りに徹《てっ》したせんだんまでもがまごついている。
「却下!」
と、たゆねが即座に叫んでいた。
「却下!」
「ねえねえ、野球拳ってなに?」
皆に聞いて回っているのはともはねだ。それに真顔で答えているのはひょろりとしたてんそうで、
「……じゃんけんで負けた方が順番に衣服を脱いでいく通常、お座《ざ》敷《しき》などで行われる」
「え〜〜〜い! だから、却下却下!」
力一杯、たゆねがテーブルを両手で叩《たた》いた。
「あ、あの服を脱いでいくのは私もちょっと」
真《ま》っ赤《か》な顔でおろおろしているのはいぐさだった。他《ほか》の少女たちも大《たい》慨《がい》がこくこくと頷《うなず》いている。せんだんがようやく我《われ》を取り戻し、こほんと咳《せき》払《ばら》いをしてから真顔で、
「……なんで野《や》球《きゅう》拳《けん》なの?」
と、尋《たず》ねる。ようこはえっへんと胸を張った。
「ケイタとよくやるけど今までで一度も負けたことがないから」
どよどよと場がざわめいた。
「ま、わたしがやろうっていつも言ってるんだけどさ〜。大概、ケイタはそれですっぽんぽんになるの」
くすくすとようこが笑った。彼女は楽しそうに皆を見回した。
「ルールはそうだね〜。二人一組になって野球拳をやっていくってどうかな? 髪飾りとかベルトも服に含めて脱いでいって、一番最初に脱ぐモノがなくなった人が脱落。で、可哀《かわい》想《そう》だからぎぶあっぷは許してあげる、そうすれば最後まで脱ぐ必要はなくなるでしょう?」
「おい! 何を勝手な!」
と、たゆねがなおも食い下がるのに対してようこは冷たく一言。
「白《はっ》骨《こつ》遊《ゆう》戯《ぎ》≠ナは主人≠ェ決めたことは絶対なんでしょ?」
「ぐ」
と、たゆねが唇を噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだ。せんだんが肩をすくめた。
「まあ、必ずしも絶対って訳《わけ》じゃなくって物埋的に無理なこととか、明らかにおかしなことはその場の長《おさ》の権限で拒否もできるけど」
「けど?」
さらにせんだんはちょっと考え込んで、
「……この場合はゲームとして成立していいかもね」
「せんだん! 物わかりがよすぎるよ!」
と、たゆねが悲鳴を上げた。せんだんはきっと彼女を見やった。
「お黙《だま》り。私はあくまで白骨遊戯≠司《つかさど》る長として公平の観《かん》点《てん》から言ってるの」
「だからって」
「いい? たゆね。これは言ってしまえば度胸試しなのよ? そうでしょ、ようこ?」
せんだんの指摘にようこがにやりと笑ってみせた。せんだんは頷く。
「脱ぐのが嫌《いや》だったらすぐにギブアップして脱落すればいい。ただそれだけなの。羞《しゅう》恥《ち》心《しん》の隙《すき》を突いてくるある意味、なかなか考えられたゲームね」
さらに大きく手を振るった。
「では、一つめの試練は野《や》球《きゅう》拳《けん》! 決定よ!」
少女たちの間から悲鳴に近い声が漏れた。
そうして世にも希《まれ》な美少女たちの不毛かつこれ以上ないくらい真剣な野球拳が始まった。組み合わせはくじ引きで決まり、たゆねとなでしこ、てんそうとともはね、フラノとせんだん、いぐさといまり&さよか、ようことごきょうやがそれぞれ対戦相手になった。
「やきゅう〜するならこういう具合にしやさんせ♪」
というかけ声とともにグー、チョキ、パーがそれぞれ出され、勝敗が決まり、悲鳴なり、歓《かん》声《せい》が辺《あた》りから聞こえる。
さらに悔しそうに靴下を脱ぐたゆねや恥ずかしそうに割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》の前を外すなでしこがいた。
「や〜きゅうするならこういう具合にしやさんせ♪ セーフ、アウト、よよいのよい!」
衣服をはだける少女たち。
太ももが、首筋があるいは極端な場合は下着が覗《のぞ》き始める。あでやかで何ともいえず扇《せん》情《じょう》的《てき》な空気が流れていた。
女の子しかいない桃《もも》色《いろ》めいた空間である。
ところでこの勝負。
実は大きな、大きな抜け穴があった。それはようこが確《かく》信《しん》犯《はん》的《てき》にあえて決めておかなかった点であり、せんだん、ごきょうやなどはとうに気がついていた部分である。すなわち各自の勝負速度は任意である≠ニいうこと。
例えば衣服を脱ぐのにものすごく時間をかけたり、ジャンケンを後出ししまくって勝負をわざと引き延ばしても良い。
要するに遅《ち》延《えん》行為は向かい合う両者の全く自由なのである。
たゆね、ともはね、フラノなどは勝負に気がせいて一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、服を脱いで一生懸命、勝負を進めたがったが、前述の聡《さと》い者たちは巧妙に巧妙に勝負を避《さ》けて回った。結局、ビリにさえならなければそれでよい競技なのである。
ちなみにてんそうだけはその抜け穴に気がついているのか、それとも本当にのんびりと動いているのか判断できなかった。
だから、大多数の少女たちは脱いでいると言っても、素《す》足《あし》になっていたり、肌がちょっとあらわになっている程度なのだが。
唯一、例外の組がいた。
それがキャミソール一枚になって今にも泣き出しそうになっているいぐさであり、植物の柄《がら》が入ったブラとパンツだけになったいまりとさよかなのであった。
「うう」
いぐさは真《ま》っ赤《か》になって胸元を心細げにかき抱いている。
「そら、次いくぞ!」
と、勝負をせいているのはいまりとさよかだった。
なんでこうなっているのかというと。
結局のところいまりとさよかの計算違いだった。彼女らもまたこのゲームの本質にはとうの昔に気がついていた。だが、いぐさがワンピース一枚の軽装であることと彼女が極度の恥ずかしがり屋であるということ。
この二つの要因からあえて勝負を急いだのだ。
速攻をかけて服の一枚、二枚脱がせたらすぐにギブアップするだろう。そう踏んだのである。ところが意外や意外、彼女らの期待を裏切っていぐさは勝負に対して非常に強い執着心を見せた。服の一枚、二枚では簡《かん》単《たん》にタオルを投げない。
くわえて彼女はかなりジャンケンが強かった。
そのため双《ふた》子《ご》の方が逆にみるみると服をはぎ取られていくはめに陥ったのである。
そして試練は山場。
とうとうブラを脱ぎ捨て、はしたないことに片手で胸元を隠しながら双子が大きく叫んだ。
「いぐさ! 勝負だ!」
余《よ》談《だん》だが先ほどから彼女らは打ち合わせなしに全く同じ手を出していた。
「ほら! いぐさ、早く準備しろ!」
いぐさは半べそをかきながらもそれに応じる。そして。
「や〜きゅうするなら」
のかけ声。
いぐさは統計的な解釈をしているのか、それとも双子の癖《くせ》を読んでいるのか負けがどんどん少なくなってきている。
双子はパンツ一丁ですでにあとがない。
だが、いぐさの羞《しゅう》恥《ち》心《しん》ももはやいっぱいいっぱいだった。
そんな時。
「やった!」
「やったああああああああ!!!」
勝ったのはいまりとさよかだった。二人は飛び上がって喜ぶ。いぐさががっくりとうなだれた。にやっと双子が顔を見合わせた。
「ぬ〜げ!」
「ぬ〜げ!」
の騒《さわ》がしい連呼。いぐさがうるうると涙を潤《うる》ませた。真《ま》っ赤《か》になりながらキャミソールに手をかける。いつしか周りの者たちは勝負の手を止め、彼女の決断を一心に見入っていた。これで勝者と敗者が決まるのだ。
いぐさは震《ふる》える手でキャミソールを脱ごうとするが。
やはり慎《つつし》み深い彼女にはたとえ女の子同士といえどこれ以上、肌は絶対に見せられない。
「ぎぶ」
と、いぐさが羞《しゅう》恥《ち》に耳まで赤くなりながら宣言しかけたまさにその時。
「あのさあ」
ごく軽く何気なくともはねが言った。不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに。
「なんで、眼鏡《めがね》を代わりにとらないの?」
そのたった一言でいぐさが地獄から天国へ、いまりとさよかが天国から地獄へ突き落とされたような顔をした。
にぱあっと笑いながら眼鏡を取り、
「あともう一勝負だね?」
さわやかにそう言い放ついぐさ。双《ふた》子《ご》が絶望的な表情になった。
結局、あっさりと次のジャンケンでいぐさは双子を破り、双子が負けを認めたところで第一ラウンドの決着がついた。
戦いの熱《ねっ》気《き》さめやらぬ雰囲気の中、少女たちは第一戦の主人≠セったようこがスプーンを回転させるのを一心に見守っていた。
しめきった部屋は少女たちの熱気でむんむんしている。
そのためか野《や》球《きゅう》拳《けん》が終わった後も少女たちは軽装のままだった。下着姿同然だったり、肌もあらわだったりしている。
女の子だらけという気安さもあるのだろう。
あるいは祭りにも似たどこか無《ぶ》礼《れい》講《こう》の気《け》配《はい》が流れていた。
「本命せんだん! 対抗ごきょうや! ダークホースようこ! 大穴ともはね!」
と、初戦早々敗退してしまった双子も予想屋に転身して一大イベントに参加していた。ようこの指先が勢いよく回転した。
せんだんがやった時よりもさらに激《はげ》しく回るスプーン。そして勢いはしばらく続き、ようやく落ち着き、一人の少女を指したところで、
「あ!」
と、たゆねが椅《い》子《す》から立ちヒがった。
「今度こそボクだ!」
スプーンは間違いなくたゆねを指していた。ぶ〜ぶ〜とようこが野《や》次《じ》をとばす。せんだんが微笑《ほほえ》み、尋《たず》ねた。
「で、あんたのお題《だい》は?」
「えヘへ」
と、たゆねが鼻の下を指先で擦《こす》りながら得意そうに答えた。
「勝ち抜き腕《うで》相撲《ずもう》大会♪」
いぐさが思いっきりがっかりした顔をしていた。
「ルールは簡《かん》単《たん》。全員、総当たりで腕相撲をやって一番、負けが多かった人が脱落」
「え〜?」
とか、
「総当たり〜?」
とか、不満そうな声が聞こえてくる、ごきょうやが、
「……結構、奥が深いな」
と呟《つぶや》いていた。ようこがにやりと笑っている。ただ一人いぐさだけがどよんと落ち込んでいた。彼女は体力面には全く自信がなかった……。
その後、「自分以外の八人と適当に声を掛け合って各自腕相撲をやっていくこと」と「インターバルは自由だけど相手から勝負を申し込まれたら必ず受けること」という二点をたゆねは追加で条件付けた。
その結果、円卓のあちらこちらで妙《みょう》齢《れい》の美少女たちが薄《うす》衣《ぎぬ》をまくって力比べをしあうというはなはだ奇妙な光景が展開された。
大方の予想通り誰《だれ》よりも張り切って、圧倒的な勝率で勝ち上がっていったのはたゆねだった。彼女は苦《にが》手《て》とするようこ以外は楽々と全勝を決め、「よっしゃあ!」と拳《こぶし》を上空に突き上げるポーズで勝ち誇った。
「おやおや、うっとうしいですな〜」
「体育会系おバカは場の空気というものをわきまえていませんね」
脱落してしまったいまりとさよかが半目になって冷ややかにそうコメントを加えていた。ちなみにようこはてんそう、なでしこに負けて二位。三位のせんだんはようこ、ごきょうや、てんそう以外には手堅く勝ってリーダーとしての地位を堅《けん》持《じ》していた。
そもそも腕相撲というものはたった一人とおこなってもかなり疲労してしまう競《きょう》技《ぎ》なのである。屈強の男でも八人と続けざまにやっていくのは難《むずか》しいだろう。
そのため、「体力の温存」がこのゲームの肝《きも》になっていた。
言い換えると「誰に負けておいて体力を温存しておくのか」そして「その温存した体力を誰にぶつけて勝っておくのか」ということが重要なのである。
その意味で少女たちはとても計算しやすかったといえよう。なにしろ、腕力最弱のいぐさとまだ幼いともはねがいたのだから。
この二人が徹《てっ》底《てい》的《てき》にカモにされた。
しばらく時間が経過し、少女たちは自然と一組の周りに集まっていた。必然的にどうしてもこの二人のうちのどちらかが脱落するであろうと予想しえた二人。
いぐさとともはねが今、真剣な表情で向かい合っていた。
「いくよ?」
と、いぐさが念を押した。ともはねが大まじめな顔で頷《うなず》く。片や眼鏡《めがね》をかけた文学少女然としたいぐさ。片やツインテールの小さなともはね。
二人とも今のところ全敗である。
つまりこれに勝った方が生き残る。シンプルきわまりない決着方法。いぐさの白い手とともはねのまだこどもこどもした手が絡《から》み合う。
自然とせんだんがジャッジみたいなことを引き受けていた。
「いいわね? では、よ〜い」
どん!
のかけ声でいぐさがいささか大人《おとな》げなく表情をゆがめ、「しゃう!」とともはねがケモノじみた気合いの声を放った。
ぎり。
ぎりぎりぎり。
力は非常に微妙な均《きん》衡《こう》を保つ。
目に見えない攻防は一進一退を続けた。一見、勝負は長引くかに思えた。しかし、根本的なところで徐《じょ》々《じょ》に差が出始めた。たった一人、ともはねだけを自分の正式な標的として体力の温存を徹《てっ》底《てい》的《てき》に図ったいぐさと自分の力を顧《かえり》みず全《すべ》ての少女に対して全力で挑んだともはね。
実際、最初にやっていたら分からなかっただろう。
だが、そこに差が出た。
「えい!」
いぐさのかけ声と共にぱたりとともはねの手がテーブルにつく。ぷはあっと溜《た》めていた息を吐き出し、ぜいぜいと呼吸を荒げる真《ま》っ赤《か》な顔のいぐさ。対してともはねはしばらく唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としていて結果をよく理解できなかったようだ。
しかし、ようやく自分の負けを悟ると、
「え〜〜〜ん!」
子供のようにべそをかき始める。
「うえ〜〜〜ん!」
なでしこが苦笑してよしよしと彼女の頭を撫《な》でてやっていた。
「やるわね、いぐさ」
と、せんだんが半分からかい混じりに言っていて、
「おとなげね〜」
と、双《ふた》子《ご》が揶《や》揄《ゆ》していた。いぐさは真《ま》っ赤《か》な顔で俯《うつむ》いた。
実際、恥ずかしいという思いはある。小さなともはねに対してここまでしないといけない自分がかなり情けなかった。ただ、それ以上に今のいぐさはこの白《はっ》骨《こつ》遊《ゆう》戯《ぎ》≠ナ勝ちたかったのだ。ただちょっと財テクが上手《うま》いだけで序列三位にいる自分がいぐさにとってはかなりコンプレックスだった。現実的には誰《だれ》もそんなこと思っていないのだが、いぐさはなんとかして駄《だ》目《め》な自分を皆に認めてもらいたかったのである。
だから負けたくなかったのだが……。
次に主人*としてたゆねはスプーンを回し、なんとまた自分で主人≠引いた。
すると彼女は世にも脳天気な声で宣言した。
「よし、じゃあ! ヒンズースクワットと腹筋、腕立て競《きょう》争《そう》♪」
え?
ちょ、ちょっと。
と、蒼《そう》白《はく》になるいぐさを無視してたゆねは上《じょう》機《き》嫌《げん》極まりなかった。
死ぬかと思った。
精も根も尽き果てた。
いぐさは生まれて初めて死にものぐるいで身体《からだ》を動かした。計算も洞《どう》察《さつ》も使えないただひたすらの体力勝負。そしてようやくぽっちゃりとしたフラノを追いつめ。
粘《ねば》る彼女に対して根性でスパートをかけ。
汗まみれになって彼女に競《せ》り勝ってようやく最下位は免《まぬが》れた。そしてそのまま、テーブルの上に突っ伏した。
「おお」というどよめきが周囲から聞こえていた。
だが、顔を上げる気力もない。
再びたゆねがスプーンを回す。
そして。
なんと。
彼女はまたまた主人≠自分で引くのである。
「あ、またボクか♪」
そんな嬉《うれ》しそうな声にいぐさは慌てて跳《は》ね起きた。たゆねは腕を組んで考え込んでから再びあっけらかんと言う。
「そ〜だね。じゃあ、ヒンズースクワットと腕立て、腹筋|競《きょう》争《そう》」
いぐさは目の前が真っ暗になった。
この体力バカ、とちょっと思った。
「は、もうやったから」
その言葉で表情に生気が戻り、「ひどいこと思ってごめんね」と内心|謝《あやま》るのだが、結局、
「じゃあ、それぞれ五キロのおもりをつけてやろう」
の一言で再び地《じ》獄《ごく》に叩《たた》き落とされるのである。
なぜかおもりの代わりに水の入ったヤカンを持ってスクワットをした。もはや意《い》識《しき》すらもうろうとしていた。
ただ根性だけがいぐさを突き動かしていた。
そして。
殺意……。
初めて芽生えた、衝《しょう》動《どう》。
ようやくこうやくてんそうに粘り勝ちし、がくがくと震《ふる》え、感覚すら分からない足をなんとか引きずって椅《い》子《す》に座る。
限界はとっくに超えていた。
たゆねが再々度スプーンを回す。いぐさは祈った。色々なモノに必死で祈った。そして千《せん》載《ざい》一《いち》遇《ぐう》のチャンスをとうとう手に入れた。
「あ、私」
スプーンの先端がいぐさをまっすぐ指したのである。彼女は生まれて初めて復《ふく》讐《しゅう》の女神≠ェ実在するのだと確《かく》信《しん》した。
いぐさは嗤《わら》った。
くつくつと。
脳裏では思い出している。かつて自分が怪《かい》談《だん》を語った時、誰《だれ》が一番、怖がっていたのかを。このメンバーで誰が一番、恐《こわ》がりなのかを。
「そうね」
眼鏡《めがね》のレンズだけを鈍《にぶ》く光らせ、口元で暗く笑《え》み、
「怪談大会ね」
え?
と、たゆねが蒼《そう》白《はく》になっていくのを知りながら、
「部屋を暗くして各自思い思いに怪談を語り、百物語にするの。それで一番悲鳴を多く上げた人の負け。あ、もちろん途中のギブアップはなしよ?」
結局、たゆねは百話も保《も》たなかった。二十四話目で泡を吹いて気絶したのである。
未《いま》だくつくつと暗い目で笑っているいぐさと奥の方に寝かされ、白いタオルをおでこにかけられ、う〜んう〜んと唸《うな》っているたゆね。勝者と敗者の明暗はあまりにも歴然としていた。今、ここで五人の少女だけが勝負の場に残っていた。
まず腕を組んで全く冷静さを崩さないごきょうや。
彼女の背後には既《すで》に敗退してしまったてんそうとフラノがちょこんと正座していて、「ふれ〜ふれ〜ごきょうやちゃん♪」と声援を送っている。ようこは、
「は〜、いい汗|掻《か》いた!」
と、余裕でぐびぐびスポーツドリンクを飲んでいた。せんだんは余裕の微笑《ほほえ》みを口元に浮かべ、腰元に手を当てていた。ともはねはたゆねをうちわで扇《あお》いでやっていて、いまりとさよかはすっかり解説者然とコメントを加えていた。
「ん〜、まあ、ちょっと壊《こわ》れちゃった感があるけどいぐさはもう限界かな? もう一度、体力勝負を挑まれたらさすがにもう保たないだろうからね」
「せんだん、ごきょうやはまだまだ余力がありますな。ようこは知能戦を挑まれたら危ないけど単純なバトルロワイヤルだったら最強だしね〜」
「私はトータルな力関係でせんだんかな?」
「私は心技体のバランスでごきょうやだと思う」
そこまで言って二人は互いに「ん?」と顔を見合わせた。勝ち残った少女はそれだけではない。誰《だれ》か一人重要な少女を忘れている気がする。
双《ふた》子《ご》は順番に数を数えていく。
「いぐさ、ごきょうや、せんだん、ようこ……」
「それと」
その人物。
柱の陰に隠れ、素知らぬ気《げ》に横を向いている少女。
「ようこ」
と、今までじっと黙《だま》っていたごきょうやがその少女に視《し》線《せん》を固定したまま問いかけた。
「おまえは確《たし》か突然、家にやってきたな?」
「ん?」
ようこが振り返る。ごきょうやは静かに確《かく》認《にん》した。
「なんであの絶妙のタイミングでうちにやって来た?」
「え、それは」
と、ようこはちらっとその問《もん》題《だい》の少女を見やってから答えた。
「楽しいことやってるからすぐ来い≠チて。なでしこが電話してきたんだよ。だから、わたし急いで」
なでしこがくすっと小さく笑った。
ごきょうやは落ち着いた低い声で今度はなでしこに向かって問《と》い糾《ただ》した。
「なでしこ。おまえに一つ聞いておきたいことがある」
なでしこがくすくすと笑った。ごきょうやはまるで玉《たま》藻《も》の前に化けた九《きゅう》尾《び》の狐《きつね》を見破る陰《おん》陽《ようの》頭《かみ》安《あ》部《べの》泰《やす》成《なり》のように気迫を込めた声で問いつめた。
「おまえはこんな薬なんかいらないからすぐにわざと負ける≠じゃなかったのか?」
あ、そういえば。
と、そこで大多数の少女たちは初めて思い出してどよめく。当初、なでしこはあまりこの競《きょう》技《ぎ》に乗り気ではなかったはずだ。辞退すらしていた。
ところがどうだ。
彼女は一回戦以降、決してトップにならず、かといって最下位に近づくこともなく、目立たず、騒《さわ》がず、巧妙に、巧妙に生き残り続けた。
ごきょうやがかつんと一歩前に出る。
「非常に上手《うま》い作戦だったな、なでしこ」
ポケットに手を突っ込んだまま、
「まず自分は一切利害に関係ないことを最初に表明しておく。おまえは知っていたんだ。せんだんが恐らく白《はっ》骨《こつ》遊《ゆう》技《ぎ》≠選《えら》ぶことを。いや、あるいはそう誘《ゆう》導《どう》さえした」
せんだんが驚《おどろ》きのあまり目を瞠《みは》っていた。まだくすくす笑っているなでしこ。ごきょうやはあくまで静かな瞳《ひとみ》で彼女を見据えたまま、
「非常に深い読みだ。この競技の特徴はいわゆるバトルロワイヤルだ。どんなに強いモノでも集中的に皆から苦《にが》手《て》な種目を選ばれてはとても勝ち目はない。では、どうするか? おまえはそこに答えを導《みちび》き出した。己《おのれ》が無害だと周囲に思わせればよい。自分は競技者ではなく、あくまで利害の外だと。そう思わせれば少なくてもマークはされなくてすむ。おまえにとってはそれで十分だったはずだ」
少女たちは今や固《かた》唾《ず》をのんでごきょうやの一言一言に耳を澄《す》ませている。ごきょうやのハスキーな声だけが辺《あた》りに木《こ》霊《だま》する。
「さらにおまえはトリックスターであるようこを招《しょう》聘《へい》することでより計画を完《かん》璧《ぺき》なモノに仕上げた。たゆねをはじめ競技者たちの目が自然とそちらに向くからな。彼女らの競争心で場に迷《めい》彩《さい》を施《ほどこ》し……そして、おまえ自身は完全にその陰に隠れることに成功した」
ごきょうやはポケットから手を引き抜き、びしっとなでしこに指を突きつけた。
「出てこい、なでしこ! 戦いはこれからだぞ!」
くす。
一同が息を呑んだ。
なでしこは身体《からだ》の前で手を重ねたまま、清《せい》楚《そ》に微笑《ほほえ》んだ。
「ごきょうや」
あくまで優《やさ》しく、優しく。
「物事に気がつき過ぎるのはあなたの欠点でもあるのよ?」
そう告げる。一同が一斉にどよめいた。
いぐさの小手先の読みなど及びもつかないなでしこの深《しん》謀《ぼう》遠《えん》慮《りょ》。それを今一歩のところで見破ったごきょうやもまた見事。
一同は一気にヒートアップした。
なでしこは表に引き出され、むしろこれからマークを集中的に受けていくことになるだろう。だが、彼女は相変わらず穏《おだ》やかな微笑みを浮かべたまま一《いっ》向《こう》に動じていなかった。ごきょうやもごきょうやで厳《きび》しい、と言っても良いほどの冷静な表情を崩さない。
「じゃ、じゃあ、いぐさ。スプーンを回して」
と、せんだんがそう促《うなが》した。いぐさが小さく頷《うなず》いて運命を決定づける第六戦目の主人≠
決めるルーレットを回す。
この一戦は大事だった。
ごきょうやはなでしこを陽《ひ》の下《もと》に引きずり出した以上、必ずや仕留めにかかるだろう。同じくなでしことて小《こ》賢《ざか》しい邪《じゃ》魔《ま》をしたごきょうやを黙《だま》って放っておくとは思えない。つまり二人は今や完全に互いに互いを射程においた状態なのである。
「こい! こい!」
対してようこはそれほど今までと態度が変わっていない。せんだんは冷静になでしことごきょうやの動向を気にしていて、いぐさはおずおずとそれに追随している。
そして。
運命の針は。
「やったああ! わたしだ!」
ようこに微笑《ほほえ》んだのだった。
「じゃあねえ、え〜と」
そこで彼女が告げた内容は最悪に近いモノだった。
「ケイタ脱がし!」
ようこがちょっと場から離《はな》れ、しゅくち≠ナ連れてきたのは犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》だった。彼は心地《ここち》よさそうにぐお〜すやあ〜と鼾《いびき》をかいて寝ていた。
う〜んと寝返り打ち、尻《しり》をぽりぽりと掻《か》いた。
短パンにTシャツを着ていた。
結構、見苦しかった。
そんな彼を前にようこは嬉《うれ》しそうにいそいそとルールを説明した。
「え〜とね、ルールは簡《かん》単《たん》。ジャンケンで、一番負けた人からケイタの服を脱がしていくの。で、ケイタを少しでも起こしたら即《そく》負け」
つまり物体転送術しゅくち≠ェ使えて、啓太を脱がしなれているようこにとって絶対に負けようのないゲームなのである。
少女たちは蒼《そう》白《はく》になっている。
なでしこでさえも。
「ケイタを完全に裸にしたら今度は逆に服を着せてくんだけど……たぶん、そこまでは考えなくていいよね? あ、そうそう。今度もギブアップはちゃんと認めてあげる♪」
にっこりそう笑うようこ。
一番の悪魔はやはり彼女なのかもしれなかった。
それでものすごい真剣な表情のジャンケンが少女たちの間で行われた。ぐお〜すぴ〜と寝息を立てている啓《けい》太《た》を見るとTシャツと短パンと恐らく中にパンツしか穿《は》いていない。つまり勝負は実質、三回。
場にいるのは五人だから上位二人はそもそも勝負する機《き》会《かい》すらないと思われた。
このジャンケンでせんだんとなでしこが勝ち抜けた。
彼女らは心底、安《あん》堵《ど》し切った表情で抜けていった。逆に愕《がく》然《ぜん》と落ち込むいぐさと頭を抱えるごきょうや。ようこはけらけら笑っていた。
そして残る三人の間でも順番が決まった。まず一番負けたようこがトップバッターで次にごきょうや、いぐさの順番だ。
ようこはまずしゅくち≠ナあっという間に啓太のTシャツを放り捨てた。首《くび》輪《わ》をつけた彼の結構、逞《たくま》しい上半身があらわになる。
少女たちが息を呑《の》む。
いぐさが真《ま》っ赤《か》になってのけぞる。ごきょうやは覚悟を決めて彼の短パンに手をかけた。いぐさが祈るように手を組み合せた。
ごきょうやのこの試みが失敗し、啓太が途中で目を覚ましてくれれば自動的に彼女の勝利となるのである。逆にもしごきょうやが成功してしまった場合、彼女は啓太のパンツを脱がさなければならなくなる。そんなのは絶対|嫌《いや》だった!
そして
あろうことかなんというか。
半目で精神統一し、啓太が寝返るタイミングを寸分の狂いもなく見て取ったごきょうやが彼の短パンを神《かみ》業《わざ》的《てき》な手つきで剥[#「剥」はunicode525D]《は》ぎ取ってしまったのである。
「ふう」
ごきょうやは大きく息を吐き出してから、肩を落とした。それからいぐさに向かって短パンをぐいっと突きつけた。
「いぐさ。覚悟を決めてくれ」
少女たちが固《かた》唾《ず》を呑んだ。その同情や好奇心の入り交じった視《し》線《せん》を一身に浴び、いぐさはとにかく震《ふる》える足で啓太の傍《かたわ》らに膝《ひざ》をつく。
ぐお〜〜すやあ〜と啓太が幸せそうに寝ている。
その口元からよだれがこぼれ落ちていた。
「う〜ん、なでしこちゃあ〜ん」
とか寝言で言っていた。なでしこが赤くなり、ようこがちょっとムッとしている。だが、いぐさには周りに注意を払っている余裕などなかった。
とにかく意志の力を振り絞って、歯を食いしばって、啓太の縞《しま》柄《がら》パンツに手を伸ばした。
驚《きょう》異《い》的《てき》な精神力だった。
男嫌いの、男性恐怖症のいぐさが。
懸《けん》命《めい》に、懸命に。
ただ、彼女を駆り立てていたのは皆に認めて欲しいというささやかな願《ねが》い。
しかし。
それも啓《けい》太《た》がころんと寝返りを打ち、彼女の目の前でぱっかりと足を開いたその瞬《しゅん》間《かん》、すべて潰《つい》えた。大《おお》股《また》開き。
パンツの端からちらっと見えているのはジャガイモにもよく似た……。
いぐさの目が全開で見開かれ、
「いっやああああああああああああああああああああああああああ!!!」
とてつもない悲鳴が上がったのはその時であった。
その後、いぐさは自《みずか》らが葬《ほうむ》り去ったたゆねの隣《となり》でおでこに白い濡《ぬ》れタオルをかけられ、うんうん唸《うな》って横たわるはめになる。
「恐るべきゲームだったわね……」
冷や汗を掻《か》きながらせんだんが言っていてようこがけたけた笑っていた。
これで残り四人。いずれも劣らぬ一《いっ》騎《き》当《とう》千《せん》の少女たちである。せんだんに死角はないし、ごきょうやはそつなく、なでしこは相変わらず静かに微笑《ほほえ》んでいるし、ようこはあくまで邪悪に楽しそうだった。
少女たちの間で見えない火花が散っていた。
フラノはてんそうにこれからの予想を一生懸命語っていて、ともはねはこれから先の競《きょう》技《ぎ》に自分が参加できないことをものすごく悔しがっていた。
ところで。
今までずっと煽《あお》るように喋《しゃべ》っていた双《ふた》子《ご》が何かを企《たくら》んだ目配せでそっと笑い合ったことに誰《だれ》も気がつかなかった……。
誰もが覗《のぞ》き込むようにして注視する七番目の針はなでしこを指した。
とうとう。
「ふふ」
と、なでしこがお淑《しと》やかに微笑んだ。それだけでごきょうやばかりでなく、ようこ、せんだんさえもごくりとつばを飲み込む。外見に騙《だま》されてはいけない。これは最強の悪《あく》魔《ま》の笑《え》みなのだ。なでしこは顎《あご》に指先を当て、
「じゃあ、どうしましょうか? ようこさんが手《て》強《ごわ》いと思うので犬をタッチし続ける競争≠選《えら》んでも別にいいんですけど」
ようこがぎくりと顔を強《こわ》ばらす。
だが、なでしこは首を横に振った。
「やっぱり、ごきょうや。あなたを倒しておいた方がいいみたい。早口言葉≠お題《だい》としてわたしは提出します」
一同はきょとんと顔を見合わせた。
なんで早口言葉?
という思いである。
ただ一人、ごきょうやだけが愕《がく》然《ぜん》とした表情を浮かべていた。
「……なんでそれを知って」
と、微《かす》かにかすれた声が彼女の喉《のど》から漏れていた。
「ルールは簡《かん》単《たん》。それぞれが早口言葉を一つ言って他《ほか》のみんなが順番に唱和して一番、多く間違えた人が脱落」
「……すごく簡単なゲームね?」
と、せんだんが怪《け》訝《げん》そうに念を押した。
「本当にいいの、それで?」
「ええ」
なでしこは微笑《ほほえ》んで頷《うなず》く。
「では、わたしから時計回りでお願《ねが》いね。とうきょうとっきょきょかきょく=v
はいっと手で促《うなが》され、せんだんは不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに小首を傾《かし》げながらもあっさり続ける。
「とうきょうとっきょきょかきょく」
簡単である。
なんでもないことである。
ところが、次の順番でごきょうやは、
「と」
と、言ってから恥ずかしそうに、
「とうきゃうとっきょきゃきゃきょく」
ぷっとようこが吹き出した。
「言えてないじゃん! いい? とうきゃうきゃっきょきけけけく!」
「おまえだってもっと言えてないだろう!」
ごきょうやが真《ま》っ赤《か》になって突っ込み返した。一同はどよめていた。常に冷静沈着で知力、体力、精神力すべてにおいてバランスのとれたごきょうやが。
まさか早口言葉ごときで手こずるなんて!
「ふふ、本当にまさかよね」
なでしこは穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》んだ。
「はあ〜、なるほど。あなたにこんな弱点があったなんてねえ〜」
せんだんに感心するような調《ちょう》子《し》でそう言われ、ますます真《ま》っ赤《か》になってうなだれるごきょうや。頭を抱え、呻《うめ》くように言った。
「どういう訳《わけ》だか、これだけは苦《にが》手《て》なんだ……」
「まあ、落ち込んでいるところごめんね。これも勝負だから。はい、となりのきゃくはよくかきくうきゃくだ=v
せんだんも結構|容《よう》赦《しゃ》ない。
「と、となりのかきはよくきゃくくうかきだ」
あべこべになっているごきょうや。
「となりのきゃくはよくきゃらくうぺくだ!」
既《すで》に原文の面《おも》影《かげ》がないようこ。それに対してなでしこは涼やかに、
「となりのきゃくはよくかきくうきゃくだ」
おお、と一同が感《かん》嘆《たん》する。なでしこはさらにごきょうやに向かって無《む》慈《じ》悲《ひ》に告げた。
「次はあなたが早口言葉を出す番よ、ごきょうや」
「え? 私」
「そう。順番だから」
「わ、分かった……」
悲壮な覚悟で頷《うなず》くごきょうや。しかし、彼女は、
「え、えっと、なまむぎなまもめ=v
そもそもお題《だい》を正《せい》確《かく》に提出することすらできない。
「なまもめなまもめなまかかご」
そして
「ああああああああああ!!!」
と、悲痛に一言叫んでからがっくりとうなだれた。
「すいません、ギブアップ」
完全に勝負がついていた。
部屋の隅《すみ》っこに座ってどよんと落ち込んでいるごきょうや。そんな彼女をてんそうとフラノが必死で慰《なぐさ》めている。
勝負はそしてようこ、なでしこ、せんだんの三人に完全に絞られた。全く空恐ろしい程《ほど》の緊《きん》張《ちょう》感《かん》である。
いずれの少女も海千山千。
七化け八化け。
不敵に互いを見つめ合って笑っていた。だが、あえてランク付けするなら化け物級のSランクようこ、なでしこに対してどこまでも高性能ではあるがAランクのせんだんがやや不利なのかもしれなかった。
そして天《てん》王《のう》山《ざん》ともいえる八戦目の主人≠ヘようこが引いた。
「やったあああ!!!」
と、彼女が高らかに躍《おど》り上がった。せんだんが露《ろ》骨《こつ》に唇を噛[#「噛」はunicode5699]《か》み、なでしこが残念そうな顔になる。これでかなり勝敗の行方《ゆくえ》があらかた決まってしまう。
だが、ようこは突然、全く関係ないことを叫んだ。
「あ〜〜〜! こらあ、あんたたち何やってるの!」
全員が振り返った。
そこで見えたのはいまりとさよかの双《ふた》子《ご》が薬《くすり》瓶《びん》の栓《せん》を開け、今にも中身をすり替えようとしているところだった。
「やべ!
と、いまりが叫んでさよかが、
「え〜い、死なばもろとも!」
とか訳《わけ》の分からないことを言って薬を一気に飲み干そうとした。だが、それより一《いっ》瞬《しゅん》早くようこが人差し指を挙げている。
「しゅくち!」
それで中身がぱしゃっと転移して、ようこが掲げ持ったグラスの中に落下した。ようこはおかしそうに笑った。
高らかに笑った。
「おしかったね、いまりとさよか。でも、あんたらのそういうとこわたしは嫌いじゃないよ? ならば、あんたらにもチャンスを与えてあげる」
彼女はそこでむっくりと起き上がってきた啓《けい》太《た》に気がつき、
「ちょっとこれ持ってて」
起き抜けで目を擦《こす》ってる啓太にグラスを手渡し、叫んだ。
「これからは無《ぶ》礼《れい》講《こう》! まどろっこしいことはもうやめて単純に最後までたっていた人が勝者! どう?」
「な、そんな勝手な!」
と、せんだんが色めき立ったが他《ほか》の者はそのわかりやすさがよかったのだろう。おお、と大きくどよめいた。
「じゃあ、今からスタート! いい?」
お〜、と大きく拳《こぶし》を突き上げるいつのまにか回復したたゆね、いぐさも力強く頷《うなず》き、ともはねがうきうきとステップを踏み、ごきょうやが立ち上がり、フラノがころころと笑い、てんそうは無言で腕まくりする。
もちろん、双《ふた》子《ご》も大喜びだ。唯一、必死で反対しているのはせんだんだけなのだが、
「いくよおお〜〜〜!」
ようこの声に掻《か》き消されて他《ほか》の者にまで届かなかった。わあ〜〜〜と全員一斉に入り乱れ合う。どったんばったんと乱《らん》闘《とう》が起こる。
それをぼへ〜と眺めていた啓《けい》太《た》。
彼はそして起き抜けの喉《のど》を潤《うるお》すためにようこから渡されたグラスをぐびぐびと無《む》造《ぞう》作《さ》に全《すべ》て飲み干してから、
「……ねえ、みんな何やってるの?」
ぼへら〜とした声で傍《かたわ》らのなでしこに尋《たず》ねた。その信条|故《ゆえ》に肉体的な戦いからは一歩、身を引いていたなでしこは身体《からだ》の前で手を合わせ、首だけ啓太に向けていた。
止める暇《ひま》が全くなかった。
あってはならないことが今起こってしまった。
とりあえず。
冷や汗をかき、強《こわ》ばった笑《え》みを浮かべて、
「どこか遠くの方へ逃げた方がいいと思いますよ? 全力で」
そう答えるのが精一杯だった。
戦いはますますヒートアップしていくのであった……。
私立|犬《いぬ》上《がみ》女子学院。
全《ぜん》寮《りょう》制《せい》の名門女子校である。その特徴は古風な道徳教育と、最先端の専門教育を併《へい》存《ぞん》させた古くて、そして新しい教育スタイル。パソコンは当然のように各部屋(原則的にルームメイトと二人で一部屋を共用)に設置され、重要な学校行事のお知らせや各生徒の考《こう》課《か》表《ひょう》などはその学内LANで回ってくる。
高度なバイオテクノロジーやロボット工学なども隣《りん》接《せつ》した大学で学べる(もちろん単位もそれで貰《もら》える)し、体育もアーチェリーやポロにヨガなどちょっと他《ほか》の高校には見られない種目が習えた。もちろん学内のクラブ活動も盛んで、学生の自《じ》治《ち》権《けん》もかなり大幅に認められている。
その一方で茶道や小《お》笠《がさ》原《わら》流《りゅう》礼法の授業もあったし、テーブルマナーや言葉|遣《づか》いが悪いと内申書が容《よう》赦《しゃ》なく削られるという厳《げん》格《かく》な一面もあった。
モットーは、『良《りょう》妻《さい》賢《けん》母《ぼ》でなくてもいいんじゃない?』
要するに家庭に入る専業主婦でも、ばりばり働いていくキャリアウーマンでもなんでもいいから、学問を修養して、一人の立派なレディとして嗜《たしな》め、という基本方針なのである。
ところでこの学校には一つ、まず他では滅《めっ》多《た》に見かけない専門コースがあった。
『犬専門コース』
である。かなり抽象的だが、これは将来的に犬の調《ちょう》教《きょう》師《し》や、獣《じゅう》医《い》師《し》を目指す人間が高校の三年間で犬と触れ合い、その基本的な特性を学び、人と犬のより新たな関係を模《も》索《さく》……と色々と建前は装《よそお》ってあるがとどのつまりこの学校の無《む》類《るい》な犬好きの理事長の趣《しゅ》味《み》だった。
新設されたばかりのたった七人しか生徒のいない異色のクラスである。
「ねえ、せんだん、今日《きょう》、新しいドッグトレーナーの先生がやって来るんでしょ?」
ショートカットの美少女たゆねが服に袖《そで》を通しながら尋《たず》ねる。ブラシで見事な赤毛を梳《す》いていた大人《おとな》びた少女がそれに対して微笑《ほほえ》んだ。
「あら、今《いま》頃《ごろ》、そんなこと言ってるの? ちょっと前から話《わ》題《だい》になっていたじゃない」
彼女はこのクラスの委員長だった。
今までグラウンドでグラスホッケーの授業を受けてきたところなのである。次の授業に備え、全員、教室で着替えをしていた。
「そっかあ、ボク、ぜんぜん知らなかったよ。みんなが騒《さわ》いでいたのはそれだったんだね」
首にしゅるっとスカーフを巻きながらたゆねが首を振った。
「一体、どんな先生なのかな?」
「あのね、私たちが聞いた話だとね、理事長のおまごさんらしいよ?」
「それで薫《かおる》先生のイトコなんだって。超|凄《すご》腕《うで》のドッグトレーナーで歴史の教員免許も持っているらしいよ」
外見が瓜《うり》二つの双《ふた》子《ご》の少女。いまりとさよかが口を揃《そろ》える。スカートのホックを留めていた眼鏡《めがね》の少女が微笑した。
「薫《かおる》先生のイトコですか」
「あ〜、ということはやっぱりカッコイイのかな?」
「やっぱりカッコイイんだろうね〜」
学校指定の三つ折りソックスを足に履《は》きながら双《ふた》子《ご》がうっとりとそう語り合う。眼鏡の少女。いぐさはちょっと小首を傾《かし》げて、
「あれ? じゃあ、薫先生は私たちの担任じゃなくなってしまうのでしょうか?」
「あ、それは大丈夫。その先生、ずっと男《おとこ》寺《でら》学園でやってきたので、とりあえず慣れるまで副担任扱いになるみたい」
せんだんが解説を加えた。教《きょう》壇《だん》をフキンで拭《ふ》いていた栗《くり》色《いろ》の髪の少女がほんのわずか安《あん》堵《ど》したように微笑《ほほえ》んだ。
「まあ、でも、英語科の仮《かり》名《な》先生といい、体育のはけ先生といい、なんでこう美形な男の人が多いんだろうね、この学校?」
「理事長の趣《しゅ》味《み》じゃない」
くししと双子が顔を見合わせて笑う。そこへ。
「みんなみんな、着替え終わった!?」
がらっと引き戸を開けて幼い顔だちの少女がひょっこり顔を出した。ロリロリのツインテールにだぶだぶの制服。どう見ても十一、二歳にしか見えないがこれでも立派な高校一年生。犬專門コースのクラスメートだった。
彼女はほとんど十秒で着替えを終えて、ジュースを買いに教室から飛び出していったのである。ちらっと教室を見回し、全員制服に着替え終えていることを確《かく》認《にん》する。
「薫先生、いいみたい!」
背後を振り返ってそう呼びかけた。
「ありがとう。ともはねさん」
すっと白い手が彼女の頭に乗せられた。にっと笑《え》むともはね。
「みんな、朝からお疲れさま」
ラフなスーツ姿のすらりとした青年が出《しゅっ》席《せき》簿《ぼ》を肩に担《かつ》ぐように持って入ってきた。つやつやと光る黒い猫っ毛に琥《こ》珀《はく》の瞳《ひとみ》。
柔らかい雰囲気。爽《さわ》やかに教壇に立って皆に微笑みかけた。
「おはよ〜ございます、薫先生!」
少女たちが声を揃《そろ》える。
「おはよう」
青年が心から楽しそうに笑った。
「そして、なでしこさん。日《にっ》直《ちょく》? 机を拭いてくれたんだね? ありがとう」
いえ、あの、そんな、となでしこは真《ま》っ赤《か》になって、しどろもどろと手を振り、背後によろめいた。
薫《かおる》はそこで思い出すように、
「そういえば君たち、啓《けい》太《た》さん……いや、新任の川《かわ》平《ひら》啓太先生にはもう会ったんだよね? どうだったかな、彼は?」
微笑《ほほえ》む。少女たちが顔を見合わせた。
「いえ、まだですけど」
代表してせんだんが怪《け》訝《げん》そうに尋《たず》ねた。
「どうしてですか?」
薫はちょっと驚《おどろ》いて、
「あれ? でも、確《たし》か君たちの野外授業を見に行くって張り切って出ていったんだけどな……見学には来なかった?」
「いいえ?」
「体育のはけ先生だけでしたよ。グラウンドにはどなたも来なかったよね?」
少女たちはうんうん頷《うなず》く。
「もしかしたら、迷子《まいご》になってるのかもしれないですね」
「あ、あり得る。このがっこ広いから
「う〜ん。そうかもしれないね」
薫は思《し》慮《りょ》深《ぶか》く頷き、
「ちよっと電話してみよう」
ポケットから携《けい》帯《たい》電話(教師に限り連絡用で認められていた)を取り出して短《たん》縮《しゅく》ダイヤルを押した。
ぷるる〜と薫の携帯が鳴る。次の瞬《しゅん》間《かん》。
『ちゃらららら〜らららら』
世にもお気楽な着信音が聞こえてきた。
教室の背後。清掃用ロッカーの中からだった。
全員の視《し》線《せん》が一斉に音の出所へ向かう。事態を理解できなくて、ぽかんと口を開ける少女たち。何故《なぜ》そこから着信音が?
するとがちゃりと悪びれなく開く扉。てくてくと少女たちの間を縫《ぬ》って前に歩み出る茶髪の軽そうな男が一人。
とんと教《きょう》壇《だん》に飛び乗ると、手を打ち鳴らし、踵《かかと》で回転してポーズを決めた。
「やあ、みんな。これからみんなと一緒に学園生活を送っていく川平啓太だ。担当は歴史とドッグトレーニング。趣《しゅ》味《み》は時《じ》代《だい》劇《げき》で、恋人はただいま募集中」
ふぁさっと髪を掻《か》き上げ、きらんと瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせ、
「気楽に啓《けい》太《た》先生、って呼んでくれよな?」
その頃《ころ》。
ようやく彼が着替えの間中ずっとロッカーで何をやっていたかを、少女たちが悟ってぶるぶると震《ふる》えながら手近な得《え》物《もの》を握りしめた。
机とか、椅《い》子《す》とか。
堅そうなモノが色々。
薫《かおる》がすっと身を引いたのとほとんど同時に、
「この、どへんたいい!!!!!」
怒号と共に一斉にモノが飛んできた。
「クビ」
と、和服姿の老《ろう》婆《ば》がにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「クビじゃ。どこへなりとも荷物をまとめて出ていけ」
「そんなあ、婆《ばあ》ちゃん」
啓太がにじり寄る。
「え〜い、お前みたいな気恥ずかしい身内を持った覚えはないわい!」
理事長室である。
膝《ひざ》の上に三毛猫を抱えた理事長がどんとマホガニーの重厚な机を叩《たた》いた。小柄なので辛《かろ》うじて上半身の部分だけ出ている印象がある。
「大体、初日から生徒の着替えを覗《のぞ》き見する教師がどこにおるか!」
「だからさあ、それは誤解なんだよ〜。ほんと、たまたまあの教室で待っていたら生徒が戻ってきて着替えを始めちゃってさ、出るに出られなかったんだよ」
「……じゃあ、なんでロッカーなんぞに入っておった?」
そう尋《たず》ねられ啓太は無言で目を逸《そ》らす。
「く」
老婆は握り拳《こぶし》を作り、
「このばかもんがあああ────────!」
再び机をがんがん叩いて、怒《ど》声《せい》を上げた。ひとしきり雷を落として老婆はぜいぜい荒い息をつく。啓太は前に立ってしゅんとしていた。
頃合いよしと見たのだろう。
「まあまあ」
と、長身の青年が一歩、前に出た。
「川平君も悪気があってやった訳《わけ》ではないでしょうし、理事長。そこら辺で今日《きょう》のところは大目に見られては?」
オールバックの髪に生《き》真《ま》面《じ》目《め》そうな顔だち。英語科担当の仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》である。融《ゆう》通《ずう》が利かず、校則にも厳《きび》しいが、きちんと誠意を持って生徒に接するので学内の人気は割合高かった。また体育科のはけ先生とのカップリング関連の話題でよく取り上げられている。
「いいや、こやつは悪気……邪《じゃ》気《き》、色欲! それでしか動かんわい。全く。だから、男《おとこ》寺《でら》からこやつを動かすのは反対だったんじゃ!」
前任のドッグトレーナーは授業中犬に噛[#「噛」はunicode5699]《か》まれて入院していた。
「薫《カおる》。そもそも、A級ライセンスを持つお前が素直にドッグトレーナーも引き受けてくれたらそれでことはすんだんだぞ?」
ちょっと恨みがましそうな目で今まで一言も発せず、黙《だま》って川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の赴任届けを含む書類を捲《めく》っていた川平薫を見やった。
薫は顔を上げ、申《もう》し訳《わけ》なさそうに微笑《ほほえ》む。
「理事長。残念ながら僕は今期、大学の方の講《こう》義《ぎ》などもありますので、スケジュール的にちょっと。それに」
と、彼は謙《けん》虚《きょ》に言い添える。
「啓太先生の方が犬扱いの腕は僕より上ですよ」
その言葉に調《ちょう》子《し》づいて啓太は媚《こ》びた上目|遺《づか》いになり、机にもたれかかった。指先をもじもじと動かし、
「だからさあ、ばあちゃん、俺《おれ》、真面目にやるし、だいじょ〜ぶだよ、生徒には絶対、手を出さないから」
「信用ならん! というか、お前、自分の前科を忘れたのか!?」
「あは」
その時、再び書類に目を落としていた薫が声を出して笑った。啓太も、老《ろう》婆《ば》も揃《そろ》ってそちらを見やる。薫は仮名の方におかしそうな笑顔《えがお》を向けた。
「……この処置、仮名先生の発案ですか?」
仮名史郎がこっほんと咳《せき》払《ばら》いをし、目を逸《そ》らした。
「いや、それははけ先生だ。彼がこの方法がベストだと言った。だから私も同意した」
「なるほど」
薫が楽しそうに頷《うなず》いた。
「さすが、はけ先生。全くもってそつのない予防策だ」
「あ?」
啓太が怪《け》訝《げん》そうに首を傾《かし》げる。
「よぼうさく?」
そこで三毛猫が顔を上げてにゃ〜と鳴く。
こんこんと理事長室の扉がノックされた。続いて失礼します、と一礼して白いトレーナーに身を包んだ眉《び》目《もく》秀《しゅう》麗《れい》な青年が現れた。
「転校生を連れて参りました」
その後ろからしずしずと現れる黒髪の美少女。
その切れ長の瞳《ひとみ》がこちらを向いてにっこりと微笑《ほほえ》んだ時、川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》は声にならない悲鳴を上げていた。
「と、いう訳《わけ》で今日《きょう》から君たちと一《いっ》緒《しょ》に同じ学舎で過ごす」
そこまで言って川平啓太は堪《こら》えきれないというように教卓に突っ伏す。おいおい声を出して泣き始めた。着席していた生徒たちはどよどよとどよめいている。新任教師のいきなりの奇行に戸《と》惑《まど》っているのだ。
一方、彼の隣《となり》に立っていた少女は全くその様《よう》子《す》に取り合うこともなく、にこにこ笑いながらチョークで大きく黒板に、
『ようこ』
と書いた。アンダーラインをご丁《てい》寧《ねい》に別の赤いチョークで引き、ぱんぱんと手をはたき、
「転校生の川平ようこです。みなさん、どうぞよろしくおねがいしますね♪」
ぺこりとお辞《じ》儀《ぎ》をする。丈《たけ》の短い、ほとんどぎりぎりのスカートにこの学校の制服とは異なる黒を主体とした珍しい型のセーラー服。艶《つや》やかな黒髪をポニーテールにし、元気良く笑って
いた。色気と無《む》邪《じゃ》気《き》さが同居した不《ふ》思《し》議《ぎ》なはつらつさがあった。
少女たちはまだ戸《と》惑《まど》っている者も多かったが、比較的、立ち直りの早い子もいた。例えば、
「しつも〜ん。好きな食べ物はなんですか?」
と、ツインテールのともはねが片手を上げて質問をした。
「はい。チョコレートケーキです」
にこっと微笑《ほほえ》むようこ。なでしこもまた一番後ろの席からじっと興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに彼女を見つめていた。他《ほか》の少女たちにせっつかれ、今度はせんだんが手を上げる。
恐らく皆が一番気にしていること。
気になっていること。
「あの、川《かわ》平《ひら》さんということは、え〜」
言葉を切り、確《たし》かめるような上目|遣《づか》いになる。
「薫《かおる》先生や理事長のご親《しん》戚《せき》ですか?」
今まで頭を抱えて呻《うめ》いていた啓《けい》太《た》がはっと顔を上げた。それを横目でちらっと見やって、含み笑うようこ。彼女はせんだんに向き直り、
「はい」
大きく、はっきり頷《うなず》いた。啓太が立ち上がり、阻止しようとする。だが、その前に、
「ん〜、でも正《せい》確《かく》に言うとね」
ようこは啓太の腕に自分の腕を絡《から》ませ、宣言した。
「わたし、実はこの人の妹なんです♪」
啓太は一《いっ》瞬《しゅん》、ようこを驚《おどろ》いたように見やった。ねっと小さく意味ありげにウインクをするようこ。啓太はすぐさまその意図を悟って、乾いた笑い声を立てた。
「は、はは、実はそうなんだ……いやあ、兄妹|揃《そろ》ってこれからお世話になります」
ふふっと悪戯《いたずら》っぽく笑っているようこ。啓太は、
「ただこのクラスではただの教師と生徒だからな。えこ贔屓《ひいき》なんかしないぞ〜、妹よ」
ちょめっとようこの額《ひたい》を小突く。ようこは頷いた。
「はい、お兄ちゃん♪……じゃなくって、川平先生」
クラス一同は最初ちょっとびっくりしていたが、
「へえ〜、兄妹」
「にてな〜い」
と、がやがやし出す。一人、パイプ椅《い》子《す》に座って後ろの方で参観していたクラス担任の薫が腕を組み、実に大らかな顔でうんうんと頷いていた。
なでしこだけが少し怪《け》訝《げん》そうにしていた。
最初、遠巻きに、どこかよそよそしくようこを迎え入れたクラスもやがてすぐに彼女を尊敬の眼《まな》差《ざ》しで見るようになった。
それは啓《けい》太《た》が初めての授業を行う際に起こった。
「じゃあ、犬舎で実地訓練をするのでみんなジャージに着替えてきてください」
彼はそう指示を出したまま動かない。
「あの……私たち着替えるんですよね?」
せんだんがじ〜と半目で啓太を見つめる。啓太は子供のように無《む》邪《じゃ》気《き》に答えた。
「そうだね。是非、着替えて欲しいな」
「ええ。ですから、着替えたいんですけど」
「どうぞ?」
そう言ったまま、啓太は堂々と腕を組んで少女たちが着替えるのを待っていた。その時である。すっと前に出たようこがポケットからマッチを取り出し、
「お兄ちゃん?」
しゅっと擦《こす》って火を起こす。
「わたしたち着替えたいからすぐ出ていってくれる?」
その瞬《しゅん》間《かん》、啓太は出《しゅっ》席《せき》簿《ぼ》を小《こ》脇《わき》に抱え、全速力で教室から逃げ出していった。
「は、はい、ただいま!」
実に鮮《あざ》やかな手腕だった。まるで指先一つで猟《りょう》犬《けん》を走らす飼い主のよう。
どよめく一同。
余裕ある態度で火を消したようこは、啓太が悪さをする度《たび》に火で折《せっ》檻《かん》していることを皆へ説明する。それ故《ゆえ》、彼は今やようこがマッチを擦っただけでなんでも言うことを聞くようになったのだそうだ。少女たちは感心し、ようこの周りを取り巻く。
口々に質問を浴びせかけた。
確《たし》かにかなり特異な存在である。どことなく落ち着いた風格を漂わせている。そんな彼女を遠くからなでしこが含みのある眼《まな》差《ざ》しで見やっていた。
『本当に兄妹?』
と。
彼女は疑っていた。
「じゃあ、これからお座りのしつけ方をやるんでえ」
首から銀《ぎん》色《いろ》のホイッスルを下げた啓太がめんどくさそうに語尾を伸ばして言った。彼もまたジャージに着替えていた。茶髪をこりこりと掻《か》き、
「見本見せたいんだけど、どいつがいいかな?」
きゃんきゃん。
わんわん。辺《あた》りが吠《ほ》え声で満ちている。遊んで、遊んでと前足で鉄柵を掻《か》いている柴《しば》犬《いぬ》や見慣れない啓《けい》太《た》に怯《おび》えて吠《ほ》えているスピッツ。我《われ》関せずとお腹《なか》を見せて寝ている雑種もいる。ここは第二校舎の裏側にある犬舎だった。十個のケージの中に、八匹の犬がいる。提《てい》携《けい》しているトレーニングセンターから借りてきた犬たちだ。
それぞれ悪《あく》癖《へき》があったり、しつけがまだ出来ていなかったりするので、それをきちんとここで矯《きょう》正《せい》してから送り返すことになっている。
「あ、啓太先生。その黒い子はどうですか?」
ショートカットのたゆねが真《ま》面《じ》目《め》な顔で指差した。同時にその後ろにいた双《ふた》子《ご》の少女がぷっと噴《ふ》き出しそうになるのを慌てて堪《こら》える。何かに気がついてあ、と声を上げかけた小さなともはねの口をせんだんがすかさず手で塞《ふさ》いだ。
「あ〜、こいつか」
啓太はしゃがみ込んで鉄柵越しにまじまじと見た。じろっと前足の間からめんどくさそうに啓太を見返す眼光|鋭《するど》い黒犬。実はこの犬は前のドッグトレーナーを病院送りにした筋《すじ》金《がね》入りの乱《らん》暴《ぼう》者《もの》なのである。なでしこといぐさははらはらしている。良いのかなあ、と不安そうにせんだんを見やったが、赤毛の彼女は無表情に首を振った。
誰もその犬が危険だということを注意しなかった。
一つ、啓太の腕前を見てやれ、という意地悪な観《かん》点《てん》からたゆねが発案し、双子がけしかけ、せんだんが了承したのだ。
特にせんだんはセクハラ教師に本当に力量がなければ理事長に直《じき》訴《そ》してでも、彼をこの学校から追い出すつもりだった。
ただ、いざというときに備えて皆をちょっと下がらせ、警《けい》戒《かい》態《たい》勢《せい》は取った。万一、黒犬が暴《あば》れ出したら、そばにある二股の抑え棒《ぼう》で無《む》理《り》矢《や》理《り》、押さえるつけるつもりだった。
「ん〜」
啓太は無警戒に鍵《かぎ》を開けた。犬はのそっと風格のある動作で起き上がり、ケージからゆっくり外に出てきた。
「なんだ、素直な奴《やつ》じゃん。いいか? 犬ってのは」
と、啓太が少女たちに向かって何気なく振り返ったその瞬《しゅん》間《かん》。
「がう!」
一挙動で黒犬が地面を蹴《け》った。
「きゃ!」
少女たちの悲鳴。せんだんが緊《きん》張《ちょう》して棒を握りしめる。だが。
「……」
啓太は流れるような動作で、自分の二の腕を前に突き出していた。黒犬はがぶっと牙《きば》をそこに突き立てる。食いちぎろうとするかのように大きく身をくねらせた。「あ、あ」と少女たちがどうして良いか分からずおろおろしている。しかし、啓太は全く動じていなかった。左右に激《はげ》しく首を振る黒犬をおかしそうに眺めやり、ゆっくり地面に降ろした。
動揺してない。
まるで怒らない。未《いま》だに自分の二の腕に食らいついたまま、唸《うな》って後ずさりし始めた犬を反対側の手で無《む》理《り》矢《や》理《り》座らせ、お座りのポーズをとらせた。その後、軽く犬の首筋を押す。すると一体どういう操作なのか、犬の顎《あご》がかっぱり開いた。
びっくりしているのはその黒犬も、少女たちも同様である。啓《けい》太《た》はにっと笑って黒犬の頭を軽く撫《な》でてやった。
「よ〜しよし。良くできたぞ」
次の瞬《しゅん》間《かん》、黒犬はコケにされたとでも思ったのだろう。再びガウッと怒りの咆《ほう》哮《こう》を上げ、啓太に襲《おそ》いかかっていった。すかさず啓太は左の二の腕を犠《ぎ》牲《せい》にし、また同じことを繰《く》り返した。つまり黒犬に無理矢埋お座りのポーズを取らせて、誉《ほ》めてやるのである。
それを幾度も幾度も根気よく繰り返す。
本当に幾度も。
そしてとうとう。
「く〜ん」
黒犬は見事に座ったままの姿勢から全く動かなくなった。啓太は破《は》顔《がん》した。
「よ〜しよし、えらいぞ。やっばいいこじゃん、お前」
その瞬《しゅん》間《かん》、今まで固《かた》唾《ず》を呑《の》んで様《よう》子《す》を見守っていた少女たちが一斉に驚《おどろ》きの声を上げた。
「え? え〜〜〜? どうして!?」
「す、すご……」
筋《すじ》金《がね》入りに攻《こう》撃《げき》的《てき》だった犬が今は舌を垂らし、啓太を慕《した》うように見上げ、くんくん鼻を鳴らしている。まるで魔《ま》法《ほう》のようだった。
啓太は真《ま》面《じ》目《め》な講《こう》義《ぎ》口《く》調《ちょう》で皆を振り返った。
「あのさ、お前らこいつが噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだ時、俺《おれ》が怒ると思ったろ?」
「え、ええ」
はは、と啓太は笑った。
「それだとさ、分からないんだ、犬って。叱《しか》られてもさ、その行為は確《たし》かにある程度しなくなるけど、理解はしてないんだ。大多数の犬は。だから、犬を躾《しつけ》る際の最重要ポイントは怒ることじゃなくって、出来るだけ徹《てっ》底《てい》的《てき》に誉めてやること。いいな? 良いことをした時に誉める。悪いことをしなくなった時にも誉めてやる。そうしないと根本的なところで犬はいつまで経《た》っても成長しないんだよ。だから、俺はこいつが噛[#「噛」はunicode5699]まない状態になった時に誉めてやったし、お座りの状態になった時にも誉めてやったの」
「あ、あの、でも、噛[#「噛」はunicode5699]んでいるのをくいって外したのは?」
「あ〜、あれか。あれは顎の蝶《ちょう》番《つがい》の一部を……まあ、コツがあるんでちょっと口では上手《うま》く説明できないけど、慣れればどんな犬でも簡《かん》単《たん》に出来るようになるぞ」
「……啓《けい》太《た》先生、噛[#「噛」はunicode5699]《か》まれた腕は大丈夫なんですか?」
栗《くり》色《いろ》の髪のなでしこが心配そうに尋《たず》ねる。啓太は無《む》造《ぞう》作《さ》にジャージの袖《そで》を捲《まく》った。
「三重の牛皮の間に緩《かん》衝《しょう》材《ざい》としてゴムが入っている」
彼は二の腕にバンドのようなモノを巻きつけていた。柔らかい素材を使っているのは恐らく身を守るため以上に噛[#「噛」はunicode5699]みつく犬の歯を気《き》遣《づか》ってのことだろう。
「これ、俺《おれ》の企業秘密な」
にっと笑う。少女たちが感心したように溜《ため》息《いき》をついた。確《たし》かにヘンタイでひどいセクハラ男だが、犬扱いの腕は相当立つらしい。
「じゃ、いいか。これから二人一組でもっと簡単な奴《やつ》をやってもらう。まず、え〜と」
と、彼が指示を出しかけた時。
今までずっとずっと我《が》慢《まん》していたようこがばったり犬舎の前で倒れていた。
「あ〜、そういやお前、犬がダメだったんだよな……」
川《かわ》平《ひら》啓太はこりこりと頭を掻《か》いていた。
保《ほ》健《けん》室《しつ》。白いベッドの上で寝ているのはようこである。頭に青いおしぼりをのせ、うんうん唸《うな》っていた。
あれから騒《さわ》ぎ出す少女たちに自習を言いつけておいて、啓太はようこを軽々と抱え上げ、ここまで運んできたのである。
あいにく保健教師は席を外していたので、とりあえずベッドに寝かせるだけに留《とど》まった。
「つうか、お前、なんで犬怖いくせに犬専門のクラスに入るかな?」
呆《あき》れたように溜《ため》息《いき》をつき、ベッドに横座りするとぽんぽんと彼女の身体《からだ》を叩《たた》いた。ようこは唸るのを止《や》め、がばっと跳《は》ね起きる。
「だって、啓太が危なっかしいんだもん!」
二人きりになった途《と》端《たん》、はっきりと名前で呼ぶようこ。明らかに今の二人は兄妹という雰囲気ではなかった。
「……危なっかしい?」
と、さも心外そうに啓太。
「そうよ」
ようこは詰るような、潤《うる》んだ上目|遣《づか》いで啓太を見上げる。
「犬コースは可愛《かわい》くて、綺《き》麗《れい》な子ばかりが揃《そろ》ってるってはけから聞いたんだもん。だから、妹ということにして転入届を出したの!」
「無《む》茶《ちゃ》するな〜」
啓太は再び大きな溜息をついた。
「俺《おれ》が女子高生に本気で手を出すと思ったか?」
「……わたしに出したじゃない」
「そ、それは」
啓太はちょっとしどろもどろとなる。
「お前の場合は女子高生以前に古なじみだし」
「結婚してくれたでしょ?」
「そ、それはだな、お前のオヤジが」
「オヤジが?」
「いや」
啓太は今度は全く違う種類の溜《ため》息《いき》をつく。諦《てい》観《かん》したような、それでいて優《やさ》しい目でようこの顔を覗《のぞ》き込み、
「そうだな。俺はお前に手を出した。お前のオヤジさんに脅されたとか、知らない間に婚姻届を出されたとかいまさらぐだぐだ言うつもりはねえよ。お前が選《えら》んだのは俺だし、俺が選んだのは確《たし》かにお前だ」
「……啓太」
ようこは頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を染め、潤《うる》んだ瞳《ひとみ》で見上げた。
「だから、安心しろ。出来るだけ他《ほか》の女には目を」
「ううん」
ようこは悪戯《いたずら》っぽく首を振る。
「そんな約束してくれなくて良いよ。どうぜ、無理だもん。啓太が可愛《かわい》い女の子にどうこうするのを止《や》められはずないもん。遺《い》伝《でん》子《し》レベルだもん、そのセクハラ」
「あ、あのな」
「だからね、一日三回。ううん、二回。一回でもいいや。わたしが安心できるおまじないを学校でして。お昼休みとか、放《ほう》課《か》後《ご》とか誰《だれ》もいないところで」
「おまじない?」
啓太が尋《たず》ねるより早くようこは瞳を閉じ、可《か》憐《れん》な唇をそっと差し出す。啓太はその意図を悟って、うっと詰まる。ここはさすがにいつものようにはぐらかす訳《わけ》にはいかない。決定的な場面だった。
啓太は誰もいないかきょろきょろ確かめてからゆっくりと。
溜息と共に。
ある行為を……。
「う〜ん、元気百倍!」
ちょっとした誓いの交換が終わった後、ようこはガッツポーズを取る。啓太の方は消耗してへたんとベッドに手を突いていた。
「け、結構スリルがあるな、こういうことは……」
誰《だれ》かに見られたらと思うともの凄《すご》くドキドキした。こういう場合、大《たい》概《がい》、女の方が度胸がある。ようこは微笑《ほほえ》みながら彼を見て、その頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》にもう一度|素早《すばや》くキスをして、
「あのね、わたしが転校したもう一つの理由」
そっと囁《ささや》く。
「ん?」
「啓太が大好きなお仕事をもっとよく知りたかったの。犬、慣れるよ、わたし。必ず」
「……ようこ」
そして二人はさらにもう一度……。
互いに気を捉《とら》われたが故《ゆえ》に、気がつかなかった。クラスを代表して様《よう》子《す》を見に来た栗《くり》色《いろ》の髪の少女が扉を開きかけ、慌てて保《ほ》健《けん》室《しつ》から逃げ出したことに。
それからしばらく経《た》ってのことである。
ロッカーの上の荷物を取ろうとつま先立っていたなでしこは、なんとかそのバッグを奥から引っ張り出したが、重みでよろめいてしまっていた。
「おっと」
転倒する前に柔らかく腕が添えられた。くいっと引き起こされる。
「あ! え? きゃ」
なでしこはその相手を認めて真《ま》っ赤《か》になった。薫《かおる》先生だった。かなり至近|距《きょ》離《り》ににこやかな笑顔《えがお》があった。
なでしこは慌てて飛《と》び離《はな》れ、しどろもどろと頭を下げる。
「す、すいません! すいません!」
「気をつけてね、なでしこさん」
にこっと微笑み、軽く手を振って薫は去っていく。バッグを胸元に抱えてぽ〜と彼を見送るなでしこ。そんな彼女の背後からゆっくりと白い手が回された。
「はは〜ん、なるほど」
「!」
なでしこはぎょっとして振り返った。いつの間にかそこに転校生のようこが立っていた。世にも邪悪な笑《え》みを浮かべて。
「薫先生が好きなんだ?」
耳元で囁く体《たい》操《そう》服《ふく》のようこ。
「あ、え、あえ? え?」
どう反応して良いかも分からずなでしこがおろおろする。いきなり直球を放られ、頭が軽くパニクっていた。
「あのね、あなた見たでしょ?」
「え? あえ?」
「わたしと啓《けい》太《た》が保《ほ》健《けん》室《しつ》でキスしていたところ」
「!」
なでしこが大きく目を見開く。やっぱりという表情でようこが溜《ため》息《いき》をついた。
「あなた露《ろ》骨《こつ》にわたしと啓太に接する態度がおかしかったもん……それに扉が開いていたし」
「わ、わたし誰《だれ》にも、誰にも」
「うん。あなたはきっと誰にも言わないと思う。だから、特別に教えてあげる。誤解しているならもっとまずいしね」
ちょっと悪戯《いたずら》っぽく、
「わたしと啓太は兄妹じゃなくってね、結婚してるの」
今度こそなでしこが息を呑《の》んだ。
それからようこがおおよその事情を誰もいない教室で説明し、なでしこはそれに聞き入る。二人は一時聞ほどで驚《おどろ》くほど打ち解けていた。
同じクラスの異端同士。教師に恋心を抱く少女二人。
秘密を打ち明け合い、共犯めいた同盟を結ぶ。
「はあ」
なでしこがようこの結婚生活を聞いて感《かん》嘆《たん》の溜息をつく。それからちょっと羨《うらや》ましそうな口《く》調《ちょう》で呟《つぶや》いた。
「わたしも薫《かおる》先生とそうなれたらな……」
もう彼女は自分の願《がん》望《ぼう》を隠し立てしなかった。ようこはにっと笑う。
「ま、ちょっとしたコツなんだけどね、男を動かすなんて」
「コツ……ですか?」
「そ」
ようこはちょっと考え込んだ。校庭からは運動部のかけ声。窓の外では新《しん》緑《りょく》の緑《みどり》が風に揺れている。
そこへ、
「お? ようことなでしこちゃん。なにやってるんだ?」
啓太がひょっこり廊下から顔を覗《のぞ》かせた。中に入ってきて、
「ようこ。お前、これから部活に行くんだろう? いいのか、油売ってて?」
「あ、うん。今、なでしこと乙女《おとめ》の会話をしてたの」
そこでようこがぴんと何かを閃《ひらめ》いた顔になった。啓太に会《え》釈《しゃく》をしているなでしこの耳元でひそひそと囁《ささや》いた。
「いい? なでしこ。これからわたしが男を操《そう》縦《じゅう》するテクニック、見せてあげるね」
「え? てくにっく?」
「そ。これから啓《けい》太《た》に缶コーヒーを買ってこさせるからよく学びなさい」
「お〜い、なにひそひそやってるんだよ?」
苦笑しながらそばに立った啓太をようこは悪戯《いたずら》っぽい目で見上げる。
「ね。啓太。お願《ねが》いがあるんだけど」
「なんだよ? 弁当ならもう分け前ねえぞ?」
「ううん。違うの。そんなのじゃなくって缶コーヒー買ってきて貰《もら》いたいの。わたしとなでしこの二つ分」
「はあ?」
当然、啓太は呆《あき》れ顔になった。
「お前、一応、俺《おれ》は曲がりなりにも教師だぞ? それをぱしらせ」
彼が何かを言い終わる前に楽しそうなようこはひょいっと伸び上がると体操服の上着を盛大に捲《まく》り上げた。そして、目を丸くしているなでしこと啓太を後《しり》目《め》に、そこにすっぽり啓太の頭を包み込む。
啓太の顔がちょうど形の良い胸元に直《じか》に埋まっている状態である。
「!」
なでしこが絶句している。
「なななにを?」
慌てふためいている啓太を逃がさないようにぎゅ〜と抱きしめる。満面の笑《え》み。じたばたと暴《あば》れる啓太。さらにそれを強く抱《ほう》擁《よう》して、ぎゅ〜。啓太が徐《じょ》々《じょ》に罠《わな》に捕らわれた獣《けもの》のように動かなくなってきた。
頃《ころ》合《あ》いよしと見たのだろう。ようこが啓太の顔を離《はな》す。そそくさと裾《すそ》を収め、色っぽい流し目でそっと囁《ささや》いた。
「……缶コーヒー、買ってきて」
ちゅっと頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》にキス。
「お願い」
啓太は鼻の下が異様に伸びた、呆《ほう》けた目で、
「うん」
こっくり子供のように頷《うなず》いて教室から出ていってしまった。ようこはくるっとなでしこを振り返り指を立てる。
「ね? 簡《かん》単《たん》でしょ?」
「出来ません、そんなこと!」
真《ま》っ赤《か》になったなでしこが立ち上がって叫んでいた。
『そんなことすれば立派な痴《ち》女《じょ》です、痴女!』
と、なでしこは言《げん》下《か》に却下した。
したはしたのだが、あれから一晩じっくり考えてみて、確《たし》かに『大胆に迫る』というのも手の一つだと思い直すようになっていた。さすがにあんな無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》は出来ないが、アプローチはしてみたいという気持ちもちょっとはある。
男って単純だから。
というようこの言葉には一理あると思った。普《ふ》段《だん》とちょっと違う衣《い》装《しょう》や仕《し》草《ぐさ》に案《あん》外《がい》簡《かん》単《たん》に参るモノらしい。二日後、なでしこは倉庫に向かっている。胸元にはようこが貸してくれた『男心を揺さぶる七つの服』が詰まった鞄《かばん》を抱えていた。
なんでもようこはこの衣装で啓《けい》太《た》の心をぐっと掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んだのだそうだ。
同じ血の流れている薫《かおろ》なら結構有効かも知れない。なでしこはどきどきと胸を高鳴らせ、引き戸を開けた。
中には文化祭で使う垂れ幕や立て看板にがたの来たパイプ椅《い》子《す》にスチールの机。さらにマイクスタンドと小型のアンプ。体育祭で使った大玉に過去十年分の名《めい》鑑《かん》が詰まった本棚や学校関係者向けの月刊誌の山など。
雑多なモノが本当に雑然と詰まっている。
なでしこがここを選んだ理由は二つだ。
まず滅多《めった》に人が訪れない。
次に金《きん》縁《ぶち》の入った等身大の姿見があること。なでしこはマットの上に腰を下ろし、期待に胸を躍《おど》らせ、早速、鞄を開けてみた。
中に入っていた衣装を取り出し、日の光に晒《さら》してみる。
絶句。
「!」
スチュワーデス、ナース、カウガール、チャイナ、バニーガール、婦人|警《けい》官《かん》、浴衣《ゆかた》。いずれも驚《おどろ》くほど大胆に胸が開いていて、呆《あき》れるほど鋭《えい》角《かく》なスリットが入っていた。なでしこはごつんと額《ひたい》を前に打ちつけていた。
「やっぱり痴女ですよ、これ……」
着て歩いたらわいせつ罪。薫先生に見せたら、違う意味でにっこり優《やさ》しく微笑《ほほえ》まれそうだった。というか、ようこは普段からこんなのを着ているのだろうか?」
啓太先生共々、一体なにをやってるんだか。
呆れ、溜《ため》息《いき》をついたなでしこは服を仕舞《しま》おうとしてふとバニーガールの衣装で手を止めた。これはそれほど露《ろ》出《しゅつ》が激《はげ》しくない。
普通の、と言ったら語《ご》弊《へい》があるが、ただのバニーガールである。なでしこはちょっと背後を振り返る。当然、誰《だれ》も入ってくる気配《けはい》はない。
「……折《せっ》角《かく》だし、着てみようかな」
頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を染め、ウサギ耳のカチューシャを頭に乗せたなでしこがそう呟《つぶや》いた。
着てみた。
かなりHだった。なでしこの豊満な胸が魅《み》惑《わく》的《てき》な谷間を作っている。白く滑《なめ》らかな二の腕。網《あみ》タイツに包まれた肉づきの良い足。ヒール。
バニーの耳。
羞《しゅう》恥《ち》に染まる頬[#「頬」はunicode9830]。
「ふふ」
鏡《かがみ》の前でくるっとポーズを取り、
「薫《かおる》先生、お飲物をどうぞ」
そっと澄《す》ましてカクテルを手渡す仕《し》草《ぐさ》をする。端《はた》から見るとかなりおかしい。というか端から見なくてもおかしい。
自分でも自覚したのだろう。なでしこはさらに真《ま》っ赤《か》になり、
「や、やっぱりこういうのはわたしにはダメね」
着替えをすべく背中のファスナーに手をやったその途《と》端《たん》。
がらっと引き戸が開いた。
「あれ? おかしいな。誰《だれ》かいたように思ったのだが」
中に入ってきたのは生《き》真面目《まじめ》な表情の仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》である。彼は後ろ手に引き戸を閉めると、きょろきょろ薄《うす》暗《ぐら》い室内を見回した。
奥の、かなり大きなロッカーにも目を留めたがすぐに視《し》線《せん》を外す。
「全く、いくら相手には罪がないとはいえ困ったモノだ……」
ぶつぶつ言いながら彼はいきなり服を脱ぎだした。
ロッカーの中で誰にも聞こえない、小さな悲鳴が上がった。
「この、ここか!?」
黒のブリーフに靴下と革靴だけは履《は》いているというかなり異常な格《かっ》好《こう》だが別に彼に露《ろ》出《しゅつ》の趣《しゅ》味《み》はない。
単にノミを退治しているだけなのである。
彼はどういう訳《わけ》だか、犬舎の犬に懐《なつ》かれていた。今日《きょう》も彼の顔を見た犬の一匹が引き綱《づな》を振り切ってじゃれかかってきた。どうやらその犬がノミ持ちだったらしくて、しばらくするうちにやたらと痒《かゆ》くなってきた。
そこで一人裸になれる場所を求めてこの倉庫にやってきたのである。
着ていたスーツを裏返しにしたり、ズボンを逆さに振ったりして獲《え》物《もの》を追いつめる。
「この! この!」
と、大の男がこれ以上ないほど真剣な顔でノミを潰《つぶ》していた。
そこで彼はふと。
というかようやく気がついた。今、座っているマットの辺《あた》りに鞄《かばん》が置いてあり、そこから奇妙な衣《い》装《しょう》がはみ出していた。
さらにその隣《となり》の棚には丁《てい》寧《ねい》に畳んだセーラー服が置いてある。
「……な、なんだこれ?」
それを手に取り、広げてみて一気に青くなる仮名史郎。
その時。
にぎやかな声と共に、再び引き戸が開かれた。
「啓《けい》太《た》、ここなら誰もいないよ
「倉庫か……ま、いかにもな場所だな」
入ってきたのは川《かわ》平《ひら》啓太とようこである。彼らは引き戸を閉めるのもそこそこにいきなり熱《あつ》い抱《ほう》擁《よう》を交わし合った。
ようこはつま先立ちになって、啓《けい》太《た》は彼女の腰にぐっと手を回して、かなり時間をかけたとろけるような情《じょう》熱《ねつ》的《てき》なキス。
「ふう」
やがてようやく顔を離《はな》したようこが熱《ねつ》っぽく潤《うる》んだ瞳《ひとみ》で啓太を見上げた。
「安心したか?」
と、彼女の前髪を掻《か》き上げながら啓太。
「とっても」
火《ほ》照《て》った声でようこが答えた。啓太がもう一度、唇を寄せようとした拍《ひょう》子《し》にようこがマットに踵《かかと》を取られ、二人はそこへ倒れ込む。
「ふふ」
「はははは」
おかしくて、抱き合ったままの姿勢で二人は笑う。それからまたキス。ふとようこが悪戯《いたずら》っぽい笑《え》みを浮かべ、そっと囁《ささや》いた。
「……啓太、マットがあるねここ」
「おう。あるな」
「誰《だれ》も来ないよね、きっと」
「そうだな。多《た》分《ぶん》」
「……わたしたち夫婦だよね?」
「だから?」
「だから?」
啓太はにっと笑い、上着を脱ぎ始めた。ようこも起き上がってセーラ服のリボンに手をかける。啓太はズボンを脱いだ。ようこはスカートと上着を放り、スリップと下着だけになった。がたごとと慌てたような音がした。
そ、それだけは止《や》めてくれというような悲鳴じみた音だった。
啓太もようこも動きを止めた。二人の視《し》線《せん》がロッカーに向かう。まさかな、と二人は首を捻《ひね》った。そこで啓太はマットのそばに落ちていた男物のスーツを、ようこはセーラー服となでしこに貸したはずの衣《い》装《しょう》鞄《かばん》を見つけた。
怪《け》訝《げん》そうに顔を見合わせる二人。
その瞬《しゅん》間《かん》。
三《み》度《たび》、引き戸が開かれた。
「やれやれ耄《もう》碌《ろく》はしたくないものだの」
入ってきたのはなんとこの学校の理事長その人である。後ろから白いジャージに身を包んだ体育担当のはけも続く。
「どこら辺だったかの?」
「確《たし》かその棚の奥|辺《あた》りだったじゃないですかね」
はけが答え、老《ろう》婆《ば》は棚が向かい合わせで並んだ一角へと進んだ。はけもその後を追ってふと足を止める。
「!」
マットの上に衣服が散乱している。慌てて手に取ってみると、スーツの上着やらセーラー服のスカートやら、靴下。
「!!!!」
はけは目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた。それからすぐに閃《ひらめ》いた。この黒いセーラー服を着ているのは学園内でただ一人だ。同じく枯れ葉のような色合いの茶色いスーツにも見覚えがあった。おおよそ直前までここで何があったかを悟ってはけは焦《あせ》って周囲を見渡す。
心なしかロッカーがぶるぶると震《ふる》えているようにも見える。
はけは思わず顔を覆《おお》って溜《ため》息《いき》をついた。
「……どした、はけ?」
老婆が振り返った。
「な、なんでもありません!」
はけはそう返事をすると、そそくさと衣服を背中に隠した。
「そうか?」
老婆は怪《け》訝《げん》そうにしながらもまた腰をかがめて捜し物を再開する。以前、男《おとこ》寺《でら》学園の校長から贈《おく》られた将《しょう》棋《ぎ》の駒《こま》だ。
「ああ〜、そうじゃった、そうじゃった」
ぴしゃりと老婆が額《ひたい》を打った。
その間、はけは大慌てで衣服をかき集め、見えないところにぎゅうぎゅう押し込んでいた。あんまり気がせいていたので、衣服が二人分にしてはやや多すぎることや、妙な衣《い》装《しょう》が詰まった鞄《かばん》のことには気がついていない。
「確かそのロッカーに入れておいたんじゃ」
はけは驚《きょう》愕《がく》した。
「あ! なんでしょう、あれは?」
と、老婆の背中側を驚《おどろ》いたように指差した。
「え?」
と、彼女が振り返っている間、転がるように走ってロッカーの扉の前に立つ。
「ん? なんじゃ?」
老婆が怪訝そうにきょろきょろしている。はけは早口で、
「将棋の駒、将棋の駒」
と、背後に囁《ささや》きかけた。そっと申《もう》し訳《わげ》なさそうにロッカーの扉が開いて、その隙《すき》間《ま》から白い手が伸びてくる。
桐《きり》の小箱を持っていた。
はけはそれを後ろ手に受け取った。また貝のようにひっそり閉じるロッカー。
「なんじゃ……なにもおらんぞ?」
眉《まゆ》をひそめて老《ろう》婆《ば》が振り返った。危ないところだった。はけは強《こわ》張《ば》った笑《え》みで、
「申し訳ありません。どうやら見間違いでした。ほら将《しょう》棋《ぎ》の駒《こま》。今、ロッカーを開けて取り出しましたよ」
それを見せ、老婆の視《し》線《せん》からロッカーを隠すように動く。
「ん。おおそうか……」
怪《け》訝《げん》そうにしながらも老婆はそれを受け取り、
「では、戻るとしようかの」
出口に向かった。はけは去り際《ぎわ》、きっと睨《にら》むように背後を振り返り、
「程《ほど》々《ほど》にしてくださいよ!」
そうきつい調《ちょう》子《し》で囁いた。ぴしゃりと閉じる引き戸。再び静寂が戻り、きいっと音を立ててロッカーが開いた。
まずバニーガール姿のなでしこ。次に黒いビキニパンツに靴と靴下というヘンタイ的なスタイルの仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が現れた。同じくワイシャツとチェックのトランクス、裸足《はだし》という啓《けい》太《た》。最後に薄《うす》青《あお》い下着とスリップ一枚のようこ。
どこにこれだけ入っていたのだろうと言う人たちがぞろぞろと青白い、まるでお通夜の帰りのような沈《ちん》鬱《うつ》な表情で出てくる。
次の瞬《しゅん》間《かん》。
「あ、あんたらそういう関係だったのか!?」
という啓太の叫び声を皮切りに、
「ご、誤解だ! 私はただ」
「あんた薫《かおる》先生が好きだったんじゃないの?」
「ち、ち、ちがいますよ! これは仮名先生が勝手に!」
「なるほど」
「違うと」
「話を」
「あ〜、バニーガールが好きなんだ」
「というか君たち神聖な学舎で」
わいわいがやがややっていたのがぴたりと止まる。
再度再度、引き戸が開いた。
「相変わらず埃《ほこり》っぽいところだねえ〜」
元気な声で入ってきたのはショートカットの美少女たゆねである。次に、
「まあ、特に用がなければこんなところ来ないモノね」
鷹《おう》揚《よう》に頷《うなず》いて赤毛のせんだんが続く。
「わ〜い、人体模型があるよ」
とっとと奥に駆けていくのは小さなともはね。
「暗いから危ないですよ」
おっとりと最後に入って引き戸を閉めるのは眼鏡《めがね》のいぐさである。双《ふた》子《ご》のいまりとさよかがマットの脇《わき》に落ちていた鞄《かばん》を拾い上げた。
「ねえ、これじゃないかな?」
「ちゃんと人数分あるみたい」
彼女たちは啓《けい》太《た》とようこのために歓《かん》迎《げい》パーティーを企画していた。いっそ、仮装パーティーにしようよ、と発案したのは双子である。
小さなともはねがすぐに大賛成した。
せんだんも頷く。
「そ〜いうのも面《おも》白《しろ》いかもね」
騒《さわ》ぐ口実になる。
そうして皆は演《えん》劇《げき》部《ぶ》の許可を得て、衣《い》装《しょう》を探しにゃって来たのである。
「演劇部の天《あま》草《くさ》さん、予《あらかじ》めチョイスしてくれていたのかしら?」
「あはは、婦人|警《けい》官《かん》だ」
「私、このナースにする」
「なら、私このスッチー」
「ゆ、ゆかたですか?」
わいわいがやがや選《えら》んで、
「試しにちょっと着てみる?」
誰《だれ》からともなく笑う。ちょっとした罪を共有するような、秘密めかした、興《こう》奮《ふん》を抑えた笑い声だ。幸いここは普《ふ》段《だん》誰も来ない場所だし、大きな姿見もある。
「くしし」
悪戯《いたずら》っぽく首をすくめて早速、上着のボタンを外し始めたのは双子である。たゆねがちょっと迷ってからスカーフのノットを、いぐさもせんだんも微苦笑してそれに続いた。若々しくも瑞《みず》々《みず》しい肢体が露《あら》わになり始めた。
ところでただ一人。
どう考えても、どう見てもサイズが合いそうにないともはねはふて腐れたように奥の方へ向かっていた。
「ちぇ、つまんないの」
後ろ手を組み、床《ゆか》をちょっと蹴《け》ってから、顔を上げる。ことん。今、微《かす》かだが確《たし》かに視界の端でロッカーが動いた。
「ネズミ?」
ちょっと恐《こわ》くなって背後を振り返る。
皆はきゃっきゃと笑いながら着替えている。なんとなくそれが癪《しゃく》なのでともはねは一人でそのロッカーの前に立った。
恐る恐る開けてみる。そっと。次にひと思いに大きく。
その中の異常極まりない光景……。
ともはねは言葉を失う。
次の瞬《しゅん》間《かん》、都合八本の手がぐわっと伸びてきて一瞬でともはねを中に引きずり込んだ。さながら小魚を飲み込むイソギンチャクの如《ごと》き動きだった。そして、また何事もなかったかのようにかちゃりと静かに閉じるロッカー。
「あれ、ともはねは?」
と、せんだんが振り返った時には誰《だれ》もいなかった。
「うわ〜〜〜」
その声でせんだんは仲間たちの方に視《し》線《せん》を戻した。
「これ、ちょっと丈《たけ》が短すぎない?」
「えっちだね〜」
双《ふた》子《ご》がけらけら笑っている。着替え終えてみて分かったのだが、かなり際《きわ》どかった。双子が着ているのはスチュワーデスと、ナースで共にスカートの丈がかなり短い。袖《そで》の部分が少し余っているから本来この服を着るサイズの人は下着がほとんど見えかかるはずである。
双子よりも少し身長の高いいぐさは真《ま》っ赤《か》な顔でスカートの裾《すそ》を直していた。
彼女は婦人|警《けい》官《かん》だった。
眼鏡《めがね》に気弱そうな外見。剥[#「剥」はunicode525D]《む》き出しになった足が、嗜《し》虐《ぎゃく》的《てき》な色気を放っている。逆にビキニスタイルのカウガールたゆねは健《けん》康《こう》的《てき》でよく似合っていた。カウボーイハットにガンベルト。白いブーツ。銀のバッジ。
「へへ」
銃でくいっと帽子の鍔《つば》を持ち上げる。結構、得意そうだった。同じくチャイナ服のせんだんもスリットはいささか過《か》激《げき》だが、豪華な刺《し》繍[#「繍」はunicode7E61]《しゅう》が彼女の派《は》手《で》な美《び》貌《ぼう》によく似合っている。
「う〜ん。ちょっとこれを薫《かおる》先生の前で着てみるわけにはいかないわね」
せんだんが苦笑した。
「同感。啓《けい》太《た》先生は喜びそうだけどね♪」
双《ふた》子《ご》の一人がそう言って、全員なんとなく黙《だま》り込む。これは本当に演《えん》劇《げき》部《ぶ》が使っていた衣《い》装《しょう》なのだろうか?
そんな疑問と妙な背徳感が込み上げてきたその時。
「うん。薫《かおる》、ここじゃここじゃ」
という老《ろう》婆《ば》の声が聞こえてきた。
「はあ、倉庫」
と、薫の感心したような声が続く。少女たちは顔を見合わせ、わたわたと動き回った。こんな格《かっ》好《こう》を憧《あこが》れの薫先生の前に晒《さら》すわけには断じていかなかった。そしてまるでそれが必然であるかのように、全員|揃《そろ》ってロッカーに目を向けた。
トドメに再度、引き戸が開かれた。
「わしはな、あのはけの態度には見覚えがあったんじゃ」
そう言いながら老婆はずかずかと倉庫に入ってくる。
「あやつ、あの態度はずっと前に啓太が夜遊びをしに部屋から抜け出したのを庇《かば》ったときとそっくりじゃ。全く、思い出して良かったわい」
「はあ、はけ先生には僕ら小さい頃《ころ》からお世話になってますものね」
二人は真《ま》っ直《す》ぐにロッカーへ向かう。
ミシミシとロッカーの扉がたわんでいる。老婆の目がきらんと光った。
「ふん。やはりあのロッカーか……」
小さくそう呟《つぶや》き、そっと薫に目配せ。唇の前で人指し指を立てた。薫は困ったような顔で頭をこりこりと掻《か》く。
二人は抜き足差し足でそっとロッカーに近づく。老婆はそこにある何かを暴《あば》くために。薫は事と次第によっては自分が間に入って丸く収めるために。
老婆がすうっと息を吸い込み、思いっきり扉を開こうとしたその途《と》端《たん》。
「うわああああああああああ──────────!」
そんな声と共に勝手に扉が開いて人が雪崩《なだれ》を打って転がり出てくる。老婆も、そして珍しいことに薫も目を丸くしていた。
ゴージャスなチャイナ服のせんだん。あいたたたと頭を抱えているカウガール姿のたゆね。もつれ合っているのはいまりとさよか。その下でべそを掻いているいぐさ。きょとんとしたまま逆さまになっているともはね。
その背後。
あはは。
と、強《こわ》張《ば》った笑みで頭を掻いているのは黒いブリーフに靴と靴下というヘンタイ的な外《がい》観《かん》の仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》だ。同じく大胆なバニーガール姿のなでしこが唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としてこちらを見ている薫《かおる》を認めて、ふらっと気を失った。
はあ、苦しかったと溜《ため》息《いき》をついているのはスリップ一枚のようこである。そして、最後にワイシャツとトランクス一丁の啓《けい》太《た》が恐る恐る、
「ど、ど〜も」
と、軽く片手を上げる。拳《こぶし》を握り込み、ぶるぶると小刻みに震《ふる》えていた老《ろう》婆《ば》が妙な猫《ねこ》撫《な》で声で尋《たず》ねる。
「……お前ら一体、その狭いロッカーの中でなにをやっておった?」
ちょうど理事長の不在に気がついて慌ててはけが外から飛び込んできたが遅かった。あちゃあと顔を押さえる。
啓太が皆を代表して強《こわ》張《ば》った声で答えた。
「え、えっと、これはその、あの」
「なんじゃ、言うてみい。ほれ、言うてみい」
「え〜」
啓太は指を一本立て、愛《あい》嬌《きょう》良く、
「……かくれんぼ?」
「このバカ者があああああ──────────────!」
その瞬《しゅん》間《かん》、理事長の雷が落ちた。
結局、人数があまりにも多かったのと事実関係が錯《さく》綜《そう》していたため、真相究明は上手《うま》くなされなかった。全員、二週間のトイレ掃除を罰として申しつけられる。なでしこの恋心は上手く秘められ、啓太とようこの関係はきちんと伏せられた。
私立|犬《いぬ》上《がみ》女学院の学園生活はまだまだ波乱に富んでいそうだった。
空は澄《ちょう》明《めい》。金《こん》色《じき》の稲《いな》穂《ほ》が見渡す限り一面にそよいでいる。編《あ》み笠《がさ》を被《かぶ》った農夫たちが昨晩《ゆうべ》、丹誠を込めて研《と》いでおいた鎌《かま》を片手に稲刈り作業に勤《いそ》しんでいた。
子供たちは大人《おとな》たちが刈った稲を抱え、台車に乗せている。路《ろ》傍《ぼう》に生えている草をゆっくりと噛[#「噛」はunicode5699]《か》んでいるのはこれからその台車を引く予定の水牛だ。軽快な笑い声と華《はな》やいだ歌声がそこかしこに響《ひび》いていた。この刈り取りが済めば村の祭りまでもう間もないからだ。一年の勤労が報《むく》われる日々。喜びと実りの季節。
赤とんぼがすいっと軽《かろ》やかに空を過《よ》ぎって秋の風を運んできた。
「はあ、とっても良い景色なんだけろ」
そんなのどかな田園風景を遥《はる》か高みから見下ろしている一匹の巨大なカエルがいた。
「心が安まるんだけろ〜。近代に入ってオートメーション化した農業は確《たし》かに生産性の面では大きく進歩したんだけど情《じょう》緒《しょ》の点では明らかに物足りなくなったんだけろ。ただ、これはボクがあくまで第三者だから言えるんであって、消費杜会に組み込まれた農業は必然的に単価を落としていく必要があって、人件費に多くのコストを割《さ》くわけにはいかないんだけろ。しかし、これもまた一面的な見方に過ぎず、例えば特定の農作物をブランド化していく方法では」
と、ぶつぶつ理屈っぽい独《ひと》り言を言っているカエル。
このカエルがいるのは空にぽっかりと浮かぶ巨大な白い雲の上だった[#「白い雲の上だった」に傍点]。
カエルはその雲のふちぎりぎりに腹ばいになり、手足をべたっと投げ出して、地上を見下ろしているのだ。
ふと。
地上で稲刈りをしていた年老いた農夫が強《こわ》ばった腰を起こして、肩からかけていた布で額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》った。ついで空に浮かぶ綿雲を皺《しわ》だらけの笑顔《えがお》で見上げる。カエルは、
「はわわわ、まずいんだけろ」
二本足でひょっこりと立ち上がるとそそくさと雲の縁《ふち》から中心に向かって逃げ出した。その老農夫と目が合ったような気がしたのだ。しかし、カエル自身も歩いているうちにすぐに気がついたがその心配は実は全くの杞《き》憂《ゆう》だった。
この雲には人の認《にん》識《しき》を阻《はば》む不可視の結界が幾重にも覆《おお》われているからだ。
ここは落ち仙≠ニ呼ばれる仙人たちが住まう異界なのである。
雲はさながら一つの離《はな》れ小島であった。
直径二十キロほど。周辺部分は確かに白い雲で出来ていたが中心には気の遠くなるほど高い山が聳《そび》え立ち、その山を中心にして中国の墨《すみ》絵《え》などで描かれるような牧歌的な、緑《みどり》豊かな景色が広がっていた。まさしく仙境と呼ぶのにふさわしい急《きゅう》峻《しゅん》な岩肌に、賢《けん》人《じん》が散策するのに適した竹林。清らかな小川や趣《おもむき》のある東屋《あずまや》などがあちらこちらに点在していた。
カエルはひょこひょこと器用な足取りで歩くと、
「しかし、プロレタリアートなニンゲンたちは偉いんだけろ〜。ちゃんと汗水流して労働してその対価を得ているのだけろ〜」
腕を組み、ひとしきり感《かん》嘆《たん》したような溜《ため》息《いき》をついた。
「はあ、だからこそ祝祭という非日常のハレの舞《ぶ》台《たい》が意味を持つんだけろ。対して都市部ではハレの場面が限りなくケの場面と近接してしまって人は四季の移り変わりというものを己《おのれ》の身体感覚で感じられなくなってるんだけろ〜。個人と自然という二元構造の消失だけろ」
自分で言って自分で小首を傾《かし》げる。
「ん〜、この辺の問《もん》題《だい》は詳細に研究してみる価値があるけろ」
それからはっと我《われ》に返って少しもの悲しそうな顔になった。
「でも」
と、自《じ》嘲《ちょう》的《てき》に空を見上げる。まるで井《い》の中の蛙《かわず》のように。
「……ボクはここからずっと出られないんだったけろ」
落ち仙
それは天界で犯罪を行ったり、重度の過失を起こした神《しん》仙《せん》が地上に落とされた状態を指す。そしてこの雲に浮かぶ異境はその落ち仙≠スちを収容する一種の流《る》刑《けい》地《ち》であり、猛《めん》省《しぇん》蘭《らん》土《つ》と天界から呼ばれていた。
カエルの名前は白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》。
元々は天界で下級役人のような地位に就《つ》いていたが、そそっかしい性格が災いして、仙人たちの最上位、天帝の秘蔵していた大事な皿を割った上に、天《あま》翔《かけ》る駿《しゅん》馬《め》のいる厩《うまや》を過失で焼いてしまったのだ。付け加えるならば厳《おごそ》かな酒宴の席で泥《でい》酔《すい》して居並ぶ重《じゅう》鎮《ちん》たちの前でげろげろ胃の中身を吐いてしまってもいた。
それから百年飛んで四年ここにいる。
悲《ひ》観《かん》的《てき》なカエルはこの世の終わりまでここに閉じこめられるものだとすっかり思いこんでいるが、実はそんなこともなくて天帝が彼に下した禁固期間は彼の罪の重さに相応してわずか(仙人の感覚からすればだが)三十年に過ぎなかった。
では、なぜその彼が刑期を七十年も超過してここにいるのかというと……。
懲《ちょう》罰《ばつ》を司《つかさど》る役人の記帳漏れや彼自身の存在感のなさなど幾つかの不幸な要因が重なった結果なのであって。
要するに天界からすっかり忘れさられているのである。
「けろけろ〜」
カエルはとぼとぼと道を歩き続けた。もう一つ。
刑期をきちんと終える以外にも落ち仙≠ゥら解放される方法があるのだが、そちらの方法はもっと期待できなかった。抜群の力とそれ以上に積《せっ》極《きょく》的《てき》に自分をアピールするバイタリティが必要なのだ。そういう訳《わけ》で引っ込み思案で、ネガティブな白山名君は時折、下界を見下ろしてそれを観《かん》察《さつ》することだけを無《ぶ》聊《りょう》の慰《なぐさ》めにここでの慎《つつ》ましい生活をずっと送ってきた。
大きな身体《からだ》を小さくすくめるようにして。
「おう。なんだ、そこを行くのはぼけカエルじゃねえか」
その時、カエルの行く手を別の神《しん》仙《せん》が遮《きえぎ》った。
首から下が白い導《どう》師《し》風《ふう》の服を着た人間で、首から上が黒いカラスの顔をしたれっぷう≠ニいう名前の神仙である。曲がりなりにも『名君』の名前を持ち、天帝に仕えていた経《けい》歴《れき》を持つ白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の方が神仙の格としてはれっぷう≠謔阯y《はる》かに上なのだが、れっぷう≠ヘその粗《そ》暴《ぼう》な性格と攻《こう》撃《げき》的《てき》な仙術でカエルに対して常に横《おう》柄《へい》に振《ふ》る舞《ま》っていた。
カエルはびくっと身を強《こわ》ばらせた。よく見れば彼の背後にれっぷう≠フ仲間であるぼうふう≠ニとっぷう≠燉ァっていた。
三体のカラスの顔をした神仙たちはにやにや笑いながら気弱なカエルを取り囲んだ。
まるでいじめられっ子と不良学生のような構図だった。
「おう。ぼけカエル」
そう言われてカエルはおどおどと周囲を見回した。しかし、周囲に人《ひと》影《かげ》はなく、助けてくれる人とてなく、カエルは完全に孤立していた。顔の辺《あた》りから嫌《いや》な感じの脂汗が勝手にしたたり落ちている。足が小刻みに震《ふる》えていた。
「おうおうおう! ちょうどいいところで出会ったぜ、おう!」
れっぷう=Aとっぷう=Aぼうふう≠ェ揃《そろ》って顔を突き出し、睨《ね》め上げてくる。よく見ると彼らの頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》には切り傷があった。
れっぷう≠ノ至っては片目に眼帯をしている。
大変、人相の悪いカラスたちである。
「な、なにか用?」
白山名君は精一杯の勇気を振り絞ってそう尋《たず》ねてみた。れっぷう≠ェくわっと口を大きく開いて叫んだ。
「とぼけんじゃねえええ!!」
カエルは思わず「ひっ」と悲鳴を上げて身をすくめた。れっぷう≠ェ大声で、
「あのな、こっちはてめえのせいで好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》にとっちめられて大変だったんだよ!」
「は? な、なんのこと?」
「くわあああ!!!」
「わ、や、やめてえ! 嘴《くちばし》でつっつかないで!」
「て、め、え」
れっぷう≠ヘ脅しつけるように一言一言区切って言った。
「俺《おれ》たちが食料庫のご馳《ち》走《そう》くすねたのを好天玄女に告げ口したろう?」
「あ、あえ?」
カエルはまず前足で頭を抱える姿勢で小首を傾《かし》げる。
それからはっと思い出したように叫んだ。
「そ、それは誤解だけろ。ボクはただ食料庫の管理当番だったから足りなくなった食料を好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》さまにご報告しただけだけろ! 君たちが犯人だったなんてこれっぽちも! 客《きゃっ》観《かん》的《てき》事実と主《しゅ》観《かん》的《てき》憶《おく》測《そく》が微妙に混同されてるけろ!」
「やっかましい!」
れっぷう≠ェ一言のもとで白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の反《はん》論《ろん》を切って捨てた。
「いつもいつもべらべらと小《こ》難《むずか》しい能書きばっかり垂れやがって! どっちみちこっちが酷《ひど》い目にあったのは変わらないんだ! おう、おまえら腹いせにやっちまえ!」
三羽のカラスたちは一斉に白山名君の頭を嘴《くちばし》で突っつく。
「わ、わあああああ!!!」
白山名君は頭を押さえ、縮《ちぢ》こまった。
そこへ。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああ!!!」
白山名君の悲鳴を遥《はる》かに上回る絶叫が聞こえてきて。
ひゅ〜ん。
と、空の彼方《かなた》からナニかがこちらに向かって飛来してきた。岩か? 鳥か? それは唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としているカエルやカラスのすぐそばで地面に着弾して、激《はげ》しい土煙を立てる。
まるで大砲の玉だ。
「な、なんだ?」
れっぷう≠ェしゃがれた声で「があ」と誰《すい》何《か》した。
「お前は誰《だれ》だ、があ?」
「お、おたすけ……たすけて」
土煙の向こうから泥だらけの物体がよろよろと這《は》い出てきた。
よく見るとそれは十一、二くらいのまだ幼い顔立ちをした男の子だった。
「け、啓《けい》太《た》くん!」
白山名君が口元に手を当てて思わず叫び声を上げた。少年はれっぷう≠フ足にすがりつき、訴えた。
涙目で。
「た、たすけて……こ、ころされる。ぺちゃぱいに責め殺される!」
「は、はなせ、こら!」
カラスは足でその少年をげしげし蹴《け》り放した。なんだかよく分からないが関《かか》わり合いになってはいけないと本能的に察したのだ。
そしてその判断は結果的に正しかった。
少年が飛んできた方角から地面すれすれを滑《すべ》るようにしてシングルベッド大のちぎれ雲が凄《すさ》まじい勢いで彼を追いかけて来たのだ。その上には少年よりさらに幼い外《がい》観《かん》の美少女が乗っていた。腰元に手を当て、切れ長の目をさらにつり上げて叫んでいた。
「こら、啓《けい》太《た》! まだ折《せっ》檻《かん》終わってないからね!」
翡《ひ》翠《すい》のかんざしにやや装飾過剰の服をその少女は着ていた。
「げ。好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》……」
れっぷう≠ェ呻《うめ》くようにしてそう言った。
この少女こそなにを隠そう、猛《めん》省《しぇん》蘭《らん》土《つ》≠フ統括者であり、全《すべ》ての落ち仙≠スちをたった一人で監《かん》督《とく》している看《かん》守《しゅ》長《ちょう》でもあった。
名を好天玄女という。
幼い外見に反比例して仙術に関しては天界でも有数の実力者であり、本気を出せばここに閉じ込められている落ち仙≠スちが束になってかかっていても敵《かな》わないほど強かった。彼女はついっとその白く小さな手を伸ばして泥だらけの少年の襟《えり》首《くび》を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》み上げた。
「全く。一年もここにいるくせに、進歩がまるでないんだから!」
少年はしくしくと泣きながら首を横に振った。
「うう、ほんの出来心だったんだよ〜。堪《かん》忍《にん》してよう」
「女《にょ》仙《せん》たちの水浴びを一日に四回も覗《のぞ》き見してナニが出来心だ!」
少女は甲《かん》高《だか》い声で喚《わめ》いた。
「全く! ちょっと体術も法術もさまになって来たかと思えばこれだ! 最後の最後まで女仙にちょっかいをかけて! 前代未聞! 前代未聞だよ、こんな契約候補者! しかもだな、おまえ、私が水浴びする時だけ席を外していたって一体どういう了見だ!?」
「うう、ぺったんこ胸には俺《おれ》、ぜんぜん興《きょう》味《み》がないんだよ〜」
「んがあああ!!!」
その一言がまさしく好天玄女の怒りに油を注いだ。
「この! この! この!」
往復びんたで少年の頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》をばちばちしばき倒す、その茶髪のあどけない顔をした少年は「へぶ! ぶふ! うぐ!」とあり得ないほどの角度で仰《の》け反る。
彼女は音に聞こえたこの地で最強の神仙である。少女の外観は取っていてもその膂《りょ》力《りょく》は桁《けた》違《ちが》いに強い。少年の顔がみるみるひしゃげ、粘土のように歪《ゆが》んでいく。カエルははっと気がついて慌てて止めに入った。
「そ、そのへんで! 好天玄女様、どうかそのへんで! 啓太くん、死んじゃうけろ〜」
その身を挺《てい》した取りなしが効果を現して散《さん》々《ざん》、少年の頬[#「頬」はunicode9830]を打っていた好天玄女はふう、ふうと怒りの呼《こ》気《き》を発し、ふう〜の吸《きゅう》気《き》と共に感情を整えた。それから、少年の襟首を掴[#「掴」はunicode6451]んだまま、じろっと恐ろしげな視《し》線《せん》を上げた。
ちなみに少年は生死が不明なほど青ざめ、ぐったりしていた。カエルが「しっかりするけろ〜〜! 死んじゃだめけろ〜!」と取りすがってる。
好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》はふとその切れ長の目を細めた。
「……れっぷう=H」
ようやく周囲の状況に気がついたようだ。白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》とれっぷう≠スちを視野に捉《とら》えて、冷たい声を出した。
「なんだ? こんなところで白山となにをしている? ……まさかお前たちまたナニかおいたをかましていたんじゃないだろうな?」
れっぷう≠ェぎくっと身を強《こわ》ばらせた。慌てたように彼は言った。
「あ、あ、あ違う! 違うぞ!」
「こいつが道ばたで転んでいたから助け起こそうとしたんだがあ!」
「こんにちは≠チて何気なく挨《あい》拶《さつ》しただけだ、があ!」
「別に苛《いじ》めていたとか」
「因《いん》縁《ねん》をつけていたのでは全然ないがあ!」
好天玄女は落ち仙%ッ士の諍《いさか》いに対しては常に厳《げん》格《かく》だった。むしゃくしゃしていて白山名君をこづいていたなんてことがばれたらただではすまされない。とっぷう≠スちが焦るのも無理はなかった。
好天玄女はしばらく黙《だま》っていた。それから一言。
「分かった。ならばもう行くがいい」
と、ひらひら手を振った。
「え?」
だが、好天玄女はもう目も合わせなかった。
「聞こえなかったのか? 白山の面《めん》倒《どう》は私が見る。ご苦労だったな」
れっぷう≠スちが顔を見合わせた。どうやらこの場でのお咎《とが》めはなしのようだ。とりあえずほっとする。
彼らは立ち去り際《ぎわ》、それぞれ意味ありげに白山名君を見つめ。
目を剥[#「剥」はunicode525D]き。
余計なことを言ったら殺すからならな、くらあ?≠ニいう恫《どう》喝《かつ》の視《し》線《せん》で睨《ね》め上げてから、それぞれ横《おう》柄《へい》な足取りで遠ざかっていった。
「あ〜あ、折《せっ》角《かく》助け起こそうとしてやったのに礼の一つもいわねえ」
「変な疑いもかけられるしさ、全くやってらんねええなあ!」
聞こえよがしにそんなことを言っていた。好天玄女はふっとその外見とは不相応の大人《おとな》びた溜《ため》息《いき》をついて肩をすくめた。
それから今度は苦《にが》笑《わら》いで白山名君を見つめた。
「どうやら私に食料庫の件を報告したのがまずかったみたいだな、白《はく》山《さん》」
「え?」
と、白山|名《めい》君《くん》が取りすがっていた啓《けい》太《た》から好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》に向き直る。好天玄女は気さくに笑いかけた。
「いいよ、隠さないでも。それをあいつらに逆《さか》恨《うら》みされてなんかちょっかいかけられてたんだろ? 丸わかりだよ、それくらい」
白山名君は頭《こうべ》を垂れ、口《くち》籠《ご》もった。好天玄女の聡《さと》さがこういう時はかえって恨めしかった。
好天玄女は優《やさ》しく言う。
「大丈夫。今度はあいつらがなにも出来ないように私が守ってあげるからナニがあったのか話してくれ」
好天玄女は逆にそう言ってくれる。白山名君はますます頭を垂れた。本当なら全《すべ》てを話してしまいたかった。
今まで因《いん》縁《ねん》をふっかけられて苛《いじ》められたことも一度や二度ではない。
全てを告げ口して楽になってしまいたかった。
だが。
同時に脳裏にはあのカラスたちの恐ろしげな顔が思い浮かんでいた。好天玄女は確《たし》かに信頼できる人物だ。しかし、その彼女でも四六時中、彼を守ってくれる訳《わけ》にはいかない。好天玄女はこの広い猛《めん》省《しぇん》蘭《らん》土《つ》¢Sてに目を光らせないといけないのだ。
必ずどこかで自分は独《ひと》りぼっちになる。
その時、あの後先考えない凶《きょう》暴《ぼう》なカラスたちが自分を目こぼししてくれるとはとても思えなかった。
カエルは身《み》震《ぶる》いした。
それからおどおどと好天玄女を見上げ、いつもやってきたように。
卑屈な。
場当たり的な笑顔《えがお》を浮かべた。
「な、なんでもないけろよ? とっぷう≠ュんには本当に転んでいたのを助け起こして貰《もら》ったんだけろ?」
好天玄女はもう優しくもなく、冷たくもない目でじっと白山名君を見下ろしていた。カエルは慌てて言いつのった。
「ほ、ほんとうなんだけろ! ほんとうだけろ!」
やっかいごとは嫌いだった。
ちょっと我《が》慢《まん》すれば済むのなら問《もん》題《だい》を先送りすることを常に選《えら》んだ。
「うん」
好天玄女はその少女の外《がい》観《かん》には似つかわしくない能面みたいな顔で言った。
「お前がそういうならもうそうなんだろうな」
彼女は興《きょう》味《み》がなくなったみたいに白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》に背を向けると今までぶらんと死体みたいにぶら下がっていた少年の襟《えり》首《くび》を改めて掴[#「掴」はunicode6451]《つか》み直して、
「でもな、白山」
白い雲に乗って少年と共に飛び去る間《ま》際《ぎわ》。一言だけ。
「それでお前の気持ちは本当に良いのかな?」
あっという間に好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》の姿が遠ざかっていた。白山名君ははあっと溜《た》めていた息を吐き出した。それからやや自《じ》嘲《ちょう》的《てき》に笑って言った。
「これで良かったんだけろ……これで」
それからも白山名君はとっぷう≠スちにことあるごとにちょっかいをかけられた。まだこの流《る》刑《けい》地《ち》に流されて日の浅い彼らは日ごとにストレスを溜めているようだった。
ある時はこづかれ、ある時は足《あし》蹴《げ》にされ、それは日増しにエスカレートしていった。ひどい時にはぐうで殴られて、目の回りにあざが出来てしまった。猛《めん》省《しぇん》蘭《らん》土《つ》≠飛び回っている好天玄女も薄《うす》々《うす》そのことに気がついているようだが、特になにも言わなかった。
白山名君もまた出来るだけ場当たり的な笑顔《えがお》を浮かべ、とっぷう≠スちの暴《ぼう》力《りょく》を、好天玄女の冷ややかな視《し》線《せん》を保身の術でやり過ごした。
これでいいんだけろ
身体的暴力には無抵抗主義を貫くのが一番だけろ。いつか嵐《あらし》もきっと過ぎるけろ
しかし、それは一向に収まる気配《けはい》を示さなかった……。
「けろけろ〜」
あんまり手ひどく苛《いじ》められてカエルは鳴きながら雲の縁《ふち》に座っていた。膝《ひざ》を抱え、めそめそ泣きながら地上を見下ろしている。
地上は今、祭りの季節を迎えていた。
普《ふ》段《だん》質素な服に祖食で勤労に勤《いそ》しむ村人たちが一年に一度のハレの舞《ぶ》台《たい》を迎えて、皆色めき立ち、精一杯|装《よそお》い、精一杯ご馳《ち》走《そう》を振《ふ》る舞《ま》い、振る舞われる。
あちらこちらに飾り付けが出来、子供たちが歓《かん》声《せい》を上げて村の中を駆け回っている。うきうきと華《はな》やいだ気分がそこかしこに満ちている。日が暮れたら点《つ》けられる予定の提《ちょう》灯《ちん》を村人たちは各家の軒《のき》先《さき》に吊《つる》している。菱《ひし》形《がた》に竹で組んだ内《うち》枠《わく》に色とりどりに染めた布を張ったこの地方独特のモノだ。
「はふう」
白山名君はその光景を眺めてうっとりと溜《ため》息《いき》をついた。
ごく何気ない日常の景色が彼にとっては桃《とう》源《げん》郷《きょう》のように見えた。かつて暮らしていた天界などよりよほど美しく見えた。
それは彼が一年間ほぼ休み無しで下界を観《かん》察《さつ》していたからに他《ほか》ならない。
苛《いじ》められて。
不器用で居場所のない白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》にとって決して豊かな暮らしとは言えないけれど、しっかりと隣《りん》人《じん》や家族と結びついて生活を送っている人間たちが眩《まばゆ》く見えた。彼らに感情移入してひとときの安らぎを覚えていた。
実りの過程が、収《しゅう》穫《かく》の日々が我《わ》がことのように嬉《うれ》しく感じられた。
「けろけろ〜」
次第に腹ばいになり、顎《あご》を肘《ひじ》で支え、後ろ足をぱたぱた動かす。うっとりとした表情はまるで草花を愛《め》でる乙女《おとめ》のような表情だった。
「ちゃんと楽しむんだけろ〜」
自分は目の回りにアザが出来ているけど。
「頑張ってきた君たちにはその権利があるんだけろ〜。万国の労働者よ、一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、団結せよなんだけろ〜」
でも、そんなことを忘れて心ゆくまで楽しんでいた。そこへ。
「おお〜、下は祭りの季節だな! 大分、賑やかにやってるじゃねえか」
そんな声が聞こえてきた。
白山名君はぎょっとして顔を浮かせた。
気がつけばいつの間にか茶《ちゃ》色《いろ》い髪をした男の子が自分の隣《となり》に立っていて、額《ひたい》に小手をかざして下界を覗《のぞ》き込んでいた。
カエルはすぐに少年の正体に気がつき、
「な、なんだ啓《けい》太《た》くんなんだけろ。脅かさないでほしいけろ」
ほっと安《あん》堵《ど》の吐《と》息《いき》を漏らした。
少年はにっと白い歯を見せて笑った。
「よ、ピーピングカエル! 相変わらず元気にピープしてるな!」
「ぴ〜ぴんぐかえるは酷《ひど》いんだけろ〜。学術的な観察けろ〜」
カエルはそう言って抗《こう》議《ぎ》した。気安い相手と見えてカエルの口《く》調《ちょう》は自分で意《い》識《しき》せずとも楽しげなモノになっている。
それからふと気《き》遣《づか》わしげに、
「 ……そう言えばこの前は大丈夫だったけろ? ものすご〜く好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》さまにぶたれてたけど?」
少年がけらけら笑って答えた。
「まっかせろよ! 一年間、あの洗《せん》濯《たく》板《いた》の折《せっ》檻《かん》をくらい続けたお陰でな! 今やちょっとやそっとじゃびくともしなくなったんだ!」
えっへんと胸を張って威《い》張《ば》っている。その不死身に近いタフネスぶりがいつか何かの役に立つ時がくるのだろうか?
同じようにコンスタントに折《せっ》檻《かん》でも受けない限り到底その真価を発揮し得ないと思うのだが……。
まあ、とにかくカエルは曖《あい》昧《まい》に笑った。
「そ、それは良かったんだけろ」
カエルと少年はこうして時折、話を交わす仲だった。
半年ほど前、いつものように下界を観《かん》察《さつ》しているカエルの元にふらりと幼い顔立ちの少年が訪れた。彼は自分のことを川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》と名乗った。啓太|曰《いわ》くなんか覗《のぞ》きをやってるのかと思った≠フだそうだ。
仲間に入れて貰《もら》おうと思った
らしい。
それ以来、啓太はたびたびカエルのもとを訪れるようになった。そして大《たい》概《がい》、小一時間ほど他《た》愛《あい》もない世間話をして帰っていった。
白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》にとって啓太は眩《まばゆ》い存在だった。
その野《の》放《ほう》図《ず》な気性。
滅《めっ》多《た》にめげない天性の打たれ強さは、白山名君には全くないものだった。彼と話していると色々と塞《ふさ》ぎ込んでいた自分の気が不《ふ》思《し》議《ぎ》なくらい晴れた。
そして啓太ははるばる日本からやってきている非常に珍しい契約候補者でもあった。
その幼い、と言っても過言ではない年《ねん》齢《れい》の割に名だたる女好きであり、しかもとっぷう≠フような名うての乱《らん》暴《ぼう》者《もの》ですら恐れる好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》を相手にばかげた騒《そう》動《どう》を毎日のように引き起こしていた。
彼が来てからちょうど一年。
怒った好天玄女が彼に落とす落雷の音はもはや日常の一こまになっていた。
契約候補者。
それは落ち仙≠スちにとっての希望の光でもあった。現在、この猛《めん》省《しぇん》蘭《らん》土《つ》≠ノは七人の人間の契約候補者がいた。
いずれも正義≠ネり破《は》邪《じゃ》≠ネりを看板に掲げる霊《れい》能《のう》者《しゃ》たちである。自分独自の力でこの地を捜し出す者もいるにはいたが、大多数がこの川平啓太のようにその家系の慣習として送り込まれてきていた。
皆、己《おのれ》の力を磨《みが》くために猛省蘭土≠訪れるのである。
ここは落ち仙≠スちにとっては流《る》刑《けい》地《ち》だったが、彼ら邪《じゃ》を祓《はら》う人間からすれば他《ほか》に得《え》難《がた》い修行場なのであった。
彼らはまずやって来るとこの地の監《かん》督《とく》官《かん》である好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》から基《き》礎《そ》体力作りを徹《てっ》底《てい》的《てき》に叩《たた》き込まれた。
それは彼らの本来の流《りゅう》儀《ぎ》とは全く関係なく、均等に、重点的に行われた。好天玄女が放つ雷《らい》撃《げき》をよけながら竹林や渓谷を延々走り回るという過《か》酷《こく》なマラソンから始まり、凍《こご》えるような山の天《てっ》辺《ぺん》まで徒《と》手《しゅ》で昇りながら詩を百編作るという心のトレーニングもあった。
三日間絶食した上で巨大な酒《さか》壼《つぼ》を背負って激《げき》流《りゅう》を泳いだり、真《ま》っ暗《くら》闇《やみ》の中、飛び交う白《しら》刃《は》をよけたりと、そのあまりの過酷さに途中で脱落する者も後を絶たなかった。
余談だが川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》が有名になったのはその非《ひ》常《じょう》識《しき》なまでに厳《きび》しい鍛《たん》錬《れん》のあと本来なら一歩も動けないほど疲労しているはずなのにやおらむっくり起き上がるとせっせと女《にょ》仙《せん》たちにモーションをかけていた点による。
こうして半年ほども経《た》つと生き残った者たちは見違えるほどの精《せい》悍《かん》さを身につける。そこからさらにその者の個性に合わせて体術や法術がよりきめ細かく伝授された。
そして一年という長い時を経《へ》て、好天玄女から免《めん》許《きょ》皆《かい》伝《でん》を貰《もら》った者は落ち仙≠スちの一人と契約を結んでその力を己《おのれ》のモノとするのである。
同時に契約候補者から選《えら》ばれた落ち仙≠スちはその力の一部を供給するのと引き替えに罪を大きく免じられた。
よほどの大罪でも犯してない限り、自由の身になるのが常だった。
だから、この時期、非常に変わった光景がこの猛《めん》省《しぇん》蘭《らん》土《つ》≠ナは散見できた。さながらリクルートスタッフが学生の青田買いでもやるように、高位の存在であるはずの神《しん》仙《せん》たちが積《せっ》極《きょく》的《てき》にめぼしい契約候補者に声をかけ、あの手この手で自分と契約するようにし向けるのだ。
ある者は自分を指名してくれたら数年は身の回りの世話をすると申し出た。またある者は隠している財宝のありかを教えるとそっと耳元で囁《ささや》いた。ただし、上手《うま》くしたものでこうした勧《かん》誘《ゆう》があまりにも露《ろ》骨《こつ》すぎると、逆に高《こう》潔《けつ》な者が大多数を占める契約候補者から反感を買ってしまい逆効果となりかねない。
その兼ね合いが難《むずか》しかった。
そういえば、と白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》は思っていた。今日《きょう》の夜は奇《く》しくもその契約の晩である。一年間、殺人的に厳しい修行を耐えに耐えた契約候補者たちのハレ舞《ぶ》台《たい》であり、落ち仙≠スちからすれば刑期を勤め上げる前にここから解き放たれる唯一のチャンスでもあった。
「そうか、そういえばもうそんな季節だったけろ……本当にお疲れ様だったけろ。啓太くんもう誰《だれ》と契約するか決めたけろ?」
雲の縁《ふち》に二人並んで色々と話しながら白山名君が啓太に向かって尋《たず》ねた。啓太はにまあ〜と相《そう》好《ごう》を崩してから転げ回った。
「それがさあ、まだなんだよお。今のところ二人候補がいてさ、色の白い足の綺《き》麗《れい》な子と胸の大きな家庭的な子。どっちを選ぶべきかなあ?」
「さ、さあ?」
「いやあ、なにしろ苦労したろ? ここはもう絶対にめちゃくちゃ可愛《かわい》い子と契約を結びたい訳《わけ》だよね、俺《おれ》としても」
なにか根本的な勘違いを。
好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》ですらとうとう矯《きょう》正《せい》できなかった勘違いをこの子はずっとし続けているのではないか、と白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》は冷や汗を垂らしながら思っていた。
「あ、相性や力の強さは考えなくていいけろ? これから一生、霊《れい》能《のう》者《しゃ》として使っていく基本の力けろよ?」
「あ〜、いいよいいよ。そんなもん!」
少年は力強く言い切った。
「俺にとって大事なのは足が綺《き》麗《れい》か、おっぱいが大きいか、ただそれだけだ!」
啓《けい》太《た》はそう言って、次に深くため息をつき腕を組んだ。
「胸の大きな子はちょっとクールでつんけんしてるんだよな。でも、料理は得意で俺がその子を選《えら》んだらずっと食事は不自由させないっていうんだ。そこは魅《み》力《りょく》的《てき》なんだけどなんか発展性がないつうかさ、もう片方はなんか『色々してあげる♪』って言うし、ガードも甘そうなんだけどはっきりした明言はさけてるしさ。どうも騙《だま》されてる気がしないでもないんだよね」
実にお気楽なものであった。
人格すら変わる、と言われた過《か》酷《こく》な好天玄女の訓練を潜《くぐ》り抜けてこの脳天気な調《ちょう》子《し》を一年間維持してきたのである。
ある意味でとんでもない少年なのかも知れなかった。
ただ、こうして見ている限りではとてもそうは思えなかったが。
「まあ、でも、本当に長い間、お疲れ様だったけろ。いい人と契約結べるといいんだけろ〜」
悩んでいる少年を見て白山名君は労《ねぎら》うようにしみじみとそう呟《つぶや》いた。『頑張った人は幸せになるべきだ』というのが彼の哲学なのである。
「今日《きょう》はどこも祭りなんだけろ〜」
白山名君はまた下界に目をやってそう呟いた。啓太は大まじめにまだぶつぶつと二人の女《にょ》仙《せん》の魅力の違いについて独《ひと》り言を言っていた。
それからふと。
「そういえばさ」
彼の目がすうっと一《いっき》瞬《しゅん》だけ細くなった。
「さっきからずっと気になってるんだけど……」
声の調子を落として。
「お前、その目のアザどうした?」
カエルはぎくりとした。それから慌てて、
「あ、こ、これはそのぶつけたけろ! さっき歩いていたら木にぶつかったけろ!」
そう取《と》り繕《つくろ》った。「ふ〜ん」と啓《けい》太《た》はじっと白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》を見つめて言った。白山名君はたらりと脂汗を垂らして、アザを今《いま》更《さら》のように手で隠した。
ばれたか?
だが、啓太は、
「そっか。案《あん》外《がい》、お前、そそっかしいな」
そう言ってにこっと笑った。白山名君は大きく肩を落とした。それから力なく答えた。
「そ、そうなんだけろ……本当にボクはそそっかしいんだけろ」
啓太が好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》と違って鈍《にぶ》くて良かった。
そう思っていた……。
その日の夜、白山名君は憂《ゆう》鬱《うつ》な気持ちを抱えながらぺたぺたと猛《めん》省《しぇん》蘭《らん》土《つ》%烽歩き回っていた。そんな彼の気分とは全く関係なく、あちらこちらでどこか浮き足だった神《しん》仙《せん》たちがひそひそとうわさ話を交わし合っていた。
修行を終えた七人の人間たちが一体|誰《だれ》を選《えら》ぶか、という話《わ》題《だい》でどこもかしこも持ちきりだった。これに選ばれれば事実上、恩《おん》赦《しゃ》である。
当然、最初からそういったことを全く考えていない白山名君みたいなごくわずかな例外を除いて、どの神仙たちも互いに腹の探り合いをやって、少しでも自分の優《ゆう》位《い》性《せい》を確《かく》認《にん》しようとしていた。下《げ》馬《ば》評《ひょう》では「黒《こく》星《せい》妖《よう》君《くん》」という元々は天界の武術|師《し》範《はん》だった神仙と、「炎の髪」という名の女仙が有力とのことだった。
場合によってはその指名がかち合うかも知れない。そうなったら今度は人間同士の力量比べになる。選ぶ側が一転して選ばれる側になるのだ。「黒星妖君」は泰《たい》然《ぜん》自《じ》若《じゃく》と、「炎の髪」は妖《よう》艶《えん》に微笑《ほほえ》んでいるばかりだった。
彼らみたいに突出はしていないが契約候補者と内々に通じている神仙もどこか余裕だった。
逆にきわどい位置にいる神仙たちは残りの時間を精一杯使って契約候補者の気を引こうとしていた。しかし、人間たちの方でも出来るだけ強い力を持った神仙とより有利な条件で契約を結びたいので必死だ。
夜も更《ふ》けてくると、自然と意中の人間と神仙同士が組み合うようになった。まるでお見合いパーティーのようだが、あながちそう間違いでもない。
白山名君は泉のほとりで女《にょ》仙《せん》二人に囲まれ相《そう》好《ごう》を崩している啓太を見かけた。
確《たし》かに彼が言った通り二人ともとても綺《き》麗《れい》な女仙たちだった。互いに啓太を挟むようにしてにらみ合っている。
片方が啓太の腕を抱きかかえるともう片方も負けじと啓太の手を引っ張った。
「こいつは私と組むの! 組むのったら組むの!」
「おどきなさい、小娘! あんた、人の男寝取ってここに流されたんでしょ? もう少しくさい飯食べておいで!」
「おいおい〜。そんな二人とも喧《けん》嘩《か》しないで」
啓《けい》太《た》がにまあっと笑ってくねくね身体《からだ》をくねらせた。一年間の強烈な修行をひたすら綺《き》麗《れい》な女仙と契約を結ぶためだけに耐えてきた少年だ。
今こそまさに至福の時なのだろう。
白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》は彼女ら二人をちょっと見てほっとした。性格はともかくとして共に一流の力を持っている女仙たちだった。
片方は雪を使い、片方は影《かげ》で相手を縛《しば》る術を得意としていた。
どちらも攻《こう》撃《げき》的《てき》な仙術だから、啓太がその力を使えるようになればきっと彼の今後の人生において大いに役立つことだろう。
白山名君がじっと見ているとこちらに気がついた啓太がにこやかに手を振ってきた。白山名君も手を振り返すと女仙二人がきっとカエルを睨《にら》みつける。
あんたもこいつの取り合いに参戦する!?
そんな剣《けん》呑《のん》な目つきだった。カエルは滅《めっ》相《そう》もない、というように首をすくめるとそそくさとその場から離《はな》れた。
そのままぺたぺた歩いていく。
やがて彼は澄《す》んだ泉のほとりに来ていた。昼間は女仙たちの賑《にぎ》やかな水浴び場なのだが今はひっそりと静まりかえっていた。
軽くさざ波迄つその水面に冴《さ》え冴《ざ》えとした月が映り込んでいる。
「けろ〜」
白山名君は空を見上げて一声鳴いた。黄《き》色《いろ》い満月がちょうど空の真上にさしかかった時、人間と落ち仙≠スちの契約が一斉に行われる。人間が契約の文《もん》言《ごん》を口にし、相手の落ち仙≠フ術を自分の定めた方法で使えばそれで契約は成立する。
その時刻までもう間もない。
啓太がよい相手と契約出来るのは嬉《うれ》しかったが、もう明日《あした》から会えなくなると思うと寂しかった。
「けろけろ〜」
よく考えればこの地で好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》以外にまともに声をかけてくれて、話し相手になってくれたのは啓太一人っきりだった。
いなくなるのはやはり悲しかった。
「けろ?」
その時、白山名君は荒々しい足音と怒《ど》鳴《な》り声を聞き取って小首を傾げた。それはだんだん近づいてくる。
カエルはおろおろと周囲を見回してから、反射的に草むらに飛び込んだ。
間一髪。
とっぷう=Aれっぷう=Aぼうふう≠フ三人がその場に入れ替わるようにして現れた。彼らのうちの一人が突然、泉のほとりに生えていた柳《やなぎ》の木を思いっきり蹴《け》飛《と》ばした。
白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》は思わずびくっと身を竦《すく》ませた。
「がああ!!!」
さらにカラスたちは転がっていた小岩を次々と持ち上げると腹いせとばかりにそれを清浄な水面に放り込んだ。
どぼんとどぼんと水音が連続して立った。
いったいなにを彼らはそんなに荒れ狂ってるのだろう?
白山名君は怯《おび》えながらも一《いち》抹《まつ》の興《きょう》味《み》を抱いて、耳をそっとそばだててみる。悪態をつく彼らの口《く》調《ちょう》は早過ぎてよく聞き取れなかったが、次第に彼らがどの契約候補者たちからも契約を拒否されたことを怒っているのだと気がついた。
ここにはカラスたちとは比較にならないほどの強い力を持った落ち仙≠スちがごろごろしているのである意味、当然といえば当然の結果なのだが、とっぷう≠スちにはそれが我《が》慢《まん》ならなかったらしい。
「あと五十年も!」
「こんな辛《しん》気《き》くさいところにいられるか!」
「があああああ!」
めっちゃくちゃに地《じ》団《だん》駄《だ》を踏む。意《い》識《しき》してか無意識にか彼らが得意とする風の力が具現化してかまいたちのように周囲の物体を切り刻んだ。
すっぱ!
すっぱ!
はわわわわわ
目の前の草がすぱっと切り取られたのを見て白山名君は草むらの奥に移動して、より小さく縮《ちぢ》こまった。
くわばら、くわばらと心の中で祈る。
はあはあと肩で息をしながらとっぷう≠ェ悔しげに呟《つぶや》いた。
「くう。腹いせに俺《おれ》たちを無視した契約候補者たちを全員半殺しにしてやろうか?」
れっぷう≠ェ無責任に煽《あお》り立てた。
「おお、それは面《おも》白《しろ》い! やってやろうか? どうせ選《えら》ばれなかった身の上だ。今日《きょう》の夜を思いっきりめちゃめちゃにしちゃえ!」
ぴくっと白山名君が顔を上げた。
そんなことになったら……。
啓《けい》太《た》が危ない!
だが、すぐにぼうふう≠ェ宥《なだ》めるように言った。
「まあまあ、ちょっと待て兄者たち。その気持ちは俺《おれ》もよ〜く分かるがそんなことをしたら好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》が黙《だま》っていないぞ?」
「う〜ん」
れっぷう≠ェ唸《うな》った。とっぷう≠ェ悪態をつく。
「あんな小娘! なんだってんだ! 怖くないぞ、があ!」
しかし、さすがにとっぷう≠熹゙《ひ》我《が》の戦力差は埋解できているようだった。あえてそんな暴《ぼう》挙《きょ》を強行しようとは主張しない。
白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》がほっと安《あん》堵《ど》の吐《と》息《いき》をついたその時。
さらに悪い方向に事態が転がった。
月光の下でとっぷう≠ェ薄《うす》気《き》味《み》悪《わる》くにやりと笑ったのだ。
「そうだ……」
彼は喉の奥でぐぐぐぐ≠ニ声を立てた。
「もっと良い腹いせの方法があるぞ」
「なんだ?」
「なんだ、それは?」
れっぷう=A"ぼうふう≠ェ次々と興《きょう》味《み》を示す。とっぷう≠ヘ高らかに笑った。
「ここから抜け出して下界に降り立ち、人間どもの村を大風で吹っ飛ばすのよ!」
白山名君が完全に凍りついた。
「今《こ》宵《よい》、好天玄女は契約を見届けるので精一杯だろう? それはすなわちこの忌《いま》々《いま》しい猛《めん》省《しぇん》蘭《らん》土《つ》≠フ結界が緩《ゆる》むということを意味している。もちろん、脱走なんかすればいずれは捕まってしまうが、明日《あした》、夜が明ける前に戻ってくればいくらでも言い逃れは出来る」
「おお!」
「兄者は一体なんという知恵者か!」
れっぷう=Aぼうふう≠フ二人が感心したような声を上げる。カエルはその言葉をかたかたと震《ふる》えながら聞いていた。
「下界のニンゲンどもはちょうど祭りの季節だそうだ!」
「それは好都合!」
「奴《やつ》らの家を吹いて吹いて吹き倒して!」
「生意気な祭りの準備を全《すべ》て粉々にしてやろう!」
がっがっがっと笑い声が揃《そろ》う。
カエルはただがたがたと震《ふる》えながらしゃがみ込んでいた。
「では、行くか!」
「うむ。善は急げと言うからな!」
笑い声が遠くなるまで。
彼らの足音が完全に聞こえなくなるまでそこで小さく縮《ちぢ》こまったままだった……。
どれだけ時間が過ぎただろう。彼らの気配《けはい》が全くしなくなってから、ようやくゆっくりとカエルは顔を上げた。
「どうしよう? どうしよう?」
それからはっと思いつく。
「好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》さま!?」
そうだ。
まずなにより最初に報告しなければならない相手がいるのを思い出した。
カエルは突然、跳《は》ね起きるとがむしゃらに草むらから走り出した。泉のほとりを離《はな》れ、竹林の中を突き抜け、草原に出る。
満月。
その時、なんという僥《ぎょう》倖《こう》だろう。
その満月を過ぎるようにして白い雲が一筋、高々度の星空を滑《すべ》っていくのが見えた。
好天玄女が御《み》輿《こし》代わりに使っている雲だ。
「こうてん」
カエルは走りながら力の限りの声を発した。
「げんにょさまあああああああああああ!!!」
立ち止まり腹の底から名前を呼ぶ。期待を込めて空を見上げた。だが……。
「あ」
カエルの顔が焦《あせ》りに歪《ゆが》んだ,好天玄女の雲は全く止まることなくそのまま真《ま》っ直《す》ぐに山を越えて島の反対側まで向かってしまった。
「ど、どうしよう……」
カエルはおろおろと前足を口にくわえた。
もちろん歩いて追いかけていけないこともない。だが、それだと二時間ほどは余計に時間がかかってしまう。
二時間。
神《しん》仙《せん》たちが相手では致命的な猶《ゆう》予《よ》だ。とっぷう≠スちならその間に村の一つや二つは軽く滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》にしてしまえる。
「あうう」
白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》はうなだれた。
「どうしよう?」
彼はその場をぱたぱたと動き回った。
「どうしよう?」
よい考えが全く思い浮かんでこなかった。
誰《だれ》か他の者に助けを求めようか?
だが、仮にそんな相手がいたとしても今《こ》宵《よい》は契約の晩。とても助けを期待出来る状況ではなかった。
では、誰が?
一体、誰が?
哀れな、何も知らない村人たちを助けてくれるというのだ!?
カエルは立ち止まり、地面に伏せた。ぎゅっと目をつむりがたがたと震《ふる》える。誰が助けてくれるというのだ?
あの乱《らん》暴《ぼう》者《もの》のカラスたちから? 恐ろしい風の術を使うカラスたちから?
カエルは地面に顔をこすりつけた。
一年に一度の祭りの日。
この日の楽しみのために額《ひたい》に汗を流し、辛《つら》い労働に耐え、約《つま》しい生活の中でも笑顔《えがお》を絶やさなかった人間たち。
彼らの。
ほんのささやかな憩《いこ》いの夜が今にも叩《たた》きつぶされようとしている。
誰が?
いったい誰がそれを助けてくれるというのだ?
彼らの努力は自分が一番よく知っている。
彼らは本当に一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》やってきた。
誰が?
誰が? 誰が? 誰が?
そんな彼らの努力を守るというのだ?
その一生懸命さに報《むく》いるのは?
カエルはゆっくりと立ち上がった。
「ボクだ」
誰がではない。
「このボクが」
この白山名君が彼らを守る!
月光の下、カエルがしっかりと拳《こぶし》を握りしめた。
もう震《ふる》えてはいなかった。
とっぷう≠スちが声《こわ》高《だか》に下《げ》卑《び》た声で笑い合いながら歩いている。横《おう》柄《へい》な足取り。傍《かたわ》らに生えている木を粗《そ》暴《ぼう》に蹴《け》ったりしている。彼らは自《みずか》らの憂《う》さを晴らすためだけにこれから地上に降りて暴《あば》れ回るつもりである。
傷つけられる者の痛みも知らず、その重みもよく分かっていない。
ただ、自分よりも弱い者を痛めつけることだけを当然の権利としていた。
「がががががが!」
「さ〜て、羽が震える。たっぷりと生意気な人間どもを苛《いじ》めてやろうか!」
そこへ。
「そ、そんなことはダメなんだけろ……」
ゆっくりと立ちふさがった者がいる。
精一杯両手を広げて立ちふさがった者がいる。
誰《だれ》よりも臆《おく》病《びょう》で。
誰よりも場当たり的で。
争いを嫌ったたった一匹のカエル。
「させないけろ!」
白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》がそこに立っていた。
最初、沈《ちん》黙《もく》がその場に降り立った。三羽のうちぼうふう≠ニれっぷう≠ヘ本当になぜカエルが目の前に立ちふさがったのかよく理解できていないようだった。
彼の存在と下界の村人たちがよく結びついていなかったし、そもそも彼らは白山名君など路《ろ》傍《ぼう》の石ほども気に留めていなかったのだ。
自分たちの姿を見てへつらうように笑う気弱なカエル。
時折、憂さ晴らしの相手にするか弱い存在。
その程度の認《にん》識《しき》である。
だが、とっぷう≠セけは比較的すぐカエルがその場に立つ理由に思い至った。
「が? もしかしてお前、下界のニンゲンたちを守ろうとしてるのか?」
白山名君は大きくこっくりと頷《うなず》いた。
固い決意を秘めた丸い目で三羽のカラスを見つめる。足は震えている。だけど、気持ちは一歩だって引いていない
ぐ。
とっぷう≠フ顔が大きく、いびつに一度|歪《ゆが》んだ。
それから、
「がががががががががががががががががががががががが!」
突然、大きな声で笑い出した。他《ほか》の二羽も釣られて笑い出す。よく分かっていないがお追《つい》従《しょう》で笑っていた。
「があ! バカだ! があ!」
とっぷう≠ェ白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》を指さして。
次の瞬《しゅん》間《かん》。
鬼の形《ぎょう》相《そう》に変わる。
「弱虫は引っ込んでろ、がああ!!!」
自分の下位に甘んじているべき存在が自分に反抗したことに対してとっぷう≠ヘ死ぬほど腹を立てていた。文字通り神速の早さで白山名君との距《きょ》離《り》を詰める。
その手で小《こ》賢《ざか》しいカエルを打《う》ち据《す》えようとした。
『聞いてほしいけろ、頼むけろ』
カエルはじっとその動きを読んでいた。脂汗を流しながらもタイミングをあやまたず、
『忍耐強き地の精《せい》霊《れい》たる、カエルよ』
指先を地面に触れ、地の精霊に命じる。ぼっこりと周囲から土《つち》塊《くれ》が盛り上がり、カエルの形をとった。それがちょうど四体。
白山名君は、
『ばくはつしてけろ!』
大きく後ろに跳《ちょう》躍《やく》すると同時に叫んだ。
「ぐ! な、なに?」
中空でとっぷう≠ェ目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた。まるでトラップのように四体のカエルが四方から彼に襲《おそ》いかかってくる。
攻《こう》撃《げき》されることを想定に入れていなかったためとっぷう≠ヘ直撃を受けてしまった。
「が! がはああああああ!!!」
爆音と共に白いもうもうとした煙に包まれる。絶叫を上げた。
「兄者!!!」
他《ほか》の二羽が叫ぶ。その隙《すき》を逃さず、白山名君は次の攻撃準備に取りかかる。
『聞いてほしいけろ、頼むけろ』
再び地面に指先を触れ、地の精霊に命じる。精巧な造りのカエルの土塊が次々と盛り上がっていった。その数はざっと二十。
今、他の二羽は完全に空に気を取られている。
この機《き》会《かい》を逃したらもう勝ち目はない。とっぷう=Aれっぷう=Aぼうふう≠ノこの二十個のカエルを全《すべ》て叩《たた》き込む。
『忍耐強き地の精《せい》霊《れい》、カエルよ』
白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》が第二|撃《げき》を放とうとしたその時である。
「ぐがあああああああああああああああああああああ!!!!」
煙の中からとっぷう≠フ怒りの咆《ほう》吼《こう》が辺《あた》りに木《こ》霊《だま》した。
さらに圧倒的な速度で無数のかまいたちが周囲に放たれる。れっぷう≠ニぼうふう≠ェ慌てて逃げまどった。
「な、なにするんだがあ?」
「あぶないがああ!」
そしてそのうちの一発が。
「あ!」
運悪くとどめの一撃を放とうとしていた白山名君の肩を切ってしまう。血がどっと噴《ふ》き出し、白山名君は大きく後ろによろめいた。
精神集中がとぎれた。
「がああああああああああああああああああああああああ!!!」
間《かん》髪《はつ》入れず血まみれになったとっぷう≠ェ煙の中からもの凄《すご》い勢いで白山名君に向かって飛び出てきた。
彼の渾《こん》身《しん》の蹴《け》りがカエルの胸元に炸《さく》裂《れつ》する。
吹っ飛ぶ白山名君。
「ぐげ!」
すたっと地面に着地したとっぷう≠ヘ終始無言だった。すたすたと歩み寄ると逃げようとする白山名君の後ろ足を手でむんずと掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んだ。
恐怖の悲鳴を上げるカエル。
「ぐが!」
その背中を渾身の力で踏みつけた。
蹴った。
蹴った。
「が!」
カエルが逃げようとする度《たび》、無言で蹴りつけた。転げ回るカエルの腹を、頭を、蹴って、蹴って、蹴りまくった。
許せなかった。
こんなカスのような存在が自分をほんのわずかでも傷つけたのが許せなかった。
いつの間にかにやにや笑いながられっぷう≠ニぼうふう≠烽サれに参加していた。蹴った。蹴って蹴って蹴りまくった。
れっぷう≠ェおもしろ半分に近くに転がっていた丸太でカエルの柔らかい腹を叩《たた》いた。
「ぐげ!」
泣き出すカエルを見てぼうふう≠ェ腹を抱えて笑った。
また蹴《け》った。
動かなくなっても蹴った。
「はあはあはああ」
ようやく大きく息をついてとっぷう≠ェ蹴るのを止めた。それから彼は、
「さあ、行くぞ。時間に遅れた」
と、振り返りもせず行こうとする。だが。
しかし。
「や、やめてけろ」
もう前も見えなくなるほど顔が変形しているのに、
「みんなみんな頑張ってきたんだから……一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》頑張ったんだから。お願いだから」
白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》はとっぷう≠フ足にしがみついた。必死で訴えた。
泣きながら、
「どうかお願いだから。大事なものだから」
それを壊《こわ》さないで。大事なものを。
「壊さないで」
と、訴えるか細く震《ふる》える声。
とっぷう≠フ肩が怒りでわなないた。
舐《な》められた、と思った。彼の価《か》値《ち》観《かん》では自分より下位のモノに舐められるということは絶対に容認出来ないことだった。
それは他《ほか》の二羽もぎょっとするほどの変《へん》貌《ぼう》ぶりで。
すうっと息を吸い込むと。
「じゃあ。お前が壊れろ!」
と、思いっきりトドメの一《いち》撃《げき》を放とうとする。彼の鋭《するど》く尖《とが》った爪《つめ》が白山名君の急所に向かって一気に振り下ろされた。
その時。
冷ややかな。
どこまでも冷ややかな声が聞こえてきた。
「てめえがな」
するりと滑《すべ》り込むようにして小さな黒い影《かげ》がとっぷう≠フ懐《ふところ》に入り込む。
そして。
「てめえが壊れろよ、このクソガラス!!!!」
完《かん》璧《ぺき》なタイミングで寸《すん》頸《けい》が放たれた。一《いっ》瞬《しゅん》でお腹《なか》から折れ曲がるようにして崩れ落ちるとっぷう=Bそれから悲鳴を上げてもんどり打って転げ回った。
「ぐぎゃああああああああああああああああああああああ!!!」
月光の下。
中国|拳《けん》法《ぽう》の奥《おう》義《ぎ》の一つである、腰を落とし、背筋を伸ばし、大きく足を震《ふる》わせる震《しん》脚《きゃく》の姿勢で立っている茶《ちゃ》色《いろ》い髪の少年。
そのつま先から全身に向かって逆《さか》巻《ま》くように気が流れていた。
「あ、ああ……」
白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》が彼を見ていた。
「な、なんだ、てめええ!!!」
れっぷう=Aぼうふう≠ェ激《はげ》しく動揺して叫んだ。
「川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》」
少年はゆっくりとまた目を見開いた。
かっと吠《ほ》える。
「こいつのトモダチだ!!!」
その幼い少年のモノとは思えない裂《れっ》帛《ぱく》の気合い。思わず神《しん》仙《せん》たちがたじろぐほどそれは凄《すさ》まじいモノだった。
「おい? 白《はく》山《さん》、大丈夫か?」
少年はそれからぼうふう≠スちに背を向けるとカエルの傍《かたわ》らにしゃがみ込んだ。
「け、ケイタくんどうしたけろ? もう契約の時間けろよ?」
白山|名《めい》君《くん》はぼこぼこにされてよく見えない目で問いかけた。月がもう頂点に達しようとしている。啓《けい》太《た》は優《やさ》しく言った。
「いや、お前が大慌てで駆けていく後ろ姿を見かけてさ、気になって来てみたんだ」
「今からでも、遅くない、けろ……早く戻って誰《だれ》かと」
「あははは。それがさあ〜」
と、少年は軽くそれを遮《さえぎ》る。
「ちょっと色々と考え直すことがあってさ。それよりまあ聞かせろよ。お前こそなんであいつらに苛《いじ》められてたんだ?」
白山名君はか細い声で事情を説明した。
その間、れっぷう=Aぼうふう≠ェとっぷう≠抱え起こし、
「があ!」
一斉に羽ばたいた。
何かと思ったがどうやらただの契約候補者のようだ。
ちょうどいい。
腹いせにこいつも完《かん》膚《ぷ》無《な》きまでに叩《たた》きのめしてやる。
三人の意思|疎《そ》通《つう》がそんな風《ふう》になされる。
白山名君が再度、言った。
「ケイタ、くん。早く……早く他《ほか》の人のところに戻って。ここから逃げて!」
啓太はう〜んと唸《うな》って腕を組んだ。それからごく何でもないことのように、
「決めた。俺《おれ》はお前と組む。お前と契約を結ぶことにした」
「な!」
と、白山名君が目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》く。カラスたちが中空に飛び上がる。
「ど、どうして?」
その問いに。
啓太は笑いながら。月光の下で晴れやかに笑いながら言った。
「それはな」
「お前が一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、頑張る奴《やつ》だからだよ」
それから彼は白山名君の手を握り。
「我《われ》、川《かわ》平《ひら》啓太。義により、仁《じん》の心を持ってこの者と契約を結ばん」
契約の文《もん》言《ごん》を口にした。
ぽわっと青白い光が白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》と少年を包み込んだ。
白山名君はぽろぽろ泣いていた。
「白山名君の名において告ぐ」
カエルの手から伝わる大地の精を操《あやつ》る術を瞬《しゅん》時《じ》に学び覚える。その力を隆起させる。既《すで》に存在する土《つち》塊《くれ》のカエルの中に自分の力を通していく。それはまるで水が高いところから低いところに流れるようにごく自然なことだった。
カエルをよりしろとして白山名君の力を借りる。
白山名君の力は大地の力。
そして、全《すべ》てのカエルは眷《けん》属《ぞく》。
「カエルよ」
最弱の。
そして誰《だれ》よりも優《やさ》しい神《しん》仙《せん》の術。
「破《は》砕《さい》せよ!」
圧倒的な速度で三方から迫りよったカラスたちを直《ちょく》撃《げき》。
瞬時に。
爆《ばく》炎《えん》で包み込んだ!!!
…………。
暁《あかつき》の中、ぼろぼろになった啓《けい》太《た》と白山名君が向かい合っていた。あれからカラスたちを相手に二人でなんとか戦い抜いたのだ。
カラスたちはどこまでもしぶとく啓太たちも少なからず窮《きゅう》地《ち》に陥ったが、結局、カラスたちを上回る啓太のタフネスぶりと白山名君の術との相性の良さが幸いしてとうとう打ち勝つことが出来た。その頃《ころ》にはようやく騒《さわ》ぎを聞きつけて好《こう》天《てん》玄《げん》女《にょ》がやって来ていた。
啓太と白山名君は地面に倒れ込んで失神しているカラスたちを彼女に引き渡した。
きっとこれからとっぷう≠スちにはキツイお仕置きが待ってることだろう。
「で、お前はどうするんだ? 俺《おれ》と契約を結んだからもう天界に戻れるんだろう?」
木に寄りかかってそう問いかける啓太に白山名君はう〜んと小首を傾《かし》げた。
「いや、止めておくけろ」
「ん? どすんだ?」
という啓太の問いに白山名君はもじもじと答える。
「ボクもっとニンゲンのこと勉強したいけろ。しばらくは大陸を歩き回ってケーススタディに努めるけろ。フィールドワークけろ。実地研究けろ」
「なるほど
啓《けい》太《た》は「やっぱこいつ変な奴《やつ》だ」という顔をする。今度はカエルが啓太に向かって尋《たず》ねた。
「ケイタくんはどうするけろ?」
ちょっと申《もう》し訳《わけ》なさそうに、
「ボクを助けるために折《せっ》角《かく》の機《き》会《かい》を」
「あ〜よせよせ」
啓太は顔をしかめて手を振った。
「俺《おれ》は納得してやったんだ。お前と組みたいってな」
「でも、ボクと契約したことによって綺《き》麗《れい》な女《にょ》仙《せん》とつきあえなくなったけろよ?」
「実はさ」
と、啓太は笑った。
「その点に関しても大丈夫。俺、実は実家に帰ってももう一度、契約する機会があるんだ。お前の力は分けて貰《もら》ったからさ、今度は可愛《かわい》い女の子とでもするさ」
「そうなんだけろ?」
「ああ」
と、啓太は指を順番に折っていく。
「従順で、お淑《しと》やかで、家庭的で、胸がでかくて」
う〜んう〜んと唸《うな》る。それから最後に一言。「とにかく」と言って、
「とびっきり可愛い女の子と契約を結ぶさ!」
自信満々の一言だった。
啓太がようこと出会う五年前の話である。白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の力はそしてそれ以降、啓太の窮《きゅう》地《ち》を何度も救うことになるがそれはまた別の話。
のちの話である。
『ああ。危ない! ぶつかる!(きき〜〜)』
くすくす、運転|上手《うま》いけど障害物、沢《たく》山《さん》、あるもんね。
そう簡《かん》単《たん》には逃げられないよ。
『気をつけろ! 右だ! 違う! そこ!(どご〜〜〜ん)』
わ〜い。ほ〜ら、やった!
ぱちぱち。
『く! なんて炎だ! 生存者がいるのか! お〜い、誰《だれ》かいるのか、お〜い?』
誰もいないんじゃない?
くすくす。
あ。ケイタ。このおせんべい、美味《おい》しいね。
くすくす。
『どうやら俺《おれ》達は逃げ道を失ったらしいな……ちょっ、ちょっと待て。これはさっきの爆《ばく》弾《だん》の残りじゃないのか!?』
あはははは、もう一回、爆弾? そうこなくっちゃ。
『慌てるな! 今、処理する!』
ばくは♪
ばくは♪
うう……うう。逝《い》っちゃえ。
『ふう……どうやら死神は俺達がお嫌いらしいぜ?(にやり)』
ぶう〜。なにそれ? ごつごー主義だよ、ごつごー主義。
ね〜ケイタ?
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の六畳間である。啓太とようこは夕刻、ベッドに並んで「大爆発(原題:Explosion)というハリウッド映画を見ていた。爆弾|魔《ま》とニューヨーク市《し》警《けい》の息詰まる攻防戦を描いたアクションもので、つい最近、ビデオリリースが始まった。
ビルが壊《こわ》れる。劇《げき》場《じょう》が吹っ飛ぶ。人が死ぬ。とにかく火薬量の多い映画で、花火を見ているように二分に一回は必ず派《は》手《で》な爆発が起こる。そのたびにようこは喝《かっ》采《さい》を上げ、目を輝《かがや》かせた。センベイを囓《かじ》りながら、テレビに食らいついている。啓太は冷や汗を垂らしながら、そんな彼女の横顔をじっと見つめていた。
まさかこんなに喜ぶとは思わなかった。
というか、借りてくるんじゃなかった……。
「ね、ねえ、ほらほら! また人が死んだよ! うう〜〜〜〜、ほらほら、どっか〜んって♪」
頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を火《ほ》照《て》らせ、官能に目を潤《うる》ませ、唇を濡《ぬ》らす。
「木《こ》っ端《ぱ》みじんにあ、あ、あ火があ! 火があ〜〜〜!」
感極まったようにようこが叫び、白い喉《のど》を仰《の》け反らし、服を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んでくるに及んで、とうとう啓《けい》太《た》も決意を固めた。ぶちんと凍《こお》った笑顔《えがお》でリモコンでスイッチを消す。
「あ〜〜〜〜!」
と、ようこが声を上げた。人差し指でテレビと啓太を交互に指し、それから困ったようにテレビ画面を爪《つめ》でかりかり引《ひ》っ掻《か》いた。
「あ〜ん、ケイタ。点《つ》けてよ〜」
爆《ばく》発《はつ》を見逃して、欲求不満。
「今、良いところなのに〜、爆弾が〜、爆弾が〜」
しかし、彼女はビデオの扱い方がよく分からない。恨めしそうにきっと啓太を睨《にら》んだ。
「もう! なんでこんな意地悪するの!?」
啓太はふうっと溜《ため》息《いき》をつく。
「こういう映画はお前の情操教育によくありません。以後禁止。以上!」
「え〜〜〜〜〜〜〜!? ケイタ、おーぼー! おーぼー!」
「やかましい!」
ぺちりとようこの頭を叩《たた》いておいて、啓太はビデオを入れ替えた。本来は彼も特に好きではないのだが、二作借りると一作、無料になるキャンペーンをビデオ屋がやっていたので、恋愛ものを一作、どういう風の吹き回しか借りてきた。
ロミオとジュリエットを現代に翻《ほん》案《あん》した作品で、クラスメートの女の子が話《わ》題《だい》にしていたのが、何となく耳に残っていたのかもしれない。
「いいか、ようこ? 曲がりなりにもお前も性別がメスなら」
「メスってなによ? メスって! それに曲がりなりにもなにもわたしはちゃんとした女の子だもん。ケイタが一番、それをよく知ってるくせに〜」
ようこ、額《ひたい》を啓太にこすりつける。啓太はぐっとそれを無視して言った。
「こういう映画を見て、涙を流すようになれ」
テロップが流れ始める。軽やかな音楽。都会的に洗練された映像。ニューヨークの街並みとベトナムの悠《ゆう》久《きゅう》たる河が交互に写る。主人公らしき男が両方にいて、写真を撮《と》っている。某《ぼう》有名ハリウッド俳《はい》優《ゆう》が扮するハンサムな彼は軽やかに笑いながら、シャッターを切り、一《いっ》瞬《しゅん》後、背景が全《すべ》て変わって彼が写真の個展を開いているシーンになった。
「爆発はないの?」
と、ようこ。
「ない……おそらく」
と、啓太。画面の中では男が沢《たく》山《さん》の人に囲まれている。どうやら、個展は盛況のようだ。にこやかに応対し、確《かっ》固《こ》たる自信を漲《みなぎ》らせる新進|気《き》鋭《えい》の若手カメラマン(アンソニー・クライブ)。だが、その青い瞳《ひとみ》に時折、生活の澱《おり》のようなものがよぎる。
ふと、彼が顔を上げると、会場の入り口付近で一枚の写真に見入っているまだ若い女子大生くらいの女の子(ヘレナ・コワルスキー)が目にとまる。男はシャンパンを片手に取り、微笑《ほほえ》みながら近づいていく。
『この写真が気に入りましたか、お嬢《じょう》さん?』
女の子は振り返る。ひっつめ髪に大きく不格好な眼鏡《めがね》。某《ぼう》有名ハリウッド女《じょ》優《ゆう》が演じる警《けい》察《さつ》官《かん》の卵であるところの彼女は首を振る。
『いいえ』
ただ。
と、彼女は言う。ニューヨークの街角を撮《と》ったその写真の一角を指して、
『殉《じゅん》職《しょく》した私の兄が写ってるの』
そんな場面から始まった恋物語はやがてアメリカの経済|問《もん》題《だい》を絡《から》め、二人の生活背景であるイタリアンマフィアとニューヨーク市警との確《かく》執《しつ》を交え、生き別れの兄弟が出てきたりして、悲《ひ》劇《げき》的《てき》に展開していく。運命に引き裂かれ、互いの信念|故《ゆえ》に対立する二人。
豪雨の中のたった一度のキス。
悲しく木《こ》霊《だま》する銃声。
「うう」
ようこはいつの間にか食い入るように映画に見入っている。啓《けい》太《た》は寝ていた。完全にぐっす
りと。
「すごい」
夕日が完全に没し、荘《そう》厳《ごん》なエンディングテーマに乗ってエンドテロップが流れる頃《ころ》になるとようこはしゃくり上げていた。
爆発よりすごいと思った。
にんげんってすごいと思った。ようこは寝入ってる啓《けい》太《た》の頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を叩《たた》き、起こしてその感動を共に分かち合おうとするが啓太は熟《じゅく》睡《すい》したまま。
「もう、でりけーとじゃないんだから!」
ようこはぷんぷん怒り、でも、何となく込み上げてくるものがあって啓太の隣《となり》にそっと寄り添う。彼の胸に手を置き、瞳《ひとみ》を閉じた。
「恋かあ〜」
うっとりとそう呟《つぶや》いた言葉が始まりとなった。
県立|武《む》藤《とう》田《だ》高校。かなり自由な校風とアバウトな校則を持つ進学校だった。嵐《あらし》の度《たび》に雷が落ちる名物の時計塔とか、六十四もの表メニューと十四の裏メニュー(ワニのステーキとか、ダチョウの卵焼きとか)を誇る学食などが珍しいが、特に節《せっ》操《そう》なく許可しているクラブ活動で近《きん》隣《りん》には有名だった。
野球部やサッカー部などの体育会系はまだまともなのだが、文化系に常《じょう》軌《き》を逸《いっ》したものが多く、カクテル研究会(通称スピークイージー。理科室で公然とカクテルの試飲をしている)、十八禁友の会(視覚資料室が主な活動場所)、叫ぶパンクの会(叫んでる)、グルメ部(ここと飼育部が共同で学食の裏メニューを提供している)、ところてん愛好会(ところてんを熱《ねつ》烈《れつ》に愛好する者の集まり)、ところてん愛好会黒酢セクト(分裂した)、ところてん愛好会非武装解放|戦《せん》線《せん》(さらに分裂した)やらが群《ぐん》雄《ゆう》割《かっ》拠《きょ》で部室|棟《とう》を占拠し好き放《ほう》題《だい》やっていた。
二年前に校長が代替わりしてからなのだが、エレキギターの爆《ばく》音《おん》が聞こえ、妖《あや》しげな白い煙が絶えず窓の隙《すき》間《ま》から漏れてくる。
そんな日常に生徒たちは慣れきっていた。
だが、その日、その部屋で行われた儀《ぎ》式《しき》は異常なことに比較的、寛《かん》容《よう》な武藤田高校の基準に照らし合わせても、衆目の眉《まゆ》をひそめさせるに充分なものだったろう。黒いカーテンで完全に四方を仕切られた空間である。
そこに十人ばかりの黒服が寄り集まっていた。修道士のように長いローブと黒いブーツ。同色の深い闇《やみ》のような三角|頭《ず》巾《きん》を被《かぶ》っている。
目の部分だけが外界に向かって開いているのだが、そこにギラギラと狂信的に輝《かがや》く瞳が覗《のぞ》いていた。何人かは手に三又に別れた燭《しょく》台《だい》を持って、腰には馬の皮で作られた|相互いに飲み合う蛇《ウ ロ ボ ロ ス》を模した紐《ひも》を結わえていた。彼らの持つ燭台の炎がゆらゆらと揺れて、長い影《かげ》を朱色のカーテンに投げ落としていた。
「許されぬ者に裁きの雷《いかずち》を!」
一人の男が燭《しょく》台《だい》を高々と上げると残りの者が揃《そろ》って唱和をした。
「哀《かな》しみの荒野に新たなる風を!」
「炎よ!」
「同志ミハイルビッチ、告解を」
「神の許しを!」
その言葉に黒服の一人が中央に引っ立てられてきた。左右に別の黒服がついて腕をがっしり押さえ込んでいる。輪《わ》の中央に引き出された黒服は怯《おび》えきったような視《し》線《せん》で周囲を見回した。
「ど、同志|諸《しょ》氏《し》。私にはなんのことだかさっぱり」
「同志、ミハイルビッチ」
最初に燭台を掲げた黒服が深い溜《ため》息《いき》と共に首を振った。
「内偵が君に入っていたのだ。実に残念だよ」
懐《ふところ》からパステルカラーの携《けい》帯《たい》電話を取り出す。それを中央の黒服にはっきりと見せた、動揺の色が彼の目元に現れる。
「わ、私の携帯!」
「短《たん》縮《しゅく》ダイヤルの相手。山《やま》本《もと》京《きょう》子《こ》……二年三組所属テニス部|在《ざい》籍《せき》。成《せい》績《せき》中の上。スリーサイズ、78、54、82の安産型。校内美少女ランキング暫《ざん》定《てい》8位。目元の泣きぼくろがチャームポイントの癒《いや》し系だ。いやはや、君が転ぶのも無埋からぬ」
「ち、違うのです! その子は同じ風紀委員でただ業務連絡をしていただけで」
しどろもどろと声がもつれる。
「ミハイルビッチ、ああ、ミハイルビッチ、我《わ》が同志、ミハイルビッチ」
異常に穏《おだ》やかで、狂気を孕《はら》んだ優《やさ》しさを帯びた声。
燭台を掲げた首領と思《おぼ》しき黒服が呼びかけた。ミハイルビッチは口が利けなくなる。恐怖で身体《からだ》がかたかたと震《ふる》え始めた。
「おや? 震えているね……可哀《かわい》想《そう》にミハイルビッチ。同志諸君、どうしよう? 我《われ》らが同志ミハイルビッチが震えているのだが?」
他《ほか》の黒服たちが「死」、「死」とハミングでもするような小さな声で唱《とな》え出す、詠唱《チャント》は揃い、足踏みが起こり、地の底から響《ひび》いてくるような、腹の底から揺れるようなリズムが部屋を満たしていった。
首領は緩《ゆる》やかに笑った。
「ミハイルビッチ。ちょっと着信|履《り》歴《れき》を見てみようか? ほうほう。ここ一週間で四回も向こうからかかっているね。どうも風紀委員とはよっぽどの激《げき》務《む》らしい……夜中の二時。夜中の二時に一体どのような急用があったのだね?」
「そ、それは」
「宜《よろ》しい」
首領が楽しそうに言った。
「では、詳細は直接、彼女の口から聞かせて貰《もら》うとしよう」
ぽちっとリダイヤルを押す。ぷるるるる〜、ぷるるるる〜、音を立てて携《けい》帯《たい》電話が震《ふる》え出す。ミハイルビッチは必死で前に出ようとした。
「や、やめろ! やめてくれえええ──────────!」
だが、周囲の黒服がそれを許さない。押さえ込まれ、ミハイルビッチは叫ぶ。
「きょうこをおお──────────!」
「もしもし、一《いち》条《じょう》くん?」
小さな、不安そうな声が聞こえてきた。
「どうしたの? 私まだ学校だよ? 学校でやり取りしちゃまずいんじゃ」
「山《やま》本《もと》京《きょう》子《こ》くんだね?」
首領が加《か》虐《ぎゃく》心《しん》に満ちた冷ややかな笑い声と共に通話口に向かって告げた。
「君と一条君の交際について是《ぜ》非《ひ》、知りたいことがあるのだが」
その途端《とたん》、ミハイルビッチがあらん限りの声で絶叫した。
「好きだ! 京子! 僕は君のことが大好きだああああああああ──────────!」
「く、こ、この」
黒服たちの間に動揺が走った。
「ぼ、僕のことは構うな! 逃げろ─────! 京子、逃げろ───────!」
「い、一条君!?」
電話口の向こうで混乱している彼女。首領はぽちっと通話ボタンを切った。今まで見せていた余裕がぬぐい去ったようになくなり、鉄のように無表情な冷《れい》酷《こく》さが姿を現す。
「……なるほど。ミハイルビッチ。君の覚悟の程《ほど》は見させて貰った」
ぱちっと指を鳴らす。
「制裁No.12だ。飼育部には話を通してある」
黒服たちがミハイルビッチをあっという間に両《りょう》脇《わき》から抱え上げた。声を枯らしてぜいぜい言っていたミハイルビッチの目に紛《まぎ》れもない恐怖の色が浮かぶ。
「い、いやだ! ダチョウだけはいやだよおお────────!」
じたばたと暴《あば》れたがまるで荷物のように引きずられ、カーテンの向こうへ連れ去られてしまった。最後に彼が背を見せた時、白文字で『ミハイルビッチ』と背中に刺《し》繍[#「繍」はunicode7E61]《しゅう》されているのが目に入った。首領は燭《しょく》台《だい》を掲げた。
「諸《しょ》君《くん》、全《すべ》ての恋人たちに死を!」
「殺《しゃあ》!」
残った者たちが一斉に片手を振り上げてそれに答えた。
「ん〜ふふふんふんふんふん♪」
その日、ようこは食材の詰まった紙袋を胸元に抱え、鼻歌を歌いながら路地を歩いていた。
学校に行っている啓《けい》太《た》が帰ってきた時、美味《おい》しいご馳《ち》走《そう》を作っておいてやろうとスーパーに買い出しに行ったのだ。
ようこの脳裏では『ようこ、最高だよ! お前は本当に最高の女だ!』と大げさに感《かん》謝《しゃ》して自分に抱きついてくる啓太の姿が思い浮かんでいた。
「きゃ〜、ケイタったらまだお昼間だよ? も〜、おしゃまさん♪」
脳内妄想に浸って手をぱたぱたさせるようこ。
ただ残念ながら彼女の持っている紙袋の中身はクッキーとチョコレートとタマゴとポテトチップと紙ヤスリというあまり料理の食材とはなりえないものばかりである。ようこがなでしこから料埋のイロハを教わるのはこれよりちょっとあとの話なのである。
無理もない。
そしてようこが啓太と住んでいるアパートの前まで来て階段の一段目に足を踏みかけたその時。罵《ば》声《せい》が聞こえてきた。
「待て! 待たぬか! ミハイルビッチ!」
見ると彼女の進行方向から二人の若い男女が駆けてくるところだった。額《ひたい》に汗を流した少年と恐怖に青ざめている少女。
二人とも苦しそうに息を荒げていた。
さらに二人のあとから異様な集団が通りの向こうから姿を現した。黒い修道士が着るような服にとんがり頭《ず》巾《きん》、十人ほどの体格|様《さま》々《ざま》な男たちがさらにぜいぜい咳《せ》き込みながらよたよたと追いすがってくる。
「京《きょう》子《こ》!」
突然、少年の方が叫び声を発した。
ちょうどようことすれ違ったところで少女が足をもつれさせて転んでしまったのだ。少女が悲痛に叫んだ。
「一条君! 行って! 逃げて!」
彼女は映画のヒロインのように手を差し伸ばして訴えた。
「私を置いて逃げて!」
一方、少年の方も悲《ひ》劇《げき》の主人公のように涙混じりで叫び返した。
「バカ!」
彼女に駆け寄る。ひっしと抱きしめた。
「君を置いていけるわけないだろう? 死ぬときは一《いっ》緒《しょ》だ……京子!!!」
少女がはらはらと落《らく》涙《るい》して彼を抱きしめ返す。
「ああ、一《いち》条《じょう》君……私、あなたに出会えてよかった。本当によかった」
なんだかふつうの住宅街が二人の醸《かも》し出す空気に引っ張られて一気に演《えん》劇《げき》くさい空間に変《へん》貌《ぼう》する。ようこはまだぽかんとしていた。そこへ。
「ぐはははははははは!」
「うえ〜〜〜へへへへへへへへ!」
もはや完全に三流悪役と化した黒服たちが少年と少女をぐるりと取り巻いた。
「ど〜した、もう逃げないのかミハイルビッチ?」
「散《さん》々《ざん》、手こずらせやがって!」
「制裁を逃げようとした罪! これからゆっくり償《つぐな》って貰《もら》うぞ!」
彼らは脅かすように両手を掲げるとまるでがらがら蛇《へび》が威《い》嚇《かく》するような「しゃ〜〜」という声を発した。少女はきゅっと少年の胸元にしがみつく。少年は少女をしっかり抱きしめ、黒服たちを澄《す》んだ目で見返した。
「みんな、目を覚ませ! 君たちは首領に騙《だま》されてるんだ! 僕らにだって愛はある! 首領が言うように青春は真《ま》っ暗《くら》闇《やみ》じゃない! 冴《さ》えない男の子にだって可愛《かわい》い女の子と恋愛するチャンスはいくらでもあるんだ! ほら、この僕のように!」
しかし、その一言は余計に黒服たちを煽《あお》ったのみだった。
「やっかましい!」
「彼女が出来たとたん、高みから物言いやがって!」
「お前だってつい最近までさんざん『カップルぶっ殺す!』だの『クリスマスめちゃくちゃにしてやる!』だの喚《わめ》いていたろ〜が!」
少年は一拍間をおいた。それからやや早口に、
「と、とにかく僕はもう足抜けしたいんだ! 京《きょう》子《こ》との愛を貫きたいんだ! 『全《すべ》てのカップルに嫌《いや》がらせをするもてない男の会』なんてもうまっぴらだ!」
「よく言った!」
「遺《ゆい》言《ごん》として聞いてやる! 戒《かい》名《みょう》ミハイルビッチ一条!」
黒服たちが一気に押し寄せようとする。少年が観《かん》念《ねん》したように目をつむる。少女がきゅっと少年を抱きしめる手に力を込める。
その時。
妙にゆったりとしたテンポでたった一人|蚊帳《かや》の外にいたようこがぽんと手を叩《たた》いた。
「なるほどなるほど」
彼女の脳内では今しがたの台詞《せりふ》と情景からたった一つの結《けつ》論《ろん》が導《みちび》き出されていた。
「つまりこれは恋人同士を邪《じゃ》魔《ま》する悪い奴《やつ》らなのね? 映画みたいに『ゆるされない恋』なのね? あんそにーとへれななのね?」
ふむふむと頷《うなず》く。そして世にも無《む》邪《じゃ》気《き》ににっこりと笑った。
「ならば」
だいじゃえん、と指を突き上げる。
黒服たちが一気に大火力で吹っ飛ばされた。
「うう」
「く、うう」
薄《うす》闇《やみ》の中、あちらこちらで痛そうな呻《うめ》き声が聞こえてくる。
黒こげぼろぼろの黒服たちが部屋の床《ゆか》あちらこちらに転がっていた。ようこのだいじゃえん≠ナ吹っ飛ばされた可哀《かわい》想《そう》な人たちだった。
「……で、追い返されてきた、と。ミハイルビッチはどうしたんだね、同志スタニコフ?」
その中で一人、平静な調《ちょう》子《し》で椅《い》子《す》に腰掛けていた首領がそう尋《たず》ねた。スタニコフと呼ばれた黒服の一人が苦しそうに立ち上がり、報告した。
「は、はい、その突然現れた訳《わけ》の分からない少女に手を引かれて……う、うう」
腕で顔を覆《おお》い、
「申し訳ありません。どうやらその少女が住んでいるとおぼしきアパートの一室にかくまわれました」
「なるほど」
首領はゆっくりと足を組み替え、顎《あご》に手を押し当てた。死《し》屍《し》累《るい》々《るい》と横たわる配下を三角|頭《ず》巾《きん》の切れ目からどこか無感情に眺めやりながら、
「その少女は異能の力を使った、と。それに間違いないのか、スタニコフ?」
「は、はい」
「ふむ」
首領は煙たゆたう部室の天《てん》井《じょう》を見上げ、くくっと笑った。
「異能の力には異能の力、とそういうことか、神よ」
スタニコフが怪《け》訝《げん》そうに眉《まゆ》をひそめたが、首領はあくまで不敵に笑っているばかりだった。
そして。
ところ変わって啓《けい》太《た》とようこの部屋でのことだった。にこにこと笑ってるようこが困《こん》惑《わく》した少年少女の前にとんと湯《ゆ》呑《の》みを差し出した。
「はい、お茶! ケイタがいつもやってるようにお湯と葉っぱをてきとうに混ぜてみたけどこれでいいんだよね? とにかく我《わ》が家にいらっしゃいませ」
中では妙な液体がぐらぐら煮立っている。お茶《ちゃ》請《う》けにはへたくそに切ったチョコレートケーキが二きれ皿に盛られていた。ようことしては精一杯の歓《かん》待《たい》をしているつもりだ。
少年と少女は顔を見合わせる。
それから少年の方がとりあえず礼の言葉を述べた。
「え、えっと助けてくれてありがとう」
なんにしても。
正体不明の少女であるにせよ、自分たちの恩人であることには間違いないのだ。
すると、ようこは「きゃ〜」と声を上げながら首を横に振った。
「ううん、あんたたち、あんそにーとへれんみたいなんだもん。でりけーとな女の子としては助けるのがと〜ぜん♪ あ」
ようこは口元を押さえる。それから、
「もしかしてわたし、しもんずの役?」
と、映画の中に出てきた黒人の名前を挙げた。主人公である写真家と刑事の娘の仲を取り持つバー『カサブランカ』のマスターだ。傷ついた主人公を二階の倉庫に匿《かくま》ったりもしている。結構、重要な役どころである。
ようことしては恋のキューピッドにでもなったつもりなのだが、少年と少女にはいまいち話が伝わらなかったようだ。
「シモンズ?」
ただ、彼女がどうやら自分たちに好意を抱いてくれていることは分かった。今度は少女の方も礼を述べる。
「えっと、私からも御礼を言わせてね。あなた、本当に強いんだね」
彼らには一体何が起こったのか今ひとつ分からなかったのだが、とにかく少女には超常の力があることだけはおぼろげながら察せられた。
ようこがくすくすと笑う。
「あれくらいなんでもないよ」
そう言って自分の分のお茶を手に取り啜《すす》ろうとする。
「あっちあっち」
ふ〜ふ〜と息を吹きかける。と、そこへ。
「あ〜〜〜、君たちは完全に包囲されている! 大人《おとな》しく投降して出てきなさい! お母さんは泣いているぞ! お父さんは職《しょく》場《ば》で肩身の狭い想《おも》いをしているぞ! 弟は学校で苛《いじ》められてるぞ! 君たちが背負ったカルマはでかい! たとえようもなくでかい! だけど我《われ》らにも慈《じ》悲《ひ》の心がある。今すぐ出てきたら罪一等減じてやるから早く出てきなさい!」
スピーカーでひび割れた声が部屋の外から大音量で聞こえてきた。
思わずようこが茶《ちゃ》碗《わん》を落として、
「あちあち!」
と、かちかち山のタヌキみたいに足を上げ下げしている。少年と少女ははっと顔を見合わせた。それからすぐに玄関に向かい、扉を開けるのももどかしく室外へと駆け出た。
「あ、こら」
ようこが止める暇《いとま》もない。二階の手すりから往来を見下ろせばそこには黒服の一団がずらりと居並んでいた、行き交う通行人たちの迷惑そうな視《し》線《せん》をよそに彼らは意《い》気《き》軒《けん》昂《こう》とシュプレヒコールを上げた。
「ミハイルビッチ! でてこ〜〜い!」
「そ〜だ! 彼女は作らないって言ったくせに!」
「裏切り者〜〜!」
情けないことこの上ない非《ひ》難《なん》をしている。少年が何か言い返そうとしたその時。
「ふ〜ん」
ようこが裸足《はだし》のままついっと出て来た。彼女はにやりと一同を高みから睥《へい》睨《げい》すると、
「案《あん》外《がい》、丈夫なんだねえ〜、あんたたち。結構、手加減なしでやったのに」
ぽきぽきと拳《こぶし》を鳴らした。
「なら、もうちょっと骨身にしみこませてやってもいいよね? 人の恋《こい》路《じ》を邪《じゃ》魔《ま》するとどうなるか……あっつい炎の中でとくと思い知りなさい!」
黒服たちがどよめく。
皆、期せずして一歩、下がった。先ほどようこに吹っ飛ばされた怪《け》我《が》は当然ながらまだ癒《い》えていないのだ。だが、その中でただ一人黒服の首領……つまり『全《すべ》てのカップルに嫌《いや》がらせをするもてない男の会』の会長だけは不敵に笑っていた。
つまりは一番、もてないのだが。
「みんな恐れることはない! 暴《ぼう》力《りょく》には暴力を! 異なる力には異なる力を!」
鷹《おう》揚《よう》に手を振った。
「おお!」
と、黒服たちがどよめいた。
「先生、出番です! あの小娘をぜひ先生のお力で懲《こ》らしめてやってください!」
その言葉に応じてまるで時《じ》代《だい》劇《げき》の用《よう》心《じん》棒《ぼう》のようにぶらりと路地の影《かげ》から一人の少年が姿を現した。
形だけは諸《もろ》肌《はだ》脱ぎの格好で口には爪《つま》楊《よう》枝《じ》をくわえている。
「まあ、任せておけ」
ようこが半目になった。
「ケイタ……」
それは格好つけていようとどうしようと犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》だった。ようこが腰元に手を当てて声を張り上げる。
「こら、ケイタ! 一体、なんのつもり?」
「ふふふふふ」
啓《けい》太《た》はふっと爪《つま》楊《よう》枝《じ》を吹き捨て、不敵に笑う。
「一《いっ》宿《しゅく》一《いっ》飯《ぱん》の恩義のため。これも渡《と》世《せい》浮き世の義理というやつさ」
「先生には学食二週間分で手を打って働いて貰《もら》ってるのだ!」
と、得意そうに黒服の首領が胸を張った、ふふふふ。
啓太がもったいぶって笑ってるがなんのことはない。ただ単に食い物に釣られて狩り出されただけである。啓太は不敵に目を細め笑った。
「ようこ。お前とは戦いたくない。その二人を素直に差し出してはくれまいか? そうすれば全《すべ》てが傷つくことなく丸く収まる」
ようこは思いっきりあかんべえを一つした。
「だ〜め。この子たちは『許されぬ恋』を貫いてるんだから! ケイタにだって渡さない!」
「そうか……ならば」
と、啓太が不敵に笑いながら指先にカエルの消しゴムを広げた。
「ここは」
と、彼が何か言いかける前にようこが呆《あき》れたように口を挟む。
「力ずくで? ケイタ、わたしに本気で勝てると思ってるの?」
啓太は不敵に笑いながらも冷や汗を掻《か》いた。それは真実だった。
「いっとくけどわたしは手加減しないよ? いいの?」
確《たし》かに絶対、どうやっても彼はようこには勝てない。
彼は「ふふふふふ」と笑いながらカエルの消しゴムを引っ込め、今度は同じ調《ちょう》子《し》でプラスチック製の籠《かご》をよっこいしょと取り出した。
中で何かがごそごそと動いている。
ひゃんひゃんという生き物の鳴き声が聞こえた。
ようこの目がすうっと冷たく細まった。
「……犬?」
ようこはとんと手すりを蹴《け》って往来に降り立った。彼女は唇の端をもたげて言う。
「ケイタ。もしかしてまさかと思うけどわたしを倒すためにまた犬を使う気なの? わたしが大嫌いな、怖くて怖くて仕方ない犬を?」
腰元に手を当てた姿勢のままで下からじとっと睨《ね》め上げる。
恨めしげな調子で、
「たかがご飯二週間分のために。このわたしを、ケイタの可愛《かわい》い犬《いぬ》神《かみ》のわたしを」
啓太、冷や汗をたらたら流している。
「ふ、ふ、ふふ」
という不敵だった笑《え》みもどこか弱々しい。視《し》線《せん》が泳いでいる。ようこは唇を噛[#「噛」はunicode5699]《か》みしめ、芝居がかった調《ちょう》子《し》で、
「わたし泣いちゃうよ? ほっんきで傷つくよ? 犬が、ってことじゃなくってケイタがそんな性《しょう》根《ね》だったことが悲しくて」
胸に手を当て、訴える。
「わたしはケイタを信じてるよ。まさか、そんな、たかだかこいつらに頼まれたくらいでわたしを本気で哀《かな》しませることなんてしないって。わたしを一番、大事にしてくれるって。いざという時は女の子の気持ちをきちんと考えてくれるって」
啓《けい》太《た》、良心の痛みで顔が強《こわ》ばっている。
冷や汗たらたら。
心がちくちく。そしてとうとう。
ようこがずずいとさらに顔を近づけてきたところで、
「ごめんなさい」
いきなりあっさり土《ど》下《げ》座《ざ》した。
「よ〜し♪」
ようこはえっへんと鼻息荒く勝ち誇った。動揺したのは黒服たちだった。
「そ、そんな先生! 料金は前払いだったはずだぞ!」
しかし、そんなことはようこにとっては全く関係なかった。彼女は世にも不気味ににっこりと笑いながら振り返った。
「あんたたちは」
周囲の人間、皆がぞっとした。
「とことんお仕置きが必要ね!!!!」
そして巻き起こるだいじゃえん。今一度。
死《し》屍《し》累《るい》々《るい》と横たわる黒服たち。皆、黒こげでぶすぶすいっていた。ある者は足が絡《から》み、手が引っかかり、全体でお団《だん》子《ご》のようになっている。大気がまだまだ熱《ねつ》を孕《はら》んでいた。とりあえずそれに巻き込まれなかった啓太はほっと胸をなで下ろしていた。
「二人とも! もう安心だからねえ〜」
ようこが強ばった笑みを浮かべている二階の少年と少女に向かって手を振った。二人とも「ど、どうも」と引きつった笑顔《えがお》で手を振り返してきた。
「うう」
その時、黒服の一人がよれよれと起き上がった。
啓太が「お、こいつ根性あるな」という顔をして、ようこがふんと冷たい目で彼を睨《にら》む。
黒服が吠《ほ》えた。
「なぜだあああああああああああああああああああああ!!!」
さらに別の黒服が立ち上がる。
「うう、どうして! 神様、どうして富める者はより富んでいくのですか? というか、見えない僕の明日《あした》は一体どこですか!?」
「うう、もてたいよう。もてたいよう」
「もてなくてもいい。ミハイルビッチみたいに可愛《かわい》い彼女が欲しいよう」
他《ほか》の黒服たちも次々と訴えた。
「許せん! 許せん! カップルがにくい! 俺の目の前でいちゃつくカップルがにくい!」
「死んじゃえ! 死んじゃえ!」
「カップルがにくううう〜〜い」
「同志|諸《しょ》君《くん》!」
とうとう黒服の首領……『全《すべ》てのカップルに嫌《いや》がらせをするもてない男の会』の会長が起き上がり、叫ぶ。
「私たちは永遠に一《いっ》緒《しょ》だ! いつまでも共にいようぞ!」
そして全員一丸となって抱き合い、おいおい泣き出した。啓《けい》太《た》が溜《ため》息《いき》をついて頭を掻《か》いた。
「全く……同じ男として見ていてもの悲しくなってくるね。おい、お前ら、そんなに彼女持ちを僻《ひが》むくらいなら女の子にアタックしたら良いんじゃないのか?」
すると中の一人が振り返って叫ぶ。
「したわい!」
「散《さん》々《ざん》したともさ!」
「だけど、大《たい》概《がい》、一目で『ごめんなさい』なんだよ!」
「『ごめんなさい、タイプじゃないの』なんだよ!」
「『きも〜い』とか」
「『うう、ちょっと本気ですか? いや、いやああ!』とか」
それは魂《たましい》からの叫びだった。
「顔が悪くて悪かったな!」
「ファッションセンスがなくて悪かったな!」
それから黒服たちはまた抱き合っておいおい泣き出す。
「神も仏もあるあるもんか!」
「カップルなんてみんなみんな恐竜みたいに絶滅しちゃええ〜!」
啓太は再度深く溜息をついた。
「しかたねえな」
それから彼はにやっと笑つて言う。
「なら、お前たちのことも毛嫌いしない優《やさ》しい女の子たちと合コン組んでやろうか?」
黒服たちがぴたりと泣《な》き止《や》み、ようこがどこかむっとした顔になっていた。
啓《けい》太《た》は何か思案があるようだった。
それから数日が過ぎて。
喫《きっ》茶《さ》店《てん》『レ・ザルブル』の長テーブルでは世にも奇妙な懇《こん》談《だん》が行われていた。まず片側には澄《す》まして紅茶を啜《すす》っている赤い縦《たて》ロールのせんだん。これ以上ないくらいの仏《ぶっ》頂《ちょう》面《づら》で肘《ひじ》を突いているたゆね。おどおどとずり下がった眼鏡《めがね》をしきりに押し上げているいぐさ。
一人、にこにこと微笑《ほほえ》んでいるなでしこ。口周りをクリームだらけにしながら美味《おい》しそうにパフェを頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》張《ば》っているともはね。
目をつむり腕を組んでいる平静な様《よう》子《す》のごきょうや。じっと置物のように動かないまま天《てん》井《じょう》を見上げているてんそう。
すや〜と寝入っているフラノ。
そして、二人っきりでお喋《しゃべ》りをしているいまりとさよか。
以上十人の美少女が並んで座っていた。
「ど〜だ? お前ら。これ以上ないくらいの良い子たちだろう?」
長テーブルの脇《わき》に司会|宜《よろ》しく立っていた啓太が笑って言った。
「ごっつあんです!!!!」
テーブルの反対側に座っていた十人の『全《すべ》てのカップルに嫌《いや》がらせをするもてない男の会』会員たちが涙を流して叫んだ。
彼らは滂《ぼう》沱《だ》しながら口々に感《かん》想《そう》を述べ立てた。
「うう、こんな美少女が!」
「アイドル並みのクオリティーが十人も!」
「おお、造形の神は確《たし》かにいらした! 今、ここにいらした!」
拳《こぶし》を握り込んで感《かん》涙《るい》に咽《む》せたり、互いに抱き合ったりと、喧《やかま》しいことこの上ない。ちなみに全員、未《いま》だに黒服に黒い三角|頭《ず》巾《きん》。
これがポリシーなのだそうだ。
その時、たゆねがばんばんと机を叩《たた》いて啓《けい》太《た》に食って掛かった。
「ちょっと! ボクらはボクらでしか出来ない緊《きん》急《きゅう》の人助けって聞いたからわざわざ来たんだぞ! 一体なんなんだよ、これ?」
「だから、人助けだよ?」
啓太は、あっさりと答える。
「こいつらの人生を救う重要な人助けさ」
「はあ?」
と、たゆね。啓太は真顔で、
「いや、だから、こうやって優《やさ》しい女の子たちとちょっと話せば、こいつらもカップル狩りなんてバカなこともしなくなるだろうっていう俺《おれ》の親心」
「はああ?」
たゆねが思いっきり眉《まゆ》をひそめている。啓太はさらに得々と、
「で、ついでに、俺もその中に混ぜて貰《もら》って楽しい合コンタイムのひとときを」
と、言った瞬《しゅん》間《かん》、啓太の後ろからぴかぴかに光るお盆が振り下ろされた。
かぱ〜んと小気味よい音がする。
にこにこ笑ったようこが背後から出てきて「つつつつ」と後頭部を押さえてしゃがみ込んでいる啓太の襟《えり》首《くび》を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んでずるずると後ろに引きずっていく。
「さ、ケイタはだからその人助けのお邪《じゃ》魔《ま》しない。こっちでわたしと楽しいでーとするんだからね!」
ちょっと離《はな》れた席で啓太とようこは着席。啓太は最初、憮《ぶ》然《ぜん》とていたが、にこにこしたようこがチョコレートケーキをぱくついている口元をナプキンで拭《ぬぐ》ってやったりしてそれなりに面《めん》倒《どう》を見てやっている。
「で〜とで〜と。このあと、映画もちゃんと見に行こうね♪ ちゃんとした恋の映画だよ?」
「あ〜、はいはい」
と、苦笑している啓太。まんざらでもないようだ。
一方、それを見ていたたゆねが鼻を鳴らす。
「なんだ、あれ!? 二人だけ別世界で」
不満そうにせんだんに言う。
「どうする? リーダー」
せんだんも微《び》苦《く》笑《しょう》を浮かべ、
「まあ、こうなったら仕方ないわね。ご馳《ち》走《そう》してくださるそうだし、覚悟を決めて小一時間ほどご一《いっ》緒《しょ》させていただきましょうか?」
たゆねが黒服たちを見やると彼らは三角|頭《ず》巾《きん》の切れ目から期待に満ちた子犬のような円《つぶ》らな目できらきらとたゆねを見つめていた。
「う」
たゆねはたじろぐ。それからやけくそのように叫んだ。
「あ〜、もう分かったよ! ほんのちょっとの間だけだぞ?」
黒服たちの間から一斉に歓《かん》喜《き》の声が上がった。
全く彼らは犬《いぬ》神《かみ》の少女たちと話が合わなかったか?
少女たちにすげなくされたのか?
答えは否《いな》である。
意外なことに結構、話は弾んだのである。元々、犬神は相手の美《び》醜《しゅう》がどうであろうとそれで否定的感情を持つことはあまりない。
犬が飼い主をはじめとする人間の顔を云《うん》々《ぬん》することがないように犬神の少女たちもまた顔(彼らは相変わらず三角頭巾をつけたままだが)は重視しないのだ。より好きになることはあってもそれで最初から嫌いになることはまずない。
嫌いになるのは例えば以前の啓太のように潔《けっ》癖《ぺき》な犬神の倫《りん》理《り》基準に反するようなことをする場合に限られてくるのだ。
その点で啓《けい》太《た》の読みは当たっていたと言えよう。
「あ、だから、その面でナイトを仲間にしないと隠しステージに行けないんですね!」
ともはねが前のめりになって向かい合った黒服と熱《ねっ》心《しん》にゲームを語っていた。
その他《ほか》にも、
「ですからねえ〜、ごきょうやちゃんと夢の中でアップルパイとシャーベットを食べていたんです。そうしたら、青い空から青い靴を履《は》いた猫さんたちが沢《たく》山《さん》降ってきたので、お菓子の家に逃げ込んだんです。そうしたらてんそうちゃんの姿をした魔《ま》女《じょ》が中から出てきて、『サンバは午後五時から始まるけど、素因数分解の準備は出来てるか?』って言い出して」
電波トークを冷や汗を垂らしている黒服の前でうっとりと繰《く》り広げているフラノ。
「なるほど。君はそういったコンプレックスを元々、持ち合わせている訳《わけ》だな。興《きょう》味《み》深《ぶか》い。実に興《きょう》味《み》深《ぶか》いな。それ故《ゆえ》の、社会から迷彩を施《ほどこ》す意味での黒服、か。先ほどは君の幼少時代に関して話したが、では、君とご両親の仲は一体どうだっただろうか?」
と、鋭《するど》い目つきでもはや合コンというより問《もん》診《しん》と化しているごきょうや。手にはいつの間にか鉛筆とノートが握られていた。
かなり盛り上がっている方だろう。
一方、せんだん、なでしこは落ち着いて受け答えしている。
せんだんは優《ゆう》美《び》に微笑《ほほえ》みながら、なでしこは優《やさ》しく微笑みながらそれぞれ当たり障《さわ》りなく、しかし決して相手を蔑《ないがし》ろにすることなく話を巧妙にリードしている。
意外なことにたゆね、いぐさもそれなりに盛り上がっていた。
いぐさは、
「え? 今の流行のジャンルはそうなんですか? ……でも、○○は私的にはあまり受けにはしたくないと思いますけど」
などと少し恥ずかしそうに謎《なぞ》会《かい》話《わ》を繰《く》り広げている。たゆねは最初は憮《ぶ》然《ぜん》としていてひとっことも口を利かなかったが、他《ほか》に会話の糸口が見つからない黒服が一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、お世辞を述べているうちにだんだん、調《ちょう》子《し》に乗ってきて、
「あ、あははは。やだなあ〜。そんなことないって! ボクなんてそんながさつなだけでぜんぜん綺《き》麗《れい》じゃないよ!」
と、頭に手を置いて照れている。
ここら辺《あた》りはまあ、よい方だろう。ただ、どうしても限度があっていまりとさよかは男二人をまるっきり眼中に入れず、自分たちだけの会話を楽しみながらげらげら笑っていたし、てんそうはひたすら天《てん》井《じょう》を見上げているばかりだった。
と、その時、そんなてんそうに今までひたすら喋《しゃべ》りかけていた黒服の首領が、
「失礼。ちよっと厠《かわや》へ」
と、返事もしないてんそうに向かってそう断り、
「な、なんです? 首領?」
「僕ら別にトイレになんか行きたくないですよ?」
と渋《しぶ》る会員たちを残らず立ち上がらせ、愛《あい》想《そ》笑《わら》いを浮かべながら店内から立ち去ってしまった。残った少女たちはきょとんとして互いに互いの顔を見合わせあった。
「なんだろうね?」
「さあ?」
たゆねが肩をすくめる。
そして狭い男子トイレの中。
そこで十人の黒服たちが首領を中心にして、まるで野球の円陣のように中腰になっている、というちょっとやな構図である。
あまりこういう時にトイレへ入りたくはない。
「諸《しょ》君《くん》。どうだった?」
首領が膝《ひざ》を抱え込む姿勢で頭上に向かって尋《たず》ねた。他の会員たちが即座に返答する。
「素《す》晴《ば》らしい! さいこ〜ですよ、なでしこちゃん!」
「せんだんさん、綺《き》麗《れい》ですねえ。きっつそうな外《がい》観《かん》に似合わず優《やさ》しいし」
「たゆねちゃん」
「いぐさちゃん」
「ともはねたんが……うう、ともはねたんが!」
皆、口《こう》角《かく》泡を飛ばしている。首領が分かった、分かったとばかりに手を挙げて、押さえた。
「さいこ〜だな。そうだな。確《たし》かにそうだ……我《われ》らは望外に楽しい時間を過ごしていると思う。これ以上ないくらい、二度とないかも知れない」
他の者は彼が何を言おうとしているのか悟ってちょっとしゅんとする。
彼らにももちろん理解できているのだ。
確かに少女たちは自分たちと共に時を過ごしてくれる。しかし、それは半ば騙《だま》したようななし崩しによるものだ。
彼女らの優しさにつけ込んでいるだけなのだ。
次に会ってくれるとはとても思えない。
ただ小一時聞だけの儚《はかな》い夢。
「ふふふふ」
首領が低く不気床に笑った。
「その逢《おう》瀬《せ》をもっと長く引き延ばしたいとは思わないか? 同志諸君」
ぎくりと黒服たちが身を強《こわ》ばらせた。
「そ、そんなことが可能なのですか? 会長」
首領は大きく無言で頷《うなず》いた。それから色とりどりのあめ玉が沢《たく》山《さん》入ったガラスの小《こ》瓶《びん》を懐《ふところ》から取り出す。
彼は得意そうにそれを皆の前に突き出した。
「せきど〜さいのロストアイテム!」
「な、なんです? それ?」
と、黒服たちがずずいと顔を寄せた。首領は重々しく、
「私も素《す》性《じょう》や成分はいまいちよくは分からない。ただ、とあるルートから入手したご禁制の品物でな。これを相手に呑《の》ませると最初に見た相手を最低三ヶ月間は好きになるらしい」
「ほ、ほれ薬ですか!?」
「し! 声が高い!」
首領は慌てて頭《ず》巾《きん》の前に指を持ってきた。
「どうする? お前たちの分もあるが」
「し、しかし、それは」
と、一人が躊躇《ためら》いを示す。首領は突然、素《す》の声に戻って、
「あ、厭《いや》ならいいんだよ、別に〜。無理して頼んでないし〜。あ、俺《おれ》は使うつもりだけどね、ちなみに。さっくりとばっちりと。今後ともてんそうちゃんとお付き合いしたいしい〜」
全く歯《し》牙《が》にも。
というか眼中にも入れられなかったのに首領はてんそうがいたくお気に召したらしい。首領は指を立てるんるんと、
「俺が今後、てんそうちゃんと付き合うようになったら会長の座はいったい誰《だれ》にやって貰《もら》おうかな〜」
誰だって本当はそんな惨《みじ》めな会の会長になんかなりたくない。
「うう」
「会長、ぜひ、我《われ》らもお供を」
結局、良心の葛《かっ》藤《とう》に欲望が勝って会員たちは涙を流しながら小《こ》瓶《びん》に向かって手を差し伸ばしたのだった。
「いいか? 私が隙《すき》を作るからだな」
「なるほど、なるほど。その間に女の子たちの飲み物に薬を入れる訳《わけ》ですね?」
そんな会話がひそひそと交わされている男子トイレ。
ところで彼らは気がついていなかったが、ちょうど女子トイレに向かっていた小さなツインテールの少女が偶然、男子トイレの中の会話を扉越しに聞いてしまって、ててててっと店内に駆け戻っていたのである……。
「ご注《ちゅう》進《しん》ご注進!」
と、彼女は言っていた。
「大変だよ、みんな!」
男子トイレから十人の黒服たちがぞろぞろと出てくると十人の少女たちはにっこりと微笑《ほほえ》んで彼らを迎え入れた。
不気味なくらいにっこりと揃《そろ》って。
「あ、どうもお待たせしました」
黒服たちは次々にぺこぺこと頭を下げる。
「いえいえ」
と、少女たちが一斉に首を横に振った。なぜか彼女らの前と黒服の前に都合良く人数分のジュースが既《すで》に注文してあった。
「ああ、仕切り直しですよ」
と、屈託なく笑ってせんだんが言った。
「改めて乾杯をしようと思いまして」
と、微笑《ほほえ》んでなでしこも付け加えた。
妙に居《い》心地《ごこち》が悪い雰囲気が場を支配した。
「あ〜、分かりました。なるほど……」
しかし、そのことを特に疑問に思うことなく首領がちょっと咳《せき》払《ばら》いしてから、
「あ、あんなところにリオのカーニバルダンサーズが!」
と、少女たちの背後をいきなり指さした。会員たちは「な、なんだよ、それ?」と内心こけていたが少女たちは揃《そろ》って、
「え? 本当?」
と、作為的なまでに素直に後ろを向いていた。
ともはねだけがワンテンポ遅れたが、あえてみんな知らんぷり。黒服たちは大慌てで向かい合う少女のグラスにそれぞれ薬を入れた。それから少女たちが彼らの作業が終わるのを待つかのようにゆっくりと振り返ると、今度はふふんと鼻で笑ったたゆねが、
「あ! あんなところに巨大な歩く食い倒れ人形が!」
と、彼らの背後を反対に指さした。元々、少し足りない気味のある黒服たちは「ええ?」と大げさに驚《おどろ》いて後ろを振り返る。
いまりとさよかが、
「歩いているのか、倒れてるのかどっちだよ!」
と、つっこみを入れている間、少女たちは綺《き》麗《れい》に揃った動作であっという間に自分のグラスと相手のグラスを入れ替えた。
それから黒服たちが怪《け》訝《げん》そうに姿勢を戻したところで、強引に、
「かんぱ〜い!」
と、ジュースを飲むことを強要する。
素直というか、疑うことを知らない黒服たちがむぐむぐと美味《おい》しそうにジュースを飲み終わったところでさっと表面が鏡《かがみ》のように磨《みが》き抜かれたお盆を目の前に差し出す少女たち。
見事なまでの統制のとれっぷりだった。
そして五分後。
「あ〜。つっかれたつっかれた♪」
たゆねがぐるぐると肩を回しながら喫《きっ》茶《さ》店《てん》を後にする。
「このあとどうする?」
「カラオケでもどうかしら? 薫《かおる》様がお帰りになる時間までもう少しあるし」
「お、いいねえ〜歌いたいね〜」
「ともはね、なに歌う?」
「あたしいぐさとアニメの歌!」
「え、ええ? 私も?」
「まったまた〜。キライじゃないくせに!」
とか、賑《にぎ》やかに笑いながら出て行く他《ほか》の少女たち。
そして中では、
「お、おおお」
「う、うつくしい……」
完全に骨抜きにされた黒服たちがうっとりとそう呟《つぶや》きながらお盆を見つめていた。それぞれ魅《み》入《い》られたようにポーズを取り、さらに鏡《きょう》面《めん》の自分を褒《ほ》め称《たた》える。
「誰《だれ》よりも! 誰よりも美しいよ、自分!」
「覆《ふく》面《めん》姿の俺《おれ》、ちょ〜さいこ〜!」
「あ〜あ」
その一部始終を見ていた啓《けい》太《た》がぼりぼりと頭を掻《か》いて呟《つぶや》いた。
「なんかすっげえ人ごととは思えない光景だぜ、こいつらの末《まつ》路《ろ》」
「そ〜そ」
ようこがもっともらしく腕を組んで頷《うなず》く。
「女の子に悪いことをする奴《やつ》は必ず天罰が下るんだからね? よ〜く覚えておくように」
それからくすっと悪戯《いたずら》っぽく笑うと、啓太の首にきゅっと手を回して、
「それにケイタはそんなことしなくったっていいんだし。ね?」
ちゅっとその頬[#「頬」はunicode9830]にキス。
啓太がくすぐったそうな顔をした。
その後日。
県立|武《む》藤《とう》田《だ》高校の『全《すべ》てのカップルに嫌《いや》がらせをするもてない男の会』が廃部になって『覆面姿の自分を褒め称え、恋する同好会』が設立されたのは全くの余談である……。
外は雨、しとしとと雨音が川《かわ》面《も》を叩《たた》く、外の肌寒さがケイタハウスの中にもゆっくりと忍び寄ってきていた。無理もない。
啓《けい》太《た》がその驚《きょう》異《い》的《てき》なバイタリティーと持ち前の器用さで作り上げたとはいえ、元々は廃品を組み合わせただけのただの掘っ立て小屋である。
師走《しわす》も間近に迫ったこの季節では室内にいても朝晩、息が白くなるのも無理はなかった。
いい加減手足がかじかんだ啓太が「人間には最低限の文化的な生活を送る義務がある!」と宣言して排気口を上手《うま》く天《てん》井《じょう》にくりぬき、近々、ケイタハウスにストーブを設置すると宣言していた。ようこは内心「なんかケイタって色々言ってるけど結局橋の下の生活にすっごく馴《な》染《じ》んでいるよね」と思っていたがそれは口には出さなかった。
そんな訳《わけ》で啓太の現在の暖房器具はもっぱら知り合いから恵んでもらった大量の毛布だった。セミダブルサイズ(ベッドだけはゴミ捨て場から良いのを拾ってきていた)のベッドの上に、色とりどりの毛布が十枚近く積んである。
時刻は午後、四時半。
今その小山のような毛布の塊《かたまり》が緩《ゆる》やかに上下していた。
よく見ているとその端からにょっきりと白い素足が突き出ていた。それが「ん〜」という呟《つぶや》き声と共に毛布の中に引っ込んだ。
それからその動きに呼応するように反対側から不《ふ》機《き》嫌《げん》そうな寝起きの声が聞こえてきた。啓太の声だ。
「うう〜、なんだよ? ようこ、押すなよ?」
彼はむにゃむにゃ言いながら首を起こした。枕《まくら》が置かれている場所とは斜め四十五度|離《はな》れたベッドの端である。
後頭部がベッドから完全に浮いてしまっていた。
「う? あれ?」
啓太は寝ぼけたような声でそう言った。
「おれ、何でこんな向きに……」
彼はもぞもぞと首を引っ込め、毛布の山の中で一度方向転換してから枕の位置に頭を持ってこようとした。
しかし。
「あ、いて!」
こんもり小高い毛布の山の中で啓太の声がして、
「わ!」
ベッドの右端から突然啓太が転がり落ちてきた。彼は頭を床《ゆか》に打ちつけ、
「いってええ〜〜」
と、立ち上がる。普《ふ》段《だん》着《ぎ》にちゃんちゃんこ姿の彼は頭を押さえながら、
「全く、寝相の悪い奴《やつ》だな……」
ぶつぶつと毛布の山に文句を言った。すると中で一体どこまで分かってるんだか「くすくす」というようこの笑い声が返ってきた。
啓《けい》太《た》は「う〜、さむ」と首をすくめると今度は歩いてベッドの上部に回り込んでそこから毛布の中に足を滑《すべ》らせた。
「はあ、さむさむ」
ところがすっぽりと身体《からだ》を潜《もぐ》り込ませる前に啓太がふと眉《まゆ》をひそめた。
足《あし》下《もと》に違和感を感じたのだ。
「ん?」
彼は一枚目の毛布をそっと捲って中に手を突っ込んでみた。
「なんだ、これ?」
ごそごそと手探りでその違和感の正体を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》み、引っ張り出してみる。目の前に持ってくるとそれは、
「くけけえ?」
思いっきり寝ぼけ眼《まなこ》の河童《かっぱ》だった。口の端からとろりと涎《よだれ》を垂らしている。啓太は半目になった。
それから河童をベッドの脇にぺいっと放り捨て、
「まったく訳《わけ》の分からないのばっかりこの家に居着きやがる」
ぶつぶつとそう呟《つぶや》き、毛布を肩まで引っ張り上げてごろんと寝返りを打った。昨夜《ゆうべ》は徹《てつ》夜《や》仕事でかなり疲れているのである。
程《ほど》なくまた深い眠りに落ちていった。
対して脇に放り捨てられた河童はひよひよ寝ぼけた顔で辺《あた》りを見回してから、
「くけ?」
ま、いっかとばかりにもう一度ベッドによじよじよじ登ると、下方からもぞもぞとまた毛布の中に入っていった。
中で、
「あん、ケイタ……そんなとこさわっちゃだめ♪」
というようこの色っぽい声が聞こえてきた。
が。
ケイタは規則正しい寝息を立ててるのみである。またしばらく静寂が続く。時折、「ふぁっしょん、ふぁっしょん」というようこの意味不明の寝言と「ご飯はまだですか? 啓太様」というようこ以外の小さな女の子の寝言が聞こえてきたりする。
だが、啓太の方は相変わらず泥のように眠っていた。
枕《まくら》を抱きかかえるような動作を一度する。
するとその顔の前にぴょっこりと猫の尻尾《しっぽ》が飛び出してきた。それがゆらゆらひらひらとまるで海草のように揺らめく。
その拍《ひょう》子《し》にその先っぽが啓《けい》太《た》の鼻をくすぐって、
「ひ、ひっくしゅん!」
啓太は大きなくしゃみを一つした。同時に猫の尻尾《しっぽ》はさっと毛布の中に引っ込んだ。啓太は一《いっ》瞬《しゅん》で目を覚まし、驚《おどろ》いたように周囲を見回す。
しかし、彼の安眠を妨げたと思《おぼ》しき物体はどこにも見あたらない。ただ、
「べっふこ〜い」
と、訳《わけ》の分からないようこの寝言が毛布の奥から聞こえてくるのみである。啓太は首を振り、溜《ため》息《いき》をつくと今度はもっとじっくり暖を取るべく顔を深く毛布の中に埋めた。
入れ替わるようにしばらくしてから、
「あ、あれ?」
毛布の端からひょっこり猫の留《とめ》吉《きち》が身体《からだ》ごと押し出されてきて周囲を見回した。それから彼は慌ててまた毛布の中に潜《もぐ》り込んだ。
セミダブルのベッドに一体、誰《だれ》がどれだけ入っているのだろうか。誰かが中に入るとまた誰かが外に押し出されてくる。
雨音が心地《ここち》よい音《ね》色《いろ》を立てている。
部屋の中は冷たい空気に満ちていたが毛布の中はどこまでも暖かそうだった。
と。
そこへ表の方から声が聞こえてきた。
「失礼します……啓太様? ようこさん?」
畳んだ傘《かさ》を戸口のところに立てかけながら割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》を着たなでしこがケイタハウスの中に入ってきていた。
彼女は風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みに包んだお重《じゅう》をテーブルの上に置き、
「差し入れをお持ちしました。いらっしゃらないのですか? 啓太様? ようこさん?」
きょろきょろと部屋の中を見回す。それからこんもりと盛り上がった毛布の山に気がつき、そっと近寄った。
「あ、あの? もしもし?」
軽く揺すってみる。すると、
「ふは!」
中から溜《た》めていた息を吐き出してなぜかパジャマ姿のともはねがもぞもぞと出てきた。彼女は毛布を一枚頭から被《かぶ》ったまま半分眠った目で、
「あれ? なでしこ? なにやってるの?」
そう尋《たず》ねてきた。
「なにって……」
なでしこは呆《あき》れたように腰元に手を当てた。
「あなたこそナニをやってるの? 全く! 今日《きょう》、姿を見かけないと思ったらずっとここにいたのね!」
「ううん、そんなことないよ〜」
ともはねはぽやぽやした声で目を擦《こす》りながら答えを返した。
「だって、猫さんも河童《かっぱ》もいるし暖かいんだし」
彼女は四つんばいになるとまたもぞもぞと毛布の中に戻っていった。
「あたし、もう少し寝る」
そのお尻《しり》が完全に毛布の中に隠れる。
「もう!」
と、なでしこは首を振って、軽く溜《ため》息《いき》をつく。
「ともはね、いくら啓《けい》太《た》様のところが居《い》心地《ごこち》良いからってあんまり長い間、お邪《じゃ》魔《ま》したらご迷《めい》惑《わく》でしょう? ほら、早く出てきなさい」
手を毛布の中に突っ込んだ。
その途端《とたん》。
「きゃ!」
何者かがその手首を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んで反対に彼女を毛布の中に引っ張り込んだ。
驚《おどろ》いたようななでしこの声。
「え? え? あ! も〜」
やがてくすくすと笑い出す。どうやらその人物が毛布の中で特定出来たようだ。
「ようこさんったら。脅かさないでください」
さらになでしこの声が続く。
「え? しばらく一《いっ》緒《しょ》に寝よう、ですか? ん〜。わたしはもう戻らないと……あ、もう! どこをさわってるんですか、ようこさん? あ、わ、わ! 変なところから変なところに手を入れないでください!」
「なでしこ、胸がふかふか〜」
ともはねの甘えたような半《はん》覚《かく》醒《せい》の声。なでしこの苦笑。
「も〜」
「くけけ」
寝ぼけた河童の声も聞こえてくる。なでしこは諦《あきら》めたように笑った。
「分かりました。しばらくだけですよ? 本当に」
ん。
と、色っぽい声が聞こえる。
「だから、それはやめて、ん!」
もう。
と、なでしこがまた呟《つぶや》いて、徐《じょ》々《じょ》に毛布の揺れが静かになっていった。
「……しかし、本当に暖かいですねここは……わたしたち、犬《いぬ》神《かみ》は……ふあ」
可愛《かわい》らしいあくびが続く。
「こういうのが……大好きだから」
やがてすやすやと穏《おだ》やかな寝息が聞こえてきた。
「ねこねこまんじゅう♪」
訳《わけ》の分からないようこの寝言が再び発せられた。そしてなんというか、少女らにとっては知らぬが仏だが、シングルベッドの下[#「シングルベッドの下」に傍点]からにょっきりと超大まじめな顔のドクトルの顔が突き出てくる。彼は誰《だれ》にやるでもなく唇に指を当て「し〜」とポーズをとるとまたひょいっと首を引っ込めた。
静かになる。一体、本当に何人、この部屋にいるのか。
それは誰にも分からなかった。
しばらくして啓《けい》太《た》が再びごろんとベッドの中から外に転がり落ちてきた。
「いてててて!」
彼は腰をさすりながらよろよろと立ち上がる。苦笑した。
「はは、あともうちょっとでなでしこちゃんを抱っこ出来るところだったんだけどな。夢じゃ仕方ないな」
啓太はなにも知らずまた布《ふ》団《とん》の中に入ろうとする。それから「ん?」と眉《まゆ》をひそめた。また足《あし》下《もと》に違和感があった。
妙な布地がつま先に絡《から》んでいる。
彼はそれをずるりと引っ張り出してみた。
ピンクのブラだった。
目を丸くする。
「い」
と、口が三日月型に開き、固まる。それからまたもぞもぞと手を突っ込みさらに色々と取り出した。クマさんの柄《がら》をしたポシェットにエプロン。ストッキングにスカート。
固まる。
固まる。
それから。
ゆっくり、本当に恐る恐る布団をはいでみた。ころんと転がり出る猫や河童《かっぱ》。ついで「うう〜」とちょっと不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに唸《うな》って、半目になっているともはねが出てきてぱたぱた尻尾《しっぽ》を振っていた。
そして。
そのあとに世にもしどけない姿で抱き合っているようことなでしこの姿が現れた。ようこはほとんど素っ裸に近い状態で、啓《けい》太《た》の大きめのシャツだけを身につけていた。胸元が大きく開き、白い足がばんと投げ出され、それがなでしこの腰元に絡《から》まっている。
黒く散らばった髪。
対してなでしこは腕を胸元に畳み、色っぽくうなじの毛が唇についている格《かっ》好《こう》だった。
柔らかい寝息。ストッキングが片方だけ脱げ、スカートが大きくたくし上がっていた。むっちりした太ももが丸見え……。
まだ固まっている啓太。
そこで。
「あ」
「ん?」
眠そうに目を擦《こす》ったようことばったり視《し》線《せん》があった。
五秒経過。
十秒経過。啓太の額《ひたい》から汗がしたたり落ちる。
「あ、いや、これは」
と、啓太がナニか言いかけた時、にんまりとようこが笑った。
「いいよ、ほら、ケイタもまた一《いっ》緒《しょ》に寝よう? わたしと抱っこしよう。それともなでしこの隣《となり》が良い?」
「え?」
そういった答えは全く予想していなかった。折《せっ》檻《かん》されるか、ベッドから追い出されるかどちらかと思っていた。思わず息を呑《の》む啓太。
それから急にはっきりとしてきた脳みそで素早《すばや》く打算を働かし、
「え? い、いいの? 本当に良いの?」
と、ようこの顔色をうかがうようにして尋《たず》ねてみた。ようこはにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「うん。もちろんだよ♪ お昼寝はみんなでぽかぽか寝た方がいいからね。ケイタだけ仲間はずれにしちゃ可哀《かわい》想《そう》でしょう?」
さらに艶《つや》のある流し目で、ポンポンとマットレスを叩《たた》き、
「ほら、わたしとなでしこの間においで♪」
と、招き入れようとする。啓太はぱあっと喜色に顔を輝《かがや》かした。それから彼は大きく助走無しで飛んだ。
「なでしこちゃあ〜〜ん」
まだすやすやと寝ているなでしこに飛びつこうとする。その時。
「しゅくち♪」
にんまり笑ったようこが指を立てた。
そしてどうなったかというと……。
「全くどうせこんなことだと思ったぜ……」
啓《けい》太《た》が涙目でぶつぶつと文句を言っていた。彼は確《たし》かにお望み通りなでしこの隣《となり》に寝ることが出来た。だが。
「ふふ、ケイタ、あったかあ〜い」
毛布でぐるぐる巻きに縛られた[#「毛布でぐるぐる巻きに縛られた」に傍点]状態だった。同時に寝返りを打ったなでしこがそんな蓑《みの》虫《むし》のような啓太にきゅっとしがみつく。
ようこが彼の顔を胸元で抱え込んだ。
「さ、ケイタ。約束通り一《いっ》緒《しょ》にお休みしようね♪」
「わあ〜、こんなの蛇《へび》の生殺しだ! 殺生だ!」
ぎゃあぎゃあ喚《わめ》く啓太。その間、ともはねがいそいそと駆けてきて、啓太とようことなでしこにがばっと毛布を掛けた。くぐもっていく啓太の声。ついで「くふふ」と笑いながら自分もまた毛布の中に潜《もぐ》っていくともはね。
さらに河童《かっぱ》、猫。
そしてまた。
ゆっくりと雨音が強くなり、お昼寝はどこまでも続くのであった。
あとがき[#中見出し]
『いぬかみっ!』九巻目です。読み上がり終了、お疲れ様です、オス!
今回は今まで収《しゅう》録《ろく》できなかった短編をまとめて収録した番外編みたいな内容となっております。なんやかやでお蔵《くら》入《い》りしたエピソードや啓《けい》太《た》の過去話、若《わか》月《つき》さんの漫画(すごく良い話です)特に二話目の『私立|犬《いぬ》上《がみ》女学院』に至ってはこういう機《き》会《かい》でもないと単行本化出来なかったと思うので嬉しいです。
しかし、お陰様で『いぬかみっ!』も九巻目、様々な企画展開が始まってます。
ちょうどこの巻が出ている頃《ころ》にはアニメも始まってることと思います。アニメ制作会社はセブンアークスさん。監《かん》督《とく》は草《くさ》川《かわ》啓《けい》造《ぞう》監督です。『魔《ま》法《ほう》少女リリカルなのは』を手がけた凄《すご》腕《うで》スタッフです。残念ながらこの原稿を書いている段階ではまだアニメは出来上がってないですが、きっと原作を遥《はる》かに超えて面《おも》白《しろ》いものになってると思います。
ぜひ、見てください〜。
それと松《まつ》沢《ざわ》まりさんによる漫画も規在、『電《でん》撃《げき》ガオ!』で好評連載中です。単行本も既《すで》に発売されているのでぜひお手にとって見てください。
本当によい出来だと思います。
一巻の頃、自分は『いぬかみっ!』の文章を担当だ、というような主《しゅ》旨《し》のあとがきを書きましたが、その感《かん》慨《がい》を今特に強く感じています。
そういえば『いぬかみっ!』を書き始めた当初は自分でもよく分からず書いておりました。まず啓太がようこと出会う前に走っているシーンからいきなり書き出して、『この走っている少年はいったい誰《だれ》なんだろう?』、『この着物の女の子は誰なんだろう?』そんなことを考えながら同時進行で書いてました。
一巻を書いているときは楽しくて仕方がなくて、その後何回か詰まったりしたけど、結局、その感覚はまだ続いています。
『いぬかみっ!』を書いていると楽しい。そのことが一番、自分として嬉しいです。
次巻は通常通りの構成に戻って薫《かおる》がいなくなった後の話になります。自分が楽しく書けて、読者の皆さんが楽しんでいただけたらこれに勝る喜びはありません。
今後とも宜《よろ》しくお願《ねが》い申し上げます!
[#地付き]自宅にて 有《あり》沢《さわ》まみず