いぬかみっ! 8 川《かわ》平《ひら》家《け》のいちばん長《なが》い一《いち》日《にち》
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ついに舞踏結界の封印を破り、大妖狐が復活!
そして、大魔導師・赤道斎が吉日市の空を暗躍する時、川平薫は琥珀の瞳で己の宿命を見据え、決して譲られぬ戦いに赴く。
その最中、ようこは想いを深め、ともはねはくるくると飛び回り、なでしこは密やかにそっと微笑む。
壮絶な三つ巴の戦いで、彼女たち犬神が導き出す結論とは果たして何か!?
初めて語られる薫の過去とは!? 猫耳メイドと化した啓太の運命は……!?
ハイテンション・ラブコメ、いよいよ8巻目! 今回は長編でお届けします!
ISBN4-8402-3236-9
CO193 \590E
発行●メディアワークス
定価:本体590円
※消費税が別に加算されます
有《あり》沢《さわ》まみず
昭和51年生まれ牡牛座のB型。第八回電撃ゲーム小説大賞〈銀賞〉を頂く。最近、某携帯ゲームの脳みそ測定ゲームにはまってます。毎日、少しずつやってるお陰で心なしか頭が良くなってきたような……。
【電撃文庫作品】
インフィニティ・ゼロ冬〜white snow
インフィニティ・ゼロA春〜white blossom
インフィニティ・ゼロB夏〜white moon
インフィニティ・ゼロC秋〜darkness pure
いぬかみっ!
いぬかみっ! 2
いぬかみっ! 3
いぬかみっ! 4
いぬかみっ! 5
いぬかみっ! 6
いぬかみっ! 7
いぬかみっ! 8 川平家のいちばん長い一日
イラスト:若《わか》月《つき》神《かん》無《な》
有沢さんのHPに触発されてブログなるものを開設してみました。更新は楽しいですが、自分のバカさ加減を世に知らしめている気がしなくもないかもしれません(どっちよ)皆さん遊びにいらしてくださいね〜。
http://tune9.air-nifty.com/candyfloss/
カバー/加藤製版印刷
真冬の満月。
渺《びょう》々《びょう》と夜風が鳴っていた。松の梢《こずえ》が音を立てて揺れ、影《かげ》が大きく、何倍にもなって地面に映し込まれた。赤々と燃《も》える焚《た》き火に手をかざしながら犬《いぬ》神《かみ》の最長老が煙るような嗄《か》れた声で喋《しゃべ》った。
「あ〜、ようきたようきた」
最長老の目の前で割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》を着た少女が行《ぎょう》儀《ぎ》良く平《へい》伏《ふく》していた。
「ま、そう。かしこまらずに」
「はい……お邪《じゃ》魔《ま》ではなかったでしょうか? はけ様と先ほどすれ違いましたが」
「ああ、はけにはもう伝えることはぜんぶ伝えたからいいんじゃ。というか、やめておくれ。おまえさんにそういう風《ふう》に接されると正直困る」
最長老は頬《ほお》をぽりぽりと掻《か》きながら目を背《そむ》けた。
「ふふ」
と、少女が笑って顔を上げた。
「でも、仕方ないですよ。あなたは今、紛《まぎ》れもなく最長老様なのですから」
むう。
巨大な犬の姿であぐらを掻いていた最長老が子供のように頬をふくらませた。ねずみ色の着物をだらしなく着ていて、だんだら模様の帯を巻いている。毛むくじゃらの身体《からだ》に顔。目やにのついた目はしょぼしょぼとしていて、歯はもう何本も欠けていた。
「実際、年のことを言うならわしよりもおまえさんの方が」
「で、ご用件は何でしょうか?」
少女がにっこりと微笑《ほほえ》んでその先を制した。
最長老は「女性」に年《ねん》齢《れい》の話題を持ち出す愚《ぐ》を悟り、首をすくめる。それから、
「あ〜、かいつまんで言うと少しおまえさんと話をしてみたくなったんじゃ」
「……世間話ですか? いまさら」
「そう言いなさるな。いくつか事情も変わってきたのだから」
少女は眉《まゆ》をひそめた。
「……どういうことですか?」
最長老の言葉に妙な不安を感じた。最長老は周囲を見回し、改めて自分たちだけしかいないことを確《たし》かめると、てへっとまるで悪戯《いたずら》っ子のように、
「あのな、わし、もう死ぬかもしれない」
軽くそう言ってのけた。
「!」
少女が息を呑《の》む。最長老は困った顔をしていた。
「いや、今回、あの大《だい》妖《よう》狐《こ》を縛《しば》るのに使った霊《れい》力《りょく》の量がちと問題だったというか、しょ〜じきわしももう枯《こ》渇《かつ》気味じゃし」
「……寿命ですか?」
「そう思う」
少女が重苦しく首を横に振った。最長老は取りなすように言った。
「まあ、仕方ないんよ。これは。こればかりは」
少女は俯《うつむ》いた。
無言で、手をぎゅっと握り締《し》める。
「いや、だから、まだ未《み》確《かく》定《てい》じゃけど、たぶん、そうじゃろ〜なと。ははは、おかしなもんじゃの。死期というものが自分で分かるとは思わなんだわ。まあ、はけにもせんだんにも言ってないから、おまえさん、ちょっとこれは内《ない》緒《しょ》にしておいてくれよ?」
最長老は秘密めかして唇の前に太い指を持ってきた。
少女は大きく嘆《たん》息《そく》した。
それから不《ふ》思《し》議《ぎ》に落ち着いた笑《え》みを浮かべ、愛《いと》おしむように最長老を見やった。
「……後悔はないのですか?」
「後悔?」
最長老は目を丸くした。それから呵《か》々《か》と大笑する。
「全くない! 楽しかった!」
少女は目を細めた。
「そうでしょうね。わたしも今ならあなたのその気持ちがよく分かります」
「ほう」
今度は最長老が興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに少女の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「それだけおまえさんは今の主人を想《おも》ってるのじゃな?」
「はい」
少女は頷《うなず》いた。
「心の底から」
ほぼ寿命がないに等しい犬《いぬ》神《かみ》。
彼らが年を取り、死へと向かう唯一の原因は己《おのれ》の霊《れい》力《りょく》や根源的な存在を次世代に受け渡して行くことによって起こる。
つまりは子をなすことである。
「これで初代のお供がまた出来るというものよ。ま、どこにいるのか分からぬが、必ずや探し出して再びお仕えするつもりじゃ……死後の世界というものがちゃんとあるならな」
と、そこで少々、不安そうな顔になる最長老。
「その時は是非、初代様に宜《よろ》しくお伝えくださいませ」
少女が深々と頭を下げた。最長老が少し眉《まゆ》をひそめた。
「おまえさん」
「はい?」
「妊娠したのか?」
「な!?」
少女が思わず真《ま》っ赤《か》になって顔を上げた。下腹を押さえる。
「ど、ど、どうしてそんなことを?」
「あ、いや、さっきから妙に殊《しゅ》勝《しょう》なこと言ってるし、お腹《なか》のところが」
「お腹のところが」
少女がにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「一体なんですか?」
最長老は再び己《おのれ》の失策に気がついて慌てふためいた。
「い、いや、なんでもない。とにかくの、そういう訳じゃからおまえさんとは話をしておきたかったんじゃ。ほら? わし、もう明日《あした》死ぬかもしれないし」
「……」
「有《あ》り体《てい》に言うと大《だい》妖《よう》狐《こ》が心配なんじゃよ。わしが死んだら結界消えるじゃろ」
最長老はため息をついて肩を落とした。
「はけにはわしが教えられる全《すべ》てを教えたが、あやつは元々、攻《こう》撃《げき》向きの資質をしていての。大妖狐への切り札が上手《うま》く決まるかどうかは正直|心《こころ》許《もと》ないのよ」
「それは……」
少女は目《め》線《せん》を逸《そ》らした。
「わたしはもう二度と戦いは」
最長老は優《やさ》しく微笑んだ。
「ん〜。別にそのことは無理|強《じ》いせんよ。おまえさんがずっと世話してくれたおかげでようこも心を開いてこちらについてくれたし」
「いえ、あれは啓《けい》太《た》様が」
「ん。どちらにしても他《ほか》にも有力な者はおるしな。今の宗《そう》家《け》にはけ、犬《いぬ》神《かみ》たち。川《かわ》平《ひら》薫《かおる》に啓太がおれば大妖狐相手といえどそうそう遅れもとらんじゃろ。わしは万一の話をしている」
最長老は大きな毛むくじゃらの手でぽんぽんと少女の肩を叩《たた》いた。
「万一じゃ。万一の話じゃ。しかし、その時は死なない程度に宜《よろ》しく頼むぞ、なでしこ」
少女。
なでしこはしばらく俯《うつむ》いていたが、やがて微《かす》かに頷《うなず》いた。
「それであなたの気が済むのなら」
最長老は晴れやかに笑った。
「よかったよかった。これでわしも安心して死ねる」
だが。
犬《いぬ》神《かみ》のなでしこは全く別の可能性を考えていた。
彼女はじっと夜空を見上げていた。
流星が。
一つ真っ暗な夜空を切り裂くようにして流れ落ちていた。
間奏1少年とソレ=m#中見出し]
物心ついた時には既にソレしか身近な存在がいなかった。
ソレはひどく変わった外《がい》観《かん》をしていた。
透明な水晶球が頭になっていて、黒いマントを羽《は》織《お》っていた。足はなく、マントの隙《すき》間《ま》から真白く細長い手がひょろりと突き出ていた。身体《からだ》があったのかどうかはよく覚えていない。ただ水晶と黒いマントと白い手のみで構成されている、ソレはまるでお化けのような存在だった。てるてる坊主みたいだ、と幼い頃《ころ》の少年はよく思っていた。
ソレは宙に少し浮いた状態で、自在に城の中を動いて回っていた。人里|離《はな》れた湖の上を真白い霧《きり》と共に滑って移動する魔《ま》法《ほう》の古城。
それが幼い少年とソレの住まいだった。
ソレは少年を教育していた。
教えてくれたのは清く正しい心のこと。そして、少年の家族のこと。
少年には父親と妹。それから沢《たく》山《さん》の血族がいるらしかった。ただ、とある事情で少年は一人ここに預けられているのだそうだ。
ソレは繰《く》り返し、
『もうじきお前の父親がここに迎えに来てくれるから』
と、説明してくれた。
その家族がいかに大事なモノで、愛すべきモノかソレは一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》話してくれた。少年はソレのことが大好きだったので熱《ねっ》心《しん》に聞き耳を立てた。他《ほか》には人を愛することのすばらしさ。困ってる人を助ける大切さ。
人間として真《ま》っ直《す》ぐに生きることの大事さを少年はソレから教わった。
ソレは甲《かん》高《だか》くきいきい軋《きし》む声をしていた。
どうやらソレは人間ではないらしい。
ということはしばらく経《た》ってから気がついた。ただ少年にとってはあまり関係なかった。ソレが少年にとって尊敬する父親であり、物知りな教師であり、頼りになる友達であることは変わりがなかったからだ。
寂しくはなかった。
ただソレは家族の記《き》憶《おく》を持たない少年を随分と不《ふ》憫《びん》に思っていたようだ。少年を慰《なぐさ》めようと意図してかよく絢《けん》爛《らん》たる魔法を目の前で披《ひ》露《ろう》してくれた。
しかし、残念なことに少年は魔法自体にはあまり興《きょう》味《み》が持てなかった。基《き》礎《そ》的《てき》な学問の他に幾つか簡《かん》単《たん》な魔《ま》法《ほう》も教えて貰ったのだが、心のどこかでちょっと違うな、といつも思っていたのだ。自分には何かもっと別の道がある気がしていた。
ソレは少年のその反応がちょっと残念だったようだ。
『まあ、いい』
と、しょんぼり肩を落として言っていた。
だが、それ以外の少年とソレの関係は本当に良好なモノだった。
少年は入り組んだ構造の広い古城を歩き回り、備え付けられたグランドピアノで音楽を奏《かな》でたり、分厚い書物を読んだりして日中を過ごした。その間、ソレは自分の仕事にせっせと精を出していた。ソレの仕事はよく分からなかったが、どうやらとても立派なことのようだった。
ごく希《まれ》に城へ来客があるのだが、大《たい》概《がい》の場合、ソレはその来客に大いに感《かん》謝《しゃ》されていた。立ち聞きした限りでは、病《やまい》に倒れた人を救ったり、貧しい一家に援助したりしているようだ。少年はだからずっと、
『人助けがソレの仕事なのだ』
と、思っていた。
復活間近の大《だい》妖《よう》狐《こ》。
そして、行方《ゆくえ》をくらました異《い》形《ぎょう》の大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》赤《せき》道《どう》斎《さい》。
二つの難《なん》敵《てき》を迎え、本来は緊《きん》迫《ぱく》した空気に満ちているはずの川《かわ》平《ひら》本家だが……。
その日、ようこは得意の絶頂だった。
なにしろ大好きな川平|啓《けい》太《た》をほぼ手中に収めたも同然なのである。ずっと狙《ねら》っていた、欲しくて欲しくてたまらなかった啓太が自分を大事にしてくれると宣言した。これ以上の幸せは彼女としては望むべくもない。
自然と自慢話が長くなった。
「だからね〜、ケイタって時々、すごくかっこいいの〜。この間もわたしの面《めん》倒《どう》一生みるよ≠チてきりっとした顔で言ってくれても〜わたしどうしていいか分からなくて」
うっとりとそう目を細めて言って、自分で照れてきゃ〜と叫びながら布団の中に頭を突っ込みじたばたと足をばたつかせるようこ。
他《ほか》の少女たちは皆しらっとしていた。
「あ、そ」
と、たゆねがお煎《せん》餅《べい》をぱりっと歯で割って鼻を鳴らした。
いぐさは半笑いを浮かべていて、いまりとさよかは壁《かべ》に背を預けて漫画を読んでいる。ただ一人ともはねだけが前のめりに手足をついて感心したようなため息をついていた。少女たちは今、十畳ほどのとある和室にいた。たゆね、いぐさ、双《ふた》子《ご》、ともはねに川平本家での寝室としてあてがわれた部屋なのである。
「……羨《うらや》ましい?」
と、そこに夜遅く乱入してきたようこが布団の中からちらっとたゆねを振り返って言った。
「だ、だれがうらやましいもんか!」
たゆねが真《ま》っ赤《か》になって否定した。
「あ、あんな」
盆に盛られたお煎餅をつまみながら漫画を読んでいた双子がちらっと顔を上げた。たゆねはふいっと横を向く。
「……あんな変な格好をしている人」
いぐさが視《し》線《せん》を茶《ちゃ》碗《わん》に落とし、お茶をずずっと啜《すす》った。
たゆねが慌てて言う。
「そ、そうだよ! あんなヘンタイ! あんなえっちな人! 薫《かおる》様に比べれば野に生《は》えたペンペン草みたいなもんだよ! しょ〜もない!」
「くくく」
ようこはむっくら布団の上に起き上がると寝《ね》間《ま》着《き》姿の少女たちを順番に指さした。
「あんたたちはケイタの醍《だい》醐《ご》味《み》がまるで分かってないわね〜。いい? ケイタはね、と〜っても手がかかるのよ? わたしがちゃんと世話を焼いてあげないとダメなの! カオルにそんな隙《すき》がある? お世話させてくれる?」
その言葉に少女たちは複雑そうな顔つきになった。
完《かん》璧《ぺき》な犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い川《かわ》平《ひら》薫《かおる》の唯一の欠点。それは完璧であるということそれ自体にあった。要するにようこが指摘する通り日常生活に犬神が介在する余地がほとんどないのだ。
「あのね、ケイタはね、朝、起こしてあげないとダメなの。ご飯もあ〜んてしてあげるとちゃんと食べるの。時々、お散歩もつれていくの! 少し目を離《はな》しただけで猫耳や変な服着ちゃうし、も〜、毎日が心配で大変♪」
基本的に犬神という人《じん》妖《よう》は世話好きなのである。
仕えている主人の世話が焼ければ焼けるほど口ではぶつぶつ文句を言いつつも、嬉《うれ》しそうにいそいそと働いて回る。だから、ほとんど全《すべ》てのことを一人でやってしまう薫はその点で若《じゃっ》干《かん》、物足りなかった。また、
「ケイタはわたししか犬神がいないからね〜。もう独占し放題!」
その点もあった。
ごくたま〜に薫の役に立つ仕事があっても薫の家には他の仲間が九人もいるのである。自分が何か手伝う前に片付いてしまうことがほとんどだった。
「わたし、ケイタの犬《いぬ》神《かみ》で本当によかった♪」
ようこが手を打ち合わせ、うっとりと天《てん》井《じょう》を見上げた。
たゆねは憮《ぶ》然《ぜん》としながらもどこか羨《うらや》ましそうに、いぐさは唇に指を当て上《うわ》目《め》遣《づか》いになっている。双《ふた》子《ご》は顔を見合わせ、
「まあ、意外にあの人も面《おも》白《しろ》い人材だったのかもね〜」
と、うんうん頷《うなず》き合っていた。
ともはねが万歳した。
「ねえねえ、ようこ。そのケイタ様は今どこにいるの? あたし会いたくなっちゃった!」
ようこは得意然とそっくり返った。
「じゃあ、呼んであげる」
ぴっと指を差し上げた。
「なにしろ、このケイタの大事な大事な≠謔、こさんが呼ぶんだからね〜。ケイタもすぐ来るっしょ?」
しゅくち。
が、発動するちょっと前。
猫耳、メイド服という世にもヘンタイ的な姿をした川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》は深々とため息をついていた。彼がいるところは物干し台の上で、そこにあぐらをかいて座っている。
空には満天の星。
風がめっきりと冷たかった。
「はあ、やっぱりそうだよな〜」
彼の前には河童《かっぱ》がお尻《しり》をぺたんと落とす姿勢で座っていた。
「失敗したよな〜、おれ」
そこで啓太は再度、大きくため息をついた。
くけけ?
と、河童が小首を傾《かし》げた。啓太がもっともらしく頷いた。
「そうそう」
「くけ?」
「まあ、おまえもそのうち女関係で苦労することになるさ。覚悟しておけよ? なにしろ奴《やつ》ら一度、その気になったら絶対に手《た》綱《づな》を緩《ゆる》めちゃくれないからな〜」
啓太はひょいっと欄《らん》干《かん》の上に身軽に飛び乗った。そこで目をつむり、ハムレットよろしく大仰な台詞《せりふ》回しで悩んでみせる。
「おんな! それが俺《おれ》の人生の最大の目標であり、最大の障《しょう》壁《へき》だ!」
星空を背景に大きく手を広げる啓《けい》太《た》。河童《かっぱ》がぱちぱちと水かきのついた手で拍手した。啓太は調《ちょう》子《し》に乗って、深《しん》淵《えん》な口調で実は軽《けい》薄《はく》なことをべらべら喋《しゃべ》る。
「まあ、ようこは元々ルックスが良いやつだし、最近は性格もかわいいし、俺《おれ》としては別にこのままナニになってアレするのも全然やぶさかじゃないんだけどさ〜、やっぱこ〜男として生まれたからには色々な花を摘《つ》みたいというか、料理は和風洋風幅広く食べたいというか」
勝手なことを言う。
「ようこはまあ、別格としても、その他《ほか》にもなでしこちゃんやいぐさみたいなのを傍《かたわ》らに侍《はべ》らせておくのも楽しいし、女子高生から女子大生。OLのお姉様と遊びたいし」
「ふ〜ん」
と、世にも冷え冷えとした合いの手が入ったが啓太は気がつかなかった。
相変わらず目をつむったまま、
「まあ、魅《み》力《りょく》的《てき》な女の子が世の中、多過ぎて啓太、大変、困るよ」
「……わたしが一番じゃないの?」
「もちろんそりゃそうだよ。だけど」
と、そこで啓太はぱっかり目を開き、げっと息を呑《の》む。
気がつくと彼はいつの間にか屋外の物干し台から畳《たたみ》敷《じ》きの和室に移動していた。目の前には世にも恐ろしい笑《え》みを浮かべたようこ。
にっこりと微笑《ほほえ》み、腕を組んでいる。
さらに彼女の背後ではたゆねが軽《けい》蔑《べつ》し切った顔をしていて、いぐさとともはねが困った顔をしている。
そしていまりとさよかがおかしそうにお腹《なか》を抱えて笑い出した。
「あははははは、本当に羨《うらや》ましいご主人様だね、ようこ♪」
ぷちんとようこがそこで切れた。
こきん。
こきこきんと拳《こぶし》の骨を鳴らし啓太にゆっくりにじり寄る。
啓太が慌てて後ずさりした。
「よ、ようこさん? もしかして怒ってらっしゃる?」
ようこは微笑んだまま、
「うん♪」
こっくりと大きく頷《うなず》いた。それから思いっきり跳《ちょう》躍《やく》して啓太にしがみつき、
「よくもわたしに恥をかかせたな! この大バカあああああああ!!!!」
噛[#「噛」はunicode5699]《か》む。自分ごと炎で燃《も》やす。
「ぐげええええええええええええええええええ!!!」
啓太の絶叫が轟《とどろ》いた。世にも凄《せい》惨《さん》な折《せっ》檻《かん》。どったんばったんとホコリが舞《ま》う。布団が跳ね飛ぶ。ふすまが破れる。
背後から負《お》ぶさって啓《けい》太《た》の頸《けい》動《どう》脈《みゃく》をスリーパーホールドでぐいぐい締《し》めるようこと必死で畳をタップして命《いのち》乞《ご》いをする啓太。
ある意味、いつもの光景である。
「あ〜あ」
たゆねが頭の後ろで手を組んで目を細めた。
「ちょっとだけ羨《うらや》ましがったボクがバカみたいだ」
彼女はため息をつき、皆に向かって言った。
「ねえ、ここにいてとばっちり受けてもやだしさ、薫《かおる》様のところに行かない? 確《たし》か薫様は宗《そう》家《け》様と将棋をやってたでしょ?」
いまりとさよかが賛《さん》意《い》を示した。
「さんせ〜」
三人はふすまを開け、「やれやれ」と肩をすくめたり、談《だん》笑《しょう》したりして出て行く。いぐさはほんのちょっと恐る恐るまだぎゃいぎゃい争っている啓太とようこを見てからふと気がついたように小さなともはねに向かって声をかけた。
「あれ? あなたは? 薫様のところに行かないの?」
ともはねは啓太とようこをじっと見物していた。
「うん」
と、いぐさをちらっと見上げ、両手を広げて言った。
「あたしはここにいるよ! あたしは啓太様のところにいる」
それが彼女のささやかな変化だった。
他《ほか》の少女たちがぞろぞろと出て行った後、ともはねは膝《ひざ》を抱えて啓太とようこの乱《らん》闘《とう》を見守っていた。今、ようこがマウントポジションを取って啓太を枕《まくら》で叩《たた》きまくってる。啓太は悲鳴を上げて、顔をかばっていた。
「この! この!」
と、腕を振るってようこ。半分、笑いながら、
「もう他《ほか》のオンナを見ないって誓うか? 誓うか?」
「誓いません! 誓いません!」
啓太も啓太で断固として主義主張を曲げない。
「なにおう!」
と、ようこがさらに枕でめった打ちにする。その光景を見ているとともはねはうずうずと我慢できなくなってきた。
なんとなく歯が痒《かゆ》い感じだ。
「あたしも混ぜてください!」
とびついていって思いっきり啓《けい》太《た》の二の腕を噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだ。ようこが命令を下した。
「よ〜し、ちびっ子、あんたもやってやれ!」
「わ〜〜〜! なんなんだよ、おまえら!」
啓太の悲鳴が轟《とどろ》き渡った。
ちょうどその頃《ころ》、この部屋付近の廊下を歩く三つの人《ひと》影《かげ》があった。彼女らははっと顔を上げた。
「今の声……もしかして啓太様じゃないのか?」
白衣を着たごきょうやが他《ほか》の二人を振り返った。
てんそうがこっくりと頷《うなず》き、フラノがやや自信なさげに答えた。
「そうかな?」
「そうだよ。どうする?」
彼女の問いかけは実にシンプルだったが、てんそうもフラノもすぐに彼女の意図を察した。
「良い機《き》会《かい》……なのかな?」
と、てんそうが首を傾《かし》げた。フラノが不安そうに手を握り合わす。
「……ようこもいるみたいだけど」
「遠《えん》慮《りょ》願《ねが》えばいい。幸い、なでしこはどこかに出てるみたいだし、薫《かおる》様も宗《そう》家《け》様のところにいる。今を逃《のが》す手はないと思う」
ごきょうやは決然と言った。てんそうもフラノも彼女がそう決めたのであれば反対する理由は全くない。
むしろ一刻も早く重たい秘密を啓太に渡して身軽になりたかった。
「じゃあ、早速行こう」
とごきょうやが手を振った。てんそう、フラノがその後に続く。
あの地下室で二つの棺《ひつぎ》を見て以来、彼女たちの心はずっと安まることがなかった。不安に押し包まれ、疑心暗鬼にさいなまれ、罪悪感と未来への恐怖に四六時中、怯《おび》えていた。不可解な、理解の出来ない二体の氷柱。
「啓太様なら、きっと」
と、フラノが己《おのれ》に言い聞かすように呟《つぶや》いて、三人は足音を忍ばせ、廊下を曲がる。明かりの点《とも》った部屋の前まで来て、ごきょうやがごくりとつばを飲み込み、障子を開いたその時。
「お、おたすけええ〜〜〜〜!」
と、啓太がこけつまろびつ室内から飛び出してきた。彼はそこでごきょうやと正面|衝《しょう》突《とつ》してしまう。余《よ》談《だん》だがごきょうやは小柄な割にスタイルはふつうに良い。啓太はその胸元にぱふんと顔を埋めてしまう形になった。
普《ふ》段《だん》はクールなごきょうやが尻《しり》餅《もち》をついた姿勢で赤くなった。
「え? あえ? おれ?」
と、そのクッション代わりになった胸をぱふぱふ押して自分の状態を確《たし》かめる啓《けい》太《た》。それからようやく気がつき、
「おわ!」
と、慌てて立ち上がる。頬《ほお》を染めたごきょうやが片手で胸を押さえ、困ったように啓太を見上げていた。
「わ、こ! これはその」
しかし。
「うふふふふ」
啓太が弁明を重ねるよりも早く鬼は背後から迫ってきていた。
「も〜、ケイタったら早速、そんなおいたをかまして。これはしつけるのが大変だわ。ようこ、とっても困っちゃう」
それに小鬼もいた。
「啓太様! そういうえっちなのいけないですよ!? ともはね、噛[#「噛」はunicode5699]《か》みます!」
そして、
「い、いや、おまえたち、あのなあ」
冷や汗を掻《か》いた啓太にようことともはねが飛びかかっていった。
「お、おたすけええええええええええええええ!!!」
再び悲鳴が上がるのをごきょうや、てんそう、フラノは唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》として眺めていた。
同時刻、いぐさ、たゆね、双《ふた》子《ご》の四人は長い長い廊下を歩いていた。素足の彼女たちが立てる足音がひたひたと続く。
「まあ、啓太様もわるかないけどね」
と、いまりが言った。さよかがきししと笑う。
「薫《かおる》様に比べればね」
傍《ぼう》若《じゃく》無《ぶ》人《じん》に振《ふ》る舞《ま》う双子だが、薫のことは子犬のように慕《した》っていた。人をからかったり、ふざけて回ることだけが楽しかった彼女らにモノを育てる喜びを教えてくれたのが薫である。薫は自ら肥料を運び、泥だらけになって畑仕事を指《し》導《どう》してくれた。
園芸書や種を買い、手取り足取りスコップの使い方を教えてくれた。笑いながら。最初あまり乗り気でなかった彼女らだが、薫の感化で日一日と様相を変えていく植物の奥深さに次第に魅《み》せられるようになっていった。
麦わら帽子を被《かぶ》り、膝《ひざ》小《こ》僧《ぞう》を抱え、炎天下、じっと二人で朝顔の花弁が開くのを見ていた。秋にカラスが柿を啄《ついば》むのを棒で追い払ったりした。薫は彼女らが育てた花を褒《ほ》めてくれたし、収《しゅう》穫《かく》した果物に舌《した》鼓《つづみ》を打ってくれた。
「最近、薫《かおる》様もお忙しかったからこれで少しお暇《ひま》が出来るといいんですけど」
と、彼女らの少し後を歩きながらいぐさも考え考え言った。
全くなんの取り柄もないと思われていた彼女に自信と指針を与えてくれたのは薫だった。力も弱く、臆《おく》病《びょう》でおよそ犬《いぬ》神《かみ》としては落第点だった彼女の頭脳に着目し、その才能を伸ばしてくれた。おかげで今いぐさは誇りを持って本を読んだり、勉強したりすることが出来る。
「な〜に。だったら、ボクらが頑張って薫様のお役に立てばいいんだよ!」
たゆねがくっと力こぶを作った。たゆねはごく単純に薫を「かっこいい」と思っていた。強くて優《やさ》しいからついていく。
そんな無心の憧《あこが》れで接していた。
「しかし、薫様はいつも笑顔《えがお》だよね〜」
「ほんとほんと。学校とか、お仕事とか、その他色々、お忙しいのに全くそれを見せなくて」
「常に私たちのお手本でいらっしゃる」
「すごいよね〜」
和《わ》気《き》藹《あい》々《あい》と少女たちが薫のことを話しながら廊下を歩いている。絹を裂くような悲鳴が聞こえてきたのはそんな時だった。
さよかといぐさが顔を見合わせた。
「……せんだんかな?」
と、いまりが小首をひねって尋《たず》ねる。たゆねがせかした。
「なんかあったみたいだ。とりあえず行ってみよう!」
全員、警《けい》戒《かい》態勢は緩《ゆる》めていない。迅《じん》速《そく》に駆け出し、廊下の角を曲がった。
そこでせんだんが立ち尽くしていた。
「あ、こら、あんたたち! だめだめ! 見ちゃダメ!」
彼女は大慌てで手を振った。
見るとせんだんは……。
「え?」
「はあ?」
少女たちは急ブレーキをかけ、呆《あっ》気《け》にとられた表情で自らのリーダーを見やった。普《ふ》段《だん》はひらひらのレースで構成された動くアンティークドールみたいなファッションをしているせんだんだが、今は純白のもの凄《すご》く露《ろ》出《しゅつ》の激《はげ》しいビキニを着て、真《ま》っ赤《か》になっていた。
真夜中の廊下で、要所要所が発達した肢体が晒《さら》されている。
うう。
と、涙目で胸元を隠しながら彼女は言った。
「やられたわ。侵入者よ!」
そのちょっと前。
川《かわ》平《ひら》宗《そう》家《け》と薫《かおる》は大広間で向き合って将棋を打っていた。柘植《つげ》の木を使った良質の将棋|盤《ばん》だ。ぱちり、ぱちりと互いに一手打つたび、耳に心地《ここち》よい音が辺りに響《ひび》き渡った。
「王手!」
と、座布団の上できちんと背筋を伸ばしていた薫が微笑《ほほえ》んだ。
「うむむむむう」
彼の対面で老《ろう》婆《ば》が腕を組み、うなり声を上げる。
「さすが、薫様。これで十六勝目ですか?」
と、傍《かたわ》らに控えていた犬《いぬ》神《かみ》のはけが感嘆して賛《さん》辞《じ》を送った。老婆が噛[#「噛」はunicode5699]《か》みつく。
「え〜い、まだ負けておらんわい! ほれ、こうやって桂《けい》馬《ま》で銀をとってやる。まだまだわしの王は逃げられるぞ」
薫はさらにそこへ歩《ふ》を突いた。
とたん、老婆が固まった。長考に入る。
「どうぞ、ゆっくりと考えてください、おばあさま」
「うむむむう」
老婆が盤面に目を釘《くぎ》付《づ》けにしたまま固まった。薫は澄《す》ました顔でお茶を啜《すす》った。はけが彼の傍らにそっと茶《ちゃ》請《う》けのモナカを置く。
「そういえば薫様、子供のころ、よくそうやって啓《けい》太《た》様と将棋を指してらっしゃいましたね」
「はは」
薫が笑った。
「そういえばそうだね」
「ええ、ヨーロッパからお帰りになったばかりの頃です」
「うん」
薫は懐《なつ》かしむように目を細めた。
「そうだね……あのころ僕は日本のことがまだよく分からなかったから啓太さんに色々なことを手ほどきして貰ったよ。将棋もそう」
「しかし、その割には最初からお強かったようにお見受けしましたが?」
「まあ、基本はチェスと一《いっ》緒《しょ》だからね。それに啓太さんだって相当強かったよ?」
「あの方は奇《き》襲《しゅう》奇策がお得意ですからね」
あははは。
と、薫は軽やかに笑い声を立てた。ベージュ色のスラックスにシャツとチョッキ。艶《つや》のある黒髪に猫のような琥《こ》珀《はく》色《いろ》の瞳《ひとみ》。対してはけは白《しろ》装《しょう》束《ぞく》で片目を髪で隠していた。美男子二人が向き合って語るのは啓太のことだった。
「あの人ね、『あ!』って見当違いの方向を指さしておいて、反対側の手で駒《こま》を入れ替えるのが得意技だったよ。当人は幻の左≠チて呼んでたけどね」
「いかにも啓《けい》太《た》様がやりそうなことですね」
「あとね、負けそうになると突然、胸を掻《か》きむしって苦しみ出して、盤《ばん》面《めん》ごちゃごちゃにしちゃうの」
「必殺死んだふり≠ナすか?」
「そ〜。あれ、誰《だれ》が最初に編《あ》み出したのかな?」
はけが微笑《ほほえ》みを浮かべ、そっと目配せを一つした。薫《かおる》が素早《すばや》く振り返ると老《ろう》婆《ば》がこっそりと駒を入れ替えようとしているところだった。
その所《しょ》行《ぎょう》を目《もく》撃《げき》され、宗《そう》家《け》は、
「は、ははははははは」
と、愛《あい》想《そ》笑いを浮かべると、また真剣な顔に戻ってうんうん唸《うな》り出した。まるでなに事もなかったかのように振《ふ》る舞《ま》っている。
薫が苦笑し、はけが目を細めた。
「しかし、薫様は本当になんでもお上手《じょうず》ですね。将棋に限らず、学業も、スポーツも。聞き及んでますよ、最近の模試で学内二番をとられたことを」
「はは、まぐれまぐれ」
「そうではないでしょう。あなたは謙《けん》遜《そん》して、あまり表には出しませんが常にきちんと努力をなされている。犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いの才能だけでは決してない」
「そ〜でもないけどね。ははは、そんなに褒《ほ》められると照れるな。やめてよ、はけ」
薫《かおる》が珍しく啓《けい》太《た》がよくやるような頭の後ろで手を組むポーズを取った。それからくすぐったそうに身をよじる。はけがくすっと笑って言った。
「あなたは、あなたのおじいさまによく似ておられる。あの方も色々と多才な方でした」
「ほんと? うれしいな」
薫がにっこり笑った。本当に嬉《うれ》しそうな笑顔《えがお》だった。ちなみに宗《そう》家《け》は未《いま》だにうんうん唸《うな》って盤《ばん》面《めん》を睨《にら》んでいる。
ふと薫がためらう表情になった。
「ねえ、はけ。君と話せるちょうど良い機《き》会《かい》だからさ、ちょっとまじめな話いいかな?」
「はい」
はけもその様《よう》子《す》を察して姿勢を正した。
「なんでしよう?」
ただ一人、宗家だけは口の中であ〜でもない、こ〜でもないと呟《つぶや》いている。薫は俯《うつむ》き気味に考え込むようにして言った。
「あのね、はけ。君はどう思う? 大《だい》妖《よう》狐《こ》と赤《せき》道《どう》斎《さい》のこと」
はけは頷《うなず》いた。
はけとしてもその話は是非、薫としてみたいところだった。
結局、戻った時には啓太がいなくなっていたので詳しく聞けなかったが、啓太は確《たし》かに「薫なら大妖狐と赤道斎に立ち向かえる」と明言したのだ。
はけは率直にその旨《むね》を薫にぶつけてみた。
「啓太様はこう仰《おっしゃ》っていたのですが」
と。
すると薫はなんともいえない複雑な表情になった。
「そう……」
彼は横を向き、考え込む。
「啓太さんがそう言ったのか。参ったな……本当はその真逆[#「真逆」に傍点]じゃないといけないのに」
「どういう……ことでしょうか?」
「うん。はけ」
薫は琥《こ》珀《はく》の瞳《ひとみ》で困ったように笑った。
「あのね、僕は啓太さんがどういう意図でそれを言ったのかだいたい分かるし、そんなに否定もしない。実は赤道斎とは一度|相《あい》まみえていて、その時は全く歯が立たなかったけど、ちゃんと条件を整えてやったら[#「ちゃんと条件を整えてやったら」に傍点]勝てる気はしている」
「!」
はけは驚《おろど》いたように目を瞠《みは》った。
「ただね」
と、薫《かおる》は真剣な顔つきで付け加えた。
「赤《せき》道《どう》斎《さい》も仮《かり》名《な》さんの話では往年の力を取り戻したみたいだし、大《だい》妖《よう》狐《こ》に至っては全く実力が分からない。はけ。大妖狐のことを君が知ってる限り詳しく教えてくれるかな?」
はけはしばし沈《ちん》黙《もく》した。
薫とはけの視《し》線《せん》が穏《おだ》やかに絡んだ。それからしばらくして、
「まず実力は折り紙付きの化け物です」
と、はけが語り始めた。
「影《かげ》を操《あやつ》り、石化、炎や縮《しゅく》地《ち》の術を得意とします」
「ようこみたいな?」
「とんでもありません!」
はけは顔をしかめて、手を振った。
「ようこは文字通り子供です。比較にもなりません。ひとたび飛び立てば天と地が揺れ、その息《い》吹《ぶき》でいかなることもやってのけます。およそでたらめで」
はけはさらに考え込んでから、
「そうですね。そのでたらめっぷりが奴《やつ》のもっとも恐ろしいところでしょう」
「というと?」
「力もでたらめに強いのですが、性格もでたらめなのです。あの当時、大妖狐が私たちと争った理由は私たちの住まう山が日当たりがよさそう≠ニいう理由だけなのです。当時、子《こ》狐《ぎつね》だったようこのお昼寝場所≠確《かく》保《ほ》するためだけに我ら犬《いぬ》神《かみ》一族と総力を挙げて戦ったのです」
「は、はあ」
薫はぽかんとしていた。はけはため息と共に続けた。
「奴はずっとそんな調《ちょう》子《し》だったらしいのです。人間の街に美味《おい》しそうな飴《あめ》があったらそこを自分の領土に変えて様《さま》々《ざま》な飴を作らせ頬《ほお》張《ば》り、気分がむしゃくしゃしていたら山を一つ丸ごと消したり、とにかく傍《ぼう》若《じゃく》無《ぶ》人《じん》な子供のような性格なのですよ」
「はた迷惑だね」
「まあ、唯一の救いは死≠極端に嫌うので、戦っても死人が出ることがまずない点ですが……結局、刃向かう者は残らず石に変えられてしまうので厄《やっ》介《かい》な点はあまり変わりません」
「よくそんな奴に勝ったね〜」
と、薫が心底から感心したように言った。はけは微笑《ほほえ》んだ。
「あなたのご先祖様がそれだけ優《ゆう》秀《しゅう》だったのですよ」
そこではけはふと何かを思いついたように薫を見つめた。
事実上最強の犬《いぬ》神《かみ》として単体で宗《そう》家《け》に憑《つ》いているはけは時折、忘れがちになるが、犬神使いの始祖|川《かわ》平《ひら》慧《え》海《かい》はある非常に特徴的な戦い方をしていた。
そしてある意味それこそが犬神使いの本来の強さと言っても過言ではないのかもしれない。
「もしかして、啓《けい》太《た》様が仰《おっしゃ》るあなたの強さとは」
「うん」
薫《かおる》は目を細め、首《しゅ》肯《こう》する。
「たぶん、そういうことなんだと思う」
二人の間で無言の確《かく》認《にん》がなされる。その時、
「ふははは! これで逆転じゃぞ、薫!」
今までずっと長考に入っていた老《ろう》婆《ば》が袂《たもと》を抑え、飛車を振り上げる。
次の瞬《しゅん》間《かん》、甲《かん》高《だか》いわめき声が廊下から聞こえてきてびっくりした宗家の手が逸《そ》れ、盤《ばん》面《めん》がぐしゃぐしゃになってしまった。
「あ〜」
と、薫が声を上げる。はけが非《ひ》難《なん》するような目で己《おのれ》の主人を見た。
「……いくら勝てないからといってそんな」
「まて! 違う! 違うぞ!」
老婆は慌てて弁解した。
さらに絹を裂くような悲鳴が次々と廊下から聞こえてきた。
三人は顔を見合わせた。
ごきょうや、てんそう、フラノはその少し前、啓太、ようこ、ともはねの暴《あば》れっぷりを見ていた。大事な話があって啓太にそれを話したいのだが、今ひとつ止めるタイミングが難《むずか》しくて輪《わ》に入っていけなかった。
最初は啓太を枕《まくら》で叩《たた》いたようことともはねだが、今はどういう訳か啓太のシャツを脱がしにかかっている。
必死で抵抗する啓太と笑いながらボタンを剥[#「剥」はunicode525D]《は》ぎとっていくようこ、ともはね。
「いや! やめて〜! 身体《からだ》はやめて〜!」
啓太があられもない声を出している。ようこが、
「ふふふふ、いやよいやよも好きのうち〜」
「うち〜」
ともはねが唱和してさらになぜか二人は彼の首筋や背中を舌でぺろぺろ舐《な》めだした。
啓太、悶《もん》絶《ぜつ》。
「うひゃひゃひゃひゃひゃ! やめ! ちょ、やめ!」
ようこもともはねもやめない。
ようこはいささか妖《よう》艶《えん》に、ともはねは無心に啓《けい》太《た》の身体《からだ》を舐《な》め回す。笑い転げて、もだえ苦しむ啓太。ごきょうやが顔を覆《おお》って大きくため息をついた。
「全く。なにをやってるんだ、なにを」
だが、フラノとてんそうはむしろその様《よう》子《す》を羨《うらや》ましそうに見つめていた。そしてフラノの方がうずうずと身体を動かすと、
「フラノもやりますよ〜」
と、てんそうの手を引いて啓太の方へ駆けていってしまった。
「あ」
と、ごきょうやが止める間もない。満面の笑《え》みだ。彼の背中にお尻《しり》を落として、
「いい乗り具合ですね♪」
フラノはゆっさゆっさ身体を揺すった。てんそうはぼへ〜と頭を掻《か》いていたが、何を思ったのかいきなり啓太の足に四の字固めをかけた。
「いで! おまえら、いてえ!」
啓太がのたうち回る。都合四人の少女にじゃれかかられ、啓太はもみくちゃにされている。その様子は華やかでありながら、どこかばかばかしい。
ごきょうやは深いため息をついていたが、
「こら! バカ、ようこ、どこを舐めてるんだ、おまえは! ともはね! おやめ! てんそう! まじ痛いってそれ! わ〜、フラノ重い! 重い!」
フラノがさらに面《おも》白《しろ》がって豊かなヒップをぐりぐりこすりつける。
ようこがくすくす笑いながら啓太の顔を胸で抱きしめ、ともはねが啓太の背中を舐《な》め、てんそうはさらに技を極《き》めにかかる。そんな光景を見ているとごきょうやも犬《いぬ》神《かみ》の本性の部分でうずうずしてくる。自分も群れの中に混ざって啓太と遊びたい!
という思いがこみ上げてくる。
だが、ごきょうやの場合、理性と羞《しゅう》恥《ち》心《しん》がその行為を許さない。
とても出来ない。
「あ〜〜、もう!」
と、ごきょうやがもどかしそうに足踏みしたまさにその時。
外から悲鳴が聞こえてきた。
「あん?」
啓太が顔を上げる。ようこやともはね、ごきょうや、てんそう、フラノも不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに顔を見合わせた。廊下で少女たちが叫んでいる。
なんだろう?
「そっち行ったぞ! 逃がすな!」
というたゆねの怒《ど》鳴《な》り声。
「このスパイめ!」
「私らにこんなことしてただで済むと思うな!」
という双《ふた》子《ご》の叫び声。どたたたたたという荒々しい足音。そして、
「こけえええええええええええええええええ!」
という鳴き声と共に障子がばすうっと音を立てて破れ、見覚えのある木彫りのニワトリが中に飛び込んできた。
「うげ!」
と、それが顎《あご》に思いっきりか〜んと当たってもんどり打つ啓《けい》太《た》。さらに少女たちがどやどやと後から追いかけてきた。
「げ!」
「う」
外から入ってきたたゆね、いまり、さよか、いぐさ、せんだんは真《ま》っ赤《か》になっていた。
「……あんたたち」
「なんて格好を」
中にいたようこ、ともはね、ごきょうや、てんそう、フラノが呆《あっ》気《け》にとられている。少女たちは皆、とびきりおかしな格好をしていた。
たゆねはブルマと体《たい》操《そう》服《ふく》、はちまきという姿。
いまりとさよかはステテコによれよれのシャツ。禿《は》げづらにちょび髭《ひげ》が鼻の下に蓄えられたダメ親《おや》父《じ》スタイル。
せんだんはきわどいビキニで、いぐさはウサギの着ぐるみを着ていた。
「え〜い、説明はあとあと! とにかくそのトリ捕まえて!」
と、せんだんが部屋の中を飛び回っている木彫りのニワトリを指さした。少女たちがあらかた事情を察しててまずごきょうやが、次にてんそうがとびかかる。
「こけええええええええ!!!!」
パニックに襲《おそ》われた木彫りのニワトリが猛烈に羽ばたいた。
そのとたん白い煙が立ち上り、ごきょうやがまずナース服に、フラノが対細菌用|防《ぼう》護《ご》服《ふく》に、てんそうが白い神官服に変わった。
あとは白い煙の中、みんな入り乱れて訳が分からなくなる。
「う〜、みんな邪《じゃ》魔《ま》! 邪魔!」
しゅくちで木彫りのニワトリを捕まえようとしていたようこが顔をしかめた。ねらいが上手《うま》くつけられないで困っている。
その間、
「あ!」
と、ようやく啓《けい》太《た》が起き上がってきて、木彫りのニワトリを指さした。
「ここであったが百年目! てめえ! にがさねえぞ! 俺《おれ》を元に戻しやがれ!」
誰《だれ》かに踏まれたマトリョーシカみたいな衣装のともはねが泣いていて、重たそうな服を着たフラノがこてんと転んでいる。
「なんじゃ! 騒《そう》々《ぞう》しい! 何があった!」
後から駆け込んできた川《かわ》平《ひら》宗《そう》家《け》を白い煙が押し包み、その服を巨大な甲《かっ》冑《ちゅう》に変える。
後ろにいたはけが目を丸くしていた。
「こけええええええええ!!!」
と木彫りのニワトリが羽ばたいて縁《えん》側《がわ》へ飛び出した。
「逃《のが》すか!」
「まてい!」
一番、早く反応を示したのは宗家と啓太の人間コンビだった。彼らはすさまじい連携でまず啓太が踏み台になり宗家を屋根の上に放り上げた。続けて神《かみ》業《わざ》じみた早さで宗家が孫を屋根に引っぱり上げる。そして、二人は屋根の方に逃げた木彫りのニワトリを揃《そろ》って追いかけた。
「こけえええええええええええええええええ!!!」
ちらっと背後を振り返って、木彫りのニワトリが悲鳴に近い声を上げた。
ある意味、無理もなかった。
ふりふりのメイド服に身を包んだ猫男。
甲冑を着込んだ齢《よわい》百近い老《ろう》婆《ば》。
その二人が鬼のような形《ぎょう》相《そう》で追いかけてくるのである。
がちゃがちゃがちゃ。ひらひらひら。
「こけええええええええええ!!!!」
そして。
その進行方向に一つの影《かげ》が立ちふさがった。銀《ぎん》色《いろ》の満月を背にし、少し斜めの姿勢で立っている少年。川平|薫《かおる》が目を細め、
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ」
と、銀のタクトを指揮者が第一楽章を準備するように振り上げた。
「大気よ、シンフォニーを」
だが、薫の術が発動する前に木彫りのニワトリは安《あん》堵《ど》するように一声鳴くと、
「こけええ〜〜〜♪」
真《ま》っ直《す》ぐに薫の胸へと飛び込んでいった。
びっくりしたように薫は思わずそれを受け取って。
ひどく困惑した顔つきになった。
「こけ♪」
今、木彫りのニワトリは得意そうに大広間で羽ばたいていた。その前には宗《そう》家《け》、啓《けい》太《た》、薫《かおる》それに彼らの大《おお》叔《お》父《じ》に当たる川《かわ》平《ひら》宗《そう》吾《ご》という男が座っていた。
さらに後ろの方で障子に穴を空けていまり、さよか、たゆねなどの好奇心|旺《おう》盛《せい》な犬《いぬ》神《かみ》たちがこっそりと部屋の中を覗《のぞ》き見している。
「交渉の使者にしては随分と珍妙な代《しろ》物《もの》を送ってくるじゃねえか」
と、川平宗吾が無精|髭《ひげ》の生えた顎《あご》を撫《な》でた。
「おい、こら、ニワトリ! それが終わったらちゃんと元に戻して貰うからな!」
啓太が念を押して言うとニワトリはこけこけ大まじめに頷《うなず》いた。それからじいいっと中空を見つめる。すると突然、その瞳《ひとみ》がカメラのレンズのように小さく絞られ、同時にぴか〜とそこから淡い緑《みどり》色《いろ》の光《こう》線《せん》が発射された。
「ほう」
宗家が思わず感嘆するほど明《めい》晰《せき》な像を畳の上で結んだ。
まるでその場にいるかのような鮮《あざ》やかな臨《りん》場《じょう》感《かん》で立っていたのは大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》赤《せき》道《どう》斎《さい》その人だった。無感動に、
「諸《しょ》君《くん》」
と、彼は頭を下げた。
「おはよう」
「ますた、ますた。いま、よるだよ?」
視界の端に一部映っている木彫りの人形が赤道斎のローブの端をくいくい引っ張った。あくまでどうでも良いことだが赤道斎は重々しく頷くと、
「なるほど。どうも地の中にいると時間の感覚が狂うな。では、改めまして」
また一礼をした。
どうやらテレビ電話のようにリアルタイムで赤道斎と繋《つな》がっているようだった。
「こんばんは」
と、赤道斎が無表情に無感動にそう言った。宗家が思いっきり変な顔になり、啓太に向かって肘《ひじ》を突いた。
「いったい、なんなんじゃい、こいつは?」
「ヘンタイ」
と、一言の元に啓太が断定した。川平宗吾がくくっと笑い、薫は黙《だま》って赤道斎を見据えている。
赤道斎はそんなことに気がつく風《ふう》もなく、
「私が赤《せき》道《どう》斎《さい》だ」
少し胸を反らし気味にして名を名乗った。
彼が身にまとっているのは以前のような変態的な衣装ではない。暗黒色のローブに銀のティアラ。腰元には骨を模したベルトを巻き、頬《ほお》には血の涙のような化粧が施《ほどこ》されている。禍《まが》々《まが》しくも、どこか倒《とう》錯《さく》した美さえ感じる異様な出《い》で立《た》ちだった。
「諸《しょ》君《くん》も知っての通り、私はかつて大《だい》妖《よう》狐《こ》と戦い、破れ、最近、見事に復活を果たした。私が地上に理想郷を作り上げたその暁《あかつき》には回《かい》顧《こ》録《ろく》を書くつもりなので詳しく参照して欲しい」
「……ど〜でもいいよ、そんなこと。それより早く用件言えよ、用件」
啓《けい》太《た》がめんどくさそうに手を振った。
赤道斎はうろんな瞳《ひとみ》で啓太をじっと眺めていたが、
「相変わらずせっかちな男だな、川《かわ》平《ひら》啓太。早い男は嫌われるぞ」
「うるせえよ! 一体なんの話をしてるんだよ!?」
「なんの話って」
赤道斎は淡《たん》々《たん》と、
「男が女に」
あ〜〜〜〜〜!
と、啓太が声を上げた。相変わらずこの大ヘンタイとは話が上手《うま》く噛[#「噛」はunicode5699]《か》み合わなかった。宗《そう》家《け》が苦笑気味に、
「まあ、おまえさんのだいたいのことはこっちも知っておるよ。ただ、よく分からぬ。一体、おまえさんは何がしたいのじゃね?」
赤道斎の目がどこか冷たく細まった。
「一。私を昔、屈辱的な目に遭わせた大妖狐への絶対的な復《ふく》讐《しゅう》」
「ふむ」
と、宗家は頷《うなず》き、小さな声で川平|宗《そう》吾《ご》に耳打ちをした。
「そこら辺の利害関係はもしかしたら一致するかもの」
川平宗吾が目をつむって深く頷いた。
「二」
と、赤道斎が言った。
「我が研究のより偉大な進歩。魔《ま》導《どう》のより完《かん》璧《ぺき》なる成《じょう》就《じゅ》」
「おまえさん、もう大《たい》概《がい》のもんじゃろ。ええ、赤道斎。まだ力を欲し足りぬのかね?」
「私もそう思っていた」
赤道斎は淡々と宗家だけを見て話した。
「だが、最近、上には上がいることを知った。というか、全く違う魔導体系があることを」
薫《かおる》がほんの少し身動きをした。赤道斎がちらっとそちらを見てから話を変えた。
「とにかく魔《ま》導《どう》の世界はまだまだ奥が深い。私は現世でもそれを探求し続ける。そして三」
背後でたゆねたちが騒《さわ》いでいる。
ようこが「ずる〜い、わたしにも見せてよ!」と喚《わめ》いているのが聞こえた。人間たちはとりあえず彼女たちを放置した。
赤《せき》道《どう》斎《さい》は語り続けた。
「三番目は我が理想郷をこの世に作ること」
「理想郷?」
という問いに赤道斎がどこか遠くを見るような目で語った。
「そう。エルドラド。賢《けん》者《じゃ》の楽園。自由の解放区だ」
「……どうにもおまえさんの言ってることは抽象的過ぎてよく分からぬのだが?」
「言い換えれば全《すべ》ての欲望が肯定される場所だ。何者にも規制されない場所だ。全てが自在に開放された場所であり、全ての人間が目指すべき究極の境地だ」
宗家が困惑したように啓《けい》太《た》を振り返った。
啓太が仏《ぶっ》頂《ちょう》面《づら》で解説した。
「いろいろ言ってるけど要するにこいつが目指しているのはヘンタイパラダイスだよ。誰《だれ》でも素っ裸で道を歩けるようなそんな世界だ」
宗《そう》家《け》が呆《あっ》気《け》にとられた。
それから冷や汗を掻《か》いて、
「ま、その点に関してはお互いに歩み寄る余地は全くないな」
と、呟《つぶや》いた。川《かわ》平《ひら》宗《そう》吾《ご》が大きく頷《うなず》いていた。赤道斎が微笑を浮かべる。
「別にお前たちごときの許可を貰《もら》うつもりはない。思い上がるなよ、川平の猿ども。我《われ》がその気になればお前たちをこの世から消すことなどたやすく出来るのだぞ?」
淡《たん》々《たん》としていたが凄《すさ》まじい自信に満ちた邪悪な一言だった。
川平勢は初めてこの大魔導師にちょっと気《け》圧《お》された。
「吉《きち》日《じつ》市《し》という街は気に入った」
赤道斎はリングのはまった指を上げ宣言した。
「私は手始めに三日でこの街を作り替える」
「そうはさせるか!」
と、啓太が叫んだ。宗家が彼の肩を押さえ、問いかける。
「するとおまえさん、そのことを宣言するためにわざわざ使い魔《ま》を送ってきたのか?」
「違う」
と、赤道斎がまた無表情に戻って首を振った。
「交渉だ」
「交渉?」
「そうだ。簡《かん》単《たん》な交渉だ。お前たちの利害と私の利害が一致するその一点において我《われ》は是非、交渉したい」
「ん? というと?」
「大《だい》妖《よう》狐《こ》はお前たちの手に余る。お前たちとて奴《やつ》が完《かん》璧《ぺき》によみがえった時にどう対処するのか決めかねているのだろう?」
「そ〜でもないがの」
と、宗《そう》家《け》がとぼけたようにのほほんと答えた。赤《せき》道《どう》斎《さい》は半目で、
「どちらにしてもただの人間であるお前たちに打つ手はほとんどないはずだ」
「決めつけるな、タコ!」
「タコではない我は赤道斎だ」
赤道斎は真顔で答えた。
「我の要求はただ一つ。大妖狐を結界から解放すること」
一同が息を呑《の》んだ。宗家が慎重に問う。
「で?」
「さすれば我が、この赤道斎が」
「大妖狐を倒してくれるというのか?」
「そうだ」
赤道斎は大きく頷《うなず》いた。
「簡《かん》単《たん》なことだろう? お前たちにとっても問題はないはずだ。我はとても親切だと思う」
「待て待て待て、そりゃ〜問題ありまくりだろう? まずさ、おまえこういっちゃなんだけど一度、大妖狐に負けてるんだろ〜が? その自信は一体どこから来るんだよ?」
赤道斎はまくし立ててきた啓《けい》太《た》を無表情に見やった。
「川《かわ》平《ひら》啓太。お前は一度負けた相手には二度と勝てない。そう言うのか? 負けた者は金《こん》輪《りん》際《ざい》敗者のままで、強弱が入れ替わることは全くないというのか?」
「い、いや、別にそ〜は言ってないけどさ」
「私は、ありとあらゆる角度から試算をした。大妖狐と相《あい》まみえた過去を振り返り、研《けん》鑽《さん》を積《つ》み、確《たし》かな研究を経て、とうとう確《かく》証《しょう》を得た。我は大妖狐に勝てる。それも万に一つの取りこぼしもなく必ずだ」
啓太が黙《だま》り込んだ。不《ふ》機《き》嫌《げん》そうにそっぽを向く。宗家と川平|宗《そう》吾《ご》がこしょこしょ内《ない》緒《しょ》話《ばなし》をしていてその間、今までずっと沈《ちん》黙《もく》を守っていた薫《かおる》がすうっと前に出てきた。
彼は穏《おだ》やかに赤道斎に向かって問いかけた。
「赤道斎。百歩|譲《ゆず》ってあなたが大妖狐に勝てるとしましょう」
「……川平薫。それで?」
「ですが、あなたが約束を守る確《かく》証《しょう》がこちらにはない。あなたが大妖狐と手を組むことだって可能性としてだけなら考えられなくもない。交渉するにはお互いの信頼関係が不確定すぎると思いませんか?」
赤《せき》道《どう》斎《さい》はしばらく沈《ちん》黙《もく》していた。それから、ゆっくりその質問に答えた。
「川《かわ》平《ひら》薫《かおる》。お前は知らないかもしれないが魔導師にとって契約というものは神聖で絶対的なものだ[#「知らないかもしれないが魔導師にとって契約というものは神聖で絶対的なものだ」に傍点]。だから[#「だから」に傍点]、私から裏切ることはないよ[#「私から裏切ることはないよ」に傍点]。安心しろ[#「安心しろ」に傍点]」
薫が赤道斎の視《し》線《せん》を無言で受け止めて、わずかに目を逸《そ》らす。彼は気がつかなかったが、啓《けい》太《た》がそんな薫の横顔をじっと見つめていた。
「う〜ん。その案乗った!」
と、突《とつ》如《じょ》、宗《そう》家《け》が投げやり気味に叫んだ。啓太と薫が驚《おどろ》いた顔になる。
「本気ですか?」
「……マジかよ、ばあちゃん?」
だが、宗家は肩をすくめ、
「と、言いたいところなんじゃがの。本当に本気でじゃぞ? 赤道斎。だがな、残念なことに大《だい》妖《よう》狐《こ》を閉じ込めている結界は根本的にそう気楽に開いたり閉じたりすることが出来ないんじゃよ。犬《いぬ》神《かみ》の最長老と存在自体が繋《つな》がっていての。中から大妖狐が破るか、最長老の命が尽きるでもしない限り結界は消えんのよ」
「……そうか」
と、比較的あっさり赤道斎は頷《うなず》いた。
「では、交渉は成立せずだな」
「うむ」
「邪《じゃ》魔《ま》をした。その色々と大変そうな人生、ぜひ頑張ってくれ」
赤道斎の像が揺らぎ、フードの奥に顔が引っ込みかかる。宗家が慌てたように声をかけた。
「あ〜、まてまて! おまえさん、我《われ》らとの交渉は失敗した。で、これからどうするつもりなんじゃ?」
最後の最後で赤道斎はにやりと笑った。
邪悪に。
「この街をさっそく私色に染める。一点残すことなく。あまねく」
そして赤道斎は完《かん》璧《ぺき》に消え去った。
川平家の一同は困惑したように互いの顔を見合わせた。
「という訳で、ちと他《ほか》の奴《やつ》らにも注意するよう呼びかけておいてくれ」
赤道斎の一方的な宣言が終わった後、にわかに座《ざ》敷《しき》内《ない》は慌ただしくなった。川平|宗《そう》吾《ご》が足早に出て行き、宗家が携帯電話で他の犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いに片っ端から指示を出している。
吉《きち》日《じつ》市《し》全域で警《けい》戒《かい》が必要だった。
だが、対|赤《せき》道《どう》斎《さい》のスペシャリストとも言える特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》とはまだ連絡が取れない。
一方、啓《けい》太《た》は大声で喚《わめ》いていた。
木彫りのニワトリがまだ残っていて少女たちの服を次々に元へ戻していたのだが、なぜか啓太の服だけはふいっとそっぽを向いて、直す事を拒否したのだ。
「こら! おまえさっき確《たし》かに元に戻す言うただろうが! 焼き鳥にするぞ、こら!」
身体《からだ》を持ってがくがく揺すっても木彫りのニワトリは頑強に目をつむって、ふんふん首を振るばかりだ。啓太が焦って怒ってる。ようこがけらけら笑っていて、他の少女たちも面《おも》白《しろ》そうにそのやりとりを見つめていた。
そんな中、薫《かおる》は足音も立てず、誰《だれ》にも気づかれず、そっと部屋を後にした。
正《せい》確《かく》には。
ほんの一《いっ》瞬《しゅん》だけ、啓太と目が合った。啓太は薫が部屋を出て行くのに気がつき、口を開きかけた。しかし、木彫りのニワトリが「こけ〜」と鳴いて手の中から逃げ出そうとしたため、慌ててそれを追いかけることに専念した。
薫は唇に微笑を浮かべ、廊下に出た。
猫のような滑らかな足取りで真《ま》っ直《す》ぐ歩いている。唇に浮かんだ穏《おだ》やかな微笑《ほほえ》みが、あまり普《ふ》段《だん》見せることのないどこか冷ややかな笑《え》みへととって変わっていく。
「もしかしたら気がついていたのかな?」
薫は一人|呟《つぶや》いた。
赤道斎が余計なことを言いかけた時、半ば無《む》意《い》識《しき》に手が銀のタクトへ伸びたのを啓太に見られたのかもしれない。
「相変わらず鋭《するど》いんだか、鈍《にぶ》いんだかよく分からないお人だよ」
薫はそう呟き、玄関に出て、靴を履《は》き、表に出た。冬の夜《や》気《き》が凍えるように冷たかったが、薫は全く意に介さなかった。
しんと静まりかえった砂利道を少し歩き、納屋の方に回る。
木戸を開け、また締《し》める。
天窓から月光が射《き》し込んでくる。薫の端正な顔を青白く照らした。彼は近辺に誰《だれ》もいないことを十分承知した上で、
「赤道斎、ちょっと」
尻《しり》ポケットから小さな煙玉を取り出した。
「さっきのはなかったんじゃないですか?」
それを床《ゆか》に放り投げた。とたん、どろんと白い煙がそこから立ち昇り、月光を吸収して、先ほどとは比べものにならないほど不《ふ》鮮《せん》明《めい》な映像ながら、ローブを羽《は》織《お》り軽く背を曲げた赤道斎のまるで死神のような姿を映し出した。
「……川《かわ》平《ひら》薫《かおる》なにようだ? これはあくまで緊《きん》急《きゅう》の連絡用に渡したものなのだがな?」
揺らめく白黒の煙の向こうで赤《せき》道《どう》斎《さい》が言った。薫は猫科の生き物のような口の裂ける笑い方で言った。
「ふ、ざ、け、る、な」
と。
「ん?」
赤道斎が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに小首を傾《かし》げた。
「なにやらご機《き》嫌《げん》斜めだな? どうした?」
「どうした?」
薫が吐き捨てるように言った。ふだん犬《いぬ》神《かみ》の少女たちには見せることのない怒りのこもった口《く》調《ちょう》である。
「どうしたもなにもない。赤道斎。なんです、さっきのあの茶番は? こちらがあなたの立場を尊重するようにあなたも僕の立場を尊重して貰いたい」
「……なにか誤解があるようだが」
赤道斎は無感情に言った。
「お前は我《われ》がお前に断りなく勝手に川平家に接触したのが気に入らないのか? なあ、川平薫。お前は何か根本的に我らの関係を勘違いしていまいか? ええ、魔《ま》術《じゅつ》の知《ち》識《しき》を持った犬神使いよ。名もしれぬ犬神使いよ」
赤道斎がくくくっと笑った。その含みのある言い方に薫が片《かた》眉《まゆ》を上げる。赤道斎は邪悪な口調で告げた。
「なあ、絶望の子≠諱v
その名を呼ばれた瞬《しゅん》間《かん》、薫が月の光の中で小さく息を呑《の》んだ。赤道斎はどことなく余裕をみせながら喋《しゃべ》り続けた。
「いいか? 我らは決して仲良しこよしではない。良い子ちゃん同士でもない。おまえとてそうだろう? ええ、絶望の子≠諱B隙《すき》あらば我を倒そうというのだろう?」
「ちょっと。ちょっと待って」
「我は別にそれが悪いと言ってるのではない。我らの関係はあくまでギブアンドテイク。お前はお前が持っていた邪星≠フ技術を私に受け渡し、私はお前にかけられた呪《のろ》いを解いている。あくまでそれだけの関係だ。だから、それ以上の連携など不要だということは魔法使いに育てられたお前ならよく知って」
「赤道斎!」
薫が声を張り上げた。彼は呼吸を整《ととの》え、震《ふる》え声で尋《たず》ねる。
「……もしかしてあなたは」
「そうだ。まだ完全ではないが、お前の身元が分かるくらいには邪星≠フ呪《のろ》いを解いた」
薫《かおる》が拳《こぶし》をきつくきつく握りしめた。彼は感極まったように目をつむり、唇を噛[#「噛」はunicode5699]《か》みしめ、震《ふる》え続けた。
「いましばらくしたら全《すべ》てを話せるようになるぞ。そうしてもうお前の大事な者たちは傷つかなくなる。良かったな」
「赤《せき》道《どう》斎《さい》」
薫は感情の高ぶりで顔を歪《ゆが》ませ、赤道斎を見やった。
「非礼を申し上げたこと許して欲しい。あなたは真の天才だ」
赤道斎は表情を変えなかった。
やがて彼はゆっくりと言った。
「川《かわ》平《ひら》薫。我《われ》は魔《ま》導《どう》師《し》だ」
にいっと笑う。
「魔導師は契約を違《たが》えることはない。ただそれだけだ」
薫は辛《かろ》うじて笑い顔を作った。赤道斎が淡《たん》々《たん》と言う。
「苦労したな、川平薫。お前がやったこと。大変なことだったと思う。幼い身で単身、重荷を背負い、海外から川平家に帰り、誰《だれ》にも言えず、誰にも頼れず、魔導の道具を探し出し、最終的には見事に我《われ》を見つけ出した」
薫は無言で首を横に振った。
「あなたが敵じゃなかったらよかったのに」
「……」
薫は泣き笑いのような表情を浮かべ、赤道斎をなんとも言えない瞳《ひとみ》で見つめた。
「なんで、そんな変な目的に固《こ》執《しつ》するんです? ヘンタイの楽園なんて別にいいじゃないですか。もしあなたがただ魔導の研究を行うためだけに活動を留《とど》めてくださるのなら僕はあなたを全力で守りますよ?」
「川平薫」
と、赤道斎は無表情に言った。
「さっきも言ったがお前はまがりなりにも邪星≠フ教育を幼少期に受けたのだろう? 魔導師とはそういうものだ。それにヘンタイの楽園違う」
「……」
「川平薫。我は恩を売るのも、情に流されるのも好まない。契約。あくまで契約だけだ。我の望みはな、川平薫。お前がお前たらんと自由に動き、それで我の動きを止めるつもりなら遠《えん》慮《りょ》仮《か》借《しゃく》なく我と戦うことだ。もちろん、我も我たらんとして動く。それでお前と戦うことになるのなら一片の慈悲なく踏み潰《つぶ》してみせる。それが我の願《ねが》う、究極の解放区だ。それに沿うことになる」
薫は苦笑した。
「理想、ですか」
「ああ」
「では」
薫《かおる》は頷《うなず》いた。胸に手を当て一礼する。
「赤《せき》道《どう》斎《さい》。あなたの仰《おっしゃ》るとおりに。望むままに」
赤道斎が嬉《うれ》しそうに笑った。
「それでよい。お前は私に変な負い目を感じる必要は一切ない」
しばらく二人は押し黙《だま》っていた。やがて赤道斎が無表情に戻って言った。
「あとな、川《かわ》平《ひら》薫よ。これは一番、最初に言っておいたことだが」
「はい」
「あの氷柱を始めとするお前にかけられた呪《のろ》いが全《すべ》て解けたとして」
赤道斎がうろんな瞳《ひとみ》で淡《たん》々《たん》と告げた。
「お前自身の無事は全く保証できないぞ?」
川平薫は一片の躊《ちゅう》躇《ちょ》なく頷《うなず》いた。高ぶった感情が静かに消え去り、いつもの琥《こ》珀《はく》の瞳《ひとみ》にどこか冷然とした笑《え》みが浮かんでいた。
「もとより承知の上です。僕は最悪あの二人さえ助けられるならそれでいい」
「……お前はもしかして」
と、赤道斎はまるで値踏みするように薫を上《うわ》目《め》遣《づか》いで見やった。
「お前の生を諦《あきら》めてるのか? 全《すべ》てを投げ捨てるつもりなのか?」
薫は微笑《ほほえ》み、その質問には直接答えなかった。
「というより、それだけあなたを信じてるということですよ……いえ、なれ合いの意味ではなく、あなたのその強大な力と卓越した魔《ま》術《じゅつ》センスを、ね。現代においてアレ[#「アレ」に傍点]と対等に渡り合える存在はあなた以外にいない。僕は考え抜いた末にあなたを自分の代わりに選んだんです」
「ふむ。おだてられてる気もするが」
と、赤道斎は抑《よく》揚《よう》なく呟《つぶや》いた。
「まあ、やれるだけやってやろう。あくまで契約の範《はん》囲《い》内《ない》で、だがな」
薫はただ微笑んでいた。赤道斎は「それと」と小首を傾《かし》げた。
「本当にこちらで勝手に解《かい》呪《じゅ》の最終段階まで進めて良いのか? 私がこういうのもなんだが私やもしくは大《だい》妖《よう》狐《こ》と戦っている時になんらかの異変が起こったらどうする?」
薫は一言。
「僕はね、赤道斎。犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いの心得、破《は》邪《じゃ》顕《けん》正《しょう》の顕正≠ネんです。きっと」
「ん?」
「川平薫として常に正しく≠ろうとする者なんです。だから、きっと」
赤道斎は黙っていた。
それから彼は呟《つぶや》いた。
「なるほど……お前はそれだけ川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》を信じているのだな」
薫《かおる》は何も言わなかった。ただ、邪気のない晴れやかな、透き通った笑《え》みをその顔に浮かべていた。赤《せき》道《どう》斎《さい》はじっとそんな彼を見据えた。
それから彼は抑《よく》揚《よう》なく告げた。
「呪《のろ》いは〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉が解析して現在進行形で解いているから仮に我《われ》が死んでも消えてもちゃんと最後まで動く。心配するな。お前はこの我《われ》が全員助けてやる……あくまで契約の範《はん》囲《い》内《ない》で、だがな」
「やっぱりあなたは変な人だ」
薫がくすくすっとおかしそうに笑った。赤道斎が小首を傾《かし》げる。
「そうかな? まあ、あともう少しでそれも結果が出るだろう。もし万が一だがな、川平薫。これは契約とは全く別。なれ合いとは違って考えて貰いたいのだが、川平家なり、我の不肖の子孫が〈大殺界〉を攻《こう》撃《げき》するようなことがあったら出来るだけ止めて欲しい」
薫は無言で頷《うなず》いた。
「最後にな」
と、赤道斎が言った。煙が徐《じょ》々《じょ》に薄《うす》れ始めている。薫が先を促《うなが》した。
「どうしたんです、赤道斎?」
「これは本当に余計なお世話かもしれないが」
「はい」
「今、もっともお前の傍《かたわ》らにいる者に報《むく》いてやれ」
「……」
「何も語らぬお前にずっとずっと付き従い続けた健《けな》気《げ》な存在だ。よく考えてやるのだな、その者のことを」
薫は無言だった。
赤道斎を映し出していた煙が月光に溶けていくように形を変えていく。やがて完全に霧《む》散《さん》しきったその時。
「……薫様?」
小さな押し殺すような声が納屋の外から聞こえてきた。
薫が顔を上げた。
「なでしこ?」
「はい」
震《ふる》えるような声。
「あの、入っても宜《よろ》しいでしょうか? 今、薫様をお捜ししていたらあの魔《ま》導《どう》師《し》の声が」
薫はそれ以上、何も言わなかった。納屋の扉を静かに開くと、びっくりしたような顔でそこに立ち尽くしていたなでしこを抱きしめた。
深い深い思いを込めて、彼女の唇にキスをした。
「なでしこ」
一度、放し、限りない優《やさ》しさと共に彼女の顔を見つめる。
「今まで本当にありがとう」
あ。
と、だけなでしこは声を上げた。それから彼女は薫《かおる》の背にきゅっと手を回し、頬《ほお》を上気させて、瞳《ひとみ》をつむった。
無言の催《さい》促《そく》。
薫は微笑《ほほえ》み、そして。
銀月の下で二人は再度口づけを交わした。
他方。
吉《きち》日《じつ》市《し》の遥《はる》か地下に本拠地を置く赤《せき》道《どう》斎《さい》は胡《う》乱《ろん》な瞳で天《てん》井《じょう》を見上げていた。薫との通信を終えたばかりだ。
「愛人たちはみんな肉欲の宴《うたげ》、幸いなるかな年越しそば。字余り」
俳句みたいな訳の分からない事を口の中で呟《つぶや》き、そっと首を振る。彼の前にそびえ立っていた巨大な魔《ま》導《どう》機械〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉がレバーをがちゃこちょ動かし、
『ますた〜、ますた〜。あとも〜ちょっとで、氷の方はやろうと思えば溶けるで』
それに答えた。パネルがぱらぱらと捲《めく》られ、
『せやけどな、やっぱり最初に分析したとおり、因果律がねじ曲がっていて、氷が溶けるとこの二人がこの世から消えるつうえげつない連《れん》鎖《さ》コンボになってるんや』
「……やはり単体の非《ひ》解《かい》呪《じゅ》の呪《じゅ》壁《へき》ではないのか?」
と、赤道斎が尋《たず》ねた。〈大殺界〉はぷしゅ〜と白い水蒸気を噴《ふ》き出した。
『あのな、正《せい》確《かく》に言うと、氷が溶けるー中の二人の時間が元通り流れるースペインの桶《おけ》屋《や》がランバダ踊るー笑い上《じょう》戸《ご》の猫が満月の夜に鳴くー深海で変な生き物が目覚めるーアメリカ大統領がホワイトハウスでカラオケを歌うつうような複雑な二百近い因果|連《れん》鎖《さ》を起こしてな、消滅の呪《のろ》いがかかる仕組みになってるんや。そやから弄《いじ》くりにくいんや』
「絶対|願《がん》望《ぼう》成《じょう》就《じゅ》のお前でもか?」
『そや。単体の呪《のろ》いならなんとでもなるんやけどな、条件が多すぎてどの望みに反応してよいか分からないから、特定しにくいんや。恐らくあの方にかかっていた自分の真の名前を名乗れない呪い≠竍誰《だれ》にも素《す》性《じょう》を明かせない呪い≠ネんかとも複雑にリンクしているからなお始末に悪いで。本当にこの邪星≠ツうのは性悪なやっちゃ』
と、〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉は辟《へき》易《えき》したように告げる。赤《せき》道《どう》斎《さい》は黙《だま》って考え込んでいた。そこへ木彫りの人形がひょこひょこと彼のもとにやって来た。
「ますた、ますた! そろそろじかんだよ! もったいぶってないではやくにんげんのことおしえやがれ! このふにゃ○ん大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》!」
最近、増設された機《き》能《のう》で両手から先をドリルに変え、激《はげ》しく威《い》嚇《かく》するように回した。身体《からだ》の真ん中に備わった水晶球の中で『早』の文字がはっきりと点滅していた。
次に『漏』の文字が浮かぶ。
赤道斎は胡《う》乱《ろん》な顔で己《おのれ》のシモベを見つめていたが、
「……分かった。お前の教育のためにもなんとかしよう」
最近、木彫りの人形の柄が明らかに悪くなっていた。原因は明白だった。欲望や念の力を吸収するため、このドーム状の隠れ家にはテレビが沢《たく》山《さん》設置されているのだが、木彫りの人形が暇《ひま》にあかせてそればかり見ていたからだ。
ある意味で、無《む》垢《く》な魔導具なので悪い言葉を覚えるのも早かった。
「お前は今まで通り作業を続けていてくれ、〈大殺界〉」
彼は木彫りの人形と手を繋《つな》ぐと、奥の間へゆったりと歩いていった。ひょこひょこそれに従う魔導人形クサンチッペ。
異《い》形《ぎょう》同士とはいえまるで親子のように仲良しな光景である。
『あんじょうまかしとき〜』
と、〈大殺界〉が気楽にそうパネルを捲《めく》り、やがて誰《だれ》もいなくなった。広間。しばらくしてこっそりとそこに降り立った人物がいた。
特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》。その人であった。
彼は見るもよれよれの有様で、コートには泥や汚れが沢《たく》山《さん》こびりついていた。辟易した顔で、口の中に入っていた砂《じゃ》利《り》をぺぺっと吐き出した。配水管や下水管や訳の分からない空洞を必死で這《は》い進んでここまで来たのである。
並大抵の苦労ではない。
だが、それも今ようやく報《むく》われたようだ。赤道斎の本拠地をとうとう探し当てた。そして同時に絶好の機《き》会《かい》も掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んだ。
仮名史郎は毅《き》然《ぜん》と顔を上げると、大広間に聳《そび》え立つ〈大殺界〉を黙って見つめた。
「……」
幸い〈大殺界〉はなにやら演算にいそしんでいてこちらには気がついていないようだ。仮名史郎は懐《ふところ》から取り出したメリケンサックのようなものを手にはめた。
「エンジェルブレイド」
彼の手から光がこぼれ落ち、それが収束して先端が二《ふた》股《また》に分かれた刃《やいば》となる。仮名史郎はそれを縦《たて》に構えた。
『う?』
その時、ようやく〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉が侵入者に気がついた。
『あやや! な、なんや? おまえ!』
だが、彼の意思伝達はパネルによって行われるので音声として周囲に届かない。代わりに〈大殺界〉は水蒸気を激《はげ》しく墳《ふ》き出し、歯車をがちゃがちゃ動かして、助けを求める。
『ますた! ますた! 大変や! 変な奴《やつ》入ってきたで! よう見たらあんたの子孫や!』
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は今までずっと抑えていた霊《れい》気《き》と気《け》配《はい》を一気に解放した。見つかってしまったが、もう構うことはない。
あの〈大殺界〉さえ破《は》壊《かい》すれば赤《せき》道《どう》斎《さい》の力はそれで大きく減じる。
そして、新しく編《あ》み出した必殺技クリスクロススラッシュならば〈大殺界〉の防《ぼう》御《ぎょ》壁《へき》すらも貫ける。
赤道斎がいない今なら。
貫いてみせる!
その確《かく》信《しん》があった。
「これで決着をつける! ひ〜さつホーリークラッシュ」
仮名史郎は駆けた。目にも止まらぬ早さで一息に距《きょ》離《り》を詰め、そして。
「クリス、う、うわ!」
その刃《やいば》を寸前のところで止めた。腕を無《む》理《り》矢《や》理《り》折り畳むようにして剣の方向を変える。必死でたたらを踏んだ。〈大殺界〉が苦し紛《まぎ》れに二体の氷柱を基部から取り出すと、まるで盾にするように前面へと押し出したのである。
「な、なんだ、これは?」
危うくそれごと剣で貫いてしまうところだった。
「……いったい?」
彼の顔が青ざめる。中で眠るように横たわっている彼らは一体なんなのだろうか?
その時。
「驚《おどろ》いたか?」
無感動な声が背後から聞こえてきた。仮名史郎は振り返って思わず仰《の》け反った。いつの間にかそこに大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》赤道斎が立っていた。
黒いローブがそよぎ、銀のティアラが鈍《にぶ》く光っていた。
彼は胡《う》乱《ろん》な半目で邪悪に笑いながら言った。
「これはな、絶望の産物よ。川《かわ》平《ひら》薫《かおる》がその存在を賭《か》けて守ろうとしているモノだ」
仮名史郎の顔に衝《しょう》撃《げき》が走る。
「まあ、せっかく来たのだ。ゆるりと遊んでいけ、我《わ》が不肖の子孫よ」
そう言って赤道斎はにやあっと笑った。
「く!」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》はあくまで剣を掲げた。そうして絶望的な戦力差の戦いに挑んでいった。
その頃《ころ》、魔《ま》導《どう》人形クサンチッペは小さな暗い部屋で困惑していた。
どご〜んとかどが〜んとか広間の方で激《はげ》しい戦いの音が聞こえてくる。彼の前にはビデオテープの山が二つ。その二つとも彼の主《あるじ》である赤《せき》道《どう》斎《さい》がテレビ番組を全《すべ》て自分でチェックして、情《じょう》操《そう》教育に良いものとそうでないものに選別してくれたものである。
天《てん》井《じょう》からホコリが舞《ま》い降り、壁《かべ》が軋《きし》んでいる。
主と侵入者がぶつかり合っているらしかったが、クサンチッペはとりあえず主から言われたようにビデオを見ることに専念しようと思った。
片側には、
『良い子』
と、張り紙がしてあって、もう片側には、
『悪い子』
と、同じような張り紙がしてあった。片方は教育テレビや心が優《やさ》しくなるドラマ。片方は俗悪な番組や、犯罪のドキュメンタリーが録《ろく》画《が》されているらしかった。しかし、今、その張り紙が二枚とも震《しん》動《どう》で床《ゆか》に落ちてしまい、どちらがどちらか分からなくなってしまっていた。
だから、困った。
「どっちかな?」
クサンチッペは小首を傾《かし》げた。それから、
「そっちかな?」
とりあえず、手近な山から見ておこうと思って左側の山からビデオを一本手に取った。それを壁《かべ》際《ぎわ》に置かれたビデオ内蔵型のテレビにぐいっとぎこちない動作で差し込む。再生のボタンを押し、カタコト身体《からだ》を揺らしながら腰を落とした。
じっと膝《ひざ》を抱え、映し出された番組を見始めた……。
カタコト。
カタコト。
クサンチッペはかつてない早さで学んでいく。
それと同時刻。
暗い闇《やみ》の深いそこの奥の底辺の喩《たと》えるなら深海一万メートル以上のどん底のような光|射《さ》さぬ場所で大きな黒い影《かげ》が踊っていた。
踊っている者の名を他者は畏《い》怖《ふ》を込めて大《だい》妖《よう》狐《こ》≠ニ呼んでいた。
かつて犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いと犬神たちによって追いつめられ、そして今の最長老によって十重《とえ》二十重《はたえ》の結界の底に閉じ込められた存在。
最上部を万《まん》華《げ》鏡《きょう》のような複合結界、その二層目を動物結界など、時代と共に応急処置的に結界が敷《し》かれたが、結局のところ根本的に大《だい》妖《よう》狐《こ》を外に出さないよう縛《しば》っているのはこの強制的に踊りを強いる舞《ぶ》踊《よう》結界だった。
大妖狐はもう既に三百年以上は踊り続けている。
彼の心の中にはただ退屈だけがあり続けた。驚《おどろ》いたことに彼は犬神たちをそれほど恨んではいなかった。
世界から隔絶され、格別寂しいとも辛《つら》いとも思わなかった。
負けたのだから、まあ、仕方ないか。
と、どこか気楽にそう考えている。あるいは怪物じみた気長さで三百年を捉《とら》えていた。ただ、今の彼を支配しているのは皆が楽しそうに遊んでいるのに、参加出来ないでいる子供のような悔しさなのであった。
ちらっと電波を伝って見た現世はとびきり変化していた。惨《みじ》めに地を這《は》うだけだった人間どもはえらく進歩して、空を飛んだり、海に潜《もぐ》ったり出来るようになっているらしい。美味《おい》しそうな食べ物も沢《たく》山《さん》あったし、目もくらむほど様《さま》々《ざま》な娯楽も出来たようだ。
ゲーム、テレビ、車。
どれもすばらしく面《おも》白《しろ》そうだった。
自分が現役で遊び回っていた頃《ころ》にはなかったものだ。
ずるい。みんなとっても楽しそう。
俺《おれ》も仲間に入れて欲しい!
そんな気持ちなのである。
大妖狐は一刻も早くそれらに触れたかった。触れて、遊んで、飽きたら壊《こわ》して、心ゆくまで堪《たん》能《のう》したかった。
おまけにかつて自分を一番、苦しめた(大妖狐は犬神たちをそれほど脅威とは思っていなかった)赤《せき》道《どう》斎《さい》まで復活して色々やってるらしい。ずるい。あいつとまた心ゆくまで戦ってみたかった。
今度はびるの間を駆け抜け、くるまやひこうきを投げつけ、戦ってやる!
大妖狐は夢を見ながらほくそ笑《え》む。
さらに言えば愛《まな》娘《むすめ》のようこがとっても気がかりだった。
どうやら性の悪い人間に誑《たぶら》かされてしまったらしい。
可哀《かわい》想《そう》に。まだねんねなのである。早速、自らの手に取り戻して、目を覚まさせてやらなくてはならない。なにしろようこは自分の娘であり、自分のものなのだ。
自分の好きに扱っても一《いっ》向《こう》に構うまい?
大《だい》妖《よう》狐《こ》はほくそ笑《え》む。
そろそろ。
そう。そろそろ。
ゆっくりと空を見上げた。三百年ぶりに光が射《さ》し込んで見えた。
そろそろ。
一番古い結界が破れそうだった……。
間奏2邪星=m#中見出し]
少年とソレの蜜《みつ》月《げつ》のような時間にもやがて陰りが生じ始めた。未来|永《えい》劫《ごう》続くかと思われたソレの活動が徐《じょ》々《じょ》に衰え出したのだ。
ソレは時々、魔《ま》法《ほう》を失敗するようになった。
ソレは時々、物忘れをするようになった。
ソレは時々、壁《かべ》や天《てん》井《じょう》にぶつかったりするようになった。
『ああ、いよいよ来るべき時がきたか……』
と、ソレは嘆《なげ》き悲しむように言った。まるでこのまま死んでしまうかのような口ぶりだった。少年はソレが大好きだったのでソレがいなくなってしまう状態なんてとても想像できなかった。少年は『死』という概念を理解するにはまだ幼すぎたのだ。
だから、少年はすがるようにして聞いた。
「一体、どうしたの? ねえ、大丈夫?」
と。
ソレはしばらくの問、じっと少年を見つめていた。
そして、一言。
『頃《ころ》合《あ》いか』
と、そう呟《つぶや》いた。それからソレは少年についてくるように命じ、今まで全く立ち入ったことのなかった城の地下部分へと少年を誘った。道すがらソレは少年に自分の身の上話をした。少年には理解が及ばなかったが、ソレはなんでも一千年以上生きているらしかった。
元々は人間だったが、幾多の戦乱を潜《くぐ》り抜け、幾多の魔《ま》法《ほう》実《じっ》験《けん》を繰《く》り返しているうちに生身の身体《からだ》を失ってしまったのだそうだ。
『長い年月を生きてきたせいで、もう栄養が上手《うま》くとれなくなってしまったのだ』
と、ソレは自らの不《ふ》調《ちょう》をそう説明した。そういえば少年はソレが自分と同じように食事をしている光景を一度たりとも見たことがなかった。
食事はいつもソレが作ってくれたが食べるのはいつも少年一人で、ソレはただ傍《かたわ》らでじっとしているだけだった。
「ご飯が食べられないの?」
という少年の質問には直接答えず、ソレは珍しく饒《じょう》舌《ぜつ》に喋《しゃべ》り続けた。
自分の寿命が見えてきたので、とっておきのご馳《ち》走《そう》をずっと前から用意しておいたこと。上手くそのご馳走を食べられればソレはまた少し長生き出来ること。
少年は必死だった。
なんとかしてソレの役に立とうと、
「僕に手伝えることある?」
と、尋《たず》ねた。ふと、
『くく』
ソレが笑った。
振り返らず、前を頼りなげに漂いながらソレは笑い続けた。少年は初めてほんの少しソレが恐ろしくなってきた。辺りを見回す。気がつけばいつの間にか少年は全く見たことのない薄《うす》暗《ぐら》い広間に来ていた。ひんやりと淀《よど》んだ空気が辺りに漂っていた。
「ねえ……」
たまらなくなって少年はソレに呼びかけた。だが、返事はやはりなかった。少年は不安を抑え、再度声をかけようとした。その時、
『さて』
と、ソレが突然、停止し、
『まあ、てっとり早く私の食事について説明していこうか』
くるっと振り返り、指を鳴らした。
その瞬《しゅん》間《かん》、まるでその場にいるかのような臨《りん》場《じょう》感《かん》で若い男の幻が少年の前に映し出されていた。少年はソレの魔《ま》法《ほう》の力は知っていたが思わず驚《おどろ》きの声を上げた。それは適度に要所要所を選択した喩《たと》えて言うならドキュメンタリー映画のようなモノだった。少年はソレの指示を聞くまでもなく映像に引き込まれていった。
男は人嫌いの猟師だった。
男はとある村の住人だったが、村の住人の誰《だれ》とも口も利かず、たった一人で生きていた。無《ぶ》愛《あい》想《そ》で、狷《けん》介《かい》で、人を信じず、常に冷たい目をしていた。村人の方も男を敬遠し、恐れ、近づかなかった。
男は特に子供が大嫌いだった。甘っちょろくて、喧《やかま》しくて、不作法な存在。子供が近づいてくるとわざと鉄砲を空にぶっ放して追い払うのが男の日《にっ》課《か》だった。そのうち子供の方も男を見ただけで逃げていくようになった。
腕の良い猟師だったが常にひとりぼっちだった。
そんな男の許《もと》にソレは訪れた。
ソレは一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、人の愛情を説いた。村人に親切にするよう勧めた。最初、男は突然現れた正体不明の物体にひどく驚いた。
次に反発し、最後は鉄砲を持ってソレを追い払おうとした。
だが、幾多の獲《え》物《もの》たちとは違ってソレに弾丸は一切通じなかった。
逆に鉄砲を取り上げられ、ベッドの上に吹っ飛ばされた。布団を頭から被《かぶ》ろうと、厠《かわや》へ逃げようとソレはどこまでもついてきてあくまで優《やさ》しさについて懇《こん》々《こん》と男に教え諭《さと》した。
男は辟《へき》易《えき》した。
それが一ヶ月も二ヶ月も続いた。
ソレは飽きると言うことを知らなかった。
人の温《ぬく》もりがどんなに大事なモノで、どんなに心地《ここち》よいモノかソレは語った。転《てん》機《き》となったのは男が猟の最中にまで愛のすばらしさを称《たた》えるソレに集中をかき乱され、斜面から転げ落ち、怪《け》我《が》を負った時のことだった。男はなんとか自分の住んでいる小屋に這《は》い着くと、ベッドの上で唸《うな》っていた。
そこに一人の少女が訪れたのである。
彼女は恐る恐る男の容態を尋《たず》ね、そして彼のために美味《おい》しそうな湯気を立てる温かいスープを作ってくれた。
村人の誰《だれ》からも忌《い》み嫌われている彼のために。
男は少女が訪れたのはソレの差し金だと最初から気がついていたが、いかんせん空腹には耐えられなくなっていた。プライドと食欲がさんざん喧《けん》嘩《か》した結果、男は木のスプーンを手に取り、口に運んで啜《すす》った。今まで食べたどんな食物より美味だった。
男の瞳《ひとみ》に思わず涙が浮かんだ。
暖かさがゆっくりと身体《からだ》を満たしていった。初めてソレの言うことを心が理解していた。
それから男は変わった。少しずつだが、村人とうち解けるようになった。最初は彼を警《けい》戒《かい》していた村人も男が献身的に村のために尽くすようになったのを見て、徐《じょ》々《じょ》に男を受け入れるようになっていった。
男は優《やさ》しさと慈《いつく》しみを学んだ。
あれだけ嫌いだった子供たちにも懐《なつ》かれ、彼らを守るようになり、いつしか男は愛を知った。あの日、自分の許《もと》にスープを作りに来てくれた村娘と結ばれたのだ。
ソレは大いに満足そうだった。
男は深くソレに感《かん》謝《しゃ》した。ソレは首を振って謙《けん》遜《そん》した。
『な〜に、礼には及ばない』
少年はソレが映し出す幻を見ながら嬉《うれ》しそうに尋《たず》ねた。
「やっぱり人助けがあなたのお仕事なんだね?」
ソレはおかしそうに高らかに笑った。
ぷしゅ〜。
がっしゃん。
「ありがとうございました♪」
てててっとまずそのバスを駆け降りたのは小さな犬《いぬ》神《かみ》ともはねだった。続いてお喋《しゃべ》りをしながらいまり、さよかが続き、
「う〜ん、やっぱりまだかなりの邪気が漂っているな」
と、ヘンタイ的衣装を隠すために裾《すそ》の長いコートを羽《は》織《お》った啓《けい》太《た》が立ち止まって、もっともらしく暗く淀《よど》んだ空を見上げた。
「あう」
大きなリュックを背負ったたゆねがぱふんとそこにぶち当たり、
「も〜、啓太様。さっさと前に進んでください!」
照れ隠しのように彼の背中をぐいぐい押した。
さらにスカートの裾を摘《つま》んでせんだんが静かに降り立ち、眼鏡《めがね》をずり上げて不安そうに辺りを見回しながらいぐさが続く。
「と〜ちゃく!」
てんとタラップをジャンプして足を揃《そろ》えて着地したのがようこだ。
「元気だね、ようこはいつも」
微笑《ほほえ》みながら次に薫《かおる》が降りてきて、なでしこがゆっくりとその後に続いた。薫が振り返ってさりげなく手を貸してやると、なでしこは頬《ほお》を染めた。
「あううあうううう」
その横をフラノがかなり動揺しながら通過する。彼女を挟み込むようにしてごきょうやてんそうが素早《すばや》く歩き、皆からちょっと離《はな》れた場所に立った。
「うし、これで全員だな?」
バスがバス停を離れるのを見計らって、啓太が腰元に手を当てて一同を見回した。まるで修学旅行を引率する体育教師といった風《ふ》情《ぜい》である。薫がすうっと滑るように歩いていき、彼の隣《となり》に並んだ。彼はさながらクラス担任の国語教師みたいな感じだった。少女たちが一斉に主人二人を注視する。薫が微笑みながら述べた。
「みんな。これからちょっと大変だと思うけど、正念場だ。しっかり頼んだよ」
薫の犬神たちが全員。
揃えたように声を出した。
「はい、薫様! お任せください!」
続いてようこが啓太を見て、
「わたしも頑張るもんね〜♪」
彼の腕に自分の腕を絡めた。啓太は彼女の髪をちょっと撫《な》でてやった。
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》と薫《かおる》に宗《そう》家《け》から命《めい》が下ったのは早朝のことだった。今の段階ではとりあえず小康状態を保っている大《だい》妖《よう》狐《こ》よりも現時点ではっきり脅威となりうる赤《せき》道《どう》斎《さい》をなんとかするのが急務と考えたのである。
赤道斎は恐らく吉《きち》日《じつ》市《し》のどこかに潜《せん》伏《ぷく》している。
その情報は特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》によってもたらされていた。
よって啓太と薫に下された任務は二つ。
現在、連絡が全くとれなくなってしまっている仮名史郎と早急に接触を計ること。いま一つが赤道斎の本拠地を探索し、仮名史郎と合同でこれの排除に当たること。
「そんなヘンタイどもの王《おう》道《どう》楽《らく》土《ど》をたやすく作られてたまるか!」
というのが、宗家の言葉だった。
代わりに吉日市で霊《れい》障《しょう》の排除に当たっていた他《ほか》の犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いや川平家|縁《ゆかり》の霊能者をいったん川平本家に呼び戻した。
宗家と最長老が大妖狐を再び結界に押し込んだその時から、比較的、街の状態が落ち着いたのだ。あるいはそれは一時的なもので、単なる嵐《あらし》の前の静けさなのかもしれないが……。
とにかく街は普《ふ》段《だん》通りの賑《にぎ》わいを一応は取り戻していた。
従って、街の中心部のバスターミナルで目の覚めるようなとびきりの美少女十一人と涼やかな美少年と啓太が円陣を組んでいる光景はそれなりに人目を引いていた。バスに乗るサラリーマン風の男や女子高生が怪《け》訝《げん》そうな顔で振り返っていく。だが、そんなことはお構いなしにちょっとした打ち合わせが続いていた。
「では、さっきも話したようにこれから二手に分かれて街を探索するんだけど」
薫がちらっと啓太を見た。
「僕と僕の犬神たち。啓太さんとようこ組の二組でいいのかな?」
「ああ、それで構わないだろう……なんでもいいからとにかく手がかりを掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んだら合流しようぜ。畜生、しかし、あのニワトリめ」
啓太が思い出したように怒りをあらわにした。啓太の服を変えた木彫りのニワトリは断固として啓太だけは元に戻すことを拒否したのである。脅してもすかしても全く効果がなく、逆に隙《すき》をつかれて逃げられてしまっていた。
「こうなったら赤道斎自体をぶっちめて元に戻ってやる!」
ぐっと拳《こぶし》を握っている。
「あははは、ケイタ、か〜いか〜い♪」
ようこが満面の笑《え》みで啓太の頭をかいぐりかいぐりする。啓太が嫌《いや》そうに逃げる。他の少女たちがちょっと羨《うらや》ましそうにそのやり取りを見つめていた。
ふとその時、ごきょうやが片手を上げた。
「しかし、薫《かおる》様、この場合、出来るだけ効率的な探索を行う以上、人数をある程度分散させた方が得策かと思いますが?」
「というと?」
薫が発言をするごきょうやを見やった。ごきょうやは一歩前に出て、落ち着き払った口《く》調《ちょう》で進言した。
「はい。私たちが幾つかのチームに分かれてローラー式に街を探すべきだと思います。そうすれば大幅な時間の短《たん》縮《しゅく》にも繋《つな》がるでしょうし、いざという時の隠《おん》密《みつ》行動も取りやすいと思います。大人数では相手にも気がつかれやすくなるかと」
「なるほど」
啓《けい》太《た》と薫がちらっと目配せを交わし合った。それから薫が首を横に振った。
「ごきょうや」
彼は自分の犬《いぬ》神《かみ》が意見を言うことを優《やさ》しく受け止め、申し訳なさそうに目を細める。
「それがね、そういう訳にはいかないんだ。君は赤《せき》道《どう》斎《さい》を直接知らないからだと思うんだけど……あいつはね、恐ろしく鋭《えい》敏《びん》だし、腕の立つ魔《ま》術《じゅつ》師《し》なんだ。ヘンタイだけど。だから、少なくともしばらくの間、ある程度以下に戦力を分散するべきじゃない……本当は啓太さんたちとも別行動しない方が良いくらいなんだよ」
啓太が黙《だま》って腕を組んで立っている。
少女たちはその主人たちの張りつめた雰囲気に改めて気を引《ひ》き締《し》め直した。ごきょうやが「そうですか……」と呟《つぶや》いて俯《うつむ》き気味になった。フラノが何か言いかけようとして、てんそうに引き留められている。
すると、
「まあ、でも、確《たし》かにちょっとシャッフルした方がいいかもね」
薫がにこっと微笑《ほほえ》んだ。
「ん?」
啓太が小首を傾《かし》げる。薫がとんとんと彼の肩を叩《たた》いた。
「あのね、携帯が繋がらなかった場合の連絡係とか必要でしょ? あと一チームはなるべく平均化した方がごきょうやの言うとおり手がかりを探すのに効率が良いと思うし。ともはねとあと何人かをそちらに貸しだそうと思うんだけどどうかな?」
ともはねが目を輝《かがや》かせた。両手を挙げる。
「あ、はい! あたしやります! 啓太様のところ行きます!」
薫が満足そうに頷《うなず》いた。
「分かった。じゃあ、ともはね。それにごきょうや」
ごきょうやがとまどうような顔になった。
複雑な表情で、
「あ、はい」
と、言い淀《よど》む。薫《かおる》はしかし、屈託なく指名を続けた。
「それとてんそうとフラノにもお願《ねが》いしようかな?」
フラノがもの凄《すご》くほっとした顔をして、てんそうが無言で頷《うなず》く。薫はん〜と一同を見回す。
「それくらいでいいかな?」
するとその時、なでしこが片手を挙げた。
彼女は微笑《ほほえ》み、名乗りを上げた。
「あの、薫様。わたしも啓《けい》太《た》様のチームに出《しゅっ》向《こう》させていただいていいでしょうか?」
薫はしばらく無言でじっとなでしこの顔を見つめていたが、やがてにこっと破《は》顔《がん》した。
「もちろん♪」
ごきょうやたちが絶望しきった表情で互いに互いを見つめ合った。
折を見て啓太に全《すべ》てを話すという計画が狂ってしまってごきょうや、てんそう、フラノはすっかり落胆していた。
とぼとぼと啓太たちの少し後を歩いている。そんな彼女らのさらに背後でなでしこが手を身体《からだ》の前で重ねる姿勢でゆっくり続いていた。木彫りのニワトリが乱入してきた先日の夜以来ずっとこうなのである。啓太に接触を図ろうとすると、まるで計ったようなタイミングでなでしこがどこからともなく現れて、ごきょうやたちを穏《おだ》やかな微笑《ほほえ》みで見つめた。
ごきょうやたちはその視《し》線《せん》の前に何も言えなくなってしまうのである。
今もまるで監《かん》視《し》するようにごきょうや、てんそう、フラノの背中を見ながら歩いていて、時折、フラノなどが振り返ると、
『どうしたの?』
と、言わんばかりに優《やさ》しげに小首を傾《かし》げた。
しかし、その微笑みでフラノは鬼に睨《にら》まれたよりも恐ろしげに硬直し、ぶるぶると首を振った。今も半ばごきょうやの袖《そで》にしがみつくようにしてぎくしゃく歩いている。てんそうが小さくため息をついた。
まるで死刑判決を受けた囚人のような気分だった。
一方、そのさらに前を啓太とようこが賑《にぎ》やかに話し合いながら歩いていた。啓太は今、自分の身体をすっぽり覆《おお》うようなコートを着て、頭には帽子、足にはブーツを履《は》いていた。ようこはそんな彼と腕を組むようにしてうきうき歩いている。
ちなみに啓太の反対側の手はともはねが握っているから、まるで(ちょっと年が近すぎるが)仲の良い親子のようにも見えた。
ごきょうやは啓太の後ろ姿を見て、言いようのない焦《あせ》りを感じていた。
思わず歯がみする。
早くなんとかしないと、なんとか啓《けい》太《た》に全《すべ》てを伝えないとなにもかもがダメになってしまうそんな気がしていた。今まで幸せだった全てが。
それで崩れてしまう。
その時、ふと啓太が何事か気がついたかのようにごきょうやを振り返った。「ん? なんか用か?」とでも言うように小首を傾《かし》げた。
ごきょうやが顔を輝《かがや》かせ堰《せき》を切ったように口を開こうとしたそのとたん、
「啓太様、まず最初はどこから探しますか?」
と、なでしこが一歩、前に出てきて啓太に向かって微笑《ほほえ》んだ。
啓太はごきょうやからなでしこに視《し》線《せん》を移す。ごきょうやが顔を暗くする。なでしこはさりげなく身体《からだ》を動かし、ごきょうやの視界を遮った。
啓太は皆を見回した。
一同は今商店街の真ん中に来ていた。
「ん。そうだな」
啓太は辺りを確《たし》かめる。
週末ということもあって噴《ふん》水《すい》の前には出店がたくさん出ていて、かなり人混みで賑《にぎ》わっていた。
「よし、ここら辺でいいだろう。霊《れい》的《てき》、ヘンタイ的な気《け》配《はい》はないか、各自、店の中や路地を回って徹《てっ》底《てい》的《てき》に探すこと。俺《おれ》はここからあんま動かないから、みんな俺からあんま離《はな》れないようにな」
「はい!」
と、少女たちが習性的に元気よく声を上げる。ふとてんそうが空を見上げて呟《つぶや》いた。
「……雨が」
釣られて啓太たちが空を見上げると、鉛色の雲からぽつり、ぽつりと大きな雨粒が落ちてくるところだった。
それは。
不吉な何かの前兆だった。
盆踊り。
ランバダ、サルサにタンゴ。アイリッシュギグやコサック。古今東西、およそありとあらゆる踊りを何百年にもわたって踊らされ続けてきた。だが、その強力な舞《ぶ》踊《よう》結界に今、綻《ほころ》びが生じつつある。驚《おどろ》くほどたわいもなく強制力が弱まり、光が見え始めた。
大《だい》妖《よう》狐《こ》はにやりと笑った。
暗い結界の奥の底のそのまた奥。
這《は》い出るように、泳ぎ出るようにゆっくりと浮上し始めた。その巨大な霊《れい》力《りょく》はさながら深海に棲《す》まう鯨《くじら》のように彼を何百倍にも大きく見せていた。
「待ってろよ」
浮き立つ心を抑え、はやる心を静め、大《だい》妖《よう》狐《こ》は舌なめずりを一つする。
「待ってろよ、ようこ! 川《かわ》平《ひら》家! 赤《せき》道《どう》斎《さい》!」
ぐわっがばあああ。
幾千、幾万もの戒《いまし》めが一気に引きちぎられ、大妖狐は結界から頭上を目指した。
同時刻。
その舞《ぶ》踊《よう》結界を構築し、大妖狐を捕え続けてきた最大の功労者である最長老はゆっくりと微睡《まどろ》んでいた。
気の遠くなるような生の中でもっとも楽しかった頃《ころ》のことを静かに思い出している。
子犬のように無邪気に主人の後を追いかけたあの日々のことを。
「最長老様?」
と、傍《かたわ》らの若い犬《いぬ》神《かみ》が不《ふ》審《しん》げに何か尋《たず》ねてくるのがどこか遠くに聞こえた。
「ああ、慧《え》海《かい》さま……お待たせしましたな。またこれから二人で可愛《かわい》いおなごでも追いかけましょうか? お供しますぞ、ああ、お供しますとも。参りましょう、我ら主従二人」
どこまでも。
さらに同じ頃、川平|宗《そう》家《け》は一族の犬神使いや除霊に協力してくれていた他《ほか》の霊能者らと宴会を繰《く》り広げていた。
はけがちょっと呆《あき》れてる。
「相変わらず緊《きん》張《ちょう》感《かん》がないですね、あなたは」
「まあ、そういうな、はけ」
宗家がビールを一杯引っかけて上《じょう》機《き》嫌《げん》に笑った。
「とりあえず吉《きち》日《じつ》市《し》周辺の邪気は落ち着いたし、そういつまでも気を張ってる訳にもいかんだろう? たまには世の中、休息も必要よ、休息も」
はけはやれやれと首を振る。
「あなたは気のせいか、いつも休息をしているような気がしますが」
「きのせいきのせい」
宗家はアタリメを摘《つま》む。はけは苦笑した。この不《ふ》思《し》議《ぎ》なとぼけっぷりが彼の主人の魅《み》力《りょく》の一つだった。はけは心のどこかでこの状態を喜んでいる自分を自覚していた。どんな事態でもあくまで主人には泰《たい》然《ぜん》自《じ》若《じゃく》としていて欲しかった。細かいことを思い悩むのは自分一人でいい。そのためのフォローにこそはけはいるのだった。
彼はふと最長老のことを考えた。
つい昨日、父親から結界術の秘《ひ》奥《おう》義《ぎ》と呼べるものを伝授されていた。長い間、ずっと存在自体は知っていたが、最長老が「もう使い方を忘れてしまったわい」と惚《とぼ》けていたので考《こう》慮《りょ》の外にあったものだ。
大《だい》妖《よう》狐《こ》へのとっておきの切り札を教わったのは嬉《うれ》しかったが、今このタイミングで秘伝を受け渡されたのが妙に引っかかる。
一体、最長老はどういうつもりなのだろうか?
「ところでどうじゃった? あの変な木彫りの鳥は見つかったか?」
と、その時、宗《そう》家《け》に声をかけられはけは我《われ》に返った。
「いえ」
と、彼は首を横に振る。木彫りのニワトリは啓《けい》太《た》の手元から逃げ出して、どこかに消え去ってしまっていた。
「おそらくはそんなに遠くに行ってないと思うのですが」
はけは困ったように額《ひたい》に指を当てた。考えるべき事が沢《たく》山《さん》ありすぎた。
「う〜む」
宗家は小首を傾《かし》げ、
「まあ、放っておいても特に実害はないと思うがの」
そう言って手《て》酌《じゃく》でビールをとくとくコップに注《つ》いだところで宗家ははっと顔を上げた。同時にはけも気がついている。
「……これは?」
ざわめきと緊《きん》張《ちょう》がさざ波のように大広間に広がっていった。即座に宗家が表情を引《ひ》き締《し》め、立ち上がっていた。
「でかい! みんな気をつけ」
そのとたん、最初の激《げき》震《しん》が川平本家を直《ちょく》撃《げき》した。
ぐぐぐうぐぐうう。
押していく。身体《からだ》全体を打ち当てるようにして重たい鉄の扉に身体をこじ入れるようにして身体を捻《ひね》る。
おおおおおおおおおおおおおうううん。
大妖狐が大きく吠《ほ》えた。
渾《こん》身《しん》の力を込めて暗黒の下から鼻先を突き上げた。
その衝《しょう》撃《げき》は犬《いぬ》神《かみ》たちの棲《す》まう山全体を襲《おそ》った。木が揺れ、大気が悲鳴を上げ、地面が幾つか縦《たて》に裂けていった。
「落ち着け! みんな落ち着け!」
年かさの犬《いぬ》神《かみ》たちが必死で皆をなだめた。
一同は大《だい》妖《よう》狐《こ》を封じ込めている結界の前に集まっていた。はちまきたすきがけ。棒を腰だめに構え、不安と恐怖に満ちた表情で眩《まばゆ》い光を放ちながら荒れ狂っている結界を見つめていた。
「あははははは、そ〜〜〜〜〜れ!!!」
一度、助走を取り、肩からぶつかった。爪《つめ》で思いっきり表面を切り裂き、結界の要《かなめ》部分に牙《きば》を突き立てた。
大妖狐は有り余る精気でありったけの力を結界の扉に叩《たた》きつけた。
「わ! わああ!!!」
鳴《めい》動《どう》する大地に唸《うな》りを上げる天。
見上げればちょうど結界の真上の空に黒雲が渦《うず》巻《ま》いていて、不気味な稲《いな》光《びかり》を幾本も幾本も帯同していた。風が犬神たちを弄《もてあそ》ぶように吹き荒れ、ただならぬ霊《れい》気《き》に空気が連続して破裂音を立てていた。犬神の一人が懸《けん》命《めい》に叫んだ。
「いましばし待て! 川《かわ》平《ひら》家の方々がやってきてくださるまでは我《われ》らで堪《た》え忍ぶのだ!」
何人かの犬神が顔を腕でかばい、暴《ぼう》風《ふう》の中心である結界に近寄ろうと低い姿勢で進んだ。だが、まるで煽《あお》るように吹き上げた風に吹き飛ばされ、地を転がる。
「遅れてすまぬ!」
その時、凛《りん》とした声が混乱した現場に響《ひび》き渡った。川平|宗《そう》家《け》が白《しろ》装《しょう》束《ぞく》のはけを従え、そこに辿《たど》り着いたのだ。
彼女は転んだ犬神を助け起こし、叫んだ。
「みな! 案ずるな! 我ら川平家、お前たちと共にいかなる時でもいる! 案ずるな! 我らはお前たちと共にいる!」
「お気をつけめされい! 我らの主人よ!」
誰《だれ》か叫んだ。吹きすさぶ霊力の嵐《あらし》の中で、和服をはためかせながら驚《おどろ》くほど険しい表情で宗家は辺りを見回した。
「しかし、解《げ》せん。なにゆえ、こんなに急に結界の力が弱まったのだ?」
その時、犬神の一人が悲痛な声で叫んだ。
「大変です! 最長老様が!」
振るい打ち砕《くだ》きたわめ圧力を一点に一点にかける。
そして。
「ぐううううう」
とうとう。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
その時がやってきた。
永《えい》劫《ごう》とも、永遠とも思える重圧が、何十にも仕掛けた結界が、最悪の厄《やく》災《さい》を封じ込めておく鉄の扉が。
あっけなく、粉みじんに砕《くだ》けた。
「あはははははははははははははははははははははははは!」
天高くまるで間《かん》欠《けつ》泉《せん》のように噴《ふ》き上がる霊《れい》気《き》の柱。それは重苦しく頭上を覆《おお》っていた暗雲を一息で貫き、瓦《が》解《かい》させた。もうもうとわき起こる蒸気。砂煙。霊気の渦《うず》。熱《ねっ》気《き》。その中を掻《か》き分けるようにしてゆっくりと一人の男が姿を現した。
まるで銭湯ののれんを潜《くぐ》るような気安さでまとわりつく結界の残《ざん》滓《し》を払い、笑いながら、踊るような足取りでととんと地面に降り立った。
「ひゅうう〜〜〜、いいい」
ぐっと拳《こぶし》を握り込み、腰を落とした。
「気分だぜえ」
大《だい》妖《よう》狐《こ》。
その人が人身の姿で立っていた。
驚《おどろ》いたことに彼はひどく現代的な服装をしていた。紺《こん》色《いろ》の使い込んだ感のあるジーンズに、胸元がやや開いたポロシャツと飴《あめ》色《いろ》に輝《かがや》く革靴。シルバーチェーンを首に巻き、よく手入れされた無《ぶ》精《しょう》ひげを生《は》やしていた。それに見た目がとても若い。
どう見ても二十代後半くらいにしか見えなかった。
さっぱりとした印象と爽《さわ》やかな目元。
人懐こい笑顔《えがお》を浮かべ、心の底から楽しそうにしている。
「う〜い、いいもんだなあ、現世ってのは」
手を掲げ、鉛《なまり》色《いろ》の空を見上げた。
それから、
「ん?」
ようやく他《ほか》の者が唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》と、あるいは愕《がく》然《ぜん》と、もしくは呆《ぼう》然《ぜん》とこちらを見ていることに気がついた。大妖狐はにやりと笑った。
「おおお〜、久しぶりだな、犬《いぬ》神《かみ》ども。何人かは見覚えがあるぞ。長い年月にチリとならずよく生き残ったものだ。嬉《うれ》しい限りだ。何人かは初めて会うな。それと当たり前だがニンゲンの犬神使いや拝み屋どもも初めて会うな! おっす!」
若々しい声を張り上げる。
「どうだ、お前らこのオレの格好は? 格好いいか? てれび、を伝って見た時のを参考にしてるんだけど……って、おいおい誰《だれ》か何とか言えよ?」
不《ふ》審《しん》そうに辺りを見回す。
それでも誰も何も言わない。沈《ちん》鬱《うつ》な重苦しい気《け》配《はい》が辺りに漂っていた。それは伝説の存在を目《ま》の当《あ》たりにして怯《おび》えているとか、恐れている反応とはちょっと違っていた。犬《いぬ》神《かみ》たちが一力所に集まり、肩を落とし、すすり泣き、人間たちは顔を逸《そ》らしていた。大《だい》妖《よう》狐《こ》は得《とく》心《しん》したように頷《うなず》いた。
「そ〜か。やっぱりこのオレが怖いのか」
腕を組み、にやっと笑う。
「ま、無理もないが。なにしろ天下の大妖狐さまが蘇《よみがえ》ったのだからな」
「ううう」
とうとう犬神の一人が耐えきれずに声を上げて泣き始めた。
「最長老様! 最長老様! どうして私たちをおいて行かれたのです?」
それで皆、堰《せき》を切ったように泣き始めた。わお〜ん、くお〜〜んと天に向かって遠《とお》吠《ぼ》えをする者。泣きながら地に拳《こぶし》を打ちつける者。犬神使いたちの何人かは貰い泣きしたり、自分の犬神の肩を抱いて優《やさ》しく慰《なぐさ》めてやっている。
比較的、平静なのは犬《いぬ》神《かみ》を持たない川《かわ》平《ひら》家ゆかりの霊《れい》能《のう》者《しゃ》たちだが、彼らもまた居《い》心地《ごこち》悪そうに身じろぎしたり、咳《せき》払《ばら》いをしたりしていた。
大《だい》妖《よう》狐《こ》はただ目を白黒させていた。
「お、おいおい。なんなんだよ? なんなんだよ?」
まさかこんな展開になるとは思わなかった。
彼は犬神たちの間を縫《ぬ》って、その悲しみの中心点に向かった。犬神も、人間たちも咄《とっ》嗟《さ》に身構えたが、それを前に出てきた川平|宗《そう》家《け》が押しとどめた。大《だい》妖《よう》狐《こ》は焦《あせ》ったように走り出し、その大きな樫《かし》の木の根本に立った。
「ま、まさか」
巨大な犬神が樫の木に背を預けるようにしてそこに座っていた。まるで微睡《まどろ》むように目を閉じ、だらりと手を横に垂らしていた。大妖狐は信じられなかった。前に額《ぬか》づいていたはけがそっと最長老の手を取り、優《やさ》しく囁《ささや》いた。
「お父様、どうぞ、安らかにお眠りください」
ひとしずくの涙が端正な彼の頬《ほお》に流れる。
大妖狐の後から歩いてきた川平宗家が労《いたわ》るように彼の肩をそっと撫《な》でた。はけは哀《かな》しそうに微笑《ほほえ》み、涙を流したまま、首を横に振る。
「だいじょうぶですよ。ほら、こんなにも安らかなお顔。お父様はきっと思い残すことなく旅立たれたのだと思います。きっと初代様の許《もと》へ」
「う、うそだろ?」
震《ふる》え声でそう呟《つぶや》いたのは大妖狐だった。渋みのある甘いマスクに驚《きょう》愕《がく》の表情を浮かべ、肩をぷるぷると振るわす。
「だいようこ」
その時、はけがきっと牙《きば》を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた。
「きさま、よくもおめおめと!」
宗家が彼を手で抑え、大妖狐に向かって尋《たず》ねた。
「お前さん、こんなことを頼むのもなんだけど、せめてこの最長老の亡《なき》骸《がら》をなんとかするまで色々とことを起こすのを待って貰えないかね?」
「おい!」
だが、大妖狐は聞いていなかった。
彼は老《ろう》婆《ば》の肩をがっと掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んで勢い込んだ。
「きさま!」
と、はけが今度こそ激《げき》して扇《せん》子《す》を出しかけるが、
「うるさいうるさい! オレは色々と聞きたいことがあるのだ!」
大妖狐は片手を差し出しただけで、はけの動きを止めてしまった。金《かな》縛《しば》りにあったようにはけが身動き出来ずにいる。よく見るとはけの白い衣服には戒《いまし》めのように黒い影《かげ》が幾重にもとりっいていた。いつのまに!
はけは驚《きょう》愕《がく》している。
辺りはさらにざわめいていた。手を差し上げたまま指先一つ動かせないでいるはけなど誰《だれ》も見たことがなかった。
影はさらに成長していくとまるで蔦《つた》のようにはけを縛った。
「ふう」
宗《そう》家《け》はちらっとそんなはけを見やってから、大《だい》妖《よう》狐《こ》を半目で見上げた。
「で、おぬしはいったい何が聞きたいんじゃ?」
大妖狐は自分よりも遥《はる》かに小さい宗家にまるでとりすがるように手をかけながら、いささか情けない半泣きの顔で尋《たず》ねた。
「な、なあ。こいつ、もしかしてオレを封じ込めたあいつだろう? あの犬《いぬ》神《かみ》だろう?」
「……わしは当時のことはよく知らないが」
「いや、オレには分かるよ! すごくよぼよぼになってしまったが確《たし》かにあいつだ! 面《おも》影《かげ》がある! 間違いない!」
彼はそれから周りがびっくりするようなことを口にした。
「なあ[#「なあ」に傍点]、こいついったいなんで死んだんだ[#「こいついったいなんで死んだんだ」に傍点]?」
その質問に宗家も一《いっ》瞬《しゅん》、言葉を失ってしまった。
「……なに?」
と、ようやく眉《まゆ》をひそめる。対して大妖狐はおろおろと周囲を見回した。
「なあ、寿命か? 寿命なのか? こいつが死んじまった理由は寿命なのか?」
「あ、ああ。まあ、だいたいそうだと思うが……」
「いやだ!」
突然、大妖狐が激《はげ》しくかぶりを振るった。
「いやだ! 認めないぞ、そんなの! オレはこいつと遊ぶつもりだったんだ! 前回は負けたけど今回はあの凶《きょう》暴《ぼう》な雌《めす》犬《いぬ》ごと石にしてやるって決めたんだ! だから、力だって磨いた! 嫌《いや》だ! 勝手に死んじゃうなんてそんなの嫌だ! こいつはまだまだオレが生かすんだ[#「こいつはまだまだオレが生かすんだ」に傍点]!」
その随分と勝手な言い草に宗家は唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としていた。
大妖狐はさらにすがるように言いつのる。
「な、なあ。仮に寿命でもさ、オレを封じ込めていたことによってかなり体力、霊《れい》力《りょく》を消耗し続けた訳だろう? そうするとかなりそれで寿命はマイナスされてるよな? ある意味でオレがあいつを早死にさせたんだよな?」
大妖狐は「なあなあ」と宗家の肩を揺する。はけが悔しげに歯がみし続けた。宗家はどちらかというとぽかんと、
「ま、まあ、そうなんだろうな」
と、堅く答えた。
とたん。
「そうか!」
ぱあっと大《だい》妖《よう》狐《こ》の顔が笑いで晴れ渡った。
「そうだよな、やっぱり! そうか、そうか!」
彼は片手を挙げた。そうしてさらに信じられないことを口にした。
「じゃあ[#「じゃあ」に傍点]、オレがこいつを本当に生き返す[#「オレがこいつを本当に生き返す」に傍点]!」
その場にいた一同は一人残らず絶句していた。その中で大妖狐は一人真剣な顔つきで、目を細めた。
彼は最長老の亡《なき》骸《がら》に歩み寄り、彼の額《ひたい》にそっと手を押しつける。
その行為に非《ひ》難《なん》の声を上げる者は誰《だれ》もいなかった。
皆、気《け》圧《お》されていた。
大妖狐のその圧倒的な霊《れい》格《かく》に。
「いくぞ。もう一度、帰ってこい。オレの遊び相手」
大妖狐はぎゅうっと目をつぶった。凄《すさ》まじい霊圧で彼の全身が青白く燃《も》え上がり、髪が逆《さか》立《だ》つ。
「オレが命じる! このだい、よう、こが!」
次の瞬《しゅん》間《かん》、大気が、天が、地が爆《ばく》発《はつ》した。時間が破裂し、因《いん》果《が》律《りつ》がむちゃくちゃになる。
「げ」
宗家が目を丸くして、叫んでいた。
「こいつなんてことを! みんな待《たい》避《ひ》! 離《はな》れろ! 離れろ!」
その時には金《かな》縛《しば》りから解けていたはけが彼女を抱え上げ、真剣な表情で後ろに跳《ちょう》躍《やく》していた。目の前に紫《むらさき》色《いろ》の結界を張り、それを一気に大きくしていく。
「わ! わああああああああああ!!!」
犬《いぬ》神《かみ》や人間関係なく全員、転げるように遥《はる》か彼方《かなた》に逃げた。さらに自前の結界を張ったり、はけの結界の後ろに転がり込む。直後、起こったのはさながら|時空の大渦《メールシュトローム》だった。
渦《うず》を巻くように空気と霊気が一点に吸引され、嵐《あらし》のような風切り音を伴って荒れ狂う。はけが懸《けん》命《めい》に結界を押し広げ、犬神たちは地面にしがみつく。各自、大木に捕まったり、足を踏ん張ったりしてこらえる人間たち。
ううおおおおおおおおおおおおおおおおおん。
聞こえてきたのは他を圧する異常な音量の遠《とお》吠《ぼ》えだった。
稲《いな》光《びかり》が走り、耳を聾《ろう》するばかりの轟《ごう》音《おん》が辺りを支配した。呼吸もままならないほどの霊気が大妖狐の周りで吹き荒れた。
やがて。
「因《いん》果《が》律《りつ》! オレ様の前に屈服しやがれえええええ!!!」
罵《ば》声《せい》が響《ひび》き、
「しゃあああああああああああああああああ!!!!!!!」
信じられないほど眩《まばゆ》い光が放射状に彼の手のひらからほとばしった。犬《いぬ》神《かみ》も人間も顔を腕でかばいながら目をこらす。
あり得ない事象。
因果律を覆《くつがえ》す圧倒的な意志の力とそれを押し通すわがまま。
瞬《しゅん》間《かん》。
霧《きり》が晴れるように一瞬で辺りの視界が鮮《せん》明《めい》になった。ばふっと突然、風が鳴りやみ、人間や犬神たちが前のめりにつんのめったり、大きくため息をつく。それでも彼らは恐ろしさに身体《からだ》を強ばらせながら一点から目を離《はな》すことが出来なかった。
「ふいい〜」
大《だい》妖《よう》狐《こ》は汗だくだった。疲れた表情ながらもどこか誇らしそう。片方の手で額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》い、反対側の手で軽く最長老の頭を叩《たた》いた。
「お〜ら、起きろよ、じいさん」
その一言で。
「し、しんじられん……」
「最長老様!」
辺りからざわめきが漏れた。はけが目を丸くしている。確《たし》かに永久《とわ》の眠りについたはずの最長老が、
「おううん?」
ゆっくりと首をもたげ、
「あれ? わし、カルビ? え?」
寝ぼけたことを言いながら辺りをきょろきょろ見回す。実際、彼の口元からは涎《よだれ》が垂れていた。辺りから一斉に歓喜の声がわき起こった。
「やった! やったぞ!」
「そ、そんなあほな」
川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》がもうなんと言って良いか分からない表情で口をぽかんと半開きにしていた。犯すべからざる物事の道理をその圧倒的な霊力で強引にねじ伏せ、最長老が歩きかけた黄泉《よみ》路《じ》をその豪腕で叩《たた》き壊《こわ》してしまった。まさにあり得ないでたらめっぷり。
信じられない。
「お父様!」
はけがたっと飛んで最長老の許《もと》に降り立つ。他《ほか》の犬神たちも口々に歓喜の声を上げながら最長老に駆け寄っていく。
最長老はまだ夢見|心地《ごこち》のようだ。
大《だい》妖《よう》狐《こ》が高らかに笑い出した。
「あははははははははははははは! ま、ざっとこんなもんよ!」
腰元に手を当て実にさっぱりとした表情だ。彼は川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》を笑いながら見て言った。
「ま、つってもオレが消耗させた分くらいしか自然の摂理には逆《さか》らえないけどな。それで十分だろう? オレも寝覚めが良いし、楽しく遊べる」
彼はそれからぽんと手を打った。
今まで通り、無邪気に、
「おお、そうだ」
彼は周りにいる全《すべ》ての霊《れい》能《のう》者《しゃ》たちに向かって告げた。
圧倒的な多勢に臆《おく》することなく、
「これで心おきなくお前らと戦えるな。遊んでくれるだろう?」
にいっと口元がつり上がる。
「さあ、楽しもうぜ、オモチャども」
それで震《しん》撼《かん》したのは人間たちの方だった。
化け物。
という言葉を彼らは生まれて初めて実感した。
大妖狐が周囲を圧している少し前。
吉《きち》日《じつ》市《し》では川《かわ》平《ひら》薫《かおる》とせんだん、いぐさ、たゆね、いまり、さよかが『レ・ザルブル』という喫《きっ》茶《さ》店《てん》に入ってお茶をしていた。
「うん。じゃあ、こっちもちょっと雨宿りするよ。うん。そう、特になし。そっちは? うん……うん。なるほどね、分かった。また後で連絡するね……うん」
携帯電話に耳を当てていた薫がふっと優《やさ》しく微笑《ほほえ》んだ。
「じゃあ、気をつけて」
それから彼は通話ボタンを切った。薫の向かいに座っていたせんだんが小首を傾《かし》げて尋《たず》ねる。
「どうでしたか? 啓《けい》太《た》様の方は?」
薫は頷《うなず》いた。
「こっちと同様。とりあえず休《きゅう》憩《けい》がてら建物の中に入るって」
「何か進展は?」
「それもなし」
薫は肩をすくめてみせた。ついで流れるような仕《し》草《ぐさ》でティーカップを口に運ぶ。その間、いぐさ、たゆねがパフェとシュークリームを交換し合っていて、いまりとさよかが声《こわ》高《だか》に園《えん》芸《げい》論《ろん》を戦わせていた。
せんだんはじっと薫《かおる》を見つめている。
「……どうしたの? せんだん」
ふと薫がこちらに微笑《ほほえ》みかけてきた。せんだんは思わず赤くなってそれから、
「あ、いや、啓《けい》太《た》様のところは大丈夫かなと思いまして」
と、思っていたことと全く関係ないことをとりあえず口にする。薫は優《やさ》しく問いかけた。
「ん? それは一体どういう意味?」
「申し訳ありません。特に深い意味はないのですけど……」
ちょっと口ごもった。
「啓太様が赤《せき》道《どう》斎《さい》の世《せ》界《かい》観《かん》に流されてしまわないかちょっと不安なのです。啓太様ってなんというかヘンなモノに好かれたり、取《と》り憑《つ》かれたりする奇妙な性質がありますから」
ははははは。
と、薫が軽やかに笑い声を立てた。
「まあ、そうかもね」
せんだんがやっぱりという表情になる。薫は訂正するように手を振って見せた。
「あ、でもね、だいじょうぶ。啓太さんはやる時はやる人だから」
「それは分かってるつもりなのですが……」
「なんというのだろうね? 普《ふ》段《だん》はあんまり反応しないんだ。煩《ぼん》悩《のう》いっぱいだし、はちゃめちゃだし、何考えてるんだろ〜って正直、僕でも思うときがある」
いつの間にか他《ほか》の少女たちも聞き耳を立てていた。
薫はそれを知ってか知らずか落ち着いた声で話し続けた。
「でもね、誰《だれ》かが魂の底からの叫び声を上げた時、あの人はきっとその場にいる人なんだ。きっとね」
たゆねが。
いぐさが目を伏せ、苦笑に近い笑《え》みを浮かべた。
「だから、大丈夫」
「ど〜ですかね?」
と、言ったのは疑わしげな表情のいまりだった。
「あの人、でも、根本的なところで致命的な失敗もしそうですヨ?」
とはさよかの弁。
薫も微笑《ほほえ》んだまま特に否定しなかった。たゆねがう〜んと腕を組む。いぐさがちょっとした意見を述べていつしか場は啓太の話題になった。
だが、その話の輪《わ》にせんだんは入らなかった。
彼女が考えているのは薫《かおる》と、そしてなでしこのことだった。先日、なでしこがついた奇妙な、そして薄《うす》ら寒い嘘《うそ》がずっと気になっていた。
そのことを薫に尋《たず》ねたくて、でも、尋ねられない。
ふと、薫が座《ざ》談《だん》から意《い》識《しき》を離《はな》してせんだんを見つめた。
「せんだん」
彼は柔らかく微笑《ほほえ》みながらせんだんの白い手を握った。
「やっぱり何か心配事があるようだね? 話してごらん」
せんだんはどぎまぎした。同時に心の底から暖かい感情がこみ上げてくるのを感じていた。薫の真価はこれだった。
優《やさ》しく、そして聡《さと》い。どんなに隠しごとをしても大《たい》概《がい》のことは感じ取ってしまう。
時々、せんだんは思う。未来に不安を感じ、感情に振り回され、怯《おび》える犬《いぬ》神《かみ》の方がよほど人間的で、全く動ぜず、どんな状況でも大概、お気楽に笑ってる川《かわ》平《ひら》一族の方がよっぽど人外に近い存在なのではないかと。
でも。
だからこそ自分たちはどこまでも彼らについていきたいのだ。せんだんは覚悟を決めた。薫に全《すべ》てを話そう。
全てを問いただそう。そう思って顔を上げたまさにその時。
大きな横揺れが彼らのいる喫《きっ》茶《さ》店《てん》を襲《おそ》った。
薫とせんだんが啓《けい》太《た》について話し合っていた頃《ころ》。
薫と定時連絡を終えた啓《けい》太《た》は通話ボタンを切り、携帯電話をポケットに突っ込んでいた。顔を上げ、
「あ〜、じゃあ、とりあえずちょっと休《きゅう》憩《けい》な。この後、駅ビルの方にも行ってみるからそれまで各自、トイレでも行っておくように」
と、声をかける。
「は〜い♪」
まず元気よく片手を挙げてともはねがすてててと本当にWCマークの方へ駆けていった。ごきょうや、てんそう、フラノが啓太に会《え》釈《しゃく》してともはねの後に続く。最後になでしこがゆっくりと彼女らの後を追いかけた。
「おまえはいいのか?」
と、啓太が傍《かたわ》らのようこに向かって尋ねた。ようこは首を振る。
「わたしはいい」
「じゃあ、ジュースでも飲むか?」
「うん、飲む飲む! あんま〜いの飲む♪」
ようこが嬉《うれ》しそうに啓《けい》太《た》の腕に自分の額《ひたい》をこすりつけた。
今、啓太たちは吉《きち》日《じつ》市《し》駅前の大きなデパートの地下にいた。雨宿りと探索をかねてである。彼らの周りには美味《おい》しそうなお総菜や果物、生《せい》鮮《せん》食品にアルコール類などの商品が陳列されていた。胃袋をくすぐるような香ばしい匂《にお》いや、甘い香りがそこらかしこに立ちこめていた。
そんな中を買い物かごを片手に抱えた客たちがショーケースを覗《のぞ》き込んだり、注文を述べたりしている。
お茶やハムの試飲、試食があって、張りのある声で客引きをしている店員がいる。
啓太とようこはジュースのスタンドバーに向かい、イチゴのフレッシュジュースを頼んだ。
それを二人で仲良く半分こする。
「んく」
ようこは音を立ててストローを啜《すす》っている。
「あんま〜い♪」
本当に幸せそうな顔だ。啓太はそんな彼女をじっと見つめ、
「なあ」
ふと思いついたように尋《たず》ねた。
「ん?」
ようこはストローを口から離《はな》し、小首を傾《かし》げる。啓太は言いにくそうに少し口ごもった。それから困ったように頭を掻《か》き、
「これさ、お前にきちんと確《たし》かめてなかったんだけどさ」
「なに?」
「あのな」
啓太は迷った末、その問いを口にした。
「お前さ、大《だい》妖《よう》狐《こ》の娘だよな?」
「……うん」
ようこが。
少し上《うわ》目《め》遣《づか》いになった。警《けい》戒《かい》するように、不安そうに。
「それが、なに?」
「あのさ、俺《おれ》たちこれからもしかしたらさ、大妖狐と本気で戦わなきゃならなくなるかもしれないだろう? その時な、お前、ええっと」
彼は思い切って尋ねた。
「俺たちと一《いっ》緒《しょ》に戦っていいのか?」
その問いはある意味でようこの根源に対するものだった。
彼女が啓太を見上げる。啓太は今はもう真《ま》っ直《す》ぐにようこを見つめていた。
「あのさ、誤解するなよ? 俺《おれ》はお前が犬《いぬ》神《かみ》だろうと狐《きつね》だろうとそんなことは全く構わない。たださ、お前はそれでいいのかってちょっと思ったんだ。なにがあったか知らないけどいちお〜お前のオヤジさんだろう? いいのか? それで本当に」
「うん……」
「なんだったらお前は別に」
「あのね」
と、ようこは啓《けい》太《た》を見上げたまま微笑《ほほえ》んだ。
啓太が見たこともない。
優《やさ》しく、どこか満ち足りたまなざしだった。はにかむように、
「わたし、ケイタと出会うまで本当に楽しい≠チてことは知らなかったんだと思うよ」
「え?」
「心の底から笑ったこともなかった。オトサンは確《たし》かにわたしのオトサン。でもね、オトサンは絶対ケイタとわたしが一《いっ》緒《しょ》にいることを許してくれない。だから」
ようこはとんと一歩後ろに下がり、手を広げると踊るようにくるっと床《ゆか》の上で回った。彼女は歌うように言う。
「わたしね、それに今のこの街が大好き。美味《おい》しいご飯が沢《たく》山《さん》あって、綺《き》麗《れい》な場所が沢山あって、面《おも》白《しろ》いことが沢山あるこの街が大好き」
ごきょうやとてんそうがトイレの方から帰ってくる。
なでしこがともはねと何か話しながらたこ焼きのブースを覗《のぞ》き込んでいた。
「あいつらも好き。薫《かおる》も好き。はけも好き。自分でもびっくりするくらい大好き」
啓太は黙《だま》ってようこを見つめている。初めてあった時の彼女に今の彼女が被《かぶ》って見える。全く同じようでいて、何かが決定的に違う。
「わたしはね、昔のわたしだったらね、そして今のオトサンだったらね、きっと楽しい≠めちゃくちゃにしちゃうんだ。自分だけのモノにしたくて、飽きたらつまらなくなって。だって、わたしがそうだった。車を壊《こわ》してみたし、お店も壊した」
彼女の爪《つめ》は今も鋭《するど》いままだ。
いくらでも呼び寄せられる炎。大《だい》妖《よう》狐《こ》の復活と共に力を増したようこならば瞬《しゅん》時《じ》にこの辺り一帯を吹き飛ばせるのかもしれない。啓太も、犬神たちも、美味しそうなごちそうや、楽しそうな人の笑い声も全《すべ》て。
何もかも。
「でもね」
と、彼女は真っ直ぐに啓太を見て微笑む。
「わたしはね、今それを守りたい。大好きなケイタとこの街の全てを」
啓太は思わず彼女の醸《かも》し出す気《け》配《はい》に呑《の》み込まれている。ようこを初めて「美しい」と思っていた。しなやかな強さを、「大事なモノ」を「守る」という女性としての我《が》意《い》の強さを「美しい」と思った。
ふとようこがにこっと笑った。
彼女は悪戯《いたずら》っぽく片手を挙げると意味ありげに片目をつむってみせた。啓《けい》太《た》は一《いっ》瞬《しゅん》とまどってからすぐに気がついた。
「は、なるほどな」
最初、ビルの屋上で交わした契約。
対等の主従《パートナー》として生きていく際、交わしたように、
「じゃあ、いっちょやったるか!」
「うん♪」
二人はぱあんと高らかにハイタッチを交わした。啓太とようこは互いに目を見合わせ、それから高らかに笑い出した。雰囲気がいつものものに戻る。ともはね、なでしこがその様《よう》子《す》に気がついて小首を傾《かし》げていた。
「はははははははは」
と、ひとしきり笑ってから啓太がふと妙に不安そうな顔に戻って尋《たず》ねた。
「……ところでさ、お前の親《おや》父《じ》さん、そんなに俺《おれ》といるのを許してくれないのか?」
ようこが「一体何を当たり前のことを聞くんだろう、この人?」というような不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな顔で眉《まゆ》をひそめ、告げた。
「もちろんだよ。最初、わたしがケイタのところに犬《いぬ》神《かみ》として行くっていったらも〜カンカンでさ、山が丸ごと揺れてすんごく大変だったんだよ。きっとオトサン、蘇《よみがえ》ったらまず真っ先にケイタを酷《ひど》い目にあわせに来るよ」
ようこは、
「だから、わたしがケイタを守らなきゃ!」
と、うんうん呟《つぶや》いて、拳《こぶし》をぐっと握っていた。一方、啓太の方は青い顔になっている。漠然と予想はしていたが、いざ事実を突きつけられると正直、身体《からだ》がすくんだ。相手がどんな化け物でも感じたことのない。
なんというか、交際相手の男親がヤクザの組長で、しかも交際には大反対。「俺《おれ》の娘を傷物にした奴《やつ》をぶっ殺したる!」とか叫んで、拳銃《ちゃか》振り回してると聞いたような。
男にしか分からない独特の怖さ。
「そ、そう……」
と、呟いて胃の辺りを抑える。冷や汗を垂らした。
そこへけたたましい声が聞こえてきて思わず啓太とようこが背後を振り返った。ごきょうや、てんそう、なでしこ、ともはねもそちらを見て目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いていた。
彼女たちがさっきまで入っていた女子トイレ。
そこからフラノが転がるように飛び出してきていた。
「へ、へんたいですよ! 皆さん、たいへん! へんたいですよ!」
彼女が警《けい》告《こく》を発したその後から実に爽《さわ》やかに一人の紳士が続く。裏が赤地の黒いマントにシルクハットを被《かぶ》ったヘンタイの頭《とう》目《もく》ドクトルその人だった。彼は悠《ゆう》々《ゆう》と歩を進めると全《すべ》ての軽《けい》蔑《べつ》と怒りの眼《まな》差《ざ》しを軽やかに受け止め、
「やあ、川《かわ》平《ひら》さん。お会いしたかったですぞ」
と、にこやかに言い放った。
啓《けい》太《た》は「一体どこから出てくるんだよ、お前は!」とかいうつっこみをなんとか辛《かろ》うじて胸の内に抑え(そういうつっこみをするからヘンタイが調《ちょう》子《し》づくのだと最近分かってきた)、ただ一言だけ、
「……俺《おれ》は全く会いたくなかったけどな」
それだけ告げて少女たちを促《うなが》し、さっさとその場を立ち去ろうとする。しかし、ドクトルは一《いっ》向《こう》にめげなかった。自らの額《ひたい》を軽く叩《たた》き、
「おやおや、これは手《て》厳《きび》しい」
「お前ら目を合わせるな。相手にするな。ヘンタイが空気感染するぞ」
ふとドクトルが珍しく真剣な表情になった。
「赤《せき》道《どう》斎《さい》」
その言葉に啓太はぴくっと反応して足を止めてしまった。ドクトルは重々しく頷《うなず》いて予想外のことを告げる。
「ええ、散策の途中で偶然に奴《やつ》の本拠地を見つけてしまったのです。そして実はその件であなたにどうしてもお話ししておかなければならないことがあるのです」
啓太は大きくため息をついた。そして振り返る。
「分かったよ。時間取ってやるから手短に話せよ?」
「はい。実はあなたのイトコさんの件なのですが」
と、ドクトルが話し始めたまさにちょうどその時。
ようこがはっと顔を上げ、
「オトサン!?」
と、叫んだ。
その次の瞬《しゅん》間《かん》、激《はげ》しい地《じ》震《しん》が啓太たちをも襲《おそ》っていた。
復活した大《だい》妖《よう》狐《こ》。
それはまさしく厄《やく》災《さい》そのものだった。
高らかに笑って宙を駆けるだけで山全体が揺れ、何人もの犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いや犬神が簡単に吹き飛ばされた。鳴《めい》動《どう》する大気に、打《う》ち震《ふる》える大地。
「わははははははは、ど〜した? 今の奴《やつ》らは弱いな! それだけか? それでしまいか?」
その挑発の言葉に犬《いぬ》神《かみ》たちが数匹顔を赤らめて怒り、うなり声を上げて次々と飛びかかっていった。
「むにゅう」
大《だい》妖《よう》狐《こ》は左右のほっぺたを自らの手で引っ張ってい〜してみせる。
すると彼の身体《からだ》が影《かげ》のように伸び上がり、まるでゴムのようにくねった。あるいは突然、霧《きり》のように霧《む》散《さん》し、別の場所へ実体が転移して殺到してくる犬神を軽々といなす。ウナギのようにのらりくらりと攻《こう》撃《げき》を回《かい》避《ひ》しているだけなのだが、全く次元が違う戦いぶりだった。
はっきり言って犬神たちの単《たん》調《ちょう》な攻撃だけなら数百年|経《た》っても当たりはしないだろう。
もちろん人間たちも黙《だま》って見ていた訳ではない。ある者は刀で斬《き》りかかり、ある者は弓矢で狙い打ち、大多数が霊《れい》的《てき》な呪《じゅ》文《もん》をぶつける。
しかし、大妖狐はそのいずれも驚《おどろ》くほど多彩な術と力で無効化してしまった。高らかに笑い、楽しそうにスキップし、時折、
「ぶはあ!」
気合いの声を発しただけで不運な犠《ぎ》牲《せい》者《しゃ》を吹っ飛ばした。
「わははははははははははははははは!」
地上からちょっと浮いたところで大妖狐は腰元に手を当て、高笑いをした。十重《とえ》二十重《はたえ》と悔しそうな顔をした人間と犬神たちがその回りを取り巻いているのだが、そのあまりに違う実力に気安く突っかかっていくことも出来ない。
「ふ〜む」
今までじっとその様《よう》子《す》を見守っていた宗《そう》家《け》が目を細めた。
「噂《うわさ》に違《たが》わぬ化け物ぶりじゃな……」
傍《かたわ》らには黙《だま》ってはけが控えている。彼は先ほどからなぜかずっと瞳《ひとみ》を閉じていた。
ふとその時、大妖狐が小首を傾《かし》げた。
「そ〜いえば」
彼は空中から気安い口《く》調《ちょう》で宗家に向かって声をかけた。
「お〜い、そこの婆《ばあ》さん」
目をつむったままのはけがぴくりと反応する。宗家は苦笑しながら彼の肩を軽く叩《たた》き、
「わしのことか?」
と、落ち着いた声で大妖狐に尋《たず》ね返した。大妖狐は人なつっこい表情で頷《うなず》いた。
「そうだ。お前のことだ。あのな〜、オレの可愛《かわい》い娘と」
それからワイルドな印象の無《ぶ》精《しょう》ひげを撫《な》で、憮《ぶ》然《ぜん》と、
「……それに取《と》り憑《つ》いてる悪い虫と」
「啓《けい》太《た》のことか?」
「名前なんてどうだっていい! とにかくそのアホ男とそれからあの凶《きょう》暴《ぼう》な犬《いぬ》神《かみ》の娘はどうした?」
宗《そうけ》家は他《ほか》の犬神使いたちに軽く手で合図をした。その意を受けて、何人かがさりげなく自分の犬神に目配せしたり、他の霊《れい》能《のう》者《しゃ》たちに耳打ちをした。人間と犬神たちが静かにゆっくりと動いて、陣形を再《さい》編《へん》していく。
大《だい》妖《よう》狐《こ》はそれを目で追ってはいたが、格別の注意は払わなかった。
「啓太とようこのことなら分かるが」
宗家は本当に分からないという風《ふう》に首を捻《ひね》った。
「……一体なんじゃ、その凶暴な犬神の娘って?」
「ん? 知らないのか?」
大妖狐は驚《おどろ》いた顔になった。
「ほら、あれだぞ! なんかやたらふわふわした毛並みのくせに、犬神とは思えないほど強くて凶悪な奴《やつ》!」
「……しらん」
「え〜〜? というかオレを事実上一人で追いつめた奴なんだぞ? なんで知らないんだ?」
「と、言われても」
「あ〜、もうこいつだってば!」
大妖狐は焦《じ》れったそうにぱちんと指を鳴らした。その瞬《しゅん》間《かん》、彼の頭上にホログラフのような映像が浮かぶ。
そこにはきつい目でこちらを睨《にら》み、かっという気合いの声と共に凄《すさ》まじい霊力を振るう栗《くり》色《いろ》の髪の少女が映っていた。縦《じゅう》横《おう》無《む》尽《じん》に戦い、目にもとまらぬ早さで爪《つめ》による斬《ざん》撃《げき》を繰《く》り出している。
「なでしこ?」
心底|驚《おどろ》いたように宗家が呟《つぶや》く。そこへ少し後ろの方に待《たい》避《ひ》していた最長老がのんびりと声をかけてきた。
「なでしこは今はここにはおらんよ」
よっこいしょと起き上がり、
「それに今のなでしこはお前さんが知ってる頃《ころ》のなでしことはだいぶ違うぞい」
「なんでだ?」
と、大《だい》妖《よう》狐《こ》。
最長老は「おからだに障りますから!」と若い犬神たちが止めるのを振り切って穏《おだ》やかに笑いながら言った。
「まあ、つまりもう戦い自体が嫌《いや》になってるんじゃよ」
その言葉に何か心当たりがあったのか大《だい》妖《よう》狐《こ》は腕を組んで難《むずか》しい顔をした。
「そっか……案外、繊《せん》細《さい》な奴《やつ》だったんだな。あんなこと言って悪かったかな?」
人間たちはそのやり取りの意味が分からず困惑する限りだが、犬《いぬ》神《かみ》たちの何人かは決まり悪げに顔を逸《そ》らしたり、ため息をついたりした。
「ま、いいや」
しかし、大妖狐の自省は長くは続かなかった。彼は実にあっさりと思考を切り替えると、
「じゃあ、あいつはそっとしておいてやってオレの娘とバカ男だけここに呼ぼう[#「ここに呼ぼう」に傍点]」
頷《うなず》いて、人差し指を立てる。
宗家が目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》く。ようこのモノはなんどか見たことがある。ただ彼女はある程度|距《きょ》離《り》が離《はな》れるととたんに精度を欠いたし、そもそもここは未《いま》だに山を覆《おお》う第一の結界内部なのである。だが、大妖狐はいとも簡《かん》単《たん》に言い放った。
「しゅくち!」
と。
圧倒的な霊《れい》力《りょく》が凝《ぎょう》集《しゅう》され、ぐおっと風切り音が一つした。信じられないことに大妖狐はここと吉《きち》日《じつ》市《し》を空間的に繋《つな》げることに成功したのだ。風景が一度ぐにゃっと歪《ゆが》んでそれが元に戻った瞬《しゅん》間《かん》には目の前に一人の男が立っていた。
「いいだろう、赤《せき》道《どう》斎《さい》! 私を嬲《なぶ》るが良い! だがな、そうやっていくら私を嬲ったところで私は決してお前に屈したりはしないぞ! さあ、思う存分落書きでもなんでもするがいい!」
一同は呆《あっ》気《け》にとられていた。
それは啓《けい》太《た》でもなく、ようこでもなくぎゅっと目をつむった特命霊的捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》で、
「さあ!」
おまけになぜか海水パンツ一丁で、身体《からだ》中《じゅう》にサインペンで落書きがしてあった。ほっぺたには二重丸。額《ひたい》には卍《まんじ》マーク。胸には「ちん○こ一代記」、「発情中」、「西《さい》園《おん》寺《じ》公《きん》望《もち》」、「ねえ、私のことは遊びだったの? 中《なか》臣《とみの》鎌《かま》足《たり》」
などなど。
仮名史郎はそこでようやく周囲の気《け》配《はい》に気がつき、
「え?」
辺りを見回し、
「わあああああああああああああああああああああ!!!」
驚《おどろ》きの声を上げていた。宗《そう》家《け》が思わず顔を手で覆《おお》ってため息をついている。同時に、
「き、き、きさまか!」
大妖狐は震《ふる》え声になっていた。
「きさまがようこを誑《たぶら》かした男か!」
「は、はひ?」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は思わず引《ひ》き締《し》まったお腹《なか》を両手で押さえ、かすれ声になっている。目の前にいるのがとんでもない化け物だということは瞬《しゅん》時《じ》に見て取れた。
「いや、あの私は赤《せき》道《どう》斎《さい》に捕まっていて、その」
「お前! この! そ、そんなヘンタイみたいななりで!」
大《だい》妖《よう》狐《こ》は怒り心頭に発したようだ。言葉が上手《うま》く出てこない。だが、
「ゆ、ゆるさ」
と彼が大《だい》爆《ばく》発《はつ》する前に宗《そう》家《け》が半目で一言、
「人違いじゃ。その者は啓《けい》太《た》ではないぞ」
「へ?」
冷ややかに、
「その者は仮名史郎。特命|霊《れい》的《てき》捜査官だ。啓太とは全くなんの関係もないわい」
いったん沈《ちん》黙《もく》の帳《とばり》が降りた。
それから大妖狐は、
「は、はははは。道理で傍《かたわ》らにようこがいないと思った。いやあ〜、間違えたわ。どうも長い間、ご無《ぶ》沙《さ》汰《た》していたせいで勘が狂ったらしい」
頭をこりこりと掻《か》くと、
「では、もう一度。今度こそしゅくち!」
さらに強く力を凝《ぎょう》集《しゅう》した。世界全体が揺れ動くかのような霊力の鳴《めい》動《どう》。ばうっと突風が吹き込み、風が去った次の瞬間、そこから浮かび上がるようにしてコートに帽子を被《かぶ》った啓太とようこの姿が現れた。
びっくりとした表情。
自分の状態が信じられない顔。
大妖狐ただ一人だけが歓喜の声を上げていた。
「わ〜い、ようこ♪」
彼は威《い》厳《げん》もへったくれもなくようこにひょ〜いと飛びついた。
「わ! オ、オトサン!?」
「そ〜だよう。お前のパパだよう。大きくなったね、ようこ。とっても可愛《かわい》くなったね。オレの可愛いようこたん♪」
頬《ほお》をすりすり。
ひょいっと軽々ようこをお姫様だっこで抱え上げると、とろけるような笑《え》みでくるくるとその場を回った。ようこが真《ま》っ赤《か》になった。
超がつくほどの傍《ぼう》若《じゃく》無《ぶ》人《じん》な親ばかぶりだ。
「な! ちょ、ちょっと! やめてよ! みんな見てるんだから!」
ぽかぽか大妖狐の胸板を叩《たた》く。
一同はぽかんと口を開けている。大《だい》妖《よう》狐《こ》が朗らかに笑った。
「な〜に、構うもんか! さあ、ようこ。久しぶりの親子の語らいだ。食事するか? それとも一《いっ》緒《しょ》にお風《ふ》呂《ろ》でも入るか? あるいはお風呂に入ってお食事するか? どんなことでも、な〜んだってお前の望みは叶《かな》えてやるぞ♪」
「いやあ! 助けて! ケイタ! ケイタ!」
「え? 俺《おれ》?」
傍《かたわ》らで立ち尽くしていた啓《けい》太《た》が思わず自分の顔を指さした。
「そう!」
ようこは頼りにならない啓太に怒ると自分で大妖狐の肩を蹴《け》り、と〜んと宙で一回転して地面に着地。そのまますてててっと駆けて啓太の後ろに隠れた。そこからひょっこり顔だけ突き出し、涙目で大妖狐をじっと見やる。
啓太、ひたすら困惑している。
「ふう」
大妖狐がため息をついた。野性的な仕《し》草《ぐさ》で髪の毛を掻《か》き上げ、
「……久方ぶりに会った親から逃げる、か。全く昔だったら思いもよらないことだな」
啓太はごくりとつばを飲み込んだ。なんか大妖怪を目《ま》の当《あ》たりにしているというのとは別の部分でもの凄《すご》く怖かった。
大《だい》妖《よう》狐《こ》は先ほどとは打って変わって冷たい目で啓《けい》太《た》を見つめた
「おまえか?」
「は?」
啓太は思わず間抜けに問い返す。大妖狐が苛《いら》立《だ》たしげに、
「おまえが犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いの川《かわ》平《ひら》啓太かって聞いてるの!」
「あ、はい。そうです!」
啓太が思わずしゃっきり背を伸ばした。犬神や人間たちはその場の成り行きを固《かた》唾《ず》を呑《の》んで見守っている。
大妖狐は顎《あご》に片手をあて、じろじろと啓太を無《ぶ》遠《えん》慮《りょ》に観察した。
「全くなんでこんな……貧相なガキを……全く」
「あ、あの?」
「黙《だま》ってろ! 質問はオレがする! おまえ今ようこと一《いっ》緒《しょ》に住んでいるのか?」
食いつきそうな目で啓太を睨《にら》む。普《ふ》段《だん》の啓太だったらそんな横《おう》柄《へい》な口《く》調《ちょう》で言われたら、たとえ相手がなんであろうと強気に「あん?」とガンの一つでも飛ばし返すところだが、今ばかりはなぜか動揺を抑えきれない。
「え、えっとあの」
代わりにようこが答えた。
「一緒にお風《ふ》呂《ろ》だって入ってるんだから!」
啓太が慌てふためく。大妖狐の額《ひたい》にびしっと青筋が一本立った。
「お、おまえ、そんなでたらめを!」
「でたらめ? おまえ、オレの可愛《かわい》いようこを嘘《うそ》つき呼ばわりするのか?」
「そ〜よ。お布団だって一緒に入ってるし、もう二人は将来をいっぱいいっぱいちぎった仲なんだから!」
それでなぜかようこが下腹部を押さえて、頬《ほお》を赤らめる。初《うい》々《うい》しい新妻のような表情だ。大妖狐の目が凶悪につり上がり、比《ひ》喩《ゆ》ではなく身体《からだ》から青白い怒りの炎がめらめら噴《ふ》き上がる。甚《はなは》だしく怖い。
「ち、ち、ち、ちぎる? た、た、たくさん?」
啓太、死ぬほど焦《あせ》る。
「あ、あほ! 俺《おれ》がいつそんな!」
「ケイタ、とっても逞《たくま》しかった♪」
赤らめた頬を両手で押さえ、いやいやをするようこ。大妖狐が泡を吹く。
「き、き、きさま、よ、よ、よくも」
「だ、だから、でたらめだって! お、おいようこ。お前のそういう冗《じょう》談《だん》嫌いじゃないけどちやんと状況を見てやってくれよ? なあ、頼むぜ? おい? 本当に今は洒落《しゃれ》にならん」
「その上、しらばっくれて、傷物にしておいて」
「あ〜、バカばっかりだ!」
「そうよ? 認知はちゃんとしてよ?」
「あほかああああああああああああああああああああああ!!!」
啓《けい》太《た》はたまらず悲鳴を上げた。大《だい》妖《よう》狐《こ》がぐわああっと怒りを噴《ふん》火《か》させそうになる。啓太は思わず腕で頭をかばい、他《ほか》のモノは悲鳴を上げて逃げまどう。
凄《すさ》まじい爆《ばく》発《はつ》の予感。
だが……。
驚《おどろ》いたことに。
「……ま、出来てしまったものはもう仕方ないな」
ふしゅるるるるるう〜とまるでしぼんでいく風船のように怒《ど》気《き》を吐き出して、大妖狐はがっくりと肩を落とした。顔だけを上げ、
「初孫だ。ちゃんと育ててくれよ?」
涙目で力なく「ふふ」と笑った。
「え?」
と、啓太は固まってる。その反応は完全に予想外だった。
対してようこは息せき切って、
「ほ、ほんと? 啓太とわたしのこと本当に許してくれるの?」
目を輝《かがや》かせ、手を打ってる。大妖狐は頷《うなず》いた。
「仕方ないさ。まだ何もないなら絶対に許さなかったけど子供まで出来たんならな。もう」
どこか諦《てい》念《ねん》したようにそう呟《つぶや》く。一同、成り行きについていけずただ呆《ぼう》然《ぜん》としている。そこへ大妖狐はさらに追い打ちをかけるように、
「まあ、こうなった以上、しばらくお前らとも戦うの止《や》めようかな」
信じられないことを小首を傾《かし》げながら言い放った。
「え? えええ〜〜〜〜〜?」
と、啓太が前のめりになって叫んでいる。ようこもまた事態の急展開を信じられないようだったが、そこはそれ彼女は柔軟だった。
悪戯《いたずら》っぽく笑うと、
「ケイタ。これウソだとばれたらオトサンに八つ裂きにされるね?」
ひそひそと啓太の耳元に口を寄せ、
「頑張って早く本当に子供作ろうね♪」
啓太、目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いている。驚きすぎてもうなんにも言えない。
「ふう、初孫か……オレもいつの間にかそんな年なんだな」
大妖狐はとんとんと肩を叩《たた》き、どこか遠い空を見上げる。ようやく我《われ》に返った宗《そう》家《け》が咳《せき》払《ばら》いをしてから尋《たず》ねた。
「す、するとお前さん、本当に何も……悪さをしないのか?」
大《だい》妖《よう》狐《こ》は眉《まゆ》をひそめた。
「悪さってなんだよ? まあ、しばらくは……そうだな。少なくても孫の顔見るまではなんにもしねえよ。ようこの胎《たい》教《きょう》にも悪いし、いきなり父親なしじゃ生まれてくる子供も可哀《かわい》想《そう》だしな」
そこで彼は初めてまともにじいっと啓《けい》太《た》を見た。
「う」
啓太も冷や汗を掻《か》きつつその視《し》線《せん》を正面から受け止める。その場にいる一同は両者を見比べた。ちなみに何人か気がついた者もいるのだが、啓太と大妖狐はどことなく感じが似ていた。ベビーフェイスでありながら野性的でよく動く鋭《するど》い瞳《ひとみ》が二人とも印象的だった。
大妖狐は啓太があと十年くらいワイルドに年を重ねた感じだろうか。
「ま、面《つら》は悪くないが」
大妖狐は啓太に近づき、顎《あご》を指先で持ち上げ、あれこれ見回した。啓太は顔を強ばらせ、されるがままでいる。ちらっと宗家の方を窺《うかが》うと、彼女は「頑張れ!」とでもいうように親指を立ててみせた。
啓太は必死で平静さを装った。
もしかしたらこれで全部丸く収まるかもしれないのだ。ウソならそれを最後まで突き通せばいい。頑張れ、啓太!
誰《だれ》もが心の中でそう応援していた。
「ふむ?」
そこでふと大妖狐はあることに気がついた。啓太が被《かぶ》っている帽子。そこから妙に毛深いものがひょっこり突き出ているのだ。大妖狐は何の気なしに啓太の帽子をひょいっと取り去った。誰もが、
「あ!」
と、内心で声を上げていた。
啓太も。
「あ」
と、固まってる。大妖狐は驚《おどろ》きのあまり大きく目を見開いていた。
「!」
そこに生《は》えているのは猫耳だった。純正品の。大妖狐はそれを乱《らん》暴《ぼう》な手つきで取ろうとした。啓太、痛がる。
「いてえいてええ!」
それから大妖狐はさらに気がついてしまった。彼の着ているコートがあまりにも不自然なのだ。ボタンを引きちぎるようにしてむしり取ってみる。
中から現れたのはピンク色のふりふりメイド服だった。
沈《ちん》黙《もく》がその場に訪れた。
娘《むすめ》婿《むこ》にしようと思っていた猫耳メイドの前で大《だい》妖《よう》狐《こ》は首を垂れた。
「あ、あのこれはその」
啓《けい》太《た》が愛《あい》想《そ》笑《わら》いで必死で乗り切ろうとした。だが、無《む》駄《だ》だった。怒りに打ち震《ふる》える大妖狐は肩で荒い息をつき、そして、
「なんというかこれが現代のファッションなんですよ、お義父さん[#「お義父さん」に傍点]」
と、啓太が言った瞬《しゅん》間《かん》。
「やっぱり断固として許さああああああああ──────────ん!!!」
大《だい》爆《ばく》発《はつ》を起こした。
「このばかもんが!」
荒れ狂う暴《ぼう》風《ふう》の中で宗《そう》家《け》が叫んだ。啓太も怒《ど》鳴《な》り返す。
「しかたねえだろ! そもそもこんなことでだまし通せる訳なかったんだよ!」
今、大妖狐は怒りに形《ぎょう》相《そう》を歪《ゆが》めて中央に立っている。彼を中心に大気がまるで大《おお》渦《うず》のように逆《さか》巻《ま》いていた。彼は愛《まな》娘《むすめ》へ向かって手をさし伸ばした。
「ゆるさん……ゆるさんぞお〜〜ようこ! そんなヘンタイ止《や》めてこっち来なさい!」
しかし、ようこは思いっきりい〜をした。
啓太がふうっとため息をついた。それから彼はいつもの強気な表情に戻ると、彼女の前に進み出た。
相手の「父親」という肩書きにいささか気《け》圧《お》されたがよく考えてみればどうってことない。ようこはもう既に自分を選んでるのだ。
ならば彼がやるべき事もたった一つ。
「おい! おっさん」
「お、おっさんだとう?」
と、怒る大妖狐に向かって、
「いい加減、諦《あきら》めろや。いいか?」
すうっと息を吸い込み、
「ようこはな」
断固として言い放つ。
「もう俺《おれ》のもんなんだよ! この俺、川《かわ》平《ひら》啓太のもんなの! 尻尾《しっぽ》の毛からひげの先一本一本までもうこの俺のもんなの!」
ようこがきゃ〜と歓声を上げた。彼女は啓太の首っ玉にしがみついてすりすりする。満面の笑《え》みだった。
対して啓《けい》太《た》は言ってしまってからちょっと赤くなっている。だが、彼は、
「つう訳でとっとと諦《あきら》めろや。子《こ》離《ばな》れが出来てないのは親としてちとみっともないぜ?」
不敵に笑ってみせた。
うぐぐぐぐ。
大《だい》妖《よう》狐《こ》がぐうっと拳《こぶし》を握った。
こんな屈辱を人間から受けたのは初めてだった。さらに嵐《あらし》が強くなる。宗《そう》家《け》たちが身構える。啓太は慎重に目を細めた。
次の瞬《しゅん》間《かん》。
「いやだ! やだやだやだやだやだやだやだ! ようこおおお〜〜〜! オレから逃げちゃやだああああああああああ!!!」
大妖狐が凄《すさ》まじい勢いで突進してきた。手足をばたつかせ、顔を歪《ゆが》ませ、まるでオモチャを取られた幼稚園児みたいな仕《し》草《ぐさ》である。だが、それにしてはあまりにも早すぎた。唯一、それを警《けい》戒《かい》してきた啓《けい》太《た》だけがようこを抱きかかえ、横っ飛びに飛ぶことが出来た。大多数の者にはただぶわっと風が吹き抜けたようにしか感じられなかった。
大妖狐がたたらを踏む。ぎらっとその瞳《ひとみ》が輝《かがや》いた。
「ならばお前らまとめて!」
と、人差し指を上げかけた。
しかし、その瞬間、初めて大妖狐に大きな隙《すき》が出来た。背中ががら空きになる。
「皆の衆、今だ!」
宗家が叫んだ。
おう。よし、きた。
野太い、腹の底からの返事が各所から返ってくる。
「うお?」
大妖狐がようやく異変に気がついて周囲を見回した。だが、もうその時には全《すべ》ての犬《いぬ》神《かみ》たち、人間が準備を整《ととの》えていた。
その中には特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の姿もあった。
大妖狐が話している間中、ずっと宗家がこっそり指示していたものだ。各自が一斉に霊《れい》気《き》を集め、それを縒《よ》ってまるで壁《かべ》のようにして大妖狐を押し包む。ある意味、霊能者のもっとも基本的な攻《こう》撃《げき》方法の一つなのだが、数が集まるとその威力も桁《けた》違《ちが》いだった。
「ぐわ! ぬわ!」
大妖狐に初めて実効性のある術が効いた。例えて言うならもの凄《すご》い巨漢に何百人がただ単純に束になって押しかかっていく方法なのである。仮に十人、二十人はねとばしても百人単位となれば普通はもう身動きが全くとれなくなる。
だが、大《だい》妖《よう》狐《こ》は普通ではなかった。
「うおおおおおおお!!!」
信じられない膂《りょ》力《りょく》で霊《れい》気《き》の壁《かべ》を受け止めると手足を振り回し、もがいた。まるで大津波を一人で押し返す行為に似ていた。そして、
「やだ! オレはまだまだ楽しいことするんだ!」
ええ〜〜〜〜い。
と、力を入れ、
「ひっくりかえれえええええええええええええええ!!!」
あり得ないことを起こした。
「わああ!!!」
「うおお!」
二百人近い霊能者、犬《いぬ》神《かみ》たちを全員まとめて投げ飛ばしたのである!
「ぶはああああ!! どうだ?」
大きく息をついて気持ちよさそうに大妖狐が周囲を見回した。だが、ここまでは宗《そう》家《け》の読み通りだった。
「はけ!」
全く同じタイミングではけがずっとずっと溜《た》めていた動作に移った。目がうっすら開いている。静かな声だった。
『破《は》邪《じゃ》結界・最終展開』
鋭《えい》角《かく》に研《と》ぎ澄《す》まされた霊気。はけは美しい舞《ま》うような動作で、
『零式』
ぐうっと扇《せん》子《す》を引っ張っていく。
「……やったの」
最長老が瞳《ひとみ》をつむる。その次の瞬《しゅん》間《かん》、はけは扇子を思いっきり振り下ろしていた。
『舞《ぶ》踊《よう》結界!』
ぶっつけ本番。一《いっ》子《し》相《そう》伝《でん》の秘技が見事に炸《さく》裂《れつ》した。まるで投《と》網《あみ》のようにはけが敷《し》いた結界陣が大妖狐を押し包んだ。一度|攻《こう》撃《げき》を退け、完全に気を抜いたところをねらい打ちされ、大妖狐は逃げることが叶《かな》わなかった。
「ぬぐ? ぐわ! ぐわああああああああああ!!!!!」
噴《ふ》き上がる深《しん》紅《く》の光の中で大妖狐は叫んだ。
「こ、これはま、まさか! 舞踊結界? お前が! お前まで出来るのか?!」
手足が勝手に踊り始める。
「大妖狐」
はけが複雑な結界の制御に全神経を注ぎながら苦《にが》々《にが》しく笑った。
「また、三百年後にお会いましょう」
「いやだ! やだ!」
大《だい》妖《よう》狐《こ》が手足を交互に動かしながら叫んだ。だが、盆踊りの動きは止まらない。それにつれて結界の円がどんどん小さくなっていく。
同時に踊りも早くなっていった。
この結界の恐ろしいところは、たとえ術を使おうとしてもその霊《れい》気《き》が全《すべ》て踊りのステップに変換されてしまうところにある。大妖狐は己《おのれ》の強大な力によって加速的に閉《へい》塞《そく》され、なお厳《げん》重《じゅう》に底に底に沈んでいくことになる。
「オトサン……」
と、ようこが両手を組んで呟《つぶや》いた。
彼女の瞳《ひとみ》には哀《かな》しみに近い表情が浮かんでいる。どんなに横《おう》暴《ぼう》で無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》でも大妖狐は彼女のたった一人の父親なのだ。再び閉じこめられるのを見て動揺がないわけがない。啓《けい》太《た》がそっと彼女の肩に手を置いた。どよめきが沸き起こってる。
歓声を上げている者もいる。
「いけるか?」
「やってみせます」
宗《そう》家《け》の問いにはけが頷《うなず》いてみせた。その額《ひたい》に玉の汗が浮かんでいた。あとはこの激《げき》震《しん》する結界をなんとか押さえ込めば再び大妖狐を閉じ込めることも叶《かな》う。はけはさらに力を振り絞って扇《せん》子《す》をぐうっと沈め込んだ。
するとそれに呼《こ》応《おう》して大妖狐の踊りが目にもとまらぬほどの早さに加速していった。
誰《だれ》もが勝利を確《かく》信《しん》したその時。
全く予想だにし得ないことが起こった。
「こけええええええええええええええええええええええええ!!!!」
突然、背後から木彫りのニワトリが現れたのだ。実を言えばそれはずっと近くの木陰で成り行きを眺めていた。そして今大妖狐が再封印されそうになっているのを見てとって、なんとかそれを阻止しようとして飛び出してきた。
自分の主人は大妖狐と戦いたがっていた。だから、浅はかにも木彫りのニワトリは自分に出来るたった一つのことを主人のために行った。
すなわち白い煙で周囲の何人かを押し包む。
「え?」
と、はけが思わず声を出した。
見れば宗家はタヌキの着ぐるみを。
最長老はふりふりの巨大なワンピースを着ている。
はけが混乱して集中力をかき乱されたその瞬《しゅん》間《かん》。
「かは! 見つけたぞ、大きな穴!」
はっと気がついた時にはもう遅かった。
大《だい》妖《よう》狐《こ》がほんのわずか出来た隙《すき》間《ま》から手を突き出し、
「だいせきか!」
叫んだ。辺りを暴《ぼう》風《ふう》が一瞬で吹き抜ける。
さながら砂漠にいるかのように猛烈な砂《すな》嵐《あらし》が巻き起こった。悲鳴と怒号が辺りに轟《とどろ》く。全く視界が閉ざされた。
阿《あ》鼻《び》叫《きょう》喚《かん》の叫び声はしばらく続いた。
だが、徐《じょ》々《じょ》に辺りは不気味なくらいの静けさに包まれていった。
音が止《や》んだ。
「は」
その砂煙の幕を掻《か》き分けるようにして大妖狐が上《じょう》機《き》嫌《げん》で現れた。
「あははははははは、石化完了♪」
見れば凄《すさ》まじく荒涼とした光景が辺りに広がっていた。大きな石のオブジェがあちらこちらに散見出来た。そのうちの一つはとびきり巨大な犬の姿で、ひげを生《は》やし、ふりふりのスカートをはいていた。それが犬《いぬ》神《かみ》の最長老のなれの果てだった。目に輝《かがや》きは一切なく、身体《からだ》の表面はざらざらの灰《はい》色《いろ》になっている。
ある者は大きく叫ぶ形で石化していた。
ある者は逃げようと手足を伸ばした形で固まっていた。
「あはははははははははははははははは!」
その大妖狐の笑い声に呼《こ》応《おう》する者はもはや誰《だれ》もいなかった。
いや、ほんのわずかな例外がいた。
「いてててて! なんだったんじゃいったい?」
咄《とっ》嗟《さ》にはけが張った結界に飛び込んだ宗《そう》家《け》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》。しゅくちで術の効果|範《はん》囲《い》から飛び退《の》いたようこと啓太。それに自分のしでかしたことに恐れをなしてその場から逃げ去っていく木彫りのニワトリがいた。
「ふん。さすがだな。何人か生き残ったか……」
大妖狐がいささか感心したようにあごひげを撫《な》でた。
「だが、まあ、もうお前らはどうでもいいや。ようこ♪」
啓太を抱え起こしていたようこがぎよっとした表情になった。大妖狐は満面の笑《え》みで両手を大きく広げて突進してくる。その動きに啓太が「ち」と舌打ちして再び前へ出たが、先ほどとは異なり枷《かせ》を振り切った大妖狐を止めることはもう出来なかった。
彼が「あっ」と叫ぶ間もなく、
「え〜い、おまえはだいたい生意気なんだ! オレから見ればほんのまだ赤ん坊のくせに!」
大《だい》妖《よう》狐《こ》がぐぐっと彼の身体《からだ》を地面に押し込むようにして力を解放した。
すると啓《けい》太《た》の身体がそれに従って一《いっ》瞬《しゅん》で小さくなった。同時に彼が着ていた服がばっさりと地面に落ちた。気がつけばそこにきょとんとした顔の赤ん坊が座っていた。ぽちゃぽちゃした可愛《かわい》らしい外《がい》観《かん》だが、目元や茶《ちゃ》色《いろ》い髪に啓太の面《おも》影《かげ》があった。
「ケイタ!」
と、ようこが叫ぶ。彼女は怒りに我《われ》を忘れ、
「ケイタになにをするのよ!!!」
父親に突っかかっていこうとする。
しかし、それよりも早く大妖狐は次の術を仕掛けていた。
「ああ、ようこ。お前は本当に訳が分からなくなってるんだね」
哀《かな》しそうにそう呟《つぶや》き、
「な〜に、パパとしばらくいればこんなヘンタイのこともすぐに忘れるさ」
手と手を重ね合わせ、円を作った。
するとその動きに呼応してようこの周囲を金《きん》色《いろ》の球が取り囲み、彼女が驚《おどろ》いて周りを見回すより早くみるみると小さくなっていった。ようこが慌てて拳《こぶし》を外《がい》壁《へき》に打ちつけ何か叫んだが、声は全く外部に届かなかった。
大妖狐はそれがちょうど手のひらサイズになるのを見計らってそっと取り上げると、
「さあ、ようこ。今後もずう〜っとパパと一緒だぞ♪」
愛《いと》おしそうにすりすりと金色の球に頬《ほお》をこすりつけた。ようこがその中で怒り狂っている。赤ん坊の啓太が大妖狐の足にしがみつき、
「こ、このヘンタイオヤジ! とっととようこを離《はな》しやがれ!」
可愛い声で抵抗したが、大妖狐は素知らぬげにサイドキックでぺいっと赤ん坊の啓太を突き転がした。そして敵意を込めてこちらを睨《にら》んでいるはけや無表情な宗《そう》家《け》。困惑し尽くしている仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の前で、
「お前らとはまた後で遊んでやる。今はとにかく早くようこのご機《き》嫌《げん》をとってやらないとな」
にかっと爽《さわ》やかに笑うと、
「じゃ、またあとでな♪」
手を振り、たちどころにその場から掻《か》き消えた。
誰《だれ》も彼も全く何も出来なかった。
やがて大きく宗家がため息をついて呟いた。
「完敗だな……」
ちくちょおおおおおおおおおおお!!!
と、天に向かって啓太が叫んでいた。
所変わって吉《きち》日《じつ》市《し》の地下では、赤《せき》道《どう》斎《さい》が〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉を見上げていた。
「……どうやら、完全に奴《やつ》が蘇《よみがえ》ったらしいな。なんで我《わ》が不肖の子孫を物体転移でかっさらっていったのかは今ひとつ理解できないが」
小首を傾《かし》げながらも明言した。
「どちらにしても計画通り我《われ》は奴を仕留めに行く」
勢いよくレバーと歯車を動かし、蒸気を噴《ふ》き出していた〈大殺界〉がその威勢の良い動きとは反対にいささか頼りなく答えた。
『ん〜、ますたーいなくなるのちょっと不安やなあ』
「どうした? 何か問題でもあるのか?」
と、赤道斎が平静な口《く》調《ちょう》で尋《たず》ねた。
『あ〜、ちょっとな……なんか妙な視《し》線《せん》をしばらく前からよく感じるんや』
「視線?」
赤道斎が眉をひそめた。〈大殺界〉がパネルをぱらぱら捲《めく》って苦笑の表情をしてみせた。
『あ、すんまへん。これはボクの気のせいやと思うんであんま気にせんといてな。ますたーの大事なリターンマッチまえに変なこというてしもうてほんとすんまへん。ただな、この邪星の性悪さを目《ま》の当《あ》たりにしてどうも気分が悪うなったというか……解《かい》呪《じゅ》も思ったよりすすまへんし、なんやらいや〜な予感がするんやわ』
「……ふむ」
赤道斎が顎《あご》に手を当てた。
「機《き》械《かい》のお前が予感≠ゥ」
『そうや。ただな、ますたーの計画通りにいけば、さすがにこの性悪のやってることも打ち壊《こわ》せると思う。だから、早《はよ》う帰ってな?』
「間違いないか?」
『間違いあらへん。さすがに大《だい》妖《よう》狐《こ》の霊《れい》力《りょく》は半《はん》端《ぱ》やないからな』
赤道斎は大きく頷《うなず》いた。
「なるほど。どちらにしても私が大妖狐をなんとかするのが先決か」
『そうや』
「では、我はためらいもなく出陣する」
赤道斎は暗黒色のローブを翻《ひるがえ》した。銀のティアラに骨をかたどったベルト。端正な白い肌。頬《ほお》に流れる血涙のペインティング。
今の彼はまごう方なき大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》の姿だった。
「クサンチッペ、留守を頼んだぞ」
木彫りの人形が無言で敬礼を一つする。
赤《せき》道《どう》斎《さい》はちらっとそちらを見やってから真《ま》っ直《す》ぐに広間の北門に向かって歩いていき、やがて暗がりに消えた。
クサンチッペはそれを黙《だま》って見送っていた。
カタカタカタ。
カタカタカタ。
それから〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉を振り返り、じっと巨大な機《き》械《かい》を見上げた。
穴のように暗い目でじっと。じっと。
彼の中では今、学習の成果が猛烈な勢いで消化されつつあった……。
大《だい》妖《よう》狐《こ》が去った後の犬《いぬ》神《かみ》たちの里ではけが宗《そう》家《け》に向かって深々と頭を下げていた。彼は気の毒なくらい意気消沈していた。
「申し訳ありません……私が油断したばっかりに」
「あ〜いい、いい。はけ、おまえのせいでは断じてない」
宗家の方はむしろあっけらかんとしていた。
彼の髪をぐりぐりと撫《な》で、
「他《ほか》の者の石化はわしらで一《いっ》緒《しょ》に解いてやればいい。お前はようやってくれたよ」
労《いたわ》るようにそう言った。はけがより深々と頭《こうべ》を垂れた。心温まるよい光景なのだが宗家がタヌキの着ぐるみを着ているのが少し滑《こっ》稽《けい》と言えば滑稽だった。
おかしな格好といえば特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》と犬神使い川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の姿も相当におかしなものだった。普《ふ》段《だん》、一《いち》分《ぶ》の隙《すき》もないコート姿の仮名史郎がブリーフタイプの海水パンツ一丁に革靴と靴下一枚というひどくヘンタイ的なスタイルなのだ。おまけにそのなりで赤ん坊になった啓太をたすきがけにおんぶしている。
宗家は苦笑しながらそんな彼らに向かって声をかけた。
「しかし、さすがのお前たちもそのなりではどうにもならないの」
その問いに啓太が手足をばたつかせながら舌足らずな声で答えた。
「いや、絶対、絶対、あのヘンタイオヤジも、赤道斎も俺《おれ》がぶっ殺ちゅ!」
啓太は赤ん坊になっても啓太だった。
彼はさらに仮名史郎の後頭部をぺちぺちと平手で叩《たた》いた。
「な? 仮名さん?」
「うむ。こうなった以上なんとしてでも最悪の事態は止めたい」
宗家は少し真剣な表情で尋《たず》ねた。
「おぬし、これからどうすればよいと思う? これは特命霊的捜査官としてのおぬしに聞いておるのだが」
「はい。刀《と》自《じ》」
と、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》も今まで以上に表情を引《ひ》き締《し》めた。
「まず私の本部に連絡して増援を呼ぶ、という選択肢をとることも出来ますが」
「おお! それは頼もしいの」
「ただ、諸事情により特命|霊《れい》的《てき》捜査官は私を含めて現在、稼《か》働《どう》できるのが五人いるかいないかなので、私としては戦力になるかどうかは甚《はなは》だしく心《こころ》許《もと》ないです」
がくっと宗《そう》家《け》がよれる。仮名史郎は海パン姿で大まじめに指を折った。
「まずはここで石化している人たちをなんとかするのが先決でしょう。それと刀自のお力でさらに近《きん》隣《りん》の霊《れい》能《のう》者《しゃ》に協力を仰ぐべきだと思います。人数が揃《そろ》えばもう一度、大《だい》妖《よう》狐《こ》を結界にとらえるチャンスも出てくるでしょう」
はけが大きく頷《うなず》いていた。宗家が、
「ま、そうじゃの。あとは大妖狐が向かった先を特定せねばな」
「あ、そうだ。ばあちゃん」
と、啓《けい》太《た》が仮名史郎の背後から声をかけた。
「そのことなんだけどさ、大妖狐は多分、俺《おれ》と契約した時のようこみたいにまず真っ先に街へ行ってると思うんだ。あいつようこみたいに珍しいもの好きそうだったし、好き勝手街で遊び回るつもりなんじゃないかな?」
一同、大妖狐が無邪気に街を破《は》壊《かい》して回る光景を想像して暗《あん》澹《たん》たる表情になった。
「おまけに吉《きち》日《じつ》市《し》には赤《せき》道《どう》斎《さい》もいる、か」
と、宗《そう》家《け》が目を細め、ため息をついた。
「こりゃそ〜とうに厄《やっ》介《かい》じゃぞ。あやつらが本気でどんぱちやり合ったら一体どんな被害が周りに出るか」
代わりにはけがやや明るい材料を場に出す。
「しかし、同時に吉日市には薫《かおる》様がいらっしゃいますよ? 薫様の戦力はまだ全くの無傷で吉日市に残ってるはずです」
宗家が頷《うなず》いた。
「うむ。なにはともあれ薫に連絡を取るのが先かな?」
その時である。
薫の名前を聞いてはっと仮名史郎が顔を上げていた。そのただならぬ様《よう》子《す》に宗家もはけも啓太も仮名史郎を一斉に注視する。
「どした、仮名さん? そんな怖い顔をして」
と、啓太に聞かれ、仮名史郎は迷った末に慎重に口を開いた。
「実はその川《かわ》平《ひら》薫のことなのだが」
そうして彼はゆっくりと赤道斎の許《もと》で見聞きしたことを話し出した……。
間奏3絶望の子=m#中見出し]
「やっぱりあなたのお仕事は人助けなんだね!」
と、嬉《うれ》しそうに叫ぶ少年にソレは笑ってみせた。それからもう一度指を鳴らす。すると少年の前で男の人生がさらに映った。
男は幸せだった。
最愛の連れ合いができ、やがて一《ひと》粒《つぶ》種《だね》にも恵まれた。独りぼっちで生きてた頃《ころ》からは信じられないくらい満ち足りた境遇だった。
村人からは信頼され、誰《だれ》からも笑いかけられ、男はいっそう己《おのれ》の本分である仕事に励み、その合間に村のために一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》奉仕した。
やがてある年の春、冬眠あけの熊《くま》が村人を襲《おそ》うという事件が起こった。かなり凶《きょう》暴《ぼう》で巨大な個体ゆえにすぐ退治しなければならなくなった。
当然、腕の立つ猟師である男が自ら熊退治を志《し》願《がん》した。男の妻は男の身を案じて止めたが、男は自分に安らぎを与えてくれた村のためにどうしても役に立ちたかったのだ。
男は装備を調《ととの》え、山に向かった。
藪《やぶ》をこぎ分け、谷を踏み越え、ようやく熊が使っている獣《けもの》道《みち》を発見した。男はそのちょっと手前の窪《くぼ》地《ち》に草木で偽装した猟場を作り、陣取った。ところが熊はなかなか姿を見せなかった。三日三晩、男は手持ちの保存食と水だけで過ごした。疲労と睡眠不足の中、熊の代わりに現れたのはソレだった。
ソレは言った。
『おお、どうやら人々の幸せのために頑張っているようだな。結構、結構』
精神が極度に張りつめた状態の男はソレの来訪をちょっと迷惑に思ったが、邪険にする訳にもいかなかった。男にとってソレは恩人のような存在なのだ。頭の中が白く濁《にご》った状態で適当な返事を返しておいた。
ソレは辟《へき》易《えき》するほど饒《じょう》舌《ぜつ》に色々なことを話した。疲れ果てていた男はいつしかうつらうつらと眠っていた。時折、はっと我《われ》に返る。
だが、いつ気がついても相変わらずソレは甲《かん》高《だか》い声でずっとしゃべり続けていた。
いつしか男は現実と夢の境《きょう》界《かい》線《せん》が曖《あい》昧《まい》になって、
『おや』
ソレが声を上げるのに驚《おどろ》いて、
『来たぞ! あれはお前が狙っている熊なのじゃないかな[#「あれはお前が狙っている熊なのじゃないかな」に傍点]?』
全くなんの疑いを抱くこともなく突然、目の前に現れた黒い影《かげ》に向かって、
『ほら! 鉄砲を使え! みんなのために! 愛のために! ほら! ほら!』
引き金を引いた。
た〜んと乾いた銃声。どさりと倒れる音。男は興《こう》奮《ふん》状態で獲《え》物《もの》に向かって走り寄った。奇妙に軽すぎるその音に全くなんの疑問も持つこともなく……。
そして。
「あ」
目の前で起こってることが信じられず動けなくなった。そこに若い女が胸から血を流して倒れていた。うつろな目を虚《こ》空《くう》に晒《さら》し、一目で絶命していることが分かった。
「そ、そんな」
思わず膝《ひざ》から崩れ落ちた。悪夢のような光景。男が撃《う》ったのは、
「そんなばかなああああああああああああああああああああ!!!」
男が心の底から愛した妻だった。
だが、なんで彼女がここに?
こんな山奥に一人で?
男は懸《けん》命《めい》に現実を否定しようとする。
『くふ』
ソレが唐《とう》突《とつ》に笑った。
『くふうふふふふふふふ』
心の底から楽しそうに笑った
『きゃはははははははははははははは! そ〜だ、そ〜だ。そういえばお前の息子がお前がみんなのために[#「みんなのために」に傍点]村を留守にした後、村を襲《おそ》った熊《くま》に食われたらしくてな、その女がお前のことを必死で捜し回っていたっけなあ?』
水晶玉のような顔に大きく裂ける黒い口。
男は叫び続ける。
狂ったように。狂ったように。
どこまでも悲鳴は木《こ》霊《だま》し続ける。
『ああ、美味《おい》しいぞ! 素晴らしく美味しいぞ! 長い間、待った甲斐《かい》がとうとうあった。これが私のご馳《ち》走《そう》だ!』
ソレは高らかに笑い続けた。
少年は固まったまま動けない。今見た映像がとうてい信じられない。
身体《からだ》が小刻みに震《ふる》える。呼吸することすら苦しい。男の激《はげ》しい絶望がまるで灼《しゃく》熱《ねつ》の溶鉄と化して自分の身体に流れ込んでいるかのようだった。心が痛い。ソレは少年の目の前でふよふよ漂いながら、きいきい声で言った。
『難《なん》儀《ぎ》なことさ、そうやって因果を連《れん》鎖《さ》させてさんざん手間をかけた人の絶望≠オか私は栄養に転化出来なくなったのだからな』
「……なんで?」
少年はソレを見上げた。
「なんで?」
涙がこぼれてきた。悔しくて、哀《かな》しくて。ソレは簡《かん》単《たん》に答えた。
『私は生きたいからさ』
もう一度、高らかに笑った。
『それが楽しいからさ!』
今まで信じていた何もかもが少年の目の前から崩れ去っていった。
『私は人間としての身体を捨てたその日から人の絶望≠食べて生きるようになったのだ。魔《ま》法《ほう》使《つか》いは何かの落差や代《だい》償《しょう》を糧《かて》とするだろう? その点で人の絶望≠ヘ私にとって栄養源として最適だったのさ。幸せからどん底に突き落とされる瞬《しゅん》間《かん》のその絶望≠ェな』
ソレは黒いマントを揺らして笑った。
『純白な魂がずたずたにされる時の表情がよい。真《ま》っ直《す》ぐに未来を見ていた根底から汚すのがよい。心の底から信じていた何かに裏切られたり、命より大事に思っている者が永久に消え去った時の人間の悲痛な嘆《なげ》きほど美味《うま》いモノはない』
少年は声も出せなかった。
『そして私はグルメだからな。汚れのない、上質な絶望≠ナなければ食べた気がしないのだが……全く昨今の人心の荒廃は困ったモノでな。やむを得ず私はそれを自分で一から育て上げることにしたのだ。大変だったぞ? どうしようもなく欲深い人間どもに愛と』
ソレは一本一本指を立てていく。
『正義と』
少年は涙で顔を歪《ゆが》ませソレを見上げた。
『清く美しい心を教え込むのは』
「だから、そうやって僕を育てたの? いつか自分が食べるために?」
少年はかすれ声で泣き笑いながら尋《たず》ねた。ソレは哄《こう》笑《しょう》を上げて答えた。
『そうだ! さすがに呑《の》み込みが早いな。私の絶望の子≠諱I そうだ! だから私はお前を家族から引き離《はな》し、全《すべ》てを一から教え込んだのだ!』
ソレは一度大きくふらついた。
水晶玉にヒビが入り始めた。黒いマントが色《いろ》褪《あ》せ始める。
『は、ははははは。そうだ……もう私はただの絶望≠ナは……食べることが……栄養に転化することが出来なくなっているのだ』
ソレは期待に身体《からだ》を打ち振るわせ、いささかさもしげに少年を見やった。
『だから、いつか最期が近づいた時のためにとっておきを作っておいたのだ……身近にいて、慈《いつく》しみ、友愛と正義の心を教えた存在が全《すべ》てを否定することによって起こる絶対的な絶望≠たんまり頂こうとな』
否定され。
心を踏みにじられ。
『さあ、絶望≠オろ! わめけ! 泣け!』
今や悪鬼のようにそう叫ぶソレを見て。
しかし、少年は打ちのめされなかった。強く、澄《す》んだ目で泣きながら、
「僕は泣けないよ。むしろあなたを哀れに思う。あなたとあなたの犠《ぎ》牲《せい》になった全ての人たちを可哀《かわい》想《そう》に思う」
だって。
と、泣き笑いしながら、
「そういう気持ちを教えてくれたのはあなたでしょう?」
そう言い切った。
『はははははははははははははははははははははははははは!』
ソレは狂ったように甲《かん》高《だか》い声を上げた。くるくるとその場で回り、やがて風を失ったタコのように地面に落ちる。
もがく。
さらに浮上しようとして、しかしもう既にソレの力が尽きかけていた。
『ははは、は』
ソレは非人間的な軋《きし》み声で言った。
『お前の未来に災《わざわ》いあれ』
自ら息子として育て上げた少年に向かって言った。
『お前の未来に呪《のろ》いあれ』
少年はその凍《い》てつくような純然たる邪悪さに立ちすくんでいる。ソレは正気を失った声で、
『いつからだろうな? 記《き》憶《おく》を奪い取ってもなお、お前の心には妙に強い血が流れ続けていることに気がついた時からこのことはある程度予想していた……悔しいがな。それが私の運命だったらしい。だから、私は予《あらかじ》めお前の行く末に呪いをかけることにした。邪星≠ニ呼ばれた偉大な魔《ま》法《ほう》使《つか》いである私の最後の力を振り絞って』
びし。
びしびしっと音を立ててソレの頭部を形成する水晶玉が割れ始める。
『今まで言ってなかったがこの先にお前の探し求めている二人がいる。会ってやるといい。話しかけてやるといい。今のお前の力ではまあ、どうすることも出来ないだろうが』
きゃはははははははははははははは。
と、ソレは笑った。
『最後に予言をしてやろう。大事な大事なお前の未来だからよく聞け。いつかお前は心の底から大事に思う者たちに背《そむ》かれ、石を投げられ絶望≠キるだろう。いつかお前はもっとも大事に思う者から手ひどく裏切られ絶望≠キるだろう。いつかお前はそうやって失意のうちにこの世から消滅するだろう。どうしようもなく絶望≠オ不《ふ》可《か》避《ひ》的《てき》に』
ソレが砕《くだ》け散り始める。
マントが塵《ちり》となる。手が消えかけていく。
『ああ、どうかお前の未来にとこしえの呪《のろ》いがありますように……』
それが一千年以上生きたソレの最後の言葉であった。
少年は。
その瞬《しゅん》間《かん》からたった一人で全《すべ》ての絶望≠背負った少年は。
ただ、呆《ぼう》然《ぜん》と立ち尽くすことしかできなかった。
少年が我《われ》を取り戻すのにはかなりの時間がかかった。
元々、利発で、意志の強い彼だったがそれだけ受けた衝《しょう》撃《げき》も大きかった。少年は半日以上、その場に座り込み、心に去来する様《さま》々《ざま》な感情と懸《けん》命《めい》に向かい合った。
そして全ての状況と折り合いをつけ、それを消化した後、彼は静かに決心を固めいてた。
絶望≠ニ戦う決意を。
デパート内は今、ようやく落ち着きを取り戻していた。突《とつ》如《じょ》、建物を襲《おそ》った地《じ》震《しん》によって棚に並べられた缶詰や箱が落下して、お客さんが軽い怪《け》我《が》をするなど、ちょっとした騒《さわ》ぎが持ち上がっていたのだ。しかし、大きな縦《たて》揺《ゆ》れはすぐに収まり、今は店員が陳列をやり直している。店内アナウンスはとりあえずの安全を宣言していた。
買い物かごを抱えた主婦が二人、
「やあねえ、最近、地震が多くて」
「なにか大きな災害が起きないといいんだけど」
と、頬《ほお》に手を当て、由《ゆ》々《ゆ》しげに話し合っていた。だが、その付近を駆けていたごきょうや、てんそう、フラノはもっと切実な危険を感知していた。彼女らは次々と階段を駆け上がると自動ドアから往来に飛び出した。
いつの間にか雨は止《や》んでおり、じっとりと冷たい空気が靄《もや》のように辺りに漂っていた。そして彼女らは一《いっ》瞬《しゅん》だけだが確《たし》かに見た。
真っ暗な曇《どん》天《てん》を流星のように青白い炎を放ちながら過ぎる一人の男の姿を。
高らかに笑いながら飛ぶその姿を。
「だ、だいようこ?」
ごきょうやが青ざめ、呟《つぶや》いた。男の姿はすぐにビルの陰から陰に隠れて消えてしまったが、手に何か球のような物を持っていたのはぼんやりと見て取れた。遅れてぐしゃんとどこか遠くの方で何か堅い物同士が激《げき》突《とつ》するような音が鳴り響《ひび》く。
ちようど男が消え去った方角。
市の南西部からだった。
フラノがふらっと貧血を起こしたように倒れかけ、てんそうがさっとそれを支えている。遅れて三人を追いかけてきたともはねが息せき切って尋《たず》ねた。
「ねえ、いったいどうしたの!? 啓《けい》太《た》様を捜している途中で急に走り出したりして? う」
そこで彼女もようやく気がつく。
「うわ! うわああ! 何この感じ? この不吉な感じはいったいなんなの!?」
パニックに近いうろたえぶりを見せているともはね。そんな彼女をごきょうやは額《ひたい》に脂汗を滲《にじ》ませながら見下ろした。
「恐らく」
と、彼女が何かを言う前に、
「大《だい》妖《よう》狐《こ》が復活した」
てんそうが最悪の事態を簡《かん》潔《けつ》に口にした。
「そして今近くにいる」
ごきょうやがはっとして彼女を振り返る。ともはねが目を丸くしていた。フラノがとうとうかんしゃくを起こしたように足踏みをした。
「あ〜〜、もういやです! いや! いや! いや! なにもかもがいや!」
「落ち着け!」
ごきょうやが怒《ど》鳴《な》った。だけど、フラノは止《や》めない。涙をぽろぽろ流しながら足踏みを繰《く》り返す。ごきょうやはすうっと息を吸い込んだ。
それから、ぐっとフラノを肩に抱いて、
「落ち着け」
と、強く吐き出すように言った。
「いいか? ここで私たちが騒《さわ》いだってなんの解決にもならないんだ。無益な真《ま》似《ね》はよせ。非理性的な行動は取るな。身を慎《つつし》め!」
しかし、フラノが堪《こら》えかねたように声を上げる。
「だってえ」
彼女は嫌《いや》々《いや》をしながら、
「だって、薫《かおる》様が心配で! あの中の人たちがまるで訳が分からなくて! それなのに肝《かん》心《じん》の啓太様がいきなり消えていなくなってしまって!」
彼女はわ〜とごきょうやの胸元に顔を埋める。
「どうしたらいいの? いったい私たちどうしたらいいんですか? こんな時に大《だい》妖《よう》狐《こ》まで来るなんてもう何もかもまるで大嫌いです!」
フラノはとっくに精神的な臨《りん》界《かい》点《てん》を迎えていたが、一人|蚊帳《かや》の外にいたともはねもまた我慢の限界だった。
彼女は「ねえ!」と鋭《するど》く叫ぶと、
「三人ともいい加減にして! ちゃんと教えて! 啓太様と大妖狐のことは分かるけど、薫様が心配ってどういうこと? なんかあったの?」
ごきょうやとてんそうが顔を見合わせた。大妖狐が復活して近くに来ている。この緊《きん》急《きゅう》事態に一体自分たちは何を最《さい》優《ゆう》先《せん》して決断していけば良いのだろうか?
叫びたくなるくらい手がかりがまるでなかった。
遠くの方で、近くのどこかで雑《ざつ》霊《れい》たちが活性化して、踊り狂う気《け》配《はい》がしていた。今、吉《きち》日《じつ》市《し》は急速に緊迫の度合いを高めていた。それは往来を行き来するごくふつうの通行人にも分かったのだろう。
立ち止まり不安そうに空を見上げたり、怯《おび》えたように逃げまどい始める。その人の波が無秩序にビルの入り口に流れ込んだり、車道を過《よ》ぎったりした。急ブレーキの音。渋滞が出来、車のクラクションが不吉な四重奏を奏《かな》でた。ぱっぱああ!
ぱっぱああ!
再び爆《ばく》音《おん》が連続して南西の方角から聞こえてきた。
そこへ自動ドアが開いて、
「啓《けい》太《た》様は外にもいないの?」
なでしこがゆっくりと出てきた。それから彼女は不快そうに顔をしかめ、
「……大《だい》妖《よう》狐《こ》?」
目を一度つむった。
「そう。やっぱりさっきの地《じ》震《しん》はそうだったのね」
また瞳《ひとみ》を開け、今度は無表情にじっとごきょうやを見据えた。ごきょうやは緊《きん》張《ちょう》感《かん》で汗ばみながらも、気合いを込めて彼女を見つめ返した。
両者はその存在をかけて対《たい》峙《じ》する。
「何があったと思う? 啓太様はどこに消えたのかな?」
というなでしこの静かな問いに、
「分からない……一番、真実を知っているのはお前なんじゃないのか? ええ、なでしこ」
ごきょうやは鋭《するど》く、あざ笑うようにそう答えた。
二人はまた無言で睨《にら》み合う。そのただならぬ様《よう》子《す》にともはねが仰天したように彼女らを見比べていた。
「ね! ねえ、どうしたの? 嫌《いや》だよ、なでしこ! ごきょうや! こんな時にそんな怖い顔をしないで! 二人とも一体なにがあったの?」
不安に押しつぶされそうな顔で取りすがるように二人の問に割って入る。周囲から怒号と悲鳴が聞こえ始める。また爆《ばく》音《おん》。それでもごきょうやもなでしこも押し黙《だま》ったままだった。やがてなでしこがふっと、
「わたしはね」
強く。
そしてどこか脆《もろ》い笑《え》みで答えた。
「なんにも知らないの」
知らないんだよ。
そう繰《く》り返した。
「しかし、あんたが見たその氷《こおり》漬《づ》けの二人って一体|誰《だれ》なんだろうな?!」
赤ん坊の姿で仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の背中にオンブして貰っている啓太が風圧に負けまいと声を張り上げた。仮名史郎が震《ふる》えながら叫び返す。
「分からん! ただ恐らくお前か、もしくは川《かわ》平《ひら》の刀《と》自《じ》が見ればはっきりするだろう。アレは間違いなく川平家の誰かだ」
川平本家に赤ん坊の頃《ころ》の洋服があった啓太はともかく彼は海水パンツの上に色《いろ》鮮《あざや》やかな毛布を巻きつけたどっかの部族みたいな格好だった。二人は今、仮名史郎が運転するスクーターに乗って、暗い林道を疾《しっ》駆《く》していた。とりあえず石化した人や犬《いぬ》神《かみ》たちは宗《そう》家《け》に任せ、吉《きち》日《じつ》市《し》を目指しているのだ。
一刻も早く。
大《だい》妖《よう》狐《こ》が吉《きち》日《じつ》市《し》に到達し、赤《せき》道《どう》斎《さい》が待ちかまえるそこで何か致命的なことが起きる前に。
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は懸《けん》命《めい》に思い返す。
「赤道斎は言っていた。今の川《かわ》平《ひら》薫《かおる》は川平薫≠ナはないのだ、と」
「だから、どういうことなんだよ、それ!?」
「分からん! 断片的にしか聞けなくて本当に私にもまるで意味が分からないのだ!」
仮名史郎は激《はげ》しく首を横に振った。
彼としても今までずっと仲良く一《いっ》緒《しょ》に仕事をしてきた川平薫が、宿敵赤道斎と繋《つな》がっていたという事実は未《いま》だに受け入れがたかった。
携帯電話はいつの間にか全く繋がらなくなっていた。薫が切っている、というより強力な邪気で電波障害が起こっているらしい。喩《たと》えて言うなら巨大な火山の噴《ふん》火《か》によって辺り一面が粉《ふん》塵《じん》にまみれているというか。
そんな中、川平本家周辺に巣くっている雑《ざつ》霊《れい》たちが活発に動くのはいわば必然であった。
「おろろろ〜〜〜ん!!!」
「そのいのちくやしかなし〜」
木々の隙《すき》間《ま》から漏れ出るようにして黒い靄《もや》が漂い出てくる。それらはとろとろと融《ゆう》解《かい》していくと啓《けい》太《た》たちの行く手を塞《ふさ》ぐように盛り上がり始める。
「ち。大妖狐が蘇《よみがえ》って調《ちょう》子《し》に乗りやがったか!」
啓太がよだれかけの中からカエルの消しゴムを取り出すのを認めて、仮名史郎がスクーターを思いっきり加速させた。
「よし! あいつらは任せた! ここは一気に突っ切るぞ!」
「あ〜〜、もう嫌《いや》な予感がするぜ、色々と!」
邪《じゃ》霊《れい》がわあっと高まり、うねり押し寄せてきた。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ! カエルよ、破《は》砕《さい》ちぇよ!」
暗い林道の中で啓太の声が響《ひび》き渡った。
ちょうどその頃《ころ》、川平|宗《そう》家《け》とはけは犬《いぬ》神《かみ》たちの住まう山にまだいた。石化してしまった他《ほか》の川平家の犬神使いや犬神。それに手を貸してくれていた霊能者たちをなんとか元に戻す方法はないかと模索しているのだ。
「……う〜む、お湯をかけても、布で拭《ふ》いても元には戻らないか」
と、どこまで本気で言ってるのか分からない老《ろう》婆《ば》が小首を傾《かし》げた。
はけが己《おのれ》の父親に向かって頭を下げた。
「お父様。ご不自由をおかけしてしまって申し訳ありません……すぐに元に戻して差し上げますから」
最長老の石像はどこか穏《おだ》やかに遠くを見つめていた。先ほどから知ってる限りの解《かい》呪《じゅ》は行っていたが、宗《そう》家《け》もはけも決してそれが得意な方ではなかった。
「むう、困ったの。一応、そういったことに詳しい奴《やつ》に心当たりがないこともないのだが、今そやつは東《とう》欧《おう》に行っておるし」
「やはり大《だい》妖《よう》狐《こ》を沈めるしかないのでは?」
「ん〜。だが、大妖狐の方も恐らくもう用心していてそう簡《かん》単《たん》にはかからんじゃろ? おまえの舞《ぶ》踊《よう》結界はどうもタイミングが難《むずか》しい技みたいじゃし」
二人とも黙《だま》り込む。
「問題はとなると……」
と、しばらくしてはけが上《うわ》目《め》遣《づか》いで宗《そう》家《け》を見やった。
「やはり薫《かおる》様でしょうか?」
宗家が黙《もく》然《ぜん》と頷《うなず》いた。なにか深く考え込んでいる。そして、
「あの方がきちんと大妖狐を足止めしてくだされば、仮《かり》名《な》様が仰《おっしゃ》るとおり再び大妖狐を舞踊結界に捕《とら》えることも可能でしょう」
はけがそう言うのを聞いて突然、力強く頷いた。
「薫はな、川《かわ》平《ひら》家の者じゃよ! それは、それだけは間違いない!」
はけは黙って顔を上げた。宗家は自分に言い聞かせるように、
「いかに老いたとはいえ自分の血筋を間違うもんか。あやつには間違いなく川平の血がちゃんと流れている! 大人《おとな》びたわしの大事な孫の薫じゃ!」
そうしてからふむうっと満足したように鼻息を出した。にかっと笑ってはけを見やり、
「そうじゃな。ちょっとだけ迷ったが、決めた! わしはもう決めたぞ! 薫があのヘンタイ大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》となんの関係があるのか知らんが、わしは今から啓《けい》太《た》と仮名|史《し》郎《ろう》の後を追いかけ、薫と合流する。そして全《すべ》てを問いただした後、皆で大妖狐を捕《ほ》縛《ばく》する!」
よいな?
という問いにはけは恭《うやうや》しく一礼をしてみせた。
「どこまででもお供します」
その時、声が聞こえてきた。
「まあ、大丈夫。大妖狐の痕《こん》跡《せき》は欠片《かけら》も残したくないからな。この我《われ》がこの者たちの石化もあとで解いてやろう」
宗家もはけも驚《おどろ》きすぎて咄《とっ》嗟《さ》に反応出来なかった。その後、ほとんど同時に振り返る。さらに後ろに跳《ちょう》躍《やく》した。
「赤《せき》道《どう》斎《さい》!」
「バカな! いつの間に?」
そこに立っていたのは漆《しっ》黒《こく》のローブを羽《は》織《お》った大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》赤《せき》道《どう》斎《さい》その人だった。銀のティアラに血《けつ》涙《るい》を流してるようなフェイスペインティング。
彼は胡《う》乱《ろん》な半目で告げた。
「大《だい》妖《よう》狐《こ》の霊《れい》気《き》でここら一帯ぐちゃぐちゃになっているからな。気《け》配《はい》を絶って近づいた我《われ》に気がつかなくても無理はない」
「赤道斎」
宗《そう》家《け》が表情を引き締《し》めた。
「お前が何をしにここへ来たのかは知らないが!」
「聞きたいのは川《かわ》平《ひら》薫《かおる》のことか?」
赤道斎が先回りして尋《たず》ねた。宗家が躊《ちゅう》躇《ちょ》しながらも頷《うなず》く。赤道斎はにいっと笑った。
「あやつのことは心配するな。あやつのこともこの我《われ》が必ずなんとかしてやろう」
「いや、そういうことを言ってるのではなく」
「だから、安心して我が糧《かて》となれ」
赤道斎がぬるりと前に前進していく。宗家とはけが目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた。
そして、川平家最強の主従が数分後。
地上から完《かん》璧《ぺき》にその存在を消していた。同時に高らかに笑っていたのは赤道斎だった。彼は天を見上げ、咽《む》せ込むまで笑った。
「ぶわ! ぐっほぐっほ……」
落ち着きをようやく取り戻す。
「うぐっふう」
と、言いながら手の甲で唇を拭《ぬぐ》う。すると先ほどこの場から逃げ去った木彫りのニワトリがどこからともなく現れてばさばさという羽音と共に赤道斎の肩にぴたりと止まった。赤道斎は胡乱な半目でこけ〜と翼《つばさ》を広げるニワトリを見やった。
「おお、ソクラテスか……お前もご苦労だったな」
「こけこけ?」
「ああ、そうだ。これで全《すべ》て上手《うま》くいったぞ。これで確《かく》実《じつ》に大妖狐を倒す目《もく》算《さん》が立った」
冷たい風が吹き抜け、赤道斎のローブの裾《すそ》がばたばたと翻《ひるがえ》る。
「我ってなかなか凄《すご》いな! 本当に凄いな!」
再び押さえきれぬ哄《こう》笑《しょう》が赤道斎の口からついて出た。彼はお腹《なか》を押さえ、身体《からだ》を折り、ひっくと痙《けい》攣《れん》するまで笑う。そしてそれは彼がくるりと背を向け、木彫りのニワトリと共に悠《ゆう》然《ぜん》と無人の山を後にするまでずっと続いた……。
吉《きち》日《じつ》市《し》の住民はその日、常人の理解を全く超えた訪問者を迎えることになった。
屈託のない足取りで彼は突然、天からすとんと車道に降り立った。高速で車が行き交うそのど真ん中で小手をかざして悠《ゆう》然《ぜん》と辺りを見回す。恐慌に駆られたドライバーが咄《とっ》嗟《さ》にブレーキを踏んだが間に合わなかった。
ずどんと音がして車が男に食い込む。
当たったのでも、跳ねたのでもない。
車のフロントがぐしゃりとひしゃげ、男の身体《からだ》にめり込んだのだ。横断歩道で信号待ちしていた通行人から悲鳴が上がった。周りが騒《そう》然《ぜん》となる。追突事故を防ぐために後続の車が慌ててハンドルを切る。
タイヤの軋《きし》む音。罵《ば》声《せい》と怒号。
だが。
「お〜、案外、痛いもんなんだなあくるまって」
男は平然としていた。
「よいしょっと」
片足で車を押し返して、自分の身体から強引に引きはがした。べこりと音がして塗装がばらばら地面にはがれ落ちる。いつの間にか男の左手にはひっひっと青ざめ小刻みに呼吸を繰《く》り返すドライバーの襟《えり》首《くび》が握られていた。
ぶつかる!
と、思った瞬《しゅん》間《かん》にそこにいたのだ。ドライバーは事態を把握することすら出来なかった。
「なあ、おい。安全運転しなきゃダメだぜ?」
男。
大《だい》妖《よう》狐《こ》は人《ひと》懐《なつ》っこくにいっと笑ってドライバーの顔を覗《のぞ》き込んだ。
「ひい!」
ドライバーは大妖狐の手を思いっきり振り払うと、転げるように逃げていった。理解の出来ない怪物から一刻も早く距《きょ》離《り》を取ろうとするかのようだった。
大妖狐は不満そうに唇を尖《とが》らせた。
「なんだよ、せっかくしゅくちで助けてやったのに」
なあ、ようこ?
そう言って彼は反対側の手に握っていた金《きん》色《いろ》の球を覗《のぞ》き込んだ。中でミニチュアサイズのようこが怒り狂ってぎゃあぎゃあ喚《わめ》いている。
思いっきり球の内部を叩《たた》いていた。
大妖狐はちょっとばつが悪そうな顔になったがすぐにご機《き》嫌《げん》を取るように言った。
「あ〜、分かった、分かった。今、オレが面《おも》白《しろ》いオモチャ持ってきてやるから」
そこで彼はいつの間にか周囲に集まり出した野《や》次《じ》馬《うま》をぐるりと見回した。
「おまえらさ、えっと、美味《おい》しいお菓子と楽しそうなゲームとそうだな、ひこうきやへりこぷたーなんかも欲しいな。それぞれどこで手にはいるか知ってるか?」
野《や》次《じ》馬《うま》たちがどよめいた。
彼らは少し囲む輪《わ》を広げながらも、大《だい》妖《よう》狐《こ》から逃げようとはしなかった。確《たし》かに大妖狐は車が激《げき》突《とつ》したのにぴんぴんしているし尋《じん》常《じょう》でないのは一見出来たが、それ以外はかなり好感度の高い外見をしているのだ。差し迫った危険があるとも思えなかった。
誰《だれ》からも返事がないと分かると大妖狐はぽりぽり頭を掻《か》いた。
「ん〜。おまえら知らないのか? おまえらこの街のもんだろ? え〜」
大妖狐は甘い無防備な笑《え》みを浮かべる。
「しかし、この街は良い街だな。沢《たく》山《さん》、びるがあるし、とっても遊びがいがある。良い匂《にお》いもするし、居《い》心地《ごこち》良さそうだ。おまえらオレのシモベになるなら一《いっ》緒《しょ》に遊んでやるぞ?」
その言葉に何人か釣られて笑った。冗《じょう》談《だん》だと思ったのだ。大妖狐もはははっとおかしそうに笑う。そこへ人混みを掻き分け、
「すいません、ちょっとどいてどいて!」
「どうしたの? あなた、なに? 車ぶつけられたの?」
制服姿の警《けい》官《かん》が二名大妖狐に近づいてきた。
大《だい》妖《よう》狐《こ》が怪《け》訝《げん》そうな顔になる。
「なんだ、おまえら? 変なかっこして」
「ふざけてないで」
「……怪《け》我《が》はないようですけど? 頭でも打ったんですかね?」
警《けい》官《かん》たちも負けず劣らず不《ふ》審《しん》そうな顔になった。その時、大妖狐が「あ〜」と大きな声を上げた。
彼はぽんと手を叩《たた》き、
「なるほど。お前ら、あれな。官《かん》憲《けん》な。検《け》非《び》違《い》使《し》みたいなもんな」
「は?」
警官二人が顔を見合わせる。大妖狐は悪戯《いたずら》っ子《こ》のようにい〜っと舌を出した。
「オレはお前らが大嫌いだ。お前らはオレの自由をすぐ損ねようとする」
「はあ?」
警官たちが無《む》意《い》識《しき》に一歩下がり身構えた。その瞬《しゅん》間《かん》、大妖狐が指を突き立てた。
「だから、石になっちゃえ!」
ひゅごおっと音がして砂《すな》煙《けむり》が警官たちを押し包んだ。中から悲鳴が聞こえてくる。大妖狐が高らかに笑った。そして、悲鳴が止《や》み、砂のカーテンが晴れるとそこには石化した警官二人がかちんこちんに固まって立っていた。咄《とっ》嗟《さ》に腰元の拳《けん》銃《じゅう》に手を伸ばしていたが、いかんせん全くそれを使う暇《いとま》も与えられず灰《はい》色《いろ》に凍りついでしまっていた。
「はっは〜、いっちょあがり♪」
大妖狐が得意そうに宣言した。
そのとたん、今まで呆《ぼう》然《ぜん》と成り行きを眺めていた観《かん》衆《しゅう》が一斉に雪崩《なだれ》を打って逃げ始めた。皆、口々に悲鳴を上げている。
ようやく。
ようやく彼らが目《ま》の当《あ》たりにしているのが信じられないほど常《じょう》識《しき》を欠落させた化け物だと気がついたのだ。
大妖狐は、
「あ、お、おい!」
と、手をさしのべて群衆を引き留めようとしたが、ものの数十秒で辺りから全く人《ひと》気《け》がなくなってしまった。
「ちぇえ〜。つきあい悪いな。せっかく遊んでやろうと思ったのに」
大妖狐は地面を蹴《け》る真《ま》似《ね》をする。しかし、彼は反省や後悔とはもっとも縁遠いところにいる存在なので残念がってる時間も短かった。
「ま、いいや。遊び相手はあとで見つければ」
ようこが入った金の球を握ったまま、ぴょんと乗り捨てられた車の屋根に飛び乗った。無邪気な笑《え》みで、
「まずはくるま! これを運転してみたかったんだよな〜」
ぺちっと反対側の指を鳴らす。すると赤いスポーツカーがふわっと地面から浮かび上がった。
そして大《だい》妖《よう》狐《こ》が、
「ごおお!」
と、指を前方に指し示すと地面すれすれを滑るように飛び始めた。遅れて車道に放置された車が次々と宙に浮上し、大妖狐の乗るスポーツカーを追いかけ出す。やがて狂った近未来図のように無数のエアカーが無秩序に車道の上を飛び交うようになった。
何台かはコントロールを失って地面に激《げき》突《とつ》したり、街《がい》路《ろ》樹《じゅ》を巻き込んでスピンしてビルに突っ込む。激《はげ》しい爆《ばく》炎《えん》と爆音がそこから噴《ふ》き上がった。
大妖狐が腹の底から笑った。
「だっはあ! やっぱ出てきて良かったな! この世は最高だ!」
金《きん》色《いろ》の球の中でようこが思いっきり声を上げていた。
それは外部には全く届かなかったが、
ケイタ! 早く! 早く来てよお!
という悲鳴だった。
ところで。
その肝《かん》心《じん》の啓《けい》太《た》だが……。
吉《きち》日《じつ》市《し》に向かう途中で仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》にオムツを替えられていた。
「ほら、足を上げろ」
「うう、なんたる屈辱……」
しくしく泣きながらそれでも言われた通りに短い足を上げる啓太。心はともかく身体《からだ》はどうしようもなく赤ん坊なのであった。
彼が到着するまでまだ一波乱ありそうだった。
間奏4川平薫=m#中見出し]
喩《たと》えようもない喪失感を噛[#「噛」はunicode5699]《か》み締《し》め、少年は立ち上がった。そして歩を進め、広間の突き当たりでとうとう出会うべきものと出会った。
ソレが言い残したように壁《かべ》際《ぎわ》には氷の棺《ひつぎ》が二体並べられていた。
中には少女と男が横たわっていた。
男は色の浅黒い引《ひ》き締《し》まった身体《からだ》つきで、少女はだいたい自分と同じ年くらいの顔立ちの整《ととの》った子だった。
少年は直感的にその二人が自分の家族だと確《かく》信《しん》した。さらに近くには文《ふ》机《づくえ》があって、ソレが書き記したと思われる羊《よう》皮《ひ》紙《し》が二枚ほど引き出しに入っていた。そこには几《き》帳《ちょう》面《めん》な字で少年にかけられた無数の呪《のろ》いが全《すべ》て書き記されてあった。
『自分の真の名前を誰《だれ》にも名乗れない呪い』
『誰にも城の中で起こったことを明かせない呪い』
『人に氷の棺を見せてはならない呪い』
『氷の棺に関することを誰にも話してはならない呪い』
その他無数の。
呪い。
もしこれを破ったら。
と、紙には書いてあった。
「お前はこの者たちを永久に失うだろう。お前の未来に災《わざわ》いあれ……」
少年は全てを読み上げ、慟《どう》哭《こく》した。自分でもなぜ泣くのかよく分からなかったが、自分自身の運命を嘆《なげ》き悲しんだのでは決してなかった。
彼はすぐに涙を手の甲で拭《ぬぐ》うと、小さな手で氷の棺をそっと撫《な》でた。
「僕があなたたちを必ず助けてあげる」
その日から少年の孤独な戦いの日々が始まった。
魔《ま》法《ほう》の城の中を歩き回り、ありとあらゆる道具を探し出し、研究し、考えた。湖の上に霧《きり》と共に浮上している城をなんとか動かせるようになり、食料を自給できるようになるまで血の滲《にじ》むような努力が必要だった。ソレが生きていた頃《ころ》はまるで気がつかなかったが、彼が居住していたスペースは城のほんの表層的な明るい部分にしか過ぎなかった。
城の奥深くには自動的に人を襲《おそ》う魔法の拷《ごう》問《もん》器具や、人体|実《じっ》験《けん》の末に生み出された凶悪な化け物などが徘《はい》徊《かい》したりしていた。
少年は心と身体《からだ》を磨き抜いた。城の中に巣くう暗部に負けないよう。
禍《まが》々《まが》しい悪意に呑《の》み込まれぬよう。
少年は他《ほか》の部分でも全く五《ご》里《り》霧《む》中《ちゅう》にいた。まずなにより自分の素《す》性《じょう》がよく分からなかった。氷の中に眠る二人が自分の家族だとは大体見当をつけたが、いったいどこの誰《だれ》で、どの国の人間なのかも分からなかった。
しかし、手がかりが全くないという訳でもなかった。その文《ふ》机《づくえ》の中には異国の文字で書かれたパスポートや日記帳なども入っていたのだ。
少年は書物からそれを日本の物だと特定し、独学で日本語を学んでいった。それは本来ならかなり難《むずか》しい作業なのだが、元々言語に素養があった彼はやがて一通り文章を読みこなせるようになった。やはり彼の想像は当たっていた。
棺《ひつぎ》に眠っているのは彼の父親だった。
パスポートの記載から川《かわ》平《ひら》元《もと》也《や》という名前だと分かった。そして女の子の方が川平|薫《かおる》。彼の娘で自分の双《ふた》子《ご》の妹らしかった。
日記帳にはさらに詳細に自分の身元が記されていた。
自分の父親は日本のとある旧家の出ながら家を飛び出してオカルト関係のジャーナリストをやっていたらしい。母親たる北欧出身の女性には生活態度全般の食い違いから逃げられてしまっていたようだ。そして父親は取材過程で邪星≠フ食事に行き当たった。義《ぎ》憤《ふん》からソレを追いかけているうちに、逆に家族ごと返り討《う》ちにあってしまったらしい。
犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い
という単語が日記帳の中には頻《ひん》出《しゅつ》していた。どうやら父親はかつて犬神使い≠ニいうものだったようだ。
しかし犬神使い≠ニは一体なんなのだろうか?
少年にはよく分からなかった。分からなかったが、その言葉の響《ひび》きが妙に気になった。自分にもその犬神使い≠ニやらの血が流れているのだろうか?
そう思うと不《ふ》思《し》議《ぎ》なくらい心が温かくなった。
邪星≠フ栄養源として育てられた絶望の子≠ナはない自分。記《き》憶《おく》を失い、もがき続けていた少年にとって、それはたった一つの光《こう》明《みょう》だった。
そこがいつか帰るべき場所だと思った。
帰ろうと思った。
様《さま》々《ざま》なことを学び思いを深めていく中で、少年は自分の生活を支える巨大な城が徐《じょ》々《じょ》に浮力を失い湖中に没しつつあることに気がついた。だが、このことは予《あらかじ》め予想はしていたのでさして驚《おどろ》きはしななかった。
その頃《ころ》には少年は城を降りて付近の村を歩き回るくらいのことが出来るようになっていた。湖はイタリアとスイスの国境近くにあるとある高山湖《bugia湖》だった。
ごく希《まれ》に霧《きり》と共に現れるその城を目《もく》撃《げき》した者が何人かいるらしく、地元では|悪魔の城《castello del diavolo》と呼ばれているのを聞いて苦笑した。少年はそしてさらに山を降りた麓《ふもと》のスキー場で初めて日本人に出会った。
はやる心を抑え、話しかけてみた。
少しぎくしゃくしたが少年の日本語は立派にその新婚旅行中の夫婦に通じた。彼らはアルプスの奥深くで年端もいかない少年にいきなり母国語で声をかけられ、ひどく驚《おどろ》いていた。だが、いったん少年の落ち着いた親しみやすい人柄に触れると日本語に飢えていたこともあってむしろ積《せっ》極《きょく》的《てき》に色々と話しかけてきた。
彼らは最初、少年のことを同じ日本人だとは思わなかったそうだ。確《たし》かに少年は黒い髪をしていたが瞳《ひとみ》は琥《こ》珀《はく》色《いろ》だったし、なにより物腰があまり日本人ぽくなかったのだ。彼らから様《さま》々《ざま》な日本のことを色々と教わった。
そして最後に少年は思いを決して尋《たず》ねてみた。
「川《かわ》平《ひら》という犬神使いの一族のことを知っていますか?」
驚《おどろ》いたことにカップルの男性の方が知っていた。
「ああ、犬《いぬ》神《かみ》という妖《よう》怪《かい》を使《し》役《えき》する拝み屋さんの類《たぐい》だね。母方の叔《お》母《ば》が一度だけ世話になったって言っていたよ。僕はそういうのあんまり信じていないんだけどね、叔母はあの人たちに命を助けられた≠チてひどく感《かん》謝《しゃ》していた」
男はそれからびっくりしたように言った
「でも、なんで君が犬神使いなんて変なこと知ってるの?」
少年の口からその言葉は自然について出た。涙のにじむような高揚感が彼を包んでいた。
「僕も川平なんです。犬神使いなんですよ、きっと。僕も」
新婚カップルは互いに顔を見合わせていた。
そのことがあって以来、少年は真剣に日本に行くことを考えるようになった。城はほとんど居住空間としてダメになりかけていたし、ここで学ぶべき事はほとんど学び尽くしていた。とにかくソレが死の間《ま》際《ぎわ》に予言したように今の彼では氷を溶かすことは全く出来なかった。無理に弄《いじ》くれば確《たし》かに中の二人の存在を消してしまうことになりかねない。
さらにもう一つ気がかりなことがあった。
氷の中の双《ふた》子《ご》の妹と自分の外《がい》観《かん》年《ねん》齢《れい》が徐《じょ》々《じょ》に食い違いを見せてきたのだ。自分は確かに少しずつ成長しているのに、妹は明らかに変化が見られない。
このままだとやがて完《かん》璧《ぺき》に凍りついてしまうのかしれない。
とにかく日本へ行ってみよう。そう思った。
この呪《のろ》いを解く手がかりがあるかもしれない。
彼は決心を固め、パスポートの記述から調《しら》べた川《かわ》平《ひら》の本家に直接連絡を取ってみた。麓の村からかけた国際電話に出たのは、
「はい、川平じゃが」
という嗄《かす》れた老《ろう》婆《ば》の声だった。
少年はすうっと息を吸い込み、緊《きん》張《ちょう》に打ち震《ふる》えながら名前を名乗った。
「初めまして。川平|薫《かおる》です」
その日から彼は妹の名前を名乗って生きるようになった。
その老婆(あとで自分の祖母と知った)は最初のうちこそひどく驚《おどろ》いていたものの、少年が巧妙に作り上げた身の上話を聞いているうちにあっさりと、
「それは苦労したの。運賃送ってやるから日本にさっさと帰ってこい」
と、だけ言った。むしろ少年の方がびっくりした。
「あ、あの父のことは?」
父は行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になったと伝えていた。老婆は、
「あ〜、まあ、奴《やつ》はどっかで生きてるじゃろ。あんま死んだ気がしないし。それより孫が出来たことは知っていたが、男か女かもよく分からなかったからな。今日《きょう》はお前の声が聞けて嬉《うれ》しいぞ。早《はよ》う日本に来い」
どこか楽しげな口《く》調《ちょう》で言った。
「早うお前の顔を見せろ」
その一言で少年はとても救われた。少年は静かな感《かん》謝《しゃ》の気持ちを口調に秘めて、
「はい。ありがとうございます」
と、丁《てい》寧《ねい》に礼を述べ通話を終えた。それからが忙しかった。様《さま》々《ざま》な後始末を終えて城を出た時にはもう一週間が過ぎていた。湖岸に降りたって振り返ればまるで少年が出て行くのを待ち構えていたかのように巨大な城が湖の底に没していくところだった。
少年は冷ややかな眼《まな》差《ざ》しでそれを見つめ、
「さようなら」
とだけ呟《つぶや》き、二度と振り返ることなくそこを後にした。
二体の氷柱は少年が邪星≠ゥら学んだ数少ない魔《ま》法《ほう》の一つでポケットに入るくらい小さくした。その取り扱いは慎重に慎重を重ねた。
人に見られたら即座に父と妹は存在を消してしまうのだ。
空港の手荷物検査などは冷や冷やしたが幸い少年はまだ幼いと言ってもよい年《ねん》齢《れい》なのでほとんどフリーパスでそこを通れた。
生まれて初めて飛《ひ》行《こう》機《き》に乗り、興《こう》奮《ふん》で眠れぬ夜を過ごした後、少年は日本に降り立った。日本は少年がいた場所に比べると少し湿度が高く、埃《ほこり》っぽかった。
だが、大きく深呼吸をすると胸一杯に優《やさ》しく懐《なつ》かしい感覚がこみ上げてきた。
自分も日本人なのだ、と思い嬉《うれ》しかった。
成《なり》田《た》空《くう》港《こう》から川《かわ》平《ひら》本家に行くまでの全《すべ》ての交通機関で少年はずっと窓の外を見ていた。日本の風景はいつまで見ても飽きるということがなかった。
川平本家の玄関前に立った時、少年はその造りの不《ふ》思《し》議《ぎ》な佇《たたず》まいに深く魅《み》了《りょう》された。門戸を叩《たた》き案内を請《こ》う前に、生い茂る森の馥《ふく》郁《いく》たる香りをお腹《なか》いっぱいに嗅《か》ぎ、目に優《やさ》しい屋根|瓦《がわら》や物珍しい赤い鳥居などを見て回った。
そこへ背後から白《しろ》装《しょう》束《ぞく》の青年が声をかけてきた。
「お待ちしておりました。川平|薫《かおる》様ですね?」
それが犬《いぬ》神《かみ》という存在との初めての邂《かい》逅《こう》だった。一目で人外の者だと分かった。なんて美しいんだろう。
少年はそう思った。
少年がためらいがちに頷《うなず》くとその青年は微笑《ほほえ》み一礼した。
「長い旅を本当にお疲れ様でした。さあ、宗《そう》家《け》が中でお待ちです」
そうして少年は犬神のはけに誘《いざな》われ、川平家の門戸を潜《くぐ》り抜けた。
犬神使い川平薫。
少年が犬神使いとしての長い道のりを歩き始めたのはその日からだった。
川平の宗家は暗い奥《おく》座《ざ》敷《しき》の上《かみ》座《ざ》できちんと正座をして少年を待っていた。少年は彼女の前に進み出ると、
「初めまして、川平薫です」
と、丁《てい》寧《ねい》に一礼をした。宗家はちょっとびっくりした顔で、
「ほう……長い間、外国にいたわりには堂に入った挨《あい》拶《さつ》ぶりじゃの。啓《けい》太《た》にも是非見習わせたいものじゃ」
そう言った。少年は「啓太っていったい誰《だれ》だろう?」と思ったが、とりあえず考えていた通りの身の上話を宗家に話した。父の日記から父が本家とほとんど連絡を取っていなかったことを承知の上でのことだったが実際はかなり冷や汗ものだった。
すると宗家は、
「ま、大体、分かった」
と、言ってあっさり話を切り上げ、立ち上がった。ありとあらゆる質問に対して出来うる限り整《せい》合《ごう》性《せい》のある答えを用意していた少年はひどく拍子抜けした。薄《うす》々《うす》と気がついてはいたが、どうやら自分の祖母(後にこれは川《かわ》平《ひら》家《け》全体の気風だと知るが)はあまり物事にこだわらないたちのようだった。
彼女は次の間を開けるとにやっと笑った。
「とりあえず呼べる限りの奴《やつ》は呼んでおいた。ま、仲良くしてやってくれ」
見るとそこには見渡す限り沢《たく》山《さん》のお膳《ぜん》が並んでいてその一つ一つに川平家の親類|縁《えん》者《じゃ》とおぼしき人たちが座って少年を待ちかまえていた。
「おう! お前さんが薫《かおる》か?」
「へえ〜、お人形さんみたい! 元《もと》也《や》さんの面《おも》影《かげ》もちゃんとあるけど、外人さんの血が強いんだね。ほんと啓《けい》太《た》と違って品があるね〜」
「うるせ〜!」
皆、口々に歓迎してくれる。
喜んでくれている。たった一人で気を張り続けていた少年は思わず目《め》頭《がしら》が熱《あつ》くなった。とりあえずそれをごまかすように慌ててお辞《じ》儀《ぎ》を一つする。
「川平薫です。長い間の外国生活で行き届かない面も沢山あると思いますが皆さん、宜《よろ》しくお引き立てくださいますようお願《ねが》い申し上げます」
その大人《おとな》びた口上に川平家の人々はどよめき、それからわっと歓声を上げた。
その日、少年は三十人くらいの人から入れ替わり立ち替わり質問攻めにあい、可愛《かわい》がられ、あろうことか強引にお酒を飲まされて二日酔いになった。
以降、少年は本家で祖母と共に生活をするようになった。かなり通学に時間がかかったが、学校にもそこから通った。
孤立無援の状況下で命がけの成長を自分に強いていた少年にとって、自分と同年代の子供たちと平《へい》穏《おん》な環《かん》境《きょう》で勉強したり、運動することはこれ以上ないくらい楽しいことだった。学校で良い成《せい》績《せき》を取ると祖母以上に犬《いぬ》神《かみ》のはけが喜んでくれるのがおかしかった。
少年が川平家の一員となってまず気になったのがこの犬神のことだった。
はけが献身的に祖母に仕える姿を見て、「いつか自分も犬神を持つのだろうか?」と考えた。恐らくどうやらそれは決定事項のようだった。
というより品行方正で、能力が抜群に高かった少年はいつの間にか、川平家全体から次期当主として目されるようになっていたのである。
少年はそのことにひどく当惑した。
自分は違うのに、といういたたまれないような想《おも》い。
それは川平啓太、という少年と深く知り合うことによっていずれ霧《む》散《さん》するのだが、それまで少年はとても苦しんでいた。
だから、川《かわ》平《ひら》の全《すべ》ての人間に課《か》せられた一年間の修行はむしろ待ち望んでいたくらいだった。彼はそこで東《とう》山《さん》という秘《ひ》仙《せん》が集《つど》う山に赴《おもむ》き、体術と大気を操《あやつ》る術を学んだ。少年の優《すぐ》れた感性と霊《れい》力《りょく》は鳥の姿をした師匠をもってして、
「お前に教えることはもうない。半年早いが帰れ」
と、言わしめるほどだった。
彼はそこでも邪星≠フ呪《のろ》いを解く方法を密《ひそ》かに探したが、やはり見つからなかった。そして少年が答えを出せないでいるうちに犬《いぬ》神《かみ》たちと契約を結ぶ日がやってきた。少年はそのちょっと前から日本に存在する魔《ま》道《どう》具《ぐ》に関して調《しら》べていたので、日本や川平家から離《はな》れるつもりはなかったが、犬神を持つ覚悟もまた持てずにいた。
少年はそこで前年、犬神を一人も得ることが出来なかった啓《けい》太《た》の例を踏《とう》襲《しゅう》しようと考えた。
山に赴いて全く関係ないことをしようとしたのである。
ポケットサイズに縮《ちぢ》めたグランドピアノを持って頂上まで登り、そこで時間切れまでずっとピアノを弾いてみたのだ。
すると驚《おどろ》いたことにそれで十人もの犬神が少年に憑《つ》いてしまった。
しかも若い女の子ばかり。
少年の困惑はその時、頂点に達していた。
本来なら不具合の方が多いはずだった。
今まで細心の注意を払って隠してきた氷の棺《ひつぎ》を見られる可能性が増えるし、個人的にも動きにくくなる。
だが、少年は犬神、という存在にやがて心の底から耽《たん》溺《でき》するようになっていった。彼女らの愛らしい仕《し》草《ぐさ》や、従順な態度。
少年の一挙手一投足にまで注意を払う一《いち》途《ず》さ。
せんだんはみんなのまとめ役で常に冷静さを装っていたが、二人っきりになると可愛《かわい》らしいところもあった。なでしこはこまめに自分の世話をしてくれたし、一番親しみやすかった。小さなともはねの精一杯背伸びした言動を見ているとついつい微笑《ほほえ》みがこぼれたし、フラノが時々言い出す突《とっ》拍《ぴょう》子《し》もない予言を聞くのも好きだった。
つかみ所のないてんそうが初めて自分の似顔絵を描《か》いてくれた時はひどく感《かん》激《げき》した。
たゆねとはよく運動を一《いっ》緒《しょ》にやった。彼女と朝日の昇る浜辺をどこまでも走ったことを決して忘れない。
恥ずかしがり屋のいぐさにはとてつもない可能性を感じたし、ごきょうやと政治|談《だん》義《ぎ》などをしていると本当の家族になれたような気がした。悪戯《いたずら》好きの双《ふた》子《ご》が植物を嬉《うれ》しそうに育ててるのを見て心がとても温かくなった。
だから、少年は精一杯彼女らに何かしてやろうと思った。秘密を抱えている分、彼は心の底から少女たちに尽くすことで自分が貰った幸せを返そうとした。
そうやって少年には大事な者が沢《たく》山《さん》出来ていった。
「……なんにも知らない?」
いつの間にか人の気《け》配《はい》が全くなくなり、ただ渺《びょう》々《びょう》と不吉な風が吹き抜ける往来でごきょうやは不《ふ》審《しん》そうな顔つきになった。
それからはっと鼻で笑う。
「滑《こっ》稽《けい》だな、なでしこ。私がそんな戯《ざれ》言《ごと》を信じると思うのか?」
対《たい》峙《じ》するなでしこはむしろ以前のような優《やさ》しげな笑《え》みを浮かべていた。彼女は一歩ごきょうやに近寄った。荒涼とした景色の中で、遠くの方から聞こえる轟《ごう》音《おん》と閃《せん》光《こう》だけが確《かっ》固《こ》たる現実感を持ってごきょうやたちを揺さぶり続けた。
「ごきょうや。わたしも無理に信じて貰おうと思わない。でも、それが真実なの。わたしは本当の本当に何も知らない。聞かされていない」
「そんなバカな! お前は薫《かおる》様にもっとも近い存在じゃなかったのか?!」
「でも、知らない」
「いったい、薫様とはなんなんだ? あの方は! あの方は本当に川《かわ》平《ひら》家の方なのか?!」
「興《きょう》味《み》もない」
ごきょうやが怒《ど》気《き》を発した。
「いい加減にしろ、なでしこ! いったいどこまで私たちを嬲《なぶ》る?」
なでしこは目を細めた。少し冷たい口《く》調《ちょう》で言う。
「ごきょうや。わたしはあなたと同じ物をずっとずっと前に見つけた。そしてわたしはあの方が何も仰《おっしゃ》らなくても、あの方を信じ抜くことに決めた。それのいったい何がいけないの? ごく自然な事じゃない? わたしから言わせればあの程度のことで取り乱して薫様のお心も理解せず、お優《やさ》しさに忘《ぼう》恩《おん》で報《むく》いて啓《けい》太《た》様のところに走るあなたたちの方こそ滑稽だわ」
黙《だま》って二人のやり取りを見守っていたフラノとてんそうがはっと胸を突かれた顔になった。しかし、ごきょうやが即座にそれを否定した。
「は! 信じ抜く? 笑わせるな! 体《てい》の良い言葉で取《と》り繕《つくろ》うな! なでしこ、おまえはただ単に事実を直視することを恐れただけだ!」
「違う」
なでしこの声がほんのわずかに震《ふる》えた。ごきょうやがさらに追い込むように、
「正面から薫様と向かい合う事を恐れただけだ!」
「違う!」
なでしこの声が甲《かん》高《だか》くなった。彼女は怒りにわななきながら叫んだ。
「わたしがどれだけの想《おも》いで薫様の許《もと》にいるかもしらないくせに!」
「しるもんか!」
ごきょうやもまた感情をあらわにして手を振るった。
「お前なんかただの犬《いぬ》神《かみ》の一人ってだけだ! 薫様に重《ちょう》用《よう》されてると思って図に乗るな!」
「ごきょうや!」
二人の少女が互いの距《きょ》離《り》を詰める。その時。
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×1 『紅《くれない》』!」
強烈な衝《しょう》撃《げき》波《は》が二人のど真ん中に打ち込まれ、アスファルトを粉々に吹き飛ばした。はじけ飛んだ断片がぱらぱらと辺りに落下し、窪《くぼ》んだ穴からもうもうと噴《ふん》煙《えん》が上がっている。なでしこもごきょうやも毒気を抜かれ、驚《おどろ》いたように振り返った。
その一撃を打ち込んだ少女を見つめる。
「ごきょうや」
少女。
ともはねはかすれ声で言った。彼女は肩を震《ふる》わせ、
「それになでしこ」
目が涙で溢《あふ》れかえっていた。
「二人ともこれ以上やるならまずあたしを撃《う》ってからにして!」
二人の前に出て両手を広げる。全力で自分の主張をぶつけた。なでしこもごきょうやもともはねの言葉にたじろいだ。
ともはねはうぐっと大きくしゃくり上げた。
「なんで仲良くできないの! なんで分かりあえないの? ねえ!」
ぽろぽろと透明な涙の粒が彼女の頬《ほお》を伝わった。
「何があったか知らないよ? 何がなんなんだかまるで分からないよ? だけど、でもね。あたしたちはどんな時だって一《いっ》緒《しょ》にやってきた。なにより大切な仲間同士でしょ、そうじゃないの!?」
その言葉は鞭《むち》のように少女たちの心を打った。
「……なんで分かりあえないの? なんで分かりあおうとしないの? そんなに脆《もろ》くはないでしょ? あたしたちの絆《きずな》。どんな時だって、なにがあったって……こんな今だからこそちゃんとしないといけないじゃない……そうでしょ?」
場が水を打ったように静まりかえった。なでしこも、ごきょうやも、てんそうも、フラノも全くなにも言い返せなかった。
誰《だれ》も彼もが俯《うつむ》き、深くため息をついたり、目《め》尻《じり》に涙を浮かべた。
ともはねはただ目を手の甲で擦《こす》って泣き続けている。
「ごめんなさい……」
一番最初に言葉を発したのはなでしこだった。彼女はともはねに近寄ると彼女をきゅっと胸元に抱き締《し》めた。
「わたしが全《すべ》て悪かった。本当にごめんなさいね、ともはね」
目をつむり、愛《いと》おしそうにともはねの頭に頬をこすりつける。ともはねはくすんくすんと鼻を啜《すす》っていた。
「あ、いや」
そこでごきょうやがはっと我《われ》に返った。彼女は咳《せき》払《ばら》いをするとばつが悪そうな上《うわ》目《め》遣《づか》いになってなでしこに声をかけた。
「こちらこそすまなかった。フラノに言っておきながらついつい自分が感情的になってしまっていたようだ」
なでしこは目をつむったまま無言で首を横に振った。
ごきょうやがしばし逡《しゅん》巡《じゅん》したのち、ようやく思いを決してなでしこに告げた。
「なでしこ」
なでしこが顔を上げる。ごきょうやは真剣な表情になって、
「今更に聞こえるかもしれないが、私たちも別に薫《かおる》様を裏切る意図で啓《けい》太《た》様にお話しようと思った訳じゃないんだ。そうせざるをえない要因があって、それが最善の方法だと判断したから仕方なくそうしたんだよ」
「……どういうこと?」
「つまり」
ごきょうやはちょっと言いにくそうに言葉を探す。代わりにフラノが両手を挙げた。
「あのね、なでしこちゃん。フラノが薫様の未来をちょっと見たのです!」
「え?」
「それが真っ黒だったんです! 怖いくらい真っ暗で全く意味は分からないけどとっても不吉な感じに思えたんです! 怖かった! 怖かったのです!」
ごきょうやが頷《うなず》いた。
「だから、私たちは薫《かおる》様以外に頼れる方に相《そう》談《だん》しようと思い立ったんだ。その点で啓《けい》太《た》様なら一番安心だろう?」
そこでようやく彼女はなでしこのただならぬ様《よう》子《す》に気がついた。今まで抱き締《し》めていたともはねに逆にすがりつくようにして、全身をわななかせている。顔色が真《ま》っ青《さお》で、光を失った瞳《ひとみ》がまるで死人のようだった。
ともはねが驚《おどろ》いたように顔を上げた。
「どうしたの、なでしこ?」
ごきょうやが少し厳《きび》しい表情に戻る。
「……なでしこ。お前やはり何か知って」
だけどごきょうやのその質問は最後まで形にならなかった。
「あ、こんなところにいた!」
と、道の向こうから賑《にぎ》やかな歓声が聞こえてきたのだ。
ごきょうやたちははっと顔を上げた。見ればそれは双《ふた》子《ご》のいまりとさよかだった。彼女らは自分たちが来た方角に向かって手を差し招く。
「ほら! 薫様! みんなやっぱりここにいましたよ! 早く! 早く!」
それからててててっと場違いなくらい明るく話しながら駆けてきた。
「お〜、どうしたよ? なにやってたよ?」
「大《だい》妖《よう》狐《こ》見た? きたね〜。これからいよいよ戦《いくさ》だね!」
頼もしい主人とずっと一《いっ》緒《しょ》にいた彼女らに大妖狐への恐怖心は大してないようだ。さらにたゆね、いぐさが続いて薫とせんだんまでもその場に姿を現す。
「やあ、みんな」
薫がにこやかに笑いながら話しかけてきた。彼は眉《まゆ》をひそめ、
「あれ? 啓《けい》太《た》さんとようこは?」
と、尋《たず》ねる。しかし、誰《だれ》もそれに答えない。ごきょうやはうろたえたように薫から視《し》線《せん》を外し、フラノは涙ぐみ、てんそうは黙《だま》って空を見上げている。ともはねが何か言いたそうに口を開いたが結局、言葉が見つからず、黙って首を振ってまたうなだれた。
そしてなでしこはただ青ざめ震《ふる》えているばかりだった。
「ど、どうしたの? あんたたち。いったい何があったの?」
たゆねが目を丸くして尋ねた。薫がその時、ふっと笑った。
何もかも悟ったように。
「うん、分かった。とうとう来るべき時が来たみたいだね。きちんと最初からお話しようか?」
彼は静かな声でそう宣言した。
少女たちが一斉に彼を注視した。
心ゆくまで車で遊んだ後、大《だい》妖《よう》狐《こ》は商店街に建ち並ぶ店に片っ端から押し入り、順番に欲しい物を手に入れていった。美味《おい》しそうなケーキをショーケースごと。ゲームセンターの筐《きょう》体《たい》をまるごと引き抜き、しゅくち≠ナ別の場所に転送した。たこ焼き屋の戸をくぐり、店員に言いつけ、焼きたてをそのまま頬《ほお》張《ば》った。
とびきり美味《うま》かった。
気に入ったのでたこ焼きをあるだけパックに包ませた。店員は金銭を要求してきたが、めんどくさかった(木の葉を金に替えても良かった)のでそいつを石に変えた。途中、また官《かん》憲《けん》数人に会ったがそいつらも同じようにしてやった。
次に電気屋を訪れた。
その頃《ころ》には大妖狐のことは行く先々に知れ渡っていて、彼が中に入っていくだけで店員も客も悲鳴を上げながら蜘蛛《くも》の子を散らすように逃げていった。だが、大妖狐は全く気に留めなかった。ここは本当に面《おも》白《しろ》かった。テレビは色々な映像を映し出していたし、スピーカーからは賑《にぎ》やかで陽気な音楽が流れていた。
冷蔵庫や掃《そう》除《じ》機《き》のボタンをでたらめに押しているだけで楽しかった。
「ほお! 雷の力で冷やしたり、焼いたりするとはなかなかニンゲンもやるな!」
あんまり気に入ったのでそこにあるモノは一つ残らずしゅくち≠ナ持って帰ることにした。そうやってうきうきしながら店から出て行くと、今度はいつの間にか赤いランプを灯《とも》したパトカーが往来に何台も止まって大妖狐の行く手を阻《はば》んでいた。
「うごくな!」
と、緊《きん》張《ちょう》に打ち震《ふる》える警《けい》官《かん》たちが銃を構えた。
「あはは〜、ごくろうさん♪」
大妖狐はぱちりと指を鳴らした。
その動きでたちまち警官たちは石に変じた。彼らは全くなんの抑止力にもならなかった。大妖狐は晴れ渡った野原を散策するように気安く商店街を歩き回って片っ端から欲しい物を手に入れた。もはや彼を止めることが出来る者など誰《だれ》もいなかった。
無邪気な暴《ぼう》風《ふう》は全《すべ》て己《おのれ》の欲求のままに振《ふ》る舞《ま》った。
やがて一通りめぼしいモノを手に入れると大妖狐はぽ〜んと地面を蹴《け》ってとあるビルの屋上に降り立った。
この街にやって来たときから目をつけていた建物だった。
それは奇《く》しくも啓《けい》太《た》とようこが最初に契約を結んだ場所であり、以後、彼女がなにかにつけてやってくるお気に入りの場所でもあった。大《だい》妖《よう》狐《こ》はとりあえずここに腰を落ち着けるつもりで、劫《こう》奪《だつ》した物品を全《すべ》て転送していた。
「お〜、昔の物《もの》見《み》櫓《やぐら》よりも高いな」
大妖狐は小手をかざして遠くを見つめた。
眼下ではパトカーの赤《せき》色《しょく》ランプが車道を埋め尽くし、警《けい》察《さつ》無《む》線《せん》が嵐《あらし》のように飛び交っていた。正体不明の襲《しゅう》来《らい》者《しゃ》に対して警察はなすすべなく、市民の大《たい》概《がい》は家に閉じこもってひっそりと様《よう》子《す》を窺《うかが》っていた。
だが、大妖狐はそんな下界の喧《けん》噪《そう》とは無《む》縁《えん》だった。
「ん〜」
彼は顎《あご》を撫《な》でた。展望は気に入ったのだが頭上を鉛《なまり》色《いろ》の雲が覆《おお》っているので視界がいまいちよくない。彼は楽しそうに頷《うなず》くと、
「おし! 晴れろ、雲!」
手をばっと天に向かって突き出した。するとそこから真《ま》っ直《す》ぐにレーザービームのような真っ白な光が直進する。そして分厚い雲に打ち当たると。
驚《おどろ》いたことに、その光が当たった場所から雲が裂けていき、みるみると天が晴れ渡っていった。
満天の星々と金《こん》色《じき》の月が今まで誰《だれ》も見たことないほどくっきりと頭上で輝《かがや》いて見えた。
「はっはあ! これで大分眺めが良くなった!」
眩《まばゆ》く、降り注ぐように辺りを照らす光に包まれ、大妖狐が高らかに笑っていた。
辺りは煌《きら》めくような光に満ちていた。
鋭《えい》利《り》で、細かい光の粒子がきらきらと街《がい》路《ろ》樹《じゅ》や建物の陰《かげ》で踊っていた。するとそれによって暗《くら》闇《やみ》はより深く、濃《こ》く暗さを増し、全《すべ》ての光景が万《まん》華《げ》鏡《きょう》のようにコラージュされて見える。宝石のような目《ま》映《ばゆ》い天上の光とビロードのような暗黒が絶妙な対比を作り上げていた。
「ごきょうや」
と、薫《かおる》がゆっくりしゃべり始めた。
「今まで君が見たこと、知ったことをこの場で全部みんなに話してくれるかい?」
「!」
ごきょうやが息を呑《の》んだ。
薫は不《ふ》思《し》議《ぎ》なくらい優《やさ》しい雰囲気を漂わせていた。光と闇《やみ》の加減で、ひどく儚《はかな》く、触れればまるで夜空に溶け込んでいってしまいそうなくらい危うく見えた。
「君たちが僕の寝室≠探そうとしたのはずっといいタイミングだったと思っていたよ。見たんだね? あれを」
ごきょうやは何も答えられない。
いつの間にかなでしこがそっと動いて薫《かおる》の傍《かたわ》らに影のように控えた。ちょうど立ち位置的に薫となでしこ、そしてその他《ほか》の少女たちが正対する形になった。
「ま、待ってください! いったいなんのお話をされているのですか、薫様?」
リーダーであるせんだんのその困惑したような質問は一同の気持ちの代弁に他《ほか》ならなかっただろう。
せんだん、いぐさ、たゆね、いまり、さよかからすれば他の少女たちと合流したとたん薫が訳の分からないことを言い出したように聞こえるし、限りなく事態を把握しているはずのごきょうや、てんそう、フラノにしても薫の唐《とう》突《とつ》な命令は予想の範《はん》疇《ちゅう》を超えていた。
ごきょうやがいつまでも固まったままなのを見てとって薫は少し哀《かな》しそうに笑った。
「そうだね……いきなりそう言われても困るよね。ごめん」
それから彼はくるっと振り返ると近くの電柱に向かって声をかけた。
「ねえ、そこのシルクハットの人。確《たし》か赤《せき》道《どう》斎《さい》のところでも隠れて見ていたよね? ちょっとこっちに来て説明を補足してもらえるかな?」
その言葉にかなり驚《おどろ》いた顔のドクトルが電柱の陰から出てきた。
「私に……気がついていたのですか?」
「うん」
と、薫は穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》んだ。
「赤道斎は気がついていなかったみたいだけどね……僕はそういうことは敏感な方だから。気《け》配《はい》じゃない。目で違和感を探すんだよ」
ドクトルが困った表情で立ち尽くしている。
薫は茶《ちゃ》目《め》っ気《け》のある表情で声をかけた。
「心配ない。あなたが見たこと、聞いたことをふつうにこの子たちの前で話してくれるだけでいい。簡《かん》単《たん》だろう?」
「と、言われましてもな」
「薫様! これは! これはいったいどういうことなんですか? 赤道斎のところで見たって! そんな……お願《ねが》いですから薫様の口からきちんと事情を説明してください!」
せんだんがあくまで食い下がる。ごきょうやが辛《つら》そうに顔を歪《ゆが》めた。そして代わりにすうっと一人前に進み出てきたのがてんそうだった。彼女は相変わらずどこを見ているか定かではない目《め》線《せん》で抑《よく》揚《よう》なく己《おのれ》の意志を伝えた。
「私が」
と。薫もただ微笑んだ。
「ありがとう、てんそう」
それからてんそうは落ち着いた声で淡《たん》々《たん》と自分たち三人が奇妙な氷の棺《ひつぎ》を見つけた経緯《いきさつ》を話し始めた。いまりとさよかとの競《きょう》争《そう》。深い地下道を歩いた先にあった奇妙な小部屋。そこに横たわっていた氷《こおり》漬《づ》けの人間二人。
慌ててそこから逃げ出したこと。
途中でなでしこと出会ったこと。一同は息を呑《の》み、薫《かおる》と、それから一切の表情を殺して薫に寄り添うなでしこを交互に見やった。
「薫様! その氷の中に入っていた二人っていったい誰《だれ》なんですか? なんでそんなところにそんなものを置いてたんですか?」
てんそうの話が終わったとたん、せんだんが一気に畳みかけた。たゆねは小刻みに震《ふる》えていた。言いようのない怖さに心を鷲《わし》づかみにされ、今にも泣き出しそうだった。いぐさがそんな彼女の手をぎゅっと握り締《し》め、眼鏡《めがね》の中で同じくらい強く目を閉じている。ただ耳だけは事態の行く末を決して聞き逃《のが》すまいと懸《けん》命《めい》にそばだてていた。
「答えられない」
簡《かん》潔《けつ》で。
ひどく冷ややかな声だった。
「!」
せんだんがその返答を聞いてショックのあまり後ろに大きくよろめいた。生まれて初めて聞く薫の純粋な拒絶の言葉だった。
「なあ、てんそう」
代わりに尋《たず》ねたのがいまりとさよかだった。
「お前たちがその中で見たのはどんな人間だったんだ?」
その質問にてんそうはごきょうやを振り返った。ごきょうやはてんそうの無言の問いかけを理解し、普《ふ》段《だん》の冷静さを幾ばくか取り戻すと、医者としての正《せい》確《かく》な表現で説明した。
「一人は中年男性だ。大体、三十代前半。がっしりとした体格で髭《ひげ》が生《は》えている。よく日に焼け身体《からだ》に多くの傷跡があった。恐らくかなり激《はげ》しい生業《なりわい》をしていたらしい」
「あと裸でした!」
と、フラノがそれがひどく大事なことであるかのように言い添えた。ごきょうやは頷《うなず》く。
「そうだった。それともう片方が十代前半の女の子。身長がともはねと同じくらいだったか……黒髪で、前述した男性と遺《い》伝《でん》的形質が似ていた。推定では両者は親子」
「こちらも裸でした!」
と、興《こう》奮《ふん》したようにフラノ。ごきょうやはちょっと迷ってから一番、大事なことを告げた。
「私の見立てではいずれも川《かわ》平《ひら》家の血《けつ》縁《えん》者《しゃ》だ」
その言葉に一同は大きくどよめいた。それで今までの意味合いが百八十度違ってくる。少女たちの顔に明らかな動揺があった。
薫は不《ふ》思《し》議《ぎ》なほど落ち着いていた。
涼やかな目でドクトルを見やり、無言で彼の話を促《うなが》した。
「ふう」
ドクトルがため息をついた。
「全くどういう意図かよく分かりませんが」
彼はまじめな顔になると話し始めた。
「ここまで来ては話さないわけにもいきませんね。分かりました。あなたのお望み通りにしましょう。お嬢《じょう》さん方。少し覚悟を持って聞いてください」
ざわつく少女たちに向かってドクトルが射るような眼《まな》差《ざ》しで告げた。
「この方は赤《せき》道《どう》斎《さい》と通じています」
ひっと誰《だれ》かが悲鳴に近い声を上げた。
「私は確《たし》かにずっと見ていました。この方が赤道斎に技術と場所を提供するのを。彼と親しげに話すのを。吉《きち》日《じつ》市《し》を滅ぼすような行為に荷《か》担《たん》するのを」
「嘘《うそ》だ!」
たゆねが手をふるって必死で打ち消そうとした。
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」
ところが。
「本当だよ」
世にも無慈悲な言葉が主人本人の口からいともあっさりとついて出た。たゆねが信じられないというように彼を振り返った。
「全部本当のことだよ、たゆね。僕は赤道斎の復活を助けた。そして今も現在進行形で彼と契約を結んでいる」
彼女の瞳《ひとみ》が大きく見開かれた。じわっとそこから涙が溢《あふ》れ出す。その時、ともはねが思いっきり大きな声を上げた。
「薫《かおる》様!」
「なに?」
と、どこまでも穏《おだ》やかに薫はそう尋《たず》ねた。ともはねは震《ふる》えながら、
「薫様は」
禁《きん》忌《き》に近い問いを発した。自分たちの足場が根底から崩されていく恐怖に耐えながら、
「薫様は本当に私たちの[#「私たちの」に傍点]川《かわ》平《ひら》薫様なんですか?」
一同、固《かた》唾《ず》を呑《の》んでいた。薫はどうしようもなく優《やさ》しい微笑《ほほえ》みを浮かべた。
彼は首をゆっくり横に振ると、
「ううん。僕は本当は川平薫じゃないんだよ」
その言葉が少女たちに与えた衝《しょう》撃《げき》は計り知れなかった。
満天の星空の下、大《だい》妖《よう》狐《こ》は上《じょう》機《き》嫌《きげん》に携帯用ゲーム機《き》を手に取った。当てずっぽうでスイッチを入れ、当てずっぽうでぺこぺこボタンを押す。だが、もとより完全なでたらめなのですぐにゲームオーバーになる。
それでも大《だい》妖《よう》狐《こ》は感心したように声を上げていたが五、六回もゲームオーバーになるとすぐに飽きてきた。
「次やろう」
ぺいっとゲーム機を捨てて山《やま》積《づ》みになったオモチャから今度はプラモデルを取り出す。しばらく戦《せん》闘《とう》機《き》の絵が描かれた箱を眺めていたが、
「なんかめんどくさそう」
またぽいっと脇《わき》に捨てた。大妖狐は移り気極まりない性格をしていた。それから彼は急にはっとした顔になった。
「あ、しまった」
街の全《すべ》てが楽しくて彼はご機《き》嫌《げん》を取るべき娘の存在をすっかり忘れていた。
「よ、ようこ、ごめんな」
脇に転がしておいた金《きん》色《いろ》の球をそっと覗《のぞ》き込む。その中でようこが恨みがましい目で彼を見上げていた。大妖狐は慌てて指を鳴らした。
すると球の中と外の音声が即座に繋《つな》がった。
ようこはそれに気がつき、
「オトサン!」
キンキンした大きな声で文句を言った。
「いったいなんてことをしてくれたの! わたしを攫《さら》ったのは良いとしてもあんなでたらめをして! 川《かわ》平《ひら》のお婆《ばあ》ちゃんや街の人に迷惑かけて! 全く」
大妖狐は辟《へき》易《えき》したようにこっそりと指先でボリュームを絞った。ようこの怒り狂う声がすぐに小さくなった。
「だ、だってさあ」
「だってさ、じゃありません!」
腰元に手を当て、ようこは目をつり上げる。大妖狐はふと涙ぐんだ。
「なんかお前……」
「ん?」
「亡くなったママによく似てきたな」
ようこは絶句した。それからため息をつき、首を大きく振った。
「ま、いいや。オトサン。オトサンには言葉で言っても通じないんだよね。昔っから」
「どういうことだ?」
「……わたしをここから出してくれるつもりは全然ないんでしょ?」
「ああ、お前と仲直りできるまではな。それが父親のつとめだ!」
「ならばね、わたしはケイタが助けに来てくれるまでじっくりと待つってこと! いいからそこにある『タンタン』って雑誌と真《ま》っ赤《か》な色の缶をとって! そう。それがこーらって言うんだよ? あとふかふかのクッションもね」
大《だい》妖《よう》狐《こ》はあたふたと指を鳴らしてようこがリクエストした品物を次々と金《きん》色《いろ》の球の中に送り込んだ。ミニチュアサイズのようこは同じくミニチュアサイズになったクッションを手ではたくとその上に腹ばいになり、コーラのプルトップを開けた。それからやおら少女向け情報誌のページを開き、
「ふふ〜ん。このお店いいね♪ ケイタと一《いっ》緒《しょ》に行ってみたいな」
何か面《おも》白《しろ》い記事でも見つけたのか楽しそうに足をぱたぱたさせた。
大妖狐はぽかんとそんなようこの様《よう》子《す》を見つめていた。合間、「オトサン、そこにあるお煎《せん》餅《べい》もとって!」という命令にいそいそと応じて、それから彼はようやく自分が感じていた違和感にはっきり気がついた。
ようこが全くようこらしくないのだ。
昔の彼女はまるでこうではなかった。もっと表情に乏しかった。笑わなかったし、怒らなかった。こんな風《ふう》に色々と何かを要求してくることもなかった。ただモノが燃《も》えたり、壊《こわ》れたりする時だけ薄《うす》く笑っているようなそんな女の子だった。
ご機《き》嫌《げん》を取るため常に沢《たく》山《さん》のオモチャや美味《おい》しそうなお菓子を彼女に与え続けたが、昔のようこは一《いっ》向《こう》に嬉《うれ》しそうではなかった。それなのに今はこうして閉じ込めているのに不《ふ》思《し》議《ぎ》なくらい明るく、楽しそうでいる。
単に成長しただけではない気がする。
いったいなぜ?
何があった?
大妖狐はぱちんとようこに気がつかれないようにそっと指を鳴らした。
その理由を確《たし》かめるつもりだった……。
衝《しょう》撃《げき》的《てき》な事実を口にして静かに月光の下に立っている薫《かおる》。
その姿はしなやかであり、優《ゆう》美《び》であった。少女たちは身動き出来ず、口を利くことも出来ず、アルカイックな笑《え》みを浮かべる薫を見続けていた。
「僕は確《たし》かに本当は川《かわ》平《ひら》薫じゃないんだ。そして赤《せき》道《どう》斎《さい》と手を結んでもいる」
川平薫は「で、君たちはどうする?」とでも言うように黙《だま》って両手を広げた。その時、ドクトルが眉《まゆ》をひそめ、
「しかし、私が聞いた限りではあなたは」
と何か言いかけた。それを薫がそっと申し訳なさそうな目《め》線《せん》で遮《さえぎ》る。首を振った。他《ほか》の少女たちは彫像のように固まったままだった。
優《やさ》しかった薫《かおる》が。
誰《だれ》よりも尊敬してきた薫が。
そのような秘密を持っていた。
裏切られていた?
騙《だま》されていた?
複雑極まりない感情が犬《いぬ》神《かみ》の少女たちを捉《とら》えていた。せんだんが、いぐさが、たゆねが、ごきょうやが、てんそうが、フラノが、いまりが、さよかが、そしてともはねが目を見開いたまま、何も喋《しゃべ》れず、何も反応できない。
薫は「ん」と微笑《ほほえ》んだ。
「今まで黙《だま》っていてごめんね。今まで隠していてごめんね」
「なんで?」
ようやくせんだんがかすれ声で言葉を発した。それは全《すべ》ての者が持つ疑問の要約でもあり、たった一つの問いだった。
「なんでなんですか?」
薫は微笑みを浮かべたまま首を振った。
「ごめんね。答えられない」
少女たちが受けた心の痛みは楽しかった時間の積み重ねの分、辛《つら》いものだった。薫は重ねて静かな声で言っていた。
「これから僕は赤《せき》道《どう》斎《さい》と大《だい》妖《よう》狐《こ》と戦おうと思う。このタイミングでこうなるのは運命だったのかな? みんなには決めて欲しい」
彼は一人ひとりの目を見て言った。
「僕はこれから君たちに何も言わない。今後とも何も話せない。大事なことを伝えず、そもそも君たちの主人としての資格すら僕にはないと思う」
薫は穏《おだ》やかにゆっくりと喋り続けた。なぜかともはねにはにこやかに微笑んでいる薫が泣いているように思えた。
「そして僕はあろうことか図《ずう》々《ずう》しいことに未《いま》だ君たちの主人であろうと思う。君たちを大事に思う。良かった……この気持ちだけははっきり伝えることが出来る。だから、僕は何度でも何度でも言う。せんだん、ごきょうや、てんそう、フラノ、いまり、さよか、たゆね、いぐさ。そして小さなともはね。僕は君たちをみんな心の底から大事に思うよ」
ともはねはなぜかはっきりと悟っていた。
今、薫は何者かと戦っている。
きっと命がけで。
「だから、決めて欲しい。僕とまだ共に戦ってくれるのか、と。それでも僕と共にいてくれるのか、と」
誰《だれ》も何も言わなかった。
ドクトルが揺れるように暗《くら》闇《やみ》に消え、なでしこがきゅっと目をつむる。薫《かおる》はふっと力を抜くように笑った。
「よく考えて」
ともはねはぼんやりと考えていた。
自分たちが啓《けい》太《た》のところに行くのを喜んだのは。
彼を自宅に差し招いたりしたのは。
もしかして全《すべ》てこの時のため?
「薫様……最初から全て啓太様に後を託すつもりだったんじゃ」
ともはねのその小さな呟《つぶや》きに誰《だれ》も彼もが呆《ぼう》然《ぜん》としていた。
ある二人を除いて。
彼女らはいつもトラブルメイカーだった。
巫山戯《ふざけ》て回ることが趣《しゅ》味《み》で、投げやりに、人ごとに、どこか享楽的に現世を生きていた。だけど、少年はそんな彼女らに「生きる」ことを、「育てる」ことの楽しさを教えてくれた。だから、彼女らはずっとずっとそんな少年に対して恩義を感じていた。
誰も彼も彼女らがそんな美しい花や果物を育てるとは思わなかった。だから、今回も彼女らは誰も彼もがまさかそんなことをするとは思わなかったことをすることにした。にっこりと微笑《ほほえ》み合う。良かった。二人いて。
二人とも同じ心を持つことが出来て。
心の底から大事なモノが互いにあって。
犬《いぬ》神《かみ》のいまりとさよかは最高の作法、最高の敬意で互いに互いの手を取るとゆっくり前に進み出て、美しい動作で膝《ひざ》を突いた。
「薫様」
「我らは永久にあなたのおそばに」
「変わらぬ忠誠を」
「その程度のことで我《われ》らの心はみじんも揺らぎませぬ。あまり見くびらないで頂きたい」
それから彼女らは顔を上げると、ごくふつうの口《く》調《ちょう》に戻って賑《にぎ》やかに笑った。
「だいじょ〜ぶ、薫様♪」
「そ〜そ。たかが薫様が薫様じゃなかっただけじゃないですか[#「薫様が薫様じゃなかっただけじゃないですか」に傍点]!」
その言葉はある種の呪《じゅ》縛《ばく》を解き放つのに充分な力を秘めていた。
吹き抜ける風のようなものだった。
「あ」
と、たゆねが思わず声を上げていた。せんだんが首を振る。次の瞬《しゅん》間《かん》には彼女もまたゆっくり前に進み出てきていた。
瞳《ひとみ》には毅《き》然《ぜん》とした光を浮かべていた。
「まさか双《ふた》子《ご》に物事の道理を教わるとは思いませんでした。薫《かおる》様、ご無礼を」
彼女はいまりとさよかの隣《となり》に並ぶと膝《ひざ》を突き、頭を下げた。
「私には薫様のお考えがよく分かりません。きっと私ごときでは考え及ばぬ事情があってこそなのでしょう。ただ一つ。あなた様が私たちを大事に思ってくださると仰《おっしゃ》ったその言葉が偽りでないのなら」
彼女は顔を上げた。
「我《われ》ら犬《いぬ》神《かみ》、瞑《めい》府《ふ》魔《ま》道《どう》をどこまでも共に歩きましょう」
たゆねが我慢できずにたっと駆けた。彼女はそのまま涙で顔をくしゃくしゃにしながら膝《ひざ》を突いた。しゃくり上げ、
「ボクも!」
と、だけ叫ぶ。いぐさが同時に静かに追《つい》随《ずい》している。彼女はしとやかに膝を突くと、おずおずと薫を見上げ、微笑《ほほえ》んだ。
「薫様。私……漠然とですが薫様がどういう状況におられるのか分かった気がします。薫様。薫様は恐らく誰にもそれを言うことが出来ない状態[#「誰にもそれを言うことが出来ない状態」に傍点]なのですね? そして私たちを試す必要があった。違いますか?」
薫は虚を突かれたような表情になった。いぐさは落ち着いた微笑みで、
「やっぱり……ならばご安心ください。及ばずながら私が出来るだけ正《せい》確《かく》に事情を類推してみんなに説明してみせますから」
「いぐさ」
薫が驚《おどろ》いている。さらにいぐさは優《やさ》しく言い添えた。
「薫様。あなたは決して一人ではありませんよ」
薫が思わず片手で口元を抑えた。初めて彼の微笑みが崩れた。彼の目の前に信じてくれている犬《いぬ》神《かみ》たちがこんなにもいる。
それだけで心が激《はげ》しく揺れ動く。抑えていた気持ちが溢《あふ》れ出る。
「さあ、みんなも行こう」
と、ともはねが無邪気にごきょうや、てんそう、フラノの手を引っ張った。
「大丈夫。薫様はそんなことこれっぽっちも気にしてないから!」
心に負い目がある彼女たちはすぐには薫の許《もと》へ戻れない。苦しそうに互いに顔を見合わせるばかりだ。代わりに瞳《ひとみ》を潤《うる》ませたなでしこが何かそっと薫に耳打ちした。薫が頷《うなず》き、涙を流しながら微笑み両手を広げた。
「おいで」
と、ただ一言だけ言う。
その言葉は三人のわだかまりを溶かすのに充分過ぎるほどのものだった。ごきょうやもてんそうもフラノももう堪《こら》えることが出来なくなっていた。わっと声を上げると一斉に薫《かおる》の許《もと》に駆ける。駆けて、転げるようにして、実際転んで、彼の膝《ひざ》元《もと》にすがりついた。声を上げて泣いた。すがりつき、むせび泣いた。
薫はそんな彼女らを包み込むようにして己《おのれ》もまた泣いた。
「ありがとう。本当にありがとう」
薫は心の底から感《かん》謝《しゃ》を述べながら呟《つぶや》いていた。
「君たちのお陰でいま絶望≠ェ一つ打ち破られた……」
大《だい》妖《よう》狐《こ》の手元には今|和《わ》綴《と》じの絵《え》双《ぞう》紙《し》のようなモノが握られている。彼はそれをゆっくりと捲《めく》っていた。
表紙に『ようこの日々』と書かれている。
大妖狐がようこの記《き》憶《おく》を具現化したものであった。自分と生き別れた後のようこの辿《たど》った人生が彼女の感情や周囲の客《きゃっ》観《かん》的《てき》情景と相《あい》混《ま》じって全《すべ》て俯《ふ》瞰《かん》出来た。飽きっぽい大妖狐が食い入るようにそれを読み耽《ふけ》っていた。
何百年も続いた幽閉に近い生活。
ほんのわずかな例外を除いて話す者もなく、誰《だれ》からも疎《うと》まれ、蔑《さげす》まれ、冷たく暗い目で結界の外を眺め統けた日々。
寂しい。
ということすら自覚できないほど心をむしばむ孤独。哀《かな》しいとも気がつけないでいる荒《すさ》みきった感情。荒涼とした荒れ地みたいな記《き》憶《おく》だった。どこまで行っても灰《はい》色《いろ》の諦《てい》念《ねん》とくすぶるような苛《いら》立《だ》ちしかなかった。
だが、そんな日々にもある日、終わりが訪れた。
死を覚悟して結界補修作業のほんのわずかな隙《すき》をついて山から飛び出した彼女はそこで奇妙に明るい雰囲気の男の子と出会ったのだ。
巨大なケモノ姿の彼女を全く恐れることなく彼は色々と話しかけてきた。怪《け》我《が》をしているのを見て取るとおぼつかない手つきで一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》手当てをしてくれた。
ようこは魅《み》入《い》られた。
実に不《ふ》思《し》議《ぎ》な子だった。追っ手としてやってきた白《しろ》装《しょう》束《ぞく》の犬《いぬ》神《かみ》に必死で頼み込み、二日待って貰った。彼ともっと一《いっ》緒《しょ》に過ごしたかった。彼と戯《たわむ》れることで今まで感じたことのない安らぎを覚えた。驚《おどろ》いたことに自分は声を立てて笑っていた。
翌日、彼が持ってきてくれた様《さま》々《ざま》な食べ物を食べながらようこは思っていた。
彼と生涯共にいたい、と。
全《すべ》てを捨ててもいいから一緒にいたいと。
物陰からじっと監《かん》視《し》していた白装束の犬神はその男の子が川《かわ》平《ひら》家の人間で、嫡《ちゃく》子《し》であることを教えてくれた。
ようこは約束の二日を過ぎ、強制的に山に引き戻された後、叫んだ。
「わたし犬《いぬ》神《かみ》になる!」
それは言ってみたものの決して平坦な道のりではなかった。
心ない侮《ぶ》蔑《べつ》と嘲《ちょう》笑《しょう》が彼女を待っていた。大《だい》妖《よう》狐《こ》に反対され、四《し》面《めん》楚《そ》歌《か》の中で、でも必死で自分を変えようとようこはもがき続けた。
そうして……。
長い年月が過ぎ、彼と再会してからはずっと。
「ああ、楽しかったんだな……」
大妖狐がページを捲《めく》りながら嘆《たん》息《そく》した。貧乏で、トラブル続きで、訳の分からないことばっかり起こって、時に腹を立てたり、時に喧《けん》嘩《か》をしたりもするけど、でも。ちらっと金《きん》色《いろ》の球を見やるとようこはクッションに顔を埋めて、すやすやと寝息を立てている。
「お前は楽しかったんだな」
大妖狐は生まれて初めてと言ってもいいくらい心が切なくなった。
「どんなオモチャや贅《ぜい》沢《たく》な食べ物も必要ないくらい」
大妖狐はため息をつき、星明かりの下、ぱたんと『ようこの日々』を閉じた。そしてそれを小さくするとせめてものプレゼントのようにようこのいる金色の球にそっと押し込んだ。するとそこへ。
「ふむ。大漁だ。随分と色々オモチャを集めたようだな、大妖狐?」
抑《よく》揚《よう》のない淡《たん》々《たん》とした声が頭上から聞こえてきた。
大妖狐ははっとして顔を上げた。そうしてぶるっと震《ふる》えた。怖くて、ではない。嬉《うれ》しくて嬉しくて仕方なくて震えたのだ。
「お、おお」
大妖狐は歓喜を押し殺して立ち上がった。
煌《きら》めく星々を背景に。
大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》その人が空に屹《きつ》然《ぜん》と立っていた。大妖狐は思いっきり吠《ほ》えた。
「待っていたぜ、赤《せき》道《どう》斎《さい》!」
同時刻、啓《けい》太《た》と彼を背中に負ぶった仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がスクーターで一路|吉《きち》日《じつ》市《し》を目指していた。人《ひと》気《け》の全くない公道を疾《しっ》駆《く》する二人。
と、その時、啓太が小さい指で真《ま》っ直《す》ぐに前を指さした。
「おい、なんだあれ!?」
見れば吉日市の中心から立ち上った紫《むらさき》色《いろ》の光が一《いっ》瞬《しゅん》でドーム状に広がり、市街全体を包むところだった。
あまりの光量の大きさに天が白《はく》濁《だく》する。とんでもない霊《れい》力《りょく》の発現だった。
「急ぐぞ!」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がさらにアクセルを振り絞った。
それは軽い申し合わせで決まったことだった。
「〈眠るように眠れ。阿《あ》頼《ら》耶《や》識《しき》の底まで〉」
「だいしゅくち!」
巨《きょ》魁《かい》同士の霊力と魔《ま》力《りょく》がせめぎ合う。そのとたん吉《きち》日《じつ》市《し》の地上にいた住民が老いも若きも男も女も関係なく一息で深い眠りにつき、遥《はる》か彼方《かなた》の郊外にまとめて転送された。人口七万人近くが一人残らず、である。
それは紫色の光が膨《ふく》れ上がってからわずか二秒たらずの出来事だった。
「はははは、これで思いっきりやりあえるな?」
「うむ。人の命を軽々しく巻き込むのは互いの本意ではないからな」
大《だい》妖《よう》狐《こ》と赤《せき》道《どう》斎《さい》はごく何でもないことのように互いに声を掛け合った。今、二人はするすると螺《ら》旋《せん》を描きながら上昇し、正対していた。
「おい、長かったぜ。オレさ、ずっと踊りながらお前のことを考えてたんだぜ?」
「我《われ》もだ」
「お前ともう一度やりたいって思ってたんだ。忘れられなかったんだ。お前と過ごした三日三晩」
「誤解を生むような表現だと自分で気がついているか? でも、我もだ」
「おい、赤道斎」
大妖狐はつうっと手を前に突き出した。にやりと笑う。
「オレ、お前が大好きだぜ?」
「我はお前が大嫌いだ」
同じく赤道斎が無表情にだらりと手を伸ばす。叫んだのは同時だった。
「だいじゃえん!」
「〈赤道の血よ、アレ〉」
とてつもない熱量の黄金の炎と深《しん》紅《く》の衝《しょう》撃《げき》波《は》が空中でぶつかり合った。辺り一帯が真昼のように光り輝《かがや》く。ぐにゃっと同心円状に空気の歪《ゆが》みが広がって、ビルの窓ガラスを次々と木《こ》っ端《ぱ》みじんに吹き飛ばしていった。
揺れ動く灼《しゃく》熱《ねつ》の炎が赤道斎を喰《く》らおうとする。純粋な魔導の暴《ぼう》力《りょく》が大妖狐をねじ伏せようとする。両者は、
「おおおおおおおおおおむおおお!!!」
「むううううううううううううう!!!」
力を込め合った。
「おい、楽しいな! 赤《せき》道《どう》斎《さい》!」
大《だい》妖《よう》狐《こ》が目を狂喜で輝《かがや》かせ、叫んだ。赤道斎が禍《まが》々《まが》しく笑った。
「ああ、我《われ》もだ」
一方その下では、大妖狐と赤道斎の転送から咄《とっ》嗟《さ》に免れた薫《かおる》がゆっくりと地面に立ち上がっていた。彼は空中で目にもとまらぬ高速移動を繰《く》り広げながら、火花のようにぶつかり合う大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》と大妖狐を薄《うす》い笑いと共に見上げた。
「随分と好き勝手やってるね。まるで世界に自分たちしかいないと思い込んでいるみたいだ……みんな用意はいい?」
今や心が一つになった少女たちが声を揃《そろ》えた。
「いつでもどこでも薫様のご命令のままに!」
意《い》気《き》軒《けん》昂《こう》。やる気満々。何者も怖くないという顔つきをしている。
「やりましょう! 我らの力を見せてやりましょう!」
「この街、断じて好きにはさせません!」
薫が一度大きく頷《うなず》き、
「ならば」
銀のタクトを懐《ふところ》から取り出し、
「行こう。僕らに一体何がやれるのか見せてやろうよ」
打ち付け合うのは互いの秘術である。
比べ合うのは互いの強大な力と我《が》意《い》である。我《わが》儘《まま》であり、奔《ほん》放《ぽう》であり、闊《かっ》達《たつ》である者の究極同士、戦いは熾《し》烈《れつ》を極めた。
「〈ちぎれ飛ぶ爆《ばく》弾《だん》は四方八方から責めさいなむ〉」
赤道斎が指先で黒いビー玉を連続して弾《はじ》いていく。それは百メートルほど先の大妖狐めがけてミサイルのように緩《ゆる》やかな弧を描きながら襲《おそ》いかかった。大妖狐は、
「おっとと!」
滑るように宙を横に移動し、次々とそれを回《かい》避《ひ》していく。彼を行き過ぎた幾つかの黒いビー玉が背後のビルに打ち当たり、オレンジ色の爆炎と化して極大の花火のように噴き上がった。にやっと赤道斎が笑った。
「〈追尾〉」
その言葉と共にさらに別の黒いビー玉が幾つか急速転回してきて大妖狐を追いかけた。
「おわ!!!」
咄《とっ》嗟《さ》に振り返ったもののかわしきれず大妖狐は黒いビー玉の集中砲火を浴びた。ビルの谷間で紅《ぐ》蓮《れん》の炎が大《たい》輪《りん》の花を咲かす。
轟《ごう》音《おん》。爆《ばく》煙《えん》がたなびく。
「……」
赤《せき》道《どう》斎《さい》が目を細める。そこへ。
「はっはあ! なかなか美味《おい》しいことするじゃねえか、赤道斎!」
もうもうと湧《わ》き起こる煙の向こうから、炎の欠片《かけら》を身にまとい、瞳《ひとみ》を金《こん》色《じき》に輝《かがや》かせた大《だい》妖《よう》狐《こ》が一気に距《きょ》離《り》を詰めてきた。
「く!」
大気を打ち砕《くだ》く斬《ざん》撃《げき》が轟音と共に繰《く》り出される。赤道斎は咄《とっ》嗟《さ》に上に逃げた。彼のローブの一部が切り裂かれ、闇《やみ》色《いろ》の布片が夜の空に舞《ま》う。
「逃がすかよ、赤道斎! 炎よ噴き上がれ!」
大妖狐が全身を使って腕を振り上げる。するとその動作に合わせて彼の横からロケットの発射口ほどもある炎がまるでマグマの噴《ふん》火《か》のように空高く直進して赤道斎を押し包もうとした。刹《せつ》那《な》、赤道斎が呪《じゅ》文《もん》を結ぶ。
「〈近郷近在の水流は瀑《ばく》布《ふ》となってここにあり〉」
ナイアガラの滝のような怒《ど》濤《とう》の水が垂直に落下してその炎を打ち消した。水蒸気が大海原の霧《きり》のように辺りを乳白色の景色に変えた。
「だいじゅうりょく!」
いったん地上に降りて大妖狐の視界から逃《のが》れようとした赤道斎を目ざとく大妖狐が見つけた。
赤道斎は大慌てで横に回《かい》避《ひ》する。
同時に大妖狐の力によって増幅された重力がなんとビル一つ丸ごと瞬《しゅん》時《じ》に押しつぶす。耳をつんざくような音と共に鉄骨製のビルは跡形もなく倒《とう》壊《かい》した。そのもうもうと舞《ま》い上がる粉《ふん》塵《じん》の隙《すき》間《ま》から赤道斎は手を広げ、深《しん》紅《く》の巨大な蛇を召《しょう》還《かん》した。間《かん》髪《はつ》入れず大妖狐は黒い怪鳥を己《おのれ》の影《かげ》から作り出し、蛇を迎え撃《う》った。
蛇と鳥がそれぞれ下と上から絡み合い、互角のせめぎ合いを演じたあと霧《む》散《さん》する。その刹《せつ》那《な》、稲《いな》光《びかり》にも似た光が飛び散って、ぱっと辺りが明るくなった。
「あははははははははははは! さすがだ。赤道斎! 衰えるどころかますます腕を上げたんじゃないのか?」
上空から大妖狐が笑い声を浴びせかけた。赤道斎が胡《う》乱《ろん》な半目で答える。
「お前もただ踊っていた訳ではなさそうだな」
「なあ、赤道斎。楽しいな〜。自由になにかするって本当に楽しいな! こんなにめちゃくちゃにやりあえる幸せって最高だぜ!」
赤道斎は黙《だま》っている。大妖狐はうずうずとその場でジャンプしながら言っていた。
「なあ、お前、誰《だれ》しもが好き勝手にして、自由に振る舞える場所こそがお前の目指す真の理想なんだろう? オレ、その点では本当にお前に大《だい》賛《さん》成《せい》なんだよな〜」
「ああ、確《たし》かにな。ある意味ではお前は我《われ》の理想を完《かん》璧《ぺき》に体現しているのかも知れない」
でたらめで。
めちゃくちゃで。
自《じ》由《ゆう》闊《かっ》達《たつ》。己《おのれ》の欲望のまま生きる存在。
赤《せき》道《どう》斎《さい》は胡《う》乱《ろん》な半目で顔をしかめた。
「だからこそ我はお前が大嫌いなのだ」
彼はそしてまた急速上昇して大《だい》妖《よう》狐《こ》めがけて襲《おそ》いかかった。大妖狐も雄《お》叫《たけ》びを発して急降下し迎え撃《う》つ。
圧倒的な力の応酬がまた始まった。
それと同時刻。赤道斎と大妖狐が凄《すさ》まじい戦いを繰《く》り広げている吉《きち》日《じつ》市《し》の遥《はる》か地下で〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉がぼやいていた。
『全くマスターにも困ったもんや。大妖狐と純粋な力比べをしたいっていう気持ちは分からんでもないけど、今はそんなんせんでとっとと川《かわ》平《ひら》の犬《いぬ》神《かみ》使いやったみたいにやってほしいわ』
彼はパネルをぱらぱら捲《めく》るとがしゃこんがしゃこん歯車を回して、ぷしゅ〜と白い水蒸気を噴《ふ》き上げた。
『なあ、クサンチッペ』
しかし、〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の傍《かたわ》らに立っていた木彫りの人形は全く無反応だった。ただカタコトカタコト身体《からだ》を小刻みに揺らしながら、じっと大妖狐と赤道斎の死《し》闘《とう》を映し出しているテレビを見つめ続けている。
『なんや? どうした? 自分元気ないな?』
〈大殺界〉が尋《たず》ねる。木彫りの人形が小首を傾《かし》げた。その時、広間の北門から「こけ〜」という鳴き声と共に木彫りのニワトリが帰ってきた。
〈大殺界〉が嬉《うれ》しそうに言葉をかけた。
『おお、ソクラテス。あんじょうお疲れさん』
木彫りのニワトリは〈大殺界〉から突き出たレバーの一本に止まって得意げに羽を広げた。
「こけ〜」
『そうか、そうか。じゃあ、お前さんも観《かん》戦《せん》組《ぐみ》か。ならばここで一《いっ》緒《しょ》に仲良う見ような』
「こけ〜」と木彫りのニワトリが〈大殺界〉の巨大な筐《きょう》体《たい》に身体をこすりつける。赤道斎配下もまた川平の犬神使いと犬神のように仲良しだった。
「わらいたい」
だから、木彫りの人形が突然、ぽつりとそう呟《つぶや》いた時、〈大殺界〉は心配そうになった。
『なんや? さっきからほんと自分どないしたん?』
木彫りの人形はカタコト身体《からだ》を揺らしながらゆっくり〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉に近づいた。ゆっくりと。無表情に。〈大殺界〉は奇妙な圧迫感を感じて、己《おのれ》の身体を懸《けん》命《めい》に仰《の》け反らそうとした。しかし、当然だが巨大な〈大殺界〉の筐《きょう》体《たい》はそんな簡《かん》単《たん》には動かない。その間、木彫りの人形は両手の先をドリルに変えて、うい〜んと激《はげ》しく回転させ始めた。
〈大殺界〉ががしゃこんがしゃこん激しくピストンを動かしながら呼びかけた。
『お、おい! なんや、こら!? クサンチッペ! おまえいったいなにする気や?』
魔《ま》導《どう》人形クサンチッペは口元を不自然な形でつり上げた。
「げこくじょう」
『な! ちょ、ちょっ! やめ!』
そして焦《あせ》る〈大殺界〉に向かって両手のドリルを容《よう》赦《しゃ》なく突き立てた。真っ白な閃《せん》光《こう》がそこから噴《ふ》き上がる。
「こけえええええええええええええええええええええええええええ!!!!」
木彫りのニワトリの甲《かん》高《だか》い悲鳴が辺りに轟《とどろ》き渡った。
ところで一方その頃の犬《いぬ》神《かみ》のようこはというと。
「ん〜、ケイタ。もうそんなにちょこれーとけーき食べられないよ♪」
大《だい》妖《よう》狐《こ》が安全なところに置いていった球の中でうにゃうにゃ幸せそうな寝言を言っていた。
彼女は確《たし》かに一人幸せな状態だった……。
間奏5なでしこ=m#中見出し]
犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いは犬神と契約した時点でほとんど独り立ちをするようになる。十人もの犬神と同時に契約を結んだ少年は最初住むところに困ったが、ほどなく手《て》頃《ごろ》な大きさの安アパートを三部屋借りられるようになった。
少年自身の腕も良かったが、仲介役であるはけが持ってくる仕事の多くが破格に好条件なものだったのだ。あとで知ったのだが、祖母がそれとなく優《ゆう》先《せん》してそういった依頼を斡《あっ》旋《せん》してくれていたらしい。
さらに何年か経《た》つと全く他意なく勉強させていたいぐさが突然、巨《きょ》額《がく》のお金を株で稼《かせ》ぐようになった。
少年はこの時もやはりひどく驚《おどろ》いた。
外見上は穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》み、
「いぐさ。君は凄《すご》いね」
と、ふつうに褒《ほ》めていたが内心では改めて犬神、という存在の潜《せん》在《ざい》能力に舌を巻いていた。それから少年はさらに積《せっ》極《きょく》的《てき》に『犬神の自主性の尊重』と『その育成支援』を心がけるようになった。ちなみにこれらは川《かわ》平《ひら》家でも前代未聞の態度だった。
それから様《さま》々《ざま》な事件を犬神たちと共に解決し、その合間に学校に通い、夜は夜で魔《ま》導《どう》の勉強を続けた。その過程で少年自身もっとも苦戦することになる死神を倒す経《けい》験《けん》も経た。彼はそこで二つのモノを得た。
一つが犬神という存在と己《おのれ》の特性を掛け合わせてさらに効果的に戦う戦術。それともう一つが分不相応なくらい広大な住居。
元々、女子|寮《りょう》だった建物群を死神の一件で助けた依頼人から格安で購《こう》入《にゅう》したのだ。
それには幾つか理由があった。
まず今までの呪《のろ》いの研究過程で手に入れた文献や資料を保管する部屋がどうしても必要になったこと。それと氷の棺《ひつぎ》をきちんと安置し、隠せる場所も欲しかった。ただ、一番大きな理由はやはり犬神の少女たちが驚《おどろ》き、喜ぶ姿を見たかったからなのかも知れない。
引っ越し当日は大《おお》騒《さわ》ぎだった。
ところがよりにもよってその朝、はけから緊《きん》急《きゅう》の依頼が入り、少年らは急《きゅう》遽《きょ》とある離れ小島に向かうことになった。
その島の住人が丸ごと行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になるという怪事件が発生したのだ。
少年は行きの海路で今までに経験したことのない身体《からだ》の不《ふ》調《ちょう》を覚えた。だが、少年はそれを揺れによる軽い船酔いが原因だと考え、深く理由を突き詰めようとしなかった。辿《たど》り着いた島では雪が全《すべ》てを覆《おお》い尽くしていた。
消え去った住民を捜すため、犬《いぬ》神《かみ》たちを島中に散開させたのがまず最初のミスだった。
少年は無人の港から高台に昇った。
足がふらついていた。
唯一、手元に残していたなでしこが不安そうに尋《たず》ねた。
「薫《かおる》様? さきほどからお身体の具合が優《すぐ》れないようにお見受けしますが?」
「ああ、平気……なんでもない」
だが、なでしこはその言葉を信じず、無《む》理《り》矢《や》理《り》、少年の額《ひたい》にその白い手を伸ばした。
「ひどい! なんて熱《ねつ》!」
なでしこは叫んだ。少年はその時になってようやく自分がひどい風邪《かぜ》を患《わずら》っていることを認めた。連日連夜、身体を酷使し続けた報《むく》いだった。
体調管理を怠《おこた》ったのが二つめのミス。
そして三つ目のミスがその場に急速接近しつつある妖《よう》怪《かい》の存在に気がつかなかったこと。
「あ!」
と、なでしこが声を上げた時には二人とも高笑いを上げる雪女の襲《しゅう》撃《げき》を受けていた……。
気がつけば少年は薄《うす》暗《ぐら》い洞《どう》窟《くつ》に寝かされていた。
熱《ねつ》と寒気に交互に襲《おそ》われ、苦しみ、もだえ続けた。傍《かたわ》らにいたなでしこが少年の手をぎゅっと握って励まし続けてくれた。
「薫様! もうじきみんなが見つけてくれますから! 頑張ってください!」
どうやら雪女に不覚を取ってなでしこの手でここへ運び込まれたようだ。
少年は何か言おうとしたが深い暗黒の中にその意《い》識《しき》を引っ張り込まれてしまった。遠くの方で何かが高笑いをしているような声が聞こえた。
再び目を覚ました時、洞窟は妙に明るかった。
少年は朦《もう》朧《ろう》とする意《い》識《しき》を必死で拾い集め、上体を起こした。少年は愕《がく》然《ぜん》とした。あろうことか少年がポケットの中に隠していた氷の棺《ひつぎ》が元の大きさに戻って、二つとも洞窟の奥に並んでいたのだ。淡《あわ》い光はその氷の棺から発せられているものだった。そして、その前でなでしこが凍りついたように立ち尽くしてた。
どうやら濡《ぬ》れた少年の衣服を脱がしている最中にそれを見つけてしまったらしい。
少年は唇を噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだ。
後悔と。
ただ、どうしようもない無力感にうなだれた。
せっかくここまで来たのに、という思い。
大事な何かが壊《こわ》れて去っていく哀《かな》しさに弱り切っていた心と身体《からだ》がもう耐えられなかった。少年はそのまま倒れ込み、
「なでしこ……それは。ちがう……僕は」
と、かすれ声で必死に訴えた。
彼女にこれは見られたくなかった。
驚《おどろ》いたことに他《ほか》のどんなことよりも彼女が自分を見る目が変わるのが恐ろしかった。なでしこはただ一言、問いかけた。
「薫《かおる》様、これはなんですか?」
と。少年は遠のく意《い》識《しき》の中で答えた。
「言えないんだ……ごめん。言えないんだ」
心の中ではもうダメだ、と思っていた。
そう、ですか。
と、なでしこは何か思い迷うような声を出していた。
それから意《い》識《しき》はずうっと遠《とお》浅《あさ》の海のように満ちたり、引いたりを繰《く》り返した。少年は暖かく柔らかいモノに包まれていた。
その時はそれがなんなのかよく分からなかったが、後になって少年はなでしこが自らの身体《からだ》で彼を暖め続けてくれたのだと知った。
なでしこは優《やさ》しい声で話しかけてくれていた。
夢のような。
現《うつつ》のような寝物語。
「薫《かおる》様。だいじょうぶ。誰《だれ》にも言いません。何も問いません。何があってもわたしはあなたの味方ですよ。だから、どうか安心してお休みください」
ほんと?
と少年は小さな男の子に戻って尋《たず》ねたような気がする。
なでしこは微笑《ほほえ》み、少年の髪をそっと撫《な》でた。
「もちろんです。だから、どうかもう一度お優しいお心でピアノを弾《ひ》いてくださいね?」
なでしこは歌うような調《しら》べで自らの身の上話を語った。
「薫様……わたしはね、前はもっとずっと強かったんです。心《こころ》根《ね》が激《はげ》しかったんです。いったん戦いになったら周りがなんにも見えなくなるくらい。全《すべ》てがどうでもよくなってしまうくらい戦いに酔って……そして、その力でとある人間の村を丸ごと滅ぼしかけてしまったんです。皮肉なことに敵がその攻《こう》撃《げき》を丸ごと受け止めてくれたんだけど『何を考えてるんだ、バカ!』ってよりにもよってその敵に叱《しか》られてしまいました」
彼女は哀《かな》しそうに笑った。
「わたしははっと我《われ》に返ってようやく、その時ようやくわたしの力は周りを不幸にするだけだって悟ったんです。バカですね。本当にバカです。だから、わたしはその力を天に預けて、二度と使わない決心をしました。もし、またもう一度その力を使うような機《き》会《かい》があるとしたら」
少年は黙《だま》って聞いていた。
うつらうつらとしていた。
「それはきっとわたしが死ぬとき」
少年は夢うつつで、
「……」
と、言った。自分でも声がかすれていてなんと言ったかよく聞き取れなかった。だけど、なでしこは笑ってくれた。
「ええ。それがわたしの秘密。自分の力が怖くて、自分の性根が大嫌いで、主人を持たなくなった、戦いを止《や》めた『やらずの』、『いかずの』なでしこのバカな秘密です」
そこで少年は唇に暖かく、柔らかいモノを感じた。
「薫様にはずっとどうしてもこのことをお話しておきたかった……」
なでしこは永久にあなたのおそばに。薫《かおる》様。
それが最後に聞こえてきた言葉だった……。
翌日、体力を取り戻した少年は無事、犬《いぬ》神《かみ》たちと合流した。
吹雪《ふぶき》を操《あやつ》り、島全体を凍《い》てつかせていた雪女を見つけ出し、説得に成功。島の人を凍りづけから解放させた。
任務は終了。
帰りの船で賑《にぎ》やかに話している少女たちに囲まれながら少年はなでしこの姿をずっと目で追っている自分にふと気がついた。なでしこはその翌朝からまるで何事もなかったかのように淑《しと》やかに振《ふ》る舞《ま》っていた。
昨夜、聞いた彼女の打ち明け話がどうしても少年の心を捉《とら》えて放さなかった。
そしてその時から少年にもう一つ大事な生きる目的が加わった。いつかなでしこに全《すべ》てを打ち明けられる日を夢見て。
少年は再び前に向かって進み始めた。
やがて月日が経《た》ち、少年はより深く深くなでしこと心を通わせるようになって。
この心《こころ》優《やさ》しく。
だけど、言いしれぬ哀《かな》しみを抱えて、自分に従い続ける少女に少年はどうしようもないほどの切ない想《おも》いを抱くようになった。
何も言えない。
何も語れない。
彼はなでしこに何もしてやれない。彼女が無《む》償《しょう》の心で微笑《ほほえ》んでくれればくれるほど、愛《いと》おしさとそれ以上に罪深い意《い》識《しき》に責め苛《さいな》まれた。
いったい、自分は彼女に何をしてやれるのだろうか?
少年は暗中でひたすらに模索し続けた。
同時になでしこに氷の棺《ひつぎ》を見られ、彼女が大事な存在になっていく過程で少年はとある疑問を心に抱くようにもなっていた。
なぜ、ソレがかけた呪《のろ》いは、
『人に氷の棺を見せてはならない呪い』
と、棺を見られてはいけない相手≠人に限定しているのだろうか?
だからこそなでしこに棺を見られても呪いは発動しなかったのだが、
『氷の棺《ひつぎ》に関することを誰《だれ》にも話してはならない呪《のろ》い』
と、説明することは全《すべ》ての存在に対して禁じている。お陰でなでしこには何も言えずにいる状態だ。
違和感があった。
妙な不安感。まるで全てが何者かの手の平で転がっているような。
『最後に予言をしてやろう。大事な大事なお前の未来だからよく聞け。いつかお前は心の底から大事に思う者たちに背《そむ》かれ、石を投げられ絶望≠キるだろう。いつかお前はもっとも大事に思う者から手ひどく裏切られ絶望≠キるだろう。いつかお前はそうやって大事な者を失い失意のうちにこの世から消え去るだろう。どうしようもなく絶望≠オ不《ふ》可《か》避《ひ》的に』
いつしかかつてソレが放った最後の言葉が繰《く》り返し少年の耳元で蘇《よみがえ》るようになっていた。
赤《せき》道《どう》斎《さい》と大《だい》妖《よう》狐《こ》の破《は》壊《かい》的《てき》なぶつかり合いはまだ続いていた。赤道斎が手のひらから打ち出す散弾銃のような氷の礫《つぶて》を大妖狐は曲芸的な旋《せん》回《かい》で次々に回《かい》避《ひ》していった。その度《たび》、ビルの壁《へき》面《めん》に穴が開き、路上に乗り捨てられたバスが機《き》銃《じゅう》掃射を受けたように大きく激《はげ》しく揺れる。
次にガソリンに引火して盛大な爆《ばく》発《はつ》を起こした。
「ははあ!」
赤道斎が一《いっ》瞬《しゅん》、視線をオレンジ色の炎にとらわれたその隙《すき》に大妖狐の姿が掻《か》き消えた。赤道斎は慌てて周囲に目を走らす。
すると。
「お〜〜〜ら、どこ見てんだよ、赤道斎!?」
彼の背後のビル、窓ガラスいっぱいに大妖狐の黒い影《かげ》が映り、赤道斎が気がつく前にそこから大妖狐が飛び出してくる。
散乱する窓ガラス。振り返り、驚《きょう》愕《がく》の表情を浮かべる赤道斎。
「ぐずぐずしていると石にしちまうぞ?!」
大妖狐が喜《き》色《しょく》満《まん》面《めん》で手を振るった。赤道斎は、
「く!」
辛《かろ》うじて急上昇して大妖狐が手から放った黄《き》色《いろ》い砂《すな》嵐《あらし》を避《さ》けた。
だが、右足の一部が石化した上に、
「おら!」
大妖狐が追い打ち気味に投げてきた炎の塊をまともに喰《く》らって激しく中空で炎上する。
「あははははははははは、ど〜した、赤道斎! もう終わりか?」
「うおおおおおおおおおおおおお!!!」
赤道斎が激しく吠《ほ》えて手を振り回した。すると炎が風で吹き消され、黒こげになった赤道斎が星明かりの下に現れた。ぷすぷすと煙が彼の身体《からだ》の至る所から噴《ふ》き上がり、髪も服もずたぼろになっていた。赤道斎は荒い息をつき、胡《う》乱《ろん》な半目で己《おのれ》の姿を見下ろすと、
「ふむ。やはり大した物だな、お前は」
指をぱちりと鳴らした。その動作一つで赤道斎の身体は綺《き》麗《れい》に元の姿に戻った。大妖狐が「そうこなくっちゃな」とでも言うように嬉《うれ》しそうに笑った。
赤道斎はため息をついた。
「全く。お前のような化け物を相手に己の肉体だけで真《ま》っ向《こう》勝負を挑むのはもう身が持たん」
「ん?」
大妖狐が小首を傾《かし》げると、赤道斎はにやっと邪悪に笑った。
「そろそろ魔《ま》導《どう》師《し》の流《りゅう》儀《ぎ》で戦わせて貰うぞ?」
そして大妖狐が怪《け》訝《げん》そうな顔をしている間に懐《ふところ》から一体の人形を取り出した。それは川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》を模《かたど》ったものだった。見れば見るほどそっくりな手のひらほどの蝋[#「蝋」はunicode881F]《ろう》人《にん》形《ぎょう》。赤道斎はそれを片手に差し上げ叫んだ。
「華《か》山《さん》双《そう》君《くん》の名において告ぐ! 煌《きら》めく光と漆《しっ》黒《こく》の闇《やみ》よ!」
げっと大《だい》妖《よう》狐《こ》が目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた。
赤道斎の突き上げた手の上辺りに超巨大な白球が浮かび上がった。黒と白が等分に入り交じったそれは陰陽対極図と呼ばれるものだった。
それを赤道斎は渾《こん》身《しん》の力で振り下ろした。
「二つを総《すべ》て、万物を滅ぼせ!」
「うわ! うわあああああああああああ!!!」
それは大妖狐でも命からがらに逃げ出さなければならないほどの桁《けた》外《はず》れの力を持った破《は》壊《かい》球《きゅう》だった。地面に着弾した白球はいったん無音で沈んだ。次の瞬《しゅん》間《かん》、聴《ちょう》覚《かく》の限界を超えた爆《ばく》音《おん》が高エネルギーの衝《しょう》撃《げき》波《は》と共にビルのてっぺん近くまで噴き上がる。
辺りが真っ白に染まった。
「く! わ!」
ちょっと離《はな》れた場所にいた大妖狐が空中でよろめくほどそれは凄《すさ》まじいものだった。もうもうとごうごうとようやく大気の揺れが収まると、まるで隕《いん》石《せき》でも落ちたかのように巨大な穴がぽっかり地面に開いていた。
そこからへし折れた水道管や下水管が覗《のぞ》いている。
「くはははははは! さすがに川《かわ》平《ひら》宗《そう》家《け》の力を我《われ》に上乗せすると凄《すご》いな」
「な! て、てめえもしかして?」
大妖狐の問いに赤道斎は嬉《うれ》しそうに笑った。
「そうだ。そしておかげさまで今はこんなことも出来たりする」
いつの間にか彼の反対側の手には白《しろ》装《しょう》束《ぞく》の犬《いぬ》神《かみ》を模した人形も掲げられていた。大妖狐がこの戦いで初めて動揺を見せた。先ほどあわやといういうところまではけに追いつめられた記《き》憶《おく》が頭の中で蘇《よみがえ》る。舞《ぶ》踊《よう》結界をかけられたら強さなど全く関係なくなるのだ。
「さ、させるか!」
と慌てて炎を打ち上げる。だが赤道斎ははけの人形を掲げ、
「破《は》邪《じゃ》結《けっ》界《かい》二式・紫《し》刻《こく》柱《ちゅう》」
と叫んだ。すると彼の眼前に分厚い紫《むらさき》色《いろ》の壁《かべ》が出来上がり、炎を簡《かん》単《たん》に弾《はじ》く。
「ははははははは、大妖狐よ! 今度こそ」
彼がはけと宗家の人形を両方使ってさらなる攻撃を加えようとしたその時である。
「赤道斎。あなたが仰《おっしゃ》ったように」
静かな声が頭上から響《ひび》いてきた。
「これから遠《えん》慮《りょ》なく全力であなたをぶちのめさせて貰います!」
赤道斎がはっと振り返った。あり得ないことにまるで満月を背負うようにして川平|薫《かおる》が赤《せき》道《どう》斎《さい》のさらに上空を飛んでいた。彼はちょっと膝《ひざ》を抱え込んだ猫のような姿勢でひゅるひゅる風を切り落下してきて、
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
ばっばっと銀のタクトを十字に振るった。
「く!」
赤道斎が咄《とっ》嗟《さ》に使い慣《な》れた防《ぼう》護《ご》壁《へき》を目の前に展開した。
「〈赤道の血よ、アレ〉」
薫《かおる》が起こした風と赤道斎の放った衝《しょう》撃《げき》波《は》が互いに相《そう》殺《さい》し合う。
その瞬《しゅん》間《かん》、すれ違いざまに薫が叫んだ。
「いまり! さよか!」
「おいさ!」
「泥《どろ》棒《ぼう》ならあたしらにまかせてくださいな!」
いつの間にか忍び寄っていた双《ふた》子《ご》の犬《いぬ》神《かみ》が赤道斎の手から宗《そう》家《け》とはけの人形を奪い取った。彼女らは「うひひひひひひ!」と笑いながら全力で飛び退《すさ》っていく。赤道斎がはっと我《われ》に返って双子を目で追った時には既に距《きょ》離《り》を取っていた。
「ち! 逃がすか!」
背中を向けて逃げる彼女らに呪《じゅ》文《もん》を発動させようとする赤道斎。しかし、その前に薫が服をはためかせながら上下|逆《さか》さになり、銀のタクトを突きつけていた。
「たゆね!」
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×一 『たゆね突撃』!」
爆《ばく》発《はつ》的《てき》な光を放ちながらたゆねが下から突進し、渾《こん》身《しん》の頭《ず》突《つ》きを赤道斎の腹に加える。
「ふご! うご!」
空中でお腹《なか》を押さえ、よろめく赤道斎。たゆねの必殺技は家を丸ごと噴き飛ばすくらいの破《は》壊《かい》力《りょく》を秘めているのである。無防備で喰《く》らえばいくら大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》でもたまったものではない。しかもたゆねは素早く距離を取っていて、
「ごきょうや! てんそう! フラノ!」
代わりに頭上に現れていた三人の犬《いぬ》神《かみ》が薫のタクトに合わせて完《かん》璧《ぺき》に呼吸を揃《そろ》え、霊《れい》力《りょく》の籠《こ》もった蹴《け》りを真下に向かって放つ。
後頭部に思いっきりヒット!
「ぐぎゃあああああああああああああああああああ!!!!」
赤道斎が一《いっ》直《ちょく》線《せん》に落下し、ビルの屋上に叩《たた》きつけられた。爆音と共に噴《ふん》煙《えん》が巻き起こる。その間、薫は相変わらず自然落下を続けながら呆《ぼう》然《ぜん》と事態を見守っていた大《だい》妖《よう》狐《こ》と交差する際に目を合わせ、にこっと微笑《ほほえ》む。
大妖狐がはっと気がついた時には、
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
足元に風を作ってビルの屋上にふわりと一回転して着地していた。さらに犬《いぬ》神《かみ》の少女たちが彼の周囲に集《つど》う。一つ向こうのビルでは赤《せき》道《どう》斎《さい》が憮《ぶ》然《ぜん》とした表情で起き上がっていて、そのちよっと上まで大《だい》妖《よう》狐《こ》が降りてきて呟《つぶや》いていた。
「おいおい。なんだ、ありゃあ。めちゃくちゃ強いじゃねえか……」
薫《かおる》は双《ふた》子《ご》から宗《そう》家《け》とはけの形をした人形を受け取ると、それを持っていた巾《きん》着《ちゃく》袋《ぶくろ》へ丁《てい》寧《ねい》に入れて傍《かたわ》らにいたなでしこに手渡した。
「これがなんなんだかよく分からないけどとにかく大事に保管しておいて」
なでしこは小さく頷《うなず》くと、一人|戦《せん》線《せん》を離《り》脱《だつ》し、ビルの中に入る。赤道斎がそれを認めて追いかけようとしたが上空には大妖狐。
目の前には薫がいる状態なのでうかつに動けない。
薫が顔を上げ、ふっと笑った。
「さあ、では、そろそろ本番タイムといこうか。言っておくけど」
銀のタクトをちちっと振る。
「夜の僕はちょっと鬼《き》畜《ちく》だよ?」
大妖狐と赤道斎が思わず顔を見合わせた。
「川《かわ》平《ひら》薫」
赤道斎が胡《う》乱《ろん》な半目になる。
「なんだ? いったいお前になにがあった? 我《われ》にかつて手も足も出なかったお前が」
「赤道斎」
薫が赤道斎の言葉を遮《さえぎ》った。
「あの時の僕は犬神使いではなかった。なでしこが一応いたけど基本的に僕は川平薫一個人であなたと戦った。そして今、僕の犬神は全員|揃《そろ》ってる。僕は犬神使いなんだよ[#「犬神使いなんだよ」に傍点]、赤道斎」
「あ〜、思い出したわ」
大妖狐がぽりぽりと頭を掻《か》いた。辟《へき》易《えき》したように言う。
「そういえばオレが戦った坊さんの川平|慧《え》海《かい》もそうだったよ。赤道斎、こいつら舐《な》めてかからない方がいいぞ?」
「どういうことだ?」
「つまりな、こいつらが犬神だってことだよ」
「どんなに優《すぐ》れた猟犬でもたった一匹ではオオカミにも勝てない」
川平薫が静かに話し出す。
「でも、それが数をなせば、仲間が集まれば、いつかきっと巨大なヒグマにだって打ち勝てる」
「優《すぐ》れた犬神使いが指揮してやればって条件付きだけどな」
大《だい》妖《よう》狐《こ》が赤《せき》道《どう》斎《さい》に向かって肩をすくめてみせた。
「こいつら倍々で強くなっていくのよ」
「ふむ」
大妖狐と赤道斎は互いに顔を見合わせた。そしてすぐに意思|疎《そ》通《つう》をする。
「では」
「めんどくさいのは予《あらかじ》め片付けておいて、その後で我《われ》ら二人ゆっくり楽しもうか」
同時にばっと手を挙げたり、構えたりした。人知を超えた大妖怪と大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》がそれぞれ炎を頭上に掲げたり、目の前に稲《いな》妻《ずま》を溜《た》める。およそ考えられる限り最悪のコンビである。薫《かおる》は緊《きん》張《ちょう》に表情を強ばらせながらも「かかった!」と内心叫んでいた。
確《たし》かに両者とも強大で、絶大だろう。一対一なら、不意打ちでもしない限り勝《しょう》機《き》は限りなく低くなる。猛《もう》獣《じゅう》を人間と犬数匹だけで相手にするようなものなのだ。
だが。
互いに反目するライオンとトラ同士なら怖くない!
薫は大きく後ろに跳《ちょう》躍《やく》した。
何もない空間に身を投げ出す。同時に犬《いぬ》神《かみ》たちが四方八方に散開していた。
一《いっ》瞬《しゅん》、目標を見失った大妖狐と赤道斎だが、すぐに判断を下していた。他《ほか》の犬神たちはしょせんは薫の手《て》駒《ごま》である。本体である犬神使いを倒せばそれで全《すべ》て決着がつく。赤道斎と大妖狐は高らかに笑いながら屋上を駆け、共に満天の星空に向かって身を躍《おど》らせた。
三者三様。
落下しながら空中戦を行う。
「しょ!」
薫は空中で一度ビルの壁《へき》面《めん》を蹴《け》り、方向転換を試みる。赤道斎と大妖狐が風を切りながら距《きょ》離《り》を詰めてきた。
「はははは、人間にしてはなかなかよくやるがな!」
「遅い。〈赤道の血よ〉」
だが、にいっと笑っていたのはむしろ薫の方だった。
犬神使いと戦う敵は必ず同じミスを犯す。犬神使いを潰《つぶ》せばそれで犬神たちも全て倒せると思うのである。犬神使いをあくまで後ろに隠れた司令塔のように思い、彼らを集中的に狙《ねら》う。実に大きな、大きな勘違い。
なぜ犬神使いは厳《きび》しい修行に耐えて強《きょう》靭《じん》な身体《からだ》を作るのか?
なぜ死ぬような思いで自らの技を磨くのか?
それらは全て。
「せんだん、みんな!」
赤道斎と大妖狐はぎょっとした。気がつけば犬神の少女たちが周囲を取り囲むようにして、彼らと共に落下していた。
口元には薫《かおる》と全く同じ類《たぐい》の笑《え》み。
「GO!」
自らを囮《おとり》にして犬《いぬ》神《かみ》たちを決定的|瞬《しゅん》間《かん》に放つただそのため!
「く!」
「この! 小《こ》賢《ざか》しい!」
空中で背中合わせになって身構える赤《せき》道《どう》斎《さい》と大《だい》妖《よう》狐《こ》。しかし、それより早く少女たちが自由自在に襲《おそ》いかかっている。薫がたんと途中の窓枠に手を引っかけ、軽やかに身体《からだ》を引っ張り上げると建物の張り出し部分で銀のタクトを振るった。
まるで壇《だん》上《じょう》の指揮者のように荒々しく、鮮《あざ》やかに。
その動きに合わせてめまぐるしく犬神たちが飛び回る。一《いっ》時《とき》もその場に留《とど》まらず。流れる水のように、飛び散る火花のように。
まるで月下の交《こう》響《きょう》曲《きょく》のように。
「くは!」
「え〜〜〜い! 鬱《うっ》陶《とう》しい!」
驚《おどろ》いたことに犬神たちは薫がタクトから生み出す複雑な気流を利用して攻《こう》撃《げき》を仕掛けてきていた。風に乗って加速し爪《つめ》を振るい、蹴《け》りを見《み》舞《ま》い、隙《すき》あらば光《こう》刃《じん》を放つ。あるいは互いに連携して反撃を回《かい》避《ひ》する。
「くそ!」
「邪《じゃ》魔《ま》だ! どけ、大妖狐!」
大妖狐と赤道斎は振り返りざま、一度で全《すべ》てを爆《ばく》砕《さい》するような炎や雷を繰《く》り出そうとする。しかし、互いに互いの存在が邪魔となって上手《うま》く力を使えない。正《せい》確《かく》には放った後の互いの報復攻撃が怖いので咄《とっ》嗟《さ》に思い切れないのだ。また、彼らがいるのは密集して建ち並ぶビルのちょうど真ん中であり、さながら井戸の底に押し込められたように身動きがスムーズにとれなかった。
いかに猛《もう》獣《じゅう》と言えども狭い場所では軽やかに跳ね回る犬たちに翻《ほん》弄《ろう》される。
そこで彼らは方針を変え、一匹、一匹を狙《ねら》い打ちにすることにした。実際、一対一に持ち込めばたかが犬神など物の数ではない。
しかし、その隙《すき》を薫は逃さなかった。
彼らの注意が完全に犬神たちに向かったのを見計らって自らが使える最大の力技を思いきっり放つ。さながら狙い澄《す》ました猟師が鉄砲を撃《う》つように。
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ」
タクトを流《りゅう》麗《れい》な動作で振り上げると髪がふわりと浮かび上がった。
「大気よ、カタストロフィーを奏《かな》でよ!」
刹《せつ》那《な》。ビルの谷間で発生したのは巨大な竜巻だった。地形条件、発生タイミング全《すべ》てが完《かん》璧《ぺき》に揃《そろ》ってコンクリートをも瞬《しゅん》時《じ》に粉々にする風のミキサーがその場に生じる。
「ぐわわわわわわあわわわわわわわあ!」
「うぬうう! お、おのれ、川《かわ》平《ひら》薫《かおる》!」
巻き込まれ、さすがに悲鳴を上げる巨《きょ》魁《かい》二人。
だが、薫の攻《こう》撃《げき》はそこでさらなる展開を控えていた。彼は全てを終わらせるように目をつむり、力一杯タクトと手を交差させる。
その合図を受けて所定の位置についていた犬《いぬ》神《かみ》たちが思い思いのポーズで足を踏ん張り、人差し指を振り上げ、
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×オール−1 『煉《れん》獄《ごく》』!」
それを嵐《あらし》の中心に突きつけた。全《ぜん》霊《れい》力《りょく》を残らず振り絞るつもりで渾《こん》身《しん》の術を放つ。それはさながら全てを気化させる灼《しゃく》熱《ねつ》のかまどだった。青白いサファイヤのような炎が竜巻と折り重なるようにして大《だい》妖《よう》狐《こ》と赤《せき》道《どう》斎《さい》を完《かん》膚《ぷ》無《な》きまでに捉《とら》えた。
風と炎の大《だい》乱《らん》舞《ぶ》。
「あがああああああああああああああああああああああ!!!」
「ぐげええええええええええええええええええええええ!!!」
威力だけなら全犬神を通して最強最高。
何者をも燃《も》やし尽くすその『煉《れん》獄《ごく》』の超強化版。いかに大《だい》妖《よう》狐《こ》と赤《せき》道《どう》斎《さい》といえど今度こそ二度と立ち上がれないだろうと思わせるエネルギーの密度。吹き飛ばされ、焼き尽くされ、息を吸うことすら許されず、ずたぼろにされる地獄の嵐。
だが。
「うぬうぬう!」
「くくく」
二人の力は人間の常《じょう》識《しき》を遥《はる》かに超えていた。
「だいばくはつ!」
「〈打ち砕《くだ》くは我《われ》にあり〉」
ぶるうっと二人は手を突き出して猛回転する炎の竜巻を強引に止めてしまったのだ。さらに狂ったように手を振り回し、吹き払い、風を握りつぶし、それで炎をほとんど消し止めた。わずかに消え残った炎があたりにぶわっと飛散し、少女たちが悲鳴を上げ逃げまどう。
「効いてないの!? そんな!」
「慌てないで!」
薫《かおる》が即座に叫んだ。
「ダメージがないわけはない!」
確《たし》かにダメージが全くない訳ではなかった。特に赤道斎の方は黒こげのずたぼろで、肩で大きく息をしていた。
しかし同時に。
それ以外は格別どうということもないのもまた事実だった。
薫は軽く目の前が暗くなるのを感じていた。
今の攻《こう》撃《げき》で致命傷が与えられないなら正直打つ手はほとんどない。やっぱりこの二人は化け物だ、といっそ清《すが》々《すが》しくそう思った。
しかも大妖狐に至ってはほとんど無傷で、どちらかというと楽しそうでさえあった。
「すげえ!」
彼は目を輝《かがや》かせていた。彼は子供のように無邪気に笑うと薫たちを索直に賞《しょう》賛《さん》した。
「すげえよ、お前ら! 本来、弱っちいくせに戦い方がとってもえげつなく強いな!」
「どうも」
と、薫がもう笑うしかなくて力なく苦笑する。大妖狐はくるっと赤道斎を振り返って、
「なあ、これはやっぱ一人ずつやった方がいいと思わないか? あいつらなんかオレたちが二人いるのを上手《うま》く利用しているし、そっちの方がもっと面《おも》白《しろ》いよ。どうだ?」
「そうだな」
赤道斎はそしてごく何気なく大妖狐の肩に手を伸ばした。本来なら決して入れるはずのない大妖狐の致命的な間合い。川《かわ》平《ひら》薫、という興《きょう》味《み》深《ぶか》い存在が作り上げた大妖狐のほんのわずかな隙《すき》。「ん?」と大《だい》妖《よう》狐《こ》が小首を傾《かし》げる。
刹《せつ》那《な》、赤《せき》道《どう》斎《さい》が邪悪ににたりと笑った。
「でも、お前はその前に我《われ》の糧《かて》となるがいい」
大妖狐がはっと目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた。
だが、もう遅い。赤道斎は完全にゼロ距《きょ》離《り》射程内にいた。大妖狐の身体《からだ》にぴたりと手を触れ、呪《じゅ》文《もん》を発動させる。
「〈偉大なる者よ。その力を我《われ》に貸せ〉」
眩《まばゆ》い光が一《いっ》瞬《しゅん》だけ起こった。
大妖狐が声を上げる暇もなかった。
沈《ちん》黙《もく》。
次の瞬間、赤道斎が高らかに笑い声を上げていた。
「はははははははは! たわいない! こんなものか! こんなものだったのか、大妖狐!」
誰《だれ》も彼もが唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としていた。
さすがの薫《かおる》も息を呑《の》んでいる。今、赤道斎の手には大妖狐の形をした人形が握られていた。
細かい部分までしっかりと作られた蝋[#「蝋」はunicode881F]《ろう》人《にん》形《ぎょう》だ。そして赤道斎の身体《からだ》からは禍《まが》々《まが》しくも、強烈な力が目も眩《くら》むほど噴《ふ》き上がっていた。彼の傷が、服の破れ目がみるみると治っていき、その瞳《ひとみ》が大妖狐のように金《こん》色《じき》に輝《かがや》く。
「おお! 凄《すさ》まじい! 凄まじいぞ、これは!」
赤道斎は興《こう》奮《ふん》したように身体《からだ》をぶるぶる震《ふる》わせた。
薫がからからに乾いた口を湿してようやく尋《たず》ねる。
「そ、それは?」
「これこそが我の秘策。どんな者をも必ず倒せる秘策≠セ! 相手の力を一瞬で封じ我がモノと転じる最奥義! ちなみにお前から教わった邪星≠フ技術を流用したのだがな! 安心しろ! 川《かわ》平《ひら》薫。これで、この力を使ってお前の呪《のろ》いも一気に解いてやろう! お前たちを完《かん》膚《ぷ》無《な》きまでに叩《たた》きのめした後な! おお! おお! 大妖狐の力がびくぼく流れ込む! 気持ちいい! 気持ちいいぞ!」
薫がげっという表情になっている。
大妖狐の強大な力を手にしたからなのか、赤道斎が危ない感じでハイになっていた。
「凄《すご》い! 素晴《すば》らしい! 我はこの」
と、言って感極まったように腰を前後に動かす。
「決めた! 我はこの股《こ》間《かん》できっと世界を撃《う》ち滅ぼす! 見よ! 14p砲の勇姿!」
とうとうおかしくなった!
薫が少女たちに命じていったん距《きょ》離《り》を取ろうとする。その時、遥《はる》か地上から薫たちを呼ぶ声が聞こえてきた。
「お〜い! 薫《かおる》! みんな大丈夫か!?」
「遅れてすまない!」
それは待ち望んだ啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の声だった。薫が思わず顔を綻《ほころ》ばせてそちらを見やる。少女たちがどよどよざわめいていた。
素足で身体《からだ》には毛布を一枚巻いているだけのどこかの部族みたいな仮名史郎とその背中に負ぶわれている赤ん坊。恐らく啓太。
が、スクーターに乗っている。
薫がぽかんと口を開けた。
「ど、どうしたんですか? その姿?」
彼が跳《ちょう》躍《やく》して啓太たちと合流しようとしたその時である。凄《すさ》まじい地《じ》震《しん》が起こって啓太たちのいる地面がむっくりと隆起し出した。ビルが軋《きし》み、電柱が連続してへし折れ、電《でん》線《せん》が巻き込まれるように引きちぎれ、火花が飛び散る。
「わ! わああ!」
「な、なんだ?」
仮名史郎が慌ててスクーターを発進させてそこから逃げ出した。
「啓太さん! 仮名さん!」
薫が必死で呼びかけ、咄《とっ》嗟《さ》に赤《せき》道《どう》斎《さい》の方を振り返った。彼がやっているのかと思ったのだ。だが、違った。
赤道斎もまた胡《う》乱《ろん》な半目で下界の成り行きを眺めている。
少女たちが悲鳴を上げ続けた。
激《げき》震《しん》はなお続いた。アスファルトにギザギザの地割れが走り、陥没した地面に街《がい》路《ろ》樹《じゅ》が次々と呑《の》み込まれていく。とうとう耐えきれず蟻《あり》地獄に落ちる蟻のように周りのビルが傾斜しながらゆっくりと倒《とう》壊《かい》していく。
まるでこの世の終わりのような光景だった。
代わりにせり上がってきたのが、
「〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉?」
赤道斎が不《ふ》審《しん》そうに呟《つぶや》いた。彼らの見ているところで巨大な機《き》械《かい》が完全に地上に現れる。ただ、姿形がまるで違っていた。
どちらかといえば四角かったのがピラミッドに近い三《さん》角《かく》錐《すい》になっている。外皮はとげとげしい装甲で覆《おお》われ、親しみやすかった歯車やレバーの代わりに要所要所をチューブが張り巡らされていた。さらにそこからどす黒い血のような油がまるで血が滲《にじ》むようにしみ出していた。
そしてその上部に乗っていたのが木彫りの人形クサンチッペだった。
「ますた! これべんりなようにつくりかえたよ! みてみて!」
ソレは足と手をカタコト揺らして、得意そうに踊った。赤道斎が眉《まゆ》をひそめ、彼のそばにすうっと降り立った。
「作り変えたって……お前がか?」
薫《かおる》も、彼の犬《いぬ》神《かみ》たちも、啓《けい》太《た》も、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》も息を詰めて彼らのやり取りを見守っている。
「そうだよ」
心なしか得意そうに木彫りの人形がそう言った。それからソレは〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の上部に突き出たパネルのような部分に手を置いた。
「ほら! これがかんせいばん。いなづまひかれ!」
ガタゴトと機《き》械《かい》が揺れ、ワンテンポ遅れて突《とつ》如《じょ》、晴れ渡った夜空の片隅に稲《いな》光《びかり》が走った。少女たちが驚《おどろ》きの声を上げている。
「ほのおよ、もえろ!」
同じく機械が震《しん》動《どう》し、数秒の後に〈大殺界〉の周りをオレンジ色の炎が取り巻く。真昼のように辺りが明るくなった。
「おかしのあめよ、ふってこい!」
驚《おどろ》いたことにきっかり数秒後、天からばらばらとキャンディーの包みが降ってくる。
「ぜんぶ、やめ!」
その言葉でお菓子の雨も炎もわずかなタイムラグの後にぴたりと止《や》んだ。現実が簡《かん》単《たん》に作り替えられる。
まるで悪夢のような光景だった。
「どう?」
木彫りの人形が小首を傾《かし》げた。呆《ぼう》然《ぜん》としていた赤《せき》道《どう》斎《さい》がようやく我《われ》に返った。
「だ、だが……〈大殺界〉は? 奴《やつ》はどうした?」
珍しく赤道斎はうろたえていた。
「奴の心は! 私と過ごした奴の記《き》憶《おく》は!? あの陽気で仲間思いの人格は!? おい、クサンチッペ。私の問いに答えろ!」
「ますた。あのね、それぜんぶむいみだからけずった」
「な!?」
「あのね、ますた。このきかいにはそれいらなかった。だから、かんぺきじゃなかった。ぼく、ちゃんとかんぺきにした」
「くさんちっぺええええええええ!」
「ますた。おこるの?」
木彫りの人形は口元をつり上げた。
「なら、ますたもにんぎょうになっちゃえ!」
木彫りの人形はパネルに手を当てたままそう告げた。その瞬《しゅん》間《かん》、赤道斎の身体《からだ》が眩《まばゆ》い光に押し包まれ、ぽとりと床《ゆか》に落ちた。
大《だい》妖《よう》狐《こ》の人形と共に。
魔《ま》導《どう》人形クサンチッペの足下に。
クサンチッペはその二つに手を伸ばしながら呟《つぶや》く。
「ばかな、ますた。ぼくのほうがずっとえらいのに」
その時、事態の深刻さに気がついた犬《いぬ》神《かみ》たちが全力でクサンチッペと〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉を攻《こう》撃《げき》しようとした。大妖狐と赤《せき》道《どう》斎《さい》の力がその人形には宿っているのだ。今、クサンチッペがそれを手にしたらとんでもないことになってしまう。
啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》も事情は分からぬまでももともと静《せい》観《かん》する気などさらさらない。彼らが突貫をかけようとしたまさにその時。
薫《かおる》が悲痛な声で叫んだ。
「みんな! ダメだ! 止《や》めてくれ! その機《き》械《かい》を巻き込むような攻撃はしないでくれ!」
見れば〈大殺界〉の下部には二つの氷柱が埋め込まれるように安置されていた。中で眠る人《ひと》影《かげ》も微《かす》かに見える。そして彼の声に他《ほか》の者が驚《おどろ》いて足を止めたその一《いっ》瞬《しゅん》。魔導人形クサンチッペは最強最悪の力を悠々と手に入れていた。
「ん〜、いただきます!」
手に持った大妖狐と赤道斎の人形を大きく広げた口にあんぐと入れ、唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》とする周囲をよそに咀《そ》嚼《しゃく》し始めるクサンチッペ。そのたび真《ま》っ赤《か》な光が螺《ら》旋《せん》状《じょう》にクサンチッペの身体《からだ》から噴《ふ》き上がった。そしてとうとうごくんと嚥《えん》下《げ》完了。
「ん、んん〜。ごちそうさま」
完全に大妖狐と赤道斎の力を己の身体に取り込んだクサンチッペは吹き荒れるような凄《すさ》まじい力とは対照的に子供のように純粋に興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに、周囲を見回していた。
「いまぼくは」
目が禍《まが》々《まが》しく赤く輝《かがや》く。
「とてもきぶんがいい。なぜかな?」
お腹《なか》の水晶玉で覇《は》≠フ文字が燦《さん》然《ぜん》と輝《かがや》いていた。
同時刻、倒《とう》壊《かい》しかけた建物の中を必死で走ってる猫が一匹いた。
「うう、胸《むな》騒《さわ》ぎがしたので来てみたらやっぱり……」
半泣きで崩れた石材を乗り越え、地の裂け目を二本足で器用にジャンプする。ごごごっと不吉な音を立ててさらに地面が揺れている。
「ようこさん! いい加減起きてくださいったら!」
彼は偶然に見つけた金《きん》色《いろ》の球を胸元にしっかり押し抱いていた。相変わらずその中でようこがお気楽にすや〜と寝ていた。
「う〜ん、ケイタ、タコスと酢《す》蛸《だこ》っていったいどう違うの?」
「あ〜、もう!」
留《とめ》吉《きち》は走った。
この局面では必ず、絶対、この人の力が必要になってくる。だから、彼はそれまでようこをなんとしても守り抜くつもりだった。
魔《ま》導《どう》人形クサンチッペはひどく人間的な動作で目を細め、宙にいる犬《いぬ》神《かみ》、ビルの壁《へき》面《めん》に立っている薫《かおる》。それからスクーターに乗ったままの仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》と啓《けい》太《た》を見やった。
皆、身動き一つできずにいた。
深《しん》紅《く》に光り輝《かがや》くクサンチッペがたすたすっと軽い足取りで歩く。するとその足下から波紋が〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の表面全体に広がった。
「だいじゃえん!」
突然、クサンチッペが啓太たちの方角に向けて右手を掲げた。
「でええええええええええええ!!!!」
「わあああああああああ!!!」
網《もう》膜《まく》を焼くような白い閃《せん》光《こう》が彼らの横にある郵便ポストを中心に噴《ふ》き上がり、路上に放置されていた車を次々と巻き込んで天高く吹っ飛ばしていった。慌てて待《たい》避しようとした仮名史郎が爆《ばく》風《ふう》の煽《あお》りを受けて前転。横転。不自然な姿勢でそのまま転がり続けた。さらにその上にぐしゃぐしゃにひしゃげたスクーターも乗っかってきて、
「いて、いて、いて! ぐええええええええ!!!」
背負っていた啓太ごと巻き込んだ。仮名史郎と啓太の身体《からだ》はさらに隆起したアスファルトに派《は》手《で》な音を立ててぶつかり両方ともがっくり動かなくなる。
次に、
「〈赤《せき》道《どう》の血よ、アレ〉」
クサンチッぺは反対側の手で超特大の赤い衝《しょう》撃《げき》波《は》を犬神の少女たちが密集している中空に向けて放った。恐怖の叫び声がそこから上がった。だが、幸いにもクサンチッペの視《し》線《せん》がよそにいっていたお陰で、その攻撃は大きくコースを逸《そ》れて彼女らの遥《はる》か高いところでビルの壁面にぶつかった。爆発。轟《ごう》音《おん》。少女たちは降り注ぐ窓ガラスの破片や火の粉から悲鳴を上げて逃げまどう。
薫は、
「みんな!」
と、焦った声で叫んでいた。クサンチッペがぐるぐると首を捻《ひね》る。
「おかしいな。あんまりわらえな〜い」
唇を噛[#「噛」はunicode5699]《か》みしめ魔導人形を振り返る薫。クサンチッペは肩をすくめた。
「どうしよう? ちゃんとあててころしたらわらえるのかな〜? ねえ、どうおもう?」
薫《かおる》は慄《りつ》然《ぜん》としていた。一体この人形に何があったのだろうか?
何回か出会ったことがあるが決してこんな邪悪な印象はなかった。むしろ主人である赤《せき》道《どう》斎《さい》に心から忠実に仕えていたように思う。
だが。
薫はちらっと横目でとある建物と建物の間の路地を見やり、それからすうっと息を吸い込むと、にこっといつもの優《やさ》しげな微笑《ほほえ》みを取り戻した。
真相究明は後だ。とりあえず今は出来ることをやるしかない。
「クサンチッペ! ねえ、こっちにおいでよ!」
彼はくいくいっと手で差し招いた。クサンチッペは赤道斎がよくやっていたような胡《う》乱《ろん》な半目で薫を見上げた。
「……それはめいれい?」
「ちがうさ」
薫はどこまでも友好的に笑い続けた。「薫様……」と心配そうに寄ってこようとしたせんだんとたゆねを手で押しとどめ、
「お願《ねが》いだよ。そう! これは僕から君へのお願いなんだ。さっき笑いたい、とか言ってたでしょ? そのことでなにか僕が手伝えるかと思って」
「ならいい」
大《だい》妖《よう》狐《こ》のような無邪気さでクサンチッペはすいすいと宙に上がってきた。薫と同じ目《め》線《せん》でぴたりと止まって、
「わらいたい。てつだって」
「うん。それは良いけどさ。そもそも君はなんで笑いたいの?」
「しつもんはいらない。ぼくがただめいれいするだけ」
クサンチッペがあっさりと先ほど破《は》壊《かい》的《てき》な術を繰《く》り出した左手と右手を薫に向かって突きつける。その距《きょ》離《り》からだいじゃえん≠ニ赤道の血≠同時に放たれればきっと薫は骨も残らず砕け散ることだろう。「薫様!」と少女たちの間から悲鳴が上がった。
だが、薫はそれも押しとどめた。脂汗を掻《か》きつつ、
「これは笑うために必要なんだよ。ん。良かったら教えてくれないかな? クサンチッペさん」
「くさんちっぺさん?」
クサンチッペは首をぐるぐる回した。
「くさんちっぺさん、くさんちっぺさん、くさんちっぺさん」
彼はしばらくその表現を繰り返してから、ぴょこぴょこ身体《からだ》を動かした。
「くさんちっぺさんはとてもいい。なら、おしえてやる。ぼく、にんげんになりたい」
「ふ〜ん」
「にんげんみたいにわらったり、ないたり、たのしくなりたい」
「うんうん」
「それでばかなますたーにおそわってたけど、たりなかった。びでおみたけど、たりなかった。そのとき、だいさっかいのなかにいたなにかがよんだ」
薫《かおる》はほんのわずか眉《まゆ》をひそめ、次にはっとした表情になった。
「〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の……中?」
彼の顔に驚《きょう》愕《がく》の色あいが広がっていく。クサンチッペはとくとくと、
「なかのひとわらってた。たのしそう。だけど、やりかたよくわからない。なんでわらってるのかもわからない。ん〜もしかしたら」
クサンチッペは首を傾《かし》げた。
「おまえをころしたらわらえるかな? おまえをこのよからけしたらわらえるかな? なんかそんなきがする……おまえ、きえる……うんめい」
クサンチッペの腹部で憶《おく》≠フ文字が浮かぶ。薫はよろめいて背中をビルの壁《かベ》に預けた。〈大殺界〉は確《たし》かに氷の棺《ひつぎ》を解《かい》呪《じゅ》しようとしていた。ソレのかけた呪《のろ》いを解こうと色々な角度から色々な方法でソレの思考や記《き》憶《おく》にも触れたはずだ。
もしソレの想念がまるでウイルスのように〈大殺界〉の中に侵入して、ずっと生きながらえていたのだとしたら……。
「わらいた〜い」
クサンチッペの背後で悪夢のように嘲《あざ》笑《わら》い、高笑う邪星≠フ姿がオーバーラップして見えた。
「こんなところまであなたは追いかけてくるのか!」
薫が悲鳴のような声を上げたその時である。
「あああああああああああ!!!」
クサンチッペが〈大殺界〉を見下ろして叫び声を上げていた。薫ははっと我《われ》に返った。すかさず彼は抜き打ち気味に銀のタクトを振るった。
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
突風が不意打ちでクサンチッペを襲《おそ》い、彼を吹き飛ばして、反対側のビルに叩《たた》きつけた。同時に薫が叫んでいる。
「なでしこ! 急げ! 見つかった!」
その場にいる全員が驚《おどろ》きの眼《まな》差《ざ》しで〈大殺界〉の方を見やった。いつの間にかなでしこがその足下まで接近していたのだ。
ずっと非|戦《せん》闘《とう》要員として隠れていた彼女が。
今、とうとう決定的な起死回生のチャンスを掴[#「掴」はunicode6451]《つか》もうとしていた。
「早く! 早くこの人形を無力化するようその機《き》械《かい》に願《ねが》うんだ! 大《だい》妖《よう》狐《こ》と赤《せき》道《どう》斎《さい》を外すだけでもいい!」
薫《かおる》が必死で呼びかけた。さらにぐぐぐっと上半身を持ち上げたクサンチッペに、
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
もう一《いち》撃《げき》足止めの攻撃を加える。べこんと魔《ま》導《どう》人形の身体《からだ》がまたビルの壁《かべ》にめり込んだ。他《ほか》の犬《いぬ》神《かみ》たちも慌てて牽《けん》制《せい》攻《こう》撃《げき》をかけまくった。
「この! この! 『紅《くれない》』! 『紅』! 起きてくるな、こいつ!」
「はやく! はやく!」
少女たちが叫ぶ。
なでしこが大慌てで機《き》械《かい》のでっばりをよじ登り、転げるようにパネルに近づく。しかし。
「させえええええええええええええええんんんん!」
圧倒的な力を持った今のクサンチッペは薫たちだけでは抑えきれなかった。彼は全《すべ》てを振り払うと、
「きゃ!」
と、群がる犬神の少女たちをまとめて吹っ飛ばし、焦《あせ》って風を放ってくる薫の攻撃を残らず全てかわして、一《いっ》直《ちょく》線《せん》になでしこに向かって急降下していった。
両手をドリルに変化させる。
ただなでしこだけを刺し貫こうと狙《ねら》う!
だが、それより早くなでしこは息せき切ってパネルに到着していた。手も当てていた。願《ねが》い事を叶《かな》える時間は刹《せつ》那《な》だが、充分あった。
あったのだ。
なでしこの思いはそこで。
ほんの一《いっ》瞬《しゅん》。ほんの一瞬だが脇《わき》に逸《そ》れた。彼女は知っていた。この機械がどんな願いでも叶えてくれることを。
あるいはそれは〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の中に潜《ひそ》む邪悪な何かが見せた幻だったのかもしれない。なでしこはその刹那の時間に甘い夢を見た。
薫が自分だけを愛してくれる夢を。
他《ほか》の少女たちがいてもいい。自分だけのモノだなんて我《わが》儘《まま》は言わない。ただ、彼が自分を一番だと公言してくれて、彼の身の回りの世話は自分が優《ゆう》先《せん》的《てき》に出来る。そんなささやか過《す》ぎるくらいささやかな夢。貧しくても良い。贅《ぜい》沢《たく》なんていらない。
ただ彼が自分を見てくれる時間をもっと増やして。
外で手を繋《つな》いでくれて。
笑いかけてくれる。本当にささやかな、ささやかな夢。ひとときの甘い夢。そして二度と決して取り返しのつかない夢。
ざしゅ。
なでしこがはっと我《われ》に返ったのはそんな音を耳にした時だった。
彼女はそこで夢とは真《ま》逆《ぎゃく》の苛《か》烈《れつ》な現実を目《ま》の当《あ》たりにした。血が噴《ふ》き出ていた。恐ろしいほどの血が最愛の人の肩から噴き上がっていた。
ドリルが彼の肩を貫通してぎりぎりと回っていた。薫《かおる》ががふっと大量の血を口から吐いた。
「いや……」
なでしこが顔を強ばらせた。口元を手で覆《おお》い、首を振った。現実が信じられなかった。こんな現実|全《すべ》て消し去ってしまいたかった!
「あ、あは」
薫が苦しさを堪えた笑《え》みを浮かべた。なでしこを安心させるように。こんなのなんでもないよ、とでもいうように。優《やさ》しく、震《ふる》える手をなでしこに向かって差し伸ばした。彼は魔《ま》導《どう》人形を止められないと判断した時点でたった一つ自分に出来ることをしたのだ。
すなわち。
大好きな、大好きななでしこのために己《おの》が盾《たて》となること。
「いやああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
なでしこの口から絶叫がほとばしった。
「ふん。じゃま」
クサンチッペがドリルを手に戻して、薫から引き抜いた。血まみれの薫の身体《からだ》がモノのように崩れ落ちる。
「薫様! 薫様! 薫様!」
なでしこが夢中で薫に取りすがった。上空で少女たちの悲鳴や怒りの叫び声が聞こえてきた。彼女らは続いて猛烈な勢いでクサンチッペに襲《おそ》いかかっていったが、クサンチッペは胡《う》乱《ろん》な半目で赤い衝《しょう》撃《げき》波《は》を右手から繰《く》り出すことで応戦した。
轟《ごう》音《おん》。真《ま》っ赤《か》な爆《ばく》風《ふう》。噴き飛ばされる少女たち。だが、なでしこは一切そちらに構わず薫の手を握り続けた。薫は薄《うす》く目を開けた。
血に濡《ぬ》れた口元で呟《つぶや》く。
「なでしこ……だいじょうぶ。僕はまだだいじょうぶ、だから」
「薫様! 薫様! 薫様!」
弱々しく笑ってみせる薫とひたすら滂《ぼう》沱《だ》するなでしこ。クサンチッペはそれを見ながら小首を傾《かし》げた。
「ん〜。なんかちがうんだよな。わらえない。なんかころすんじゃない……まだたりない。そうだ! けしてみよう!」
そして彼はパネルに手を置くと、
「このおとこをこのよからけしちゃえ」
そう願《ねが》った。その瞬《しゅん》間《かん》、ガタゴトと機《き》械《かい》が動き始める。ようやくはっとなでしこが振り返る。絶体絶命の危《き》機《き》。
その時。
唯一反応したのがちょっと離《はな》れた場所にいた特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》だった。
彼はずたぼろもいいところで、額《ひたい》からは盛大に血を流していたが、盟友のピンチに震《ふる》える足で立ち上がっていた。
剣もない。
向こうまで辿《たど》り着く体力ももはや残っていない。彼にはそれ以外の選択肢を考えている余裕はもうなかった。
持っている最大の霊力を気絶した赤ん坊の啓《けい》太《た》に込め、
「すまん、川《かわ》平《ひら》啓太! 文句はお互い生き残っていたらたっぷり聞こう! くらえええええええええええええ!!!」
と、思いっきり遠投したのだ。啓太は哀れにも投げられている途中で正気に返る。
「でええええええええええええええええええええ!!!」
その叫び声で勢いはさらに加速し、〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉が本格的に稼《か》働《どう》するほんのわずか前にコントロールパネルの基部に激《はげ》しく激《げき》突《とつ》した。
一《いっ》瞬《しゅん》、ぐにゃっと現実世界が揺らいだ。
「ああああ!!!!」
クサンチッペが抗《こう》議《ぎ》の声を上げた。だが、無情にも。
妨害むなしく〈大殺界〉の力は発動し。
「か、薫《かおる》様ああああああああああああああああああああ!!!」
血に塗《まみ》れた薫の姿がぼんやりと揺らいでいき、
「なでしこ。ごめん、僕は君を」
透き通るような泣き笑いを浮かべた彼がもっとも重要な言葉を伝える前に消えてしまった。その瞬間、なでしこはどさりと横倒しに倒れた。虚《うつ》ろに開かれた瞳《ひとみ》はもうこの世の何も見ていなかった。
少女たちの間から悲痛な、悲痛な泣き叫ぶ声が上がった。
仮名史郎が諦《てい》念《ねん》するように深く深く目をつむった。
「ん〜。やっぱりなんかへんなふうにはつどうしたな……ま、いっか」
クサンチッペは小首を傾《かし》げた。
「あははは」
彼は発声練習してみる。
「あははははは。ん〜、やっぱりまだうまくできない。わらえない」
彼は大げさに肩を落とすような動作をするとまず死体のように身動き一つしないなでしこを〈大殺界〉の上からごろりと蹴《け》落《お》とし、次に再び気絶した啓太を取り上げ、それもまたぽいっとまるでゴミでも捨てるように辺りに放り投げた。
彼の小さな身体《からだ》が地面で一度バウンドし、〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の浮上と共に出来たアスファルトの割れ目に転がり込み、奈《な》落《らく》の底へと落下していく。その間、誰《だれ》も何も出来なかった。何度も飛び出そうと試みるのだが、その度《たび》に恐怖で身体がすくんで思うように身動きがとれなかった。
少女たちは涙を流していた。どうしようもない悔しさに歯がみをしていた。
最後にクサンチッペは、
「こいつらももういいや!」
パネルに手を置くと、川《かわ》平《ひら》薫《かおる》がその命をかけて守ろうとした氷の棺《ひつぎ》を二体〈大殺界〉から勢いよく射出した。少女と男の身体を閉じこめていた氷の棺はそれぞれ地面を滑って、啓太の身体と同じく地面の割れ目に飛び込んで視界から消えた。
それを最後まで見送ってからクサンチッペはくるっと振り返って明るく皆に尋《たず》ねた。
「で、のこったおまえらがぼくをわらわせてくれるのか?」
満《まん》身《しん》創《そう》痍《い》の特命|霊《れい》的《てき》捜査官と。
最愛の主《あるじ》を失った傷だらけの犬《いぬ》神《かみ》たちは。
絶望≠覚えた。
どこかでなにかが高笑いを上げていた。
間奏6川平啓太=m#中見出し]
最初出会った時は単なるおかしな子だと思った。
彼は少年を歓迎する座《ざ》敷《しき》で大人《おとな》たちのお酒を盗み飲みし、タバコをくわえて、ご馳《ち》走《そう》をお腹《なか》いっぱいに貪《むさぼ》り食っていた。
自分と同年代の子供。
明るく、開放的に笑う彼は初めの頃《ころ》どちらかというと少年の意《い》識《しき》の外にいた。それほど重要な存在だとは思っていなかったのだ。
だが、その認識は徐《じょ》々《じょ》に改まっていった。
川平|啓《けい》太《た》は何がどうとははっきり言えないのだが、明らかに何かが違っていた。
得《え》体《たい》の知れない感化力があった。
祖母に似た能《のう》天《てん》気《き》で、でたらめで、でも、肝《かん》心《じん》要《かなめ》のところで何かしてくれるような、そんな信頼感があった。
川平家にいわば異邦人として訪れていた少年はいつしか彼を手本とするようになった。犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いとして、何が大事なのかを彼から学ぼうとした。
彼の笑い方や、戦い方。物事に対する接し方を自分なりに一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》吸収した。
そして不《ふ》思《し》議《ぎ》なことに。
これが一番奇妙なことなのだが、少年が啓《けい》太《た》のやり方を学べば学ぶほど、周囲の大人《おとな》の評価は全くの正反対になっていった。
片や落ちこぼれの犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い。
片や最《さい》優《ゆう》秀《しゅう》の跡目候補。
少年はそんな状態を啓太に対してとても申し訳なく思っていたが、啓太の方はまるで気にしていないようだった。
いつか折り目折り目に彼と会うことが少年の中でとても大事なことになっていた。
彼と話したり、遊んだりするのはとても楽しかった。
自分は真《ま》っ直《す》ぐに生きられる。
彼がいるから、彼がいてくれるから自分はやれるだけやれる。
そんな気持ちがあった。
川平啓太。
少年は彼に残った全《すべ》てを託す。
どうどうと流れる暗い水の中で啓《けい》太《た》ははっと目が覚めた。どうやら自分は地下を流れる下水に投げ込まれたようだ。
「ぐ! こ、この!」
彼はなんとか泳ごうと試みる。だが、彼の今の身体《からだ》はあまりにも非力で、
「ちょくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
あちらこちらのパイプが寸断されたために今や濁《だく》流《りゅう》のように激《はげ》しさを増した下水に巻き込まれていった……。
そして啓太が叫び声を上げていた頃《ころ》、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》と薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》たちは一カ所に寄り集まっていた。なんとなく自然と犬神たちは空から降りてきて、彼の周囲に浮いている。
仮名史郎はこんな非常時だというのにまず何より犬神たちを哀れに思った。
主人を亡くした少女たちのほとんどが泣いていた。幼いともはねは未《いま》だに激しく咽《む》せび泣いていて、一人だけ唇を噛[#「噛」はunicode5699]《か》んで必死で涙を堪《こら》えているせんだんとその手を繋《つな》いでいる。フラノがほとんど貧血を起こしかけていて、彼女を抱いたごきょうやもまた透明な涙を流していた。たゆねに至っては悔し涙で息もつけないでいる。
「なんでボクが」
彼女の拳《こぶし》がぶるぶると震《ふる》えていた。
「なんでボクはこんなに臆《おく》病《びょう》なんだろう。こんなにも弱いんだろう」
いぐさが堪えきれずに嗚《お》咽《えつ》を漏らした。
「みんなを守れないんだろう」
双《ふた》子《ご》が現実を信じられないというように、
「あはは、か、薫様も冗《じょう》談《だん》きついよな」
「そうそう。笑えないよ、こんなの」
頭を掻《か》きながら必死で笑おうとするが涙がそれ以上に溢《あふ》れ出る。
実直な仮名史郎は思っていた。自分では薫の代わりになれないが、せめて自分に出来ることは全部してやろう。たとえ命にかえても。
そうしないと薫が、彼女たちがあまりにも哀れに過ぎた。
「ん〜。ないちゃだめだよ。わらってよ?」
クサンチッペがカタコト手足を鳴らして言った。
「はやく! はやく! はやくぼくをわらわせてくれないところすよ?」
少女たちが怖《おぞ》気《け》を立てる。だが、涙を流しながらも比較的、冷静だった少女が一人いた。彼女はほとんど唇を動かさず言った。
「みんな諦《あきら》めるのまだ早い」
え?
と、少女たちが普《ふ》段《だん》茫《ぼう》洋《よう》と何を考えているのか分からないてんそうを見やった。彼女はまた低く抑えた声で言った。
「まだチャンスはある。ばらばらに逃げて。あの機《き》械《かい》へ辿《たど》り着けば」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》とせんだんがはっとした顔つきになった。
確《たし》かに皆であの人形を〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉から引き離《はな》し、なでしこがやったように誰《だれ》か一人でもコントロールパネルに辿り着けば今度こそ形勢を逆転出来るかも知れない。
「よし! みんな逃げよう! もうダメだ!」
「散り散りに逃げるのよ!」
仮名史郎とせんだんがあえて大げさにそう叫んだ。
ごきょうやといぐさがすぐにその意図を組み取り、手近にいた者に身振り手振りで作戦を教える。少女たちがその瞬《しゅん》間《かん》、一斉に辺りに散開した。
ある者は頭上に、ある者は右に左に、建物の影《かげ》へ。
仮名史郎だけが挑発するようにゆっくりと後ろに逃げた。
「あれれ?」
と、クサンチッペはめまぐるしく位置を変える少女たちの動きを目で追った。それから口の端をもたげ、ちぢちっと指を振る。
「だめだめ。ぼくはとってもあたまがいいんだよ? もうそのてはくわない」
彼はとんと〈大殺界〉から飛び降りると叫んだ。
「おまえはもうおうちにかえってなさい! ちかくにくるものがいたら、ちゃんとじぶんでじぶんのみをまもるんだよ?」
その言葉で〈大殺界〉がごごごごっと地揺れを起こしながら現れた時と同じように再び地面にめり込んでいった。
「く」
仮名史郎とせんだん、ごきょうやがそれぞれ別の方角から魔《ま》導《どう》人形の脇《わき》をすり抜け、〈大殺界〉に追いすがろうとした。
危険極まりない行為だが、地下に潜《もぐ》られたらそれこそ勝《しょう》機《き》が完全になくなる。
だが。
「とおさないよ〜だ♪」
眼前で信じられないことが起こった。クサンチッペの身体《からだ》が真《ま》っ赤《か》な光と共にぐんぐんと巨大化すると、たちまちちょっとしたビルほどの大きさになり、仮名史郎たちの身体をその手の平でまるで虫けらのように払ったのだ。地面をずちゃっと転がる仮名史郎、せんだん。隆起した地面にひどく頭を打ちつけ、ぴくりとも動かなくなるごきょうや。
フラノの長い長い悲鳴。
そして。
「あ!」
といういぐさの叫び声と共に唯一のチャンスであった〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉は完全に地面に沈み込んだ。後にはぽっかりと巨大なクレーターが姿を見せるのみ。全《すべ》ての少女たちが唇を噛[#「噛」はunicode5699]《か》み、がっくりと首を落とした。てんそうさえも。
「終わった……」
目をつむり、そう呟《つぶや》いた。
誰《だれ》も彼もが動けずにいる。
虚脱し、希望を失い、茫《ぼう》然《ぜん》自失していた。クサンチッペが不《ふ》思《し》議《ぎ》そうにそんな少女たちを見回した。
「あれれ? わらわしてくれないの? なんで?」
「は、はは」
「そんな笑いたきゃ、鏡《かがみ》でてめえの間抜け面《づら》でもみろっての……」
双《ふた》子《ご》が辛《かろ》うじて憎まれ口を叩《たた》くがもうそんな彼女たちも重い腰を上げることが出来ずにいる。今、クサンチッペが彼女らを踏み潰《つぶ》そうとしても抵抗一つ出来ないだろう。沈《ちん》鬱《うつ》に静まりかえった周囲の中で、唯一大きな声を上げているのがフラノだった。
彼女は先ほど頭をひどく打ちつけてからぴくりとも動かなくなったごきょうやに取りすがってわんわん泣いていた。
「ごきょうやちゃん! ごきょうやちゃん! しっかりしてください!」
彼女は大好きで、大好きで仕方ないいつも頼りにしていた小柄な姉貴分を呼び起こそうと懸《けん》命《めい》に呼びかけていた。
「死んじゃいや! ごきょうやちゃん死んじゃいやです!」
その耳を覆《おお》いたくなるような悲痛な泣きじゃくる声。
クサンチッペが舌打ちを一つした。
「あ〜、いんきだな。もう」
彼はフラノのところまでずしんずしんと歩いていくと巨大な指をすうっと彼女の顔の前|辺《あた》りに置いた。
「え?」とフラノがびっくりしたように顔を上げる。その瞬《しゅん》間《かん》。
「おまえだまれよ。うるさいから」
びしっとフラノの顔面を指先で弾《はじ》いた。
「ぎゃん!」
フラノの身体《からだ》がはじき飛ばされ、地面を転がる。それからちょっと痙《けい》攣《れん》した後、もう動かなくなった。だくだくと彼女の虚《うつ》ろに開いた目と鼻と口から血が溢《あふ》れていた。
即座に切れたのがてんそうだった。
最高の友人二人を同時に目の前でぶちのめされ、彼女の感情のリミッターが一気に吹き飛んだ。
「あああああああああああああああああああああああ!!!!」
牙《きば》を剥[#「剥」はunicode525D]《む》き出し、身体《からだ》を光り輝《かがや》かせ、我《われ》を忘れてクサンチッペに襲《おそ》いかかる。
しかし。
「あ〜〜〜! じゃま!」
無《む》惨《ざん》にもまるでカトンボのように手の甲で打ち据えられ、彼女は倒《とう》壊《かい》したビルに向かって吹っ飛び、咄《とっ》嗟《さ》にいぐさがその間に入って衝《しょう》撃《げき》を緩《かん》和《わ》しようとしたがその勢いも止めきれず、二人ともずしゃっと瓦《が》礫《れき》の山にめり込んでしまった。
そのままいぐさもてんそうも二度と立ち上がってはこなかった。
「くそ! くそおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
双《ふた》子《ご》ががくがく震《ふる》える足でクサンチッペに向かって走り出していった。仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が止めようとしたが間に合わなかった。
せんだんもそれで何かを諦《あきら》めたように吐息をつくと、彼女自らクサンチッペの眼前に踊り出していく。次の瞬《しゅん》間《かん》、いつも賑《にぎ》やかだった双子はまとめてクサンチッペに蹴《け》り飛ばされ、地面を無《ぶ》様《ざま》に転がり、ぼろ切れのような状態になって止まる。
せんだんも空中であっさりとクサンチッペの手に掴[#「掴」はunicode6451]《つか》まり、
「うるさいなあ。もうちょっとおしとやかにしててよ?」
彼が軽く力を込めただけでかはっと目を見開き、血を吐き出した。
「離《はな》して! 離して!」
ともはねが死にものぐるいで前に出ようとする。それを仮名史郎が必死で抑えていた。
「待て! 君が行ったってどうなるもんじゃない!」
たゆねはがくがく震えていた。
怯《おび》えていた。
どうしようもなく身体に力が入らなかった。だが、
「あれ? うこかなくなっちゃった」
せんだんの瞳《ひとみ》から光が失われた刹《せつ》那《な》。
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×一 『たゆね突撃』!」
自分でも堪《こら》えられない激《げき》情《じょう》にとらわれ、頭から突進する。犬《いぬ》神《かみ》の単体技としては最高最強。家をも軽く吹っ飛ばす究極の体当たりを受け、
「ぐは!」
さしもの魔《ま》導《どう》人形もよろめいた。
かに見えた。たゆねが喜色に顔を輝かせた次のタイミングで、
「な〜んて、うそん♪」
クサンチッペはべえっと舌を出すと絶望に顔を歪《ゆが》ませるたゆねを反対側の手で打ち据えた。たゆねは大きく地面に叩《たた》きつけられた。
クサンチッペはさらにせんだんを握りつぶそうとする。
「ともはね。いいか? よく聞け。君だけでも逃げろ。逃げて川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》を捜し出せ」
自《じ》暴《ぼう》自《じ》棄《き》に突進する犬《いぬ》神《かみ》たちを自分は止められなかった。今からでも遅くない、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が決死の覚悟を決め、ともはねが泣き叫んだその時。
「はなせ」
這《は》いずりながらクサンチッペの足にすがりつく少女がいた。
たゆねだった。
彼女はクサンチッペの足の甲を打ち据えた。
「せんだんを離《はな》せ」
目がもうほとんど見えていない。ぶるぶる震《ふる》えながら、
「ボクは……ボクにはそれしかないから。ちょっと強いだけだから。他《ほか》の奴《やつ》らみたいに素《す》敵《てき》なことがなんにも出来ないから」
彼女は泣きながら叫ぶ。叫び続ける。
「だから、せめて、ボクがみんなを守るんだ! 負けるもんか! 負けるもんかあ! お前なんかにボクらの想《おも》いが負けてたまるもんかああああああああああ!!!」
「くす」
クサンチッペは小首を傾《かし》げた。彼は不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに、
「あ、いまちょっとわらえそうだった……おまえをふみつぶせばもっとわらえるかな?」
せんだんを傍《かたわ》らに放り出し、たゆねだけを狙《ねら》って大きく足を振り上げる。仮名史郎が死を覚悟して前に走り出す。
ともはねが絶叫する。
その時。
ゆっくりと。
ゆらりとなでしこが立ち上がっていた。彼女は呟《つぶや》いていた。
「もういいと思っていたのに……もう何もかもどうでもいいと思っていたのに」
そして彼女は三百年ぶりにはっきりと怒りを込めて空を見上げていた。
同時刻、下水をひたすら流されていた啓太は薄《うす》れゆく意《い》識《しき》の中で、
「くけけ?」
と、妙に聞き覚えのある声を聞いていた。
手を天にかざす。
月に祈る。かつて自分の強大すぎる力を預けた衛《えい》星《せい》を探した。月明かりの下、彼女は目をつむった。見つけた。
クサンチッペが怪《け》訝《げん》そうにそんななでしこを見つめていた。
振り上げていた足を脇《わき》におろす。
だが、なでしこはその一切のことを関知せず、
「〈破《は》壊《かい》の槌《つち》よ。全《すべ》てを滅ぼす万物の力よ。私は再びたった一つのことを望みます〉」
片手をすうっと天に向かって差し上げた。
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》とともはねが息を呑《の》んだ。たゆねがそれを見届けた後、がっくりと首を垂れる。次の瞬《しゅん》間《かん》、なでしこの真上から真《ま》っ直《す》ぐに青白い光が、まるでレーザービームのように降り下りてきて彼女の身体《からだ》を柔らかく包んだ。
天と地が青白い光で一直線に結ばれる。大地が揺れる。
天が鳴《めい》動《どう》する。
ごごごごごっと青白い光を身にまとわせながらなでしこがすうっと浮かび上がった。彼女の服が、髪が波紋の中にいるように揺れ動く。
ぱちりっと大きな目が見開かれ、なでしこの顔から一切の表情が消えた。
その次の瞬間、青白い光の照射が止《や》む。
辺りが不気味なくらいの静けさを帯びた。
その中で彼女は言った。
「わたしはこの後、死にましょう。もう生きている意味はないから」
乾いた声で。
「だけど、あなたも必ず殺しましょう。生かす価値がもうないから」
「くけえ〜?」
心配そうに額《ひたい》に水かきを置かれる。ニュアンス的に「こんなところで一体なにやってるんだ?」というような感じだった。
啓《けい》太《た》はかすれ声で呟《つぶや》いた。
「俺《おれ》を」
そのまま意《い》識《しき》を遠のかす。
「岸まで運んでくれ……」
「くけえ」
河童《かっぱ》が嬉《うれ》しそうに啓太を力強く引っ張り始めた。
「ころす?」
クサンチッペが胡《う》乱《ろん》な半目でなでしこを睨《ね》め上げた。
「いったいどうやって?」
しかし、なでしこはその質問には一切答えず、あちらこちらで倒れ伏している仲間たちを辛《つら》そうに見やった。
ごきょうや、てんそう、フラノ。いまり、さよか、せんだん、いぐさにたゆね。みんなみんな素《す》敵《てき》な仲間だった。自分にはもったいないくらい素敵な仲間だった。この落とし前はせめて自分の命でつけよう。
「ごめんなさい」
彼女は深々と頭を下げた。
それから仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》とともはねに向かってよく通る声で呼びかけた。
「仮名さん、ともはね! これからこの人形をこの場から引き離《はな》します。みんなを連れて出来るだけ遠くへ逃げてください!」
「あ、ああ。だが君は」
「それと宗《そう》家《け》様とはけ様の人形はさっきドクトルさんに手渡しておきました。後でちゃんと受け取ってくださいね?」
ともはねが涙で目を潤《うる》ませた。
「なでしこお」
「だいじょうぶ」
なでしこはそちらを見てからにこっと笑った。
「すぐ終わるから」
「おまえがな!」
クサンチッペが両の手をなでしこに向け、
「だいじゃえんと〈赤《せき》道《どう》の血よ、アレ〉」
極大の衝《しょう》撃《げき》波《は》と究極の炎を同時に放つ。わあああっと仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》とともはねが叫び声を上げる。だが、なでしこはむしろ冷ややかに笑っていた。
「こんなもの」
青白く光り輝《かがや》きながら手の甲で軽くゴミでも払いのけるような動作をする。すると軽く街の一区画を吹き飛ばす威力を秘めた攻《こう》撃《げき》が比較対象としてはごま粒ほどの大きさの彼女の目の前でぐいっとねじ曲がり、
「え?」
クサンチッペが初めて呆《あっ》気《け》にとられた顔をしている間に遙《はる》か遠くに吹っ飛んでいき、着弾して轟《ごう》音《おん》と紅《ぐ》蓮《れん》の炎を噴《ふ》き上げた。
その炎に照らされたまま、
「ならば始めましょう。罪深い者同士。許されぬ死のダンスを」
なでしこは瞬《しゅん》時《じ》に加速した。
かき消え、見えなくなる。
「う! ご! げほ!」
いつの間にかビルほどもある魔《ま》導《どう》人形の腹にその小さな小さな拳《こぶし》をめり込ませていた。驚《おどろ》いたことにクサンチッペが身体《からだ》をくの字にねじ曲げていた。腹部の水晶玉にぴしぴしっと罅《ひび》が広がっていく。
仮名史郎もともはねも我《わ》が目を疑った。
「あら、痛いの?」
なでしこは冷ややか笑みを浮かべたまま呟《つぶや》いた。
「人形のくせに」
さらにいったん地に深く沈んでから、
「血も通ってないくせに」
目にもとまらぬ早さで頭上に飛び上がり、思いっきり捻《ひね》るようなアッパーカットをクサンチッペの顎《あご》に決めていた。巨大なクサンチッペがのけぞり、信じられないことにその踵《かかと》が一《いっ》瞬《しゅん》宙に浮いた。さらに彼女はスカートの裾《すそ》をひるがえすと、思いっきり遠心力を溜《た》めて、
「痛みだけは一丁前にあるのね!」
クサンチッペを遥か遠くへ蹴《け》り飛ばした。
「なにやってるの! 逃げなさい!」
なでしこのその叫びに仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がはっと我《われ》に返った。ともはねと共に怪《け》我《が》している者に駆け寄る。その間、なでしこは水平飛行に移るとクサンチッペを追いかけた。彼は十四階建てのビルにぶち当たり、それをオモチャのように突き崩し、ようやく止まっていた。
「うげ! ぐは! な、なんだあ?」
その頭上に氷のように冷たい表情を浮かべたなでしこが浮かんでいた。
全身から青白い光を揺らめかせながら、
「どうやらこれで最後のようね。お互い」
クサンチッペは木彫りの人形らしい無表情に戻った。
それから彼としては初めてにやっと笑いらしい笑いを上手《うま》く顔に浮かべた。邪悪な邪悪な笑《え》み。確《たし》かにこの犬《いぬ》神《かみ》は破格に強いようだ。
恐らく天の力を借り、己《おのれ》の肉体と霊《れい》力《りょく》を限界以上に爆《ばく》発《はつ》させている。
死を覚悟してこその一時的な増幅だ。
だが、それまでだ。
それだけだ。不《ふ》思《し》議《ぎ》なことに彼女をどう取り扱ったらいいか身体《からだ》が教えてくれた。
「まあ、まて」
彼は手を前に差し出す。なでしこは首を横に振った。
「ダメ。待てない。死になさい。木片も残さず。粉々に」
「まてというに。ほら、おまえのだいじなしゅじんもそういってるだろう?」
そうしてクサンチッペは赤《せき》道《どう》斎《さい》の魔《ま》導《どう》の力を使って、彼女の目の前でゆっくりと川《かわ》平《ひら》薫《かおる》の映像を浮かび上がらせた。
なでしこが息を呑《の》み、動きを止めた。
ちょうどその頃《ころ》、啓《けい》太《た》は下水の中から引き上げられ、張り出したコンクリートの上でげほげほっと激《はげ》しく咽《む》せていた。河童《かっぱ》が嬉《うれ》しそうにそんな彼の頭をぺちぺちと叩《たた》いていた。
「くけけけけえ〜♪」
「いて、いて! 叩くな、こら!」
「くけえ〜」
早くいつもみたいに一《いっ》緒《しょ》に遊ぼうよ、という感じだった。啓太はそんな河童に必死で事情を説明した。
「いいから! とにかく俺《おれ》をあの人形のいるところまで運んでって痛《い》て!」
「くけけえ〜」
まるで分かっていない。啓太が「あ〜」と小さな手で頭を掻《か》きむしった時、ようやく話の分かる猫が横穴から飛び込んできた。
「啓《けい》太《た》さん!」
「ケイタ!」
彼が抱えた金《きん》色《いろ》の球の中でようこも驚《おどろ》いた顔をしていた。
幻覚だとは分かっていた。
心惑わされるモノかと思った。だが、魔《ま》導《どう》の幻惑はそれ以上に強烈だった。薫《かおる》はいつもの穏《おだ》やかな微笑《ほほえ》みを彼女に向けてくれていた。
「なでしこ……」
いつも頭を優《やさ》しく撫《な》でてくれた手を伸ばし、いつもいつも呼びかけてくれていたように静かに声をかける。狡《こう》猾《かつ》な影《かげ》に心をみるみる縛《しば》られていったが、なでしこはそれに気がつくことがもう出来なくなっていた。
だって。
「おいで」
こんなにも心が温かい。
「あ」
なでしこの頬《ほお》をぽろぽろと涙が伝わった。彼女の手が同じように伸びた。その愛《いと》しい、心の底から愛した人の手を取ろうと。
「なでしこおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
遠くでともはねが何か叫んでいたが耳に届かなかった。
「みんな来てるんです! みんなずっと地下にいたんです!」
留《とめ》吉《きち》が啓太を負《お》ぶいながら叫んだ。啓太は猫の小さな身体《からだ》にしがみつきながら問い返した。
「どういうことだよ!?」
「とにかくそこに行けば分かります! 急ぎましょう! ほら、君も頑張って!」
「くけえ〜」
河童《かっぱ》が啓太の背中を支えながらよたよたと走っていた。いかに啓太が赤ん坊の状態になっていても猫と河童の大きさも大体それくらいなのだ。二人で彼を運ぶのはかなり無理があった。それでも猫も河童も諦《あきら》めなかった。
地下の下水道は地上の戦《せん》闘《とう》でずたずたに寸断され、あちらこちらに尖《とが》った金属の破片が転がり、ねじ曲がったパイプが悪意を持って留吉と河童の行く手を阻《はば》んでいた。それでも留吉と河童は諦めず瓦《が》礫《れき》の山を登ろうとした。その向こうに光が見えている。向こうに行けばきっとなんとかなる。だが、彼らの小さな足ではそこはあまりにも難《なん》所《しょ》に過ぎた。
「くけえ〜」
情けない声を上げて河童がずり落ちた。留吉も転ぶ。彼は懸《けん》命《めい》に爪《つめ》を立て、もがき、なんとかその場にしがみついた。
啓《けい》太《た》を離《はな》すまいと。ようこを離すまいと。猫の足が、前足も後ろ足も血まみれになっていることに気がついた啓太がたまりかねて叫んだ。
「おい! ようこ! お前、そっから出られないのかよ!? なんとかならないのかよ!」
「やってるよう! やってるけど出られないんだよ!」
ようこが必死で金《きん》色《いろ》の壁《かべ》に拳《こぶし》を打ちつけた。
「よせ! 留《とめ》吉《きち》! 無理をするな! 俺《おれ》ならゆっくりでも這《は》っていけるから!」
啓太が留吉の身体《からだ》を無《む》理《り》矢《や》理《り》押さえつけて止めようとした。ふと留吉が啓太を振り返った。彼は照れくさそうに笑った。
「啓太さん」
「な、なんだよ?」
留吉ははにかむように。
「啓太さんはずっと僕らをトモダチとして取り扱ってくれました。猫なのに。河童《かっぱ》なのに。それが僕らにはすごく嬉《うれ》しかった。嬉しかったんです」
だから。
と、猫は毅《き》然《ぜん》と前を向いて言った。
「せめて僕らもトモダチとしてそれに応《こた》えたい」
啓太は呆《ぼう》然《ぜん》としていた。河童がくけ〜と鳴いて追いついてくる。留吉が頷《うなず》き、二匹が再びしゃにむに瓦《が》礫《れき》の山を登ろうとする。
だけど、力及ばずまたコンクリートの断片と共に崩れかける。
その時。
「あ、いたっす! よかったす! ここにいたっす!」
頭上から沢《たく》山《さん》のタヌキたちがわっと現れた。いつか啓太が命を助けた子ダヌキが先頭になって、
「恩返しするっす〜〜〜!!!」
わらわらと群がり寄るように下りてくる。猫よりも、河童よりも遥《はる》かに力強い彼らは猫や河童ごと啓太をたちまち軽々と抱え上げ、頭上にささげて、
「さあ、急ぐっすよ!」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
と、啓太が力一杯|吠《ほ》えた。
そこから先は比較的、整《せい》備《び》された道のりだった。白い光に満ちたその間道をタヌキの集団に運ばれる啓太とようこ。
ふと気がつくとその上空を、
「こけえええええ〜〜〜!」
と、木彫りのニワトリが飛び、傍《かたわ》らをドクトルがすたたたたっと併《へい》走《そう》していた。
「遅かったですな、啓《けい》太《た》さん」
「な? な? はあ?」
啓太は思わずドクトルとニワトリを交互に見つめる。ドクトルが説明した。
「あ、このニワトリのことはどうかお気になさらず。とりあえず今だけ手を組みましたから」
「え? ええ〜?」
と、まだ事態がよく呑《の》み込めていない啓太が言った。ドクトルは簡《かん》潔《けつ》に前を指さした。
「あなた方が地上で戦ってる間、我《われ》らもまた地下で戦っていたということです。さあ、この先にあの機《き》械《かい》があります! 急ぎましょう!」
見れば彼の背後に沢《たく》山《さん》のヘンタイたちが追《つい》随《ずい》してきて、
「おい! ドクトル。ちゃんと回収しておいたぜ?」
中の一人。見覚えのある下着泥が担《かつ》いでいる氷の棺《ひつぎ》を指さした。そのまま一同は目の前の通路をひたすらに突進した。
ただ啓太を戦場に送り届ける。
それだけのために。
「なでしこ! なでしこ!」
ともはねの呼ぶ声ももう聞こえない。なでしこは薫《かおる》の幻《げん》影《えい》に安らかに抱かれる。
もう離《はな》れない。
離したくない。
木彫りの人形がにやっと笑っていた……。
啓太たち一行の前から激《はげ》しくぶつかり合う音が聞こえてきた。見れば戦うオタク≠アと河《か》原《わら》崎《ざき》直《なお》己《き》が本当に戦っていた。
彼は一同に気がつくと、
「早く! ここを突破すれば広間だ! 早く!」
彼らの前に無数の白い骸《がい》骨《こつ》が立ちはだかっていた。
どうやらそれらは〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉を守る番兵のようだった。数人のヘンタイたちがその骸骨どもをバットや棍《こん》棒《ぼう》で打ち砕き、突き倒していた。
「すみません。では、お言葉に甘えて。突《とつ》撃《げき》!」
ドクトルの指示で河原崎が作ったスペースに皆が突っ込んでいく。ヘンタイたちが骸骨を踏み越え、タヌキたちがさらにその骨を踏み砕《くだ》く。
ばんと目の前の大きな扉を開けたそこが広間だった。
そこにはさらに数え切れないほどの骸《がい》骨《こつ》がひしめいていた。
同時に中央に安座する〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉から稲《いな》妻《ずま》が迸《ほとばし》る。タヌキの何匹かと、ヘンタイたちがその稲妻に打ち据えられ、吹き飛ばされてしまった。
だが、彼らは一《いっ》向《こう》に止まらなかった。
突進を止《や》めなかった。
ドクトルが自ら切り込み役となって道を空ける。タヌキたちがリレーのように啓《けい》太《た》たちを運び、ヘンタイたちが身体《からだ》を張ってそれを守り、最後は留《とめ》吉《きち》と河童《かっぱ》が骸骨たちに引きずり倒されながらも啓太だけは〈大殺界〉の首根っこ。
コントロールパネルのところまで一気に押し上げた。
一《いっ》瞬《しゅん》、ようこが入っている金の球が転げ落ちかけたが、それは木彫りのニワトリが見事に爪《つめ》でかっさらって啓太の膝《ひざ》元《もと》へと飛び込んだ。
「啓太さん!」
ドクトルが手に持っていた巾《きん》着《ちゃく》袋《ぶくろ》を啓太に投げてよこした。
「あとは頼みましたよ!」
「任せろ!」
啓太はコントロールパネルに手を置き、もう片方の手でそれをキャッチした。
「絶対、絶対、俺《おれ》があいつをぶっ殺す!」
反《はん》撃《げき》……。
開始!
安《あん》堵《ど》の笑《え》みを浮かべながら。
薫《かおる》と一つになろうとしたなでしこ。だが。
突然、その薫の幻《げん》影《えい》が醜《しゅう》悪《あく》に歪《ゆが》んだ。
「な〜んてな。誰《だれ》がてめえみたいなバカを好きになるかよ」
え?
と、なでしこの目が驚《きょう》愕《がく》に見開かれる。次の瞬間。両の拳《こぶし》を握り合わせ、思いっきり振りかぶった魔《ま》導《どう》人形が、
「しね!」
なでしこの頭上に桁《けた》違《ちが》いの打撃を振り下ろした。ぼぐんと破裂するような音を立てて豪速度でなでしこは地面に叩《たた》きつけられる。
地面にめり込み、骨を砕《くだ》かれ、苦《く》悶《もん》の声を上げるなでしこ。立ち上がろうとするがままならない。全く不意を打たれて防御もまるで出来なかった。その間、薫《かおる》の幻影はするするとなでしこのそばまで下りてきて、
「だから、しねよ」
「しね!」
クサンチッペが思いっきり巨大な足で小さななでしこの身体《からだ》を踏みつけた。
ぐしゃっと耳を覆《おお》いたくなるような音が辺りに鳴り響《ひび》いた。ぐいっとクサンチッペは容《よう》赦《しゃ》なくさらにその足を踏みにじった。ともはねと仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が同時に走り出していた。もう。
我慢ならない!
どうなったって構うものか!
クサンチッペはまるで当たりくじを確《たし》かめる子供のように興《きょう》味《み》津《しん》々《しん》と足をどける。
そこで、
「うぐ! がは!」
血まみれになったなでしこが瓦《が》礫《れき》に埋もれ、もがき苦しんでいた。だが、彼女はそんな身体の痛みより、心に負った傷に泣いていた。
ぽろぽろと泣いていた。
「かおる、さま……なん、で?」
手を伸ばす。
ただひたすらに薫を信じて。だが。
「くくく」
薫が邪悪な笑《え》みを浮かべた。
「俺《おれ》はお前のために死んだんだ。死にたくもないのに死んだんだ」
彼はそう言いながら薄《うす》れていく。
「だから、てめえももう死ね!」
最後の最後で薫の幻《げん》影《えい》はなでしこが差し伸ばした手を蹴《け》って、すうっとかき消えた。その瞬《しゅん》間《かん》、なでしこの中の何もかもが潰《つい》え、壊《こわ》れた。目が白《はく》濁《だく》し、動きを止める。手がもう何も掴[#「掴」はunicode6451]《つか》むことなく、ぽたりと宙から落ちた。
同時に口から目から血をどっと噴《ふ》き出し、前のめりに崩れ落ちる。爆《ばく》発《はつ》的《てき》に身体能力と霊《れい》力《りょく》を引き上げていた負荷がとうとう切れたのだ。
そして。
ついに。
「あは」
クサンチッペが巨大な身体を打ち震《ふる》わせていた。彼は今まで感じたことのない強烈な愉《ゆ》悦《えつ》を感じていた。大事な者に裏切られ、罵《ば》倒《とう》され、死んでいく者
その絶望≠ェこんなにも甘美だとは思わなかった。
美味《うま》いと思った。心ゆくまでそれを舌で味わい。
歓喜の。
歓喜の笑い声を上げていた。高らかに!
「きゃはははははははははははははははははははははははははははは!」
彼は身体《からだ》を揺すった。
足を踏みならし笑い続けた。その背後に何か異様に黒い負のオーラが立ち上っていた。クサンチッペは天を仰いで笑い続けた。
「きゃははははははははははははははははは! いい! これはいい! すんばらしくとんでもなくいい! そうか! これが『わらう』ということなのか!」
彼の身体の中心に固定された水晶玉。
先ほどのなでしこの一《いち》撃《げき》でほんの少しひびが入っていたが、そこに紛《まぎ》れもない。
邪《じゃ》
の一文字が浮かび上がっていた。
何かとてつもなく邪悪なモノと彼が繋《つな》がった瞬《しゅん》間《かん》だった。
ふと視《し》線《せん》を下に向けると倒れ伏すなでしこに駆け寄ったともはねと仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の姿が目に入った。クサンチッペはぼんやりと思った。
そうだ。こいつらも、もっととことんまで絶望≠ウせてみよう。
そうすればもっと楽しく、心の底から笑えるかもしれない。
「たのしそ〜」
クサンチッペは歪《ゆが》みきった笑いを浮かべ、大きく足を振り上げた……。
ともはねは血まみれのなでしこを身体にしっかりと抱いて、泣き統けた。悔しくて、悔しくて泣き続けた。
なでしこの大事な想《おも》いが無《む》惨《ざん》にも目の前で踏みにじられ。
仲間たちが次々と傷つけられ。
なにより薫《かおる》を自分たちの手から無慈悲に奪われた。悔しくて、悔しくて。
「こ、こんなことってないよね……ひどいよね」
虚《うつ》ろな目で上空を見続けるなでしこをぎゅっと抱きしめ、ともはねは顔をくしゃくしゃにして泣き続ける。巨大な足が自分たちの頭上に迫っているのを見て取って仮名史郎がぎゅっと目をつむり、彼女を庇《かば》うように身を投げ出す。
ともはねは涙をぐっとこらえ。
そして。
魂からの叫び声を上げた。心の底から。
「啓《けい》太《た》様ああああああああああああああああああああああああああ!!!」
ふうっと辺りが暗くなる。
聞こえてきたのは。
呼びかけに応《こた》える静かな、静かな声。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ」
カエルの消しゴムがひゅんひゅんと暗《くら》闇《やみ》を激《はげ》しく煌《きら》めきながら交差した。
そこに。
ポケットに手を突っ込み、ケモノ目で笑いを浮かべる啓太が立っていた。
「カエルよ、破《は》砕《さい》せよ」
「け、けいたさま?」
ともはねが跳ね起きた瞬《しゅん》間《かん》、無数のカエルが唸《うな》りを上げてクサンチッペに襲《おそ》いかかった。着弾。轟《ごう》音《おん》と閃《せん》光《こう》が連続して魔《ま》導《どう》人形の顔面辺たりで弾《はじ》けた。
「あ、あぐ! ぐわ! ぐわああああああああ!!!」
クサンチッペは大きく後ろによろめいた。
啓太がげらげら笑いながら、
「お〜お。やっぱこれが効いてるのかね?」
腰に結わえた巾《きん》着《ちゃく》袋《ぶくろ》をジャンプして軽く揺すった。彼は知らなかったが、それははけと宗《そう》家《け》の力を封じた人形が入った袋だった。
「さっきからすげえ調《ちょう》子《し》が良いよ。力がどんどんと湧《わ》いてくる……なんでだろう?」
「か、川《かわ》平《ひら》!」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が驚《おどろ》きの声を上げた。啓太は今や完全に元の姿に戻っていた。ジーンズに革ジャン。茶髪で、いつもの首《くび》輪《わ》をつけている。
不敵で。ポケットに手を突っ込んだ無造作な立ち姿。
「な、なんで? どうしてここに?」
口をぱくぱくさせながら仮名史郎が言った。啓太はにやっと笑った。
「あの機《き》械《かい》を使ったんだよ。俺《おれ》を元の姿に戻してここまで連れてきてくれって頼んだんだ。それより……」
彼は倒れているなでしこを沈《ちん》鬱《うつ》な表情になって見やった。それからそっと彼女の傍《かたわ》らに膝《ひざ》を突き、ポケットから手を抜くと、その首筋に手をやる。
わずかながらほっとした顔になった。
「よかった……息はまだある」
「啓《けい》太《た》さまあ」
あぐひっくと泣き声を上げながらともはねが彼を見つめる。ずっとずっと待ち望んだ存在を目《ま》の当《あ》たりにして彼女の張りつめていた緊《きん》張《ちょう》の糸はもう切れかかっていた。啓太はため息と共にそっと手を伸ばし、ともはねの頭を優《やさ》しく撫《な》でてやった。妹のように可愛《かわい》がっていた彼女が今やずたぼろだった。
髪がぐしゃぐしゃで腕や頬《ほお》に無数の傷がある。啓太は無表情になった。きっとひどく痛めつけられたのだろう。許せない一つ。周囲を見回す。友人、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は足を痛そうに引きずっていた。
いつも楽しく遊んでいた大好きな街が見るも無《む》惨《ざん》に壊《こわ》れていた。許せない二つ。
またなでしこに目を向ける。愛らしかった、優《やさ》しかった彼女が今や虚《うつ》ろな目を見開いて虫の息だった。許せない三つ。
ぶるっと啓太が震《ふる》えた。
ぶるぶるっとこみ上げてくる怒りでどうしようもなく震えた。
その背後。
ぬらっとクサンチッペが覆《おお》い被《かぶ》さってくる。
「かわひらけいた? おまえもうしんだよ」
「良かったよ」
啓太は震え声で呟《つぶや》いた。
「ほんと〜によかった。あの機《き》械《かい》にお前をこの世から消してくれ≠チて頼まずに」
「俺《おれ》がお前を」
彼はケモノの目で笑いながら振り向いた。
「完《かん》膚《ぷ》無《な》きまでにぶっ壊《こわ》す!」
同時刻、地下の広間で骸《がい》骨《こつ》たちと死《し》闘《とう》を繰《く》り広げていたドクトルたちの間から歓声が沸《わ》き起こっていた。〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の上部まで辿《たど》り着いた川《かわ》平《ひら》啓太の姿が、数秒のタイムラグのあとみるみる大きくなってかき消えたのだ。
きっと無事に決戦の地へと赴《おもむ》いたのだろう。
それとほとんど時を同じくして、
「み、みろ!」
「お、おお〜〜。溶けてるっす! 溶けてるっす!」
タヌキたちが騒《さわ》ぎ出した。
見ると人間たちが担《かつ》いでいる氷の棺《ひつぎ》が二体ともみるみると明るく淡《あわ》い光を放ちながら溶けていったのだ。
啓太は行き際《ぎわ》、
「まずなにより俺《おれ》を元の姿に戻し、あの人形がいるところに連れて行け! それとあの氷の中の二人をなんとかしろ! この事件で起こった怪《け》我《が》を全《すべ》て治せ! え〜と、つまり何もかも元通りにしろってこと!」
「ケイタ! わたしのことも忘れちゃダメ!」
「そうだ! あとこいつもこの球の中から出してやれ!」
かなり大慌てで命令を下していった。
〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉は忠実に言葉通り一つずつ命令を実行しているようだった。しかし、それと同時に魔《ま》導《どう》人形の指令通り人間たちも排除しようとしている。
骸《がい》骨《こつ》たちがさらに圧力を増して襲《おそ》いかかってきた。
氷の中にいた男と少女が今や完全に息を吹き返し、呼吸をし始める。膝《ひざ》を立て、眉《み》間《けん》に「ん」と皺《しわ》を寄せて寝起きのような動作をしていた。
一同|奮《ふる》い立った。なんとしてもこの二人だけは守り抜かなければならない。
今や数の上では完全に劣勢になっていたが二人を中心に据えて円陣を組み直し、決死の覚悟で骸骨たちと向かい合った。
その時。
『ガグゴオググググググググググググ』
という金属同士がこすれ合うような音が〈大殺界〉の中心部から上がった。さらに。
ぶすん。
ばすん、という破裂音と共に白い煙が噴《ふ》き上がる。同時に〈大殺界〉を守っていた骸骨たちがぴたりと動きを止めた。がしゃん。
がしゃん。
次々に白骨が崩れ落ちていく。
ぼっと赤い炎が〈大殺界〉のあちらこちらから広がり始めた。
「……エネルギー切れ? いや、オーバーロードですか?」
ドクトルが呆《ぼう》然《ぜん》と呟《つぶや》いた。それから彼ははっと気がついた。
「では、もしかして!」
「行くぞ! ようこ!」
と、啓《けい》太《た》が思いっきり叫んでいた。
「こいつを絶対ぶちのめす! お前の力を俺《おれ》に貸せ!」
だが、代わりに聞こえてきたのは申し訳なさそうな小さな声だった。
「あ、あの、ケイタ。わたし、まだここから出られてないんだけど?」
空から舞《ま》い降りてきた木彫りのニワトリの爪《つめ》に金《きん》色《いろ》の球が握られていた。
ようこは相変わらずその中にいた。
げっと啓《けい》太《た》が呻《うめ》いた。
「きゃははははははははははは! ど〜した? いぬかみがいないとなんにもできないか?」
魔《ま》導《どう》人形が高笑いを上げ、その巨大な拳《こぶし》を振り下ろしてきた。啓太はアクロバティックな姿勢でそれをよけると、
「だあ! うるせえ! 俺《おれ》は犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いなんだよ!」
木彫りのニワトリから金色の球を受け取り、着地。クサンチッペの拳が瓦《が》礫《れき》の山にめり込み、砕《くだ》け散った破片が辺りに飛び散った。ともはねが悲鳴を上げる。咄《とっ》嗟《さ》に仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が彼女となでしこを庇《かば》っていた。
啓太はそちらに目を走らせ、
「ち! おら、来い!」
クサンチッペを挑発した。彼は目を疑うような跳《ちょう》躍《やく》力《りょく》でいったん半分だけ崩れ残ったビルの壁《へき》面《めん》を蹴《け》り、高々と宙に舞《ま》い上がると、その一番上にすとんと乗っかった。
「来いよ! ボケ人形!」
くるっと振り返って手を差し招いた。
「ど〜した? 俺が怖いのか?」
クサンチッペは一度|小《こ》狡《ずる》い視《し》線《せん》で仮名史郎とともはねを見やったが、
「ん〜。あっちのほうがおもしろそう。おまえら、にげるなよ?」
そう言い残して、同じくらい信じがたい身軽さでひょ〜いと啓太を追いかけた。啓太はにやっと笑ってビルの向こう側に飛び降り姿を消した。
遅れてクサンチッペがそこを飛び越え、どさりと着地する。それから、
「まてまて〜」
と、楽しそうに笑いながらどたどた駆けていってしまった。その頭の部分だけがビルの向こう側に覗《のぞ》いていたがやがて遠ざかって見えなくなった。
「啓太様!」
と、思わずともはねが啓太を追いかけて走り出そうとする。
それを仮名史郎が慌てて押し止めた。
「いかん! 川平の配《はい》慮《りょ》を無にするな! 今、私たちが行っても足手まといになるだけだ!」
その時である。
ぽわっとほのかに淡《あわ》い光が仮名史郎とそしてともはねを押し包んだ。驚《おどろ》いたことにその光の中で彼らの傷がみるみると癒《い》えていった。二人とも思わず顔を見合わせた。仮名史郎もともはねも知るよしもなかったが、〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉が壊《こわ》れる間《ま》際《ぎわ》に『みんなを治せ』というところまでは忠実に命令を実行していたのである。
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は次になでしこを振り返った。彼女も未《いま》だショック状態からは脱していなかったが、傷が一つ一つ消えて顔に生気が戻りつつある。
「こ、これは」
そこへこけ〜と申し訳なさそうな顔で木彫りのニワトリが下りてくる。そしてせめてものお詫《わ》びのように仮名史郎を毛布一丁の姿から、颯《さっ》爽《そう》としたスーツ姿に戻した。つややかなオールバック。手にはエンジェルブレイド。
ともはねが歓声を上げた。
「いけるぞ!」
仮名史郎が思わず叫んでいた。
同じ頃《ころ》、犬《いぬ》神《かみ》の少女たちもゆっくりとそれぞれ瓦《が》礫《れき》の中から立ち上がっていた。その姿がみるみると人からケモノの姿へと変《へん》貌《ぼう》を遂げていった。
激《はげ》しい怒りをその胸に抱いて。
未だかつて感じたことない程《ほど》の力が身体《からだ》中《じゅう》に満ち溢《あふ》れていた。
啓《けい》太《た》は全力で無人の道路を駆けていた。はけと宗《そう》家《け》の力が封じられた人形を所持しているのでちょっとしたバイクほどの速度は出ている。
びゅんびゅんと街《がい》路《ろ》樹《じゅ》や電柱が後ろに過ぎ去っていった。
「おい! ようこ! 本当に出られないのかよ? なんとかしろよ、おい!」
「だから、やってるんだってばぜんぶ! さっきから一通り!」
彼女がじゃえん≠フ炎を金《きん》色《いろ》の球の内側からぶつけている。だが、大《だい》妖《よう》狐《こ》が作り出したその檻《おり》は小揺るぎもしなかった。
「え〜い、ちょこまかとにげるな!」
後ろから膨《ぼう》大《だい》な熱《ねっ》波《ぱ》が押し寄せてくる。クサンチッペが術を放ってきたのだ。
「でええええええええええええええええええええ!!!」
啓太が咄《とっ》嗟《さ》に交差点を横に飛んだ。
道路の中央に赤い炎が着弾し、どかんと爆《ばく》発《はつ》が起こり、辺りに止まっている車や陸橋をも巻き込みながら一気に膨《ふく》れあがる。周囲の建物の窓ガラスが砕《くだ》け散り、信《しん》号《ごう》機《き》が飴《あめ》のようにくにゃっと曲がった。とんでもない威力である。
「く」
啓太はごろごろと転がりながら受け身をとり、さらに狭い路地に飛び込んだ。そのまま大回りで建物の陰《かげ》から陰へ走り、
「あ、あれ? どこいった?」
クサンチッペがどすどすと行きすぎるのを見送り、金《きん》色《いろ》の球を見下ろした。
「なあ、さっきから気になってるんだけどその変な本……『ようこの日々』って奴《やつ》が怪しくねえか? なんだ、それ?」
「あ、これ?」
ようこはそれを見下ろした。手に取ってみる。
「そういえばなんなんだろうね。気がついたらここにあった」
「なんか大事なこと書いてあるかも知れないぞ。読んでみろよ」
「うん」
ようこは何気なくその本を取ってみた。それからはっと驚《おどろ》いた顔になった。
「こ、これ」
「なんだよ?」
「うん。ちょっと待って。今、調《しら》べてる……」
それは本というより一種の記《き》憶《おく》装置だった。
色々な記憶や情景が手の平を通して流れ込んでくる。ようこが今見ているのは啓《けい》太《た》と初めて水《すい》族《ぞく》館《かん》に行った時の思い出だった。美しい魚の群《ぐん》舞《ぶ》や宝石のように澄《す》んだ水《すい》槽《そう》のイメージと共に自分がその時、啓太に対して感じていた感情もありありと思い出せる。
同時に。
そこからは啓太側の気持ちも感じ取れた。
驚《おどろ》いた。
「ケイタ?」
彼女は頬《ほお》を染め、啓太を上《うわ》目《め》遣《づか》いで見やった。
「なんだよ?」
気もそぞろに啓太が問い返す。そこへ、
「あ、いた! くくく、おにごっこか? つかまったらじゃあ、しね!」
ビルの陰《かげ》から顔を覗《のぞ》かせたクサンチッペが大きく跳《ちょう》躍《やく》してくる。
「く!」
啓太はさらに狭い路地に入った。クサンチッペが笑いながら手を突っ込んでくる。耳障りな音を立ててコンクリートがえぐれ、ビルの外装が崩れ落ちた。
「と、とにかく早く手がかり探せ! 逃げ回るのも限界がある!」
啓太はまた高々と跳《ちょう》躍《やく》した。クサンチッペが嬲《なぶ》るように高笑いを上げていた。
ようこは一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》『ようこの日々』を捲《めく》っていた。外界の物音が耳に入らないくらい一心不乱に。初めて契約を結んだ日。一《いっ》緒《しょ》に戦ったへび女。温泉。仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》と出会ったクリスマス。恋人の振りをした。なでしこがやってきて、ともはねが生意気で、薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》たちと戦った。彼はいつでも優《やさ》しくしてくれた。
変なお寺にもいった。啓《けい》太《た》は何回も大変な目に遭ってる。死神。だるくなったり、猫耳つけたり、素っ裸になったり。
楽しかった。
花火をした。河原に住むようになって、それから。沢《たく》山《さん》、沢山。想《おも》いはさらに募《つの》った。
舞《ま》い散る雪のように。
夏の入道雲のように。
ようこは啓太が大好きになった。楽しかった。彼のために何かしてあげたくて。彼が喜ぶ顔が見たかったから。
一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》成長しようとした。
彼が笑ってくれるから。自分はいられた。宝石のような日々。大事な大事な宝物。あの日、あの炎の中で、感じた直感は嘘《うそ》ではなかった。
この人だ!
自分を暗黒の中から救い出してくれたのは。
永《えい》劫《ごう》の孤独から解きはなってくれたのは。
この人と共に生涯を過ごす
川《かわ》平《ひら》啓太。
そりゃあ、ちょっとちゃらんぽらんで乱《らん》暴《ぼう》で浮気性で時々、困ったりもするけど。
でも。
ようこは溢《あふ》れ出る感情を堪《こら》えきれず涙を流す。上を見上げた。
「ケイタ、大好きだよ?」
ビルの谷間を目まぐるしく飛び回っていた啓太はため息をつき。
苦笑気味に笑った。
「俺《おれ》もだよ、ようこ」
小さく。
だが、はっきりと彼はそう告げた。ようこは目をつむった。その言葉はまさに魔《ま》法《ほう》。全《すべ》てを照らすカンテラ。身体《からだ》中《じゅう》に幸せの力が満ち溢《あふ》れていく。
今なら。
クサンチッペは突然、動きを止めた啓太を笑いながら踏み潰《つぶ》そうとする。
何も怖くない!
かっと閃《せん》光《こう》が迸《ほとばし》った。彼女を押し込めていた檻《おり》が。
完全に砕《くだ》け散った。
驚《おどろ》いているクサンチッペの顔辺りまでようこはするすると上昇した。
青白く光り輝《かがや》き、妖《よう》艶《えん》に微笑《ほほえ》みながら。
「ふふふ、本当にバカなお人形さん。そうやってわたしの大事な仲間を傷つけておいて。わたしの大事な街を壊《こわ》して。でもね」
黒髪を優《ゆう》美《び》に掻《か》き上げ、
「今、わたしはとっても気分が良いから」
そっと人形の頬《ほお》に白い手を添える。あくまで慈《じ》愛《あい》の笑《え》みで。
だいじゃえんをしてあげる。
目も眩《くら》むような光がクサンチッペの頭部を包み込んだ。それは完《かん》璧《ぺき》なるようこの復《ふっ》活《かつ》劇《げき》を意味していた。
「おっしゃああああああああああああ!!!」
啓《けい》太《た》がガッツポーズを取っていた。
「ぐわ!」
クサンチッペが顔を手で覆《おお》い、仰《の》け反っていた。
「ぐおおおおお! いたい! いたいいいいいい!!!」
どすどすと地《じ》団《だん》駄《だ》を踏んでいる。その間、ようこはすとんと啓太の傍《かたわ》らに下りると真剣な目で彼を見つめた。
「ケイタ、わたし、これから本気出すよ?」
啓太は即座にその意味合いを悟り、力強く頷《うなず》く。
「頼む」
ん。
と、ようこははにかむように笑い、
「でも、だからって嫌いになっちゃやだよ?」
啓太は何も言わずようこの頭を手で引き寄せ、そっとその唇に自らの唇を重ねた。ようこの目が大きく見開かれる。
それから微《かす》かに目元を潤《うる》ませ、
「ん。これで元気百倍!」
彼女の身体《からだ》を金《きん》色《いろ》の光が包み込み、ふわっとケモノの毛が風にながれた。
エネルギー充電完了!
クサンチッペは怒っていた。
心の底から腹を立てていた。楽しくない。もう関係ない。
ちょっと甘い顔をすれば人間なんかこれだ。もう手加減なんてしてやるもんか!
「おまえら、ぜんいん、こなごなにぶっころす!」
そしてその怒りは同時にもう一つ別な存在の怒りでもあった。
川《かわ》平《ひら》薫《かおる》を追いかけてきた古い古い悪意の怒り。クサンチッペの巨体の背後に禍《まが》々《まが》しい負のオーラが立ち上った。
時を同じくして今、金毛のようこが本性に立ち返る。その姿は優《ゆう》美《び》。恐ろしくも、美しい。全長三メートルほどの狐《きつね》の姿。
啓《けい》太《た》が緩《ゆる》やかに上昇するその背中に乗って不敵に笑っていた。
クサンチッペを見やり。
「さあ、決着」
親指をくいっと両方下に向ける。
つけようぜ?
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「しゃあああああああああああああああああああ!」
巨大な魔《ま》導《どう》人形とようこがもの凄《すご》い速度でぶつかり合った。クサンチッペは腕を振るう。ようこがその腕を自在にかいくぐり、
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ」
啓《けい》太《た》が攻《こう》撃《げき》を加えた。
「カエルよ、破《は》砕《さい》せよ!」
どんとクサンチッペの腕がオレンジ色の爆《ばく》発《はつ》に包まれる。だが、魔導人形は怯《ひる》まなかった。それを力で押し切り、
「しんじゃええええええええ!!!」
力一杯|拳《こぶし》を突き出す。風圧で近くのビルの窓ガラスが粉々に砕《くだ》け散った。
間一髪でようこが回《かい》避《ひ》。螺《ら》旋《せん》の動きですり抜けると、反対側に着地。とんと地面を蹴《け》り、一気に夜空へと駆け上がった。
「〈赤道の血よ、アレ〉」
クサンチッペが振り返りざま、片手から広大な魔力を撃《う》ちはなった。あまりの熱《ねつ》量《りょう》に近くの建物が融《ゆう》解《かい》する。それは空中のようこを確《たし》かに捉《とら》えたかに見えた。
だが。
残像。
「く! そっちか!」
クサンチッペが後ろに飛び退《の》いた。いつの間にかようこは地面に爪《つめ》を突き立て、攻撃の準備を整えていた。
しゅくち≠したのだ。
「くらいなさい!」
甲《かん》高《だか》い少女のままの声でようこが叫んだ。その口から灼《しゃく》熱《ねつ》の炎の奔《ほん》流《りゅう》が吐き出され、クサンチッペを包み込む。
だが、それもまたフェイクだった。
「はははははは、おまえていどにできることはぼくもできるんだよ!」
クサンチッペはとうに近くのビルの屋上へ転移していた。彼は即座にようこと啓太に必殺の術を叩《たた》き込む。
「おまえのわざでしね。だいじゃえん!」
ぐにゃっと強力な霊《れい》力《りょく》で空間が歪《ゆが》んで大爆発が起こった。次々と建物が吹き飛び、地面がえぐれ、天高く真っ白な光が広がっていく。
「う、うわああああああああああああああああ!!!」
啓《けい》太《た》が叫び声を上げていた。
ようこは渾《こん》身《しん》の力で跳《ちょう》躍《やく》すると辛《かろ》うじて空へ逃げていた。だが、急上昇したその背中がほんのわずかだが無防備になる。クサンチッペはにやりと笑い、確《かく》実《じつ》に相手を殺すべく、力を溜《た》め始めた。
その時。
「砕《くだ》け散れ! 必殺ホーリークラッシュ!」
ばっと入れ替わりのように空からスーツ姿の男が落下してきた。
特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》。びゅるびゅるとコートをはためかせ、彼は渾《こん》身《しん》の想《おも》いを込めて天使の羽の形をした剣を振るう。
「クリスクロススラッシュ! 我《わ》が友の敵《かたき》、思い知れ!」
完全に不意を打たれた。直《ちょく》撃《げき》して首が折れ曲がる。直後、爆《ばく》発《はつ》に包まれる頭部。魔《ま》導《どう》人形は悲鳴を上げた。
地面に叩《たた》きつけられる寸前の仮名史郎を横合いからかっさらって背中に乗せたのは灰《はい》色《いろ》の毛をした大きな犬だった。
「仮名さま、ナイスです!」
それがともはねの声で歓声を上げる。
つぶらな瞳《ひとみ》がそのままだった。
「え〜〜〜い、この! たかだかにんげんのくせに」
クサンチッペは目標を変更して地面すれすれを滑空している仮名史郎とともはねを狙《ねら》い撃《う》とうとする。だが、今度は横合いから凄《すさ》まじい気合いの声が聞こえてきた。
「お前はボクの大事なモノをたくさん奪った」
眩《まばゆ》い光に包まれ、怒りの叫びを上げる犬《いぬ》神《かみ》。
「ぜったい許さない!」
たゆねの全《すべ》てを賭《か》けた突撃。それは今度こそ確実にクサンチッペの横っ腹を捉《とら》えた。彼を爆発と共にビルの上から吹っ飛ばす。
「ぐ! がはああああああ!!!」
放《ほう》物《ぶつ》線《せん》を描き、地上へと落下するクサンチッペ。
歩道橋をへし折り、地面で転げ回った。かなり痛かった。見ると上空にいつの間にか九匹の大きな犬たちがまるで円を描くように取り巻いていた。
そのうちの一匹がクサンチッペを見下ろし、静かな声で宣言を下した。
「さあ、みんなに聞きましょう。いったいこの者はどうしたらいいのかしら?」
犬神たちがざっざっと前足を掻《か》いて声を揃《そろ》えた。
「煉《れん》獄《ごく》≠! せんだん!」
ひときわ優《ゆう》美《び》なその赤い毛をした犬《いぬ》神《かみ》が頷《うなず》く。
「分かりました。では、煉獄≠。薫《かおる》様をその手にかけた罪深き者よ」
満月を背に、冷たく笑う。
「この炎がなにゆえ地獄の名を冠するのかその身をもって知りなさい」
「煉獄=I」
声と想《おも》いが完全に揃《そろ》った。空よりも海よりも青い宝石のような炎がクサンチッペを容《よう》赦《しゃ》の欠片《かけら》もなく閉じ込める。
「ぐわあああああああああああああああああああああああ!!!!」
魔《ま》導《どう》人形は吠《ほ》えた。
その声に重なるようにして別の声も叫ぶ。
「ばかな! まだ! まだ! もっとわたしは、ぼくは」
クサンチッペの声がひび割れる。深《しん》紅《く》の瞳《ひとみ》が爆《ばく》発《はつ》を起こした。黒こげに焼かれながら身体《からだ》が揺らぐ。信じられなかった。たかだか人間と犬神ごときがここまで自分を追いつめる力を持っているとは思っていなかった。
次々と身体が砕《くだ》けていった。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
クサンチッペは思いっきり跳《ちょう》躍《やく》して炎から逃れた。
ぶすぶすと煙を噴《ふ》き上げながら誰《だれ》よりも高く、高く飛び上がる。星空を背に、吉《きち》日《じつ》市《し》の全景を見下ろす。
狂った目で見下ろした。
「わかった」
狂った笑いで告げた。
「もうなにもかもどうでもいい。どうなってもいい」
両手に全《すべ》ての力を込める。今まで残していた力を全てを使い切って、
「ここらいったいをあとかたもなくはかいする」
クサンチッペは。
そしてその背後で幻のように浮かび上がった邪星≠ヘどう猛な笑《え》みを浮かべながら手を振りかぶった。
一《いっ》瞬《しゅん》早く、とんとようこが走り出していた。
「ケイタ」
「おう」
大きく足を伸ばす。空を蹴《け》る。
「いくよ」
「おう!」
加速。
「倒すよ」
「おう」
さらに加速。
「あいつを絶対、この俺《おれ》たちが」
「わたしたちが」
二人は今や一本の金の矢のように糸を引いて空中を疾《しっ》駆《く》していた。
「「ぶっ壊《こわ》す!」」
真《ま》っ直《す》ぐに!
啓《けい》太《た》が残っていたカエルの消しゴムを残らず撃《う》ち放ち、たった一点を狙《ねら》う。それはなでしこがその命と引き替えにしてひびを入れたクサンチッペの水晶玉だった。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ!」
ひゅんひゅんひゅんと金《きん》色《いろ》の放《ほう》物《ぶつ》線《せん》を描いてカエルたちがその一点に群がり寄る。着弾。爆《ばく》発《はつ》。爆音。
「カエルよ」
そして。
驚《きょう》愕《がく》の目を見開くクサンチッペの。
その。
邪《じゃ》≠ニ浮かび上がった腹部を。
「!!!!」
ようこと啓太の金色の矢が駆け抜け、貫き通す。水晶玉が今、鮮《あざ》やかに打ち破られる。
ほんのわずか静寂があって。
「爆《ばく》砕《さい》せよ」
啓太が目をつむって呟《つぶや》いた瞬《しゅん》間《かん》。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
背後で大爆発が起こった。連《れん》鎖《さ》する絶望≠フ連《れん》環《かん》が次々と砕《くだ》け散っていく。浄化の炎が何もかも押し包んだ。
それは。
川《かわ》平《ひら》薫《かおる》が長い長い間、望んだ破《は》邪《じゃ》顕《けん》正《しょう》≠ェ実現した瞬間でもあった……。
全《すべ》てが終わって、東の空から白々と太陽が昇っている。冷え冷えとした大気に赤と黒の色彩が等分に入り交じり、徐《じょ》々《じょ》に白い光が優《ゆう》位《い》になっていく。そんな中、瓦《が》礫《れき》の山の頂上に四方八方から少女たちが集まってきて互いに声をかけ合った。
「いた?」
「いな〜い」
「おかしいねえ」
「ホント、どこいったんだろう? あの子」
少女たちはほとんどゴーストタウンと化した吉《きち》日《じつ》市《し》でなでしこを探していた。戦いが全て終わった後も、彼女の姿がどこにも見あたらなかったのだ。
「……大丈夫かなあ?」
ともはねが心配そうに皆を見回した。いぐさが頬《ほお》に手を当てて思《し》慮《りょ》深《ぶか》く言う。
「まあ、傷は私たちみたいに治っていたと思うし、そんなに心配はいらないと思うんだけど」
「ここぞって時でミスったから未《いま》だに顔を合わせづらいのかね?」
双《ふた》子《ご》のいまりが言う。さよかが吐き捨てた。
「全く! 私らそんなことなんも気にしてないつうの!」
「まあ、あの子の気持ちを考えると、な」
ごきょうやが力なく笑った。その一言で一同はどんよりと暗くなった。フラノが小さく洟《はな》を啜《すす》って、てんそうがそっとそんな彼女の肩に手を回している。
「そんな……なでしこちゃんまで」
彼女らは確《たし》かに戦いには勝った。
だが、それ以上に大事な。
本当にかけがいのない者を失ってしまった。今までそのことを深く考えないようにしていたが、たゆねが、
「かおるさまあ」
と、そう口にしたとたん、皆、一斉に泣き出してしまった。
「わああああああああああ!!!!」
「薫《かおる》様! 薫様!」
少女たちは空を見上げ、わんわん泣く。あられもなく泣く。大好きな主人を失ってしまった哀《かな》しさに遠《とお》吠《ぼ》えのように泣いた。
「薫様に会いたいよう!」
「寂しいよう!」
その時。
たった一人、なぜかじっと己《おのれ》の指のリングを見つめていたせんだんが呟《つぶや》いた。
「そうか……」
彼女は震《ふる》えながら、
「そういうことだったのね」
ん?
と、わんわん泣いていた少女たちが怪《け》訝《げん》そうに己《おのれ》のリーダーを見やった。せんだんは興《こう》奮《ふん》に打ち震えながら叫んだ。
「バカね! みんな自分の指《ゆび》輪《わ》を見てみなさい!」
彼女は泣き笑いの表情で、
「契約よ! 契約がまだ生きてるのよ!」
あ!
と、少女たちが声を上げた。慌てて確《かく》認《にん》する。確《たし》かにそこには。
薫《かおる》の存在が感じ取れた!
「ど、どういうこと? 一体どういうこと?」
たゆねが混乱しきって聞く。いぐさが頬《ほお》を紅《こう》潮《ちょう》させて叫んだ。
「なるほど! ほら、あの時!」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が啓《けい》太《た》をぶん投げてそれが〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉に見事に直《ちょく》撃《げき》していた。そのことを思い出してたゆねも膝《ひざ》を打つ。
「そうか! 確《たし》か発動が不完全だったんだ!」
「そうね」
せんだんが頷《うなず》いた。まじめな顔で、
「そして私たちの傷も治ったということは薫様もまたきっと同様」
ともはねがおろおろと尋ねる。
「そ、それってどういうこと? なら薫様は一体どこにいるの?」
せんだんは首を振る。
「分からない」
一同はちょっと落胆する。だが、せんだんは言い切った。
「でもね、きっとこの世界のどこかにいらっしゃる」
彼女は己に言い聞かすようにゆっくりと言う。
「もしかしたら記《き》憶《おく》をなくされているのかも知れない……最悪、違う形。石とか動物になってるのかも知れない。でもね」
と、彼女は微笑《ほほえ》み皆を見回した。
「薫様は私たちに沢《たく》山《さん》のモノを与えてくださった。かけがえないものを教えてくれた……今度は私たちがそれをお返しするべき時じゃない?」
少女たちの間に軽い衝《しょう》撃《げき》が走り抜けた。
皆、興《こう》奮《ふん》したように、
「もちろんだよ! せんだん!」
「たとえこの世の果てだっていってやるよ!」
「いこう!」
「いこうよ、せんだん! 薫《かおる》様を捜しに! 私たちのご主人様を助けに!」
口々にそう言いつのる少女たちを苦笑気味になだめ、せんだんは言った。
「分かった、分かった。じゃあ、こうしましょう。後でもっと詳細に決めるけど、とりあえず私といぐさ、双《ふた》子《ご》が北半球。ごきょうや、てんそう、フラノ。それにたゆねが南半球を探し回りましょう。徹《てっ》底《てい》的《てき》に。いい? ごきょうや、あなたがそっちのチームのリーダーを」
ごきょうやは毅《き》然《ぜん》と頷《うなず》く。せんだんは笑った。
「きっとなでしこももうとっくにそのことに気がついているはず。あの子もまた薫様のおそばで見つけることが出来るでしょう」
「あの抜け駆け女〜」
双子が笑いながら言う。
「よし、出来るだけ早く見つけてとっちめてやろう!」
一同がどっと笑い声に包まれた。だが、一人だけきょとんとした顔の少女がいた。彼女はくいくいっとせんだんの袖《そで》を引いた。
「ねえ、あたしは? あたしはどっちのチームなの? 北? 南?」
せんだんはその少女。
ともはねに笑いかけた。
「あなたはね、ここで待っていて」
「え〜?」
と、露《ろ》骨《こつ》に不満そうにともはねが顔をしかめた。せんだんは宥《なだ》めるように、
「だって、ほら。一人も連絡係がいなかったら困るでしょう? 薫様が帰ってくる場所を確《かく》保《ほ》しておくのがあなたの大事な役目よ?」
「え? 帰ってくる場所って?」
ともはねが小首を傾《かし》げる。せんだんは朝日に照らされ、最高の笑顔《えがお》で真《ま》っ直《す》ぐ指さした。
「あそこ」
同時刻、ようこは壊《こわ》れた車の上に座って上《じょう》機《き》嫌《げん》で『ようこの日々』を読み返していた。遠くの方で人形の形から元の姿に戻った宗《そう》家《け》やはけが何か大《おお》仰《ぎょう》にため息をついて、倒《とう》壊《かい》した建物を検分していたが気にならなかった。
「全く派《は》手《で》にやりおったの〜」
と、嘆《たん》息《そく》して宗家。はけが微笑《ほほえ》んだ。
「でも、大したものですよ」
そして反対側では同じく人形の姿から元に戻っていた大《だい》妖《よう》狐《こ》、赤《せき》道《どう》斎《さい》が仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》によって地面に正座させられていた。
彼らはクサンチッペの内部にいる間、魔《ま》力《りょく》と霊《れい》力《りょく》を残らず搾《しぼ》り取られ、今は全く反抗できない状態になっていた。
仮名史郎は謹《きん》厳《げん》な口《く》調《ちょう》と顔つきで、
「これからあなた方は私が厳《きび》しく矯《きょう》正《せい》していきます! 是非、真人間になって頂きたい!」
こけ〜とそんな二人を見て、楽しそうに木彫りのニワトリが翼《つばさ》を広げた。
そして、そこからちょっと離《はな》れた地下道からぞろぞろとヘンタイとタヌキ、猫、河童《かっぱ》もまた列を作って地上に出てきていた。ある意味、殊《しゅ》勲《くん》賞《しょう》を貰《もら》ってしかるべき彼らは地上の変《へん》貌《ぼう》ぶりに思わず目を丸くしていた。
その後ろには長い眠りから覚めた親《おや》娘《こ》の姿もあった。毛布を身体《からだ》に巻いた川《かわ》平《ひら》元《もと》也《や》が宗《そう》家《け》に気がつき嬉《うれ》しそうに声を張り上げ、宗家も笑って手を振り返した。
「おお! 久しぶりじゃの! 元気だったか、この放《ほう》蕩《とう》息子!」
薫《かおる》によく似た少女……というか本来の川平薫がきょとんとしていた。
彼女らもまたきっとこれから色々あるのだろう。
だが、ようこはやっぱりそんなことは気にせず、浮き立つ気分で『ようこの日々』をひたすら捲《めく》っていた。
そこには愛の記《き》録《ろく》があった。
何回読んでも楽しかった。こうして見返すと自分と同じくらい啓《けい》太《た》は自分のことを大事に思ってくれてるのがよく分かった。
甘い、甘い気分が込み上げてくる。これからこれを一日一回読むのを日《にっ》課《か》にしよう。相《そう》好《ごう》を崩していたようこの手がふとそこで止まった。
「ん?」
それは彼女が初めて啓太と出会った時の情景だった。それをさらに読み進めるうち、ようこの額《ひたい》にぴきっと青筋が走った。
あの時の真相を知るにつれ、身体が小刻みに震《ふる》える。震え始める。
そこへなんにも知らない啓太が能《のう》天《てん》気《き》に声をかけてきた。
「お〜、ようこ。そこにいたのか。あのさ、向こうで」
だが、ようこがそれを途中で遮《さえぎ》った。
「ケイタ。あのさ」
ゆら〜と立ち上がる。彼女は啓太を振り返り、にっこり冷たく笑った。
「一番初めにあの山にいた理由って」
一度言葉を切って、
「もしかして珍《ちん》獣《じゅう》探《さが》し≠オてたからなの?」
げっと啓《けい》太《た》が青くなった。
彼ははっと慌ててようこが持っている本を見やった。
「あ、いや、ほら、テレビでなんつうの? なんとか探検隊みたいなのやっていてさ、それで俺《おれ》もなんかこ〜、変わった生き物探せるかなって思って」
ようこがぶるぶると震《ふる》えている。啓太は焦《あせ》って、
「い、いや、でもほら! まだ物心つくかつかない頃《ころ》の話だろう? だから」
ようこはぱたんと本を閉じた。
「物心つくかつかないかの子供が」
大《だい》爆《ばく》発《はつ》。
「ペットショップに珍《ちん》獣《じゅう》売る算《さん》段《だん》するなあああああああああああ!!!!!」
ようこが啓太に飛びかかり、彼を思いっきり燃《も》やしている。
「き〜〜〜〜〜〜! 信じていたのに! 裏切られた! 裏切られたわ! 許せないからこれからもとことんお仕置きよ!」
「た、たすけて!」
啓太は魔《ま》導《どう》人形を相手にしてたときよりもさらに命からがらに逃げ出す。
「たすけてええええええええ!!!!」
二人の相変わらずのやり取り。
それを見ていた少女たちが賑《にぎ》やかにどっと笑い出す。彼女たちは朝日の下、そこへ向かって一散に瓦《が》礫《れき》の山から駆け下りていく。
いつか帰るべき場所に向かって!
あとがき[#中見出し]
ようこは最初から確《かっ》固《こ》といて最後まで徹《てっ》底《てい》的《てき》に紙面で暴れ回ってくれたキャラクター。啓《けい》太《た》はいつの間にかかけがえなく自分の中で育ってくれたキャラクター。いっぱいいっぱい『モノを書く』という行為の意味を教えてくれました。他《ほか》の脇《わき》キャラ全《すべ》てに思い入れがあります。一つ一つのエピソードに魂を込められました。
ここまで書けて本当に幸せでした。
今まで買ってくださった皆さん、本当にありがとうございました!
……とか書くとシリーズ終わったみたいですが、実はそうではありません。
え〜、なんというかかんというか作者が一番|驚《おどろ》いてますが、『いぬかみっ!』漫画化にアニメ化です。びっくりです。
啓太とようこが絵で動きますよ〜。台詞《せりふ》をばんばん喋《しゃべ》りますよ〜。
色々と大きな展開も待ってますよ〜。
こういう予告は卑《ひ》怯《きょう》ですが、たぶんアニメをごらんになった時、皆さんびっくりされると思います。
「え? これいいの?」
という感想を抱かれるかと。現時点で僕がそう思ってます。
「え? これアニメにして本当に良いの?」
漫画版も松《まつ》沢《ざわ》まり先生というもったいないくらいの腕前を持った漫画家さんが筆を執《と》ってくださいます。きっと素晴《すば》らしく楽しい『いぬかみっ!』が「電《でん》撃《げき》コミック ガオ!」で読めると思います。ありがたいことです。なんというか……。
ん〜。
一巻の最初で書きました。原稿料がいらないくらい書いていて楽しかった。
担当さん、若《わか》月《つき》さん。それに読んでくださった皆さん。
本当に本当にありがとうございました!
啓太とようこはまだまだ走り続けます!
[#地付き]某《ぼう》所《しょ》のスタジオで 有《あり》沢《さわ》まみず