いぬかみっ! 7
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)想像|逞《たくま》しく
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから太字]
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300年の時を経て、ヘンタイ大魔道師・赤道斎が現世に蘇った! さらに、犬神たちが施した封印が破れ、ついに大妖狐復活の日が……!
そして、迎えた運命のクリスマス。聖なる日にすべて人々の密やかな想いが盗まれる。
お互いの想いを交差させる啓太とようこ、途方に暮れて街を探し回るともはね、暗闇で穏やかに微笑むなでしこ。彼らの運命は……!?
すべて書き下ろしの充実全5話+Short Break。カラーコミック、4コママンガ、ともはねの日記も付いた、ハイテンション・ラブコメディ第7弾。いよいよ山場を迎えます!
ISBN4−8402−3129−X
CO193 \550E
発行●メディアワークス
定価:本体550円
※消費税が別に加算されます
有《あり》沢《さわ》まみず
1976年生まれ。2001年に第八回電撃ゲーム小説大賞で〈銀賞〉を頂く。牡牛座のB型。最近、ホームページを知人の方に作って頂きました。更新が楽しくて仕方ありません。アドレスは後書きのところで〜。
【電撃文庫作品】
インフィニティ・ゼロ冬〜white snow
インフィニティ・ゼロA春〜white blossom
インフィニティ・ゼロB夏〜white moon
インフィニティ・ゼロC秋〜darkness pure
いぬかみっ!
いぬかみっ! 2
いぬかみっ! 3
いぬかみっ! 4
いぬかみっ! 5
いぬかみっ! 6
いぬかみっ! 7
イラスト:若《わか》月《つき》神《かん》無《な》
念願のHDDレコーダーを買いました。すごく便利ですねえ…コレ。録画編集はもとよりVHSがらDVDに簡単に移行できるのが有難いです。お陰様で仕事場の収納スペースが大分空きました。ただラベルを見ているとジャンルに見事な偏りを感じますが…音楽番組とバラエティとドラマしかない……。
カバー/加藤製版印刷
[#ここから太字]
〜犬《いぬ》神《かみ》〜
もっとも人と共に生きることを好む化《け》生《しょう》。
性格は穏《おん》和《わ》で、忍耐強い。毛の色。概《おおむ》ね灰《はい》色《いろ》から白。稀《まれ》に黒。本性は巨大な犬の姿だが、人の姿に変じることも出来る。
基《き》礎《そ》霊《れい》力《りょく》は大体、人程度。
ただし、年を経《へ》た者の中には大《たい》妖《よう》程の力を持つ者もいる。
現在、西日本を中心に十四ヵ所で群れ単位の存在が確《かく》認《にん》されており、そのいずれでも深い人との関《かか》わりが見受けられる。中でも川《かわ》平《ひら》家《け》、東《ひがし》家《け》などが代表する犬神使いと呼ばれる一族との不可分にも近い盟約関係が名高い。
[#地から1字上げ]天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》『本《ほん》朝《ちょう》もののけ録《ろく》』より[#ここまで太字]
深い深い森の奥のそのまた奥。
国道を離《はな》れ、深《しん》山《ざん》渓《けい》谷《こく》に分け入り、幽《ゆう》玄《げん》な霧《きり》を踏み越え、ようやく辿《たど》り着ける川平本家の裏にその小山は聳《そび》えていた。
厚い結界が守り、時が下界から隔たった犬神の住まう里である。
唯《ゆい》一《いつ》の出入り口である赤い鳥《とり》居《い》を潜《くぐ》れば、霊《れい》験《げん》なるものの居《い》心《ごこ》地《ち》の良い景色が辺《あた》りに広がっていた。ブナやクヌギなどの木々に隠《かく》れて茅《かや》で葺《ふ》いた東《あずま》屋《や》が点々と散らばり、青々しいネギや白い大根を豊かに実らす畑が近くに散見出来た。
現在、主《あるじ》を持っていない百匹程の犬神たちがそこで和装に身を包み、畑を耕したり、タラの芽や木イチゴなどを摘《つ》んだりして生活している。彼らの娯楽は主《おも》に主人たちから習い覚えた将棋や囲《い》碁《ご》などで、特に将棋はトーナメント戦などを組んで、各自の宝物(川平家から定期的に差し入れられる肉の缶詰や自家製の果実酒など)を賭《か》けて、棋《き》譜《ふ》などもつけられるほど熱《ねっ》心《しん》に行われている。
他《ほか》には月夜の晩に踊ったり、火を囲んで酒を酌《く》み交《か》わしたりする程度。
大《たい》概《がい》、日の出と共に起きて日の入りと共に寝てしまう。しかし、その冬の日。犬神たちの何人かは東屋の一つに集まって熱《ねっ》心《しん》に部屋の片側を見つめていた。
「なるほど。これがいわゆるてれび、というものなのだな?」
紺《こん》色《いろ》の袴《はかま》に素《す》足《あし》という姿で胡座《あぐら》を組んでいた犬神が問いかけた。部屋の反対側にいた別の犬《いぬ》神《かみ》が頷《うなず》く。
「うむ。下界に降りている私の妹たちから貰《もら》ったものでな」
それは小型のテレビだった。シルバーグレーで丸みのあるデザイン。赤々とした火が揺《ゆ》らめく囲《い》炉《ろ》裏《り》端《ばた》にはどこか不似合いなものだったが、居合わせた犬神たちはまるでそれが貴重なご神《しん》体《たい》か何かであるかのように身を乗り出して見つめていた。
沈《ちん》黙《もく》が続いた後、
「……で、これは一体どういう働きをするのだ?」
と、やがて中の一人が興《きょう》味《み》を抑え切れず声に出して尋《たず》ねた。
「いや、それが」
と、テレビの背《はい》後《ご》に座って色々と筐《きょう》体《たい》を撫《な》で回していた犬神が小首を傾《かし》げる。
「妹たちからはこれで遠方の人や景色を見ることが出来る、とだけ聞いているのだが、使い方が良く分からないのだ」
「ほほう。するとそれはなにか? 音に聞く遠見の霊《れい》宝《ほう》なのだな?」
端正な顎《あご》髭《ひげ》を蓄《たくわ》えた犬神の一人が尋ねる。落ち着いた容《よう》貌《ぼう》の女の犬神が即座に否定した。
「いえいえ、それはでんわ、というものですわ。てれび、はもっと強い力を持っていてこの国の全《すべ》てを強いでんきの力で結んでいると聞き及びました」
「私は縮《しゅく》尺《しゃく》の術のように、中で小さな人の芝《しば》居《い》が見れると聞いたのだが」
「おぬしらは何か勘違いしておらぬか? 確《たし》かにてれびは歌《か》舞《ぶ》音《おん》曲《ぎょく》を勝手に奏《かな》でるものだがあくまで音だけだぞ?」
「それは匂《にお》うのだろうか?」
「嗅《か》いでみればいい。香《こう》ばしい肉や、炎の爆《は》ぜる匂いがきっとするはずだ!」
一様に想像|逞《たくま》しくテレビについて語り合う犬神たち。
中の一人がまあまあ、と片手を上げた。
「まあ、待て待て。なんにしてもだ、とにかく一つこの箱《はこ》に働いて貰《もら》おう。そうすれば何もかもはっきりするはずだ」
「しかし、そもそもその方法が分からないから我《われ》らは困っているのだろう?」
犬神の一人が困《こん》惑《わく》したように言うと、提案した方がにっと笑って片目をつむってみせた。
「それに関《かん》しては問題ないさ。さっき誰《だれ》かがいみじくも言っていただろう? この箱はでんきの力で動くのだと」
「でんき?」
「そうさ。言ってしまえば雷《いかずち》の力だ。おい、お前」
と、彼はコンセントの先を持ち、奥の方にいた小柄な犬神をちょいちょいと手招きした。差し招かれた方が「ぼく?」とびっくりしたように自分を指さす。
差し招いた方が大きく頷いた。
「そうだ、お前だ。お前は確《たし》か雷《いかずち》を生み出すことが出来たな? いいか? この鉄の部分を指先で持って、ゆっくり雷を通してみてくれ」
小柄な犬《いぬ》神《かみ》がこっくりと頷《うなず》き、中腰で前に出て来る。指示している犬神がコンセントを彼に手渡しながら念を押した。
「いいか? くれぐれも弱い力でだぞ?」
「う、うん」
小柄な犬神がおっかなびっくりそれを受け取りながら、恐る恐る指先を近づける。ぱちっと弾《はじ》けるような音がして青白い電気がたわんだ鈎《かぎ》型《がた》に放出され、吸い込まれるようにコンセントの先に消え、いびつなアーチを作った。
「こ、こんな感じかな?」
「おお!」
と、一同が声を上げた。誰《だれ》かが上手《うま》い具合に出力スイッチを入れていたのか、テレビにはすぐに朧《おぼろ》な人の姿が映った。
「人だ!」
と、誰かが叫んだ。もう一人がすぐに囁《ささや》くような声で呼応した。
「川《かわ》平《ひら》家《け》の方ではないぞ! それに」
と、彼は言葉に詰まる。
「なんて不《ふ》思《し》議《ぎ》な恰《かっ》好《こう》をしているのだろう……」
他《ほか》の数人がこくこくと頷いた。それは夜の報道番組でスーツ姿に眼鏡《めがね》をかけた知的な風《ふう》貌《ぼう》のニュースキャスターがやや荒い映像ながらもきちんと映っていた。カメラが大きくパンする。軽快な音楽のその後ニュースキャスターが謹《きん》厳《げん》な表情で頭を下げた。
「皆さん、こんばんわ。ニュースの時間です」
犬神たちが慌《あわ》てたように一斉にぺこりと礼を返した。
「こんばんわ!」
「クリスマスを間近にして寒い日が毎日続いております。視《し》聴《ちょう》者《しゃ》の皆さんは如何《いかが》お過ごしでしようか?」
「みんな、元気です!」
と、律《りち》儀《ぎ》な犬神たちが声を揃《そろ》える。ニュースキャスターはそれが聞こえた訳《わけ》でもないのだろうが、微笑《ほほえ》み頷いた。
「では、本日のニュースから」
と、報道を始める。
その間、犬神たちは感心したように溜《ため》息《いき》をついたり、囁き合ったりして熱《ねっ》心《しん》にテレビを見ていた。中には一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、ニュースキャスターに相づちを打っている者もいる。そして、彼らのボルテージはニュースのワンコーナー。
グルメ情報特番で一気に上り詰めていった。
「では、山《やま》中《なか》さ〜ん、そちらの様《よう》子《す》はどうですか?」
と、ニュースキャスターが振ると、画面が突然、縦《たて》に二分割になった。片側にマイクを持った赤いコート姿の女性キャスターが現れた。
「はいはい、山中です。今日《きょう》は私、金《こん》剛《ごう》苑《えん》という焼き肉屋さんに来ています! 美味《おい》しい焼き肉を沢《たく》山《さん》食べてぽかぽか暖まっちゃおうっていう訳《わけ》なのです!」
彼女は楽しそうに笑いながらまくし立てる。
「ごらんくださ〜い! ほら! じゅ〜じゅ〜音を立ててますよ! これ全部、国産の霜《しも》降《ふ》り肉で、なんと一切れ二千円もするんです!」
おお、と犬《いぬ》神《かみ》たちがどよめき一《いっ》斉《せい》に前のめりになる。ごくりと唾《つば》を飲み込む者。目を輝《かがや》かせ、はっはっと舌を出しながら荒い息をつく者。「にくだ、にくだ」とうわごとのような呟《つぶや》きが辺《あた》りから漏《も》れる。煌《こう》々《こう》と輝く七《しち》輪《りん》の炎。
金網の上で脂《あぶら》がぱちぱち踊る。
「山中さん、相変わらず楽しそうなお仕事っぷりですね」
スタジオのニュースキャスターがちょっと苦笑した。ぽっちゃりとした女性のレポーターが満《まん》面《めん》の笑《え》みで答えた。
「ええ、そりゃ〜もう。局のお金で贅《ぜい》沢《たく》させて頂いてますよ。ほら、見てください、この黄《こ》金《がね》色《いろ》のカルビ」
と、彼女が箸《はし》でこんがり焼けた肉を摘《つま》んだ。脂と旨《うま》みの純然たる混交物。犬神たちはずりずりとテレビににじり寄り、折り重なるようにして画面に食い付く。
その時。ざ〜。
テレビに突如、砂《すな》嵐《あらし》が入り、犬神たちから一斉に抗《こう》議《ぎ》の声が上がった。
「え? あ、あれ?」
電気を操《あやつ》っていた小柄な犬神が首を捻《ひね》った。指先を近づけたり、離《はな》したりするが、画像のぶれはなかなか治まらない。いや、むしろもっともっと大きくなって来た。何か不測の事《じ》態《たい》が起こっているのは間違いないようだった。
女性レポーターが怪物じみた風《ふう》貌《ぼう》になり、一度、大きく、激《はげ》しく歪《ゆが》んだ。
「あ」
突然、誰《だれ》かがテレビ画面を指差した。幾《いく》人《にん》かから押し殺した声が漏れた。
「くくく」
それは。
「くくくく」
ギザギザに尖《とが》った身体《からだ》の線《せん》。
「ははははははははははははは!」
いつの間にかそこに真っ黒い、影《かげ》のような形をしたケモノが映っていた。
「見えるか?」
ケモノが問うた。
「見えるぞ!」
ケモノが叫んだ。
「オレには見えるぞ、犬《いぬ》神《かみ》どもよ! そうか……空中に張《は》り巡《めぐ》らされた思《し》念《ねん》の投《と》網《あみ》。これがてれび、か! はははは、オレが囚《とら》われている間にニンゲンどもは随分と面《おも》白《しろ》いモノを作っていたとみえる。くくく、ははははははははは! 見える! 見えるぞ! おまえたちのその怯《おび》えきった顔が手に取るように見えるぞ、犬神どもよ!」
「あ、あ」
犬神たちの一人が震《ふる》え声を漏《も》らした。
「だ、大《だい》妖《よう》狐《こ》」
「ふはははははははははははは!」
巨大な口がぱくぱくと動く。それは酷《ひど》く不《ぶ》気《き》味《み》な光景だった。子供が描《か》いたような乱雑な形の黒い線《せん》。
それがウニのように尖《とが》ったり、アメーバのように縮《ちぢ》んだりを繰《く》り返して、一つのケモノの姿をとっている。瞳《ひとみ》に当たる切れ長の白い部分が面白がるように細まった。アップになり、からかうようにこちらを覗《のぞ》き込んで来る。
「犬神たちよ」
声がテレビの奥《おく》底《そこ》から睨《ね》め上げるように響《ひび》いて来た。犬神たちは一歩も動けない。
「オレの復活は近い。そうこころしてろよ」
そして次の瞬《しゅん》間《かん》、高らかな哄《こう》笑《しょう》が湧《わ》き起こった。
ぽんっとテレビが深《しん》紅《く》の炎に包まれ、メラメラ燃《も》え上がる。わっと近くにいた犬神たちが身をひいた。続いて中の一人が慌《あわ》てたように一方を指差した。
「た、大変だ! みんな、外! 外を見てみろ!」
東《あずま》屋《や》の窓の外。
山の中腹から巨大な炎の柱が天を焦《こ》がさんばかりに噴《ふ》き上がり、暗い夜空を眩《まぶし》く照らしている景色が映っていた。
それは何百年も続いた犬神たちの里の平安が破られた瞬間だった。
犬神たちはただただ呆《ぼう》然《ぜん》としていた。
テレビの中に黒いケモノの影が映り込む。
その現象は吉《きち》日《じつ》市《し》をはじめ付近の町や市にまで波紋のように広がった。人間たちはそれを放送事故、あるいは悪質な電波ジャックだと考えた。放送局に抗《こう》議《ぎ》の電話が殺到し、コールラインがパンク寸前になった。
ほとんどの者がその真の危険を感じ取ることが出来なかった……。
ほんのわずかな例外を除いて。
翌朝。
まだ夜も明けやらぬ時刻から、幾《いく》人《にん》もの霊《れい》能《のう》者《しゃ》が川《かわ》平《ひら》家《け》本邸を訪れていた。ある者は黄《き》色《いろ》いヘッドライトを照らした車に乗って、ある者は樹《じゅ》海《かい》の中の細道を己《おのれ》の足で歩いて。易《えき》者《しゃ》風《ふう》の顎《あご》髭《ひげ》を蓄《たくわ》え、杖《っえ》を突いている老人。筋骨隆々の山《やま》伏《ぶし》。
あるいは紫《むらさき》色《いろ》のべールを身にまとわせた異国の女性や犬《いぬ》神《かみ》を連れた川平家ゆかりの犬神使いなどもいる。年《ねん》齢《れい》や外《がい》観《かん》がまちまちだったが、皆、一様に不安そうな、あるいは真剣な表情を浮かべているのが共通していた。
川平家の正門には家《か》紋《もん》の入った大きな提《ちょう》灯《ちん》が掲げられている。
彼らは白い息を吐きながら、ちらっと紅《あか》い鳥《とり》居《い》の向こうに聳《そび》える裏山に目をやり、まるで恐れるように目を伏せてその門を足早に潜《くぐ》った。
大広間。
火《ひ》鉢《ばち》が随所に据《す》えられて赤い陰気な火を湛《たた》えている。
先に案内された霊能者たちはそんな火鉢に手をかざしながら、ひそひそと声を落とし、言葉を交《か》わし合っていた。
「おい、一体、どうして宗《そう》家《け》が姿を見せないんだ?」
「もうかれこれ三時間になる。一体、何を考えておられるのか……この非常|事《じ》態《たい》に」
苦《く》渋《じゅう》と困《こん》惑《わく》の色が濃《こ》い口《く》調《ちょう》。
彼らはそして未《いま》だ開かない奥の間へと続く襖《ふすま》を見やって溜《ため》息《いき》をついた……。
同時刻。まとわりつくような冷たい朝《あさ》靄《もや》の中。
川平家本邸の裏口に立つ一人の少年の姿があった。川平家直系の犬神使いであり、その卓越した技量から次期当主と目《もく》されている川平|薫《かおる》である。
「という訳《わけ》でともはね」
と、彼はダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま静かな口調で喋《しゃべ》り始めた。
「君も知っての通り川平家は今、始まって以来の危《き》機《き》を迎えている。川平初代と犬神たちが一丸となって封じ込めた大《だい》妖《よう》狐《こ》の復活が刻一刻と近づいてるんだ」
その言葉に犬神のともはねはごくりと唾《つば》を飲み込む。
薫は白い息を吐き出し、ちょっと微笑《ほほえ》んだ。
「ま、といっても別に今、一刻を争うという訳《わけ》でもないんだけどね」
そこでまた改めて表情を引《ひ》き締《し》める。
「……だからといって、決して静《せい》観《かん》できる状況でもないんだ。だから、今のうちにどうしても啓《けい》太《た》さんたちを呼び戻しておかないといけないと思う。彼らの力がこの非常|事《じ》態《たい》には絶対必要不可欠だからね。かなり難《むずか》しいと思うけど……ともはね。人《ひと》捜《さが》し、頼めるかな?」
するとともはねはぴしっと踵《かかと》を合わせて敬礼した。
「お任せあれ!」
彼女のその頼もしい言葉に薫《かおる》は破《は》顔《がん》すると同じように答礼を返した。ともはねはくるっと振り返り、とととっと駆けると、ぽ〜んと宙に向かって飛び、消えた。
薫はともはねの消えた空を見上げ、目を細めた。
しばらくしてから呟《つぶや》く。
「本当に頼んだよ、ともはね……」
そうして彼もまた踵《きびす》を返すと裏口から川《かわ》平《ひら》本邸に戻って行った。
裏山の鳥《とり》居《い》が一度、大きく共鳴するような音で激《はげ》しく高鳴った。
それは酷《ひど》く不吉な甲《かん》高《だか》さを帯《お》びていた。
[#ここから太字]
〜曇《くも》りのち晴れたある日〜
久しぶりにニンゲンがうちに遊びに来られたにゃ。
おうちをなくされたそうにゃ。
お金もなくて、服もなくてとっても可哀《かわい》想《そう》にゃ。でも、ニンゲンには綺《き》麗《れい》なケモノが一匹|憑《つ》いてるにゃ。にゃ。
狐《きつね》にゃ〜。
この狐もニンゲンに上手《うま》く化《ば》けられなくなって困ってるみたいにゃ〜。
二人ともうちの留《とめ》吉《きち》がとてもお世話になった人にゃ〜。だから、ちゃんと恩返ししないとならないにゃ。鰹《かつお》節《ぶし》とマタタビも用意するにゃ。
にゃ〜。
[#地から1字上げ]〜とある渡り猫の日記〜[#ここまで太字]
どうも息苦しいな、と思って目が覚める。川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》はそこで暗黒の中、ん? と眉《まゆ》をひそめた。もう感覚的には朝なはずなのに目を開いても真っ暗なままなのだ。そして何というか顔の辺《あた》りが生暖かい。
毛皮の感触。
例《たと》えて言うとミンクのコートにでも生き埋めになってるような。
ぐっぐっと身体《からだ》や腕を動かすとウニャニャと声が返って来る。啓太は、ん〜とさらに眉をよせた。どうも何かが全身に乗っているようだ。何か喋《しゃべ》ろうとした途《と》端《たん》、口元にむわっと毛が入って来る。ぶわっぺっぺっと吐き出し、慌《あわ》てて身を起こす。
起き上がってみて驚《おどろ》いた。
明るい六《ろく》畳《じょう》程の和室を色とりどりの猫たちがごろごろ喉《のど》を鳴らしながら、一面埋め尽くしていたのだ。人間が着るようなチョッキや着物を着た三《み》毛《け》やブチの猫ども。啓太の顔に乗っていた猫がうにゃうにゃ寝言を呟《つぶや》いて、ごろんと別の猫の上に転がり落ちる。にゃっとその猫が目を見開いて、悲鳴を上げた。
啓太のそばにいた茶《ちゃ》虎《とら》が寒そうに丸まり、すり寄って来る。
「おい! こら! お前らなんなんだ、いつの間に」
啓太が呆《あき》れたようにそう言うと、手近にいた何匹かがうっすら目を開けて顔を前足で洗ったり、ふわっと大|欠伸《あくび》をしたりしながら啓太を見上げた。
「にゃ〜。啓《けい》太《た》さん、おはようにゃ〜」
「おはようにゃじゃねえよ! 全く。ちと寒くなってきたからって毎日、毎日、俺《おれ》の寝床にわらわら集まってきやがって」
「啓太さんの隣《となり》は暖かくて落ち着きますにゃ〜」
猫どもがあふっと伸びをして、後足で顎《あご》を掻《か》いたりして答えた。二本の尻尾《しっぽ》を持ち人語を解す猫《ねこ》又《また》。渡り猫たちの巣《そう》窟《くつ》に居《い》候《そうろう》として転がり込んでから毎朝、このような光景が展開されていた。
啓太はぼりぼりと憮《ぶ》然《ぜん》とした表情で頭を掻き、立ち上がった。
にゃ〜にゃ〜言いながら身体《からだ》にまとわりついて来る猫たちを踏まないように気をつけ、襖《ふすま》を開けて外に出た。良く磨《みが》き抜かれた板張りの廊下は、猫たちから貰《もら》った厚手のちゃんちゃんこを着ていても身を切られるように寒かった。啓太は一度、ぶるっと身《み》震《ぶる》いしてから首をすくめ、肩を掻き抱き、廊下の角を曲がった。
「あ、啓太さん、おはようございます」
そこにいたのは渡り猫の留《とめ》吉《きち》だった。
欄《らん》干《かん》の手すりにお尻《しり》を乗っけて、足を投げ出すような形で器用に座っている。啓太はここに来て大量の猫どもを見て来たから何となく分かるようになって来たのだが、留吉は猫又の間でも比較的、毛並みが綺《き》麗《れい》な方だ。
彼が見守っている先の一階の土間では朝当番の猫たちが一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、立ち働いている。
大小さまざまな形の仏像が並べてあって、猫たちは雑《ぞう》巾《きん》片手に歌いながら踊りながらそれを磨いていた。
さあさ、歌いましょ、踊りましょ。
仏像ぴかぴか磨きましよ。
これが僕らのお仕事。
僕らの日《にっ》課《か》。
にゃにゃにゃにゃにゃんと片づけて、朝ご飯をちゃっちゃと食べましょ。
「おい」
と、啓太が半目で呟《つぶや》いた。
「あの端《はし》っこで一《いっ》緒《しょ》になって踊ってるのはようこか?」
タータンチェックのミニスカートに素《す》足《あし》。雑巾を片手に、ようこがにゃんにゃんにゃん言いながら踊っていた。
「あ、はい」
留吉が嬉《うれ》しそうに頷《うなず》いた。
「今日《きょう》は早く目が覚めたからって、仏像磨きのお手伝いしてくれてるんですよ」
「ほう」
彼女が担当しているのはとびきり大きな石仏で、彼女はそれをお尻《しり》をふりふり布《ふ》巾《きん》を振り回しながら磨《みが》いていた。とんとんと爪《つま》先《さき》立《だ》ちで移動し、次にリズム良く片足でターンした。さらに何度か擦《こす》るように仏像を磨《みが》いている。
そこで啓《けい》太《た》に気がついて、
「あ、ケイタ!」
彼女が手を振るのと同時にお尻から生《は》えっぱなしになっているふさふさしたケモノの尻尾《しっぽ》が揺《ゆ》れた。にっと笑っている頬《ほお》からはぴょこんとケモノの髭《ひげ》が突き出ているし、頭からは三角の耳が生えている。
どこからどう見ても立派なケモノ娘だ。
「よいしょ」
ようこはひょいと地面を蹴《け》ると留《とめ》吉《きち》が座っている欄《らん》干《かん》まで軽々と跳《ちょう》躍《やく》した。蛙《かえる》のような四つん這《ば》いでそのまま着地(立《た》て膝《ひざ》なのでパンツが丸見え)し、手をくいくいっと招き猫みたいに差し招いて満《まん》面《めん》の笑《え》みで、
「にゃんにゃん♪」
そう言ってからまたひょ〜いと一階の土間に飛び降りた。今度は手近な猫を抱きかかえてじたばた逃げようとしているその背中にすりすり頬ずりをする。
「にゃんにゃん♪」
「なんのこっちゃ」
啓太は寒そうに首をすくめた。
「ようこさんの変化、なかなか元に戻りませんね〜」
留吉が啓太の顔を見上げて尋《たず》ねた。
「ああ」
啓太は半目で答えた。
「てっきりすぐに治ると思ったけど、なかなか治らねえなあ」
どういう訳《わけ》だかようこの変化は赤《せき》道《どう》斎《さい》と戦って以来、不完全なまま(透過も出来なくなっていた)になっていた。啓太たちが渡り猫の隠《かく》れ家《が》に身を寄せているのは偏《ひとえ》にそういった理由もある。
街だとその姿が目立ち過ぎるのだ。
「僕らとしては何時《いつ》までいてくださっても別に構《かま》わないんですけどね。みんな喜んでますし」
と、留吉などは言ってくれるが、
「ま、そう言ってくれるのはありがたいんだけどさ」
啓太は苦笑した。
確《たし》かに環《かん》境《きょう》は静かだし、三食の飯には困らない。雨《あま》露《つゆ》もしのげるし、退屈だってしない。だけど何時までも猫たちの好意に甘えている訳には行かないのもまた事実だった。ちょっと哀《かな》しそうな顔になった留《とめ》吉《きち》がふと何かを思い付いたように顔を上げた。
「そうだ! なんでしたらようこさんのこと、お猫さまにお願《ねが》いしてみますか?」
啓《けい》太《た》が怪《け》訝《げん》そうに小首を傾《かし》げた。
「お猫さま? なんじゃい、そら?」
留吉は得意そうに啓太の腕を前足でぺちぺち叩いた。
「お猫さまはですね〜。僕らの守り神なのですよ!」
啓太とようこが厄《やっ》介《かい》になっている渡り猫たちの本拠地はとある深い森の奥の、さらに奥の空《あ》き地《ち》にぽつんと一軒だけ聳《そび》えている古い造りのお屋《や》敷《しき》だった。
戦前、紡《ぼう》績《せき》産業で儲《もう》けた好《こう》事《ず》家《か》が別荘地として使用していたのだが、彼の死後はその立地条件の悪さ故《ゆえ》に長い間、廃《はい》墟《きょ》になっていた。それを猫たちが根気良く修《しゅう》繕《ぜん》し、仏像を運び込み、彼らの楽園としていたのである。
留吉は啓太とようこをその建物の一室に誘《いざな》っていた。
「ここにそのお猫さまってのがいるのか?」
「おっきなお部屋だね〜」
啓太が辺《あた》りを見回し、ようこが感心したように呟《つぶや》いている。
実際、広さはそれ程でもないのだが、梁《はり》が剥[#「剥」はunicode525D]《む》き出しになった天《てん》井《じょう》がやたらと高いのでどこかがらんとした印象があった。飴《あめ》色《いろ》に輝《かがや》く床《とこ》柱《ばしら》に、黄《き》みがかった、だが、きちんと乾《から》拭《ぶ》きされた埃《ほこり》一つない畳《たたみ》敷《じ》き。
「お猫さまはまだいらっしゃっていないですよ。普《ふ》段《だん》は集会所として使ってます」
留吉がくるっと振り返って説明した。
その間、他《ほか》の何匹かの猫がにゃ〜にゃ〜鳴きながら立ち働いて、部屋の真ん中に卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》を組み立て、その上に山のような煮《に》干《ぼ》しとか、ネズミを象《かたど》った玩《がんん》具《ぐ》とか、キャットフードの缶とかその他、猫の嗜《し》好《こう》品《ひん》をごてごて積《つ》んでいく。
何故《なぜ》か啓太にくっついて来た河童《かっぱ》までいて部屋の隅っこの方で、ぽりぽりキュウリを囓《かじ》っていた。その前を横切って、三匹がかりで猫たちがえっちらおっちら巨大な銀《ぎん》色《いろ》の鈴《すず》を廊下から運んで来た。
啓太はその様《よう》子《す》を眺めながら留吉に向かって尋《たず》ねた。
「なあ、そもそもお猫さまってなんなんだ?」
「お猫さまはですね」
留吉がくふっと前足で口元を押さえて笑った。
「僕らを守ってくださる全《すべ》ての猫の神様なんです。尊《とうと》くて、賢《かしこ》いのです。ものすご〜い力を持ってるんですよ?」
「要するに何か? あそこに置いてある色々な食い物とかが供《そなえ》物《もの》で、その猫の神様を呼び出すんだな?」
「はい。その鈴《すず》を振るとお猫さまは霧《きり》と共にいずこからか現れるのです。そして一年に一つだけ大《たい》概《がい》の願《ねが》いごとなら僕らのために叶《かな》えてくれるのです」
なるほど。
と、啓《けい》太《た》は呟《つぶや》いて猫たちが運んで来た一抱え程もある銀《ぎん》の鈴を受け取った。ようこが興《きょう》味《み》深《ぶか》そうにその鈴を指先で突《つつ》く。
「なあ、これ、もう振っていいのか?」
と、啓太が尋《たず》ねると留《とめ》吉《きち》がどうぞどうぞと前足で促した。
「はい、いつでも大丈夫ですよ」
啓太は「ん」と頷《うなず》いてその鈴をふりかけ、ふと思い直したように手を止めた。わくわくとした表情で成り行きを見守っていたようこが顔を上げた。
「あれ? どしたの、ケイタ?」
と、尋ねる。啓太は「ん〜」と眉《まゆ》をひそめ考え込んでいる。ようこはそれであ〜と何かに思い当たった。
「もしかしてそれでえっちなお願い事叶えて貰《もら》おうとか思ったの!? この浮気者!」
「ちげえよ、バカ!」
啓太が腕にしがみついてきたようこをそう言って振り払う。それから、彼は困《こん》惑《わく》したように留吉に向き直って尋ねた。
「なあ、年に一度つうことはさ、もしかしたら俺《おれ》たちが願い事頼んだら、お前らその機《き》会《かい》を一年間、失っちゃう訳《わけ》か?」
「あ、はい。そうですけど、それがなにか?」
と、留吉が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに問い返した。ようこがあっと口元を抑えた。啓太は留吉を見つめて念を押した。
「……本当に俺たちがその権利使っちゃっていいのか?」
「はい、もちろんです」
留吉は微笑《ほほえ》む。
「啓太さんたちには本当に本当にお世話になってきたのですから。どうか心おきなくお猫さまにお願いしちゃってください」
他《ほか》の猫たちも近寄って来てこくこく頷いている。河童《かっぱ》だけは我《われ》関《かん》せずとキュウリをぽりぽり囓《かじ》っていた。啓太はふっと笑う。
「そっか……じゃあ、変なお願い事する訳《わけ》にも行かないな。おまえたちの気持ち、きちんと使わせて貰うよ」
ようこがあ〜とまた声を上げた。
「やっぱりえっちなお願いごと頼むつもりだったんだ!」
「ち、ちげえよ!」
「ちがわないもん! わたしケイタがエッチなこと考えている時はもう大体わかるようになったもん!」
「濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だ! 俺《おれ》は断じて何でも言うこと聞く裸のお姉《ねえ》さんを」
「なんだってえ?!」
「だから、そんなこと考えてないって言ったの! い、いいから行くぞ!」
と大いに動《どう》揺《よう》を示して、啓《けい》太《た》が鈴《すず》を両手で振った。ご〜んご〜んとどこか荘《そう》厳《ごん》な音がそこから鳴り響《ひび》いて行く。そして……。
白い霧《きり》が立ちこめ、そこにお猫さま≠ェ現れた……。
啓太とようこはぽかんと口を開けてソレを見上げている。猫たちはにゃ〜にゃ〜鴨きながらソレにまとわりついて行った。
ソレは無表情に、あくまで圧倒的な寡《か》黙《もく》さを持って存在していた。
「でか!」
と、啓太が思わず叫んでいる。ようこが同じく溜《ため》息《いき》をついた。
「おっきい猫だね〜」
ソレは超巨大な三《み》毛《け》猫《ねこ》だった。
縦《たて》にも横にももの凄《すご》くでかい。高い天《てん》井《じょう》に頭がつきそうで、啓《けい》太《た》たちのざっと二倍以上の高さはあった。さらに横にでっぷりと肥《こ》え、外見的には猫、というより熊《くま》の類《たぐい》に酷似していた。それもホッキョクグマクラスだ。腹まわりから肩にかけての盛り上がりがもの凄《すご》く、手足が若《じゃっ》干《かん》、短く見えている。
「……」
それがただ黙《もく》然《ぜん》と啓太たちを見下ろしていた。
髭《ひげ》や耳の造作が冗《じょう》談《だん》みたいに大きいのだが、中でもその瞳《ひとみ》がおかしかった。完全に円形で皿をはめ込んだみたいに全く感情を湛《たた》えずに開きっぱなしになっているのだ。
ちょっと怖い。ぴくりとも身動きせず。
「け、けいたさん」
横で見ていた留《とめ》吉《きち》が焦《あせ》ったように啓太の足をつんつんと突《つつ》いた。
「早くお猫さまに願《ねが》い事を」
「あ、ああ」
啓太がちょっと掠《かす》れた声で答えた。思わず雰囲気に飲み込まれてしまっていた。白い霧《きり》をまとうようにして佇《たたず》むその霊《れい》猫《びょう》が並々ならぬ存在だということはすぐに肌で感じ取れた。留吉の声にも神格的な守り神を目の前にする言い知れぬ緊《きん》張《ちょう》感《かん》があったし、怖いモノ知らずのはずのようこがごくりと唾《つば》を飲み込んでいた。
他《ほか》の猫たちがにゃ〜にゃ〜鳴きながらその身体《からだ》によじ登っていても身動き一つしない。寛容なのか……あるいはソレにとってはさながらクジラに小魚がまとわりつく程度に、煩《わずら》わしく思う程でもないのか。じっと啓太を見つめている。
「あ、え、え〜と……その、なんだ」
こういうちょっと別格の存在にはあまりお目にかかったことがなかった。
「お願いごと……そう。お前に……いや、あなたに頼みたい、いえ、お頼みしたいことがあって呼び出したんだ」
と、ちょっと咳《せき》払《ばら》い。
「俺《おれ》は川《かわ》平《ひら》啓太。そいつはようこ。犬《いぬ》神《かみ》のようこってんだけど」
ようこを指差す。
「なんか変《へん》化《げ》の調《ちょう》子《し》が狂っちゃってて、上手《うま》くニンゲンに化《ば》けられないでいるんだ……で、悪いんだけどその不調を取り除いて欲しい。出来るかな?」
し〜ん。
巨大な霊猫はまるで何事もなかったかのように不動を保っている。瞬《まばた》き一つぜず。その壊《こわ》れたサーチライトのようなぴかぴか光る目がひどく怖い。
「え、え〜と、聞こえてる? そいつの尻尾《しっぽ》と髭《ひげ》と耳を引っ込めて欲しいんだけど」
「あのね、わたし! わたしのことよ?」
と、ようこが前に進み出て自分をくいくい指差す、しかし、霊《れい》猫《びょう》はまるで虹《こう》彩《さい》を動かさず、ただただ啓《けい》太《た》だけをじっと注視していた。
「お、おい。どうして、黙《だま》ってらっしゃるんだ?」
啓太がひそひそと留《とめ》吉《きち》に耳打ちをする。
「それともそういう仕様なのか?」
「あれ? おかしいな。お猫さま、お久しぶりです。留吉です。にゃ〜にゃ〜にゃ〜」
と、留吉が手足を動かしてにゃ〜にゃ〜鳴く。その時、初めて霊猫が動いた。眼球をじろりと動かし、留吉を視界に捉《とら》え、一度、大きくその消防ホースのような太くて長い尻尾《しっぽ》で畳《たたみ》をぱさりと打つ。留吉がほっとした顔になった。
「大丈夫です。お猫さまにはちゃんと聞こえておりますよ。早く願《ねが》い事を言うがよい≠ニ仰《おっしゃ》ってくださってます」
「は?」
と、啓太が間の抜けた声を上げた。
「願いって……」
留吉の言ってる意味がよく分からない。
「さっきから俺、言ってるだろう?」
霊猫に視《し》線《せん》を向ける。巨大な三《み》毛《け》猫《ねこ》もまた黙って啓太を見《み》据《す》えた。どうもそこに大きな齟《そ》齬《ご》があるようだった。
留吉がふと何かに思い当たったようにあっと声を上げた。
「あ、いっけない!」
「ん? どしたよ?」
「あ、いえ、その〜」
と、留吉はばつが悪そうな顔になる。啓太が焦《じ》れったそうに促した。
「なんだよ? はっきり言えよ」
留吉は身を小さくした。
「いえ、あの〜、ですね。啓太さんがあんまり自然に僕らといるから、すっかり失念してたんですけどね。どうか怒らないでくださいね? そういえば猫の守り神であるお猫さまには猫の言葉しか伝わらないんです……すっかり忘れてました」
「な、なに〜?」
と、啓太が目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》く。留吉はますます恐《きょう》縮《しゅく》したように肩をすぼめ、
「……ど、どうしましょう?」
「あはははは」
傍《かたわ》らでそれを聞いていたようこが軽やかに笑い出した。彼女はちっちっちと指を振る。
「ばかね〜。だったら、留吉が猫語ですぐ通訳してあげればいいじゃない。ケイタの言葉」
「あ」
と、留《とめ》吉《きち》が前足で思わず口元を押さえた。
啓《けい》太《た》がお前、賢《かしこ》くなったな〜、というようにようこの頭をぐりぐり撫《な》でる。ようこはえへへ〜と啓太に額《ひたい》を擦《す》りつけて甘えた。
「じゃ、早《さっ》速《そく》、代わりに頼んでくれよ。こいつの不《ふ》調《ちょう》、直してくれ≠チて」
啓太が留吉に向かって命じる。
「は、はい、早速!」
留吉は勇んで霊《れい》猫《びょう》に向き直り、またにゃ〜にゃ〜言い出した。前足をぱたぱた振る。啓太もようこもすぐに願《ねが》いが聞き届けられて、それで全《すべ》てが片づくと思っていた。ところがどうも様《よう》子《す》がおかしかった。
霊猫がまた大きくはたりと尻尾《しっぽ》で畳《たたみ》を叩《たた》いたのだ。
その途《と》端《たん》、留吉の表情が一変した。何かに食い下がるように前に進み出て、高い声でにゃ〜にゃ〜鳴く。しかし、霊猫は全く動かない。留吉が訴える。霊猫が首を横に振る。留吉がさらに焦《あせ》る。一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、前足を掻《か》く。
霊猫は微《み》塵《じん》も感情を揺《ゆ》らさず、留吉を黙《だま》って見《み》据《す》える。
「お、おい! どうしたんだよ?」
気になって啓太が呼びかけた。
「そ、それが、その」
と、留吉が泣きそうな顔になって振り返った。
「あの鈴《ずず》を鳴らした人しか願いを言う権利がないそうです。わたしはその者の意志しか受け付けない。代弁は認めない≠チて」
「え〜、けち!」
と、ようこが不満そうに唇《くちびる》を尖《とが》らせる。啓太が困《こん》惑《わく》したように言った。
「……つってもな〜。俺《おれ》、猫語なんて喋《しゃべ》れないぞ?」
「あ、わたしね、ちょっと喋れるよ、猫語。なにしろわたし、野良猫の集まりでは名誉|顧《こ》問《もん》だもんね〜」
と、得意そうなようこ。啓太がようこを見て、留吉が何か言いかけたその時。
「にゃあああああああああああ」
突然、まったく前触れもなく霊猫の口から異音が漏《も》れた。それは琴の音が地の底から響《ひび》いて来るような、閑《かん》雅《が》さと不気味さが奇妙に入り交じった不《ふ》思《し》議《ぎ》な鳴き声だった。すぐに他《ほか》の猫たちが尾を引くようににゃ〜にゃ〜と呼応する。河童《かっぱ》が楽しそうにくけけけと唱和した。啓太がぎよっとした顔になって霊猫を見上げた。
「ど、どうした? 何かご機《き》嫌《げん》を悪くなされたのか?」
「え、えっとそうじゃなくってですね」
留《とめ》吉《きち》は一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、霊《れい》猫《びょう》を見つめながら同時通訳を試みた。
「お猫さまはですね〜」
にゃあああああああああああ
「えっと……ニンゲンよ。猫語が喋《しゃべ》れないのか? だったら本来はだめだが、特別に私と会話できるよう、猫語を使えるようにしてあげよう≠ニこうおっしゃってます」
「猫語? え? なに?」
「え、えっとこれは本来の願《ねが》いとは別のサービスだから安心しろ≠ニのことです」
「あ、あんしんしろってお前」
その瞬《しゅん》間《かん》、霊猫の周りをたゆたっていた霧《きり》がさあっと啓《けい》太《た》にまとわりついて。
そして。
一瞬で、彼の姿を変えた。
どろん。すぐに霧が晴れる。しばしの沈《ちん》黙《もく》。ぷっとようこが噴《ふ》き出すのと自分の状況を悟った啓太が叫び出すのがほとんど同時だった。
「な、なんじゃこら!?」
彼は己《おのれ》の手を見つめ、頭と顔を触って愕《がく》然《ぜん》としていた。
「あはははははは、ケイタ、わたしと一《いっ》緒《しょ》だ♪」
ニンゲン川《かわ》平《ひら》啓太。
彼は今やすっかり人《じん》外《がい》へと変《へん》貌《ぼう》を遂《と》げていた。すなわち頭からは三角形の猫耳。頬《ほお》からはぴんと張った髭《ひげ》。腰元からはくねくねと曲がる細長い尻尾《しっぽ》が生《は》えていて、ご丁《てい》寧《ねい》なことに手は巨大な肉《にく》球《きゅう》をつけた猫の前足と化していた。
「あ、あう〜」
留吉が何とも言えない微妙な顔になっている。くけけけと河童《かっぱ》が鳴いていて、霊猫が相変わらず全く表情を変えずに啓太を見下ろしていた。
「わ〜、ケイタ、可愛《かわい》い〜♪」
しがみついて頬に頬を当て笑顔《えがお》ですりすりするようこ。
啓太はそれを押しのけ、叫んだ。
「おい、こら! 俺《おれ》はこいつの姿を元通りにしてくれって頼んだんであって、こいつと同じ姿にしてくれなんて一言も言ってねえよ!」
「あ、違うですよ、啓太さん」
留吉が取りなすように啓太と霊猫の間に割って入った。
「お猫さまはですね、啓太さんも猫語を使えるようにしてくださったんです」
「はあ?」
「だからですね、そもそも猫はニンゲンみたいに言葉だけで会話を交《か》わさないんですよ。尻尾や耳やヒゲや身体《からだ》の全部を使って意志を伝えあうんです」
「そ〜だよ、ケイタ。実際、猫だけじゃなくって、犬や他《ほか》の動物も、言葉に頼らない表現の方が多いんだよ。例えば」
くいくいっと手で頬《ほお》を掻《か》き、目を細め、くわっと欠伸《あくび》をするようこ。
「これはね、猫の言葉で最近はお天気がいいですね≠ニいう意味なんだよ」
「そうそう。それで頬をこの角度で掻くと大洪水が怖いぞ≠ニいう文脈になるんです」
「……俺《おれ》には全く同じに見えるが?」
「そうですか? でも、だいじょうぶですよ。猫語は比較的、簡《かん》単《たん》な言語ですし、僕がちゃんとお教えしますから」
啓《けい》太《た》はまだ何か抗《こう》議《ぎ》しようとしたが、ようこと留《とめ》吉《きち》に諭《さと》され、結局、その言葉は飲み込んだ。良く考えれば他《ほか》に選《せん》択《たく》肢《し》もないのだ。
仕方なく、生まれて初めて基本的な猫語|講《こう》座《ざ》を受けることになる。
「いいですか? まずこうやってヒゲを軽く震《ふる》わせ」
「う、ううう。何か難《むずか》しいぞ?」
「こう鼻と口の先を万《まん》遍《べん》なく意《い》識《しき》する感じです」
「こ、こふか?」
「ケイタ、今クシャミを我《が》慢《まん》している時の顔しているよ♪」
「やかましい。こうか?」
「あ、上手《うま》い上手いそんな感じです」
一通り、ヒゲ、耳、尻尾《しっぽ》の動きを覚えて、いざ実地で使ってみることになった。啓太は先程から置物のように泰《たい》然《ぜん》として動かない霊《れい》猫《びょう》に向き直った。留吉から教わったこの娘の霊的な不《ふ》調《ちょう》を直し、是非、上手く変化出来るようにして欲しい≠ニいう意味合いのフレーズを表現してみる。
ちらっと留吉とようこを見やると彼らはぐっと応援するように拳《こぶし》を握っていた。
啓太はこっほんと咳《せき》払《ばら》いしてからまず耳をひこひこ動かしてみた。次に尻尾の先で輪《わ》を描くようにお尻《しり》を振り、手をくいくいっと差し招いて、
「にゃ、にやあ〜」
ついやらなくてもいい強《こわ》張《ば》った笑《え》みまで浮かべている。
果てしなく間の抜けた光景だった。
「にゃあ〜」
永《えい》劫《ごう》とも思える間の後。
霊猫がこくりと頷《うなず》いた。にゃあああああああああと長い長い鳴き声。啓太がほっとした顔になった。途《と》端《たん》、どろんと音がして二十インチ程のテレビが突然、畳《たたみ》の上に現れた。留吉がやっばりと前足で顔を覆《おお》っていた。
「ダメですよ、啓《けい》太《た》さん。それでは誰《だれ》かが俺《おれ》を呼ぶのならそれはきっとテレビの中だ≠ニいう訳《わけ》の分からない意味になってしまってます」
「な、なに?」
啓太がようこの方を見やった。彼女の様《よう》子《す》に全く変化はない。啓太は慌《あわ》てた。
「ま、まて! 今のでもしかして願《ねが》いを使ったことになるのか!」
留《とめ》吉《きち》が何事か確《かく》認《にん》するように霊《れい》猫《びょう》に向かってにゃ〜にゃ〜甲《かん》高《だか》い声で尋《たず》ねた。大きな三《み》毛《け》猫《ねこ》は黙《だま》って首を横に振る。留吉はほっとした顔になった。
「よかった……お猫さまは願い事がきちんと確定するまでは何度でも挑戦するがよい≠ニこう仰《おっしゃ》ってくださってます」
啓太も溜《ため》息《いき》をついた。
「ふう……気前のいい猫で助かったぜ」
同時にようこがテレビを指さしていた。
「ほら、見てケイタ! ともはねが映っている!」
ケイタがそちらの方を見やると、心細そうなともはねがビルの屋上に立っているところだった。彼女は大きく息を吸い込むと、
「啓太様あああああああああああああああああああああああああ!!!!」
と、思いっ切り叫んだ。その声が部屋中に響《ひび》き渡り、思わずようこや猫たちが耳を塞《ふさ》ぎ、啓太が目を白黒させた。
やがて彼女が叫び終わるとどろんと白い煙が立ち昇って跡《あと》形《かた》もなくテレビはその場から掻《か》き消えた。啓太が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに小首を傾《かし》げた。
「……なんだったんだ、あいつ? なんで俺の名前を呼んでるんだ?」
ん〜、とようこが顎《あご》に人差し指を当てそれから、
「ケイタのこと探してるんじゃない? ほら〜、わたしたち誰にも場所を告《つ》げずにここに来ちゃったからさ、きっと用があるんだよ、ともはね」
啓太の首に細い手を回しながら答えた。啓太はちょっと真顔になって何事か考える表情になった。霊猫が長く鳴く。
留吉が恐る恐る啓太の袖《そで》を引っ張った。
「あ、あのお猫さまが願いごとを早く言ってもらえると助かる≠ニ仰ってますが」
考えに耽《ふけ》っていた啓太はその一言で我《われ》に返った。
「そうだな……」
彼は頷《うなず》く。
「とりあえずはさっさとこちらを片付けるか」
再び巨大な三《み》毛《け》猫《ねこ》に向き直るときっと表情を引《ひ》き締《し》めた。留吉とようこが交互にアドバイスを送った。
「さっきは尻尾《しっぽ》の動きが右に二十度おかしかったのであんな文章になっちゃったんです」
「ケイタ、猫の心だよ♪ きゃっとはーとだよ、びーきゃっとだよ!」
啓《けい》太《た》は再度、頷《うなず》いてにゃにゃにゃにゃと鳴きながら尻尾を動かした。ぴくぴくと髭《ひげ》を震《ふる》わす。続いて華《か》麗《れい》にターンを決めると、「どうだ!」と言わんばかりに霊《れい》猫《びょう》を見上げた。
霊猫は黙《だま》って啓太を見下ろしていた。
それから、
「にゃあああああああああ」
と、鳴いた。
すると一体どういう意思の伝達が行われたのか突如、啓太の顔が二十倍ぐらいに膨《ふく》れ上がった。全く突然。
「うお!」
それが滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》、重い。
「うおお!」
啓太はバランスをとり切れず、よろよろとよろめき、頭からつっ転ぶ。
「うおおおおおおおおおおおお!?」
立ち上がろうとして立ち上がれない。自分の身の上に起こったことが理解出来ず、啓太は目を白黒させている。留《とめ》吉《きち》が慌《あわ》てて言っていた。
「えっと、今のはですね、手首の返しがほんのちょっと甘かったから」
「僕の頭は限りなく膨らんでいく。ポケットには綱《つな》取《と》りの夢と便《べん》座《ざ》がいっぱい≠チて意味になっちゃったんだよ?」
「なんなんだよ、その電波な文章は!」
だがその間にも、啓太の頭は情《なさ》け容赦なくどんどんと膨れ上がっていく。それにつれて彼の相対的に小さくなった身体《からだ》と足が逆さになって、
「いて! いて!」
自律的に動く便座が動物みたいにかぷかぷと啓太の尻《しり》を噛[#「噛」はunicode5699]《か》んでいる。
一体、どこから紛《まぎ》れ込んで来たのか部屋の隅に相撲《すもう》取《と》りが現れて、どすこ〜いと土俵入りの型を披《ひ》露《ろう》していた。
「わ〜〜〜〜〜! なんだ! なんなんだ一体!」
「啓太さん、落ち着いて! 落ち着いて! まだ訂正がききますから!」
どんどんと膨らんでいって部屋を占拠し始めた啓太の頭。
留吉が一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、呼びかけていた。ようこは不《ふ》思《し》議《ぎ》そうにひたすら土俵入りを繰《く》り返す相撲取りを見ている。
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ?」
と、霊猫が小首を傾《かし》げている。
恐らくこれがお前の望みなのか、とでも問うているのであろう。啓《けい》太《た》が叫んだ。
「んな訳《わけ》あるか! こら、元に戻せ! さっさと元に戻せ!」
「ケイタさん、猫語です! 猫語ですよ!」
「にゃ、にゃにゃにゃ!」
啓太が必死で教わったハイピッチな否定表現を使用する。ついで尻尾《しっぽ》をぱたぱた振った。その瞬《しゅん》間《かん》。にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ〜。
霊《れい》猫《びょう》が鳴いてどろんと啓太の頭が元のサイズに戻って、人《ひと》喰《く》い便座と相撲取りが消えた。代わりに今度は二十人程の無個性な男たちが現れ、一《いっ》斉《せい》に一心不乱にラーメンを啜《すす》り始めた。それと逞《たくま》しい上半身を晒《さら》したサスペンダー姿の男が二人。ずんどこずんどこリズムを取りながら身体《からだ》を揺《ゆ》らし、胸を左右から啓太の頬《ほお》に押し付けて来る。
「……ケイタ、四つのよく日焼けした乳首に挟まれた男ラーメン≠チて一体なに?」
と、冷や汗を掻《か》きながらようこが尋《たず》ねてきた。ずるずると男たちが麺《めん》を啜る音がダイナミックかつ激《はげ》しいメロディを奏《かな》でる。
恍《こう》惚《こつ》とした表情でごつごつした胸を押し付けて来るマッチョガイが二人。
「俺《おれ》が知るかあああ─────────!」
と、啓太が叫んだ。彼はまとわりついて来る男たちを押しのけ、
「いいか! にゃにゃにゃあ〜〜〜!」
啓太は前足と化した手をぱたぱた振り、地《じ》団《だん》駄《だ》を踏んだ。最後にびしっとようこを指差す。
「にゃ!」
霊猫がしばし動きを止めた。それから、
「にゃにゃにゃにゃにゃ」
と、全《すべ》て理解したように頷《うなず》いた。どろん。その瞬間、部屋を覆《おお》っていた全ての怪《かい》異《い》が一瞬で消え失《う》せた。
啓太がようこに目を向けると、彼女は何故《なぜ》か真《ま》っ赤《か》な顔をして立ち尽くしていた。そして、そのケモノ耳も、髭《ひげ》も、尻尾も完全に消え去っている。
「……治ったのか?」
と、啓太が聞くと彼女ははにかむような表情のままこくりと大きく頷いた。啓太はどっと疲れた息を吐き出した。
「はあ、助かったあ……」
思わず畳《たたみ》に座り込む。留《とめ》吉《きち》も他《ほか》の猫たちも動きを止め、どういう訳《わけ》かまじまじと啓太を見つめている。
「な、何だよ?」
と、その視《し》線《せん》に気がついて啓太が薄《うす》気《き》味《み》悪そうに彼らを見返した。
「どうしたんだよ?」
「え、えっとですね……」
と、留《とめ》吉《きち》がこっほんと言いにくそうに一つ咳《せき》払《ばら》いをした。心なしか頬《ほお》を赤らめている。その間《かん》、ようこは妙に潤《うる》んだ瞳《ひとみ》で一歩、また一歩と近づいて来た。まるで獲《え》物《もの》を捉《とら》えようとする肉《にく》食《しょく》獣《じゅう》のように。荒い息をついている。
啓《けい》太《た》は何故《なぜ》か嫌《いや》な予感に囚《とら》われて一歩、後ろに退いた。
「実はさっき啓太さんがお猫さまに言った言葉は」
と、留吉。ようこがとんと足を踏み出す。
「猫語で俺《おれ》の愛する女を元に戻してくれ=Aという意味だったんです」
「わあ〜〜〜い、ケイタ、わたしも愛してるよ!」
「嘘《うそ》だああああ───────!」
と、啓太が真《ま》っ赤《か》になって叫んだ。
ようこは大きくジャンプ。啓太の首根っこに囓《かじ》り付くと、うりうりと頬を擦《す》り付け、ちょっと意地悪な半目で言った。
「言ったよね? 今、愛してる≠チて確《たし》かに言ったよね?」
「言ってねえ! 言った覚えはねえ!」
「言ったもん! 猫語で俺の愛する≠チて確かに言ったもん! 一生|面《めん》倒《どう》みる≠チて言ったもん!」
「ますます言ってねえ〜〜〜!」
大きく感嘆の吐《と》息《いき》をつき一《いっ》斉《せい》に祝福の拍手を送る猫たち。河童《かっぱ》。啓太が焦《あせ》って叫ぶ。
「こらああああああ─────! お前たちも勝手に既成事実にするな!」
「さあ、ケイタ、市役所に届け出にいこ♪」
「一体、なんの届け出だよおおおおおお────!」
彼の絶叫が響《ひび》く。それを見ていた巨大な三《み》毛《け》猫《ねこ》がにゃ? と小首を傾《かし》げた。ようこにまとわり付かれ、必死で弁解する啓太に留吉が声をかけた。
「あ、あの、啓太さん。ちょっといいですか?」
「な、なんだよ! 今、とりこみ中!」
「えっとですね、お猫さまがもう私の役目は終わったか?≠ニお尋《たず》ねになっておりますが」
啓太はくすくす笑いながら『男の責任問題』について説《と》いて来るようこに手一杯だった。そのためつい、
「あ、そうだな。世話になったなってようここらよせ! もういいぞ!」
と、尻尾《しっぽ》を忙《せわ》しなく振ってしまった。
霊《れい》猫《びょう》は一度、にゃ≠ニ生《き》真《ま》面《じ》目《め》に頷《うなず》き、霧《きり》を呼び込み、その奥へと消え入っていく。猫たちが名残《なごり》惜《お》しげに鳴いた。
お供えモノの乾《かん》物《ぶつ》が一つ。また一つと消えていく。その時、留吉が何かに思い至ったように「あ」と声を上げた。
それから慌《あわ》てて啓《けい》太《た》に向かって尋《たず》ねた。
「あ、あの啓太さん、いいんですか?」
「ん? 何がだよ?」
と、啓太がひっ付いて来るようこの顎《あご》を押し上げながら聞き返した。留《とめ》吉《きち》が重ねて言う。
「いえ、ですから、啓太さんのその格《かっ》好《こう》」
そこでようやく啓太が気がついた。取り返しのつかないこと。
絶対、忘れてはならないこと。
自分の髭《ひげ》や尻尾《しっぽ》がまだそのままだったことに!
慌てて振り返るとお供え物の最後の一品が宙に掻《か》き消え、一筋の霧《きり》が滲《にじ》むように蒸発するところだった。
「わ! たんま! やっぱりちょっとたんま!」
啓太はようこを押しのけ、ただ一つ残った銀《ぎん》の鈴《すず》に飛び付く。思いっ切り振る。がんがんと壁《かべ》に叩《たた》き付けるようにして鳴らす。
しかし、いくら振っても、霊《れい》猫《びょう》は戻って来ることなく。
「あ、え〜と……その、お猫さまはさっきもお話しした通り、一年に一度しか呼び出せないんです」
と、事《じ》態《たい》を察して、心の底から気の毒そうにそう告《つ》げる留吉の声が聞こえ、
「わああああああああああああああああああああああ!」
啓太の悲痛な叫び声が木《こ》霊《だま》した。
川《かわ》平《ひら》啓太。
猫になった。
やけくそ。
不幸のてんこ盛り。破れかぶれ。そんな言葉が涙が出る程似合う犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い川平啓太はそれからしばらくして冴《さ》え冴《ざ》えとした月の下、猫|屋《や》敷《しき》の畳《たたみ》敷《じ》きの部屋で胡座《あぐら》を掻き、酒を浴びるように飲みながら叫んでいた。
「だ〜〜、もうこうなったら矢でも、鉄砲でももって来い!」
白《はく》銀《ぎん》色《いろ》に染《そ》まった部屋の中。
全《すべ》ては色彩を失い、さながら墨《すみ》絵《え》のようにシャープな影《かげ》だけを生む。
三《み》毛《け》や虎《とら》や茶《ちゃ》色《いろ》の猫たちが彼の周りに集まってにゃ〜にゃ〜鳴きながら踊ったり、毛《け》繕《づくろ》いをしたり、お酒の相《しょう》伴《ばん》に与《あずか》ったり、アジの干《ひ》物《もの》や鮭《さけ》トバなどの乾きモノを囓《かじ》ったりしている。河童《かっぱ》も啓太の膝《ひざ》の上で背伸びして、もうすっかり彼の身体《からだ》の一部になってしまった猫の髭をくけくけ面《おも》白《しろ》そうに弄《いじ》っていた。
猫たちが代わるがる、啓《けい》太《た》の杯に特製のマタタビ酒を注《そそ》ぎに来た。啓太は片っ端からそれを空《あ》けている。やがて酔いの回った啓太はくてんと顎《あご》を畳の上に乗っけると、涙目のままぶつぶつと小声で何事か呟《つぶや》き、とうとう酔《よ》い潰《つぶ》れてしまった。
同じく酔っぱらった猫たちが次々と彼の周りで丸くなり、天然の毛皮|布団《ぶとん》代わりになる。最後にようこが啓太の腰にまるで肘《ひじ》掛《か》けのように腕を乗せると、足を艶《なま》めかしく曲げる姿勢でしなだれかかった。
「うふふ、ケイタ、相変わらずお酒弱いね〜」
ようこはそう言ってぽんぽんと楽しそうに啓太の頭を叩《たた》いた。そういう彼女自身、そうとう顔が赤くなっている。
「あの、本当に明日《あした》、街へお帰りになるんですか?」
と、一人、素面《しらふ》な留《とめ》吉《きち》がようこを見上げて尋《たず》ねた。
啓太のいびき。猫たちのうにゃうにゃ言う声。窓の外の冷気が締《し》め切ったはずの部屋にも密《ひそ》かに忍び込んで来ていて、辺《あた》りはすっかり冬の気《け》配《はい》だ。夜の色合いが触れれば溶《と》けそうなほど透明に澄《す》んでいる。
「うん。ケイタはその気みたい」
と、くくっとようこが喉《のど》の奥で笑いながら言った。彼女はさらに杯を口に含むと、
「お子様が私たちのこと捜《さが》してるみたいだしね?」
と、上《じょう》機《き》嫌《げん》に片目をつむってみせた。
「ま、なんにしてもお世話になったね、留吉。あんたんところでのんびり出来てわたしはとっても楽しかったよ」
「あ、いえいえ、そんな」
留吉は慌《あわ》てて首を横に振った。
「僕らも本当に楽しかったですから」
心の底からそう思ってこくこく頷《うなず》く。
「啓太さんは本当に不《ふ》思《し》議《ぎ》な人ですよね。僕ら猫《ねこ》又《また》は本来ならとっても警《けい》戒《かい》心《しん》が強いんですけどね、みんなあっという間に懐《なつ》いちゃった。まるで魔《ま》法《ほう》みたい」
「魔法? 面《おも》白《しろ》いことを言うね。留吉は」
くくっと笑う声。留吉は考え込むようにして言う。
「いえ、あながち誇張でもないんですよ……例えばほら、この河童《かっぱ》」
留吉は啓太の頭の上でぐで〜と寝ている河童をちらっと見た。
「なんでこんな川にいる生き物が啓太さんにくっついてここまで来てるんですかね? 森ですよ、ここ。啓太さん、特に何かしてる訳《わけ》じゃないのに。むしろ厄《やっ》介《かい》がってるのに……なんだかとっても僕らみたいな存在を不思議な程引きつける」
「……ケイタはいつもそうだよ。あの時だってそうだった」
「え?」
突然、ようこがそんなことを言い出したので留《とめ》吉《きち》は不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに顔を上げた。ようこはとろんとした酔《すい》眼《がん》で窓の外を見ていた。つられて留吉もそちらに目をやる。ようこが見つめているモノを一《いっ》緒《しょ》に見つめた。
それは銀《ぎん》色《いろ》の満月だった。
狂いそうなくらい凶《きょう》暴《ぼう》な色合いの見事な、冬の満月だった。
「それはそう。こんな月の綺《き》麗《れい》な晩だったよ」
と、ようこは懐《なつ》かしむような遠い口《く》調《ちょう》でぽつり、ぽつりと呟《つぶや》いた。
「一匹のケモノが閉じこめられていた檻《おり》から逃げ出したの」
「ようこさん?」
「だけど、すぐに追っ手がかかった。ケモノは走りながら炎を放《はな》ち、逃げたわ。だけど、ケガも負ってしまった。やがて走れなくなった。疲れ果て、地に伏せた。もう駄《だ》目《め》だと思った。満月と炎の明かりだけがケモノを照らしていた」
留吉はどう言葉を差し挟んで良いものか迷っている。その間、ようこの独白は続く。
「結局、満月の光も炎の明かりもケモノの孤独を癒《いや》してはくれなかった。でも、せめて自由になって死ぬならそれでもいいと思った。ケモノは笑った。自《じ》暴《ぼう》自《じ》棄《き》に。そこへ」
ふっとようこは笑った。
「本当になんでもなく森の奥から現れた」
うお、でっかい犬だな!
いや、狐《きつね》か?
ま、何でもいいや。
お前、俺《おれ》と一緒に来るか?
彼はそう言った。
だぼだぼのジャンパーを着た幼い少年はそう言ってにっと笑った。
「なんでそこにいたのか知らないけどさ。恐ろしいだろうに大きなケモノの前でなんでもないように笑って」
ようこはそう言ってう〜んう〜ん唸《うな》っている啓《けい》太《た》を抱きしめる。顔を埋め、ぎゅうっと抱きしめる。大事そうに。
大事そうに。
この世の何より大事そうに。
「とうとう一緒になれた」
離《はな》さないよ、もう。
そう呟いてから、いったんすうと息を吸うと、すぐにようこは可愛《かわい》らしく寝息を立て始めた。留《とめ》吉《きち》はずっと溜《た》めていた息をふうっと吐き出した。
ようこの正体はもうとっくに知らされていた。
彼女が世にも悪《あ》しき大《だい》妖《よう》狐《こ》の娘であることも。長い間、封印されて来たことも。だが、何故《なぜ》、大妖狐の娘が膝《ひざ》を屈して、犬《いぬ》神《かみ》になったのか、まではまだ知らなかった。
今日《きょう》。
ようこの独白で初めてそれを知った。
恐らくその日。
ようこは心奪われたのだ。
炎の中、全く物《もの》怖《お》じせず自分に近寄ってくる幼い日の川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》に。暗く、狭い結界の中では得られなかった鮮《せん》烈《れつ》な『面《おも》白《しろ》い』という感覚に。笑ってしまう何かに。彼女がずっとずっと求めて止《や》まなかった何かに。
長い長い孤独からの永劫の解放。
だから、妖狐は彼と共にいるために。
彼と共に時を過ごすために。犬神のようこになったのだ。全《すべ》ての障害を乗り越えて。ただただ彼といたいがために。
留吉は目を細め、満月を見上げた。
「そんなことがあったんですね〜」
満月はあくまで煌《こう》々《こう》と輝《かがや》いていた。きっとその日のように。
啓太とようこが初めて出会った日のように。
………………。
…………。
……。
留吉も満足そうに傍《かたわ》らで丸くなって、すやすやとした寝息が聞こえるばかり。
そんな頃《ころ》合《あ》いに今の今まですっかり寝入ったとばかり思われていた川平啓太がぱっかり目を開いた。
彼は腕を組み、困《こん》惑《わく》したように眉《まゆ》をひそめて天《てん》井《じょう》を見やる。
「あれ?」
と、彼は小首を傾《かし》げた。
「……そんなことあったっけ、か?」
だが、その「全く記《き》憶《おく》にないんだけど……」という呟《つぶや》きは誰《だれ》の耳にも届かなかった。
ただ月だけが溢《あふ》れるような光を惜しみなく部屋に注《そそ》ぎ込んでいた。
[#ここから太字]
天《てん》啓《けい》。
この奥付にまで目を通してくれている男子諸氏ならば須《すべから》く同意してくれるだろうが、人は数え切れぬ程の場数を踏むとある種、特別な嗅《きゅう》覚《かく》が働くようになるものである。ヒッサルリクの丘を見てその下に眠るトロイの存在を確《かく》信《しん》したシュリーマンのように。あるいはそれを霊《れい》感《かん》と呼ぶなら夢《ゆめ》枕《まくら》に現れた悪《あく》魔《ま》に妙《たえ》なる音楽を教わったタルティーニのように。
このアニメは必ずブレイクするとか。
この専門店には必ず捜《さが》していた同人本があるとか。
ただ経《けい》験《けん》と情《じょう》熱《ねつ》とだけがその超人的な洞察を可能にするのである。
私自身、志《こころざ》し半ばのはんちく者ではあるが、時としてそういう運命の導《みちび》きとしかいいようがない出会いを自《みずか》らの直感で手《た》繰《ぐ》り寄せたことがある。
それが以前、お話した尻尾《しっぽ》娘《むすめ》(嘆かわしいことに、私の読者の中にもこの娘の存在を未《いま》だに疑う者がいる!)であり、今回、メインヒロインになったツインテールの少女なのである。
そう。あれは確《たし》か世間が浮かれ騒《さわ》ぐクリスマスイブのことだった。
私は冷たい霧《きり》雨《さめ》の中、まるで何者かに差し招かれるようにして、普《ふ》段《だん》全く訪れたことのないビルとビルの間の狭い路地に足を踏み入れていた……。
[#地付き]『犬娘ふぁいと! 著者奥付より〜河原《かわら》崎《ざき》直《なお》己《き》〜』[#ここまで太字]
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×一『紅《くれない》』!」
押し寄せて来る黒い影《かげ》をものともせず立ちはだかった小さな影。彼女は上半身をぐうっと大きく逸《そ》らすと、気合いの声一閃と共に思いっ切り重心を前に倒し、光の刃《やいば》を放った。しゃしゃしゃしゃっと交差するように宙を切り裂く赤い霊《れい》気《き》の疾《しっ》風《ぷう》。
でろでろでろ〜ん。
不定型な雑霊の塊はアメーバのような触手を伸ばして、少女と彼女の背《はい》後《ご》で唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としたように立ち尽くす少年を飲み込もうとしていた。
だが、一《いっ》瞬《しゅん》早く深《しん》紅《く》の衝《しょう》撃《げき》波《は》が放射状に広がった雑霊の中心を正確に射《い》貫《ぬ》く。
半瞬遅れてコールタールのように黒く光る雑霊が膨《ふく》れ上がって、次に飛散する。ばらばらと冷たい滓《かす》が辺《あた》りに飛び散り、薄《うす》暗《ぐら》い路地の地面や左右のひび割れた壁《かべ》に降りかかった。ふうっと犬《いぬ》神《かみ》のともはねが肩を落とした。
彼女はしばらく冬の冷たい霧雨が雑霊の残《ざん》滓《し》を洗い流すのを見守ってから背後で固まったように立ち尽くしている少年を振り返った。
「……あの、大丈夫ですか?」
心配そうにそう尋《たず》ねる。川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》を捜《さが》しに吉《きち》日《じつ》市《し》へやって来たところで、肥大化した雑霊に襲《おそ》われている彼を発見したのだ。普通のニンゲンである。きっとさぞかし恐ろしかったのだろうと思っていると、どうもそういう訳《わけ》ではないらしいことにふと気がつく。
彼は確《たし》かに震《ふる》えていた。
だけど何だか最初から雑《ざつ》霊《れい》などは眼中になかった感じで……。
「お、おお」
そう呟《つぶや》いている。一歩、近づいて来た。ともはねは反射的に後ずさった。良く見ると彼の足もとには雑霊に襲《おそ》われた時に投げ出されたと思われるお手製の本が散らばっていた。明るい絵柄のアニメの美少女たちが描《えが》かれている。
どれもあんまりまともな感じではなかった。
良く見ると彼は真冬だというのに美少女が描かれたTシャツとジャケットに、バンダナというともはねがあまり見たことのないファッションを身につけていた。
荒い息もついている。
「ツインテール。お子様、と、ふさふさ尻尾《しっぽ》」
「あ、あの? 聞こえてます? もしもし?」
「ニーソックスにキュロットスカート。驚《おどろ》いたようなひよ目。庇《ひ》護《ご》欲をかき立てつつ、ほどよく前向きで元気?」
日本語になっていない。
正直、先程の雑霊なんかより遙《はる》かに怖い。目が明らかにおかしな輝《かがや》きを放《はな》っていた。そしてそれは、
「も、もえ」
「は、はい?」
「おれはおまえにもえました」
「え、そ、それはちょっといやきゃ」
少年がともはねの肩を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んで思いっ切り叫んだところでピークに達した。
「もええええええええええええええ! 是非、新刊のモデルになってくれええええええ!」
ともはねの身体《からだ》をぎゅっと抱き締《し》め叫ぶ少年と、目を思いっ切り見開いて悲鳴も出せず、全身の毛を逆《さか》立《だ》てているともはね。再びちゅど〜んと赤い閃《せん》光《こう》が放《はな》たれたのはそのすぐ後のことだった。
「こ、こわかった……」
顎《あご》の下の冷や汗を拭《ぬぐ》ってぽ〜んと路地から飛び立つともはね。後には黒こげでぴくぴく手足を痙《けい》攣《れん》させている少年だけが残っていた。
アレはこの吉《きち》日《じつ》市《し》にまで漏《も》れ漂い始めた大《だい》妖《よう》狐《こ》の強大な邪気によって変化した妖《よう》怪《かい》か何かなのだろうか?
「急がなきゃ」
ともはねはこくんと小さく、だが力強く頷《うなず》くととりあえず付近で一番高いビルの屋上まで一気に跳《は》ね上がった。すちゃっと給水塔の上に降り立ち、小手をかざして吉《きち》日《じつ》市《し》の北方を眺めやる。暗い空の下、大小の建物がでこぼことどこまでも続いていた。遠くには川が流れ、その向こうには鬱《うっ》蒼《そう》とした森が広がっている。
犬《いぬ》神《かみ》たちが住まう山や川《かわ》平《ひら》家《け》の本邸はそのさらに先にある。
暗い色合いの雲に隠《かく》されて定かではない。だが、ともはねにははっきりと感じ取れていた。まるでインクが滲《にじ》んで行くようにその先から異様な霊《れい》気《き》が吉日の上空一杯に広がって来ているのだ。思わず胸の鼓動が早くなる。
圧迫感を感じる。
冷たい風が渺《びょう》々《びょう》と吹《ふ》き、雲が不吉な早さで動いていた。
その中でともはねは力一杯叫んだ。
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×一! ともはねすぺしゃる!」
ぐっと爪《つま》先《さき》立《だ》ちになって親指を立てる。
だが。
しばらく待っても何事も起こらない。
「……やっぱりダメか」
ともはねは落胆したように肩を落とした。
いつもなら契約の指《ゆび》輪《わ》を嵌《は》めた親指は、羅《ら》針《しん》盤《ばん》さながらに真《ま》っ直《す》ぐ捜《さが》し物がある方向を指してくれるのだが、このように暗く濃《こ》い霊気に覆《おお》われている状《じょう》態《たい》では砂《すな》嵐《あらし》の中のレーダーのようにまるで役に立ってくれなかった
ということは今、捜している川平|啓《けい》太《た》とようこも自分の足と目と勘《かん》で見つけ出さなければいけないということである。
果たして自分に出来るだろうか?
いや、出来るか、ではない。やらなければならないことなのだ。それが自分を信じて送り出してくれた川平|薫《かおる》の期待に応《こた》える唯《ゆい》一《いつ》の道であり、犬神としての責務なのだ。
何より。
ともはねは信じている。この明らかにおかしくなり始めた吉日市を。
復活しつつある大《だい》妖《よう》狐《こ》を何とかしてくれるのは。
きっと。
彼女は湧《わ》き起こる不安を押し殺し、ぽ〜んともう一度、屋上から下の道路へ向かって飛び降りた。最後に空を見上げた時、ほとんど意志を持たない雑霊たちがまるで暗黒の祝祭を祝うかのように群れ集《つど》い、暗い暗い雲《うん》海《かい》の中で楽しそうに踊り狂っている姿が目に映った。
急がなくちゃ。
とりあえず当てもなくかつて啓太たちが暮らしていた河童《かっぱ》橋《ばし》にまでやって来る。凍《い》てつく雨が川《かわ》面《も》を打ち付け、波紋が幾《いく》つも生じては消えている。
啓《けい》太《た》たちがいた頃《ころ》はどこか閑《かん》雅《が》に感じた雑草の生《お》い茂った斜面も、賑《にぎ》やかさに満ちていた川原《かわら》も今はただただ荒涼としていて、暖《あたた》かみを全く失っていた。まるで不吉な何かに怯《おび》えるように辺《あた》りはひっそりと静まり返っていた。目の前には瓦《が》礫《れき》の山。かつて河童《かっぱ》橋《ばし》を構成していた石材で、赤《せき》道《どう》斎《さい》の復活に際して破《は》壊《かい》されたものだ。
ともはねはしばしそれを見ていた。住んでいたアパートを追い出された啓太がやけくそ気味の馬力を発《はっ》揮《き》して作り上げた『ケイタハウス』がその下に埋まっている。
『ケイタハウス』は意外にこぢんまりとしていて風通しが良く、居《い》心《ごこ》地《ち》も悪くなかった。ともはねは何度も遊びに来ては啓太と一《いっ》緒《しょ》にお昼寝したり、ようことお喋《しゃべ》りしたり、河童とご飯を食べた。
ずきん、とその時、初めてともはねの胸に痛みが走り抜けた。
ずきん。
ともはねは自分でもその痛みの所以《ゆえん》を知らず、そもそも痛みを感じていることすら気がつかず、みぞれ混じりの霧《きり》雨《さめ》の中、前に向かって一歩、歩き出していた。
ようやく自分が何を見ていたのかに気がついてともはねは思わず「あ」と小さく声を上げていた。瓦礫の中に埋まるようにしてゴムボールが。
啓太と『取り合いっこ』するのに使ったゴムボールだ。
ともはねは一心に駆《か》けてそれに飛びつく。聞違いない。大分|煤《すす》けてしまったが、表面には啓太が笑いながら描《か》いてくれた骨付き肉の絵がある。
ともはねはそれをぎゅっと額《ひたい》に押し付ける。目をつむる。頬《ほお》にこすり付けた。
「啓太様……」
それは行方《ゆくえ》の知れない啓太を捜《さが》すための手がかりを求めようとする行為か。
過ぎ去った過去をもう一度、取り戻そうと懐《なつ》かしむ仕《し》草《ぐさ》か。
あるいは。
まとわりつくような雨がともはねの髪や服をぐっしょりと濡《ぬ》らし、透明な滴《しずく》がつつっと彼女の頬を伝わった。
川《かわ》平《ひら》啓太。
由《ゆい》緒《しょ》ある犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い川平家の直系であり、もっとも物《ぶつ》議《ぎ》を醸《かも》した問題児である。そもそも川平家において契約の晩に一匹も犬神が憑《つ》かなかったのは前《ぜん》代《だい》未《み》聞《もん》であり、霊《れい》力《りょく》を測定する重要な集まりに酔っぱらって登場したのも前例がなかった。
イトコの川平|薫《かおる》と比べるとオチこぼれ。
でたらめ。
茶《ちゃ》髪《ぱつ》の不良とマイナスの形容が枚挙にいとまがない。犬神使いとしての川平家を事実上、追放された形になってるし、何か大きな集まりがあると人間用の部屋ではなくて妖《よう》怪《かい》のための部屋でお酒を飲んでいたりする。
でも。
ともはねは知っている。啓《けい》太《た》はそれだけではない。
上手《うま》く言えないが。
とってももどかしいのだが。
それだけではないのだ。
川《かわ》平《ひら》啓太にはきっと何かがある。そして、ようこも、なでしこも、恐らくはけも最初から気がついていた。
啓太と楽しく遊んでいるうちに自分も気がついたその何か。
今。大《だい》妖《よう》狐《こ》が復活しかかっているこの今だからこそ、きっと必要なのだ。
川平家の誰《だれ》もが忘れている。川平家以外の霊《れい》能《のう》者《しゃ》はそもそもその存在自体を知らない。自分のひいき目では決してないと思う。
川平啓太はここにいなければならない。
気がつけばともはねは街の中心部まで来ていた。
行き交《か》う通行人がかざす赤や青や黄《き》色《いろ》の原色の傘《かさ》とマフラー。鮮《あざ》やかに彩られたクリスマス向けのショーウインドウ。青々しいモミの木に飾り付けられた色とりどりの電飾と白い綿。それらが灰《はい》色《いろ》の景色の中で、奇妙に現実感を失って見える。
「今日《きょう》はクリスマスイブだというのに実に変な天気だね」
「うん、なんだか肌がぴりぴり熱《あつ》いような……その癖《くせ》、寒気がするような」
「風邪《かぜ》かな〜」
ひそひそと周囲を憚《はばか》るような会話が時折、耳に入る。レンガ造りの喫《きっ》茶《さ》店《てん》から出て来た家族連れ。あるいはクリスマス用のギフトを詰めた紙袋を提《さ》げたカップル。感度の差はあれ、それぞれ異変を感じ取っているようだ。
不安そうに鉛《なまり》色《いろ》の空を見上げたり、辺《あた》りを薄《うす》気《き》味《み》悪そうに見回したり。
彼らに少しでも霊感があればきっと聞こえていただろう。軒下の暗がりや街《がい》路《ろ》樹《じゅ》の木《こ》陰《かげ》で不気味に笑う声が。
徐々にこの街を覆《おお》いつつある暗黒に打《う》ち震《ふる》えるように笑う悪《あく》霊《りょう》どもの声が。
ともはねはそんな中、一人、とぼとぼと歩いていた。
姿を消しているのですれ違う彼女を誰《だれ》も見ることが出来ない。しとしとと街を覆う冷たい雨に身体《からだ》がすっかり濡《ぬ》れそぼっている。
どこを捜《さが》しても啓太はいない。
その手がかりすら見つからない。その事実が彼女を打ちのめしていた。啓太とようこは一体どこに行ってしまったのだろうか?
かつて彼らが暮らしていたアパートに行ってみた。
改築が終わって見知らぬ他《た》人《にん》がもう住んでいた。同棲中らしい若い男女。窓越しに見たら暖かそうな鍋《なべ》を突《つつ》きながら笑い合っていた。ほんの少しだけ啓《けい》太《た》とようこにその姿が被《かぶ》ってともはねはとても胸が苦しくなった。
啓太とようこは。
啓太がどう否定しようととてもいいコンビだった。仲の良いカップルだった。その姿を見ているのがとても好きだった。
ともはねはしょんぼりその場を離《はな》れた。
学校も行ってみた。
ようこが行きつけの洋菓子屋も訪れた。
結局、彼らはどこにもいなかった。
まるで啓太たちから置いてきぼりにされたような哀《かな》しい気分になって来た。そんなはずは全くないのに。どんどん悲しみが増して来る。寂《さみ》しく、辛《つら》く、鼻が勝手にくんくん鳴る。折《せっ》角《かく》、薫《かおる》にわざわざ命じられた任務を果たせない自分がとても不《ふ》甲《が》斐《い》ない。
ともはねは涙を堪《こら》えようと唇《くちびる》を噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだ。そこへどこから現れたのか、
「見つけた!」
と、声が響《ひび》いた。ともはねは驚《おどろ》いて顔を上げた。
一体、何故《なぜ》、見えるのかまるで定かではないが先程の変な格《かっ》好《こう》の少年が交差点の反対側でともはねを指さし、叫んでいた。
「ろりけもの!」
彼はぴょんと一度ジャンプすると、雨の中、傘も差さず走って来る。手足をタコのようにくねらせる変な走り方。て、顔を狂喜に輝《かがや》かせ、軽々ガードレールを飛び越え、びゅんびゅんと高速で行き交《か》う車をものともせず、
「これを着てくれええええええええええええ!!!!」
この時期、呼び込みなどで良く見る真《ま》っ赤《か》なミニのサンタ服を手にしている。
狂乱に輝く異様な目。雄《お》叫《たけ》びにも似た奇声。
どん。
その時、鈍《にぶ》い大きな音がした。トラックが彼を撥《は》ねたのだ。少年は唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としているともはねの目の前で放《ほう》物《ぶつ》線《せん》を描いてどちゃりと歩道に落ちた。
ともはね絶句。
トラックは素知らぬげに走り去って行く。
しかし、少年は生きていた。唇《くちびる》の端《はし》から血を滴《したた》らせ、震《ふる》える手足を踏ん張り、よろよろと頭の上で糸が釣《つ》られてるような不自然な動きでぬらりと起き上がると、驚《おどろ》きのあまり呼吸も忘れたともはねをきゅっと抱き締《し》め、
「俺《おれ》のこの萌《も》えに悔《く》い無し」
と、一言、呟《つぶや》く。
「ああ、ようやく捕まえたぞ、このいたずらっ子め!」
頬《ほお》をすりすり。
「いっやあああああああああああああああああああああ!!!」
ともはねの絶叫が再び響《ひび》き渡った。
ちゅど〜〜〜ん。
今一度、赤い衝《しょう》撃《げき》波《は》が炸《さく》裂《れつ》。ひくひくと黒こげになって痙《けい》攣《れん》する少年を残して、ぴゅ〜とともはねが飛び去って行く。
「萌《もえ》……」
最後にそう呟いて、少年の手がぱたりと落ちた。
いなくなってしまって分かる。どうしようもなくスケベで、どうしようもなくいい加減で、どうしようもなく柄《がら》が悪いけど。
でも。
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》は。
一度、はけに聞いてみたことがある。
「なぜ、犬《いぬ》神《かみ》に限らず川平家の方からも薫《かおる》様は人望が厚いのに、啓太様はいつも嫌われてるのですか?」
と。
「とても良く似ているのに」
そういう思いがある。はけは笑って答えた。
「薫様はですね、まるで人に対するように人《じん》外《がい》のものと接するのです」
ともはねは小首を傾《かし》げた。はけはさらに微笑《ほほえ》みながら付け加える。
「それに対して啓太様はいつもモノノケに接するように人と対するものですから、秩序や形式を重んじる存在には受けが悪いのですよ」
言っている意味が良く分からないが、何となく腑《ふ》に落ちた気もする。ともはねが黙《だま》っているとはけは目を細めた。
「啓太様は初代に似ておりますよ」
「初代って……慧《え》海《かい》様ですか?」
「そうですよ。川平家の始祖であり、私らが永代の忠《ちゅう》誠《せい》を誓ったお方です」
まだ若過ぎるくらい若いともはねは、もちろん初代|川《かわ》平《ひら》慧《え》海《かい》に会ったことなど一度もない。だが、はけやその他《ほか》の長老連中が懐《なつ》かしがって語る思い出話だけは子守歌代わりに聞いてきて、記《き》憶《おく》の底にしっかりと息づいている。
川平慧海はとにかくいつも笑ってるような人だったという。
それも薫《かおる》のように静かに微笑《ほほえ》んでいるタイプではなく、自分で言った下品な冗《じょう》談《だん》にげらげら笑い転げているようなちょっとお馬《ば》鹿《か》な人だったという。
「慧海様はなにより自由なお方でした」
川平慧海はちょうど大《だい》妖《よう》狐《こ》と犬《いぬ》神《かみ》たちとが争っているさなかにふらりといずこから現れたそうだ。坊主の風《ふう》体《てい》ながら酒も女も大好きというその男は、実に鮮《あざ》やかな手腕で犬神たちを束ね、大妖狐を封じる手だてを教えてくれた。
「それでもうまた流浪の旅に出るという慧海様を我らは懸《けん》命《めい》に引《ひ》き留《と》めました。いえ、というよりもうその時には一同、慧海様の行かれるところはどんなところでもついて行く心づもりだったのです。折《せっ》角《かく》、大妖狐から護《まも》った我《われ》らのこの土地を捨ててまでね」
「……とっても魅《み》力《りょく》的《てき》な方だったのですね」
ともはねはどこか羨《うらや》ましくなってそう呟《つぶや》く。はけはおかしそうに頷《うなず》いた。
「ええ、そうですね。破《は》天《てん》荒《こう》ではありましたが、とっても魅力的な方でした。いわゆるニンゲン的魅力といいますか……なにより、あの方はですね、呼べば来る方≠セったのですよ」
「呼べば来る方、ですか?」
そんなそれこそ犬みたいな。
というともはねの変な顔を見て取ったのだろう。はけは苦笑気味に言い添《そ》えた。
「つまりですね。我らの誰《だれ》かが辛《つら》かったり、哀《かな》しかったり、苦しかったりする時、彼はそこに必ずいてくれたのですよ」
誰かが魂の底からの叫び声を上げたその時。
川平慧海は必ず現れたという。
どんな時も。
ともはねはとあるビルの屋上で、はけから聞いたその昔話を思い出していた。もし、啓《けい》太《た》さまが初代さまに本当に似ているなら。
犬神使いとしての真の血を引いているのなら。
心の底から呼べば果たしてそれに応《こた》えてくれるのだろうか?
どこからか颯《さっ》爽《そう》と現れて、自分の許《もと》へ駆《か》けつけてきてくれるのだろうか?
「もう、一体どこにいるんですか……」
万策尽きてともはねはぽつりとそう呟き。
次の瞬《しゅん》間《かん》。
目に力を込め立ち上がると、思いっ切り息を吸い込み、身体《からだ》を折るようにして叫んだ。
「けいたさまあああああああああああああああああ──────────!」
じっとりと濡《ぬ》れた辺《あた》りの大気がびりびりと震《ふる》え、広告塔の陰《かげ》で雨宿りをしていたカラスが驚《おどろ》いたように羽ばたいた。
そのカラスがばさばさとビルの上から飛び立って行く。
曇《どん》天《てん》を舞《ま》うように一度、大きく旋回し、それから商店街の方へ滑るように滑空して消えた。声が周囲に拡散するとかえって静《せい》寂《じゃく》が濃《こ》くなる。寒さが増した。ともはねは白い息をつき、ほんのわずかな期待にすがって耳を澄《す》ませてみた。
だが。
啓《けい》太《た》はやっぱり現れない。あの暖かみのある声はどこからも聞こえなかった。街は静まり返ったまま、遠く下界の方で微《かす》かなクラクションの音がした。
思わず涙が滲《にじ》みそうになった。
その時。
「風邪《かぜ》を引きますよ」
すうっと彼女の頭の上に大きな傘《かさ》が差し出された。ともはねの顔に喜色が溢《あふ》れ出る。あり得ない。まさか、という想《おも》いとやっぱり来てくれた、という歓喜。
「けいたさま!」
と、振り返ったともはねの視界に入ったのは啓太と似ても似つかない男だった。というか立派なヘンタイだった。黒のタキシードに裏が赤地のマント。シルクハットを被《かぶ》り、穏《おだ》やかな微笑《ほほえ》みを浮かべたともはねも見たことのあるヘンタイ。
通称、ドクトル。
覗《のぞ》きの達人であり、この辺りのヘンタイの頭目でもある極《きわ》め付けのヘンタイであった。
ともはねは思わずんあ、という脱力したジト目と口になった。
「呼びましたか、小さなマドモワゼル?」
いいえ。
全くちっともこれっぽっちもあなたを呼んでません。
「確《たし》かにあなたが名前を呼んでいるのが聞こえましたが?」
と、ドクトルは小首を傾《かし》げる。
いいえ、絶対、呼んでません。というか、今すぐ帰ってください。
お願《ねが》いです。
ともはねは表情だけでそれを物語る。それだけ期待していた事《じ》態《たい》との落差は大きかった。すると突然、ドクトルが軽やかに笑い出した。
「あ、もちろん私ではないですよ? ほら、川《かわ》平《ひら》啓太さん。彼、ちょっと街を離《はな》れていたみたいですが、今、このビルの真下の立ち食いそば屋で見かけましたよ?」
ともはねは最後まで聞いていなかった。
無《む》我《が》夢《む》中《ちゅう》で屋上から飛び出す。片足立ち、両手を頭の上に軽く掲げるポーズで自由落下。風を切るスピードすらもどかしい。
すたんと道路に面した立ち食いそば屋の暖簾《のれん》の前に降り立った。
そこはレゲエをいつも大音量でかけているちょっと変わった立ち食いそば屋だった。賑《にぎ》やかな音楽の向こうで、
「あ、おじさん、俺《おれ》、替え玉一つね!」
「おじさ〜ん、わたしもわたしも♪ タマゴとワカメもつけてね」
彼らは相変わらずそこにいた。胸が高鴫った。
「こら! それだと予算オーバーするからどちらか一つにしなさい!」
「けち〜。ならいいもん。ケイタのちくわとごぼてん貰《もら》うから」
「あ、こいつ俺が楽しみに残していたものを!」
「んふふ〜、じゃくにくようしょく、じゃくにくようしょく♪」
立ち食いそばの具をぎゃいぎゃい言いながら取り合っている。
ともはねの声は震《ふる》えていた。
「けいたさま?」
だって、彼らがあんまり普《ふ》段《だん》と変わらないから。
いつも通りだから。
ふと立ち食いそば屋の中で騒《さわ》ぎが治まった。
「……ともはね?」
やがてそんな声と共に怪《け》訝《げん》そうな顔の啓《けい》太《た》がひょっこりと暖簾《のれん》から首を突き出した。そばのどんぶりを抱え、箸《はし》をくわえたまま。
ぷ。
会ったら一体何て言ってやろうか。恨《うら》み言の一つもぶつけてやりたいと考えていたともはねは思わず全《すべ》てを忘れて、噴《ふ》き出していた。
何故《なぜ》なら啓太が猫そのままの格《かっ》好《こう》をしていたから。
頬《ほお》には髭《ひげ》が生《は》え、尻尾《しっぽ》がひょろりとお尻《しり》から生えていたから。だって、あんまりにもあまりな格好だったから。
必死で捜《さが》してきた自分がおかしくて。
そんな猫の格好で湯《ゆ》気《げ》の立つどんぶりを大事そうに抱えている啓太の姿がおかしくてともはねは笑った。お腹《なか》を抱え、涙を流して大いに笑っていた。
「あ、いや、これはだな……」
と、ばつが悪そうに視《し》線《せん》を泳がす啓太。ようこも隣《となり》に出て来て、
「ケイタ〜、やっぱり人としてダメみたいよ? その格好」
ともはねの笑いの発作はしばらく続いた。ようこが何か言う度《たび》、ムキになって言い返す啓太の一言一言がおかしかった。ようやく笑いを押さえ込んだ時にはめっきりとお腹《なか》が痛くなっていた。
ともはねは目《め》尻《じり》を拭《ぬぐ》った。気がつけばすごくさっぱりした気分になっていた。
「啓太さま、ずっとずっと探していたんですよ!」
そう言って啓太の腰元に飛び付いた。
もう何が起こっても大丈夫。
そんな気が強くしていた。
[#ここから太字]
紀元前のことである。
金《きん》細《ざい》工《く》師《し》に王冠を作らせたヘロン王は困っていた。件《くだん》の金細工師が金に混ぜものをし、与えられた金の一部を誤《ご》魔《ま》化《か》した、という噂《うわさ》が立ったのだ。
それが事実だったとしたら決して捨ておけない。王を偽《いつわ》り、私腹を肥やしつつも咎《とが》められることなく、のうのうと生きる者がいる。そんな前例を許せばやがて誰《だれ》も王を敬《うやま》わなくなり、王権の失《しっ》墜《つい》にも繋《つな》がりかねない。
だが、確《かく》証《しょう》が無いのだ。
その金細工師が混ぜものをした、という確《たし》かな証拠が。
王の脳《のう》裏《り》に希《き》代《たい》の天才アルキメデスの名が過《よ》ぎったのはそんな時である。
当時、シラクサに庵《いおり》を結《むす》んでいたアルキメデスは早《さっ》速《そく》、王命によって召《め》され、二つの背反する命を下された。
すなわち、王冠に金以外のモノが含まれているかどうか調《しら》べなければならない。
しかし、王冠を少しでも損ねてはならない。
これにはさすがの知者アルキメデスも困《こん》惑《わく》した。彼の頭脳をもってしても全く適当な方法が思い浮かばなかったのだ。
壊《こわ》してはいけない。
だが、中を調べなくてはならない。
そんな無《む》理《り》難《なん》題《だい》をアルキメデスは必死で考え抜いた。幾《いく》夜《よ》、幾晩も眠らぬ日々が続いた。食べ物も取らず、思索に没頭する日々が続き、憔《しょう》悴《すい》するアルキメデス。しかし、そんな暗中模索の日々にある日、終わりが訪れた。
彼の健《けん》康《こう》を心配する家人の薦《すす》めに従い、渋《しぶ》々《しぶ》、公衆浴場に赴いたアルキメデスはそこで溢《あふ》れ出るお湯の流れに人類史に特筆すべき霊《れい》感《かん》を得るのである。
『金細工師に渡したのと同じ重量の金《きん》塊《かい》を用意し、金塊と王冠のそれぞれを、ぎりぎりまで水を張った容器に入れれば良い。もし、少しでも王冠に混ぜモノがしてあったら水は必ず溢れ出るはずだから』
これだ!
と、アルキメデスは叫んだ。
ユリーカ!
興《こう》奮《ふん》した彼はそのまま浴場を裸で飛び出し、家に帰ったという。
この逸話から我々が学ぶべきことが一つある。
すなわち、アルキメデスもまた立派なヘンタイである。
[#地から1字上げ]赤《せき》道《どう》斎《さい》著『桃《もも》色《いろ》黙《もく》示《し》録《ろく》』より[#ここまで太字]
赤《せき》道《どう》斎《さい》。
魔《ま》導《どう》の究理を極《きわ》め、万物を望むがままに支配した伝説の魔導師はその日、警《けい》察《さつ》署《しょ》の鉄《てつ》格《ごう》子《し》の中にいた。
罪状はわいせつ物陳列罪。
素っ裸に赤いマフラーという異様な出《い》で立ちで悠《ゆう》々《ゆう》と地上を闊《かっ》歩《ぽ》しているところを警察官に保《ほ》護《ご》されたのである。
「いや〜、なんか兄ちゃん、すっごく親近感があるな〜」
先に入っていた酔っぱらいの常連|親《おや》父《じ》がへべれけの赤い顔で大魔導師の肩に馴《な》れ馴《な》れしく手を回した。
赤道斎は無表情に男を見やる。
「というと?」
「あははははは! あのね、ここしばらく見てないけど、あんたみたいな趣《しゅ》味《み》の若い兄ちゃんがいてね。よくここでご一《いっ》緒《しょ》したもんさ。確《たし》か去年のちょうど今くらいもあんたの代わりにその子がそこに立っていたよ」
「そうか」
赤道斎はふと興《きょう》味《み》が湧《わ》いて尋《たず》ねてみた。
「……その者の名は?」
酔っぱらいの親父はん〜と額《ひたい》に手を当て考え込んだ。それからぽんと手を打つ。
「あ、そうだ! 川《かわ》平《ひら》!」
そう言って嬉《うれ》しそうにくくっと喉《のど》の奥で笑う。
「確か川平|啓《けい》太《た》と言ったよ! 懐《なつ》かしいな〜、あいつどうしてるかな〜」
「ほう」
赤道斎は半目をさらに細めた。
「川平啓太か……」
「そうそう。それに可愛《かわい》い女の子がついてたな〜。あの子もどうしてるかな〜」
赤道斎は考え込んだ。地上には戯《たわむ》れ半分に出て来ただけである。留置所に留《とど》まっているのもただの気まぐれに過ぎない。
だから、まさかここで川平啓太の名を聞くとは思わなかった。大きく頷《うなず》く。
「やはりあの者と私は浅からぬ因《いん》縁《ねん》があるようだな」
「おや? あんたあの子と知り合いかい?」
「うむ」
赤道斎は重々しく頷いた。
「私の後《こう》継《けい》者《しゃ》候補だ」
ここに啓太がいたら思いっ切り慌《あわ》てて否定しそうなことを平然と呟《つぶや》く。酔っぱらいの親父は大きく感心したように頷《うなず》いていた。
「なるほど〜。ヘンタイにもそういう家元制度ってあるんだな。あの子は最近、姿を見せないけど元気かい?」
「恐らくは。死なない限りあの者は元気だろうな」
「あんたおかしな言い方するんだな」
と、酔っぱらいはくつくつ笑った。
「ま、でもあの子は確《たし》かにそんな感じだったな。クリスマスも近いからストリーキングなんか止《や》めて、あの可愛《かわい》い女の子と宜《よろ》しくやってるのかな?」
「くりすます?」
赤《せき》道《どう》斎《さい》は小首を傾《かし》げた。
「何だ、それは?」
「あんたクリスマスを知らないのかい?」
酔っぱらいが驚《おどろ》いたように尋《たず》ねた。赤道斎は平然と答えた。
「いや、古英語でいうところのCristes masseの概《がい》念《ねん》は知っている。ただそのくりすますと川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》との結びつきがよく分からない。何故《なぜ》、それが金《きん》色《いろ》のようこと宜しく和合することにつながる?」
微妙に話が噛[#「噛」はunicode5699]《か》み合っていない。酔っぱらいは困ったように言った。
「ん〜、まあ、なんつうか男女が公認でいちゃつく日な訳《わけ》なんだよ、クリスマスは。街が明るく彩られて、クリスマスケーキが売れて、プレゼントが交換される日というか……要するに子供も大人《おとな》も浮かれ騒《さわ》ぐ日な訳だな、この日本だと」
「ほう」
赤道斎が興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに目を細めた。
そこへ。
がががががががががががががががっ。
と、突如、留置場全体が揺《ゆ》れるような振動が起こった。酔っぱらいは気味悪そうに周囲を見回した。
「な、なんだ? 地《じ》震《しん》か? 地震か?」
「地震ではない」
きょろきょろと辺《あた》りを不安そうに見回す酔っぱらいに対して赤道斎は落ち着き払っていた。留置所の壁《かべ》を真《ま》っ直《す》ぐに半目で見つめている。
突然。
どがんという音と共に壁の一角が崩《くず》れ、そこからもの凄《すご》い勢いで回転するドリルがにゅっと現れた。
「ひ、ひいい!」
鼻先にその激《はげ》しく回転する先端が迫って来て酔っぱらいはへたんと腰を落とした。しゃかしゃかと後ずさりする。
「ますた、むかえにきてやってあげたよ!」
朦《もう》々《もう》と湧《わ》き起こる粉《ふん》塵《じん》の向こうから現れたのは奇妙な木彫りの人形だった。ほっそりと滑《なめ》らかな木製の手足にノッペラボウのような顔。胴体の真ん中に水《すい》晶《しょう》のような透明の球がはめ込まれていて、そこに『迎』という文字が浮かび上がっている。激しく回転するドリルはその人形の股《こ》間《かん》からにょっきり生《は》えていた。
異様な存在だった。
赤《せき》道《どう》斎《さい》はわずかに眉《まゆ》をひそめ、注意した。
「クサンチッペ。言《こと》葉《ば》遣《づか》いがおかしいぞ?」
しかし。
「おかしいっていうおまえがそうとうおかしい」
木彫りの人形はカタカタと手足を動かして抗《こう》議《ぎ》した。新しく胴体の真ん中にはめ込まれた透明な球体には『惑』の文字が浮かんでいた。
実際、木彫りの人形に悪《わる》気《ぎ》は無いのだ。
「テレビの見過ぎというのはやはり良くないものだな。少し考え直すか……」
「あ、あの、あの」
酔っぱらいがぶるぶると震《ふる》えながら木彫りの人形を指差し、説明を求めるように赤道斎を見上げた。「ん?」と赤道斎がそちらを見やった時、こけ〜とぽっかり開《あ》いた穴から今度は木彫りのニワトリが飛んで来た。
でこぼこの造作は元々だが、トサカがノコギリのように尖《とが》り、尾が極端に長くなっていた。
「ソクラテスか……」
赤道斎は己《おのれ》の肩に止まったニワトリに目を向けた。
「こけ〜」
ニワトリがばさばさと羽ばたく。その途《と》端《たん》、どろんと白い煙が赤道斎を押し包んだ。やがて煙が立ち消えると、後には青いローブを羽《は》織《お》った一人の魔《ま》導《どう》師《し》が姿を現していた。ただし上半身だけ。
ぴっと指を鳴らし、
「では、ゆくとするか」
下半身丸出しで悠《ゆう》然《ぜん》と前に向かって歩き出す赤道斎。ふとその足が止まった。くるっと酔っぱらいを振り返ると、
「あまり酒を飲み過ぎるのは人として感心しないぞ?」
そう諭《さと》した。下半身丸出しのヘンタイが。
「お前には家族がいるのだろう? 我《わ》が身を大事にすることだ」
大まじめに。
酔っぱらいの親《おや》父《じ》はこくこくとただ必死で頷《うなず》く。
ここは逆《さか》らっちゃイケナイと思った。赤《せき》道《どう》斎《さい》はうむ、とさらに大まじめに頷くと、軽く手を上げ、すたすたと穴の中に入って行った。
続いて木彫りの人形が、
「いえ〜、いつだんでぃ〜すとらいくだんでぃ〜ろっくんろ〜る、いえ〜♪」
と、訳《わけ》の分からない歌を歌いながらういんういん腰を回転させ、赤道斎の後に続く。ようやくその頃《ころ》になって異変に気がついた看守が駆《か》け寄って来る足音が聞こえた。気がつけば鉄《てつ》格《ごう》子《し》に力一杯、捕まっていた酔っぱらいは、そこでようやく堪《こら》えていた息をどっと吐き出し、床《ゆか》に崩《くず》れ落ちた。
「禁酒、するか〜」
二度とこういう目には遭《あ》いたくなかった。色々な意味で。事実、彼はこれ以降、酒を一滴も飲まなくなるのである。
が、それはまた別の話。
吉《きち》日《じつ》市《し》の深い深い地下。
地下鉄やら水道管やら下水管などが網《あみ》の目のように張り巡らされたそのさらに下。直径百メートル程のドーム状の空間が赤道斎の今の仮《かり》宮《みや》であった。
東西南北に入り口があり、それぞれが間《かん》道《どう》に続いていた。間道はさらに幾《いく》重《え》にも枝分かれして地上の随所に開いている。
赤道斎が散歩のために彷徨《きまよ》い出たのも、今、帰《き》還《かん》して来たのもこの入り口である。東門には薄《うす》青《あお》く輝《かがや》く細長い海《かい》竜《りゅう》の化《か》石《せき》が、西門には真っ白に漂白された四つ足の虎《とら》のような化石が、南門には始《し》祖《そ》鳥《ちょう》のような奇《き》怪《かい》な鳥の紅《あか》い化石が、北門には黒光りする巨大な亀《かめ》の化石がそれぞれ埋め込まれていた。
赤道斎がぱちんと指を鳴らすと、人の背《せ》丈《たけ》の二倍はあろうかという北門が音も無く横にスライドして開いていった。
「帰ったぞ、〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉」
と、彼が声をかけると中央に聳《そび》えていた機《き》械《かい》がぱっぱっと幾度か点滅して、上部に掲げられたビルの看板程はある大きなパネルがぱらぱらと捲《めく》られ、
『おかえりやす〜』
と、表示された。それはさながら旧時代の歯車とレバーと計器のお化《ば》けだった。青銅や鉄製の意図不明な器具が無《む》節《せっ》操《そう》に組み込まれ、全体がまるで巨大なサボテンのように見える。上部が鹿《しか》の角《つの》のように左右に分かれており、時折、排《はい》熱《ねつ》パイプからふしゅ〜と白い水蒸気を噴《ふ》き出していた。
あちらこちらのメーターが目まぐるしく針を動かし、ピストンがゆっくりと、大きな音を立ててがしゃこんがしゃこん上下していた。
ぷしゅ〜。
と、また水蒸気が上がった。
「調《ちょう》子《し》はどうだ? 〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉」
赤《せき》道《どう》斎《さい》が真下まで歩いて行って機《き》械《かい》に尋《たず》ねた。パネルが勢い良く捲《めく》られる。
『今のところは順調でっせ〜。ご覧《らん》なはれ、今の世のかく欲深きこと』
赤道斎は顔を上げた。
この空間を覆《おお》うドームはプラネタリウムのようになっており、仄《ほの》かに燭《しょく》光《こう》を帯《お》びた明け方の淡い夜空を映し出していた。そして〈大殺界〉の周囲には数十台の少し型の古い十四インチ程度のテレビが浮いており、惑星を回る衛《えい》星《せい》のようにゆっくり公転していた。
『あの方から技術提供されたはいてく≠組み込んだお陰もあるやろうけど、嘘《うそ》みたいに簡《かん》単《たん》に力が流れ込んできまっせ〜』
と、〈大殺界〉が嬉《うれ》しそうにそう報告した。
テレビはそれぞれ民放各局や衛《えい》星《せい》放送の他《ほか》にエレベーター内、コンビニエンスストアーや銀行の店内の景色を白黒で写し出していた。防犯カメラや一般家庭用のホームビデオの映像まで引き込んでいる。
各テレビは目まぐるしく映像を切り替えて行く。
そして時折、映像を止めてそれをじいっと凝《ぎょう》視《し》するように〈大殺界〉がテレビを引き寄せる。それは大《たい》概《がい》、通販番組で観《かん》客《きゃく》が大げさに驚《おどろ》いて、「欲しいな〜」と溜《ため》息《いき》が出る場面だったり、宝石店で毛皮のコートに身を包んだ金満な女性が高《こう》額《がく》なアクセサリーを買ったりする場面だった。そしてその度《たび》、ぴかっとその映像を映していたテレビが真《ま》っ赤《か》に光り、さらにその光は〈大殺界〉の天《てっ》辺《ぺん》に広がっている湾《わん》曲《きょく》したアンテナに吸い込まれて消えた。
「目標|貯《ちょ》蓄《ちく》霊《れい》力《りょく》まであとどれくらいだ?」
赤道斎は衛星放送の音楽に合わせて腰をくいくい振って踊っている木彫りの人形をちらっと横目で見てから〈大殺界〉に向かって尋ねた。
忠実な機械はすぐに返答した。
『ざっと六割四分三|厘《りん》ってところや』
「六割? 昨日《きのう》とさほど変わらないな。吸収率が落ちているのか?」
『というより、目標値の修正が必要になったんや』
「なるほど」
赤道斎は眉《まゆ》をひそめ、〈大殺界〉の下部に設置されたまるでオーブンのような二つの大きな扉《とびら》を見つめた。
「……それだけ厳《げん》重《じゅう》な言ってはならない呪《のろ》い≠ェかけられてるのか」
『ま、それでもそっちはなんとか解析中やけどな。なんやら他《ほか》にもややっこしい呪《のろ》いがかかってるようでほんま本場の連中はえげつないわ』
「そうか」
赤《せき》道《どう》斎《さい》は一人ごちる。
「あまり割りの良い契約ではなかったのかもな」
『いや、そ〜でもあらへんで。実際あの方の技術提供で、わては大幅にばーじょんあっぷできた訳《わけ》やし、結局、回り道してもその方が早かったと思うで。なによりそのお陰でますたーが考えている対|大《だい》妖《よう》狐《こ》用の必ず倒せる秘策≠ノ限って言えばもう完成しているとも言えるしな』
「私の力は?」
『六割……いや、七割戻っているはずや』
ふむ。
と、赤道斎は頷《うなず》き、ぴっと指を鳴らした。
こけ〜と先程から彼の肩に止まっていた木彫りのニワトリが羽ばたいた。どろんと白い煙が湧《わ》き起こり、赤道斎は革の靴《くつ》を履《は》いている。
相変わらず下半身は丸出しだが。
「七割ならこんなもんか」
訳の分からないことをそう呟《つぶや》く赤道斎。
『どうや? 現時点で溜《た》まってる分だけでもますたーの身体《からだ》にだうんろーどするか?』
〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉にそう尋《たず》ねられ赤道斎は首を横に振った。
「いや、止《や》めておこう。その分は解析と解《かい》呪《じゅ》作業に回してくれ」
そう言って赤道斎はさっきから一定のリズムで踊っている木彫りの人形に声をかける。
「楽しいのか?」
つちゃつちゃつっちゃ。
レゲエのリズムである。木彫りの人形はカクカク頭を震《ふる》わすと、
「いえ〜、さいこうだぜ、べいび♪」
胴体の中心部で輝《かがや》く水《すい》晶《しょう》球《きゅう》には『踊』の文字が浮かんでいた。〈大殺界〉が気を利《き》かせて音楽番組のボリュームを上げた。
つっちゃつっちゃつつちゃつつちゃ。
赤道斎は無表情。
それからやおら一《いっ》緒《しょ》に踊り出す。つちゃつつちゃ。下半身丸出しで。
「ひょう♪」
木彫りの人形がシャウトした。こけ〜と木彫りのニワトリが楽しそうに羽ばたいた。
『あははは、のりのりや!』
明らかに常軌を逸《いっ》した一同。その時。
『ん?』
ざっとテレビにノイズが走った。
『ん? ん?』
最初に気がついたのは〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉だった。すぐに赤《せき》道《どう》斎《さい》も顔を上げる。
「これは……」
珍《めずら》しく顔をしかめた。ドームの中に浮かんでいる数十台のテレビに一《いっ》斉《せい》に砂《すな》嵐《あらし》が走っていた。そして時折。
そう。
まるで明滅するように不吉な黒い影《かげ》が入る。
不可解な映像のぶれ。砂嵐の音と共にき〜んという耳障りな音が高まって行く。そして次の瞬《しゅん》間《かん》。
「はははははははははははははは!」
映像がいきなりクリアになった。赤道斎が暗い声を出した。「大《だい》妖《よう》狐《こ》……」と呟《つぶや》く。何十ものテレビの中で今、真っ黒な影のようなケモノが高らかに哄《こう》笑《しょう》を上げていた。棘《とげ》のように伸び縮《ちぢ》みする黒いギザギザで構成された黒いケモノ。
「はははははははははははは!」
吠《ほ》える度《たび》、笑う度、黒いギザギザが大きく伸《しん》縮《しゅく》。その瞳《ひとみ》に当たる切れ長の白い部分が面《おも》白《しろ》がるように細まった。きろっと音を立てるようにして何十ものテレビの中で黒いケモノの視《し》線《せん》が一斉に赤道斎に向けられた。
「ニンゲンどもの作った思《し》念《ねん》の投《と》網《あみ》を伝わり歩いていてこうして懐《なつ》かしい知《ち》己《き》に出会うことが出来た」
黒いケモノは言う。
「今日《きょう》は良い日だ。実に久しいな、ニンゲンの魔《ま》術《じゅつ》師《し》よ。いつ現《げん》世《せ》に戻った?」
「……狐《きつね》の王よ。私はあいにくお前に挨《あい》拶《さつ》する言葉をもたない」
くくくく。
影のケモノは意地悪く笑った。
「そうだろうな……三百年。いや、もう四百年になるのか? オレ様に無《ぶ》様《ざま》に敗れて暗い穴底に逃げ込んだお前だ。オレとこうして再び会ったところで恨《うら》み言しか出てこないだろうな」
「……」
「どうした? お前を一《いっ》蹴《しゅう》したオレを見て震《ふる》え戦《おのの》いているのか? 情《なさ》けないぞ、赤道斎」
ん?
と、ケモノの目が小《こ》馬《ば》鹿《か》にするように覗《のぞ》き込んで来る。赤道斎は全く顔色を変えなかった。
「一つはっきりさせておこう、大妖狐よ」
木彫りの人形がドリルを回転させている。赤道斎は指を突きつけ、言い放《はな》った。
「今、囚《とら》われ、封じられているのはお前の方だ。弱小の犬《いぬ》神《かみ》たちに破れ、無《ぶ》様《ざま》な虜《りょ》囚《しゅう》の姿を晒《さら》しているのはお前の方だ。炎を放《はな》つことも、空を飛ぶことも出来ず、見苦しい踊りを踊り続けているのもお前の方だ。対して我《われ》はこうして日の下《もと》にいてお前を見下している。己《おの》が立場を弁《わきま》えろ。ケモノよ」
それは淡々とした口《く》調《ちょう》だった。逆にだからこそ痛烈な面《めん》罵《ば》となり得た。黒いケモノはびっくりしたように目を見開いた。
それから。
「ふはははははははははははははははは!」
実に心地良さそうな笑い声を上げた。
「面《おも》白《しろ》い! 赤《せき》道《どう》斎《さい》! 不《ふ》甲《が》斐《い》ないクズのようなニンゲンどもの中でお前の面白さは特筆に値するぞ!」
大きな口が画面一杯に開く。黒いケモノは続けた。
「では、折《せっ》角《かく》の再会を祝して一つ良いことを教えてやろう」
ぬうっと顔がアップになった。
「オレはもうじきここを出る。今すぐにという訳《わけ》にはいかないがそう遠くないもうすぐだ。いいか? そうしたら」
ぶつっと突然またテレビに砂《すな》嵐《あらし》が混じった。
「ち」
黒いケモノは舌打ちを一つした。
「結界の力が強くなってきた。今の宗《そう》家《け》め、なかなかやる……ザアア───……く! おい!」
黒いケモノはいささか慌《あわ》てたように言った。
「オレがここから出たら再びあいまみ……ザアアア──……おい! 赤道斎、分かったなあ! 絶対絶対もう一度たたか……ザアアアア───」
まるでそこから強制的に遮断されるのを拒《こば》んでケモノが見えない爪《つめ》を立てたかのように、ぼんぼんぼんと連続してテレビから火が噴《ふ》き出していく。最後に叫んだ黒いケモノの口調は何だか喧《けん》嘩《か》相手に呼びかけるやんちゃ坊主のようだった。
次々と吹《ふ》き飛んで行くテレビの真下で赤道斎はふっと笑った。
炎に横顔を照らされ、
「もちろんだ、大《だい》妖《よう》狐《こ》よ」
ぞっとする程冷たい口調だった。
やがて全《すべ》てのテレビが完全にショートを起こし、次々に落下して地面の上で派《は》手《で》に砕《くだ》けた。〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉が哀《かな》しそうに報告した。
『あ〜あ。今ので霊《れい》力《りょく》集《しゅう》積《せき》回路がずたずたや〜……どうする? ますたー。てれび地上行ってこうてくる? また全部一から集めなおさんとあかんけど』
赤《せき》道《どう》斎《さい》は考え込んだ。それから首を横に振る。
「いや」
彼の頭の中では一つのプランが出来上がっていた。
「ちょうどよい標的がある」
彼は大きく一度、頷《うなず》いた。
「くりすますいぶ≠狙《ねら》おう」
〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉が感心したような相づちを打った。
『……なるほど。ニンゲンの願《ねが》いや欲望がもっとも集まる日を選《えら》ぶわけやな?』
「その通りだ。聖なる夜に魔《ま》導《どう》師《し》が羽ばたく。これもまた一《いっ》興《きょう》だろう?」
その笑い混じりの一言によってただでさえ不安要素を抱える吉《きち》日《じつ》市《し》のクリスマスは最大の危《き》機《き》を迎えることになった。
そしてそのクリスマス当日。
とある超高級マンションで、やたらとハイテンションに叫んでいる一人の少年がいた。その前には仏《ぶっ》頂《ちょう》面《づら》の少年、気味悪そうにしている黒髪の少女。明らかに怯《おび》えている幼い少女がいた。少年はまず黒髪の少女をぴっと指さした。
「素《す》晴《ば》らしい!」
少女。
犬《いぬ》神《かみ》のようこは赤いミニのサンタ服を着ていた。中折れのサンタ帽を斜めに被《かぶ》って膝《ひざ》を折り曲げるようにして座っている。
「ちらっと見えるちらりズム!」
ようこが慌《あわ》ててスカートの裾《すそ》を整《ととの》えた。
「頬《ほお》を染《そ》めるその仕《し》草《ぐさ》もまたよし!」
彼らがいるのは二十|畳《じょう》程の大きな部屋だった。ふかふかの絨《じゅう》毯《たん》に革張りのソファや御《み》影《かげ》石《いし》のテーブルなどが据《す》えられている。部屋の中央には赤々と火を湛《たた》えるホンモノの暖炉。マントルピースの上には写真立てがおかれ、この家の一人息子であるところの少年。
河原《かわら》崎《ざき》直《なお》己《き》が各種コスプレをやっている写真が健《すこ》やかな成長|記《き》録《ろく》のように飾られていた。他《ほか》には洋酒が並べられたキャビネットに分厚い書物が並んだ重厚な造りの本棚。何故《なぜ》か一部、可愛《かわい》い絵柄の少女|漫《まん》画《が》や妖《あや》しげな同人誌がテーブルの上に積《つ》んであるが、それらは全《すべ》て今、喜《き》色《しょく》満《まん》面《めん》幸せ一杯の表情を浮かべている闘《にたか》うオタク≠アと河原崎直己のものなのである。
彼は次に小さな少女。ともはねを指さした。
「べり〜きゅ〜と♪」
ともはねは怯えたように、仏頂面で頬《ほお》杖《づえ》をついている川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の後ろに回り込む。
「その仕《し》草《ぐさ》またよし! ぐっじょぶ!」
河原《かわら》崎《ざき》直《なお》己《き》がぐっと親指を立てる。ともはねもまたようこのようなミニのサンタ服を着ていた。確《たし》かにだぼだぼのそれは彼女の愛らしさを引き立てている。
「だけど」
と、次の瞬《しゅん》間《かん》、河原崎は世にも哀《かな》しそうな表情を浮かべた。
「なんでお前はこれを着てくれないんだよ〜?」
そう言いながらふりふりのフリルがついたメイド服を啓《けい》太《た》に向かって広げて見せた。
「誰《だれ》が着るかああああああああああああ!!!!」
ばんとテーブルを平手で叩《たた》いて啓太が叫んだ。彼はがばっと立ち上がると、
「大体だな、百歩|譲《ゆず》ってなんか着るにしてもなんで俺《おれ》だけそれなんだよ! なんでメイド服なんだよ!」
「なんだ、お前もサンタ服着たいのか?」
「ちげえよ!」
啓太はあ〜〜と焦《じ》れったそうに猫の前足と化した手で頭を掻《か》く。
「論《ろん》点《てん》が百八十度ちげえよ! つうかもう何もかもやだ!」
「だって仕方ないだろう! お前がそんな格《かっ》好《こう》をしているから」
河原《かわら》崎《ざき》はうっとりするような目つきで啓太の身体《からだ》を眺め回した。ぴょこんと頭からホンモノの猫耳。ひょろりと腰から生《は》えた尻尾《しっぽ》。大きくどこか戯《ぎ》画《が》的《てき》な肉《にく》球《きゅう》つきの前足に頬《ほお》から出ている尖《とが》った猫《ねこ》髭《ひげ》。
「まさか、猫娘変化を再び素《す》でやれるとは……これもクリスマスの奇跡なのだろうか? ああ、全《すべ》ての猫耳とメイドの神様、ありがとうございます!」
啓《けい》太《た》はぞわっと怖《おじ》気《け》を立てた。やっぱりこいつは致命的に大事な何かが狂ってる。間違いない。啓太は思いっ切り叫んだ。
「ようこ! ともはね! 帰るぞ!」
そう言ってようことともはねの手を引っ張り上げた。ようこは「あ、うん」と河原《かわら》崎《ざき》を気にするように立ち上がり、ともはねはほっと安《あん》堵《ど》の吐《と》息《いき》を漏《も》らしていそいそと啓太に従った。啓太は足音荒くリビングの出口に向かおうとする。
「おやおや」
ふとその時、今の今まで狂《きょう》奔《ほん》していた河原崎が急に冷ややかな目つきになった。
「どちらへ?」
腕を組んで落ち着きを払ってそう言う。
「決まってるだろ! ここから出ていくの! ニンゲンの尊《そん》厳《げん》失ってまでこんなところにいられるかっての!」
「ほう」
河原崎は冷静だった。たった一言。
「じゃ、五十円返して」
と言って手を突き出した。その一言は魔《ま》法《ほう》のように効《き》いた。啓太の足がぴたりと止まる。
「うぐ」
「ほら、五十円」
「ううう」
「俺《おれ》がお前のために立て替えた立ち食いそば代五十円。返してよ」
そもそも啓太、ようこ、ともはねが河原崎|直《なお》己《き》の家にいる理由がソレだった。立ち食いそば屋の前で再会したともはねが啓太に急を知らせようとしたところで、店の店主が愛想良く言ったのである。
「お客さん、何でもいいけど替え玉二つとワカメの代金。宜《よろ》しくお願《ねが》いしますよ〜」
と。
確《たし》かに最後に注文したのがソレだった。啓太は鷹《おう》揚《よう》に頷《うなず》いて払おうとしたところで気がついた。小銭入れの中に入っていたのは百円玉が一枚と五十円玉が一枚と十円玉が五枚。ところが替え玉は一つ百円。
ワカメの追加トッピングは五十円だった。合計二百五十円。財《さい》布《ふ》の中に入っているのは二百円ちょうど。
五十円足りない。
「え? 嘘《うそ》? 待って!」
啓《けい》太《た》は慌《あわ》てふためいた。どうやら五十円玉を百円玉だとばかり思い込んでいたらしい。必死で他《ほか》に小銭が紛《まぎ》れてないか財《さい》布《ふ》を逆《さか》さにしてみた。糸くずくらいしか出て来ない。ジャケットのポケットやズボンの尻《しり》ポケットまでまさぐる。
気持ちいいくらい全く何も入っていなかった。
「お、おまえら金持ってないか、金!」
すがるようにようことともはねに尋《たず》ねてみたが、彼女らは揃《そろ》ったように首を横に振った。げっと啓太が青くなった。
「ほ〜」
立ち食いそば屋の主人の目が急に怜《れい》悧《り》に細まった。とても同一人物とは思えない程|薄《うす》ら寒い笑顔《えがお》を浮かべ、店に常備してある包丁を取り上げ、えろんと出した長い舌でその背をなぞる。良く見るとシャツが捲《まく》れ上がって二の腕に危ない柄《がら》のタトゥーが見え隠《かく》れしている。
「食い逃げね〜。金を持たずに飲食店に入って不《ふ》埒《らち》にもそれで逃げようていうおよそ人として最低最悪の犯罪であるあれね〜」
異様な迫力が目にあって怖い。啓太は思わず後ずさった。
「わ! ち、ちがうんだって! ちがう! 金ならちゃんとあるから! 後で払うから!」
「くけけけけけけけけけけ!」
啓太のその言《い》い訳《わけ》に奇《き》怪《かい》な声で笑う店主。
「だ〜め! 日本国の法律に従って食い逃げには無《む》慈《じ》悲《ひ》な死を!」
包丁を逆《さか》手《て》に構え、手を交差させるアクション飛びで厨《ちゅう》房《ぼう》を仕切る板を飛び越えようとする店主。わ〜と啓太が逃げ出そうと背を向ける。
その直前、芝《しば》居《い》がかった声が店主を制した。
「あいや、またれい! 店主」
往来から悠《ゆう》々《ゆう》と暖簾《のれん》を潜《くぐ》って入って来たのは河原《かわら》崎《ざき》直《なお》己《き》その人だった。彼はカウンターにぱしっと五十円玉を叩《たた》き付けると意気揚々と言い放《はな》った。
「話は全《すべ》て聞かせて貰《もら》った! この者、この河原崎直己が身《み》請《う》けする!」
「毎度あり♪」
ころっと豹《ひょう》変《へん》した店主が揉《も》み手してそう言った。
それで啓太たちの身柄が貰《もら》い受けられたのである。実際、お金は払って貰えたし、家に招き入れられて暖かいホットミルクと軽食(生ハムやらマスクメロンやらローストビーフのサンドイッチやら)をご馳《ち》走《そう》になったし、ぐっしょりと雨に濡《ぬ》れたともはねなどはお風《ふ》呂《ろ》にまで入れて貰ったのだからありがたい話なのである。
ただし、啓太にとっては屈辱以外の何ものでもなかった。
「く、うううう」
と、何かを振り切るように出口に重い足を運んだが、
「五十円!」
と、重ねて河原《かわら》崎《ざき》が叫ぶと堪《こら》え切れずどっと床《ゆか》に手をついた。
「うううう」
噎《むせ》び泣く。
「ご、ごじゅうえん……たったごじゅうえんで俺《おれ》はニンゲンとしての尊《そん》厳《げん》を失ってるのか」
そんな啓《けい》太《た》に河原崎はそっと歩み寄ると労《いたわ》るように彼の背中を手でさすった。
「貧乏は罪じゃないさ」
「うう、五十円……五十円」
「さ、いい子だからお前もメイド服を着なさい。それで帳消しにしてあげるから……な〜にほんのちょっとの辛抱だ。犬に噛[#「噛」はunicode5699]《か》まれたとでも思って忘れればそれでいい」
「ごじゅうえん」
その瞬《しゅん》間《かん》、ぎらんと啓太の瞳《ひとみ》が輝《かがや》いた。明《めい》確《かく》な殺意を持って、
「しゅ!」
超至近|距《きょ》離《り》から必殺の寸《すん》頸《けい》(猫手)を放《はな》つ。
「く!」
啓太はそれなりに中《ちゅう》国《ごく》拳《けん》法《ぽう》の修《しゅ》行《ぎょう》を積《つ》んでいる。だが、河原崎|財《ざい》閥《ばつ》の次期当主として河原崎流柔術を嗜《たしな》んでいる彼もまた反応が早かった。
間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》で避《よ》けている。
ぼっと遅れて風圧で彼の髪が揺《ゆ》れる。
「な、なにをする!」
河原崎は咄《とっ》嗟《さ》に転がり、手を開いた姿勢で向かい合う。啓太はまるで操《あやつ》り人形のようにゆら〜と立ち上がった。彼の身体《からだ》から陽炎《かげろう》のような闘《とう》気《き》が揺らめき、半開きに笑《え》みを浮かべた口元とは対照的に瞳は殺意でぎらぎらと輝いていた。
「そう。失ってしまった尊《そん》厳《げん》はこうやって戦って奪い返せばいい。具体的にはお前の死」
「な! お、おまえたった五十円ぽっちで人を殺すのか!」
「やっかましい! そのたった五十円ぽっちで散々、かさにきやがって!」
半ばやけくそ気味で啓太がジャンプする。河原崎はふっと笑った。
「面《おも》白《しろ》い! ならば返り討《う》ちにして叩《たた》きのめしたお前にメイド服を着せてやろう!」
そうして二人がとっ組み合った。
高度な回し蹴《げ》り。それを捌《さば》く投げ技。関節技。かえし技。突きと蹴りの応酬。二人が体《たい》を入れ替える度《たび》どったんばったんと音が鳴り響《ひび》き、時折、花《か》瓶《びん》や茶《ちゃ》碗《わん》が割れる。ともはねが不安そうに傍《かたわ》らのようこを見上げた。
「ね、ねえ。止めなくていいの?」
ようこはおかしそうに肩をすくめた。
「いいんじゃない?」
「で、でも」
「いいっていいって。あの二人ああいうことよくやってるからね〜。こみにゅけーしょん、ってヤツでしょ? 男は殴り合ってお互いを理解するんだって。バカだね〜」
と、くすくすと笑うようこ。ともはねはいいのかな〜と首を傾《かし》げながらもそれ以上は何も言わなかった。
ふとようこが真剣な表情になった。
「そういえばともはね。あんたわたしたちを探してたけどさ」
「あ」
ともはねがはっと我《われ》に返った。
そう言えばどさくさに紛《まぎ》れて言いそびれていた。ずっと河原《かわら》崎《ざき》のペースに巻き込まれて切り出す機《き》会《かい》がなかったが、ともはねは啓《けい》太《た》とようこを呼びに来たのである。
『封じていた邪悪な大《だい》妖《よう》狐《こ》』が蘇《よみがえ》りかけているから。
とにかく川《かわ》平《ひら》本邸へ急行するようにと。
「あ、あのね、実はね」
しかし、それをようこに対して言うのは憚《はばか》られた。その『封じていた邪悪な大妖狐』の娘であるようこには。
最初は気にくわない存在だった。でも、今はもしかしたら一番心を通わせている存在なのかもしれない。同じ『犬《いぬ》神《かみ》』だと思っている。
「うん。大体、分かってるよ」
ようこはどこか寂《さみ》しそうな苦笑を浮かべて言った。
「オトサン、だね。オトサンが踊りを止《や》めつつあるんだね?」
「う、うん」
「どうするの? ケイタに全部事情を話す?」
「ううん。それはあたしの役目じゃないから……とにかく薫《かおる》さまは啓太さまとそして」
真《ま》っ直《す》ぐにようこを見上げた。
「ようこを呼んで来いって」
その瞳《ひとみ》がすがるような光を帯《お》びた。
「ようこ! ようこはあたしたちの仲間だよね?! 絶対絶対こっち側だよね? 一《いっ》緒《しょ》に大妖狐と戦ってくれるんだよね?」
ようこは答えなかった。
笑《え》みを浮かべ、くしゃくしゃっとともはねの髪を撫《な》でる。ともはねは急に不安になった。ようこは確《たし》かに色々と変わって来た。優《やさ》しくなったし、穏《おだ》やかになって来たと思う。だけど、今、彼女が浮かべている表情はあまりに穏やか過ぎた。
優し過ぎた。
「ありがとう」
と、彼女はそう言った。ともはねはもどかしそうに何か言いかけたが、それをようこが先に柔らかく遮《さえぎ》った。
「あのね、ともはね。でも、その前にちょっとあたしだけケイタとお話させてね」
「え?」
ようこはするりとともはねから離《はな》れた。寂《さみ》しそうな笑みで、
「ずっとずっと嘘《うそ》ついてたこと。ケイタにちゃんと謝《あやま》らないと」
彼女は舞《ま》うように指を掲げた。その瞬《しゅん》間《かん》、ようこの姿が掻《か》き消える。
同時に後ろの方でどったんばったんやっていた音が止《や》んで、河原《かわら》崎《ざき》が驚《おどろ》いたような声を上げているのが聞こえた。
「ようこ……」
と、ともはねは呟《つぶや》いた。彼女が何をしようとしているのかもう察しがついていた。ようこはきっと啓《けい》太《た》に何もかも話す気なのだ。
自分が犬《いぬ》神《かみ》ではないこと。
そして、邪悪な大《だい》妖《よう》狐《こ》の娘であることを。
ずっとずっと啓太に嘘をついていたこと。
それを全《すべ》て今夜、告《つ》げるのだ。
「ようこ」
ともはねはどうしようもなく哀《かな》しくなってきて少し涙ぐんだ。何か大事なことが終わってしまいそうな気がしていた。取り返しがつかないくらい何もかも変わってしまう。それがたまらなく恐ろしく、不安だった。だから、気がつかなかった。現在の交戦相手を見失った河原崎がぬらあっと彼女の背《はい》後《ご》に立ったことを。
「ああ、あいつに逃げられてしまったよ、ろりけもの」
彼はそう言ってともはねを背後から抱《だ》き締《し》め、すりすりした。
ともはねの全身の毛が簡《かん》単《たん》に逆《さか》立《だ》つ。
「お前だけはそばにいてくれるんだね?」
「ぎやっぴいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」
悲鳴が上がって、赤い衝《しょう》撃《げき》波《は》が放《はな》たれたのはその時だった。
ちゅど〜ん。
という破《は》壊《かい》音《おん》が下から聞こえて来た。啓太は「ん?」と、眉《まゆ》をひそめる。ようこが苦笑して聞こえないふりをした。
首を振り、啓《けい》太《た》の手を取って部屋の中央へと誘《いざな》う。
「ケイタ、ほら、雪が降ってるよ」
見上げれば暗い夜空から大粒の雪がふわりふわりと舞《ま》い落ちているところだった。夜になって雨はもうすっかり質感豊かな雪に変わっていた。
「ほんとうだな……」
啓太が答えた。彼は訝《いぶか》しそうにようこを見やった。
「で、どうしたんだ? 俺《おれ》だけをしゅくちでこんなところに連れ出して」
そこはマンション屋上のガラス張りの温室だった。
ここも河原《かわら》崎《ざき》家《け》のものらしくサボテンやシュロの木に美少女のフィギュアが飾られていたり、ウッドチェアにパステル調《ちょう》の同人誌が積《つ》まれていたりする。奥の方には作業用のテーブル。手前には工具などが並べられたラックが据《す》えられていた。
「うん」
ようこは啓太の手を握ったまま俯《うつむ》いた。
「ん〜とね」
啓太の目がその時、少し真剣みを帯《お》びた。だけど、ようこは気がつかない。泣き出しそうな、笑い出しそうなそんなどちらともつかない震《ふる》える声で、
「あのね」
窓ガラスから夜景が見える。オレンジや黄《き》色《いろ》い光が水底に沈んだ宝石のように眼下で輝《かがや》いている。無音。ただ、雪だけが静かに静かに温室に降り積もっている。まるで世界に二人だけしかいないような。
そんな部屋の中でようこは啓太に向き直り、はっきりと告《つ》げた。
「ケイタ、わたしケイタが大好きだよ」
泣き笑いの表情だった。
「まずこれだけははっきり言わせてね」
啓太の手をぎゅっと握ったまま、
「これからわたしが話すことの前にこれだけははっきり言わせてね。わたしはね、ケイタがね、たとえどれだけわがままだって、乱《らん》暴《ぼう》だって、浮気したって、勝手に老いちゃったって、病気したり、先に死んじゃったりしてもケイタがたまらなく大好きなの」
ようこは啓太からそっと離《はな》した手を振るう。そこに炎が一筋、宿っている。
「この炎にかけて」
真《しん》摯《し》な想《おも》いを伝える。
「たとえ、それでケイタがわたしを嫌いになっても」
でも。
それ以上は言葉にならない。彼女は思いっ切り頭を下げた。その動作とは対照的に口《く》調《ちょう》はどこまでも静かでやるせなかった。
「わたしはずっとずっとケイタに嘘《うそ》をついてきました」
ごめんなさい。
啓《けい》太《た》は息を呑《の》んでいた。
わたしは犬《いぬ》神《かみ》ではないんです。
妖《よう》狐《こ》です。
恐ろしい妖狐の娘なのです。
ただ、雪だけがしんしんと降り続けていた。やがて啓太が困ったように咳《せき》払《ばら》いを一つした。
「あ〜」
何と言って良いか迷うように目を泳がせ、
「俺《おれ》、大体、それ知ってた」
え?
と、ようこが驚《おどろ》いたように顔を上げた。啓太は苦笑気味に、
「あ、いや、別に誰《だれ》かから聞いたとかそういう訳《わけ》じゃないんだ。ただ、なんとなくお前が普通じゃないつうことは最初から分かってたし、あとはほら、類推というかさ」
ようこが切なそうに目を細め、
「そっか……」
と、だけ溜《ため》息《いき》をつくように呟《つぶや》いた。
「そだよね。ケイタ、頭いいもんね。気がつかないはずないもんね」
その言い方がどこか危うげで切なかった。啓太が申し訳なさそうに言《い》い添《そ》える。
「あ、でも、封印されているのがお前の親《おや》父《じ》だってのは知らなかったな。あとはなんでお前が俺のとこに来たのかも未《いま》だによく分からないし」
ようこはどこか弱々しく微笑《ほほえ》んだ。
「ごめんね」
「え?」
「ずっとずっと騙《だま》していてごめんね。本当はケイタ、最初の時にね、なでしこともう一人、犬神の立候補者がいたんだよ? ケイタは本当はオチこぼれなんかじゃなかったの。わたしがやったの。わたしがケイタと一《いっ》緒《しょ》にいたいから。犬神になるからって」
「……」
「ごめんね。本当はケイタ、ちゃんと川《かわ》平《ひら》の跡取りになれたのにね。薫《かおる》なんかに負けなかったのにね。わがままでごめんね。乱《らん》暴《ぼう》でごめんね。いっぱい噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだり、焼いたり、意地悪しちゃったね。もっともっとケイタに尽くしてくれる人、いたのにね」
「……ようこ」
「ごめんなさい」
ようこは今ぽろぽろと泣いていた。切ない想《おも》いが込み上げて来た。今《いま》更《さら》ながらに啓《けい》太《た》と過ごしてきた日々が思い返される。
ただ楽しかった。
ただ楽しかった。
啓太はわがままで勝手な自分を庇《かば》ってくれた。凶《きょう》暴《ぼう》で破《は》壊《かい》を本性とする邪悪な自分を受け入れてくれた。遊んでくれた。笑いかけてくれた。一《いっ》緒《しょ》に色々なところに連れてって、ご飯を作って、面《めん》倒《どう》を見てくれて。
全《すべ》て逆だったじゃないか。
楽しませてくれた。
笑いなんか知らない、暗い暗い結界の底にいた自分を。
犬《いぬ》神《かみ》の誰《だれ》からも忌《い》み嫌われた自分を。
啓太は笑って迎え入れてくれた。いつでも何《なに》気《げ》ない風《ふう》を装《よそお》って。
「ありがとう」
鳴《お》咽《えつ》が込み上げる。
「本当にありがとう。わたしなんかと一緒にいてくれてありがとう」
一体、どれだけそれが大変なことか。
知らないふりをして、得《え》体《たい》の知れない化《け》生《しょう》と住むのは。
「ありがとう」
えぐえぐと泣きじゃくるようこ。すまない気持ちと啓太を愛《いと》しく思う気持ちで一杯だった。対して啓太は驚《おどろ》いたことに軽く笑っていた。
彼は全く変わっていなかった。
相変わらずどこか脳天気な口《く》調《ちょう》で、
「別に関係ないじゃん」
あっけらかんとそう言った。
「お前が誰の娘であろうと、なんだろうと。狐《きつね》であろうとさ」
その言葉にようこは目を白黒させた。
「……そ、そうなの?」
啓太は手を頭の後ろで組んで笑った。
「そ〜さ。大体、俺《おれ》、犬と狐の違いなんて良く分からないもん」
「そ、そういうものかな?」
「ああ、そういうもんさ。だから、正直、お前が大《だい》妖《よう》狐《こ》の娘であろうと大《おお》狸《だぬき》のひ孫だろうと関係ないよ。お前、さっき言ってたな? 俺《おれ》がたとえなんであろうと、って」
啓《けい》太《た》は照れ臭《くさ》そうにちょっと横を向いた。
「お前さ、俺のために一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、頑《がん》張《ば》ってくれたな? 一生懸命、色々なことを覚えて俺の役に立とうとしてくれたよな? だったら、俺も同じさ。俺もお前と同じようにお前がたとえどんなにワガママで、乱《らん》暴《ぼう》で、焼《や》き餅《もち》焼《や》きで、大食いで、俺より長生きする全く違う変なヤツでも俺はそうだな」
あ〜、と咳《せき》払《ばら》いしてから啓太は何か言おうとする。ようこは祈るように手を胸の前で組み合わせていた。
その沈《ちん》黙《もく》がいたたまれなくなったのか、啓太はふいに声を張り上げた。
「あ〜〜〜〜、と、とにかくだな!」
「う、うん」
ようこはどぎまぎしながら啓太を見つめている。啓太は困って、
「え〜と、その、だな。まあ、猫語で言うとこんな感じだ!」
前足をちょいちょいと招いて、にゃ〜と鳴いた。ようこがきょとんとする。
「俺はバター醤《しょう》油《ゆ》で鰆《さわら》が食べたい=c…って、どういう意味?」
「ち、ちがう! こうだ! こう!」
先程の動作にほんの少し尻尾《しっぽ》を付け加えた。ようこが苦笑した。
「ケイタ……またおかしな文になってるよ。俺の大事な簡《かん》保《ぽ》保険に入った女はスキンヘッドが好きだ≠チてなに?」
啓太はうっと目を逸《そ》らした。それから聞こえるか聞こえないくらいの小さな声で言った。
「……簡保保険に入った≠ニスキンヘッド∴ネ外は大体、合ってる」
「え?」
と、ようこが息を呑《の》んだ。身体《からだ》が勝手に小刻みに震《ふる》え出す。
「ね、ねえ、それって」
「お、おう」
「それって、もしかして」
「まあ、なんだな! はははは、つまりはそういうことだはははは」
「おねがい!」
ようこが必死で叫んだ。
「ニンゲンの言葉ではっきり言って!」
一《いっ》瞬《しゅん》の沈黙。啓太はすうっと息を吸い込んだ。それから覚悟を決めたように微笑《ほほえ》み、
「つまり俺もお前が」
その時である。
よりによって、本当に最悪なタイミングで重たいコートを着た青年が、暗い空からひゅるひゅると音を立てて落下してくる。
え?
と、視《し》線《せん》を上に向けた啓《けい》太《た》。その途《と》端《たん》、ガラスが砕《くだ》ける派《は》手《で》な音が聞こえた。さらに啓太が逃げる間もなく落下してきた青年の頭がごい〜んと正面|衝《しょう》突《とつ》する。
「ふぐ!」
「が!」
ようこがあ〜〜〜と叫び声を上げた。べっちゃっと潰《つぶ》れる啓太に、のたうち回るように頭をおさえている空から降って来た特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》。
ようこが啓太に駆《か》け寄り、襟《えり》首《くび》を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》み上げる。
「ケイタ、しっかりして! というか今なんて言いかけたの! お願《ねが》い! 気を失うならそれを言ってからにして!」
「ううう」
ズタボロになった仮名史郎がようこの腕に手をかけ、訴える。
「赤《せき》道《どう》斎《さい》が……くりすますを」
「うるっさい!」
それを容赦なく払いのけてようこが必死で揺《ゆ》さぶる。
「ケイタ! ケイタ!」
しかし啓太は世にも間抜けな顔で白目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》くと失神。ようこはぷるぷると震《ふる》えていた。それから思いっ切り叫ぶ。
「もお! バカああああああああああああああああああ!!!!」
温室が粉々に吹《ふ》き飛んだ。
それよりちょっと前のことである。
しんしんと雪が降りしきる空の下、最強の魔《ま》導《どう》師《し》にして最悪のヘンタイである赤道斎はビルの屋上に立っていた。
眼下に広がるのは光の洪水である。
今《こ》宵《よい》はクリスマス。
街の随所に飾られたイルミネーションや宝石店、小じゃれたレストラン、ブティックのディスプレイの明かり。
遠くには教会。
鐘《かね》が鳴っている。キャンドルの光。赤や青や黄《き》色《いろ》の眩《まばゆ》い、あるいは仄《ほの》かな光源の数々。それは街が確《たし》かに息づいている証《しょう》拠《こ》だった。
祝祭を間《ま》際《ぎわ》に迎えて色めき立っているようだった。こけ〜と赤道斎の肩に止まっていた木彫りのニワトリが羽を広げた。
「……そうだな。そういう趣《しゅ》向《こう》もまた楽しかろう」
どろんと白い煙に包まれた後、赤《せき》道《どう》斎《さい》はサンタクロースを模したローブを羽《は》織《お》っていた。ただし、やはり上半身だけ。
足には革のブーツを履《は》いている。ヘンタイ度に磨《みが》きがかかっていた。だが、なりは限りなく人外の領域にいるが、彼の魔《ま》導《どう》師《し》としての力はホンモノだった。
「〈魔眼の欠片《かけら》よ、うたかたの歌を歌え〉」
手の平を顔の前に持ってきて、ふっと息を吹《ふ》きかける。するとそこからきらきらと光る砂のような細かい粒子がふわりと流れ出た。
それは風に乗って遥《はる》か遠くまで流れ、柔らかく拡散し、静かに街の全域に降《ふ》り注《そそ》ぐ。赤道斎は目を閉じた。
〈魔眼の欠片〉と呼ばれる砂一つ一つを媒介にして、街の光景が見えた。それは人々の幸せな営みの数々だった。手を繋《つな》ぎ、微笑《ほほえ》み合う恋人同士。七《しち》面《めん》鳥《ちょう》とクリスマスケーキを前にして喜ぶ子供とそれを見守る両《りょう》親《しん》。駅から家《いえ》路《じ》に急ぐ人波。レストランでキャンドルサービスが行われ、教会では賛《さん》美《び》歌《か》が歌われ、雪を見守り、警《けい》邏《ら》中《ちゅう》の警官がほっと白い息を吐き出し手に吹きかけ……先日会った酔っぱらいもいた。
彼は子供にプレゼントを買って笑顔《えがお》で帰る途《と》中《ちゅう》だった。
街の気《け》配《はい》が不《ふ》穏《おん》であればあるほど。
暗《くら》闇《やみ》が濃《こ》くなればなるほど。
人は今の幸せをしっかりと享受しようとしていた。そしてその全《すべ》ては炎や電灯や電飾の明かりなどと結び付いていた。
それを赤道斎はじっと胡《う》乱《ろん》な半目で見ていた。
「いいな、いいな、ニンゲンっていいな!」
突如、赤道斎の隣《となり》にいた木彫りの人形がかくかくと揺《ゆ》れて叫んだ。赤道斎は集中を解いて忠実な己《おのれ》の僕《しもべ》を見やった。
「……どうした、クサンチッペよ?」
「たのしそう」
木彫りの人形は抑揚なくそう言う。胴体部に填[#「填」はunicode5861]《はま》った球には『羨《せん》』の文字が点滅していた。
「そうか」
赤道斎は頷《うなず》いた。
「お前はまだ感情を覚えている途《と》中《ちゅう》なのだな……」
首を捻《ひね》る。
「やはりちゃんと教育してやらないといけないのだろうな」
こけ〜と木彫りのニワトリが心細そうに鳴いた。
「だが、それはあとにしよう」
赤《せき》道《どう》斎《さい》は懐《ふところ》から革張りの本を取り出した。月を怨《えん》嗟《さ》するように手を伸ばした三体の骸《がい》骨《こつ》がレリーフになった魔《ま》導《どう》書《しょ》。
赤道斎の力の媒介となる『月と三人の娘』である。
彼はそれを掲げると、
「さあ、クリスマスとやら」
にいっと薄《うす》気《き》味《み》悪い笑《え》みを浮かべた。
「我《わ》が大望のために死んでくれ」
ぱらぱらと風も無いのにその本のページが捲《めく》られ、青白い光がぼんやりと放《はな》たれる。大きな声が響《ひび》き渡ったのはその時だった。
「そうはさせるか!」
赤道斎が胡《う》乱《ろん》な半目で振り返った。そこに立っているのは特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》だった。恐らく階段を駆《か》け上がってこの屋上にやって来たのだろう。背《はい》後《ご》で非常|扉《とびら》が開け放《はな》ちになっていて、軽く息を乱していた。
彼はロングコートの袖《そで》を払うようにして叫んだ。
「赤道斎! 探《さが》したぞ!」
「ほう」
赤道斎は半目をさらに細めた。
「誰《だれ》かと思えば我が不肖の子孫ではないか」
降りしきる雪の中、あくまで泰《たい》然《ぜん》と立つ下半身丸出しの赤道斎と敵《てき》愾《がい》心《しん》に瞳《ひとみ》を炎のように燃《も》やしている仮名史郎。全く瓜《うり》二《ふた》つの二人だが、精神構造は究極的と言っていいくらい対立していた。仮名史郎が力を込めて告《つ》げる。
「貴様が動き出すなら必ずこの日だと思っていた。人々の幸せ、邪魔はさせん!」
彼は手を水平に構《かま》えるとメリケンサックのようなものを右手に嵌《は》めた。
「いくぞ」
瞳をつむり、最大の念を込めて左右の手を同時に引っ張る。するとそこから光が溢《あふ》れ出し、収束して見事な形の剣となった。
先端が天使の羽《はね》のように分かれた清浄の刃《やいば》。
「エンジェルブレイド」
「ふふ」
赤道斎は無表情のまま笑った。彼はからかうように問う。
「仮名史郎よ。答えよ」
「ひ〜っさつ」
仮名史郎は右足を引き、剣を一、二度、弧《こ》を描くように振り回した。赤道斎は眉《まゆ》一つ動かさず淡々と続ける。
「心して答えよ、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》よ。お前の最大の行動原理は何だ?」
「正義」
と、言い放《はな》つと同時に仮名史郎が突進する。何もかも断ち切るように叫んだ。
「ホ────リイイイ────クラッシュ!!」
思いっ切り遠心力を利用してステップを踏み、刃《やいば》の先端をぶつけようとする。狙《ねら》いは赤《せき》道《どう》斎《さい》の身体《からだ》。
その邪悪な本性。何もかも全《すべ》て。
「つまらん」
赤道斎は逆に瞳《ひとみ》を閉じた。一歩も動くことなく唱える。
「〈赤道の血よ、アレ〉」
同時に赤道斎の身体から深《しん》紅《く》の衝《しょう》撃《げき》波《は》が全方位に飛び散った。凄《すさ》まじい魔《ま》力《りょく》の集《しゅう》積《せき》である。爆《ばく》風《ふう》にも似て、圧力で屋上のパイプや看板が一瞬ひしゃげる。
だが。
「クリスマススペシャル |クリスクロススラッシュ《十字斬り》!!!!」
仮名史郎は突進しつつ、電《でん》光《こう》石《せっ》火《か》の早業で剣を十字に交差させた。するとそこから真っ白に輝《かがや》く聖なる十字架が現れ、何と赤道斎の力を相《そう》殺《さい》し、弾《はじ》け飛んだのだ。
「見たか! 正義の力!」
勝ち誇った仮名史郎が赤道斎に向かって肉《にく》薄《はく》する。居合い抜きのように回転しながら剣を振るっていく。赤道斎の顔に初めて軽い驚《おどろ》きの表情が浮かんだ。ばりばりと霊《れい》力《りょく》と魔力がぶつかり合う音。
「再び喰《く》らえ! ホーリークラッシュクリスマススペシャル」
しかし。
「よふけすぎにはゆきにかわるんだよ!」
必殺技のネーミングが長過ぎたのか、それを唱え終わる間もなく脇《わき》に控えていた木彫りの人形が魚《ぎょ》雷《らい》のように頭から突っ込んできた。
「わ、わああああああああああああああああああああ!!!!」
咄《とっ》嗟《さ》に剣の平で受けたもののその衝撃は半《はん》端《ぱ》ではなかった。木彫りの人形はそこでまだ突進を止《や》めない。
手を広げると、ジェット機《き》のように魔力を背《はい》後《ご》に噴《ふん》出《しゅつ》し、思いっ切り驀《ばく》進《しん》する。
「お、おのれ! せきどうさあああああああああああいいい!」
仮名史郎の叫び声が尾を引いて、闇《やみ》夜《よ》の彼方《かなた》にきらんと光って消える。木彫りの人形と共に。
赤道斎はそれを見送って呟《つぶや》いた。
「多少は修《しゅ》行《ぎょう》して成長しているようだが」
うん、と半目で頷《うなず》く。
「まだまだだな」
それが啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が激《げき》突《とつ》する前に起こったことだった。
赤《せき》道《どう》斎《さい》は振り返り、再び眼下の光の海を見やった。『人々の営み』という名の光の海。暖かみと願《ねが》いと望みに満ちた地平。
片手に魔《ま》導《どう》書《しょ》を持ち、もう片方の手を掲げる。
歌うように呟《つぶや》いた。
「〈微睡《まどろ》みまどろめ〉」
びょうっと一《いっ》瞬《しゅん》だけ風が強くなった。雪が闇《やみ》の中、巻くように赤道斎の周囲を流れた。赤道斎の呪《じゅ》文《もん》の詠唱は続いた。
「〈こよ。人の幸せよ、人の営みよ、こよ。群《ぐん》舞《ぶ》してこよ。輪《りん》舞《ぶ》するようにこよ〉」
起こったのは不《ふ》思《し》議《ぎ》な現象だった。
例えばそれはキャンドルライトで照らされた品の良いレストランで始まった。二人|和《なご》やかに語り合っていた若いカップルの目にふととろんとした倦《けん》怠《たい》が浮かんだのである。
「あ、俺《おれ》なんか疲れた」
プレゼント交換もまだだというのに男の方がぐったりと顎《あご》をテーブルに預けた。
「うん……あたしもなんかど〜でもいい」
ふわっと女の方がはしたない大|欠伸《あくび》をして、床《ゆか》の上に寝っ転がった。それは連《れん》鎖《さ》するように次々に他《ほか》の客たちに広がっていった。熟《じゅく》年《ねん》カップルが弛《し》緩《かん》した表情になり、椅《い》子《す》から崩《くず》れ落ちた。
ウエイターが仕事を放棄し、シェフが床の上に座り込んで作りかけたラムチョップを手づかみでむしゃむしゃ食べた。
退屈そうに。
あるいはそれはとある家庭で起こった。ちょうど七《しち》面《めん》鳥《ちょう》を切り分けかけていた父親がめんどくさそうにナイフを放《ほう》り出し、はしゃいでいた子供たちが疲れ切ったように黙《だま》り込み、母親が台所で溶けていくアイスクリームを見やって無表情に目をつむった。
駅で。
教会で。
デパートで。
警《けい》察《さつ》で。あちらこちらで人々が活力を失っていった。聖なる夜がみるみる死んでいく。
それは光が一つ一つ消えて行くことで具現化されていった。
まずキャンドルの明かりが消えた。
イルミネーションの電飾が不《ふ》鮮《せん》明《めい》に輝《かがや》きを失っていった。マンションの明かりが順序良く黒色に染《そ》まっていき、街灯さえも力尽きるように立ち消えた。
遙《はる》か頭上からそれを眺めやった時。
まるでばらまかれた宝石の粒一つ一つに次々と暗い布が覆《おお》い被《かぶ》されているように見えた。ぽつりぽつりと明かりが消えていく。
それはやがてどんどんと加速していき、街は完全な暗《くら》闇《やみ》に沈んでいった。
ただ雪だけが降り続けていた。
大いなる闇の中。月さえも出ていない闇の中。
赤《せき》道《どう》斎《さい》はくっくっと喉《のど》の奥で笑っていた。
「なるほど……これだけ人がいればこれだけの願《ねが》いや祈りが存在する訳《わけ》か」
街から奪われた人々の光はふわふわと上空に漂《ただよ》い出ると、そこで風を得たように一点に向かって流れ出していった。
すなわち赤道斎の持つ魔《ま》導《どう》書《しょ》の方角。
それら赤や黄《き》色《いろ》の光はまるで天《あま》の川《がわ》のように街のあちらこちらから合わさり、どんどんと太さを増していき、そして最終的に赤道斎の頭上で大きく逆《さか》巻《ま》くと、最後の煌《きら》めきを放《はな》ちながら一気に魔導書の開かれたページに吸い込まれていった。
その壮《そう》麗《れい》な光のページェントに木彫りのニワトリが凱《がい》歌《か》をあげるようにこけ〜と鳴いた。
「〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉よ、調《ちょう》子《し》はどうだ?」
赤道斎は半目でそう呟《つぶや》いた。手に持っていた魔導書から、
『さいこ〜や。なんやら半《はん》端《ぱ》でなく霊《れい》力《りょく》、溜《た》まってきたで!』
深《しん》紅《く》の文字列が流れ出てきた。り〜んご〜んと荘《そう》厳《ごん》な鐘《かね》の音も本の中、茫《ぼう》漠《ばく》たる光の貯《ちょ》蔵《ぞう》庫《こ》から聞こえて来る。
「……私の力は?」
唇《くちびる》だけ笑《え》んで赤道斎が尋《たず》ねた。
『九割……そう。これで全盛期の九割いってるで!』
「く」
赤道斎は肩を震《ふる》わせた。久方ぶりの愉《ゆ》悦《えつ》が込み上げてきた。
「ははははははは、九割か! いい! いいぞ!」
こけ〜と木彫りのニワトリが気を利《き》かせて羽ばたいた。どろんと白い煙が包むと赤道斎はさらに違った衣《い》装《しょう》を身につけている。
今度は戻って来た力の割合に比例して、身体《からだ》の九割を衣服が覆《おお》っていた。
純白のローブにそれよりやや淡い色合いの暖《あたた》かそうなマント。黒い革ブーツにベルベットの手袋。腰に巻く星を重ね合わせたようなデザインのベルトも、頭に抱いた白《はく》銀《ぎん》のティアラも魔導師としてはそれなりにセンスの良いものだ。
唯《ゆい》一《いつ》、一点、股《こ》間《かん》が相変わらず外気に晒《さら》されている以外には。
九割。
赤《せき》道《どう》斎《さい》はそこを選《えら》んでいた。
「ははははははは、これで私が大《だい》妖《よう》狐《こ》を破り、この街を支配し、新たな時代を作るのは間違いないな!」
暗《くら》闇《やみ》に沈んだ街を見下ろし勝ち誇る大ヘンタイ赤道斎。
そこへ凄《すさ》まじい炎が一気にうち下ろされて来た。
「死ね!!!! ヘンタイ!」
はっとして顔を上げる赤道斎の回《かい》避《ひ》が間に合わなかった。あり得ないくらい巨大な炎の球が赤道斎を一《いっ》瞬《しゅん》で包み隠《かく》す。
「〈我《わ》が盾《たて》よ。命じる前に掲げたまえ〉」
赤道斎が膝《ひざ》をつき、辛《かろ》うじて周囲に結界を張る。だが、遙《はる》か頭上からの攻《こう》撃《げき》はそこで終わらなかった。
「死ね!」
どん。
どん。どん。と大砲の弾《たま》のように次々と打ち込まれる爆《ばく》炎《えん》。
その度《たび》に叫ぶ恨《うら》みに満ちた声。
「死ねえええええええええ!!!!」
火力は衰えるどころかさらに加《か》熱《ねつ》して、乱打するように秩序もへったくれもなくビルの屋上に打ち込まれる。赤道斎が立ち上がれない程の桁《けた》外《はず》れの圧力。何とか頭上を見上げると鬼の形《ぎょう》相《そう》で手を振るっている犬《いぬ》神《かみ》のようこの姿が見えた。
「く! 金《きん》色《いろ》のようこか!」
一気にオレンジ色に融《ゆう》解《かい》する周囲の景色。最後に、
「折《せっ》角《かく》ケイタが告白してくれそうだったのにいいいいいいいいいいい!!!」
ようこは握った両手を渾《こん》身《しん》の力で振り下ろす。
「く!」
どどん。
赤道斎の周囲は辛うじて炎の侵食を免れていた。
だが、足場はそうはいかない。その無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》な一《いち》撃《げき》でとうとう亀《き》裂《れつ》が飽和を迎え、一気にコンクリートが崩《ほう》壊《かい》して赤道斎はビルの屋上から転落した。
こけ〜と木彫りのニワトリが鳴いた。
「〈掴[#「掴」はunicode6451]《つか》む風は幸運を呼ぶ。我《われ》に加《か》護《ご》を〉」
赤道斎は咄《とっ》嗟《さ》に呪《じゅ》文《もん》を詠唱した。すると彼の身体《からだ》が重力の檻《おり》から解放され、彼はまるで木《こ》の葉《は》が舞《ま》うようようにゆっくりと宙を漂い始めた。対照的に砕《くだ》けたコンクリートの破片や炎の塊が猛《もう》烈《れつ》なスピードで彼の横を過《よ》ぎる。
すとん。
やがて赤《せき》道《どう》斎《さい》は地面に降り立った。ふっと彼は息吹《いぶき》を吐き、術を解放する。
浮き上がっていた彼の衣や髪が再び重力の支配下に置かれ、ぱさりと音を立てて落ちた。赤道斎は空を見上げた。
雪が舞《ま》っていた。
そしてその中を足を胸につける姿勢でゆっくりゆっくりようこが降りて来ていた。瞳《ひとみ》が瞋《しん》恚《い》の炎で真《ま》っ赤《か》に輝《かがや》き、不気味に笑ってる。
「ふふふふ、せきどおお〜〜さああ〜〜〜い。きっちり跡形もなくころしてやるわあ〜〜」
赤道斎は眉《まゆ》をひそめた。
一体、何かあったのだろうか?
ようこの怒り方が半《はん》端《ぱ》ではない。そしてその力も尋《じん》常《じょう》なく高まっていた。赤道斎にとっては決して恐れる程ではないが、用心するにこしたことはない。彼が軽く身《み》構《がま》えると背《はい》後《ご》からかなり心配そうな声が聞こえて来た。
「お〜〜い、ようこ。お前、やりすぎるなよ? うえ火事になってねえか?」
「だいじょ〜ぶ。ちゃんと水を沢《たく》山《さん》、しゅくちしておいたから!」
ようこがビルの二階程の高さで止まって答えた。はっと赤道斎が振り返ると左側から川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》がどことなくのんびりした足取りでやって来るところだった。
しかし、手には油《ゆ》断《だん》なくカエルのケシゴムを乗っけている。そしてその反対側からエンジェルブレイドを縦《たて》に構《かま》えた仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》もゆっくり接近してきていた。無言。瞳《ひとみ》には強烈な意志の光を浮かべ、油断が欠片《かけら》も無い。
上には文字通り怒りの炎に包まれたようこ。道の左右それぞれから腕の立つくせ者の川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》と新必殺技を身につけた仮名史郎。
「ふむ」
赤《せき》道《どう》斎《さい》は無表情に呟《つぶや》いた。
「さすがに少々これは手こずりそうか……」
『ますた〜。どうする? 溜《た》まった分、今だうんろーどするか?』
手に持った魔《ま》導《どう》書《しょ》から赤い文字列が螺《ら》旋《せん》の形を描いて這《は》い出して来ていた。ちなみに光の吸収はいったん止まっている。
そこへ。
「ぴんちのときはひ〜ろ〜さんじょう!」
どごんと音を立てて道路から木彫りの人形が飛び出て来た。股《こ》間《かん》のドリルが激《はげ》しく回転しているからきっと地中を掘り進んで来たのだろう。
ようこがぎょっとしたように目を見開き、啓太と仮名史郎が警《けい》戒《かい》するように足を止めた。赤道斎が胡《う》乱《ろん》な半目で呟いた。
「これで三対二か」
すると彼の頭の上に止まっていた木彫りのニワトリが抗《こう》議《ぎ》するようにこけ〜と鳴いた。赤道斎が微笑《ほほえ》んだ。優《やさ》しいとも言える感情をほんの少し滲《にじ》ませて、
「そうだな……お前もいるからこれで三対三か」
『ど〜する、ますた〜?』
と、再び〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉が魔導書を通じて聞いて来た。赤道斎は首を振る。
「いや、ここは私が理を解いて説得してみよう。無用の争いは避《さ》けるべきだ」
「どんな説得も通用するものか!」
と、仮名史郎が怒って叫ぶ。ようこがうんうん激しく頷《うなず》いた。手に力を込める。
「そ〜そ。とりあえずあんたが死んでから言うこと聞くよ! まずなにより死にな、赤道斎!」
しかし、赤道斎は彼らには一切、注意を払わず、あくまで啓太一人を真《ま》っ直《す》ぐに見つめて声を張り上げた。
「川平啓太!」
「な、なんだよ?」
いきなり名指しされて啓太がかなり戸《と》惑《まど》った顔になる。赤道斎は続けた。
「……お前、私の後《こう》継《けい》者《しゃ》にならないか?」
と。
はあ?
啓《けい》太《た》が思いっきりぽかんと口を開ける。そのあまりにもあまりな提案内容に今にも炎を投げつけようとしていたようこも、剣を構えて隙《すき》を窺《うかが》っていた仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》も虚《きょ》を突かれ、目を見開いた。木彫りの人形のドリルだけが激しく回転している。
「あ、あのな」
と、啓太が腰《こし》砕《くだ》けになりながら言った。
「お前、何言ってるの?」
「お前は私と同類だ」
「一《いっ》緒《しょ》にするな!」
と、啓太が間《かん》髪《はつ》入《い》れず答えた。
「お前みたいな異次元の生物と俺《おれ》を一緒にするな!」
赤《せき》道《どう》斎《さい》はあくまで無表情に指摘した。
「なら、お前のその狂った格《かっ》好《こう》は? 我《われ》を異次元の生物と呼ぶお前の今のその姿は何だ?」
「あ、こ、これはその」
確《たし》かに啓太は今、猫の手、猫の耳、猫の尻尾《しっぽ》、猫の髭《ひげ》を身体《からだ》から生《は》やしていた。明らかに常人の範《はん》疇《ちゅう》からは外《はず》れている。
「それに聞いたぞ。お前は既《すで》に何度も何度も素っ裸で街を走り回ったそうだな? いや、なかなか出来ることではないぞ、それは」
「あ、あれはちが! ちがう!」
あたふたとする啓太。赤道斎はイブに知恵の実を唆《そそのか》すエデンの蛇《へび》のような蠱《こ》惑《わく》的《てき》な仕《し》草《ぐさ》で手を広げた。
「さあ、我と共に来い。そして共に全《すべ》てが許容される新しい世界を作ろう」
「誰《だれ》がいくかああああああああああああああああ!!!」
赤道斎は不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに小首を傾《かし》げた。
「……お前は生きていることが辛《つら》くないのか?」
「辛くねえよ! つうか俺がさもヘンタイで迫害されているような言い方するな! 俺はこっち側で充分、幸せ! 大体、なんなんだお前のその〜」
ソレ!
と、びしっと赤道斎の股《こ》間《かん》を指さす。
ようこがうっと頬《ほお》を赤らめ、慌《あわ》てて横を向いた。赤道斎は無表情に、
「これか? これは我《わ》が力が九割元に戻ったという証《あかし》だ」
「だから、その残りの一割をなんとかしろって言ってるの!」
「川《かわ》平《ひら》啓太」
赤道斎が大まじめに言う。
「誤解があるようだが、私は決して裸なのではない」
「じゃ、なんなんだよ?」
「プライドという名の服を着ているのだ」
「ああああああああああああああああああああああ!!!!」
啓《けい》太《た》が爆《ばく》発《はつ》するように叫んだ。
これ以上、頭のおかしなニンゲンとのコミュニケーションは無理だった。地《じ》団《だん》駄《だ》を踏み、きっと顔を上げた時には瞳《ひとみ》に決意を浮かべてる。
「ぶっころす! とりあえずなんだかよく分かんないけどぶっころす!」
最初から戦う気満々だったようこも仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》もそれぞれ手の平に炎を浮かべ、剣をちゃっと構《かま》え直して臨《りん》戦《せん》体勢に入っていた。
「交渉決裂か……」
赤《せき》道《どう》斎《さい》は胡《う》乱《ろん》な半目で呟《つぶや》いた。口元ににいっと薄《うす》気《き》味《み》悪《わる》い笑《え》みが浮かぶ。
「だが、必要な時間はこれで充分|稼《かせ》げたようだ……くくく」
啓太、仮名、ようこがそれぞれ警《けい》戒《かい》するように身体《からだ》をたわめた。
何か得《え》体《たい》の知れない気《け》配《はい》がした。
赤道斎は半目で呟き続けた。
「お前たちの敗因は光しか知らないことだ。暗黒の悲しさ、辛《つら》さを知らないことだ。聖なる夜に嘆き悲しむ存在を忘れたことだ」
街のあちらこちらから妙な啜《すす》り泣くような声が聞こえた。街《がい》路《ろ》樹《じゅ》の影《かげ》、ビルの配水管の奥、下水道のマンホールの下。
そんなところからゆっくりゆっくりと黒い影。
いや、爛《ただ》れた気配のようなものが這《は》い出て来る。
「私が彼らを呼んだ訳《わけ》ではない。強《し》いて言えば大《だい》妖《よう》狐《こ》の邪気に感応して強く、より強く具現化していったのだろう。だが、存在自体はそもそもあったのだ」
聞こえて来るのは微《かす》かな声。
うらやましい。
うらめしい。
「幸せだった者たちは決して見なかったのだろう。あるいは見て見ぬふりをしたのだろう。汚い。醜《みにく》い。己《おのれ》の下位にあるものを侮《ぶ》蔑《べつ》の顔で」
彼女がいなくてうらめしい〜。
俺《おれ》はクリスマスに一人ぼっちだ。
「私がするのはほんのささやかな後押しだけだ」
いいな〜、隣《となり》の家では家族|揃《そろ》って外食だ。
うちはカップラーメン。今日《きょう》はタマゴをつけようか。
ひもじい。
うらやましい。うらめしい。一人ぼっちだ。光が綺《き》麗《れい》だ。俺《おれ》……私とは関係ない眩《まばゆ》い光が憎い。クリスマスが憎い。
己《おのれ》の不幸を強く意《い》識《しき》する今日《きょう》、この日が憎い!
「さあ、現れよ! 嫉《そね》み、妬《ねた》み、下から見上げる虐《しいた》げられし者たちの魂よ!」
赤《せき》道《どう》斎《さい》が手を振り上げた。
「〈いのちよ、あれ〉」
青白い稲《いな》妻《ずま》のような光が頭上を走ったその瞬《しゅん》間《かん》。
うぞぞぞぞぞぞぞおおお〜〜と影《かげ》のような泥のような真っ暗な嫉み妬みの塊が集まってきてその場で収束し、みるみると人の形を取っていった。
「げ!」
啓《けい》太《た》が目を見開いた。それが半《はん》端《ぱ》ではなくでかい。西洋のゴーレムのような存在。うお〜んと鳴いて振るっただけで、かたまりかけの指の先端からねっちょりと泥のような飛沫《しぶき》が飛び散り、付近の建物の窓ガラスを次々と打ち砕《くだ》いた。
「ようこ! 燃《も》やせ!」
啓太が叫んでいた。
「手遅れになる前に燃やせ!」
ようこが「う、うん」と頷《うなず》いて手を上げかける。しかし、赤道斎の方が早かった。再び不気味ににっと笑うと、
「ソクラテス!」
叫んだ。こけ〜〜〜〜と木彫りのニワトリが高らかに鳴いた。
「きゃ!」
「おわ!」
「うわああああああああああああああああ!!!!」
どろんと白い煙に包まれて次の瞬間、ようこが地上にどすんと落下していた。見ると彼女の服は凄《すさ》まじく重たそうな拘《こう》束《そく》具《ぐ》に変化していた。同時に仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》はゴキブリほいほいのように粘着する服を着せられていた。
「く、く!」
立ち上がろうと思っても服がもの凄《すご》くべたついて上手《うま》く立ち上がれない。ようこが必死で、
「この! この!」
と、しゅくち≠発動させようとするがその鎧《よろい》のような拘束具は全く脱げなかった。赤道斎が高らかに笑った。
「無《む》駄《だ》だ!」
すうっと無表情になる。
「改良したソクラテスの術は何者にも破れない」
木彫りのニワトリが得意そうにこけ〜と胸を張った。
「おおおおお〜〜〜〜〜い!」
と、啓《けい》太《た》が叫んだ。
「なんだ?」
赤《せき》道《どう》斎《さい》が胡《う》乱《ろん》な半目で啓太を見やる。
「なんで俺《おれ》だけこれなんだよ?!!!」
彼だけ一人服は全くそのままなのだが、股《こ》間《かん》の部分だけ何故《なぜ》か大穴が開いていた。赤道斎のように。啓太は必死でそこを隠《かく》している。
赤道斎が薄《うす》く笑った。
「まあ、せめてもの好意だ」
「お前の好意の基準が全くわからねえよ!」
「それよりどうやら形勢逆転のようだな、川《かわ》平《ひら》啓太よ?」
啓太ははっとして周りを見てみた。ようこは身動き出来ず、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は縫《ぬ》い止められ、赤道斎は無傷で立っている。
そしてその隣《となり》にはドリルを激《はげ》しく回している木彫りの人形。
さらには今や完全に人の形をとった暗黒の恨《うら》み嫉《そね》みの塊。
くりすますがにくううううううう〜〜〜〜〜〜い
手を振るい、どすんと前に一歩踏み出すとアスファルトにべっとりと黒い染《し》みが広がる。ずしんずしんと身体《からだ》を揺《ゆ》らしながら、啓太に向かってゆっくり近づいてくる。不浄な足跡がその度《たひ》に出来ていく。
あんなのに踏みつけられたらたまらない。
「くそ!」
啓太が股聞を押さえながら唇《くちびる》を噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだ。
「ケイタあああああああああああ!!!」
ようこが叫んでいる。仮名史郎が、
「にげろ! 今はにげるんだ!」
呼びかけている。戦えるのは今、自分一人しかいない。異《い》形《ぎょう》だが最強の魔《ま》導《どう》師《し》。同じく桁《けた》外《はず》れの耐久性を持つその僕《しもべ》。
そしてクリスマスに現れた負の怪物。
勝ち目はない。到底。だが、逃げる訳《わけ》には絶対行かない。啓太は目を閉じ、すうっと息を吸い込み、覚悟を決めようとした。
まさにその時。
「やれやれ全く。聖なる夜に無《ぶ》粋《すい》なことこの上ないな」
ふうっというため息と共に肩をすくめながらビルの影《かげ》から現れた一人の少年がいた。彼は怪物も、魔《ま》導《どう》師《し》も、木彫りの人形も全く歯《し》牙《が》にかけず、相変わらずいつものような気安さですたすたと歩くと、啓太の前に立ちはだかってくるりと背を向けた。
「か、かわらざき」
啓太が驚《おどろ》きの声を上げた。
「お、おまえ、バカ! 何やってるんだよ! さっさと逃げろ!」
ずしんずしんと怪物が迫って来る。
ビルの三階程はある泥と怨《おん》念《ねん》と暗《くら》闇《やみ》の塊。う〜お〜んと鳴いて、手を振るった。河原《かわら》崎《ざき》はにやっと笑った。
不敵に。
「まあ、任せておけ」
え?
と、啓太が目を見開く。ようこが息を呑《の》み、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が困《こん》惑《わく》し、赤《せき》道《どう》斎《さい》が眼を細めている。その中で河原崎は静かに宣言した。
「こいつは俺《おれ》が片づける」
そして彼は思いっ切り息を吸い込むと同時に叫んだ。
「答えろ!!!!」
手を振るう。朗《ろう》々《ろう》たる声で何者かに向かって呼びかけ始めた。
「闇の中に生きる者たちよ、答えろ! 全《すべ》てのマイノリティーたちよ、答えよ! 己《おのれ》の品性を恥《は》じ、常に光を眩《まぶ》しがる者たちよ、答えよ!」
怪物を真《ま》っ向《こう》から見《み》据《す》え、河原崎は吠《ほ》え続ける。
「今、この街は闇の中に沈んでいる! クリスマスが死んだ! おまえたちがあれだけ羨《うらや》ましがり、嫉《そね》み、諦《あきら》めの吐《と》息《いき》と共に投げ捨てた幸せの日々が今は死んでいる! それは偏《ひとえ》に目の前の存在が引き起こした! 答えろ、闇に生きるものたちよ!」
その朗々とした声は街路を流れ、街の隅々にまで響《ひび》き渡る。
「幸せな人たちが全て力尽き、今この街は死に瀕《ひん》している! 答えよ! おまえたちはこれを見て喜ぶか? 幸せな人たちがおまえたちを蔑《さげす》み、石を投げたからと言ってこの今を座して見るのか、闇に生きる者たちよ」
幸せ薄《うす》き者たちよ。
河原崎は吐《と》息《いき》のように呟《つぶや》く。
「辛《つら》き茨《いばら》の道を行く者よ。報われぬ孤高を行く者よ。闇に生きる者たちよ!」
そして再び大きく、高くなる。
「答えよ! 我《われ》らが生かされる理由を! 我らがありし理由を! おまえたちの隣《りん》人《じん》を、親や兄弟を! パン屋にパンが並ぶのは! 本屋に本が並ぶのは! 偏に幸せたらん人が幸せにあらんとしてなしたこと! 確《たし》かに我らは光の中では生きられない存在。だが、同時に光がなくてはまた生きられないのだ! おまえたち、我《われ》らは闇《やみ》だ!」
河原《かわら》崎《ざき》は手を振るう。
「哀《かな》しき、唾《だ》棄《き》すべき、卑《いや》しき闇だ!」
迫り来る怪物を何一つ恐れることなく一心に呼びかける。
「だが、今、この瞬《しゅん》間《かん》だけなら我らは矜《きょう》持《じ》を持って戦える! この日、この時だけなら恋い焦《こ》がれた聖なる夜の表《おもて》舞《ぶ》台《たい》に立つことが出来る! さあ、誰《だれ》にも語ったことのない気高さを、勇気をほんの少しでもその胸に抱くのなら」
最後に渾《こん》身《しん》の力を込めて咆《ほう》哮《こう》した。
「我《わ》が呼びかけに答えよ! 闇の者たちよ!」
幸せな人たちをまもれ!
幸せな人たちをまもれ!
幸せな人たちをまもれえええええええええええええええ!!!!!
ぞわり。
どくん。
どくん。その檄《げき》は街の全《すべ》てに染《し》み渡る。暗部にいる、誰にも見られることのない、最底辺の者たちが。
赤《せき》道《どう》斎《さい》の吸い取った幸せの基準から外《はず》れた者たちが。
その呼びかけに。
縁《えん》側《がわ》に潜《ひそ》んでいた下着泥が決然と這《は》い出す。深く頷《うなず》き合ったSMスタイルの男女が武器に鞭《むち》とロウソクを持つ。
抱き枕《まくら》に別れを告《つ》げるオタク。ぬうっと歩き出すムシロを身体《からだ》に巻き付けた男。
ぞわりぞわり。
一人。
また一人と。
街のそこかしこから染み出るように、溢《あふ》れ出るように。
「す、すごい」
と、ようこが息を呑《の》んでいる。それだけもの凄《すご》い数だった。ありとあらゆる異相の、おかしな格《かっ》好《こう》の、ヘンな雰囲気の人たちが、それぞれ武器を手に持って。
「この街にはこんなにヘンタイがいるのか……」
と、思わず啓《けい》太《た》が呻《うめ》くくらい沢《たく》山《さん》。そして、
「いけえええええええええええええええええ!」
河原崎が指を振るった瞬間、わ〜〜と一《いっ》斉《せい》に巨大な怪物に襲《おそ》いかかった。というより群《むら》がり寄った。わらわらと。
「やっちまえ! この! この!」
「てめ! おとなしくしろ! こら! 不幸なニンゲン舐《な》めんな!」
釘バットを振るったり、下着を怪物の頭に被《かぶ》せたり、腕に囓《かじ》りついたり、改造エアガンずどどどどと打ち込んだり、チェーンソーで足を削ったり。
くりすますがにくう〜〜〜〜い
さすがにそれだけの人数に襲《おそ》いかかられては怪物も怯《ひる》む。ヘンタイたちはどれだけ振り払われても、踏みつけられても瞳《ひとみ》に闘《とう》志《し》を漲《みなぎ》らせ、果敢に立ち上がっていった。
わらわらわらわらわら〜〜〜〜〜〜。
ひたすら。
わらわらわらわらわら〜〜〜〜〜〜。
そしてとうとう巨大な怪物を押し倒すことに成功した。それはさながらネズミの群が巨像を押し倒すのに似ていた。馬乗りになってしがみ付いていたり、その上でジャンプしたり、鞭《むち》を振るったり。噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだり、笑ったり、ヘンな注射打ったり。
もうやりたい放題。
怪物は、
く、くりすますがにくうう〜い!
と、断《だん》末《まつ》魔《ま》の悲鳴を上げていた。
「か、かんしんしていいのか?」
と、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が心《しん》底《そこ》、困《こん》惑《わく》している。赤《せき》道《どう》斎《さい》が感情のない半目になって呟《つぶや》いた。
「なるほど……これはとんだ茶《ちゃ》番《ばん》だ。まさかひっくり返されるとは、な」
赤道斎は当然、この街の裏事情には詳しくはない。だから、集まって来た者たちの中にこの街のヘンタイたちの長《おさ》である、全《すべ》てを見通す覗《のぞ》きのマジシャン『ドクトル』がいないことには気がつかなかった。
そして覗きを極《きわ》めしが故《ゆえ》に彼には全く気《け》配《はい》というものがない。
「あ」
「お、おい」
啓《けい》太《た》とようこが声を上げた瞬《しゅん》間《かん》にはもう既《すで》にその場に立っていた。
誰《だれ》も取ったことのない大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》赤道斎の無防備なその背中。
「これは頂《ちょう》戴《だい》しておきましょうか」
くるっと振り返った赤道斎が本気でびびってる。
「う、うおおおおおおおおおおおおおお!!!」
にっこりと微笑《ほほえ》んだドクトルはそうしてまるで赤《あか》子《ご》の手から何かを取り上げるようにあっさりと木彫りのニワトリと魔導書を赤道斎から奪い取った。
「で、でかした、ヘンタイ!!!」
啓太が思わず身を乗り出してガッツポーズを取っている。それだけ大《だい》殊《しゅ》勲《くん》だった。赤道斎が初めて見せる動《どう》揺《よう》で、
「な、なに者だ、お前は!?」
「ふ」
ドクトルは後ろに飛びすさりながら、茶《ちゃ》目《め》っ気《け》たっぷりに胸に手を当て一礼した。
「ただ友の呼びかけに応《こた》えた名もなき闇《やみ》の一人とでも申しておきましょうか?」
赤《せき》道《どう》斎《さい》が胡《う》乱《ろん》な半目に戻り、手を差し出す。
「〈骨という骨よ、軋《きし》め。奴《やつ》の身体《からだ》を砕《くだ》け〉」
とびきり出力を上げた魔《ま》術《じゅつ》でドクトルだけを攻《こう》撃《げき》しようとした。しかし。
「そうはさせないよ!」
高らかな声と共に真《ま》っ赤《か》な衝《しょう》撃《げき》波《は》が赤道斎の頭上から降り注いだ。
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×一! 『紅《くれない》』!」
「く!」
頭上の死角からそれはコンスタントに襲《おそ》いかかって来る。眩《まばゆ》い、霊《れい》力《りょく》のフラッシュ。赤道斎は辛《かろ》うじて手をかざして頭を護《まも》る。
「お、おのれどこだ!」
必殺の力はないがわずらわしいことこの上ない。
そして赤道斎の注意が完《かん》璧《ぺき》に頭上に逸《そ》れたその一《いっ》瞬《しゅん》を見計らってすとんと地面に降り立った小さな少女が渾《こん》身《しん》の力を込めて蹴《け》り上げた。
「えい! ともはねキック!!!!」
外気に触れた赤道斎最大最高の弱点を。
全く一点の容赦もなく。
「ほ、ほぐ!」
それはそれは致命的な一撃だった。かこき〜〜〜ん、という音が辺《あた》りに響《ひび》き渡った。赤道斎が丸まってうずくまる。
涙目でおぐおぐ言っている。
「啓太様、やりましたよ!!!」
すかさずその場から離《り》脱《だつ》したともはねがにこやかに手を振った。啓太、「お、おう」と応えつつも冷や汗を掻《か》いた顔だった。
その間、戦況はこくこくと変化していた。
赤道斎側で唯《ゆい》一《いつ》、無傷の木彫りの人形が、
「このどろぼうねこめ!」
と、叫んでドクトルに魚《ぎょ》雷《らい》のように頭から突っ込んでいったのである。仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》ですら避《よ》けきれなかった強烈な突進をしかしドクトルは、
「ほ!」
紙《かみ》一《ひと》重《え》でかわす。
「えい!」
木彫りの人形は足から魔《ま》力《りょく》をジェットのように噴《ふん》射《しゃ》し、空中で方向転換するとさらに斜め上から襲《おそ》いかかる。ドクトルは踵《かかと》を支点にして回転し、するりと横をすり抜けた。木彫りの人形は手を振るい、捉《とら》えようとする。ドクトルは身をくねらした。
とん、とんと連続してとんぼ返りを打つ。地面を蹴《け》って、自動|販《はん》売《ばい》機《き》の上に飛び移り、さらに電《でん》線《せん》の上に跳《ちょう》躍《やく》して逃げる信じられない程身の軽いドクトル。
だが、木彫りの人形も尋《じん》常《じょう》ではない。
「往《おう》生《じょう》せいやあああ」
股《こ》間《かん》のドリルを一息に振り下ろした。電線が引きちぎれ、火花が飛び散る。
「く!」
それで体勢を崩《くず》したドクトルが、
「あとはたのみましたよ!」
ラグビーのパスのように倒れ込みながら木彫りのニワトリと魔《ま》導《どう》書《しょ》を放《ほう》り投げた。こけ〜と鳴きながら回転する木彫りのニワトリをキャッチしたのは河原《かわら》崎《ざき》で、魔導書を跳《は》ね飛ぶように受け取ったのはともはねだった。
「おお、こけ子! 久しぶりだな!!!」
河原崎が喜《き》色《しょく》満《まん》面《めん》で叫ぶ。目をぱちくりさせているニワトリを頭に乗っけると叫んだ。
「さあ、おまえたち今、戒《いまし》めから解いてやるぞ!!!」
どろん。
どろんどろん。
啓《けい》太《た》とようこと仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》を次々に白い煙が押し包んだ。
「おお、助かったぞ!」
と、仮名史郎が元の颯《さっ》爽《そう》としたコート姿に戻って立ち上がった。
「へえ、たまにはまともなこともやるじゃん!」
最初に着ていたミニのサンタ服をくるりと翻《ひるがえ》し、ようこが笑った。
「おおおおお〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いい!!!」
と、一人だけこめかみをひくつかせて啓太が叫んでいた。
「なあ? なんで、俺《おれ》だけこれかな〜?」
河原崎のところへたたたたと駆《か》け寄って思いっきり肩を揺《ゆ》する。彼一人だけ何故《なぜ》かフリフリのメイド服を着ていた。
河原崎は感嘆するように呟《つぶや》いた。
「お、おお」
「おおじゃねえよ! 一体どういう脳みそしてるんだよてめえは! この非常時に!」
「で、でも、よ〜く似合ってるぞ?」
「あ〜〜、もういい! 分かった! いまはっきり分かった! お前はもう何も喋《しゃべ》るな! とりあえず、俺《おれ》がお前の人生、責任もってリセットしてやるから!」
啓《けい》太《た》が本気の表情で河原《かわら》崎《ざき》の首をぎりぎり締《し》め上げる。じたばたする河原崎。そこへともはねがすててててと駆け寄って来る。
「啓太様、助けてくださ〜〜〜〜〜〜〜〜い!」
啓太と河原崎が思わずそちらに視《し》線《せん》を向ける。魔《ま》導《どう》書《しょ》を胸元にひっしと抱えたともはね。それを滑《かっ》空《くう》しながら追いかけて来るのは木彫りの人形だった。
「げ!」
「わ、わあああああああああああああ!!!!」
体勢を崩《くず》した啓太たちにともはねがぶつかり、三人が倒れ込み、木彫りのニワトリと魔導書が宙に浮いたほんのわずかな一《いっ》瞬《しゅん》。
「ぬすんだのはあなたのこころです!!!」
すり抜けざまに木彫りの人形が両者をかっさらって滑って行く。そのまま、高度を上げるとようやく股《こ》間《かん》の痛みから立ち直った赤《せき》道《どう》斎《さい》の許《もと》へ飛んでいこうとした。反応が早かったのは啓太の方だった。
彼は地面を転がると先程切れた電《でん》線《せん》を素早《すばや》く取り上げ、頭上で振り回し、
「逃《に》がすか!」
投げ放った。しゃあ〜〜と蛇《へび》のように火花を上げながら電線が木彫りの人形を追《つい》撃《げき》した。その足へ見事に絡《から》みつく。
「てい!」
啓太が思いっ切り引っ張った瞬間、がくんと高度を落とす木彫りの人形。同時に感電。ばちばちばちばちっと黄《き》色《いろ》い火花が飛び散り、木彫りの人形ががくがく揺れる。さらに木彫りの人形は驚《おどろ》きに目を見開いている赤道斎の上に落下し、
「ぐぎゃああああああああああああああああああ!!!!」
二つまとめて感電した。
「今だ!」
啓太が叫ぶとようこ、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》、ともはねがすっくと立ち上がっている。
「やれえええええええええええええええええええええ!!!!」
という合図と共に四方八方から、
「じゃえん、だいじゃえん、だいじゃえん音《おと》無《なし》超強化版!!!」
「ホーリークラッシュクリスマススペシャル |クリスクロススラッシュ《十字斬り》」
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×一! 『紅《くれない》』! 『紅』! 『紅』!」
そして最後に啓太が、
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告《つ》ぐ! 蛙《かえる》よ、全《すべ》てを破《は》砕《さい》せよ!」
蛙のケシゴムを放って圧倒的な密度の爆《ばく》発《はつ》を起こす。真っ白な閃《せん》光《こう》。真《ま》っ赤《か》な衝《しょう》撃《げき》波《は》にオレンジ色の炎と爆風。爆音。
辺《あた》りの街《がい》路《ろ》樹《じゅ》が揺《ゆ》れ、窓ガラスが吹《ふ》き飛び、アスファルトが剥[#「剥」はunicode525D]《は》げ飛ぶ。
それだけ凄《すさ》まじい霊《れい》力《りょく》の凝《ぎょう》集《しゅう》だった。
びりびり。
びりびりと大気が震《ふる》え、肌が切れる程空気が硬質化する。
だが。
「くくくく」
中から聞こえて来たのは不気味な笑い声だった。
余裕を滲《にじ》ませた風格のある声だった。
そして。
「危ないところだったな。あともうほんの少しだうんろーどが遅れればやられていた。ここは素直に誉《ほ》めておこうか」
中からゆらりと立ち上がる人《ひと》影《かげ》がある。劫《ごう》火《か》と狂ったような霊力の嵐《あらし》の中、赤《せき》道《どう》斎《さい》はゆっくりと手を掲げた。
叫ぶ。
「〈来たレ、赤道の血よ〉」
その瞬《しゅん》間《かん》、猛《たけ》り狂っていた霊力の暴《ぼう》風《ふう》域《いき》が瞬時に霧《む》散《さん》した。それは原理的に火事に爆風を打ち当てて消火する方法に似ていた。啓《けい》太《た》たち渾《こん》身《しん》の炎も、霊気の大渦も、赤道斎が放《はな》った衝撃波によって呆《あっ》気《け》なく目の前から消え去っていた。仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が信じられないと言うように目を見開き、ともはねが怯《おび》えたように啓太を振り返った。
啓太は舌打ちと共に手の平に拳《こぶし》を打ち付けた。
「ち。仕《し》留《と》めそこねたか……」
無表情に啓太たちを睥《へい》睨《げい》している赤道斎は全く無傷だった。ただ彼の足《あし》下《もと》で黒こげになっている道路と辺りを炙《あぶ》る異様な熱《ねっ》気《き》だけが啓太たちが加えた攻撃の濃《こ》さを物語っていた。赤道斎は今|身体《からだ》全《すべ》てを覆《おお》う黒《こく》曜《よう》石《せき》のような色合いのローブを身につけていた。一《いち》分《ぶ》の隙《すき》もないその服装。彼の周囲だけくっきりと暗《くら》闇《やみ》の中で黒が際《きわ》だっていた。彼の肩で木彫りのニワトリがこけ〜と勝ち誇るように羽を広げた。
すると赤道斎の頬《ほお》に朱《しゅ》色《いろ》のフェイスペインティングが滲《にじ》み出るように現れた。
まるで血の涙を流しているような深《しん》紅《く》の双《そう》眸《ぼう》。
腰には連《れん》鎖《さ》する骨を象《かたど》ったベルトに、光彩を放つ真っ赤なルビーがはめ込まれた額《ひたい》のティアラ。それがまるで第三の眼のようにも見える。黒髪はあくまでもさらさらと流れ、白い肌は抜けるように夜の闇に映《は》えていた。
威《い》厳《げん》。
あるいは強烈な禍《まが》々《まが》しさが全身から吹《ふ》き上がっていた。実際、桁《けた》外《はず》れの霊《れい》気《き》が周囲を圧倒している。クリスマスの怪物を制圧していたヘンタイたちは皆、動きを止め、ドクトルは非《ひ》難《なん》するように眉《まゆ》をひそめ、河原《かわら》崎《ざき》は口をぽかんと開いていた。
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が剣を構《かま》えようとしているのだが、軽く震《ふる》えが走り、手が滑った。嫌《いや》な汗にまみれていた。
それだけ変わり果てていた。
赤《せき》道《どう》斎《さい》は。
木彫りの人形がういんういん腰を動かしながら尋《たず》ねた。
「ますた〜、ちょうしはどうだ?」
「ああ」
赤道斎は笑った。軽やかに。
「完《かん》璧《ぺき》だ。我《われ》は今ここで戻ったぞ! 夜よ!」
ばっと魔《ま》導《どう》書《しょ》を持った右手を掲げる。その瞬《しゅん》間《かん》、おぞましい程に高い霊格がプレッシャーとなって赤道斎を中心に爆《ばく》風《ふう》のように吹き抜け、街《がい》路《ろ》樹《じゅ》を、周りの全《すべ》てを揺《ゆ》らした。攻《こう》撃《げき》ではない。ただ手を振るっただけなのだ。
そしてそれだけでこの現象を付随的に引き起こした。ともはねがカタカタと歯を鳴らして震えていた。勝てない。
勝てる訳《わけ》がない。
「あ、あ」
今、初めて見る。
伝説の存在。大魔導師という称号の、その真の意味。
「あう」
今にも崩《くず》れ落ちそうな彼女の肩にそっと手を当て支えた者がいた。川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》だ。彼だけは比較的、平静だった。
むしろつまらなそうに見える。
無表情に近い目つきでじっと赤道斎を観《かん》察《さつ》するように見《み》据《す》えていた。ようこが彼の傍《かたわ》らにすうっと降りて来て呟《つぶや》いた。
「……オトサンとニンゲンの身で互角に渡り合った存在。そんなの絶対、絶対、嘘《うそ》だと思ってたけど」
ぶるっと身震いする。彼女は初めて他者に畏《い》怖《ふ》していた。
「本当だったんだね、赤道斎……」
赤道斎が一同を眺め渡した。
「どうやら再度、立場が逆転したようだな?」
からかうような、むしろ少し申《もう》し訳《わけ》なさそうな声《こわ》音《ね》。この時、少しでも霊《れい》能《のう》力《りょく》を持っている者なら分かっただろう。
勝てない。
勝てる訳《わけ》がないのだ。それだけ霊力差は歴然としていた。
「さあ、ここで」
と、赤《せき》道《どう》斎《さい》が手を振るいかけたその時である。
突然、赤道斎の持っている魔《ま》導《どう》書《しょ》から深《しん》紅《く》の文字列が浮かび上がった。赤道斎は無表情に眉《まゆ》をひそめる。
「どうした、〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉よ? 今ちょうどよいところなのに……」
また赤い文字列が二重の螺《ら》旋《せん》になって魔導書の上で球を作る。何かを必死で訴えかけているようだった。赤道斎はそのメッセージを読んでしばらく考えていた。彼の頭の中で今この場で啓《けい》太《た》たちを葬《ほうむ》り去ることとその呼びかけに応えることが天《てん》秤《びん》に計られているようだった。
それからおもむろに一つ頷《うなず》く。
「……分かった。ここはとりあえずおおよその目的は果たしたし」
他《ほか》の者を一《いっ》顧《こ》だにせずくるりと赤道斎は背を向けた。
「引き上げるか」
そうと決まれば全く未練を示さず、まるで一人荒野を行く王のように歩き出す。
「ま、まて! 逃がさんぞ!」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が上《うわ》擦《ず》った声で呼び止めた。
身《み》震《ぶる》いしながらの虚勢にしても啓太以外の全員が射《い》すくめられているこの状況ではかなり大したものなのだろう。
だが、赤道斎は軽く笑ってそれをいなした。からかうように。
「まあ、そう焦《あせ》るな。我《わ》が不肖の子孫よ。それと」
ちらっと啓太を振り返った。
「私は諦《あきら》めた訳じゃないぞ、川《かわ》平《ひら》啓太よ。日常が退屈だったらいつでも我が許《もと》を訪れよ」
啓太が無言で中指を突き立てるポーズをとった。猫手で。メイドのコスプレ。
「くくくくく」
赤道斎はゆるゆると闇《やみ》の中に溶け込んで行く。彼の隣《となり》にいる木彫りの人形も、木彫りのニワトリも一《いっ》緒《しょ》に姿が滲《にじ》んで消えた。
「やはりお前は面《おも》白《しろ》いな、川平啓太」
それが最後に聞こえてきた赤道斎の声だった。
全《すぺ》てが消え去り、静《せい》寂《じゃく》が戻って来ると、
「は、はあ〜〜〜やばかった!」
啓《けい》太《た》の声と同時に全員、ぐったり力を抜いて地面に座り込んだ。
雪が思い出したように降りしきっていた。
やがてゆっくりと街の光が灯《とも》りだした。微睡《まどろ》みから覚めたようにレストランの中で、一般家庭で、デパートの展示場で、駅の構内で人々が緩《かん》慢《まん》に起き出していた。イルミネーションが、キャンドルライトが、車のヘッドライトが再び力を取り戻し始める。
そして。
闇《やみ》に生きる者たちはそれを見届けるかのように一人。また一人と街の暗部。本来、彼らのいるべき場所へ雲が風に千《ち》切《ぎ》れていくように還《かえ》っていった。
今《こ》宵《よい》のことを誰《だれ》に知られることなく。誰に誇るでもなく。
クリスマスの負で出来上がった怪物は赤《せき》道《どう》斎《さい》が去った際に塵《ちり》のように崩《くず》れ落ちていた。
だが、再びこの街の光が脅《おびや》かされる時。
彼らはきっと少年の檄《げき》に、応じることだろう。
何故《なぜ》なら闇は光と共にしか生きられないのだから。
「では、いずれまた。久しぶりに血《ち》湧《わ》き肉《にく》躍《おど》るクリスマスイブでしたよ」
シルクハットを胸に当て、ドクトルが颯《さっ》爽《そう》と身を翻《ひるがえ》した。鮮《あざ》やかに街路に消え入っていく。ヘンタイたちの長《おさ》は最後の最後まで紳士的だった。
その後ろ姿を見送って、
「では私もそろそろ行く」
と、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が傍《かたわ》らの啓太に告《つ》げた。
「あんたど〜するの?」
と、啓太に問いかけられ彼は思い定めたように一つ頷《うなず》く。
「ヤツの本拠地を探し出そうと思う。ヤツは何かの呼びかけに応《こた》えているようだった。〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉だったか? アレをまた破《は》壊《かい》できればほんのわずかだがチャンスが出てくると思う」
「そっか……」
「世話になったな」
仮名史郎は啓太にきちんと頭を下げた。
「いずれ礼は改めてさせて頂く。また会おう!」
そう言って決然と歩き出した仮名史郎を啓太は思わず呼び止めた。
「おい!」
「……なにか?」
「あいつは強いぞ? そうとう」
「ありがとう」
仮名史郎は微笑《ほほえ》んだ。
「気をつけるさ」
そうして雪の降る街を一人去っていった。ようこがぽつりと呟《つぶや》いた。
「……行っちゃったね」
「ま、あの人とはまた本当にすぐ会えるさ」
啓《けい》太《た》が苦笑気味に頭の後ろで手を組んだ。今夜のある意味、立て役者とも言える河原《かわら》崎《ざき》がまたともはねにコスプレを懇《こん》願《がん》して、深《しん》紅《く》の衝《しょう》撃《げき》波《は》に吹《ふ》っ飛ばされている姿が目に映った。ようこはそこで何かを思いだしたように啓太の姿を眺めやって、
「あ、あれ? そういえばさ、ケイタ」
ちょっと冷や汗を掻《か》いていた。
「服そのまま?」
「あ」
と、啓太の表情が見る間に青くなった。
「ああ」
忘れてた。
「しまったあああああああああああああああああああああ!!!!」
彼の叫び声が聖なる夜に木《こ》霊《だま》した。
川《かわ》平《ひら》啓太。
とうとう猫耳メイドになった。
[#ここから太字]
きょう、くりすます。
ますた。
かんぜんになった。たたかった。わるいやつだぜ、べいべえ♪
ばかやろう!
さげんのだんまくうすいよ、なにやってるの!
……おこる。できる。なく。
しくしく。
わらう……できない。
くりすます。わらってた。にんげんたくさんわらってた。おぼえたい……。
ますた、てれびはあまりよくないといったけど、にんげんのこころおぼえたいからみせやがれといったら、ますたがみるばんぐみをえらんでくれるそう。
じょうそうきょういく。
によいばんぐみをろくがしてそれをみることになった。
いえい♪
[#地から1字上げ]自動人形クサンチッペの独白〜究《きゅう》極《きょく》魔《ま》道《どう》具《ぐ》〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の記《き》録《ろく》より〜[#ここまで太字]
啓《けい》太《た》たちとの決着を諦《あきら》め、赤《せき》道《どう》斎《さい》が帰《き》還《かん》を急いだのは訳《わけ》があった。魔導書を通して〈大殺界〉が呼びかけて来たのである。
『はよ帰ってきてや〜。お客さんが待ってるで〜』
と。
『なんやらちょっと怖いんや! はよ! はよ帰ってきてや〜!』
〈大殺界〉にはそれなりの防御システムが組み込まれている。だから、めったやたらなことではそもそも傷付けることすら出来ないのだが、今、こういう表現は適当かどうか定かではないが〈大殺界〉は怯《おび》えていた。
ほんの少し急ぎ足になって〈大殺界〉が設置されている大広間に入った赤道斎はそこで申《もう》し訳《わけ》なさそうな小さな声に出迎えられた。
「あ、あの、留守中に勝手に入って申し訳ありませんでした」
赤道斎は意表をつかれたように足を止めた。
巨大な〈大殺界〉の影《かげ》から現れたのは栗《くり》色《いろ》の髪に大人《おとな》しそうな容《よう》貌《ぼう》をした少女だった。古めかしい割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿に見覚えがあった。
「……おまえか」
赤道斎は無表情を選《せん》択《たく》して足を止めた。木彫りの人形が「ますた、ますた、おれがはいれないからはよどけよ〜」とか、後ろでせっついているので脇《わき》にのいてやると妙な足取りで奥の方へ歩いて行った。なでしこは赤《せき》道《どう》斎《さい》の変《へん》貌《ぼう》ぶりに驚《おどろ》き、その霊《れい》圧《あつ》に少し怯《おび》えたようだが、それ以上に彼がきちんと服を着ていることにほっとしたようだった。
膝《ひざ》に手を当て、ペコリとお辞《じ》儀《ぎ》をして口上を述べた。
「川《かわ》平《ひら》薫《かおる》さまの使者として参りました」
「なるほど」
赤道斎は納《なっ》得《とく》してそれから〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の様《よう》子《す》を見やって内心で首を傾《かし》げた。
いつもは歯車やピストンや計器をにぎやか過ぎるくらい動かして饒《じょう》舌《ぜつ》にパネルを捲《めく》ることで喋《しゃべ》りかけてくる〈大殺界〉が沈《ちん》黙《もく》を守り通していた。最小限の可動に最小限の排気。まるでひっそりと息を潜《ひそ》めているようにさえ見えた。
一体何があったのだろうか?
その間、
「きゃくじん、そちゃでございます」
木彫りの人形がぐらぐらと煮立つ茶《ちゃ》碗《わん》を持って来て、ぬっとなでしこに差し出した。胴体部の水《すい》晶《しょう》球《きゅう》には『茶』の一《ひと》文《も》字《じ》が浮かんでいる。
なでしこは曖《あい》昧《まい》な笑顔《えがお》でそれを断った。手を振る。
「お、お気《き》遣《づか》いありがとう。でも、わたし喉《のど》かわいてないから」
「いえ〜〜〜いつだんでぃ〜すとらいくだんでぃ〜〜♪」
突然、木彫りの人形が脈《みゃく》絡《らく》なく歌い出したのでぎょっとするなでしこ。怒らせてしまったのだろうか、と身《み》構《がま》える。が、しかし、木彫りの人形はそれ以上特に何をするでもなく、また奥の方へ踊るような足取りで引っ込んでいった。
ほっとした顔のなでしこ。そんな彼女に向かって赤道斎が抑揚のない声をかけた。
「それで犬《いぬ》神《かみ》の娘よ。川平薫の用件とは一体なんだ?」
胡《う》乱《ろん》な半目になって尋《たず》ねた。なでしこは慌《あわ》てたように彼に向き直った。
「はい、薫様は進《しん》捗《ちょく》状況を気にされております」
「川平薫が?」
赤道斎は小首を傾げた。
「おかしいな? それは。川平薫自身が一番、よく知っているはずだぞ。あの呪《のろ》いはそもそもそう簡《かん》単《たん》に解けるものではないのだ」
「ええ」
なでしこは言いにくそうに目を逸《そ》らした。
「それはよく承知しておりますが、薫様はあなたが……その」
「裏切るとでもいうのか?」
なでしこは小さく、だがはっきりと頷《うなず》いた。赤道斎はふんと鼻を鳴らした。
「それは魔《ま》導《どう》師というものをよく知っているあの男らしくない不《ふ》愉《ゆ》快《かい》な邪推だな」
「……申《もう》し訳《わけ》ありません」
「いいか? 私は川《かわ》平《ひら》薫《かおる》から三つのモノを差し出された。奴《やつ》がずっと持っていた西洋の魔《ま》導《どう》知《ち》識《しき》。それとこの隠《かく》れ家《が》。そして現代という時代に即した霊《れい》力《りょく》の集《しゅう》積《せき》計画」
赤《せき》道《どう》斎《さい》は順番に指を折っていった。
「そのお陰で私は〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉やクサンチッペ、ソクラテスを大幅に改良することが出来たし、こうして想像以上に早く力を取り戻すことが出来た。だから、私も奴から託された二つの棺《ひつぎ》を全力をかけて解《かい》呪《じゅ》する。それはそれ以上であってもそれ以下では決してない。契約だ。仮に川平薫が今から私を攻《こう》撃《げき》しようとしても私は解析を継《けい》続《ぞく》するだろうし、逆に必要とあらば私は奴を殺してでも契約を履《り》行《こう》する。犬《いぬ》神《かみ》の娘よ、知らないのなら教えてやろう。魔導師にとって契約とは絶対のものなのだ。背信、という行為は理《り》論《ろん》上《じょう》ありえない」
「は、はい」
なでしこは身を小さくさせる。赤道斎は首を振った。
「だが、お前にこんなことを言っても仕方のないことだな。おのが主人に伝えよ。全《すべ》ては順《じゅん》調《ちょう》に進んでいると」
こけ〜と赤道斎の肩で木彫りのニワトリが羽ばたいた。
「そうですか。それを聞いてほっとしました」
なでしこは明るい笑《え》みを浮かべて深々と頭を下げた。赤道斎は付け加える。
「恐らくはそう遠くないうちに全ての呪《のろ》いが解けるはずだ。たとえそれがどのような結果を招こうとな」
なでしこは嬉《うれ》しそうに頷《うなず》いた。
「ああ、ありがとうございます。では、早《さっ》速《そく》、薫様に報告させて頂きます」
「そうするがいい」
なでしこはもう一度、丁《てい》寧《ねい》にお辞《じ》儀《ぎ》をしてその場を去ろうとした。それから〈大殺界〉の基部に据《す》えられたオーブンのような二つの扉《とびら》を認め、
「そういえば」
と、思い出したように尋《たず》ねた。
「変な話で恐《きょう》縮《しゅく》ですが、この大きな機《き》械《かい》は喋《しゃべ》ったりしませんでしたっけ?」
「ん?」
「いえ、挨《あい》拶《さつ》をしてもちっとも動かなかったので、もしかしたら壊《こわ》れちゃったんじゃないかと心配になっちゃって」
「〈大殺界〉に自立回路は組み込んでいない。全て私の命令を聞くのみだ」
赤道斎は全く表情を変えず嘘《うそ》をついた。
なでしこは朗《ほが》らかに頷いた。
「そうですか。それを聞いて安心しました。では、失礼させて頂きます」
と、言った彼女を今度は赤《せき》道《どう》斎《さい》の方が呼び止めた。
「川《かわ》平《ひら》薫《かおる》から預かった二つの棺《ひつぎ》は見ての通り、あらかじめ〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の中に組み込んである」
「……それがなにか?」
と、静かな声でなでしこ。赤道斎は無表情に続けた。
「〈大殺界〉の究《きゅう》極《きょく》たる所以《ゆえん》は『完全なる願《ねが》いの成《じょう》就《じゅ》』だ。残念ながら使用する霊《れい》力《りょく》の量によって著《いちじる》しく制限があるが、原理的にはいかなる現実も作り替える。今やっていることは呪《のろ》いの種類を特定し、『もしこの呪いがかかっていなかったら』という現実を構《こう》築《ちく》しているに等しい」
「はい」
「犬《いぬ》神《かみ》の娘よ。お前の望みはなんだ?」
なでしこははにかむように小さく微笑《ほほえ》んだ。
「……薫様の望みと一《いっ》緒《しょ》です。わたしは薫様と常に共にある者ですから」
少女の含《がん》羞《しゅう》を示す。そうして慎《つつ》ましやかに一礼をするとそそくさとその場から去って行った。北門が大きく開き、また音もなく閉じる。
しばらくしてから赤道斎が声をかけた。
「行ったぞ、〈大殺界〉」
すると今までずっと静《せい》寂《じゃく》を保っていた〈大殺界〉がどっと蒸気を排気口から噴《ふ》き出した。がしゃこんがしゃこんとピストンが賑《にぎ》やかに動き始める。
人間で言うところの溜《た》めていた息を吐き出す行為なのだろう。
『は、はあ〜〜、怖かった』
ぱらぱらとパネルが捲《めく》られ、そう表示される。
赤道斎は無表情に目を細めた。
「一体、何があった?」
『なにが、やあらへんわ! 一体なんなんやあのオンナ!』
歯車ががちゃがちゃ回り、メーターの針が振り切れんばかりに左右に動く。怯《おび》えから解放され、〈大殺界〉はやたらと興《こう》奮《ふん》していた。
『ま、とにかくこれを見てくれや!』
そう告《つ》げて筒型の突起から光を前方に照射する。するとそれがホログラムのように結実して空中で象を結んだ。
青を基《き》調《ちょう》とした薄《うす》暗《ぐら》い画像ながらなでしこだとはっきり分かる。
彼女は俯《うつむ》いていた。
栗《くり》色《いろ》の髪が見える。表情が定かではない。彼女が見ているのは〈大殺界〉の基部にある薫からの大事な預かりモノを収納した扉《とびら》。
『ここに入ってきた時からまっすぐにこっちに向かって歩いてきたんや。なんやら様《よう》子《す》がおかしかったからなんも声をかけんでいたんや。そしたら』
なでしこは顔を上げた。
振り乱れた髪。
感情を一切消失して大きく見開かれた瞳《ひとみ》に薄《うす》笑《わら》いを浮かべた口元。そうして彼女は霊《れい》気《き》を手に収束させると。
一気に振りかぶり。
ざっとそこで映像が乱れる。
『……という訳《わけ》や。まあ、ほんと〜に直前で思いとどまったけどな。あれは間違いなく全部、なにもかも吹《ふ》っ飛ばすつもりやったで』
あ〜、怖かった。
と、〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉が付け加える。赤《せき》道《どう》斎《さい》がくつくつと。
くつくつと暗く笑い始めた。
「……薫《かおる》の願《ねが》いと一《いっ》緒《しょ》だと?」
嘘《うそ》つきめ。
それはどこかとても楽しそうな声《こわ》音《ね》だった。
ところでその全く同時刻。
しくしく。
と、大雪が降りしきる地上で川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》が泣いていた。
これで猫の恰《かっ》好《こう》にメイドのコスプレなのである。勝負には勝ったが、人として重要なところで何か負けてしまった気分である。
この服装を解くことは木彫りのニワトリにしか出来ない。
状況は絶望的だった。
「そ〜いえばさ」
と、しばらくしてからようこが啓太の顔を覗《のぞ》き込んで言った。
「……なんだよ?」
啓太がぐったり疲れたように尋《たず》ね返した。にっこり。あるいはにんまりという形容の笑《え》みをようこは浮かべた。
頭上の看板の光がぱっと輝《かがや》いた。雪明かりと混じって急に辺《あた》りが明るくなる。
「あのね、わたし、家事の中ではお掃除とお洗《せん》濯《たく》はそんなに得意じゃないの」
と、そう言う。啓太は彼女の意図が分からず、とりあえず顔を上げた。一体、ようこは何を言おうとしているのだろうか?
「そうか?」
「うん。まあ、得意じゃないって言ってもこの二つは今の時代はもうそ〜じきもあるし、せんたっきもあるし、こいんらんどりーとか上手《うま》く使えば大体、出来るの。その気になれば川とかでも洗《せん》濯《たく》出来ると思うけど、ど〜かな?」
「さあな」
「ま、だからね、基本的にこの二つは根気と丁《てい》寧《ねい》ささえあれば誰《だれ》にでも出来ることだし、わたしこの点に関しては愛情でカバーするからケイタに不自由はさせないと思うよ」
啓《けい》太《た》は何となく赤面した。そういえば、と河原《かわら》崎《ざき》のマンションでのことを思い出す。あの時、自分は確《たし》か……。
それを知ってか知らずかようこは話し続ける。
「お料理はえへへ、自分で言うのもなんだけど大分、上達したし、特にさばいばるになったらなでしこにだって負けないよ。味もそうだけど、栄養面だってちゃんとこれから勉強するからケイタの健《けん》康《こう》だって管理してあげる」
「お、おい、ようこ」
「おそうじ、おせんたく、おりょうり」
ようこは跳《は》ねるように足踏みするとにこにこ笑った。
「家事はこれで充分だよね? それとねなでしこほど胸は大きくないけど」
胸のフックを悪戯《いたずら》っぼく指先で引っ張り、上《うわ》目《め》遣《づか》いで、
「その分、わたし、かたち綺《き》麗《れい》だよ?」
ぶっといきなりの言葉に啓太が噴《ふ》く。
ようこは頬《ほお》を赤らめ、上《うわ》目《め》遣《づか》いのまま足をさするポーズを取り、
「足もほら、いいせんいってるでしょ? 腰だってほら」
固まってる啓《けい》太《た》の手を取り、自分の腰に回す。
「きゅっとね。あと、お尻《しり》も。ほら、身体《からだ》のらいんが」
ようこはケモノの艶《なま》めかしさと少女の含《がん》羞《しゅう》を同一化させ、啓太の身体に腕を絡《から》め、胸を押し付け、その耳にふっと生暖かい息を吹《ふ》きかける。
「とことんケイタに尽くしてあげる。たとえどんなかっこしてても」
「あ、あの、あの」
「身も心も、ぜ〜んぶ。ぜ〜んぶ」
「あ、あうあう」
蒼《そう》白《はく》になる啓太。対してようこはトドメとばかりに、
「ケイタの好きにしていいよ」
「ご」
悲鳴というか、頭《ず》蓋《がい》骨《こつ》が外《はず》れたような音を立てる啓太。ようこはふと悪戯《いたずら》っぽくもマジメになると一言。
「だから、ケイタ。他《ほか》の女を見ちゃダメだよ? 一生」
自分が河原《かわら》崎《ざき》家で何を言いかけたのか思い出し。
そして。
啓太は絶叫した。
「うわあああああああああああああああああ! はやまったああああああああ!」
少年の運命はそうして決定付けられる。少女がおかしそうに朗《ほが》らかに笑い出した。そんな雪がどこまでも降りしきる聖夜《クリスマス・イブ》のことだった。
[#ここから太字]
その姿、美しく。
その姿、気《け》高《だか》く。
その姿、轟《とどろ》く雷鳴の如《ごと》し。
いかなる者も触れること叶《かな》わず、いかなる者も命《めい》を下すこと能《あた》わざりし。性は奔《ほん》放《ぽう》。自《じ》由《ゆう》闊《かっ》達《たつ》、独《どく》立《りつ》不《ふ》羈《き》をもって旨《むね》とする。
残忍にあらず。
狂気にあらず。
ただ、己《おのれ》の心《こころ》赴《おもむ》くままに力を振るいたるのみ。
影《かげ》を眷《けん》属《ぞく》とし、荒《あら》法《ほう》師《し》、悪《あく》霊《りょう》払《ばら》いの類《たぐい》をことことく退けたる。
抗《あらが》いたる者ことごとく石に変ず。
月に遊び、炎と戯《たわむ》れ、凱《がい》歌《か》を歌う。
ただ一個の大《だい》妖《よう》物《ぶつ》なり。
[#地から1字上げ]吉《きち》日《じつ》妖《よう》怪《かい》異《い》説《せつ》より〜大《だい》妖《よう》狐《こ》のこと〜[#ここまで太字]
大妖狐が復活しかかっている。
かつて犬《いぬ》神《かみ》たちが総《そう》出《で》でかかり、辛《かろ》うじて封印した魔《ま》物《もの》の存在は当然、比較的、年若い川《かわ》平《ひら》薫《かおる》の犬神たちも良く承知している。
その恐ろしさは幻《げん》影《えい》と想像を従えて闇《やみ》の中に潜《ひそ》む分、むしろ直接、かの者と相まみえた年かさの者たちよりも強いのかもしれない。普《ふ》段《だん》は比較的、大人《おとな》しいいぐさが妙に饒《じょう》舌《ぜつ》なのもそういった心情が窺《うかが》えた。
「で、大広間の寝具は全然、数が足りないし、おトイレもこまめに掃除しないとイケナイと思うの。あとお米とおかずが足りなくなってきたから、ごきょうやたちが戻ってきたらまたお買い物に行って貰《もら》おうと思うし、あ〜そうそう。それと斎《さい》戒《かい》沐《もく》浴《よく》したいっていう行《ぎょう》者《じゃ》さんがいるけどこれはお風《ふ》呂《ろ》場《ば》を開放すればいいよね?」
彼女は紺《こん》色《いろ》の作《さ》務《む》衣《え》のような服を着ていた。
川平|総《そう》本《ほん》家《け》の厨《ちゅう》房《ぼう》でのことである。
「……ねえ、せんだん。聞いている?」
鉛筆片手にメモを読み上げていたいぐさが、ちらっと上《うわ》目《め》遣《づか》いで己のリーダーを見やった。赤毛の美少女。せんだんははっと我《われ》に返り、苦笑した。
「あ、ごめんなさい。聞いている、聞いている。全部、あなたの言うとおりにして良いわ」
ここのところ川平本家での実務は全《すべ》ていぐさが取り仕切り、せんだんが逐《ちく》次《じ》、認可を与える形式がずっと続いている。せんだんは山の結界前と川《かわ》平《ひら》本家を行ったり来たりして、最《さい》前《ぜん》線《せん》に詰めている川平|宗《そう》家《け》と後方支援に徹《てっ》している薫《かおる》との連絡役に終始していた。
「疲れてるの?」
と、いぐさが気《き》遣《づか》わしげに尋《たず》ねた。せんだんはすぐそれを打ち消す。
「いいえ、そうじゃなくてね、ただの考えごと。薫様は何を待っているのかな〜と思って」
「薫様がどうしたの?」
「う〜ん」
せんだんは首を傾《かし》げ、それから笑《え》みを作った。
「まあ、別に大したことじゃないわ。それよりあなたこそ疲れてない? ごめんなさいね、厄《やっ》介《かい》な仕事を全部、押しつけて」
「ううん、大丈夫」
大《だい》妖《よう》狐《こ》の復活が近いという報《しらせ》を聞いて集まってきた霊《れい》能《のう》者《しゃ》や退《たい》魔《ま》師《し》などの応接を全《すべ》て彼女一人で捌《さば》いているのだ。いぐさはなんでもないように微笑《ほほえ》んで首を横に振ったが、その負担はかなりのものだろう。実際、顔色がやや悪かった。
せんだんは眉《まゆ》をひそめた。
「あのね、あなた全部、全部にいい顔することないのよ? 川平宗家が招集をかけた人以外は言ってしまえば招かれざる客なんだから。適当にあしらっておけばいいのよ? 何かたちの悪いのが何人かいるみたいだけど」
「うん、でも」
いぐさは俯《うつむ》く。人見知りする彼女。人間に対しては絶対的な従属をもって接する彼女からすれば、時折|厨《ちゅう》房《ぼう》にまでやって来てあれこれ注文をつける無《ぶ》頼《らい》の霊能者たちはある意味で大《だい》妖《よう》狐《こ》よりも恐ろしい存在なのだろう。
せんだんは溜《ため》息《いき》をついた。
「やっぱりごきょうやが戻ってきたらあの子に仕切りを任せましょうか?」
冷静かつ知的なごきょうやなら必要な仕事はてきぱきこなした上で、無《む》理《り》難《なん》題《だい》を言って来る荒くれ者など軽くいなすことだろう。
いぐさは慌《あわ》てて首を振った。
「あ、それはダメ! ごきょうやは直接、宗家様の命令を受けてるわけだし、私の方が序列が上なんだから!」
「う〜ん」
せんだんはちょっと唸《うな》った。念を押すようにして尋ねる。
「無理してない?」
「へいき。これでもあなたと同《おな》い年の従妹《いとこ》でしょ、私。ね、せんだん?」
いぐさは細腕で力こぶを作って笑ってみせた。せんだんもつられて笑う。
「それもそうね。じゃあ、ここは大丈夫ね?」
「うん! こっちのことは安心して任せて! せんだんは薫《かおる》様を直接、助けてあげて」
「ふふ、じゃあ、そうさせて貰《もら》う」
ふとせんだんが周囲を見回した。
「あれ? そういえば序列で思い出したけど……なでしこは一体どこへ行ったの?」
いぐさもきょとんとした。
「え? 屋《や》敷《しき》の方にはいないよ。山の方にもいないの?」
「いないわよ」
「じゃあ、ともはねみたいに薫様のご用で外出しているんじゃないかな〜」
と、いぐさは事も無げに答えた。せんだんは、
「そうね」
と、頷《うなず》きつつもどこか腑《ふ》に落ちない様《よう》子《す》だった。いぐさはちょっと困ったような顔で付け加えた。
「なでしこがいてくれたらもっと配《はい》膳《ぜん》とか料理がスムーズにいくんだろうけどね」
「そうね」
「……賑《にぎ》やかなともはねもいないからなんだかここも火が消えたようだし」
いぐさが段々、暗い顔になった。忙《いそが》しさに紛《まぎ》れてあまり考えないできていた川《かわ》平《ひら》家《け》最大の脅《きょう》威《い》が復活するという事実が重く胸にのしかかる。まるで幸せだった日々が全《すべ》て音を立てて壊《こわ》れていくような。
そんな不安が急に込み上げてきた。
「せんだん、だいじょうぶだよね?」
いぐさが抽象的な問いかけをせんだんにした。
「私たち大丈夫だよね?」
瞳《ひとみ》にすがるような光がある。せんだんは曖《あい》昧《まい》な顔になった。そこへ。
「うへ〜〜、疲れた、疲れた」
「お〜い、母さんや。飯の前に風《ふ》呂《ろ》にしてくれ、風呂に。あ、お前ってのなしね」
いつでもどこでも変わらない双《ふた》子《ご》のいまりとさよかが厨《ちゅう》房《ぼう》に入ってきた。いぐさと同じような作《さ》務《む》衣《え》を着て、手にはお盆を持っている。
大広間にお茶《ちゃ》を出しに行って来た帰りなのである。
「あ、おつかれさま!」
と、いぐさが声をかける。せんだんは腰元に手を当て、苦笑した。
「あんたたちはいつも元気ね〜」
「元気なもんかね!」
「そ〜そ。少しはこの無理に笑顔《えがお》を浮かべている健《けな》気《げ》さをかえりみて欲しいね、全く!」
双《ふた》子《ご》は折り重なるように床《ゆか》に寝そべると、やれやれと溜《ため》息《いき》をついて、読みかけのマンガ雑誌に手を伸ばしたり、お盆に載《の》っているセンベイをボリボリと囓《かじ》ったりした。いぐさがいそいそと入れているお茶《ちゃ》を物《もの》憂《う》げに啜《すす》って目を細めているが、全|犬《いぬ》神《かみ》の中で間違いなく彼女らが一番余裕あるだろう。
それとは対照的に二人の後から入って来たたゆねの様《よう》子《す》が酷《ひど》かった。
「たゆね、お疲れさま!」
と、いぐさが声をかけるとびくっと身を震《ふる》わせ、慌《あわ》てて左右を見回した。それからいぐさとせんだんに気がつくと微《かす》かな照れ笑いを浮かべ、
「あ、ああ。どういたしまして」
目を伏せ、隅っこの方にそそくさと引っ込んだ。笑顔《えがお》の晴れぬ顔をその膝《ひざ》に埋めると、小さく身を丸め、ふるふると小刻みに震え出した。いぐさが痛ましそうな表情を浮かべ、双子があえて見て見ぬ振りをして、せんだんが目を細めた。
たゆねはこの中では最強である。
いや、全犬神の中でも本気になった彼女に立ち向かえる者などほとんどいないだろう。強《きょう》靭《じん》な体力と同時に鋭《えい》敏《びん》な感受性も併《あわ》せ持っている。
だから、それ故《ゆえ》、人一倍感じ取ってしまうのだ。
この屋《や》敷《しき》全体を覆《おお》う重く、沈《ちん》鬱《うつ》な空気に。
山の方角から漂《ただよ》う恐ろしいまでに強大な邪気に。
結界の中にどれくらいの化《ば》け物《もの》がいるのか。そして、それが今にも這《は》い出そうとしているのが手に取るように分かってしまうのだ。
「全く。誰《だれ》かこの重苦しい空気をなんとかしてくれないかしらね……」
せんだんはそう呟《つぶや》いて大きく溜息をつくと、首を横に振った。たゆねが悄《しょ》げたように頭《こうべ》を垂《た》れている。
ただ柱時計の針だけがコッチコッチと大きな音を立ていた。
川《かわ》平《ひら》本《ほん》家《け》の大座敷ではここしばらくずっと奇妙な状況が続いていた。ざっと二十人程の様《きま》々《ざま》な風《ふう》体《てい》の霊《れい》能《のう》者《しゃ》が、ある者は憮《ぶ》然《ぜん》と、ある者は露《ろ》骨《こつ》にいらだちを露《あら》わにし、聞こえよがしに悪《あく》態《たい》をついたり、ぶつぶつと小声で何事か呟いていた。
崩《くず》れた感のある虚《こ》無《む》僧《そう》に、ヒステリックな印象の女|霊《れい》媒《ばい》師《し》。あるいは不気味な猿《さる》を肩に乗せた片目の男など。
座敷にはテーブルが置かれ、その上にはお茶やお酒や軽食が並んでいる。どれも意地汚く飲みかけや、食べかけで乱雑な感があった。
「遅い!」
と、そのうちの一人。痩《や》せぎすの自称|陰《おん》陽《みょう》師《じ》が酒杯をテーブルに打ちつけた。
「一体、いつになったら川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》は我《われ》らの前に現れるのか!」
すかさず他《ほか》の者が尻《しり》馬《うま》に乗った。
「そうだそうだ! 我らはこうして川《かわ》平《ひら》家《け》の危《き》機《き》にわざわざ馳《は》せ参じてやったのだぞ? それをこんなところに閉じこめて挨《あい》拶《さつ》一つなく侮《あなど》るのも大《たい》概《がい》にしろ!」
「あなたねえ〜〜、のろわれるわよ? ぜええ〜〜たいのろわれるわよ?」
厚化粧の女|霊《れい》媒《ばい》師《し》が長い爪《つめ》の生《は》えたしわびた人《にん》参《じん》のような指先を、ただ一人|矢《や》面《おもて》に立っている川平家の人間、川平|薫《かおる》に突きつけた。
異様な気《け》配《はい》のある霊能者ばかりいる中で、彼一人だけはひどく清涼で飄《ひょう》々《ひょう》としていた。座《ざ》布団《ぶとん》の上にきちんと正座し、
「それは大変、申《もう》し訳《わけ》なく」
と、頭を下げかけたところで先程の自称|陰《おん》陽《みょう》師《じ》が顔を赤らめ怒《ど》鳴《な》った。
「小僧っ子の戯《ざ》れ言《ごと》は聞き飽《あ》きた! 宗家を出せ! 宗家を!」
「いえ、ですからですね。宗家は」
「のっぴきならぬ用があるというのだろう! いい加減にしろ!」
「いい加減にしろって僕に言われても」
「けけ、この小僧。あんまり大人《おとな》を舐《な》めるものではないぞ? なんじゃぞ? 身体《からだ》でしつけてやってもいいんじゃぞ?」
薫は出来るだけ困ったような顔をつくり、傍《かたわ》らで肘《ひじ》をついて寝ている川平|宗《そう》吾《ご》という名の自《みずか》らの大《おお》叔父《おじ》を振り返った。
「おじさん、皆さん、ああ仰《おっしゃ》ってるんですけど?」
「ああ、俺《おれ》はしらんしらん。お前が皆様にちゃんと誠《せい》意《い》をもってお話ししろ」
片手をひらひらと振る。薫はまた困ったな〜と呟《つぶや》きながら曖《あい》昧《まい》な笑顔《えがお》になった。彼は額《ひたい》をぽりぽりと掻《か》いて、
「ですからね、さっきから何度も申し上げているように、ご不満があるならお引き取り頂いていいのですよ? 失礼ながらお車代くらいはお支払いしますから」
すると一同は途《と》端《たん》に黙《だま》り込んだ。
しかし、中の一人がすぐに卑屈な、小《こ》狡《ずる》い笑《え》みを浮かべた。
「いや。そういう訳にはいかん。大《だい》妖《よう》狐《こ》の問題は単に川平家だけの問題ではない。音に聞こえた大妖狐が復活すればここら近辺はただではすまん。もしかすると日本という国そのものにも影《えい》響《きょう》を与えかねん。現代の霊能者|全《すべ》ての問題なのだ」
「そ、そ〜だそ〜だ! 我らは義によって集《つど》っているのだ! 帰れと言われてほいほい帰る訳にはいかんわ!」
すかさず他の者が気勢を上げる。川平薫の目に冷笑が浮かんだ。だが、それはあまりに一《いっ》瞬《しゅん》のことだったので他に誰《だれ》も気がつく者はいなかった。
口々に言いたいことを言う。
「大体だな! 川《かわ》平《ひら》家《け》はなっておらん。大《だい》妖《よう》狐《こ》を昔、責任もって殺しておかぬからこんな事《じ》態《たい》になるのだ! 知ってるか? 近辺の街では霊《れい》障《しょう》が多発し、てんやわんやなのだぞ?」
「そ〜だ! おまえたちはこのことをどう思っているのだ!」
「責任を取れ!」
「責任を!」
川平|薫《かおる》は微笑《ほほえ》んでいる。川平家の総《そう》代《だい》。宗《そう》家《け》の末弟にあたる川平|宗《そう》吾《ご》は目をつむったまま身じろぎ一つしない。
この者たちは知らないのだ。
今、薫と宗吾以外の全|犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いが近《きん》隣《りん》の街に散って必死で除霊作業に当たっていることを。
そしてそれでも数が足りず、盟友関係にある霊能者たち全《すべ》てに声をかけ、彼らは快く川平家に協力していることを。
現在、ここに残っているのは川平家が多《た》額《がく》の謝《しゃ》礼《れい》金《きん》を支払っていると聞き付け集まって来た者たちの中でも、特にインチキまがいの拝み屋や暴《ぼう》利《り》を貪《むさぼ》る除霊師なのである。彼らは気がつかなかったが、金目当てにしろ何にしろ特に腕が立ちそうで信頼できそうな者は、川平宗吾と川平薫が互いにそれとなく合図して選《せん》抜《ばつ》し、こっそりと座《ざ》敷《しき》から連れ出すと、とっくに屋敷から街へと送り出していたのである。
だから、ここにいるのは試《し》験《けん》を受けていたことも理解出来ないいわばあぶれ者たちで、
「宗家を出せ、宗家を! 馬《ば》鹿《か》者!」
「我《われ》らを誰《だれ》だと思っているのだ! えええ〜〜〜い!」
と、ただ酒にただ飯を貪《むさぼ》り、気炎を上げているのである。そこへ作《さ》務《む》衣《え》姿のたゆねが給仕に入ってきて驚《おどろ》いたように目を見開いていた。薫が素早《すばや》く目《め》線《せん》で合図を送り首を振ると、了解したように小さく頷《うなず》き、普《ふ》段《だん》の陽気さを全く失って沈《ちん》鬱《うつ》な表情でテーブルを片づけ始めた。
「なんとか言え! そこの男! 小僧!」
川平宗吾は全く動かない。川平薫も微笑みを浮かべたまま。
「大体、おまえたち川平家は」
と、己《おのれ》の言葉に加虐心を酔わせた一人が言い募《つの》り始めた。
「えらそうにして! 何ほどのモノだ! たかだが犬っころを使うだけだろうに!」
「汚い! 薄《うす》汚《よご》れた!」
「そ〜だ、聞いたことがあるぞ! そ〜だ。そ〜だ。なんでこれを忘れていたのか。こいつらの一人に確《たし》か大妖狐の娘が憑《つ》いているって」
一人が残忍な笑《え》みを浮かべてゆっくりとした口《く》調《ちょう》で嬲《なぶ》るようにそう言った。他《ほか》の者が歪《ゆが》んだ喜悦に目を輝《かがや》かせる。
「ほ〜、それは初耳」
「大問題よなあ。まさか大《だい》妖《よう》狐《こ》の娘とは。くくく」
「どういうことだ! 答えよ! 答えよ!」
「まあ、待て待て。確《たし》か私が聞いたところだとだな。川《かわ》平《ひら》家《け》の中でももっともオチこぼれのどうしようもないクズにその大妖狐の娘が惚《ほ》れて憑《つ》いたらしい」
「おお、何と汚《けが》らわしい! 汚らわしい!」
「その男はどんな奴《やつ》だ? きっとさぞかし下らない男に違いあるまい?」
「おお、その男は無能な上に幾《いく》度《ど》となく警《けい》察《さつ》に捕まっているようなどうしようもないろくでなしらしい。我《われ》ら霊《れい》能《のう》者《しゃ》のいわば鼻つまみ者さ」
「それに汚らわしい大妖狐の娘か。ははは、これは実にお似合いだ!」
ははははははははははは。
笑い声が輪《りん》唱《しょう》する。薫《かおる》がぐっと手で膝《ひざ》を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》む。宗《そう》吾《ご》が固く目をつむる。二人の気《け》配《はい》が明らかに異なり始めている。少しでも危険を察知する能力があるのなら彼らはすぐ黙《だま》り込むか、あるいは即刻逃げ出すべきだったろう。だが、世を妬《ねた》み、歪《ゆが》み切った霊能者たちは簡《かん》単《たん》に言ってはならないことを言ってしまう。
「どうしようもないクズに!」
「汚らわしい大妖狐の娘か!」
その時。まず真っ先にぶちんと切れたのは。
立ち上がりかけた宗吾でもなく、微笑《ほほえ》みを薄《うす》笑《わら》いにかえた薫でもなく。
「黙れ」
最初は誰《だれ》がその一言を発したのか分からず、皆、驚《おどろ》いたように互いの顔を見合わせた。薫や宗吾ですらびっくりしたようにそちらを見ている。
怒りに打《う》ち震《ふる》える。
「黙れ」
たった一匹の犬《いぬ》神《かみ》の姿を。
「おまえたち」
拳《こぶし》を握り締《し》め、
「おまえたち」
心打ち震える想《おも》いを吐《と》露《ろ》し、
「おまえたちに」
思いっきりテーブルに叩《たた》きつけた。
「啓太様の何が分かるんだよおおお──────────!!!!!」
ぶわっと霊気の風が吹《ふ》き抜ける。たゆねは目に涙を溜《た》めながら叫んだ。
手を振るって咽《むせ》ぶ。
「啓太様はな!」
叫び続ける。
「啓《けい》太《た》様は確《たし》かに馬《ば》鹿《か》だし、スケベだし、ど〜しようもないよ! ああ、そうさ! だけどなあ、たった一人で最悪の死神に立ち向かう! 馬鹿にされても、相手にされなくても、たった一人でたった一人の女の子のために命をかけて立ち向かったんだよ! おまえたちにそれが出来るか! 啓太様を馬鹿にするな! おまえたちが」
手を大きく振るう。
「何にもしないおまえたちが」
ひぐっと鼻を啜《すす》ってもう一度、力を込めて叫ぶ。
「啓太様を馬鹿にするなああああああああああああああ────────────!」
「こ、このメス犬が」
「ようこだってそうだ! おまえたち大《だい》妖《よう》狐《こ》の娘が犬《いぬ》神《かみ》をやることがどれだけ大変か分かってるのかよ!? ボクらから白い目で見られて、誰《だれ》からも蔑《さげす》まされて、それでもあいつは啓太様の犬神をやり抜いたんだ! それを、それを」
うわあああああああああああああああああああ!!!!
と、たゆねは感情を爆《ばく》発《はつ》させて泣きじゃくる。
「馬鹿にするな! 馬鹿にするな! 馬鹿にするなあああああ!!!!」
子供のように。地《じ》団《だん》駄《だ》を踏んでただただ叫び続ける。誰も彼もが唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としていた。だが、その中で一《ひと》際《きわ》、粗《そ》暴《ぼう》そうな霊《れい》能《のう》者《しゃ》の一人だけが持っていた刀を酔いに任せて引き抜いた。
「貴様あ〜〜。言わせておけばたかだか犬っころの分《ぶん》際《ざい》で!」
白《はく》刃《じん》がぎらりと光を反射して煌《きら》めく。格下だと思った者の無礼など到底許せないのだ。たゆねはその非《ひ》常《じょう》識《しき》な行動に驚《おどろ》いて咄《とっ》嗟《さ》に動けない。
「飼い主に代わってこの俺《おれ》がお仕置きしてやる!」
男がそう叫んで突進して来たその時。
「おい」
ぬうっとフスマの影《かげ》から少年が現れて、男の懐《ふところ》へ簡《かん》単《たん》に入り込んだ。
「ひとんちで何好き勝手言ってるんだ、おまえ?」
「え?」
と、男が驚《きょう》愕《がく》の表情を浮かべた次の瞬《しゅん》間《かん》。
「ぐぎゃらおええええええええええええええええええ!!!!」
超至近|距《きょ》離《り》から中《ちゅう》国《ごく》拳《けん》法《ぽう》の寸《すん》頸《けい》が放《はな》たれた。男の身体《からだ》が爆《ばく》発《はつ》的《てき》な勢いで後ろに吹《ふ》っ飛ばされ、壁《かべ》に打ち付けられた。
反動で前のめりになって畳《たたみ》に転がり落ちる。その場でのたうち回った。
「お〜お。脆《もろ》いこと脆いこと」
現れた少年は冷ややかに男を見下ろしていた。爪《つま》先《さき》で悶《もだ》え苦しんでいる男をちょいと蹴《け》り転がす。
「だったら、使えもしない刀なんか振り回すんじゃねえよ! ば〜か」
猫耳に、メイド服。あり得ない。
全く人智を超えた姿で颯《さっ》爽《そう》と現れた。
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》。
「な、な、な、な!」
霊《れい》能《のう》者《しゃ》たちが驚《おどろ》いたように言葉に詰まっている。川平|宗《そう》吾《ご》は深い溜《ため》息《いき》をついていて、たゆねが盛大にずっこけていた。
「な、何者だ!」
と、一人が問いかけて来たのに啓太は頭を掻《か》きながら、
「あ〜、だから、お前さんたちの言うところの」
「川平啓太さん。犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いですよ」
と、くすくす笑っていた薫《かおる》が口を挟んだ。彼だけは楽しそうな口《く》調《ちょう》で、
「しかし、どうしたんです? その格《かっ》好《こう》?」
「あ〜。まあ、色々あってな」
啓太がげんなりした表情で答える。その間、ようやく我《われ》を取り戻した痩《や》せぎすの陰《おん》陽《みょう》師《じ》が呪《じゅ》文《もん》を唱えて啓太を攻《こう》撃《げき》しようとした。しかし、それも全く果たせず、いきなり一回転して畳に激《はげ》しく叩《たた》き付けられる。
「!!!!!」
先程の刀を持った男とシンクロしたように畳の上で転げ回り出した。猫のように静かに近寄っていた薫が目にも止まらぬ早さで合《あい》気《き》の技を仕掛けたのである。そして度《ど》肝《ぎも》を抜かれている霊能者の前を悠《ゆう》々《ゆう》と横切って彼は啓太の許《もと》に歩み寄った。
「まあ、何にしてもおかえりなさい啓太さん。待ってましたよ」
微笑《ほほえ》んで、手を伸ばす。
「おう」
と、啓太がまじめくさった顔でその手を叩《たた》いた。ぱんとハイタッチ。そうして二人はくるっと並んで霊能者たちの前に向き直った。
どこかめんどくさそうな啓太と穏《おだ》やかに微笑む薫。
二人が並んで立っている。
ただそれだけで。
「あ〜、わ、わし急用を思い出したわ!」
霊能者の一人が裏返った声でそそくさと背を向けた。すると雪崩《なだれ》を起こすように彼らはそれぞれ理由をつけて逃げ出し始める。
それだけ凄《すご》みがあった。
「お〜い、ようこ」
啓《けい》太《た》がふとどうでもいいことのようにフスマの向こうに声をかけた。するとひょっこりとそこから和服姿のようこが首を出した。
「な〜に、ケイタ?」
と、妙な猫《ねこ》撫《な》で声でそう尋《たず》ねる。霊《れい》能《のう》者《しゃ》たちは正体不明の美少女に進行方向を塞《ふさ》がれて、ぎょっとしたように立ちすくんだ。どう見てもまともな感じではない。この世の者とは思えない程美しい黒髪の少女。
啓太はにやっと笑った。
「お客さんたちがお帰りだそうだ。お前、送って差し上げろ」
「うん、分かったよ♪」
ようこはにこっと微笑《ほほえ》んで指を上げた。それから軽やかに笑いながら、
「あ、わたし? わたしね〜、汚《けが》らわしい大《だい》妖《よう》狐《こ》の娘だよ? 初めまして〜」
げっと霊能者たちが目を見開く。
「んで、ばいばい♪」
ようこが目を細め、嘲《あざ》笑《わら》う。
次の瞬《しゅん》間《かん》、二十人程の霊能者たちは跡《あと》形《かた》もなく綺《き》麗《れい》さっぱりその場から消え去った。
「多《た》分《ぶん》、生ゴミがいっぱいあるどっかについてると思う♪」
次の瞬間、きゃははははと高らかにようこが笑い出した。薫《かおる》が川《かわ》平《ひら》宗《そう》吾《ご》を振り返り、「これで良かったですよね?」と尋《たず》ねる。
川平宗吾は「しかたあんめえ」と苦《にが》笑《わら》いで答えた。
「まあ、もうろくな奴《やつ》残ってなかったしな。店《みせ》仕《じ》舞《ま》いにはちょうど良かったよ」
その間《かん》、たゆねは真《ま》っ赤《か》になっていた。勢いで叫んでしまったとは言え、普《ふ》段《だん》何かと悪口を言っている啓太とようこを涙混じりに弁《べん》護《ご》してしまって、しかもソレを彼ら二人に思いっ切り聞かれてしまったのだ。
啓太自体はその反応を見て困ったような声を出した。
「あ〜、別に立ち聞きするつもりはなかったんだけどな。なんというか出ていくタイミングがなかなか掴[#「掴」はunicode6451]《つか》めなかったというか……まあ、とにかく庇《かば》ってくれてありがとな」
そう言って微笑み、たゆねの頭をくしゃくしゃ撫でた。たゆねの顔がぽんとさらに赤みを増した。それから彼女は掠《かす》れた声で、
「ヘンタイ」
恨《うら》みがましい上《うわ》目《め》遣《づか》いになる。
「え?」
「啓太様なんか」
「な、なんだよ?」
「ヘンタイですよ! いいですか? 分かってますか?」
そこでようやく普《ふ》段《だん》の調《ちょう》子《し》が出て来た。
「なんですか! その格《かっ》好《こう》? も〜折《せっ》角《かく》、少しはタイミング良く現れたかと思ったらそんなふざけた格好で!」
たゆねは早口になって、
「少しはモノを考えてください! 薫《かおる》様が恥《はじ》を掻《か》きます!」
失っていた元気をみるみる取り戻していく。笑いが込み上げて来るのを何とか抑えようとしてそれでも堪《こら》え切れず笑ってしまって、一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、憎まれ口を叩《たた》いている。啓《けい》太《た》は目を白黒させていた。薫がそんな彼らを見て微笑《ほほえ》んだ。
「さすが啓太さん」
宗《そう》家《け》が非常|事《じ》態《たい》に際してまず犬《いぬ》神《かみ》たちに指示したのが焼き肉だった。
ここが奮《ふん》発《ぱつ》するところとはけに貯金を切《き》り崩《くず》させ、薫の犬神たちであるごきょうや、てんそう、フラノを使いぱしりにとびきり良い肉を近在各所から取り寄せた。
食通が好む米《よね》沢《ざわ》牛《ぎゅう》やら幻《まぼろし》と呼ばれる大《おお》田《た》原《わら》牛《ぎゅう》。
カルビに、ロースに、骨付きカルビに、牛タンに、ハラミ。それをどんと積《つ》み上げ、炭《すみ》火《び》で片っ端《ぱし》から焼いて行く。
タレもポン酢からゴマだれまで豊富に揃《そろ》えて、野菜や魚介類などのサブメニューもぬかりない。それを和服姿の犬神たちが驚《きょう》嘆《たん》しながら舌つづみを打っていた。大《だい》妖《よう》狐《こ》を封じている最後の砦《とりで》である結界前のことだった。
森が切れた広場にもうもうと煙が立ち昇り、食欲をそそる良い匂《にお》いが辺りに広がる。
「美味《うま》い! あのてれびで見た以上だ! こんな美味い肉は食べたことがない!」
むしゃむしゃはぐはぐと一人が猛《もう》烈《れつ》な勢いで箸《はし》を動かしながら叫んだ。
「こら! 肉ばかりでなく少しは野菜を食べろ! このいやしんぼめ!」
その犬神に狙《ねら》っていたカルビを横取りされて別の犬神が怒る。前掛け、頭《ず》巾《きん》をし、肉を焼く係に徹《てっ》しているはけが苦笑気味に嗜《たしな》めた。
「これ。二人ともあんまりがっつくものじゃありませんよ」
「し、しつれいしました、はけさま」
片方が頬《ほお》を赤らめ、謝《しゃ》罪《ざい》した。それから一生懸命、己《おのれ》の正当性を訴えた。
「しかしですね、こいつがあまりにもかるびばかりを食べるものだから」
「ひゃ〜はいはろ、ほひいいんはははら」
「喋《しゃべ》るならちゃんと喋れ! 口の中にモノを入れたまま喋るな!」
はけは溜《ため》息《いき》をついた。自分も含めて犬神たちが肉に目が……いや、はっきり言おう。いやしいのは知っていたが、ここまで低レベルだと哀《かな》しくなってくる。ましてや今は予断を全く許さない緊《きん》張《ちょう》し切った場面なはずなのである。
彼らが取り囲んでいる中心部には黒い巨大なマユのような結界が見え、それが時折、解《ほつ》れるように揺《ゆ》れ動く度《たび》、中から黒い影《かげ》が幾《いく》本《ほん》も幾本も稲《いな》妻《ずま》のように、あるいは触手のように這《は》い出して来ている。そしてそれがその周りを取り巻く、青や赤や黄《き》色《いろ》の万《まん》華《げ》鏡《きょう》めいた混合結界に阻《はば》まれ、沈没する船体がひしゃげるような不気味な音を立てていた。
それなのにここに集《つど》っている五十匹程度の犬《いぬ》神《かみ》たちは、紙皿の上のカルビやロースを平らげることにひたすら勤《いそ》しんでいるのだ。
頭上を覆《おお》う大渦のような暗雲も、生《なま》温《ぬる》く微《かす》かに鳴《めい》動《どう》する大気もものともせず。
よく見るとお使いに行っていたごきょうや、てんそう、フラノもこのにわか焼き肉パーティーに参加していた。てんそう、フラノだけでなく、クールで知的なごきょうやまで肉に一心にぱくついている。
そしてはけと目が合うと顔を上げ、少し頬《ほお》を赤らめた。
何かご用ですか?
と、言いたげに首を傾《かし》げている。はけは溜《ため》息《いき》をつき、首を横に振った。
「……よいのですか、これで?」
はけは背《はい》後《ご》を振り返ってこの場でただ一人のニンゲンである己《おのれ》の主人に向かって尋《たず》ねた。川《かわ》平《ひら》宗《そう》家《け》はわざわざ用意した畳《たたみ》の上にちょこんと座って犬神たちと同じように旺《おう》盛《せい》な食欲を示していた。
「はんひゃ、はけ? 何ぞ、言うたか?」
もぐもぐと肉を咀《そ》嚼《しゃく》しながら宗家が聞いてきた。藤《ふじ》色《いろ》の和服にタスキを掛け、額《ひたい》には純白のハチマキを巻いているという勇ましい姿だが、胸元に紙ナプキンが挟んであるのでどこか滑《こっ》稽《けい》な感じが否《いな》めない。
はけは笑うより仕方なく再度尋ねた。
「いえ、こんなことをしていてよいのですか、とお尋ねしたのです」
ん〜。
と、川平宗家は頬を膨《ふく》らませ、ごくんと喉《のど》を鳴らしてから答えた。
「ま、仕方ないだろう。肝心の最長老があの様《よう》子《す》ではの」
目《め》線《せん》で広場の片隅を示した。そこでよれよれの和服を着た犬神の最長老が頭を抱え、うんうん唸《うな》っていた。体長は三メートル程。目やにがつき、頭の毛が禿《は》げ上がり、着ている着物はよれよれだったが、犬神たちの未《いま》だ揺《ゆ》るぎないリーダーだった。そしてそのリーダーが一番の問題だった。
はけは何ともいえない複《ふく》雑《ざつ》な表情になった。
「それはそうなのですけどね……」
はけの父親でもある最長老はかつて川平|慧《え》海《かい》と共に対|大《だい》妖《よう》狐《こ》との戦いの最前線に立ち、暴《あば》れ狂うケモノを見事、結界の中に封じ込めた最大の功労者の一人だった。
そしてまた若い頃《ころ》ははけ以上に結界術に長《た》けていた最長老は、現在、大《だい》妖《よう》狐《こ》を封じている特殊で、超強力な結界をほとんど一人で構《こう》築《ちく》、維《い》持《じ》してきた。当然、大妖狐が力を取り戻してきている現在、その結界をさらに強めたい訳《わけ》なのだが、あろうことか最長老はそのもっとも重要な結界補強の方法を忘れてしまっていたのである。ぼけた訳ではないのだが、寄る年波には勝てない。
とは本人の弁。
先日、動物たちの力を借りたり、今、こうして川《かわ》平《ひら》宗《そう》家《け》や犬《いぬ》神《かみ》たちが対症|療《りょう》法《ほう》的《てき》に這《は》い出して来た大妖狐の影《かげ》を叩《たた》いているのはそういった理由があるからなのである。
川平宗家はくくっと喉《のど》の奥で笑った。
「まあ、はけ。のんびりいこうぞ。焦《あせ》ってもしょうがあるまいて」
案外、それも悪くないのかも知れないとはけはふと思った。宗家がどこまで計算してやっているのか分からないが、この突拍子もない焼き肉パーティーで犬神たちは天敵の大妖狐を前にして不安から無《む》縁《えん》でいられてる。
いつ何時突発的に何が起こるか分からない現状では案外、こういう風にリラックスする必要があるのかも知れなかった。
「のう、お前も肉ばかり焼いてないで。ほれ」
と、宗家は箸《はし》でじゅうじゅう香《こう》ばしい音を立てている肉を一《ひと》欠片《かけら》挟んで、はけに向かって差し出した。
はけは赤くなった。
それから周囲を素早《すばや》く見回し、誰《だれ》もこちらを注視していないことを確《たし》かめると、宗家が与えてくれた肉の欠片をぱくっと首を伸ばして食べた。
「うまいか?」
にかっと笑って宗家が尋《たず》ねた。はけは恥《は》ずかしそうに小さく頷《うなず》く。
「……はい、とても」
実際、噛[#「噛」はunicode5699]《か》みしめる度《たび》に肉汁が口の中で広がって、幸せな感覚が身体《からだ》を満たしていった。やはり自分も犬《いぬ》神《かみ》なのだなとはけはしみじみ思った。
さらに勿《もっ》体《たい》ないことに主人が手ずから食べさせてくれるから、なお美味《おい》しい。
「ほれ、今度はこのロースを喰《く》うか?」
宗家が肉を選《えら》んでくれる。
はけは緊《きん》張《ちょう》感《かん》も忘れ、思わず腰から尻尾《しっぽ》をどろんと出して振ってしまう。その姿に宗家がおかしそうに笑い出し、はけが恐《きょう》縮《しゅく》したように身を小さくさせたその時。
「来た!!!」
と、犬神の一人が叫んだ。
宗《そう》家《け》も、はけも早かった。一《いっ》瞬《しゅん》で日常から非日常へ。弛《し》緩《かん》から緊《きん》張《ちょう》へ思考と感覚を切り替えていく。それは幾《いく》つもの修《しゅ》羅《ら》場《ば》を共にくぐり抜けた二人ゆえの呼吸の合い方だった。二人は同時に前に向かって走り出していた。
「くるぞ! 抜かるな!」
と、宗家が叫べば、はけがより具体的に指示を出す。
「こうけつ! かいえん! 右からとびきり大きいのが来ている! 気をつけなさい! ごきょうや! そちら側のは全《すべ》て任せました! あなたが指揮を! てと、ろっぽう、あなた達は下がって最長老様を!」
それで宗家やはけのように上手《うま》く事態に対応出来ずうろうろしていた犬《いぬ》神《かみ》たちが見違えるように機《き》敏《びん》に動いた。
「みんな押し返すぞ!」
「おお、焼き肉が焦《こ》げちまうまえにな!」
どっと笑い声が起こる。だが、悪いことではない。犬神たちの士気は高い。ばちばちばちっと生木が剥[#「剥」はunicode525D]《は》がされるような音と共に、万《まん》華《げ》鏡《きょう》のように色が移り変わる混合結界の隙《すき》間《ま》からぬらあっと黒い帯のような影《かげ》が現れた。
幾本も、幾本も。
そしてそれらは結界の外に出ると、くねるように動いて一つの形を取っていった。まるで折り紙でも折っているような重層的な影《かげ》の重なり方だった。それである影は鋭《するど》い爪《つめ》を持つ鳥に変化し、ある影は巨大な牙《きば》を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた四つ脚《あし》のケモノに姿を変えていった。
ざっとその数、三十体。
「はははははは〜〜〜! 今度こそこのクソ忌《いま》々《いま》しい結界、こじ開けてやるからな! 川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》に犬《いぬ》神《かみ》どもよ!」
結界の奥から哄《こう》笑《しょう》と共にそんな声が聞こえて来る。宗家が檄《げき》を飛ばした。
「みんな一匹たりとも容赦するな! 全部、塵《じん》芥《かい》に返してしまえ!」
おうっと犬神たちが腹の底から鬨《とき》の声を上げた。同時に影で構成された動物たちが無感情にまるで物音立てずに一《いっ》斉《せい》に襲《おそ》いかかって来た。
「華《か》山《さん》双《そう》君《くん》の名において告《つ》ぐ」
宗家はたんと横に飛んだ。叫んでいる。
「煌《きら》めく光と漆《しっ》黒《こく》の闇《やみ》よ!」
ぎょうっと彼女の指先で真っ白な輝《かがや》きと同時に深い暗黒が浮かぶ。それは即座に一つに融《ゆう》解《かい》し、陰《いん》陽《よう》太《たい》極《きょく》図《ず》と呼ばれる形状に光と闇が混交された球体にとって変わる。そしてその激《はげ》しく回転する光と闇の球体を、
「二つを総《すべ》て、万物を滅せ!」
と、宗家は振るって投げつけた。
次の瞬《しゅん》間《かん》。
とてつもない爆《ばく》発《はつ》が目の前で起こった。恐るべき早さで駆《か》けて来ていた影の巨《きょ》狼《ろう》も、頭上から急降下していた影の鷲《わし》もまとめて巻き込む凄《すさ》まじい光と爆音の渦。大爆発。爆発。爆発。次々に誘爆を続け、光が影を貪《どん》欲《よく》に喰《く》らい込んで行く。
術者単体だけなら歴代の川平家で最強を謳《うた》われる川平宗家のそれが力だった。
「おお〜、ありゃあ、確《たし》かに強いわ」
と、後方に避《ひ》難《なん》させられていた最長老が感嘆の声を上げた。川平宗家は全く表情を変えず、すかさず念を凝《こ》らして第《だい》二《に》撃《げき》を用意する。
防御なり、回避を欠片《かけら》も意《い》識《しき》していない。
影の山猫が数匹まとめて牙を剥[#「剥」はunicode525D]き、飛びかかっても一向、関知せず、
「華山双君の」
と、術を詠《えい》唱《しょう》し出す。
どんな時も傍《かたわ》らにいるはずの己《おのれ》の、最高の盾《たて》を信じて。
『破《は》邪《じゃ》結《けっ》界《かい》・二《に》式《しき》紫《し》刻《こく》柱《ちゅう》』
その絶対の信頼に応《こた》えてはけが間《かん》髪《はつ》入《い》れずに間に立った。扇《せん》子《す》が一《いっ》閃《せん》。巨大な紫《むらさき》色《いろ》の壁《かべ》が立ち上がり、影たちの攻撃を次々に弾《はじ》き返す。見事な間。
そして、
「名において告《つ》ぐ! 漆《しっ》黒《こく》の光と影《かげ》よ!」
川《かわ》平《ひら》宗《そう》家《け》の準備が出来た頃《ころ》合《あい》。
これ以上ないというくらいのタイミングで術を解いて、後ろに跳《ちょう》躍《やく》する。視界がクリアになって宗家はにやっと不敵に笑う。
「二つを統《す》べ、万物を滅せ!」
強力過ぎるが故《ゆえ》に逆に扱いづらい光と影の破《は》壊《かい》球《きゅう》を前に向かって放射する。ちょうど固まっていた影が十体程まとめてその強大な光の渦に飲み込まれた。
一気に爆《ばく》風《ふう》が吹《ふ》き上がり、爆音が轟《とどろ》く。大気が揺《ゆ》れる。
「すごい! やれるぞ!」
あまりにも見事な連携に犬《いぬ》神《かみ》たちは歓喜の声を爆発させた。一部、押されていた者もいたが、それはすかさず他《ほか》の者がフォローに回った。
中でもごきょうや、てんそう、フラノの息の合った戦いぶりが際《きわ》だっていた。
そして。
「おお、おお?」
そんな中、一人、ぽんと前足を叩《たた》いたのが最長老だった。
「ど、どうされました、最長老様?」
と、戦いには加わらず、彼の傍《かたわ》らで護《ご》衛《えい》役《やく》に徹《てっ》していた犬神の一人が声をかけた。最長老はのんびり鷹《おう》揚《よう》に頷《うなず》いた。
「あ〜、わしなんか思い出した気がする。結界の補強方法」
「ほ、ほんとうですか、最長老様!?」
と、息せき切ってもう一人の若い犬神が尋《たず》ねてくる。最長老は彼を軽くいなし、
「ん〜、まあ、確《かく》証《しょう》はもてないけどな」
若い犬神たちがせっつく。
「は、はやくやってください! はやく!」
最長老はほっほっほと軽やかに笑った。
「若い者はせっかちじゃの〜。いいか? そういう時は焦《あせ》ってはかえってことをし損じるものじゃ。わしも若い頃《ころ》はそういうことがあって初代と猟《りょう》に出かけた時、赤い顔の猿《さる》が」
「わ、わかりました! わかりましたから今はとにかく昔話より結界を! どうか早くお願《ねが》いします!」
最長老の過去話はいつだって無《む》駄《だ》に長い。若い犬神二人が失礼を省《かえり》みず、必死でその毛皮に取りすがる。最長老はまたのんびりと笑った。
「分かった。分かった。では、やってみるか……で、何だっけ?」
「さいちょうろおさまあ〜〜〜〜〜〜!!!!」
「あ〜、じょうだんじゃ、じょ〜だん」
ぎん。
その時だけ驚《おどろ》くほど、最長老の目が鋭《するど》さを増した。ぞくりと護《ご》衛《えい》役《やく》の犬《いぬ》神《かみ》二人が思わず後ずさる。
そして。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん!!!」
と、彼の喉《のど》奥《おく》からもの凄《すご》い雄《お》叫《たけ》びが漏《も》れた。
それは四里四方へと響《ひび》き渡る。荒涼と、朗《ろう》々《ろう》と、破《は》天《てん》荒《こう》に響き渡る遠《とお》吠《ぼ》え。戦に没頭していた犬神たちも、無音で素早《すばや》い攻《こう》撃《げき》を繰《く》り返していた影《かげ》たちも、あるいは空気の流れや土《つち》埃《ぼこり》さえも一瞬動きを止めたその次の瞬《しゅん》間《かん》。
「まるかいてちょん! まるかいてちょん! おちょこのなかにはだんごむし〜♪」
最長老が真剣な顔でそう歌い始めた。同時に指先でたどたどしく宙に図形を描《か》いている。どうやらそれは何かの絵描き歌のようだった。歌声に合わせてきゅ、きゅきゅ〜と最長老の太い指が動いている。
一同は呆《あっ》気《け》にとられていた。
何でこの状況下で絵描き歌?
と、誰《だれ》もが理解不能だったようだ。だが。
「ぐ、ぐお!」
結界の中からは悲鳴が聞こえてきて、犬神たちがはっと振り返った。見るとマユのような黒い結界の周りにいつの間にか青や黄《き》色《いろ》の光の束が幾《いく》本《ほん》も結《ゆ》わえつけられ、ぎゅううっと雑《ぞう》巾《きん》のようにその中心を引き絞《しぼ》っている。
同時に影たちの存在が不《ふ》確《かく》定《てい》に揺《ゆ》らぎ始めた。間違いない。
脱力するような内容だが、それは確《たし》かな破邪の力を持った呪《じゅ》文《もん》だった。
「はっぱじゃないよ、かえるだよ! かえるじゃないよ、たぬきだよ♪ はれのちあめのなかにおさらがにほんでぼうがどんどんふえていくよ♪」
最長老は宙にどんどん複《ふく》雑《ざつ》な図形を描いて結界の潜《せん》在《ざい》的《てき》な力を引き出していく。するとそのたび赤や黄色の糸が増えていき、
「ぐ! お、おのれえええええ!」
やがてぎきゅうぎゅうに黒いマユをくるみ、覆《おお》い、縛《しば》り上げ、
「またしくじったかあああああああ!!!!」
という大《だい》妖《よう》狐《こ》の断《だん》末《まつ》魔《ま》の声と共に一度、ばしゅううっと光の柱が立つと、完全に辺《あた》りには静《せい》寂《じゃく》が戻った。
「おお、みろ!!!」
犬神の一人が空を指させば、あれだけ重く頭上を覆っていた渦のような暗雲が切れ切れに千《ち》切《ぎ》れていき、影《かげ》のケモノたちは大気に滲《にじ》むように消えていった。一条の光が空から差し込んで来る。
やがて雲の切れ間から本格的に冬の陽光が幾《いく》本《ほん》も、幾本も辺《あた》りに降《ふ》り注《そそ》ぐ。
万《まん》華《げ》鏡《きょう》のような結界が再び機《き》能《のう》を取り戻し、ゆっくりと眩《まばゆ》い光を辺りに反射しながら回転し出す。
その奥の黒い結界はほんのゴムボール程の大きさになって小さな呻《うめ》き声が微《かす》かにそこから聞こえて来るのみ。
「お、おのれ……あともう少しだったのに」
という大《だい》妖《よう》狐《こ》の声は無念そうだ。
最長老が大きく吐《と》息《いき》をついた。人間のような仕《し》草《ぐさ》で額《ひたい》の汗を拭《ふ》いて、
「で、わしの分のかるびはどれかの? 焼きすぎてないかの?」
にっこり笑って周りの者にそう尋《たず》ねた。
「や、やった! やったぞ! 押し返したぞ!」
「さすが最長老様だ! ばんざい!」
犬《いぬ》神《かみ》たちがわらわらと最長老に駆《か》け寄って行く。だが、中には早《さっ》速《そく》、焼き肉に戻って食事をがつがつと再開している者もいる。歓喜と安《あん》堵《ど》と開放感。はけはごきょうやと目があったので頷《うなず》くと、向こうも軽く微笑《ほほえ》んで黙《もく》礼《れい》を返して来た。
「ふ〜、久しぶりにつかれたつかれた。老人にはまことこたえる運動だったわい」
隣《となり》で老婆が気持ち良さそうにそう言っている。
「……とりあえずは一安心というところでしょうか?」
と、はけが振り返って尋ねると宗《そう》家《け》が愉《ゆ》快《かい》そうにからからと笑った。
「まあ、油《ゆ》断《だん》はできんがの。あれで大人《おとな》しく眠るようなタマなら最初から誰《だれ》も苦労せんわい」
「……そうですね」
はけは重々しく相づちをうつ。その間、手だけはいそいそと動かして、備えつけてあったクーラーボックスから宗家に冷たいおしぼりを差し出した。
「ん」
と、それを受け取って宗家が顔を拭《ふ》きながら、
「ま、とにかく早くひとっぷろ浴びたい気分じゃの。焼き肉は犬神どもに任せて、一度、家に戻るとするか?」
「はい」
と、はけがとびきり澄《す》んだ笑顔《えがお》で頷《うなず》いた。
「早《さっ》速《そく》、ご用意致しますよ」
そうして主従は山を降り、住《す》み慣《な》れた屋《や》敷《しき》へ帰って行った。いつもよりも格段に賑《にぎ》やかさを増した我《わ》が家へ。
[#ここから太字]
『……一体、どこでどう人生間違えちゃったのですか?』
[#21字下げ]byむしろ痛ましい表情のせんだん
『あははははははははは! ちょ、やめ! あはははは! あははははは!』
[#21字下げ]by笑い過ぎて呼吸|困《こん》難《なん》のいまりとさよか
『……もしかして啓《けい》太《た》様|も[#「も」に傍点]コスプレに興《きょう》味《み》があるのですか?』
[#21字下げ]byちょっとどきどきしていたいぐさ
『ううう、あなたのお父様がご覧《らん》になったら一体何て仰《おっしゃ》るか……』
[#21字下げ]by顔を覆《おお》って嘆いたごきょうや
『ほ〜ら、やっぱりヘンタイに言い寄られましたね♪』
[#21字下げ]by一人だけ嬉《うれ》しそうなフラノ
『……ま、いまさらお前には何もいわんわ。それより後でちょっと部屋に来い』
[#21字下げ]by深い溜《ため》息《いき》と共に指を差し招いた宗《そう》家《け》
[#地付き]啓太の猫耳メイド姿を見た周囲の語《ご》録《ろく》[#ここまで太字]
川《かわ》平《ひら》本《ほん》家《け》のとある一室で今、半日遅れのクリスマスプレゼント贈《ぞう》呈《てい》式《しき》が行われていた。参列者は川平|薫《かおる》と十人の犬《いぬ》神《かみ》たち。そして何故《なぜ》かようこまで嬉《うれ》しそうな顔つきで参加していた。上《かみ》座《ざ》を背にし、薫はきちんと膝《ひざ》の上に手を置いて正座をしていた。
ぺこりと頭を下げる。
「今日《きょう》はみんなありがとう。お陰様でとりあえず一段落つくことが出来ました。大《だい》妖《よう》狐《こ》はある程度、再封印に成功したし、街の様《よう》子《す》も沈静化したようです。心強い助《すけ》っ人《と》も揃《そろ》えられたし、怪《け》我《が》人《にん》も特に出ていません。これも偏《ひとえ》に頑《がん》張《ば》ってくれたみんなのお陰だよ」
「そ、そんな薫様! 頭を上げてください!」
せんだんが慌《あわ》てて言う。他《ほか》の犬神たちもそわそわとしたり困ったように赤くなっていた。なでしこが落ち着いた微笑《ほほえ》みで言い添《そ》えた。
「そうですよ、薫様。私たちはただやるべきことをやっただけですから」
その言葉に犬神たちは一同、我《わ》が意を得たりとばかりに大きく頷《うなず》く。ちなみに左からせんだんを頭に綺《き》麗《れい》な序列順で座っていた。呼ばれもしないのにのこのこ顔を出しているようこは番外扱いでちょっと後ろの方に控えている。
「ありがとう」
薫は顔を上げ、微笑んだ。
「その言葉を聞く度《たび》に僕は本当に幸せ者だと思うよ。君たちはいい子ばかりだ」
えへへ〜とともはねが照れたように笑っている。いまりとさよかが胸を張っていた。たゆねはすっかりいつもの元気を取り戻して、双《ふた》子《ご》の頭を小突いていた。
「調《ちょう》子《し》に乗るな!」
はは、と薫《かおる》は笑って彼の背《はい》後《ご》で山になっている箱《はこ》の一つを取り上げた。
「じゃあ、恒例のプレゼント。まずせんだん」
「はい!」
と、せんだんが真《ま》っ直《す》ぐに前に出て来る。薫はゴージャスなリボンで飾られた箱を手渡して彼女を労《ねぎら》った。
「君は行ったり来たりでずっと大変だったね。お疲れさま」
「いいえ」
せんだんは落ち着いて微笑《ほほえ》んだ。
「なでしこの言うとおり私はやるべきことをしただけですから」
「うん。ありがとう。そういう君がリーダーでいてくれるから僕は助かってるんだ。次になでしこ」
そう言って薫は次のやや小ぶりの白い包みを手渡した。
「はい」
「ありがとうございます、薫様」
なでしこはぺこりと頭を下げてまたすぐに引き下がった。次がいぐさ。
「慣《な》れない仕事できつかったろ? お疲れさま」
「い、いえ……至らぬところばかりで」
いぐさは真《ま》っ赤《か》になりながらも労いの言葉を貰《もら》って嬉《うれ》しそうだ。さらにたゆね。
「君はすっかり元気になったね?」
薫はちょっとからかうような口調になる。
「啓《けい》太《た》さんが来たのがそんなに良かったのかな?」
「そ、そんなことないですよ! 啓太様が来たってボクにはなんの関係もないですから! いったい薫様は何を仰《おっしゃ》っているんですか!」
たゆねは赤くなってふいっとそっぽを向いた。それからプレゼントを貰う順番を待ち切れず手を伸ばして勝手に包装紙を破いている双子に気がついて大声を上げた。
「あ〜〜! おまえたち何やってるんだ!」
薫が楽しそうに笑った。せんだんが溜《ため》息《いき》をつく。
「あははは、君たちも。それは有名店のチョコレートとクッキーの詰め合わせだよ。よく味わって食べてね?」
双子が歓声を上げた。チョコレートと聞いてようこが背後から首を伸ばして来る。ともはねまで物《もの》珍《めずら》しそうにやって来た。
その間、薫《かおる》は静かにその場に控えていたごきょうやにプレゼントを渡していた。
「順番がちょっと逆になっちゃったけど色々とお疲れさま。はけに聞いたけど君は色々と大《だい》活《かつ》躍《やく》だったらしいね?」
白衣姿のごきょうやは言葉ではなく落ち着いた仕《し》草《ぐさ》で頭を下げることで答えた。薫《かおる》はその様《よう》子《す》に微笑《ほほえ》んだ。
「ありがとう。てんそうも。あとでお風《ふ》呂《ろ》にでも入ってゆっくり疲れを取るといい」
てんそうは同じく無言で頭を下げる。三人目。フラノの順番が来たところで薫が不《ふ》審《しん》そうに眉《まゆ》をひそめた。
「……フラノ?」
ふわふわの髪にいつも陽気な笑顔のフラノが妙に浮かない顔をしていた。彼女は薫の視《し》線《せん》に気がつくと急に慌《あわ》てたように顔を上げた。
「あ、は、はい? なんでしょうか? 薫様?」
「どうしたの?」
フラノ用の綺《き》麗《れい》な猫《ねこ》目《め》石《いし》や紫《むらさき》水《すい》晶《しょう》などが詰まった鉱石セットを手に持ったまま薫が尋《たず》ねた。心配そうだ。フラノは首をぶんぶんと横に振った。
「な、なんでもないのです! ちょっとお疲れ気味で」
「薫様」
と、ちょっと離《はな》れていたごきょうやが低い声で口を挟んだ。
「大《だい》妖《よう》狐《こ》との戦いで少しフラノは疲《ひ》弊《へい》したようです。出来ればこのまま休ませに部屋へ連れてやりたいのですが如何《いかが》でしょうか?」
「あ」
薫はばつが悪そうになった。
「ごめん」
申《もう》し訳《わけ》なさそうに、
「当然、気がつくべきだったね。うん、早くお願《ねが》い」
フラノは一《いっ》瞬《しゅん》、泣き出しそうな表情になった。それから真剣な顔をしているごきょうやと優《やさ》しく微笑んでいる薫の顔を何度も見て、
「え、えいようどりんく!」
訳の分からないことをそう呟《つぶや》くとそそくさと立ち上がった。すかさずごきょうやも、それからてんそうまで後に続く。三人はぺこりと頭を下げると振り返らず部屋を出て行った。それを心配そうに見送る犬《いぬ》神《かみ》たち。
薫が簡《かん》潔《けつ》に事情を説明し、他《ほか》に体《たい》調《ちょう》の悪い者は遠《えん》慮《りょ》なく休むようにそう告《つ》げる。しかし、幸い他の犬神たちにそんな心配は無用だった。
「薫様! 薫様! あたしのプレゼントはなんですか?」
と、そう言いながらともはねがぱたぱたと尻尾《しっぽ》を振って前に出て来た。薫《かおる》は小さな箱《はこ》をともはねに手渡し、微笑《ほほえ》んだ。
「さあ、なんだろうね? 自分で開けて確《たし》かめてごらん」
ともはねが夢中で包装紙を破り、蓋《ふた》をこじ開ける。中から出てきたのは人気のあるゲームソフトだった。
ともはねが興《こう》奮《ふん》で目を輝《かがや》かせた。
「わ〜、薫様! ありがとうございました! 早《さっ》速《そく》、本体を取りにいって来ますね!」
天《てん》井《じょう》に飛び上がって消える。薫がおかしそうにその後ろ姿を見送った。と、その目の前にぬっと白い手が差し出される。
ようこだった。
ようこが満《まん》面《めん》の笑《え》みを浮かべて「わたしにもなにかちょ〜だい」というように手を差し出している。薫が曖《あい》昧《まい》な笑顔《えがお》になった。
「え、えっとあの?」
正直なところようこには何も用意していない。しかし、ようこは一向に怯《ひる》むことなくにこにこしながら手を出し続けている。何か与えない限り絶対引き下がりそうもない。というか何を上げればいいのか見当もつかない。
薫が恐る恐る、
「こ、これでいいかな?」
ポケットに入れていたクレーンゲームの景品を手渡すと、
「わ〜い、ありがと、カオル♪」
薫にしがみついて大喜びした。薫はほっと安《あん》堵《ど》の吐《と》息《いき》をついた。それを微笑んで見ているなでしこ。そんな彼女に向かってせんだんがごく何《なに》気《げ》ない風《ふう》を装《よそお》って尋《たず》ねた。
「そういえばさ」
と。なでしこが振り返った。
「なに? せんだん」
小首を傾《かし》げる。せんだんは微《かす》かに唾《つば》を飲み込んでから続けた。
「あなた今朝《けさ》から姿を見せなかったけど一体どこに行っていたの?」
しばらくの間、なでしこは黙《だま》っていた。笑みだけは浮かべて。せんだんが緊《きん》張《ちょう》に身体《からだ》を強《こわ》張《ば》らせるくらい長い間じっと。
それから一言、
「言えません」
と。
「え?」
せんだんが問い返すと、なでしこはわずかに申《もう》し訳《わけ》なさそうに微笑んだ。
「実はわたし薫《かおる》様の密命で使者として出向いていたので詳しいことはお話しできないんです」
同じくせんだんの耳元にそっと囁《ささや》いた。逆にその言葉でせんだんは納《なっ》得《とく》がいったようだ。
「あ、なるほどね〜」
何故《なぜ》か嬉《うれ》しくなって何度も頷《うなず》いた。
「うん、それは言わなくていいわ。お疲れさま」
「せんだんも」
なでしこはそう言ってぺこりと頭を下げた。
「わたしちょっとまだ用が残っているので」
「あ、抜けるのね?」
「ええ。あとはお願《ねが》いしますね」
そう言ってなでしこは微笑《ほほえ》むと部屋を退出した。きゅっと大事そうに薫からの贈《おく》り物を抱えている姿がどこか少女めいていた。せんだんは大きく頷いた。なでしこが薫から特別扱いを受けていることは前々から知っていたし、そのことをもう今は特にどうとも思っていない。むしろそれで薫や群れの仲間の絆《きずな》が安定するなら歓迎するくらいである。だから、なでしこがそう答えた時、どこかほっとしたものだ。
携帯ゲーム機《き》を取りに行っていたともはねが戻って来て夢中でゲームをやっている。
いまりとさよかが貰《もら》ったお菓子を摘《つま》んでいぐさが洋書をぱらぱらと捲《めく》っていた。胡座《あぐら》を組んで満《まん》面《めん》の笑《え》みでクッキーを頬《ほお》張《ば》っているたゆねと、もぐもぐと両手を動かしてひたすら何かの妖《よう》怪《かい》みたいにチョコレートを咀《そ》嚼《しゃく》しているようこ。
いまりとさよかがそんな彼女らに向かってぎゃいぎゃい喚《わめ》いていた。
「あ、こら! そんな勿《もっ》体《たい》ない食べ方するな、このたゆねめ!」
「このいやしんぼ! 欠片《かけら》ならやるって言ったんだ! あ〜、全部食べないでくださいおねがいしますようこさま」
相変わらずの様《よう》子《す》にせんだんもウキウキと楽しくなってくる。そこへ本当に何《なに》気《げ》なく薫が尋《たず》ねて来た。
本当に何気なく。
せんだんは咄《とっ》嗟《さ》に聞き逃《のが》して、
「え?」
と、振り向いた。薫がにっこり笑ってもう一度、ゆっくり聞いて来た。
「ええっとね、今日《きょう》、なでしこの姿がずっと見えなかったけどあの子は厨《ちゅう》房《ぼう》で働いていたの、って聞いたの」
と。
薫は全く何の他意もなく尋ねている。せんだんは再度、
「え?」
と、ひどく意味のない問い返しをしてそれから、
「なでしこは確《たし》か」
質問の意味を理解した途《と》端《たん》、ぞおっと背筋が冷たくなった。さっきなでしこは確かに全く違うことを言っていた。
この時、せんだんはつい掠《かす》れた声で、
「あ、はい。厨《ちゅう》房《ぼう》におりました。ずっと忙《いそが》しそうでしたよ?」
そう答えてしまっていた。一体、何故《なぜ》、嘘《うそ》をついたのか?
それはせんだん自身にもよく分からなかった。ただ、本当のことを話せば二度と取り返しのつかないことが起こりそうで怖かった。
ただ怖かったのだ。
「そう」
と、薫《かおる》は言って頷《うなず》いた。
「そうだったのか」
せんだんはその思《し》案《あん》げな薫の横顔に何も言えずにいた。最初の嘘がそうしてゆっくりと転がり始めた……。
ごきょうや、てんそう、フラノは川《かわ》平《ひら》本邸の離《はな》れに続く薄《うす》暗《ぐら》い廊下を歩いていた。三人ともひそひそと小さく声をひそめている。
「おい、てんそう。本当に啓《けい》太《た》様はこちらにいらしたのか?」
と、ごきょうやが尋《たず》ねた。
ぬぼ〜とした風《ふう》貌《ぼう》のてんそうがこくりと無言で頷いた。ごきょうやの裾《すそ》を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んだフラノが今にも泣き出しそうな声で訴えた。
「ねえ、ごきょうやちゃん。ほんと〜にほんとに啓太様にお話しした方がいいのですか?」
「今《いま》更《さら》何を!」
と、声を大きくしかけてごきょうやがぐっと自制した。
彼女は唇《くちびる》を噛[#「噛」はunicode5699]《か》んだ。怯《おび》えたように小刻みに震《ふる》えているフラノの肩を手でしっかりと掴[#「掴」はunicode6451]み、目を覗《のぞ》き込んで言い聞かせる。
「それはもう散々、話し合っただろう? この場合、私たちが信頼して話すことが出来るのはただ一人。啓太様だけなんだ」
「宗《そう》家《け》様やはけ様には?」
「なんて? あそこで見たものをありのまま話すのか?」
「……それこそ取り返しがつかなくなる恐れがある」
と、普《ふ》段《だん》、寡《か》黙《もく》なてんそうが重々しく一言言い添《そ》えた。フラノはかくかくと壊《こわ》れた人形のように頷く。
「分かりました。分かってますよ〜。本当はフラノにだってそれくらいのことはちゃんと分かってるんです。啓《けい》太《た》様は確《たし》かにこれからオムツを当てられて、女性に裏切られて、下水を素っ裸で流れたりする運命ですが」
「しかし、ひどい運命だなソレ」
と、ちょっと冷や汗を掻《か》いてごきょうやが呟《つぶや》いた。ごきょうやを見つめているフラノの目にほんの少しだけ活力が戻ってきた。
「啓太様だと思うんです。私だって。私たちのことも、薫《かおる》様のこともなんとかしてくれるの、きっと。だって」
と、フラノがそこで一度、言葉を切ってぶるぶるっと大きく身《み》震《ぶる》いをした。
「だって、薫様の未来」
真っ暗だったんですもの。
「もう全く何も見えなくなっちゃったんですもの!」
フラノが口元を手で覆《おお》ってそう言った。ごきょうやもてんそうも重苦しい表情で黙《だま》り込む。
その時である。
ひどく優《やさ》しげな声が聞こえてきた。
「あれ? 三人ともそこにいたの?」
がばっと反射的に三人は振り返った。それを認めてフラノががくがくと露《ろ》骨《こつ》に震えを激《はげ》しくし、思わず崩《くず》れ落ちそうになって辛《かろ》うじてごきょうやの袖《そで》を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んで堪えた。そのごきょうやと言えど動《どう》揺《よう》は隠《かく》し切れず、思わず一歩、後ずさっている。
辛うじて溜《ため》息《いき》をつくように誰《すい》何《か》したのはてんそうだった。
「……なでしこ?」
「なに?」
逆光。
薄《うす》暗《ぐら》い廊下に微笑《ほほえ》みを浮かべて立っていたのはなでしこだった。どこまでも優しげで、たおやかで、大事そうに薫から貰《もら》ったプレゼントを抱きしめていた。
一歩、近づいてきた。
「フラノ。ダメじゃない、調《ちょう》子《し》が悪いのでしょう?」
フラノはあうあうと涙目で独《ひと》り言を呟いている。ごきょうやが彼女を庇《かば》うように片手を回した。なでしこはさらに歩を進める。
「ちゃんと寝てなきゃ。ね? あれ? どうしたの?」
「なでしこ」
ごきょうやは首を横に振った。
「いや、なんでもないんだ」
「ふ〜ん。あ、もしかして薫様の寝室捜しをまたするの? この屋《や》敷《しき》なら確かに薫様がどこで寝ているかすぐに分かるものね〜」
「なでしこ、私たちは」
「違う? じゃあ、これからお風《ふ》呂《ろ》に入りに行くのかな? ここのお風呂は大きいからみんなで入れるものね。え、それも違うの? ならばお夜食を食べに行くとか? まだ沢《たく》山《さん》残っていたみたいだからね、ご馳《ち》走《そう》。あ、そうか。もしかしたら山へ星を見に行くのかな?」
なでしこは歌うように言う。くすくすと笑い、
「それとも」
ぴたりと歩を止めて、
「……啓《けい》太《た》様に全部、話す気?」
どこまでも晴れやかな笑顔《えがお》。それに対して感情の欠落した薄《うす》ら寒い声。三人の顔に驚《きょう》愕《がく》の表情が走り抜けた。痺《しび》れるような寒気が身体《からだ》中《じゅう》を貫き、フラノが堪《こら》え切れず「あは」と呟《つぶや》いてへなへなと腰を落とす。ごきょうやは必死で取《と》り繕《つくろ》った。
「な、なんのことを」
「いいね」
なでしこは明るく笑いながら言った。
順番にごきょうやたちが持っているプレゼントを見ていく。
「薫《かおる》様はどの子にも必ず優《やさ》しくしてくれる」
ぎゅうっと大事そうに自分のプレゼントを抱きしめる。
「どの子にも!」
ぎゅううううううううううううううううううううううううううっと自分のプレゼントを大事そうに抱き締《し》める。
「相手がどんなことをしようと!」
笑顔のままで。目が異様な光を帯《お》びる。ひっとごきょうやが息を呑《の》んだ。てんそうが無言でよろける。フラノが耳を塞《ふさ》いだ。
やがて。
長い長い時間が経《た》ってふうっと重たい溜《ため》息《いき》が聞こえてきた。
なでしこだった。
彼女はもうすっかり普《ふ》段《だん》の雰囲気を取り戻していた。どこか哀《かな》しく、どこか疲れたような表情でごきょうやたちを見上げた。
栗《くり》色《いろ》の後れ毛を掻《か》き上げる。
「薫様があなたたちに何かひどいことをした?」
ごきょうやたちは答えられない。
「薫様が一度でもあなたたちを失望させたことがあった?」
なでしこは目《め》尻《じり》に涙を溜《た》めて訴えた。
「薫《かおる》様はいつだってあなたたちの幸せを考えていた。いつだってあなたたちのことを思って行動していた。どうしてそのあなたたちが」
なでしこは俯《うつむ》いた。小声で消え入るように呟《つぶや》く.
「薫様を信じてあげられないの?」
ごきょうやたちがばつが悪そうな顔になって互いを見つめ合った。なでしこはそれ以上、あえて何も言わず背を向ける。
ただ一言。
「もう少し待ってあげて」
その意味を三人は分かり過ぎるくらい良く理解した。
どこか悄《しょう》然《ぜん》として去って行くなでしこ。先程感じられた威圧感は欠片《かけら》もなく、むしろ追いすがって慰《い》撫《ぶ》したいほど弱々しく彼女は見えた。
「……ど、どうしよう?」
と、座り込んでいたフラノがごきょうやを仰ぎ見た。
ごきょうやは彼女を抱え起こしながら、
「さあな」
いささか自《じ》嘲《ちょう》的《てき》にそう呟《っぷや》く。
「まあ、でもとにかくあの二つの棺《ひつぎ》の存在をなでしこが承知していることはこれではっきりした訳《わけ》だな」
「……あと、警《けい》告《こく》してきた」
ぼそりとてんそうが言い添《そ》える。彼女はなでしこが歩み去った先の暗《くら》闇《やみ》をじっと見《み》据《す》えていた。ごきょうやが首を振った。
「あれは警告じゃないよ。きっとあれは懇《こん》願《がん》という類《たぐい》の要《よう》請《せい》だ」
ただし。
と、彼女は髪をくしゃくしゃ掻《か》き回し、苦笑する。
「懇願に背《そむ》いたらどうなるか分からないけどね、という類の脅迫でもあるな」
「あのね、今《いま》更《さら》こういうこと言うのはダメと思うけど、フラノはなでしこちゃんの言うこともよく分かるのです。もしかしたら私たち大事な薫様を手ひどく裏切ってるだけなのかも」
フラノが俯《うつむ》きながらぽつりと呟いた。涙を流す。その涙がぽたりぽたりと廊下に滴《したた》り落ちて滲《にじ》む。フラノは泣き笑いの表情になって顔を上げた。
「どうしてこんなことになったのでしょう? なんで? なんでですか? ただ私たち幸せに暮らしたいだけなのに。ただ楽しく暮らしたいだけなのに……なんで」
二人の仲間を交互に訴えかけるように見つめる。ごきょうやもてんそうも答えなかった。ごきょうやは腕を組んで難《むずか》しい顔をしていて、てんそうは小首を傾《かし》げた姿勢のまま動かない。その時、ごきょうやが大きく決断をするように一つ頷《うなず》いた。
「うん。やっぱり啓《けい》太《た》様にお話ししょう」
「で、でもごきょうやちゃん」
「フラノ。お前がさっきいみじくも言った通りさ」
ごきょうやは微笑《ほほえ》んだ。
「これは私たちだけの問題ではない。というよりむしろ薫《かおる》様の問題なんだ。未来視のお前が見た未来。薫様の黒い未来を止めるためにも、私たちはこの状況下での最善手を打たないといけない。だから」
ごきょうやはぐっと拳《こぷし》を握った。
「啓太様だ。啓太様ならきっと。きっと薫様のことも分かってくれて、その上で必ずなんとかしてくれる」
「……私も同感」
てんそうが片手を上げて賛《さん》意《い》を示した。ごきょうやが目を細めて笑う。フラノもこくこくと小刻みに頷《うなず》いた。
「わ、わかった。私もそれで……で、でも啓太様のところにはこれから行くの?」
それに対してごきょうやはきっぱりと否定した。
「いや、信用しない訳《わけ》じゃないけど、なでしこが私たちを無条件で信じているとも思えない。明日《あした》以降、確《かく》実《じつ》にコンタクトが取れる時と場所を慎《しん》重《ちょう》に選《えら》ぼう」
その提案にてんそうがこくりと頷き、フラノがどこかほっとしたように胸を撫《な》で下ろした。ごきょうやがまじめな顔になって何か言いかけたその時。
「お〜〜い!」
廊下の反対側から明るい声が聞こえて来た。
ぎくっと三人が身を強《こわ》張《ば》らせ、振り返る。
そこに立っていたのはよりにもよって渦中の人。川《かわ》平《ひら》薫その人だった。彼は大きく手を振るとさらに声をかけて来た。
「三人とも! 今なでしこがそっちに来なかった?」
その時。
誰《だれ》もが期せずして一《いっ》斉《せい》に首を振っていた。もし薫があともう少し近づいていつもの優《やさ》しい笑顔《えがお》で尋ねていたら、あるいはもう少し時間が経過してから尋ねていたら結果はまた全く違っていただろう。だが、今まさに話題にしていた薫が今まさに警《けい》戒《かい》しているなでしこのことを聞いてきたことによって、三人は激《はげ》しく動《どう》揺《よう》してしまっていた。
疑《ぎ》心《しん》暗《あん》鬼《き》と後ろ暗さがない交《ま》ぜになり、三人は結果的に嘘《うそ》をつくことになった。
しまった。
と、思った時にはもう遅い。薫は、
「そっか」
と、頷《うなず》いて離《はな》れて行くところだった。ごきょうやが掠《かす》れた声を上げかけたが、珍《めずら》しく薫《かおる》は気が急《せ》いているようでその声は上手《うま》く彼に届かなかった。
もしかしたら。
その日つかれた沢《たく》山《さん》の嘘《うそ》の中で、真に取り返しがつかない嘘はこれだったのかもしれない。
これだけだったのかもしれない。
薫の方もごきょうやたちに近寄っていけない訳《わけ》があった。手には包装紙に包まれた小《こ》箱《ばこ》が握られている。
全《すべ》てに対して公平であるべき犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い川《かわ》平《ひら》薫が本来決してしてはいけないこと。
川平薫≠ェやってはいけないことを今彼はあえてしようとしていた。己《おのれ》の意志で範《はん》を乱そうとしていた。
普《ふ》段《だん》、なかなかに報いてあげられないなでしこに特別にもう一つプレゼントを用意していたのだ。心を込めた装身具を。品の良いペンダントが入った小箱を彼は手に握《にぎ》り締《し》め、彼女の喜ぶ姿を思い描いて。
笑ってくれるだろうか。
もしかしたら涙ぐむかも。そんな想像をしながら、足だけはただなでしこが向かった方向の真逆《まぎやく》を目指して。
結局、この夜、薫はなでしこと出会うことが出来なかった。
同時刻、川平|啓《けい》太《た》ははけに案内されて資料室とも倉庫とも呼べるような離《はな》れのかなり大きな部屋に来ていた。
「啓太様、珍《めずら》しいですね。一体、調《しら》べ物ってなんですか?」
と、はけが興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに尋《たず》ねた。啓太は曖《あい》昧《まい》な声を出した。
「ま、ちょっとな。昔のことをな〜」
先程啓太と宗《そう》家《け》はかなり長い時間、二人っきりで何やら話し合っていた。そのことに関係するのかと思ってはけはとりあえずそれ以上聞くのを止《や》めた。
「比較的、こまめに整《せい》理《り》はしておりますので用件さえ仰《おっしゃ》って頂ければある程度、お手伝いは出来ると思いますよ」
そこは川平宗家の過去の記《き》録《ろく》や断片がそのまま封じ込められたような場所だった。彼女にまつわるモノ全《すべ》ての、部屋を管理しているはけの個人的なアルバムのような部屋。実際、壁《かべ》際《ぎわ》の書棚に並べてあるのは無数のアルバムである。
『川平|榧《かやの》 十七〜十八歳 満《まん》州《しゅう》にて、馬《ば》賊《ぞく》と』
とか、
『川《かわ》平《ひら》榧《かやの》 五十六歳 宗《そう》家《け》襲《しゅう》名《めい》』
などと丁《てい》寧《ねい》な字で書かれたラベルが背《せ》表《びょう》紙《し》に貼《は》ってある。ぱらぱらと捲《めく》ると白黒の写真には若い頃《ころ》の川平宗家が映っている。巨大な刀を背中に背負ってピースしたり、和服姿で走っている姿など。
「この時代によくこれだけ写真をとったな〜」
と、啓《けい》太《た》が呆《あき》れ半分で溜《ため》息《いき》をついていた。
はけは愛《まな》娘《むすめ》の写真を見せている男親というか、ペットの自《じ》慢《まん》をしている飼い主みたいな上気した表情で頷《うなず》いた。
「ええ、苦労しました。あ、その写真は新《しん》幹《かん》線《せん》開通の時に徹《てつ》夜《や》して並んだ時の写真なんですよ。ほら、これは万《ばん》博《ぱく》です。太陽の塔のモニュメントの前ですね。あ、そのアルバムからあなたのお父様が映っていますよ、ほら。これが宗《そう》太《た》郎《ろう》様がフスマを蹴《け》破《やぶ》ってあの方に折《せっ》檻《かん》されているところ。こちらでお腹《なか》を出して寝ている赤ん坊が薫《かおる》様のお父様ですね。お二人ともよく似てらっしゃいます」
はけは目を細め、ごろごろと喉《のど》をならさんばかりにして次々に写真を指さしていった。啓太が半目になった。
「……お前も大《たい》概《がい》、変な奴《やつ》だよな」
はけが真顔で小首を傾《かし》げた。
「どういう意味でしょうか?」
「いや、なんでもない……悪いんだけどさ、もうちょっと俺《おれ》が関係しているのないの?」
「えっと、それなら」
と、はけが並べられたアルバムの中で比較的、年代の新しいモノを引っ張り出してきた。啓太がそれを捲ると、
『宗太郎様のご子息、啓太様が本家にいらっしゃる。将来がひじょうに楽しみ』
と、手書きの文字で注釈してあって、赤ん坊の頃の啓太が手づかみでおはぎを頬《ほお》張《ば》っている写真が挟んであった。
「なるほどね〜」
と、啓太はぱらぱらとページを開きながら呟《つぶや》いた。そんなに数が多いわけではないが、ちらほらと小さい頃の啓太が写っていた。項が進む度《たび》、時代が新しくなって行く度、コマ送りのように成長して行く自分を見るのはどうも奇妙な感覚である。
「それともし他《ほか》に調《しら》べモノがあるのでしたら、ほら」
はけはそう言って古い衣類や細々とした生活雑貨が収納された一角を指さした。
「あちらに確《たし》か啓太様がここで生活されていた当時のお洋服とかおもちゃなども残っていると思いますよ。あ、あと、こちらは新聞のスクラップブックです。印象的な日のことは切り抜いてあるんです」
「ほお」
啓《けい》太《た》が感心したように声を上げた。いっそここまで偏《へん》執《しゅう》的《てき》に何もかも集めれば大した物である。啓太ははけの肩をぽんぽんと労《ねぎら》うように叩《たた》くと、床《ゆか》の上に直接座り込んで、一心にアルバムを捲《めく》り始めた。
はけは黙《だま》ってそんな彼の後ろ姿を見つめていた。
それから思わしげに、
「啓太様……そういえば先程|宗《そう》家《け》とお話されているのを小耳に挟んだのですが、赤《せき》道《どう》斎《さい》と相まみえたそうですね」
「ん?」
啓太は振り向かずに、
「あ〜、ヘンタイ大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》な。お前、あいつが復活したことは知っていたのか?」
「ええ、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》さんや薫《かおる》様から定期的な連絡は入っておりますから……なんでも大《だい》妖《よう》狐《こ》に勝るとも劣らない力を持つとか」
「……あれはまあ、ちょっと規格外だよな」
啓太は手を頭の後ろで組んで天《てん》井《じょう》を見上げた。はけは由《ゆ》々《ゆ》しげに眉《まゆ》をひそめる。
「困ったことになりましたね。大妖狐一人でさえ持て余し気味なのに、もし仮に同時に何かことを起こされたりしたら」
はけは首を振った。
「あるいは」
何か言いかけて最悪の想像を頭から追い払う。啓太がちょっと苦笑した。胡座《あぐら》を掻《か》いた足を両手で抱えて、くるっとはけに向き直る。
「ま、俺《おれ》は大妖狐はまだ直接、見た訳《わけ》じゃないけどさ、赤道斎と同じかそれ以上なら正直言ってちと打つ手がないな」
「啓太様! そんな弱気な」
はけが咎《とが》め立てるように鋭《するど》く言った。啓太はむしろ淡々としていた。
「いや、これは正直なところ。ようこは確《たし》かに並はずれていると思う。だけど、俺が犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いとしてあいつと一《いっ》緒《しょ》に戦ったってきっと瞬《またた》く間にやられていたと思う。お前と婆《ばあ》ちゃんならどうかな? 俺とようこよりはもうちょっと保《も》つと思うけど、結局、赤道斎や大妖狐クラスの天《てん》変《ぺん》地《ち》異《い》みたいな奴《やつ》らにはほとんど勝《しょう》機《き》は見いだせないんじゃないかな」
はけは困《こん》惑《わく》していた。
いつになく弱気なことを言う啓太と、恐らく彼が言うことが事実であるという内心の得心を改めて確《たし》かめて。
「……では」
我らは絶対に勝てないのでしょうか?
と、はけが不安そうに言いかける前に啓《けい》太《た》がにこっと笑った。
「そうだよ」
「え?」
「唯《ゆい》一《いつ》。本当にもし、そういう化《ば》け物《もの》たちと対等に渡り合うことが出来るやつがいるとしたらそれは薫《かおる》だ。薫だけだ」
はけは目を白黒させた。
「薫なら恐らくは一対一ずつならなんとか出来ると思う。だから、俺《おれ》たちがやるべきことはあいつがそういう風《ふう》に戦える環《かん》境《きょう》を作ってやることだろ?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
はけは手で押し止めた。啓太が当たり前のように言っていることが良く分からない。確《たし》かに薫が弱いとも思っていないが、それにしても……。
「それはもしかしてなでしこの天に返した力≠フことを期待して仰《おっしゃ》ってるんですか?」
「え?」
今度は啓太が目を丸くした。
「なでしこちゃんのなんだって?」
はけは黙《だま》り込んだ。どうも二人の間で重大な齟《そ》齬《ご》があるようだった。啓太は苦笑した。
「……なあ、はけ。お茶《ちゃ》を持ってきてくれないか。そこら辺のこと詳しく説明してやるよ」
はけは頷《うなず》いた。
心持ち晴れやかに。
「分かりました。では、早《さっ》速《そく》。紅茶とコーヒーと緑《りょく》茶《ちゃ》どれがいいですか?」
「ん。緑茶」
ちょっと笑う啓太。古いアルバムの中の写真を指さして、
「出来ればこんな感じのおはぎがあったら一《いっ》緒《しょ》に持ってきてな。なんか甘いものが喰《く》いたくなってきちまった」
「かしこまりました」
はけが胸元に手を当てて一礼した。掻《か》き消える。啓太がふうっと息をついた。
はけが戻って来る前に多少でも目を通しておこうと啓太は再びアルバムに集中し始めた。何か手がかりになるようなモノでもあれば、と思ってここにやって来たのである。彼が思い出そうとしているのはあの猫《ねこ》屋《や》敷《しき》で聞くとはなしに聞いたようこの独白だった。
あれが気になって仕方ない。
『炎の中を走っているケモノ』
満月。
一緒に来るかと手を伸ばした幼い日の啓太。
実はどれも全く身に覚えのないものだった。微妙な部分で符合しないのだ、自分の感覚と。正《せい》確《かく》には断片的なイメージがあった。それに近いことなら確《たし》かにあったと思う。だけど、決定的に何か違う要素が何かあって。
それが何なのか良く思い出せない。
なぜ、思い出せないのかもよく分からない。ただ、その思い出を大事に大事に生きてきたようこには悪いがあまり良くないことだったと思う。
「ん〜、なんだったかなあ〜」
啓《けい》太《た》が手を頭の後ろで組んで、床《ゆか》に仰《あお》向《む》けになった。
「だいたい、夜……なんで俺《おれ》そんな夜にいたんだ? 待てよ。そうだよな、そもそもなんで俺そんな山に一人でいたんだ?」
すうっと何かが蘇《よみがえ》ってくるようだった。
「あ、あれ? 明らかにおかしいじゃないか……多《た》分《ぶん》、俺はその頃《ころ》、四〜五歳。そんな物心つくかつかないかであの山を夜うろうろしている訳《わけ》」
啓太ははっとして起き上がった。彼が猛《もう》烈《れつ》に捲《めく》り始めたのは新聞の切り抜きだった。彼はその中で社会面でも、経済面でもなく、まず真っ先にテレビ欄《らん》を見る。
その当時のテレビ番組表。あの頃、流行《はや》っていたのは……確か。さあっと青ざめてきた。違う。そうじゃない!
そうじゃなかったんだ!
脳《のう》裏《り》に浮かぶのは自分が背伸びして電話をかけている場面。
『もしもし』
その時。
「ケ〜イタ♪」
背《はい》後《ご》からひょいっと抱きつかれて思わず啓太は心《しん》臓《ぞう》が止まりそうになった。思わず絶叫を上げている。
「うわ! うわああああああああああああああああああ!!!!!」
仰《ぎょう》天《てん》して尻《しり》餅《もち》をついた啓太にようこの方も驚《おどろ》いたようだ。
「ど、どうしたの?」
と、後ろにたじろいで目を丸くしている。
「よ、ようこ?」
蛍《けい》光《こう》灯《とう》の下に立っていたのはミニスカート姿のようこだった。いつものようこ。健《けん》康《こう》的《てき》で程良くお色気のあるようこ。
啓太はばくばくと脈打つ胸を抑えて、
「お、おどかすなよ。びっくりしたじゃないか」
手はさりげなくスクラップブックを隠《かく》している。ようこは不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに小首を傾《かし》げた。しかし、それ以上は特に追及して来ることもなく、
「ねえ、ほら! カオルにクリスマスプレゼント貰《もら》っちゃった!」
と、自《じ》慢《まん》そうに愛想の悪い設楽《しがらき》焼《や》きのタヌキがぶら下がった携帯ストラップを見せた。携帯電話もないのに。嬉《うれ》しそうに。
「ほ、ほお」
「ケイタはこんなところで何をしているの?」
「ん? あ、ああ」
啓《けい》太《た》は素早《すばや》く嘘《うそ》をついた。
「婆《ばあ》ちゃんに頼まれて調《しら》べものをちょっとな」
「ふ〜ん」
「ま、それも終わったし、そろそろ出るか?」
「いいの?」
「ああ、いいさ、いいさ」
啓太はようこの背中をくいくい押しながら部屋の出口を目指した。口早にようこの耳元で話し続ける。
「なんだ? 薫《かおる》からプレゼント貰ったんだな。そ〜か、じゃあ、俺《おれ》もちゃんとお前に何かあげないとな」
「え〜? いいよいいよ。ケイタ、今、貧乏だし」
「はははは、侮《あなど》るなよ」
啓太はようこを部屋から完全に連れ出し、後ろ手に電気を消しながら呟《つぶや》いた。まるで懇《こん》願《がん》するように。
「大事にするぞ、ようこ」
きゃ〜と嬉《うれ》しそうにようこが啓太に抱きついている。
啓太が最後に、
「大事にしますから、ようこ」
と、冷や汗を掻《か》きながらようこを抱っこして懇《こん》願《がん》した一言の後。
部屋の扉《とびら》が完全に閉まって暗《くら》闇《やみ》が訪れた。
嘘はただひたすらと回り続ける。
大仕事を終えてとりあえず弛《し》緩《かん》した空気が流れてはいる。だが、はけがきつく命じただけあって大《だい》妖《よう》狐《こ》の結界前では寝ずの番の犬《いぬ》神《かみ》たちが数名、捧を片手にハチマキ姿で頑《がん》張《ば》っていた。その彼らが複《ふく》雑《ざつ》そうな表情で左右に引いて分かれた。
その間を縫《ぬ》って暗闇の中から現れたのはようこだった。犬神たちははけと宗《そう》家《け》の許可が出ているので彼女に対する嫌《けん》悪《お》の情に拘《かかわ》らず、彼女を通さない訳《わけ》には行かなかった。ようこは結界の前まで歩み出ると虚《きょ》勢《せい》を張るように叫んだ。
「オトサン!」
夜風に紛《まぎ》れて、彼女の声が微《かす》かに震《ふる》えた。
「オトサン! わたしはオトサンと戦うからね!」
返事は返って来ない。ようこは必死で言い募《つの》った。
「わたしはケイタと一《いっ》緒《しょ》にいるからね! あの時、オトサンは大反対したけどわたしはもうオトサンの玩具《おもちゃ》じゃないんだ! 自分の力で生きる! 自分の生きたいように生きる! オトサン! わたしはもう大《だい》妖《よう》狐《こ》の娘じゃない! 犬《いぬ》神《かみ》のようこなんだ!」
ようこは額《ひたい》に汗を浮かべ、怯《おび》えるように後ずさりしながらも一言、
「……でも、オトサンが改心するなら犬神たちとの間を取り持ってあげてもいいよ?」
小さくそう呟《つぶや》く。
すると今まで全く無反応だった結界の中で黒い影《かげ》が陽炎《かげろう》のように揺《ゆ》らめいた。
「くくくく」
小さく。
だが、はっきりと何者かが笑っていた。ようこは身を硬直させた。他《ほか》の犬神たちが異変に気がついて棒を構《かま》える。
緊《きん》張《ちょう》した気《け》配《はい》の中で、声はさらに続けた。
「可哀《かわい》想《そう》にな、ようこ。騙《だま》されているんだよ、お前は」
ようこがカチンとしたように目を吊《つ》り上げた。小刻みに身体《からだ》を震わせながらも、
「ど、どういうことよ?」
声を張り上げる。
犬神の一人が増援を呼びに行こうと走り出しかけるのを手で押し止めた。大妖狐の声はさらに続ける。
「そうだろ〜。パパは」
「そのパパっての止《や》めて!」
「パパはパパさ、ようこ。お前のパパは何もかもお見通しなんだよ。お前は騙されているのさ。そうに違いない。でなければあんなに素直でよい子だったお前が俺《おれ》の言うことに逆《さか》らうようになるはずないものな。その人間に誑《たぶら》かされて、いいように玩具にされて……可哀想に。待ってろ。いずれここから出て、パパがその男をとっちめてやるからな」
「ケイタに何かしたら」
ようこの瞳《ひとみ》が怒りで輝《かがや》く。
「オトサンといえど容赦しないからね!」
返って来たのは威圧的な沈《ちん》黙《もく》でも、怒りの咆《ほう》哮《こう》でもない。哀《かな》しげに啜《すす》り泣く声だった。
「しくしくしく」
あんなに素直な良い娘《こ》だったのに〜。
と、啜《すす》り泣きのあいまに聞こえる。ようこはちょっと脱力した。それから、彼女はふうと溜《ため》息《いき》をついて早口で告《つ》げた。
「と、とにかくね! ケイタはわたしを大事にしてくれるし、結婚の約束だってしてくれたし」
と、啓《けい》太《た》がいたら目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いて慌《あわ》てそうな嘘《うそ》をない混ぜて、
「今はいっぱい幸せなの! この幸せは誰《だれ》にも邪《じゃ》魔《ま》させないから!」
そこまで言い切るとふいっと横を向き、おろおろしている犬《いぬ》神《かみ》たちの間を早足で駆《か》けて、ぽ〜んと夜空に向かって消えてしまった。
結界の奥でおかしそうな笑い声が聞こえた。
「いずれな」
大《だい》妖《よう》狐《こ》は言っていた。
「いずれな」
と。
その日、様《さま》々《ざま》な場所で様々な嘘がつかれていた。川《かわ》平《ひら》家《け》の周囲は欺《ぎ》瞞《まん》に満ちていたと言っても差し支えないかも知れない。だが、その中でも最大のものはやはり大妖狐が巧妙に、かつ狡《こう》猾《かつ》についた嘘だっただろう。
彼は暗《くら》闇《やみ》の中で密《ひそ》かにほくそ笑《え》んでいた。
くつくつと。
犬神どもはまんまと騙《だま》されたが、彼は決して易《やす》々《やす》と封じ込められたのではなかった。誰《だれ》も気がつかない結界の小さな、だが致命的な穴を見つけて、あえて押し込められたフリをしたのである。機《き》はもうほとんど熟《じゅく》しかけていた。
後一日。
それが大妖狐の出した結《けつ》論《ろん》だった。
後一日あれば必ずや自分は結界を喰《く》い破り、外の世界に躍《おど》り出ることが出来る。それはもう間違いない。既定の事実だった。
「待ってろよ、犬神ども!」
その笑い声は誰にも届かない。
「そしてようこ! 我《わ》が愛《いと》しの娘よ!」
その呼びかけは誰にも聞かれない。
だが、深い闇の中。
確《かく》実《じつ》に。
同時刻、強大な霊《れい》力《りょく》を蘇《よみがえ》らせた赤《せき》道《どう》斎《さい》が〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の前で佇《たたず》んでいた。彼は瞳《ひとみ》にわずかな驚《おどろ》きと哀《あわ》れみを浮かべて、
「なるほど……そういうことだったのか」
呟《つぶや》いている。
目の前には青い氷《ひょう》柱《ちゅう》。
中には一《いっ》糸《し》まとわぬ乙女《おとめ》が眠っていた。黒い髪。まだ未《み》熟《じゅく》な肢《し》体《たい》ながら整《ととの》った顔立ち。目を閉じ、胸の前で手を組み合わせている。
まるで死んだように。
まるで眠るように。
「お前が真の川《かわ》平《ひら》カオルだったのだな……」
彼の囁《ささや》くような声もまた誰《だれ》の耳にも届かなかった。皮肉なことに嘘《うそ》と欺《ぎ》瞞《まん》に満ち溢《あふ》れた夜にただ一人、赤道斎だけが真実へと辿《たど》り着いていた。真っ暗な未来に踏み込んで行く禁《きん》忌《き》たる真実へ向かって。
ゆっくりと時が巡《めぐ》っていた。
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○月×日
お掃除当番がすんで時間が空いたので今日は啓太様のところに行って来た。
啓太様は相変わらず住む家が見つからなくて橋の下にいる。
入ってみるとようこがすやすやと宙に浮いて寝ていた。啓太様もベッドの上で手足を投げてぐあ〜ってイビキをかいて寝ていた。
二人ともお昼寝中みたいだ。
今日は日曜でぽかぽか日当たりがいいから、あたしもちょっと眠たかった。
河童が啓太様の枕元にしゃがんでむしゃむしゃピーナッツを食べていた。
よく見ると食べ終わったカラを「くけくけ」鳴きながら啓太様の大きくあいたお口にゴミ箱代わりに捨てている。
啓太様が「う〜んう〜ん」とうなりながらカラを一生懸命飲み込んでいた。
あたしはちょっとおかしかったけど河童をめっと叱ってから、啓太様の隣で寝た。
とっても気持ちが良かった♪
○月△日
お皿を三枚割ってせんだんに怒られた。いまりとさよかに「まだまだお子様ね〜」って言われた。気分がムシャムシャするので啓太様のところに行った。
啓太様はとても器用に段ボールで家を建てて、川原で釣った魚を料理して、足りないモノは全部、ゴミ捨て場から調達してるから凄いと思う。そう言ったら嫌そうな顔をしていた。
なんでだろう?
今日はとっても暑い日。啓太様とようこは川原で水着姿だった。
拾ってきたビーチパラソルを立てて、バカンス気分なんだって。啓太様は短パンにサングラス。ようこはすっごいビキニを着ている。
あたしもいったん水着を取りに戻った。
そうしたらいまりとさよかとなんでかたゆねまでついてきた。みんなで水着になって川原で遊んだ。あたしは河童と泳いだ。
すっごく日に焼けた♪
あと水着姿のたゆねに近づこうとした啓太様がようことたゆね両方からお仕置きされててとても可哀想でした。
○月☆日
午前中、いぐさからお勉強を教わっていた。今は方程式と日本の歴史と理科を勉強している。とってもむずかしい。
それに先生をしている時のいぐさはちょっと怖い。
午後は啓太様のところに行きたかったけど、お使いが入った。
あたしは一階のお掃除と火曜日と木曜日のお料理アシスタントを任されているけど、時々、こういうお仕事もある。
町に出て郵便を赤いポストに出して、ガムテープと電球を買って帰り道、啓太様に出会った。
うれしくて近寄ったら啓太様はナンパしていた。
一生懸命おめかししていた。
あとじゃまするなって言われた。
なんだかそういうことは川平家の人としていけない気がしたので、啓太様を捜していたようこを捜し出して、言いつけた。
ようこは啓太様を追いかけて火であぶっていた。
啓太様ってこりないな〜。
○月※日
お小遣いをがまんしてずっと欲しかったゲームを買った。
どうしてもゲームを見てもらいたかったので、雨が降っていたけど啓太様のところに行った。
だけど、啓太様もようこも誰もいなかった。
ふだん、賑やかな小屋に誰もいなくてあたしはぽつんと膝を抱えて啓太様を待った。
川からずぶぬれの河童が上がってきて小屋の中を覗き込んできょろきょろと見回した。
あたしが「啓太様、いないよ」というと大人しくあたしの隣にやってきてちょこんと腰を落とした。じ〜としてる。あたしと一緒。
啓太様をじっと待っている。暗がりの中、二人で待っている。
しばらくすると今度は留吉っていう猫さんがやって来た。
「あれ? 啓太さん、いないんですか?」って少し残念そう。
留吉はでも、なんだかなれた様子で啓太様のベッドの上に勝手に上がるともぞもぞと布団の中に潜って寝てしまった。
結局、啓太様とようこはその日、帰ってこなかった。
○月□日
なんとなく不安だったので、今日は一生懸命お仕事を終わらせて川原に行った。
上空ですぐに分かった。
啓太様が帰ってきている。小屋の辺りが賑やか。ううん、騒がしかった。
どきどきしながら入っていくと、何故か黒いタキシード姿の啓太様と仮名さんが泥だらけで立っていた。
二人は「あんたと仕事をすると絶対こういう目に遭うから嫌なんだよ!」「いや、明らかに今回のは君のミスだろう!」って言い争ってる。でも、とりあえずようこがお腹を抱えて笑っていて、留吉が苦笑しているので問題ないようだ。聞いてみたら闇の霊的な道具を取り引きしている違法オークションにせんにゅ〜そうさしていたらしい。豪華客船に乗ってきたのだそうだ。
河童がキュウリをぽりぽりかじりながらあたしをちらっと見て、くけけって鳴いた。
なんとなくあたしは嬉しくなった。
その後、啓太様と仮名様はようこの「しゅくち」で強制的に川のトバされて、水浴びさせられた。
その後はみんなで鍋を作って食べた。
美味しかった♪
○月○日
啓太様のおひざの上でゲームをやってたら薫様となでしこがやって来た。薫様はおみやげを持ってきてくださった。
高級な牛肉や日持ちのする缶詰なんかの食料ばかりで啓太様は涙目になって、尻尾でも振るように薫様に抱きついていた。
なでしこが微笑んで、ようこが呆れていた。
みんなで川原でバーベキューをやった。
なでしことようこが上手く料理をしている間、あたしは薫様と啓太様とフリスビーをやった。とてもいい汗掻いた。
啓太様も薫様もあたしのことを誉めてくれた。
暗くなってから他の犬神たちもやってきた。
せんだん、いまり、さよか、たゆね。ちょっと遅れてごきょうや、てんそう、フラノ。最後にいぐさ。ご飯を食べ終わった後は、花火だった。きれいだった。楽しかった。みんな笑っていた。啓太様も、薫様も。ようこもなでしこも。
きっとこんな楽しい日がずっと。ずっとずっと続いていくんだろうな♪
[#中見出し][#3字下げ]「この時まではそう思っていた……」
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[#中見出し] あとがき
『いぬかみっ!』七巻お買いあげ下さり、ありがとうございました〜。お陰《かげ》様《さま》で話もいよいよクライマックスです。間を空けず、出来るだけすぐ次の巻を出すつもりなのでどうかお付き合い下さいませ〜。
……いえ、本当ですよ?
以前、『インフィニティ・ゼロ』で似たような宣言して引っ張ってしまった過去があるので今回こそは本当に早く出します。
もう狼《おおかみ》少年はいやです。
クライマックスは三巻を書いたくらいの頃《ころ》から漠《ばく》然《ぜん》と思い描いていたものになると思います。『いぬかみっ!』らしい展開になると思います。
きつと。
私事でなんですが、ちょっと。
ある冬の寒い夜。居酒屋で飲んだ帰り道、僕は車道のど真ん中で右《う》往《おう》左《さ》往《おう》している犬を見かけました。この犬はどうもパニックを起こしているようで、行き交《か》う車がクラクションを鳴らす度《たび》、きゃんきゃん吠《ほ》えているばかりで一向にそこからのこうとしません。
よく見ると首《くび》輪《わ》をつけていました。
さらにそこから引きずるようにして革製のリードも。どこかの家から逃げ出してきた飼い犬なのでしょうか?
近くに飼い主らしい人は見当たりません。
僕はとりあえず保《ほ》護《ご》しようと思って車の行き来が一段落した後、その犬に走り寄りました。するとその犬はようやく反応を示して、車道を駆け抜け、僕の反対側に逃げていきました。
僕はその犬を追いかけました。
その二、三ヶ月前に飼い犬を亡くしていたのでなんとなく、意地でも犬を飼い主に返してあげたかったのです。しかし、僕のやり方が悪かったのか、興《こう》奮《ふん》しきった犬はある程度は近寄らせてくれるものの、またすぐに駆け足で僕から距《きょ》離《り》を引き離《はな》してしまいます。
そんな深夜の追いかけっこを二、三時間近くやってました。
とうとう最後に僕は犬を見失ってしまいました。いくら辺《あた》りを探しても、足音もリードを引きずる音も全く聞こえなくなりました。
ひどく悔しかったのを覚えています。
きっと啓《けい》太《た》だったら。
啓太だったらあの時の犬、捕まえてくれたのかなと思ってます。
そう思ってクライマックスを書き上げたいと思います。
最後になりましたが、いつもお世話になっているイラストの若《わか》月《つき》さん、編《へん》集《しゅう》のサトーさんそれと今回のスペシャルサンクスで作品上の非常に重要な示《し》唆《さ》(ヘンタイビョウシャ)を与えて下さった藤《ふじ》原《わら》祐《ゆう》さん、ありがとうございました!
[#地付き]スタバにて。有《あり》沢《さわ》まみず
PS 公式ホームページを立ち上げました。日記は比較的こまめに更新しているので、良かったら遊びにきてみて下さいね〜。
http://kurukoi.jellybean.jp/