いぬかみっ! 6
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お花|栽《さい》培《ばい》してる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から6字上げ]
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特命霊的捜査官・仮名史郎が追いかけていた数々のヘンタイを生み出す魔道具。その中でも最も危険な魔道具の扉が開かれてしまった……。
橋の下で史上さいて〜な生活をしていた啓太とようこは、魔道具の絵の中で繰り広げられる史上さいて〜な戦いへ! そして、大魔道師・赤道斎(やっぱりヘンタイ)と対決するはめに!
川平薫の暗躍、なでしこの想いも錯綜して、物語は急転直下。しかもようこは遂に啓太に本心を迫る! ど〜する啓太?
ますます面白いハイテンション・コメディ第6弾! 犬神の女の子たちのプロフィール付き!
ISBN4-8402-2325-4
C0193 \550E
発行●メディアワークス
定価:本体550円
※消費税が別に加算されます
有《あり》沢《さわ》まみず
パキスタン生まれ。インド育ち。昭和五十一年生まれの牡牛座。第八回電撃大賞で〈銀賞〉を頂く。最近の悩みは髪を染めたのはいいが、目に見えて一本一本が細く薄くなったこと。育毛剤はいやだ〜〜!
【電撃文庫作品】
インフィニティ・ゼロ冬〜white snow
インフィニティ・ゼロA春〜white blossom
インフィニティ・ゼロB夏〜white moon
インフィニティ・ゼロC秋〜darkness pure
いぬかみっ!
いぬかみっ! 2
いぬかみっ! 3
いぬかみっ! 4
いぬかみっ! 5
いぬかみっ! 6
イラスト:若《わか》月《つき》神《かん》無《な》
舞台「endlessSHOCK」を観てきました(なんと前から2列目の良席!)。客席上をフライングする座長の勇姿に胸ときめきつつも、「ああ、薫に対するせんだんやたゆねの気持ちってこんなかも?」と無意識にネタを拾いに行ってしまう自分がいます……。絵描きの性って悲しい。
カバー/加藤製版印刷
[#中見出し]『河童橋にて〜ようこの手紙〜』
てんちかいびゃくいきょく(むずかしすぎるよ……)のお医者さんへ
わたしはようこです。
え〜と、ようこだよ?
字を書くのはむずかしいけど、書けというのでりぽーと? 書きます。
えっと、今、わたしは橋の下にいます。
あのね、ケイタと一《いっ》緒《しょ》に死《しに》神《がみ》を倒したら、ふこうになってしまったの。おうちが壊《こわ》れて、お金がなくなって、それで河童《かっぱ》橋《ばし》(漢字あってる?)という所に住むようになりました!
世間ではおちぶれた、とかどろっぷあうと、とかほーむれす、というらしいです。
わたしは別にそれでも良いんだけど、ケイタは早く新しいおうちに住みたいみたいです。わたしも大きいおうちなら欲しいです。
でも、ここの生活も楽しいです。
河童がいます。
時々、川からはい上がって来るようになりました。
今は留《とめ》吉《きち》も来ていて、ケイタが朝ご飯を作ってあげています。留吉はきばこの前にすわってきょうしゅくしてます。河童はおちゃわんおはしでちんちん鳴らしながら「ごはんまだ〜?」ってさいそくしてます。
「やっかましい〜!」
って、ケイタが怒《ど》鳴《な》り返してます。
ケイタは相変わらず元気が良いです。ゴミすてばからこわれたベッドとか板とかちゃぶだい持ってきて橋の下に家を造ってしまいました。
外はべにやいたとだんぼーるです。
けっこう、いごこち良いよ?
ケイタは天才です♪
だから、この家を『ケイタハウス』ってめいめいしてあげたらすっごくイヤそうな顔をしていました(くすくす)
そう言えばしばらく前にカリナさんが来ました。
びっくりしてました。
呆《あき》れてたのかな?
あの変な木彫りのニワトリと一緒にずっとなにか探しているみたいです。一体、何を探してるのかな? なんだろう?
ケイタのことを、
「君は妙にモノノケになつかれるな」
と、少し笑ってました。
あ、今、ケイタが呼んでます。だから、もう書くの止《や》めるね。むずかしかったけど、ちょっと楽しかったからまた書きます。
りぽーとこれでいい?
あとありがとう。
おかげでわたしはこれからケイタと。
え〜と。
これからもよろしくね♪
[#地から6字上げ]いぬかみのよ〜こ。
[#地から6字上げ]河童《かっぱ》橋《ばし》にて。
「確《たし》かにせんだんはリーダーでいいよ。力もあるし、分《ふん》別《べつ》もあるし、血統も良いし、まあ、ちょっと偉そうだけど、序列一位は決してやぶさかじゃないね」
うんうんと頷《うなず》く合いの手。
「なでしこ……は、まあ、別格だよね」
別格だね。
と、繰《く》り返す声。ちょっと恐ろしそうだ。
「アレは別格で序列二位。ここまではいいね。序列三位さ。これもいぐさでそんなに文句ないかな? 薫《かおる》様のお役に一番、直接立ってると言えばそうだし、私たちがご飯食べられてる……食べられる? のもあの子のお陰《かげ》なんだから」
あの子、一番、弱っちいけどね。
くしし、と笑う声が続く。
「あと序列四位のたゆね。これも仕方ないかな? 一番、強いし」
少しアホだけどね。
と、すかさず合いの手が入る。
「そこら辺はまあ、ご愛《あい》敬《きょう》、ご愛敬。血統が良いから、今後の成長に期待ってことで序列四位もOK。ノープロブレム。でもね」
そ〜そ。
と、声が揃《そろ》った。
「私たちいまりとさよかが序列八位と九位ってのはど〜もね」
納得いかないな〜。
と、リフレインが続く。いつの間にかメインで喋《しゃべ》っている方がくるりと入れ変わった。
「だって、それってともはねのたった一個前だよ? お花|栽《さい》培《ばい》してるのに」
「お子様のすぐ後ろだよ? 果《くだ》物《もの》育ててるのに」
二人の声は歌うようだ。それに対して穏《おだ》やかな声が間に入った。
「そういえば……ともはねは一体どうしたの?」
「あ、薫様」
「え〜と、啓《けい》太《た》様の所に行きました。遊びに行きましたよ?」
急に丁《てい》寧《ねい》に、恭《うやうや》しく二つの声が答える。そう、と少年が頷いた。にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「で、それがいまりとさよかの主張なんだね。ごきょうや」
「はい」
「てんそう」
「……はい」
「フラノ」
「は〜い」
「君たちの意見は? ごきょうや」
「え〜、私は現状に満足してます。正直なところ、山でならいざ知らず、せんだん下の統制においては序列順位はほとんど意味がなく、なんら強制手段を持ち得る地位ではありません。私は薫《かおる》様に頂《いただ》いた使命と研究を果たす日々に誇りを抱いているので、たとえ自分の序列が最下位であろうと不平を述べるつもりはありません」
そこで白衣を着た少女は大きく息を吸って、
「でも、いまりとさよかの下だけは絶対いやです」
「はは」
と、少年が笑った。
「じゃあ、てんそう」
「……右に同じ」
「ん? というと?」
「別に何番でも良いですけど」
「うん」
「……あの二人の下だけは」
「いや?」
「……はい」
「はは」
と、また少年が笑った。ひょろりと背の高い少女がぺこりとお辞《じ》儀《ぎ》を一つした。
「じゃあ、最後にフラノ」
と、呼ばれて、朱《しゅ》色《いろ》の袴《はかま》を着けた少女が笑う。
「はいは〜い。フラノもごきょうやちゃんとてんそうちゃんとご一《いっ》緒《しょ》です♪」
「や?」
「はい。いまりちゃんとさよかちゃんの下になれば絶対、絶対、権力を笠《かさ》に着て、無理|難《なん》題《だい》言われるに決まってますから♪」
「ははは」
突然、少年の声を真《ま》似《ね》て双《ふた》子《ご》が笑った。
「やだな〜。私たちがそんなそんな」
「序列が上になったからって、突然、掃《そう》除《じ》当番変わらせたり、お茶|汲《く》みにこき使ったり、使いっ走りやらせたりすると思う?」
「……するつもりなんだ」
と、ひょろりと背の高い少女がぽつりと呟《つぶや》く。白衣の少女が頷《うなず》いて、
「おまえたちの魂《こん》胆《たん》は見え透《す》いている」
ついで和装の少女が、
「だから、やなんです♪」
ころころ笑った。少女二人が少年にすがりついた。
「あ〜ん。薫《かおる》様! あの子たちあんなこと言うですよ?」
「叱《しか》ってやってください! 叱ってやってください!」
他《ほか》の少女は真《ま》っ直《す》ぐに少年を見つめている。それは信頼の眼《まな》差《ざ》しだった。
少年は頷《うなず》いた。
「分かった。君たちはこの僕《ぼく》に正式な序列を決めて欲しいんだよね?」
少女たち全員が、
「はい!」
と、頷いた。少年は微笑《ほほえ》む。
「ならばちょうどともはねが行ってるみたいだし」
謎《なぞ》めいて、
「いい勝負方法があるよ」
少女たちの悲鳴にも似た驚《おどろ》きの声がその時、上がった。
吉《きつ》日《じつ》市の北西に全長二十メートルほどの石造りの橋がある。籾《もみ》川と呼ばれる比較的、澄《す》んだ清流の上を市内と郊外を繋《つな》ぐ形で築かれていた。擬《ぎ》宝《ぼ》珠《し》が夏みかんの形をしていることや、橋の下が妙に整地され、ベンチなどが置かれてる点でかなり変わっていた。
この橋の下に今、奇妙な住人が二人、住んでいた。
茶《ちゃ》髪《ぱつ》に犬用の首輪をつけた高校生くらいの男の子とすらりとした肢《し》体《たい》の驚くほど綺《き》麗《れい》な少女だった。
犬《いぬ》神《かみ》使いの川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》とその彼が使《し》役《えき》する犬神のようこである。
二人はとある強大な霊《れい》力《りょく》を誇る死《しに》神《がみ》をうち破ってしまったが故《ゆえ》に、その断《だん》末《まつ》魔《ま》の呪《のろ》いを受けて極貧状態になってしまっていた。
まずお金がない。
最初はポケットに入っていた五十二円しか残金がなかった。その後、ちょくちょく啓太が除霊のバイトをしてはいるが、死神の呪いが効いているのか、それとももともと不運の星の下《もと》にでも生まれついているのか、財政状況は一《いっ》向《こう》に改善されなかった。
家財道具一式は破損してしまったので、全部、ゴミ捨て場から拾ってきたリサイクル品だった。それでも器用な啓太が半《なか》ばやけくそ気味のバイタリティを発揮して、徐《じょ》々《じょ》に橋の下に生活空間らしきモノをこしらえ始めていた。
土台を重いコンクリート片でこしらえ、ベニヤ板とベニヤ板の間に段ボールを挟んで外《がい》壁《へき》を作り、その上にブルーシートを雨《あま》避《よ》けとしてかける。さらにドアと窓《まど》枠《わく》もどこからか拾ってきて、上手《うま》い具合に嵌《は》め込み、家としての体《てい》裁《さい》を整えた。
床《ゆか》には木製のゴザを敷《し》き、拾ってきた木材をのこぎりで切り出し、テーブルと椅《い》子《す》を作る。ベッドは幸いにもマットレスごと良質なのが粗《そ》大《だい》ゴミの日に出されていたので、ようこのしゅくちで丸ごと失敬してきた。
ぱっと見、風通しの良い、アジアンテイストな東《あずま》屋《や》(ようこ命名。『ケイタハウス』)である。そこで夜は二人で過ごし、昼、啓《けい》太《た》は学校に行き、ようこは掃《そう》除《じ》をしたり、目の前に流れる川から魚を捕ったりして料理をする。
そんな穏やかな日々が続いていた。
今日も一応、先住の住人である河童《かっぱ》と知り合いの猫《ねこ》又《また》が遊びにやって来ていた。啓太は彼らにクズ野菜と魚のアラが入ったみそ汁を振《ふ》る舞《ま》い、なんやかんやと悪態をつきながら面《めん》倒《どう》を見てやっている。
猫又の留《とめ》吉《きち》は恐《きょう》縮《しゅく》して朝ご飯を頂《いただ》くと、またぺこぺこ頭を下げながら土手を登っていった。河童は食べ過ぎで箸《はし》を握ったまま、すやすや寝息を立てて寝てしまう。啓太は半目になるとまず箸を取り上げ、河童の襟《えり》首《くび》を摘《つま》んで、川《かわ》端《ばた》まで歩いていき、ぽちゃんと川に流した。
河童は眠ったまま、ぷかぷか下流に流されていった。
それを見送ってから啓太はケイタハウスの中に戻ってきて、ベッドの上にどんと身体《からだ》を投げ出し、喚《わめ》いた。
「あ〜、ちくしょう! なんなんだ俺《おれ》の人生!」
「お疲れさま」
ようこがそう言って啓太の頭を抱きかかえ、膝《ひざ》枕《まくら》してくれた。
「お疲れさまだよ、ホント! 高校生の身の上で橋の下に住んで、河童や猫に飯|喰《く》わせて一体どこでかけ間違えたんだ、俺の人生!」
「あはははは、ケイタそういうのいや?」
「いやつうかなんつうか」
「だいじょ〜ぶ。そのうちいいことあるよ、絶対♪」
「……あるのかな〜」
啓太がふて腐れたように丸くなる。さすがに疲れてるようだった。ようこは言う。
「あるある。それでいつか一《いっ》緒《しょ》に大きなおうちに住もう♪ ね?」
それから優《やさ》しく啓太の髪を撫《な》で上げた。
「ケイタはこのわたしが絶対、幸せにしてあげる♪」
啓太はようこの柔らかな足の感触が気持ちよいので微睡《まどろ》むようにまた目を閉じた。ころりと寝返りを打つ。
「お〜、さんきゅうな」
と、小さな声で呟《つぶや》く。無《む》意《い》識《しき》に彼女の膝を撫でた。
「がんばるかあ……そうだな〜。薫《かおる》の家に負けないくらい大きな家が欲しいな」
色々な疲れがすっと抜けていくようだった。心地《ここち》よい。そうしてふと昔のことを思い出していた。そういえば幼い頃《ころ》こういう風《ふう》に柔らかく、暖かいモノに頭を乗っけて、目をつむった記《き》憶《おく》がある。
あれ?
アレは一体なんだっけ?
と、啓《けい》太《た》が怪《け》訝《げん》そうに眉《まゆ》を寄せたその時である。
「あ〜〜〜〜〜〜〜!」
ようこがいきなり立ち上がった。
「お、おわあ〜〜〜!」
と、啓太がベッドから転がり落ちる。
抗《こう》議《ぎ》しようと顔を上げたちょうど彼の頭側にようこが立ったので、スカートの中身。特に素足から真《ま》っ直《す》ぐに伸びる白い脚《きゃく》線《せん》。ふくらはぎから太《ふと》股《もも》。何よりその奥の青と白のストライプ模様のパンツが丸見えになってしまった。
あ。
と、ようこが顔を赤らめる。
啓太が何かコメントする前に、スカートの裾《すそ》を手で押さえ、お尻《しり》をちょっと引いて、
「も〜、ケイタのえっち〜」
はにかみ笑い、上《うわ》目《め》遣《づか》いでぶつ真《ま》似《ね》をした。
「あ、あほう! お前がいきなり立ち上がったからだろうが!」
啓太がベッドに這《は》い上がりながら主張した。なぜかパンツを見たこと自体よりようこの羞《は》じらう姿にどぎまぎしていた。しかし、ようこはそんな啓太の動揺に気がついている風もなく彼を助け起こすと、鼻《はな》面《づら》を近づけ、思いっきり叫んだ。
「も〜、そんなことしている場合じゃなくって大変なのよ! あのね、ケイタ。わたし、これから『天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医局』に行ってくるから!」
「……『天地開闢医局』?」
啓太は怪訝そうな顔をした。それからすぐに頷《うなず》く。
「あ〜、思い出した、思い出した。この前、お前がなでしこちゃんとかと行っていたモノノケのための専門病院な」
「そ〜。今日《きょう》はその予後検診っていうのがあるんだって。なでしこから言われててすっかり忘れちゃってたよ」
「ああ、行けばいいじゃねえか」
「うん、急でゴメンね。ご飯は帰ってから作ってあげるから」
ようこはとんとベッドから降り立つと、両手を顔の前で合わせ、ばつが悪そうに笑った。
「……いや、そんな心配は別にいいんだけどさ」
啓《けい》太《た》は起き上がって、ようこを見やった。彼女は大慌てで色々と準備している。啓太はかなり以前から気になってる。
というか、不安で不安で仕方ないことがある。
「あのさ」
「ん?」
と、ようこが危なっかしく片足で靴《くつ》下《した》を穿《は》く姿勢で、くるっとこちらを振り返った。
「お前、なんかなでしこちゃんとよくそこに一《いっ》緒《しょ》に行ってるけど……一体、二人ともなんの検査してるの?」
すると。
ようこはちらっと照れたように笑った。
「ケイタのエッチ」
上《うわ》目《め》遣《づか》いでそれだけ呟《つぶや》いて、きゃはっと嬉《うれ》しそうに笑うと、その質問に答えず、てててっと駆けてぽ〜んと飛び、天《てん》井《じょう》に向かって消えた。
「おおおおおおおおい!」
と、何故《なぜ》か大慌てで啓太が叫んでいた。追いかけて、ブルーシートで覆《おお》われた天井を見上げて、不安そうに冷や汗を掻《か》く。
「……ホントなんの検査なんだろう?」
最近、ようこはホント啓太の言うことをよく聞くようになった。
髪をポニーテールにしなくても料理をするし、掃《そう》除《じ》もする。特にこの暮らしに入ってからは見違えるようだった。以前のようこだったらパンツはおろか素っ裸を見られても別にどうということはなかっただろう。だが、今は普通の女の子みたいにちゃんと恥《は》ずかしがるし、むしろ世間一般よりも慎《つつし》み深くなっている。
以前は一度着た下着も平気でそこらに脱ぎ捨てだったのに、今は啓太の衣類も含めて全部自分で洗《せん》濯《たく》していた。
喜ばしい。
大変、喜ばしい成長なのかもしれないが。
どうしても啓太の心中は穏《おだ》やかではなかった。まるで知らぬ間に何者かに搦《から》め捕《と》られていくような感覚があった。ふと脳裏に見覚えのあるふさふさした尻尾《しっぽ》の生き物(多分、犬科)が二匹映った。啓太は突然、転げ回る。
「わああああ!!! モノノケのパパはいやだ〜〜〜〜〜〜!」
慌てて立ち上がって、
「こうしちゃおれん。こうしちゃおれん!」
と、上着を着て、家から出ていこうとする。幻覚の中でケモノが二匹じゃれかかって『パパ〜、どこ行くの〜?』とか聞いてくるのを振り払って、
「パパじゃねええ──────!」
と、叫んだ。そこへ。
「あ、そ〜そ。ケイタ」
いきなりひょっこりようこが戻ってきた。
「わあああああ!!! ど、どっから出てくるんだよ!?」
彼女は天《てん》井《じょう》から上半身だけぶらんと垂れ下がった状態で、啓《けい》太《た》の進行方向を塞《ふさ》いでいた。目を細めて笑う。
「あのさ、まさかとは思うけどわたしがいない間、この前みたいなコトなってないよねえ?」
啓太はどきりとして顔を強《こわ》張《ば》らせた。
この前のコトというのは、ようこが検診に出ている間、水着の女の子が部屋にひしめいていた時のコトだ。ようこはその姿勢で啓太の頬《ほお》にそっとその白い手をあてがった。ゆっくり撫《な》で回しながら、啓太の目を覗《のぞ》き込む。
まるでこれからナンパに行こうとしていた啓太の心中を見抜いているかのように。そして見抜いていながら優《やさ》しくそれを窘《たしな》めるかのように。啓太は引《ひ》き攣《つ》った笑顔《えがお》でこくこくと頷《うなず》いた。ようこは怒るより遙《はる》かに怖いとろけるような甘い笑《え》みを浮かべて、
「そうよね……まさかねえ。ケイタも学習してるだろうし、そんなことしたらどうなるか分かってるだろうし」
静かに抑制をきかせて、
「しないよね。ね、ケイタ?」
啓太はがくがく震《ふる》えている。もうどうやっても逃げられない。そんな印象がある。
「ま、いいや」
途《と》端《たん》、ようこが快活な元の表情に戻った。
「とりあえずこの子が来てたからわたしの代わりに置いてくよ。ともはね!」
と、声を張り上げる。
「かもん!」
すとんと天井からようこよりも小さな人《ひと》影《かげ》が一つ床《ゆか》に降り立った。
「啓太様、遊びに来ました〜♪」
すてててと駆け寄ってきて、嬉《うれ》しそうに啓太に抱きついてくる。ツインテールの犬《いぬ》神《かみ》ともはねだった。
「じゃ、あとよろしくね〜」
入れ替わるようにようこがするりと上半身を引き上げ、天井に消えた。啓太は呪《じゅ》縛《ばく》から解き放たれたようにへなへなとその場に腰を落とした。
「あれれ? どうしたんですか?」
と、びっくりしたようなともはねに啓《けい》太《た》がえぐえぐしゃくり上げながら、
「こ、こわかった」
「ようこは変わりましたね〜」
ともはねは天《てん》井《じょう》を見上げながら感心したように呟《つぶや》いていた、
「最近はあたしとかにもすっごく優《やさ》しいですよ……なでしこ以外にもせんだんも誉《ほ》め始めてるし。たゆねとかは相変わらず悪口ばかりだけど」
そこで彼女はぱあっと顔を輝《かがや》かせ、啓太に向き直った。
「さ、啓太様、という訳《わけ》で今日《きょう》はとっても楽しい日《にち》曜《よう》日《び》です。もったいないのできちんと遊びましょう!」
「……お前、相変わらず元気だな〜」
と、しゃがみ込んでいた啓太がほとほと感心したように苦笑した。ともはねは両手を広げ、満面の笑顔《えがお》で主張した。
「あたし、この前やった遊びがまたしたいです!」
「え〜。俺《おれ》、街に出たいんだけど」
と、ちらっと窓の外の晴れ渡った空を眺めて啓太が言う。
「だ〜め」
ともはねは啓太の腕にしがみつき睨《にら》んだ。
「啓太様、あたしも大体ようこと同意見ですよ。啓太様は薫《かおる》様と並ぶ、由《ゆい》緒《しょ》ある川《かわ》平《ひら》家《け》の直系のご主人様なのですから。いい加減、恥《は》ずかしくないように身を慎《つつし》むべきです。沢《たく》山《さん》のオンナの人と遊ぶのはもう感心出来ません!」
「な、なんか、お前に言われるとものすご〜く物悲しいものがあるよ」
「さ!」
ともはねはポケットからささっとゴムボールを取り出すと、それを啓太に押しつけ、床《ゆか》の上にころんと寝っ転がった。啓太はそれを受け取り、さもうんざりしたように言う。
「それにお前、これやるとすぐ本気になるんだもん。いやだよ、おれ」
「だいじょ〜ぶです。ちゃんと我《が》慢《まん》しますから!」
そうして二人の遊びが始まった。
簡《かん》単《たん》に言うとゴムボールを啓太が持って、それをともはねが奪《うば》うゲームである。ともはねは寝っ転がった姿勢から手と口だけを使う。啓太は起き上がろうとするともはねを巧《たく》みな重心移動とタイミングでひっくり返していく。
ともはねの頭や肩をぽんとゴムボールで押して回すように動かすと、ともはねの小さな身体《からだ》がくるっと鞠《まり》のように回転した。啓《けい》太《た》が得意とする中国|拳《けん》法《ぽう》の応用だ。ともはねの起き上がろうとする力を受け流して、コントロールしているのである。ともはねは床《ゆか》に転ばされるたび、ふ〜と目を輝《かがや》かせ、ますます一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、ゴムボールにむしゃぶりつこうとする。
噛[#「噛」はunicode5699]《か》む。
手で押さえる。動きがどんどん子犬のようになっていく。前足で宙を掻《か》く。尻尾《しっぽ》がどろんと出て、勢いよく振られる。
突然、本《ほん》性《しょう》に返った。
「いてええええええええええ!!!!」
と、啓太が同時に悲鳴を上げた。見るとともはねが啓太の二の腕に喰《く》らいついて、う〜う〜言いながらむしゃぶりついていた。
「こらああ! 持ってるニンゲン噛[#「噛」はunicode5699]むの反則! 反則!」
啓太が必死で引《ひ》き剥[#「剥」はunicode525D]《は》がす。ぺちぺちとともはねの頭を平手で叩《たた》いた。ともはねはぱっと口を離して、興《こう》奮《ふん》したように叫んだ。
「啓太様、これから山へ狩りに行きましょう!」
「野生に帰るな!」
「楽しいですよ〜、きっと」
ともはねがまだ未《み》練《れん》がましく言っている。
「啓《けい》太《た》様と二人で狩りに行くんです。お弁当持って、ずっとずっとどこまでも獲《え》物《もの》を追いかけたらきっと面《おも》白《しろ》いですよ?」
「俺《おれ》はやだよ、そんな疲れそうなの」
げんなりしたように胡座《あぐら》を掻《か》いた啓太が答えた。ともはねはまあ、仕方ないか、というように一つ頷《うなず》いた。それから、とりあえず休《きゅう》憩《けい》という感じで、さも当然そうな顔で啓太の膝《ひざ》の上にちょこんと乗っかり、ふい〜と額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》う。
啓太は苦笑し、そんなともはねの手をちょちょいと弄《もてあそ》んだ。まるで本当の兄妹のようにこの二人は結構、気があっていた。
「そういや、お前、最近、よくうちに遊びに来るけど……薫《かおる》は遊んでくれないのか?」
「ん〜」
ともはねはちょっと小首を傾《かし》げた。
「別にそういう訳《わけ》でもないのですけど」
しばし迷いをみせて、
「薫様が最近、仮《かり》名《な》様とのお仕事でお忙しいそうなのもまた事実です。あ、でも」
と、ともはねは啓太の顔を見上げて補足した。
「あたしがここに来てるのは啓太様と遊ぶのが楽しいからですよ? 断じて暇《ひま》を持て余してるからではありません」
「そいつはど〜も」
「あ、あとですね。ど〜いう訳だか知らないですけど、薫様はあたしが啓太様の所に行くととっても喜ぶんです」
「喜ぶの? 薫が?」
「そ〜です。不《ふ》思《し》議《ぎ》なくらいそれを喜ぶんです。本当は薫様、あたし以外にもみんなが啓太様と仲良くして欲しいみたいなんです」
「薫が? なんで?」
「さあ?」
ともはねは小首を傾げた。
「とにかく薫様は啓太様が大好きみたいなんです。あ、それはあたしもそ〜ですけど」
そう言って何故《なぜ》かともはねは少し顔を赤らめた。それは不思議な体《たい》験《けん》だった。特に失敗した訳でも、間違いをしでかした訳でもないのに妙に気《き》恥《は》ずかしい。ともはねはん〜と首を捻《ひね》り、自分自身こんがらかったように啓太を見上げた。
「あれ? あたし赤くなってますか? ……なんで赤くなってるんですか?」
「さあな。俺に聞かれてもしらんよ」
啓太が肩をすくめた。それからふと何かを思い出したようにともはねを見下ろして、にっと笑う。
「そ〜だ。確《たし》か仮《かり》名《な》さんから貰《もら》ったせんべいがあったな。ともはね、食うか? せんべい」
「はい! 頂《いただ》きます!」
ともはねが諸《もろ》手《て》をあげて賛意を表明した。そこへ。
「あ、おせんべいはフラノも是《ぜ》非《ひ》、欲しいですね〜♪」
と、部屋の一角から声が聞こえた。
「ん?」
と、啓《けい》太《た》が首を巡《めぐ》らして驚《おどろ》いた顔になった。
「うお! いつのまに」
「あれ」
ともはねもぽかんとして言った。
「フラノ?」
影《かげ》からつつっとこぼれるように歩み出てきた少女がいる。彼女は窓から射《さ》し込む光の中で緩《ゆる》やかに実体化した。
「はいはい、みんなのアイドル、心のケアはばっちり。精神|鑑《かん》定《てい》はいりません。が、モットーの序列七位フラノですよ〜♪ 啓太様、改めまして宜《よろ》しくお願《ねが》いしますね〜」
啓太はびっくりして少女を見つめていた。ともはねも目をぱちくりさせている。少女はいっこう我《われ》関《かん》せずとにこにこ笑っていた。
底抜けに陽気そうな顔だちに巫《み》女《こ》のような和装。
黄《おう》土《ど》色《いろ》の髪をした大人《おとな》びた美《び》貌《ぼう》だが、紫色のリップと星形の髪飾りがどこかルナティックな雰囲気も醸《かも》し出していた。彼女はてくてくと啓太に歩み寄ると、ともはねの襟《えり》首《くび》を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》み、ぺいっと気安く引《ひ》き剥[#「剥」はunicode525D]《は》がした。
「お、おい」
と、何か言いかける啓太の顔をずずいと覗《のぞ》き込む。
「な、なんだよ?」
啓太は及び腰になる。フラノは小首を傾《かし》げた。
「啓太様は」
不《ふ》思《し》議《ぎ》な色合いの瞳《ひとみ》が揺れた。真《ま》顔《がお》で、
「……オムツがお好きですか?」
いきなりそんなことを言い出した。
「はあ?」
と、啓太が思わず問い返す。フラノはころころと笑った。
「唐《とう》突《とつ》な質問をしてすいませんね〜。でもね、見えたんですよ〜。啓太様はきっとこれから近い将来、オムツをされますね〜。あと、裏切られますよ〜。オンナの人に手ひどく」
「……おい。なんなんだ、こいつ?」
啓《けい》太《た》は薄《うす》気《き》味《み》悪そうに傍《かたわ》らのともはねに尋《たず》ねた。
ともはねが小声で答える。
「フラノは私たちの中で一番、変わった子なんです」
「未来視ですよ〜。フラノには時々、未来が見えるのです♪」
「ほんとかよ?」
と、啓太はまたともはねに聞く。ともはねはこくこく頷《うなず》いた。
「ホントですよ。それがフラノの特技なんです,何か予言する時はほとんど百パーセントの確率でそれが当たります」
「おいおい。するとなにか? 俺《おれ》はこれからオムツを穿《は》いてオンナに裏切られるのか?」
「はい。あとヘンタイに言い寄られて、素っ裸で下水に流されます♪」
「嫌《いや》がらせに来たのかお前は!」
啓太が叫んだ。フラノは人指し指を顎《あご》に当てるポーズで小首を傾《かし》げた。
「お気に召しませんでしたか?」
「めさねえよ! たとえそれが当たってようと当たってまいとな!」
「それは困りました」
フラノは心底困ったよう顔を歪《ゆが》ませた。それからぽんと手を打ち合わせ、にこっと笑う。
「では、仕方ありません。啓太様に喜んで頂《いただ》くためにこうなったらもう手っ取り早くフラノが脱いじゃいましょう♪」
「は?」
と、目を丸くしている啓太の前でフラノはよいしょっ、よいしょっと胸元を開け始める。紫色の豪華な刺《し》繍[#「繍」はunicode7E61]《しゅう》の入ったブラジャーがちらっと見えた。意外なほどに豊満な膨《ふく》らみだ。啓太は慌てて止めた。
「ば、ばか! 何やってるんだ、お前は!」
「あはは、だいじょ〜ぶですよう」
「だいじょ〜ぶじゃねえよ! つうかど〜なってるんだよ、お前の頭は!」
「大丈夫ですって。フラノは他《ほか》のおぼこちゃんたちと違ってちゃんとしたオトナですから、過《か》激《げき》なサービス、サービスくらいは平気なのです。十八禁きゃらですよ?」
「キャラじゃねえっての! とにかく脱ぐな! いきなり脱ぐな!」
「え、お気に召さないんですか?」
「召さない……いや、そ〜じゃなくってだな」
啓太はもどかしそうに頭をがりがり掻《か》いた。なんだか地球外生命体と話しているような気になってくる。ぽかんと口を開けているともはねを指さし、叫んだ。
「ほら、お子様もいるし教育上よくねえだろ! なんのサービスかはしらんが」
「はっはあ」
フラノは感心したように頷《うなず》いた。
「だから、薫《かおる》様はそう仰《おっしゃ》ったんですね。なるほど」
「は? 薫?」
「いえいえ〜、こちらのことです〜」
フラノはまたおっとりとした手つきで着物の襟《えり》元《もと》をあわせる。それからさほど残念そうでもなく呟《つぶや》いた。
「でも、そうすると困りました。啓《けい》太《た》様に気に入って頂くにはいったいどうすればよいのでしょう」
その時、声がかかった。
「……フラノ。時間切れ。今度は私の番」
啓太は振り返り、呻《うめ》くような声を上げた。
「また変なのが出てきやがったな……」
それは部屋の入り口の所だった。何時《いつ》の間に現れたのかひょろりと背の高い女の子がこちらを焦点のとらえ所がない目でじっと見ていた。
「なんなんだ、お前は?」
しかし、少女はその質問に答えない。相変わらずぼ〜と小首を傾《かし》げている。それから、あ〜と間延びした口《く》調《ちょう》で、
「てんそう」
「え?」
「薫様の序列六位。てんそうです……」
と、真《ま》面《じ》目《め》な顔でそう呟《つぶや》く。
「以後、おみしりおきを。啓太様」
それから膝《ひざ》に手をつくような形でぺこりと一礼した。その間、フラノはくすくす笑いながら身を引くと、ともはねの隣《となり》にちょこんと正座していた。
「時間切れは残念。もう少し啓太様とお話したい気分ですけどね〜、フラノは今後ここで大人《おとな》しく見てますよ〜」
ともはねが怪《け》訝《げん》そうに尋《たず》ねた。
「フラノ……それにてんそうも。普《ふ》段《だん》あんまり動かないあんたたちが一体、何しに来たの?」
しかし、フラノは脳天気な声で笑って答えない。それから、
「川《かわ》平《ひら》啓太様はとっても面《おも》白《しろ》い運命をもってらっしゃいますね♪」
と、だけ言う。
「……運命?」
ともはねが小首を傾げた。フラノは愉《ゆ》快《かい》そうに指を立てて、
「あははは〜、私でも上手《うま》く読めないんですよね〜、これが。オムツをして、女性に裏切られて、ヘンタイに言い寄られて、下水を流される以外は」
「うるせえよ!」
と、啓《けい》太《た》がそこだけ突っ込む。フラノはまたアハアハと笑った。
「ともはね。啓太様はとっても面《おも》白《しろ》い方ですね」
「う、うん。そうだね」
ともはねはどこか釈《しゃく》然《ぜん》としない顔で頷《うなず》いた。啓太の方を見やるとこちらはこちらでぼ〜と置物のように突っ立ってるてんそうの取り扱いに困っていた。
てんそうは背の高い少女だった。
実際は啓太よりもちょっと上背がある程度だが、やや猫背な上に、ひょろりとしているので特にそう見えるようだ。
「……啓太様、似《に》顔《がお》絵《え》はお好きですか?」
と、突然、彼女がそう尋《たず》ねてきた。抑《よく》揚《よう》なくぼんやりと、
「出来るだけお望みのままに……美化120パーセントの方針でいかせて頂きます。はい。そうすれば仲良くなれるのではないでしょうか?」
「……おい、こいつは一体なにを言ってるんだ?」
啓太は困ったようにともはねを振り返った。どうもこのてんそうといい、フラノといい、コミュニケーションが取りにくいタイプで困る。言っていることが突《とっ》拍《ぴょう》子《し》もなくて、どう反応して良いかまるで分からないのだ。
すかさずともはねが助け船を出した。
「えっとですね、啓太様。てんそうは絵が得意なのです。絵《え》描《か》きなのですよ。きっと啓太様の似顔絵を描いてゴキゲンを取りたいのだと思います」
「あ〜、なるほど」
啓太が手を打った。
「で、そういうことなのか?」
と、てんそうに確《かく》認《にん》を取ると、彼女は子供のようにこくりと頷いた。
「芸術家、というのはおこがましいですけど……さほどは。それほどでもなく」
言ってる口《く》調《ちょう》は先ほどから茫《ぼう》洋《よう》と変わらないのだけど、どうやら少し照れてるらしい。きちんと正座したフラノが笑った。
「てんそうちゃん、これはよく考えましたね〜。啓太様。てんそうちゃんはああやって謙《けん》遜《そん》してますけど腕前はかなりのものなのですよ♪」
「似顔絵ね〜」
啓太は考え込んだ。
「いや、別に特に頼む理由もねえけどさ」
するとてんそうが不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに小首を傾《かし》げた。啓《けい》太《た》はそれを見ながら言う。
「ま、でも、逆に特に断る理由もねえよ。なんだか分からないけど俺《おれ》と仲良くなりたいってなら、いいぞ。好きにしろよ」
するとてんそうが今までののんびりした動きからは想像もつかない程《ほど》の機《き》敏《びん》さで一、二度ぱぱっと手を振るった。その瞬《しゅん》間《かん》、いつの間にか大きなスケッチブックと筆が彼女の手にすっぽり納まっている。
まるで手品のような早《はや》業《わざ》だ。
「では」
啓太が驚《おどろ》いて尋《たず》ねた。
「おい! お前、今、一体どっからそれ取り出した!?」
「てんそうはいつもそうですよ!」
と、ともはねが明快に言い添えた。啓太がびっくりしている間、てんそうが正面に回り込んできて小首を二度ほど左右に傾げた。
彼女はさらに頭を上下に上げ下げしてから、
「あの、啓太様……」
「え? なに?」
「よろしかったらそのベッドに腰かけて」
「こうか?」
「そ〜。光がちょうどよい角度になってる……構図も大変よい」
「……ん? こうか?」
「です」
啓太が言われた通りに腰を落とす。
てんそうがこくりと頷《うなず》いた。一拍|間《ま》があった。そして次の瞬間、彼女の右手が突然、なんの前触れなく宙を掻《か》き出した。目にも止まらぬ早業だった。ぱぱぱぱぱっと筆が紙を叩《たた》く音だけがする。彼女の顔は全くいつもと変わらぬのんびりしたモノなのに、その手だけが別のイキモノのようにしなるように動いていた。
たった三十秒でその作業自体は終わった。
「はい。お疲れさまでした……」
てんそうが深々と一礼した。啓太は唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としている。
「早! なに? もう終わったのかよ!?」
「……はい。元々、見ては描きませんから」
と、てんそうがさも何でもないことのように言う。受け取ったスケッチブックを見て重ねて啓太は驚いた。
「うお! うめえ〜な、おい!」
それは実に鮮《あざ》やかな素《そ》描《びょう》だった。きちんと光の濃《のう》淡《たん》から背景までを描き込んでいる。とてもたった三十秒で描いたとは思えない絵だ。啓《けい》太《た》がにっと不敵に笑っている。しかも取った覚えのないピースサインまでしていた。
モデルの本質をよく見極めている。荒々しく、喧《かまびす》しく、今にも走り出しそうな躍《やく》動《どう》感《かん》に満ちていた。それでいてきちんと美化もされているのだ。実物よりほんの少しだけ格《かっ》好《こう》良くきらんと白い歯が輝《かがや》いていた。
「あ〜、やっぱりてんそうの絵ってうまいな〜」
「さすがですね、てんそうちゃん♪」
啓太の左右から覗《のぞ》き込んだともはねとフラノが感心したようなコメントを加えた。啓太は描かれた自分をしげしげと眺め、それからふとその後ろのページにもまだ絵が何枚かあることに気がついて何気なくスケッチブックを捲《めく》った。そして、
「ぶっ!」
と、思わず噴《ふ》き出してる。そこには素肌のなでしこが清《せい》潔《けつ》そうなシーツにくるまってしどけなく眠っている姿が描かれていた。
技術が人間離れして卓《たく》越《えつ》しているのでほとんど写真に近い。どきっとするくらい髪が乱れ、太《ふと》股《もも》の内側のほくろまで色っぽく見て取れた。
「あ!」
と、てんそうがその時、初めて少し困った顔をした。
「それはモデルの許可をとってないから」
啓太からスケッチブックを引っ張り、いやいやと首を振る。
「ダメです」
その次のページはなんだか上半身裸の薫《かおる》が月を背にぱさっと髪を払うポーズで立っていた気がする、さらにどういう訳《わけ》か『いぐさ専用。啓太様も?』という文字。啓太はそこには妙に触れてはいけない気がして、大人《おとな》しくスケッチブックを返すことにした。
てんそうは申し訳なさそうに、
「……代わりにこれなら、いいです」
スケッチブックから一枚ぺりっと破って啓太に差し出した。
海水パンツ姿の仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がにこやかに笑ってポーズを取っていた。
「いらねえよ!」
と、啓太が叫ぶ。そこへ。
「てんそう。時間だ。今度は私がやろう」
さらに別の涼《すず》やかな声が聞こえてくる。その場にいた全員の視《し》線《せん》がそちらを向いた。小柄な身体《からだ》につんつんしたショートヘア。目鼻立ちの整った少女がすうっと壁《かべ》を透過してくるところだった。彼女は足を止め、カーディガンの上から羽《は》織《お》っている白衣の胸に片手を当てると、丁《てい》寧《ねい》に啓《けい》太《た》に向かってお辞《じ》儀《ぎ》をした。
「度《たび》々《たび》、お騒《さわ》がせしております。薫《かおる》様の序列五位。ごきょうやと申します。啓太様、以後、お見知りおきを」
恭《うやうや》しくかつ真《しん》摯《し》。声がよく通る少女だった。
「お〜。また見慣れないのが来たな」
啓太が苦笑気味にそう答えている。一方、ともはねも困惑したように呟《つぶや》いていた。
「ごきょうやまで……フラノ。てんそう。あなたたち本当に何をしに来たの?」
だが、彼女の隣《となり》に正座したフラノはアハアハ笑って答えないし、さらにその隣に座ったてんそうはスケッチブックにじっと視《し》線《せん》を落としている。ともはねは溜《ため》息《いき》をついた。薫の犬《いぬ》神《かみ》の中でも特にコミュニケーション不全と名高い二人だ。
細かいことを聞くのは諦《あきら》めるしかないだろう。啓太の方を見やると、彼は新しく現れたごきょうやと向かい合って話をしていた。
「ん〜。なんかお前とはまだ話が通じやすそうだな。ごきょうやだっけか?」
そう言われてごきょうやがわずかに苦笑した。フラノとてんそうをちらっと見やり、
「恐らくご迷惑をおかけしたことと思います。少しばかり浮《うき》世《よ》離《ばな》れした二人ですが、性《しょう》根《ね》の悪い者ではないのでどうぞお許しを」
「いや、別に迷惑もしてねえけどさ……なんなんだ、お前らは? 何しに来た?」
「申《もう》し訳《わけ》ありません。一応、それはまだお話できないルールなんです」
「ルール?」
「はい、啓太様。ただ決して啓太様を蔑《ないがし》ろにするような行為ではありません。どうぞ、しばらく我《われ》らの行いをご寛《かん》恕《じょ》くだされば幸いです」
「……よ〜するになんだ? 俺《おれ》を喜ばせれば勝ちなのか?」
ごきょうやはその質問には直接答えず、やや困ったように目を逸《そ》らした。しばし、躊《ちゅう》躇《ちょ》してから思い切ったように尋《たず》ねる。
「……啓太様、お身体《からだ》の具合が悪いところはありませんか?」
「身体?」
啓太はきょとんとした。それから、ふと何かを思いついて声を立てて笑った。
「はは、なるほどなるほど。分かったよ。その白衣、お前は要するに医者≠ネんだな?」
ごきょうやは曖《あい》昧《まい》に頷《うなず》いた。
「はい。よくお分かりで。ご指摘通り、私は医学を志しております。特に本《ほん》草《ぞう》学《がく》を重点的に、我らの同胞たちを癒《いや》す術を学んでいるのです。いずれ近い将来、薫様に願《ねが》い出て天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医局への留学を許可して頂《いただ》こうと思っております」
「あ〜、あそこな。今、ようことかが行ってるな。で、俺の歓《かん》心《しん》買うためにお前は診察してくれる訳か?」
「はい」
ごきょうやはまた頷《うなず》く。奇妙に間が悪そうな表情をしていた。啓《けい》太《た》はそんな彼女の様《よう》子《す》に気がつかないかのようにしばし考えて、
「ん〜。俺《おれ》、健康だからお前に診《み》て貰《もら》う必要は特にない。でもさ」
と、一度区切った。
「お前に聞いてみたいことはある」
「……なんでしょうか?」
「お前、天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医局のこと詳しいか?」
「は?」
と、ごきょうやが小首を傾《かし》げた。啓太はやや不安そうに、
「いやな。お前がそういうモノノケの医者を目指しているなら知ってると思ってさ。今、ようことかなでしこちゃんがあそこ行ってるだろ? アレ、一体なんの検査やってるんだ? 知ってるなら教えてくんね〜かな?」
するとごきょうやがしばし考え込んで、
「今、この時期にですか?」
「うん」
「あ〜、すると例の第三科の転生医がやってるアレか」
ふと赤くなった。
「啓《けい》太《た》様」
「な、なに?」
「……意外にえっちですね」
上《うわ》目《め》遣《づか》いで羞《は》じらう視《し》線《せん》になる。表情が比較的クールなごきょうやがやると異様な破《は》壊《かい》力《りょく》があった。わ〜と啓太が頭を抱えだした。
「な、なんなんだ、一体? つうかえっちってなんだ! 答えになってねえだろ、それ!」
ごきょうやはその間、逃げるように脇《わき》に退こうとする。するとそれまで黙《だま》っていたフラノが脳天気な声を出した。
「あ〜、だめですよ、ごきょうやちゃん♪ ごきょうやちゃんが言いたいことはそれだけじゃないでしょ? 宗《そう》太《た》郎《ろう》様のことも話さなきゃ」
あっとごきょうやが口を開けた。ぱたぱた手を振る。
「ば、ばか! それは!」
同時にのたうち回っていた啓太が動きを止めて、ごきょうやとフラノを交互に見た。
「宗太郎?」
ごきょうやは横を向く。フラノはにこにこ笑っている。
「そ〜です」
「……って俺《おれ》の親《おや》父《じ》の宗太郎のことか?」
啓太が重ねて問いかけると、
「……はい」
ごきょうやが観念したように溜《ため》息《いき》をつき、白衣の上半身を掻《か》き抱いた。それから少しばかり躊躇《ためら》った後、哀《かな》しそうな笑《え》みで啓太を見つめる。
「私はかつてあなたのお父様の犬《いぬ》神《かみ》だったのですよ。啓太様」
啓太の父親宗太郎は現在、ヨーロッパに在住している。あちらの大学で教《きょう》鞭《べん》を執っている母親に付き添って、主夫業をやるためだ。啓太はもう二年ほど両親とは直接会っていない。ごくたまに電話でやり取りする程度である。
だが、別に疎《そ》遠《えん》だとか、仲《なか》違《たが》いをしている訳《わけ》でもない。会えば会ったで普通の親子のように接するだけなのだ。
基本的に川《かわ》平《ひら》の一族は放任主義なのである。そして寂しがらない。それは宗《そう》家《け》である啓太の祖母から親《しん》戚《せき》一同、啓太、薫《かおる》に至るまでの不《ふ》思《し》議《ぎ》な気質だった。
哀しむとか、切ないとかいう感情をどこかに置き忘れたような人々なのだ。
そして宗太郎はその中でも特にお気楽な一人といえた。
ただ、彼には妻にべたぼれしている、という重大な弱点があった。彼が啓太の母親に対する献《けん》身《しん》ぶりといえばそれはもう健《けな》気《げ》なものがあって、朝から晩まで甲《か》斐《い》甲《が》斐《い》しく世話を焼き、未《いま》だに手《て》ずからスプーンでご飯を食べさせて悦《えつ》に入ってるくらいだった。
傍《はた》目《め》、非常に鬱《うっ》陶《とう》しい。
さらに啓《けい》太《た》の母親は学者にありがちなやや夢見がちで突《とっ》飛《ぴ》な人で、同時に勝ち気な焼《や》き餅《もち》焼《や》きでもあった。結婚にあたって断固として犬《いぬ》神《かみ》(特に女の子の)を追い出すように要求したのも彼女である。
犬神を可愛《かわい》がってはいたが、それ以上に彼女の言いなりだった宗《そう》太《た》郎《ろう》としては他《ほか》に選択肢もなく、泣く泣く犬神使いを廃業するしかなかった。
それが啓太も知ってる両親の馴《な》れ初《そ》めである。
「は〜」
啓太が感心したようにしげしげとごきょうやを見つめていた。
「するとその時、親《おや》父《じ》が山に戻した犬神の中の一匹つうのがお前なんだな」
「はい……そしてその次に私がお仕えしたのが薫《かおる》様なのです」
基本的に人間など比較にならない長寿の存在である犬神は、複数の犬神使いに仕えているケースがほとんどである。
「薫様の犬神はせんだんも含めて比較的そうでもないのですが、あそこにいるフラノやてんそうなども薫様以前に何人かの川《かわ》平《ひら》家《け》の方にお仕えしておりますよ」
フラノがにこにこ笑って手を振り、てんそうがぼへ〜と頭を下げている。啓太は深く溜《ため》息《いき》をついた。
「なんか……お前らが人《じん》外《がい》の存在だって今、初めて実感できたような気がするよ」
外観は啓太と同《おな》い年くらいなのに、その何倍もの生を重ねているのだ。その長い、長い時の流れの間にはきっと色々なこともあっただろう。だが、それでも彼女たちは川平家の人間と共にいてくれることを選んでいる。
啓太は感《かん》慨《がい》深げに言う。
「あ〜、なんかさ」
「はい? なんでしょう?」
ごきょうやが少し身を引き気味にして尋《たず》ねた。啓太は困ったように笑って、
「これ、俺《おれ》が言うことじゃねえのかもしれないけどさ」
「はい」
その言葉は自然に出ていた。
「悪かったな」
「え?」
「俺の親父がお前たちを途中で手放しちゃって」
啓太はすっと手を伸ばし、ごきょうやの頭にぽんと手を置いた。くしゃ、くしゃっと気負いなく笑う。申《もう》し訳《わけ》なさそうに、
「ごめんな。哀《かな》しかったろ? 悔しかったろ?」
ごきょうやはしばし言葉を失って啓太をぽかんと見ていた。それから急に赤くなる。
「あ、いえ、そ、そんな!」
そういう反応はちょっと予想外だったようだ。啓太は重ねて静かな声で、
「親《おや》父《じ》もきっと悩んだんだと思うんだ。でも、あの人、母さんがすげえ大事な人だから」
「……はい」
ごきょうやは俯《うつむ》いた。哀しげに。
「でも」
時間の重みを噛[#「噛」はunicode5699]《か》みしめるようにゆっくりと呟《つぶや》いた。
「お陰《かげ》様で今はまた薫《かおる》様という素《す》晴《ば》らしいご主人様と出会えました……それに宗《そう》太《た》郎《ろう》様の血を引く啓太様とこうしてお会いできています」
だから。
と、彼女は思い切ったように顔を上げる。
「私はもっと早く啓太様にご挨《あい》拶《さつ》するべきだったのですが」
そう言いかけた時、突然、部屋の中がもの凄《すご》く騒《さわ》がしくなった。
「くすくすくす」
「あははははははは!」
聞こえてきたのは悪戯《いたずら》っぽくも喧《かまびす》しい少女二人の笑い声だった。ともはねやフラノ、てんそうがきょろきょろと辺りを見回す。
「時間切れ〜」
「ごきょうや、すていばっく! 私らの番だよ〜ん」
ごきょうやは一《いっ》瞬《しゅん》、抗《こう》議《ぎ》しようと口を開きかけた。
しかし、相手の厄《やっ》介《かい》さを考えて溜《ため》息《いき》をつき、その言葉を飲み込む。代わり啓太に恭《うやうや》しく会《え》釈《しゃく》するとするりと身を引き、てんそうの隣《となり》に座り込んだ。ともはねはそんな彼女の横顔を見ながらふと思い出していた。このごきょうやは確《たし》か啓太が初めて契約の儀《ぎ》式《しき》を行った時、ただ一人その場にいなかった者だ[#「その場にいなかった者だ」に傍点]。
薫の犬《いぬ》神《かみ》たちの間で啓太の話題が出ると決まって困った顔をして、コメントを差し控えてきた。決して良くも悪くも言っていない。
啓太の父親に仕えていたのなら、そして、その大好きだった主人から暇《いとま》乞《ご》いされたのなら、その息子に対してはきっと色々と複雑な想《おも》いもあるのだろう。今、ごきょうやは何かを吹っ切ったとても懐《なつ》かしそうな目で啓太を見ていた。
ともはねはドキドキしていた。
一方、啓太の前にはそんなしんみりした空気を吹き飛ばすかのように、二人の女の子が元気よく現れていた。
彼女らは地面からふわっと浮き上がり、卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の上にいきなり飛び乗ると、
「一番いまり、ちらりズム!」
髪を右側で片結びした少女が服の裾《すそ》をちらっと捲《まく》って太《ふと》股《もも》の横をみせる。パイナップル柄《がら》のチャイナ服だった。
続けて頭の左側に片結びがある少女が同じく卓袱台の上で、
「二番さよか、うっふん♪」
唇を尖《とが》らせ、前《まえ》屈《かが》みになり胸元を少しはだけさせた、彼女はハイビスカス柄のチャイナ服を着ていた。
二人とも全くそっくりの外見をしていた。
「……」
「……」
「……」
長い長い沈《ちん》黙《もく》が訪れた。やがて固まっていた啓《けい》太《た》が半目になった。
「で?」
全くなんの感《かん》慨《がい》もない冷たい口《く》調《ちょう》だった。少女二人は恐れ戦《おのの》いたように後ろに下がった。
「な、なんですとお?」
「私らのサービスショットがきかない? 啓太様、男性としての能力を失われましたか!?」
「あほ」
啓太はあっさり切り捨てた。
「これでもですか?」
ハイビスカス柄が胸を寄せて上げるような格《かっ》好《こう》になり、上《うわ》目《め》遣《づか》いになる。
「これでもですか?」
もう片方が座り込み、すらりとした片足を上げ、挑発的に投げキスをした。啓太が無言で首を振る。
「うれしくねえ。ぜ〜んぜんうれしくねえ」
「ば、ばかな。ならばこれなら!」
「いやいやいや、これなら」
啓太が大声を出した。
「どうやっても変わらねえよ!」
二人がびっくりして動きを止めた。啓太はちょっと横を向きながら、
「なんつうか、お前ら、その……言い方が悪いんだが」
ぽつりと。
「ともはねとあんま外観変わらないんだもん」
フラノ、てんそう、ごきょうやが一《いっ》斉《せい》に拍手を始める。ともはねが目を白黒させていた。確《たし》かにいまりもさよかもやや丸みに欠け、女性的と言うよりは子供っぽかった。大体、人間で言うと十四、五の年《とし》格《かっ》好《こう》だ。
啓《けい》太《た》の守備|範《はん》囲《い》からはやや逸《いつ》脱《だつ》している。
「が〜ん」
と、口に出していまりが言っていた。さよかが、
「そ、そんな……啓太様にならちょっと色仕掛けで迫れば、何しろ煩《ぼん》悩《のう》色《しき》欲《よく》の塊《かたまり》。たちどころに食らいついて私たちを序列の上位にしてくれると思ったのに」
「思ったのに」
「お前ら、俺《おれ》をなんだと思ってるんだ!」
いまりとさよかがさらに突進してすがりついてくる。
「そんなあ〜、啓太様、私らこれでもプライド捨てて媚《こ》び売ってるんですよ?」
「ほら? ほら? ねえ、可愛《かわい》いでしょ? 指名してくださいよ〜」
「え〜い、しるか! つうか、なんだ、指名ってのは?」
「指名というのは」
こっほんとごきょうやが前に出て咳《せき》払《ばら》いをした。
「……もう申し上げても良いでしょう。啓太様。啓太様も既《すで》にご存じかと思いますが、我《われ》ら犬《いぬ》神《かみ》は群れの中においてかなり明《めい》確《かく》な序列を作る人《じん》妖《よう》です。しかし、自由な気風の薫《かおる》様の下ではその序列にはっきりとした指針が見つからずずっと困っておりました。そこで薫様に争いの調《ちょう》停《てい》をお願《ねが》いしたのです。ところが薫様は」
「ああ、なるほど」
啓太がぽんと手を叩《たた》き、急に半目になった。
「……俺に決めさせろ、ってそう言ったんだな?」
「ええ、その通りです」
ごきょうやが生《き》真《ま》面《じ》目《め》に頷《うなず》いた。啓太が舌打ちを一つした。
「くそ。てめえのところの面《めん》倒《どう》ごと全部人に押しつけやがって……あの似非《えせ》爽《さわ》やかめ!」
そこへ顔を見合わせ、にっと笑ったいまりとさよかがすり寄っていった。
「啓太様〜」
「ねえ〜、けいちゃ〜ん。という訳《わけ》だからさ〜、私らもっとサービスするからさ、序列五位と六位に認めてよう」
「こら!」
ごきょうやが慌てていまりとさよかの襟《えり》首《くび》を後ろから掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んだ。
「なんだ、けいちゃんって!? 失礼にもほどがあるぞ!」
「や〜ん」
「啓《けい》太《た》様、年《とし》増《ま》が私たちを苛《いじ》める〜」
「誰《だれ》が年増だ! おまえたちと百歳も変わってない!」
ごきょうやと双《ふた》子《ご》が揉《も》めてるところへてんそうがのんびりと、
「ごきょうやの言うとおり。失礼なのはよくない」
「あ、何よ! てんそうの癖《くせ》に良い子ぶっちゃって!」
「ま〜ま〜。楽しく楽しく♪」
フラノがころころ笑いながら押しくらまんじゅうの要領で身体《からだ》を押しつける。関係ないともはねまでうずうずして、
「う〜〜」
じたばたと少女の輪の中に飛び込んだ。少女たちはやいのやいの言いながら啓太を押し包むようにして、口々に何か主張している。
ぐにぐにと身体を押しつけるいまりとさよか。怒ってるごきょうや。ぼ〜と天《てん》井《じょう》を見ているてんそうに笑っているフラノ。ともはねが啓太の頭の上によじ登り、いまりとさよかがさらにその上へジャンプ。ごきょうやが二人をひっつかみ、てんそうが崩《くず》れてくる。
フラノがまた笑った。啓太が叫んだ。
「やかましい! すとおおおおおおお────ぷ! すとおおお─────ぷ! お前ら全員すとおおおおお──────ぷ!」
ようやく少女たちがぴたりと動きを止めた。全員、重なり合うような体勢で啓太のことをじっと見ている。
啓太は皆の顔を順番に見返した。それから、
「分かった」
と、大きな溜《ため》息《いき》をついた。
「よ〜するにお前ら、俺《おれ》が序列を決めてやったら満足なんだな? それでいいんだな?」
少女たちは揃《そろ》えたようにこくこくと頷《うなず》く。啓太はぴんと指を一本立てた。
「よし。じゃあ、こうしろ」
頭の中でちょっと考えている。それからちゃっちゃとした声で、
「これから特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》を捜し出し、あの人に序列を決めて貰《もら》え。手段は問わねえ。これならフェアだろう?」
全員、黙《だま》っている。
それはさっき啓太が自分で言っていた面《めん》倒《どう》ごとを全部、人に丸投げしている≠アとなんじゃないのかな〜と首を傾《かし》げていた。
啓太は声を張り上げた。
「あ〜、はいはいはい! 早い者勝ち! 急げ急げ急げ!」
その合図でいまりとさよかがいきなり部屋から天井に向かって飛び出していった。どういう形であれ、勝負事に勝てるのなら全く躊《ちゅう》躇《ちょ》しない二人なのだ。
「あ〜」
と、フラノが声を上げている。
「私も、私も〜」
と、間延びした声で言い、くるっと啓《けい》太《た》を振り返って笑った。
「啓太様の未来……また見せてくださいね」
そして消える。次にてんそうが、
「啓太様……お陰《かげ》様《さま》で良い絵が描《か》けました。ありがと」
ぺこりと頭を下げ、壁《かべ》に向かって透過した。最後にごきょうやが何か言おうとして、また口を閉じる。代わりに目を細め、
「いずれ、また」
そして彼女もふっと姿が見えなくなった。啓太がはあっと溜《ため》息《いき》をついた。嵐《あらし》のように騒《さわ》がしい小一時間だった。ともはねがじっとそんな啓太の後ろ姿を見ていた。啓太は彼女を振り返り、苦笑混じりに言った。
「ま〜、なんだかよく分からなかったけどさ」
くしゃくしゃとともはねの髪を撫《な》でる。
「どうせならお前の序列順位だけは上げておいてやればよかったな。なにしろ俺《おれ》の一番のお気に入りはお前なんだからさ」
ともはねが真《ま》っ赤《か》になった。
ようこがそれからしばらくして帰ってくると、啓太はベッドの上で大の字になって寝ていた。小さなともはねが彼の傍《かたわ》らで寄り添うようにぴったり身体《からだ》を押しつけ、丸くなっている。服の裾《すそ》をきゅっと握っていた。
ようこはん〜と眉《まゆ》をひそめる。
だが。
「ま、こいつはいいか」
と、苦笑し、心地《ここち》よさそうな伸びを一つすると、身体をベッドに投げ出した。啓太の隣《となり》ちょうどともはねを挟むよう形で、
「おやすみ」
目をつむる。満足そうな笑《え》みだった。
余《よ》談《だん》だが、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》を巡《めぐ》っても結局、序列は確《かく》定《てい》せず、いまり、さよか、フラノ、てんそう、ごきょうやの五人は今度は薫《かおる》の寝室捜し≠ノ競争の対象を移したという。
[#改ページ]
[#中見出し]『河童橋にて〜ようこの手紙〜』
てんちかいびゃくいきょくのお医者さんへ(やっぱり字がむずかしいよ?)
この間のけんさではいろいろとありがと〜。
色々なヒトが来てるんだね〜。がいこくの人もいるんだね。面《おも》白《しろ》かった!
あのね、れぽーと書けというのでまた書きます。れぽーと書くのはそんなにきらいじゃないよ。字はむずかしいけどね。
え〜とね、あれからまだわたしとケイタは河童《かっぱ》橋《ばし》に住んでいます。河童は大分、図《ずう》々《ずう》しくなってきて今、ケイタのひざの上でぐで〜とお昼寝しています。ケイタが変な顔をしています。くす。ケイタはきっといいパパになりそうです。
とか言ったらケイタ、すっごくあわてた顔になりました。
あの顔は知ってます。
うわきしなきゃ!
って顔です。とっても逃げたそうです。でも、逃がさないもんね〜。
かじも、せけんのことも覚えました。
わたしはケイタのことが大好きだもん。ふふ。
そ〜そ。
あとね、ケイタがいろいろと探したらほとんどただみたいに安いおうちを見つけました。ケイタがふどうさんやさんに電話しても断られなかったそうです。
なんか悪いもんがとりついてるみたいです。
でもね、わたしとケイタなら関係ないからね♪
とっととそいつらやっつけて、そこに住んじゃいます。だいしゅっせです。ケイタが言うには「橋の下の負け犬生活からおさらば」なのだそうです。
明日《あす》はじっさいに家を見に行ってきます。
あ、でも、この河童はどうしよ〜かな?
可愛《かわい》いからひっこしさきにもつれていっちゃおうかな?
どう思う?
[#地から6字上げ]いぬかみのようこ。
[#地から6字上げ]河童橋にて。
「にょたいにょたいにょたい♪」
狂おしく踊る影《かげ》。
「えっほえっほ♪」
揺らめく明かり。
「にょたいにょたいにょたい♪」
妖《あや》しく異なる者たちが集《つど》って踊り狂う。ある者は四つ足でどんどんと床《ゆか》を踏みしめながら、ある者は天《てん》井《じょう》から逆《さか》さにぶら下がり、甲《かん》高《だか》い音を軋《きし》ませ、揺れ続ける。青白い光を放ち、ざあっと砂《すな》嵐《あらし》にも似た音を立てている者がいる。
時折、鼻先を威《い》嚇《かく》するように掲げ、突風を巻き起こす者がいる。
世にもおぞましいサバトであった。
「にょたいにょたいにょたい♪」
「ひ〜ひひひひひ♪」
と、たがの外《はず》れた不気味な笑い声が木《こ》霊《だま》した後、
「にょたいにょたいにょたい♪」
という念《ねん》仏《ぶつ》にも似た呟《つぶや》き声が聞こえる。
「にょたいにょたいにょたい♪」
悪《あく》霊《りょう》たちの声は甲高く、低く、小さく、時に大きくうねるように空間を満たしていった。
「ゆ、ゆるしてください!」
真《ま》ん中《なか》で一人、震《ふる》える者が叫んだ。
「どうか、そればかりは許してください!」
世にも悲痛な嘆《たん》願《がん》である。
しかし、悪霊たちの答えは無《む》慈《じ》悲《ひ》であった。
「い〜や、許さぬ。どうしても我《われ》らの命《めい》に従えぬと言うのなら」
ちかちかっと音がした後、炎がぼっと闇《やみ》に浮かぶ。
「お前のもっとも大事なものを焼いてやる!」
悲しみの叫び声がそこから迸《ほとばし》った。
深い、深い闇の中の話である。
翌朝、吉《きち》日《じつ》市はこれ以上ないと言って良いほどの快晴を迎えていた。しかも三日間にわたる連休の中《なか》日《び》と言うこともあって、街の中心部は大いに賑《にぎ》わっている。暑かった夏も終わり、戸外は涼しい風が吹くようになっていた。
半《はん》袖《そで》と長袖の人が大体、半々くらいだった。
すっきりとした綺《き》麗《れい》な青空の下、雑《ざっ》多《た》な衣類や小物を売っているフリーマーケット、クレープを売っているバンなどが立ち並んでいる。綺《き》麗《れい》な放《ほう》物《ぶつ》線《せん》を描く噴《ふん》水《すい》の前では、大道芸人が滑《こっ》稽《けい》なパフォーマンスを行っており、休日のそぞろ歩きを楽しむ人たちが足を止め、笑いさんざめいていた。
そんなちょっとした憩《いこ》いの空間に際《きわ》だって特異な一つの存在があった。
「すいません……あの、へい、彼女」
そんな言葉を甲《かん》高《だか》い声で発しながら、よたよたと通りすがる女性に近寄っていく。手足をそれぞれ別々の生き物のようにぎくしゃく動かし、ぴょこんぴょこんと頭を大きく上下させていた。不自然なほど強くへの字に結んだ口元。
棒《ぼう》線《せん》だけの目。布のような質感の肌。
明らかに不《ふ》審《しん》人物である。
従って大《たい》概《がい》の女性は彼を丁《てい》寧《ねい》に無視するか、中にはあからさまに驚《おどろ》いた顔や、怯《おび》えた表情になってそそくさとそこから足早に立ち去っていった。
それでもその存在は懲《こ》りることなく、
「すいません……彼女、あの、お茶でもどうだい、へい?」
およそ通りかかる妙《みょう》齢《れい》の女性|全《すべ》てに素《す》っ頓《とん》狂《きょう》な声をかけ続けていた。
それから一時間後。
「お、おかしいなあ〜」
その奇妙な存在は腕を組んで、大きく首を傾《かし》げていた。
「ちゃんと独り身の女性を狙《ねら》って声をかけてるし、この地域の平均的な声のかけかたは『へい、そこのお姉ちゃん、お茶でもしない?』だし、『どや、姉ちゃん。わいと茶しばきにいかへんか?』は関西方言だし」
はっとしたように懐《ふところ》からぼろぼろのメモ帳を取り出し、
「そ、そうだ。もしかしたら服装が悪いのかなあ?」
確かに大きな麦わら帽子によれよれの作業着という姿はあか抜けなかった。
「それとも、態度が軽すぎるのかも知れない。いくらナンパと言っても、女性に対して真《しん》摯《し》さを失ったら……いや、でも、マニュアルにはナンパで成立した恋愛関係は極めて持続しにくいと書いてあったし」
そこで大きく溜《ため》息《いき》をついた。
「はあ、ナンパって意外に難《むずか》しいな」
彼は気がついていなかった。自分の外見が普通の人からは全く案山子《かかし》にしか見えないということに。通りかかる人は彼を前《ぜん》衛《えい》的《てき》なパフォーマーとか、どっきりカメラの類《たぐい》と思っているようだが実はそうではない。
彼は人間ではないのだ。
では何かというと恋の妖《よう》精《せい》なのである。
それもとびきり新米の、人間にも上手《うま》く化けられないくらい出来たてほやほやのルーキーの恋の妖《よう》精《せい》なのである。初心者の恋の妖精が全《すべ》て持っている『恋愛マニュアル〜基《き》礎《そ》編〜』を片手に地上に降りて、想像していた以上に興《きょう》味《み》深い恋の実体を調《しら》べているうち、悪《あく》辣《らつ》な悪《あく》霊《りょう》どもが巣くう洋館に迷い込んでしまったのである。
元々、争いごとには不向きな恋の妖精だ。悪霊相手でははなから勝負などにならず、命よりも大事な『恋愛マニュアル〜基礎編〜』をあっさり奪《うば》われてしまった。恋の妖精はそれがないとなんにも出来なくなる。
言うことを聞かねば燃《も》やすという、悪霊どもの恫《どう》喝《かつ》にも泣く泣く応じるしかなかった。
我《われ》らが精気を吸う若くてぴちぴちしたオンナを連れてこい
という。
卑《ひ》劣《れつ》極まりない要求。
「でも、恋の妖精は恋愛を成《じょう》就《じゅ》させるのが仕事であって、別に自分がナンパ上《じょう》手《ず》だとかそういう訳《わけ》でもないんだよな〜」
と、そのポンクルという名前の恋の妖精は呟《つぶや》いた。結局、そこら辺は悪霊たちに幾《いく》ら説明しても分かって貰《もら》えなかった。
とにかくなんでもいい! オンナだ! オンナを連れてこい!
あるいは、
にょたいにょたいにょたい〜♪
それしか言わない。
かなり頭が悪い奴《やつ》ららしかった。
おまけに頼みの綱《つな》の『恋愛マニュアル〜基礎編〜』自体が今はない。勉強のために幾つか要旨を抜《ばっ》粋《すい》しておいたメモ帳が手元に残っているくらいである。
「はあ」
ポンクルはこてんとレンガ造りの花《か》壇《だん》の脇《わき》に足を伸ばす形で座った。出てくるのは溜《ため》息《いき》ばかりてある。
「一体、どうしたらオンナの人について来て貰《もら》えるのかなあ」
情けないことにもう挫《くじ》けそうになっていた。
ナンパは拒否されるたび、無視されるたび、自分自身の存在が少しずつ傷つけられていくような気がするのだ。
「僕《ぼく》、ホントどうしたらいいんだろう……」
困惑しながら人の流れをぼんやり見ているうち、ポンクルの視界に一人の少年が映った。つんつんした茶《ちゃ》色《いろ》い髪にジーパンとジージャンを着ている。それに首には猛犬用の首輪をつけていた。彼は荒い鼻息と切実な瞳《ひとみ》で、通りすがりの全ての女性に声をかけていた。
「ねえ、お姉さん! 俺《おれ》とデートしない?」
典型的なナンパ作法だ。ポンクルは後学のためになんとなく注意してその少年を見た。
「え〜?」
と、声をかけられた女子大生風の女性は少年の外観をざっと眺めやった。特に首輪の辺りを念入りに。
それから、
「ごめん。パス」
と、立ち去った。普通ならそこで終わりだろう。しかし、少年は一《いっ》向《こう》に諦《あきら》めなかった。すかさず別の女性にバッタのように近づいて、
「お願《ねが》い! 俺、危険なんだ! このままだとモノノケのパパなんだ!」
訳《わけ》の分からないことを言って袖《そで》を引いた。
「ちょ、ちょっと! 離《はな》しなさいよ! 何、君!?」
というのもめげず、
「だから、モノノケのパパなんだってば! 助けてよ!」
と、理解不能な主張をする。女の人が怯《おび》えた。
「い、いや」
「なんでもいい! 助けて! デートして! その先までやらして!」
「いやああ──────! 助けて、変質者が! 変質者が!」
すてててと逃げていく女性と今度はさらに別の女子高生に声をかけている少年。モノノケのパパなんだ、パパなんだ、とか怯えたようにその子にも叫んでいる。なにやらポンクル以上に悲壮なものがあった。
というか錯《さく》乱《らん》しているようにも見えた。
しかし。
と、やや疲れていたポンクルは鮮《せん》烈《れつ》に思った。
なるほど。
ナンパというものが少しだけ分かった気がした。
要するにナンパとは嫌《きら》われても、拒絶されても、永遠に、無限に別の女性に声をかけ続けるものなんだ!
その認《にん》識《しき》はかなり間違ってるのだが……自分ももう一度がんばろう。そう決意して、ポンクルはぎゅっと拳《こぶし》を握り込んだ。
ちなみに恋の妖《よう》精《せい》の基本的な能力の一つに、『人の恋心を見ることが出来る』というものがあった。大体、恋人がいるのか、いないのか。片思いをしているのか、それとも失恋中なのか。さらにそれに付随して今どんなことを考え、何を思い悩んでいるのか。そういったことを漠然とした色とイメージで捉《とら》えることが出来るのだ。
「あ、あの人なんかどうかな……」
そこへちょうど道の前から若い娘がやってきた。ちょっと声を気が引けるほど怖い顔できょろきょろ誰《だれ》かを捜していたが、
「勝負度胸、勝負度胸」
と、ポンクルは内心、自分にハッパをかけて前に進んだ。ちなみにその少女はかなり鮮《あざ》やかな恋をしていた。
暖かく、赤い紅葉《もみじ》のような燃《も》える炎色の恋。
それでも声をかけ続けることがナンパの信条だと信じたポンクルは、
「え〜と、あのですね」
ぎくしゃく片手を上げた。
「へ〜い、彼女。ぼ、ぼくとおちゃちない?」
それから、すぐに慌てた。
言い間違えた。
自分としたことが。しかし、少女はてんで聞いていなかった。
「あ、いた!」
と、叫んでポンクルの傍《かたわ》らを駆け抜ける。
「ケイタ! も〜、どこ行ってたのよ?」
呆《ぼう》然《ぜん》と道ばたに立ち尽くしていた少年に近づいていった。どうやら道行く女性|全《すべ》てに逃げられた後のようだ。少女は怒ったように、
「これから掘り出し物物件見せて貰《もら》う約束なんでしょ!?」
と言って少年の腕をきゅっと胸に抱きしめた。逃がさないように。ぎゅっと。少年は恐れと焦《しょう》燥《そう》の入り交じった表情で少女を振り返った。それから少女は「さ、いこ」と言って、通りの向こうに少年を引き連れていってしまった。
少年はがっくりとうなだれていた。
ポンクルは小首を傾《かし》げる。
一体どういう関係の二人なのだろうか?
恋人? 主従?
だが、今のポンクルには他《ほか》に考えなければならないことが山ほどあった。とりあえず詮《せん》索《さく》は後回しと大きく頷《うなず》き、決然と振り返った。見回すとちょうど適当な子がいた。目の前の道をゆっくり歩いている。
ポンクルはぎくしゃく手足を動かし、意《い》気《き》揚《よう》々《よう》と近づいていった。
「へ、へい! かのじょ!」
と、声をかけるとその少女が振り返った。
「……はい、なんでしょう?」
とても優《やさ》しい声だった。
ポンクルはダメで元々とばかりに思いっきり大きな声で叫んだ。
「僕《ぼく》とお茶しませんか!」
しばしの沈《ちん》黙《もく》。向こうはじっとこちらを見ていた。やがて、
「いいですよ」
と。
いとも簡《かん》単《たん》な答えが返ってきた。
「へ?」
逆にポンクルが拍子抜けた。
「今、なんですと?」
ぽかんと間抜けに問い返す。少女はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「いいですよ、お茶。是《ぜ》非《ひ》、ご一《いっ》緒《しょ》しましょうか」
それは栗《くり》色《いろ》の髪に割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》を着た少女だった。
ポンクルは未《いま》だに半信半疑な表情で『レ・ザルブル』という喫《きっ》茶《さ》店《てん》に座っていた。品の良い内装だ。彼の前には湯気の立つティーカップが二つ。
一緒に喫茶店に入った栗色の髪の少女はちょっと電話をかけてきますね、と断って先ほど席を中座したところである。その立ち居|振《ふ》る舞《ま》いが本当に女性らしくて、まるで大和《やまと》撫子《なでしこ》という言葉がそのまま具現化したかのようだった。
柱時計の針がカチカチと鳴っていた。
ポンクルは一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、『恋愛マニュアル〜基《き》礎《そ》編〜』に記されていた女の子と二人っきりになった時の注意事項を思い出していた。
宗教のお話及びその勧《かん》誘《ゆう》、特定武装勢力への熱《ねっ》心《しん》な支持表明≠ヘ、確《たし》か絶対してはいけなかったんだよな〜、とかバカなことを考えている。その間になでしこと名乗ったその少女が帰ってきた。
「ごめんなさいね。お待たせしました」
にこっと微笑んで彼女が目の前の席に着いた。
「あの」
と、ポンクルは声をかけてみた。
「はい、なんでしょうか?」
ポンクルはさっきからずっと気になっていた。
この目の前の少女。
なでしこは痛いくらいに切ない恋をしていた。たとえて言うと真《ま》っ暗《くら》闇《やみ》に静かに、だが激しく燃《も》えさかる真《ま》っ赤《か》な篝《かがり》火《び》だ。その中心はほとんど漆《しっ》黒《こく》に近く、狂おしい。ポンクルがどきっとするほどに。
ポンクルは思わず、
「幸せですか?」
と、そんな突《とっ》拍《ぴょう》子《し》もない質問をしてしまった。
しかし、なでしこは微笑《ほほえ》んで、
「はい。幸せですよ」
そう答えてくれた。それから、
「あのね、ポンクルさん」
ポンクルをそう呼んで、曖《あい》昧《まい》に笑った。
「わたしをこれからえ〜、ナンパされるそうですね?」
「は、はい」
と、素直にこくこく頷《うなず》くポンクル。なでしこは重ねて、
「これからあなたのおうちに一《いっ》緒《しょ》に行って欲しいとか?」
「はひ。ぜ、是《ぜ》非《ひ》、宜《よろ》しくお願《ねが》いしますです」
ポンクルは熱《ねっ》心《しん》に頷いた。なでしこは少し考え込んで、
「もし宜しかったらなんですけど、それにわたしのオトモダチもご一緒していいですか?」
「え?」
ポンクルはびっくりした。
それは。
一体どうなんだろう?
そんな事態はまるで想定していなかった。確《たし》かに女の子の人数が多い方があの悪《あく》霊《りょう》どもも喜ぶのかも知れない。でも、それは……。
「いや、僕《ぼく》は構わないと思うのですけど」
ポンクルは俯《うつむ》いてこにょごにょ呟《つぶや》く。なでしこの瞳《ひとみ》に一《いっ》瞬《しゅん》だけ労《いたわ》るような光が浮かんだ。しかし、すぐに彼女は元の素《す》敵《てき》な笑顔《えがお》に戻って、
「あ、ちょうど良かった……ほら、わたしのオトモダチが来たみたい」
窓の外に何人かの女の子が立って、こちらに向かって手を振っていた。
「ふ〜ん」
と、頭の左側にお下げを垂らした少女がポンクルを覗《のぞ》き込んで呟いた。
「ほ〜」
と、頭の右側にお下げを垂らした少女が伸び上がって小《こ》手《て》をかざすポーズを取る。ポンクルは目を白黒させて尋《たず》ねた。
「な、なんですか?」
すると二人は、
「別に〜」
と、顔を見合わせてくすくす笑う。
それから両手を広げ、くるくるとポンクルの周りを旋《せん》回《かい》しだした。
この双《ふた》子《ご》のようによく似た女の子たちはいまりとさよかと言うのだそうだ。どっちがどっちかはもう見分けがつかない。それくらいそっくりだった。雪色のワンピースに薄《うす》青《あお》いブーツを履《は》いてマーブルカラーのポシェットを下げていた。
二人とも恋らしい恋はしていない。けど、慕《した》っている人はいる。
そんなことが見て取れた。
今、ポンクルと女の子たち一行は悪霊たちの住まう家へ向かっているところだった。ポンクルは徐《じょ》々《じょ》に重たい気分になってきた。
ちらっと顔を上げると、眼鏡《めがね》の女の子、いぐさがちょうどこちらを振り返っているところだった。この少女もとても可愛《かわい》らしかった。
フレアのワンピースに桜《さくら》色《いろ》のカーディガン。三つ折りソックスに革靴という一昔前の文学少女風の格《かっ》好《こう》で、心《しん》象《しょう》風景は柔らかいペパーミントグリーンだ。恋は特にしておらず、とても尊敬している人が一人いる。
あと、最近ちょっと好奇心を抱いている人がもう一人いた。これはなでしこやさっきのいまりとさよかの中にもいた人だ。なでしこは「手のかかる弟」で、いまりとさよかは「からかったらおもしろそ〜」
いぐさのは「怖いけどもう少し見てみたいな」だ。
あれ?
この人は前にどこかで見たような……。
「それで薫《かおる》様は?」
というなでしこの質問にいぐさが答えていた。
「ええ、やっぱり仮《かり》名《な》様とのお仕事で色々とお忙しいみたいで……でも、もしかしたら後からいらっしゃるかもしれません」
なでしこが思《し》慮《りょ》深《ぶか》く頷《うなず》いている。
「そう……まあ、話を聞いた限りでは、たゆねが一人いれば特に問題ないと思うけど」
頭の後ろで手を組んで、ぶらぶら先を歩いていたショートカットの少女がにっと得意そうに笑った。
なでしこといぐさが頼もしそうにそんな彼女を見つめていた。
一体なんの話をしているのだろうか?
ちなみにそのたゆねというショートカットの少女はショートパンツに白い薄《うす》手《で》のトレーナーを着ていた。それに素足とスニーカー。心《しん》象《しょう》風景は明るいレモンイエローだった。他《ほか》の少女たちと同じように恋と呼べる恋はまだしていない。
とても懐《なつ》いている人が一人。心がまだ未分化で、とても子供っぽい。でも、最近、ちょっと気になる人が一人いて、正《せい》確《かく》には「嫌《きら》い! 嫌い! 大嫌い! ……でも、ちょっと気になる」という感じだ。
あれ?
やっぱりこの人、さっきの首輪の人なんじゃ……。
ポンクルがぎくしゃく手足を動かしながら、色々と考えていると段《だん》々《だん》と坂が急《きゅう》勾《こう》配《ばい》になって、やがてその上に不吉な佇《たたず》まいの洋館が見えてきた。
辺りにはう鬱《うっ》蒼《そう》と木々が茂っており、板にとまった人相の悪いカラスどもがぎゃあぎゃあ鳴いていた。どよ〜んと澱《よど》んだ空気が上空に漂っている。入り口の脇《わき》には『取《と》り壊《こわ》し予定地』の立て看板。震《ふる》える文字で『退去命令に従わない場合は法的手段に訴えます!』と書かれていた。
ポンクルの気分がますます重くなっていった。
これから自分はこの優《やさ》しそうな女の子たちを悪《あく》霊《りょう》の餌《え》食《じき》にするのだ。こんな自分になんの疑いもなくついて来てくれた女の子たちを。
ちらっと振り返ると少女たちは笑っていて、
「入らないんですか?」
と、声を揃《そろ》えて尋《たず》ねてきた。
ずきっとポンクルの良心に痛みが走り抜けた。
ダメだ。
やっぱり自分には出来ない。
たとえ大事な大事な『恋愛マニュアル〜基《き》礎《そ》編ー』を焼かれることになっても、純《じゅん》真《しん》無《む》垢《く》な女の子を騙《だま》すなんて絶対、出来ない。
自分はこれでも恋の妖《よう》精《せい》なのだ!
次の瞬《しゅん》間《かん》、ポンクルは、
「ご、ごめんなさい!」
と、洗いざらい全《すべ》てを白状しようとする。
「実は僕《ぼく》はニンゲンじゃないんです! この中には悪《あく》霊《りょう》がいてナンパじゃなくて!」
ぱたぱたと手を振って、必死で説明しようとする。すると、
「ポンクルさん」
なでしこがポンクルの唇にそっと人指し指を当て遮《さえぎ》った。優《やさ》しく彼女は微笑《ほほえ》む。
「そういう時のためにわたしたちがいるんですよ?」
いつの間にか他《ほか》の少女たちが不敵に笑っていた。
「まあ、ま〜かせて!」
と、たゆねがガッツポーズをとってみせる。ポンクルがびっくりするくらい、少女たちは活《い》き活きと楽しそうだった。
その洋館のエントランスホールは巨大だった。
天《てん》井《じょう》が見上げるほど高く、格《こう》子《し》模《も》様《よう》の床《ゆか》も、二階へ続く階段の幅も、さらに奥の食堂へと続く扉も普通の日本家屋の二倍はあった。
声が木《こ》霊《だま》するほどがらんとだだっ広い。一面に厚く堆《たい》積《せき》している埃《ほこり》。ステンドグラスから辛《かろ》うじて射《さ》し込んでくる外の光でぼんやりと古めかしい調《ちょう》度《ど》品《ひん》が浮かび上がって見えた。大きな柱時計。ビロードの椅《い》子《す》。
ガラス細工が施《ほどこ》されたキャビネット。樫《かし》の木で出来た外《がい》套《とう》掛け。中に一歩、入ったときから少女たちはすうっと身を沈め、臨《りん》戦《せん》態《たい》勢《せい》に移っていた。互いに背中合わせになって隙《すき》を作らないようにしている
その時。
ばたんと大きな音を立てて正面玄関の扉が閉じた。誰《だれ》も触れぬのに。
ポンクルが震《ふる》え声で呼びかけた。
「つ、つれてきましたよ、女の子!」
すると、
「くくくく。よくやったぞ、恋の妖《よう》精《せい》」
どこからともなくそんなおどろおどろしい声が響《ひび》いてきた。貫《かん》禄《ろく》がないのに一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》悪役ぶろうともったいぶった声だった。
「ひゃははははははは!」
続けて狂ったような哄《こう》笑《しょう》が聞こえてくる。どうもこちらは地のようだ。
「にょた〜いにょた〜い」
何か重いものを引きずるような物音。少女たちが油断なく視《し》線《せん》を巡《めぐ》らせる。ずず。ずず。ゆっくりと奥の扉から声の主が這《は》い出してきた。
「ほふふふふ、にょた〜いにょた〜い」
二階からがたごと別のモノが降りてくる。
「飛んで火にいる夏の虫。恨んでくれるなよ、お嬢《じょう》さん方」
突《とつ》如《じょ》、近くの床《ゆか》から何かが起き上がる。
それらを見つめてあんぐりと少女たちは口を開けた。ポンクルは今にも泣き出しそうな顔になっている。
集まってきたもの。
舌なめずりするように少女たちを取り囲むもの。
それらは全《すべ》て家具だった。食堂から大きなダイニングテーブルが縦《たて》に出てくる。掃《そう》除《じ》機《き》がひょこひょこ現れる。白黒テレビがちかちか瞬《またた》きやってきて、カーテンが揺らめき、燭《しょく》台《だい》がぎこぎこ上下しながら集結した。
ありとあらゆる家具が。
霊《れい》気《き》でぼんやりと白く輝《かがや》く家具たちが少女たちを円の中心に置いて、踊り始めた。
「にょた〜いにょた〜い」
「そ〜れさわれ♪」
家具たちはほほいと足踏み。
「にょた〜いにょた〜い」
「そ〜れさわれ♪」
またくるっと反対に回って拍子を揃《そろ》える。
「さわれさわれさわれ」
「にょた〜いにょた〜い♪」
ちゃちゃっとリズム良く踊る家具ども。たゆねが顔を手で被《おお》って溜《ため》息《いき》をついていた。
「なるほど……色《いろ》惚《ぼ》けた邪《じゃ》霊《れい》どもか」
突如。
「ほほほ〜〜〜い♪」
ヤカンが踊りの輪から飛び出し、たゆねに向かって一直線に飛びかかっていった。矢のようなスピードである。
ポンクルが警《けい》告《こく》の叫びを上げていた。
ヤカンは真《ま》っ赤《か》に輝《かがや》きながらたゆねの豊かな胸元へ。
ぴ〜と湯気を立てながらタッチする直前。
「ふ」
口元で笑《え》んだたゆねが右の拳《こぶし》を無造作に払っていた。
次の瞬《しゅん》間《かん》。
「ぴぎゃああああああああああああああ!」
ヤカンはバットで力強く引っぱたかれたボールのように吹っ飛んでいた。壁《かべ》に激《げき》突《とつ》し、ぺしゃんこにひしゃげてから、がしゃんと大きな音を立てて大理石の床《ゆか》の上に落下する。ぱらぱらと建材がその上に落ちてきていた。
沈《ちん》黙《もく》がエントランスホールを支配した。
たゆねは一歩前に出て叫んだ。
「こうら! こんのせくはら家具ども! ボクに触りたかったら束《たば》になってかかってこい!」
家具たちが一《いっ》斉《せい》にほほ〜いと叫んで飛びかかっていった。
「遅い!」
霊《れい》気《き》を帯びた右手を強烈なケモノの爪《つめ》に変えて、たゆねが凄《すさ》まじい勢いでソレを振り下ろす。
その瞬間、大きな洋服ダンスが縦《たて》から木《こ》っ端《ぱ》微《み》塵《じん》に砕《くだ》けた。
「は!」
たゆねは電光石火。
前に動いてその右の爪を真《ま》っ直《す》ぐ突き出した。突進してきていたテレビの中心を突き破り、
「がう!」
赤や青の配線ごと引っこ抜いた。一テンポ遅れて、爆《ばく》発《はつ》が起こった。その刹《せつ》那《な》にたゆねはもう動いている。
バックステップを踏むとくんと形の良い足を跳《は》ね上げ、後ろ回し蹴《げ》り。たゆねの腰に抱きつこうとしたゴミ箱を踵《かかと》で斜め下に蹴り飛ばした。がちゃんがちゃんと派《は》手《で》な音を立てて大理石の床を転げ回るスチール製のゴミ箱。
たゆねは高らかに笑った。
「あははは、がう!」
まるでつむじ風のように、吹き荒れる稲《いな》妻《ずま》のようにたゆねは群がり寄ってくる家具を次々に粉《ふん》砕《さい》していく。
家具たちは触れることすら出来ない。
「そ〜れ、さわれさわれ♪」
「がう!」
次々と弾《はじ》け飛んでいく家具。その中心で楽しそうに跳《は》ね飛ぶたゆね。壁《かべ》際《ぎわ》ですっかり観戦モードに入っていたいまりとさよかがうんうん頷《うなず》き合っていた。
「や〜、あの子、ホント相手が弱いと強いよね。なんていうの? 内《うち》弁《べん》慶《けい》? 弱い者|苛《いじ》め?」
「そ〜そ。これがようことか相手だと萎《い》縮《しゅく》する癖《くせ》にさ」
あはは、と声を揃《そろ》えて笑う二人。
「こらああ! 見てないで手伝え!!!」
たゆねの罵《ば》声《せい》が飛ぶ。いまりとさよかが肩をすくめた。
「仕方ない」
「私らもやりますか」
同時に合図もなくさっと身を沈める。するとその動作で、そろそろと階段側から彼女たちに近づこうとしていた鏡《きょう》台《だい》が目標物を見失い転げ落ちた。いまりとさよかは邪悪な笑《え》みを浮かべるとゆっくりと鏡台に近づき、スカートの裾《すそ》を持ち上げ、
「そ〜れそれそれ♪」
その上に飛びのってタンゴのリズムで徹《てっ》底《てい》的《てき》に踏《ふ》み砕《くだ》いた。その間、眼鏡《めがね》のいぐさは凛《りん》とした姿勢で腰を落とし、
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×一! 『紅』」
居合いの動作で赤い閃《せん》光《こう》を手から放っていた。それが床《ゆか》を走り、直進し、転がり近寄ってきたビア樽《だる》にぶつかった。
爆《ばく》発《はつ》が起こる。
それに巻き込まれて椅《い》子《す》やら電話が宙に吹っ飛ぶ。たちまち家具が粉々に砕け散っていく。
少女たちは本当に強かった。
ポンクルは唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としている。
「す、すごい」
同じく壁際に控えていたなでしこがふっと微笑《ほほえ》んだ。
実際、家具に憑《つ》いていた悪《あく》霊《りょう》たちはそのおどろおどろしい雰囲気の割に大した実力がなかった。一方、少女たちの動きは水際だって鮮《あざ》やかで、お互いの連携もきちんと出来ていた。端《はな》から勝負はついていたと言えよう。ところが。
「あははは、ど〜したの? も〜終わり?」
そこでちょっとしたアクシデントが起こった。
中央で勝ち誇っていたたゆねに向かってバケツが果《か》敢《かん》に特攻を挑んだのだ。元々大した存在ではない。
たゆねの信じられない角度から繰《く》り出される鋭《えい》角《かく》な蹴《け》りを喰《く》らって簡《かん》単《たん》に吹っ飛んだ。しかし、バケツもただでは死ななかった。
中に溜《た》めていた水をばしゃっとたゆねの頭からかけていったのだ。最初、たゆねは何が起こったか理解出来ず、ぱちくりと目を瞬《またた》かせていた。真っ先に反応を示したのは家具たちである。
どよめいていた。
続いて少女たちが、
「た、たゆね」
と、困ったように声をかけた。そこでたゆねもようやく気がついた。彼女は薄《うす》手《で》の白いトレーナーを着ていた。それが水にぐっしょりと濡《ぬ》れ、スポーティーなブラジャーが胸の形でくっきり浮かび上がっていたのである。
「あ!」
と、たゆねが羞《しゅう》恥《ち》に頬《ほお》を染め、
「いやああああああああああ!!!!」
悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
その途《と》端《たん》、ほほ〜いと家具どもが一《いっ》斉《せい》に鬨《とき》の声を上げた。今まで圧倒的な強さを誇っていたたゆねから綺《き》麗《れい》さっぱり霊《れい》気《き》が抜け落ちていたのだ。その隙《すき》めがけて家具どもがこれぞ絶好の好《こう》機《き》とばかりに飛びかかっていく。
「あ、あのバカ!」
「ど〜してああもテンションで強さが極端に変わるかな!?」
いまりとさよかが同時に助けに向かうが、
「そ〜れ、さわれさわれ♪」
彼女の背後からカーテンが覆《おお》い被《かぶ》さってきて視界を塞《ふさ》いだ。咄《とっ》嗟《さ》に反応出来ず二人は搦《から》め捕られる。
同時にいぐさは流れてきたサラダ油に足を取られ、
「わ! わ! わ! きゃ!」
床《ゆか》の上でちょこまか転びそうになっていた。ポンクルが叫んで飛び出す。
「うわあああああああ!!!!」
滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》に手足を動かして、突《とっ》貫《かん》。なでしこが慌てて後を追う。
その瞬《しゅん》間《かん》。
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ」
澄《す》んだ声が辺りに響《ひび》いていた。
「大気よ」
ぶわっと力が集まって、
「シンフォニーを奏《かな》でよ!」
一気に放出された。
たゆねに飛びかかろうとしていた家具が凝《ぎょう》と束《たば》ねられる。次の瞬《しゅん》間《かん》、一気に解放され渦《うず》となって直進しながら階段にぶち当たった。
しかし、凄《すさ》まじい霊《れい》力《りょく》の突進はそこでもなお止まらず木製のベッドや洋服ダンスをまとめてドリルのように打《う》ち砕《くだ》きながら、階段ごとメキメキと粉《ふん》砕《さい》していく。ずどうんという重い音と共に、階段が突《とつ》如《じょ》、崩《ほう》落《らく》を起こした。
もうもうと舞《ま》い起こる埃《ほこり》。天《てん》井《じょう》から落ちる塵《ちり》。
唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》としている一同。
「あっちゃあ、ちょっと加減を間違えたかな?」
聞こえたのはそれに対して軽やかな声だった。
玄関から逆光で入ってくる二つの影《かげ》。一つは得意そうに親指を立てている小さなツインテールの少女だ。
「探したよ!」
と、明るく叫んでいる。そしてもう一人が、
「ん〜。どうも、室内だと風が捉《とら》えにくいね。竜巻になっちゃった」
銀のタクトを振って小首を傾《かし》げている少年である。
「薫《かおる》様!」
と、一《いっ》斉《せい》に少女たちが歓《かん》喜《き》の声を上げた。
「はは、遅れてゴメン。みんな大丈夫?」
顔を上げて少年が優《やさ》しく微笑《ほほえ》んだ。
明朗な秋の木《こ》漏《も》れ日《び》のような気《け》配《はい》を周囲に放つ少年だった。
漆《しっ》黒《こく》の癖《くせ》っ毛《け》に琥《こ》珀《はく》色《いろ》の瞳《ひとみ》。山猫のような野性味と柔らかい品格が矛《む》盾《じゅん》せず一つの存在の中で並立していた。ベージュのズボン。ジャケットに略式のタイ。少年は銀のタクトを胸にしまうと、無造作な足取りで前に進み始めた。
「さて、じゃ、さっさと片づけますか」
微笑みを絶やさない。
「ほ」
家具たちが新たに現れた脅《きょう》威《い》に対してようやく呪《じゅ》縛《ばく》を解いたのはその瞬《しゅん》間《かん》だった。
「ほほほ〜〜い♪」
と、叫んで次々に襲《おそ》いかかっていく。ふっと薫《かおる》と呼ばれた少年が身を沈めた。背を伸ばした古流武術の足運びで、体《たい》捌《さば》きだった。
するりと身を入れ替えただけで重たそうな冷蔵庫が為《な》す術《すべ》もなく吹っ飛んだ。ぐるんぐるん回転して壁《かべ》に突っ込んでいく。そこにぱしんと端っこを握られた鏡《きょう》台《だい》がまとめて放り投げられた。がしゃんと派《は》手《で》な音がして両方が即座に砕《くだ》ける。
ガラスが粉々に舞《ま》った。
「そ〜れ、さわれさわれ♪」
薫が琥珀の目を細めた。
「最近、多いんだよね……こういうの」
ひゅっと掌《しょう》底《てい》をソファの重心に突き入れ、吐《と》息《いき》をつく。足を踏み込み、くくんと身を捻《ひね》った。
次の瞬間、薫の倍はあるソファが床《ゆか》に思いっきり叩《たた》きつけられて、肘《ひじ》掛《か》け部分とマットレス部分を繋《つな》ぐ基部が真っ二つにへし折れた。
薫はさらに足を突き出し、それを踏み砕いた。
全く力を使わない、驚《おどろ》くべき力量だった。
家具どもが戦《せん》慄《りつ》した。
「いぐさ。だいじょうぶ?」
薫はまず一番、手近にいたいぐさを助け起こした。いぐさは赤面してその手を取った。
「は、はい」
そそくさと立ち上がる。薫が髪を優しく払ってやると気《き》恥《は》ずかしそうに俯《うつむ》いた。家具たちは顔を見合わせ、
「ほほほほ〜〜〜〜い♪」
まとめて薫に襲いかかった。意志|疎《そ》通《つう》は既《すで》に出来上がっていた。とても一つ一つでかかっていって敵《かな》う相手ではない。まとめて押しつぶして倒す。そんな衆頼みの気配がある。いぐさは警《けい》告《こく》の叫びを上げようとする。
すっとまた薫《かおる》が目を細めた。
「う〜ん」
敵に背を向けたまま、考え込むように胸ポケットから銀のタクトを取り出し、
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ。大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ」
くくくんと複雑な軌跡を辿《たど》ってそれを振るった。
振り返って突きつける。
「こうかな?」
その刹《せつ》那《な》。
ぼこんと異音を立てて室内の真ん中で竜巻が起こった。それが家具どもを巻き込み、一気に天《てん》井《じょう》まで持っていって貫いた。
「うぎゃああああああああああああ〜〜〜〜〜〜!」
「うひいいいいい〜〜〜〜〜!」
重たそうなベッドや流し台までまとめて空高く吹っ飛ばす。ぱらぱらと天井の欠片《かけら》が落ちてきて、そこからぽっかり青い空が覗《のぞ》いていた。
誰《だれ》も彼もぽかんと口を開けていた。その中で薫だけが小首を傾《かし》げている。
「ん〜。また間違えちゃった……コントロールが難《むずか》しいね、これ」
「へっへ〜」
「薫様、さっすが!」
ぴょこんと跳《は》ね起きたいまりとさよかが左右からたたたっと駆け寄って薫に飛びついた。薫は穏《おだ》やかな表情でそんな彼女らに笑いかけた。
「そうだ。今日《きょう》はこれからちょっと暇《ひま》が出来たんで、よかったらみんなで映画にでも行く?」
と、緊《きん》張《ちょう》感《かん》のない会話をする。
今まで構《かま》って貰《もら》っていたいぐさがちょっとムッとした顔になり、自分も少し頬《ほお》を染めながら身をさりげなくすりすり寄せつけた。
小さなツインテールの少女が後ろから薫の腕を引っ張った。
「あ、じゃあ、今とってもお勧めな映画がありますよ? 行きましょう、行きましょう! 薫様は最近、お忙しくてあまり遊べないないのですから。早く! 早く!」
「あはは、分かったよ、ともはね。でも、もうちょっと待っててね」
ぽんぽんとその手を軽く叩《たた》いて薫が微笑《ほほえ》んだ。
彼は少女たちを引き連れたまま、じ〜んと感動した面《おも》もちで彼の戦いっぷりを見つめていたたゆねのところまで歩み寄った。
「たゆね」
と、こほんと咳《せき》払《ばら》いをして薫が目を逸《そ》らす。そこでたゆねは改めて自分の服が水浸しになっていることに気がついた。慌てて手を回して胸を庇《かば》う。くすんと涙目。薫《かおる》は自分のジャケットを脱いで、労《いたわ》るように彼女の肩からかけてやった。
同時に今までその常《じょう》軌《き》を逸《いっ》した戦い方に呆《あっ》気《け》にとられていたポンクルがはっと思い当たってなでしこを振り返った。
彼女は少年をじっと見つめていた。
ポンクルの胸がずきんと彼女の心に同《どう》調《ちょう》して痛んだ。
すぐに分かった。なでしこの想《おも》い人。それはきっとあの不《ふ》思《し》議《ぎ》な少年だった。真っ白な雪が無限に降り続けている心《しん》象《しょう》風景。
一面の白。
人とは思えないほど、綺《き》麗《れい》な雪景色がどこまでも続いていた。恋をしているのか、何を考えているのかまるで分からない程《ほど》の純粋なる白。なでしこが今、辛《つら》く思ってるのはそんな大好きな彼に少女たちが甘えているからだ。
でも、何故《なぜ》だろう?
なでしこはそんな少女たちに囲まれている彼を見て、微笑《ほほえ》んでいた。哀《かな》しくて、辛いはずなのに。叫びたいくらい独占したいはずなのに。
哀しそうに微笑んでいた。
何故だろう?
分からない。ポンクルにはまるで分からなかった。
その時。
「う、うひいいい〜〜〜〜〜〜〜!」
今まで固まっていた家具どもが一《いっ》斉《せい》に逃《に》げ惑《まど》い始めた。
「お、おたすけえ〜〜〜!」
敵《かな》わない。とても敵うわけがない。一刻も早く恐ろしい琥《こ》珀《はく》色《いろ》の瞳《ひとみ》の悪《あく》魔《ま》から逃げようとする。薫はどうしたものか、と思《し》案《あん》していたが、薫から借りたジャケットの前を合わせ、キッと顔を上げたたゆねは違っていた。
「この! 逃がすと思うか!?」
身をいきなり思いっきり倒す。すかさず薫が顔を上げた、
「あ、たゆね。それは」
しかし、その声ももう聞こえていない。
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×一『たゆね突《とつ》撃《げき》』」
クラウチングスタートの要領で膝《ひざ》を突く。半目。彼女の身体《からだ》が凄《すさ》まじい霊《れい》気《き》で光り輝《かがや》き始めた。家具どもは狭い戸口から抜け出そうと押し合いへし合いやっている。
「どけどけどけい!」
「ええいおまえがどけい!」
見苦しいことこの上ない。
「れでぃい」
たゆねがふうっと腰を浮かせた。
「ごう!」
薫《かおる》や他《ほか》の犬《いぬ》神《かみ》たちが止める暇《ひま》もなかった。あっという間に光の弾丸と化して生き残った家具どもに向かってスタートを切る。
刹《せつ》那《な》。
直《ちょく》撃《げき》して、かかっと閃《せん》光《こう》が弾《はじ》けた。
どご〜ん。
どがあ〜〜〜ん。轟《ごう》音《おん》。叫び声。逃げまどう悲鳴。光のピンボールの如《ごと》く屋《や》敷《しき》中《じゅう》を縦《じゅう》横《おう》無《む》尽《じん》に片っ端から粉《ふん》砕《さい》していくたゆね。
その度《たび》に家鳴りが起こる。
空気が震《ふる》え、全《すべ》てが軋《きし》む。
「わ! わ〜! たゆねのバカバカ!」
「みんな、緊《きん》急《きゅう》待《たい》避《ひ》!」
薫の鋭《するど》い声が響《ひび》く。崩《くず》れ落ちてくる天《てん》井《じょう》。激《はげ》しく揺れ動く柱や壁《かべ》。もうもうと舞《ま》い起こる粉《ふん》塵《じん》。埃《ほこり》。ともはねが真っ先に出口を見つける。彼女が指差す方向にいまりとさよかが続く。いぐさが途中で振り返った。
心配そうに何か言いかける。
だが。
「早く!」
薫の叱《しっ》声《せい》を受けて彼女もすぐに後から飛び出た。その間、ポンクルは大慌てで床《ゆか》に落っこちていた『恋愛マニュアル〜基《き》礎《そ》編〜』を回収していた。なでしこがそれに付き合って、待っていてくれる。
倒れかかってくる柱時計。
ポンクルがじたばたと動く。
さっと間に入ったのは薫だった。
ポンクルの襟《えり》首《くび》を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んで素早《すばや》く引き寄せ、
「きゃ!」
と、亀《き》裂《れつ》の入った床に躓《つまず》きかけたなでしこを抱きとめる。そのまま二人をその外観からは想像もつかない膂《りょ》力《りょく》で支えると、笑いながら、
「だいじょうぶ?」
どことなく楽しそうに気《き》遣《づか》う。ごごっととうとう家全体が崩《ほう》壊《かい》し出す。なでしこが顔を赤らめ、その手をしっかり握った。
「はい」
と、真《ま》っ直《す》ぐに薫《かおる》を見やる。薫は柔らかく頷《うなず》いた。
「さ、君も行こう」
と、差し伸べてくれる手。ポンクルはその様《よう》子《す》を見て思っていた。
ああ。
この恋を本当に幸せにしてあげたいな、と。
完全に崩《くず》れ去った洋館。未《いま》だに生き残った家具の残《ざん》骸《がい》をたゆねが目の色変えて踏みつぶして回っていた。
「この! この!」
とどこか遠くで怒りの声が聞こえてくる。
「あははは、随《ずい》分《ぶん》と派《は》手《で》にやったねえ〜こりゃ」
いまりが手の後ろで頭を組んで言った。さよかもくくっと喉《のど》の奥を震《ふる》わす。
「でも、結構、気持ちよかった」
それから彼女たちは声を揃《そろ》えて笑った。いぐさが湧《わ》き起こる埃《ほこり》を吸ってくちゅんくちゅんと小さくクシャミを連発していた。
一方、なでしこたちがいる前ではポンクルがお別れを告げていた。
彼は人間に化けるのを止《や》め、元の姿に戻っていた。
「なでしこさん、それに皆さん」
彼は慈《じ》愛《あい》の籠《こ》もった微笑で一同を眺め回した。恋の妖《よう》精《せい》の本《ほん》性《しょう》に返ったポンクルは金髪に碧《へき》眼《がん》と天使のように整った顔だちの美少年だった。それが柔らかな白いケープのような衣装を羽《は》織《お》って、白い羽の生えた格《かっ》好《こう》で少し浮いている。
「本当にどうもありがとうございました。お陰《かげ》様でボクはこれを取り返すことが出来ました」
最初っからその格好をしていていれば良かったのに。
と、なでしこなどは曖《あい》昧《まい》に笑っている。青く透き通ったポンクルは自分の手に戻った『恋愛マニュアル〜基《き》礎《そ》編〜』の表紙を撫《な》で、
「皆さんのことは忘れません」
そして。
と、無言でなでしこを見やる。
いつかなでしこさんの恋を手助けできるような、そんな立派な恋の妖精になるためにがんばります。しかし、その言葉をポンクルは最後まで飲み込んだ。代わりににっこりと微笑《ほほえ》む。すうっと浮き上がった。
「それでは皆さん、お元気で」
真《ま》つ直《す》ぐに。
「本当にありがとうございました!」
夕暮れ時の空の向こうに消えていった。どこまでも、どこまで。高く、高く。なでしこは柔らかく手を振っている。
「まったねえ〜〜〜!」
と、ともはねが訳《わけ》も分からず大声で叫んでいた。今までずっと黙《だま》っていた薫《かおる》がふっと微笑《ほほえ》んだ。そっとなでしこの手を取る。
「お疲れさん、なでしこ。今日《きょう》はずいぶんと色々あったみたいだね」
なでしこが小さく首を横に振った。
「いいえ」
そして誰《だれ》もこちらを見ていないことを素《す》早《ばや》く確《たし》かめ、
「今日はとっても楽しかったですよ」
悪戯《いたずら》っぽく、すっと頬《ほお》に。
「だって、薫様とこうして」
つれづれなる想《おも》いを重ねたキス。
余《よ》談《だん》だが、薫たちがとっくに撤《てっ》収《しゅう》し、真《ま》っ赤《か》な空をカラスがかあかあ鳴きながら飛んでいる頃《ころ》、二つの人《ひと》影《かげ》が完全に瓦《が》礫《れき》と化した家の前にぽかんと立ち尽くしていた、
「な、なんじゃこりゃ? 一体なにがあったんだ?」
と、信じられない表情で口を開けている川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》(掘り出し物物件を見にきた)と、
「あ〜あ、綺《き》麗《れい》に壊《こわ》れちゃってるね、おうち」
感心したように呟《つぶや》いているようこであった。
彼らのサバイバル生活はまだ続くのであった。
[#改ページ]
[#中見出し]『河童橋にて〜ようこの手紙〜』
天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医局のお医者さまへ(とうとう漢字書けたよ。えらい?)
あのね、またまたれぽーと書きます。
れぽーと書くのはなんだか楽しいです。毎日、毎日、自分のことがちゃんと足跡に残っていくようで、読み返すとわくわくします。
なでしこの日記とかもそうなのかな?
ところでね、前回、河童《かっぱ》橋《ばし》から抜け出せそうって書いたけど、アレやっぱりダメだったの。おうちを見に行ったら、おうちはもうこわれてました。
めちゃくちゃに壊《こわ》れてました。住めません。
も〜すっかり運がないみたいです。
ケイタはかなり悄《しょ》げちゃって毛布をかぶってしくしく泣いています。河童がそんなケイタの頭をぺちぺち叩《たた》いてます。
面《おも》白《しろ》そうにくけけ鳴いてます。
ケイタが余計落ち込んじゃってるみたいです。あのね、わたしはも〜少しこのままの生活でもいいと思う。
だって、ケイタがいるから。
わたしは啓太さえいればたとえ橋の下でも、無人島でも、どこでもそれなりに楽しいよ。きっとわたしは前にせんせ〜が言ったみたいにお腹《なか》の底から啓太のことが好きなんだと思う。だから、どんなことでも毎日とっても楽しく感じられる。
毎日が楽しいよ。
ところでねえ、ケイタの方は。
ケイタは一体、わたしのことをどう思ってるのかな?
ねえ、どう思う?
[#地から6字上げ]犬《いぬ》神《かみ》のようこ
[#地から6字上げ]河童橋にて。
重たく、冷たそうな灰色の雲。雨がシトシト降り、水面に波《は》紋《もん》が出来る。河童《かっぱ》橋《ばし》のケイタハウス。そのベッドの上で今、川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》は世にも困った顔をしていた。額《ひたい》には脂《あぶら》汗《あせ》。ベニヤ板製の壁《かべ》際《ぎわ》に追いつめられている。
さながら蛇《へび》に睨《にら》まれたカエルだった。
「ならばケイタはどれがいいというの!」
前でぷりぷりしているのはようこである。
彼女は啓太と向かい合うようにベッドの上に座り、腰元に手を当てていた。ややオーバーリアクション気味に怒りながら、
「も〜、あれもいや、これもいやって!」
と、呆《あき》れたように首を横に振った。啓太が腫《は》れ物に触るように声をかける。
「いや、あのな、ようこ」
しかし
「言《い》い訳《わけ》はいいの!」
ようこはぴしゃりとそう言うと何故《なぜ》か穿《は》いていた白い靴下(右足)をいそいそと脱いで脇《わき》にぽ〜いと放った。啓太がごくりと唾《つば》を飲み込んだ。ようこはその奇妙な行為に関《かん》しては特になにも説明せず、も〜と頬《ほお》を膨《ふく》らませた。
「じゃあ、もう一度聞くね? この中のうちどれがいい?」
「ど、どれが?」
「そ〜。どれか」
ようこがベッドの上から取り上げたのはハイティーン向けの雑誌である。『映画みたいな恋をしたい!』と題した特集を組んでいた。彼女が指差したページに幾つか有名な映画の印象的なシーンが掲《けい》載《さい》されている。
全部、恋人たちが急接近している場面だ。
「例えばこれ!」
正義感の強い主人公(警《けい》察《さつ》官《かん》)が謎《なぞ》めいた美女(実はマフィアの娘)と互いの素《す》性《じょう》も知らぬままに恋に落ち、やがて宿命の対決を迎える映画だ。ようこが指で示しているのは豪雨の中、主人公が拳《けん》銃《じゅう》を構えたマフィアの娘を背後から抱きしめるクライマックスシーンである。
「後ろから抱っこして!」
「だ、だっこしてって……」
啓太は掠《かす》れ声で恐る恐る尋《たず》ねる。ある意味、この場合、正当な、
「なんで?」
という質問。だが。
「まあ!」
頓《とん》狂《きょう》な声が返ってきたので啓太がびくっと首をすくめた。ようこはややハイピッチで糾《きゅう》弾《だん》するように言う。
「まあまあまあまあ。なんで≠ネんてよくも言えたものね!」
俺《おれ》、そんな悪いこと言ったかな〜というように小首を傾《かし》げる啓《けい》太《た》にようこはまたくすっと笑うと今度は左足の靴下を器用に脱いで素足になった。これで赤いミニスカートと灰色のトレーナーだけになる。
「じゃあ、これ!」
と、ようこが今度示したのが、美容師の主人公が偶然ばったり出会ったハリウッド女《じょ》優《ゆう》と恋に落ちるという軽快なラブコメディである。主人公がスタイリッシュな美容室で大胆なカットをヒロインに施《ほどこ》している場面。
ヒロインのくすぐったそうな、おかしそうな笑顔《えがお》がはっとするほど華やかだった。
「これやって! これ!」
と、ようこが早口に、そして決然と言う。啓太は相変わらず訳《わけ》が分からない怯《おび》えの表情で、
「いや、あの、だから、なんで?」
「なんで?」
ようこはぴしゃぴしゃと雑誌を平手で叩《たた》いた。
「わたしがやって欲しいから!」
休日のひととき。
雨音に耳を傾けながら啓太は時代小説を、ようこはその雑誌を読んでいただけなのである。突然、ようこが「こういうことしなさい!」とさも当然そうに言い出した。
そこに論理的必然性は全くない。
少なくとも啓太の方にはまるでなかった。
だから、恐る恐る、
「いや、あのな。やってと言われても俺、そんな髪切るなんて芸当出来ないんだけど?」
と、必死で抵抗してみる。
しかし、ようこはくすっと笑いかけ、すぐにまた表情を引《ひ》き締《し》めると、
「じゃあ、尻尾《しっぽ》でいいから!」
どろんとお尻《しり》からケモノの尻尾を出す。それを大きく左右に振った。さらにこれが一番、訳の分からない行為なのだが、
「お洒落《しゃれ》にカットしなさい!」
そう言って重たそうなトレーナーをたくし上げるとするりと脱いだ。横に放った。大体なんで要求が通らないと脱いでいるのか。
なんで逆切れ気味に怒っているのか。
まるで訳が分からない。
「あ、あのさ」
だが、その複合的な意味不明の行為は啓《けい》太《た》を追いつめるのに充分だった。ようこは赤いミニスカートとタンクトップ一枚という姿になるとずずいっと啓太に身体《からだ》を近づけた。その艶《なま》めかしくも女の子くさい匂《にお》いが分かるくらい近く。反射的に啓太は仰《の》け反《ぞ》るような姿勢になった。うっと息を呑《の》んだ。
その位置からだと、白い胸元。滑《なめ》らかな首筋。女の子座りになったスカートから伸びるしなやかで長い足が見えた。
「ケイタ」
ようこは硬直している啓太の首にゆっくり手を回した。
「じゃあ、ケイタは本当は一体何がしたいの?」
と、今度は打って変わって優《やさ》しく、甘えるように啓太を見上げる。
ぱらぱらっとページが捲《めく》れて恋人同士が熱《あつ》く抱《ほう》擁《よう》し、キスをしている場面が見えた。ようこはぐっと顔を近づけてきた。啓太の目に焦《あせ》りの表情が浮かぶ。だが、彼はようこを拒《こば》めない。拒めない。訳《わけ》が分からなくても拒めない。ようこは安《あん》堵《ど》した、全《すべ》てを預けきった表情でそんな啓太に顔を寄せ。
啓太は叫び出しそうな、泣き出しそうな顔でようこの肩を抱いてしまう。
そんなところへ。
「ごめんくださいませ」
と、声をかけて犬《いぬ》神《かみ》のなでしこがドアからしょんぼり入ってきた。
薄《うす》着《ぎ》のようこに抱きつかれ、固まってる啓太と目が合う。
驚《おどろ》いた顔のなでしこ。
そのままの表情で、
「し、しつれいしました……」
と、言ってぱたんとドアを閉めてしまった。啓太が慌てて叫ぶ。
「わ〜〜〜〜〜〜! なでしこちゃん、行かないで! 行かないで!」
恐る恐るまた扉がぎ〜と開いてなでしこがそっと顔を覗《のぞ》かせる。
今にも泣きそうな表情で、
「あの、本当にお邪《じゃ》魔《ま》しても宜《よろ》しいのでしょうか?」
こくこくと必死で首を振る啓太とむっとしたような顔のようこ。
「なに!? なんの用? 今、忙しいんだけど?」
「いそがしくね〜〜! なでしこちゃん、いいから入って! 入って!」
「こら、ケイタ! さっきの情《じょう》熱《ねつ》的《てき》な文句は一体どこへいったの!?」
「そんなこと一言たりとも言ってね〜〜〜〜〜!」
じたばたと逃げ回る啓《けい》太《た》と啓太の首筋に手を回して、詰《きつ》問《もん》するようこ。ある意味、仲の良い二人のじゃれ合いに、じっと見ていたなでしこのその大きな瞳《ひとみ》からふとじんわりと涙の粒が盛り上がった。さすがに不《ふ》審《しん》な彼女の様《よう》子《す》を見て取って啓太とようこは動きを止めた。
「ど、どしたの、なでしこちゃん?」
と、啓太が声をかけたその時。
「う」
なでしこはくっと顔を歪《ゆが》ませると、
「わ〜〜〜〜〜〜〜!」
と、子供のように顔を手で被《おお》って泣き出した。
啓太とようこは怪《け》訝《げん》そうに顔を見合わせた。
なでしこはそれからしばらく泣きじゃくっていたが、啓太が部屋に招き入れ、ようこが暖かいお茶を振《ふ》る舞《ま》うとようやく落ち着いてきた。
「す、すいません」
と、しゃくり上げながら鼻をすんすん鳴らしている。
「あのさ」
啓太は困ったように言った。
「どしたの?」
「う」
なでしこの顔がまたじわ〜と涙で崩《くず》れる。啓太との楽しいひとときを邪《じゃ》魔《ま》されたようこがやや怒ったように言った。
「泣いてちゃ、わかんないの! 泣いてちゃ! ちゃんと言いなさい!」
ぱんぱんと彼女の目の前の床《ゆか》を叩《たた》く。
「うぐ」
なでしこの顔がまた涙で崩れる。手に持っていたハンカチを口元に押し当て、
「がおるざまが」
と、こぼれるように口にした。
「へ?」
と、啓太。
「がおるざまが」
声がくぐもっていてよく聞き取れない。啓太が耳に手を当て、
「なに?」
と、なでしこに近づいた時。
「いなくなっちゃったんですううううううう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
と、なでしこが思いっきり叫んだ。
煽《あお》りを受けて啓《けい》太《た》がひっくり返った。
なでしこはわ〜とまた泣きながら早口でなにやら喋《しゃべ》り始めた。口《く》調《ちょう》が不《ふ》明《めい》瞭《りょう》なのでいまいちはっきりしないのだが、要するに川《かわ》平《ひら》薫《かおる》がどこかへ失《しっ》踪《そう》してしまったらしい。
「それも仮《かり》名《な》さんとか?」
と、啓太が尋《たず》ねるとなでしこはハンカチを握ったまま、こくこくと頷《うなず》いた。
「駆け落ちしたんじゃない? 二人とも。手に手を取って、北の方へ」
ようこが辛《しん》辣《らつ》にそう言ってのけるとなでしこがまたわ〜と声を上げた。啓太が慌てた。
「こ、こら! アホ! 変なこと言うな!」
それから彼にしてはおずおずとなでしこの肩に手を置いた。
「だいじょ〜ぶ。薫には少なくともその手の趣《しゅ》味《み》はねえよ。だから、も〜ちょっと詳しく状況を教えてくれるかな?」
なでしこは子供のようにこくんと一度、大きく頷くと、今までずっと肩に担《かつ》いでいた風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを床《ゆか》の上に降ろし、器用にその結《ゆ》わえ目を解《ほど》いた。
「ん?」
中には額《がく》縁《ぶち》に入った一枚の絵が入っている。大学ノートくらいの大きさで、くすんで灰色の景色の中にただ一つ。大きな鉄製の門が荒々しいタッチで描かれていた。なでしこはそれが全《すべ》ての答えであるかのように無言で啓太の方へ絵を差し出した.
「これは……」
ようこが啓太の背後からぬっと顔を出し、彼の肩に顎《あご》を預けて言った。
「もしかして仮名さんがずっと探してる月と三人の娘≠オりーず?」
絵の周囲を取り囲む額縁はやや変則的な形で、上部にはおどろおどろしい形状の満月が、左右と下部にはそれぞれ三体の骸《がい》骨《こつ》が精《せい》緻《ち》なレリーフで飾られていた。ちょうど三体の骸骨が満月を奪《うば》い合い、その痩《や》せこけた腕で絵を取り囲んでいるようにも見える。
さらに絵の下の方には曲がりくねった字でサインがあって、
真実の問いかけに、真実で答えよ。さらば扉はひらかれん 赤《せき》道《どう》斎《さい》
という意味不明の文章が一《いっ》緒《しょ》に記されていた。
「ねえ、なでしこちゃん。この絵が一体どうしたの?」
という啓太の怪《け》訝《げん》そうな問いかけに、やや落ち着きを取り戻したなでしこが答えた。
「啓太様は仮名様が赤道斎……あの方の遙《はる》か遠いご先祖様が残した魔《ま》術《じゅつ》の遺《い》品《ひん》をずっとずっと追いかけておられたことはご存じでしたでしょうか?」
「ん? ああ。人の服を変えるニワトリとか、願《ねが》いを叶《かな》える酒《さか》瓶《びん》とか、露《ろ》出《しゅつ》狂《きょう》を生んだ魔《ま》導《どう》書《しょ》な」
と、啓《けい》太《た》が苦いモノでも食べたように顔をしかめる。
「よ〜く覚えているよ」
様々な記《き》憶《おく》があった。なでしこは頷《うなず》いた。
「実は薫《かおる》様は最近ずっと仮《かり》名《な》様のそのお仕事を手伝ってこられました。そしてつい先日、お二方はその赤《せき》道《どう》斎《さい》の遺《い》品《ひん》の中でももっとも重要なモノを発見したと喜んでうちに帰ってこられたのです」
「ふむふむ」
「お二人ともとても意《い》気《き》揚《よう》々《よう》とされておりました。わたしはお帰りになったお二人のためにお茶をお持ちしようといったん、席を中座したのですが」
「ふむ」
「戻ってきたらお二方は消えてしまって、この絵だけが残っていたんです」
「……ふ〜む、なるほどね」
啓太はちょっと考えてから推《すい》論《ろん》をゆっくり口にした。
「まあ、この絵が大体の失《しっ》踪《そう》の原因だってのは今までの傾向からしてほぼ間違いないんだろうけどさ……この真実の問いかけに真実で答えよ≠チて一体どういう意味なんだろうな?」
と、顔を上げる。
「さあ……わたしも気になって色々とその絵に向かって質問したりしてみたんですけど」
なでしこはしょんぼり俯《うつむ》いた。
「なにもなかったの?」
「……はい」
啓《けい》太《た》はなでしこの答えに頷《うなず》き、何気なく視《し》線《せん》を落として、驚《おどろ》きの声を上げた。
「うお!」
いつの間にか絵の中から柔らかい光がこぼれ落ちている。よく見るとその光は描かれた門の隙《すき》間《ま》から放射線状に広がっていた。
門が明らかにさっき見た時よりも開いているのだ。
「なでしこちゃん……これ、一体どういうこと?」
と、啓太が驚いたように問いかけると、なでしこも眉《まゆ》をひそめて訝《いぶか》しがっていた。
「わ、わたしにはまるで」
だが。
「あ、あれ?」
光がみるみると萎《しぼ》んでいく。
「あ、あ、あ」
なでしこがよろめくように前に歩み出て、表面に触れた。その白い指先によって波《は》紋《もん》のように絵全体が震《ふる》えるが、門自体はまた閉まりかけていた。
それと同時に光も消え去りつつある。
「なんだ? なにが起こってるんだ?」
啓太が困《こん》惑《わく》したようにようことなでしこを振り返る。
「あ、また光り出した!」
と、ようこが彼の上から覆《おお》い被《かぶ》さって声を上げた。
「ん? これ、なんかに反応してるんだよな? な?」
と、啓太がようこ、なでしこに念を押すと、門がまた開きかけ、そこからこぼれ落ちてきている輝《かがや》きが強さを増していた。
「誰《だれ》か、霊《れい》力《りょく》を使ってるのか? それともキーワード?」
「わたし、なんにもしてないよ?」
「なでしこちゃんは?」
「さ、さあ。わたしにもまるで」
なでしこがぷるぷると首を横に振る。三人は黙《だま》り込んだ。すると突然。
「あ、もしかして!」
と、啓太が叫んだ。それから、
「なでしこちゃん、今、穿《は》いている下着の色は何色?」
と、真《ま》顔《がお》で尋《たず》ねる。
「な!?」
当然、絶句しているようことなでしこ。啓《けい》太《た》はもの凄《すご》く真剣に、勢い込んでなでしこの顔を見やった。
「答えて! これはとっても大事なことなんだ!」
その命がけの剣《けん》幕《まく》になでしこは思わず反射的に、
「え、えっと白です」
と、答えた後、かあっと顔を赤らめた。啓太は力強く頷《うなず》くと、絵を指差した。
「ほら!」
見れば絵はさらに激《はげ》しく輝《かがや》き出していた。
「みろ! やっぱりそうだ! そうだったんだ!」
「ど、どいうこと?」
というようこの問いに啓太は得意げに答えた。
「つまりだな、問い≠ニ答え≠セったんだよ。誰かが何かを質問して、それに誰かが答えれば、この絵は反応する仕組みになってるんだ!」
「な、なるほどね〜」
ようこが感心したように大きく頷いてから、
「だからって何もなでしこの下着の色聞く必要はないでしょ!?」
ふと我《われ》に返って怒り出した。啓太の襟《えり》首《くび》を絞め上げる。啓太は相変わらず大まじめな顔で絵を盾《たて》にするように掲げたまま、
「なでしこちゃん。バストサイズは」
ごいんとようこが啓太の頭をそばにあったお盆で張り倒した。前によろめいた啓太を乗り越え、ぐりぐり踏みにじるようにしてなでしこに聞く。
「なでしこ! 好きな食べ物は?」
「あ、え〜と、スパゲティーです」
これには即座になでしこも反応を示した。すぐに問い返す。
「ようこさん、お好きな食べ物は?」
「チョコレートケーキ!」
と、間《かん》髪《はつ》入れずにようこが答える。啓太がまた懲《こ》りずに這《は》い上がり、
「なでしこちゃん! ブラジャーをつけていない理由をここで是《ぜ》非《ひ》」
「うるさい! なでしこ、薫《かおる》の一体どこが好きなの?」
「や、やさしくて意外におもしろいところが。ようこさん啓太様のどこが?」
「面《おも》白《しろ》くて意外に優《やさ》しいところ!」
「二人で行ってみたい場所は?」
「知りたいことは?」
少女二人がその調《ちょう》子《し》で次々と矢《や》継《つ》ぎ早《ばや》に掛け合いを続けていく。その白《はく》熱《ねつ》ぶりでますます門が大きく開いていき、とうとうその奥から何か巨大な力が溢《あふ》れ出しかけていた。その圧力に耐えかねて三人は顔を庇《かば》うように手をかざす。
ふとその時。
「ねえ、ケイタ」
と、ようこが振り返った。まるでたった今、思いついたかのように。
「ん?」
「……ケイタはわたしのこと本当はどう思ってるの?」
そのごく何気ない問いに。
啓《けい》太《た》が何か口を開きかけ、なでしこが驚《おどろ》いた顔をした途《と》端《たん》。
門が完全に開ききって、一気に光が爆《ばく》発《はつ》を起こした。
冷え込んだ部屋。
雨音だけが響《ひび》くその部屋にからんと絵だけが床《ゆか》に転がり落ちた……。
「いつつ」
啓太が頭を抱えて呻《うめ》いている。
「大丈夫ですか?」
と、なでしこが助け起こした。
ちょっと離れた場所にいたようこも頭を振って起き上がっていた。
「も〜、一体何?」
三人は三様に辺りを見回し、口をぽかんと開いた。
そこは全く奇妙な場所だった。
まずベッドがあって、それが尋《じん》常《じょう》なベッドではなかった。
布団カバーに半裸の美少女が胸を隠して恥《は》ずかしがっているアニメ絵がプリントされているのだ。それに枕《まくら》。いわゆる抱き枕という奴《やつ》で尻尾《しっぽ》の生えたケモノ娘が横向きに寝転がっている超レア物だった。
壁《かべ》から天《てん》井《じょう》にびっしりとポスターが貼《は》ってあり、本棚には漫画やら同人誌がぎっしりと詰まっていた。
前のAVラックには液晶テレビとDVDレコーダーが二台。その上にクリアケースが置いてあって細《こま》々《ごま》としたフィギュアが飾られていた。
「な、なんでしょうか、ここ?」
本能的な恐怖を感じてなでしこがこわごわ身を引いた。光に包まれた瞬《しゅん》間《かん》、身体《からだ》が大《おお》渦《うず》に吸い込まれるようにしてここへ辿《たど》り着いたのだ。
「わ〜い♪」
と、ようこが某《ぼう》ケモノ娘の抱き枕《まくら》に抱きついて懐《なつ》かしそうにごろごろ喉《のど》を鳴らしている。
「コレあんまり売れなかったんだよね〜」
啓《けい》太《た》がそのようこの台詞《せりふ》を丁《てい》寧《ねい》に無視して、コメントした。
「オタクの部屋」
ごくりと。
「なのか?」
しかし、なんで突然、こんなところに来たのか分からない。ふとその時。
という場所をおまえたちを迎え入れるのに臨《りん》時《じ》で作ってみた。どうだろうか?
いきなり目の前の液晶テレビにスイッチが入り、そこにひどく見覚えのある顔が映った。
「うお!」
と、啓太が驚《おどろ》いて身をひく。ようこが叫んでいた。
「か、仮《かり》名《な》さん!?」
「ふむ」
テレビに映った男が啓太たちを順番に見回した。オールバックに撫《な》でつけた黒髪。彫りの深い顔だちに白い肌。それはどこからどう見ても啓太たちのよく知っている特命|霊《れい》的《てき》捜査官仮名|史《し》郎《ろう》だった。
ただ違うのは仮名史郎が普《ふ》段《だん》スーツ姿なのに対して、男は深い藍《あい》色《いろ》のローブをまとい、フードを目《ま》深《ぶか》に被《かぶ》っているところである。
男はその暗がりの奥から半目で、
犬《いぬ》神《かみ》使い川《かわ》平《ひら》啓太と川平|薫《かおる》のメス犬一匹
ベッドの上に身を起こしたようこをじっと見《み》据《す》えた。
それに金《きん》色《いろ》のようこ、か。よくも揃《そろ》ったものだな……これもまた我《わ》が運命ということか
「お、おい? 仮名さん? どした? なに言ってるんだ、あんた」
啓太が恐る恐る尋《たず》ねる。男は怪《け》訝《げん》そうに首を傾《かし》げ、
仮名史郎?
ああ。
と、頷《うなず》いた。
我が子孫のことだな。クサンチッペ。カメラをもう少し右へ回してみてくれ
するとテレビ画面が大きくぶれた。ローブを着た男の上半身が映り、ドーム型の高い天《てん》井《じょう》が一度見え、ぐるんと回って、床《ゆか》が映る。さらに床を舐《な》めるようにして映像が行きすぎた後、巨大な機《き》械《かい》のようなモノが一《いっ》瞬《しゅん》ちらっと見えて、また少し元に戻る。そこに今度は正《しょう》真《しん》正《しょう》銘《めい》ホンモノの仮名史郎が映し出された。
啓太がげっと呻《うめ》いた。
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は縛《しば》られて、石畳の床《ゆか》の上に転がされていた。
手と足が大きく仰《の》け反《ぞ》った俗に言う亀《きっ》甲《こう》縛《しば》りというやつである。口にも縄《なわ》を噛[#「噛」はunicode5699]《か》まされていて、う〜う〜言って唸《うな》っていた。
なでしこが反射的に口元に手を当て叫んでいた。
「か、仮名様!」
それからその無《む》惨《ざん》な様《よう》子《す》が最愛の主人を思い出させたのだろう。
「あ、あの薫《かおる》様は!」
彼女はテレビにすがりつく。
「薫様もそこにいるんですか!?」
テレビ画面がまた男の上半身を映し出した。
藍《あい》色《いろ》のローブを着た男はちょうど祭《さい》壇《だん》のような場所の背後に立っていた。
という訳《わけ》だ。川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》。仮名史郎を取り戻したかったらこれから是《ぜ》非《ひ》、私がいる場所まで来て欲しい。もちろん、これは強制ではないのだが
男は冷ややかに告げた。
もし断れば仮名史郎個人の尊《そん》厳《げん》は保証しないな。お前が今いる部屋は私が私の力を見せるためにあえて作ってみせたものなのだが……簡《かん》単《たん》に拷《ごう》問《もん》部屋に作り替えることだって可能なのだぞ?
「あの、そんなことどうでもいいから薫様は! 薫様は一体どこですか?」
テレビをがたがた揺すって必死でなでしこ。
「身も蓋《ふた》もねえな」
と、啓太がひそひそ囁《ささや》いて、ようこがこくこく頷《うなず》いていた。
画面の中の男はちょっと沈《ちん》黙《もく》した後、
まあ、ということだ。そこにある扉を開けてゆっくり来るがいい。お前の心の片隅に少しでもこの男がいるのなら、な
真顔でそう言う。
啓太は薄《うす》く目を細めて問いかけた。
「おい……お前、一体、何者だ? 何が目的でこんなことしてるんだよ?」
「ふ」
男は吐《と》息《いき》のような笑《え》みを口元に浮かべた。
「我《わ》が名は赤《せき》道《どう》斎《さい》」
「せ、せきどうさい!?」
仰天している啓太に構わず、男はゆるりと重々しい足取りで祭壇の前に出てくる。それによって今まで隠されていた下半身が全《すべ》て露《あら》わになった。上半身はまっとうなローブ。大|魔《ま》導《どう》師《し》と言ってもよい風格をしている。
それに謹《きん》厳《げん》そうな仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の顔にそっくりだ。
げっと啓《けい》太《た》が呻《うめ》いた。ようこ、なでしこが最大限に目を丸くする。男は淡々とした半目で呟《つぶや》いていた。
「全《すべ》ては我《わ》が大《たい》願《がん》のために」
だが、誰《だれ》も聞いていない。悲鳴。パニック。混乱で部屋は満ちていた。なでしこがきゃ〜きゃ〜発作を起こしたように叫んでいて、啓太がうお〜うお〜と後ろにずり下がっていた。男のローブは下半身部分が切れてすっぽんぽん。
いわゆるフリチンという姿だった。
「我が大願のために」
男がもう一度繰り返した。
やっぱり誰も聞いていなかった。
あまりにも醜《しゅう》悪《あく》なモノをモザイク無しで見てしまってなでしこがショックのあまり泣いている。ようこの肩にしがみついてえぐえぐ言っていた。
ようこはよしよしと彼女の頭を撫《な》でて、啓太は額《ひたい》の冷や汗をふい〜と手の甲で拭《ぬぐ》っていた。
「恐るべし、だな赤《せき》道《どう》斎《さい》……」
「ああ」
どこか遠くで男がシリアスな半目で呟いていた。
「これで私も現世に戻れるのだろうな?」
だが、フリチンだった。
それからテレビが切れた後もなでしこが立ち直るまでしばらくかかって、ようやく啓太たちはその濃《こ》いオタク部屋から逃げるように外へ出た。そこは打って変わってコリント様式の柱が立ち並ぶ、神殿の回廊めいた石造りの廊下だった。
オタク部屋の妄《もう》執《しゅう》に満ちた熱《ねっ》気《き》に比べて、ひどく落差のある空間だ。
ひんやりとした空気。
時代を感じさせる乾いた色合いの石《いし》壁《かべ》。
足音が高い天《てん》井《じょう》に木《こ》霊《だま》する。ちょっと進んだところに大きな彫《ちょう》像《ぞう》が立っていて、さらにその奥に重厚な造りの扉が見えた。
啓太は立ち止まり、その彫像をまず眺めやった。
「で?」
腕を組み、嫌《けん》悪《お》するように上半身だけ大きく仰《の》け反《ぞ》らせたポーズをとる。
彫《ちょう》像《ぞう》は鋭《えい》角《かく》に切れ込んだパンツを穿《は》いている以外は滑《なめ》らかな素肌そのままだった。材質は恐らく大理石。てらてらと不《ぶ》気《き》味《み》に白く光り、にかっと笑ってポーズを取っていた。黒い髭《ひげ》のトゲトゲした質感が浮き上がってリアルである。
総じて触りたくない。
というか、近づきたくすらない。だが、この彫像をどうにかしないと恐らくこの先へと進むための扉を開くことが出来ないのだ。
「さ、帰るか」
と、啓《けい》太《た》はくるっと背を向ける。そこへ。
「ダメです!」
きっと目の据《す》わったなでしこが両手を広げてその前に立《た》ち塞《ふさ》がった。
「この扉の向こうにきっと薫《かおる》様がいるはずなんですから!」
「仮《かり》名《な》さんはもうなしか……」
「あ、ね〜、ケイタ」
物《もの》怖《お》じせず、石像のそばに歩み寄っていたようこが声を上げた。
「あのね、ここになんか書いてあるよ」
彼女が指差しているのは彫像のそば。壁《かべ》に埋め込まれた石版である。
「あのねえ〜、愛の言葉をささやけ。さらば男は道をゆずらん≠セってさ!」
啓太、固まる。
「は?」
「だからあ、愛の言葉をささやけ≠セってさ」
ようこがもう一度読み上げる。啓太はこりこりと頭を掻《か》いていた。
「そうか」
と、呟《つぶや》き、遠い目をする。
「うんうん。前々からイヤな予感はしていたんだ。仮名さんと付き合ってると絶対、まともなことには巻き込まれないって。俺《おれ》みたいなノーマルな常《じょう》識《しき》人《じん》には荷が勝ちすぎるって。なんつうかあの人ヘンタイを呼ぶんだよな。類は友を呼ぶというか、多《た》分《ぶん》、無《む》意《い》識《しき》に。要するに何か? あの彫像に愛の言葉をささやけってか。そうすれば彫像が動く訳《わけ》だな。なるほど。実に大した仕掛けだ。さすがヘンタイの頭《とう》目《もく》赤《せき》道《どう》斎《さい》」
大きく息を吸い込んで、
「さ、帰るか」
と、もう一度、くるっと背を向けかける。しかし、そこには既《すで》になでしこが両手を広げて立ちはだかっていた。
「啓太様」
うるっと目《め》尻《じり》を潤《うる》ませ、
「お願《ねが》いです……」
懇《こん》願《がん》するように手を組み合わせた。啓《けい》太《た》がうっと怯《ひる》む。ようこが脳天気な声を上げた。
「ね〜、ケイタ〜、なんて声かけて上げるの、この石像に?」
「つうか、デフォルトで俺《おれ》が愛を囁《ささや》くのかよ? おい! ようこ」
「わたしイヤだも〜ん」
「なでしこちゃん」
「ひっく、くすん」
「あ〜、はいはいはい。わっかりました。そ〜ですね、どうせ俺はヘンタイ担当ですよね?」
半《なか》ばやけくそ気味に啓太は石像に向き直った。叫《さけ》ぶ。
「おい! こら、好きだぞ! だから、とっととそこをどけ!」
すると突然、驚《おどろ》くようなことが起こった。今までぴくりともしなかった硬質の石像が粘《ねん》土《ど》のように滑《なめ》らかに動くと、くねくね姿勢を変えたのだ。
目を丸くしている啓太となでしこ。
「あ、こっちの書いてある文字も変わったよ? なになに……え〜と、今度はダメダメ。そんな乱暴な言葉使いじゃあ、乙女《おとめ》心は動かないゾ?≠セってさ」
石版に目を落としていたようこが読み上げる。石像は今、肩をすくめ、はんと蔑《さげす》むような表情を作っていた。
「あ、なんかすげ〜むかつく」
啓太が半目になって呟《つぶや》く。石像はさっきよりもきっちり門を守っていた。
「よ〜し、分かった。いいだろう。ナンパの達人、川《かわ》平《ひら》啓太の実力を見せてやるよ」
啓太は半目のまま、ポケットに手を突っ込んで、
「その白い肌、可愛《かわい》らしい口元。好きだよ。信じられないかも知れないけど、会って一《ひと》目《め》惚《ぼ》れさ。悔しいけど、俺の心はお前にフォーリンラブだ。いえ〜」
と、お経《きょう》みたいに全く感情を込めずに言う。
すると石像がまたクレイアニメーションのようにうねうね動いて、ぽっと頬《ほお》を押さえる仕《し》草《ぐさ》を取った。啓太は相変わらず無表情に、
「好きさ。ああ、好きさ。大好きさ〜」
と、抑《よく》揚《よう》なく言う。
「大好きさ〜」
まるで呪《じゅ》詛《そ》するような暗い目である。ようこがふと叫んだ。
「あ、こっちの文字も変わったよ。え〜とね」
彼女が石版の文字を読み上げる。
「なになに。え〜と、とっても情《じょう》熱《ねつ》的《てき》な言葉|嬉《うれ》しいけど恥《は》じらう乙女はちょっと欲張りさん。今日《きょう》の私の気分はアンニュイで、繊《せん》細《さい》だから耳元で優《やさ》しく=v
ふと石像がウインクしてちちっと指先を振るポーズを取った。
「さ、さ、や、い、て♪=v
だって。
と、ようこが振り返ると同時にふっと啓《けい》太《た》が世にも凄《すさ》まじい笑《え》みを浮かべていた。ポケットからカエルのケシゴムを取り出し、指先で構える。
「ようこ!」
と、彼が声をかけるとようこがきゃはははと嬉《うれ》しそうに笑った。
「そうだよね。最初からそうすれば良かったんだよね♪」
だいじゃえん。
彼女がぴっと指先を立てた。
どか〜んという凄まじい破《は》砕《さい》音《おん》。
黒こげになった石像を蹴《け》倒《たお》す勢いで啓太が重たそうな扉を開ける。
「おらおらおら! 赤《せき》道《どう》斎《さい》、待ってろよ!」
その後ろから大喜びしているようこと決然とした表情で頷《うなず》くなでしこが続く。一行はさらに暗い廊下へと踏み込んでいった。
「ほう」
赤道斎と名乗ったローブ姿の男が半目で呟《つぶや》いていた。
「なかなか直接的な行動を取るな、川《かわ》平《ひら》啓太。実に大したものだ」
彼の周囲には広大なる宇宙が広がっていた。
暗黒の敷《しき》布《ふ》の上に銀砂をばらまいたような星《ほし》屑《くず》。白《はっ》金《きん》の煌《きら》めき。少し離れた場所で輝《かがや》くのはミニチュア版の太陽である。
さらに太陽系の他《ほか》の惑星も辺りに散見できる。
その一つ。ちょうど水晶玉ほどの大きさの地球が男の前で静止していた。
そこには緑豊かな大地や濃《のう》紺《こん》の大洋に映り込む形で、ずんずんと前に進んでいく啓太たちの姿が映っていた。
「まだ最終的な判断を下すには早計だが」
赤道斎は半目をさらに細め、銀河の彼方《かなた》を見やる。
「その卓越した霊《れい》力《りょく》、想《おも》いの強さ、お前ならもしかしたらこの重き檻《おり》から私を解き放てるのかもしれんな……」
それから真《ま》面《じ》目《め》な顔で、指先をくいっと旋《せん》回《かい》させた。
するとその動きに呼応して小さな地球がくるりと彼の背後に移動し、反対に青白く光る月が彼の正面に回り込んできた。ぴたりと止まったそのクレーター面に啓太とは別の少年の顔が映った。
「で、さっきから手こずらせてくれているこちらはどうかな?」
赤《せき》道《どう》斎《さい》は月に映し出された啓《けい》太《た》とは別の少年を観察する。
するとその少年がこちらを振り向き、にこっと笑って、明らかに赤道斎の視《し》線《せん》を正《せい》確《かく》に認《にん》識《しき》した上で銀のタクトをぴっと振るう。その瞬《しゅん》間《かん》、映像が途《と》切《ぎ》れ、大量の砂《すな》嵐《あらし》が月の上で爆《ばく》発《はつ》的《てき》に起こった。
「ふ〜む、魔《ま》眼《がん》の欠片《かけら》≠見つけて破《は》壊《かい》したのか」
赤道斎が感情を湛《たた》えぬ半目で呟《つぶや》いた。
「若いのに実に大した力量だな。川《かわ》平《ひら》薫《かおる》……」
月と地球がワルツでも踊るように向かい合いながらくるくると回って赤道斎から離れていく。星々が瞬《またた》き、太陽のフレアがぼっと上がった。
「だが、お前に私の邪魔はさせない。決して」
重々しげに頷《うなず》く。
フリチンおとこが宇宙に一人。
「しかし、つくづく仮《かり》名《な》さんも災《さい》難《なん》に巻き込まれやすい人だよな〜」
先ほどの石像が守っていた扉から続く廊下を歩きながら啓太が呟いた。手を頭の後ろで組み、隣《となり》を見やる。
「……そう、ですね」
と、ややぎこちなく答えたのはなでしこだった。
「まだ薫のことが心配?」
「あ、すいません……ちょっとだけ」
「だいじょ〜ぶだって。あいつ殺したって死ぬような奴《やつ》じゃないから。異様に立ち回りが上手《うま》い奴だし、仮名さんとは違ってきっとまだ捕まってないんだよ」
「そう」
なでしこは少し笑《え》みを作った。
「ですよね、きっと」
「ははは、まあ、元気だしなって」
と、啓太はぽんぽんとなでしこの肩を叩《たた》く。
ちなみに今、啓太たちが歩いている廊下は左右の壁《かべ》が一面|鏡《かがみ》張《ば》りになっていた。その状態だと合わせ鏡が無限の反射と投《とう》影《えい》を繰《く》り返して隣にも、隣にも、廊下と自分たちが歩いているように見える。
廊下自体は石畳のやや天《てん》井《じょう》が高い普通のモノだったが、そこだけが変わっていた。
啓太となでしこは最初のうちこそぎよっとしていたが、すぐに慣れて真《ま》っ直《す》ぐ前だけを向いて歩くようになった。
ただ、ようこだけはそういう状態がひどく珍しいので啓《けい》太《た》の肩の上に乗ってきょろきょろと左右を見回していた。
そして、しばらく進むうち奇妙なことに気がついた。
「しかし、赤《せき》道《どう》斎《さい》か。まだ生きてたんだな」
と、啓太が独白すると一《いっ》緒《しょ》に歩いていた彼の鏡《きょう》像《ぞう》たちがくるっとこちらを振り向いてにやっと笑った[#「振り向いてにやっと笑った」に傍点]のである。
ようこは目をごしごしと擦《こす》った。
見間違いかと思った。
だが、違った。
啓太の鏡像ははっきりと現実の啓太とは違う動きをし始めた。すなわちどこからか取り出したスケッチブックにさらさらと文章を書きつけたのである。
『ありゃ〜、久しぶりに真性のヘンタイだったな』
と。
続けてなでしこが、
「……随《ずい》分《ぶん》とおかしな人でしたけど」
頬《ほお》を赤らめ、口《くち》籠《ご》もるように、
「でも、間違いなく大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》ですよね」
そう言うと、彼女の鏡像が一《いっ》斉《せい》にくすっと笑って、啓太の鏡像と同じようにスケッチブックを取り出した。
『え〜ん、ヘンなモノ見ちゃったよ〜』
と、歩きながらそう書きつける。
ようこは目を白黒させていた。
「確《たし》かに。なでしこちゃんも気がついているだろうけど、ここは魔力のみで形成された純然たる異空間だからな。これ、ちょっとやそっとの力じゃないぜ」
と、ややシリアスに啓太が答えた。
『でも、ヘンタイだけどな。つうか、仮《かり》名《な》さんに瓜《うり》二つなのがまたきっついよな〜』
「そうですね」
と、なでしこが緊《きん》張《ちょう》感《かん》に満ちて頷《うなず》く。
「なみなみならぬ相手のようですね」
『でも、啓太様が必ずなんとかしてくれますよね?』
それぞれ啓太となでしこの鏡像はスケッチブックにマジックでそう書きつけた。続けて今まで黙《だま》っていたようこの鏡像が啓太の肩の上でにやっと笑って、
『一体どういうこと?』
と、今まさに彼女が思っていることを記してこちらに見せる。ようこは腕を組んで考え込んだ、その間、啓《けい》太《た》となでしこは黙《だま》り込んでいる。
しかし、鏡《かがみ》の中の啓太となでしこは休むことなく、
『お〜、なでしこちゃんの胸って横から見るとさらにでかいのな』
とか、
『はあ、薫《かおる》様。こんなところにお一人で。お可愛《かわい》そうに。ご無事だといいんだけど……』
とか、忙《せわ》しなく書いてはにやっと笑ってこちらに見せている。しばしの沈《ちん》思《し》のあとようこはようやく答えらしきモノを導《みちび》き出す。
鏡の方を見ると、
『もしかしてこっちの考えていることが分かるの?』
と、鏡の中の彼女が書いていた。ようこははあっと感《かん》嘆《たん》の吐《と》息《いき》をついた。
「どした?」
と、現実の啓太が上を向いて聞いてくる。ようこはぷるぷると首を横に振った。それからふと思いつく。
さっきどさくさに紛《まぎ》れて聞きそびれた答え。
どうしても聞いてみたい問い。
「ねえ、ケイタ」
と、彼女は勢い込んで啓太の顔を上から覗《のぞ》き込んだ。
「ケイタはわたしのこと好き?」
いきなりの率直な質問に啓太は赤面した。
「な!?」
しかし、ようこはそちらを見ず、即座に鏡の方を振り返った。鏡の中の啓太がスケッチブックになにやらさらさらと書いている。啓太となでしこがその時、初めて鏡の仕掛けに気がついて驚《おどろ》きの声を上げる。
「わ!」
鏡の中の啓太がくるっとスケッチブックを見せた。
「わあああああああ───────────!」
そこにはこう書いてある。
『俺《おれ》はようこのことが』
啓太が必死で叫《さけ》ぶ。
「やめ! やめ─────!」
「好き?」
『嫌《きら》い?』
鏡の中のようこが小首を傾《かし》げる。現実のようこが身を乗り出し、なでしこが目を丸くしたその瞬《しゅん》間《かん》。
左右の鏡《かがみ》が一《いっ》斉《せい》に砕《くだ》け散った。
「ん? 何事だ?」
そこから位相的に離れた場所にいた赤《せき》道《どう》斎《さい》がふと顔を上げた。彼の周りに広がっていた宇宙空間が揺らめき、明滅してから突《とつ》如《じょ》、消えた。
後にはがらんと広い広間だけが残った。
そこは不《ふ》思《し》議《ぎ》なほど静《せい》謐《ひつ》さに満ちた空間だった。
規格が全《すべ》て並はずれて巨大で、人為的な広間と言うよりは、自然が作り上げた大《だい》鍾《しょう》乳《にゅう》洞《どう》のように見えた。だが、杉の巨木のような柱が遙《はる》か彼方《かなた》からこちらに向かって順番に並んでいる点や、赤道斎が立っている正面に祭《さい》壇《だん》めいた台が置かれている点で、気《き》宇《う》壮《そう》大《だい》なニンゲンの想念が加わっている場所だと分かった。
なにより異様なのが、その祭壇の前に聳《そび》えている機《き》械《かい》のようなモノである。複雑なメーターやレバーや計器や歯車が節《せっ》操《そう》なく取り付けてあって、それらがまた呆《あき》れるほど大きかった。そして上部には大きな青いパネルが表示してあって、
『なんやらよう分からんけど伝達路に不都合があったんで念のためふぉろぐらむは中止や』
と書かれていた。
赤道斎は黙《だま》ってそれを見上げていた。
「ますた。どうしたか?」
かたことと彼の隣《となり》で奇妙な人形が小首を傾《かし》げた。
「こけ〜こけ〜」
と、近くから木彫りのニワトリが飛んできて赤道斎の肩に止まった。赤道斎はふっと吐《と》息《いき》のようなものを漏《も》らした。
「なるほど……川《かわ》平《ひら》薫《かおる》か。どうやら奴《やつ》が魔《ま》力《りょく》伝達路のパイプラインを破《は》壊《かい》したらしい。折《せっ》角《かく》、面《おも》白《しろ》いところだったのに残念だ」
「ますた。どうするか?」
と、彼の隣にいた木彫りの人形が小首を傾げた。
それもまた奇妙な存在だった。
手足と胴体と細長い顔がそれぞれ一《ひと》塊《かたま》りの木材で出来ていて、関節は同じく木のリングで繋《つな》がっていた。顔には墨《ぼく》汁《じゅう》でいい加減に書いたような目と鼻と口。ほぼ等身大の大きさでかたこと自在に動いていた。
「ふむ」
赤道斎は顎《あご》に手を当て、独り言のように呟《つぶや》いた。
「仕方ない……こうなったら私自身が出ていって、川平薫を捕まえる必要があるだろうな。万が一にもこの〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉を壊《こわ》されたらたまらない」
「ますた、あのね。けいこく、けいこく」
「なんだ?」
「あのおとこ、おきてきた」
見るとそこから少し離れた場所に転がされていた仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がゆっくりと起き上がってくるところだった。
赤《せき》道《どう》斎《さい》は無感動な半目をそちらに向けた。
「せ、せきどうさい」
仮名史郎がふらつく足を懸《けん》命《めい》に堪《こら》え、憤《ふん》怒《ぬ》の形《ぎょう》相《そう》を浮かべていた。彼の周囲には彼を束《そく》縛《ばく》していた縄《なわ》が散乱していた。
どうやら力任せに縄を引き千《ち》切《ぎ》ったらしい。
「ふむ。仮名史郎」
赤道斎は半目で淡々と尋《たず》ねた。
「何か言いたそうだな?」
片や古《いにしえ》に生きる伝説の大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》赤道斎。
片や現代の霊《れい》的《てき》治安を守る特命霊的捜査官仮名史郎。
鏡《かがみ》に映したように生き写しの二人が対《たい》峙《じ》する。
「まずきちんと服を着ろ!」
仮名史郎がなによりそう叫んだ。自分と瓜《うり》二つの男が下半身丸出しなのである。他《ほか》の何は許せてもそこだけは許せないようだった。
「おう?」
赤道斎は胡《う》乱《ろん》な半目で自分を見下ろした。
「ああ」
と、彼はいまさら気がついたように呟いた。
「これは失礼した」
指をぱちんと鳴らす。
「ソクラテス。我《わ》が子孫はどうやら少々、礼《れい》儀《ぎ》に煩《うるさ》い男らしい。しっかりとした彼の好みにあった礼装を」
こけ〜と木彫りのニワトリが羽ばたいて、どろんと白い煙が赤道斎を包んだ。
煙が晴れた後、赤道斎は魔導師風のローブから現代風の仕立てのしっかりとしたタキシードに着替えている。
「こんなものでどうかな?」
元々が彫りの深い白《はく》皙《せき》の顔だち。
仮名史郎と同じくらいのすらりとした長身である。そういう姿はさながら社交界に生きる若い青年実業家のような華やかさがあった。
ただし、上半身だけは。
「う」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が思わず口元に手を当てる。情けなくて涙が出てきた。赤《せき》道《どう》斎《さい》の下半身は相変わらず丸出しなのである。
「うう」
もはや突っ込む気力も湧《わ》かない。
その様《よう》子《す》を見ていた赤道斎が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに小首を傾《かし》げた。それから、
「ああ、そうかそうか。洋装には確《たし》かネクタイというものが必要だったな。重ねて失礼した」
また指を鳴らした。木彫りのニワトリに赤い蝶《ちょう》ネクタイをどろんと出させる。
「なかなかどうして現代というものは煩《はん》雑《ざつ》なものだな」
その蝶ネクタイをいそいそ結ぶ。
股《こ》間《かん》に。
「うううう」
とうとう本格的に泣き出している仮名史郎。赤道斎はそれを器用に装着して、心なしか上気した誇らしげな半目で、
「さあ、これでどうだ!」
「せめて私の手で引《いん》導《どう》を渡してやる!」
きっと顔を上げて仮名史郎が叫《さけ》んだ。
「エンジェルブレイド!」
彼の手にメリケンサックのようなモノが握られ、そこから二股に分かれた天使の羽のような光の刃《やいば》が忽《こつ》然《ぜん》と現れた。
仮名史郎は一、二度それを風車のように大きく回して、
「いくぞ、赤道斎!」
左足を引き、上段の構えをびしっと取った。
「ふむ」
赤道斎は半目ですうっと右手の人指し指を差し上げた。
「〈戒《いまし》めの縄《なわ》よ、招来せよ〉」
高速で呟《つぶや》かれる呪《じゅ》文《もん》。
凝《ぎょう》集《しゅう》する魔《ま》力《りょく》。途《と》端《たん》、彼の指先からぶわっと蜘《く》蛛《も》の糸のように荒縄が吐き出され、それが蛇《へび》のようにのたうって仮名史郎へ殺到していった。
仮名史郎は走りながらそれを次々と切り払った。
「は!」
縄が左右に細切れに飛び散る。
「同じ手は喰《く》わない。喰らえ!」
助走をつけて思いっきり飛び上がった。
「ひ〜さつ」
だが、赤《せき》道《どう》斎《さい》は微《み》塵《じん》も動かなかった。
「ホーリークラッシュ!」
「愚《おろ》か者」
半目で呟《つぶや》く。
「その魔《ま》道《どう》具《ぐ》は我《われ》が作り上げたものぞ?」
その時だけ、ぞっと寒気のするような笑《え》みが赤道斎の顔に浮かんだ。
「〈来たレ、赤道の血よ!〉」
その瞬《しゅん》間《かん》、凄《すさ》まじい深《しん》紅《く》の輝《かがや》きが赤道斎から放たれ、今にもエンジェルブレイドを振り下ろそうとしていた仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》にぶつかった。衝《しょう》撃《げき》。耳をつんざくような音と共に、仮名史郎は天高く投げ出される。
「ふ」
赤道斎はくるっと背を向け、目をつむった。
「まだまだ精《しょう》進《じん》が足りないな」
遙《はる》か高く、高く。
頂点を極めた後、仮名史郎の身体《からだ》が錐《きり》もみして急降下。直後、祭《さい》壇《だん》の上に直撃した。破《は》砕《さい》音《おん》と共に祭壇が粉々に砕《くだ》け散る。
「こけ〜」
と、木彫りのニワトリが哀《かな》しそうに羽ばたいた。赤道斎はちらっと無感動な半目で仮名史郎を振り返り、ゆるゆると前へ向かって歩き出す。
「クサンチッペ。私はこれから川《かわ》平《ひら》薫《かおる》を捕まえに行く。あとはお前が相手をしてやれ」
背中が蜃《しん》気《き》楼《ろう》のように揺らめき、消え始めた。
「ま、まて……」
瓦《が》礫《れき》の中から満《まん》身《しん》創《そう》痍《い》の仮名史郎が這《は》い出してきた。彼は苦痛を堪《こら》え手を伸ばす。
「逃がしは……しない」
だが、その前に立《た》ち塞《ふさ》がった一つの影《かげ》があった。
かたかたと手足を動かしていた木彫りの人形である。
「あそぶ?」
平《へい》坦《たん》な声で尋《たず》ねる。
「あそぶ? あそぶ? あそぶ?」
「く」
と、仮名史郎が唇を噛[#「噛」はunicode5699]《か》みしめた。
「でえ〜〜〜」
その頃《ころ》、啓《けい》太《た》が全速力で走っていた。
目をぱちくりさせているなでしこをお姫様抱っこし、ようこが彼の肩に乗って足を首に絡《から》めている状態だった。
「こら! ケイタ! はっきり言いなさい! 本当は私のことどう思ってるの!?」
「バカ! そんなことより後ろ! 後ろ!」
彼の後ろから追いかけてきているのは金属的な光を放つ鎧《よろい》武《む》者《しゃ》である。ガラスが砕《くだ》け散った後、突《とつ》如《じょ》として背後から、
「観《かん》自《じ》在《ざい》菩《ぼ》薩《さつ》 行《ぎょう》深《じん》般《はん》若《にゃ》波《は》羅《ら》蜜《みっ》多《た》時《じ》 照《しょう》見《けん》五《ご》蘊《うん》皆《かい》空《くう》 度《ど》一《いっ》切《さい》苦《く》厄《やく》!」
と、大音声で般《はん》若《にゃ》心《しん》経《ぎょう》を唱える鎧武者が追いかけてきたのである。
大上段に大《おお》太《だ》刀《ち》を振りかざし、
「舎《しゃ》利《り》子《し》 色《しき》不《ふ》異《い》空《くう》 空《くう》不《ふ》異《い》色《しき》 色《しき》即《そく》是《ぜ》空《くう》 空《くう》即《そく》是《ぜ》色《しき》!」
ひたすら怖い。
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》はまだ身体《からだ》にダメージが残っている状態で懸《けん》命《めい》に起き上がろうとしていた。木彫りの人形はひょこひょことそんな仮名史郎に近づいてくる。
「あそぶ?」
と、くいくい踊る。
木彫りの人形の股《こ》間《かん》部分からにょっきり何かが生えてきた。仮名史郎はぎょっとする。それは紛《まぎ》れもない。金属製のドリルだった。
それが、
「あそぶ?」
と、木彫りの人形が言った途《と》端《たん》。
くい〜〜〜〜〜ん、と音を立てて回転する。股間のドリル。
仮名史郎は冷や汗と共に思っていた。
ほ、掘られる!
と。
「ふ〜ん。随分とよく出来ているな、この制《せい》御《ぎょ》システム」
ビリヤード大の三つの球。
それが宙に浮いている。色はそれぞれ赤と青と黄色である。それが三角の頂点を作り、定期的に位置を入れ替えていた。その前に立っているのは黒髪の少年である。すらりとした肢《し》体《たい》に琥《こ》珀《はく》の目。
ジャケットに紺《こん》色《いろ》のタイをしていた。
もう一人の犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い川《かわ》平《ひら》薫《かおる》である。
「元々の魔《ま》力《りょく》の供給源はきっと別なんだろうけど、ここで空間を無《む》理《り》矢《や》理《り》ねじ曲げて……いや、というかこれだともはや空間を創作しているレベルか」
薫は思案げに幾度か頷《うなず》いた。
そこは鬱《うっ》蒼《そう》とした木々が茂るジャングルだった。色とりどりの熱《ねっ》帯《たい》の花が妖《あや》しく咲き誇り、コカカカと謎《なぞ》の鳴き声を上げる鳥が飛び交う。汗ばむような濃《のう》密《みつ》な空気に包まれた空間。魔力によって創出されたあり得ない場所。川平薫はそんな中、涼しげな表情で頭上に浮かぶ三つの球を見上げていた。
「ん?」
ふとその時。
かちかちっと三つの球が唐《とう》突《とつ》に明滅を繰《く》り返した。川平薫は苦笑した。
「……で、御《おん》大《たい》自らいらした訳《わけ》か」
その瞬《しゅん》間《かん》、いきなり世界が切り替わった。
鬱《うっ》陶《とう》しいくらい暑かった熱帯の風景が一変し、辺りはいつの間にか寒風が吹きすさぶ氷の大地になっている。近くにいたペンギンが慌てて不《ぶ》格《かっ》好《こう》に逃げ出していた。
「ご名答」
背後から淡々とした声がかかった。
「若いのによく勉強しているな、川平薫よ」
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
振り向きざま、薫が胸ポケットから銀のタクトを突きつけた。その先端から凄《すさ》まじい突風が生じ、いつの間にかそこに現れていた赤《せき》道《どう》斎《さい》に向かって襲《おそ》いかかった。南氷洋のブリザードにも負けないくらいの霊《れい》力《りょく》の竜巻である。
「〈来たレ、赤道の血よ〉」
だが、赤道斎は胡《う》乱《ろん》な半目で手を差し出しただけだった。こけ〜と彼の肩で木彫りのニワトリが羽を広げた。
「く!」
逆にそれで打ち負けたのは川平薫の方だった。
彼の操《あやつ》る風が赤道斎の放った深《しん》紅《く》の衝《しょう》撃《げき》波《は》にかき消され、その余波が圧倒的な破《は》壊《かい》力《りょく》を保って一息に押し寄せてくる。
氷の大地が削られ、大気が唸《うな》りを生じた。
薫は咄《とっ》嗟《さ》に両手を交差させ、顔を庇《かば》う。それでも力を殺しきれず、彼は上半身から煽《あお》られるように弾《はじ》き飛ばされた。
「く、ぐ!」
氷の上にごろごろと連続して身体《からだ》を打ちつけられる。赤《せき》道《どう》斎《さい》は無感動にそれを見守っていた。
だが、川《かわ》平《ひら》薫《かおる》も完全に打ち負けたわけではなかった。
ほんのわずか。
ほんのわずかだが、一《いっ》矢《し》報《むく》いている。遅れて赤道斎の頬《ほお》にぴっと鮮《せん》血《けつ》が走った。
「ほう」
赤道斎がゆっくりと片手をそこにやった。
「驚《おどろ》いた……私の〈赤道の血〉をかいくぐって、風を届かせたのか?」
指先に付着した血をしげしげと眺め、特に目立った感情も見せず赤道斎がそう呟《つぶや》いた。
「私の身体に傷をつけたニンゲンは四百年以上の生の中でもお前が初めてだ、川平薫。実に大したものだな」
ちなみにびょ〜とマイナス何十度だかの寒風が吹きすさぶ氷の大地で彼は素足に下半身丸出しである。
あらゆる意味で超然としていた。
「はは」
川平薫がゆっくりと立ち上がって苦笑した。
「いやいや、そんなこともないですよ。さっきだって仮《かり》名《な》さんが身体を張って助けてくれなかったら僕《ぼく》は逃げられなかった」
「そうなのかもしれない」
赤道斎は感《かん》慨《がい》深《ぶか》げに言う。
「あるいはそうでないのかもしれない。だが、それもここで終わりだ。川平薫。お前はちょっと面《めん》倒《どう》を起こしすぎる。殺しはしないが、少しばかり眠っていて欲しい」
「あの、その前に一つだけ」
「なんだ?」
「……寒くはないんですか?」
そこだけ恐る恐る薫が問いかける。赤道斎は頷《うなず》いた。
「ふむ。実を言うとさっきから少し寒い。お前に我《わ》が城を制《せい》御《ぎょ》する〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の性能の一端を見せてやろうとしたのだが、さすがに南極を模したのはやり過ぎだったかな?」
ソクラテス。
と、彼は指を鳴らす。木彫りのニワトリがこけ〜と鳴いた。
どろんと湧《わ》き起こる白い煙。
「これでよし」
感情の分からない半目で心なしか満足そうにそう呟く赤道斎。毛糸の暖かそうな靴下を穿《は》いていた。
足に。
「やっぱりそこだけか」
薫《かおる》はさきほど仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が浮かべたような表情で顔を覆《おお》う。深い溜《ため》息《いき》をついた。
「あなたの身の上に起こったことふか〜くふかく同情しますよ、赤《せき》道《どう》斎《さい》」
「……何を言っている?」
「とにかく」
薫はとんと後ろに跳《ちょう》躍《やく》した。
微笑《ほほえ》む。
「ここは逃げさせて貰《もら》います。あなた相手ではとても僕《ぼく》一人では勝てそうにもない」
「この私を目の前にして逃げるというのか?」
赤道斎が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに小首を傾《かし》げた。
「はい」
と、薫は頷《うなず》く。鉛《なまり》色《いろ》の空に浮かぶ色|鮮《あざ》やかな三つの球を振り返って、
「この制《せい》御《ぎょ》システムのおおよその仕組みは分かりました。だから」
銀のタクトを軽やかにひゅっと振りかざす。その時、赤道斎に初めてほんのわずかだが動揺が見られた。
「あ、それは」
しかし、薫の方が早かった。裂《れっ》帛《ぱく》の気合いが木《こ》霊《だま》する。
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
爆《ばく》発《はつ》が起こり、空間がぐにゃっと歪《ゆが》んだ。
「うおおおお〜〜〜〜〜〜〜!」
変な鎧《よろい》武《む》者《しゃ》から逃げていた啓《けい》太《た》が叫んだ。
「わああ────────!」
迫り来る股《こ》間《かん》のドリルから仮名史郎が呼応する。
二人のいる位置が空間の歪みによって接触を起こした。
「うわあああ──────!」
と、
「おおおおおおおおおお!」
と、叫んでいた啓太と仮名史郎ががつんと正面|衝《しょう》突《とつ》する。
「いててててて!」
頭と頭を押さえる男二人。はっと互いに距《きょ》離《り》を取って互いを指差した。
「か、仮名さん?」
「川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》か!」
「なんでここに?」
「いや、それはこっちの台詞《せりふ》だ! あ、あれここは?」
「おろ? ようこやなでしこちゃんは?」
二人はきょろきょろと辺りを見回す。しかし、すぐに悠長に事態を確《かく》認《にん》している場合ではないことに気がついた。廊下の向こうから、
「受《じゅ》想《そう》行《ぎょう》識《しき》亦《やく》復《ぶ》如《にょ》是《ぜ》 舎《しゃ》利《り》子《し》 是《ぜ》諸《しょ》法《ほう》空《くう》相《そう》 不《ふ》生《しょう》不《ふ》滅《めつ》 不《ふ》垢《く》不《ふ》浄《じょう》 不《ふ》増《ぞう》不《ふ》減《げん》!」
と、般《はん》若《にゃ》心《しん》経《ぎょう》を唱《とな》えながら駆けてくる鎧《よろい》武《む》者《しゃ》と、
「とんだとんだとんだ!」
と、訳《わけ》の分からないことを呟《つぶや》きながら股《こ》間《かん》のドリルを盛大に回している木彫りの人形が迫ってきているのだ。しかも本彫りの人形の方は低空で空を飛んでいる。
両手を広げ、かっかっと股間のドリルが床《ゆか》に当たって火花が飛び散っていた。
「う」
川平啓太と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は互いに顔を見合わせ、
「わああああああああああ──────────────!」
と、叫んで一《いっ》斉《せい》に反対側へ走り出した。
「あいたた〜」
「ようこさん、大丈夫ですか?」
心配そうななでしこの声にようこが片手を上げて応《こた》えてみせた。二人は今、遠《とお》浅《あさ》の海のような場所にいた。
変な鎧武者から逃げている最中、突然、空気が歪《ゆが》んだかと思うとここにいたのだ。そこはひどく不《ふ》思《し》議《ぎ》な場所だった。足《あし》下《もと》は白い砂。その砂を覆《おお》うようにしてコバルトブルーの水面が広がっていた。
驚《おどろ》くくらい透明でクリアな水質だった。
ちょうど膝《ひざ》丈《たけ》くらいの深度である。そのため、座り込んでいるようことなでしこは腰元くらいまで水浸しだった。
頭の上には太陽と白い雲。
陸地はどちらの方角を見回しても全く見あたらなかった。
「う〜ん。どこなんだろう、ここ?」
ようこが宝石のような色合いに煌《きら》めく水を掻《か》き回して困《こん》惑《わく》したような顔をする。少し生ぬるいが、海水ではなかった。
なでしこが濡《ぬ》れた前髪を掻《か》き上げ、呟いた。
「啓太様はここにいらしてないみたいですね……一体何が起こったのでしょうか?」
彼女も不安げな様《よう》子《す》だ。そこへ。
「オンセイガイドカイシ」
いきなりぱしゃっと何かが水の中から何かが浮き上がってきた。ようこもなでしこもぎよっとしてそちらを見やる。
「オサガシノマドウグハナンデスカ?」
それは水をぽたぽた滴《したた》らせて浮いている丸い水晶玉だった。
ようことなでしこは「ん?」と互いに顔を見合わせた。
同時刻、啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》はひたすら走っていた。背後から迫ってくる、
「是《ぜ》故《こ》空《くう》中《ちゅう》無《む》色《しき》 無《む》受《じゅ》想《そう》行《ぎょう》識《しき》 無《む》眼《げん》耳《に》鼻《び》舌《ぜつ》身《しん》意《い》 無《む》色《しき》聲《しょう》香《こう》味《み》觸《そく》法《ほう》 無《む》眼《げん》界《かい》 乃至《ないし》無《む》意《い》識《しき》界《かい》 無《む》無《む》明《みょう》 亦《やく》無《む》無《む》明《みょう》盡《じん》!」
と、般《はん》若《にゃ》心《しん》経《ぎょう》を唱《とな》える鎧《よろい》武《む》者《しゃ》と股《こ》間《かん》のドリルを回しながら飛んでくる木製の人形。なんだか異常に早い。
啓太も仮名史郎も全速力である。
「くそ! いい加減にしやがれ!」
啓太がポケットからカエルのケシゴムを取り出し、マキビシのように背後へ放った。同時に振り返りざま、跳《ちょう》躍《やく》。凛《りん》と響《ひび》く声で詠《えい》唱《しょう》した。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ」
かっと霊《れい》力《りょく》が集中する。
「蛙《かえる》よ、破《は》砕《さい》せよ!」
白い閃《せん》光《こう》と爆《ばく》音《おん》。爆風。鎧武者と木彫りの人形を一《いっ》瞬《しゅん》で包み込んだ。啓太と仮名が立ち止まって戦果を確《かく》認《にん》しようとする。
そこへ。
「みえないみえない」
もうもうと立ち込める煙《えん》幕《まく》の奥から木彫りの人形が飛来してきた。
啓太は間一髪でしゃがみ込み、それを避《よ》けた。
「おわっと!」
辛《かろ》うじてドリルの部分が髪の毛をかすめ、幾本かが宙に舞《ま》う。そのまま木彫りの人形は失速して、向かいの壁《かべ》に激突した。どご〜んというもの凄《すご》い音を立てて、壁を崩《ほう》壊《かい》。それでもまだ股間のドリルがうい〜んと音を立てて唸《うな》っていた。
「あ、あぶね〜」
啓太が顎《あご》の下の冷や汗を拭《ぬぐ》って背後を振り返った。同時に仮名史郎が警《けい》告《こく》の叫びを上げている。
「川平、危ない!」
「どわあああああああああ────────!」
一拍遅れて煙の奥から鎧《よろい》武《む》者《しゃ》がぬっと現れた。さらに引《ひ》っ担《かつ》いでいた大《おお》太《だ》刀《ち》を脳天|唐《から》竹《たけ》割りとばかりに啓《けい》太《た》の頭上に思いっきり振り下ろしてきた。
「どっせい!」
すかさず。
というか、もの凄《すご》い反応を示して啓太がそれを真剣|白《しら》羽《は》取《ど》りした。
「ま、マジで俺《おれ》を殺す気ですか、こいつ?」
ぜいぜいと荒い息を上げ、真《ま》っ青《さお》になってる啓太。
鎧武者はただひたすらと、
「乃至《ないし》無《む》老《ろう》死《し》 亦《やく》無《む》老《ろう》死《し》盡《じん》 無《む》苦《く》集《しゅう》滅《めつ》道《どう》 無《む》智《ち》亦《やく》無《む》得《とく》 以《い》無《む》所《しょ》得《とく》故《こ》 菩《ぼ》提《だい》薩《さっ》唾《た》!」
「だから、一体なんなんだ、お前は!」
「ひ〜っさつ、ホーリークラッシュ!」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がエンジェルブレイドを真横から鮮《あざ》やかに薙《な》いだ。がっき〜んと歯切れの良い音が辺りに鳴《な》り響《ひび》いて鎧武者が前のめりにつっころぶ。
「さ、いまのうちに逃げるぞ、川《かわ》平《ひら》!」
「ちくしょう! それしかねえか!」
啓太が放ったカエルの霊《れい》符《ふ》も仮名史郎の剣も致《ち》命《めい》傷《しょう》を負わせてはいなかった。木彫りの人形と鎧武者はもうゆっくりと起きあがり始めている。二体ともふざけた外観だが、恐ろしいばかりの耐久性があった。
男二人はまた勢いよく走り出していた。
その頃《ころ》、ようことなでしこは結構、朗《ほが》らかに笑っていた。
「わ。本当にそっくりです」
「あははは! これは結構、面《おも》白《しろ》いね〜」
二人ともようやくその遠《とお》浅《あさ》の海のような場所の意味合いが分かってきた。そこは赤《せき》道《どう》斎《さい》の魔《ま》道《どう》具《ぐ》の保管庫のような場所らしかった。よく見ると水の中、砂に埋もれるようにして幾つもの道具があちらこちらに散在していた。
そしてその水晶玉は恐らく水の中に散らばった道具の『喋《しゃべ》る目《もく》録《ろく》』のような役割を果たしているようだった。
「ヨロコンデクダサッテナニヨリ」
と、水晶玉が光りながらふよふよと浮いていた。今、外観的にはなでしこが二人いた。ようこが手にした小さな手《て》鏡《かがみ》。それをなでしこに向けた途《と》端《たん》、ようこの周りにどろんと白い煙が起こって服装から何からすっかりなでしこそっくりに変わったのだ。
彼女が水晶玉の指示通り、
「真の姿へ!」
というと即座に元のようこの姿に戻る。要するに鏡《かがみ》に映した相手に変化することが出来るアイテムらしかった。服を変えるニワトリと同列のモノだろう。それが水晶玉の呼び寄せでふわっと水の中から浮かび上がってきたのである。
「あはは、じゃあ、今度はなでしこがやってみる?」
なでしこはようこから手鏡を受け取って、
「あ、そうですね。でも」
ちょっと伏し目になった。ようこもすぐに頷《うなず》いた。
「そうだね。まずはケイタやカオルと合流してからにしようか?」
「はい」
なでしこが微笑《ほほえ》む。ようこが差し伸べた手をなでしこがきゅっと握った。二人の少女の間で連帯感が生まれる。
好きな相手とまずは再会したい。
そんな少女同士の固い絆《きずな》。握手。笑顔《えがお》。
「マダマダマドウグアルヨ?」
と、水晶玉がふよふよ喋《しゃべ》る。ようこがふっと苦笑し、
「ん〜ん。わたしたちそろそろ行くから」
「お世話になりました」
なでしこがぺこりと一礼し、ようこがぴっと人指し指を上げたところで水晶玉が呟《つぶや》いた。
「スキナオトコヲタブラカスホレグスリアルヨ?」
少女二人がくるっと振り返った。
「よいしょおおおお!」
「ほら、もう少し!」
「おらああああああああ────!」
ぎ。
ぎぎぎぎと重たそうな音を立てて閉じていく鉄製の分厚い扉。観《かん》音《のん》開《びら》きの左右から押しているのは川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》である。
「せい!」
がちょんと扉が合わさり、啓太と仮名史郎は背中を扉に思いっきり預けた。二人とも息を荒げている。
あれからなんとか木彫りの人形と鎧《よろい》武《む》者《しゃ》をまいて、廊下に並んでいた部屋の一つに飛び込んだのである。これで少し時間が稼《かせ》げそうだった。ちなみにその部屋は何故《なぜ》か四方の壁《かべ》一面にウサギやタヌキやキツネなどの影《かげ》絵《え》が映り込んでいた。
くるくると赤茶けた光《こう》線《せん》の中で影《かげ》絵《え》たちが軽《かろ》やかに踊っている。
童話めいた不《ふ》思《し》議《ぎ》な空間だった。
「は、はは」
啓《けい》太《た》が乾いた笑いを上げ、ずずっと床《ゆか》に座り込んだ、
「なんだったんだ、一体?」
「川《かわ》平《ひら》」
ぜいぜいと息をついていた仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が顔を上げた。
「私を助けに来てくれたのだな? 改めて礼を言うぞ」
「そうだよ! あんた大体、いつも訳《わけ》の分からないことに巻き込まれ過ぎなんだよ!」
「うむむ。そう言われると返す言葉もないのだが……なにしろ今度こそその最大の元《げん》凶《きょう》だ。すまん。必ず決着はつける。力を貸してくれ」
影絵たちが壁《かべ》を伝わり、扉の周辺へと興《きょう》味《み》津《しん》々《しん》と寄ってくる。啓太がじろっとそっちを見やるときゃ〜とばかりに慌ててまた逃げていった。
啓太は溜《ため》息《いき》をついた。
「ま、それはやぶさかじゃねえんだけどな」
心の底から慨《がい》嘆《たん》するように、
「とんでもないヘンタイなのは勘《かん》弁《べん》して欲しいよな〜」
「う」
仮名史郎が我《わ》がことのように赤面した。
「しかもあんたの遠いご先祖様なんだろう?」
「ううう」
「やっぱり血は争えないというか」
「私はヘンタイではない!」
「ど〜だか」
「とにかく川平! なんにしてもあの赤《せき》道《どう》斎《さい》はかつての赤道斎の姿ではないのだ!」
仮名史郎は真剣な顔になって啓太に向き合った。啓太ははっと肩をすくめた。
「まあ、まともじゃねえのは確《たし》かだな」
「違う! そういうことでもない! 川平、いいか? よ〜く聞いてくれよ。どうも赤道斎は昔、何者かに負けてそれ以降、力の大半をなくしてしまったらしいんだ。これは私が奴《やつ》の独り言から類《るい》推《すい》しただけなのだが、恐らく正《せい》確《かく》なことだと思う」
赤茶けた明かりの中で仮名史郎は続けた。
「以来、赤道斎は長い間、ずっと休眠していた。だが、最近、奴が〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉と呼んでいる究極の魔《ま》道《どう》具《ぐ》に奴が復活するのに充分な霊《れい》力《りょく》が溜《た》まりつつあるらしく」
と、その時。
くるくる踊っていた影《かげ》絵《え》たちがわ〜と散って消えていく。
啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が沈《ちん》黙《もく》して目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》く。
ちゅい〜〜〜〜ん。
歯医者で歯を削《けず》るような音がして、二人の間からにょっきりとドリルが生えてきた。鉄製の扉をバターのように軽々貫く見覚えのあるドリル。
くい〜〜んと回転して、扉の合わせ目が飴《あめ》のようにひん曲がる。
啓太と仮名は顔を見合わせ、
「わああああああ──────────!」
と、また走り出した。
ようことなでしこの間には濡《ぬ》れた焦《こ》げ茶《ちゃ》色《いろ》の薬《くすり》瓶《びん》があった。
「ほほ〜。なるほど。これを好きな男に手《て》ずから飲ませると他《ほか》の女が見えなくなる上に、他の女も寄ってこなくなる訳《わけ》ね」
「しかも自然に、悟られず、完《かん》璧《ぺき》に、ですね」
「ソウダヨ」
と、二人の頭上でふよふよ浮いている水晶玉が答えた。
彼が水の中から呼び寄せたのである。
「シカモオトコハスゴクヤサシクナルヨ。オノゾミナラハゲシクモナルヨ」
ごくりと少女二人が唾《つば》を飲み込んだ。視《し》線《せん》を合わせ、それから不自然に小首を傾《かし》げてにこっと微笑《ほほえ》み合った。
まずようこが口火を切った。
「あはは、なでしこ、どう思う?」
「え、え〜と……やっぱりこういうのはあまりよくないのじゃないでしょうか?
なでしこがややぎこちなくそう答えた。
「そ、そ〜だよね。あんまり良くないよね、これ」
「そ、そ〜ですよ。うん。お薬は感心しません」
「よくないね」
「よくないですよ」
と、言いつつ二人の手は何故《なぜ》か薬瓶にかかっていた。ぎゅっと前後して引っ張り合う。ようこが相変わらず笑顔《えがお》のまま尋《たず》ねる。
「あ、あれ? なでしこ。良くないんじゃないの? いらないんでしょ?」
「ようこさんこそ……なんで手を離さないんですか?」
「は、はは。わたしはほら〜。これ処分するからさ!」
「あ〜ら、そういう仕事ならわたしに任せてくださいな。ね?」
にっこりとなでしこが微笑《ほほえ》む。ようこが笑顔《えがお》のまま顔を近づけて、
「なに、それ? 暗に自分が家事得意だって自《じ》慢《まん》しているの? 嫌《いや》み?」
「いえいえ。ようこさんこそ被《ひ》害《がい》妄《もう》想《そう》気味じゃないですか? 大丈夫ですか? 橋の下の生活がストレスだったりするのですか?」
満面の笑《え》みを湛《たた》えてなでしこが答える。さも労《いたわ》るような言葉だが、平坦な口《く》調《ちょう》で。ようこはぎりぎりと薬《くすり》瓶《びん》を引っ張りながら、
「はは、わたしが被害妄想ならあんた、欲求不満なんじゃない? なに? そんなに最近、薫《かおる》に構《かま》って貰《もら》ってないの? こうねんきしょうがい?」
「……どの口がソレ言いますか? ようこ」
「おやおや、とうとうお里が出たわね、なでしこ」
二人の少女が笑顔でおでこを押しつけあう。ごごごっともの凄《すご》い霊《れい》力《りょく》で水面にさざ波が広がっていく。先ほどまで確《たし》かに存在した少女同士の連帯感はとっくに霧《む》散《さん》していた。水晶玉が力の暴《ぼう》風《ふう》域《いき》に巻き込まれまいとあたふたと逃げ出した。
ぱりんと薬瓶が二人のぶつかり合いでひび割れたその時。
「なでしこ。そこにいるの?」
と、どこからかくぐもった声が聞こえてきた。はっと顔を上げるなでしこ。
「薫様!」
彼女は立ち上がって辺りを見回す。
「ここです! ここにいますよ!」
次の瞬《しゅん》間《かん》。
「分かった。下がってて」
明るい声が聞こえてきて、
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
どごんと音を立てて、空間にいきなり穴が空いた。
ほとんど衝《しょう》撃《げき》波《は》のような突風が一点からぶわっと吹き抜けた。水面にばばばっと亀《き》裂《れつ》が走り、ようこやなでしこの髪が背後に引っ張られたようになびく。直後。その向こうから銀のタクトをかざし、にっこりと微笑《ほほえ》んだ川《かわ》平《ひら》薫《かおる》が現れた。
「大丈夫だった?」
うる。ぐすん。
なでしこが瞳《ひとみ》を潤《うる》ませ、鼻を啜《すす》る。それから彼女はぱしゃぱしゃ水面を駆けていくと、
「わ〜〜〜〜! 薫様!」
薫の胸に飛び込んでいった。よしよしと彼女を抱きとめ、頭を撫《な》でる薫。ようこがそれを少し羨《うらや》ましそうに見ていた。
「良かったよ、早めに君たちを見つけられて。この場所は他《ほか》と全然|繋《つな》がってなくて、僕《ぼく》も全く気がつかなかったんだ。君たちが霊《れい》力《りょく》を高めてくれたから辛《かろ》うじてこっちも感知できた。お陰《かげ》で少しだけ勝《しょう》機《き》が見えてきたよ」
薫は銀のタクトを胸ポケットに仕《し》舞《ま》いながら喋《しゃべ》った。まだ名残《なごり》惜しそうにしているなでしこをそっと身体《からだ》から離してようこを振り返る。
「ようこ、君も大丈夫?」
「あ、うん」
ようこはこくんと素直に頷《うなず》いた。
そう言えば薫としっかり顔を合わせて話すのはこれが初めてだった。黒猫のような癖《くせ》っ毛《け》に琥《こ》珀《はく》色《いろ》の瞳《ひとみ》。動きがすんなりしていてどこか野性味がある。だが、感じる雰囲気は秋の木《こ》漏《も》れ日《び》のように柔らかいものだった。
ようこは内心でちょっと啓《けい》太《た》と比較した。
不《ふ》思《し》議《ぎ》と啓太が負けている気はしなかった。何故《なぜ》だろうか。
薫の笑《え》みはどこかで見覚えがあった。
「ところでここは一杯おかしなモノがあるねえ」
薫は改めてコバルトブルーの水面を見渡した。白い砂を踏みしめ、手近に沈んでいた魔《ま》道《どう》具《ぐ》の一つを手に取りあげる。
服の裾《すそ》で水滴を拭《ぬぐ》ってから、しげしげとそれを観察した。その間、なでしこがそそくさと男をたぶらかす薬《くすり》瓶《びん》を脇《わき》に放っていた。証《しょう》拠《こ》隠《いん》滅《めつ》。だが、彼女の意に反してぽちゃんと水音が聞こえ、それが薫《かおる》の気を引いてしまう。
「あれ? なでしこ? それはなに?」
と、邪《じゃ》気《き》のない笑顔《えがお》で薫が顔を上げる。なでしこが慌てた。
「あ、こ、これはその!」
「あのね〜。それはね〜」
ぶぷぷっと口元に拳《こぶし》を当ててようこが説明しようとする。
薫は微笑《ほほえ》み、なでしこに近づく。
ひたすら慌てるなでしこ。
「ただの栄養剤です、栄養剤! それより」
と、さっき手にしていた変化の手《て》鏡《かがみ》を取り出し、その説明を熱《ねっ》心《しん》に開始した。あまりにも露《ろ》骨《こつ》な話の逸《そ》らし方である。だが、薫はふんふんと頷《うなず》いてそれ以上、薬に関しては追求しなかったし、ようこも武士の情けとばかりににやにや笑って深追いはしなかった。
水晶玉が手持ちぶさたのようにふよふよと辺りを漂っている。
そこへ。
「ふむ」
薫がこじ開けた空間の穴からぬうっと入ってきた人物がいた。
「楽しそうでなによりだ。ここが気に入ったか? 川《かわ》平《ひら》薫にケモノの娘たちよ」
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
「だいじゃえん!」
振り返りざま、薫とようこがユニゾンで攻《こう》撃《げき》を加えた。薫がひゅっとフェンシングのように身体《からだ》を伸ばす姿勢で銀のタクトを突きつけ、宙に浮いたようこが思いっきり振りかぶって頭上から炎を浴びせかけた。
全く容赦のない霊《れい》力《りょく》の嵐《あらし》だ。だが、新たに現れたその男は、
「〈尊《とうと》き英知の水面よ、我《われ》を守れ〉」
指をぴっと上げただけで身じろぎ一つしなかった。
大気を切り裂く烈《れっ》風《ぷう》も、何者をも焼き尽くす地《じ》獄《ごく》の劫《ごう》火《か》も、男の全面に湧《わ》き起こった水柱によって全《すべ》てをあっさり無効化され、阻《はば》まれてしまった。
爆《ばく》風《ふう》。
轟《ごう》音《おん》。どばあっと見上げるような高波が押し寄せ、
「わ! わ〜〜〜!」
ようこが上でじたばたしていて、薫がひっと身をすくませたなでしこを素《す》早《ばや》く真横に抱きかかえ跳《ちょう》躍《やく》していた。
「川《かわ》平《ひら》薫《かおる》」
感情に乏《とぼ》しい声が聞こえてきた。
もうもうと湧《わ》き起こる水蒸気の幕《まく》間《あい》から大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》がゆっくり姿を現す。
「私を見るたび問答無用で攻《こう》撃《げき》を仕掛けてくるのは正直、人としてどうかと思うぞ?」
なでしこがふら〜と気を失って、薫が慌ててそんな彼女を支え直していた。
「赤《せき》道《どう》斎《さい》……」
ようこが顎《あご》の下の冷や汗を拭《ぬぐ》っていた。
「なんて恰《かっ》好《こう》を」
「金色のようこ、か」
コバルトブルーの水面に足を踏み入れた赤道斎が冷ややかな半目で彼女を見上げた。ちなみに彼の頭上には木彫りのニワトリがいて、事実上、素っ裸だった。正《せい》確《かく》には股《こ》間《かん》にどういうつもりなのか水中|眼鏡《めがね》。
右手には『ボクは夏が好き♪』と墨《すみ》で大書された提《ちょう》灯《ちん》を持っている。
「一応、海だからな」
とは訳の分からない赤道斎の弁。よっぽど人としてどうかしちゃっている大魔導師。ようこは即座に手を振るった。
「死ね、ヘンタイ!」
ごばあっと紅《ぐ》蓮《れん》の炎が赤道斎を取り巻き、提灯や水中眼鏡などの装飾品を一《いっ》瞬《しゅん》でメラメラ焼き尽くした。
だが、赤道斎自身は一《いっ》向《こう》に痛《つう》痒《よう》を感じていない半目だった。
「ふむ」
涼《すず》やかに炎の中で喋《しゃべ》り続ける。
「同じ炎とはいってもやはり父親のモノとはほど遠いな。大《だい》妖《よう》狐《こ》の血が泣くぞ、ようこ?」
「あんた……」
ようこが目を見張る。
「オトサンのこと知ってるの!?」
その驚《おどろ》きに満ちた問いに赤道斎はあっさりと頷《うなず》いた。
「ああ、よ〜く知ってるとも。奴《やつ》とは浅からぬ因《いん》縁《ねん》がある。しかもあまり良い思い出では決してない」
ふっと無造作に手を振るって炎を一瞬でかき消す。
胡《う》乱《ろん》な半目でようこを見上げた。
「だから、気に喰《く》わぬのでな。お前には我《われ》の襟《えり》巻《ま》きにでもなって貰《もら》おうか、ようこ。恨《うら》むのなら父親を恨むがいい」
「な〜に勝手なことを! オトサンとあんたの間で何があったのか知らないけど」
ようこはふうっと手の平を天高く差し上げて炎を呼び出す予備動作をする。こちらも怒りの籠《こ》もった瞳《ひとみ》で叫んだ。
「わたしに喧《けん》嘩《か》売るなら幾《いく》らでも買うよ! 死にな、赤《せき》道《どう》斎《さい》!」
今まさに両者の激《げき》突《とつ》が起ころうとした。そこへ。
「ようこ! 待て! 止《や》めろ!」
鞭《むち》のような叱《しっ》声《せい》が飛んだ。
「……ケイタ?」
ようこが驚《おどろ》いて振り返る。
まるで彼女の主人そのままの声に身体《からだ》の方が勝手に反応してしまった。が、しかし、そこにいるのは川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》ではなく、あくまで川平|薫《かおる》その人だった。彼は失神しているなでしこをゆっくりと背中に担《かつ》ぎ直すとにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「やっぱりさ、僕《ぼく》ら二人じゃまだ勝てないよ。なんのかんの言ってその人は大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》なんだ。ここは悔しいけど引こ? ね?」
もう元の柔らかい薫の声に戻ってる。
「で、でも」
と、なにか言いかけるようこに優《やさ》しく、
「大丈夫。チャンスはきっと来るから」
ようこは「あ、うん」と口をつぐむ。一方、赤道斎が無表情に小首を傾《かし》げた。
「川平薫。逃げる相《そう》談《だん》をするのは結構だが、私はみすみすお前たちを逃がす気は陰毛の欠片《かけら》ほどもないぞ?」
「あ、いいんです。いいんです。僕らが勝手に逃げますから」
薫がおかしそうに指を立てた。
「ようこ。悪いけど例のアレやってくれる? ぴってやっ」
「……分かった」
ようこが肩をすくめた。
「ここは素直にあんたに従っとくよ」
薫に呼応するようにぴっと指を立てる。
「しゅくち!」
それで薫となでしことようこがその場から掻《か》き消えた。魔導の力に頼らない自力での空間|跳《ちょう》躍《やく》である。
「ふ」
全《すべ》てを理解して赤道斎が俯《うつむ》き、笑《え》んだ。
「逃げ足だけは父親以上だな」
と。
水面に視《し》線《せん》を落とす。
「また逃げられた……」
深く懊《おう》悩《のう》するヘンタイ。
「赤《せき》道《どう》斎《さい》はね、色々な意味でとても可哀《かわい》想《そう》な人なんだよ」
と、逃げ延びた先で川《かわ》平《ひら》薫《かおる》がそう語っている。
「活《かつ》躍《やく》していたのが江《え》戸《ど》初期だろう? 彼ほどの魔《ま》導《どう》の天才が当時は全く理解されなかったのさ。バテレン扱いで、公権力からも、民衆からも迫害されてたった一人、己《おのれ》の作った魔道具しか頼れるものも、愛情を返してくれるものもなかったのさ」
まあ。
と、彼はようこに向かって苦笑混じりに付け加えた。
「今はあんなになっちゃってるしさ〜」
赤道斎はコバルトブルーの水をしばしじっと眺めていた。
心に去来する幾つかのモノがあった。
「で、赤道斎がどうしたって?」
同時刻、川平|啓《けい》太《た》が息を切らして仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》に尋《たず》ねていた。
二人は必死でリンボーダンスを踊っていた。
「だから、ある意味でとても哀れな男だということだ」
「俺《おれ》たちの方が今よっぽど哀れだよ!」
と、啓太が怒《ど》鳴《な》り返す。二人がもの凄《すご》い変な姿勢で走っているのはとある廊下である。左右にはマッチョな男の石像がずらりと並んでいる。それぞれ恍《こう》惚《こつ》とした表情で上《じょう》腕《わん》や胸筋を誇《こ》張《ちょう》するポーズを決めていた。
流れているのはずんたたたたずんたたたた、というアップテンポの音楽と、
『はい、リンボー! リンボー! リンボー!』
のかけ声。
この廊下には一定|間《かん》隔《かく》でバーが並んでいて、そこをリンボーダンスで潜《くぐ》らないとどういう訳《わけ》か一つ前のバーに戻ってしまう仕掛けになっているのである。
追っ手から命がけで逃げている啓太と仮名史郎には当然、選択権がなかった。
「ぐ! く、くるし!」
「うお! だんだん、バーが低くなってくるな!」
と、膝《ひざ》を折り曲げ、ずんたたたっというリズムに合わせて前に進む。ちなみに追っ手側であるひたすら般《はん》若《にゃ》心《しん》経《ぎょう》を唱える鎧《よろい》武《む》者《しゃ》と木彫りの人形も律《りち》儀《ぎ》にリンボーダンスを踊っていた。ずんたたたたっと啓太たちの少し後方を、膝《ひざ》だけで進む鎧武者と木彫りの人形。
ごい〜ん。
がこがこがこごきん。
と、破《は》砕《さい》音《おん》が轟《とどろ》いているのは木彫りの人形の股《こ》間《かん》のドリルだけがバーをかいくぐることが出来ず、めりべきべきとそれを打《う》ち砕《くだ》いて進んでいるからである。
『はい、リンボー! リンボー! リンボー!』
すぐ後ろで垂直に立っている股間のドリルが激《はげ》しく回転している。
啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》、ひたすら命がけ。
「力の大半を失った上で、こんないびつに歪《ゆが》んだ城に籠《こ》もるしかなかったのだからな!」
「やっぱり立派なヘンタイじゃねええか!」
と、啓太が必死で叫ぶ。
うい〜〜〜ん。
ずんたたたた、ずんたたたた。
赤《せき》道《どう》斎《さい》はゆっくりと顔を上げた。
片手を差し上げる。
「マスタ。ドウシマスカ?」
と、彼の頭上にふよふよ浮いている水晶玉が尋《たず》ねてくる。赤道斎は無表情に告げた。
「私の心は既《すで》に定まった」
一拍置いて、
「〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉を本格的に起動させる」
「イヨイヨデスカ、マスタ?」
と、すいっと降りてきて水晶玉。赤道斎はその水晶玉に指先を置いた。
「ああ、もう迷っていても仕方なさそうだ。だから、せめて充《じゅう》填[#「填」はunicode5861]《てん》率《りつ》を少しでも上げる。全《すべ》ての魔《ま》道《どう》具《ぐ》を引き上げよ。我は現世に帰還する。そう伝えよ」
「ギョイ」
くるくると水晶玉が回転し出した。
それに合わせてコバルトブルーの水の底に沈んでいた無数の魔道具が青白い輝《かがや》きと共に浮上してくる。
赤道斎は胡《う》乱《ろん》な半目で呟《つぶや》いた。
「なるようにしかならんか、神は」
そうしてふうっと姿を消した。
同時にその全ての景色が暗転する。何もかも消え去った。
「昔々ね」
と、川《かわ》平《ひら》薫《かおる》が傍《かたわ》らのようこに語っていた。
「世にも傍《ぼう》若《じゃく》無《ぶ》人《じん》に振《ふ》る舞《ま》う一匹の大《だい》妖《よう》狐《こ》がいたんだ。一度、地を蹴《け》れば三百里を瞬《またた》く間に駆け抜け、その巻き起こす炎で全《すべ》てを焼き払い、一《いっ》瞬《しゅん》で巨峰すらも転じる霊《れい》力《りょく》を秘めた真の大妖狐。人間の里を支配しては好き勝手に遊んでいた。無敵だった」
薫は遠くを思い出すように上を見る。
「同じ頃《ころ》、魔《ま》導《どう》の理《ことわり》の全てを己《おの》がモノにし、万物を自在に組み替え、いかなる望みも思いのままに叶《かな》える大魔導師がいた。彼は彼で孤独だったが、思うがままに己の理想郷を作り上げ、生を横《おう》溢《いつ》していた。ある日、この二つの巨大な存在が出会ってしまった」
薫はこつんと左右の人指し指に嵌《は》めた指輪をぶつけ合った。
「当然、力にその存在の根拠を求める者同士、相《あい》容《い》れない。期せずして戦いが起こった」
ようこはじっと黙《だま》って聞き入っていた。薫の話は続く。
「戦いはそれはそれは凄《すさ》まじいモノだった。山が変じ、野が枯れ、海が干上がる程《ほど》の天変地異のような力のぶつかり合い。だが、最終的に勝ったのは大妖狐の方だった。その結果、敗れた大魔導師は力の大半を失い、己の作った魔道具の世界に逃げ込んで長い長い眠りについた」
「程なくその地を離れた大妖狐には子供が出来たけど、結局わがままではた迷惑なところは変わらなかった」
ようこが静かな声で薫の後を引き取った。
「オトサンはいつも自分が正しいと信じていたよ」
「……ようこ」
「で、挙げ句の果てに犬《いぬ》神《かみ》たちによって結界に捕《ほ》縛《ばく》されちゃった。娘が幾ら止《や》めてって泣いて頼んでも好き放題やってたからね。ニンゲンの街を丸ごとプレゼントしてくれるって言ったけど、そんなのは欲しくなかった。わたしは普通のオトサンで良かったのにさ」
ようこは下を見ててんてんと歩く。微笑《ほほえ》んだ。
「オトサンみたいに完全に閉じこめられていた訳《わけ》じゃないけど、わたしもその時から山の奥に幽《ゆう》閉《へい》されるようになった。世話役のなでしこくらいしか話す相手がいなかった。周りは全て敵だった。わたしも誰《だれ》も信じていなかった。でもね、長い長い時間をかけてやっと全てを笑い飛ばせるくらい楽しいことが起こった」
ふうっと顔を上げる。
「わたしはあの日、炎の中でケイタに出会った」
ずんたたた。
ずんたたた。
「わああ───────! 近づいてきた! 近づいてきた!」
「ねえ、ケイタは一体、わたしのことをどう思っているのかな?」
ようこは哀《かな》しげに身を掻《か》き抱き、横を向く。
「でええええええええ─────────────!」
長い長い沈《ちん》黙《もく》の帳《とばり》が降りた。
やがて、
「……ようこ。君はとっても可愛《かわい》い子だね」
真《ま》顔《がお》でじっとようこを見ていた薫《かおる》が突然にこっと微笑《ほほえ》んでそう言った。ふいを突かれてようこがかあっと赤くなった。
「な、ど、どういう意味よ。それ!?」
薫に負《おぶ》われているなでしこがう〜んとうなされている。薫はそんな彼女をちょっと振り返って微笑みながら喋《しゃべ》った。
「君のことはね、犬《いぬ》神《かみ》使いになった頃《ころ》からずっとずっと気になってたんだよ、ようこ。幽《ゆう》閉《へい》されている大《だい》妖《よう》狐《こ》の娘。そして、犬神使いの少年を気に入って、彼と一《いっ》緒《しょ》にいたいがために狐としての身を捨て、犬神になろうとした一《いち》途《ず》な女の子。どんな子かと思うだろう? でも、事実上これが初めましてだね、お互い」
「ふ、ふん」
ようこは面《おも》はゆそうに鼻を鳴らした。
「色々と気にしていたようね。こそこそと」
「いや、それはね……うん。正直に言えば啓《けい》太《た》さんが少し心配だったから」
「わたしがケイタに何か危害を加えるかと?」
「あははは、僕《ぼく》は啓太さんが好きだから。でも、君と会って、君を知って、君が深く啓太さんのことを想《おも》ってくれていることが分かったので僕は嬉《うれ》しい。君はきっとケイタさんの素《す》晴《ば》らしい犬神になると思うよ」
「……あんたさっきから意図的なのかな? わたしの質問にぜんぜん答えてないよね?」
ようこが少し目を細めた。薫が微笑む。
寂《さび》しげに。
「分からないから」
「え?」
「ごめんね。本当は僕も確《かく》証《しょう》を上げたいのだけど、僕自身未来なんて分からないんだよ」
そう言って薫はまた琥《こ》珀《はく》色《いろ》の深い目でようこを見る。
ようこには幾《いく》つかさっきから気になっていることがある。自分や父のことは川《かわ》平《ひら》家《け》の人間だからある程度は知っているのも不《ふ》思《し》議《ぎ》ではないのだろうが、薫《かおる》は一体|何故《なぜ》、赤《せき》道《どう》斎《さい》のことまであれだけ詳しく語れるのだろうか?
それにやっぱりこの笑《え》みをどこかで見た気がする。
「あんたさ」
ようこは小首を傾《かし》げた。
「いったい何者?」
「ふふ」
薫が笑った。なでしこを背負い直し、
「また直接の答えにはなってないって君に怒られるかも知れないけど、僕《ぼく》はね、犬《いぬ》神《かみ》とそして川平家のモットーである破《は》邪《じゃ》顕《けん》正《しょう》≠チて言葉が大好きなんだ。意味は分かるかな? 邪を打《う》ち砕《くだ》き、正しきことを顕《あらわ》す≠チてこと。だからね、いつも考えている。正しくありたいんだ、僕は。犬神使い川平薫として。川平薫にとって何が正しいのか常に考えて、そして、それを実現していきたい」
ようこがちょっと考えてから、おかしそうに指摘した。
「なにが正しいって……それじゃあ、けんしょ〜の部分だけじゃない。はじゃの部分は?」
「うん。だからね、それはきっと」
と、薫《かおる》が微笑《ほほえ》んで、何か答えようとした時。
地面が激《はげ》しく揺れた。
それよりちょっと前。川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が醜《みにく》い争いを繰《く》り広げていた。
「おい! どう見てもこれ二人支えられないだろう!?」
「だからってお前一人で逃げるのか! それはないぞ!」
二人の目の前にあるのはさながらお釈《しゃ》迦《か》様が垂らした蜘《く》蛛《も》の糸のような細いロープである。それが真《ま》っ直《す》ぐに上に向かって伸びていた。
リンボーダンスの廊下を通り抜けたら行き止まりになっていて、そこから先へはこのロープを伝って上に行くしかないようだった。
頭上にぽっかりと丸い穴があり、そこから光が漏《も》れている。
「依《え》般《はん》若《にゃ》波《は》羅《ら》蜜《みっ》多《た》故《こ》 心《しん》無《む》罫[#「罫」はunicode7F63]《けい》礙《げ》 無《む》罫[#「罫」はunicode7F63]《けい》礙《げ》故《こ》 無《む》有《う》恐《く》怖《ふ》 遠《おん》離《り》一《いっ》切《さい》 顛[#「顛」はunicode985A]《てん》倒《どう》夢《む》想《そう》 究《く》竟《きょう》涅《ね》槃《はん》 三《さん》世《ぜ》諸《しょ》佛《ぶつ》 依《え》般《はん》若《にゃ》波《は》羅《ら》蜜《みっ》多《た》故《こ》!」
「まてまてまて」
少し遅れて般《はん》若《にゃ》心《しん》経《ぎょう》ばかり唱《とな》えている鎧《よろい》武《む》者《しゃ》と木彫りの人形が追いかけてくる。二人並んで片っ方が段《だん》平《びら》を振りかざし、木彫りの人形の股《こ》間《かん》は盛大にドリルで回転していた。
啓太、青くなる。
「お先!」
と、身軽さを利用し、とんと仮名史郎の肩を踏み台にするとロープに飛びつき、よいしょよいしょっと登り始めた。
「あ! こら、薄《はく》情《じょう》者《もの》!」
仮名史郎もすぐにロープをたぐり寄せ、這《は》い上がっていく。
ロープが大きくたわんだ。
「こらあ! あんた重いんだから後にしろよ、後に〜!」
「お前一人では断じて幸せにせん!」
げしげしと啓太が足で牽《けん》制《せい》し、仮名史郎が懸《けん》命《めい》にその足にしがみつく。ロープがみし、みしっと不吉な音を立て始めた。
げっと顔を見合わせ、冷や汗を掻《か》く二人。
それからはとにかく上がりきるのが先とモノも言わずに懸《けん》垂《すい》を開始した。二人とも体力だけは人並み以上あるので結構、早く登っていく。その下で木彫りの人形と鎧武者が仲良く無言で見上げていた。それからまず鎧武者が、
「得《とく》阿《あ》耨《のく》多《た》羅《ら》三《さん》藐《みゃく》三《さん》菩《ぼ》提《だい》 故《こ》知《ち》般《はん》若《にゃ》波《は》羅《ら》蜜《みっ》多《た》 是《ぜ》大《だい》神《じん》咒《しゅ》 是《ぜ》大《だい》明《みょう》咒《しゅ》 是《ぜ》無《む》上《じょう》咒《しゅ》」
と、呟《つぶや》きながらロープに手をかけ、
「のぼるのぼるのぼる」
と、木彫りの人形も心なしか嬉《うれ》しそうに後に続いた。
合計四人分の重量がかかってロープがさらに不吉なきしみを上げる。蜘《く》蛛《も》の糸のような繊《せん》維《い》が伸びきって今にも引きちぎれそうだった。
「わああああああああああ─────────!」
「急げ! 急ぐんだ!」
啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が死にものぐるいでロープを伝わり始めた。
「眞《しん》實《じつ》不《ふ》虚《こ》故《こ》 説《せつ》般《はん》若《にゃ》波《は》羅《ら》蜜《みっ》多《た》咒《しゅ》 即《そく》説《せつ》咒《しゅ》曰《わつ》 掲《ぎゃ》諦《てい》 掲《ぎゃ》諦《てい》 波《は》羅《ら》掲《ぎゃ》諦《てい》 波《は》羅《ら》僧《そう》掲《ぎゃ》諦《てい》」
だが、もうロープは長く保《も》ちそうにない。上の穴までまだ距《きょ》離《り》はある。絶望的な刹《せつ》那《な》、啓太が叫んだ。
「そうだ! 仮名さん、切れ! ロープを切れ!」
「なに〜? お前、死ぬ気か!?」
「ちげ〜〜よ! あんたの下! 下を切ってあいつら落っことしてやれ!」
「そうか!」
と、仮名史郎が相づちを打った。
「なるほど、その手があったか」
彼の上体と右手が一《いっ》瞬《しゅん》ロープを離れ、ふっと振るわれる。メリケンサックのようなものが手の平に握られ、光の刃《やいば》がそこから伸びて、彼の足《あし》下《もと》を華《か》麗《れい》に薙《な》いだ。
「エンジェルブレイド!」
ぷつんとロープがそこから切られる。
「菩《ぼ》提《じ》娑《そ》婆《わ》訶《か》?」
「きれた?」
きょとんとしている鎧《よろい》武《む》者《しゃ》と木彫りの人形。
それからひゅ〜〜〜〜と。
音を立てて落下していく。啓太と仮名の視《し》線《せん》がそれにつれて動く。ぐしゃっと鈍《にぶ》い衝《しょう》撃《げき》。啓太と仮名がびくっと首をすくめる。
位置的に鎧武者が上、股《こ》間《かん》のドリルを盛大に回していた木彫りの人形が下だったので、鎧武者がその上に、しかもちょうどお尻《しり》の部分が木彫りの人形のドリルに突き刺さる形で落下したのだ。
ぐさっと。
「あう」
と、啓太、仮名どちらからともなく声が上がっている。木彫りの人形はきょとんとしていた。うい〜んとひたすら回転しているドリル。
串《くし》刺《ざ》し。
「お、おう」
また、どっちかが呻《うめ》き声を漏《も》らした。
ぷるぷると鎧《よろい》武《む》者《しゃ》が震《ふる》えている。表情がよく分からないのだが、とてつもなく何かを我《が》慢《まん》しているように見えた。
それから力尽きたようにがっくりと首を垂れる。絶命。
「なむあみだぶつ」
期せずして同時に念《ねん》仏《ぶつ》の声が挙がった。
その時、大気が震えた。
さらにそれより前のこと。
大広間に戻った赤《せき》道《どう》斎《さい》は胡《う》乱《ろん》な半目で初期の電《でん》子《し》計《けい》算《さん》機《き》を思わせる大《おお》仰《ぎょう》な形式の機械を見上げていた。
「そうだ。ソクラテス。私はいよいよこれで現世に戻るのだ。いよいよだ」
赤道斎は肩に乗った木彫りのニワトリに向かって語りかけていた。木彫りのニワトリは神妙な顔で聞き入っている。
大《だい》妖《よう》狐《こ》に敗退して以来、彼はずっとこの城に閉《と》じ籠《こ》もってきた。当初の理想を忘れ、微睡《まどろ》むように、爛《ただ》れるようにただただずっとずっと眠り続けてきた。
「長かったか」
赤道斎は呟《つぶや》く。
「あるいは短かったか……」
機械の上の方に掲げられたパネルには、
『出力67ぱーせんと 順調にえねるぎー溜《た》まってまっせ』
の文字が浮かんでいる。長い長い年月をかけて溜め込んだ霊《れい》力《りょく》は今、もう少しで彼の真の望みを叶《かな》えようとしていた。
それは現世への帰《き》還《かん》。
大妖狐への復《ふく》讐《しゅう》。
そして、彼の理想郷を地上に作り上げること。
幾らこの城で絶対者として振《ふ》る舞《ま》おうとそんなものは所《しょ》詮《せん》まやかしにしか過ぎなかった。溢《あふ》れるような陽光。
風の匂《にお》い。
それらは外の世界にしかないものだった。そのために彼は日本中に散らばった魔《ま》道《どう》具《ぐ》から少しずつ送られてくる念や欲望を霊力に変え、この〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉に溜め込んできたのである。さながら濁《だく》流《りゅう》が今にも堰《せき》を切って溢れ出ようとするかのように。
今、もう少しで彼の失われた魔《ま》力《りょく》が蘇《よみがえ》ろうとしている。
「ただ」
そのためには起《き》爆《ばく》する力がいまひとつ足りなかった。
条件は確《かっ》固《こ》たる霊《れい》力《りょく》。
そして強烈な煩《ぼん》悩《のう》。願《ねが》う力。
それが重なりあって相乗しあった時、初めて彼はかつての栄光を取り戻せるのである。赤《せき》道《どう》斎《さい》は一歩、機《き》械《かい》に近づいてその中心から生《は》えているオールのように巨大なレバーに手を置いた。心はもう既《すで》に定まっていた。
失敗する可能性もないではない。が、川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》たちがこの城に迷い込んできた時からこうなることは運命だと信じてきた。
「いくぞ、〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉」
ぐっとレバーに体重をかける。
「我《われ》に今一度の光を!」
世界が振動した。
大量の煩悩。歪《ゆが》んだ念は圧《あっ》縮《しゅく》され、濃《のう》縮《しゅく》され、〈大殺界〉によって力へと変換されていく。ごごごっと濁《だく》音《おん》と共に構造が書き変わっていった。
各自が望む世界へと。
ある者は女体にまみれた酒《しゅ》池《ち》肉《にく》林《りん》。
ある者は好きなモノとただ二人で過ごす優《やさ》しく、甘い憩《いこ》いの時間。
夢。
夢が閉じた世界で展開され、霊力と混交され、さらに願いに力を添えて、激《はげ》しいフレアのような炎と化して〈大殺界〉の中で噴《ふ》き上がった。
だが。
それを真《ま》っ向《こう》から切り払う者もいた。
何ものも信じぬ者と何もかも信じ抜く者。
川平|薫《かおる》と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》だ。
彼らは不《ふ》思《し》議《ぎ》に気の合うところがあった。性格も年《ねん》齢《れい》も違うが、啓太とはまた違った組み合わせで友人に近い信頼関係を構築していた。
その二人が異変が起こるのとほとんど同時に叫んでいた。
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
と。
「ひ〜さつ、ホーリークラッシュ!」
霊《れい》力《りょく》が次元の狭《はざ》間《ま》を切り裂いた。
「さすが。そうそう、思い通りにもなってくれぬか」
赤《せき》道《どう》斎《さい》が無表情に呟《つぶや》いた。
すちゃっと薫《かおる》が軽やかに床《ゆか》に降り立ち、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がゆっくりと起き上がる。そこは大広聞だった。
二人はそれぞれ銀のタクトと剣を構え、真《ま》っ直《す》ぐに祭《さい》壇《だん》の前に立つ赤道斎を見上げた。
「僕《ぼく》にはきかないですよ、それ」
と、薫が笑いながら告げ、仮名史郎が毅《き》然《ぜん》と叫ぶ。
「私も同様だ! その手に乗るか!」
木彫りのニワトリを肩に乗せた赤道斎が胡《う》乱《ろん》な半目で答えた。
「なるほど。おまえたちには〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉のまやかしも意味がないようだな。ならば、この赤道斎自らが相手をしてやろう」
相変わらずフリチンだった。
こけ〜とニワトリが羽ばたいた。
「とびきりの誠意を込めてな」
「あのな」
仮名史郎がふと困った顔で口を開きかけた。それからこっほんと咳《せき》払《ばら》いして、言い淀《よど》む。
「いや……なんでもない」
自分にそっくりな男が眼前に下半身丸出しで立っているのである。大まじめな顔で。なんとも曰《いわ》く言《い》い難《がた》い脱力感があった。
顔を逸《そ》らし、ふと目があった薫に泣きそうな顔で弁解する。
『アレは私とは無関係なのだ』
と。
薫が苦笑した。彼は銀のタクトを掲げたまま問うた。
「一つ聞かせてください、赤道斎。なんであなたほどの大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》がそのような奇妙な恰《かっ》好《こう》をされているのですか?」
赤道斎は不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな表情をした。
自分を見下ろし、
「……このローブ姿は変か?」
「下半身! 下半身!」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が突っ込む。ああ、と赤《せき》道《どう》斎《さい》が頷《うなず》いた。彼は茫《ぼう》洋《よう》とした目で広間の高い天《てん》井《じょう》を見上て呟《つぶや》いた。
「私はあの狐《きつね》に敗れた時から誓ったのだ。この恰《かっ》好《こう》を貫くとな」
「……どういうことです?」
と、薫《かおる》。赤道斎はあくまで薫を見ず、手を広げた。彼の背後では〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉が凄《すさ》まじい唸《うな》りを上げて稼《か》働《どう》していた。
パネルが勢いよく捲《めく》られていく。
『出力68ぱーせんと 急《きゅう》激《げき》上昇! 急激上昇! 』
『出力72ぱーせんと しすてむ完全解放予想時刻まであと十分!』
「つまりは半分ということだ。我《わ》が霊《れい》力《りょく》はな。全盛時に比べて、半分だ。現世に戻った時、私は完全な魔《ま》導《どう》師《し》としての衣を再びまとうことだろう」
その頭上にアドバルーンほどの球体が五つほど浮上している。
うち二つはちょうど電球が割れたような形で半《はん》壊《かい》していた。川《かわ》平《ひら》薫と仮名史郎はそこにいったん囚《とら》われた後、霊力を振るって飛び出してきたのだ。しかし、残りの三つは現在進行形で稲《いな》妻《ずま》のような目も眩《くら》む火花を散らしている。
辺りの空気がどんどん熱を孕《はら》んでいった。
「では、逆に一つ聞こう」
その光と熱《ねつ》を受け、赤道斎は振り向いて告げた。
「心して答えよ。川平薫と仮名史郎よ。心して答えよ。この恰好がなぜいけない?」
一《いっ》瞬《しゅん》、仮名史郎も、川平薫でさえも答えられなかった。
「は?」
それが二人のいささか間の抜けたような反応だった。赤道斎は淡々と続けた。
「不《ふ》思《し》議《ぎ》だと思わないか? なぜ、人は下半身を晒《さら》すことが出来ない?」
「そ、それは」
「問おう。川平薫に仮名史郎よ。なぜ、女は上半身も隠す? なぜ、男はそれに対して上半身までは許されるか? 我《われ》には分からない。おまえたちには答えられるか?」
「え、えっと、それは倫理の問題というか」
「倫理? ならば猿はなぜ、裸なのだろうか?」
「猿だからだ!」
と、怒ったように仮名史郎が叫んだ。赤道斎はあくまで表情を変えなかった。
「我には不思議で不思議で仕方ない。なぜ、人は猿のように裸で歩いてはいけない? なぜ、人は服を着なくてはいけない?」
「赤《せき》道《どう》斎《さい》。あなた」
「修身は曰《いわ》く、全《すべ》てを禁じる。自由を禁じる。おかしなことだ。本来、人はすべからく自由なはずなのに。いかなる服を着ようと、どこへ行こうと、何を研究しようと自由なはずなのに。なぜ、禁じる?」
背後の三つの玉から猛烈な稲《いな》妻《ずま》が迸《ほとばし》り、それは吸い込まれるようにして背後の〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の角《つの》のような突起に吸い込まれていく。
その度《たび》にパネルが猛然と捲《めく》られていった。
『出力82ぱーせんと 予想以上の霊《れい》力《りょく》でっせ! 大したもんや!』
「人は自由だ」
赤道斎は話し続ける。
「我《われ》は信じる。いかなるモノを愛《め》でようと、どんな異《い》形《ぎょう》であろうと人は自由だと。我は自由でありたい。そのために魔《ま》導《どう》の理《ことわり》を学んだ。豚のような束《そく》縛《ばく》から逃れるため、高貴なる人間の混《こん》沌《とん》たる道を選んだ」
「赤道斎」
薫《かおる》が静かに問いかけた。
「……あなたの真の望みは?」
「我は」
赤道斎はその時、静かに宣言した。
「この世界を作り替える。全《すべ》ての欲望が肯定され、全ての想《おも》いが解放される世界へ、と」
数《すう》瞬《しゅん》の沈《ちん》黙《もく》。仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がごくりと唾《つば》を飲み込んだ。
「つまりはヘンタイが全て許容される世界か」
「そういうことみたいですね」
薫が苦笑した。彼は赤道斎の頭上に浮かぶ五つのうち、まだ壊《こわ》れていない三つを見上げた。その中に川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》、ようこ、なでしこの三人が囚《とら》われてるはずだった。今、彼らの霊力が全て力に還《かん》元《げん》されて、〈大殺界〉に吸収されている。
仮名史郎が焦《あせ》ったように叫んだ。
「川平薫! やるぞ! 断じてこんな奴《やつ》を野放しにしてはならん!」
「そうですね……」
薫は頷《うなず》いた。
「あの玉を全て破《は》壊《かい》するか……後ろの機《き》械《かい》ごと壊すか」
「ふ」
赤道斎は唇に冷笑を浮かべた。
「我を誰だと思うのだ?」
ぱちんと指を鳴らす。その瞬間、どろんと白い煙が立ち上り、例の木彫りの人形が彼の傍《かたわ》らに現れた。げっと仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が呻《うめ》いている。
木彫りの人形は仮名史郎を認めて心なしか嬉《うれ》しそうにカタコト手足を鳴らした。
「ここを通しはせん。我《われ》は赤《せき》道《どう》斎《さい》ぞ?」
薫《かおる》が苦笑した。
「よ〜く知ってますよ」
仮名史郎が雄《お》叫《たけ》びを上げて吶《とっ》喊《かん》した。
その時。
誰《だれ》も予想していなかったことが起こった。まだ放電していた三つの白球のうち、一番、右端に浮いていものが突《とつ》如《じょ》、爆《ばく》発《はつ》を起こしたのである。
どんと中から砕《くだ》ける。飛び散る霊《れい》気《き》。
『わーにんぐ! わーにんぐ!』
パネルが捲《めく》られ、そう表示される。同時に川《かわ》平《ひら》薫がモノも言わずに走り出していた、そこから大きく弧を描くようにして放り出されたのはなでしこだった。
意《い》識《しき》を失い、身体《からだ》を弓のように逸《そ》らしている。
ぐんぐんと地面に近づいていった。走り出した川平薫からはまだ距《きょ》離《り》がある。彼は地面を蹴《け》ると、思いっきり一度、跳《ちょう》躍《やく》した。
手を伸ばす。
なでしこと地面の間に割って入っていく。
信じられない神《かみ》業《わざ》を見せた。空中でなでしこを抱え、猫のように身体を丸めて、衝《しょう》撃《げき》を緩《かん》和《わ》しながら地面でごろごろと一回転、二回転、三回転したのだ。仮名史郎が思わず片目をつむって、顔を逸らしている。
ストップモーションのように受け身を取る薫。ざざざっと乾いた音が辺りに鳴《な》り響《ひび》いた。
しかし。
全《すべ》てが治まった時。
「ふ〜」
薫は額《ひたい》の汗を手の甲で拭《ぬぐ》って苦笑していた。足を大きく開く姿勢で、
「なんとか間に合った……」
なでしこだけはしっかり抱き止めていた。
「よくやった!」
と、仮名史郎が叫んでいた。
「……どういうことだ?」
その時、初めて赤道斎が訝《いぶか》しげに呟《つぶや》いた。彼は〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉のパネルを見上げる。
『許容|霊《れい》力《りょく》完全オーバー! おーばーろーど! おーばーろーど!……これ、ボクのせいやあらへんで?』
「バカな」
赤《せき》道《どう》斎《さい》は眉《まゆ》をひそめた。
「大《だい》妖《よう》狐《こ》さえ楽に捉《とら》えるくらいの容量はあったのだぞ?」
彼は不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに、
「あるいは想《おも》いが強すぎるのか……それにしても、金《きん》色《いろ》のようこの霊力を遙《はる》かに凌《しの》ぐ?」
振り返った。
「バカな。あんな犬《いぬ》神《かみ》如《ごと》きが?」
そこには仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が走り寄っていって、薫《かおる》が疲れたような笑顔《えがお》を向けていた。昏《こん》倒《とう》しているなでしこにとりあえず支障はないようだった。
「おい」
と、赤道斎は川《かわ》平《ひら》薫に呼びかけた。
「お前たちは一体」
彼が何か言いかけたその時。
再び予想し得ないことが起こった。
なでしこが囚《とら》われていた白球が爆《ばく》発《はつ》を起こした際に残る二つの光の球が煽《あお》りを受けてぶつかり合っていたのである。
二つは接触し、眩《まばゆ》い光を放って融《ゆう》合《ごう》する。
二つの夢が混交した。
赤道斎、川平薫、仮名史郎が見ている前で中の風景がまるでテレビに映し出されるように浮かび上がった。ペルシャ風《ふう》ハーレムの情景。柔らかそうな絨《じゅう》毯《たん》にご馳《ち》走《そう》の山。薄《うす》絹《ぎぬ》をまとった美女二人に肩を回し、えへらえへらと笑っていた啓《けい》太《た》がいた。
ずっとそんな夢を見続けていたのだろう。
そこへひょっこりと隣《となり》の白球から長《なが》襦《じゅ》袢《ばん》姿のようこが飛び込んできて「あ!」
という顔をした。
げっと青くなる啓太。
美女たちが不《ふ》穏《おん》な空気を感じて散り散りに逃げていった。
ぷるぷる震《ふる》えているようこ。啓太があたふたと手を振って何か言《い》い訳《わけ》していた。しかし、ようこは聞いていなかった。怒りの形《ぎょう》相《そう》で飛びかかっていった。啓太は反射的にわ〜〜と逃げようとしたが失敗してつっ転び、べしゃっと俯《うつぶ》せになる。
そこに飛びついていって思いっきり首筋を噛[#「噛」はunicode5699]《か》むようこ。
くやし〜〜。と、叫ぶ声が聞こえてきそうだった。
途《と》端《たん》、ぽんと炎が噴《ふ》き上がり、煙で中が見えなくなった。
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が溜《ため》息《いき》をついていた。
「何をやってるんだ、彼は何を」
「はは」
薫《かおる》が気絶したなでしこをそっと横たえながら笑った。
「啓太さんはこういう時はまだアレでいいんですよ。ほら!」
見ると〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉のパネルがぱらぱら捲《めく》れて悲鳴の言葉に変わっていた。
『わああ〜〜〜、出力不安定! 不《ふ》確《かく》定《てい》要因乱入! ますた〜、なんとかしてくれや〜〜!』
赤《せき》道《どう》斎《さい》が胡《う》乱《ろん》な半目でそんな光景を見上げていた。
「仕方ない」
彼は木彫りのニワトリを肩に止めたまま、巨大なレバーに近寄っていって呟《つぶや》く。
「あまり気は進まないが、霊《れい》力《りょく》の強制|抽《ちゅう》出《しゅつ》を行うか……」
しかし、それより早く、
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
薫の声が響《ひび》き渡っていた。
同時刻。
啓太とようこも争っていた。
「わ〜〜〜〜! 堪《かん》忍《にん》してくれ!」
「できるか!」
「ふむ」
赤道斎はレバーから一度|身体《からだ》を離《はな》し、ゆっくり振り返る。圧倒的な勢いで殺到していた薫の烈風を手を振り払うだけで霧散させた。
「〈赤道の血よ、アレ〉」
ばうんと音を立てて高波のような水蒸気がその場に巻き起こった。木彫りのニワトリがこけ〜と鳴いた。
間《かん》髪《ぱつ》入《い》れず、その渦《うず》巻《ま》くような空気の流れの奥から、
「させるか!」
凛《りん》とした声が響き渡った。斜め右前にエンジェルブレイドを構えた仮名史郎が一散に駆け寄ってきていた。
赤道斎は無表情に指を鳴らした。
「クサンチッペよ、こい」
「きたよ! きたよ!」
途《と》端《たん》、横合いから木彫りの人形がぬうっと霧《きり》を掻《か》き分け、現れた。仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は跳《ちょう》躍《やく》。木彫りの人形を一切無視して一気に赤《せき》道《どう》斎《さい》まで距《きょ》離《り》を詰めた。
が。
「どかん」
木彫りの人形は地面を蹴《け》ると頭から仮名史郎にぶつかっていった。まるでミサイルか、魚雷のような凄《すさ》まじい勢いだった。
仮名史郎に驚《きょう》愕《がく》の表情が浮かんだ。
彼は咄《とっ》嗟《さ》に身体《からだ》を庇《かば》うように剣を縦《たて》にかざした。
そこに木彫りの人形の頭ががつんとぶつかり当たる。火花が散った。
一体どういう素材で出来ているのか木彫りの人形には傷一つ出来ず、逆に仮名史郎は剣ごと身体を持っていかれてしまった。
「ぐ! わああ────────────!」
天《てん》井《じょう》高く吹き飛ばされる仮名。
その間、川《かわ》平《ひら》薫《かおる》が〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉のぎりぎりそばまで走り寄っていた。
「東《とう》山《さん》真《しん》君《くん》の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏《かな》でよ!」
銀のタクトを巻き込むようなモーションで振るって思いっきり風を叩《たた》きつける。しかし。
『そんなへなちょこな攻《こう》撃《げき》無《む》駄《だ》やで〜〜!』
〈大殺界〉の前に青白い魔《ま》力《りょく》の障《しょう》壁《へき》が出来て、それをあっさり弾《はじ》き飛ばした。パネルがぱらぱらと捲《めく》られ得意げに、
『これでもますた〜謹《きん》製《せい》の最高傑作や!』
「〈来たレ、赤道の血よ〉」
黙《だま》ってそれを見ていた赤道斎がすうっと手を差しのべた。川平薫がぎょっとして後ろに飛びすさった。
「く!」
再度、足をついてより高く、遠く飛び上がり、素《す》早《ばや》く銀のタクトを振り回し、
「東山真君の名において告ぐ! 大気よ、シンフォニーを奏でよ!」
咄嗟に自分の前に風の防御壁を作った。それで辛《かろ》うじて赤道斎の赤い衝《しょう》撃《げき》波《は》を緩《かん》和《わ》した。それでも全ての勢いまでは殺しきれず、吹き飛ばされる。
圧倒的な力の差がそこにはあった。
「無駄だ」
赤道斎がうっすらした半目で淡々と告げた。薫が地面をごろごろと転がっていった。
「古《いにしえ》の力は確《たし》かにない。だが、未《いま》だにおまえたち程度の未熟者には負けないぞ? 言ったはずだ。我《われ》は魔道を極めし赤道斎だと」
薫《かおる》がひゅっとケモノの目で笑いながら立ち上がっていた。
猫のように背を丸め。
踊るような足取りでととんと後ろに下がり、タクトを逆《さか》手《て》に構えながら言う。
「さすが大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》様♪」
「お前は……」
赤《せき》道《どう》斎《さい》が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに小首を傾《かし》げた。
「本当におかしな子供だな。あのメス犬《いぬ》神《かみ》といい……一体、何者だ?」
薫はにっこりと微笑《ほほえ》んで答えた。
「ただの犬神使いですよ」
そうありたいと願《ねが》っているね。
と、小さく付け加える、
赤道斎の目が冷ややかに細くなった。
「お前、もしや」
同時刻、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は魔導の木彫り人形クサンチッペと戦っていた。クサンチッペが股《こ》間《かん》から繰り出すドリルを剣先で必死に払っている。
頭の後ろで手を組み、無表情に股間を突き出してくる木彫りの人形に対して仮名史郎はかなり命がけだった。
「この! この!」
かいん。
かいん、と小気味よい音がする。ふとその時。
そんな仮名史郎の視界に対《たい》峙《じ》している川《かわ》平《ひら》薫と赤道斎の姿が映った、彼らは不思議なことに会話を交わし合っていた。
赤道斎が何か二言、三言話しかけると薫が困《こん》惑《わく》したように銀のタクトを降ろした。また赤道斎が口を開いて何か語りかけていた。
それに対して薫が小首を傾げて問いかける。赤道斎は頷《うなず》いた。相変わらずの無表情だが、仮名史郎には何事か勧告しているような、まるで川平薫を気遣ってるようなそんな素振りにさえ見えた。薫は顎《あご》に手を当て、俯《うつむ》いた。
ふっとその口元にあってはならない。
今まで仮名史郎が見たこともない冷たい、笑《え》みが浮かんでいた。何故《なぜ》か仮名史郎はかつて感じたこともない悪《お》寒《かん》を感じていた。
「川平薫!」
と、叫んでいる。手遅れになる前に、
「おい! しっかりしろ! そいつは」
しかし、その前に木彫りの人形が、
「おっぺけぺけぺけ〜〜〜!」
ぐい〜〜んと股《こ》間《かん》のドリルを突き出してくる。
「しつこい!」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が大声と共に剣でそれをなぎ払った。木彫りの人形がふんとさらにそれを力で押し返した。逆に仮名史郎が簡《かん》単《たん》によろめく。訳《わけ》の分からないコンセプトだが、間違いなくこの人形は桁《けた》違《ちが》いに強かった。
特に股間で猛烈に回転しているドリルが。
無敵。
その瞬《しゅん》間《かん》。
「そうだ!」
仮名史郎は思いっきり地面を蹴《け》った。駆ける。駆ける。一息に階段を駆け上がった。くるっとそこで振り返る。
閃《ひらめ》いたことがあった。
「こい!」
挑発するように手でくいっと木彫りの人形を差し招いた。一瞬、赤《せき》道《どう》斎《さい》も、川《かわ》平《ひら》薫《かおる》も会話を止《や》めて驚《おどろ》いたようにそちらを見やった。
「いくよいくよ!」
木彫りの人形が嬉《うれ》しそうに手を広げた。うい〜んとそこから襞《ひだ》が出て、二、三度|仰《ぎょう》角《かく》を調《ちょう》整《せい》。ふわっと風が巻き起こり、
「いくよおおおおお〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
グライダーのように一気に飛行する。あ、と薫が何か言いかけ、赤道斎が珍しく大きな声を上げて制止していた。
「あ、クサンチッペ、よせ!」
だが、いったん滑《かっ》空《くう》に入った木彫りの人形はもう止まらなかった。みるみると仮名史郎に接近していく。
「おっぺけぺけぺ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
仮名史郎が不敵に笑った。
「エンジェルブレイド」
霊《れい》力《りょく》の剣を再び眼前で収束させる。
「いくぞ」
木彫りの人形をぎりぎりまで引きつけ、
「ひ〜〜っさつ」
その股間で回転しているドリルを冷や汗を垂らしながら見《み》据《す》え、
「ホ────リ───クラッシュ!」
刹《せつ》那《な》のタイミングでかわし、身体《からだ》を入れ替え、渾《こん》身《しん》の力を振るって木彫りの人形の背中に思いっきり剣を叩《たた》きつけた。
「?」
木彫りの人形が首を傾《かし》げる。前方の〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉に向かって加速。
『わ!』
〈大殺界〉のパネルが猛烈に捲《めく》られた。
『わああああああああああああ──────────!』
そのままスライドして。
『せっしょうなあああああああああああああああああああああああ』
青白い魔《ま》力《りょく》の障《しょう》壁《へき》も簡《かん》単《たん》に刺し貫き、〈大殺界〉本体にぶっすり突き刺さった。股《こ》間《かん》のドリルが。そのまま回転。
気の遠くなるほど巨大な霊《れい》気《き》がそこから噴《ふん》出《しゅつ》し、迸《ほとばし》った。
閃《せん》光《こう》。
同時刻。白い光球の中。
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》と彼にのしかかっていたようこに異変が起こっていた。彼らの身体が不《ふ》思《し》議《ぎ》な青白い光で満ち始めた。
ぽわっとまず啓太の身体からその光が吸い出されていく。
それは、
「な、なでしこちゃん?」
半裸のなでしこがウインクしている姿だった。気体のように朧《おぼろ》な形で、空に向かって消えいっていく。なんとなく啓太にも分かった。
それは、
『なでしこちゃんと色々したい』
という啓太の中にある願《ねが》いの形だった。さらに、
『たゆね、いぐさを侍《はべ》らせたい』
とか、
『お金持って色々豪遊したい』
とか、様《さま》々《ざま》な煩《ぼん》悩《のう》が啓太の身体から浮き出て、昇華されていく。大気が揺れた。
「ふ」
赤《せき》道《どう》斎《さい》が真っ白な閃光が吹き上がる中、無表情に苦笑いしていた。
「これもまた我《わ》が運命か。こうなったら仕方ない。〈大殺界〉。溜《た》めていた霊気が全部放出される前に一《いち》か八《ばち》かで全力起動するぞ」
『わ〜〜ん、無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》や!』
パネルが答えていた。
揺れる。
世界が揺れ動いた。
『こうなったら少しでも霊《れい》力《りょく》をかき集めまっせ〜〜!』
ばちばちと〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉自体が放電を開始する。
啓《けい》太《た》の煩《ぼん》悩《のう》は数知れない。数え切れないくらいの望みが〈大殺界〉によって力に還《かん》元《げん》されていった。彼は自分自身でも感心したようにそれを見上げていた。
ふと啓太は叫び声を聞いて振り返った。
「いやああ────────!」
それはようこのモノだった。
彼女は哀《かな》しげにぴょんぴょんとジャンプを繰《く》り返していた。啓太と同じように彼女の身体《からだ》からも様《さま》々《ざま》な願《ねが》いや望みが吸い出されていった。
啓太は軽く息を呑《の》んだ。
ようこの願い。ようこの望み。
それは、
『ケイタと一《いっ》緒《しょ》に映画を見たい』
『ケイタと一緒にお昼寝したい』
『ケイタに優《やさ》しくして欲しい』
『ケイタと一緒に旅行したい』
どこまでも単純で、一《いち》途《ず》な願いばかりだった。
『ケイタに笑いかけて欲しい』
痛々しいほどに。
『ケイタがどうかわたしだけを見てくれますように』
どうかわたしだけを見てくれますように。
その願いをようこは取り返そうと懸《けん》命《めい》に手を伸ばす。しかし、それらは全《すべ》て霧《む》散《さん》するように空へと消えいってしまう。同時に一つ一つの願いが消えいるたびに、まるで彼女の中の律する何かが抜け落ちるようにその身体が刻々と変化していった。
どろんと大きなケモノの尻尾《しっぽ》がお尻《しり》から生《は》えた。可愛《かわい》らしいヒゲが頬《ほお》に浮き上がり、ケモノの耳がぴよこんと頭から飛び出る。
馬《ば》鹿《か》げた小さな願い。笑ってしまうくらい滑《こっ》稽《けい》で。
それを回収しようとするようこはどこまでも愚かしい。だけど、啓《けい》太《た》は笑えなかった。全く笑えなかった。
自分でも知らず知らず動いていた。
心の奥底にある一番大きな望みにふと気がついて彼は笑う。
「ようこ」
啓太はえぐえぐとしゃくり上げ、顔を歪《ゆが》ませ、泣き始めたようこを後ろからぎゅっと抱きしめた。
優《やさ》しく。囁《ささや》く。
「俺《おれ》さ」
え? と、ようこが驚《おどろ》いたように振り返った瞬《しゅん》間《かん》。
がくんと世界の一部が崩《くず》れだした。
「くそ! 目が! どうした!? どうなったんだ?」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が叫んでいる。
「ぐるぐるぐるぐる〜〜〜!」
木彫りの人形が相変わらずドリルで回っていた。赤《せき》道《どう》斎《さい》は溜《ため》息《いき》をついていた。
「やはり今少しばかり霊《れい》力《りょく》が足りないか」
彼は少し悲しげに笑った。
「まあ、いい。あと二百年ばかり待てばまた復活する機《き》会《かい》もあるだろう。気長に待つさ」
その時。
彼の傍《かたわ》らに二つの影《かげ》が現れた。赤《せき》道《どう》斎《さい》は驚《おどろ》いたように、
「おまえたち」
振り返る。圧倒的な霊力がそこから供給された。
その途《と》端《たん》、世界の壁《かべ》が再び開かれ。
真っ白な光が全《すべ》てを満たした。
びりびりと震《ふる》えている河童《かっぱ》橋《ばし》付近の大気。
川の水面が揺れ、薄《うす》く降っていた雨まで大気の鳴《めい》動《どう》に呼応して振動する。
予兆があった。
途端。
橋の下にこじんまりと構えていたケイタハウスが爆《ばく》発《はつ》を起こす。粉《こな》微《み》塵《じん》に噴き飛ぶ構築材。耳をつんざくような爆《ばく》音《おん》。連続して轟《とどろ》く次元の壁が壊《こわ》れていく共鳴音。噴き上がる爆風によって石造りの橋にまで亀《き》裂《れつ》が走り、とうとう崩《ほう》落《らく》が起きた。
がらがらと重たい音が遠くまで伝わり、近くにいた鳥たちが一《いっ》斉《せい》に飛び立つ。
ざっと羽音が濡《ぬ》れた色合いの空気を叩《たた》いた。
もうもうと湧《わ》き起こる石煙り。
その下から、
「あつつ」
と、這《は》い出してきたのは満《まん》身《しん》創《そう》痍《い》の川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》である。
「お〜い、だいじょ〜ぶか?」
と、彼は背後を気《き》遣《づか》った。
「ん」
まず煤《すす》まみれのようこが四つん這いで続いてきた。彼女はぺっぺっと口の中に入った泥《どう》を苦《にが》そうに吐き出している。
「よいしょ」
近くの重たそうな岩をゆっくりと転がして起き上がったのは川平|薫《かおる》である。彼は片方の腕でその岩を支えて、もう片方の手でなでしこを掻《か》き抱いていた。
「だいじょうぶ、なでしこ?」
「は、はい」
と、頷《うなず》くなでしこも薄《うす》汚れていた。薫《かおる》は軽く微笑《ほほえ》んだ。
「良かった」
彼自身もやや疲《ひ》弊《へい》気味で、獣《けもの》の毛のような艶《つや》のある黒髪がぼさぼさである。なでしこは吐《と》息《いき》と共に、そんな彼の胸に手をあてがい、安《あん》堵《ど》したようにそっと身を預けた。
啓太がきょろきょろと辺りを見回した。
「あ、あれ? 仮《かり》名《な》さんは?」
一同、怪《け》訝《げん》そうに仮名|史《し》郎《ろう》を捜す。
「お、おいおい、まさか」
と、啓太が青くなって何か言いかけたその時。
「うう」
彼の下から呻《うめ》き声が上がる。
「重い……」
「うお!」
と、啓太が慌てて飛びすさった。仮名史郎は啓太が乗っかっていたベニヤ板の下に埋まっていた。慌てて啓太と薫《かおる》が助け出す。
「し、しぬかと思った……」
仰《あお》向《む》けにひっくり返って、ぜいぜい呼吸を乱しながら仮名史郎が言っている。彼が一番ずたぼろだった。オールバックの髪は爆《ばく》発《はつ》を浴びたようにちりちりに膨《ふく》らんでいたし、ズボンがほとんど千《ち》切《ぎ》れかけ、片足は素足だった。
皆、苦笑する。
とりあえず命だけは助かった。
が、〈大《だい》殺《さっ》界《かい》〉の影《えい》響《きょう》なのか、ほとんど根こそぎ霊《れい》力《りょく》を奪《うば》い去られている状態だった。
「赤《せき》道《どう》斎《さい》……」
ようこがその時、重たく呟《つぶや》いた。顔を上げている。
全員、つられてそちらを見上げた。
鉛《なまり》色《いろ》の空。
赤道斎はそこに立っていた。
「やっぱり蘇《よみがえ》りやがったか」
啓太が舌打ちを一つした。
柔らかく青白い光が長い時を、経《へ》て復活した大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》の他《ほか》に木彫りの人形や木彫りのニワトリも包んでいた。
その中で赤道斎はあくまでずっと空を見上げている。
「美しいものだな……」
と、彼は呟いた,
漆《しっ》黒《こく》のローブ。全《すべ》てを覆《おお》うまごうことなき約束の魔《ま》導《どう》の証《あかし》を身につけていた。
彼は手を差しのばす。
焦《こ》がれるように。
「自然とはこんなにも美しいものだったのだな……」
啓《けい》太《た》がカエルのケシゴムを取り出し、思いっきり投げつけようとした。だが、とりあえず諦《あきら》める。その代わり手をメガホンにして思いっきり叫んだ。
「おい、こら! そんなところで浸ってないでこっちを向け! このヘンタイ大魔導師!」
赤《せき》道《どう》斎《さい》がゆっくりと振り返った。
切れ長の綺《き》麗《れい》な半目。
現世に舞《ま》い戻ったことで全《すべ》てを見通す深《しん》紅《く》に輝《かがや》いていた。
「川《かわ》平《ひら》啓太か……」
相変わらず無感動な口《く》調《ちょう》で、
「完《かん》璧《ぺき》ではないとはいえ、お前たちのお陰《かげ》でこうして明るい空の下に戻ることが出来た。礼を言おうぞ」
「うるせ〜」
「だから、せめてお前たちには相応に報《むく》いてやろう」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が、川平|薫《かおる》がすうっと歩み寄って啓太の隣《となり》に立つ。
仮名史郎はほとんど収束しきれていない霊《れい》刀《とう》を両手で構え、薫は先端が折れ曲がった銀のタクトを真《ま》っ直《す》ぐ上空に突きつけた。
二人とも啓太と同様、静かな気迫のこもった目で、柔らかな微笑《ほほえ》みで、赤道斎を見つめる。遅れてようこが起き上がって手をかざそうとする。が、ふらついた。そばにいたなでしこが慌てて彼女を支えた。
「ふ」
赤道斎は半目で笑《え》んだ。美しいとも言える微笑みで。
「残念ながら戻ってきたばかりなのでな。私自身|無《ぶ》粋《すい》な真《ま》似《ね》はしたくない」
何故《なぜ》か一度だけ川平薫の方を見やってから、彼はぱちんと指を鳴らした。
それで突《とつ》如《じょ》、啓太の目の前に巨大な黒い球が現れた。げっと啓太が目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》いた。そこには導《どう》火《か》線《せん》がついていてぱちぱちと火花を上げている凶悪な形の爆《ばく》弾《だん》だった。
「だから、せめてそれを置きみやげにしてやろう」
赤道斎は手を振る。
木彫りの人形がかたこと手足を動かし、ニワトリがこけ〜と鳴き出した。彼らを包んでいる青白い光が西の空に向かって急速に浮上していく。
「まあ、とりあえず死なない程度にそれは爆発する。では、さらばだ」
赤道斎は地上を見下ろしながら、
「はははははははははははははは!」
その時、初めて哄《こう》笑《しょう》を上げた。ぱちぱちと短くなっていく導《どう》火《か》線《せん》。啓《けい》太《た》と薫《かおる》と仮《かり》名《な》とようことなでしこがじっと爆《ばく》弾《だん》を見つめ。
それから全員、顔を見合わせて朗らかに笑い出した。
「おい、ようこ」
と、啓太が頭の後ろで手を組んで楽しそうに言った。
「なんか知らないが、お客様が忘れ物だぞ。届けてやれよ?」
「うん♪」
ようこが軽《かろ》やかに返事した。仮名|史《し》郎《ろう》が溜《ため》息《いき》をついて剣を収め、薫が傍《かたわ》らのなでしこに何か囁《ささや》き、なでしこがこくんと頷《うなず》く。
決着がついた。
「ん?」
遙《はる》か上空で赤《せき》道《どう》斎《さい》が怪《け》訝《げん》そうな顔をしていた。
何故《なぜ》、彼らは慌てふためかないのか?
どうして?
ようこがよいしょっと立ち上がり、指を上空にぴっと突きつけた。
ケモノの尻尾《しっぽ》。
頭にケモノの耳。頬《ほお》からは可愛《かわい》らしくケモノのヒゲが生《は》えたままである。
「しゅくち」
「げ!」
赤道斎が青くなる。
だが、ようこはふらつき、よろめく。霊《れい》力《りょく》の集中が上手《うま》くいかなかった。
そこへすかさず、
「ほれ、しっかりしろよ」
後ろから啓太がそっと彼女の身体《からだ》を抱き止めた。支える。
まるで映画の一場面のように。
「ケイタ?」
ようこが驚《おろど》いたように彼を振り返った。啓太は耳元で低く優《やさ》しく囁く。
「しっかりと狙《ねら》いを定めて」
彼女の手を取り、指先を絡《から》めるように揃《そろ》え、
「俺《おれ》と一《いっ》緒《しょ》に」
ようこが瞳《ひとみ》にうっすら涙を滲《にじ》ませた。
啓《けい》太《た》が浮かべている笑《え》みはいつか見たものだった。彼女は彼に重心を預け、伸び上がる。唇をそっと寄せ、
「ケイタ……」
その瞬《しゅん》間《かん》、ぶわっと金《きん》色《いろ》の毛が二人を包み込んだ。
真《ま》っ直《す》ぐに突き出した二人の指先は、
「しゅくち!」
声と霊《れい》力《りょく》が完《かん》璧《ぺき》に揃《そろ》った。
「げええええええええええええええええ!」
と、上空で赤《せき》道《どう》斎《さい》が叫《さけ》んでいる。
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が大《たい》笑《しょう》し、薫《かおる》が目をつむって微笑《ほほえ》み、二人はハイタッチを交わし合った。
ぱんといい音が鳴《な》り響《ひび》いた。
途《と》端《たん》、上空で大《だい》爆《ばく》発《はつ》が起こった。
閃《せん》光《こう》と凄《すさ》まじい爆音。
「よかったね、これでとりあえず一段落だ」
絶叫と共に炎が噴《ふ》き上がっている空を背景に薫が軽《かろ》やかになでしこを振り返った。なでしこは「あ、はい」と頷《うなず》く。
「さ、みんなのところに帰ろう」
その微笑みと共に優《やさ》しく差しのべられた手になでしこは、
「そうですね……」
少し俯《うつむ》いた。
「みんなのところへ、ですよね」
ちらっと啓太とようこを見やる。
ほんの少しだけ彼女の心に棘《とげ》が生まれた瞬間だった。だが、そのことにまだ彼女は自分で気がついていない。
薫の手を一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、握った。
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[#中見出し]『河童橋にて〜ようこの手紙〜』
天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医局のお医者さんへ
ようこです。
あのね、とうとう河童《かっぱ》橋《ばし》にもいられなくなりました。
くわしく話すと長くなるけど、赤《せき》道《どう》斎《さい》というのと戦ったらおうちがどっか〜んて壊《こわ》れてしまいました。
せっかく色々と作ったのに全《すべ》てぱあです。
今はたった一つ。風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みだけが全てのざいさんです。
あと河童。河童はケイタの頭にしがみついてすやすや寝ています。
川を離れてしばらくわたしたちについてくる気みたいです。本当にそれだけ。他《ほか》にはなんにもわたしたち残っていません。
だけど。
だけどね、わたしはぜ〜んぜん平気です♪
だって、ケイタがず〜っと一《いっ》緒《しょ》にいてくれるから。ケイタはちょっとぶっきらぼうにわたしあ手を握って、引っ張ってくれています。
「お前が元に戻るまでな」
とか、横を向きながら照れ臭そうにそう言っています。言い忘れましたがわたし、尻尾《しっぽ》の他におひげとケモノ耳が生えっぱなしになってしまいました。
力は満ち溢《あふ》れてるのに上手《うま》く歩いたり、お箸《はし》が使ったり出来ません。これじゃあ、チョコレートケーキを食べる時に困るので、あんまり治らないようだったらせんせ〜のところに治しに貰《もら》いに行こうと思います。
でもね。
しばらくはこのままでもいいのかな?(くす)
ねえ、ケイタ。
次は一体どこへ行くの?
[#地から2字上げ]猫《ねこ》又《また》たちを頼りに旅に出たケイタとようこより
P.S
ちくしょ〜〜〜〜〜!
だってさ。
[#改ページ]
それからしばらく経《た》って深い森の中。
煤《すす》だらけの一人の男がいた。漆《しっ》黒《こく》のローブを身につけた赤《せき》道《どう》斎《さい》である。彼の周りには爆《ばく》発《はつ》の余波を受けてひくひく痙《けい》攣《れん》している木彫りの人形と、こけ〜と哀《かな》しそうに鳴いている黒こげの木彫りのニワトリなどがいた。
致《ち》命《めい》傷《しょう》を負っていないが復活直後のダメージは結構きつかった。
「ふむ」
赤道斎は木の根に背中を預け、大まじめに呟《つぶや》いている。
「金《きん》色《いろ》のようこに対して、時限|爆《ばく》弾《だん》はちょっとまずかったかな……」
復活が不完全だったが故《ゆえ》に霊《れい》力《りょく》がやや心《こころ》許《もと》ない。
回復するまでしばらく休養に当てる方がよさそうだった。だが、赤道斎は謹《きん》厳《げん》な表情を崩《くず》さず、木々の梢《こずえ》から覗《のぞ》く空を黙《だま》って見上げている。まるで何者かを訪れるのをじっと待っているかのようだった。
その時、がさっと茂みを揺らして誰《だれ》かがゆっくり近づいてきた。
「やはり」
と、赤道斎は無感動な目をそちらに向けた。
「お前が来たか」
くすっと笑う涼《すず》やかな声。彼の前に立った少年が銀のタクトを振るった。
「全《すべ》てお見通しでしたか、赤道斎?」
少年は恭《うやうや》しく胸にそのタクトを当て一礼した。
「ならば現《げん》世《せ》へようこそ。心の底から歓《かん》迎《げい》しますよ、大《だい》魔《ま》導《どう》師《し》様」
赤道斎は手を差し伸べ囁《ささや》いた。
「川《かわ》平《ひら》薫《かおる》」
と。
なでしこがちょっと離れた場所に暗い表情で立っている。
雨がまた降り始めた。
すう、と息を吸って、は〜と思いっきり息を吐く。白衣を着た犬《いぬ》神《かみ》の少女、ごきょうやはフアックスの前でひとしきり大きく深呼吸してから覚悟を決めたように椅《い》子《す》の上に座った。川《かわ》平《ひら》薫《かおる》の邸宅の、通信室と呼ばれる部屋でのことである。
六畳ほどの部屋にパソコンからモデム。ファックスからコピー機と一通り文明の利器が揃《そろ》っている。株の売買で川平薫家の家計をほどんど稼《かせ》ぎ出しているいぐさがこの部屋の主《あるじ》である。奥の壁《かべ》には彼女の趣《しゅ》味《み》を反映して品の良いリトグラフが飾られているし、スチール製の机の横には目に優《やさ》しい観《かん》葉《よう》植物が置かれていた。
電化製品が多い割りに、どこか暖かみのある部屋である。
白衣の犬神、ごきょうやはそんな中、緊《きん》張《ちょう》した面《おも》持ちでファックスを操《そう》作《さ》し始めた。別段、機械を扱うことが不《ふ》得《え》手《て》なわけではない。川平薫の犬神の中には全くの機《き》械《かい》音《おん》痴《ち》(せんだん、たゆね、フラノなど)もいるが、比較的、理論的にモノを考えるごきょうやにとってはファックスの送信くらい朝飯前だった。
彼女が気《き》後《おく》れしているのは主にそのファックスを送る相手ゆえである。
川平|啓《けい》太《た》の父であり、かつて自分の主だった男。川平|宗《そう》太《た》郎《ろう》。人間の奥さんを選ぶために自分を捨てた男。恨《うら》んだこともある。一言では言い表せない複雑で屈折した想《おも》いをずっとずっと抱き続けてきた。
会いたい。もう会いたくない。
だが、最近、その息子である川平啓太と親しく会話をしてから、ごきょうやの中で少しずつ何かが変わり始めていた。
その思いを彼女は未《いま》だに自分自身よく掴[#「掴」はunicode6451]《つか》みきれないでいる。
ただ。
一度、便りを送ってみたかった。
あなたの息子さんに会いましたよ。あなたに似てとても元気な人でした。そう伝えたくて、言いたくて、ごきょうやは薫に願い出た。
快い彼の許《きょ》諾《だく》を取り、川平宗太郎のファックス番号を教えて貰《もら》って、こうして今、想いを数行したためたファックスを送っている。
が〜。が〜。ぴっ。
送信が完了した。
別段、大したことは書いていない,だが、ごきょうやはなんだかとってもさっぱりした気分になって普《ふ》段《だん》、冷静で大人《おとな》びた顔に無《む》邪《じゃ》気《き》な、子供のような笑《え》みをちょっと浮かべた。そこへてててっと外から足音が響《ひび》いてきてがちゃりと通信室のドアが開いた。
「ごきょうやちゃん、タイヘン! タイヘンなのですよ!」
それは赤い袴《はかま》を穿《は》いたフラノだった。少し緩《ゆる》んだ頬《ほお》をしていたごきょうやは慌てて表情を引き締《し》め、冷静に問い返した。
「なんだ? 騒《そう》々《ぞう》しい」
ふっともったいぶって白衣のポケットに手を突っ込んだポーズは既《すで》に普《ふ》段《だん》のごきょうやに戻っている。それに対してフラノは興《こう》奮《ふん》した面《おも》持《も》ちで、
「あのね、てんそうちゃんがお手《て》柄《がら》なのです!」
と、万《ばん》歳《ざい》するポーズをとってみせた。ごきょうやは怪《け》訝《げん》そうに眉《まゆ》をひそめた。
「お手柄? なにがだ?」
「あのね! あのね! これでいまりちゃんとさよかちゃんを出し抜けるのです!」
「待て。順を追って話せ。お前が言ってることはどうもさっぱり分からないぞ?」
「だからね、てんそうちゃんが薫《かおる》様の寝室らしき場所を発見しました!」
「な、なに! それは本当か!?」
さすがのごきょうやも驚《おどろ》いた表情になった。
『川《かわ》平《ひら》薫が一体夜どこで寝ているのか?』
それは彼に仕える犬《いぬ》神《かみ》たちの間での最大の謎《なぞ》だった。いつもにこにこ微笑《ほほえ》んでいて夜になるとふいっと姿を消す川平薫。
彼が一体どこで寝ているのか。
そもそも寝ない説、異空間に消える説、諸説ある中で、恐らく隠し部屋かなにかがこの屋《や》敷《しき》のどこかにあるのだろうというのがおおよそ一般的な定説だったのである。最近、ごきょうや、てんそう、フラノの三人は、いまりとさよかを相手に序列順位を賭《か》けて、『薫の寝室捜し』をやっていた。
正直、クールなごきょうやは双《ふた》子《ご》相手の賭《かけ》などそれほど乗り気でもなかったのだが、実際に発見されたとあってはもはや無関心ではいられない。
「あ、ただ、もし薫様が」
と、常《じょう》識《しき》的な彼女が一応の懸《け》念《ねん》を示す。
「ご自分のお部屋を見られたくないと思ってらっしゃるのなら、それはあまり良くないんじゃないのか?」
しかし、フラノは呆《あき》れたように、
「今《いま》更《さら》なに言ってるんですか、ごきょうやちゃん!? 薫様は私たちがお部屋を捜すことに関《かん》して別になにも仰《おっしゃ》らなかったですよ? むしろ『そうなったらそれでもいいかもね。一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》探すといいよ』って笑顔《えがお》で仰ってたじゃないですか〜」
「あ、ああ。それはそうなんだが……」
と、煮え切らない態度のごきょうやをフラノは焦《じ》れったそうにぐいっと引っ張った。
「さ! とにかく行きましょう、ごきょうやちゃん! なんだかいまりちゃんとさよかちゃんに疑われてるみたいだから!」
ごきょうやは一度、ファックスをちらっと横目で見やってから小さく溜《ため》息《いき》をついた。
「そうだな……分かった。行くよ」
がちゃっと通信室のドアが開いて、フラノとごきょうやが早足で廊下に出てくる。ばったりと行き合ったのは小さな犬《いぬ》神《かみ》ともはねだった。
「あれ? 二人ともどこ行くの?」
と、明るく彼女が声をかけてきた。
「え? ああ、実は」
ごきょうやが何か答えかけるのをフラノがすかさず割って入った。
「大《だい》爆《ばく》発《はつ》!」
「は?」
「あまりにも我《が》慢《まん》が出来ないほどトイレに行きたいので行って参ります」
「はあ」
「ごきょうやちゃんはフラノの付添人ですよ〜」
「お、おい」
と、ひたすら呆《あき》れてるごきょうやにぽかんとしているともはね。フラノはそれで話がついたとばかりににこにこと手を振り、
「じゃ、二人で頑《がん》張《ば》ってきますからね〜。お、と、い、れ♪」
ごきょうやの手を引っ張って、廊下の角を曲がって姿を消してしまった。見送ったともはねがはあっと吐《と》息《いき》をついた。
相変わらずフラノは何を考えているんだかよくわからない。
それに何か隠し事をしているようにも見えた。
だが、元々物事を深く詮《せん》索《さく》する性質《たち》てもないので、「ま、いいか」と呟《つぶや》いて、また元気に前へ向かって歩き出した。
てんそう。
薫《かおる》の犬神の中で、もっとも茫《ぼう》洋《よう》とした少女である。長身にぬぼうっとした風《ふう》貌《ぼう》。どこを見ているのか定かではない視《し》線《せん》。純然たる不《ふ》思《し》議《ぎ》少女フラノと一番の仲良しで、その二人の後《こう》見《けん》役《やく》のごきょうやとよく一《いっ》緒《しょ》にいる。
彼女が立っているのはとある部屋の暖《だん》炉《ろ》の前だった。
芸術家である彼女はほとんど全《すべ》ての行動を直感に頼って動いていた。今回、この奇妙な入り口を見つけたのもやっぱり偶然の産物である。彼女はぼ〜とした表情ながらもごく不思議そうに小首を傾《かし》げていた。
「なんなんだろう……ここ」
そこへ。
「しかし、なにもともはねにまで隠すことはないだろう?」
というごきょうやの声と、
「ダメダメ。情報は何時《いつ》どこから漏《ろう》洩《えい》するか分からないんですからね〜♪」
というフラノの声が聞こえてきた。てんそうはぼへ〜と振り返った。ごきょうやとフラノが扉を開けて部屋に入ってくる。
「おい、てんそう。薫《かおる》様の寝室を見つけたって本当か?」
開口一番ごきょうやが真剣な表情で尋《たず》ねてきた。彼女は改めて部屋全体を見回す。古びたソファ。木製の椅《い》子《す》。書き物机などがちらほらと置いてある。
そうそうよく来るわけではないが、決して開《あ》かずの間とかそういう訳《わけ》ではない。単にあまり皆が入る必要のない部屋なのである。
「だが、ここは」
と、怪《け》訝《げん》そうにごきょうやが眉《まゆ》をひそめた。薫の部屋があるにしては当たり前の場所であり過ぎた。てんそうは黙《だま》って首を横に振った。それから暖《だん》炉《ろ》の前までゆっくり歩いていって、マントルピースの上に飾られたフクロウの置物にそっと手を触れた。眉が誇張された戯《ぎ》画《が》的《てき》なフクロウの置物だった。
それが七つ順番に並んでいる。
てんそうはそのうち、一番右端のフクロウと左から二番目のフクロウをくりっと九十度右に回した。ごうんという重たい音がどこかで一度|響《ひび》いた。
暖炉の奥。
てんそう、ごきょうや、フラノの視《し》線《せん》がそちらを向く。続けてごごごっというこすれるような音と共にぽっかり深い穴が開いた。
隠し扉だ。
「お、おお」
驚《おどろ》いたようにごきょうやが声を上げていた。フラノが興《こう》奮《ふん》したようにうずうずと身体《からだ》を上下させている。
てんそうが二人を振り返り、ふっと微笑《ほほえ》んだ。
「じゃあ、たんけん」
その時だけ、彼女は妖《あや》しいほど恍《こう》惚《こつ》とした笑《え》みを浮かべていた。
「いこうか」
てくてくとともはねが元気良く歩いていく。左右の手足を同時に上げるマーチのような足取りだ。彼女が考えているのは川《かわ》平《ひら》薫や啓《けい》太《た》のことである。今度、ともはねは啓太と薫を一《いっ》緒《しょ》に引き連れて同時に遊んで貰《もら》うつもりでいた。
それぞれ一人だけいても充分、楽しい川平家のご主人様たちなのである。
それが二人|揃《そろ》えば一体どれだけ楽しいのか。
想像するだにわくわくする。
遊園地に行こうか。それとも山奥で獣《けもの》でも追いかけようか。その時はようことかなでしこ、他《ほか》の仲間もいた方がもっと楽しい。
「お弁当もって〜、遊び道具持って〜」
と、ともはねは一人|悦《えつ》に入《い》ってくすくすと笑う。
そこへ現れたのが騒《さわ》がしい双《ふた》子《ご》だった。
「おうおう! そこを行くのはちびっ子じゃないか!」
「待て待て! あんたさ、フラノ見なかったかい?」
二人とも廊下の反対側からともはねを見つけると両手を広げる姿勢でとたとた駆け寄ってきた。ともはねはきょとんとしている。
「え? フラノ?」
彼女は小首を傾《かし》げた。
「フラノならさっきごきょうやと一《いっ》緒《しょ》に通信室の方で見たよ?」
「そっか、ごきょうやも一緒か! でかした! で、二人ともどっちへいったか?」
あっち。
と、ともはねは指差す。双子は頷《うなず》き合い、
「ごきょうやと一緒ということは……どうやら本格的になんか手がかり掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んだみたいだね」
「さっきフラノが私たちの顔見て慌てて逃げてたもんね〜」
よ〜しとばかりに双子は腕まくりしてもの凄《すご》い勢いでまた駆け去ってしまった。ともはねは不《ふ》思《し》議《ぎ》そうにそれを見送った。
それから「まいっか」と頷き、また元気良く歩き出す。
「しかし、驚《おどろ》いたな。この屋《や》敷《しき》にこんな隠し通路があったなんて」
その頃《ころ》、暖《だん》炉《ろ》の奥に続いていた間《かん》道《どう》をごきょうや、てんそう、フラノの三人は縦《たて》に並んで歩いていた。
そうしないと通れないほどその道は暗くて、狭くて、そして細い。石造りの通路独特の湿っぼくも冷めたい空気が感じられた。入り口から入って約百メートル。その間ずっと緩《ゆる》やかな傾斜が真《ま》っ直《す》ぐ前に向かって続いていた。
「あはは〜、ちょっとどきどきしますね〜」
と、フラノが意味なく笑った。
「……変な場所」
てんそうが頷く。
先頭のごきょうやが霊《れい》力《りょく》を指先に灯《とも》し、それを青白い光に変えて、明かり代わりに高くかざしていた。
「この方角だと恐らく庭の方だな」
と、独り言のようにそのごきょうやが呟《つぶや》いた。
フラノ、てんそうからの返事はない。
薄《うす》暗《ぐら》い雰囲気にやや気分が萎《い》縮《しゅく》しているのだろうか?
「はは、しかし、薫《かおる》様の寝室はまたえらい場所にあるな」
その気《け》配《はい》を察知して、ごきょうやがあえて明るい声を出した。それにフラノがきゅっと彼女の服の裾《すそ》を掴[#「掴」はunicode6451]《つか》むことで応《こた》えた。なんとなく落ち着かない気分になってきたごきょうやは歩《ほ》調《ちょう》を緩《ゆる》めながら今一度|咳《せき》払《ばら》いをして、今度ははっきり相手を名指しして問うた。
「なあ、てんそう」
「ん?」
と、彼女が顔を上げる気配があったので少しほっとする。
「お前、しかし、よくあの仕掛けに気がついたな。どうして分かったんだ?」
「偶然……」
ぽつりとてんそうがそう答えた。言葉が少ないのは常のことだが、こういう状況だと妙にそっけない感じがした。
声が岩に響《ひび》いてしんと静けさがより増した。
「あのフクロウを色々と弄《いじ》ってみただけ」
「いや、それにしてもなんでそもそもあの客間に目を付けたんだ?」
というごきょうやの問いに、
「ん」
てんそうの声がどこか思い悩むような暗さを帯びる。
「それは、あの部屋がいつも綺《き》麗《れい》だったから」
「は?」
と、ごきょうやが聞き返すと、
「綺麗だったから。他《ほか》の部屋も綺麗だけど、もっと綺麗だったから。チリ一つ落ちていず、いつも綺麗にしていたから」
ぽつりとてんそうが呟いた。
「あの人が」
それっきり三人は押し黙《だま》ったまま歩き続けた。
一方、同時刻、双《ふた》子《ご》の犬《いぬ》神《かみ》は勢いよく廊下を駆けていた。
「うふふふふ! 私ら出し抜こうったってそ〜はいかないんだからね!」
「そ〜そ。先に見つけてしまえばこっちの勝ち、勝ち! 薫様の寝室に一番乗りするのは私らだもんね〜」
彼女たちが廊下の角を曲がったその時である。
「お待ちなさい、二人とも!」
と、目の前にいきなり立《た》ち塞《ふさ》がった人物がいた。双《ふた》子《ご》は思いっきり前につんのめって急ブレーキをかけた。
「わったたたた! な、なに?」
「せんだん? どうしたの?」
そこに立っていたのは彼女たちのリーダーであるせんだんだった。赤毛の縦《たて》ロール。ゴージャスなレースの入った私服を着ている。
彼女は険《けわ》しい表情で手を広げたまま、
「あなたたち、どこへ行くの?」
と、貫《かん》禄《ろく》充分に尋《たず》ねた。
「え?」
「え〜と」
双子が顔を見合わせた。せんだんが溜《ため》息《いき》と共に諭《さと》す。
「あなたたち忘れたの? 今日の皿洗い当番はあなたたちでしょ? 薫《かおる》様がいらっしゃらないからって手抜きは許しませんよ」
「あ、そ〜だったっけか?」
「そうだったっけか、じゃありません! 早く食堂に行きなさい!」
せんだんが怒ってぴっと指を問題児二人に突きつける。双子は顔を見合わせたままにっと笑った。それから次の瞬《しゅん》間《かん》、
「あははは! 後でちゃ〜んとやっておくよ!」
「ばいば〜い、リーダー! 私ら急いでるもんでね!」
それぞれせんだんの左右をかいくぐって、いきなり駆け出した。
「な!」
と、あまりの所《しょ》行《ぎょう》にせんだんは一瞬目を剥[#「剥」はunicode525D]《む》く。すると双子が背後で大笑いをした。
「あははは! せんだん、あんまり怒ってると早く老《ふ》けるよ?」
「そ〜そ。もっと気楽、気楽にね♪」
「ふ」
せんだんが目をつむった。凄《すご》みのある笑《え》みを口元に浮かべた。
「ふふふふ、随《ずい》分《ぶん》と舐《な》めてくれたモノね」
腰を優《ゆう》雅《が》に落とす。
白鳥のように両手を大きく広げ、柔らかく。
そして、一度|激《はげ》しく羽ばたかせる。
「破《は》邪《じゃ》走光・発《はつ》露《ろ》×一 『紅《くれない》』!」
ぶわっと彼女の両手から深《しん》紅《く》の衝《しょう》撃《げき》波《は》が翼《つばさ》のように広がり、彼女の背後に向かって圧倒的なスピードで走った。
「うわ、うわ、ちょっとたんま!」
「げ! 屋内! 屋内だよおおおおお、せんだん!」
と、恐怖の表情で振り返った双《ふた》子《ご》に直撃。
ちゅど〜〜んと爆《ばく》音《おん》が起こった。
「ねえ、なんか今、揺れなかった?」
読んでいた文庫本から目を上げていぐさが隣《となり》の席のたゆねに尋《たず》ねた。
「ん〜?」
腕の中に顔を埋めてうつらうつら眠っていたたゆねが寝ぼけ眼《まなこ》で顔を上げる。
「そ〜?」
うにゅっと顔を手で擦《こす》る。幾度か猫のように。擦る。
それから、
「ふわ〜〜」
と、大きく反《そ》り返って伸びを一つした。すると彼女の豊かな胸もそれに引っ張られて大きく張り出した。その形の良さと大きさがはっきりと服越しに分かる。むちっという感じだ。いぐさは赤面して、慌ててそこから目をそらした。
「ん〜」
と、たゆねは寝ぼけ半分でいぐさに尋ねた。
「薫《かおる》様はまだお帰りじゃないの?」
「うん」
「そ〜」
あふっともう一度たゆねは欠伸《あくび》をした。それからぐるぐる肩を回し、よっこいしょとかけ声をかけると椅《い》子《す》から元気良く立ち上がった。
「よし! 眠《ねむ》気《け》覚ましにお茶でも入れるか!」
「あ、私やろうか?」
「はは、いいって、いいって。たまにはボクやるからさ、いぐさは本でも読んでてよ」
にこっと笑ってたゆねは隣《りん》接《せつ》する台所へ向かった。いぐさもふっと微笑《ほほえ》んだ。たゆねはいい子だな〜と思いながら。それから食堂のテーブルに置かれたご馳《ち》走《そう》をちらっと見やる。サランラップがかけてある。
今日《きょう》の夕刻に戻るはずだった薫の分の食事だ。
無《む》駄《だ》にならないと良いのだが。
「おまた」
ほとんど間を置かず、食堂からたゆねが戻ってきた。暖かい湯気を立てている湯飲みをいぐさの前にこんと置いた。魔《ま》法《ほう》瓶《びん》からお湯を注いで、インスタントの粉末を入れただけの簡《かん》単《たん》なモノだったが、美味《おい》しそうだった。
「あ、ありがとう」
いぐさは礼を述べて両手で湯飲みを抱えた。
ふ〜ふ〜と息を吹きかける。
たゆねも自分の分を摘《つま》むように持つと、いぐさの後ろを回り込んで自分の席に戻った。時計がコッチコッチと鳴っている。それからしばらくは妙に静かな凪《なぎ》のような時間が過ぎた。いぐさはちらっとまた横目でたゆねを見つめた。
たゆねは平然とお茶を啜《すす》っている。
いぐさとしても別に気詰まり。
という訳《わけ》ではなかった。たゆねが苦《にが》手《て》なのでもない。ただ、いぐさはたゆねとほとんど共通の話題を持ち合わせていなかった。
序列三位と四位。
かたや人見知りの激《はげ》しい文学少女でかたや身体《からだ》を動かすことが大好きな元気娘である。接点があまりないのだ。だから、時々。
ほんの時々だが、こうして会話に困ってしまうことがある。特に二人っきりだと。
「あ」
その時、たゆねがくるっといぐさの方を振り向いて真《ま》顔《がお》になった。
「いぐさ。ところでさ、ちょっと聞きたいんだけど」
いぐさは湯飲みを飲もうとする姿勢で目だけたゆねに向けた。
ん?
なに、と
「ボーイズラブってのをやってるんだって?」
と、尋《たず》ねられ思わず、ぶふっとお茶を吹く。
いきなりだった。
「ぐ! ごほ! げほ!」
「だ、だいじょうぶ?」
心配そうなたゆねにいぐさは大慌てで尋ねた。
「な、な、なんでいきなりそんなこと聞くの?」
「いや、この間ね、いまりとさよかから聞いたんだ。いぐさ、なんか薫《かおる》様と啓《けい》太《た》様が仲良くする小説書いてるんだって? それをボーイズラブっていうのでしょ?」
「な! な! な!」
絶対、絶対、墓場の下まで持っていくつもりだった秘密をいきなり暴《ばく》露《ろ》され、いぐさは真《ま》っ赤《か》になってうろたえた。
その様《よう》子《す》を不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに見ながらもたゆねは、
「なんか一《いっ》緒《しょ》にスポーツとかするんでしょ? ボクにも見せてくれないかな、そのボーイズラブ。薫《かおる》様と啓《けい》太《た》様が仲良くするってのは悪くないよね。うん、ボクも良いことだと思う。ところでなんでボーイズラブって言うの?」
にこっと邪《じゃ》気《き》なくそう言う。
あうあうあうと泣きそうになりながらいぐさがぱたぱたと手を振る。
「いまりとさよかが言っていたけど、『絡《から》む』って要するにレスリングでも」
「わああああああああああ──────!」
と、たまらずいぐさが大声を上げた。目を丸くしているたゆね。そこへ扉が開いて、
「全く。手間かけさせるんだから」
せんだんが外から入ってきた。
彼女は黒こげになって昏《こん》倒《とう》している双《ふた》子《ご》を両肩に担《かつ》いでいた。猟《りょう》師《し》が獲《え》物《もの》を捉《とら》えたような風《ふ》情《ぜい》で信じられないほど軽々と持ち上げている。
それからせんだんは彼女らをぺいっと床《ゆか》に転がすと、
「あら、薫様はまだお戻りになってないの?」
と、いぐさ、たゆねに上品に笑いかけた。
二人は同時に首をぱたぱた横に振った。
「今」
ふとてんそうが顔を上げた。
「どかんって……揺れた」
「うん、確《たし》かに少し揺れたな。私も感じた」
と、ごきょうやが答える。
「地《じ》震《しん》かな?」
フラノが足を止め、顔を上げた。一行はあれからまだ地下道にいた。ごきょうやが指先にかざした霊《れい》力《りょく》の明かりが複雑な陰《いん》影《えい》を三人の顔につけていた。
沈《ちん》黙《もく》がどこか冷たく、重かった。
「……行こうか」
と、それ以上何事も起こらないことを確《かく》認《にん》してからごきょうやが再び歩き出した。三人は黙《もく》然《ねん》と歩を進めた。影《かげ》が周囲から迫ってくるような圧迫感を覚えた。ごきょうやがまた何かを吹っ切るように声を出した。
「なあ、てんそう」
「ん?」
最後尾をとぼとぼ歩いていたてんそうが顔を上げた。
「お前、さっき言ってたな。あの人って。それってなでしこのことだろう?」
返事はなかった。ごきょうやはそれに構わず続けた。
「確《たし》かになでしこなら薫《かおる》様の寝室を知っていてもおかしくはないな……えっと、おまえたちはとっくに気がついていると思うけど、なでしこはきっと薫様を」
間に挟まっていたフラノが困った声を出す。
「ごきょうやちゃん……」
「恐らくせんだんですら気がついていないだろうな。あの気持ち。あの関係は。フラノ、てんそう。私たちはあの子たちと違って前に幾人か主人を持ってきたし、それなりに色々な経《けい》験《けん》を積《つ》み重ねてきた。だから、気がついたのだろう。分かってる。言うな」
「……なでしこは」
と、てんそうが何か言いかけ、また口をつぐんだ。
「おまえたちなでしこを一体どこまで知っている?」
二人とも何も答えなかった。
沈《ちん》黙《もく》。
ごきょうやは前に進みながら独白するように喋《しゃべ》った。
「私もほとんど知らない。はけ様と同じ……いや、最長老と肩を並べるくらいもっとも古い犬《いぬ》神《かみ》の一人だと聞いたことがある。立場はよく分からないのだけどな。ずっとようこの世話役をしてきて、私たちが物心ついた頃《ころ》からいた。戦わない、仕えない犬神」
「変な子ですよね……」
ぽつりとフラノが呟《つぶや》いた。ごきょうやが頷《うなず》く。
「まあ、やや得《え》体《たい》の知れないところがあるが」
と、彼女が何か口にしようとした時、突然、フラノが声を上げた。
「あああ─────!」
ごきょうやが驚《おどろ》いて顔を上げる。すぐに彼女も気がついた。通路の真《ま》っ直《す》ぐ前の方。明らかにごきょうやの霊《れい》気《き》ではない青白い輝《かがや》きがぼうっと見えた。
「……なんだろう?」
「薫様の」
ごくりとフラノが唾《つば》を飲み込んだ。
「お部屋なのかなあ?」
その不安そうな表情。目的地を見つけた喜びなど欠片《かけら》もない。むしろ怯《おび》えていた。その先にあるモノを本能的に忌《き》避《ひ》するように……。
てんそうが一言はっきりと宣言した。
「行ってみよう」
と。
三人は薄《うす》闇《やみ》の中|頷《うなず》き合い、おっかなびっくりまた前に進み始めた。
同じ頃《ころ》、ともはねは食堂の前に立って今、まさに扉を開けようとしていた二人の少年と少女の姿を見つけて大喜びしていた。
「あ! 薫《かおる》様になでしこ!」
ててててっと駆け寄っていく。
「お帰りなさい!」
振り返る。
川《かわ》平《ひら》薫となでしこ。その微笑《ほほえ》み。
ごきょうや、てんそう、フラノの三人は青白い光に誘い出されるようにしてその半径三メートルほどの小部屋に辿《たど》り着いていた。
光っているのは二つの青白い直方体だった。
床《ゆか》に並べられ、ちょうどヒトが寝そべられる程度の。
まるで鉱物のような。
永久|凍《とう》土《ど》のような、蒼《あお》く、深い色合い。
そして、その形はまるで。
棺《ひつぎ》のような。
物体。
川平薫が食堂に入っていく。するとお茶を啜《すす》っていたいぐさが目を丸くし、たゆねが歓《かん》声《せい》を上げて立ち上がった。
お帰りなさい。
お帰りなさい。
と、皆が喜んだ。
首に縄《なわ》をくくり付けられ、しくしく泣きながら皿洗いを強要させられていたいまりとさよかが作業をほっぽり出し、飛びついていく。
せんだんもそれを咎《とが》めず、ほっと安《あん》堵《ど》の笑《え》みを浮かべて迎え出た。
お帰りなさいませ、薫様。
ててててっとともはねが後ろから抱きついた。
ただ一人。
なでしこだけはそれを黙《だま》って後ろから見ていた。
同時刻。
青白い直方体。
氷づけの棺《ひつぎ》の中を覗《のぞ》き込んだ三人の犬《いぬ》神《かみ》たちは。
悲鳴を上げていた。
なでしこはじっとそれを見ていた。たゆねが喜んで話しかけている。薫《かおる》が冗《じょう》談《だん》で返す。朗《ほが》らかにいぐさが笑った。
わざと肩をすくめているせんだんに薫が労《ねぎら》いの言葉をかけた。せんだんはちょっと頬《ほお》を赤らめ苦言を呈《てい》した。
「お仕事も大事だと思いますが、どうかもう少しお身体《からだ》のこと気をつけてくださいましね?」
ともはねが薫のお膝《ひざ》に座って大喜びしている。
薫の手は彼女の頭をよしよしと撫《な》でた。隣《りん》接《せつ》する台所に行っていたいまりとさよかが暖め直したご馳《ち》走《そう》を運んできた。
ウエイトレス宜《よろ》しくポーズをつけて薫の前に並べる。
「さあ、召し上がれ!」
二人の言葉に対して薫が大《おお》仰《ぎょう》な溜《ため》息《いき》で冗談を言う。
一同がどっと笑った。
「じゃあ、頂《いただ》きますか……あれ?」
と、彼が顔を上げた時、なでしこは食堂から一人姿を消していた。周囲が賑《にぎ》やかに色々と盛り上がっているさなか薫はふと哀《かな》しそうに目を細めた。
「なでしこ……」
その呟《つぶや》きは小さすぎて誰《だれ》にも聞こえていなかった。
なでしこはゆっくりと本《ほん》邸《てい》の廊下を歩いていた。
考え込むように、少し俯《うつむ》き加減で。
その時。
「はっ、はっ、はっ!」
廊下の角から転がるように走ってきた少女がいる。
「な、なんなんだアレ! なんだったんだアレ!」
と、荒い息をつく。白衣の少女ごきょうやである。なでしこが歩みを止めた。すぐにその後ろからフラノが今にも失神しそうな様《よう》子《す》で、
「ま、まって! ごきょうやちゃん、お願《ねが》いだからまってください……」
ふらつき、よろめき、倒れ込むようにごきょうやの肩に掴[#「掴」はunicode6451]《つか》まった。すぐその後をてんそうがやって来る。彼女は比較的、平静な様子だったが、額《ひたい》には脂《あぶら》汗《あせ》が浮かんで、目はいつになく真剣に光っていた。
「あの」
と、なでしこが驚《おどろ》いたように声をかけた。
「どうしたの?」
ぎょっとしたように三人が振り返った。フラノがうるっと目を潤《うる》ませた。
「あのね、なでしこちゃん! タイヘン! タイヘンなのです!」
彼女はなでしこに駆け寄ろうとする。それをさっとてんそうが抱きとめた。同時にごきょうやが明らかにそれと分かる作り笑いを浮かべ、
「い、いや、なんでもないんだ。気にしないでくれ」
「そう? 大丈夫?」
「ああ、ちょっと……そう。ちょっと、な」
彼女はてんそうと一《いっ》緒《しょ》にフラノを押さえ込むように動くと、アハアハ作り笑いを浮かべたまま、後ずさりして廊下の角を曲がって姿を消した。
なでしこが小首を傾《かし》げて追いかけていくと、ごきょうやがフラノの耳元に何事か囁《ささや》くところだった。フラノの目にはっきり恐怖の色が浮かぶ。
そして、三人は背後を振り返り。
なでしこがこちらを見ていることに気がつき。
声にならない悲鳴を上げて、一目散に逃げていった。
「どうしたのかしら?」
と、なでしこがひどく静かな声で呟《つぶや》いた。
彼女はさらに歩き続け、通信室の前で立ち止まる。
「あら?」
開きかけのドアから音と光が漏《も》れていた。
「……ファックス?」
が〜とちょうどファックスを受信しているところだった。なでしこはトレイに吐き出されたファックス用紙を手に取る。
『ダメな犬《いぬ》神《かみ》使いだった川《かわ》平《ひら》宗《そう》太《た》郎《ろう》から模《も》範《はん》生《せい》な犬神ごきょうやさんへ』
と、そこにはそう書かれていた。
『お〜〜〜〜! 誰《だれ》かと思えば、ごきょうやか! 懐《なつ》かしいな! いや、お前から手紙の類《たぐい》を貰《もら》えるとは思ってなかったのでマジで嬉《うれ》しい。つうか、そ〜か。うちのバカ息子に会ったか……でも、俺《おれ》に似てる、かあ? いや、あいつは俺よりもっと遙《はる》かに節《せっ》操《そう》ないけどな。まあ、なんにしてもお前が元気そうで良かったよ。俺も元気だ。毎日、頑《がん》張《ば》ってる。お前のことはずっと気にしていた。本当だぞ? 言えた義理じゃないけどさ、新しい主人が出来てよかったよ、本当に。しかも、それが薫《かおる》だろう? そうそう。俺はちょうど入れ違いになっちゃったんで薫には直接まだ会ってないけど、あの子がヨーロッパにいた頃《ころ》、あの子の父親……要するに俺の兄《あに》貴《き》と知り合いだったってヒトに会ったぞ。今頃、えらい可愛《かわい》い女の子になってるだろうな、薫。とにかく、うちのケダモノ息子には用心しろよ! じゃあな。近いうちに一度、日本に帰るからその時は宜《よろ》しくな!』
と、書いてあって最後に、
『川《かわ》平《ひら》宗《そう》太《た》郎《ろう》』
と、署名してある。なでしこはそれを熟《じゅく》読《どく》した後、
「宗太郎様」
ファックスを何枚にも何枚にも細かく、細かく、注意深く引き裂きながら優《やさ》しく呟《つぶや》いた。
「一生、帰ってこなくて結構ですよ?」
微笑《ほほえ》みながら。
ふっと紙《かみ》吹雪《ふぶき》が宙に舞《ま》った。
[#中見出し]あとがき
え〜〜。
こっほん。皆さん、電《でん》撃《げき》文庫の志《し》村《むら》一《かず》矢《や》さんをご存じでしょうか?
そ〜。あの、切なくも、激《はげ》しい名作『月と貴方《あなた》に花束を』の作者であり、現在は『麒《き》麟《りん》は一《いち》途《ず》に恋をする』を熱《ねっ》筆《ぴつ》中《ちゅう》の作家さんですね〜。有《あり》沢《さわ》は最近、この方と仲良くさせて頂いてまして、色々と遊んだりして貰《もら》ってます。
で、この方とお話ししているうち、あとがきの話題が出てきまして、互いのあとがきで互いの作品を宣伝しあったら、ネタにもなるし、営業にも貢献するし、一石二鳥じゃないか、という風《ふう》に盛り上がったのです。
で、最初はあくまで冗《じょう》談《だん》かと思ったのですが、シムシム兄さん(命名ハセガワさん)早速、やってくださいました。具体的には二月に発売された『麒麟は一途に恋をする』三巻のあとがきで拙《せっ》著《ちょ》、『いぬかみっ!』を宣伝してくださったのです。
も〜、ありがたいやら、恐《きょう》縮《しゅく》するやら(おろおろ)
という訳《わけ》で、こちらも『麒麟は一途に恋をする』を宣伝させて頂きマスですよ〜。実際、こっちで志村さんの宣伝したところでどれだけ効果があるのか疑問ですが……そこは気にせず、行ってみましょう。
『麒《き》麟《りん》は一《いち》途《ず》に恋をする』しいては志《し》村《むら》一《かず》矢《や》さんの作品群の魅《み》力《りょく》は何か?
まあ、切ない話の展開とか、端正な文章で綴《つづ》っていく戦《せん》闘《とう》シーンとか、色々と売れてる要因はあると思うのですよ。ただ、有《あり》沢《さわ》がそんなところを挙げていっても仕方ないので、一言。端的に言わせて頂きましょう。
ずばり作家志村一矢さんの最大の武器は悶《もだ》え狂うようなヒロインの可愛《かわい》さなのです!
布団を被《かぶ》って、シーツを噛[#「噛」はunicode5699]《か》みしめて、転げ回りたいような女の子描写。月花のヒロイン深《み》雪《ゆき》さんから始まって、現ヒロインの麻《ま》由《ゆ》たん、由《ゆ》花《か》たんの可《か》憐《れん》さ、健《けな》気《げ》さ、喋《しゃべ》りっぷりがも〜たまらん訳《わけ》ですよ!
「直《なお》純《ずみ》くん。安曇《あずみ》ちゃんと仲良くしてあげてね?」
「……でも、あんまり仲良くし過ぎちゃダメだよ?(上《うわ》目《め》遣《づか》い)」
つうのは有沢一番のお気に入り、由花たんの台詞《せりふ》ですが、これを読んだ時は危うく魂持ってかれるかと思いましたよ。
ただ、女性ファンが多い方なので、有沢がここでハアハア力説してもどうなのかな〜という気もしますが、気にしない!
『麒麟は一途に恋をする』は三巻まで絶賛発売中ですよ〜。
と、いい感じに行数が埋まったところで『いぬかみっ!』の方も(笑)
六巻どうでしたでしょうか?
こっからいよいよ色々な謎《なぞ》が解き明かされ、盛り上がっていきますよ〜。ラストは大体、見えているのでそんなに次巻までお待たせしないと思うのですが……まあ、予定は未定ということで、がんがん書いてきたいと思います!
さらに面《おも》白《しろ》い作品を!
さらに面白い作品をですよ〜。
今回も色々とご迷惑をおかけしました担当様。常によいイラストを仕上げてくる若《わか》月《つき》さんありがとうございました!
[#地付き]二月某日 有沢まみず拝《はい》