いぬかみっ! 5
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かわいくて大金持ちで、でもひねくれ者の美少女──。そんな彼女が歌う死の歌に誘われ、啓太とようこは欲望と嫉妬入り乱れて最強最悪(?)の敵・死神と戦うことに……。
一《いっ》攫《かく》千《せん》金《きん》か、死か! 啓太が最後に手にするものは一体なに?
その他、お疲れ啓太がなでしこにた〜っぷり癒されるお話、薫の犬神たちが怪談話をやって盛り上がる夏の夜の話など、書き下ろしを含めて全四編収録。最終話には、ようこの○○もちらっと登場!?
カラーコミック&4コマまんが&犬神データ集も収録して、|犬神使い《けいた》と犬神《ようこ》のハイテンション・コメディ第5弾!
ISBN4-8402-2871-X
CO193 \550E
発行●メディアワークス
定価:本体550円
※消費税が別に加算されます
有《あり》沢《さわ》まみず
パキスタン生まれ、インド育ち。第八回電撃ゲーム小説大賞〈銀賞〉を頂いて今に至る。昭和五十一年生まれのB型。なんというか、最近、実生活でも上のイラスト気味です……誰か切実に愛を下さい(しくしく)
【電撃文庫作品】
インフィニティ・ゼロ冬〜white snow
インフィニティ・ゼロA春〜white blossom
インフィニティ・ゼロB夏〜white moon
インフィニティ・ゼロC秋〜darkness pure
いぬかみっ!
いぬかみっ! 2
いぬかみっ! 3
いぬかみっ! 4
いぬかみっ! 5
イラスト:若《わか》月《つき》神《かん》無《な》
グスタフ・レオンハルト、ハンナ・チャン、新居昭乃、坂本真綾、堂本剛、Kinkikids、レ・ミゼラブルetc…。昨年は見事コンサート三昧の日々でした♪ やはり生は良いですね! 生歌声、生演奏! 来年は地方にも行きたいのですがお金が…。
カバー/加藤製版印刷
「そこでその晩、その男は旅館の一番奥の部屋に床《とこ》を取りました」
眼鏡《めがね》をかけた知的な風《ふう》貌《ぼう》の少女が指を立て、淡《たん》々《たん》と語っていた。ごくりと目の前の少女たちが息を呑《の》む。
「どれだけ時間が過ぎたでしょう。ふと目を覚ますと、夜風がびゅうびゅう鳴っているのが聞こえます。雲がもの凄《すご》い速さで流れ、月の光が途《と》切《ぎ》れ途《と》切《ぎ》れに差し込み、天《てん》井《じょう》の木目や壁《かべ》に掛かった掛け軸が妙にはっきりと浮かんで見えます」
小さなともはねが赤毛の少女の膝《ひざ》に顔を埋めた。小刻みにかたかた震《ふる》えながらも、目だけはずっとお話の続きをせがんでいぐさを見続けている。ピンク色のネグリジェにショールを羽《は》織《お》ったせんだんは苦笑しながらその頭を撫《な》でてやっていた。
中の一人。ショートカットのたゆねがそわそわと身を揺《ゆ》すっていた。彼女はホットパンツにTシャツ姿で手を頭の後ろに組み、長い足は胡座《あぐら》をかいている。他《ほか》の少女たちはじっと固《かた》唾《ず》を呑んで続きを待っていた。
中央に置かれた太いロウソクの炎がふと揺らぐ。水色の浴衣《ゆかた》に濃《のう》紺《こん》の帯姿のいぐさは不《ぶ》気《き》味《み》なほど静かな笑顔《えがお》を浮かべたまま話し続けた。
「ぴしゃ」
正座をし、ぴんと指を立てたまま、
「ぴしゃ」
妙に甲《かん》高《だか》い擬《ぎ》音《おん》で舌を打つ。再び抑揚のない平坦な声に戻って、
「廊下の方から聞こえてきたのはそんな音でした。『おや、なんだろう?』その音に男は顔を上げます。ぴしゃ、ぴしゃ。男は気がつきました。それは……そう。まるでずぶぬれの何者かがゆっくりと足をひきずって廊下を歩いているような」
うんうん。
ほとんど同じ外見の双子の犬《いぬ》神《かみ》、いまりとさよかが真剣な顔で相づちを打つ。
「足音は段々と、こちらに向かって近づいてきます。なんということでしょう……その合間には確《たし》かに断《だん》崖《がい》絶《ぜっ》壁《ぺき》から海に突き落として殺したはずのあの女の声」
『ここでもない』
いきなりどこからともなく聞こえてきたそんなか細い声に少女たちがびくりと身を震わせた。今までそわそわ貧乏揺すりをしていたたゆねも、苦笑していたせんだんも驚《おどろ》いたように顔を上げ、辺《あた》りを見回していた。
いぐさはもはや凄みさえ感じられる微笑《ほほえ》みを浮かべたまま、
「ぴしゃ、ぴしゃ。すうっと襖《ふすま》を開ける音」
『ここでもない』
また現実にはっきり聞こえる恨《うら》めしげな女の声。確かにいぐさではない。この中の誰《だれ》でもない。ともはねに至ってはもはや泣き出しそうだ。
「ぴしゃ、ぴしゃ。すうっと襖《ふすま》を開ける音。ぴしゃ、ぴしゃ。すうっと襖を開ける音。そしてそれはとうとう男のいる部屋の前までやってきて」
『ここか?』
「開いた襖の奥から血《ち》塗《まみ》れの女がにいっと笑いながら」
『やっぱりここだああああああ──────────────!』
いぐさは今までずっと立てていた指を出し抜けにともはねの目の前に突きつけた。その瞬《しゅん》間《かん》、ともはねがブラックアウト。
う〜んと唸《うな》って目を回す。
「お粗末さまでした」
にっこり微笑《ほほえ》んでいぐさが頭を下げた。同時にぱっと電気が点《つ》いて、部屋が明るくなった。
「いぐさ。お話当番、お疲れさま」
がたごとと音を立ててクローゼットの中から出てきたのはなでしこである。彼女はいつもの割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿で照《て》れくさそうにはにかみながら、
「一応、声《こわ》色《いろ》を使って頑《がん》張《ば》ってみました。どうでした?」
頭に糸くずがついているのがちょっと間抜けな姿だった。
「あ、あなただったの……」
呆《あき》れたようにせんだんが呟《つぶや》く。たゆねがふうっと深い溜《ため》息《いき》をついて肩の力を抜いた。いぐさは困ったように頬《ほお》に手を当て、
「今日《きょう》のともはねのお話当番、ちょっと一人では自信がなかったのでなでしこに協力して貰《もら》ったんです。だって、ともはねったら夏だから怪《かい》談《だん》が良いなんて言うし、私、怪談なんて全然、知らないし」
うん、うんと頷《うなず》いていた双子が声を揃《そろ》えた。
「あんたやりすぎ!」
「え?」
「きゃあ〜〜〜、ともはね!」
なでしこが悲鳴を上げている。くわんくわんと頭を振っていたともはねがばったり後ろに倒れていた。白い泡を吹《ふ》いて痙《けい》攣《れん》さえしている。
薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》たちのとある夏の夜の物語だった。
「ともはねはもう寝た?」
なでしこの部屋に集まっていた少女たちが顔を上げた。双子が頷く。
「寝たというか」
「結局、目を覚まさないままというか」
「とにかく朝まで起きてはこないと思うよ」
「すいません……」
奥の方に座っていたいぐさが小さくなる。いまりとさよかも自分たち愛用のクッションに腰を落として、にっと笑った。
「しかし、いぐさがあんなに怪《かい》談《だん》上手《うま》いとは知らなかったよ」
「そ、そんな」
「そうね。私も少し驚《おどろ》いたわ」
せんだんが微笑《ほほえ》んだ。「ボ、ボクは全然平気だったよ?」と誰《だれ》にも聞かれてないのに胸を張って答えているたゆね。なでしこは『なんでいつもいつもみんな私の部屋を集会場代わりに使うのだろう?』という迷《めい》惑《わく》、ではなく困《こん》惑《わく》の表情で皆にハーブティーを振《ふ》る舞《ま》っている。
それをずずっと一口|啜《すす》ってからいまりが提案した。
「そ〜だ。お子様も寝たことだしさ、これから一つアダルトな怪談大会といかない? アダルトだけのアダルトな怖さでさ」
「お、いいねえいいねえ」
早速、双子の片割れさよかが両手を上げて賛《さん》意《い》を表す。たゆねがかちゃっとティーカップを鳴らして叫んだ。
「く、くだらないよ、そんなの!」
声がちょっと甲《かん》高《だか》く裏返っている。
「おやあ」
にやにや笑い出す双子。
「もしかして怖いのかね、たゆねくん?」
「そ、そんな訳《わけ》ないだろう!? ボ、ボクたち犬《いぬ》神《かみ》が怪談やってどうするのさ、と言いたいんだよ、ボクは! わは、わはははは!」
笑いもちょっと引《ひ》き攣《つ》っていた。
「そんな大きなお乳して」
「む、胸はこの際、関係ない!」
「確《たし》かに怪談は怪《かい》異《い》を引きつける可能性があるから控《ひか》えた方が無《ぶ》難《なん》は無難かも知れないですけどね」
いぐさが思《し》慮《りょ》深《ぶか》く呟《つぶや》いた。
「でしょ〜でしょ〜?」
「そうね」
せんだんは一口ティーを嗜《たしな》み、頷《うなず》く。
「でも、怪異を知るのもある意味、私たちのお勉強はお勉強だと思うわ。それにいい加減、誰かさんの恐がりを治す必要もありそうだし」
ちろっと冷ややかな横目でたゆねを見る。たゆねが抗《こう》議《ぎ》口《く》調《ちょう》になった。
「ぼ、ボクは別に恐がりじゃないもん! 必要ないもん!」
せんだんはそれを綺《き》麗《れい》に無視して微笑《ほほえ》んだ。
「出たら出たでやりましょうか?」
リーダーの意向がそうと決まれば自然と話は進む。たとえたゆねがいくら反対しようと、
「そういう類《たぐい》の怪《かい》談《だん》はほんと定《てい》番《ばん》だよな」
と、誰《だれ》かが言った。
「なんていうの? 肝《きも》試《だめ》しや怪談やっている連中が怖い目にあうタイプの」
「あ〜、私ね、それ系で一個知ってるよ。旧校舎に肝試しで入った小学生の人数が最初と最後で合わなくなるの」
「あ、あれね〜王道だよね」
「聞いたことがありますね。どこか怖いところに行った後、点《てん》呼《こ》をとる。だけど、一人|足《た》りない。あるいは一人多い」
「怪談の最中、知らぬ間に部屋に誰かいるっていうパターンも多いよね」
「そう言えば冬山で遭《そう》難《なん》して眠らないように小屋の四《よ》隅《すみ》を回っていくお話もそうだよな」
「え、わたしそれ知らない……」
「あれ知らないのか? 結構、有名な奴《やつ》なんだけどな」
と、彼。
いつの間にかいた川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》がにこにこしながら喋《しやべ》り始めたその時。
し〜んと静まり返り、恐怖に目を見開いて彼を見つめていた他《ほか》の少女たちが一斉に悲鳴を上げた。
この日、最初の悲鳴だった。
「な、なんでいきなり普通にいるんですか!?」
せんだんが動《どう》揺《よう》を隠《かく》し切れずあたふたと手を動かす。男性恐怖症のきらいがあるいぐさは目を見開いたまま、かちんこちんに固まっていた。
たゆね、いまり、さよかは非《ひ》難《なん》の口《く》調《ちょう》で、
「いつのまに!」
「というか、なんで当たり前の顔で!?」
ただ一人なでしこだけは苦笑して啓太のためにクッションを叩《たた》き、場所を用意していた。啓太は、
「や〜、つれないなあ。薫《かおる》が留《る》守《す》だって言うし、お前ら不安だろうと思ってほれ」
ビニール袋に入ったお菓子を差し出す。
「お土産《みやげ》持って遊びに来たんだぜ?」
「たった今からものすご〜く不安になりました!」
なでしこ以外の少女たちが声を揃《そろ》えて突っ込む。啓《けい》太《た》はぽりぽりと頭を掻《か》いた。
「う〜ん。少なくても俺《おれ》、いぐさにはもうちょっかいをかけないつもりだったんだけどな」
いぐさがいきなり動き出した。
「ほ、ほんとうですか?」
「ああ、お前はいわば俺にとっての非武装|緩《かん》衝《しょう》地帯だ」
にっと笑って親指を立てる啓太。何故《なぜ》かそれで頬《ほお》を赤らめるいぐさ。その代わりいぐさの他《ほか》はみんな白い目で、
「ということは、わたしたちは?」
「うん」
くるっと啓太が振り返り、
「みんなみんな寝《ね》間《ま》着《き》姿がとってもとてもせくし〜だよ♪」
ひょ〜いと軽やかにジャンプして女の子たちに抱きつこうとする。ぞっと青ざめている少女たち。
その時。
ひゅご。
天《てん》井《じょう》から怒り狂ったようこが落下しざま、啓太の後頭部にフライパンの一《いち》撃《げき》をくわえた。異音が轟《とどろ》き、啓太が床《ゆか》に沈む。
「へぶ!」
ようこがさらに彼の襟《えり》首《くび》をむんずと掴《つか》み上げ、
「よ、ようこ、なぜここに」
と、何か言いかけた彼の顔をフライパンで容《よう》赦《しゃ》なくすぱぱぱんと張る。張る。張る。
「ふぐ! ちょ、ちょ、っと」
ぐしゃ。
「ま!」
べちょ。
「やめ! わ、わけを、ぶ!」
めしゃ。嵐《あらし》の様なフライパンの往復ビンタの後、フライパンでぴたぴた腫《は》れ上がった啓太の頬を叩《たた》き、
「一つ聞くわ。今のはもちろん冗《じょう》談《だん》よね、ケイタ?」
にっこり微笑《ほほえ》む。恐怖にこくこく頷《うなず》く啓太。
少女たちがほっと安《あん》堵《ど》の吐《と》息《いき》を漏《も》らした。
結局、なでしこの、
「まあまあ、ようこさんもいらっしゃることだし、折《せっ》角《かく》だから啓太様もお迎えして続けましょうよ」
という取りなしでなんとか場が収まった。
「へえ、怖い話大会」
ようこがなでしこから貰《もら》ったハーブティーを啜《すす》る。啓《けい》太《た》は口の中を散々切ったのでなでしこが特別に薬《やく》草《そう》茶《ちゃ》を用意していた。
「にが」
と、その緑《みどり》色《いろ》の液体を口に含んで顔をしかめる啓太。
「で、誰《だれ》が次は話すの?」
わくわくとした表情でようこが一同を見回した。たゆねがただ一人「く、くだらない!」、「くだらないから是《ぜ》非《ひ》やめよう!」と言い続けていたが誰も耳は貸していなかった。せんだんがん〜と唇《くちびる》に指を当て、
「じゃあ、折《せっ》角《かく》ですので、まず啓太様にお手本を示して頂きましょうか?」
そう微笑《ほほえ》んだ。啓太は目を細める。
「ほっほ〜、せんだんちゃん。いきなり俺《おれ》をご指名かい?」
「ええ。ここはやはり啓太様の貫《かん》禄《ろく》で」
「ふ」
啓太は咳《せき》払《ばら》いをした。
「いいだろう。おまえたちに怪《かい》談《だん》話《ばなし》の妙を教えてやるよ」
声のトーンが急に落ちた。
「ただし、どうなっても知らないがな……」
いぐさがクッションをぎゅっと抱きかかえた。たゆねは「く、くだらないから別に良いのに」と言いつつ、少し縮《ちぢ》こまってせんだんにそそくさ身を寄せる。正座し、身を乗り出しているいまりとさよか。瞳《ひとみ》がきらきら輝《かがや》いていた。
啓太は頷《うなず》いた。
「そうだな。タイトルをつけるとしたら、そう『夕暮れの女』とでもいうのかな? 俺が中学生時代に経《けい》験《けん》した実話だよ」
啓太は哀《かな》しそうな目になってそう呟《つぶや》いた。
「これは本当に、なんていうのかな? とてもある意味、後味の悪いお話なんだ……だから、そこら辺ちょっと覚悟して聞いてくれよ」
珍《めずら》しく彼の声はしんみりしていた。感情を抑《おき》えた口《く》調《ちょう》でゆっくり語り始めた。
「あの頃《ころ》さ、俺、犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い失格になってたろ? だから、仕方ないから結構、自分で色々|身体《からだ》を鍛《きた》えたりしていたんだよ。自己流の霊《れい》符《ふ》なんかも試《ため》していて、他《ほか》の奴《やつ》らみたいに部活に精出したり、学園生活エンジョイすることもなく山に籠《こ》もったり、やばい仕事ばかり引き受けたりしていた……今、卒業アルバムを見返すと俺、かなり荒《すさ》んだ目をしてたよ」
ぽつりとそう呟《つぶや》き、自《じ》嘲《ちょう》的《てき》な笑《え》みを浮かべて、ティーカップに目を落とす。少女たちは少なからず驚《おどろ》いて黙《だま》っている。
こんなシリアスな表情の啓《けい》太《た》は初めてだった。
「ある日、そう……今でも覚えてるんだけど夕焼けで辺《あた》りがすごく綺《き》麗《れい》なオレンジ色に染《そ》まっていた日のことだった。俺《おれ》は使われなくなった旧校舎の二階から窓ガラス越しに部活をやっている連中をぼんやり見ていたんだ。どれだけ時間が過ぎただろう。ふと振り返ったらいつのまにか床《ゆか》の上に一枚の紙切れが落ちていた。さっきまでは確《たし》かになかったのに。なんだろう、って取り上げてみた。そこには『見ていないであなたも仲間に入れて貰《もら》ったら?』って綺麗な筆でそう書かれていた。辺りを見回しても取《と》り壊《こわ》し間際の校舎だったんで、当然、誰《だれ》もいない。ただ甘い匂《にお》いだけがふわってこう漂《ただよ》っていた」
啓太はここではないどこか遠くを見ている。
「……翌日、俺は妙な期待に駆《か》られて全く同じ時刻、同じ階段に立っていた。その時、上からひらひらと一枚の紙切れが落ちてきた。俺は慌《あわ》ててそれをキャッチした。今度はこう書かれていた。『また来たの?』って。気がついた。その踊り場は吹《ふ》き抜けになっている。だから、相手はきっと三階にいるのだろう。見上げると確かにスカートの端のような布《ぬの》地《じ》がそこから見えている。でも、俺が階段を上がろうとしたらまた一枚紙切れが落ちてきて、『こっちには来ちゃダメ』って……そう書いてあった」
「同じ字の人?」
と、ようこ。啓太は頷《うなず》く。
「『来ないでお願《ねが》い』、『これはあなたのために言ってるの。お願い』。そんな紙切れが二枚たて続けに落ちてきた。そして『あなたは誰?』という俺の問いへの三枚目が『これがわたし。名は桔《き》梗《きょう》』と筆で書かれた写真。取り上げて見るとこの学校の制服を着た女の子が優《やき》しい笑顔《えがお》で笑っていた……でも、俺。そんな子、一度として学校で見たことがなかった」
「……美人?」
「俺が一度でも見たらまず忘れないような美人」
ようこは何も言わなかった。
この先に哀《かな》しい結末があることはなんとなく予感できたから。
「それから俺は毎日、夕方になるとその人と会う……いや、違うな。一方的な会話をするためにその階段に向かった。手段はひどくまどろっこしかった。俺が喋《しゃべ》るとしばらく時間差があって紙がひらひらと舞《ま》い降りてきた。そんなことの繰《く》り返しだった。でも俺はその人の言ったとおり、三階には決して上がらなかった。俺は胸が高鳴るのを覚えると同時にひどく不安だった。その人のことが何も分からなかったから」
「……」
たゆねが息を殺し、耳をそばだて聞き入っていた。
「奇怪なお話ですね」
と、目を細めてせんだん。
「俺《おれ》はその合間、写真を片手に在校生|名《めい》簿《ぼ》とアルバムを片っ端から当たった。でも、過去十年にさかのぼってみてもそんな名前や顔の生徒は一人もいなかった……もちろん教《きょう》職《しょく》員《いん》の中にも誰《だれ》一人として」
ごくりと双子が唾《つば》を飲み込んだ。
「不安だった理由はもう一つある。桔《き》梗《きょう》さんが使う紙が段々劣化していったんだ。最初は綺《き》麗《れい》な白い紙だったのが、黄《き》ばんできて、それどころかところどころに血みたいな変な跡が残るようになった。同時にあれほど端正だった桔梗さんの字も乱れていった。ある日、痙《けい》攣《れん》したようにのたくった全く判別出来ない紙を貰《もら》って、俺はとうとう耐えきれなくなった」
「禁《きん》忌《き》、破っちゃったんですか?」
と、口に手を当ててなでしこ。啓《けい》太《た》は深い溜《ため》息《いき》をついた。
「思えば若かったよ。そして、バカだった。でも、俺は堪《こら》えきれなかったんだ。どうしても桔梗さんに直接会って話がしたかった。俺は二階から三階まで一息で駆《か》け上がった。三階の踊り場は眩《まぶ》しいくらいの光で満ちていた。桔梗さんは哀《かな》しそうな笑顔《えがお》で俺を振り返って『やっぱり来てしまったのね』って……そう書かれた紙を胸元に持っていた。だけど俺は、俺は桔梗さんの本当の姿を見て、思わず絶叫を上げていた。だって!」
少女たちが息を呑《の》む。
「だって、俺が見た桔梗さんは」
啓太はぶるぶると震《ふる》え、握った拳《こぶし》を見つめ、
「実は購《こう》買《ばい》部《ぶ》のおっさんだったんだもん」
ぽつりとそう呟《つぶや》く。
ごつん。少女たちが一斉に額《ひたい》を床《ゆか》に打ちつけた。啓太はやれやれと首を振り、
「はあ〜あ、本当に哀しい一夏の悲恋物語だったさ」
「こ、こうばいぶ? 男の方だったんですか?」
と、頭を振りながらせんだんが尋《たず》ねた。
他《ほか》の者もよれよれ起き上がっている。
「そ〜」
啓太は憤《ふん》慨《がい》したように、
「ひどいだろう? そうやって怪《かい》談《だん》仕立てで生徒をおちょくるのが趣《しゅ》味《み》だったらしくてさ、最後なんかひげ面《づら》の癖《くせ》にセーラー服着てピースサインまでしてやがるんだぜ? 全く! 大人《おとな》の良《りょう》識《しき》疑うよ! その間、折《せっ》角《かく》の覗《のぞ》きポイントだった旧校舎は取《と》り壊《こわ》されちゃって、お目当てだった水泳部の女の子の着替えも見《み》逃《のが》しちゃったしさ〜」
そこで彼はもう少女たちが全く彼の話を聞いていないことに気がついた。「お〜い」とか、「もしも〜し」とか言っている啓《けい》太《た》をするりと輪《わ》から外し、
「へえ、今度はリーダーのお話?」
「わ〜、楽しみ」
とか、盛り上がっている。
ようこまで。
取り残された啓太が一人。いつまでもひらひらと手を振っていた。
「まあ、怖い話、というよりはこれは因《いん》縁《ねん》話《ばなし》なのかな?」
せんだんが喋《しゃべ》り始めた。
「外国の……とある山深い修道院のことなんだけどね。まだ年若い見習いシスターがその年、降った大雪で足を滑《すべ》らせ、井《い》戸《ど》の中に転落して死んでしまったの。以来、その修道院では見習いシスターの幽《ゆう》霊《れい》が毎夜、徘《はい》徊《かい》するようになったそうよ。『助けて』、『助けて』って」
「……」
せんだんはずずっとそこでお茶を啜《すす》った。
「……それだけ?」
と、拍子抜けたようにようこが尋《たず》ねる。たゆねが笑った。
「は、ははは! 怖くないじゃない、全然!」
「そうですね。あまり怖くない」
と、きょとんとしてなでしこが言った。せんだんは意味ありげな微笑《ほほえ》みを浮かべた。
「そ〜ね。ところでね、その修道院なんだけどね、まあ、細かいことは省略するけど、結局、閉《へい》鎖《さ》されてしまったのよ。ただ、歴史的に価値のある遺《い》品《ひん》の幾《いく》つかは日本に運ばれてきたみたいね。例えば井戸の中に落ちていた見習いシスターのロザリオとか」
そこでせんだんは話の目先をちょっと変える。
「ところでうちの敷《しき》地《ち》も元々修道院だったけど随《ずい》分《ぶん》と曰《いわ》くあるらしいわね。色々と」
「ま、まさか?」
せんだんはにいっと笑った。
「ここ、なんで閉鎖されたか知ってる?」
「……それって?」
「そう」
せんだんは手を幽霊の形で胸元につける。
「出たからよ。その見習いシスターが……『助けて』、『助けて』って泣きながら、夜な夜な修道院の中に現れたの。こ〜、恨《うら》めしげな顔で、冷たい手を伸ばして」
「は、ははは! 馬《ば》鹿《か》馬《ば》鹿《か》しい!」
たゆねが胸を張って笑ってる。するとその時、いぐさが驚《おどろ》いたような声を上げた。
「あ! でも私、正《せい》確《かく》にソレかどうかは分かりませんけど、薫《かおる》様がガラスケースの中にロザリオを保管しているのは確《たし》かに見たことがありますよ……」
口《く》調《ちょう》から嘘《うそ》を言っていないのはすぐ分かる。たゆねの笑顔《えがお》が引《ひ》き攣《つ》った。
「う〜ん……本当にいるのかなあ? その彷徨《さまよ》う幽《ゆう》霊《れい》シスター」
いまりが腕を組んで唸《うな》った。
「いるんじゃない? そのショートカット大好き怨《おん》霊《りょう》シスター」
さよかがわざとたゆねの耳元で囁《ささや》く様に言う。そして二人は声を揃《そろ》える。
「たすけて〜、たゆねちゃん、たすけてえ〜、さむいよう」
耳を両手で塞《ふさ》いでイヤイヤするたゆね。
「い、いないよ、そんなの……うちにはいないもん、そんな変なの!」
「ま。そんなのがいたら俺《おれ》がすぐに追い払ってやるから安心しろよ」
啓《けい》太《た》が力強い声でそう言った。同時に彼の手は力強く薄《うす》絹《ぎぬ》をまとっただけのせんだんの肩に回ってる。
「まあ、ご親切にどうも」
せんだんはにっこり微笑《ほほえ》んで啓太の手の甲を指で思いっきりつねり上げていた。ようこは反対側の手を鮫《さめ》のようにかぷっと噛《か》んでいる。
「あ、いけない!」
その時、なでしこがふと声を上げた。
せんだんも、啓《けい》太《た》も、ようこも他《ほか》のみんなも揃《そろ》って彼女を見やった。
「ど、どしたの、なでしこちゃん?」
と、びっくりしたように啓太。なでしこは首を振り、
「あ、いえいえ別に大したことじゃないんです」
薄《うす》く微笑《ほほえ》む。彼女は言った。
「じゃあ、今度はそうですね。わたしがお話させて頂きますね」
その唐《とう》突《とつ》な申し出に一同は怪《け》訝《げん》そうに顔を見合わせた。
「昔々、よーろっぱのお話です」
なでしこの話はそう始まった。
「あるところにひどく女《おんな》癖《ぐせ》の悪い男の人がいました」
皆、なんとなく啓太を見る。
「な、なんだよ?」
と啓太。なでしこは笑《え》みを浮かべながら、
「その女癖の悪さに村の女性はとても困っておりました。そこである日、彼女たちは村はずれに住む魔《ま》女《まじょ》の所に出向いて訴えたのです。なんとかしてくださいと。そこで魔女はある薬《くすり》を渡しました。別に大したものではありません。薬《やく》草《そう》茶《ちゃ》にみせかけた下し薬で、女の人に触れるとしばらく動けなくなる程度のものです」
部屋が静まり返っていた。
「ところが」
なでしこはそこで、
「あ、いけない!」
びくっと啓太が身を震《ふる》わせた。先ほどと全く同じ台詞《せりふ》を吐き、
「皆が帰ってから、魔女は思わずそう叫びました。どうしたことでしょう。ほんのささやかな下し薬だったのにラベルを間違えて実は猛《もう》毒《どく》を渡してしまったのです」
啓太は恐る恐ると、
「……あ、あのそれって?」
「そのお薬は緑《みどり》色《いろ》で」
啓太は自分が今まで飲んでいた薬草茶を見てみる。実に鮮《あざ》やかな緑色だった。
「ひどく苦《にが》く」
啓太はえ〜と顔をしかめて、舌を出す。
「飲んだ者は全身に斑《はん》点《てん》が出来」
思わず自分の手の甲を見る啓太。
「もだえ苦しんだ後、三日後に必ず……ってしまうお薬《くすり》でした。その女《おんな》癖《ぐせ》の悪い人は可哀《かわい》想《そう》に最後は……ひどい」
そこで目を伏せ、感《かん》極《きわ》まったように口元を押さえるなでしこ。
「おしまい♪」
いきなりぴっと指を振った。すがりつく啓《けい》太《た》。
「ねえ、なでしこちゃん! そいつ一体どうなったの!? ねえ! ちゃんと最後までお話してよ、ねえ!」
「楽しんで頂けました?」
「というか、目をそらしながら言わないで! そのお薬ってもしかして!? いやあ〜」
皆、曖《あい》昧《まい》な顔で笑っていた。
「……次行きましょうか?」
と、せんだん。
「いやああああ──────────────!」
最後はようこの番だった。
「あのね、わたし、怪《かい》談《だん》なんてあんまり知らないからとりあえず一番わたしが怖かった話をするよ?」
そう前置きしてぽつりぽつりと話し出した。
確《たし》かに彼女は能弁ではない。論《ろん》旨《し》もちぐはぐで、展開も行ったり来たりを繰《く》り返すが、その実話|故《ゆえ》の臨《りん》場《じょう》感《かん》が徐々に聴《ちょう》衆《しゅう》を引き込んでいった。
はけの登場。謎《なぞ》めいた寺の依頼。近《きん》隣《りん》の住民の憎《ぞう》悪《お》。雨。曰《いわ》くありげな扁《へん》額《がく》。朽《く》ちかけた本堂。そこで明《あ》かされる世にもおぞましい憑《ひょう》依《い》の話。せんだんも、いぐさも、たゆねも、なでしこも、いまりも、さよかも全員、怖《おぞ》気《け》を振るい、身を引いている。
啓太がかたかたと震《ふる》え出す。歯の根が合わなくなっている。そしてそれはてらてら光るマッチョが異様な笑《え》みを浮かべながら襲《おそ》いかかってきた時点でピークに達する。
途《と》端《たん》。
「うわあああああああああああああああああ───────!」
啓太が立ち上がった。
「男があああ! 男がいぬううう──────────!」
狂った悲鳴を上げて部屋から飛び出す。
ばたんと開くドア。
「あ、ちょっとケイタ!」
「啓太様!?」
ようことなでしこが慌《あわ》てて後を追いかけた。どうやら彼の中でその時の体《たい》験《けん》はトラウマになっているらしい。
重い沈《ちん》黙《もく》を破るように、
「……そろそろお開きにしましょうか?」
せんだんが皆を振り返った。一同、重い吐《と》息《いき》と共にすぐ頷《うなず》いた。なんだかぐったり疲れていた。ただ何故《なぜ》か。
いまりとさよかだけがくすっと笑って互いにそっと目配せを交《か》わし合っていた。
カーテンの隙《すき》間《ま》から月光が時折、差し込んでくる。その目《め》眩《まい》を覚えるような明滅具合で雲の流れが異様に速いことが分かる。
ごうごうと音を立てて窓の外を風が吹《ふ》き抜けている。
ざわざわ。梢《こずえ》が鳴っていた。
「うう」
ショートカットの犬《いぬ》神《かみ》。たゆねは先ほどから寝返りを幾《いく》度《ど》も打っていた。さして蒸《む》し暑いわけではないのに寝汗をびっしりかいている。
そして。
「だ、ダメだ……」
室内用のシューズに足を突っ掛け、重たそうな寝台の上から降りた。意外に少女らしい花柄のカバーがついたドアノブを回し、薄《うす》暗《ぐら》い廊下に出る。
「い」
泣きそうな顔で一歩、一歩、前に進み出した。
重厚な石造りの床と壁《かべ》が圧迫感を持ってたゆねを包み込む。そこから忍び寄る冷気の様なものがたゆねの背筋を這《は》い昇った。
「いひ」
早い話が怖い怪《かい》談《だん》を聞いて夜、おトイレに行けなくなっていたのである。若手の犬神の中では間違いなく最強の存在である彼女。魑《ち》魅《み》魍《もう》魎《りょう》、妖《よう》怪《かい》変《へん》化《げ》の類《たぐい》なら大得意だが、人間の幽《ゆう》霊《れい》だけは何故《なぜ》かからっきしダメだった。
理屈ではなく、半《なか》ば生理的に恐怖を感じるという点で、ゴキブリなどを嫌う少女の反応にもよく似ている。
「うう、全く……怪談大会なんて余計なことを〜」
ぶちぶち半べそで文句を言いつつもなんとかトイレまで辿《たど》り着く。ところが。
「な、なんでえ!?」
思わず叫んでいた。どういう訳《わけ》かトイレのドアが開かないのだ。いくらやっても、押しても引いても扉《とびら》は開いてくれない。
「え? な、なんで? なんでさ?」
かちゃかちゃやってると、
「あれ?」
「な〜にやってるの、たゆね?」
いきなり背《はい》後《ご》から声をかけられた。たゆねは思わず飛《と》び退《の》いている。
「ひい!」
振り返って見れば双子の犬《いぬ》神《かみ》がそこに立っていた。
「あ、あんた、あんたたち」
声が震《ふる》えている。寝《ね》癖《ぐせ》がぼさぼさのいまりが半目で尋《たず》ねてきた。
「……なに? ドア、開かないの?」
「う、うん」
と、赤面しながら壁《かべ》から離《はな》れるたゆね。正直、今の衝《しょう》撃《げき》はかなり危なかった。
辛《かろ》うじてセーフ。
ちょっと下向きで確《たし》かめる。その間、
「あれ、ホントだ……参ったな〜、私たちもおトイレに起きて来たのに」
さよかがたゆねに代わってトイレのドアノブを捻《ひね》っている。だが、扉はやはりうんともすんとも言わなかった。
「あ〜」
と、いまりが寝ぼけた声を出した。
「思い出したあ。さっきここのおトイレ詰まったから使用禁止になってたんだ」
「え?」
「そ〜そ。外のトイレ使いなさいってリーダー言ってたっけ」
「き、聞いてないけど?」
「聞いてない? ま、いいじゃない。私たちも行くんだし、一《いっ》緒《しょ》にいこ、たゆね」
「そそ、お外のおトイレいこ、お外のおトイレ♪」
双子はたゆねの両手を左右からむんずと掴《つか》んだ。
「ちょ、ちょっと!?」
と、引っ張られていくたゆね。顔面が蒼《そう》白《はく》になっていた。
そこの屋外トイレは使う者もほとんどいない修道院時代からの遺《い》物《ぶつ》だった。鬱《うっ》蒼《そう》と茂《しげ》る林の隣《となり》にある。今にも何かが恨《うら》めしげに出てきそうな深く澱《よど》んだ木《こ》陰《かげ》だ。だが、そんなおどろおどろしいシチュエーションでもたゆねは、
「あのさ、たゆね。私たち我《が》慢《まん》できないから先で良いよね?」
双予の笑い混じりのその言葉に『イヤだ! ボク、怖いからさっさと先にしたい!』とは口が裂けても言えない。
誇り高く妹分たちに順番を譲《ゆず》り、自分は最後に飛び込むように入ってゆっくり用を足《た》した。
「はあ」
出てきた時は至福の溜《ため》息《いき》をついていた。近くの亀《かめ》の形をした苔《こけ》むした手水《ちょうず》で手を洗い、ふと気がついた。
「あ、あれ?」
先に出ていたいまりとさよかがどこにもいない。
「ちょ、ちょっとお!?」
どうやら一人置いて行かれたようだ。
「は、はくじょうもの〜」
夜風が妙に生《なま》ぬるい。三人だったから平気だった夜の暗《くら》闇《やみ》に身体《からだ》が勝手に萎《い》縮《しゅく》し、かたかたと歯の根が鳴り出す。
その時。
「……けて」
掠《かす》れた声が耳に飛び込んできた。たゆねは思わずびくんと身《み》震《ぶる》いしている。
「だ、だれ?」
「たす……けて」
また絶《た》え絶《だ》えとした恨めしげな声。
気のせいかそれは木々の暗がりの奥から聞こえてくるようだ。
「だ、だれ、そこにいるの! いまり!? さよか!? ふざけないで!」
その時、月光がさあっと差し込んできて浮かび上がる。
「たすけてええ〜〜〜〜!」
純白の修道服を着たシスター。こちらに向けてよろめき、歩み寄ってきた。
「ひ!」
たゆねが目を剥《む》き、息を呑《の》む。そこへ、
「た〜すけえてええ〜」
さらに今度は別の冷たく青白い手がたゆねの首に絡《から》まってくる。
「ひ」
「ねえ、たすけて?」
ぎしぎしと振り返るとそこにもいた。白い修道服のシスター。般《はん》若《にゃ》のように白い牙《きば》を覗《のぞ》かせた口元で、目が全くなかった。
全身の毛を逆《さか》立《だ》てていたたゆねが。
ぷつんと飽和した。
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×一! 『たゆね突《とつ》撃《げき》』」
薄《うす》く目を半開きにし、拳《こぶし》を握り込む。たゆねは後ろのシスターを背に乗せたまま、重心をゆっくり前に倒した。
「……れでぃ」
たゆねのオリジナル。全《ぜん》霊《れい》力《りょく》を身体《からだ》に溜《た》めて相手に向かって突貫する荒技である。普通の家くらいなら木《こ》っ端《ぱ》微《み》塵《じん》に砕《くだ》く破《は》壊《かい》力《りょく》がある。ただ、欠点は一度発進したらもう止まらない。たゆね自身でももうブレーキがかからないのだ。
「ごう!」
彼女の身体が霊気で青白く光り輝《かがや》く。次の瞬《しゅん》間《かん》、彼女は全力で走り出していた。
「な!? ちょ、ちょっと!」
前のシスターが慌《あわ》てて手を振っている。
「ま、まって! まって!」
大砲の弾が直進してきているようなものである。
「きゃあ! きゃあ! たゆね、すと〜〜ぷ、すと〜〜〜ぷ!」
後ろのシスターも懸《けん》命《めい》に止めようとしていた。しかし、
「うう〜〜〜〜〜!」
たゆねは真《ま》っ赤《か》な顔で涙目。全く周囲の状況が聞こえていなかった。
そして見るも無《む》惨《ざん》なクラッシュ。霊力の爆《ばく》発《はつ》が起こり、シスター二人をあっという間に空高く吹《ふ》き飛ばした。
「にゃああああ──────────────!」
「いやあああああああああああ─────────────!」
しかし、たゆねはまだまだ止まらない。
そのまま林に突っ込み、木々をなぎ倒し、だだだだっと削《さく》岩《がん》機《き》のような足の動きで地面を蹴《け》り続けた。
「んん──────!」
ひたすら駆《か》ける。
駆ける。
それは明るい光を投げかけるガラス張りの温室が見えたところでようやく終わりを迎えた。たゆねはそこで減速を開始。ブレーキをぎぎっと踵《かかと》でかけた。足を地面にずぶずぶめり込ませながら、ガラス戸のぎりぎり手前でようやく止まる。
最後にがっくんと大きく前によろめいて、
「はあ、怖かった……」
振り返り、額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》う。
「な、なんだったのかな、あれ?」
ぶるっと身《み》震《ぶる》いが込み上げてくる。だが、相手を吹き飛ばせたのと明るい場所にいるのとでたゆねの頭にも徐々に冷静さが戻ってきた。よくよく思い返せばシスター二人の顔がやたらと作り物のお面《めん》ぽかった。
「いまりとさよかの悪戯《いたずら》かな?」
たとえそうだとしても、やり過ぎたとは欠片《かけら》も思っていない。もしいまりとさよかだったらあんな程度じゃ生ぬるい。
もう一度、戻ってきっちりトドメを刺すまでだ。
「よ、よ〜し、確《たし》かめてやる!」
たゆねが急に勢いづいて腕まくりをしたその時。
「……う、うそ?」
今度こそ本当に彼女の動きが止まった。
そこに立っていた。
「うそお?」
今度は全く疑いようがなかった。どう見ても紛《まが》い物《もの》ではない、ホンモノの半透明な、青白いシスターがびっくりしたような顔で林の入り口の所に立ってこちらを見ていた。
まだあどけない顔。
銀色に輝《かがや》くロザリオ。それが輝く月の光の下、はっきりと見える。
「ひ」
たゆねはへたんと腰を落とした。
どろんと灰《はい》色《いろ》の尻尾《しっぽ》がお尻《しり》から力無く出る。
「ひ」
今まで散《さん》々《ざん》脅《おど》かされてきて、霊《れい》力《りょく》も極限に消耗する荒技を使って、立とうにも足腰が言うことを聞かない状《じょう》態《たい》だった。
「ひ」
半泣き、半笑いの表情でたゆねは顔を歪《ゆが》めている。そのシスターはふよふよと左右に揺《ゆ》らめき、困ったような顔で小首を傾《かし》げた。
『だいじょうぶ?』
そんな仕《し》草《ぐさ》だった。
すうっと地面を滑《すべ》って、近づいてくる。
『だいじょうぶ?』
「ひ〜」
たゆねは精一杯、イヤイヤをした。お願い。ボクに近づかないで。
そう拝んで、懇《こん》願《がん》しようとしたその途《と》端《たん》。
「!」
そのシスターの動きが出し抜けに止まった。今度は彼女が恐怖に目を見開く。そして。
『いやあああああ──────! 助けてええ────────!』
ひゅんと梢《こずえ》の向こうに飛んでいって、消えてしまった。たゆねが呆《あっ》気《け》にとられている。その理由がやがて分かった。からからっと背《はい》後《ご》のガラス戸が開かれ、素《す》っ裸《ぱだか》の川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》がひょっこり顔を出したのだ。
辛《かろ》うじて腰元には手ぬぐいを巻いている。
「な、なんだ、ありゃ? ゆうれい?」
それからようやくへたり込んでいるたゆねに気がついた。
「ん? どした? たゆね。なにやってるんだ?」
たゆねはひっと一度大きく声を上げた。急に安《あん》堵《ど》感《かん》が込み上げてきたのだろう。瞳《ひとみ》から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出す。
「うぐ……啓太さま、ひぐ!」
たゆねは『幽霊を追い払ってくれてありがとう』と言いたいのにしゃくり上げていて言葉がろくに出てこない。代わりに灰色の尻尾をぱたぱた振る。
「啓太さま、うぐ! ひぐ!」
林の中を激《げき》走《そう》したため、すらりと長い手足には沢《たく》山《さん》の擦《す》り傷がある。まるで誰《だれ》かに無《む》理《り》矢《や》理《り》押し倒されたかのよう。シャツは枝に引っかかって一部ほつれてる。まるで誰かに無理矢理引き裂かれたかのよう。
ぽろぽろと啓《けい》太《た》を見て泣いている。
裸の啓太を見て。
泣いている。
「啓太様、が……ひぐ!」
「お、おいおい。お前、そ〜いう恰《かっ》好《こう》でそ〜いう訳《わけ》の分からないこと言ってると」
「あらあらまあまあ、ケイタさん」
「ほ〜ら、な」
「他人《ひと》様《さま》の庭先で純真な乙女《おとめ》に狼《ろう》籍《ぜき》及ぶとは随《ずい》分《ぶん》と度胸がおありですね?」
こきこきと拳《こぶし》の骨を鳴らす音が背《はい》後《ご》でした。
「……この世で一番怖いモノが湧《わ》いて出てきちゃうだろう?」
真《ま》っ青《さお》に引き攣《つ》った笑顔《えがお》になって啓太が指を立てた。しかし、たゆねはただただしゃくり上げているばかり。他《ほか》の少女たちが息せき切って駆《か》け寄ってきた。
「な、なんだったんですか、今の音?」
「ちょっと、たゆね? だいじょ〜ぶ? どうしたの?」
「わ、啓太様!」
振り返るとにっこり笑顔のようこがそこにいる。
「なあ、ようこ。これが全部、誤解だって言ってお前、信じるか?」
「ううん」
くすっと笑ってようこが首を横に振った。
「だよなあ」
と、啓太も笑い返して次の瞬《しゅん》間《かん》。全力で叫んだ。
「たすけてくれええええええええええ────────────!」
一方、その頃《ころ》。
教会の尖《せん》塔《とう》の上に座っていた一人の少年が幽《ゆう》霊《れい》のシスターを慰《なぐさ》めていた。
「そ〜、それはびっくりしたね」
半透明な彼女の頭をよしよしと撫《な》でている。
「そういえばキミがいることはまだみんなにちゃんと話してなかったね。今度、きちんと紹介するから、ゴメンね」
しくしく泣いていた半透明なシスターがポッと頬《ほお》を赤らめた。
川《かわ》平《ひら》薫《かおる》が白い歯を見せ、にっこりと微笑《ほほえ》む。
「大丈夫。みんないい子ばかりだから」
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「ねえ、ケイタ、あそぼ〜」
「啓《けい》太《た》様、『猫じゃらしでポン』の最新作ですよ、思考ルーチンが強化されて前作までの欠点も改善されてるんです。面《おも》白《しろ》いですよ〜」
「こけえ〜」
「仏像がなくなっちゃいました、わ〜ん」
「ひょろひょろひょ〜ん」
「ぐぬぬ」
「ほ〜ら、なでしこの日記を勝手に持ってきたの。面白いよう。『今日、薫《かおる》様がソファでうたた寝をされていたので、起こして差し上げました。「なでしこ、君の夢を見ていたよ」だって。もうおねぼうさん♪ クラッカーとミカン。お正月は少し太ったかも』……ぷぷ」
「啓太様、遊びましょうよう」
「こけえ〜」
「一《いっ》緒《しょ》に探してください〜(袖《そで》引き引き)」
「ひょろひょろひょ〜ん」
「ぐうう」
「ケイタ!」
「啓太様!」
「啓太さあ〜ん」
「こけえ〜」
「ひょろひょろひょ〜ん」
「やっかましいいいいいいいいい────────────!」
啓太の怒《ど》声《せい》が轟《とどろ》き渡ったのはまさにその時だった。
部屋は一《いっ》瞬《しゅん》で静まり返った。その場にいた者は皆、ぽかんと彼を見ている。啓太はぼさぼさになった髪を手でがりがり掻《か》きながら、苦虫《にがむし》を噛《か》みつぶしたように、
「おま〜らな、俺《おれ》がなにやってるのか見て分からんのか?」
「なにやってるの?」
ようこが代表して尋《たず》ねる。犬《いぬ》神《かみ》のともはねと猫《ねこ》又《また》の留《とめ》吉《きち》も辺《あた》りを見回してみた。卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の上に教科書や問題集が山と積《つ》まれ、英語の辞書には付《ふ》箋《せん》がついている。大きめのマグカップと冷えかかったコーヒーの残《ざん》滓《し》。
ノートの周りには鉛筆とマーカーが散乱していた。
啓太自身は短パンにTシャツ姿で、額《ひたい》に鉢《はち》巻《ま》きを巻いていた。目の下にクマがあり、かなり憔《しょう》悴《すい》し切ってるようだ。
「べんきょ〜だよ、べんきょう!」
信じられないといった表情で、
「明日《あした》な、俺《おれ》、テストなの! だから、勉強しないとイケナイの! って、わざわざ説明するほどのことか、それ!? 見りゃ分かんだろ!」
順番に鉛筆を突きつけていく。
「ようこ!」
彼女はホットパンツに黒いタンクトップという露《ろ》出《しゅつ》の激《はげ》しいスタイルだった。長い足を見せびらかすようにして胡座《あぐら》を組んでいる。
不服そうにそっぽを向き、頬《ほお》を膨《ふく》らませた。
「だってえ〜、ここ一週間ずっ〜とケイタ相手してくれないんだもん。いつもだったらてすとくらいケイタ、ちゃちゃっとやっちゃうのにい」
「今回は出席日数がやばいんだよ。俺はなあ、いちお〜、三年で高校出て、獣《じゅう》医《い》大《だい》受けたいの。な? 分かってくれよ、ようこ」
「う〜」
ようこは額《ひたい》を啓《けい》太《た》の肩に擦《こす》りつける。
「意地悪」
啓太はようこの頭をぐしぐし撫《な》でた。
「はいはい。次、ともはね!」
今度は小さな犬《いぬ》神《かみ》に向き直る。彼女は水色のシャツにキュロットスカートを穿《は》いていた。
「お前の相手をしてあげたいがお兄さん、残念ながら大変、忙《いそが》しい。そこでだ。ここにいるようこと二人で遊びなさい、二人で!」
ようことともはねはそう勧められ、今、初めて互いに知り合ったとでも言うようにきょとんと互いを見つめ合っていた。
その間、啓太は猫《ねこ》又《また》の留《とめ》吉《きち》に視《し》線《せん》をやる。
「で、猫! お前はなんなんだ一体、藪《やぶ》から棒《ぼう》に?」
彼は二本足で立って涙目になっていた。
最初からいるようこ。二時間ほど前からやって来てずっと啓太の背中に自分の背を預けてマンガ雑誌を読んでいたともはねと異なり、たった今、飛び込んできたばかりである。
「え〜ん、仏像がなくなっちゃったんです」
彼が涙目で訴えかけている最中、木彫りのニワトリがばたばた羽ばたいていた。何かをせがんでいるようにも見える。
啓太は溜《ため》息《いき》をつき、
「なくなった?」
聞けば目星をつけていた骨《こっ》董《とう》屋《や》に泥《どろ》棒《ぼう》が入り、留吉が買おうとしていた仏像まで盗まれてしまったらしい。
「一《いっ》緒《しょ》に探してください〜」
留《とめ》吉《きち》が前足で膝《ひざ》辺《あた》りにすがりついてきた。啓《けい》太《た》は「こけ〜こけ〜」と鳴いている木彫りの二ワトリを天《てん》井《じょう》に吊《つる》した竹《たけ》篭《かご》に入れてやりながら答えた。
「俺《おれ》はな、別に警《けい》察《さつ》とかなんでも屋じゃねえの」
と、言いつつも啓太はともはねとようこに向き直る。
「よし、お前ら、遊ぶのは中止。留吉に協力してやれ。ともはね。お前の探知の術なら仏像もすぐに見つけられるだろう? ようこ。隠《かく》れ場所見つけたらお前が泥《どろ》棒《ぼう》捕まえろ。警察に必ず引き渡すこと。いいな?」
ようことともはねは少し考え込んで、
「りょ〜かい。そういうのもなんか面《おも》白《しろ》そうだね」
「わっかりました。ま〜かせてください!」
と、すぐに快《かい》諾《だく》した。
「さ、猫さん。行こう♪」
ともはねが留吉の前足を握って歩き出す。
「うう、恩にきますう」
留吉はもう片方の前足で顔を擦《こす》りながら、感《かん》涙《るい》していた。ようこはにこやかに手を振り、
「じゃあ、ちょっと行ってくるからね〜、ケイタ」
満足そうに木彫りのニワトリも篭《かご》の中で目を閉じる。
やがて部屋はがらんと静かになった。
「ふ〜」
啓太は手の甲で額《ひたい》を拭《ぬぐ》う。
一気にどっと疲れた。考えてみたらここ一週間、ずっとこういった感じで忙《いそが》しかった。気を張り詰めて勉強に勤《いそ》しんでいたし、その合間合間にようこやらはけやらオタクの先《せん》輩《ぱい》やらご町内のヘンタイやらが持ち込んでくるトラブルの解決に追われていたのだ。
彼は強《こわ》張《ば》った肩をぐるぐると回し、気合いを入れ直した。
「さ、あともう一|踏《ふ》ん張り、だ」
すると……。
「お、おりょ?」
目の前が霞《かす》んでくる。
はっと気がついた瞬《しゅん》間《かん》、意《い》識《しき》の空白が出来ていた。珍《めずら》しいことに啓太はお尻《しり》からすとんと座布団の上に腰を落としていた。
「は、はれ?」
よっこいしょ、と立ち上がろうとしたがままならない。まるで自分の身体《からだ》が鉛《なまり》になったかのように動きづらく、目の前がみるみる暗くなっていった。そこで啓《けい》太《た》はその黒みがかった視界の隅に異様なモノを捉《とら》えた。
そう言えば。
と、彼は薄《うす》れゆく意《い》識《しき》の中で思っていた。ようこ、ともはね、留《とめ》吉《きち》、ニワトリ以外に奇妙な声を上げていたヤツが一人いた様な気がする。
家の中全体に違和感があった様な。
それは全くいつの間にか立ち現れていた。
青白い、透明な気体の様な外見でほとんど存在感というものがない。中央に痩《や》せた男の顔の様なものだけがぼんやりと天《てん》井《じょう》の隅に浮かんでいた。まるで霧《きり》の中にこの世の陰気の全《すべ》てが体現したような印象だった。
それが夢かうつつか分からないまま、
「ひょろひょろひょ〜〜〜〜ん」
と、声を上げたところで啓太はばったりと前に倒れ、意識を失った。
「で、発見した時は既《すで》にこの状《じょう》態《たい》だったんですね?」
なでしこが重々しい声で尋《たず》ねた。
「うん」
ようこが心配そうに小首を傾《かし》げた。
「ケイタ、一体、どうしちゃったのかなあ?」
ともはねは啓太の額《ひたい》にあてがっていた冷たいタオルを取り替えている。あれから数時間|経《た》った夜半のことだった。意外に簡《かん》単《たん》に仏像|泥《どろ》棒《ぼう》を捕らえ、小さめの観《かん》音《のん》様《さま》を大事そうに抱えた留吉も従えて、ようことともはねが帰ってきたら啓太が卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の前で倒れていたのだ。
慌《あわ》てて駆《か》け寄ると彼は、
「お〜、帰ったかあ」
と、だけ言った。ぼんやりと天井を見上げ、呆《ほう》けたような笑《え》みをにへろ〜と顔に浮かべている。靴《くつ》下《した》が半分脱げかけた片足をだらしなく卓袱台の上に乗っけて、片手をシャツの下に入れてぽりぽりと腹を掻《か》いていた。
「ど、どうしたの?」
と、ようこが聞けば、
「だりい〜」
と、それしか言わない。あるいは、
「つかれたあ〜」
とか。
以後、ずっとその調《ちょう》子《し》でにへろ〜と笑って、虚脱し切ったように身動き一つしない。そこへ晩御飯のおかずをお裾《すそ》分《わ》けしになでしこがやって来たという次第なのである。
「啓《けい》太《た》様、あ〜んして頂けますか?」
なでしこが彼の枕《まくら》元《もと》に座って優《やさ》しく尋《たず》ねた。しかし、啓太は無反応である。「めんどくせ〜」とだけ答えて、ごろんと寝返りを一つ打つ。しびれを切らしたようこが無《む》理《り》矢《や》理《り》啓太の顎《あご》の蝶《ちょう》番《つがい》をこじ開けた。
「ひてててて〜」
と、啓太がスローテンポで抗《こう》議《ぎ》している。なでしこはその間、彼の喉《のど》を覗《のぞ》き込んだ。
「う〜ん。病気……でも、ないみたいですよ、ようこさん。これはもしかしたらひょっとしたらひょっとしてちょっと困った事《じ》態《たい》になっちゃっているかもしれません」
「ケイタ、どうしちゃったの?」
と、不安そうに尋ねるようこ。なでしこが頷《うなず》いた。
「ヒダル神に取《と》り憑《つ》かれてる可能性があるんです」
「ひだるがみ〜?」
ようこはぐで〜と伸びている啓太をちらっと見やった。
「って、なにそれ?」
「ヒダル神というのは元々、山にいて、旅人とか樵《きこり》に取り憑いてその生気を吸い取っていた妖《よう》怪《かい》なんです。
別名、行《いき》合《あい》神《がみ》とも呼ばれています。割と人《じん》口《こう》に膾《かい》炙《しゃ》した存在で、昔の人はヒダル神に備えて、必ず携行食を行程の最後まで少し残していました」
「ふ〜ん」
「ところが近年、山林などの開発が進むにつれてこのヒダル神も居場所を失い、都市への適応を余《よ》儀《ぎ》なくされたのです。これが都市型ヒダル神と呼ばれる存在です」
「詳しいね」
と、感心したようにようこが言った。なでしこはちょっと頬《ほお》を赤らめた。
「この前行った『天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医局』で教えて貰《もら》ったんです……人間が鬱《うつ》病《びょう》とか燃《も》え尽き症候群とか呼んでいる症状の一部にもこの都市型ヒダル神が関係しているそうですよ? でも」
なでしこが人指し指を唇《くちびる》に当て考え込む。
「啓《けい》太《た》さまの場合、いまいち確《かく》証《しょう》が……」
すぐに何か覚悟を決めたように頷《うなず》いた。
「えい!」
イキナリぱちりと平手で啓太の頬を叩《たた》く。
「ひ、ひた」
と、啓太が弱々しく抗《こう》議《ぎ》した。
「ひたいひょ? なでしこちゃん」
「ごめんなさい。もう一回えい!」
ぴしゃっとまた平手で叩く。
ようこもともはねも留《とめ》吉《きち》もびっくりしている。
「ちょ、ちょっとなでしこ、いきなりどうしたの?」
ようこがさすがに止めに入った。留吉がひそひそ隣《となり》のともはねに、
「あの方、どうしたのでしょう?」
「さあ? あたしもよく分からないけど、もしかして日《ひ》頃《ごろ》のセクハラが腹に据《す》えかねてこれを機《き》会《かい》とばかりに」
「違います!」
なでしこが赤面してきっぱり遮《さえぎ》った。啓太の方を指差す。
「ほら!」
瞬《しゅん》間《かん》的に変化が起こった。
「ひょろひょろひょ〜〜〜〜ん」
啓太の目が見開かれ、口から奇《き》怪《かい》な声が漏《も》れたのだ。それは歓喜しているように聞こえた。同時に啓太の身体《からだ》がさざ波のように震《ふる》える。それが終わると彼の身体からまたがっくりと力が抜けた。気のせいか先ほどよりも精気がなくなったようだ。
「どうやら間違いないようですね」
なでしこが重々しく頷《うなず》いた。
「ど、どういうこと?」
ようこが瞳《ひとみ》をぱちくりさせて問う。なでしこが彼女の目をしっかり見て、
「啓《けい》太《た》様の身体《からだ》の中にはヒダル神が巣くっているということです。ヒダル神は人にストレスや疲労がかかる度にそれを喰《た》べる習性があるんです」
こほんと咳《せき》払《ばら》いしてから、
「癒《いや》すことです!」
なでしこが決然と宣言した。
「え?」
と、怪《け》訝《げん》そうにする一同へ向かって、
「癒すことでしか、ヒダル神を追い払うことは出来ません。皆さん? いいですか? 啓太様を心の底から癒してあげるんです!」
そう告《つ》げた。
一番最初に戻ってきたのは猫《ねこ》又《また》の留《とめ》吉《きち》だった。各自啓太を癒す方法を捜《さが》しに散開してからしばらく経《た》ってのことである。
「すみません、どなたかいませんか?」
しかし、返事はなく、天《てん》井《じょう》で木彫りのニワトリがコケコケ鳴いているばかりである。留吉は一度、そちらへ視《し》線《せん》を向けてから、ちょこちょこベッドの上によじ登ってそこにぐったり横たわっている啓太を見下ろした。
「啓太さん?」
ぺちぺちと肉《にく》球《きゅう》で彼の額《ひたい》を叩《たた》く。
だが、啓太はぼんやりと天井を見ているばかりだ。心なしか先ほどより症状が進んでいる。留吉は哀《かな》しそうな表情になった。柄《がら》が悪く、煩《ぼん》悩《のう》過剰気味だが、面《めん》倒《どう》見《み》のよいところもある少年が猫は好きだった。
こんな元気のない状《じょう》態《たい》は正直、見ていて辛《つら》い。
「待っていてください」
いそいそと懐《ふところ》から小さな巾《きん》着《ちゃく》袋《ぶくろ》を取り出した。
「この粉なら」
中から緑《みどり》色《いろ》の粉を器用に摘《つま》んで、
「この粉ならきっと啓太さんも元気になるはずです!」
「あん?」
ようやく啓太がのろのろと留吉の方へ首を巡《めぐ》らす。
「……なんじゃ、それ?」
留《とめ》吉《きち》が嬉《うれ》しそうに答えた。
「えっと、これはですね、僕らが遠い所へ行く時とかに使う気付け薬《ぐすり》なんです。これを嗅《か》げばもうストレスや疲れなんて一発です!」
「……まさか」
「あろまてらぴーっていうのが人間の方々の間で流行《はや》ってるようですね。あれと一《いっ》緒《しょ》ですよ。疲れた時は気持ちの良い匂《にお》いを嗅ぐのが一番です。さ」
それをそっと啓《けい》太《た》の鼻先に突きつけた。
「ふひ」
「すう〜と深く息を吸い込んでください。心持ち鼻の奥を意《い》識《しき》して」
啓太の鼻に皺《しわ》が寄る。
ついで瞳《ひとみ》も中央に寄った。
猫が期待を込めて顔を寄せた。
「ど、どうですか?」
「ふひ」
そして次の瞬《しゅん》間《かん》、
「ふひ───────くしょん!」
啓太が思いっ切りクシャミを放った。
たまらずベッドから転げ落ちる留吉。その拍子に前足で握っていた巾《きん》着《ちゃく》袋《ぶくろ》の中から緑《みどり》色《いろ》の粉が辺《あた》りに飛び出し、留吉はそれをもろに浴びてしまう……。
「あれ? 猫さん、どうしたんですか?」
次に部屋に現れたともはねが不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに尋《たず》ねた。猫《ねこ》又《また》の留吉は床の上で丸くなってごろごろ喉《のど》を鳴らしていた。とろんと瞳がとろけ、身体《からだ》が完全に弛《し》緩《かん》している。その周りには緑色の抹《まっ》茶《ちゃ》の粉末のようなものが散らばっていて、
「にや〜ん」
猫又は仰《あお》向《む》けにひっくり返って、前足を伸ばし、陶《とう》酔《すい》し始めた。その姿には理性というモノが欠片《かけら》もない。
全くただのそこらの野《の》良《ら》猫《ねこ》だった。
「またたび……」
啓太がぽつりと呟《つぶや》いた。
「え?」
と、再びともはねが問い返したが、
「……」
啓《けい》太《た》は溜《ため》息《いき》をつくのみである。小首を傾《かし》げるともはね。だがそれ以上は追及しなかった。嬉《うれ》しそうに、
「啓太様、あたしはスタミナドリンクを持って来ました♪」
背《せ》負《お》っていたクマさんのデイパックを降ろすと、中から黄《き》色《いろ》い液体の入ったガラス製の瓶《びん》を取り出した。
「えへへ〜、自信作ですよ?」
啓太がぎくっとした顔になった。
「お、おまえの自信作?」
「はい、あ〜んしてください♪」
ともはねがベッドの上によじ登ってその瓶の蓋《ふた》をきゅぽんと開けた。
「朝《ちょう》鮮《せん》人《にん》参《じん》の絞り立てフレッシュジュースをベースに……えっと、その他《ほか》色々を集めて煮詰めちゃいました♪ 疲れた時は栄養のあるモノを摂《と》るのが一番!」
「そ、その他って」
啓太の目に明らかな恐怖の色が浮かぶ。生体|実《じっ》験《けん》に際してモルモットが見せるような怯《おび》えの表情である。
ともはねはくすくす笑いながら、
「はい、啓太様。早く元気になってくださいねえ〜」
啓太の口をこじ開けにかかった。
「ひゃ、ひゃめ」
怠《だる》さより命の危険が凌《りょう》駕《が》して啓太が後ずさりするように動く。逃げようとした拍子に瓶の中の液体が枕《まくら》に少しこぼれてしまった。
じゅっと音がしてそこに焼けこげが出来た。
焼けこげである。
「……」
「……」
啓太もともはねも黙《だま》ってそちらを見ている。
そして。
「さ、あ〜ん♪」
再び何事もなかったかのようにともはねが瓶を片手に啓太へ迫った。
「ひゃめれえええええ────────!」
と、啓太が叫ぶ。
その瞬《しゅん》間《かん》。
「お待たせ♪」
というようこの声と共に大量のお湯が天《てん》井《じょう》から落下してきた。
どどどと滝の様な音を立てて豊富な、硫《い》黄《おう》の匂《にお》いをぷんぷん撒《ま》き散らす温泉が部屋に注《そそ》ぎ込まれる。
「な?!」
と、啓《けい》太《た》が手を掻《か》いた。
「なんじゃあ〜〜〜?」
叫びかけたが、お湯の中にとぷんと沈む。
「にゃあ〜」
「こけえ〜」
猫とニワトリが悲鳴を上げた。渦《うず》が巻き、ともはねも家具と一《いっ》緒《しょ》に流される。
「いっやああああ────────!」
あっという問の大洪水である。ノートや湯飲みやカレンダーがぐるぐると回り、大きく壁《かべ》に当たったお湯の飛《ひ》沫《まつ》がたぷんと弾《はじ》け飛ぶ。熱《ねっ》気《き》と湯気が逆《さか》巻《ま》く熱湯の渦の中、辛《かろ》うじて人の手や猫の前足が覗《のぞ》いている。
皆、溺《おぼ》れまいと必死だ。
あっぷあっぷともがいている。
そこへ天《てん》井《じょう》近くにようこが出現して、
「あのね、ニンゲンが疲れた時はなにより温泉が一番なんでしょ? だから、わざわざ温泉地からしゅくちして持ってきたの!」
と、得意そうに叫んでいる。
「えへへ〜。凄《すご》いでしょう? ケイタ、気持ちいい?」
しかし。
「あ、あれ?」
その当人は、
「あ、あほ……」
最後にそう呟《つぶや》いて力尽きたようにお湯の底へ沈んでいってしまった.
ようこ、しばし無言。
一面丸ごと温泉と化した部屋を見回し、
「……ちょっと、量が多すぎたかな?」
てへっと赤い舌を出した。
啓《けい》太《た》は大量のお湯を飲み、床へと沈んでいく。死が目前に迫っていた。
遠のく意《い》識《しき》の中で、
「なにやってるんです、一体!?」
というなでしこの叱《しか》る声を聞いたような気がしていた。
再び目覚めた時、辺《あた》りには淡い光が満ちていた。
一《いっ》瞬《しゅん》、死後の世界へ来たのかと思った。
「あ、起きましたね」
そんな柔らかい声が聞こえてきた。啓太はそちらへ首を向けた。気がつけば彼は白い清《せい》潔《けつ》な寝《ね》間《ま》着《き》に着せかえられていた。部屋の中にはラベンダーの香《かお》りが漂《ただよ》っている。微《かす》かに聞こえるのは音量を絞ったクラシック音楽である。
足《あし》下《もと》で猫が丸くなってごろごろ寝ていた。
「さ、啓太様」
そして優《やさ》しく抱き起こされた。
見れば隣《となり》にメイド服を着たなでしこが寄《よ》り添《そ》っていた。
仄《ほの》かなラベンダーの匂《にお》いはその襟《えり》元《もと》からも立ち上っていた。
「まずこれを飲んで下さいね」
部屋の中が磨《みが》き清められている。恐らくなでしこがお湯を捨てた後、徹《てっ》底《てい》的《てき》に掃《は》き掃除と拭《ふ》き掃除を施《ほどこ》したのだろう。その背《はい》後《ご》でようことともはねも同じ濃《のう》紺《こん》のメイド服を着て、神妙に畏《かしこ》まっていた。
口元に運ばれたのは、とろみを帯《お》びたピンク色の液体である。
「あま」
こくっと一口、口に含んでから啓《けい》太《た》が呟《つぶや》いた。
「いまりとさよかが栽培した特別な桃《もも》のジュースです」
なでしこが微笑《ほほえ》む。
身体《からだ》中《じゅう》に糖《とう》分《ぶん》が染《し》み込んでいくような、細胞が活性化されていくようなそんな気がふとした。啓太は最後まで飲《の》み干《ほ》して、ふうっと一息ついた。
「美味《おい》しかったですか?」
啓太がこくりと子供のように頷《うなず》く。
「おいしかった」
「では、最後はわたしの番です」
なでしこはそして啓太を横たわらせた。
「精魂込めて癒《いや》させて頂きますね♪」
にっこり笑顔《えがお》を浮かべる。
よっこいしょと声をかけ、背中になでしこが乗ってきた。
「お、おう?」
啓太は目をぱちくりさせる。
「はい、力を抜いてください」
そう言って手の平で啓太の肩《けん》胛《こう》骨《こつ》辺《あた》りをゆっくり円を描くように撫《な》で回した。ちなみに今のなでしこはメイド姿だからスカートが捲《まく》れて、かなり際《きわ》どくタイツに包まれた太《ふと》股《もも》が露《ろ》出《しゅつ》してしまっている状《じょう》態《たい》である。
が、啓太には見えない。
彼女は一《いっ》瞬《しゅん》だけぐっと力を込めた。
「う!」
啓太が呻《うめ》く。
ぱきんと頸《けい》椎《つい》の辺りが鳴った。
「……あ、痛かったですか?」
と、なでしこ。
「にゃ」
啓太は驚《きょう》愕《がく》し切ったように目を見開いて、ぷるぷる首を横に振ってる。
「いたくないけど、少しビリってした……それって?」
「はい。マッサージを少々、施《ほどこ》させて頂きますね」
なでしこが微笑《ほほえ》んだ。
「まっさあ〜〜じい〜?」
「はい。わたし、かなり昔に中国の方から習ったんです。安心してください。きちんと正式なお免状も頂いてますから」
なでしこはそう言いながらまず啓《けい》太《た》の身体《からだ》を全体的に手の平で触った。それで大体の感触を確《たし》かめたのだろう。
足の方に降りていって啓太の土《つち》踏《ふ》まずを軽く叩《たた》いた。次に足の親指から小指までを摘《つま》み、ぶらぶら振った。股《こ》関《かん》節《せつ》の辺《あた》りまでじ〜んと響《ひび》いていく。ぐっぐっと親指でふくらはぎを押し始めた。
気持ちの良い刺《し》激《げき》。
むずむずするような軽い痛み。
「強さはどうですか?」
なでしこが尋《たず》ねた。
「痛くないですか?」
啓太は黙《だま》って首を横に振った。
それが太《ふと》股《もも》を通って臀《でん》部《ぶ》へと辿《たど》り着く。鮮《あざ》やかな動きだった。軽く触れているようでありながらツボはきちんと外さない。彼女の白《しら》魚《うお》のような手がリズミカルに動いていた。はふうと啓太が溜《ため》息《いき》をついた。
お尻《しり》を手の平で押し上げて下半身全体の筋肉バランスを整えてから、なでしこは背骨の脇《わき》を上下するように押し始めた。
ぐいぐいこするように擦《す》り上げた。
「あ、あう」
啓太が呻《うめ》く。
頬《ほお》に少し血の気が戻ってきている。
まるで背中の凝《こ》り自体をなでしこの指が摘んで横に放り捨てているかのようだった。悪い血が駆《く》逐《ちく》され、新《しん》鮮《せん》な血液が巡《めぐ》り、張り詰めた神経がほぐれていくのが分かった。ぎゅ〜と押され、ぎゅ〜と引かれる度に明らかに身体が軽くなっていった。
ようことともはねが興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに左右から覗《のぞ》き込んでいた。
「よいしょ」
肩から腕を揉《も》みほぐす頃《ころ》になると、啓太の目がうっとり細くなった。
マッサージもこの世の極楽だが、腰元に乗っているなでしこの程良い大きさ重さのお尻も心地《ここち》良かった。足にくっつけている柔らかな内股の感触と体温もサイコーだった。ただし、啓太にしては珍《めずら》しくイヤらしい意味ではない。
単に接触すること自体がたまらない安《あん》堵《ど》感《かん》を引き出すのだ。
「は、はあう」
と、堪《こら》え切れず声を上げる啓《けい》太《た》。
その瞬《しゅん》間《かん》、ようこがわずかにムッとした表情になった。彼女が何か文句を言おうとした時、ともはねがくいくいと指差した。
「あ」
見ると啓太の身体《からだ》から二重|露《ろ》光《こう》のようにぼんやりと青白い靄《もや》のようなモノが滲《にじ》んでいた。それが抵抗するかの様に啓太の身体から離《はな》れかけ、また身体の中に戻る。
「ひょろひょろ」
なでしこが揉《も》む度、必死で啓太にしがみついていた。対照的に啓太はかなりリラックスした表情になってきている。もう一息だ。
なでしこの額《ひたい》に汗が浮かんだ。
首筋から頭のツボをぐっぐっと押して、こめかみから目の周りをなで上げた。耳たぶまでほぐしておいて、ぽんぽんと丸めた手で頭を叩いた。
そこでいったん動きを全《すべ》て止める。
「あ、ありがと、なでしこちゃん」
啓太が長い間|潜《せん》水《すい》していたような感じで溜《た》めていた息をゆっくり吐き出した。
ぐったりその場に横たわり、心地《ここち》良さそうに、
「すげえ、さっぱりしたあ……」
満足そうに頬《ほお》を弛《し》緩《かん》させた。ところが、
「いえ、まだです。今のはざっとお身体をほぐした程度なんです」
なでしこがちょっと気の毒そうにそう微笑《ほほえ》んだ。
「本当の整体はこれからで」
「え? 整体?」
啓太がきょとんと背《はい》後《ご》を振り返ろうとしたまさにその時。
なでしこがふっと息吹《いぶき》を吐いて、影《かげ》のように動いた。重心の移動を巧みに利用して下へ潜《もぐ》り込んだ。啓太の首に手を当て、足首を持ち、ぐるんと回転させながら自分の膝《ひざ》に啓太の背中を乗っけた。
「え?」
啓太が疑問符だらけの顔になったその瞬間。
大きく逸《そ》らした。
プロレス技で言うところの『ボウ&アロー』である。かけ声と共に力が入った。
「にげえええええええ──────!」
啓《けい》太《た》の口から悲鳴が上がる。
「え〜〜〜〜〜〜い!」
さらになでしこが一《いっ》喝《かつ》!
その瞬《しゅん》間《かん》、バキボキボキっと啓太の背中が盛大な音を鳴らした。
「は、はぎ、はぎ……」
目を白黒させ、涙を浮かべた啓太の襟《えり》首《くび》を持って、
「まだまだ〜!」
足と腕を同時に絡《から》めた。
いわゆる『コブラツイスト』である。
豊かな胸が啓太の上半身にべったり密着し、はしたなくもスカートの中身が全開ではだけている状《じょう》態《たい》となった。だが、なでしこは額《ひたい》に汗を浮かべて真剣|極《きわ》まりないし、啓太はそんなことに注意する余力もない。絶叫を上げる。
「ぎょええええええええ────────!」
「えい!」
なでしこが再び気合いを入れた。
メキベキベキっと小枝がたて続けにへし折れるような音がした。身体《からだ》中《じゅう》の関節が悲鳴を上げたような印象。
不自然な体勢でがくっと啓太がベッドの上に崩《くず》れ落ちた。
「なでしこ……やっぱり啓太様のこと」
と、ともはねが殺人者でも見るような目つきになる。
「ち、違うの。これはこういった流《りゅう》儀《ぎ》なんです! 大丈夫ですか、啓太様?」
なでしこが赤面して今度は打って変わって優《やさ》しく啓太を支え起こした。痛いと言うより理解が及ばないという顔をしていた啓太の表情がいきなり大きな驚《おどろ》きに満ちた。
「あ!」
自分の首筋を確《たし》かめ、腰元に手をやり声を上げた。
「治ってる! 怠《だる》かったの、すっかり治ってるよ!」
ぴょんぴょんとその場で飛んで見せた。
「すっげえええ〜〜〜〜!」
最上級の感嘆の声。
「身体が滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》軽くなって、疲れもすっかり取れたよ!」
なでしこがにっこり微笑《ほほえ》んでスカートの裾《すそ》を摘《つま》むお辞《じ》儀《ぎ》をしてみせた。
「お役に立てたようでなによりです」
確かに啓太は圧倒的に顔色が良くなっていた。あれだけ灰《はい》色《いろ》だった表情がバラ色に変化し、鬱《うっ》屈《くつ》としていた笑《え》みが、いつもの過剰なまでに元気そうなものに変わっている。
同時に、
「ひょろひょろひょ〜〜〜〜〜ん!」
世にも情《なさ》けない声がしてふわっと啓《けい》太《た》の身体《からだ》から青白い靄《もや》が抜け出ていった。それは蒸発するように天《てん》井《じょう》に吸い込まれ、
「ひょろ〜ん」
悔《くや》しそうに最後にそう呟《つぶや》いて消えた。
「な、なんだ、あれ?」
と、ぽかんとしている啓太。ようこ、なでしこ、ともはねがにっこり顔を見合わせ、ぱんとそれぞれ手を叩《たた》き合わせた。
その夜。ようこはふわふわと宙に浮きながらぐ〜ぐ〜高イビキをかいて寝ている啓太を見下ろしていた。
実に面《おも》白《しろ》くなさそうな顔だった。
あれからすっかり元気になった啓太と皆は夕食を摂《と》った。
啓太が元気になるようなスタミナ食だ。ともはねは嬉《うれ》しそうにもぐもぐご飯を食べ、マタタビの酔いから覚めた留《とめ》吉《きち》も恐《きょう》縮《しゅく》するように特製ネコマンマを頂いている。だが、ようこはその間中ずっと不《ふ》愉《ゆ》快《かい》だった。
何故《なぜ》なら啓太がなでしこばかりをずっと誉《ほ》めていたからだ。
曰《いわ》く、
「君はホント最高の犬《いぬ》神《かみ》! 究極の大和《やまと》撫子《なでしこ》! 癒《いや》しの女王様の称号はまさになでしこちゃんのためにあるよ!」
その他《た》色々。煩《うるさ》いことこの上なかった。おまけになでしこも恥《は》じらいつつも、ちょっと嬉しそうで啓太に多めにご飯をよそっていたりしていた。
これは全くようこの僻《ひが》み目なのだが、そう思えた。
なんでもなでしこはマッサージの他《ほか》に料理や裁《さい》縫《ほう》や測量技術に天体|観《かん》測《そく》の方法まで専門家から習ったことがあるらしい。
「ちょっと人より長く生きているだけですよ」
そう謙《けん》遜《そん》したのが気にくわなかった。
自分だって大体、同じ年くらいなのに。
「なでしこばっかり、誉めてさ。なによ〜」
ようこはするするとベッドの上に降り立ち、盛大に手足を投げ出して寝ている啓太の襟《えり》首《くび》をぐつと掴《つか》んだ。
「わたしだってあれくらい出来るもん」
最近はお掃除だって、お料理だってちゃんと出来るようになった。ならば、啓太を気持ち良くする役目だって絶対自分のものなのだ!
なでしこからは、
「整体を伴うマッサージはきちんと勉強をしないととても危険なものなのです」
と言われていたが、ちょっとやるくらいなら別に問題はないだろう。
啓《けい》太《た》はこれで結構、頑《がん》丈《じょう》だし……。
「えっと、確《たし》か」
彼をモノのようにベッドの上で転がした。啓太はむにゃむにゃ言いながら俯《うつぶ》せになる。ようこはよいしょと彼を跨《また》ぐと腰元に乗り、
「こうだったかな……」
足をマットに踏ん張ってから思いっ切り、
「えい!」
首を引っ張って、あり得ない方向に引き裂いた。
「ぎ」
心地《ここち》良く安眠していた啓太の目が暗《くら》闇《やみ》の中、大きく開く。
「ぎゃああああああああああああ────────────────!」
真夜中のアパートに奇《く》しくも絶叫が轟《とどろ》き渡った。
ちなみにようこが施《ほどこ》した技はプロレス技でも一、二を争う危険度の高い技。
『キャメルクラッチ』というものだった。
翌日、啓太はそれでも期末テストに臨《のぞ》んだ。
赤点ぎりぎりながらもなんとかクリアしたのは幸運だったかもしれない。
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北大西洋の海を行く豪《ごう》華《か》な客船。
一人の令《れい》嬢《じょう》が失恋を苦に、甲《かん》板《ぱん》から飛び降りる。青く、暗い海の底へ沈んでいく。気の遠くなるような冷たい水の質量。やがて訪れる漆《しっ》黒《こく》の闇《やみ》。深海の底から浮かび上がってくる異《い》形《ぎょう》の気《け》配《はい》。少女はそうしてにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
またあるいは。
土石流が山の麓《ふもと》の平和な村を襲《おそ》い、次々に人々を埋め尽くしていく。マグカップを片手に無言で蒸《じょう》発《はつ》する老人。亡《な》くなった母の幻《まぼろし》を空に見ながら消えていく羊飼いの少年。
戦場で。
災害の現場で。
次々と人が死んでいく。深い安らぎを持って巨大な死へと飲み込まれていく。薄《うす》明《あか》るい諦《てい》念《ねん》と共に生への執《しゅう》着《ちゃく》を断って、砂のように無に帰っていく。
それはそんな歌だった……。
少女が謳《うた》っていたのはそういう歌だった。
銀糸が震《ふる》えるようなか細い声ではあるものの音程はしっかりしている。歌詞は異様なものの曲としての完成度はひどく高かった。
「こういう夜に聞くと結構気が滅《め》入《い》るね、お嬢《じょう》様《さま》の死にたい♂フ……」
新《しん》堂《どう》家《け》のメイドの一人がぽつりとそう呟《つぶや》いた。
外では夜風がびゅうびゅう鳴っていた。シャンデリアのどこか虚《うつ》ろな明かりが大広間を照らしており、影《かげ》がいつもより深く、暗く、濃《こ》い。
「し!」
隣《となり》の同《どう》僚《りょう》が慌《あわ》てて肘《ひじ》で彼女の横っ腹を突いた。注意された方ははっとして口元を押さえ、上《うわ》目《め》遣《づか》いで階段の方を見やった。
三段目に立っているのはこの屋《や》敷《しき》を取り仕切る巨漢の執《しつ》事《じ》だ。だが、どうやら今の失言は耳に届いていなかったらしい。手の平の懐《かい》中《ちゅう》時計を開き、じっとそこに目を落としている。
幾ばくかの時がまた流れた後、ふと二階のテラスから流れていた透《す》き通るような歌声が止《や》んだ。
同時に大広間の柱時計がぼ〜んぼ〜んと二回鳴った。
その場にいた十人のメイドと執事は揃《そろ》って正面玄関の方に目を向けた。
この時間に訪れてくると予告した客人を待って。
だが……。
「私にそのような出迎えは一切不要ですよ」
いきなり背《はい》後《ご》でそんな涼《すず》やかな声が聞こえてきて、執事はほとんど階段を転がり落ちそうになっている。メイドたちも目を丸くしていた。いつの間にか階段の踊り場に白《しろ》装《しょう》束《ぞく》に身を包んだこの世のモノとも思われない美《び》丈《じょう》夫《ふ》が立っていた。
全く誰《だれ》も気がつかなかった。
まるで闇《やみ》から溶け出たようになんの前触れもなく立ち現れている。黒髪で片側の目が隠《かく》れ、その隠れていない方の目が柔らかく微笑《ほほえ》んでいた。
「夜分遅くしつれい」
軽く腰を落とし、胸に手を当てる姿勢で一礼する。
「私ははけ。犬《いぬ》神《かみ》のはけと申します」
「あ、あなたは川《かわ》平《ひら》の……その、使者の方か?」
ようやく執《しつ》事《じ》が掠《かす》れ声で尋《たず》ねた。
その凄《せい》絶《ぜつ》な美《び》貌《ぼう》と深《しん》山《ざん》幽《ゆう》谷《こく》に漂《ただよ》う霧《きり》の様な雰囲気に気《け》圧《お》されていた。白《しろ》装《しょう》束《ぞく》の青年は階段を優《ゆう》雅《が》な足取りで降りながら頷《うなず》く。
「はい。宗《そう》家《け》のお返事を持って参りました。答えは受《じゅ》諾《だく》=Bお嬢《じょう》様《さま》の件、我ら川平の一族が確《たし》かにお引き受けします、とのことです」
「ほ、ほんとうですか?」
「ただ」
青年の目がわずかに細まる。
「一つだけお聞かせ下さい。何故《なぜ》、もっと早く我らの許《もと》を訪れなかったのですか?」
「む。申《もう》し訳《わけ》ない」
無《ぶ》骨《こつ》な外見の執事が複《ふく》雑《ざつ》そうな表情になる。メイドたちはその青年の蠱《こ》惑《わく》的《てき》な美貌に半《なか》ば酩《めい》酊《てい》していた。
「率直なことを申し上げると存じ上げなかった、というのが本当のところなのです。元々、私どもは一《いっ》本《ぽん》木《ぎ》流《りゅう》除《じょ》霊《れい》術《じゅつ》の幻《げん》斎《さい》先生を頼ってこの地に参った訳ですから……ただその幻斎先生が今になってどうしても支障が出たと仰《おっしゃ》られて。なんでも星回りが悪い上に持病の十二指腸|潰《かい》瘍《よう》が悪化したとかで」
「なるほど」
青年の顔に明らかな冷笑が浮かんだ。
「あの、はったりと言い訳の達人′カ斎らしいですね……でも、まあ、結果的にはこれで良かったのでしょう。何しろ相手が相手ですから、ね」
「それで」
執事は咳《せ》き込むように尋ねた。
「どなたが来てくださるのですか? 名高い宗家|直《じき》々《じき》に来て頂けるのですか?」
「いえ」
青年は首を大きく横に振った。
「宗家は事情があって今おられる場所を離《はな》れるわけにはどうしても参りません。ただ、川平が出せるおよそ最良の人材をご紹介致しましょう」
「そ、それは武道家ですか? それとも霊《れい》能《のう》者《しゃ》ですか?」
その問いに、
「いいえ」
青年は微笑《ほほえ》んで答えた。
「ただの犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いですよ」
「えヘへ、本日のおそ〜じタイム♪」
煌《きら》めく日差し。
往来を通るプール帰りの子供たちの声。
一度、ガラス製の風《ふう》鈴《りん》が鳴った。その瞬《しゅん》間《かん》、真っ白なサマードレスに身を包んだ少女がぽ〜んと天《てん》井《じょう》近くまで跳《ちょう》躍《やく》した。
にっと微笑む。
「かいし♪」
ぴっとハタキをタクトのように振るい、宙でくるりと回った。スカートが花のように開く。着地。また踏《ふ》み出す。跳躍。着地。
その繰り返し。
ぱっぱっと見る間に辺《あた》りの塵《ちり》やゴミが掻《か》き消え、音を立てて隅の方に置かれたゴミ箱《ばこ》の中に落下していく。
「くふふふふ」
犬神のようこは実に楽しそうに笑いながら跳《は》ね飛び、家事と戯《たわむ》れる。
「しゅくち♪」
新《しん》体《たい》操《そう》選《せん》手《しゅ》宜《よろ》しく綺《き》麗《れい》に爪《つま》先《さき》を伸ばした足を跳ね上げ、ホップ、ステップ、ジャンプ。ぐるっと回って落っこちていたタオルを丁《てい》寧《ねい》に折《お》り畳《たた》み、ベッドの上で前転。色っぽい流し目で汚れたシーツを自分の身体《からだ》に巻きつけていく。
さらにそのシーツを洗《せん》濯《たく》篭《かご》の中に放り投げ、代わりに新しいヤツを用意して、官能的な手つきで伸ばしていく。両手をう〜んと開いて、ポーズを決める。うきうきと踊るような足取りで移動しながら、本《ほん》棚《だな》を片す。
見る間に部屋を綺麗にしていく。
ロングスカートからはだけているすらりとした足といい、意味なく天井に向かって投げる投げキスといいお金が取れそうなレベルの舞《ぶ》踊《よう》である。
最後に花《か》瓶《びん》に一《いち》輪《りん》のヒマワリを投げ差し、
「おそ〜じ終了♪」
ぱちんと指を鳴らして片目をつむってみせた。
ぐるんとヒマワリの花弁が回った。
完全に掃除が終わった部屋を見回して満足そうにようこは吐《と》息《いき》をついた。吹《ふ》き抜ける風は涼《すず》しさを増すようだ。彼女の瞳《ひとみ》にはどこか本能的な色がある。己《おのれ》の綺《き》麗《れい》な巣《す》穴《あな》を見るケモノの様な、誇らしげな感じだ。
そのまま、重力を感じさせない足取りでふわふわと台所へ向かい、お煎《せん》餅《べい》と煎茶を持ってきて卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》に戻った。テレビをぽちっとつけ、お茶をこぽこぽ入れ、お煎餅をはむっと口にくわえる。幸せそうな笑《え》み。
どこぞの主婦が仕事が一段落ついた様に、見ているのは健《けん》康《こう》と芸能人の噂《うわさ》をメインに扱った報道番組だが、彼女の容姿がとびきり綺麗で若いのと、なによりお尻《しり》からどろんと出ている巨大なケモノの尻尾《しっぽ》が違っていた。
マイタケで出来る簡《かん》単《たん》な料理。ビタミンCを積《せっ》極《きょく》的《てき》に摂《と》る方法。夫の浮気問題から離《り》婚《こん》騒《そう》動《どう》に発展した某《ぼう》大《おお》物《もの》芸能人記者会見の後、
『それは三流マスコミの不当な憶《おく》測《そく》に基づく中《ちゅう》傷《しょう》であり、私は天地神明にかけてそのようなことは致しておりません』
場面は国会で、でっぷり肥《こ》え太った国会|議《ぎ》員《いん》が汗を拭《ふ》き拭《ふ》き弁明を行っている。
ぱりっとお煎餅を囓《かじ》り取って、
「まあ、悪いヤツね!」
と、ようこが憤《ふん》慨《がい》したところで玄関の扉《とびら》が開いて、彼女の主人である川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の声が聞こえてくる。
「ういっす。ただいま〜」
ようこの顔にぱっと喜《き》色《しょく》が灯《とも》る。
「あ、おかえり〜」
ててててと身軽に立ち上がると玄関に迎えに出た。
「お、おう」
学生服の啓太はちょっと気まずそうな表情だ。
「どしたの?」
と、ようこが尋《たず》ねるより早く大きな声で、
「あ、そうそう。ようこ。奇遇なんだけどさ、いつもよく行くケーキ屋で美味《おい》しそうな新作チヨコレートケーキが売っていたからお土産《みやげ》に買ってきてやったぞ!」
「おみやげ〜?」
ようこの目が中央に寄る。
普《ふ》段《だん》、そんなことをしてくれたことは一度もない。啓太は小《こ》洒落《じゃれ》た紙の箱《はこ》をようこに突きつけると「あ〜、今日《きょう》も一日疲れた疲れた」とわざとらしく呟《つぶや》きながら、いつもつけている犬用の首《くび》輪《わ》を指で緩《ゆる》め、部屋の中に上がっていく。
執《しつ》拗《よう》に目を合わせようとしない。おかしい。
ようこがテレビの方を見やると、
『するとあくまで六《ろっ》本《ぽん》木《ぎ》のホテルで密会した事実はないと言うのですね?』
とかなんとかやっていた。
「ふ〜ん」
箱《はこ》の中を開けると美味《おい》しそうなプチチョコレートケーキが行《ぎょう》儀《ぎ》良く並んでじる。ようこはひょいひょいと近づいていき、啓《けい》太《た》の後ろからしなだれかかった。
ふんふんと鼻を鳴らして啓太の首筋|辺《あた》りの匂《にお》いを嗅《か》ぐ。
「な、なんだよ?」
啓太が後ろにずれていくのを見て一言ぽつりと、
「オンナね」
追い打ちをかけた。世にも冷ややかな目。どきっとした顔の啓太。ご丁《てい》寧《ねい》に胸に手を当て、冷や汗をかいている。
「な、なんのことだよ?」
『大臣。とぼけないでお答え頂きたい』
ようこは薄《うす》く笑った。
「さっきてれびで言ってたもん。オトコはそういう時ついつい余計なお土産《みやげ》買ってくるって」
「う、オンナってそんな……おれはだな」
『とにかくこの女性問題! 一体、どう国民に説明するのですか?』
「誰《だれ》?」
キッとようこが睨《にら》む。腰元に手を当てずずいと近づく。
「よ、よせ、ばか!」
揉《も》み合う。
『大《おお》平《ひら》君』
テレビで白髪頭の議《ぎ》長《ちょう》が呼び出し、証人が前に出た。
「ほ〜ら、あった! なによ、この手紙!? き──────!」
ようこが啓太の胸ポケットから無《む》理《り》矢《や》理《り》、ピンク色のメモ用紙を取り出した。高々とそれを掲げてみせる。
『証《しょう》拠《こ》があるのですよ、証拠が!?』
「そ、それはだな」
『委細|記《き》憶《おく》にございません』」
「嘘《うそ》つき!」
『なんと申されましても』
「クラスの女の子から」
『肉体関係が』
「うるせええええええ──────────!」
啓《けい》太《た》が怒《ど》鳴《な》って手を伸ばし、テレビをぱちんと消した。その間、
「!」
文面を読み、「ケイタくんへ。明後日《あさって》の朝九時? ならばデートOKだよん。舞《まい》子《こ》」という承《しょう》諾《だく》の文句を知ってようこがざわりと髪を逆《さか》立《だ》てる。それを見て、しゃかしゃかと慌《あわ》てて四つん這《ば》いで逃げ出す啓太。
「この日はわたしとけーきばいきんぐ行く約束でしょ!?」
「ま、まて! 話を!」
飛びかかっていく。
「啓太のバカ! さてはそっちに行く気だったなああ────────!」
わ〜んと喚《わめ》きながら肩口|辺《あた》りに噛《か》みついた。
「わああ──────!」
いつものように発動するだいじゃえん改《かい》・音《おと》無《なし》。
静かな爆《ばく》発《はつ》が日常の如《ごと》く起こった。
往来に停《と》まったのは大型の黒《くろ》塗《ぬ》りリムジンである。道行く人はこんな所では滅《めっ》多《た》にお目にかかれない高級車を目《ま》の当《あ》たりにして興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに振り返っていく。やがて運転席ががちゃりと開いて、中から執《しつ》事《じ》風《ふう》の中年男が現れた。
執事風の、というのはあくまで恰《かっ》好《こう》がそうでしかないからである。
リムジンと同色の、蝶《ちょう》ネクタイのついた正装をしているのだが、驚《おどろ》くほど似合っていなかった。逞《たくま》し過ぎるのだ。健《けん》康《こう》的《てき》に日焼けした顔に、見事なまでのスキンヘッド。チョビ髭《ひげ》。空手着とか柔道着を着たら死ぬほど映《は》えそうな男である。肩や胸の部分が不自然に盛り上がっている逆三角形のオニギリみたいな体型をしていた。
「一つお尋《たず》ねしますが」
男は近くで立ち話をしていた中年女性と蕎《そ》麦《ば》を配達中の若い男に尋ねた.
「川《かわ》平《ひら》啓太さんが住まわれている大《おお》洗《あらい》荘《そう》はこちらですかな?」
主婦らしき方が驚いて目を丸くし、蕎麦屋の店員が多少|警《けい》戒《かい》しながらも頷《うなず》いた。
「あ、はい。そうですよ。そのアパートです……確《たし》か川平って男の子もいますよ」
「そうですか……どうもありがたう」
にっこりスキンヘッドが微笑《ほほえ》む。てくてく歩いていくと、
「さ、お嬢《じょう》様《さま》、着きましたぞ!」
快活に後部座席のドアを開いた。
しかし、反応がない。
「……お嬢《じょう》様《さま》?」
執《しつ》事《じ》風《ふう》の男が怪《け》訝《げん》そうに中を覗《のぞ》き込む。
近所の人たちが集まってきて、物《もの》珍《めずら》しそうにそちらを見ていた。「なんなんでしょう?」とか「さあ?」とかひそひそ話し合っていた。
そんな視《し》線《せん》を知ってか知らずか、
「どうしました? またお車に酔ったのですかな?」
男は車の中に手を差しのべた。その逞《たくま》しい手が導《みらび》き出すのは白く細い手。だが、すぐに男の手を邪険に払いのけ、中へ引っ込んでしまった。
「わたし、やっぱりいかない」
聞こえてきたのはガラスのように透明で、そして、どこか虚《うつ》ろな少女の声である。
「お嬢様!」
執事風の男が叫んだ。
「ここまで来てまだ駄《だ》々《だ》をこねなさるか!」
「だって、無駄なんだもん」
気《け》怠《だる》そうな溜《ため》息《いき》。また声が聞こえた。
「無理よ、セバスチャン。結局、誰《だれ》もわたしを助けることなんて出来ない……わたしはもうこれ以上、辛《つら》いことは見たくないの。止《や》めましょ? ね?」
「お嬢様……」
男が言葉に詰まる。その時。
「お、お助けけえええ─────────!」
と、叫び声が聞こえて、ドアががちやっと開く音がした。辺《あた》りの視線が、筋骨逞し過ぎる執事も、車の中の少女も、近所の人も全部そちらを向く。目の前のアパートの二階のドアから一人の少年が通用路へ飛び出してきていた。
見るも無《む》惨《ざん》に黒こげになっていて、服がボロボロの状《じょう》態《たい》である。
絶句している一同。
そこへ。
「くす」
背《はい》後《ご》から悽《せい》愴《そう》なくらい美しい少女がぬうっと現れ、少年を羽《は》交《が》い締《じ》めにした。
「お騒《さわ》がせしました。ええ、いつもの病気なんです。ほんのちょっと制裁を加えているだけなんでどうかお気になさらず、おほほ」
周囲にやんわり微笑《ほほえ》み、そう会《え》釈《しゃく》する。
「お、おい、黙《だま》ってみてないで誰か助けろ! 目の前で公開リンチが行われているんだぞ!」
「さ、ケイタ♪」
ずずいと少年の襟《えり》元《もと》を引っ張った。
「ご埋解のあるご近所で良かったね♪」
「ひ、ひやだあああああ─────!」
引きずり込まれる少年。
再びばたんと閉まるドア。中から絶叫と悲鳴と破《は》砕《さい》音《おん》が轟《とどろ》いてきた。近所の人たちはまたかと呆《あき》れて笑っている。
「いやあ、あそこの坊《ぼう》主《ず》は凝《こ》りねえなあ」
「嬢《じょう》ちゃんもよくやるよ」
唖《あ》然《ぜん》としている執《しつ》事《じ》。
リムジンの中で小さな溜《ため》息《いき》がこぼれた。
「あれがあなたの言うわたしを助けてくれるかもしれない最強の霊《れい》能《のう》者《しゃ》? どう見ても単なるバカじゃない」
ふう。
それからちょっと後のこと。『単なるバカ』呼ばわりされた川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》は卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の前で胡座《あぐら》を組んでいた。
その前に正座をしているのがスキンヘッドの執事である。
「どうか唐《とう》突《とつ》でぶしつけな訪問をご容《よう》赦《しゃ》願《ねが》いたい」
そう口上を述べた。逞《たくま》しく盛り上がった肩といい、鼻の下のチョビ髭《ひげ》といい、執事というよりプロレスラーの体格である。
一体何をしに来たのか見当もつかない。啓太は、
「あ、はあ」
と、困《こん》惑《わく》顔《がお》でぼんやり呟《つぶや》いた。その間、執事は滔《とう》々《とう》と自己紹介し、胸を張る。
「自分の名前はセバスチャン・合《あい》田《だ》剛《ごう》太《た》郎《ろう》。日本執事協会に所属し、新《しん》堂《どう》家《け》のお屋《や》敷《しき》にお仕えしている執事であります」
「セバスチャン?」
その問いに、
「執事としての職《しょく》業《ぎょう》名です。ペンネームのようなものと思って頂ければありがたい」
「はあ」
ぽりぽり頭を掻《か》いている啓太。そこへ台所の方からエプロン姿のようこがするするとやって来てことんとお茶の入った湯飲みをセバスチャンの前に置いた。
「どうぞ。粗茶ですが」
にこっとした微笑《ほほえ》み。彼女はそしてまた啓太の前にもお茶を置いて、彼のちょっと後ろにするすると控《ひか》える。一流のメイドのような楚《そ》々《そ》とした動作だった。啓太が無表情にずずっとお茶を啜《すす》った。
一見、完全な主従関係だ。
少年が主人で、少女が彼に仕えている様に見える。だが、少年の顔は腫《は》れ上がり、髪も黒こげでぼさぼさである。
セバスチャンは二人の関係を計りかねて太い眉《まゆ》をひそめた。
「で、この俺《おれ》に一体なんのご用なんです? その新《しん》堂《どう》家《け》の執《しつ》事《じ》さんとやらが」
啓《けい》太《た》が尋《たず》ねた。
「うむ。それなのですがな」
わくわくしている様《よう》子《す》のようこ。
「セバスちゃん♪」
楽しそうにそう言った。
「ぬ?」
「可愛《かわい》い名前だね♪」
「はあ……どうもありがたう」
ひたすら困《こん》惑《わく》気味のセバスチャン。
その時。
じゃああ────────。
と、水の流れる音がして、がちゃりとトイレのドアが開いた。啓太も、ようこも、セバスチャンもそちらに目を向ける。
中から出てきたのは眠そうな目をした十二、三才くらいの少女だった。癖《くせ》のあるウエーブのかかった黄《おう》土《ど》色《いろ》の髪に、水色のブラウス。胸元のブローチがいかにも高価そうで、服装自体は深窓の令《れい》嬢《じょう》と呼んでも差《さ》し支《つか》えはないだろう。だが、その薄《うす》く閉じたような瞳《ひとみ》と無気力そうな表情が大きく高級感を削《そ》いでいた。
それを除けばかなりの美少女である。
「ふう、すっきり……」
虚《うつ》ろな微笑を浮かべてその少女が呟《つぶや》いた。
ごしごしレースのハンカチで手を擦《こす》っている。
「お嬢様、お行《ぎょう》儀《ぎ》が悪いですぞ!」
セバスチャンが嗜《たしな》めた。
少女が頬《ほお》を赤らめ、唇《くちびる》を尖《とが》らせた。
「だって」
「あ〜〜、もう! とにかくお嬢様もちゃんとご挨《あい》拶《さつ》してください!」
「なんで?」
少女はちらっと啓太を頭の上から下まで眺め降ろし、面《めん》倒《どう》くさそうに批評をくわえた。
「さっきから言ってるけど、わたしの問題は明らかにその子にはちょっと荷が勝ちすぎていると思うよ? おトイレお借りしたかったから立ち寄っただけでこれ以上、ここにいる理由はもうないわ。お邪《じゃ》魔《ま》したわね、川《かわ》平《ひら》君。どうもありがと」
背を向ける。
「待てよ!」
啓《けい》太《た》が呼び止めた。
「……なに?」
「お前、名前は?」
少女は大《たい》儀《ぎ》そうに溜《ため》息《いき》をついてから振り返った。
「新《しん》堂《どう》ケイよ。それがどうしたの?」
「よし、分かった。ケイ」
啓太は大まじめな顔で指を突きつけた。
「なんでもいいけどお前、さっきからパンツ丸見えだぞ」
ケイははっとして自分の後ろに首を巡《めぐ》らした。よく見るとスカートの裾《すそ》が引っかかって未《み》成《せい》熟《じゅく》な脚《きゃく》線《せん》とクマさん柄《がら》のパンツに包まれた小ぶりなお尻《しり》が露《あら》わになっていた。ケイの頬《ほお》が着火したようにぼっと赤くなった。
今までの気《け》怠《だる》い動きから一転、あせあせとスカートの裾を直している。
「そ〜か、クマさんか」
にまにまと笑って啓《けい》太《た》。
「ま、かわいい」
ようこもぷっと口元を押さえる。セバスチャンが咳《せき》払《ばら》いをした。
「お嬢《じょう》様《さま》。自分はお嬢様がどう仰《おっしゃ》ろうと、この犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いさんに賭《か》けております」
少し含みを持たせ、きらんと光る目で、
「……宜《よろ》しいですな?」
念を押した。ケイはくすんと鼻を鳴らした。
「あ〜、もう分かったわよ。勝手にすれば?」
よっぽどパンツを見られたのが悔《くや》しかったようで半開きになった瞳《ひとみ》に少し涙が滲《にじ》んでいる。
後ろへ下がって足を抱え込むようにして座った。
と、同時にセバスチャンはこきんこきんと首をかっきり二度鳴らす。
「川《かわ》平《ひら》さん」
振り向いたその表情が一変している。穏《おだ》やかならぬ殺《さっ》気《き》がその無《ぶ》骨《こつ》な顔一杯に漲《みなぎ》っていた。
「失礼ながらこれからそう呼ばせて頂きますぞ?」
「あ、ああ」
啓《けい》太《た》は知らず知らず気《け》圧《お》されている。
「川平さん。意外にお思いでしょうが、自分は新《しん》堂《どう》家《け》に執《しつ》事《じ》として仕えるまではとある団体でプロレスラーをやっておりました」
喋《しゃべ》りながらセバスチャンはてきぱき手を動かしていく。まずネクタイを取り外し、そしてベルトに手をかけ……。
啓太の目が丸くなる。
ようこが仰《の》け反《ぞ》った。
「鍛《たん》錬《れん》も毎日続けております。まだまだ年の割に技の切れもあると思います。申《もう》し訳《わけ》ないが」
キッと睨《にら》んだ。
「手加減は一切、致しませんぞ!」
そう叫んで脱ぎ去ったのは衣服の最後の一枚だった。
ケイだけがふて腐《くさ》れたようにそっぽを向いていた。
鍛《さた》え上げまくった上半身。筋肉でごつごつした下半身。赤《しゃく》銅《どう》色《いろ》の肌。穿《は》いているのはただ黒のビキニパンツのみ。
つるっ禿《ぱ》げのマッチョがポージングを決めて咆《ほう》哮《こう》を上げた。
「いきますぞ!」
「ちょ、ちょっと待って!」
もうただひたすらに慌《あわ》てて啓太が手を振る。だが、
「問答無用!」
と、だけ叫んでセバスチャンが襲《おそ》いかかってきた。その巨体からは想像もつかない速さで距《きょ》離《り》を詰めると啓《けい》太《た》の背《はい》後《ご》を取り、
「ふん!」
呼吸|一《いっ》閃《せん》。鮮《あざ》やかなジャーマンスープレックスを臍《へそ》で決めた。
「ぶ!」
啓太が後頭部から卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》に叩《たた》きつけられる。載《の》っていた湯飲みやらが中に巻き込まれるようにして卓袱台が砕《くだ》ける。
セバスチャンは一切|容《よう》赦《しゃ》しなかった。さらにぴくぴくと痙《けい》攣《れん》している啓太の身体《からだ》を軽々と片手で引き上げ、
「そいや!」
ブレーンバスター。放り投げられた啓太の身体が本《ほん》棚《だな》に直《ちょく》撃《げき》し、木《き》枠《わく》が崩《ほう》壊《かい》。本や雑誌が襖《ふすま》を突き破り、その背後へどさどさっと雪崩《なだれ》うった。同時に背中を強烈に打った啓太が台所の方へ転がり出て、のたうち回っていた。
「いでででででで!」
「ケイタ!」
そこで今まで唖《あ》然《ぜん》としていたようこがようやく我に返った。
それをケイが手で遮《さえぎ》って止めた。
「待って」
「どいて!」
「ダメ。これはテストだから」
「……てすと?」
ようこが怒《ど》鳴《な》った。
「なんのてすとよ、一体!?」
その間、セバスチャンはのっしのっしとのたうち回っている啓太に近寄ると無表情に彼の髪を鷲《わし》づかみにした。
「こ、この」
啓太の瞳《ひとみ》が怒りで輝《かがや》く。
「調《ちょう》子《し》に乗ってるんじゃねえぞ、タコ野郎!」
セバスチャンの手首を握ったまま身体を捻《ひね》る。一《いっ》瞬《しゅん》で反転した。彼が跳《は》ね上げた両足が見事に巨漢の顔面に直撃。セバスチャンが大きくたたらを踏《ふ》んだ。
「ぐう」
よろめいた拍子に卓袱台の残《ざん》骸《がい》に足を取られ、背中からベッドの上に倒れ込んだ。その重さに耐えかねて床全体がきしみを上げた。
さらに、
「しゃああありゃあ!」
啓《けい》太《た》が叫んで跳《ちょう》躍《やく》。身体《からだ》を大きく宙で回転させた。間合いもスピードも完《かん》璧《ぺき》の後ろ回し蹴《げ》りだった。それが再びセバスチャンの顔面にめり込んだ。
「ぶっふう!」
たっぷり体重の乗った一《いち》撃《げき》を喰《く》らって、セバスチャンの巨体が後ろに吹《ふ》き飛ぶ。優《ゆう》に百キロを超える質量が壁《かべ》に激《げき》突《とつ》し、部屋が恐ろしいくらいに揺《ゆ》れた。天《てん》井《じょう》から盛大に埃《ほこり》が舞《ま》い落ち、台所で何かが連続して砕ける音が聞こえた。
「ああああ─────! せっかくお部屋、お掃除したのに!」
ようこが叫んでいる。見れば部屋全体がヒドイ有《あり》様《さま》だった。家具や食器がぐちゃぐちゃになっている。
シーツが破け、襖《ふすま》が外れ、紙が埃と共に舞い、砂漠の戦場のような有様だった。
しかし、男二人は、
「いきなり仕掛けてきやがってこんぼけえがああ──────!」
「こい! 真の|セメント《真剣勝負》魂というものを見せてやる!」
再び我を忘れて激突し合ってる。
「ちょっとやめてよ!」
ようこが止めに入ったが、
「きゃ!」
逆に突き飛ばされてしまった。
「……だいじようぶ?」
全く関心がないのか、落ちていた新聞紙をぱらぱら開きながらケイが尋《たず》ねた。
「セバスチャンはアレで重度の格《かく》闘《とう》マニアだから……当分、止まらないわよこれ」
見る間に滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》になっていく部屋。時折、引きちぎられて綿がはみ出した枕《まくら》やら鴨《かも》居《い》を構成していた木の破片などが飛んできた。それを手で払いのけ前に出ると、踏《ふ》みつぶされてぐしゃぐしゃになった黄《き》色《いろ》いヒマワリの花が見えた。
ようこの瞳《ひとみ》に涙が浮かんだ。
「く!」
その黒髪が逆《さか》立《だ》った。
「ばかああああ──────────!」
部屋が白い閃《せん》光《こう》で包まれ、爆《ばく》発《はつ》。
「ひっく、くすん」
広々としたリムジンの助手席でようこが哀《かな》しそうに目《め》尻《じり》を擦《こす》っていた。
「おうちが壊《こわ》れちゃったよう」
「だったら、ちっとは物事を手加減しやがれ!」
後部座席に座っていた煤《すす》まみれの啓《けい》太《た》が叫ぶ。
結局、ようこのだいじゃえん≠ナ天《てん》井《じょう》が抜け、壁《かべ》が崩《くず》れ、とうとう啓太の部屋は居住空間として使い物にならなくなってしまった。
「なによ! わたしのせいだけじゃないもん! ケイタが無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》に暴《あば》れたりするからでしょう!? いつもだったら絶対壊れなかったもん」
確《たし》かにそれも一理あった。
啓太とセバスチャンの乱《らん》闘《とう》で全体が脆《もろ》くなっていたのだ。
「う」
と、啓太が言葉に詰まる。そこへ、
「いや、申《もう》し訳《わけ》ない。家主や行政へは新《しん》堂《どう》家《け》が対応致しますし、家財道具及び復旧にかかる費用は全《すべ》てこちらで弁《べん》償《しょう》させて頂きます」
運転席のセバスチャンが声をかけてきた。ちなみに新堂ケイはこの中で一番、ダメージが少ないモノのショックで、昏《こん》倒《とう》。後部座席で横たわっていた。額《ひたい》におしぼりが当てられ、啓太が膝《ひざ》枕《まくら》をしてやっている。
「当たり前じゃい!」
啓太が歯を剥《む》いた。
「え〜ん、わたしのおうち」
めそめそとようこが泣いた。巣《す》穴《あな》を失ったケモノのような顔をしていた。今、どうかこれからお詫《わ》びをさせてください≠ニいうセバスチャンの申し出を受けて、リムジンで移動している最中だった。そこできちんと訳も話すという。車は街《がい》路《ろ》樹《じゅ》の並んだ光と影《かげ》の間を縫《ぬ》って、吉《きち》日《じつ》市《し》の西地区へ向かっている。
「大体、知ってっか? たとえどんな理由があってもだな、黒ビキニでいきなりプロレス仕掛けてきたら、普通、刑務所ぶち込まれても文句はいえねえんだぞ?」
啓太がぶちぶち文句を言いながらどすんと運転席を蹴《け》った。
「誠に申し訳ない」
大きく頭を下げてセバスチャンがハンドルを右に切った。
「ただ、どうしても必要なことだったのです、あれは」
「黒ビキニがかよ!」
「あ、いえ。依頼をするにあたって失礼ながらあなたの反応を計ることが、です」
「だからって何も黒ビキニになることねえだろう、黒ビキニに!?」
「……いえ、ただレスラー時代からアレが正装だったもので着用したまでですが、黒ビキニに何か格別の問題でも?」
「大ありだよ!」
啓《けい》太《た》がぶるっと身《み》震《ぶる》いをする。最後に決められたのがパイルドライバーでちょうど啓太の顔がセバスチャンの……。
「う〜」
つくづくイヤそうな顔。セバスチャンはちらっとバックミラーで気絶したままのケイを見やってから尋《たず》ねた。
「川《かわ》平《ひら》さん、あなたが戦う際に使用されたのは中《ちゅう》国《ごく》拳《けん》法《ぽう》の一種とお見受けしましたが」
「ん?」
「一体どうやって習得されたのですか?」
「あ〜、あれか」
答えて良いのかちょっと迷った後、
「俺《おれ》たち犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いはな、犬神を使えるようになるまで、あっちこっちゃ出向いて体術やら法術を覚えるんだよ。俺は白《はく》山《さん》というところで……まあ、え〜と、仙《せん》人《にん》みたいなモンについてちょっと習ったの」
少し複《ふく》雑《ざつ》そうな顔だった。
「なるほど。それであなたが使《し》役《えき》される犬神というのがこの」
セバスチャンは今度は助手席のようこに目を向ける。
ようこはにっと笑うと、これ見よがしに大きな尻尾《しっぽ》をどろんと出してセバスチャンの肩に擦《こす》りつけた。
「ぬう」
彼の額《ひたい》に冷や汗が浮かぶ。
「こうして見ても信じられませぬな。ごく普通にされていたので、てっきり普通のお嬢《じょう》さんだとばかり思っておりました。いや、全く」
「だから、気安く人に正体見せるんじゃねえよ、ようこ」
後ろから啓太が身を乗り出してようこの後頭部を軽く小突く。それから彼は運転席を覗《のぞ》き込むようにして問い返した。
「なあ、今度は俺からの質問だ。あんたさっき俺の実力を確《たし》かめたつってたな?」
「はあ」
「あのさ、何を依頼しに来たんだか分からないけどさ、俺は犬神使いなんだぞ? 物理的に強いニンゲン探してるなら空《から》手《て》家《か》なり、プロレスラーんとこ行きゃいいじゃね〜か。なんだって俺のとこ来たんだよ?」
「川平さん。自分が探しているのは力の強い霊《れい》能《のう》者《しゃ》です」
「なに?」
「あるいは誰《だれ》よりも心の強い格《かく》闘《とう》家《か》なのです」
きゅっとセバスチャンのハンドルを握る手に力がこもる。真《ま》っ直《す》ぐにフロントガラスを向いた表情が険《けわ》しかった。
「恐らく最凶最悪の存在と渡り合えるほどの」
「……」
「……」
啓《けい》太《た》もようこも黙《だま》り込んだ。
「で、俺《おれ》はどうだ? あんたの眼鏡《めがね》にかなったのか?」
しばらくして啓太がぽつりとそれだけ尋《たず》ねた。セバスチャンは唇《くちびる》の端《は》で笑う。
「あなたは」
その時。
「うえ」
むっくり自動人形のように新《しん》堂《どう》ケイが身体《からだ》を起こした。かくんとぎこちなく首が巡《めぐ》る。啓太の顔をじっと半目で見つめて、
「酔った」
「な、なに?」
と、あからさまに後ろに身を引きながら啓太。
「ぎぼじわどぅい」
「げ」
啓太の顔が青くなる。ケイの口がかぱっと開いた。
「わああああああ───────! よせよせ! ここではよせ!」
大《おお》慌《あわ》て。
車内が一気に蜂《はち》の巣《す》を突いたように騒《さわ》がしくなった。
幸いその前に目的地について大惨事は免《まぬが》れた。セバスチャンは車酔いでふらふらしているケイを背中に負《お》ぶい、
「では、我々も少々、着替えて参ります。お食事の席でまたお会いしましょう」
そう一礼して去っていった。
取り残された啓太とようこは呆《ぼう》然《ぜん》としていた。
連れていかれた先は西地区の丘に聳《そび》える大邸宅だった。玄関には開放一杯の吹《ふ》き抜け。ずらりと居並ぶメイドが一斉に頭を下げる。シャンデリア。大理石の磨《みが》き上げられた床。真《しん》鍮《ちゅう》製の手すりがついた階段。二階へと案内される。重厚な革張りの扉《とびら》の前で先《せん》導《どう》した若いメイドが深々と頭を下げた。
「どうぞごゆっくりおくつろぎ下さいませ」
「す、すげえ」
啓《けい》太《た》はそれだけ呟《つぶや》くのが精一杯である。
扉《とびら》を開けると桁《けた》違《ちが》いに大きな部屋がいきなり広がっていた。正面の巨大な窓からは街が一望できた。居《い》心《ごこ》地《ち》の良さそうなソファセットに四十インチのハイビジョンテレビ。ガラスのキャビネットにはヘネシーを始め洋酒のブランドがずらりと並べられ、紗《しゃ》のカーテンが垂《た》れ下がったダブルベッドの置かれた寝室はこれまた呆《あき》れるほどでかい。
そもそも設置されているクローゼットだけで啓太の部屋以上のスペースがあるのだ。
ただひたすら圧倒されるスケールである。
「い、いいの? ほんと〜にこんなとこ使って?」
啓太が恐る恐る振り返る。メイドが微笑《ほほえ》んだ。
「はい。いかなるご要望にもお応《こた》えするよう申しつかっております。なんなりとご遠《えん》慮《りょ》なく」
そこヘバスルームの方へ探検に出ていたようこの声が聞こえてきた。
「ケイタ〜、こっちのお風《ふ》呂《ろ》もおっきいよ。泳げそうなくらい」
ひょっこりと顔を出して、
「これなら二人で一《いっ》緒《しょ》に入れるね♪」
にっこり笑ってまた顔を引っ込める。啓太が赤面した。
「あ、あのバカ!」
若いメイドは「仲がおよろしいですね」というように、くすっと笑って口元を押さえている。啓太が何か言《い》い繕《つくろ》おうとする前に丁《てい》寧《ねい》に一礼して重たそうな扉から退出してしまった。
「だあ〜〜〜」
頭をくしゃくしゃ掻《か》いて啓太。あれは絶対に二人の関係を誤解している。じゃあ〜とお湯を流す音がバスルームの方から聞こえ始めた。ようこの歓声。啓太はふっと肩の力を抜き、天《てん》井《じょう》から部屋全体を眺め回した。
「ほんとうにすっこいお嬢《じょう》様《さま》なんだな、あいつ」
にま〜と笑《え》みが彼の口元にこぼれた。
「こらあ、俺《おれ》にもとうとう運が巡《めぐ》ってきやがったぜ?」
ようこが「ケイタ、一緒にはいろ〜」と呼んでいる声も聞こえていなかった。
その頃《ころ》、新《しん》堂《どう》家《け》の当主である新堂ケイもまた下着の最後の一枚をするりと脱いでいた。彼女専用の広い浴室に簡《かん》素《そ》な陶《とう》製《せい》のバスタブと等身大の金細工で縁《ふち》取《ど》られた姿《すがた》見《み》が並んでいる。幼い肢体が湯《ゆ》気《げ》の向こう、完全に露《あら》わになる。
ぽいとクマさんのパンツをカゴに放り、癖《くせ》のあるボリューム感一杯の髪を無造作に紐《ひも》でまとめ上げ、素《す》足《あし》でタイルの上を歩くと、お湯を張ったバスタブに身を沈めた。
「ふう」
お湯をすくいざっと顔を洗う。次にシトラスの芳《ほう》香《こう》剤《ざい》を入れ、泡立ててからゆっくり丁《てい》寧《ねい》に身体《からだ》を洗う。爆《ばく》発《はつ》で付着した煤《すす》が取れ、大分、さっぱりした。
そうやって手を動かしながら、ぼんやりと思い出すのは先ほどの少年のことだった。
「あの子、かなり強い子だね」
顎《あご》先《さき》までお湯の中に浸《つ》かり、誰《だれ》にともなく呟《つぶや》く。
あの少年はセバスチャンと互角以上に渡り合っていた。知っている。物心ついた頃《ころ》から強いニンゲンは沢《たく》山《さん》見てきたから分かる。
でも。
「アイツほどじゃない」
哀《かな》しい笑いが彼女の幼い顔に浮かんだ。
「アイツには絶対勝てない」
心の中にほんのわずか湧《わ》いた自らの希望を嘲《ちょう》笑《しょう》した。力無く首を振る。一体、自分は今、何を期待したというのだろう。あの少年より遙《はる》かに強い格《かく》闘《とう》家《か》や霊《れい》能《のう》者《しゃ》が目の前で無《む》惨《ざん》に敗れ去っていくのを嫌《いや》と言うほど見てきたというのに。
「しかも明日はもう取り返しがきかない」
慣《な》れ親しんだ虚《きょ》無《む》感《かん》が砂が満ちるように身体を満たしていく。ケイはいつしか静かな声で歌い始めていた。いつもの歌を。
死を呼ぶ歌を。
死と戯《たわむ》れる歌を。
また心が砂漢のように荒《こう》涼《りょう》と落ち着いていった。あの少年と少女には今日だけここに泊まって貰《もら》ってきちんと御礼をしよう。そしてセバスチャンがなんと言おうと、明日の朝にはきちんと送り返す。
そこまで考えふと良いことを思いついた。
ケイはゆらりと風《ふ》呂《ろ》から上がると白い裸《ら》身《しん》のまま、身体もろくに拭《ふ》かず浴室の外へ出た。風邪《かぜ》を引くとかそういった心配は十年以上前にとっくに止《や》めていた。
風呂場に隣《りん》接《せつ》したそこは新《しん》堂《どう》ケイの私室だった。
高い天《てん》井《じょう》。何もないがらんどうの大きな部屋。ベッド。壁《かべ》紙《がみ》は澄《す》んだ青《あお》色《いろ》だった。半年前にこの屋《や》敷《しき》に越してきてから、セバスチャンが幾度となく花や家具で飾ろうとしたがその度《たび》に捨て去ってきた。
モノを所有する、ということはケイにとってある種の苦痛だった。
ただ特注の大型テレビが中央にあって一日中電源を点《つ》けっぱなしにしてある。天井の電灯は切っているため、それだけが唯《ゆい》一《いつ》の光源となっていた。ケイの好きな動物番組をやっていた。
その前の大きなソファ。
座っているのは古ぼけたクマの縫《ぬ》いぐるみである。
ケイが持っている数少ない玩具《おもちゃ》。
そしてたった一人のトモダチ。
ケイはそのクマを取り上げ微笑《ほほえ》んだ。
「お前も明日《あした》、あの子について一《いっ》緒《しょ》に行きなさい」
きゅっと抱きしめる裸身。
「今日《きょう》までアリガトウ」
同時刻。執《しつ》事《じ》のセバスチャンはざっと顔を濡《ぬ》れタオルで拭《ぬぐ》った後、新品の執事服に着替え、客人を迎える為《ため》の陣頭|指《し》揮《き》に当たっていた。
大広間の前。
居並ぶメイドたちを前に訓《くん》辞《じ》を垂《た》れる。
「みんなこの家に移ってからまだ日が浅いので色々と大変だろうが、川《かわ》平《ひら》様とそのお連れの女の子をしっかりともてなすよう。頼みますぞ」
「はい、分かりました!」
セバスチャンの趣《しゅ》味《み》でメイドとしての経《けい》験《けん》とか、技量といったモノは一切無視して、声の大きさと元気の良さだけで雇った体育会系の娘たちばかりである。皆、きちんとした休めの姿勢で朗《ほが》らかに返事を返した。
セバスチャンは大きく頷《うなず》いた。
「よし、では解散!」
メイドたちはたっと勢いよく各自の持ち場に散っていった。セバスチャンはポケットから懐《かい》中《ちゅう》時計を取り出すとぱかりと蓋《ふた》を開き、
「奥様、旦那様……どうか、どうかお嬢《じょう》様《さま》をお守り下さい」
中に収められた小さな写真に向かって祈るようにそっと捧《ささ》げ持った。十代後半と思《おぼ》しき少年と少女がそこに晴れやかな笑顔《えがお》で写っていた。
一方、その頃《ころ》、啓《けい》太《た》とようこは煤《すす》焦《こ》げた服から、ぱりっとしたスーツとドレスに着替えてはしゃいでいた。交互に風《ふ》呂《ろ》を使用した後、
「どのようなお召《め》し物《もの》をご用意致しましょうか? 差《さ》し支《つか》えなければこちらで見《み》繕《つくろ》わせて頂きますが」
と、メイドの一人に尋《たず》ねられ、「お任せします」と答えたら、ばりばりにフォーマルな服が届けられたのだ。
啓太は黒のタキシードである。赤のネクタイ。ただし、デザインが比較的、若やいでいて堅苦しい感じがそれほどしない。洗い立てのさらさらの髪に犬用の首《くび》輪《わ》がちょっと不自然だったが、かなり颯《さっ》爽《そう》として見えた。
ようこの方はスミレ色の淡いドレスである。肩口のところが微妙に膨《ふく》らんでいて、胸元が上品な程度に開いている。左胸につけたカメオのブローチもお洒落《しゃれ》だった。それにパールの輝《かがや》きを放つハイヒール。
ベッドに座って漆《しっ》黒《こく》の髪を梳《と》かしていた。
「へ」
啓《けい》太《た》はびしっと鏡《かがみ》の前に立ってポーズを決める。
「なかなかいけてるじゃん俺《おれ》、こ〜いう恰《かっ》好《こう》も」
「ホントホント。ケイタ、かっこいいよ」
ようこがころころと笑う。
「お前もな。どっかのお嬢《じょう》様《さま》に見えるぜ」
「えへへ〜」
ようこはブラシを置いて立ち上がると、啓太の隣《となり》に並んで腕に自分の腕を絡《から》ませ、鏡に目をやった。正装の啓太とようこ。
結構、似合いのカップルに見えた。
相《そう》好《ごう》を崩《くず》すようこ。
「えヘへ」
「ま、最初ちょっと胡《う》散《さん》くさかったけどついてきて正解だったみたいだな」
そこでようこがふと思いついたように彼の顔を見上げた。
「でもさ、一体なんでケイタを呼んだんだろうね?」
「さあな。だがな、ようこ。これはすっげえチャンスだぜ?」
「ちゃんす?」
「お〜さ。なんでか知らんけどはけのヤツ、美味《おい》しい仕事は薫《かおる》や他《ほか》の親《しん》戚《せき》連中に回すみょ〜な癖《くせ》がありやがるからな。今までお金持ちからの依頼なんてあんまなかったけどよ。これをちゃんとこなせばきっと目を回すくらいの報酬を貰《もら》えるはずだぜ?」
「目を回すってどれくらい? じゅうまんえんとか、にじゅうまんえんくらい?」
「ば〜か。この家のリッチ具合見たろ? 俺が目指すのはそんなチビたはした金じゃねえよ。もう一《ひと》桁《けた》上……そうだな。最低でも二、三百万は貰いてえな」
「にさんびゃくまんえん!?」
「そ。川《かわ》平《ひら》啓太流お金持ち相手の交渉術つうのをお前にも見せてやるよ。も〜、どんな簡《かん》単《たん》な仕事でも難《なん》癖《くせ》つけて、ごねてごねてごねまくって搾《しぼ》り取ってやるからな!」
「わ〜、ケイタ、あくど〜い」
感心したようなようこの顔。ぱちぱちと拍手をしている。啓太は高笑った。
「かかかか。それにさ、どうしても厄《やっ》介《かい》そうだったらアパートの弁《べん》償《しょう》代《だい》を少し余分にふんだくって帰ればいいだけの話だしな。これから美味しいもんもご馳《ち》走《そう》してくれるらしいし、どのみち俺たちに損はねえってことよ」
「わ〜い、やったね、ケイタ♪」
「やったさ」
そして二人は笑ってぱんとハイタッチを交《か》わし合った。
ちょっと時間が下って夕刻。晩《ばん》餐《さん》は二階の食堂で開かれた。
啓《けい》太《た》の好きな中《ちゅう》華《か》だった。フカヒレの姿煮、ツバメの巣《す》のスープ、アワビの干《ほ》し物《もの》のステーキ、北《ペ》京《キン》ダックに上《シャン》海《ハイ》蟹《がに》の老《ラオ》酒《チュウ》漬《づ》け。ありとあらゆる高級食材が次々と縦《たて》に長いテーブルに並べられていく。
啓太とようこは飢えたケモノのようにはぐはぐと口を動かし、箸《はし》を伸ばし、ご馳《ち》走《そう》を片っ端から平らげていった。ちなみに彼らの背《はい》後《ご》にはメイドたちがずらりと控《ひか》え、手《て》際《ぎわ》よく、タイミング良く烏《ウー》龍《ロン》茶《ちゃ》や紹《しょう》興《こう》酒《しゅ》を啓太とようこの杯《さかずき》に注《そそ》いでいく。
セバスチャンはお茶を啜《すす》りながらにこにこと彼らのそんな旺盛な食欲を見守っていて、新《しん》堂《どう》ケイは相変わらず興《きょう》味《み》のなさそうな顔で小さな鉢《はち》に入ったお粥《かゆ》をもぐもぐと時間をかけてゆっくり咀《そ》嚼《しゃく》していた。その隣《となり》に古ぼけたクマの縫《ぬ》いぐるみがちょこんと座っているのが、奇妙といえば奇妙だった。
「ぷは、ご馳走さん」
啓太がタピオカのプディングを食べ終えて満足そうに吐《と》息《いき》をついた。
「あ〜、美味《おい》しかった♪」
と、杏《あん》仁《にん》豆《どう》腐《ふ》の最後の一《ひと》欠片《かけら》まですくい取ってようこが手を上げた。
「いやあ、こんなのほんとうに初めて食ったぜ。感《かん》激《げき》だよ。作った人にも御礼を言っておいてよ、セバスチャンさん」
「はい。必ずお伝えしましょう」
セバスチャンがにっこり微笑《ほほえ》んで頷《うなず》いた。同時に指を軽く立てて合図する。その意を受けてメイドたちが静かに部屋から退室していった。
ようこがきょとんとする。
新堂ケイはストローで食後の紅茶にぶくぶく息を吹《ふ》き込んでいる。ナプキンで口元を拭《ふ》いていた啓太の目がきらっと光った。
「……これからが本題って訳だな、セバスチャンさん?」
セバスチャンも不敵に笑《え》みを返した。
「察しがいいですな、川《かわ》平《ひら》さん」
「あんた人に物を頼むやり方をよ〜く知ってるよ……でもさ、俺《おれ》がここで『ごちそうさまでした。じゃ、さようなら』つって席を立ったら一体どうするの?」
「そうはならないでしょうな、恐らく」
「その自信はなして?」
「それはね」
セバスチャンは手元のブリーフケースの中から小切手と万年筆を取り出してさらさらと数字を書きつけた。
「ご安心下さい。新《しん》堂《どう》家《け》の資産を管理している顧《こ》問《もん》弁《べん》護《ご》士《し》ともきちんと相《そう》談《だん》してあります。自分の一存ではなく」
五干万円の数字。
それを啓《けい》太《た》の目の前に突きつける。
「これをお渡ししましょう」
啓太の瞳《どう》孔《こう》が驚《きょう》愕《がく》のあまり開きっぱなしになった。
「もちろん、これはただの手付け金です。自分がこれからお願《ねが》いする依頼を引き受けて頂いたら無条件でお渡しします。さらに」
もう五千万。
「これが成功報酬です。必要経費はあれば他《ほか》に幾《いく》らでもお支払いしましょう」
啓太の息が荒くなっている。
苦しそうに胸を押さえていた。明らかにそれは彼の経済感覚……当初の一番甘いいわば夢想の段階での報酬|金《きん》額《がく》を遙《はる》かに超えていた。
ほとんど正気の沙《さ》汰《た》じゃない!
ただようこだけは小切手の概《がい》念《ねん》がよく分からないので小首を傾《かし》げていた。
「さらにこれは副《ふく》賞《しょう》ですが、この邸宅……あなたが依頼に成功したらここも丸ごと家具込みでお引き渡しましょう」
これにはようこも反応を示した。嬉《うれ》しそうに、
「え? このおうちくれるの?」
「いて」
啓太がテーブルの下に沈み込む。
「心《しん》臓《ぞう》がいて」
「だいじょ〜ぶ、ケイタ?」
「もちろん使用人もおつけしますし、その賃金は新堂家が永続的にお支払いします。あと川《かわ》平《ひら》さん。温泉はお好きですかな?」
顔面|蒼《そう》白《はく》でこくこく頷《うなず》く啓太。セバスチャンはこっほんと咳《せき》払《ばら》いして、
「新堂家はこの吉《きち》日《じつ》市《し》の近くによい温泉を保有しています。それも贈《ぞう》呈《てい》目《もく》録《ろく》に加えてあ、そうそう。その温泉には奇遇にも収益率抜群の高級リゾートホテルが隣《りん》接《せつ》しているのですが……え〜い、面《めん》倒《どう》だ! そこもおまけでおつけしましょう!」
バナナの叩《たた》き売りみたいにブリーフケースから取り出した土地の権利書、契約書その他《ほか》をテーブルの上にばさばさ載せる。
啓《けい》太《た》、衝《しょう》撃《げき》で椅《い》子《す》から転がり落ちた。
が。
「やる!」
次の瞬《しゅん》間《かん》、バネ仕掛けの人形みたいに再び跳《は》ね上がった。
「誰《だれ》がなんと言おうと、どんな内容だろうと俺《おれ》は絶対やる! やります! 是《ぜ》非《ひ》やらせてください!」
狂乱で目をギラギラさせながら、はいはいはいと手を伸ばしている。
「バカみたい」
ケイがふて腐《くさ》れたように横を向いて呟《つぶや》いた。
「そんなものを貰《もら》っても死んじゃえば全部|無《む》駄《だ》になるのに」
その台詞《せりふ》にようこがひくんと反応を示した。
「……どういうこと?」
目を細めてケイを振り返る。
「そのまんま」
薄《うす》い冷笑を浮かべてケイ。頬《ほお》杖《づえ》をつき、にまにまようこを見やった。
「もし彼がその依頼を受けたら、明日が彼の命日になるってこと。彼、あなたのご主人様なんでしょ? 死んじゃうよ」
「その可能性もある、ということです」
苦《にが》々《にが》しく。
ほとんど苦しそうにセバスチャンが答える。
「卑《ひ》怯《きょう》なセバスチャン。説明の順序が逆でしょ、普通?」
と、かなり本気で辛《しん》辣《らつ》にケイ。セバスチャンもムッとしたようだ。
「お嬢《じょう》様《さま》、自分はよかれと思ってやっております。先ほども申し上げましたが、出来ればしばし口出ししないで頂きたい」
「で、生《い》け贄《にえ》にする、と」
「お嬢様!」
ぴしゃんとセバスチャンがテーブルを叩《たた》いた。ようこがぱたぱたと手を振って喚《わめ》く。
「こら、セバスちゃんにケイ! 二人だけの会話をしない! ちゃんとわたしたちにも分かるよう分かりやすく説明しなさい!」
ケイとセバスチャンが黙《だま》り込む。
「ほら、ケイタも言ってやって言ってやって」
と、ようこが啓太を振り返って、
「……ケイタ?」
ジト目になった。啓太は深刻な会話の流れから一人完全に孤立していた。
「おお、純利益だけでこんなあるのか……まじかよ。すげえ〜、すげえ〜」
しゃがみ込んでホテルの決算表に目を通しながら、きゃっきゃとはしゃいでいる。ようこは無言でそばにあったトレイを取り上げ、啓太の頭をべこんと殴った。
「な!?」
前のめりにつんのめってから、ようやっと啓太が正気に返る。
「なにしやがる!?」
「死んじゃうんだって」
ようこがくいくい指差した。
「は、誰《だれ》が?」
「ケイタが」
「なんで?」
「その依頼を受けると。代わりに死んじゃうんだってさ、ケイタが」
しばし考え込んで、
「ええええええ〜〜〜〜〜〜〜〜?」
ようやく驚《おどろ》きの表情で啓太が土地権利書その他《ほか》を手放した。
ようこが溜《ため》息《いき》をついて肩を落とした。
「正《せい》確《かく》にはその可能性もある……いえ、非常に高い危険な仕事だということです」
セバスチャンが沈《ちん》鬱《うつ》な表情で語り始めた。
「そうですね」
ちょっと間を置いてから、
「まずは新《しん》堂《どう》家《け》の成り立ちについてお話ししましょう。元々、新堂家はご維《い》新《しん》前は武《ぶ》家《け》の家柄でした。ところが、相次ぐ不況やら、信頼していた者の裏切りで、ケイ様のお祖父《じい》様の頃《ころ》は困《こん》窮《きゅう》を極《きわ》めるほどになったのです。そのケイ様のお祖父様が」
セバスチャンはぶるっと大きな身体《からだ》で身《み》震《ぶる》いした。ケイが鼻で笑う。
「バカな人だったんだよ」
「……家名を盛り返すために選《えら》んではならない方法を選んでしまったのです。すなわちこの世ならぬ者との契約。ほとんど飢え死にしかけていたお祖父様にとっては他に選《せん》択《たく》肢《し》がなかったのもまた事実でしょう。しかし後《のち》の子孫たちにとってその代《だい》償《しょう》はあまりにも大きなものとなったのです。たとえそれで巨万の富を得ることが出来たとはいえ」
「毎年ね、誕《たん》生《じょう》日《び》になるとアイツがやって来るの」
何を思ったのかケイが啓太とようこに向かって突然、喋《しゃべ》りかけた。啓太もようこもセバスチヤンとケイどちらに耳を傾ければいいのか迷って交互に視《し》線《せん》を揺《ゆ》らす。
ステレオで話が進んだ。
「契約の一つ。毎年、新《しん》堂《どう》家《け》の者には恐怖を与えられる=v
「頭にね、こうして手をそっと添《そ》えられるの」
ケイが自分の額《ひたい》に手を当てた。
「そうすると死ぬほどの恐怖がそこから流れ込んでくるの」
成り行きで啓《けい》太《た》がセバスチャンを、ようこがケイの話を聞く形となる。
「それが契約なのか?」
「なんでそんなことをするの?」
「さあ? 人が苦しむ姿を見るのが楽しいんじゃない?」
「はい。ただ代《だい》償《しょう》はそれだけではなくて」
「バカみたいな話だけど、新堂家の者は必ず死ぬの。二十歳《はたち》の誕《たん》生《じょう》日《び》で必ず死ぬの。アイツに命を取られるの」
ケイがそう言うと、セバスチャンは打ちひしがれたように顔を覆《おお》い、俯《うつむ》いた。
「相手は?」
啓太が静かな声でそう尋《たず》ねた。
ぴんと糸のように張り詰めた緊《きん》張《ちょう》感《かん》の中、彼だけがあくまで落ち着き払っていた。
「それだけの力だ。ほとんどそれは妖《よう》怪《かい》と言うより神に近い存在だな?」
セバスチャンとケイが異《い》口《く》同《どう》音《おん》に答えた。
「そう。死神」
「死神です」
ケイが一人語り続ける。
「アイツはね、自分に絶対の自信があるの。だから、毎年、新堂家の人間に恐怖を与える傍《かたわ》ら自らを倒そうとする格《かく》闘《とう》家《か》や霊《れい》能《のう》者《しゃ》の存在を公然と許すの。相手が空《から》手《て》家《か》だったら空手のルールで、柔《じゅう》術《じゅつ》家《か》だったら柔術だけで、徹《てっ》底《てい》的《てき》に相手の土《ど》俵《ひょう》へ上がって散々、相手をなぶり者にした挙《あ》げ句《く》、二度と再起できないくらい追い込むの。新堂家はね、母の代から今まで何人も、何人も並はずれた強《つわ》者《もの》を揃《そろ》え、死神を迎《むか》え撃《う》とうとしたわ」
でも。
と、ケイがゆらりと立ち上がって啓太とようこを見《み》据《す》えた。
「結局、誰《だれ》一人としてあいつに及ばなかった。当時、日本一と謳《うた》われた霊能者や希《き》代《だい》の武道家が束《たば》になって挑んだのにね」
「……」
「そしてね、それはきっとあなたたちも一《いっ》緒《しょ》」
薄《うす》く笑う彼女の背《はい》後《ご》に巨大な負の因《いん》縁《ねん》めいたものが陽炎《かげろう》のような形でわだかまっている。セバスチャンはごくりと息を呑《の》み、ようこは目を細めていた。
啓太はごく何《なに》気《げ》なく、
「……よっぽど強いんだな、そいつ」
「ええ。それと念のため言《い》い添《そ》えておくけど、手付け金欲しさにダメ元で勝負を挑もうなんて真似《まね》は止《や》めてね? 確《たし》かに十九歳の誕《たん》生《じょう》日《び》までだったら死ぬほどの恐怖は味わわされても実際、迎《むか》え撃《う》つ者が死ぬことはない。でもね、新《しん》堂《どう》家《け》の人間が二十歳《はたち》を迎える日。あいつは新堂家の人間だけではなくそれを守ろうとする者≠フ命も奪うことが出来るのよ。そういう契約になってるの」
「ま、まさか?」
その時。
本当に初めて。今までずっと考え込んでいたような表情の啓《けい》太《た》に激《はげ》しい動《どう》揺《よう》が見られた。ケイが諦《てい》念《ねん》の微笑を浮かべて頷《うなず》いた。
「そう。明日《あした》がわたしのその二十回目の誕生日」
「な」
「つまりわたしに関《かか》わる全《すべ》ての者の命日ということ」
絶句し、ほとんどよろめくように啓太が椅《い》子《す》から崩《くず》れ落ち、床に膝《ひざ》をついた。
「バカな」
呻《うめ》き声《ごえ》しか出てこない。身体《からだ》が激しく震《ふる》えている。ようこは言葉もなく、ただ驚《きょう》愕《がく》に目を見開いて、懸《けん》命《めい》に叫びを押し殺していた。
「う、うそ」
「ふ」
ようやく彼らが驚《おどろ》く姿を見れて、ケイが心なしか満足顔になった。半目で、
「これで分かったでしょう? 確かにあなたはその年の割に凄《すご》く強いと思う。でもね、幾《いく》らなんでもまだ若すぎるのよ。そんな自殺行為は止めて地道に働きなさい。ここまで来た足代くらいはちゃんと払って上げるから」
「うう」
啓太は拳《こぶし》を握《にぎ》り込んだまま、まだ震えている。ケイは優《やき》しくその肩を叩《たた》いた。
「そんなに落ち込まないで。怖《お》じ気《け》づくのは無理ないもの。ただ条件が悪すぎただけで」
「中学生か……下手《へた》したら小学生くらいだとずっと思ってた」
「は?」
と、訝《いぶか》しそうにケイ。ようこは思いっ切り深い溜《ため》息《いき》をつきながら首を横に振った。ちらっと哀《あわ》れむように新堂ケイを横目で見やり、
「わたしはね、せ〜ぜいともはねに毛が生《は》えたくらいかなって」
「おいおい。その表現は少し直接的すぎだが……ま、大体そんなもんだよな」
「あ、あの、あなたたち一体なんの話をして」
呆《ぼう》然《ぜん》としているケイを後《しり》目《め》に、
「あ〜、そういえばお子様だと思ってたから完全にのーちぇっくだったけど、ケイタ、いくら二十歳《はたち》でもアレには手を出しちゃダメだかんね?!」
「ば、ばかたれ! 俺《おれ》はそういう特殊な趣《しゅ》味《み》は断じてないわい!」
ようこはうんうん頷《うなず》き、
「そうだよね。ケイタもそこまでヘンタイじゃないもんね」
啓《けい》太《た》は手を頭の後ろで組み、
「いやあ、しかし世の中って広いなあ。あんな二十歳がいるんだな。びっくりだよ」
「そ〜だね。今まで聞いたどんな話よりも正直、驚《おどろ》いた」
そうして朗《ほが》らかに笑い合う二人。
ようやく事《じ》態《たい》を悟って新《しん》堂《どう》ケイが叫んだ。
「あんたたち、他《ほか》に驚く部分が山ほどあるでしよ〜〜〜〜〜〜?!」
堪《こら》え切れずとうとうセバスチャンが噴《ふ》き出した。じろっとジト目でそちらを見やるケイ。
目《め》尻《じり》に涙を浮かべながら、いちゃもんをつける。
「……あんたもなに一《いっ》緒《しょ》になって笑ってるのよ、え〜、セバスチャン?」
「む。く、も、もうしわけない」
口元を押さえ、必死で笑いを押し殺すセバスチャン。そのセバスチャンの襟《えり》をやけくそのように掴《つか》んでぐいぐい締《し》め上げるケイ。
「どうせ幼児体型は母親|譲《ゆず》りよ、悪かったな! バカ─────────!」
その時である。
いつの間にか彼女の背《はい》後《ご》に立っていた川《かわ》平《ひら》啓太がぽんと軽くその頭を叩《たた》いた。とびきりの明るさと力強さに満ちた笑い方で、
「ま、なんにしてもセバスチャンさん。さっき言ったとおりその死神倒せば、金も家もホテルも俺が全部|貰《もら》えるんだろう? 今《いま》更《さら》約束破りはなしだぜ?」
「お、おお……では」
と、期待に震《ふる》えてセバスチャンが顔を上げる。啓太がにっと親指を立てた。
「受けてやるよ、その死神退治。この犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い川平啓太がさ、きっとあんたの家にこびりついた化《ば》け物《もの》を打ち破ってやる」
「あ、あなた人の話を聞いて」
振り返って、ケイが突きつけた指をぶるぶる震わせる。
「だいじょ〜ぶ」
啓太の隣《となり》にいるようこが軽やかに笑った。
「何しろケイタにはこのわたしが憑《つ》いてるからね、シンドウケイ♪」
彼女から見ればちょうど逆光。
二人並んだ姿に迸《ほとばし》るような躍《やく》動《どう》感《かん》があった。
ケイは一《いっ》瞬《しゅん》、見《み》とれている。その間、啓《けい》太《た》はすいっと前を通ると、椅《い》子《す》に座ってどっかりセバスチャンと正対した。
「ま、つう訳《わけ》でさ、とりあえず明日《あした》まで時間もある訳だし、相手のこときっちり教えてよ、セバスチャンさん」
「そ〜そ〜。敵の尻《しり》、己《おのれ》の白髪、百戦危うからずってね♪」
「……なんじゃいそら?」
「い、いいの! そういう言い伝えがあるのよ、古代中国に!」
ようこは真《ま》っ赤《か》になりながら啓太の横、テーブルの上にちょこんと座って、斜めのポーズを取った。ケイははっと我に返り、わずかに羞《しゅう》恥《ち》で頬《ほお》を染《そ》め、心奪われたことを取《と》り繕《つくろ》うように半目になった。
「いいんじゃない。セバスチャン? この子たち相手がどれだけ恐ろしい奴《やつ》かよく分かってないみたいだからさ、話してやりましょうよ」
ことさら気《け》怠《だる》そうに頬《ほお》杖《づえ》を突いてみせる。
「は、はあ」
「ちゃんと説明すればきっと帰ってくれると思うわ。きっとね」
にいっと薄《うす》く笑ってケイ。
啓太はちらっと横目でそんな彼女を眺めやってから尋《たず》ねた。
「まずその死神ってどんな外見をしているの?」
「そうですな……外《がい》観《かん》は普通の人間と全く変わりありません」
「服着てる訳?」
「はあ、それもどちらかというとお洒落《しゃれ》さんです。顔も悪くないですな」
「アレは明らかにナルシストね。だって、毎回、毎回、自分が選《せん》曲《きょく》した登場曲を流して現れるのよ?」
「お洒落さんでこだわりのあるなるしつと、と」
いつの間にかようこがテーブルの上に腹《はら》這《ば》いになって、セバスチャンの万年筆を使ってメモを記《しる》している。啓太はようこが書き込んでいるソレが小切手帳だと注意しようとしたが、あんまり彼女が嬉《うれ》しそうにカキカキしているので止《や》めた。
さらに質問を続ける。
「ふうむ。性格は?……ま、大体、聞かないでも分かるけど」
「サディスト」
ケイが哀《かな》しそうに微笑《ほほえ》み、セバスチャンも大きく頷《うなず》く。
「自分より弱い者を痛めつけることが存在目的の全《すべ》てなのでしょうな。契約も、対戦相手の流《りゅう》儀《ぎ》で戦うルールさえも……さながらネズミをいたぶるネコの如《ごと》くです」
「ネコ似で、さでぃつと、と」
「そ〜とう厄《やっ》介《かい》そうな相手みたいだけど……弱点はないのかな、弱点は?」
これにはケイもセバスチャンもしばし沈思した。
やがてセバスチャンが声を潜《ひそ》めて、
「あ、一つだけ」
「なに? 太陽光を浴びると灰になるとか?」
「いえ、目が悪いんです、目が。視力がすっごく弱いんですよ」
「は?……死神が?」
啓《けい》太《た》がぽかんと口を開けた。あまりにも平凡すぎて逆に虚《きよ》を突かれた。セバスチャンは真《ま》顔《がお》で頷《うなず》く。
「ええ、信じられないでしょうが、ほんと〜にアレは視力が弱いんです。ですから、普《ふ》段《だん》は周囲を朧《おぼろ》気《げ》にしか見ることが出来ません。ただかなり度のきつい眼鏡《めがね》は常に携帯していて、相手を強者だと認めるとそれを着用して戦いますね」
「なるほど」
啓太が顎《あご》に手を当て、ちょっと目を細めた。
「逆に言えばそれをつけないでも並の相手なら問題にしない訳《わけ》だな?」
「そう。そうなりますね……自分もアレが眼鏡を着用している姿は数えるほどしか見たことがありません」
「強えんだな、やっぱり」
「ええ。あと自分は一度、その弱点を巧みに突いたことがあるのですよ。割に単純な作戦だったのですが、登揚曲が流れている間、お嬢《じょう》様《さま》を戸《と》棚《だな》に隠《かく》して、お嬢様の服を着た自分が囮《おとり》になったのです」
「ちょっと待て! あんたがか?」
「はあ。他《ほか》に適任者もおりませんでしたのでやむなく」
「……で、どうなったの?」
半分|呆《あき》れて、半分好奇心に駆《か》られて啓太が尋《たず》ねる。セバスチャンは遠い過去を見つめ、ふうっとアンニュイに溜《ため》息《いき》をついた。
「三十秒くらいはそれでも騙《だま》し通したのですが」
「すげえな! 色々な意味で!」
「……結局、ばれてぼこぼこにされました」
形容する言葉に詰まって啓太が呟《つぶや》く。
「それはぼこぼこにする方の気持ちも分かるというかなんというか……つうか、あんた時々真顔でバカだな」
「ぐるぐる眼鏡で時々おバカさん、と」
ようこが書き込みをする。その言葉を聞いてケイが小首を傾《かし》げた。
「それは確《たし》かにあるかもね」
「どういうことだよ?」
啓太の問いに、
「だからね、アイツは平常時、意外に間が抜けているっていうこと。何度かわたしの名前と母の名前を間違えて呼んだことがあるし、眼鏡《めがね》をかけていない状《じょう》態《たい》で椅《い》子《す》に蹴《け》蹟《つまず》いて二階から転がり落ちたことがあるもの」
「……」
啓太が「ん〜」と唸《うな》って、こりこり指で頭の横を掻《か》いた。
「とりあえず整理しとこうか。ようこ」
「らじゃ♪」
ようこは軽く片手を上げて、メモを読み上げる。
「相手は、『すっごく力が強くて、なるちつとで、さでぃつとで、ぐるぐる眼鏡をかけたお洒落《しゃれ》さんで、物覚えの悪い、ちょっとうっかり屋のネコ似な美男子』、ね」
「ある意味、怖いんだけどさあ、この死神」
啓太が理解に苦しむ顔をする。
「限りなくバカなんじゃないかなあ」
大まじめな顔だ。
「並べて読むとただのヘンな奴《やつ》だよね♪」
「でも、ほんとうにアイツは底知れぬほど強いのよ!」
ケイが必死で言《い》い募《つの》る。
「信じて!」
「いや、信じるけどね……」
歯切れ悪く啓太。
その時である。
誰《だれ》にとっても予想外のことが起こった。
どこからともなく聞こえて来たのは威勢の良い音楽である。格《かく》闘《とう》技《ぎ》ファンならずとも一度は耳にしたことがあるであろう超有名ボクサーの入場曲。
『アリ・ボンバイエ』
コーラスが入り始める。
『ア〜リ、ボンバイエ! ア〜リ、ボンバイエ!』
「な、なんだなんだ?」
啓太とようこは事《じ》態《たい》を把《は》握《あく》しかねてきょろきょろしている。そしてセバスチャンとケイの方を見やってぎょっとしたような顔になった。
二人とも完全に機《き》能《のう》を停止していた。
セバスチャンは顔面|蒼《そう》白《はく》になって彫像のように固まっている。一方、ケイは震《ふる》えながら、今にも泣き出しそうに顔を歪《ゆが》め、
「う、うそ……なんで?」
首を振っていた。
「い、いや」
すとんと腰を床に落とす。
「お、おい。だいじょうぶか?」
啓《けい》太《た》が心配そうに肩に手をかけているのにも気がついている様《よう》子《す》はない。
「いやああああああああああ──────────────────!」
目を一杯に見開いて叫んだ。
「ケイタ! 何か来る!」
同時にようこが鋭《するど》く注意を喚《かん》起《き》した。啓太はすうっと流れるように動き、ケイの前に立《た》ち塞《ふさ》がった。ポケットに手を突っ込み、カエルのケシゴムを数個取り出した。ようこも素《す》早《ばや》く構えを取って背中合わせにケイを守る。
その間、音楽は高鳴っていく。
「く」
突如、部屋の四《よ》隅《すみ》に仕掛け花火が噴《ふん》出《しゅつ》した。
しゃ───という滝のような音を立てて、白い光と炎が噴《ふ》き上がる。朗《ろう》々《ろう》と聞こえるのはマイクを通したアナウンスの声である。
「さあ、皆さん、いよいよやって参りました。二十年目の収《しゅう》穫《かく》日《び》。魂の刈《か》り入れ時。肉体を摘《つ》み取る瞬《しゅん》間《かん》です! れでぃーずあんどじぇんとるまん!」
ぱんぱんっと炸《さく》裂《れつ》音《おん》。
「ざ・ぐれいてすと、死神の中の死神。その名も暴《ぼう》力《りょく》の海=v
うぉ〜ん。
嵐《あらし》のような歓声と拍手の後、白いスモークが徐々に晴れていく。
「は?」
と、思わず啓太が呟《つぶや》いていた。
いつの間にかテーブルの中央にすらりと背の高い青年が立っていた。
全身白ずくめで、同じく雪のように白い肌。口に赤いバラをくわえている。柔らかなカールを描いた金髪に端正な顔立ち。中欧の吸血鬼のような危うさと高貴さが入り交じった独特の妖《あや》しい雰囲気があった。
銀《ぎん》色《いろ》の輝《かがや》きを放つ禍《まが》々《まが》しい瞳《ひとみ》でゆっくり周囲を眺め渡し、
「待たせたな、新《しん》堂《どう》ケイ。さあ、惨《さん》劇《げき》の夜の始まりだ!」
陰惨な喜びを噛《か》み殺し震《ふる》える声でそう告《つ》げた。
それから「ちょっと待って」とジェスチャーで示し、手に持っていたカセットデッキのスイッチをかちゃっと押した。すると部屋を満たしていた歓声やら音楽が止《や》む。死神は丁《てい》寧《ねい》にそれをテーブルの上に置いて、
「とう」
床に飛んだ。
「くくくく」
喉《のど》の奥を振るわせ笑い、
「くはははははははははははは!」
天《てん》井《じょう》を振《ふ》り仰《あお》いで、哄《こう》笑《しょう》を繰《く》り広げた。一同、絶句している。
「どうしたどうした? 普《ふ》段《だん》の年なら即座に攻《こう》撃《げき》を仕掛けてくる跳《は》ねっ返りが何人かいるのだがな、今年はとうとう種切れか、新堂一族? 我をがっかりさせるなよ!」
だが、やっぱり誰《だれ》も何も言わない。
死神はやれやれと首を振った。
「ならばいいさ。汝《なんじ》らはこれから新堂ケイが八つ裂きになるのを黙《だま》ってみていろ」
ギラギラ光る異様な瞳《ひとみ》でつかつかと歩み寄ると、口にくわえたバラをそっと相手に握らせる。
「一年ぶりだな、新堂ケイ。達者にしていたか? これは汝への手《た》向《む》けの花だ」
「おい」
「ケイ。今まで我は汝を散《さん》々《ざん》脅《おど》かしてきたが、殺す時はそれほど痛くはしない。あっという間だ。それこそあっという間にあの世に送ってやる! くは、くははははははは! 汝、我の慈《じ》悲《ひ》心《しん》に深く感《かん》謝《しゃ》するのだな! くははははははは!」
「この」
ぽかりと相手の頭を叩《たた》いて、
「眼鏡《めがね》をかけろ、ど近眼ヤロウ!」
啓《けい》太《た》が叫んでいる。
「ん?」
それで死神はぴたりと笑うのを止め、額《ひたい》がくっつきそうになるくらいマジマジと啓太の顔を覗《のぞ》き込み、
「……誰だ、汝は?」
真《ま》顔《がお》でそう尋《たず》ねた。
「誰だと思う、暴《ぼう》力《りょく》の海=H」
と、ひくつき笑いながら啓太。
「な、なぜ我が名を知っているか?」
死神が驚《おどろ》いたように後ろにずり下がる。啓《けい》太《た》は頭痛がするとでもいうように頭を抱えた。
「お前さっき自分がマイクパフォーマンスで名乗ってたろうが!?」
「そ、そうか! 汝《なんじ》は!」
「びんぽ〜ん」
その前に啓太がカエルのケシゴムを指先で扇《おおぎ》形《がた》に広げ、構えている。素《す》早《ばや》くようこがその隣《となり》に並んでいた。
「てめえを倒すために雇われた犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いさんだよ!」
「と、その犬神のようこね♪」
死神が嬉《うれ》しそうに笑った。
「く! くははははははは! イヌガミツカイサンとイヌガミのようこを殺すのは生まれて初めてだ! ありがとう、新《しん》堂《どう》一族! さあ、かかってこい! イヌガミツカイサンとイヌガミのようことやら!」
そこへ。
「あ、あのう」
本当に恐る恐るセバスチャンが前に出てきた。
「く。セバスチャン。汝はまだ逃げぬのか?」
冷笑。
「そうではなくて、もしかしてなんだが、お前」
こっほんと咳《せき》払《ばら》い。
「日にちを一日間違えていないか?」
し〜んと。
世にも冷たい絶対|零《れい》度《ど》の時間が訪れる。
死神はかちんと固まった。
「一日? 間違え?」
気の毒なくらい狼《ろう》狽《ばい》をみせ、啓《けい》太《た》へ、ようこへ、そしてへたり込んでいる新《しん》堂《どう》ケイへと順番に視《し》線《せん》を向けた。皆、それぞれ程度は違うもののウンウン頷《うなず》いている。死神がショックのあまりあんぐり口を開けた。
「可哀《かわい》想《そう》に」
「本当に本気で間違えたのよ、アレ」
啓太とようこが悪意のある横目でひそひそ囁《さきや》いている。死神の顔がかあっと赤くなった。そして、
「くは、くは! く〜はははははははははは!」
天《てん》井《じょう》を見上げ、闇《やみ》雲《くも》に笑い出した。しかし、啓太とようこは容《よう》赦《しゃ》しない。
「まあ、笑って誤《ご》魔《ま》化《か》してるわ」
「いるんだよねえ〜、ああいうタイプ。素直に間違い認めりゃまだ傷は浅いのに」
「見苦しいわね」
「なまじ美形でバカだと洒落《しゃれ》になんねえな」
と、次々に傷口をえぐっていく。
「やっかましいいいいいいいいいい──────────!」
死神が涙目で叫んだ。啓太とようこは「きゃ〜」とおちょくるような声を上げて、わざとオーバーに怖がった。
死神はぐぬぬと怒りに震《ふる》えていたが、
「セバスチャン。それに新堂ケイ。明日《あした》だ! 今日《きょう》の所はこれくらいにしておいてやる!」
そう言ってふいっと背を向ける。
一《いっ》瞬《しゅん》だけそれで終わりかと安《あん》堵《ど》の空気が流れた。
特にセバスチャンとケイには。
が。
「お〜と」
すこ〜んとその頭にカエルのケシゴムが当たって死神は動きを止めた。振り返ると、犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い$《かわ》平《ひら》啓太がにやにや笑いながらテーブルに寄りかかっていた。彼はことさら挑発するように、がんと椅《い》子《す》を蹴《け》って相手の足《あし》下《もと》に転がした。
「お〜い、近眼野郎。お前、このまま、すぐ帰るつうのもあんま芸がねえだろう? せっかくだ。ちょっと俺《おれ》と遊んでいこうぜ?」
死神の顔に戦《せん》慄《りつ》するような甘い笑《え》みが浮かんだ。
「そうか? 汝《なんじ》は今日《きょう》死にたいか?」
ゆっくりと首を横に倒す。
「ダメ! そいつはそこからが本番なの!」
新《しん》堂《どう》ケイが叫んでいる。
しかし、啓《けい》太《た》はもう戦《せん》闘《とう》態《たい》勢《せい》に移行していた。
「セバスチャンさん、ケイを連れて今すぐここから出てけ! いくぞ、ようこ!」
ひゅっと人指し指をしならせ戸口を示す。
「おっけえ〜」
間《かん》髪《ぱつ》入《い》れずようこがガッツポーズを取った。セバスチャンも覚悟を求める。
「え〜い、こうなれば腹をくくりましょう! あとは頼みましたぞ!」
巨体に似合わないダッシュをかけ、呆《ぼう》然《ぜん》としているケイを腕で掬《すく》い上げるようにしてそのまま戸口へ向かって駆《か》けていった。
死神の視《し》線《せん》が一《いっ》瞬《しゅん》、そちらに向かう。
「おい。よそみしてんじゃ」
啓太がピッチャーのように大きなワインドアップで振りかぶって、
「ねえ〜〜〜〜〜〜〜よ!」
カエルのケシゴムを思いっ切り投げつける。
同時にようこが左右の手から炎の塊《かたまり》を交互にはなっていた。
「じゃえん!」
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告《つ》ぐ! カエルよ、破《は》砕《さい》せよ!」
着《ちゃく》弾《だん》。轟《ごう》音《おん》と煙がぼうんと沸《わ》き起こり、天《てん》井《じょう》にぶつかる。啓太はくくんと指先を捻《ひね》り、くいと変化球でも放るように下に向けた。
同じくようこも人指し指を立てている。
「破砕せよ、爆《ばく》砕《さい》せよ、粉砕せよ!」
「だいじゃえん改《かい》・音《おと》無《なし》! ちょうきょうか版!」
はっと気合いの声が発せられた。
かかかかかかっと同時に炸《さく》裂《れつ》音《おん》が響《ひび》く。凄《すさ》まじいエネルギーの収束が生じ、目に焼けつくほどの光が死神が立っていた辺《あた》りから半球状に膨《ふく》れ上がる。それはほとんど一瞬で衝《しょう》撃《げき》波《は》と共に壁《かべ》まで達した。その瞬間、窓ガラスが一斉に弾《はじ》け飛び、壁が軋《きし》みを上げて、シャンデリアが砕《くだ》け散った。
爆《ばく》心《しん》地《ち》近くの重たいテーブルが暴《ぼう》風《ふう》に煽《あお》られたようにごろんごろんと横転し、並べられていた食器を巻き込んで砕いていく。
「やった!?」
というようこの歓声。
「気抜くな! 恐らくくたばっちゃいねえよ!」
二の腕で顔を庇《かば》った啓《けい》太《た》が薄《うす》目《め》を凝《こ》らす。
煙が晴れ、その中心。
「いねえ?」
啓太が首を巡《めぐ》らす。
「あ!」
ようこが叫んで後ろを指差した。
「な!?」
啓太も息を呑《の》んでいた。いつの間にか死神は入り口の所まで回り込んでいて、セバスチャンとケイの前に立《た》ち塞《ふさ》がっていたのだ。
「あ、あ」
額《ひたい》に脂《あぶら》汗《あせ》を浮かべセバスチャンが下がる。悲鳴も上げられない恐怖の表情のケイ。にいっと死神が笑った。
「ケイ。汝《なんじ》もう少し見ていけ。ただ、汝セバスチャンはいらぬ」
ひゅん。
それは啓太の動体視力でも、ようこの卓越したケモノの眼《め》でも、ほとんど捉《とら》えることの出来ない飛《ひ》燕《えん》の動きだった。
「お、ぐ!」
いつの問にか死神の手先が深々とセバスチャンの鳩《みぞ》尾《おち》にめり込んでいた。彼の顔が悶《もん》絶《ぜつ》。死神はゆっくり手を引き抜く。するとセバスチャンはそのまま膝《ひざ》を突き、どっと前のめりになって崩《くず》れ落ちた。
一《いち》撃《げき》で白目を剥《む》き、昏《こん》倒《とう》していた。
「相変わらず脆《もろ》い男」
くく。
死神が嘲《あざ》笑《わら》う。その手はするりとケイの細い胴体に巻きついている。
「いやあ」
ケイは首を振った。顔を歪《ゆが》め、
「いやあ」
「なにもせぬ、新《しん》堂《どう》ケイ。ただ黙《だま》ってこれから始まる絶望の宴《うたげ》を見ていろ」
死神は歩いていってケイを部屋の隅にちょこんと置いた。啓太もようこも動けない。完全に気《け》圧《お》されていた。
少なくても今の先制|攻《こう》撃《げき》で何らかのダメージは与えたと思っていた。
だが、死神はかすり傷一つ負っていなかった。
「驚《おどろ》いたようだな、イヌガミツカイサン?」
先ほどまでの間抜けな印象は全くない。ただ冷《れい》徹《てつ》で圧倒的な魔《ま》物《もの》の気《け》配《はい》だけがそこにあった。部屋の中にぞわぞわと瘴《しょう》気《き》のようなものが満ち始めている。死神はいつの間にか真っ黒なローブを白い衣《い》装《しょう》の上から羽《は》織《お》っていた。
「汝《なんじ》らも絵画や伝承で見たことや聞いたことがあるだろう? これが名高い死神の黒衣というものだ。およそその距《きょ》離《り》からでは炎も霊《れい》符《ふ》も通じぬよ」
フードの暗《くら》闇《やみ》の奥から邪悪な銀《ぎん》色《いろ》の瞳《ひとみ》がギラギラ輝《かがや》いていた。
「我はこの色とデザインがあまり好きではないのでな。強者相手しか身につけぬ。汝らは選《えら》ばれし強者だ。胸を張るがいい!」
「ふ」
啓《けい》太《た》は笑い出すような、怒り出すような中《ちゅう》途《と》半《はん》端《ぱ》な表情で何か言いかけた。
その時。
「あ、あの! 今、凄《すご》い音が聞こえたのですが、大丈夫ですか!?」
ドアを開け、息せききってメイドや使用人たちが飛び込んできた。室内の惨《さん》状《じょう》を見やって彼女たちが息を呑《の》む。
じろりと死神がそちらを睨《にら》んだ。
啓太は振り返らず、即座に手を振り下ろした。
「ようこ。しゅくちでこの家にいる全員、緊《きん》急《きゅう》待《たい》避《ひ》だ。思いっきり遠くへとばせ!」
すると、
「ごめ〜んね。みんなしばらくどっか行っていてね♪」
ようこがぴっと指を立てる。その動作でメイドたちはたちどころに姿を消した。啓太は死神を見《み》据《す》えて囁《ささや》いた。
「気をつけろ。あいつほんま洒落《しゃれ》にならんぞ」
「うん。分かってる」
ようこは小さく頷《うなず》く。
「くは」
死神がぴょんと倒れたテーブルの上に立って天《てん》井《じょう》を見上げた。
「いっつしょ〜たいむ! 殺《さつ》戮《りく》た〜いむ! くはくはくはははははははは!」
「……頭も大分おかしいし」
肩を落とし、ぼそっと半目になって啓太が呟《つぶや》いた。死神はムエタイ選《せん》手《しゅ》が精神を高揚させる目的で踊るワイクーという踊りを踊っていた。
「ずんたたたずんたたたた!」
自分でリズムを口ずさみながら、手をくるくる糸巻き車のように回している。
「……みたいだね」
と、ようこもジト目で呟《つぶや》く。啓《けい》太《た》がふっと笑った。
「ま、どっちにしてもようこ。お前の爪《つめ》ならあのへんてこな衣もなんとか引き裂けるだろう。遠《えん》距《きょ》離《り》がダメなら近距離で」
ひゅんと床を蹴《け》り出す。
「ぶち込んでやれ!」
「おっけえ」
ようこも頷《うなず》いて後に続いた。啓太は宙に舞《ま》って後ろ回し蹴りの姿勢を取った。死神は踊るのを止《や》め、目を細めた。
「汝《なんじ》、形《けい》意《い》拳《けん》か?」
ほんのわずかに出した手の平で啓太の渾《こん》身《しん》の蹴りをあっさり受け止めた。
「は!」
だが、啓太もそこから信じられない動きを見せた。思いっ切り身体《からだ》を捻《ひね》るとさらに反対側の踵《かかと》で死神の側頭部を狙《ねら》ったのだ。
しかし。
「自己流が過ぎる上に、工《クン》夫《フー》が足《た》りぬ。出直してこい!」
死神は面《めん》倒《どう》くさそうにそう言って、まるでお手玉でも放るように啓太の身体を宙高く放り捨てた。
「あわわわわわあ!」
啓太は悲鳴を上げて、天《てん》井《じょう》近くまで軽々放り出される。大きな放《ほう》物《ぶつ》線《せん》を描き、床に打ちつけられ、ごろんごろんと転がって壁《かべ》に激《げき》突《とつ》した。
咄《とっ》嗟《さ》に受け身はとったものの息が詰まり、激《はげ》しく咽《む》せ込む。それでも堪《こら》えて跳《は》ね起きた。その間、ようこが死神に襲《おそ》いかかっていた。
「この! この! この!」
と、振るうようこの爪を死神は後退しながら軽やかにかわしていた。凄《すさ》まじい斬《ざん》撃《げき》がかすりもしない。
「おやおや、元気なイヌガミのようこだ」
そして。
「気に入った。汝の恐怖を是《ぜ》非《ひ》とも覗《のぞ》いてやろう」
死神は啓太に背を向ける恰《かっ》好《こう》になった。
「待っていろ、ようこ!」
啓太が加勢に駆《か》け出す。その時。振り上げられたようこの手がいきなり固まった。一体何を見たのか。
その顔が恐怖によって激《はげ》しく歪《ゆが》み、強《こわ》張《ば》っていた。
さらに、
「う」
あっさりと伸ばした死神の手に額《ひたい》を掴《つか》まれる。
次の瞬《しゅん》間《かん》。
「うわあああ───────────────ん!」
と、叫んでそのまま、床にぐしゃりと崩《くず》れ落ちた。
「う〜ん、いぬう、いぬう」
と、がくがく震《ふる》えながら白い泡を吹《ふ》き、うなされ始めている。
啓《けい》太《た》は踵《かかと》で急ブレーキをかけ、絶句していた。今見ている光景が全く信じられなかった。ケイの説明で死神が額に恐怖を流し込むことが出来るのは知っていた。だが、その前段階でようこの動きが簡《かん》単《たん》に止まったことが全く解《げ》せなかった。
あり得ない!
「ふざけろ! てめえようこに一体なにをした!?」
と、啓太が本気で激《げき》して叫んだ。
「くは。この娘はそうか……犬を恐れるのか」
死神がゆっくり振り返る。そのフードの奥にぐるぐる渦《うず》巻《ま》きの、本当にマンガチックな眼鏡《めがね》をつけていた。
「へ?」
啓太が握っていた拳《こぶし》を思わず下ろす。死神はふんと不満そうに鼻を鳴らした。
「死神の黒衣といい、この眼鏡といい気に食わぬデザインだがな。いた仕方ない。我は恐怖を司《つかさど》る者。相手をはっきりと視認すればその者の恐怖を看《み》取《と》り、そこへ陥《おとしい》れることなぞ全くもって造作ないのだ」
「いやあ、ぶるっどっくう」
ようこが泣きながら身体《からだ》をがくがく痙《けい》攣《れん》させている。
「な」
啓太は唖《あ》然《ぜん》とした後、
「なんだよ、それ! おい、こら、汚ねえぞ! 見ただけで相手がなんとかなるならエロ本だって、アダルトビデオだって別にいらんわい!」
動《どう》揺《よう》を隠《かく》し切れず、啓太は訳《わけ》の分からない抗《こう》議《ぎ》をあたふたとした。ただ見られるだけで精神を壊《こわ》されるというなら本当に勝ち目など全くなくなる。
だが、死神は薄《うす》く笑っているばかりだ。
「仕方あるまいて。これが我の力なのだから……ど〜れ、汝《なんじ》の恐怖も一つ覗《のぞ》いてみるか」
腰をかがめながら冷やかすように啓《けい》太《た》を見やった。
「く」
と、啓太は両腕で必死に顔を庇《かば》っている。だが、そんな防御など全く関係なく圧倒的な感情の波が啓太に襲《おそ》いかかってきた。死神の身体《からだ》が一《いっ》瞬《しゅん》で巨大化し、その眼鏡《めがね》の中に吸い込まれていくような錯《さっ》覚《かく》を覚えた。
『恐怖』が。
啓太を完全に支配した。
「あ」
啓太は震《ふる》え、
「ああ」
表情をなくした。
「くはははははは! 怯《おび》えろ! すくめ! 汝《なんじ》、か弱きニンゲンよ!」
立ちすくんでいる彼が見ている光景。それは、
『ケイタのバカ! さてはそっちに行く気だったなああ!』
というつい最近見たようなようこの怒った顔であり、
『この浮気者!』
と、噛《か》みかかってくるようこであり、
『あ〜ら、ケイタさん? こんな夜遅くどちらへおでかけかしら?』
と、仁《に》王《おう》立《だ》ちになって玄関でくすくす笑っているようこであり、
『……ねえ、種族を超えた恋って存在すると思う?』
という妙に恥《は》ずかしそうなようこであり、
『ケイタ。我《が》慢《まん》しなくていいよ』
という艶《なま》めかしくも色っぽい吐《と》息《いき》だったりした。啓太はそこで踏《ふ》ん張り、足を床にしっかりつけ、コメカミに血管を浮かせ、
「俺《おれ》はまだ所帯を持つ気はさらさらねえええええ───────!」
と、叫んで死ぬほどの恐怖を思いっきり振り払った。死神はあまりの恐怖対象にあんぐりと口を開けているだけである。
その間、啓太はぜいぜい荒い怠をついている
「お、恐ろしい攻《こう》撃《げき》だったがな。俺には効《き》かないぜ? なにしろこちとら毎日その命がけと一《いっ》緒《しょ》にいるんだからな。いい加減、慣《な》れもするさ」
にやっと笑って顎《あご》下《した》の冷や汗を拭《ぬぐ》い、睨《ね》め上げた。
「汝……他《ほか》にもっとまともな怖いものはないのか?」
死神がかなり呆《あき》れたように尋《たず》ねる。
「というか、何故《なぜ》、そこまでしてオンナを追う?」
「あったりまえだろ! そこにオンナが待っているからだ!」
「むう。稀《まれ》にいる。恐怖を持たぬ者か……」
「とにかくな! てめえのその切り札、俺《おれ》には一切通じねえぞ! 観《かん》念《ねん》しな!」
啓《けい》太《た》は指を突きつけて、ことさらそう挑発的に言い放った。目をほんの一《いっ》瞬《しゅん》だけちらっと走らせ、昏《こん》倒《とう》しているセバスチャンと、床の上でぴくりとも動かなくなったようこと、隅の方でがくがく震《ふる》えている新《しん》堂《どう》ケイの様《よう》子《す》を見て取っている。
「切り札?」
死神が心外そうに目を細めた。
「これが? バカを言うな。我にとって恐怖を操《あやつ》ることなど、ほんの些《さ》細《さい》な余《よ》興《きょう》に過ぎぬ」
「うそつき!」
「うそではない」
「絶対うそだね! うそだ! うそじゃないなら証《しょう》拠《こ》を見せてみろ、おら!」
「くは!」
死神が天《てん》井《じょう》を向いて哄《こう》笑《しょう》した。
「くは!」
手を大きく広げ、
「挑発しているのか? 我の手の内を見ようと? くは。ここまでいじましいと逆に甚《はなは》だしく滑《こっ》稽《けい》だな、イヌガミツカイサン。だが、我はお望み通り、汝《なんじ》の挑発にのってやろう。汝に天と地ほどの力の差を見せつけ、いかなるあがきも無力だということを知らしめてやろう。ほんのちょっとだけな?」
にやっと笑って、
「さあ、絶望が奏《かな》でる歌を聞け!」
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
起こったのは形容しがたい異音だった。それは死神の喉《のど》の奥から放散された気の遠くなるほど巨大な霊《れい》力《りょく》の宿った息吹《いぶき》だった。
啓太が驚《おどろ》きのあまり小さく口を開けていた。
ケイが恐怖に目を見開いていた。
次の瞬《しゅん》間《かん》。
白い閃《せん》光《こう》が建物全体を包んで大《だい》爆《ばく》発《はつ》を起こした。
ぱらぱらと壁《かべ》の建材の一部がまだ崩《くず》れている。
夜風がびゅるりと頭上を舞《ま》った。天井と、そして四方の壁が完全に吹《ふ》き飛んでいた。部屋は既《すで》に原形を留《とど》めていない。そればかりではない。この部屋の土台はまだ辛《かろ》うじて床を支えていたが、壮大な屋《や》敷《しき》の二階部分は全《すべ》て崩《ほう》落《らく》を起こしていた。
ちょうどこの部屋だけが大海に取り残された小《こ》島《じま》のようにぽつんと宙に浮いているのだ。
「おやおや」
たった一人部屋の中央に立った死神が静かに微笑《ほほえ》んだ。
「ニンゲンは自身だけでなく、住む場所も随《ずい》分《ぶん》と脆《もろ》いな」
啓《けい》太《た》がシャンデリアに押しつぶされ、前のめりで倒れ込んでいた。セバスチャンは建材に埋もれる形で壁《かべ》に寄りかかり、気を失っていた。粉々に砕《くだ》けたキャビネットの上にようこが仰《あお》向《む》けになって横たわり、虚《うつ》ろな目を見開いていた。
その瞳《ひとみ》には既に力が無く、だらりと垂《た》れ下がった右手から手首にかけて一筋の鮮《せん》血《けつ》がつうっと伝わった。その中で死神は大きく手を広げ、震《ふる》えている。
「おお、なんとうつくしい……」
天上の月と星々。
眼下に広がる街の光。その全てがモノトーンの死神を深い陰《いん》影《えい》で際《きわ》だたせていた。
「あ……ああ」
小さな声が部屋の隅の方から聞こえてくる。
死神はふと我に返ってそちらの方へ目を向けた。ケイが古ぼけたクマの縫《ぬ》いぐるみにしがみついて、がくがく震えていた。
「ふ」
かちゃっと割れたガラスを踏《ふ》みしめ死神はそちらへ近づいた。
「安心しろ、ケイ。契約通り汝《なんじ》は今日《きょう》は殺さぬ。この者たちも死んではおらぬ。なにしろ我はちゃんと手加減をしたのだからな? 致命傷を負わぬよう気をつけて、気をつけて。まるで生まれたての赤子を取り上げるようにな[#「まるで生まれたての赤子を取り上げるようにな」に傍点]?」
ぱりんと皿を踏み砕き、勝ち誇った笑《え》みを浮かべて死神が顔をケイに近づける。ケイは泣いているような、笑っているような歪《ゆが》んだ顔で痙《けい》攣《れん》していた。
「ああ」
死神は深いエクスタシーの溜《ため》息《いき》をついた。
「我は汝のその怯《おび》え顔《がお》がたまらなく大好きだ」
ケイ。最後の新《しん》堂《どう》家《け》よ。
そう呟《つぶや》いてうっとりその白い手を彼女の額《ひたい》に伸ばす。その時。
「は、はきさんめいくんの」
と、震え声が聞こえ、
「つぐ」
こつんと小さな堅いモノが死神の後頭部に当たって、その動きを止めた。死神はすうっと背《はい》後《ご》を振り返る。そこに満《まん》身《しん》創《そう》痍《い》の川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》が立っていた。ケシゴムに霊《れい》力《りょく》も込められないほど、服も身体《からだ》もずたぼろだったが瞳《ひとみ》だけは強い光を放って、
「や、やくそくやぶってるんじゃ、ねえよ」
げらげら笑っていた。よろめくように反《そ》っくり返り、
「てめえはあす」
小刻みに震《ふる》える指を前に突きつけ、
「あす、おれが」
「なんだ?」
「必ず! た、たおすか、ら……それまで」
そして。
電池が切れたように啓太の目が輝《かがや》きを失う。同時にずしゃっと前のめりに崩《くず》れ落ちた。
「ふん。やはり虚勢だったか……」
俯《うつぶ》せで啓太は失神していた。振り返ると新《しん》堂《どう》ケイもまた同様。目の光を失い、呆《ぼう》然《ぜん》と空を見上げていた。
「く」
死神は喉《のど》の奥を震わせた。
「くはははははははははははは! 明日《あした》! 明日か! 面《おも》自《しろ》いぞ、イヌガミツカイサン!」
歩いていて啓太の後頭部をずしゃっと踏《ふ》みつける。
「ならば明日はちゃんと刻限通り現れ、汝《なんじ》のあがきっぷりとくと見せて貰《もら》おう! そしてその時こそ恐怖を、真の恐怖を汝に叩《たた》き込んでやる!」
ぐりっと踏みにじる。
血《ち》溜《だ》まりが啓太の顔からじわっと広がった。
「くはははははははははははははははははははは!」
圧倒的な哄《こう》笑《しょう》。
それは天に届かんばかりに高鳴り、やがて掻《か》き消えていく。
啓太と、そしてようこが初めて敗れた瞬《しゅん》間《かん》だった。
この世に生を受けた時。
産婦人科医より、看《かん》護《ご》婦《ふ》より、そして母親よりも早く彼女を抱き上げたのは死神だった。まだ十代の母は産みの疲れからほとんど動くことが出来なかった。
医者と看護婦は呆《ぼう》然《ぜん》としていた。
死神はゆっくりと生まれたてのケイを揺《ゆ》すって優《やさ》しくこう囁《ささや》いたらしい。
「楽しませてくれよ。新しい命」
物心つくくらいまではそれでも死神は新堂ケイの生活にそれほど大きな影《えい》響《きょう》は与えなかった。何しろ死神がやってくるのはたった年に一度のことである。たまらない恐怖を与えられてもそれは時間がいつも癒《いや》してくれたし、注射やオバケや嫌いなピーマンの方がよっぽど切実な問題だった。
新《しん》堂《どう》ケイはまだ知らなかったのだ。
己《おのれ》に待ち受けている運命を。
小学生の高学年くらいになった時、二つの疑問を抱いた。何故《なぜ》、自分には他《ほか》の子のように両親がいないのだろう?
そして何故、他の子のようにお誕《たん》生《じょう》会《かい》を開いてはイケナイのだろう?
養育係で、執《しつ》事《じ》で、後《こう》見《けん》人《にん》でおよそケイのたった一人の家族だったセバスチャンにそのことを尋《たず》ねてみた。
セバスチャンはケイが生まれてから初めて見るとても辛《つら》そうな顔をした。
「お嬢《じょう》様《さま》」
彼はケイの肩に無《ぶ》骨《こつ》な手を置いて哀《かな》しそうに微笑《ほほえ》んだ。
「お嬢様はこのセバスチャンが命に代えてお守り申し上げます」
そんな意味の分からない言葉は聞きたくなかった。
何故、両親がいないのか。
何故、お誕生会を開いてはイケナイのかだけが知りたかった。
ケイにとって自分が生まれた日は全く奇妙なモノだった。毎年、毎年、筋骨隆々の豪《ごう》傑《けつ》や徳の深そうな高僧や不《ふ》思《し》議《ぎ》な術を使う異国の霊《れい》媒《ばい》師《し》がやってきては死神に倒され、それを見せつけられ、悲鳴を上げ、最後には自分の額《ひたい》から恐怖が流れ込んでくる。
ケイはその行事を自分と結びつけて考えることがどうしても出来なかった。
「あんなのもういやだ!」
九歳になったケイは誕生日の当日、セバスチャンに黙《だま》って家を出た。クラスメートがわざわざ自分のために開いてくれた誕生パーティーに出席するためだ。
そこは夢のような場所だった。
いつもよりお洒落《しゃれ》に装ってお澄《す》ましした女友達がいた。ちょっと憧《あこが》れの意中の男の子もいた。幸せだった。ところが、ジュースを飲み、お菓子を摘《つま》み、笑い合っているその最中のことだった。どこからともなく勇壮な軍歌が聞こえてきた。
それは毎年いつも死神が現れる刻限のことだ。
事《じ》態《たい》が理解できず騒《さわ》ぎ始めた子供たち。ぱふんとスモークが上がる。だが、ケイだけが驚《きょう》愕《がく》に目を見開いていた。晴れていく煙の向こうに死神が世にも楽しそうな笑《え》みを浮かべて立っていたのだ。
「おお、新堂ケイ。随《ずい》分《ぶん》と珍しいことをやっているな」
死神は笑った。
「だが」
と、加《か》虐《ぎゃく》的《てき》な笑《え》みを浮べたまま、
「汝《なんじ》にはちょっと過ぎたことではないのかな、これは?」
ロウソクが九本立ったケーキを無《む》慈《じ》悲《ひ》に手の平で叩《たた》きつぶした。悲鳴を上げ、逃げまどう子供たち。その声を聞いて部屋に飛び込んでくる大人《おとな》たち。新《しん》堂《どう》ケイはその時、初めて悟った。死神の明《めい》確《かく》な悪意が自分へ向けられていることを。
怒りが込み上げてきた。
満身の、魂の底からの強烈な怒りにケイは顔を歪《ゆが》めて叫んだ。
「じゃましないでよおおおおおおお────────!」
折《せっ》角《かく》。
折角、初めて味わったこの気持ちを踏《ふ》みにじられて堪《たま》るか!
ケイは駆《か》け出していって思いっきり死神に拳《こぶし》をぶつけた。倒せるモノなら、その小さな握り拳で相手を打ち倒したかった。だが、死神は、
「おお、汝もいよいよ一丁前に向かってくるか」
嬉《うれ》しそうに笑った。たったそれだけのことだった。それから、額《ひたい》にクリームにまみれた手の平を押し当てられ、
「ならば、知れ」
そして。
そして。
ケイは思い知らされた。
自分が二十歳《はたち》で死ぬべき定めであることを。
両親の辿《たど》った運命も。
全《すべ》て不《ふ》可《か》避《ひ》に。絶望的に残虐に。どうしようもなく宿命的であることを映像と音声と記《き》憶《おく》の混合物で細胞の一つ一つまで染《し》み込むように思い知らされた。
初めてのお誕《たん》生《じょう》会《かい》で。
初めての祝福の場で。
ケイの瞳《ひとみ》から一滴の涙が流れ、彼女は力尽きたように座り込んだ。死神の高笑いが遠くから聞こえていた。怒号を上げる大人たちの声が聞こえた。泣き出す子供たちの声が聞こえた。ケイはぼうっと天《てん》井《じょう》を見たまま呟《つぶや》いた。
「ああ、そうだったんだね……ようやく分かったよ、セバスチャン」
そして、その日以後、ケイは一切のトモダチを失った。寄るべき場所をなくした。未来から目を逸《そ》らし、なにより『生きる』意味を見失った。
なにもなくなった。
歌っているのは死の歌である。
もう生きていたくない。
辛《つら》いことは見たくない。自分が生き続けていれば、毎年、毎年、恐怖を味わわされ、否《いや》応《おう》なく沢《たく》山《さん》の人が傷ついていく。
それが苦しかったから。
辛かったから。ケイは積《せっ》極《きょく》的《てき》に生を受容するのをもう止《や》めた。
学校も中学で終え、物事を覚えることも、他人《ひと》と知り合うことも、大きく笑うことも、激《はげ》しく泣くことも避《さ》けるようにした。
ただ、どうしても気持ちが辛くなった時。そんな時、ケイは死の歌を歌った。そうすると不《ふ》思《し》議《ぎ》と少しだけ気が楽になった。
今、ケイは瓦《が》礫《れき》の上。
星空の下。あの時、お誕《たん》生《じょう》会《かい》に着ていった服と同じ黒いドレスを着ていた。ぼんやりと歌いながら明日《あす》を待っていた。
死神が訪れ、自分の命を刈《か》り取ってくれるその瞬《しゅん》間《かん》を。
「なあ、風《か》邪《ぜ》引くぞ?」
ふわっと暖かい白いケープを肩にかけてくれた人がいる。
「あなた」
ケイは虚《うつ》ろに笑った。
「まだいたんだ」
それは川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》という名前の犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いの少年だった。いつの間にかジーパンにTシャツという姿に着替えて、額《ひたい》にぐるぐる包帯を巻き、鼻の頭には特大の絆《ばん》創《そう》膏《こう》をつけている。ケイを守るために傷を負ったのだ。
「いたさ」
「早く帰りなさい」
ケイは溜《ため》息《いき》混じりに呟《つぶや》いた。
「俺《おれ》は帰っていいのか?」
と、川平啓太。
「もちろん」
ケイは優《やさ》しく微笑《ほほえ》む。
「あなたは本当によくやってくれたわ。わたしから御礼が出来なくて残念だけど、セバスチャンに聞いて銀行口座から適当に引き出していって。それとこの家に転がっているモノは幾《いく》らでも持って帰ってくれて構わないわ。どうせわたしが新《しん》堂《どう》家《け》最後の当主だもの」
「いいのか?」
「もちろん。わたしはもう疲れたの。早く死神が来ないか待ってるの。もう見たくない。あなたたちが傷つくところも、人が死ぬところも……そうそう。わたしの最後のお願《ねが》い聞いてくれる?」
「なんだ?」
「お金を貰《もら》ったら、セバスチャンを殴り倒してどこかに監《かん》禁《きん》して」
「なぜ?」
「きっとわたしのそばに残るっていうから」
「……」
啓《けい》太《た》は答えない。ケイは微笑《ほほえ》んだ。本当に優《やさ》しく、
「さようなら。どうか幸せになってね」
啓太は答えない。背を向け、歩み去っていく。軽く片手を上げて、
「あんたさ、歌の才能、結構あると思うよ」
暗《くら》闇《やみ》の中に消えていった。ケイは笑った。
また静かに歌い出す。
死の歌を。
「おや、まだいらしたのですかな?」
崩《くず》れた壁《かべ》の残《ざん》骸《がい》に腰掛け、ようこはクマの縫《ぬ》いぐるみを弄《もてあそ》んでいた。見るとセバスチャンがやれやれと苦笑を浮かべて立っていた。
「メイドたちと一《いっ》緒《しょ》にワゴンで帰ったものだとばかり思っておりましたぞ」
「うん、でもケイタがね、頂くモノまだ頂いてないって」
「なんだ。それなら心配ご無用です。さっきお話ししたとおり、夜が明け次第、銀行から送金致しますので。少し色もつけさせて頂きますぞ」
セバスチャンはにっこり微笑む。
ようこは包帯が巻かれた右の手でぽりぽりと頬《ほお》を掻《か》いた。
「多《た》分《ぶん》そ〜いう意味じゃないと思うんだけど……」
セバスチャンは、
「さ、自分はこれからちょっと日《にっ》課《か》のトレーニングをして参ります。早くお帰りなさい。あなたたちは本当によくやってくださいましたよ」
そう言って背を向ける。ようこは頬《ほお》杖《づえ》をついて小さく呟《つぶや》いた。
「無理だよ」
「はい?」
と、振り返ってセバスチャン。
「なにがでしょうか?」
ようこは薄《うす》目《め》のままさらに続ける。
「あなたが考えていること。無理って言ったの。アイツはあなたじゃ絶対倒せない。あなたがいくら厳《きび》しいトレーニングを積《つ》んでも、あなたがたとえどんなに強くなってもアイツには絶対に勝てない。それでもあなたはアイツと戦うの?」
セバスチャンがにっこりと曇《くも》りのない表情で頷《うなず》いた。
「はい」
と、一言迷いなくそう答える。
「たとえこの身がどうなろうと」
「なんで?」
ようこは立ち上がっていた。
「なんでそこまでするの? よく分からないんだけど」
セバスチャンが哀《かな》しそうな目をして微笑《ほほえ》んだ。
何かを思い出すようにぽつりと、
「ようこさん。自分はもう臆《おく》病《びょう》者《もの》になるのはいやなのですよ」
「あなたは臆病者じゃないと思うよ、セバスちゃん」
「臆病者です。奥様」
ぐっとセバスチャンが拳《こぶし》を握《にぎ》りしめる。
「ケイ様のお母様に当たる方をお守りするためその場にありながら、死神が怖くて逃げ出したただの臆病者なのです」
ようこは困《こん》惑《わく》して言葉に詰まっている。
「……どういうこと?」
やがてそう尋《たず》ねた。セバスチャンは自《じ》嘲《ちょう》めいた笑《え》みを浮かべた。
「その言葉通りですよ。二十年前、自分はレスラーとして、他《ほか》の武道家や霊《れい》能《のう》者《しゃ》と一《いっ》緒《しょ》に奥様の二十歳《はたち》の誕《たん》生《じょう》日《び》に集まりました」
感情を押し殺しながら過去の思い出を一つ一つ語っていく。
「そんな訳《わけ》の分からないモノは俺《おれ》がきっと退治してやる、俺に任せろって呼ばれもしないのにのこのこ押し掛けて……バカでした。真っ向からアイツにプロレス技で挑んで返され、叩《たた》きのめされ、恐怖を頭に……手足を幾《いく》度《ど》もへし折られる恐怖を頭に流し込まれて、自分は悶《もん》絶《ぜつ》しました。そしてその後、死神に尋ねられたのです。『お前はこの娘を守るモノか? 守るモノだったら殺すし、守らないモノだったら逃がしてやる』って皆の目の前で」
セバスチャンは大きく震《ふる》え始める。
「自分は……その時、自分は」
手の平をわななきながら見やった。まるで信じられないモノでも見やるような目で。
ようこが低い声で遮《さえぎ》った。
「セバスちゃん。もういいよ」
だが。
「自分は裏切りました!」
「いいってば!」
「言ったのです!『助けてくれ』と! レスラーとしての矜《きょう》持《じ》を忘れ、男としての誇りを忘れ、惨《みじ》めに懇《こん》願《がん》してしまったのです! あの卑劣な死神に『どうか殺さないでくれ』と泣きついてしまったのです!」
一度流れ出た記《き》憶《おく》と感情の奔《ほん》流《りゅう》はもう止まらない。セバスチャンは荒い息と共に思いをただ吐き出し続けた。
「奥様はそんな自分を笑って許してくださいました。『いいんですよ』ってまだほんの二十歳《はたち》の娘さんだったのに……奥様の同級生だった旦《だん》那《な》様《さま》は勇敢に戦われたのに」
いつの間にか大粒の涙がセバスチャンの頬《ほお》を伝わっていた。
涙は後から後から勝手にこぼれ落ちた。
「旦那様はごく普通の青年だったのですよ? 物静かな文学者だったあの方が奥様を守るために刀を振るったのに、他《ほか》の者たちは死を恐れず誇らしく散っていったのに、リングの上で誰《だれ》よりも強いと自《うぬ》惚《ぼ》れていたこの自分は小さく縮《ちぢ》こまって隅っこで震《ふる》えていた」
おおうっと一《ひと》際《きわ》大きな鳴《お》咽《えつ》が漏《も》れた。
「自分は……自分がその時からずっとずっと許せなかった」
震え声。
深い怒りと屈《くつ》辱《じょく》に満ちた背中。
ようこはそっとセバスチャンのその大きな背中に手を置く。
「悔《くや》しくて……それから何度やっても、何度やっても勝てなくて……あいつにあの傲《ごう》慢《まん》な死神に一《ひと》太刀《たち》も浴びせられなくて悔しくて」
慟《どう》哭《こく》。ただひたすらの慟哭。
「鍛《きた》え、鍛え抜いてきたはずのこの身体《からだ》なのに……戦い、戦い抜いてきたはずのこの心なのにどうしても勝てない。自分はたった一人の女の子を守ることも出来ない」
拳《こぶし》で地面を叩《たた》いた。
「あんなにいい子を守れない。お嬢《じょう》様《さま》を守れない! たったそれだけでいいのに! もうそれだけでいいのに!」
ごんごんと拳で何度も叩いた。
この拳は誰も守れない。
それが何より悔しくて。
後はずっと声を押し殺してただただ啜《すす》り泣いている。
「よ〜やく」
ようこがすっくりと立ち上がった。とんと軽やかに足《あし》踏《ぶ》みし、
「よ〜やくなんであなたが戦うかその理由がはっきり分かったよ」
涼《すず》やかに微笑《ほほえ》んだ。
「あなたもきっとご主人様が大事なんだよね」
月の光を全身に浴びて、顔を上げる。
ふっと細めたその視《し》線《せん》の先。
「でもね、きっと」
その視線の先には川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》がいる。
ようこのおかしそうな目を受けてふんと鼻を鳴らした。彼はたった一カ所だけ浮島のように残った二階の部屋に立っていた。
ちょうどその場所だとセバスチャンやようこはもちろん丘の下に広がる街の光とその遙《はる》か先の海が一望できた。
啓太は、
「あ〜あ。ほんと今日《きょう》は厄《やく》日《び》だ、厄日だ」
と、呟《つぶや》いて大きく背伸びするように空を見上げる。
無数の星の煌《きら》めきが綺《き》麗《れい》だった。
「啓太様」
その時、聞こえてきたのはそんな声だった。啓太が振り返ると夜の暗《くら》闇《やみ》から抜け出て、白《しろ》装《しょう》束《ぞく》のはけがすとんとそばに降り立ったところだった。夜風に漆《しっ》黒《こく》の前髪が少し揺《ゆ》らぐ。ひどく気《き》遣《づか》わしげな微笑みを浮かべていた。
啓太の方に歩み寄ってくる。
「聞きましたよ。どうやら大変な相手だったようですね」
啓太が半目になった。
「お前が俺《おれ》を紹介したんだってな、お前が」
「これは」
はけは啓太と同じ視点にまで来て、驚《おどろ》きのあまり軽く目を見張った。
「ひどい……」
付近の木々がこの屋《や》敷《しき》を起点にどこまでも見渡す限り放射状になぎ倒されていた。それはさながら爆《ばく》弾《だん》でも投下されたような有《あり》様《さま》だった。
「ここまでとは……」
はけは掠《かす》れた声で呟いた。
「啓太様、これは」
「お前も俺に引けというの?」
むしろ面《おも》白《しろ》おかしそうに啓太が言った。はけは首を振った。
「いえ、ですが、これは……啓《けい》太《た》様、はっきり申し上げましょう。ここまでの爆《ばく》発《はつ》的《てき》な霊《れい》力《りょく》を持つ者は決していないわけではありません。わたしとようこなら条件が揃《そろ》えば……あるいは。そして、もう一人|犬《いぬ》神《かみ》でも出来る者がおります。ですが」
はけは言葉を選《えら》びつつ、
「この状《じょう》態《たい》で、啓太様たちを無傷に手加減することなどきっと誰《だれ》にも出来ないでしょう」
目を真《ま》っ直《す》ぐに啓太に向けた。
「これは……私が知る限り、これ以上の力を持つ存在はたった一人しかおりません」
「ああ。相手は化《ば》け物《もの》だったよ」
と、啓太が呟《つぶや》く。
「ま、バカだったけどな」
「では」
と、はけが何か言いかけるのをさらに啓太は遮《さえぎ》った。
「でもさあ」
崩《くず》れた壁《かべ》に腕を置き、その中に顔を埋める。
「でも、俺《おれ》さ」
はけはぞくりとした。
その言葉に。
「何故《なぜ》だろう? もう二度と負ける気がしないんだよね、あいつに」
強烈なケモノの目で笑いながら囁《ささや》かれたその言葉に。
震《ふる》えた。
「はけ。おれ今ね、怒ってるんだよ。すごく」
はけの胸に何かが込み上げてくる。それは一《いっ》瞬《しゅん》のイメージだった。遠い昔、「突貫」と叫んで坂道を駆《か》け下りた幼い少女の姿。
「私は」
はけはふいに湧《わ》き起こってきた震えを押し殺すようにして呟いた。
「もしかしたらこれが見たくてあなたを……あなたのそれがずっとただただ見たかっただけなのかも知れません」
「あん?」
もう素《す》の状態に戻った啓太が顔を上げていた。
「どういう意味?」
「いえ。ただ」
はけは首を横に振った。微笑《ほほえ》む。
「どうかご命令を。そう申し上げたかったのです、啓太様」
「おし」
啓《けい》太《た》はにっと笑った。
「死神倒すぞ」
翌日。
運命の日。今にも没しそうな太陽の真《ま》っ赤《か》な光を浴びながら海岸沿いを周回する一《いっ》隻《せき》の飛行船内に啓太たちはいた。
「ん」
啓太はどっかり胡座《あぐら》をかいて、フライドチキンを食べていた。セバスチャンが恐《きょう》縮《しゅく》したように詫びる。
「申《もう》し訳《わけ》ありません。用意が足《た》りず、そんなファストフードで」
「なになに」
もぐもぐと口を動かして啓太。
「うん。充分おいし〜よ、これ」
パイプ椅《い》子《す》に座っていたようこも笑う。
「さようですか」
セバスチャンが丁《てい》寧《ねい》に一礼をして微笑《ほほえ》んだ。
「それはよかった」
「ん〜」
後ろ手に縛《しば》られ、猿《さる》ぐつわをかけられた新《しん》堂《どう》ケイが唸《うな》っていた。死神に狙《ねら》われた悲《ひ》劇《げき》の少女は首を起こし、もの凄《すご》い形《ぎょう》相《そう》で啓太を睨《にら》む。
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
じたばたと足を動かした。啓太はちらっとそちらに目をやってから、
「いや、でもセバスチャンさん。マジでよく一日でこれだけ調《ちょう》達《たつ》してくれたな」
ぺろっと指に付着した油を舐《な》めた。
ケイのことは全く無視している。この飛行船内の二十|畳《じょう》ほどの貨物スペースには何故《なぜ》か四角いリングが設置されていた。
「完全に下界から隔絶された場所、というご注文でしたからな」
と、セバスチャン。啓太も頷《うなず》き、
「いや、結界で四方を塞《ふさ》ぎたかっただけなんだけどな。確《たし》かに海に船を浮かべるよりこっちの方が宙に浮いている分、やりやすいし、楽しいわな」
「はあ、多少お金はかかりましたが」
「このリングを作るのも大変だったろう?」
「これは元々あったものを搬《はん》入《にゅう》しただけなのでそんなには。ただ、飛行許可とか、操《そう》縦《じゅう》士《し》の手配とか、その他《ほか》色々が少々大変でして……まあ、自分、これが終わったらしばらく裁判所通いが続きそうな予定です。はい」
「……とりあえず聞かなかったことにしておくよ」
啓《けい》太《た》は半目でそう呟《つぶや》き、ぐっぐっと身体《からだ》の筋を伸ばし始めた。ようこはまだチキンの骨回りについた肉をガジガジ囓《かじ》っている。
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜!」
新《しん》堂《どう》ケイがまな板の上の魚のようにじたばた暴《あば》れた。
「だああ〜〜、うるせえなあ」
啓太がめんどくさそうにそちらを見やる。
「ちきん欲しいのかしら?」
ようこが真顔でそう呟いた。ケイの猿《さる》ぐつわをずらして、
「いる? ちきん? 骨だけだけど」
「いらないわよ!」
新堂ケイが叫んだ。
「それよりあんたたちなんでここに一体わたしを!」
甲《かん》高《だか》い声で喚《わめ》き始める。ようこがすっと猿ぐつわを元に戻した。口元に手を当てくすくすといじめっ子の顔で笑っていた。
啓太は耳の穴を小指でほじりながら、溜《ため》息《いき》をついた。
「しかたねえ。本当はセバスチャンさんに担《かつ》いで飛んで貰《もら》うつもりだったけど……おい、ケイ。大人《おとな》しくするって約束するなら縄《なわ》も全部取ってやるし、事情も説明してやる」
「……」
ケイが黙《だま》り込んだ。
「約束するか?」
そう目を覗《のぞ》き込んで尋《たず》ねられ、しばらく悩んだ末に、
「ん」
こくんと頷《うなず》いた。啓太の合図を受けて、ようこが縄を解《ほど》く。新堂ケイは上半身を起こし、縛《しば》られていた手首をさすってからすうっと大きく息を吸い込んだ。深く目を閉じ、喚こうか、怒ろうか迷ってから結局、うっすら目を開き、いつもの無表情を選《せん》択《たく》した。
「で、要するにこれは一体どういう茶《ちゃ》番《ばん》なの?」
「あれ」
啓太はリングを指差した。よく見ると彼は裾《すそ》の長いトランクスにガウンをまとい、リングシューズを履《は》いていた。ガウンの胸元には『All Ladies are mine(オンナは全部|俺《おれ》んだ!)』のロゴ。
彼は続けて言った。
「あれはボクシングのリングなんだ。あの暴《ぼう》力《りょく》の海≠チて死神は相手が特定の格《かく》闘《とう》技《ぎ》で来た場合、それと同じスタイルで戦うっていう条件持ってるだろう? だから」
今度はロープにぶら下がったグラブを示す。
「俺《おれ》がアレで戦う」
「戦うって」
ケイは絶句。
「あなたボクシングの経《けい》験《けん》なんてあるの?」
「ないよ」
と、いともあっさりと啓《けい》太《た》。
「全くない。ま、でも心配するな。このリングサイド回りには結界張るから」
にっと笑って、
「あいつは絶対逃がさない[#「逃がさない」に傍点]」
「ふ、ふざけないで!」
ケイの瞳《ひとみ》に怒りが滾《たざ》る。
「知ってるでしょう!? 見たでしょう? 相手はアイツなのよ? 死ぬのよ? もう怖い思いをするだけじゃ済まないのよ? あなたは死ぬの! 死んじゃうのよ? それでもいいの?!」
啓太はその感情の波をあっさりと受け流して、
「死なないよ、俺は」
ぽんと手の平をケイの頭に置き、軽く笑って告《つ》げた。
「だって、今日《きょう》が命日になるのはあの死神の方だから」
ケイは唖《あ》然《ぜん》として言葉を失っている。セバスチャンがこほんと咳《せき》払《ばら》いして補足した。
「お嬢《じょう》様《さま》。川《かわ》平《ひら》さんはちゃんと勝算があってああ仰《おっしゃ》っておられるのですよ」
「そ〜そ。わたしもついてるしね♪」
と、ようこが指を立てる。
彼女はアイボリー色のショートパンツに『Enough is enough!(バカ言ってんじゃないわよ!)』というロゴの入ったTシャツ姿だった。首からは白い手ぬぐいをかけているから、ボクシングのセコンドのようにも見える。
「ば、ばかみたい」
ケイは震《ふる》えながら顔を強《こわ》張《ば》らした。
「ほんとバカみたい。おかしいわよ! あなたたちおかしいわよ! いいのに! わたしはもう覚悟は出来てるのに! 死にたいのに!」
啓太が困ったような顔でようこを見た。にっと笑って肩をすくめているようこ。ケイのヒステリックな糾《きゅう》弾《だん》は続いた。
「バカにしてるでしょ? 舐《な》めてるでしょう? そんなやったこともないボクシングだなんて! どうにかなるって高をくくってるでしょう? 知らないでしょう? どれだけ辛《つら》いのか! 生きてることが本当に辛いのか! 知らないでしょうううう!?」
「お嬢《じょう》様《さま》!」
「死んでよいのに! わたしなんかもう死んでもいいのに! 死にたいのにいいい!」
「いい加減にしなされ!!!」
その時、初めてセバスチャンがカッと目を剥《む》いて吠《ほ》えた。がんと渾《こん》身《しん》の力でリングをぶっ叩《たた》く。その大《だい》喝《かつ》に啓《けい》太《た》は思わず背筋を伸ばして、ようこは彼に飛びついている。
びくっとケイは身を震《ふる》わせた。
「な、なによ?」
怯《おび》えた子供の顔で振り返る。
「せばすちゃんまでなによ?」
「お嬢様」
セバスチャンは一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》語った。ケイの華《きゃ》奢《しゃ》の肩に手を置き、哀《かな》しそうな、辛そうな、どうしようもないやるせない表情で、
「あなたのお母様が二十年前、何をされたか分かりますか? 無《む》慈《じ》悲《ひ》な死神を前に何をされたか分かりますか?」
涙が溢《あふ》れ出す。
「あなたのお母様は」
逞《たくま》しい身体《からだ》を震わせながら、
「戦ったのです。その小さく華奢な手で剣を取って、旦《だん》那《な》様《さま》の隣《となり》に並ばれたのです。最後の最後まで諦《あきら》めず死神と向かい合って、そして」
ぐずっとセバスチャンが盛大に鼻を啜《すす》った。
「お願《ねが》いですから、そのお嬢様がそんな情《なさ》けないことを仰《おっしゃ》いますな」
「でも」
ケイは必死で手を振るった。
「でも、無《む》駄《だ》だったじゃない!」
息を切らして、セバスチャンを見上げ、
「でも、無駄だったでしょ? 無駄だったじゃない! 全部、無駄だったのよ!」
彼の肩を揺《ゆ》すり、
「ねえ、答えてよ、セバスチャン? 結局、どれだけ抵抗したってお母様は殺された! 勝てなかったでしょ?! お父様と恋をしたことだって、わたしを産んだことだって、結局、全《すべ》てが無駄だった! 違うの! ねええええ!? 違うの、セバスチャン!? 答えてよおおおおおおおおおお!」
「無駄じゃねえよ」
その時、ぽつりと呟《つぶや》き声が聞こえてきた。
ケイもセバスチャンもはっとしたようにそちらを向く。啓《けい》太《た》は言った。顔を上げ、はっきり告《つ》げた。
「全然、無《む》駄《だ》なんかじゃねえって」
力強い声で、
「お前のかあさんはさ、きっと知っていたんだよ。たとえ自分がダメでもいつの日か必ず」
ぐっと拳《こぶし》を前に突き出す。
「その死神ぶん殴ってやる奴《やつ》が現れるって」
セバスチャンが息を呑《の》んだ。ひゅ〜とようこが口笛を吹《ふ》く。ケイは思わず口元に手を押し当てていた。そうしないと叫んでしまうかのように。何度も、何度も首を横に振る。啓太はしゃがみ込み、ケイの顔を覗《のぞ》き込んで笑った。
「な? だからさ、全部無駄じゃなかったろう? 全然無駄なんかじゃなかったんだよ」
「な、ん……で」
ケイは途《と》切《ぎ》れ途切れに呟く。
「あん?」
「なんで!」
食い入るように彼を見つめ、叫んだ。
「どうしてあなたはそこまでしてくれるの!?」
「あ〜、え〜と」
啓太はぽりぽりと頬《ほお》を掻《か》いた。
「そりゃあ、もちろんお金のためというかなんというか」
「ウソ! 勘のいいあなたならもうとっくに気がついているはずよ! わたしの家は死神の力で保っている。だからもし」
「お前の歌」
啓太は困ったような顔で遮《さえぎ》った。
「え?」
「あ〜、あのさ、お前の歌ってさ、暗くて、陰気で、ずっと人が『死にたい』、『死にたい』って言ってるだろう?」
「う、うん」
一体、何を言っているのだろう、この人は。
そんな困《こん》惑《わく》と怯《おび》えさえ入り交じった表情でケイが啓太を見つめる。
でも、不《ふ》思《し》議《ぎ》だよな。
啓太はちょっと照《て》れくさそうに笑った。
「なんでだろう?」
自分でもよく分からないんだけどさ。
と、彼は言った。
「俺《おれ》にはどうしてもお前の歌。小さな子供が『生きたい』、『生きたい』って泣き叫んでいるようにしか聞こえなかったんだよ」
一《いっ》瞬《しゅん》、思考が麻《ま》痺《ひ》してケイは表情を無くす。しばしの無言。ようやく彼の言っている意味を理解したその途《と》端《たん》。
ずっとずっと。
封じ込めていた想《おも》いが堅い岩《がん》盤《ばん》の底から溢《あふ》れ、ケイを熱《あつ》く満たした。あの時から……あの誕《たん》生《じょう》日《び》パーティーからずっとずっと止まっていた時間が今、再び動き出す。
「う」
ケイの瞳《ひとみ》に涙が溢れ、
「うわああああああああああああああああああああ───────────────────!」
堪《こら》え続けていたものが一気に迸《ほとばし》る。
「うわあああああああああああああああああ! ああああ─────────! あああああああ─────────!」
そうやって何もかも解《と》き放っていく。想いを全《すべ》て涙と叫び声に代えて解き放っていく。啓太は笑ってその背中を軽く叩《たた》いてやった。
誰《だれ》もが忘れていた祝いの言葉と共に。
「ハッピーバースデー、ケイ」
リング内で膝《ひざ》に折り重《かさ》ねた手を当てて正座している新《しん》堂《どう》ケイ。
「うし、作業終了だな」
すとんと啓《けい》太《た》がコーナーポストから降り立った。
「ケイ。準備はいいか?」
「うん」
ケイは顔を上げた。
その瞳《ひとみ》はもう今までの無気力なものではなかった。はっきりとした意志の光と決然と前を向く力が漲《みなぎ》っていた。
「わたしはいつでも大丈夫」
「お嬢《じょう》様《さま》、ちょっと確《かく》認《にん》を」
セバスチャンが彼女の着ているパラシュート用のベストの点検をする。彼自身も同じモノを羽《は》織《お》っていた。その間、啓太はバンデージの巻かれた手の平に白いびらびらとしたテープのようなモノを乗せ、ケイに渡した。
「これ余った結界だ。下に降りれば作成した当人が待ってるけど一応、渡しておく」
「え?。でも」
「大丈夫。誰でも扱えるお手軽な奴《やつ》だから。その割にすげえ強力だし。いいか? まずあり得ないと思うが、危なくなったらすぐこれを周りに張れ。やり方は見ていただろう?」
「え、ええ」
「そうすれば自分以外は誰も出入りできなくなる。本当はあんたの分も上げたいけど」
と、啓太がセバスチャンを見やった。
「悪いな。あとはあんたらが出ていった跡を塞《ふさ》ぐ分しか残ってないんだ」
セバスチャンは微笑《ほほえ》み、黙《だま》って首を横に振った。
「ありがとう」
ケイはそれを胸元にぎゅっと抱きしめ掠《かす》れ声で呟《つぶや》いた。
「本当にありがとう」
「ほい」
今度は張《は》り巡《めぐ》らされたロープの上に腰掛けていたようこが、古ぼけたクマの縫《ぬ》いぐるみを新堂ケイに放ってよこした。
「それも返すよ。やっぱりあんたのところがいいってさ、そのクマ」
にっと笑う。
「あ、ありがとう」
ケイが受け取って、しどろもどろと礼を言う。
その時である。
静かなボリュームで、それでいて徐々に不安感を煽《あお》るような音楽が辺《あた》りに聞こえ始めた。その場にいた一同は全員はっとして顔を上げた。
ただ一人、啓《けい》太《た》だけが苦笑していた。
「なんだ、今度は? 相変わらず変な演出が好きな奴《やつ》だな」
「ショパンのピアノソナタ第2番の第3楽章……」
ぽつりとケイが呟《つぶや》いた。
「葬《そう》送《そう》行進曲ですな」
セバスチャンが重々しく頷《うなず》く。
「は」
啓太が笑った。
「ははははははははははははは! こりゃ〜いい、あいつ自分のために弔《とむら》いの曲を奏《かな》でてるって訳《わけ》か! お〜し、ならばこっちも準備をしてやらないとな!」
ガウンをリングサイドに放り、マットに転がっていたグラブをはめ始める。ようこが手を伸ばして手伝った。
啓太は口で皮《かわ》紐《ひも》を引きながら言った。
「さ、奴も出てきたし、あんたらはもうここにいる必要ない。行きな」
セバスチャンとケイは顔を見合わせ、こくりと頷《うなず》いた。まずケイがぎゅっと啓太のグラブを両手で握る。
「お願《ねが》い。あいつを必ずぶっ飛ばして……わたしあなたが帰ってきたらどうしても伝えたいことがあるから!」
「頼みますぞ、川《かわ》平《ひら》さん」
同じくセバスチャンがこつんと拳《こぶし》を当てた。そして二人はようこが座っている側からリングサイドへ降り、搭乗口に向かった。そちらでパラシュートの扱いに熟《じゅく》達《たつ》した操《そう》縦《じゅう》士《し》たちが待っているのだ。
彼らにタンデムで飛び降りて貰《もら》う手はずになっている。
音楽のボリュームが圧倒していくように高鳴った。
妖《よう》気《き》がどんどん満ちていく。
「さ、これで二人っきりだね♪」
ようこがロープの上で振り返った。嬉《うれ》しそうだった。
「一《いっ》緒《しょ》にあいつを倒そう! わたし今度こそ絶対に負けないから!」
「ああ」
啓太は両のグラブをこつんと合わせ笑う。
ちょっと気の毒そうな表情で、
「でもなあ、ようこ」
告《つ》げた。
「申《もう》し訳《わけ》ないが、これからちょっとだけ予定変更だ」
そうして、グラブを真《ま》っ直《す》ぐ前に突き出し、とんと軽くようこを突いた。バランスを崩《くず》し、ようこがリングサイドへと落下していく。
信じられないと言うように大きく目を見開いて。
「戦うのは俺《おれ》だけだよ」
啓太ははっきりそう言っていた。
砂浜に無事着地。ハーネスを解《と》き、降下の恐怖で軽く息を乱していた新《しん》堂《どう》ケイの許《もと》へ白《しろ》装《しょう》束《ぞく》の青年がやってきた。
「さ、こちらへ」
と、案内されていった先はちょっとした窪《くぼ》地《ち》だった。真ん中に特大の松《たい》明《まつ》が一本立っていて、その周りを取り囲むようにして円上に篝《かがり》火《び》が焚《た》かれている。
「あ〜、きたきた♪」
「その人が啓太様の依頼人さんですか?」
そこには揃《そろ》いの黒いスパッツに青い上着を身につけた九人の美少女が立っていた。
青年が微笑《ほほえ》んで告げた。
「これより先は川《かわ》平《ひら》家《け》が総力を挙《あ》げてあなたをお守りしますよ」
「ケイタ、ダメだよ! そんなんじゃ、本当に死んじゃうってば!」
リングサイドでようこが必死で叫んでいる。
啓太は背を向け、拳《こぶし》を上げて答えてみせた。
「ま、みてろや」
九人の美少女たちは物《もの》珍《めずら》しそうにケイを見ていたが、赤毛の少女の号令ですぐに散開して、警《けい》戒《かい》態《たい》勢《せい》を取った。
窪地の周囲を取り囲むようにして、視《し》線《せん》を上空の飛行船に向けている。白装束の青年は中央の松明の周りですうっと扇《せん》子《す》を持って舞《ま》った。瞳《ひとみ》をつむり、小声で何かを呟《つぶや》くと、辺《あた》りが紫《むらさき》色《いろ》に染《そ》まり、強く凝《ぎょう》集《しゅう》された力が満ちていく。
「お嬢《じょう》様《さま》」
隣《となり》に立ったセバスチャンがそっとケイの肩に手を置いた。
「うん。わたしは信じるよ……川平君を」
その時。
「大丈夫。心配はいりませんよ」
そんな場違いなくらい、楽しそうな声が聞こえてきた。
「え?」
「啓《けい》太《た》くん!?」
びっくりしてケイが振り返る。一《いっ》瞬《しゅん》だけ上空に残ったはずの川《かわ》平《ひら》啓太がそこに立っていたかのような錯《さっ》覚《かく》を覚えた。だが、松《たい》明《まつ》の反対側からやってきたのは彼とは全く似ても似つかない少年だった。
身長はそれほど変わらない。
東洋的な、どちらかというと大陸的な端《たん》正《せい》な風《ふう》貌《ぼう》である。それなのにその瞳《ひとみ》は西洋人風の深く濃《こ》い琥《こ》珀《はく》色《いろ》だった。陽気で、楽しげな光を湛《たた》えている。それに一本一本が太く、濃い癖《くせ》っ毛《け》。滑《なめ》らかな足取りが野性の山猫を思わせた。
そして十本の指|全《すべ》てにはめられた銀のリング。
彼は満月の光を浴びて浮かぶ飛行船を仰《あお》ぎ見ながら微笑《ほほえ》んだ。
「あの二人なら、ね」
その傍《かたわ》らには白衣の少女が静かに控《ひか》えていた。
「ケイタのばかあああああああああああ────────────────!」
ようこが渾《こん》身《しん》の力でマットを叩《たた》く。
やがてスモークが湧《わ》き起こって死神が現れた。
「くははははははははははははははははははは!」
リングの中央に膝《ひざ》を突いた姿勢で突然、登場。ばっと立ち上がり、腰元に手を当てて、大《だい》哄《こう》笑《しょう》した。大笑い。雄大で、壮大な笑い。
笑い。
笑い。
大笑い。耳がおかしくなるくらいスピーカーのいかれた喧《やかま》しい声だった。その大声がやがて空《むな》しく宙に消え入る。
しばらくしてから啓太がぽつりと半目で声をかけた。
「お〜い、気が済んだか?」
かなり長い間、音楽をかけていたのでとっくにケイたちはその場からいなくなっていた。死神はゆっくり啓太を振り返った。
「……汝《なんじ》」
と、目を銀《ぎん》色《いろ》に輝《かがや》かせながら聞いてきた。
「我が何故《なぜ》、毎年毎年刻限通りにしかもわざわざ前触れを流した上でそこに現れるか分かるか?」
啓《けい》太《た》は肩をすくめた。面《めん》倒《どう》くさそうに。
「さあな。バカを周囲に喧《けん》伝《でん》するためか?」
「違う。教えてやっているのだ。鬼がこれから汝《なんじ》らを殺しに参ると。逃げたければ逃げろと時間を与えてやっているのだ。言ってみれば鬼ごっこの『も〜いいかい?』のようなものだ。さすれば追いかける、逃げまどう獲《え》物《もの》を追いつめ、いたぶる楽しみも味わえるからな」
炯《けい》々《けい》と光る銀の目。邪悪な笑《え》みを浮かべた口元。
「汝、イヌガミツカイさんはよく逃げなかった。ほとほと感心するぞ」
「約束したからな」
啓太は胡座《あぐら》をかいたまま、真《ま》っ直《す》ぐにグラブをはめた右手を突きつける。ぞんざいに、
「てめえは必ず俺《おれ》がぶっ倒すって」
「くははははははは! 楽しいイヌガミツカイさんだ。だが、場所を移そう。汝のように活《い》きの良い獲物はやっぱり新《しん》堂《どう》ケイの目の前で嬲《なぶ》り殺すのが良い。さ、ついて参れ」
と、ロープを越えようとしてごつんと額《ひたい》をぶつける。
半透明の、見えない壁《かべ》がそこにあった。
ん〜と死神は怪《け》訝《げん》そうな顔でロープの上|辺《あた》りを撫《な》でていた。
「破《は》邪《じゃ》結界一式『弧《こ》月《げつ》縛《ばく》』」
立ち上がってゆっくりコーナーポストに寄りかかった啓太がにやっと笑った。
「そいつは面《おも》白《しろ》い特性が二つあってな。一つは誰《だれ》でも簡《かん》単《たん》に貼《は》れるし、それを貼った奴《やつ》しか絶対通さないこと。もう一つはどんなに強い力でも瞬《しゅん》間《かん》的《てき》な力では絶対に破れないこと。逆に言えば弱い力でも三十分くらいやってれば自然と穴が開くらしいけどな」
死神はじ〜と近眼の目を近づける。
「なるほど。面白いな……神のような我でも、羽《は》虫《むし》のような汝でもこれはそれくらいだ」
「だから、まあ、はけは補修で苦労しているらしいんだけどさ……とにかくそれをリングの上下左右|全《すべ》て三重に貼った。お前、もう逃げられないぜ?」
「ふう」
死神は小《こ》馬《ば》鹿《か》にするように肩をすくめる。それから先ほどよりじっと黙《だま》って、強烈な目でこちらを睨《にら》んでいるようこをちらっと見やった。
「汝はそれでいいのか?」
その途《と》端《たん》。
リングサイドのようこがへたんと腰を落とした。目を大きく見開き、ぶるぶると震《ふる》え出す。
「おや? 我は別に力など使っておらぬが?」
染《し》み込まされた恐怖。
それが明らかにようこを襲《おそ》っていた。啓《けい》太《た》は溜《ため》息《いき》をついた。
「な? だから、言ったろう? ようこ。お前は今、戦いたくても、戦えない状《じょう》態《たい》になってるんだよ。犬の恐怖に身体《からだ》が勝手に反応しているんだ」
「くはは」
「それがこいつの手口なんだ。ケイにやったのも、他《ほか》の格《かく》闘《とう》家《か》とかにやったのも一《いっ》緒《しょ》。恐怖で相手を縛《しば》って反抗という考えをそもそも根こそぎ奪ってしまうんだよ」
「くははははははははは!」
「やかましい! 誉《ほ》めてねえよ!」
ようこはすうっと目を閉じた。
それから何か決心したように頷《うなず》く。次の瞬《しゅん》間《かん》、また懇《こん》願《がん》するような悲痛な調《ちょう》子《し》で叫んだ。
「だからってわたしを結界の外へ閉め出してどうするのよ!?」
何故《なぜ》かその時、啓太が心の底からおかしそうに笑った。
「ま、任せとけって、ようこ」
「そこから出てよう!」
「いいや、出ないね」
啓太は首を振った。
「心配するな、ようこ。俺《おれ》にはどうしても明日《あす》を迎えなきゃならない理由ってのがあるんだよ。だから、死ねない。知ってるだろう?」
軽くようこにウインク。ようこは頬《ほお》を染《そ》め、口元を手で押さえる。
「ケイタ……」
はっとしたように我に返って、
「だったら、せめて約束して!? 危なくなったら必ずそこから逃げて!」
啓太は薄《うす》く笑った。
「俺は……逃げないよ。絶対」
「ケイタ! 正気に返って! カッコつけるなんて啓太には似合わないよ!」
焦《あせ》るようこ。
「それとな」
くるっと啓太は死神に向き直った。
「おい、もし万が一にだ。ひょっとして俺がやられてもお前、こいつは殺せないよな?」
「は? バカを言うな。そうしたら我はこの結界を破ってその娘をちゃんと殺すぞ? これは我に与えられた正当な権利だ」
「いいや、違うね。その場合、こいつは俺がやられた仇《かたき》討《う》ちに出るんだ。ケイを守るためじゃねえ。だから、お前はこいつを殺せない。そうだな?」
「ちょっとケイタ、縁《えん》起《ぎ》でもない話しないで!」
「黙《だま》ってろ、ようこ! そうだな? 暴《ぼう》力《りょく》の海=v
死神はちょっと考え込んでから、
「そうだな……残念ながら汝《なんじ》の言う通りのようだ」
ようこを値《ね》踏《ぶ》みするように見やり、ぺろっと舌《した》舐《な》めずりを一つした。
「手足をへし折り、身体《からだ》中《じゅう》の骨をバラバラにして、皮を剥《は》ぐだけで殺すのは勘弁してやろう。くはははははは、そうだ。我はなんといっても慈《じ》悲《ひ》深《ぶか》いからな!」
ようこが怖《おぞ》気《け》をふるっている。啓《けい》太《た》が目を細めて言った。
「なあ……お前、なんだってそういうことするんだ?」
「そういうこととは?」
「だから、そうやって新《しん》堂《どう》家《け》を追いつめたり、人を苛《いじ》めたりするんだよ?」
「楽しいからだ! 決まっているだろう? 一人一人血族を葬《ほうむ》って家系を順番に根《ね》絶《だ》やしにしていく。そんなゲームほど楽しいことはあるまい? それを守ろうと必死になる強者を痛めつけ、絶望の涙を流させてからいたぶり殺す。これほどの愉《ゆ》悦《えつ》はあるまい?」
「じゃあ、もし仮に新堂家を滅ぼし終えたらお前は一体どうするんだ?」
「くは。簡《かん》単《たん》なことよ。また新たな家系に取《と》り憑《つ》く。なにしろ、人は富と栄誉に蟻《あり》のように群がる習性があるからな。我の契約にはすぐ飛びつくさ。そして、思い知る。幾《いく》ら金はあっても自分たちの生きる意味が全くなくなったことを。未来が音を立てて閉ざされたことを。そうした時、真の明と暗が生まれより深い絶望が生じる」
死神はエクスタシーに身を震《ふる》わせ、深い深い溜《ため》息《いき》をついた。
「快感だ」
「なるほど」
啓太は半目でぽつりと呟《つぶや》いた。
「良かったよ。てめえが心《しん》底《そこ》救いようのない腐《くさ》れ外《げ》道《どう》で。いいか? よ〜く耳の穴かっぽじって聞けよ? 俺は犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い川《かわ》平《ひら》啓太。新堂ケイを守る者≠セ!」
しばしの沈《ちん》黙《もく》。
「よかろう」
死神は凄《せい》絶《ぜつ》な笑《え》みを浮かべる。
「では、望み通り汝から八つ裂きにしてやろう」
喉《のど》の奥から嗄《しわが》れたような声を絞り出す。一《いっ》瞬《しゅん》、身体が沈み込み、くるっと舞《ま》うと、
「死神の黒衣」
漆《しっ》黒《こく》のローブをまとう。
「よく見える眼鏡《めがね》」
すうっとグルグル眼鏡を装着する。
「これで汝《なんじ》は確《かく》実《じつ》に、全く抵抗できずに死ぬ! どうだ、恐ろしいか?」
「全然」
啓《けい》太《た》は首を振る。
「ただ間抜けなだけだね、その恰《かっ》好《こう》」
ぐっと死神が詰まる。
確《たし》かに白いスーツの上に、時代|錯《さく》誤《ご》の古ぼけたマント。分厚い眼鏡《めがね》はどこか滑《こっ》稽《けい》だった。啓太はぐっぐっとグラブの感触を確かめながら尋《たず》ねた。
「おい、お前さ、相手が特定のスタイルで対戦を申し込んできた場合、それに合わせるっていうルールがあるんだよな?」
「あるぞ? セバスチャンなどはいつもそれだ。プロレス技でな、二百十二回柔らかいマットの上に落としてやって、いじめ抜いてやったことがある。その時は鼻水を垂《た》らしながら悶《もん》絶《ぜつ》していたな。くははは」
啓太はその言葉に取り合わず、真《ま》っ直《す》ぐ告《つ》げる。
「じゃあ、俺《おれ》もそれでいく」
「ほう? ボクシングか?」
「いんや」
啓太はマウスピースを口に嵌《は》め込み、
「犬《いぬ》神《かみ》使《つか》い、だ」
にっと笑った。
「イヌカミツカイ流?」
死神は怪《け》訝《げん》そうな顔で小首を傾《かし》げる。だが、啓太はもうそれに答えず、真剣な目をしてコーナーポストを背《せ》負《お》っていた。かなり極《きょく》端《たん》な前屈姿勢で、グラブを顔の前に置くピーカブースタイルという構えだ。
「む。よく分からぬが」
死神は啓太の着ているボクシング用のトランクス、シューズ、グラブを順番に見やってから頷《うなず》いた。
「とりあえず、ボクシングスタイルで相手をしてやろう」
啓太がたっと突っ込んでいった。
やけくそのようにようこがリングサイドでゴングを鳴らしていた。しっと伸びたのは啓太のリーディングジャブである。
「くは!」
死神がスウェイバックで避《よ》けた。
「くはははは!」
空を切る音。啓《けい》太《た》は巧みなフットワークで回り込むと、さらに閃《せん》光《こう》のような左を連続して叩《たた》き込んだ。だが。
「くはははははははははは!」
全《すべ》て上半身だけで気楽に避《さ》けられてしまう。
「ん〜。素質は悪くないが……いいか? ジャブとは」
ひょいっと死神の左《ひだり》拳《こぶし》が伸びる。
「こう打つ」
べぎゃっと異音を立てて啓太の顔面が爆《は》ぜ、吹《ふ》き飛んだ。まるで火薬が炸《さく》裂《れつ》したような勢いだった。啓太はごろごろと為《な》す術《すべ》もなく転がり、コーナーポストに手ひどく頭を打ちつける。形容しがたいくらいの力の差がそこにはあった。
「ケイタあああああああああ──────────!」
ようこが叫んでいた。
「くははははははははは!」
と、死神が心の底から楽しそうに笑っている。啓太は後頭部をグラブで押さえ、顔をしかめながら頭をゆっくり振る。
それで意《い》識《しき》をなんとかはっきりさせて、ぐっぐっと震《ふる》える膝《ひざ》を押さえつけるようにして起き上がってきた。その間、死神は悠《ゆう》然《ぜん》と反対側のコーナーポストに寄りかかりながら講《こう》釈《しゃく》を垂《た》れていた。
「我はルールのある戦いが大好きだ。新《しん》堂《どう》家《け》の者をいたぶっていない間、我はずっとニンゲンの格《かく》闘《とう》技《ぎ》を見ている」
啓太は今度は距《きょ》離《り》を取ってリズムの良いフットワークで円を描く。右拳で顎《あご》を隠《かく》し、左手は少し垂らし気味にしていた。
無造作に死神が距離を詰める。
「アウトボクシングか? だが、スピードが足《た》らなすぎるな」
左のフック一閃。
ごきゅっと何かが砕《くだ》けるような音がして啓太が空中で錐《きり》もみ。一回転半以上してからマットに叩《たた》きつけられた。
口元からだくだくと血が出ている。
目が怖いくらい虚《うつ》ろだった。
「い、いやあ……いやあ」
ようこが顔を歪《ゆが》ませ、首を振っている。またニュートラルコーナーに戻った死神は天《てん》井《じょう》を見上げ、楽しそうに話し続けていた。
「我はその中でも力の差のある試合が大好きだ。これから上り詰めていく天才と惨《みじ》めなロートルの試合があって、その未来のチャンプが噛《か》ませ犬の頭《ず》蓋《がい》を割って殴り殺してしまったことがある」
死神はうっとりと思い出し笑いをした。まるで乙女《おとめ》のように手を交差させ、はにかみ、
「我は思わずその新人の控《ひか》え室に祝福の花束を贈《おく》ってしまった……」
しばらく意《い》識《しき》を飛ばしていた啓《けい》太《た》ははっと我に返っていた。自分がどこにいるのかようやく思い出したようで、目の上をグラブでぐいぐい押しながら立ち上がる。ふらつきながらもぐっと構えを取った。
死神は優《ゆう》雅《が》な足取りでニュートラルコーナーから出ていって、一度、二度、ワルツのような足取りでリングの中を動き回った。
「とにかく流行の|バーリトゥード《何でもあり》はつまらぬ。どんなことをしても、は決して美しくない」
啓太は今度は細かく左右に頭を振りながら、ジャブの連射。くっとステップインして右の一発を放った。さらにもう一発。左フックに渾《こん》身《しん》の右のアッパーをつなげる。それを死神は目をつむりながら華《か》麗《れい》に避《よ》けていく。
滑《なめ》らかな動作。
ワルツのリズム。
「完全なルールに支配されていながら、圧倒的な力の差による敗北と虐殺が起こるとき」
ふっと右手を引っ込め、
「我はそこに深い暴《ぼう》力《りょく》の海≠フ存在を感じる……」
うっとりと囁《ささや》いた。
放たれたストレートを受け、啓太は大きく吹《ふ》き飛ばされた。
「ケイタああああああああ──────────────────────!」
というようこの絶叫。
死神の哄《こう》笑《しょう》が響《ひび》き渡った。
「くははははははははははは! 弱い、弱すぎる!」
ロープに打ちつけられた反動で啓太はリングの中央に転がり出る。よろめきふらつきながらもまたすがりつくようにして前に打って出た。目の光はほとんど消えかけている。左右の連打を放った。拳《こぶし》の回転数を上げた。
だが。
「ふふふふ」
死神は軽やかに紙《かみ》一《ひと》重《え》で避けていく。
「いいか? どれだけパンチを打っても当たらなければ意味がないのだぞ? ほれ、ほれ」
ちゅっちゅっと啓太の拳にキスをしてみせる余裕。啓太の顔が唖《あ》然《ぜん》とする。一《いっ》瞬《しゅん》だけ拳が止まったその瞬間。
「教えてやろう。当たるパンチとはこうだ」
死神の左右の手が鮮《あざ》やかに鞭《むち》のように閃《ひらめ》き、啓太の身体《からだ》を切り刻んだ。
「さらにこうやって打つ」
ありとあらゆる所にそのスナッピーな拳《こぶし》が叩《たた》き込まれた。
「ぐ!」
啓《けい》太《た》の顔が苦《く》悶《もん》に歪《ゆが》んだ。
仰《の》け反《ぞ》る。
「ぐは!」
容《よう》赦《しゃ》なく額《ひたい》に、腹に、顎《あご》に打ちつけられる死神の拳。倒れようにも倒れることさえ許さぬ打《ちょう》擲《ちゃく》の嵐《あらし》。啓太の顔が左右に弾《はじ》き飛ばされる度、鼻から血が噴《ふ》き出し、瞼《まぶた》が切れ、顔面がどんどん変形していく。
飛び散る血《ち》飛沫《しぶき》。
悲鳴。
「やめてえよう!」
ようこが泣き叫んだ。
「やめてったら! お願《ねが》いよう!」
マットをばんばん叩《たた》いた。
「くははははははははははははははははは!」
死神は露《ろ》骨《こつ》に手を抜きながらも、啓太を倒さ濾よう細心の注意を払ってさらにサンドバッグ状《じょう》態《たい》の啓太を嬲《なぶ》った。
殴った。
彼が辛《かろ》うじて出したパンチにカウンター。
そして。
「これで死ね! イヌカミツカイサン!」
深《ふか》々《ぶか》と拳が啓太の腹にめり込んだ。胃袋さえ貫通しているような強烈な一《いち》撃《げき》だった。啓太の目が大きく見開き、前のめりに崩《くず》れ落ちる。
その口元から血に染《そ》まったマウスピースがごぼっとこぼれ落ちた瞬《しゅん》間《かん》。
啓太はケモノの目で笑っていた。
この時をずっとずっと待っていたのだ。
待《ま》ち佗《わ》びていた。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告《つ》ぐ」
ずしゃっとマットに沈む啓太。反対に重力に従って落下していくべきマウスピースが突《とつ》如《じょ》、あり得ない角度で跳《は》ね上がって、死神の顔面めがけて喰《く》らいついていった。いや、その中に仕込まれたカエルの。
「霊《れい》符《ふ》!?」
「カエルよ」
「く!」
「破《は》砕《さい》せよ!」
どうんと湧《わ》き起こった爆《ばく》発《はつ》。死神は咄《とっ》嗟《さ》に仰《の》け反《ぞ》っている。
「マウスピースに仕掛けをするとは!」
ダメージはほとんど受けなかったが怒りの籠《こ》もった声で叫んだ。
「汚い! 汚いぞ、イヌカミツカイサン!?」
「はは、言ったろ?」
ずたぼろの啓《けい》太《た》が手を振るって、高らかに笑っていた。
「俺《おれ》は犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いだって! だはは、もろ引っかかってやんの! あ〜、ばかで」
「く! こ、この!」
鼻を押さえ、本気で激した死神が叫ぶ。
「殺してやる! 殺してやるぞおおおおおおおおおおおおおおおお、ニンゲン!」
「おい、死神。てめえ、さっき当たらなければ意味がないっていったな?」
啓太の声が凄《すご》みを帯《お》びる。
「ちげえよ」
くんと踏《ふ》み込み、
「当たらなかったんじゃねえ」
すうっと重心を沈める。
「当てなかったんだ」
流れるような身のこなし。啓太は出会った時からずっとずっと抑《おさ》えていたトップギアに自らを持っていく。目にも止まらぬ速さではある。だが、死神には決して追い切れないスピードではなかった。むしろ啓太が最初からそういう風に動いていたのなら余裕を持ってかわしてさえいただろう。
だが、ここに来ての急激な加速に痛手ではないものの目くらまし代わりとなった霊《れい》符《ふ》。さらになによりも今までのボクシングスタイルとは全く異なる技術体系、位置、角度、タイミングから放たれる本来もっとも得意としている突き。
死神は。
動けなかった。
ぴたりと啓太の左《ひだり》拳《こぶし》が死神の胸元に押し当てられた。
「寸《すん》頚《けい》!?」
「だけじゃねえ」
ばんと啓太の左足が高鳴った。
「喰《く》らいやがれ、白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告《つ》ぐ!」
力の波がぐわんと渦《うず》を巻いて一点に収束していく。捻《ひね》りとうねりが啓太の拳から爆発的な勢いで解放された。
「カエルよ!」
「バカなあああああああああああああああああ──────────!」
「破《は》砕《さい》せよ!」
それはグラブに仕込まれた無数のカエルが、ショットガンのように放たれた瞬《しゅん》間《かん》だった。
「ごふうううううううううううううううううううう!」
中《ちゅう》国《ごく》拳《けん》法《ぽう》最大最高の破《は》壊《かい》力《りょく》を誇る寸《すん》頚《けい》と嵐《あらし》のようなカエルの一斉射を超至近|距《きょ》離《り》から腹へまともに喰《く》らって死神はざざっと足を擦《さっ》過《か》させながら後退する。
その直後、前のめりに崩《くず》れ落ちた。
「げは!」
転がり、のたうち回る。
この世に存在して初めてのダメージ。
「バカな!」
頭に浮かぶのは疑問と焦《あセ》りの感情である。
「バカな! グラブに仕込んだ霊《れい》符《ふ》を悟らせないために、あえてパンチを当てなかったとでもいうのか? この我を相手に! たかがニンゲン風《ふ》情《ぜい》が!?」
がばっと起き上がった。
息を乱して辺《あた》りを見回す。実際のダメージ以上にショックが大きかった。
「バカな!?」
リング内は煙が充満してよく見えない。
啓《けい》太《た》がどこにもいない。
その時。
ひどく静かな声が聞こえてくる。
「おい、暴《ぼう》力《りょく》の海=v
「そこかあ!?」
がばっと裏《うら》拳《けん》を放ちながら振り返る死神。だが、いない。
「お前、今まで散々ニンゲンを嬲《なぶ》ってきたんだってなあ?」
「どこだ? どこだ? どこだ?」
死神の顔が大きく歪《ゆが》む。恐怖で歪む。
「新《しん》堂《どう》ケイや、セバスチャンや、ケイのおやじさんにおふくろさん。沢《たく》山《さん》の人を踏《ふ》みにじって笑ってきたんだってな、暴力の海=I」
「そこか!?」
怯《おび》え、飛《と》び退《の》く死神。
懐《ふところ》にぴったりとくっつき、真下からぬっと現れる啓《けい》太《た》。
そこから放たれるのは渾《こん》身《しん》の。
「ならば」
「や、やめ」
アッパーカット!
「今度はてめえがそこに沈みな」
突き上げられた拳《こぶし》が全《すべ》てを打《う》ち砕《くだ》く。
打《う》ち据《す》えられたグラブの中から飛び出したのは無数のカエルである。さながら噴《ふ》き上がった流星群のように死神を巻き込み、空中で炸《さく》裂《れつ》する。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告《つ》ぐ! カエルよ、爆《ばく》砕《さい》せよ!」
さらに爆発。
真っ白な閃《せん》光《こう》で空間を染《そ》め上げる。
「ぐぎゃあああああああああああああああああああ─────────────!」
結界の天《てん》井《じょう》にぶち当たり、激《げき》流《りゅう》の直《ちょく》撃《げき》を受け、逃げることも叶《かな》わずそこで爆砕を受け続けた後、マットに落下。
死神が転げ回った。
「ぎひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
「ふはははははははは、いいざまじゃねえか! ど〜だ? 少しは圧倒的な力の差による絶望ってのが分かったか?」
「な、なにを……」
死神はがばっと跳《は》ね起きた。
「我は汝《なんじ》のその手口を知っている! 我にはかからぬ! 我は未《いま》だに汝よりも早く、汝よりも鋭《するど》く、そして汝よりも強い! この程度ではどうともしない!」
確《たし》かに死神の黒衣がかなり裂けているものの致命的なダメージには至っていなかった。一方、啓太の方はカエルのケシゴムを仕込んでおいたグラブがぱっくり開き、そこから焼けただれた拳が見えていた。
「汝はもうパンチを撃《う》てぬ!」
「だろ〜な」
啓太は手の甲をぺろっと舌で舐《な》めた。
どこか酔っぱらったようなとろんとした瞳《ひとみ》で、
「あのさ、黒ビキニ」
「は?」
「いやあ、セバスチャンの黒ビキニ見て思ってたんだけど普通、誰《だれ》も男の股《こ》間《かん》なんか調《しら》べたくないよな?」
「ま、まさか?」
死神の顔が引《ひ》き攣《つ》る。
「ふひ」
啓《けい》太《た》はゆっくりトランクスの紐《ひも》を緩《ゆる》めた。
「な、な」
「さ、行くぜ! 白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告《つ》ぐ、カエルよ」
「なんてところにいいいいいいいいいいいいいいいいい────────────!?」
死神の大絶叫。
今までの三倍以上の圧倒的な量のカエルのケシゴムがそこから飛び出す。
啓太の股《こ》間《かん》から。
「ふひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
狂ったような啓太の哄《こう》笑《しょう》。
凄《すさ》まじい光とエネルギーで結界内が飽《ほう》和《わ》した。
「粉《ふん》砕《さい》せよ!」
「ヘへ」
自らも黒こげのよれよれになりながら啓太がゆっくり前に出た。ついでそこにへしゃげていた死神の眼鏡《めがね》をぱりんと足で踏《ふ》みつぶす。
「ど〜だい、今度こそ効《き》いたろう?」
「ぐ、ぐうう」
同じくらい滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》になった死神がその前で立ち上がりかけていた。死神の黒衣はボロボロ。その下の白いスーツも煤《すす》まみれで、引《ひ》き千《ち》切《ぎ》れ無《む》惨《ざん》な状《じょう》態《たい》だった。
「悪いな。俺《おれ》には明日《あす》を迎えなきゃならない理由ってのがあるんだよ。だから、てめえには絶対に負けねえ」
半目で啓太が呟《つぶや》く。
死神が吠《ほ》えた。
「許せん! 許せんぞおおおおおおおおおおおおおおおお──────────────!」
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
凄《すさ》まじい息吹《いぶき》が死神の喉《のど》の奥から迸《ほとばし》る。
だが。
「ぐはああ!」
「うお!」
痙《けい》攣《れん》して吹《ふ》き飛んだのは両者共だった。
「が、がふ……へ」
啓《けい》太《た》は口から血を吐き出し、
「ば〜か。こんな狭《せま》い結界内でそんな響《ひび》くモンやったら、てめえにも跳《は》ね返ってくるに決まってるじゃねえか……」
「だから、どうした!?」
死神が叫んだ。
憎《ぞう》悪《お》のあまりその銀《ぎん》色《いろ》の目が信じられないほどの輝《かがや》きを放っている。
「だから、どうした!」
よろめく足で啓太に近づき、もう起き上がれない彼の髪をぐっと持ち上げ、
「最後に立っているのは我だ!」
ぐちゃっとパンチを顔面に入れる。
「我だ!」
もう一発。
「汝《なんじ》にはもう技も、霊《れい》符《ふ》も、霊力もない! 勝ったのは我だ!」
「へ、へ」
啓太は血《ち》塗《まみ》れになった顔で笑う。
「俺《おれ》だよ」
「まだ言うかあああああ────────────!」
と、手を上げかけ、
「俺が勝ったんだよ……」
その言葉にふと拳《こぶし》を止めた。
何故《なぜ》かとてつもなく嫌《いや》な予感がした。まるで見落としてはいけない何かをずっと見落としていたような。
背中に悪《お》寒《かん》の走るその感覚。
それはちょっとした疑問の連続だった。何故、この男はこれほど追いつめられても結界の外へ逃げようとしないのか。
何故、先ほどからあの犬《いぬ》神《かみ》の声が全く聞こえなくなったのか。そんな引っかかりがやがて恐怖に近いほどまで膨《ふく》れ上がり、死神はがばっと振り返る。
「さっきからずっと言っているだろう? 俺は」
思わず叫びそうになっていた。
「犬神使いなんだよ」
そこにいた。
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の持つ最大最強の力が。
全くの無傷で。
そこに立っていた。
「びっくりした?」
ようこが髪を払い、艶《あで》やかに笑う。
「ば、ばかな……」
と、がくがく震《ふる》え出す死神。
ようこはすうっとそんな死神の頭に手を置いた。
「ま、まさか?」
「そう」
ようこは薄《うす》く笑った。
「その通りよ。この結界を張ったのは実はケイタではなくってわたしの方だったの。ニンゲンであるケイタではなくって、犬《いぬ》神《かみ》のこのわたし、ね。入ろうと思えばいつでも入れたのもこのわたし。逆に出たくても、全く出られなかったのはケイタの方。ケイタは言ったわ。『戦うのは俺《おれ》だけだ。お前はずっと中に入れないフリをしていろ[#「中に入れないフリをしていろ」に傍点]』って」
啓太が前のめりに昏《こん》倒《とう》している。
「ねえ、暴《ぼう》力《りょく》の海=v
ようこはちらっとそちらを見やってから呟《つぶや》いた。
「どうしてかしらね? わたし、ケイタが殴られている間中、ずっと悔《くや》しくて悔しくて仕方なかった。でもね」
くくっと喉《のど》の奥を震わせる。
「今はあなたを切り裂けることがただ嬉《うれ》しくて嬉しくて仕方ない。本当に良かったわ。ケイタが偶然[#「偶然」に傍点]気を失ってくれていて。これでケイタが言った通り全力で」
世にも邪悪な笑《え》み。
「あなたを地《じ》獄《ごく》へ送ってあげられる」
死神はわななき、懇《こん》願《がん》するように左右に首を振った。存在してからこれまでも、そして、これからもただただ人に与え続けるだけだったはずの恐怖という感情に囚《とら》われ、声にならない叫びを上げかけていた。
「さあ、おののきながら」
じわじわとようこの爪《つめ》が死神の額《ひたい》に侵食していく。
「あ、やめ」
「絶望に浸《ひた》りながら」
「やめてくれええええええええええええええええええ────────────!」
「とっても素《す》敵《てき》な悲鳴で死になさい、暴力の海=v
美しく残《ざん》酷《こく》な笑《え》みをくくっと漏《も》らし、ようこは圧倒的な力で手を振り抜いた。彼女の身体《からだ》が見る間にヒトから猛《たけ》々《だけ》しいケモノの姿へと変化していった。
同時に死神の身体が真っ二つに切り裂かれていく。
「だいじゃえん」
ようこが瞳《ひとみ》をつむり、右手を舞《ま》うように水平に払いながら、背を向ける。死神の身体から綻《ほころ》びが漏れ、そこから光が噴《ふん》出《しゅつ》した。
突風が吹《ふ》き込み、空間一杯に広がった金毛が逆《さか》巻《ま》いた次の瞬《しゅん》間《かん》。
桁《けた》外《はず》れの大《だい》爆《ばく》発《はつ》が起こった。
飛行船全体が紅《ぐ》蓮《れん》の炎で包み込まれた。
その中で巨大なケモノが一匹、倒れたままの少年を優《やさ》しく口にくわえる。
「ケイタ……」
さらなる爆発。
轟《ごう》音《おん》。
飛行船の腹から炎が吹き上がり、二つに折れ、暗い海へと落下していく。
少女たちの間からどよめきが湧《わ》き起こった。
「やりましたか」
はけが深い息をついて扇《せん》子《す》を降ろした。
「さすが」
と、背を向け、瞳をつむる少年。
川《かわ》平《ひら》薫《かおる》がそっと囁《ささや》いた。
「やっぱりあなたを敵に回したくはないね、啓《けい》太《た》さん」
同時に少女たちが叫んでいた。
「ようこ!?」
大爆発と共に、金《きん》色《いろ》のケモノがそこからくお〜んと長い声を上げ、鮮《あざ》やかに飛び立った。
満月を背に、美しく。
身をくねらせ。
そして、それは長い間、新《しん》堂《どう》家《け》を呪《じゅ》縛《ばく》していた呪《のろ》いが、解《と》き放たれた瞬間でもあった。
ざっぱあ、ざっぱあと鳴《な》り響《ひび》く波の音。眩《まばゆ》く昇っていく朝日。磯《いそ》の香《かお》りと濃《のう》厚《こう》な命の匂《にお》いが大気一杯に充満しているそんな海岸。
砂浜に引き上げられた小さな漁船の向こうから、
「ははははははははは、効果|覿《てき》面《めん》です!」
ざっざっと砂を踏《ふ》みしめやって来たセバスチャンが心なしか晴れやかな表情でそう言った。手を胸の前で大きくクロスさせ、
「いやあ、全くすごいものですな。あの死神がいなくなった途《と》端《たん》、現金を預けていた銀行が倒産。別荘が火に焼け、ホテルが地《じ》盤《ばん》沈下。貴金属類は盗《とう》難《なん》にあって、有価証券は全部ネズミが囓《かじ》っていたそうです」
かなり悲惨な報告を携えてきた割にセバスチャンは嬉《うれ》しそうだった。
「これで新《しん》堂《どう》家《け》は事実上、一《いち》文《もん》無《な》しです。わはははは」
そう言ってまたも豪《ごう》快《かい》に笑った。スキンヘッドが陽光を弾《はじ》いてきらっと輝《かがや》いている。はけも、薫《かおる》の一行も帰《き》還《かん》して今、朝日が昇る砂浜に啓《けい》太《た》とようことケイだけが残っていた。ずたぼろの啓太が落胆したように肩を落とす。
「はあ、やっぱり……」
死神の致命的なパンチを喰《く》らい続けた啓太の顔は全く酷《ひど》いものだった。全体的に膨《ふく》れ上がり、瞼《まぶた》がほとんど塞《ふさ》がって、唇《くちびる》は紫《むらさき》色《いろ》にざっくり切れている上に、瘤《こぶ》が幾《いく》つもでこぼこ出来ていた。いっそ喋《しゃべ》って動いているのが不《ふ》思《し》議《ぎ》なくらいである。
「ほんとお化《ば》け屋《や》敷《しき》みたいな顔だよね」
ようこが楽しそうにそう言って、ヨードチンキでつんつんした。
「つ、いて! 触るな! こら!」
彼女の方はほとんど無傷だ。ケイは申《もう》し訳《わけ》なさそうに身を縮《ちぢ》めた。
「あ、あのゴメンね、川《かわ》平《ひら》君。わたし、必ずなんとかするから……何年かかっても必ず御礼はするから」
「ま、一応、私の銀行口座や新《しん》堂《どう》家《け》名義じゃない資産もいくらかあるはずなので、それなりの御礼はちゃんとさせて頂きますよ」
にかっと笑ってセバスチャンが言《い》い添《そ》えた。
「……期待しないで待ってるよ」
啓《けい》太《た》はちらっと彼を見上げて呟《つぶや》いた。またがっかりしたように溜《ため》息《いき》をついている。その姿を見て新堂ケイがもじもじし出す。くすくす笑いながら痛がる啓太の顔を治《ち》療《りょう》していたようこがふと警《けい》戒《かい》する表情になった。
横目で手を止める。ケイは真《ま》っ赤《か》になりながら蚊《か》の鳴くような声で呟いた。
「でね、川平君。わたし言ったでしょう? 終わったらどうしても伝えたいことがあるって」
その途《と》端《たん》。ケイの言葉をぼんやり聞いていた啓太が、
「あ───────────!」
と、いきなり立ち上がった。死ぬほど焦《あせ》った顔で、
「お、おい、今何時だ?」
周囲に尋《たず》ねる。全員、びっくりしたような顔になった。
「えっと、朝の八時ですが……それがなにか?」
セバスチャンが懐《かい》中《ちゅう》時計を取り出して答えた。
「なにいいいいいいい────────────!?」
今までで一番、大きな声を出して啓太は飛び上がった。
「こうしちゃおれん!」
あたふたとお茶会に遅れた三月ウサギのように上着を羽《は》織《お》って走り出す。
「ちょ、ちょっと、一体どこ行くのよ?」
と、唖《あ》然《ぜん》としたようにようこ。
「約束の場所だ!」
啓太は背中越しに答える。ちょっと考え込んでから、
「あ〜〜〜〜〜〜〜!」
同じくようこが声を上げた。
「も、もしかしてマイコとかいう」
啓太はセバスチャンたちが来る前、確《たし》か女の子からデートの承《しょう》諾《だく》返事を貰《もら》っていた。
「……ねえ」
ようこは信じられないという顔で、
「明日《あす》をどうしても迎えなきゃならない理由ってもしかしてそれ!? それだけなの?!」
「あったりまえだろう!?」
という楽しそうな啓《けい》太《た》の声。
「女の子が待ってるんだ! だったらどこへでもいくさ、俺《おれ》は!」
「あ」
ようこは頭痛がするというように頭を押さえてから叫んだ。
「あほおおおおおお─────! そんなでこぼこした顔でなに考えてるのよ、一体!」
ひゅんと飛び立って、上空からぼんぼん炎を投げつけた。怒り狂ってる。啓太は大笑いしながらひょいひょいそれをかわしていく。
たちまち道路へ出る階段を登って見えなくなっていく二人。
「は」
しばらくぽかんとしていたケイが、
「はははは」
乾いた笑いを漏《も》らした。そして、がっくり肩を落とす。
「お嬢《じょう》様《さま》」
気《き》遣《づか》わしそうにセバスチャンが声をかけた。新《しん》堂《どう》ケイはくるっと振り返る。たった一人残った家族に向かって、晴れやかな笑顔《えがお》で、
「セバスチャン。ならばあなたに言うよ。わたしね、これからわたしは絶対に約束する」
大きく手を広げ。
太陽が照らす最高の笑顔で。
「わたしは生きるよ!」
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「やっほ〜、舞《まい》子《こ》ちゃん。ボク、川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》」
世にも軽い声。
「え? 覚えてない? やだな〜、ほら、この前デートした……そうそう。サボテン業者のって違うよ。違う! サックスフォン奏者でもなくって……というか、舞子ちゃん、そんなに分からなくなるほど男とデートしてるの?(汗)あ、そうそう! ソレ! 首に犬用の首《くび》輪《わ》をつけた高校生の川平啓太だよ」
急に声が嬉《うれ》しそうに跳《は》ね上がる。
「あ、やっぱり覚えてくれていたんだ。良かった〜。うん、楽しかったね〜、あれは。うんうん。え? また今度? あ、いいね〜。水族館でも行こうか? それともあそこのクラブでもいく?」
手を忙《せわ》しなく振って、何かを追い払う動作。
「しっし! あ、ごめんごめん。いや、実はうちさ、シツケの悪い犬を一匹、飼ってて」
いて。
と、彼が小さく悲鳴を上げる。
「あ、なんでもないなんでもない! そのシツケの悪い犬が噛《か》んできていていて! こら、やめんかようこ! もといシツケの悪い犬!」
慌《あわ》てて取《と》り繕《つくろ》う声。
「あ、いやちがうよ! ちがう! 本当にただのメス犬だっていてえええええええ!」
しばしのたうち回る声。
組んずほぐれつして押さえ込むような気《け》配《はい》がある。ぎゃいぎゃい喚《わめ》いている甲《かん》高《だか》い声。やがてまた啓太がそれを圧する大きな声で、
「いててて! あ、気にしないでいつものことだから。いて! でね! いて! 今日《きょう》電話したのは」
すうっと深く息を吸い込んで出来るだけ愛《あい》想《そう》良く、
「実はさ、家がなくなっちゃったから居《い》候《そうろう》させて欲しいんだけど?」
その途《と》端《たん》ぶつんと電話の切れる音がした
「はあ」
川平啓太ががっくりと肩を落とす。雨がシトシト降る川原《かわら》でのことだった。彼の傍《かたわ》らで肩から覆《おお》い被《かぶ》さるようにしていたようこが勝ち誇ったように叫んだ。
「ほ〜ら、ダメだった! ほ〜らやっぱリダメだった!」
黒髪がぼさぼさになっている。啓太がすぐさま怒《ど》鳴《な》り返した。
「うるせ〜〜〜〜! お前が邪《じゃ》魔《ま》しなければもうあと一歩だったんだよ!」
それから目まぐるしい指さばきで携帯電話のボタンを押すと、無《む》駄《だ》に沢《たく》山《さん》入っている女の子のメモリーを順番に表示していった。
「しかたねえ。こうなったらも〜、片っ端から当たっていくか!」
そしてぺっと地面に唾《つば》すると、早速、最初の女の子に血走った目で電話をかける。ようこが再び怒りの声を上げて携帯電話を奪おうとした。
啓《けい》太《た》がそれを必死でブロックする。
常の如《ごと》き、争いが始まるところだった。
河童《かっぱ》橋《ばし》。
それが今、二人のいる所だった。
吉《きち》日《じつ》市《し》の北西に位置する全長二十メートルほどの石造りの橋である。籾《もみ》川《がわ》と呼ばれる比較的、澄《す》んだ清流の上を市内と郊外を繋《つな》ぐ形で築かれていた。擬《ぎ》宝《ぼ》珠《し》が夏みかんの形をしていることや、橋の下が妙に整地され、ベンチなどが置いてある点でかなり変わっていた。
河童橋の所以《ゆえん》は古くからここら辺《あた》りで河童の目《もく》撃《げき》が多発していることによる。
その為《ため》かどうか知らないが、釣《つ》り人も含めて、滅《めっ》多《た》に人が訪れない場所でもあった。ごく稀《まれ》にUMA研究所所員を名乗る妖《あや》しげな人たちが幻《まぼろし》の河童を探して、うろついているくらいだった。
ちなみに橋の下を整地したのも、川《かわ》面《も》に面した所にベンチを置いたのもそのUMA研究所の人たちらしい。今、川《かわ》平《ひら》啓太と彼の犬《いぬ》神《かみ》ようこはその橋の下にどこからか拾い集めてきた段ボールを敷《し》いて、半《なか》ばホームレス状《じょう》態《たい》で寝泊まりしていた。
家を焼け出されていたのである。
以前住んでいた部屋は天《てん》井《じょう》を吹《ふ》き飛ばし、アパートごと半《はん》壊《かい》させたため追い出されてしまっていた。家具も、荷物も当然、破損している。おまけに自在に服を変える魔《ま》道《どう》具《ぐ》木彫りのニワトリ≠ヘしばらく前に特命|霊《れい》的《てき》捜《そう》査《さ》官《かん》仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が持っていってしまっていた。
従って事実上、着の身着のままの状態である。
おまけに。
「だああああああ────────! 財布を落とした!」
なけなしの六千円入っていた財布を落としてしまっていた。さらに、
「ぐわあああ──────! 通帳が焼けちまってる! どこの銀行に預けてたかもうわからねええ────!」
不幸が続き、
「ケイタ! タイヘン! 雨が降り始めたよ!」
とりあえず雨《あめ》露《つゆ》をしのげる場所を探し、流れ流れ歩いているうちに橋の下に辿《たど》り着いたのだ。どうやら、新《しん》堂《どう》家《け》と関《かか》わっていた死神の財を操《あやつ》る力が、相手をうち破ったことによって呪《のろ》いとなって啓《けい》太《た》の方へ逆流してきたらしい。
ちょっと洒落《しゃれ》にならないくらいの貧乏|状《じょう》態《たい》だった。
「とほほほ」
結局、メモリーに入っていた一人暮らしの女の子に全《すべ》て断られ、啓太は哀《かな》しげな溜《ため》息《いき》と共に肩を落とした。
「あははははははは!」
反対に傍《かたわ》らでお腹《なか》を抱えて笑っているのはようこである。彼女は啓太が女の子から拒絶され続けたことが嬉《うれ》しくて仕方ないようだ。
啓太ががるるるっと牙《きば》を剥《む》いた。
「やっかましい! 本来の実力ならな! こんなことならなかったんだよ!」
ようこは爪《つま》先《さき》立《だ》ちになって、そんな啓太の頭をぐりぐり撫《な》でた。
「ま、そ〜怒らない、怒らない。お昼でも食べて、とりあえずゆっくりしよ? ね?」
「お昼?」
啓太は訝《いぶか》しそうにようこを見上げた。言われてみればお腹がかなり減っていた。昨日《きのう》の夜からなにも食べていない。
でも、ここには食材がない。そもそもポケットには五十二円しか入っていない。それが今の全財産である。
ようこは軽くウインクすると、
「ケイタ、ここには川が流れてるんだよ?」
指を立てた。それで目の前の清流を泳いでいたと思《おぼ》しき形の良い川魚が何匹かばさばさと空から降ってくる。どうやらしゅくち≠ナ引き寄せたようだ。続けてようこはくるっと身を返すと、指を真《ま》っ直《す》ぐ反対側に突きつけ、
「じゃえん」
いつの間にか用意していた段ボールや木材の欠片《かけら》に着火した。ぽっと火の手が勢い良く上がり、啓太が感嘆の声を上げた。
ようこの手際はかなり良かった。倒《とう》壊《かい》した部屋から一本だけ持ってきていた包丁で手早く魚のワタを抜き、串《くし》で刺して火に炙《あぶ》った。適《てき》宜《ぎ》、小枝を入れたり、じゃえん≠追加して炎の量を調《ちょう》整《せい》する。
それで程なく焼き魚が出来上がった。
「はい、ケイタ♪」
ようこはにこにこ笑いながら、ベンチに座っていた啓太に串を差し出した。
「お、おお。さんきゅ」
啓《けい》太《た》は礼を述べてそれを受け取った。ようこは満足そうに頷《うなず》くと、啓太の傍《かたわ》らに自分も腰を下ろして別の焼き魚にかぶりつく。どろんと出ていた尻尾《しっぽ》がぱたぱた揺《ゆ》れ、もむもむと口元が幸せそうに動いた。啓太はそんなようこの横顔をちらっと見てから、ぱくっと香《こう》ばしい匂《にお》いのする身を囓《かじ》った。
恐らく鱒《ます》の仲間であろうその魚は美味《うま》かった。
「おお、なかなかいけるじゃん」
啓太がうんうん頷きながら言った。
「えへへ〜、お代わりまだまだ沢《たく》山《さん》あるからね、ケイタ♪」
ようこはどこまでも気楽そうだ。
啓太は少し気になって、
「ようこ、お前はあんま気落ちしてないんだな〜」
しみじみそう言った。
「どして?」
「いや、お前が集めていた洋服もおじゃんになっちゃったじゃん。大事にしてたろ? スカートとかブラウスとか」
「別にいいよ。ケイタ、また買ってくれるんでしょ?」
「はあ、そうなればな〜。俺《おれ》もコレクション失っちゃったし」
啓太にとっては家を失ったことや、貧乏|状《じょう》態《たい》になったことより、長年収集してきたえっちな本やビデオ(一部、超レアモノ)が破損してしまったことの方が応《こた》えているようだ。魚を囓りながら哀《かな》しそうな吐《と》息《いき》をつく。
ようこはそんな啓太の肩に手を置いて、
「あのね、ケイタ。わたしはお洋服なくても、おうちがなくても、正直、ケイタさえいればどこでもそれなりに楽しいよ♪ だからいっそお金がないなら無人島にでも行く? きっとお金かからないよ?」
にっこりと啓太を見上げる。啓太は叫んだ。
「ば、ばか。そんなのお前がよくても俺が困るわい! 大体、無人島でどうやって暮らすんだよ?!」
「わたしがお魚や木の実を取ってあげる。守ってあげるし、夜は暖めてもあげる。必要なことはぜ〜んぶしてあげる。それでもいや?」
「いや、あのさ」
啓太はぽりぽりと頭を掻《か》いて横を向いた。
「いやっつうかなんつうか、俺、やっぱなんのかんの言ってしてぃーぼーいだし、娯楽がない所はちょっとさ」
ようこがじっと押《お》し黙《だま》って何事か考え込み始めている。啓太はその様《よう》子《す》に気がついて慌《あわ》てて言《い》い添《そ》えた。
「あ、いや、別にお前と暮らすのがいやだとかそういう訳じゃないぞ?」
「そうね」
ようこはふと悪戯《いたずら》っぽく含み笑った。小《こ》悪《あく》魔《ま》の笑《え》みを口元に浮かべたまま、ぐいっとキスをする距《きょ》離《り》まで顔を近づけて、そっと啓《けい》太《た》の耳元で囁《ささや》いた。
「……その時は二人で繁《はん》殖《しょく》でもする?」
ぶっと啓太が吹《ふ》いた。
「きっと娯楽にもなって、無人島でもなくなるけど?」
かぷっと耳たぶを甘《あま》噛《が》みする。
「あ、あほ!」
きゃはははと突然、ようこが笑い出した。出会った初めの頃《ころ》、啓太を誘《ゆう》惑《わく》して楽しんでいたような声《こわ》音《ね》だ。啓太は苦笑した。
「……変わらないな、お前も」
ようこの後頭部の髪を彼女を抱っこするような形でくしゃくしゃ撫《な》でた。ようこはふと目を細めた。
甘えるように。
「そうでもないよ?」
頬《ほお》にそっと優《やさ》しくキスした。
空は鉛《なまり》色《いろ》。雨がさらに降りしきる。重金属を溶かし込んだような川《かわ》面《も》を叩《たた》く。波紋が幾《いく》つも幾つも生じては消える。
ぴちゃんぴちゃんと水音が響《ひび》いていた。
橋の下は比較的、乾いていた。
啓太とようこはベンチを上手《うま》く組み合わせ、ちょうどダブルベッドくらいの大きさの寝床を作っていた。そこに段ボールを敷《し》き、新聞紙を被《かぶ》って寝ている。夏なので寒さはほとんど感じなかった。
むしろようこは暖かいとさえ思っている。
うんうんうなされている啓太の隣《となり》に横たわり、満足そうに丸くなっていた。啓太は嫌《いや》がっているが、こぢんまりとした橋の下の居《い》心地《ごこち》は決して悪くない。しばらくはここにいても構わないとさえ思っていた。
時刻にして夜の九時半。ようこは啓太(ふて寝していた)にならって眠りにつこうとした。くすっと笑って、一《いっ》瞬《しゅん》、瞳《ひとみ》を閉じかける。だが、すぐにまた開いた。いつの間にか表情を鋭《するど》く引《ひ》き締《し》め、身を起こす。
川の下流の方角。
煙《けぶ》るような雨の中、浮かび上がるようにゆっくりこちらにやって来る人《ひと》影《かげ》がある。川《かわ》面《も》をまるで鬼《おに》火《び》のように造作なく歩いていた。
手に持った朱《しゅ》色《いろ》の和《わ》傘《がさ》が灰《はい》色《いろ》の景色の中で、非現実的なまでに鮮《あざ》やかに際《きわ》だっていた。ようこはちらっと寝息を立てている啓太に目をやってから、押し殺した声で問うた。
「……はけ? どしたの?」
白《しろ》装《しょう》束《ぞく》の犬《いぬ》神《かみ》は橋の下に辿《たど》り着く前に足を止めた。朱色の和傘をさしたまま、川面の上に立って無表情に告《つ》げた。
「ようこ。結界の綻《ほころ》びが増え、あの者の踊りが本格的に止まりつつあります。かなりその場しのぎではありますが、我らは『動物結界』で補強することに致しました」
その淡々とした口《く》調《ちょう》に、ようこはふっと苦笑を浮かべた。
「唐《とう》突《とつ》だね、いきなり。最近の調《ちょう》子《し》はどうですか?≠ニかなんでこんなところで寝泊まりしていらっしゃるのですか?≠ニか聞かないの?」
はけはようこと目を合わせ、小首を傾《かし》げるようにして少し微笑《ほほえ》む。
「……私にも覚えがあるからですよ。今の宗《そう》家《け》と最初に出会う切っ掛けになった死神を倒した時、我々はどうなったと思います?」
「どうなったの?」
「半年ほど、ありとあらゆる厄《やく》災《さい》が降りかかってきました。お金はなくなる、家の裏庭から不《ふ》発《はつ》弾《だん》が見つかる、妖《よう》怪《かい》が四十匹くらいまとめて家に転がり込んでくる、私が指名手配犯と間違われる……まあ、今にして思えばかなり無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》をやりましたよ、あの方と」
赤い傘の下ではけは懐《なつ》かしそうに目を細めた。ぱしゃぱしゃと雨音だけが響《ひび》いた,やがてようこが言った。
「分かってたんだ?」
「ええ。宗家には」
「あのお婆《ばあ》ちゃんもそ〜とう人が悪いね。じゃあ、せめて罪滅ぼしにケイタでも家に泊めてあげたらいいじゃない」
「私もそう申し上げたのですが」
「ですが?」
「いかん。あの手の貧乏はうつる≠セそうです」
くっとようこが喉《のど》を震《ふる》わせた。
ははは、とおかしそうに笑う。はけは曖《あい》昧《まい》に微笑んだ。気《き》遣《づか》うように、
「ようこ。すでに猫《ねこ》又《また》、狸《たぬき》の方々。そして犬《いぬ》神《かみ》たちが準備を整えております」
そう言った。ようこはほろ苦《にが》く首を振る。
「……それで」
言《い》い添《そ》える。
「わたしが欲しいと? このようこ≠ェ?」
「はい」
はけは真《ま》っ直《す》ぐにようこを見て頷《うなず》いた。
「ですが、あなたには拒否する権利があると思います。これは私の心情として、です。あなたはもう充分に犬《いぬ》神《かみ》としての務めを果なされているのですから」
ようこが横を向いてぽつりと呟《つぶや》いた。
「ううん、はけ。わたしはやるよ。たとえ、誰《だれ》になんと言われようと、ね」
はけは黙《だま》り込んだ。
ようこがちらっと彼を盗み見て微笑《ほほえ》む。
「言ってるのでしょう? みな、いろいろと」
「……」
「裏切り者だとか、ケモノの風《かざ》上《かみ》にもおけない、とか」
身を掻《か》き抱き、暗い水面に視《し》線《せん》を落とし、微笑んだ。
哀《かな》しそうに。
「でも、いいよ。わたしは何よりこの生活が大事だもん。化《ば》け物《もの》上等」
はけとようこがすうっと曇《どん》天《てん》に吸い込まれるように飛び立っていく。ようこが一度だけ振り返って、完全に雨音だけが辺《あた》りに満ちた。
今の今まで。
寝息を立てていた啓《けい》太《た》がぱっかりと瞳《ひとみ》を開ける。
「う〜ん」
と、唸《うな》って手と手を組み合わせると目の前でんっと伸ばして、
「ど〜したもんかね?」
呟いた。
それからしばらく経《た》ってのことだった。
山奥のちょっとした木々の切れ目。
しのつくような雨が上がり、晴れ渡った夜空がそこでは見えていた。煌《きら》めく星々の下、今、人ならざる者たちが赤い篝《かがり》火《び》を中心に集まっていた。
その『動物結界』と呼ばれる極《きわ》めて重要な儀《ぎ》式《しき》は想定以上に順調に進行していた。まず犬神たちが下準備をして、次に猫たちが踊っていた。ある者は手ぬぐいを頭に被《かぶ》って、ある者は半《はん》纏《てん》を着て、ニンゲンで言うところの盆踊りの恰《かっ》好《こう》で手と足を交互に前へ動かし、
「さあさ、踊りましょ、歌いましょ♪ 今《こ》宵《よい》、我ら猫どもが、この閉じた篭《かご》のさらに周りに踊って堰《せき》を築きましょ♪」
声を合わせ、霊《れい》力《りょく》を練《ね》っていく。
猫たちが回ってるのはちょうど直径二十メートルほどの円だった。その中心は眩《まばゆ》い光で包まれ、判然としなかった。まるで金《きん》色《いろ》で透明な繭《まゆ》が猫たちの盆踊りによって紡《つむ》がれていくかのようだった。やがて踊りが一段落すると、猫たちの輪《わ》の中から古風なチョッキを着た若い猫《ねこ》又《また》が緊《きん》張《ちょう》し切った顔で前に出てきた。
「ね、猫又の、渡り猫の留《とめ》吉《きち》の名において!」
裏返った声で前足を突き出す猫。
「『結界強化』!」
ばしゅっと音がして辺《あた》りの空気が濃《こ》くなった。その瞬《しゅん》間《かん》。
うおうのうれえええ〜〜〜〜! 愚劣な猫どもがあ〜〜〜〜〜!
と、中心の光の繭から轟《とどろ》くような大声が聞こえた。一《いっ》瞬《しゅん》だけ凄《すさ》まじい、桁《けた》違《ちが》いの霊《れい》格《かく》が稲《いな》妻《づま》のような光となってそこから迸《ほとばし》る。ひゃっと猫たちが驚《おどろ》いて尻《しり》餅《もち》をついた。しかし、それも本当に一瞬のことだった。
すぐに、
うおおおのれえええ〜〜〜〜〜い!
声と共に繭の中に吸収され、針の先ほどに小さくなって消えてしまった。またさやさやと夜風に梢《こずえ》が鴨る音と松《たい》明《まつ》の炎が揺《ゆ》らめく音が場を支配する。
ほっとした空気が辺りに流れた。
一拍置いて、
「いや、お見事! 実にお見事!」
ちょっと離《はな》れた場所で検分していた犬《いぬ》神《かみ》たちが何人か拍手をし始めた。それを皮切りに他《ほか》の犬神たちも次々に唱和した。
「おつかれさまでした!」
「大した物でしたよ〜、猫又のみなさん!」
そんな様《よう》子《す》をにこにこしながら見守っていた犬神の最長老が傍《かたわ》らに立っていた己《おのれ》の息子に声をかけた。
「の〜、はけよう」
最長老はもうニンゲンに化《ば》ける必要もないので濃《こ》い体毛がふさふさ生《は》え、尻尾《しっぽ》がどろんとお尻から飛び出ているケモノ状《じょう》態《たい》だった。それでも長年の習《しゅう》慣《かん》からなのだろう。よれよれのネズミ色の浴衣《ゆかた》をかなりだらしなく着こなし、地面にどっかり胡座《あぐら》をかいていた。
人間の老人と年取った老犬が混《こん》交《こう》し、それを体長三メートルほどまで引《ひ》き延《の》ばしたような外《がい》観《かん》をしていた。しょぼしょぼした目の回りには黄《き》色《いろ》い目やにがこびりつき、歯も抜け、額《ひたい》の毛が大分、禿《は》げ上がっていたが、嗄《しわが》れた声にはまだ優《やさ》しい威《い》厳《げん》があった。
「猫又の皆さんを宴《えん》席《せき》にご案内して差しあげなさい」
白《しろ》装《しょう》束《ぞく》に黒い髪で片目を隠《かく》したはけが微笑《ほほえ》んだ。
「はい、父上」
優《ゆう》雅《が》な動作で一礼すると大役を果たしてぐったりしていた若い猫《ねこ》又《また》に歩み寄っていく。途《と》中《ちゅう》、何人かの犬《いぬ》神《かみ》に軽く指示を出していた。
はけが近づいてくるのを見て、猫又は少し安《あん》堵《ど》の笑《え》みを浮かべた。
「お疲れさま」
と、はけが労《ねぎら》うと、
「寿命が縮《ちぢ》まりました〜」
留《とめ》吉《きち》が弱々しく笑う。その周りでは他《ほか》の犬神たちが尻《しり》餅《もち》をついた猫又を助け起こしてやったり、暖かいお茶を振《ふ》る舞《ま》ったりしてやっていた。
「むう」
犬神の最長老は今度は反対側に立っていた娘に尋《たず》ねた。
「せんだんよう。次はタヌキの衆だったかのう?」
声をかけられた赤毛の少女がすぐさま手帳をぱらぱらめくる。有能な秘書然と頷《うなず》いた。
「はい。その通りですわ、お父様」
こちらは西洋人形のような美《び》貌《ぼう》に、藤《ふじ》色《いろ》の和服がかなりミスマッチの美少女だった。彼女がちらっと広場の反対側の方へ目をやると、ちょうどハチマキタスキがけのタヌキの一団が緊《きん》張《ちょう》し切った面《おも》もちで入場してくるところだった。
彼らは眼鏡《めがね》をかけた犬神の先《せん》導《どう》で、先ほどまで猫又たちが配置についていたのと同じ、円周上に立って、光の繭《まゆ》の周りで踊り出した。
「たたたた、たぬきは楽しく踊りましょう♪」
すちゃ、すちゃと阿《あ》波《わ》踊《おど》りのリズムと足取りでかなり早く回っていく。
「結界閉じて、タヌキは笑って、月の光でぽんぽこぽん♪ あ、そ〜れ、ぽんぽこぽんのぽんぽこぽん♪」
ぐるぐると糸のような霊《れい》力《りょく》が練《ね》られていく。中心がギュウっと絞られ、空間が圧《あっ》縮《しゅく》され、さらに霊気が強まっていった。
頃《ころ》合《あ》いよしと見計らったのだろう。
輪《わ》の中から一《ひと》際《きわ》若いタヌキが一歩前に出てきて、しゃっちょこばって叫んだ。
「化《ば》けダヌキの、ゴロジロウの名において!」
手を前に突き出す。
「『結界強化』っす!」
ぐ〜んと空間が閉じて、一《いっ》瞬《しゅん》、光の繭の中から呪《じゅ》詛《そ》するような声が響《ひび》いた。
うごう。今度は……タヌキ、か……うおのれい、覚えておれえ
だが、今度はかなりあっさりと光の繭の中に消えいってしまった。ちょっと青ざめていた若いタヌキがほっと胸を撫《な》で下ろす。
犬《いぬ》神《かみ》たちの間から拍手と歓声が起こった。
「いや、タヌキの皆さんもまたお見事、お見事!」
辺《あた》りで見物していた猫《ねこ》又《また》たちも惜《お》しみのない賞《しょう》賛《さん》を浴《あ》びせる。
「おつかれさまです〜」
タヌキたちが疲れた表情で力を抜く。そこへ犬神や猫又たちが近寄っていって労を労《ねぎら》う。犬神と猫又と化《ば》けダヌキが和《わ》気《き》藹《あい》々《あい》と交歓している。
うん、うんと頷《うなず》いていた犬神の最長老がまた傍《かたわ》らの娘に尋《たず》ねた。
「せんだん。これで、犬神、猫又とタヌキの衆が終わったの、次は」
と、彼が言葉を終えないうちに水を打ったような静《せい》寂《じゃく》が広場に染《し》みいっていった。最長老が顔をそちらに向ける。
せんだんが小さく息を呑《の》む。
「ようこ……」
掠《かす》れ声で彼女が呟《つぶや》いたその時、犬神たちの一角を割って、篝《かがり》火《び》の中、ゆっくりと衆目に姿をさらした一人の若い娘がいた。
白い丈《たけ》の短い着物を着て、細長い赤い帯を腰元に巻いている。
太《ふと》股《もも》が剥《む》き出しになっており、右の素《す》足《あし》には青い足《あし》輪《わ》をつけていた。豊かな黒髪を腰の所で束《たば》ね、頬《ほお》には赤い入れ墨《ずみ》のような紋《もん》様《よう》。唇《くちびる》には薄《うす》い微笑を浮かべ、険《けん》のある切れ長の瞳《ひとみ》を半ば微睡《まどろ》むように閉じていた。
近くにいた犬神たちが眉《まゆ》をひそめ、あるいは嫌《けん》悪《お》感《かん》を露《あら》わにしてひそひそと近くの者と言葉を交《か》わし合った。猫もタヌキも彼女のそばから慌《あわ》てて後ずさっていく。
潮《しお》のようにケモノたちが左右に別れ、彼女に道を譲《ゆず》った。
その中を少女はあくまで優《ゆう》美《び》に歩く。
「ようこさん……」
「お、おひさしぶりっす」
唯《ゆい》一《いつ》、心配そうな表情の猫又と化けダヌキが二匹だけその場に残って少女を見上げた。ようこはちらっとそちらに目をやり、一《いっ》瞬《しゅん》優《やさ》しく微笑《ほほえ》んだ。
しかし、言葉はかけない。
すぐにまた前を向くと、光の繭《まゆ》の方へゆっくり近づいていった。視《し》線《せん》の集まる中、張り詰めた緊《きん》張《ちょう》感《かん》の中心点で、彼女は真《ま》っ直《す》ぐに立って顔を上げた。
しばしそこで光の繭と無言の対話を続けた。
それからやおらゆったりと身を沈め、舞《ま》い始める。
霊《れい》気《き》を束《たば》ね、鮮《あざ》やかに、緩《ゆる》やかに。ようこは地をとんと爪《つま》先《さき》で蹴《け》ると宙に飛んだ。羽《う》毛《もう》のように柔らかく、空に身を回転させる。足輪がしゃらんと鳴った。太《たい》古《こ》のリズムで、夜《や》気《き》の中、消えいりそうな美しい舞《ま》い。
犬《いぬ》神《かみ》も、猫《ねこ》又《また》も、化《ば》けダヌキもその踊りの精《せい》緻《ち》さと奔《ほん》放《ぽう》な身のこなしに見《み》とれていた。少女の周りでは時間までもが彼女の調《ちょう》律《りつ》に従って、ゆっくりと流れているかのようだった。せんだんは溜《ため》息《いき》をつき、同時に眉《まゆ》をひそめた。彼女の耳に押し殺した悪意ある囁《ささや》き声が聞こえてきたからだ。
「ふん。相変わらず踊りだけは上手《うま》いな」
「そうだろう。ああやって皆の心をたらし込んだのだから……全く。あの化け物娘が」
それは義《ぎ》憤《ふん》だったか、後ろめたさだったか。せんだんは自分でも説明のつかない感情に駆《か》られ、その声がした方ヘキッと振り向いた。
誰《だれ》が言ったのか定かではない。
暗がりの中、恐れと憧《どう》憬《けい》という相反する感情を湛《たた》えた犬神たちの顔がぼんやりと浮かんで見えた。その下で猫又や化けダヌキがぼんやり見とれている。
遠くの方にいた白《しろ》装《しょう》束《ぞく》のはけがせんだんの視《し》線《せん》に気がついて、諭《さと》すようにゆっくりと首を横に振った。
その時。
今の今まで黙《だま》っていた犬神の最長老がぱちぱちと大きく柏手を打った。
「見事! 実に見事だったぞ!」
それは場違いなくらい大きな声だった。
踊りを止《や》め、今まさに何かをやろうとしていたようこが無表情に最長老を振り返った。しかし、最長老はその視《し》線《せん》にはまるで気がつかないかのように、ぼんやりと宙に目を定め、回想するように呟《つぶや》いた。
「いやあ、よかったのう……よかった。初代が生きておったらなんと言うかのう。やっぱり見事だと言うのかのう。ようこよう。話したかのう。わしが山茶屋のおなごを口《く》説《ど》きに行く初代のお供をした時」
「……」
「ああ、違った違った」
ふごふごと笑う最長老。優《やさ》しい目でふとようこを真《ま》っ向《こう》から見やった。
「初代はのう。とても楽しいお人じゃった。いささかオンナ癖《ぐせ》が悪かったがのう。一《いっ》緒《しょ》にいて実に楽しい人じゃった。強く、同時にバカげたことを心の底から楽しめるお人じゃった。おぬしの主《あるじ》、川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》とよう似ておるわい。のう……ようこ。おぬしは主人を選《えら》ぶのが本当に上手《うま》い奴《やつ》じゃの〜」
ゆったりとしたもの柔らかい喋《しゃべ》り方。
冷たい敵意も、遠巻きの隔《かく》意《い》も溶かしていく暖かみ。ようこがふっと口元を緩《ゆる》めた。
彼女は唐《とう》突《とつ》に光の繭《まゆ》の方へ振り返ると、真《ま》っ直《す》ぐに手を突きつけ、
「妖《よう》狐《こ》のようこの名において!」
凛《りん》と叫んだ。
「さらなる結界の持続を!」
その瞬《しゅん》間《かん》。
ようこお〜〜〜〜おまえまでえええ〜〜〜〜〜〜〜〜! ひどおお〜〜〜〜い!
光の繭の中から情《なさ》けない声が響《ひび》いて、
ゆるさんぞ〜〜、ようこソレは! ソレだけは!
じたばたと動き回るような気《け》配《はい》の後、
ニンゲンとなんてお父さん絶対ゆるしませ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!
ばしゅっと音がして、完全に光の繭がその場から消え去った。後には静寂と暗《くら》闇《やみ》だけが残った。ようこは肩を落とし、深い吐《と》息《いき》をついた。前髪がぱさりと垂《た》れ、彼女の表情を押《お》し隠《かく》す。何か小さく呟《つぶや》いていたがその声は誰《だれ》にも届かなかった。
せんだんには、
ごめんね
と、謝《あやま》っているように見えた。
彼女を取り囲む犬《いぬ》神《かみ》たちは複《ふく》雑《ざつ》な表情で彼女を見つめる。嫌《けん》悪《お》。恐れ。そしてほんのわずかな同情心。こわごわ背伸びをしている猫《ねこ》又《また》たち。化《ば》けダヌキたちがこしょこしょと互いに耳打ちし合っている。その様《さま》々《ざま》な感情の渦《うず》を一身に集め、ようこはそして。
腰元に手を当てると、
「ぷ、くく」
最長老がおかしそうに含み笑った。他《ほか》の犬《いぬ》神《かみ》たちは唖《あ》然《ぜん》として目を見開いている。ようこは全《すべ》ての視《し》線《せん》を小《こ》馬《ば》鹿《か》にするようにお尻《しり》をふりふりと左右に振り、
「んべ」
くるっと振り返って思いっきりアカンベーをした。
拒絶したのだ。勝手な恐怖も、嫌《けん》悪《お》も、同情も。ぽかんとしているせんだん。微笑《ほほえ》んで幾《いく》度《ど》も頷《うなず》いているはけ。
「ようこ、いきなさい。お前の主人の許《もと》へ」
最長老が優《やさ》しく声をかけた。
ふっとようこは笑《え》み、頭を振る。すると束《たば》ねていた黒髪が一気に解《ほど》け、夜《や》気《き》にさらさら流れた。彼女はとととっと駆《か》け出すと、次の瞬《しゅん》間《かん》、思いっ切り夜空に向かって跳《ちょう》躍《やく》した。一瞬で闇《やみ》の中に溶け込むようにいなくなる。
周りにいた者たちが見《み》とれるほど鮮《あざ》やかな動きだった。
翌朝、吉《きち》日《じつ》市《し》は見事な快晴だった。
秋晴れの空の下をようこはひゅるひゅると風を切って飛んでいる。服は既《すで》にいつものミニスカートとだぼだぼのシャツという姿に着替えていた。大きく跳躍するようにビルの屋上から家々の屋根を爪《つま》先《さき》で蹴《け》って、前に進む。
思《おも》い煩《わずら》うような、憂《うれ》う表情が、
「おいこら! 俺《おれ》はお前に幾つか貸しがあったよな? あん? なに? これから彼女が家に勝負下着でやって来る? 今日《きょう》はオトナになる日だから勘弁してくれろ? いや、別に明日《あした》でも俺は別に……なに? ど〜せい?」
河童《かっぱ》橋《ばし》に近づくにつれて徐々に晴れていった。啓《けい》太《た》の怒《ど》鳴《な》り声が遙《はる》か遠くから聞こえてきたのだ。緩《ゆる》やかに蛇《だ》行《こう》する川。
周りの緑《みどり》が目に心地《ここち》良い。
その中で一人だけ騒がしい存在が啓太だった。
「おい! こら! 別に恩に着せるわけじゃねえが、そもそもその子は俺がお前に口《く》説《ど》く権利|譲《ゆず》ってやったんだろ〜が!?」
上空でしばらくその様《よう》子《す》を眺めていたようこはぷぷと拳《こぶし》を口元に当てて含み笑った。啓太は橋の下から出て、携帯電話に向かって思いっ切り叫んでいる。
「こらあああああ──────! なにがこれからボクは愛に生きるから、キミとはあでぃお〜すだ、この薄《はく》情《じょう》者《もの》─────!」
どうやら交渉相手に電話を切られてしまったようだ。ようこは我《が》慢《まん》できなくなって地面にぴょんと飛び降りると、てててっと駆《か》け寄って、啓《けい》太《た》の背中に飛びついた。
「たっだいま、ケイタ! 今帰ったよ!」
「お? おお、ようこか……」
啓太が疲れたような表情で振り返った。ようこがおかしそうに尋《たず》ねた。
「なに? また居《い》候《そうろう》頼んで断られたの?」
すると啓太は急に怒った顔になって、
「ああ、しかも今度は男にな!」
だんと足《あし》踏《ぶ》みした。
「ケイタもとうとう選《え》り好み出来なくなったんだね〜」
と、しみじみようこが呟《つぶや》いた。啓太はげんなりと頷《うなず》き、
「ちくしょ〜〜。ああ、そうだよ! これでもう四人目だよ! 俺《おれ》だって別に男なんかに頼みたくねえよ! はあ」
深い溜《ため》息《いき》をつき、頭を抱え込んだ。
「全くどうなってるんだ、畜生……さっきも不動産屋に電話したら問答無用で『川《かわ》平《ひら》啓太さんはお断りすることになってます』とか言われるし、ブラックリスト載ってるみたいだし、食べかけの魚は目つきの悪い野《の》良《ら》猫《ねこ》に奪われるし、はあ。なんの因《いん》果《が》だ、これ?」
ようこはなんだかそういう風にいつものように困っている啓太を見ていると嬉《うれ》しくて嬉しくて仕方なくなってきた。彼の後頭部をぺちぺちと叩《たた》く。ついでに思いっ切り抱きついて、頬《ほお》ずりした。
「いいじゃない。おうちはゆっくり探せば♪」
それから、ふとあるモノに気がついて、大きく目を見開いた。
彼女の視《し》線《せん》の先。
いつの間にかけったいな生き物が砂《じゃ》利《り》の上にちんまり座り込んでいた。大きさは普通の猫ほどである。身体《からだ》は綺《き》麗《れい》なエメラルドグリーンで、水かきが左右の手足についていた。頭にはつやつやした白いお皿。ようこが唖《あ》然《ぜん》としていると、その生き物。
恐らくこの河童《かっぱ》橋《ばし》に古くから棲《す》んでいると言い伝えられてきた伝説の河童は、
「くけけ?」
つぶらな瞳《ひとみ》で、小首をひょいっと傾《かし》げた。ようこはくいくいと啓太の袖《そで》を引く。
「ケ、ケイタ」
だが、啓太は頭を抱え込んでいて自分の考えに没頭していた。
「あ〜、こうなったら薫《かおる》の家……はもうダメだろうな。仮《かり》名《な》さんの……は居場所が分からないし、河原《かわら》崎《ざき》センパイんちは俺がイヤだし」
その間、河童はちょこんと立ち上がるとよちよち歩み寄ってきて、前《め》屈《かが》みになり、啓太の膝《ひざ》辺《あた》りをくんくんと嗅《か》いだ。次に興《きょう》味《み》深《ぶか》そうにそのズボンの裾《すそ》を捲《まく》り上げて、向こうずねをぺたぺた水かきで撫《な》でさする。
「くけけ?」
啓《けい》太《た》はまだぶつぶつ独《ひと》り言《ごと》を呟《つぶや》いている。河童《かっぱ》は「こいつ、自分の縄《なわ》張《ば》りに一体、何の用だ!」とでも言いたげに小さな足で啓太の膝《ひざ》をげしげし蹴《け》った。
ようこはねえ、ねえ、と冷や汗を掻《か》きながら、しきりに啓太の袖《そで》を引っ張る。
「だ〜、ちと黙《だま》っててくれ!」
啓太はそれを面《めん》倒《どう》くさそうに払う。また溜《ため》息《いき》をついて、
「もうちょっと予算があったら幾《いく》らでもなんとかなるんだけどなあ」
河童はさらに啓太の身体《からだ》をヨジヨジよじ登ると啓太の首筋にぺたんとへばりついて、
「くけけけけけけけけけ!」
楽しそうな鳴き声を上げたところで、
「だあああ、うるせええええええええ───────────!」
啓太が激《げき》して立ち上がった。むんずと河童の首根っこをひっつかむと、呆《あっ》気《け》にとられているようこの前でぶんぶんと振り回し、
「しゃありゃああああああああ────────!」
河童を川《かわ》面《も》目がけて思いっ切り放り投げる。
「くけええええええ─────────────!」
長い叫び声が尾を引いてぼちゃんと河童が水面に没した。眩《まばゆ》い陽光に煌《きら》めく、水《みず》飛沫《しぶき》。しばらくして河童が怒った顔でそこから首を出すと、
「くけけけ!」
ふん。もう付き合ってらんないよ、とでもいうようにひょいとまた顔を引っ込め、下流の方にすいっと泳ぎ去ってしまった。
啓《けい》太《た》はまた何事もなかったかのように座り込んで頭を抱える。
「はあ、問題は何よりも金だよな……金。金さえあれば部屋も借りれるし、なんとでもなるのにあいにく先立つものがねえ」
呆《ぼう》然《ぜん》としていたようこはそこで後ろの立て看板を見てみる。恐らく啓太が全く気がついていないであろうその斜面の草むらに半《なか》ば埋もれた立て看板。
そこには……。
『この場所では古くから河童の目《もく》撃《げき》例《れい》が多発しています。当研究所は河童を決して伝説上の生き物とは捉《とら》えず、広く生物学的、民俗学的な観《かん》点《てん》から研究しております。もし、万が一、河童を見かけた方は是《ぜ》非《ひ》、ご一報を。捕まえた方にはなんと報《ほう》奨《しょう》金《きん》百万円! UMA研究所』
と、記《しる》してある。
ようこはなんだかもう無性に嬉《うれ》しくなってきてしまって啓太の首筋に飛びつき叫んだ。
[#改ページ]
「ケイタ大好き♪」
あとがき
え〜、大変、長らくお待たせ致しました。『いぬかみっ!』の五巻でございます。
いや、実はですね、ここだけの話、とっくに原稿は揃《そろ》っていて、その気になれば半年くらい前には本を出せたのですが、まさか前回、あれほど力《りき》説《せつ》していたのに、こちらを先に出すわけにもいかず、『インフィニティ・ゼロ』の完結が先になりました。
無事完結致しました。
あちらの方も読んでくださっている方、本当にありがとうございました。
ところでその『インフィニティ・ゼロ』ですが、どうもあちらが滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》シリアスな作風|故《ゆえ》か、読者の方から、
「いぬかみもこれから鬱《うつ》展開ですか?」
とか、
「シリアスに移行していくのですか? 霊《れい》能《のう》力《りょく》バトルモノが始まったりするのですか?」
とか聞かれるのですが、そのようなことは絶対ないです。基本的に有《あり》沢《さわ》まみずは二人いるとお考え下さいませ(いや、実際一人ですけど)
だから、いぬかみはお馬《ば》鹿《か》路《ろ》線《せん》で突き進んでいきますよ〜。
今回、死神|編《へん》で珍《めずら》しく啓《けい》太《た》がシリアスになってますが、これが上限です。彼が今後もう一度マジになるのはきっと最後の最後だけでしょう。
六巻は薫《かおる》&残りの犬《いぬ》神《かみ》三人登場、仮《かり》名《な》さん失《しっ》踪《そう》、といった流れになると思われます。どうなるかはいちお〜、大体、決めています。
面《おも》白《しろ》く。
より面白くしていきますよ〜。
それではそんなに遠くないうちに六巻で。
ではでは〜。
[#地付き] 有沢まみず拝《はい》
いつも的《てき》確《かく》に作品を仕上げていってくださる担当さんと若《わか》月《つき》さんに感《かん》謝《しゃ》を。
そして、今回のスペシャルサンクス。
頼れる兄貴、川《かわ》上《かみ》稔《みのる》先《せん》輩《ぱい》、色々とアドバイスありがとうございました!