いぬかみっ! 4
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)弱い者|苛《いじ》め
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)筋[#底本も本来もつのへんに力unicode:89D4]《きん》
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二日酔いの啓太が朝起きて見たものは、大量の生魚と、そして……!! 果たして、バラの花びらに包まれて目を閉じていたのは!? 前日の夜にいったい何があったのか。徐々に蘇ってくる記憶の中で、啓太が思い出したこととは……!?(「聖なる酔っぱらいの伝説」編)
薫の留守を任され、かわいい犬神たち(もちろん啓太なんて大嫌い)のいる家に喜びいさんで行った啓太の運命は……!?(「赤ずきんちゃんたち気をつけて!」編)──などなど、全5編収録!
犬神使い啓太と犬神ようこが繰り広げる、大人気スラップスティック・コメディ第4弾!
今回もようこの怒りは大爆発……!?
ISBN4-8402-2607-5
CO193 \570E
発行◎メディアワークス
定価:本体570円
※消費税が別に加算されます
有《あり》沢《さわ》まみず
昭和五十一年生まれ。牡牛座。パキスタン育ち。柔道部だったのですが、もうナニもしてません。ところで、若月さん。俺、もしかして蹴られてます?(汗)
【電撃文庫作品】
インフィニティ・ゼロ冬〜white snow
インフィニティ・ゼロA春〜white blossom
インフィニティ・ゼロB夏〜white moon
いぬかみっ!
いぬかみっ! 2
いぬかみっ! 3
いぬかみっ! 4
イラスト:若《わか》月《つき》神《かん》無《な》
東京出身在住。仕事場用に大好きなシシリー・メアリー・バーカーのティーセットが欲しくてあちこち探すものの、どこも売り切れ状態で手に入りません……。この本が出る頃には追加分が入荷しているはず??
カバー/加藤製版印刷
時に子供の冒険心が取り返しのつかない事態を招くことがある。これくらいなら大丈夫だろう。ここまでなら問題はない。そういった油断と親の目を盗んで遠出するスリルが加味されて、気がついた時にはもう既に手遅れだった。
薄《うす》い靄《もや》漂う早朝の山奥のことである。まばらに並ぶ木々の間を縫《ぬ》ってその小さなタヌキが全力で疾《しっ》駆《く》していた。四本の足が乾いた落ち葉を蹴《け》るたび、断続したタスタスタスという音を立てている。
「ワンワンワンワンワン!」
タヌキは恐怖に駆られた表情で背後を振り返った。
「ワンワンワンワンワン!」
後から追いかけてきているのは大きなムク犬だった。元は真っ白く綺《き》麗《れい》だったであろう毛並みが今はどす黒く汚れ、牙《きば》を獰《どう》猛《もう》に剥《む》いている。目に残酷な笑いが満ちていた。明らかに楽しんで、小ダヌキをいたぶることだけを目的に追いかけ回している。
父ダヌキも母ダヌキも、最近そのムク犬が縄《なわ》張《ば》り近くに出没していることは知っていて、一人では決して遠出しないようにと口が酸《す》っぱくなるほど注意されていた。それなのに親に寝かしつけられた後、そっと寝床を抜け出して、朝遊びに興《きょう》じている際にその犬に見つかってしまった。
ドングリ拾いに夢中になり、知らず知らずのうちに縄張りの沢を完全に越えていたのだ。ふと目を上げたらその犬がニヤニヤ笑いながら立っていた。
(以下、犬科語でのやり取り)
『よう、坊主。こんな朝っぱらから一人でどうしたんだい? ママやパパには? ちゃんと許可をとってきているのか?』
『あ、あ……ボク、その……あの』
『おいおい、そんなに怯《おび》えるなよ? 恐《こわ》いかい、この俺《おれ》が?』
『恐くは……いえ、だから』
『くくく……いてな』
『え?』
『退屈していてな。遊ばないかって言ってるんだ。俺とな……俺と楽しくよ。どうだ?』
『あ、ああ……その、あの……ごめんなさい!』
必死で逃げたら嵩《かさ》にかかって追いかけてきた。
『待てよ、こら!!!』
恐らくそのムク犬にとっては自分より弱い獲《え》物《もの》であれば誰《だれ》でも良かったのだろう。小ダヌキはただ偶然見込まれただけなのだ。
息が詰まるほど走り、心《しん》臓《ぞう》が痛くなるほど駆け、とうとう足がもつれて転んでしまう。黄色と赤の落ち葉の中に頭から突っ込んだ。灰色の景色の中で色彩が宙に舞《ま》い、ムク犬が勝利の唸《うな》り声を上げて飛びかかってきた。
慌てて振り返る。
だが、腰が抜けてしまってもうどうにも動けない。
ムク犬の鋭《するど》い牙《きば》と爛《らん》々《らん》と輝《かがや》く瞳《ひとみ》が大きく見えていた。
小ダヌキは座り込み、心の中で叫んだ。
もうダメだ。
お父さん、お母さん。言うこと聞かなくてごめんなさい!
その時である。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告《つ》ぐ! 蛙《かえる》よ、ちょこっとだけ破《は》砕《さい》せよ!」
目に映ったのは稲妻のようにジグザグと木々の間を縫《ぬ》って飛《ひ》翔《しょう》するカエルの姿だった。
いや、精巧なカエルの。
「ご飯いつも上げてるだろ───────────!」
ケシゴム!
樹《じゅ》上《じょう》で爆《ばく》発《はつ》が起こる。ぎゃいんと悲鳴を上げて犬がもんどり打った。直接命中した訳ではないが、爆風と衝《しょう》撃《げき》に煽《あお》られたのだろう。ごろごろと地面を二転、三転する。小ダヌキもたまらずひっくり返った。
「こら、ムク!! 弱い者|苛《いじ》めするな!」
何者かがもの凄《すご》い勢いでこちらに向かって駆けてくる。犬はチッと舌打ちをした。小ダヌキを横目で見やり、嘲《あざけ》るように笑う。
『坊主、命拾いしたな。バカなお節《せっ》介《かい》野郎がきやがった』
そうして、近くの茂みに身を躍《おど》らせると、がさがさと小枝を揺らしてあっという間に遠ざかっていく。小ダヌキはあまりの急展開に呆《ほう》けたように彼を見送るばかりだ。ただただ腰を落として、木の根の上に座り込んでいた。
その時、ふわっと抱きかかえ上げられた。
気がつくと、まだ幼いと言ってもよいニンゲンの男の子の顔がすぐそばにあった。
「なんだ……タヌキか」
少年は驚《おどろ》いたように言った。小ダヌキはぷるぷる涙目になって必死に頷《うなず》いた……が、果たして少年は気がついたかどうか。
今更ながらに震《ふる》えが込み上げてくる。
「多《た》分《ぶん》、巣穴から離れて迷っちゃったんだな。一人で帰れるか?」
小ダヌキはまた一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、肯定してみせた。
「なんだかまるで……人間の言葉が分かるみたいだな」
少年はちょっと笑う。実際そうだった。
「じゃ、俺《おれ》、あいつを追いかけてるから……もう行くよ」
小ダヌキを降ろし、背を向けた。ムク犬が逃げ去った方を見ながらなんとはなしに言う。
「あいつは捨て犬なんだ。捨てたのはニンゲン。荒《すさ》んで、毛皮をボロボロにして、誰《だれ》をも信じないようにさせたのも、ニンゲン。だから、赦《ゆる》してやってくれよな」
誰を。
とは言わず、少年はとんと足を踏み出す。そうして朝《あさ》靄《もや》の中に消えていく。その時、タヌキは気がつく。少年はトレーニングウェアに白いヘアバンドというなりだった。まるで河原をジョギングしているようなごくラフな恰《かっ》好《こう》だ。
こんな、樵《きこり》も滅《めっ》多《た》に訪れない山奥なのに。
それ以後、小ダヌキは二度とその少年に会うことも、ムク犬の噂《うわさ》を聞くこともなかった。三年前のことだった……。
「では、その命の恩人殿の身元が分かったというのじゃな?」
長老ダヌキがぽっかりと口から煙を吐き出して、目の前の少年ダヌキに向かって問いかける。
「はいっす!」
その少年ダヌキが元気良く返事をした。背もしっかり伸びて、声もきびきびしている。三年前、ムク犬に追いかけられた小ダヌキの立派に成長した姿だった。長老ダヌキはぼんやりと頷《うなず》き、キセルをぽんと火鉢に打ちつけて灰を叩《たた》き出す。
「ん。しかし、今になって、の」
と、感嘆するように言った。彼らは実はタヌキの中でも人に化けたり化かしたりすることの出来る高等種族で、特にこの長老ダヌキは人の里で、人に交じって十年ばかり生活していたいわば大のニンゲン通だった。
その為《ため》、この巨木の洞《ほら》もニンゲンの住まい同様に改装してあり、寸法はタヌキの大きさに合わせてあるものの、炬燵《こたつ》や、火鉢や、茶筒が揃《そろ》っていて、おまけに何故《なぜ》か巨人軍のポスターまで壁に張ってある。大変、生活感のある空間だった。
「実は道に迷っていた猫《ねこ》又《また》さんがいて、その方を里まで送って差し上げた時に偶然その猫又さんが恩人さんとお知り合いだったことが分かったんす。自分の恩人さんは、カエルのケシゴムを操《あやつ》る犬《いぬ》神《かみ》使いさんっす!」
少年ダヌキは目をきらきらさせて語る。
長年、探し求めていた恩人に再び巡り会えるのだ。きちんと御礼が出来る。律《りち》儀《ぎ》で、一《いち》途《ず》なタヌキの血が熱く騒《さわ》いでいる。
「ふ」
と、長老ダヌキが頬《ほお》で笑った。
「どうやらわしが改めて言わぬでも分かっておるようじゃの」
「はいっす!『タヌキは何があっても受けた恩は必ず返す』っすね!?」
「そうじゃ。『恩を仇《あだ》で返すのはニンゲンだけ』じゃ。で、身元は分かっておる。どう御礼をするかも決まっておるのじゃな?」
「はいっす、これを」
そう言って少年ダヌキは懐《ふところ》から桐《きり》製の小箱を取り出した。
「これを使わせて頂きますっす!」
ほう。
と、長老ダヌキは少し危《き》惧《ぐ》するような眼《まな》差《ざ》しになった。数《すう》瞬《しゅん》、考える。少年ダヌキが持っているソレは、使うニンゲンの心がけ次第では悲惨な結果を招きかねない代《しろ》物《もの》だ。また今、目の前にいる少年ダヌキにその微妙な機微が分かるとはとても思えなかった。だが、すぐに首を横に振った。
少年ダヌキの判断を信じることにしたのだ。
「よし、分かった。それは持っていけ。だが、いいな? 一度、人里に出れば恩を返すまでは決してこの敷《しき》居《い》を跨《また》ぐでないぞ?」
「はいっす! 分かりましたっす! ボク、絶対に恩人さんに満足して貰《もら》って一人前のタヌキになって帰ってくるっす!」
少年ダヌキは今にも血気にはやって洞《ほら》を飛び出していきそうだ、愚直なくらい熱くて、真《ま》っ直《す》ぐで、そして若々しい。
長老ダヌキは鷹《おう》揚《よう》に笑って手で押し止めた。
「まあまあ、待て待て。その前に、お前に一つ頼みたいことがある」
「頼み? はい、なんすか?」
「うむ。大したことではないのじゃがな、人の里に下りたらば、一つスポーツ新聞を山ほど拾って帰ってきておくれ。ラジオで大体のニュースは入るのじゃが、活字で知りたいこともあるでな」
「ええ、それは分かりましたっすけど……あれ?」
と、少年ダヌキは小首を傾《かし》げた。
「長老様がいつも古新聞をまとめて拾われている山荘はどうしたっすか?」
「ああ、主《あるじ》が引っ越しての。空き家になってしまったんじゃ」
長老ダヌキが渋い顔になって腕を組んだ。少年ダヌキがははあっと納得顔になる。それからふと思いついたように背後のポスターに目をやった。
「そういえばボク、前々からお聞きしようと思っていたんっすけど」
「なんじゃ?」
「長老様はプロ野球を生で見たいがためにトカイで暮らしていたという噂《うわさ》は本当っすか?」
「ああ、本当じゃ」
長老ダヌキはいともあっさりと頷《うなず》いた。
「なにしろ王《おう》選手がいたから、な」
そう呟《つぶや》いて次にどういう訳か急にしょんぼりと肩を落とす。みるみる哀《かな》しそうな表情になった。なにかそれ以上、深入りしない方が良いような気がして少年ダヌキは慌てて洞《ほら》を辞去する。確か前にこういった話題に触れて、三日三晩ぶっ通しで我が栄光の巨人軍ヒストリーとやらを語られ、倒れた若手ダヌキがいると聞いたことがあったのだ。
少年ダヌキの背を見送り、長老ダヌキがぼんやりと天《てん》井《じょう》を見上げ、呟いた。
「本当に強かったんじゃ、あの頃《ころ》の我が栄光の巨人軍は……」
それは心の底からの慨《がい》嘆《たん》だった。
日《にち》曜《よう》の気《け》怠《だる》い昼下がり。
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》は炬燵《こたつ》に入ってぬくぬくのんびりとおせんべいを囓《かじ》りながら、水着のお姉さんたちが遊び戯《たわむ》れるテレビ番組を見ている。そろそろ外では木《こ》枯《が》らしが吹く季節である。
「ぬう〜。常《とこ》夏《なつ》の島か〜」
「ケイタ、てれびなんていつでも見れるんだからさ、わたしと外へ遊びに行こうよ」
ようこが啓太の腕を引っばった。
「外は寒いからいやじゃ」
だが、啓太は根が生えたように腰を下ろしたまま動かない、顎《あご》をこつんと卓《ちゃ》袱《ぶ》台につける。
「テレビでぴちぴちお姉さん見てる」
明るいピンク色のセーターを着たようこは軽く溜《ため》息《いき》をついた。
「全く」
その時。
かちかちかち
なんだか火打ち石を叩《たた》き合わせているような変なノックの音が聞こえてきた。
「ん?」
啓太は顔を上げ、ようこと視線を合わせた。
再びかちかちかち
「か、川平啓太さんのオタクはここっすか?」
という上《うわ》擦《ず》った声も聞こえてきた。どうも硬い爪《つめ》のようなもので扉を叩いているらしい。
「……そうだけど。誰《だれ》? 鍵《かぎ》は開いてるよ」
と、啓太。しかし。
「は、はいっす」
ドアノブを懸《けん》命《めい》に回そうとしているような気《け》配《はい》がして、
「ダ、ダメっす〜。背が全然届きませんっす〜。申し訳ないっすが、啓太さん開けて頂けないでしょうかっす〜」
という哀《かな》しそうな声が返ってくる。啓《けい》太《た》は怪《け》訝《げん》そうな表情になった。妙に甲《かん》高《だか》い声だ。子供なのだろうか。それにしては口調がやけに変だ。押し売りや新聞の勧誘とも思えない。啓太は歩いていってドアを開けてやった。「は〜いって……なんだよ? どこだ?」
見たところ誰《だれ》もいない。啓太が廊下をきょろきょろ見回した時、小さな手でちょんちょんと膝《ひざ》の辺りを突っつかれた。
「あ、あの……ここにおりますっすよ?」
啓太はそこで視線を下に向け、
「タ、タヌキ!?」
驚《おどろ》きの声を上げた。その言葉通り、赤いちゃんちゃんこを着た小さなタヌキがしゃっちょこばってそこに立っていた。
「か、川《かわ》平《ひら》啓太さん」
タヌキは緊《きん》張《ちょう》しきったようにして言う。
「ずっとずっとお会いしたかったっす。その節は本当にありがとうございましたっす!」
ぺこりと下げられる頭。
後から顔を出したようこがまあ、と驚きの声を上げ、啓太は日を点にしたままだった。
「なるほど。お前、あの時の小ダヌキか〜。ああ、覚えてるよ、覚えてるよ。懐《なつ》かしいな〜。元気だったか?」
啓太がカップに緑茶を注ぎながら、感心したような声を上げた。今、少年ダヌキは座布団の上にカチコチに硬くなって座っていた。
「はいっす! あの時、啓太さんに助けて頂いたお陰でボク、今ここでこうしてるっす! 何度|感《かん》謝《しゃ》してもしきれないっす〜」
「いや、それは別にもういいんだけどさ……そうかあ。お前、化けダヌキだったんだな……」
なんかこうしみじみ呟《つぶや》いて啓太は緑茶の入ったカップをタヌキの前に差し出した。野生動物であることを考《こう》慮《りょ》して熱冷ましに予《あらかじ》め氷が入れてある。少年ダヌキは「恐《きょう》縮《しゅく》っす!」とそれを小さな前足で挟み、受け取った。
器用に口元に持っていき、少しこぼしながらもこくこくと飲んだ。
「ねえ、ケイタ、一体どういうこと?」
と、啓太の隣《となり》でじろじろ覗《のぞ》き込むようにタヌキを観察していたようこが尋ねた。タヌキは美味《うま》そうに緑茶の中の氷をばりぼり噛《か》み砕いている。
「ああ、昔な」
「自分、山の中で犬に追いかけられている時に助けて貰《もら》ったっす。すっごく凶暴なヤツだったんでボク、啓太さんがいなかったらマジやばいところだったんす」
「ムク、な」
そう呟《つぶや》いて啓《けい》太《た》は少し。
本当に珍しくちょっと哀《かば》しそうな表情になる。
「ふ〜ん」
と、だけようこはその横顔を見て言った。
「しかし、お前、よくうちが分かったな?」
そう啓太が尋ねると、少年ダヌキはこくこくと頷《うなず》いた。
「そうっす。本当に偶然なんすけど、山奥に迷い込んできた猫《ねこ》又《また》の留《とめ》吉《きち》さんを里へご案内している時に啓太さんのことを知ったっす。それで住所とか必要なことも全部教わったっす」
「あの猫また迷ってたのか」
啓太が腕を組んで笑う。ようこが不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに言った。
「本当に何やってるんだろうね? 留吉って」
「ブツゾウ探してるんだろう?」
「あ、そうそう。ちょっと遠出するのでボクについてこれないけど、啓太さんにくれぐれも宜《よろ》しくって言ってたっす」
「そうか。で、お前はわざわざ俺《おれ》に礼を言うためだけに街へ来てくれたのか? 随分と律《りち》儀《ぎ》だな」
「あ、違うっす! それだけじゃもちろんなくってボク」
少年ダヌキはそう言ってちゃんちゃんこの裏側に前足を突っ込んだ。そして、ふとその動きを止めて、また元の姿勢に戻った。
上目遣いで啓太を見上げる。
「あの、その前に一つお尋ねしたいことがあるんすけど」
「おう。なによ?」
「このものすご〜〜〜くお綺《き》麗《れい》なお方、一体どなたっすか?」
そう言って今改めて気がついたとでもいうように前足でつんつんようこを指差した。ようこが「へ?」と言って自分を指し示す。
少年ダヌキがこっくりと頷いた。
「啓太さんの奥さんっすか?」
そのぶっとんだ質問に啓太は激しく咽《む》せ込んだ。やだ〜、と両|頬《ほお》を押さえて照れているようこ。啓太は、
「あほう!」
と、叫んで全力で否定した。
「んな訳ねえだろう!」
化けダヌキとは言っても、未《いま》だニンゲンの習俗や慣習に疎《うと》い少年ダヌキは困惑したように続けた。
「あ、じゃあ、恋人さんっすか?」
「それも全然違う! 天と地ほども違う! ま〜〜ったく誤解も甚《はなは》だしい!」
「そんなに力一杯、言わなくてもいいじゃない!」
ちょっと怒ってようこが立ちあがる。啓太は手を振って明言した。
「こいつはな、俺《おれ》の犬《いぬ》神《かみ》なの! い、ぬ、か、み! 俺が犬神使いだってことは留《とめ》吉《きち》から聞いてるんだろう?」
「あ〜〜」
そこでようやく少年ダヌキは大きく頷《うなず》いた。得《とく》心《しん》がいったというように前足をぽんと膝《ひざ》の上に打ちつけ、
「なるほど、なるほど。だから、ニンゲンじゃないんすね。よ〜〜〜く分かりましたっす……って、え? マジ犬っすか?」
ようこをジッと見て、
「なによ?」
と、ようこがジロリとこちらを睨《にら》み返してくるので慌てて首を横に振ってみせた。
「あ、いや別に何でもないっす、何でもないっす! でも、犬神さんでも女の方は女の方ですよね?」
「メスだ!」
と、妙にきっぱり啓太が指を立てる。
「女の子! がるるるるるる!」
ようこは啓太の首根っこを締《し》めあげた。
「やっかましいやい! お前なんかカテゴリー分けするなら明らかにメスじゃ!」
「女の子ったら女の子だも〜ん! ケイタが一番それをよく知ってるくせに! あれだけ一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》確かめたくせに!」
「あ、あほ! 変なこと言うな! 人聞き悪いこと言うな!」
「なによう!? しらばっくれる気? だったらわたしの青春返して!」
「訳分かんないこと言ってるんじゃねえええ──────────────!」
と、タヌキそっちのけで喧《けん》嘩《か》を始める啓太とようこ。少年ダヌキはそんな彼らを不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに見つめて、呟《つぶや》いた。
「う〜ん、ボクにはなにがなんだかよく分からないんすけど、やっぱりこれは犬神さんに対してはまずいんすかね〜」
と、言ってちゃんちゃんこから小箱を取り出す。
「女の人を惹《ひ》きつける薬」
その瞬《しゅん》間《かん》、啓太とようこの動きがぴたりと止まった。啓太の方が若《じゃっ》干《かん》、反応は早かった。
それはもう零コンマ何秒の世界で手を閃《ひらめ》かせ、
「あ!」
と、ようこが声を上げた瞬《しゅん》間《かん》にはベッドの上のタオルケットを彼女の頭にひっかけている。高らかな笑い声と、
「あばよ! ようこ!」
窓枠を蹴《け》る音が聞こえた。
「ケイタ────────────!?」
ようこがタオルケットを振り払って、視界を取り戻した時点で既にもう誰《だれ》もいない。あまりにも鮮《あざ》やかな脱出|劇《げき》だった。
ようこはぶるぶると怒りで小刻みに震《ふる》える。
「逃がさないからね──────────!」
と、思いっきり叫んで窓の外へ向かって飛び立っていった。これから街中を探して回るつもりなのだろう。彼女の気《け》配《はい》がなくなってしばらくして、ベッドの下からもぞもぞと硬直したタヌキを小《こ》脇《わき》に抱えた啓《けい》太《た》が這《は》い出てきた。
簡《かん》単《たん》なフェイクを仕掛けたのだ。
「ふ、バカめ。引っかかりおって」
悪役顔でそう呟《つぶや》いて、啓太はカラカラと天に向かって高笑いをする。タヌキはその豹《ひょう》変《へん》ぶりに驚《おどろ》いてがたがた震え、涙目になっていた。
しゃっちょこばって、堅くなっている。
啓太はそんな少年ダヌキを目の高さまで抱えあげ言った。
「おう。それは間違いなく最高の恩返しだよ。ありがとうな、タヌキちゃん」
にやっと笑みを浮かべていた。
「あの……啓太さん、ボクよく分からないんすけど、本当にいいんすか? あの犬《いぬ》神《かみ》さん怒ってるんじゃないんすか?」
啓太の頭の上に腹這いの恰《かっ》好《こう》でしがみついている少年ダヌキが言った。二人は今、街の中心に向かっていた。頭上に珍妙な生き物を乗せ、独り言のような会話をしているダウンジャケットの少年をすれ違う通行人が時折、奇異な顔で振り返っていく。
しかし、啓太は一切気にせず、
「バカ者」
と、早足でスタスタ歩きながら拳《こぶし》を突きあげた。
「あいつが怒ろうが怒るまいがそんなことはど〜でもいいんだよ! ようは、じゅうようなのは、なによりかによりこの俺《おれ》が女の子にもてもてになることじゃ!」
「はあはあ、すると本当にこの薬で啓太さん幸せになれるんすね?」
「うむ! なれる! よくぞこれを持ってきた! だから、薬の使い方を早く教えてくれい!」
少年ダヌキは考え考え、言った。
「なるほど……分かったっす! 啓《けい》太《た》さんが幸せになれるならそれがボクの本《ほん》望《もう》っす! よ〜し、なんかボクも嬉《うれ》しくなってきたっす!」
こちらも啓太のテンションに乗せられてきたのか、段々語調が熱くなってきた。
「じゃあ、教えるっす!」
と、手を伸ばして啓太が持っている桐《きり》の小箱を示す。蓋《ふた》を開けると、中に丸《がん》薬《やく》のようなものがぎっしり詰まっていた。一つ一つの大きさが真珠ほどの、真っ赤な木の実のような色合いだ。
「その丸薬を飲めばもうそれだけでモテモテになるす!」
「おいおい。なんだか嬉しくなってくるくらい安《あん》直《ちょく》で簡《かん》単《たん》だな!」
啓太は破顔する。
「ただし」
と、少年ダヌキが付け加えた。
「一つの丸薬で効果があるのは特定の女性だけなんす」
「ん?」
啓太が思わず立ち止まった。
「どういうこと?」
「つまり」
少年ダヌキは言葉選びに苦《く》慮《りょ》していたが、
「ボクもよく分からないんすけど、なんだかニンゲンのふぉるもんだかへるもんだかの関係らしいんす」
身振り手振りを交えて説明していく。
「それは元々ボクたちタヌキが求愛の時期にちょっとしたお化粧代わりに使うものなんす。ニンゲンで言うところの香水みたいなもんす。だから、タヌキが使うと満《まん》遍《べん》なくごく差し障りなく異性に好感を抱いて貰《もら》えるようになるんすけど、どういう訳かニンゲンが飲むと特定の年《ねん》齢《れい》や性格の人に強烈に効いちゃうようになるんす」
「ふ〜む。ということは要するに」
そこで啓太は道を行き交うスーツ姿の大人《おとな》びた女性やセーラー服を着た元気いっぱいの女子高生たちを順番に指差した。
「ああいう感じでタイプ別に好かれる訳だ?」
「ん〜?」
少年ダヌキは目を細める。
「すいませんす。ボク、ニンゲンの女の人のタイプはよく分からないっすけど、そういうことになるらしいっす。でも、そのお薬は全部、中身が微妙に違っているので順番に飲んでいけばいつかはきっと啓太さんのお好みの女の人が好きになってくれると思うっす」
「……」
啓《けい》太《た》は黙《だま》り込んだ。少年ダヌキがちょっと不安そうに尋ねる。
「あの、お薬、お気に召しませんでしたっすか?」
「あ、いや、ちょっと予想と違っていただけで問題はねえよ。そうじゃなくって考えごとしていたんだ……効果は大体どれくらい続くんだ?」
「大体、一つのお薬で二、三時間くらいらしいっす」
「ふむ。デートして電話番号聞いて」
そこでにひらっと笑う。
「いや、さすがにいきなりそんな鬼《き》畜《ちく》なことはしないけどさ、考えてみれば色々なタイプ別に仲良くなれるのはかえって楽しいかもな」
頭の中でなにかの折り合いがついたみたいだ。
「よし、早《さっ》速《そく》、使ってみるか!」
拳《こぶし》を冬の澄《す》んだ青空に向かって突き上げた。
少年ダヌキもなんだか嬉しくなってきて啓太の頭の上で一緒に前足を上げた。
と、そこへ。
「おうおう、ありゃあ、絶好のカモ……もとい実《じっ》験《けん》材料じゃないの」
小手をかざした啓太が喉《のど》の奥でくくっと笑った。商店街のアーケード口のところで赤いマフラーを巻いた犬《いぬ》神《かみ》のなでしこがぽつんと一人で立っていた。時折、腕時計に目をやっているから誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。
啓太はひょいひょいとそちらに向かって近づいていく。
「な、で、し、こちゃん♪」
同時に小箱から薬を一粒取り出して素早く口に含んでいた。
「あら、啓太様」
なでしこが顔を上げてにっこり微笑《ほほえ》んだ。それから、啓太の頭の上にへばりついて、じっとこちらを見下ろしている少年ダヌキと目を合わせて、びっくりした表情になる。啓太は小箱を尻《しり》ポケットに突っ込み、髪をふぁさっと掻《か》きあげた。
「お久しぶり」
「あの、昨日もお宅にお邪《じゃ》魔《ま》しましたけど?」
と、悪意なくなでしこが言う。視線が上に向いたままなのは、あくまで少年ダヌキが気にかかるからだろう。
啓太はぽんと手を打った。
「あ、そうそう。お総《そう》菜《ざい》を少し分けて貰《もら》ったんだよね。あれはとっても美味《おい》しかったよ〜」
「そうですか? 嬉《うれ》しいな。じゃあ、今度また持っていきますね♪」
「うん、お願い。特に豚の角《かく》煮《に》のとろけ具合がこれまた絶妙でようこなんか」
そう言いかけ、啓《けい》太《た》が表情を変える。
「ちっが────う!」
きょとんとしてるなでしこの顔にずずいと自分の顔を近づける。
「なでしこちゃん、俺《おれ》の目をよ〜く見て!」
真《ま》面《じ》目《め》な声でそう言った。
「はい?」
と、どこまでも普通の反応のなでしこ。
「……あの、目でも悪くされたのでしょうか?」
「なにも感じない?」
「ええ。特に腫《は》れたり充血したりはしていないみたいです……でも啓太様、痛かったら早めに目医者様へ行かれた方がいいですよ?」
「う〜ん」
啓太がお手上げというように肩をすくめてみせる。少年ダヌキが言った。
「ダメっすね」
なでしこが目をぱちくりさせた。彼女がタヌキの素《す》性《じょう》を聞こうと口を開いたその時である。
「あ」
そんな息を呑《の》むような声が聞こえ、啓太たちは振り返った。気がつくと、青いキュロットスカートの小さな犬《いぬ》神《かみ》ともはねがそこに立っていた。
彼女は手に食べかけの今《いま》川《がわ》焼きを持っていたが、それがぼったりと地面に落ちてしまっている。しかし、そのことには全く頓《とん》着《ちゃく》せず、天啓に打たれた芸術家よろしく震《ふる》え、わなないていた。そして次の瞬《しゅん》間《かん》。
「大好きです!」
そう叫んでいきなり啓太のお腹《なか》の辺りに飛び込んでいった。
「な!? ちょ、ちょっと待て!」
「あうあうあう啓太様、よく分からないんです!」
ともはねはぐりぐりと額《ひたい》を擦《こす》りつける。
「よく分からないけど啓太様に色々として差し上げたいんです! あたしが貯めていたお菓子も全部差し上げます! お肩もお腰も揉《も》んで差し上げます! お望みならばなんだって差し上げちゃいます! だから、あたしあたし」
そこでともはねは顔を上げた。
「啓太様のことを」
頬《ほお》が赤らんでいる。十一、二の外見である。幼い顔立ちである。それなのにその潤《うる》んだ瞳《ひとみ》が確実にしっとりした色香を放っている。
口調にこれでもかとオンナが滲《にじ》み出ている。
なでしこは絶句していた。
「……」
「ち、違うんだってばなでしこちゃん!? これは全くなにかの手違いで! あ、そんな汚い物でも見るような目は止《や》めて────!」
「どうやら、小さな女の子に効いてるみたいっすねえ〜」
少年ダヌキが小声で呟《つぶや》いていた。啓《けい》太《た》は足にまとわりついてくるともはねを引っぺがしながら、怒鳴った。
「目を覚ませ、バカモノ!」
「ダメっすよ。もう一粒お薬を飲んで別の女の人に切り替えた方が早いっす」
「そうすればこの効果が消えるのか!?」
「ええ、本当はちゃんと時間をおいて服用した方がいいっすけど」
「そんな悠長なこと言ってられるか!」
啓太は尻《しり》ポケットから小箱を取り出すと、薬を一粒|摘《つま》んでごくんと飲み込んだ。効果は劇《げき》的《てき》だった。一秒ほどで、ともはねの突進が止まった。
「お、おい、ともはね?」
啓《けい》太《た》が恐る恐る彼女の肩に手をかける。するとともはねはごく普通の表情で顔を上げ、
「あ、あれ? 啓太様?」
心の底から不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに言った。
「あたし……あれ? 一体なにをしているのでしょう?」
ほっと胸を撫《な》で下ろす啓太。その間、ようやく事情を悟ったのだろう。なでしこがにっこりと微笑《ほほえ》んでいた。
「なんだかとっても素《す》敵《てき》なお薬を持ってらっしゃるみたいですね?」
口調が冷ややかで目元がとても怖い。
「あ、こ、これはその」
「しかもこんな年《とし》端《は》もいかない少女を」
「あ、しかもなんか変な誤解もしているし」
「啓太様? あたし、どうしてたんですか?」
ねえねえねえっとともはねがセーターの裾《すそ》を引っ張ってくる。返答次第ではただではおきませんよ、とばかりになでしこが腰に手を当て、近づいてくる。
啓太がそんな二人から一歩、距離を取ったその時。
「あなた、随分と男前ねえ」
感嘆したような声が聞こえてきた。
「どれどれ?」
と、別の声が背後からかかり、
「あらまあ、ほんとうに玉《たま》三《さぶ》郎《ろう》のような役者ばり」
さらに違う声が前に回り込んできた。
「うっひゃひゃひゃひゃ!」
と、豪快な年季の入った笑い声が辺りに響《ひび》く。気がつけばいつの間にか着物姿のお婆《ばあ》ちゃんたち数人に取り囲まれていた。観《かん》劇《げき》の帰りなのだろうか。手に手にパンフレットやら袱《ふく》紗《さ》を持っている。そのうちの一人がいそいそとパックに入ったおはぎを取り出し、それを頬《ほお》を赤らめながら差し出してきた。
「残り物で悪いけど、よかったら食べるかい?」
別の一人が啓太の服についたゴミを指で摘《つま》み、
「わたしゃあ、こんな気持ちになったのは死んだ亭主以来だよ……」
さらにもう一人が、
「わははははははは! 細かいことはいいっこなし。世の中、年上の女房は金の草鞋《わらじ》で捜せっていうじゃない」
啓太、あまりの事態に鳥肌を立てて硬直している。ともはねはぽかんとし、なでしこは拳《こぶし》を口元に当てると信じられないと言うように首を横に振った。
「こんなお年寄りたちに」
「ああ、だからその変な誤解はやめて!」
啓《けい》太《た》は必死で言い募《つの》るが、きゃあきゃあ喜んでいるお婆《ばあ》ちゃんたちに囲まれているその姿には説得力がまるで見あたらない。
そこへさらに別の厄《やっ》介《かい》種が商店街に現れた。
「み───つけええ───たあああ────────!」
ようこがアーケードの反対側からにゅっと姿を現したのだ。彼女はグライダーのように地面すれすれを滑《かっ》空《くう》してきた。不可視の姿をとっているため、本当に突風が商店街を吹き抜けているかのようだった。
啓太は青くなった。
「婆ちゃんたち、ごめん!」
そう叫んでお年寄りが怪《け》我《が》しない程度に押しのけ、走り出した。
「ケイタ、まああ──てええええええ────────!」
咄《とっ》嗟《さ》に入り込んだのが路地裏だった。そこからさらに非常階段を駆け上がって、罵《ば》声《せい》を浴びながら厨《ちゅう》房《ぼう》を通り抜け、レストランを突っ切る。そのまま、表に出て目の前の上りのエスカレーターに飛び乗り、次の階で降りた。
そこは休日で賑《にぎ》わうデパートの中だった。人いきれと暖房でムッとするほどの暑さである。
「啓太さん、足はやいっすね!」
啓太の髪の毛にしがみつきながらタヌキが感心している。
啓太は笑ってみせた。
「わははは、ま、逃げなれてるからな!」
「あ、やばいっす!」
と、タヌキが進行方向を指差す。視界の端で啓太も同時に捉《とら》えていた。寝具売り場のレジの向こう。いつの間にかようこが回り込んできていた。シーリングライトに掴《つか》まり、小手をかざして、目を凝《こ》らしている。
啓太の動きは華《か》麗《れい》だった。アクションスターばりに床に転がり込むと、身体《からだ》をピンと伸ばしたまま回転していき、マネキンの後ろにぴたりと隠れ込んだのだ。
「あの、お客様?」
そばで接客をしていたテナントの若い女性が眉《まゆ》をひそめる。
「し!」
と、啓太はあくまで真剣に人差し指を唇の前に立てた。
「どうだ?」
と、タヌキに尋ねる。爪《つま》先《さき》立ちになって目を凝らしていた少年ダヌキが答えた。
「あ、え〜と、怒って地《じ》団《だん》駄《だ》踏んでますっすね。こちらには気がついていないようっす……あ、大丈夫っす、大丈夫っす。また階段を降りて行っちゃいましたっす」
「ふう、全くしつこいヤツだぜ」
啓《けい》太《た》は額《ひたい》の汗を毛の甲で拭《ぬぐ》っていた。
「あの、お客様!」
今度は少し語気を強めて店員が言う。腰元に手を当て、眉《まゆ》を吊《つ》りあげていた。啓太は今、初めて彼女に気がついたとでもいうように視線を上に向けた。
「はあ、なにか?」
店員が怒ってタヌキを指差した。
「お客様、店内に妙な生き物を持ち込まれては困ります!」
「あ、いえ、今ちょっとCIAの手先と揉《も》めておりまして……こいつはこう見えて相棒のエージェントダヌキというかなんというか」
と、啓太が立ちあがって苦しい弁解をしようとした時である。タヌキが大きな声で叫んだ。
「啓太さん、立っちゃだめっす! 犬《いぬ》神《かみ》さん、また上がってきたっす! あ! あ! 今、目があったす! 笑ってるっす! 笑ってるっす! もんのすげえ恐《こわ》いっす! 真《ま》っ直《す》ぐこっちに向かって飛んできてるっす!」
啓太の顔がさあっと青ざめた。慌てて逃げようとしたら、不《ふ》審《しん》人物だと思われたのだろう。店員が前に立って通せんぼをしている。
「警《けい》備《び》員が参りますのでもうしばらくお待ち下さい!」
言葉遣いは、丁《てい》寧《ねい》だが、有《う》無《む》を言わせぬ迫力があった。
啓太は彼女を押しのけようとして一《いっ》瞬《しゅん》、躊《ちゅう》躇《ちょ》する。背後を振り返ると悪《あっ》鬼《き》羅《ら》刹《せつ》のような笑顔でようこが迫ってきていた。逃げられない。啓太はそう判断した。追いつめられたスパイが自害を選ぶかのように彼の手が尻《しり》ポケットに伸びている。
タヌキが止める暇もなかった。
「どうせ、取り上げられるくらいなら!」
啓太はそう叫んで小箱を開けると、中の錠《じょう》剤《ざい》を一気に口中へ流し込んだ。
苦い。今まで一粒ずつだと感じなかった強烈なえぐみと酸味が口中に広がっていった。脳内を焼けつくような白さが包み込み、舌がひりひりと痛む。野性的な生《なま》臭《ぐさ》さ。啓太はそれを無理矢理、喉《のど》の奥に流し込んだ。
ぐっぐっと飲み込む。
どくんと打ったのは心《しん》臓《ぞう》の音だった。
「う」
啓太は胸を押さえた。
ほんの一秒の刹《せつ》那《な》。自分の身体《からだ》が爆《ばく》発《はつ》的に変化していくのが分かった。場を染めあげる濃《のう》厚《こう》極まりない極上の媚《こび》。己自身が一《いっ》瞬《しゅん》くらっとくるほどである。啓《けい》太《た》は拳《こぶし》を床に突きつけた姿勢からゆっくりと立ちあがった。
ひどく周囲が静かだった。
どうだろう?
というように恐る恐る辺りを見回す、不安そうで、それでいて好奇心を抑えられない目つきだった。その場にいた店員とちょっと離れたところにいた通行人(いずれも女性)が足を止めていた。
そのうちの誰《だれ》も身動きをしていなかった。
永《えい》劫《ごう》のような二秒目が過ぎた。
沈《ちん》黙《もく》が突如解け、突如、熱狂的な歓声が辺りから噴《ふん》出《しゅつ》した。
啓太が思わず怯《ひる》むほどに、
「し、信じられない!」
「すごい!」
「きゃあああああ──────────!」
いきなり店員が失神して倒れた。啓太は慌てて彼女を抱き留める。するとそれが火に油を注ぎ込んだ。
「大好きです!」
通行人のお姉さんが遠くからタックルをかけてくる。ここまではまだ良かった。これからがハーレムだと思った。
「いやああ〜〜〜ん、さいこ〜〜!」
と、反対側の店から駆けてきた女子高生二人が同時に腰にしがみついてくる。これも悪くなかった。まあ、これくらいで充分かなと思った時、近くの主婦が他《ほか》の者に負けまいと啓太の肩にダイブし、頬《ほお》にぶちゅっと唇を押しつけた。
「うわあ!」
と、よろめいて啓太。
ここから段々|様《よう》子《す》がおかしくなってきた。
「あたし、今すぐ今の亭主と別れるから!」
不《ふ》穏《おん》当《とう》な発言である。
はっとして見渡すと、遠くの方からありとあらゆる女性(黄色いポシェットをつけた幼稚園児から、杖《つえ》を突いたお婆《ばあ》さんまで)が怒《ど》濤《とう》のような勢いでこちらに向かって駆けてきていた。その数は十や二十じゃきかない。
まるで野生動物の大暴走《スタンピード》である。
明らかに薬が効き過ぎていた!
「ケイタ────────!」
今にも泣きそうな声でようこが啓《けい》太《た》の顔面にしがみついた。他《ほか》の誰《だれ》も見えないようにして、自分だけが独占しようとする。
「ダメ────────!」
「なによこのオンナ、きい──────!」
一人の少女がようこを強引に床に引きずり倒した。さらに別の何人かが羽《は》交《が》い締《じ》めにし、啓太から無理矢理遠ざける。その時には辺りには身動き取れないほどの女性たちがいて、たちまち彼女は人《ひと》影《かげ》に見えなくなった。
「おい! そいつに乱暴するな!」
手を伸ばし、助けようとする啓太自身もみくちゃにされて訳が分からない。
「おい! タヌキ! タヌキ!」
と、呼ぶ声も喧《けん》噪《そう》と金切り声に紛れて届かなかった。いつの間にか少年ダヌキは啓太の頭から振り落とされてしまっていた。
そこから先が凄《すご》かった。
抱きつかれた。
キスされた。
もう視界が完全に塞《ふさ》がれるほど沢《たく》山《さん》の女体に覆《おお》われている中で、啓太は今にも窒息しようとしている。
綺《き》麗《れい》で。
優《やさ》しくて。
なにより触っているととても柔らかい。大好きで仕方なかった『オンナ』の中で啓太は今初めて恐怖する。
「こ、殺される! 助けてくれえええ──────!」
完全な自業自得とは言え、これほど悲惨なこともなかった。
なにしろ世界で一番好きなモノに埋もれて死ぬのだ。
一方、その頃《ころ》、ようこは殺到してくる人々の足下をなんとかかいくぐって輪《わ》の外へ抜け出ていた。ようことて負けてばかりではいない。二、三人の足を引っ掻《か》き、囓《かじ》り、猛烈に身体《からだ》を揺さぶって跳ね飛ばしながら、転がり出る。
ついでに中で硬直していたタヌキも引っ張り出してきていた。
「ケイタ!?」
振り返って叫ぶようこの声もまた周囲の怒号と悲鳴にかき消されて聞こえなかった。さっと周りを見渡してみると、女性の周囲にはさらに男たちがいて、困惑を通り越して恐ろしげな様《よう》子《す》で遠巻きにしている。
誰《だれ》も近寄ってきて混乱を収めようとはしなかった。
それはある意味、賢《けん》明《めい》な判断だったのだろう。そんなことをすれば殺気立った女性陣に殺されかねない雰囲気があった。バーゲンセールやアイドルのコンサート以上の凄《すさ》まじい突進ぶりで、普《ふ》段《だん》、優《やさ》しく、たおやかな存在である彼女たちが目の色を変え、手を伸ばし、少しでも啓《けい》太《た》に触れようと争い合っている。
中で髪の毛でも毟《むし》られてるのか啓太の掠《かす》れ声が断続的に響《ひび》いてきた。
「うわあああああ────! 痛い! 痛いって! お願いだからおばちゃん止《や》めて! 助けて───────!」
その声にタヌキがはっと我に返ってようこの腕にすがりついた。
「お願いしますっす! 啓太さんを助けて上げてくださいっす!」
「わああ──────! ようこ! ようこ、お願いだから、助けて!」
ぷっ。
突然、ようこが噴《ふ》き出した。
彼の状況をまじまじと見て取って、
「あははははははははははは!」
天《てん》井《じょう》を見上げ、高らかに笑った。
心の底からさっぱりして、気持ちよさそうな笑い方だった。
悪意なく。限りなく残酷に。
「や〜だよ。折角だから、啓太にはそこでもっともっとも〜〜っと学んで貰《もら》う♪」
にいっと薄《うす》い笑みを浮かべ、ようこは腕を組んだ。
「女の怖さを」
タヌキがガタガタと震《ふる》えていた。
「女の子の心を弄《もてあそ》ぼうとした罰、をね」
ほとんどリンチというか袋だたきに近かった。老《ろう》若《にゃく》問わない女性たちが殺到してきて、手を伸ばし、抱きつこうとしてくる。恐らく金貨の山で圧死したり、ご馳《ち》走《そう》を食べ過ぎて死ぬというのはこういった感じなのだろう。
啓太は既に意《い》識《しき》が朦《もう》朧《ろう》とし始めていた。
走《そう》馬《ま》灯《とう》が見えている。
ぐっと誰かが自分の身体《からだ》を掬《すく》いあげたことをその時、辛うじて感じ取っていた……。
ようこは口笛で『国《こく》士《し》無《む》双《そう》侍《さむらい》のテーマ』を吹いていた。
指をちょいちょいちょいっと動かして、お婆《ばあ》ちゃんや小さな子供は怪《け》我《が》しないよう『しゅくち』で逮物の外の安全なところへ転送している。ほんの片手間の作業である。従って中にいるのは若くて、健康で、過剰な押しくらまんじゅうに耐えうるタフな女性たちばかりだったが、新たに現れたその女性(?)は色々な意味で一|桁《けた》も二桁も違っていた。
まず頭一つ二つのレベルではなく、完全に上半身丸ごと他《ほか》の人たちより抜きん出ていた。ほとんど天《てん》井《じょう》に頭が着きそうな押し出しである。
まるで海を行く大《だい》魔《ま》神《じん》のように寡《か》黙《もく》に女の子たちを掻《か》き分けて啓《けい》太《た》に近づいていった。顔立ちは限りなくイースター島のモアイに近い。肌は赤《しゃく》銅《どう》色で、髪は見事なまでの金髪ベリーショート。両耳の脇《わき》だけひょろりと毛が伸びていて、それを三つ編《あ》みにしている。
耳と唇にピアスがあり、筋肉はそこらのボディビルダーが裸足《はだし》で逃げ出すほど太く逞《たくま》しく盛りあがっていた。恐らく野生のヒグマと並んでも決して体格的に見劣りがしないだろう。それがふりふりの白いワンピース姿なのだ。
おまけに赤いエナメルの靴を履《は》いている。
毛ずねが出ているのに、である。
他の女の子たちの動きがさすがに止まる。
その中でその女(?)は半ば気絶した啓太をまるで小荷物のように軽々と頭上に抱えあげると、一挙動で跳《ちょう》躍《やく》した。
全く信じられない動きだった。
啓太を抱えたまま女の子たちの頭を軽々と飛び越したのだ。女の子たちも周りの男もそしてようこもぽかんとしていた。
「あ」
と、皆が我に返った時には既に啓太は連れ去られた後だった。
はっと我に返ると、筋[#底本も本来もつのへんに力unicode:89D4]《きん》斗《と》雲《うん》にでも乗っかっているかのようなもの凄《すご》いスピードで周りの景色が流れていった。周りの人間があんぐりと口を開けてこちらを見ている。啓太はどういう存在に助けられたか知ってパニックを起こしていた。
「た──すううけてええけてくううれ──────────────!」
精一杯、手足をばたばたさせたが全くと言っていいほど効果がなかった。その女(?)はじろりと啓太を見下ろすと、言った。
「あばれる。あぶない」
「降ろしてくれ────────!」
「あんしんする。ほてるいく。べっどでおろす」
「いっやあだあああ──────────!」
「やさしくする。いたくない」
「そういう問題じゃねえんだよ! つうか、あんた男だろ!? 分かってるんだぞ、俺!」
女装した男(?)はつうっと視線を逸《そ》らした。
「こまかいこと」
「細かくねええよお─────────!」
そこヘデパートの正面入り口が見えてくる。その存在はにやっと笑い、日差し煌《きら》めく往来へ果《か》敢《かん》に飛び出した。
啓《けい》太《た》は真っ青になり、
「助けてくれ────────────!」
と、叫んだところで、
「かかれ!」
という号令を受けて一体どこから現れたのか、黒いサングラスをかけた屈強な男たちが我先に襲《おそ》いかかってきた。
怪人が吠《ほ》えた。
「おうううううかあああああああ────────!」
ケモノのような雄《お》叫《たけ》びで、ゴリラのように暴れまくる。丸太のような両手が振り回されるたび、一人が横転し、一人が宙に放り出され、一人が昏《こん》倒《とう》した。だが、十人近い男たちが次々、遮《しゃ》二《に》無《む》二《に》食らいついていくことによって徐々にその膂《りょ》力《りょく》の根源のような存在も地にねじ伏せられていく。
男たちも必死だ。
気を抜けば簡《かん》単《たん》に跳ね飛ばされると分かっている。啓太は気がつくと、その黒服のうちの一人に手を引かれ、黒塗りのリムジンの後ろへ押し込められていた。
「さ、早く!」
鞭《むち》を当てるようにその男が車体を平手で叩《たた》くと、間髪入れずにタイヤがアスファルトを噛《か》んだ。
「危ないところでしたね」
声をかけられ、ようやく啓太は緊《きん》張《ちょう》の糸を解いて、リアシートのふかふかしたクッションの中に沈み込んだ。
「お可哀《かわい》そうに」
隣《となり》の席に座っていた誰《だれ》かがそう言って啓太の額《ひたい》に浮かんでいた冷や汗をレースのハンカチで拭《ぬぐ》ってくれる。
啓太は深々と溜《ため》息《いき》をついてからそちらに目を向けた。
「君……君が俺《おれ》を、助けてくれたの?」
びくっと白い手が引っ込んだ。
「あ」
それはとてもとても可《か》憐《れん》な美少女だった。
青いドレス姿で黒い髪を横に流れるように編《あ》み込んでいる。信じられないほど華《きゃ》奢《しゃ》で、儚《はかな》げで、たおやかな目元をしていた。優《やさ》しそうな顔立ちに微笑《ほほえ》みを浮かべ、真珠のようにつぶらな歯を見せて、少女が言葉を紡いだ。
「はい。たまたまデパートで悲鳴を上げて助けを求めておられるあなたを見つけたのです。差し出がましいとは思いましたが、お助けしてこちらにお連れするよう申しつけておりました」
そうしたら。
と、呟《つぶや》いて背後を振り返る。
啓《けい》太《た》も釣られてそちらを見ると、黒服|全《すべ》てを放り捨てた例の怪人がもの凄《すご》い勢いでこちらに向かってくるところだった。
指をピンと立て、無表情なところがたまらなく怖《こわ》い。
「あの方が入り口から出てきて」
「げ」
「スピードを上げて!」
美少女が鋭《するど》く運転手に命じた。
制帽を被《かぶ》った渋い外見の運転手が無言でアクセルを踏み込む。するとさすがに後部ガラスの怪人も小さくなってやがて視界から消えた。
啓太はほっと胸を撫《な》で下ろした。
美少女が言う。
「あの、おもてになるのですね」
「あ、いえ、あれは」
「沢《たく》山《さん》の女性に囲まれて……テレビスターかなにかですの?」
啓太はマジマジとその少女を見つめた。さすがにいきなり抱きついてくるようなふしだらな真《ま》似《ね》はしないが、明らかに薬が効いていた。ぽっと赤面し、指をもじもじこね合わせている。啓太はようやく恐怖の対象から逃れて、頭に血が巡ってきた。
これはまさに絶好の機会なのかもしれない。
考え考え言う。
「あのさ、一つ聞かせて。君はお金持ちのお嬢《じょう》様かなにかなのかな?」
「そ、そんな」
「あ、ごめんごめん。ちょっとぶしつけな質問だったね」
そんなことは、このやたらに縦《たて》に長い運転手付きのリムジンや、ボディーガードと思《おぼ》しき先ほどの黒服たちを見れば一《いち》目《もく》瞭《りょう》然《ぜん》だろう。目の前に小さなテーブルが据えられていて陶製のカップに琥《こ》珀《はく》色の紅茶が注がれている。
どうやら車中でも優《ゆう》雅《が》にお茶を楽しめるようになっているらしい。
お金持ちはお金持ちでも、かなりランクの高いお金持ちだ。
実に素晴らしい。
「あの、宜《よろ》しかったら自宅でお茶でも如何《いかが》でしょうか?」
今にも消え入りそうな声で少女が誘う。
「喜んで」
啓《けい》太《た》は急にきらきらっと瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせると、彼女の白《しら》魚《うお》のように細い手を両手でわっしと掴《つか》んだ。
「どこへなりとも参りましょう!」
「ああ、どうか両親にも会っていかれてください!」
美少女が感極まったように言う。
「ええ、会いますとも!」
啓太が叫んだ。
その時、彼は車から掻《か》き消えた。
その頃《ころ》、遥《はる》か上空でパラソルをくるくる回しながら、ようこが笑っていた。混乱のさなか女性客の一人から失敬してきたものだ。
「啓太さん、せっかく助かったのに……」
と、頭の上で少年ダヌキが哀《かな》しそうに呟《つぶや》いている。
ようこは優《ゆう》雅《が》に足を組むと地上に目をやった。いつの間にか手に持ったティーカップを一口|啜《すす》ってにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「う〜ん、おいし♪」
走行中のリムジンから引き寄せたのだ。
啓《けい》太《た》は気がついたら薬局の前に立っていた。そこからまた鬼ごっこが再開され、喚《わめ》きながら街中を走り回ることになる。
「わああああ──────────!」
後から我も我もと追いかけてくるのは各年代、各タイプ別の女性ばかりである。男なら誰《だれ》しもが夢に描くことだろう。ハリウッドのスターを思い浮かべればよい。タキシードを着て、颯《さっ》爽《そう》と街を駆けると、女性なら誰もが振り返り、サインをねだってくる。
そんな状況に今いるはずなのに感じることはただ一つ。
紛れもない恐怖だった!
老いも若きも視界に入る女性が全《すべ》て狂乱に目を輝《かがや》かせ、手を伸ばし、すがってくる。言ってしまえばホラーの世界だった。
交差点を越え、陸橋を渡る頃《ころ》にはほとんど背後にいるのは群衆になっていた。息を切らし、路地裏に飛び込み、日本昔話で鬼《おに》婆《ばば》に追われる小僧のように身を震《ふる》わせながら奥へ奥へと這《は》い進んでいく。
青いポリバケツの背後に転がり込み、祈る。小さくなって祈る。
見つからないように。
どうか見つかりませんように。
「どこだああ〜〜〜〜〜!?」
と、厚化粧の中年女性がぎらぎら目を光らせながら、すぐ近くを通り過ぎていった。啓太は恐怖のあまり人差し指の第二関節を必死で噛《か》んで声が出ないようにする。
「いたかああ──────?」
「いなあ〜〜〜〜〜い!」
そんな妖《よう》怪《かい》めいた反復会話を交わし合って女子高生の一団が反対側に駆けていった。その足音が遠ざかってようやく啓太はほっとする。
その時である。
「き〜」
と、なま暖かい声がしてぺたんと顔に何かひっついてきた。
啓太は思わず悲鳴を上げて、後ろに倒れ込んでしまった。その拍子に背後のゴミ箱が倒れて、生ゴミが辺りに飛び出し、散乱した。イワシの骨やニンジンの欠片《かけら》など。その中をごろごろ転げ回りながら、懸《けん》命《めい》に引っぺがす。
その物体はきいきい言って抵抗してくる。
ようやく手に捕まえて見てみると、
「きき!」
それは小さな猿だった。
頭に赤いリボンをつけているから恐らくメスなのだろう。目をハートマークに染めあげ、唇を尖《とが》らせて、手を伸ばしてくる。
恐らくキスかなにかでもせがんでいるのだろうか。
「な、なんなんじゃ、これは!?」
と、叫んだところで、遠くからたったったと眼鏡《めがね》をかけた若い男が駆けてきて、啓《けい》太《た》の前に立ち止まった。
「す、すいません……こいつの主人です。急に逃げちゃって」
胸のTシャツに大きく「サル命《いのち》」と書いてある。彼は啓太を見て、猿の興《こう》奮《ふん》ぶりを見て、交互に猿と啓太を見てから、急《きゅう》激《げき》に顔面を紅《こう》潮《ちょう》させた。
「お、俺《おれ》にしか懐《なつ》かなかった知《とも》子《こ》が! 貴様、一体、どうやってたぶらかした!?」
胸ぐらを掴《つか》んでくる。
「知るか!」
と、本気で怒って啓太。そこでようやく彼は自分が追われている立場だったことを思い出した。はっとして振り返る。
『ででんでんでんでん』というテーマ音楽まで聞こえてきそうだった。反対側の歩道からこちらに向かって突進してくる人《ひと》影《かげ》がある。指先をぴんと張り、膝《ひざ》を思いっきり高く上げるスプリンター走法で駆けてきた。
「あ」
啓太は恐怖のあまり一歩よろめいた。
「あぎゃあああああ──────────!」
ふりふりの服を無造作に破り捨てると、何故《なぜ》か中から黒光りするレザースーツが現れ、ヒットマン風に早変わりする。
啓太は再び命がけで走り出した。
一体、どこをどう走っただろうか。街中をひたすら逃げ回っていた啓太に、とうとう力尽きる瞬《しゅん》間《かん》が訪れた。
公園だった。
もう夕方近くで水銀灯の明かりが灯《とも》っている。その下に辿《たど》り着いた時、足がもつれて転んでしまった。ずざっと顔面から地面に滑った。
よろよろと立ちあがり、ちょうど噴《ふん》水《すい》の前に立っていることに気がついた。目の前から若い女の子の一団がゆらゆらと目を輝《かがや》かせ、迫ってきていた。
左に身体《からだ》を捻《ひね》ると、買い物|籠《かご》をぶら下げた主婦が数人じゃっじゃっと砂を踏み締《し》め、近づいてくるところだった。右からは着物姿のお婆《ばあ》さん。ベンチを乗り越えて幼稚園児たちがわらわらと湧いて出てきた。
茂みの中からきいきい鳴きながら猿が飛び出す。
「知《とも》子《こ》───────!」
と、その飼い主も追いすがってきた。あちらこちらから次々に女性が立ち現れ、最後にどういう訳か、水銀灯のポールの天《てっ》辺《ぺん》から例の怪人が消防士よろしく滑り降りてきて、すちゃっと地面に降り立った。
啓《けい》太《た》はへたんと腰を落とした。
も、もうダメだ。
「うふふふふ」
「くすくすくすくす」
暮れなずむ夕日を背景に、異様な笑みを浮かべて女性たちは包囲の輪《わ》を縮《ちぢ》めてくる。
「うう」
自分は死ぬ。
そう悟った。それはもう間違いないだろう。もみくちゃにされて死ぬ。
きっと死ぬ。
でも。
と、啓太は決意を新たにしていた。せめて最後の最後まで優《やさ》しくて、優《ゆう》美《び》な女性たちを賛美し抜いてから思い残すことなく、逝《い》きたかった。大好きな女の子たち(猿と怪人を除く)を怖がりながら最後を迎えることだけは絶対にイヤだった。
オンナたちが近づいてくる。ヘへ、と笑いが込みあげてきた。
「かもん」
そう呟《つぶや》いて、啓太は立ちあがり、手を広げた。
まるでこの世の全《すべ》ての女性を抱きとめようとするかのように。
「我が人生に一片の悔いなし!」
そう吠《ほ》え、目をつむる。
「俺《おれ》はオンナが大好きじゃああああ────────!」
彼女たちがその雄《お》叫《たけ》びに呼応して足音を速める。圧倒的な殺気が膨《ふく》れあがり、今にも啓太を押し潰《つぶ》そうとしたまさにその時。
彼の前に音もなく舞《ま》い降りた人《ひと》影《かげ》があった。
「あ〜あ。ホントはもうちょっと見てるつもりだったんだけど」
ようこだった。
津波のように押し寄せていた群衆に立ち向かい、ようこは少年ダヌキを頭に乗せたまま、ぴんと指を立てた。
「ごめんね。ケイタってホントど〜しょ〜もない男だけどさ、きっとわたしがちゃんとしてみせるから、今回だけは……そう。許してね」
彼女が手を振るう。
啓《けい》太《た》はようこの横顔を見ていた。そして、
しゅくち。
が、発動する前にそれは起きた。今まで理性を失ってぎらぎらと輝《かがや》いていた女性たちの瞳《ひとみ》が力抜けるように自然な光《こう》沢《たく》に返っていった。さながら魔《ま》法《ほう》のタクトが振るわれたかのようだった。
かけられた魅《み》了《りょう》の呪《じゅ》文《もん》が次々と解けていく。
「あ、あら?」
主婦らしき女性が頬《ほお》を押さえながら言った。
「あたし……何してたんだろう?」
高校生がきょとんと傍《かたわ》らの友人に尋ねている。ざわめきが起こり、正気を取り戻し始めた女性たちは口々に疑問の声を発している。
「薬の効力が……」
と、少年ダヌキが呟《つぶや》いていた。拍子抜けたように手を下ろすようこ。啓太はぽかんと口を開けていた。
「た、助かったのか?」
「やば。もうバイトの時間だよ!」
セーラー服の女子高生が腕時計を見て驚《おどろ》いたように叫んでいた。
「帰ろ!」
「なんでだろう? なんで追いかけたんだろう。別にそんなにイケテナイのに」
去っていく彼女たちは啓太をちらりと一《いち》瞥《べつ》していく。貴重な時間をなんだか無駄にしちゃったわ、とでも言いたげな表情だった。
「お母さんに怒られちやう!」
幼稚園児たちが駆けていく。親切そうなお姉さんの一団が彼女らを追いかけ、送っていった。啓太を振り返り、振り返り、
「どうしてあんな子がよく見えたのかしら?」
「さあ? 私の彼の方が百倍格好いいのにね」
「あははは、惚気《のろけ》てる〜」
そんな会話を交わし合っている。啓《けい》太《た》、手を差しのべる形で、石像のように固まっている。気の毒そうな顔をしているようことタヌキ。
冷たい風がぴゅ〜と吹いた。
彼らの目の前を老《ろう》婆《ば》が三人ばかり通り過ぎていく。
「やれやれ、玉《たま》三《さぶ》郎《ろう》に似ていると思ったんだけど、わたしもとんと老眼が進んだねえ」
「死んだ亭主の方がいい男だったさね」
「うっひゃひゃひゃ」
段々、人が少なくなっていく公園。見ると反対側の出口で青いドレスを着た美少女が立っていて啓太に向かってぺこりと一礼し。
首を傾《かし》げながら黒服たちと去っていった。
どうにも納得できかねる表情だった。
「あう」
つうっと涙が啓太の頬《ほお》を伝う。
さらにその前を例の怪人が、
「ふう」
やれやれというように肩をすくめ、大仰な溜《ため》息《いき》をついて歩み去っていった。つうか、お前だけには言われたくないぞ、と啓太は心の中で拳《こぶし》を握り込んだが、怖《こわ》いので声はかけなかった。
最後に猿と若い男がじゃれ合いながら公園を後にする。
「そうかそうか、今日はバナナにしような! 知《とも》子《こ》! な〜に浮気の一度や二度」
「キキ」
とても仲が良さそうだ。辺りが急《きゅう》激《げき》に冷え込む。とうとう誰《だれ》もいなくなった。啓太はがくっと膝《ひざ》を突いた。
その瞳《ひとみ》に涙が溢《あふ》れ、頬を伝っていた。
「ケイタ」
ようこがこっほんと咳《せき》払《ばら》いして言った。
夕日の照り具合だけでなく頬がほんのり赤らんでいる。
「これで分かったでしょう?」
啓太はこくこくと子供のように頷《うなず》いた。結局もう誰もいなくなって、最後にたった一人だけ彼の傍《かたわ》らに残っている。
「うん。俺《おれ》、俺、ようやく……目が覚めた」
啓太は立ちあがり、ようこの肩に手を置いた。今までで一番真剣な表情でようこの瞳の中を覗《のぞ》き込む。
静かに。
力強い声で、
「ようこ。俺《おれ》にとって一番、大事なことが分かったよ」
「……ホント?」
ようこが眩《まぶ》しそうに啓《けい》太《た》を見上げる。少年ダヌキが見えていませんよ、と言いたげに前足で目を覆《おお》っていた。
啓太は夕日に誓う。
きっぱりと。
「薬に頼らないことなんだ」
「………………は?」
と、ようこ。そんな答えは期待していなかった。「お前が一番大事だよ」とか「もう他《ほか》の女は見ないさ」とかそんな言葉を待っていたのに。
啓太は大《おお》真《ま》面《じ》目《め》に、
「いや、だからさ、しょせん薬で女の子と仲良くなったってそんなの時間が経《た》てば全《すべ》て元に戻っちゃうだろう? そうじゃなくってさ、ちゃ〜〜んと自分の力で落とさないとダメなんたな〜って」
へらへらと笑う。
「……」
黙《だま》り込んでいるようこ。
「これからは実力で女の子をナンパするよ! お前に絶対約束する!」
ぐっと熱く拳《こぶし》を握って啓太。ようこは震《ふる》えていた。
「しなくていい!」
ぐうで思いっきり、啓太の頭を張り倒した。
長く地面の上に伸びていた片っ方の影《かげ》がこてんと転ぶ。
茜《あかね》色の空がとても綺《き》麗《れい》だった。
「それで恩人殿は一体どうしていなさるかね?」
スポーツ新聞を捲《めく》りながら長老ダヌキが言った。巨人軍はストーブリーグに入って、トレードで意中の人を手に入れたし、主力選手の故障も順調に回復しつつあるのでほくほく顔だった。
来年こそはきっと優《ゆう》勝《しょう》だろう。
「はいっす!」
と、相変わらず元気良く、少年ダヌキが答えた。背筋をぴんと伸ばして、長老ダヌキの前に正座をしている。
「今日は釣りをしにいかれましたっす!」
あれから啓太とようこは少年ダヌキの案内でタヌキたちの住む谷にやって来ているのだ。空き屋に勝手に入り込んで、好き放題やっている。食べ物やその他必要な物資は全てタヌキの一族が調達していた。
「ふむ、楽しまれておるようで、結構じゃ」
滞在するのはたった二日だけだが、啓《けい》太《た》名義で定期的にスポーツ新聞を送ってもらう(お金はもちろんタヌキ持ちだが)手はずになったので持てなし方も丁重だった。
「ところで」
と、少し目を細めて長老ダヌキが少年ダヌキを見やった。
「お前はどうなんじゃ? きちんと恩人殿に恩は返せたのかな?」
少年ダヌキは考え込む。
どちらかと言えば起こしたのはトラブルばかりだったような気がする。
でも。
少年ダヌキは考えていた。
あれだけ薬が効いていたのに、何故《なぜ》か全く影《えい》響《きょう》を見せなかった犬《いぬ》神《かみ》のようこ。啓太が彼女を取り扱う様。ないようでいて微妙にある変化。
彼が言葉にしていないこと。
今、沢で遊んでいる二人の楽しそうな姿。
「正直、分からないっす……」
少年ダヌキは思《し》慮《りょ》深く首を捻《ひね》った。
「でも、きっとこれはこれで良かったと思うっす!」
それから、晴れやかににっと笑った。
ちょっとオトナになった顔つきだった。
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おろろ〜〜〜〜ん。
そのいのち、くやし、かなし、よこせえ〜〜〜〜。
森の暗がりから奇妙な形の靄《もや》が漂い出してきた。
全体的に濁《にご》った豆乳のような色合いで、明らかに意志を持ってそのアメーバの触手のような先端を揺らめかせ、細い小道を歩く和服姿の老婆に向かっている。
ぬらあ〜と、まるでアイスクリームでもこぼれ落ちるような粘性でもって襲《おそ》いかかってきたその異《い》形《ぎょう》の存在を見上げて、老《ろう》婆《ば》が取った行為は軽い溜《ため》息《いき》だった。
いかにもめんどくさそうな。
「ふう、邪《じゃ》霊《れい》か……全く朝だというのに」
空は鉛色で時間の把握が難《むずか》しいが、本来なら既に太陽が出ている時刻である。
「ぬしら、何か勘違いしておらんか?」
おろろ〜〜〜ん。
雑霊の方では別に異《い》議《ぎ》を正す気はないようだ。ただ、問答無用で広がって、網のように老婆を包み込もうとする。
その直前。
老婆は地面を雪《せっ》駄《た》で蹴《け》って、真横に飛び退《の》いていた。
「華《か》山《さん》双《そう》君《くん》の名において告《つ》ぐ! 煌《きら》めく光と漆《しっ》黒《こく》の闇《やみ》よ!」
外見からは想像もつかない俊敏さで身体《からだ》を捻《ひね》り、
「二つを総《すべ》て」
と、右手の指を突きつけかけたところで、
『破《は》邪《じゃ》結《けっ》界《かい》・一《いっ》式《しき》氷《ひょう》界《かい》朱《しゅ》』
さらに別の声が響《ひび》いた。
ぱっぱっと二度、三度、空《くう》を切る扇《せん》子《す》。
木々の葉っぱが一斉に千切れ飛び、舞《ま》い散るほどの衝《しょう》撃《げき》波が地面すれすれを滑《かっ》空《くう》して、四方八方に放たれる。それは滑らかなカーブを描いて急上昇した後、また急降下して、さながらバネ式の罠《わな》が獲《え》物《もの》を捉《とら》えるように雑霊を閉じ込め、一つの球と化した。
それに伴う眩《まばゆ》い閃《せん》光《こう》。
大気が揺れ、き──んと耳鳴りが轟《とどろ》く。
「やれやれ」
とんと軽やかに地面に降り立った老婆が小指で耳を掻《か》きながら言った。
「はけ、年寄りの仕事をあんまり奪うものではないぞ。かえって生き甲《が》斐《い》がなくなる」
見ると彼女の目の前では、先ほどの靄が固体と液体のちょうど中間くらいの状態になって横たわっていた。見ていると端からどんどんと凍っていって、最後にはぴちっぱちっと音を立て、完全な氷のオブジェと化した。
ただし、その色合いは紅葉のように真っ赤だ。
辺りの景色と対比して、それはそれは鮮《あざ》やかなものだった。白《しろ》装《しょう》束《ぞく》に身を包んだ美丈夫がその背後から現れ、己の主人に対して声をかけた。
「あのまま、黙《だま》って見ていたらここら辺りの結界が全《すべ》て吹き飛んでいたでしょうからね」
扇《せん》子《す》を懐《ふところ》に仕《し》舞《ま》い込み、微笑《ほほえ》む。
「腕は全く衰えてませんね」
「当たり前じゃ。わしはまだまだあと五十年は現役を張れるぞ」
「さすがです」
と、おかしそうに頷《うなず》くはけ。老《ろう》婆《ば》は近寄っていって、彼の肩をぽんと叩《たた》くと、生《き》真《ま》面《じ》目《め》な顔で命じた。
「はけ。このままだとよそにまで被害が広がりかねない。結界の補強を急いでくれよ」
「は」
「まあ、もっとも」
そこで彼女は木々の梢《こずえ》から覗《のぞ》く赤い鳥居を見上げた。
「もうそろそろ限界に近づいているのかもしれんがの」
心なしか空の暗さが増したようだった。
その日、犬《いぬ》神《かみ》のはけが考え込むような表情で川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の家に降り立つと、妙に明るい声が彼を出迎えた。
「うい〜す、どしたはけ。しけた面《つら》して?」
川平啓太はベッドの上に座って、焼《しょう》酎《ちゅう》のお湯割り片手に時代|劇《げき》を鑑《かん》賞《しょう》していた。部屋の中は暖房がなくてかなり寒い。
彼は赤いちゃんちゃんこを着ていた。
「またなんかの依頼持ってきたのか?」
はけは曖《あい》昧《まい》に下を向いた。
「あ、いえ……今日は」
「え、違うの? あ、ちょっと待っててくれ。そろそろ黄《こう》門《もん》様が印《いん》籠《ろう》出すから……これを見逃しちゃならん。なにしろ、これが見たくて一時間、頑張ってるんだから」
ぐっと身を乗り出し、
「ほ〜ら、やった!」
無邪気に手を叩いて喜んでいる啓太。はけはそんな彼の横顔を見つめ、憂《うれ》い顔も忘れてふと微笑んだ。
「ん、黄門様、今日もご苦労様でした♪」
啓太はリモコンでテレビのスイッチを切って、ぺこりと頭を下げた。それから、きちんとはけに向き直る。
「じゃあ、なに? なんかまた婆《ばあ》ちゃんからの差し入れ?」
はけはテーブルの上に置かれたソーセージとキャベツの油《あぶら》炒《いた》めに目をやってから、首を横に振った。
「いえ、そういう訳でも」
「ん〜、これ、お前も食うか?」
「はあ、美味《おい》しそうですね」
「意外に、な。けっこ〜悪くないぞ」
そこで啓《けい》太《た》は妙に思わせぶりに笑った。はけはふと辺りを見回す。
「そういえばようこは?」
「なんだ、お前、ようこに用があるのか? お〜い、ようこ」
啓太が明るく呼びかける。
その時、台所の方から返事があった。
「は〜い、なに?」
はけの目が大きく見開かれる。そこから出てきたのは……。
「あ、はけ、いらっしゃい」
にっこりと微笑《ほほえ》んだ白いエプロン姿のようこだった。
黒く長い髪を赤いリボンでポニーテールに結んで、ミニスカートから伸びるすらりとした素足にピンクのスリッパを履《は》いている。
新《にい》妻《づま》。
そんな初《うい》々《うい》しいイメージのはにかむような上目遣いで、ようこは己の主人を見上げた。
「啓太、まだお酒いるかしら?」
「にゃ。いらない」
そして、啓太はまだ固まっているはけに悪戯《いたずら》っぽく片目をつむってみせた。
「な。悪くないだろう?」
ようこは歩いてくると、両|膝《ひざ》をつき、ナプキンで啓太の口元を丁《てい》寧《ねい》に拭《ぬぐ》った。
「啓太、お味はどうだった?」
実に甲《か》斐《い》甲《が》斐《い》しい手つきだ。啓太は鷹《おう》揚《よう》に頷《うなず》いた。
「おう、三日目にしては上出来だな。よく頑張った」
「だってえ」
と、ようこは両|頬《ほお》を手で挟み、ぽっと赤くなる。
「啓太の喜ぶ顔が見たいから」
啓太がうっしゃしゃと笑って、ようこの髪をくしゃくしゃ掻《か》き回す。するとようこは嬉《うれ》しそうな、それでいて恥じらいを忘れない表情でイヤイヤをした。はけは呆《あっ》気《け》にとられ、そんな二人のやり取りを見つめている。
「そうだよ」
啓《けい》太《た》がにいっと笑う。
「そのオツマミはようこが俺《おれ》のために作ってくれたんだ。包丁を使って、きちんとガスキッチンでな」
「ど、どういうことでしょうか?」
何故《なぜ》かひどく動揺した様《よう》子《す》ではけが一歩、後ろに下がる。ようこは小首を傾《かし》げた。
「あら、どうかしたの、はけ?」
「ようこ、一体なんのつもりです?」
「なにが?」
「……熱はないようですね」
ようこの額《ひたい》に白い手を当て、はけが呟《つぶや》く。
それに対して、ようこは憤《ふん》慨《がい》したように足を踏みならした。
「ひどい! なによ、その言い方!? わたしはただちょっと愛するご主人様のためにご奉仕していただけじゃない!」
「あははははははは」
啓太が床を拳《こぶし》で叩《たた》いて笑っていた。
「ようこ、そりゃ、幾らなんでもやりすぎだって!」
「も〜、啓太、そこでげらげら笑ってないで、わたしのことちゃんとフォローしてくれないとダメじゃない」
ようこも笑いながら、啓太を軽く睨《にら》んでいた。
「……ど、どういうことです?」
と、あくまで事態が理解できないはけ。啓太はひとしきり大笑いした後、目《め》尻《じり》に浮かんだ涙を指で拭《ぬぐ》った。
「いや、悪い悪い。はけ、これはな、俺とようこのちょっとした賭《かけ》なんだよ」
「そ〜。超特大チョコレートケーキが賭《か》かったね♪」
ようこが嬉《うれ》しそうに飛び跳ねた。
「賭、ですか?」
はけのその言葉に、啓太が頷《うなず》いた。
「ま、別に大したことじゃないんだけどな。こいつが一週間、貞《てい》淑《しゅく》に、女の子らしく、ま〜、要するになでしこちゃんみたいに過ごせたら、ショーウインドウに飾られている一番でっかなチョコレートケーキ買ってやるって約束したんだよ」
「なでしこがうちにお総《そう》菜《ざい》を持ってやって来たの」
と、ようこが指を立てて補足説明する。
「でね、啓《けい》太《た》がね、『なでしこちゃんはいいな〜。薫《かおる》は幸せものだな〜』ってあんまり煩《うるさ》いからわたしが怒って、わたしだってちゃんと出来るもんって言ったの」
「なるほど。話が大体、見えて参りました」
はけがようやく安《あん》堵《ど》の笑みを作った。
「……そういう訳だったんですね」
「そういう訳だったの」
「わたし毎日なでしこから家事や料理を教わってるんだよ♪」
ようこはにっこりと微笑《ほほえ》み、Vサインを突き出した。啓太はそんなようこの頭をくしゃくしゃ掻《か》き回す。
「ま、なでしこちゃんの領域にはさすがにまだまだだけどな。ちょっとずつは上達してるよ」
「今度、はけにもなんか作ってあげるね♪」
と、嬉《うれ》しそうにようこが言う。
はけは穏《おだ》やかな表情でその言葉に頷《うなず》いた。彼が川《かわ》平《ひら》啓太の自宅を辞去したのはそれから一時間後のことだった。
冬の凍《い》てつく大気の中で、街の光がまるで研ぎ澄《す》まされた金の針のように瞬《またた》いている。犬《いぬ》神《かみ》のはけは腕を組み、ビルの屋上の縁《ふち》ぎりぎりに立って、遥《はる》か彼方《かなた》を見渡していた。ざわめく風の音と、微《かす》かに湿った空気を肌に感じている。
ふと彼が無言で背後を振り返った時。
「お待たせ」
ふわりとまるで薄《うす》布《ぬの》のようにようこが音もなく屋上に降り立った。彼女はポニーテールを束ねていたリボンを指で解《ほど》き、頭を大きく振った。
ざわっと漆《しっ》黒《こく》の髪が夜風に流れる。
その向こうで少女の笑みが少し酷《こく》薄《はく》なものに変化した。
「はけ、わたしに何か用があって来てたんでしょう?」
目に危険な光がある。
お互いに待ち合わせた訳でも、示し合わせた訳でもない。
だが、暗《あん》黙《もく》の了解がそこにあった。
「ようこ、単刀直入に行きます」
はけが無表情に喋《しゃべ》り始めた。
「もうじきあの者の踊りが終わりそうです。既に結界から抑え切れぬほどの邪気が漏れ始めています」
「……」
ようこは無言でいる。はけは袖《そで》の間に両腕を通し、続けた。
「そのため、今後この街でも様々な霊《れい》障《しょう》が起こっていくでしょう」
「で?」
「で、とは?」
「それはとっくに気がついていたよ。で、どうするの? あんたはなにをしに来たの? わたしを封じる? それとも今度こそ完《かん》璧《ぺき》に倒す?」
くすくす笑って、ようこ。
右手をすうっと天に向け、叫んだ。
「ほのおよ!」
彼女の腕から先に閃《せん》光《こう》が迸《ほとばし》り、巨大な炎の柱が夜空に向かって撃《う》ち放たれた。それはロケットのように火花を散らしながら直進した後、頭上で派《は》手《で》に炸《さく》裂《れつ》し、煌《こう》々《こう》と照明弾のように辺りを照らし出す。遥《はる》か下界で喧《やかま》しくクラクションを鳴らす音とざわめく声が聞こえた。
ようこは笑う。
「ふふ、どう? 今やれば多《た》分《ぶん》、あんたと相打ちくらいには持ってけるんじゃないかな?」
はけは全く表情を変えず、尋ねた。
「それがあなたの本当の望みなのですか?」
「そう。それがわたしの本当の望み。この街を焼き払って、ニンゲンどもを恐怖のどん底に落とすことがわたしの真の望み。くくく、はけ。見事に騙《だま》されたわね?」
「!」
「くく」
ようこは喉《のど》の奥を鳴らした。それから、一《いっ》瞬《しゅん》で態度を変えた。本当におかしそうにお腹《なか》を抱えて笑い出す。
「あははははははははは、はけ。あんた、ほんと〜〜〜に騙されやすいね!」
はけは眉《まゆ》根《ね》を寄せる。
ようこはちちっと指を振った。
「ごめんね、はけ。でも、あんたが何時《いつ》まで経《た》っても頑固にわたしのことを信じてくれないからさ、ちよっと騙した」
「ようこ……」
「いい? はけ、わたしはね、ケイタといるのが大好きなの。ケイタと遊んでるのが大好きなの。だから、あんたが心配しているよ〜なことは絶対にしない。いい? わたしはあんたが言った通り、もうカワヒラケイタの犬《いぬ》神《かみ》なの。分かった?」
「……そう、そうですね」
はけが肩の力を抜いて言った。
「どうやら、私はあなたが言うとおり、あなたを信じ切れていなかったようです。あなたにとても失礼なことを致しました。申し訳ありません」
ぺこりと丁《てい》寧《ねい》に頭を下げる。
ようこは首を横に振った。
ちょっと複雑そうな顔で、
「はけ、アイツ踊り終えたらまず真っ先にわたしのところへ来るよね?」
だったら、その時が来たら、このようこ≠ヘきっとアイツと戦うよ。
「それにしても随分とあなたも変わりましたね」
屋上の縁《ふち》ぎりぎりに立って夜の街並みを見下ろしながら、はけが優《やさ》しく言った。その傍《かたわ》らに座っていたようこは「ん〜」と目を細める。
そして。
「かもね」
と、屈託なく笑ってみせた。
「啓《けい》太《た》様とあのような賭《かけ》をするなんて……あまり無理はしなくてもいいんですよ?」
「別に無埋なんてしてないよ」
ようこは髪をまたポニーテールに結《ゆ》いながら答える。
「あれも単なる遊びだから……ケイタって面《おも》白《しろ》いよね。ちょっと人がちょこれーとけーき目当てにさーびすしてあげると、本当に嬉《うれ》しそうにするんだもん。だから、それを見てからかってるだけのただの遊び」
「そう、なんですか?」
「うん、そう。アレはただの遊び」
二人は黙《だま》り込む。
「別に本気じゃないもん」
ようこの小さな声が微《かす》かに聞こえてきた。
「え?」
と、はけがようこを振り返った時、彼女は恥ずかしそうに俯《うつむ》いていた。
「はけ、覚えてる? 以前、あんたがわたしに言ったこと」
「なにを、ですか?」
ようこは早口に言う。
「わたし、だいぶ、今の時代の常《じょう》識《しき》を覚えたよ。テレビでたくさんモノを知ったよ。ご飯も、お掃除も、お洗《せん》濯《たく》もだんだん出来るようになってきてるし、なにより啓太に……」
そこで彼女ははけと目を合わせないよう顔を逸《そ》らし、
「もし」
「はい」
「もしその時が来たら」
そして、宙に向かってくるりと前転して、自由落下した。逃げるようにビルの谷間の明かりの中に消える。
その最後の言葉だけがはけの耳に届いていた。
わたし、変わっちゃうかもね
はけは憂《うれ》うようにそっと瞼《まぶた》を閉じていた。
一《ひと》度《たび》、ようこと賭《かけ》をしてから川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》にとって毎日は全く違った地平を見せていた。
まず朝。
木彫りのニワトリがこけこっこ〜と鳴く声を聞いて、啓太は布団の中で目を覚ます。元々とある事情で預かっている魔《ま》道具の類《たぐい》だが、今は特に騒《さわ》ぎを起こすこともなく、自分の使命は啓太をきちんと起こすことと心得ていて、貴重な目覚まし時計代わりになってくれている。
昨晩のうちにおおよその時間を言っておくとこけ〜と、分かっているのだか分かっていないんだかよく分からない顔できょときょとしているのだが、きっちりその時間になると起こしてくれるのだ。
だから、寝坊の心配はもうなかった。
差し込んでくる朝の光はこの時期、燦《さん》々《さん》と輝《かがや》きながらも、どこか透明に澄《す》んでいる。どんな荒《すさ》んだ人生を送っている者でも思わずにっこり微笑《ほほえ》みがこぼれ落ちてくるような光景だ。
以前は学校に行くまでに必ず一《ひと》悶《もん》着《ちゃく》あって、慌ただしく靴を突っ掛けて、玄関を飛び出していったのだが、今は全く雲《うん》泥《でい》の差だった。
枕《まくら》元にさりげなく朝刊が置かれていた。それを優《ゆう》雅《が》な気分で捲《めく》って、前日の株価やスポーツの結果をチェックしていると、
「あ、おはよ〜」
と、ポニーテール(賭を始めてから、ずっとこの髪型だった)のようこが初《うい》々《うい》しいエプロン姿で台所から現れ、ホットコーヒーを運んできてくれる。
「お、さんきゅ〜」
それを啜《すす》りながら新聞を読み終え、立ちあがる。するとずっとそばに寄り添っていたようこが洗い立てのタオルを手渡してくれる。
それを持って洗面所に行き、冷たい水で顔を洗い、歯を磨く。
戻ってくると、卓《ちゃ》袱《ぶ》台にはトーストと目玉焼きとレタスのサラダが並んでいる。トーストには少し焦げ目があって、目玉焼きも黄身が崩れたりしているのだが、啓太は全く文句を言わなかった。相《そう》好《ごう》を崩して、それを食べる。
頭に去来するのは、
『犬《いぬ》神《かみ》使いになってよかった!』
の一言だ。というより、
『長い間、辛《しん》抱《ぼう》してよかった!』
という感じだった。こうなるとようこは滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》、お買い得商品だった。じっと先行投資に耐えてきた競《きょう》走《そう》馬のオーナー気分である。
そのまま、余裕を持って玄関に向かうと、ようこが、
「いってらっしゃい♪」
頬《ほお》にちゅっとキス。
なんか泣けてくるくらいである。
啓《けい》太《た》は学校でもようこが作ってくれた弁当を食べる。
中身は卵焼きとウインナーという簡《かん》素《そ》なものだし、塩味が若《じゃっ》干《かん》効き過ぎて、中にタマゴの殻も混じったりしているがあまり気にならない。家に戻ってくると掃除がもう終わっていて、ようこは洗《せん》濯《たく》物にアイロンをかけたりなんかしている。
「あ、お帰りなさい」
聞けばついさっきまでなでしこがいて、洗濯や掃除のノウハウを教えていたそうだ。彼が普《ふ》段《だん》着に戻ると、お茶を入れてくれる。そのお茶を飲みながら啓太が宿題をこなしている間にようこは夕御飯を作る。
肉じゃが。焼き魚、みそ汁、ご飯といった定番メニューだが、明らかに上手《うま》くなってきている。その後、二人で洗い物をする。ようこの白い指先が触れる。啓太は自分でも訳の分からない息苦しさを覚え、銭湯に行くことを提案した。
ようこは手を打って喜ぶ。
打たせ湯が気に入って、つい長湯が過ぎた。
雪が舞《ま》い散る出口で先に立っていた彼女に問う。
「わ、悪い。待ったか?」
「ううん。今出たところ」
微笑《ほほえ》んで首を振るようこ。彼女の肩や髪に雪が降り積もっている。啓太はそれを無言で払ってやった。
家に戻り、一緒にテレビを見ていると、さすがに疲れを感じたのか、ようこがうつらうつらと船をこぎ出す。無埋もない。普段の彼女は十時間以上必ず寝ていたのだ。それでも、ようこは健《けな》気《げ》に目を擦《こす》り、起きていようとする。
「いいんだぞ、別に?」
そう言ってやると安心したのか、甘えたように頭を啓太の肩に預け、す〜と軽く寝息を立て始めた。啓《けい》太《た》はごくりと生《なま》唾《つば》を飲み込んで、慌てて時代|劇《げき》に集中しようとしたが。
もうそれもままならなかった。
幸せだった。
はっきりと己が人生最大のピンチに立っていると気がついたあの時までは!
それは約束の期限があと三日と迫った、とある日《にち》曜《よう》の夜のことだった。
お風《ふ》呂《ろ》場の方からようこの声が聞こえてきた。
「ごめ〜ん。啓太、石けん流しちゃったからちょっと取ってくんない?」
言われて啓太は、ドア越しに石けんを手渡そうとする。黄色い磨《す》りガラスに映ったようこのシルエットくらいは分かった。啓太は出来るだけそちらを見ないように動いていた。隙《すき》間《ま》から彼女の白い手が伸びている。
そこへ石けんを置くだけ。
本当にそれだけのことだったのにちょっとした手違いが起こってしまった。
ようこが石けんを受け取る際に少し早く手を引っ込めたのだ。啓太はよろめいて、ドアにもたれかかる。
彼の体重を受けて、ドアが割れるように開いた。
「きゃ!」
と、ようこの悲鳴。
「うお!」
と、なんとか啓太は踏ん張ろうとしたが、堪《こら》えきれない。
足|拭《ふ》きマットに足を取られてしまっていた。前のめりに倒れ込み、気がつけば、白いなんだかぐんにゃり柔らかいモノの上にのしかかっている。
濡《ぬ》れた洗い場の上。
裸のようこ。
さらにその上。ちょうど顔と顔が近接した状態だった。服の上越しに張りのある二つの膨《ふく》らみがちゃんと確認できた。
ようこ、赤面している。
啓太は完全に思考がホワイトアウトしていた。目と口を変な形に開いたまま、身じろぎ一つしない。ようこはさりげなく手を伸ばして、手ぬぐいで胸元を隠したが、それでも全部は覆《おお》いきれず、滑らかな鎖《さ》骨《こつ》の部分や首筋が露《ろ》出《しゅつ》していて、かえって艶《なま》めかしい。
何故《なぜ》か、逃がれようとはしなかった。
足と足が絡み合う変な形になっている。お湯で濡れ、すべすべした身体《からだ》全体が仄《ほの》かに赤く染まっていた。
啓《けい》太《た》は息を止めたままだった。
「啓太」
ようこの唇から小さな呟《つぶや》きが漏れる。
その唇が視界の中で大きくなっている……。
あれ?
だが、裸のようこに顔を近づけて、自分は一体なにをしようとしているのか。ぼんやりとしたピンク色の思考の中で啓太はごくりと生《なま》唾《つば》を飲み込んでいた。ようこは拒む気《け》配《はい》が一切ない。それどころか、潤《うる》んだ瞳《ひとみ》で啓太を見上げ、
「いいよ」
そう言っている。啓太の手がいつの間にかようこの裸の腰元に回っていた。ぐいっと一気に抱き寄せ、さあ。
思いっきり。
ぶちゅっと口づけを!
という最後の段階で、微《かす》かにようこの声が聞こえた。
「責任とってくれるなら」
ん?
ん〜〜〜〜〜〜????
それはもうほんの刹《せつ》那《な》の0.000000001秒にも満たない火花のような思考だった。
セキニンッテナンデスカ?
そこで啓《けい》太《た》が見たものは恐らく走《そう》馬《ま》灯《とう》に近いモノだったのだろう。人生が終わりに近づいている段階で彼の脳みそがフル稼《か》働《どう》してとある選択肢を見せていた。
これでいいのか、と。
本当にいいのか、と。
そこは郊外。
かなり街の中心からは離れた2LDKのマンションだった。家賃はかなり安いが、住|環《かん》境《きょう》自体はそんなに悪くない。近くに商店街も、病院もあった。夜の十一時|頃《ごろ》、彼はそこに疲れた身体《からだ》で帰ってきていた。二十代も半ばである。スーツにネクタイではなく、ズボンにジャケット姿だった。
どうやら、彼はサラリーマンにはなっていないらしい。
「お帰りなさい、あなた♪」
という暖かい声が台所の方から聞こえてくる。
「ちょっと待っててね。今、手が離せないの」
そう言っている。オトナになった啓太は靴を脱ぎながら笑い、
「いや、参ったよ。帰り際に急に患《かん》畜《ちく》が入ってさ。ペットボトルの蓋《ふた》を飲み込んだ猫だったんだけどな、こいつが結構、手荒なヤツで」
どうやら獣《じゅう》医《い》になっているらしい。
啓太はその刹那の想像の中で自分自身に対して感心している。へえ〜、俺《おれ》、将来は獣医になりたがっているのか。
とか、こりゃあ、もっと頑張らないとな〜。
とか、色々と考えている。その間、オトナの啓太は寝室の方へ向かっていた。身長は今よりちょっと高いくらいだが、全体的に少年ぽさを残しつつも、やはりどこか落ち着いた雰囲気が感じられた。
彼は鏡《きょう》台《だい》のそばのベビーベッドに近づいて、緩《ゆる》みきった顔でその中を覗《のぞ》き込む。だが、生《あい》憎《にく》そこはもぬけの空だった。その代わり、
「あなた、二人はこっちですよ」
そんな声が聞こえ、オトナの啓太は振り返る。同時に現在の啓太は驚《きょう》愕《がく》のあまり、口を限界までこじ開け、声にならない叫びを上げていた。
そこにいたのはふさふさした尻尾《しっぽ》を持つ、どこからどう見ても犬科のケモノだった、ポニーテールのようこが胸元に抱きかかえている。
それも二匹も!
「ほ〜ら、清《きよ》明《あき》、葛《くず》葉《は》。パパにただいまのご挨《あい》拶《さつ》をなさい」
う〜。
くーん。
ムスコとムスメがそれぞれ嬉《うれ》しそうに尻尾をぱたぱた振った。
にっこり微笑《ほほえ》んでいるようこ。
「あぎゃあああああああああああああああああああ──────────────────!」
啓《けい》太《た》は未《いま》だかつて一度も発したことのない類《たぐい》の悲鳴を上げた。
絶叫を上げながら啓太は洗い場でひっくり返る。後頭部をごちんと打ち、エビのような動きでずりずり後ずさりし、壁《かべ》にへたんと背中をつけ、それでも必死で立ちあがろうとするが腰が抜けていてままならない。
膝《ひざ》だけが痙《けい》攣《れん》したようにかくかく動いていた。
ようこもたまげたようだ。
慌てて起きあがり、啓太の方へ駆け寄る。
「ちょ、ちょっと大丈夫!? どしたの啓太!?」
屈《かが》み込んでくる。その姿勢だと、へたり込んでいる啓太からは白い身体《からだ》の全《すべ》てが見えてしまっている。
ほどよい大きさの胸も。
滑らかな腹部も。
そして。
そして。
「あ」
啓太の中で再びなにかの歯車が噛《か》み合った。
啓太は口をあんぐりと開けて、彼女を見やった。
「ようこ=H」
「ど、どうしたの?」
「ようこ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
思わず立ちあがって、その白い頬《ほお》に触れている。それから、はっと気がついて急に口をつぐんだ。
「いや、なんでもないぞ、我が犬《いぬ》神《かみ》よ!」
宣《せん》誓《せい》するネイティブアメリカンのように片手を上げ、強《こわ》張《ば》った表情で笑っている。
「……大丈夫、啓《けい》太《た》?」
「おう。俺《おれ》は百パーセントパーフェクトなんでもないOK、OKだいじょうぶ!」
「良かった。頭打ったから心配しちゃったんだよ……」
ようこが裸のままできゅっと抱きついてくる。あれだけの状態で失礼にも悲鳴を上げた啓太のことは詰《なじ》りもしない。
優《やさ》しく、柔らかい微笑《ほほえ》み。
その石けんの匂《にお》い。
恥じらうような顔で、瞳《ひとみ》をつむった。
ん。
と、唇を差し出してくる。先ほどの続きをあくまで完遂しようと言うのか。啓太の喉《のど》がごくりと鳴った。
やばい。
このままだと。
このままだと俺は。
確実に歴史に名を残してしまう!
啓太から何時《いつ》まで経《た》っても反応がないことに気がついて、ようこは少し目《め》尻《じり》に涙を浮かべた。拳《こぶし》を口元に押し当て、しんなりと身をくねらせる。
「わたしって……そんなに魅《み》力《りょく》ないかなあ?」
なんとも寂しそうなか細い声である。
男心を罪悪感でずたずたに切り裂くような口調だ。
とっているポーズも秀《しゅう》逸《いつ》で、さりげなく身体《からだ》のラインを見せつつも、肝心な部分は腕と腿《もも》で巧妙に隠している。要するに一歩、自分から踏み込めばそこで全《すべ》てが手に入る、というぎりぎりの距離感をさりげなく提示しているのだ。
啓太は石像と化していた。
地の利は明らかにようこにあった。
心をとろかす環《かん》境《きょう》は全て整っていた。ここに足を踏み入れた時点で啓太の敗北は既に決定していたのかもしれない。確かに家事も料理もこなすようになったようこは、啓太の好みの点ではぼ完《かん》璧《ぺき》に近かった。
しかも今は裸で、言ってることがなんだかとっても健《けな》気《げ》だ。きっとここで抵抗を止《や》めれば、それはそれで気持ちがいいし、凄《すご》く楽なのだと思う。
だが、彼は己の残り少ない理性を全て動員して必死で戦っていた。
何故《なぜ》なら彼には夢があった。
誰《だれ》にも、決して譲《ゆず》れない夢が。
今からたった一人に縛《しば》られてたまるか!
そう彼が心の中で叫んで、ぎりぎりと奥歯を噛《か》み締《し》めながら身を引こうとしたその時、ようこが彼の手を取って、それを持ちあげ、自分の胸にぐいっと押し当てた。
むによ。
へにゃ、と啓《けい》太《た》の顔が崩れた。
「啓太」
恥じらう声。
「……いいよ」
なにがいいのか?
だが、それはそれで啓太の葛《かっ》藤《とう》を断ち切るのには充分な一《いち》撃《げき》だった。彼が鼻息荒くようこを押し倒そうとした刹《せつ》那《な》。
ケモノの顔になってようこに唇を近づけたその一《いっ》瞬《しゅん》。
「啓太様〜?」
部屋の方から困ったようなともはねの声が聞こえてきた。啓太とようこは思わず、顔を見合わせ、固まっている。
「お留守ですか〜?」
こけ〜こけ〜とニワトリが鳴いている。その言っていることが分かったとは思えないが、ともはねの足音が近づいてきた。
「お風《ふ》呂《ろ》に入ってるんですか〜?」
ノックの音。その途《と》端《たん》。
啓太にかかっていた呪《じゅ》縛《ばく》が瞬時にとけた。彼はばっとようこから離れると、
「わ、悪い!」
そう言って留め具にかかっていたバスタオルをようこにぱさっとかける。目をぱちくりさせている彼女を置いて、啓太は出ていった。
「お、おう。俺《おれ》になにか用か?」
と、ともはねに取り繕《つくろ》ったように言っている。
「あ、やっぱりここにいたんですか、啓太様。薫《かおる》様から伝言を持ってきたんですよ」
嬉《うれ》しそうなともはねの声。
「じゃ。向こうで聞こうか」
ようこはゆっくりと起きあがり、
「ちぇ」
ぱちんと指を嶋らしていた。
やばい。
やばいぞ。
それから、一転。啓《けい》太《た》の生活は地《じ》獄《ごく》になった。
ギブスにノミでも入って片っ端から刺されているような、とても我慢できそうにない刺《し》激《げき》だった。あれからようこはさらに貞《てい》淑《しゅく》に、さらにさりげなく色気を提示してきた。啓太が好みの味付けも覚え始めた。
一方、身につけている服がバリエーションに富み始めている。木彫りのニワトリを最大限に活用して、可愛《かわい》らしくカラフルなエプロンドレスをつけたり、逆に背中のラインを見せつける大胆なチャイナを着用したりした。
明らかにそれは攻《こう》撃《げき》だった。
動作の端々が彼の心を強風下の野火のように煽《あお》っていく。
ポニーテールが。
ポニーテールが全《すべ》てを狂わせていた!
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告《つ》ぐ! カエルよ、破《は》砕《さい》せよ!」
はけから受けた依頼をこなす際も鬼《き》神《じん》のような強さをみせていた。路地裏に陣取っていた凶悪な自《じ》縛《ばく》霊《れい》を、
「破砕せよ! 爆《ばく》砕《さい》せよ! 粉砕せよ!」
アッという間に、四の五の言わずに吹き飛ばした。本当に、
「あ」
と、言う間でようこが手伝う隙《すき》もない。そばで立ち会っていたはけがびっくりしたような顔になった。
「今日はまた……えらい気合いの入りようですね」
そんな彼を啓太はキッと涙目で睨《にら》んでから、
「どちくしょおおおお──────────────────!」
夜のネオン街に向かって駆けていく。
はけは呆《あっ》気《け》にとられていた。
「……なにかあったのですか?」
と、傍《かたわ》らに立っていたようこに尋ねると、
「さあ?」
彼女は天使のような微笑《ほほえ》みを浮かべ、答えた。
「そういうお年《とし》頃《ごろ》なんじゃない?」
明らかに痩《や》せてきた。顔色も悪くなった。
元々、煩《ぼん》悩《のう》の塊のような自分がモノノケとは言え、年《とし》頃《ごろ》の滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》、可愛《かわい》らしい外見の少女と同居している時点で不《ふ》穏《おん》当《とう》なのである。ただ今まではそれがある程度、視界の外にあったので平気だったのだが。
それがああも家庭的に、健《けな》気《げ》に振る舞《ま》われるとその距離感がみるみる狂わされていく。
今のようこは慣れ親しんだちょっと手のかかる『犬《いぬ》神《かみ》』ではなく、触れれば届く、触ったらきっと柔らかい『女の子』だった。
「なんとかしなくちゃ」
啓《けい》太《た》は追いつめられたケモノのように、うろうろと部屋を歩き回っていた。
このままだと本当に人生がその場で決まってしまいかねない。
なんとなくそれが忌《き》避《ひ》するべき対象ではなく、甘美なものとして日増しに感じられてくる時点でもうかなり危うい兆候である。
彼はぽんと手を叩《たた》いて、
「よし、怒らせてみよう!」
最大限考えて出した結論がそれだった。
「ようこ」
二日前。啓太はようこを呼ぶ。洗い物をしていた彼女がエプロンで手を拭《ふ》きながら戻ってくるのを待って、
「おう、お疲れさん」
と、その場に用意しておいたチョコレートケーキを自分の口中に押し込んだ。高級店の限定品である。チョコレートケーキに煩《うるさ》いようこならすぐに分かるはずだ。普《ふ》段《だん》は滅《めっ》多《た》に手に入らない嗜《し》好《こう》品を全く一|欠片《かけら》も与えず、彼女の目の前で独り占めにしてみせる。
ゆっくり咀《そ》嚼《しゃく》しながら、言った。
「ん〜、さすがにまったりしていてふぁむ……うん、うまいな」
「ねえ、啓太……わたしの分は?」
ようこが乾いた声で問いかける。啓太は内心の恐怖を抑えつつ、
「あーん? あるわけねえだろ、そんなもん。俺《おれ》の分だけだよ、俺だけ!」
わざとそう酷《こく》薄《はく》に言ってのけた。
ふんと鼻を鳴らす。
ようこの目《め》尻《じり》に涙の粒が盛りあがる。握った両の拳《こぶし》がぶるぶると震《ふる》え始めた。恨みがましく睨《にら》んできて、怒りの感情が彼女を支配しているのがはっきり分かる。
お。
おお〜。
啓《けい》太《た》は期待に前のめりになった。これなら行ける!
と、彼が確証を持ったその途《と》端《たん》。
「美味《おい》しかった?」
ようこの全身からみるみる怒りが抜けた。まるで膨《ふく》れあがった風船からガスが抜けていくように「ふしゅるるる〜」という音さえ聞こえてきそうな消沈ぶりだった。彼女は健《けな》気《げ》の見本のような弱々しい微笑《ほほえ》みで言ってのけた。
「今度はわたしにも少し分けてね?」
「う」
啓太の心をずきりと良心の痛みが走り抜けた。
それでも、彼は粘った。続いて食事の時間に、
「ふう」
と、箸《はし》を置く。ようこの作った食事がかなり手つかずで残っている。ようこが不安そうな目で啓太を見上げた。
「啓太、お口に合わなかった?
「ああ」
殊《こと》更《さら》、憮《ぶ》然《ぜん》と、言ってのける。
「全く」
冷酷で非道な口調である。食物を粗末にするのは本来、彼のポリシーではなかったが、だからこそ、その口調には確かな真実味が滲《にじ》み出ていた。するとようこは顔を手で覆《おお》い、しくしく泣き始めた。エプロン姿で、まるで極悪亭主の振る舞《ま》いに耐える健気な新妻のようである。
「ご、ごめん……啓太、ごめん。わたし、もっと努力するから」
啓太の方が焦る。
「あ、いや、その」
「だから、お願い、わたしを嫌いにならないで!」
「あ、ウソウソ! いや、マジで美味《うま》いよ、うん!」
ようこの肩に手を置き、必死で言い繕う啓太。ようこは、
「……ホント?」
と、今にも消え入りそうなか細い声で尋ねたが。
内実、手と手の間でぺろっと赤い舌を出していた。
結局、ようこの方が一枚も二枚も上《うわ》手《て》だった。彼女が生活の端々で見せる爽《さわ》やかな色気や健気な振る舞いに。
啓《けい》太《た》は憔《しょう》悴《すい》し、心も傾きかけていた。
そんな彼の許《もと》に最後の救い主がやってきたのは約束の期日一日前である。その時、啓太の意《い》識《しき》は半ば朦《もう》朧《ろう》としていた。胡座《あぐら》を掻《か》いてテレビを見ながら、瞳《ひとみ》は宙のあらぬ所をゆらゆら漂っていた。
ようこがお風《ふ》呂《ろ》に人っているのだ。
『別に後から来てもいいんだよ?』
という感じの意味ありげな上目遣いと微笑《ほほえ》みで去っていった。啓太は煩《ぼん》悩《のう》を振り払おうと座禅を組んで念仏を唱え始めたが、全くの焼け石に水。時折、思い出したように猛烈に筋トレをやっても意味がなかった。
お湯の跳ねる音や、衣《きぬ》擦《ず》れの気《け》配《はい》だけで心が既に溶けかけている。夜分遅くやってきたなでしこは心配そうな顔つきでそんな彼の前に膝《ひざ》をついた。
「啓太様、どうかされたのですか?」
「え〜? なに?」
啓太がぼんやり問う。
「どしたの、なでしこちゃん?」
「いえ……わたし今日はようこさんに煮物を教える約束で来ているのですが」
「あはは、ありがと」
その途《と》端《たん》、啓太が急に涙ぐんだ。明らかに情緒的におかしくなりかけている。
「なでしこちゃん、俺《おれ》、俺」
そこで彼の視線がなでしこの胸元に落ちる。
じいっと吸いつく。
形が良く、ようこよりも明らかに大きく、柔らかそうな。
「うう」
突如。
「俺、やっぱまだこれ≠ノ未練があるよお────────────!」
そう叫んで、啓太はいきなりなでしこの胸元にがばっと顔を埋めた。
あまりの出来事になでしこはただ固まっている。手を肩のちょっと上辺りに固定し、強《こわ》張《ば》った表情のまま、反応すら出来ていなかった。
そこへ啓太がさらにすりすりする。
「はあ、落ち着く……」
子供のようなほっと安《あん》堵《ど》の吐息。
ふに〜と目を細めた。
まさにその時である。
「啓太、一体、ナニをやっていらっしゃるのかしら?」
底冷えするくらい静かな声が背後から聞こえてきた。
部屋の小物がカタコト踊り出す。嵐《あらし》の前触れのように部屋全体がぴりぴりと帯電し始めた。啓《けい》太《た》は慌てて振り返る。
そこにいつの間にかお風《ふ》呂《ろ》に入っていたはずのようこが立っていた。
バスタオルを一枚巻いただけの姿で。
仁《に》王《おう》立ち。
その瞳《ひとみ》はランランと輝《かがや》き、強く噛《か》み締《し》めた歯がギリギリと軋むような音を立てている。猛烈かつ強烈な怒気。どんな悪《あっ》鬼《き》羅《ら》刹《せつ》も裸足《はだし》で逃げ出すような姿である。
それに触れ、急速に啓太が正気に返っていく。
「おお……」
と、ようこを指差す。その間、ようこはゆっくりと髪を縛《しば》っていたゴムを解《ほど》き、首を大きく二度、三度と振った。
ぱさりと黒く長い髪が広がる。
全くいつもの姿。
うなされそうなほど恐《こわざ》い形《ぎょう》相《そう》。
「人がちょっとさーびすしてあげたら、随分といろいろ調子に乗ってくれたよね? ご飯だって勝手なこと言うし、わたしの目の前で美味《おい》しそうなちょこれーとけーきを。そんな、わたしがどれだけ……く。こ、この」
よろめき、膝《ひざ》をつく。
「わたしが、どれだけ、必死であ、が、まんを重ね」
堪《こら》えきれない、今までずっと溜《た》めていたモノがどろどろと一息に溢《あふ》れ出す。
「く、この」
「怒ってる!」
嬉《うれ》しそうな顔で啓《けい》太《た》が叫んだ。
「当たり前だああああ────────────!」
爆《ばく》発《はつ》。一気に乱気流のように霊《れい》力《りょく》が舞《ま》い、部屋が沸《ふっ》騰《とう》したようにぼこぼこ揺れ始める。
「他《ほか》の何は許せてもソレだけは絶対に許せない! 地《じ》獄《ごく》で泣くほど後悔なさい、ケイタ!」
啓太はようやく己が置かれた立場に気がついた。未来がうんぬんというより、正直、今この場の命が危うい。慌てて逃げようとしてはっと背後を振り返った。
そこからも、もの凄《すご》い霊力の凝《ぎょう》集《しゅう》があった。ごごごごっと地鳴りのような音が轟《とどろ》き、室内なのに暗雲のようなものすら漂っている。なでしこがにっこり微笑《ほほえ》んで立っていた。
こちらもようこと同等、あるいはそれ以上の迫力がぶるぶる震《ふる》える握った拳《こぶし》にある。
「啓太様」
そこで啓太は初めて恐怖の具現化を目《ま》の当たりにすることとなる。
「まさか怒っているのが、ようこさんだけだとでも?」
二人の少女がゆっくりと距離を詰めてくる。
「そんなに大きな胸がいいんだ」
「あんまりです」
啓太は泣き笑いのような表情で口をぱくぱくさせているだけである。
「あ、あのね、これにはね、そのね、深い事情があってね……って、君たち? 聞いてる?」
「ケイタ、自分の痛みの限界知ってる?」
「ええ、わたしほんの少しの間だけ『やらず』を返上させて頂きます」
二人の笑みがずずいと近づき。
「ヒイ──────────────────!」
大爆発が起こったのはまさにその瞬《しゅん》間《かん》だった。
軒先の暗がりからすうっと空へ向かって飛び立つ白《しろ》装《しょう》束《ぞく》。はけがほっと安《あん》堵《ど》するように息をついていた。
「ま、今はまだこんなものでしょうね」
[#改ページ]
「うるせえなあ」
こけ〜ととぼけたようなニワトリの鳴き声が遠くから聞こえてくる。意《い》識《しき》は未《いま》だ覚《かく》醒《せい》と半覚醒の間を彷裡《さまよ》って朦《もう》朧《ろう》としていた。
「もうちょっと寝かせてくれよ……」
こけ〜とまたニワトリの鳴き声。川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》は毛布を肩まで引きあげ、ぶるっと身《み》震《ぶる》いをした。こけ〜。
三度目。
ちらっと薄《うす》目《め》を開けると、辺りは眩《まばゆ》い朝の光で満ちていた。窓の外は恐らく霜《しも》が降りているのだろう。鮮《せん》烈《れつ》なほど寒い。
啓太はん〜と捻《うな》って、がんがん響《ひび》く頭を手の平でぐりぐり押した。
ようやく眠気が少し覚めてくる。
こけ〜。
「分かったよ、分かったってば」
見ると天《てん》井《じょう》から吊《つる》された鳥《とり》籠《かご》の中で木彫りのニワトリがごそごそ動いていた。恐らく定刻になっても起きてこない啓太を心配しているのだろう。
「ふう」
啓太はゆっくりと上半身をベッドの上に起こした。溜《ため》息《いき》が漏れる。今まで全く経《けい》験《けん》したことのないくらいのヒドイ二日酔いだった。
「いちち」
黙《だま》っているだけで、吐き気と頭痛が交互に襲《おそ》ってくる。
啓太はコメカミを抑えながら思い悩む。
「あっれえ?」
記《き》憶《おく》が混濁していて、今いちよく思い出せない。
「昨日、なにやったんだ〜、俺《おれ》?」
ぼんやりと顔を上げた。
卓《ちゃ》袱《ぶ》台の上にはビール瓶が林のように乱立していた。さらに焼《しょう》酎《ちゅう》の大瓶やら何故《なぜ》かラベルの所から真っ二つに割られたウイスキーの角瓶やら。その他に袋の空いたポテトチップスとスルメイカなどのオツマミも散乱していた。
大宴会の跡である。
「え〜と」
確か酒屋に取り憑《つ》いた因《いん》業《ごう》金貸しの幽《ゆう》霊《れい》を祓《はら》って、
「そうそう。それで報酬代わりに飲みきれないはどの酒を貰《もら》ったんたよな……」
そこまではちゃんと憶えていた。
ようこと二人、浮かれ気分になって夕刻から酒宴を始めたのだ。ポニーテールになった彼女が台所に立って、コンビーフとキャベツの炒《いた》め物を作ってくれたこともよ〜く覚えていた。だが、そこから先がどうしても思い出せない。
一体、昨晩なにがあったのか?
「ぐ」
啓《けい》太《た》は込みあげてくる吐き気を堪《こら》えようとして、口元に手を当て、さっきからぐんにゃりと触っているものの正体を知って驚《おどろ》いた。
「うお!」
枕《まくら》だと思っていたそれは逆さになったようこだった。
正確にはその柔らかいお腹《なか》だった。彼女は丸くなってマフラーのように彼の首に巻きつく形で寝ていたのだ。
毛布を引っぺがすと、ごろんと洗い立ての芋のように転がった。
その拍子に艶《つや》やかな黒髪がシーツの上に放射状に広がり、相変わらずのノーブラタンクトップにショーツ一枚という際どい肢体が眩《まばゆ》い朝日の元に晒《さら》された。すらりと長い足と最近、とみに張りを増してきたバストときゅっと引き締《し》まったウェストが目立った。
生暖かい体温。
ほんのりとアルコール臭《くさ》い。というか、扇情的なほど女の子臭い。酔い潰《つぶ》れ、寝乱れた後の彼女はたまらなく肉感的だった。
「……ケイタ、しなちゃい」
丸くなってなにか寝言を言っている。
色っぽく、
「くすくす、したい?」
啓太は急に怖くなってきてまた彼女を毛布で包み隠した。
「ま、まさか」
慌ててベッドから立ちあがり、自分の服装を念入りに確かめてみる。幸いジーパンと厚手のセーターをしっかり身につけている。
記《き》憶《おく》が全くないのだが……。
「しちゃいないよな?」
感覚的にはどうやらセーフのようだ。
取り返しのつかないことは多《た》分《ぶん》致しちゃってない。恐らく着替えもせず、崩れ込むようにしてようこと共に寝床へ潜《もぐ》り込んだのだろう。
啓太はほうっと溜《ため》息《いき》をつき、台所の方へふらふら彷徨《さまよ》い出した。二日酔い特有の粘り着くような喉《のど》の渇きを潤《うるお》すために、ジュースでも飲もうと思ったのだ。
そしてふと足を止める。
見ると部屋の隅の方。ちょうど窓から差し込んでくる光線の死角に当たる場所に衣類が山のように積まれていた。
大半が色とりどりの女物である。
啓《けい》太《た》は首を傾《かし》げる。
少なくともようこのものではない。啓太が全く見たことのない代《しろ》物《もの》ばかりだった。シックな色合いのジャンパースカートやらフリルのついたピンクのカーディガンやら。中にはブラジャー、パンツなどの下着類も混じっている。
近寄り、掻《か》き分けると、その向こうから犬《いぬ》神《かみ》のなでしこがいきなり現れた。
「な、なでしこちゃん!?」
啓太は驚《おどろ》き、思わず声を上げている。なでしこは壁《かべ》にもたれかかるようにしてすやすや可愛《かわい》らしく寝息を立てていた。相変わらずの割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿である。ただほんの少しだけ啓太と同じように頬《ほお》が赤く、お酒|臭《くさ》かった。
「い、いたの?」
こちらはようこと異なり、上品で、淡い色気がある。はらりと白い首筋に落ちた栗《くり》色の髪を掻きあげ、
「ん」
口中で小さくそう呟《つぶや》いた。
どきりとする。
そう言えば昨夜の酒宴には彼女も参加していたような気がする。一体どういう経《けい》緯《い》か分からないが、正座をして啓太を叱《しか》っていた。
ぺこぺこと彼女に謝《あやま》っていたような記《き》憶《おく》が漠然とだがある。
啓太は頭を抱える。
「う〜、なんだっけかなあ?」
その間、なでしこはまた寝言を言ってくすくす笑っていた。
「いたいですか?」
「……」
やっぱり思い出せない。二日酔いでがんがん響《ひび》く頭がなんの役にも立ってくれない。啓太は諦《あきら》め、首を振り、その場から離れた。
ようことなでしこと酒を飲んで。
それから一体、自分はなにをしたのだろう?
あの衣類の山はなんだ?
よろめき、にじり寄るようにして台所の小型冷蔵庫を開ける。まず何よりかにより喉《のど》の乾きを潤《うるお》したかった。ところが……。
今度こそ心《しん》臓《ぞう》が止まるかと思った。
「うわ!」
中からどさどさ滑り落ちてきたのは大量の生魚だった。
啓《けい》太《た》は思わず流しの上に飛び乗っている。
「うわうわうわうわ──────!」
魚はまるで生きているかのように床の上をつう〜と滑り、椅《い》子《す》の下に潜《もぐ》ったり、壁《かべ》にべちんと当たって大きく跳ねたりしている。
こけ〜こけ〜、と背後でニワトリが鳴き喚《わめ》いていた。
「な、なんなんだよ、これ〜?」
二日酔いの悪夢がそのまま具現化してきたかのような光景だ。
「まさか……酒のツマミ?」
にしては同じ種類の魚ばかり二十匹あまり、というのは明らかに変である。でも、よく分からないがこの魚を酔っぱらいながらひどく所《しょ》望《もう》していたような妙な覚えもある。
振り返ると、少女二人がう〜んと寝返りを打っていた。啓太は溜《ため》息《いき》をつき、爪《つま》先《さき》から降り立って、そのうちの一匹を恐る恐る手に取ってみた。
随分と新《しん》鮮《せん》で形が良い。
「うう」
とりあえず訳が分からない。魚はもう一度、全部、冷蔵庫に戻しておいた。その過程で生《なま》臭《ぐさ》くなった手を石けんで洗うため、啓太は洗面所に向かう。二日酔いに生魚の匂《にお》いは結構、応《こた》えた。
そして洗面所の鏡《かがみ》の中を覗《のぞ》いた時、さらに呻《うめ》き声を発した。
「……俺《おれ》、昨日、ホントになにしたのかなあ〜」
なんと顔中にリップマークがついていたのだ。
慎《つつ》ましい、紅色の形。おでこについた一つは微妙に色合いが異なっているが、後のほっぺたや首筋についたのは全部一緒だった。
啓太は首をすくめた。
なにがあったか、知りたいような、知りたくないような。
よく確かめると頭の天《てっ》辺《ぺん》にこぶもある。二日酔いの頭痛だと思っていたが、どうやら昨晩ひどく頭をぶつけるなにかがあったらしい。
「なんかこ〜、引っかかるんだよなあ〜」
不安感。
してはいけないことをしたような。
取り返しのつかないなにかがあるような。
半ば上《うわ》の空で手と顔を洗い、タオルでごしごし拭《ぬぐ》う。幸い口紅はすぐにとれた。冷たい水をコップに注ぎ、ごくごくと喉《のど》の奥へ流し込む。
それを二回ほど繰《く》り返した。
そうすると大分、人心地もついてくる。
そう。
思い出しかけていた。酒宴には確かもう一人いた。
もう一人。
ようこ、なでしこ。
そして……。
そこで啓《けい》太《た》は何故《なぜ》かものすご〜くイヤな予感に囚《とら》われて、半開きだったドアの向こうをそっと覗《のぞ》き込んでみた。
いた。
特命|霊《れい》的《てき》捜査官|仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がそこで安らかに眠っていた。
最初、理解が一《いっ》瞬《しゅん》、飛んだ。
「か、仮名さん?」
彼はオールバックの黒髪に青白い頬《ほお》。日本人離れした長身と体格|故《ゆえ》に窮《きゅう》屈《くつ》そうに身を折って、バスタブの中に収まっている。
そこまではいい。
酔っぱらって寝込んでいるのだと思った。だが、そこから先が尋常でない。彼の周りはどういう訳だか無数のバラで飾られているのだ。
香り高い、赤や黄色やピンクのバラ。
仮名史郎はその中で半ば埋もれるように手を組み、まつげの長い瞳《ひとみ》を閉じていた。その姿はまるで童話のお姫様のようでもある。
それに頭には白い三角巾を巻いていて、白い着物を着ている。
啓太は冷や汗を掻《か》いた。
元々、あまりまともなニンゲンだとも思っていなかったが、人んちの風《ふ》呂《ろ》場でバラを敷《し》き詰めて勝手に寝る。紛れもないヘンタイである。
それにこの寝間着の趣《しゅ》味《み》の悪さ!
「まるで死体みたいだな」
風呂場に降りていって、揺すり起こそうとした。
「おい、仮名さん。変なところで寝てっと風邪《かぜ》引くぞ?」
ん?
そこで思わず顔をしかめる。仮名史郎の身体《からだ》は、先ほどの生魚を指でつまんだ時のように人間離れしてひんやりとしていた。
ぐにゃ。
とか、そんな形容が当てはまる。
「……」
啓《けい》太《た》は額《ひたい》に手を当て、しばし苦悩した。
「ん〜」
そう唸《うな》って、今度は彼の首筋に手をやってみる。
全く生命反応がない。
「んん〜〜〜〜〜〜」
さらに手首の脈もとってみた。
ぴくりともしない。
「あはははははははは」
何故《なぜ》だか分からないが勝手に笑いがこぼれ落ちてきた。
「やだなあ〜も〜、仮《かり》名《な》さんってば〜。それってあんまり洒落《しゃれ》になってないよ〜」
しかし、答えは返ってこない。
墓石のように静まり返ってる。
「よ、よ〜し、今度は我慢比べだぞ〜」
もう酔っぱらってるんだか、錯《さく》乱《らん》してるんだか、なんだかよく分からない状態で啓太は仮名|史《し》郎《ろう》の鼻をつまむ。えぐえぐしゃくりあげながら腕時計で時間を計ってみた。一分経過。
二分経過。
仮《かり》名《な》史郎は全く息をしていない。身体《からだ》の奥底からがくがくと震《ふる》えが込みあげてきた。啓《けい》太《た》はばっばっとバラを掻《か》き分け、彼の心《しん》臓《ぞう》、首筋、口元を順番に念入りに確かめてみた。もう間違いなかった。
仮名史郎は確かに死んでいる。
完《かん》膚《ぷ》無きまでに。
死んでいる……。
「あ」
啓太の顔が思いっきり引きつり、
「ぎゃあああああああ────────────!」
絶叫が響《ひび》き渡った。
死んでる!
死んでるよ!
啓太は何故《なぜ》か猛烈にスクワットを開始した。終わると腕立て伏せ。腹筋。背筋。ついで手近にあった空のシャンプーを手に取り、すちゃすちゃと踊りながら握った。
ぱふぱふ。
音が鳴る。
「え〜い、錯《さく》乱《らん》やめ!」
それを思いっきり放り捨て、頭をごんごん壁《かべ》に打ちつけた。
どうしようもないパニックに襲《おそ》われていた。
「落ち着け、川《かわ》平《ひら》啓太! まず何よりも冷静になれ!」
ごんごん。
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜」
と、唸《うな》ってしばらく待った。ばっと期待を込めて振り返る。
しかし。
「なんで?」
やっぱり現実は過酷で、簡《かん》単《たん》には消えて無くなってくれない。
「なんで?」
拳《こぶし》を口元に当て、絶望と困惑の入り交じった涙目で仮名史郎を眺めやった。
「なんでこの人こんなとこで死んでるの? なに?」
訳の分からないことおびただしい。
理《り》不《ふ》尽《じん》この上なかった。そこへさらに追い打ちがかかった。ドアの向こうに誰《だれ》かが立ったのだ。
「あの、啓太様?」
磨《す》りガラス越しにシルエットが映った。なでしこだった。
「ひ」
啓太は反射的に奇声を発する。
「さっき、大きな悲鳴が聞こえてきたのですが」
「ひ?」
「もしかして中でお怪《け》我《が》でもされたのでしょうか?」
なでしこの手がもう扉にかかっている。心配そうに、
「ちょっと失礼してもよろしいでしょうか?」
身体《からだ》が硬直していくのが分かった。どうしよう、どうしようと指を口でくわえ、辺りをきょろきょろ見回し、咄《とっ》嗟《さ》に閃《ひらめ》いたことがあった。
「だ、だめええ──────────!」
そう叫んでいる。
「俺《おれ》、今、素っ裸なんだ!」
なでしこの手が驚《おどろ》いて引っ込む。啓太はその間、ノズルを全開にして、滝のように打ちつけるシャワーの下に飛び込んだ。
「いひいいいいい────────────!」
世にも奇妙な悲鳴が漏れた。冬の冷たい水が衣服越しに全身へくまなく染み込んでいく。ぞくぞくぞく〜と寒気が背筋を駆け上がった。
「だ、大丈夫ですか、啓太様?」
ドアの向こうでなでしこがびっくりしている。
「ぜ、ぜ〜んぜん、平気! いやああ〜〜〜、ちょうど今、酔い覚ましのシャワーを浴びようとしてたんだよ。冷たくて気持ちいいなあ〜〜〜!」
びしゃびしゃと水の中で啓太はやけくそになる。服を着たまま、シャンプーして、髪の毛を泡立てた。
「あさしゃんさいこ〜」
「はあ」
ひたすらぽかんとしているなでしこ。
いって! あっちいって!
と、啓太はジェスチャーで追い払ったが、気がついている様《よう》子《す》は全くない。それどころか思いを決したように改まって尋ねてきた。
「あの……啓太様。ところでその酔い覚ましの件なのですが、つかぬことをお尋ねしますが、一体、昨日なにがあったのでしょう?」
「え? 昨日?」
どきりとする啓《けい》太《た》。反射的に安らかに眠っている仮《かり》名《な》の方を見てしまう。
「な、なんのこと?」
声が思わず上《うわ》擦《ず》っている。なでしこの影《かげ》がうなだれたように首を伏せた。
「お恥ずかしい話ですがわたし、昨晩の記《き》憶《おく》がほとんどないのです」
「へ、へえ〜、そうなんだ」
なでしこは恥じ入るように、
「はい。なんで御《ご》酒《しゅ》を頂いたのか……そもそも、なんで啓太様の家にわたしがお邪《じゃ》魔《ま》しているのかまるで分かりません。もしかしてその、啓太様に何か失礼なことを致してはいなかったでしょうか?」
手を磨《す》りガラスに押し当てた。不安そうな声である。
啓太はすっとんきょうに笑い出した。
「ははははは、だ、大丈夫大丈夫、なでしこちゃんに限って」
「でも、あの」
「そ〜だ。そのことは朝ご飯食べながらきちんと話してあげる。だから、まずその前にパンでも焼いておいてくれないかな? ね?」
「……」
なでしこはしばらく黙《だま》り込んだ。それから、小さく頷《うなず》く。
「そうですね。分かりました。では、朝食のご用意をして参ります……啓太様」
「な、なに?」
「朝ご飯は四人分ですよね?」
「え?」
啓太の顔がつい引き攣《つ》る。
「な、なんで? 三人分でしょ? 俺《おれ》、ようこ、なでしこちゃん」
「……もうお一方いらっしゃいませんでしたっけ? 確か仮名様もいらしたような」
うん。いるにはいるんだけど、もう彼、ご飯は食べないと思うな〜。
とは言えず、白々しい声を出す。
「さ、さあ? なでしこちゃんの勘違いじゃないかなあ? 昨日ここにいたのは俺とようことなでしこちゃんだけだよ。うん、そう。それに間違いない」
「……そうですか」
なでしこはまだ納得していないようだったが、
「では、ついでにお部屋のお掃除もして参りますね」
丁《てい》寧《ねい》に一礼して退場していった。同時に啓太がぶはっと堪《こら》えていた息を吐き出し、蛇口を思いっきり止める。猛烈に足踏みをして、手で身体《からだ》を擦《こす》った。下手《へた》をすると安らかに眠っている仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の隣《となり》に並んで心《しん》臓《ぞう》麻《ま》痺《ひ》を起こしかねない。
くるっと振り返って彼を指差した。
「要するに!」
告発するように、
「なんでここで死んでいるかだ!」
うろうろと歩き回る。なんとか昨目のことを思い出そうとする。仮名史郎の死体とその記《き》憶《おく》の欠落はきっと関係があるはずだった。
「あ」
彼が何かを思い出しかけ、ぱちんと指を鳴らしたその時、
「け〜〜た♪」
愛らしく甘えるような声と共に今度はようこが浴場の中に飛び込んできた。
全く身構える暇もなにもなかった。
「てい!」
啓《けい》太《た》の決断は素早かった。
頭からバスタブに飛び込んだのだ。
「な、なんだ、ようこ?」
背中を捻《ひね》り、尻《しり》をぐりぐり押し込め、仮名史郎を奥へ奥へと沈めるように動く。冷や汗をだらだら垂らしながら、声を震《ふる》わせ注意した。
「あ、朝っぱらから騒《そう》々《ぞう》しいぞ」
ようこは思いっきり変な表情になった。
「……なに、やってるの?」
それはそうたろう。服を着たまま、風《ふ》呂《ろ》に入っているのだ。頭だけシャンプーで泡立って、周りには無数のバラ。
これで正気を疑わない方が大分、難しい。
「……だいじよ〜ぶ?」
「おう、バラ風呂だ!」
啓太は引き攣《つ》った笑顔をみせた。
「ば、ばらぶろ〜?」
「はは、美容と健康に最適なんだ」
「……服を着たままで?」
「そうしないと効果がないんだよ!」
逆切れする啓太。
「それより、さっさと用件を言え!」
なんとか誤《ご》魔《ま》化《か》そうとする。
「あ、うん」
ようこは曖《あい》昧《まい》に頷《うなず》き、ぽっと頬《ほお》を染めた。相変わらず艶《なま》めかしいショーツにタンクトップ姿で爪《つま》先《さき》を床でもじもじさせ、
「あ、あのさ、昨日のことなんだけど」
その間、啓《けい》太《た》はぎょっとして目を見開いていた。見れば足と足の間から、第三番目の爪先がぷっかり浮かんできていた。
慌ててそれを押さえると、今度は別の所から青白い手がにゅうっと突き出てくる。
ひいいいいいいい──────────!
声にならない悲鳴を上げている啓太。
モグラたたきのように順番に押さえていく。幸い光線の加減と横を向いていたお陰でようこは気がつかなかったようだ。
「ど、どうしたの?」
再び前を向いて、ツイスターゲームのような奇《き》妙《みょう》奇《き》天《て》烈《れつ》なポーズをとっている啓太を見て尋ねた。
「い、いいから! で、昨日がなんだって?」
「……うん」
ようこは上気する頬を押さえ、言った。
「あのさ、ケイタ、わたしホントにそうだったらいいな♪」
きゃっと身を翻《ひるがえ》して駆けて行ってしまった。
啓太、全力でバスタブから飛び出し、思いっきりドアを閉めた。
「か、神様……」
思わず呟《つぶや》き声が漏れていた。
「この家で一体今、なにが起こっているのでしょうか?」
心なしか救いを求めるように天《てん》井《じょう》の方を見上げていた。
しかし、どこからも返事は戻ってこなかった。やっぱり自分自身でなんとかするしかないようだ。啓太は考える。そもそも仮《かり》名《な》さんは何故《なぜ》ここで死んでいるのか?
何故、死んだのか?
考えろ!
考えろ!
頭が痛くなるはど眉《み》間《けん》を締《し》め付け、自分に言い聞かす。
そこで、啓太はとある可能性に思い至ってみるみる青ざめた。
ま、まさか。
「俺《おれ》が殺したとか?」
記《き》憶《おく》がない以上、絶対あり得ないとは言い切れなかった。なにより仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の死体に対して先ほどから感じているこの奇妙な後ろめたさ。
それが殺人者としての決定的な証拠に思えてきた。
また仮に他殺でなくとも、少なくてもこうやって白《しろ》装《しょう》束《ぞく》を着せ、バラを敷き詰めた実行者がどこかにいるはずだった。自分、という可能性もなくはないが……さっき来たようこが昨夜のことをなにか覚えているようだった。
意味ありげなことを喋《しゃべ》っていた。
「ようこ?」
あるいは、
「なでしこちゃん?」
そんなバカな!
と、理性がいくら否定しても、混《こん》濁《だく》した意《い》識《しき》は恐怖をもって啓《けい》太《た》を阻《はば》む。彼は再び頭を抱えて、うずくまった。なんとしても昨晩のことを思い出さない限り、うかつにここから出ていくことも出来ない。
啓太はもつれた記憶の糸を懸《けん》命《めい》に解きほぐし始めた……。
確か、始まりは乾杯からだった。酒屋に取り憑《つ》いた因《いん》業《ごう》金貸しの亡《ぼう》霊《れい》に対して、啓太とようこは珍しく説得という方法で退散させている。
それを端から見ていた酒屋の主人がいたく感心して、報酬の他《ほか》に様々な種類のアルコールを段ボール箱一杯分持たせてくれたのだ。
「かんぱ〜い」
「おう、お疲れさん♪」
まず缶ビールのプルトップを開け、こつんとぶつける。溢《あふ》れ出てきた泡をすくい取るようにして口元に運んだ。
ぐびぐびと喉《のど》を鳴らす。
「ぷはあ〜」
ようこがまず気持ち良さそうな息をついた。
早速、赤くなっている。啓太はさらに吸引を続け、とうとうほとんど全部、飲み干してからアルミ缶をくしゃっと片手で握り潰《つぶ》した。
「うまい」
口元の泡を拭《ぬぐ》った。
ようこが感心したように拍手する。
「さ、お代わり行きますか♪」
啓《けい》太《た》は早速、酒が大量に詰まった段ボールの中に手を伸ばし、ベルギー産の小《こ》洒落《じゃれ》た形の瓶ビールを取り出した。ぷしゅっと栓《せん》を捻《ひね》り、口元へ運び、ラッパ飲みで冷たい琥《こ》珀《はく》色の液体を胃の中へ流し込んでいく。みるみる瓶の中身が空になった。
「うまい」
「最近、お仕事多くていいよね〜」
ようこがつまみのイカを口の端から覗《のぞ》かせ、もごもご言った。満足そうな笑顔である。啓太はまた次の缶も一息で飲み干して、
「うまい」
それしか言わない。
「えへへ〜」
ようこも楽しそうだ。
「ケイタ、こっちもおひとつど?」
「ん〜?」
啓太にコップを持たせ、日本酒の大瓶から透明な液体をとくとく注ぎ込む。
「お? なんかサービスいいじゃん」
と、啓太が笑うと、
「まだまだ♪」
ようこは首を振った。彼女は自分の髪をきゅっとポニーテールに縛《しば》ってから、
「もっともっと、たっぷりサービスしてあげる♪」
軽くウインクをした。
「危なかったんだよな、そうだ」
風《ふ》呂《ろ》場に座り込んだ啓太はぶつぶつ言っていた。
「あいつ、ああなると破《は》壊《かい》的に可愛《かわい》くなるから……」
ようこはこまめに啓太にお酌《しゃく》を繰《く》り返しながら、台所に立ってオツマミを作ってくれた。さらに機嫌良く笑うと、
「えへへ〜」
しなだれかかってくる。耳元で、
「わがままいってい?」
「な、なんだよ?」
「だっこして」
啓太の前に膝《ひざ》をつくと彼の首に手を回して、
「啓《けい》太《た》、だっこ〜」
甘えてくる。
啓太も相当酔いが回ってきていて理性が怪しくなっている。ダメだ。そこから先に踏み込んじゃダメだという心の奥底の叫びもあったが、ついつい頬《ほお》が緩《ゆる》み、とろけ、
「しかたねえなあ」
ようこを膝《ひざ》の上に乗せ、頭を撫《な》でてやった。
気のせいかようこの瞳《ひとみ》が一《いっ》瞬《しゅん》だけきらっと光ったようにも見えたが、
「わ〜い♪」
きっと気のせいだろう。目を細め、心地良よさそうに頬を擦《こす》りつけてくる。髪の匂《にお》いと微《かす》かなアルコールと弾力のある胸が感じられた。
啓太、頭がじんじんとしてきている。
「あ、ああ」
「啓太、だ〜いすき♪」
ようこがごろごろ喉《のど》を鳴らして言っている。
風《ふ》呂《ろ》場に座った啓太が頭を抱えていた。
「おいおい。俺《おれ》、ホントなにもしてないだろうな……」
自分自身が信じられなかった。
さらに様々な場面が想起される。
一転して、今度は何故《なぜ》か酔っぱらったなでしこが下着にアイロンをかけていた。
酔っぱらった仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が剣を振るっている。
「あっれえ」
啓太はタイルの上から立ちあがり、うろうろ歩き回り始めた。
「なでしこちゃんと仮名さんは一体、いつから来たんだ? え〜と……」
考えに夢中になっていて気がつかなかった。
バラの中の仮名の死体がわずかに動いたことに……。
次に思い出せたのが、
「なぜだ? 一体、君たちはなにを見ているのだ?」
という仮名史郎の悔しそうな声だった。啓太はそれに対してげらげらと笑い、ようこは啓太の肩に抱きついていた。
「ん〜。はげちゃびん」
そこから先が全くの暗《くら》闇《やみ》に包まれている。啓《けい》太《た》は再び立ち止まり、目をつむり、懸《けん》命《めい》に記《き》憶《おく》を堀り起こそうとしている。
その背後。
ゆらあ〜と縦《たて》に起き上がった仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》に。
全くもって気がついていなかった。
一方、その頃《ころ》、ようこは機嫌良くとんとんとリズミカルに包丁を動かしていた。鼻歌を歌い、スリッパを履《は》いた爪《つま》先《さき》をくりくり動かす。
なでしこに指示され、お粥《かゆ》に入れるネギを刻んでいるのだ、ちなみに出汁《だし》の効いた小《こ》鍋《なべ》はもう美味《おい》しそうな匂《にお》いを立ててことことと鳴っていた。
裾《すそ》の長いワンピース。ピンク色のエプロン姿が実に初《うい》々《うい》しい。
なでしこは彼女の手元を覗《のぞ》き込み、
「ようこさん、すごく上達しましたね」
感心したような声を上げた。
「まっね〜」
ようこは鼻の下を指で擦《こす》ってみせた。
「これもケイタへの愛情のなせるわざ?」
「はいはい。ごちそうさまです」
なでしこは苦笑する。
彼女は傍《かたわ》らで、昨夜大量に消費した空き瓶を順番に洗っていた。アルコールの匂いが鼻を突くたび、少し胸がむかつく。
ようこは全然、平気そうだったが、なでしこはかなり二日酔い気味だった。なにより頭が痛く、変な寝方をしたせいか肩も強《こわ》張《ば》っている。お酒は今まで数えるほどしか飲んだことがなく、決して好きな方ではないのに、昨日は大分、飲み過ぎたようだ。
そこら辺がどうも腑《ふ》に落ちない。
ようこに尋ねてみるのもなんとなく憚《はばか》られ、なでしこはちらりと背後を振り返る。
啓太はまだ浴室から出てこなかった。
最後の方は飲ませ合いになっていた。
「啓太ああ〜、飲みがぜんぜんたりないぞお〜」
ようこが甘ったるいカルーアミルクをかざしながらろれつの回らない声で叫んでいた。
「ば〜ろ〜」
啓《けい》太《た》はひっくとしゃっくりして、
「おまえ、だれにむかって……この、おれの」
くくくっと火の出るようなジンをコップ一杯空けてみせる。ようこが歓声を上げ、自分も即座にグラスを飲み干して応《こた》えた。
それをことんとひっくり返して、卓《ちゃ》袱《ぶ》台の上に置く。
「お〜し、それでこそ俺《おれ》の犬《いぬ》神《かみ》じゃあ」
啓太が前後左右に揺れながらぐしゃぐしゃようこの髪を撫《な》でた。
「いえええ〜、啓太の犬神〜」
ようこが拳《こぶし》を突きあげる。べろんべろんになりながら、笑いながら、二人はもつれ合うようになり、最後にどういう訳か、
「は〜い。おまちかね」
ようこが日本酒を片手に持ち、
「ようこのく、ち、う、つ、し♪」
くっと中の液体を軽く口に含んで、目をつむり、桜色の唇を突き出してみせた。この時点で啓太はもう半分、訳が分からなくなって、
「お〜し、じょうとうだ!」
と叫び、勢いのまま、ようこの腰をくいっと抱き寄せたところで。
そう。
藤《ふじ》色《いろ》の風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを手に持った仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がいつの間にか部屋の中に立っていたのだ。
彼はしどろもどろと言い訳していた。
「そ、そのすまない。一応、外から声はかけたのだが……鍵《かぎ》も開いていたので勝手に入らせて貰《もら》った」
ようこはものすご〜く恨みがましいジト目になっていた。それに対して、啓太はげたげたと笑いながら手招きしている。
「お〜、仮名さん、いいところへきたよう。いっしょに飲もうぜ」
風呂場に座り込んでいる現在の啓太は額《ひたい》をぴしゃぴしゃ叩いていた。
「いやあ〜そうだったそうだった。あれは危なかったな」
ぬめえ〜と肩に手を回してくる仮名史郎に笑いかけ、
「あんた、本当にいいタイミングで入ってきてくれたよ。あんたが入ってきてくれなかったらきっと俺」
と、言いかけ、固まる。ようやく気がついた。青白い、冷たい身体《からだ》。半開きになった目。ぐんにゃりした感触。
啓太の肌にぽつぽつっと鳥肌が立ち始め、
「うぎゃああああああああああ─────────────────!」
大絶叫。
が、起こった。
世にも凄《すさ》まじい悲鳴を聞きつけ、浴室に飛び込んできたようことなでしこはそこで異様な光景を目《ま》の当たりにした。
「た、助けて、助けて!」
啓《けい》太《た》は半ば腰が抜けた状態でじたばたもがいている。
そこへ白《しろ》装《しょう》束《ぞく》、三角巾の仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がぬらあっと覆《おお》い被《かぶ》さっていた。表情がなく、生気もないことを除けばふざけてじゃれかかっているようにしか見えない。
なでしこが口元を覆っていた。
「な、なにやってるんですか?!」
「カリナさん?!」
と、仰天してようこ。
「いやああああ──────────────!」
と、啓太が叫んだところで突然、電池が切れたように仮名史郎が動かなくなった。そのまま、ぼたりと床の上に落ちる。
ぜい、ぜい、呼吸を乱しながら胸を押さえている啓太。
「あ、あぐ」
言葉もろくに出てこない。
「おぐ」
ようやく涙だけが浮かんできた。
「なに、やってるの?」
と、未《いま》だぴんと来ていないようこが訝《いぶか》しそうに眉《まゆ》をひそめる。啓太は這《は》いずっていって彼女に抱きつき、子供のようにひ〜と泣き声を上げた。
同時になでしこも浴室に降り立ち、仮名史郎を助け起こそうとする。
「大丈夫ですか、仮名様?」
彼の身体《からだ》に触れ、
「よっこいしょ」
抱え起こし、
「……え?」
固まる。
「ちょ、ちょっと」
慌てて仮名史郎の首筋に手をやったり、口元に耳を当てたりしている。顔がみるみる青ざめていく。ただでさえ大きな瞳《ひとみ》が極限まで見開かれ、啓《けい》太《た》を恐る恐る振り返った。
「ま、まさか」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》をくいくい指差した。
「……うん」
啓太は目を逸《そ》らす。
「死んでるんだ、その人」
その次の瞬《しゅん》間《かん》。
なでしこは気を失って、床に倒れた。
ばったりと。
「う〜ん」
ぱっちりと目を開いたなでしこは天《てん》井《じょう》を見上げて、ほっと安《あん》堵《ど》の吐息をついた。
「あ、気がついた?」
と、ようこが声をかけてくる。彼女は弱々しく微笑み、
「ええ。今、とても変な夢を見ました」
身体《からだ》をゆっくり引き起こす。気がつけば炬燵《こにつ》に足を突っ込んでいた。ようこと啓太がいることを確認して、いかに自分が荒《こう》唐《とう》無《む》稽《けい》で埒《らち》もない夢を見たか話そうとする。話して啓太とようこに笑い飛ばして貰《もら》おうと、
「実はですね、仮名様が」
そうしたら。
「うん」
沈《ちん》鬱《うつ》な表情のようこが彼女を遮った。くいくいっと横の席に座った人物を措差し、
「夢じゃないよ、それ」
仮名史郎の死体がちゃんとそこにいた。小首を変な風に傾《かし》げ、炬燵に足を突っ込んでこちらを薄《うす》ぼんやり見つめていた。
なでしこの片《かた》頬《ほお》がひくっと引き攣《つ》った。笑ったのだ。次にう〜んと目を回し、今度は前のめりになってぶっ倒れる。
ごつんとおでこが当たる音がした。
「あちゃ〜」
啓太が思わず顔を覆《おお》っていた。
「でもさあ、この人、本当に死んでるんだよねえ?」
ようこが啓太の耳元に口を寄せ、ひそひそ言った。
さっきから幾度か脈拍を計ったし、呼吸も確かめてみた。しかし、何度やってもいくらやっても仮名史郎は生物学的な意味では完全に死んでいるのだ。
それなのに啓《けい》太《た》とようこがなでしこを担いで風《ふ》呂《ろ》場から移動しようとしたら、むっくり起きあがって勝手についてきて、さも当然そうな顔(無表情なのだが)で一緒に炬燵《こにつ》に入ってきた。
なんとなく二人とも怖《こわ》くてそれを止めることが出来ない。
気のせいか焦点の合っていない目でじっと二人のやり取りを見守っているようにも思える。啓太は同じく小声になって答えた。
「なあ、ようこ。お前、昨日のことどこまで覚えてる?」
「え、なんで?」
「うん、俺《おれ》も微《かす》かに思い出しかけてるんだけどさ、あの仮《かり》名《な》さんが持ってきた瓶。あれが全《すべ》ての元凶だったと思うんだ」
「ああ、あれね」
ようこも顎《あご》に手を当て遠い目をする。
「そうだよね〜。あれは確か……」
実はようこは外観ほどには酔っていなかった。だから、自然と素面《しらふ》の仮名|史《し》郎《ろう》を相手にしていたのは彼女だった。啓太の方は、
「まま、駆けつけ三杯、駆けつけ三杯♪」
と、嬉《うれ》しそうに仮名にコップを持たせ、日本酒をとくとくと注ぎ込む。
縁《ふち》ギリギリまで注いで、ぴたりと止めた。
「さ、ぐぐいといっておくんなまし」
理由もなくくすくす笑いながら、手で煽《あお》る。
「そうか……」
仮名史郎は特に逆らわなかった。
「では、折角だから頂こう」
コートを脱ぎ、胡座《あぐら》を掻《か》くと、その杯《さかずき》を口に運び、きゅっと放り込むようにして飲み干した。ぴんと伸ばした背筋といい、きりっとした顔立ちといい、自身が端麗な日本酒のような味わいがある。それから、立て続けに三杯飲み干しても顔色に微《み》塵《じん》も変化はなかった。
酒豪。
という表現がなんとなく似合あった。
「お〜」
啓太はぱちぱちと拍手をする。ようこは炬燵《こたつ》の上に肘《ひじ》をつき、憮《ぶ》然《ぜん》と、
「で、仮名さんなにしにきたの?」
大した理由じゃなかったら怒るわよ、とでも言いたげな声《こわ》音《ね》だった。仮名はこほんと咳《せき》払《ばら》いすると、奇妙な青い瓶を風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みの中から取り出した。
「実はな、今日は君たちにこれを見て貰《もら》いたかったのだ」
ことんとそれを炬燵《こたつ》の上に置いた。
ようこと啓《けい》太《た》が顔を近づける。それはピラミッド型の薄《うす》青い瓶だった。厚手のガラス製で、下の方にほんのわずかだが液体が溜《た》まっていた。
「かりなしゃん、これお酒か?」
啓太がひっくとシャックリをして、それを手に取りあげてみる。
確かに酒瓶のようにも見えた。
「おれ、これ、のんでいいか?」
「だ、だめだ!」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は慌ててそれを取り返した。
「見るだけだ。頼むから、きちんと気合いを入れて見てくれ」
完全に酔っぱらいと化した啓太は諦《あきら》め、ようこの方へそれを突き出した。
「どうだ? 中になにか見えないか?」
「ん〜」
ようこは目を細め、じっと中を覗《のぞ》き込む。啓太も胡《う》乱《ろん》な表情で同じことをした。やがて、ようこが首を横に振った。
「ダメ。なんにも特に見えないよ?」
「そうか」
仮名史郎は落胆したように肩を落とした。
「ここに持ってくればなんらかの変化があると思ったのだがな……それとも、もしかしたら本当にただの空き瓶なのかもしれない」
「だから、なんなのよこれ?」
「うむ。実はこれは」
と、仮名史郎がなにか言いかけた時、啓太がむにゃむにゃと寝言のように呟《つぶや》いた。
「ふーん。あんたもそこで酔っぱらってるの? それ、ウィスキー?」
「どんな願いでも叶《かな》えてみせるという触れ込みの」
「あははは、じゃ、俺《おれ》も一緒に飲むよ」
「私が探している赤《せき》道《どう》斎《さい》という者が作った魔《ま》導《どう》具《ぐ》の一つだ。ほら」
ようこの方へ瓶を裏返ししてみせる。すると瓶の底に見覚えのある月と三体の骸《がい》骨《こつ》の浮き彫りが見えた。
ようこはちらっと視線を上に向ける。
木彫りのニワトリが籠《かご》の中で完全に寝ていた。仮名はちょっと微笑《ほほえ》む。
「うむ。アレと同じ素性のものだ。今回は」
「全《すべ》ての酔っぱらいにかんぱ〜い♪」
啓太がグラスをちんと仮名史郎の持っていた瓶に押し当て、高々と掲げてみせた。仮名史郎は訝《いぶか》しげな表情になる。
「……ところで、すまない。川《かわ》平《ひら》、さっきから君は一体、誰《だれ》と喋《しゃべ》っているのだ?」
「え〜? 誰って? その中の酔っぱらいのおじ〜さん」
顔を真っ赤にした啓《けい》太《た》が手首をぐにゃりと動かし、青い瓶の中を指差す。こ〜こ、と呟《つぶや》きながら幾度も指でさし示してみせた。
ようこと仮《かり》名《な》は釣られて、瓶の中を覗《のぞ》き込んでみた。
しかし、二人とも特にめぼしいモノが見つからない。
「おい、なんにもいないぞ?」
「……本当に誰かいるの、啓太?」
「あははは〜。いるかだってよ、おい。じいさん、あんた精《せい》霊《れい》様なんだろう? なんとかいってやれよ……え? 人工なの? 大したことはない? またまたご謙《けん》遜《そん》を……そう。けんそん。けんそんだってば、けんそん!」
啓太はぽりぽりと頭を掻《か》く。
「だいじょ〜ぶ? あんた、相当、酔っぱらってるだろう? それとも惚《ぼ》けてるの?……え? 任せろ? どんな願いでも叶《かな》えてやる? わかったよ〜。わ〜かりました」
啓太は指を思いっきり突き立てた。
「なでしこちゃん♪」
楽しそうな声。
その瞬《しゅん》間《かん》、犬《いぬ》神《かみ》のなでしこが炬燵《こたつ》の上にひょいっと現れた。
アイロンを持って。
目をぱちくりさせて。
「わ〜い、本当に来たあ〜」
唯一、すぐに反応を示したのは啓太だった。なでしこの膝《ひざ》に顔を落とし、すりすりと頬《ほお》を擦《こす》りつける。なでしこはひたすら慌てた。
「え? な、なに? 一体なんですか?」
辺りをきょろきょろ見回し、誰か疑問に答えてくれる人を探している。
仮名|史《し》郎《ろう》もようこも絶句していた。
「なでしこちゃ〜ん」
啓太一人が喜んでいる。すぐにようこが我に返って、仮名史郎の胸ぐらを掴んだ。
「ど、どういうこと!?」
「わからない……」
仮名史郎も呆《ぼう》然《ぜん》としていた。その間、なでしこが、
「そ、そんな困りますよ。わたし、アイロンがけしたままだったのに、途中だったのに」
おろおろと啓《けい》太《た》を見下ろして言っている。
啓太はひっくとしゃっくりすると、
「あ、な〜んだ.じゃあ、ここで続きをやればいいじゃん」
「……ここって?」
「だからあ〜、お〜い、じいちゃん。なでしこちゃんがやってたお仕事も持ってきて……そ、ぜ〜んぶだよ、ぜんぶ」
そう言った途《と》端《たん》。
ふわっふわっと天《てん》井《じょう》から洗《せん》濯《たく》物が大量に舞《ま》い降りてきた。啓太が歓声を上げ、他《ほか》の皆は完《かん》璧《ぺき》に固まっていた。
それはまるで色づけされた雪のように鮮《あぎ》やかな光景だった。
「ふんふんふん♪ おてつだい、おてつだい♪」
啓太が鼻歌を歌いながらタオルを畳んでいる。その間、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》、ようこ、なでしこの三人は額《ひたい》を寄せ集め、ひそひそと密《みつ》談《だん》を交わしていた。
「つまり、あの中にどんな願いごとでも叶《かな》えてみせる精《せい》霊《れい》が入ってるのですね?」
なでしこの問いに仮名史郎が謹《きん》厳《げん》に頷《うなず》いてみせた。
「ああ、あれは珍しく口《く》伝《でん》があってな。そう聞いている……見つけたのが廃業した造り酒屋の倉の中だったのだが」
「ほんと〜にどんな願いごとでも叶えるの?」
と、疑わしそうにようこ。仮名史郎は黒いタイツに手を伸ばした啓太を指差し、
「私も半信半疑だったのだが、あれを見れば、信じざるを得ないだろう?」
なでしこが慌てて駆けていって、啓太からそれを取りあげた。ぼけえ〜と座り込んで彼女を見上げている啓太。なでしこが彼の頭を優《やさ》しく撫《な》でて諭《さと》すと、頬《ほお》をにゃ〜んと猫のように緩《ゆる》め、また酒の席に戻っていく。今度はラム酒に手を伸ばした。
ほっと安《あん》堵《ど》の吐息をついてなでしこが戻ってきた。
「君はなにか見えないか?」
そう仮名史郎に尋ねられ、
「い、いえ、わたしにも何も見えませんけど……」
なでしこがそう答えた。ようこも首を振る。
「そ〜なんだよね。なんか、啓太だけには見えているみたいなんだよね。なんかを」
「うむ」
三人はそこで啓太に視線を集中させた、それを知ってか知らずか、彼はラム酒のキャップを捻《ひね》って開けると、
「あ」
仮《かり》名《な》が止める間もなく、青い瓶に上からどぼどぼと注いだ。驚《おどろ》いたことに黒褐色のラムはガラスの表面に触れると、吸い込まれるように中へ透過していく。同時に底に溜《た》まっていた液体がその分だけ確実に嵩《かさ》を増した。
まるでガラス瓶自体が酒を飲み干したかのようだった。
啓《けい》太《た》はある程度、瓶にお酒が溜まると中を覗《のぞ》き込み、にんまりした。
「うまいかあ?」
うんうん頷《うなず》いた。
「そっかあ〜〜、そりゃよかったな。久しぶりの酒? ははは〜。にひゃくねん。長いね〜。じゃあ、じいちゃんのにしゃくねんに俺《おれ》もかんぱい♪」
自分はワンカップの日本酒をこきゅごきゅと美味《うま》そうに飲んでいた。仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が頷いた。
「なるほど」
「もしかして」
なでしこが手を叩《たた》く。ようこが立ちあがった。
「分かった!」
そして、三者三様に顔を見合わせると、
「酔っぱらいだ!」
声を揃《そろ》えて叫んだ。
酔っぱらいにしか見えないんだ!
啓《けい》太《た》はきょとんとしている。ようこ、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》、なでしこが突如、もの凄《すご》い勢いで駆けてきて、まだ大量に余っている酒類へ我先に手をかけたのだ。
「わたし……どうしても叶《かな》えて頂きたいお願いがあるんです」
なでしこが缶チューハイのプルトップを引っ張り、両手で持ち、
「頂きます!」
目をつむり、
「ん」
顔をしかめて、ぐびぐび飲み出した。
「なでしこちゃん?」
ぽけ〜と啓太が言っている。その横で仮名史郎は難しそうな顔になり、
「う〜む。私は体質的に酔いにくいのだがな〜」
日本酒の一升瓶を見つめていた。
「仕方ない。いささか荒《あら》療《りょう》治《じ》だが、いくか!」
一気にそれを逆さにして、煽《あお》り始める。
「ん。じゃ、わたしも」
ようこはウォッカの瓶からいかにも純度の高そうなとろりとしたアルコールを厚手のカットグラスに注ぎ入れ、くいっと口に含む。
「からい」
そう言って、顔をしかめた。
その間、なでしこが涙目で、口元を拭《ぬぐ》うと、次のサワーに手を伸ばしている。もう真っ赤になっていた。
「がいこくのお酒はお腹《なか》に来るね〜。もうぽっかぽかしてきたよ」
「やはり冬は日本酒に限るな」
はっはっはと仮名とようこが爽《さわ》やかに笑い出す。熱《あつ》燗《かん》にしてこよう、と仮名が席を立ち、ようこもグラスに入れる氷を求めて冷蔵庫に向かった。なでしこはひたすらくぴくぴ飲んでいる。辺りの空気が徐々に壊《こわ》れ始めてきた。
酔っぱらいは他人が酔っぱらうのをこの上なく喜ぶ。
仲間が増えたような気になるのだ。
すぐに啓太も相《そう》好《ごう》を崩すと、
「お〜い、ずるいぞ、俺《おれ》も仲間に入れろやあ〜」
輪《わ》の中に入っていった。
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》はワイシャツの袖《そで》を捲《まく》り、立て続けに杯《さかずき》をあおっている。
「へえ〜、あんたの妹、今、イギリスにいるんだ」
「うむ、私も通っていた全《ぜん》寮《りょう》制の高校でな。フランス語と魔《ま》術《じゅつ》を学んでいる」
「か、かわいい?」
「君に紹介するつもりは」
じろっとわくわくしている啓《けい》太《た》を睨《にら》み、
「断じてない!」
その隣《となり》で、
「お酒って……意外にいいものですねえ」
ほんのり桜色に頬《ほお》を染め、なでしこが気《け》怠《だる》い吐息をついて言う。いつもの清《せい》楚《そ》な座り方と違い、足を微妙に崩し、スカートの裾《すそ》からふくらはぎが見え、色っぽかった。
「ん〜。ところであんたなにお願いするの?」
コップをくわえたようこが尋ねる。なでしこはよろよろと手を振ると、
「な、い、しょ♪」
さらに酒が加速し、訳の分からない状態にみんなが突入し出した。こうなると自然と声は大きくなる。動作が乱雑で,言ってることとやってることが乖《かい》離《り》し、集団として規律が全く機能しなくなっていく。
ピンク色の空間は人の体温でどこまでもテンションが上がっていった。
「だからあですねえ。それは啓太様、せくはらなのです、せくはら。わかりますかあ? おんなのこにはイヤらしいことをしてはいけませんのです」
何故《なぜ》かコンセントのついていないアイロンでごしごし下着を擦《こす》りながらなでしこが言っている。既にろれつが回らなくなっていた。
「すいません、すいません〜、せんせい〜。犬はちゃんと連れて帰ります〜」
啓太がぐりぐり額《ひたい》を床に擦りつけて謝《あやま》った。
「よろし」
と、鷹《おう》揚《よう》に頷《うなず》いてなでしこ。その脇《わき》でとろんとした目のようこが焼《しょう》酎《ちゅう》の牛乳割りを飲み、
「仮《かり》名《な》さん、なにか宴会芸ないのさ?」
「う〜む」
座った目をした仮名|史《し》郎《ろう》がポケットからメリケンサックのようなモノを取り出し、それを嵌《は》め、瞬《しゅん》時《じ》に光の刃《やいば》へと切り変えた。
「このようによ〜く切れる」
ウイスキーの角瓶をごりごりのこぎりのように引いて真っ二つにして見せた。お〜と手を叩《たた》くようこ。
「あ、見えた!」
と、ようこが叫んでいる。その前になでしこが、もうぶつぶつと小声でなにか念じていた。手を組み、青い瓶に向かって祈っている。
「薫《かおる》様がもっと……」
そこへようこが絡んでいく。
「な〜んだ、やっぱり薫絡みのお願い? ねえ? なになに?」
「ち、ちがいますもん」
なでしこは酔いと羞《しゅう》恥《ち》で真っ赤になった顔をぶんぶんと振り、訳の分からない手つきで、
「この世にお花が溢《あふ》れてみんなが幸せになりますようにとおねがいしたのれす」
「女の子にもてもてになりますように」
「ついでにもうちょっと薫様が」
「ちょっと! けいた、どさくさに紛れてなにいのってるの!」
その合間に響《ひび》いているのが、
「なぜだ? 一体、君たちはなにを見ているのだ?」
という仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の悔しそうな声だった。啓《けい》太《た》はそれに対してげらげらと笑い、ようこは啓太の肩に抱きついていた。
「ん〜。はげちゃびん」
「くそおおお────────────!」
仮名史郎は思いっきり剣を振りあげ、それから、
「お」
出し抜けにぶっ倒れた、
一拍置いてもうぐお〜と高いびきを立て始める。すると光の剣はたちまち収束し、元のメリケンサックのようなものだけが手に残った。
啓太が頷《うなず》いていた。
「いるいるこういういきなり潰《つぶ》れる人」
「ま、まさか、その時に死んだのか?」
時が戻って現在。啓太は口元に手を当て、恐る恐るようこを見やった。
「倒れたところで打ち所が悪かったとか? あるいは急性アルコール中毒?」
ようこか即座に首を振る。
「ううん。その時は平気だったよ。それじゃなくってさ、多《た》分《ぶん》、その後だと思う」
「その後っていつだよ?」
「ほらあ、ケイタがなでしこのキスとか言ってた」
「あ」
頭に鮮《せん》烈《れつ》なイメージが蘇《よみがえ》る。
「アレかあ〜。思い出した、思い出した」
その途《と》端《たん》。
座っていた仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がいきなり電池が切れたように前のめりに突っ伏して、ごつんと三角|巾《きん》の巻かれた額《ひたい》を炬燵《こたつ》に打ちつけた。
ごん。
ごんと幾度か定期的に額を上げ下げしている死体。う〜んと唸《うな》っているなでしこ。未《いま》だ気絶したままだった。
啓《けい》太《た》とようこは黙《だま》りこくってからまたそれぞれ回想に入った。
「だかあらあ、おれはだなあ、いいか」
もうほとんど聞き取れないくらいの不|明《めい》瞭《りょう》な発音で啓太がくだを巻いていた。青い瓶を手にとって言い聞かすように、
「よ〜く、きけよ、このよっぱらい。俺《おれ》はなでしこちゃんと」
なでしこを指差す。
「キス!」
口をすぼめる。
「したい!」
ようこが怒った。
「へいはああ〜〜〜〜」
しなだれかかり、髪を引っ張ろうとするがへろへろで啓太の膝《ひざ》に力無く崩れ落ちる。辛うじて這《は》いあがって肩を噛《か》んだ。
「いてえ!」
弱々しい叫びを啓太が上げた。その間、ようこは目を吊《つ》りあげ、
「うわきはゆるひません! けいたはわたしとするの!」
「あほお〜、おれはあ、なでしこちゃんと、きす、したい」
「おじいさん、このひとのいうこと聞かなくていいからね」
ようこが青い瓶を奪い取り、言い聞かす。
「いい? おじいさん。わたしのおねがいは」
一言一言区切りながら、
「けいたと、ずっと、いっしょに、いたい!」
と、叫んでいる。
「なにお〜う。おれはなでしこちゃんと……え? なでしこちゃんはもういる? そりゃあ、いるだろうよ、おい。で、きすは冷蔵庫? はあ?」
「あれは魚のキスかあ────────────!」
と、現在の啓《けい》太《た》が叫んでいた。
「したい!」
酔っぱらった過去の啓太が言っている。その時、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が寝ながら突然、叫んだ。
「私は神だあああああ────────────!」
「やっかましい!」
振り返って丸めた座布団で仮名史郎の身体《からだ》をぼこぼこ叩《たた》く啓太。
「こいつめこいつめこいつめ!」
「う〜ん」
「あ〜? そいつでいいか?」
青い瓶を胡《う》乱《ろん》な目で振り返り、
「なん……ひっく。分かんな、けど……ひっく、いいよ。したい、……にしな」
そして思いっきり仮名史郎の額《ひたい》に頭突きをかました。白目を剥《む》き一気に沈《ちん》黙《もく》する仮名と頭を抱え、ごろごろ転げ回っている啓太。
ようこは繰《く》り返し、
「けいたとずっと、いっしょにいたい」
「もう!」
その時、今の今まで朦《もう》朧《ろう》とテレビに寄りかかっていたなでしこがよろよろ痛がってる啓太に近づき、その頬《ほお》を柔らかく手で包み込んだ。
上を向かせ、ちゅっと軽いキスをおでこにしておいて、
「あなたには才能があるんですから!」
母親のような慈愛の籠《こも》った眼《まな》差《ざ》しで啓太の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「ね? もっと」
と、言いかけたところで瞼《まぶた》を閉じ、前に崩れ落ちた。次の瞬《しゅん》間《かん》には啓太の胸にもたれ、すやすや可愛《かわい》らしい寝息を立てている。
「お〜〜〜!」
と、ふらふらになりながらも勝ち誇って叫んでいる啓太。
「けいたああ〜〜〜〜〜〜」
とうとうようこが我慢できなくなって一気に啓太を押し倒した。
「わたひもしてあげる!」
「ひゃ、ひゃめろ〜」
「くすくす。したい?」
ぶちゅ。
ぶちゅっと顔中にキス。
そして、いつしか二人とも前後不覚になって、昏《こん》睡《すい》していたのだ。
「なでしこちゃん」
現在の啓《けい》太《た》が凄《すご》い顔色で一本、一本、指を立て確認していった。
「キス。スズキ目キス科の魚」
台所の方を見やる。
「そして……多《た》分《ぶん》、死体」
「ケイタとずっと一緒に遺体」
二人はすうっと仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》(かつて)だったものに視線を向ける。ごつんと最後に額《ひたい》をぶつけてまた彼は動かなくなっていた。
二人が同時に立ちあがった。
「わああああああああ───────────!」
「どうしよう、どうしよう!?」
炬燵《こたつ》の周りをぐるぐると駆け回り、パニックを起こしている。
「落ち着け!」
きゅっと急ブレーキをかけて啓太が立ち止まった。ようこの肩に手を置き、真剣な目をして諭《さと》す。
「いいか? この死体は明らかに物理法則というか、生命原則を無視している。だから、きっとなんかそ〜なってるだけなんだと思う!」
「そ〜なってるってどういうことよ?」
「だからだなあ、多分、キャンセルが効くんだよ。一時的になんか死んでいるだけだと思う」
「いちじてきい?」
「というかそう思うしか方法はないだろう! おい、そういえばあの青い瓶はどうした?」
啓太ははっと気がついて辺りを見回した。いつの間にかあれだけ散乱していた空き瓶や空き缶の類《たぐい》が綺《き》麗《れい》さっぱりなくなっていた。軽くだが掃き掃除と拭《ふ》き掃除がしてあって、勿《もち》論《ろん》あの青い瓶は影《かげ》も形もない。
「あ、え〜とえっと」
ようこが足をばたばたさせて懸命に思い出そうと努めた。
「そうだ! なでしこ! なでしこが部屋を片づけていて」
いらいらと指を額に押しつけ、
「そういえば今日は空き瓶や空き缶も捨てられる日みたいですね≠チて言ってたから、きっと他《ほか》の空き瓶や空き缶と一緒にあの瓶もゴミ捨て場へ出しちゃったんだ」
「なにいいいいい────────────!?」
啓《けい》太《た》は叫んでいる。すぐさま窓枠に飛びついてゴミ捨て場の方へ小手をかざした。
「あああああああ────────────!」
見れば今まさに道の曲がり角を曲がって、見慣れた青いゴミ収集車が消えるところだった。啓太は咄《とっ》嗟《さ》に叫んでいる。
「ようこ、あの車を追いかけろ!」
ほとんど同時にようこが床を蹴《け》っていた。
「どっち? どっち行ったの?」
「右だ! 駅前通りに出る方! しゅくちでもなんでもいいからゴミ全部かっ攫《さら》ってこい!」
「分かった!」
ようこが身を翻《ひるがえ》し、ひゅんと唸《うな》りを上げて飛んでいく。たちまちゴミ収集車を追いかけて見えなくなった。
啓太はとりあえずほっと胸を撫《な》で下ろした。
ようこのあのスピードなら間違いなく追いつけるだろう。彼女もゴミ収集車は知っているし、見失うこともまずない。
後はゴミを引っ張り出して、人海作戦だな。
啓太が覚悟を決め、ようこを追いかけるために玄関へ出ようとしたその時。
ゴミ捨て場である電信柱の横に一台の黄色いバンが止まった。啓太はなんだか胸《むな》騒《さわ》ぎに囚《とら》われて窓から身を乗り出しそちらを見ている。
バンの中から出てきたのは同色の制服に身を包んだ若い男だった。啓太はみるみる青ざめていった。
うかつだった。
「そうだ。資源ゴミと普通のゴミは違うんだ……」
吉《きち》日《じつ》市では燃えるゴミ収集車以外に資源ゴミ担当の専門回収車が回ってきて、古紙や空き缶などを集めているのだ。その若い男は黄色いプラスチックケースをどっこいしょと持ちあげ、バンの後部から搬《はん》入《にゅう》していた。
間違いない。
中に入っているのは空き缶や空き瓶の類《たぐい》である。
「まったああ─────────────────! お〜〜〜〜い、そのゴミ回収まった!」
と、啓太は声を枯らして絶叫している。しかし、若い男は全く振り返らない。よく見ると耳にイヤホンを嵌《は》めていた。
恐らく音楽でもしゃかしゃか聞いているのだろう。
「ち!」
めんどくさいとばかりに啓《けい》太《た》は窓枠に手をかけ、一気に飛び降りた。二階分の高さがあるがものともしない。すちゃっと軽やかに裸足《はだし》で地面に隆り立ち、そのまま、若い男に向かって手を振りながら駆けていった。
問題はその後に仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の死体も続いたということだ……。
啓太とずっと一緒に遺体。
その若い男。この地区の資源回収を受け持たされてまだ四ヶ月目。茶髪でロン毛。よくMDを聞きながら仕事をしているところを見つかっては上司に怒られている。
が、生来の愛《あい》嬌《きょう》の良さで乗り切っていた。
彼は、ふと顔を上げ、目を見開く。
「え?」
もの凄《すご》い形《ぎょう》相《そう》でこちらに向かって駆けてくる少年がいたのだ。短パンに裸足《はだし》で、なにやら一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、訴えていた。若い男は耳からイヤホンを外し、
「その回収まてええ!」
と、叫んでいるのを確かに聞いた。
そこまではいい。
そこまでは良かった。
異常なのは彼の後ろからのったのったやってくる奇妙な物体だった。
白い衣装に白い三角|巾《きん》。よく見る古典的な幽《ゆう》霊《れい》の恰《かっ》好《こう》である。顔は青ざめ、表情がなく、不自然に首が折れ曲がっている。
それなのにぎくしゃくと縦《たて》に揺れ動き、それに釣られて手が大きくぴょこぴょこ跳ねあがっているのだ。若い男の顔が強《こわ》張《ば》る。駆けてきた少年は彼の視線に気がついて、立ち止まっていた。それから怪《け》訝《げん》そうに背後を振り返り、
「う、うわああああああああ──────────!」
と、悲鳴を上げ、ひっくり返っていた。
そこへさも親しそうに寄りかかる、どこからどう見ても死体。
「ひ」
若い男の口から悲鳴が漏れた。
「ひいいいいいい─────────────────!」
ばたんとバンの扉が閉じて、猛烈な勢いでエンジンがかかる。啓太はそちらに向かって手を差し伸ばし、叫んでいた。
「おい! 待てよ、待てったら、こらああああ─────────!」
無表情な仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の頭をぽかりと叩《たた》き、
「あんたもあんただ!」
その間に黄色いバンは走り出している。
啓《けい》太《た》の目がぎらっと光った。
「にがさん!」
最初、少年は白《しろ》装《しょう》束《ぞく》の死体を背負ってぺたぺた走り出していた。裸足《はだし》で、鬼のような形《ぎょう》相《そう》。人間離れした脚力である。
バックミラーを覗《のぞ》いて若い男がひいひい泣き笑いを浮かべている。
アクセルを踏んでなんとしてでも振り切ろうとした。
次に啓太は放置されていた自転車に飛び乗り、仮名を荷台に乗っけた。目にも止まらぬ速さで帯を自分の腰に結わえつけ、
「飛ばすぜ!」
ペダルを勢い良く漕《こ》ぎ出す。立ち漕ぎ。立ち漕ぎ。しゃかしゃかとタイヤを回転させる。ぐ〜んとカーブでは地面すれすれを車体が擦《こす》った。
ゴムが焼け、チェーンが軋《きし》みを上げる。
加速!
さらに加速!
下り坂にさしかかり、いつしかオートバイ並の速度が出ていた。
ようやく振り切った、と思ったところでまたいきなりぬっと自転車が現れた。
「ひ」
もうほとんど妖《よう》怪《かい》である。
バンの横につけ、
「とまあれええええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
と、少年が手を伸ばしてくる。
その荷台で死体ががくがく物のように激しく揺れていた。
「ひいいいいいいいいいいい────────────!」
若い男が思いっきリハンドルを切った。
「ば、ばか」
車はスピンし、自転車を巻き込み、そのまま、近くの青果店に突っ込んでいった。啓《けい》太《た》は咄《とっ》嗟《さ》に身体《からだ》を丸め、
「なむさん!」
運を天に任せた。
啓太と仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の死体はぐるんぐるん宙を回りながら、買い物袋を持った主婦や頭の禿《は》げあがった店主の頭上を飛んでいく。
彼らは呆《あっ》気《け》にとられたように顔を上げていた。
啓太の動体視力はそれをスローモーションのように捉《とら》えていた。
あるいは走《そう》馬《ま》灯《とう》とでもいうべきものなのかもしれない。彼らに対して愛想笑いをする余裕さえあった。しかし、次の瞬《しゅん》間《かん》には時間の流れはまた元に戻って。
バナナとトマトが並べられていた場所へ砲弾のように直《ちょく》撃《げき》した。釣り銭の入った籠《かご》と段ボール箱もろとも木《こ》っ端《ぱ》微《み》塵《じん》に打ち砕く。
同時にバンが急ブレーキ音を立てて近くの発泡スチロールの山へ突っ込んでいった。
奇跡的なことにそれだけの事故だというのに、怪《け》我《が》人らしい怪我人がろくに出ていなかった。バンを運転していた若い男は胸をハンドルでぶつけて呻《うめ》いていたが、痛みよりもどうやら恐怖の感情で泣いているようだった。
前《ぜん》輪《りん》が大きく店に乗りあげるような形で、縦《たて》に傾いている。店主及び買い物中の主婦はへたんと座り込んで、腰を抜かしていた。
そこへ。
「ふう、危ないところだったぜ〜〜」
キャベツやらトマトの潰《つぶ》れたのやらを身にまとわりつかせて啓太が立ちあがった。顎《あご》の下の汁を拭《ぬぐ》って溜《ため》息《いき》をついている。彼の後ろにはだらんとした仮名史郎。その時、二人を結んでいた帯がぶつんと切れて、ずるずると前のめりに崩れ落ちた。
啓太は固まっている。
店主と主婦は物問いたげに彼を見ている。
「あ」
啓太は慌てて彼を抱えあげ、その手をぶらぶら揺らした。
「俺《おれ》ら、別に怪しいものじゃないですよ〜」
すると先ほどの衝《しょう》撃《げき》で折れたのか、仮名史郎の腕が変な位置からかくんと折れ曲がった。啓太、無言。店主と主婦も無言。
仮名の首がさらに反対側のあってはならない角度にがくんと落ちた。
「やば!」
すぐに啓《けい》太《た》は突き飛ばすようにして主婦の方へ押しやった。倒れかかってくる無表情な死体を思わず受け取って、けたたましい悲鳴を上げている主婦。
だが、啓太はそちらを見ず、道路の方へ向かって駆け出していた。
いつの間にかバンの後部ドアが完全に開いていて、空き瓶や空き缶が大量に道路にこぼれ落ちていたのだ。恐らく元々半ドアかなにかだったのが、乗りあげた拍子に思いっきり開いたのだろう。その中で紛れもない。
間違いなく例の青い瓶が道路の方へ転がり出していた。
幾つかの空き缶や空き瓶は高速で行き交う車に踏み潰《つぶ》されたり、跳ね飛ばされたりして次々と木《こ》っ端《ぱ》微《み》塵《じん》に砕けていた。
「ばかやろおおお──────! しにてえのか!」
啓太は急ブレーキをかけた車から罵《ば》声《せい》を浴びている。
それでも彼は走った。思いっきり、手を伸ばし、そして、ジャンプ。目は目的物しか見ていない。青い瓶しか見ていない。だが、ソレは指先をかすめるようにして逃れ、勢いよく反対側のガードレールにぶつかり。
無情にも砕ける。
派《は》手《で》な音を立てた。
「あああああああ────────────!」
啓太がずさっと頭からアスファルトに滑って、悲鳴を上げた。
その背後である。
「あ、あんたダメだよ!」
という叫び声が聞こえてきた。
啓太は振り返って、悟る。
啓太とずっと一緒にいたい遺体。
律《りち》儀《ぎ》にもひょこひょこ彼を追いかけ、そこへ超大型のダンプが突進してきて。
べりぐちゃめちゃぐしゃぐしゃ。
啓太、ほうっと顔を覆《おお》って呟《つぶや》いた。
「終わった……」
涙がほろりと浮かんできた。
「全《すべ》て終わってしまった」
そして、そのまま。
かっくり倒れ、意《い》識《しき》を失った……。
「こけええ〜〜〜」
世にも間延びしたニワトリの鳴き声が聞こえてくる。啓太は自分が眠りながら、熱い涙を流していたことにふと気がついて目を擦《こす》った。
「仮《かり》名《な》さん?」
子供のように呼びかけた。そして。
「あ」
歓喜のあまり大きく目を見開いていた。
そこに心配そうに覗《のぞ》き込んでくる仮名|史《し》郎《ろう》の顔を認めたからだ。
「ああ! よかった! 仮名さん、生きてたのか! よかった!」
跳ね起き、いきなり抱きついた。
「お、おい」
と、困っているコート姿の仮名史郎。
「うう、心配したんだよう、怖かったよう」
えぐえぐしゃくりあげながら、額《ひたい》を擦《こす》りつける啓《けい》太《た》。
「はは」
仮名史郎は苦笑していた。
「ケイタあ、あの車の中に瓶なかったよ……」
隣《となり》でようこももぞもぞ起きあがってくる。
「あれえ?」
ぼんやり辺りを見回して、
「なでしこは〜?」
彼女だけは何故《なぜ》かこの場にいない。ようこの問いに仮名史郎が頷《うなず》いてみせた。
「うむ。そこら辺りからが夢……いや、正確には酔い、だったのだろうな」
「え?」
啓太がびっくりしている。
「夢、じゃなかったのか? て、おい、ちょっと待て! もしかしてお前らも俺《おれ》と同じもん見ていたのか?」
「少なくても私が昨夜、これを持ってきたところまでは事実だ」
仮名史郎はテーブルの上に載っていた青い瓶を指でつついた。
「君たちにこれを見て貰《もら》ったのも確か。問題は私も少々、酒を飲んだところから始まっていたのだと思う」
「ど、どういうことだよ?」
「つまりだな、この中には間違いなく現実に酔っぱらいの精《せい》霊《れい》がいる。ただし、この精霊の特性として、酔っていなければ語りかけることが出来ず[#「酔っていなければ語りかけることが出来ず」に傍点]、また酔いの中でしかその力は発揮されない[#「また酔いの中でしかその力は発揮されない」に傍点]。そういった制約があるのだと思う。まあ、言ってみれば酔っぱらってないと出てこないランプの魔《ま》神《じん》だな」
「で、酔っぱらった幻覚しか見せられないのか?」
「そうだ」
「く、くだらねえ!」
啓《けい》太《た》は思わず立ちあがっている。
「それって要するに自前で酔っぱらってるのと大差ねえじゃねえか!」
「うん」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は面目なさそうに頭を掻《か》いた。
「考えてみたらそれだけお手軽に願いが叶《かな》うのなら、これを仕《し》舞《ま》っていた造り酒屋も潰《つぶ》れることはなかっただろうしな。いや、この瓶に魅《み》入《い》られたからこそ、酒で破滅したのか……要するに本当の意味で、ただ望みを叶えて見せる[#「見せる」に傍点]ことしか出来ないのだろう」
「だあああああ〜〜〜〜〜〜!」
啓太が髪をくしゃくしゃ掻《か》き回して、叫び出す。ようこがぷっと口元を押さえ、それから楽しげに笑い出した。
「あははは、い〜じゃない、ケイタ。なんだかよく分からないけど、ああいうのも面《おも》白《しろ》かったしさ♪」
「面白くねえよ〜。俺《おれ》がどれだけ苦労したと思ってるんだよお〜〜。ちゃりんこで全力疾走したんだぞ」
そこで彼はふとあることに思い至って仮名史郎を振り返った。
「あ、そういやさ、あんた死んでいる間、記《き》憶《おく》とか意《い》識《しき》あったの?」
「うむ」
仮名史郎は腕を組み、ふと遠くを見た。
「私はその間、神になっていた」
そう呟《つぶや》く仮名史郎になんとなく顔を見合わせる啓太とようこ。そこへぴんぽ〜んとチャイムが鳴って、同時に元気なともはねの声が聞こえてきた。
「こんにちわあ〜〜、啓太様!」
「こら、勝手にドアを開けちゃいけません」
と、窘《たしな》めているなでしこの声も続く。部屋にいた三人は黙《だま》って顔を見合わせていた。玄関の方へ出ていくと、ダッフルコートを着たともはねと相変わらず割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿のなでしこがそこに立っていた。
「な、なでしこちゃん?」
「おはようございます、啓太様」
朝の光の中、清《せい》楚《そ》な笑みを浮かべ、なでしこがぺこりと頭を下げる。
啓太はようこと仮名史郎を振り返った。二人ともこっくり頷《うなず》いてきた。その大体の意味を悟って啓太が咳《せき》払《ばら》いしてから尋ねた。
「あ、あのさ。すっごく変なこと聞くけどさ、もしかして昨日変な夢とか見なかった?」
「いいえ」
なでしこは小首を傾《かし》げる。
「何故《なぜ》、そのようなことを聞かれるのですか?」
「あ、いや、別に」
「ただ」
と、なでしこは口元を押さえ、言った。
「夢は特に見なかったのですけど、今朝《けさ》起きたら、どうしても啓《けい》太《た》様のところに天ぷらを作ってお届けしないといけないような気がしてこうしてやってきたんです」
ともはねが持っていた紙袋からタッパーを二つほど開ける。
ナタネ油の良い香りがぷんと辺りに漂った。
「ほら、あたしもお手伝いしたんですよ! お芋のてんぷらに〜、茄《な》子《す》のてんぷらに〜、えびのてんぷら、そして」
「キス」
啓太、ようこ、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が同時に呟《つぶや》いている。
「キスの天ぷら」
「な、なんで分かったんですかあ?」
ともはねがびっくり仰天していた。啓太は顔を片手で覆《おお》っている。ようこは彼におでこをくっつけくくっと喉《のど》の奥を震《ふる》わせる。仮名史郎はさもおかしそうに首を振っていた。
一《いっ》瞬《しゅん》だけ、青い瓶が朝日の煌《きらめ》めきを受けて、得意そうに輝《かがや》いたように見えた。
三人が一斉に朗らかに笑い出した。
まさに同じ頃《ころ》。
その窓の外を沢山の人が歩いていた。皆、幸せそうな微笑を浮かべていた。彼らが見やっているのは、遥《はる》か彼方《かなた》に聳《そび》える巨大な白亜の石像である。緩《ゆる》やかなトーガをまとい、逞《たくま》しい身体《からだ》で剣を大空に向けてかざしている。
拝んでいる者もいる。神《こう》々《ごう》しいその存在。
心なしか、その顔は……。
仮名史郎にとてもよく似ていた。
|夢はまだまだ続いている《酔いはまだまだ抜けていない》。
聖なる酔っぱらいたちに祝福を!
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食堂に集められた少女たちは皆、どことなく不安そうな顔をしていた。赤毛のせんだんは先ほどから一言も口を利かない。
丸テーブルに八人がせんだんを先頭に、ともはねを最後尾に序列順で座っていた。壁《かべ》時計の針がこちこちと鳴っている。せんだんは帳《ちょう》簿《ぼ》の確認に余念がない振りをしていたが、自分たちのリーダーをよく知る他《ほか》の少女たちは、それが余計な質問をさせないための単なる方便《ポーズ》にしか過ぎないことを知っていた。
「せんだん、終わりました」
ログハウスの扉が開き、外気と共に一人の少女が食堂内へと入ってきた。犬《いぬ》神《かみ》にしては珍しく眼鏡《めがね》をかけた線の細い外見だった。
「いぐさ、お疲れさま」
せんだんが顔を上げずに声をかける。いぐさと呼ばれた少女は戸惑いを隠せない表情でなにか彼女へ質問を投げかけようとしたが、その前にショートカットの美少女が無理矢理その袖《そで》を引っぱった。
「いぐさ、これどういうこと? なんかあるの?」
ひそひそ声。
いぐさは形の良い眉《まゆ》を寄せて不安そうに首を振った。
「さあ、私にもナニがなんだかさっぱり」
柔らかく、音楽的な声《こわ》音《ね》だった。
ちなみに彼女は薫《かおる》の犬神の中で序列がせんだん、とある喉件を契機に急《きゅう》躍《やく》進《しん》したなでしこに次いで三位だった。その次が序列四位のたゆねで、ショートカットの眉の太いどこか南国的な華やかさのある美少女である。
「ボクはね、お風《ふ》呂《ろ》場の掃除をさせられたんだけどこれってもしかして」
「私は予備の水着を用意して参りました」
序列三位と四位がひそひそと会話を交わし合っている間、最年少、最下位のともはねは口元を両手で押さえ、ぷぷぷっと笑っている。
彼女の隣《となり》の少女たちが口々にともはねに詰め寄った。
「ねえ、どういうこと?」
片方が言って、すぐにもう片方も、
「あんたなんか知ってるの?」
二人とも双子のように容姿がそっくりである。というか、着ている衣装も同じ素材の色違いなので恐らく本当に双子なのだろう。
ともはねは、
「ひひぇは〜い(いえな〜い)」
嬉《うれ》しそうに首を振っている。少女たちはなんとか口を割らせようと、こいつめこいつめ、と拳《こぶし》でぐりぐりしたが、ともはねはくすくす笑って黙《もく》秘《ひ》を続けていた。その隣《となり》でせんだんが小さく溜《ため》息《いき》をついている。
そこへさらに、
「お待たせしました」
食堂として使っているログハウスの扉が再び開いて、今度はワンピースに割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿のなでしこが現れた。彼女は後ろ手に扉を閉め、丸テーブルに歩み寄ってくると、せんだんの左隣に腰を下ろした。こちらは心得顔で微笑を浮かべているから、きっと何事かの事情を知っているのだろう。
せんだんもお疲れさま、と声をかけるに留《とど》めた。
これで十一個並んだ席のうち、せんだんの右隣、本来、主人である薫《かおる》が座る場所のみが空白となっていた。
せんだんはちらりとそちらを横目で見てから、帳《ちょう》簿《ぼ》をぱたんと閉じた。
その動作だけで今までひそひそやっていた少女たちがきちんと口をつぐむ。視線を自分たちのリーダーに集めた。せんだんは立ちあがる。
軽く咳《せき》払《ばら》いを一つした。
「え〜、皆さん、集まって貰《もら》ったのは他《ほか》でもありません」
その西洋人影のような美《び》貌《ぼう》を少し歪《ゆが》め、
「昨日、ご存じのように薫《かおる》様が仮《かり》名《な》様とお仕事に行かれました」
一同は頷《うなず》く。
中には明らかに不満そうな顔をしている者もいる。結果的に主人に置いてきぼりを喰《く》らっている形なのだ。
「朗報です」
ん?
と、少女たちが怪《け》訝《げん》そうにする。せんだんは続けて、
「薫様から先ほど連絡がありました。どうしてもお仕事の性質と、三人ばかり応援が今から欲しいそうです」
「え、本当ですか?」
「ボク、行きたいです! 行きたいです!」
口々にどよめき、手を上げる少女たち。薫と特命|霊《れい》的《てき》捜査官仮名史《し》郎《ろう》の仕事はどういう訳か彼ら二人っきりで行われることが多かった。その為《ため》、大多数の者がなんとか役に立ちたいと思っても、連れていって貰えていないのが現状なのである。
唯一、なでしこが最初の一回。
せんだんといぐさがそれぞれ一回ずつ同行したくらいである。希少価値があり、秘密が多い分、選ばれれば当然、自尊心もくすぐられる。一種のステータスになっている仮名史郎絡みの仕事に少女たちがはやるのも無理はなかった。
せんだんは伏し目がちになった。
「残念ながら」
その部分にやたらと力を入れ、
「薫様が要求されたのはたったの三人です。公平に、遺恨の残らない形でここは籤《くじ》で決めるべきでしょう」
そして何時《いつ》の間に用意したのか、細長い紐《ひも》を十本ばかり手の平に持って突き出した。少女たちはわっと彼女の周りに群がって、祈るように順番に籤を引いていく。
先端に赤い印がついた者が当たりで、ふりふりのエプロンドレスを着た少女が早速バンザイをしていた。眼鏡《めがね》のいぐさは外れてしまった。
残念そうに溜《ため》息《いき》をつき席に戻る途中。
せんだん以外に籤を全く引こうとしない者がいることにふと気がついた。なでしことそして最年少のともはねである。ともはねはくすくすと笑いながら口元を押さえている。
なでしこはお茶を啜《すす》りながら、黙《だま》って微笑《ほほえ》んでいた。
「……」
いぐさは小首を傾《かし》げる。
なでしこならまだいい。元々、後方支援に徹《てっ》しているやらず≠フ彼女が前線に赴きたがらない理由はなんとなく分かった。問題はともはねだった。常ならば実力も全く省みず、まず真っ先に籤《くじ》を引こうとするタイプである。ふとイヤな予感に囚《とら》われた。
この籤には何か別の裏の意味でも隠されているのではないだろうか?
その間、順当に三人が決まり、せんだんが彼女たちに指示を出している。
「いい? JRの中《なか》山《やま》温《おん》泉《せん》駅で降りて、そこからバスでホテル相《あい》原《はら》に向かいなさい。バス停で留《とめ》吉《きち》という名の猫《ねこ》又《また》が待っているはずだから、あとは彼が薫《かおる》様の指示を伝えてくれるわ」
そして茶封筒に入れた軍資金を手渡す。
受け取った白衣の少女が尋ねた。
「せんだん。飛んで行く訳にはいないのか?」
「ダメ。あなたたちは卒業旅行で遊びに来た女子高生という設定だから」
「せってい? せっていなのか?」
「そう。今回はそういうミッションらしいの。だから、ちゃんとそれらしく荷造りもして、ちやんとそれらしく振る舞《ま》ってね。あと、これだけは念を押してくれと頼まれたんだけど、たとえロビーとかで薫様や仮《かり》名《な》様とすれ違っても絶対に声をかけたりしちゃダメよ。いい?」
「わ、分かった」
三人はどぎまぎしている。実に面《おも》白《しろ》そうな仕事である。スパイめいていて、おまけに温泉にも入れるらしい。
選ばれなかった者はとても残念そうだ。
彼女たちの羨《せん》望《ぼう》の眼《まな》差《ざ》しを浴びながら、選ばれた者は早速、食堂から出ていった。意気揚々と目的地へ向かう者と消沈して中に残る者。
せんだんが再びこほんと咳《せき》払《ばら》いをした。
「で、実は話はまだ終わっていないのです」
いぐさだけが身構えている。
他《ほか》の者は不《ふ》審《しん》そうにしていた。
「まだ、なにかあるの?」
と、ショートカットのたゆねが尋ねた。
「あるのです」
せんだんは妙なアクセントになっている。ともはねがそわそわしていた。
「え〜、みんなも気がついている通り、最近、ここら一帯の霊《れい》現象が活発化しています」
「そ〜だね」
と、双子の一人が投げやりに言った。もう一人が、
「最近、事件が多いもんね」
「恐らく薫様がお留守の間もはけ様から依頼があると思われます」
「そりゃ、あるだろうね」
「そうだよ! その時こそ、きっと留守番を任されたボクらの働き時だよ!」
と、たゆねが目を輝《かがや》かせて叫ぶ。せんだんは淡々と、
「そのことを薫《かおる》様は大変、心配されております。もちろん、私たちに盤《ばん》石《じゃく》の信頼を置いてくださってはおりますが、不測の事態が起こることも充分あり得ると思われたのです」
「ありがたいよね。で、それがどうしたの?」
「また最近、街の方では不届きな男が独り身の女性宅に侵入して下着を盗んだり、覗《のぞ》きを働く事件が多発しております。そういったことも薫様は憂《うれ》いておられるのです。なにしろ、この家も薫様がいない間、睨《にら》みを利かす男性が全くなくなりますから」
「ねえ」
たゆねが眉《まゆ》を寄せる。
「らしくないよ、リーダー。一体全体、何が言いたいの?」
せんだんは目を逸《そ》らした。ほとんど同時になでしこがなにかの気《け》配《はい》に気がついて後ろを振り返っている。戸口の所へ誰か来ていた。ともはねが嬉《うれ》しそうに立ちあがりかけ、いぐさの目が恐怖に見開かれていた。
せんだんが続ける。
「つまりですね、薫様はお留守の間、私たちの面《めん》倒《どう》を見てくれと、頼まれたのです」
よりにもよって。
と、彼女が深く溜《ため》息《いき》をつき、顔を片手で覆《おお》った途《と》端《たん》。
「やっほお〜、みんな元気〜?」
ボストンバッグを抱えた川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》が満面の笑顔で姿を現した。
悲鳴が湧《わ》き起こった。
「いやあああああ─────────────!」
と、叫んでいるのはいぐさである。現れた啓太がびっくりしていた。
「な、なに?」
「む、むう〜〜〜」
せんだんが慌てて彼女の口元を塞《ふさ》ぎ、愛想笑いを浮かべている。
「け、啓太様。お早いお着きですね。なでしこかともはねをお迎えに差し上げるつもりだったのですが」
「うん」
啓太は気楽そうに頭の後ろで手を組んだ。
「いやあ〜、なんか待ちきれなくってさ。つい勝手に来ちゃった。しかし、凄《すご》いところにあるな、この家」
「わ〜い、啓《けい》太《た》様♪」
「おう、ともはね」
すてててと駆け寄ったともはねを啓太は軽々抱えあげ、肩車してやっている。そのまま、片足でくるくる周りながら、
「しっばらく宜《よろ》しくな♪」
「ずっとずっといちゃって下さい!」
きゃきゃっとしがみつき笑っているともはね。喜んでいるのは彼女くらいである。たゆねは目を見開いたまま身動き一つしないし、いぐさはまだせんだんに口元を押さえられ、む〜む〜と涙目で唸《うな》っている。
一度、手を離せば、再び壊《こわ》れた悲鳴を上げ続けること必至だろう。
せんだんは双子が鯉《こい》のようにぱくぱくと口を開け閉めしながら、身振り手振りで何事か問いかけていることに気がついて黙《もく》然《ぜん》と頷《うなず》いた。
あなたたちの気持ちはよ〜く分かる
という表情だった。
曖《あい》昧《まい》に微笑《ほほえ》んでいたなでしこが気を利かせて、
「そ、そうだ。啓太様、ちょっとこちらの台所の方へ来て頂けないでしょうか?」
と、食堂に隣《りん》接《せつ》した扉の方へ誘っている。
「なに?」
「実は冷蔵庫の位置を動かしたいのですが、どうにも力が足りなくて」
「あ、ま〜かせてま〜かせて。そういうことなら男にどんと任せなさい」
「申し訳ありません」
その間、なでしこはちらっとせんだんに目配せをした。啓太ははしゃいでいるともはねを肩に乗せたまま、台所の方へ消えた。
彼らの姿が見えなくなると同時に一斉に少女たちが喚《わめ》き出す。
「な、なに!?」
「どういうことどういうこと!」
「いやあああ──────────!」
と、また悲鳴を上げ出すいぐさ。彼女は元々、男性恐怖症のケがある。おまけにやってきたのがセクハラ大|魔《ま》王《おう》川《かわ》平《ひら》啓太なのだ。
精神が相当に追いつめられているらしい。
「いっやあ────────!」
「よしよし」
双子の一人が彼女の頭を撫《な》で、キッとせんだんを睨《にら》んだ。
「ナニ考えてるの、一体!?」
「だから、私じゃないんだってば」
せんだんも深く溜《ため》息《いき》をつく。
「私だってなんでか聞きたいわよ。でも、これは薫《かおる》様|直《じき》々《じき》の指示だし、はけ様や宗《そう》家《け》様にも了承をとってるんだって」
「だ、だって」
「とにかくね、さっきも説明したけど、覗《のぞ》きや下着泥が横行しているからその予防になるだろうって」
「その一番、危険なのを家に入れて一体どうするのよおお───────!」
少女たちが寒気を覚えたかのように肩を抱き、身を震《ふる》わせた。
「いやよ、私ぜったいいやよう」
「ボクだって」
「お風《ふ》呂《ろ》入れない」
「着替えも出来ない! どうしようどうしよう!」
「落ち着きなさい!」
せんだんがいささか呆《あき》れたように言う。
「啓《けい》太《た》様だって埋性くらいあるんたから」
「ないわよ!」
「絶対、ない!」
と、断言されている啓太。台所の方からくしゅんと小さくクシャミが聞こえてくる。彼女たちはそちらを不安と恐怖に満ちた視線で眺め、
「知ってる? あの人ストリーキングで五回捕まってるんだよ?」
彼の犯罪歴を語り出した。
「ま、まさか」
「本当だって! それに病気をカサに私たちに水着になるよう強制したし、そもそも薫様ご自身が珍しく真顔で『や〜、僕はあの人、基本的に大好きだけど君たちは、安全上二人っきりにはならない方がいいね。いや、まじめに』って言っていたくらいの人なんだよ?」
「……」
「私は」
ほとんど放心状態でいぐさがぽつりと呟《つぶや》いた。
「ご町内のヘンタイさんとはみんな顔見知りだって聞いた」
一同それを聞いてお通《つ》夜《や》のように静まり返る。せんだんの額《ひたい》にも冷や汗が浮かんでいた。彼女が強《こわ》張《ば》った笑みを浮かべ、
「と、とにかくみんな頑張って自分の身は自分で守って」
「ちょっと、リーダーあああ────────!」
一斉に抗《こう》議《ぎ》の声が上がった。そこへ啓《けい》太《た》が帰ってきた。全員、打ち合わせしたように揃《そろ》って胸元を庇《かば》い、前《まえ》屈《かが》みになる。
それは全く反射の動作だった。
きょとんとする啓太。
「ど、どしたの?」
「あ、啓太様、わたし、お茶を入れて参りますね」
ぴ〜んと張り詰めた異様な緊《きん》張《ちょう》感に居たたまれなくなってなでしこが再び台所へぱたぱた駆け戻った。ともはねは啓太と手を繋《つな》いだまま、興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに皆を見回していた。
このウラギリモノめ!
という視線が一部、飛んでいく。最初に構えを解いたのはさすがにリーダーのせんだんだった。普通に座り直し、ややぎこちなく、
「あ、いえ、なんでもありません」
他《ほか》の者は胸を隠したままだし、いぐさに至ってはほとんどテーブルの下に沈没せんばかりだ。極めて言い訳がましい。
啓太は怪《け》訝《げん》そうにしていたものの、
「ま、とにかく黛《かおる》が帰ってくるまで宜《よろ》しくな」
さっぱり笑顔になった。
「いちお〜、なんか事件があったり、問題が発生したら、俺《おれ》が薫の代わりに指揮を執ることになってるからさ、みんななかよくやろ〜ぜ」
その言葉の響《ひび》きに。
仲良くの言外の意味に。
全員、ぞ〜と肌に粟《あわ》を立てている。
「いやあ」
啓太が口元を手で押さえた。
「やっぱり可愛《かわい》い子ばかりだな、お前ら」
ぷぷっと笑う声。
その視線が値踏みをするようにねっとり一人一人へ絡まっていく。気のせいか、そのイヤらしく細まった視線は少女たちの閂《かんぬき》をこじ開け、胸元へ、さらに精神の根本へぬめり込んで汚染していくかのようだった。
ほとんどアメーバのような生《きっ》粋《すい》のセクハラ目である。いぐさの精神が恐怖に耐えかね、再び彼女が悲鳴を上げ続ける直前。
「せくはたちぇえええ────────く!」
突《とつ》如《じょ》、宙からフライパンが現れた。
ごいんと。
除夜の鐘《かね》が割れたような鈍い音と共に啓《けい》太《た》ががっくり前のめりに崩れ落ちる。ぐるんと白目を剥《む》いていた。
声にならない叫びを上げる少女たち。
そこへ。
「みんな、だいじょうぶだった?」
ふわっと床にフレアスカートのようこが降り立った。手にテフロン加工のフライパンを持っており、素足で、
「よ、ようこ、なぜ、ここが?」
と、下で呻《うめ》いている啓太をげしげし蹴《け》りつけている。
「わたしを置いていこうったってそ〜はいかないの、この! はけから全部、事情は聞いたんだから!」
「く、くそう」
無念そうに拳《こぶし》を握って震《ふる》えてる啓太。他《ほか》の皆はぽかんとしている。台所からなでしこがお盆を抱えて戻ってきて驚《おどろ》いていた。
「まあ、ようこさん」
「みんなよ〜く聞いて」
ようこが一同を見回す。
「この男はあえて黙《だま》っていたようだけど、カオルはただケイタみたいなケダモノをあなたたちの許《もと》に送り込んだ訳でないの! わたしとせっとだったの!」
「ど、どういうこと?」
せんだんが代表して尋ねる。ようこは重々しく頷《うなず》いた。
「つまりね、せくはた認定!」
「せくはた……もしかしてセクハラの意味?」
「そ、そうとも言う」
ようこはちょっと赤くなって、
「とにかくね、そのせくはた認定人がこのわたしなの! カオルはね、ケイタが暴走しないようちゃんと見張ってくれってわたしに頼んでいたの。ケイタがあなたたちにせくはたをしたと思われる場合、いつ何時でもわたしはケイタを罰して、連れ帰る権限があるの!」
どよどよと一同がざわめき出す。ようこはさらに得意そうに、
「わたしはせくはた認定人として、びしばし厳《きび》しくケイタを取り締《し》まっていく所存だから!」
「あ、あの」
今まで押し黙《だま》っていた眼鏡《めがね》のいぐさがおずおずと片手を上げた。
「どんな些《さ》細《さい》なことでもですか?」
「そう!」
「例えばえっちな目で見られたとか、えっちな言葉を投げかけられただけでも?」
と、期待に目を輝《かがや》かせるショートカットのたゆね。
「もっちろん! あなたがそう思っただけでせくはた≠ヘ成り立ちます。もうケイタのすけべに怯《おび》えることはないんです! 不当ににんじゅ〜することはありません! みんな、女の子の権利は女の子で守りましょう!」
「お、おお〜」
感心したようなどよめき。
「ことこの件に関してはこのようこ≠ヘあんたたちの一番の味方です!」
ようこが拳《こぶし》を高々と突きあげると、何時《いつ》しか割れんばかりの拍手が沸き起こっている。うんうんと涙目で頷《うなず》いている者。
隣《となり》同士で抱き合っている者もいる。
『せくはた認定人バンザイコール』が広がり出した。
つづいて薫《かおる》の思《し》慮《りょ》深さを讃《たた》える賛《さん》辞《じ》が続く。
「啓《けい》太《た》様、人気ないんですねえ〜」
膝《ひざ》を抱えたともはねがしみじみと呟《つぶや》いている。
啓太は丸まってしくしく泣いていた。
ちょうど頃《ころ》合《あ》いだったのでその場で夕御飯ということになった。
「あの、啓太様。なんと申し上げてよいやら」
せんだんがごにょごにょ口《くち》籠《ごも》っていた。
「気にするなよ〜、せんだん。別にお前のせいじゃないから、さ」
はは、と乾いた笑顔で首を振っている啓太。
「なんかさあ〜、俺《おれ》が犬《いぬ》神《かみ》に人気がないのは最初に山を駆けた頃《ころ》から知ってるし〜」
ほろっと涙を流して、
「女の子から拒否されるのももう慣れてるし〜」
そうして前に突っ伏してしくしく泣いている。その横でようこがジャガイモにフォークを刺し美味《おい》しそうに頬《ほお》張《ば》っていて、そのさらに隣《となり》でともはねがナプキンを首に巻いてぎこちない手つきでハンバーグを切っていた。
なでしこは隣の台所で鼻歌を歌いながらなにやら炒《いた》めている。
他《ほか》の犬神は一切、姿を消していた。
『みんなでご飯を食べよう』
あの後、啓太が取り繕《つくろ》うように提案していたのだ。
『いや、強制はしないけどさ。手の空《す》いてるやつだけでいいから』
そう言ったら結局ほとんど残らなかった。
めそめそと首を振って啓《けい》太《た》。
「ただ俺《おれ》も薫《かおる》みたいなことしたかっただけなのに〜」
ようことともはねは意外に仲良く色々と話している。啓太に関係なく、お菓子やゲームの話題で盛りあがっていた。
なでしこがやってきて啓太のコップに水を注いで、また朗らかな顔で料理に戻っていく。彼女たちはあんまり啓太の消沈ぶりを気にしていないようだ。
せんだんはじ〜っと彼の横顔を見つめた。
確かに顔立ちはそんなに悪くない。
だが。
「え〜ん、女の子にちやほやされたいよう」
言ってることが限りなく情けない。
せんだんは軽く溜《ため》息《いき》をつき、もう少し様《よう》子《す》を見てみようと思った。
食事を終え、啓太はようこに引っ張られ、ログハウスを出ている。その後ろからなでしことともはねも続いた。啓太たちを客間へ案内するためだ。
外は満天の星空だった。
広い敷《しき》地《ち》。
取り囲むようにして深い森が暗《くら》闇《やみ》の中、不気味にわだかまっていた。一番手前に見えるのは鐘《しょう》楼《ろう》の聳《そび》える教会である。
「実はですね、ここ元々、修道院なんです♪」
と、得意そうにともはねが胸を張った。
「しゅ〜どういん?」
ようこの問いに、
「神様に祈りを捧《ささ》げる人が住む場所ですよ」
なでしこが答えた。
「ほら、私たちが住んでいるあの建物」
教会に付随するように建っているレンガ塀の建物を指差した。
「あそこにシスターの方々が以前住んでいたのです」
「いいところですよ! 静かだし、自然は一杯だし、食堂とお風《ふ》呂《ろ》がちょっとこうして離れていて街から遠いけど」
「いやあ〜、ともはね」
啓太が白い息をこぼしながら皆笑していた。街外れの森をうねうね二時間ほども歩いてようやく辿《たど》り着いたのである。
「程度があるだろ、程度が」
下手《へた》したら遭難するくらい深い森の奥にある。
そのため、どこか異国の……例えば中世のドイツのような時代、時代めいた重苦しい雰囲気があった。
星々の眩《まばゆ》い輝《かがや》きと雪の乱反射が冬の冷気によってさらに研ぎ澄《す》まされ、一つ一つの造形がはっきりと漆《しっ》黒《こく》のべールの上に浮かびあがっている。
それ以外にも堅《けん》牢《ろう》な造りの書庫やガラス張りの温室らしき施設が敷《しき》地《ち》内に点在しているのが分かった。
なでしこは遊歩道に降り積もった雪を踏み締《し》めながら、二人を奥へ奥へと導《みちび》いた。
「それが閉《へい》鎖《さ》され、紆《う》余《よ》曲《きょく》折《せつ》を経てとある女子校の寮《りょう》になったのです。しかし、その女子寮も結局、資金難で維持できなくなって、それで薫《かおる》様が格安に購《こう》入《にゅう》されたのです」
「格安って……おいおい、ここ買ったのか?」
と、啓《けい》太《た》が驚《おどろ》き、半ば呆《あき》れている。なでしこは微笑《ほほえ》んでいた。
「そこら辺は……あ、ここからが本館です」
レンガ塀の建物の前で、
「少し寄り道をしていきましょうか?」
微笑んだ。
なでしこの部屋。
質素な造りのベッドと書き物机が窓際に置いてある他《ほか》は家具が見あたらない。小さな窓が床から高い位置に設《しつら》えられ、照明は黄色いランプの明かりのみである。ただ、アネモネやスイートピーなどの花が竹の筒に生けられ、頑丈そうな壁《かべ》のあちらこちらに掲げられているので、受ける印象はもの柔らかいものになっていた。
「よい匂《にお》いが仄《ほの》かにするにゃ〜」
と、相《そう》好《ごう》を崩して啓太が言う。ようこが咳《せき》払《ばら》いをした。
「せくはた、せくはた!」
啓太が慌てて背筋を伸ばしている。なでしこは赤面しながらドアを閉じた。
「汚くしていてごめんなさい」
ベッドの上に編《あ》みかけの毛糸の玉と編み棒が置かれていたのが印象に残った。
男物のセーターだった気がする。
ともはねの部屋。
ごちゃっとしていた。ただ、乱雑な訳ではない。きちんと整《せい》理《り》整《せい》頓《とん》は出来ているのだが、部屋にモノが多過ぎた。まずベッドと書き物机はなでしこの部屋と共通で、これは女子寮として使われていた時代のものらしい。
それ以外に棚がぐるりと壁《かべ》回りに設置されていて、そこに青白く光る石やら乾《かん》燥《そう》した食虫植物やらがガラスの小瓶に入れられ、ラベルと共に並べられている。それに乳鉢や擂《す》り粉《こ》木《ぎ》、漏《ろう》斗《と》も揃《そろ》っていた。
「あたし、お薬作るのが趣《しゅ》味《み》なんです♪」
ともはね自らが解説してくれる。
啓《けい》太《た》は前にソレでヒドイ目にあったことを思い出して、イヤそうな顔をする。
「もう一つゲームも好きなんだけど、機械を部屋におかせて貰《もら》えないんです」
少し残念そうに彼女が言う。
「テレビゲームは一日に一時間まで、が原則ですから」
なでしこがにっこり微笑《ほほえ》んで補足した。
この部屋にも花があった。
倉庫。
葛《つづら》やら木箱が所狭しと並べられている。その全《すべ》てにお札なり、呪《じゅ》言《げん》なり、魔《ま》法《ほう》陣《じん》が施され、厳《げん》重《じゅう》な封印が施されていた。
なでしこはうかつにそれらを手に取らないよう注意する。
「なに、ここ?」
と、ようこが尋ねると、
「薫《かおる》様の趣味なんです♪」
ともはねが答えた。
「あたしの趣味がお薬の創作だとすれば、薫様のソレは由緒ある呪《のろ》いの人形や魔法の道具なんかを集めることなんです」
「あんまり良い趣味じゃねえな〜」
啓太が頭をぽりぽり掻《か》く。
「この指《ゆび》輪《わ》も実はそのうちの一つで」
ともはねは自慢そうに自分の親指を示した。
「薫様が以前、とある事件で手に入れたものなんです」
「十個……いや、薫がつけているのも含めて二十個か?」
「いいえ。薫様がご自身ではめられているのはお手製のモノです。あたしたちがはめているものもあたしを含め数人のを除けば特に力はありません。他《ほか》のは同じく薫様がシルバーアクセサリーの工房に通って作ってくださったんです。元々、あたしたちが契約の時に交わしたのは色違いのペンダントだったんですから」
「なるほど」
と、啓太が言っている。なでしこはようこが好奇心を抑えかねた表情で手近の小箱に手を伸ばしているのを見て慌てて促した。
「さ、もう行きましょう」
啓《けい》太《た》とようこが興《きょう》味《み》を持ってドアを開けたがった時もあまり良い顔はしていなかった。
「薫《かおる》様はここに人が入られることを望んでおりません」
元々、修道院だけあって石造りの厳《いか》めしい壁《かベ》が両側から迫っている。通路は縦《たて》に細長く、一定の間隔を置いて並んだオーク材の扉は無《む》闇《やみ》に頑丈そうだった。歴史を経た階段は微妙に真ん中がすり減ったりしている。
ただ、この二階建ての建物は、要所要所に花が生けられたり、飾られたりしているので、不《ふ》思《し》議《ぎ》と明るく、暖かな雰囲気があった。
「そういえばさ、なんで修道院なんだ?」
と、歩きながら啓太が尋ねた。
「つうか、さっきも言いかけたけど、なんでたかだか一介のガキがこんなばかでかい敷《しき》地《ち》のオーナーになれるんだよ? 確かにあいつ出所不明の金は元々持っていたけどさ、それにしたって限度があるだろ」
その啓太の問いに、なでしことともはねは顔を見合わせくすりと笑った。
「啓太様、ここで問題です。あたしたち十人の中で一番、強いのは誰《だれ》だか分かりますか?」
ともはねが楽しそうに言ってくる。啓太は首を傾《かし》げた。
「さあ〜、せんだん、じゃないのか?」
ちらりとなでしこを見て言った。なでしこは微笑《ほほえ》みながら首を横に振る。
「たゆねです。あのショートカットの女の子ですよ」
何故《なぜ》かようこが鼻で笑っている。
露《ろ》骨《こつ》に「やれやれ。アノ程度で?」といった顔だった。ともはねがさらに言う。
「リーダーは当然せんだん姉です。でもね、啓太様。あたしたち十人の中で一番、直接的にお役に立っているのはきっといぐさ姉なんですよ」
「いぐさ?」
「誰、それ?」
啓太とようこが異口同音に問う。なでしことともはねはくすくす笑っている。
「一人だけ眼鏡《めがね》をかけた子です」
そう説明され、啓太とようこはあ〜、と声を上げた。
「あの子、いぐさって名前だったのか!」
「根暗で、一番、色気のないヤツだよね!」
ともはねの次くらいに弱っちかったよ。
と、ようこが補足している。啓太が立ち止まって尋ねた。
「え? あの子、そんなに凄《すご》いのか?」
「ええ」
なでしこが頷《うなず》く。
「なにしろ、この建物を買ったのはあの子なんですから」
その説明に啓《けい》太《た》がちょっと呆《あっ》気《け》にとられた表情になった。
なんでも世にも珍しい眼鏡《めがね》の犬《いぬ》神《かみ》いぐさ≠ノは天才的な利殖の才能があるらしい。元々はどこか内向的で、自分の意見というものをあまり持たない目立たない存在だったが、その頭脳の切れに川《かわ》平《ひら》薫《かおる》は早くから着目していた。
彼女がパソコンに興《きょう》味《み》を持っていることを知ると、即座に一式|購《こう》入《にゅう》。インターネットにも加入した。やがてその興味が科学技術や経済に移るに従って、専門の新聞を購読したり、教育的投資を施したりしていた。
それはちょっと依《え》怙《こ》贔《ひい》屓《き》にも近かったようである。
だが、その先見性が二年ほど前から爆《ばく》発《はつ》し始めた。いぐさが株を運用し出したのである。名義人は現在の住居と同様あくまで薫の祖母だが、その指示はいぐさが出していた。
彼女の読みは空恐ろしいくらいに当たった。
瞬《またた》く間に増えていく薫の資産。
薫は笑いながら、いぐさのしたいようにさせていた。
彼自身は淡泊なものだったが。
ある日、新しい住居を探すことになって何気なくいぐさに尋ねた。
『ねえ、みんなにも聞いてるんだけど、何かリクエストがあったら言ってよ』
『そ、そんな……私は何も別に』
『ううん。言ってみて』
にっこりと微笑《ほほえ》む薫にいぐさは頬《ほお》を染め、小さな声で答えた。
『じゃ、じゃあ、我が儘《まま》を言わせて頂ければ、どこか静かなところが嬉《うれ》しいです』
そこで薫が頷いて、連れていった先がここだった。
いぐさは目を回した。
「実際はこの場所の前身である女子|寮《りょう》のオーナーが破産され、それを薫様が見かねたという経《けい》緯《い》があったんです」
なでしこが説明を続けた。
「そのオーナーとはとある事件でお知り合いになったのですが、ここはもの凄く辺《へん》鄙《ぴ》で建物も古いから他《ほか》に買い手が見つからなくて、それで薫様は購入を決意されたみたいなんです。死神は祓《はら》ったのに、また一家心中でもされたら困るって仰《おっしゃ》って」
「しかし、やることがえらく豪快だな」
啓《けい》太《た》が呆《あき》れたように言っている。なでしこが苦笑気味に頷いた。
「あの方はお金に恬《てん》淡《たん》ですが、使うときはいつも凄《すご》い使い方をするんです。まるでわたしたちがびっくりするのを見て楽しんでいるみたい」
「しかし、羨《うらや》ましいよ、ホント」
啓太が肩を落として溜《ため》息《いき》をっく。
「俺《おれ》もいぐさやなでしこちゃんみたいに可愛《かわい》くて、役に立つ犬《いぬ》神《かみ》が欲しい。いるのは訳の分からないケモノが一匹だけだからな〜」
ぽかりと無言で啓太の頭を叩《たた》くようこ。それから小首を傾《かし》げた。
「そういえばさ、肝心のカオルの部屋って一体どこにあるの?」
するとともはねがどういう訳だか怖い表情になった。
声を潜《ひそ》め、そっと辺りを見回してから囁《ささや》く。
「それが最大の謎《なぞ》なんです」
「は?」
「どういうこと?」
と、啓太とようこ。ともはねは指を立て、秘密めかして、
「薫《かおる》様がこの敷《しき》地《ち》内で寝起きしていることだけは確かなんです。夜になるとその階段を上がって必ず二階へ行きますから。でも、薫様の正確な寝場所は、実は誰《だれ》も知らないんです。あたしも何度か口実を作って薫様の後を追いかけたりしたんですが、いつの間にか見失ってしまって……薫様自体は楽しそうなハミングが地下の納骨堂から聞こえてきたり、薄《うす》ぼんやりと尖《せん》塔《とう》の上に立っているのが夜半|目《もく》撃《げき》されたり」
「ええ、まあ」
曖《あい》昧《まい》な表情でなでしこが頷《うなず》いている。ともはねがさらに続けた。
「大まかに分けてこの建物のどこかに秘密の隠し部屋があるんだという説と、教会の地下に抜け穴があるんだという説、それからそもそも薫様は寝ないんだという説とか、異次元に消える説とか、色々あります」
「幽《ゆう》霊《れい》みたいなやっちゃな」
「というか、素でそ〜とう変なヤツだよね」
なでしこがちょっと頬《ほお》を染め、先頭に立った。
「さ、さあここが啓太様とようこさんのお部屋ですよ」
なにかを取り繕《つくろ》うような口調だった。
客間は十五畳ほどだった。
だだっ広い空間にベッドと少し大きめの丸テーブルがぽつんと中央に置いてある。天《てん》井《じょう》も高いので少し肌寒い感じがした。だが、壁《かべ》際《ぎわ》にずらりと並んだ目にも鮮《あざ》やかな胡《こ》蝶《ちょう》蘭《らん》の存在がそれを和らげていた。
仄《ほの》かに甘い香りが部屋中に広がり、見ているだけで心が暖かくなってくる。他《ほか》にもグミやブルーベリーやフェイジアがたわわに実った植木鉢もある。どうやら泊まりに来たお客さんがそれを摘《つま》んで適当に賞《しょう》味《み》できる趣《しゅ》向《こう》になっているらしい。
「なかなかお洒落《しゃれ》じゃない」
ようこがブルーベリーの青い実を口の中に放り込んでもぐもぐ言った。花や果物の香りに包まれて眠ることも可能なようだ。
「ハーブティーがテーブルの上に置いてありますから、お休み前にどうぞ」
なでしこが微笑《ほほえ》んだ。啓《けい》太《た》はひゅ〜と口笛を吹くと、ベッドの上に飛び込む。
「ん〜、洗い立ての匂《にお》いだにゃ〜」
う〜んと手足を伸ばしてごろごろ転がった。それから、急に流し目になり、肘《ひじ》をついて横たわるともう片方の手の指をくいくいと色っぽく差し招いた。
「なでしこちゃん、かもん」
「それは」
なでしこは困ったような笑顔になる。
「わたしにそこへ添い寝しろ、というご命令ですか?」
「せくはた、せくはた」
ようこが咳《せき》払《ばら》いをしている。啓太は慌てて背筋を伸ばし。正座になった。くすっと笑うなでしこ。そこへたたたたと軽やかな足音が聞こえてきて、開けっ放しのドアからひょっこりともはねが飛び込んできた。
「啓太様、ゲーム取ってきました♪」
ともはねはベッドの上にヨジヨジよじ登ってくると、手に持った銀色のゲーム機を啓太に突きつけ、明るく言い放った。
「さ、とっても面《おも》白《しろ》いんですよ〜」
「こ、こら、いけません!」
なでしこが慌てて窘《たしな》めた。啓太は鷹《おう》揚《よう》に手を振る。
「あ〜、いいよ、いいよ。俺《おれ》、ゲーム好きだし。遊ぼうぜ、ともはね」
「やった〜♪」
と、諸《もろ》手《て》をあげるともはね。ソケットに差し込まれているソフトは、潜《せん》水《すい》艇が超深海で巨大な謎《なぞ》の古代魚を倒していくというものだった。
「最近はでも、あんまやってないからな。腕落ちてると思うぞ」
啓太は本体を受け取り、電源を入れた。勇壮なテーマ音楽が流れ始める。ともはねはわくわくとした表情で啓太の腕の中に潜《もぐ》り込み、その膝《ひざ》の上に小さなお尻《しり》を据えた。
特等席だ。
「ふ〜ん」
ようこは啓《けい》太《た》の右側からその手元を覗《のぞ》き込む。
なでしこは微笑《ほほえ》み、
「じゃあ、ちょっとの間だけですよ」
そう注意してから、きちんと膝《ひざ》の上に手を置き、啓太の左側に陣取った。ともはねが真ん中、ようこが右、なでしこが左にいるポジションで、
「うっしゃ〜!」
啓太がガッツポーズを取った。早速、ゲームにのめり込んでいる。
同時刻。
不《ふ》穏《おん》な気《け》配《はい》が密《ひそ》かに女の園に忍び寄りつつあった。森の小《こ》径《みち》を抜け、鉄《てつ》柵《さく》に囲まれた正門を見上げている。
その上にぽっかり黄色い月。
「よいご首尾を」
影《かげ》の一つが言った。
「おまえもな」
もう一つの影が答える。
散。
そして、もうたちどころにどこにもいない。
ひゅるりと風が吹き抜けた。
その遥《はる》か上空。
まあるい月を横切るようにふわふわと不定型で半透明な靄《もや》のようなものが流れていた。それは喩《たと》えていうなら固形化しつつある豆乳のようなもので、時折、触手を伸ばしながら、おろろ〜んと鳴いている。
元々いたのは薄《うす》暗《ぐら》い森の奥である。
近くに赤い大きな鳥居があった。
その向こうは犬《いぬ》神《かみ》、と呼ばれる者たちの里であったが、靄は知らなかった。ただ最近、濃《こ》さを増しつつある邪《じゃ》気《き》に突然、身体《からだ》が溢《あふ》れ、ある日ふと気がついたら大風に乗せられ、上空に舞《ま》いあがっていた。
だが、その邪《じゃ》霊《れい》とか、雑霊とか呼ばれる存在にとっては別にどうでもいいことだった。おろろ〜んと鳴いて、考えもなくたゆたっている。
北西から、南東へ流れる大気に乗ってここまで来て、今、落下傘のようにゆらりゆらりと舞い落ちつつある。
そろそろお腹《なか》が減っていた……。
「啓《けい》太《た》様、やっぱり上《じょう》手《ず》ですね〜」
ゲームが進行していくに従ってともはねが感嘆したような声を上げる。
「へへ〜、ま、な〜」
と、啓太が得意そうに答えた。
「このゲーム、初めてですよね?」
という問いに、
「んだよ。お、なんかしらんがこの大ダコ、爆《ばく》弾《だん》ばらまいてきやがったな……へへ、あまいあまい」
啓太は軽やかに指で捌《さば》いた。ともはねは尊敬の眼《まな》差《ざ》しになった。
「それに薫《かおる》様とやり方がとてもよく似てる。そうやってわざと装甲の薄《うす》い機体を選んで、敵の中《ちゅう》枢《すう》に突っ込んでいくところなんかそっくりです」
「元々、あいつにゲームの存在を教えてやったの俺《おれ》だかんな」
その言葉になでしこが反応を示した。
「薫様とは昔から遊ばれていたのですか?」
はにかむような上目遣いになっていた。ようこは無言で画面に見入っている。その瞳《ひとみ》が画面のスクロールと共に忙《せわ》しなく左右に動いていた。
「ん〜、そうでもない」
啓太は小首を傾《かし》げる。
「俺もあいつを知ったのって実はお前らと大差ないんだよねえ〜。知ってるだろう? あいつの親《おや》父《じ》……つまり俺の叔《お》父《じ》貴はさ、川《かわ》平《ひら》家から出《しゅっ》奔《ぽん》してオカルトカメラマンやって世界中回ってたんだよ。ある日、あいつの親父が行方《ゆくえ》不明になっちゃってさ、あいつたった一人で当時、イタリアかどこかの小学校から日本に戻ってきたわけだよ。で、この時点で川平家には薫なんていうデータはなかったから、親《しん》戚《せき》一同びっくり。なにしろ、俺しかいなかったからな、本家直系の血筋」
「いなかったんだ?」
「いなかったの。だから、結構、俺もその頃《ころ》はちやほやされてたの。まあ、婆《ばあ》ちゃんだけは手紙とかで子供が生まれたことは知っていたみたいだけど……で、いきなり、そこへどこからかちっこいガキが帰ってきたの。ちなみにあいつ実は本名も、年《ねん》齢《れい》も、母親が誰《だれ》なのかもぜ〜んぶ自己申告なんだよね。ところが、この正体不明のがきんちょの霊《れい》力《りょく》を試してみたら」
「どれくらい?」
と、ようこ。
「う」
啓《けい》太《た》は指を動かしながらちょっとイヤそうに、
「俺《おれ》のざっと二倍以上。漬け物石を割る簡《かん》単《たん》な試《し》験《けん》なんだけどな。婆《ばあ》ちゃんとほとんど同じくらいかな? で、当然、川《かわ》平《ひら》家……というか、ここら近辺の霊《れい》能《のう》者では匹敵する者がいないくらいダントツのトップ」
ようこはふ〜んと感心している。
なでしこはにこにこ緩《ゆる》む頬《ほお》を押さえた。
「さっすが薫《かおる》様♪」
啓太はちらっとなでしこを見る。
「……みょ〜に嬉《うれ》しそうだね?」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「いや、いいんだけどさ」
啓太は軽く溜《ため》息《いき》をつき、また画面に視線を戻した。
「とにかく薫は品性もあるし、受け答えもしっかりしてるし、顔は可愛《かわい》いし、こりゃ文句なしということで親《しん》戚《せき》一同が来て早速、未来の宗《そう》家《け》候補にしちゃったの。お陰で俺は用なし。おまけにちょうどその頃《ころ》、俺はお前らの山へ入って、犬《いぬ》神《かみ》使い初のゼロだろ? で、その半年後に東《とう》山《さん》で修行を終えた薫がこれまた百年ぶりの十人使い。結局、俺はまあ、川平にいられなくなったんだよん」
「け、けいたさまにもその、あのいいところありますよ!」
ともはねがあたふたと指を立てる。啓太は、
「はは、別にフォローしてくれなくていい、よっと」
最後のボタンを押した。その瞬《しゅん》間《かん》、荘《そう》厳《ごん》なテーマ曲と共に「I STILL LOVE YOU」という英語の歌が流れ出した。ゲームをクリアしたのだ。彼はゲーム機をベッドの上に放り投げ、振り返る。
瞳《ひとみ》に軽めの、楽しげな光を浮かべ、
「今はもうこいつがいるしな」
ようこの髪をくしゃくしゃ掻《か》き回した。目を白黒させているようこ。にっと笑う啓太。なでしこは手を組み合わせ、優《やさ》しく微笑《ほほえ》んだ。
「それに」
と、彼がなにか言いかけた時、戸口の方から声がかかった。
「お話中申し訳ありません、啓太様。お風《ふ》呂《ろ》の用意が出来ました。如何《いかが》でしょう?」
「ん? 風呂?」
啓太は問い返す。せんだんがにこやかに頷《うなず》いた。
「ええ。薫様の伝言で、是《ぜ》非《ひ》、うちの自慢を試してみて欲しいと」
すると、
「うちのお風《ふ》呂《ろ》はサイコ〜です!」
ともはねが我が意を得たりとばかり思いっきりバンザイした。
そこはガラス張りのかなり大きな温室だった。熱帯の花や果物がところ狭しと植えられ、ちょっとしたジャングルのようになっている。中央には彫り込み式の湯船があって、白いライオンの彫像がそこへ絶え間なくお湯を吐き出していた。
「温泉を引き込んでいるんですよ」
と、案内してきたなでしこがそう説明している。
「その熱を利用していまりとさよかの双子が植物を育てているんです!」
と、元気よくともはね。
驚《おどろ》いたことに辺りの樹《じゅ》木《もく》には目に眩《まばゆ》い原色のインコが数羽止まって鳴いており、青いトルコ石が敷《し》き詰められた洗い場では大きなリクガメがのっそりと歩いていた。恐らくここで飼っているのだろう。ガラスの一歩外では薄《うす》暗《ぐら》い雪景色が広がっているのに、ここはまさしく南国の楽園だった。
たわわに実った果実をもいで囓《かじ》りながら、お風呂に浸《つ》かるも良し。
そばに設置されているクーラーボックスから冷たい清涼飲料水を取り出し、漂う湯気の向こうに広がる夜空を見上げるも良し。
色々な楽しみ方が出来るらしい。
「すっごいねえ〜……」
ようこが感嘆して辺りを見回した。
「あ、着替えはこの隣《となり》の更衣室でお願いしますね」
なでしこが注意していた。
啓《けい》太《た》の目がちょっと不《ふ》穏《おん》に輝《かがや》いた。
「も、もしかしてなでしこちゃんも一緒に入るとか?」
なでしこはぴたりと動きを止める。ようこがにっと笑って顔を上げた。
「な、な〜んて言わないぞ、俺《おれ》は絶対! うん、セクハラだもんな、それは」
啓太は慌てて手を振って否定した。
「そうね」
ようこは少し悪戯《いたずら》っぽく微笑《ほほえ》んだ。
「場合によっては認めてあげなくもないけど?」
その頃《ころ》、啓太のいる温室へ密《ひそ》かに近づいている影《かげ》が三つあった。外から見ると星空の下、熱帯雨林の木々が黄色い光と湯気に包まれてくっきりと琥《こ》珀《はく》のように浮かびあがっており、夢のような、非合埋的な雰囲気さえある。
なんとなく狐《きつね》に化かされたような湯の音。湯の匂《にお》い。
トロピカルな鳥の鳴き声。
「ほ、ほんとうにこんな恰《かっ》好《こう》をしなくちゃダメかな?」
ガラス戸のところでショートカットの美少女が頬《ほお》を染め、振り返った。
彼女は男物の法《はっ》被《ぴ》姿だった。素足に雪《せっ》駄《た》を履《は》き、頭には捻《ねじ》り鉢巻きを巻いている。なんとなくこれからお祭りにでも出かけるようないなせな恰好である。きりっとした目元と華《きゃ》奢《しゃ》な首筋が独特の爽《さわ》やかな色気を放っていた。
「うん。ばっちぐ〜」
双子が両方同時に親指を立てた。
「でもね」
にやりと顔を見合わせて笑うと。
「これでもっと完《かん》璧《ぺき》」
左右から目にも止まらぬ速さで指を伸ばし、ショートカットの少女の前をはだけさせる。
「きゃ!」
サラシを巻いた意外に豊満な胸元がぽろりと外気にこぼれ落ちた。
「川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》もこれできっと我慢できずに襲《おそ》いかかってくるから!」
「うう、なんかやだよ〜」
胸を掻《か》き抱き、ちょっと涙目になっているショートカットのたゆね。他の二人はワンピースの水着姿だった。一人がパイナップルの柄。
もう一人がハイビスカスの花柄。どっちもどちらかというとスリムな体型で、灰色の髪をそれぞれ左右に片結びしている。
二人とも腰に手を当て、窘《たしな》めるように言った。
「ダメだよ、たゆね。恥ずかしがってちゃ」
「そ〜そ〜。胸張っていこ〜、胸張って! 立派なもの持ってるんだから。ちくしょう、憎いぞ、こいつめ」
「で、でもこれはいささかサービス過剰なんじゃないかなあ?」
前《まえ》屈《かが》みで恥ずかしがっているたゆねを少女二人は左右から引っ張りあげる。
「今時アイドルだって際どく脱ぐ時代に、なに言ってるの! きちっと川平啓太にはセクハラして貰《もら》わないとあいつを追い出せないでしょ?」
「そ〜そ〜。大体、この『お客様、お背中流しましょ&あ〜れ、ご無体な』作戦を思いついたのはたゆねなんだから!」
「そ、それはそうだけど……というか、ボクはそんな変な作戦名は考えてないよ!」
「いいからいいから」
「さ、いこ」
そして、三人は温室に踏み込んでいった。
踏み込んでいってまず三人は目を丸くする。既に先客がいたのだ。薄《うす》青い浴衣《ゆかた》姿。優《ゆう》美《び》に長い足を組んだ自分たちのリーダー、せんだんが木にもたれていた。洋装の似合う涼やかな顔立ちに裾《すそ》をはしょった浴衣が少しミスマッチになっている。
かなり艶《あで》やかな姿だ。
所在なげに腕を組んでいた。
「り、りーだー?」
たゆねが困惑したように問いかけた。せんだんが振り返り、目を細めた。
「なんだ……あなたたち来たの?」
「来たのって! リーダーこそ、ここでなにやってるのさ?」
「私はね……ん〜、啓《けい》太《た》様のお背中を流そうと思って」
「!」
三人はびっくりしている。せんだんは苦笑した。
「まあ、とにかく、本当はちょっと様《よう》子《す》を見てみたかったんだけど、無理そうね。ほら」
と、彼女が指差した先に清《せい》楚《そ》なワンピースのなでしこがいた。
そしてさらに生意気なセパレーツのともはね。
パレオを巻いたようこ。
皆、水着でとある場所を見て苦笑したり、笑ったりしている。その中心で川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》がアイマスクで目隠しされた上、後ろ手に縛《しば》られていた。
「うおおおお─────! 湯の香り! なでしこちゃんの手洗い! ほんのり赤みを帯びた白い肌ああああ─────!」
啓太はカラフルな短パンを穿《は》き、青いトルコ石のタイルの上で罪人のように正座していた。
ばっしゃあ〜。
頭からお湯をかけられる。
「あちい────────────!」
と、悲鳴を上げる啓太。ようこが冷ややかに言った。
「全く、そんなことが許されると本気で思ってたのかしら……いい? ちょっとでもその目隠しをとったら即座にせくはた認定で地上千メートルにしゅくちして、命綱なしですかいだいびんぐさせるからね!」
「うう、そんな殺《せっ》生《しょう》な……なでしこちゃん、なでしこちゃん。ここまで来て君の柔《やわ》肌《はだ》が拝めないなんてそんなの哀《かな》しすぎるよう〜」
啓太が泣き声を上げながら、首をきょときょとさせる。
なでしこは困ったように苦笑していた。ともはねが悪戯《いたずら》っぽく、指先でちょんちょんと啓太の背中を突ついた。
その瞬《しゅん》間《かん》。
「い、今のアダルトなたっちはなでしこちゃんだな?」
「ぶぶ〜。あたしでした♪」
「お子様は去れ!」
ようこがそれを見て、
「……」
物も言わず、自分の胸をぺとっと彼の背中に押しつける。
「は、はう。な、なでしこちゃあ〜ん」
啓太がへなへな〜と力の抜けた声を出す。
「わ、た、し♪」
「く! 俺《おれ》の純情を弄《もてあそ》んだな!」
本気で泣いている啓太。ようこは自分の胸を見下ろし、
「へえ〜。最近、やっぱりわたし気のせいじゃなくって大きくなってるんだ。ケイタがなでしこと間違うくらい」
「ち、ちが〜〜〜〜う! なでしこちゃんはスイカ! お前のはせいぜいグレープフルーツだ!」
なでしこが真っ赤になっている。ようこは思いっきり啓《けい》太《た》の耳を引っ張りあげた。
「そんなに一人で冷たいお空を飛びたい?」
「ひででででで」
ともはねがくすくす笑いながら近くを歩いていたリクガメを取りあげ、それを啓太の背中に押し当てた。
無表情にぺろっと赤い舌で舐《な》めるリクガメ。
「え? 今の?」
ぺろぺろ。
「あ、あう。ざ、ざらざらしてるよ? だれ? だれ?」
なでしこもようこも笑いを堪《こら》えるのに懸《けん》命《めい》だ。
「亀《かめ》でした♪」
「クイズやってるんじゃねえんだぞ、バカ!」
啓太が喚《わめ》いている。
とうとうなでしこもようこも噴《ふ》き出した。それを遠くからぽか〜んと脱力して見ていた一同は、引き攣《つ》った笑いでせんだんを振り返った。
「ほ、本気の本気でバカなのかしら?」
せんだんは腕を組み、苦笑した。
「う〜ん」
啓太が完全に封じられているのを見て取って、せんだん及びたゆねも更衣室のロッカーで水着に着替えた。
薫《かおる》にトリミングやシャンプーして貰《もら》う際には水着を着用するので、基本的に全員分、常備してあるのだった。
ちなみに啓太が穿《は》いているのは自前のものである。
「あっれえ、せんだん」
湯船に浸《つ》かって髪を結《ゆ》い上げていたようこが声を上げた。
「な、なに?」
啓太がきょろきょろと首を巡らした。
「それにみんな……」
と、青いタイルに腰を落とし、足だけお湯につけていたなでしこも呟《つぶや》いている
「お邪《じゃ》魔《ま》するわよ」
せんだんが微笑《ほほえ》んだ。
「み、みんなって?」
その焦りを帯びた啓《けい》太《た》の問いにようこが、
「う〜ん、せんだん、たゆねにあと双子がいる。たゆねはなでしこほどじゃないけど、胸おっきいよ」
「余計なこと言うな!」
たゆねが真っ赤になって胸元を押さえた。ようこが続けて、
「双子も可愛《かわい》いねえ〜」
「ち、ちくそう」
啓太ががっくり前のめりに倒れた。
「それを拝めないなんてカワヒラケイタ一生の不覚……」
しくしくと泣きながら、完全に動かなくなる。ともはねがしゃがみ込んで、つんつんとその頭を指で突いた。
「ま、あなたとちょっと親《しん》睦《ぼく》を深めたくてね。皮肉でなくてね?」
せんだんが優《ゆう》美《び》にようこに笑いかける。ようこはふ〜んと目を細めた。
「殊《しゅ》勝《しょう》なことで」
「ねえねえ、たゆね。別に私たちまで入ることなかったんじゃないの?」
と、双子の片割れがひそひそ声で囁《ささや》いている。
「なんか縛《しば》られてるし、あれじゃあ、どうにも出来ないよ?」
もう一人も顔を近づけてくる。たゆねは頷《うなず》いた。
「うん。でも、もしかしたらそのうちチャンスがあるかもしれないから」
三人とも湯船の一角からタイルの上を見上げた。
「は〜い、啓太様、気持ちいいですか?」
わしわしとシャンプーで啓太の頭を泡立てながらともはねが小首を傾《かし》げた。さすがにこの状態では自分の身体《からだ》を洗うことも出来ないので、ともはねが洗い役を買って出たのだ。その姿はどちらかというと自分のペットにトリミングを施している無邪気な少女、と言った図である。なでしこがその背後でにこにこしながら見守っていた。
「うう、ともはね。お前、いい子だな〜」
啓太、感涙。
ともはねが啓太の頭を洗い終え、ぱしゃあっとお湯をかけた。
啓太は犬のようにぶるぶると身を振るって、飛沫《しぶき》を飛ばした。そして思い出したように急に声を上げた。
「あ〜、そうそう。双子、双子! お前ら、いまりとさよかって言うんだろ?」
「え?」
と、パイナップル柄とハイビスカス柄の水着の少女が声を揃《そろ》える。いきなり名前を呼ばれて驚《おどろ》いたようだ。
啓《けい》太《た》が目隠しの下の口元でにっと笑った。
「さっきともはねに聞いたんだけどさ。この温室を管理したり、植物を育ててるのってお前ら二人なんだってな?」
「え、ええ」
パイナップル柄が曖《あい》昧《まい》に頷《うなず》く。ハイビスカス柄も、
「まあ、そうですが」
「大したもんだな」
いつの間にかともはねは洗う手を止めていた。せんだんとようこはお喋《しゃべ》りを中断し、なでしこも黙《だま》って彼を見ている。
その中で、一人、啓太は全く気がついておらず、
「いや、実際、人間でもこう上手《うま》く園芸出来るヤツはあんまいないだろう? いぐさといい、お前らといい、俺《おれ》は犬《いぬ》神《かみ》なんて戦ったり、家事をするだけの存在だと思っていたけど、薫《かおる》はお前ら十人の個性をしっかり見抜いてちゃんとそれを育てている。正直、今日、この家に来て驚いたよ」
「え、あ、はい」
「二人でいつも一緒に作業してるのか?」
「えっと、どちらかというと私、いまりが花担当で、隣《となり》のさよかが果物好きなんですよ」
「どっちも大したものだな」
啓太が見当違いの方を振り返ってにっと笑いかけた。二人は照れていた。
「い、いやあ〜」
「お恥ずかしい限りです。まだまだ園芸は奥が深くて」
そこでたゆねがはっと我に返って二人を肘《ひじ》で突いていた。普通に会話してどうするの、という怒った顔つきだった。
せんだんが興《きょう》味《み》深そうに目を細めている。
なでしこが微笑《ほほえ》んだ。ようこが目を伏せ、お湯を掻《か》き回し、ともはねが再び石けんを手に取ったその途《と》端《たん》。
少し和《なご》んだ空気が一気に破《は》壊《かい》された。
「た、大変です!」
それは重く古びたコートを羽《は》織《お》った眼鏡《めがね》のいぐさだった。
息を切らし、温室の中に飛び込んできて叫ぶ。
「下着が」
「え?」
「下着が、家中の下着が全部、盗まれました!」
そして、また視線が一気に啓《けい》太《た》に集中した。
この上なく冷やかに。
「ちょ、ちょっと待って! 落ち着いて前後関係を話しなさい!」
最初に冷静になったのはやはり赤毛のせんだんだった。薄《うす》い胸元に手を当て、大きく肩を上下させているいぐさを諭《さと》した。
「どこで、一体なにがあったの?」
その間、少女たちがゆっくり啓太に詰め寄っている。その無言の圧迫感を受けて啓太は目隠しをしたまま、
「え? え?」
首をきょときょと振っていた。
「私はランドリールームに用があって行ったんですけど」
いぐさは涙目で啓太をちらっと見た。
「今朝《けさ》、洗《せん》濯《たく》紐《ひも》に干していたみんなの下着が一枚もなくなっていたんです」
「ケイタあああ────────!」
「ちょ、ちよっと待って!」
「それで慌ててワードローブに戻ったら私の仕《し》舞《ま》っておいたのもなくて……失礼だけどせんだんやたゆねのも調べたけどやっぱりなくて」
「白状しなさい! どうやって取ったの!?」
ようこに胸ぐらを掴まれている。
「どうやってって……」
「とぼけるな!」
「でも、ようこさん」
なでしこが困惑したように呟《つぶや》いていた。
「啓太様はずっとわたしたちと一緒にいましたけど?」
「そんなことなんの証拠にもならない! わたしは恥ずかしいよ、ケイタ!」
「俺《おれ》の方が訳分からんわ!」
「あ、そうだ」
ぽんといぐさが手を叩《たた》いた。
「ですけどね、どういう訳かともはねのだけはしっかり畳んで残っていたんです」
ようこ。なでしこ。せんだん。ともはね。いまり。さよか。いぐさ。たゆね。人並み外れた八人の美少女たちがじっと啓太を見ている。
「だから、俺《おれ》じゃねえってのに!」
と、啓《けい》太《た》が後ろ手に縛《しば》られたまま、立ちあがる。
彼がえん罪を晴らそうと躍《やっ》気《き》になって口を開きかけたまさにその時。
「俺は蕾《つぼみ》には手を出さねえ」
そんな渋いいぶし銀の声が聞こえてきた。ゆらりと影《かげ》がシュロの木の背後から現れた。着流しの着物。雪《せっ》駄《た》。白いモノの混じった髪を五分|刈《が》りにしている。さながら時代|劇《げき》に出てくるいなせな職《しょく》人《にん》のような出《い》で立ちだった。
「あ」
ようこがまずかっくんと口を開けた。その男に見覚えがあったからだ。続けて他《ほか》の少女たちも完全なジト目になる。
いぐさに至っては卒倒しそうだった。
「おう」
その男が驚《おどろ》いたように言っている。
「なんだ、ここはてめえのシマか」
啓太を見ていた。啓太はぶるぶると震《ふる》え始めていた。
「ま、まさかその声、お前」
「ならば、話は早い。あのな、俺はドクトルとここへ来たんだが、今そこで」
当人は溢《あふ》れんばかりに下着が詰まった風《ふ》呂《ろ》敷《しき》を担いでおり、あまつさえ頭からは白いパンツを被《かぶ》り、胸には黒のブラジャーをしっかり身に着けていた。紛れもない、完《かん》璧《ぺき》な、純度100%のヘンタイである。
背後を指差し、とてつもなく大《おお》真《ま》面《じ》目《め》な顔で、
「すっごく妖《あや》しいヤツを見かけたぞ?」
少女たちはとりあえず無言で突っ込みを入れることにした。
いぐさ、なでしこ、ともはね、せんだんが加わらず、主にようこ、たゆね、いまり、さよかの四人がボディだ、フックだ、チンだとタコ殴りにしている。
「ちょ、ちょっと!」
その男。『親方』と名乗る歴戦の下着泥は必死で手を上げ、防戦し、叫んだ。
「俺はあくまで警《けい》告《こく》に来たんだって!」
だが、声がげしげしと蹴《け》られるキック音に紛れて届かない。
「お、おい、『裸《ら》王《おう》』助けてくれ!」
「人に勝手な二つ名つけるな!」
と、啓《けい》太《た》。少女たちは無言で打《ちょう》擲《ちゃく》をエスカレートさせていって、その場にある手当たり次第のもので親方をぶっ叩《たた》いていった。
置き石、植木鉢、何故《なぜ》かブロンズ像。
めきぐしゃばき。
何かが砕けるような音がした後、
「ふう」
と、いまりが額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》った。
「うう、もうこれ着れないよう」
たゆねが取り戻したスポーツブラを手にとって呟《つぶや》いていた。そのそばで親方は手と足がそれぞれ干物みたいに変な方向にねじ曲がっていた。口からぶくぶく泡を吹いて、目が完全な白目だ。ようこはキッと周囲を見回した。
「みんな、こいつがいるということはもっと厄《やっ》介《かい》なヤツもいるということよ!」
「……どういうこと?」
せんだんが目を細める。
「こいつはね、ヘンタイ集団の一員なの! 他《ほか》にも覗《のぞ》き魔《ま》とか、痴《ち》漢《かん》とか、女の敵が山ほどいるのよ!」
「啓太様とは?」
「いちお〜関係ないんだけどね」
「全面的にねえよ!」
「とにかくまだ仲間がいるんだね? 許せない! 絶対、探し出してバター塗って火あぶりにしてやる!」
と、憤《ふん》慨《がい》している双子。せんだんが思《し》慮《りょ》深く頷《うなず》いた。
「なんにしても警《けい》戒《かい》した方が良さそうね」
「当然!」
せんだんは落ち着いた眼《まな》差《ざ》しで一同を見回した。
「まず水着は良くないわ。相手をただ喜ばせるだけでしょうから、とにかく着替えましょう。いぐさ」
彼女に命じる。
「あなたはここで啓太様と見張っていて。私たちはまとめて着替えてくる」
「え?」
「大丈夫。すぐに戻るから」
「そ、そんな」
「警戒しながら着替えないといけないのよ。だから、お願い」
そしてせんだんは皆を率先して隣《となり》の更衣室の方へと向かった。凛《りん》とした表情である。女の敵に対して意外に不安そうな様《よう》子《す》のたゆね。彼女はせんだんの後をそそくさ追っている。ひたすら怒っているいまりとさよか。むしろわくわくしているともはね。ようこはそんな彼女たちと行動を共にしている自分に驚《おどろ》きつつも、
「共通の敵だね」
つい笑ってしまった。最後になでしこが諭《さと》すように黙《だま》っていぐさに頷きかけ、全員、その場から立ち去った。
「あ」
ぽつんと残ったいぐさが無力な手を伸ばす。
「せめて俺《おれ》を解《ほど》いていけえええ──────────!」
背後で啓《けい》太《た》が叫んでいた。
「おい、いぐさ! 俺を解け! 出来るだろう?」
啓太はゆさゆさと身体《からだ》を揺すっている。
いぐさは怯《おび》えたように一歩身を引いた。
「いるんだろ? こら、なんで答えないんだよ、いぐさ!」
「……」
「いぐさってば!」
「は、はい」
緊《きん》張《ちょう》して裏返った声。啓太はそちらへ向かってにじり寄る。
「頼む! 解いてくれ!」
「で、でも」
「おい、俺を疑ってるのか? 違うんだ。さっきから……気がつかないか?」
耳を澄《す》ますような仕《し》草《ぐさ》。
いぐさが泣きそうになりながらも少しだけ彼に近寄りかけたその時。
「鳥の鳴き声がさっきから」
啓太は呟《つぶや》き、
「聞こえねえ。やばい!」
そして、いきなりいぐさに向かって飛びかかった。いぐさの目が恐怖に見開かれる。彼に押し倒され、タイルに背中を打ちつけた。
のしかかられる。
怖い!
と、彼女が悲鳴を上げ、闇《やみ》雲《くも》に手を突っ張った。啓太は勢い余ってそのまま、湯船の中に転がり落ちる。どぶんと水柱が立った。
いぐさは叫んでいた。
そのぎりぎりをかすめて、とろとろと白い靄《もや》のようなものが雪崩《なだれ》落ちてきたのだ。先ほどいぐさがいた場所にべったりとわだかまり、
「おろろろ〜〜〜ん」
鳴く。
再びぐわっと盛りあがった。
「邪《じゃ》霊《れい》!」
いぐさは反射的に後ろへ飛び退《すさ》っている。そこへ大波がうち寄せるようにぬめえxと靄が覆《おお》い被《かぶ》さった。たまたまその場に転がっていた植木鉢の中の花がみるみる萎《しお》れていった。
いぐさの背筋にぞっと寒気が走り抜けた。
だが、同時に相手が分かれば沈着さも戻ってくる。
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×一!」
いぐさの眼鏡《めがね》の奥の黒い瞳《ひとみ》がきらっと輝いた。
手を大きく後ろに引き、居合い抜きのような姿勢で叫んだ。
「『紅《くれない》』!」
そして、腰を落とし、右足を突き出し、全速で手を振り出す。この距離。この威力。間違いなく邪霊など簡《かん》単《たん》に吹き飛ばせる範《はん》囲《い》である。
しかし。
「あ」
いぐさの脳裏に気絶したままの親方の姿が映る。
大嫌いな。
女の子にイヤらしいことをする相手。でも、このままだと確実に巻き込んでしまう。いぐさの手に急ブレーキがかかった。
ダメ!
心の中で叫んで、目をつむる。
「ダメええええ─────────!」
手の中で赤い閃《せん》光《こう》が爆《は》ぜた。無埋矢理、押し止《とど》めた己の力に吹き飛ばされ、いぐさは大きく後ろに後退した。着ていたコートの袖《そで》の部分が千切れ、白い素手が露《あら》わになった。鋭《するど》い痛みが走る。たまらず唇を噛《か》み、腕を抱えた。
邪霊はその好機を逃さなかった。
ぐるっと総体を波打たせ、こちらを見据える。
「おろろろ〜〜〜〜ん!」
鳴いた。
呼応して、いぐさが喉《のど》の奥で声にならない悲鳴を上げた。
もう手が上がらない。
白い靄《もや》が瀑《ばく》布《ふ》のように膨《ふく》らんで一気にいぐさを押しつつもうとしたその刹《せつ》那《な》。
ひょおうと。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告《つ》ぐ!」
カエルのケシゴムが虚《こ》空《くう》を薙《な》いだ。
「カエルよ!」
いぐさは苦痛に歪《ゆが》む目で辛うじて見ていた。
「破《は》砕《さい》せよ!」
轟《ごう》音《おん》と閃《せん》光《こう》。白い靄は一《いっ》瞬《しゅん》で木《こ》っ端《ぱ》微《み》塵《じん》に砕けた。まるで中心にダイナマイトでも埋め込まれたような見事な散りざまだった。ぶわっと熱波が頬《ほお》を打ちつけ、呼吸が一瞬、止まる。続いて衝《しょう》撃《げき》波《は》。
身体《からだ》がふわっと浮いた。
天《てん》井《じょう》が見え、無《む》意《い》識《しき》のうちに虚空に手を伸ばした直後。
「え?」
ぴたりと落下が止まっていた。
「大丈夫か? このお人《ひと》好《よ》し」
苦笑。
「え〜〜〜?」
膝《ひざ》をついた姿勢の川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》に抱きかかえられていた。助けられたのだ。そのことに気がついた途《と》端《たん》、かあっと顔が赤くなる。
「あ、あの、私、あの」
縮《ちぢ》こまった姿勢で彼を見上げた。
「お〜、危なかったな」
啓太は笑って、彼女の髪をくしゃくしゃ撫《な》でた。四散した靄は細かい欠片《かけら》となって地面に飛び散っており、それが既に淡《あわ》雪《ゆき》のように消え始めている。
「あ、ありがとうございました」
いぐさが今にも消え入りそうな声で礼を述べてた。
啓太は改めて自分たちの体勢に気がつき、こっちもちょっと照れ臭そうな顔になった。
「お、おお。いいってことよ」
と、彼がごにょごにょ呟《つふや》いたその時。
ようやく騒《さわ》ぎを聞きつけて、更衣室から少女たちが戻ってきた。抱き合っているいぐさと啓太を見て、まずようこの目が危険な煌《きら》めきを帯びた。
「ケ、ケイタああああ──────────!」
「わ、ば、ばか、帰ってきていきなり勘違いするな!」
わたわたと手を振る啓《けい》太《た》。しかし、啓太の手はいぐさの腰にしっかり回ったままなのでどうにも言い訳がきかない。
「せくはたは重罪だってちゃんと知ってたよね?」
と、冷ややかなようこの目。剣《けん》呑《のん》な口調。啓太は子供のような声で、
「ち、違うってば、これは違うの! 違うの〜〜〜!」
いぐさがきょとんとしてる。
「とにかく、なんでもいい」
ようこは拳《こぶし》をぐぐっと溜《た》めて、
「飛んでこい!」
思いっきりアッパーカットで突きあげる。いきなり啓太の姿が掻《か》き消えた。
「あ」
いぐさが座り込んだまま、ぽつんと呟《つぶや》いた。
「だいじょ〜ぶ?」
「本当になにがあったの?」
「うわ! なんか燃えてるよ!」
他《ほか》の少女たちは口々に心配そうに寄ってきて、彼女の肩に手をかける。何人かはシュロの木に燃え移った炎の残《ざん》滓《し》を見つけて、慌ててお湯で消していた。
「でも」
いぐさは未《いま》だ放心覚めやらぬ状態で小首を傾《かし》げた。
「啓太様、一体どうやって拘《こう》束《そく》を解いたのだろう……」
お湯の中に転がり込んだ時点ではまだ確かに後ろ手に縛《しば》られている状態だった。カエルのケシゴムはポケットにでも入れてあったのだろうが、そこから先が分からない。するといぐさの疑問に答える爽《さわ》やかな笑い声がどこからともなく聞こえてきた。
「なに小刀は常に携帯しているのですよ、紳士の嗜《たしな》みとして」
少女たちは全《すべ》ての動きを止めて固まった。
一点を注視する。
そこに立っていたのはタキシードに裏地が深紅のマントを羽《は》織《お》った紳士だった。シルクハットを優《ゆう》雅《が》に胸に当て、一礼をしている。
「ごきげんよう、マドモワゼル方」
通称『ドクトル』
覗《のぞ》きの達人である。ヘンタイの頭目だった。みんなの目が一斉にジト目になり、
「いつから……いたの?
と、ようこが代表して冷ややかに問いかけた。ドクトルはにっこり微笑《ほほえ》んで、
「最初からおりました」
「最初からって?」
「いえ、あなたとなでしこさんたちが水着でいらした時から、その木《こ》陰《かげ》に」
「ほ〜」
「とりあえず危なそうだったので啓《けい》太《た》さんをお湯の中からお助けしたのですが……あ、御礼は別に結構ですよ?」
「誰《だれ》が」
ようこが全開で拳《こぶし》を振りあげた。
「礼を述べるかああああ────────────!」
きらっと光ってドクトルもまた空の彼方《かなた》に消え去った。
ちなみに高度三千メートルに撃《う》ち出された啓太は恐怖と悲鳴を撒《ま》き散らしながら夜空を落下し、地面にぶつかるはんの手前でようこのしゅくちによって再び元の場所に戻されていた。だが、同じく空高く放ったはずのドクトルの身体《からだ》は結局いつまでも経《た》っても地上に落ちてはこなかった。
誰も心配などしていなかったが。
さてこの日から少しだけなにかが変わりかけていた。
翌日の日《にち》曜《よう》日。
誤解も解け、ヘンタイたちも退け、啓太とようこは客間から朝食を摂《と》るために別棟にある食堂へ向かった。すると、
「おはようございます、啓太様!」
少女たちが一斉に声を揃《そろ》えてきた。
お辞《じ》儀《ぎ》をする。
せんだんとなでしこは普通に微笑《ほほえ》んでいた。いぐさは二の腕に包帯を巻いているものの元気そうで、明るく笑っていた。
ひたすら陽気なともはね。パンを配って回っているいまりとさよか。一人だけたゆねがぶすっとしていたが、頭だけはしっかり下げていた。
啓太は一拍の間を置いた。
そして、こほんと咳《せき》払《ばら》いをすると、
「おはよう、みんな」
にこやかに、爽《さわ》やかに笑ってそう言った。
白い歯がきらんと光っていた。
ん〜〜?
と、ようこが小首を傾《かし》げた。
朝食を食べながら、啓《けい》太《た》は快活に、そして上品に話し続けた。せんだんには世界情勢を、ともはねにはゲームの話を。
薫《かおる》の話もした。別に露《ろ》悪《あく》的なものではなく、あくまで微笑《ほほえ》ましいエピソードを中心に語り、なでしこを喜ばせた。食卓に載せられたフルーツを食べ、味に感嘆し、双子に肥料に関する的確な質問をする。
ついでにさりげなくたゆねのファッションセンスを誉《ほ》めたが、
「ど〜も」
と、彼女は言っただけだった。
朝食を食べ終え、中庭でともはねとフリスビーをやった。軽く息を切らし、汗を流す啓太は意外に恰《かっ》好《こう》が良かった。
しなやかに彼は動いていた。
せんだんといぐさが見物していた。
その後で彼はどういう風の吹き回しか、テラスで勉強などをしていた。ワーズワースの詩集を読み、なでしこが入れてくれたティーを優《ゆう》雅《が》な手つきと笑顔で嗜《たしな》む。
「ありがとう」
さらっと髪を払う仕《し》草《ぐさ》に品性と知性があった。
昼。
彼が料理の腕を振るった。
お得意の本格中華ヤキソバである。少女たちは驚《おどろ》いていた。ようこは慣れているが、啓太は結構、その年《とし》頃《ごろ》の少年にしては料埋が上手《うま》い。
ははは、大したことないよ。
と、謙《けん》遜《そん》する彼にたゆね以外の皆が「なかなか美味《おい》しい」と賛《さん》辞《じ》を送った。
午後。
ちょっとした事件が起こった。恐る恐る啓太に近づき、図書室に誘おうとしたいぐさが氷に足を滑らせ、倒れ込んだのだ。
啓太は咄《とっ》嗟《さ》に支えている。
形的にちょうどいぐさの薄《うす》い胸が、彼の腕に押しつけられている状態である。啓太は、
「いぐさ。まだ怪《け》我《が》しているんだから、気をつけなさい」
優《やさ》しく注意した。
そして、全く顔色も変えない。
イヤらしい振る舞《ま》いに出ない。
あれだけ溢《あふ》れていたセクハラ度合いが欠片《かけら》もなかった。
「は、はい」
いぐさは慌てて立ちあがり、そして真っ赤になってお辞《じ》儀《ぎ》をした。もちろん、図書室に二人で行っても啓《けい》太《た》は.不《ふ》埒《らち》な振る舞《ま》いに出ることはなく、さりげなくいぐさを立てて、彼女の語る知《ち》識《しき》に感心して頷《うなず》いてみせた。
いぐさはかなり喜んだ。控えめなのは変わらないが。
午後。ともはねと一緒になでしこの家事を手伝い、特に力仕事をやった。ついで雨漏りの箇所を修理している。気を配り、働いて回り、さりげなく少女たちを助ける。ホウキで庭を掃いたり、温室で双子と果物の収《しゅう》穫《かく》をしたりした。
せんだんは腕を組み、じ〜っとそんな彼を見つめていた。
夕刻。
食事の時間は和《なご》やかに過ぎ、居間に移って談《だん》笑《しょう》した。輪《わ》の中心にいるのはもちろん啓太である。ともはねは啓太の膝《ひざ》に座ることをせがみ、せんたんは彼に挽《ひ》き立ての香り高いコーヒーをサービスした。
なでしこはまた薫《かおる》の話を聞きたがった。
そして、お開き。
夜。
「おやすみなさい、啓太様!」 と、皆が一礼するのを啓太はにっこり微笑《ほほえ》んで、
「ああ、おやすみ」
夜だというのにきらんとまた白い歯が輝《かがや》いた。
一人になって、ようこが叫んでいる。
「ぜええええええ────────たい、おかしいいい!」
ちなみにその晩、ようこは聞いて回っていた。
ともはねのケース。
「え? 薫様が百とした場合、今、啓太様をどれくらい好きかって?」
彼女は即答した。
「あたしは元々、薫様も啓太様も大好きだよ! だから、両方とも最高値で百!」
この際、お子様はどうでもよし!
ようこは次に移った。
なでしこのケース。
「え? 薫《かおる》様を百とした場合ですか」
意外なことに彼女もちょっと考え込んでから、啓《けい》太《た》を百と答えた。
微笑《ほほえ》む。
「啓太様も今日は随分と大人《おとな》しかったですね」
うんうん頷《うなず》いてようこ。
「でも」
なでしこが呟《つぶや》いた。頬《ほお》を染め、両手で押さえた。
「わたしの百は微妙に違うんです。ともはねとは少し意味合いが異なるというか……啓太様に対してはわたしは失礼ですけど、弟に対するみたいな気持ちで百、薫様に対しては」
彼女は消え入りそうな声でイヤイヤをする。
「言えません!」
はいはい。あんたに聞いたわたしがバカだったわ。
ようこはさくさくと次に向かった。
いぐさのケース。
「え?」
眼鏡《めがね》をずりあげ、
「こ、答えなきゃダメですか?」
ダメ。
「え〜と、今日は啓太様に沢《たく》山《さん》、誉《ほ》めて頂いたから」
もじもじして、
「八十くらい?」
あんた簡《かん》単《たん》に騙《だま》されて男に大金|貢《みつ》ぐタイプだよね。
捨て台詞《ぜりふ》を吐いてようこは次へ飛ぶ。
いまりとさよかのケース。
「あ〜? どうだろう?」
と、いまり。さよかが頷いた。
「そうだね。前まではゼロだったけど、昨日と今日の態度なら四十〜五十かな?」
「私は六十上げてもいいかも。ずっとあの調子なら私たちもきちんと敬意を持ってお仕えできるから嬉《うれ》しいよ」
ただ。
「アレはどう考えても何か企《たくら》んでるよね」
二人は声を揃《そろ》えて笑う。
「変わりすぎ」
うんうん。冷静な判断だよね。
ようこは次へ。
せんだんのケース。
彼女は腕を組み、怜《れい》悧《り》な美《び》貌《ぼう》をわずかに綻《ほころ》ばせた。
これにはようこもたじろぐ。
やっぱ、あんたは他《ほか》のヤツとちょっと違うね。
「いえいえ、私は弱い犬だからね。あなたと違って」
それ、皮肉?
「ううん。あなたに負けてから私も成長しようとしたっていうこと。フィジカルな力ではなくて……まあ、どうでもいいわ。私の答えは薫《かおる》様が百で、啓《けい》太《た》様がノーコメント。実は私もその答えを探しているところなの」
ふ〜ん。
「たゆねにでも聞いてみれば?」
そ〜する。
そして、最後。
たゆねのケース。
「はあ?」
彼女はいきり立つ。
「ゼロ! 断固としてゼロ! それはあの人が今後どう振る舞《ま》おうと絶対変わらない!」
その力強い言葉に。
「ありがとう! ありがとう!」
ようこは彼女の手を握ってぶんぶん振った。
「やっぱあんたはケイタのこと分かってるよねえ〜!」
たゆねは薄《うす》気味悪そうにしていた。
その夜。ともはね以外の少女たちはなでしこの部屋で作戦|会《かい》議《ぎ》を開いていた。全員、寝《ね》間《ま》着《き》に着替えた女の子だけの秘密の集まりである。
ちなみにともはねは、せんだんの命令で啓《けい》太《た》の部屋に赴いて彼を足止めしている。
『ネバーエンディングストーリー(果てしない物語)』
を音読して貰《もら》っているのだ。意外に快《かい》諾《だく》して、啓太は読み聞かせていたから、後一時間くらいは大丈夫だろう。
各自が持参したクッションの上に座って、なでしこが振る舞うハーブティーを啜《すす》っている。暖房器具のないひんやりとした部屋の中で、湯気を立てるカップとそっと添えられたハイビスカスの花が目に優《やさ》しかった。なでしこだけは唯一、いつもの割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿な上、この会合の意味合い及び何故《なぜ》会場に自分の部屋が使われているのかさっぱり理解できておらず、ちょっと困った顔をしている。
「で、みんな、やっぱりあれはおかしいと思うよね?」
まずようこが口火を切った。
「と〜ぜん!」
と、たゆねが吐き捨てるように言う。
「ま〜、ちよっと気持ち悪いね」
双子が頷《うなず》き、せんだんが笑った。
「ワーズワースの詩集はやり過ぎね」
それに対していぐさだけが立ちあがって力説した。
「きっと改心してくださったんですよ!」
まるで犯罪者を擁護するような言い方だった。
「啓太様はこれからえっちなことをしないいい′[太様になられたのです!」
手を組み合わせ、目がきらきら輝《かがや》いていた。
ようこが呆《あき》れたように呟いた。
「あんたさ、男が怖い割にホント騙《だま》されやすいよね。たかだか一回助けられたくらいでよくもまあ……」
「でも、あれがもし芝《しば》居《い》じゃなかったら」
双子のうちの一人いまりが少し頬《ほお》を染め、言った。
「悪くないよね」
「うん。しょ〜じき、アレはちょっとびっくりした。アレ、結構、凄《すご》いと思う」
その言葉にたゆねがふんとそっぽを向き、なでしこは目を細めている。無言のせんだん。うんうん頷《うなず》いているいぐさ。
「え?」
ようこがきょときょと皆を見回した。
「ど、どういうこと?」
「あ〜、つまりね」
「啓《けい》太《た》様はやっぱり川《かわ》平《ひら》本家直系の血筋だということ」
と、せんだんが答える。
「……言ってる意味がよく分からないんだけど?」
「今日ね、啓太様をずっと観察していたんだけどあの方わざとやってるのか、それとも無《む》意《い》識《しき》にやっているのか分からないけど、歩き方といい、笑い方といい、犬《いぬ》神《かみ》使いとしての基本中の基本である犬を惹《ひ》きつけ、従わせる動作が抜群に上手《うま》いのよ。ちょっと怖いくらいに」
「ボクたちの山に川平の子が来るだろう?」
今度はたゆねが喋《しゃべ》り出す。
「その時、僕らはただ見てるだけじゃなくって、その子の器量を計ってるんだ。川平家の人はね、修行の一環で必ず本物の犬を通して、犬と触れあい、犬とコミュニケーションして、犬を服従させる術を学ぶんだ。僕らはその子が一体どれくらい力を持っているのか、その子が歩いている姿から大体、判断する」
「犬を従えて歩く特有の気の張り方があるのよ。通称お散歩アルキ=v
といまり。さよかが、
「そんな通称ないけど、逆に言えばそれだけでいいのよね。歩くだけで」
「ケイタは山の中駆け回ってたね……」
ようこがぽつりと呟《つぶや》く。
「そう」
せんだんが苦笑した。
「おまけにお金のことをひたすら連呼していたでしょう?」
「私、途中でばったり啓太様と会っていたんです、あの時」
いぐさが頬《ほお》を染め、片手を上げる。
他の者にとっては初耳の話なので皆、びっくりして彼女を見ていた。いぐさは注視されて居心地悪そうにしていた。
「で、どうしたの?」
と、興《きょう》味《み》深そうにようこ。いぐさは小さく頷《うなず》き、
「『あ、お姉ちゃん、可愛《かわい》いね。どう? 俺《おれ》の犬《いぬ》神《かみ》にならない?』って声をかけられました」
それを聞いて全員、たまらず失笑もしくは苦笑した。
簡《かん》単《たん》なことだ。今より幼い顔立ちの啓太が今とほとんど外見の変わらないいぐさに片手を上げ、軽い声をかけている。
『へ〜い、そこのお姉ちゃん』
いぐさも照れ臭そうに笑っていた。
「あの頃《ころ》と基本的に変わってないんですよね、啓太様って」
「まあ、そんな風にナンパまがいのことをしたから、元々、潔《けっ》癖《ぺき》な犬神の支持が全く得られなかった訳」
せんだんが肩をすくめた。
「でも、今日みたいにちゃんとやっていればまた違う結果になっていたのかもね」
一同、黙《だま》り込んだ。先ほどからずっと沈《ちん》黙《もく》を保っているなでしこだけが動き回ってハーブティーのお代わりを入れていた。
彼女は静かに微笑《ほほえ》んでいた。
「あのさ、私、前々からともはねがなんで啓太様に懐《なつ》いているかずっと不《ふ》思《し》議《ぎ》だったんだよね」
いまりがぽつりと呟いた。
「そうそう」
さよかが頷く。
「でもさ、要するにそれって啓太様がともはねみたいな小さな子には余計な邪念を抱かないからでしょう? きっと。だから、川《かわ》平《ひら》の血が存分に発揮される」
「勿《もっ》体《たい》ないよね」
「うん」
そこでようこが何故《なぜ》か慌てて否定に走った。
「で、でも、現実にはケイタってほらスケベでどうしようもないし、バカだし、イビキは煩《うるさ》いし、そうそうカオルよりも遥《はる》かに霊《れい》力《りょく》が弱いっていうじゃない?」
「ソレなんだけどね」
せんだんが指を立てた。
「私もその話、前に一度、聞いたことがあるの。ただね、確かに啓《けい》太《た》様は漬け物石割りで薫《かおる》様に到底、及ばなかったけど、それを計った時の啓太様はひどい二日酔いだったらしいの」
「ふつかよい〜?」
「そう。お友達と徹《てつ》夜《や》で焼《しょう》酎《ちゅう》の飲み比べをやった後だったらしくて、へべれけで朝、現れて、途中で割っていた潰け物石にもたれて寝てしまったの。それでも薫様と宗《そう》家《け》様を除けば一番だったのよ?」
「……」
「まあ、そのせいもあって川《かわ》平《ひら》の親《しん》戚《せき》の方から睨《にら》まれるようになったらしいけどね」
せんだんが苦笑しながら付け加えた。
「凄《すご》いのかな、啓太様って意外と?」
と、双子のいまりが小首を傾《かし》げた。
「今日の振る舞《ま》いこそが実は地とか?」
「あり得ない!」
断固としてようこが主張した。いぐさがそれに対して、
「だから、改心したのですよ、きっと!」
熱心に諭《さと》した。教会のシスターが改《かい》悛《しゅん》した者を弁《べん》護《ご》するような表情だった。
「ん〜」
せんだんが腕を組み、たゆねが鼻で笑ってる。
「ボクもようこと同意見。悪いけど信用できないね」
「平行線か」
「だねえ〜」
その時。今の今まで一言も口をきかなかったなでしこが微笑《ほほえ》んで小首を傾げた。
「では、試してみるというのはどうでしょう?」
え?
と、少女たちは一斉になでしこを振り返る。なでしこは静かに目を閉じ、命じた。
「隠れても無駄ですよ。出てきなさい」
そして
「協力してくだされば、今度だけは見逃します。ただ」
いいえ。マドモワゼル。今後、私も、私の友人たちも二度とこの地を訪れることはないでしよう。
部屋の一角の暗がりから漆《しっ》黒《こく》のマントを羽《は》織《お》った紳士がゆるりと現れ、そこに恭《うやうや》しく膝《ひざ》をついた。彼は言う。
今、私は喜びに打ち震《ふる》えております。私の存在に初めて気がついた聡《さと》く優《やさ》しき方よ。今日という日を記念するため、お聞かせ願いたい。
一体どうして分かったのですか?
その問いに、
「当然です。だって、用心していたんですもの」
なでしこがくすっと笑って答える。
ドクトルは深々と頭《こうべ》を垂れた。
いかなることでもお命じ下さい、マドモワゼルなでしこ。
なでしこ以外は皆、唖《あ》然《ぜん》としてた。
それからちょっと後のこと。客間でともはねに本を読み聞かせていた啓《けい》太《た》の許《もと》になでしこが迎えにやって来た。
気がつくと夜の十一時を回っていた。
彼女たちは礼を述べて立ち去る。啓太はにこやかにそれを見送り、扉を閉めた。ふと振り返り、眉《まゆ》をひそめる。ベッドの上に置かれた一枚のカードに気がついたのだ。今の今まで確かに無かったはずなのに。
不《ふ》審《しん》そうにそれを取りあげ、文面に目を走らせ、啓太は表情を強《こわ》張《ば》らせた。
「たっだいまあ〜」
ようこがことさら陽気な声で扉を開いた時、
「お、おう。遅かったな!」
啓太は咄《とっ》嗟《さ》にそのカードを背中に隠していた。
深夜。ようこはいつになくよい寝付きです〜と寝息を立てている。部屋の天《てん》井《じょう》辺りをぷかぷか漂い出した。
啓太は寝返りを打っていた。
幾度も、幾度も。
枕の下には先ほどのメッセージカード。
夜風が窓の外でびゅるびゅる舞《ま》っている。
啓太の目が闇《やみ》の中で妖《あや》しく輝《かがや》いた。むっくりと起きあがるとそのまま電気も点《つ》けず、そっと部屋を抜け出ていった。
本館から外へ。しばし雪の上を歩くと、明るい光がこぼれる温室が見えてきた。その背後のボイラー室に回り込む。
待つほどもなく、暗がりからゆらりと一人の男が現れた。
「やっぱりいらしたのですね、啓《けい》太《た》さん」
マントを羽《は》織《お》った変態紳士ドクトルだった。
啓太は不安そうに辺りを見回しながら小声で問う。
「お、おい。ほんと〜〜にあるんだろうなその|覗き穴《煌めきスポット》?」
「ええ、ありますとも」
「だ、誰《だれ》だ? 誰が入ってるんだ?」
「あの大人《おとな》びた赤毛の少女とそれに活発な短髪の少女です。どういう訳か二人|揃《そろ》って深夜、百合《ゆり》を浮かべたお風《ふ》呂《ろ》に入浴する習慣があるのです。ちょうど今《いま》頃《ごろ》の時間にね」
「せんだんと」
ぐびりと喉《のど》の唾を飲み込む。
「たゆねだな?」
「ええ。お二方とも本当に素《す》晴《ば》らしいプロポーションをされておりますよ。黄金比率に赤毛の縦《たて》ロールと白い肌。大胆不敵な巨乳に繊《せん》細《さい》な少年らしさボク娘。極上と絢《けん》爛《らん》の二大対決ですな。すらりとした足とたゆんとした胸、一体どちらがお好みすかな、啓太さん?」
ドクトルは微笑《ほほえ》む。
「どっちも!」
と、全く迷いなく答える啓太。
ドクトルは敬意を表するように胸に手を当てた。
「さあ、こちらへ。人間が未《いま》だ到達したことのない答えを捜しに参りましょう」
ボイラー室の扉を開け、中へ誘う。啓太は飛び込むようにして後に続いた。
まるで地《じ》獄《ごく》へでも通じているような場所へ。
世にも無造作に。
入っていった……。
埃《ほこり》っぽいボイラー室の中で、カンテラの光だけがぼんやり浮かび上がっている。啓太はそわそわしながら喋《しゃべ》っていた。
「そっかあ、たゆねとせんだんかああ〜! タイプ違うけど二人ともすっごい美少女だよな。俺《おれ》、どっちも好きだなあ。なんか盆と正月が一遍に来たというか、キャビアとフォアグラの組み合わせというか、豪華二本立てだよな!」
ドクトルは落ち着いた笑顔で問いかけた。
「このようなことにお誘いして、果たして啓《けい》太《た》さんには喜んで頂けてるのですかな?」
「あったりまえだろ〜」
全く普《ふ》段《だん》の調子に戻って啓太がにへっと笑った。
「なにしろ、ずっと猫を被《かぶ》ってたんだから、さ」
爽《さわ》やかさが欠片《かけら》もなくなって、過剰なエネルギー分で目がきらきら輝《かがや》いている。
「ほほ〜、猫を……私は遠くから見ていて啓太さんはてっきり女性に興《きょう》味《み》をなくされたとばかり思っていたのですが」
「ばっか言え! 俺《おれ》は健在だよ〜ん」
くすくすと笑って、ステップを踏む啓太。
楽しげだ。
「なるほど」
「そ。だから、結構、辛《つら》かったんだぜ、滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》可愛《かわい》い女の子たちを前に自分を取り繕《つくろ》うの。その分、ストレスが溜《た》まっちゃってさ、も〜、早くせんだんとたゆねのナイスバディを拝んで癒《いや》されたいよ」
「ほう」
「……おい、念を押すようだが、本当にあるんだろうな、その|覗き穴《煌めきスポット》?」
啓太が突然、疑わしげになる。ドクトルは首を振り、
「ほら、そこの穴ですよ。たっぷり百年分くらいご賞《しょう》味《み》下さい……」
そう言ってカンテラの脇《わき》の暗い穴を指さしてみせた。ちょうどちくわの穴くらいの大きさだった。啓太は手を摺《す》り合わせ、そこへ近づいていく。
「へへへ、なんだよ、ちゃんとあるじゃん。焦《じ》らすなって」
「ところで啓太さん?」
「なんだよ?」
「最後にお聞きしておきたいのですが? なぜそのような真《ま》似《ね》を?」
「あ、バカだな〜。少しでも女の子にちやほやされて」
啓太は目を節穴にくっつける。
「あわよくば薫《かおる》のハーレムを丸ごと頂くために決まってる」
そこで彼の動きが全《すべ》て止まった。
ちょっと顔を離し、ごしごしと拳《こぶし》で目を拭《ぬぐ》った。全くあり得ない光景が見えたのだ。
「え?」
と、もう一度、目を凝《こ》らしてみる。
そこに立っていたのは……。
「よ、ようこ!?」
仁《に》王《おう》立《だ》ちのようこだった。世にも恐ろしい微笑《ほほえ》みを浮かべ、腕を組んでいる。啓太は思わず知らず後ろに飛び退《すさ》っていた。
そこではっとして振り返る。
いつの間にか、凄《すさ》まじい殺気を放って少女たちが背後に全員|揃《そろ》っていた。たゆねの勝ち誇ったような顔。やれやれという表情のせんだん。涙目のいぐさ。ともはねはいないが代わりになでしこが頭痛がするとでもいうようにおでこに手を当てていた。
首を振り、すっと身をひく。
ここから先はわたし、一切関知しません。幾らなんでも回《かい》避《ひ》して下さると思っていたのに……。
小さく、そう呟《つぶや》いていた。
最後の頼みの綱にあっさり見放され、啓《けい》太《た》は口をぱくぱくさせている。
「あ、あのね、これはね、そのね!」
すうっと背後の壁《かべ》を透過してきて、ようこがこちら側へ抜け出てきた。彼女は嬉《うれ》しそうに用意されていたフライパンを順番に少女たちへ手渡していく。
「はい。しっかりやってね♪」
「お、おい、ようこ!」
手ひどく裏切られた顔のいぐさがぎゅっとフライパンの柄を握った。
「私……私だけは、信じていたのに!」
「や〜れやれ。早速、期待に応《こた》えてくださいましたね、啓太様♪」
たゆねが嬉しそうに一番重そうなフライパンをより分け選んでいた。双子が、
「ん」
「やっぱりただのバカだったんですね〜、啓太様」
びゅんびゅんと素振りを開始した。
せんだんは微笑した。
「正直に言えばちょっとだけ期待したんですけどね。ま、啓太様は啓太様ということで……」
フライパンを刀のようにちゃっと返した。
「けじめはつけさせて頂きます」
「は〜い、では皆さん、これからお仕置きた〜〜〜いむ♪」
ようこがどこから持ってきたのかパフパフとラッパを鳴らした。そして。
「覚悟は?」
「いいですね?」
なでしこ以外、全員。じっとにじり寄る。都合、六個のフライパンが一斉に恐怖で顔を引き攣《つ》らせている啓太の頭上に振リ下ろされた。
「私は常に聡《さと》き女性の味方なのです」
そっとハンカチで目元を拭《ぬぐ》って最後にドクトルがそう呟《つぶや》いた。
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》は結局、二日で家から追い出されたのだった……。
翌朝。ひんやりと冷気が漂う正門の前に啓太とようこのコンビが立っていた。その前にずらりと並んでいるのはなでしことともはね以外の少女たちである。
皆、嫌がらせのようにしっかりと分《ぶ》厚《あつ》いコートで身を包み、マフラーを巻き、肌の露《ろ》出《しゅつ》が欠片《かけら》もなかった。にっこりと微笑《ほほえ》み、白いハンカチを一斉に振った。
「さよ〜ならあ〜、啓太様」
しくしく泣いている啓太。
なでしことともはねだけは後ろの方で気の毒そうな顔をしていた。彼は両手に手《て》錠《じょう》をかけられ、いつもつけている首《くび》輪《わ》に鉄の鎖《くさり》を結《ゆ》わえられていた。その先端を握っているのはもちろんようこだった。
おまけに胸と背中にサンドイッチマンのようなプラカードがぶら下げられ、
『私はセクハラ男です』
とか、
『昨夜、お家乗っ取りを図って成《せい》敗《ばい》されました』
とかマジックで好き勝手書かれていた。それはほっぺたにも及んで、
『女の敵!』
の文字もある。ともはねがなにか言いたそうに駆け寄ろうとしていたが、なでしこが彼女の肩を押さえ、そっと首を横に振った。
行っちゃダメ。
そんな顔である。
「さ、いくよ!」
意気揚々と鎖を引くようこ。
「はい」
しょぼんとして歩き出す啓太。そして、
「あ、ちよっと待て」
ようこを押し止め、
「いぐさ、あのさ」
少女たちを振り返った。びくっと身を引く眼鏡《めがね》のいぐさ。他《ほか》の者もなんだろうと注視する。啓太は困ったように、
「お前、男怖いんだよな? 悪かったな……あのな、もう言い訳にしか聞こえないと思うけど、俺《おれ》、お前にだけは本当にやらしいことしないつもりだったんだ」
にっと笑う。
「いつかまた山でやったみたいに声をかけるからさ。その時はきっと財テク相談にでも乗ってくれよな、な?」
「も、もしかして……私のこと覚えてらっしゃったのですか?」
と、びっくりしたようにいぐさ。啓太は得意そうに胸を張った。
「あったりまえだろ! 眼鏡《めがね》はかけてなかったけどお前はとびきり可愛《かわい》かったんだぜ?」
ようこははいはいと言って啓太を鎖《くさり》で引っ張り始める。
「ま、まてよ。まだ積もる話が」
「うるさい! 大体どうしていぐさだけが特別扱いなのよ?」
「いやあ、だからさ、本気で怖がる女の子相手にやると俺《おれ》も罪悪感あるし〜」
「じゃ、なでしことかせんだんはいいの!?」
「いや、そうは言ってないけどな」
彼らはぎゃいぎゃい言い争いながら歩いていく。最後に啓太が思いっきり両手を振った。
「みんなもまたな! 楽しかったぜ!」
「ケイタ、ほらしゃんと行く! 未練がましい!」
そして朝《あさ》靄《もや》の中、消えていなくなった。
最初に噴《ふ》き出したのはともはねだった。そして、いつしかその笑いは全《すべ》ての少女に伝染して、最後には控えめに口元を覆《おお》いながらいぐさも笑っていた。
きっとまたいずれイヤでも会うのだろう。
そんな予感を籠《こ》めて。
いぐさはちらっと背後を振り返り、そして仲間たちの後を追いかけて帰っていった。
家へと。
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「よっしゃ、女の子をナンパしてくる!」
突然、炬燵《こたつ》から立ち上がって啓《けい》太《た》が宣言した。彼はたたっと駆けていってハンガーからかかっていたジャケットを取り上げ、袖を通し、
「止めても無駄だからな!」
気《け》怠《だる》そうにベッドからこちらを見上げているようこを恐怖と決意の入り交じった視線で鋭《するど》く見返した。
「今こそ俺《おれ》は行かねばならぬのだ! 行かぬと男がすたるのだ!」
テレビでは冬の恋人特集というのをやっていて、如何《いか》にこの時期、年《とし》頃《ごろ》の女性が人恋しいのかを検証していた。
「世界中のオンナが俺を待っている!」
マフラーを巻き、玄関に赴き、ブーツを履き、扉を開ける。その間、ようこは潤んだような瞳でじっと彼の挙動を見つめていた。
一言も声を発しなかった。
「じゃ!」
すちゃっと片手を上げて啓太は外へ出ていた。扉がばたんと閉まる。その途《と》端《たん》、ようこも力尽きたようにがくんと顎《あご》を落とした。
ただ震《ふる》えているばかりだ。
「……」
やがてがちゃりとまたドアが開いて、啓太が恐る恐る首を突き出した。
「あの、どしたの?」
いつもなら即座にフライパンやら炎やらが襲《おそ》いかかってくるはずなのに、ようこは舌を出してただはっはっと荒い息をついているだけだった。
啓太はようやく異変に気がついた。
「お、おい」
慌てて戻ってきて、彼女の額に手を押し当てた。
次の瞬《しゅん》間《かん》。
「あちいいいいいいいい──────────!」
手のひらがじゅっと焼け爛《ただ》れる音がして啓太は飛び上がった。
凄まじい熱だった。
冬のとある夕刻のことだった。
「あちあちあち!」
啓太は手を抱え、走り回っている。それから台所に飛び出していって、ようやく流しに手を突っ込んだ。蛇《じゃ》口《ぐち》を捻《ひね》って、水を全開で出す。
「いてててて」
見ると完全に手のひらが火《ひ》膨《ぶく》れを起こしていた。
「な」
啓太は目を見開いた。
「なんだ、これえ?」
咄《とっ》嗟《さ》にベッドの上のようこを振り返ると、彼女は今まさに床へ崩れ落ちるところだった。啓太の頭の中で疑問符が踊りまくる。
「あ、あつい」
ようやくようこが掠《かす》れ声で呟《つぶや》いているのが聞こえた。
起き上がろうと床に手を突きながら、
「あついよ、けいた」
啓太ははっと我に返った。慌ただしく左右を見回し、とりあえず最善の策と思われることをした。まず冷凍庫からありったけの氷を取り出すと、それを深皿の上に開けた。次に洗面所に飛び込んでタオルを山ほど抱えてきて片っ端から水で濡《ぬ》らしていく。
その中に氷をくるむ。
ぎゆっぎゅっと引き絞った。
ようこの許《もと》へ駆け戻ると、そのタオルを首筋とおでこに押し当てた。
「うわ!」
一《いっ》瞬《しゅん》で蒸気が立った。気がつくとようこがいる辺りがラジエーターでも全開にしているかのようにムッと暑かった。
「ど、どういうことた?」
暑いというか、今にも発火しそうな温度である。
ようこは苦しそうに呻《うめ》いていた。
「めがまわるう」
ようやく啓太の頭に納得のいく回答が浮かんできた。
「きもちがわるうい」
「も、もしかしてお前病気なのか?」
恐らくソレが正解に思えた。
「だ、だいじょうぶかよ?」
啓太はようこの身体《からだ》を揺すった。じゅっと手が火傷《やけど》する。
「く、くそ!」
構わず、彼女の下に腕を突っ込み、
「なんなんだ、一体もう!」
そのまま抱え上げ、風《ふ》呂《ろ》場に向かって駆けていった。扉をぶち壊《こわ》さんばかりに蹴《け》り開け、そっとようこをタイルの上に寝かしつけた。それから、シャワーを全開にして思いっきり水をぶっかけた。
途《と》端《たん》にもうもうと水蒸気が湧《わ》き起こる。
「は」
ようこが荒い息をついている。
「は」
「しっかりしろ、ようこ!」
「と、とけそう……」
ようこが朦《もう》朧《ろう》とした表情で呟《つぶや》いていた。
「OK! 待ってろ!」
啓太は部屋にとって返し、氷の詰まったタオルを持ってくると片っ端からそれをようこに押し当てた。
一片の隙《すき》間《ま》もなく。
氷と水で覆《おお》っていく。
たちまち熱を持って氷が溶けていった。
啓太は吹き上がってくる汗とシャワーの水しぶきでぐしょ濡《ぬ》れになりながら、台所でバケツに水を溜《た》め、風呂場にせっせと運んでバスタブを水で満たした。
彼女の身体《からだ》を抱え上げ、その中にどぶんと浸《ひた》した。
じゅわっと音がして靄《もや》がさらに噴《ふん》出《しゅつ》する。煙のような水蒸気を掻《か》き分け、ようこの額《ひたい》に手を置いた。
程なくさっきよりも明らかに体温が低くなっていった。
「お〜」
啓太が感嘆の声を上げた。どうやらこの処置で正しかったようだ。ようこを見れば、朦朧とした表情ながらも呼吸が安定してきている。
ゆっくりと首を前に倒し、規則正しい寝息を立て始めた。
啓太がほっと安《あん》堵《ど》の溜《ため》息《いき》をついた。
膝《ひざ》に手を置き、力無く笑う。
「随分と派《は》手《で》な風邪《かぜ》だな、おい」
その時、
「やっぱり発熱しましたか……」
涼《すず》やかな声が背後から聞こえた。
「は、はけ?」
振り返って、啓太はびっくりする。
白《しろ》装《しょう》束《ぞく》に身をまとった犬《いぬ》神《かみ》のはけがそこに立っていた。彼はすたすたとバスタブに歩み寄ると、白い手をそっとようこのおでこに押し当て、何かを確認するように彼女の顔をじいっと覗《のぞ》き込んだ。啓太は、
「おい、やっぱりってなんだよ? こいつどうしたんた、一体?」
困惑しきったように言った。
はけは人指し指を唇《くちびる》にそっと押し当てた。
「啓太様、説明は後で。それは氷ですか?」
「お、おう」
「賢《けん》明《めい》な処置です。とりあえず冷やし続けましょう。そうすれば一晩ほどできっと熱は下がるはずです」
「わ、分かったよ」
啓太は再び氷を取りに行くために台所へ飛び出した。
忙しい夜になりそうだった。
はけはじっと黙《だま》っていた。啓太はこまめにタオルを取り替え、氷をバスタブに入れ、ちょっと一息ついてから、
「へへ、一時はどうなるかと思ったぜ」
屈《かが》み込んでようこの頭をぐしぐしと撫《な》でた。氷と水で冷やし続けた甲斐《かい》があって彼女の症状は大分、落ち着きを示し始めていた。
シャワーでの放水はもう止め、時折、氷を入れたタオルで要所要所を拭《ぬぐ》うに留《とど》めた。
「お前、元気なのが取《と》り柄《え》なんだからさ、早く良くなれよ」
はけは小さく溜《ため》息《いき》をついた。
「治《なお》ったらチョコレートケーキやるから」
「啓太様」
「美味《おい》しいの沢山やるから」
「そろそろお話ししましょうか」
「ん〜、なにを?」
と、振り返らずに啓太が言った。はけは静かに、
「ようこのこの状態が何かを」
「……」
啓太はやっぱり振り返らなかった。
その背中に向かってはけが目を細め、問いかけた。
「ずっと聞きたかったのでしょう? ようこがなんなのかを。今まではぐらかしていて申し訳ありませんでした。ですが、我々はあなたを決して軽んじていた訳ではなく」
「あのさあ」
啓《けい》太《た》が微《かす》かに笑った。
「俺《おれ》だって別にバカじゃないんだぜ? 最初の契約の頃《ころ》から気がついてたよ。いいか? あの山を守る結界ってさ、そもそも中に住んでる犬《いぬ》神《かみ》ですら外へ出るとき、契約者のモノがないと出られないような仕組みになっていたよな?」
「ええ」
「あれってさ、どう考えても内を守るためのものじゃないよな。内にいる何者かを出さないための結界だったよな?」
「……」
「最近、辺りの邪気が増してるな。仕事も多くなってる。地《じ》震《しん》も時々、ある。ようこは力が強くなっている。炎の力が制御できないほど増した。そんなところだろう?」
「……」
「一つだけ聞く。ようこは必ず治《なお》るんだろうな?」
「はい。それはそもそも病気ではないと思いますから」
「知恵熱みたいなものか……強くなってるのか」
「啓太様。本当は全《すべ》ての犬神使いが正式な契約を終えた段階で知らされるのです。あの結界の中にいるもっとも邪悪な者のことを」
「このようこ、じゃないのか?」
「はい。そのようこ、ではなく」
「あ、もういいや」
啓太は手をひらひら振って遮った。
「……良いのですか?」
「いい」
はけの問いに、きっぱりと答えてみせた。
「あとはこいつ自身の口から聞く。こいつが俺に言いたくなった時に改めて聞く。それまでは絶対聞かない。俺はそれまでずっとおバカな蚊《か》帳《や》の外で良い」
啓太はようこの髪を手で梳《す》いた。
「だって、そうしなきゃ」
振り返らずぽつりと呟いた。
「こいつ、たった一人でいつまでも可哀《かわい》想《そう》じゃねえか」
ようこ。
もう一度、啓太は彼女の名を呼んだ。
翌朝、爽《さわ》やかな日差しが窓《まど》から差し込んでくる。
ようこは身じろぎをしながら、ゆっくりと目を覚ました。
「け、いた?」
彼の名を呼んだ。
身体《からだ》をぼんやりと起こす。気がつけば彼女は白いネグリジェ姿に着替えさせられていた。枕元に氷水の入ったコップがあったので少し口に含む。
冷たい水がとても喉《のど》に心地《ここち》よく、美味《おい》しかった。
「ケイタ?」
今度ははっきり呼んだ。
すると、
「おお〜」
台所から本人がひょいっと顔を覗《のぞ》かせた。屈《くっ》託《たく》なく、にっと白い歯をみせ、笑っている。白いエプロンを前にかけ、ナイフでちょうどリンゴを剥《む》いているところだった。
「も〜だいじょうぶなようだな?」
ナイフは流しの上に置き、ウサギ耳のリンゴを皿に並べながら尋ねる。
「え、うん」
心なしかようこの顔色が晴れない。
「どした? まだ具合悪いのか?」
啓太が近づいてきて、彼女の額《ひたい》に手を当てた。ようこはじわっと目元を潤《うる》ませる。彼の手に痛々しく白い包帯が巻かれていた。
「ケイタ、そ、それ」
その手を取り、マジマジと見つめ、
「熱かった? ごめんね」
痛かった?
「ごめんね」
そう呟《つぶや》きながらぽろぽろと涙をこぼした。鼻水まで出てる情けない顔である。啓太はくしゃっと彼女の髪を撫《な》でた。
「おい、もうほんと〜に大丈夫なんだろうな?」
「う、うん」
ようこはしゃくり上げた。確かに身体はもう完全に近い。いや、実を言えば、身体に籠《こも》っていた熱を全部出して、今まで以上に力が満ち溢《あふ》れている。だが、そんなことより今は啓太を傷つけたことの方が遙《はる》かに気がかりだった。
「そっか」
啓《けい》太《た》は考え込んで言う。
「じゃさ、一つお願いがあるんだけど」
「うん! なんでも言って! わたしなんでもするよ!」
ようこはすがるように啓太を見上げる。
「留守番しててくれるかな?」
その要求にようこはきょとんとした。
「え?」
「だ〜から、よくなったならしばらく留守番。ホントは昨日の夜行くつもりだったんだけど」
啓太はひょいひょいっと軽やかに立ち上がると、ジャケットの袖《そで》に腕を通した。コースに出たゴルファーのように小手をかざして、外の眩《まぶ》しい天気を見上げる。
「うん。絶好のガールハント日和《びより》だ」
「あ、あれ?」
「じゃ、行ってくるから。剥《む》いたリンゴそこにおいてあるぞ」
「う、うん」
啓太はにこやかに手を振り、そして家から出ていった。ばたんとドアが閉まる。ぽか〜んと手を振り返しながら、それを見送ったようこ。
じ〜と考え込んでる。
考え込んで、腕を組み、そして、
「ケイタあああああああ────────────────!」
叫んで、彼女は啓太を追いかけるために慌てて着替えを始めた。
まっさらな日曜日のことだった。
[#改ページ]
あとがき
まず、すいません。
なによりも申し訳ありません。嘘《うそ》つき呼ばわりされても仕方ありません。前の巻でお約束した「インフィニティ・ゼロ」の最終巻はまた延びて、代わりに「いぬかみっ!」でご挨《あい》拶《さつ》することとなってしまいました。
えっと、もう多《た》分《ぶん》、信じて頂けないと思いますが……次こそ!
次こそ「インフィニティ・ゼロ」の最終巻を出します!
お約束致します!
なんとなく狼《おおかみ》少年の気持ちが分かります……。
ところで、ここでこういう風に書いておりますが、果たして「インフィニティ」の方の読者さんはどれくらい「いぬかみっ!」を読んで下さってるのでしょうか?
「いぬかみっ!」とはほとんど正反対の作風でやっておりますので、実はあまり被《かぶ》ってないような気がしています。
「いぬかみっ!」と「インフィニティ」それぞれ多少なりとも読者さんがついて下さっている風ですが、「有《あり》沢《さわ》まみず」というカテゴリーで読んでくださっている方は基本的にそんなに多くないのかなと自己分析しております。
ところで、「いぬかみっ!」の方ですが、書いていて思ったのですが、ようこの捻《ひね》くれた性格が随分と変わりましたね。
多《た》分《ぶん》、啓《けい》太《た》はようこに捕まって、あの脳内イメージで見た未来通りになっても結構、幸せなのかなあと漠然と思っています。
ようこは奥さんになったら意外に尽くすタイプ(でも、浮気は断固として許さない。鼻が利くので香水なんかもすぐに気がつく)になりそうですね。
ただ、作者的にはまだそれにはちょっと早いかなとも考えています。
場合によっては、啓太とようこが○○して、××になったり、最後にカオルの犬《いぬ》神《がみ》が△△になったり、あるいは次の巻で。
止《や》めておきましょう。
とにかく、「いぬかみっ!」の方はあともう少しだけ続きます。
もっともっと面《おも》白《しろ》くしますので、最後までお付き合い頂ければ幸いです!
あ、そういえば前の巻で予告しましたが、あんまり続きものっぽくなっておらず、相変わらずの短《たん》編《ぺん》連作形式ですね……。
うう……すいません。
次の巻こそ長編ぽいものに。
いえ、出来るだけしますので、どうかどうかお見捨てなきよう!
最後になりましたが、相変わらずペースが狂いまくっている有《あり》沢《さわ》を辛うじて寛《かん》恕《じょ》して下さっているサトー様。
可愛《かわい》くて、優しい絵を描いて下さる若《わか》月《つき》様。
ありがとうございました。
そして、読者様。
こうして四巻までこれたのは、偏《ひとえ》に買って下さってるあなたのお陰です。有沢はそのお陰で「いぬかみっ!」も「インフィニティ」も続けることが出来るのです。本当にありがとうござしました
御礼は今後の面白いお話で必ず。
もっともっと面白いモノを!
それを合い言葉に今後とも頑張ります!
[#地付き]三《さん》跪《き》九《きゅう》拝《はい》、平《へい》身《しん》低《てい》頭《とう》、有沢まみず
[#改ページ]
◆こんにちは、若月です♪今巻は大サービス!てな位に女の子の新キャラがたくさん出てきました(笑)今のところ私の一番のお気に入りは『たゆね』(比較的描きやすいので)、それから描いているとついつい『ベルばら』をサントラにしたくなる『せんだん』です(笑)ポスターや巻頭のカラー漫画は各キャラの紹介も兼ねてたったのですが、皆様は無事名前を覚えてくださりましたでしょうか…???(ドキドキ)
◆さて。毎巻表紙力バーにてキャラクターと共にお花を描いているのですが、じつは各発売時期の旬のお花でキャラクターに合った花言葉を持つ花たちだったりします。
1巻(桜)→優れた美人、気まぐれ。
2巻(撫子)→純愛、貞節。
3巻(薔薇・黄)→君のすべてが可懐!!
4巻(椿)→気取らない魅力。
………いかがでしょう?(笑)このことは以前ネットでもご紹介したことがあったのですが、先日忘年会にて他の先生方にお話したところ意外に好評でしたのでまた書いてみました(笑)次巻にどのキャラを描くかについてはまだ決めていませんが、できれば薫あたりを…???
◆最後になりましたが…今回もたくさんのご協力をいただいた編集の佐藤様、巻を増すごとに著者近影がすごいことに…!!の有沢様、トーンのお手伝いをしてくださった吉川様、本当に有難うございました!!ここまで読んでくださっています皆様にも感謝の気持ちを込めて………
[#地付き]若月神無