いぬかみっ! 3
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)気合いの声|一《いっ》閃《せん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]
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啓太を突然襲った男の尊厳に関わる大ピンチ! ご主人様の未曾有の危機に、ようこは笑いながら、なでしこは嫌がりながら、ともに啓太を救うために頑張るが……。はたして、啓太の運命は!?
その他、妖しげな寺からとってもおぞましい依頼を受ける話や、煩悩を具現化してしまう謎のトリの話など、全4編を収録。
今回も受難続きの啓太に思わず合掌(?)。カラーコミック、4コマまんが、3ツ折りポスターと企画も盛りだくさん!
ISBN4-8402-2457-9
CO193 \550E
発行◎メディアワークス
定価:本体550円
※消費税が別に加算されます
有《あり》沢《さわ》まみず
昭和五十一年生まれ。パキスタン育ち。第八回ゲーム小説大賞で銀賞を頂く。ちなみに若月さんに描いて頂く著者近影、友人知人曰く「死ぬほど似てる」そうです。今回はどうでしょう?
【電撃文庫作品】
インフィニティ・ゼロ冬〜white snow
インフィニティ・ゼロA春〜white blossom
インフィニティ・ゼロB夏〜whit moon
いぬかみっ!
いぬかみっ! 2
いぬかみっ! 3
イラスト:若《わか》月《つき》神《かん》無《な》
東京出身在住。大の動物好き。作中の4コマやマンガの原案は若月が担当しておりますが、編集様曰く、私は「マンガを描いている時が一番イキイキしている」そうです(笑)。良いのでしょうか? 仮にもイラストレーターがそんなんで…。
カバー/加藤製版印刷
「ふんはあああ────────!」
気合いの声|一《いっ》閃《せん》。白く飛沫《しぶき》を上げる滝に右の拳《こぶし》が打ち込まれる。
間髪入れずに左。
右。
「ふんはああ──────! やっさああ──────!」
回し蹴《げ》り。
膝《ひざ》蹴り。肘《ひじ》打《う》ち、頭《ず》突《つ》き。男はさらに雄《お》叫《たけ》びを上げて、滔《とう》々《とう》と流れ落ちる水流に打《だ》撃《げき》を叩《たた》き込んだ。
寒風吹きすさぶ滝《たき》壺《つぼ》でのことである。
鬼《き》気《き》迫るとはこのことで、凍りつくような水の流れに膝まで浸《つ》かり、ありとあらゆる空《から》手《て》の奥《おう》義《ぎ》を武器に自然に挑みかかる。その姿は悲壮なようであり、また滑《こっ》稽《けい》なようでもある。まるで己の拳がいつか瀑《ばく》布《ふ》をも堰《せ》き止めると信じているかのようだった。
息は白く、目は血走り、男の身体《からだ》からは濛《もう》々《もう》と湯気が立ち昇っている。
赤《しゃく》銅《どう》色の肌。
鍛《きた》えに鍛え抜いた身体。
青々とそり上げた額に真っ赤な六尺|褌《ふんどし》。
凄《すさ》まじい気迫だ。
「やっしゃああ──────────!」
ほんの刹《せつ》那《な》。
全《ぜん》身《しん》全《ぜん》霊《れい》を込めた男の蹴りが滝の落下を切断したかのように見えた。会心の一撃に男の頬《ほお》に思わず「やった!」というような笑みが浮かぶ。
だが次の瞬《しゅん》間《かん》、男は重心を失い、水中に転倒した。
張りつめていた精神にほんのわずかだが綻《ほころ》びが生じてしまったのだ。
「ぐぬ!」
幸いその辺りはさして深くない。全身ずぶ濡《ぬ》れになりながらも男はすぐに跳ね起きた。身を刺すような冷たさより、男は自分の油断が我慢ならなかったのだろう。鉛色の空に向かって吠《ほ》え立てた。
「未熟! なんたる未熟か!」
すぐに滝壺のそばにあった岩にのっしのっしと歩み寄り、己の額《ひたい》を打ちつける。
「じゃあありゃああ──────!」
ほとんど常軌を逸した自罰的行為である。
「でっしゃああああ──────!」
再びロックコンサートの観客のような狂ったヘッドバンキング。
何回も。
何回も。
「ずわ!」
岩も割れたが、尖《とが》った部分が額《ひたい》に突き刺さってぴゅ〜と血が噴《ふ》き上がった。男は怪《け》我《が》をした部分を押さえ、思わず仰《の》け反《ぞ》った。その際に苔《こけ》むした石に踵《かかと》を滑らせ、尻《しり》からすっ転ぶ。どぼんと音を立てて水の中に落ち込み、かなりの量の水を飲んでしまった。
「げっほげっほほ!」
手を突き、浅《あさ》瀬《せ》から身を起こす。
その瞳《ひとみ》に憤《ふん》怒《ぬ》の形《ぎょう》相《そう》が浮かんでいた。
「ぬわうりゃああああああ───────!」
絶叫して突如走り出した。
川を離れ、岩をよじ登り、濡《ぬ》れた落ち葉を踏みしめ、湧《わ》き起こってくる自らへの怒りに獣《けもの》のように吠《ほ》え続けた。暗い林を抜け、ひたすらに駆け、男はとうとう目の前に己のやるかたない衝《しょう》動《どう》をぶつけるべき巨大な岩を発見した。
男はその時、既《すで》に我を失っていた。
息吹《いぶき》を上げ、腰元に手を引き、最大最高最強の力を溜《た》め込む。
「ほんだりゃあああああ─────────!」
拳《こぶし》を打ちつける岩の注《し》連《め》縄《なわ》に。
気がついていなかった。
真っ赤に色づく山々の間を縫《ぬ》って列車はひた走る。
行楽シーズンを迎えて、普《ふ》段《だん》は閑散としている車内も、紅葉《もみじ》狩《が》りやハイキングなどの観光客で賑《にぎ》わっていた。登山用の装備を調《ととの》えた老夫婦が別の車両から移ってきて、空席を見つけ、ほっと一息ついた。
「宜《よろ》しいですかな?」
ご主人の方が丁《てい》寧《ねい》に帽子を取って、向かいの席に座っていた少年に向かって声をかけた。
「あ、いっすよ」
少年は食べかけの駅弁から顔を上げ、人《ひと》懐《なつ》っこく笑う。
弁当を傍らの少女に預け、身軽に立ち上がると、もぐもぐと口を動かしながら二人のためにリュックサックを網棚に載せてくれた。
小柄な割に力はあるようだ。
それに気立ても悪くないらしい。首に変なアクセサリーをしているし、髪の毛も茶髪なので最初はどうかと思ったが、老夫婦はすぐに彼に好感を覚えた。
微笑《ほほえ》み、礼を述べて席に腰を下ろす。
少年は「いえいえ」と首を振り、また弁当に取りかかった。隣《となり》の席に座っていた少女が何事か呟《つぶや》いて少年の栗《くり》ご飯の栗を指で摘《つま》もうとしたら、それをぺしりと手で叩《たた》いて阻《そ》止《し》している。
「あの、宜《よろ》しかったら」
奥さんが荷物とは別にしておいた魔《ま》法《ほう》瓶《びん》から、湯気の立つ紅茶をプラスチックのカップに入れて差し出した。
「ついでにこれもデザートにどうぞ」
と、笑顔でタッパーに入ったチョコレートクッキーも脇《わき》に添える。
「あ、じゃあ、遠《えん》慮《りょ》なく」
少年が頭を掻《か》き、
「わ〜、ありがとう♪」
少女は瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせ、手を打った。老夫婦は目を細めた。自分たちも紅茶を啜《すす》り、クッキーを摘みながら、少年と少女の旺《おう》盛《せい》な食欲を見つめる。
ちょっと面《おも》白《しろ》い組み合わせだった。
少女の方は滅《めっ》多《た》にお目にかかれないほど、綺《き》麗《れい》で、可《か》憐《れん》だった。切れ長の瞳に、艶《つや》やかな黒髪。すらりとした肢《し》体《たい》を空色のブラウスで包んでいた。素足にミュールで、首に翡《ひ》翠《すい》のカエルがついたチェーンをつけている。
笑ったり、むくれたりする動作、一つ一つがはっとするほど生気に満ちていて美しく、車窓から射《さ》し込む秋の木漏れ日の中で、その横顔が光り輝いて見えた。
「失礼ですが、お二人はご兄《きょう》妹《だい》ですかな?」
しばらく二人と歓談してから、老紳士が思い切ったようにそう尋ねた。目が若々しい好奇心で悪戯《いたずら》っぽく輝いている。
「あ、いえ、あの」
少年が困ったように視線を逸《そ》らした。
「いやだわ、お父さんったら。急に何を……ほら、困ってらっしゃるじゃないの」
奥さんの方が苦笑しながら夫を窘《たしな》めた。
「……それに、こちらさんはきっと恋人さん同士でしよう?」
奥さんの方はそう信じているようだ。
確かにどちらとも取れた。
少年が偉そうに色々命令しながらも、こまめに面《めん》倒《どう》を見ている様《さま》はまるで仲の良い兄妹のようにも見える。また外見はあまり似ていないが、その透明感|溢《あふ》れる不思議な雰囲気がそっくりだった。
一方で、少女が時折少年へ示す甘えたような上《うわ》目《め》遣《づか》いや仕《し》草《ぐさ》は、恋人に対するものといっても過言ではなかった。まだどちらも十代で、少年の方が大きな麻袋を抱えているから、自分たちと同じように旅行中なのだとは察しがついた。
「えっと、実は俺たちは」
と、少年が迷いながら何か言いかけたら、それを素早く少女が引《ひ》き継《つ》いで、彼の腕を胸元に抱き寄せ、
「ご主人様とそれに身体《からだ》でご奉仕するメス犬だよね♪」
にっこり微笑《ほほえ》んだ。
老夫婦の目が点になった。
「ばかやろ! あの人たちひいてたじゃねえか!」
犬《いぬ》神《かみ》使い$《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》が駅に降り立って、ぺちっと自分の犬神≠謔、こを叩《たた》く。ようこはまるで堪《こた》えていない。
啓太の肩に額《ひたい》を擦《こす》りつけ、
「なんで? だって事実じゃない」
啓太は、はあっと溜《ため》息《いき》をつき、肩を落とした。
「……お前、分かっててやってるだろう?」
「なんのこと?」
うるうるとようこが瞳《ひとみ》を潤《うる》ませ、拳《こぶし》を口元に当てている。いかにも不当な取り扱いを受けている健気《けなげ》な女の子といった感じだった。
「わたし、いつも、いつだってケイタにご奉仕してるじゃない〜」
「あほ。奉仕しているのは主に俺《おれ》じゃい」
「ん〜。ケイタ、優しいから♪」
「分かってるならなんとかしろ!」
二人は言い争いながら改札口を抜ける。緩《ゆる》やかな坂道の途中にある門前町が、穏《おだ》やかな秋の光の下でのんびり広がっていた。
はけの依頼を受けて、出《で》張《ば》ってきていたのだ。
その前の日の夕刻、啓太はエプロン姿で家事働きをしていた。鍋《なべ》一杯のお湯がしゅんしゅん沸《わ》いている。とりあえず料理の下ごしらえに入る前に、アイロンがけを済ませておこうと洗《せん》濯《たく》物《もの》の山の隣《となり》に座った。まず大きめのバスタオルをアイロン台に広げ、重たい旧式の鉄アイロンを構える。すると、
「ねえねえ、ケイタ、ケイタ、そんなことよりさ、わたしのお手入れして♪」
黙《だま》ってその様《よう》子《す》を眺めていたようこがベッドから滑り降りてきて、突然、抱きついてきた。ぽふんと尻尾《しっぽ》を出して、それを器用に折り曲げ、啓太の膝《ひざ》の上に置く。彼女の手には以前|購《こう》入《にゅう》した犬用の毛《け》梳《す》きブラシもあった。
啓太はふさふさの尻尾をジッと見つめて。
ジュッとアイロンを押しつけてやろうか一《いっ》瞬《しゅん》、迷ってから。
無造作に横に払いのけた。
「あ〜〜〜」
と、ようこが叫び声を上げる。啓《けい》太《た》は一切無視して再びアイロンがけにいそしんだ。
しかし、ようこはちっともめげていなかった。すぐさまベッドの下に潜《もぐ》り込み、救急箱をごそこそ漁《あさ》ると、中から爪《つめ》切《き》りを取り出して、
「じゃあ、爪切って♪」
今度は手を伸ばしてくる。
細く、白い指先に不釣り合いなほど鋭《するど》く尖《とが》った爪が生《は》えている。啓太は俯《うつむ》き、怒りで少し震《ふる》え始めた。ことんとアイロンを脇《わき》に置く。その間、ようこはいそいそと靴下まで脱《ぬ》いで、足をちょいちょいと啓太の膝《ひざ》の上に乗せ、
「こっちもね♪」
とうとう啓太の我慢が限界に達した。
「それくらい自分でやれ!」
ようこのふくらはぎ辺りに手を添え、一瞬で卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》のようにひっくり返した。ようこは目をぱちくりさせたまま、たわいなくころんと転がる。すらりとした足が上に、三つ編みにしている頭が下に。
ミニスカートが捲《まく》れ上がって、青と白のストライプ模様のパンツが丸見えになっている。
ほどなく。
「うう」
ようこはそのままの姿勢で目元に手をやり、
「わ〜〜〜〜〜〜ん! ケイタがいぢめた!」
じたばたと手足をばたつかせた。ついでに啓太の身体《からだ》をげしげし蹴《け》ってくる。啓太はふうと肩の力を落とす。
「大体な、俺《おれ》、忙しいの! そんなの見りゃ、分かるだろう?」
「だからだもん」
「え?」
「だからなの──────!」
ようこは叫んでいる。啓太は呆《あっ》気《け》にとられていた。
「は?」
そう聞き返したらようこはくすんと鼻を鳴らしてから、
「ケイタ、最近、色々と忙しいし、だから、すきんしっぷをはかろうと思ったの」
「すきんしっぷだあ?」
思いっきり変な顔になって啓太。ようこは素早く起き上がると、ベッドの上に置いてあった読みかけの本を広げてみせた。
『健《すこ》やかペットライフ』
と、タイトルにある。
「……で?」
と、半目になって啓《けい》太《た》。ようこは大いばりで、
「ほら、ここ! ここ! 『スキンシップはとても大事です。トリミング、爪《つめ》切《き》りなどは勿《もち》論《ろん》、普《ふ》段《だん》からこまめに一《いっ》緒《しょ》に遊んで上げてください』」
「って、それは犬の話だろう!」
「わたしは犬《いぬ》神《かみ》!」
「全然、ちげえ──────!」
ようこは啓太の腕を抱え込み、頬《はお》を擦《こす》りつけた。
「ケイタあ、わたしと遊んでよう」
啓太は溜《ため》息《いき》をつく。どうやらようこは相当に欲求不満状態らしい。でも、確かに最近、色々と忙しくて、あまり彼女のことは構ってこなかった。
仕方ない。
彼はアイロンのスイッチを切るとようこの両頬をむにっと引っ張った。
「うし、なにする?」
ちょっと言い聞かせるように、
「ただし、ご飯までだぞ?」
ようこが顔を綻《ほころ》ばせた。
「まっひゃ〜じ♪」
「マッサージ?」
「うん」
「なんで?」
「あのね、なでしこにこの前、聞いたんだけど、カオルのところの犬神はみんな、一月に一《いっ》遍《ぺん》は『触れあい感《かん》謝《しゃ》DAY』っていうのを持っていて、その日は十人それぞれたっぷり独占で遊んで貰《もら》えるんだって」
「ほう」
「それでそれとは別に時々、櫛《くし》で毛を梳《す》いて貰ったり、マッサージしてくれたり、爪も切ってくれるんだって」
「……甘やかされすぎだな」
「わたし、それがすっごく羨《うらや》ましくって、羨ましくて」
啓太は呆《あき》れたように首を振る。それから、ふと気がついて、ようこの顔をマジマジと見つめ、
「ま、待てよ。つうことはなにか? 薫《かおる》のヤツはマッサージとか称して、何時《いつ》もなでしこちゃんの柔らかい身体《からだ》を揉《も》みしだいているのか?」
「うん」
「な、なんてことを……まさか、ともはねには? あのチビにも?」
「うん」
「ヘンタイめ!」
啓《けい》太《た》は吐き捨てた。ようこは額《ひたい》を啓太の肩に擦《こす》りつける。
「ねえ、ケイタ。だから、うちも負けずに色々しよ?」
「しよってお前」
「色々して!」
「……い、いいのか?」
「うん♪」
その時。
「啓太様、あくまで本当のマッサージですよ」
涼やかな声が聞こえた。
見上げると天井の暗がりからすとんと白《しろ》装《しょう》束《ぞく》の美丈夫が一人、床に降り立った。さらさらとした黒髪で片目を隠し、べージュ色のファイルを抱えた犬《いぬ》神《かみ》のはけだった。
「おう、久しぶり」
と、片手を挙げて啓太。はけは膝《ひざ》を突き、恭《うやうや》しく頭を下げてから、
「宗《そう》家《け》より依頼を持って参りました。それと」
生《き》真《ま》面《じ》目《め》に顔を上げる。
「啓太様、一応、念のためご説明しておきますと、私たち犬神は主人に触れて貰《もら》うことをことのほか喜ぶのです。髪や尻尾《しっぽ》の毛を梳《す》いて貰ったり、頭や背中を撫《な》でて貰うことは私たちにとって格別のご褒《ほう》美《び》なのですよ」
「そう……なんだ」
啓太は意外そうにはけを見る。
「お前でもか?」
はけは微笑《ほほえ》んだ。
「はい。わたしでも、です」
古風な白装束で、どこか冷ややかな雰囲気を持っている彼が、老《ろう》婆《ば》に撫でられてごろごろと喉《のど》を鳴らしている光景はちょっと想像つかなかった。
はけはあくまで生真面目な調子で続けた。
「薫様のようにトリミングから、爪《つめ》切《き》り、マッサージまで面《めん》倒《どう》を見ている方は希《まれ》ですが、よその主従も多かれ少なかれ触れあいの機会を持っています。啓太様、出来ましたら、ようこのことも時折|撫《な》でたり、梳《す》いたりしてあげてください」
「うん、してして♪」
「そうすればきっとようこはもっともっと喜んで啓《けい》太《た》様のために働くようになるはずです」
「わたし、ケイタに撫でて貰《もら》うの大好き!」
ようこは尻尾《しっぽ》を左右に忙《せわ》しなく振った。啓太は彼女に目をやって、興《きょう》味《み》深《ぶか》そうにその黒髪をくしゃくしゃ掻《か》き回してみる。
確かにようこは気持ち良さそうに目を細め、しなだれかかってきた。
「お前ら、本当に犬なんだなあ」
啓太が感心したように呟《つぶや》いた。
「それで、その依頼、お引き受けしますか?」
啓太がようこを一通り撫で終わるのを待ってはけが聞いてきた。ようこはふに〜、と心地良さそうな息をついて、顎《あご》を啓太の膝《ひざ》の上に乗っけている。どうやら欲求不満もすっかり治まったようだ。啓太はその頭をぽんぽんと軽く叩《たた》いてから、
「ん〜、憑《つ》き物か」
ファイルを捲《めく》り始めた。
「そのようですね」
「ここには詳しく書いてないけど、『犬《いぬ》神《かみ》使いを絶対に所《しょ》望《もう》』って、なんでだろう?」
「さあ?」
はけは首を傾《かし》げた。珍しく憂《ゆう》慮《りょ》するように、
「啓《けい》太《た》様、その依頼内容はひどく不《ふ》鮮《せん》明《めい》で、今ひとつ要領を得ません。こういう場合、依頼主が混乱しているか……もしくは」
「何かを隠してるやばい仕事かってことだろう?」
「はい」
はけは神妙に肯定した。啓太はしばらく考え、
「ん」
笑った。
「ま、とりあえず行ってみるわ」
そうして、啓太とようこは翌日すぐに旅立った。
木造の駅を出ると、猫のイラストがついた看板や幟《のぼり》があちらこちらに立っていた。それに門前町にしては珍しくお年寄り以上に若い女性や家族連れの姿が目立った。近郊の名《めい》刹《さつ》、法《ほう》明《みょう》寺《じ》は飼い猫の供《く》養《よう》を専門にしたかなり変わったお寺なのだそうだ。
土産《みやげ》物屋の店先で、瀬《せ》戸《と》物の猫や可愛《かわい》らしい子猫の写真で綴《つづ》られたカレンダーなどを手にとって感慨に耽《ふけ》っている人たちが沢《たく》山《さん》いる。
恐らく、最近、飼っていた愛《あい》猫《びょう》でも亡くしたのだろう。
『にゃんにゃん定食』や『猫まんじゅう』と銘打たれた食べ物を提供する食堂や茶屋も結構、繁《はん》盛《じょう》していた。
だが、啓太が探しているのは大《だい》道《どう》寺《じ》であって、法明寺ではなかった。法明寺までの道のりは駅前の案内板に分かりやすいイラストで表示されているのに対して、大道寺の所在地は全く不明だった。啓太はちょっと思案してから、一番、近くの雑貨屋に入った。
そこでラムネを一本ようこに買い与え、彼女がこくこくと嬉《うれ》しそうに飲み干している間、店番をしている老《ろう》婆《ば》に向かって尋ねた。
「婆《ばあ》ちゃん、俺《おれ》、ちょっと道を尋ねたいんだけどさ」
手ぬぐいを姉《あね》さん被《かぶ》りにして、店のレジにちんまり座っていた老婆が頷《うなず》いた。
「お兄さんたち、お若いのに信心深いことだの。法明寺なら」
「あ、違う違う、そこじゃなくって」
「ほいほいこの婆はどうも早とちりでいかん。そうじゃろうとも、そう思っとった。混浴の温泉なら駅の反対側の」
「ん〜、そこでもなくって……いや、そこも行きたいけどさ、俺たちが行きたいのは大道寺っていう」
その途《と》端《たん》、
今の今まで柔和だった老《ろう》婆《ば》の瞳《ひとみ》がくわっと見開かれた。
あまりの豹《ひょう》変《へん》ぶりに啓《けい》太《た》は思わず一歩退き、ようこは飲んでいたラムネをぶっと噴《ふ》き出していた。
「……ぬしら、あの寺になんの用がある?」
老婆が床に降り立ってずずいっと顔を近づけてきた。猜《さい》疑《ぎ》心《しん》に満ちた声。怒りに震《ふる》えた表情だった。
「用ってか、その、俺《おれ》らはただ呼ばれただけで」
「呼ばれた? ぬしら、あの寺の関係者か?」
「いや、違うよ! 違うって!」
啓太が慌てて手を振ったが、老婆は、
「え〜い! この罰当たりどもめ!」
出し抜けにそう叫んで、近くにあったブリキの缶に手を突っ込み、
「出ていけ!」
いきなり一握りの塩を啓太とようこに投げつけてきた。
「ぶわ! ぺ、ペ!」
「いやあ────! い、いきなり、なにするの?」
「ほれ、いね! いね!」
どうもまともに話が出来る状態ではないらしい。二人は這《ほう》々《ほう》の体《てい》でそこから逃げ出した。老婆の形《ぎょう》相《そう》はそれだけ恐ろしかった。背後でがらがらぴしゃっと乱暴に引き戸が閉じる。ついで中からぶつぶつと念仏を唱えるような低い呟《つぶや》き声も聞こえてきた。
「……あのお婆《ばあ》ちゃん、一体、どうしたの?」
ようこが鼻の頭についた塩をぺろりと舌で舐《な》め取って尋ねた。
「さあ?」
啓太は首を捻《ひね》った。
全く分からなかった。
全く分からなかったが、大《だい》道《どう》寺《じ》の名前が老婆の逆《げき》鱗《りん》に触れたことだけは確かだった。なんとなく嫌《いや》な予感がしていた。そして、それを象徴するかのように今まで晴れ渡っていた空がにわかに曇《くも》り出している。
どうやら一雨来そうだった。
二時間後。
啓太とようこは山深い大道寺の本堂に座っていた。
あれから町の駐《ちゅう》在《ざい》所《しょ》でようやく大道寺までの道のりを聞き出して、長い石段を登り、苦労の末、辿《たど》り着いていたのだ。出迎えてくれたのはひどく陰気な感じの住職だった。
どういう訳か両の腕を包帯でぐるぐる巻いていて、頬《ほお》に大きな湿布を貼《は》っていた。啓《けい》太《た》の驚《おどろ》いたような視線を受けて、そそくさと背後に両手を隠すと、二人を暗い、よく軋《きし》む廊下を先《せん》導《どう》して本堂へ誘《いざな》った。
今、住職はお茶を淹《い》れにいっている。
開け放たれた木戸から南《なん》天《てん》の木が雨に悄《しょう》然《ぜん》と打たれているのが目に入った。ちょうど啓太たちが寺に着いた頃《ころ》合《あ》いから本降りになっていた。こぢんまりとした庭の先は林になっていて、赤や黄色に色づいた木々が厚い雲の下、灰色にくすんでいるのが見えた。
ひんやりとした空気が漂っていた。あてがわれた座布団はしけっている。高い柱。年月を経て黒ずんだ床板。ケバだった黄色い畳。染みの浮かんだ天井。先ほどからどういう訳かひどくようこが挙《きょ》動《どう》不《ふ》審《しん》だった。
「……どうした?」
啓太がそう尋ねても、ただ震《ふる》えているばかりだ。小さく身体《からだ》を丸め、啓太の服の裾《すそ》を掴《つか》んで離さない。
このお寺に一歩、踏み込んだ時からそうだった。
「なにか、いるのか?」
ようこは涙目で啓太を見上げ、横に首を振った。よく分からない。彼女の表情が雄弁にそう語っていた。でも、恐《こわ》い。
とっても恐い。
啓太とて気がついてはいた。
このお寺は普通じゃない。
「なんだろうな、これ?」
妖《よう》気《き》?
霊《れい》気《き》?
「いや」
もっと禍《まが》々《まが》しくて不占な予感。その時、フスマがすっと音もなく開いて、隣《となり》の部屋から住職がお盆を運びながら入ってきた。ようこはびくっと身を縮《ちぢ》める。
啓太は見た。
ほんの一《いっ》瞬《しゅん》。
ほんの一瞬だが、フスマの向こうから誰《だれ》かがこちらを凝《ぎょう》視《し》していた……。
それも人と上てあり得ない低さ。
まるで不自然に這《は》い蹲《つくば》って逆さから睨《ね》め上げているような……赤い瞳《ひとみ》。啓太はごくりと喉《のど》を鳴らした。
「よく来てくださいました」
いきなり間近でそう言われて思わず声を上げそうになった。気がつけば啓《けい》太《た》の前に湯気の立つお茶が置かれ、住職が顔を異常なほど近づけてきている。
「ほんとうによく」
床につくほど長い白|髭《ひげ》。禿《とく》頭《とう》。ススキのように枯れはてた印象の住職はそう呟《つぶや》いて啓太の手を絆《ばん》創《そう》膏《こう》だらけの両手で握り、拝むようにして自分の額《ひたい》へ押しつけた。
啓太、顔を強《こわ》張《ば》らせて引く、
「ど、ど〜も」
「改めて御礼を申し上げますぞ、犬《いぬ》神《かみ》使い殿」
住職はそう呟いて自分の座布団に戻ると、手で袂《たもと》を直し、萎《しな》びたニンジンのような指でそっと目《め》尻《じり》の涙を拭《ぬぐ》った。
啓太がちらりとようこを横目で見ると、ようこは一切、住職の方を見ようとはせず、住職が今出てきたフスマの方へ目を釘《くぎ》付《づ》けにしたまま、瘧《おこり》のように震《ふる》えていた。
明らかにその向こうに潜《ひそ》む何者かが。
その息づかいが。
気《け》配《はい》が。
ようこを恐怖に陥れている。
それは信じられない光景だった。啓太が何か声をかけようとしたら、天を斜めに稲《いな》妻《ずま》が貫いた。耳をつんざく轟《ごう》音《おん》。
光と影が一《いっ》瞬《しゅん》で交差する。
雨音が激しさを増した。
啓太はそれで言葉を失った。住職がお茶を啜《すす》る音が聞こえた。
「よく……降りますな」
啓太はそちらに目を向けた。
照明がついていないため、住職の周りに薄《うす》闇《やみ》がわだかまっている。その落ちくぼんだ眼《がん》窩《か》から覗《のぞ》く黄色がかった瞳《ひとみ》だけが異様に浮かび上がって見えた。
「ええ」
啓太は住職に改めて向き直った。
自分の分のお茶を手に取り、口に含む。
舌に痛いほど熱かったが、『お茶を飲む』という行為をとることで気分が大分、落ち着いてきた。相変わらず石化してしまったかのように動かないようこ。フスマの向こうを行ったり来たりし始めた奇妙な存在。
啓太はその両方に注意を払いながら、慎重に尋ねた。
「俺《おれ》、ここに来る途中、随分と苦労しました……付近の人には嫌われてるみたいですね」
まずそうぶつけてみる。住職は視線を落とし、唇だけで笑んでみせた。
「散歩が、どうしても必要なもので」
韜《とう》晦《かい》。
という訳でもないらしいが、意味がまるで繋《つな》がらない。
「近《きん》隣《りん》の衆には申し訳ないことを致しました」
「なるほど」
啓《けい》太《た》はそう言ってみる。
「で、その怪《け》我《が》は?」
「……」
住職は答えない。啓太も喋《しゃべ》らない。ようこは震《ふる》えている。フスマの向こうの存在が爪《つめ》でかりかりとフスマを引《ひ》っ掻《か》いている。
はっきりと。
「分かりました。もう単刀直入に行きましょう。俺《おれ》は見ました。そして、分かります、あの向こうのアレ……憑《つ》き物ですね?」
住職は顔を伏せた。啓太はその動作を肯定と受け取った。
「住職!」
強い声を出す。住職は心折れたように、小さく溜《ため》息《いき》をついた。
「申し訳ない。本当のことをお話ししたらきっとあなたもわしのことを見捨てて、逃げてしまわれるのではないかと……そう思って躊《ちゅう》躇《ちょ》しておりました」
「すると……俺の他《ほか》にも霊《れい》能《のう》者を?」
「ええ、四人ばかり。うち一人は今も病院です。幸い一命は取り留めましたが、一晩で白髪《しらが》になった人もいるほどの」
「住職、話してください」
啓太は親指で自分を示して、ゆっくり言った。
「話して頂かないとなんにも分かりません。でも、少なくてもこの川《かわ》平《ひら》啓太。そうそう生やさしいことで恐れるような男ではないですよ」
またも稲光。住職は顔を上げ、胡《う》乱《ろん》な瞳《ひとみ》で啓太を見上げた。フスマの向こうが騒《さわ》がしくなる。
ようこが啓太にしがみついてくる。
啓太は彼女の肩を抱き、
「さあ」
住職は決心したようだ。
「分かりました。全《すべ》てをお話ししましょう」
と、彼が口を開きかけたその途《と》端《たん》。フスマがば〜んと音を立てて倒れた。
「あんどれあのふ、ダメじゃああ──────!」
その時、全《すべ》てが起こった。
猛烈な勢いで何かが突進してくる。啓《けい》太《た》は咄《とっ》嗟《さ》に動けなかった。見えなかったのではない。見えすぎたが故《ゆえ》に逆に反応できなかったのだ。
あり得ない。
あってはならない光景だった。
スキンヘッド。逞《たくま》しくてかてか光る肉体。赤いフンドシのみを身につけた大男が嬉《うれ》しそうに四つ足で駆けてくると、一番近くにいたようこにのしかかり、ほっぺたをぺろぺろ舌で舐《な》めたのだ。
「う〜ん!」
と、そのまま泡を吹いて後ろ向きにぶっ倒れるようこ。
「あんどれあのふ、め─────!」
住職が指を立て、幼児に対するように叱《しか》る。大男はきゅ〜んと甘えたような、怯《おび》えたような鼻声を上げて、住職の膝《ひざ》に頭を擦《こす》りつけた。
住職はその逞しい首筋を手で優しく叩《たた》き、完全に卒倒しているようこを見て、
「おや、この娘さんは犬がお嫌いか?」
眉《まゆ》をひそめた。
「……いや、そういう問題じゃないだろう? 全く」
啓太が半目になって呟《つぶや》いた。
「全ては法《ほう》明《みょう》寺《じ》と大《だい》道《どう》寺《じ》の歴史に由来する悲《ひ》劇《げき》ですじゃ」
住職は溜《ため》息《いき》をつくと訥《とつ》々《とつ》と話し始めた。
「ご覧《らん》の通り、この大道寺は場所的に少々不便なところに建っております。一方で法明寺は元々開けた場所に建《こん》立《りゅう》されていたのにさらに道を整備して、猫|供《く》養《よう》だけでなく猫の厄《やく》除《よ》け、猫の縁《えん》結《むす》び、猫の安産祈願と手広く間口を広げましての。近年、同じ兄弟寺なのに法明寺はテレビCM、雑誌広告とペットブームの追い風に乗って隆盛を極めているのに対して、大道寺はますます寂れていくばかりでして。最近はうちの寺が何をやってたのか、檀《だん》家《か》の衆からもすっかり忘れ去られている始末なのです」
「……」
「おお、言い忘れておりましたが、我が大道寺は犬供養を専門としておりましての。史書の紐《ひも》を解けば、古くは権《ごん》田《だ》原《わら》の忠《ただ》正《まさ》公が御自分の愛犬と愛《あい》猫《びょう》を」
「……そんなことはどうでもいい」
「こっほん。お若い方は歴史に興《きょう》味《み》がありませんかな?」
「どうでもいいつってんだろ!」
「……とにかく、このままでは寺の維持も覚《おぼ》束《つか》なくなる。そこでわしはやむなくちょっとした企画を考えました。この辺《へん》鄙《ぴ》さ、不便さを逆手に取ろうと。秘境の寺。そういうイメージで若者を呼び込もうとしましたのじゃ……もっとも来たのは案の定、空《から》手《て》家とか武術家とかそういった荒々しい方々ばかりでしたがの」
「おい!」
「その一人があろう事か、犬供《く》養《よう》のための鎮《ちん》魂《こん》岩を割ってしまいましたのじゃ!」
そこで住職はぐっと拳《こぶし》を握り込んだ。啓《けい》太《た》は叫ぶ。
「とにかくまずこいつをなんとかしてくれ!」
しきりに寄ってくるあんどれあのふを丸めた座布団で必死に追い払っていた。あんどれあのふはどうやらようこに対して施した歓迎のご挨《あい》拶《さつ》を啓太にもしないのは、大変な失礼に当たるとでも考えているらしい。
舐《な》められてたまるかと啓太は中腰の体勢で懸《けん》命《めい》に威《い》嚇《かく》している。
住職は額《ひたい》をぺちりと叩《たた》くと、
「これはしたり。気がつきませぬで……あんどれあのふ、おいで!」
あんどれあのふの身体《からだ》を引っ張って呼び戻した。あんどれあのふは啓太と住職を見比べ、軽やかな足取りで住職の傍らに戻った。本物の犬と全く変わらぬ仕《し》草《ぐさ》だった。欠伸《あくび》をして、満足そうに足の先で顎《あご》をカッカッカと掻《か》いている。
ようこは奥の方で寝かされ、
「う〜ん、いぬう〜いぬう〜」
と、唸《うな》っていた。よほど強烈だったのだろう。額に当てた白いおしぼりが目に痛々しかった。啓太は早々とリタイヤした彼女をどこか羨《うらや》ましそうに眺めてから住職に向き直った。
「で、俺《おれ》にどうしろってんだ?」
「犬《いぬ》神《かみ》使い殿。あなたを犬のエキスパートと見込んでお頼み申し上げます。こんなことは本来なら心苦しくて、お願いしにくいのですが……」
「分かった」
「おお、早速、分かって頂けましたか!」
「俺がきっちり引《いん》導《どう》渡してやる」
啓太の目が暗く冷たく光っている。拳《こぶし》をぽきぽき鳴らして、声が本気だった。住職は慌てた。
「い、いやいやいや、違いますぞ、犬神使い殿! それは違います! このあんどれあのふをきちんと成《じょう》仏《ぶつ》させて欲しいのです!」
「だから、成仏だろう?」
「違いますじゃあ!」
あんどれあのふは不安そうに耳を寝かしていた。住職は予供のようにぶんぶんと首を振り、彼の身体《からだ》を抱く。
「この子はいい子なんですじゃあ。本当に本当にいい子なんですじゃあ。ただ、生前、飼い主に恵まれず、遊んでも、撫《な》でても貰《もら》えず、この世に未練がたっぷり残っておりまして、それで鎮《ちん》魂《こん》岩を壊《こわ》したこの方に憑《つ》いてしまった無邪気な子犬のピュアなハートなのですじゃ」
「……子犬かよ」
「うう」
住職は泣く。
「わしとてもう少し若ければあんどれあのふを心ゆくまで撫でて、遊んで、可愛《かわい》がってあげたいところなのですじゃ」
「……待て」
「何か?」
「成《じょう》仏《ぶつ》させる方法って、もしかして」
一度、あんどれあのふを指差してから、
「このフンドシ男を撫でたり、遊んだりして、可愛がるのか?」
「は〜い〜」
住職は満面の笑みを浮かべ、頷《うなず》いた。
「やはり、犬の本《ほん》望《もう》は飼い主とのスキンシップかと」
「帰る」
啓太は荷物をまとめるとそそくさと立ち上がった。
「ああ─────! お待ちあれ、犬《いぬ》神《かみ》使い殿、お待ちあれ!」
住職は懸《けん》命《めい》にすがってくる。啓太の服を掴《つか》んで、涙目で懇《こん》願《がん》した。
「頑《がん》是《ぜ》無い年寄りの頼み、どうかお聞き入れ下され!」
啓太も必死だ。
「マッチョなフンドシ男を撫でさする趣《しゅ》味《み》は毛ほどもねえんだよ!」
住職を振り払い、ようこに辿《たど》り着き、彼女を揺すり起こそうとして、ふとあることに気がついた。
「……」
あんどれあのふを振り返るが、彼ではない。座ってきょとんと啓太を見返していた。だが、聞こえる。あんどれあのふと同じ足音。
同じ息づかい。
それが啓太のいる本堂目指して一散に駆け寄ってくる。
喜びに満ちた暴走。
「おお!」
住職が声を上げた。
「どうやらみんな起きてきたようですな!」
「……みんなって?」
啓《けい》太《た》は恐る恐る尋ねた。額《ひたい》に脂汗が、背筋に冷や汗が伝わっていた。なんとなく想像はついたが答えは聞きたくなかった。
「あんどれあのふ……つまり、この方は元々、大学の空《から》手《て》部主将でして」
「……」
「ちょうど大学の対抗戦を控え、強化合宿の山《やま》籠《ご》もりに部員を引き連れてやって来られた訳でして」
「……」
「幸か不幸か部員が二十名。鎮《ちん》魂《こん》岩に祀《まつ》られていた犬も二十匹。ちょうど数が合いましての」
「うっぎゃああああああ────────!」
啓太の絶叫が辺りに轟《とどろ》いた。
廊下から雪崩《なだれ》れ込んできたのは筋肉の固まりだった。空手着、フンドシ、ジャージ。汗苦しい。暑苦しい。
舌を出し、喜び、息を切らし、我先に襲《おそ》いかかってくる。
「ぐわああああああ───────!」
啓太はようこを肩に引っ担《かつ》いで、本堂の一角へ逃げ込んだ。四《よ》つん這《ば》いの男たちはちゃっちやっと爪《つめ》音《おと》を立てながら追いかけてきた。興《こう》奮《ふん》したあんどれあのふまで吠《ほ》えている。どうやら、みんな啓太に歓迎の意を表明したくて仕方ないらしい。
彼を押し倒し、その頬《ほお》を、口元を舐《な》めたがっている。
その無心な目。
清らかな笑顔。全《すべ》てが死ぬほどおぞましかった!
「た、たす、たすけて……」
啓太は抜けそうになる腰を叱《しっ》咤《た》し、本堂の四隅を支える柱の一つによじ登った。中の一匹。 眉《み》間《けん》に古傷のある野武士のような風《ふう》貌《ぼう》の男が前足というか、手を柱にかけて伸び上がり、嬉《うれ》しそうに啓太のお尻を舐めた。
「!」
啓太、目を見開く。
一体、どこにそんな力があったのかと自分でも驚《おどろ》くほどの速さで遮《しゃ》二《に》無《む》二《に》手足を動かし、天井近くまで達した。この時、啓太は命がけだった。ようこを担いだまま、セミのような姿勢で必死に柱にしがみつく。下を見下ろせば、男たちが何かの遊びだと勘《かん》違《ちが》いしているのか、駆け回り、転げ回り、吠《ほ》え上げ、早く降りて乗いよ!
遊ぼうよ!
と、爪《つめ》で床を引《ひ》っ掻《か》いて待ち受けていた。
「おい!」
啓《けい》太《た》が懸《けん》命《めい》に叫ぶ。
「ようこ、起きろ! 頼む、起きてくれ!」
ようこはう〜ん、と不《ふ》機《き》嫌《げん》そうな声を上げて目を覚ました。
「……なに?」
と、彼女は髪を掻き上げ、自分の置かれた境遇を認めて、
「う〜ん」
また目を回した。
「こらあ────────!」
啓太は焦った。ずり落ちそうになるようこを必死で支えながら、
「簡《かん》単《たん》に寝るな! 寝るんじゃなあ───い! だいじゃえんかしゅくちはどうした!?」
「ううう」
「ようこ、頼む。起きてくれ! 助けてくれ!」
「え〜?」
ようこはとろんした目を開き、啓太の首筋を舐《な》めた。
「えヘへへ、しゅくち」
完全におかしくなっている。
「ケイタ〜、わたしね、大きくなったら、らいおんになるの」
その言葉が犬の吠え声に掻《か》き消される。ようこはじたばたと暴れ始めた。
「や〜ん、ケイタ、わたしまだ子供だよ! なにするの?」
「しゅくちだよ!」
しかし、錯《さく》乱《らん》しているようこに声は届かない。無理もない。ようこは小さな子犬が一匹いるだけで全くの非力に陥るのだ。
それがこれだけ埋め尽くすような異《い》形《ぎょう》な犬がいる場では……。意識を保つことすら難しいのだろう。啓《けい》太《た》は絶叫した。
「助けてくれ──────────!」
住職が口元に手を当て、何か呼びかけてる。
「犬《いぬ》神《かみ》使い殿!」
「おお、見てないで」
男たちの興《こう》奮《ふん》したような吠え声が本堂に飽和して、よく聞き取れない。
「ええ───? なんだって?」
「犬神使い殿!」
住職は苦労して男たちを掻き分け、前に立つと、
「いや、感心しましたぞ。これだけ初見で犬に懐《なつ》かれた御《ご》仁《じん》は貴方《あなた》だけじゃ!」
額《ひたい》の汗をハンカチで拭《ぬぐ》ってにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「い」
啓太は奥歯を噛《か》みしめ、
「言いたいことはそれだけかああ──────────!」
憤《ふん》怒《ぬ》の形《ぎょう》相《そう》で怒《ど》鳴《な》った。
「しゅくち」
その時、ぼんやり虚《うつ》ろに笑ってようこが指を立てた。
霊《れい》力《りょく》が辛《かろ》うじて微《かす》かに発動する。
「よし!」
と、啓太がガッツポーズを取ったその瞬《しゅん》間《かん》。
消えた。
ようこだけ。
「なんじゃそりゃあああ────────────!」
啓《けい》太《た》はバランスを崩して、真っ逆様に落っこちた。
スローモーションのように全《すべ》てが見えていた。一人の男の顎《あご》を押しのけ、立ち上がろうとしたところへ、別の男が突っ込んでくる。そいつを払うと別の奴《やつ》がまた足に絡んできた。圧倒的に多勢に無勢だった。
啓太は床に引きずり倒され、抵抗もむなしく、順番に弄《もてあそ》ばれた。顔中を舐《な》められ、鼻を擦《こす》りつけられ、悲鳴を上げ続けた。その間中ずっとずっと大きく挙《あ》がっていた手がひどくもの悲しい風景だった。
髭《ひげ》がじょりじょり痛かった。
舌が情熱的に熱かった。
それは男たちが歓迎の意思表明はもう充分、と納得するまで続けられた。
放心していた啓太にぱさりと手ぬぐいがかけられた。
「……」
「犬《いぬ》神《かみ》使い殿?」
なるほど。
これなら一晩で白髪《しらが》にもなるし、入院もする。心の底から納得しながら啓太は無言で顔を拭《ぬぐ》った。涎《よだれ》でべとべとだった。また哀《かな》しみの涙がどっと溢《あふ》れた。
住職が心の底から感嘆したように溜《ため》息《いき》をついた。
「あなたは凄《すご》い!」
「おちょくってるのかてめえはあああ────────!」
啓太は跳ね起きて思いっ切り指を突きつけた。住職は慌てたように手を振る。
「い、いや、違いますぞ! ほら、ご覧《らん》なされ!」
そう言って本堂を示した。犬たちは一通り啓太と遊び終えて満足したのか、あちらこちらに散って、思い思いにじゃれ合ったり、欠伸《あくび》をしたり、毛《け》繕《づくろ》いをしていた。うち三匹が啓太に気がついて嬉《うれ》しそうに近寄って来た。
「で?」
と、冷ややかに啓太。
「ほら、あの子たちですじゃ」
見れば廊下に続く戸口近くで空《から》手《て》着《ぎ》姿の男が二人、大の字になってぶっ倒れていた。
「あれが、なんだ?」
住職は興《こう》奮《ふん》したように啓太の手を取った。
「成《じょう》仏《ぶつ》ですじゃ! 今の、たった今の出来事だけでわしや他《ほか》の霊《れい》能《のう》者がいくらやっても叶《かな》うことのなかった『満足』を犬たちに与えてあげることが出来たのですじゃ!」
「……」
言われてみればその二人だけはもう犬のような寝方をしていなかった。端的にいえば気絶というか、昏《こん》倒《とう》している。
「犬《いぬ》神《かみ》使い殿! 貴方《あなた》にはきっと天《てん》賦《ぷ》の犬扱いの才がある!」
そう褒《ほ》められてもちっとも嬉《うれ》しくなかった。
「でも、そうか」
啓《けい》太《た》はぶつぶつ呟《つぶや》いている。
「……犬、だったんだな」
「え?」
「俺《おれ》が舐《な》められたの……そう。俺は犬に舐められたんだよな、はは」
「え、ええ……」
「そっか、そうだよな、犬。犬、こいつらは犬、犬……そ〜〜、いぬ……いぬなら俺、多《た》分《ぶん》、そう」
啓太はゆっくりと髪を掻《か》き回した。
「やんなきゃ」
自分に言い聞かせるようにきつく瞼《まぶた》を閉じていた。
啓太はどっかりと本堂の中央に陣取って、彼の周りを取り囲んだ男たちを見回した。皆、期待に目を輝《かがや》かせ、ハッハッと息を切らしている。
この人は一体、次に何をするんだろう?
遊んで! 遊んで!
そんな顔をしている。このまま、駆け出して逃げても喜んで追いかけてきそうだった。自分の家に彼らが大挙して押し寄せる光景を思い浮かべ、啓太は暗《あん》鬱《うつ》に首を振った。
「よし、まずは……何をしよう?」
ちょっと不自然な笑い方で、傍らの住職を振り返る。
「そうですな」
いつの間にか『健《すこ》やかペットライフ』という本を袂《たもと》から取り出した住職が、ざっとぺージを捲《めく》って一カ所を指差した。
「やはり、まずは基本のスキンシップ。撫《な》でてあげましょう!」
啓太は固まった。
「犬《いぬ》神《かみ》使い殿?」
そう声をかけられて首を振る。懊《おう》悩《のう》をロボットのような無表情の中に押し隠すと、一番近くにいたジャージ姿の一《ひと》際《きわ》、大きな兄貴を手招いた。ゲジゲジ眉《まゆ》毛《げ》の彼はとことこと寄ってきて啓太の手の甲を舐めた。ざわっと鳥肌が立って、思わずその手を切り落としてしまいたくなるその衝《しょう》動《どう》を懸《けん》命《めい》に堪《こら》え、
(犬! こいつはあくまで犬なんだ!)
荒い息をつきながら、啓《けい》太《た》は歯を食いしばり、男の角刈りに手を置いた。
「ほ〜ら、いい子いい子!」
懸命に笑い、わしわしと髪を撫《な》でる。他《ほか》の犬たちが羨《うらや》ましそうにく〜んく〜んと鳴いている。自分だけ撫でて貰《もら》えた角刈りの男は大喜びだ。
啓太の頬《ほお》に甘えるように鼻面を擦《こす》りつけてくる。
「あ、ぐ」
啓太の口元からつっと血が流れ落ちた。気絶しないように舌を噛《か》んだのだ。悶《もん》死《し》寸前。限界を超えて、啓太は男の首を掻《か》き抱いた。
「よ〜しよし」
ようこを撫でさすってやった時の記《き》憶《おく》が蘇《よみがえ》り、彼女は柔らかかったなあ、可愛《かわい》かったなあ、と走《そう》馬《ま》燈《とう》のように思い返しながら、これからはせめて優しくしてやろうとぼんやり考える。
ぼんやりと。
「わん!」
男は今度はひっくり返った。お腹《なか》を見せ、手と足を折り曲げ、服従のポーズだ。大体、何を要求しているのか、啓太にも分かった。
恐る恐る住職を振り返ると、ぐっと拳《こぶし》を握ってゴーサインを出している。啓太は半泣きの表情で向き直り、男の腹を措先でちょんちょんと触れた。筋肉でごつごつしていた。「わん」と男が無邪気に喜ぶ。
「ぢぐじょおお──────────!」
もうやけくそのように啓太は男の身体《からだ》中を撫で回し始めた。
結局、息も絶え絶えになって全《すべ》ての男を撫で終えた。
「凄《すご》い、凄いですぞ、犬《いぬ》神《かみ》使い殿!」
どこか遠くで住職が興《こう》奮《ふん》したように叫んでいるのが聞こえる。啓太は放心したように天井を見上げていた。
脳みそのどこかが緩《ゆる》く溶けかけていた。
「今のでもう三匹、昇天致しました!」
男たちは啓太が撫でさすっている最中に次々と成《じょう》仏《ぶつ》していった。いきなり気を失って丸太のように転がったのを奇妙に冷静に見ていたような気がする。ふっと啓太の顔にあってはならない微笑《ほほえ》みが浮かんでいた。
「犬神使い殿?」
「ん〜?」
「……大丈夫ですか?」
「ああ? ……いや、俺《おれ》は大丈夫さ。それよりこの犬たちも早いとこ送ってやろうぜ」
啓《けい》太《た》はそう答え、住職の手にあった『健《すこ》やかペットライフ』を奪い取ると、読み込み、確認した。
「よ〜し、次はトリミング。毛《け》繕《づくろ》いか」
ぼんやり一同を見回し、
「って、こいつら毛がねえじゃねえか!」
本を床に叩《たた》きつけた。
人はその存在理由を根本から揺るがされる事態に直面した時、自らを守るためにある種の幻を作り上げる。過酷な現実に打ちのめされまいと心が優しい嘘《うそ》の世界を見せるのだ。弱く悲しい人間の性《さが》なのかもしれない。
痛くないように。それ以上、大事なものが壊《こわ》れてしまわないように。
例えばフンドシ姿の男を可愛《かわい》い犬の姿で見るように。
大多数がスキンヘッド。もしくは短髪だったのでシャンプーなどは諦《あきら》めた。代わりに男たちを湯殿に連れていき、住職と協力してお湯をかけ、束子《たわし》で擦《こす》ってやり、嫌《いや》がる者もいたが、なんとか全員|綺《き》麗《れい》にしてやった。
「ほ〜ら、キレイキレイ」
タオルで拭《ふ》いている最中に、啓太の目に病んだような優しい光が浮かんでいる。
一人、とりわけ頑強に抵抗してきた奴《やつ》が指をかぷっと噛《か》んだが、
「痛くない」
啓太は微《み》塵《じん》も動かなかった。ジッと男の瞳《ひとみ》を見つめ、
「怯《おび》えていただけなんだよね?」
男はく〜んと尻《しり》込《ご》みした。啓太はそっと男のおでこを撫《な》でた。頑《かたく》なだった男の態度に確かな変化が現れた。申し訳なさそうに啓太の指をぺろぺろ舐《な》めたのだ。「フフフフ」と啓太は爽《さわ》やかに笑い、男を抱っこした。
「いいこ♪」
「労《いたわ》りと友愛ですな〜」
住職がしみじみ感じ入ったように涙を拭《ぬぐ》っていた。
雨も上がった夕刻の駅前。この地に猫|供《く》養《よう》のために訪れていた家族連れや若い女の問から絶叫が上がっていた。
彼らは我先に逃げる。
逃げるはずだった。
半裸に近い男たちが総勢九名。首輪に繋《つな》がれ、ハッハッと息を切らしながら、走り回っているのだ。その綱の端を握り、少年が楽しそうにスキップしながら、
「お〜い、ぷっふふぁると、ろざりーぬ! そんなに慌てるな、慌てるな! まだまだたっぷり遊んでやるからな!」
啓《けい》太《た》と残った九匹の犬たちはそれから遊び倒した。河原で棒きれの拾いっこをやった。大通りを闊《かっ》歩《ぽ》し、人数分のソーセージを買って、共に分かち合いながら食べた。混浴の露《ろ》天《てん》風《ぶ》呂《ろ》にみんなで一《いっ》緒《しょ》に入った。
悲鳴も、混乱も、彼らの世界には影《えい》響《きょう》なかった。
犬と人が一体化して、彼らはじゃれ合った。パトカーのサイレンが鳴り響《ひび》く頃《ころ》には既《すで》に大《だい》道《どう》寺《じ》に引き上げ、本堂でまたふざけっこをした。
夜も更《ふ》け、九匹が六匹に減り、四匹になり、とうとう最後にはあんどれあのふと啓太だけが残った。
他《ほか》は皆、綺《き》麗《れい》に成《じょう》仏《ぶつ》して、本堂の各所に転がっている。
十二時を回り、今までなんとか頑張っていた住職も柱に寄っかかり、大イビキを掻《か》いていた。
啓太は今はもう可愛《かわい》くて仕方ないあんどれあのふの頭を優しく撫《な》でた。
「お前さ、よっぽど、この世に未練が残ってたんだな」
さすがに遊び疲れたのか、あんどれあのふがとろんとした目で啓太を見上げる。幸せそうな欠伸《あくび》をして、また顎《あご》を啓太の膝《ひざ》に乗っけた。
「ごめんな」
啓太は呟《つぶや》いた。
「お前、きっと人間が好きだったんだな。でも、人間はお前の想《おも》いに応《こた》えてやれなかった。たったこれだけのことなのに」
朦《もう》朧《ろう》と天井を見上げ、
「ほんの少し一緒に遊んでやれば、お前ら犬はもうそれだけで満足するのにさ……あんどれあのふ。俺《おれ》、昔、大きな犬が欲しかったんだ。でっかくって強くて賢《かしこ》いヤツ。そう。ちょうど今のお前みたいなの。でも、飼えなかった……あんどれあのふ。今度、俺の家のそばで遊ぼうな〜。なにしようか? 美味《おい》しいドッグフード食べたいか? 食べたことあるか、あんどれあのふ……あんどれあのふ?」
だが、あんどれあのふの返事はない。啓太は異変に気がついて、慌ててあんどれあのふを見下ろした。彼の身体《からだ》から霊《れい》気《き》がほわっと浮かび上がっている。
啓太にももう分かった。
成《じょう》仏《ぶつ》しかけている。満足したのだ。もう良いと、もう思い残すことはないとこの犬はそう考えているのだ。たったこれだけのことで。
啓《けい》太《た》の瞳《ひとみ》に大粒の涙が浮かんだ。
「うう」
彼の首筋を抱きしめ、
「うわあああ────────! あんどれあのふ──────!」
思いっきり叫んだ。
もっと一《いっ》緒《しょ》に遊んであげたかった。
もっと色々してやりたかった。
不遇な犬の一生に、せめて人間として報いてやりたかった。それなのにこの犬はたったこれっぽちのことでもう満足しようとしている。あんどれあのふは最後に一度、心地よさそうに鼻を鳴らして、そして。
昇天した。
翌朝、開け放たれた雨戸からようこがすうっとお寺に帰ってきた。気がつけば彼女は林の中で寝ていた。咋日の記《き》憶《おく》が曖《あい》昧《まい》で定かでなく、頭がずきずき痛む。ただ、ここで何かとてつもなく恐ろしいことが起きたことは微《かす》かに覚えているので不安そうな表情だった。
「……ケイタ?」
そう呼びかけ、一通り辺りを見回して、
「!」
ようこはギョッとする。
本堂ではそこかしこに男たちがぶっ倒れていて、酷《ひど》い有様だった。中でも啓太はスキンヘッドの大男に抱きついたまま、
「う〜ん、あんどれあのふ」
涙を浮かべてそう寝言を言っていた。
朝日の中、それは一《ひと》際《きわ》、凄《せい》絶《ぜつ》な光景だった。
「で、結局、どうなったのですか?」
一週間後のことである。啓太の家に立ち寄ったはけが静かに尋ねた。ようこは封筒から便せんと一枚の写真を取り出すと、はけに手渡した。
「これは?」
ようこがこくりと頷《うなず》く。
「あのお寺からのお手紙」
はけはざっと目を走らせた。それによるとあの後、意識を取り戻した男たちと住職との間に言葉を超えたなんとも言いようのない連帯感が築かれ、二十人のうちの三人が住職見習いとしてお寺に住み込み、残りの者も入れ替わり、立つち替わり、お寺のお手伝いをすることに決まったそうだ。
今、若い力によって大《だい》道《どう》寺《じ》は犬専門の供《く》養《よう》寺だということを積極的に周囲に喧《けん》伝《でん》し始めている。色々と前途多難だが、
「まあ、この写真を見る限りは大丈夫そうですね」
はけが呟《つぶや》いた。筋骨隆々たる男がそれぞれポーズをつけて、白い歯をにっと見せ、笑っていた。住職が嬉《うれ》しそうに中央でピースサインをしている。
「すると問題は」
はけは冷や汗を掻《か》きながらベッドの上の啓《けい》太《た》を振り返った。
「うふふ」
彼の人格は既《すで》に崩《ほう》壊《かい》していた。
あれだけの負担。あれだけの負荷。男の身体《からだ》を触り続ける難行苦行に、彼の精神はついに殻に閉じ籠《こも》る、という選《せん》択《たく》肢《し》を選ぶしかなかったのだろう。
「うへへへへへへへ」
啓太は突如、奇声を発した。
「いぬ〜〜〜! 男がいぬう〜〜〜〜〜〜!」
へらへらと笑いながら突然、四《よ》つん這《ば》いになって、部屋中を駆け回り始める。はけは驚《おどろ》いて後ろに退いた。ようこはなんでもないような顔で跳ぶと、垂直落下。啓太の頭に思いっ切りフライパンを叩《たた》きつけた。
啓太はきゅ〜と目を回した。
「……ようこ、あの、大丈夫ですか?」
胡《う》乱《ろん》な目で、何か歌を歌っている啓太。
はけの強《こわ》張《ば》ったような問いにようこは啓太の首筋に手を回し、少し悪戯《いたずら》っぽく笑う。彼の頬《ほお》に自分の頬を押しつけ、
「だいじょ〜ぶ。だって、これから、わたしが責任持って飼ってあげる♪」
そう言って軽くウインクしてみせた。
すっごく嬉しそうな顔つきだった。
からりと晴れ渡った空,
目に眩《まばゆ》い陽光。プールサイドには椰子《やし》の木が植えられ、さやさやと涼しげな葉ずれの音を聞かせている。
ここは南国。
いずことも知れぬ楽園だった。
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》はイヴサンローランのバスローブを身にまとい、レイバンのサングラスをかけて、デッキチェアに気《け》怠《だる》く寝そべっていた。
「ん」
アイボリーのスタンドからカラフルなトロピカルドリンクを手に取る。
「んぐ、んぐ」
差してあったパラソルをどけ、嬉《うれ》しそうな顔で口に含む。
「ようこ」
一息ついて彼は呼びかけた。
「はい、ケイタ様?」
彼の足下に傅《かしず》いて、芭《ば》蕉《しょう》の図扇《うちわ》でゆったりと風を送っていた犬《いぬ》神《かみ》のようこが顔を上げた。オレンジ色の際《きわ》どいビキニに熱帯の花々で飾られたパレオを巻いている。肌は健康的な小麦色に焼け、浮かべている表情はいつもより貞淑だった。
「俺《おれ》はこれからあの子たちを選《よ》り取り見どりで選ぶ……決してヤキモチを焼くなよ?」
啓太はプールの中で笑いさざめいている美女の群れを指差して念を押した。ようこは淑《しと》やかに微笑《ほほえ》む。
「はい、ケイタ様」
すすっと彼の胸元にすり寄り、
「ようこはご主人様のなさることに対して一切、文句は申しません」
「そ〜か、そ〜か」
啓太は相《そう》好《ごう》を崩し、ようこの艶《つや》やかな黒髪を手で弄《もてあそ》んだ。
「いい子だ。後でお前もきちんと可愛《かわい》がってやる」
ようこは頬《ほお》を赤らめ、恥じらった。その首筋につけている大きなごつごつとした首輪を満足そうに眺め、自分の首から下げた十八金製カエルチェーンを指先で軽く確かめてから、啓太はゆったりと立ち上がった。
ようこがさりげなく後ろに回ってローブを脱がせてくれた。
「さ、ケイタ様。みんなもう待ちかねておりますよ」
ようこが耳元で囁《ささや》いた通り、プールの中ではブロンドから黒髪まで各国の、タイプの違う、豊満な美人ばかりが色とりどりの水着姿で手招いていた。
「啓太様、早く、早く!」
「HURRY UP、KEITA!」
啓《けい》太《た》はぶるっと身《み》震《ぶる》いをした。
「ケイタ様。浮気も結構ですが、先ほどのようことの約束、忘れないでくださいね」
ようこが悪戯《いたずら》っぽくお尻《しり》をつねってくる。
だが、啓太は上の空だった。目はプールの中に釘《くぎ》付《づ》けのままだ。薄《うす》い布地のビキニから覗《のぞ》く白い乳や太《ふと》股《もも》。さながら水中の百《ひゃっ》花《か》繚《りょう》乱《らん》。煌《きら》めく夏の光とプールの水|飛沫《しぶき》。美女たちは歓声を上げ、遊び、戯《たわむ》れている。
その数ざっと二十人。
これからそのどの花を摘《つ》んでも良いのだ!
啓太はサングラスをようこに預けると、準備体操代わりにかぽんかぽんと両腕を胸の前で交差させた。それから踏切台まで一気に走り出して、エメラルドグリーンに輝《かがや》く水面に向かって思いっ切りよく飛び込んだ。
「どおうりゃあああ─────────!」
爽《さわ》やかな女の子たちの笑顔だけが瞼《まぶた》の奥に残っていた。
どぼん。
視界が反転して幾《いく》らか水を飲み込んだ。啓太は満面の笑みで水面に浮上して、ふと表情を一変させた。おかしい。
気がつけば、宝石のように澄《す》んでいたプールが、血の池のように真っ赤に澱《よど》んで、ぶくぶくと泡立っていた。
次に目に留まったのが空の色だ。
ほんの一《いっ》瞬《しゅん》前まで鮮《あざ》やかなマリンブルーだったのに、今はつゆ知らぬ問に異界に降り立っていたかのように不安で、毒々しい雲に覆《おお》われていた。
およそこの世の景色ではなかった。
水《みず》際《ぎわ》までごつごつとした岩が迫っていて、遠くから鴉《からす》の断《だん》末《まつ》魔《ま》のような、罪人が地獄で舌を抜かれているような、何とも言えない絶叫が聞こえてきた。
啓太は動転しながら周囲を見回した。
美女たちはどういう訳か全員プールに顔を沈めている。
手を真《ま》っ直《す》ぐに前に突き出し、髪を水面に漂わせ、まるで水草のようだった。一見、水死体のようにも見えた。
「お、おい」
啓太は戸《と》惑《まど》い、そのうちの一人を抱き起こそうとして、
「きゃはははははははははは!」
ぎよっとしたように顔を上げた。
「ケ〜タ、ケ〜タ、ケ〜タ♪ そこが一体どこだか分かる? 浮気なあなたのいるところは一体どこでしょう?」
見れば岩場に腰をかけてようこが歌いながら、笑いながら、足をぱたぱたさせていた。心の底から楽しそうにこちらを見つめている。
啓《けい》太《た》はそちらの方へ一歩、足を踏み出した。
「ようこ、これはいったい」
そこで彼は誰《だれ》かに手首を掴《つか》まれ、足を止めた。
恐る恐る背後を振り返ると美女の一人が未《いま》だ顔を水に浸《つ》けたまま、手首を握ってくる。もの凄《すご》い力だった。いや、美女ではなかった。
恐怖で喉《のど》の奥がみるみる干上がっていった。
二十人の美女たちがゆっくりと顔を上げていく。おぞましいことに全員が全員全く同じ顔の逞《たくま》しいマッチョに姿を変えていた!
啓太の目が大きく見開かれる。そして、その次の瞬《しゅん》間《かん》、男たちは啓太の見ている前で水中に潜《もぐ》ると、腿《もも》を突き出し、ぴんと伸ばした爪《つま》先《さき》を伸ばして、一糸乱れぬ動きで宙に揃《そろ》えた。
そのまま彫像のように動かなくなった。
毛ずねの、筋骨隆々たる足がにょっきり真っ赤な沼から生《は》えている。
悪夢のような。
地獄のようなシンクロナイズドスイミングだった。
「うっぎゃああああ──────────!」
啓太の絶叫が迸《ほとばし》った。
「そう。じ・ご・く♪」
ようこが立ち上がり、ちっちちと指を振った。
彼女が手でギターを掻《か》き鳴らすような真《ま》似《ね》をすると、アップテンポの音楽が大音量で辺りに響《ひび》き渡った。てってってっとステップを踏んでいるようこ。その音色に乗って、四十本の逞しい足はうねうねとくねりながら踊り出す。
目も眩《くら》むような幻想的かつ怪奇的な光景だった。
啓太は「あわ、あわあわわわ」と訳の分からない言葉を呟《つぶや》きながら、半分抜けた腰で這《は》い泳ぎ、ようこの足下まで逃げた。
足たちはさ〜と統率の取れた動きで追ってくる。
「た、助けて……ようこ、助けて!」
半分、泣きじゃくりながら、べそをかきながら啓太は岩をよじ登ろうとした、ようこは微笑《ほほえ》みながら彼の手を握り、引っ張り上げてくれた。
啓太が顔をくしゃくしゃにして礼を述べようとしたその時。
ようこの表情が一転した。
「ざ〜んねんでした」
彼の額《ひたい》に形の良い足を乗せ、
「浮気者さん♪」
蹴られた。
あっと。
口を開きながら、啓《けい》太《た》は落ちていった。男たちが歓喜の表情を浮かべ、待ちかまえているその水の中へ。
「えいえんにそこにいるといいよ」
最後にようこは残《ざん》酷《こく》な微笑《ほほえ》みを浮かべていた。
叫んで、身をよじり、無我夢中で跳ね起きた。気がつけば啓太は脂汗にまみれながらベッドの上で喉《のど》を掻《か》きむしっていた。
荒い息をつく。
最後に男たちの足に絡みつかれたそのすね毛の感触が未《いま》だに鮮《せん》明《めい》に身体《からだ》に残っていた。月明かりの下、よく見れば二の腕にびっしりと鳥肌が立っている。
「ゆ、ゆめかあ……」
啓太は空中で丸くなってすやすやと寝息を立てているようこを見上げ、どっと前のめりに倒れ込んだ。
安《あん》堵《ど》感以上の、なんとも言えない虚脱感が彼の全身を包んでいった。
ここ一、二週間ずっとずっとこうだった。悪夢が彼を責め苛《さいな》んでいるのだ。あの思い出すのも忌まわしい男寺の一件以来だった。毎回、毎回、その内容は異なっていたが、異常な環《かん》境《きょう》でマッチョな男どもに追い回される大筋は共通していた。
しかし、今回が一番、酷《ひど》かった。
特にようこだ。
「こいつ」
啓太は半目になって立ち上がり、薄《うす》青《あお》いネグリジェ姿のようこを指で突いた。
「ご主人様である俺《おれ》を蹴落としやがって!」
ようこはうにゃうにゃ寝言を言いながらつうっとよれていく。風船のように漂って壁《かべ》にこつんと当たると、器用に向きを変え、また寝息を立て始めた。今度は足が天井に向いて、逆さになっている。
ようこの眠りはあくまで深かった。
「ふう」
啓《けい》太《た》は溜《ため》息《いき》をつき、あぐらを掻《か》いてベッドの上に座り込んだ。枕《まくらら》元《もと》の目覚まし時計を見てみる。午前二時半だった。外はまだ薄《うす》暗《ぐら》い。
でも、もう目はすっかり冴《さ》え渡ってしまっている。
仕方ない。
「また悪夢を見るのもイヤだし」
そう呟《つぶや》いて、テレビのスイッチに手を伸ばした。深夜放送でも見ながら、もう一度、眠気が訪れるのを待とう。そう考えて、彼はふと思い直した。
ようこを見上げ、未《いま》だ彼女が寝入ったままなのをきちんと確認してから、にんまりほくそ笑む。そそくさと動いて、ベッドの奥のビデオテープを一本、取り出した。
『珠《たま》子《こ》のメイドヘブン in Japan〜どんどん尽くしちゃいますヨ〜』
と、タイトルにある。購《こう》入《にゅう》してからまだ一度も封を切ったことのない貴重品だった。啓太はイヤホンを準備するといそいそとビデオテープをデッキにセットした。
今までの経験上、ようこが本気で寝入っている場合、ちょっとやそっとの物音では起きてこないことは知っていた。手をこね合わせ、叩《こう》頭《とう》して、えっちなビデオを見る時の自分なりの儀《ぎ》式《しき》をこなす。それから啓太は喜び勇んで再生ボタンを押した。
『ダメです、あん、ご主人様ったら!』
ちゃらぽらぴらぽ〜。
扇情的な美女の嬌《きょう》声《せい》と共に妙に間延びした音楽が流れる。啓太は鼻息を荒くして、画面にかじりついた。豊満な肢《し》体《たい》が露《あら》わになっていく。ちょっとずつ、ちょっとずつ、焦《じ》らすように珠子ちゃんは脱いでいった。
ん?
その時、ふと啓太は違和感を覚えた。
「あれ?」
そう呟き一応、確認してみる。どした?
お前の大好物だぞ?
そんな感じで短パンの上に視線を落としてみた。不思議なことにいつもなら元気に跳ね起きてきて啓太を困らせる暴れモノが、今日に限っては全くぴくりとも動かなかった。
あれ?
あれれ?
啓太の顔に次第に焦りの色が浮かび始める。変だ。明らかに変だ。啓太は飼っていたペットが異常を来《きた》した飼い主のように懸《けん》命《めい》にすがった。
「お、おい、こら! しっかりしろ!?」
言いようのない不安が込み上げてきた。
ビデオはどんどん進んでいるのに、色っぽくも若い女の子が艶《なま》めかしく喘《あえ》いでいるのに、あろうことか、なんということか!
「そんな!」
啓《けい》太《た》は頬《ほお》に両手をあてがい、甲《かん》高《だか》い悲鳴を上げた。
「いっやあああ────────────!」
翌朝、寝ぼけ眼《まなこ》を擦《こす》って起きてきたようこは、ビデオテープの山の中で毛布を被《かぶ》り、ひたすらに啜《すす》り泣いている啓太を目《ま》の当たりにすることになる。
「……それで、一晩中、ずっとえっちなびでおを見続けてたの?」
と、一通り事情を聞き終えて、ビデオテープの一つを手に取ったようこが尋ねた。冷ややかに目を細めている。
一体、どこに隠していたのか『珠《たま》子《こ》ちゃんシリーズ』だけでざっと十本はあった。他《ほか》にも和モノ、洋モノ、普通な趣《しゅ》向《こう》から、あまり人に公言出来ないようなジャンルまで様々なえっちビデオがうずたかく床に積まれていた。
ちょっと呆《あき》れるくらいの量だった。
「で、結局、その」
こっほん。
ようこは少し頬を赤らめ、咳《せき》払《ばら》いをした。
「ソレはも〜、きちんと治った?」
ぴんと指を一本立てる。
さすがに男性の生理現象をストレートに尋ねるのは憚《はばか》られたのだろう。
「ちっとも」
啓太はくっすんと鼻を鳴らした。ようこがふふっと笑う。
「も〜、ケイタのお馬《ば》鹿《か》さん」
ベッドに腰を下ろし、彼の頭を優しく撫《な》でる。
「それって要するにわたしの得意じゃんるじゃない!」
啓太は毛布の奥から、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を覗《のぞ》かせた。
「……お前の得意ジャンルって?」
「そんなびでおに頼らなくてもこのわたしがいるじゃない。啓太のようこさんがさ! 遠《えん》慮《りょ》しなくても、ちょっと起こしてくれればよかったのに〜♪」
ようこは啓太の身体《からだ》を毛布ごと抱きしめ、頬をすりすりした。
啓太はびっくりしていた。
「な、なんだよ?」
怯《おび》えた亀《かめ》の子のように身を縮《ちぢ》こめる。ようこは色っぽく目を細めた。
「もう鈍感なんだから……」
彼女はすっと立ち上がると、流れるような黒髪を手でしなやかに払った。朝日の射《さ》し込む中、彼女の本来持っている本能が、計算され尽くしたポーズを導《みちび》き出す。斜めに伸ばした足を卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》にそっと乗っけた。
「でも、本当にちょっとだけだよ?」
頬《ほお》を真っ赤にしている。やってることはかなり大胆で挑発的だったが、顔を背け、初《うい》々《うい》しく恥じらっていた。
「ほら」
ネグリジェの裾《すそ》を摘《つま》み、少し持ち上げる。
「は?」
と、啓《けい》太《た》。
「もっと? ほら」
ようこは困ったように眉《まゆ》をひそめ、細い指をいそいそと動かした。真白く、すらりと長い足が露《あら》わになっていく。
「……」
啓太はぽか〜んとしていた。ようこはそれを不足と受け取ったのだろう。さらに限界ぎりぎりまで布地をたくし上げ、上《うわ》目《め》遣《づか》いになった。
「……これで、どう?」
ピンクの下着が微《かす》かに見えている。
ぷっ。
やにわに啓太が噴《ふ》き出した。
ようこのやってる行動の意味をようやく理解したのだ。それで彼は堪《こら》えきれなくなってベッドの上をのたうち回った。
「あっはははははははは!」
どんどんと拳《こぶし》で枕《まくら》を叩《たた》く。
「い〜ひひひひひひひひ!」
この世の中でこれ以上、可笑《おか》しいことはないというくらい爆《ばく》笑《しょう》している。ようこは顔からぼっと湯気を立てた。
恥ずかしさと怒りで、だ。
彼女はつかつかと歩み寄ると啓太の腕をむんずと掴み、思いっ切り胸を張り、そこに啓太の手を堂々とあてがった。どうだ!
と言わんばかりに彼を睨《にら》みつける。
啓太は一《いっ》瞬《しゅん》、笑うのを止《や》めた。
興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに涙目のようこの顔を見つめ、もみもみと両手を動かす。ブラジャーを着けていない彼女の胸の形がかなりはっきりと分かった。
ん。
ようこが切なそうに唇を噛《か》んだ。
普《ふ》段《だん》、勝ち気に輝《かがや》く瞳《ひとみ》を、込み上げてくる羞《しゅう》恥《ち》心《しん》故《ゆえ》か、弱々しく逸《そ》らしている。首を振り、堪《こら》えきれずに声を漏らした。
「あ」
しかし、あろうことか。
「ぷ」
わはははははははは!
と、啓《けい》太《た》は再び腹を押さえて転げ回り出した。最初、唖《あ》然《ぜん》としたように彼を見下ろしていたようこだが、啓太があまりにも馬《ば》鹿《か》笑いを止《や》めないので、次第に怒りが込み上げてきたようだ。肩を震《ふる》わせ、ぎりぎりと歯噛みをした。
拳《こぶし》を握り込んでも、まだ啓太はひいひい笑い続けている。
とうとうようこの限界が訪れた。
「ケイタのバカあああああ────────────!」
朝っぱらから超特大の爆《ばく》発《はつ》が起こったのはその時だった。
「す、すみまへんでした……」
顔中をぼこぼこに変形させた啓《けい》太《た》が床の上で深々と土下座をしてみせた。髪の毛は煤《すす》だらけで、鼻には血染めのティッシュが詰め込まれていた。逆上したようこにだいじゃえんの後、フライパンで滅《めっ》多《た》打《う》ちにされたのだ。
しかし、それもある意味、当然の報いだろう。
「知らない!」
ようこは腕を組み、ふいっとそっぽを向く。乙女《おとめ》の純情を踏みにじられた彼女は未《いま》だに怒りの矛《ほこ》先《さき》を収めていなかった。
啓太は表面が無惨に焼け焦げた卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》を踏み越え、ようこの肩に手をかけた。
「ようこ〜。だから、俺《おれ》が悪かったってばさ」
「ケイタ、わたしのこと笑った!」
「いや、だから、あれは違うんだよ。あれは自分に対して笑ってた自暴自棄笑いというかさ」
「折《せっ》角《かく》、助けてあげようと思ったのに!」
「すまん。ほんと、マジで、すまん。後でチョコレートケーキ、山ほど食わせてやるから」
啓太は合《がっ》掌《しょう》して頭を下げる。
「このと〜り!」
「モノじゃつられないも〜ん」
と、言いつつようやくようこも振り返る。未だに涙目で、膨《ふく》れっ面だった。啓太は力なく笑った。そのフグのように膨らんだ頬《ほお》を指で困ったように突っつき、
「お前はさ、確かに綺《き》麗《れい》だよ。すげえ色っぽいとも思う。でも、普《ふ》段《だん》ならともかく、こういった非常事態ではダメなんだ。男ってさ……難《なん》儀《ぎ》な生き物なんだ」
「なんで?」
きょとんと首を傾《かし》げるようこ。啓太は溜《ため》息《いき》をついた。
「見慣れてるから」
「む」
「いや、この場合、お前がど〜こ〜つうよりさ……なんと言ったら良いんだろう。例えばさ、どんなに美味《おい》しいチョコレートケーキでも毎日、毎日、食べ続けていればいつかはきっと飽きるたろう? それとおんなじ」
「わたし絶対、飽きないもん!」
「ん〜」
啓太は頭を掻《か》く。なんと説明すれば良いのか迷っている様《よう》子《す》だった。ようこはどこか不安そうに啓太の襟《えり》元《もと》を掴《つか》み、揺らした。
「ねえ、ケイタ。ということは、もしかしてもうわたしのこと飽きちゃったの?」
「……待てよ」
啓《けい》太《た》は急に何か思いついたように天井を見上げた。次にねえ〜と揺さぶってくるようこの顔を見つめ、彼女に匹《ひっ》敵《てき》する美少女の存在を思い出し、ぽんと手を叩《たた》いた。
「あの子だ!」
「はけ様から連絡を頂いて参りました。啓太様、ようこさん、お久しぶりです!」
その日の午後のことである。
犬《いぬ》神《かみ》のなでしこがそう挨《あい》拶《さつ》しながら颯《さっ》爽《そう》と姿を現した。唐《から》草《くさ》模様の風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを床の上に降ろすと、部屋をざっと見回し、割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》の袖《そで》を捲《まく》った。
「なるほど。これはかなりのものですね〜」
彼女は大きく頷《うなず》いてからまた動き出す。髪をきゅっとまとめ、バケツに水を貯《た》め、自前のスリッパを履《は》き、まずビデオの山の整理に取りかかった。鼻歌を歌いながら、なんとなく張り合いが出来て嬉《うれ》しそうだった。
「わたし今日はおはぎを作って持ってきたんですよ、おはぎ。一段落ついたらお茶にしますからどうぞ食べてくださいね〜」
あっという間にビデオを卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》に並べ終えると、小さめのハタキで高い場所から埃《ほこり》を落としていく。爪《つま》先《さき》立ちになって電灯の笠に手を伸ばし、本の詰まった棚の上の小物にも丁《てい》寧《ねい》にハタキをかけた。
「そうそう。ナスのぬか漬けもあったんだ。薫《かおる》様やみんなには結構、評判良かったんですよ、わたしのナスのぬか漬け。お二人ともぬか漬けは大丈夫ですか?」
くるくると動き回り、今度は箒《ほうき》とちりとりを巧みに扱いながら床《ゆか》を掃いていく。
「ねか床《どこ》ってお手入れが大変だけど、その分、きちんと美味《おい》しくなってくれるから嬉《うれ》しいですよね。まるで生き物でもお世話しているみたい」
その途中で腰を落とし、隅の方に転がっていたカエルのケシゴムを拾い上げた。グレーのストッキングに包まれた足と、スカートの上からでも分かる丸くて形の良いお尻がこちらを向いている。
「……」
「……」
啓太とようこは二人|揃《そろ》ってベッドの上にちょこんと正座をしていた二人とも異様に真剣な表情で前のめりになって、なでしこのお尻をじっと凝《ぎょう》視《し》していた。
なでしこは中腰の姿勢のまま、その赤いケシゴムをしげしげと見つめてから、ふと顔を綻《ほころ》ばせた。カエルのケシゴムが沢《たく》山《さん》詰まったガラスのジャーが啓太の部屋にあったのを思い出したからだ。テレビの上ですぐにそれを見つけた。
歩いていって蓋《ふた》を開けると、そっと赤いカエルをその中に戻してあげた。
「はい。みんなのところに帰れて良かったね♪」
ぽんぽんと入れ物の縁《ふち》を軽く叩《たた》き、微笑《ほほえ》んで言った。
ついでにお尻《しり》も一《いっ》緒《しょ》にいってしまった。
はっと我に返ってようこが啓《けい》太《た》の脇《わき》腹《ばら》を肘《ひじ》で突っつく。啓太も決まり悪げに咳《せき》払《ばら》いを幾《いく》度《ど》かした。
「あの、なでしこちゃん?」
「はい、なんでしょう?」
額《ひたい》の辺りを手の甲で拭《ぬぐ》いながらなでしこはにっこり振り返った。
「さっきから一体ナニをやってるの?」
「なにって……」
彼女は怪《け》訝《げん》そうな表情を作った。
「ご覧《らん》の通りお掃除ですが?」
「うん。だから……なんで?」
「え? だって、啓太様がわたしのことを呼んでいるって聞いて、あ」
彼女は手で口元を押さえた。
「ごめんなさい。わたしてっきり家事のお手伝いだとばかり思ってました」
ばつの悪そうな上《うわ》目《め》遣《づか》いで、
「だって、わたしじゃないとダメだって」
「うん。キミじゃないとダメだとは思うんだけどね」
妙にきっぱりと頷《うなず》く啓太。
「多《た》分《ぶん》」
そう付け加える。
「なでしこちゃん」
「はい、なんでしょう」
「……」
「……」
「……」
「……」
啓太は口を開けたまま、投げかけるべき適当な言葉を見つけられず固まっている。ようこはその隣《となり》で正座をしながらこめかみ辺りをこりこりと指で掻《か》いていた。
穏《おだ》やかに微笑んで次の言葉を待っているなでしこ。
「例えばね」
と、啓太がようやく切り出す。
「ここにおっぱいに生涯を費やした老人が一人いるとする」
「……」
「その老人は病院のベッドに寝ていて、もう医者も匙《さじ》を投げた状態だ。彼は幼い頃《ころ》からおっぱいが死ぬほど好きで好きで、三度のメシを食べるよりおっぱい、おっぱいって言ってきた」
「あ、あのわたしにはよく」
何か言いかけるなでしこを啓《けい》太《た》は一方的に手で遮った。
「ところが老人はどうしても心から納得する真の美乳にはついぞ出会うことが出来なかった。哀《かな》しいもんさ。おっぱいに殉じて、ただおっぱいのためだけに生きてきたのに究極のおっぱい、至高のおっぱいはとうとう拝めなかったんだもの。まあ、でもそもそもが何をして理想のおっぱいとするかというと各人の趣《しゅ》味《み》が色々と反映される訳で、例えば大きいのも、小さいのも」
「ケイタ。違うでしょう?」
「こっほん」
ようこに冷ややかに水を差され、啓太はすぐに話の筋道を元に戻した。
「でね、ところがね、その老人を担当していた看《かん》護《ご》婦さんが実はその究極絶対無敵の美乳の持ち主だったんだな、これが。運命的にも」
「は、はあ」
「老人はその鍛《きた》えに鍛え上げた眼力で見抜いた。制服の上から、病に衰えた目で知ったんだ。可能性がある。この人のおっぱいは生涯かけて探し求めた最高のものかもしれないって。泣きながらね、弱々しい手を差しのべ、こう言ったんだ。『お願い……そのおっぱい見せて』って」
「……」
「この場合、この看護婦さんは人道的におっぱいを見せてあげるべきだと思わない? 人助けとして」
あまりといえばあまりな話の内容に、なでしこはひたすら顔を赤らめている。啓太はにじり寄った。ねっとりと汗を浮かべて、
「ねえ、なでしこちゃん?」
「うう」
「もし仮になんだけどね」
「はい」
「キミがこの美乳の看《かん》護《ご》婦さんならばだね。きっと見せてあげるよね? だって、キミはとっても心の優しい女の子なんだし……気の毒な老人の末《まつ》期《ご》のお願いなんてとても断れないでしょう?」
上《うわ》目《め》遣《づか》いになり、真っ赤な顔をさらに火《ほ》照《て》らせ、なでしこは言葉を失う。
「なでしこちゃん?」
「うう」
ようやくなでしこが掠《かす》れ声を出した。
「……多《た》分《ぶん》、こっそりと……はい。あの」
「え? なに?」
「だから、あの、わたし、自分で言うのもなんですが……ひじょ〜に情に流されやすいタイプでして、きっと」
「ありがとう! きっとキミなら分かってくれると信じていたよ」
啓《けい》太《た》はなでしこの白い手をぎゅっと握った。
「ならば、脱《ぬ》いで……くれるよね?」
「はい?」
なでしこは固まった。
「イヤです! 絶対、絶対、イヤ──────です!」
一通り啓太の事情を聞き終えて、突如なでしこが叫び出した。胸元を守るように両腕で掻《か》き抱き、ぶんぶんと首を振る。
「きっぱりお断りさせて頂きます!」
「そんなあ〜」
啓太は哀《かな》しそうになでしこを見上げる。
「何も揉《も》んだり、触《さわ》ったりしようって訳じゃないんだよ? 俺《おれ》の回復にちょっと手助け、というかその大きな胸で助けてくれればいいんだ」
「言語道断です!」
「ほんの少し愛《め》でるだけなのに〜……さっき見せてくれるって言ったじゃん!」
「それとこれとは全然、話が違います!」
キッともの凄《すご》い形《ぎょう》相《そう》で啓太を睨《にら》むなでしこ。啓太はその剣「けん」幕《まく》に思わず鼻《はな》白《じろ》む。ようこは啓太の膝《ひざ》をぺちぺち叩《たた》いて、意地悪くにんまり囁《ささや》いた。
「ほ〜ら、わたしが言ったじゃない♪ なでしこは絶対、しないって」
啓太は諦《あきら》めきれない。指を一本立て、
「じゃ、じゃあ、せめて太《ふと》股《もも》とか足を中心に撫《な》で回すというのは?」
「イ、ヤ、です!」
「ならば、パンツはどうだろう? スカートさえ捲《まく》ってくれれば後は勝手に」
「……啓太様? いい加減にしないとわたしそのうちホンキで怒りますよ?」
「そのお尻《しり》をあ、ウソウソ!」
慌てて首を振る啓太。正座しているなでしこは異様な迫力で上《うわ》目《め》遣《づか》いになる。本気で恐《こわ》かった。啓太は大きく溜《ため》息《いき》をついてみせた。
「はあ、やっぱりダメか」
彼はそう呟《つぶや》き、そのままずりずりと腰を落とした。不安そうな、半泣きの表情で髪をくしゃくしゃしゃと掻《か》き回す。重度のスランプに陥ったプロスポーツ選手というか、借金の返済が明日に迫った債務者というかそんな感じの落ち込み方だった。
「俺《おれ》、ホント、どうしよう……」
ようこがぺちぺちと興《きょう》味《み》深《ぶか》そうにその頭を叩《たた》いている。
うう、とさらに簡《かん》単《たん》に深いところまで落ち込んでいく啓《けい》太《た》。それが面《おも》白《しろ》いのかようこはさらにぺちぺちと啓太を追い込んだ。
放っておくと二人で何時《いつ》までもそうやっていそうだった。
なでしこがこほんと咳《せき》払《ばら》いを一つした。
「あの、啓太様……一体、どうしてその〜、あの〜」
何か言おうとしているが、恥ずかしすぎて言葉になっていない。大体、何を問うてるのか悟って、啓太は哀《かな》しそうに笑った。
「皆目、分からない。昨日、夜、起きたら既《すで》にこうなってたんだ。全く生まれて初めてだよ、こんなこと。俺は十歳の頃《ころ》から朝起きた時は必ず」
「そ、そこら辺の説明は一切不要です!」
「そう?」
「はい!」
力一杯|頷《うなず》くなでしこ。ようこは思い出したように顎《あご》に指を当て、
「そういえば、ケイタ、いつも元気だったよね〜」
「ふ」
啓太は遠い目で天井を見上げた。
「それが今ではこのざまさ」
「……ケイタ、あのさあ」
ようこは言葉を選びながら困ったように喋《しゃべ》り出した。
「わたしよく分からないんだけどさ、ソレ、動かないとそんなにイケナイものなのかなあ?」
「……どういう意味だ?」
啓太の訝《いぶか》しげな問いに、
「今朝《けさ》からケイタ見てるとさ、大《おお》騒《さわ》ぎはしてるけどあんまり基本的には変わってないんだよね〜。普通に女の子は好きなままだし……日常生活にさして差し障りがあるようにも思えないんだけど?」
なでしこは赤面している。ようこは大《おお》真《ま》面《じ》目《め》だ。啓太は優しい、余人には分からない悲しさと辛《つら》さと諦《あきら》めの入り交じった顔で微笑した。
彼の隣《となり》に座ったようこを見やり、
「いいか、ようこ?」
「うん」
「俺《おれ》は喩《たと》えるなら大空を自由に飛び回る烏だった」
「うん」
「そして、これは」
と、股《こ》間《かん》を指差し、
「そのための翼《つばさ》だったんだよ。天高く飛《ひ》翔《しょう》するためのな」
「……うん」
よく分からない表情でようこが頷《うなず》く。言ってて何かを思い出したのだろう。啓《けい》太《た》の目にほろりと苦い涙が浮かんだ。彼は慌ててそれを手で拭《ぬぐ》う。
「あ、あれ……おかしいな。川《かわ》平《ひら》の男はこんなことくらいじゃ泣かないはずなのに」
ぐしっと鼻を啜《すす》って、
「悲しくなんて……ないさ。すぐに治るモノ。こんなもの何かの具合で……はは〜、大丈夫、大丈夫。大丈夫だよ、俺が知る限り、これで死んだ人間は未《いま》だかつていないんだし、はは、はははは。いいじゃねえか、ちょうどいい休息だよ、休息。これから勝つんだもん!」
乾いた笑いでひたすら強がりを言い続ける啓太。
「かつもん!」
また涙が溢《あふ》れ、
「まけないもん!」
ほとんど幼児退行している。なでしこはじっと俯《うつむ》いたままだったが、その瞳《ひとみ》にある種の決意を浮かべていた。
「いいですか、啓太様! さっき言った三つの約束、必ず守ってくださいね!?」
浴室の扉から顔だけ出して、なでしこが喧《やかま》しく念を押していた。啓太は台所の床にひれ伏して涙を流している。女神の降《こう》臨《りん》を待っている信者といった風《ふ》情《ぜい》である。
「なでしこちゃん、ありがとう! ホントにホントにありがとう! 約束するよ! 絶対に触らないし、近づかない! もう国宝扱ってるつもりで接する!」
結局、とうとうなでしこが情に流されたのであった。
ようこは天井から逆さまになってなでしこに問いかけた。
「あんた、本当にいいの?」
「全然、よくはないんですが……」
人道上の見地から戦地に赴く従軍|看《かん》護《ご》婦のようになでしこは決然と頷いた。
「この際、仕方ありません!」
ようこはいまいち不服そうな顔だ。お気に入りの水着を貸してあげたのだが、彼女は実にそれを窮《きゅう》屈《くつ》そうに着込んでいる。
身長はほとんど変わらないのに。特に胸の部分だけ。
それも不満の種だった。
(薫《かおる》様、ごめんなさい……)
なでしこは心の中でそう呟《つぶや》いて、白い爪《つま》先《さき》を床につけた。扉からおずおずと姿を現す。啓《けい》太《た》はおおっとどよめいた。ふん。
ようこは冷ややかな半目になる。
「どうでしょう?」
上半身に着ているヨットパーカーを手で引き下げ、なんとか剥《む》き出しの足を少しでも隠そうとしながら、なでしこは上《うわ》目《め》遣《づか》いになった。何故《なぜ》か熱い砂浜にでもいるように足を交互に上げたり、下げたりしている。
啓太は大きく喘《あえ》いだ。
「こ、この世の奇跡だ……」
目から滝のように涙をこぼしていた。前のめりになって手をつき、這《は》っていく。確かにその恰《かっ》好《こう》のなでしこは可愛《かわい》かった。
清純で可《か》憐《れん》でそして何よりも色っぽかった。
ようこの青い簡《かん》素《そ》な水着に啓太のヨットパーカーを羽《は》織《お》っている。袖《そで》の辺りがぶかぶかなので手が指先まで隠れ、内《うち》股《また》になっていた。羞《しゅう》恥《ち》に染まる頬《ほお》。
なでしこは普《ふ》段《だん》からきちんと家の中でもソックスやタイツを履《は》いている。それが全く見慣れぬ素足というだけでもどこか艶《なま》めかしいものがあった。細い足首にすらりとしたふくらはぎや太《ふと》股《もも》がパーカーの中に続いて半分隠れている。
全体的にようこよりも女性的で丸みがあった。
対して上は潤《うる》んだように光る大きな瞳《ひとみ》と端整な顔立ち。さらさらと流れる栗《くり》色の髪。襟《えり》元《もと》から少しだけ覗《のぞ》く華《きゃ》奢《しゃ》な白い首筋。想像するしかなかったが形の良いヒップと豊かなバストは完全にパーカーの中だった。
これがなでしこの出したぎりぎりの条件だった。
条件その一:水着になっても良いですが、羽織るモノがなければ絶対イヤです!
啓太にはそれで充分だった。
はあはあと荒い息をつきながら、震《ふる》える手をなでしこに伸ばす。なでしこは怯《おび》えきったように胸元を掻《か》き抱き、一歩、退いた。こつんと背中が壁《かべ》に当たる。ようこがその時、空中で咳《せき》払《ばら》いを一つした。
フライパンで肩の辺りをとんとん叩《たた》きつつ、指を一本立てている。
「ケイタ、分かってるね?」
「あ、ああ」
啓太は夢遊病者のように頷《うなず》いた。
条件その二:どんなことがあっても、何があっても絶対わたしの身体《からだ》に手を触れないでください! お願い!
「なでしこ、安心して! もしケイタが約束破ったら」
そう言ってようこはにやりと笑うとフライパンを思いっきり素振りした。なでしこはそちらをすがるような目で見ている。その間、啓《けい》太《た》は瞳《ひとみ》を異様に血走らせ、ひ〜ふ〜ひ〜ふ〜と妖《あや》しげな呼吸を繰《く》り返していた。
今にも過呼吸で倒れてしまいそうだった。
さながら砂漠でオアシスを見つけた遭《そう》難《なん》者というか、生涯かけて探し求めた財宝を目《ま》の当たりにしたトレジャーハンターというか。
逝《い》ってしまう寸前のようだった。まずなでしこの襟《えり》元《もと》に鼻を近づけ、ふんふんさせる。それから、そのまま、ゆっくりと下に降りていって白い太《ふと》股《もも》の上で手をかざした。今度は一転、興《きょう》味《み》深《ぶか》い地層を観察している地質学者のような真《ま》面《じ》目《め》な顔つきだった。
しゃがみ込み、
「う〜ん」
とか唸《うな》ってる。もう片方の手を顎《あご》に当て、苦しんでいた。一方、ようこはファウルがないか厳《きび》しく監《かん》視《し》している。看守のようにフライパンの底で手のひらを叩《たた》きながら、彼の手元をじっと覗《のぞ》き込んでいた、
もじもじと決まり悪げに膝《ひざ》と膝を擦《こす》り合わせるなでしこ。
条件その三:五分です。わたしそれが自分の限界だと信じています……。
浴室から出てきて既《すで》に二分|経《た》っていた。なでしこは祈るような面《おも》もちで、台所の柱にかけられた時計の針を見上げていた。
泣き出しそうな、せっぱ詰まった表情だった。
罰則:以上のことを一つでも破ったら、わたし二度と啓《けい》太《た》様とは口を利きません!
毛布にくるまったまま蓑《みの》虫《むし》のようになって出てこない啓太。夕刻。日が落ち、真っ赤な光が部屋を満たしている。コッチ、コッチ、コッチと時計の針が時を刻み、往来をゆったりとした声で、ちり紙交換が通り過ぎていく。
ようこはベッドの脇《わき》に立って、複雑そうな顔をしていた。
「ケ〜タ?」
返事がない。ぽ〜んと飛んで毛布に乗っかってみた。反応もない。ようこは困った。
「どしたの? いいじゃない、なでしこでダメだったからってさ」
あれから結局、なんの変化も起こらなかった。とうとう逆上した啓太がなでしこに飛びかかろうとして、ようこに燃《も》やされ、なでしこに引っぱたかれ、ついでに二人に布団蒸しされ、散々、打《ちょう》擲《ちゃく》されて事が全《すべ》て終わっていた。なでしこは怒ったような、恐《きょう》縮《しゅく》したような、ほっとしたような顔でそそくさと帰っていった。
「お薬だってきっともっとよく効くのがあるよ」
啓太はその後、財布を持って街に飛び出していった。妖《あや》しい漢方系のお店を巡《めぐ》り、ありとあらゆるお薬を試したのだ。ニンニクを買い込み、山《やま》芋《いも》と一《いっ》緒《しょ》に擂《す》り粉《こ》木《ぎ》ですり潰《つぶ》して、飲み込んだ。その他《ほか》にもスッポンの粉末、朝《ちょう》鮮《せん》人《にん》参《じん》、マムシのお酒。
胃ががばがばになるほど精力増強剤を飲み干した。だが、単にコメカミが異様にひくひく脈打って、お腹《なか》が緩《ゆる》くなっただけだった。
貯金を使い果たした上に、なんの効果も表れなかった。
「ケイタ、ほら、起きてよ。ご飯、作ってよ〜」
そう甘えてみた。毛布越しに抱きつく。すると。
「ダメだああ─────────────!」
突如、啓太が爆《ばく》発《はつ》的にベッドの上に跳ね起きて、ようこを払い落とした。
「きゃ!」
と、床に転がって背中と後頭部を壁《かべ》にぶつけるようこ。毛布が視界を遮ったので、それを払いのけながら慌てて目線を上に向ける。
「ケ、ケイタ?」
結構、平静な顔の啓《けい》太《た》ががちゃがちゃとベルトを直しながら、ようこを見下ろしていた。爽《さわ》やかに笑いながら、
「はははは、ダメだった」
そう言う。ようこは、
「……何が?」
簡《かん》潔《けつ》にそれだけ聞く。啓太は意味ありげに目を伏せ、黙《だま》ってジッパーを上げていた。
「ねえ、何が?」
「おお、もうこんな時間か」
「ねえ、答えて! ケイタ、毛布の下で一体、何やってたの!」
ようこは必死だ。
「夕飯何がいい?」
「答えろ────────!」
その途《と》端《たん》、啓太の目が剣《けん》呑《のん》に光った。ようこの方へ右手を差し伸ばす。
「い、いや」
「バカ、上だ!」
言われてすぐにようこも気がついた。すっと目を細め、身体《からだ》を沈める。啓太が同時に叫んだ。
「おい! そこにいる誰《だれ》か! 三秒だ!」
ジーンズのポケットに手を伸ばし、
「三秒だけ待ってやる。泥《どろ》棒《ぼう》だかなんだか知らねえが、その間に降りてくれば悪い扱いはしない。ただ降りてこない場合はこちらも本気で攻《こう》撃《げき》を仕掛けるぞ! 三秒だ! いいか? 絶対、逃げられねえからな!」
カエルのケシゴムを取り出しながら、天井を見上げた。しんと部屋が静まり返る。ようこは手に炎の玉を浮かべた。
「三」
啓太はカエルのケシゴムを振りかぶった。
「二」
ことさら不敵に笑った。
「一」
「参りましたな」
そんな穏《おだ》やかな声が聞こえてきた。やがて天井の羽《は》目《め》板《いた》の一枚ががたりと外れ、そこから口《くち》髭《ひげ》を蓄えた銀髪の紳士がひょっこり顔を出した。
逆さまの姿勢で被《かぶ》っていたシルクハットの縁《ふち》をひょいっと摘《つま》み、
「やあ、初めまして。ムッシュー川《かわ》平《ひら》」
恭《うやうや》しくそう言う。
「……」
「……」
ようこも啓《けい》太《た》もぽかんとしていた。その間、銀髪の紳士は鮮《あざ》やかな身のこなしでベッドの上に飛び降りると、天井裏に向かって声をかけた。
「皆さん、とりあえず自己紹介をした方が良いでしょう。足下にお気をつけて」
そんな言葉を受けて、縄《なわ》ばしごがするすると床に降ろされる。それを伝って二人の男が新たに姿を現した。人は渋い着流し姿で、もう一人はサラリーマン風である。どう見ても配線工事や何かで屋根裏にいた人たちのようには見えない。
「な、なんだなんだ、あんたら?」
啓太は予想外の展開に困惑している。銀髪の紳上は鷹《おう》揚《よう》に、
「ああ、お構いなく。お茶の在《あり》処《か》は分かってますから」
そう言ってマントを翻《ひるがえ》すと、さっさか台所の方へ向かっていった。他《ほか》の二人はどっかりと卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の前に腰を下ろした。
「おい! あんた、勝手に何してるんだよ!」
啓太の咎《とが》め立ても全く聞いている気《け》配《はい》はない。手《て》際《ぎわ》よく戸棚からお茶の葉を取り出し、急《きゅう》須《す》にポットのお湯を人れ、図《ずう》々《ずう》しいことに奥に仕《し》舞《ま》っていたおせんべいも見つけていた。まるで最初からその位置にあることを知っていたかのようだった。
「ふむ、ドクトル。わしはせんべいよりも何か甘いモノが良いな」
臙《えん》脂《じ》色の和服に、ごま塩頭の男が袂《たもと》に手を入れてそう注文をつけた。銀髪の紳士はにっこりと微笑《ほほえ》む。
「ははは、親方は確か甘党でしたっけね」
そう言って勝手知ったる他人の家とばかりに無造作に冷蔵庫を開け、小皿の上に載ったチョコレートケーキを取り出した。
今度はようこが目を剥《む》く。
「あ〜〜〜、それわたしの! わたしが楽しみにとっておいたの!」
慌てて手を伸ばす。それを銀髪の紳士はひょいっとかわして、
「で、係長はお茶《ちゃ》請《う》け何になさいます?」
座布団の上で恐《きょう》縮《しゅく》しきったように正座をしている小太りの男に向かって尋ねた。こちらはどこにでもいそうなごくありふれた風《ふう》貌《ぼう》だった。まだ若いのに薄《うす》くなった髪を七三に分けて、ハンカチでしきりに額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》っていた。白いワイシャツに野《や》暮《ぼ》ったいスーツ姿。それに少し大きめの鞄《かばん》を大事そうに小《こ》脇《わき》に抱え込んでいる。
「あ、僕、結構です」
「そうですか」
銀髪の紳士はあっさり頷《うなず》いて、卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の上にてきぱきお茶の用意をしていった。まるでこの部屋の主《あるじ》のようなごく自然で、悠《ゆう》然《ぜん》とした態度だった。
「おい、ようこ」
と、もの凄《すご》く冷ややかな声で啓《けい》太《た》が言った。
「こういう訳の分からないヘンタイどもに夕刻の和《なご》やかな時間、突然、押し掛けられたら、きちんとした教育のある犬《いぬ》神《かみ》は一体どうおもてなしすればいい?」
ようこは涙目で、ぶるぶると震《ふる》え、
「殺す!」
叫んだ。
親方と呼ばれた職人風の男がようこのケーキをいかにもまずそうな顔をして食べていた。啓太は大きく頷《うなず》く。
「やれ」
親指で床を示したまさにその時。
「!」
三人は全く同時に頭を伏せ、這《は》い蹲《つくば》った。さながら機関銃の発砲音を聞いた最前線の兵士のようだった。それまでむっつりしていた職人風の男や、座布団の上で落ち着かなく身じろぎをしていた小太りの男も信じられないような俊敏さを見せている。タイミングを完全にすかされ、ようこが目を白黒させた。
だが、どうも彼らは彼女に対してそのような警《けい》戒《かい》体勢をとった訳ではないらしかった。
それはすぐに分かった。遠くからパトカーの音が近づいてくる。ファンファンと甲《かん》高《だか》いサイレンを鳴らしていた。ちょうど、その時、部屋の中の緊《きん》張《ちょう》感がピークに達した。しかし、パトカーはそこで足を止めることもなく、余《よ》韻《いん》を響《ひび》かせながらすぐに遠ざかっていく。やがてまた夕暮れ時のざわついた雰囲気が戻ってきた。
ようやくほっとした顔で起き上がってくる一同。
啓太は頷いた。
「なるほど」
それだけ呟《つぶや》いて早速、携帯電話をポケットから取り出す。
銀髪の紳士が穏《おだ》やかに声をかけた。
「川《かわ》平《ひら》さん? 一体、どちらにおかけになる気ですか?」
「警察」
と、ごく当たり前の口調で啓太。
「では、あなたは私たちの差し伸べる救いの手をみすみすふいにすると?」
銀髪の紳士が言う。啓太はにべもなかった。
「いきなり人んちの天井から訪ねてきて、パトカーのサイレン恐がるようなヘンタイどもの助けなどいらん」
すると今の今まで二人のやり取りを黙《だま》って見ていた職人風の男がぶっきらぼうに吐き捨てた。
「いいじゃねえか、ドクトル」
「親方」
「そいつがわしらの助けなどいらんというなら無理に頼み込んで助けさせて頂かなくても帰るまでよ。警《けい》察《さつ》? は! 面《おも》白《しろ》いね! 上等だね! 電話して貰《もら》おうじゃねえか! あのドジでノロマな連中がやってくる頃《ころ》にはわしらはそれぞれ自分の家に戻って風《ふ》呂《ろ》でも入って飯食って屁《へ》こいて寝ているよ」
「ですが、親方、川《かわ》平《ひら》さんにはいつもお世話になってることだし」
「そりゃあ、ドクトル、あんただけだ!」
親方はふいっとそっぽを向く。今度は同じく事態を静観していた小太りの男。係長がぼっそりと話し始めた。
「でも、親方。これからお世話になるかもしれないんだし、川平さんに仁義を通しておくのは筋なんじゃないかなあ」
「……」
「それにね、川平さんはやっぱり僕《ぼく》らの仲間だから」
「まてまてまてまて」
啓《けい》太《た》は慌てて間に割って入った。
「今、なんかものすげえ聞き捨てにならないこと言ったな?」
「はい」
係長はちょっと気恥ずかしそうに頷《うなず》いた。
「あなたの四回連続逮捕は既《すで》に伝説になってますよ、僕らの問では」
啓太、絶句している。
「ええ。確かに我らの仲間で川平啓太の名前を知らぬ者は一人もおりませんな。いるとしたらそれはモグリです」
と、ドクトルがにこにこ顔で補足する。
「お若いのに大胆不敵な露《ろ》出《しゅつ》ぶり。これ以上ない官《かん》憲《けん》とのやり取り。それなのに堂々と娑《しゃ》婆《ば》を歩くその厚顔さ」
「ま、待てよ」
「実は私たちの集まりでもあなたを名誉会員として迎え入れないかという話が持ち上がったことがあるのです。ただその時はあなたの年《ねん》齢《れい》が考《こう》慮《りょ》されて見送られましたが」
「待てっての! 俺《おれ》のアレは全部、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》なの! 誤解なの!」
くすくす笑っているようこ。啓太はキッと彼女を睨《にら》み、卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》を叩《たた》いた。
「俺はヘンタイじゃねえ!」
その途《と》端《たん》、ドクトルが急に真顔になった。
「ええ。私たちもですよ。ただ、この世の中の仕組みがイエスを作り上げ、私たちをノーとするのです。この愛すべき魂の狩人《かりうど》、自由への飛《ひ》翔《しょう》者、羞《しゅう》恥《ち》心《しん》のパンチドランカーたちをね。だからこそ私たちは団結しなければなりません」
「あ、あのな」
力が抜けてへたり込んでいる啓《けい》太《た》。ドクトルは真剣に話し続けた。
「川《かわ》平《ひら》さん。今日は驚《おどろ》きましたよ。あちらこちらの薬屋で回春剤を鬼のような形《ぎょう》相《そう》で購《こう》入《にゅう》している少年がいる、それもあの有名な川平啓太だと言うじゃありませんか。私たちはそういった方面の情報網はしっかりと持っていますからね、すぐさま有志が三人結集してかの有名な川平啓太さんをお助けするべくこうして参上した訳です」
「わ〜、ケイタって有名人なんだね♪」
「全然、嬉《うれ》しくねえ!」
啓太が叫ぶ。
ドクトルは爽《さわ》やかに笑って、他の二人を見返した。
「さあ、誰《だれ》からがいいだろう? 誰から行きます?」
その言葉に親方がまずむっつりと片手を挙げた。
「ま、年の順で俺《おれ》から行かせて貰《もら》おうか」
親方はゆっくりと立ち上がると腕を組み、眼光|鋭《するど》く啓太を、そして、ようこを見下ろした。
「いいか? 本当は俺もお前の根性が気に入ってたからこうして来たんだ。どうのこうの言ったってな、三回捕まって続けるのはナミじゃねえ。ナミの素質じゃねえ。それは俺もお前と同じ一番、アッチに近えことやってるから分かるのよ」
啓太は訳も分からず目を白黒させる。なんだか、気難しい人間国宝クラスの職人に弟子入りを志願しているみたいだった。
「これには幾つか作法がある。家元こそねえが、茶道や華道みたいなもんだ。前段階でドジ踏むトーシローが多くってどちらかというとそっちにばかり目がいくが、本来はドウグを手に入れてからが本番だ。そこで下手《へた》を打つと折《せっ》角《かく》のミョウミを全部、殺してしまうことにもなりかねねえ。だから、自己流もいいが、やっぱり最初は師匠についた方がいい。分かったな?」
「は?」
「返事ははい、だ! ばかやろ───!」
いきなり怒鳴られ啓太は慌てた。
「あ、あの、俺にはなんだかよく」
「ま、と言いたいところだが、お前さんも急いでいるようだし、手っ取り早く仕上げよう」
いいか?
そう言って親方は威《い》厳《げん》たっぷりに押入れの方へ向かうと、年季の入った手つきでがらりと引き戸を開けた。透明な衣服ケースを幾《いく》つか引っ張り出し、『よ〜こ♪』と紙が貼《は》られた蓋《ふた》を開け、ごそごそと中を引っ掻《か》き回してからピンク色のパンツを掴《つか》み上げ、
「ほう。九七年スーパー今《いま》丸《まる》製の製品番号A1869だな。こいつは生地は丈夫なんだが、色落ちがちと早いのが難点だ」
顔を近づけ、匂《にお》いを少しかいでから、
「うん。悪くねえ。いいか? これを」
と言って振り返った瞬《しゅん》間《かん》。
フライパンで思いっ切り顔面を強打される。
「ぶ!」
鼻血を出して仰《の》け反《ぞ》ったところへようこの蹴《け》りがごすごすと容赦なく鳩尾《みぞおち》に入る。どかばきぼす。無言でフライパンの殴《おう》打《だ》。
「ちょ、ちょ!」
と、手を挙げたところに、
「じゃえん!」
下着ごと燃やされ、
「しゅくち!」
表の通りに放り出され、
「だいじゃえん!」
さらにコンボで大《だい》爆《ばく》発《はつ》。絶叫が往来から響《ひび》き、道行く人の悲鳴が上がった。ようこはふうっと額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》うと、
「空《むな》しい勝利だわ……」
アンニュイに手を組み、天井を見上げた。部屋に残った者は固まったままだった。遠くの方からサイレンの音が聞こえ始めた。
「あ〜あ。やっぱり問答無用で捕まってますね、親方」
窓から見下ろしながらドクトルが気の毒そうにそう言った。下着の燃えかすをしっかり握りしめたまま、担《たん》架《か》に乗せられ、そのすぐそばに警《けい》官《かん》が付き添って彼は運ばれていく。待機していたパトカーがやがて走り出した。
その場に残った警官たちが三人ほど何事か連絡を取り合っている。一人が鋭《するど》い目つきでこちらを見上げてきたので、ドクトルは目立たないようにそっとカーテンを閉めた。
「要するに、あいつ指名手配中の下着泥か」
啓《けい》太《た》が腕を組み、冷ややかに言う。ドクトルはちょっと困ったように答えた。
「親方はランジェリー・アーティスト、と名乗ってますけどね」
「ヘンタイはヘンタイじゃい! つうか、お前らだって要するに追われてる身なんだろ! 大体、何を指南しようとしたか分かったから帰れ! 帰れ!」
手で追い散らす。ようこもうんうんと深く頷《うなず》いていた。
「あ、でも僕《ぼく》は違いますよ」
その時、係長が片手を挙げた。彼らは不思議なことにようこの尋常ならざる力を見てもそれほど、驚《おどろ》いていなかった。
既《すで》にある種の感覚を麻《ま》痺《ひ》させているのかもしれない。
「お付き合いで隠れてはいますけど、本来、僕は追われてません」
係長はそう繰《く》り返す。
「あんたはなんのヘンタイなの?」
ようこが自分の服を仕《し》舞《ま》った衣装ケースを守るようにぎゅっとフライパンを握り直した。係長は哀《かな》しそうに言う。
「僕はそもそもヘンタイなんかじゃないですよ。理解ある恋人だってちゃんといますし、普通に社会生活も営んでいます」
「うん。係長はあなたたちのケースにはむしろ打ってつけかもしれない」
「だから、いらねえっつってんだろ!」
啓《けい》太《た》がとうとう立ち上がった。
「ねえ、なんなの?」
と、これはようこ。係長はさっきからなんだか眩《まぶ》しそうにようこを見上げていた。その視線が妙に気になったのだ。
係長は少し頬《ほお》を赤らめると、鞄《かばん》のジッパーを開けた。
「『与え合う愛と喜び』です」
「与え合う? なに?」
と、ようこ。係長はようこではなく、あえて啓太に向かって訥《とつ》々《とつ》と話す。
「あのね、川《かわ》平《ひら》さん。僕はそうなったことは……あ、失礼。でも、そうなったことは今までに一度もないんですよ。お若いのにさぞ不安なことだと思います。だからね、もしかしたら僕の手法であなたの底に眠っている特性を開花できたら、きっとお助けできるんじゃないかと思ってこうして恥を忍んでやって参りました。でもね、今、ようこさんを見ていてそれがほとんど確信に変わりました」
「は?」
「川平さん、僕は」
そう言って係長は卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の上に指でSの字を、次にMの字を書いた。
「相棒と全国のコンテストで上位入賞したこともあります」
「んなコンテストがあるのか……」
「どうでしょう? 川平さん、あなたとようこさんで試してみます?」
啓太はむっつりと黙《だま》り込む。ようこはねえねえ、と啓太の袖《そで》を引いた。
「自分ばっかり分かってないで教えてよ! あれ、なんのことなの?」
啓《けい》太《た》はじっとようこの顔を見つめた。顎《あご》に指を添え、くいっと上を向かす。端正で冷たいくらい綺《き》麗《れい》な顔立ち。ちょっと勝ち気なその瞳《ひとみ》。こいつを責める……。
喘《あえ》ぎ、歪《ゆが》ます。
「ふん」
啓太は鼻を鳴らした。
「ま、趣《しゅ》味《み》じゃねえがやってみてもいいかもな」
「って、なんでこうなるんだよ! 話が違うじゃねえか! おい! おい!」
トランクス一枚で後ろ手に拘束された啓太が叫ぶ。ベッドに顎を乗せられ、ドクトルに頭を押さえ込まれ、さながら断頭台に立つ死刑囚といった感じだった。
係長は申し訳なさそうに言う。
「申し訳ありません。僕《ぼく》、そっちサイドしかコーチできなくて」
「くそ! 外せ! 離せ!」
啓太はじたばたもがく。
そこへ黒いぴちっとしたミニのレザースカート。素足に赤いピンヒールを履《は》き、バタフライの仮面を被《かぶ》ったようこが現れ、ぴしっと馬革の鞭《むち》をしごいた。全部、係長の鞄《かばん》の中に入っていたモノだった。
彼は嘆息する。
「ようこさん、貴女《あなに》は本当に」
そこで言葉に詰まり、ようやく声を絞り出す。
「ボンデージがよく似合う……すばらしい」
「お、おい! こら! ようこ!」
「ごめんね、ケイタ」
ようこは口元に拳《こぶし》を当て、申し訳なさそうに微笑《ほほえ》む。恐る恐る、
「えい!」
と、軽く鞭を啓太の背中に当てた。
「ぎゃあああ────────!」
啓太の悲鳴が迸《ほとばし》る。最初、ようこはびっくりしたような顔つきだったが、
「えい!」
もう一度、躊躇《ためら》うようにやってみる。
「ぎゃああああ──────────!」
再び啓太の悲鳴が聞こえた。ようこの頬《ほお》に薄《うす》笑《わら》いが浮かんだ。彼女はくすくすと笑い出す。ぞくぞくぞくっと身《み》震《ぶる》いしてから、上を向くと、
「あはははははははははははは!」
「おいばかこら、正気に返れ!」
「えい!」
「ぎゃあああ───────!」
「えいえい!」
ようこはもう止まらない。遮《しゃ》二《に》無《む》二《に》、滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》に。狂ったように。とにかくひたすら鞭《むち》を啓《けい》太《た》の背中に見舞う。
「このこのこの!」
「いて! いて! いてえええ────────!」
「すとーぷ! すとーぷ!」
慌てて係長が止めに入る。彼は錯《さく》乱《らん》したように笑ってるようこを後ろから羽《は》交《が》い締《じ》めにするときつく叱《しか》った。
「ダメ! ダメですよ! ようこさん。そんなやり方ではただ痛みを与えてるだけです。いいですか? このように」
と、ようこから鞭を取り上げ、
「優しく、もっとソフトにやってあげてください」
ぴしっと啓太の背中に一鞭振るう。
「いてえ!」
「やってるもん! だから、こうでしょ? えい!」
「いてえええってば、おい!」
「いや、手首の角度がなってませんね。正確にはこうです!」
「ぐお!」
「だから、こう! こう!」
「いていて!」
「う〜ん、私は門外漢だけどこんなのはどうだろう?」
と、ドクトルまで参加して、
「えい!」
「いい加減にしろ!」
ようやく立ち上がって啓太が突っ込んだ。
結局、それでなんの変化も起こらなかった。啓太はぶちぶち文句を垂《た》れながら手首をさすっている。まだ背中がひりひりするのでシャツは着れなかった。
その間、どういう訳か係長がそそくさと上着を脱いでいた。シャツを剥《は》ぎ、ズボンを降ろすと、ブリーフ一枚になって、
「すいません。報《ほう》酬《しゅう》代わりといっては何ですが」
くるりとようこにお尻《しり》を向け、恥じらった。
「僕《ぼく》も一つお願いします」
拳《こぶし》と拳を口元に当て、頬《ほお》を染めている。
……。
…………。
ようこがにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「しっかり追いかけられてますね、係長」
ドクトルが薄《うす》く開いたカーテンから外を覗《のぞ》いて平静な口調で呟《つぶや》いた。係長はようこの力で往来に転送されたのだ。ちょうど辺りを警《けい》戒《かい》していた警官にあっという間に見つかり、泡を食って逃げている。さすがに官《かん》憲《けん》の前に下着姿で出ればそうなるだろう。
啓《けい》太《た》がちょっと気の毒そうに呟いた。
「可哀《かわい》想《そう》に」
「ふ〜ん」
と、ようこはそっぽを向いている。啓太はドクトルに向き直った。
「で、あんたのお仲間はもう二人捕まったな? あんたはどうする? 自分で自首するか? それとも今からようこに送ってもらうか?」
ふ。
ドクトルは余裕のある笑みを浮かべた。
「私はね、こう言っては失礼ですけど警察など恐れてはいませんよ」
「ふてえヘンタイだ」
「親方ほど警察に顔は知られてないんです」
「でも、隠れたじゃねえか?」
「ええ、警察は私の存在だけは知っているのです。知ってはいるのです。何故《なぜ》なら、あんまり退屈だから私自身がその存在を知らせてきたのです。名刺を」
そう言って彼は指を二本ぴっと立てた。そこに魔《ま》法《ほう》のように白いカードが現れている。彼はそれを手首のスナップを利かせて放った。
「いつも置くようにしていますから」
しゅるしゅるしゅると旋回して、かっと音を立てて名刺の角が壁《かべ》に食い込んだ。ようこが感嘆の声を上げている。啓太はそのきざったらしい振る舞いに、ふんと鼻を鳴すとそれを引っこ抜いた。
周囲に月《げっ》桂《けい》樹《じゅ》。中央にピンクのバラが紋様としてあしらわれ、
『ドクトル、ここに参上』
と、簡《かん》潔《けつ》に記してある。ドクトルは独白するように喋《しゃべ》り続けた。
「いつしかね、川《かわ》平《ひら》さん。私はスリル自体も楽しむようになってきているのかもしれません。でもね、哀《かな》しいかな、誰《だれ》も私には気がつかない。私は透明人間です。存在の耐えきれないほど軽い人間です。不可視の闇《やみ》です。石ころ帽を被《かぶ》ったマジシャンです。誰も知らない名のないぺンペン草です。今日だってそうです。本来なら気《け》配《はい》のエキスパートであるべきあなたですら、親方と係長の立てた物音で初めて私の存在を知ったに過ぎなかった」
「ん?」
「さあ、最後のレクチャーと参りましょうか」
「ま、待て! 初めてってどういう意味だ? ま、まさか……」
ドクトルは啓《けい》太《た》の慌てぶりを優しげな微笑《ほほえ》みで見やり、次にようこの方に向き直って、
「あなたには少し留守番をしていて貰《もら》いましょう。アデュー、マドモワゼル、ヨウコ!」
そう言い放ってしゃがみ込んだ。
「な!」
と、ようこが口を開けた途《と》端《たん》。
「は!」
ドクトルは煙玉のようなものを床に叩《たた》きつけた。ぼうんと音がする。たちまちもうもうと白い煙が吹き上がり、一寸先すら見えなくなった。
ようこは悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと!? なにこれ! ごほごほ!」
咳《せ》き込み、手を掻《か》き回す。まるで雲の中に迷い込んだかのようだった。前に一歩、踏み出した拍《ひょう》子《し》にスネを卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》に当てて、ぴょんぴょん飛び上がった。
「く〜〜!」
カッと目を見開き、
「しゅくち!」
と、思いっきり人差し指を振り上げる。一気に視界が晴れた。煙を丸ごと屋外に転送したのだ。しかし、その時にはもう誰もいない。
ドクトルも啓太も。
「この!」
ようこは叫びざま天井を透過し、彼らを追いかけた。
それから不可視の姿をとって街中を捜し回った。八百屋《やおや》を覗《のぞ》き込み、デパートの中を飛び回って、映画館も見てみた。
だが、どこに消えたか彼らの姿は全く見つからなかった。
「ま〜ったくどこ行ったのかなあ?」
商店街の一《ひと》際《きわ》高いアーケードの天《てっ》辺《ぺん》で小手をかざしながらようこは呟《つぶや》いている。ちようど夕暮れ時ということもあって、商店街は人《ひと》込《ご》みで溢《あふ》れ、活気に満ちていた。空が薄《うす》い青から濃《こ》い赤紫に移行しかけている。
近くのスピーカーからはのんびりとした琴《こと》の音色が流れていた。ようこは角の魚屋から猫が魚をくわえて逃げ出すのを目で追いかけ、商店街の真ん中でこちらに向かって大きく手を振っている少女を一人、発見した。
「ん? なでしこ?」
犬《いぬ》神《かみ》のなでしこだった。
ようこはそちらの方へぴょ〜んと降りていく。よく見るとなでしこと同じく川《かわ》平《ひら》薫《かおる》を主人に持つ幼い犬神のともはねもいた。
なでしこは相変わらずの割「かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿で、ダイコンやジャガイモが詰まった買い物|籠《かご》を両手に抱えている。どうやら、夕飯の買い出しでもしているらしかった。
一方、ともはねはショートパンツに黄色と黒のシマシマ模様のシャツを着ていた。髪をお団子に結わえ、ソフトクリームを片手に持っている。
彼女もビニール袋を二つほど肘《ひじ》に引っかけていたから、恐らくそれは買い物のお手伝いをしてご褒《ほう》美《び》として買って貰《もら》ったものなのだろう。
彼女はぽかんと口を開けていた。
「ねえ、ようこ、その恰《かっ》好《こう》は……一体、なに?」
「え?」
「なんで、そんな寒そうな恰好をしているの?」
そう指摘されて、初めてようこは自分がボンデージファッションのままで飛び出してきたことに気がついた。慌てて未《いま》だ手に持っていた馬革の鞭《むち》を後ろ手に隠す。
「仮面。仮面もまだですよ!」
なでしこが頬《ほお》を染め、小声で耳打ちした。
「こ、子供は関係ないの!」
と、ようこはともはねを叱《しか》りながら、そそくさとバタフライの仮面も外した。だが、胸元が大きくはだけたレザースーツやピンヒールまでは隠しようもない。
なでしこがなんとも言えない表情になり、
「それで啓《けい》太《た》様、どうなりました?」
こっそりとようこに尋ねた。ようこも同じく小声で返答する。
「ど〜したもこうしたも逃げちゃったのよ。あんたは?」
「私はご覧《らん》の通り、夕食の買い物途中ですが……そうですか。実はあれから薫様に相談してみたんですけどね」
「ふんふん」
「ねえねえ、啓太様がどうしたの?」
ともはねが二人の袖《そで》をくいくい引っ張る。ようことなでしこは声を揃《そろ》えて、
「子供は知らなくてもいいの!」
それからしばらくなでしこが何かようこに語りかけて、ようこは納得したような顔でまた再び啓太たちを捜しに空へ飛んだ。
赤いピンヒールでさらにアーケードの天《てっ》辺《ぺん》を蹴《け》り、消える。
「ねえ〜、本当に何があったの、啓太様?」
と、ともはねがしつこく聞いてくるのをなでしこは目をつむり、さっさか歩きながら、
「子供には関係ありません!」
赤面していた。
「なるほど、ようやくあんたの正体が掴《つか》めてきたよ」
その頃《ころ》、風《ふ》呂《ろ》屋《や》の天井裏を這《は》いずり回りながら、啓太が冷ややかに目を細めていた。
「要するに覗《のぞ》きの常習者だったんだな」
「うい、むっしゅ〜」
彼よりちょっと先行していたドクトルが振り返り、軽やかにシルクハットを持ち上げた。驚《おどろ》いたことに辺りには天井裏に付き物の埃《ほこり》が全くなかった。天井板は磨《みが》かれ、丹念に拭《ふ》かれ、清《せい》潔《けつ》感《かん》に充ち満ちている。おまけにビロードのクッションと小型のクーラーボックスさえ梁《はり》の近くに備えつけてあった。
恐らくここでより快適に時間を過ごすための配《はい》慮《りょ》であろう。
ごく几《き》帳《ちょう》面《めん》な性格が窺《うかが》われた。
「……ここは要するにあんたの覗《のぞ》きの庭か」
「ええ。ただ、ノゾキの呼称は頂けないですね。ガラスの距離からの恋に終始する人とでも呼んでください」
ドクトルは微笑《ほほえ》む。目の前の直径五センチほどの穴を指差して言った。
「さあ、どうぞどうぞ。今はちょうど近くの美人音大生が二人入浴しに来る時間です。特等席でたっぷり栄光の果実をご賞味あれ」
そこから黄色い光が漏れてくる。啓《けい》太《た》はおお、と相《そう》好《ごう》を崩して、
「いや」
ふと思い直したように首を振った。
「その前にまず一つはっきりさせておこうか。お前、もしかしてずっとうちのこと覗いていたのか?」
「はい」
全く悪びれることなくドクトルは頷《うなず》く。啓太は口をぱくぱくさせてから、ようやく首を横に振って呻《うめ》いた。
「……ぜんぜん、気がつかなかったよ」
「ええ、興《きょう》味《み》深《ぶか》かったですよ。ようこさんは可愛《かわい》いし、あなたは元気がいい。そして、お二人は本当に面《おも》白《しろ》い。元々、ようこさんを街で見かけてついていったのですが、すぐにそれは二の次になりました、あなたとようこさんの関係が最初は不思議で仕方なかった。やがてあなた方が霊《れい》能《のう》者《しゃ》だと気がついた。ようこさんが人でないことも。そうなるとのめり込みましたな〜。時々、妙なお客さんもやってくる。今日のなでしこさん? でしたっけ。彼女には本当に感服致しました。あれは逸材ですな」
「……お前さあ」
「はい?」
「気《け》配《はい》を殺すことに関しては凄《すご》いよな」
「お褒《ほ》め頂き恐《きょう》縮《しゅく》です」
「その異常な能々をなんか別のことに生かそうとか思わない?」
「欠片《かけら》も思いません」
と、ドクトル。啓太は溜《ため》息《いき》をつき、
「ま、いいや。気がつかなかった俺《おれ》も不覚だし、勝手にしろ。それより、本当に音大生来てるんだろうな?」
「私のスケジュールチェックに抜かりはありません」
そうか。
啓《けい》太《た》はくひっと妙な笑いを漏らすと、
「ま、折《せっ》角《かく》、ここまで来たんだし」
と言って節穴に目を近づけようとした。
その時。
ぽふんと音がして、ようこがその場に実体化した。
「も〜、ようやく見つけた!」
「うお! ようこ!」
啓太は思わず仰《の》け反《ぞ》る。ドクトルはある程度、予想していたかのように微笑を浮かべていた。ようこが啓太の手をぎゅっと握った。
「あのね」
「な、なんだよ?」
「あのね、なでしこに聞いたんだけど、ううん。正確にはなでしこが薫《かおる》に聞いたんだけど、そういう時はしょっくりょーほーもあり得るって聞いて」
「な、なに?」
「だから、そうなった原因って結局、男の人だと思うし、ちょうどいい人たちもいたし」
「言ってることがさっぱり分からねえよ!」
「行ってらっしゃい」
そう言ってようこは人差し指を立てた。啓太の姿が掻《か》き消える。
服だけ残して。
真っ逆さまに落っこちていた。何かにぶち当たり、目から火花が飛び出る。ほとんど同時に熱いお湯の中に潜《もぐ》り込んだ。
「ぶは!」
慌てて水面に浮上する。
「な、なんだ? なんだ?」
顔を拭《ぬぐ》って、辺りを確かめる。気がつけば素っ裸になってお湯の中に立っていた。どうやら男湯の中に転送されていたらしい。それは周りに裸の男たちがいてもの凄《すご》い形《ぎょう》相《そう》でこちらを睨《にら》んでいるからすぐに分かった。
「え?」
彼らはみんな頬《ほお》に傷があったり、肩に桜《さくら》吹雪《ふぶき》があったり、パンチパーマだったりしている。そして
「なんじゃわれ、どこのもんじゃい?!」
とか言っている。
どうも言葉|遣《づか》いがあまり穏《おだ》やかでない。
「へ?」
と、啓《けい》太《た》は間抜けに自分を指差した。
「お前えじゃ、こらあああ──────! さっさと組長からのかんかい!」
「く、組長?」
啓太は恐る恐る足下を見てみる。浴《よく》槽《そう》の底で白髪の老人がぶくぶく言って溺《おぼ》れていた。啓太の顔が一《いっ》瞬《しゅん》で青ざめた。
「ぶっころしたる!」
六人のソノ筋の男たちが一斉に襲《おそ》いかかってきて、啓太が悲鳴を上げたのはまさにちょうどその時だった。
「ねえねえ、ケイタ、しょっくりょーほーはどうだった?」
それから一時間後の啓太の部屋。ようこが顔を覗《のぞ》き込んで、小首を傾《かし》げていた。
「しょっくりょーほー過ぎたわい……」
ぼろぼろになった啓太が虚《うつ》ろに壁《かべ》を見ながら呟《つぶや》く。
目の回りにアザがあり、頬《ほお》が見事に腫《は》れ上がっていた。あれから命からがら銭湯を逃げ出して、辛《かろ》うじてようこのしゅくちで助け出されたのだ。組員たちは素っ裸にタオルを巻いた姿でかなり長いこと銭湯の周りを捜し回っていた。
これからは気軽に街を出歩けなくなるかもしれない。
「む〜、結局、全部、ダメだったね」
ようこが唇を尖《とが》らせてそう言う。啓太はしくしくと泣き出した。
「いいんだ、もう俺《おれ》なんて」
小さな子供のような態度だった。ようこは困ったような顔で、
「ねえ、ケ〜タ」
毛布をちょっと払いのけた。
「わたしはさ、ケイタはホントに大丈夫だと思うよ。とびきりのスケベだから」
そのホッペタに、悪戯《いたずら》っぽくキスをする。
「今は調子悪いけどさ、きっとすぐに元気になるよ」
啓太は弱々しく笑った。手を伸ばして彼女の髪をくしゃくしゃ掻《か》き回し、
「さんきゅ」
そう答えた。
ようこはもう一度、ちゅっとする。今度はほんの少しだけ唇に近い位置に。それで、すっと離れていく。啓《けい》太《た》は溜《ため》息《いき》をつき、力なく立ち上がると、毛布を頭から被《かぶ》ったまま、トイレに向かった。
ようこはそんな彼の弱々しい後ろ姿を見送ってから大きく一つ頷《うなず》いた。
啓太がトイレから帰ってきた。彼は毛布を被ったままだったので、その裾《すそ》をちょっと踏んでよろめいてしまった。倒れ込んだところに運悪く、部屋の片隅に山積みにしてあったビデオテープが落っこちてくる。
裸の女の子が表紙の、ピンクなケースに入ったテープの山々だ。
それがどさどさと。
啓太の身体《からだ》の上に崩落してきた。最後に重たそうな熊《くま》の木彫りが見事に脳天を直《ちょく》撃《げき》する。
「……」
啓太、倒れ込んだまま動かない。散乱したビデオの中でじっとしている。急《きゅう》須《す》からぎこちない手つきで、こぽこぽお茶を淹《い》れていたようこが目を剥《む》いた。
「ちよ、ちょっと! 大丈夫、ケイタ?」
その作業を一時、中断し、テープの山を掻《か》き分け、彼を引っ張り出す。啓太はふらふらと立ち上がってくると、ぼんやり彼女を見た。
「あ、ああ」
「あのさ、ケイタ、実はケイタに元気を出して貰《もら》おうと思って」
そう言ってようこが振り返り、湯飲みを両手で差し出したその途《と》端《たん》。啓太が信じられないというように大きく目を見開いた。
「き、奇跡だ」
あるいはそれは単に闇《やみ》雲《くも》に飲んだ薬のどれかが遅れて効いただけなのかもしれない。それともようこの言うショック療《りょう》法《ほう》のせいだったのかもしれない。もしくはビデオテープの角が頭にぶつかった拍子に狂っていたどこかの回線が働き出したのか……いや、そもそもが時間の経過と共に簡単に治る代《しろ》物《もの》だったのかもしれない。
でも、一番は。
目の前で頬《ほお》を赤らめている少女が。
「あ、あのさ、ケイタ、でね、これからわたしね」
啓太は思いっきり彼女を抱きしめた。
「ケ、ケイタ?」
ようこは身をすくめ、驚《おどろ》いている。
「おい、ようこ! やった! やったぞ!」
がくがく彼女を揺する。湯飲みに入っていたお茶がびしゃびしゃと床に飛び散る。ようこは目を白黒させ、啓太を見つめ、
「な、なにが?」
「見ろ見ろ!」
叫んでやおらパンツのゴムを伸ばし始める啓《けい》太《た》。喜びを共に分かち合おうとしたのだ。
「ついに俺《おれ》のち○ぽこが」
ようこの目は冷ややかに細くなった。
「そう」
最後まで言わせず、デリカシーのない男を消す。
服だけ残して。
往来からは叫び声が上がってる。
「てめええ! 一体なんのつもりだよ!」
そこへ。
「あ、キサマ、性《しょう》懲《こ》りもなく!」
と、警《けい》官《かん》の声が響《ひび》く。
「違うんです! これは全く違うんです!」
啓太の哀れっぽい声。ぺたぺたと裸足《はだし》で走る足音。それが遅れて耳に届く。追いかける警官はもはや一人や二人ではすまない。
「もう我慢ならん! 貴様らヘンタイどもに公《こう》僕《ぼく》を侮辱するとどうなるかたっぷり教えてやる!」
どたどたと靴音が続いた。遠くで啓太の悲鳴が聞こえる。めった打ちの気配がした。ようこは目を細めたまま、ゆっくりと湯飲みを口元に運んだ。啓太のために生まれて初めて淹《い》れたお茶だ。濃《こ》すぎてちょっと苦いけど、心はきちんと込めた。
想《おも》いを込めて、淹れたのだ。大好きな啓太のために。
大好きだから。
ほんの少し残っていたのをじっくり啜《すす》り、味わい、
「よかったね、ケイタ」
そう呟《つぶや》いた。
どこからともなく(多《た》分《ぶん》、天井裏辺りから)拍手が聞こえた。
交通量の多い道路を様々な種類の車が行き交う。荷台に幌《ほろ》のかけられたトラック。赤い軽自動車。頑丈そうなジープ。バス。時には霊《れい》柩《きゅう》車《しゃ》や宅配便のバンなども通り過ぎていく。県立|武《む》藤《とう》田《だ》高校の前である。
その日、遅刻をした三年B組の生徒、河原《かわら》崎《ざき》直《なお》己《き》はさして急ぐ風でもなく、緩《ゆる》やかな勾《こう》配《ばい》の坂を登っていた。歯医者に寄っていて遅れたのだ。公然と理由がある訳だから別段、焦るには及ばない。
なんだったらゲームセンターにでも寄って新しい筐《きょう》体《たい》が入ってないか、行きつけの漫画専門店で新刊が出てないか、三日に一度は借りてるレンタルビデオ屋(アニメ関係が充実している)でずっと借りられている新作が返ってきてないかどうかチェックしてくれば良かったなどと学生にあるまじき不《ふ》埒《らち》なことを考えている。
すらりと細い身体《からだ》に黒《くろ》縁《ぶち》の伊達《だて》眼鏡《めがね》。さらさらした長髪。迷彩柄のバンダナに革手袋をしていた。学生|鞄《かばん》の代わりにコミケの紙袋を小《こ》脇《わき》に抱え、学生服の下にはアニメ調の美少女のカラー絵がプリントされたTシャツを着込んでいた。
下手《へた》をするとボンタンや長ラン、そり込みより気合いの入ったファッションである。事実、彼はこのなりを入学以来通してきて何度、迫害されてきたか分からない。先生には呼び出され厳《げん》重《じゅう》注意を受け、先《せん》輩《ぱい》に囲まれ、ヤンキーからはかつあげを受け、女の子には当然、忌《い》み嫌われた。
それでも。
そう。それでも、彼はこの衣装を決して止《や》めなかった。一度として、オタクであることを自ら否定したことなどなかった。否《いな》。それで己の好きなものを曲げてしまうほど、彼は柔《やわ》ではなかったのだ。
だから、彼は夏でも冬でも堂々とこうやって過ごしている。
陰口を叩《たた》かれながら教室で同人誌を読むことも、たった一人で生徒会を向こうに回してアニメ研究会を存続させてることも、意地悪で隠された限定品のポストカードを日が暮れようと夜になろうと探すことも止めない。
クラスメートはそんな彼を畏《い》怖《ふ》と若《じゃっ》干《かん》の尊敬を込めてこう呼んだ。
「闘《たたか》うオタク」
と。
その闘うオタクこと河原崎は正門を潜《くぐ》ろうとしてふと足を止めた。
坂の上に何か見えたのだ。なんだろう、と思うまもなくそれは近づいてくる。河原崎の目が大きく、大きく見開かれた。
な。
という形に口が開かれる。それは信じれないものだった。
美少女。
彼の目はまずその点だけをはっきりと認める。
視力はブッシュマンも顔負けの四・〇だから、繊《せん》細《さい》に整った目鼻立ち。すらりとした肢体を高解像度で認識する。
さらさらと流れる黒髪。だぼだぼの男物のシャツと大きめのスカートをベルトで辛《かろ》うじて身体《からだ》に縛《しば》りつけている。華《きゃ》奢《しゃ》な肩が左側、丸出しだった。まくった袖《そで》からすんなりとした二の腕が覗《のぞ》いている。淫《いん》靡《び》で可愛《かわい》らしい。だらしないのに不思議と清浄さが感じられた。
首に巻いた翡《ひ》翠《すい》色のカエルのチェーンも妙に似合っていた。
しかし、各パーツに全《すべ》て十点満点が与えられるとして、最後にその腰元から生えているふさふさなモノで大減点である。
あるいは河原《かわら》崎《ざき》の場合、大幅な加点か。
尻尾《しっぽ》。
金色のそれはそれは見事な、ケモノの尻尾。
どう見ても、どう考えても人間じゃない……。
その明らかに人外の美少女がぽ〜んぽ〜んと軽やかに車の屋根を飛び歩きながら、こちらに向かってくる。むろん、他《ほか》に誰《だれ》も気がついていない。少女はまるで波紋を踏みながら水面を渡る妖《よう》精《せい》のように、高速に行き交う車の上を順番に渡ってくる。
表情は嬉《き》々《き》として、楽しげだった。
少女は最後の一歩を大きく跳《ちょう》躍《やく》すると、唖《あ》然《ぜん》としている河原崎の前にぴたりと着地した。巻き起こった風に煽《あお》られ、フレアスカートの裾《すそ》がぎりぎりな位置まで浮かび上がる。
少女はその広がりを優雅な手つきで押さえ、腰を落として、
「見た?」
と、媚《び》を含んだ視線で見上げた。河原崎はぶんぶんと首を横に振った。
「そう」
少女は満足げだ。きょろきょろと辺りを見回し、門柱に彫られた字を読んで笑う。
「ここ、ここ。ここでした♪」
ぴょんと嬉《うれ》しそうに跳ねると、すたすたとそのまま河原崎の前を通って、門の中に入っていった。遅れて小さな声で、
「全くケイタも忘れっぽいんだから……」
そんな呟《つぶや》き声が聞こえる。はっと我に返った河原崎が慌てて彼女を追ったが、その時にはもう少女の姿は掻《か》き消えていた。
ただ校庭だけがぼんやりと広がっていた。
河原崎の手からぽとりと紙袋が落ちる。
「……見つけた」
「かわあああ──────ひらああああ──────!」
お昼時、県立|武《む》藤《とう》田《だ》高校2年C組の生徒である川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》は、自分の机にお行《ぎょう》儀《ぎ》悪く足を置きながら焼きそばパンを頬《ほお》張《ば》っていた。
手元には図書館から借りてきた文庫本。池《いけ》波《なみ》正《しょう》太《た》郎《ろう》の『鬼《おに》平《へい》犯《はん》科《か》帳《ちょう》』があった。
声は遠くから聞こえてきた。
「かわひらあああ─────────、けいたああああ───────!」
あん?
という表情で彼は足を床に下ろした。焼きそばパンはくわえたまま近くにいたクラスメートが訝《いぶか》しそうにこちらを見てるのに対して首を振った。
心当たりはないという意味合いである。
「ここかあああ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
そんな地底の底から響《ひび》くような声が教室の真ん前まできて、がらりと扉が開かれた。もの凄《すご》い形《ぎょう》相《そう》の男が一人立っていた。
学生服の下にはアニメ調の美少女が描かれたTシャツ。
目は血走っていて、両手の紙袋には同人誌がこれでもかと詰まっていた。クラスメートは皆、唖《あ》然《ぜん》としている。その男、河原《かわら》崎《ざき》直《なお》己《き》はずかずかと啓太の前まで歩み寄ると、意外によく通る声で問うた。
「その首輪。貴様が川平啓太だな?」
まるで親の敵《かたき》にでも出くわしたような台詞《せりふ》だった。
じろりと啓太を上から下まで睨《ね》め回し、鼻を鳴らす。啓太が頷《うなず》くまもなく、出し抜けに紙袋の中身を掴《つか》み、積み上げ始めた。
『メイドファイター総決算本』
とか、
『ネコネコパニックvol・2』
とか。カラフルな色彩の本で啓太の机がたちまち埋まっていった。可愛《かわい》い女の子が水着だったり、メイド姿だったりする表紙。ただ、総じて描き手の技量はかなり高いようだ。啓太は焼きそばパンをごくんと飲み込んでから、ぽかんと口を開けた。
「な、なにこれ?」
「報《ほう》酬《しゅう》だ!」
へ?
という表情の啓太。周りがひそひそと囁《ささや》き始める。
へえ、川平くんってああいう趣《しゅ》味《み》があるんだ
とか、
なるほどなるほど。彼はそちらの人ですか
とか。啓《けい》太《た》は慌てて否定に走った。
「ち、違う! 違うぞ! 俺《おれ》は断じてこんな奴《やつ》、しらん!」
「え〜い、この程度でおたおたするな! 誰《だれ》も貴様と面識があるとは言っておらん。貴様もこの学校に在《ざい》籍《せき》しているんだ。この闘《たたか》うオタク≠アと河原《かわら》崎《ざき》直《なお》己《き》の名くらい耳にしたことはあるだろう?」
むしろ得意そうに河原崎は自分の胸元を親指でさす。そのポーズに毒気を抜かれて啓太は曖《あい》昧《まい》に頷《うなず》いた。
「そりゃ、まあ」
こんなにも見事にオタクらしい人には初めて出会った。
「……河原崎センパイ、有名だから」
「ふふん」
と、河原崎は笑った。
「貴様も俺《おれ》ほどではないがなかなかに名が轟《とどろ》いているぞ」
何故《なぜ》かものすご〜くイヤそうな顔をする啓太。河原崎はそんな機微に気がついた様《よう》子《す》もなく啓太の肩をどかどか叩《たた》いた。
「首輪の川《かわ》平《ひら》。霊《れい》能《のう》力《りょく》を持った川平。その筋の川平ってな!」
「ははあ、なるほど。報《ほう》酬《しゅう》って要するに……」
「そう。貴様の持つ霊能力のチカラを借りたい!」
啓太はふうっと肩を落とした。最近、積極的に喧《けん》伝《でん》しているつもりはないのだが、どうも自分が特殊能力を持っていることが周りに広まりつつあるようだ。教師から手相を見てくれないかと冗談交じりで言われたこともあるし、かなり本気の女生徒に恋占いをしてくれと頼まれたこともある。
その度に、
そういうソフトなことはやりませんから
と、断ってきたのだが……。
「で、河原崎センパイも占いですか?」
「占い? 馬《ば》鹿《か》者。俺は未来など知りたくない! 否《いな》。人はすべからく未来など知るべきではないのだ!」
「ほう」
「だって、そうだろう? 次の回がどうなるか分かってるアニメなど誰が見るか! たとえ大好きだった主人公が戦いの果てに死んでも、その運命を予《あらかじ》め知ってどうする? その時、その回に全力で泣くこと。それが俺たちに出来る全《すべ》てのことだろう? 公式ホームページやメーリングリストでの先読みなど言語道断だ!」
何かトラウマでもあるのだろう。河原崎はぐいっと目《め》尻《じり》を拭《ぬぐ》って熱く語った。
啓《けい》太《た》、黙《だま》り込んでいる。
「へえ、でも、この絵、上手《うま》いな」
と、隣《となり》にいた男子が手を伸ばして本をとった。河原《かわら》崎《ざき》が暴れ出したり、叫び出したりしないことを確認して、何時《いつ》の間にか周りに人が集まり始めている。実は三年の最大最強変人闘《たたか》うオタク≠アと河原崎|直《なお》己《き》と二年の有望株学校の怪談≠アと川《かわ》平《ひら》啓太の邂《かい》逅《こう》はちょっとしたニュースになっていた。
隣のクラスからも人が見物に訪れている。
「そうだろ〜そうだろ〜」
と、我が子を褒《ほ》められた父親のように相《そう》好《ごう》を崩しながら河原崎が頷《うなず》いた。
「それはな、一咋年の夏コミで四時間並んで手に入れたんだ。その人はそれを最後に同人界から引退したんで今ではちょっとしたプレミアがついている。あ、そっちの本は絵柄とペンネームを変えてるから大分、分かりにくいけど今、商業誌で活動している結構、有名な人のだ。多《た》分《ぶん》、最新作が今年の秋辺りにアニメ化されるはず」
「ふ〜ん」
と、辺りから感心したような声が漏れた。啓太も何気なくページを捲《めく》って肩をすくめる。
「大したコレクションで」
「分かってくれるか、川平!?」
「分からねえ」
憮《ぶ》然《ぜん》としたまま啓太は言った。
「だいいち、こんな本、持ってくるならエロ本とかにしてよ、センパイ。俺《おれ》、こういう趣《しゅ》味《み》、全然ないんだからさ」
「馬《ば》鹿《か》者!」
と、唐突に河原崎が怒鳴《どな》る。
「そういったいかがわしい本を持ってくれば女性」
と、彼は手で示し、
「この場におられる可愛らしい女生徒たちに対してセクハラになるだろう! 俺はいかにもオタクだが人を不愉快にさせるのは大嫌いだ!」
そのもっともらしい台詞《せりふ》に何故《なぜ》か拍手が沸き起こる。河原崎、胸元に手を当て、鷹《おう》揚《よう》なポーズで左右に一礼をしてみせた。啓太は半目になって他《ほか》の同人誌も捲ってみた。なるほど言われてみれば全部、健全な作風で裸など欠片《かけら》も出てこない。
「そ〜いうことには気を遣《つか》うんだな、あんた」
「当たり前だ。川平、誤解があるようだがな。俺がやってる同人誌というのはその作品が好きで好きで仕方のない者がその溢《あふ》れんばかりの情熱の行き場を探して作るいわば間接的な創作。エロが入るか入らないかはそもそもの本質ではないのだ!」
そこで河原《かわら》崎《ざき》はこほんと咳《せき》払《ばら》いをした。
ほんのりと赤面しながら、
「まあ、十八禁は十八禁で味わい深いものがあることを否定するものではないが」
その言葉に遠くにいた女生徒がひそひそと言葉を交わす。
やっぱり
とか、
きも〜い
とか。くわっと河原崎の目が開かれ、彼は吠《ほ》えた。
「ばっかも〜〜〜〜〜〜〜〜ん! 貴様ら、エロを否定するな、エロを! 愛した! そう愛した美少女のそのエプロンドレスの奥の膨《ふく》らみやスクール水着から滴るプールの匂《にお》いを頭に思い浮かぶままに綴《つづ》るこのリビドーが悪だというのなら、貴様ら、好きな男の○○○を想像して○○らないというのか、こら! この○○ども!」
きゃあ───。
と、一斉に女の子たちが蜘《く》蛛《も》の子を散らすように逃げていく。啓《けい》太《た》、頭を抱え、それから大きく溜《ため》息《いき》をついた。
「……ちょっとでも感心した俺《おれ》がバカだった」
手首だけシュッと返す。すると赤いカエルの消しゴムがすこーんと河原崎の後頭部に当たって、彼は動きを止めた。
「とと、すまない。俺としたことが少々、取り乱したようだ」
彼は大《おお》真《ま》面《じ》目《め》な顔でそう言う。
ささっと髪を櫛《くし》(アニメ柄の)で撫《な》でつけた。
「……あんたいつでもそうなのか?」
と、ジト目で啓太。河原崎は大きく手を振って、叫んだ。
「川《かわ》平《ひら》。俺はこの上なく正常だ!」
「……こういうのを専門で収容してくれる施設ってないのかなあ?」
一切無視して啓太が傍らにいたクラスメートに聞く。その男子生徒は冷や汗をかきながら、さあ、と首を傾《かし》げた。
「え〜〜い! そんなことはどうでもいい! 川平。YESか、NOだ! 俺の依頼を受けるのか、受けないのか!?」
「NO」
啓太はあっさりそう答えると、ポケットに手を突っ込んで立ち上がった。
「焼きそばパン、もう一個、買って来なきゃ」
「待て! 一体、なにが不満だ!?」
「全部」
「おい! 川《かわ》平《ひら》! この俺《おれ》が! この闘《たたか》うオタク≠ェ頭を下げて頼んでいるのだぞ! それにこのコレクション。ちゃんとしたショップなら五万で売れるぞ!」
「……」
啓《けい》太《た》の足がぴたりと止まる。
彼はじっと動かない。辺りの視線が集まる中、ゆっくりと振り返る。
「……マジ?」
「はははは、やはりこのコレクションの価値を正確に埋解していなかったようだな、川平」
勝ち誇ったように河原《かわら》崎《ざき》が笑った。
「しかもこれはあくまで手付け金だ。同じくらい価値を持つ本をもう一山、成功した暁には引き渡そう。お前さえよければ明日、同人誌の即売会があるので、そこで換金してやってもいい。ざっと十万の稼《かせ》ぎ。貴様がどれだけの力を持っているのか知らぬが、決して悪くはない商談だと思うぞ。ん? ん?」
啓太は目をつむり、頭をガシガシと掻《か》いた。それから、すたすたと元の場所に戻ると椅《い》子《す》を引いて、どっかり座り込んだ。
「話を聞こうか、センパイ」
「そうこなくてはな」
にやっと笑って河原崎は頷《うなず》いた。
「遠《えん》慮《りょ》はイラン!」
と、出し抜けに河原崎は叫んだ。二人は午後の授業を抜け出して屋上にいた。柔らかな日差しが随分と心地いい。
啓太の前には焼きそばパンをはじめ、バターロールやジャムパン、メロンパン、ホットドッグなどの菓子パンが白いナプキンの上に山のようになっていた。購《こう》買《ばい》部に寄った河原崎が残っていたパンを全部、買い占めたのだ。
ついでにコーヒー牛乳が各自の前に一つずつ置いてある。
「ささ、まずは食いながら聞け。これはまあ報《ほう》酬《しゅう》とは別の奢《おご》りだから、遠慮はイラン。首都はテヘランってな!」
わはははは。
寒いギャグに啓太は半目になりながらもメロンパンを頬《ほお》張《ば》る。
「はふ。もふ……もひかして。ん。河原崎センパイ、お金持ちなんですか?」
喉《のど》をごくんと鳴らしてそう尋ねた。河原崎は途《と》端《たん》につまらなそうな表情になった。伊達《だて》眼鏡《めがね》をくいくい動かして、
「まあ、そう尋ねられて否定するのも嫌《いや》みだから正直に告白しておこう。この街は金持ちが多いが、我が家は間違いなくその五指に入る。河原崎家は明治以来の財閥でな。傘《さん》下《か》に数え切れないくらいの企業を抱えているんだ」
「すげえな」
「だが、勘《かん》違《ちが》いするなよ? 俺《おれ》が用意する金も、このパンの代金も、日《ひ》頃《ごろ》の小《こ》遣《づか》いも全部、自分で稼《かせ》いだものだ」
「……なにやってるんですか?」
「くくく。蛇《じゃ》の道は蛇《へび》ってなあ。色々あるのよ、この世界。インターネットに同人誌の即売会。極めれば株やるより遥《はる》かに簡《かん》単《たん》に儲《もう》かるぞお〜」
顔に影作って妖《あや》しく笑う河原《かわら》崎《ざき》。啓《けい》太《た》はもっと突っ込んで聞こうと思って止《や》めた。首を振る。出来るだけ遠ざかっておいた方が良い世界もあるのだろう、きっと。
「だがまあ、一番の収入源は基本的にこれかな?」
河原崎はベルトをがちゃがちゃ揺らして、制服のズボンの下からA4サイズの同人誌を取り出した。啓太、思わずうっと引く。
「……ど、どこにしまってるんだよ!?」
「挟んでいたのだ」
「だから、どこに」
「大事なものなのでな」
「だからあ」
「いいから、読んでみろ」
そう言われて無《む》理《り》矢《や》理《り》、手に握らされる。後で手を洗おうと堅く心に決めて啓太はページを開いてみた。驚《おどろ》きだった。
綺《き》麗《れい》な絵だった。
綺麗な線だった。
よく分からないが構図とかも問題ないようだ。まるで本物の雑誌に載っているような、完成度の高い漫画だった。
「これは?」
と、顔を上げる啓太。河原崎は微笑《ほほえ》んだ。
「俺のだ。俺が描《か》いた『猫《ねこ》娘《むすめ》変《へん》化《げ》』という漫画の二次創作。いわば、俺とその作者である近《こん》藤《どう》八《はち》五《ご》郎《ろう》様が夜な夜な育《はぐく》んだ愛の結晶なのだ」
「……そのさいてーな比《ひ》喩《ゆ》表現はともかく、上手《うま》いな。プロみてえ」
「ははは、川《かわ》平《ひら》。お前は意外と見る目がないな」
「……そうか? 上手いけど」
「川平、そうじゃない」
その時、河原崎は優しい目をする。そよ風が吹き、彼の前髪をそっと揺らした。啓太は黙《だま》って次のページを捲《めく》っていた。
「上手《うま》さ、じゃないのさ、川《かわ》平《ひら》。もちろん、テクニックはあって当たり前。だけど、作者であらせられる八《はち》五《ご》郎《ろう》様の本家本元『猫《ねこ》娘《むすめ》変《へん》化《げ》』はその百倍、二百倍、面《おも》白《しろ》い。百倍、二百倍、可愛《かわい》い。千倍、万倍、想《おも》いが溢《あふ》れてくるものなのだ」
「……猫耳メイドとスクール水着を常用する天使な女の子の語尾が『ぱにゃ』、か」
「はははは、だが、この河原《かわら》崎《ざき》。作品に対する愛なら誰《だれ》にも負けやしない。その満身の気持ちを筆に込め、こうして作品を描いて、ささやかながら同好の士にお売りして、日々の生活の糧《かて》に変えているのさ。さっきも言ったが、明日はこの近くで即売会があってな、俺《おれ》はそこで『愛と追想の猫娘変化』といういわば究極の」
「げ、巻末に逝っちゃったポエムが載ってる……ペンネームも河原崎なんだな」
「……聞いてるのか、川平?」
「ん。正直、よくわからん。つうかあんまり関《かか》わりたくない」
でも。
と、啓《けい》太《た》は笑う。
「あんたがこれ、死ぬほど好きなのはよ〜く分かった」
そう言って本を河原崎に返した。河原崎はそれを受け取り、黙《だま》り込む。
「ここからなのだ」
「なにが?」
「ここから、『猫娘変化』から、始まったのだ、俺の理想探しは。いわば恋をしていてそれがずっと胸を焦がし続けているのだ」
「……この猫娘に?」
「いや、近《こん》藤《どう》八五郎様に、だ。近づきたいと思った。切に願った。俺は川平、今までに沢《たく》山《さん》の漫画のヒーローやヒロインに憧《あこが》れてきた。それはもう数えきれないくらい。架空の世界で泣いたり、怒ったり、恋したり。だがな、その作者に憧れたのはこれが初めてだった」
「よく分からん心境だが……さよか」
「八五郎様が登場人物になりきるために日常生活において、入浴、就寝間わず、猫耳を着用していたのは有名な話でな」
「……」
「うむ」
と、河原崎は重々しく頷《うなず》く。
「そうそう。言葉|遣《づか》いはさらに徹《てっ》底《てい》していてな。打ち合わせも、買い物も、警《けい》察《さつ》官《かん》による職質も全《すべ》て『ぱにゃ』。やくざと道ばたでぶつかっても『ごめんなさいぱにゃ』で押し通した人はもう二度と決して金《こん》輪《りん》際《ざい》、現れないだろうな」
そうして冷や汗を垂《た》らしている啓太を置いてきぼりに河原崎は自分の世界に入る。深く溜《ため》息《いき》をつき、髪の毛を芸術家が懊《おう》悩《のう》するようにくしゃくしゃと掻《か》き回した。
「そうして描かれていた『猫《ねこ》娘《むすめ》変《へん》化《げ》』はただの可愛《かわい》い女の子が出てくるだけの漫画じゃない。もちろん、それもある、というかものすご〜〜くそれもあるけど決してただそれだけじゃない。夢の中でも泣いたし、笑った漫画は後にも先にもこれだけだ。八《はち》五《ご》郎《ろう》様が全《すべ》てを注いだこの世の完《かん》璧《ぺき》の一つだよ、川《かわ》平《ひら》」
そこで河原《かわら》崎《ざき》は目を細め、啓《けい》太《た》を見つめた。
「お前に完成された世界が垣《かい》間《ま》見《み》えた瞬《しゅん》間《かん》はあるか?」
「……」
「ないだろうな。かくいう俺《おれ》もない。だが、八五郎様にはきっとそれが見えていたのではないかという気が今はしている」
「どういう世界なのかは別にしてな……って、さっきから気になってたけど過去形なのか?」
「ああ」
と、河原崎は頷《うなず》き、穏《おだ》やかな色合いの空を見上げた。
「八五郎様は去年、急《きゅう》逝《せい》された」
不思議に透明な笑顔を浮かべている河原崎。真っ白い雲がゆっくりと動いている。遠くの雑木林でヒヨドリが鳴いていた。
「あ〜……それはあんた、タイヘン、残念だったろ?」
啓太が額《ひたい》をぽりぽり掻《か》きながら尋ねると河原崎は静かに頷いた。
「ああ。世界が一つ閉じる音をこの耳で確かに聞いた。胸が張り裂ける痛みで二日間、呼吸がろくに出来なかった」
「……そこまで」
「だがな、川平。俺は同時にこうも思った。八五郎様の衣《い》鉢《はつ》を継《つ》ごうって。それが出来るのはきっと俺だけだって」
「だから、オタクか」
「うん」
河原崎は素直にそう頷いてあぐらを掻《か》いた。まだ穏やかな笑顔を浮かべている。
まるで普通の少年のような。
あどけない、力ない声。
「いつか遠くへ辿《たど》り着くために。八五郎様に少しでも近づくために。俺のベクトルは基本的に全てそこへ向かっているのさ」
「今でもあんた、充分、彼岸の彼方《かなた》にたった一人で立っていると思うが」
そこで啓太は咳《せき》払《ばら》いをした。
「で、いい加減、本題、戻ろうか。あんた、そもそもなんで俺を呼び出したの? 言っておくけどその八五郎つう漫画家をあの世から呼び出してくれつうなら無理だぜ? 俺はイタコじゃねえんだから」
「分かってるさ、川《かわ》平《ひら》。俺《おれ》が頼みたいのは捜し人だ。今朝《けさ》会った」
と、その時、河原《かわら》崎《ざき》の目が伊達《だて》眼鏡《めがね》の中で極限にまで見開かれる。
「け、けものむすめ」
え?
と、啓《けい》太《た》が背後を振り返った瞬《しゅん》間《かん》。
「わ〜〜〜〜い、ケイタ。探したよ〜♪」
宙からようこが現れて抱きついてきた。
まず最初の反応は驚《おどろ》きだった。次の瞬間にそれは大いなる焦りにとって変わる。啓太は反射的にようこを包み隠すようにして叫んだ。
「な、て、てめえ! 一体、どうして!?」
「えヘへ〜、がっこ、来ちゃった♪」
「来ちゃったじゃねえだろ!」
「だってえ」
と、ようこは頬《ほお》を膨《ふく》らまし、ポケットからもぞもぞと青いパステルカラーの携帯電話を取り出すと、それを啓太の手のひらにぱしんと乗せた。
「ケイタが忘れていったこれピコピコ鳴ってたんだもん。なんだか触ったらトメキチの焦ったような声が聞こえてくるし、よく分からないけどすぐに届けた方が良いと思ったの」
「留《とめ》吉《きち》……ってあの仏像を探している変な猫《ねこ》又《また》か?」
「うん♪」
褒《ほ》めて褒めてというようにようこは目を細め、額《ひたい》を啓太の腕に擦《こす》りつけてくる。一方、啓太の方は気が気でない。
ちらりと硬直している河原崎を見やって、
「ば、ばかやろ〜。それにしたって、よりにもよってこの相手に姿、晒《さら》しやがって」
「え?」
と、ようこは首を傾《かし》げる。
「わたし、ちゃんと姿、消してるよ。ほら?」
彼女は自分の尻尾《しっぽ》をさらりと撫《な》でてみせる。
「あ」
言われてみれば。
「ほんとだ」
しかし、一般人(?)であるはずのところの河原崎は明らかにようこの姿を認めていた。彼女の姿を焦点の中に入れ、口を半開きに、まるで夢の中にでもいるように手を泳がせている。
どういう訳かその手がスライドして変な方向に曲がり始めた。
「あ、この人、今朝《けさ》、会った人だ……」
と、とうとう本気で阿《あ》波《わ》踊りの手つきと足取りに入った河原《かわら》崎《ざき》を見て、ようこが薄《うす》気《き》味《み》悪そうに声を潜《ひそ》めた。
無言ですちゃすちゃ踊っているその姿は甚《はなは》だしく恐《こわ》い。
啓《けい》太《た》は冷や汗を掻《か》きながら、
「今朝? お前、この人に姿、見られたのか?」
「うん。でも、ちゃんと見えてないって言ってたもん」
と、ようこが啓太の方に目を向けたその一《いっ》瞬《しゅん》。
「もなむう─────────────────────!」
河原崎がいきなりようこに抱きついてきた。そのまま、頬《ほお》と煩をすりすり擦《こす》り合わせ、目から涙を垂《た》れ流しながらうっとりと告げる。
「会いたかったよ、まいすいーとえんじぇる。俺《おれ》のミューズ」
ようこ、全身に鳥肌を立てる。
「み」
「独創的な反応だな」
と、啓太。
「みみ」
ようこ、震《ふる》え、爆《ばく》発《はつ》。
「みぎゃああああ─────────────────!」
どっかんと光の柱が立った。
……。
河原崎は黒炭と化し、それでも床に這《は》い蹲《つくば》って手をさし伸べている。対して啓太は髪の先を焦がし、顔中を煤《すす》だらけにしながら憮《ぶ》然《ぜん》とした表情で腕を組んでいた。ようこはそんな彼の後ろに回り込んで涙を浮かべながら、
「な、なにあれ?」
と、指さした。
「河原崎センパイだ」
「いきなり、食いついてきたよお〜」
「親愛表現だろ?」
その時、河原崎がよろよろと立ち上がった。砕けそうになる膝《ひざ》に手を当て、震えながら、でも表情は至福のまま手を伸ばす。
「俺のミューズ」
そうして、最後にそう呟《つぶや》いて、今度こそ彼は仰《あお》向《む》けになってひっくり返った。
啓太、顔を覆《おお》い、大きく溜《ため》息《いき》をついた。
無言で河原《かわら》崎《ざき》にトドメを刺そうとしているようこの手を掴《つか》み、ゆっくり首を振る。
「ゾンビじゃねえんだから」
「だってえ」
と、ようこは少し涙目で言った。どうも彼女は自分の埋解を超える奇怪な行動を取るものに弱いようだ。以前、露《ろ》出《しゅつ》狂《きょう》の変態に出会った時も確か同じように怯《おび》えていた。そういえば小さい頃《ころ》に隣《となり》で飼っていた犬は掃除機とコンニャクがダメだったなあ。
と、思い出しながら啓《けい》太《た》は河原崎の横腹を爪《つま》先《さき》で突いた。
「お〜い、センパイ。生きてる?」
すると、大の字になっていた河原崎の目がぱっかり開かれた。
彼はそのまま、はらはらと落《らく》涙《るい》する。
「川《かわ》平《ひら》……」
「おう」
「俺《おれ》、今、世界がほんの少し垣《かい》間《ま》見《み》えた気がする……」
ゆっくりと身を起こし、ようこを見上げ、流れる涙を拭《ぬぐ》いもせず、合《がっ》掌《しょう》する。至福の笑顔。法悦の表情だった。
「まさにキミは俺のミューズ」
「ねえ。この人、何言ってるの?」
「あ〜」
啓《けい》太《た》はなんと説明してよいやら迷った表情で頭をぽりぽり掻《か》いてから、
「わからん」
「川《かわ》平《ひら》」
河原《かわら》崎《ざき》は涙でくしゃくしゃになった顔を啓太に向けてぺこりと頭を下げる。
「ありがとう」
「……」
「この子と引き合わせてくれてありがとう。俺《おれ》、ずっとずっと探していたんだ。『猫《ねこ》娘《むすめ》変《へん》化《げ》』のヒロイン、こね子ちゃんに匹敵するインパクトを持ったケモノ娘。まさか、でも、尻尾《しっぽ》を持つ女の子が実在するなんて」
タヌキ娘。ああ、なんて斬《ざん》新《しん》なんだ!
思わず天にガッツポーズをとって叫ぶ河原崎。今の今まで不安そうだったようこがカッチンとした表情になった。
思わず吹き出す啓太。
ようこ、彼を睨《にら》みつける。
「ああ、麗《うるわ》しの君。お名前は?」
「タヌキじゃない!」
「へ? 変わったお名前だね……でも、大丈夫。俺の創作の中ではなんでもありだから」
「だから、タヌキじゃない!」
「うんうん。怒った表情がとってもキュートだよ。ああ、しまった……スケブか、せめてデジカメでも持ってくればよかった。ちょっと待っててくれるかな? 今からとってくるから。あ、大丈夫。ちゃんと服を着たままのデッサンだし、無理なお願いなんて絶対しないから」
「人の話もきけ!」
炎も爪《つめ》も忘れて、拳《こぶし》でぽかりと河原崎の頭を叩《たた》くようこ。河原崎は驚《おどろ》いたように叩かれた頭をさすり、目をしばたかせている。
とうとう我慢出来なくなった啓太が腹を抱えて大笑いした。
「あはははは、河原崎センパイ、こいつこれでも犬の化身なんだよ?」
犬?
河原崎は驚《きょう》愕《がく》しきった顔になった。ようこの尻尾をむんずと掴《つか》み、
「しかし、この大きさはどう見てもタヌキだろう? 嘘《うそ》を言ってはいかん」
大きく左右に振る。ようこは尻尾の大きさにコンプレックスのようなものを持っている。それを無《ぶ》遠《えん》慮《りょ》に触られ、よりにもよってタヌキ呼ばわり。
肩を震《ふる》わせ。
涙目で。
爆《ばく》発《はつ》。
「しんじゃえ!」
再度、光の柱が立ち上がった。
ぷんぷん怒ったようこはそのまま、天に向かって飛んでいった。後には黒焦げのまま、ぴくぴくと痙《けい》攣《れん》している河原《かわら》崎《ざき》。その傍らにしゃがみ込んで、半焦げ、半目で頬《ほお》杖《づえ》をついている啓《けい》太《た》だけが残った。
「なあ、あんた、いちいち俺《おれ》を巻き込ないでくれるか? あいつ、尻尾《しっぽ》のことかなり気にしてるんたからさ」
「……」
「どうやら、探しものってあいつのことだったんだな。ま、大方、漫画のモデルにでもしよ〜つうんだろうけどさ、難しいぞ〜。あいつ、そういう柄じゃないし、そもそも、人の言うことを聞くような奴《やつ》じゃないから……ま、俺が口きけば別だけどね」
河原崎は小さく丸まってしくしく泣いている。啓太は平然とした表情で焼け残ったパンを咀《そ》嚼《しゃく》し始めた。
「かわひら〜〜。俺は恥ずかしい〜〜〜」
「……一体、なにをいまさら」
と、バターロールを飲み込みながら啓太。
「ちが〜〜〜う」
河原崎は嫌《いや》々《いや》をするように首を振る。
「あの子を〜〜、あの尻尾の子を〜〜」
「あいつ、ようこってんだ」
「そうか〜〜〜。その、ようこさんを己の無神経ゆえに深く傷つけてしまったことが泣くほど恥ずかしい〜〜」
「なあ」
ふと啓太が真顔になった。
「そんなことよりあんた、あいつや俺の素《す》性《じょう》とかもっと重要なことが気になんないの?」
「いや。ぜんぜん〜〜〜〜まったく〜〜」
「……」
啓太はとうとうパンを全部、食べ終えて、紙袋をくしゃりと手の中で握り潰《つぶ》した。
考え込むようにして言う。
もぐもぐ口を動かしながら、
「あんた、意外に大物なのかもな」
立ち上がった。
「じゃ、またな」
と、そこへ。
河原《かわら》崎《ざき》の手が伸びた。顔を伏せたまま、しっかり啓《けい》太《た》のズボンを握って一言。
「かわひらあ〜〜〜。ものは相談だ〜〜〜〜」
啓太、にやりと笑みを浮かべる。
「そう、こなくっちゃな、センパイ」
そうして、彼はまたどっかりその場にあぐらをかいた。
翌日の土曜日。少し肌寒くなってきた午後。啓太は自室のベッドにもたれながら携帯の着信|履《り》歴《れき》を見ていた。
公衆電話からで留守録に、
「留《とめ》吉《きち》です」
とか、
「え〜ん。またかけます!」
とか猫の声が入っている。「一体、なんなんだろう」と彼は首を傾《かし》げ、それから、ふと顔を上げようこに向かって声をかけた。
「……ところで、お前、さっきからなにやってるの?」
見ればようこは自分の尻尾《しっぽ》にサランラップを巻いていた。
一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》。べそをかいたような顔で。彼女の尾はふさふさした毛がきゅっと絞られて、意外なほどに細い棒と化している。
「だいえっと」
と、ようこがえぐえぐしゃくり上げながら、千切れた部分に補強を入れていた。
「これを巻くと汗をかいて、細くなるっててれび、が言ってたもん」
ふっと啓太は苦笑した。携帯をベッドの上に載せ、起き上がる。ゆっくりとようこの傍らに腰を下ろすと、彼女の肩に優しく手を置いた。
首を横に振る。
「ようこ」
「ケイタ?」
「こんなのはちゃいだ」
そう言ってようこの尻尾からサランラップをむしり取る。すると毛並みは瞬《しゅん》時《じ》に元の嵩《かさ》を取り戻した。それを柔らかくさすってやりながら、
「無理なダイエットはするな。お前はお前のままが一番いいよ」
「で、でも」
「タヌキって言われたことを気にしているんだろう? ははは、馬《ば》鹿《か》だなあ。あの人、ちょっと目が悪くてさ、それであんなこと言ったんだよ。後で反省してた。女の子に無神経なこと言っちゃったって」
「……で、でも、ケイタだってやっぱり尻尾《しっぽ》の細い女の子の方が好みなんでしょう? 結局、男の人っていつもそう」
「それは女の埒《らち》もない幻想だよ。太めが好きな奴《やつ》は結構、沢《たく》山《さん》、いるし……って、一体なんの話をしてるのかよく分からんが、俺《おれ》はお前くらいの方が健康的でいいと思う」
にっこり爽《さわ》やかに笑って啓《けい》太《た》が言う。ようこの顔がかあっと赤くなった。彼女は自分の煩《ほお》を両手で挟み込み、彼に背を向け、いやいやをする。
「優しいな、ケイタ♪」
その拍子に尻尾がばさばさと動いて、それが啓太の顔をハタキのように払う形になった。啓太、憮《ぶ》然《ぜん》とした半目になってその先端を措で摘《つま》み、脇《わき》に放り捨てた。
ん?
と、ようこが振り向いた時には再び満面の笑みを浮かべている。首を傾《かし》げて、どうした? というようにようこを見返した。
ようこ、少しだけ不《ふ》審《しん》そうな顔になった。
「あのさ」
啓太は咳《せき》払《ばら》いをして話し始めた。
「でな、昨日のアレは結局、誤解だったんだよ。男の俺から言うのもなんだけどさ、根は凄《すご》くいい人なんだ。河原《かわら》崎《ざき》センパイってよく誤解されるけど、お金持ちだし……その、お金持ちだし、その上、とっても気前が良いんだ」
「ふ〜ん」
「よく話せば、お前もきっと気に入るんじゃないかと思う」
きょとんとしていたようこの目が急に、すっと細まった。
「で?」
と、冷ややかに一言、問い、啓太に顔を近づける。
何かに気がついたようだ。
「要するにケイタは何が言いたいの?」
「す、凄《すご》むなよ。俺は別に」
「な・に・が、言いたいの?」
「あ、あのだなあ。なんというかその、特に他意はなくてだな……河原崎センパイがとてもいい人だということを是非、お前にも」
「わたし、あの人嫌い。恐《こわ》い」
「そ、そうだな。でも」
「わたしのことをタヌキって侮辱した人のことを……わたしが絶対に許さないと知っていて、それでも、なお、啓《けい》太《た》は要するに何が言いたいの?」
腰元に手を当て、うっすらと笑いながらようこがずんずんと近づいてくる。啓太は距離を取ろうと必死で手を突っ張って、後ずさった。
「あ、やっぱいいわ! いい! いい! 俺《おれ》が悪かった!」
「怒らないから言ってご覧《らん》なさい」
もの凄《すご》く不自然に笑いながらようこが言う。
「ね?」
首をゆっくり傾《かし》げた。啓太は顔を引きつらせ、逃げ場を無意識のうちに目で探しながら、早口で叫んだ。
「もうじきあの人がうちに来るんだけど、ちょっとだけ遊んでやってくんない?」
と、同時にがばっと床に伏せて、頭を庇《かば》った。
し〜んと。
凍りついている気《け》配《はい》。何もない。何も起こらない。
啓太は恐る恐る目を上げてみると、ようこは手をだらりと垂《た》らし、操り人形のように立ち尽くしていた。啓太はごくりと唾《つば》を飲み込んだ。黙《だま》って俯《うつむ》いていたようこの前髪がぱさりと垂れた。ゆらゆら柳のように揺れ始めている。
口元だけで笑み、
「わたしを売ったのね?」
地獄の底から響《ひび》いてくるような声だった。啓太は口をぱくぱくさせた。
「あ、い、いや、その」
「あの、ヘンタイに、遊ぶお金欲しさにわたしを売ったのね?」
「ま、まて! 話を」
「一体いくらで売ったの?」
「ち、ちが」
「答えなさい! 一体いくらで売ったの!? 十万? 二十万? それとももっと沢《たく》山《さん》!?」
一《いっ》瞬《しゅん》だけ、少し質の違う沈《ちん》黙《もく》が訪れる。啓太は頬《ほお》をぽりぽり掻《か》いて、横を見ながら、
「……昼飯のパン、一週間分」
「安すぎる!」
ようこが本当に切れた。
アパートの一室が突如、白い閃《せん》光《こう》で包まれ、次の瞬間、天井を突き破って雲の彼方《かなた》にまで届かんばかりの巨大な光の柱がそこに立ち昇った。さながらレーザービームが真《ま》っ直《す》ぐ天へ向かって撃《う》ち出されたかのようだった。しかし、往来を行く人は誰《だれ》も気がついてない。無音、不可視の大《だい》爆《ばく》発《はつ》。たた、ポリバケツの上で悠《ゆう》然《ぜん》と眠っていた猫がそのただならぬ霊《れい》気《き》にびっくりしてその場から転がり落ちた。
ふにゃあ〜。
と、鳴きながら逃げていく。
平和な土曜の畳下がりとは対照的に、中では悲惨な光景が繰《く》り広げられていた。
「ふふふふ、ケイタ。どう? わたしの新必殺技『だいじゃえん改・音《おと》無《なし》』のお味は?」
黒焦げになっている啓《けい》太《た》は返事もろくに出来なかった。ようこはその背中にお尻《しり》を乗せ、足を両《りょう》脇《わき》に抱え込んで、サソリ固めの姿勢をとっていた。
不思議なことに啓太がそれだけボロボロなのに部屋は綺《き》麗《れい》なままだった。壁《かべ》紙《がみ》やベッド、卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》、テレビなどの調度品の類《たぐい》。それに置いてあった古新聞、食器なども元の場所から全く動いていない。何事もなかったかのような室内で、ただ啓太だけが焦がされていた。今まで放散するが故《ゆえ》に周りにも多大な被害を与えてきた彼女の最大最強の力。ようこは最近、それを極小の効果|範《はん》囲《い》に絞って使えるようになってきていた。
だが、啓太は色々な意味での彼女の成長を素直に喜べる状態ではなかった。
「ろ……ろーぷ、ろーぷ」
と、震《ふる》える手を差し伸ばし、シーツを掴《つか》もうとする。
ようこがさらにふんぬ、と力を込めた。
その拍子に枕《まくら》元《もと》に置いてあった携帯が床に転がり落ちて、タイミング良く着信音が鳴る。啓太は最後の力を振り絞ってそれを手に掴むと、通話ボタンを押した。
「た、頼む。どこのどなたか存じ上げぬが……」
「助けてください!」
聞こえてきた声は全く同じタイミングで同じことを言った。
「お前……留《とめ》吉《きち》か?」
啓太が驚《おどろ》きの声を上げた。
「は、はい」
電話の向こうでべそをかいているような声。間違いなく以前、温泉宿で知り合った仏像集めを至上の任務としている変な猫《ねこ》又《また》だ。
ようこも聞き耳を立て、一時、責める手を休めた。
「助けてくださいって……一体、どうしたんだよ?」
「そ、それがそのお」
留吉の声に何か奇妙な声が重なる。甲《かん》高《だか》く不気味に響《ひび》いてくる。何を言ってるのかよく聞き取れないが、留吉に向かってしきりになにか呼びかけているようだった。
「おい。どうした? なにかに追われてるのか?」
「は、はい。え、えっと、そうなるのかな?」
「そうなるのかなじゃねえだろ! しっかりしろ? 一体、今どこにいるんだよ?」
え〜い、重い!
と、啓《けい》太《た》はようこを振り払い、携帯をきちんと握り直した。ようこもすぐに彼の反対側に耳をつけ、真剣な表情になった。
「今、啓太さんの家の前の公衆電話です」
「な、なに?」
啓太は呆《あき》れ顔になる。
「だったら、早くうち来いよ!」
「はい、あの」
「お黙《だま》り。とにかく、来いって!」
「はい……今からすぐに行きますので、どうかその、笑わないで下さいね」
そう最後に情けなさそうな一声が聞こえて通話が切れた。啓太、ようこ、共にきょとんとしている。互いに顔を見合わせ、
「なんだったんだ?」
「さあ?」
そんな風に肩をすくめた。ほとんど間をおかず、窓ガラスをほとほとと叩《たた》く音がした。啓太がすかさず鍵《かぎ》を開けてやった。
丸っこい小さな生き物が転がり込むようにして中に入ってきた。
「早かったな」
と、そちらの方を見つめて啓太の目が思わず点になった。
「か、かわいい〜〜」
ようこが手を組んで歓声を上げた。
猫はその途《と》端《たん》、大きな声で泣き出した。
「うえ〜〜ん」
留《とめ》吉《きち》は仏様の恰《かっ》好《こう》をしていた。
なんというのだろう。ゆったりとしたローブのような法《ほう》衣《え》から胸元がはだけ、神《こう》々《ごう》しい後光を背負っている。光。ではない。仏像のように意匠化されたぎざぎざが留吉の背後に不自然な形で浮いているのだ。額《ひたい》には知恵を表すほくろが一つ。
頭の上には天光の輪。
しかも中身はごく普通の大きさの猫。それが二本足で立っているのだ。
ぷ。
啓太がたまらず噴《ふ》き出した。
「なんだ、留吉。それ、仏像のコスプレか? なかなか、よく似合ってるぞ」
「わ〜ん、違うんですってばあ」
猫はててててと啓《けい》太《た》のところまで駆けてくると、いきなりその背中に隠れた。啓太、目を白黒させている。
その次の瞬《しゅん》間《かん》、開け放たれた窓から疾風《はやて》のような勢いで何かが飛び込んできた。
「きたあ!」
と、留《とめ》吉《きち》が啓太にすがりついた。
「ケイタ!」
と、ようこが叫ぶ。啓太もそれを見ていた。
ほとんど同時に拳《こぶし》が出る。水平に薙《な》ぐ。手の甲を使用した唸《うな》るような一《いち》撃《げき》。ようこも白い指先に炎をまとわせて振り下ろした。タイミングも軌道も全く違う。
意図的に角度をずらした二人の連撃。しかし、すか。すか。と二つとも空《くう》を切る。体勢を崩したようこの身体《からだ》を啓太が肩で支え、その反動を利用してようこが再び伸び上がった。
身体を捻《ひね》り、爪《つめ》を突き出す。
真上へ。ほとんど串《くし》刺《ざ》すように。同時に啓太はサッカーでいうところのオーバーヘッドキックを逆さから叩《たた》き込んだ。
だが、これも無効。避《さ》けられた。
黒い影はUFOのように斜めに、重力を無視して飛び回った。そうして、二人のさらなる攻《こう》撃《げき》をかいくぐって稲《いな》妻《ずま》のような速さで部屋を跳ね飛んだ後、電灯の笠《かさ》に止まる。
「タイヘン、ケッコ──────!」
唐突に甲《かん》高《だか》い声でそう鳴いた。
啓《けい》太《た》、ようこ、共に唖《あ》然《ぜん》としていた。
「ブツゾウケッコウ! タイヘンケッコウ!」
「もういらないですよう〜」
「コケ───────!」
「ちょっとは人の話を聞いてくださあ────────い!」
と、留《とめ》吉《きち》が声を張り上げた瞬《しゅん》間《かん》。
どろんと音がして。
真白い煙が立ち昇り、啓太とようこを一瞬だけ包んだ。声を上げる暇もなかった。ようこは目をぱちくりさせた。
啓太は口をぽかんと開けたまま、ようこの方を見やった。
そうして、二人は同時に噴《ふ》き出す。
互いに指を差し合いながら、
「あははははは! ようこ、お前、なんて恰《かっ》好《こう》してんだよ!?」
「なによお〜、ケイタこそ」
さらに自分たちの服装を見下ろし、
「なんじやこりゃ─────!?」
「いやああ─────────!」
叫んだ。
啓太はいわゆる大《だい》黒《こく》天《てん》。ようこは弁《べん》財《ざい》天《てん》の恰好をしていた。
「タイヘン、ケッコ───────!」
電灯の笠に止まっていた木彫りのニワトリが得意そうにそう叫んだ。
「とめきち〜〜〜〜、じっくり話を聞かせてくれるよな?」
異様に優しい笑み。啓太は打ち出の小《こ》槌《づち》を手のひらにぱんぱん打ちつけながら、顔をぐぐっと近づけてくる。
留吉はそちらの方を見てあうあう。
ようこは弁財天のオプションである琵《び》琶《わ》をぽろんと鳴らした。
びっくりしたような顔で、
「この服、ひらひらしてるね〜」
素足の爪《つま》先《さき》をちょんちょん床につけて、踊っている。
留吉、そちらにも伏し目を向けて、
「あうあうあう」
泣き出しそうな顔になっていた。その間、木彫りのニワトリはパタパタと電灯の周りを飛びながら叫んでいた。
「タイヘン、ケッコー! コケ───!」
ふう、といったん啓《けい》太《た》は溜《ため》息《いき》をついた。
それから、ごく普通の表情に戻って親指で後ろを示す。
「あれ一体なんなんだ?」
「え〜」
留《とめ》吉《きち》は照れ笑いをした。
「よく分かりません」
「ほう」
打ち出の小《こ》槌《づち》を軽やかに振り回す啓太を見て、
「あ! 違うんです! あれはですね! 本当になんなのかよく分からないんです! ただ僕《ぼく》が仏像を探していたら偶然、見つけてしまったんですよ!」
それから、留吉はかいつまんで事情を説明し始めた。
留吉は寂びれた寺から散失した百八体の仏像を回収して歩いている猫《ねこ》又《また》である。他《ほか》にも何匹かいる同族と協力し合って自分たちのことを『渡り猫』と呼んでいる。
彼は先月、啓太たちの住まう吉《きつ》日《じつ》市近郊の山へ赴いた。
そこでとある旧家の当主が亡くなって、倉の奥で埃《ほこり》を被《かぶ》っていた骨《こっ》董《とう》品《ひん》が日の目を見るかもしれないという情報を手に入れたのだ。えてして彼らの探している仏像は、そういった収集家やあるいはそれらの人が集めたものを漠然と受け継いでいる人々によって日陰に仕《し》舞《ま》い込まれている場合が実に多い。
そこで目利きの古美術商や骨董品屋の店先などを定期的に巡回して、立ち話を盗み聞きしたり、手紙やパソコンを盗み見たりして、掘り出し物関係の情報を専門で収集している仲間たちがいるのだ。
彼らのマメな諜《ちょう》報《ほう》活動によって初めて留吉たち実働部隊は動くことが出来る仕組みになっている。
「へえ、案外、しっかりしてるんだな」
と、啓太が感心したように言った。ようこもうんうん頷《うなず》いている。
留吉はちょっと照れたような顔になってから、話し続けた。準備を整え、その地へ赴いたものの、道に迷ってしまっていた。途《と》切《ぎ》れ途切れだった山道も見失い、困り果てていたその時である。月明かりの下、タヌキが。
「たぬき〜?」
と、そこで妙に過敏な反応を示すようこ。
「どうかしましたか?」
「あ〜、気にするな」
笑いながら手を振る啓《けい》太《た》。留《とめ》吉《きち》は頷《うなず》いて、話を再開した。現れたのはタヌキの親子でまだ化けたりするほど霊《れい》験《けん》はないものの、留吉の求めに応じて目的の場所に案内してくれるほどには意志の疎通が出来た。
そこは瓦《かわら》葺《ぶ》きの屋根の家々が立ち並ぶ、昔ながらの村だった。水田に青々と水が張り、夜の星々はどれもがとびきりの明度を誇っていた。幻想的な青白い景色の中で、鎮《ちん》守《じゅ》の森がしんみり静かに佇《たたず》んでいる。留吉は丘の斜面の中腹に建つ一《ひと》際《きわ》、立派な門構えの家を見つけた。
タヌキの親子たちはそこで引き返していったという。
留吉は不可視の姿をとってはいたが、さらに用心を重ね、慎重に中に忍び込んだ。幸い、厄介な犬の類《たぐい》はおらず、無事に倉の中に入ることが出来た。
近いうちに古物商が下取りの査定にくるからなのだろうか。
中は意外なほどに整頓されていた。掛け軸などの類は黄色いプラスチックの籠《かご》にきちんと並べられている。その他《ほか》には鎧《よろい》や兜《かぶと》。屏《びょう》風《ぶ》に日本刀。東側の一角は本棚になっていて薬草に関する和《わ》綴《と》じの本が沢《たく》山《さん》、積んであった。よく見れば臼《うす》や乳《にゅう》鉢《ばち》なども揃《そろ》っているからどうやらこの家の先祖は代々、医者だったようだ。
ざっと見渡した限り、仏像の類はない。それは留吉の持っている針のない羅《ら》針《しん》盤《ばん》(留吉の探している仏像に反応する霊具)でも確かめられた。だが、念のため……というより、好奇心に駆られて留吉はさらに奥へ奥へと入り込んでいった。
彼は仏像探しの旅を続けるうちにいつしか骨《こっ》董《とう》品《ひん》関係のちょっとした目利きになっていた。人間の作り出す美術品を愛《め》でるのは、彼のささやかな喜びの一つなのだ。うっとりと漆《うるし》塗《ぬ》りのお椀《わん》に頬《ほお》ずりしていた留吉はそこで残念そうに首を振った。
何時《いつ》までもこうしている訳にはいかなかった。
せめて夜が明ける前にはここを立ち去らねばならない。留吉が比較的、小さめの葛《つづら》がいくつも重ねられた一角に来たときである。
「あ!」
と、彼は葛と葛の間に落っこちた。ささくれた部分に足を取られたのだ。咄《とっ》嗟《さ》に手を伸ばしたのがさらにまずかった。
葛は雪崩《なだれ》を起こして留吉の頭の上に転がり落ちてきた。乾《かん》燥《そう》させた笹《ささ》やキノコなどがどさどさと留吉に降り被《かぶ》さってくる。
そして、最後に。
ぽこんと。小さな桐《きり》製の箱が留吉の頭を叩《たた》いた。
「いった〜」
留《とめ》吉《きち》は頭を押さえ、それからその箱を取り上げてみた。
「なんだろう?」
よく見ればなにやらお札らしきものが張ってあった。でも、それはもうほとんど剥《は》がれかけている。
留吉は一《いっ》瞬《しゅん》、見なかったことにしようと思ったが、恐れより好奇心の方が勝った。
そっと蓋《ふた》を開けてみる。
中に赤い絹でくるまれて、変な木彫りの人形が入っていた。
凹《おう》凸《とつ》が激しく、でこぼこしていて、お世辞にも綺《き》麗《れい》な細工とはいえなかった。なんとなくバリ島とかそういう南の方で作られていそうなちょっとエキゾチックな雰囲気もあった。ニワトリなのだろうか?
留吉が何気なく前足を伸ばしてちょいちょいっとそれを突いた時である。
出し抜けに人形の目が開いた。
同時に、
「コケコッコ───────────!」
辺りの空気をびりびり震《ふる》るわすほどの大《だい》音《おん》声《じょう》が轟《とどろ》いた。
留吉は思わずその場で腰を抜かした。木彫りの人形は宙高くに浮かび上がると、大きく羽を広げ、留吉をその焦点の定まらぬ目で見《み》据《す》えた。
犬が遠くで吠《ほ》え始めている。
「コケ?」
「へ?」
「コケコケ────?」
留吉は訳が分からずただ目を白黒させている。すると、
「コケエ────コケエ─────────」
ニワトリは錯《さく》乱《らん》したように喚《わめ》き出した。
「あ、はいはい、そうです。そうです! 猫です! だから、ごめんなさい。シ──!」
留吉は慌てて押さえ込もうとする。
犬の声が一《ひと》際《きわ》、大きくなった。
「コケ」
ニワトリは満足そうに幾《いく》度《ど》も頷《うなず》いた。そうして次の瞬間。
白い煙がどろん。
「という訳なんです」
と、しみじみ頷きながら留吉が話を締《し》めくくった。
「結局、なにも分からないままじゃねえか」
半目になりながら啓《けい》太《た》が腕を組んだ。ようこは電灯の上に乗っかっているニワトリの方へ浮かび上がっていった。笑いながら人差し指をくるくると回す。ニワトリは特に警《けい》戒《かい》心《しん》も見せず、コッコッと鳴いていた。
留《とめ》吉《きち》はそれを横目で見ながら、
「それから、僕《ぼく》はこの恰《かっ》好《こう》になりました。逃げても、嫌《いや》がっても言うこと聞いてくれないし、やむなく啓太さんのところへ……ごめんなさい。本当は仮《かり》名《な》さんにも連絡を取ったんだけど、電話に出ないんです」
「いや、それはいいけどさ。こいつなんなんだろうな?」
すると、
「直接、聞いてみれば?」
と、ようこがあっさ言う。
「バカ言え」
啓太が言下に却下しようとして、次にようこがニワトリを抱っこしているのを見て、目を丸くする。
「お、お前、それ……捕まえられたのか?」
「うん。大人《おとな》しいもんだよ。すっかり仲良くなっちゃった。ね〜、ニワトリさん?」
ようこが笑いながら顔を覗《のぞ》き込むと、ニワトリは満足そうにココッと鳴いた。まるで長年、飼っていたペットのように簡《かん》単《たん》にようこに懐《なつ》いている。何故《なぜ》か留吉がもの凄《すご》く憮《ぶ》然《ぜん》とした表情になっていた。
啓太は咳《せき》払《ばら》いを一つした。
ようこをちょいちょいと手招きして下におろし、目線をニワトリに合わせた。
「なあ、お前に幾《いく》つか質問したいんだが……いいか?」
「コケ?」
ニワトリは首を傾《かし》げる。
「言葉分かるか?」
「コケ──────────!」
嬉《うれ》しそうに羽ばたく、ニワトリ。啓太は溜《ため》息《いき》をついた。
「ダメか……」
「ニワトリさん、あのね、言葉!」
「コケ───────────────!」
「所《しょ》詮《せん》、ニワトリですね」
ふんと鼻を鳴らしている留吉。啓太はそんな猫を横目で見つつ、ニワトリをようこの手からそっと受け取った。
そうしてもニワトリは大人しくしている。
「どう見てもただの木彫りだよな」
啓《けい》太《た》はニワトリを裏返しにしたり、日の光に当てたりして透かそうとしている。
「妖《よう》怪《かい》か、これ?」
「変な霊《れい》力《りょく》だよね。凄《すご》く変」
ようこが目を細める。ニワトリの頭を撫《な》でた。コッコッと鳴いているニワトリ。啓太の肩によじ登って留《とめ》吉《きち》も手元を覗《のぞ》き込んでいた。
「これさ、こ〜していると誰《だれ》かを思い出すんだよね」
「なにが?」
「このチカラ。前に会ったことあるよ」
「会ったことって」
あ。
と、啓太とようこが同時に声を上げた。
「このチカラ、カリナさん!」
「おい! ようこ、これ見てみろ!」
そう言って啓太がニワトリの背中の部分を指で示した。ちょっと嫌《いや》がって身じろぎするニワトリ。それををなんとか宥《なだ》めて、
「ほら、これ! 見覚えあるだろう?」
興《こう》奮《ふん》したような声。
「あ」
と、息を呑《の》むようこ。ただ一人、留吉だけがきょとんとしている。
「なんです、これ?」
その背中には三体の骸《がい》骨《こつ》と大きな月の模様が刻まれていた。
「ほら、これ、あれだよ! あれ! 月となんちゃらとか言った魔《ま》導《どう》書《しょ》で仮《かり》名《な》さんが追っている奴《やつ》。あれの表紙に描いてあった絵だよな?」
啓太の説明にようこがうんうん頷《うなず》いた。
「……これ、仮名さんと関係があるんですか?」
「ああ」
啓太はすかさず携帯を拾い上げて登録してあった番号に電話する二度目に会った時に連絡先は教わっていた。
しかし。
「……留守だ」
謹《きん》厳《げん》な声で、
『ただいま電話に出られません』
という仮名|史《し》郎《ろう》自身が吹き込んだ応答メッセージが聞こえてくる。留吉が「やっぱり」と呟《つぶや》いていた。啓《けい》太《た》は怒《ど》鳴《な》るようにして、
「俺《おれ》だ! 川《かわ》平《ひら》啓太! 妙な木彫りのニワトリがうちに飛び込んできたんだけど、これあんたの管《かん》轄《かつ》だろう? 変な骸《がい》骨《こつ》の絵が背中に描《か》いてあるぞ。とにかく引き取りに来てくれよな!」
そう留守録に吹き込んだ。
啓太が通話ボタンを切ったその時である。
ようこが声を張り上げた。
「ケイタ! この子なんだか変だよ!?」
その言葉に啓太と留《とめ》吉《きち》は顔を上げた。
確かにニワトリの様《よう》子《す》がおかしかった。
羽を広げ、目を上下左右に忙しくきょときょとさせながら、コケコケ鳴いている。まるで、本物のニワトリが天敵を目の前にしたかのようだった。
ニワトリは、
「タイヘン、ケッコ──────! コケ─────!」
と、興《こう》奮《ふん》したように叫んだ。
羽をばさばささせ、ようこの目の前を横切り、窓枠にしがみつく。あ、待ちなさい! とようこが咄《とっ》嗟《さ》に捕まえようとしたが、簡《かん》単《たん》に逃げられた。
「コケ──────────────!」
と、そこへ。
「やあやあ、愛《いと》しのようこさん。こんにちは。バラだよ〜〜〜〜〜ん!」
玄関のドアが開かれ、河原《かわら》崎《ざき》が花束を抱えて登場した。
最初、啓太は反応出来なかった。なんでここにこいつが、という顔で河原崎を見て、次の瞬《しゅん》間《かん》、自分が呼んだことを思い出す。
ようこは口元を歪《ゆが》める。
留吉は咄嗟に隠れようとした。
その一瞬。
ニワトリは真《ま》っ直《す》ぐに河原崎に向かって飛んでいった。まるでスローモーションのように各人の一動作、一動作がやけに鮮《せん》明《めい》に瞼《まぶた》に焼きつけられた。
啓太は自分でも訳が分からず、猛烈にイヤな予感にとらわれた。ダメだ。そう呟《つぶや》きながら、河原崎の方に向かって手を差し伸べた。
ようこは後ろに飛び、何か叫びかける。
おろおろする留吉。河原崎の行動だけはごくノーマルで首を傾《かし》げ、留吉。続いて、ニワトリを見て、なんだこれは?
と、首を傾げる。
ニワトリは羽ばたきながら、河原《かわら》崎《ざき》の頭に止まろうとした。
啓《けい》太《た》、闇《やみ》雲《くも》に手を掻《か》き回して、ジャンプ。
その邂《かい》逅《こう》は。
河原崎とそのニワトリの組み合わせだけは。
絶対、阻止せねば!
「なんだ、この鳥?」
と、河原崎が驚《おどろ》きの表情を作った刹《せつ》那《な》。
「コケ──────────!」
ニワトリが歓喜の声を上げた。
「お、お前は」
と、震《ふる》えながら啓太。彼は拳《こぶし》を握り込み、意識をはっきりさせようと唇を強く噛《か》みしめる。気を抜くと倒れ込んでしまいそうだった。
「……猫耳ならなんでも良いのか?」
しんと痛いくらいに静まり返った部屋の中で留《とめ》吉《きち》が咳《せき》払《ばら》いを一つした。
「あのお、こういう時に私《わたくし》事《ごと》を言うのもなんなんですが、僕《ぼく》に限って言えば日常生活にはそれほど不都合はないと思います」
自前の猫耳の横にオモチャの猫耳がついたカチューシャをつけて、メイド服を着込んでいる。耳が都合、四つある以外はごく可愛《かわい》らしいといっても特に差し支えない外見である。
「うん。わたしも多《た》分《ぶん》、そんなに問題ないと思う」
ようこがその場でくるりと回ってみせた。
こちらはステッキを持った魔《ま》法《ほう》少女姿だった。それに猫耳。留吉と違って同じ猫耳でも純正品である。頭の上から生えたそれがひこひこと動く。
「あ、尻尾《しっぽ》も」
いつものふさふさした金色のに代わって虎《とら》縞《しま》の細長いものに変化していた。
「わ〜、軽い!」
びっくりしたような顔でそれを手にとってみる。くねっと先端が折り曲がり、彼女の意図通りに細かく鋭《えい》角《かく》に動いた。
「猫って便利なんだねえ〜」
ようこは感心したようにそう呟《つぶや》く。ふわふわのミニのエプロンドレス。すらりとした足がそこから伸びていた。純白のブーツに同じく純白のベレー帽。
留吉と同じく、時と場所さえ問違えなければほぼ問題はないだろう。場合によってはそこでチヤホヤさえされるかもしれない。
問題は……。
「ケイタ?」
しくしく。
暗い、哀《かな》しい、世にも惨《みじ》めな啜《すす》り泣きだけが返ってきた。
「……あの、大丈夫ですか?」
と、これはいかにも気の毒そうな留《とめ》吉《きち》。
ケイタは答えない。
しくしくしく。
しゃがみ込み、毛布の下で丸くなって、ただただ泣き続ける。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい……啓太はとうとう人生の取り返しがつかないテリトリーにまで足を踏み入れてしまいました」
「そんな……」
「そうそう。泳ぐ時には便利だよ、それ」
「す、すばらしい」
一人だけ感涙にむせんでいる男がいた。当然、河原《かわら》崎《ざき》直《なお》己《き》その人である。彼はなんとセーラー服姿でハイソックスを足に穿《は》いていた。それに留吉と同じ猫耳バンド。驚《おどろ》いたことにそれが結構、似合っていた。
細っこい身体《からだ》とさらさらと黒く長い髪は充分、女子高生で通ったのだ。しかも、よく見ると彼は色白で、なかなか端整な顔立ちをしていた。
河原崎は大きく手を叩《たた》きながら、肩に乗っかった木彫りのニワトリに惜しみのない賞賛を浴びせた。
「キミの仕事はサイコーだ! うえるんだん! ぐれいとじょぶ!」
それに対して、
「ふざけんなあ───────────────!」
とうとう堪《こら》えきれなくなった啓太が毛布を払い、立ち上がった。三人の視線が一斉に集まる。ただ一人、彼だけは異《い》形《ぎょう》のモノと化していた。それはもはや正視に耐えぬレベルで、気の弱い子なら一発で泣き出すだろう。
スクール水着。
比較的、筋肉質な男のスクール水着姿は普通、誰《だれ》も見たくない。すね。股《こ》間《かん》。腋《わき》の下。色々と突っ込みどころは満載だが何より胸元のワンポイント。
『にねんしいぐみ かわひらけいた』
と、平仮名で書かれているのが果てしなく絶望的だった。頭には水中|眼鏡《めがね》とシュノーケルの装備一式。足ひれ。それにピンク色の水玉が入った浮き輪がオプションとなっていた。
もの凄《すご》く大きな猫耳のカチューシャがなくても異様なのに、それが堂々と、これ見よがしに髪の間から生えているのだ。
すでに人《じん》智《ち》は超えている。
「ぷ」
と、同時にようこと留《とめ》吉《きち》が噴《ふ》き出す。おお〜、と河原《かわら》崎《ざき》が嘆息してから、手を打った。
「それはこそ子ちゃんの衣装だな」
「て、てめえ!」
「こそ子ちゃんは何時《いつ》もスクール水着で内気なネコネコ族の長《おさ》の孫娘なのだが」
顎《あご》に手を当て、啓《けい》太《た》を頭の上から下までジロジロと眺め回した。それから、もの凄《すご》く大《おお》真《ま》面《じ》目《め》な顔《の》で一言。
「首輪が犬用のままなのが痛いな〜」
「言いたいことはそれだけか─────────!?」
タイヘン、ケッコ────────!
ニワトリが叫んだ。
「こら、ニワトリ! 俺《おれ》をさっさと元に戻せ!」
しかし、ニワトリはきょとんと小首を傾《かし》げている。
一方、河原《かわら》崎《ざき》の方はメモ用紙に鉛筆でしきりにようこのデッサンを取っていた。忙《せわ》しない手の動きで、目つきは真剣そのもの。啓《けい》太《た》のことは全く見ていない。啓太の額《ひたい》にひくんと青筋が浮かびヒがった。
「ようこ、火だ」
「え?」
「火だよ! 火! だいじゃえん改・音《おと》無《なし》!」
う、うん。その命令に、ようこは一《いっ》瞬《しゅん》、躊《ちゅう》躇《ちょ》する。
河原崎が怪《け》訝《げん》そうに振り返った。
「川《かわ》平《ひら》……一体、なにを?」
「知れたこと」
啓太は既《すで》に一線を超えている。含み笑いしながら、
「てめえらまとめてこの世から焼き払う」
やれ────────!
と、指を突きつける啓太。ようこの目が深紅に光った。
「だいじやえん改・音無!」
両方の人差し指をマッチのように擦《さっ》過《か》させる。その途《と》端《たん》、ぼっとベッドで空気が焦げる音がした。ようこの小さな手の動きに、霊《れい》力《りょく》が感応したのだ。瞬時にそこだけを焼き尽くす光の柱が立ち昇る。凄《すさ》まじく凝《ぎょう》集《しゅう》された力の発《はつ》露《ろ》である。
だが、効果|範《はん》囲《い》が絞られる。
ということは逆に逃げる余地も生まれるということだ。
河原崎は信じられぬ行動に出た。
「ふんぬ!」
と、叫ぶと幅跳びの選手のように手を振り上げ、飛んだ。卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》で一度、足を突く。さらにそこを踏み台にして、ニワトリを抱えたまま空中の高みに躍《おど》り出る。
部屋をほとんど過《よぎ》る形で。
窓めがけて。
「!」
一同、絶句。
さながらハリウッドのアクションスターのように河原崎は窓ガラスを身体《からだ》ごと突き破った。派《は》手《で》に散乱するガラス。
破《は》壊《かい》音《おん》。
啓太は宙を舞う破片を突っ切って、窓枠に駆け寄った。
「ば、ばか! ここ二階だぞ!」
見下ろせば往来では悲鳴が上がっている。それはそうだろう。いきなり、空中から人が転がり落ちてきたのだ。たとえそれが猫耳をつけたセーラー服姿の男でなくても普通は驚《おどろ》く。さらにその上できっちり変態なのだ。
「わ───!」
と、逃げ出す人だらけ。河原《かわら》崎《ざき》は受け身を取った後、むっくりと起き上がると爽《さわ》やかな笑顔を作った。
すちゃっと手を挙げて、
「弁《べん》償《しょう》金《きん》は後できちんと払おう! あでぃおす、あみーご!」
そう叫んで、すたたたと陸上選手も顔負けのフォームで走っていく。みるみる遠ざかっていく彼の後ろ姿を示しながら、ようこが尋ねた。
「……追わなくていいの?」
その言葉に啓《けい》太《た》ははっと我に返った。今の今まで、そのサイボーグのような身のこなしにただひたすら呆《ぼう》然《ぜん》としていたのだ。
啓太は叫ぶ。
「よし! あいつを捕まえ」
と、手を振り下ろした瞬《しゅん》間《かん》、啓太はその場から掻《か》き消えた。
啓太の部屋に残った留《とめ》吉《きち》がぽつりと呟《つぶや》いていた。
「……あの、ようこさん」
「なに?」
「この場合は啓太さんではなく、あの河原崎さんという方を部屋に戻した方が全《すべ》てが差し障りがなかったのではないでしょうか?」
その一言に、
「あ、それもそうだね〜」
ようこは自分の頭をこつんと叩《たた》いて、舌を出した。
てへ。
しっぱい、しっぱい。
気がつけば往来で膝《ひざ》を突いていた。ざわめきはきっちり耳に入っていた。暖かな日差しが眩《まぶ》しくて、川《かわ》平《ひら》啓太は十七年間の人生で初めて死にたくなった。
本当に初めて。
ひそひそひそ。
辺りから聞こえてくる声、異様なモノでも見るような視線。
全《すべ》てが忌まわしく、とても哀《かな》しかった。ひたすらに時を止め、何もかもなかったことにして暖かい布団の中で眠りたかった。
だが、現実はあくまで過《か》酷《こく》だった。
「いやあ────────! 変態!」
と、近くにいた女予高生が叫んだのをきっかけに周囲が一斉にどよめく。変態だ、変態だと騒《さわ》ぎ立てる通行人一同に啓《けい》太《た》は石化し、滂《ぼう》沱《だ》した。その傍らを河原《かわら》崎《ざき》がぽんと軽く肩を叩《たた》いて、通り過ぎていく。
「気を落とすな、まいふれんど」
そう告げて、全力で走り去っていった。啓太は一《いっ》瞬《しゅん》だけ反応に迷い、そうして、すぐに己の全《すべ》てを葬り捨てた。
涙目で羞《しゅう》恥《ち》心《しん》を封じ込め、復《ふく》讐《しゅう》の鬼と化した。
「ま───てやあああ─────! こらあああ────────!」
もの凄《すご》い形《ぎょう》相《そう》で河原崎を追いかけ始める。悪夢のような追いかけっこだ。すると、そこへ市民からの通報を受けて一人の警《けい》官《かん》が立《た》ち塞《ふさ》がった。
かなり勇気ある警官だった。
「こ、こら、お前たち、一体、なんのつもりだ!?」
河原崎はサイドステップを使ってそれをかわしたが、啓太は足ヒレ故《ゆえ》に捕まってしまった。
「あ、貴様! 川《かわ》平《ひら》啓太だな!」
もうすっかりお馴《な》染《じ》みになった人だった。啓太、一度振りほどこうとして諦《あきら》め、食いつきそうな目で警官を睨《にら》んだ。
「なんの用ですか!?」
「な、なんの用かって貴様」
「この恰《かっ》好《こう》になにか問題でも?」
素早く立ち上がって、自分の身なりを手で示す。いかにも不当な取り扱いは我慢できないというような態度だった。
警官は焦った。
「あ、あるに決まってるだろ! そもそも」
「男が猫耳つけて、往来をスクール水着で走っちゃいけない法律でもあるんですか?」
「そ、そんなものはない! そんなものはないがだなあ、良識的に」
「これは」
啓太は一歩、にじり寄る。次の瞬間、圧倒的な迫力で叫んだ。
「俺《おれ》の趣《しゅ》味《み》なんだあああああああああ────────────────!」
警官、とうとうぺたんと尻《しり》餅《もち》をついた。かくかく震《ふる》えている。
「……通って良いですね?」
そのもの静かな問いに、警官は恐怖で顔を歪《ゆが》ませながら頷《うなず》くしかなった。啓太は黙《だま》って身を返すと、再び走り出した。
もう何も恐《こわ》くなかった。失うモノがないから。
同時刻、ニワトリを頭に乗せた河原《かわら》崎《ざき》はちらりと背後を確認していた。啓《けい》太《た》が警《けい》官《かん》と押し問答をしているらしいことは見て取ったが、スピードは一切、緩《ゆる》めなかった。あの男ならたとえどんな障害があっても必ず自分に追いついてくるはず。
そんな確信めいた予感があった。
河原崎は初めて出会った時から啓太を高く評価していた。奴《やつ》はただ者ではないという……それを啓太自身がどう思うかはまた別問題なのだが。
角を曲がった拍子にうっかり人とぶつかってしまった。
さほど体重のない河原崎の方が跳ね飛ばされた。相手は大きく、二、三歩、よろけただけで罵《ば》声《せい》を発しようとして一転。
相手を確かめ、舌《した》舐《な》めずりをした。
ついで、下《げ》卑《び》た笑い声を上げる。
「おうおう、姉ちゃん、痛いじゃねえの。そんなに急いで走ってると恐いお兄さんにぶつかって因《いん》縁《ねん》つけられちゃうよ〜」
うへへへ。
サングラスにパンチパーマ。赤い開《かい》襟《きん》シャツ。金のローレックス。街角でまずぶつかりたくないタイプの男だった。
その隣《となり》では弟分らしきちんぴらがへらへら笑っていた。
「俺《おれ》だから、良かったんだぜ? まあ、お詫《わ》びにお茶くらい付き合って貰《もら》うけどさ」
げひひひ。
ふひゃひゃひゃ。
そんな笑い声を唱和させる二人組。河原崎は転んだ拍子にぶつけたお尻《しり》を撫《な》でながら、眉《まゆ》をひそめた。
「あ〜、すまない。だが今は少々、取り込み中なのでな。連絡先を教えてくれれば、後日、喜んでご招待に応じよう」
「あ〜?」
と、そこでパンチパーマの目が大きく見開かれた。ようやく違和感に気がついたらしい。
「て、てめえ、もしかして男なのか!?」
「いかにもそうだが?」
「ふ、ふざけんな!」
パンチパーマは思わず叫んで、河原崎の胸ぐらを掴《つか》んだ。
「別にふざけてはおらんが」
それほど焦った様《よう》子《す》もなく河原《かわら》崎《ざき》がのんびり言う。足が完全に宙に浮いていた。
「俺《おれ》は、俺はなあ」
パンチパーマが過剰な熱意で力説する。
「女装した男がだいっきらいなんだよ! 許せねえんだよ! 分かるか!?」
「それは気の毒に」
と、河原崎が目を細める。
「他人の過去を詮《せん》索《さく》する趣《しゅ》味《み》はないのだが……なにかトラウマでも?」
パンチパーマが固まる。ちんぴらが指をくわえた。あちゃあ、触れてはならないことを、という表情だった。涙目のパンチパーマは、
「てめえに初恋相手が実は男だった哀《かな》しみが分かるか───────!」
と、拳《こぶし》を振り上げた。
やれやれ。
河原崎は悠然と首を振る。そうして、瞳《ひとみ》をつむり、一言、囁《ささや》いた。
「こけ子や、やっておしまいなさい」
白い煙がどろん。
啓《けい》太《た》がようやくその場に辿《たど》り着くと、既《すで》に全《すべ》てが終わった後だった。
角を曲がって消えていく河原崎のセーラー服。真っ白に燃《も》え尽きて、灰となって立ち尽くすパンチパーマ。おぞましいものを目《ま》の当たりにしてへたり込み、ただひたすら涙を流すだけのちんぴら。
へらへら笑っている。
パンチパーマの手は空《くう》を掴《つか》むような形で凝《ぎょう》固《こ》したままだった。
「遅かったか……」
啓太はぎゅっと拳を握り込んだ。
「なんという悲《ひ》劇《げき》!」
絶対に。
絶対に、これ以上、哀しみの輪を広げてはならない。あなたの尊い犠《ぎ》牲《せい》は忘れません。そっと心の中で合《がっ》掌《しょう》して啓太は再び河原崎の後を追いかけ始めた。
パンチパーマはブルマーと猫耳という組み合わせだった。
往来を悲鳴と笑い声が満たす。あまりに非現実的な光景に大概の人は笑い出し、次に辺りをきょろきょろと見回した。
多《た》分《ぶん》、テレビカメラの類《たぐい》を想像したのだろう。
中には、
「がんばれよ〜」
などと的はずれな声援を送る者もいた。
「春だからかしらねえ?」
とか、
「気の毒に」
などとまっとうな意見を述べる人も沢《たく》山《さん》いた。
啓《けい》太《た》はもう泣かなかった。フェンスをよじ登り、陸橋を乗り越え、追跡を続けた。河原《かわら》崎《ざき》も速かったが、彼には鮫《さめ》のような執念と、怒りと悲しみと屈辱をない交ぜにした想《おも》いと、強《きょう》靱《じん》な体力があった。ふと後ろを振り返ると、ようこが彼のすぐ後をててててっとかなりのスピードでついてきていた。その腕の中で留《とめ》吉《きち》が目を白黒しながらだっこされている。
ようこは啓太を見てにっと笑った。
啓太は無表情に前に向き直った。魔《ま》法《ほう》少女に、メイド服に、スクール水着。全部、猫耳の三人はぴたりととあるビルの前で立ち止まった。河原崎の後ろ姿がその入り口に消えるのをきちんと確認していた。
「ふふふふ、追いつめたぞお〜〜」
啓太は歪《ゆが》んだ笑いを浮かべ、その中へ突進した。
『吉《きつ》日《じつ》市文化市民会館』
と、表札には書かれていた。
中ではビルを一軒、まるまる借り切って、同人誌の即売会が行われていた。
一階のホールに入った時、啓太は悲鳴や笑い声を覚悟していた。ぐっと身構えて入る。ところがどういう訳か一切、そんなことはなくて、代わりに猛烈な熱気が顔に吹きつけてきた。辺りを確認すれば、結構、天井の広い、高校の体育館くらいはあるスペースである。隙《すき》間《ま》が生じないよう細かく計算された長テーブルの上に本が平積みになっている。そこで売り子をする者。忙《せわ》しなく動き回っているスタッフがいた。
それに圧倒的多数の客。
声《こわ》高《だか》に交渉し合ってる。
中央に設置された巨大なスクリーンに見入る。何よりも長い行列。あちらこちらで人が鎖《くさり》のように並んでいた。人人人。とにかくムンムンと密閉された空間で情熱が煮えたぎらんばかりに注がれていた。
「く、やるな、河原崎」
啓《けい》太《た》は拳《こぶし》を握り込んだ。
「木の葉を隠すには森の中。オタクを隠すにはコミケか」
敵ながらあっぱれの判断である。そして。
「かわい〜〜〜!」
という歓声が聞こえてくる。
啓太はへ?
と、足を止めた。さすがに自分のことではないのはすぐに分かった。腫《は》れ物でも扱うような、なんともいえない、避《さ》けるような目線が自分を素通りして背後に向かっている。
見ると、色々なコスチュームに身を包んだ女の子たちがようこを取り囲んでいた。
「すご〜い。これ、『猫《ねこ》娘《むすめ》変《へん》化《げ》』のまいちゃんでしょ?」
「この縫《ほう》製《せい》、凝《こ》ってますね。ご自分で作ったんですか? 本物の耳みたい〜」
とか。
わいわいがやがや人垣が出来ている。その周りをさらに男どもが詰め寄せて、
「あの、写真、いいですか?」
とか、
「うお、レベル、たけえ。尻尾《しっぽ》、動いてるよ!」
とか、そんな騒《さわ》ぎが起こる。最初は戸《と》惑《まど》っていたようこだが、ちやほやされているうちに徐々に調子に乗ってきて、はしゃぎ始めた。カメラマンの要求に応じてポーズをつけたり、ピースサインを出している。
コスプレの女の子たちも写真に加わって一層、場は盛り上がり始めた。
啓太、思わず溜《ため》息《いき》をついた。
「あいつのああいう軽いとこどうにかならんのか?」
と肩を落としたところへ、
「啓太さ〜ん」
不可視の姿をとった留《とめ》吉《きち》が人の足下からよろよろと這《は》い出してきた。ようこに抱かれている間にもみくちゃにされたのだろう。
手には啓太の携帯を持っていた。
どうやら持ってきてくれていたらしい。
「仮《かり》名《な》さんから電話、入りました〜」
そう言って差し出してくる。
啓太は携帯ごと留吉を抱え上げ、電話に出た。
「おい! 仮名さんか!?」
咳《せ》き込むような調子。向こうの方は随分と声が遠かった。
「川《かわ》平《ひら》だな?」
「そうだよ! 早くなんとかしてくれよ!」
「待ってくれ。録音した分だけではよく分からない。三体の骸《がい》骨《こつ》と月の絵。間違いないな?」
「ああ。あんたが追ってる奴《やつ》だろう?」
「恐らく。その模様はいや、間違いなく……しかしニワトリ?」
「そうだよ。木彫りで、なんかコケコケ言って人の服を勝手に変えるんだ」
そう言って啓《けい》太《た》はおおよそのことを早口で説明していく。仮《かり》名《な》は黙《だま》り込んだ。
それから考え考え、
「いいか? よく聞いてくれ」
指示を出し始める。
「川《かわ》平《ひら》。それが本当ならこの前の魔《ま》導《どう》書《しょ》と同じように人の強烈な念に反応するはずだ。よく分からないが、恐らく先人によってその葛《つづら》の中に封印でもされていたのだろう。それが出てきた。とにかくそういう強烈な人間に近づけるな。あの変質者のような」
「もう遅いよ!」
「私もすぐそちらへ行く。必ず捕《ほ》獲《かく》しておいてくれ!」
そう言って通話は一方的に切れた。啓太、その携帯電話をジッと見つめ、
「勝手言うな!」
思わず叫んでいた。
それより、ちょっと前のことである。河原《かわら》崎《ざき》直《なお》己《き》は三階の男性向け創作スペースに到達していた。彼の肩ではニワトリが興《こう》奮《ふん》したようにコッコと鳴いている。それを片手で宥《なだ》めてやりながら、
「どうした?」
と、尋ねる。
「コケ────!」
「ん? コケではわからんぞ。コケでは。具合でも悪いのか?」
河原崎は困ったように眉《まゆ》をひそめた。
ニワトリの目が不自然にきょときょと動いていた。先ほどからどうも挙動がおかしい。思えばこのビルに人った時から様《よう》子《す》が変だった。なんだろう? と思っても河原崎には見当がつかない。
とうとう、その騒ぎを聞きつけて、売り子をしていた少年が近づいてきた。
河原崎はひとまずニワトリは置いておいて、そちらに向かって声をかけた。
「おい、売れ行きはどうだ?」
最初、その少年はきょとんとしていた。この人は誰《だれ》だろう、という顔をしてそれから、飲んでいたコーヒー牛乳をぶっと噴《ふ》き出した。
「か、河原《かわら》崎《ざき》さん!?」
「こ、こら。汚いな」
河原崎は慌ててよける。河原崎を師匠と崇《あが》めているその少年は、呆《あっ》気《け》にとられた表情で彼を見つめた。
「ど、どうしたんですか、その恰《かっ》好《こう》?」
「色々、あってな」
と、あっさり河原崎が答える。彼は机を見渡し、満足げに頷《うなず》いた。
「『愛と追想の猫《ねこ》娘《むすめ》変《へん》化《げ》』がもう売り切れか。よしよし、好調だな」
「あ、はい。それはもう」
彼はここに自分の新刊を委託していたのだ。
「う〜む。ようこさんにも是非、この場所を見て貰《もら》いたいものだ」
と、そこへ。
「もう来てるわよ」
声が届く。
河原崎ははっとしてそちらを見やった。階段の最後を軽やかに飛んでようこが追いついてきていた。その背後にはぜえぜえと息を切らし、疲労|困《こん》憊《ぱい》の啓《けい》太《た》が続く。人《ひと》込《ご》みの中からようこを連れ出すのはそれだけ大変な作業だったのだ。
彼は膝《ひざ》に手を当て、呼吸を整えると、もの凄《すご》い形《ぎょう》相《そう》で顔を上げる。
「へ、へへへ。とうとう、追いついたぜ?」
変態だ。
変態だ。
辺りがそういう囁《ささや》きで満ちて、すっとその場に半径五メートルほどの円が出来上がった。遠巻きに哀《あわ》れむような、蔑《さげす》むような視線で見守る男たち。啓太は小刻みに震《ふる》える身体《からだ》をなんとか堪《こら》えて指を突きつけた。
「河原崎|直《なお》己《き》〜〜、てめえ、遺《ゆい》言《ごん》は残したなあ?」
「ふ」
河原崎は不敵に笑った。
「どうかな? 川《かわ》平《ひら》。貴様は体力自慢のようだが、俺《おれ》とて河原崎流柔術を嗜《たしな》む身の上。そうそう貴様に引けは取らないつもりだ」
「なにが……言いたい?」
「どうだろう? ここは一つ、男らしく腕っ節で決めるというのは?」
セーラー服の猫耳がそう言う。
「ほう〜、おもしれえ」
スクール水着の猫耳が拳《こぶし》を鴨らした。
「勝った方が言うことを聞くって訳か?」
「ああ、お前が勝ったら残念だが、こけ子は返そう。ただし、約束しろ。この子は絶対に壊《こわ》すな。断じて危害を加えてはならん」
「……なぜ?」
「この子は俺の心を勝手に読んで、理想を体現してくれていただけだ。この子自身に罪はない。罪ならこの河原《かわら》崎《ざき》にこそある。代わりに殴るなり、蹴《け》るなり好きにしろ」
啓《けい》太《た》はちょっと考えてから頷《うなず》いた。
「なるほど、それももっともだ。だが、俺が勝った場合、そいつは封印するぞ?」
「……それしか方法がないというのなら」
河原崎はそっとニワトリを近くにいたようこに手渡す。
「仕方ない」
ニワトリは不安そうにコケコケ鳴いている。河原崎はそれを愛おしむような目で見つめながら、静かに話し続けた。
「だが、川《かわ》平《ひら》よ。お前も霊《れい》能《のう》力《りょく》者《しゃ》なら最善を尽くせ。こういったイキモノを破《は》壊《かい》するだけがオカルトではないはずだ。生かせ。異《い》形《ぎょう》の存在であるモノを生かして、そうして、その次の未来を己で示してみせろ!」
そう言って、真《ま》っ直《す》ぐに啓太を見《み》据《す》えてくる。むち打つような声だった。啓太は今度は深く考え込む。
五秒ほど押し黙《だま》ってからにやりと笑った。
「へえ、あんた意外に良いこというじゃん。不覚にも心にぐさっと来ちゃったよ」
「ありがとう……で、返事は?」
「YESだ。俺の知り合いが来たら頼んでみるよ」
啓太はすっと腰を落とした。目に好戦的な光を浮かべる。対して、河原崎は背筋を伸ばしたまま、垂直に手を開いた。合気道でいうところの開《かい》手《しゅ》という構えだ。
動いたのは啓太が先だった。
前に踏み出した足ヒレをぱんと思いっ切り打ちつける。河原崎までの距離、三メートル。それが一《いっ》瞬《しゅん》で零《ゼロ》になる。目にもとまらぬ一《いち》撃《げき》を顔へ。
腹へ。
同時に仕掛ける。河原崎は薄《うす》目《め》を開け、迎え撃《う》った。一見、緩《ゆる》やかなそれでいて電光石火の動き。左の手で腹への攻撃を捌《さば》き、右の手で頭への一撃を上に巻き込む。くるりと左足を軸にして外側に一歩、踏み込んだ。
そのまま、啓太の勢いを利用して右斜め後方に落とす。
四方投げだ。
「ち!」
啓《けい》太《た》は空中で猫のように身体《からだ》を回転させ、飛んだ。着地。河原《かわら》崎《ざき》が間髪人れずに詰め寄ってきている。喉《のど》を狙《ねら》った貫《ぬ》き手《て》を中心線をずらすことでかわして。
ぴたりとおでこを当て。
「は!」
頭突き。に、近い寸《すん》頸《けい》で力を発した。
「く!」
河原崎は辛《かろ》うじてそれを二の腕で受けた。それでも、その凄《すさ》まじい衝《しょう》撃《げき》までは殺しきれない。二メートルばかり一気に後退させられる。
苦痛と驚《きょう》愕《がく》に顔を歪《ゆが》める河原崎。
「へ、へヘヘへ。凄《すご》いだろう?」
啓太が笑った。
「そ、それは形《けい》意《い》拳《けん》なのか?」
という河原崎の問いに、
「まあな」
ちょっと得意そうに啓太は鼻の下を指で擦《こす》った。河原崎はまだびりびりと痺《しび》れる二の腕を撫《な》でている。全く感覚を失っていた。
「……その足ヒレでなければ今ので俺《おれ》は完全に倒れていた」
「ご謙《けん》遜《そん》を。完全じゃねえし、どのみち急所は防いでたろうよ。それより、聞かせろや。河原崎流柔術ってなんだ?」
「……河原崎家代々の当主が修めなくてはならない必《ひっ》須《す》の武術でな。うちは親族会議でフィジカルな強さをきちんと示さないと当主として認められないのだ」
「ふ〜ん。お金持ちも色々、大変だ〜あ」
啓太はそう歌うように嘯《うそぶ》きながら、回り込む。河原崎も微笑を取り戻すと、彼に合わせて円を描いた。
「ああ、意外にな」
本当に意外な成り行きに周囲は声を失っていた。猫耳をつけた変態的な衣装の二人が凄まじい体《たい》捌《さば》きで攻防を繰《く》り広げている。
誰もが我が目を疑う状況の中で、啓太と河原崎だけは楽しそうだった。
「で、まあ、万に一つもないと思うけど、あんたが俺に勝ったらどうするんだ?」
と、さらに旋回を続けながら啓太が問う。
「そうだな……」
河原崎はちょっと目を細めた。
「ようこさんと一日、デートさせてくれるというのはどうかな?」
「いいだろう!」
全く考えずに啓太が即答した。
その途《と》端《たん》、ようこがかっち〜んと切れた。
つかつかと戦いの場に割って人っていくと、闘《とう》気《き》を発散させている啓太の胸ぐらをあっさりと掴《つか》み、締《し》め上げる。
「な〜に勝手なことぬかしてるのよ? あん?」
薄《うす》目《め》。脅かすような声。
「お、お前、最近、柄《がら》が悪いぞ……」
一気に萎《い》縮《しゅく》しながら啓太が言う。震《ふる》えていた。さらに脅かすようにようこが顔を近づけ、
「そうさせているのは一体、どこのどなたなのかしらねえ〜?」
と、睨《にら》みを利かせたその時、騒《さわ》ぎが起こった。
「え?」
ようこが顔を上げる。叫んでいたのは先ほどの売り子だった。啓太も、河原《かわら》崎《ざき》もそちらの方を見やる。彼は何時《いつ》の間にか、大きなセルロイドの眼鏡《めがね》にファミリーレストランの制服という姿になっていた。
おまけに髪が三つ編みになっている。
騒ぎが湧き起こっていた。真っ白い煙が集まっていた人垣のあちらこちらから噴《ふ》き出す度、包まれた人たちは片っ端から変身を遂げていく。ある者はふりふりのエプロンドレス。ある者は学ランに高《たか》下《げ》駄《た》。またある者はウルトラマンのコスチューム。
大きな猫の着ぐるみ。パニックである。
皆、口々に叫んで逃げ回っている。
その中で、ニワトリがぴょんぴょんと宙を跳ねていた。
コケ─────────────────!
「コケコケ──────!」
ニワトリは完全に常軌を逸していた。狂ったように叫びながら、飛び跳ね、テーブルの上で止まったかと思うと羽ばたき、次の瞬《しゅん》間《かん》、中央の蛍光灯に跳ね当たってさらに泣き喚《わめ》く。
「コケ───────!」
白い煙がぽこぽこ充満して辺りが煙る。その中で群集心理は最悪の加速をする。わあ、っと誰《だれ》かが叫んで階段に駆け寄ると、他《ほか》の皆も殺到し始めた。
転ぶ者。
突き飛ばされる者。ただでさえ、密集したスペースだったのに、変な服を着ているからたまらない。混乱に拍車がかかり、どうしようもなくなる。机が蹴《け》倒《たお》され、本が撒《ま》き散らかされ、さらにそれにつまずく者も現れる。
啓太は咄《とっ》嗟《さ》に留《とめ》吉《きち》を肩に抱え上げ、叫んだ。
「落ち着きやがれ!」
しかし、焼け石に水。
「あ、ベランダの方へ行きますよ!」
留吉がそう言って前足で差し示す。啓《けい》太《た》が視線を向けると河原《かわら》崎《ざき》が血相を変えて、窓側の通路の方へ駆けていった。
その先をニワトリがぴょんぴょん飛び跳ねている。啓太は瞬《しゅん》時《じ》に走り出した。
「いくぞ!」
ようこもすかさず後に続く。
「コケ〜」
最初に現れた時の電光石火の動きはもう見る影もない。ニワトリはふらふらと空中を漂いながら、鳴いていた。
「コケ」
「こけ子!」
「コケコケ」
「こけ子おおおお──────────!」
聞こえないはずだった。三百年間、ずっとずっと待ち続けている間、色々なモノが失われていったのだから。創造主が与えてくれた魔《ま》力《りょく》も。
その思いも時の彼方《かなた》に消え去り、ほとんど全《すべ》てが朧《おぼろ》気《げ》に霞《かす》んでいた。ニワトリはでも、その心に確かに感応した。
くるりと振り返り。
そこに立っている少年を見つめ、笑った。
「コケ────────────!」
この建物にある無数の想《おも》いの中で、やっぱりこの少年の心が一番、居心地が良かった。激しく純粋で、モノを作ろうと……残念ながら彼はまだまだ未熟だったが、その気概に溢《あふ》れ、そうして何よりも常に何かに牙《きば》を剥《む》いていた。
与えられたモノへ密《ひそ》かに反逆しようとしていた。
その心は。
大好きだった。でも、もう。
魔力は尽きている。
「コケン」
ニワトリは最後にそう呟《つぶや》いて、ぽたりと落ちた。ベランダの手すりの向こうへ。
叫んだのは河原《かわら》崎《ざき》だった,
「こけ子────────────!」
飛んだのも河原崎だった。彼は一歩、跳《ちょう》躍《やく》した。二歩目で加速した。そうして、最後にベランダの手すりに立って手を伸ばした。
「く!」
ぎりぎりの位置でニワトリを受け止める。しかし、いかんせん勢いがつきすぎていた。咄《とっ》嗟《さ》に身体《からだ》を捻《ひね》ったが、バランスを崩す。
手すりを掴《つか》もうとした手が空《くう》を切った。腰の中心から引っ張られるような感覚。五階分の高さを肌で感じる。
河原崎、歯を食いしばる。
「おおおお────────! 河原崎流最大最高究極奥義! 受け身!」
落ちていく間、衝《しょう》撃《げき》に備え、身体の全神経を集中させる。
みるみる近づいてくる地面。
骨の五、六本を覚悟した時。
「あんた、死ぬまでバカだな」
軽やかな声が聞こえた。
気がついた瞬《しゅん》間《かん》、彼は元の場所に立っていた。ようこがぴっと指を立てている。留《とめ》吉《きち》は笑っていて、啓《けい》太《た》も苦笑していた。
「しゅくちだよ」
ようこがウインクした。三人共、元の服装に戻っていた。河原崎、どっと汗をかいてへたり込む。それから、彼ははっと我に返って手元のニワトリに目をやった。
「おい! こけ子! おい!」
ぺちぺちとその頬《ほお》を叩《たた》く。
しかし、ニワトリは静かに横たわったまま。
「おいこら! 目を開けろ! イヤだ。イヤだ。俺《おれ》はこんな結末なんて、アンハッピーエンドなんて」
ひぐ。
と、河原崎はしゃくり上げた。
その瞳《ひとみ》にみるみる涙が溢《あふ》れた。驚《おどろ》くほど簡《かん》単《たん》に彼の感情は決《けっ》壊《かい》する。
「わああ─────────! 大嫌いだああ─────────!」
そのまま、物を言わなくなったニワトリに取りすがった。留吉、思わず涙《るい》腺《せん》を緩《ゆる》ませる。啓太は居心地悪そうに顔を背け。
そうして、何故《なぜ》かようこだけは笑っていた。
とっても可笑《おか》しそうに。
ニンゲンってバカ
でも。
面《おも》白《しろ》いね。
そう囁《ささや》いて、彼女は笑う。
「で、結局、あれからどうなったんですか?」
数日後のことである。啓太と留《とめ》吉《きち》は啓太の部屋にいた。二人で差し向かいになって、緑茶を啜《すす》り、ヨウカンを食べていた。
留吉が遊びに来ているのだ。
「ああ、あれかあ」
と、啓太は渋い顔になって湯飲みを口に運んだ。
もう通常のジーパンにシャツという姿になっている。
「ようこだけは最初っから気がついていたみたいなんだけどさ。別にあのトリ死んだとかそんなのじゃなくって」
彼が何か言いかけた時、出し抜けに玄関のドアが開いた。そうして、
「ああ〜〜〜〜ん! もうしつこい! ケイタ、助けてよ!」
と、ようこが駆け込んできた。その後を、河原《かわら》崎《ざき》が猛然と追いかけてくる。
「ようこさん。待って! お願い。どうして逃げるんです?」
手には何故《なぜ》か墨《すみ》と硯《すずり》と和紙を持っている。
彼らは啓太と留《とめ》吉《きち》の周りをどたどた走り出した。啓太、意地でも無視を決め込もうというのか憮《ぶ》然《ぜん》としたまま、ヨウカンをフォークで切った。
留吉はぽかんと口を開けている。
「イヤなの! イヤったらイヤ!」
「そんな! 一度で良いんです! どうかお願いします! どうか、どうか、あなたのその素《す》晴《ば》らしい尻尾《しっぽ》を魚《ぎょ》拓《たく》にとらせてください!」
「イヤ──────! ヘンタイ──────!」
どっか〜〜ん!
だいじゃえん。
音《おと》無《なし》ではなく手加減なしの。が、炸《さく》裂《れつ》する。壁《かべ》がゆらゆら揺らいだ。黒焦げになる部屋の中で、啓太が叫んだ。
「だあああ─────! お前ら外でやれ外で!」
そこへさらに甲《かん》高《だか》い声が上がった。
「タイヘン、ケッコ──────────!」
靄《もや》の中から、なんと、あのニワトリが飛び出してきて、嬉《うれ》しそうに羽ばたいている。
「ど、どういうことです?」
留《とめ》吉《きち》の驚《おどろ》いたような問いに、啓《けい》太《た》はけふんと咳《せき》を一つして、煙を吐き出した。
「要するにただ単に魔《ま》力《りょく》切れで寝ていただけなんだと」
憮《ぶ》然《ぜん》とした表情。留吉は恐る恐る、
「あの、なんでここに?」
「知るか!」
と、怒り心頭に発して啓太が卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》を叩《たた》く。
「仮《かり》名《な》さんが無《む》理《り》矢《や》理《り》、置いてったんだよ! しばらく預かってくれって。でも、トリは問題じゃねえんだ。トリは」
そう喋《しゃべ》っている啓太の頭をようこが踏み越えていく。べちゃりと卓袱台に突っ伏す啓太。その背中をさらに河原《かわら》崎《ざき》が駆け上がり、追いかける。ヨウカンをもろに顔で潰《つぶ》した啓太の身体《からだ》が怒りで震《ふる》え。
そうして、彼は今日も元気に叫んだ。
「問題は全部、お前らだあああ────────!」
啓太が絶叫していた同時刻。
静かな水音と共に笑っている者がいた。そこは四方をガラスで覆《おお》われた温室のような場所だった。熱気と湯気が籠《こ》もって辺りの視界がよくきかない。時折、靄《もや》が動くと辛《かろ》うじて豊富なお湯を吐き出している白いライオンの彫像や、掘り下げ式の広い湯船や、その周りに植えられた熱帯の木々などが見えた。その靄の奥からてっててっと駆けてくる小さな人影があった。
「はい、薫《かおる》様。持ってきました!」
そう言ってことんとテレビ電話の受信機を青いトルコ石のタイルに置く。
「ああ、ありがとう、ともはね」
「ちょ、ちょっとちょっとともはね!」
靄の中で誰《だれ》かが慌てている気《け》配《はい》。
「えへへ、次、あたしの番ですね」
と、嬉しそうな少女の声。
「あたし、向こうで服を脱《ぬ》いできますね!」
そう言って小さな人影はまた靄の奥へと裸足《はだし》で消えていく。くすくすとおかしそうな忍び笑い。焦ったような別の少女の声が聞こえた。
「ね、ねえ、薫《かおる》様、なにもこんなところで電話を、しかもテレビ電話を使うなんて!」
「ああ、お待たせしちゃ悪いからね」
そう言って白い指がスイッチに伸びて、
「お久しぶりですね、仮《かり》名《な》さん」
そんな取り繕《つくろ》ったような妙に生《き》真《ま》面《じ》目《め》な声と共に画像が現れる。向こうは驚《おどろ》いたようだ。
「うわ!」
「きゃ!」
何か胸元を庇《かば》うような気《け》配《はい》。
「なにを……一体なにをしているのだ?」
口をぽかんと開けているテレビ電話越しの仮名|史《し》郎《ろう》。こちら側は靄《もや》が揺らぎ、薄《うす》い笑いを浮かべた川《かわ》平《ひら》薫の端正な口元が一《いっ》瞬《しゅん》だけ見えた。
「ああ、ごめんなさい。今、ちょうどなでしこの尻尾《しっぽ》をトリミングしていたものですから」
「しっぽ? なんだそれは?」
「ええ、そういうことを時々、やっているんですよ。スキンシップのために」
「…すると、もしかして君たちは今裸なのか?」
と、あくまで大|真《ま》面《じ》目《め》な仮名。
「ちゃんと水着を着ています!」
悲鳴のようななでしこの声。薫が軽やかに笑う。
「僕は短パンにTシャツですけどね♪ このまま続けさせて頂いても構いませんよね?」
「…いや、それは別に構わないが」
と、困惑したように仮名史郎。川平薫がくすくす笑いながら促した。
「聞きましたよ、仮名さん。また啓《けい》太《た》さんの周りで赤《せき》道《どう》斎《さい》の遺《い》品《ひん》が現れたようですね」
「耳が……早いな」
仮名史郎が毒気を抜かれた表情になった。眉《まゆ》を上げ、真顔に戻る。
「じゃあ、私がそれを川平啓太のところに残したことも承知しているのか?」
「ええ、まあ」
と、穏《おだ》やかに薫が言う。シュッシュッと櫛《くし》を梳《す》くような音。ん、ん、と押し殺したようななでしこの声。
彼女が懸《けん》命《めい》に手のひらで口元を押さえ、声が漏れないようにしている光景が少しだけ見える。
「あ〜」
仮名史郎が咳《せき》払《ばら》いしてから話し出した。
「どうも私は甘かったみたいだ。この調子だと、まだどれだけ訳の分からないシロモノが日本中にばらまかれているのか見当がつかない。全くイヤになる。だが、これも我が家系の不始末。仕方がない」
「僕《ぼく》は別に仮《かり》名《な》さんが気に病む必要などないと思うんですけどね」
「いや、ある!」
と、拳《こぶし》をぐっと上げてテレビの中の仮名|史《し》郎《ろう》が答えた。
「そもそも私が特命|霊《れい》的捜査官を志願したのもそれが理由だ」
「……そうですか」
ぱしゃっとお湯が頭からかけられ、靄《もや》が晴れる。びしょびしょになったなでしこの少し泣き出しそうな顔。ぺったり濡《ぬ》れて頬《ほお》に張り付いた栗《くり》色の髪。
彼女は確かに紺色の地味な水着でその豊満な身体《からだ》を包んでいて、檜《ひのき》の椅《い》子《す》にぺったりと腰を落としていた。また湯気が立ち昇ってすぐに視界が悪くなった。
それに気がつかず、仮名史郎は力説する。
「だから、もう私は手段を選ばない。赤《せき》道《どう》斎《さい》の遺《い》品《ひん》は互いに惹《ひ》かれ合う性質があるみたいだから、あのトリを泳がせてみる。それで、また『月と三人の娘』クラスが釣られて出てくるかも知れない」
「啓《けい》太《た》さんの近くに、ですね」
「ああ。彼はどういう訳だかその……なんというか」
「ヘンタイを呼ぶ、と」
「そう」
仮名が咳《せき》払《ばら》いをする。
「まあ、そうとも言う。彼には期待している」
くすくす笑っている薫《かおる》。白い手が魔《ま》法《ほう》のように動く。泡が立つ。シャボンが紛れる。なでしこのくぐもった声が意見を述べる。
「でも、仮名様。お話し中、申し訳ありません。その赤道斎という方は一体何を考えてそのような魔《ま》導《どう》書《しょ》や道具を作られたのでしょう?」
「分からない」
どこか憮《ぶ》然《ぜん》としたように仮名。
「我が先祖ながら全く何を考えていたのやら……魔導の天才ではあっても認めたくはないが奇人変人ヘンタイの類《たぐい》だったのだろうな。人を混乱に陥れて喜ぶというか、愉快犯というか、特に今回は人の衣服を変えて一体、何が楽しいのだか」
「仮名様。わたし、少し考えたのですが」
と、なでしこが何か言いかけて、
「あ!」
白い喉《のど》が仰《の》け反《ぞ》る、薫の穏《おだ》やかな声。
「あ、こめんごめん、なでしこ」
指先が目まぐるしく動く。
「少し手が滑っちゃった」
「……い、いえ」
震《ふる》える声。荒い吐息。仮《かり》名《な》が少し訝《いぶか》しげな表情になる。そこへ、
「か、お、るさま♪」
てっててっと肌色が靄《もや》の奥から現れた。
幼い少女の声が響《ひび》く。
「あたしの番はまだですか? も〜待ちきれないから来ちゃいました」
「これ、はしたない」
「早くあたしにもシャンプーしてください!」
ん?
と、仮名|史《し》郎《ろう》が眉《まゆ》根《ね》を寄せている。一《いっ》瞬《しゅん》、ちらりと見えただけだが、それは一糸まとわぬともはねで、また靄の奥に消えていったのだ。
「はははは、まだ本当に子供なんですよ。申し訳ありません」
と、薫《かおる》が謝《あやま》り、
「まずお風《ふ》呂《ろ》に入ってなさい」
そう指示している。
「は〜い」
と、ともはねの声。どぶんとお湯に飛び込む音が聞こえる。仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》は黙《だま》り込んだまま。
「川《かわ》平《ひら》薫《かおる》。どうやら、私はお邪《じゃ》魔《ま》したようだ」
しばらくしてそれだけ言う。
「とにかくまた色々と私にチカラを貸してくれ」
「いつでも貴方《あなた》のお望みのままに」
タイルの上。
白い短パンに青いシャツ。胸元に恭《うやうや》しく手を当て、一礼をしている姿がちらりと見える。黒髪が表情を隠していた。
「うむ」
と、仮名史郎は謹《きん》厳《げん》に頷《うなず》き、
「ではまた」
そう言って通信が切れ、画像がふつりと途《と》絶《だ》えた。ちゃぽんというお湯の音。ともはねがはしゃいで広い湯船を泳ぎ回っている歓声が聞こえる。
「もし」
ゆっくりと顔を上げたなでしこが言う。
「これはあくまで仮定の話ですが、人を傷つけることを望む者が望みのままに衣服を変えたら、きっと剣や槍《やり》や甲《かっ》冑《ちゅう》を身にまとうのでしょうね。その人が強く望めば」
「そうなんだろうね」
川平薫は優しく笑む。
「そういう可能性もあるよね。でも、僕《ぼく》はアニメのコスプレの方がいいなあ」
「薫様?」
「なに?」
「……さっきのわざとですよね?」
「なにが?」
「いいんです。わたし、もう恥ずかしくて顔から火が出るかと」
ははははははは。
薫が高らかに笑い出した。彼は拗《す》ねたように顔を背《そむ》けているなでしこの背後からゆっくり手を伸ばす。十個のリングをつけた両手が彼女の首筋に絡まり、
「とっても面《おも》白《しろ》くなってきたよ、なでしこ」
囁《ささや》き声が漏れた。なでしこは動かない。
「君は」
靄《もや》が揺れ動き、二人を隠した。
一体、何を望む?
うう〜〜。
これか? これはチョコレートケーキつうんだよ。肉も食わないし、ミルクも飲まないくせに変なものに興《きょう》味《み》を示すんだな。
うう〜〜。
ほり。
美味《おい》しいか?
甘いだろう?
あ。
あ……ああ……あまい。
「甘い」
「とっても甘い!」
「バレンタインデーというのは好きな人にチョコレートを贈《おく》る日なんですよ」
喫茶店『レ・ザルブル』の一角でようことなでしこはお茶をしていた。なでしこはローズヒップティーを口元に運ぶとにっこり微笑《ほほえ》む。
「もっともこれは日本だけの風習みたいですね。外国では男女に関係なくカードを交換し合ったりするし、日本ではお世話になった方へお歳《せい》暮《ぼ》のように贈る義理チョコといった慣習もありますから、やっぱりちょっと元々の趣《しゅ》旨《し》から外れてますよね」
「義理……ちょこ? ちょこれーと?」
ようこはチョコレートケーキを食べる手を止め、顔を上げる。
「ええ、でも、本当はね」
なでしこは白いハンカチでようこの口元を拭《ぬぐ》ってやりながら、
「大好きな人にチョコレートを贈って、心の中に秘めた想《おも》いを告白する恥ずかしがり屋な女の子のための日なんですよ」
「……女の子」
ようこは銀色のフォークをくわえた。ちょっと考え込んでから、
「なでしこ、あんたは? あんたは誰《だれ》かに上げてるの?」
「わたしは」
なでしこはぽっと頬《ほお》を赤らめた。両手でその朱に染まった頬を押さえ、慎《つつ》ましげに、
「はい、薫《かおる》様に」
「ふ〜ん。どんなの?」
「手作りのチョコレートを毎年、差し上げてます。毎年、種類を変えるのが大変でもあり、また楽しみでもあるんですよ」
「カオルは喜ぶの?」
「はい、とっても。うちはだから、みんなで盛大にお祝いをするんです。みんな薫様にチョコレートを差し上げたがっていますから」
「ふ〜ん」
ようこはまたチョコレートケーキの残《ざん》骸《がい》をフォークで突っつき始めた。音量を絞ったクラシックが暖かな店の中、せせらぎのように流れている。
なでしこが目を細めた。
「きっと喜んでくださいますよ」
そして、それ以上は何も言わない。なでしこが何か大事なことを伝えようとする時のやり方だった。いつもそうやって基本的な情報だけ与えて、後は出来る限り相手自身に判断させようとする。
気を引くようにたった一言だけ。
「そうそう。わたし今年はチョコレートケーキにチャレンジしてみようと思ってるんですけど、よかったら、ようこさんも一《いっ》緒《しょ》に作ってみませんか?」
ようこは黙《だま》り込む。
折《せっ》角《かく》だけど断った。
理由はただなんとなく。チョコレートケーキは買うもので、完成されているもので、自分が作るべきものではない気がしたからだ。
恐らくその気持ちはなでしこに説明したところできっと上手《うま》く伝わらなかっただろう。でも、ようこはそう信じていた。甘い、とろけるような味は作り上げるものではなく、存在しているべきもので、それはきっと……。
ようこは首を横に振った。
もし、ただのチョコレートなら、なでしこと一緒に初めて薫の家に行っていたかもしれない。『レ・ザルブル』の前で彼女とは別れた。
「好きだと」
雪が濃《のう》密《みつ》に降ってきていた。
どんどんと辺りは薄《うす》暗《ぐら》くなっている。まだ昼間だというのに街灯がついていた。道を行き交う人たちはコートの襟《えり》を立て、足早に家路を目指している。赤いマフラーや青い手袋。不思議とその全《すべ》てが灰色にくすんで見えた。皆、同じ、沈《ちん》鬱《うつ》な、どこか物思いに沈んだ表情をしている。あるいはそう思えた。
路上|駐《ちゅう》車《しゃ》された車の上に薄《うす》く積もった雪を握りしめ、手で弄《もてあそ》んだ。車のライトが緩《ゆる》やかに車道を流れていた。時の流れ自体が鈍くなっているようで、街全体が雪景色の中で微睡《まどろ》んでいるかのようだった。
「いつか、か」
軽く爪《つま》先《さき》でステップを踏む。踵《かかと》を打ち合わせ、小さく跳んだ。気がつけば見覚えのある店の前に立っていた。
高原のコテージ風。ふんだんに木材を使っている。暖かそうな黄色い光がショーウインドウを通して、往来へこぼれ落ちてきていた。
『大好きなあの人へ〜明日はバレンタイン〜』
と、書かれた幟《のぼり》が目に入った。それとワゴンの上にピラミッド状に積み上げられたハート形チョコレートの山も見えた。
店内では白と黒の制服に身を包んだ店員が忙しそうに立ち働いている。
ようこは誘われるようにして自動ドアを潜《くぐ》った。その時はまだ自分が何を求めていたのかよく分かっていなかった。
ショーケースの中には様々な種類の洋菓子が納められていた。大きな洋なしのタルト、カスタードクリーム一杯のシュークリーム、さくさくとしたパイ生地で作られたクランベリーのミルフィーユ。
行きつけの洋菓子店だった。
「あら、ようこちゃんじゃない」
店の奥から出てきた店長がようこの顔を認め、笑顔をかけてくれた。
「う〜」
ようこはショーケースにぴったりとつけていたおでこを上げ、
「いつものちょこれーとけーき」
挨《あい》拶《さつ》代わりにそう言った。
「あ、いいのよ。この子、常連さんだから」
怪《け》訝《げん》そうな顔をしているアルバイトに代わって、店長自らが応接に当たる。四十|年《ねん》輩《ぱい》で品の良い口《くち》髭《ひげ》を生やしたその男性は何故《なぜ》か普《ふ》段《だん》からお姉言葉を使っていた。
「一つでいい?」
「うん」
ようこはこくりと頷《うなず》いた。店長は愛想よく言う。
「今日は啓《けい》太《た》くんは?」
「いない。家」
「あらあら、珍しいわね。いつも一《いっ》緒《しょ》なのに」
「ばれんたいん」
「え?」
「これはばれんたいんでケイタにあげるの」
そう言った途《と》端《たん》、急にようこの目が輝《かがや》き出した。ようやく自分のしている行動の意味を見いだしたのだろう。普《ふ》段《だん》は啓《けい》太《た》に買って貰《もら》って、自分だけで食べているチョコレートケーキ。何か祝い事や、一仕事終えた後、ご褒《ほう》美《び》で買って貰って、すぐに独占してしまっているチョコレートケーキ。それを自分が買って、啓太に上げる。
啓太に食べて貰う。
ようこは興《こう》奮《ふん》したように叫んだ。
「ケイタに食べて貰うの!」
それはとても良いアイデアに思えた。
「まあ、そうだったの」
店長はくすくすと笑ってから、
「でも、バレンタインデーは明日よ?」
ようこは一《いっ》向《こう》に構わない。
「いいの。少しでも早く上げる!」
「そうね」
店長はてきぱきと折り畳み式の箱にチョコレートケーキを入れ、包装し、丁《てい》寧《ねい》にピンクのリボンまでかけてくれた。
「心がこもっていればそれでもいいわよね」
レジを打ち、
「二百七十円|頂《ちょう》戴《だい》ね」
ようこははっとした顔になった。慌ててコートのポケットをあさる。中に入っていた小銭をありったけ目の前にぶちまける。
なでしことお茶を飲みに行くと言ったら、啓《けい》太《た》が五百円玉をくれたのだ。
まだ残っているはず。
そんなに使っていないはず。
数える。
どきどきしながら数える。銀色の百円玉が一枚。五十円玉が二枚。そして、十円玉が一つ、二つ、三つ、四つ。
「三十円」
ようこが悄《しょう》然《ぜん》とうなだれた。
「三十円足りない……」
お金が足りない。店長がふっと笑った。
「ま、恋する乙女《おとめ》に免じて今日のところはサービスしときましょう」
「え? ホント? いいの!?」
「うん。あなたはお得意様だしね。また、啓太くんと買いに来てよね?」
ようこは生まれて初めて本気で人間に頭を下げた。
ありがとう!
そう叫び、ケーキが入った箱を抱え、店を飛び出した。頭の中はチョコレートケーキと啓太のことで一杯だった。
ひたすら走った。
すぐに古びた木造のアパートが見えてきた。
ようこは階段を駆け上がり、自分の部屋のドアを思いっきり開け放ち、靴を脱《ぬ》ぎ散らかし、部屋の中に転がり込んだ。
炬燵《こたつ》に入ってのんびりとミカンを食べていた啓太が仰天した顔になった。
「な、なんじゃ、なんじゃ?」
ようこはもどかしげにリボンを解《ほど》いた。
「これ!」
「な、なんだよ?」
「ちょこれーとけーき! ばれんたいん! ケイタに上げるの!」
「はあ?」
「ケイタに上げるの!」
ようこはひたすらに目を輝《かがや》かせ、同じ言葉を繰《く》り返す。無我夢中で箱を開け。
そして。
「あ」
彼女は大きく息を呑《の》んだ。
「ひ、ひどい……」
「ありゃりゃ」
隣《となり》から覗《のぞ》き込んだ啓《けい》太《た》が気の毒そうにそう呟《つぶや》いた。チョコレートケーキは中でぐちゃぐちゃになっていた。
「お前、走ったんだろう?」
啓太は困ったように、ようこの髪に積もった雪を優しく手で払いのけてくれる。ようこの瞳《ひとみ》に大粒の涙が浮かび始めた。
「こ、こわれちゃった……」
美しい形のチョコレートケーキだったのだ。三段重ねで、チョコレートの生クリームが薔薇《ばら》の模様であしらわれている。小さなクッキーも載っていた。
お気に入りで。
いつも自分が、自分だけが食べていて。
今日だけは啓太に上げたかった。
それが。
「こわれちゃった」
ようこが悲痛に顔を歪《ゆが》め、
「わああああああ────────────────────!」
盛大に泣き出した。
「ああ、こりゃこりゃ、泣くんじゃない、泣くんじゃない」
啓太は片方の手でようこの髪をくしゃくしゃ撫《な》でてくれた。
もう片方の手でフォークを掴《つか》み、箱の中でぐちゃぐちゃになったチョコレートケーキを慌ててすくって食べている。
「うん、いけるいける」
「……本当?」
と、くすんと鼻を鳴らしてようこ。彼女は赤くなった瞳《ひとみ》で啓《けい》太《た》を見上げる。啓太は苦笑気味に頷《うなず》いた。
「ああ、味なんか全然、変わらないよ。だから、もう泣くな。な?」
「うん」
「ありがとうな」
「うん♪」
啓太はひょいぱく、ひょいぱくとリズム良くケーキを口に運んでいる。それから、ふと思いついたようにフォークをようこに向かって差し出した。
上にチョコレートクリームが載っている。
「いいの?」
と、躊躇《ためら》うようにようこ。啓太は笑う。
「ん」
ようこはあ〜んと首を伸ばして、口に含んだ。もぐもぐと咀《そ》嚼《しゃく》する。舌にゆったりととろけるような感覚が広がっていく。
ようこはその全《すべ》てをたった一言で、とびっきりの笑顔で表現した。
「甘い!」
外ではしんしんと雪が降り続けていた。
翌朝、ぽふんと天井から小さな影が一つ降り立った。
啓太の部屋は炬燵《こたつ》以外に暖房がないので冬のこの時期、かなり寒い。窓ガラスのそばに吊《つる》された洗《せん》濯《たく》物《もの》などには霜《しも》が降りていた。普《ふ》段《だん》ならとっくに太陽が昇っている時刻だが、灰色の雲が空を沈《ちん》鬱《うつ》に覆《おお》っているため、辺りは未明のように薄《うす》暗《ぐら》い。往来を時折、車が行き来するがその音もどこか遠《えん》慮《りょ》がちだった。
「啓太様! おっはようございます!」
だが、その少女は重苦しい曇《どん》天《てん》とは対照的に、ひたすらに元気で明るかった。ぺパーミントグリーンのコートに熊《くま》さんのワンポイントがついた手袋。ホッペタが健康的に赤く、大きな瞳《ひとみ》が丸く、生き生きと輝《かがや》いている。犬《いぬ》神《かみ》の最年少。
ともはねだった。
彼女は盛大に啓太を揺さぶった。
「あっさですよ〜、起きましょうよ〜」
啓太は古びていて、継《つ》ぎ接《は》ぎだらけだが、暖かそうな布団の山の中で亀《かめ》の子のように首を引っ込めて寝ていた。
ちょっとやそっとでは出てきそうにない。
それに対してようこは、見ている方が寒くなってくるような薄《うす》青《あお》いネグリジェ姿で天井辺りをすやすや漂っている。
ともはねはちらりとそちらを見上げ、
「ねえ、啓太様ったら!」
もう一度、布団の膨《ふく》らみをゆさゆさ動かした。う〜んと寝言だけが返ってきた。ともはねの顔に奇妙な表情が生まれた。
ぺろりと舌《した》舐《な》めずりを一つする。
美味《おい》しいご飯を目の前でお預け食っているような。
人が、暖かい布団の中で寝ている。
それは抗しがたい誘惑だった。本能に近い衝《しょう》動《どう》。ともはねは布団の裾《すそ》をもたげると、もぞもぞと頭から中に入っていった。
布団の膨らみがほんの少しだけ大きくなった。
それからしばらく経《た》ってのことだった。ようやく違和感に気がついた啓太が、
「ん?」
むにむにとそれを軽く撫《な》で回してみた。
奇妙に柔らかく、暖かかった。
「ん〜〜〜〜?」
ちん入者の正体に思いをはせてみる。ようこ。ではあり得なかった。ようこにしては様々な部分が小さすぎた。えっひゃひゃ、と奇妙な、笑い声が返ってきた。布団をそっと捲《まく》ってみる。少し冷や汗が垂《た》れていた。
子犬のように小さく、丸まったともはねがシーツの上にいた。
す〜す〜と軽やかに寝息を立てている。
啓太は指を自分の額《ひたい》につけ、思い悩む。それから、
「おいこら! ともはね!」
怒ったような、呆《あき》れたような声でともはねを激しく揺すった。
「お前、男のベッドに忍び込んでくるなんて十年早いぞ! こら、起きろ!」
ともはねはう〜んと伸びをして、手と足を突っ張った。背中をきゅっと伸ばす。するとお尻《しり》から灰色の尻尾《しっぽ》がぽふんと飛び出て、それが忙《せわ》しなく、左右に揺れた。
次に寝ぼけ眼《まなこ》で啓太を認め、
「あ、啓太様、起きたんですね!」
嬉《うれ》しそうに笑う。
「バカタレ、お前が今、起きたんだよ!」
「啓《けい》太《た》様、とっても気持ちよかったですう……」
ふわっと可愛《かわい》らしく欠伸《あくび》をして、ともはねが満足そうにそう言った。身体《からだ》を啓太にすりすりと擦《こす》りつけてくる。
「あのな……」
啓太はただ苦笑する。彼女がなんで自分のベッドに入ってきたのか。
お子様であり、子犬である。
分かりすぎるくらいその動機がよく分かった。
ともはねの頭を軽く撫《な》で、
「早く大きくなれよ」
ともはねがきょとんとしていた。
「も〜うるさいな」
その騒《さわ》ぎにようやくようこが起きてきた。
彼女はぼんやりと漂うと、未《いま》だ寝ぼけているのか、啓太の肩に乗って、頭にしがみついた。まるで止まり木に止まる鳥だ。はしたなくネグリジェが捲《まく》れ上がり、白い足が太《ふと》股《もも》まで覗《のぞ》いている。そのまま、すうっと瞼《まぶた》を閉じて、また船をこぎ始めた。
啓太はそんなようこを頭の上に乗せたまま、インスタントコーヒーを淹《い》れていた。
目を覚ますためもあるが、偏《ひとえ》に暖を取るためだった。
「で、今日はなんの用だ?」
でこぼこになった薬《や》缶《かん》のお湯をマグカップにこぽこぽ注ぎながら振り返った。
ともはねは肩から下げていたポシェットの中に手を突っ込む。
「えへへ〜」
「な、なんだよ?」
もったいぶってから、
「ハッピーバレンタインです、啓太様!」
ピンクの包装紙に包まれた板チョコを差し出した。
ようこがひくんと顔を上げた。
「俺《おれ》に〜〜?」
啓太はちょっと顔を引《ひ》き攣《つ》らせた。以前、ともはねのチョコレートケーキで地獄のような目に遭《あ》ったのが忘れられないのだ。
ようこは一《いっ》瞬《しゅん》、ムッとした表情になったが、ともはねの無邪気な笑顔を見ていると、張り合う気もなくしたのだろう、
「ケイタ、よかったじゃない」
ぺちぺち彼の頭を叩《たた》いた。
からかうように少し目を細めている。
「あ、ああ」
啓《けい》太《た》が受け取ると、ともはねは嬉《うれ》しそうに尻尾《しっぽ》をぱたぱたさせた。
「そうそう、それと薫《かおる》様からの新しいメッセージが一件あります」
「薫……から?」
「はい。えっと」
ともはねは急に真顔になった。するするとベッドから滑り落ち、
「『本日、午後六時。吉《きち》日《じつ》水族館にてお待ち申し上げ候《そうろう》』です」
床の上で畏《かしこ》まって片《かた》膝《ひざ》を突く。それから、すぐに元の笑顔に戻って、
「じゃあ、あたし、もう行きますから」
「おい、早いな」
「ええ。これからはけ様と仮《かり》名《な》様にもチョコレート上げてこなきゃ!」
そう答えて、軽やかに彼女はベッドに飛び上がる。ぽわんと白い霊《れい》気《き》が爆《は》ぜて、小さな犬《いぬ》神《かみ》はたちまち見えなくなった。
啓太はそれを見送ってからぼんやり呟《つぶや》いた。
「……そうか。今日はバレンタイン、か」
ようこが上でくしゅんと大きくクシャミをしていた。
啓太たちの住まう吉日市は、明《めい》治《じ》の初期に来日したアイルランド出身の建築家ボウマン・コナーによって統合的に区画整備された経《けい》緯《い》を持つ。そのため、どこか懐《なつ》かしい雰囲気の瀟《しょう》洒《しゃ》な洋風建築が今も街のあちらこちらで散見出来た。
お寺よりも教会の数が多いのが、この吉日市の大きな特徴だった。
西側は閑静な住宅街が広がり、北側は趣《おもむき》のある外観の市役所や図書館、貯水池が並び、南側は学校や商店街を中心に賑《にぎ》わっていたが、こちらの東側。特に路面電車の走る弁《べん》天《てん》通りから通称『河童《かっぱ》橋』までの区画はひどく閑散としていた。
再開発が遅れてきた結果だ。だが、それ故《ゆえ》。
だからこそなのだろう。ここら一帯はこの街の中でも特に明治時代の息《い》吹《ぶき》のようなものをそのままの形で現在に残している。
本当にアイルランドの片《かた》田舎《いなか》のような石畳の道がくねくねと折れ曲がり、思いがけないところから小さなアンティークショップや、赤《あか》煉《れん》瓦《が》のこぢんまりとしたレストランなどが顔を覗《のぞ》かせていた。
啓太とようこはその中でも一《ひと》際《きわ》苔《こけ》むした建物の前で立ち止まった。
「ほう、ここが水族館」
啓《けい》太《た》は感心したような声を上げた。来るのは初めてだが噂《うわさ》には聞いていた。琺《ほう》瑯《ろう》処理が施された洒落《しゃれ》た看板に『吉《きち》日《じつ》水族館』とある。
「……ここにお魚とカオルがいるの?」
ようこが初めて不《ふ》審《しん》そうな声を出した。彼女の疑問ももっともで隣《となり》はパン屋だし、そのまた隣は鎧《よろい》戸《ど》を閉めた普通の民家だ。『館《やかた》』という感じではあるが、美術館とか、博物館ではあっても、魚の泳ぐ水《すい》槽《そう》が置いてあるようには見えなかった。
「ま、いるんだろう、きっと」
啓太は笑いながら重たそうな扉を開く。
ようこにはあえて説明してこなかったが、この街には所々にかなり奇妙な施設が存在している。世界でも有数の切手博物館とか、『気とUFO統合研究所』とか、南の方にはイグアナや蛇(無毒)などの爬《は》虫《ちゅう》類《るい》を専門で放して、一般公開している個人所有の森もあった。
吉日市の西地区にはちょっとびっくりするくらいの数の資産家がいて、その中には相当な変わり者もいることを啓太はよく知っていた。
彼らがほとんどポケットマネーで運営しているのである。
道楽ではあっても総じてかなり質が高かった。
案《あん》の定《じょう》、館内に踏み込むとあっと驚《おどろ》くような光景が広がっていた。地下から二階までいきなり吹き抜けになっていて、中央で巨大な水槽が天井高くまでそびえ立っていた。無数の色とりどりの魚たちがそこで回遊している。
啓太は小さく口笛を吹き、ようこは思わず息を呑《の》んだ。
地下と一階と二階が回廊状になっており、その巨大な水槽を取り囲むように小さな水槽が適度な間隔で並んでいた。
啓太は入り口に置いてあった小箱に五百円玉を一枚入れた。
『ご入場料 大人二百五十円 子供|只《ただ》』
と案内板が掲げてある。呆《あき》れるくらいの低料金である。館内には小学生くらいの子供たちのグループとカップルが二組いた。
皆、きちんと節度を守って魚たちを観賞して回っていた。よく見ると地下部分には小さくはあるが出店もあって、コーヒーやジュースなどを提供している。照明は抑え目で、バックグラウンドミュージックの類《たぐい》は一切なかった。
「まだ薫《かおる》は来てないみたいだな……」
手すりから身を乗り出し、辺りを確認していた啓太が呟《つぶや》いた。
「とりあえず魚でも見てようぜ?」
ようこを振り返り、親指で示す。
ようこもこくりと頷《うなず》いた。
目も眩《くら》むようだった。オーナーの趣《しゅ》味《み》なのだろうか。
主に熱帯魚を中心に集められていた。黄色や赤やピンクの魚が青い水の中で群《ぐん》舞《ぶ》している。一つ一つの水《すい》槽《そう》が舞台だった。今まで見たことがないほど鮮《あざ》やかなコバルトブルーのカニが差し招くように爪《つめ》を左右に動かし、こちらでは深紅のタイが勢いよく身をひらめかせていた。
とりわけ薄《うす》暗《ぐら》い水槽の中ではクラゲが淡く、白く発光している。色は動き、移り変わり、重なり合う。ようこは溜《ため》息《いき》をつき、各水槽につきたっぷり一分はおでこをつけてじっと中を覗《のぞ》き込んだ。
啓《けい》太《た》も隣《となり》にいて上部に記された説明文を小さな声で読み聞かせてくれた。
まるでそれが潮《しお》騒《さい》のように聞こえた。
詩のように聞こえていた。ようこは何時《いつ》しか迷い込むように地下に降り立ち、巨大な水槽を見上げていた。
銀色の小魚が目の前を過《よぎ》った。緑の海《かい》藻《そう》が揺らめき、大きなマンタが悠《ゆう》々《ゆう》と天井付近を泳ぎ回っていた。ウミガメに、紅白の斑《まだら》模様をしたウミヘビも見つけた。まるで海の底から見上げているような気がした。
光線は細密な計算が施され、斜め上部から射《さ》し込んで、右に抜けていた。時間がここでは全く意味をなさなかった。気が遠くなるほどの海水と共に閉じこめられ、魚ごと自分が結晶化してしまったかのような錯《さっ》覚《かく》に囚《とら》われた。
翡《ひ》翠《すい》のような、エメラルドのような、サファイヤのような色合いの水の冷たさと暖かさが同時に感じられた。魚たちは一《いっ》向《こう》に動くことを止《や》めず、そして、その動きが全《すべ》て陶酔するほどに心地よかった。
ようこは息をすることも忘れ、ただただ絢《けん》爛《らん》たる美しさに心を奪われていた。
「あれは……だね」
横から穏《おだ》やかな声が聞こえた。
「……南の海に住む」
啓太がそう説明してくれた。ようこはちらりと横目で彼を見て、頷いた。
「とっても綺《き》麗《れい》だね」
「うん」
と、呟《つぶや》き、頭の片隅では妙に引っかかっている。
あれ?
「海に泳ぐ宝石たち。自然が生み出した万《まん》華《げ》鏡《きょう》。生きているからこそ、躍《やく》動《どう》しているからこそ美しい。そして、僕《ぼく》らはその美しさを欲してこうして閉じこめている。それは罪かな?」
「つみ?」
「うん、罪。ううん、罪じゃないと思う。いや、やっぱり、罪。僕はここに来るたびにいつもそうやって迷うんだ。そうして最後にはいつも自分に言い聞かせてる」
そこで彼は笑った。
「考えてみたらどんなに広い海だって結局は檻《おり》なのかなって」
啓《けい》太《た》は片手を水《すい》槽《そう》に押し当てた。
ようこはそこでようやく気がつく。その白い指|全《すベ》てに銀色のリングがはまっている。それから目を剥《む》いた。水槽の反対側。本物の啓太が男子トイレから出てきて、手を拭《ふ》いている。ばったりと出会った見覚えのある少女と言葉を交わしていた。
なでしこだ。
驚《おどろ》いたことにいつもの割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿ではなく、黄色いカクテルドレスにドレスアップしている。栗《くり》色の髪も結い上げ、青いリボンをしていた。そんななでしこが清《せい》楚《そ》に微笑《ほほえ》みながら、啓太に空色の包装紙で包まれた小箱を差し出していた。
それを受け取って、頭を掻《か》きながら、何か礼を述べている啓太。
珍しく照れていた。
え?
と、反射的に振り返る。
「またね」
一《いっ》瞬《しゅん》だけ、そんな涼やかな声が聞こえた。
まるで死《しに》装《しょう》束《ぞく》のように一点の染みもない白い服。黒髪。それが遠ざかっていく。ようこは前のめりになった。
それが。
それが。
さあっと目の前を真っ赤な魚の群れが過《よぎ》った。ようこは夢を見ているかのように揺らめいた。追いかけ、走り、群《ぐん》舞《ぶ》する魚の隙《すき》間《ま》から首を巡《めぐ》らす。
反対側を見る。
だが、水《すい》槽《そう》を挟んだ向こう側にはもう誰《だれ》もいなかった。
ただ啓《けい》太《た》だけが少し斜めに立っている。
「よ」
と、こちらに気がつき、軽く片手を挙げ、歩み寄ってきた。
「なでしこちゃんにチョコレートケーキ、貰《もら》っちゃった」
ようこは全く聞いていなかった。視線を目まぐるしく彷徨《さまよ》わせた。そして、青い水槽を背に、今にも階段を登っていく二つの人影に気がつく。
白いセーター。端正な横顔。ちらりとこちらを見て、笑い、そばに寄り添っていたなでしこと共に視界から消える。
ようこはそちらを指差した。
「あれ……カオル?」
「え?」
啓太も顔を上げ、
「ああ、行っちゃったみたいだな……なんかこの後、パーティーやるんだと」
「ふ〜ん……」
「お前に宜《よろ》しくってさ」
ようこは啓太に視線を戻す。それから、感嘆したように言った。
「全然、顔は似てないね!」
うるせ。
と、啓太が苦笑した。
「今年も負けたしな!」
そう言って彼は頭の後ろで手を組むとくるりと背を向けた。
「ホントあ〜あだ」
そんなに悔しそうには見えなかった。
「ねえ、ケイタ。カオルと会って一体なにしてたの?」
水族館を出たところでようこが啓太に向かって尋ねた。啓太は青いマフラーを首に巻き直しながら、振り返る。
「あ〜ん?」
「あんなにすぐにさ、別れちゃったけどなんで?」
「ふ」
啓太が肩をすくめ、笑った。
口から白い息をこぼしている。ようこはとととっと道に積もった雪を駆けて、彼に並びながらその横顔を見つめた。
「チョコの比べっこ。多い方が勝つの」
「へ?」
ようこはぽかんと口を開ける。啓太ははははっと高らかに笑い出した。
「あいつさ、なんのかんの言ってすげえ負けず嫌いなんたよ。『女性の真心の数を競《きそ》うなんてあまりいいことじゃないですよ』って言いつつ、毎年、必ず向こうから場所を指定してきてお互いのチョコの数で勝負してるの」
「呆《あき》れた」
ようこが率直に言った。街灯が灯《とも》り出している。
青白い明かりが道を照らす。
啓太は、
「かもな」
と、呟《つぶや》いてくくっと喉《のど》の奥で可笑《おか》しそうに笑った。ようこは彼の腕に自分の腕を絡ませ、
「で、勝敗は?」
「もっか三連敗中。俺《おれ》がな」
「勝ったことはあるの?」
「ねえ」
「今年のお互いの数は?」
「俺がなでしこちゃん、ともはね、お前で三。薫《かおる》が二十八だ。今日が平日で学校でもありゃ、俺ももう少し貰《もら》えたんだけどな。惜しかった」
「……ねえ、啓太。楽しい?」
啓太はその問いに答えず、
「うし、折《せっ》角《かく》、街に出たんだし遊んでいくか!」
ようこ、頷《うなず》いた。
嬉《うれ》しそうに笑い、
「うん」
ずっとずっと一生勝てなくていいからね、ケイタ!
そう心の中で告げていた。
あとがき
こんにちは。
有《あり》沢《さわ》まみずです。『いぬかみっ!』三巻、ご購《こう》読《どく》ありがとうございました。
どうでしたでしょうか?
本当なら、表紙のともはねがもっとメインに出てきて、熱帯雨林のプールでサービスカット(一部の趣《しゅ》向《こう》の方には)で、薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》十人も水着で啓《けい》太《た》うはうは、後半一転して、シリアス展開(いぬかみにしては)で啓太&ようこ大《だい》活《かつ》躍《やく》のはずが。
男。
×××。
オタク。男のスクール水着と濃《こ》い話で揃《そろ》ってしまいました。
個人的にはこういう話は大好きなんです。
えっと、構成上の都合でそれは後回しになりました。四巻はさっき述べた通りのストーリーラインで、相変わらずの短編構成ですが、全体的にまとまりのある話にしたいなあと漠然と考えています。
もちろん、ノリは今まで通りのいぬかみですからご安心下さい。
いぬかみのベストになるようなお話を目指します。
頑張ります。
ところで、次はもう片方のシリーズの最終巻になると思います。
きちんと終わらせてあげたいなと思っています。
そうそう。せっかくなのでご報告を。
読者の方から頂いているお手紙はみんな読んでおりますよ。出来る限り返信するようにしていますので良かったら送ってくださいませ。
その中で頂いたご質問の中で、
「電《でん》撃《げき》hpの中に出てきたあの学生服の少女はなに?」
というのがありました。
この場を借りてお答えしたいと思います。その話は文庫の方に収録される予定は今のところありません。
名前は天《あま》草《くさ》小《さ》夜《よ》と言います。
もしかしたら今後、彼女自身は出てくるかもしれません。
今のところはそのくらいで。
今回も非常にお世話になりましたサトー様。締《し》め切りが延びまくって申し訳ありませんでした。ありがとうこざいました。
相変わらず可愛《かわい》い、素《す》敵《てき》なイラストを描いて下さる若《わか》月《つき》様。ありがとうございました。ホント足を向けて寝られません。
そして、家族の皆さん。
歯痛でび〜び〜泣き喚《わめ》く二十七歳の坊主頭の長男を忍耐強く見守って頂きました。感《かん》謝《しゃ》に堪《た》えません。
なによりも、読者の皆々様。
いつも読んでくださって、誠にありがとうございます。
有《あり》沢《さわ》はもっともっと面《おも》白《しろ》いモノを書きます。お約束します。
それでは、また!
[#地付き]六月某日自宅にて 有沢まみず
歯医者行かなきゃ……(ぶるぶる)