いぬかみっ! 2
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)学生|鞄《かばん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)自分[#「自分」に傍点]
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犬神使いの高校生・川平啓太のもとに、新しい犬神がやってきた。名前はなでしこ。おしとやかで、啓太の言うことを何でも聞いてくれるかわいい女の子。当然、ようこは面白い訳がない。デレデレする啓太に腹をたて、早速なでしこを追放するために行動を開始するが……。
その他、ちっちゃな犬神・ともはねが、超弩級のお土産を持って啓太の家を訪ねる話など、書き下ろし2編を含め全3話収録,
大好評「いぬかみっ!」待望の第2巻の登場です!
今回も啓太はかわいそうかも……。
有《あり》沢《さわ》まみず
昭和五十一年生まれ。パキスタン育ち。特技は柔道。電撃ゲーム小説大賞(銀賞)を頂く。今回も若月さんに著者近影を描いて頂けるそうで楽しみにしています。前回はひょっとこ。今回は果たしてなんでしょうか?
【電撃文庫作品】
インフィニティ・ゼロ 冬〜white snow
インフィニティ・ゼロA 春〜white blossom
インフィニティ・ゼロB 夏〜white moon
いぬかみっ!
いぬかみっ! 2
イラスト:若《わか》月《つき》神《かん》無《な》
1977年、東京生まれ、タイ肩ち。前巻に引き続き有沢さんの著者近影を担当させて頂きました。本人的にはヒョットコのつもりがペン入れしてみたら、あらヤカン。驚愕の余り湯気まで描いてしまいましたよ。もう人ですら…(涙)
事の発端はあるいは投棄された無数のゴミの怨《おん》念《ねん》から始まったのかもしれない。[#太字]
「ひどいものですね」
小高い丘の上に立った白装束の青年が呟《つぶや》いた。彼の隣《となり》には小柄な少女が静かに控えている。見渡す限り一面、ゴミの山だった。あちらこちらにプラスチックの容器、扉の壊《こわ》れた冷蔵庫、型の古いカセットレコーダー、ヒビの入った鏡《きょう》台《だい》などが散乱している。およそ考え得る限りの燃えないゴミで地面が埋め尽くされていた。
天には満月。
群雲が時折、それを隠し、一陣の風が吹く。
「来ましたね」
と、少女の方が囁《ささや》いた。青年も頷《うなず》く。
「大気の澱《よど》みを吸って変わり果てた、つくも神ですか……」
その途《と》端《たん》。
彼らの前に転がっていた電子レンジが、ちーんと甲高い音を一つ立てた。もうボロボロに壊れているはずなのに。
それはひょっとしたら懐《なつ》かしささえ感じさせるほど、明るく楽しい音だった。
「ゴハンガデキマシタヨ」
「いいえ、もういいんですよ」
白装束の青年は告げる。
優しく労《いたわ》るような声だった。すると、手も触れていないのに、電子レンジがごろんと山の上から転がり落ちて、正面をこちらに向けた。
少女がはっとして息を呑《の》む。
ステンレス製の扉に人間の目を漫画化したような瞳《ひとみ》が浮き上がっていた。
「ウウン。ボクハデンシレンジ。ダカラマダマダウゴケル、ツカエルヨ?」
「もう」
「デンシレンジレンシレンジデンシレンジデンシレンジ♪」
青年は痛ましそうに目をつむった。
「あなたは捨てられたのです」
「お願い。これ以上、ここの管理人さんに危害を加えないで」
少女が懇《こん》願《がん》する。電子レンジはぴたりと歌うのを止《や》めた。魯《ろ》鈍《どん》な目で青年と少女を見つめ、やがて声高に笑う。
「アハハハ、チガウモン! ボ、ボクハマダマダ、ツカエルモン! ゴシュジンサマニ、モットモット、レトルトショクヒンヲ、タベテモラウンダモン!」
とうとう、電子レンジは興《こう》奮《ふん》したようにがたがた揺れ始めた。
「ジャマヲ、スルナ」
そこだけ底冷えのする低い声で言って、
「オマエタチ、ホントウハイハンダケド、チーンシテヤル!」
べろんと長い舌をオーブンの奥の闇《やみ》から垂れ下げると一気に跳《ちょう》躍《やく》して、青年と少女に襲《おそ》いかかった。青年も少女もあえて避《さ》けようとしない。共に哀《かな》しそうだった。
その代わりきびきびした声が聞こえた。
「はけ様。交渉決裂ですね♪」
「ゴミはゴミらしくしてな!」
さっといずこから現れたのか、六人のうら若い乙女が青年と少女を取り囲むようにして立った。彼女たちは同時に瞳《ひとみ》をつむり、天に向かって手を差し上げる。
唱和した。
『破《は》邪《じゃ》結《けっ》界《かい》・二《に》式《しき》紫《し》刻《こく》柱《ちゅう》』
まるで一流のダンサーのように華《か》麗《れい》に揃《そろ》った動作だった。次の瞬《しゅん》間《かん》、彼女たちの周囲に紫色の結界がそびえ立つ。
電子レンジはそこにぶつかり、火花を上げた。
「ピ─────────────!」
と、甲高い音を立て、放電し、弾《はじ》き飛ばされた。そこへさらに別の小さな少女がどこからか駆けつけてきて、トドメとばかりに電子レンジを蹴《け》っ飛ばした。
ごろごろと転がる電子レンジ。
だが、さすがに痛かったのだろう。少女の方も足の甲を押さえ、跳ね回る。
「あははは、ともはねはバカだね〜」
と、六人から笑い声が上がった。青年だけは冷ややかに目を細めている。
「私の技ですか……」
「ええ」
最初に現れた六人のリーダー格らしき赤毛の少女が婉《えん》然《ぜん》と微笑《ほほえ》んだ。
「お兄さまの真《ま》似《ね》をさせて頂いています。もっとも私たちは三人がかりで、ですけど」
と、その時、別の少女が叫んだ。
「せんだん、まだだよ!」
彼女の指差す方で、電子レンジが怒りに震《ふる》えていた。ピーとノイズを発しながら、周囲にある様々なゴミを引き寄せ始めている。
磁石に吸引されるように、そのゴミの断片はたちまち組み上がっていった。二段ベッドが胴体部に、冷蔵庫とタンスが足に、パソコンやテレビが腕について、そこへその他《ほか》の粗大ゴミが穴を埋め、最後に電子レンジが頭に乗っかって異《い》形《ぎょう》のゴミ人形と化した。
「オモイシラセテヤル!」
右腕を伝っている導《どう》線《せん》がスパークして火花を上げた。
「オモイシラセテヤル─────────!」
戯《ぎ》画《が》化された目が赤々と恐《こわ》い形になり、口が稲妻形に裂けた。
赤毛の少女が薄《うす》く笑った。
「ゴミはどこまで行っても、ゴミなのにねえ」
そう嘯《うそぶ》き、それから叫んだ。
「みんな、いくわよ!」
最初に現れた六人。電子レンジを蹴《け》っ飛ばした一人に続いて、天から二人の少女がすとんと音を立ててゴミの山に降り立った。
都合、九人の乙女は不敵に笑う。
「オマエタチ、ミンナ、ミンナ、チーンシテヤル──────!」
身体《からだ》中の扉をばたばた開閉させながら突進するゴミ人形。九人はホウセンカの種のように一斉に散開した。
目まぐるしい動きだった。
突然、目標を見失ってゴミ人形は目を忙《せわ》しなく左右に走らす。
「チョロチョロウゴクナ───────!」
と、闇《やみ》雲《くも》に振るう腕をかいくぐって四人が突っ込んできた。
ゴミ人形の肩めがけて手を振るう。すると、真っ赤な衝《しょう》撃《げき》波がそこから飛び出して、構成部位を幾つか吹き飛ばした。
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×4! 『紅《くれない》』!」
よろけたゴミ人形の足下。さらに四人が駆け寄り、
「ゴミはゴミらしく膝《ひざ》をつきな!」
いつの間にか拾っていた鉄のパイプで右の膝を殴りつける。べっこりと嫌な音を立てて、タンスが砕け散った。ばらばらとこぼれる木片。ゴミ人形は無事な方の足で四人を踏み潰《つぶ》そうとする。
さっと飛び去る四人。
代わりに先ほどの四人が駆け寄ってきて、
「しつこい!」
ゴミ人形の腰に投棄されたワイヤーを巻きつけた。その先端を持ったまま、ゴミ人形の足下を走り抜け、反対側に思いっきり引っ張る。すると一拍ほど遅れて、ゴミ人形はバランスを大きく失い、仰《あお》向《む》にどうっと倒れ込んだ。
大きく手を振って堪《こら》えようとするが巨大な重量はままならない。
他《ほか》の同胞を砕き潰しながらゴミの山に沈んでいくゴミ人形。
最後の一人。
先ほど電子レンジを蹴《け》っ飛ばした小さな一人がその胸元にぴょんと飛び乗って、
「これで終わりだよ!」
気がつけば九人が一斉に人差し指を上げていた。
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×オール 『煉《れん》獄《ごく》』!」
声が完全に揃《そろ》う。霊《れい》力《りょく》が大気に飽和した直後、圧倒的な熱量がその場に顕《けん》現《げん》した。青い透明な炎。ひたすらに焼き尽くす炎。それがゴミ人形の身体《からだ》をサファイヤのような硬質の美しさでもって完全に閉じ込める。その周囲で九人は冷笑を浮かべていた。
彼女たちの視線を一身に集めながら、ゴミ人形は訳も分からずただ目をぱちくりさせている。やがて構成していた部位が圧力に耐えかねたのだろう。
悽《せい》愴《そう》な青い炎の結界の中で、細かな部品が煌《きら》めきながら、浮き上がるようにして次々と蒸発していった。崩《ほう》壊《かい》が近づいているのだ。青年はわずかに目を細め、青年の傍らにいた少女は哀《かな》しそうに顔を伏せた。
「威力だけなら」
と、青年は呟《つぶや》いている。
「あるいはようこのだいじゃえん以上ですね……」
その次の瞬《しゅん》間《かん》、一際、凄《すさ》まじい爆《ばく》発《はつ》が起こった。白い光が盛り上がってゴミ人形の輪《りん》郭《かく》を順番に消し飛ばしていく。
鳴動するゴミの山。
炎をまとった細かい部品の数々が周囲に降り注ぐ。ついで、
「オオオオオオオ─────────ン!」
と、悲痛で哀しげな泣き叫ぶ声がどこからか聞こえてきた。モノに宿った魂が焼かれ、浄化され、無に還《かえ》っているのだ。やがて声が炎の中に溶け込み、その炎も天に噴《ふ》き上がって景色が完全に元に戻った頃《ころ》。
焼け焦げた電子レンジの取っ手の部分だけがころんと黒ずみの山から転がり落ちてきて、ちんと最後に一度だけ哀しげな音を立てた。
それをそっと拾い上げる少女。
他《ほか》の九人は高らかに笑い合っていた。
「あ〜、楽勝だったね、今回は」
「うん。ゴミなんてしょせんゴミだもん。私たち九人いれば目じゃないね」
「ん〜、でもでも、薫《かおる》様がいないのやだった〜」
「だからさ、これからは薫様には遠くで見て頂いて私たちだけで戦うんだよ。大体、こんな小汚いところに薫様が来られても仕方ないでしょう?」
「あ、なるほど。今回はそのためのテストだったんだね!」
そんな言葉を交わし合っている。
一人、赤毛の少女が青年のそばに歩み寄ると悪戯《いたずら》っぽく微笑《ほほえ》んだ。
「お兄さま。どうです? お兄さまは懐《かい》疑《ぎ》的だったけど、私たち犬《いぬ》神《かみ》だけでも充分戦うことが出来ましたでしょう?」
「あ、ええ」
青年は顔を上げ、頷《うなず》いた。
「ただ」
と、何か言いかける前に青年の傍らに立っていた黒髪の少女が寂しそうな声を出す。
「このゴミもきっと主人を持っていたんですよね。そうして、一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、一生懸命、働いてきて尽くしたあげくに」
「……ちょっと、なでしこ」
「同じ人に捨てられた」
「思わせぶりは止《や》めなさい! 一体、何が言いたいの!?」
黒髪の少女は長いまつげをしばたかせた。
「……ごめんなさい。ただ、もう少し他《ほか》にやりようがあったのではないかと」
「もう!」
赤毛の少女は柳《りゅう》眉《び》を逆立てた。腰元に手を当て、
「私たちを人でなしみたいな言い方するの止めて! 私たちだってそう思うところは多々ある。だから、あなたの最初の提案通り話し合おうとしたんじゃない。だけど、現実にはそれではダメだったでしょ?」
「それは……そうですけど」
「あのねえ、なでしこ」
赤毛の少女はうんざりしたように溜《ため》息《いき》をつく。
「あなたが戦おうとしないのは勝手。いい子ちゃんでいようとするのも勝手。だけど、それじやあ、薫《かおる》様のお役に立てない場合も沢《たく》山《さん》あるのよ! 分からない?」
「……」
「大体、家事や雑用だけやって済むなら私たち犬神が犬神である理由がないでしょ!?」
「あるいは」
黒髪の少女はまた視線を落とした。
「そうなのかもしれません」
そのしょんぼりしたような様子に赤毛の少女は大仰に肩をすくめてみせた。議論はもう打ち切りという意味だ。
気まずい沈《ちん》黙《もく》が流れる。赤毛の少女は俯《うつむ》いたままの相手からあっさり視線を引き剥《は》がすと、青年の方に向き直って丁寧な言葉遣いになった。
「お兄さま。この度はこのようなチャンスをくださって本当にありがとうございました。お陰様で『煉《れん》獄《ごく》』もある程度の成果を出せたと思います」
青年は秀《しゅう》麗《れい》な顔をわずかに曇《くも》らせる。
「せんだん」
と、相手を呼び、
「いいえ」
思い直したように首を振った。
「そうですね。今日は本当にお疲れさまでした」
その言葉に赤毛の少女はちょっと不《ふ》審《しん》そうにしながらも、腰を落とす西洋風のお辞《じ》儀《ぎ》で応《こた》えてみせた。それから、残りの八人に向かって声をかける。
「みんな〜〜、撤《てっ》収《しゅう》するわよ!」
お〜〜。
と、景気の良い返事が返ってくる。
「お兄さまにご挨《あい》拶《さつ》なさい!」
は〜い。
と、華やいだ声が揃《そろ》って、
「はけ様、失礼しま───す!」
九人は全く同じタイミングで頭を下げた。わずかに遅れてなでしこと呼ばれた黒髪の少女もあたふたと礼をする。青年は静かに叩《こう》頭《とう》した。
「さあ、お風《ふ》呂《ろ》だお風呂だ!」
「一仕事の後のパフェしよっか?」
「あたしもあたしも!」
「ともはね。あんたは今朝も食べたからダメ!」
そんな姦《かしま》しくも、賑《にぎ》やかな会話をして夜のゴミ処理場を去っていく九人の少女。黒髪の少女はちらりとそちらを見て、青年にもう一度、深々とお辞儀をすると他《ほか》の少女たちに追いつくために小走りになった。
それを見送り、犬《いぬ》神《かみ》のはけは呟《つぶや》いた。
「問題、おおありですね……」
もしくは一人の犬神の少女が見た悪夢がその主な原因だろうか。[#太字]
「さよならだ」
と、男は呟いた。マントの襟《えり》を立てて、北へ向かう列車に乗り込もうとする。閑散としたホームに乗車を促すベルが鳴り響《ひび》き始めた。
雪景色。身に染みるような寒さの中で女は震《ふる》えた。
「何故《なぜ》?」
涙がにじんだ。
「何故、そんなことを言うの?」
二、三歩、よろめくように男に近づく。
「一言で言えば、おまえに飽きた。おまえの身体《からだ》に飽きたんだよ」
男の笑みは酷《こく》薄《はく》だった。
「ひ、ひどい」
「今の俺《おれ》にはもうこの人がいる」
男は赤毛のオランウータンと仲良く手を繋《つな》いでいた。白いコートに赤い口紅。青いマスカラにピンクのリボンをつけたそれはほひっと歯茎を剥《む》いてみせた。
勝ち誇ったようにぺちぺちと自分の額《ひたい》を叩《たた》く。
「いやあ」
女はハンカチを噛《か》みしめた。
「それヒトじゃない〜ヒトじゃない〜」
ぷるぷると首を振る。雪は相変わらず止《や》まない。あまりの理不尽さに涙が勝手にこぼれた。
「この人とはなにしろ相性抜群でな」
ほひい。
「もちろん、身体のな」
いややわ、この人。
そんな感じでオランウータンが男の肩を色っぽくつねる。
男はわははは、と高笑いをした。仲むつまじい二人が列車に乗り込む。もう女を振り返ろうともしない。
ぷしゅっと音がして鉄の扉が男と女の間を永遠に隔てた。
「待って!」
女が叫んだ。ベルが鳴り止む。ごっとん。列車はゆっくりと動き出す。網《もう》膜《まく》に焼きついているのは男の笑顔。
オランウータンの笑顔。
どんどんと速度を上げていく寝台特急に女は追いすがる。
「待って! おいていかないで!」
しかし、履《は》いていた下《げ》駄《た》の鼻緒が切れ、女は倒れ込んでしまう。それでも、精一杯手を差しのべ、去りゆく愛《いと》しき人に向かって叫んだ。
涙を溢《あふ》れさせながら。
ケイタ!
お願い、わたしを捨てないで!
がばっと跳ね起きれば窓の外から月の光が射《さ》し込んできている。まだ薄《うす》暗《ぐら》かった。咄《とっ》嗟《さ》に状況をつかめず、ようこはきょろきょろと辺りを見回した。
全く普《ふ》段《だん》通りの部屋だった。
すこ〜すこ〜という啓《けい》太《た》のいびきが下から聞こえてくる。
「……夢、だったの?」
胸がまだトクトク鳴っていた。
大きく溜《ため》息《いき》をつく。
「よかった……」
自分の肩を抱き、ふるっと震《ふる》えた。
「よかった」
彼女は宙に浮かんだまま、ベッドの上の啓太を見下ろした。よりにもよってあんな猿に負けたのが情けなかった。
大体、なんなんだあの猿は?
「あんなの嘘《うそ》だよね、ケイタ?」
確認するように力なく笑う声。そして、その目が優しく細まる。啓《けい》太《た》が寝相悪く、手と足を投げ出していたからだ。口元からは涎《よだれ》。
無防備で子供っぽい表情は安心出来た。
ようこは愛《いと》おしげにその頬《ほお》に手を伸ばし。
そして、止めた。
「でヘへへ、珠《たま》子《こ》ちゃあ〜ん」
そう言ったのだ。
愛おしい彼が。
ようこの目が剣《けん》呑《のん》に光った。
つららのようにやろうと思えば人を刺し殺しうる光だった。
「珠子ちゃ〜ん、そうそうそこだよお〜」
また寝言を呟《つぶや》いて、手が妖《あや》しく宙を揉《も》んでいる。その唇は何かをせがむかのように鋭《するど》く尖《とが》っていた。ようこはすぐさま反応して、啓太が秘密にしている(と、彼は堅く信じ込んでいる)ベッドの下の隙《すき》間《ま》に手を突っ込んだ。
そこから出てきたのが、
『珠子のイケナイ診《しん》療《りょう》室』
というタイトルのビデオケースだった。
ナースの衣装をつけて、胸元を大きくはだけた女の子が微笑《ほほえ》んでいた。
ようこよりも確かに胸があった。
「珠子ちゃん、か〜いいね。胸、大きいね〜」
ぷるぷるとようこの肩が小刻みに震《ふる》え出した。
「ねえねえ、ボクの犬《いぬ》神《かみ》にならない?」
それが決め手だった。まだ許せたと思う。
その一言さえなければ。
まだ。
ぷちんと何かが切れる音。
どさ。
彼女の力が勝手に解放され、空中に出現した学生|鞄《かばん》が啓太の腹の上に落ちた。思いっきりみぞおちに角の部分が突き当たり、フックが外れて教科書が散乱する。
たまらず咳《せ》き込んで、啓太が目を覚ました。
「な、なんだ? なんだなんだ?」
彼が寝ぼけ眼《まなこ》で首を巡らした。そこへ。
「ケイタが」
俯《うつむ》きながら、ゆっくりようこが喋《しゃべ》り出した。
「へ?」
「ケイタがそんなだから」
「え?」
啓《けい》太《た》は目を白黒させている。それはそうだろう。夜中にいきなり叩《たた》き起こされて、気がつけば訳の分からないことで恨み言を言われているのだから。
だが、そんなことには全くお構いなく、
「わたしが猿に負けるんだ!」
キッと啓太を睨《にら》むようこ。
は?
という表情のまま、啓太は突如、降り注いできた様々な生活物資、皿や洗剤の箱や一升瓶やはてはフライパンから便器の蓋《ふた》に至るまで、に押し潰《つぶ》される。
ぶ。
べ。
ぼ。
そんな声を出しながら、啓太は脳天に直《ちょく》撃《げき》する怒《ど》濤《とう》のような重力落下を食らって目を回した。最後にお玉が落っこちてきて、か〜んと啓太の頭の上で景気のいい音を立てた。そうやって物に埋もれきった啓太を見てようこが一声叫ぶ。
「バカ!」
手を思いっきり突っ張っていた。
それから、彼女はい〜と大きく舌を一つ出すと背を向け、天井の暗がりに向かって飛んだ。掻《か》き消える。
後には足をぴくぴく痙《けい》攣《れん》させている啓太だけが残った……。
さらに言えば一人の犬《いぬ》神《かみ》使いの少年が事態をややっこしくさせた。[#太字]
「つ〜訳で最近、あの狂犬、全く歯止めがきかねえんだわ」
目の周りに紫色のアザをつけた啓太がぼやくようにしてそう言った。左の肩を右手で揉《も》みながら、首を左右に回している。
ようこにやられた後遺症だろうか。
彼の前ではけは困ったような顔のまま正座していた、
翌日の夜のことだった。
「それは……原因がまるで分からないのですか?」
と、はけ。
「ああ」
啓《けい》太《た》は頷《うなず》く。
「少なくとも昨夜の件に関してはな。寝てたらいきなりいちゃもんつけられて、このざま」
彼は乱れ放題の部屋をざっと手で示した。
ひっくり返ったテレビ。
流しの上に載《の》っかった卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》。散乱した衣服。傾《かし》いだ冷蔵庫に、何故《なぜ》かカーテンの桟《さん》に引っかかった野菜の数々。
「俺《おれ》は静かに休息をとっていただけなのに……全くひどいよ」
かなり弱々しい態度だった。
そういえば、腰もだいぶ曲がっているし、目つきも疲れ果てた者のそれだ。普《ふ》段《だん》、生気に満ちている彼だけに萎《しお》れ方もひとしおだった。
はけは痛ましげに尋ねた。
「それで今日はようこは?」
「あいつはこの時間、大体、近所の猫の集会に通ってる。名《な》主《ぬし》株なんだと」
「……猫、ですか」
夏の宵《よい》。遠くで花火の音が聞こえた。ここからだと入り組んだ建物が邪《じゃ》魔《ま》になって見えにくいが、近郊の河川|敷《じき》でかなり大々的な花火大会が催されているのだ。はけは珍しく啓太の方から呼ばれてやってきている。彼の窮《きゅう》状《じょう》を聞いてきわめて憂《ゆう》慮《りょ》した顔になった。
啓太はずずっとまずそうにお茶を啜《すす》った。
はあ、と溜《ため》息《いき》をついてアンニュイに窓の外の暗がりを見つめた。
はけが咳《せき》払《ばら》いをしてから、
「啓太様」
「あい」
「……大丈夫ですか?」
「あい」
「…………」
はけは冷や汗をかいて呆《ほう》けた状態の啓太を見つめた。それから、再三、咳払いをしてもう一度、切り出した。
「きわめて封建的な考え方で、本来はあまり好まないのですが、猿回しは相方となった猿の首筋を噛《か》んでどちらが強いのか、どちらがより偉いのかをかなり初期の段階ではっきりさせるそうです……人間で言うと最初にがつんと一発、その、カマスというのでしょうか?」
「……」
「ようこの場合、いささか物理的な手段をとるのも選択肢の一つだと思いますが」
そう言われて啓《けい》太《た》は力なく笑った。
「それ無理」
彼ははけの方を振り向くと、自分の首筋につけられた猛犬用の首輪を指でなぞってみせた。
「どちらかつうと俺《おれ》の方が常にカマサれてるから」
「……」
はけは完全に沈《ちん》黙《もく》した。啓太はしんなりと手で顔を覆《おお》い、イヤイヤをする。
「あいつ強いし、正攻法じゃ俺、絶対に勝てないもん」
めそめそ泣きながら、限りなく情けない言葉。はけは心の底から首肯した。
「あ〜、そう、でしたね〜」
「でもね」
と、啓太。彼は何か言いかけ、すぐに気落ちしたように溜《ため》息《いき》をついた。
「いや、よそう。この方法はしょせん無理だ」
「?」
はけが首を傾《かし》げる。啓太はことさらに大きく俯《うつむ》いた。
「ああ、俺はやっぱり耐えるしかないんだ! この地《じ》獄《ごく》のような暴力の日々に。狂犬に脅かされ、安逸を失い、命果てるまで怯《おび》え続けるしかないんだ!」
「あの」
「聞きたい?」
「え?」
「俺の考え聞きたい?」
くるりと背を向け、妙なポーズを啓太は取った。床の上でいじけたように指をこね回している。はけは曖《あい》昧《まい》に頷《うなず》く。
「え、ええ。まあ」
その瞬《しゅん》間《かん》、啓太がしゅいんと動いた。いつの間にかはけの近くまで移動していて、じんわりと輝《かがや》く瞳《ひとみ》で笑う。その耳元で悪《あく》魔《ま》のように、
「あのさ、見本を見せるんだよ」
息をそっと吹きかけた。少し引くはけ。
「それは……どういうことですか?」
「つまりね」
と、くすくす笑いながら啓太。
「家事全般こなせて、頭も良くて、何よりここが重要だけど、すご〜〜〜〜く従順な犬《いぬ》神《かみ》をどこかから借りてくるんだ」
「どこかからって……どこです?」
「知らないよ、そんなこと。とにかく、そういう優等生の見本を俺のところで使うんだよ。そうしたらさ、ようこも少しはそいつを見習うようになるだろ?」
「……なるほど」
ちょっと考え込んでから、はけは頷《うなず》いた。
うんうんと啓《けい》太《た》は揉《も》み手をする。それから、わざとらしく咳《せき》払《ばら》いをすると、また背中を見せた。取り繕《つくろ》ったなに気ない声で、
「あ、でもさ、それもただの犬《いぬ》神《かみ》じゃなくってさ、とびきり可愛《かわい》い女の子の犬神の方が良いと思うんだよ」
「……何故《なぜ》です?」
「何故ですって、そりゃあ、おまえ……ようこの見本になるんだもん。あいつくらいのルックスがあった方があいつもそれなりに意識しやすいじゃない?」
ここら辺の理屈は既に理屈であって理屈でないのだが、声だけはもの凄《すご》く真《ま》面《じ》目《め》だった。
白装束の犬神は両腕を組み、形の良い眉《まゆ》を寄せていた。数秒後。何かが彼の頭の中で折り合ったのだろう。
優美に微笑《ほほえ》んで頷いてみせた。
「分かりました。我が主《あるじ》に奏上してみましょう」
「ほ、ほんと?」
「ええ、案外、ようこにはそれが一番、効果的な手段なのかもしれません」
「た、頼むよ、はけ!」
啓太は取りすがって抱《ほう》擁《よう》せんばかりだ。
では、早速。
はけはそう会釈して立ち上がると、天井の一角に後ろ向きのまま飛んだ。しゃらんと紫色の水晶が最後に光って、溶け崩れるように彼はいなくなった。
ど〜んと遠くで花火が鳴った。
部屋が微《かす》かに明るく照らされる。はけが完全に行ってしまったことを見て取って、
「ぷ」
啓太がやにわに噴《ふ》き出す。わはははと高笑って、幾度か飛び跳ねた。転げ回り、喜び踊り、天に向かって指を一本突き上げた。
ど〜んとまた花火。
「お〜〜〜〜〜〜しゃ!」
とてもさっきまで落ち込んでいた人間とは思えなかった。
彼は鼻歌を歌いながら、ひっくり返ったテレビをリンゴの木箱の上に戻し、衣服のほこりを払って窓枠のハンガーにかけた。
自分[#「自分」に傍点]で滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》にした部屋を片づけているのだ。
ようこに叩《たた》き起こされて、彼が考えついた手である。その前まで見ていた夢(それが騒《さわ》ぎの大元なのだが)でもの凄《すご》く従順な上に、サービス濃《のう》厚《こう》の色っぽい犬《いぬ》神《かみ》が出てきた。啓《けい》太《た》のそばにはべって、色々してくれた。
大好きな女優、珠《たま》子《こ》ちゃんにとってもよく似ていた。
ようこと出会う前の啓太の夢≠セった。
だから、ダメもとで芝居を打ってみたのだが、こうもあっさりことが運ぶとは思っていなかった、笑みが漏れる。くふふと漏れる。
春が近いとこの時は思っていた……。
ついで出来の悪い孫に奇妙に甘いところのある川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》の決断が決定的だったのかもしれない。[#太字]
川平家の本邸奥に『電算室』と呼ばれる部屋がある。重々しい名称がはけによって冠されているが、要するに川平の長《おさ》である啓太の祖母が、自分の趣《しゅ》味《み》に沿って買い集めた色々な電化製品を保管している場所である。
十畳ほどの空間にウィンドウズとマックのハード、古くはメガドライブから現在までの各種ゲームソフト(アクションゲーム中心)、モバイル、デジタルカメラ、MDコンポ(ただし、音楽は聴《き》かない)などなどが不思議に整然と置かれていた。
特に携帯電話に至ってはかなりの数が、各種色合いに応じてきちんとクリアケースに入れられて、棚の一角を燦《さん》然《ぜん》と占めていた。
電化製品のコレクション。
という、老人。
いや、若者でも相当、珍しい趣味を川平の宗家は有しているのだ。
もちろん、集めるだけでなくかなり器用にも使いこなす。
今、川平の老婆は42インチの特注モニターの前でしきりにキーボードを打っていた。
『まあ、わしは啓太の思惑はともかく、試してみる価値はあると思うよ』
そんな文章が毛筆のフォントで画面に浮かび上がる。かなり早くて正確なブラインドタッチだった。彼女は今、インターネットに接続していた。
満《まん》月《げつ》亭《てい》。
というタイトルがついたサイトにいる。青白い夜空を背景に、月に向かって吠える山犬の姿が格好良くレイアウトされていた。ここは何を隠そう全国に散らばっている犬神使いたちのネット上の情報交換の場なのだ。
こういった特殊能力者たちの集団にしては極めて異例のことだろう。
老婆自らがHTMLの入門書を引き引き、一月かけて作成した。もちろんアドレスは一般には非公開だし、最初に現れる赤い鳥居の下にパスワードを入れないとログイン出来ないような仕組みになっている。
最初は戸惑っていた一族の者たちだったが、やがてその利便性に目覚め、今では犬《いぬ》神《かみ》使いたちだけでなくその関係者も足《あし》繁《しげ》く訪れるようになっていた。
もちろん、そういった最先端のツールを嫌う昔|気質《かたぎ》の者や、啓《けい》太《た》のようにインターネットに接続できない環境にいる者もいるにはいたが、大多数には概《おおむ》ね好評だった。肝心のコンテンツはといえば、極めてシンプルで掲示板とチャットに絞られている。
掲示板には例えば、
『かねてよりの予告通り、東欧の方をしばらく回ってきます。その間のお仕事は隣《りん》県《けん》の東《あずま》(兄)の方へ回してくださいませ。来春の刀《と》自《じ》のお祝い頃《ころ》には帰って参ります。どうぞ、お土産のトカイワインをお楽しみに 本《ほん》徳《とく》院《いん》立《たち》丸《まる》』
とか、
『川《かわ》平《ひら》成《なり》正《まさ》と東(弟)へ。麻雀の負け払え! 川平|宗《そう》吾《ご》』
とか、
『この間、犬神たちだけでお仕事したのって薫《かおる》ちゃんのところ? 房《ふさ》江《え》』
『ええ。そうですよ。自分たちだけでやってみたかったんだそうです(笑) KAORU』
『ふ〜ん。変わった子たちねえ 房江』
そんな会話が並んでいる。
川平の老婆が現在、見ているのはチャットの方だった。ハンドルネーム『ばば』で入室していて、名無しで会話に応じている者が一人いる。
夜の十一時二十四分。
『詳細は大体、分かりました』
と、名無しが書いた文章が下に浮かび上がった。
『では、なんでしたら僕の犬神をお貸ししましょうか?』
文字を青くしている。
ひどくレスポンスが早かった。
『良いのか?』
という驚《おどろ》いたような老婆の問いに、回線越しに微笑《ほほえ》むような感覚があった。
『ええ。実は僕、これからしばらく出かけるので彼女たちの身体《からだ》が空くんです。それに僕の犬神は全員、お淑《しと》やかで良い子たちばっかりだから、ちょうど打ってつけでしょう?』
『ふむ。そうじゃの』
と、老婆は考え込み、
『では、一つお前の言葉に甘えるとしよう。すまぬな、薫』
『いえいえ。こちらにもきっと良い経験になると思いますので……では、適材を一人、近日中にそちらに送ります』
『うむ』
『啓《けい》太《た》さんにくれぐれも宜《よろ》しく』
そう言って、名無しはチャットから落ちていった。老婆も溜《ため》息《いき》を一つ吐いて、回線を切る。目をつむり、暗がりに向かって喚《よ》んだ。
「はけ」
その声にどこからともなく静かな返答があった。
「はい、ここに」
「聞いておった……ではないの。見ておったな?」
「はい」
「ならば以後、この件はお前に任す。頼んだぞ」
ゆらりと空気が揺らいではけの気《け》配《はい》は消える。
老婆はふっと笑った。
「しかし、啓太に薫《かおる》か……見事に好一対な孫どもだの」
とにかく、運命は展開して一つの様相を見せることになる。[#太字]
およそ、喜《き》劇《げき》的に。[#太字]
常の如《ごと》く。[#太字]
もの凄《すご》く仏《ぶっ》頂《ちょう》面《づら》の女の子。
バラの花束を抱え、タキシードを着込んで、そわそわしている男の子。
穏《おだ》やかな顔でお茶を啜《すす》っている白装束の超美形。
喫茶店、『レ・ザルブル』の従業員やお客がちらちらと視線を送ってくる中、ちぐはぐな三人組が東側の一角を占領していた。
女の子が頬《ほお》杖《づえ》をついて、正面の青年に向かって不満そうに文句を言った。
「大体、なんでわざわざ喫茶店で待ち合わせなの?」
その問いに青年、はけは柔らかく微笑《ほほえ》む。
「最初の出会いはきちんとした場所でセッティングをした方が良いでしょう?」
「新入りならとっととうちに来させればいいじゃない!」
どんとテーブルを叩《たた》いて女の子。ようこが叫んだ。
「まあまあ、何事も雰囲気雰囲気。ふふ、なんかお見合いみたいだネ?」
てへっと笑いながらようこの肩を撫《な》でさすって場を納めようとする少年。啓太。ようこは彼を殺意の籠《こ》もった視線で睨《にら》んだ。
「大体、なんでいまさら新しい犬《いぬ》神《かみ》がケイタのところに来るのよ!? そんなことわたしちっとも聞いてない!」
「だからさあ、お前みたいに俺《おれ》のことをいいなあと思ってたんだって。だけど、諸処の事情があって今のところは別の主人についてるんだってさ……俺も初耳だったけど」
「そ、そんなの」
「別にお前だって後から俺のところに来たんだから不思議はないだろう?」
「ち、ちが」
ようこは何故《なぜ》か焦った顔になった。
「それじゃ、約束が違う!」
「約束う〜?」
訝《いぶか》しげに眉《まゆ》を寄せる啓《けい》太《た》。ようこは隣《となり》の席の美形に噛《か》みついた。
「はけ!? 一体どういうこと?」
「あ、どうやら来たようですよ」
のほほんと。
聞きようによっては、すっとぼけているような口調ではけが言った。細く、白い指先を真《ま》っ直《す》ぐ出入り口の方へ向けている。
「ほら」
啓太もようこもそれで目を転じた。二人ともその姿を視界に入れて、即座に凍りつく。啓太は口をぽかんと開けている。
まるで顎《あご》の蝶《ちょう》番《つがい》が壊《こわ》れてしまったかのようだ。
ようこの方は目を丸くして、次の瞬《しゅん》間《かん》、吹き出した。
「あ、あれが新しい犬《いぬ》神《かみ》? あははははは!」
とてつもなく肥満体の大男だった。
額《ひたい》に掻《か》いた汗を花柄のハンカチで拭《ぬぐ》っている。んふうっと大きく、荒く鼻息をつくと、店内を見回し、それから啓太たちの方を見つめてにっこり手を振ってきた。
「じょ〜ぶそうないい子だね♪」
ようこが楽しそうに指を立てた。
大男はずんずんこちらに向かって突き進んでくる。
「ふ、ふざけんな!」
啓太が慌ててはけの耳元で囁《ささや》いた。
「ありゃあお前、どう見ても相撲《すもう》取りじゃねえか!」
「ええ、相撲取りのようですね」
はけが興《きょう》味《み》深そうにそう言った。髷《まげ》を結い、浴衣《ゆかた》姿の大男はガヤガヤ騒《さわ》いでいる啓太たちの横をあっさりと通り過ぎていった。
「え?」
と、首を傾《かし》げる啓太。
その背後で、
「も〜、お父さん、おそ〜い」
と、女の子のむくれたような声がして振り返ると、大男が、
「やあ、小《さ》百合《ゆり》。ごめんよ」
と、頭を掻《か》いている姿が目に入った。見れば奥さんらしき人も隣《となり》にいて、にこにこ微笑《ほほえ》んでいる。どうやら完全に人違いだったようだ。
「た、たすかった……」
安《あん》堵《ど》のあまり、啓《けい》太《た》は座席に崩れ落ちた。別に相撲取りに偏見はないが、あれだけ大きいと啓太の部屋では入りきらない。
「じゃ、じゃあ、犬《いぬ》神《かみ》は?」
ようこが辺りをきょろきょろ見回した時である。
「あの」
おずおずとした声が聞こえてきた。
「はじめまして」
啓太、そこでようやく気がつく。テーブルの前に小柄な少女がちょこんと立っていた。大男の背に隠れて見えなかったが同時に店内に入ってきていたらしい。
今度はさっきと反応がまるで逆転した。
ようこの眉《まゆ》がもの凄《すご》く嫌《いや》そうにしかめられ、喜びが啓太の顔で溢《あふ》れ返った。
「川《かわ》平《ひら》啓太様ですね? わたし、犬神のなでしこと申します。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いしますね」
ぺこりと頭が下げられる。
緊《きん》張《ちょう》感に満ちた初《うい》々《うい》しい声。啓太が握り拳《こぶし》で渾《こん》身《しん》のガッツポーズを取り、ようこは持っていたバラの花束を悔しそうにへし折った。
はけはずっと微笑を浮かべている。
では、ここはお若い方に任せて。
そう言い残して、はけは去っていった。啓太はなでしこと名乗った犬神の少女を早速、家に連れ帰った。六畳間に招き入れられたなでしこは興《きょう》味《み》深そうに室内を見回している。
「いやあ、もうほんと小汚い部屋でお恥ずかしい限り」
へらへら笑いながら卑屈な腰つきでお茶を差し出す啓太。いつの間にかしっかりと着替えていた。ようこは腕を組んで、そっぽを向いている。
「あ、どうぞ、啓太様、お構いなく」
と、なでしこが恐《きょう》縮《しゅく》しきったようにお辞《じ》儀《ぎ》をする。
「くう〜」
何故《なぜ》か嬉《うれ》し涙を流している啓《けい》太《た》。
「ど、どうかなされましたか?」
なでしこが慌てて尋ねた。
「いや、なんでも」
ぐいっと目頭を熱く拭《ぬぐ》って啓太は微笑《ほほえ》む。
「なんでもないよ。ただあんまり幸せすぎて、幸せすぎて、どうしようもなくこみ上げてくるものが抑えきれないんだ」
ようこが鼻の頭に皺《しわ》を寄せてい〜と舌を出している。なでしこは「はあ、そうですか」と要領を得ない顔で目をぱちぱちさせた。
啓太は改めて彼女をざっと見てみる。
本当に可愛《かわい》らしい少女だった。ようこも確かに綺《き》麗《れい》な顔立ちをしているが、見方によっては冷たくも感じられる難点がある。涼やかな目元は時に鋭《するど》すぎる印象も与えるのだ。ところが、それに対してなでしこの全体像はあくまで柔らかかった。
栗《くり》色《いろ》の羊のような髪型。大きくつぶらな瞳《ひとみ》。あどけない口元。背丈はそんなに高くないが決して子供っぽいという感じでもない。
なんというか。
小柄で優しいお姉さん。
そんな雰囲気を全身から醸《かも》し出している。襟《えり》元《もと》から仄《ほの》かに甘く漂うのはバニラエッセンスの香りだろうか。ワンピースの上に割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》というアンバランスな格好だったが、啓《けい》太《た》にはそんなこと全く関係なかった。
唐草模様の風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包み一つでやってくる時代|錯《さく》誤《ご》なセンスも好感が持てた。
「え、えっとこれお願いします!」
自分でも何を言っているのだか分からないまま、近くにあった耳|掻《か》きを差し出す。
「え?」
「いや、膝《ひざ》枕《まくら》で耳掻き」
「あ、はい。いいですよ」
快諾するなでしこ。
「な〜に口走ってんだ、あんたは!」
げしげしと空中で啓太の頭をストンピングするようこ。啓太はそれに全く気がつかないかのようにうるうるとなでしこの手を握った。
「俺《おれ》の夢にありがとう」
「ケイタ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
闇《やみ》雲《くも》に叫んでいるようこ。すると突然、なでしこが笑い出した。くすくすと楽しげに。啓太、ようこもちょっとびっくりして、彼女の方を見やった。
なでしこは袂《たもと》で口を押さえ、
「ご、ごめんなさい。つい可笑《おか》しくて」
大|真《ま》面《じ》目《め》に頷《うなず》く啓太。
「そりゃ、そ〜でしょ。おい、こら、ようこ。お前、笑われてるぞ?」
「断じてわたしじゃない!」
「いえ、違うんです。わたし、ここに来て本当に良かった。啓太様、ようこさん。本当にしばらく宜《よろ》しくお願いしますね」
と、少し悪戯《いたずら》っぽく首を傾《かし》げる。啓太は真顔でなでしこの手を握ったまま、
「そんな」
プロポーズするような真剣さで顔を近づけた。
「しばらくなんて寂しいこと、言わず、是非、このまま一生いてくだ」
べちゃっと。
そのままシリアスな顔で啓太は卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の上に突っ伏した。怒り心頭に発したようこが全体重をかけて頭の上に乗っかったのだ。
しゃがんだ姿勢のまま、頬《ほお》杖《づえ》をつき、冷ややかな半目になっている。
ようこはなでしこと視線を合わせた。
「なでしこ〜。誰《だれ》が来るのかと思ったらよりにもよってあんただったのね」
「ようこさん……」
なでしこはちょっと困ったような笑顔になった。
「お元気そうで何よりです……その、わたしじゃお気に召しませんでした?」
「ふん! そんなの当たり前でしょ!? そもそも、『やらずのなでしこ』、『いかずのなでしこ』がなんだってケイタみたいな変なの気に入るのよ?」
「ようこさん」
なでしこはどういう訳か少し哀《かな》しげな目つきになって、
「確かにわたしは」
と、何か言いかけた時、ようこの下で潰《つぶ》れていた啓《けい》太《た》がぐっぐっと復活してきた。バーベルを持ち上げる重量挙げの選手みたいな顔で、首の力だけでようこを持ち上げると、
「なでしこちゃん、ようこと、知り、合いだったんだ?」
ぷるぷるとその首筋に血管が浮き上がっている。
顔が真っ赤になっていた。ようこは必死になってまた押し潰そうと体重をかけている。
「ええ。同じ犬《いぬ》神《かみ》同士。狭い山の中ですから」
微笑《ほほえ》み、屈託なく頷《うなず》くなでしこ。ようこはなんとも言えない表情で彼女を見つめる。なでしこはその視線に気がつき、穏《おだ》やかに見返した。
二人の少女はかなり長い間、無言で意志を通し合っていた。その奇妙に堅い雰囲気は啓太にも伝わって彼は少し不思議そうな顔で彼女たちを見比べる。
先にようこが目を逸《そ》らした。
ふいっとそっぽを向くと、
「とにかく、わたしは認めない! 認めないったら認めない!」
「あ、そ。なでしこちゃん。ところで、今のご主人様ってどんな奴《やつ》なの?」
「え、え〜と」
「俺《おれ》より格好いい?」
「ケイタ、ちょっと? 聞いてるの?」
「聞いてない。う〜む、では、とりあえず、親《しん》睦《ぼく》会といこうか? スリーサイズ幾つ?」
「どさくさに紛れてなに聞いてるか─────!?」
「ち」
「あ、あの、分かりません……計ったことが、その、ないので」
くう〜〜。
と、今にも爆《ばく》発《はつ》しそうなようこが地《じ》団《だん》駄《だ》を踏む。真っ赤になって俯《うつむ》くなでしこ。もはや変質者に近い目でなでしこを上から下まで見《けん》分《ぶん》する啓太。
「そっか。奇遇だネ。実はボクも計ったことないんだ。じゃあ、お互いに計りっこしよか?」
「ケイタ─────────! 警《けい》告《こく》一!」
オタマが天井から降ってきて啓《けい》太《た》の頭に見事に命中した。か〜んと乾いた音が響《ひび》いてなでしこは目を丸くしたが、啓太はものともしていない。
全く感じていない顔でなでしこに近寄っていく。
「ネ?」
「ケイタ、それ以上、なでしこに近づいたら」
「痛くない。痛くないよ、キミへの愛に比べたら」
「警《けい》告《こく》発令、境界線越え!」
「なでしこちゃあ〜〜〜〜〜ん!」
「しゅくち発動!」
宙に飛んだ啓太。全く同時にようこの手が大きく振るわれる。深紅に輝《かがや》く瞳《ひとみ》。ふわっと浮き上がる黒髪。
ベッドが天井から逆さまになって落下してきた。
めきゃ。
というやな音を立てて啓太を空中で押し潰《つぶ》す。遅れて、ず〜んと床が振動した。なでしこは思わず目をきつく閉じている。もうもうと湧《わ》き起こった埃《ほこり》。
恐る恐る瞼《まぶた》を開くと、ひっくり返ったベッドしか見えず、その下の啓太は生きているかどうかも怪しかった。
マットの上でようこがトドメとばかりに飛び跳ねている。
はあはあ、と荒い息をつき、
「……こ、これだけやればしばらくは起き上がれないはず」
キッと涙目でなでしこを睨《にら》んだ。
「出かけてくる!」
そう叫んでようこは天井を透過して消える。なでしこは一《いっ》瞬《しゅん》、ひどく申し訳なさそうな顔になった。
「ごめんなさい、ようこさん」
ぺこりとようこが消えた後に一礼をして、それから慌てて啓太の介抱に向かった。
夕暮れ時が近づいたビルの屋上。真っ赤に染まったいつものお気に入りの場所でようこは走り回っていた。まるで尻尾《しっぽ》に火がついたタヌキ。
いや、錯《さく》乱《らん》した乙女の狂気。
ようこはどろんといつの間にか尻尾を出し、それを自分で追いかけるようにして一カ所をぐるぐる回っている。
ひどく目の回りそうな興《こう》奮《ふん》ぶりだった。
何十周したことだろうか。ようやく、力尽きてへたり込む。その頃《ころ》には西の空に紅《くれない》の太陽が落ちて、辺りに薄《うす》闇《やみ》が漂い出していた。
「ど、どうしてくれよう……」
ようこは自分の尻尾《しっぽ》を抱え込むように持ち上げると、その先端を口に含んだ。
「一体どうしてくれよう」
目が真っ赤だ。がじがじと血がにじむまで噛《か》む。
次の瞬《しゅん》間《かん》、彼女は天に向かって絶叫した。
「はけ──────────────!」
一拍遅れてその声がエコーを効かせながら消え入ると、さらにもう一度、
「そろそろでてこ───────────い!」
すっと息を吸い込み、
「街を焼き払われたくなかったらでてこ─────────い!」
涙ながらの脅かしだった。
それに答えて慌てたような気《け》配《はい》がどこかでした。
しゃらんと紫色の水晶がぶつかり合う音がする。ゆらりと給水塔の影が剥《はく》離《り》して、白装束の美丈夫が屋上に降り立った。
「呼びましたか?」
「呼んだ!」
ようこは、今にも眼下に広がる街並みに向かって、巨大な炎の塊を投げつけようとしていた。それを手の平の上に浮かべたまま振り返る。
「はけ、一体、なんのつもり!?」
はけは珍しくちょっと恐れているようだった。嫉《しっ》妬《と》に狂ったようこはもの凄《すご》い、どこか手のつけられない、イッてしまった目をしていた。
「お、抑えてようこ」
「抑えない! はけ。事と次第によってはあんたをここで焼き払って、本家まで一気に攻め上ってやるからね!」
「ま、まあ、お待ちなさい!」
さすがにこういう経験はあまりないようだ。ようこは今、実力以上に恐《こわ》い。はけはそれを悟ってだだっ子をあやすような柔らかな笑みを浮かべた。
「ちゃんと訳があるのですから」
その言葉でようやくようこは大きく深呼吸をした。
ふうっと手の平に息を吹きつけて、浮かんでいた炎を消す。それから、じいっと恨めしげにはけを見て、
「なかったら、ほんと〜に街、燃やしてやるから」
ぼそっとそう呟《つぶや》く。テンションが落ちた分、目が本気だった。
はけは冷や汗を掻《か》いた。
「つまりですね。お前に犬《いぬ》神《かみ》らしい犬神になって貰《もら》いたいのです。ほんの短い間ですが、なでしこにお前のお手本になって貰います。それでどうか少しはお淑《しと》やかな振る舞いを身につけて下さい」
すっかり暗くなった屋上ではけはきちんと正座をして説明をしている。それに対して向かい合っていたようこがイヤイヤをした。
「そんなのいらない! いらないから早くあのいかず後家、とっとと連れて帰ってよ〜」
「ようこ」
と、そこではけは少し厳《きび》しい表情になった。
「お前は先日、啓《けい》太《た》様に故《ゆえ》なく暴力を振るったそうですね?」
「あ、あれは」
ようこの視線がわずかに泳いだ。
「だって、ケイタが悪いんだもん……」
「啓太様が悪い……なるほど。眠っている主人にいきなりモノをぶつけることが正当化されるほどですか? ようこ。お前はよく啓太様をぞんざいに扱っていますが、それは啓太様が寛容だからこそ許されているという事実をきちんと理解していますか?」
「……」
「私は知っておりますよ。あの方はご自分の生活費を割いてお前に洋服を買い与えて下さっているそうですね。ようこ。学校に加えて掃除、洗《せん》濯《たく》して毎日、ご飯を作ってくれているのは一体、どなたですか?」
「……ケイタ」
ぽつりとようこが呟《つぶや》く。俯《うつむ》いていた。
はけはにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「優しい方ですよね」
「うん」
消え入りそうな声でようこは頷《うなず》く。暗がりでよく分からなかったが赤面している。
「ならば、今回、学習することに関して異存はないですね?」
「で、でも〜でも〜」
ようこはちょっと困ったような、焦ったような声になった。
「なでしこはいや〜」
「ご安心なさい」
はけは優しくようこの頭を撫《な》でた。
まるで妹にでも対するように、
「なでしこは一週間で帰宅する予定です。そうなればようこ、啓《けい》太《た》様もはっきりと気がつくでしょう。誰《だれ》が自分の本当の犬《いぬ》神《かみ》なのか。最後の最後に自分のために残ってくれるのは誰か、ね。これは啓太様にもそういったことをご理解頂く絶好のチャンスなのです」
ようこは何も答えない。
はけは頃《ころ》合いよしと見たのだろう。一つ頷《うなず》くと、
「では、ようこ。くれぐれも殊勝な心がけで学ぶのですよ。なでしこが帰った後、啓太様をびっくりさせておやりなさい」
立ち上がり、微笑《ほほえ》む。
すうっと滑るように屋上を移動して給水塔の影に入った。そのまま、溶け崩れるようにして掻《か》き消える。
ようこはそれを横目で見送って呟《つぶや》いた。
「うう、でも、やっぱりはけ」
あんたケイタのこと、全然、分かってないよ……。
ようこは照明がついた商店街をトボトボと歩いていた。尻尾《しっぽ》は完全に消して人間の格好をしている。歩きたい気分だった。
八百屋《やおや》の店先を覗《のぞ》き込み、ペットショップで売られている熱帯魚をガラス越しに突っつき、腕を組んで賑《にぎ》やかに笑い合う恋人たちをやり過ごし、羨《うらや》ましそうにその背中を見送る。
はあっと溜《ため》息《いき》をついて、また前に向かってふらふら歩き出した。
「やっぱり、ダメだ。そんなに待てないよお」
はけの言ってることは分からないでもない。悔しいがある程度、的を射ている部分もある。だが、根本的に彼は勘違いしている。
川《かわ》平《ひら》啓太というニンゲンを。
一緒に暮らしていてそれは身に染みて分かっている。啓太は決して悪い人間ではない。基本的には優しいし、よく庇《かば》ってくれる。可愛《かわい》がってもくれる。
ちょっと乱暴な手つきで頭をくしゃくしゃして貰《もら》うと涙が出るほど嬉《うれ》しい。
色々教えてくれるし、ノロケていいなら本当に大好きだ。
でも、それとこれとは全く違うのである。
なんというのだろう?
ライオンの檻《おり》の中に生肉を置いておいて、それが食べられないと信じているキキカンリイシキの欠如?
よく分からないけど、大体そこら辺だろう。
とにかく、啓太の前に可愛い女の子を置いちゃダメなのだ。それはもう良いとか悪いとかの問題じゃなくって問答無用でダメなのだ。
啓《けい》太《た》は絶対、絶対、諦《あきら》めない。
だって、ケイタだから……。
ようこがそこでまた憂《ゆう》鬱《うつ》そうに溜《ため》息《いき》をついた時、
「あらあら、のり子さん。このお味《み》噌《そ》汁《しる》は随分としょっぱいわねえ〜。私を殺す気〜?」
そんな声が聞こえてきた。
ようこはきょろきょろと辺りを見回して、ようやく自分が電気屋の前に立っていることに気がついた。見れば店頭に並んでいるテレビでドラマを放映していた。ちょっと白髪が目立ち始めた品の良い初老の婦人。
彼女の前にエプロンをつけたどこか影のある若い女性が立っている。
ごく普通の家庭が舞台だった。
「す、すいません」
彼女はそう言って謝《あやま》る。エプロンの裾《すそ》を握る手にぎゅっと力が籠《こ》もった。初老の婦人はそれを見てふふんと鼻で笑った。
「いいのよ、別に。あなたに豊《とよ》島《しま》家《け》の味を受け継いで貰《もら》おうとかそんな大それたこと考えている訳じゃないし」
「すいません」
「ただね、うちの啓《けい》司《じ》ちゃんの健康にもうちょっと気を遣ってやって欲しいの。あなたがほんの少しでも豊島家の嫁としての自覚があるならね」
「……すいません〜」
うう。若い女の目に涙が浮かぶ。突然、初老の方がキッとなった。
「あ〜、もう泣けばいいと思ってるんじゃないわよ! 鬱《うっ》陶《とう》しい!」
ぱしや。
味噌汁の中身がぶちまけられる。
「あ、あつう!」
若い女のエプロンに染みが広がる。彼女はとうとう堪《こら》えきれなくなって「わ〜〜」と泣き出すと、そのまま顔を覆《おお》って駆けていった。
「お〜〜〜ほほほほほほ! ざま〜みそしる!」
手の甲を口に当て、初老が声高らかに笑い出した。近くにあったオタマでテーブルをちゃかぽこ叩《たた》く。地《じ》獄《ごく》のような家庭絵図。
ようこは一応、知識としては知っていた。
あれはヨメとシュウトメというものだ。不《ふ》倶《ぐ》戴《たい》天《てん》の天敵同士だ。
頭の中で閃《ひらめ》くものがあった。
「これだ!」
ぱっちんと指を鳴らすようこ。彼女の目が意志の炎でめらめら輝《かがや》く。そうだ。そうだ。一体、何故《なぜ》、今までこれを思いつかなかったのだろう?
「なでしこをいびり出せばいいんだ!」
そうして。
「お〜〜〜〜〜ほほほほほ!」
テレビの中のシュウトメと全く同じポーズ、同じ笑い方で声を震《ふる》わせるようこ。辺りの人が一斉に距離を取ったことに気がつかなかった。
同時刻、失神していた啓《けい》太《た》は暖かなお味《み》噌《そ》汁《しる》の匂《にお》いで目を覚ましていた。なんだろう。懐《なつ》かしい気《け》配《はい》。包丁のリズミカルな音がする。
彼はゆっくりと起き上がった。
「父さん?」
寝ぼけ眼《まなこ》でそう呟《つぶや》いてずきんと痛む額《ひたい》に手をやる。
冷たいおしぼりが当てられていた。
「あ、気がつきましたね」
台所で料理をしていた割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿のなでしこが朗らかに笑って振り返った。鍋《なべ》つかみで味噌汁の入った鍋を持ってこちらにやってくる。
啓太はぼんやりと辺りを見回してみた。
凄《すご》かった。黄金色の波動で部屋が充《み》ち満ちていた。別に何かを捨てているとか、何かを特に飾っているという訳でもない。啓太が普《ふ》段《だん》生活している調度品通りなのに部屋が清《せい》潔《けつ》にぺかあっと光り輝いていた。
啓太はぽかんと口を開けた。
「掃除、勝手にさせて頂きました。ごめんなさい」
お盆で口元を隠し、なでしこが恥ずかしそうに言う。
啓太はぷるぷると首を振った。
「ねえ……一体これどうやったの?」
魔《ま》法《ほう》使いの魔法を目《ま》の当たりにして呆《ほう》けているシンデレラのような顔つきである。なでしこは首を傾《かし》げ、ん〜と顎《あご》に指を当てた。
「普通に掃いて、拭いて、ゴミを出しただけですが?」
絶対、信じられない。
なんだか部屋が一《いっ》瞬《しゅん》で丸ごと新品に入れ替わってしまったかのようだ。心なしか空気までも綺《き》麗《れい》に拭き清められている。森林の奥の滝のそばと言ったらいいのか。マイナスイオンが過剰放出という状態である。
啓太はゆっくりと卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》に目を転じた。そこでも小さな奇跡が起こっていた。これまたアジの開き、厚タマゴ焼き、ヒジキ、肉じゃがというどうということのないメニューである。啓《けい》太《た》とてこの程度なら楽々作れる。
だが、そうではないのだ。
見た瞬《しゅん》間《かん》、すぐに奥深さが伝わってきた。絶妙なバランスの肉とジャガイモ。鍋《なべ》の中のお味《み》噌《そ》汁《しる》に浮かぶ豆腐とワカメの精《せい》緻《ち》な混交具合。細心の注意を持って焼かれ、極上の飴《あめ》色に輝《かがや》くアジの開き。タマゴ焼き、ヒジキ。全《すベ》てが調和し、柔らかなハーモニーを奏で、究極の味覚への期待を否《いや》が上にも煽《あお》っている。
啓太は我知らず溢《あふ》れ出ていた涎《よだれ》をじゅるっと拭《ぬぐ》った。
なでしこがくすりと笑う。
「ようこさんが戻ってきたら早速、ご飯にしましょうね♪」
啓太は子供のようにこくこくと無心に頷《うなず》いた。
そこへ。
「もう帰ってるわよ」
もの凄《すご》く不機嫌そうな声が聞こえてきた。天井をすとんと透過してようこが部屋に降り立った。彼女はきゅっと人差し指で自分の目《め》尻《じり》を吊《つ》り上げると、意地悪な顔を作った。
「あ、おかえりなさい」
なでしこが明るく声をかける。
「お前、どこへ行ってたんだよ?」
と、啓太が不思議そうに尋ねた。ようこは彼らにこくこくと頷いて、それから障子を見つけて嬉《うれ》しそうににんまりした。
「ちょっとなでしこさん?」
よそ行きの甲高い声だった。
なでしこは驚《おどろ》いたような顔になった。
「は、はい?」
ようこは首を振る。腰をくいくい気取って捻《ひね》り、
「はいではなくてよ。はいでは。全く最近の若い子ときたら、一体どこを見て掃除しているのかしら? ほら、こんなに」
と、指を桟《さん》に当て、ぐぐっと滑らす。
「こんなに」
ぐいぐい。
力を込めている。顔を真っ赤にしている。
「こ、こんなに」
本当に、厳《げん》密《みつ》な意味でチリの欠片《かけら》一つ落ちていない。
「……綺《き》麗《れい》」
ようこははあはあと息を切らした。啓《けい》太《た》は不《ふ》審《しん》そうに顔を覗《のぞ》き込む。
「お前、なにやってるの?」
「う、うるさいわね!」
ようこはふいっとそっぽを向くと今度は卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》についた。
「さあ、ご飯よ! ご飯! 川《かわ》平《ひら》家の味はそう簡単には教えないんだからね!」
啓太となでしこは互いに顔を見合わせた。
結論を言ってしまえばようこの完敗だった。なでしこの料理は見た目のみならず味付けの上でも完《かん》璧《ぺき》だった。啓太は美味《うま》い美味いを連呼してひたすらお代わりを繰《く》り返した。なでしこはにこにこしながら白米をお茶《ちゃ》碗《わん》によそう。
その間、ようこは涙ながらにお味《み》噌《そ》汁《しる》を啜《すす》っていた。
「お気に召しませんでしたか?」
というなでしこの問いに、
「ううん。美味《おい》しいの……」
そう答えるしかなかった。
その後は啓太の発案で親《しん》睦《ぼく》を深めるために風《ふ》呂《ろ》になった。大体の魂胆は分かったが、ようこもなでしこも特に反対しない。三人は着替えを持って近くの銭湯に赴く。啓太となでしこが仲良く話しているそのちょっと後ろを恨めしげに歩きながら、ようこはつらつら考える。
お湯の中で一体どうやっていびってやろう?
「あ、あの着替えないのですか?」
脱いだ割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》で気まずそうに胸元を隠しているなでしこがいる。ちょっと時間が遅いこともあって女湯の方はお婆ちゃんが二人しかいなかった。今、二人の犬《いぬ》神《かみ》の少女は脱衣所の籠《かご》の前に立っていた。
ようこは啓太にねだって買って貰《もら》ったピンク色のブラジャーに同色のショーツ。それにいつもつけている蛙《かえる》のチェーンという姿だった。腰元に手を当てて、じろじろとなでしこの身体《からだ》を眺め回している。
「ぶらじゃー、つけないの?」
その問いに、
「え?」
なでしこはきょとんとなってすぐに頬《ほお》を染めた。
「……だって、必要ないですから」
途《と》端《たん》、ようこは勝ち誇った顔になった。そうだろうそうだろう。このひんにゅーめ、ようじたいけいめ。確かにすりっぷ脱いでちょっとれとろなぱんつ一枚になったあんたの肌は白いし、腰も細いし、手足もすんなりしているけど。
でも、胸。
やっぱり、しょせん、女の魅《み》力《りょく》は胸なのよ。
ケイタが好きなのはだんぜん、胸だもん!
もの凄《すご》く優越感に満ちた表情でうんうん頷《うなず》いていたようこの顎《あご》が次の瞬《しゅん》間《かん》、かっくんと落ちた。口が開きっぱなしになる。短めの髪をピンで留め、恥ずかしげに割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》を畳み始めたなでしこの胸元が露《あら》わになって。
「あ、あう」
ようこがかすれ声を出す。
詐欺だ。
そんなの……絶対、ぶつりてきにありえない!
「あ、あんた意外に着やせするたいぷなのね……」
精一杯、強がったその言葉になでしこははにかんだ顔になった。
「そうですか? 今日、初めて言われました」
ようこはムッとする。屈託のない金持ちほど始末に悪いものはないと言っていた啓《けい》太《た》の言葉をなんとなく思い出した。
「なんでぶらじゃーいらないの? それだけだったら、つけた方がいいんじゃない?」
「え?」
今度こそ、なでしこはびっくりする。
「だって、わたしたち……ほらあ」
赤面しつつ、
「型崩れとか絶対にしないじゃないですか」
小さな声で答えてみせた。ようこは突然、大声を出した。
「尻尾《しっぽ》を見せて!」
なでしこは慌てふためいた。辺りをきょろきょろ見回し、唇に指を立てる。
「よ、ようこさん! シー! 誰《だれ》かに聞かれちゃいますよう。急にどうしたんですか?」
「いいから、見せて!」
その断固たる調子になでしこは少し恐れをなしたようだ。
「わ、わかりました」
誰もいないことをきちんと確認して、それでも棚の陰に隠れるようにして本性を出した。滑らかで綺《き》麗《れい》な銀色の尾がなでしこの腰元から伸びる。
ようこはむんずとそれを容赦なく掴《つか》んだ。
「あ!」
と、声を上げるなでしこ。構わずそれをしゅっしゅとしごくようこ。
「ん! ん! ちょ、ちょっと!」
なでしこが眉《まゆ》根《ね》を寄せ、切なそうに身をよじる。次の瞬《しゅん》間《かん》、尻尾をようこの手から引き抜いて消した。
「もう! いきなりなにをするんですか!?」
と、珍しく怒った調子で尋ねた彼女にようこはだ〜と涙を流しながら一言。
「とっても細い」
「銭湯って本当に広いんですね」
身体《からだ》を一通り丁寧に洗ってなでしこがゆっくりと湯船に身を沈める。ほうと嘆息した。
「わたし、実はこういうところ初めてなんですよ」
にっこり。
先にお湯に浸《つ》かっていたようこが半目になって「さよか」と呟《つぶや》いた。彼女は相当、疲れているようだった。頭の上にちょっとおじさんぽく手《て》拭《ぬぐ》いを載っけて、顔半分をお湯の中に沈めている。
「ねえ、ようこさん」
頬《ほお》をほんのり上気させたなでしこが近づいてきて尋ねた。お婆ちゃんたちは入れ違いに出ていって今、広い女湯に二人っきりだった。
「ようこさんは啓太様と時折こういうところにいらっしゃるんですか?」
「え? うん。ケイタ、広いお風《ふ》呂《ろ》好きだからね〜。お金が入ると来るよ」
ようこは男湯の方に耳をそばだてながら上の空で答えた。向こうの方でちょっとした騒《さわ》ぎが起こりかけていた。
キミ、止めたまえ! 危ないぞ!
という誰《だれ》かの注意をうるせー、と聞き覚えのある声が押し込めて、次の瞬《しゅん》間《かん》、さながら積み上げた木《き》桶《おけ》が一斉に崩れ落ちるような音がした。
続いて裸の身体《からだ》がタイルに打ちつけられたような音。
ぐわ────!
と、悲鳴が起こる。怒声が飛び交い始めた。
「……なんなんでしょう?」
心の底から不思議そうになでしこが言う。心底、情けなさそうな顔でようこが答えた。
「ほんと、なんなんでしょうね〜」
「でも」
なでしこは視線を落として、話を元に戻した。
「そういうのってちょっと羨《うらや》ましいな」
「なにが?」
と、ようこがお湯を掻《か》き回しながら尋ねる。なでしこは微笑《ほほえ》み、
「そうやって一緒に色々やれることです。生活のリズムを二人で合わせてゆっくりと同じ時を刻めるなんてそれはとっても素《す》敵《てき》なことですよ」
ようこは不思議そうな顔になった。
「そう言えば、聞こう聞こうと思ってたんだけどさ、あんたとうとうご主人様と契約したんだよね?」
「ええ、お陰様で」
なでしこは胸の前で手を組み、そっと瞳《ひとみ》を閉じた。まるで静かに祈っているかのようなポーズだった。
「とっても素《す》晴《ば》らしい方と契《ちぎ》りを結ばせて頂きました」
「……ただ者じゃないんだ?」
「ええ。確かにそういう形容が当てはまる方だと思います。だから、わたしを含めて十人もの犬《いぬ》神《かみ》が憑《つ》いてしまったんですよ」
なでしこは困ったような、それでいて誇らしげな調子で自分の左手をようこに見せる。簡素なデザインのリングが水に濡《ぬ》れ、燦《さん》然《ぜん》と輝《かがや》いていた。
なでしこの細く白い指と相まって妙な色気さえあった。
「これが契約の証《あかし》です。薫《かおる》様の指にも同じものをはめて差し上げました」
「それが十人分?」
こっくりと頷《うなず》くなでしこ。犬《いぬ》神《かみ》の数は大《たい》概《がい》、犬神使いのトータルな力に比例するからそれは確かに凄《すご》いことだった。
普通は多くても三、四人なのだ。
「しかも、みんな若い女の子の犬神」
「それはホント、大変だ〜」
ようこは今度こそ目を丸くした。啓《けい》太《た》が聞いたらさぞかし羨《うらや》ましがるだろうなと内心で思いながら尋ねた。
「じゃあさ、女の子同士で、ご主人様、取り合いになったりするの?」
なでしこは困った笑顔のまま、固まった。
ゆっくりと首を振り、ようこを見やる。顔が笑ってるけど、目がちっとも笑っていない。本気で哀《かな》しそうな表情だった。
「ごめんなさい。それより、ようこさん。啓太様のこと聞かせて貰《もら》えます?」
ようこは「あ、うん」と頷いた。
なんとなくそれ以上、聞かない方がいい気がしていた。
「ケイタはね〜、あの通り、えっちででたらめで」
と、そこで彼女は言葉を切って手近に用意していた桶《おけ》を手に持った。それを一挙動で振りかぶり、投げる。
しゅるしゅると弧《こ》を描きながら飛んだ桶は、男湯と女湯の境目から顔を出そうとしていた何者かの顔面に直《ちょく》撃《げき》して、再び積んだ木桶が崩れるような崩《ほう》壊《かい》音が聞こえた。
お〜〜。
と、どよめきが沸き起こり、モノども怯《ひる》むな!
という檄《げき》が飛ばされる。がらがらの女湯に対して、いつの間にか男湯にはかなりの人数が集結しているようだった。
「とにかく、えっちなんだよ」
と、にっこり笑ってようこが言葉を結ぶ。なでしこはようやく事態を理解して冷や汗を掻《か》いていた。
二人はこれ以上、長居は無用とばかりにそそくさとお湯から上がった。タオルで身体《からだ》を拭《ふ》き、髪にドライヤーを当てながらなでしこがまた尋ねた。
「あの、ずっと不思議に思っていたのですが、啓太様のご両親はどちらにおいでなのですか?」
「え? なんで?」
「だって、ようこさんと契約するまで啓太様はずっとあそこでお一人だったのでしょう? ご家族は一体どうされたのですか?」
ちょっと考え込んでからようこが答えた。
「ソウタロウって人、知っている?」
「あ、はい。啓《けい》太《た》様のお父様に当たられる方ですね。よく覚えていますよ」
ようこは下着姿で床に直接座り、すらりと長い足を伸ばして靴下を履《は》いている。
「うん。ソウタロウはね、普通の、犬《いぬ》神《かみ》使いなんてなんの関係ない女の人と結婚したんだって。その人さ、すご〜く頭の良い学者さんで、ものすご〜〜〜く焼き餅《もち》焼きだったんだって。ソウタロウに憑《つ》いていた犬神が気に入らなくて、『私との結婚をあきらめるか、その犬神たちと縁《えん》を切るかどちらか選んでください』って迫ったらしいの」
「はあ」
「でね、ソウタロウは結局、奥さんを選んだんだって。憑いてた四匹の犬神はみんな山に戻されたみたいね」
「あ、そういえばそんなこともありましたねえ」
「うん。で、奥さんはその後、よーろっぱっていうところに招かれたの。今はだいがくで先生やってるんだって。ソウタロウは奥さんについて行っちゃって、そこで奥さんの世話をしながら、合間を見て犬神抜きの霊《れい》能《のう》者として活《かつ》躍《やく》しているんだってさ」
「そうですか」
なでしこは遠い目になった。
「才能のある方のようにお見受けしましたから、きっと犬神がいなくてもやっていけるのでしょうね」
「結局、なでしこはそのソウタロウさんも振った癖《くせ》に」
ようこがキシシと笑う。なでしこは困ったような笑顔になってさらに問いを重ねた。
「でも、それだと啓太様は寂しくないのでしょうか?」
「さあ?」
ようこはスカートのホックを留めながら答えた。
「ケイタって元々そういう感情持ってないんじゃない?」
「そんな」
「ううん、ホント。ケイタってさ」
彼女は振り向き、晴れやかに笑う。
「よく分からない、面《おも》白《しろ》い奴《やつ》なんだよ」
その笑顔になでしこは何故《なぜ》か俯《うつむ》いた。
銭湯から出るともう啓太が待っていた。ぽつんと灯《とも》った明かりの中で蛾《が》が鱗《りん》粉《ぷん》をまき散らしながら飛び交い、住宅街の板塀から覗《のぞ》く夜空には月がぽっかり昇っている。
「お待たせ」
濡《ぬ》れ髪のようこが暖《の》簾《れん》を潜《くぐ》り、跳ねるように言うと、啓《けい》太《た》が振り返った。
「おう」
「おやあ、ケイタ、怪《け》我《が》しているよ? どうしたの?」
にまにま笑いながら意地悪くようこが尋ねる。
啓太は決まり悪げに咳《せき》払《ばら》いを幾度かした。
「そ、その、転んだ」
目の回りに青あざが出来ていた。ようこはさらに続ける。
「うん。女湯では痴《ち》漢《かん》が出て大変だったんだよ」
「ふ、ふ〜ん」
「で、その傷、本当にどうしたの?」
「だから、転んだ!」
あくまでそう言い張る啓太は、そこでくすくす笑っているなでしこにすっと近づいた。
「湯上がり姿もいいネ」
「あ────! ケイタ!」
ようこが怒る。啓太はそれに一切構うことなく、なでしこの腰に手を回すとささっとエスコートした。
「さ、我が家に帰ろう!」
ちょっとケイタ!
ようこがそれを追いかける。なでしこは相変わらず少し困ったような笑顔で啓太に引かれていった。
「バカ面《づら》だね」
と、どこかで声が聞こえた。
「うん。バカ面だ。でも、あの二人にはあの程度がお似合いだよ」
電信柱の天《てっ》辺《ぺん》。
二つの影が目を光らせ、冷ややかに彼らを見下ろしていた。
就寝時がまた一|悶《もん》着《ちゃく》だった。啓太は遠《えん》慮《りょ》をするなでしこにベッドを譲《ゆず》ろうとする。ようこが怒って、なでしこが仲裁して、結局、なでしことようこが床の部分に毛布を敷《し》いて寝ることで決着がついた。
「お前、普《ふ》段《だん》から宙に風船みたいにぷかあっと浮かんでるんだからいいじゃないか!」
という啓太の言葉にようこはい〜と舌を突き出した。
「わたしはケイタが信用出来ないの!」
なでしこと啓《けい》太《た》の間に割って入るようにして身を横たえ、お気に入りのタオルケットにくるまり告げる。
「お休み!」
なでしこは電気を消すと、静かに一礼してようこの隣《となり》に並んだ。きちんと啓太から一定の距離を取っている。
啓太も仕方なくベッドに寝っ転がった。
しばらくは静かな時が流れた。
啓太はなんとなくモゾモゾと寝返りを打つ。湯上がりの女の子が二人いる仄《ほの》かな香りに満ちた空間は、彼の埋性を決して留《とど》めておかない。
くるっと振り返ると。
暗《くら》闇《やみ》の中、目をギンギンに輝《かがや》かせてこちらを睨《にら》んでいるようことばったり視線が合う。その先でなでしこがすやすやともう寝入っていた。
啓太は慌ててまた身体《からだ》を反転させた。
月の光が射《さ》し込んでくる。
虫の音が聞こえる。静かになる。往来をゆく人の足音も途《と》絶《だ》え、目覚まし時計の時を刻む音だけがはっきりと聞こえていた。
どれほど時間が流れただろうか。啓太はそろっと身を起こした。
丑《うし》三つ時。ようことなでしこを見やる。二人とも熟《じゅく》睡《すい》しているようだった。啓太、口元に両の拳《こぶし》を当てくすくすと忍び笑いを漏らした。
勝った。
そう思っていた。
ようこをまたいでそっとなでしこに近寄ろうとする。
その時である。
「啓太様」
なでしこの静かな声が聞こえた。
啓太、思わず凝《ぎょう》固《こ》する。完全に眠り込んでいるとばかり思ったなでしこがぱっちりと瞼《まぶた》を開けて、天井を見つめていた。
「啓太様が初めて山にいらした時のこと、覚えてらっしゃいますか?」
ほんの何《なに》気《げ》ない問いに啓太は答えられない。
「い、いえ」
強《こわ》張《ば》った声が辛《かろ》うじて出た。なでしこは微笑《ほほえ》んだ。
「わたしははっきりと覚えていますよ。啓太様、一晩中、ずっとずっと走ってましたよね。『完全週休二日。ボーナス有《あ》り。明朗会計の明るい職場にします!』って連呼しながらずっとずっと走ってましたよね。今までの人はみんなどこか不安そうな顔をして犬《いぬ》神《かみ》たちの品定めを受けていたのに、啓《けい》太《た》様はまるで違っていた。それがわたしにはとっても新《しん》鮮《せん》で、おかしかった……」
「……」
「ねえ、啓太様。ようこさんはとっても良い犬《いぬ》神《かみ》さんですね」
彼女は天井を見つめたまま、そっと呟《つぶや》く。
その顔に。
その青白い月光に照らされた優しい笑顔に啓太は何も言えなくなる。その途《と》端《たん》、無防備になった。
今まで眠っていたはずのようこの足が綺《き》麗《れい》に跳ね上がり、啓太の股《こ》間《かん》を的確に捉《とら》える。
「は、はう」
啓太はあっさり崩れ落ちた。ようこは目をつむったまま、恐ろしいまでの無言。
「く、く」
「どうかされましたか?」
と、訝《いぶか》しげになでしこ。
「い、いや、なんでも……お、おやすみ」
啓太は残った気力を振り絞ってベッドに這《は》い上がると、脂汗を掻《か》いて転げ回った。その一連の過程は死角になってなでしこからは見えていない。
「お休みなさい」
微笑みながら彼女がそう告げる。啓太はただしくしく泣いていた。ようこはタオルケットの裾《すそ》を噛《か》みながら考える。
(なでしこって意外にがーどが堅いんだね……これなら大丈夫かな?)
喫茶店『レ・ザルブル』に仄《ほの》かな明かりが灯《とも》る。既に従業員がいなくなった後の喫茶店で何者かがひっそりと動き回っていた。
中央のテーブルに骨《こっ》董《とう》品めいたランタンがことりと置かれた。
柔らかな光はそこから漏れている。
西洋人形のように整った少女の妖《あや》しげな美《び》貌《ぼう》が薄《うす》明かりの中、ゆっくりと浮かび上がった。彼女の影が背後の石灰岩の壁《かべ》に大きく照らされ、揺らめいた。黒い長めのドレスのような服を着込んでいる。
ゴージャスな赤毛。
薄青い瞳《ひとみ》で、大人《おとな》びた表情を浮かべていた。
「みんないる?」
と、彼女が問うと、
「は〜い!」
と、華やいだ声が闇《やみ》の中から返ってきた。
「せんだん。いつでもどうぞ」
誰《だれ》かがそう言う。
そう。
せんだんと呼ばれた少女は頷《うなず》き、ランタンの摘《つま》みをちょっと回した。すると光の輪がじんわりと広がり、一定の箇所が全《すべ》て照らされる。
その瞬《しゅん》間《かん》、九人の美少女が鮮《あざ》やかにその存在を露《あら》わにした。
それぞれが椅《い》子《す》やテーブルの上に座ったり、あるいは腕を組んで壁《かべ》に背をもたれ、他《ほか》の者の膝《ひざ》に乗っていたりする。髪型もバラバラで服装もバラバラだった。スカートにキュロット。帽子にロングの髪。ブーツにサンダル。
様々なファッションをしている。ただ、共通しているのは誰もが白と黒を基調とした服を着ているということだ。白と黒のタータンチェックのミニスカートをはいている者や白いノースリーブのトレーナーに黒いスパッツ姿という者もいた。
全体的に雰囲気のよく似た少女たちだった。
悪戯《いたずら》めいた、この世ならぬ美貌の九人の犬《いぬ》神《かみ》。
「さて、薫《かおる》様がお留守で休暇中の皆さんに集まって貰《もら》ったのは他でもありません」
せんだんと呼ばれた少女がこほんと咳《せき》払《ばら》いしてから話し始めた。
「先日、発足したなでしこ追放委員会≠フ定例|会《かい》議《ぎ》を開催するためです」
一同が一斉に拍手した。
せんだんは手でそれを抑え、
「皆さん。私たちはやはりなでしこにはこのまま、川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の許《もと》に留《とど》まって貰《もら》うべきだということで認識を共にしました」
異議な〜しという声。
それに、
「なでしこって決して悪い子じゃないんだけど」
「そうそう。私も個人的になでしこは嫌いじゃないよ。だけど、その悪い子じゃなさぶりが団体行動では悪いのよね。いい子すぎるっての?」
「うん。なでしこは悪くないんだけど」
「そう。悪くないんだけど」
声が一斉に揃《そろ》う。
「あの子には消えて貰った方がいいで〜〜す」
せんだんは深々と頷いた。
「そう。そうですね。炊事だって、洗《せん》濯《たく》だって、掃除だって、それにどんな戦《せん》闘《とう》だって私たち九人がいれば基本的にそれで充分。戦わないし、皆と協調しないなでしこはかえってそのバランスを大きく崩しているだけ。それがこの前のゴミと戦ってよ〜く分かったの」
その大義名分に八人の美少女はそれぞれ頷《うなず》く。
「最近、あの子、薫《かおる》様に可愛《かわい》がられすぎ!」
と、誰《だれ》かが叫んだ。
せんだんは静かに話し続ける。
「だから、皆さん。このチャンスをモノにして、なでしこをちゃっちゃと川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》に押しつけちゃいましょう」
異《い》議《ぎ》な〜し。
またも綺《き》麗《れい》に声が揃《そろ》う。
「では、監《かん》視《し》班。結果を報告してください」
そう言ってせんだんは身を引く。代わりに揃いのキュロットスカートとベレー帽を被《かぶ》った都会的な雰囲気の少女が二人、前に出てきた。
「私たちはリーダーの命令でずっと川平啓太を見張ってたんだけどね」
と、片方が話し始めた。
「結論から言えば、あの噂《うわさ》はある程度本当だったみたいだよ」
あの噂って?
と、一番、幼い少女が尋ねると、もう片方が困惑したように、
「え〜とね、なでしこが私たちの薫様の前に、川平啓太を本気で主人にしようとしていた時期があるって噂」
その発言に一同が一斉に反応する。
曰《いわ》く、
「しんじられな〜〜い! なんで薫様と川平啓太なの?」
とか、
「それって人間と猿を比較してどちらがいい、みたいな失礼な発言じゃない?」
とか、
「なでしこってやっぱり感覚が変だよね〜」
とか、啓太が聞いたらさぞがっくりしそうな意見が飛び交った。せんだんは平手で机を叩いて皆を黙《だま》らせる。
「こら、静かに! 監視班。それ、確かな情報なの?」
「うん」
と、少女の一人が答えた。彼女自身どこか半信半疑のように、
「なでしこは川平啓太といて、本当に満《まん》更《ざら》でもないみたい。ただね、私たちの計画を強力に邪《じゃ》魔《ま》する者がいて」
と、相方を見つめる。
「ようこ」
その少女が苦い声で受けた。
すると、今まで姦《かしま》しかった九人が急に静まり返った。「ようこ」というその名前には確かな力があったようだ。し〜んと言葉を失っている一同の前で、啓《けい》太《た》を監《かん》視《し》していた二人が交互に言葉を補っていく。
「ようこは川《かわ》平《ひら》啓太にこれ以上、犬《いぬ》神《かみ》が憑《つ》くことが気にくわないみたいね。必死で妨害活動に走ってる。はけ様にも抗《こう》議《ぎ》しているようだし」
黙りこくった一同の中で一番、幼い少女が叫んだ。
「なら、ようこをやっつけてしまえばいい!」
そのシンプルでストレートな発言に、他《ほか》の者はぎょっとした顔になる。
「あれ? どうしたの?」
その少女が不思議そうに首を傾《かし》げた。
タータンチェックのミニスカートに羊さんのポシェット。大きな瞳《ひとみ》に無邪気な物言い相応の小学生くらいの外見は他の者とはかなり異質だった。一方、年長者たちはそれぞれ顔を見合わせ、なんとなく気まずそうにしている。
その沈《ちん》黙《もく》を破るようにして突然、
「うん。ともはねの言うことももっともじゃないかな?」
と、ボーイッシュなショートカットの少女が力強く頷《うなず》いた。彼女は椅《い》子《す》から立ち上がると、手を大きく振るって皆を見た。
「ねえ、ボクらがもうようこ如《ごと》きに遠《えん》慮《りょ》する必然性は全然ないんじゃない? そもそもあいつが大きな顔をして犬神やってること自体が信じられない訳だしさ」
ともはねも頷く。
「うんうん。たゆねの言う通りだよ! みんな、なんでようこなんか怖がっているの?」
「いえ、別に怖がっている訳では」
と、せんだんが首を振ると、それを別の少女が遮った。
「ねえ、せんだん。私、この子たちの言ってることもあながち間違いじゃないと思う。一対一ならともかく、今更ようこなんかに私たちが負けるかな?」
「いえ、それは」
せんだんは形の良い顎《あご》に手を当てた。
「……ないわね」
「でしょう?」
と、得意そうにその少女。
「こう言ってはなんだけど、私たちは薫《かおる》様の許《もと》で一つになってから強くなりすぎてしまったわ。はけ様や長老クラスの方々とでも、今ならきっと互角の勝負が出来ると思うよ」
うんうん。
と、周りの者が次第に賛同し始めた。
「薫《かおる》様がいつも言ってるよね、私たちがベストだって」
「そうそう。私、なでしこはともかく、ようこだけは絶対、許せないのよ」
「うん。あいつ、むかつくよね〜」
「川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》如《ごと》きにはあんな半端者がお似合いだって?」
「あははは、ゲテモノにはゲテモノが憑《つ》くってね。ようこが命がけで川平啓太を欲しがった時にはほんと大笑いしたよね〜」
一同、段々、賑《にぎ》やかになっていく。
「ね〜、リーダー。この際、なでしこのことは置いておいてもさ、ようこやっちゃわない?」
「あいつにこれ以上、大きな顔させていることないよお〜」
「ようこをちょっと痛めつけてやったらなでしこも帰ってこれなくなるだろうしさ、一石二鳥じゃないかな?」
慎重だったせんだんも徐々にその声に押されていく。
彼女は大きく首を振って、決断を下した。
「まずは話し合いです」
ぶ〜と一斉に起こる不満の声を一|睨《にら》みで黙《だま》らせ、
「でも、話し合いで決着がつかなければ」
あくまで上品に笑う。
「ようこを排除しましょう!」
今度は一斉に歓声が沸き起こって『レ・ザルブル』の窓ガラスが震《ふる》えるほどだった。
余談だが、その騒《さわ》ぎを聞きつけてビルの警《けい》備《び》員が『レ・ザルブル』のドアを恐る恐る開いた時には既に人《ひと》気《け》がなく、ただしーんと静まり返った空間が広がっているだけだった。そして、翌日、出勤してきた店員は中央のテーブルにきちんと洗われた九人分のカップとポットを見つけることになる。
その下には封筒が敷《し》いてあって、「ごちそうさまでした。場所代です」と達筆で書かれた便せんと五千円札が一枚入っていた。
それから一夜明けて。啓太は下水道の中で一人ぽつんと立っていた。その手には小さな紙片が握られていた。
頭にはヘッドランプという姿。
「なでしこちゃ〜ん、どこ〜?」
彼は弱々しい光を頼りに、暗《くら》闇《やみ》の中をうろつき始める。
「ねえ、どこにいるの?」
啓《けい》太《た》がこじ開けて入っていたマンホールの蓋《ふた》がアスファルトに転がっている。下水道の入りロで、二人の少女が足下に広がる闇《やみ》を見下ろしていた。
『なでしこです。お話ししたいことがあるので、是非、家の前のマンホールの下までお越しくださいね。追伸・ようこさんにはくれぐれも気《け》取《ど》られないように』
というメモ用紙をさりげなく啓太の通学|鞄《かばん》に忍ばせておいたのだが、
「まさか、本当に来るとはね……」
かなり呆《あき》れたように片方が呟《つぶや》いた。もう一人の少女もうんうんと頷《うなず》いている。
「バカもあそこまでいくと立派かも」
彼女たちはそこでふうっと溜《ため》息《いき》をつくと、二人がかりでマンホールを持ち上げて、完全に蓋を閉めた。
「全くなでしこおそ〜い!」
その頃《ころ》、ようこはプンプン怒りながら駅前に立っていた。ここでなでしこと待ち合わせたのだが、実は待ち合わせ時間にはまだ一時間ほど早い。彼女は今頃、近くのスーパーで日用雑貨を買っているはずだった。
夕暮れ時の改札口は結構混んでいて、乗り降りする客が絶え間ない人の波となっている。そこからちょっと離れてようこはぶらぶらしていた。
「折角、今日はぼーりんぐを教えて貰《もら》おうと思ったのに〜」
寝起きを共にして、意外になでしこと打ち解けてきているようこだった。
と、そんな間《かん》隙《げき》を縫《ぬ》ってのことである。
コンビニの角から一人の少女が現れた。彼女は黒いサングラスに黒いコート。白いブーツという姿だった。ただ、なりが小さい上にツインテールのヘアースタイルや顔全体の造形が幼いことも相まって、全体的にどこか大仰な印象を人に与えた。
少女はちょこまかと小走りでようこに近づいてくると、精一杯押し殺した声で告げた。
「川《かわ》平《ひら》啓太の犬《いぬ》神《かみ》。ようこだな? ちょっと顔を貸して貰おうか?」
しかし、ようこは完全に少女を黙《もく》殺《さつ》。小手をかざして遠くを見た。
「遅いな〜」
「おい! ようこ!」
「なでしこ、風船ガム、ちゃんと買ってくれたかなあ?」
「ちょ、ちょっとちょっと!」
少女がぴょんぴょん飛び跳ねてようこの視界の中で手を振った。ようこはようやくめんどくさそうにそちらを見る。
「あんたなに? 誰《だれ》?」
少女はサングラスを取って自分の顔を指さした。
「なに? 忘れちゃったの? あたしよ、あたし!」
ようこの顔にぱあっと喜色が広がって、彼女はぽんと手を打った。
「あ〜、あんたか〜。久しぶりだね〜」
「うんうん」
「で、誰だっけ?」
がくっと少女はよれた。それから抗《こう》議《ぎ》の口調て叫ぶ。
「あたしよ! 犬《いぬ》神《かみ》のと・も・は・ね!」
「あ〜」
今度こそ得《とく》心《しん》がいったようにようこが頷《うなず》く。
「いや、やっぱり思い出せない」
少女はじわっと涙をにじませた。そのまま、すててててと駆けていくとコンビニの角を曲がって消えた。ようこ、けらけら笑っている。
やがて、あちらこちらの物陰から十代後半と思《おぼ》しき少女たちが次々に現れ始めた。
「全く。あんたは、いいようにからかわれてるんじゃないの!」
せんだんにしがみついてしくしく泣いているともはね。仲間に頭を叩《たた》かれている。やがて、犬神娘九人が全員、ようこの前で半円を描く形で立った。彼女たちの黒いコートが否が上でも対決の雰囲気を盛り上げている。
実際、通勤帰りのサラリーマンや買い物途中の主婦がびっくりしたような顔でその奇妙な一団を見つめていった。
リーダーであるせんだんがようこの前に優雅に出てくる。
「ようこ、久しぶりね。元気だった?」
ようこはにやあっと笑った。
「な〜んだ、なでしこの同僚ってあんたたちだったのか。ふふ、道理であの子が苦労する訳だ」
「なでしこからなにを聞かされたのか知らないけど……そのことでちょっとお話があるの。つきあって貰《もら》えないかしら?」
「いいよ。待ってて」
ようこは駅前に設置されてある掲示板に『あんたのおなかまといるよ よーこ』と書き込んだ。それから手に付着したチョークの粉をぱんぱんと払うと九人に向き直った。
全く臆《おく》することなく。
「どこへでも行こうじゃない」
むしろ楽しそうだった。
せんだんは淑女だった。ようこをまず喫茶店『レ・ザルブル』に連れていき、なんでも好きなものを頼みなさい、と鷹《おう》揚《よう》に告げる。ようこは遠《えん》慮《りょ》なくチョコレートケーキとココアを注文した。さらにせんだんの意向で全員に同じものが振る舞われる。
中央の一番、大きな丸テーブル。
都合十人もの美少女がチョコレートケーキを頬《ほお》張《ば》るという図式がこうして出来上がった。他《ほか》のお客はびっくりしていたが、最近、珍現象に慣れ始めている従業員たちはちょっと悟ったような遠い目で注文の品々を手際よく並べていった。
「で、要するになでしこをケイタのとこで引き取れと、そういうことなのね」
チョコレートケーキの最後の一|欠片《かけら》を飲み込んだようこが満足の吐息と共に言った。今まで一通りの経《けい》緯《い》を説明していたせんだんが頷《うなず》く。
ココアでちょっと喉《のど》を湿してから、
「そう。だから、あなたにはそれを邪《じゃ》魔《ま》しないで欲しいの」
「お断り」
間髪入れずにようこが答える。
「おい! 少しは人の話を」
一同のうちのショートカットでボーイッシュな美少女が怒る。せんだんはそれを手だけで遮った。目を細め、冷静に確認する。
「すると、あくまで私たちの敵に回ると」
「うん」
ようこはあっさり頷いた。
「元々、わたしがあんたたちの味方だったためしはある?」
「この!」
「言わせておけば!」
今度はいきり立つ者が二、三人増えた。せんだんは平手でテーブルをばしんと叩く。
「おすわり!」
それで、少女たちはささっと腰を下ろした。ほとんど条件反射の領域である。ようこはそれを面《おも》白《しろ》そうに見つめ、九人全員を等分に見回した。
「ねえ、ほんまつてんとーって言葉を知っている?」
ん?
せんだんは細い眉《まゆ》を寄せる。ようこは薄《うす》く笑っていた。
「別にさ、あんたたちがそれを理由にわたしと戦いたいならいいよ。憎まれ役は慣れてるし、喧《けん》嘩《か》は特に嫌いじゃない。あんたたちが九人いようと百人いようとなでしこさえいなかったらたいして、怖くないしね」
ぐるる。
ようこの挑発するようなお喋《しやべ》りに、一番幼いともはねがちょっとだけ本性にかえって鋭《するど》い牙《きば》をにょっきり唇から剥《む》き出した。周囲の女の子たちが慌ててそれを手で隠している。
その間、ようこは話し続けた。
「本当に怖いのはあの子だけだから。でもね、それって大元を間違えてない?」
「というと?」
せんだんはむしろ興《きょう》味《み》深そうだった。その先を促す。
「つまりさ、あんたたちは要するにご主人様にえこひいきされている優等生ぶったなでしこが気にくわない訳でしょ? だから、追い出そうとしている」
「……まあ、否定はしないわ」
「だったらさ、なんでそれをこちらに押しつけるのかな? わたしだってケイタが大事なのは一緒。ケイタに沢《たく》山《さん》、可愛《かわい》がって貰《もら》いたいという気持ちはあんたたちと一緒。ねえ、もし逆の立場でわたしがなでしこみたいなのをあんたたちに押しつけたら当然、怒るでしょ?」
「……」
「それに、もし本当にご主人様の取り扱い方に不満があるなら、なんでご主人様に直接、言わないの? なんでなでしこに直接、もっとみんなと歩調を合わせろって言えないの?」
「それは」
「わたしは分かるよ。要するにあんたたちは卑《ひ》怯《きょう》なだけだ。数に頼んでなでしこを追い出そうとしているけど、結局、大事なご主人様や正しいことを言うなでしこの目はまっすぐに見れていない。だから、わたしみたいなのにその矛先を転換しているだけ」
ようこの声は淡々としていた。
珍しいことに格別、怒っている訳でも、興《こう》奮《ふん》している訳でもない。ただ事実を事実として指摘しているという感じだった。逆にその冷静さが九人の少女を静かに圧していく。
せんだんを除いて全員が俯《うつむ》き始めた。
「ねえ、あなたたちの看板は破《は》邪《じゃ》顕《けん》正《しょう》じゃないの? それは紛《まが》い物? 犬《いぬ》神《かみ》の名が泣くよ」
その台詞《せりふ》が決定的になり、勝負はついた。せんだんが微笑《ほほえ》む。
「……負けたわ。私たちの負け」
降参というように両手を挙げてみせた。
九人のリーダーがそう言えば、それは全体の意志決定になる。犬神は良くも悪くも群れをなして生きる人《じん》妖《よう》なのだ。
他《ほか》の者も頷《うなず》いた。
「まさかあなたに理詰めでこられるとは思っていなかった。確かに今の私たちは卑《ひ》怯《きょう》者かもしれない」
せんだんは潔《いさぎよ》くそう言う。ようこは赤い舌をぺろっと出して答えた。
「ま、結局わたしもそうなんだけどね」
「水に流してくれる?」
と、せんだんが差し伸べてきた手を握り返して一言。
「でも、わたしはやっぱり基本的にはあんたたちの敵だよ?」
せんだんは苦笑した。
その後は何故《なぜ》かなでしこの悪口大会になった。
「悪い子じゃないんだけどね」
「そう。悪い子じゃないんだけど」
でもね〜。
という大合唱である。九人の少女とようこは和《わ》気《き》藹《あい》々《あい》と色々なことを語り合い始めた。犬《いぬ》神《かみ》使いに憑《つ》いている犬神は普通、仲介役のはけを除いて他の犬神と交流する機会があまりない。だから、話題は結構、豊富だった。
泡を沢《たく》山《さん》立たせる入浴の仕方から尻尾《しっぽ》の手入れのこつ。最近、楽しいテレビは何か。お気に入りの散歩場所や先月見えた満月の心|震《ふる》わす美しさ。お洒落《しゃれ》な服が買えるとっておきのお店に流行《はやり》のアイスクリームや宣伝中のドッグフードの寸評。
やがて話が各主人のことに移っていく。
「ねえ、そのカオルってどんな人なの?」
と、ようこが尋ねたその途《と》端《たん》。
全員。今の今まで気品を保っていたせんだんまでもがうっとりとした乙女の表情になった。
彼女たちは夢見るように口を揃《そろ》える。
「も〜、素《す》敵《てき》なの!」
手を組み合わせ、天井を見上げ、全く同じポーズを取った。
そ、そう。
そのテンションにようこはちょっと引いてココアを口に含む。それから、少し悪戯《いたずら》っぽく笑って言った。
「じゃあ、ケイタと違ってえっちなことしようとしたりしないんだ」
ようこは冗談のつもりだった。ところが。
「まさか」
と、せんだんは上手《うま》く苦笑で受け流したが、中の一人がつい鼻で笑ってしまった。
「薫《かおる》様と川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》を冗談でも比べて欲しくないわね」
もちろん、彼女とてようこに敵対しようとしてそう答えた訳ではない。だが、冗談に紛らわすには口調がちょっと尖《とが》り過ぎていた。
ようこ、すうっと黙《だま》り込む。
せんだんは慌てて目配せで注意した。彼女もすぐに自分の失言に気がついて、「しまった」というように口元を押さえる。
重い沈《ちん》黙《もく》が立ちこめた。
それで、皆、口々に、
「あ、そうそう。川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》ってよく見れば顔悪くないんじゃない?」
「うんうん。野性的って言うの?」
「あの不可解で難解な行動がシュールでいいよね」
「猿っぽい人って最近、流行《はやり》らしいし」
と、フォローにもなっていないようなことをあたふたと語り合う。その中でようこはずっと無言だった。彼女は俯《うつむ》き、カップの中に視線を落とし始めている。言いしれぬ緊《きん》張《ちょう》感が張りつめる中、それをあっさりと破った子がいた。
幼いともはねだった。
彼女は先ほどから一人、追加注文したショートケーキをぱくぱく食べていたのだが、
「まあ、お姉たちが言うようにあたしも川平啓太、決して嫌いじゃないよ?」
もっともらしくそう言った。
「ほう」
ようこが目を細める。せんだんが咄《とっ》嗟《さ》に口を塞《ふさ》ごうとしたが、遅かった。ともはねとしてはむしろフォローしているつもりなのだろう。
得《とく》々《とく》として喋《しゃべ》り続ける。
「実際、あたしも川平啓太が山の中で走ってる姿は悪くないなと思った。でもね、あの人肝心なところでつまらないことを言ったんだよね〜」
ぷつん、と。
何かのスイッチが切り替わった。
「……つまらない?」
それは禁句だった。ようこにとっては。
「ケイタはね」
薄《うす》い笑いを浮かべながら、ゆっくり立ち上がった。
ともはねに近寄っていき。
ん?
と、首を傾《かし》げた彼女の首根っこを押さえ、
「覚えておきなさい、小娘? わたしのケイタはね」
「ちょ、ちょっとなに」
「とっても面《おも》白《しろ》いの!」
べちゃっとそのままショートケーキに顔を押しつける。一《いっ》瞬《しゅん》の出来事だった。他《ほか》の者が止めに入る間もない。ともはねは最初、自分の身に起こったことが理解出来ずにいたようだ。大きな目をぱちぱちと瞬《しばたた》かせている。
そして、クリームがぼとりと膝《ひざ》に落ちるに及んで盛大に泣き出す。
「ぎゃぴ───────────────!」
他《ほか》の八人が一斉に立ち上がった。
「ようこ!」
「なんてことを!」
ようこは一同を見渡して冷ややかに言い放った。
「礼《れい》儀《ぎ》知らずはどっちだ? 人を見下しているのはどっちだ? いい? あんたたちみたいな中途半端な犬どもに教えてあげる。わたしは一度、振った尻尾《しっぽ》は決して翻《ひるがえ》さない。ケイタをこれ以上、侮辱するならあんたたち全員、噛《か》み殺すよ!」
「く! この!」
ショートカットの少女がテーブルを叩き、叫んだ。
「言わせておけば、好き勝手に! お前みたいな邪悪な」
「いけない」
せんだんが本気の声で制する。
「それ以上、言っては絶対にだめ」
くっと。
彼女は唇を噛み、代わりに嘲《あざ》笑《わら》うようにして叫んだ。
「ならば、川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》だ。ボクはあいつは屑《くず》だと思う! 本当に本気でね! 怒るほどの価値もないよ。ともはねがさっき言った通り、あいつが山を走っていた時は呆《あき》れた。よりによって神聖な犬《いぬ》神《かみ》の働きを時給換算にして連呼するんだもん。あいつは本当につまらない奴《やつ》だ!」
「……」
「もう一度、言ってやる! いいか? あいつは本当につまらない奴だ!」
あんたもか。
ようこはそう囁《ささや》き、物《もの》憂《う》げに肩をすくめた。小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたように。その次の瞬《しゅん》間《かん》、ショートカットの少女が着ていた黒いスパッツや白いトレーナーが掻《か》き消えた。
純白の下着姿になる。
今の今まで美少女同士の諍《いさか》いをじっと見守っていた周りのお客たちが一斉にどよめいた。中には何を勘違いしたのか拍手さえし始める者もいる。
一拍遅れてショートカットは自分のあられもない姿に気がつき、真っ赤になった。
「きゃああ───────────!」
と、悲鳴を上げてしゃがみ込む。ようこがくくっと喉《のど》の奥で笑いながら告げた。
「裸にしなかったのはせめてもの慈《じ》悲《ひ》だよ」
「この!」
「いい加減にしろ!」
三人がようこに襲《おそ》いかかり、他《ほか》の三人がショートカットの少女に駆け寄って男客の視線から彼女を守る。
次の瞬《しゅん》間《かん》、ふわっとテーブルの上に飛んだようこ。
目標を見失いたたらを踏む攻《こう》撃《げき》側の三人。
危うく激突しかけ、はっと気がつくと彼女たちも下着姿になっていた。今度もまた悲鳴と歓声が同時に沸き起こった。店内が様々な騒《さわ》ぎで飽和状態になる。
犬《いぬ》神《かみ》の少女たちはべそを掻《か》きながら、身を隠そうとし、スケベな男客が身を乗り出して共にいた恋人らしき女性に頬《ほお》を引っぱたかれている。逃げまどう少女たちがテーブルに躓《つまず》き、椅《い》子《す》を蹴《け》倒し、やってきたウエイターが連《れん》鎖《さ》して転んだ。
運んでいたトレイからグラスが転げ落ち、砕け散る。
口笛。ヤジ。ともはねの大きな泣き声。喧《けん》噪《そう》はさらに拡大していく。しかし、ようこは全くそこから自由だった。とんとんと軽やかにテーブルを移動すると、苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔のせんだんの前にすとんと降り立った。
「やってくれたわね……」
と、せんだんが腕を組んで呟《つぶや》く。ようこは髪を掻き上げ、笑った。
「やっぱ、決着つけよか?」
なでしこが定刻通り待ち合わせ場所に着いた時、
『あんたのおなかまとけっとーしてくるよ。けいたにはしらせるひつようなし!』
という新たな一文が書き加えられていた。
「た、大変です!」
川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》の部屋になでしこが転がり込むようにして帰ってきたのはそれからすぐのことだった。彼女は山ほどあった荷物をその場で放り捨てると土足のまま、啓太に突進した。
「ど、どうしたの、なでしこちゃん?」
なでしこはううと涙ぐみながら、啓太の胸ぐらを掴《つか》んだ。彼の顔が不自然に汚れているとか、なんで頭にヘッドランプなんかつけているのかとか、そんなことはまるで気にならなかった。ただこみ上げてくる思いだけをぶつける。
「わたしのせいで! わたしのせいでようこさんが!」
「ん〜、まずおちつこ」
啓太は笑う。
なでしこの髪をくしゃくしゃ撫《な》でた。
「ね」
穏《おだ》やかな、落ち着いた声。それから、彼はなでしこを軽く抱きしめる。優しく。まるでいやらしくなく。
そっと放してなでしこの顔を覗《のぞ》き込んだ。
「なにがあった?」
なでしこは込み上げてくる涙を拭《ぬぐ》って頷《うなず》いた。
不思議に自分の主人のことを思い出していた。
大体、なでしこの説明が終わると啓《けい》太《た》は変な表情になった。夕日が窓から射《さ》し込んできていて彼の顔が血のように赤い。
「ん〜、それって本当になでしこちゃんのせいか?」
「で、でも」
「なでしこちゃんの仲間とようこが喧《けん》嘩《か》するだけだろう? なでしこちゃんが原因になるとは考えられないけどなあ」
「そうじゃなくって!」
「あいつ血の気多いから」
そう呟《つぶや》いて。
あろうことか啓太は新聞を取り出して悠々と読み始めた。なでしこは絶句する。
「ん〜、巨人二連敗か……」
「け、けいたさん?」
「ん? なに?」
「た、助けにいかないんですか?」
「誰《だれ》を?」
「ようこさん!」
「なんで?」
なでしこの頭にかっと血が昇った。彼女は啓太の新聞を奪い取ると、それを思わずくしゃくしゃにして横に放り捨てた。
ばんばんと卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》を両手で叩《たた》きながら、
「ようこさんはあなたの大事な大事な犬《いぬ》神《かみ》でしょう!」
「……でも、場所も分からないし」
「そういう問題じゃない! せめて捜し回るとかしてあげたらどうなんですか!?」
「ん〜。あのさ、なでしこちゃん。もう一回、確認しておくけど、ようこは俺《おれ》に知らせる必要はないって書いたんだよね? 来てくれとかじゃなくって」
その態度になでしこは逆に不安になった。
「……そうですが、それがなにか?」
「じゃあ、俺《おれ》が行かなくてもいいんじゃないかなあ?」
なでしこは完全に逆上した。
「わたし、あなたを見損ないました!」
「あう」
啓《けい》太《た》は首をすくめた。
「ま、聞いてよ。あいつさ、」
と、説明しようとした時にはなでしこはもう部屋から飛び出していた。啓太はぽりぽりと頭を掻《か》いてそれを見送った。
溜《ため》息《いき》をつき丸まった新聞の皺《しわ》を伸ばして、また読み始める。
「う〜ん、巨人二連敗か……」
完全に日が落ちたゴミ処理場。そこにようこと九人の犬《いぬ》神《かみ》たちがいた。ちょっとした窪《くぼ》地《ち》にようこが立って、その周囲を九人が取り囲んでいる。
まるで裁きにかけられる被告人のような位置取りだが、ようこは不敵に笑っていた。
風が舞い、彼女の前髪が流れる。
蒼《そう》々《そう》たる月に照らされ、影が長く落ちていた。
「ようこ」
と、中央に立ったせんだんが、声をかけた。さながら罪人に有罪宣告を告げる裁判長のような調子だった。
「詫《わ》びを入れるつもりはない? まだ許してあげられるけど」
ようこは無造作に肩をすくめた。
「わたしは自分が悪くもないのに謝《あやま》れない」
「そう」
せんだんは呟《つぶや》いた。
「じゃあ、悪いけど」
すうっと片手を上げ、
「的にさせて貰《もら》う!」
振り下ろした。
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×9 『紅《くれない》』!」
その瞬《しゅん》間《かん》、ようこの周囲を取り囲んでいた少女九人が無表情に、あるいは怜《れい》悧《り》な笑みを浮かべながら、爪《つめ》を立てた手を中心に向かって一斉に振るい始めた。そこから、赤い衝《しょう》撃《げき》波が立て続けに吹き出し、ようこに襲《おそ》いかかり、彼女は膝《ひざ》を突いた。
目も眩《くら》む閃《せん》光《こう》。ようこは一切、抵抗をしなかった。逃げようともしなかった。ただどんどんと爆《ばく》発《はつ》の海に沈んでいく。
吹き上がるゴミ。もうもうたる煙。無数の破片で何も見えない。
爆《ばく》音《おん》が轟《とどろ》き、地が揺れた。
「ようこ、滅べ! 滅んでしまえ!」
と、誰《だれ》かが叫んだ。
せんだんははっと我に返って、よく通る声で命じた。
「攻《こう》撃《げき》を止《や》めなさい!」
ようこの無抵抗ぶりが気になった。少女たちは手を下ろし、中を見つめ続けた。
「死んだかしら?」
と、誰かが面《おも》白《しろ》そうに言う。ただせんだんだけは表情を崩さない。
「まさか」
と、彼女が呟《つぶや》きかけたその時。
「じゃえん」
ぞっとするほど静かな声が聞こえてきた。九方向。立ち昇るもうもうたる煙の奥から炎が一気に放出される。それは突如、圧倒的な熱量で振るわれ、海《かい》竜《りゅう》の尾のようにのたうち回り、辺りの空気をゴミごとひとまとめに吹き飛ばした。
灼《しゃく》熱《ねつ》の激流が、深紅の鞭《むち》が、煙も、塵《じん》埃《あい》も全《すべ》て薙《な》ぎ払う。九人の少女たちは悲鳴を上げて、のけぞり、その場に尻《しり》餅《もち》をついた。
「九尾の」
と、せんだんが息を呑《の》む。その次の瞬《しゅん》間《かん》、ようこが鮮《あざ》やかに紅《ぐ》蓮《れん》の炎の中から姿を現した。肩から突進して、目の前にいた二人に肉《にく》薄《はく》していく。
「く!」
その二人は必死の反応を示した。素早く空中に逃げようとする。
ようこは笑った。
「じゃえん」
くるりと身を反転しながら、
「あんたたち流に言うなら×2?」
手を振るった。二人の正面に巨大な炎の塊が迫ってくる。空中|故《ゆえ》に逃れようがない。彼女たちは思わず手で顔を庇《かば》った。
『破《は》邪《じゃ》結《けっ》界《かい》・二《に》式《しき》紫《し》刻《こく》柱《ちゅう》!』
同時に声が響《ひび》いて二人の周囲に紫色の結界がそびえ立つ。援《えん》護《ご》に回った六人がそれぞれ能力を全開にして完成させたのだ。
さすがにようこの炎も弾《はじ》かれる。
「ひゅ〜♪」
と、ようこは口笛を吹いた。
「でも」
また笑う。彼女は別の獲《え》物《もの》を見つけていた。簡単な足し算だった。最初の二人とそれをフォローした三人と三人。後の一人は余っている。
その一人。
もっとも幼いともはねがぎょっとした顔になった。
「あ、わ、え? あたし? あたし?」
訳の分からないことを口走って、辺りを見回して、圧倒的速度で距離を詰めてくるようこから助けてくれる人を捜したが……。
あいにく誰《だれ》もいない。
「ほい。最初の死亡確定」
ようこの顔がぬうっとともはねの前に突き出された。
「ひ!」
ようこは世にも楽しそうな笑みを浮かべている。ともはねがもの凄《すご》い痛みを覚悟して思いっきり身をすくませたその一《いっ》瞬《しゅん》。襲《おそ》ってきたのは本当にささやかな撫《な》でるような一《いち》撃《げき》だった。こつんと額《ひたい》を軽く叩《たた》かれただけ。だが、それはそれであまりにも想像と落差がありすぎたので、きちんと効果をもたらした。
ともはねの精神が簡単に臨《りん》界《かい》を迎える。
へたんとその場に座り込み、
「わああ──────────!」
と、盛大に泣き出した。
「ともはね!」
他《ほか》の八人が気がついた時にはもう遅い。ようこは軽やかに地面を蹴《け》ると、再び高速で移動を開始した。巧みな足取りで位置どりをどんどん変えていく。
「あ、悪《あく》魔《ま》!」
せんだんが叫ぶ。捉《とら》えきれない。
「じゃえん!」
「きゃ!」
「だいじゃえん!」
「わあ──────!」
「もう一つおまけにだいじゃえん!」
ようこは走りながら炎の柱を立たせ、粗大ゴミを砕き、爆《ばく》砕《さい》し、それをばらまき、焼き払いながら、あちらこちらに煙幕を作り上げた。
それを巧妙に盾にしながらせんだんたちを徹《てっ》底《てい》的に細かく分断していく。九人を五人と四人に。五人を三人と二人に。やがて、完全に一人一人に。いかに強力な連係プレーを誇れど一度、そうなってしまってはあまりに脆《もろ》い。
慣れない孤独に晒《さら》され、完全に狼《ろう》狽《ばい》した九人は易《やすやす》々と各個|撃《げき》破《は》されていく。
もっとも「死亡確定」と、額《ひたい》を軽く叩《たた》かれるだけだが。
たった一人に九人が完全に翻《ほん》弄《ろう》されていた。
「う、うそよ……」
せんだんが額を小突かれてよろめく。煙の奥で仲間たちの悲鳴と助けを求める声が聞こえた。リーダーである自分がどうしていいかまるで分からない。
「だ、誰《だれ》か……」
思わず幼いともはねのように人を頼る声が漏れた。
そうして、ようやく気がつく。
今までは混戦の時には主人がいてきちんと的確な指示を出してくれていたのだ。それが戦《せん》闘《とう》においてどれだけ重要な要因だったのかたった今、初めて思い知った。主人のいない自分たちはこんなにも弱くて、そして脆い。
改めて慄《りつ》然《ぜん》となった。
本当の強さとは何かを。
トータルな力だったら自分たちは絶対に負けてはいないだろう。だが、現実にようこは本来の主戦場である空中にすら飛び上がっていない。
悔しい。
ただでは勝てない。紛れもない化け物が相手……。
ならば。
その時、彼女は決断を下した。
最後の力を振り絞って、吠《ほ》える。
「みんな、よく聞きなさい! ようこ≠殺す気で行くわよ!」
その瞬《しゅん》間《かん》、それぞればらばらだった犬《いぬ》神《かみ》たちは一斉に吠えた。
わお────────ん!
という凄《すさ》まじい遠吠えの合唱と化す。
彼女たちの身体《からだ》に変化が起こる。手がぶるぶると震《ふる》え、爪《つめ》がいきなり飛び出した。牙《きば》が剥《む》き出しになり、着物が破れ、大きく突き出された腕からケモノの毛が生えていった。
「あ〜あ」
いつの間にか宙に浮かんでいたようこが薄《うす》く笑いながら肩をすくめた。
「やっぱりあんたたち現実が分かってないんだね。どれだけ本性に戻ったって本質的な戦いの技量差はそう簡単に埋められないのに……きっと、あんたたちはずっとそのカオルって人に守って貰《もら》ってきたんだよね。だから、そうやって甘やかされた分、違いが分からない。誰が強い
か弱いか分からない。喧《けん》嘩《か》売っちゃいけない相手も分からない……ケモノの癖《くせ》に」
彼女は煙の下で変身を終えつつある犬《いぬ》神《かみ》の一群を見てすうっと冷《れい》酷《こく》な顔になる。
「お嬢《じょう》ちゃんたち。ここらでいっぺん、負けなさい」
そうして、彼女は満月を仰ぎ見た。
力を感じ。
恍《こう》惚《こつ》に震《ふる》え。
うっとりと囁《ささや》きながら、手を伸ばす。
「ほんと、ケイタがいなくてよかった……」
ようこの牙が現れた。
その頃《ころ》、なでしこもまたゴミ処理場に辿《たど》り着いていた。それほど得意ではないが、なでしことて犬神なので匂《にお》いは辿れる。大体の方角さえ掴《つか》めれば、後はせんだんの思考パターンから考えて大体の推測が出来た。破れかけたフェンスを必死で乗り越え、転げ落ち、痛むお尻《しり》をさすりながらさらに走ろうとした。
と、そこへ静かな声が聞こえる。
「なでしこ、奇遇ですねえ」
なでしこはぎょっとしたように立ち止まる。見ればフェンスにもたれるようにしてはけが立っていた。
彼は夜目にも鮮《あざ》やかな白装束。微笑を浮かべている。
「あなたも見学ですか?」
その態度になでしこは反応すら出来ない。
「ほら」
彼が指し示す方に目をやると、巨大な光球が空中を乱舞していた。赤と灰色の玉が九つ。金色の玉が一つ。それらが視認するのも難しいほどの猛スピードで交差し、重なり合い、ぶつかり合う。弾《はじ》けてはまた激しくもつれ合った。
なでしこにも分かった。
あれはようことせんだんたちだ。
しかもよりにもよって本性に戻っている。
「はけ様! 早く! 早く止めて!」
なでしこは叫ぶ。
「お願いです! このままではようこさんが!」
一度、はけはきょとんとした。それから、彼はいきなり笑い出す。
「ははははは」
「な、なにが可笑《おか》しいんですか!?」
「いや、失敬。私がここにいるのはそれとは全く逆の理由なんでね。そうか、あなたは戦わない……戦えない。そういうことが分からないようになっているのでしたね」
はけは優しい笑顔になる。すうっと滑るようになでしこに近づいてきた。
「ようこなら、なにも心配することはありませんよ」
「で、でも」
「なでしこ」
彼は言葉|尻《じり》を押さえ、共に戦場となっている場所に向かって動き始めた。山を一つ越えながら彼は言う。
「あなたもご承知の通り、犬《いぬ》神《かみ》使いに憑《つ》く犬神の数は様々ですが、大《たい》概《がい》の場合は犬神使い自身のトータルな強さが基準となっています。霊《れい》的、体力的、性格的に優れていれば優れているほど沢《たく》山《さん》の犬神。これが一応の原則です」
悠長にそう喋《しゃべ》るはけ。のんびりとした顔つきだった。なでしこは足下のゴミに足を取られながら、もうそちらの方は見ず、一心に前を向いていた。
啓《けい》太《た》様といい、はけ様といい、男の人ってほんと頼りにならない!
ようこさん、待ってて!
彼女はほとんど駆け出している。あと、もう一つ。
もう一つ山を越えれば。
「例えば薫《かおる》様がよい例ですね。あの方は史上二人目の十人憑《つ》きです。でも、あなたはご存じないでしょうが、それにはごく希《まれ》な例外があるのです。本当に強い犬《いぬ》神《かみ》使いにたった一人の犬神しか憑かなかったように見える場合もあります」
はけは、よろめいたなでしこの手を助けながら喋《しゃべ》り続ける。
「例えば。なでしこ」
何故《なぜ》、犬神使いの宗《そう》家《け》であるあの方に私しか犬神が憑いていないか不思議に思ったことはありませんか?
その言葉に、「えっ」となでしこは振り返った。
はけは薄《うす》く笑っている。まるで見たことのない人のように。
まっすぐに前を指さし、
「それはね」
なでしこは丘を登りきり、眼下を一望する。ざわっと。
鳥肌が立った。
「私以外、必要がないからですよ」
そう静かに告げるはけの言葉の意味が頭の中に染み渡っていく。ようこがいた。せんだんたちもいた。誰《だれ》が強いのか、ようやくなでしこも完全に理解出来ていた。
私が他《ほか》の犬神を排除し、独占したのです。
薄ら寒くなるような声ではけが言葉を結ぶのがぼんやりと聞こえていた。
ようこのようにね。
青い光が辺りに満ちている。
ゴミ捨て場に巨大な犬の姿をした化《け》生《しょう》が九匹寝転んでいた。体長三メートルはある犬神たちは本性のままで無造作に積み上げられていた。それぞれ毛皮が焼け焦げ、手足をぐったり投げ出し、赤い舌を大きく突き出しながら昏《こん》倒《とう》している。
その頂上にようこは足を組んで座っていた。
彼女は破れた服の代わりに真白いカーテンをローブのように身にまとっていた。悽《せい》愴《そう》な、あくまでも喜悦の笑みを浮かべ、大きな、大きな満月を見上げていた。
憧《あこが》れるように。
憑かれたように手を差し伸べ、笑っていた。
その下には完《かん》膚《ぷ》なきまでに叩《たた》きのめされた犬神が九匹。
「ようこ」
と、はけが微笑《ほほえ》みながら呼びかけた。
その途《と》端《たん》、ようこはいつもの快活な表情を取り戻す。
「あ、はけだ。お〜い!」
と、叫んでぴょんと飛び降りると、はけたちの方に近づいていった。なでしこは急に呪《じゅ》縛《ばく》から解き放たれたかのように駆け出した。
二人は交差する。
ようこははけを、なでしこは仲間たちを見やって互いに視線を交わさない。
ふわっと二人の髪と服の裾《すそ》が流れた。
「みんな!」
なでしこが一際、優美な犬《いぬ》神《かみ》を抱き起こそうとした時である。その一匹がゆっくりと首をもたげ、人語を発した。
「ようこ……」
「せんだん! 動いちゃダメ!」
「ようこ───────!」
なでしこが必死にその首筋を押さえる。
赤茶色の毛並みをした犬神は大きく身体《からだ》を振るって、よろめく足で立ち上がった。憎悪に満ちた目でようこを睨《にら》み、牙《きば》を剥《む》く。
「許せない!」
「おやあ」
目を細め、ようこが振り返った。
「まだ起きてくるとは随分と頑丈だね。あれだけやったのに」
「黙《だま》れ!」
「せんだん!」
「なでしこ! こいつはね、こいつはよりにもよって手加減したんだよ! 私たちは本気だったのに。本当の本当で殺してやろうとしたのに、こいつは全く余裕で、私たちを相手に手加減したんだよ! それが許せるか!」
「まあ、そんなにはしてないよ。あんたが思ってるほどには差がなかった」
「うるさい!」
犬神は一歩、踏み出す。全身の毛を逆立て、堪《こら》えきれず、どうっと横倒しになった。もがき、再び大地を踏もうとするがそれが叶《かな》わない。
「せんだん!」
なでしこが叫ぶ。ようこは楽しそうに二、三歩、その場で跳ね飛んだ。
「珍しい人だね。そう……そんなに死に急ぎたいんだ」
彼女は目を深《しん》紅《く》に光らせ、指を突き上げる。
「なら、本当に死んじゃっちゃって貰《もら》っちゃおうかしら?」
その言葉にせんだんは目をつむる。
諦《てい》念《ねん》して、震《ふる》え、か細く泣いた。
悔しさのあまり何度も何度も鳴く。その時。
「ようこさん」
なでしこが間に立ち塞《ふさ》がった。彼女は大きく、大きく手を広げている。その小さな身体《からだ》が圧倒的な存在感を夜の大気に放っていた。
「もう決着はついているはず。これ以上やるなら」
「やるなら?」
「及ばずながらこのなでしこが相手になります!」
強く激しい声。
「『やらずのなでしこ』をあくまで敵に回しますか!? ようこ」
「なでしこ……あなた」
震える声でせんだんが呟《つぶや》く。
ようこは手を下ろし、喉《のど》の奥で笑った。
「ふふふ、恐《こわ》い恐い。いくらわたしでも今の状態であんたと戦うほど、無《む》謀《ぼう》じゃないよ。誰《だれ》が本当に強いか弱いか。それはちゃんと分かってるつもり。ケモノだもん。だから、せんだん」
それから。
と、彼女は意識を取り戻し始めた他《ほか》の犬《いぬ》神《かみ》たちに向かって告げる。
「いい? 他のバカ犬ども。わたしは怒ったなでしこが恐いから、あんたたちを殺さないだけなんだからね。あんたたちが束《たば》になっても出来ないことをなでしこはちゃんと出来る。それをよ〜く覚えておきな!」
そう叫んで彼女は首をすくめた。
「はけ! わたしはなでしこが恐いからさっさと逃げるよ!」
彼女はとんとんとリズムよく足踏みするとくるりと反転して地面を蹴《け》った。そのまま、夜空に掻《か》き消える。
はけはそちらを目をやり、次になでしこを見て笑った。
「後はあなたにお任せしますよ」
そう言って彼もぽ〜んと後ろ向きに飛ぶと宙の闇《やみ》に溶け込む。なでしこはぼんやりとそれを見送ってから悟った。
ようこの真意を。
はけの考えを。
他の犬神たちの許《もと》にゆっくりと歩み寄り、細く小さな腕で精一杯、皆を抱こうとした。
「お願い……あんまり無《む》茶《ちゃ》しないで」
その声に。
その涙の滲《にじ》んだ声に。
犬《いぬ》神《かみ》たちは初めてなでしこを輪の中心にして集まった。鼻《はな》面《づら》をなでしこの身体《からだ》に擦《こす》りつけ、お腹《なか》を寄せ、まるで一塊りの生き物のように丸くなった。
十人が一つになった瞬《しゅん》間《かん》だった。
それからしばらく経《た》って、はけとようこはいつものビルの屋上にいた。二人で煌《きら》めくような夜空と同じくらい煌びやかな夜の街並みを眺めている。
ようこは縁《ふち》に座って、はけは立って。やがて、
「ようこ。今回は随分と嫌われ役を演じさせてしまいましたね」
はけが穏《おだ》やかな声でそう言った。
「ん〜?」
ようこはどこかとろんとした目つきで風に弄《もてあそ》ばれる髪を押さえてる。
「別に。わたしはただ自分のためにやっただけだし」
「でも、本当によく我慢してくれました」
「うん」
なんでもないことのようにさらりとようこは言う。
「もしかしたらさ、前のわたしだったら、あいつら簡単に殺していたかもしれないね。でもさ、ケイタだったらどうするだろうなってずっと考えながら戦っていたら、なんだか急にあいつらがバカバカしくなってきちゃって」
「……なるほど」
「お陰で手加減も出来たしね……それより、はけ」
ようこは目を細め、はけを見上げた。
「今回の筋書きを書いたのって全部あんた?」
「え?」
「だからさ、なでしこをわたしのところに持ってきてわたしに勉強させて、同時にあのちょっと勘違いしていた九人に戦い方を教えて、ついでになでしこと仲直りさせようっていう細かいお膳《ぜん》立《だ》て」
「まさか」
はけは笑った。あっさりと首を振る。
「ようこ。私は別に千里眼ではありませんよ。もちろん、そうなればよいなとは思いながら事態の推移をずっと見守ってはいましたが」
「そうか」
ようこは頷《うなず》き、
「……そうだよね。結果的に全《すべ》てが丸く収まった偶然だよね」
同じように笑った。
「じゃ、わたし、そろそろケイタのとこ帰るね。また!」
そう言ってぴょんと宙に飛び出す。消えた。
「ええ。まあ」
はけは微笑《ほほえ》み、彼女を見送った。それから、夜空を見上げる。
「全くの偶然という訳でもないのでしょうけどね……」
そう呟《つぶや》いた。
ようこが啓太の部屋に戻ると彼は新聞を読んでいた。
「そうか。巨人二連敗か……」
ようこはなでしこから聞いている訳もないので、啓太が夕刻からずっと同じページを開いていることなど知るよしもない。頭にまだつけているヘッドランプがなんなのかを問いただす元気もなかった。実は彼女は相当に消耗していた。
一度、休《きゅう》憩《けい》しなければ家に辿《たど》り着けないほどに。
ふらふらとよろけるように窓から入ってきて啓太の膝《ひざ》にもたれ込む。
「ふに〜」
そのまま、気持ちよさそうな溜《ため》息《いき》をついた。
「なんだ、随分とまたオシャレな服、着てるな」
「うん。でしょ〜」
ただ巻きつけただけのカーテンから、なま白い太《ふと》股《もも》や豊かな胸元が剥《む》き出しになっている。ようこは腕を啓太の腰に絡め、得意そうに、夢見心地で囁《ささや》いた。
「あのねえ、ケイタ。今日ねえ、わたしねえ、喧《けん》嘩《か》してきたんだよお」
「ほお、それは全然、知らなかった」
「うん」
「で、勝ったか? 負けたか?」
「勝った」
「そうか。それは良かった」
啓太は無表情にようこの頭をぐりぐり撫《な》でてやる。ようこは心の底から幸せそうな吐息を一つ吐いて。
それから、完全に寝息を立てた。啓太、大きく息を吐き出す。表情が緩《ゆる》み、明らかにほっとした顔つきになった。自分で自分に苦笑したように首を振り、そっと用意しておいた救急箱を引っ張り出す。
脱脂綿とオキシドールでようこの身体《からだ》についた細かい傷を治《ち》療《りょう》していった。
一通り終わって彼はようこの頭をぽんぽんと叩《たた》き、天井を見上げ、呟《つぶや》いた。
「そ〜いや、俺《おれ》も随分と喧《けん》嘩《か》してねえなあ」
彼もまたなんとなく幸せそうだった。
翌日。なでしこは急に帰ることを宣言した。啓太は嘆き悲しみ、ようこは万歳を十回くらいした。
なでしこは最後に一度、部屋をざっと掃除して、冷蔵庫に作り置きの料理を詰め込むと、唐草模様の風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを前に置いて啓《けい》太《た》に深々と一礼した。
「今まで本当にお世話になりました」
「いえいえ。また来てね」
見捨てられた子犬のような顔でなでしこを見上げる啓太。
「約束だよ?」
「はい」
と、微笑《ほほえ》むなでしこ。
「あれ? ようこさんは?」
「ん?」
啓太はなでしこと指切りをしながら言った。
「ようこはなでしこちゃん追い出し記念パーティーを一人で開催するために、チョコレートケーキを買い出しに行っています」
なでしこは複雑な表情になる。啓太は手を頭の後ろで組んで笑った。
「ホント、また来てよ。友達の少ないあいつのためにもさ」
「はい」
なでしこは苦笑気味に頷《うなず》き、それからおずおずと切り出した。
「あの、最後にもう一つだけ伺っていいですか?」
「ん?」
「あの時は……あの時はひどいことを言ってしまってごめんなさい。でも、本当になんでようこさんを助けに行かなかったんですか?」
「ん〜」
啓太は腕を組んだ。なんだかあまりに自明なことを生徒に説明するよう求められた学校の先生みたいな顔つきだった。
なでしこは食い入るように彼を見つめ続ける。
啓太はやがて困ったように話し出した。
「いや、あいつさ、俺に知らせる必要はないって言ったんだろ? だからだよ。それ以上の理由なんて別にない」
「で、でも強がってたり、心配かけないようにするために」
「それはない」
啓《けい》太《た》はあっさりと首を振った。
「あいつさ、そもそも、勝てない相手とはまず戦わない。ケダモノだから。そういう場合あいつはちゃっちゃと逃げ出すよ。だから、必要ないって言ったら本当に必要ないんだ。そんなところではあいつは絶対に我を張らない。これは想像だけど……犬《いぬ》神《かみ》同士だから、むしろ、俺《おれ》がいたら邪《じゃ》魔《ま》になる場合だったんじゃないかな? 特に女の子同士でもある訳だしさ」
「何故《なぜ》……はっきりそう言い切れる、いえ、信じられるのですか?」
そこで啓太は照れたように頭を掻《か》いた。
「俺があいつの飼い主だから、でしょ? やっぱ」
なんの衒《てら》いもないあっさりした言葉。
なでしこはほうっと溜《ため》息《いき》をついた。首を振り、
「今回はわたしの方が沢《たく》山《さん》学ばせて頂きました」
「そう?」
「ええ。啓太様の理由も聞けて心残りがなくなりましたし、これで失礼します。でも、また近いうちに必ず遊びに参りますね」
なでしこはもう一度、お辞《じ》儀《ぎ》をして席を立つ。風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを肩で背負い、玄関でエナメルの靴を履《は》いて出ようとしたその時である。
「薫《かおる》によろしくね〜」
啓太のそんな気楽そうな声が聞こえてきた。
なでしこははっとして、振り向いた。そう言えば主人に関して啓太に説明したことはただの一度もなかった。またその機会もなかった。それなのに何故?
そう問いただそうとしたが、しかし、啓太はもう新聞を読んでいて、顔を紙面の向こうに隠している。
「そ〜か。巨人、三連敗か……」
なでしこは首を捻《ひね》った。一体、どこまで分かっていて、どこまでふざけてやってるのだろう。あるいはそれとも……。
本当に可笑《おか》しな人だった。
三度、頭を下げ、今度こそなでしこは出ていった。
その頬《ほお》には微笑が浮かんでいた。
それから、数日後。とあるビジネスホテルの一室になでしこはいた。二つある窓のうちの一つが完全にブラインドを降ろした状態で、部屋の片側に完全なる闇《やみ》を作り出していた。なでしこは今、光が当たる側に立っている。
そちらからだと昼間のオフィス街が一望出来た。
なでしこは真《ま》っ直《す》ぐに闇《やみ》の方を向いて言った。
「偶然、ようこさんがみんなと戦うところを目《ま》の当たりにしましたが、想像以上に驚《きょう》異《い》的です。せんだんがあそこまで子供扱いされるとは正直、思っていませんでした」
偶然。というところに殊更、力を込めてそう報告する。
「啓《けい》太《た》さんは?」
と、闇の向こうから声が聞こえてきた。
涼やかで、穏《おだ》やかな声だった。
なでしこは迷う。少し目を伏せ、それから言った。
「やっぱり、変わった方でした」
そのどこか頑《かたく》なな答え方が面《おも》白《しろ》かったらしい。闇がくすっと笑った。次に膝《ひざ》を組みかえたのだろうか。衣《きぬ》擦《ず》れの音がする。
「まあ、でも、とにかくご苦労様。ようこのことはずっと気になっていたからね。啓太さんもきちんとコントロールしているようだし、これで一安心出来たよ。ありがと、なでしこ」
「わたしはあなたの目≠ナあり、耳≠ナすから」
「うん。それもとびきり優秀な、ね♪」
なでしこは微笑《ほほえ》む。どこか悪戯《いたずら》めいて。
「ねえ、皆さん、わたしのことを誤解していますよね。わたしはこうして、悪い女なのに」
「……悪い女?」
「啓太様やようこさん。わたしがスパイだったって知ったらどんな顔をするでしょう?」
「スパイって……」
闇の向こうで苦笑しながら、頭を掻《か》く気《け》配《はい》。
「大げさな。たまたま向こうの方から機会が転がってきたから、ちょっとついでに様子を見てきて貰《もら》っただけで、特に他意はないよ〜……まあ、そんな風に堅く考えるところが君の良い子たる所以《ゆえん》で、可愛《かわい》いところだけどね」
なでしこ、頬《ほお》を染める。それから、尋ねた。
「薫《かおる》様?」
「なに?」
「わたし」
と、彼女は胸元で手を組み合わせ、
「今回の一件でみんなからとても良くして貰っています」
「そう」
闇が優しく笑う。
「それは本当に良かった」
「一体、どこまで最初から見通されていたんですか?」
今度もまた相手が苦笑する。
「おいおい。なでしこ、君までやめてくれ。僕はそういうのとは全然、違うんだから。僕に未来は見えない。見えていない。むしろ、啓《けい》太《た》さんのように」
「啓太様?」
「うん。あの人と一緒だよ。常に流れに流されているだけ。いい? なでしこ。僕がやったことといえば君を啓太さんのところに送った。たった、それだけなんだよ?」
「でも……それなら」
「ん?」
「一体、何故《なぜ》はけ様はタイミング良くあの場所におられたのでしょう? まるでどなたかにいざという時の抑え役でも頼まれていたかのように……他《ほか》にも色々と不可解なことがあります。あなたはわたしを送り出すと決めた後、みんなの前でこれ見よがしにわたしを可愛《かわい》がってみせましたよね? 普《ふ》段《だん》なら絶対にしないことなのに」
「……」
「それに、ようこさんのことも凄《すご》く誉《ほ》めていました。とっても嬉《うれ》しそうな調子で、『あの子は一体、どれだけ強いんだろうなあ』って……」
彼女は赤面しながらささっと口走る。
「わたしでも思わず嫉《しっ》妬《と》してしまうほどに」
「……」
「あと、あなたはともはねとテレビを見ていて呟《つぶや》いたそうですね? 『なるほど。こういう風にされたら男は絶対、気がつかない』って。ヨメとシュウトメを扱ったドラマでそれを」
「なでしこ」
突然、相手が遮った。あくまで柔らかく。
「全《すべ》て、偶然だよ。偶然」
「そう、ですね」
なでしこも微笑《ほほえ》む。
「あなたはいつもそうですよね。そうやって静かに座して、何かを待っている。今でもはっきりと覚えていますよ。あなたと初めてお会いした時のことを。凄く新《しん》鮮《せん》だった。ほとんどの人が不安そうな顔で歩き回る中で、あなたは一体どうやったのか未《いま》だに謎《なぞ》なのですが、グランドピアノを持ち込んで弾かれていましたね。小高い丘の上で月の光を浴びながら、微笑み、ドビュッシーを。わたしは最初、呆《あき》れていましたよ。でも、あなたの演奏を黙《だま》って聴《き》いていたら、気がつくと涙が溢《あふ》れて止まりませんでした。あなたはそうやって十人もの乙女《おとめ》の心をまるで魔《ま》法《ほう》のように掴《つか》んでしまった」
「おいおい。人をまるで結婚詐欺師みたいに……」
「啓《けい》太《た》様とはまるで違う」
その時、闇《やみ》の向こうで相手がぽつりと呟《つぶや》いた。
「今回ね」
「え?」
「今回、この出来の悪い策士がたった一つだけ企《たくら》んだことがあるとすれば、なでしこ。それは君のことなんだよ?」
「わたし……ですか?」
「うん。そう。あのね、君の心を一度、捉《とら》えかけた啓太さんの許《もと》に君を送って、君自身の心がはっきりと知りたかったんだ。可愛《かわい》いなでしこ。もう一度、はっきり決めて欲しかった。君自身の心にきちんと向き合って欲しかった。なんの束《そく》縛《ばく》もないところで。ねえ、僕の大事ななでしこ。啓太さんと僕。一人を選ぶとして……今からでも、きちんと僕を選べるかい? この僕という存在を知り抜いた上で」
暗闇から白い手がすうっと浮かび上がる。十本の指|全《すべ》てに簡素なシルバーのリングをつけた冷たく、優しい手。
なでしこは思わず声に詰まった。
「ようこさんの」
そうやってゆっくり喋《しゃべ》り出す。込み上げる思いを懸《けん》命《めい》に抑え、
「ようこさんの件がなかったら、確かにわたしは最初に出会った啓《けい》太《た》様の犬《いぬ》神《かみ》になっていたかもしれません」
涙を拭《ぬぐ》って笑う。どこまでも晴れやかに。
「でも、今、二人同時に選べと言われたら、わたしはもうなんの迷いもなく貴方《あなた》をお選びします。薫《かおる》様。やっぱりわたしは悪い女」
「何故《なぜ》?」
「はけ様やようこさんがこんなにも妬《ねた》ましい。自分の心に正直に全《すべ》てを排除してしまう力が羨《うらや》ましい。ありとあらゆる戦いを放棄してきたこの『やらずのなでしこ』が力を欲するほどに」
なでしこは呟《つぶや》きながら、闇《やみ》に近寄っていく。
白い手は大きく広がったまま、微動だにしない。
なでしこは熱に浮かされたように、
「四百年間、ただの一度も主人を選ばなかった『いかずのなでしこ』はきっとあなたと巡り会うために生まれてきたのでしょう」
そう囁《ささや》く。
ゆっくり目をつむり。
光の中から、闇の中へその身を投じた。
「なでしこは永久にあなたのおそばに。薫様」
闇が。
少女を抱きしめた。
ともはね。
川《かわ》平《ひら》薫《かおる》の十人の犬《いぬ》神《かみ》の中でもっとも幼く、もっとも非力な少女。恐らく、主《あるじ》に仕えるために現世に降り立っている全犬神の中でも、彼女ほど年《ねん》齢《れい》の若い犬神はいないだろう。
性格は完全にお子さま。
ちょっと甘えん坊で我が儘《まま》。未熟な肢体にその名の由来となっているツインテールの髪型。きょろきょろ動くつぶらな瞳《ひとみ》に健康そうな白い歯。喜怒哀楽が一番激しく、泣きべそを掻《か》いていたかと思うともう次の瞬《しゅん》間《かん》には朗らかに笑っている。
怒ったり、喜んだり。
他《ほか》の九人が大人《おとな》の会話をしているおりにいつも蚊《か》帳《や》の外に置かれ、お小遣いは月額二千円で、夜十時以降の活動は禁止。単独行動もなるべくとらせない方向でいつも誰《だれ》かしらと組んで動いていた。
雷鳴|轟《とどろ》く晩、彼女は乳鉢に擂《す》り粉《こ》木《ぎ》でごりごりと薬をひいていた。彼女の趣《しゅ》味《み》はテレビゲームと自己流のお薬を作ること。
幼い美《び》貌《ぼう》に影のある笑みが差す。
「覚悟してなさいよ、ようこ」
そう呟《つぶや》きながらぱらぱらとイモリの黒焼きの粉末を振りかける。
真っ黒なローブに三角|頭《ず》巾《きん》を被《かぶ》っていた。
あの日。自分たち九人がようこに破れたのは偏《ひとえ》に自分のせいだと、ともはねは頑《かたく》なに信じ込んでいた。
狡《こう》猾《かつ》なあいつは九人のうちで、まずこのともはね≠最初に狙《ねら》ってきた。それはとりもなおさず自分が戦《せん》闘《とう》に不向きであること。九人中の弱点であると見なされたことに他《ほか》ならない。それがともはねには悔しくて悔しくて仕方がない。大好きな薫の犬神として他の者たちに引けを取るまいと胸を張ってきたのに。その自負が一瞬で崩れ去ってしまった。
「ほい、最初の死亡確定」
高速で接近してくる悪《あっ》鬼《き》羅《ら》刹《せつ》のようなあいつの笑顔。恐怖に泣き出してしまった自分。未《いま》だによく思い出し、歯ぎしりをすることがある。
許せない。
と、ともはねはそう思う。
やっつけてやる。
ようこの大好物がチョコレートケーキだとなでしこに聞かされた時から、この計画は密《ひそ》かに暖めてきていた。
それから色々実験してみて今、機は静かに熟そうとしている。
「ごま油にセミの抜け殻《がら》。正《せい》露《ろ》丸《がん》に食べかけの食パン。猫のヒゲ……」
ご〜りごり。
擂《す》り粉《こ》木《ぎ》を擦《す》る。雨の降る晩、屋根裏に籠《こ》もってわざわざ調薬しているのは、決して伊達《だて》や酔狂からではない。湿気と暗《くら》闇《やみ》がこの秘薬には不可欠なのだ。
「出来た!」
最後に自分の尻尾《しっぽ》の毛を入れて出来上がり。名づけて『贈り物には毒がある。大恥かいて川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》に嫌われちゃえ!』作戦。
乳鉢の底に溜《た》まったねっとりべっとりした黒い塊。それを指先でこね合わせてみる。ねば〜と飴《あめ》色に輝《かがや》き、納豆のように糸を引いた。ともはねは悪役然と笑う。
傍らには箱詰めになったチョコレートケーキ。
最近、皆と打ち解け始めたなでしこに頼んで作って貰《もら》っても良かったが、明日からしばらくどこかへ行くとか言っていたのでお小遣いをはたいて買ってきた。
ケーキの表面をコーティングしているチョコレートにそっと薬を練り込んでみる。これでよし。色も艶《つや》もチョコレートそっくりだからぱっと見で見分けがつかない。
匂《にお》いもない。
これを食べれば。
「くふふ」
これを食べればいかなようこといえど堪《たま》らないだろう。いちころ。そう。いちころだ。
大恥を。
大恥をかかせてくれる。
「くすくす……あはははははははは!」
この超強力下剤%りチョコレートケーキで!!!
夏の気《け》怠《だる》い昼下がり。ガラス製の風鈴が時折の風でちりんと鳴り、窓の外には冗談みたいに青い空と真白い入道雲が見える。
明度の高い陽光は部屋の調度品をくっきり光と影の領域に分け、川平啓太は下半身をベッドに、上半身を床に投げ出すようにして眠っていた。ウチワを片手に暑苦しそうに額《ひたい》に汗を浮かべながら歯ぎしりをしている。
ようこはその啓太の背後で同じく寝ていた。リングを重ね合わせたようなニット編みのサマーセーターに真っ赤なホットパンツ姿だ。
きゅっと彼の腰に手を回し、その背中にへばりつき、見ようによっては逃げる啓太を背後から追いかけ、抱きすくめているようにも見える。
涎《よだれ》を垂らしながら、くすくす笑っていた。
「くすくす、ちょこれーとけーた、いただき〜」
ぺろりと口元を舐《な》める。
一体、どんな夢を見ているのか。
「いただき〜。あ〜ん」
「う〜ん、う〜ん。助けて〜、喰われる〜」
と、うなされてる啓《けい》太《た》。しばらくして、玄関の扉がゆっくりと開く音がした。
「あの、お返事がないので勝手にお邪《じゃ》魔《ま》しましたが……啓太様? ようこさん?」
そんな声が聞こえてくる。靴を脱ぐ気《け》配《はい》。丁寧に揃《そろ》える間。
やがて三つ折りのソックスを穿《は》いた小さな足がひたひたと歩いてきて啓太の前でぴたりと立ち止まった。しげしげと観察するような息遣い。
くすりと小さく忍び笑いが漏れた。
「あらあら、お二人ともお昼寝中ですか……」
その声の主がしゃがみ込む。
「相変わらずの仲良しさんですね」
啓太の目がうっすら開く。彼はもぞもぞと手を伸ばし、
「え? なんです?」
その侵入者の形の良いふくらはぎに唐突に抱きついた。
「きゃ! ちょ、ちょっと!」
侵入者は可愛《かわい》らしい悲鳴を上げ、スカートを押さえながら倒れ込む。啓太はすかさずのしかかっていった。
ん〜。
と、寝ぼけたような、それでいてしっかり計算した動きで這《は》い上がり、そのふくよかな胸元に頬《ほお》を埋めた。すりすりと首を振る。
「ん〜〜〜。今、恐《こわ》い夢を見てたんだよ。恐かったよ〜」
なでしこちゃん。
「おはよ。久しぶり」
彼がそう呟《つぶや》き、にっこり顔を上げた瞬《しゅん》間《かん》。
かき〜〜ん、と。
フルスイングしたバットが硬球を真《ま》芯《しん》で捉《とら》えた時のように滑《かつ》舌《ぜつ》のいい音がして、啓太は笑顔のまま轟《ごう》沈《ちん》した。ぐるんと白目を剥《む》いている。そのままずるずるとなでしこの腕の中で崩れ落ちていった。なでしこが悲鳴を上げかける。その背後でようこが据わった目をして起き上がっていた。
「おはよ、なでしこ」
テフロン加工が施されたフライパンで肩をとんとんと叩《たた》いた。
「ん〜、よく寝た」
と、屈託なく伸びをする。
「お、おはよう……ございます。ようこさん」
なでしこは強《こわ》張《ば》った笑みで答え、腕の中の啓《けい》太《た》は静かに痙《けい》攣《れん》していた。
なでしこはこの暑いのに相変わらず懐《なつ》かしささえ感じさせるレトロなデザインのワンピース姿だった。おまけに全部のボタンをしっかりと留めて、割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》まで着込んでいる。かなり開放的な服装のようこ。短パンにTシャツという格《かっ》好《こう》ながら暑そうに舌を出して、ウチワを使っている啓太とはえらい違いだった。
かえって涼しげに見えるきちんとした作法で、
「どうもお昼寝中にすいませんでした」
と、まず頭を下げた。ようこはあふ、と欠伸《あくび》をして気《け》怠《だる》げに首を振ってみせる。
「ん。きの〜の夜はあんまり眠れなかったの」
「熱帯夜でしたものね」
「ん〜ん。ケイタが夜中じゅうずっとしつこくってしつこくって」
鬢《びん》の後れ毛を掻《か》き上げ、色っぽく吐息をつく。
「もう、ケイタったらいつでも激しがり屋さん♪」
「啓太さん」
なでしこが驚《おどろ》いたような顔で啓太を振り返る。フライパンで引っぱたかれた頭をさすっていた啓太はもっと驚いていた。
「ち、違う違う。冷蔵庫が壊《こわ》れたからずっと修理していただけだよ! ほら、きゅうきゅう言ってるだろう?」
という啓太の言葉通り、台所から変な物音が聞こえてくる。
ようこは両手で頬《ほお》を挟み込み首を振った。
「もう仕方のない人♪」
「お、おい、いい加減にしろ! なでしこちゃんが変な誤解しちゃうだろう!?」
啓太が焦ったように言う。ようこは急にふくれっ面《つら》になった。
「ふん、だ。なによ? 一体それのなにがいけないの? 誤解されたって別にいいでしょ?」
「あのな〜」
「な〜〜によ。ちょっとなでしこが来たからって浮かれちゃってさ。嫌い。そういうケイタは大嫌いなんだから、い〜〜〜」
啓太は溜《ため》息《いき》をつき、肩をすくめてみせた。必要以上に大人《おとな》びた仕《し》草《ぐさ》で笑う。
「阿《あ》呆《ほう》。なんで俺《おれ》が浮かれる必要があるんだよ?」
いかにも苦笑したような、呆《あき》れたような言い方だが、内実、手は勝手に動いてなでしこの肩をウチワでいやらしく撫《な》でさすっている。なでしこは困ったような笑顔になり、ようこはあ〜んと思いっきり口を開けると、
「ケイタってほ、ん、と懲《こ》りないね!」
その腕を情け容赦なく噛《か》んだ。犬歯が肉に食い込み、ぞぶりと音がする。啓《けい》太《た》の顔が青ざめ、引き攣《つ》り、次の瞬《しゅん》間《かん》、
「いてええ─────!」
と、火中で煎《い》った豆のように激しく跳ね回り出した。ようこはそれを見やってふんと鼻を鳴らした。
「で、あんた、ほんとなにしに来たの?」
と、なでしこに向き直る。なでしこはえ〜、と少し目を泳がせ、
「定期検診のお誘いに来たんです」
「ていきけんしん?」
首を傾《かし》げるようこ。
「……って、なにそれ?」
「病院で病気があるかないかを予《あらかじ》め調べて貰《もら》うことだ」
涙目で噛まれた跡をふうふうしていた啓太が答える。
「ケイタ、病気でもあるの?」
「俺《おれ》は、ない……たった今できたこのケガ以外は、な」
啓太はそこで初めて不《ふ》審《しん》そうな顔になる。
「なでしこちゃん、どうしたの? バイトで看《かん》護《ご》婦《ふ》でもやり始めた?」
「あ、え〜と……ごめんなさい、誤解させるようなことを言ってしまって。わたしがお誘いしているのは啓太さんじゃなくってようこさんの方なんです」
「わたし〜?」
「ようこ?」
啓太とようこが同時にすっとんきょうな声を上げた。
「よいしょ」
と、なでしこはまず風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを解くと中から奇妙な物を取り出した。墨《ぼく》汁《じゅう》で細かな字が記された大きなヤツデの葉だ。
『犬《いぬ》神《かみ》なでしこ様へ 定期検診のお知らせ 天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》より』
と、達筆で書いてある。
「天地開闢医局〜?」
啓太が読み上げた。
「……なにこれ?」
というようこの問いに、なでしこはこっほんと咳《せき》払《ばら》いしてから話し出した。
「わたしたち人《じん》妖《よう》は極めて希《まれ》ですが感染症にかかる場合があります。人間のインフルエンザに相当する『恐《おそれ》山《ざん》病《びょう》』、手や足から化けられなくなり次第に本性に戻っていく『むじなしゃっくり』、最近、西洋から入ってきた『ワルプルギス・シンドローム』と確率はかなり低めですが、ひとたび罹《り》病《びょう》すると皆、侮《あなど》れない病気ばかりです」
「……で?」
と、どこか不安そうにようこ。なでしこは重々しく頷《うなず》いた。
「そうなれば自力での回復は非常に難しく、多くのモノは深山渓谷の霊《れい》泉《せん》に赴き身体《からだ》を清めたり、体質によっては氷河や溶岩の中に身を沈めたりします。しかし、それでも治らない場合、我々は人間に頼るのです」
「ほう」
と、腕を組んで啓《けい》太《た》。なでしこは微笑《ほほえ》んだ。
「いつから機能しているのか正確なところは不明ですが、本朝には私たちの存在を密《ひそ》かに認め、専門で癒《いや》してくれる機関が存在しています。漢方と鍼《はり》と陰陽《おんみょう》道《どう》を混合した独特の施《せ》療《りょう》によって人妖に限らず広く人外の者にその門戸を開いているのです」
「あ〜」
啓太は手を叩《たた》いた。
「そこの存在は小耳に挟んだことがあるわ。それが天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》つうんだな?」
「はい。私たち犬《いぬ》神《かみ》は病気にかかれば勿《もち》論《ろん》ですが」
と、なでしこはようこが持っているヤツデの葉を指し示す。
「三十年ほど前から五年に一度、定期的にそこに赴き、予防接種や健康状態を調べることが今の宗《そう》家《け》様によって義務づけられています」
「婆ちゃんか」
「ええ。順番が巡ってきた犬神にはそうやって天地開闢医局から通達がやってきます」
「しかし、また随分と趣《おもむき》のある書式だな……」
「でも、匂《にお》いはちゃんとついてるよ」
と、ようこが言う。人間には分からない霊的な刻印が施されているという意味だ。啓太にもそれが分かったから頷いた。
「なでしこちゃんは前に行ったことがあるのか?」
という問いに、なでしこはこくりと首肯した。
「それにわたしの仲間たちも。去年の夏で順番が一巡して今年はわたしだけなんです。でも、ようこさんは確かまだですよね?」
「う、うん」
「まだ登録されていないからなんだと思います。ですから、わたしと共に参りましょう。唐突で申し訳ありませんが今日です。これは宗《そう》家《け》様とはけ様からの下《げ》達《たつ》でもあるのです」
その言葉にようこは突如、もじもじとし出した。
「びょ、びょういん?」
「ええ、言ってしまえば」
「きょう?」
「ええ、そうですよ」
「で、でも、わたしまだまだ健康体だよ?」
「だから、それをきちんと確認して貰《もら》うのが定期検診なんです……あの、先ほどからどうかしたんですか?」
なでしこが不思議そうにようこの顔を覗《のぞ》き込む。ようこは上を見て、下を見て、啓《けい》太《た》を見て、なでしこを見て、それから、少し赤くなって俯《うつむ》いた。
風鈴がちりんと一つ鳴った。啓太がウチワを使いながら、ははんと笑う。
「この間のテレビだな」
「え? なんです?」
「はは。この間、テレビでさ。動物病院の特集をやっていたんだけどね……」
白い、無機質な診察室。きゃんきゃんと吠《ほ》えている犬たち。白マスクに白衣の獣《じゅう》医《い》がきらりと光る注射器を片手に持つと、大きななりをした犬が震《ふる》え、怯《おぴ》え、中には失禁するものまで現れる始末だ。ようこは啓太とそれを見ていて、顔面|蒼《そう》白《はく》になっていた。
その夜、盛大にうなされ、啓太の服の裾《すそ》を掴《つか》んで片時も離さなかった。
病院=怖《こわ》い。
という単純な図式がどうやら既にようこの頭の中では出来上がっているらしい。
「わ、わたし、そういうところには絶対いかないもん!」
彼女はふいっとそっぽを向いて言った。
「でも、ようこさん」
「いかないったらいかない!」
まるでただのだだっ子だ。なでしこはそのだだっ子を優しく諭《さと》す。
「それは困りましたね……怖い怖い病気になってしまいますよ?」
「いい! いいもん! 病気でもなんでもいい!」
「よくはねえだろ?」
と、啓太。ようこは涙目になった。
「注射はいや! 絶対絶対、いやあ〜〜!」
「注射はしませんよお……せいぜい、経《けい》絡《らく》に鍼《はり》を刺すくらいです」
「おんなじことよお───!」
ようこは聞き分けなく首をぶんぶん横に振った。なでしこはふうっと溜《ため》息《いき》を一つつく。
「なら、仕方ありません。これは後でお話しようと思っていたのですが……いいですか? ようこさん。天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》では予防接種以外にも幾つか治《ち》療《りょう》を行っておりまして」
それから、彼女はちらりと啓《けい》太《た》を見て何故《なぜ》か、ぽっと頬《ほお》を染めた。啓太、戸惑う。なでしこは彼を視界の端に捉《とら》えながら、ようこの耳元で何事かごにょごにょと囁《ささや》いた。
すると今の今まで泣き出しそうだったようこの顔に驚《おどろ》きが走った。
「ええ〜〜〜、そんなこと出来るの!? ん? 待って。なら、もしかしたら、あんたもう」
「わ、わ! わ!」
と、何か叫びかけたようこの口をなでしこは慌てて押さえる。啓太の方をちらちら気にしながら、再び、
「だから、ただ○○時はいいんですけど、人を××じゃないと△△なんです」
説明していく。
どういう訳かふんふん頷《うなず》きながらようこの顔まで真っ赤に染まっていく。啓太、大変、気になる。ようことなでしこに近づこうとしたら、美少女二人はぴったりと寄り添ったまま、つつっとたった一人の男から距離を取った。
明らかに彼を意識しながら、交互に耳元でひそひそ話を続けていく。
「ねえ、それで本当にPI─出来るの? でも、わたし」
「だからこそ、▲▲▲で▲なんですよ。啓太様、ああだし♂からじゃ」
「でもでも〜」
と、ようこは首を振る。なでしこはこくこく頷いた。
「二百年ほど前にも♀なことがありまして、例えば〒←〓った身体《からだ》が♯でしょう?」
「……一つだけ、聞かせて。もしかして、あんたもうPI─なの?」
その言葉になでしこは俯《うつむ》く。ゆでだこのように真っ赤になり、蚊《か》の泣くような声で一言。
「はい」
「はは〜ん。あんた、そんな顔して進んでる〜」
ようこは手を打つ。それから、彼女はもじもじと身をくねらすと、啓太を上目遣いで見上げ、そっと近づきその肩に手をおき、
「ねえ、ケイタ。わたし、ちゃんと病院行って来るね」
「え? ああ?」
啓太、訳が分からずただ間抜けな声を出す。ようこはさらに色っぽく。
耳元で一言、そっと囁く。
「ケイタ、待っててね♪」
その途《と》端《たん》、きゃあ〜〜と歓声を上げて、一緒になって照れていたなでしこと両手を重ね合わせて二人ではしゃぎ始めた。
啓《けい》太《た》、冷や汗を掻《か》きながら一言。
「あの……なんかものすげえ気になるんですけど?」
という訳で、ようことなでしこは旅立っていった。結局、啓太には最後までよく分からなかった。彼女たちは一体、どこへ向かったのか。天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》の正確な位置は謎《なぞ》(なでしこ談:ごめんなさい。人間の方には教えられないんです)のままだった。ただ、一週間ほどで一通りの検査を終えて、帰ってくるそうだ。
「ま、モノノケにはモノノケの都合があるってことで」
啓太は頭の後ろで手を組んで、ベッドの上に倒れ込む。天井を見上げた。ようこがいないだけでたった六畳が随分と広く、涼しく感じられた。
「ふ」
と、彼は笑う。
「人間様には人間様の都合がある、と」
しばらくは煩《うるさ》いのがいないし、せいぜい羽でも伸ばさせて貰《もら》うか。そんなことを考えて寝返りを打つ。いつしか彼は再び微睡《まどろ》んでいた。
ちょこんとその時、天井から降り立ったのはともはねだった。彼女は大イビキをかいている啓太のそばまでちょこちょこ近づいていき、ベッドの上に這《は》い上ると、その顔を興《きょう》味《み》深そうにそっと覗《のぞ》き込んだ。
手に持っていた菓子折に目を遣《や》り、啓太を起こそうかどうか思案する。
ようこはいないのだろうか?
と、辺りを見回す。
その途《と》端《たん》。
「うす。千客万来。なんか用か?」
啓太の目がぱっかり開いて、笑顔がこぼれた。ともはね、完全に不意をつかれて悲鳴を上げる。
「い、いやあああああ───────!」
慌ててベッドから転がり落ち、卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》に額《ひたい》をぶつけ、あうあう、と呻《うめ》き声を上げながら四つん這いで、
「ごめんなさい」
逃げようとする。
「おいおい」
と、呆《あき》れたように啓太。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。お願いだから、酷《ひど》いことしないで……」
壁《かべ》に背をつけ、涙目でイヤイヤをするともはね。啓《けい》太《た》は苦笑していた。
「あのな、別に取って食いやしないって。お前、薫《かおる》のとこの一番、チビだろ。聞いた覚えがあるよ。俺《おれ》になんか用か?」
あやすようにそう言われて、ともはねの涙がぴたりと止まる。考えてみたら何もこんなに怯《おび》える必要はなかった。他《ほか》の仲間から啓太の手の早さや調子の良さは聞いていたが、白昼堂々女の子に襲《おそ》いかかるほどこの男も理性がない訳ではないだろう。
すると、取り乱した自分が急に恥ずかしくなってきた。
ともはねはささっと起き上がり、赤面しながら膝《ひざ》をついた。
「け、啓太様にはお日柄も宜《よろ》しく恐《きょう》惶《こう》謹《きん》言《げん》」
「あ〜、恐惶謹言」
啓太は欠伸《あくび》混じりに頭を掻《か》く。実は彼は白昼堂々女の子に襲いかかったりもする。先ほどなどはなでしこの胸に思いっきり顔を埋めた。だが、どう見ても十一、二歳の外見であるともはねに彼の食指は全く動かなかった。
彼はお子さまパンツはいているような年《とし》頃《ごろ》には比較的ぞんざいだ。
「で、何の用だ?」
と、めんどくさそうに言う。
「あ、はい」
意外にこの人紳士なのかしら?
そう思いながらともはねは地の喋《しゃべ》り方で、
「仲間がチョコレートケーキを作ったんですけど、ちょっと余っちゃったんです。それで先日のお詫《わ》びを兼ねて、ようこ……いえ、ようこさんにも食べて貰《もら》おうと思って持ってきたんですけど」
「あいつはようこでいいよ」
「あ、じゃあ、啓《けい》太《た》様。そのようこは一体どこですか?」
啓太はともはねが差し出してきた菓子折を開ける。中には美味《おい》しそうな一口サイズのチョコレートケーキがパラフィン紙に仕切られて四個詰まっていた。
「ん〜、美味しそうじゃん」
啓太はそれを指で無造作に摘《つま》む。
「あ〜〜、ダメダメ! ダメですよ!」
ともはねが仰天して叫んだ。啓太も驚《おどろ》く。
「え? なんで?」
「あ、いえあのその!」
ともはねはあたふたと手を動かした。
「だって、それはようこさんのために持ってきたんですから!」
「あ、そうか」
啓太は笑った。
「ともはね」
と、正確に彼女の名を呼ぶ。
「お前、優しいなあ。でも、悪いけどようこは今、外出中なんだよ」
「え? 外出……ちゅうって?」
「なでしこちゃんと定期検診に行った。聞いてなかったのか?」
「え?」
と、目を白黒させるともはね。
「なんでも帰りが一週間後くらいになるそうだからさ。この暑さだし生ものだから悪くなっちゃうだろう? だから、あいつ残念がるだろうけど早めに食べちゃった方がいいと思うんだ。良かったらお前も食うか?」
と、菓子折が差し戻される。
ともはねはさあっと青ざめた。うかつだった。そう言えばなでしこがどこか遠くへ行くとか言ってた。啓太はこちらを見ている。
手には超強力下剤入りのチョコレートケーキ。
ともはねはぶんぶんと首を振る。
「いえいえいえいえ! いりません! 遠《えん》慮《りょ》します!」
啓《けい》太《た》の目がきらんと鋭《するど》く光った。
「はっはあん」
心臓が止まりそうになった。彼は何かを察したかのように持っていたチョコレートケーキをすっと下におろし、薄《うす》く笑った。
霊《れい》能《のう》者の目つきだった。
「分かったぞ」
どきん。
「お前、ダイエットしているんだな?」
思わず膝《ひざ》の力が抜けそうになった。ともはねはすかさず愛想笑いをして頭を掻《か》いた。
「そ、そうなんです。あたし、最近、お腹《なか》回りとかがとっても気になっちゃって気になっちゃって、も〜、あははのは〜」
「ふん。子供がそういうことあんま気にするなよ。まずは大きくなること。な? 乳がなでしこちゃんくらいでかくなってからそういうことは考えなさい」
「あ、はあ」
啓太はそう言いながらあ〜んと大きく口を開けてチョコレートケーキを食べようとする。ともはねは思わず目を覆《おお》って。
その時。
玄関でドアをノックする音がした。
「ほんと今日は客が多い日だな」
啓太はそう呟《つぶや》いた。
「鍵《かぎ》は開いてるよ〜」
玄関の方に顔を向ける。
「勝手に開けて入ってきてよ!」
それから、ひょいっとチョコレートケーキを口の中に放り込む。もぐもぐと咀《そ》嚼《しゃく》。ゆっくり舌で絡め、ごっくんと嚥《えん》下《げ》してから、幸せそうに「お、美味《うま》いな」とかそんな呑《のん》気《き》なことを言っている。
ともはねの目が大きく見開かれた。
もう終わりだ。すとんと腰を落とし、
「あ、あのお客様がいらしたようですし、あたしもう失礼しますね」
かすれた声で囁《ささや》く。こうなったら長居は無用。
爆《ばく》発《はつ》が起こる前に立ち去るが吉。
「なんだよ、ゆっくりしていけって」
と、屈託なく啓《けい》太《た》が笑ってそう言う。もうひと摘《つま》みケーキを手に取っている。ともはね、脂汗を掻《か》きながら笑顔が完全に引き攣《つ》っていた。
アフリカ象でも腹を壊《こわ》す核|爆《ばく》弾《だん》級を仕込んだのだ。
二連続なら果たしてどんな惨事になるのか。
想像するだに恐ろしい。
「いえ、用事もありますし」
帰ります。帰ります。そう答えてそそくさと立ち上がったともはねは、玄関から入ってきた客人に気がついて思わずぽかんと口を開ける。
「あ、あれ? 仮《かり》名《な》様?」
「ん? ……川《かわ》平《ひら》薫《かおる》のところの……ともはねか?」
入ってきた男も同じように驚《おどろ》いた顔になっている。啓太はさらに驚《きょう》愕《がく》していた。
「……あんた、頭になに乗っけてるの?」
新しく現れた男は頭の上にコーラの空き缶を乗っけていた。
仮名|史《し》郎《ろう》は霊《れい》能《のう》者のエリートである。内閣官房室直属の捜査官で、日本に起こる霊的な事件を広域で解決する任を負い、かなり大きな権限も持っている。
もっともその存在は一般には秘されているが。
啓太とは去年のクリスマスに初めて出会った。
とある魔《ま》導《どう》書《しょ》絡みの事件で二人は協力し合い、意外に意気投合し、後日、相場以上の謝《しゃ》礼《れい》金が啓太の口座に振り込まれてきた。
「なんだよ? また、事件かよ?」
啓太は仮名の頭の上に乗っかった空き缶を薄《うす》気《き》味《み》悪そうに眺めながら尋ねる。仮名はどっかりと卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の前に腰を下ろすと咳《せき》払《ばら》いを一つした。
「まあ、そんなところだ」
「良かった。それ、新しいファッションとか、変な宗教に入ったとかじゃないんだな」
「当たり前だ!」
「はは、でもうちの住所、よく分かったな」
「君の祖母君に予《あらかじ》め聞いていたのだ。どうしても、君……いや、ようこくんに用があってな」
端正な男前でオールバック。真夏なのに漆《しっ》黒《こく》のコートを羽《は》織《お》って一分の隙《すき》もない彼が頭に乗っけている赤いコーラの空き缶は甚《はなは》だしくシュールだ。
「……それはそうと、ともはね。君が何故《なぜ》ここにいる?」
「ん? 仮名さん、こいつ知ってるの?」
「うむ。川平薫とは何度か組んだことがあるのでな。その折りに知り合った」
ともはねはこくこくと頷《うなず》く。でも、彼女の意識はどちらかというと啓太の方にあるようでひどく落ち着きがない。
帰るタイミングを逸して困っているような。
そんな顔つきだった。
「こいつさ、わざわざチョコレートケーキをお裾《すそ》分けに来てくれたんだよ」
と、啓《けい》太《た》が相《そう》好《ごう》を崩してそう答える。彼は今朝《けさ》買ってきたばかりのペットボトルから来客用の湯飲みに麦茶を注ぎ、仮《かり》名《な》の前にとんと置いた。
「ほい。冷えてなくて悪いな。今、冷蔵庫が開かなくなっちゃっててさ」
彼が親指で示すと台所から「きょろきょろきゅ〜」という変な物音が聞こえてくる。仮名|史《し》郎《ろう》はほうと呟《つぶや》いて、
「それは不便だな。この暑さだ。そのケーキもすぐに傷《いた》んでしまうぞ」
「ああ。だから、あんたも食べるの手伝ってくれよ」
啓太はそう言って菓子折を差し出した。
それを見て、ともはね大慌て。ば〜つ、ば〜つと腕を顔の前でクロスさせてみせた。仮名史郎はまるで気がついていない。大分、表層が溶けかけたチョコレートケーキをじっと眺めてから、厳《いか》めしく首を振った。
「いや、折角だが甘いものは苦手でな。茶だけ頂いておこう」
ほっと溜《ため》息《いき》をつくともはね。
そっかと啓太は呟き、満足そうに目を細めながら三個目をぱくつき始めた。ともはね、呆《あっ》気《け》にとられて啓太を見ている。持ってきておいてなんだが、この暑いのにぱくぱくと甘ったるいものを食べる啓太の貪《どん》欲《よく》ぶりには目を瞠《みは》るものがあった。
「で」
と、唇の周りのチョコレートを舌で舐《な》め取って啓太が言った。
「そのふざけた頭の由来、早速、聞かせて貰《もら》おうか?」
仮名はしかめっ面《つら》になった。腕を組む。啓太はちょっと笑って、
「俺《おれ》じゃなくってようこつったらな。ともはねといい、あんたといい今日はやけにようこに用がある日だよ。だけどな、こいつにも言ったけどあいつしばらく留守にしているんだ」
仮名が戸惑った表情になる。
「犬《いぬ》神《かみ》が単独でか?」
「ああ、そういこともあるんだよ。なんだか、定期検診とか言ってた」
「あ、天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》の……そうか。そうだったな」
「ん? あんた知ってるのか?」
「いや、私がここに来たのはまさにその天地開闢医局絡みなんだ。うかつだった……考えてみたらようこくんが出かけていても、不思議はない」
「ん〜?」
啓《けい》太《た》は訳が分からず眉《まゆ》根《ね》を寄せる。困惑しながらも手は菓子折に伸ばして四個目のチョコレートケーキを手に取っていた。
こうなると、もうともはねは不思議で不思議で仕方ない。
この人、本当に人間だろうか?
そんな感じで身を乗り出して啓太の顔をしげしげと覗《のぞ》き込む。啓太はなんとなくその小さな身体《からだ》を抱っこしながら促した。
「なあ、あんただけ分かってないでさ、俺《おれ》にも詳しく説明してくれないか?」
仮《かり》名《な》はじたばた暴れてるともはねを一度、怪《け》訝《げん》そうに見てから、
「天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》の存在は知っているな?」
啓太の方に真剣な目を向けた。啓太もむしゃむしゃと口を動かしながら頷《うなず》く。
「ま、あらましくらいは」
「うむ。ならば『むじなしゃっくり』に関してはどうだ?」
「なでしこちゃんが言ってたけど……要するにモノノケの病気の一種だろう?」
「ああ。ムジナが引き起こす感染症の一つだ。徐々に化けられなくなり、脈絡のない行動や支離滅裂な言葉遣いを経て、最後には中枢神経をやられて廃人……ならぬ廃|犬《いぬ》神《かみ》などになってしまう恐ろしい難病でな」
まあ、ごく希《まれ》にだが。
と、仮名は補足する。
「その予防法がふるっていてムジナの血を少量、鍼《はり》につけて予《あらかじ》め経《けい》絡《らく》を刺激しておくのだそうだ。どうだ? まるで人間の予防接種みたいで面《おも》白《しろ》いだろう?」
「……モノノケの疫病学|講《こう》義《ぎ》はまた今度聞くよ。それより、それがあんたの頭の上の空き缶となんの関係があるの?」
「まあ、川《かわ》平《ひら》、話は終《しま》いまで聞け。天地開闢医局ではな、毎年、夏のこの時期、予防接種のためにムジナを一匹、捕《ほ》獲《かく》して血を少々、頂《ちょう》戴《だい》するのが慣例なのだ。ところがな」
と、そこで仮名は一度、お茶を啜《すす》り、
「今年はそのムジナに逃げられてしまった」
「はあ」
と、啓《けい》太《た》は腕から抜け出しかけたともはねを再び捉《とら》えながら、気の抜けた声を出す。
「じゃあ、また捕まえればいいじゃん」
仮名は重々しく首を振る。
「簡単に言うがムジナは非常に逃げ足が速い。天地開闢医局では手が足らず、とうとう私までムジナ捕獲に狩り出されてしまったのだ」
「……へえ、公務員も色々と大変だな」
「なに。根っこは同じ国に仕える機関同士。お互いに借りもあれば貸しもあるさ。私は早速、追跡して昨夜この街でムジナを見つけたのだが、あまりにも速すぎてな。面目ないが、みすみす視認しつつ、取り逃がしてしまったのだ」
「あ、ちょっと理解出来かけてきた。要するにあんたようこのしゅくちが欲しいんだな?」
「ご名答だ」
と、仮《かり》名《な》は微笑《ほほえ》む。
「あの素早さはようこくんのしゅくちでもない限り捕まえるのが難しいだろう」
「あのさ、俺《おれ》、ムジナってあんまり詳しくないけど」
うっと。
そこで啓《けい》太《た》は急に腹を押さえる。額《ひたい》に脂汗が浮かんでいた。
仮名は心配そうな顔で、
「……どうした? 具合でも悪いのか?」
「いや、別に……おかしいな? なんだろ?」
と、啓太。眉《まゆ》をひそめる。痛みを堪《こら》えるかのように身体《からだ》をくの字に曲げ始めた。ともはねはさらにぬいぐるみのように抱え込まれてしまった。
目を白黒させる。
とうとう来たか!
いよいよ来たか!
そんな感じだった、
仮名が不《ふ》審《しん》そうにしているのを見て慌てて、
「あ、えっと、あたしもムジナのことよく分からないので色々と教えてください!」
妙に明るく切実な声でそう言う。
仮名はああ、と頷《うなず》き、啓太を気にしながらも説明していく。
「ムジナは体長が二十センチほど。姿形はテンやイタチに似ている。暑さが大の苦手でな。昔は氷《ひ》室《むろ》などによくいたらしい。最近はめっきり姿を消したが……そうそう。霊《れい》気《き》の高い人間にとり憑《つ》いていることも多いそうだ。それと酒類に目がないな」
「じゃ、じゃあ、仮名様のその空き缶は?」
ともはねが上《うわ》擦《ず》った声で先を促した。ちらちらと啓太を上目遣いで確認しながら懸《けん》命《めい》に脱出の機会を窺《うかが》っている。
「ああ、これか」
仮名は渋い表情になった。頭の上の空き缶をぐいぐい引っ張ってみる。髪が持ち上がったが缶自体は接着剤で塗り固めたようにぴったりとこびりついたままだった。
「これがムジナの一番厄介なところでな。こうしてモノとモノをぴったり結合させてしまう能力を持っているんだ。私はムジナを捕まえようとしてゴミ箱ごと転倒し、たまたま頭に乗っかった缶をそのままつけられてしまったんだ」
「……すごいもんだな」
と、啓《けい》太《た》も目を瞠《みは》る。ちょっと波が引いたようで、顔色がかなりよくなっていた。ともはねがほっとしたように見守る中で、
「大きさや重さは関係あるのか?」
と、聞く。やっと彼女を解放してくれた。ともはねは涙を流さんばかりに喜び、四つん這《ば》いでそそくさとその場から離れていく。
仮《かり》名《な》は少し首を傾《かし》げて答えた。
「いや、ほとんどないだろう。だから、不幸中の幸いだったよ。これがもしダンプカーとか電信柱なんかにひっつけられていたらと思うと」
そこで彼は身《み》震《ぶる》いを一つして、
「川《かわ》平《ひら》。正直、私だけではムジナは手に余る。君の力を貸してはくれまいか?」
啓太はそう言われて笑った。
「ああ、いいぜ。もとよりそのつもりだよ。そのムジナを捕まえないと、ようこやなでしこちゃんが予防接種受けられないんだろう? それにあんた、金払いがいいしさ」
「税金だ。どうか大切に使って欲しい」
「はいはいっと。なら、壊《こわ》れた冷蔵庫でも修理に出そうかね……それともいっそ新しいのに買い換えるか」
啓太は考え込んでいる。その間、ともはねはそっと足音を忍ばせて台所の方へ出ていった。
「ムジナは霊《れい》気《き》の高い人間……要するに霊能者が好きなんだな?」
と、啓太。
「ああ」
仮名も頷《うなず》いた。
「現に昨夜も私が探し出したというより、向こうの方から私に近寄ってきた、というのが実情でな。……もっともすぐに逃げられてしまったが」
「なるほど」
「冷たいところ。酒類があるところ。霊能者のいるところ。まあ、これからそういうところを重点的に探してみるつもりだ」
「そうだな。闇《やみ》雲《くも》に探し回ってもらちがあかないだろうし」
きょろきょろきゅ〜。
という変な物音が冷蔵庫から聞こえてくる。先ほどから聞こえていたが、今回は一際大きく愉悦に満ちていた。
啓太の家から逃げ出そうとしていたともはねは、玄関の前で足を止めた。
「あ、あの?」
なんとなく思いつくことがあって振り返る。
啓《けい》太《た》と仮《かり》名《な》はう〜んと腕を組んで考え込んでいた。
「啓太様。この冷蔵庫、開かなくなったの昨日の夜からですよね?」
「え? ああ」
きょろきょろきゅ〜。
ともはねは冷や汗を掻《か》きながら、
「えっと、この中にもしかしてお酒とか入ってますか?」
「入ってるぞ……それがどうかしたか?」
啓太は怪《け》訝《げん》そうな顔。ともはねはさらに、
「仮名様、ついでにもう一つ。ムジナって鳴くんですか?」
その問に仮名は謹《きん》厳《げん》に頷《うなず》く。
「ああ。確か、きょろきょろきゅ〜って、あ」
啓太と仮名が顔を見合わせた瞬《しゅん》間《かん》。
きょろきょろきゅ〜〜〜と。
再び盛大な鳴き声が冷蔵庫から聞こえてきた。ともはねは強《こわ》張《ば》ったまま笑っている。
「えっと、相手の居場所も分かったことですし、あたし、お邪《じゃ》魔《ま》になりそうだからそろそろ帰ってもいいですか?」
ともはねは精一杯、明るくそう尋ねたが、
「ダメ」
あっさりと二人に却下されてしまった。
「これは君たちの問題でもあるのだぞ」
と、真《ま》面《じ》目《め》な顔の仮名に諭《さと》されて、彼女は仕方なさそうに肩を落とす。せめて一刻も早く終えてここから逃れたかった。
なんだかとっても嫌な予感がしていた。
仮名はポケットから桃色のタッパーを取り出し、蓋《ふた》を開けている。中には真白いパン生地のようなものがもっちりと詰まっていた。
「これが金《こん》色《じき》蜘《ぐ》蛛《も》の糸と蓮《はす》の実を混入した天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》特製トリ餅《もち》だ」
彼はそう言って実際に手に取ってみせた。
「ムジナはこれでしか捕まえることが出来ない。大丈夫。この通り、人や物にくっつくことはないから安心して取り扱ってくれ」
それから、彼はともはねに目を転じた。
「すまないが今は少しでも人手がいるんだ。川《かわ》平《ひら》薫《かおる》にも君のことは報告しておく。手伝ってくれるな?」
「あ、はい」
そう答えつつも、ともはねはそわそわと啓《けい》太《た》の方ばかり見ている。
一方、その啓太は妙な違和感を下腹部に覚えていて内心、ひどく首を傾《かし》げていた。
実はあまりにもその波が巨大過ぎるので、一体それがどういう性質のものかよく分かっていなかったのだ。ただ、なんとなく大きく頷《うなず》き、仮《かり》名《な》を見る。
「よし、やろうぜ!」
仮名も頷き返した。
三人はそうして、ゆっくり冷蔵庫に近づいていった。
「本当に良いんだな?」
と、仮名|史《し》郎《ろう》が小さな冷蔵庫の前に立って再び念を押した。啓太は深々と頷く。
「あんたが弁《べん》償《しょう》してくれるんならな。いくらでもどうぞ」
「……では」
仮名は静かに目を閉じる。右手にメリケンサックのようなものをはめ、意を込めた。
「エンジェル・ブレイド」
光の刃《やいば》が仮名の親指の方から伸びていき、それはたちまち先端に二つの羽を持つ不可思議な形の剣に姿を変えた。
「聖なる息吹よ、形をなして我が力となれ!」
必殺。
と、そこで彼は剣を大きく左右に振るい。
啓太とともはねは慌てて横に待《たい》避《ひ》していたが。
切った。
「ホーリー・クラッシュ!」
垂直に。
真っ直《す》ぐに。ざんと空気を薙《な》ぐ音がする。冷蔵庫の扉だけが縦《たて》にまっぷたつに割れた。音もなく。まるでチーズでも裂くように。凄《すさ》まじい威力だった。
ばったんと左右の部位が分かれて中身が露《あら》わになる。その途《と》端《たん》、ともはねが歓声を上げた。
「わ〜、可愛《かわい》い!」
啓太が鋭《するど》く耳打ちした。
「バカ、油断するな!」
中にいたのは白い毛皮の生物だった。確かにイタチやテンにちょっと似ていた。体長二十センチほど。冷蔵庫の奥のレトルト食品に背を預け、ビールの缶を大事そうに抱え込んでいる。
「きょろきょろきゅ〜?」
と、愛くるしく首を傾《かし》げてみせた。啓《けい》太《た》、にっこり笑いながらゆっくりと特製のトリ餅《もら》を近づけていく。
「ほら、怖《こわ》くない、怖くない。おいでおいで〜お兄ちゃんのとこおいで♪」
「きょろきょろきゅ〜?」
ともはねも同じように取り繕《つくろ》った笑顔でトリ餅を構えている。ムジナはぴすぴすと鼻を鳴らしていたが、すぐに剣を後ろ手に隠している仮《かり》名《な》を認め、
「きゅう─────────────!」
と、二本足で立って警《けい》戒《かい》音を発した。間髪入れず、啓太とともはねが同時に手を突き出す。ムジナはその間をかいくぐって、前に走り出していた。台所から稲妻のように曲がって部屋へ。卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の上で助走をつけると、凄《すさ》まじい身のこなしで電灯の笠《かき》に飛び乗った。
「こ、この!」
と、振り返ろうとした啓太は何かに引っ張られてどすんと尻《しり》餅をつく。よく見れば洋服の袖《そで》の部分が冷蔵庫に張りついてしまっていた。
ぎよっとしてムジナを見上げる。
その目が緑色に瞬《まばた》いていた。
「気をつけろ! 下手《へた》なものに触れるとくっつくぞ!」
代わりに仮《かり》名《な》が叫び、ジャンプして手を伸ばした。
背筋を大きく反《そ》らしたかなり良い跳《ちょう》躍《やく》だったが、あと数センチのところで及ばなかった。勢い余って彼は湯飲みや皿を巻き込んで卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の反対側に転がり込む。
ばきん。めしゃめしゃと何かが壊《こわ》れる音がした。
「きゅうきゅう♪」
ムジナは流しの上でくいくい腰を振って踊っている。
「えい! 大人《おとな》しくして!」
今度はともはねが飛びついたが、
「いったあ〜〜い!」
これもすかされる。ともはねは蛇《じゃ》口《ぐち》に額《ひたい》をぶつけ、フライパンやデンシレンジが落っこちてきて、ぼんと床の上で火花を立てた。
「おいこら! おれんち壊すな!」
啓《けい》太《た》は叫びながら服を力任せに引きちぎり、トリ餅《もち》を振り回す。飛び交うムジナをなんとか捕まえようとするが、これまた全《すべ》て空振りに終わる。
後はもうしっちゃかめっちゃかだった。
全てがくっついたり離れたり。
啓太の服があっちこっち破れて、ともはねの髪が床に張りついて彼女が泣き出して、結局、ムジナは割れた窓ガラスから外へ逃げ出して全てが終わってしまった。
「ち、ちくしょう!」
啓太が叫ぶ。ぐちゃぐちゃになった家具。まるで暴風雨が吹き荒れたようだった。
「川《かわ》平《ひら》、破損品は後でこちらが責任をもって弁《べん》償《しょう》する! まずは奴《やつ》を追うぞ!」
「おう! 逃がしてたまるかよ!」
と、啓太が呼応して玄関から飛び出そうとした途《と》端《たん》。
「い、いたい!」
足にひっついていたともはねが叫び声を上げ、啓太は見事にすっ転んだ。顔面をヤカンと束子《たわし》とテレビの合成物に突っ込む。
「て! な、なにしやがる!?」
赤くなった鼻を手で押さえ、反対側の拳《こぶし》を振り上げて、見れば涙目のともはねが必死に彼から足を離そうとしていた。足首から膝《ひざ》まで。ともはねの小さな左足と啓太の右足がぴったりと固定されてしまっている。
まるで二人三脚のようだった。
「とれない! とれないよう!」
ともはねは泣き出し始めた。啓太は焦りつつも叫ぶ。
「泣くな! 落ち着け!」
「落ち着けないよう! 待ってられないよう!」
ともはねの慌てぶりはただごとではない。啓《けい》太《た》は不《ふ》審《しん》に思い、何故《なぜ》か下腹部に先ほどにまして疼《とう》痛《つう》を感じ、同時に仮《かり》名《な》が声をかけてきたのでそちらを振り向く。
「川《かわ》平《ひら》!」
荒い息を切らしながら仮名|史《し》郎《ろう》が立っていた。
なんと彼はベッドを背中に背負っていた。それを担いで足を震《ふる》わせながら、険しい形《ぎょう》相《そう》で一歩、二歩、よろめいている。どうやら背中とベッドがくっついてしまったらしい。さすがに事態も忘れて啓太は噴《ふ》き出す。
「す、すごい体力だな」
「笑うな! 君たちだってこのままじゃ」
と、仮名は何か言いかけて啓太の顔が青ざめ始めたのを見て怪《け》訝《げん》そうに覗《のぞ》き込んだ。
「……どうした?」
「あ、いや」
啓太は冷や汗を掻《か》きながら、下腹部を押さえ力なく笑ってみせる。
「なんだろう……腹が急に」
う。
ごろごろごろきゅう〜〜〜〜〜。
もの凄《すご》い音がする。タイムリミットが迫っている合図だ。ともはねが盛大に泣き声を上げ、啓太はふとあることに気がついて。
本当に恐ろしい想像だったが。
恐る恐るともはねに尋ねてみる。
踏み潰《つぶ》されてぺっちゃんこになったチョコレートケーキの箱を指差しながら、
「ま、まさか、お前」
ともはねはわんわん泣きながら頷《うなず》く。
啓太、絶句。
「な、なんてことを……一体、なんてことをよりによってこの時にあほお──────!」
「ど、どうした?」
「だってだってええ〜〜。ようこをやっつけてやろうとしたんだもん!」
「おい、だから、どうしたんだ?」
「う。ぐ……せめて状況をかんが、え、ろ」
「だ、大丈夫か?」
崩れ落ちかける啓太。荒い息をつき、
「い、いいな? これはお前が招いた事態なんだぞ?」
その言葉にともはねはびくりとする。泣くのを止《や》め、啓《けい》太《た》の血走った目がどこに向いているかを認め、血の気を失う。
「い、いや」
「ぐ」
トイレだ。
「いやああああああああ───────────!」
絶叫して首を振るともはね。啓太はそれを無視。無《む》理《り》矢《や》理《り》、小さな身体《からだ》を抱え上げると茶色い扉に向かって突進する。大暴れするともはね。
「絶対、絶対、それだけは死んでもいやああああ────!」
「俺《おれ》がもう既に死にそうなんだよ!」
啓太はしゃにむに扉を開け、中に飛び込もうとする。脂汗を掻《か》きながら足踏み。左手でかちゃかちゃとベルトを解き、ズボンを降ろしていく。
「くく、く。あ、あかん。もうほんとあかん」
ともはねは半狂乱になりながら戸口で手と足を突っ張って、
「死ぬ! 死んじゃう! 本当に死んじゃうよお─────!」
啓太、顔面|蒼《そう》白《はく》。鬼の形《ぎょう》相《そう》でともはねを引っ張る。便座を降ろし、パンツに手をかけ、さらにともはねを引っ張る。ぐいぐい引っ張る。
ともはねも歯を食いしばって耐えていたがしょせん、子供の力。
指が一本、一本、剥《は》がれていき。
最終的に。
救いはなかった。
「あ」
薄《うす》暗《ぐら》い空間。一気に引き込まれていく。
「いやああああ──────────────!」
扉がぱたんと閉じる。地《じ》獄《ごく》の釜《かま》が閉じる。最後にそのエコーだけが確かに耳に届いた。青ざめ、立ち尽くしていた仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》。
思わず知らず十字を切っていた。
やがて水洗の音。
「くすん……ひっく」
精も根も尽き果てた顔でへたり込んでいるともはね。足が未《いま》だに啓太とくっついたままなので酷《ひど》く不自然な体勢だ。一方、啓太は彼女を引きずりながらトイレから出てきてかちゃかちゃとベルトをはめている。こちらはもの凄《すご》い仏《ぶっ》頂《ちょう》面《づら》で、頬《ほお》がかなりこけていた。
顔色が相当に悪い。
「だ、大丈夫か?」
というベッドを背負った仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の問いに、
「仮名さん、急ごう」
彼は険しい視線を向ける。ともはねがキッと顔を上げた。泣きはらして瞳《ひとみ》が真っ赤だったが、力が籠《こ》もっている。
「仮名様。行きましょう! 早くあの子、捕まえてこれを解《ほど》いて貰《もら》わないと!」
うむ。
仮名は頷《うなず》いた。
「よし! いくぞ!」
えいえいお───!
力強い唱和が返ってきた。
夏の暑い盛り。往来のアスファルトからは陽炎《かげろう》が立ち、辺りの景色は歪《ゆが》んで見える。街路|樹《じゅ》の木陰が目に鮮《あざ》やかで、日傘を差している人も多い。からりと晴れ渡った空から情け容赦なく降り注ぐ紫外線。
えっほえっほと声を合わせて少年と少女が走ってくる。
道行く人は振り返り、そちらを注視する。二人とも額《ひたい》に汗を浮かべ、もの凄《すご》く真剣な表情だ。運動会か何かの予行演習なのだろうか?
歩調を合わせ、少年は少女の肩に、少女は少年の腰に手をおき、走っていく。なんでこんな暑い日に二人三脚の練習?
と、思った次の瞬《しゅん》間《かん》、人々はさらにぎょっとする。
「ま、まってくれ」
蜃《しん》気《き》楼《ろう》のように異常な男が一人現れる。
コートを羽《は》織《お》って、あろうことか巨大なベッドを背負い、よろよろと歩いてくる。
朦《もう》朧《ろう》とした表情。
「まってくれ」
人々は慌てて道を開ける。男はべっちょりと崩れ落ちる。そのまま、どうと倒れ込んでベッドの下|敷《じ》きになったが誰《だれ》も怖がって近づこうとしなかった。
少年と少女もさらに駆けていって振り返ろうとしない。
「……なんか仮名様、後ろで倒れてなかった?」
と、ともはねが啓《けい》太《た》を見上げる。啓太は真《ま》っ直《す》ぐに視線を前に向けたまま、
「死して屍《しかばね》拾う者なし!」
ともはねもこくこくと力強く頷《うなず》く。二人はえっほえっほと声を合わせて街の商店街を駆け抜けていった。変な顔をして振り返る人も沢《たく》山《さん》いるがとりあえず一切、気にしない。
不思議なことに妙に息は合ってきていてペースはどんどん速くなっていく。
「こっちで間違いないんだな?」
啓太が息を切らしながら尋ねる。ともはねは叫んだ。
「あ〜〜、あそこだ!」
見れば正面に駐《ちゅう》車《しゃ》場が広がった大手のスーパーがあって、スイカや夏野菜などのセールを店頭で行っている。『半額!』とか『特価!』などの文字が黄色い紙に書かれてワゴンにぺたぺた貼《は》られていた。啓太とともはねは足並みを揃《そろ》えてその間を縫《ぬ》って中に入っていった。自動ドアが開くとひんやりとした冷気に身体《からだ》を包まれる。
汗が急速に引いていく感覚が分かった。
「どっちだ!?」
啓太は左右を見渡す。生《せい》鮮《せん》食品コーナー。日用雑貨売り場。レトルト食品に調味料が並べられた陳列棚。お菓子やパンが積まれた台。明るく清《せい》潔《けつ》で広々とした店内に、
「破《は》邪《じゃ》走《そう》光《こう》・発《はつ》露《ろ》×1! ともはねすぺしゃる!」
ともはねはリングをはめた右の親指を立てる。彼女が使う術。『探《たん》知《ち》』だ。それがぱたんとある方向に倒れた。
「いた!」
見ればピラミッド状にディスプレイされたビール缶の山の天《てっ》辺《ぺん》で、雪のように白い生き物が嬉《うれ》しそうに跳ね回っていた。
「きょろきょろきゅ〜」
その小さなピンク色の爪《つめ》は今まさにビール缶のプルトップにかかろうとしている。
「きゆ〜きゅ〜」
啓太とともはねは無言で頷き合った。幸いお客や店員はまだ誰《だれ》も気がついていない。そろりそろりと足音を殺して近づいていく。ムジナはきゅうきゅう鳴きながらプルトップを器用に開けると、ビール缶を抱え込み始めた。
吹き出す泡を口に含み、こくこくと喉《のど》を鳴らす。
「ぷは!」
満足そうに可愛《かわい》らしく吐息をついた。啓太とともはねは死角から回り込んでいく。気がつかれてはなんにもならない。
気《け》配《はい》を絶ち、息さえ詰め、手をわきわきさせながら慎重に慎重に。
爪《つま》先《さき》立ちで歩いていたその時。
「お客様、あの、失礼ですが一体なにをなさってるのですか?」
後ろから声をかけられた。二人はぎくりと固まる。振り返れば怪《け》訝《げん》な顔をした店員が一人立っていた。二人三脚で売り物に近づいていく不《ふ》審《しん》な少年少女二人組がいるのだから、それはある意味、当然の行為だったのだろう。
だが、明らかにタイミングが悪過ぎた。
「きょろきょろきゅう?」
ムジナが首を傾《かし》げた。強《こわ》張《ば》った笑顔の啓《けい》太《た》とともはねと視線がまともにぶつかる。
「きょろきょろきゅう〜〜〜!」
ムジナが二本足立ちになって警《けい》戒《かい》音を発したのとほとんど同時だった。
「あ、なにを!」
という店員の声を背に、
「突貫!」
啓太とともはねが駆け出していた。大きくジャンプしてビールのピラミッドの三段目辺りに飛び乗り、しゃにむに駆け上がっていく。
しゃかしゃかしゃかと手をつき、這《は》い上がる。
「くおうら! 大人《おとな》しくしろ!」
「ムジナさん! 逃げないで!」
しかし、その前にビールの山が二人の重量に耐えきれず雪崩《なだれ》を起こす。崩れ、崩落する直前、啓太は飛ぶ。手を思いっきり伸ばす。その先にムジナがいる。
きゅ。
と、身体《からだ》を捻《ひね》って。
掻《か》き消えた。
「いやああ─────!」
その瞬《しゅん》間《かん》、ともはねが悲鳴を上げて、転がり落ちた。
「ぐわいていていて! いてえ────!」
それに引きずられて啓太も床に転落。二回転して、背中を手ひどく打ちつけた。間髪入れずぼこんぼっこんビール缶が落下してくる。
啓太はともはねに覆《おお》い被《かぶ》さり、ついでに自分の頭も懸《けん》命《めい》に庇《かば》う。
辺り一面に悲鳴が上がっていた。
店員が何か怒鳴っている。
散乱したビール缶に足を取られる者。転ばないように咄《とっ》嗟《さ》に陳列台に手をかけ、それが原因で二次災害が簡単に起こる。缶詰や調味料の瓶が転がり出し、カートを押していた女性がすっ転ぶ。するとカートだけが走っていってお菓子の棚に突っ込み、子供が歓声を上げ、何故《なぜ》か散乱した品物を持って駆け出す者やそれを追いかける店員たち。袋から破れたポップコーンが宙を舞って視界が遮られた。
啓太は混乱のさなか、姿勢を低くして視線を巡らしていた。いた。見つけた。ムジナはぴょんぴょん跳ねながら店の外へ向かっている。彼はすかさずポケットに手を突っ込み、抜き打ちざま叫んだ。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ! 蛙《かえる》よ、破《は》砕《さい》せよ!」
そうして放たれた色とりどりの蛙のケシゴムは、ムジナの真横を滑るように追い抜き、自動ドアの前で炸《さく》裂《れつ》した。ぼんと音を立てて、煙と爆《ばく》発《はつ》が沸き起こる。
ムジナはその衝《しょう》撃《げき》に煽《あお》られてひっくり返った。
啓《けい》太《た》は即座にともはねを小《こ》脇《わき》に抱え、
「待てや、こら! こんちくしょうがあ───────!」
叫びながら走った。
きゅ?
ムジナはちらっと後ろを振り返って、もの凄《すご》い形《ぎょう》相《そう》の啓太が追いかけてくるのを認めて、
「きゅう─────────!」
慌てて逃げようとする。そこへ。
「のがさん!」
煙の奥からぬっと現れた男が一人いた。
「仮《かり》名《な》さん、ナイス!」
啓太が歓声を上げる。ベッドを背負った仮名|史《し》郎《ろう》が凛《り》々《り》しく、雄々しく両手を広げて立ち塞《ふさ》がっていた。艱《かん》難《なん》辛《しん》苦《く》の末に辿《たど》り着いていたのだ。
ほとんど変態的ななりだがこの際は頼もしく見える。
「とう!」
と、彼は駆け寄ってくるムジナに向かって手を伸ばす。しかし、ムジナは驚《きょう》異《い》的な加速をみせた。仮名の腕に飛び移り。
這《は》い上り。
頭の上でジャンプしてベッドを乗り越えると、
「きょろきょろきゅう〜〜〜〜〜!」
仮名の背後に回り込んでしまった。
「ぬ? お? お?」
仮名は間の抜けた声を上げて振り返ろうとする。そこへ啓太が突っ込んで来た。
「わ、わああ!! どいてどいて! どいてったら!」
サラダ油がこぼれていた床で滑ってしまう。啓太は手を振り回しながらバランスを崩す。口を大きく開けているともはね。次の瞬《しゅん》間《かん》。
「ぐわああ─────────!」
三者が激突した。
ついでベッドが倒れ込んできて全《すべ》てを押し潰《つぶ》した。がっしゃんと近くに落ちていたビール缶がダース単位で破裂して、凄《すご》い音がした。
ビールが噴《ふん》水《すい》のようにぴゅーっと噴《ふ》き上がる。
「きょろきょろきゅう〜♪」
勝ち誇ったムジナが木枠の壊《こわ》れたベッドの上に君《くん》臨《りん》して二、三度飛び跳ねた。その目がきらりと緑色に瞬《またた》く。
後はぴょんぴょん跳ねて悠々、スーパーから出ていってしまった。
しばらくして、
「あ、いったあ〜〜」
と、少し涙目のともはねがベッドの残《ざん》骸《がい》から這《は》い出してきた。彼女は自分のふくらはぎを撫《な》でさすって啓《けい》太《た》から離れていることにふと気がつく。
「あ!」
ぱっぱっと身体《からだ》全体を確かめたが、どこにもくっついていない。
「やった! やったよ! 外れたよ!」
ベッドの下から続いて抜け出してきた啓太と仮《かり》名《な》に向かってそう呼びかけ。
あんぐり口を開けた。
今度は啓太と仮名がくっついてしまっていた。
喫茶店『レ・ザルブル』のウエイトレスはからんと鈴が鳴る音を耳にして顔を上げた。見ればドアのところに小学生くらいの女の子が立っている。
彼女ははにかむような上目遣いでこちらを見つめてきた。
おずおずと、
「……えっと、三人なんですけど、いいですか?」
ウエイトレスは微笑《ほほえ》んだ。実に可愛《かわい》らしいお客様のご入店だ。あとの二人は彼女のご両親か何かなのだろうか?
「いらっしゃいませ。さあ、どうぞ、こちらへ」
と、メニューを持って案内しかけてウエイトレスは固まる。
少女が振り返って「お〜い」と呼んだその先から、異常な格好の男二人が入ってくるのを認めたからだ。この真夏に真っ黒いコートを羽《は》織《お》った男と、服のあちらこちらが破れた変な少年だったが、それは別にどうでもいい。
本当に些《さ》細《さい》なことだった。
それよりさらに異常なことがあった。
頬《ほお》と頬をぴったりくっつけ合っているのだ。男二人が。濃《のう》厚《こう》に。これ以上ないというくらい顔を寄せ合っている。真夏の男二人。カニだ。
ウエイトレスは咄《とっ》嗟《さ》にそう思った。
ホモのカニだ。
「……」
「失礼する」
二人は本当のカニのように横ばいになって入ってくる。
「いて、いてえよ!」
少年が戸口のところでつっかえて文句を言うと、黒いコートの男が無言で身体《からだ》をずらして姿勢を入れ替えた。それでようやくカウンターの前を通り過ぎていく。
カニのように。
しゃかしゃかとした足取りで前に進む男二人。寄せ合っている頬《ほお》と頬。
「は、はは」
気にしないで。
と、少年が愛想笑いをして手を振ったが、ウエイトレスは引き攣《つ》った笑いでメニューを取り落としてしまっていた。
「おい、やばいよ。あの姉ちゃん、どっかに電話してるよ」
啓《けい》太《た》がカウンターの方を見ながら囁《ささや》いた。ひそひそとこちらを見ている他《ほか》の店員やお客。啓太と視線が合うと慌てて目をそらしていく。
「……警《けい》察《さつ》に通報されないことを我らの神に祈ろう」
と、仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》が哀《かな》しそうに十字を切った。二人は窓際の席にタイミングを合わせて、腰を下ろす。もの凄《すご》く不自然な体勢である。
普通に座っているのに、頬と頬だけは仲良く寄せ合っている男二人。
ホモカニ。
と、どこかで誰《だれ》かが呟《つぶや》いているのが聞こえる。
「ぷ、ぷぷぷ」
反対側に座ったともはねが顔を真っ赤にして口元を押さえた。油断すると噴《ふ》き出してしまいそうだった。仮名と啓太は思いっきり真顔で噛《か》みつくように、
「笑うな! こっちは洒落《しゃれ》や冗談でこんなことしてるんじゃねえんだ!」
「そうだぞ。少し不《ふ》謹《きん》慎《しん》だな、ともはね」
そう言う。
お、お願い。
「その顔を二つ一緒に突き出さないで」
ともはねはもう限界だ。身をよじって耐えている。注文を取りに来たウエイトレスが震《ふる》えながら立っていた。彼女もまた笑いを堪《こら》えるかのように目に涙を浮かべている。
「あ、あのご注文は?」
「こ、コーラください」
「あ、え〜と、俺《おれ》、アイスコーヒーね」
「私はダージリンティーを貰《もら》おう。ホットで」
二人はメニューを仲良く眺め、同じタイミングでくりんと顔を向けてくる。ウエイトレスはとうとう我慢しきれなくなって復唱もせずに厨《ちゅう》房《ぼう》の方へ駆けていった。
「全く、失礼な女だ……」
「うんうん。店員教育がなってないな、この店は」
と、もっともらしく頷《うなず》く仮《かり》名《な》と啓《けい》太《た》。それも全く同時の動きだった。とうとうともはねが爆《ばく》発《はつ》的に笑い出した。
ひとしきりともはねに大笑いされた後で、注文の品々が届き、三人は作戦会議を開く。
「しかし、このうえなく不便な格好だぜ」
と、啓太が口火を切った。右手を思いっきり伸ばして運ばれてきたアイスコーヒーに手をつけ、口元に運ぶ。
仮名もかなり苦労しながら紅茶を啜《すす》っていた。
「そうだ。さっき不思議に思ったのだが、君たちは一直線にあのスーパーに向かっていたな。あれは一体どうして分かったんだ?」
という彼の問いに、啓《けい》太《た》はともはねを指差して答えた。
「あ、それこいつだよ。こいつさ、結構、凄《すご》い能力があるんだ」
ともはねはちょっと得意そうに笑ってみせた。自分の右手の親指を立てて、
「あたし、『しーかー』だもん!」
見ると、そこに小さなリングがはまっている。
「あ、それ」
啓太が呟《つぶや》いた。
「なでしこちゃんも確か同じものつけていたな……」
彼女のリングは左手の薬指に、だったが。
「なんなんだ、それ?」
「あのね、なでしこは『さてらいと』なの」
と、ともはねは説明していく。
川《かわ》平《ひら》薫《かおる》に仕える犬《いぬ》神《かみ》はそれぞれ契約の証《あかし》となるリングを指にはめている。例えばともはねは右手の親指に、なでしこは左手の薬指につけているが、それは薫の指に存在しているものとそれぞれ呼応している。啓太の首輪やようこの蛙《かえる》のチェーンと同じ原理だ。
「そうか。だから、川平薫は十本の指|全《すべ》てにリングをしていたのだな……」
何かを思い出すように仮《かり》名《な》が目を細めた。
「……ずいぶんともてもてなことで」
と、何故《なぜ》かすねたような顔でグラスをこね回す啓太。仮名はさらに尋ねた。
「で、その『しーかー』とか『さてらいと』とはなんなんだ?」
「えっとですね」
ともはねは困ったように眉《まゆ》根《ね》を寄せた。
「どうお話しすればいいのかな? あたしたちそれぞれの役割に応じて力を使うんです。薫様が決めたんだけど……あたしが持っている力が『しーかー』。要するにレーダーなんです。探し物の場所を当てることが出来たりします」
「なるほど……霊《れい》気《き》を探知するのか?」
「いえ……というより占いに近いモノだと思います」
「ふむ。なるほど」
仮名は苦労して腕を組む。啓太はジェスチャーで示した。
「親指をこんな風にぱたんて倒してたな。確かに棒きれで分かれ道を占ううううう」
ん?
と、仮名が怪《け》訝《げん》そうな顔になる。壊《こわ》れたレコーダーのように「う〜う〜」捻《うな》り始めた啓太。頭を前|屈《かが》みに倒し始めたので仮名もそれにつられていく。
「お、おい、どうしたんだ?」
仮《かり》名《な》からは啓《けい》太《た》がどういう状態だかよく分からない。すがるように前のともはねを見つめる。ともはね、泣き笑いのような表情でゆっくり首を横に振った。
仮名は青ざめた。
「ま、まさか……」
そのまさかだった。
啓太が乾いた笑いを一つ漏らす。
「仮名さん……………………悪い」
うわああああ!
と、飛び退《の》く仮名|史《し》郎《ろう》。それに無《む》理《り》矢《や》理《り》、引っ張られる啓太。
「わ、いていていてええよ!」
「だ、ダメだダメだダメだ! さっきの場合はともはねが小さかったからまだ何とかなったが男二人では到底、個室に入りきらんぞ!」
「だって、しかたねえだろ! なら、俺《おれ》に一体どうしろっていうんだよ?」
「堪《こら》えろ! 我慢できないのか!?」
「絶対、無理!」
う。
と、啓太の顔が一気に青ざめる。
「きた、きた。きたきたきたきたきた……超びっくうえ〜ぶ」
爪《つま》先《さき》立ちになって腰を落とす。もじもじと太《ふと》股《もも》と太股を擦《こす》り合わせる。
「あう」
「……おい、川《かわ》平《ひら》?」
「おう」
「し、しっかりしろ?」
「か、かりなさん……俺、俺もう」
「わ、分かった! 分かったから絶対ここでするな! したら本気で怒るぞ! 怒るからな!」
そうして、大声を張り上げる。
「店主、トイレはどこだ!?」
そのもの凄《すご》い剣幕に近くにいたウエイトレスが慌てて奥の扉を指差す。きっとそちらを睨《にら》む仮名。
「いくぞ!」
と、かけ声をかけてまず左足を踏み出した。それに震《ふる》える歩調で合わせる啓太。顔面|蒼《そう》白《はく》で腹をフラフープでもするかのようにゆらゆらくねらせている。
「ほら、気合いを入れろ!」
「か、かりなさん……お、俺《おれ》……俺」
「バ、バカ! 歩け! 歩くんだ! 絶対、最後の最後まで諦《あきら》めるんじゃない!」
「あ」
「頼む! 諦めないでくれええ─────!」
実に悲痛で切実な叫び。
ほら。
「あう」
よいしょ。
「おう」
そんな奇妙な合いの手を入れながら男二人は二人三脚で店の奥へと駆け込んでいく。呆《ぼう》然《ぜん》と見送る客。冷や汗をたらたら掻《か》いているともはね。
彼らが出ていくと一斉に沈《ちん》黙《もく》が解け、それぞれが今、目《もく》撃《げき》したことを声高に語り合う。中にはともはねの方を見てくる者もいた。
だが、ともはねはじっと考え込んでいる。事態を悪化させたのは間違いなく自分だ。その償《つぐな》いだけは絶対しなければならない。
一人では力が足りないことも、何を優先しなければいけないかも分かっている。
ともはねは一つ頷《うなず》いた。
「電話、貸してください!」
今こそ犬《いぬ》神《かみ》の本領を発揮する時だと信じていた。
こっぴどく叱《しか》られるのはもう覚悟の上だった。
今度の噴《ふん》火《か》は最大級だった。二人は小一時間ほど個室に立て籠《こ》もり、恐らく共に人生で最悪の時を過ごす。
捻《うな》り声。絶叫。阿《あ》修《しゅ》羅《ら》もかくやという雄《お》叫《たけ》び。地《じ》獄《ごく》のような責め苦。新しく店内に入ってきた客が慌てて逃げるほどの凄《すさ》まじい物音だった。
全《すべ》てが終わってじゃーと水洗が流れる音がして、二人はがちゃりと個室から開放される。
仮《かり》名《な》はよろけながら洗面台にしがみつき、たった一言、呟《つぶや》いた。
「……わ、私はこの時のことをきっと生涯忘れないと思う」
灰色になって全てを燃やし尽くした表情をしていた。
「頼む。一分一秒でも早く忘れてくれ」
と、啓《けい》太《た》。顔が幽鬼のようにやせこけ、真っ青だった。二人はふらふらと足取りを合わせて念入りに手を洗い、男子トイレの外に顔を出す。
その時。
「お待ち申し上げておりました」
涼やかで気品のある声が聞こえてきた。啓《けい》太《た》も仮《かり》名《な》も思わず言葉を失う。狭い個室で悲惨な時を過ごして出てくれば、いつの間にか店内に花が咲きこぼれていたかのような。
そんな錯《さっ》覚《かく》を覚えた。
「仮名|史《し》郎《ろう》様ならびに川《かわ》平《ひら》啓太様。この度は私どものともはねがとんでもない不始末をしでかしお詫《わ》びのしようもございません。このせんだん、主人に成り代わりまして心よりお詫びを申し上げます」
そう口上を述べているのはゴージャスな赤毛の美少女だった。
他《ほか》にもいずれ容色劣らぬ少女が八人ずらりと勢|揃《ぞろ》いしている。片|膝《ひざ》を突き、片手の拳《こぶし》を床につけ、左端のせんだん以外は全員、綺《き》麗《れい》に頭を下げていた。
壮観だった。
揃いの赤いチャイナ服。金糸と銀糸で金色の満月と銀色の三日月があしらわれている。スリットはかなり大胆だったが、九人の持つ清涼な雰囲気で決していやらしくは見えなかった。いつの間に着替えたのかともはねもまた同じ格《かっ》好《こう》をして神妙に一礼をしていた。
啓太は戸惑いながら尋ねた。
「お、お前ら薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》だろう? どうしたんだよ、こんなに揃って」
「啓太様」
せんだんは涼しげな青い瞳《ひとみ》で彼を見上げた。
「我ら一同、主人の命により及ばずながら仮名様と啓太様のお手伝いをさせて頂こうとこうして馳《は》せ参じました。お二方にはご恩もございますし、ムジナを捕まえることは我らの仲間、なでしこのためでもあります。どうぞお認め下さいますようお願い申し上げます」
そうせんだんが告げて、自分も頭を下げる。すると残りの八人が一斉に唱和した。
「お願いします!」
ひゅ〜と口笛を吹く啓太。
仮名史郎は力強く拳を握り込んだ。
「ありがたい! 是非、宜《よろ》しく頼む!」
せんだんは再び顔を上げ、その美《び》貌《ぼう》を柔らかく綻《ほころ》ばせた。
「ありがとうございます。では、早速ですが薫様から献案が一つございます」
そうして、せんだんはムジナ捕《ほ》獲《かく》作戦の全容を説明し始めた。
もし濫《おり》から逃げ出していなかったら。
と、ムジナは塀の上を疾走しながら考える。自分はきっと今年の夏を氷で出来た小屋の中でのんびり過ごしていたことだろう。
あの変な人間たちがいる場所はそんなに居心地が悪くもなかった。
ムジナは六年前にも一回捕まっていたが、その時はかなり贅《ぜい》沢《たく》な待遇で迎えられていた。まず氷は常に潤《じゅん》沢《たく》にあったし、お酒は毎日、特級酒が気前よく振る舞われていた。血を抜かれるといってもほんのわずか二、三滴だったし、別に痛いというほどでもなかった。
死ぬほど暑い外の環境を思えば、極楽のような場所だったような気もする。ただ。
と、ムジナは小さな頭で考える。
たった一つだけどうしても我慢出来ないことがあった。ごく小さなことだが、それは結局どんな厚遇の代《だい》償《しょう》にもならなかった。
だから、ムジナは脱走という選択肢を選んだのだ。
誇り高いムジナには許せなかった。
二本足で歩かないからといって。
寝込みをいきなり襲《おそ》われて。
言葉だって大体、分かるのだ。
それを……。
ケモノのように有無を言わさずトリ餅《もち》で捕まえるなんて!
ムジナは闇《やみ》雲《くも》に逃げ回っていた。どういう訳だか、突如として街のあちらこちらから真っ赤な服の犬《いぬ》神《かみ》たちが現れて、自分を追いかけ回し始めていた。さすがに旋回速度や反射神経では自分の方が遙《はる》かに上だが、彼女たちは巧妙に連携を取って行く先々に回り込んできた。
しかも、さっきの間抜けな人間たちと違って二本足でただのたのた走るのではなく、びゅんびゅんと宙を高速で飛んでくる。結構、厄介だった。
一人をかわして路地の裏に逃げ込んだらその先に三人いた。
慌てて塀の上を駆け上がったら屋根の上に四人もいた。
振り切っても振り切っても彼女たちはトリ餅片手に追いすがっている。じりじりと照りつける太陽。ムジナは暑さが大の苦手だった。
なんであんな目立つなりをして追いかけてくるのだろう。
という疑問はその暑さの前に簡単に溶解する。元々、ムジナは複雑なことを考えられるほど脳の許容量が大きくなかった。影を求めて、涼を求めてひたすら逃げまどううちに巧妙に一カ所に追い立てられていく。しかし、そのことにはまるで気がついていなかった。
見つけたのは大きな建物だった。
ムジナは、
「きょろきょろきゅ〜〜〜!」
と、歓声を上げた。本能的に分かった。そこは涼しい場所だ。
何故《なぜ》か開いていた玄関を疾風のように駆け抜けて中に飛び込む。案の定、素《す》晴《ば》らしい光景が目の前に広がっていた。床一面に氷が張られている。
ムジナは嬉《うれ》しくて転がり回った。
「きゅ〜〜きゅう〜〜〜」
そうやって心ゆくまで氷を堪能していると、今まで暗かった照明が出し抜けに灯《とも》った。ムジナがはっとして顔を上げると、天井近くから七色の光線が床に降ってきて、めまぐるしく入り乱れた。それに激しいテンポの音楽まで付け加わる。
くるくる回っていた真白い光が綺《き》麗《れい》に一つに絞られ、いつの間にかその中心に変な靴を履《は》いた人間が二人立っていた。
「はははは、こんちくしょうめが! もう逃げられねえぜ!」
と、若い方が指を突きつけてくる。
「観念して投降しろ!」
と、髪を後ろに撫《な》でつけた男前が言う。彼らは肩を組むとせ〜のっとかけ声をかけて氷の上を滑ってきた。ムジナは一《いっ》瞬《しゅん》、呆《あっ》気《け》にとられてそちらを見つめた。全く見たこともない移動の仕方だった。さらにいつの間にか全方位。
建物の天井近くに犬《いぬ》神《かみ》たちが浮かんでいて彼を取り巻いていた。
「きょろきょろきゅう─────────!」
ムジナは慌てふためく。
「いくわよ!」
と、そのうちの一人が叫んで彼女たちが我《われ》先に襲《おそ》いかかってきた。四方八方から手当たり次第に伸びてくるトリ餅《もち》を持った白い手。白い手。ムジナは懸《けん》命《めい》に避《さ》ける。逃げる。急旋回に急降下。だが、包囲網がどんどん狭まってきた。
さらにその間をかいくぐって人間たちが追いかけてくる。
しつこい!
その緑の瞳《ひとみ》が輝《かがや》いた瞬間、人間二人は固定から解き放たれ、バランスを崩した。彼らはもつれ合うようにして、そのまま壁《かべ》に激突。複雑に絡まったところを再度くっつけてやった。しーんと静まり返る氷上。その中を彼らはゆっくり起き上がってくる。
犬神たちが動きを止め、一斉にどよめいていた。
ムジナもそちらを見つめて、思わず鳥肌を立てる。
「ホモの手押し車……」
と、犬神の一人が呟《つぶや》いているのが聞こえた。ムジナは恐怖にうち震《ふる》えた。その姿は異様だった。若い方は素手を氷の上に直接つけ。
男前は若い方の両足を肩で担いで。
二人一緒にしゃかしゃかと突進してくる。
目を血走らせた若い方が吠《ほ》えた。
「のがすかああああああ──────────────!」
「きょろきょろきゅう────────!」
逃げようにも腰が抜けてしまって動けない自分がいる。男二人はジャンプ。気がつけばムジナは若い方に捕まっていた。
終わった。全《すべ》てが終わってしまった。
「きゅう」
と、力なく首を落とし、鳴くムジナ。
いつの間にか音楽が鳴り止《や》み、照明も元に戻っていた。若い方が狂ったような笑い声を上げながら手に力を込めている。
「さあ、どうしてくれようか一体どうしてくれようか!」
ムジナはふいっとそっぽを向いた。殺すなら殺せ。血を搾《しぼ》りたいなら搾りたいだけ勝手に搾り取れ。そんな思いだった。
すると、
「啓太様」
と、どこか遠《えん》慮《りょ》がちな声が聞こえて自分の身体《からだ》はそっと柔らかな手の平に移された。
声だけで分かった。あの小さな犬《いぬ》神《かみ》だった。
「あのね、散々、追いかけ回してゴメンなさい、ムジナさん」
お下げの彼女は申し訳なさそうにそう言う。
「でも、ごめんなさい。あなたの血がないとあたしたちの仲間が病気にかかってしまうかもしれないの。だから、お願い。ほんの少しだけ協力して」
「……」
「ね?」
と、彼女は顔を覗《のぞ》き込んでくる。
「お願い」
そっと背中の毛を撫《な》でられた。
「きょろきょろきゅ!」
ムジナは全ての固定を解く。
ふいっと照れたように反対側にそっぽを向きながら思っていた。
そういうことはさっさと言え!
こんな時に天《あま》の岩《いわ》戸《と》を思い出す自分を可笑《おか》しく思いながら、大分、感覚が麻《ま》痺《ひ》しているのだと思い直してともはねは首を振った。
男子トイレの入り口という禁断の線を自分の意志で踏み越え、「ああ、これで今度こそ汚れてしまったんだ」という感《かん》慨《がい》が込み上げてくる。
四つ並んだ個室の、たった一つだけ固く閉ざされた扉の奥に向かって恐る恐る声をかけた。
「あ、あの啓《けい》太《た》様?」
啓太がスケート場内の男子トイレに閉じ籠《こ》もってから既に二時間以上|経《た》つ。
「……生きてます?」
「……」
どうやら最後の最後にお腹《なか》を氷で冷やしたのが致命的に良くなかったらしい。うめき声も、いきむ声も、なんにも聞こえなかった。呼吸をしているかどうかすら怪しい。
ともはねは不安になった。
もしかして、本当に死んでるのでは?
と、さらに一歩、奥へ踏み込んだ時、弱々しい声が返ってきた。
「……ともはねかあ? ムジナは……どうしたあ?」
「あ、せんだんたちが天《てん》地《ち》開《かい》闢《びゃく》医《い》局《きょく》へ届けに行っています」
「か、かりなさんは?」
「事後処理をしに行かれました」
このスケート場を借り切ったのは正確には薫《かおる》の手配だが、滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》にしてしまったスーパーマーケットのこともある。
とりあえず、啓太と離れられて嬉《うれ》しそうだった。
「くれぐれも啓太様に宜《よろ》しく。一両日中に報酬は支払う。君の協力に心から感《かん》謝《しゃ》する。ありがとう、お大事に。だそうです」
「そうかあ」
と、哀《かな》しげな声が聞こえてきた。ともはねはぺこりと頭を下げた。
勢いよく、
「ごめんなさい!」
「……」
「本当に本当にごめんなさい!」
長い沈《ちん》黙《もく》の後。
「……俺《おれ》、もう貰《もら》いもんのチョコレートケーキは絶対くわねえ」
そんな言葉が奥の個室から漏れてきた。からからからとトイレットペーパーの回る音。水が盛大に流れてしばらくして、啓太はよろよろと出てくる。
「うう、もう全部、でちまったけど」
ともはねは思わず啓太に走り寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
「ようこ」
「え?」
「あいつにも謝《あやま》っとけ」
「……」
「いや、なんだか知らないけど、ようこと張り合ってるんだろう? 殴り合っても喧《けん》嘩《か》しても何してもいいけどさ、こういうのはやめろ。頼むからやめてくれ」
啓《けい》太《た》は溜《ため》息《いき》をつきながら手を洗う。ともはねは、はいと小さな声で呟《つぶや》いていた。顔を下に向け、頷《うなず》く。
「それでですね。償《つぐな》いというか、なんというか……啓太様の体調が良くなるまでの間、薫《かおる》様から提案が一つあるんですけど」
それを黙《だま》って聞いていた啓太の顔に驚《おどろ》きと喜びのない交ぜになった表情が浮かぶ。
「ほ、ほんと!?」
ともはねは微笑《ほほえ》み頷き返しながら、心の中で密《ひそ》かに謝っていた。
みんな、ごめん!
三日後。古いアパートの階段をとんとんとんと元気良く上がっていく少女がいる。レモンイエローのワンピースに麦わら帽子。涼しそうな格好のようこだ。
彼女は二階まで駆け上がるとくるりと振り返った。
「ほら、なでしこ。早く早く!」
手招きする。なでしこは微笑みながらゆっくりと後に続いた。二人は定期検診が滞りなく終わったので、予定より早く帰ってきたのだ。
「ようこさん、元気ですねえ〜」
と、なでしこが言う。風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを担いだ彼女はようこに誘われて一休みしに来ていた。
「だって、久しぶりにケイタと会えるんだもん♪ も〜嬉《うれ》しくて嬉しくて」
くすくすと笑っているなでしこ。
「ま、ごちそうさま」
ようこは被《かぶ》っていた麦わら帽子の縁《ふち》を左右の指で摘《つま》み、くるくると回る。喜びをこらえきれないかのように大きく跳ねると、玄関の扉に手をかけ、
「たっだいまあ〜! ケイタ、あのね、あのね、わたしね」
と、言いかけて彼女は凍りつく。あ、と中にいた啓太も固まっていた。一《いっ》瞬《しゅん》、部屋を間違えたのかとも思った。
だが、啓太がいる。
やっぱり間違いじゃない。見たところ全然、別の部屋だった。
まず家具がぴかぴかの新品だった。
壁《かべ》紙やカーテンまで真新しかった。
それに啓《けい》太《た》はベッドの上にいた。病人が着るような白い寝間着姿。大きく口を開けている。そこへ匙《さじ》を差し込んでいるのはショートカットの美少女。
これ幸いとそそくさ啓太から離れた。
「……なにしてるの?」
と、異様に低い声でようこが言う。
その前にいた二人が慌てて道をあけた。
「わたしがいない間、ケイタは一体なにをしていたの?」
ようこの肩が怒りのあまり小刻みに震《ふる》え出している。一歩、踏み出すと炎が螺《ら》旋《せん》状に吹き上がった。
他《ほか》の少女たちはあたふたと壁《かべ》際《ぎわ》に待《たい》避《ひ》していく。
啓太は必死で手を振った。
「ま、待て! これはだな! なんというか正当な報酬というか必要な介《かい》護《ご》というか! 俺《おれ》は病気! そう、病気だったんだよ!」
「なら、その服は一体、何?」
狭い六畳間に美少女が四人。その全員が全員、色とりどりの水着姿だった。この三日間、啓太の我が儘《まま》を聞いて介抱したり、料理を作ったり、掃除をしたり、話し相手になったりしていたのだ。
やましいことはなんにもしてない。
そう思っても啓太の震えは何故《なぜ》だか止まらない。
「あ、いや、違うんだ! これはただのお茶《ちゃ》目《め》な男の遊び心……って、いや、待て! おい待て! こら、ちょっと待て!」
啓太の声が悲鳴に変わりつつある。ようこが爪《つめ》をわきわきさせてベッドに近づくたびに新調した家具がぼん、ぼんと音を立てて弾《はじ》けていく。
凄《すさ》まじい霊《れい》力《りょく》の凝《ぎょう》集《しゅう》。
「いやあああああ────────!」
と、啓太がともはねのように身をすくめた瞬《しゅん》間《かん》。
犬《いぬ》神《かみ》たちは一斉に部屋の中から飛び出していた。
背後で。
大|爆《ばく》発《はつ》。
窓から吹き上がる炎と飛び出してくる家具。断続的な金切り声と悲鳴。スーツ姿の通行人も塀の上を歩いていた野《の》良《ら》猫も思わず立ち止まって突如、沸《わ》き起こった騒《さわ》ぎに見入っている。他の三人はさばさばした表情だったが、なでしこと志願して啓太の世話をしていたともはね(同じく自主的にフリルの水着姿)だけは不安そうにしていた。
二人並んでアパートの前に立っている。
「……あれで啓《けい》太《た》様の今回の稼《かせ》ぎ、全部、修理代で飛んじゃうね」
ともはねがぽつりとそう呟《つぶや》く。
「もしかしたら大赤字かも」
「一体、なにがあったの?」
と、なでしこ。ともはねは疲れたように溜《ため》息《いき》をつく。
「色々とね……あったんだよ」
妙に影のある表情である。汚れを知ってしまったというか、なんというか。
「……そう」
なでしこはそれ以上、とくに詮《せん》索《さく》しようともせず頷《うなず》く。ともはねは他《ほか》の三人が去っていくのを確認してから小声でそっと尋ねた。
「ねえ、なでしこ」
「うん?」
「あのさ、毎年、バレンタイン・デーに薫《かおる》様がどこへ行くか知ってた? あんたなら多分、知ってると思うんだけど」
「……うん」
「やっぱり」
と、ともはねはまた吐息をついた。
「あたし、今回、初めて聞かされたんだけど、啓太様と会ってたんだってね」
「……」
「……啓太様って女好きでほんとどうしようもない人だけどさ」
「……うん」
「薫様とどっか似てるね」
その言葉に。
なでしこは困ったような笑みを浮かべた。
ともはねを無言で見やり、指を一本立てて唇の前にそっと近づける。軽くウインク。最初、きょとんとしていたともはねだが、そのジェスチャーの意味が徐々に頭の中に染み渡っていくにつれ可笑《おか》しそうな表情になる。
「あははははは、そうか! そうだよね! それもそうだよね!」
元気良く笑って彼女も、
「ほんと絶対、シーだ!」
片目をつむってみせた。
そうして、二人は初めて本当の姉妹のように仲良く手を繋《つな》いだ。
「あ、ケ、ケイタ! 痛い! 痛いよ!」
ベッドがぎしぎし軋《きし》む音。
「もっと優しくしてよお! あう! お願いだよ〜」
はけは固まっていた。
「く! 動くな!」
啓《けい》太《た》の押し殺した声。汗に濡《ぬ》れたような、食いしばった歯から漏らすような声。ん、ん、んというリズミカルな声。
苦痛と歓喜のない交ぜになったようこの声。
はけは真白い指を額《ひたい》に当て苦《く》慮《りょ》していた。
「い、いやあ─────! ケイタ、そこ見ちゃダメ! 裏返しちゃダメだったら! いや、お願い見ないで! 見ないで────!」
「やかましい! こうしなきゃできないだろう!? ほらよ!」
「あう!」
「おらおらおらおら!」
追いつめていく。ようこの泣きじゃくる声。
「うう……ひどい。ひ、ひどいよ……いきなりこんなに乱暴に。ケイタ、痛くしないでって言ったのに」
くすんと鼻を啜《すす》る。啓太の笑う声。
「あ〜。そりゃ、方便だ。誰《だれ》でも最初は多少は痛いさ……特にお前は無駄に毛が多いしな」
「ねえ、お願い。信じてね。わたし、こんな恥ずかしいこと生まれて初めてなんだよ? ホントのホントに初めてだったんだからね?」
「あ? 俺《おれ》だってそりゃ、そうだよ」
「うそ」
少し涙目。
「みょ〜に手慣れてるもん。きっとどこかの子によくしてたんでしょ?」
「う〜ん。そういや……昔、二、三回、あったかもしれない」
「やっぱり……その子とわたしとどっちがいい?」
「お前の方が余計、手間がかかる」
きっぱりとした啓太の声。はけはタイミングを見計らっていた。ようこの声が少し落ち着きを取り戻し始めている。
「ふう。でも、だんだん、気持ちよくなってきた……あう〜」
「現金な奴《やつ》だぜ、全く」
啓太の苦笑。ようこのはにかむような上目遣いが見えた。彼女は上半身裸の啓太の胸にもたれかかり、細い指で「の」の字を書いていた。
「……だって、ケイタ、上手《うま》いんだもん」
「あの、……先ほどから何をやってらっしゃるんですか?」
とうとう我慢できなくなったはけが暗《くら》闇《やみ》からすうっと崩れ落ちて、部屋の中で姿を取った、その途《と》端《たん》、ようこは悲鳴を上げて毛布の中に顔を突っ込む。
白い足をじたばたさせて、いやいやをした。
「いやああ───! 見ないで! はけ! お願い、見ないで!」
はけは面食らって啓《けい》太《た》を見つめる。啓太は困ったような笑顔で頬《ほお》をぽりぽり掻《か》いてから、天井を見上げ、
「ん〜、ノミ取り?」
そう答えた。
汚れてしまったわたしを見ないで……。
そう呟《つぶや》いてひんひん泣いているようこ。啓太は彼女の頭を軽く叩《たた》きながら苦笑していた。
「あのな、こいつよく近所の野《の》良《ら》猫と遊んでいるだろ?」
「はあ」
「その時、どうもたちの悪いノミをうつされてきたらしいんだわ」
啓太は自分の二の腕を忙《せわ》しなく掻きながら、
「最近、俺《おれ》もやたらと痒《かゆ》いしさ。こいつはこいつで挙《きょ》動《どう》不《ふ》審《しん》だったから、問いつめたらあっさり白状しやがったんだよ。ほら、もう泣くな」
啓太は金ダライに浸《つ》かっていたようこの尻尾《しっぽ》を取り出し、タオルで手早く拭《ふ》き始めた。ようこはくすんと頷《うなず》く。
はけは呆《あっ》気《け》にとられていた。なるほど言われてみれば、ようこは青い水着姿だし、啓太は裸足にジーパンで、広げた新聞紙。毛|梳《す》き用のブラシ。泡だった金ダライ。薬用シャンプー。大きな虫|眼鏡《めがね》などが散乱していた。
それから、はっと我に返って慌てて周囲を見回した。
「あ〜、そうですか。では、お取り込み中のところお邪《じゃ》魔《ま》をするのも申し訳ないので」
彼はこほんと咳《せき》払《ばら》いをすると、懐《ふところ》から白い封筒を取り出した、
「招待状です。どうぞ振るってご参加下さい」
「あ、ああ」
それを困惑顔の啓太に無《む》理《り》矢《や》理《り》、押しつけると、
「詳細はそこに書いてあります」
そそくさと手を振り、取り繕《つくろ》った笑顔で、
「では!」
天井の暗がりの一角に飛び込み、たちまち掻《か》き消えた。一《いっ》瞬《しゅん》の早業だった。啓《けい》太《た》はそれを見送ってからぽつりと一言。
「逃げたな……妖《よう》怪《かい》ノミ女から」
ようこが再び、わ〜んと盛大に泣き出した。
なま暖かい春の夜空を飛びながら少し薄《はく》情《じょう》だったかな、とはけは思い返す。だが、この際は仕方ないのだろう。例え、犬《いぬ》神《かみ》中最強に近いはけといえど、あの小さな、性悪い寄生者に対してはなんら有効な手だてを持ち合わせていない。せいぜいが熱湯で濯《すす》ぐのみ。
主人に洗って貰《もら》っているようこはまだ幸せだと思う。はけは昔を思い出し、ほんの少し自らに苦笑し、首を振った。
すとんと本邸の庭に降り立ち、月明かりの下で尻尾《しっぽ》を出し、詳細に見分する。はけのそれは目にも鮮《あざ》やかな白色で、先端が青《せい》龍《りゅう》刀《とう》のように緩《ゆる》るやかなカーブを描いているのが特徴だった。毛を摘《つま》み、ざっと払った限りでは特に異常も感じられない。
ほっと胸を撫《な》で下ろしたその時、
「あれ? はけ様が尻尾を出しているなんて珍しいですね」
甲高い声が聞こえた。はけはぎょっとして背後を振り返る。渡り廊下に腰かけて、足をぶらぶらさせている少女がいた。
ツインテールに幼い容《よう》貌《ぼう》。ショートパンツにタンクトップ。
「ともはね……ですか?」
彼女は渡り廊下から降りてもぞもぞと熊《くま》さんのサンダルを履《は》くと、弾むような足取りではけに駆け寄ってきた。
「はけ様、お帰りなさい。待っていたんですよ!」
ともはね自身お尻《しり》から灰色の尻尾をぴょこんと出して、それを大きく忙《せわ》しなく左右に振っている。
「なにかあったのですか?」
と、はけが尋ねると、
「あたし、お皿を三枚割ったから台所を追い出されちゃったんです」
ともはねはむうっとふくれっ面《つら》になって答えた。
はけは苦笑気味に彼女のつやつやした頭を撫でてやる。
「それはそれは」
「ねえ、はけ様。あたし、台所仕事はダメだったけど、もっともっとも〜っと宗《そう》家《け》様のお役に立ちたいんです。お願いです。何か他《ほか》の仕事をくれませんか?」
そう言ってともはねはきらきらと光る瞳《ひとみ》ではけを見上げた。おねだりするように小さな手ではけの服を引っ張る。
「今度はきちんとこなしますから〜」
はけは微笑《ほほえ》んだ。
「そうですね」
未熟とは言えその熱意には犬《いぬ》神《かみ》として評価すべきものがあった。
子犬の粗《そ》相《そう》にはある程度、目をつむろう。
「では、ともはねには障子|貼《は》りをやって貰《もら》いましょう」
「障子、貼りですか?」
「ええ、結界の、ね」
そこではけはふと夜空を見上げた。
幸い、今宵《こよい》は満月ですし。
そう呟《つぶや》きながら、胸元にそっと白い手を伸ばした。
『破《は》邪《じゃ》結《けっ》界《かい》四《よん》式《しき》・弧《こ》月《げつ》縛《ばく》』
はけは屋《や》敷《しき》の外に出ると、手に持っていた扇子で夜気を切り裂くように鋭《するど》く振るい始めた。それは一見、酷《ひど》く機械的で、冷淡にさえ感じさせる手つきだったが、確かな美の手順に則《のっと》られた一種の舞いだった。ともはねが口をすぼめ、嘆声を上げる。
「お〜」
はけがさっさと扇子を左右に切り返していく度、月の光が煌《きら》びやかに弾《はじ》かれ、一本の帯となって地面に落ちてきた。満月をリンゴに見立ててその皮|剥《む》き。光の表層を扇子の先端で削り取っているのだ。光の帯はやがてかなりの長さになっていった。
滑らかなクリーム色で、ちょっと角度を変えてみると青白く輝《かがや》いて見える。鉱物のようでもあり、また人工物のようでもある。
ともはねはそれを手に取ってしげしげと見つめていた。
「ともはね。その縛《ばく》を森の結界の綻《ほころ》びたところに順次、貼《は》っていってください」
「え? あたしが、ですか?」
「ええ。その結界は誰《だれ》でも貼れますし、貼った者以外はそうそう破ることも出来ません。明日のはれ舞台に不心得者がいても困りますので」
「はい!」
ともはねはてててっと元気良く巨大な鳥居の下まで駆けていった。
犬《いぬ》神《かみ》の住まう領域と人の住まう俗世を隔てる門の役割を果たす建造物だ。背後に鬱《うっ》蒼《そう》と佇《たたず》む小山と対比して、その朱色がより鮮《あざ》やかに見える。ともはねはそこから歩き始めて、本邸を中心に森の周囲をじっくりと歩き回り始めた。
顔を地面ぎりぎりまで近づけ、くんくん匂《にお》いをかいでから叫んだ。
「あった! ありました! 穴! 見つけましたよ!」
はけは頷《うなず》く、ともはねはその周囲に結界の帯を貼っていった。空間に貼りつけた途《と》端《たん》、帯は全くの無色透明に変じてどこにあるのか分からなくなる。
「お〜」
と、ともはねはまたまた声を上げた。
びりっと力を込めると帯は結構、簡単に千切れる。さらに伸《しん》縮《しゅく》も効く。言ってしまえば割れた窓ガラスにガムテープを応急で当てる行為と似ているかもしれない。
「では、宜《よろ》しくお願いしますね」
ともはねが仕事の要領を完全に理解したのを認めてはけは立ち去った。その背後で再びともはねが穴を探して走り出していた。
正門から入り、すうっと浮かび上がりながら暗い廊下を滑っていく。要所要所に燭《しょく》台《だい》が置かれ、赤々と火が灯《とも》っているがこれはいわば装飾品だ。犬神であるはけはもちろん、川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》も少々の闇《やみ》で不便をするということはない。
あちらこちらにさりげなく目を配って幾度も頷いた。
いつものことだが掃除に手抜かりはない。
しばらく前に進むと柔らかく、暖かい光と賑《にぎ》やかな笑い声が大広間辺りから漏れてきている。ちらりと見ると三人くらいが『祝・米寿』と書かれた垂れ幕を天井から吊《つる》したり、客用の座布団を並べたりしながら忙《せわ》しなく、楽しそうにしていた。
それよりちょっと先の台所まで足を運ぶと今度はムッとした熱気が肌で感じられた。かなり大きな土間に五〜六人の少女が紺の鉢巻きタスキがけで一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》、立ち働いていた。その中心となっているのは本来のリーダーであるせんだんではなく、メンバーの中で一番料理の得意ななでしこで、
「せんだん! 次はそのタマゴお願い!」
中華|鍋《なべ》をひっくり返したり、発泡スチロールの中から鮮《せん》魚《ぎょ》を取り出したりしながら、てきぱきと指示を出していた。
「了解したわ」
一仕事終え、額《ひたい》の汗を手の甲で拭《ぬぐ》っていたせんだんは土間から上がってテーブルについた。
万能包丁から木製のへらに持ち替え、一呼吸の後、勢いよく卵の黄身を掻《か》き回し始める。かちゃかちゃと攪《かく》拌《はん》する音。竈《かまど》の中では炎が赤々と燃え上がり、なでしこは他《ほか》の者の求めに応じてあちらこちらを飛び回りながら手早く助言を与えていった。
ホイップでスポンジケーキにクリームをデコレートしている者。オーブンの中身と時計を交互に眺めながらローストビーフの出来上がりを待っている者。
見ている間だけでも各種の料理が魔《ま》法《ほう》のように作られて、螺《ら》鈿《でん》塗りの重箱に次々とご馳《ち》走《そう》が詰め込まれていく。和食に中華にフレンチ。キャビアを載せたカナッペから清めた御《お》神《み》酒《き》を使用した朝《ちょう》鮮《せん》人《にん》参《じん》の甘《あま》辛《から》煮《に》まで。しかし、これでもまだまだ全然、足りないのだ。お客は人とモノノケ合わせて百人以上やってくるのだから。
邪魔をしては悪い。
はけは何も声をかけず、さらにその奥へ奥へと進んでいく。やがてちょっとした離れに辿《たど》り着いた。
「入りますよ」
と、小声で呟《つぶや》く。普通、犬《いぬ》神《かみ》は主人の断りなく部屋を出入りする権限を持つが、律《りち》儀《ぎ》なはけはなるたけ声をかけていた。障子を開けて、
「まだ起きておられたのですね」
ちょっと咎《とが》め立てるように目を細めた。
「ん? はけか?」
川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》は振り返らずに尋ねた。彼女はよっとかけ声をかけるとコントローラーのAボタンを押した。すると四十二インチのプロジェクターに映し出されたキャラクターがドライバーを振りきる。白球は画面の中でぐんぐん小さくなってやがてフェイドアウトした。
「ほほ〜。ナイスショット」
嬉《うれ》しそうな声。老婆はゴルフゲームをやっていた。広々とした十畳間に整然とゲームや電化製品の類《たぐい》が並べられている。彼女は八十七歳とは思えないほどの指さばきでコントローラーを操りながら言った。
「どうじゃ、はけ。一ラウンドわしの相手をせぬか?」
「……明日も早いのですよ?」
「うむ」
今度はショートアプローチが上手《うま》くいかない。深いバンカーにボールが捕まってしまった。
「う〜む。サンドウエッジは苦手なのじゃがの〜。はけ、お前なら一体どうする?」
「……あと三十分後に強制的に電源を切らせて頂きます」
老婆は苦笑した。
「勝手にせえ」
はけは無言で頭を下げると、壁《かべ》を透過して縁《えん》側《がわ》にゆらりと出た。そちらはこじんまりとした中庭になっていた。苔《こけ》むした岩やせせらぎや鹿《しし》威《おど》しなど和風の造園が施されている。それに桜の木が三本。ほとんど満開に咲き誇っていた。
風に乗って薄《うす》桃《もも》色《いろ》の花弁がふわりふわりと舞っている。
本当に息を呑《の》むような美しさだった。
満月。蒼《そう》々《そう》たる満月。大きく広がった桜の枝が薄青い夜空に活《い》き活きと伸びて、ある種の美的な緊《きん》張《ちょう》感を作り上げていた。
はけはそれを見ているうちに心が千《ち》々《ぢ》に乱れてくるのを感じ取っていた。
その桜の木が主《あるじ》の生まれた年に植えられたことを強く強く思い出していたからだ。彼は深呼吸をして、自分に対して笑う。
「いけませんね、どうもこの頃《ごろ》」
空を見上げ呟《つぶや》いた。
「明日は晴れるとよいのですが……」
川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》は八十八歳の誕《たん》生《じょう》日を迎えたその日。まだ辺りが薄暗いうちから起き出すと斎《さい》戒《かい》沐《もく》浴《よく》をすませ、ちょうど眩《まばゆ》い朝日が射《さ》し込み始めた頃《ころ》合《あ》いの大広間へ出た。
飾り付けもご馳《ち》走《そう》も見事に完成していた。
老婆はぴっと背筋を伸ばし、徹《てつ》夜《や》で仕事を完遂させた十人の犬《いぬ》神《かみ》たちの前で正座した。一文字に結んでいた口元を優しく綻《ほころ》ばせ、その労をねぎらう。
「ほんにご苦労だったの。薫《かおる》にも宜《よろ》しく伝えておいておくれ」
威《い》厳《げん》がありながら、労《いたわ》りと友愛に満ちた声だった。
その一言で十人はすっと頭を下げる。老婆の横に静かに控えていたはけが彼女たちに休息をとるように申し渡したところで突如、大声が轟《とどろ》いた。空気がビリビリと震《ふる》え、障子の桟《さん》まで揺れ出すほどだった。
十人の犬神たちはびっくりしていたが、老婆もはけも笑っていた。
はけは立ち上がって障子を開ける。
「山の仲間たちですよ」
それで十人も得《とく》心《しん》がいったようだ。それは遠|吠《ぼ》えだった。赤い鳥居の向こうから主人を持たね犬《いぬ》神《かみ》たちが一斉に川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》に向かって祝いの言葉を述べているのだ。
朗々とした吠え声だった。
よく聞くとアンサンブルになっている。独特の旋律。犬神も人も変わらず心|震《ふる》わすような、踊り出したくなるような音の上がり下がり。
老婆は目を細め、そして呟《つぶや》いた。
「これを聞くとほんに寿命が延びるような気がするの」
何故《なぜ》か、ほんの少しだけはけが哀《かな》しそうな顔をした。
昼過ぎて最初の客が一人現れた。春なのに未《いま》だ黒いコートを身にまとった男。特《とく》命《めい》霊《れい》的《てき》捜《そう》査《さ》官《かん》の仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》だった。
彼は森の奥から一本道をてくてくと歩いてやってくると、正面玄関の陰でひっそりと控えていたはけに笑いかけた。
「やあ、はけ。刀《と》自《じ》にご挨《あい》拶《さつ》だけさせて貰《もら》うよ」
そう言って彼は中に入っていった。手には大きな芥子《からし》色《いろ》の包みを抱えている。それから、ものの三十分もしないうちに手ぶらになって出てきて、
「では、所用があるのでこれで失礼する」
と、片手を挙げて、はけの慰《い》留《りゅう》も固辞して、再び森の奥へと消えていった。彼は川平家には以前から度々出入りしていた。今回も義理堅く、多忙な時間を割いてやってきているのだろう。
はけはその背に向かって、深々と頭を下げた。
本格的に人が集まり始めたのはやはり夕刻を過ぎてからだった。犬神使いや川平家に縁《えん》のある者がそれぞれ車で乗り合わせたり、バイクで乗りつけたりしていた。
正面玄関の前はちょっとした同窓会のようになっていた。はけはその間を影のように縫《ぬ》ってひっそりと動き回った。完全に日が落ちて、辺りが薄《うす》闇《やみ》に包まれる頃《ころ》、彼はともはねに命じて川平家の紋が入った提灯《ちょうちん》を門柱に高々と掲げさせた。
自分に声をかけてくる客人たちへ丁寧に会釈しながら玄関を上がった。せんだんが十人の犬神たちにそれぞれの仕事、例えば、玄関での受付や大広間までの案内係や配《はい》膳《ぜん》役をてきぱき割り振るのを確認してから奥へと出向いた。
桜の木の生えた中庭の方へ回り込み、ふうっと一息をつく。
夜桜が緊《きん》張《ちょう》感を増し始めていた。はけはなるべくそちらを見ないようにしながら、障子越しに主《あるじ》に向かって尋ねた。
「宜《よろ》しいですか?」
「うむ」
すうっと中に入っていく。
「今、ちようど着替えを終えたところじゃ」
と、言って振り向いた老婆は藤色のすっきりとした和服を身につけていた。手首の紫色の数珠《じゅず》と映えてとっても綺《き》麗《れい》に見えた。
「一応、主《しゅ》賓《ひん》らしくしてみたのじゃが。どうじゃ?」
「大変、結構です」
はけは満足そうに微笑《ほほえ》んだ。
大広間の上座に老婆が腰を下ろすと、最前列に座っていた川《かわ》平《ひら》宗《そう》吾《ご》という男が乾杯の音頭を取った。一同はビールや熱《あつ》燗《かん》の入った器を高々と宙に突き上げる。
「刀《と》自《じ》、米寿、おめでとうございます!」
その後は入り乱れての大宴会になった。代わりばんこに老婆に挨《あい》拶《さつ》に出向く間、それぞれが隣《とな》り合わせた者と歓談し、声高に笑い合い、賑《にぎ》やかに酌をやったり取ったりしながら、宴《うたげ》を楽しんでいった。
ざっと五十人近くの人問が集まっている。その中にはもちろん川平の一族に連なる者もいたが、それ以外、例えば、川平家と親交のある霊《れい》能《のう》者やその関係者。あるいは、老婆と直接面識のある知人、友人も多かった。
中央の政界で精力的に動き回っている少壮の政治家もいたし、テレビによく顔を出す名うての格《かく》闘《とう》家や、学会に確固たる地位を築き上げた白髪の民俗学者なんていう変わり種もいた。
その誰《だれ》もが心の底から自分の主《あるじ》の長寿を祝ってくれている。
はけはちょっと目をしばたたかせて、それから辺りを見回した。料亭の仲居のような紺の着物姿の薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》たちが忙《せわ》しく立ち働いていた。
ここはもう大丈夫のようだ。
そう判断して彼はもう一つの座《ざ》敷《しき》の方へ出向いた。
むしろ、そちらの方が問題だった。
屋敷のほぼ反対側。鬼門の位置に当たる離れにその座敷はあった。
渡り廊下で繋《つな》がれたそこは近づくだけで異様な気《け》配《はい》を感じる。霊気だ。それもとびきり濃《こ》い。はけは障子の中へ透過して入っていった。
わっとこちらも賑わっていた。ムッとした異臭。
人間の客人ではない。もののけ。異なる者。人にあらざる者。半分は犬神たちで主が大広間で飲み食いしている間、久方ぶりの親交を暖め合っている。人間とほとんど同じ食事に冷や酒まで出ていた。
薫《かおる》の犬《いぬ》神《かみ》たち十人以外は宴《うたげ》を楽しむことを許されているのだ。
大多数は人間の格《かっ》好《こう》をしていたが、中には早速くつろごうというのか、巨大な犬の本性に戻って後足で顎《あご》を掻《か》いている者もいた。その奥にはどう見ても鬼としか見えない妖《あやかし》が三名。車座になって木目も新しい樽《たる》にひしゃくを突っ込んでは浴びるような勢いで酒を呑《の》んでいた。
彼らの爛《らん》々《らん》と光る黄色い目や剛毛。
酒臭い息にも拘《かかわ》らず浮かべている笑顔は随分と優しかった。
その隣《となり》で鬼火が浮かんで明かり代わりになっている。細長い煙状の幽《ゆう》霊《れい》が部屋の上部を漂い、床の間の上で小さな赤い目をしたネズミたちがクルミをこりこりと囓《かじ》っている。猫《ねこ》又《また》にノッペラボウ。訳の分からない毛むくじゃらにキルトの服を着た小人。歌っているモノもあれば踊っているモノもいる。
誰《だれ》も触れていないのに障子ががたがた揺れて、畳が勝手にどすんどすんとリズムを取っていた。川《かわ》平《ひら》家以外の霊能者が連れてきたモノもいたが、川平家と個人的に繋《つな》がりを持っている妖も多かった。
そして、川平|啓《けい》太《た》は何故《なぜ》かそこにいた。
「な、なにをしているのですか?」
というはけの呆《あき》れたような問いに、啓太は餅《もち》を頬《ほお》張《ば》りながら笑った。
「ん〜。あっひはひょっとひごこちがわるくて」
ごくんと喉《のど》の奥に咀《そ》嚼《しゃく》して明るくそう言う。彼の右隣に座っていた赤毛の猿がつつっとお酌をした。
「お、こりゃすまんね」
と、杯で受け止めて啓太。ほひっとピンクのリボンをつけた猿らしきものが歯を剥《む》いて見せた。啓太はこくこくとそれを呑み干し、ぷは〜と息をついた。
「いや、良い酒だな」
「……」
そう言えば啓太は今まで犬神を持てないでいる間、他《ほか》の者からいわば義絶状態だった。酷《ひど》いことも散々言われたし、彼とて思うことは沢《たく》山《さん》あるのだろう。はけがこの主《あるじ》に一番、似ている孫息子の顔をじっと見ていると、
「ねえねえ、キミ、目元がチャーミングだって言われたことない?」
彼は左隣のノッペラボウに声をかけ始める。
その女のノッペラボウは楚《そ》々《そ》と赤くなって恥じらい、首を振った。啓太は彼女の手を握り、真剣な顔つきで、
「きっと君の魅《み》力《りょく》は凡人には理解できないんだよ。どうだろう? 今度、俺《おれ》と一緒に遊ばない?」
はけは無言でその場を立ち去った。相変わらず何を考えているのだかよく分からない。それからふと気になって周囲を見回した。
「そういえば……ようこがいませんね」
ようこは台所の前に立っていた。薄《うす》く開いた障子の隙《すき》間《ま》から、じっと中を覗《のぞ》き込んでいる。彼女を認めたはけが声をかけようとしたら慌てて唇の前に指を立ててみせた。
それから、はけにも中を窺《うかが》うようにジェスチャーで示す。
そっと覗いてみればそこには六人の犬《いぬ》神《かみ》がいた。
土間に立って忙《せわ》しなく動き回っているなでしこと他《ほか》の二人。それに料理が出来上がるのを待っているいわばウエイトレス役の三人だった。
「でも、疲れたね〜。なんで私たちだけこんなことしているんだろ? 他のみんなは楽しそうにしているのにさ」
と、ウエイトレス役の一人が不満そうに唇を尖《とが》らせた。それに対して、
「仕方ないよ」
と、グラスを片づけながらショートカットの美少女が生《き》真《ま》面《じ》目《め》に首を振ってみせる。襟《えり》足《あし》が抜けるように白く、和服もよく似合っていた。
「薫《かおる》様がそう決めたんだし、ボクらが働けばきっと薫様の株も上がるしさ」
ごくなんでもないことのようにそう言って微笑《ほほえ》んだ。
「たゆね、健《けな》気《げ》〜」
と、一人が笑い、もう一人が頷《うなず》く。
「まあ、でも大広間のところの人間たちは絶対、変なことしてこないし、お酌も強要しないから、ある意味、やりやすいよね」
「確かに。紳士が多いよね」
と、三人の意見が一致する。そこで急に一人が何かを思いだしたかのように首を振った。
「ただね。問題はあそこの非人間エリア。最悪。だって、川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》がいるんだもん。私、手を握られちゃった」
「え? あんたも? 私もよ」
「あ、ボクもだ……もちろん、引っぱたいてやったけど」
はけが見るとようこは小刻みに震《ふる》えていた。
「でもさ、あの体力バカのようこは一体なにやってるんだろうね?」
「そうだよ〜。さらにバカな飼い主の鎖《くさり》をきちんと繋《つな》いでおいて貰《もら》わないと困るんだから。それに、そもそもなんであいつは働かないの?」
「あ、ダメダメ。いたらかえって迷惑だよ。あんな粗暴でがさつで乱暴でバカな奴《やつ》」
と、三人|揃《そろ》って軽やかに笑ったところでいきなり障子が開け放たれた。中にいた全員、ぎょっと顔を見合わせている。
しかし、すぐにショートカットの少女が反応を示した。
「な、なに? なんか用?」
立っていたようこは無言。ショートカットはさらに挑発的に叫んだ。
「黙《だま》って突っ立てないでなんか言ったら!? どうせ立ち聞きしてたんでしょ?」
その険悪な雰囲気を察して、なでしこが料理を作る手を止めておろおろとし出す。じっと俯《うつむ》いて怒りを堪《こら》えるかのように震《ふる》えていたようこがやがて顔を上げ、にっこり微笑《ほほえ》んだ。
それは本当に見事な変わり様だった。
彼女は悪口を言っていた三人につかつかと歩み寄り、
「ごめん、わたしが悪かった。お仕事教えてくれる?」
と、順番に少女たちを抱きしめていく。
「わたし、ほんとバカで気が回らなくてごめんね」
ぎゅぎゅっ。
「あなたたちの言う通り、わたしもちゃんとお手伝いしなきゃならなかったね」
ぎゅっぎゅ。
一見、もの凄《すご》く親愛的で友情に満ちた仕《し》草《ぐさ》だ。そのため、三人とも薄《うす》気味悪そうにしながらなかなか拒めない。
しかし、はけだけははっきりとその意図を察して静かに寒気を感じていた。
ようこは自分の尻尾《しっぽ》を彼女たちに思いっきり擦《こす》りつけていたのだ。
そんな恐ろしい女の戦いをなんとか仲裁して、幾つか指示を与えてから、はけは大広間の方へ向かった。その途中、空になったお盆を下げていたともはねとばったり行き合う。
彼女は無邪気に手を振ってきた。
「あ、はけ様だ! お疲れさまで〜す」
元気はつらつ。皆と交じって働くのが楽しくて仕方ないという感じだ。小さめの紺の着物姿がいかにも可愛《かわい》らしい。どこか気の晴れぬ様子だったはけも思わず微笑んだ。
「お疲れさまです。中の具合はどうですか?」
「はい、盛況です!」
と、彼女は笑い、それからきょとん小首を傾《かし》げた。
「あ、そうだ。はけ様、今ちょっとお伺いしても宜《よろ》しいですか?」
「はい、なんでしょう?」
「え〜とですね、さっき川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》様がはけ様と出会った頃《ころ》のお話をしていたんですが」
「ほう」
「それがですね、九歳の頃《ころ》って仰《おっしゃ》っていたのを小耳に挟んだのです」
「……」
「でも、それっておかしくないですか? あたしたちが人間と出会うのは十三歳の時って決まってるのに」
と、彼女がさらに問いただそうとしたら、廊下の角から浴衣《ゆかた》やタオルケットを抱えたせんだんが現れて声をかけてきた。
「あら、ともはね。ここにいたの? ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」
それから、はけに気がつき、
「まあ、お兄さま。お疲れさまです」
と、軽くお辞《じ》儀《ぎ》をした。そのゴージャスな赤毛と西洋人形のように整った美《び》貌《ぼう》が和服にあまり似合っていないが、優美な動作だった。
ともはねははけを見て、せんだんを見て、それからまたはけを見て、
「じゃあ、はけ様。また後でお話を聞かせてくださいね!」
そう告げて、てててっとせんだんの方へ駆けていった。微笑《ほほえ》み会釈をして立ち去るせんだんと彼女を見上げて笑いながら何か報告しているともはね。
はけはそっと溜《ため》息《いき》をついた。
「そうですか……あなたはそんなことを話していたのですか」
閉じられた障子の向こうの賑《にぎ》やかな笑い声を聞きながら、主《あるじ》が一体自分のことをどういう風に語っているのか聞いてみたい誘惑に駆られたが、はけはその思いをきっぱり断ち切って再び歩き始めた。
はけと今の川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》が出会ったのは彼女が九歳の時である。両親と幼い頃に死別していた彼女はしかし、そんなことを感じさせないくらい明るく、元気な少女だった。霊《れい》能《のう》力にも恵まれ、将来を期待されて育っていた。
そんな彼女が、十三歳になる以前は絶対に立ち入りを禁止されている鳥居の奥へと踏み込んできた。前代未聞の行為である。
どんな目に遭うかも分からない。犬《いぬ》神《かみ》使いとしての将来もなくなるかも知れない。それでも彼女は毅《き》然《ぜん》としていた。
今は焼け落ちてなくなっている廃寺の前に立ち、彼女は叫んだ。
右目が青く腫《は》れ上がっており、左手は骨折して白い包帯で吊《つ》られていた。
「頼む! 犬神たち! オレに、オレに力を貸してくれ!」
それから深々と頭を下げた。
「頼む!」
犬神は慣例を尊び、規則を重視する人《じん》妖《よう》である。遠巻きにそれを眺めながら決して彼女に近づこうとはしなかった。中には怒りに駆られ、彼女を排斥しようと主張する者もいた。はけはどこか人ごとのようにその痛々しいケガを負った少女を見つめていた。
彼はその時まで長老クラスの力を持つ犬《いぬ》神《かみ》の中では、特殊な例であるなでしこを除いて、唯一、主《あるじ》を持った経験のない犬神だった。
「非礼は重々承知だ。無礼は幾重にも詫びよう。だが、オレにはもう時間がないんだ!」
そう叫びながら彼女は事情を説明し始めた。彼女の友人がおよそ最悪の死《しに》神《がみ》に魅《み》入られてしまったこと。その友人は明日をも知れぬほど衰弱しきっていること。自分はそれを助けようとしたが実力が圧倒的に違いすぎて逆に返り討ちに遭ってしまったこと。
だから、手を貸して欲しいということ。
「頼む!」
そう叫ぶ彼女の呼びかけはだが、空《むな》しく宙に霧《む》散《さん》して消えた。
どの犬神も、誰《だれ》も、その声に応《こた》えようとはしなかった。そもそもが規則違反だったし、無《む》慈《じ》悲《ひ》な死神は犬神たちの間でさえ恐れられていたのだ。
しばらく待って返事がないと分かると。
少女はあっけらかんと笑った。
「そうか。仕方ない。そもそもが他人の喧《けん》嘩《か》に加勢を求めることが間違いだったのかも知れない。それに早すぎたし」
その目は見事に挫《くじ》けていなかった。全く恐れていなかった。彼女とて承知していたのだろう。勝ち目など微《み》塵《じん》も存在しないということに。
それでも、彼女は笑っていた。
「突貫!」
そう叫ぶと、いきなり山を駆け下り始めた。九歳の少女とは思えない機敏な動きだった。
痛くないのか。
恐《こわ》くないのか。
そう思って、気がつけばはけは彼女の横を併走しながら尋ねていた。
「あなたは何故《なぜ》そうまでするのですか?」
少女は隣《となり》の犬神をちょっと驚《おどろ》いたように見てから、あっさりと答えた。
「友人だからだ」
「大事な人なのですか?」
「ん? そうでもない。よくオレを苛《いじ》めようとしたから、殴ってやった。そんな仲だ」
「ならば、何故?」
「ああ〜〜、煩《うるさ》いな! それが破《は》邪《じゃ》顕《けん》正《しょう》だからだ! オレは正義の味方になりたいんだ! 誰にもそう言い張って胸を張って生きていたいんだ! だからだ! 文句あるか?」
痛いという感覚も恐いという感情も一度貫こうと思った信念の前に比べれば何ほどでもない。少女の不敵な瞳《ひとみ》が雄弁にそう語っていた。その喋《しゃべ》り方。笑い方。全《すべ》てが心地よく、面《おも》白《しろ》く感じられた。面白いと心の底から感じた。
この人間は面白い!
はけは思わず知らずそう叫び出しそうになっていた。見つけた。長い年月の果てにとうとう自分の主人たり得る者を見つけたのだ。
それでも、表情だけは冷静さを取り繕《つくろ》って、
「その紫色の数珠《じゅず》、綺《き》麗《れい》ですね……一つ、私に譲《ゆず》って頂けませんか?」
それが二人の出会いだった。
全く前例のない九歳の犬《いぬ》神《かみ》使い。しかし、その才覚は本物だった。はけと組んで最悪の死《しに》神《がみ》を辛《から》くも粉砕。その後はメキメキと実力をつけ、本来の犬神と出会う年である十三歳になる頃《ころ》にはすでに並ぶべき者のいない存在へと成長していた。
退屈そうに山を歩き回る彼女の周りには実に十匹もの犬神が擦《す》り寄ってきたが、はけはそれをにっこり微笑《ほほえ》みながら全て撃《げき》退《たい》していった。
「一体全体、いまさら、なんのご用ですか?」
そう告げて。結局、彼女にははけしか憑《つ》かなかった。だが、それで充分だった。はけは親のいない彼女の面《めん》倒《どう》をこまめに見て、料理や洗《せん》濯《たく》をして、時には勉強の苦手な彼女の家庭教師役も務め、そして、共に肩を並べて戦った。
気がつけば、はけは桜の木の下に立っていた。満開の夜桜を見る度、最近では心が責め苛《さいな》まれるようになってきている。ここ数年ばかり、その痛みは特に顕《けん》著《ちょ》で、息苦しくて、心と身体《からだ》がすり切れそうに痛い。あと、何回、彼女は満開の桜の木の下に立てるのだろう。
あと、幾度、彼女と共に桜の季節を迎えられるのだろう。
はけにとって彼女は未《いま》だに幼い少女の頃のままだった。誰《だれ》よりもはっきりと笑い、怒り、自分を楽しませてくれた少女。彼女の成長をじっと眺めてきた。戦いぶりを陰に日向《ひなた》に支えて、ありとあらゆることを世話してきた。
尋常小学校の卒業。啓《けい》太《た》と薫《かおる》の祖父に当たる男との出会い。結婚。戦争を挟んでの出産。子供が出来て、親《しん》戚《せき》が増えて、友人知人の縁《えん》がどんどん広がり、気がつけば第一線から退くようになりながらも、川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》としての職務を果たすようになり、とうとう孫まで現れた。
はけにとって啓太や薫などは本当に瞬《またた》く間に大きくなったとしか思えない。ほんのついこの間までハイハイをしていたような気がする。そうして、ジッといつまでも姿を変えることのない己の手の平を見つめてみる。
未だかくしゃくとしているとは言え、主《あるじ》との差は歴然だった。
はけは再び夜桜を見上げた。
ペットロスという言葉がある。はけは最近、犬《いぬ》神《かみ》と人との関《かか》わり合いについてよく考えるようになっていた。犬神使いと犬神は一見、普通の人と飼い犬のような主従関係にあるように見えるが果たして本当にそうなのだろうか?
むしろ犬神が人に対して抱く感覚は、人が飼い犬に対して抱くような感覚に近いのではないだろうか?
ちょっと手のかかる、面《おも》白《しろ》くて、楽しい存在。犬神は彼らの面《めん》倒《どう》を見て、共に生きていくことで充実した生を実感することが出来る。
その犬神と比べてあまりに短命で儚《はかな》い存在である人を愛《め》でて、彼らは耽《たん》溺《でき》する。
犬神には大きく分けて二つのタイプがある。一つは仕えていた主《あるじ》が死ぬともう一切、主を持とうとはせず、山に引っ込み、ひっそり思い出と共に生きるタイプ。一方で主が死ぬと即座に別の主と契約を結ぶ者もいる。
共に癒《いや》されぬ哀《かな》しみを抱えての行動である。
人間と一緒で、後者はだから自分が仕えていた主の息子や娘。あるいは孫などと契約を結びたがる。そうすれば少なくとも彼、あるいは彼女が残した者たちの未来の行く末を見届けることが出来るからだ。
はけは思う。
きっと自分は前者だろう、と。宗《そう》家《け》が死んだらきっと『はけ』という存在のかなりの部分も同時に死ぬに違いない。そうしたら、とはけは思う。
山に引っ込むことなどせず、一つ、そのまま、ずっとどこまでもどこまでも西の空を駆けていこうかと。
人の魂は西へ向かうそうだからそれを追いかけて……。
遙《はる》か彼方《かなた》まで。
どこまでも、駆けていこうかと。
「あの、はけ様?」
というなでしこの声に、はけははっと我に返って顔を上げた。見れば紺の着物にいつもの割《かっ》烹《ぽう》着《ぎ》姿の彼女が手を拭《ふ》きながら渡り廊下に立っていた。
「あ、ああ。なでしこ……お疲れさまです。なにか?」
「あ、はい。川《かわ》平《ひら》の宗家様がお部屋にお戻りになられましたよ」
「え? 宴《うたげ》はもう終わったのですか?」
その問いになでしこは頷《うなず》いた。
「はい。まだ残っておられる方もいますが、皆さんお帰りになったり、用意した客間でお休みになられました。台所の火ももう落とさせて頂いてます」
「……そうですか」
はけは少し俯《うつむ》いた。どうやら思ったよりも長いこと考えに耽《ふけ》っていたらしい。
「では、早速、葛《くず》湯《ゆ》を作って参りましょう。なでしこ、ありがとう」
いえ。
と、彼女は首を振り、それからちょっと躊躇《ためら》って尋ねた。
「とても盛況な会で、皆さんとても楽しそうなのですが……はけ様。気のせいかあなただけ、お顔の色が優れませんね?」
その痛い問いに、はけは静かに笑って応《こた》えた。どうやら、この聡《さと》い娘には全《すべ》て見抜かれていたらしい。彼は足を止め、振り返る。
「なでしこ。今、あなたは幸せですか?」
そう問うた。
「え? あの、」
と、口ごもるなでしこ。
「薫《かおる》様は優しくしてくれますか?」
「はい。お陰様で……」
「そうですか。では、くれぐれもそのお時間を大切に」
そう言ってはけは困惑したままのなでしこを後に台所へ向かった。
こればっかりは他《ほか》の誰《だれ》にも任せられない仕事なのだ。
寝る前に必ず葛湯を飲むというのが宗《そう》家《け》の習慣だった。彼女の夫が存命中だった五年間はそれは夫の役割だったが、それ以外はずっとずっとはけだけが用意し続けている。薄《はっ》幸《こう》で、光と影の両面を持ち合わせた彼のことを思い出す度、はけは複雑な想《おも》いにとらわれる。
もちろん、主《あるじ》が選んだ人物で、はけの眼鏡《めがね》にも適《かな》ったほどの男だが、この仕事が自分の許《もと》に戻ってきた時、奇妙に安《あん》堵《ど》したのも事実だった。
薫はその男に似ている。
不安と期待を抱かせる両面で。宗家に似ているのは間違いなく啓太だ。あのバカに近い一本調子は昔の彼女を彷《ほう》彿《ふつ》とさせる。
はけは薄《うす》暗《ぐら》い廊下を歩きながらつらつら考えていた。
手にしたお盆には湯飲みが乗っていて、八分目まで葛湯が注がれていた。やがて角を曲がり、主の寝室の前ではけは一礼した。
「失礼します」
もう寝ているのか。さすがの彼女も老いているのか。そう案じながら障子を開けたはけはそこで思わず言葉を失った。
「なんじゃ?」
老婆が背を向けたまま、言った。彼女の周りには山のように贈り物が積んであった。色とりどりの包装紙に包まれた箱の山だ。まさしく貢《みつ》ぎ物といった風《ふ》情《ぜい》の。川《かわ》平《ひら》の宗《そう》家《け》はそれを今、順番に開けている最中だった。
「……お休みになっていたのでは?」
というはけの問いに、
「うむ。ちとこちらの方が気になっての。あとでまたもう少し呑《の》み直すわい」
と老婆は笑った。確かに相当量の酒を聞こし召してるはずなのに微《み》塵《じん》も乱れがない。子供のように嬉《うれ》しそうな手つきで包装紙を次々と破っては歓声を上げていた。
「ほう。気が利くの。気になっていたゲームソフトじゃ! ん〜。こちらはこちらはレミー・マルタンか。先生も分かっておるの〜」
はけは我《われ》知らず忍び笑いを漏らしていた。
「ん? どうした? はけ?」
老婆はくるりと振り返り、はけを見た。その時、確かに時を超えたような思いがした。いたずらっ子のような生気|溢《あふ》れた瞳《ひとみ》。
幾ら齢《よわい》を重ねたところで決して消えることのない、あの時の瞳。
「ほら、これが啓太でこちらが薫《かおる》からの贈り物じゃ」
得意そうにそう言う。見ればタバコの箱一力ートンと趣《しゅ》味《み》の良いリトグラフだった。どちらがどっちかは聞かないでもすぐに分かった。
「今日はほんに楽しかったぞ。はけ、色々とありがとうの」
老婆は笑い、そして、はけの頭にそっと手を伸ばすと、昔の手つきでその髪をくしゃくしゃ撫《な》でてくれた。はけは目を細め、思わず呟《つぶや》いていた。
思い出していた。
遠い昔。
子供を寝かせた傍らで真白い櫛《くし》で、はけの尾と髪を優しく梳《す》いてくれた。ノミがつくなと歌いながら、笑いながら梳いてくれた。
気がつけば想《おも》いだけが勝手にこぼれ落ちていた。久方ぶりに彼女を実名で呼ぶ。
「どうか、どうか長生きしてくださいね」
彼女の手を握って。
額《ひたい》を擦《こす》りつけて。そう静かに祈る。
老婆はきょとんとして、それからカッカと大笑した。
「バカモノ。わしはあと四十年は生きる!」
昔。この人里離れた屋《や》敷《しき》に二人っきりで住むようになってから、はけはよく思っていた。この人は寂しくないのだろうかと。普通の人間だったら世間から隔絶されて、周囲にまるで人のいない状況は相当、心に堪《こた》えるはずだった。
だが、彼女は微《み》塵《じん》もそんな気《け》配《はい》を感じさせなかった。
最初はそう装っているだけなのかとも慮《おもんぱか》ったが、それも少し違っていた。宗《そう》家《け》は毎日毎日、色々なゲームをやり、本を読み、散歩をして、テレビのニュースをずっと見て、はけに囲碁や世間話の相手をさせて屈託がない。
最近になり、ようこが啓《けい》太《た》について同様の趣《しゅ》旨《し》を、なでしこもまた薫《かおる》に対してそのような論評を加えているのを聞いて確信を深めたものだ。
川《かわ》平《ひら》家の直系にはかなり奇妙な気性が確実に受け継がれている。
彼らに寂しいとか、哀《かな》しいとかいう感情はそもそも存在していないのかもしれない
それは人としてはかなり問題があるのだろう。だが、それ故《ゆえ》。だからこそ自分たち犬《いぬ》神《かみ》は、人の中でもとりわけ川平家に惹《ひ》かれたのかもしれない。
自分たち犬神は一人では生きていくことすらままならない寂しがり屋の存在なのだから。
はけは宗家の所望した夜食のおにぎりを持って渡り廊下を歩きながら、中庭が賑《にぎ》やかなことにふと気がついた。
見れば桜の木の下で騒《さわ》いでいる者たちがいる。鬼。のっぺらぼう。人。猫《ねこ》又《また》。人。啓太。犬神。犬神使い。犬神。人。ネズミ。ようこ。
訳の分からない毛むくじゃら。猿。
どうやら用意された宴《うたげ》だけでは飽きたらず、酒やご馳《ち》走《そう》の残り物を持ち寄って、深夜の夜桜見物を、と洒落《しゃれ》込んでいる連中なのだろう。
皆、騒ぎ足りないうえに、体力だけはあり余っているようで、深夜だというのにやたらめったらと活気があった。人と鬼が肩を組んで『同期の桜』を熱唱している。犬神と犬神使いがそれにやんやと喝《かっ》采《さい》を浴びせ、ネズミがちゅ〜ちゅ〜鳴いていた。手《て》拭《ぬぐ》いを被《かぶ》って踊っている猫又。笑っているのっぺらぼう。人もモノノケもなかった。みんながみんな楽しそうにしていた。
奥の方ではゴザを敷《し》いて薫の十人の犬神たちが一息ついていた。
彼女たちは働き詰めだったから開放感もひとしおなのだろう。それぞれがジュースを飲んで料理や甘い物をぱくついている。
よく見ると三人。他《ほか》の七人から距離を取り、妙にそわそわしている子たちがいる。啓《けい》太《た》はその三人に向かってしきりに話しかけていた。
「ねえねえ、俺《おれ》、ノミ取り上手《うま》いよ? やってあげようか?」
「ケッコウです!」
と、三人が赤面しながら声を揃《そろ》える。ようこが怒った。
「ケイタ─────!」
なでしこは皆に溶け込んで仲良く笑っている。
いつの間にか背後に老婆が立って呟《つぶや》いていた。
「なんじゃ、なんじゃ、騒《そう》々《ぞう》しいと思ったらこんな洒落《しゃれ》たことをしておったのか」
どれ。
と、彼女は頷《うなず》いて庭に降りる。
「わしらも一つ、仲間入りさせて貰《もら》おうかの」
のう。
はけ?
振り返る彼女に、はけはにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「ほどほどにですよ」
あとがき
一巻はお陰様で色々な反《はん》響《きょう》がありまして、作者としても大変、戸惑っています。知り合いの作家さんからはメールを頂きました。
「有《あり》沢《さわ》くん。何か色々と大丈夫?」
友人から冷ややかに言われました。
「お前、創作の中で自分の罪を告白するなよ」
皆さん!
僕は人前で脱いだことはありません!
あれはあくまでフィクションであり、作中の登場人物に一切、モデルはおりません。ましてや反社会的なストリーキング行為に自分を投影するなぞ。
ところがそう言い張っても哀《かな》しいことに「栄《えい》沢《さわ》汚《お》水《すい》=有《あり》沢《さわ》まみず」という認識は僕の周囲では拭《ぬぐ》いがたく、カップルに嫌がらせすることが生き甲《が》斐《い》の売れない彼女いない被害|妄《もう》想《そう》の変態野郎という取り扱いを現在進行形で受けております(しくしく)。
でもね、正直に白状すれば栄沢汚水は書いてて本当に楽しかった……。
……なにか潜《せん》在《ざい》意識に問題でも抱えているのでしょうか、僕は?
ところで二巻がこうして皆さんの応援のお陰で出せました。この「いぬかみっ!」に関しては特に終わりとか考えないでやろう。
気軽に読めて楽しい読み切りの物語にしよう。
そういうコンセプトで構成しております。だから、一巻で終わっていると言えば終わっているし、二巻でもこれが最後といえば最後です。三巻以降ももし続くようなら同じように。そして、もっともっと楽しめるお話にしていこうと思います。
それと今回はいわば身内のスタッフの方に本当に助けて頂きました。まず、えらく変則的な原稿の書き方をする僕を忍耐強く指《し》導《どう》して下さった編集者の佐藤さん。イラストレーターとしてだけでなくお話作りにも色々と貢献してくれた若《わか》月《つき》さん。
このお二方があってこその「いぬかみっ!」だということを明記しておきます。
お二人とも、本当にありがとうございました!
ちなみにどういう書き方をしているかというと……。
「静かな湖畔のホテル。晩秋の白《しら》樺《かば》林。手つなぎ鬼の伝承。失《しっ》踪《そう》した失意の舞《ぶ》踏《とう》家。ホラーチックな展開で決めぜりふは仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》の『お前に夢を語る資格はない!』」
という断片的なイメージのプロットが、
「下《げ》痢《り》。真夏の男と男」
という話になってます。我ながら凄《すご》いよれ方だと思います。
下品下品に向かっていく話の流れを若月さんの可愛《かわい》らしい絵でなんとかカバーして貰《もら》っている。それが今の現状でしょう、きっと。
それでは! お付き合いありがとうございました!
[#地付き]有《あり》沢《さわ》まみず