いぬかみっ!
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(例)疲労|困《こん》憊《ぱい》
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由緒正しき犬神使いの一族・川平家、その末裔で能力不足により勘当された高校生の川平啓太のもとに、一人(一匹)の犬神が現れた。ようこ≠ニ名乗る犬神は楚々として従順、しかも容姿は抜群。さっそく啓太は主従の契りを結び、ようことの共同生活を始める。
だが、実はこの彼女、かつて誰もがコントロール出来なかった犬神の中の大問題児だったのだ!
お金も女の子も大好きな煩悩の塊、犬神使い・啓太と、破壊好きで嫉妬深い犬神・ようこが繰り広げるスラップスティックコメディ登場。
第8回電撃ゲーム小説大賞〈銀賞〉受賞者、有沢まみずが贈る待望の新作!
有沢《ありさわ》まみず
1976年、東京生まれ、パキスタン育ち。第8回電撃ケーム小説大賞(銀賞)を頂く。今回の著者近影は下の若月さんにイラストでお願いしています。実物より、男前になってるかな?(あ、見せるの忘れてた:担当)
【電撃文庫作品】
インフィニティ・ゼロ 冬〜white snow
インフィニティ・ゼロA 春〜white blossom
インフィニティ・ゼロB 夏〜white moon
いかみっ!
イラスト:若《わか》月《つき》神《かん》無《な》
1977年10月1日東京生まれ。専門学校在学中から仕事を始め、2000年DC用ゲームソフト「トリコロールクライシス」でキャラデザイン・作画を担当、イラストレーターとしてデビューする。趣味は囲暑と乗馬と書道。最近、行けてませんけど。
とある山の中、遥《はる》か奥、ずっとずっと深い所に川《かわ》平《ひら》の家はあった。県道から心細げに分かれた山道をうねうねと一時間。昼なお暗い、鬱《うっ》蒼《そう》としたブナや樫《かし》の原生林を抜け、朽ちかけた釣り橋を渡って、疲労|困《こん》憊《ぱい》の末、ようやく辿《たど》り着ける。
迷いこんでくる者も滅《めっ》多《た》にいない。途中、見かけるのは猿《さる》や鹿《しか》ばかり。地図にも載っていない、極めつけの秘境である。深夜、日付も変わろうかという時刻、一台のバイクがライトを照らして、川平家の前に止まった。
エンジンを切って、降り立ったのは高校生くらいの男の子だった。ヘルメットをとり、呆《あき》れたような顔で、総|檜《ひのき》作りの広大な邸宅を見上げる。辺《あた》りの物《もの》凄《すご》い光景と対照的な建材の真新しい光り具合は、まるで時空をかけ離れた迷い家のようだった。
「しかし、相変わらずとんでもねえとこにあるよな、ここも」
少年は呟《つぶや》く。
古びたジーンズに革のジャンパー。さらさらの茶髪はこのような神気漂う深山にはあまり似つかわしくないかもしれない。
彼はすたすたと迷う事なく玄関まで歩み寄ると、乱暴に鉄門を叩《たた》いた。
「お〜い! ばあちゃん。可愛《かわい》い孫が遠路はるばるやって来たよ! 開けておくれ!」
ついでに、ブーツのつま先で下の方をガンガン蹴《け》る。
「啓《けい》太《た》君が着いたんだよお!」
乱暴な少年である。
深々と更《ふ》けていた夜のしじまがあっさりと破られ、近くの木立から驚《おどろ》いた梟《ふくろう》が飛び立つ羽音が聞こえた。
しかし、邸宅の奥はしんと静まり返ったままだった。
「なんだよお。人を呼びつけておいてよ。まさか、留守じゃねえだろうな」
と、啓太がぶつぶつ呟いたその時である。涼やかな声が背後から聞こえた。
「聞こえておりますよ。どうぞ、お静かに」
「わ!」
啓太は反射的に飛び上がった。月光が描く彼の影が、にょきにょきと勝手に起き上がって来たのだ。
「啓太様、相変わらずですね」
気がつけば、そこに白い着物姿の青年が立っていた。長めの黒髪が片目を隠し、もう片方の目は水晶のように光っている。
美しい。
と同時に、間違いなくこの世の者ではない。放っている気《け》配《はい》が氷のように冷たかった。
だが、啓太は驚かなかった。ほっと胸を撫《な》で下ろす。
「なんだよ、脅かすなよ」
彼はこの手の者は見慣れているのだ。
青年がつけている紫色の数珠《じゅず》を見つめながら、
「そうそう。お前、見覚えあるよ。確か、ばあちゃんの犬《いぬ》神《かみ》だったよな。名前はえっと、は、はげだっけ?」
「はけ、です」
青年は無表情に訂正を入れ、片手を上げた。
「さ、ご案内致します」
その細い指先が触れただけで、重たそうな引き戸がするすると左右に開く。はけは宙を滑るように進み始めた。
実際、少し浮いているのかもしれない。
啓太は慌てて後を追いかけた。
「おい、待てよ!」
中には時代を百年|遡《さかのぼ》ったような庭が広がっていた。点々と続く石畳を踏み締《し》め、香り高い梅《うめ》の木の横を通り過ぎる。ブーツを脱ぎ、玄関に上がりこむと、旧家独特の冷たくも身が引き締まるような気《け》配《はい》がした。はけについて、廊下を幾《いく》重《え》にも曲がる。
板《いた》敷《じ》きの床は磨き清められ、塵《ちり》一つ落ちていない。
全《すべ》て今、彼の前を行くはけが差配しているのだ。この家に人間は啓《けい》太《た》の祖母しかいないはずだった。
「こちらです」
やがて、はけは奥まった一室の前で足を止め、そこで膝《ひざ》を突いた。
「我が主《あるじ》がお待ちです」
すっと頭を下げる。その時代がかった調子に、啓太は困ったように頭を掻《か》く。
「主って……要するに俺《おれ》のばあちゃんじゃん」
犬神の、こういう律《りち》儀《ぎ》で堅苦しいとことはいつまで経《た》っても馴《な》染《じ》めなかった。
「ま、あんがとさん」
啓太ははけの頭を軽く叩《たた》いて、障子を開けた。
「ばあちゃん、来たぜ」
薄《うす》暗《ぐら》い二十畳ほどの部屋の中央に、一人の老婆がちょこんと正座をしていた。質素な紺《こん》の着物姿で、手首には紫水晶の数珠をはめていた。啓太の無礼な作法を咎《とが》めるかのようにじっとこちらを睨《にら》んでいる。
しかし、啓太は一向に臆《おく》する気配もなく、ずかずかと上がりこむと、老婆の前であぐらをかいた。
「ほい、ばあちゃん、都会|土産《みやげ》」
にっと笑って、懐《ふところ》から煙草《タバコ》を一カートン取り出す。
老婆はがっくりとうなだれた。
「お前、その大《おお》雑《ざっ》把《ぱ》なところ、なんとかならんのか?」
「なんだよう。こういうの不自由していると思ったから、わざわざ持ってきてやったのに」
「いや、確かにわしは煙草《タバコ》を吸うが老人に土産《みやげ》を持ってくるなら、なんというかその……もう少し、気を使え」
「あ、ばあちゃん。洋酒の方が良かったのか? なら、バイクに積んであるぞ」
「もう、いいわい」
老婆はふうと溜《ため》息《いき》をついた。
「せっかくのお前の好意じゃ。ありがたく貰《もら》おうぞ」
気を取り直したように微笑《ほほえ》んで、箱のセロファンをむしり、手《て》馴《な》れた調子で煙草を取り出した。口にくわえ、目をつむる。
すると、それだけで先端に小さな火が灯《とも》った。
「ふう。三ヶ月ぶりじゃの」
老婆は美味《うま》そうに煙を吐き出した。いつの間にか彼女の前に置かれていた灰皿にとんとんと灰を落とす。
白い煙は高い天井をどこまでも昇って行った。
「はけがやってるのか?」
啓《けい》太《た》が感心したような声を出した。老婆は無言で頷《うなず》く。
「そうか〜。やっぱり、犬《いぬ》神《かみ》って便利なもんだな。おい、はけ。俺《おれ》も頼む」
啓太が同じように煙草をくわえると、そこにも火がついた。目に見えないはけがサービスしたのだ。
「さんきゅう」
啓太はそれを二本の指で摘《つま》みながら、尋ねた。
「で、俺を呼び出した用って一体、なによ?」
「うむ」
と、老婆は曖《あい》昧《まい》な表情になって頷いた。
「まあ、少々、込み入った話なんじゃがの」
「難しい話なら嫌《いや》だぜ。あ、でも、ばあちゃんの財産を生前分与してくれるとかそういう話なら喜んで」
「黙《だま》って聞け。我が川《かわ》平《ひら》家は代々、犬神使いの血筋じゃが」
「知ってるって」
「黙って聞けというに。そもそもは先祖の川平|慧《え》海《かい》という僧《そう》侶《りょ》が犬神の一族と共にこの山に棲《す》む魔《ま》物《もの》を」
「退治したんだろ? 何度も聞いたよ。それ以来、魔物の代わりに裏山には犬神どもが住むようになって、住処《すみか》が出来た奴《やつ》らはそれを恩にきて、俺《おれ》たち川《かわ》平《ひら》家のために働いてくれるようになったんだよな」
「正確にはわしらに協力して、世の中のために、じゃ。犬《いぬ》神《かみ》の本性は破《は》邪《じゃ》顕《けん》正《しょう》。わしら犬神使いもまた世に仇《あだ》なす魑《ち》魅《み》魍《もう》魎《りょう》を退治することこそ本《ほん》懐《かい》なのだからな」
「どうでもいいよ」
啓《けい》太《た》は嫌《いや》そうに舌を出した。
「どうせ、俺は不適格になって、犬神、貰《もら》えなかったんだから」
彼の顔が恨みがましいものになる。それもそのはずだった。彼はそのせいで川平家からいわば除名処分を受けていた。
川平家の者は満十三歳を迎えると、たった一人で裏山に向かい、そこで一晩過ごす。山に棲《す》む犬神たちの品定めを受けるためだ。彼らに気に入られれば、犬神という稀《け》有《う》な力を持つ人《じん》妖《よう》の主《あるじ》となれる。
器量のある者はその晩を経て、十匹近い犬神を使役できるようになるが、啓太の場合はゼロだった。十三歳の夜、一晩中、裏山を走り回って、自分の長所と待遇条件を連呼したが、結局、一匹の犬神も近寄って来なかった。
そうして、それは川平家、始まって以来の不祥事だった。
啓太はそれからずっと、一人暮らしをしている。
「いまさら、何だってそんな話するんだよ?」
啓太の問いに、老婆は決まりが悪そうな咳《せき》払《ばら》いをした。
「うむ。実はな」
少し横目になりながら、喋《しゃべ》り出した。
「お前、まだ犬神使いになる気はあるか?」
「へ?」
啓太はぽかんと口を開けた。その拍子に煙草《タバコ》がこぼれ落ちて、彼の膝《ひざ》をじゅっと焦がす。
「わっちちち!」
慌ててそれを取り上げて、灰皿に押しつける。
その間、老婆はやや早口に事情を説明していた。
「いやの。わしも最近、知ったことなんじゃが、お前が裏山で一夜を過ごした時、お前を気に入っていた犬神がおったそうなんじゃ。しかし、当時、その者は犬神としてはまだ未熟だったがゆえに、お前の許《もと》にはこれなんでの。今年、ようやく禁が解けて晴れてお前の下で働くことを望んでおるそうなんじゃ」
老婆はちらりと上目で啓太を見た。
「だが、こんな話をされてもお前にとっては迷惑なだけだろうの。なにしろ、あの時は随分と酷《ひど》いことを言われたし、もう川平の家などと関《かか》わる気はないじゃろう?」
「ばあちゃん!」と、物《もの》凄《すご》い形《ぎょう》相《そう》で啓《けい》太《た》。
「う、うむ。そうじゃろうとも。無理じいはせんよ。だが、わしとしても本家の血を引くお前が──」
「違う! その犬《いぬ》神《かみ》はどこにいるんだ?」
「裏山の廃寺じゃが……もしかして、お前、犬神使いになる気か?」
驚《おどろ》いたような老婆の問いに、啓太は力強く拳《こぶし》を握って答えた。
「あったりまえだろうが! 俺《おれ》もはけみたいに便利な犬神、貰《もら》えるってことだろ? 誰《だれ》が断わるかよ! 一人暮らしやってるとなにかと不便でさ、ずっと、ずっと、俺も犬神、欲しいなと思ってたんだよ!」
「……お前、犬神使いをなんか勘違いしておりゃせんか?」
と、半目になって老婆。しかし、啓太は一切、聞いていなかった。やにわに立ち上がって部屋を飛び出そうとする。
老婆は慌てた。
「こ、こら! お前、どこへ行く気じゃ!」
「決まってるだろ! さっそく、俺の犬神ちゃんを迎えに行くんだよ!」
そう叫び返し、啓太は疾《しっ》風《ぷう》のように部屋を飛び出していった。背後で、老婆が懸《けん》命《めい》に何か呼びかけていたが、ほとんど聞いていない。
廊下をどたどたと駆け抜けると、上がりかまちに腰かけ、もどかしげにブーツを履《は》く。すると、目の前に白い影が立った。
老婆の犬神、はけだった。
彼は静かな声で話し出した。
「啓太様。ご承知でしょうが、犬神の主《あるじ》となれば、色々と面《めん》倒《どう》も増えます」
その妙にかしこまった様《よう》子《す》に啓太は靴|紐《ひも》を結ぶ手を止め、顔を上げた。
「なんだよ、真《ま》面《じ》目《め》な顔して?」
「山の入り口の赤い鳥居を潜《くぐ》れば、もう引き返せないのですよ?」
「変な奴《やつ》だな。大丈夫だって」
啓太はにっと笑い、はけの肩を叩《たた》いた。
「俺には白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》がついてるんだからさ」
そう言って、彼は軽く片手を上げ、玄関を出て行った。
はけは奇妙な表情でその背中を見送った。
やがて、廊下の暗がりから老婆が現れた。
「やれやれ、行ったか」
はけは珍しく少し躊躇《ためら》ってから、主に向かって尋ねた。
「本当にあの者と啓太様を引き合わせて、宜《よろ》しいのですか?」
「ああ。これが啓《けい》太《た》の運命なんじゃろ」
老婆ははけと同じように複雑な顔つきで玄関先の暗《くら》闇《やみ》を見つめ、
「なるようにしかならんわい」
溜《ため》息《いき》をついた。
一方、啓太は快調に足を飛ばしていた。元々、鍛《きた》えてはいる。普通の人だったら怖《おじ》気《け》づいて一歩も進めなくなるような夜の山道を平然と駆けて行った。
途中、人と犬《いぬ》神《かみ》の住まう境界を示す赤い鳥居を潜《くぐ》ったが、特に何も感じなかった。沢にかかった丸木橋を危なげなく渡り、山頂を目指す。
半刻程で、月明かりの下に佇《たたず》む小さな寺に着いた。
「おい! 開けるぞ!」
啓太は乱暴に引き戸を開ける。荒れ果てた建物のほうぼうに蜘蛛《くも》の巣がかかり、埃《ほこり》が堆積していた。一体、いつから人が入りこんでいないのか。梁《はり》が落ちて、廊下に突き刺さっている箇所もあった。
彼は一切気にせず、ずかずかと中を歩き回り、連呼した。
「お〜い! ご主人様が来てやったんだぞ。さっさと現れろや、犬っころ!」
本堂とおぼしき場所に出た。薄《うす》暗《ぐら》い。正面に安置された仏像が穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》んでいるのが見えるのみである。誰《だれ》もいない。いや、違う。
その時。雲が流れ、月明かりが射《さ》しこんで来た。
目を凝《こ》らす。
そこに誰か正座していた。
墨絵のような光景から浮かび上がったのは、紺《こん》の絣《かすり》を着た少女だった。さらさらとした黒髪が腰元まで伸び、抜けるように白い肌が月光を弾《はじ》いて、魔《ま》性《しょう》の美しさを醸《かも》し出していた。切れ長の瞳《ひとみ》の、とびきりの美少女だ。
十六、七だろうか。薄く微笑んでいる。
「お前が俺《おれ》の……つまり、川《かわ》平《ひら》啓太の犬神か?」
啓太はごくりと唾《つば》を飲みこんでから尋ねた。その娘はにっこりと手をつき、深くお辞《じ》儀《ぎ》をした。どうやら肯定の仕《し》草《ぐさ》らしい。
身体《からだ》に震《ふる》えが走った。
上《じょう》玉《だま》だ。とびっきりの上玉だ。
「とうとう俺にも運が向いて来やがった!」
啓太は思わずガッツポーズをとっていた。自分の犬神がまさかこんな綺《き》麗《れい》な少女だとは思っていなかった。予想外の衝《しょう》撃《げき》だった。これからこの子にどんな命令でも下せるのだ。こんな美少女が自分の言うことをなんでも聞くのだ。
「長かった……」
啓《けい》太《た》はほろりと涙をこぼした。それを拳《こぶし》で拭《ぬぐ》い、過去を振り返る。
「ガキの頃《ころ》から修行、修行でよ。ろくに遊べず、彼女も出来ず、何度も死にかけた割になんの見返りもなくて、挙句の果てに本家の面《つら》汚《よご》しだのなんだの……くくく、その俺《おれ》が、その俺が」
喜びがマグマのように噴き上がって来る。
「わははは! こんな綺《き》麗《れい》な子、ゲット出来るとはよ、神様も粋な計らいをするぜ! 俺専用つうことは、こいつを色々とこき使って良いんだよな? なら、こいつ使って、金をがしがし儲《もう》けて、ついでに、ついでにふひひひ……使役する以外にも夜《よ》伽《とぎ》なんかさせちゃったりしてよ! わははっははははは!」
本堂の中央でそっくり返って大笑いする啓太。その声はあちらこちらで谺《こだま》して、本堂の暗がりに吸いこまれてすっと消えた。
一《いっ》瞬《しゅん》、沈《ちん》黙《もく》が訪れる。
はっと我に返った啓太は横目で少女を見た。彼女は、正座の姿勢のまま、にこにこと啓太を見上げている。
無邪気で、真っ直《す》ぐに彼を信じ切っている目だ。
啓太はきまりが悪そうに咳《せき》払《ばら》いを一つした。
「と、とりあえず」
真顔に戻る。最初の躾《しつけ》が肝心なのだ。ヤンキーのようにしゃがみこみ、上《うわ》目《め》遣《づか》いで少女と視線を合わせた。少女は微笑《ほほえ》んだまま、小首を傾《かし》げる。
「お前、名前は?」
「ようこ」
初めて喋《しやべ》ったその声は風鈴のように澄《す》んでいた。
「ほう。いっちょまえに人間らしい名前、持ってるんだな。よし、いいか? ようこ。俺《おれ》様は川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》。分かってると思うが、お前のご主人様だ。以後、啓太様と呼べ!」
「はい」
少女は頷《うなず》いた。相変わらず、にこにこしたままだ。啓太は感動に打ち震《ふる》えていた。犬《いぬ》神《かみ》の中には主人に意見をしたり、叱《しか》ったりする煙たい者もいるが、ようこはどうやら極めて従順な性質らしい。
この素直さは貴重だった。
啓太は念を押すように尻《しり》ポケットから、真《しん》鍮《ちゅう》製のホイッスルを取り出してみせた。
「え、えっと俺がこの笛を吹いたら、どこにいてもちゃんとくるんだぞ?」
「はい」
「そ、それから、俺の言うことは何でも聞くんだぞ?」
「はい。何でもしますから、どうかようこを末永く可愛《かわい》がってくださいね、ケイタ様」
再び、ぺこりと頭を下げるようこ。啓太はくらっとボクサーがジャブを貰《もら》ったように頭を仰《の》け反《ぞ》らした。
少し鼻血も出ている。
「よ〜しよし! 可愛がってやるぞお〜。色々、可愛がってやるからな!」
有頂天になっていた彼はそこで、ようやく祖母の言葉を思い出した。
「と、そうだ。まずは主従の契《ちぎ》りを交わさなきゃならねえんだったな。う〜ん、互いにできるもん、互いにできるもんっと……」
そこで彼は首を捻《ひね》って考える。ぽんと手を叩《たた》いた。
「よし!」
彼は自分の首にかかっていたシルバーのチェーンをようこの白い首にかけた。先端に翡《ひ》翠《すい》で出来た小さな蛙《かえる》がついている。
「これをいったん、お前のモノにする」
「?」
「で、一緒に街に出て、お前に合うネックレス……いや、首輪、見《み》繕《つくろ》ってやるからそれともう一度、交換しろ。そうすれば、俺とお前は主従だ」
啓太は説明する。
「あとはお手をすれば完了。互いに互いのものを渡すことになるからな」
「でも」
と、ようこは不思議そうに尋ねた。
「わたし、結界から出ることができないんですけど?」
「ああ、大丈夫、大丈夫。そのチェーン、身につけてればお前はもう山を自由に出入りできるんだよ」
少女は細い鎖《くさり》を弄《もてあそ》びながら、しげしげと蛙《かえる》を見つめた。
「ふ〜ん」
「うし。じゃ、お手を先にやっとくか。おら、お手しろ、お手!」
啓《けい》太《た》はぐっと偉そうに手を突き出すが、なぜかようこは薄《うす》く微笑《ほほえ》んだまま。
「なんだよ? お前、お手を知らないのか?」
反応がない。啓太はじれったそうに頭を掻《か》いた。
「つまり、この手にお前の手を」
と、啓太が少女の手を取って、説明しようとしたその時である。何か違和感を感じて、啓太は自分の手の平を見つめてみた。
「ん?」
全体が何か赤い物に包まれていた。
「え? 火?」
燃えている。そう思った次の瞬《しゅん》間《かん》に激烈な痛覚が脳天を直《ちょく》撃《げき》した。
「わちゃ! あちあちあちいいいいい────!」
啓太は飛び上がった。慌てて手を振り回し、痛みに耐えかねてその場を走り回り、奇声を発する。
「みずみずみず!」
ふうふうと息を吹きかけ、床に叩《たた》きつけ、なんとか鎮《ちん》火《か》に成功したところへ、天井のどこかから大量の水が降り注いで来た。
「はい、水」
そんな声が聞こえた。滝のような、集中豪雨のような、奔流が過ぎて啓太はぽたぽたと水滴を滴らせたまま、ぽかんと口を開けて立っていた。
どこから来たのか、床で魚がぴちぴち跳ねていた。
「ぷ、くくく」
気がつくと、ようこが笑っていた。
喉《のど》の奥で。さも可笑《おか》しそうに。啓太が呆《ぼう》然《ぜん》としていると、ようこの身体《からだ》がすっと宙に浮かび上がった。
「くすくす、寝言は寝てから言おうね、け〜たさま」
彼女は寝そべった姿勢のまま、小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたように目を細め、啓太を見下ろした。先程までの無邪気な笑みがかき消えて、残酷なまでに妖《あや》しい薄《うす》笑《わら》いを浮かべている。彼女の周りが霊《れい》気《き》で白く発光していた。
「な」
「大体、黙《だま》って聞いてればなに? 使役だ、夜《よ》伽《とぎ》だって。このようこ様をあんまり舐《な》めて欲しくないのよねえ。たかが、人間風情が」
「……」
「わたしの主人を名乗ろうとする人なら、せめてもう少し、上品な顔していて欲しいのよ。そんな、ちょくりつを覚え始めたばかりの、えんじんみたいな顔じゃなくってさ」
ようこの身体《からだ》が緩《ゆる》やかに変わっていく。腰からふさふさした尻尾《しっぽ》がにょっきり生えた。本性が現れ始めているのだ。
啓《けい》太《た》はまだ信じられないという表情で彼女を見上げていた。
「まあ、でも、わたし、外で遊んでみたいから、特別に我慢してあげる。とりあえず、あなたは形だけ、わたしのご主人様。ありがたく思ってよね?」
ようこは啓太の首に手を巻いて、すりすりと額《ひたい》を擦《こす》りつけた。
「ねえ、わたし、まずは、とうきょうたわーに行ってみたいな。連れてって」
悪びれない、媚《こ》びた口調である。だが、啓太は震《ふる》えていた。
怒りで。
「あれ? どうかしたの?」
ようこはきょとんとした顔で、啓太の頭をぺしぺし叩《たた》いた。
「聞いてる? わたしは、とうきょうたわーが見たいのよ。それと、ちょこれーとけーきもたべたいの。ねえ、聞いてる?」
あくまで執《しつ》拗《よう》に啓太の頭を叩くようこ。ついに啓太の中で何かが音を立てて、切れた。ぶちんと。
「ふざああけるなああああ────────!」
怒りを噴《ふん》火《か》させて、両手を振り回す。
「きゃ」
ようこは素早く空中に逃げた。腰に手を当て、非難がましく啓太を睨《にら》む。
「なによ? わたしの面《めん》倒《どう》見てくれないの?」
「あほ! それじゃ、逆だろうが! お前、犬《いぬ》神《かみ》だろ!?」
指をびしっとようこに突きつけ、「犬神ってのはご主人様に絶対の忠誠を尽くす、いわば奴《ど》隷《れい》だろうが、ふざけんなあ、こらあ!」
それに対して、ようこはべえっと舌を突き出した。
「上等だよ」
啓太のこめかみに青筋が浮かんだ。彼はポケットに手を突っこんで、奇妙な物を取り出した。赤と青と黄色の消しゴムだ。
蛙《かえる》の形をしている。
それを指に挟んで、扇状に開いてみせた。
「犬畜生に人間様に対する礼《れい》儀《ぎ》を教えてやんよ」
炎のオーラのような物を漂わせている啓《けい》太《た》。対照的にようこの目は冷ややかな氷の欠片《かけら》を浮かべていた。
「ふん。意地悪。ばかにんげん」
いー、をする。
「このくそいぬうう────────!」
啓太は床を蹴《け》り、両手を交差させ、消しゴムを投げつけた。それは、空を切って、様々な軌跡を描きながらようこに襲《おそ》いかかる。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ! 蛙よ、」
啓太がこめかみに指先を当てた途《と》端《たん》。
きんと蛙が輝《かがや》き出した。
「破《は》砕《さい》せよ!」
彼女は嘲《あざ》笑《わら》った。
「な〜によ。こんなもの、燃えちゃえ」
ふっと指先に意を込め、唇に当て、吹いた。
「じゃえん」
すると、息吹《いぶき》に込められた霊《れい》気《き》が炎の突風と化し、部屋を薙《な》いだ。一《いっ》瞬《しゅん》で全《すべ》ての蛙が炭となって、空中でぼろぼろと崩れ落ちる。
その勢いは止まらない。
「だわ!」
怒《ど》濤《とう》のような炎の流れを、啓太は辛うじて転がってかわした。ちりちりと彼のいた所が黒く焦げて、背後のフスマがぼっと燃《も》え上がった。
「て、てめえ!」
跳ね起きて、啓太は拳《こぶし》を突き上げる。
「きゃははは、避《よ》けた、避けた」
ぱちぱちと手を叩《たた》いて喜ぶようこ。
啓太がすかさず飛びついたが、あっさりとかわされた。
「今のがじゃえん。わたしが使える霊力のうちの一つで、炎を作り出すの」
と、解説を始める。
「それで、もう一つが」
炎に照らされた彼女の横顔はぞっとするくらい怜《れい》悧《り》だった。すっと指を指揮者のタクトのように振り上げて、それを降ろした。
「しゅくち」
その瞬《しゅん》間《かん》、大量の土砂や岩石が天井の一角に現れ、それは雪崩《なだれ》となって啓《けい》太《た》を押し包んだ。啓太の身体《からだ》はたちまち飲みこまれ、押し流され、圧倒的な質量の土《ど》石《せき》流《りゅう》と共に背後の漆《しっ》喰《くい》の壁《かべ》を突き破る。
凄《すさ》まじい破《は》砕《さい》音が轟《とどろ》き、天井から埃《ほこり》が盛大に舞い降りた。
ぎっぎっと不安な音を立てて、寺全体が軋《きし》む。
しーんと静まり返った土砂の山に向かってようこが声をかけた。
「ある程度の距離にあるものを何でも持ってくることが出来るの。以上が、わたしの持ってる二つの霊《れい》力《りょく》なんだけど……生きてる?」
するすると地面にまで降りて、土の表面を突っついた。
「よ、ようするに」
か細い声がどこからか聞こえる。
「『放火』と『窃盗』じゃねえか。この犯罪犬があ───!」
ずぼっと地中から腕が伸びて来て、ようこの手首を掴《つか》んだ。さらに、そこからずずずっと蘇《よみがえ》るゾンビの如《ごと》く啓太が現れた。
口の中に入った土を吐き散らしながら、彼は勝ち誇る。
「わはははは、とうとう捕まえたぞ、この野郎!」
「へえ、丈夫なんだ」
と、にっこり笑ってようこ。啓太の瞳《ひとみ》が狂的に輝《かがや》く。
「あったりめえよ! それより、てめえはてめえの心配した方がいいそお〜。なぜなら、今から俺《おれ》がお前をお仕置きするから、な! 二度と反抗できないように、徹《てっ》底《てい》的に教育を施してやるぜ! ふへへへ」
啓太はすでに理性を失いかけている。しかし、ようこはただ、にこにこしているばかりだった。
「それだけ丈夫なら」
彼女が再び、人差し指を持ち上げた。
「これくらいやっても死なないよね?」
啓太は目を丸くした。ようこの指先に先程とは桁《けた》違いの霊気が集まっていたからだ。
「だいじゃえん!」
ようこが叫ぶ。
同時に、寺が白い光に包まれ、吹き飛んだ。
ふらふらになりながら啓太が山を降りたのは明け方だった。心配して鳥居の前まで来ていた老婆やはけの前に、彼はずたばろの黒焦げ姿で座りこんだ。
ぴっと指先をこめかみに当て、凄《せい》絶《ぜつ》な笑みを浮かべる。
「悪い、ばあちゃん。寺、燃《も》やしちまった」
「燃やすな!」
老婆は半泣きである。
「火柱が立ったので、驚《おどろ》いて来てみれば、一体、なんということを! あの寺は初代、川《かわ》平《ひら》慧《え》海《かい》が住んでいた歴史的にも貴重な寺で、川平家と犬《いぬ》神《かみ》たちとの絆《きずな》の証《あかし》なんじゃぞ!」
「んなこと言われてもなあ。文句なら、あの狂犬に言ったってくれや」
さすがにばつが悪そうに啓《けい》太《た》はそっぽを向いた。
ただ一人、はけだけは比較的、冷静だった。
「啓太様、一体、なにがあったんですか?」
「け」
啓太は鼻の頭に皺《しわ》を寄せながら、一部始終のてんまつを語る。語っているうちに自分でも思い出したのか、彼の肩が怒りで小刻みに震《ふる》え始めた。
「あの、くそいぬう〜! 今度、会ったらぜってえ、ぜってえ、ぶっ殺す!」
「それで、ようこはどうしたんじゃ?」
「しらねえ」
と、啓太は拳《こぶし》と拳を打ち合せた。
「こっちが聞きてえくらいだよ! 俺が瓦《が》礫《れき》の下から這《は》い出した時にはもういなかった」
「多分、街でしょうね」
黙《だま》って聞いていたはけが小声で呟《つぶや》く。その言葉に、啓太ががばっと跳ね起きた。はけの肩を掴《つか》んで、手荒く揺さぶる。
「お前、あいつの行き先、知ってるのか!?」
はけはどこか気が重そうだった。伏目になって答える。
「正確には分かりません。ただ、あの者は常々、街に行きたがっておりました。人間の作る文明を見たがっていたんですよ。だから、必ずどこか新奇なものがあるところにいるはずです」
「そうか」
啓太はごきりと指を鳴らした。
「それだけ聞けば十分だ。必ず、捜し出してやんよ。捜し出して、嫌《いや》と言うほど、人間様の偉大さを教えてやんよ」
彼の目が復《ふく》讐《しゅう》の炎で燃え盛っていた。
老婆も重々しく頷《うなず》く。
「うむ。なんにせよ、こうなった以上は必ずようこを見つけ出せ。いいか、一刻の猶《ゆう》予《よ》もならんぞ!」
その声は酷《ひど》く真剣で聞きようによってはせっぱ詰まっていた。啓《けい》太《た》は怪《け》訝《げん》な顔をする。
「あん。ばあちゃん、それ、どういう意味よ?」
「気がつかぬか? 今のお前は犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いとして、犬神を失っておるのだ。よりにもよって片方だけが契約をしたのでは、何にもならん。力を失うばかりじゃ。見ろ!」
と、老婆は手で四方を示した。見ると、透明な靄《もや》のような物がふよふよと森の端々から染み出して来ている。
小声で何事かを呟《つぶや》くような、ぶつぶつざわざわとした音がそこかしこに響《ひび》く。
くれえ〜、くれえ〜
その命、うらやまし。かなし。我が身はかなし
おろろ〜〜ん
啓太はぎょっとして周囲を見回した。
「森に棲《す》まう邪《じゃ》霊《れい》どもじゃ」
老婆は暗《あん》鬱《うつ》に囁《ささや》いた。
「みな、お前を狙《ねら》っておる。今のお前は犬神の加《か》護《ご》を離れ、霊力が極度に落ちているからの。邪霊にしてみればいわば格好の獲《え》物《もの》よ」
啓太の目を真っ直《す》ぐに見据え、静かな威《い》厳《げん》を込めて告げる。
「このままでは、お前、死ぬぞ」
啓太はごくりと唾《つば》を飲みこんだ。
「ま、まじで?」
「だから、ちょっと待てと言ったんじゃ。もうどうにもならん」
老婆は哀《かな》しそうに首を振った。
「そ、そんなアホな……」
へなへなとへたりこむ啓太。
と、そこへはけの一声が飛んだ。
「来ました!」
森の切れ目からわらわらと靄どもが襲《おそ》いかかって来る。
「で〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
啓太は転がってそれを避《よ》ける。同時に止めてあったバイクに飛びつき、エンジンを始動させた。靄が反転。焦る啓太の背後に殺到する刹《せつ》那《な》。はけがその前に現れた。いつの間に取り出したのか、真白い扇子を左右にふるい、華《か》麗《れい》に舞う。
はけの身体《からだ》がすっと沈んで、扇子をぱちりと閉じた時。
結界が完成した。紫水晶の柱。
鮮《あざ》やかな墨《ぼっ》痕《こん》で、
『破《は》邪《じゃ》結《けっ》界《かい》・二《に》式《しき》紫《し》刻《こく》柱《ちゅう》』
と刻印されている。
靄《もや》がそこへぶつかり、阻まれる。
びしびしっと音を立てて、弾《はじ》けた。
「早く行ってください」
目を閉じて、ゆるりと立ち上がったはけが囁《ささや》く。扇子を肩に当てていた。
「悪い! この借りはあのバカ犬、ぶちのめしてから返す!」
啓《けい》太《た》は思いっきりアクセルをふかした。
啓太がバイクに飛び乗り、一路、山を下っている頃《ころ》、ようこは朝焼けの地平線を眺めていた。両手には念願の、ちょこれーとけーき。
嬉《うれ》しくて仕方ない。
「はむはむ」
近くのこんびにで失敬して来たものだ。予想以上に素《す》晴《ば》らしく、蕩《とろ》けるように甘く、彼女の心を優しく震《ふる》わせた。にこにこしながら、最後の一|欠片《かけら》を口に運び、手についたクリームを丁寧に舐《な》めとる。
「あ〜、美味《おい》しかった!」
彼女は天を仰ぎ、ぱたぱたと足をばたつかせた。
びるの屋上にようこは座っている。正確にはその上に設置された給水塔だったが、彼女はその名称を知らなかった。ただ、啓《けい》太《た》をからかってからひとっ飛びでやって来たこの街で一番高い場所がここだった。
ざっと見渡した限り、とうきょうたわーは近くにないようだった。もしかしたら、まだ行っていない場所にあるのかもしれないし、この街以外の場所にあるのかもしれない。
どちらにしてもゆっくり探せばいい事だった。
ここら一帯だけでも充分、刺激に溢《あふ》れているのだから。
ようこは地面を走るくるまがさっきから気になっていた。
日が昇り始めても、街はまだ目を覚まし切っていない。そこかしこに薄《うす》闇《やみ》が広がっている。その中を、啓太はバイクで疾走していた。
彼の背後をわらわらと何かが追いかけている。
魔《ま》性《しょう》の者どもだ。
「しつけえんだよ!」
啓太はぎゃっとスピンターンを効かせ、バイクを止めてそう叫んだ。同時にその朝、四個目の消しゴムを投げつける。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ。蛙《かえる》よ、破《は》砕《さい》せよ!」
こめかみに指をぴっ。
金色に輝《かがや》いた蛙の消しゴムはじぐざぐに飛び回って、近寄って来た雑《ざつ》霊《れい》の群れをまとめて吹き飛ばした。裏路地の朝日の射《さ》さぬ一角で小さな爆《ばく》風《ふう》が起こり、側《そば》にあったポリバケツが生ごみと共に砕け散る。
「ざまあみやがれ!」
バイクをかっ飛ばして街に戻って来てからずっとこの調子だった。
払っても、払っても魔物が啓太にすり寄ってくる。
ようこを捜す邪魔になって仕方ない。また、人に見られると厄《やっ》介《かい》だった。
明らかに彼は弱っていた。普《ふ》段《だん》ならがんを飛ばしただけでこそこそとかき消えるような小物が嬉《き》々《き》として彼に近づいて来る。
「しかし、ちとこれはやべえな」
彼は祖母の言葉を思い出して、舌打ちをした。早くようこを捜し出して、主従の契《ちぎ》りを交わさないと啓太は本当に無力になってしまう。
「ちくしょ──! これも全部、あのバカ犬のせいだ!」
と、叫びながら大通りに出た啓太はそこで目を大きく見開いた。
「な」
慌てて急ブレーキをかけ、ヘルメットを脱ぎ捨てながら駆け、辺《あた》りを見回す。
「なんだよ、これえ?」
そこには信じられないような光景が広がっていた。道のあちらこちらで車が大破しているのだ。ある車はガードレールに乗り上げてボンネットから細い煙を上げ、ある車は開店前のブティックに頭から突っこんで後輪を空回りさせていた。
しかし、なかでも酷《ひど》いのは車道の中央で重なっている三台のトラックだった。射《さ》しこんで来た朝日を浴びて、それはさながら奇怪なオブジェと化していた。荷台からこぼれ落ちた林《りん》檎《ご》がシュールなアクセントになっている。
犠《ぎ》牲《せい》者は?
啓太はとっさに辺りを見回した。
これだけの事故なら呻《うめ》き声がそこかしこで聞こえてもよさそうだが、代わりに耳に入ったのは怒号と悲痛な叫び声だった。
「俺《おれ》の愛車が! 俺の愛車が! まだ月《げっ》賦《ぷ》が残っているのに〜!」
「降ろしてくれー!」
見ると、近くの街路|樹《じゅ》で人が鈴なりになっていた。事故車の持ち主とおぼしき人たちが、それぞれ必死で枝に掴《つか》まっている。
啓太の顔が引き攣《つ》った。犯人に心当たりがあったからだ。こんな事が出来るのはたった一人、いや、一匹しかいない。
「あんの、かちくう」
と、彼が拳《こぶし》を握りこんだその時である。
ひゅんと音を立てて、白いワゴンが空から降って来た。ぐしゃと音を立て、それは啓太の目の前で見事に直立した。
「どわ!」
啓太はたまらず尻《しり》餅《もち》をつく。
次の瞬《しゅん》間《かん》、盛大な炎を吹き上げて車が爆《ばく》発《はつ》した。どんと腹に響《ひび》く、地鳴りが続く。ぱらぱらと振りかかる火の粉を浴びながら、啓太はしばらく呆《ぼう》然《ぜん》としていた。
しかし、一際大きな部品が炎をまとって近くに落下して来るに及んで我を取り戻し、慌ててその場から逃げ出した。
しゃかしゃかとバイクを押しながら、彼は震《ふる》え声で呟《つぶや》いていた。
「な、なにが犬《いぬ》神《かみ》の本性は破《は》邪《じゃ》顕《けん》正《しょう》だよ。魔《ま》物《もの》より、なにより、あいつが一番、たちわりいじゃねえか」
ようこはその姿を屋上から見ていた。
「きゃははは!」
と、ひとしきり大笑いしてから、彼女は目《め》尻《じり》の涙を拭《ぬぐ》った。
ようこがやっていたことは実験だった。くるまの動く原理がどうしても分からない。そこで、道行く車から中に乗ってる人間を取り出してみたのだ。
すると、車は皆、こんとろーるを失って勝手に走って行った。どうやら、人間が触れることによって制御しているらしい。ようこは好奇心が旺《おう》盛《せい》だった。自分でもやってみようと、道に止まっていた車の一台を屋上に呼び上げ、色々と触ってみた。
しかし、いくらやっても車はうんともすんとも言わない。いい加減、腹を立てていたところへ、啓《けい》太《た》がやって来たのだ。
「でも、くるまはもういいや」
ようこはまた、飽きっぽくもあった。
するすると空に浮き上がり、今や完全に目覚めた街を見下ろす。
「くふふふ」
彼女は喜びをこらえるかのように、口元を手で押さえると、地上に降り立って行った。
その後、街のあちらこちらで常軌を逸した怪事件、珍事件が勃《ぼっ》発《ぱつ》した。ペットショップから檻《おり》の中の動物が全部逃げ出したり、高級デパート中が下水で溢《あふ》れたり。警《けい》察《さつ》と消防署は一日中、てんやわんやだった。
啓太はそのたび現場に急行したが、半歩の差でようこには逃げられていた。
夕方近く彼は疲労|困《こん》憊《ぱい》して自分の家に戻って来た。
夜が近づいた街をこれ以上、歩き回るのは危険だった。とりあえず、蛙《かえる》を補充して魔《ま》物《もの》どもに備えなければならない。
ようこはまた、明日捜すしかないだろう。
啓太の家は古アパートの二階だった。六畳一間の小汚い部屋である。いつものようにドアノブを開けようとして、彼は不《ふ》審《しん》そうに手を止めた。
中からテレビの音が聞こえて来るのだ。
本家に行く時、ちゃんと消したはずなのに。啓太はそっと扉を開けて、中に踏みこんだ。すると、陽気な声が彼を出迎えた。
「あ、おかえり〜」
ようこが啓太のベッドに座っていた。魚肉ソーセージを頬《ほお》張《ば》りながら、お愛想のつもりなのか尻尾《しっぽ》を振ってみせる。
「れーぞーこの中のもの、勝手に貰《もら》っておいたよ」
と、もごもご口を動かしてようこ。
「!」
啓太は持っていたヘルメットを床に落とし、口をパクパクさせた。
「な、なにしてるんだ、お前?」
辛うじて言えた言葉がそれだった。ようこは悪びれる事なく首を傾《かし》げる。
「ん? ちょっと休《きゅう》憩《けい》」
そう答えて、彼女は指についた油を舐《な》めた。その周りには雑多な物が並んでいる。アニメの絵柄の手《て》鏡《かがみ》、つぼ押し健康器具、大きなぱんだの縫《ぬ》いぐるみ、水晶玉、有名ケーキ店のケーキ各種。
壁《かべ》かけテレビ、本や雑誌の山。
等々。
断じて啓《けい》太《た》の物ではない。
さらに、彼女は昨夜の着物ではなく、藤《ふじ》色《いろ》のワンピースに白いカーディガンという現代的な服に着替えていた。
それに髪《かみ》留《ど》めを使って、長い髪をアップにしている。アヒル座りをしながら、テレビを見ているその姿はどう見ても、犬《いぬ》神《かみ》には見えなかった。
「ふふ。この服、お店で貰《もら》って来たのよ」
ようこはふわりと浮かび上がると、啓太の前で得意そうに回ってみせた。
「どう?」
「どうじゃねえ! 貰って来たのよって、ここにあるもん、全部、そうか!?」
「うん」
「この泥《どろ》棒《ぼう》犬! しかも、俺《おれ》の部屋を盗品置き場にしやがって!」
「失礼ね〜」
ようこは気分を損ねたように眉《まゆ》をひそめた。
「人間の世界ではお金が必要だってことはちゃんと知ってるもん」
「なら、なんで盗《と》ってくるんだよ!」
「だから、盗ってないわよ」
「え? お前、金、持ってるのかよ?」
「お金なんて持ってないわよ」
あっけらかんとようこ。
「だから、あなたの住所と名前と電話番号を書いた紙切れを代わりに置いておいたの」
「な〜に?」
啓太は思わず目を剥《む》く。その途《と》端《たん》、りーんと電話が鳴った。
続いて、ドアをどんどんと叩《たた》く音。
「すいませ〜ん! 警《けい》察《さつ》ですが、川《かわ》平《ひら》啓太さんいらっしゃいますか? いるんでしょ? いたら、ここを開けなさ〜い!」
なるほど。
全《すべ》てを納得して、へなへなと倒れこむ啓《けい》太《た》。
「もういや」
つうと涙が彼の頬《ほお》を伝った。ようこはしゃがみこんで啓太の頭をぺちぺち叩《たた》く。
「まずかった?」
啓太は返事をする気力もなかった。
「そう。ごめんね」
さすがに申し訳なさそうな声でようこは言った。
「なら、これからはちゃんとしたお金を使うね」
「……ちゃんとしたお金?」
啓太が不《ふ》審《しん》そうに顔を上げてみると、彼女はに〜と邪《よこしま》な笑みを浮かべている。手には見慣れた革の財布。
「ま、まさか」
慌てて跳ね起きて、尻《しり》ポケットを探った。見事に彼の財布が無くなっていた。ようこは啓太の前で悠々と中身を数え始める。
「えっと、人の顔が三枚、四枚。じゃらじゃらが、えっと」
「て、てめえ! 返しやがれ!」
啓太はすかさず飛びかかったが。
遅かった。
「しゅくち」
ようこが人差し指を差し上げた瞬《しゅん》間《かん》、押入れの中の布団や洗《せん》濯《たく》物がたちどころに空中に現れ、啓太の上に降り注いだ。
「じゃ、また、お買い物、行って来るね。ばいば〜い」
ようこはくすくす笑いながら、何やら怒号を上げている啓太の頭をぽ〜んと蹴《け》って、かき消えた。
啓太が布団をなんとか払いのけたのは、異音を聞きつけた警《けい》官《かん》が部屋に踏みこんで来るのとほぼ同時だった。
それから後の処理は本当に大変だった。警官には知らぬ存ぜぬで通したが、翌日、警察署に自主的に¥o頭する事は避《さ》けられそうになかった。さらにあちらこちらの店から啓太の部屋に殺到してきた電話の対応にも追われた。
ようやく職務熱心な警官にお引取り願い、電話線をぶち抜いた後、啓太は疲れ果てたかのように布団に顔を埋めた。
「うう、なんなんだ。俺《おれ》はただ役に立つ犬《いぬ》神《かみ》が欲しかっただけなのに、あいつは単なる疫《やく》病《びょう》神《がみ》じゃねえか」
しくしく泣きながら、そう呟《つぶや》く。その隣《となり》で部屋の暗がりがすっと領城を増して、実体化していった。
「お困りのようですね」
啓《けい》太《た》が目線だけ動かしてみると、祖母の犬《いぬ》神《かみ》、はけが立っていた。
相変わらずの白装束。冷静な表情である。
「はけかあ」
啓太は起き上がってあぐらをかいた。
「困ってるよ。困りまくりだよ」
さらに大きな溜《ため》息《いき》をつく。恨めしそうにはけを見上げた。
「あの、バカ犬、一体、何なんだよお。まるで躾《しつけ》がなってねえじゃねえか。やることなすこと全部、でたらめでよ」
「その通りです」
「ってあのな!」
「啓太様、本当に申し訳ありません」
啓太はびっくりした。はけが折り目正しい挙《きょ》措《そ》で、深く頭を下げたからだ。
「なんでお前が謝《あやま》るの?」
「一族の者の不始末は私の不始末でもありますから」
「いや、別にお前がかしこまる必要はねえけどさ……あいつ、犬神にしては変だろ?」
その間いにはけは少し目を伏せ、
「ええ。故《ゆえ》は申せませんが、あの者は一族でも特別な扱いを受けております。長い間、他《ほか》の者とも隔離されていました。力は充分にあるのに、犬神としての心構えが欠けているのもそのせいなのです」
憂《うれ》いを秘めた表情でそう語る。啓太が半目になった。
「んな、欠陥製品、俺《おれ》に寄《よ》越《こ》すなよ」
「誠に申し訳ありません。そこで私としては啓太様に期待したいのです」
「は?」
「啓太様、どうかあの者に人としての常識を教え、導《みちび》き、一人前の犬神にしてやっては頂けないでしょうか?」
「……お前、低姿勢の割に随分と大胆なこと言う奴《やつ》だな。そりゃ、俺だってあのバカ犬を徹《てっ》底《てい》的に仕こんでやりたいけどよ」
啓太は視線を逸《そ》らして、ぽりぽりと頬《ほお》を掻《か》いた。
「あいつ、強いよ」
ぼそっとそう呟き、あぐらを組み直す。
「近づけてもどうしても捕まえられねえ。俺の力もどんどん落ちてるし、まじで、こっちの命の方がやべえよ」
いつになく気弱になって啓《けい》太《た》が言う。はけは静かに首を振った。
「いいえ、啓太様。勝機なら充分にあります」
丁寧だが、自信に満ちた声だった。啓太は訝《いぶか》しげに顔を上げた。
「ん? どういうことだ?」
「つまり、中途半端な契約によって力を失うのは犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いだけではないということです。犬神もまた、犬神使いの力を自分の力に相乗できる反面、一度、術者から離れればその反動が必ずやって来ます……それにあの者には致命的な弱点がありますし」
「弱点?」
「ええ。そこを衝《つ》けばあの者を調《ちょう》伏《ぶく》するのもさほど、難しくはないでしょう」
啓太の目が異様に輝《かがや》く。
「それを先に言えよ!」
彼は邪悪な笑みを浮かべ、跳ね起きると、はけの肩に手を回した。
現金なものでもう生気に満ち満ちている。
「さあ、はけちゃん。俺《おれ》に全部、げろしたってくれや。あのバカ犬、ぶっちめて、きちんとしつけ≠トやるからよ。くくく」
はけは少し後悔した顔になったが結局、話し始めた。
街で一番、高いビルの屋上。はけに教わったその場所に啓太は立っていた。
「調教主義」
と、マジックで乱暴に書かれたはちまきを締《し》め、大きなリュックを担いでいた。冷ややかな満月に照らされ、夜風になぶられ、啓太の瞳《ひとみ》は闘《とう》志《し》で燃《も》え盛っていた。
彼は思いっきり息を吸いこむと、
「でってこいやあ───!」
と、力一杯、叫ぶ。
さらにポケットから取り出した真《しん》鍮《ちゅう》の笛を減《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》に吹いた。
「ぴいいい─────────!」
その音が辺《あた》りに響《ひび》き渡り、やがて消えた頃《ころ》、月の光に乗っかるようにして天からようこが姿を現した。
「なによお? うるさいな」
彼女は眠そうに目を擦《こす》っている。どうやら、寝ていたようだ。
啓太の唇が異様に歪《ゆが》んだ。
「けけけ。姿を現しやがったな邪悪な妖《よう》怪《かい》が」
「あ、その言い方、ひっど〜い」
「やっかましやい! 今から俺《おれ》が調《ちょう》伏《ぶく》してやるからな! 覚悟しろよ!」
中指を天に突きたてる啓《けい》太《た》。
「べー、だ。ケイタなら何度、かかってきてももう怖くないもん」
と、ようこは赤い舌を突き出した。啓太は一《いっ》瞬《しゅん》、激しかけたが、辛《かろ》うじてこらえた。甘美な復《ふく》讐《しゅう》はこれからなのだ。
「まずは、もう一度だけ機会を与えてやろう」
猫《ねこ》撫《な》で声で諭《さと》し始める。
「ようこ。俺は寛大なご主人様でありたいんだ。だから、今、降参して俺様の忠実な奴《ど》隷《れい》になるならば痛い目にあわせるのだけは止《や》めてやる……どうだ?」
その呼びかけに対して、ようこは考えこむふりをした。形の良い顎《あご》に人差し指を当て、首を傾《かし》げる。
「う〜ん」
「どうよ?」
「う〜ん。んっとね、これがわたしの答え!」
ようこはにっこりと微笑《ほほえ》むと、その指を高々と突き上げた。その瞬間、大量の生ゴミが屋上中に降り注ぐ。
どさどさと魚の骨から、野菜の切れ端まで。まるでスコールだった。
ぷ〜んと生臭い匂《にお》いが立ちこめる。
「地下のゴミ捨て場にあったんだよ」
尻尾《しっぽ》をぱたぱた振りながら、ようこが説明した。啓太は身体《からだ》中ゴミ塗《まみ》れのまま、震《ふる》え始めた。歯ぎしり。額《ひたい》にはぶっとい青筋。
やがて、忍耐の限界点が訪れ、頭がちんと音を立てて沸《ふっ》騰《とう》する。
「こおおおのおお〜くうううそおおいぬうううう─────!」
ポケットの中から蛙《かえる》の消しゴムを手にいっぱい取ると、空中に思いっきり放り投げた。怒りの蛙は金色にスパーク。
四方八方に散り、一気に加速してから、ようこに迫った。
とんとんと足踏みして、叫ぶ。
手を交差させ、一気に振り下ろした。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ。蛙よ、」
「きゃははは、バカの一つ覚え!」
ようこは笑いながら、妖《よう》火《か》を次々と作り出し、迎《げい》撃《げき》に向かわせる。
爆《ばく》砕《さい》せよ!
じゃえん!
空中で蛙と炎がぶつかり合い、閃《せん》光《こう》を散らし、弾《はじ》け飛んだ。
若《じゃっ》干《かん》、ようこの力が上回っていたようだ。蛙《かえる》は燃《も》えてしまった。だが、啓《けい》太《た》は果敢だった。にやりと笑うと駆け出し、距離を詰める。
「け! これだけだと思うなよ!」
と、同時にリュックサックを肩から外しかけた。
「今回は、てめえ相手に仕込んだスペシャルアイテム、持ってきてるんだからよ!」
その言葉を聞いて、ようこは呆《あき》れた顔になった。
首を振り、溜《ため》息《いき》をつく。
「ケイタ、学習能力ないね。わたし、これが出来るのに。そんなこと喋《しゃべ》ったらとっちゃうよ?」
指を突き上げ、彼女は、
「しゅくち」
と、唱える。
その言葉で啓太の手元からリュックがかき消え、同時にようこの腕の中に現れた。
「げ!」
啓太は青い顔になって急ブレーキをかけた。自分の手とようこが持っているリュックを見比べ、悲痛に叫ぶ。
「しまったあ────!」
「くすくす、バカだねえ」
ようこは満足そうだ。
「まあ、せっかくだから、その、すぺしゃるあいてむ、とやら、わたしが使ってあげるよ」
彼女は好奇心にかられ、ごそごそとリュックの紐《ひも》を解《ほど》き始めた。そのため啓太がにやりと笑ったことに気がついていなかった。
手を奥の方に差しこみ、中身を目の前に引っ張り出す。
「どれどれ」
そして、凍りついた。彼女が握っていた物。それは可愛《かわい》らしい子犬だった。
「わん!」
と、愛らしくそのむく犬が吠《ほ》えた。
「いやああああああああ──────────!」
凄《すさ》まじい悲鳴がようこの口から迸《ほとばし》った。それはあっという間の、信じられない出来事だった。美しいほど見事に彼女は霊《れい》力《りょく》を失い、屋上に落下する。無《ぶ》様《ざま》に背中を打ちつけ、転げ回り、とにかく必死で彼女は這《は》い、逃げようとした。
しかし、その前に足首を捕まれてしまう。
おそるおそる背後を振り返ると、悪《あく》魔《ま》の笑いを浮かべた啓太がそこに立っていた。
「くふくふふふ。まんまと策に嵌《はま》りやがって所《しょ》詮《せん》、犬畜生だな。ひゃはははは!」
ようこは必死で足を動かした。
「はなせ! はなしなさいよ!」
啓《けい》太《た》は狂ったように笑いながら、手元の犬をようこの顔に突きつけた。
「うりゃ」
「いやあ──────!」
再び悲鳴を上げて、へたりこむようこ。頭を両手で庇《かば》って、身体《からだ》を丸める。反《はん》撃《げき》をしようとすらしてこない。
啓太は彼女の上にのしかかり、「わっははははは──!」
と、勝ち誇った。
勝った。勝った。死ぬ程さっぱりした。怯《おび》えて震《ふる》えているようこを見下ろすことは、これ以上ない快感だった。
「しかし、つくづくお前も変な奴《やつ》だよなあ。犬《いぬ》神《かみ》の癖《くせ》に犬が苦手なんてよ」
「う、うるさいわね!」
それでも、口答えするようこ。
「ん? なんか言ったか?」
と、犬をちらつかせる啓太。
「いやあー! うそうそごめんなさい! なんでもありません!」
「啓太様?」
「ケイタ様!」
「ふふふ、さってとようこちゃん。これから俺《おれ》様の奴《ど》隷《れい》になってくれるんだよな?」
「うう」
「どんなことでも言うこと聞くか?」
「聞きます、聞きますから、犬をどけてえ──!」
「そうか、そうか。それなら、まずは服従の印に首輪でもつけて貰《もら》おうかねえ」
啓太はうっとりとした口調で言う。ポケットから大型犬用の首輪を取り出して、それをようこの前で振ってみせた。ごついとげとげのついた奴だ。
犬は勝手に啓太から離れて、ようこの身体をふんふんと嗅《か》いでいた。ペットショップで特に頼んだ犬一倍、人《ひと》懐《なつ》っこい奴だった。
啓太は首輪をつけようと手を伸ばして、ふと止めた。
「うう」
見れば、ようこは鳴《お》咽《えつ》を漏らしていた。
「ひっく、どんなことでもするからあ。何でもいうこと聞くからあ。この犬、とってよお。お願いよお」
丸くなって泣きじゃくっている。その仕《し》草《ぐさ》はどう見ても芝居ではなかった。小刻みに身体が震えている。
「おねがい」
啓《けい》太《た》もさすがに心が痛んできた。これでは、弱い者|苛《いじ》めである。
「ち。しかたねえな」
きょとんとしている子犬を抱き上げ、リュックに仕舞いこむ。それから、空気穴を残して厳《げん》重《じゅう》に紐《ひも》を結んでおいた。
「ほら、犬はもうしまったぞ」
と、啓太がようこの肩を叩《たた》く。その途《と》端《たん》、彼女がしがみついて来た。
「うう、うわ──ん!」
そのまま、啓太の胸に顔を埋め、盛大に泣き出した。
「お、おい」
啓太は困惑した顔で、ようこの背中に手を置いた。こういう展開は全く予想していなかった。もっとからっと勝負がつくと思っていたのに。
こういうのは趣《しゅ》味《み》じゃなかった。
「どうしたんだよ? そんなに犬が嫌いか?」
ぷるぷると首を振って、ようこ。そうすれば安心できるのか、啓太の服を強く握った。まるで、小さな子供のような仕《し》草《ぐさ》だった。
「ふ」
啓太はなんとなく苦笑した。考えてみたら、今までの彼女の行動は全《すべ》て、子供のものだった。善悪を知らず、我《わが》儘《まま》で、無邪気。はけも言っていたではないか。彼女はまだ犬《いぬ》神《かみ》としては半人前なのだ。
そう思えば、何もかもバカバカしい。
可笑《おか》しかった。
彼は天を見上げ、高らかに笑った。
どこまでも笑った。
そうして、一息ついて彼は言った。
「そうだな。俺《おれ》が悪かったよ」
ようこの髪を撫《な》でながら、そう言った。ようこは涙の溜《た》まった瞳《ひとみ》で啓太を見上げ、驚《おどろ》いたような顔をしている。
啓太は続けた。
「よくよく考えたらさ。お前が来てくれなかったら、俺は犬神使いになれなかったんだよな。山の中で、お前だけは俺を気に入ってくれてたんだろ?」
「……」
「だから、来てくれたお前には、感《かん》謝《しゃ》しなきゃならなかったのにな。悪かったよ」
「ううん」
ようこは赤くなった。手を胸元に縮《ちぢ》め、小声で囁《ささや》く。
「わたしの方こそ我《わが》儘《まま》だった。ごめんなさい」
「ほう」
可愛《かわい》いじゃねえか。
啓《けい》太《た》が心の中で感嘆する程、ようこのその仕《し》草《ぐさ》は可《か》憐《れん》だった。元々、こういう素直な性格の犬《いぬ》神《かみ》なら、ちゃんと教えこめば有能になるかもな。
同時にそうも思った。
「なあ、ようこ」
と、彼が声をかけたその時である。異様な霊《れい》気《き》が二人の周囲を押し包んだ。啓太とようこははっと我に返って、辺《あた》りに鋭《するど》い視線をやった。
「な、なにこれ?」
呆《あっ》気《け》にとられた表情でようこが呟《つぶや》く。
「来やがったな」
と、苦い声で啓太。
いつの間にか、彼らの周りを崩れかけた土人形のような地《ち》霊《れい》が、何体も何体も取り囲んでいたのだ。どうやら、啓太の居場所を見つけ、押し寄せて来たようだ。
うおーん。
そのうちの一体がぼろぼろの手を振り上げ、鳴く。すると、仲間たちが呼応して次々に手を上げた。うお〜〜〜ん。
何重にも響《ひび》く鳴き声が空気を禍《まが》々《まが》しく振動させた。
「ち。仲間を呼んでやがる。増えると厄介だな」
素早く蛙《かえる》をチェックしてみたが、もう三個しか残っていない。
「おい、ようこ。今すぐ、俺《おれ》と契約しろ! 俺の犬神になると誓え!」
しかし、返事がない。
「おい!」
と、啓太は振り返って青くなった。ようこがにや〜と笑っていたからだ。先程の殊勝さはどこへやら。
完全に勝利を確信した笑みだった。
「ん〜。どうしよっかなあ」
彼女は浮き上がって、くるりと背を向けた。
「誰《だれ》かさんには随分と苛《いじ》められたし、素直に言うこと聞くのもなんか癪《しゃく》だなあ」
もじもじと指先をこね合わせ、もったいぶる。
啓太は焦った。
「ば、ばかやろう! んなこと言ってる場合か! お前だって狙《ねら》われてるんだぞ!」
啓《けい》太《た》がたまらず喚《わめ》く。そこへ、うお〜んという鳴き声と共に土人形たちが前進して来た。ずちゃずちゃと一歩、一歩ごとに足が崩れ去る。
腐敗した土の香りが漂った。
啓太は慌てて、ちょこまか逃げ出した。
「あらあら、大変」
くすくす笑いながらようこは啓太に抱きつき、その肩に顎《あご》を乗っけた。小|悪《あく》魔《ま》の表情になって、啓太の耳元で囁《ささや》く。「わたしの奴《ど》隷《れい》になる? そうすれば助けてあげるけど?」
「ば、ばかいえ!」
「あ、そ」
と、飛び去りかけるようこ。啓太は慌てて、彼女を引きとめた。
「わ、分かった! 分かりました! 何でも言うこと聞くよ!」
「ようこ様?」
「ようこ様!」
「とうきょうたわー、連れてってくれる?」
「どこへでも連れてくし、なんでもするから頼むう!」
とうとう啓太は絶叫する。
土人形に半分、飲みこまれかけていた。
「よろしい」
ようこはにんまり笑うと、啓太の首に彼が持ってきた大型犬用の首輪を取りつけた。
「お、おい!」
彼女は妖《よう》艶《えん》に微笑《ほほえ》んだ。
「これが、あなたにあげるもの。わたしはこれ」
チェーンをそっと撫《な》でる。
「大事にするから。それが契約の証《あかし》」
そうして。
すっと指を振り上げ、艶《あで》やかに舞いながら、
「だいじゃえん!」
彼女の瞳《ひとみ》が真《しん》紅《く》に輝《かがや》く。髪が白い閃《せん》光《こう》の中で逆立った。凄《すさ》まじい勢いで、光の柱がようこと啓太の周囲に立つ。
「く!」
身体《からだ》が吸い上げられるような揮発。啓太は懸《けん》命《めい》に踏ん張った。土人形たちはその中でぼろぼろと崩れ去っていった。見る間に彼らはただの土くれに戻り、白く焼きつけられた景色が再び元に戻った時、動いている物はなに一つなかった。
「ど〜んなものよ!」
ぴしっと指を鳴らし、ポーズを決めるようこ。その声に啓《けい》太《た》の怒鳴り声が重なる。
「あほー! 状況を考えろ!」
見ると彼はリュックサックを胸元に抱いて、必死で足を上げ下げしていた。辺《あた》り一面は火の海だった。散らばっていたゴミの山に引火したのだ。
「火事になっちまったろうが!」
「大丈夫、大丈夫。水を持ってくればへ〜き♪」
ようこは腰元に手を当て、得意そうに笑う。
それから、
「しゅくち」
と、掛け声をかけた。
しかし、何事も起こらない。
「あれ? しゅくち! えい! ええい!」
指をぶんぶん振ってみたがなんの効果もない。それどころか、集中していた霊《れい》力《りょく》が一気に抜けて、
「あれ?」
ようこはふらっと墜《つい》落《らく》した。
「わ!」
啓太がすかさず彼女を抱きとめる。
「ど、どうした?」
焦り切った顔で啓太。ようこは照れたように笑った。
「えへへ、力、今ので使い果たしちゃったみたい」
「ば、ばかやろ───!」
「もう、遠いところのものが呼べないよ」
「んな阿《あ》呆《ほう》な! ここまで来て焼け死になんて」
「熱いのやだよ〜」
「俺《おれ》だってやだよ! …………ん? まてよ? 遠いところってことは、近くのものは呼べるのか?」
「触れられるくらい近ければなんとか。でも、大量の水なんてどこにあるの?」
「あるんだよ。捕まってろ!」
啓太はそう叫ぶと火の海を突っ切って走り出した。ようこは必死で啓太の首にしがみつく。無意識に彼女は犬の入ったリュックを抱いていた。
「ううおおお──────!」
啓太は気合もろとも段差を飛び越え、給水タンクの下に辿《たど》り着いた。
「今だ!」
ようこが手を上げる。指先がタンクの表面に届いた。
「しゅくち!」
その瞬《しゅん》間《かん》、大量の水が転送されて、屋上に降り注いだ。滝のような水流がどどっと音を立てて落下した。
たちまち火が消えていく。蒸気と熱気が一瞬、ふわっとこもって、それが膨《ふく》らむように放散するのを見届けて、啓《けい》太《た》は脱力した。
ようこを降ろし、溜《ため》息《いき》をつきながら、へたりこむ。
「はあ、助かった」
「あはは、ケイタ、すご〜い!」
ぱちぱちとようこは拍手をした。啓太は疲れた笑顔ながらも彼女の頭を撫《な》でてやった。
「お前もな」
見ると、二人とも黒焦げの煤《すす》塗《まみ》れである。
「ぷ!」
「くすくす」
どちらからともなく湧《わ》き起こったその声は、やがて高らかに空気を震《ふる》わせた。
途中で子犬がひゃんと顔を出したが、
「ごめんな」
と、すぐに啓太は彼を元に引っこめた。
「ありがと」
「どういたしまして」
啓太とようこは今、心の底から笑い合っていた。
互いに手を差し出し、
「よろしくな!」
「こちらこそね!」
ぱんとハイタッチを交わした。
夜に淡く輝《かがや》く青白い光が発せられる。
二人にとっての、そして、二人なりの絆《ぎずな》がそうして出来た。
P. S.
「お互い、少しは分かり合えたと思うので聞くが……え〜、なんだ。この首輪とそのチェーン、交換しない?」
「だ〜め(にこにこにこ)」
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日曜日。午前十一時半。プラスチック製の啄木鳥《きつつき》が鐘《かね》を撞《つ》き鳴らす。きんきんきんと喧《やかま》しい音が部屋中に響《ひび》き渡り、嫌《いや》でも目が覚めてしまう。起き心地は不快極まりないが、寝坊な川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》にとっては重宝している目覚ましだ。
十七歳の少年である。
小柄だが引き締《し》まった身体《からだ》つき、鋭《するど》い目。短めの茶髪。それに、首にした大型犬用の首輪が荒々しい雰囲気を醸《かも》し出している。
彼は子供っぽい顔をしかめ、手を伸ばしてスイッチを切った。ついでに大あくびをして、ぼりぼりと背中を掻《か》く。
何気なく隣《となり》に目をやって、啓太は大きく目を見開いた。
「おい! ようこ!」
飛び起きる。一《いっ》瞬《しゅん》で目が覚めた。
そこで彼の犬《いぬ》神《かみ》であるようこがすやすやと熟《じゅく》睡《すい》していたからだ。婦人服売り場で恥を忍んで買って来たショーツと啓太のTシャツというあられもない姿である。
ケモノのふさふさした尻尾《しっぽ》が生えた人《じん》妖《よう》の美少女だった。
「おい! こら、バカ犬! 起きろって!」
ようこはう〜んと何事か呟《つぶや》いて、寝返りを打った。その拍子に白い太《ふと》股《もも》がばーんと啓太の網膜に飛びこんで来る。
啓太は一《いっ》瞬《しゅん》、怯《ひる》んだ。その間、ようこは幸せそうに手を口元に持って来て、寝言を言っていた。
「くすくす、ケイタ。そのしょくぱん、くさってるよ」
「バカ野郎! 寝ぼけてるんじゃねえ! 俺《おれ》のベッドで寝るなって一体、何度、言や分かるんだよ! こら、起きろ!」
啓太は必死で、ようこを揺する。ようこはしばらく不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに唸《うな》ってから、ようやく半身を起こした。
「も〜、なに?」
目をごしごし擦《こす》り、ぺたんと座りこむ。
「なにじゃねえよ! なんで、俺のところで寝てるんだよ!」
啓太とようこが契約を交わして三日。彼はようこを家に置いていた。そして、それ以来、毎朝、この調子だった。
ようこは不満そうに唇を尖《とが》らせた。
「だって、ベッド、気持ちいいんだもん」
「だ〜か〜ら、お前のベッドは押入れって決めただろうが! ちゃんと布団も敷《し》いてやっただろ!?」
ようこはじっと上《うわ》目《め》遣《づか》いになる。
「わたし、押入れで寝るなんてやだもん」
「知るか! だったら、外で寝ろ!」
「外はもっといや」
「とにかく、俺《おれ》のところでは寝るな!」
「なんで?」
と、ようこは顔を近づけて来た。無邪気な調子である。寝起きの機《き》嫌《げん》はすっかり直って、わくわくと答えを待っている様《よう》子《す》だった。
逆に啓《けい》太《た》の方がどぎまぎして、顔を逸《そ》らした。
「なんでって……とにかく、ダメなものはダメなの!」
Tシャツが弛《たる》んで、ようこのブラジャーをつけていない胸元が露《あらわ》になっている。適度に大きく、形が良く、実に色が白い。
「ふ〜ん」
ようこの顔が一転、意地悪な、小|悪《あく》魔《ま》の顔になった。Tシャツの襟《えり》元《もと》を摘《つま》み、「もしかして、これが原因?」
意味ありげにくすくす笑いながら、すっとそれを下げてみせる。妖《よう》艶《えん》な上《うわ》目《め》遣《づか》いである。
「ば、バカそういうことするな!」
啓太は焦って手を振った。その途《と》端《たん》、ようこは好ましそうに高く笑った。
「あっははは! ケイタって意外に純情さんなんだねえ」
彼にしなだれかかり、額《ひたい》を肩に擦《こす》りつける。
「最初はわたしのこと夜《よ》伽《とぎ》役にしようとした癖《くせ》にさ」
「ば、ばかやろ────! あ、あれは……」
今や完全に手玉にとられている啓《けい》太《た》である。
「くすくす、わたしはケイタなら別にいいんだけどね」
「いいって、あのな……」
「ご主人様をお慰《なぐさ》めするのも犬《いぬ》神《かみ》の大事な務めでしょ?」
「お、お前、意味分かって言ってるのかよ?」
「うん」
ようこは元の幼い表情に戻って、にっこり笑った。
「わたしの全《すべ》てはご主人様のものだよ。ほら、みもこころも、ね」
そう言って、ころんと仰《あお》向《む》けになった。
手と足を折り曲げ、瞳《ひとみ》を閉じて、小声で囁《ささや》く。
「でも、痛くしないで。わたし、は・じ・め・て、だから……」
犬がみせる絶対服従のポーズだった。Tシャツが捲《ま》くれ上がり、艶《なまめ》かめしい腹部が覗《のぞ》く。元々、ようこはすらりとした肢体の、信じ難い程の美少女なのだ。
啓太はそのまま、硬直した。
彼の中で、二人の小人が激論を交し合っていた。「おいこら、モノノケの類《たぐい》に手を出していいのかよ?」派と「畜生道上等! こんな美味《おい》しい獲《え》物《もの》を見過ごすなんて男じゃねえ」派の熾《し》烈《れつ》極まりない戦いである。
さほどの時を経ずに後者が勝利した。完全勝利だった。
啓太はばっとシャツを剥《は》ぎ取った。
リングに上がるプロレスラーのような、華のある脱ぎ方だった。目は完全に据わってる。彼がトランクス一丁で、
「いただきま〜〜〜〜す!」
と、叫んでようこにのしかかろうとした。
まさに、その時である。
彼の携帯がぴろぴろ鳴った。啓太は焦った顔になり、反射的に枕《まくら》元《もと》にあるそれをとってしまった。心の中の疚《やま》しさがそうさせたのかもしれない。
「は、はい」
と、いつになく高く、行《ぎょう》儀《ぎ》の良い声で答える啓太。
「啓太か?」
しわがれた声が耳元で響《ひび》いた。
「お、おばあさま!?」
啓《けい》太《た》の声がほとんどメゾソプラノまで跳ね上がった。それは啓太の祖母からのものだった。川《かわ》平《ひら》家の長《おさ》であり、犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いの元《もと》締《じ》めでもある。
彼女はその年の割りに文明の利器に詳しく、携帯を始めパソコンやデジタルカメラなども器用に使いこなす。
祖母は不《ふ》審《しん》そうな声になった。
「どうした? お前、声が変じゃぞ?」
「い、いいえ。誰《だれ》もおりませんよ」
啓太は冷や汗をタラタラ流しながら、ようこの方を横目で見やった。彼女は未《いま》だに目をつぶったまま、服従のポーズをとっている。
「なにを言ってるのじゃ? 誰も? ようこもおらんのか?」
「は、はひ? あ、ああ。ようこはいますよ、いや、いるよ。ばあちゃん、犬神だもん、それは側《そば》にいるってば!」
「……お前、なにか隠しとりゃせんか?」
「や、や、やだなあ。ばあちゃん。それより、ばあちゃんこそ、なんか用があって電話してきたんじゃないの?」
と、啓太はなんとか話を変えようとする。そして、ようこの方を見てぎょっとした。彼女が片目を開けて、に〜と邪《よこしま》な笑みを浮かべていたからだ。
ようこはするりと身を起こすと、色気たっぷりに肩を晒《さら》し、髪を払う。
啓太は凍りついたように彼女を見つめている。
「うむ。実はな」
祖母が話し始めた。
「お前に犬神使いとして初めての仕事を斡《あっ》旋《せん》しようと」
「ひ!」
啓太が甲高い悲鳴を上げた。ようこが彼の腹から首筋|辺《あた》りを舌で舐《な》め上げ、最後に耳を甘く噛《か》んだのだ。
祖母が焦ったように問うた。
「ど、どうした?」
「な、何でも無いよ」
半分、引き攣《つ》ったような啓太の声。彼は必死でようこを遠ざけようとする。ようこはくすくす笑いながら逃げた。
祖母の声が疑わしげにトーンダウンした。
「お前、ほんと〜になんぞ隠しておりゃせんかの?」
「な、なにも隠してないってばあ! それより、俺《おれ》に初仕事? わあ、嬉《うれ》しいなあ! で、どんな内容なのよ?」
「……それは今から、はけに資料を持たせて、送る」
「わ、分かった。はけが来るんだな?」
その時、ようこが笑いを噛《か》み殺しながら、小さく指を振り下ろした。
彼女の霊《れい》力《りょく》の一つ、しゅくちだ。ある程度の距離ならいかなる物をも空間を捻《ね》じ曲げて、転送させる。
彼女の手元に現れたのは縞《しま》模様のトランクス。
啓《けい》太《た》の履《は》いていた物だった。
「わああ─────!」
啓太が悲鳴を上げ、とっさに股《こ》間《かん》を隠した。そのため、持っていた携帯を局部に押し当てる事になる。
「なんじゃ、どうした?」
と、くぐもった祖母の声が携帯から漏れた。啓太は慌てて、それを耳元に持って、「と、とにかく、用は分かったよ。俺《おれ》、忙しいんでまたな!」
それだけ早口で喋《しゃべ》って、相手の返事も待たずにスイッチを切った。
「きゃははははは!」
ようこが転げ回っていた。啓太の肩が怒りで小刻みに震《ふる》え出す。
「てんめえ!」
「だ〜って、啓太が相手してくれないんだもん」
拗《す》ねたような顔で、いやいやをするようこ。
「わたし、つまらなかったの」
「やかましい! いい加減、お前の悪戯《いたずら》は腹に据えかねてたんだ!」
「だってえ」
「……そんなに待ちくたびれたか?」
「うん」
「そうか」
ほとんど下着同然の美少女を見ているうちに彼の人格が徐々に変わっていく。
「ならば、お望み通りにしてやんよ」
歪《ゆが》んだ笑いを浮かべる啓太。彼は一歩、ようこににじり寄った。
ぺろりと舌で唇を舐《な》めて、
「お灸《きゅう》も兼ねて、な。ご主人様の怖さをたっぷり、身体《からだ》に教えてやるぜ。ふへへへ」
さらに一歩。啓太は大きく手を開く。
「本気なの?」
と、小首を傾《かし》げてようこ。彼女は啓太の腰から下を見つめて、呟《つぶや》いた。
「……本気みたいね」
「お前が火をつけたんだよ!」
「痛くしないでって言ったのに〜」
「もう遅いわ! 男はこうなったら止まれねえ!」
啓《けい》太《た》は豪快にジャンプして、ようこに飛びかかった。完全にケモノと化したその笑い、姿勢。襲《おそ》う気満々である。
しかし、ようこはにっこり笑うと、
「わたし、優しくない人嫌い」
指先を上げた。
その瞬《しゅん》間《かん》、滞空していた啓太は部屋から消えた。ようこはこらえ切れずに両手を口元に押し当てる。
「くすくす、ケイタってやっぱり、おもしろ〜い」
それはそれは無邪気な笑い方だった。
一方の啓太は何か堅い物に激突していた。ん、アスファルト? 確か、ようこにのしかかったはずなのに。
現状を把握するまでに三秒間。
彼は自分が公道にいる事に気がつかなかった。
周りの通行人は凍りついたように足を止めて、啓太を凝《ぎょう》視《し》している。
「え? あ、あれ? 俺《おれ》?」
ようやく、啓太は自分の置かれた状況に気がついた。真昼間、素っ裸で表に出て、しかも犬用の首輪をつけた男。
変態である。
「あ、あはは、いや、あのこれはですね」
啓太は必死で周囲を見回し、弁明をしようと試みた。この時、すでに半泣き。
「い、いや」
一番、近くにいたセーラー服姿の女の子がぷるぷると首を振り、後ずさりし始めた。啓太は立ち上がって、彼女をよろよろと追いかける。
「あ、あのね。どうか、誤解しないで……ね? ね?」
曖《あい》昧《まい》な笑いを浮かべる啓太。
「いやあ────────! 近寄らないで──────!」
とうとう、女の子は悲鳴を上げて逃げて行った。辺《あた》りが一斉にどよめく。呆《ぼう》然《ぜん》と後に残った啓太は誰《だれ》かにぽんぽんと肩を叩《たた》かれた。
「さ、君。お兄さんとちょっと交番、行こうか?」
それは、それはにっこりと微笑《ほほえ》んだ警《けい》官《かん》だった。
その晩、啓《けい》太《た》は留置場にいた。
「兄ちゃん、ストリーキングだって?」
同室になった酒くさい酔っ払いが、膝《ひざ》を抱えてうつむいている啓太に向かって尋ねた。啓太は手をひらひらさせて彼を追い払う。
赤ら顔のその親《おや》父《じ》は陽気な声で笑った。
「だははは、猥《わい》褻《せつ》物《ぶつ》チン列罪か。わっかいなあ」
さらに、啓太の頭をぽこぽこ叩《たた》く。
「親御さんをあんまり悲しませるんじゃないぞお。ん?」
ぽこぽこ。べちべち。
「だあ、うるせええ──────!」
とうとう切れた啓太が跳ね起き、酔っ払いの胸倉を掴《つか》んだ。
「真昼間から酒飲んで、こんなところにぶちこまれてた奴《やつ》に言われたくねえんだよ!」
啓太はぶんぶんと親父を振り回した。酔っ払いが泡を吹いて、手足をばたばたさせる。その時点で啓太は、ようやく、彼を突き放して、「け!」
と、やさぐれた。
相当、荒《すさ》んでいる。
どうやらこの留置場で一晩、過ごす羽目になりそうだった。目を回している酔っ払いの隣《となり》に座りこんで、再び頭を抱える。
「なんなんだよ、も〜」
すると、そこへ静かな声が聞こえた。
「捜しましたよ」
見上げれば、壁《かべ》の一角の暗がりが大きくなって、すとんと秀《しゅう》麗《れい》な容《よう》貌《ぼう》をした青年が床に降り立った。
白い和服に長めの黒髪が片目を隠している。祖母の犬《いぬ》神《かみ》、はけである。
「啓太様、こんなところでなにをしてるんです?」
極めつけの真顔ではけが尋ねた。啓太は半目になる。
「なぜだか、聞きたいか?」
それで、はけはすぐに事情を悟ったようだ。
「……ようこ、の仕《し》業《わざ》ですか?」
無言で頷《うなず》く啓太。はけは溜《ため》息《いき》をついた。
「申し訳ありません。本当に啓太様にはなんとお詫《わ》びしたらよいか……本来なら、あの者の不始末は我ら犬神全体で引きうけねばならないのですが」
「いいよ。別に。もう」
妙に据わった目で微笑《ほほえ》む啓《けい》太《た》。
「ただ、ちょっと俺《おれ》の代わりに調べ物して来てくれねえかな?」
「調べ物? ええ、私でお役に立てることなら喜んで」
「そうか。じゃあ、美味《おい》しい犬《いぬ》鍋《なべ》の作り方、教えてくれや。こうなったら、あいつ殺して、毛皮|剥《は》いで、食うから」
「………………」
啓太はふふふと低い声で笑い、がんと拳《こぶし》と拳を打ち合わせた。
「気を許した俺が阿《あ》呆《ほう》だったよ。あのバカ犬、一度、ぶっちめねえともう気が済まねえ! ペットショップ中の犬借り切って、あいつに生き地《じ》獄《ごく》味わわせてやる!」
その時、はけが静かに呟《つぶや》いた。
「……それも悪くないですね」
啓太は思わず、はけを見やる。
「え?」
「いいえ」
はけは穏《おだ》やかな笑みを浮かべて、首を振った。
「なんでもありません」
自分が呟いた事などそ知らぬげの平静な調子である。それで、啓太はちょっと毒気を抜かれた。
寝台に腰をかけ直し、片|膝《ひざ》を抱えこむ。
上《うわ》目《め》遣《づか》いで、はけを見上げた。
「あのよ。前も聞きかけたけど、あいつって一体、なんなの?」
「なんなのとは?」
「……いや、そもそも、何で俺のとこに来たの?」
「もちろん、あの者が啓太様を慕っているからです」
「そこら辺が俺にはどうも信じらんねえんだけど」
思いっ切り疑わしげな目になって啓太。だが、はけはきっぱりと言い切った。
「その点だけは間違いありません。あの者は啓太様に敬意を持ち、主人と認めたのです」
「なら、あいつの態度はなによ? この三日間、俺の言うこと聞いたためしねえぜ?」
「……それは」
と、はけは言い淀《よど》んだ。啓太は追いこむようにさらに続ける。
「悪戯《いたずら》はする、大飯はかっ食らう、おまけにご主人様である俺に首輪つけて喜んでるんだけど?」
自分の首をとんとんと指で叩《たた》く。はけの視線がわずかに泳いだ。
「と、とにかく、犬《いぬ》神《かみ》一同、啓《けい》太《た》様に期待しております。どうか、あの者を一人前の犬神にしてやって下さい」
「あ、てめえ、話、逸《そ》らしたな!」
「では、私はこれで。依頼者の資料はここに置いておきます」
はけは懐《ふところ》から取り出したファイルケースを寝台の上に置いて、そそくさと一礼をした。啓太は手を振り上げる。
「おい! 待てこら! 俺《おれ》は依頼受けるなんて一言も言ってねえぞ!」
「失礼」
はけは啓太を見ないようにして鉄格子をすり抜けると、廊下の暗がりに立った。実体が緩《ゆる》やかに崩れ、たちまちかき消える。
啓太は彼を追いかけて、鉄格子を掴《つか》み、それを揺すりながら叫んだ。
「失礼だよ、てめえは本当によお─────!」
一方、ようこはお気に入りのビルの屋上にいた。煌《こう》々《こう》と輝《かがや》く月はあくまで大きく、彼女の影が長く照らされる。
ぽんと給水塔を蹴《け》る。ようこは柔らかく手を伸ばしたまま、片足立ちで回った。手先から生じた円に身体《からだ》が応《こた》え、彼女の服の裾《すそ》がふわりと浮く。
細い指に赤い炎が添えられた。
炎はやがて、美しい螺《ら》旋《せん》を描き、彼女はその中で無心に舞い続ける。湧《わ》き起こって来る衝《しょう》動《どう》を昇華させて行くようなダンス。
生と死の表情がせめぎ合う。
彼女の端整な顔は深い憂いを帯びていた。
ようこはやがて、静かに息を吐き、動きを止めた。手の平に残っていた炎の残《ざん》滓《し》をじっと見つめ、それを消す。
辺りは再び、元の薄《うす》闇《やみ》に戻った。
その時、淡々とした拍手が鳴り響《ひび》いた。
「見事なものですね」
ようこはぎょっとして声のした方を見つめた。熱中していて、他《ほか》の存在に気がつかなかったのだ。
月光の下、給水塔にすっくり立って、その誰《だれ》かは手を叩《たた》いている。
「……はけ?」
訝《いぶか》しげにようこが尋ねる。確かに、それは犬神のはけだった。
「見てたんだ」
ようこは相手を確認すると、その途《と》端《たん》、興《きょう》味《み》を無くしたかのように背を向けた。はけは静かに空中を歩いて、ようこに近づいてきた。
「啓《けい》太《た》様は困ってらっしゃいましたよ」
「あ、そ」
と、そっけなくようこ。はけは優しく尋ねる。
「お前はなぜ、そのような真《ま》似《ね》をするのです?」
「知つてる癖《くせ》に」
「……さあ? さっぱり見当もつきませんね。なにせ、あなたは犬《いぬ》神《かみ》なのですから」
どこまでも微笑《ほほえ》みながらはけは諭《さと》す。
「ふん。はけ、あんたは偽善者だよね……」
しかし、はけは黙《だま》って首を振るばかり。
ようこは天上に輝《かがや》く半月を見上げる。
「わたしは、果たしてどっちなんだろうね……」
分からないや。
と、彼女は囁《ささや》いた。
「月にきいて」
そう言って、彼女は天に向かって思いっ切り手を伸ばした。
まるで半月を掴《つか》み取ろうとするかのように。
ジャンプ。
翌日の昼過ぎ、啓太はとある高級ホテルのロビーにいた。散々、注意された後、警《けい》察《さつ》署から出たその足で家に戻り、着替えている。
啓太は祖母に紹介された依頼主に会おうとしていた。本来なら、そんな仕事はすっぽかしてようこをしばきに行きたいところだが、財政事情がそれを許さなかった。
この前、ようこに散財させられた財布の中身がそれだけ苦しかったのだ。
「しかし、遅いな」
啓太は腕時計に目を落とした。連絡をとったら、この場所、この時間を指定された。ファイルをざっと読んだ限り、一流企業のビジネスマンだった。
金払いはきっと良いだろう。
身《み》形《なり》のよいスーツ姿の男や外人客がちらほらと点在するロビーを見回しながら、啓太は壁《かべ》に背を預けた。何となく欠伸《あくび》をする。
すると、それに合わせて、隣《となり》でぽんと何かが実体化する音がした。
啓太がぎょっとしてそちらを向くと、ようこがにこにこしながら立っていた。
「えへへ〜、ケイタ、しゃばに出られて良かったね」
と、屈託なく笑うようこ。
「て、てめえ!」
思わず、啓《けい》太《た》が叫びそうになる。
「なにを白々しいこと言ってやがる! お前のせいで俺《おれ》がどれだけ苦労したと思ってるんだよ!」
ようこは唇を尖《とが》らせた。
「な〜によ? わたしのせいだとでも言うの?」
「間違いなく、てめえのせいだろうが!」
とうとう、啓太は我慢し切れず、ようこの胸《むな》倉《ぐら》に手をかけた。その途《と》端《たん》、彼女はすっと息を吸いこむと、高らかに叫んだ。
「だって、ケイタが裸で襲《おそ》いかかってきたんだもん! わたし怖くて!」
声だけ大きい棒読みの口調である。だが、周りの注目を集めるにはそれで充分だった。みな、呆《あっ》気《け》に取られて啓太とようこを注視している。
啓太は慌てた。
「わ! ば、バカ! 黙《だま》れ!」
手をわさわさとようこの前で振って、それから周囲を見回し、愛想笑いをする。なんでもないですよ。そういう風に頭を下げた。
その間、ようこは口元に手をあてて、くすくすと忍び笑いを漏らしていた。啓太はようこの耳元に口を寄せ、切迫した声で言った。
「大体、お前、どういうつもりだよ? こんな真昼間から実体化しやがって!」
昨日までのようこは人に見えない不可視の姿をとっていた。だが、今の彼女は尻尾《しっぽ》を綺《き》麗《れい》に消し、桃色のキャミソールとミュールで決めた現代の若い娘だった。
それもとびきり綺麗な。
ようこが叫んだからではなく、その容姿ゆえに、彼女をちらちらと眺めている男たちがいる事を啓太は肌で感じ取っていた。
「ん〜。こういうところでこういう格好してみたかったの」
ようこはそう言って、啓太の腕を取った。
「ねえ、ケイタ、わたしとでーと、しよ! 人間はそういうことするんでしょ? わたしもお洒落《しゃれ》なでーと、したい!」
邪気のない愛らしい笑顔で彼を見上げる。啓太はばっとその腕を振り払った。
「たわけ! 俺はこれから仕事だ!」
ようこは不満そうに頬《ほお》を膨《ふく》らませた。
「なによお。仕事とわたしと一体、どっちが大事なの?」
「100%仕事だよ! 大体、俺はてめえが食い潰《つぶ》した金を補《ほ》填《てん》しねえと確実に飢《う》え死《じ》にするんだ! お前がいると必ず厄介事になる。昨日のことはとりあえず忘れてやるから、さっさと帰れ! 帰れ!」
「むう〜」
ようこは、たじたじと下がって、
「なにもそんなに言うことないじゃない。そんなに言うなら、帰っちゃうからね! 本当に帰っちやうよ?」
二、三歩、去りかけ、気を引くように振り返ってみせる。
啓《けい》太《た》は腕を組み、冷淡にそっぽを向いた。
「ちゃんと歩いて出ていけよ。お前を見ている奴《やつ》らがいるからな」
そう言われて、初めてようこは少ししゅんとした。
「分かった……帰る」
心持ち肩を落とし、出口に向かって歩き出すようこ。その足がふと止まった。啓太がそれに気がつき、横目で彼女を見た。
ようこはその場に立ち尽くしたままだった。
様子が明らかに変だった。
啓太は気になって、ようこの肩に手を置いた。
「おい、どうした?」
「ケイタ……」
彼女はするりと啓太の背に回りこみ、彼に負ぶさった。
「わ! な、なんだよ?」
「こんな人がいる」
ようこは啓太の肩に顎《あご》を乗せ、だらりと舌を出してみせる。
「は?」
啓太が目を点にすると、ようこは真顔に戻ってすっと玄関ホールの方を指差した。
「な」
初めてそちらの方に目を向け、啓太も絶句する。
ぴしっとしたスーツに身を包んだ二十代前半の青年がいた。きょろきょろと辺《あた》りを見回してから、啓太を……正確には啓太の首輪を認めて、ほっとした表情になった。
軽く手を振って、こちらに向かって来る。
しかし
その背後には……。
「な、なんだよ……あれ」
啓太が擦《かす》れ声で呟《つぶや》き、ようこはきゅっと彼の首に回した腕に力を込めた。
「いや、どうも遅れて失礼しました。出《で》掛《が》けに急な電話が入って、会社の方に顔を出していたんです。ほんと、僕の仕事は休日もなにもないんですよ」
爽《さわ》やかな笑顔でその依頼主、大《おお》迫《さこ》と名乗った、は詫《わ》びた。短めの髪型と白い歯。潮《しお》風《かぜ》に焼けた顔はマリンスポーツの一つや二つも嗜《たしな》んでいる事を覗《うかが》わせた。
着てるスーツはエルメネジルド・ゼリア。つけてる時計もジャガー・ルクルト。仕事も出来て、遊びもこなすタイブである。
いわゆる、いい男だった。
大迫と啓《けい》太《た》。それに何故《なぜ》かようこの三人は、ホテルの喫茶店に入っていた。男二人はコーヒー、ようこはチョコレートケーキを注文している。
「それにしても、随分とお若いですね、お二人とも。正直、びっくりしましたよ」
大迫は組んだ手に顎を乗せ、笑った。
「その首輪は、なにか霊《れい》能《のう》力《りょく》と関係あるんですか?」
先程から快活かつ饒《じょう》舌《ぜつ》によく喋《しゃべ》る。
ようこは同じようなポーズをとって、にこにこと大迫を見ていた。
「……ええ、まあ」
それに対して、啓太は歯切れが悪かった。
彼の視線はちらちらと大迫の背後にいっていた。
そこにいる。
女。
おどろに振り乱した長い黒髪。
青白い。
世にも恨めしげな。
女。
白いワンピースに裸足《はだし》。胴が異様に長かった。さながら、蛇《へび》だ。それが幾重にもうねうね巻きついて、大迫の肩越しから顔をぬうっと突き出していた。
女が啓太を認めて、振り向き、にいと歪《ゆが》んだ笑みを浮かべる。
啓太は慌てて視線を逸《そ》らした。
「ふ」
その様子に大迫は微笑を浮かべた。
「先程から、僕の後ろを随分と気にされてますね。なにかいるんですか? ……さては、お化けかな?」
どこか揶《や》揄《ゆ》するような口調だった。蛇女がしゅるしゅると舌を出し入れした。
「……ええ、まあ」
相変わらず、目線を下に向けたままで啓太が答える。化け物慣れしているとはいえ、こういう類《たぐい》の奴《やつ》は生理的に怖かった。
大《おお》迫《さこ》は身を起こし、微笑から冷笑モードに表情を切り替えた。
「川《かわ》平《ひら》君にはこうして来て頂いて、タイヘン、失礼だけど、僕は幽《ゆう》霊《れい》や化け物の類《たぐい》を一切、信じてないんだ」
口調も唐突に馴《な》れ馴れしくなる。彼は断りもなくタバコを内ポケットから取り出すと、吸い始めた。
さりげなく、ようこがライターで火をつける。
「はい」
にこにこ。
大迫は一《いっ》瞬《しゅん》、ようこを物欲しげな流し目で見て、礼を述べた。それから、うつむいている啓《けい》太《た》を再び見下ろす。
どうやら、人によって接する態度を潔《いさぎよ》いまでに変える人らしかった。
「最近、どうもついてないんで、上司に何気なく話したら、その人がね、オカルト好きだったらしくてね、君を紹介されたんだ。まあ、上司にそう言われたら、断る訳にもいかないんで、来てみたけど……でも、ナンセンスだよね。お化けなんて」
そう言って、ふふんと鼻を鳴らす大迫。
その頬《ほお》を蛇《へび》女《おんな》が長い舌でぺろりと舐《な》めた。
「君も若いうちからそういういかがわしい職業を選ぶのもどうかと思うよ」
大迫はさらに、啓太の古びたジーンズやジャケット、それに首輪を軽《けい》蔑《べつ》したように眺めた。さも啓太がインチキ霊《れい》能《のう》力《りょく》者だと言わんばかりだった。
無意識のうちに頬の辺《あた》りを人差し指で掻《か》いていたが、もちろん、何も気がついていない。
啓太はしばらく黙《だま》っていたが。
「……ええ、そうですね。ここら辺で廃業しようと思います」
きっぱりとそう告げて、ぽかんとしている大迫を尻《しり》目《め》に立ち上がった。目も合わせたくないという感じでそそくさとその場から離れる。
伝票はしっかりと置いて来た。
「いくぞ、ようこ」
ようこは軽やかに啓太の後を追いかけた。
「ケイタ、ケイタ! どうしたの? お仕事するんじゃないの?」
出口手前で彼の袖《そで》を捉《とら》え、くいくい引いた。啓太は横目で、ちらりとようこを見る。
「あほ。あれは俺《おれ》の守備|範《はん》囲《い》外だ」
声を精一杯、ひそめていた。ようこはきょとんとする。
「しゅびはんいがい?」
「ああ。あれ、生《いき》霊《りょう》だぞ。きっと、あいつが今まで弄《もてあそ》んできた女の念がまとまって出来た奴《やつ》だ。恨みの念だけが凝《こ》り固まってな……俺、あんな露《ろ》骨《こつ》なの初めて見た」
「それがなんでダメなの? 要するに人じゃないんなら思いっきりやればいいのに」
「まあな。確かに人の情念のまとまりだから払ってやった方が功《く》徳《どく》になるんだけどさ、だからこそ余計、始末に悪いんだよ。よくとばっちりが来るしな……俺《おれ》はあの手のどろどろした女の情念に関《かか》わって、身を滅ぼした同業者、三人、知ってる」
「でも」
「煩《うるさ》いな。あんなむかつく女ったらしは不幸になって当然、当然。さ、帰るぞ」
啓《けい》太《た》はひらひらと手を振って、ようこを促した。
「でも」
と、ようこが繰《く》り返す。
「わたし、ちょこれーとけーき、まだ食べてないもん」
そう言って、ようこはちょっと頬《ほお》を膨《ふく》らませた。真顔だった。彼女はずっとそれを楽しみにしていたのだ。
「あのな」
啓太はさすがに呆《あき》れ顔になった。
しかし、すぐにそっけなく、
「じゃあ、お前だけ残ってケーキ食べていけ」
そう言われて、ようこは驚《おどろ》いたように啓太を見上げた。
「でも、それだとあの人とわたしがでーとになっちゃうよ?」
「デートになっちゃうよ? ……どういう意味で言ってるのか知らねえが、別にいいんじゃねえのか?」
と、不思議そうに啓太。ようこはうつむいた。
「でも……」
「?」
「ケイタはわたしが他《ほか》の人とでーと、してもいいの?」
強《こわ》張《ば》った声でそう尋ねる。
「はは」
啓太は軽く笑い飛ばした。
「なんだ、そんなことか。構わん、構わん。俺はそんなに了見の狭い飼い主じゃねえよ。犬《いぬ》神《かみ》のプライベートまで拘束しようとは思わねえ。遊んできたらいいじゃねえか」
と、むしろ親切でようこの頭を撫《な》でる。
「あいつ金持ってそうだしな。さっき、お前が言っていたお洒落《しゃれ》なデートがたくさん、出来るぞお。精々、お前の得意技でたらしこんでやりな」
からからと笑ってそう言った。
「そう」
ようこはひんやりとした声で呟《つぶや》いた。
「じゃあ、そうする」
そのまま、顔も上げずにすたすたと啓《けい》太《た》の許《もと》から去って行く。
「お、おい」
啓太が声をかけたが一切、無視。困惑顔の大《おお》迫《さこ》の側《そば》に戻った。彼の肩に手を置き、とぐろを巻いていた蛇《へび》女《おんな》の耳元で何事か囁《ささや》いた。
ごにょごにょ。
蛇女の目がじんわりと輝《かがや》き出した。
その顔がゆっくりと啓太の方を向く。
「お、おい……」
啓太は思わず、二、三歩、よろめいた。蛇女がぞろりと大迫から離れると、啓太、目指して床を這《は》い出して来たのだ。
「お────い!」
と、たまらず叫ぶ啓太。ようこは意地悪く笑い、啓太を見つめた。
「今、この人にケイタのこと紹介したんだよ。ケイタはハンサムで、カッコ良くて、優しくて、絶対に女の子を大事にする人だって、ね。そうしたら、この人、ケイタの事、気に入ってくれたみたい」
さらに腕を組み、氷のような一言。
「わたしだけでーと、するのもなんだから、ケイタはこの人とでーと、しなよ」
「人じゃねええだろおお───!」
啓太はくるりと背を向けると、ダッシュで喫茶店を飛び出した。その後を蛇女が物《もの》凄《すご》いスピードで追いかける。
彼女は手を大きく広げ、狂喜の笑みを浮かべていた。
「頑張ってねえ〜」
ようこはお気楽に手を振って、それを見送った。それから、事の成り行きを理解出来ないでいる大迫にしなだれかかり、色っぽく目を細める。
「オオサコさん。お許しが出たわ……わたしと遊んでくれる?」
大迫はごくりと唾《つば》を飲みこんだ。
その後、大迫はようこを連れてデパートに行った。ルイ・ヴィトンのテナントでなんでも買ってあげるよ、と鷹《おう》揚《よう》に笑う。
ようこは手を打ち合わせ、わあと目を輝かせた。
彼女がスカーフを選んで、どう? と大迫と談笑しているその横を、啓太が全速力で駆け抜けて行った。
「ようこ、てんえめええ、一体、どういうつもりだよお──────!」
という罵《ば》声《せい》がたちまちフェードアウトして、彼は階段を駆け下りる。その後を常人には見ることが叶《かな》わないが、蛇《へび》女《おんな》が嬉《き》々《き》として追いかけていた。
「おほほほ、お待ちになってマイダーリン!」
うぞうぞうぞ。一《いっ》瞬《しゅん》だけ生臭い風が立つ。
ようこはふんと鼻を鳴らし、酷《こく》薄《はく》に目を細めた。それから、唖《あ》然《ぜん》としている大《おお》迫《さこ》の腕をことさら、胸に抱き寄せ、上《うわ》目《め》遣《づか》いになる。
「今度は、どこに連れてってくれるの?」
大迫はやに下がった顔になり、
「じゃあ、ドライブでも行こうか?」
と、車のキーをちゃらつかせた。
ようこはにっこりと頷《うなず》く。
二人はその後、海へ向かった。
一方、啓《けい》太《た》はどぶ川を走っていた。ばちゃばちゃと泥を跳ね上げながら、駆ける。時折、転んではまた闇《やみ》雲《くも》に手をついて、跳ね起きた。
「は、は」
息がさすがに切れていた。
「なんだって、俺《おれ》がこんな……」
と、愚《ぐ》痴《ち》が出る。足はへろへろ。
視界は朦《もう》朧《ろう》としていた。
その後を盛大に泥を撒《ま》き散らしながら、蛇女がやって来る。
うねうねと身体《からだ》をくねらせ、手を伸ばして、叫ぶ。
「ハニー、愛してるわ! 愛してるのよお!」
「お前、人を間違えるなよ! お前がストカってたのはあの男だろうがあ!」
啓太は精一杯、怒鳴り返した。
しかし、蛇女は恍《こう》惚《こつ》と、
「誰《だれ》でも良いのよ、ハニー。誰でも良いの!」
「み、身も蓋《ふた》もねえ……」
啓太はいい加減、腹が立って来た。素早くジャンプして振り向きざま、懐《ふところ》から取り出した蛙《かえる》の消しゴムを幾つかばらばら放った。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ。蛙よ、破《は》砕《さい》せよ!」
色違いの蛙がきんと光って、唸《うな》りを上げた。蛇女にしゅるしゅるとまとわりついて、螺《ら》旋《せん》を描き、頭上に結集して弾《はじ》ける。
啓《けい》太《た》が額《ひたい》にぴっと指を当てた瞬《しゅん》間《かん》。
どん、と地《じ》響《ひび》きが鳴った。
泥が高らかに巻き起こり。蛇《へび》女《おんな》を隠す。その中心がうねるように狭まり、次のタイミングで爆《ばく》風《ふう》と共に四散する。
啓太はとっさに顔を腕で庇《かば》って、そちらを見た。
立ちこめる煙。
やったか?
いや……。
そこから、蛇女がぞろりと這《は》い出て来た。
「うふふふ」
手で地面を掻《か》きながら、ぬうっと上半身を起こして、
「これがハニーの愛なの?」
笑う。
「足りない。足りないわあ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
さらにしゃかしゃかと突進して来る。
「じぐじょお〜! やっば、蛙《かえる》じゃきちいか!」
啓太はくるりと振り返ると、再び、死に物狂いで駆け出した。
比較的、肌寒い浜は閑散としている。カップルが一組、肩を寄せ合い、犬をつれた少女が遊歩道を歩いているくらいだ。
ようこは波打ち際ではしゃいでいた。ミュールを片手に持ち、波が寄せて来る度に嬌《きょう》声《せい》を上げる。その度に服の裾《すそ》から白く細いふくらはぎが覗《のぞ》く。浜風が彼女の漆《しっ》黒《こく》の髪を弄《もてあそ》ぶ。
夕日で逆光になった笑顔。
大《おお》迫《さこ》はふっと紫煙を吐いて、タバコを放り捨てた。
ゆっくりとようこの許《もと》へ砂浜を降りて行く。
「そろそろ、飯にしようか?」
さり気なくようこの肩を抱き、背後の小《こ》洒落《じゃれ》たホテルを指し示す。ようこはしばらくきょとんとしてから、邪気なく頷《うなず》いた。
「うん!」
大迫は顔を一瞬、崩し、慌てて横を向いた。
ぷ。くくく。
やれる!
その顔が雄弁にそう語っていた。
ようこと大《おお》迫《さこ》が腕を組み、仲《なか》睦《むつ》まじくホテルへ上がって行く。その背後。海岸線沿いを転がるように駆けながら、啓《けい》太《た》が叫んでいた。
「いい加減、しつけえんだよ、てめえはああ────!」
彼から少し離れて、ばしゃばしゃと波を立てながら蛇《へび》女《おんな》が追いかけていた。
「おほほ、逃がさないわよ。マイダーリン!」
だああ─────!
と、絶叫する啓太。
ふん。
と、冷たく目を細めて、振り返らないようこ。
タ日を背景に青春映画のような一場面だった。
ディナーはカジュアルな雰囲気のフレンチ。ヌーベル・キュイジーヌの影《えい》響《きょう》を受けた魚と貝のマリネ、濃《のう》厚《こう》な味わいのカボチャスープ、あっさりとした鴨《かも》のソテー、チーズの盛り合わせで年代物のワインを乾杯。
どこでどう覚えたのか、ナイフとフォークを器用に動かしながらようこは談笑を交わしていた。専《もっぱ》ら、大迫の聞き役だったが。
お次は最上階のスカイバー。
ようこは冷たそうな、色とりどりのカクテルに目を丸くする。大迫は微笑《ほほえ》み、自分にドライマティーニ。ようこにはブルーハワイを注文した。
ようこはグラスを両手で包みこむように持つと、しげしげと薄《うす》青《あお》い液体を覗《のぞ》きこみ慎重に口に含んだ。
「どう?」
大迫にそう尋ねられ、彼女はにっこりと微笑んだ。
「うん。おいしい!」
「そう。お気に召したようだね。じゃあ、次は、カルーア・ミルクなんてどうかな? 口当たりが良くて、甘いよ」
大迫がさり気なくけしかける。ようこはさっそく、お代わりを頼んだ。カルーア・ミルクはちょこれーとけーきの味がして気に入った。
「おいし〜♪」
幾杯も飲んだ。こんなもの山では絶対に味わえない。やがて、彼女は頬《ほお》を上気させ、うつらうつらとし始めた。
大迫は横目になりながら、大分、酔いの回ったようこに話しかけた。
「ようこちゃんは高校生なのかな?」
「こうこうせい、とはちがう、かな」
「が、学校には行ってないの?」
「うん」
「い、幾つかな?」
「……大体、三百六十四」
「え?」
「嘘《うそ》。二十歳」
ようこはかぷっとグラスの中身を空ける。大《おお》迫《さこ》は軽くガッツポーズをとっていた。
よし、淫《いん》行《こう》クリア!
彼はさらに質問を続ける。
「あの、川《かわ》平《ひら》君? ……だったかな?彼とはどんな関係なんだい?」
「ケイタ?」
「うん。やっぱり、霊《れい》能《のう》力《りょく》者と助手という関係なのかな?」
「ううん。ケイタはわたしのご主人様」
「ぶ!」
と、大迫が噴《ふ》く。ようこはグラスの中の氷を細い指でかき回していた。
「形だけ、だけどね」
そう呟《つぶや》いた。
ほろ酔い気味の彼女はこの世ならぬ色気を放っていた。切れ長の目が据わっており、普《ふ》段《だん》、生き生きとしていた所作が妙に気だるくなる。
大迫はごくりと唾《つば》を飲みこんでから、尋ねた。
「け、結婚してるの?」
「……違うよ」
ようこはつまらなそうに足をぶらぶらさせ、カウンターに上半身をだらりと預けた。
「違う」
そのまま、すうっと寝入ってしまう。
大迫の顔に一《いっ》瞬《しゅん》、影が差した。彼は辺《あた》りをきょろきょろと見回すと、視線の合ったバーテンに、はは、仕方ない子ですね、という顔で笑ってみせる。
それから、会計を済ませ、ようこを横から抱きかかえるようにして、バーを出て行った。いかにも親切で介抱しているんだぞ、下心なんてないんだぞ、という態度を終始崩さなかった。
バーテンは無言で彼を見送ると、
「ぐっどらっく」
親指を立てた。
同時刻、ホテルの前を啓《けい》太《た》が叫びながら通り過ぎて行った。
「頼む! いい加減、くたばってくれええ───!」
「お〜〜ほほほ。愛の力は不滅なのよおお─────!」
ようこは夢を見ていた。
ビルの屋上ではけと出会った晩の事だ。あの後、二人はビルの屋上に並んで、少し話をした。主に啓太の話題だった。
最初、ようこは気落ちしたようにぽつりぽつりと喋《しゃべ》るだけだったが、徐々に興《きょう》が乗って、気がつけば啓太のありとあらゆる事をはけに説明していた。
熱心に。嬉《うれ》しそうに。彼女は話し続けた。
彼の怒り方。笑い方。実はテレビの時代|劇《げき》が趣《しゅ》味《み》でビデオや本をたくさんを持っている事や、学校にはあまり行かない癖《くせ》に成績はそんなに悪くない事。それに、今朝《けさ》、起こった啓太とのやり取りのてんまつも話した。
「面《おも》白《しろ》いご主人様ですね」
はけは静かに笑ってそう言った。
ようこは何故《なぜ》だか、とっても嬉しくなった。
「うん!」
にこにこしながら、そう答える。
「ケイタは、とってもとっても面白い奴《やつ》なんだよ」
「でも、最後のそれはよい判断でした」
「なにが?」
と、ようこ。
はけはじっと、ようこの目を見つめ、
「啓太様を放り出したことです。ようこ、時々、そういう不《ふ》埒《らち》な振る舞いに及ぶ主人もおりますが、そこまで従う必要はありません。我らはあくまで契約をもって仕えているだけなのですから」
そう諭《さと》す。ようこは少々、うつむいて頷《うなず》いた。
「……うん」
「いいですか? 啓太様が再び、そのような行為に及ぼうとしたら、主人でも構いません。断固として懲《こ》らしめてやりなさい」
「うん」
ようこはどこか歯切れが悪そうだ。少し赤くなりながら、そっぽを向いて尋ねる。
「で、でも、自分がよい場合は?」
「え?」
「だ、だから、自分が相手を嫌いじゃない場合はどうなの?」
ようこは早口でそう言って、手を膝《ひざ》に突っ張った。
真っ赤になってる。
はけは虚《きょ》を衝《つ》かれたように、しばし黙《だま》りこんだ。それから、何故《なぜ》か少し寂しそうな微笑を浮かべた。
「そうですね……そういう場合もある、のかもしれませんね」
ごほんと咳《せき》払《ばら》いをしてからはけは告げた。
「でも、喩《たと》えそうであってもいきなりは感心しません。ちゃんと段階を踏まないと」
「段階?」
ようこは顔を上げた。はけは普《ふ》段《だん》、長い前髪で隠している方の目でようこを見つめていた。何かを慈《いつく》しむような、哀れむような。
とびきり青い、水晶のような瞳《ひとみ》。
吸いこまれそうな。目《め》眩《まい》がしそうな瞳。
ようこは思い出していた。
初めて啓《けい》太《た》と出会った時の事を。
「段階を踏めばいいの?」
そうすれば。
そうすれば、わたしも人を好きになれるの?
なっていいの?
ようこは手を伸ばす。
「そう」
と、はけは言った。
そういうこともあるんでしょうね。
だから、まずはでーと、なるものから、始めてみましょうか……。
ようこはがばっと跳ね起きた。
きょろきょろと辺《あた》りを見回すと、彼女はベッドに寝かされていた。照明が抑えられたホテルのスイート。バスルームからシャワーの音がする。
やがて、がちゃりと扉が開くと、大《おお》迫《さこ》が中から顔を突き出した。
「あ、目が覚めたかい? シャワーを先に使ったけど、君も一緒にどう?」
もはや、完全なスケベ面になってそう言う。
ようこはしばらく自分の置かれた状況を考えこんでいたが、すぐに自分を取り戻した。もう酔いは完全に覚めていた。
「いい」
そう呟《つぶや》いてすたすたと部屋の入り口に向かう。
「わたし、帰らなきゃ。オオサコさん、今日はどうもありがとう」
大迫は慌てた。バスタオル一枚、腰に巻いた姿でようこの前に立ち塞《ふさ》がる。
「ど、どうしたんだよ? いまさら!」
ようこは腰に手を当て、冷ややかに大迫を見つめた。
「そこをどいてくれない? わたし、あなたとそういうことするつもりは全然、ないの」
大迫は目を白黒させ、次に意地悪な顔つきになった。
「……ここまで来てそれはないだろう、ようこちゃあん。君にはかなりの金額を投資したんだ。その分は回収させて貰《もら》わないとな〜」
「べ〜。知ったことじゃないもん」
「ふふ」
大迫は髪をかき上げて、笑った。
「仕方ない。そうくるなら……僕は手荒なことは嫌いだけど」
一歩、二歩、にじり寄る。
「無理やりするの?」
「くくく」
ようこは溜《ため》息《いき》をついた。人差し指を上げかけ、すぐに思い直して首を振る。この男に啓《けい》太《た》と同じ事をするのは嫌《いや》だった。
そんな価値はこの男にはない。
ようこは微笑《ほほえ》んだ。
すっと飛び上がり、大《おお》迫《さこ》の肩に手をかけると、その頬《ほお》に軽くキスをする。
「これから知り合う女の子には、優しくしてあげてね」
そう呟《つぶや》き、離れる。絶句している大迫の目の前でベッドの縁《ふち》を蹴《け》ると、天井の暗がりの中にかき消えた。
仄《ほの》かに光った後に、ふわふわと何かが舞い落ちる。
呆《ぼう》然《ぜん》としていた大迫はそれを拾い、取り上げてみた。
彼がプレゼントしたスカーフだった。
啓太は人《ひと》気《け》の無い公園にいた。
半日以上、街中を逃げ回って、ずたぼろ。服もぼろぼろ。水銀灯の天《てっ》辺《ぺん》にまで追い詰められている。
「ほほほ、ハニー。そこにいたの……」
蛇《へび》女《おんな》が暗がりから光の輪の中に入って来た。
「うふっふう。木登りがお好きなの?」
ぬらぬらと柱に巻きつき、
「なら、わたしもご一緒するわああ」
幾重にも巻きながら、啓太のいる所まで一気に這《は》い登って来る。怨《おん》念《ねん》が増大して凄《すさ》まじい長さになっていた。
「ほ〜ら、これで、鬼ごっこも終わりよ!」
蛇女は手を伸ばし、啓太を捕まえようとした。目が大きく見開かれている。
啓太は弱々しい笑みを浮かべた。
「ああ、これで終わりだ……」
そして、ふらりと力を抜くと、地面に落ちた。背中を叩《たた》きつけられながらも、苦痛に歯を食いしばって叫ぶ。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ。蛙《かえる》よ、燃え上がれ!」
手を重ね合わせ、拳《こぶし》にして握りこんだ。
その瞬《しゅん》間《かん》、柱に貼《は》りつけられていた六個の赤い蛙が一斉に輝《かがや》き、真《しん》紅《く》の炎を吹き出した。蛇女は腹部をそこに巻きつけていたからたまらない。
「ぎゃあああああ───────!」
凄まじい絶叫を上げ、のた打ち回った。全身を業《ごう》火《か》に包まれながら、よろめく。
「や、やったか?」
啓《けい》太《た》は疲れ果てた目を細め、起き上がった。今度こそ、本当に切り札だった。もう蛙《かえる》の消しゴムは残っていない。
これで、倒せなければ次はない。
しかし……。
蛇《へび》女《おんな》は生きていた。
「やってくれたわね……」
焦げ目を無数に作り、体中をぶすぶすくすぶらせながら、蛇女は啓太の方をゆらりと振り向いた。
「ひどい」
片目を手で覆《おお》いながら、
「こんなにも愛しているのに……どうして、こんなひどいことをするの?」
啓太は観念して、溜《ため》息《いき》のように呟《つぶや》く。
「……悪かったな」
「許さない。ぜったい、ぜったい、ゆるさなああああ──────い!」
蛇女は凄《すさ》まじいばかりに形《ぎょう》相《そう》を歪《ゆが》め、啓太に襲《おそ》いかかった。
その爪《つめ》が啓太の額《ひたい》に接する。
切り裂こうとした、まさにその時。
「あんた、しつこいから、ケイタ、嫌いだってさ」
あはは、と高らかな笑い声と共に閃《せん》光《こう》が弾《はじ》ける。
先程の幾倍もの炎が蛇女を包んだ。
「ぎゃあああ──────!」
蛇女はたまらず転げ回った。
「あちちちち!」
必死で地面に身体《からだ》を擦《こす》りつけて火を消そうとする。
「あ……」
啓太は呆《ぼう》然《ぜん》と空を見上げた。
そこにようこがいた
黒髪がさらさらと夜風に流れた。
「ケイタ、お待たせ」
ようこは髪の生え際をかき上げ、艶《あで》やかに微笑《ほほえ》んだ。
「助けに来たわよ」
啓太は思わず苦笑した。
「おせえよ」
「な〜によ? わたしはてっきり、ケイタのことだからこの程度なら、とっくにやっつけてると思ってたのよ。一体、なにをてこずってるの?」
「うるせ。蛙《かえる》は蛇《へび》と相性が悪いんだよ」
「ふ〜ん。なんだかよく分からないけど……なら、あのうっとうしい女、わたしがやっちゃうよ?」
「ああ」
啓《けい》太《た》はにやりと笑った。
「やいちゃってくれ」
ようこも笑う。
「ん」
「ちょっと、待ちなさいよ」
蛇女がゆらりと起き上がった。ようこを睨《にら》みつけ、
「さっきから、黙《だま》って聞いてれば、人を、人を……言うに事欠いて、鬱《うっ》陶《とう》しいですって────!?」
ようこは肩越しに振り向くと、半目になって鼻で笑った。
「ふん。ば〜か」
「きいいいい──────! 殺してやるうう────!」
うねうねと津波のように身体《からだ》をたわめて、蛇女が一気にようこに殺到する。
ようこは軽やかに夜空に飛ぶと、それを避《よ》けた。
足を胸につけ、無表情に呟《つぶや》く。
「あんたも可哀《かわい》想《そう》だよね。あんな男に弄《もてあそ》ばれて……」
月光を背負って、怜《れい》悧《り》な美《び》貌《ぼう》が冴《さ》えに冴え渡っている。
着地ざま、ぴたりと蛇女の頭に手を押し当てた。
「でも、ごめんね……ケイタには今、わたしが憑《つ》いてるんだ」
彼女の手が変化して、爪《つめ》が伸びる。
「だから」
さく。
蛇女の目が驚《きょう》愕《がく》に見開かれる。
「死んでね」
さくさくさくさく。
ようこは一気に女を切り裂いて行く。
縦《たて》に。
頭から。
「燃《も》えてしまってね」
足元まで。
だいじゃえん。彼女は呟《つぶや》いた。
「いやああああ────────────!」
今度こそ蛇《へび》女《おんな》が悲痛な叫び声を上げた。身体《からだ》の内部から炎が噴《ふん》出《しゅつ》していく。それは止めようもなく、彼女の存在を侵食していく。
圧倒的な力の差。
松明《たいまつ》のように燃え盛る蛇女に背を向け、ようこは囁《ささや》く。
「あなたもひと≠好きになったんだよね……」
その瞬《しゅん》間《かん》、蛇女は砕け散った。ばらばらと煤《すす》が辺《あた》りに飛び散る。それは無数の髪が炭化した物だった。
怨《おん》念《ねん》が込められた女の髪。
ようこは振り返りもせず啓《けい》太《た》の許《もと》に歩み寄る。
先程から浮かべていた氷のような冷笑が一転、無邪気な微笑《ほほえ》みに変わった。
「さ、ケイタ。家にかえろ♪」
啓太の身体をきゅっと抱いて、ようこは言った。
「あ、ああ」
啓太は辛うじて答えた。
「……帰るか」
女、って怖いな。
それが啓太の本音だった。
「おっと。その前に」
ある事を思い出して、彼は軽くようこを押しやり、蛇女の残《ざん》骸《がい》を拾い上げた。大分、炭化した髪だ。彼はそれをこよりのように縒《よ》り上げた。
「なにやってるの?」
ようこが不思議そうに後ろから覗《のぞ》きこむ。
「仕上げ」
啓太はにやりと笑った。
「婆ちゃんの見よう見まねだが、これくらいならどうってことねえだろ。精々、半年かそこら不幸が続くくらいだな」
その髪の束をようこの肩にこすりつけ、霊《れい》力《りょく》を付加させる。宙に放ると、ぽっと青白い光を帯びて、小さな蛇女となった。
それはうねうねとのたくりながら、天へ上って行く。
「ほほほほほ! お〜〜ほほほほ!」
「たっしゃでな〜」
啓《けい》太《た》は手を振った。ようこは目を丸くしている。
「ねえねえ、今、何したの?」
「ちょっとした不幸のお裾《すそ》分《わ》け」
と、少し意地悪な顔になって啓太が笑う。
「まあ、お前が焼いたから、怨《おん》念《ねん》の元になっている女たちはきっとさっぱりした気分になってるだろうさ。だけど、放っておくとまた同じようなことが起こるからな……あいつがきちんと謝《あやま》ったら、解けるだろう」
「あいつって?」
「女ったらし」
啓太はくるりと背を向け、頭の後ろに手を組んだ。
「さて、これにて一件落着。帰るぞ」
ようこは嬉《うれ》しそうに頷《うなず》いた。
「うん!」
家に帰ってまず啓太がシャワーを浴びた。彼がバスタオル一枚で出て来ると、ようこが待ち構えていて彼に着替えを渡した。
「はい」
「お、おお」
啓太は戸惑いながら、それを受け取る。ようこは微笑《ほほえ》んで、洗面所から出て行った。妙にサービスがいい。啓太がハンドタオルで頭を拭《ふ》きながら、部屋に戻るとよく冷えたビールがジョッキに注がれて、ちゃぶ台に鎮《ちん》座《ざ》していた。
しかもその隣《となり》には枝豆。揚げだし豆《どう》腐《ふ》。餃子《ギョーザ》。
ようこは、啓太が高校生の癖《くせ》に酒を飲む事を知っていた。
「お、おお〜?」
全部、冷蔵庫に入っていたスーパーの出来合いの品とはいえ、この待遇は変だ。
「……お前、どうしたの?」
なんとなく薄《うす》気味悪そうに啓太が尋ねる。
ようこはにこにこしたまま、小首を傾《かし》げた。
「ま。いいけどさ……」
啓太はどっかりと腰を降ろすと、ビールを一口飲み、枝豆を齧《かじ》った。
こういうのも悪くない……。
啓太はおっさん趣《しゅ》味《み》だった。しばらく、黙《もく》々《もく》と箸《はし》を動かす。
「それで、あいつとのデートはどうだったよ?」
なんとなく気になって啓太は尋ねてみた。
「つまらなかった」
ようこはくすりと笑い、啓《けい》太《た》の隣《となり》に並んだ。
彼の腕をとって胸に抱き寄せる。
「ぜんぜん、つまらなかったよ」
「ふ、ふ〜ん」
と、啓太。
ようこは少し潤《うる》んだ瞳《ひとみ》で啓太を見上げていた。
「わたしね、お洒落《しゃれ》なでーと、ってどんなに面《おも》白《しろ》いのかと思ってたけど……意味がないんだね。やっと、それが分かったよ」
「意味がない?」
「うん……だから、ねえ、ケイタ。今度、わたしとでーと、してくれる?」
擦《かす》れた声。恥ずかしそうな仕《し》草《ぐさ》。ようこは頬《ほお》を桜《さくら》色《いろ》に染めていた。
「それは、まあ」
「ダメ? ケイタがお仕事のない時でいいから」
「……いや、別にいいけどよ」
啓太は思考力が鈍って来た。
様々な欠点があるものの、ようこは飛びきりの美少女なのだ。それにこの態度。もしかしたら、自分に気があるのではないか?
啓太は突然、そう思った。
昨日の朝、酷《ひど》い目にあったのだって、手荒過ぎただけだったからかもしれない。ようこはだから、怯《おび》えてあんな事を……。
ソフトに扱ってやれば、できる……。のか?
「ようこ……」
啓太は箸《はし》を置き、優しくようこの肩を掴《つか》んだ。
「あ」
ようこが目を細める。
「だ、だめ」
いける
嫌《いや》がってない……。
啓太はようこの白い首筋に唇を近づけ、彼女のふくよかな胸に手をあてた。
「そんなことしたら」
「ようこ」
揉《も》む。
「こうしちやうよ?」
にっと笑ってようこ。ぎょっとして啓《けい》太《た》が身を起こしたが遅かった。最後の最後に見た彼女は笑いながら、指を立てていた。
ばさりと。
啓太が身につけていた衣服だけがその場に落ちる。
「てめええ────! この性悪女あああ──────!」
啓太の叫びが往来から聞こえて来た。
さらに、
「あ、貴様はまた!」
と、警《けい》官《かん》らしい声が響《ひび》く。啓太の弁解が哀れっぽく重なる。
「い、いや、違うんです! これは違うんです!」
「なら、なぜ逃げる!? 待て、この変質者!」
どうやら、追いかけっこが始まったようだ。
ようこはくすくす笑いながら、啓太の服を拾い上げた。
それを胸に抱き締《し》め、そっと呟《つぶや》く。
「段階だよ、ケイタ。段階」
彼女はそうして、幸せそうに目を細めた。
P. S.
「なんだあ、兄ちゃん。また、ストリーキングで捕まったのか? 懲《こ》りねえなあ」
「う、うるせえ! てめえだって、酔っ払ってまた、ぶち込まれてるじゃねえか!」
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澄《ちょう》明《めい》な大気。湯気の向こうには満天の星々。そっと頬《ほお》を撫《な》でる優しい夜風が火《ほ》照《て》った身体《からだ》にありがたい。紅葉がはらりと落ちて、舞い、水面に漂う。川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》は湯に浮かべた盆からお猪口《ちょこ》を取り上げ、中身を舐《な》めるようにして飲んだ。 美味《うま》い。大《だい》吟《ぎん》醸《じょう》だ。
「極楽だな」
彼は頭に乗せたタオルに手を置いて、三日月を仰ぎ見た。
野《や》趣《しゅ》満点の露《ろ》天《てん》風《ぶ》呂《ろ》にいるのだ。ごつごつとした岩の間に白《はく》濁《だく》したお湯が豊富に湧《わ》いている。とあるホテルの敷《しき》地《ち》内にある地元でも有名な美人の湯。
啓太は岩の一つに腰をかけていた。細身だが引き締《し》まった身体をしている。それに鋭《するど》い目つき。高校生くらいで、どういう訳か犬用の首輪をつけていた。「これで、そばにお酌《しゃく》してくれる美女がいれば文句ないんだけどな」
そんな事を彼はひとり呟《つぶや》く。すると、すぐ側《そば》でぽちゃんと水音が跳ねて、抗議の声が聞こえた。
「なによ? 美女ならここにいるでしょお?」
啓太は聞こえなかったふりをして、また一口、杯を重ねた。声の主はそれが気に食わなかったらしい。
靄《もや》をかき分けるようにして、啓太の前に現れた。
「ここにこんな美少女が、しかも裸でいるでしょ?」
ぬっと上半身をお湯から突き出す。
それは確かに綺《き》麗《れい》な少女だった。純和風の。十代半ば。やや険のある切れ長の瞳《ひとみ》に小さく赤い唇。黒《くろ》絹《きぬ》のような長い髪が薄《うす》靄に映える。
しかも、裸。
そう。啓太が、短パンに似た湯着で隠すべき所はちゃんと覆《おお》ってるのに対して、彼女は一糸|纏《まと》わぬ姿だった。形よく膨《ふく》らんだ乳房。すらりとした肢体。真白い肌。この世ならぬ美しさを感じさせる完全無比のプロポーションだった。
辛うじて際どい部分がお湯の下で助かってる。
ただ一つの欠点はそのきゅっと締まったお尻《しり》から、ふさふさした獣《けもの》のような尻尾《しっぽ》が生えている事だ。彼女は人《じん》妖《よう》。
ようこ、という名の犬《いぬ》神《かみ》だった。
そして、川平啓太は彼女を使役する犬神使いなのだ。
啓太は悩殺的なようこのその姿を見て。即座に顔を伏せ、何かに耐えるように杯を握り締めた。
「ねえ、ケイタ。ここのお湯って美人になれるんでしょ?」
少女は追及の手を緩《ゆる》めない。自分に関心を向けさせようと、ことさらに啓太にすり寄り、お湯を彼の膝《ひざ》の上にかけた。
「わたし、美人になれたかな?」
啓《けい》太《た》の首筋に手を回し、しなだれかかる。
柔らかい。肉体。
「ね、見てってばあ」
甘い鼻声。啓太はぶるぶると震《ふる》えていた。それがやがて耐えがたい程までに高まり、とうとう、彼は爆《ばく》発《はつ》した。
「だああ────! やめんかあ────!」
啓太はようこを思いっ切り、突き飛ばした。彼女は「きゃっ」と悲鳴を上げて、お湯に落ちこむ。
どぼ〜んと派《は》手《で》な水|飛沫《しぶき》が上がった。
啓太はさらにそこへ指を突きつけ、喚《わめ》いた。
「お前はどうしていつもいつも、そうはしたないんだ! 貸して貰《もら》った湯着を着ろ! せめて手ぬぐいで隠せ!」
水中から顔を出した少女は濡《ぬ》れた髪をかき上げながら、不満そうな顔をした。
「も〜、だって、お風《ふ》呂《ろ》では裸にならない方が変って言ったのはケイタじゃない!」
それから急に表情を変え、「ね、ね」
と、啓《けい》太《た》に近づく。
「それより、わたしにちゃんとよくじょーした?」
わくわくとした無邪気な顔つきだった。啓太、一《いっ》瞬《しゅん》、絶句する。
「な」
「ねえ、てばさ」
ようこはそれから啓太の腰元を覆《おお》ってる湯着を見つめ、そこに起こった異変を認め、にんまりした。啓太は赤面して、慌ててお湯に飛びこんだ。
「わ〜い、ケイタがわたしによくじょーした!」
と、万《ばん》歳《ざい》をするようこ。
「ば、ばか」
啓太は怒鳴りかけ、なんだか急に何もかも嫌《いや》になってへなへなとお湯の中へ崩れ落ちた。彼女は毎回、こんな感じだった。自分を誘惑して、楽しむ。それでいて少しでも手を出そうものなら、問答無用でしっぺ返しが待っていた。
今だって調子に乗って彼女にのしかかっていけば、裸一つでどこかに放り出されるのがオチだろう。
犬《いぬ》神《かみ》としての彼女が持つ能力の一つ、しゅくちを使って。
本来は啓太が主人で、その存在は絶対であるはずなのに。
「俺《おれ》を苦しめて、そんなに楽しいか?」
にこにこしているようこに向かって、啓太は半目で尋ねる。
「うん」
と、頷《うなず》くようこ。啓太はがっくりとうなだれる。
「はあ」
溜《ため》息《いき》をついて、彼女の肩を抑え、湯船に浸からせた。自分も少し距離をとってお湯に身体《からだ》を沈める。その間、ようこは何が楽しいのだか顔半分だけ水面から出して、ぶくぶくと泡を吐き出していた。
彼女の大きな尻尾《しっぽ》が機《き》嫌《げん》よく左右に揺れている。
ふと、啓太は気になった。
「お前のさ、その尻尾」
「え?」
と、ようこが顔を上げる。きょとんとした表情に啓太は、
「いや、お前のその尻尾って身体の割に、随分とでかいのな」
それは本当に、ただなんとなく言ってみただけなのだ。しかし、ようこは予想外の反応を示した。
すっと尾を降ろし、お湯の中に隠してしまったのだ。
まるで急にそれが恥ずかしくなったかのように。
さっきまでは平然と裸体を晒《さら》していたのに。
「そ、そう? 普通だと思うけど」
と、言いながら上《うわ》目《め》遣《づか》いで啓《けい》太《た》を見上げる。
「大きすぎると、気にいらない?」
その態度で逆に啓太の方が面食らった。これではまるで、女の子のコンプレックスに触れた無神経な男みたいではないか。
ようこはどこか不安そうに啓太を見つめる。
辺《あた》りがしーんと静まり返った。
啓太は、咳《せき》払《ばら》いを一つした。
「い、いや、いいと思うぞ。別にそんなの。どうでも。俺《おれ》だって他人《ひと》のこと言えないし。うん。平均なんて」
と、要領を得ない事を言って闇《やみ》雲《くも》に頷《うなず》く。ようこは微笑《ほほえ》んだ。
「よかった」
ほっとしたような言い方だった。
啓太はなんだか無性に困って、やたらに空咳を繰《く》り返した。
「ま、まあ。しかし、なんだな。ここにこうしてても来ないな」
「……うん。来ないね」
くすりと笑ってようこが同意した。それから、彼女はお湯の中に嬉《うれ》しそうに顔を沈める。啓太は少し赤くなってそっぽを向いた。
二人はここである者を待っていたのだ。温泉を荒らす妖《よう》怪《かい》の存在を。
犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いは魔《ま》物《もの》退治を生業《なりわい》としていた。
その依頼は啓太にとってまさに恵みの雨だった。
バイトでやってる道路工事も雨で休み。妖怪退治の仕事もないし、日曜で高校もないので朝からテレビを見て、すきっ腹に耐えていた。一昨日《おととい》からパンの耳で過ごしている身にとって、グルメ番組の映像は暴力的だった。
カニの特集をやっていた。
レポーターが「わあ」と、歓声を上げながら、ぷりぷりとした白いカニ肉を茹《ゆ》で上がった真っ赤な殻からほじり出し、ぽん酢に浸した後、口に入れている。
「ん〜」と頬《ほお》をすぼめ、「おいしい」と叫ぶ浴衣《ゆかた》姿の女性タレント。啓太はそれを殺意に近い感情で眺めながら、きゅっと身体《からだ》を丸めて空腹をこらえた。
「お、おのれ……能天気にカニなぞ食いやがって」
すると、啓太の隣《となり》に並んでテレビを見ていたようこが小首を傾《かし》げた。
「ケイタ、わたし、食べたこと無いんだけどさ。海のカニっておいしいの?」
啓《けい》太《た》は答える気にもなれず、傍らのコップの中身(麦茶のパックを入れっぱなしにしてる)を口に含んだ。
味気ない。泣きそうになる。ようこはころんと啓太の膝《ひざ》に頭を乗せ、下から覗《のぞ》きこみながら再度、尋ねた。
「パンの耳より美味《おい》しいの?」
「比べるな」
と、短く無愛想に啓太。ようこは「ねえねえ」と、無邪気な感じで啓太の顎《あご》先に細い指を触れ、「じゃあ、ちょこれーとけーき、とは?」
啓太は無言でようこを見下ろした。元々、彼がここまで困《こん》窮《きゅう》しているのは、この綺《き》麗《れい》な少女の姿をとった犬《いぬ》神《かみ》のせいだった。彼女が散財したための借金。それに遠《えん》慮《りょ》の欠片《かけら》もなくばくばく食べる食費。
それが洒落《しゃれ》にならないくらいの金額に達している。
今は妖《よう》怪《かい》退治以外にもせっせとバイトして、駈《か》けずり回らないと家計が保《も》たない。それなのに、このバカ犬はご主人様の苦労も知らんと新しい服をねだる……。
気がつけば、啓太はようこの頬《ほお》をむにっと摘《つま》んでいた。
「ひはいよ?」
と、困惑した顔でようこ。啓太はなおも、彼女の頬をむにむに引っ張りながら考えた。こうなったら、こいつの力を使って銀行強盗でもやらかすか?
「へ、へいた。めがふわっへふよお」
いや、犯罪はいけないな。
啓太は思い直した。
それより、こいつ、このルックスだ。おまけに乳も尻《しり》もある。いっそ、こいつをその手の店に売り払うか……そうすれば邪《じゃ》魔《ま》者も片付いて一石二鳥。
と、啓太がいささか病んだ顔でそこまで考えた時、天井の暗がりがうっすら歪《ゆが》んだ。はっと我に返ってそちらを見上げると、一人の若者がすとんと床に降り立った。白《はく》皙《せき》の美《び》貌《ぼう》。黒髪がさらさらと片目にかかっている。
それに、白い和服。若者はすたすたと啓太とようこがいるベッドの側《そば》まで歩み寄ると、極めて丁寧に片《かた》膝《ひざ》をついた。 犬神使いの元《もと》締《じ》め、啓太の祖母が使役する犬神のはけだった。
「あ、はけだ。久しぶり〜」
ようこが起き上がって、陽気に片手を上げた。はけは無言で彼女に目をやり、頷《うなず》いた。それから、啓太の方に頭を下げ、抱えていた重箱を恭《うやうや》しく差し出す。
「我が主《あるじ》からです。なんでも、おはぎとか」
しかし、反応がない。
はけが怪《け》訝《げん》そうに顔を上げると、啓《けい》太《た》が凄《すさ》まじい形《ぎょう》相《そう》で立っていた。両手を大きく広げ、指をわきわきさせながら、目を爛《らん》々《らん》と輝《かがや》かせている。
「ひ」
と、思わずはけが身を引いた瞬《しゅん》間《かん》、啓太が重箱に襲《おそ》いかかった。包んであった風《ふ》呂《ろ》敷《しき》をむしり取ると、もどかしげに蓋《ふた》を放り捨て、獣《けもの》のような動作で中身を貪《むさぼ》り食う。
がふがつがふがつ。
はけは唖《あ》然《ぜん》としてその光景を見つめた。
そこへ、ようこが乱入して行く。
「あー、ケイタ! わたしもわたしも!」
啓太の背後から覆《おお》い被《かぶ》さり、中の餡《あん》を指ですくって舐《な》めた。しゃー、とがらがら蛇《へび》のように威《い》嚇《かく》する啓太。ようこを引っくり返して、重箱を奪い取る。
「なによ、ケチ! 少しくらいくれてもいいじゃない!」
ようこはぷんぷん怒りながら、再度、重箱に飛びかかって行った。啓太の腕にむしゃぶりつく。啓太はそれを振り払う。中身そっちのけでもつれ合う二人。餡《あん》子《こ》が空中を舞い、箱が踏み潰《つぶ》されて、中身が弾《はじ》け飛ぶ。
はけはしばらくその光景を眺め、
「はあ」
痛ましげな溜《ため》息《いき》をついた。
はけはそのおはぎと共に依頼も持って来た。犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いとしての仕事で、啓太の祖母が周《しゅう》旋《せん》したものだ。
今回は、とあるホテルに出没する妖《よう》怪《かい》を退治して欲しいというものだった。
なんでも、その妖怪のせいで客足が遠のいて困っているらしい。成功|報《ほう》酬《しゅう》は五十万。必要経費は使いたいだけ。ホテルに滞在期間中、飲み食いは全《すべ》てただ。という破格に条件の良いものだったので、啓太は二つ返事でOKを出した。
学校に病欠届けを出し、装備を整え、翌日には目的地である温泉街に向かって発《た》った。県庁のある大きな駅からバスに揺られて三十分。
降り立ったそこはかなり栄えていて、賑《にぎ》やかな温泉宿が軒を連ね、仄《ほの》かな硫黄《いおう》の匂《にお》いと生暖かな湯気が漂っていた。
気持ちの良い秋晴れ。
軒先から、くっきりと青空が覗《のぞ》いている。
浴衣《ゆかた》を着た湯治客が土産《みやげ》物屋や射的場の間をのんびりと闊《かっ》歩《ぽ》していた。
「わあ〜、タマゴの匂いがする」
啓《けい》太《た》と共にバスから降り立ったようこが目をつむり、鼻をふんふんさせた。
今日の彼女は厚めのウール地のスカートと白のブラウス、カーデガンという落ち着いた服装だった。それに髪を黄色いリボンで束ねて、尻尾《しっぽ》も綺《き》麗《れい》に隠している。ぱっと見、良家のお嬢《じょう》さんだった。
しかし、その陰ではもちろん、啓太の財布が悲鳴を上げていた。
「で、そのホテル・パンタグリエルつうのはどこだ?」
と、彼女の隣《となり》に並んだ啓太が辺《あた》りを見回す。こちらは対照的によれよれのジャケットを着ていて、肩に担いでいる大きな麻袋には自分以外にもようこの荷物が入っている。
すでにどちらが主《あるじ》だか分からない有様である。
そこへ、いきなり声がかかった。
「お客人、我が温泉郷へようこそ」
「わ!」
ぽんと背中を叩《たた》かれて、啓太は驚《おどろ》いて振り返った。そこにいつの間にやら一人の老人が立っていた。
苔《こけ》むした皺《しわ》だらけの顔に弓のように曲がった腰。
小柄で、怖いくらい無表情である。古びたハッピ姿で、ほとんど禿《は》げ上がった額《ひたい》にちらほらと白髪が残っていた。
啓太は頬《ほお》の冷汗を拭《ぬぐ》った。
「じ、爺《じい》さん、脅かすなよ……客引きか?」
老人はこっくりと頷《うなず》く。
「なら」
と、啓太が尋ねた。
「ホテル・パンタグリエルつうとこ知らないかな?」
途《と》端《たん》、老人の細かった目がいきなりくわっと開かれた。
「なんと、ほてる・ぱんたぐりえる!」
その顔はうなされそうな程、怖かった。啓太は思わず、たじろぐ。ようこは彼の背中に隠れてじっと覗《のぞ》いていた。
「な、なに? 俺《おれ》なんか変なこと言った?」
啓太が不安そうに聞く。
「いえいえ」
老人はにたあ〜と笑った。
「実はわしらのところが奇遇にも、そのほてる・ぱんたぐりえるでして」
「……ほんとかよ?」
どうも、信用できなくて、啓太が半目になる。
「お疑いですかの? ほら」
と、老人は後手に持っていた幟《のぼり》を一《いっ》瞬《しゅん》だけ見せた。
「温泉宿・猫《ねこ》屋《や》」
確かにそう書かれていた。
「いや、違うし」
「なにを仰《おっしゃ》る。もう間違いなくほてる・ぱんさーぴょるねですじゃ」
「いや、もう名前も全然違う……」
しかし、老人はめげなかった。にこやかに笑うと、啓《けい》太《た》の持っている荷物を瞬時に奪い取った。
「ははは、荷物はお持ち致しますぞ」
「あ──! いつの間に!?」
啓太が手元に目をやった時にはもうすでに老人は動き出していた。緩《ゆる》やかでいて、電光石火の神《かみ》業《わざ》だった。
そのまま、ふわ〜と浮かぶように老人は温泉街の石畳の道を登って行く。
「はい、御新規様、二名、ごあんな〜い」
「こ、こら、荷物を返せ!」
啓太は慌てて後を追った。ようこもすぐに啓太に続こうとして、ふと足を止める。彼女は背後の路地の暗がりを見つめた。そこに視線を感じたのだ。
何かこの世ならぬ者の気《け》配《はい》。
だが、誰《だれ》もいない。
ようこは首を捻《ひね》ってから、「あ〜ん、待ってよ、ケイタ!」
と、駆け出した。
その老人は温泉街を滑るように進んで行く。啓太は目を丸くしている湯治客の間をかいくぐってその後を追いかけた。
「ま、まちやがれ!」
しかし、一向に追いつけない。
あろうことか老人は後向きになって、おいでおいでをしながら一定の距離を保ち、決して啓太を近づけさせない。「ははは、お客人、こちら、こちらですじゃ」
「ま、まじで、あの爺《じい》さん、に、人間か?」
鍛《きた》えこんでいる啓太の息がいい加減、上がる。一体どれほど、走っただろうか。いつの間にか急|勾《こう》配《ばい》の山道になって、両《りょう》脇《わき》に鬱《うっ》蒼《そう》とした木々が生い茂るようになった。
老人の姿はもう見失ってしまっている。
けけ、と何やら得《え》体《たい》の知れない鳥がどこかで鳴き、辺《あた》りは薄《うす》暗《ぐら》くなり始めた。
「く、くそ! どこだよ、ここは?」
啓《けい》太《た》がやけくそのように叫んだ時、唐突に視界が開けた。
青空。白い雲。
崖《がけ》だ。
「わ!」
啓太は慌ててブレーキをかけた。そこはいきなり道がぶち切れて、断《だん》崖《がい》絶《ぜっ》壁《ぺき》になっていた。ぼろぼろと小石が崩れ、遥《はる》か眼《がん》下《か》に温泉街が広がっている。
ぞっとしながら、後に下がって啓太は辺りを見回した。あの妖《よう》怪《かい》じみた老人を捜す。どういう訳か、あちらこちらに大きな穴が掘り返されていた。
まるで工事現場のようだった。なんだろう、これは、と歩き回る。
そうして、ふと気がついた。
崖ぎりぎり一杯に凄《すさ》まじくぼろい建物が一軒、建っている。掘っ立て小屋に毛が生えたというか。毛も生えてない掘っ立て小屋その物である。
その隣《となり》に立て札が立っている。
「温泉宿・猫《ねこ》屋《や》」
風雪にさらされた板に、よれよれの楷《かい》書《しょ》でそう書かれている。
「なんだ、これ?」
啓太は腰を引いた姿勢で、その建物に近づいて行った。
「人が住んでるのか?」
ゆっくりと警《けい》戒《かい》しながら引き戸を開けてみた。すると薄暗い室内に小汚い格好をした年寄りが二人、ちんまり座っていた。
一人は先程の老人。もう一人はチャンチャンコを着たその連れ合いらしい老婆だった。囲《い》炉《ろ》裏《り》が切ってあり、炭火が明々と燃《も》えている。それに、しゅんしゅんと湯気を立てる自《じ》在《ざい》鉤《かぎ》にかけられた鉄瓶。二人はお茶を啜《すす》っていた。
そして、同時にこちらを見やり。
にいと笑って。
ゆらゆら手招きをした。
「!」
一《いっ》瞬《しゅん》、啓太は見てはならない物を見た気がして、ぴしゃりと戸を閉めた。それを背後で押さえ、深呼吸を一つする。彼の呼吸に被《かぶ》さるようにして、ぽんと蒸気音を立ててようこが実体化した。どうやら不可視の姿をとって麓《ふもと》から飛んできたらしい。
「ケイタ、あのお爺《じい》さん、捕まえた?」
ふあさっと尻尾《しっぽ》を片手で払い、それを消しながらようこが尋ねて来る。啓太はなんと答えてよいか迷って、それから力なく首を振った。
「どうしたの?」
「どうしたのというか……二人いる」
「二人?」
「それも、妖《よう》怪《かい》クラス」
ようこはきょとんと小首を傾《かし》げた。啓《けい》太《た》が詳しく事情を説明しようとしたその時、背後の引き戸がいきなりがらっと開かれ、
「お客人!」
「わ!」
萎《しな》びた四本の手がにゅいっと伸びて来て啓太の首に巻きつき、一《いっ》瞬《しゅん》で暗い空間に引きずりこんだ。イソギンチャクが魚を取りこむような動作だった。
涙目。唖《あ》然《ぜん》とした表情のまま、啓太は手を伸ばす。
「きゃあ────! け、ケイタ!」
ようこがとっさに彼の足にしがみついた。間一髪のところで敷《しき》居《い》に踏ん張り、全身でこらえる。引いた。
「ううう〜、な、何をするのよ!?」
「ほほほ、文字通り客引き」
暗がりで不気味に笑う老人。老婆がけたけたと笑った。
「ば、ばかじゃないの!? 寝言言ってないでさっさとケイタを放しなさい!」
「ぐぬぬぬ〜、そっちこそ、小娘が神聖無比な営業活動の邪《じゃ》魔《ま》するでない!」
しかし、それでも中の二人の吸引力は強く、ずるりずるりとようこの身体《からだ》ごと飲みこまれて行く。彼女の握力がとうとう限界を迎え、すぽんと啓太の足が離れた時、
「だあああああああああ──────! やめんか!」
動いたのは啓太だった。彼はきゅうっと身体を捻《ひね》った。綺《き》麗《れい》に身体が沈み、形《けい》意《い》拳《けん》独特の歩法で一、二度、足踏み。ぐんと地面を踏ん張ると、蹴《け》った。その瞬間、爆《ばく》発《はつ》的な力が起こり、さすがの爺《じい》さん婆さんも弾《はじ》かれる。しかし、啓太もただでは済まず、そのまま戸口から地面に転がりこんでしまった。
ごろごろと回って、腹《はら》這《ば》いになったまま動かなくなる。尻《しり》餅《もち》をついたようこ。戸口からにょいと顔を突き出した爺さん婆さんもそれを見て固まっている。しかし、啓太はすぐにむっくりと起き上がり、ズボンに付いた埃《ほこり》を払うと、
「帰る」
一言、それだけ告げた。
「ああ〜〜〜!」
と、ジジババが左右からすがりついて来るのを関《かか》わり合いになりたくないとばかりに闇《やみ》雲《くも》に振り払い、ようこの手を引いて立ち上がらせ、その場から足早に歩き出した。ようこも後ろを気にしながら、彼に従った。
絶対、振り返ってはならない。啓《けい》太《た》の本能が全力でそう叫んでいた。
背後で老人が喚《わめ》く声がした。
「あ───、あいや! お客人、今しばらくお待ちあれ! またれい、またれい! 待たぬか、こら! ここまでついて来ておいて帰るという法はないじゃろう?」
何か言ってる。
「そうじゃそうじゃ。せめて、宿代だけでも置いていけい! さもないと人質がどうなっても知らぬぞ!?」
と、老婆が脅迫するかのように追いすがって来た。ちらりと振り返ると、啓太の麻袋を抱きかかえ、それに包丁を突きつけていた。
啓太は目をつむり、短く命じた。
「ようこ、アレ、頼む」
ようこは、「う、うん」と小さく頷《うなず》き、人差し指を立てた。
「しゅくち」
その一声で瞬《しゅん》時《じ》に老人の腕の中の荷物が、啓太の手に現れた。
「考えてみたら、最初からこうすりゃ良かったんだよな」
啓太は頭をがしがし掻《か》きながら、悔やんだ。そうすれば、何もこんな所まで荷物を追いかけて来る必要がなかった。
麻袋を肩に担ぎ直し、何気なく後を確かめると、老人が呆《ぼう》然《ぜん》と立ち尽くしている。不用意に霊《れい》能《のう》力《りょく》を見せつけたのを少し後悔したが、どうも荷物が瞬間移動した事に驚《おどろ》いている訳ではないらしい。
自分の手の平をじっと見つめ、何やらぶつぶつと小声で呟《つぶや》いていた。
「またじゃ……またなんじゃ。わしらがどれほど、丹精込めてもてなそうとしても若いもんは華美なホテルに流れていってしまう。外観ばかり立派な建物と見せかけだけの料理に、上っ面なサービスのなにが良いというんじゃ」
そこへ、老婆が近寄って来て抱きつく。
「うう、爺《じい》さんや。わしらのような真心のこもった接待はもう古いのかのお」
二人してその場に崩れ落ち、おいおい泣き出した。
「真の温泉文化はもうおしまいじゃあ」
啓太はなんとなく腹が立ってきて、立ち止まった。老夫婦はふうと溜《ため》息《いき》をつき、湿っぽい声で顔を見合わせる。
「首でもくくろうか」
「勝手にくくれ!」
くるりと振り返ってそう怒鳴る啓《けい》太《た》。
「大体、ここは温泉宿どころか宿泊施設でもねえし、サービスしてねえし、パンタグリエルでもなければ、そもそも温泉もねえだろ!」
指を突きつけ、そう宣告した。
老人二人はしばらく押し黙《だま》ったが、すぐに声を揃《そろ》えて号泣する。啓太はバカバカしくなって溜《ため》息《いき》をついた。肩をすくめ、
「いくぞ」
さっさと山を降り始める。ようこはこくりと同意してから、ふと足を止めた。なにやら得《え》体《たい》の知れない視線をまた感じたのだ。
晴れ渡った空と生い茂った木々を見回し、声高らかに泣いている老夫婦を確認したが、そのどこからでもない。
ようこは小さく身《み》震《ぶる》いをした。
なんだか怖くなって来る。彼女は慌てて、啓太を追いかけた。
「ケイタ、だから、置いてかないでってば!」
小さくなって行く啓太とようこの影。老人と老婆はその後ろ姿を見送り、にやりと笑った。二人はいつの間にか、泣き止《や》んでいた。手と手を取り合い、すくっと立ち上がる。それから、なにが可笑《おか》しいのか踊り出した。
「わはははは!」
そのたがの外れた陽性な笑い声が山の静寂に染み渡った。
結局、ホテル・パンタグリエルに辿《たど》り着いたのは日が暮れてからだった。無我夢中で走っていたから気がつかなかったが、あの老人たちの住まう猫《ねこ》屋《や》までの山道は結構、険しく、複雑だった。
散々、迷って疲れ果てた姿の啓太をホテル・パンタグリエルのオーナーは笑顔で出迎えてくれた。
「やあやあ、お待ち申し上げてましたぞ」
えびす顔で、太《たい》鼓《こ》腹《ばら》の福々しい中年だった。
建物の方も、元々はこの地方の大地主の邸宅だったそうで、確かに敷《しき》地《ち》は広い。
オーナーは啓太とようこを南向きで設備の整った「舞《まい》鶴《づる》の間」に上げ、さっそく茶菓で歓待する。
「いやはや、お若いですな」
と、オーナーは自ら啓太にお茶を注ぎながら陽気に笑った。啓太はその対応に少し戸惑いながら礼を述べた。大概の客は啓太の年《とし》恰《かっ》好《こう》を見て、まず胡《う》散《さん》臭《くさ》そうな疑いの目を向けるものなのだ。
「よく言われます。確かに俺《おれ》は若いですが」
と、先手を打って啓《けい》太《た》が説明を試みようとしたら、
「あ、いえいえ。わたしは他人《ひと》様《さま》の外見でその能力を決めつけたりはしませんよ」
オーナーは微笑《ほほえ》みながら鷹《おう》揚《よう》に首を振った。
「わたしはしかるべき所に依頼して、そして、あなたが来た。だから、きっとあなたはお若いのに実力がおありなのでしょう。年《ねん》齢《れい》は関係ありません」
啓太は拍子抜けしたように頷《うなず》いた。
「はあ、そう言って頂けると」
「……それにね」
オーナーは声のトーンを落として、お茶を啜《すす》っている啓太に顔を近づけた。
「ここでは犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いは知る人ぞ知る存在なんですよ」
「へえ」
啓太は素直に感嘆の声を上げた。茶も美味《うま》かったが、何より自分を犬神使いと知っている依頼人には初めて出会ったからだ。
「わたしの叔父《おじ》もそういった類《たぐい》のトラブルに巻きこまれた折、世話になったそうです……なんでもあなた方は、不可視の犬神を使って信じられないようなことをするとか」
オーナーは気味悪そうな、それでいて好奇心を抑え切れない表情で、高い天井や欄《らん》間《ま》の辺《あた》りを見上げた。
「わたしには見えませんが、きっと今もこの部屋で静かに控えてるんでしょうねえ」
「は、はは」
啓太は乾いた笑いを上げる。まさか、その犬神がオーナーの目の前で一心不乱に温泉|饅頭《まんじゅう》を食べているとは言えなかった。ようこははぐはぐと嬉《うれ》しそうに最後の一|欠片《かけら》を飲みこむと、ぐいっとお茶で流しこんだ。
「はあ、おいしかった!」
とんと湯《ゆ》呑《の》みを丸テーブルの上に置いて、満足の吐息をつく。オーナーはちょっと困った顔で啓太の方を見やった。この子は誰《だれ》ですか、と視線で問いかけていた。
啓太は出来る限り無表情に「助手です」と答える。
それから、まだ不思議そうにようこを見ているオーナーに向かって尋ねた。
「それで、依頼の件ですがここの旅館……主に露《ろ》天《てん》風《ぶ》呂《ろ》に正体不明の物の怪《け》が出ている。複数の滞在客がそれを目《もく》撃《げき》している。間違いないですね?」
それは、はけが寄《よ》越《こ》したファイルに記載されていた事だった。オーナーも少し不安そうな表情を浮かべて啓太に向き直る。
「え、ええ」
「外観は?」
「さあ。それがまちまちでして……お客様の中には毛むくじゃらの小さな化け物だったと仰《おっしゃ》る方もいますし、従業員のある者はぶよぶよした肉の塊だったと申しますし、あるいはチャンチャンコだけが暗がりに浮かんでいたとか」
オーナーの要領を得ない話に啓《けい》太《た》は考えこむ。
「えっと、実害は? ……つまり、この場合は物理的な意味での損害ですが」
オーナーはう〜んと、唸《うな》ってから、腕を組んだ。
「それもまちまちなのです。お座《ざ》敷《しき》に用意されていた二十人前のお膳《ぜん》を全部、食べられたこともありますし、ぞっとするような笑い声が一晩中、響《ひび》いたことや、それにどういう訳かその……」
と、言い淀《よど》んで内《ない》緒《しょ》話をするように小さな声で、
「女性の下着だけが大量に、盗まれたこともあります」
そう囁《ささや》いた。
「は、はあ、したぎ……」
「ええ。とにかく、このままでは悪評が立ってお客様が寄りつかなくなってしまいます。今は観光シーズンですし、団体様もたくさん、いらしてます……川《かわ》平《ひら》さん、お願いです。なんとか、退治して頂けないでしょうか?」
オーナーはすがるような視線で啓太を見つめる。
啓太は全くためらわなかった。不敵に目を細め、笑う。
「その点はもちろんですよ。どんな霊《れい》障《しょう》でも問題ありません。俺《おれ》に任せてください」
そう言って、どんと胸を叩《たた》いた。オーナーはほっと安《あん》堵《ど》の溜《ため》息《いき》をついた。
「そうですか。いや、ありがとうございます」
「いえ」
と、啓太は微笑《ほほえ》んで首を振る
「これが俺の役目ですから。人に仇《あだ》為《な》す魑《ち》魅《み》魍《もう》魎《りょう》を祓《はら》うという……道を歩き始めたばかりの半人前ですが、犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いの本《ほん》懐《かい》だけは心得ているつもりです」
合《がっ》掌《しょう》までして、謙《けん》虚《きょ》な態度だ。
ようこは感心したようにその姿を見つめている。
「で、まずその露《ろ》天《てん》風《ぶ》呂《ろ》に行ってみようと思うのですが」
「おお、さっそく、お願いできますか?」
「ええ、ただ……」
ごっほんと咳《せき》払《ばら》いをしてから啓太が告げる。
「あ〜、お願いしたいのは普《ふ》段《だん》通りにして下さい、ということなのです。やはりお客さんがいる状態の方が妖《よう》怪《かい》も出やすいでしょうから、ここは是非、自然にして頂きたい。大丈夫。犬神使いの名にかけて、お客さんの安全は俺が保障します」
「はあはあ」
と、納得がいったような、いかないような顔でオーナーが頷《うなず》く。啓《けい》太《た》はずいっと真剣な顔を突き出した。
「くれぐれもお客さんの入浴を止めたりしないでくださいね」
「あ、はあ、分かりました」
「くれぐれも宜《よろ》しく御願い致します」
そう念を押して、部屋を出て行った。
ようこもそれに続く。彼の横に並んで、廊下を歩きながら、
「ねえ、わたしが人前で力、使うのはまずいんじゃないの? お客さんがいたら困らない?」
と、小首を傾《かし》げる。啓太は軽《けい》蔑《べつ》しきったように鼻を鳴らした。
「……お前、このホテルの案内書を読まなかったのか?」
「うん」
「そうか……なら、教えてやろう」
もったいぶって啓太。途《と》端《たん》に大きく手を振るった。
「なんと、ここの露《ろ》天《てん》風《ぶ》呂《ろ》は混浴なのだ!」
「へ?」
「だからあ、こ・ん・よ・く。知らんのか? 男と女が裸で一緒にお風呂に入ることだ。さっき見た限りでは女子大生の団体さんがいたからな、風呂場で張ってりゃ、もしかして……うひ……お近づきになれるかもな! あひゃひゃひゃ」
「……なるほどね」
ようこは、はあと疲れたような溜《ため》息《いき》をついた。足を止め、とんとんと上《じょう》機《き》嫌《げん》に歩いて行く啓太の背中をじっと見つめ、呟《つぶや》く。
「そんなに他《ほか》の女の子の裸が見たいの……」
恨めしげな、じんわりとした笑みだった。
「でも、そう簡単にはさせないんだから」
「ん? どうした? なんか言ったか?」
だらしなく緩《ゆる》んだ顔で振り返った啓太。ようこはにっこり微笑《ほほえ》むと、
「ううん。なんでもない。さ、温泉、いこいこ♪」
軽やかに走り寄って、彼の腕に自分の腕を絡ませた。
露天風呂は豪《ごう》奢《しゃ》な物だった。啓太はとりあえず服を脱がず、岩場に隠れるようにして張りこんだ。啓太|曰《いわ》く、気《け》配《はい》を断って物の怪《け》を誘い出す、との事だったが、その姿はどこからどう見てもただの覗《のぞ》きだった。
ようこは白い目でその様《よう》子《す》を後ろから眺めていた。
結局、何も出て来なかった。やたらに肥満した男が三人(話を聞いた限りでは恐らく大学の相撲部)、いなせな老人が二人、小学生が一人で、女性も一人……入って来たがその小学生の母親らしい恰《かっ》幅《ぷく》のいい中年女性。
しかも、しっかりと湯着を身につけていた。
少なからずがっかりした様《よう》子《す》で部屋に引き上げた啓《けい》太《た》を待っていたのは心づくしの夕《ゆう》餉《げ》だった。ホテルのオーナーが特に用意した地方色に富んだ珍味の数々である。
松《まつ》茸《たけ》の土《ど》瓶《びん》蒸《む》し、いのししのボタン鍋《なべ》、山莱の和《あ》え物、尾に化粧塩を振った岩《いわ》魚《な》の焼き物などなど。落ち着いた色合いの絵皿に盛られ、品良く並べられている。啓太とようこは遠《えん》慮《りょ》なく平らげ、白米も三杯、お代わりした。
そして、その後、夜も更《ふ》けてから再び、彼らは露《ろ》天《てん》風《ぶ》呂《ろ》に出た。今度は二人とも服を脱いで、温泉に浸かって、時を待った。
二人で他愛もない話をしている。ふとその時、啓太の目が鋭《するど》くなった。
「ようこ、姿を消せ!」
耳をそばだて、ようこを手で抑える。
「え?」
「いいから、早くしろ!」
殺気だった言い方。ようこは慌てて不可視の姿になった。ほとんど間をおかず、華やいだ笑い声が聞こえ、年若い女性が四人、岩場の陰から現れた。
大学生くらいだろう。啓太を見て、一《いっ》瞬《しゅん》、立ち止まったがすぐににっこりと会釈して湯の中に入って来た。啓太も表面、何気なく挨《あい》拶《さつ》を返す。しかし、濁《にご》った水面下では渾《こん》身《しん》のガッツポーズをとっていた。
彼女たちは揃《そろ》いも揃って美人だった。
湯着を着ているとはいえ、身体《からだ》の線がはっきりと分かった。
だから、そのうちの一人が、「君、一人なの?」と、声をかけてきた時はにやけた顔を取り繕《つくろ》うのに精一杯だった。
「ええ」と、答え「お姉さんたちは旅行ですか?」と、尋ねる。彼女たちは何が可笑《おか》しいのかくすくす笑いながら、自分たちが東京の女子大生で仲の良い友だち同士、温泉にやって来たのだと説明した。
啓太も愛想よく受け答えして、話が弾む。
談笑の和気あいあいとした雰囲気が彼らを包んだ。
たった一人、ようこを除いて。
最初、彼女は釈《しゃく》然《ぜん》としない表情で、啓太の後姿を見つめていた。そのうち、これはどうも可笑しいな、と気がついて啓太の耳元で囁いた。
(ねえ、ねえ、ケイタ)
啓《けい》太《た》にしか聞こえない声である。しかし、彼は振り向かない。視線はさっきからお姉さんたちに釘づけのまま。ようこはむっとしてその耳を摘《つま》み、
(ねえってば! これじゃ、わたしが姿を消してる意味がないじゃない?)
そう問い詰めた。実際、ようこがいるのはオーナーも承知していることなのだから、尻尾《しっぽ》を消して、人間のふりをすれば済む事である。
姿まで見えなくする必然性はどこにも無い。
だが、啓太は何気ない動作でようこの手を払うと、空気のように彼女を無視して、女子大生の一人に冗談を述べる。どっと一座が盛り上がった。
「君、もてそうだもん。彼女、いるんでしょ?」
「いやだなあ。俺《おれ》、女っけなんてゼロですから。ゼロ」
そんな事を言っている。徐々にようこの身体《からだ》が震《ふる》え始めた。
「あ、じゃあ、わたし立候補しちゃおうかな?」
「どうぞ、どうぞ。お姉さんみたいな美人だったら、もう大歓迎ですよ」
あんな事も言ってる。
ようこの堪《かん》忍《にん》袋《ぶくろ》の緒《お》がぎりぎりと伸びる。
そして、それは、
「え、俺の携帯ですか? 教えてもよいですけど、ちゃんと電話下さいよお」
その甘ったれた一声でぶちりと切れた。
(ケイタの)
ふわっと彼女の髪が逆立つ。「ばかあ」と叫びざま、岩をしゅくちして、ぶつけてやろうと人差し指を立てた。しかし、啓太の弛《し》緩《かん》しきった顔を見つめ、思い直す。そんな事では物足りない。腹の虫がおさまらない。
この男には、自分を蔑《ないがし》ろにするとどうなるかよく教えてやる必要がある。ようこの顔に冷たい笑みが浮かんだ。
彼女は静かに囁《ささや》く。
「覚えてなさいね」
その声だけがはっきりと肉声で聞こえ、次の瞬《しゅん》間《かん》、彼女はその場からかき消えた。啓太は湯の中にいるというのに、うなじの毛がぞぞっと逆立つのを感じた。
慌てて周囲を見回す。しかし、ようこはもういない。
「どうしたの?」と、女子大生の一人に怪訝《けげん》そうに尋ねられ、曖《あい》昧《まい》に誤《ご》魔《ま》化《か》しながら、彼はこれから起こる何かを覚悟して身体を強《こわ》張《ば》らせた。さすがに、調子に乗り過ぎた。そう後悔しながら、身構える。
が。
何も起こらない。いつまで待っても何もない。
なんだ。
ようこも大分、躾《しつけ》が効いて来たのだな。彼はほっと安《あん》堵《ど》して、再び、女子大生と歓談に興《きょう》じた。啓《けい》太《た》がようこの執念深さを思い知るのは、それからしばらく経《た》っての事だった。充分に温まったし、さて、そろそろ出ようかという時。
啓太は彼女たちから部屋に誘われた。もちろん、二つ返事で承《しょう》諾《だく》する。共に温泉から出ようと立ち上がりかけた彼は、何かに気がついて、慌てて腰から下を水面に沈めた。
「あ、俺《おれ》、やっぱりもう少し、温泉、浸かってますから。後で必ず行きますよ」
そう照れ笑いしながら、釈明する。女子大生たちは特に疑う事もなく、「じゃあ、待ってるね」と笑顔で手を振り、温泉を出て行った。
啓太は彼女たちの後ろ姿を見送って、ふうと額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》う。いい加減、長く入り過ぎて逆上《のぼ》せ気味だった。
しかし、このまま彼女たちの前に出るわけには絶対いかない。
「陰険な奴《やつ》だぜ。全く」
と、ぶつぶつ呟《つぶや》く。彼は股《こ》間《かん》に手を当て、慎重に辺《あた》りを見回してから岩場に這《は》い上がった。啓太はいつの間にか素っ裸になっていた。
文字通り、何一つ身につけていない。ようこが彼の湯着と手拭いを転送して、どこかに放り捨てたのである。それに危いところで気がついて良かった。あのままだったら、局部をもろにご開帳してしまうところだった。
「不幸中の幸いは夜も遅いということだな」
見た限り、人が来る様子もない。彼はここから一気に脱衣所まで走るつもりだった。そこに着替えは置いてある。頃《ころ》合《あい》を見計り、月が雲の幕間に隠れた一《いっ》瞬《しゅん》、啓太は全力で石の階段を駆け上がった。
たんたんたんと揺らす物を揺らしながら、がらりと引き戸を開けて、中に飛びこむ。すかさず後を閉めて、彼ははあ、と溜《ため》息《いき》をついた。肉体的にというより精神的に疲れた。自分の服を入れておいた籠《かご》にふらつきながら近寄る。
そして、青ざめた。
そこには、「べー」
と、一言、書かれた紙切れが一枚、置いてあっただけだった。
「あ、あの」
啓太は震《ふる》える手でその紙を掴《つか》み、
「くそいぬうう────────!」
思いっ切り、天に向かって吠《ほ》えた。
ホテルの屋上。その縁《ふち》に座って、ようこはくすくす笑いながら様子を眺めていた。身を乗り出すようにして、啓《けい》太《た》の狼《ろう》狽《ばい》ぶりをじっくりと鑑《かん》賞《しょう》する。
まだまだお楽しみはこれからだった。
月光に照らされた怜《れい》悧《り》な美《び》貌《ぼう》。残酷な笑み。
ようこは啓太が困る姿を見るのが大好きだった。彼の怒る顔、暴れる時の表情、一つ一つが彼女を嬉《うれ》しくさせた。
さっきまでは自分を差し置いてでれでれしていた啓太に腹を立てていたが、今はそんなことなどどうでもよかった。もっともっと啓太の苦しむ姿が見たかった。彼女のどうしようもない本性の部分がそう感じさせている。
だが、ようこはその事に気がついていない。
ただ、小屋の中からなかなか出て来ようとしない啓太を、今か今かと待ち続けている。
ふと。
その時、ようこは視線を感じた。
「誰《だれ》?」
それはこの地に降り立った時から気がついていたものだった。今、遮る物がなにも無い場所で特にはっきりと感じられる。
なんだろう?
これは。
「誰よ! 出てきなさいよ!」
ようこは辺りをきょろきょろと見回し、叫んだ。少し薄《うす》気味悪く思いながら、虚勢を張る。しんと静まり返った空。
給水塔、物干し台、ベンチ。それくらいしか無い。群《むら》雲《くも》が月を隠す。ようこが再び怒鳴ろうとしたその瞬《しゅん》間《かん》。
ぽんと何かが実体化する音がした。
雲が流れ、再び、辺りに光が満ち。
その姿を見たようこは、びっくりしたように息を呑《の》んだ。
「あんた……なんなの?」
同時刻。川《かわ》平《ひら》啓太はホテル・パンタグリエルの二階と三階の間にいた。建物の外。こまかい突起物を捕らえながら、慎重に慎重に壁《かべ》を攀《よ》じ登って行く。ロッククライミングの要領で遥《はる》か四階を目指す。
素っ裸。冷たい月の光が照らし出す、ストリーキング男首輪付き。
紛れもない変態であった。
しかも急所が壁《へき》面《めん》のざらざらに擦《こす》れて痛い。たまらなく痛い。さらに寒い。たまらなく寒い。秋の夜も更《ふ》け、風がひたすら身に染みる。先程などはクシャミをして危く転落しかけた。腕一本で雨どいに辛うじてぶら下がる。
こんな所で死んだら絶対、葬式出して貰《もら》えない!
啓《けい》太《た》はその想《おも》いだけで必死に身体《からだ》を引き上げ、登《とう》攀《はん》を再開した。
ようこはご丁寧に脱衣所にあるタオル、湯着、籠《かご》の類《たぐい》を全《すべ》て放り捨てていた。最初、啓太は従業員か他《ほか》の客を待って、何か衣類を持って来て貰おうと待った。
だが、営業時刻を過ぎたのか、誰《だれ》も来ない。
そこで悩みに悩んだ末、裸のまま自分の部屋まで戻ろうと決心したのだ。幸いというかなんと言うか、与えられた「舞《まい》鶴《づる》の間」は温泉側に面している。上手《うま》くやれば誰にも見《み》咎《とが》められずに済むだろう。
そう願いたい。心の底から。
ひたひたと壁《かべ》まで走り寄って、昇り始めた。
宿泊客のいる窓には近づかないよう細心の注意を払う。寿命の縮《ちぢ》むような思いを味わい、啓太はとうとう自分の部屋の窓枠に辿《たど》り着いた。閉められてしまったかと一《いっ》瞬《しゅん》、冷や汗を掻《か》いたが、記《き》憶《おく》通り、鍵《かぎ》はかかってなかった。
がらりと窓ガラスを開き。
ぐっと力を込め、懸《けん》垂《すい》の要領で部屋の中に転がりこむ。
そのまま、荒い息を吐きながら大の字になった。さすがにきつかった。目をつむり、呼吸を整える。ふと、その時、啓太は違和感を感じた。
部屋の電気は消えている。
月明かりだけが射《さ》しこんで来る。
その中で……。
自分以外の誰かがひっそりと息づいている。ようこではない。尋常ならざる存在。啓太は意識をすっと集中させた。表情が消え、怖いくらい目つきが鋭《するど》くなる。何者かの気《け》配《はい》を探りながら、腰元に手をやった。
そこに蛙《かえる》の消しゴムを入れたビニール袋を紐《ひも》で括《くく》りつけていたのだが。
ちっと心の中で舌打ちをした。
それもようこに捨てられていた。仕方ない。彼は傍らにあった座布団をぎゅっと手に持った。次善の策だ。
相手は近づいて来ている。
こちらが気がついている事に気がついている。緊《きん》張《ちょう》が高まる。濃《のう》密《みつ》な意識のせめぎ合い。これが噂《うわさ》の妖《よう》怪《かい》か?
啓太はそっと身体を起こし、
「姿を現しやがれ! 妖怪!」
叫びざま、相手の居所目がけて飛びかかった。流れるような動作である。鍛《きた》え抜かれた右|拳《こぶし》が畳を打ちつけ、一《いっ》瞬《しゅん》で陥没させる。だが、僅《きん》差《さ》でそこにいた何かを仕留めそこなった。黒い塊。啓《けい》太《た》が視界の端で捉《とら》えたのはそれだった。
獣《けもの》のように跳《ちょう》躍《やく》し。
天井を蹴《け》って。
啓太にぶつかって来る。
「ち!」
左手に持っていた座布団で攻《こう》撃《げき》を受けた。衝《しょう》撃《げき》。かなりのものだった。受け流し切れず、たたらを踏み、啓太はとっさに近くの魔《ま》法《ほう》瓶を掴《つか》んだ。
態勢を整えざま、ぶん回すようにして、それを投げつける。
「くらえ!」
お湯を撒《ま》き散らしながら、魔法瓶はずぼっと襖《ふすま》を突き抜けた。黒い塊は降りかかった熱湯の幕ごと信じられない速度で避《よ》けた。
しかし、逃げ場のない空中。啓太は見逃さなかった。
「でえ────い!」
畳を蹴り、身体《からだ》を宙で半回転させる。鞭《むち》のようにしなった右足が綺《き》麗《れい》な弧を描く。遠心力を思いっ切りつけたその一撃は、確かに黒い塊を捉《とら》えたかに見えた。
だが、それは入り身のようにかわされ。
カウンター気味の一発が。
「けえ──────!」
奇声と共に啓太の顎《あご》に入った。すこーんと音がして、彼の身体が見事に逆回転する。足から吹き飛ばされるような華《か》麗《れい》な一撃だった。
「ぐ!」
たまらず啓太はもんどりうつ。ごんごろんごろんと畳を転がる。壁《かべ》に打ちつけられ、朦《もう》朧《ろう》とする視界の中でその黒い塊がフスマに空いた穴から飛び出すのが見えた。
啓太はよろよろと起き上がった。
「ま、待ちやがれ!」
ここで逃がす訳にはいかない。フスマを蹴倒しながら、廊下に飛び出る。遥《はる》か前方で先程の影が角を曲がっていた。啓太はダッシュをかけた。滑りやすい床で柱を掴み、ブレーキをかけながら、コーナリング。
相手に追いすがる。
敵はその先の階段だ。ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、降りて行く。啓太もすぐに、二段飛ばしで駆け下りた。四階から一気に一階まで。
大体、分かって来た。
あの黒い塊りは、間違いなく。アレ。あいつだ。
「絶対、正体、暴いてやる!」
そこで奥の部屋から黄色い光が漏れている事に気がつく。
悲鳴のような声が聞こえた。
啓《けい》太《た》の脳裏に最悪のシナリオが描かれる。
「どうしました!?」
転がりこむようにしてその部屋に入った。
先刻、露《ろ》天《てん》風《ぶ》呂《ろ》で出会った女子大生のカルテットがトランプをしていた。みな、唖《あ》然《ぜん》としてこちらを見つめている。
啓太は、息を切らしながら、
「今、ここに怪しい奴《やつ》、来ませんでしたか?」
怒鳴るようにしてそう尋ねた。そして、ふと気がついた。彼女たちの様《よう》子《す》が変だ。まるで変質者でも見るような目。一点に集中した視線。
「あ、あれ?」
自分の身体《からだ》を見下ろして、悟る。当たり前だ。一番、怪しいのは自分なのだから。よく考えたら、彼は素っ裸のままだった。
啓太の顔がみるみる青ざめる。
「あ、いや、あの……これはその」
と、彼が哀れっぼく手を振ったその時である。
四人のうら若い乙女が一斉に、悲嶋を上げた。
「あはは〜、兄ちゃん。こんな温泉まで来て、ストリーキングか。つっくづっく、好きなんだなあ」
と、いつぞや留置場で出会った酔っ払いが啓太の頭をぽくぼく叩《たた》いた。およそ最悪の再会だった。啓太はぐっと唇を噛み、頭を抱える。
なんで俺《おれ》の人生、こうなのだろう?
涙が出そうになる。彼は駆けつけた初老の巡査に連行されて、鉄格子の中に入っていた。オーナーは弁《べん》護《ご》をしてくれたが、始末の悪い事に女子大生の一人が直接一一〇番してしまったのだ。
前科を照会したら、見事に同じ事をやっている。言い逃れもきかなくなる。さすがに三度目だから。
とにかく頭を冷やすようにとここで一晩、過ごすごとを申し渡された。
「だはは、兄ちゃん。人生、捨てたか?」
その一言で啓太の何かがぶつんと切れた。
彼は酔っ払いの頭を抱えると、
「だああ─────! てめえだって、家族サービスに来たのに、酔っ払ってまた、とっ捕まってるんだろうがよおお────!」
そのまま、ヘッドロックしてがんがんと自分の頭を彼の額《ひたい》に打ちつけた。きゅうと酔っ払いが目を回す。啓《けい》太《た》は荒い息をついて、寝台の上に腰を降ろした。
「もう、いや」
今度こそ、本当につつっと涙をこぼし、乙女《おとめ》のように手で枕《まくら》をして横たわる。せっかく、あのホテルに出没していた妖《よう》怪《かい》の正体を掴《つか》んだのにこの様《ざま》だ。
と、その時である。
ふわっと辺《あた》りの空気が光を帯びて、弾《はじ》けるような音と共にようこが実体化した。
「あ、ケイタ、ここにいたんだ、捜したよ!」
邪気のない、本当に自分が何をしでかしたのか分からないような口調で、ようこは近づいて来る。
「て、てめえ!」
と、啓太は立ち上がりかけたが、
「な、なに?」
きょとんとした表情のようこを見て、思い直した。力なく首を振り、腰を落とす。
こいつには幾ら言ってもダメだ。
「……なんでもない」
弱々しくそう呟《つぶや》き、汗臭い匂《にお》いのする毛布を引っ被《かぶ》ると、ようこに背を向ける形でごろりと寝ころがる。染みの浮いた壁《かべ》を見つめながら一言、
「お前のことは、もう諦《あきら》めたよ……俺《おれ》」
哀《かな》しげな、弱々しい声で呟く。そうして目をつぶる。ようこは少し困ったように啓太の隣《となり》に腰を降ろし、彼の身体《からだ》を揺すった。
「ねえ、ケイタ、もしかして怒ってるの?」
しかし、啓太は答えない。露《ろ》骨《こつ》に大きな溜《ため》息《いき》を一つついて、小さく丸まる。ようこの声が次第に焦りを帯びていった。
「あう。ごめん、ケイタ、ごめん。そんなに怒るとは思ってなかったの」
「ふう。いいんだ……もういいんだよ」
「あ〜う。わたし、止められなくなっちゃうのよお。ごめんなさあ〜い」
なんだか泣いているようなそんな調子。啓太は片目だけぱちりと開けて、驚《おどろ》いていた。実はもちろん、そんなに落ちこんでいる訳ではない。自分だってようこを騙《だま》して追い払ったのだからお互い様だと思ってる。
今、こうして拗《す》ねているのはただのポーズだった。
「うう〜。ケイタってばあ」
なのに予想外にようこには効いている。そういえば、彼女は異常に残酷で大人《おとな》びる時と、こうして幼い少女のように無心に振る舞う時がある。どうやら今は少女の時らしい。ならば、もう少し反省させてやるかと啓《けい》太《た》がにんまりした途《と》端《たん》。
ばふん。
顔に何か毛むくじゃらな物が乗っかった。それが……。
「ケイタってばああ───────!」
猛烈な勢いで左右に動き始めた。ようこが自分の尻尾《しっぽ》を擦《こす》りつけて来てるのだと気がついて、啓太はたまらず飛び起きる。
「て、てめえ!」
「あ、起きた」
「な、な、なんてことをしやくしゅんだ! ………………って、あり?」
「大丈夫? お風邪《かぜ》?」
「犬アレルギーだへっくしゅん!」
「あはは、ケイタのくしゃみって可愛《かわい》いね♪」
「なにを呑《のん》気《き》な! 毛が鼻の穴に入ってくっしょん!」
「あのね、まじめに聞いてね。あのホテルに出る妖《よう》怪《かい》と知り合ったの。だから、その人に会うだけ会って欲しいの」
その一言が聞き捨てならなくて、啓太はずずっと盛大に鼻水を啜《すす》ってから、
「なに!?」
ようこはにこにこしながら、牢《ろう》屋《や》の片隅を指差す。
啓太はそちらに視線を向け。
ぽか〜んと口を開けた。
「おまえ……なんなの?」
「初めまして」
と、そこにいた何かが帽子をとって、折り目正しく挨《あい》拶《さつ》してきた。啓太は、「ああ」と曖《あい》昧《まい》な表情で頷《うなず》く。
「僕、渡り猫《ねこ》の留《とめ》吉《きち》と言います。以後、宜《よろ》しくお願いしますね、啓太さん」
そう、何かが言う。綺《き》麗《れい》な声だ。
「なに、猫だって?」
啓太は困惑した顔のまま、ようこを見た。
ようこはにこにこしながら、
「だから、渡り猫のトメキチだよ、ケイタ」
と、何事でもないように答える。彼女は細い指先で差し示しながら言った。
「ほら、猫《ねこ》じゃない」
「いや、確かに猫だけどさ」
確かにそれは猫だった。ただし、普通の猫は空色のマントも羽《は》織《お》ってなければ、三日月型の胸飾りも身につけてはいない。しかも、二本足で立ってもいない。要するに、普通の猫じゃなかった。
大正ロマンな格好をしているのだ。三《み》毛《け》猫《ねこ》が。
おまけに尻尾《しっぽ》が二本あった。
「……つまりは、猫《ねこ》又《また》か?」
啓《けい》太《た》は眉《み》間《けん》の辺りを揉《も》みながらそう言った。
「いえいえ。渡り猫です」
「だから、渡り猫だってば」
と、人《じん》妖《よう》が二名、声を揃《そろ》えて訂正する。啓太は一《いっ》瞬《しゅん》、何か言いかけて首を振った。この世界、細かい事に拘《こだわ》っているようではやっていけないのだ、実際。
すぐに思考を切り替えて、その留《とめ》吉《きち》なる猫又に向かって尋ねる。
「で、お前、なんなんだ?」
「はい。渡り猫は渡りをします」
「ずっと旅してるんだってさ」
と、ようこが補足を入れる。留《とめ》吉《きち》はようこの言葉に頷《うなず》き、とてとてと啓《けい》太《た》に近寄ると、少しつま先立ちになって彼の太《ふと》股《もも》に前足(肉球)をかけた。
大きさは普通の猫《ねこ》と大して変わりない。
「実は僕、啓太さんにお願いがあってきました」
そう言って話し始めた留吉の話は極めて訳が分からなかった。
「要するになんだ……なに〜?」
啓太が困惑したように眉《まゆ》根《ね》を寄せる。一応、聞いてはいたのだが今ひとつ、飲みこめない。確認を取るように指を一本、立てた。
「ぶつぞー、がどうしたって?」
「探しています」
「全国を回って?」
「ええ。渡り猫はそうして生きているのです」
ん〜?
と、啓太は腕を組んだ。
「なんで、猫がそんな地方回りの骨《こっ》董《とう》屋みたいな真似《まね》をしているんだ?」
留吉はこほんと咳《せき》払《ばら》いをした。
「これは人間のあなたに申し上げてもご理解頂けないでしょう。ですが、渡り猫というのはそうした使命を帯びた猫なのです」
「使命……なのか?」
「ええ、語れば長いお話なのですが」
「かいつまんでくれよ」
「はい。え〜と、江《え》戸《ど》中期までとある寺に百八体の仏像が保管されておりました。和尚《おしょう》は代々、法《ほう》力《りき》に優れた人格者で、その仏像は何事にも代え難い至宝でした」
「はは」
と、啓太は笑った。
「仏像でも高いものは高いんだよな」
留吉は微笑《ほほえ》む。物の価値が分からない人間への寛容の目つきだった。それから、もう一度、こほんと咳払いをして、
「ところがふとしたことからこれが散逸いたしてしまいました。その後、異変が起こり、寺は減び……和尚は死ぬ間際、失った仏像のことをとても気に病んでおられました。我々の祖先は和尚にとても可愛《かわい》がって貰《もら》っていました。だから、先祖は決めたのです。ここで恩返しをしなければ猫が廃《すた》る。ここでやらなければなんのための猫か分からない。一度、そう決意した先祖は修行を積み、こうして二本の尻尾《しっぽ》を持つ渡り猫となりました。亡くなった和尚の代わりに全国に散らばった仏像を回収するために」
留《とめ》吉《きち》はきゅっと前足を握った。
「喩《たと》え、どれだけ時間がかかろうとも、です」
「ふ〜ん。化け猫《ねこ》なのに随分と律《りち》儀《ぎ》なんだな」
感心したように啓《けい》太《た》。
「いい猫だよね。いい話だ」
と、にこにこしながらようこ。留吉は照れたようにちょっとうつむいた。
「当然ですから」
「で」
と、啓太。
「その一つがここら近辺に埋まってるって言ったな」
「ええ。それを僕は最近、古い文献から知りました。啓太さんたちが泊まっていたホテルの元の持ち主が金にあかせて仏像を手に入れて、自分の財産と一緒にここら一帯のどこかに埋めたのです。ただ残念ながら手に入れた文献が半分だったために正確な場所までは特定できなくて……それで、ずっとずっとホテルやこの山の周りを内偵していたんです」
「な〜る……ほど」
啓太は頭をぽりぽりと掻《か》いた。
「大体、分かったよ。要するにお前はようこのしゅくちが欲しいんだろ?」
「ご明察恐れ入ります」
猫は神妙に頭を下げた。
「残念ながら僕の手は穴を掘るのにはあまり向いてません。だから、ようこさんを見つけて、手伝って頂けたらと思ったのです……地中深く埋まった仏像を的確に引き抜けるのはようこさんだけです。お願いです、啓太さん。御礼はさせて頂くつもりです。是非、お力を貸して頂けないでしょうか?」
つぶらな瞳《ひとみ》で啓太を見上げる留吉。啓太は少し困惑した。
「まあ、それは別にいいけどよ。大体、なんで俺《おれ》に聞くんだ? ようこに頼んで勝手にとって貰《もら》えばいいじゃねえか」
そう言ったら留吉がにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「僕もそう思いましたよ。でも」
ちらりとようこを見る。
「わたしはいちお〜、ケイタの犬《いぬ》神《かみ》だから=Aまず、主人を通してくれとそう仰《おっしゃ》いましたので。まあ、それも正論かなと思いまして、こうして啓太さんにお目にかかりに参った次第なのです……よい犬神さんですね」
「ほう」
啓太は感心したような声を出した。ようこを見ると、彼女は誉《ほ》めて誉めてという顔をして、身体《からだ》をこちらに預けてくる。
「えらいぞ」
そう言って、ようこの髪をくしゃくしゃ撫《な》でてやった。
ようこは気持ち良さそうに目を細めた。こういうとこ、妙に可愛《かわい》いよなと思いながら、啓《けい》太《た》は留《とめ》吉《きち》に背を向けたまま、
ところでさ。
と、何気ない声で問う。
「お前、女の下着、好きか?」
「……」
その唐突な質問に留吉は目を白黒させた。
啓太は振り返って、にやりとする。
「留吉。お前の仕事、手伝ってやっても良いけどよ。その前にちと付き合えや」
「だからだ、結局、妖《よう》怪《かい》は二組、いたんだよ」
と、啓太は道を塞《ふさ》ぐ形で転がっていた岩を軽々と飛び越え、そう説明した。いかに月夜とはいえ、薄《うす》暗《ぐら》い山道をかなりの速度で駆けて、彼は躊躇《ためら》う事がない。その隣《となり》にようこがいて、音もなく滑空している。
その漆《しっ》黒《こく》の髪が銀光に照らされ、さあっと後に流れた。
彼女はついでに留吉を抱っこしていた。
三人とも、ようこのしゅくちで警《けい》察《さつ》署から脱出して来たのだ。
「まあ、ホテルの営業を妨害していたのは留吉じゃない方だがな。裸の俺《おれ》に襲《おそ》いかかって来たのもそっちだ」
啓太の話を聞いて、ようこが小首を傾《かし》げる。
「そっちって?」
「だあ、呑《の》みこみ悪いな。要するに、あそこの崖の上にいた、猫《ねこ》屋《や》のじじいだよ! あいつが妖怪の正体なんだよ!」
「へ? そうなの? でも、なんで?」
「知るか! それをこれから締《し》め上げて吐かせてやる!」
啓太が疾走しながら、垂れ下がっていた枝を煩《わずら》わしげに裏《うら》拳《けん》で払った。ようこの胸元で行《ぎょう》儀《ぎ》良くかしこまっていた留吉がぽつりと呟《つぶや》く。
「そうでしたか……あの、ホテルで度々、見かけたのはあの方だったのですね。あんまり凄《すさ》まじい身のこなしなので、目の錯《さっ》覚《かく》かと疑っていたのですが」
「……気持ち、よく分かるぞ。実際、本当に人間かどうかも怪しいからな……ま、それもあそこに行けば、全《すべ》て分かることだが」
と、啓《けい》太《た》は彼方《かなた》にぽつんと灯《とも》った明かりを指差した。どうやら目的地に着いたようだ。一行は申し合わせたように足音を殺す。中腰で近づいて行った。
扉の前で聞き耳を立て、タイミングを見計らって、啓太が引き戸を開け放った。
「観念しろ、くそじじい!」
そう叫んで、彼は果敢に飛びこんで行く。
だが……
「誰《だれ》もいないね」
ぽつりとようこが呟《つぶや》いた。確かに部屋の中には誰もいなかった。ただ、囲《い》炉《ろ》裏《り》端《ばた》で自《じ》在《ざい》鉤《かぎ》に吊《つ》るされた鍋《なべ》がぐつぐつ煮立っているだけだった。
「この様《よう》子《す》じゃ、そう遠くへは行ってねえな……」
土足でずかずかと上がりこみながら、啓太が言う。ようこは留《とめ》吉《きち》を抱っこしながら、ふんふんと鼻を鳴らし、押入れらしき場所に歩み寄った。両手が塞《ふさ》がっているようこの代わりに、留吉が前足でちょいっとそこを開ける。
二人の目が丸くなった。
「ケイタ!」
驚《おどろ》いたようなようこの声に、啓太が振り返った。
「なんだ?」
そうして、近寄って肩越しに覗《のぞ》きこみ、彼も絶句する。そこには大量の女物の下着が散乱していた。それだけではない。様々なホテルの備品や、浴衣《ゆかた》、缶ジュースなどが押入れから大量に転がり出て来た。
さらに古びた地図。留吉はそれを興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに取り上げた。
「……どうやら、間違いないな」
と、シリアスな顔でピンク色のブラジャーを握り締《し》める啓太。そこへ、けたたましい声が響《ひび》いた。
「あ────! 貴様、ひとんちでなにやってるんじゃ!」
見れば、戸口の所に例のジジババが立って、こちらを指差していた。二人ともどういう訳か全身泥だらけで、肩にスコップなんかを担いでる。
二人は啓太の周りをぐるぐる回り出した。
「人がちと留守にすれば、勝手に上がりこんでさては貴様、物取りだったんじゃな! 全く油断も隙《ずき》もないわい!」
「おおお、怖い怖い。やっぱり、門構えが立派過ぎたんだよお」
「年寄りの二人暮らしじゃ。せきゅりてぃーには気を配るべきだったの」
「ああ、爺《じい》さんや。最近の若いものは怖いねえ。乱暴されないかねえ」
「婆さん、逃げるんじゃ! 強盗が居直って、その家の奥さんにいやらしい振る舞いに出るということがある」
「あるか!」
我慢できなくなって、啓《けい》太《た》が叫んだ。
「大体、てめえらがそもそも泥《どろ》棒《ぼう》じゃねえか! このホテル・パンタグリエルから盗んだ証拠品の数々」
きらんと目を光らせ、
「あ、まさか、忘れたとは言わせねえぜ!」
歌《か》舞《ぶ》伎《き》役者のように大きく見《み》得《え》を切ると、ブラジャーを突きつける。
それで、両者はぴたりと動きを止めた。啓太はなおもブラジャーをぐぐっと近づける。爺《じい》さんと婆さんは互いに反対方向に視線を逸《そ》らし、そして、耐え切れなくなったかのようにがっくりと膝《ひざ》を突いた。
落ちた。
「ふ」
啓太は勝利の微笑を浮かべ、服のえりを直した。
「ま、営業妨害や私有地の侵犯、それに窃盗だ。しばらく、臭い飯でも食べてくるんだな」
そう言って散乱した下着をかき集め、呆《あき》れたように呟《つぶや》く。
「しかし、これは嫌《いや》がらせにしてもやり過ぎだろう。何で、下着なんだ?」
すると、爺さんの方がぽつりと、
「婆さんへのプレゼントじゃ」
婆さんがぽっと頬《ほお》を染める。啓太は石化した。爺さんは神妙に顔を伏せ、疲れたように溜《ため》息《いき》をついた。
「わしらはの」
と、喋《しゃべ》り出す。
「本当はあそこのホテルやこの山、全体の所有者だったんじゃ」
「あに?」
と、意外な話の成り行きに啓太。
婆さんがヨヨヨと顔を覆《おお》って泣き出す。爺さんはまるで憑《つ》き物が落ちたかのように寂しげな表情を浮かべていた。
「あそこのホテルに元々あった旅館で、手堅く経営をしておったんじゃよ。ところがの、悪い奴《やつ》に騙《だま》され、身代を全部巻き上げられてしまったんじゃ」
「そ、それはあのオーナーか? そんな悪い人には見えなかったぞ?」
「違う。あやつは買い受けた……いや、買い受けたのを継いだだけじゃ。わしらを騙した奴はとうに逃げてしまっておるわい。だが、あのホテルの繁《はん》盛《じょう》ぶりを見ているとそれが悔しくて、妬《ねた》ましくて、悪いこととは思っても、ついつい邪《じゃ》魔《ま》せずにはおれなかったんじゃ」
「……」
「わしらに残されたのはこの猫《ねこ》の額《ひたい》のような土地と」
爺《じい》さんは「だから、猫《ねこ》屋《や》なんじゃ」と少し自《じ》嘲《ちょう》気味につけ加え、「それから、一枚の地図じゃった」
「地図?」
「ああ。わしらの先祖はこの地方でも有数の大地主での。金銀財宝を埋めた場所を記したものなんじゃ。ただ、それを読み解く本の方がなくなっていての。漠然とこの辺《あた》りとは分かるんじゃが」
「……だから、あちらこちらに穴を掘りまくってた訳か?」
爺さんはこくりと頷《うなず》き、また溜《ため》息《いき》をついた。
「だが、いくらやっても見つからん。もう疲れたわい」
そうして優しく婆さんを抱き締《し》める。婆さんも声を殺して泣く。そうしていると二人の姿は年相応に弱々しく見えた。
啓太はしんみりとした。そうか。そういう事情だったのか。
啓太は育ちから来るのか、老人に対しては常に親近感を抱いていた。敬老精神はないが、老人に暴力を振るう者は絶対に許さない。無愛想ながら重そうな荷物を持っていたら運んでやる。だから、そんな事を聞かされては彼らを警《けい》察《さつ》に突き出すことなんてとても出来なかった。
「なあ、俺《おれ》、証拠品を見ちゃったけど」
彼は呟《つぶや》くように言った。あんたらがもう二度とやらないと誓ってくれるなら、誰《だれ》にも言わないよ。そう続けようとして、彼は老人たちを振り返り、言葉を失う。
「ふふふ、ならば」
と、包丁を腰《こし》だめに構えた爺さん。
「あんたさえいなくなれば良いわけじゃな」
いつの間にかすりこぎを振り上げている婆さん。二人は異様なオーラを放って、啓太ににじり寄って来る。
「ふ」
啓太は髪をかき上げ、天井を見上げた。自分が甘かった。
「要するに」
爽《さわ》やかに振り返り、
「てめえらは例外だ─────!」
と、叫んだ。
大|乱《らん》闘《とう》必至。老人二人と啓太が激突しようとしたまさにその寸前。
「大変だよ!」
と、叫びながらようこが小屋の外から駆けこんで来た。そういえば、彼女と留《とめ》吉《きち》は先程からいなかった。
ようこは息を切らしながら、満面の笑顔で、
「留《とめ》吉《きち》が宝物の在処《ありか》を見つけたってさ!」
そう報告した。
爺《じい》さんと婆さんと啓《けい》太《た》は顔を見合わせ、それから改めてようこを見つめ、
「ほんとに?」
はもった。
月明かりの下、啓太、ようこ、爺さん、婆さんの四入が留吉を囲むようにして立っていた。小屋からちょっと離れた林に近い場所だった。問題の猫《ねこ》又《また》は目をつむり、二本足で立ったまま、前足を真っ直《す》ぐ前に突き出している。
その手の平の上で、古ぼけた針のない羅《ら》針《しん》盤《ばん》が淡く、白く発光しながら重力を無視して少し浮いていた。
「本当に見つかったのか?」
という啓太の問いに、留吉はこくりと頷《うなず》いた。その途《と》端《たん》、羅針盤は光るのを止《や》め、ぽふんと留吉の肉球の上に落ちた。
猫は静かにそれを見つめてから、
「地図と本を合わせたら分かりました。間違いありません。それと僕の目的物だけではなく、どうやら金や銀も一緒に埋っているようですね」
啓太を振り返った。その言葉を聞いて、爺さんが天をふり仰ぐガッツポーズをとり、婆さんが謎《なぞ》のダンスを踊った。
二人とも猫が喋《しゃべ》っている事はあまり気にしていなかった。
留吉は小首を傾《かし》げた。
「お願い出来ますか?」
ようこは啓太を見て、無言で問う。啓太は笑って、ようこの頭を撫《な》でた。
「やれ」
ようこはこくりと頷いた。指を一本、立てすっとそれを天に向ける。何かを探るように精神を統一し、気が満ちたところで叫ぶ。
「しゅくち!」
だが、何も起こらない。
力を入れて見守っていたジジババが、がくっとよれた。
「どうした?」
と、啓太。
「色々あって取りにくいの」
ようこの額《ひたい》に汗が浮かんでいる。啓《けい》太《た》は彼女のしゅくちが機能しないのを初めて見た。
「……そんなに重いのか?」
啓太が不《ふ》審《しん》そうに尋ねた瞬《しゅん》間《かん》、ようこの目が深《しん》紅《く》に光った。身体《からだ》と髪がふわ〜と浮き上がり、彼女の周囲にきらきらと力が集まる。
「つかまえた。いける」
そう囁《ささや》き、
「二段階。ちょう、とくだ───いしゅくち!」
突然、辺《あた》りの空気がずしんと重くなった。まるで星が天から降って来て、その場で爆《ばく》発《はつ》したような。
目も眩《くら》む閃《せん》光《こう》が続く。そうして、その中で何かが舞い踊る。
絢《けん》爛《らん》と光り輝《かがや》く。
「お、おお!」
と、爺《じい》さんが叫ぶ声が聞こえた。啓太はとっさに腕で庇《かば》った顔を覗《のぞ》かせ、辺りを見回す。呻《うめ》き声が彼の口から漏れた。
淡い光の中。
辺り一面に広がっている物。
それは金貨や銀貨だった。珊《さん》瑚《ご》の枝や玉、工芸品に象《ぞう》牙《げ》。沢《たく》山《さん》の宝物が啓太たちの周り中を埋めている。埋め尽くしている。
それはもう時価なんて見当がつかないくらい莫《ばく》大《だい》だった。
「ひゃはあ────!」
爺さんが狂ったような雄《お》叫《たけ》びを上げながら、宝物の中を転げ回った。婆さんが「おお」と震《ふる》え声で呟《つぶや》き、膝《ひざ》を落とす。
「古い言い伝えはまことであった……」
ようこはようこで無邪気に光り物を空中に放り投げ、喜んでいる。啓太も一《いっ》瞬《しゅん》、我を忘れて小《こ》判《ばん》に頬《ほお》ずりしようとして、ふと動きを止めた。留吉が一切の宝物を無視して、木彫りの古ぼけた仏像を大事そうに大事そうに抱えているのを見たからだ。
なんの変哲もない、小さな観音像だった。啓太はすっと立ち上がり、狂喜乱舞している爺さん婆さんの横を通って、留吉に近づいて行った。
「よかったな」
と、啓太はその隣《となり》にしゃがみこんで言った。仏像を本当に愛《いと》おしそうに撫《な》でていた猫《ねこ》は少しはにかむような顔になった。
「ありがとうございます……啓太さんも仏像に興《きょう》味《み》があるのですか? 宝物より?」
「バカ言え」
啓太は苦笑する。
「後で頂くものは頂くよ。それより、お前の探し物の方が気になってな。それ、本当はなんなんだ?」
「……というと?」
「ん? いや、国宝クラスのものなのか? 高いのか?」
留《とめ》吉《きち》はかすかに笑った。いいえ、と首を振る。釈然としない表情の啓《けい》太《た》。その時、ようこがその場に駆け寄って来た。
「ケイタ、あのね、あのね」
「後にしろ。今、大事な話をしている」
だが、ようこは必死の表情で啓太の腕を引っ張った。
「あのね、わたし、やり過ぎちゃったみたい」
「……やり過ぎた?」
それで啓太もようやくようこを振り返る。
彼女はばつのわるそうな笑みを浮かべ、
「あのね、わたし、余計なものまで転送しちゃったみたいなの」
「……余計なものってなんだ?」
と、啓太が不安そうに辺りを見回した途《と》端《たん》、ごごごごっと地面が揺れ出した。
絶対、ただ事ではない。
地鳴り。
「あのね、わたし、どうも温泉、掘り当てちゃったみたい」
てへ、と舌を出してようこ。
絶句する啓太はそして目を大きく見開いた。彼女の背後で突如、地割れが起こり、凄《すさ》まじい勢いで熱いお湯が噴《ふ》き出している。
「げ」
と、啓太が青ざめた瞬《しゅん》間《かん》。
辺《あた》り一面、どおんどおんと重低音を響《ひび》かせながら、お湯の柱が立ち昇り、
「どえええ──────!」
熱湯を避《さ》けて逃げ惑う啓太たちごと、崖《がけ》全体が一気に崩落した。
それはまさに大惨事だった。熱湯と岩石のブレンドされた物が凄まじい質量と化して、一斉に崩れ落ちたのである。大気を震《ふる》わす爆《ばく》砕《さい》音がその士地一帯に広がり、巻き起こった土煙、湯気でしばらく視界は利かなかった。
幸い下には民家がなかったため、土砂崩れに巻きこまれた者は誰《だれ》もいなかったが、地方紙のトップを飾れるくらいの大事件だ。
そんな災害の中で。
啓《けい》太《た》たちは元気だった。
「だああ───────!」
煤《すす》だらけ、泥だらけになりながら、岩を引っくり返し、土を手ですくい上げる。その横では爺《じい》さん、婆さんも涙目になりながら、必死で探し物をしていた。
どういう訳か彼らは無傷で、四散した金銀財宝をかき集めているのだ。
「わあ────! わしらの財宝が! お宝が〜!」
「うう。年寄りはいつも被害者なんじゃ! それもこれも全部、こいつのせいなんじゃ!」
「待て! 俺《おれ》のせいか、これ?」
と、仲間割れをしながら、また、すぐに土の上を這《は》いずり回る。そういうところだけは不思議と息が合っていた。
その遥《はる》か上空。
ようこは呆《あき》れたように、彼らの様《よう》子《す》を眺めていた。彼女の腕の中には、神妙な表情で仏像を抱えた留《とめ》吉《きち》がいる。とっさに彼らを救ったのはようこだ。しゅくちをかけて転送してやったのに、意識を取り戻した彼らがした事と言えば、自分たちの幸運を喜ぶでもなく、まず財宝を探すことだった。
「人間って欲張りなものね」
と、ようこが溜《ため》息《いき》をつく。留吉は不思議そうにようこを見上げた。
「それ、啓太さんに渡してやらないんですか?」
そう言って指差したのは、ようこが握っていた宝石だった。かなりの大きさだから、これだけできっと一財産だろう。
ところが、ようこは穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》んで、首を振った。
「これは後でこっそりあのお爺ちゃんとお婆ちゃんにあげる」
「啓太さんには?」
「なんにもなし」
と、どこか悪戯《いたずら》っぽくようこ。必死の形《ぎょう》相《そう》の啓太を見下ろし、
「これをあげたら、ケイタはケイタじゃなくなるような気がするから。わたしはああいうケイタが好きなの」
いかにも浅ましく、見苦しく、欲深い。
元気で、バカで、子供っぽい。
それを見つめるようこの目は妖《よう》艶《えん》であり、かつ無《む》垢《く》だった。
留吉は彼女を見上げながら、あれはわざとだったんですか、わざと温泉を掘り当てたんですか、と聞きたくてなんとなく聞きそびれている。そういう質問を遠《えん》慮《りょ》させる程、ちょっと、ようこは不思議で、よそよそしい表情をしていた。
ふと、彼女が真《ま》面《じ》目《め》な調子で、留吉に尋ねた。
「ケイタをどう思う?」
「え? いや、素質のある方ですね。あなたと共にきっとよい犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いになれますよ」
「ううん。そういうことじゃなくって、もっと一言で」
「一言ですか?」
留《とめ》吉《きち》は首を傾《かし》げ、それから、困ったように答えた。
「ん〜、優しい方ですね」
何かを慮《おもんぱか》るようなその一言に、ようこはジト目で、
「うそつき」
留吉は焦って、
「あ、いや、えっと、じゃあ……鋭《するど》い方ですね」
「そうかな? 他《ほか》には?」
「まあ、とても面《おも》白《しろ》い方だとは思いますが」
詰まった末の、何気ない感想だった。だが、その一言にようこは嬉《うれ》しそうに笑った。その言葉こそ、まさにようこが望んでいたものだったから。
だから……。
月明かりの下、少女は優しく猫《ねこ》にキスをした。
「正解」
P. S.
「ところでさ、あのお爺《じい》さんとお婆さん、どうしたのかな?」
「え? あ、そういや警《けい》察《さつ》や消防が来た時には、どさくさに紛れて消えてたな。お陰で俺《おれ》だけえらく疑われて困ったぜ」
「……」
「そうそう。ジジババといえば、ようこ、お前、あいつらになんか渡してたな? なんだったんだ、あれ?」
「……あのね」
「ん?」
「おーなーさんが後で喋《しゃべ》ってるのを聞いたんだけど、確かにあのほてるは買い取ったものなんだって。前の持ち主が博打《ばくち》ですったんだってさ」
「ふんふん。立ち聞きでもしてたのか?」
「うん……でもね」
「なんだよ?」
「それって百年以上前の話なんだってさ」
「(ぞ〜)」
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一人の男がいた。
孤独な男だった。四畳半程の部屋に一人で生活をしていた。恋人も、友人も、家族もいない。たまに電話をかけて来るのは新《しん》興《こう》宗教か悪徳商法だけ。彼が母親以外の異性と会話した回数はほんの数える程だった。
内気で陰気で、加えて妄想|癖《へき》もあった。六年かけて辛うじて大学を卒業した後、小説家を目指すと言って働き始めた職場を一《ひと》月《つき》で辞めた。
当人は勇退したつもりだったが、違う。趣《しゅ》味《み》がばれたのだ。
自主退社を迫られた。途方に暮れ、書く事に逃げた。もちろん、小説家と名乗れるような才能など男にはなかった。ただ、一体、どういう神様の思《おぼ》し召《め》しか、悪《あく》魔《ま》の計らいか、とあるジュニア小説の新人賞に残ってしまった。
不思議な事は起こるものである。しかし、滅《めっ》多《た》に超こらないから不思議なのであって、男の身に植え込まれた幸運の種は結局、芽を出さずに枯れた。
担当編集者は困った。
一体、なぜ、こいつが賞を取ったのだ?
とにかく書かせてみた。書けば書く程どつぼにはまった。返品の山だった。男は時間だけは持てあましていたから嬉《き》々《き》として書いてはまた持って来た。担当編集は困って居留守を使うようになった。でも、なお、男は編集部に押しかけては原稿の束を置いていった。
当然、売れない。
男は切迫していった。金がない。彼女もいない。
十二月の風は冷たかった。男は寒くなってきたのでめっきり不自由になった趣味を強行して体調を崩していた。徹《てつ》夜《や》明け。熱っぽい思考。
世間は全《すべ》て幸せ色に輝《かがや》いて見えた。
自分以外は楽しそうに笑っている。笑っている。一体、何が楽しいのだろうか。たかだか耶《ヤ》蘇《ソ》教の祝いが近いくらいで。
違う違う。
笑っているのは俺《おれ》の事だそうだろみんな、陰で俺を笑っているんだソウダロ? バカニシヤガッテチクショウ!
出て来い、貴任者!
大分、妄想が入ってきた。いけないいけない、と男は思った。
えっと……男にとっては特にカップルが許せなかった。人目をはばからずいちゃつく彼らの邪魔をしてやれるならこの魂を悪魔にくれてやるいくらでもくれてやると涙が出てくるので男は止《や》めておこう。
荒い息をつく。
幾分、冷静になった。そうそう。男は帰る途中、捨て猫《ねこ》を拾った。
可愛《かわい》らしい子《こ》猫《ねこ》で木箱に入っていた。男は寒空にみいみい泣いているその姿に哀れみを覚え家に連れ帰った。
子猫は大分、衰弱していた。ミルクも受けつけない。飲まない。吐いてしまう。男は趣《しゅ》味《み》の時間を返上して看病に当たった。
結局、迷った末に獣《じゅう》医《い》にも連れて行った。なけなしのお金を取られたが、それはもう気にならなかった。注射一本で、子猫がみるみる元気になっていく光景を目《ま》の当たりにしたからだ。
男は目元をゆるませ、その子猫を「ハニー」と名づけた。
毛並みが蜂《はち》蜜《みつ》色だったからで、恋人の意味もある。
可愛がり、一緒に寝て、下《しも》の世話をした。キャットフードを共に分かち合い、空腹を紛らわせた。未来の見通しはどん底だったが、男はその時、確かに幸せだった。
束《つか》の間の夢を見ていた。儚《はかな》い夢。
しかし、その幸せも長くは続かなかった。
子猫はちょっと目を離した隙《すき》に逃げてしまったのだ。どうやら嫌われていたらしい。あんなに世話をしてやったのに。
ひどいものだ。
「ハニー、か〜むば〜く!」
その日、クリスマスイブ。男は泣きはらした目をしょぼつかせながら、最後の望みをかけた自信作を担当編集者に見せに行った。
実在の魔《ま》術《じゅつ》書を丹念に取材した労作だ。
しかし、担当編集者はそれを一読した後、「う〜ん」と唸《うな》った。
唸って、固まり、その後、トイレにすたすたと向かってそのまま個室に立て籠《こ》もってしまった。呼んでも、叫んでも出てこなかった。
代わりに守衛がやって来た。
数時間後、出版社を摘《つま》み出された男は深い悲しみを抱えて、街を彷徨《さまよ》っていた。
道行くカップルが彼を嗤《わら》った。いや、嗤っていないけど、嗤ったように彼には見えていた。涙がつつっと頬《ほお》を伝う。
視界が曇った。
ふと、その時である。
交通量の多い、車道の向こう側。彼はハニーを見た。あの蜂蜜色をした子猫がひょこひょこ歩いていた。
「ハニー!」
と、彼は叫んだ。そのまま、ガードレールを飛び越え、我を忘れて子猫に駆け寄ろうとした。
見たい物しか見えない難《なん》儀《ぎ》な性格である。
赤信号。
急ブレーキの音。
彼は車に撥《は》ねられた。舞い上がり、くるくると足を回転させながら、彼はふっと笑った。痛かった。すっごく痛かったが。
何より。
地面に叩《たた》きつけられ、薄《うす》れていく意識の中で彼は知った。
車に乗っていたのもやっぱりカップルだった。
彼は笑った。
そうして、震《ふる》える指でアスファルトに血文字を書いた。
ワレ、ノロウハ、クリスマス[#太字]
これは瞑《めい》府《ふ》魔《ま》道《どう》に堕《お》ちた一人の男の物語である。
歳末が近づくと、こんな小さな商店街にも活気が出てくる。アーケードの下に並ぶ店はどれもクリスマス一色。モールや雪綿が飾られ、陽気なクリスマスソングがスピーカーから流れている。ごった返す人々の足はどこか浮き立っていた。
向こうでは鉢巻きをした魚屋のおっさんが茹《ゆ》で立てのカニが美味《うま》いよ、と連呼していて、こちらではクリスマスツリーの前に立ったサンタが景気よく鐘《かね》を振っている。ちょうど真ん中の広場に立っているもみの木はぐっと高い。
見上げると、夕暮れだった。
音と色の洪水。喧《けん》噪《そう》。
人込みの中を、一人の少年が両手にビニール袋をぶら下げながら歩いていた。器用な足取りで行き交う人をかわして行く。
彼は広場に出て、花《か》壇《だん》の縁《ふち》に腰を下ろし、一息ついた。
額《ひたい》に浮かんだ汗を拭《ぬぐ》い、
「つまり、師走《しわす》だ」
誰《だれ》にともなくそう呟《つぶや》いた。しばらくしてまた、
「先生が走る程、忙しいからそう言うんだよ。え? ああ、あれは違う違う。あれは、お前が言っていたサンタクロースだ。そう。趣《しゅ》味《み》でやってるんじゃない。いわば、慈善を職業にしているというか……うん。人の家に煙突から入って……だから、泥《どろ》棒《ぼう》じゃないって。う〜ん、なんて言えばいいのかな? キリスト教の」
と、ぶつぶつ喋《しゃべ》っていた。
そのバイトサンタは目つきの鋭《するど》い少年が独り言を呟きながら、こちらを睨《にら》んで来るのを見て、薄気味悪そうな顔をした。
鐘《かね》を振る手が止まる。
なんか用ですか?
と問い返そうとした時、少年は大きく目を見開いて叫んだ。
「あ──! バカ! よせ!」
バイトサンタはびっくりした。声に驚《おどろ》いた事もあったが、何より急激な寒さを感じたからだ。
「え、あれ?」
すぐさま自分の顔を触ってみる。いつの間にか、つけヒゲと赤い帽子が無くなっていた。
「なんで?」
目をきょろきょろさせて、彼はその場を見回した。すると、少年が照れたように笑いながら、近づいて来た。見れば彼の手に無くなった物がある。
「????」
青年は訳が分からず、ただ目をぱちくりさせる。
なぜ?
一体、どうやって?
彼との距離は確かに三メートル以上あった。一体、どんな手品を使ったのか?
「あはは、ど〜もすいません」
少年は頭を掻《か》き掻き、帽子とつけヒゲを青年の腕の中に押しこむと、
「以後、言って聞かせますんで、どうもどうも」
逃げるようにしてその場を去って行った。バイトサンタは手を貰《もら》った形にしたまま、ぽかんとそれを見送る。
その一《いっ》瞬《しゅん》。少年が群衆に紛れこみ、姿を消す最後の一瞬。青年は確かに見た。忘れられない光景だった。彼の肩に一人の少女が朧《おぼろ》な姿で乗っていて。
肩車の格好だった。
後に彼は居酒屋で友人にこう語った。
「うん。凄《すご》く綺《き》麗《れい》な子だった。しかも、薄《うす》着《ぎ》。Tシャツとミニスカートで、不思議とそれが全然、寒そうじゃないんだ。違うよ、嘘《うそ》でも幻覚でもない。俺《おれ》は確かに見たんだ。あれは絶対にこの世の者じゃないって……なにしろ、ふさふさした尻尾《しっぽ》が生えてたんだもん。その子さ、最後に俺の方を振り返って」
青年はビールの入ったジョッキをテーブルに置いて、ほうっと溜《ため》息《いき》をつく。
「俺に向かってウインクを一つ、したんだ」
「お前は欲しいものを片っ端から引き寄せるんじゃない!」
明るい光を投げかける時計屋の前を歩きながら少年は声を発した。心なしか、視線を上に向けている。彼の名は川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》という。
筋っぽい身体《からだ》つきに癖《くせ》のある動物の体毛のような茶髪。鋭《するど》い目つきが猛《もう》禽《きん》を思わせる。それと、首につけた大型犬用の首輪。表情が子供っぽいから緩《かん》和《わ》されているが、かなり野性味|溢《あふ》れた少年である。
犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いの末《まつ》裔《えい》で、魔《ま》物《もの》退治を生業《なりわい》としていた。
一方、彼の肩に乗っかっているのが、その使役される犬神である。名をようこという。少女の姿をした人《じん》妖《よう》で、今は不可視の状態にある為、常人には見る事が出来ない。酷《ひど》く蠱《こ》惑《わく》的な外見をしていた。
黒絹のような長い髪と涼やかな目元。この寒いのにだぼだぼのTシャツ姿で、剥《む》き出しの鎖《さ》骨《こつ》が覗《のぞ》いていた。靴を履いていない。細長い足が短いスカートからにゅっと突き出て、啓《けい》太《た》の首に絡まっていた。
ぱたぱたと白いつま先を動かしながら、彼女は啓太をかき抱いた。
「だって、興《きょう》味《み》があったんだも〜ん♪」
嬉《うれ》しそうな調子だ。啓太は頭を振って、彼女の手を払った。
「あのな、だからって、ただで取るのはダメだって何度も教えてるだろ?」
「なんで?」
いとも無邪気に聞き返すようこ。彼女には物体を瞬《しゅん》間《かん》的に移動させる能力がある。どうもそうやって啓太をからかっている節がある。
啓《けい》太《た》は溜《ため》息《いき》をついてその場に立ち止まった。
行き交う人の迷惑そうな視線を浴びながら、懇《こん》々《こん》と諭《さと》すように言い聞かせる。
「あのな、人の所有する権利を侵害するから、道徳上、法律上いけないの。社会が成立するためには相手の権利を尊重する意識とそれを破った者に対する制裁が必要なの」
「ケイタがそういうこと言っても」
「……分かった。言い換えよう。そういうことしてるとな、怖い怖いお巡《まわ》りさんに捕まって牢《ろう》屋《や》に入れられてしまうからだ。分かったな?」
「うん。それなら、よく分かる。ケイタ、三回くらい捕まってるしね。でも、大丈夫。わたしにはあの鉄格子なんて意味ないからすぐに抜け出せるよ」
「いや、まて、そういうことじゃなくって……その前に俺《おれ》の三回は無実だ!」
「あ、ちょこれーとけーきだ……」
「きけって!」
「う〜。美床《おい》しそう」
「俺の頭の上で涎《よだれ》を垂らすな、バカ犬!」
啓太が慌てて頭を払う。二人が立っていたのはちょうどケーキ屋の前だった。特大チョコレートケーキがショーケースの中に飾られている。豪華だ。スポンジ部分を樹《じゅ》木《もく》に見立て、そこにホワイトチョコの雪で柔らかくデコレートしている。
砂糖菓子の小さな家にキノコ。メルヘンチックで、実に美味しそうだったが、啓太はさっさと歩き出した。
ようこは未練がましくショーケースを見つめながら、ねだった。
「ね〜、ケイタ?」
「だ〜め。高い。金はない」
「なんで! この前の温泉のおーなーさんからお金、沢《たく》山《さん》、貰《もら》ったんでしょ!?」
「あほ! それは全部、生活費に回るの! 必要なの!」
「毛布なんていらないじゃない?」
「いるんだよ! 俺は。お前と違って、寒いんだよ!」
「なら、こっそり買ってたえっちな本は?」
「……まあ、俺も寒いんだよ、色々とこの季節。深く詮《せん》索《さく》しないでくれ」
「も〜、わたしが暖めてあげるし、慰《なぐさ》めてもあげるのに〜」
「抱きつくな!」
道端で暴れる啓太。端《はた》から見ていると一人でぶつぶつ喋《しゃべ》り、突然、身体《からだ》を動かしている挙動|不《ふ》審《しん》者にしか見えない。だが、人々は華やかなクリスマスソングに合わせて足早に通り過ぎていき、異分子の存在を気にもとめなかった。
ざわついた人の流れの中、完全に埋没している。
不思議とその感覚が懐《なつ》かしさを呼び起こす。啓《けい》太《た》はふと頭上に目をやった。夕刻を迎え、アーケードの照明が切り替わったのだ。
辺《あた》りがみるみると暖かな黄金色に染まっていく。
音が潮《しお》騒《さい》のように遠のいた。
そうすると、魚の切り身から紙くず。売れ残りのセーターまで全《すべ》てが至高の品々のように輝《かがや》き出した。人工の煌《きら》めきは影を作らず、異空間を浮かび上がらせた。
ようこも無言でいる。啓太の頭にきゅっと手を回す。
その時。
悲鳴が上がった。
「なんだ?」
とっさに啓太は辺りを見回す。人込みの向こうから何やら騒《さわ》ぐ声と断続的な女性の悲鳴が聞こえてきた。買い物かごを下げた主婦やセーラー服の女子高生が赤面しながら、足早に出て来る。
啓太は当然、野《や》次《じ》馬《うま》と化して人の輪の中に入って行った。
顔を覗《のぞ》かせて見れば、ブティックの前で若いカップルが座りこんでいた。
男は、
「見るな、見るな! あっちいけよ! 見せ物じゃねえぞ!」
と、声を荒げながら股《こ》間《かん》を両手で隠している。なんと全裸だった。必死の形相で局部を庇《かば》って、なんとかその場を逃れようとしている。女の子の方は可哀《かわい》想《そう》に、事態の成り行きについていけずしゃがんだまま、ただしくしくと泣いていた。
なんでしょう?
新手のストリーキングですかな?
そんな会話が周囲から聞こえて来る。見かねた人たちがジャンパーやタオルを貸して、とりあえず、男はそれを仏《ぶっ》頂《ちょう》面《づら》で身につけ始めた。
「なんだあ?」
啓太は眉《まゆ》をひそめた。どうも。他人《ひと》事《ごと》ではない。この寒中、衣服を脱ぐのは正気ではないし、そもそも自分で脱いだ形跡もない。
ならば、こういう芸当が出来るのはたった一人しかいなかった。
「おい!」
と、啓太は語気を強めて、目線を上げた。
「こら、ようこ。お前の仕《し》業《わざ》か、あれ?」
しかし、ようこは答えない。ぎゅっと啓太の髪を掴《つか》んで、身を乗り出すようにして現場に見入ってる。
啓《けい》太《た》は手を伸ばしてようこの頭を叩《たた》いた。
「こら、バカ犬。あれはお前の仕《し》業《わざ》かって聞いてんの!」
「え、ああ」
ようこは惚《ほう》けたような返事をしてから、叩かれた頭をさすった。
「お前、なにぼうっとしてるんだよ?」
「べ、別にぼうっとなんてしてないもん!」
心なしか頬《ほお》を染め、口を尖《とが》らせる。
「あれは、わたしじゃないよ」
「……本当か?」
「わたしがそんなことする理由なんてないじゃない!」
「立派にあると思うが」
「なんで!?」
「いや、だって、お前の趣《しゅ》味《み》って、男を脱がして放置プレイすることだろ?」
「……ケイタ、それ真《ま》面《じ》目《め》に言ってる?」
にいっと凄《すご》みのある笑みを浮かべてようこ。逆さまから顔を覗《のぞ》きこんで来る。
「なら、わたしにも考えがあるよ?」
啓太は視線を逸《そ》らした。
「……じゃあ、一体、誰《だれ》がやったんだよ?」
「知らないよ、そんなこと!」
「ほんとのほんと〜にほんとか〜?」
「ケイタ!」
二人が言い争っている時である。
「義のため」
二人の背後で声が聞こえた。
同時に振り返るようこと啓太。
「誰だ!?」
ひゅうっと風が逆巻く。
一人の奇怪な人物がそこに立っていた。
この世の者ではない。それはすぐに分かった。黒いマント、黒い頭《ず》巾《きん》で全身を覆《おお》っている。ただ、目の部分だけが外界に開かれていた。
そこから狂信的に輝《かがや》く白い瞳《ひとみ》が覗いている。
それ程、異様な人物が立っているのに周りの人間はまるで気がついていなかった。空間が一部、陰にこもり周囲から独立している。
瘴《しょう》気《き》が陽炎《かげろう》のように立ち昇っていた。
「ふふ」
と、男の声。それが笑った。腕を振り上げ、悠然とマントを払う。
「あるいは我が怨《おん》念《ねん》」
ばっと裾《すそ》が翻《ひるが》って、何かが見える。
「ようこ……」
「うん」
二人の目が点になる。
男はくぐもった笑い声を上げながら今度は反対側の手で払った。
「そのどちらでもいい。全《すべ》ては我が意気を不当に卑《いや》しめ、あざ笑った者共への正義の鉄《てっ》槌《つい》だ。ふふ、どうやら、君たちは私が見えるようだね?」
啓《けい》太《た》とようこは機械的にかくかく頷《うなず》いた。
「「よ〜〜く、見えるよ」」
声が揃《そろ》う。
男は満足そうに高笑いを上げた。
「結構、結構。ならば、私を伯《はく》爵《しゃく》と呼びたまえ。そう、私は闇《やみ》の世界で孤高に咲く一輪の彼《ひ》岸《がん》花《ばな》。幾夜幾夜、見果てぬ夢を見て彷徨《さまよ》い、流離《さすら》う流浪の貴公子でもある。詩人? そんな呼び方はよしてくれ。ちょっとした文学的素養がなせる業さ」
男はそう喋《しゃべ》りながら、頭《ず》巾《きん》を脱いだ。
「ところで、貴君らに一つ、問う」
どこか冴《さ》えない感じのする顔が現れた。ジャガイモによく似ている。
「貴君らは戦士か? それとも、安楽を貪《むさぼ》る愚鈍の徒か?」
「は?」
「鈍いな。CかSか聞いてるのだ? この場合、Sは誇り高きシングル。Cは憎むべきカップルを意味する……意味するのだが、その不必要なまでの身体的接触」
男は真っ直《す》ぐに指を二人に突きつけた。
「どうやら、Cと見た!」
「あのな」
啓太はがっくりと首を垂れ、溜《ため》息《いき》をついた。
「お前がなんなのか、何言ってるんだかさっぱり分からないけどさ。一つだけ訂正しておくよ。こいつと俺《おれ》はあんたが勘ぐってるような関係じゃないぞ。犬と飼い主みたいなもんなのだよ」
その途《と》端《たん》、ようこが抗議の声を上げる。
「あ───! ケイタ、そういうこと言う言う?」
啓太は面《めん》倒《どう》くさそうに上を見た。
「なんだよ、事実だろ?」
「きい〜〜、乙女《おとめ》心を弄《もてあそ》んだのね! 散々、わたしを玩具《おもちゃ》にしておいてその言いぐさはなによ!」
ひどいわひどいわ、と言いながら啓太の頭をぽかぽか叩くようこ。啓太は啓太でようこのほっぺたを引っ張って応戦する。
「あほ、なに人聞きの悪いことゆってやがる! いつもいつも、俺《おれ》を玩具にして楽しんでんのはお前の方だろ〜が!?」
言い争う二人。
それを見ていた男の頬《ほお》がひくひくと引き攣《つ》った。
突きつけていた人差し指をこめかみに当て、目をつむる。
「ははは、これは恐れ入った。本当に恐れ入ったよ、私の前でまさか痴《ち》話《わ》げんかとは。痴話げんか。そう、ね。見たくなかったな」
男は天を振り仰ぐ。
かっと目を見開いた。
「お前ら、みんな、俺の敵だああああああ──────────!」
ぶわっと涙が吹き上がる。
男は十字架に張りつけられた罪人のように手を大きく広げながら、その姿勢でくるくると円を描き、上昇して行った。
啓太ははっと気がついて、争うのを止《や》めた。
「ようこ、あいつを止めろ!」
「うん!」
ようこもすぐに反応してつま先で、啓太の頭を蹴《け》って宙に飛んだ。
「おそ――い!」
アーケードの天井|辺《あた》りで男は吠《ほ》える。マントを剥《は》いで、一気にそれを放り捨てた。中身が照明を受け、光と影の凹凸を持って晒《さら》される。
「生まれたての感動よ、今再び! お母さん。ボクを産んでくれてありがとおお────!」
そこにあるのは。
見えているのは。
「しまった!」
啓太が叫ぶ。その瞬《しゅん》間《かん》、辺りの空気がピンク色に染まった。
「きゃああ──────!」
「わあ──! なんだなんだ!?」
通行人から一斉に悲鳴が上がった。
あちらこちらで混乱が起こり、道が飽和状態になる。
男が。
男女二人連れで歩いている全《すべ》ての男が一斉に裸になってしまったのだ。色彩の中で際だつ肌色。毛ずね。尻《しり》。
錯《さく》乱《らん》と狂気の渦が場を圧倒した。必死で隠す男。逃げ出す女。笑う者。怒る者。誰《だれ》か警《けい》察《さつ》を呼べ、という声が聞こえた。
「ち、遅かったか……」
と、悔しげに拳《こぶし》を握り締《し》めた啓《けい》太《た》も当然、すっぽんぽんだった。
それにしても侮《あなど》れない力である。ピンポイントでカップルの男だけを脱がすなんていう芸当はようこでも出来るかどうか。
「ようこ、そいつを絶対、逃がすな!」
人波に飲みこまれそうになりながら、啓太が懸《けん》命《めい》に叫ぶ。
「分かった!」
ようこは宙を飛びながら手をふさふさのケモノに変え、一気に男に襲《おそ》いかかった。強《きょう》襲《しゅう》する鷹《たか》のような速さである。
それに対して男は不敵に笑って迎え撃《う》った。
「は、来るかね、マドモアゼル?」
二人の影が交差する。
ざくっと斬《ざん》撃《げき》が宙を一《いっ》閃《せん》。
「じゃえん!」
炎が煌《きら》めく。ようこはくるりと振り返って、さらにトドメの爪《つめ》を叩《たた》きこんだ。
しかし、そこには……。
空を切った。
「え?」
男の影がない。
「ふはははは!」
見れば、もわもわもわっと塵《ちり》のようになった男の輪郭が、別の場所で再構成されていた。
「ダメだダメだ。その程度では我が肉体にダメージなど与えることは出来ん! 我が肉体は霧《きり》。我が肉体は芥《あくた》。ぱああ──────────ふぇくとなばでぃなのだよ!」
男は哄《こう》笑《しょう》して、
「それとも、また試してみるかね、子犬ちゃん?」
再び、挑発した。今度は腰をくいくい動かして。
局部、丸出しだった。
「く!」
ようこは爪を構えたまま、怯《ひる》む。赤面していた。品性のなさもここまで来ると一種の圧力である。一歩、後退する。
「バカ、何をためらってるんだ!」
地上で啓《けい》太《た》が怒鳴った。ようこは泣きそうな声で、
「だってだって〜〜〜〜〜!」
「一体、どうしたんだよ!? そいつはただの変態だぞ!」
「だからなの! だから、嫌《いや》なのよ〜!」
男は手を頭の後ろで組み、腰をうねうね蠕《ぜん》動《どう》させていた。
恍《こう》惚《こつ》の表情だ。
荒い息をついている。しかも、近づいて来る。
近づいて来た。
誰《だれ》かに腕を捕まれた啓太はそれを振り払って、前に出た。
「ようこ、焼き払え!」
「い、いや」
固まってぷるぷる首を振るようこ。おい、こら、貴様! 誰かが啓太の肩を揺する。
「うるせえな! 後にしろ!」
啓太は乱暴にそれを突き飛ばして、手をメガホンにした。
「いいから、やれええ─────!」
とうとうようこが人差し指を突き上げた
「うわ───ん! だいじゃえん!」
その瞬《しゅん》間《かん》。
アーケードの天《てっ》辺《ぺん》で光の大渦が湧《わ》き起こり、その中で男は至福の表情を浮かべたまま消えていった。半瞬遅れて、爆《ばく》風《ふう》。
逃げ遅れた数少ない人が悲鳴を上げながら、転がった。
ショーケースが一斉に割れ、天井にひびが入り、もみの木が大きく揺さぶられた。
「やったか!」
素早く立ち上がって啓太は上を見る。宙にはようこしかいない。
「よし!」
と、ガッツポーズをとった啓太。その手にがちゃりと何か冷たい物がはまった。
「へ?」
啓太はまじまじとそれを見つめる。手《て》錠《じょう》だった。
目線で、その鎖《くさり》の先を恐る恐る辿《たど》る。
「川《かわ》平《ひら》、啓太。四度目だな」
にっこり笑った顔見知りの警《けい》官《かん》がそこに立っていた。
「という訳でケイタ、四回目のりゅうちじょ入りおめでと───!」
留置場の中。ようこがどこから持って来たのか、クラッカーを鳴らした。くす玉が割れ、「祝・記録更新」の垂れ幕が下がる。
これを作ったのはすっかり顔見知りになった酔っ払いの親父《おやじ》だ。彼がようこに材料を持ってこさせて作り上げた。
本職はテレビのディレクターらしい。見事な物だ。
「お〜、おめでと〜」
とんがり帽子を被《かぶ》った親父が陽気に笛を吹く。
ようこともすっかり仲良くなって二人で、肩を組んで歌い出した。
「や〜い、四度目、四度目♪ すとりーきんぐ大好き男♪」
がっくりと床の上で放心していた啓《けい》太《た》が跳ね起きた。何か叫ぼうとして、思いっ切り口を開くが怒りが大き過ぎて言葉にならない。口を闇《やみ》雲《くも》にぱくぱくさせた後、悔しそうに自分の髪をくしゃくしゃにかき回し、地《じ》団《だん》駄《だ》を踏む。
「まあ、どうしたのかしら?」
「彼氏、余裕ないね〜」
「ぐぐぐ」
「ケイタ、一体、何を怒ってるの?」
「うるせえ───────!」
ようやくそう叫べた啓太は荒い息をつきながら、ようこと親父を交互に指差した。
「言いたいことや突っ込みたいことは山ほどあるけどな! まず第一に、なんでお前らが知り合ってるんだよ!?」
酔っ払いと人《じん》妖《よう》は互いに顔を見合わせ、それから、
「それはケイタが何回も来てるからだよ。そりゃ、仲良しにもなるよ」
ねえ〜、と頷《うなず》きあう。
「ようこちゃん、彼氏の犬《いぬ》神《かみ》なんだって?」
「うん。こう見えて、実は人間じゃないの」
「気楽に正体ばらすな、バカ犬!」
「最初は驚《おどろ》いたけどね。ようこちゃん、可愛《かわい》いからなあ。おじさん、気に入っちゃった」
「おじさん、口が上手《うま》いんだね〜。でも、嬉《うれ》しいな。ケイタって絶対、そういうこと言ってくれないから」
「う〜む、それはいかんな。じゃあ、今度、おじさんがみっちり……」
親父はにやにやしながら、ようこの肩を撫《な》で回す。ようこは頬《ほお》に両手を当て、いや〜んと首を振った。頬がほんのり桜色に染まってるのはアルコールを摂取したためだ。
「ぐぬぬぬぬ」
啓《けい》太《た》の拳《こぶし》が怒りで震《ふる》える。二人の能天気さに殺意を覚えていた。
「ま、怒らない、怒らない。長い人生、色々あるって」
鼻の頭を赤くした親父《おやじ》が啓太にお猪口《ちょこ》を持たせた。すかさずようこが熱《あつ》燗《かん》を注ぐ。彼女が色々と調達して来たお陰で、檻《おり》の中はちょっとした宴会場になっていた。ビール、日本酒、さきイカ、ピーナッツにケーキとジュース。
啓太はお猪口をじっと睨《にら》みつけ、それを一気に呷《あお》った。
さらに
「かせ!」
と、ようこから徳《とく》利《り》を奪うと、それを喉《のど》の奥にぐびぐび流しこむ。お〜、と親父とようこが拍手した。啓太は続いてビール瓶を掴《つか》み、それを半分まで飲み干すと、口に付着した泡を手の甲で拭《ぬぐ》う。据わった目で辺《あた》りを見回した。
「げふっ。け、せっかく、人が性犯罪者デビューして、世間様から転がり落ちるのに、こんなちんけな酒しかねえのかよ」
ひっく。
「おら、ようこ、もっと、さけ、もってこ───い!」
頬《ほお》が真っ赤で、上体がゆらゆら揺れ始める。親父がようこにひそひそと耳打ちした。
「ダメダメ。君のご主人、酒が弱い上にたちが悪いよ」
「だ〜か〜ら〜、お前だけには言われたくねえんだよおおお────!」
とうとう、切れた啓太が親父の胸ぐらを掴んで揺すった。
親父は目を回して、きゅ〜と参る。
啓太が泣きながら、泣きながら、次の酒瓶に手を出しかけた時、それがすうっと消えた。慌てて目をやると、他《ほか》の酒類やおつまみも溶けこんだように無くなっている。
親父の身体《からだ》はいつの間にか上の寝台に寝かされていた。
(ケイタ、誰か来る)
姿を不可視モードに切り替えたようこの声が耳元で聞こえた。
啓太ははっと我に返って耳をそばだてた。かつんかつんと乾いた音を刻んで、廊下を誰かがこちらに向かって来る。
見回りの看守だと思った啓太は素早く毛布に潜《もぐ》り込んだ。同時に電気が消える。ようこが気を利かせたらしい。
足音は彼のいる鉄格子の前でぴたりと止まった。
啓太は寝たふりをする。
「ぐ〜」
「下手《へた》な芝居はやめるんだな、川《かわ》平《ひら》啓太」
がちゃりと鍵《かぎ》の外れる音がして、入ってきた誰かが無造作に言い放った。
「それから、そこの犬《いぬ》神《かみ》。電気をつけてくれ」
あっさりとそう一言われて啓《けい》太《た》は驚《おどろ》いた。起き上がると、天井から逆さまの姿勢で、ようこがするすると出て来た。
啓太の顔の横で止まって、不思議そうに尋ねる。
「あなた、私が見えるの?」
「ああ」
照明が瞬《またた》く。景色がクリアになった。
そこに立っていたのは若い男だった。仕立ての良いコートに身を包み、濡《ぬ》れたような黒髪をオールバックにしている。かなりの長身だ。彫りの深い顔立ちと白い肌。ハンサムだったが、険しい目と眉《み》間《けん》の皺《しわ》が気難しそうな印象を与えていた。
「……あんた、誰《だれ》だ?」
男は何故《なぜ》か、少し戸惑った顔でようこを見ている。啓太にそう言われ、彼ははっと我に返ったように咳《せき》払《ばら》いをした。
「失礼。私はこういうものだ」
ポケットから名刺を差し出して、啓太に渡した。上からようこが覗《のぞ》きこむ。
『特《とく》命《めい》霊《れい》的《てき》捜《そう》査《さ》官《かん》 仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》』
思いっ切り疑わしそうな目で啓太は男を睨《にら》んだ。
「かめい、だあ?」
「残念ながら、仮名でも、本名だ。よく言われるがな、かりな、しろうと読む」
男は謹《きん》厳《げん》な顔を崩さずにそう答える。きちんと休めの姿勢をとっていた。ようこは啓太から名刺を取り上げ、ふんふんと匂《にお》いを嗅《か》いでいた。
「は!」
と、啓太は鼻で笑った。
「要するにあんた、なんなんだよ?」
「君は字が読めないのか? 私はそこに書いてある通りのものだ」
「だから、そんな肩書き信じられっか! 聞いたこともないぞ」
「それは君が無知なだけだ。私は内閣官房室直属の捜査官で、日本に起こる霊的な事件を可及的速やかに収拾することを任務としている。川《かわ》平《ひら》、私は君が犬神使いの血を引くことも、その娘が犬神であることも知っている。こうして警《けい》察《さつ》署の中にまで鍵《かぎ》を使って、入りこんでいる。そうそう、それと私は君の祖母とも面識がある。彼女の犬神は、はけだ。これでも、私が言ってることが信じられないか?」
「……」
「ねえ、ケイタ。この人、本物さんみたいだよ?」
くるりと空中で回転して地面に降り立ったようこが言った。嬉《うれ》しそうにその名刺をひらひらさせながら、
「だって、匂《にお》いが一致しているもん」
「匂い?」
「うん。この紙にその人の特徴が記してあるの」
ようこの言葉に仮《かり》名《な》は口元を緩《ゆる》めた。
「その通りだ。その紙には特殊な念が施されていてな。字の読めない人《じん》妖《よう》にも私が判別出来るようになっている」
「わたしは字、読めるけどね」
「それは、失礼……で、川《かわ》平《ひら》、信じたか?」
仮名がまた鋭《するど》い視線を向けてくる。啓《けい》太《た》は警《けい》戒《かい》心を残したまま、尋ねた。
「……じゃあ、その捜査官様が俺《おれ》に一体、何の用だ?」
「渡り猫《ねこ》の留《とめ》吉《きち》を覚えているか?」
「え?」
「ほら、ケイタ。この前の温泉で会ったあの猫だよ」
「いや、それは覚えているけどさ……」
「奴《やつ》とは友人でな」
「……友人? って、まて、猫だぞ、あれ?」
「私は種族的偏見は持たない主義だ。で、奴に君を推《すい》薦《せん》された」
「は?」
「川平、啓太」
男はかちりと踵《かかと》を合わせて気をつけの姿勢をとると、よく通る声で告げた。
「君に特《とく》命《めい》霊《れい》的《てき》捜《そう》査《さ》官《かん》として、任務を与える!」
啓太は口を大きく開いた。
え?
クリスマスイブを迎え、街は浮き立っていた。中央通りの銀杏《いちょう》並木にはイルミネーションが施され、黄色と白のカクテルライトが柔らかく辺《あた》りを染めている。大気は凛《りん》として冷たく、天気予報は夜半過ぎの雪を予告していた。
洒落《しゃれ》た喫茶店やアンティークショップ、レストランが立ち並ぶ一角は幸せそうな家族連れや恋人たちで一杯だった。鼻をくすぐる屋台のクレープの香り、談笑の声。晴れ晴れとした笑顔。全《すべ》てが祝祭という非日常的なテーマに沿って滞りなく進行している。
夕刻、暖かそうなファーに身を包んだ少女が待ち合わせ場所に向かっていた。彼女は長い黒髪を三つ編みにして、手には恋人に渡すプレゼントを大事そうに抱えている。サテンの靴、矢《や》車《ぐるま》草《そう》の色をしたブローチ。
白い息がこぼれる。上気した頬《ほお》。
彼女は御《み》影《かげ》石《いし》で作られた階段を上り、教会前のテラスを見回す。大時計の下であの人が隙《すき》のない格好で立っていた。
暗色のコートを羽《は》織《お》り、すっきりと細いパンツを履《は》いている。細部にまでこだわったヘアスタイル、磨かれた靴。アクセントのだて眼鏡《めがね》には紗《しゃ》が入っていた。
彼は彼女を認め、優しく笑う。
「やあ」
軽く片手を上げた。少女は嬉《うれ》しそうに彼に駆け寄った。
「ごめんなさい」
胸元を押さえ、呼吸を整える。
「待った?」
少年は晴れやかに笑って否定した。
「いや、今、ちょうど来たところさ」
きらりと白い歯がこぼれた。少女は悪戯《いたずら》っぽい上《うわ》目《め》遣《づか》いになった。
「優しいね。でも、たまには怒ってもいいんだよ? そうしないとわたし、きっとどこまでもあなたに甘えちゃう」
その唇を少年は人差し指で柔らかく押さえる。
ノンノンと振った。
「いいや。怒ることなんて不可能さ。キミがボクのためにお洒落《しゃれ》をして、遅くなったことはちゃんと知ってるからね」
どこまでも優しい口調。少女は手に持っていたプレゼントを差し出した。
「はい。物わかりの良すぎるあなたに」
「では、今日も綺《き》麗《れい》なキミに」
彼は微笑《ほほえ》みながら、ポケットに収まるくらいの箱を彼女に渡す。ちょうど指輪が入ってるくらいの大きさだった。
少女ははしゃぎながらそれを受け取り、一転、はにかんだような顔になった。
彼の胸に手を押し当て、
「そういう、ぷれぜんとも嬉しいけど」
目を閉じ、そっと唇を差し出す。彼は細かく笑顔を引き攣《つ》らせた。
「おいおい、こらこら、主演女優。それは台本にないぞ」
「あどりぶ、あどりぶ」
少女は澄《す》ました声で答える。少年は何かを懸《けん》命《めい》に抑えて深呼吸。震《ふる》える手で少女の肩をかき抱いた。
が。
とうとう、我慢できなくなって叫んだ。
「だああ─────! なんなんだ、このかゆい展開は!」
そう言って地《じ》団《だん》太《だ》を踏む。
彼、川《かわ》平《ひら》啓《けい》太《た》。少女、ようこである。
ようこは白い目で啓太を睨《にら》んだ。
「あ〜あ、せっかくのお芝居、ぶちこわし」
「あのな」
「だって、仕方ないじゃない。カリナさんがそう作ったんだもん」
ようこは肩をすくめて笑う。啓太の耳に詰まっていた小型のイヤホンから叱《しっ》声《せい》が聞こえた。
「そうだ。川平、きちんと演じたまえ。役になり切れていないぞ!」
仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》だった。
どこか遠くから監《かん》視《し》しているはずで、台本兼演出を行っている。啓太は少し情けなさそうに襟《えり》元《もと》のボタンに偽装されたマイクへ話しかけた。
「でもさ、これはちといくらなんでも、べた過ぎないか?」
「べた……」
どこか傷ついたような声が返って来た。
「少女漫画を」
「え?」
「妹から借りた少女漫画を幾つか参考にしたのだが……そんなに変か?」
「はっきり言って最悪」
「……」
「もしも〜し?聞こえてるか?」
「ごほん。川《かわ》平《ひら》、とにかくターゲットを捕《ほ》捉《そく》したら、知らせるんだ。これにお前の前科がかかってることを忘れるなよ」
「へえへえ、分かりましたですよ、ボス」
啓《けい》太《た》ははあっと溜《ため》息《いき》をついて、通信を切った。ようこがにこにこしながら、彼の腕に自分の腕を絡ませる。
「さ、つづきつづき♪」
「楽しそうだな、お前……」
「だって、おしゃれなでーと、だも〜ん♪」
二人はそうやって次の目的地、美味《おい》しいカプチーノを飲ませる喫茶店へ向かう。その少し後をスーツ姿の仮《かり》名《な》が追っていた。
「心ない男だ……」
イブ。
波乱が起こりかけていた。
「ターゲットは栄《えい》沢《さわ》汚《お》水《すい》」
仮名は、ポケットから取り出した蛇《じゃ》腹《ばら》型のディスプレイを、さながら勧《かん》進《じん》帳《ちょう》のように広げて読み上げてみせる。ほわんと青白い光が留置所内に灯《とも》った。
啓太とようこは黙《だま》って聞いていた。
「生前、品のないジュニア小説を書いて生計を立てていたが、あまり売れてはいなかったようだ。去年のクリスマスに車に撥《は》ねられて死んだ。身寄り、縁《えん》者《じゃ》はいない。記録には残っていないが、どうも軽犯罪の常習者だったらしい」
「……なにやらかしてたんだ、そいつ?」
啓太が片手を上げると、仮名は咳《せき》払《ばら》いを一つした。
「君と同じだ。夜中、コート一枚以外は素っ裸で街を徘《はい》徊《かい》。婦女子を見つけては、己の……まあ、ごっほんを提示して喜んでいたらしい。要するに変態だな」
「俺《おれ》はんなことしてねえ!」
啓太が叫ぶ。ようこは口元に手を当てて、くすくす笑っていた。
仮名は冷淡に告げる。
「まあ、そこら辺はどうでもいい」
「よくない! 俺《おれ》のは全部、こいつのせいなんだよ! なあ、頼むから聞いてくれよ、はっきりさせておいてくれよ!」
「まあまあ」
「おい! こら、張本人!」
「それで、私たちが会ったのがそのエイサワなのね?」
「ああ」
「倒したと思ったのに……」
ようこは唇を噛《か》む。仮《かり》名《な》は重々しく首を振った。
「そんな生ぬるい相手ではないのだ」
そう言って、持っていたディスプレイをくるりとひっくり返した。そこにはおどろおどろしい表紙の本が映っていた。月と朽《く》ちかけた骸《がい》骨《こつ》が三体。いずれも、両手を怨《えん》嗟《さ》するように差し上げている。
古びた皮ばりで読みにくい文字が金糸で縫《ぬ》ってあった。
「和製の魔《ま》術《じゅつ》書、『月と三人の娘』だ」
「へ〜」
「なんだよ、それ?」
「世界魔術防疫機構が指定しているAランクの要注意文書だ。ここに書いてある通り手順を踏めば、猿《さる》でもバッタでも魔王となれる。危険きわまりない代物なのでな、私は特に専門でこの本を追いかけている」
「ほう」
「それを栄《えい》沢《さわ》は手に入れていた……死ぬ前に最後の一線を踏み越えたらしい」
「つまり、魔王となった訳か」
「魔王となる素質は念。強烈な念だ。奴《やつ》は生前、カップルを羨《せん》望《ぼう》を通り越して死ぬほど妬《ねた》んでいた。これは恨みの念だ。次に奴のただ一つの趣《しゅ》味《み》、ストリーキング。これもこの世に仇《あだ》なすほど、凄《すさ》まじいものだった。そうして、条件が見事に揃《そろ》った。栄沢はひたすらカップルに嫌《いや》がらせを繰《く》り返し、裸で街を徘《はい》徊《かい》する魔王と成り果てたのだ!」
ぐっと拳《こぶし》を握る仮名。啓《けい》太《た》はげんなりした顔になった。
「あらかじめ、法律で取り締《し》まれなかったのかよ、そいつ?」
「法改正を検討中だ」
と、仮名は真顔で答える。ようこは首を傾《かし》げた。
「ねえねえ、その、つきとむすめ、はどうしたの?」
「奴の部屋から押収してある」
「しかし、危険なもんが一般人にぽんぽん、手に入る世の中だな」
「同感だ。だが、児童館の絵本コーナーはさすがに我々の盲点だったのでな」
「……って、おい!」
「なんにしても、奴《やつ》を止めねばならない。川《かわ》平《ひら》、そこで君の出番なのだ」
啓《けい》太《た》は溜《ため》息《いき》をついた。
「まあ、なんでもいいんだが……そこがまるで分からん。なんで、俺《おれ》なの?」
「理由を言おう。一つ。留《とめ》吉《きち》が君を推《すい》薦《せん》したからだ。二つ。カップルだからだ」
「カップルう〜?」
思いっきり眉《まゆ》をひそめる啓太。ようこはぱたぱたと嬉《うれ》しそうに尻尾《しっぽ》を振る。
仮名は構わず続けた。
「三つ。君が奴の側、つまり裸でうろつく人間の心理に詳しいからだ」
「詳しかねえよ!」
「四つ。なにより、君が犬《いぬ》神《かみ》使《つか》いだからだ。正義を為《な》すこと。それが君の使命だろう? それが不満か?」
「……」
「ケイタ?」
「分かったよ」
啓太は肩をすくめた。それから、気を取り直したように、
「確かに俺たちの建前はそうだし、仕事は断れない。だけど、ボランティアじゃないから、ちゃんとギャラは貰《もら》うぞ?」
「むろんだ。それにボーナスとして、君の犯罪歴を消してやろう」
「ひゅ〜、凄《すげ》えな。そんなこと本当に出来るの?」
思わず口笛を吹いて、目を瞠《みは》る啓太。仮名は深く頷《うなず》き、告げた。
「よし。以後、作戦終了時まで君たちは私の指揮下に入る。作戦名は『サイレントナイト・オペレーション』だ。異存はないな?」
「……そのネーミングセンス以外はな」
「わ〜い♪」
そうして、にわかチームが結成された。
「ケイタ、ケイタ、これにが〜い」
「つって、要するにいちゃいちゃしてみせて、誘《おび》き寄せるだけか。まあ、確かにクリスマス・イブこそ奴には許し難いんだろうな。その日に死んでるし」
「ねえ、ケイタ、聞いてる? これ、苦い!」
「それ。砂糖、入れてみ」
「これ?」
「ただ、どうにもこうにもアホらしいというか、なんというか」
「あ、ほんとだ。あま〜い」
喫茶店である。品の良いアンティークで調度品が整えられ、コーヒーが一杯800円もする。程良く暖かく、椅《い》子《す》は柔らかい。ウエイトレスの身のこなしは洗練されたもので、洒落《しゃれ》たジノリのカップに小さなクッキーがついてきた。
仮《かり》名《な》から作戦実費を渡されなければ、とても啓《けい》太《た》には踏みこめないような領域である。実際、客席を埋める人々は皆、見栄えのする格好をしていた。
その中で、啓太はテーブルに頬《ほお》杖《づえ》をついてぼんやりスプーンをかき回していた。
ようこは砂糖をどっさり入れたコーヒーを啜《すす》っている。
「これだと、ちょこれーとけーきの味がするね」
ふふっと両手でカップを包みながら、微笑《ほほえ》むようこ。
啓太はふと気になって身体《からだ》を起こした。
「なあ、前々から聞こうと思ってたんだけどさ。そもそも、お前、なんでチョコレートケーキにこだわるんだ?」
「え? どういう意味?」
「だって、お前、俺《おれ》と契約するまでは山にいたんだろ?」
「うん」
「なら、なんでチョコレートケーキの味なんか知ってるんだ?」
その問いにようこは黙《だま》りこむ。やがてぽつりと言った。
「忘れちゃったの?」
しばらくの間。
二人は見つめ合う。
じっと。どこまでも。
店内のバックグラウンド・ミュージックが遠のいていく。
「忘れちゃったの?」
その瞳《ひとみ》の奥に冷たい光が浮かんでいた。
「……お前、なにを言ってるんだ?」
「あんなに綺《き》麗《れい》って誉《ほ》めてくれたのに。あんなに可愛《かわい》いって言ってくれたのに、ケイタはもうすっかり忘れちゃったの?」
啓太は何故《なぜ》か胸が騒《さわ》ぐのを感じていた。記《き》憶《おく》を貯蔵している脳の一部が引っかかれる気分。もどかしい想《おも》い。遠い昔。どこかで彼は。
ちょこれーとけーき、の欠片《かけら》を。
美味《おい》しいと言って。
あげた。
「おい!」
と、その時。
『緊《きん》急《きゅう》入電、緊急入電! ターゲットが中央街に現れた。大至急、急行せよ!』
耳元で仮《かり》名《な》の声が爆《ばく》発《はつ》した。
「しくじったか……」
仮名はほぞを噛《か》んでいた。栄《えい》沢《さわ》が現れて、交通規制された大通りはパニックである。行き交っていた冬衣装の人たちは我先に四方へ散っていく。雪が降り始め、清浄な気《け》配《はい》の中、殺気だけが膨《ふく》れ上がっていった。
「ばかやろ──!」
「わ、くるなくるな!」
素っ裸の男たちがなんとか身を隠そうと、近くの路地に駆けこむ。その度、人々の群れがどっと押しやられる。もはや、和やかなムードなどどこにも無い。誰《だれ》も彼もが己のことで精一杯だった。その中央。
人波を押し分けるようにして栄沢が悠々とこちらに進んで来る。
黒いマント。黒い頭《ず》巾《きん》。
彼が足を動かす度、近くの男たちから服が瞬《しゅん》時《じ》に剥《は》ぎ取られていく。一切が無差別。カップルもシングルもない。ただ、男だけが脱がされていった。
もみくちゃな悲鳴。
「いやあ、来ないで来ないで!」
「警《けい》察《さつ》はどうした!?」
そんな叫びが徐々に遠ざかっていった。
「ふははは、さあ、逃げろ逃げろ! くだらん祭りにはしゃぐ愚民共!」
栄沢は両手を煽《あお》るように振って、哄《こう》笑《しょう》した。はっはっはっと肩を揺すり、辺《あた》りを見回す。すっかり人《ひと》気《け》が無くなった事を確認して頭巾をとった。
「ほう、粉雪か……」
彼は手の平に落ちた雪の欠片《かけら》をぺろりと舐《な》め、歪《ゆが》んだ笑いを浮かべた。
「我が戦陣を祝うが如《ごと》く、か。これからますます脱がせ、と、カップル共を地《じ》獄《ごく》に叩《たた》き落とせ、とそういうことか。神よ」
「神の御意志を勝手に曲解するな、バカ者。お前の悪行はここで終わりだ」
ゆらり。睨《ね》め上げる。
「……誰だ?」
「栄沢|汚《お》水《すい》、度重なる悪逆非道。もはや天の理《ことわり》はお前の存在を許しておかぬ」
スーツ姿の男が立ち塞《ふさ》がる。すっかり閑散とした大通り。風が吹いて雪を舞い上げる。びしっと指を突きつけた。
「全《すべ》ての祝祭を祝う恋人たちに成り代わって、この仮《かり》名《な》史《し》郎《ろう》がお前を浄化してやる!」
「ほう。面《おも》白《しろ》い」
栄《えい》沢《さわ》は不敵に腕を組んだ。
「骨のあるのが出てきたな……是非とも脱がしてやろう」
対《たい》峙《じ》する二人。気合いが静かに満ちていく。風がマントの裾《すそ》をはためかせ、ちらりと肌が見えた。仮名は何かを振り払うように目をきつくつむると、ポケットに手を突っこんでメリケンサックのような物を手にはめた。
じゃっきんと親指の方から光が伸びる。
光はさらに白く、大きく膨《ふく》れ上がっていった。
「いくぞ! エンジェル・ブレイド」
いつの間にか先端が天使の羽のように広がった不思議な形の剣が握られていた。仮名はそれを左右で一、二度、風車のように旋回させた。
「聖なる息吹《いぶき》よ、形をなして悪を払え」
瞬《しゅん》時《じ》。凄《すさ》まじい速度で仮名は距離を詰める。一度、足で地面を蹴《け》り、力強く跳んだ。大きく左に刃を振るい、
「くらえ。必殺、ホーリー」
右に身体《からだ》を流して反動をつける。遠心力は弧となり、弧は破《は》壊《かい》を導《みちび》く。
仮名の霊《れい》力《りょく》がこもって、軌跡が眩《まばゆ》い銀色に輝《かがや》いた。
「クラッシュ!」
打ちつけた。
ばちんと火花が散って、栄沢の身体が砕けたかに見えた。
しかし。
「く!」
手《て》応《ごた》えが無かった。
同時に仮名は背後に跳《ちょう》躍《やく》した。案の定、異様な邪気の塊が襲《おそ》いかかって来る。仮名は着地後、再度跳ねた。
栄沢の姿が上空で再構成されているのが見えた。
「ふはははは! ていくおふ!」
栄沢は下に向かって手を押し出した。邪気が溢《あふ》れる。もわもわっとしたピンク色の雲のようなものだ。
触れてはいけない!
「く!」
仮名はとっさに転がってそれを避《さ》けた。靄《もや》はぎりぎりをかすめて背後で炸《さく》裂《れつ》。振り返ってみると、植えられていたモミの木が真っ裸になっていた。青々とした葉が落ち、モールや綿雪などの飾り付けなども消えて。茶色い枝が寒空に晒《さら》されている。
ぞっと冷たい汗が仮《かり》名《な》の背筋を流れた。
あれが直《ちょく》撃《げき》すれば……。
「脱がされてしまう、のか?」
なんと恐ろしい攻撃。
「はははは、さあ、我が仲間となれ!」
「誰《だれ》がなるかあ─────!」
仮名は心からそう叫んで、跳んだ。
しかし、劣勢だった。いかんせん、空を飛べない仮名は打撃を加える事が出来ない。それに対して、栄《えい》沢《さわ》は上空から嬉《き》々《き》として邪気を撃《う》って来る。
逃げるのに精一杯だった。細かい靄《もや》は徐々に避《よ》け切れなくなり、コートの片《かた》袖《そで》。靴。ズボンと段階的に脱がされていく。
「この!」
転がった拍子に、体勢を崩した。立ち上がれない。もがく。イヤだ。イヤだ。こんなバカらしい事で今まで真《ま》面《じ》目《め》に歩んできた人生が。
栄沢は勝ち誇る。
「ふははは、これで終わりだあああ─────! れ〜〜〜〜っつ、すとりっぷ!」
「!」
直撃。仮名は観念して目をつぶった。
だが。
「な、なに?」
寒くない。
声が響《ひび》く。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において命じる。蛙《かえる》よ、破《は》砕《さい》せよ!」
「ぷら〜す、だいじゃえん、特大版!」
どご〜ん。
どがあ─────ん!
かっと閃《せん》光《こう》。栄沢を飲みこんだ。
凄《すさ》まじい爆《ばく》風《ふう》が起こり、モミの木がばさばさ揺れた。
「ぐあぁ──────!」
苦《く》悶《もん》の叫び。仮名はとっさに顔を庇《かば》う。
「まだまだ、白山名君の名において命じる。蛙よ、爆砕せよ!」
「同じく、だいじゃえん、二発目!」
さらに声が続く。
ずんと腹に響《ひび》く衝《しょう》撃《げき》。轟《ごう》音《おん》。
大気が震《ふる》え、圧力が襲《おそ》いかかって来た。辺《あた》りのガラス窓が一斉に音を立てて砕け始める。柵が地面から剥《は》がれ、看板が吹き飛んだ。
たまらず仮《かり》名《な》は尻《しり》餅《もち》をつく。
目もくらむような光の中、仮名は確かに見た。
「き、きみたち」
彼の前に立っている二つの影。
振り返ってにやりと笑う。
「へ、お待たせ」
「カリナさん、だいじょ〜ぶ?」
ようやく、熱波が収まって仮名は目をぱちくりさせた。
「あれ? 私は」
脱がされたはずなのに。
「服?」
きちんと服を着ていた。ただ、さっきまでと違うコート。
「ようこくん。君がやってくれたのか?」
「うん。しゅくち、しておいたよ♪」
見れば随分と小さい。小さい訳だ。それは啓《けい》太《た》が着ていた物だった。そのため、ズボンやシャツの袖《そで》はつんつるてんだった。
その代わり。
「おい、ようこ」
啓太が震え声を出した。
「なんで、お前、なにがなんでも、俺《おれ》を脱がそうとするかなあ?」
当然、彼は素っ裸になっていた。ようこが悪戯《いたずら》っぽく答える。
「だって、手近に服がなかったんだもん。カリナさんを裸にしちゃ可哀《かわい》想《そう》でしょ?」
「だからって、俺をパンツまで脱がすな、バカ犬!」
さすがに寒さに耐えかねて、啓太がくしゃみをする。肩を両手で抱いて、その場で足踏みし始めた。ようこがあはは、と笑った。
緊《きん》張《ちょう》が解けて、仮名はほうと息をついた。
なる程、良いコンビだ。
思わず苦笑が漏れる。ふと栄《えい》沢《さわ》がいた所に目をやると、彼は地面から懸《けん》命《めい》に立ち上がろうとしていた。
「負けるものか、負けるものか……負けるものか〜! 俺は露《ろ》出《しゅつ》卿《きょう》だああ────! 全《すべ》てを統《す》べる裸体の貴族だああ─────!」
啓《けい》太《た》とようこも気がつく。
「おやおや、しぶといな」
「あれだけやったのにね〜」
仕方ない、と啓太はようこに目配せした。ようこはすぐに頷《うなず》き、人差し指を上げる。同時に啓太が仮《かり》名《な》の方に手を伸ばした。
自分が着ていた服のポケットから小さな木箱を取り出す。
封。
と、字が施してある。
「我らがいたエデンの園。そこではみんなみんな裸! もう女とて容赦しないいいいー!」
栄《えい》沢《さわ》は飛び上がりざま、執念の邪気を放った。とてつもなく大きい。三人をまとめて包む程である。
ふ。
しかし、啓太は不敵に笑って一歩前に出た。
大きく両手を広げ、全《すべ》ての攻《こう》撃《げき》を受け切った。全くたじろぐ事がない。その瞬《しゅん》間《かん》、誰《だれ》の目にも勝敗は見えた。啓太の勝ちだ。
栄沢は愕《がく》然《ぜん》と膝《ひざ》を落とす。
「あ、あ……」
啓太はさらに歩を進め、言い放った。
「お前の攻撃には一つ、致命的な弱点がある」
仁《に》王《おう》立《だ》ちになって、
「すでに裸の人間にはなんら効果がないのだ!」
腕を組み、高笑いした。
「わはははははは!」
がっくりとうなだれる栄沢。ひゅ〜と冷たい風が吹く。
雪も、氷も凍えるよう。
そこから少し離れた所でようこと仮名がひそひそと話していた。
(恥も、外聞も、捨てたにんげんって強いのね……)
(君、あんなご主人様で恥ずかしくない?)
啓太はかあっと赤面して振り返った。
「こら、そこ、外野、うるさいぞ!」
その時、隙《すき》が出来た。
「わあああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
栄沢は形《なり》振《ふ》り構わず逃げ出した。
「あ」
「しまった」
「早く、おいかけろ!」
「うひうひひうひひ」
栄《えい》沢《さわ》は矢のように空中を疾走する。目はもう何も見ていない。彼は一直線に救いを求めて、走った。
教会へ。
はらりとマントが剥《は》がれた。
尖《せん》塔《とう》。雪の中、聳《そび》える教会。鐘《かね》。
賛美歌が流れる。
暖かい蝋《ろう》燭《そく》の光。荘《そう》厳《ごん》に奏でられるオルガンの音。
重い樫《かし》の木の扉。
そこを開けたら。
開けたら、救いが。
「いや」
思い直す。俺《おれ》のこの身体《からだ》。
うふふ。
俺の存在意義。
「それより、みんな俺を見てくれえ──────!」
人々が祈る厳《げん》粛《しゅく》な場、裸で乱入。全《すべ》てをぶち壊《こわ》す。
素《す》晴《ば》らしい。なんと素晴らしい。
栄沢が歓喜の表情で手を伸ばした瞬《しゅん》間《かん》。
じゃえん。
ごおっと炎に身を包まれて、栄沢は地面を転がった。
「あちちち!」
ハレルヤ。ハレルヤ。
身体を再構成する暇がなかった。背中に火を背負って、たまらず、宙に飛び上がる。逃げようとする。そこへ。
しゅくち。
吹雪《ふぶ》いたように雪が集まって、中心に仮《かり》名《な》が現れた。
エンジェル・ブレイドを構え、自由落下。すれ違いざま、栄《えい》沢《さわ》を薙《な》ぐ。
氷のような目。
気合いの声。一《いっ》閃《せん》。
「ぐわあああ───────!」
青白い火花が散って、栄沢の身体《からだ》が砕ける。混声合唱が響《ひび》く。ちりぢりになって別の場所で立て直そうとする。
「わはははは、我が身体は不死身! こんな攻《こう》撃《げき》では」
しかし、それはトラップ。
歌声が天上にまで突き抜けていく。女性の声。男性の声。その至高の音に合わせて栄沢は身体ごと転送される。
塵《ちり》となって質量を失った瞬《しゅん》間《かん》。
ようこはそれを待っていたのだ。
しゅくち。
栄沢は、いつの間にか自分が小さな箱の中に閉じこめられている事に気がついた。
周りから逃げられない。
「じ、えんど」
誰《だれ》かが笑った。
「白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》の名において告ぐ。蛙《かえる》よ、」
ぽとん、と。
蛙の消しゴムが箱の中に落ちて来た。
爆《ばく》砕《さい》せよ。
「え?」
力が。
存在を粉々にする圧力が内へ内へ。破裂。
目も眩《くら》む閃《せん》光《こう》。
栄《えい》沢《さわ》は手を広げた。
「ああ、こんなにも暖かい……」
舞い踊る雪。天使が降りて来たのか。賛美歌が辺《あた》りに谺《こだま》する。
静かな静かな幕。
昇天。
「って、そうはいくかあ─────!」
粉々に砕かれてもまだ栄沢は生きていた。執念だった。妄念だった。もはや、魔《ま》王《おう》となって成《じょう》仏《ぶつ》出来る身の上ではない。
風の中、雪の中、はいずり回って身体《からだ》をかき集める。
「俺《おれ》はカップルが大嫌いだああ───────!」
泣く。
泣く。
泣き続ける。
そこへ、すたすたとようこがやって来た。
「ふ、ふははは、なんだ、トドメを刺しにきたのか?」
栄沢は彼女を見上げた。ようこはううんと首を振った。
哀れむような、悲しむような顔。
少し頬《ほお》を染めている。
「あのね、えっとね」
「ふ。敗者への労《いたわ》りなど」
「ううん。そうじゃなくって、わたし、ケイタくらいしか知らないんだげど」
「な、なんだ?」
嫌《いや》な予感。ようこはもじもじしてから、上《うわ》目《め》遣《づか》いで、
口元に拳《こぶし》を当てて、
「もしかして、×××××が人よりも小さいの?」
トドメだった。
今度こそ、本当に本当の最後だった。栄《えい》沢《さわ》は滂《ぼう》沱《だ》した。それだけは言われたくなかった。大きいって、たった一言、そう言って欲しかった……。
それだけだったのに。
「さよなら」
すうっとかすれて、栄沢は灰になった。風が舞い、たちどころに風化していく。さらさらさらっと。泣き笑いのまま。
成《じょう》仏《ぶつ》。
雪と風と歌声。
全《すべ》てが静かに染み渡る。
かつて栄沢だった物が、細やかな光と共にひょろひょろと天に昇って行く。
「じょ〜ぶつせよ〜」
啓《けい》太《た》はにこやかに笑いながら手を振った。仮《かり》名《な》は呆《あき》れ顔で言う。
肩に積もった雪を払いながら、
「えげつないなあ、君は。よくあんな死者にむち打つような言葉を思いつくものだ」
首を振った。
「そうだよ、ケイタ。とっても恥ずかしかった!」
ようこがとてとてと駆け戻って来て、抗議した。赤面している。
啓太はからからと笑った。
「ま、あれだけやれば二度と、復活できないだろ?」
彼は栄沢が落とした黒マントを拾い上げ、鮮《あざ》やかに裾《すそ》を翻《ひるがえ》して身につけた。同時に、ようこがふわっと浮かび上がってその肩に座った。
いつもの定位置で、満足そうに顎《あご》を彼の頭の上に乗せる。息のあったタイミングだ。
仮名は微笑《ほほえ》む。
「たいしたものだ、君たちは。これで、任務完了だな」
「なら、早くギャラ、たのみますぜ」
「銀行振り込みでいいか?」
「なんでもいいっすよ。どうせ、またそのうち会えるんでしょ?」
「ああ、この服」
と、仮名は袖《そで》を引っ張る。
「それまで借りておく。賃料は上乗せだ」
「ご随意に」
にやり。
にやり。
二人はどちらからともなく、手を差し出し合って、握手をする。互いの中に、同じ思いを確かめ合う。
つんつるてんの着物と裸にマントという可笑《おか》しな組み合わせ。
「それでは、私は失礼する。また、会おう」
仮《かり》名《な》はくるりと振り返ると、そのまま、歩み去って行く。余計な事は何も言わない。それを見送って、ステンドグラスが投げかける黄色い光を背に、啓《けい》太《た》もまた歩き出す。
一つ思いっ切りよく頷《うなず》いた。
陽気な声で、
「よし、金、入ったらあのチョコレートケーキ、丸ごと買ってやる!」
そう言った。ようこはびっくりした顔になった。
「え、ほんと!?」
「ほんとほんと。これから、面《おも》白《しろ》くなりそうだからな。前祝い」
「わ〜い♪」
雪はどんどんと密度を増していく。辺りに深々と降り積もっていく。だけど、二人は賑《にぎ》やかに笑い合う。
一匹の猫《ねこ》が横切った。
蜂《はち》蜜《みつ》色の猫。
にゃ〜ん。
その後を白い猫が追いかける。彼[#「彼」に傍点]にも連れ合いはいたのだ。
P. S.
「け〜き、け〜き♪」
「うう。今回は辛《つら》かった。書いてて、本当に辛かった……哀《かな》しかった……うう」
「……あんた、誰《だれ》?(汗)」
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朝。ぬくぬくとお日様が射《さ》しこんで来るまでようこは寝ている。幸せそうにくるまっているタオルケットは啓《けい》太《た》のお古。
いつしか彼女専用になって歯形がついた。匂《にお》いがついた。時折、啓太がそれを洗ってくれると柑《かん》橘《きつ》系の香りが颯《さっ》爽《そう》とするので洗《せん》濯《たく》は好きだ。
いつか必ず覚えようと思っている。
とりあえず今の彼女は夢の中。
がんがん。
半《はん》鐘《しょう》の音がする。
炎が燃《も》え盛っている。
ようこは笑っている。
江《え》戸《ど》の町は火中に沈む。
ようこは高らかに笑っている。振り袖《そで》を身にまとい、暗黒の夜空を思う存分、駆けながら紅《ぐ》蓮《れん》の炎とともに狂おしく舞い踊る。
火の見《み》櫓《やぐら》に立っているのは啓太。
サムライ姿の啓太。こちらを見て凄《すさ》まじい雄《お》叫《たけ》びを上げている。彼の手元には大き過ぎるくらい大きな刀。
それを振りかざし、振り回し、啓太は宙に飛ぶ。
同時にようこはケモノと化し、襲《おそ》いかかる。
真っ向から迎え撃《う》つ。
一面の炎の上。
二人はぶつかり合う。
半鐘の音が圧倒的に耳元で谺《こだま》する。
その時。
「いい加減、おきろ! バカ犬!」
耳を強く引っ張られる感覚。ようこはようやく目を覚ました。不安そうな寝ぼけ眼《まなこ》で辺《あた》りを見回してほっと安《あん》堵《ど》の溜《ため》息《いき》をついた。
異常な映像と現実の落差。黒い学ラン姿の啓太はいつも通りだった。
花柄エプロンをその上につけて、腕まくりをしていた。片方の手にお玉。卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の上には香《こう》ばしい匂いを立てている中華|鍋《なべ》が置いてある。
どうやらそれを叩《たた》き合わせていたらしい。
半鐘の音の謎《なぞ》が解けた。
「ふん」
啓太は半目になって鼻を鳴らした。
「全く、よく寝るやつだよな」
えへへ。
と、ようこは照れ笑いをした。
「歯磨き!」
啓《けい》太《た》が偉そうにそう命令する。ようこは素直に流しに向かった。牛乳の空き瓶にささったピンク色の歯ブラシをとり、歯磨き粉をつけ、歯をこする。
「顔洗い!」
ようこは蛇《じゃ》口《ぐち》をひねり、口を濯《ゆす》ぎ、冷たい水で顔を洗う。そうしないとご飯を食べさせてもらえない取り決めになっていた。
その間、啓太は手際よく中華|鍋《なへ》の中身を皿に取り分けていた。
「よ〜し、飯にしようぜ」
ようこは頷《うなず》き、軽やかに身を翻《ひるがえ》すと一《いっ》瞬《しゅん》の後に啓太の前に座った。
「いただきます!」
朝から濃《こ》い味つけの焼きそばだった。しかし、ようこも啓太も猛然とそれをかっこむ。啓太の腕前は決して悪いものではなかった。
お代わりが二度、三度、繰《く》り返される。
「ごっそさん」
柏《かしわ》手《で》を打つように礼をする啓太。
彼は素早く立ち上がると、
「じゃ、後でな」
卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》の足に立てかけていた学生|鞄《かばん》を手にとって玄関に向かった。革靴に忙しく足を突っこみ、青いマフラーを巻いて駆けだして行く。
ばったん。
ドアが閉まった。
いってらっしゃい。
ようこは小さく手を振ってそれを見送った。
もぐもぐと咀《そ》嚼《しゃく》を終え、空いた皿を流しに持って行った。洗剤がない家だから水洗い。手で汚れをぬぐい、ちゃんとフキンも使った。
これは啓太に教わった。
でも、にんげんのやることにしてはあんまり面《おも》白《しろ》くない。
どうせなら、啓太の焼きそばを覚えようと思う。
それといつか必ず啓太の学校について行く。
彼女は卓袱台に戻って来ると頬《ほお》杖《づえ》をついて物思いに耽《ふけ》った。啓太の事。禁止されている啓太の学校の事。
遠い空の事。ちょこれーとけーきの事。
今日の夢の事。
恐ろしい形《ぎょう》相《そう》で挑みかかって来る啓《けい》太《た》は悲しく、切なかった。
ようこは頭を振り、イヤな記《き》憶《おく》を忘れようとする。どうも昨日、啓太と見た時代|劇《げき》、「国《こく》士《し》無《む》双《そう》侍《さむらい》」の一場面が頭に残っていたらしい。
ようこは「国士無双侍」があまり好きではなかった。
アレが始まると啓太はしばらく相手をしてくれなくなる。つまらない。ラックに手を伸ばし、ビデオテープを手に取る。
弄《もてあそ》ぶ。前のえっちな本みたいに焼いてやろうかと思ったが止《や》めた。
啓太の怒る姿は常にようこをぞくぞくさせたが、今日はあんまりそういう気分にはなれなかった。ビデオテープを放り出し、大きく欠伸《あくび》をする。
ごろごろと転がる。
いつの間にか瞼《まぶた》がすっと閉じた。
座布団を抱えこむようにして、うたた寝。雲がこくこくと流れ、陽《ひ》射《ざ》しの向きが変わり、時計の長針が何周かする。
目を覚ますともうお昼過ぎだった。
窓の外に目をやり、澄《す》んだ冬の空を眺め、外出する事にした。押入れを開き、自分専用の段ボール箱から丁寧に畳んだ洋服を取り出す。
今のところ彼女は五着の洋服を持っている。大事な宝物だ。一番上には啓太が買って来てくれたファッション雑誌。
着回しという事を覚えれば少ない洋服でも満足出来るようになるそうだ。でも、ようこにはまだちょっと難しい。
彼女は桃色のキャミソールにミュールという姿に着替え、ついでに真っ赤なマフラーを首に巻いてみた。暖かいという感覚も、冷たいという感覚も、人《じん》妖《よう》であるようこには無関係だが雰囲気は好きだった。
手《て》鏡《かがみ》を使ってチェック。
にっこりと微笑《ほほえ》む。
悪くない。
ようこは満足そうに頷《うなず》くと天井の暗がりめがけて飛んだ。
空気が冷たく潤《うる》みを帯びていた。今日は昼過ぎから雪なのだそうだ。
太陽の光も程々で、雲の流れは結構早い。心地よい風を頬《ほお》に受け、ようこはとっても嬉《うれ》しくなる。家々の屋根を跳《ちょう》躍《やく》しながら、元気よく空き地に向かった。いつしか「国士無双侍」の主題歌を口ずさんでいた。
電柱。
青い車。ポスト。
タバコ屋の角を右。身体《からだ》と目が街を覚え始めている。
すとんと降り立った空き地では猫《ねこ》の集会がもう始まっていた。そよぐ雑草の海の中で点々と毛糸の塊のような猫たちが散在している。つい最近、シメタばかりの灰色猫がようこの顔を見てギョッとしたように身をすくませた。
他《ほか》の猫たちは恭《うやうや》しくようこを迎える。
一同の大ボス。茶色のとてつもなく大きな長老猫が長々と鳴いた。
歓迎の意だ。
ようこはちょっと威張ってもっともらしく頷《うなず》いた。
彼女はここら一帯の野良猫界では客分格として大きな尊敬を受けていた。土管の上の特等席に座っていた何匹かが、慌ててようこのために場所を空ける。ようこはくすくすと笑ってそこに腰を下ろすと、飛び降りた猫たちをもう一度、招き寄せた。
おいで。
みんな、おいで。
それを見て他の猫たちもなあなあ鳴きながらすり寄って来る。
寄り合いはようこを中心に、身を寄せ合うようにして再開された。ようこはにこにこしながらそのうちの何匹かを選んで抱《だ》っこする。
彼女は柔らかい猫が好きだった。
でも、犬は大嫌い。
怖いから。
空気が少し冷たくなり、薄《うす》い靄《もや》のような雲がうっすら太陽の光を遮り始めると、猫たちは集会を終え、三々五々散っていった。
ようこは手を振り、大きく空中に向かって飛んだ。途中、いつものお気に入りのビルの屋上に立ち寄って街を見渡す。
ここら一帯を炎の色で染め上げたら。
あの夢のように、果たして啓太は自分を許さないだろうか。そんな事を漠然と考えてから、街の中心部に降り立った。
頃《ころ》合《あ》いを見計らって尻尾《しっぽ》を消し、実体に戻りういんどーしょっぴんぐを開始する。
「欲しいと思う力はそうやって貯《た》めろ」
と、啓太は教えてくれた。
「貯まった力はやがてどんな想《おも》いにも届く」
大|真《ま》面《じ》目《め》な彼の顔を思い出し、ようこはくすくすと笑いながら商店街の中を歩き回った。可愛《かわい》らしい洋服、美味《おい》しそうな食べ物、オシャレな小物。
ここはいつ来ても飽きなかった。
沢《たく》山《さん》の人たちが楽しそうにしているのも好きだった。
全部、まとめて燃《も》やしたらきっと面《おも》白《しろ》そう。
夢は夢だけど。
ようこが軽やかに歩道橋を降りていると声をかけてきた若い男がいた。甘い果物となめし皮の匂《にお》いがした。
「彼女、ひま?」
ようこはこくりと頷《うなず》いた。
その男は、
美味しい物をご馳《ち》走《そう》してくれると言う。
少し遊ばないかとも言う。
ようこはちょっと考えこんでから首を振った。男はあんまり面白そうではなかった。悲鳴を上げさせてもきっとつまらない。
だが、男はしつこくようこの肩に手をかけてくる。
その手を軽く燃やしてみた。
「あちゃちゃちゃちゃちゃちゃ!」
男は叫びながら踊り出した。
ほら。
やっぱり面白くない。とりあえず水はぶっかけてやる。
男は慌てて逃げて行った。
すると、
「やれやれ。男性の誘いを差し障りなく断る方法、啓《けい》太《た》様から教わらなかったのですか?」
溜《ため》息《いき》混じりの声が聞こえた。
ようこは振り向く。
真白いコートを羽《は》織《お》ったはけが立っていた。
ワインレッドのマフラーにすらりと折り目正しいスラックス。品のある顔立ち。手に大きな荷物を抱えていた。
こんなところで会うとは思わなかった。
「全くですね」
それはなに?
と言うようこの問いに、はけは苦笑する。
「これは我が主《あるじ》より頼まれたものです」
ようこはふんふんと鼻を近づける。
「電化製品ですよ。増設用のメモリーとパソコン専門誌の最新号。それにゴルフゲームのソフトと血圧計です……もっとも最後のは私の独断ですけどね」
ふ〜ん。
「それより、ようこ。ここで出会ったのも何かの縁《えん》。私とお茶でもしていきませんか?」
お茶?
人間みたいだね。
ようこは小首を傾《かし》げる。
はけは微笑《ほほえ》んだ。
「ええ、人間のように、です」
はけと一緒に近くの『レ・ザルブル』という喫茶店に入った。内装が真新しく、あちらこちらで甘い蜜の匂《にお》いがした。
窓際の席を取る。ようこは陽気に、ちょこれーとけーきを注文した。はけはアップルティーをオーダーする。
ウエイトレスがすごくぎくしゃくしていた。
隣《となり》の席のカップルがこちらを見てひそひそ囁《ささや》いている。
「すげえな」
とか、
「芸能人? 寒そ〜」
とか言っている。注目を浴びるのは別に嫌いではない。ようこは水を飲みながら、運ばれてきたチョコレートケーキをはぐはぐと食べた。
はけはティーカップを手にとって質問を投げかけて来た。
「啓《けい》太《た》様はお元気ですか?」
うん。
「きちんと啓太様の言うことを聞いていますか?」
うんうん。
「……」
一心不乱。チョコレートで口の回りがべとべと。
はけは苦笑している。
はあ、美味《おい》しかった♪
ようこは、はけを見つめ無邪気に笑った。
「あなたは啓太様から金銭を貰《もら》っていないのですか?」
はけはティッシュでようこの口元を拭《ぬぐ》ってやりながら尋ねた。
ん?
「お小遣いがあればチョコレートケーキも食べられますし、あなたの人間理解にもきっと役に立つと思いますよ」
ようこは考えこむ。
お金は大事な物だと教わっている。
啓《けい》太《た》はそれに血《ち》眼《まなこ》になっている。
でも。
ようこは燃《も》えてしまう物に執着する気持ちがよく分からない。彼女は首を振った。
「そうですか」
はけは興《きょう》味《み》深そうに目を細めた。
その後、しばらくお喋《しゃべ》りして喫茶店の前で別れた。
商店街の大時計が六時を指している。
いつの間にか曇《どん》天《てん》が重苦しく頭上を覆《おお》っていた。ちらほらと冷たい小さな白い欠片《かけら》が舞い始めている。
はけは薄《うす》暗《ぐら》くなった路地の奥へ進んで靄《もや》のように消えた。
ようこはそれを見送ってから自分の家に戻った。灰色の景色の中、白い息を吐きながら一歩、一歩、歩いて行く。
冷たい風。
弾む足取り。今朝《けさ》、停《と》まっていた車にうっすらと雪が積もっていた。辺《あた》りは人《ひと》気《け》がすっかりなくなり、凄《すご》く遠くの物音がはっきりと聞こえた。
湿った空気の匂《にお》い。
アパートの前まで辿《たど》り着くと、『川《かわ》平《ひら》』と書かれた郵便受けの前で立ち止まり、中の封筒を引っ張り出した。
古びた木製の階段をとんとんと上がって家のドアを開く。
ただいま。
「おお、どこ行ってたんだよ?」
ミカンの香りがした。
先に帰っていた啓太はセーターに着替え、コタツに足をつっこんでいた。彼の前にはティッシュが敷《し》かれ、その上に消しゴムのかすが山となっている。
真っ赤な色をした蛙《かえろ》が二匹ちょこんと隅の方に座っていた。啓太が新しい消しゴムからカッターナイフで削り出した物だ。
はい。お手紙。
ようこは封筒を手渡し、彼の隣《となり》に並んで籠《かご》の中のミカンを取る。啓太は、
「おお、さんきゅ〜」
と言って、頭をくしゃくしゃ撫《な》でてくれた。
ようこはミカンの皮を剥《む》き、もむもむ頬《ほお》張《ば》りながらドロンと出した尻尾《しっぽ》を振る。
「ふんふん」
封を破って啓《けい》太《た》が中身に目を走らせた。
なに?
「ああ、振りこみ通知」
……。
「ん〜、要するにお金が来たの」
誰《だれ》から?
「仮《かり》名《な》」
そう呟《つぶや》いて啓太は相《そう》好《ごう》を崩した。
「たははは、やっぱり払いが良いなあ。すげえや、これ」
……ケイタ、カリナさん好き?
「ああ、また是非、お会いしたいものだぜ」
ふ〜ん。
心配しなくてもきっとまた会えるよ。
そう言おうとして、ようこは冷ややかに目を細めた。黙《だま》りこみ、代わりにむしゃむしゃとミカンを食べた。
その時。
「ん?」
啓太が顔を上げた。
ようこも気がついていた。
ほとほとほと。
何かを叩《たた》く音がする。
ほとほとほと。
啓太は反射的に玄関に目をやったが、ようこは反対側を向いていた。
彼の服の裾《すそ》を引っ張る。
「わ!」
そちらを認めて啓太が声を上げた。
猫《ねこ》の手が。
猫の手がにゅっと伸びて窓ガラスを叩いていたのだ。ようこはすぐに窓を開けてやる。ひゅう〜と冷たい風雪に混じって一匹の猫が転がりこんで来た。
「お、お久しぶりです、啓太さん……」
そう人語で喋《しゃべ》ってから、力尽きたようにべっちゃりその場に潰《つぶ》れる。
啓《けい》太《た》が慌てて猫《ねこ》を抱き起こした。
よく見ればいつぞやの温泉で出会った渡り猫の留《とめ》吉《きち》だった。
彼は清酒の一《いっ》升《しょう》瓶を背中にくくりつけていた。さぞや重かっただろう。マントに時代|錯《さく》誤《ご》的な服装は相変わらずだった。
「大丈夫か?」
と、啓太。留吉ははにかんだように笑った。
「ええ、すみません。ちょっと強行軍だったもので」
留吉はよろよろと立ち上がると一升瓶を解《ほど》いて啓太に差し出した。
「なんだよ?」
「この間の御礼です。なにぶん、忙しかったものでついついご挨《あい》拶《さつ》が遅れて申し訳ありませんでした」
ぺこりと頭を下げた。
啓太はむしろ呆《あき》れていた。
「おいおいおいおい」
「え?」
「別にんなこといいのにさ。お前、ちょっと律《りち》儀《ぎ》すぎだぞ?」
「す、すいません」
「謝《あやま》るなって。ありがたく頂くよ……美味《うま》そうだな」
「はい。特別本|醸《じょう》造《ぞう》の聞《き》久《く》酔《よい》です」
「そうかそうか」
啓太は頬《ほお》を緩《ゆる》めた。立ち上がり、いそいそと台所に向かい、ヤカンで湯を沸かす。
「ちとお燗《かん》つけるからさ、お前も呑《の》もうぜ。今日はもう泊まるんだろう?」
「い、いえ、あの」
「いいから泊まっていけって。今夜は吹雪《ふぶき》だからな。遭難されちゃかなわん」
留吉はちらりとようこを見つめた。
ようこもこくこくと頷《うなず》く。
泊まって行きなよ。
留吉は密《ひそ》かに安《あん》堵《ど》した顔になった。さすがに疲れているようだった。その後、啓太は手早く立ち回ってレトルトの焼き鳥、コンビーフとキャベツの和《あ》え物、インスタントのみそ汁と米で夕食を作った。
三人、おこたで、
「いただきます」
お猪口《ちょこ》で乾杯した。
「あ、美味しい」
と、器用に箸《はし》を使いながら留《とめ》吉《きち》が嘆声を上げた。はぐはぐとすごい勢いでようこは焼き鳥を平らげている。
啓《けい》太《た》は熱《あつ》燗《かん》に舌《した》鼓《つづみ》を打って幸せそうだった。
晩酌に留吉が半強制的にお付き合いさせられる。
「ま、ま、ま、ご一献」
「あ、ボク、そんなに呑《の》めません!」
遣《や》ったり取ったりを繰《く》り返し、二人ともいい感じで出来上がる。留吉は少し据わった目で骨《こっ》董《とう》品屋で見つけた仏像をいかに値切って取り返したかを力説しだした。
「うんうん」
と、頷《うなず》きながら杯を傾ける啓太。
酔っぱらう人と猫《ねこ》又《また》を興《きょう》味《み》深そうに見つめながら、ようこもまたお酒を舐《な》めている。身体《からだ》が火《ほ》照《て》っていい気持ちだ。
それからしばらくして、何気なく曇りガラスの外を眺めれば、凄《すご》い雪だった。
雪は細かく、強く、激しく降りしきっていた。
ようこは窓を開ける。
舞いこんで来た風と雪の粉は息が詰まる程で、思わず一歩、退いた。
慌てて窓を閉める。冷たく白い塊が部屋のあちらこちらに残った。恐る恐る振り返ると、啓太と留吉は完全に潰《つぶ》れていた。
啓太はコタツに足をつっこんだまま、眠りこけている。
その隣《となり》で猫が丸くなっていた。
ようこはくすりと笑った。
布《ふ》団《とん》をずりずり引っ張ってくると彼と猫にかけた。
それから、コタツの上を蹴《け》って、天井を透過。暗黒の空の下に現れた。どうしてそういう気分になったのか自分でもよく分からない。
ただ無性に踊りたくなった。
ようこは指先に火を灯《とも》し、螺《ら》旋《せん》を描きながら、雪に覆《おお》われた家々の屋根で舞った。炎を全身にまとい、思う存分、駆け、炎を揺るがせながら駆け抜け、そのまま、大きく跳《ちょう》躍《やく》するとするすると空に浮かび上がった。
大粒の雪の中で身体が勝手に吸い上げられていく気がした。
目をつむった。
風の音だけがはっきりと聞こえた。
冷たい暗黒の中で、大気が朗々と震《ふる》えている。
目を開け、下に向けると、全《すべ》ては深い静寂と闇《やみ》の中に沈んでいた。ただ家々に灯《とも》される無数の小さな黄色い光が見えた。
ようこはその光に見入った。今は曇《どん》天《てん》に覆《おお》われている幾百、幾千の星々がそのまま地上に写し込まれたかのようだった。
深い泉の底で琥《こ》珀《はく》の欠片《かけら》が輝《かがや》いているようだった。
暖かい。
と、にわかにようこは思った。
それは知覚と言うより、心の問題だった。街は暖かいのだと何故《なぜ》か分かった。あの光のそれぞれにニンゲンの営みが宿っている。
きっとあの中で誰《だれ》かが笑って、泣いて、怒ってる。
ならば。
と、彼女は笑う。
燃《も》える炎はもう少しお預けだ。手を大きく娠って、身にまとった炎を消す。
もっと暖かい光があんなにあるのだから。目を細めてその景色を見つめているうち、にわかに寂しくなって来た。
心にすっとすきま風が入ったようだった。
街が暖かいと感じた瞬《しゅん》間《かん》、自分にも無性に暖かみが欲しくなった。
ようこは自分の部屋に慌てて戻った。早く会いたかった。
早く安心したかった。
すとんと屋根に落ちると、そのまま天井を突き抜ける。
コタツの上に降り立った。
啓《けい》太《た》と猫《ねこ》は相変わらず、すやすやと寝息を立てていた。
ようこは嬉《うれ》しくて。
本当に嬉しくて笑った。
啓太の腕の中にいそいそと身を滑らす。
啓太。猫。自分。暖かいという身体的感触をようこは初めて実感した。外の雪の音、吹雪《ふぶき》の音が冷たく、そして、心地よく聞こえた。
心の奥から満ちてくる優しい感覚に身を任せる。
目をつむって一言。
「おやすみ、ケイタ」
あとがき
小説を書くようになって今までの人生で無《む》駄《だ》と思えた時間が随分と役立っている事に今更ながら驚《おどろ》いています。
体験。
僕の場合、これに勝る財産はありません。
痛い事も、哀《かみ》しい事も、もちろん、楽しい事も全《すべ》て僕の肉となり、血となり、文章と化してお話になっているのだと思います。
今回の『いぬかみっ!』では特にそうですが、どの作品にどのように作者の体験が反映されているかは高度なブンガク論になるのであえて触れません。
新《しん》宿《じゅく》の夜は寒かったな……。
とか書くとメディアワークスから警《けい》察《さつ》に通報が行きそうなので止《や》めておきます。正直に白状すれば間違えられた事はあります。
筋トレに燃えていた頃《ころ》、坂道ダッシュを繰《く》り返して坂の下で休んでいました。僕の服装は黒いジャージ。息を整えるために少しうつむき加減になって、はあはあやっていました。
そこへ通りかかったのが女子高生。
時間は夜の十時くらい。
逃げました、彼女。
もう一目散に。
女性から見れば無理もないのでしょうが、結構、ショックでした。
そういった経験が集積されてお話は形成されて行くのだと思います。
ただ一人ではお話は決して完成しません。『電撃hp』でこの「いぬかみ」の連載が始まった頃《ころ》、イラストレーターの若《わか》月《つき》さんが「イラスト担当の若月です」と自己紹介をされているのを見て、ああなる程と思いました。(註・若月さんにはお話作りでもそうとう助けて頂いています)
僕はあくまで「原作・文章担当の有《あり》沢《さわ》」なんですよね。Kチャットのみなさんや友人諸氏。家族一同に協力して貰《もら》って土台が出来ます。そこへ若月さんの綺《き》麗《れい》なイラストがついて、エディターの佐《さ》藤《とう》さんが全体を監《かん》修《しゅう》して、校《こう》閲《えつ》さんがチェックして、印刷所の人が刷って、営業の方が売って、書店員さんが並べて、最終的に読者のみなさんのお手元に届きます。
そのどの過程が抜けてもこの本は完成しないのです。
どうでしょう?
面《おも》白《しろ》がって頂けたなら原作・文章の有沢は本当に嬉《うれ》しいです。
少なくとも僕は書いていて非常に楽しかった。
お金なんていらないくらい。って、書くと原稿料や印税、取り上げられかねないので控えますが、もういいや〜。
これはもうこれで満足。
という瞬《しゅん》間《かん》が何度もありました。本にならなくても充分、元は取れたのに、とうとう本になってしまいました。幸せです。
ようこと啓《けい》太《た》に成り代わってこの本に関わられた全《すべ》ての方に御礼を申し上げます。
[#地付き]有沢まみず
P. S.
アドバイスをくれたT君、司法試験合格おめでとう!
Aさん、白《はく》山《さん》名《めい》君《くん》を思いついたのはあなたのおかげです。ありがとう!
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