有栖川有栖
ダリの繭
目 次
プロローグ
第一章 死の繭《まゆ》
第二章 カナリアと犯罪学者
第三章 助教授の現場検証
第四章 葬儀を終えて
第五章 雑踏の猟犬
第六章 最低の夜
第七章 真珠の目の女神
第八章 生者たちの繭《まゆ》
第九章 鳥羽《とば》にて
第十章 きらめくもの
エピローグ
ところで、「そのなか」はどんな具合だったかと訊ねられれば、私は言下に「素敵だった。楽園だった」と答えるだろう。
サルバドール・ダリ『わが秘められた生涯』より
プロローグ
ここはどこだ?
闇《やみ》。
静寂。
何も見えない。何も聞こえない。
私は誰だ?
何をしているのだろう?
浮かんでいる。仰向けに横たわって、水の上にふんわりと浮かんでいる。
私は裸だ。
全裸で水に浮いている。だが、少しも冷たくはない。
暖かい。
母の胎内もこうであったろうか、と思えるほど、優しく暖かい。
私を包む闇は柔らかい。ビロードのように艶《つや》やかで、とても柔らかくて、少しも恐ろしくはない。布のように薄い闇に、ぐるぐると幾重にも幾重にも巻かれているような気がする。
そう、私はダリだった。サルバドール・ダリ。
そしてここは、お気に入りの繭《まゆ》の中なのだ。
何もいらない。ずっとこうしていられたなら、もう、何も欲しくはない。
ああ、ずっとこうしていられたなら……
だが、やがて時がくれば、私はこのぬくぬくと心地よく秘密めいた場所から出なくてはならない。
外に出れば、抑えきれない欲望の嵐が私を薙《な》ぎ倒そうとするだろう。
神よ。もし存在するのなら、神よ。
ずっとこの楽園に留めおいていただきたい。
さもなくば、私に心の平安を。
嵐が吹き荒れる世界で、私に心の平安を与えたまえ。
ここは心地よい。
ここは、とても……
オカアサン。
「では」
友人はシャンパンのグラスを目の高さまで上げた。
「有栖川有栖《ありすがわありす》の最新の後悔に──」
私はよく冷えた自分のグラスを取って、彼に言い返す。
「老境にひと足早く近づいた親友に──」
二つのグラスが触れ合って、涼しい音が鳴った。私たちの乾杯はいつもこんなふうに皮肉の応酬という形をとる。
何に対して乾杯しているのかというと、推理作家である私、有栖川有栖の最新作の完成と、友人、火村英生《ひむらひでお》の三十三回目の誕生日を祝してだった。場所は心斎橋《しんさいばし》のこぢんまりとしたフランス料理店。ここで上品な料理とうま酒を賞味しながら互いに祝い合った後、御堂筋《みどうすじ》を走る車を眺めながら路上でラーメンを食べ、それから私のマンションに彼を引っぱり込んで朝までうだうだ言いながら飲み続ける、というのが素晴らしき今宵《こよい》の予定であった。
「明日は水曜日だってのに気楽なもんだな」
火村がシャンパンの「おかわり」を自分で注《つ》ぎながら言った。小説家である私に水曜も日曜も区別がないのは当然のことだが、彼にしても似たようなところはあった。
彼は京都の私学、英都《えいと》大学の社会学部の助教授だった。専攻は犯罪社会学。水曜は講義がないので毎週フリーなのだが、たとえ講義があろうとも、都合が悪ければ彼ら大学の先生は「休講」という切り札を持っている。そして、火村がその切り札を使う頻度はかなり高いと私はふんでいた。自分でワープロのキーを叩《たた》かない限り、蚤《のみ》の歩幅ほども仕事が進まない小説家から見れば、これは羨《うらや》ましい。
「今度のこそベストセラー狙《ねら》いか?」
器用にフォークを操ってサラダを口に運びながら火村は実につまらないことを尋ねてきた。
「ベストセラーを狙うやなんて、そんな作家の魂を悪魔に売り渡すようなことを俺は考えへん」
「馬鹿言え。世界最大のベストセラーは聖書だぜ。ま、キリストや使徒はそれを狙ってたんじゃないだろうけどさ」
大阪生まれ大阪育ちの私と違って、札幌生まれ日本中あちこち育ちの彼の言葉は、東京アクセントで歯切れがよかった。
「ところで三十三歳を迎えた火村先生の今後の抱負を聞かせてもらおうやないか。最年少教授のポストへの着実な前進か? それとも独身生活との訣別《けつべつ》?」
「はっ。結婚だって? 俺のことより、自分のことを先に考えろ。憧《あこが》れの女性のイメージをしこしこと小説に書いてる癖しやがって」
「俺はそんなもんを小説に書いたりしてない」
「でも、お前の小説に出てくる女ってどれもこれも似てるじゃないか」
私は憮然《ぶぜん》となった。
「……それは純粋に技量の問題や」
「おっと、そりゃ悪いことを言っちまったなぁ」
つまらないことを言いながら周りをふと見渡すと、楽しげに語らい合うカップルで私たちが包囲されていることに気がついた。結構なことだ。他人の幸せそうな様子を見ることは私の喜びである。
メインディッシュのフィレステーキ、ベアルネーズソース添え──だそうだ──に手をつけたところで、ウェイターが新たな二人連れを案内してきた。予約席の札が立っていた窓際の席に導くのを何気なく眺めていた私は、思わず「あ」と小さな声をあげた。
「どうした?」
空になったワイングラスを置きながら火村が聞く。
「今入ってきた客の男の方、見てみいよ。窓際の席や」
彼と一緒に私もその人物を再び見た。
背筋を真直ぐに伸ばして腰を降ろしたその男は、ナプキンをはらりと膝《ひざ》に掛けているところだった。年の頃は四十歳前後。見るからに仕立てのよさそうな濃緑のスーツに身を固め、鼻の下には蝋《ろう》で固めて両端がピンと跳ね上がった髭《ひげ》をたくわえていた。
「あれが堂条秀一《どうじようしゆういち》か」
火村は首を捻《ひね》ってそちらを見たまま呟いた。
「そうや。あのダリ髭は見間違いようがない」
「ふぅん。髭も見事だけど、宝石屋だけあってさすがに高そうな指輪を嵌《は》めてるな。右手に三つと……左手に二つ」
火村は指を差して、堂条がしている指輪の数を数えていた。
「ええ加減にこっちを向けよ」と私は言う。
「有名人を見たんで、ついしげしげ見ちまった」
彼はようやく正面に向き直り、いつものようにだらしなくゆるめて締めたネクタイの結び目に人差し指を掛けて言った。
有名人といっても堂条秀一は別に歌手や俳優ではなく、火村が漏らしたように宝石商を営む実業家である。全国に二十八の支店を持つ宝石チェーンのオーナー社長で、その急成長ぶりと彼自身のユニークなキャラクターゆえに、何度かマスコミで紹介されたことがある。シュールレアリスムの巨匠で、宝飾デザインも手掛けたサルバドール・ダリの心酔者としても知られた彼は、無邪気なことにダリを真似てそっくり同じ形の髭をトレードマークとしていた。それだから、私たちは一瞥《いちべつ》しただけで彼が誰なのか判ったというわけだ。
彼のイニシャルはダリと同じくS・D。誕生日は二人とも五月十一日で、堂条はそんなことも自慢の種にしているらしい。
「しかしアリス、堂条秀一にここで出くわしたからって、驚くようなことはないだろ?」
「ああ。ジュエリー堂条の本店は心斎橋やからな。ただ、実物を見たんは初めてや」
私たちの隣りの席のカップルも堂条に気がついたらしく、「週刊誌のグラビアで見たとおりやわ」とひそひそ小声で言っている。
「大した美人を同伴してるな」
火村が言うので私は──慌てて──また彼らの席を見た。なるほど、ダリ氏に気を奪われてうっかり見逃していた。堂条秀一とワインの銘柄について話しているところらしい同伴者は、二十代半ばと思われる色白の美人だった。横顔しか見ることができないが、長い睫毛《まつげ》とぱっちりとした目がチャーミングだ。造作が整っているだけでなく、引き締まった口元が聡明そうだった。
「ボスと秘書──かな」
私が言うと、火村はふんと鼻を鳴らした。
「ただボスと秘書が食事にきただけ。それ以上の仲ではない、と、そう願いたいんだろ?」
私は正直に言った。
「そうであって欲しい」
「彼女が現在、独身であることだけは確かみたいだな」
火村が何を根拠にそんなことを言っているのかは判る。薔薇《ばら》の形の胸の飾りをいじっている左手の細い指を見ると、指輪は薬指ではなく中指に嵌《は》まっていた。
どうしてそんなことに私は安心しているのだ? それほど惚《ほ》れっぽくはなかったつもりなのに。年齢の離れたカップルを見ていやらしく嫉妬《しつと》しているのかもしれない。彼女は堂条秀一の姪《めい》か何か──われわれ同様に独身の彼に娘はいない──かもしれないというのに。
──どうやら彼女は、ゴールデンウィークに計画している香港旅行について話しているらしかった。
「話を変えよう」私は言った。
「最近、何か面白い探偵|譚《たん》はないのか?」
「探偵譚じゃなくってフィールドワークだろ?」
火村は訂正を促した。
彼が言うフィールドワークとは、犯罪の現場に実際に飛び込み、警察の捜査に参画することだった。火村英生は文献を渉猟して論文をまとめたり、教壇に立って学生に自分の知識の切り売りをするだけの学者ではなかった。法律学、法医学、心理学にも通暁した彼は、犯罪捜査の実践──探偵だ──にも豊かな才能を有しており、警察の捜査にしばしば加わっていたのだ。医学の世界には、基礎医学者に対して、患者の治療の実践に携《たずさ》わる臨床医学者という存在があるが、それに倣《なら》って、私は彼を『臨床犯罪学者』と呼んでいた。
「そう、そのフィールドワーク」
「次の作品のネタに詰まってるのか?」
「そんなことはない。友だちの近況を尋ねてるだけや」
火村はデザートのシャーベットにとりかかっていた。
「ないよ。このところ京阪神の各警察のどこからもお声が掛からなくて」
「へぇ。警察から声が掛かるようになったのか。『先生、お知恵を拝借したいんですが』とか?」
「『きてもいいぞ』と言われるだけさ。以前は頭を下げてお願いして回ってたから、それに比べると研究もやりやすくなった」
彼の助言で解決をみた事件は十指に余るほどあることを私は承知していた。そのフィールドワークの現場に立ち合ったこともある。もちろん、協力した火村の方は売名が目的ではないので、そんなことを公にしてもらう必要はないわけだから、彼の功績については伏せられていた。公表されない方が警察と協力関係を結び、フィールドワークを継続するのに都合がいいわけだ。
「そのうち話すこともできるだろう。世に犯罪の種は尽きず、だから」
コーヒーが運ばれてきた。砂糖|壺《つぼ》に手を伸ばしながら、私は三度《みたび》窓際の席に目をやった。どういう関係なのか定かではないカップルは、静かに歓談しながら食事を楽しんでいる様子だった。
四月十五日のことだ。
それから一週間とたたないうちに、彼の言葉は的中する。いや、彼の言ったとおりになった、というのは当たらないかもしれない。火村だけではなく、私自身もある事件の捜査に足を突っ込んでしまうことになったのだから。
しかもそれは、その夜見たダリ氏を巡る不可解な殺人事件の捜査だった──
第一章 死の繭《まゆ》
右手中指に嵌《は》まったプラチナの指輪をいじりながら、堂条秀一は低い呻《うめ》き声を漏らした。リングの周囲を動くようになっている牡牛座《タウラス》のシンボルマークの飾りを、左手の指先でつまんでくるくると回している。机の上、彼の視線の先には、四月十八日現在の営業報告書が置いてあった。
「よくないな、月半ば以上過ぎても。落ち込みが激しい。今週でギャップが二千万も大きくなった」
男性的な、よく響くバリトンだった。
「すべての店で前年割れです。来週の月曜に緊急の西日本のマネージャーミーティングを開きますが、これといった手は……。バーゲンはそれなりのカンフル剤になっています。しかし、いかんせん高額商品がさっぱりです」
応える湯川元雄《ゆかわもとお》の声は冴えない。営業部長としては、とても景気のいい声を出せる場面ではなかった。熱病のような好景気が続いていた去年の今頃と比べて、売上は十パーセント近いダウンになっている。太く短い首をさらにすくめるようにして、湯川は堂条の次の言葉を待った。
ダリ髭《ひげ》の社長は顔を上げた。
「売上の推移がこのままでは今後の出店計画の見直しも考えざるを得ないな。既存店の立て直しが先だ。──月曜のミーティングは何時からだ?」
「十時です」
「私も出る」
湯川は「はい」と頭を下げた。
「よし、もういい」
再び一礼し、退出しようとする彼の背中に「湯川君」と声が飛んだ。
「すまないが、鷺尾《さぎお》君を呼んでくれ」
「はい」
湯川は社長室を出ると、ほっと肩でひと息ついた。社長が出席するとなると、ミーティングではかなり耳の痛い話が出そうだ。突っ込まれておたおたしないよう、各マネージャーに自店の数値をしっかり把握してくるよう連絡を回しておいた方がいいだろう。そう思いながら、最近めっきり薄くなった頭髪を手で撫《な》でつけた。全く、数字が落ちるせいで髪は抜けるわ、ストレス太りで体重計の針は上がるわ、いいことがない。彼は、早くも夏の賞与が気になりだしていた。
「社長のご機嫌はいかがでしたか?」
ツィードのジャケットに男もののネクタイをした鷺尾|優子《ゆうこ》が壁際の席を立って、すり寄るように近づいてきた。微かに笑みを浮かべている。内心の苛立《いらだ》ちを顕在化させたような社長のピンと跳ね上がった髭と対峙《たいじ》した気詰りな時間の後だけに、その微笑は湯川の心を和《なご》ませた。
「わしはもう見捨てられてるらしい。お小言もなしだった」
「世の中全体が不景気なんですから、仕方がありませんよね」
「てな言い訳は口が耳まで避けても言えんけどね」
湯川は両の人差し指で口を広げて見せた。優子は口元を隠してくすりと笑う。
「社長がお呼びだよ、鷺尾さん」
「はい。では、気をつけて行ってきます」
「何の用事か知らないけど、まず、わしの悪口から始まるよ、きっと」
システム手帳を取って社長室に向かう優子の後ろ姿をちょっと見てから、湯川は窓を背にした自分の席についた。椅子《いす》を半回転させて、南を向いた窓の外を見やる。金曜の午後だけあって、通りには人も車も多く、その上に四月の陽光が薄布を掛けたように降り注いでいた。
南北に延びる心斎橋筋から東に折れたこの通りは洒落《しやれ》た飲食店やブティックが並び、ヨーロッパ村と呼ばれていた。御堂筋を挾んだ西側のアメリカ村と対にするために安易に命名されたのだ。ティーンの女の子やサーファー向けの雑貨店、輸入レコード店などがごちゃごちゃと並んだそちらに比べればアダルト向けの通りである、というだけのことで、別段町並みがヨーロッパ調であるわけではない。ジュエリー堂条の本店は、そのヨーロッパ村の心斎橋筋に近いところに位置している。一階、二階を合わせた百二十坪が店舗で、三階から五階までが自社のオフィスになっていた。一等地だけあって賃貸料は大変な額になる。六、七階には東南アジア物産の輸入会社が入っていた。湯川は椅子を回して戻すと、煙草をくわえ、火をつけないまま営業報告書のコピーを見た。ずらりと並んだ二十八の店舗名。北は札幌から南は博多《はかた》まで。月次の売上実績の合計欄には733,659(千)円とあった。──昨年の年間総売上は念願の百億円を突破している。
──大した成長ぶりだ。
湯川は数字で埋まった報告書を眺めながらつくづくと思った。彼が七年前にさる老舗《しにせ》から引き抜かれてきた時の店舗数は十。年商は三十億そこそこだった。事業規模をここまで拡大できたのは、やはり堂条秀一の並みはずれた商才による以外の何ものでもない。それには感服する。
彼はくわえた煙草に結局火をつけず、ボックスに戻して受話器を取った。短縮ダイアルで梅田店を呼びだす。フィールドマネージャーに取り次がせると、彼は月曜のミーティングに社長が出る旨《むね》を伝えた。「判りました」と応える相手が、渋面《じゆうめん》を作っているのが容易に想像できる。
「頼むぞ」
電話を切って顔を上げた時、ベージュのソフトスーツを着てショルダーバッグを片手に提げた男が入ってくるのが見えた。吉住訓夫《よしずみのりお》だ。
「どうも。外は気持ちがいいですよ」
吉住は歌うように弾んだ声で言いながらやってくると、近くの空いた椅子を湯川の机の前に引いてきて座った。胸元で揺れているエスニック柄の派手なネクタイは、見覚えのないものだった。この男、一体どれだけネクタイを持っているんだ、と思う。いや、ネクタイだけではない。イタリアン・ブランドのスーツにしても見るたびに違っている。大手広告代理店、東洋アドの社員ともなると、相当な高給を取っているのだろう。ましてや彼は独身貴族だ。
「風は心地よくても、売上を見ると気分は沈むよ」
湯川は営業数値が書かれた報告書をさり気なく裏返した。専属の広告会社のAE(アカウント・エグゼクティヴ)だとはいえ、吉住が他社の人間であることに違いはない。
「じゃあ、社長とご対面する前に表情を引き締めていかないといけませんね」
壁の時計の針は四時五十五分を指している。五時のアポイントメントなのだろう。
「社長に呼ばれてきたんですか?」
吉住は「はい」と答えて、胸ポケットからキャスターを取り出した。
「こちらはオフィスで煙草を吸ってもよかったんですよね? 最近は禁煙の会社が増えたもんですから。──『ちょっと顔を出せ』と堂条社長から昨日お電話があったんです。用件はおっしゃらなかったんですけど、夏のキャンペーン企画の再検討を申し渡されるんじゃないかと、昨日の夜は心配で眠れませんでしたよ」
「月初めのプレゼンでオーケーをもらってあるんでしょう?」
「ええ。でも、クライアントは気紛れですから。ご当社に限らず」
「吉住さん、あなたが五分後に何を申し渡されるか、教えておいてあげましょう。予算を削れ、ですよ」
「かーっ、そいつはまいったなぁ。帰って局長に何て言ったらいいやら。──堂条さんは社長室ですか?」
三十四歳の彼は十も年が離れている堂条と馬が合い、半ば個人的な付き合いもしていた。だから、堂条さんなどと気軽に呼ぶこともできるのだ。
「今、秘書の鷺尾君と打ち合わせ中」
吉住の鼻の穴がひくりと動いた。
「まさか勤務時間中にプロポーズじゃないでしょうね?」
さすがに声を小さくして言ったことだったが、湯川はいい気がしなかった。取引先の会社にきて、そこの社長のプライバシーを詮索《せんさく》するのは失礼だろう。確かに、堂条秀一と鷺尾優子が仕事を離れても親密であることは、湯川以外の何人かも気がついていた。が、そんなことを興味本位で噂《うわさ》し合う者など社内にはいなかったのだ。
湯川が「まさか」とだけ言って取り合わないので、吉住は気まずそうに鼻を鳴らして黙った。
社長室のドアが開いた。出てきた鷺尾優子がすぐに吉住を見つけて声をかける。
「いらっしゃいませ。社長がお待ちしています」
噂をしていた当人が現れたのに彼は照れた様子もなく、「はい」とかしこまった低音で答え、短くなった煙草を揉《も》み消して立ち上がった。
湯川は吉住のことは頭から追い払い、堂条が何を話したのかを優子に聞こうとした。しかし、彼女は彼の机の前をつかつかと通り過ぎ、営業部の席の端にいる青木知佳《あおきちか》に声をかけた。
「長池《ながいけ》さんはまだ?」
壁の時計を見ながら聞いている。入社したての知佳は、はっとしたように顔を上げる。
「はい。あの、まだおみえになってませ──」
そこでドアが開いた。のそりと顔から入ってきたのは、名前が出たところの長池|伸介《しんすけ》その人だった。まだ二十四歳の若いジュエリーデザイナーだが、堂条はその才能を高く評価していた。はらりと目元に垂れた前髪の隙間《すきま》から覗《のぞ》いた神経質そうな二重瞼《ふたえまぶた》の目が、すぐに優子を捕える。
「五時にこいと言われていたのに、ついつい本屋で資料に没頭してて、ぎりぎりになってしまいました」
「セーフ、でしたね。でも、焦りながら駈《か》けつけてもらったのに申し訳ないんだけど、割り込みのお客様がおみえなんです。広告代理店の方がいらしてるんで、ここでしばらくお待ちいただけますか?」
優子は空いた椅子を示した。
──次から次へと人を呼んで、今日の社長は忙しいことだ。
盛大にちらかった机の上を放《ほう》って、湯川は立ち上がった。マネージャーの五十嵐耕平《いがらしこうへい》と会議の打ち合わせをするために、階下の店に降りる。
有線放送のバロック音楽が流れる二階店内には、婚約指輪の品定めにきたふうの若い男女がひと組と、年配の婦人の三人連れがいるだけだった。マネージャーの五十嵐は奥のショーケースを開け、長身を折り曲げるように屈んでネックレスの陳列をなおしている。高い鼻の上にのった銀縁眼鏡の中の眼光は鋭く、まるで大きな外科手術を執刀しているところであるかのようだった。
「今忙しいかな、五十嵐君?」
声をかけると、彼はすっと背中を伸ばして起き上がる。
「いいえ。何か?」
「うん。社長が月曜の会議に出席する。今月初めから続けているDM作戦の進捗《しんちよく》状況について、要領よく答えられるようにしておいて欲しいんだ。それと、連休前の一部レイアウトの見直しの件と」
「判りました。今日中に簡単にまとめて、部長に見ていただくことにします」
まだ三十半ば過ぎだというのに、古老めいて落ち着いた声で彼は答えた。
「うん、頼む。──忙しくなかったら、ちょっと隣りへお茶でも飲みにいかないか? 気分転換がしたくてね。社長室はお客で繁盛してるから、しばらく私らが呼ばれることはないだろう」
「はい。──ちょっと待って下さい」
五十嵐は近くにいた部下に「『ラルブル』に部長といるから」と告げた。
一階に降り、そこだけ人がたかった店頭のアクセサリーのワゴンの間を抜け、隣りの喫茶店に移った。熱帯魚の水槽の傍らの、いつもの席に掛けてコーヒーを注文すると、湯川は午後初めての煙草を一服つけた。
「社長と鷺尾君とは、どうなってるんだろうな」
湯川の口から、自分でも思いがけない話題がこぼれ出た。そんなことを話すつもりはなかったのに。五十嵐は一瞬、どう答えていいのか判らない様子だ。
「社長も鷺尾君も独身なんだから、端《はた》から気を揉《も》むことはないんだけどね。さっききた東洋アドの吉住という男がそんなことを聞いてきたんで……」
「吉住さんは社長と昵懇《じつこん》にされていますから、気になるんでしょうね」
五十嵐は静かに言い、運ばれてきたコーヒーのカップをそっと持ち上げた。
「社長が鷺尾君に熱を上げてるのは確かだと思うんだ。判らんのは彼女の気持ちだね。今しがた長池君がきたけど、彼と彼女、完全に他人行儀にしゃべってたな。あの二人は去年の秋まで交際してたんだろう?」
「今年になっても休みの日に会っていたようですよ。二人がポートピアランドで一緒だったのを、たまたま目撃した子がいます」
銀縁眼鏡のマネージャーは、謹厳実直そのものという口調で噂話にのってくる。
「そうか。鷺尾君も見かけによらずやり手だなぁ。年商百十億のジュエリー堂条の社長と、有望株のジュエリーデザイナーを天秤《てんびん》に掛けるとは。──金と若さ。彼女に対して、どっちの武器が有効なんだろうね?」
言い方が下卑《げび》てきているな、と湯川は思った。
「ここだけの話ですが、私は長池さんを応援してあげたい気がしますね。すかんぴんから腕一つでがんばっているんですから」
五十嵐は目を伏せてコーヒーを飲んだ。
「ロマンチストだね、君は。しかし、現実はどっちに転ぶかな。鷺尾優子って子はよくできたいい子だけど、質素につつましくという生活に向いているとも慣れているとも思えないからね」
「長池さんの将来というのも、買うのに危険のない株だと思いますけど」
五十嵐は長池伸介の肩を持った。
「それはそうかもしれないけれど、堂条秀一は大した資産家だからね。経済面では、そこいらの雇われ社長の御曹司《おんぞうし》が名乗りをあげたとしても到底勝ち目はない」
「確かに。私は拝見したことがありませんが、六甲《ろつこう》のお宅も大したものらしいですね」
堂条社長は大阪城を望む法円坂《ほうえんざか》のマンション住まいをしているが、週末は六甲山にある別宅で過ごすことが多かった。湯川は招かれて二度行ったことがあるが、閑静そのもので、百万ドルの夜景を眼下に見る素晴らしい邸宅だった。
「かなりのものだったよ、あの家は。鷺尾君、もうあそこからの夜景も見てるんじゃないのかなぁ」
いかんいかん、と湯川は自分を戒める。勤務中のマネージャーをわざわざ呼び出してこんな品のよくない噂話ばかりしていては、自分が馬鹿に見えてしまうではないか。
湯川が口調を改めて仕事の話に切り換えると、気のせいか相手がほっとしたように見えた。
それから十分ほど、本店に入った新入社員の様子や得意客の近況をヒアリングして、腰を上げた。五十嵐は売り場へ、湯川はオフィスに戻る。
ほどなく社長室のドアが開いて、長池伸介が後ずさりするように出てきた。
「では、失礼します」
ぺこりと頭を下げる彼に、堂条お得意の「ちょっと待て」が飛ぶ。その癖のせいで、社長には『逆コロンボ』という綽名《あだな》がついていた。
「君の自宅にはファックスがあるか?」
「はい」
「じゃあ、デザイン画の直しができ次第、ファックスで送ってくれ。すぐ見たい。私は今晩から六甲《ろつこう》の家にいる。ファックス番号を言うから控えてくれ」
長池は慌てて手帳を広げ、ボールペンを構えた。堂条が二度繰り返す番号を控える。
「それから、月曜の五時に相馬《そうま》君と二人できてくれ。君の今度の作品についてあらためて検討する」
「はい、判りました」
──社長はこの週末も六甲か。
湯川は羨《うらや》ましく思った。
宝石箱をひっくり返したような神戸の夜景を見下ろしながら、好きなウィスキーのグラスでも傾けるのだろう。怖いほど静かで、広過ぎる屋敷を自分一人の世界にして、思索に耽《ふけ》るのだろう。
蜜《みつ》のように甘い、孤独で自由な時間。
そして──その別世界で、今夜も彼は、繭《まゆ》に入るに違いない。
青木知佳は閉じたドアにもたれ、ほっとひと息ついた。危うく乗りそこねるところだった。朝は一番に出社して、最年少の自分が営業部みんなの机の上を拭《ふ》くことになっているのだが、そのためにはこの電車に乗らなくてはならないのだ。まだ入社してひと月もたたず、初月給も手にしていないというのに、もうだらけて遅刻しだしてる、などと思われては困る。
──月曜日の朝は苦手。
空いた座席を見つけて座ると、彼女は掌で欠伸《あくび》をそっと包み込みながら、学生時代と同じことを思った。昨日はこの春一緒に短大を卒業した友人二人と飛鳥《あすか》までハイキングに行き、へとへとになるまで歩き回った。翌日までその疲れが残るような年齢ではないが、朝早くて帰りが遅かったので睡眠がまるで足りていない。これから始まる一週間が、果てしない道のように感じられた。
──まだ体が社会人の生活に慣れてへんのかなぁ。怠惰な学生生活送ってたから。それとも、ずっとこうなんやろうか? 会社が遠かったらもっと大変やったやろうな。
彼女の家の最寄りの駅、大阪港にほど近い朝潮橋《あさしおばし》から本町《ほんまち》まで地下鉄中央線で四駅。そこで御堂筋線に乗り換えれば、心斎橋はもう次の駅だった。都心に向かう線だというのに、中央線ではほぼ確実に座れるというのもありがたい。始発からひと駅目のせいだ。御堂筋線のラッシュは殺人的だが、乗っているのはほんの二、三分のことなので、その面でも助かっている。
いくつ目かの欠伸を噛《か》み殺しているうちに列車は速度を落とし、弁天町《べんてんちよう》駅に着いた。地下鉄ながら阿波座《あわざ》駅の手前までは高架線を走る中央線は、ここで同じく高架のJR環状線の線路を跨《また》いでいる。乗換駅なので乗客が何割か入れ換わり、空席がふさがった。乗り込んできた人間を何気なく見渡していると、見知った顔があった。
「おはようございます」
知佳は少し離れたところで吊《つ》り革を握った男に声をかけた。相手は彼女に向き直って、微かに眉根《まゆね》を寄せる。はて、誰だろうと訝《いぶか》るように。それでも「おはようございます」と挨拶《あいさつ》を返すのに間を措《お》きはしなかった。
「私、ジュエリー堂条の……」
誰なのか思い出してもらっていないようなので、知佳は言いかけた。
「ああ、そうだ。一瞬、度忘れしてしまってました。ごめんなさい。ぼけっとしてたもんで」
「吉住さんでしたね? 私、青木といいます」
つい名乗ってしまった。オフィスで何度か見かけた彼に好感を抱いていたせいかもしれない。
「これからご出勤ですか?」
吉住は判りきったことを尋ねた。いつもの如才のない様子と似つかわしくない。
「はい。──吉住さんもこの電車で通勤なさっているとは知りませんでした」
そう言った途端に、彼の表情に何故か当惑に似た色が浮かんだような気がした。さして意味のあることをしゃべったわけでもないのに、と知佳は少し奇異に思う。
「いつもは違うんです。今日はちょっと──」
語尾がなかった。
「どこかに寄られてからのご出勤なんですか?」
「ええ……」
変やわ、と彼女は思った。相手は触れられたくない話題に困っているふうなのだ。
──吉住さんって独身らしいけど、今朝は恋人の家から会社に直行でもしてるんやろうか?
それなら、はっきりそう言うはずはないだろう。きっとそうだ、と知佳は決めつける。声をかけて悪かったかもしれない。
乗客が増えてくると、吉住の姿は見えなくなった。やがて本町に着いて、半分以上の乗客が吐き出される。その中に吉住の姿を捜すと、御堂筋線のホームに向かって早足に去っていくところだった。途中でひょいと振り返って、知佳に軽く頭を下げる。彼が勤める大手広告代理店の東洋アドは中之島《なかのしま》にあるから、知佳とは反対方向に向かう。それで彼女をおいてさっさと歩きだしたのだろう。急いでいるのかもしれない。しかし、そっ気ない態度のようにも感じる。
──やっぱり、知った人とばったり会ったりしたくなかったんやわ。ちょっといい男にはちゃんと恋人がいてるんよねぇ。
知佳は先ほど抱いた確信を深めた。だが、そんなことをぼんやり考えている場合ではない。乗換のホームに突き進む人の奔流が、彼女を急《せ》き立てた。
会議を終えてオフィスに戻った湯川は、鷺尾優子と目を合わすなり尋ねた。
「社長から連絡は?」
机の上で祈るように両手を組んだ優子は「いいえ、何もありません」と即座に答えた。
「おかしいな。突発的に用事ができたんだとしても、十二時になっても電話の一本もないというのは変だ」
平素の堂条秀一ならそんなことはない。
「しかしまぁ、社長さんだからね。昼から出勤だろう」
「専務からはお電話がありました。金曜日に無事帰国したけれど、体調を崩しているので今日は欠勤する、とのことです」
専務の堂条|秀二《しゆうじ》は社長の弟で、先週の初めから商談でパリに出張していた。
「あの元気な専務が体調を崩したって? 向こうでの商談はうまくいったのかな」
「ノープロブレム。問題なし、だそうです」
「ならよかった」
「会議の方はいかがでしたか?」
傍らに立った湯川を見上げて、優子が聞く。
「社長が欠席したんでみんなほっとしてたよ。正直言って私自身もそうだったんだけどね」
「部長が一番ほっとなさったんじゃありませんか?」
「もちろん」
二人は笑い合った。
ところが──
集まった店長らと昼食をすませて戻っても、三時の休憩時間が過ぎても堂条は出社せず、何の連絡も入らなかった。社長あての電話が数本あったようだが、秘書の優子が「外出中」と断わっていた。
オフィスの中に、何とはなしに落ち着かない雰囲気が漂いだすほどに、日は傾いていった。
五時になると、四階の商品企画室の相馬智也《そうまともや》室長と長池伸介が現れた。それぞれ手に大きな平べったい袋を提げている。相馬と二人で月曜の五時にこい、と堂条が長池に言っていたのを湯川は思い出した。
「社長と打ち合わせにきたんでしょう?」
湯川は相馬に言った。長めの髪を一対九に分けた相馬が「ええ」と答える。
「入ってもいいですか?」
プラチナの指輪が嵌《は》まった細長い人差し指を突き出して、彼は社長室のドアを指した。
「いないんですよ」
「お出かけですか?」
「朝からいない。電話も入らない。今日はずっとこっちの予定だったんだけどね」
「それはおかしいですね。社長らしくない。──ご自宅に電話してみましたか?」
彼らのやりとりを聞いていたらしい優子が「はい、しました」と自分の席から答えた。
「心配になってきたので、午後から二回かけてみましたが、お出になりません」
「どこにかけた、法円坂のマンション?」
「はい」
「社長は週末から六甲の方だって言ってたよ」
「ああ、そうでした。うっかり忘れてました。かけてみます」
優子はダイアルメモを開いて受話器を取る。湯川らは彼女の席の近くに移動し、受話器を耳に当てた彼女を取り巻いた。呼び出し音を十回ほども聞いてからだろう、彼女は顔を上げて首を振る。
「誰も出ません」
ふぅ、と何人かが同時に吐息をついた。
「事故に遭ったんなら警察か病院からとっくに連絡がきてるだろうし、誘拐されたんなら身の代金の要求がきててもいい頃なのになぁ」
湯川が真顔で言うのに、誰も言葉を返さなかった。
「専務は?」相馬が聞く。
「体の具合が悪いので今日は欠勤なさっています。お休みになっているかもしれませんから、お電話しづらいんです。特に緊急の問題も起きていませんし」優子が答えた。
「待ってみようか。座ろうや」
相馬は長池にそう言いながら、空いた椅子《いす》にどんと尻《しり》から落ちるように掛けた。長池は無言のままその向かいの空席に腰を降ろす。
「新しい作品のプレゼンにいらしたんですね?」
長池が足元に置いた袋を見ながら、優子が尋ねた。
「そうです。金曜日に社長の希望を聞いて、土曜日にデザイン画の一部を社長のお宅にファックスで送ってはあるんですけど」
「休みの日に家で仕上げたんですか?」
「金曜日に帰ってから描《か》いたんですよ」
「送信したのは六甲の家だろ? 社長はいた?」
湯川が割り込んで聞く。
「送っただけで電話はしていませんから、いらしたのかどうかは判りません」
「まぁ、もうちょっと待とう」また相馬が言う。「まだ五時を十分過ぎたところだし」
「お茶でもお淹《い》れしましょう」
優子が言うなり、知佳が「私が」と言って勢いよく立ち上がった。
「よく気がつく子じゃないですか」
給湯室に小走りで向かう知佳の背中を見ながら、相馬が言う。
「新人はああでなくっちゃ」
「一生懸命やってますよ。欠伸《あくび》が多いのが珠《たま》に傷かな」
湯川はそう言って自分一人で笑った。
電話が鳴った。根拠もなく、社長かもしれない、と思った湯川が素早く出る。
「ああ、湯川部長? 私です」
専務の堂条秀二の穏やかな声だった。
「ご出張、ご苦労様でした」
相手が十近く年下だからでもないが、専務に対してつい『ご苦労様』などと言ってしまう。
「お疲れでしょう?」
「出発前から風邪《かぜ》気味だったんですよ。いやぁ、昨日は一日中寝てました。今日も昼過ぎまで休ませてもらったおかげで、すっかり回復しましたよ」
ここで口調が改まる。
「社長はいますか?」
「それがですね……」
湯川は堂条秀一が姿を現わさず、連絡も取れないことを伝えた。
「社内の会議や打ち合わせがあっただけで、緊急を要する連絡事項などはないんですが……」
それだけ言って専務の反応を窺《うかが》う。
「変ですよ。これまでにそんなことは一度もなかった。──じゃあ、これから私が法円坂に行って様子を見てきましょう」
「お加減はよろしいんですか?」
「もうすっかり平気です。そんなに遠いマンションでもないし、ちょっと行ってきますよ、心配だから。──また連絡します」
やはり一人暮しの専務のマンションは谷町《たにまち》九丁目にあり、法円坂までは地下鉄でふた駅だった。三十分ほどで連絡が入るだろう。
「では、出直してきます」
専務からの電話の内容を伝えると、相馬はそう言って腰を上げた。長池がプレゼンテーション用のパネルが入った袋を取って、二人は四階に戻っていった。
仕事を一つ片付けるには中途半端な三十分がすぎ、再び秀二から電話が入った。受けた知佳がすぐ湯川に換わる。
「いませんでした。週末は六甲だと言ってたんですね?」
「そうです」
「どうやら金曜日に出てから一度もこっちには帰ってないようなんです。急病で倒れてたりしたら大変ですから、六甲に行ってみます」
そう言う専務は車も運転免許も持っていないことを湯川は知っている。
「少しそこでお待ちいただけますか、専務。今から私が車で行きます」
返事が少し遅れた。
「……そうしてもらおうかな。じゃ、ここで待っています」
湯川は電話を切ると、これから車で出て法円坂で専務を拾い、六甲に様子を見に行く旨を伝えた。
後のことを頼む、と優子に言いかけて、彼は考え直す。
「君も行くか?」
彼女は「気になりますから」と小さな声で答えた。湯川はそれ以上の言葉はいらない、というふうに頷《うなず》く。
「早く支度《したく》をしなさい。専務が待ってる」
日が落ちたが、行く手の西の空にはまだわずかに残照がにじんでいる。そのはかなげな色へとカクテル灯のオレンジ色の灯が延々と続く様は、まるで道路が車を落日に運ぼうとしているかのようだ。右手に見える六甲の山並みはすでに影絵のように黒く塗り潰《つぶ》されつつあり、家々の明かりが星のように輝き始めていた。その一番高くで瞬《またた》いている光の群れは、関西きっての高級住宅地、六麓荘《ろくろくそう》のものだ。
窓から吹き込む風が強い。助手席の優子は乱れる長い髪を、ずっと左手で押えていた。速度計は百十キロを指している。
阪神高速を飛ばす車の中で、秀二はパリ出張中にあったことをずっと話していた。業務提携しているミディ商会との間で一部契約変更が円滑にすんだこと、品揃《しなぞろ》えと店舗の内装について市内の新しい店を視察して気がついたこと、美術館巡りをして審美眼を肥やしてきたこと。実兄の身にアクシデントが起きたのではないか、と気にしている様子もなく、彼はそんなことをぺらぺらとまくしたてた。みんなが黙り込んで、不安が車内に充満することを嫌っているせいなのかもしれない。
「成果のあるご出張で結構でした」
言葉の切れ間を待って、湯川はルームミラーの中の専務に言った。後部座席の中央にゆったりと掛けた秀二は、涼しげな目で彼を見返した。
三十五歳のこの若い専務は少年のように艶《つや》やかな肌をしており、まだ二十代にも見えた。もの腰も言葉使いも中性的なほど柔らかい。見るからに気難しく、わざとらしい男臭さを演じる兄の秀一とは対照的だった。
「一つ悔いが残るのは、みんなのお土産にまた免税店でチョコレートを買ってきてしまったことです。芸がないからそれだけはやめようと思っていたのに」
秀二が大袈裟《おおげさ》な身振りで冗談めかして言ったが、湯川も優子も適当な言葉を返すことができなかった。秀二もそれを最後に口をつぐむと、待ち構えていたように沈黙が侵入してきた。
生田川《いくたがわ》で高速を降りる。道はすぐに登りとなってトンネルをくぐり、神戸の町を海際まで押しやって聳《そび》える六甲山の頂へと向かっていた。勾配《こうばい》はどんどん大きくなり、背中がシートに押しつけられていく。
「鷺尾さん」
後部座席の秀二が低い声で呼びかけてきた。
「はい」
「あなたは六甲の家に行ったことはないんですか?」
自分は彼女の返事を聞かない方がいいのではないか、と湯川は思ったが、ハンドルを離して耳をふさいでいるわけにもいかないので聞くしかない。それに、優子がどう答えるか興味がなくもなかった。
「いいえ、ありません」
彼女は力むでもなく、ごく自然に答えた。それから逆に秀二に尋ねる。
「私が社長のご私宅を訪問したことがある、と思われたんですか?」
「兄貴は気に入った人をあそこに招くのが好きです。それで聞いてみただけですよ」
彼の答えもあっさりとした口調だった。会社を離れたので、秀一の呼び方が『社長』から『兄貴』に変わっている。
沈黙は濃度を増して再来した。ヘッドライトが照らし出す木々の影を見ながら、疾走する車を包む闇《やみ》も、それと呼応して深まったように湯川は感じた。
本当に彼女は行ったことがないんだろうか、と彼は疑った。まだない、というだけのことだろう、とも思う。そして、そう、いずれにしても自分には何の関係もないことだった。
湯川はステアリングを握った左手首を捻《ひね》り、腕時計の針をちらりと読んだ。七時半が近い。今日は何時になったら帰宅できるだろうか、と考える。一人娘の十一回目の誕生日なのだ。遅くならないようにする、と妻にも約束していた。
「もうすぐですね」
見覚えのあるロッジ風の家が右手に去るのを見て、湯川はひとり言のように言った。
「うん」と秀二が応える。ここから堂条秀一の邸宅まで人家は全くない。あと数分で到着するだろう。
「ほら、きれいだ」
秀二が言った。ルームミラーを覗《のぞ》くと、左の窓に顔を寄せている。木々のシルエットの間から見え隠れしている下界の夜景を眺めているのだろう。
「素敵ですね。私、六甲山からの夜景なんて子供の時に一度見て以来です」
秀一の別宅を訪れたことはない、という先ほどの返答の駄目を押すかのような優子の言葉。彼女らしく、さりげない調子の駄目押しだった。
目的地が見えてきた。低い石塀に囲まれ、青っぽい灰色をした外壁の邸宅は、夜の帳《とばり》を掛けられてほのかに輝いて見えている。──縦長の大きな窓のどれにも、明かりは点いていなかった。
「やれやれ。せっかくここまできたのに、いないのかな」
秀二が溜め息まじりに言った。しかし、窓に明かりが見えないからといって、ここでUターンするわけにはいかない。湯川は鉄門の前に車を停めた。
「車の中で待っていてもらうのも何ですから、一緒に見にいきましょう」
ポケットからキーホルダーを取り出しながら秀二が誘う。湯川はエンジンキーを差したまま車を降りた。同じように無言のまま降りた優子を見ると、ひどく顔色が悪いようだった。ただ、弱々しい月明かりのせいなのかもしれない。
秀二が腰の高さの門の向う側に手を伸ばし、閂《かんぬき》をはずす。元々、門に錠《じよう》はついていないのだ。彼を先頭にして、三人は一列になって砂利を踏みながら玄関へと進んだ。湯川は人の気配を探ってみたが、微塵《みじん》も感じられない。
秀二は呼び鈴《りん》のボタンを押した。誰も出てこない。
「やっぱり留守らしい」
「でも、急病かお怪我で出てこられないのかもしれません」
優子が言うのを、秀二は掌《て》で制した。
「判っています。入って見てみましょう。もし兄貴がいなかったら、コーヒーでも飲んでいきませんか? 二階から百万ドルの夜景を観賞しながら、熱いのをね」
早く帰りたいと思っている湯川も、その提案には惹かれた。社長はどこで何をしているのか、という疑問は解決しないままになってしまうが──
秀二は車を降りる時から取り出していたキーホルダーの鍵《かぎ》の束をジャラジャラ鳴らし、暗がりの中で玄関の鍵を選び出した。錠を開け、重たそうにドアを押し開く。
入れ子細工のように、闇の中に闇があった。勝手知った秀二は壁のスイッチをすぐに入れる。照らし出された玄関ホールに、ダリの複製画が何枚か掛かっていた。靴がないことから、社長がここにいないことはまず間違いない、と三人はそれぞれ呟《つぶや》く。
秀二と優子はスリッパに履き換えて、奥に向かった。ホールを左に曲がると、広いリビングになっている。明かりを点けてみると、そこでは発見があった。
「兄貴はきてはいたんだな」
部屋の真ん中にある、大理石をトップに使ったテーブルの上にウィスキーのボトルとグラスが一つ置かれていたのだ。グラスには三分の一ほど水割りらしいものが残っている。チーズがのった皿もあったが、それも食べかけのものだった。
「ついさっきまでいたようにも見えますね」
湯川が言う。邪魔くさがってスリッパを履かなかったので、フローリングの床がひんやりとしているのを靴下越しに感じる。──ふと見ると、傍らの優子の顔の色は、ますます蒼《あお》かった。
「気分でも悪いの?」
彼は尋ねずにはいられなかった。彼女はこっくりと頷く。
「何だか……嫌な感じがするんです。この家は変です」
「変って、何が?」
「判りません。ただ……」
その後は続かなかった。
湯川は三十畳ほどある部屋の中を見渡してみる。テーブルとそれを囲む四脚の椅子《いす》、洋酒のボトルとグラスが並んだ棚以外には調度類もAV器機もない、がらんとしたリビングだった。この部屋にもダリの絵が六枚飾られている。そのうちの一枚は『燃えるキリン』という題名だと知っていた。他の二枚は、画集で見た覚えのあるものだ。残りの三枚は毒々しい色彩に満ちたカラーリトグラフのイラストレーションで、世界に五十枚とないものだと解説されたことがあった。全くの装飾である暖炉のマントルピースには、やはりダリ作の彫刻、宇宙象の小さな複製品があり、その横にはバロック調にごてごてと装飾された金色の置時計が時を刻んでいた。七時四十八分。狂いはほとんどない。東に面した三つの窓は施錠《せじよう》されていたが、カーテンはすべて開いていた。下界の華麗な夜景は望めず、塀の向こうに夜の林が見えるばかりだ。
「湯川さんと鷺尾さんは掛けて待っていて下さい。私は二階を見てきます」
寝室と書斎が二階にあるのだ。二人は言われたとおりに椅子に掛け、秀二がホール右手の階段から階上へ上がっていく足音を聞いていた。
「社長はこんなところで週末を過ごされていたんですね」
優子が乾いた声で言った。
「こんなところとは?」
「もっと自分のお気に入りの品々をちりばめた、おもちゃ箱のような家かと想像していたんです。確かに建坪も広いし、立派な造りのお宅ですけれど、このリビングのシンプルさは意外でした」
優子の感想は、湯川が初めてここに通された時に抱いたものと同じだった。
「判ります。美術品やらがらくためいた骨董《こつとう》品やら、旅行の想い出の品々やらが蔵のように詰まっていると思っていたんでしょう? 社長はここを思索と瞑想《めいそう》の家にしたかったんですよ。だからごてごてと品物だらけになることは避けた。──まぁ、それに、本当に値の張るものをこんなところに置いていたら、無用心で仕方がないということも当然あったでしょう」
「思索と瞑想ですか……」
優子は、湯川の言葉の中からその部分を抜き出して、アンダーラインを引くかのように復唱した。
「そういえば、六甲の別宅には変わった機械があると社長から聞いたことがあります。特殊な液体が入ったタンクのようなものの中に裸で入るとか」
「機械というほど大袈裟《おおげさ》なもんじゃない。真っ暗な水槽のようなものに入って瞑想するんですよ。フロートカプセルというんだけどね。あとで実物を拝見しましょう」
「ええ。でも、こんな淋《さび》しい家の中で真っ暗な水槽に一人入るだなんて、私は怖くてできそうもありませんね」
「私もご免こうむりたい」
秀二が二階から降りてきた。やはり兄はどこにもいないと言う。
「ついでだから階下の他の部屋も一応見ておきますよ。それから、二階のバルコニーでコーヒーを飲んで帰りましょう」
「専務、鷺尾君にフロートカプセルを見せてあげてもよろしいですか? 今、話をしていたので」
湯川が言うと、秀二は苦笑のような笑みを浮かべた。
「あのご大層で贅沢《ぜいたく》なおもちゃですね。ええ、かまいませんとも。霊験あらたかなのかどうか知りませんが、兄貴はまだ飽きずに使っているみたいですね」
「専務はお試しになったことがあるんですか?」と優子が尋ねる。
「一度だけあります。どうということはない、子供だましですよ。兄貴にそんな率直な感想を言うと不満げでしたけどね」
この兄弟は弟の方がドライで現実主義者なのだ。湯川は以前からそう思っていた。
「では、鷺尾さんもご一緒にいらして下さい」
各部屋の明かりを点けながら、三人でダイニング・キッチン、応接室、浴室、トイレと見て回る。主はどこにもいなかった。──最後に残ったのはホールの奥にある六畳ばかりの小部屋だ。
「ここが堂条秀一の閃《ひらめ》きの源泉、いわば当社の脳髄です」
揶揄《やゆ》するように言いながら、秀二は明かりを点けた。
丸みを帯びた金属性の箱がでんと鎮座している。全長は約二メートル、幅約五十センチ、高さは湯川の腰のあたりほど。真ん中あたりから上は大きな蓋《ふた》で、開くようになっているらしい。部屋の一隅には脱いだ衣服を入れておく籠《かご》らしいものがあったが、何故か逆さまに伏せてあった。
「……これがフロートカプセルですか」
初めて見る珍しい装置に、優子は好奇の目を向ける。湯川がこれを見るのは二度目だった。
──繭《まゆ》だ。彼は最初に見た時にもそう思った。自分を外界から完全に隔絶するために作られた、金属の繭。こんなものにこもって癒《いや》さなくてはならないほどの深いストレスが、あの口うるさい敏腕社長にはあるのか、と思うと同情に似た感情さえ湧《わ》いてくる。
「瞑想《めいそう》ごっこが好きなアメリカ人が発明したんですよ。いくらしたのかと兄貴に聞いても教えてくれません。きっと馬鹿馬鹿しいほどするんでしょうね。──ただ、感心なことに自分のおこづかいで買っているんで文句を言う筋合いはない。経費で落とされたんじゃかないませんけど」
「こんな中に入ったら真っ暗なだけじゃなくて、音も聞こえませんね」
そう言いながら優子はカプセルに歩み寄って、蓋を撫《な》でてみる。
「ええ、もちろん。棺桶《かんおけ》も同然ですよ。何も見えず、聞こえず、という中で、浮かんで瞑想に耽《ふけ》るわけです。何とかいうものを溶かした水が入っているんですが、それに浸かると体が心地よくふんわりと浮かぶそうです。その上、水温を体温と同じにすれば水の中にいるという感じもしなくなって、まるで何もない空間に無重力で浮遊している感覚が得られる、という仕組みです」
「面白そう……」
「おや、さっき話をした時は気味悪がった癖に、実物を見ると随分興味が湧いてきたみたいだね」
優子の好奇心の強さに、湯川がからかうように言う。
「だって、何もないところにふんわり浮かぶみたいだなんて、気持ちよさそうじゃありませんか」
「試してみますか?」
秀二もにやにやしながら尋ねた。全裸になって液体の寝台に横たわる優子の姿態を想像し、湯川は胸の鼓動が早くなった気がした。
「今日はご遠慮します」
優子は当然ながら辞退した。
「それではまたの機会ということにしましょうか。──じゃ、中がどうなっているか覗《のぞ》いてみますか?」
「はい。よろしければ」
優子が嬉《うれ》しそうに答えたので、秀二は開閉口の把手《とつて》に手を掛けて、「よっ」と声を出して引き上げた。電灯の光がカプセルの中に流れ込む。開閉口が開ききると、三人は顔を突き出すようにして中を覗き込んだ。
次の瞬間、優子の悲鳴が尾を引いて狭い部屋中に響いた。湯川は息を飲み、秀二は「あっ!」と短く叫んで飛び退がる。
堂条秀一がそこにいた。
彼が死んでいることは、ひと目で知れた。
第二章 カナリアと犯罪学者
ワープロに向かった私は、出窓に置いたラジカセから流れるハードロックに二十分前からずっと耳を傾けていた。『ミステリ作家のためのオカルトロック名曲集』というオリジナルテープだ。とっくに聴き飽きたそんなものに聴き入りながら、私は何も入力されていないワープロの画面を情けない思いで眺め続けていた。
浮かばない。
文章がまるで思いつかないのだ。じりじりと日の照りつける砂漠の光景だけが心象風景として頭に浮かんだ。印刷会社の営業をしていたサラリーマン時代なら、こうして唸《うな》っている間にも退社時刻が近づいていたわけだが、脱サラをして専業作家となってからはそういうわけにもいかない。──いや、座っているだけでは仕事が片付かないのはどんな仕事でも一緒か。
長編を脱稿して、火村の誕生日とコミで祝杯を上げたのは一週間前のことだが、私はもう次の仕事に追われていた。売れっ子だからではない。短編の締め切りが五日後に迫っているのだが、それは半年前に受けた依頼だった。書くことはおよそ決まっているのに、プロットをどう組み立てればいいのかに苦しんでいるのだ。
テープが終わった。オートリヴァースのラジカセはテープをA面の頭に戻し、デーモンの『ナイト・オブ・ザ・デーモン』がまた始まる。私は、怠惰にもそれを止める気にさえならなかった。
そんな状態だったから、机の上の電話が鳴った時は少しほっとした。気が紛れる電話かもしれない、と期待したのだ。ラジカセを切って受話器を取る。
「有栖川です」
相手は意外な人物だった。
「あ、有栖川さんですか? 兵庫《ひようご》県警捜査一課の樺田《かばた》です」
樺田警部だった。火村に紹介されて一度会い、刑事捜査について話を聴かせてもらったことがある。太い眉毛《まゆげ》の下にぎょろりと大きな目を光らせた警部は一見恐ろしげだったが、つまらない質問ばかりを連発する三文作家に閉口した様子も見せず、丁寧に答えてくれた。
「いつぞやはありがとうございました」と私は言う。
「ご無沙汰しています。お仕事の方は順調ですか?」
ここ二十分について言えば地獄だが、「ぼちぼちです」と大阪風の決まり文句で答えておいた。
「それは結構です。ところで──お忙しいところ申し訳ありませんが、ちょっとお聞きしたいことがありまして」
「はぁ」兵庫県警の警部に何を聞かれるのか見当がつかない。
「何でしょうか?」
「吉住訓夫という方をご存知ですか?」
いつも仕立てのいいスーツできめた、調子のいい広告マンの顔を私は思い起こした。
「はい。知っています」
「失礼ですが、有栖川さんとどういうご関係ですか?」
「私は五年前まで印刷会社に勤めていたんですが、その時に仕事の上でお付き合いがありました。彼は広告代理店のクリエイターですから」
無茶苦茶な納期を切られて喧嘩《けんか》をしたり、納品後に大きな誤植が見つかって二人でクライアントに頭を下げに走ったこともあった。休日にどこかに遊びに行くほどの付き合いではなかったが、取引先の人間の中では一番印象に残っている男だ。
「最近お会いになったことは?」
「知り合いの結婚式で、つい一昨日会いました」
「日曜日のことですね? その結婚式というのはどこであったんでしょう?」
「金沢です。私の元同僚で、金沢支店に転勤したのがいまして、招かれたんです。大学時代にゼミが同じだったとかで、吉住さんも友人として招待されていました。で、五年ぶりに吉住さんとも再会したんです」
ここで尋ねずにはいられなくなる。
「あの……それがどうかしたんですか?」
椅子《いす》が軋《きし》るような音がした。警部が座り直したのだろう。
「火村先生のお友だちの有栖川さんですから率直に言いましょう。実は、吉住さんはある事件の関係者になっていまして、彼の先週末の行動について調べているところなんです。裏を取る、という奴ですよ」
関係者という言葉は漠然としていて、事情がよく飲み込めない。
「彼は何か厄介《やつかい》なことに巻き込まれているんですか?」
「厄介かどうかはまだ判りませんが、ことは殺人事件ですからこちらも入念に調査をしているんです。二十日日曜日の結婚式に出席するために、十九日土曜日から金沢に行っていた、と言うので、それを証言してくれる人の名前を聞いたところ、新郎と一緒に有栖川有栖さんの名前が飛び出してきたんです。思わぬところで知った人の名前を聞いて、ちょっと驚きました」
「吉住さんでしたら、土曜日の夕方から確かに金沢にいましたよ。その夜は、新郎と彼と私の三人でほんの軽く飲みに行きました。もちろん翌日の式にも出たし、大阪まで帰る電車も一緒でした」
あらぬ疑いをかけられているなら晴らしてあげなくてはと思い、私は力みながら話していた。おそらく、樺田警部は吉住のアリバイを調べているのだろう。新郎に尋ねようにも、その幸せな男はカナダに新婚旅行に旅立っていて捕まらないのだ。私がはっきりと証言してやらなくてはならない。
「そうですか。彼の話していたとおりですね。すぐばれる嘘《うそ》をついているとは思っていませんでしたが」
「それならアリバイ成立ですね?」
返ってきた返事は「いいえ」だった。
「問題になっている事件が発生したのは、十八日金曜日の夜から土曜日の朝にかけてですから、土曜の午後から日曜にかけての行動を確認しているのはアリバイ調べのためではないんです。──有栖川さんに伺いたいのは、その時の吉住さんの印象です」
「……印象と言われても」
「つまり、彼の言動に何か常ならぬところはなかったでしょうか、とお聞きしているんです。今言ったように事件は金曜の夜から土曜の朝の間に発生していますから、もし彼がそれに関わっているとしたら、態度に現れたんではないかと考えられます」
「殺人事件とおっしゃいましたね?」
警部はそうだ、と答える。
私はしばし黙って考えた。──酔っ払って喧嘩《けんか》をしたというのではなく、ことは殺人事件だ。ありそうもないことだが、もし彼が犯人だったなら、ふだんと全く同じ屈託のない態度を装うのは非常に難しいことだっただろう。怯《おび》えたような物腰、暗い表情、沈んだ声、会話中の鈍い反応などが表れたに違いない。そういうものが彼にあったか?
「どうです?」
返事を促されて、私は「いいえ」と答えた。
「特に変わったところがあったとは思いません。つまらない冗談を言い合って、相も変わらずだとお互いに呆《あき》れていましたから」
「いつもと全く同じ様子だったということですね?」
「私が知っているままの吉住さんでした」
「そうですか」樺田警部は納得したようだった。
「判りました。どうもありがとうございました」
「あのぅ、よろしかったら、彼が巻き込まれているのがどんな事件か教えていただけますか?」
それを聞かずにはいられない。
「別に吉住さんに殺人犯の容疑がかかっているというわけではないんですよ。被害者と彼の間に交遊があったので、他の同じような方と同様に話をお聞きしているだけなんですから」ここまでは前置きだ。「問題になっているのは、宝石のチェーン店、ジュエリー堂条の社長が殺害された事件です」
私は驚いた。ダリ髭《ひげ》の社長、堂条秀一が六甲山にある別宅で殺されたことは、今朝の朝刊で読んで知っていた。先週の火曜日にレストランで見かけたばかりなのに、とそこでまず驚いたのだが、その午後、今度は知人がそれに関係しているかもしれないと聞いて、二度びっくりしてしまったのだ。こんなこともあるのか。
「もしもし?」
私が絶句してしまったので、樺田警部が呼びかけてきた。
「ああ、すいません。──吉住さんと堂条社長に交遊があったとは知りませんでした。それが意外だったものですから」
「彼がジュエリー堂条の仕事をしていることをご存知ありませんでしたか? その会社の担当者で、広告会社ではAEとかいうんだそうですが」
「知りません。私が会社をやめた後で担当するようになったのかもしれません」
樺田警部は顔に似合わず、ここで悪戯《いたずら》っけを発揮した。こんな事実を告げるのを後回しにしていたのだから──
「それでは、吉住さんが堂条秀一氏の腹違いの弟さんだということも知りませんでしたね?」
今度は「えっ?」と声に出して言ってしまった。彼が育った家庭環境がいささか複雑だったことは何となく聞いたことがあった。しかし、ダリ髭の社長が兄だとは思いもよらないことだった。特異なキャラクターの有名人だというだけではなく、堂条秀一は大変な資産家ではないか。判りきったことではあるが、私が知っていたのは、吉住訓夫のほんの一部だったらしい。
「またお伺いすることができるかもしれませんが、その節はよろしくお願いします」
用件がすんだ樺田警部は電話を切りにかかっているらしかった。私は「はい。何なりと」と答えた。が、警部は受話器を置かなかった。
「火村先生から電話がいくと思いますよ」
どういうことですか、と聞き返す。
「先生に捜査に加わっていただくことになりました。今日は午後に講義がたくさんあってお越し願えませんでしたけれど、明日は現場においでになります。有栖川さんにも声をかける、とおっしゃっていましたから、よろしければきて下さい」
不謹慎な連想だが、パーティにでも誘われているような気になる。
「では、失礼しました」
受話器を置き、机に戻った私は考え込んでしまった。
金沢の夜、香林坊《こうりんぼう》のスナックに飲みに行った時に吉住がふと見せた暗い表情。無様にとちった私のスピーチを大真面目に聞いていた表情。帰りの電車の中で漏らした疲れきったような声。そんなものが思い浮かぶ。──樺田警部を欺《あざむ》いたわけではないが、吉住は少し変だった。
しかし、まさか彼が……
情報もなく考えていても仕方がない。執筆を再開しようとしたが、無為に時間をつぶすこと約十五分。やはりいい知恵が浮かばず、コーヒーでも淹《い》れようとキッチンに立ったところで電話がまた鳴った。出てみると助教授からのものだ。
「俺《おれ》だ、アリス。仕事中に悪いな」
悪いな、とはどこまで本気で言っている言葉なのか判ったものではない。
「堂条秀一殺害事件について俺の意見を聞きにかけてきたのか?」
火村は短く口笛を吹いた。
「凄《すご》いな、ホームズ。どうして判ったんだ?──さては樺田警部から電話がいったな?」
「そう、ついさっきな。君が捜査に参加することになったと聞いたぞ」
「俺みたいなのが興味を抱きそうな事件だって、警部にお気遣いいただいたわけさ」
「フィールドワークやな。──事件の話を聞かせてくれるか?」
「お前の知り合いが登場人物の中に含まれているから気になるんだろう? 俺だってまだ現場を踏んだわけじゃないから詳しいことは話せないけれどな。──そうだな、今晩俺の家にこられるか?」
「いや」それは困る。
「締切りが迫ってる短編があるんで、京都まで行くのはちょっと……」
「よし、判った。じゃあ、俺がそっちのマンションに行こう。お前の仕事が終わるまで横でおとなしく待ってる。読み残しの『ゴルゴ13』でも読みながら」
「残酷な仕打ちはやめてくれ。──とにかく、きてくれるんやな?」
「これからもうひとコマ講義があるから、そっちに行くのは八時ぐらいになるかもしれない。それまで待っててくれるんなら、一緒に晩飯を食いに行こう。──いいか?」
私は承知した。
火村が八時前にやってくるまでに、私は十枚分の原稿を仕上げていた。電話がかかってくるまで格闘していたアイディアを捨て、別のネタに変更したのだ。本当に切羽《せつぱ》詰まった時のために温存していたものを吐き出すことになってしまった。やれやれ、アイディアをキープしておくなど、どだい無理な話だったのだ。しかし、そのおかげで目処《めど》が立ってきた。
八時までの間、ほんの五分だけ仕事が中断した。七時を過ぎてすぐ、訪問者があったのだ。ドアチャイムが鳴ったので、火村がもうきたのかと思いながら出てみると、立っていたのは隣りの部屋の住人であった。
「今晩は。今、よろしかったでしょうか?」
勤め先から帰ったところなのか、ラベンダー色のスーツ姿の彼女、真野早織《まのさおり》は遠慮がちに尋ねた。右手に白い鳥籠《とりかご》を提げている。それを見るなり、彼女の用件が判った。
「ええ、大丈夫ですよ。──また、ご旅行か研修ですか?」
「ええ、研修です。明日から土曜日まで、箱根なんです。それで、またこの子をお願いできないかと思いまして」
彼女は鳥籠をちょっと持ち上げてみせた。この子とは、止まり木に止まった一羽のカナリアだ。それは、小首を傾げて私を見上げていた。ぱっちりと大きな黒目がちの目をした彼女と、カナリアにいきなり訪問されて、玄関にぱっと花が咲いたようだ。
「もちろんかまいません。ちょうど淋《さび》しい気分だったので、歓迎しますよ」
私が明るい声を作って引き受けると、真野早織は薄くルージュを引いた唇に微笑を浮かべ、「助かります」と頭を下げた。ふわふわと柔らかそうな長い黒髪が両肩を越えて、はらりと胸元に垂れる。
彼女は市内の私立女子高校で英語を教える教諭だった。二十七歳だ、と本人から聞いたことがある。
私と同じく独身のひとり暮しをしている彼女と初めて言葉を交わしたのは一年ほど前で、それまでお互いに隣人同士であることを知らなかった。その日、午後十一時を少し回った頃、近くのコンビニエンスストアで私は夜食を、彼女は急に必要になったらしい熨斗袋《のしぶくろ》を買い求め、相次いで店を出た。彼女が先。わずかに遅れて私だった。少し離れてすたすたと足早についてくる私を、彼女は二度振り返って見た。私がマンションまでついてきたどころか、同じエレベーターに乗り込み、行き先のボタンを押さない──同じ階までついてこようとしている──ことに対し、彼女が不安になっているのがうつ向いた横顔から読み取れた。
──私は七〇二号室なんです。
怪しい者ではないことを判ってもらおう、と気を回した私が唐突にそんなことを言うものだから、彼女は「ひゃっ」と妙な声を出して飛び上がった。私は噴き出しそうになるのを懸命にこらえた。
──よけいに驚かせましたか? どうもすみません。
──いいえ、こちらこそ失礼しました。
彼女は恥ずかしそうに詫《わ》びたが、その語尾は顫《ふる》えていた。自分の発した声のおかしさに、笑いだしていたのだ。
──私は七〇三号室の真野といいます。よろしくお願いします。
──有栖川です。こちらこそよろしく。
──ああ、やっぱりアリスガワとお読みするんですね。表札を見てただならぬお名前だな、と思っていたんです。
そんなやりとりをしているうちに七階に着き、私の部屋の前で「おやすみなさい」と言って別れた。その後、エレベーター、廊下やごみのドラムの前で会うたびに挨拶《あいさつ》をするようになり、お仕事は何をしておいでですかと世間話をするようになり、やがて、彼女のカナリアを預かるようになった。
「そしたら、これを」
鳥籠と一緒に、餌《えさ》の入ったビニール袋を受け取る。そいつの補充をしてやる他は、水を換えてやればいいだけだから、手間はかからない。
「有栖川さんに預かっていただくまでは、この子を残して研修に出るのが心配だったんですけど、最近はもう安心です。ありがとうございます」
時間に余裕がないのか、こちらが仕事をしているところだったと察したのか、今日の彼女は無駄話をしようとしなかった。少し残念な気がする。
「どうぞ安心して行ってらっしゃい」
そのひと言が会話の幕切れだった。私の手に鳥籠と餌の袋が残り、ドアが鼻先で閉じる。私は出鱈目《でたらめ》なメロディを口ずさみながらリビングへ戻り、西に面した窓辺にいつものように鳥籠を吊した。
「啼《な》く気になったら啼いてみせろよ」
嘴《くちばし》を水に浸している小鳥にそう声をかける。名前を呼ぼうにも、「名前はないんです」と飼い主が言うのでできない。女性が可愛がっている小鳥に名前をつけないということがあるものだろうか、と思うが、何か秘められた特別の感情があるのかもしれない。
そしてこのメスのカナリアにも。──彼女は決して啼かなかった。
感心なことに、火村は手ぶらではこなかった。私が締切りに追われて四苦八苦しているのを知って、寿司折りを持ってきてくれたのだ。食事に出る時間も惜しいだろう、と気を利《き》かせてくれたのだろう。私がお茶を淹《い》れ、二人してダイニングでぱくぱくとつまむ。
「何だ、焦ってる癖に野球なんか聴きながら仕事してんのか?」
私の仕事部屋からラジオの野球中継が聞こえてくるのを耳にして、火村は情けなさそうに言った。珍しくタイガースが開幕から好調なのだから、仕方がないではないか。しかし、『札幌ベアーズ』のファンだという彼には──要するにプロ野球に興味がないのだ──この気持ちは判るまい。
「今年のタイガースは優勝が狙《ねら》えるんや」
「ほぉ。ハレー彗星《すいせい》が引き返してでもきたのか?」
何とでも言ってくれ。しかし、ロックや野球中継を聴きながら仕事ができるというのは、結構なご身分なのかもしれない。
われわれの晩餐《ばんさん》はものの十分ほどで終わった。コーヒーを飲みながら、ぼちぼちと事件の話に入っていく。
「新聞は読んだよな?」と彼が聞く。
「夕刊でもかなり大きな扱いやった。被害者は有名人やし、発見された時の死体の様子も普通やなかったらしいからな」
殺された堂条秀一はダリ髭《ひげ》をトレードマークにした日本有数の宝石チェーンの社長。そして、週末を過ごす六甲山の邸宅で見つかったその死体は、フロートカプセルとかいう現代的な瞑想《めいそう》機械に入っていたという。話題性は満点だろう。
「頭を殴られて死んでたんやて?」
「前頭部、つまり額の上部に数回くらってる。凶器は鈍器らしいけど、現場では見つかっていない──らしい」
火村がキャメルを取り出したので、立ち上がって灰皿を持ってきてやった。私はふだん吸わないのだ。
「断わっておくけど、俺だって警部から電話であれこれ聴いた範囲のことしか知らない。詳しい状況は明日、六甲の現場で聴くことになっているからそのつもりで」
「判った。──堂条秀一が殺されたのは十八日金曜日の夜とだけ、新聞には書いてあったな」
「検視によると、十八日の午後九時から十九日の午前二時。死体が発見されたのは昨日、二十一日月曜日の午後八時前だ。死後三日近くなって発見されたわけだから、法医学的にはそれ以上死亡推定時刻を縮められない状況なのさ。被害者が何時まで生きているのを見た、という目撃者が現れたりすれば幅が狭まるんだけどな」
ラジオのアナウンサーが何か大声で叫んでいる。思わず聴き耳をたててしまったが、タイガースがチャンスを潰《つぶ》したようだった。火村との話に集中するために、ラジオを切った。野球はいつでも聞ける。
「発見者はジュエリー堂条の専務で、堂条秀一の弟、秀二。それと営業部長の湯川元雄と秘書の鷺尾優子の三人。当日、秀一は無断で欠勤した。秀二が大阪市内のマンションへ様子を見に行っても姿がない。心配になった彼らは六甲の別宅へ行ってみた。と、社長が死体になっていた、というのが発見までの経緯なんだ」
「フロートカプセルに入ってた?」
「そう」
「フロートカプセルって、水が入ったタンクみたいなものやろ?」
火村は頷《うなず》き、白いジャケットの内ポケットから手帳を取り出した。事件に関係した新奇な装置について、警察はすでに一応のことを調べ上げたのだろう。
「そう。エポジウムという物質を溶かして比重一・二八になった水が入ったカプセルだ。水温は体温とほぼ同じの三十七度に調節してある。その中で裸になって横になると、体がぽっかりと浮かぶんだそうだ。カプセル内には光も差し込まないし、音も遮断されて入ってこない。母親の子宮の中で羊水に浸かっているのと似た状態、つまり生まれる前の状態になれるということだな。その無重力の闇《やみ》の中で瞑想に耽《ふけ》って精神と身体を解放することが目的だ」
「効用はストレスの解消っていうことか」
「脳波がα波を通り越してθ波になるんだとさ。八ヘルツから五ヘルツまで下がって、無我の境地に近づくことができるわけだ。えーと、それ以外にも、心拍数、血圧、皮膚温度が正常になって疲労回復ができる上に、肩こり、腰痛、頭痛、筋肉痛、二日酔い、胃腸障害、不安緊張症、不眠症、に効くらしい。──どうだ、ありがたい機械だろ?」
自分が試してきたわけでもないだろうに、メモを見ながらそんなことを言う。
「ほんまに効くのか?」
「知らない。運動後のリラックスのためにスポーツクラブに置いてあったりするそうだから、興味があったら行って試してきたらどうだ? 日本に何台かしかないっていうから、タウンページででも捜してな。明日、殺人現場で死体が浮かんでた実物を見ることになるけど、さすがにそれに入って試してみる気にはなれないだろうな」
「アホ。当たり前や」
「効き目については、自分の体験としては言及しかねるけど、このカプセルの中に四十分浸かっていると、六時間熟睡したのと同じ睡眠効果があることは実験で立証されているらしい」
「ほぉ。それだけでも立派なもんや。忙しい人間にはうってつけやないか」
「ナポレオンもこれを愛用してたのかもな。──効用はまだある。この中でスポーツのビデオを見たり、語学のテープを聴いたりして学習するのも有効なんだ」
私は苦笑して「ちょっと無精《ぶしよう》すぎるで」
「もう少し蘊蓄《うんちく》をたれるとだな、フロートカプセルは、一九七八年にゲーリー・ヒギンスというアメリカ人によって考案されたんだ。八四年のロサンジェルス・オリンピックの選手村に設置されたこともあるんだそうだぜ。IOCのお墨付きじゃないか」
「裸で瞑想というのはアメリカ人が好きそうなことやな」
「アメリカン・禅だな」火村はカップを差し出した。「おかわりをもらえるか?」
私は自分の二杯目も注ぎながら「胎内回帰による瞑想か」と呟《つぶや》いた。
「悩み多き現代人は、母の胎内に逃避して癒《いや》されたいと願うのさ」
「そんな陳腐な言い回しは社会学者から承らんでも、素人でも口にできる」と私は意地悪く言った。
「気張って言ったわけじゃないのに厳しいな。──それにしても、胎内回帰願望とダリ・マニアの男という組み合わせはなかなか面白いと思わないか?」
思う。彼に指摘されるまでもなく、私は思っていた。
自他ともに認める天才サルバドール・ダリの自叙伝『わが秘められた生涯』の中で、彼は『まだ自分が母親の子宮内の存在であった誕生以前のあの高度に重要な時期について(中略)まるで昨日のことのようにはっきりと覚えているのだ』と記している。彼一流のはったりに満ちた表現だ。子宮内は楽園だった、と彼は言う。そして、それが具体的にいかなるものだったかを、いかにも画家らしく視覚的に、色彩たっぷりに描出してみせるのだ。──そこから引用してみよう。
『子宮内の楽園は地獄の色をしていた。すなわち、赤、オレンジ、黄、青味がかった色──炎の色であり、火の色だった。何よりも、それは柔らかく、不動で、暖かく、左右対称で、対になっていて、膠質《にかわしつ》だった。すでにそのとき、私にとってすべての喜び、すべての魅力はわが両眼のうちにあり、もっとも素晴らしく、もっとも驚くべき情景は、フライパンのなかで、だが、そのフライパンがないのに目玉焼きになっている一対の卵だった。(中略)雄大で、燐光《りんこう》を放っていて、その微かに青味がかった白身のあらゆる襞《ひだ》のひとつひとつまで詳細に見てとれた。二つの卵は私に近づいたり、上下に、あるいは前後に動きまわり、真珠貝の火の虹色と激烈さを帯びたかと思うと、しだいに弱まって、ついには消えてしまうのだった』
そして、それは彼だけのものではないのだと言う──
『子供たちが両眼を強く押して「ときに天使を呼んだりする」あの光の輪を見ようとするのは、どこでも見かける遊びである。そんなとき、子供は胎児時代の視覚的記憶を再現しようとしているのだ。目からあこがれの光と色を摘出し、失われた楽園でかつて目撃した亡霊の天使の聖なる光輪を、ふたたびせめて似たものなりとも見たいがために、幼くしてすでに郷愁にかられて両眼を痛くなるまで圧するのである』
引用がついつい長くなってしまった。
ともあれ、この子宮内の記憶というダリの言説はよく知られている。そのダリの信奉者である堂条秀一が、冷たい金属性の子宮にこもることを愛好していたというのだから、その関係は興味深い。
「ダリと堂条秀一とは誕生日が同じなんだそうだ。それから、あの両端がピンと跳ね上がった髭《ひげ》が共通してるよな。あれをダリは『私のアンテナ』と称していたらしいけど、二人の男は同じものを受信して、胎内の楽園を夢想していたのかもしれない。──ただし、これは社会学者としてのコメントじゃないぜ」
火村は手帳を閉じて言った。
「それは占《うらな》い師の戯言《ざれごと》か小説家の気取りや」
「そうか、どっちにしても退屈なものだな」
彼はつまらなさそうに応じた。
「フロートカプセルについて、俺が聞いたのは今言ったようなところだ」
「だいたい理解した。死体はその中に裸で浮遊してる形で発見されたんやな?」
「すっ裸で、おまけに髭までなかったそうだ」
私は聞き返さずにはいられなかった。
「何て言うた?」
「すっ裸で、おまけに髭までなかった。──被害者の鼻の下に、トレードマークの髭がなかったんだよ」
私の驚いた表情を楽しむように、火村は微笑した。
「どういうことや? まさか犯人が殺した後で剃《そ》っていったっていうんやないやろうな?」
「俺に聞かれても答えに困る。とにかく、ダリ髭はなくなっていたんだ」
「それは新聞に載ってなかった」
「当局が伏せたんだ」
「けど……」
どうして被害者は生命だけでなく、自慢の髭までをも奪われたのだろうか?
「復讐《ふくしゆう》かな。憎しみが被害者の髭を剃り落とさせたとか?」
「それも一つの仮説だ。犯人が大願成就の記念に持ち去ったとか、あんまり見事なんでコレクションに加えようとしたとか、いくらでも可能性はある」
「警察の見解は?」
「お前ほどせっかちに結論を出し急いじゃいないよ。復讐説は出ていたらしいけどな。俺自身については、繰り返すけど答えを用意していない」
犯人は堂条秀一の見事な髭欲しさに犯行に及んだのではないか、という馬鹿馬鹿しくも推理小説的な仮説が、私の頭に浮かんだ。だが、やはりそれはあまりにも現実味を欠いている。髭が欲しいだけなら、殺さずとも目的を達することができただろう。過って死に至らしめてしまった、と考えるのも無理がありそうだ。
「けれど、髭がなかったんやったら、発見した人間は、それが堂条秀一やとひと目で判らんかったんやないか?」
「お前や俺ならそうだったかもしれない。しかし、発見者は被害者のごく身近にいた人間ばかりだ。すぐに判ったと口を揃《そろ》えて言っている」
「ふぅん、そうか。カプセルに浮いた死体が誰かはすぐに判ったんやな」
「そう。ただ、発見者の三人は、カプセルの蓋《ふた》を開けてみるまで中に死体が入っていることなんか露ほども予期してなかったそうだ」
私には少し引っかかった。
「けど、朝から行方不明の社長を捜しにいってたんやろ?」
「ちょっとしたすれ違いがあったんだ。──六甲まで捜しに行ったわけは、秀一が大阪市内のマンションにいなかったことと、彼がこの週末を別宅で過ごすと湯川部長らの前で口にしていたことだ。ところが、湯川の運転で別宅に着いてみるとどの窓からも明かりが見えない。どうやらいないようだな、と思いつつ、念のために家に上がってみることにした。この時に車を車庫に回していれば、秀一のプレリュードが駐まってるのに気づいたはずなんだけど、車庫へ回るのも面倒だ、ということで、門の前でみんな車を降りてるんだ。明かりが点いてないからいないようだ、という結論にみんな傾いていたかららしい」
その邸宅を見たことはないが、車を車庫まで回すのが邪魔くさかった、というのはありそうなことだ。しかし、説明を求めたい点がもう一つあった。
「車庫の車に気がつかなかったとしても、玄関に入れば被害者の靴が脱いであったんやないのか?」
「靴は下駄箱に入っていたそうだ。どうしてそうなっていたのか、と聞くなよ。警察にも俺にも答えられないから」
「よし、その質問は勘弁してやる。けれど、家の中に入ってから気がつくことはなかったんか? 飲み食いした跡やら何やらあったやろう?」
「リビングのテーブルの上にウィスキーのボトルとグラスが一つのっていたので、一旦《いつたん》はここにきたんだな、とは知れたそうだ。しかし、弟の秀二が二階へ上がって見て回っても、三人で階下の他の部屋を見てみても、秀一の姿はなかった」
「フロートカプセルはどんなところに設置されてたんや?」
「リビングに連なった一番奥の小部屋だ。家中捜していないなら残るのはそこだけなんだけど、まさか家中の明かりを消してカプセルに入ってるとも思わないので、その時点で秀一を見つけることを諦《あきら》めてたそうだ。秀二がカプセルを開いてみたのは、それの話に興味を抱いた秘書の鷺尾優子が実物を見たがったので、こんなものだよ、と見せてやるためだった」
「蓋を開ける直前にも気がつかんかったんやな?」
「秀一が脱いだ下着が籠《かご》に入っていたんだけど、それに気がついたのは蓋を開けて死体を発見した後のことらしい。籠はカプセルの陰になっていて、よく見えない場所にあった上、俯伏せになっていたから」
「ふーん、開けた時はびっくりしたやろうな」
「仰天したってさ。──とかいう話はみんな三人の供述をとった樺田警部に聞いたことで、もちろん俺自身はまだ関係者の誰とも会っていない」
私はテーブルの上にあった封筒──推理作家協会からのもので会費切れの通達が入っていた──をひっくり返して、遅ればせながらこれまで出てきた関係者の名前を裏に書き留めた。
「聞き忘れてたけど、被害者はカプセルの中で殴り殺されたんか?」と尋ねる。
「樺田警部が慎重だからだろうけど、そこまでは聞いていないな。前頭部を殴られているんだから、カプセルに無防備に横たわっているところを襲われた、と考えられなくもないんだが、そうしようとしたらカプセルの壁や開けた蓋が邪魔になるから、犯人はかなり窮屈なスイングをしなくちゃならなかったはずなんだな」
「窮屈なスイングっていうても、振り回した凶器がどれぐらいの大きさ、長さのものやったか判ってないんやろ? 凶器は小さなものやったかもしれん」
「それにしても、腕を振り上げ、振り下ろすだけにでも必要なスペースってもんがあるじゃないか。そもそも、フロートカプセルというのはオルゴールみたいに蓋が大きく開くもんじゃないんだ。上部の一部に開閉口があるだけなんで、中の人間を殴打するのは実際は困難だ。秀一はカプセルの外で殺されたのかもしれないんだ」
私は手にしていたボールペンをころんとテーブルに転がして腕を組んだ。
「また判らんことを言うなぁ。殺した後でわざわざカプセルにほうり込んだやなんて、どういうことや?」
「そうすることによって何かメリットがあったんだろうな。──そういう疑問についてはまた後で考えることにしようや」
気になる点ではあったが、あまり謎《なぞ》が連続して出てくると、私はすぐに混乱してしまう。ここは彼の忠告に従う方が利口かもしれない。そう思った途端に、するべき質問を思い出した。
「ところで、吉住に容疑がかかってるんか?」
「別に今のこの段階で深刻な容疑がかかってるわけじゃない。彼が堂条秀一、秀二と血がつながってるって知らなかったんだな?」
「全然知らなかった。母親が違う兄弟やって警部が言うてたけど」
「吉住だけじゃない。秀一と秀二の母親も違うんだ」
「なかなか複雑やな」
「彼らの父親がタンポポの種子みたいにがんばったのさ。堂条|光《ひかる》という男だけどな」
堂条秀一殺害事件を報じた各紙は──といっても私は全国紙とスポーツ新聞を一紙ずつ取っているだけだが──堂条秀一のプロフィールとジュエリー堂条の概要を紹介していたが、その中に堂条光なる名前もちらりと登場していたのを覚えている。──火村は再び手帳を開き、堂条ファミリーとジュエリー堂条について話しだした。
「光、とはまたいかにも宝石商らしい名前だけど、この親父さんがジュエリー堂条の創設者だ。といっても現在の事業規模を築いたのは二人の息子、とりわけ兄の秀一であることは間違いがない。
親父さんの話から始めよう。堂条光は兵庫県の豊岡《とよおか》市出身、戦争中は徴兵されて南方を転々とした。運よく終戦の年の十月にはもう帰国している。和歌山港に帰ってきた彼は焼土と化した大阪に出て、混乱の中でまとまった金を掴《つか》んだ。旧日本軍の物資の横流しや麻薬の売買ですばしっこく稼いだ、という噂《うわさ》もある。終戦直後の混乱が鎮静化してくると、彼は斜陽族が放出した宝石を買い叩《たた》いて集め、その訪問販売を一人で始めた。商品を鞄《かばん》に詰めて持ち歩き、客の家を訪ねて回るだけ。店舗は構えない、という商売だ。客には『無店舗販売だから安い』とか、ひどい場合は『物品税を払わずにすむので安い』とか売り込んだらしい。こういうやり方は現在もあるけど、当然にもその売上は誰にも窺《うかが》い知ることができないから、彼らは国に税金を納めなくてすむ。業界ではこの違法な業者を『鞄屋』と呼ぶそうだ」
火村の口調が、教壇に立って講義をしている時のものに似てきた。
「鞄屋でさらに儲《もう》けながら堂条光は一九五〇年(昭和二十五年)に最初の結婚をして、翌年長男の秀一が生まれる。そして五五年(昭和三十年)、同業者の妨害や競争の激化に嫌気が差したらしく、天神橋筋《てんじんばしすじ》に初めて自分の店を持った。商売はまずまずうまく滑り出し、軌道に乗ったんだけど、四年後に妻と死別する。秀一が八歳の時だ。光は翌年に早くも再婚。相手は二十歳年下の店の事務員で、妻が存命中から関係があったらしい。二年後に次男の秀二が誕生し、商売はますます順調だったんだが、秀二が八歳になった時にまたも妻が病で没する。それ以後、光が妻をめとることはなかった」
「吉住の家は母子家庭だと聞いたことがある……」
「吉住訓夫の母親は看護婦だった。光が胃潰瘍《いかいよう》で入院した時に世話をしたのが馴《な》れ初《そ》めで、退院後には彼が彼女の面倒をみるようになる。やがて彼の三人目の子供が生まれた。また男の子だ。母親がすべて違う三人兄弟になったわけだ」
「籍は?」
「光は訓夫を自分の子と認知して籍を入れた。しかし、その母親と結婚することはなかった。彼にすでに二人の子供がいることが、彼女を躊躇《ためら》わせた。うまくやっていく自信がなかった。それで、光の正妻にはならなかったんだ。光もそれに同意し、通いの夫であり続けた。経済的な援助は怠らなかったそうだから、吉住母子が経済的に困ることはなかっただろう」
「そうらしいな。吉住は私立の大学を出てる」
「吉住訓夫が大学を卒業した年に、光は肝臓|癌《がん》で亡くなっている。光の遺言状に基づいて、母子には充分なものが遺された。光には親類縁者がなかったし、秀一、秀二の兄弟との間にもトラブルは全くなかった。ただし、この十一年前の時点のジュエリー堂条は、今日の十分の一程度の規模しかなかった。わが国屈指の宝飾店チェーンに育て上げたのは、さっきも言ったように跡を継いだ秀一だからな」
体を斜めにして座っていた火村は、椅子の背に片脚を掛けてさらにだらしない恰好《かつこう》になった。
「宝飾品のチェーンというのは、業界の中では新興勢力だ。宝飾品が富裕階級だけのものだった頃は、信用ある老舗《しにせ》の看板を背負った販売員が、丁寧に一個一個の品を説明し、顧客の趣味を聞きながらその高価な商品を売っていた。それが高度成長期になって宝飾品が大衆化すると、他の商品と同じようにチェーン店という形態が現れる。大量仕入れ、大量販売によるマス・マーチャンダイジング。悪い意味で言うんじゃないが、スーパーマーケットで売られる紙おむつと同じだな。店舗は気軽に入りやすくなり、自分の予算に合った好みの品を自由に選べるようになった。テレビではコマーシャルが繰り返し流れる。日経新聞の専門店調査の宝石・時計・眼鏡の部門では、七九年(昭和五十四年)に宝飾品チェーンがランキングの上位に登場した。その頃のジュエリー堂条は店舗数五。年商は十億円そこそこだった。つまり、新興勢力のチェーン店の中でも後発組だったわけだ」
火村助教授、今度は経済評論家になっている。
「今の規模は?」
「若干のフランチャイズ店も含めて店舗数二十八。年商百十億円。業界の十指に入る。大変な急成長だ。四年前から本店と本部を心斎橋のヨーロッパ村に移している」
「ご立派」
「バブル経済の嵐の中で随分と賢い投機もしたらしい。ただ、本業をおろそかにしなかったのがえらいよ。サイドビジネスで儲《もう》けた金をそっちに積極的に注ぎ込んで、好立地の店をどんどん増やしていった。株価が暴落する前にさっとそっちからは手を引いている。経営者として敬服に値するな」
「やけに褒めるやないか」
「成金になって浮かれてて、バブルがはじけたらずっこけてたのが多いじゃないか」
「結果はどうにせよ、そんなのは資本家が遊んでるだけのことや」
「俺よりいい家に住んでてひがむな。それに、ひがんだらあいつらのルールに乗っかることになる」
話を脱線させないために、私は口をつぐんだ。
「吉住と堂条兄弟は仲よくやってたわけか?」
「昔から一緒に遊んだり、旅行に行ったりもして、お互い変なわだかまりはなかった、と秀二は言っている。特に秀一は吉住を可愛がって、六甲の別宅には何カ月に一度か招いたりね。ジュエリー堂条の広告宣伝をしている東洋アドに吉住が入社したことに特別な意味はなかったらしいけど、二年前に吉住が担当AEになったのは、秀一の指名だったそうだ。ビジネスの上でも両者の関係は良好だった、というのが秀二の証言だ」
「秀二だけの証言を鵜呑《うの》みにするわけにはいかんやろう。聞かれて都合の悪い家庭の事情は隠すやろうから」
「もちろん、警察は周辺で念入りに聴き込みをしているはずだ。堂条秀二と吉住訓夫については大いに興味があるからな」
また吉住をめぐる話になってきた。
「それはつまり……殺しの動機があるということか?」
椅子の背に掛けた右脚をぶらぶらさせながら、火村は頷《うなず》いた。
「妻も子もない堂条秀一が死んで大きな利益を受けられるのは、まず共同経営者で弟の秀二。その次は半分血のつながった吉住だ。詳しいことを聞いてはいないが、秀一は遺言状の中で吉住に遺贈するものをかなり用意しているらしい。この件については、明日、秀一の弁護士から発表があるとのことだ」
「遺産目当て、か。月並みやな。けれど、東洋アドは広告代理店としたら大手やし、吉住も年齢の割りにはかなりの高給をもろうてるはずや。兄貴を殺してまで遺産を狙《ねら》うやなんて、おかしい」
「常識的に考えたらそう言えるだろう。警察は、そこに付加して考慮すべき事情がないかをきっと洗う。彼は以前から現場に何度も行ったことがある、という事実にも警察は注目しているしな」
「堂条邸の場所を熟知してたっていうことか?」
「場所はさほど判りにくいところにあるわけじゃない。問題は彼がフロートカプセルについてもよく知っているということなんだ。秀一に勧められて浸かってみたらすっかり気に入って、行く度に使わせてもらっていたそうだ」
「それがどうした?」
「フロートカプセルというのはテレビのテレフォン・ショッピングで売ってるような代物じゃない。普通の人間なら、見てもそれが何をするためのどういうものなのか見当がつかないこともあるだろう。犯行時に被害者がそこに入っていたのか、犯行後に犯人が死体を入れたのかは不明だけど、いずれにしても犯人はフロートカプセルの扱い方について知悉《ちしつ》していた節がある。吉住はその条件に合致する」
「そんなもん、吉住だけが該当するわけやないやろう」
「関係者の話をこれまで聞いたところでは、フロートカプセルに入ったことがある人間は、秀一以外には弟の秀二と吉住の二人しかいない。もちろん、実際には体験しているのに口を拭《ぬぐ》っているのがいるのかもしれないけどな」
「それはええとしよう。けど、フロートカプセルについて知識を持ってたからって、それが犯人の条件というわけはないぞ。俺もそのカプセルを見たことはないけれど、見たら死体を隠す容器にいいと思ったかもしれん。もしくは……犯人は秀一がカプセルに入るところを見ていて、蓋《ふた》を開けて襲ったとも考えられる」
私は吉住を庇《かば》いにかかっていた。それほど親密な間柄だったわけではないので、友を信じる、などという大袈裟《おおげさ》な気持ちはさらさらない。ただ、彼が疑われる根拠が薄弱で、納得がいかなかったのだ。
「お前が言うのももっともだ」火村は認めた。「だから言ったじゃないか。深刻な容疑がかかってるわけじゃないって。──彼にはアリバイがまるでないということだけど、これも悩むようなことじゃないな。犯行は真夜中にかけてだったんだから、一人暮しの彼にアリバイがなくても不自然なことはない」
樺田警部から電話があった時は少し心配したが、彼がまずい立場に立たされているわけではなさそうだ、と理解できた。金沢で一緒だった時に元気がなかったのは、単に疲れていただけなのかもしれない。
「吉住に電話してみよう」
私は思い立って言った。火村はキャメルをくわえながら、どうぞ、と言うように電話が置いてある書斎を左手で示した。
「してみな。堂条秀一の遺体は司法解剖にふされているから、通夜は明日以降になる。帰っているかもしれない」
メモを見ながら、神戸のマンションにダイアルする。まだ九時を過ぎたばかりなので帰っていないかもしれない、と思ったが、彼はすぐに出た。
「有栖川です。──この前はお疲れ様でした」
「やぁ。時間があったら、金沢観光をして帰りたかったのにな」
快活な調子ではあったが、あまり声の張りがなかった。私は受話器を手にし、話しながら火村がいる食堂に戻った。火村は椅子の背に片脚を掛けたまま煙草をふかしている。
「堂条秀一氏が亡くなった事件を聞いた。君のお兄さんやったそうやな」
私は悔やみの言葉を述べた。
「ご丁寧にどうも。さっき、秀二兄貴のところから帰ったばっかりなんだ。呆然としてるよ」ひと呼吸おいて「堂条が俺の兄貴だったって誰かに聞いたのか?」
「警察からの電話で聞いた」
簡単に答えると、吉住は「ああ」と納得した。
「そうか。土曜日と日曜日は君と一緒だったと刑事に話したからな。裏を取るために電話が入ったっていうわけか。仕事中に変な電話で迷惑かけたな」
力のない声で詫《わ》びてくれる。
「いいや、別に迷惑でも何でもなかった。ちゃんとありのまま答えておいたから安心してくれ」ここで私も一拍おく。「実はな──」
私はまず火村英生という友人について話し、彼とともにこの事件の捜査に関わることになったと話した。売れない小説家の私が何故そんなことをするのか、という質問は返ってこない。
「そうか。君がそんな方面でも活躍してるとは知らなかった」
私が火村にくっついて犯罪捜査に立ち会わせてもらう理由については、手短に説明できることではないので省いたのだ。そして、火村が殺人事件の捜査に情熱を燃やすのも、単に研究が目的ではないのだが──それだけは知っている──、こちらについては私でさえうまく説明しかねた。
「ほんまは本屋の店頭でもっと活躍したいんやけどな。──そんなわけやから、力になれることもあると思う。気がついたことがあったら言うてくれ」
吉住の返事は「判った」というひと言だけだった。当然だろうが、「じゃ、話したいことがあるんだ」と早速、告白が始まることはなかった。となると、私はもう彼に質問を重ねることができない。
「気を落とさないようにな。また、連絡させてもらう」
そう言って電話を切った。
「どんな様子だった?」と火村が聞いてくる。
「話した中身は何でもないことやけど、さすがに悄然《しようぜん》としてた。それより、俺は土曜、日曜に会うた時の様子がちょっと気になってな」
金沢での様子を話したが、火村としてもそれだけのことでは何ともコメントのしようがないようだった。
「とにかく、明日、現場を見てからだ。週末から吉住氏に元気がなかったのは別の心配事のせいかもしれない。午前中に現場に行くことになってるんだけど、お前の仕事の方は片付きそうか?」
「これからすませる。そっちは好きにしててくれ」
「邪魔しないようにここでおとなしくしてるさ。昨日の夜、ほとんど眠ってないので、悪いけど多分先に寝させてもらうだろうな」
彼は持ってきた鞄《かばん》から部厚い洋書を取り出して開いた。私は、冷蔵庫にビールぐらいはあることと、眠たくなったらベッドで勝手に休んでくれ、と言ってから、電話を持って書斎に戻った。
ドアを閉め、ラジオもつけずに孤独な作業を再開する。徹夜になってしまっては明日の行動に差し支えるので、午前二時ぐらいまでには脱稿してしまいたかった。薄いドアの向こうからは、友人がページをめくる音が時折聞こえてくる。それ以外は、自分がキーを叩《たた》く音と通りを行き交う車の音だけ。ふだんになく、精神が集中した。
八割方できたところで顔を上げ、壁の時計を見るともう十二時が近い。あっという間に三時間が過ぎていたことになる。私は両肩を回しながら、ひと休みするために立ち上がった。ダイニングに出てみると、火村は明りの消えたリビングの片隅のソファに横になり、小さな寝息をたてていた。私がコーヒーを淹《い》れている間も、寝返りひとつ打たずにすやすや眠っている。かなり疲れていたのかもしれない。鳥籠《とりかご》の名無しのカナリアも熟睡しているらしい。私は熱いコーヒーにミルクをたっぷり入れて飲むと、ダイニングの電灯を消して仕事部屋に戻った。
孤独な作業を再開しよう、と自分に号令をかけたところで妙な気分になる。どうしてお前は自分の仕事をついつい「孤独な」と形容をしてしまうのか? 脱サラしてまで開業した好きな仕事のくせに。孤独ぶるのは単なる気取りか?
違う。
蚕《かいこ》が繭《まゆ》を紡ぐように小説を書き始めた頃のことが、鮮明に頭に甦《よみがえ》った。今以上に自分の殼に閉じこもって夢中で原稿用紙の桝《ます》を埋めていたあの時に、何の気取りがあっただろう。真新しい最初の原稿用紙に向かった十七歳の夏の、うだるように暑かった夜の記憶。きりきりと胸を刺すような痛みとともに始めた繭作りの記憶──
ノー!
「そんなことを思い出してる場合やないやろう」
私は声に出して自分を叱《しか》った。
しくじった。
その後、文章がなかなか出てこないようになってしまい、書き上げてベッドに潜り込むことができたのは明け方近くなってからだった。
第三章 助教授の現場検証
翌朝、八時過ぎに火村に起こされた。瞼《まぶた》をこすりながらダイニングに出てみると、何と、トーストとスクランブル・エッグの朝食の支度ができており、コーヒーの香りが漂っている。それを見て、瞬時に目が覚めた。
「ああ、眠気がふっ飛んだ。まるで新婚家庭の朝の食卓やな」
「俺もそう思う。テーブルに皿を並べながら新妻になったような気がした」
火村はまだ剃っていない髭《ひげ》をぼりぼり掻きながら言った。
「おい、世間の誤解を招くようなことを言うな」と一喝して席に着く。
「それにしても、君が自炊に関してはマメなのは知ってたけど、ここまでしてくれるとは思ってなかった」
「これぐらいおやすいご用さ。明け方まで書いてたんだろ? 仕事の遅い作家は大変だな」
「因果な性分で、仕事が丁寧なもんでね」
ともあれ私は友人に感謝しつつ、朝食をすませた。二杯目のコーヒーを飲みながら朝刊をテーブルの上に広げてみると、堂条秀一殺害事件に関連した記事が大きく載っていた。だが、その内容はもっぱらワンマン社長を失ったジュエリー堂条本社の混乱ぶりを報じたもので、事件の捜査状況について触れた箇所《かしよ》はほとんどなかった。タイガースの勝利を確認してから火村に回したが、彼はざっと目を通しただけだった。
「行くか」という火村の掛け声で私は腰を上げた。書き上げたばかりの短編を封筒に入れて持ち、部屋を出る。そして、それを角のコンビニから宅配便で送ってから、私のブルーバードで六甲の現場に向けて出発した。ステアリングを握るのは、睡眠が充分の火村の方だ。
「しかし、これ、よく走るよな」
かなり痛んだ私の愛車の頭を天王寺《てんのうじ》に向けながら、友人は感心したように言った。私も同感だ。そもそもこの車は江戸川乱歩賞のパーティに出席した時に、某先輩作家から「君、車いらんか?」と言われて頂戴《ちようだい》したもので、すでに先代の持ち主がたっぷり元を取った車なのだ。「廃車にするか、誰かにあげようかと思ってたんだ」という先輩の目に留まったのは嬉《うれ》しいような、哀《かな》しいような話ではあるが、とても重宝している。──それにしても、火村に私の車のオンボロさかげんをからかわれることはないのだ。ふだん彼が乗っている車も同僚から二束三文で譲ってもらった年代もののベンツで、目下、修理中なのだから。
高速にのると、快晴の下、気持ちのいいドライブになる。私たちは音楽も鳴らさず、とりとめのない会話をぽつりぽつりと続けた。
「確かに今年は違うみたいだな」
火村が不意にわけの判らない言葉を投げかける。
「何のことや?」
「タイガースさ。昨日も勝ってたじゃないか」
私はわずかに顔をほころばせた。
会話が途切れた時、友人の方をちらりと見た。尖《とが》った鼻の横顔は真直ぐに前を見たままで、私の視線に気がつかないようだ。──彼は今何を考えているのだろう? 狩猟に出かけるハンターのように胸を高ぶらせているようにも見受けられない。
火村が犯罪捜査、それも特に殺人事件のそれに飛び込んでいく動機について、私は詳しく尋ねることができなかった。私立大学に籍を置くこの学者が探偵もどきの真似をするのは、研究熱心が昂じた結果ではないらしいし、純粋な正義感からの行動とも考えにくい。そもそも彼は正義という言葉を口にしない。天から与えられた類《たぐい》まれな推理力、観察力を発現して自己表現を行なうのが推理小説に登場する探偵たちだが、火村は彼らのように、自分の行為に陶酔《とうすい》しているふうでもなかった。犯罪の現場に臨み、犯人と相対することを彼が強く希望するわけを、私は知りたかった。直接尋ねてもはぐらかすような答えしか返さない男の秘密に、私の興味はずっと惹かれている。それが、彼のフィールドワークに私が同行させてもらう理由だった。
何故、犯罪捜査に身を投じるのか、という問いに対して、火村が真顔で答える際の台詞《せりふ》は決まっていた。
──俺自身、人を殺したいと真剣に考えたことがあるからだ。
それはどういう状況で、誰を殺したいと思ったのだ、と追及できた者はいない。彼と最も親しい友人である私でさえ、それを問うことは躊躇《ためら》われた。──俺は踏みとどまった。踏みとどまったからには、あちらに向かって飛び立った人間ははたき落とす。それが俺の礼儀だ。
彼のそんな言葉が意味するところも、よく理解できないままだった。『廃馬は撃って楽にしてやれ』という慈悲心を犯罪者に対して抱くことはない、と彼は言う。そうなのだろう。これは私の誤解かもしれないが、彼は『犯罪者を憎んで、犯罪を憎まず』と考えているのではないか、と私には感じられたこともある。いつだったか、テレビで熱弁をふるう死刑廃止論者を冷ややかに眺めていた。
この友人には、私に理解できない面が多い。鋼《はがね》のように強靱《きようじん》な精神力を持っているような印象を発散させながら、どうしようもない脆《もろ》さを抱えているようにも思える。火村が犯罪学者──私流に呼ぶなら臨床犯罪学者──という道を選択したのは、彼自身の中のそのどうしようもない部分からの声に導かれてのことなのかもしれない。彼が自分の乗ったボートの底板めがけて斧をふるうような真似をしているのではなければよいが、と私は微かに不安を覚えたこともある。そうであるかないかは、フィールドワークをともにしていれば判ることだろう。大きなお世話かもしれないが、気にかけておいてやりたい。この偏屈な男が持っている友人らしい友人は、私ぐらいなのだから。
「俺の顔に何かついてるか?」
前を向いたまま彼に言われ、私は「いいや」と答えて前方を向き直る。
「あんまり見つめるなよ。新婚ごっこはもう終わりだぜ」
私は溜《た》め息をついて、心をこめてひと言ぶつけた。
「アホ!」
堂条秀一の別宅は、六甲山の山頂近くまで登ったところに建っていた。付近に人家はなく、一軒家だ。私たちは車を門前に駐めて降り、邸内に入る前に周囲を歩き回ってみた。
庭は殺風景なものだったが、薄い緑色がかった窓ガラスと、青灰色がかった人造石の外壁が美しい。何様式と呼ぶほどのことはない、黒い屋根瓦《やねがわら》を葺いた和洋|折衷《せつちゆう》の館だ。建坪は七十坪ばかりだろうか。手入れはいき届いている様子だったが、基部にむした苔《こけ》が戦前の建築物であることを示していた。半周してみると西側には車庫があって、警察車が三台並んでいる。南向きの斜面に二階から露台が張り出しており、そこからの眺望を確保するために立木が払われていた。きらびやかな夜景が見下ろせるそのバルコニーから、五十年ばかり前には焦土と化した神戸の街が見えたことだろう。主が何度移り変わったのか知らないが、様々な歴史を経たこの邸宅は、三日前の夜に殺人現場となった──
玄関を入ったところで顔見知りの野上《のがみ》部長刑事に出くわした。いつもくすんだ色のスーツを着た猫背のこの中年刑事は、物に食い下がる執念は並々ならぬものがあるやり手だ。眼光も鋭い。双方、軽く会釈しただけで挨拶《あいさつ》はすんだ。
「樺田《かばた》警部は現場にいます。左手の階段の脇の広いリビングがそれです」
彼は指差しながらぶっきらぼうな調子で言った。凶悪犯罪の現場の空気を二十年吸っている叩《たた》き上げの彼の目に、火村と私はあまりよく映っていないらしいことは察している。当り前の反応だろう。
助教授は無言で頷《うなず》き、靴を脱いだ。そして、玄関脇の下駄箱をちらりと一瞥《いちべつ》して上がった。左右の壁に飾られたダリの複製画に視線を這《は》わせながら玄関ホールを通り抜け、リビングに入る。大勢の捜査官らがせわしなく立ち動いているのかと思いきや、一人の大柄な男が一隅にぽつねんと立っているだけだった。──樺田警部だ。
警部はズボンのポケットに両手を入れて、ぼんやりした様子で窓の外を眺めていた。いや、ぼんやりというのは見掛けだけのことで、事件について懸命に思案していたのかもしれない。彼は私たちの足音に反応して向き直り、「やぁ、わざわざどうも」と低音で言った。
一メートル八十を越す長身、剃がれたような細い顎《あご》、切れ長の目。初対面の時にはかなりの威圧感を受けたものだ。失礼な言い方になるが、風貌《ふうぼう》と不釣り合いにやけに美声なのが気味悪いような気もした。
「現場の状況については、昨日の電話の話に付け加えることもありますが、まずはざっと見ていただきましょうか」
歯切れのいい口調で言いながら、警部は部屋の中央のテーブルへと歩いた。私たちに椅子《いす》に掛けるように勧めてくれるのかと思ったがそうではなく、大理石をトップに使ったテーブルの傍らで立ち止まる。テーブルの上には何もなかった。
「ご覧のとおり、殺風景な部屋です」
警部はまた両手をポケットに突っ込み、顎で室内をぐるりと指した。標準的な都会の3LDKがすっぽり収まりそうな広さがありながら、調度品はまるでない。装飾品も壁のリトグラフと造り付けの飾り棚の上に置かれた彫刻、時計ぐらいだった。その飾り棚にしても、宇宙象の隣りに電話と家庭用ファクシミリが並んでいて、雑駁《ざつぱく》な印象だ。
「ここで被害者は一人の時間を楽しんでいたわけです。多忙な社長にとって充電の場だったんでしょうね。大阪の喧騒《けんそう》を離れて、週末の二回に一回はここで過ごしていたということです」
樺田警部は堂条秀一の死体発見までの経緯から説明してくれた。昨日、火村から聞いた以上の内容はなかったが、私はおさらいのつもりで注意して耳を傾けた。
「死体を発見した後、堂条秀二がこのリビングの現場からただちに一一〇番通報し、警察の到着を待ったということです。──火村先生に昨日お電話で話したことの繰り返しでしたが、これまでのところで何かご質問はありますか?」
問われた火村は唇の端を歪《ゆが》め、微かに笑みを浮かべる。
「捜査が進展しているようですね。昨日伺っていなかった重要な事実が判明している」
「進展は色々ありましたが……今お話しした中にはまだ出てこなかったと思いますけど」
警部は怪訝《けげん》そうな顔になる。私も火村が何を言おうとしているのか、ピンとこなかった。
「今のお話の中にもあったし、ここへ入るまでに聞いた野上部長刑事のひと言の中にも含まれていましたよ。お二人ともこのリビングのことを『現場』と呼んだんです。私が昨日教えていただいていたのは、死体が見つかったのがフロートカプセルの中だったということだけで、堂条秀一がここで殺されたということは初耳です」
警部は苦笑した。そう言われてみればそうだ、と私も自分の迂闊《うかつ》さに気がつく。
「そうでしたね、これはうっかりしていました。そうなんですよ」
そうなんですよ、と警部が重大発表のために口調をあらためつつ、身を乗り出すのがおかしい。
「被害者がフロートカプセルに横になっていたところを殴って殺害したというのは、初動捜査の段階から考えにくいことではあったんです。カプセルの開口部はあまり広いものではありませんので。もしかするとカプセルのある小部屋の中で殴殺され、それからカプセルに入れられたのではないか、という見方が有力だったんです。もちろん、全く別の場所──他の部屋、あるいはこの家ではないどこか──で殺した後で運び込まれた、という可能性も考慮しました。犯行現場がリビングであると特定できたのは数時間前のことです。昨日の夕方にここで血痕《けつこん》が発見され、それが被害者のものであることが今朝になって確定したんですよ」
腕組みをした火村は、軽く頷《うなず》くことで話の先を促した。
「血痕はごく小さなものだったので発見が遅れてしまったんです。血液型の鑑定を待ちながら付近を調べてみると、ルミノール反応がはっきりと出ました。犯人はかなり丁寧に犯行の痕跡を消してくれていましたね。──血痕はここにあります。目を凝らして見て下さい」
警部は腰を折って、テーブルの脚の床近くを指差し、私たちも屈《かが》んで覗《のぞ》き込む。顔を突き出して見ると、まだ輝きを失っていない銀色の脚に、確かに数滴の血痕が遺っていた。数滴と言ったが、その一つ一つはマッチの頭の半分ほどの大きさもないものだった。その傍に2と番号が書かれたプラスチックの札が置いてある。
「それが被害者の血痕です。肉眼で捉《とら》えられるのはそれだけですが、脚の中ほどからも床からもルミノール反応が出ています。いずれも少し血の飛沫《ひまつ》が飛んだ跡という程度です。犯行が正に行なわれたのは、そのあたりらしい」
警部が次に指差したのは、壁の造り付けの飾り棚の前あたりだった。テーブルから二メートルほど離れたその床には、1と記された札があった。肉眼では何も判らないが、ルミノール試液を振り撒《ま》けば、その拭《ふ》き去られた血液が輝いて反応するのだろう。
「あの棚の前で最も多くの血が流されていました。と言っても血痕はせいぜい五百円玉大のもので、血溜《ちだま》りができていたわけではありません。被害者は殴打された後で、おそらくこのテーブルの方へよろよろとよろけながら逃げたんでしょう。目に見えない血痕を完全に暴き出せてはいませんが、ここからカプセルがある小部屋まで断続的に続いています。それぞれの見えない血痕の位置には番号札が置いてあります。辿《たど》ってみましょうか」
「フロートカプセルも拝見できるわけですね。ええ、案内して下さい」
火村は気負い込むでもなく、穏やかに言った。警部は先に立ってのっしのっしと奥に向かう。奥のドアまでに、3、4、5と番号札が続いていた。赤い斑点が点々としているのではなく、いずれもルミノール反応が出た跡のようだ。
ドアを開くと短い廊下だった。その床にも6番の札が置かれている。左手は壁で行き止まり、右に折れるとドアが一つ。その突き当たりは裏口らしい。
「ここが、死体発見現場であるカプセルの小部屋です」
押し開いた警部は身を引いて、どうぞと言うように私たちに手で促した。
いよいよ瞑想《めいそう》タンクとご対面だ。
赤いタイルを張った六畳ほどの部屋だった。クリーム色のフロートカプセルはその半分近くを占めて、右の壁際に鎮座していた。想像していたより大きく、幼稚園児なら十人ぐらいは押し込めそうな容積がある。蓋《ふた》がついた風呂桶《ふろおけ》のようにも見えたが、ドアの右手にヒーター濾過《ろか》パネルだのコントロールパネルだのが据え付けられていることから、やはり機械なのだと思い直した。カプセルの左にはシャワーがある。シャワー室と呼んでしまうと大袈裟《おおげさ》だが、磨《す》りガラスのドアがついているので、小部屋の中にまた小さな部屋があるようだった。その扉の脇にはバスタオルが掛けてある。
「シャワーがありますけど、フロートカプセルというのは浴室を兼ねているんですか?」
「いいえ、そういうわけではありません」と戸口で警部は言った。「浴室は玄関ホールの脇に別にあります。ここにシャワーがあるのは、フロートカプセルに入る前と出た後でシャワーを浴びる必要があるからです。入る前に浴びるのはカプセル内のエポジウム溶液をきれいに保つため、という衛生面からのことで、出た後で浴びるのは溶液を洗い流すためです。体を洗わないと、空気に触れたエポジウムが白い粉になるとかで」
「なかなか面倒ですね」と私は言った。
「面倒ですねぇ。私なんぞ風呂嫌いなものですから、よけいにそう感じます。このカプセル湯につかるには裸になるだけではなくて、指輪のたぐいもはずさなくてはならないそうですし」
私は、一週間前に心斎橋のレストランで見かけた堂条秀一の両手にいくつもの指輪が嵌《はま》っていたことを思い出した。
「すると、死体になって発見された被害者の手に指輪はなかったんですか?」と聞く。
「いえ、そうではありませんでした。右手の中指と薬指。左手の人差し指と中指。しめて四つもの指輪が嵌っていました」
「……ということは」
「堂条秀一がカプセルに入ったのは、自分の意志に基づいてではないということの証左です。当初、被害者はカプセルにのんびり浮かんでいるところを殴られたのではないか、とも考えられていたんですが、カプセルには指輪をはずして入るものだと関係者らに聞いてそうではなかったと判明しました。リビングで血痕が見つかったのはその少し後のことです」
火村はカプセルに近寄って、内部を覗《のぞ》き込んでいた。なるほど、カプセルはオルゴール箱のように蓋《ふた》全体が開閉するのではない。中央に把手《とつて》がついた開口部があって、そこをガラリと上に開くようになっているのだ。首を突っ込んでいる火村の「ふぅん、なるほどね」という声がカプセルの中で反響する。
「これはまたいかにも現代的な棺《ひつぎ》だな。覗いてみろよ、アリス」
私は彼と体を入れ換えて中を見た。一人で横たわるには充分過ぎるほどの広さがあるので、入っても圧迫感はあまりないだろう。カプセルホテルの個室よりも幅はありそうだ。エポジウム溶液とやらが三十センチほどの深さにはってあったが、見た目はただの水と変わりなかった。被害者の血で濁っているふうでもない。堂条秀一がここに入れられた時には、もう凝血していたからなのかもしれない。当然だろうが、中からも開閉できるように蓋の内側にも把手がある。カプセルに入って蓋を閉じたら、真の暗闇《くらやみ》になるわけだ。音が遮断されることも見当がつく。さて、どんな気分になるのだろうか、と興味が湧《わ》く。首を捻《ひね》って見渡すと、足下に小さなスピーカーが取り付けられていた。
「スピーカーで何か聴くんですか?」
外に頭を出しながら、私は警部に尋ねた。
「メーカーに聞いたところによると、よりリラックスできるように音楽を聴いたりできる装置だそうですが、被害者はそうしていませんでした。ただ、あちらのコントロールパネルにタイマーがついていて、所定の時間が経過したら信号音が流れるようになっているそうです」
火村は早速、配電盤に似たパネルに寄ったが、タイマーらしきものが見当たらない。彼が尋ねたそうなのを察した警部は、長い手を伸ばしてパネルの蓋を開き、黒いつまみを指差した。
「一時間までセット可能です。死体発見時は、五十分に合わさっていました」
「いつもその時間に合わせてあったんですか?」
警部の答えは「いいえ」だった。
「いつもは四十分にセットしてあったようです。堂条秀二と吉住訓夫の証言です。これを設置しているスポーツクラブとメーカーに問い合わせてもみましたが、三十分から四十分というのが標準でしたね。それで六時間以上の睡眠と同じ効果だとかで」
火村は考えごとをする時の癖で、人差し指の先で唇を数回なぞった。
「通常とは違った時間にセットしてあったのはどういうことでしょう? 誰か答えられる人はいましたか?」
「いやぁ、説明してくれる人はいませんね。タイマーがついていることさえ初耳だが、セットしそこねたんではないか、と吉住は言っていました」
「ひっかかります。いつも四十分にセットしていたのなら、タイマーに触ることもなかったでしょう。事件当時に誰がどういうつもりで時間を合わせ直したのかについて知りたいですね」
火村が現場入りして最初に発した疑問だった。警部は頷《うなず》いて同感の意を表す。
「確かに疑問です。被害者がそうしたのなら、何故ふだんと違ったことをしたのかが気になりますし、犯人の行為であれば、ますます不可解です。永遠の眠りに就いた堂条秀一のために、瞑想《めいそう》の時間を定めるも何もあったもんじゃないですから。そもそも犯人が死体をカプセルに入れたのは発見を遅らせるためのことでしょうから、装置を作動させること自体に意味がありません」
私は少し口を挾んでみる。
「事件以前にカプセルを使ったのはやはり堂条秀一なんでしょうか? 誰か別の人物が使ったのかもしれません」
「先々週の金曜日の夜も被害者はここにきていたということです。その際にカプセルを使っているでしょう。しかし、それから先週の金曜夜の事件までの間に誰がカプセルを使用したのか、判りません。堂条秀二や吉住訓夫がカプセルを使ったのはもっと前。他の関係者らはカプセルに入ったことなど全くないと言っています。……ただ、夜中に何者かが忍び込んで借用した、ということもないでしょうがねぇ」
それはそうだろう。
「タイマーが五十分にセットされていたことについては、とりあえず謎《なぞ》にしておいて先に進みましょうか」
火村はパネルの蓋《ふた》を閉じ、室内をゆっくりと見渡した。視線で部屋中をなめ回した後、ヒーター濾過《ろか》パネル──そう書いてある──の下に置かれた脱衣|籠《かご》に目を留める。
「ここに被害者の着衣が入っていたんですね?」
「そうです。ただし、下着だけです」
「それが二番目の謎か……」
火村は空の籠を見つめたままだった。警部はその横顔に説明を加える。
「死体発見時、その籠は俯《うつぶ》せになっていました。ですから、三人の発見者らには下着さえ見えず、カプセルを開けてみるまで堂条秀一の死体が入っていることなど予想もしていなかったわけです」
脱衣籠を俯伏にしたのも犯人のしわざであろう。籠に下着が入っているのを見たら、カプセル内に誰かが入っていることを告げているのも同様だから。しかし、それはいいとしても、やはり犯人の行為は腑《ふ》に落ちない。どうして上着だけでなく、下着も持ち去ってしまわなかったのだろうか? そうしていれば、籠を伏せておく必要もなかったではないか。何かちぐはぐだ。
「ちぐはぐだな」
私の頭にあったのと同じ言葉で火村は違和感を表明した。
「下着だけ残していった不徹底に意味はあるのかな……」
これはほとんど独白だ。
私は手帳を取り出し、この部屋で火村が口にした疑問点を控えた。まだまだ妙なことが出てきそうなので、このあたりからメモを取っておかなくてはならないだろう。
「カプセルの溶液はどれぐらいのサイクルで入れ換えるんでしょう?」
火村はカプセルの横っ腹をコツコツと叩《たた》いて尋ねる。
「スポーツクラブなどでは半年に一度換えるところを、ここのは一年に一度だったそうです。使用頻度が違いますからね」
「じゃあ、この中の溶液にはかなりの数の頭髪や体毛が抜け落ちていたでしょうね?」
警部は大きな両掌を擦り合わせながら、待ち構えていたように答える。
「清掃はしていたようですが、かなりのヘアが見つかりました。すべて採取して調査中です。もちろん、それらのほとんどは堂条秀一のものでしょう。吉住訓夫もちょくちょく利用していたから、彼のものも出てくるでしょう。もし、それ以外の人物のものが出てきたら面白くなるんですが、目下のところ、そういうのはまだ……」
「そうですか。では、ヘア以外には?」
「調査中です。何か検出されましたらお知らせします」
火村は「よろしく」と頭を下げた。それから壁や床に視線を這《は》わせ、シャワー室を調べ、再びカプセル内に首を潜らせた。私は彼の邪魔にならないよう、警部のそばまで退いて、彼の探偵ぶりを見ていた。五分ほどかけて調査を終えると、彼はジャケットのポケットに両手を入れて、溜《た》め息代わりに肩を一度上下させた。
「この部屋に、他に何か不審なところはありませんでしたか、警部?」
「犯人の遺留品などは見つかっていませんが、死体についてはおかしな状況がありました。昨日も電話でお伝えしたことですが、被害者ご自慢のダリ髭《ひげ》がなくなっていたことです」
私はすかさずメモする。
「ええ、金曜日の夕方、退社するまで生やしていた髭がなくなっていた、ということですね。──で、失われた堂条秀一の髭はこの家のどこかで発見されたんでしょうか?」
「いいえ、出てきません。被害者自身が剃《そ》り落としたのなら、洗面台ででも見つかるはずなんですが」
「まさか、犯人が持ち去ったということは……」と私。
「可能性はありますね」
警部は苦々しげに言った。
「髭の問題も保留しようぜ。考えてすぐに判ることではなさそうだ。──他にありませんか?」
火村はポケットに手を入れたまま、カプセルに倚《よ》りかかった。
「ここでお話しするのはそれぐらいです」
警部はそれだけ言って切り上げようとした。そして一歩後ずさりして廊下へ出るのだが、火村はカプセルにもたれたままでいる。
「警部、この部屋の中からは血痕は検出されていないんですね?」
「はい。部屋の外には反応がありましたが、この室内ではありませんでした。床にも、カプセルにも。──それがどうかしましたか?」
「いえ、大したことではないんですが」
火村は言葉を切った。少し考えてから「リビングで犯人に襲われた堂条秀一はよろけながら逃げた、と警部はおっしゃっていましたね。血痕を示す番号札が点々と続いていましたから、そうだったのかもしれません。しかし、被害者はリビングの飾り棚前かテーブル付近で絶命し、それを犯人が担ぎ上げてここまで運んだ、とも考えられるでしょう? その死体から滴った血が床に点々とついたのかもしれない」
「そうとも考えられますね」と警部は認める。
「どちらでもいいんですよ。そのどちらだったとしてもいい」
火村は両手を出して、人差し指を二本立ててみせた。
「この部屋の中に血痕が全くないのは何故だろう、と思ったんです。どれほどの出血だったのか知りませんから疑問だなどと強い調子では言えません。でも、あるのが自然な気がします」
火村がまだ言葉を続けそうだったので、私はボールペンを構えたまま待った。
「つまり、こんな想像をしてしまうんです。犯人は堂条秀一を倒した。リビングで殺害して運んだのか、リビングの奥へ逃げたところで仕留めたのか、それはどちらでもいい。とにかく、被害者は絶命した。犯人はそれから死体を隠すためかカプセルへ運ぶわけですが、死亡した被害者をしばらく動かさなかったのではないか、と。その間に被害者の頭部からの出血が止まってしまったのかもしれません」
そうかもしれない、と私も思った。見たところ溶液に血が混じった様子がなかったことからしても、カプセルに入れられた際、死体が大した出血をしていなかったのは確かだろう。
警部はすぐにはコメントしなかった。しばし考えてから「それは……」と言う。
「それは……何とも言えません。もし、犯人が死体を暫時《ざんじ》、放置していたのだとしたら、どうしてそんなことをしたとお考えですか?」
「判りません。犯行が発作的なものだったとしたら、自分がしでかしたことの重大さに茫然自失でいたのかもしれないし、死体を隠す前に何かすましてしまわなくてはならないことがあったのかもしれません。──とにかく今の時点では判らないことだらけです。カギのないクロスワードパズルを相手にしているみたいなもんですから」
火村はようやく真直ぐ立った。もうこの場は引き上げるのだろう、と思ったのだが違った。
「この中に入ってみてもいいですか?」
私はちょっと驚いたが、警部は平然として「どうぞ」と短く言った。許可を得た火村はさっさと靴下を脱ぎ、白いスラックスの裾《すそ》を膝《ひざ》までめくった。それからジャケットを脱いで、ぽいと私に投げてよこす。
「アリス。俺が中に入ったら何かしゃべってくれ。音がどれぐらい遮断されるのか試してみたいんだ」
私は承知した。火村は窮屈そうに体を折り畳みながらカプセルに潜り込み、蓋《ふた》を閉めた。私は深呼吸をして、幾分大きめの声を出す。
「英都大学社会学部の火村先生は潮干狩りに出かけました。今日は帰りが遅くなるでしょう。明日もまた休講になるかもしれません」
などと出鱈目《でたらめ》なことをまくしたてた。
「どうや、聴こえるか、先生?」
『聴こえる』とくぐもった小さな返事が返ってきた。注意していたから聴き取れたのだろう。ガラリと蓋が開き、助教授が顔を出す。上半身を現したところで実験の成果のほどを聞いてみた。
「蓋を閉めても完全に無音になるんじゃないな。今のお前の声は微かに聞こえた」
「その実験の意味は一体……何や?」
「別に」彼は肩をすくめた。
「このカプセルの性能について、学究者として興味があっただけさ」
本気で言ってるのかどうか判らないことを言いながら出てきた彼は、スラックスのポケットからハンカチを取り出して、濡れた足を拭いた。靴下を履き終えたところで、ジャケットを投げて返す。
「ありがとうございました。ここはもう結構です」
ジャケットを羽織った彼は、脛《すね》を剥《む》き出しにしたまま警部に言った。
「ではリビングに戻りましょう。お話しすることはまだまだあります」
椅子《いす》に掛けてしばらく待たされた。やがて戻ってきた樺田警部は、何十枚という現場写真をテーブルの上にばさりと置いた。食事の前後や就眠前には決して目にしたくないような写真の山だ。火村は上から一枚ずつ取って見ては、見終わったものを私の前に積み上げていった。だから私は写真を手に取ることもなく、すべてに目を通すことができた。
生命を亡くした堂条秀一がフロートカプセルに浮いている写真が続く。死に顔は意外に穏やかで、前頭部の挫傷跡《ざしようあと》さえなければ、瞑黙《めいもく》しているところとも見える図だった。ただ、トレードマークのダリ髭が欠損しているので、堂条秀一その人だとは聞いていなければ判らなかっただろう。そう思っているところへ新たな一枚が重ねられる。衿足《えりあし》を覆う程度の長さだった死者の頭髪が水の中でふわりと広がり、首から上が黒い不吉な花が開いたように見える写真だった。それまでの無機質然とした姿が突然変化したため、不意を突かれた私は少し背中を顫《ふる》わせる。
「宝石商バラバラ殺人事件じゃなくてよかったな」
そんな私を火村がちくりと刺した。のこのこ付いてきておいてこれしきのものでおじけづくなんてとでも思われただろうか? それぐらいは平気だ。死体に詩的なおののきを感じただけだ、と言い返すのも面倒なことである。
堂条秀一の手のアップが現れた。右手と左手の一枚ずつ。警部から聞いたとおり、それぞれに二つの指輪が嵌《はま》っている。レストランで見かけた彼の手に嵌っていたのも確かこんなふうだった、と記憶をほじくる。
と同時に、ダリ氏がエスコートしていた美しい女性のことも思い出した。死体発見者は弟の堂条秀二、営業部長の湯川元雄、秘書の鷺尾優子なる三人だったそうだが、あの美女が鷺尾優子なのではないだろうか? もしそうなのであれば、あの行きずりの美人に再会できるかもしれない。目の前に積まれてゆく殺伐《さつばつ》としたカラー写真を眺めながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
死体を撮影したものが尽きると、私は正直なところほっとした。恐れていたわけではないが、やはり気分のいいものではない。次に登場したのは、リビングのテーブルを写したものだった。ホワイトホース・ウィスキーのボトルが一本と、凝ったカットのグラスが一つのっている。それらが今ここにないのは、鑑識課へ回されたためだろう。警部が注釈を施してくれる。
「ホワイトホースは被害者が愛飲していた銘柄で、このボトルとグラスは隣室のダイニングキッチンにあったもののようです。見たまま受け取ると、被害者が一人でちびちびとやっていた跡、というとこですね。いずれからも堂条秀一の指紋のみが検出されています」
「不自然な点はなかったということですか?」
一枚の写真を目の高さまで持ち上げて見つめながら火村が尋ねる。
「ありません。しかし、被害者が当夜一人きりでいたという証拠にはなりません。実際には犯人がおり、酒を酌み交わしていたのかもしれない。そして、堂条秀一を殺害した後に自分のグラスを洗って食器棚に戻しておいたのかもしれませんからね。棚には同じ型のグラスが他に三つ収まっていますが、それらはきれいに洗われています」
「犯人と堂条秀一が乾杯した形跡はないけれど、それは犯人がグラスを片付けてしまったからかもしれない、か」
火村は手にした写真をはらりと落とした。
「先ほど車庫を見たら、警察車の他に白いプレリュードが駐めてありました。あれが被害者の車ですか?」
「はい」
「犯人はここまで徒歩でやってきて徒歩で去った、とはとても思えません。酒を酌み交わす顔見知りだったとしても、金品目当ての強盗だったとしても、何らかの足が必要だったでしょう。車なり、オートバイなり。自転車という可能性も保留しておきましょうか。そういったものの痕跡《こんせき》はなかったんでしょうか?」
警部は残念そうにかぶりを振ってみせる。
「ここしばらく晴天が続いていましたから、タイヤの跡も遺っていないんです。目撃者がいないか、近辺の住人に聞き込みを行なっていますが、何も得られていません。隣家といっても五百メートル離れている上、そこもさる実業家の別邸で、当夜は無人だったという状況でして」
「犯人が顔見知りかどうか不明。現場への足も不明」
「ただ──」
警部は火村がまだ見ていない写真の山を掻き分けて、何枚かを掘り出した。
「これは邸内の戸締まりの様子ですが、ご覧のとおり無理やり抉《こ》じ開けられた形跡はありません。従って、主の堂条秀一が顔見知りの犯人を自ら招き入れた公算が高いようにも思われます」
火村はそれに対しては何もコメントしなかった。
「凶器も不明──でしたね?」
「ええ、犯人が持ち去っていて、何であるかの特定は困難です。丸みのある鈍器だとしか推察できません」
犯人は被害者の衣服と凶器を持って、自分がここまで乗ってきた自動車かバイクで立ち去った、ということだが、それだけではどんな犯人像も浮かべられない。私は手帳に『顔見知り?』『凶器?』『足?』と単語を並べた。
火村はまた写真の検分を始めた。邸内各所、車庫を撮ったものの次に、少し毛色が変わったものが出てきた。何か図面のようなものが写っている。これは何かとこちらが問う前に警部は先回りをした。
「ああ、それはですね、事件翌日の午後に送られてきたファクシミリです。事件と関係はなさそうです。細かい印字なのでその写真では読めないでしょうけど、実物を見れば四月十九日の十三時五分の受信だと判ります」
「何が描いてあるんですか?」
火村は写真に顔を近付けながら尋ねた。覗《のぞ》き込むと、蔓《つた》がからまったひと房の葡萄《ぶどう》の絵のように見える。
「送信者はジュエリー堂条のデザイナー、長池伸介で、それは宝石のデザイン画です。正確にはデザイン画の下書き、でしたっけ。社長の指示に従って、土曜日の午後に自宅から送信したんだそうです」
そう教えられてあらためて見てみると、なるほど、それはとびきり豪華なブローチのデザインに見えてきた。
「自分は別邸でくつろぎながら、部下は休みの日も働かせていたわけですか?」
「そういうことになりますね。金曜日に他の社員がいる場で『月曜日までに六甲の家に送れ』と命じたそうです」
「それでデザイナーは休日返上でせっせと仕事をして、土曜のうちに提出したわけか。──これを送信した際にデザイナーは社長に電話を入れなかったんでしょうか? 『今送りましたが、ちゃんと着信していますでしょうか?』とか」
「無事に流れたことは自分の機械を見れば判るので、わざわざ電話はしなかったそうです」
判るな、と私は思った。長池というデザイナーの場合、休日にあの気難しそうな社長の声を聞きたくない、という気持ちが働いたのかもしれない。
「もし電話をかけて社長が出なかったとしても、長池が不審に思って警察に通報したはずもないでしょうが」
警部はこのファックスにさして意味はないとみているようだ。火村は飾り棚の上の機械を見てもう一つ尋ねる。
「堂条秀一が死んでいたのにこいつが届いたということは、自動受信になっていたんですね?」
「そうです。電話とは番号も別になっています」
この件についてはそれだけだった。私は『4/19.13:05 ファックス受信』とだけ控えておくことにする。
「被害者の金曜日の行動はどこまで突き止められていますか?」と火村。
「通常どおりに出勤し、六時十分に退社しています。週末の彼は急な仕事を抱えていない限りはその時間にあがっていました。売上不振でご機嫌はあまり麗《うるわ》しくなかったものの、いつもと違った様子はなかったということです。午前中に岡山から出てきたフランチャイズ店のオーナーの訪問が一件、午後には吉住訓夫が夏のキャンペーンの打ち合わせにやってきています。その他には商品企画室や経理部の担当者との打ち合わせ。おかしな来客や電話といったものはなかったようです。もっとも、電話については社長室に直通で入れば秘書にも判りませんが」
「吉住氏が打ち合わせにきていたんですか。それは純粋に仕事の話をしにきたんですね?」
「ええ、そうです。四時から五時まで。吉住は五時にジュエリー堂条を出て、その後、打合せのために梅田の電機メーカー本社に回ったと言っています」
「会社を出た後の堂条秀一氏の行動は?」
警部は澱《よど》みなくすらすらと話しだす。
「六甲のこの別宅にくるまでに、一旦、中央区法円坂のマンションに帰って着替えをして、その後、森《もり》ノ宮《みや》にある行きつけの寿司屋で食事をしています。寿司屋にいたのは七時半から八時まで。連れはいませんでした。死体の胃には消化状況からみて殺される三、四時間前に食べたらしい寿司が残存していましたが、このことから午後十一時から十二時という死亡推定時刻が割り出されるわけです。少し時間帯を絞り込めたわけです。
さて、寿司屋を出てからの行動ですが、これは不明です。顔の売れた名物社長ですから、どこかに立ち寄ったのなら必ず覚えている人間がいて、当局に一報入りそうなものなんですがね。それがないところをみると、堂条秀一はそのままここに直行したのかもしれません」
「堂条秀一が一旦《いつたん》マンションに帰ったことはどうして判ったんですか?」
「寿司屋の主人の証言です。堂条がラフなポロシャツ姿をしていたのでそのことを話題にすると、『家で着替えてきたんだ。これから六甲の家に行く』と堂条自身が話したそうです」
「寿司屋にも車で現われていたんですね?」
「はい、そうです。ちなみに、堂条は通勤にも車を使っています。自分で運転するのが好きだったようですよ」
ここで火村はすうっと深く息を吸ってから、声のトーンを上げて質問の方向を転じた。
「それではこのあたりで、堂条秀一を殺す動機がある人間について伺いましょうか」
火村がゆっくりと長い脚を組みながら言うのを聞いて、私は少し緊張する。吉住の名前がどういう形で出てくるのかが心配だ。
「現段階では、誰それは殺害の動機を持っていた、と断定してレッテルを貼ることはできません。被害者を取り巻く人間関係について洗っているところですからね」
警部はそんな前置きをした。
「堂条秀一はやり手の実業家、そして資産家ですから、動機は怨恨《えんこん》と金と二つの線が考えられます。ジュエリー堂条の経営に当たって人から恨《うら》みを買っていたということもあるでしょう。あれだけの急成長を遂げるには、互いの喉《のど》を切り合うような熾烈《しれつ》な戦いもあったはずですからね。しかし、目下のところ大きなトラブルを起こしているということはないようです。この方面の捜査はもちろん継続しています。
次に金。堂条秀一の死によって莫大《ばくだい》な利益を得る人間が二人います。係累が少ない彼の遺産は、二人の弟、堂条秀二と吉住訓夫に等分に相続されることになっているわけです。正確に言うと、この六甲の別宅は秀二に渡り、それ以外はフィフティ・フィフティですね。これは三年前に書かれた遺言状によるもので、昨日の夜、早々と顧問弁護士から発表されています。大証二部に上場しているジュエリー堂条の持ち株も等分しての相続でした。詳細がお知りになりたければ後ほどお教えします。遺産は預金、有価証券、不動産を合わせて十億円は下らないというから凄《すご》いものです」
火村は目を丸くして口笛を吹いた。ふざけているのだ。私は、十億という額は意外に少ないように感じた。が、これを二人で分ければ一人当たり五億円。目を丸くするべきなのかもしれない。遺産相続にからむ殺人事件など黴《かび》の生えた戦前の推理小説のものだったはずなのだが、日本が金満国になって日常会話の中でさえとんでもない金額が飛び交う現在、ぞっとするような生々しさを覚える。かつて赤提灯《あかちようちん》で一緒に仕事の打ち上げをしたあの吉住があっという間に億万長者だ。金は汗水たらして稼ぎ出すものではなく、持てる者たちがキャッチボールをしているうちにふしだらにぶよぶよと増殖していくものになった。さもなくば、幸運な人間の懐にころころと転がっていくものになったのだ、と痛感してしまう。『ちりも積もれば山となる』とは、今や愚行の喩《たと》えになってしまったのかもしれない。──いけない。私は脈絡のないことを考えて気を散らしている。
「秀二氏も吉住氏も母親を異にした弟だ、という点では同じですが、それにしても吉住に対して気前がいいですね。幼い頃から一緒に暮し、協力して会社を大きくしてきた秀二氏の方にウエイトを置いた相続にするのが自然だと思いますけど」
火村が率直な感想を述べた。
「私もそれが常識的な相続だと思います。しかし、故人の考えは違ったらしいですよ。一つは、子供の頃、父親のいない暮しを余儀なくされた吉住に詫びる思いがあったこと。もう一つは、秀二はすでに経済的に豊かな生活をしているが、吉住は多少給料のいいサラリーマンという境遇にしかないこと。ですから、自分の財産を二等分して弟たちに与えたとしても、秀二の富の方がずっと多いわけです」
「吉住氏はジュエリー堂条の経営に参画することになるんでしょうか?」
「それは判りません。突然のことですから、本人もまだ決めかねているんではないですか?」
吉住ならその気になるかもしれない。大学時代から広告業界を志望し、広告研究会の部長としてならしたという彼ではあるが、青年実業家として活躍する大舞台が用意されたなら、野心に火が点くだろう。元来、「もっともっとでかいことがしたい」とエネルギーを持て余していた男だ。
「秀二氏は副社長だそうですが、経営に関して秀一氏と衝突していた様子はないんですか?」
「営業部長と秘書からの聴き取りでは、そのようなことはなかったと。秀二はワンマンの兄に合わせている方が楽でいいと感じていたのではないか、という意味のことを二人は話していました。しかし、そのまま鵜呑《うの》みにはできない証言です」
「ワンマン社長か……」
火村は髭《ひげ》を奪われた死体の顔写真をまた手に取り、口をすぼめた。そして、物言えぬ存在になってしまった男、宝石とサルバドール・ダリを愛したワンマン社長のデスマスクをじっと見つめる。彼の眉間《みけん》には小さな皺《しわ》が寄り、写真から何かを懸命に読み取ろうとしている様子だった。
「女性関係などはどうだったんでしょうか?」
レストランで見かけた美女のことを念頭に置きつつ、私は尋ねてみた。火村の片|眉《まゆ》がぴくりと上がって、警部を見る。ここで警部は背もたれにゆったりと身を委《ゆだ》ね、腹の前で軽く手を組んだ。
「なかなかデリケートな問題ですね。まだ口の重い関係者たちしか相手にしていないせいなのか、突っ込んだ話が出てきていません。しかし、気になる証言もあるんです。堂条社長と秘書の鷺尾優子が、プライベートでも親密な関係にあったと臭わせるものです。営業部長の湯川が微妙な言い回しで伝えてくれました。どの程度の親密さだったのかについては不明です。彼が知る範囲では、夕食を一緒にするぐらいのことだということでしたが」
ここで私は待ってましたとばかりに、二人が夕食を楽しんでいるところを目撃したことがある、と口を挾んだ。警部はその偶然に驚いたようで、その時、彼と彼女はどんな様子であったかと聞き返してきた。しかし、私も火村も有益な情報を提供することはできなかった。
「どんな関係なのか判りませんでした。上司が部下をねぎらうためにご馳走《ちそう》しているふうでしたけど……じろじろ眺めていたわけやないですからね」
私の返答に警部は失望したようでもなかった。もし二人がいわゆる男女の関係になっていたのなら、周囲の人間に聞いて回ればはっきりすると考えているのであろう。
「ただですね、堂条秀一は身持ちの堅い男だったようですよ。適当に遊ぶぐらいのことはしていたでしょうが、独身であれだけの金持ちのわりには、湯川部長が漏らしたこと以外は、浮いた話はほとんど出てこないんです。堅物だったらしい」
「堅物か。仕事ひと筋のサルバドール・ダリ……」
火村がぶつぶつと口の中で言った。視線はまたその死に顔に釘づけになっている。
「吉住が独身なのは知っていますが、副社長の秀二氏はどうなんですか?」とまた私が聞く。
「三年前に結婚、去年の一月に離婚しています。理由はごく月並みですが、性格の不一致。子供はいません。別れた妻は現在名古屋におり、相当な仕送りを続けている、と本人が言っています」
「仕事ひと筋の堂条秀一氏の交遊関係はどうだったんでしょう?」
警部と私の応答など聞いていなかったように、火村がまた不意に質問を変えた。
「女性関係だけでなく、同性の友人も少なかったようです。ほとんどいなかったのではないか、と秀二は言っています。彼は学生時代から友人を作らない人間だったとも言います」
「仕事とダリ崇拝以外では何が楽しみだったんでしょう? この家でフロートカプセルにつかるだけ、なんてことはなかったでしょうに」
火村は写真を手にしたまま、警部を見据えて尋ねた。被害者のプロフィールを掴《つか》むことが先決だ、と言いたげな眼差《まなざ》しだった。
「ゴルフもせず、ギャンブルもせず、ビジネス以外では旅行もせず。ダリの版画を買ったり、少々おしゃれに贅沢《ぜいたく》をするぐらいでしたから、金がたまって仕方がなかったでしょう。とにかく、事業を拡張しようとがむしゃらになって働いてきたという感じです。──お断わりするまでもなく、これは現在われわれが耳にしている証言から形作った堂条秀一像ですけどね」
孤独だ、と私は思った。成功者にしては随分と孤独な姿ではないか。彼は他者と交わることにさしたる喜びなど見出せず、孤独こそを愛したのだろうか? 一人ぼっちとは、悪いだけのものではない。私だって孤独な時間を愛している。しかし、彼の死に様が救いもなく、ひどく孤独なものだったことは間違いがない。暗く、淋《さび》しい一軒家で──遠い下界の風景ばかりが眩《まばゆ》く美しい──、その生命は何者かに荒々しくもぎ取られた。それだけではない。掛けがえのない命だけでなく、何故か衣服と自慢の髭まで奪われたのだ。不埒《ふらち》極る死者への愚弄《ぐろう》。そして、意に反して投げ込まれたフロートカプセルの中で、死体となって三昼夜浮かんでいた彼の亡骸《なきがら》。その体温は次第に失われ、エポジウム溶液の温度から遠くなっていったのだと哀しい想像を広げるほどに、痛ましさが私の胸を刺す。痛ましい彼の死。彼の孤独。
「従業員との関係の方はどうだったんでしょうか? ワンマン社長なら反発を買いもしていたでしょう」
火村は組んだ脚に肘《ひじ》を突き、掌に顎《あご》をのせた。
「追及すべき線ですね。社長から冷遇されていた者、衝突したことがある者についてだけでなく、退職者についても探る必要があるとみて捜査を進めています。まだご報告するほどの話は出てきていません」
堂条秀一の葬儀は今日の午後一時から、大阪市|天王寺《てんのうじ》区内にある浄土真宗の寺で執り行なわれるということだった。私の夕陽丘《ゆうひがおか》のマンションから徒歩で十五分ほどのところにある寺だ。ダリ氏は真宗か、とつまらないことに違和感を覚えた。
「他に何かお聞きになりたいことはありませんか? 私の方からは今のところこんなものです」
警部は火村と私を交互に見ながら言った。火村は頬杖をやめて上体を起こした。
「ありません。家の中を見て回らせていただけますか?」
「どうぞ、ご自由に。私は階下《した》にいますから、何かあればおっしゃって下さい」
両膝をぱんと打って立ち上がった警部が部屋を出ていくと、火村は低い呻《うめ》き声を漏らした。どうかしたのか、と聞く。彼は常になく、「ううん……」とさらに曖昧《あいまい》に口ごもった。
「どうしたんや、はっきり言えよ。無口で内気な名探偵」
助教授は渋柿《しぶがき》を齧《かじ》ったように口をすぼめながら、ぼりぼりと頭を掻《か》いた。
「よく判んねぇ事件だな、と悩んでるだけだよ。この事件のどこから、どうやって、どんな串《くし》を刺してやればいいのか見当がつかない」
いつもと違った言い種《ぐさ》だった。私がこれまでフィールドワークに立ち会った経験では、事件の概要を聞いた段階では、火村は悩んだそぶりなど表さない。私がどんな具合かと尋ねても、情報が揃《そろ》わないうちは何も見えてきっこない、とにべもなく答えるのが相場だったのだ。探偵と事件との相性などというものがあって、自分の思考パターンと事件が噛《か》み合わないということがあり、その気配を早くも感じかけているのだろうか?
火村は頭を掻くのをやめた。髪の毛がぼさぼさに逆立っている。
「犯人はうまくやったようだ。身元をたどられるようなブツは遺していないし、凶器は出てこないし、現場への足も特定しかねる。近隣に人家がないせいもあって、目撃者の発見も難しい。抜かりなく後始末をすませて、風のように去った、と言いたいところなんだけど、そうでもないんだな。何か……死体の傍らでどたばた騒ぎをした印象もある」
「というと?」
「まず死体の始末について。どうして死体をフロートカプセルに隠したんだろう? 発見を遅らせるためではないか、というのが一つの仮説ではあるけれど、そんなことをしても労多くして益少ないだろ? 死体を一時的に隠蔽《いんぺい》するのに付随して血痕をごしごしと拭《ふ》き取ったことについても全くご苦労なことだ。かかった時間も手間もかなりのものだったはずなのに、見合うメリットだけを考えにくい。犯行は週末、金曜日の夜だった。常識的に考えれば、堂条秀一の身に異状が起きたことは、月曜日にならなければ誰にも判らないと期待できた。つまり、死体発見まで二日間の猶予は確保されていたわけだ。なのに、犯人は死体をカプセルに隠した。二日間の猶予で足りなかったのなら、死体を運び去って永久に人の目に触れないように処理することもできたろうに。──ちぐはぐだ。難解な謎《なぞ》というより、不快なちぐはぐさを感じる」
彼が言いたいことは一応理解できるのだが、私はそれしきのことで悩もうとは思わない。
「さらに」と火村は続ける。「奪われた衣服と髭《ひげ》の問題がある。殺人をすませ、早く現場から逃走したかったはずの犯人が、何故そんなものにこだわったのか理解できない。血痕の拭き掃除、死体のカプセルへの投入、衣服と髭の略奪。犯人はやけに悠長じゃないか。悠長であるはずがなかったのに」
彼の疑問を集約すると、悠長過ぎる犯人、ということになるように聞こえた。が、それを口にすると彼は首を傾げる。
「いや、悠長なのが変だって言ってるんじゃないんだ。何て言うか……今、並べ立てたような不自然さが、犯人の望んだものなのか、あるいは予定外のものなのかが見えないことが不快なんだ。──ああ、うまく言えないな。許せ」
苦笑を浮かべかけた火村が、不意に真顔に戻った。その反応の原因を探るために彼の視線を追って、いつのまにか野上部長刑事が音もなく部屋に入ってきていたことに気がついた。両手を腰に当て、ドア近くの窓を背に立って私たちを見ている。われわれの会話をどこから聴いていたのか判らないが、その目付きが冷ややかなものではなかったので少々ほっとした。
「失礼。黙ってしばらく拝聴していました」
野上刑事は慇懃《いんぎん》に言った。話しながらゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「愚見を述べさせていただくなら、先生方のようにややこしく考える必要もないんやないですかね。小細工の跡が多々ありますが、そんなものは犯人を挙げてみれば明らかになることでしょう。難しい事件ではない。犯人が顔見知りの人間であることは明々白々ですしね。こんなところまで押し込みに入る賊があろうはずがありません。わけの判らない小細工も、顔見知りであるがゆえの事情があったからということだけは、実にはっきりしてる。ハスかもしれない」
ハス─蓮─蓮根《れんこん》─怨恨《えんこん》である。彼の断定的な話し方を聞いていると、私は単純に納得しそうになる。火村はおもねるふうでもなく、自然に頷《うなず》きながら聞いていた。
「吉住訓夫は有栖川さんのお知り合いで、土曜と日曜はご一緒だったそうですね。率直に言って、あの広告屋さんに私はひっかかるものを感じています。何かお気づきになったことはありませんでしたか?」
歓迎しかねる質問を受けてしまった。はぐらかすつもりではなかったが、私はとっさに聞き返してしまう。
「どういう点がひっかかるんですか? 刑事の勘という奴ですか?」
野上はこほんと咳払《せきばら》いをした。
「はい、勘です、と言えば先生方に嗤《わら》われるんでしょうか。広告屋さんが隠しごとをしていることは確信しています。私が何やかや尋ねると、おどおどとした目で答えてくれましたよ。あまり神経が図太い人やなさそうですね」
はっきりとした根拠がないらしいことに安堵《あんど》していいのか、刑事の直感に伝わるものがあったことを心配するべきなのか迷う。野上は小鼻に皺《しわ》を寄せてそんな私の顔を覗き込んだ。黙っているわけにいかないので、私は彼が放った質問に答える。
「土曜日の午後から日曜日の夕方まで一緒でしたけれど、彼に妙なそぶりはありませんでした。近況の報告や四方山《よもやま》話ばかりで、特に変わった話題も出ませんでした。久しぶりだったので、仕事はどんな具合だとか色々と──」
野上の目に、私をからかうような色が浮かんだような気がした。イエスかノーかですむ問いに答えるのに、不自然に多言を費やしたからかもしれない。
「階上を見させていただきます」
火村が言って立った。野上は彼に道を開けるように、一歩退いた。
「よろしければご案内しましょう。お聞きになりたいことがでるかもしれませんし」
火村は「お願いします」と言った。
野上が前に立って二階に上がった。階上の四つの部屋を順に見て回る。まず書斎。入った右手には天井まである造り付けの書棚があり、もの書きの涎《よだれ》を誘うようなマホガニーの大きな机がドアを向いてでんと座っている。机の上にはガラス製の灰皿とペン皿がのっているだけで、きれいに片付いている。亡き主の性癖が偲《しの》ばれる整頓ぶりだ。黒いレザーを張った椅子《いす》の背後には、案の定、ダリの複製画が掛けられていた。書棚には百科事典と美術全集の他、古書店で掘り出してきたとおぼしき年代ものの洋書──これはインテリアのつもりかもしれない──が心持ち傾いて並んでいる。もちろん、蔵書の中には宝飾品の技法や歴史、ファッションの関連書が多く含まれていた。
書棚の対面には続き部屋へ通じるもう一枚のドアがあった。そこを抜けると堂条秀一の寝室だ。セミダブルのベッドと、ウイリアム・モリス調の壁紙にマッチしたアンティークなクロゼットがあるだけの落ち着いた簡素な部屋だった。絵はなく、代わりに出窓に小さなブロンズの彫刻が飾られている。木の枝にひっかかった紙のような平たい時計。『記憶の持続性』という絵で描かれたダリの最も有名なモチーフである。
「眠った形跡はありませんね」
皺《しわ》一つない清潔そうなシーツを見て火村が言った。野上は軽く頷《うなず》く。助教授は窓辺に寄って庭を見下ろし、それからクロゼットを開けて中を改めた。空のハンガーが三つ掛かっている他には、青い縦縞《たてじま》のパジャマが几帳面《きちようめん》に畳んで置いてあるだけだった。
「服がない。堂条氏はここに着替えなどは置いていなかったんですか?」
クロゼットを閉めて振り向きながら、火村は野上に尋ねた。
「堂条秀二、吉住訓夫の二人はそうだったと証言しています。いつもここにくる前にリラックスした恰好《かつこう》に着替えてくるので、ここには寝巻しかなかったそうです」
金曜日の夜、馴染《なじ》みの寿司屋に現れた堂条秀一は真っ赤なポロシャツを着ていた、と樺田警部の話にもあった。それは言い換えれば、彼が殺される直前まで平生どおりのパターンで行動していたということだ。
いや、そんなことはどうでもいい。寝室のクロゼットに着替えが一着も入っていなかったという事実を、私は違った形に翻訳したくなった。事件当夜、この家の中に存在していた衣服は殺された堂条秀一が身につけていたものだけであった、と。何が言いたいのかというと、それはこういうことだ。もしも、犯人が被害者の返り血を浴びて自分の衣服をかなりの程度汚してしまったとしたら──それを着たままでは自宅に帰り着けない程度──、死体の身ぐるみを剥《は》ぐ必要が生じるのではないだろうか? 汚れた自分の衣服と着替えるためだ。それが、被害者の真っ赤なポロシャツとスラックスが持ち去られた理由かもしれない。犯人がそれほどの返り血を浴びたのなら、被害者の着衣こそ血で汚れたではないか、と思いかけたが、そうとは限らない。堂条秀一が着ていたのは真っ赤なポロシャツなのだから、血痕《けつこん》は目立たなかったのだとも考えられる。
私がいい気になっていたところに、野上の声が降ってきた。私の胸中を見透かしたような言葉だった。
「犯人は被害者の血で自分の服を汚してしまったのではないか、着替えを捜し求めてもパジャマ以外に衣類が見当たらなかったので、死体の服を脱がせて着替えて逃げたのではないか、という見方が出ています。火村先生はいかがお考えですかね?」
火村の返事は実にそっけなかった。
「そうかもしれません」
「堂条秀一が着ていたのは赤いポロシャツと紺のスラックスです。多少の血痕が飛んでも夜間なら人目につきにくかったと想像できます。一方の犯人の着衣は白っぽいものだったのかもしれません。人を殴り殺しにくるのに返り血を予想していなかったということは、犯行は計画的なものではなかったのではないか、と見る者もいるんです」
野上は続けた。火村の反応を探るような、眩《まぶ》しげな目つきになっている。肩すかしをくらわすかと思いきや、火村はこれには応じた。
「計画的犯行か発作的犯行かの見極めは、私にはまだできません。リビングに死体を転がしておけばよかっただろうに、犯人は何やらごちゃごちゃ細工をしたがったようです。錯綜《さくそう》した状況にどんな意味があるのかを考えているところです」
慎重な言い方だったが、一方の野上は確信を抱いている様子で言う。
「吉住という腹違いの弟にお会いになってみて下さい。彼が大きな隠しごとをしているということを、心理学者でもある火村先生なら必ず見抜けるでしょう」
彼の目に、獲物を見つけた猟犬の輝きが窺《うかが》えた。警察の前で吉住がどんなそぶりだったのか知らないが、野上は子供の嘘《うそ》を見透かしたようなつもりでいるらしい。私は彼の潔白を百パーセント信じているわけでもなく、何も返す言葉はない。ただ、妙に胸が重苦しかった。自由業になった当座はただうきうきして嬉《うれ》しかったが、しばらくすると時折、勤め人時代を懐かしむことがあるようになった。その時にまず浮かぶのが吉住の顔なのだ。かつての同僚や上司と苦楽をともにした記憶よりも、彼と働いた記憶が優先して浮かぶ。リタイアしたサラリーマンにとって、取引先の人間と親しくした思い出というのはなかなかいいものなのだ。
「吉住氏のアリバイはどうなんですか?」と火村が聞く。
「まるでありません。取引先の人間と梅田で夕食をとった後、灘《なだ》の自宅に帰ってずっと一人だったと供述していますけれど、証人は皆無です。一人暮しですから無理もないことなのかもしれませんがね」
「そうですか。吉住氏とはなるべく早く会ってみたいと思っています」
火村が打ち切るように言ったので、野上はそれ以上何も言わなかった。そして、残るふた部屋を見せてくれた。いずれも客間らしく、ベッドがあるだけだった。ひと部屋は折りにふれて使用されているようだが、もうひと部屋は長らく客を泊めた形跡がなかった。何とはなくその気配を感じたのだが、野上の説明を聞くとそのとおりだった。吉住がたまに泊まりにくるぐらいなので、客間は一つあれば充分なのだそうだ。私たちは美術館の陳列室を巡るようにそれぞれの室内を見て回ったが、事件の真相解明に役立ちそうなものは、何もなかった。
最後にバルコニーに出てみると、白いテーブルと椅子が二脚あった。堂条秀一はここに掛けて、酒でも飲みながら夜景を楽しんだのだろう。紗《しや》を掛けたように春の海が霞《かす》んでいた。
「吉住氏に会ってみたいな」
火村は錆《さび》の浮いた手すりに片手を置いて、キャメルをくわえた。
「俺も会って話を聞きたい」
不安を抑えながら、私は言った。
第四章 葬儀を終えて
バスを逃したので歩くことにしたものの、駅からわが家までの十五分は長かった。制服を着て並んだような建て売り住宅の中をてくてくと歩きながら、湯川は黒いネクタイをはずして丸め、ポケットに押し込んだ。初夏めいて暑い一日だった。汗をかいたので、ワイシャツの襟元《えりもと》も気持ちが悪い。しかし、帰ってすぐに風呂に飛び込む気もしなかった。ただ、早くお気に入りの座|椅子《いす》にもたれて休みたいと願うばかり。同じように徒歩で家路についた人間が数人、彼をあっさりと追い抜いていった。それでも、ささやかながら裏庭を持ったマイホームが見えてくると、彼は少し歩調を早めた。
おもちゃのようにちゃちなポーチをくぐり、ドアチャイムを鳴らす。そして、インターホンに向かって「俺や」とだけ言った。すぐにドアが開き、妻の冬美《ふゆみ》が現れた。
「お帰りなさい。お疲れでしたね」
彼女は自分の方が疲れた顔をして、用意していた塩を湯川の両肩に振りかけた。
「大変だったでしょうね。ふつうに亡くなったとしても、あの社長さんだったら大騒ぎになったでしょうに、それが殺されたやなんて……」
夫の礼服をハンガーに掛けながら、冬美は言う。面倒くさそうな口調はいつものことだった。湯川は何も応えずにズボンを脱ぎ、ステテコ姿になって座椅子にどっかと尻《しり》を落とした。マスコミのカメラの放列の中での葬儀に、心身ともにぐったりと疲れてしまい、口を開くのも億劫《おつくう》でならなかったのだ。
「お食事はすんでるんでしょう? お風呂は沸かしてありますからね」
彼は音のない溜《た》め息をついた。
「風呂に入るのもしんどい。ちょっと休ませてくれ」
「休ませてくれやなんて。お好きなようにしたらええやないですか。何もお風呂に入りなさいとは言うてませんよ」
判った判った、と胸の内で言う。可愛げのない口のきき方は昔からのことだが、今日のように疲れている時はやはり面白くない。
「コーヒーでもどうです?」とキッチンから声がした。
これはありがたかった。今日は朝食の後に一杯飲んだだけで、昼間はお茶を飲む暇もなかったのだ。「ああ、頼む。淹《い》れてくれ」と大声で言う。
冬美は自分の分とともにコーヒーを運んでくると、向かい合った座椅子に掛けた。
「お前が俺に付き合ってコーヒーを飲むのは珍しいな」
「別にあなたに付き合ってるんやありませんよ。飲みとぉて飲むだけです」
妻は相変わらず可愛げのないことを言いながら、カップにたっぷりと砂糖を入れた。また太るぞ、と言いかけたが、本気でむくれられそうなのでやめる。
「麻衣《まい》は塾か?」
九時前を指した柱時計を見上げながら聞く。冬美はずずっと音をたててコーヒーを啜ってから「ええ」と答えた。
「まだ五年生やいうのに、えらいがんばってますよ。仲のええお友だちがみんな私立を目指してるからって言うて」
「そうか」とだけ言って、彼は「おい、夕刊は?」と聞いた。が、それが耳に入ったのか入らなかったのか、妻は答えなかった。声を落として、何やら話の方向を転じようとするのだ。
「ねぇ、あの子がいてへんから言うんやけどね」
子供には内緒の話を始めるらしい。「何や?」と身構えながら湯川は言った。
「秘書の鷺尾さんっていう人、死んだ社長さんに可愛がられてたんでしょう?」
可愛がられていた、という表現が適切かどうかは微妙なところだった。それを認めると、二人が愛人関係を結んでいたことになってしまう。堂条秀一が鷺尾優子に真面目な恋慕の情を抱いていたのは確からしいし、優子がそれを受容するようなしないような曖昧《あいまい》な態度をとっていたのは事実だ。が、それをもって「可愛がられていた」と言ってよいものかどうか。湯川はそのあたりのニュアンスを説明してから、妻に聞き返した。
「どうしてそんなことを聞くんや? まさか、テレビのワイドショーでつまらん噂《うわさ》が流れてるんやないやろうな?」
自分の会社が世間の好奇の目にさらされるのは愉快ではない。
「そんなことはありませんよ。いやね、私が言おうとしてるのは……」
冬美は歯切れが悪い。いや、そうではなく、どうしゃべれば自分の話がより効果的になるかを頭の中で計算する時間稼ぎをしているようでもあった。湯川はコーヒーをひと口飲みながら待ってやる。
「ねぇ、宝石のデザインをしてる部署って商品企画室って言うんやったかしら?」
話がころころと飛ぶな、と疑問に思いながらそうだと答える。
「そこの責任者っていうか……室長さん? 一番えらい人って何ていう人でした?」
「室長は相馬《そうま》や。──おい、それが何なんや? じれったいからはよう言わんか」
「焦らんと聞いて下さいよ。その相馬さんは長めの髪をこういう具合に一対九に分けた、色白の、華奢《きやしや》な体つきをした人でしょ?」
「そうや。慰安旅行の写真を見せたら、お前が『いかにもデザイナーいう感じがする』って言うたことがある」
「そうですよね? そしたらやっぱりその人や。ううん、さっきもその写真を見直したから確かやわ。鷺尾さんの方も間違いないし」
湯川はもう話の先を促さなかった。妻の話が回りくどいのもいつものことであり、放っておいた方が早く本題に入るのだ。
娘の前ではできない内緒話を始めるにあたり、彼女は一カ月前に届いた同窓会の案内状のことから話しだした。めったにないことなので、「遅くなってもいいから楽しんでこい」と彼は言ってやった。それに安心した冬美は、午前様になって帰ってきた。先週の金曜日のことだった。
「私って、子供の時から告げ口する子が大嫌いやったんですよ。それやからこれまで黙ってたんですけどね……」
前置きを言う彼女の目は爛々《らんらん》と輝いていた。
六年ぶりの同窓会に、冬美は精一杯めかし込んで出かけた。夫が有名なジュエリー堂条に勤めていることは友人たちにも知られているので、アクセサリーにはことに気を遣った。ごてごてと飾り立てて野暮にならないように注意しながら、シンプルな中にも気品の漂うものを慎重に選んだ。エメラルドを核にしたプチネックレス、オリーブの葉をかたどったプラチナにパールをのせたブローチ、ムーンストーンを使ったシルバーピアス、指輪はちょっと豪華な花モチーフのダイヤに、と決めるのに、会の前一週間をたっぷり費やしてしまった。もちろん、いずれも夫に社販で買ってもらったものである。服は春もののツーピースを思い切って新調してしまった。へそくりをはたいたので、夫は文句を差し挾むこともなかった。
いそいそと出かけていった会場は、西梅田のシティホテルだった。六時から開始だったのだが、一時間も早く着いてしまった。それでもロビーを見渡すと、懐かしい顔が二、三見つかったので、誘い合って喫茶室に入った。嬌声《きようせい》をあげながら、互いの近況や旧友の噂話をしているうちに時間は過ぎ、気がつくともう六時前だった。白髪の恩師がフロント前で教え子たちに囲まれている姿が目に入ったところで、揃《そろ》って腰を上げた。おじさん、おばさんの貫禄が出てきた同窓生らの塊を押し分けて恩師の元に進み、まず挨拶《あいさつ》をする。
「先生、ご無沙汰しています」
「ああ、玉井《たまい》君か。またふくよかになったね」
恩師に旧姓で呼ばれ、いきなりからかわれた。自分の方こそ、スリーピースのベストの前がはち切れそうになっているくせに、と笑ってしまう。
「それでは立食パーティ会場に移動しましょうか。十四階のスカイラウンジです」
かつてのクラス委員だった幹事が両手でスピーカーを作って大声を出した。その指示に従い、みんながぞろぞろとエレベーターに向かう。冬美は何人かの友人に早速アクセサリーを褒められ、安心したり喜んだりしていた。
三基並んだエレベーターのうち、最後にきたものに乗り込んだ。扉が閉まりかけたところで駈《か》けてくる男に気づき、開ボタンを押してやる。小柄な体を斜めにしながら滑り込んだ男は、冬美の顔も見ずに「すみません」とだけ言ってから、腕を伸ばして八階のボタンを押した。もう一方の手には、小振りの旅行鞄を携えている。その横顔を見た彼女は、あらっと思った。
──見覚えがあるわ。
メタルフレーム眼鏡を掛けた色白の顔。芸術家のようでもあり、若手の数学者にも見える。冬美は盗み見をしながら、誰だっただろう、と考えていた。が、思い当る間もなく、男は八階で降りてしまった。
それが夫の会社の人間だと気がついたのは、宴のさ中のことだった。大病院の院長夫人に納まった友人から、あなたのはピアスもブローチもデザインが素敵だ、ううん、もちろん石もよ、と褒められた瞬間に突然思い出した。
──あの人、ジュエリー堂条のデザイナーやわ。それも確か、一番偉いデザイナー。
夫の慰安旅行の写真で見ていて、そう教えられたことがあるし、社員の家族慰労のため去年の秋に開かれた夫人同伴の懇親会で会ったこともある。間違いない、と彼女は思った。
──土曜日の夜にこんなところに泊まるやなんて、どうしてかしら? もしかしたら……
逢引《あいび》きかもしれない。それにしては荷物が大きかったけれど、などと思いもしたが、そんなのはどうでもいいことだ。彼女は談笑の輪に戻っていった。
出席率が八割に達した賑《にぎ》やかな同窓会は、九時前に一次会を終了した。二次会はどうする、などとわいわい言いながらとりあえず一階に降りた。都合の悪い者が別れの言葉を投げながら帰り、老いてますます元気な恩師は歌えるところに行こうと酒焼けした声をはり上げる。
「話し足りへんわねぇ。どこか落ち着いたところに行こう」
院長夫人が肩に手を置いて提案してきた。
「そうやね、そうしよう。……充代《みつよ》ちゃん、まだ帰ってへんよね」
親友を捜して首を捻った時、またも彼女は同窓生以外の見覚えのある人物を発見してしまった。
──あの女の人は秘書の何とかっていう人やわ。
ふんわりと項《うなじ》を隠した栗色の髪、ワイン色のワンピース、後ろに大きなリボンがついた黒いベルト。秋の懇親会で見かけた時と全く同じスタイルだ。エレベーターに向かうその後ろ姿を見て、酔った男性の級友が「いいお尻《しり》」と冬美の傍らでにやついていた。
タイミングよく降りてきたケージに鷺尾優子──そんな名前だった。きれいな名前だ、と思ったので記憶に残っていた──は一人でさっと乗り込んだ。
──もしかしたら、あの人……
冬美は興味を持ってそのケージが何階で停止するかを見届けようとした。二十メートルほど離れていたが、目を凝らして見ていると、ランプが八階で止まるのがはっきりと判った。予想どおりだ。
──オフィスラブの現場を見てしまった。
冬美はそう確信した。もっとも、懇親会では二人とも独身だと紹介されていたから、不倫の仲でもなく、後ろめたい付き合いではないはずだ。
ただ──
夫が晩酌で酔った時に漏らしたことだが、秘書の優子は堂条社長に言い寄られているらしい。それに対して優子は、他に交際している男性が社内にいるせいか、今一つ煮え切らない反応をしているとも聞いた。交際している社内のその男性とやらは、社長と恋の鞘当《さやあ》てをするはめに陥って大変だな、と冬美は思った。デートをするにも、当てつけがましくおおっぴらにはできないだろう。後ろめたがる必要はないが、おおっぴらにできないデート。自分が今夜目撃したのは、どうやらそれらしい。
──この勝負はどうやら社長さんの負けみたい。
彼女はいばり屋のワンマン社長の敗北の現場を見て、ちょっと愉快な気分だった。
妻の話を聞き終えた湯川は腕組みをして考え込んでしまった。
「びっくりした?」と彼女が聞く。口元にあまり人のよくない笑みが浮かんでいる。
「ああ、意外な話でびっくりした。お前がそれを見た夜、俺にしゃべらんかったことにもな」
「告げ口は大嫌いやって言うたでしょ」妻は抗議口調で言った。「私があなたにしゃべって、それをあなたが会社で誰かにご注進したらあの二人が可哀想やと思うたんですよ」
「アホ。俺こそ、そんなつまらんことを人にしゃべるか」
「まぁ、俺こそ、やて。自分だけ紳士ぶるやないの」
こんなことで夫婦|喧嘩《げんか》をすることこそ全くつまらない。そう思い直して、湯川は語調をやわらげた。
「いや、俺がびっくりしたっていうのは、鷺尾君が社長以外の男と逢引きをしてたからやない。その相手が相馬君やったことが意外やったんや」
妻の目に強い好奇の色が現れた。当然ながら、それはどういうことだ、とすかさず尋ねてくる。湯川は腕組みのまま、自分の感じた混乱を吐き出すことにした。
確かに社内に鷺尾優子を巡って社長と鞘当てをしている男はいる。社員の誰もが知っているわけではないが、本社にいる何人かの者にとっては公然の事実だ。しかし、その相手は企画室長の相馬智也ではなく、相馬の部下で、優子より三つ年下のデザイナー、長池伸介なのだ。相馬が優子にモーションをかけているなど、聞いたことがない。ましてや、ホテルで密会するなどとは。
「へぇ、鷺尾さんって、髭《ひげ》のおじ様と年下の男の子に同時にアタックされてるの。あの美貌《びぼう》やものねぇ。ふぅん、そぉ」
冬美は感心している。
「その鷺尾君が相馬室長とホテルで会うはずがない。偶然、同じホテルに用があったか、単なるお前の見間違いや。間近で見た相馬君は措《お》くとして、鷺尾君は遠くから後ろ姿を見ただけやろう?」
合点がいかない湯川は難詰《なんきつ》するように言った。しかし、妻は頑として認めようとしない。
「いいえ、そんなことはありません。あんなふうに上から下までそっくりな恰好《かつこう》をした人がいてるもんですか。ヘアスタイルも全く同じなんやから。懇親会で一回会うただけやけど、私はあの人をよーく見てました。きれいな人やなぁ、秘書にしとくだけやのうて、テレビコマーシャルに出してあげたらええのに、と思うてたんですから」
「けど、半年以上前のことやないか」
それでも妻は、親の遺言を守るかのごとく譲らない。
「自信があります。あんなに似た人がいてるもんですか。──それにね、たまたまその相馬さんとやらと同じ日に、同じホテルの、同じフロアに用事があったっていうのも変やないですか? そんな偶然、私には考えられません」
「しょうもないことを力説するな」
湯川は邪険に言って、しばし黙った。妻がそれほどまでに言い張るのなら、錯覚ではなかったのかもしれない。とすると、優子は堂条秀一と長池伸介だけではなく、相馬智也もキープしているということなのだろうか? いくら何でもそれはひどい。やむにやまれずそうなってしまったのだとしたら、少しでも早くけりをつけて、拒まれる者が受けるダメージを軽くしてやるべきではないか。ましてや、三人とも同じ職場の人間なのだ。
だが、鷺尾優子とはそんなにも他人の気持ちを忖度《そんたく》できない女性だろうか、と思い直す。もちろん、プライベートな付き合いはないので、彼女の人間像には湯川にとって未知の部分が多い。それはそうなのだが、彼女が大人にとって充分な良識を備えていることは疑えない。
「何か事情があるのかもしれん」
彼はそう呟《つぶや》いた。
「事情ってどんなことです?」
顔を突き出す冬美に「知らん」ときつく言った。
「で、なんで先々週の金曜日に見たことを今になって話してくれたんや?」
冬美は意味もなく受け皿の縁を指先でなぞりながら、
「こんな事件が起きたからに決まってるやないですか。社長さんが殺されるやなんて、もしかしたら男と女のことでトラブルがあって、それが動機なんやないかなって……。そりゃあ、お仕事の上でのトラブルが原因かもしれませんけどね」
湯川は妻の目を見据えた。
「お前、このことは絶対|余所《よそ》にしゃべるなよ」
「あら、私が誰にしゃべるって言うんですか?」
不服そうな妻に、彼は噛《か》んで含めるようにゆっくりと言う。
「誰にも、や。どういう意味があるのか判らんが、とりあえず刑事の耳に入れん方がええ。いらん誤解を招くだけなんやから」
妻は「判ってますよ」とつっけんどんに応えた。
青木知佳は緊張で体を固くしながらうつ向いていた。コーヒーが冷めますよ、と刑事に言われて、ようやくカップに手を伸ばす。カップの下ではテレビゲームのけばけばしく下品な画面が蠢《うごめ》き、アニメーションの女の子が、コインを入れて、と媚《こ》びを売っていた。今どきテーブルがテレビゲーム機になっているだなんて、何て安っぽい喫茶店だ、と思う。
葬儀を終え、帰っていいよと言われてほっとしたのも束《つか》の間だった。地下鉄の駅に数歩向かいかけたところで二人組の刑事に呼び止められてしまったのだ。一人は自分同様、まだヒヨコのような若い刑事。名前は忘れた。もう片方は、机を叩《たた》いて被疑者に詰問しそうな恐持《こわもて》の中年刑事で、こちらは野上と名乗ったのを覚えている。
「ちょっとだけお時間をいただけますか? お話を伺いたいんです」
そう言ってこの喫茶店に連れ込まれた。マスコミ関係者にはノーコメントで通せ、警察に何か聞かれたら協力すること、ただし聞かれたことだけに答えて、よけいなおしゃべりをべらべらしないこと、と昨日、湯川部長から言われていた。が、自分ごときが尋問されるとは思っていなかったので、どぎまぎしてしまった。
「青木さんはこの春、短大を卒業して、四月に入社したばかりだそうですね。もう、会社にはだいぶ慣れましたか?」
野上刑事はにこやかに聞いてきた。優しい尋ね方だったが、目はまるで笑っていない。こちらをリラックスさせるため、わざと世間話めかしたことを聞いているんだわ、と知佳はつまらない分析をしてしまう。
「はい。少しずつですけれど」
「そうですか。まぁ、最初のうちはまごつくことや失敗も色々とあるでしょうけど、がんばって下さい」
小さな声で「はい、ありがとうございます」と応える。
前置きはそこまでで、「さて」と言って野上は本題に入ってきた。
「青木さんは本社の営業部にお勤めだそうですから、亡くなった堂条社長とはほとんど毎日顔を合わせていましたね? ことに、お宅のオフィスは、社長室と営業部の部屋がつながっていましたから」
「はい」とだけ答える。
「まだ会社に染まっていないあなたに聞きたいんですが、社長さんの印象はどうでしたか?」
よけいなことはしゃべるな、と言われてはいたが、何がよけいなことで何がそうではないのか、は自分で判断しなくてはならないのだ。それに気づいた知佳は、刑事にあれこれ質問されることがたまらなく鬱陶《うつとう》しく思えてきた。
「私のような女子新入社員は社長と口をきく機会もありませんでしたから……印象と言われても……特にお話しすることはありません」
野上は唇の端で嗤《わら》った。
「言葉を交わすことは少なかったかもしれませんが、あなたが社長を見ていて、何か感じることがあったでしょう? 小言が多くてうるさいとか、こわいとか、穏やかで優しそうだとか」
「仕事に厳しい様子でした。……怒鳴ることもよくありました」
これぐらいのことはいいだろう、と思いながら答えた。野上はこっくりと頷《うなず》く。
「そうでしょうね、随分とワンマンで、厳しかったという評判を聞いています。──怒鳴ることもあったとおっしゃいましたけれど、それは特定の人に対してですか?」
「いいえ、そういうことはありませんでした。……このところ売上が予算どおりにいっていないためでしょうけれど……営業部への風当りが強かったみたいです」
「なるほど、湯川部長にがみがみ言ってたわけですね?」
誤解を与えてはならない、と知佳は慌てた。
「でも、それはもちろんお仕事の上のことですから、社長と部長がいがみ合っていたというわけではありません」
「ええ、承知していますとも。仕事の上でどやしつけられることは、私などもしょっちゅうです。ところで、青木さんから見て、堂条社長は社員に対して公平な方だったでしょうか?」
「はい、不公平な扱いを受けている方はいなかったと思います……ええ」
新入社員が生意気な口をきいて、と知佳は自分で思った。だが、野上は相変わらずもの判りのよい顔で頷いていた。
「では、社長に反抗的だったという人をご存知ないですか? そんなことをしゃべると告げ口のようで嫌だ、とお感じになるかもしれませんが、これは殺人事件の捜査だということを忘れずに、知っていることがあればすべておっしゃって下さい。あなたから聞いたということは外部には伏せますから、気を遣わなくても結構ですよ」
諭すように言われたが、彼女は首を振った。
「知りません。……本当に」
「社長の悪口をよく口にしていたというような人はいませんでしたか?」
「いいえ。うちの会社って、叱《しか》られて社長室から出てくるなりぺろって舌を出すような陽性の人ばかりですから……」
少し誇張してあるが、これはまんざら嘘《うそ》でもない。みんな社長の口うるささに慣れているからなのだろう。
野上はそれ以上追及しようとはせず、質問を変えた。
「社長が最後に出勤した先週の金曜日のことを伺います。社長に関して、あるいは社内で何かふだんと様子の違ったことはありませんでしたか?」
即座に「いいえ」と答えると信憑《しんぴよう》性を欠くような気がして、知佳は片頬に人差し指を押し当てて、ちょっと考えるしぐさをした。
「……別段、気がつくようなことはありません。ふだんと同じでした」
「何かをきっかけにして、社長の気分が大きく変わったというようなことは?」
「……なかったと思います。思い当りません」
刑事の口調は穏やかだったが、質問にはまるで切れ目がなく、次から次へと飛んできた。が、知佳が返答に詰まるようなものは出てこなかった。彼女はすっかり落ち着いて、終始無言のままの若い刑事をちらちら見て、割りとハンサムね、などと思う余裕も出てきていた。
「金曜日の夕方、東洋アドの吉住さんが来社しましたね。彼はその時どんな様子でしたか?」
吉住が社長の弟だった、ということは昨日になって知った。こんなふうに刑事が聞くところを見ると、彼は容疑者と目されているのかもしれないな、と知佳は思った。しかし、幸い彼について不利な証言をすることはない。
「いつもと変わりありませんでした。にこにこと愛想を振り撒《ま》きながらやってこられて、……打ち合わせをすませて社長室から出てこられた時も、笑顔でした」
「失礼しますよ」と言って、ここで刑事は煙草をくわえた。火を点けながらも、質問は途切れさせない。
「では、月曜日はどうでしたか?」
社長が出社してこず、何の連絡も入らないので、次第にみんなが心配になっていったことを、知佳はもたもたすることなく話した。その時、様子が不自然だった者はいなかったか、などと刑事は質問を挾んだが、彼が期待しているであろう答えを投げ返してやることはできなかった。野上が「そうですか」と言って短くなった煙草を揉《も》み消したので、もうそろそろ解放してもらえそうだな、と気が軽くなった。
「その日、吉住から電話がかかったりしませんでしたか?」
また吉住の名前が出たな、と思いながら「いいえ」と答えた。それに何気なくひと言付け加えたのは全くのはずみというものだ。
「朝、通勤の電車で偶然お会いしましたけれど」
「青木さんはどちらから通ってらっしゃるんですか?」
野上は煙草をポケットにしまいながら、世間話の口調で尋ねる。彼の手の動きが止まったのは、彼女が答えた瞬間だった。
「朝潮橋というと、大阪港の近くですね? どこで吉住さんに会ったんですか?」
「地下鉄の中央線の中です。吉住さんは弁天町で乗ってきました」
刑事は何か引っ掛かったらしい。初めて見せたそんな態度に、知佳は「それが何か……?」と問い返した。
「吉住さんは神戸の灘《なだ》から中之島の会社に通っているはずです。JRで大阪駅まで出て、淀屋橋《よどやばし》までひと駅地下鉄に乗るなり歩くなりするのがふつうで、弁天町から地下鉄中央線に乗り込んでくるということはおかしいでしょう?」
吉住が灘に住んでいるということは知らなかった。だとすると、あの朝の出会いはやはり不自然である。
「そういえば……『いつもこの電車なんですか?』と聞くと、言葉を濁してらっしゃいました。何だか、私とばったり顔を合わせてバツが悪い思いをしたみたいで……」
「バツが悪いというと、あなたに会いたくなかった、という感じだったんですか?」
「ええ……そんな気もしました。私から『おはようございます』とご挨拶《あいさつ》したんですけれど……もしかしたら日曜日に彼女の家にでも泊まって、そこから出勤したのかもしれません」
彼女の家に泊まったのかもしれない、とは言いすぎだったかな、と知佳は思ったが、口に出してしまったことはもう消せない。
「あなたはふだん、吉住さんとよくお話をなさっていたんですか?」
「いいえ。お茶をお出ししたことが二、三回あるだけです。私が『ジュエリー堂条の青木といいます』と言うと、ようやく『ああ』と気がつかれたようでした」
野上は顎《あご》に手をやって、数秒の間、黙っていた。やがて、伝票を掴《つか》む。
「いや、どうもありがとうございました。お引き留めして申し訳ありませんでしたね」
若い刑事も鸚鵡返《おうむがえ》しに礼を言った。お役ご免になったんだ、と思うと、知佳は少しもの足りないような気もした。
店を出たところで刑事たちと別れる。日が暮れだした街には明かりが灯り、行き交う車もヘッドライトを点灯していた。
──何もよけいなことはしゃべってないはずやわ。
地下鉄駅に向かいながら、自分がそつなく対処したことに彼女は満足していた。
「よろしかったら車でお送りしましょうか?」
社長の亡骸《なきがら》をのせた霊柩車《れいきゆうしや》を見送った後、五十嵐は、相馬と長池の二人に声をかけた。そう誘ったのは、たまたま彼らがそばにいたためと、帰る方向が同じであることを知っていたからだ。二人は「よろしいんですか?」と遠慮しかけたが、すぐに五十嵐の勧めを受け入れた。
総務部の者と秘書の鷺尾優子を残し、他の社員らは五十嵐たちとともに寺を出た。車を預けてある近くの駐車場に向かうまでの間に、雑誌記者と名乗る人間から二度コメントを求められたが、彼らは無言のままそれを拒絶した。
車に乗り込んでからも、しばらくは誰も口を開かなかった。葬儀を終えてほっとし、しゃべるのも面倒になっていたからだろう。夥《おびただ》しいばかりの寺が犇《ひしめ》く町を抜け、車は上町筋《うえまちすじ》を北上する。
「これから大変だ、うちも」
上六《うえろく》を過ぎ、ビルの谷間に入ったあたりで、相馬が独白するように言った。ルームミラーの中の彼は眼鏡をはずし、しょぼしょぼするのか両目を揉《も》んでいる。バックシートの隣りの長池は、表情もなく窓の外に目をやっていた。店長の五十嵐が営業企画室の人間と言葉を交わすことは、あまりなかった。ふだんは社内ですれ違った時に挨拶を交わす程度だ。会話が弾まないのは、そのせいであったかもしれない。
五十嵐は視線を前方に戻し、話の糸口を探る。と──
思い出したのは、昨日、兵庫《ひようご》県警の刑事が何人か会社に現れ、社員たちにあれこれ質問を浴びせたことだった。もちろん、五十嵐にもお声がかかった。彼は、他の者たちがどんな質問にどう答えたのかが気になったのだが、刑事が帰った後も、それについて尋ね合う者はいなかった。元々、彼は口数が多い方ではなかったし、刑事との面談について話すことが暗黙のうちにタブーになっていたからだろう。しかし、今ならその話をひょいと持ち出せるのではないか、と五十嵐は思った。
「葬儀にも刑事がきていましたね。あれは列席者の挙動を観察するためだったんでしょうね」
五十嵐はわざとつまらなさそうに言ってみる。応えたのは相馬だった。
「うん、彼らはそういうことをするそうですね。われわれも目でなめ回されていたのかもしれません」
企画室長は、広くて生っ白い額にかぶさる前髪を掻《か》き上げながら言う。長池はうつ向いたままでいた。
「会社の内部の様子を掘り返そうとしていますね。私ごときも色々と聞かれましたよ」
これも努めて何気なく言う。相馬はこの話題に乗ってきた。
「私もお相手しましたとも。社内で何かトラブルは生じていなかったか、円満ならざる退社をした人間はいなかったか、とあれやこれや聞かれました。幸か不幸か、彼らのお役に立つことはできなかった模様ですけどね。つまり、誰の悪口も言わずにすませたわけですよ」
「誰かの悪口を言いたかったわけではないでしょう?」
五十嵐は抑揚のない、真面目くさった声で言った。
「もちろん、そんなことはありません。──五十嵐さんだってそうでしょ?」
「私は誰にも悪意は持ってなんかいません」と彼ははぐらかせた答え方をした。そして、長池に質問を転じてみる。
「長池さんも聞かれてましたね。どんなお話をしたんですか?」
若いデザイナーは「え?」と一瞬、とぼけた顔をした。腰を浮かせて座り直しているのがミラーの中に見える。
「ああ、刑事さんがきた件ですか。いやぁ、別に何も。社長はどんな人でしたか、といった話に終始しただけです。ワンマンでがみがみうるさいところはあったけれど、誰かを追いつめるようなタイプではありませんでした、と答えておきました。──なかなか味のある返事でしょ?」
肩をすくめる彼の声は、葬儀の帰りには不似合いに明るかった。何か、さばさばしたような印象を与える。
「うまいよ、うまいこと言うよ、お前」相馬は肘《ひじ》で長池の脇を突いた。「そうなんだなぁ。堂条社長って、ワンマンの辣腕《らつわん》実業家として名を馳《は》せていたけれど、人から恨みを買うようなダーティーなやり方は嫌ってましたからね。ライバルを蹴倒して成り上がったのは確かだけど、勝負はフェアでしたよ。人を追いつめるタイプじゃなかったな、うん」
五十嵐は堂条秀一を苦手にしていたが、それでも彼らの見方には素直に同意することができた。
「そうかもしれません。どちらかというと、追いつめられるタイプでいらしたかもしれませんよ。しょっちゅう不機嫌で怒鳴りちらしたりしていたのも、その表われだったんでしょうね」
「しかし、社長も死んでから理解を得られても詮《せん》ないことでしょう」
長池は薄く嗤《わら》った。冷たい嗤いだったが、彫りの深い整った顔には、そんなどこかナルシスティックな表情がよく似合っているように五十嵐は感じた。
「追い詰められてストレスが溜《た》まるから、あんな妙ちくりんなカプセルにつかる趣味ができたのかもしれないなぁ。──なんか、怒鳴られたのが懐かしくなってきましたよ。まさか殺されるなんてなぁ。全然ピンとこない。明日出社したら、何でもなかったような顔をして社長室の椅子《いす》に座ってるような気もする」
「よして下さいよ、想像したら気味が悪いじゃないですか」
この長池の言葉も、五十嵐の耳にはやはり温かみを欠いて響いた。
──仕方がないのかもしれない。
彼は、故人と長池が鷺尾優子を巡り、水面下で繰り広げていた闘争について考えずにはいられなかった。二人のいずれが勝者となるのだろうか、と湯川が興味本位で意見を求めてきたことがある。湯川が社長に肩入れをしているふうだったので、天邪鬼《あまのじやく》な彼はつい長池を持ち上げてしまった。だが、本当のところを言うと、その才能は十二分に認めるものの、長池というデザイナーにもあまり好感を抱いてはいなかった。
ともあれ、思いもよらなかった形で勝負はついた。勝利は長池の下に転がり込んできたのだ。自分の恋路の行く手に立ちはだかっていた大きな障害が消えたことに彼が安堵《あんど》し、胸の内で喜ぶのは当然の生理反応かもしれない。
ただ、そう容認するためには前提となる条件が必要だ。つまり──堂条秀一の死に長池自身が関与していないということ。
五十嵐はもう一度ミラーを覗《のぞ》いて、デザイナーを見た。彼はうつ向いて、礼服の襟《えり》についた埃《ほこり》を取ろうとしているようだった。もし、彼が堂条秀一の生命を奪った犯人だとしたら、と考えてみようとした。が、まるで実感は湧《わ》かなかった。それは彼の人間性を信じているためではなく、単に殺人犯人というもののイメージが想像しかねるだけなのだろう、とも思う。であるから、周囲の誰に対しても殺人犯人かもしれない、という疑いを重ねることができないのだ。
「アリバイなんて聞かれました?」
中之島を過ぎて、新御堂《しんみどう》の高架に入ったところで相馬が尋ねてきた。五十嵐は頷《うなず》く。
「ええ、さりげなく聞かれました。社長の金曜日の退社時の様子なんぞを聞いた後で、あなたはその日どうされましたか、という調子で。真直ぐ家に帰りましたから、女房と子供だけが証人です、と答えておきました。──相馬さんはどうでした?」
企画室長は両手の指をくねくねと絡ませながら、
「私もです。心斎橋の本屋で買い物をして、ちょっとパチンコをして遊んだ後、食事をして帰ったのが九時過ぎ。それから録画しためていたビデオを二本観たんですけど、こっちは独身だから、女房子供の証言もないのがつらい。まぁ、私には社長を殺す動機なんて微塵もありませんけどね。──お前も一人|淋《さび》しくビデオ観賞の口だろ?」
長池は首を振った。
「違いますよ。うちに帰って残業していたって言ったじゃないですか。夏のダイヤモンド・コレクションの件で、月曜日にプレゼンする前にデザイン画をファックスで六甲の家に送れという社長命令をくらっていたんですから、深夜まで働いてましたよ。どうしてわざわざ休み中に下絵を見たがるんだって、ぶつぶつこぼしながらやったんですから」
「おっと、そうだったな。──うん、確かにあれは意地の悪い命令だったと俺も思う。月曜日のプレゼンまで待てないものでもなかったろうにな。けど、ま、わがままなのが社長らしいとも言えるな。社長らしい子供っぽさだよ」
ここで相馬は声を低くした。
「もしかしたら、お前がデートに出られないように足止めしたかっただけかもしれないぞ」
「冗談はよして下さい」
直属の上司に向かって、思いがけず強い調子で長池は言った。五十嵐は少し驚く。
鷺尾優子争奪戦について当て擦《こす》られると、相手が誰であっても彼は露骨に不快感を表明した。相馬はそれを承知の上で軽く冷やかしてみたのだろう。かっかするなよ、というようににやにや笑っている。
「社長の気紛れは珍しいことじゃありませんから、僕は意地悪い命令をされた、なんて思っていませんよ。ただ、少し気味が悪いんです」
「何がどう気味悪いんですか?」
訝《いぶか》りながら五十嵐が聞く。車は淀川《よどがわ》を渡っていた。
「描き上げた下絵を、僕は土曜日の午後に自宅から社長の別宅に送信したんです。無事に流れたようだったし、別宅の電話番号は聞いていなかったので、わざわざ番号を調べてまで電話はしませんでした。流し終えて、やれやれとほっとしたり、社長のイメージに合うかな、と思ったりしたんですけれど、それを社長は見ていなかったわけです。すでに死体になって、何とかいうおかしなカプセルの中に浮いていたんですからね。まだ誰にも発見されていない殺人現場という空間に、自分の描いた絵がひょろひょろと湧《わ》き出している情景を思い浮かべると、気味が悪いんです。──この感じ、判っていただけないかもしれませんけどね」
「ふぅん、そんなものかな」
相馬は真顔で唸《うな》っていた。
新大阪駅をくぐったかと思うと、間もなく相馬のマンションがある江坂《えさか》だった。新御堂を降りながら、どちらの方角だ、と彼に聞く。
「どこでもいいですよ。駅前ででも降ろして下さい」
「その恰好《かつこう》でパチンコは変ですよ」と長池がからかう。
「今日ぐらい喪に服すよ。──このへんで降ろして下さい、五十嵐さん」
東急ハンズ前で停め、相馬を降ろした。軽く手を振る彼に向かって、長池がわざとらしくかしこまって頭を下げた。まだ相馬の悪い冗談にむくれているのかもしれない。
「鷺尾さんのことで冷やかされるのは愉快ではないでしょうが、仕方がありませんよ。平気な顔でさらりとかわす方がいい」
そんな当たり障りのないことを言ってから、五十嵐は、長池の心に少し踏み込んでみたいという衝動にふとかられた。怒らせるかもしれないと思いつつ、こう聞いてみる。
「それにしても、これで鷺尾さんの気持ちも固まることでしょうねぇ。ここだけの話、ほっとなさったでしょう、長池さん?」
彼とデザイナーの視線がミラーの中でぶつかった。また、醒《さ》めた笑みを作った長池は、気分を害していないらしい。
「五十嵐店長がそんなことをおっしゃるとは驚きです。社内ゴシップなんて聞く耳は持たない、という顔をしていらしたのに、意外ですよ」彼は目を逸《そ》らして窓を向いた。「相馬室長がつまらないことを言うのはですね、何のことはない、鷺尾さんに未練があるからですよ」
五十嵐は「未練?」と反射的に聞き返した。
「ご説明が必要ですか? いや、どうということでもないんです。二年前に彼女が入社してきた時、真っ先に口説いたのが室長だったと鷺尾さん本人から聞いています。肘鉄《ひじてつ》をくらって、気の弱い室長のアタックはそれっきりらしいですけどね。社長と私と彼女が気まずいトライアングルを形成してしまったので、なおさら出る幕がなくなったんでしょう。だから、僕にあんな当て擦《こす》りを言ってみたくなるんだと判ってるんですけどね」
相馬が肘鉄をくらったとは知らなかった。鷺尾もそんなことまで口外しなくてよいものを、と思うと同時に、長池の話しぶりに、相馬を小馬鹿にしたような響きが含まれているのが五十嵐の気に障った。
「それからですね──」
相馬が降りるなり舌の回りがよくなった彼は、込み上げてくる笑いをこらえるかのように口元をほころばせて続ける。
「社長が亡くなったことで鷺尾さんの気持ちが固まる、というのは見当はずれです。いずれ公になることですから、こっそりお教えしておきましょう。
僕は彼女と結婚します。先々週、プロポーズを受けてくれたんですよ。もちろん、慎重にことを運ばなくてはならないので、二人の間だけの約束です。社長はまだ知りませんでした。近いうちに彼女の口から社長に伝えて、彼女は辞表を提出することにしていたんですけれどね」
思いがけないことだった。五十嵐は「ほぉ……」と言ったきり、少しの間、何も言えないでいた。やがて、ようやく言葉が見つかる。
「そうですか、決着はついていたんですね。どうも、失礼しました。いや、こんな服装で言うのも何ですが、おめでとうございます」
「まだ内緒にしておいて下さいよ。こんなことになってしまったので、ほとぼりが冷めてから公表しなくてはなりません。店長なら口が堅いと信じてお話ししたんですから、よろしくお願いします」
「ああ……それはそうでしょう。ええ、黙っていることにしますよ」
皮肉を言われたのかもしれない、と五十嵐は一瞬どきりとした。昨日面談をした刑事に向かって、彼は社内事情を率直に話した。捜査に全面的に協力するのが市民の義務だと信じて、堂条秀一と長池伸介のひそかな闘争についても知るところをすべてリークした。長池が疑わしいと思って指したのではない。いずれどこかから漏れ聞こえることであろうから、早く刑事の耳に入れておいた方がいいと思っただけのことだった。
刑事は興味を抱いたようだったのだが、今聞いた話が事実なら──すぐばれるような嘘をつくわけもないだろう──、長池が社長を殺《あや》める必要はまるでなかったことになる。結果的に、警察に邪推の材料を与えただけになってしまったことを、彼は少々後悔した。
千里中央《せんりちゆうおう》が近づいてきた。五十嵐は尋ねるべきことを思い出す。
「えーと、ところで、長池さんの家はここからどっちに行くんですか?」
「モノレールに沿って万博会場跡の方へ行っていただけますか?」
五十嵐の問いかけの語尾にかぶせるように、長池は即座に答えた。いつになったら聞くのかと思っていたぞ、と言わんばかりの調子だな、と彼は不快になる。どんな顔をして言っているんだ、とまたミラーを一瞥《いちべつ》すると、意外にも、デザイナーはぐったりとシートにもたれて目を閉じていた。
吉住をマンションに招いたのは、もちろん初めてだった。彼は玄関に入るなり「いいところに住んでるな」とお世辞を言った。
「むさ苦しいところですが、どうぞお上がり下さい」などとふざけたことを言ったのは火村先生だ。「お前が言うな」と私は丁重にたしなめる。吉住は「では」と踵《かかと》を擦《こす》り合わせて黒靴を脱いだ。
私が勧めるまでもなく、彼はリビングのソファに倒れ込むように掛けた。火村がその斜めに座り、ネクタイをだらしなくゆるめる。私は火村の前に灰皿を置いてやってから、キッチンに立ってコーヒーを淹れにかかった。食事は近くですませている。
「へぇ、見かけによらんもんやな。鳥なんか飼ってたのか」
吉住は窓際に吊《つる》された鳥籠《とりかご》に目を留めて、感情のこもらない声で言った。私は隣人から預かっているものだとだけ説明する。
「カナリアなんや。全然啼《な》かないカナリア」
「歌を忘れたカナリアか」彼の声にはまるで張りがない。「オスかメスか知らんけれど、一羽しかいないのがよくないんやないか? 淋《さび》しくて啼く気もせんのかもな」
湯を沸かしながら、私はここで隣人から聞いたことを話す。カナリアは、元はひと組のつがいであったこと。オスが死んだので、飼い主はすぐに別のオスを買ってやったのだが、それも数日後の朝、冷たくなっていたこと。同じことがもう一度繰り返されたこと。それで、飼い主は新たなオスを買う気をなくしてしまったのだ。次のオスがまた死んだりすれば自分もメスも悲しみが増すばかりだと思ったし、あるいは、もしかするとメスが次々に差し出される新しいオスを拒んでいるのではないか、という疑念が起きたからだった。
「俺はそれを聞いて、彼女の選択に納得したけどな」
「彼女?」吉住は聞き逃さない。「隣りの飼い主っていうのは女性やったんか。もしかして、若い子?」
「若い若い。まだ三十までちょっと間がある」
今年で二十八歳になる、とまでは言わなかった。高校生から見ればおばさんだろうが、ここにいる男たちはみんな三十を越えている。まして、社会のシステムの複雑化が進んで、三十歳で成人式を迎えるようにした方がいいのではないか、という意見もあるほどの今日のことだ。時代の変遷に鈍感な年配男性作家の作品の中で『二十八になる彼女は、もう若くはなかった』という文章に出会うたび、私は違和感を覚える。
「それなら、有栖川先生と年齢的に釣り合いもとれてるやないか。ペットホテル替わりを引き受けてるうちにいいことがあるかもしれん」
私にそんな下心はない──つもりだ。……とりあえず、今のところは。
「年齢的に釣り合いがとれた女性は日本中に何万人もいてるんやけどな。ただ、隣りの女性の場合はまずいことに、凄《すご》い美人なんや。そこで俺と釣り合いが崩れる」
「そんなに美人か?」
吉住がわざわざ上体を起こしながら尋ねた。軽口をきいているうちに少しでも元気が出ればいいと思い、私は「ああ、見たらびっくりするぞ」と力んで言ってやった。仕事の上で付き合っていた頃から、女性の話が好きな男だった。──ちなみに、万人が認める美人かどうかはさて措いて、隣人が魅力的な女性であることは事実だ。
「ふぅん、そうか。がんばれよ」
だが、吉住はそう言っただけで、またソファに身を埋めた。元気が出ないのは服喪中のせいなのだろうが、先週末からこんな調子が継続しているように思う。
「警察の捜査の進捗《しんちよく》状況はどんなものなんでしょうか、火村先生?」
彼は膝の上で手を組んで、黙ったままでいた助教授に質問した。豆をフィルターに入れて湯を注ぎながら、私は彼らのやりとりに耳を傾ける。足を組んだ火村は、鳥籠《とりかご》に目を向けたまま落ち着いた声で応えた。
「まだ方向が定まっていません。被害者、堂条秀一氏を巡る利害関係の洗い出しが懸命に行なわれているところです。あれだけの成功者で、有名人でもあったのに、交遊範囲が極めて狭かったということをみんな意外に受け止めていましたね。これは私自身も含めての感想です」
吉住の応答に興味があったが、彼はそれに対しては何も触れなかった。
「直情径行的なようでいて、ある面では非常に臆病《おくびよう》な人だったとも思います。ビジネスの上では専制君主のようにふるまって自分の考えを押し通すんですが、私生活では人に嫌われたり傷つけられたりすることを恐れていたんではないでしょうか。人間的な交わりの愉快ではない片面についつい目がいってしまい、他人との接触を少なくしていたのかもしれません。──そういう意味では、彼は子供っぽい人間でしたね」
「フロートカプセルもその表われだということですか?」
「そうかもしれません。──ただ、私はあまりとやかく言えない。結構、あれを面白がっていましたからね。六甲の家に行くたびに使わせてもらっていたんです。あれにつかると、本当にリラックスできますよ。オフィスに設置すべし、と稟申《りんしん》したいぐらいです」
「あなたの場合はリラックス、リフレッシュの道具だったんでしょう。けれど、堂条秀一氏にとっては、また違った意味があったのかもしれませんね」
火村は鼻の頭を掻《か》いて、さらに尋ねる。
彼らの前にコーヒーを運びながら、私は割り込んだ。
「フロートカプセルは堂条氏にとって、傷つきやすい自我を防衛するための殼のような意味があったのかもしれんな」
この月並みな表現に吉住は嗤《わら》った。
「本人やジュエリー堂条の幹部たちは繭《まゆ》だと言ってたな。しかし、四十分ばかりカプセルにつかっても、何からも逃げられない。あれはやっぱり多忙な社長のリフレッシュの道具やったんや」
「それは推察ですね。彼にとって、リフレッシュという積極的な意味があったかどうかは判らない」
そして、火村はまた鼻の頭を掻きながら尋ねる。
「四十分ばかりカプセルにつかる、とおっしゃいましたね。その時間はいつも決まっていたんですか?」
「ええ。時間がくると、内部でチャイムが鳴るようになっているんです」
「いつもそうだったのなら、使用する前にわざわざタイマーをセットしたりしなかったわけですね?」
吉住が返答を返すまでに数秒かかった。
「タイマーがついてたんですってね。知りませんでした。四十分たったら終了を告げるチャイムが鳴るのは、あの器械が出荷される時から設定されているんだと思っていました」
とぼけているふうではなかった。──では何故、死体が入っていたフロートカプセルのタイマーは五十分にセットされていたのだろうか? その意味が判らない。
社会学部の先生はブラックコーヒーをひと口飲んでから、違った話を始める。
「先ほど、吉住さんが繭という言葉を使ったんで連想したことがあります。八十年代の終わり頃にコクーニング現象というものが言われました。コクーニングとは繭作りという英語ですね。この場合の繭とは、家庭を意味したもので、蚕《かいこ》がせっせと繭を作るように、自分を優しく包んでくれる家庭を再構築しようという姿勢を指したのがコクーニング現象。家庭への回帰。自分が愛せるもの、自分に敵意を向けないものだけに囲まれていたい、という態度」
「ひとり者の兄にとって、フロートカプセルが家庭の代用品だったとおっしゃるんですか?」と吉住。
「逃避場所《シエルター》という点では共通していたでしょうね。ほんの一時的な逃避でしかありませんが。どんな人間にも家庭が絶対必要である、とは言えませんが、何らかの逃避場所は誰にとっても必要なものです」
ここから火村先生は脱線しだす。
「コクーニング現象と前後して、日本ではオタクという言葉が生まれました。これも息苦しく厳しい競争に悩む現代人の逃避のもう一つの形態です。
無知なのか作為なのか、オタクとは単に趣味に凝り固まった人間のことを指している、と誤解している人間も大勢いますが、まるで違いますよね。周囲を呆《あき》れさせるような道楽親父や偏執狂《へんしゆうきよう》的なコレクターならいつの時代にもいた。コラムニスト中森明夫《なかもりあきお》の命名になるこの術語は、ごく乱暴に要約するなら、趣味──しばしばコミックスやアニメなど虚構を扱ったもの──の世界に頼って自我を防衛しようとする人種、ということになります。道楽親父の息抜きと違って、オタクの趣味は彼の存在基盤になる。人間同士の絆《きずな》を結ぶことには尻《しり》ごみするオタクたちは、自慢の趣味でコクーニングの不能を代償するわけです。このオタクの隊列の先頭に立っているのは新人類ではなく、団塊の世代の連中。オタク文化はすべて、彼らの時代が産み落したものです。彼らにとっても、私たちにとっても不愉快なことながら、私たちが楽しんできたものは所詮《しよせん》、彼らのお楽しみをダビングしたものばかりなんですから。
もとい。虚構に立脚しているがゆえ、非常にデリケートで、もろいのがオタクの逃避方法ですから、現実と対峙《たいじ》する支えにするには無理があります。対人関係はますます苦手で気詰りなものにならざるを得ない。それでも、彼らはオタクになるのが一番楽だと感じる。スポーツやお勉強や、その他の現実的な闘争においてうだつが上がらない子供に向かって、親も教師も『何でもいいから人に負けないものを持て』と訳知り顔で激励するので、オタク少年たちはお墨付きを得ていると思ってもいるでしょう。ぬくぬくとした趣味の世界は自分を裏切らないし、挫折《ざせつ》感も消してくれる。過度に現実適応した、世俗的でギラギラした人間の対角線上にオタクは立っている。──まぁ、そのうち逃げ込んだ彼らの世界でも激烈なオタク間闘争が始まるので、心安らぐだけの場所でもないようですけれどね」
「推理小説を飯の種にした推理小説オタクの有栖川先生のご意見はどうなんでしょうかね。オタク趣味も職業にしてしまえば逃避場所でなくなるわけかな」
吉住は少し興味を惹《ひ》かれたのか、言葉を差し挾んだ。ここで自分にふられるとは思っていなかった。
「待てよ、俺はオタクやないぞ。幼少の頃から常に健全な対人関係を……」いや「でもないか。──おい、そんなことはどうでもええ。話が本題からはずれていってるやないか。オタク社会学のさわりを講義してもろてる場合やない」
火村は「失敬」とすました顔で言った。吉住はコーヒーに口をつけることもせずに、小さな声でまた話し始める。
「私は兄について語らなくてはなりませんね。──秀一の肉親は、弟の秀二と私の二人きりでした。ですから、兄は弟たちを大切に扱ってくれましたよ。困ったことがあったら何でも相談しろ、ってな調子でした。私を六甲に呼んでくれたのもその表われでしょう。呼ばれると、私は用事がない限り出向いていっていました。フロートカプセルが気に入ったせいもありますけれど、せっかく招いてくれたんだから、という気持ちがいくらかありましたねぇ。そんなふうに気を遣ったのは、兄が孤独そうだったからです。少しは甘えてやった方がいい、などと生意気なことを考えていましたよ。秀二は頓着《とんちやく》していなかったようですけどね」
「秀一氏と秀二氏の仲はどうだったんですか?」助教授が聞く。
「ひと言で言うと、淡白な兄弟関係でした。秀一はスキンシップを求めていたようなのに対して、秀二は自分の生活に忙しい、という感じがします。彼は二年前まで妻帯していましたし、離婚した後も飲み友だち、ゴルフ友だち、あるいは女友だちとの交際に自分の時間を使っていましたからね。こちらは社交家なんですよ」
「ほぉ、彼の方は女性については発展家やったんか」
葬儀で遠くから見かけた喪主、堂条秀二の姿を思い起こしながら私は尋ねた。男くささを発散させたダリ髭《ひげ》の社長とは対照的に、古い言葉で表現するなら青白いインテリというタイプの男だった。参列者への挨拶《あいさつ》は如才のないもので、いかにも頭の回転が速い切れ者という印象も受けた。
「誤解されるとよくないな。特別に女好きというほどやない。火村先生やアリスと同じようなもんやろう」
「なら相当なもんだ」
火村がおどけた。──嘘《うそ》である。いや、自己弁護しているのではない。火村は女性に対して垣根を張り巡らせている節がある。講義を終えた後、教壇に向かってファンの女子学生が飛ばす「先生、さようならー」という声には手を振るくせに──それはサービスなのだそうだ──、コンパで酔ってもたれかかってきた女の子は邪険に押し返すらしい。そもそも、日常の生活で、彼から女性に話しかけるということすら稀《まれ》だった。
「秀一氏は実行力と決断力に富んだやり手だったんやろうけど、秀二氏は理論家タイプなんやないか?」
私はそう尋ねてみた。すると、吉住は少し言いにくそうに口ごもる。
「強いて分けたらそういう分類になるかもな。けれど、理論も秀一が上やったなぁ。秀二は兄の方針に無批判に追従しているきらいがあった。二人で論議を尽くすという場面を見たことはない。ジュエリー堂条はあくまでも彼の賜物《たまもの》やったんや」
「秀二氏はそういう状況に対して不満はなかったんでしょうか?」
火村はネクタイの先を弄《もてあそ》びながら尋ねる。
「なかったんではないでしょうか。胸の内まで窺《うかが》い知ることはできませんが、兄貴に任せておけば間違いはない、と私に言ったことがあります。いざこざが発生することがないよいコンビネーションだとも言えますし、不健全な役割分担だとも評せるでしょう」
その口ぶりからすると、吉住自身の考えはどうやら後者に属するようだ。
私たちは堂条秀一の人となりをひととおり聞いてから、彼を殺害する動機を有していた人間はいないか、というお決りの質問をした。大きなトラブルはなかったらしいが、故人は一つだけ難題を抱え込んでいた。それは、成功して億万長者になった実業家のイメージにまるでそぐわない、妙なものであった。部下の宝飾デザイナー──しかも二十歳も年少の──と、一人の女性を巡って恋の鞘当《さやあ》てをしていたというのだ。
「うーん、生きている限り何人にも悩みごとの種は尽きず、やな」私はしみじみと言った。「それで、秀一氏はその競争でリードしていたのか、押され気味だったのか、どっちや?」
「微妙なところやったらしい。俺は戦況を間近で見てたわけやないけれど、優子さんはほいほい喜んで玉の輿に飛びついてきたりはせずに、慎重に二人の男を選んでいたらしい。まだ帰趨《きすう》は決してなかった」
火村と私が黙っていると、彼はさらに言葉を継ぐ。
「経済面での魅力を比べられたら、長池伸介にはもちろん勝ち目はなかった。彼は千里に親譲りの家を持ってたけれど、財産はそれだけ。有能なデザイナーらしいからそこそこの高給はもらってたやろうけれどな。しかし、結婚となるとやっぱり愛情こそが問題や。彼女は長池に惹《ひ》かれているよ。いや、そう信じる確固たる根拠はない」
「推測するにしても根拠はあるやろう?」
私は焦れて言った。
「こう見えても修羅場をくぐってきたもんでな。ミスA子がミスターBを見る目にどんな感情がこもっているかを読み取るのは得意なつもりや。俺の見立てはこうや。──秀一に対して親愛や敬愛の情は持っていたやろうけれど……彼を撥《は》ねつけかねていたのは、同情もあったのかもしれん」
「同情か。天下の堂条社長が、同情で夕食に付き合ってもらっていたのか……」
心斎橋のフランスレストランで見た二人がどう見えていたか、と私は記憶の襞《ひだ》を探った。あれは、求愛する男と同情する女という組み合わせであったのか否か、それは判断しかねる。
火村はキャメルをくわえ、空になったパッケージを握りつぶした。そして、私の方に顔を向けてぽつりと言う。
「生前の堂条秀一氏と挨拶をしたこともなかったけれど、彼がやけに人間臭い人物だったことが判ってきたよ」
人間臭い、とは意味が伸縮自在で曖昧《あいまい》な表現だが、にもかかわらず、私は火村に同感だった。火村は、吉住の方を向き直る。
「その秘書のことを優子さんとおっしゃいましたが、遺体発見者の中にいた鷺尾優子さんのことなんですか?」
「ええ、そうです」
「どんな女性なんでしょう?」
吉住は下唇をつまんで、ちょっと考えた。
「彼女と秀一と私の三人で昼食にいったことも何度かありますが、大変頭のいい人ですよ。仕事ができる。人の気持ちを汲む能力も豊かです。ただ、平素はあまり感情をあらわにしないので、彼女自身が本当のところ何を考えているのか、が判りづらい人でもありますね」
そうだとしたら、堂条秀一、長池伸介はことさらやきもきさせられたことだろう。
「彼女に興味がそそられます。もしかすると、この事件の核心かもしれませんしね。明日、警察がまたジュエリー堂条で聴き込みをするのに私も立ち会わせてもらうことになっていますから、お目にかかれるでしょう」
「警察は優子さんを疑いの目で見ているんですか?」吉住は聞く。
「誰に対してもすり寄って、鼻をくんくん鳴らしていますよ」
火村は長くなった煙草の灰を灰皿に落としてから、吉住を正面から見据えた。
「率直に言うと、警察は吉住さんにも疑いの目を向けています。わずか二人しかいない被害者の肉親の一人で、莫大《ばくだい》な遺産の相続人であることからすれば、それはいたし方がないことでしょう。──あなたのアリバイは信じてもらっていませんでしたよ」
吉住は動揺するでもなく、照れ隠しをする子供のようなしぐさで頭を掻《か》いた。
「やむを得ませんね。ジュエリー堂条を出た後、八時まで取引先の宣伝部長と夕食をとりながら仕事の打ち合わせをしました。夕食といっても先方のリクエストで何とお好み焼きなんですけどね。ですから、八時までのアリバイは揺るがないんです。その後がいけません。真直ぐわが家に帰って、ずっと一人でしたし、翌日の金沢行きに備えて早く床に就きましたから」
「証人は皆無なわけですね?」
「はい。おまけに電話の一本もかかってきませんでした」
淡々とした口調だった。その裏に包み隠しているものはないのか、と気になった私は、精一杯|婉曲《えんきよく》な質問を挾んだ。
「今、何か心配してることはないか?」
彼は何を聞かれたのか判らない、と言うようにまず目を細めた。
「いや、ないな」と溜《た》め息をつく。「何を心配する気力もないわ。ジュエリー堂条がどうなろうと、遺産がどう分けられようと知ったこっちゃない。刑事が逮捕状を突きつけにくる用意をしていようと、それが今夜でないのならどうでもええ」
結局、打ち明け話はなかった。
十時になると吉住は腰を上げ、火村はまたリビングのソファで一夜を過ごすことに決めた。事件について論議することもなく、疲れていた私たちは早寝をすることにする。
「火村先生は明日も休講か?」
「明日は、だ」助教授は人差し指を突き立てて言い直した。「今日はもともとオフだったんだからな」
明日の朝、教務課へ「休講にします」と電話する場面が目撃できそうだ。わが母校も、よくこんな男を雇っているものだ。
「おやすみ」を言ってリビングの明かりを消す時、頭の後ろで手を組んでソファに寝そべった火村は、天井を見上げてローリング・ストーンズの『ギミー・シェルター』を口笛で吹き散らしていた。
何らかの避難場所は誰にとっても必要なものだ、という彼の言葉を思い出しながら、私は寝室に入った。薄っぺらなドア越しに、啼かないカナリアに代わって歌う犯罪学者の口笛が聞こえる。
消灯して、枕《まくら》に頭を埋める。
自分の家のベッドで寝ている気がしなかった。
私はくすりと笑って、眠った。
第五章 雑踏の猟犬
堂条秀一の葬儀の翌日。四月二十四日、木曜日は雨だった。
私は、樺田警部と火村に同行の許可を得て、ヨーロッパ村のジュエリー堂条本社を訪れた。衣食住への関心が希薄な私はアクセサリーのたぐいをあまり身につけないし、淋《さび》しいことだが、恋人に贈ったこともない。だから、この店の前を足早に通りすぎたことは何度もあったが、店先で足を止めたのは今回が初めてだった。中に入る前に、銀色のアーチがついたファサードで飾られた入り口や、二階の両サイドのステンドグラスをしげしげと見上げてしまう。社長が殺されるという凶事に打たれた宝石店は、当然ながら、何ごともなかったかのように平常どおり営業をしていた。鉛色の空の下から白と銀色を基調にした店内に足を踏み入れると、照明の明るさが目を刺す。客はごくまばらに散っているだけで、店員の多くは手持ち無沙太《ぶさた》のようだった。
警部を先頭に、手すりを薔薇《ばら》の浮き彫りで装飾した階段を昇り、三階のオフィスへ向かった。警察関係者であることはひと目で知れるらしく、二階の店員たちは笑顔を引っ込めて軽く頭を下げる。グレーというより鼠色のスーツに身を包んだ長身の樺田警部。白いジャケットの下のTシャツの胸元に、安物の銀のペンダントをぶら下げた火村。型の崩れたジャケットに寝癖のままの頭の私を客だと錯覚するわけもないか。ここには客の姿がほとんどなく、絞った音量で有線放送のヴィヴァルディが流れる店内は、病院のようにひっそりとしていた。
三階に上がった正面が営業部の部屋だった。開け放されたドアの脇や廊下に、テレビコマーシャルで見慣れたヴィジュアルのポスターがぺたぺたと貼《は》られ、ボッティチェリやダ・ヴィンチの名画の前で専属のモデルが微笑《ほほえ》んでいる。警部が受付カウンターの前に仁王立ちになると、近くの席にいた女子社員が素早く寄ってきた。まだ新入社員らしい初々しさを漂わせた彼女は「いらっしゃいませ」とこわばった表情で言う。警部が身分と来意を告げると、口元を押えて驚きを隠してから、「少々お待ち下さい」とスカートの裾《すそ》を翻した。警部が面会を求めた相手は、堂条秀二だった。
戻ってきた彼女に応接室へ通され、ソファに座って数分ばかり待たされた。六甲の家と同様に、ここの壁にもダリのリトグラフが二枚飾られている。クリスタルの大きな灰皿は美しかったが、巨大な親指をかたどった金色のライターがテーブルから生えたように置かれているのは気味悪く思う客もいるに違いない。亡き社長の趣味だろう。シュールレアリスムで生活に憩いと潤いを。──私たちは三人とも黙りこくって副社長を待った。
「お待たせいたしました」
現れた副社長は、ほっそりとした優男《やさおとこ》ふうの二枚目だった。スーツの着こなしが実に見事に決まっており、デパートの紳士服のチラシのモデルが務まりそうだ。優雅なもの腰で私たちの向かいに着席すると、「ご苦労様です」とだけ低い声で言った。
警部は、火村と私を彼に紹介した。捜査に助言、協力を仰いでいる犯罪社会学者とその助手である、と聞いてどう思ったかは判らないが、副社長は「それはどうも」と一礼した。
「それにしても、ご葬儀の翌日に出社なさるとは大変ですね」
警部が言うと、秀二は憂い顔で「ええ」と応える。
「午前中だけなんですが、緊急役員会の準備にきました。兄が切り回してきた会社ですから、これからのことを考えると、頭が爆発してしまいそうです」
警部は短い哀悼の言葉を挾んでから、用件を切り出していった。
「月曜から水曜まで、堂条社長をよく知っていらした色々な方のお話を伺ってきました。その中でいくつか気になることがありましたので、さらに詳しい情報をご提供いただこうと伺った次第です。堂条さんのお話を聞いた後、何人かの社員の方にも少々お時間をちょうだいしたいと思いますので、ご了承下さい」
もちろん結構です、という返事が返ってくる。
「私たちが得た最も気になる情報は、堂条社長と秘書の鷺尾優子さんとのご関係です。率直なところをお聞かせ願いたいのですが、お二人の親密さはどれぐらいのものだったんでしょうか?」
秀二の柔和そうな目に、一瞬鋭い光が宿った。
「どこの誰がそのようなことを申しました?」
もちろん警部は教えない。秀二は重ねて尋ねようとはしなかった。
「兄のプライバシーについては、私も知らないことが多かったもので、正確なところは判りません。本人から胸の内を打ち明けられたことはありません。が、どれほどの仲だったのかはさておき、彼が鷺尾さんに好意を抱いていたことは事実でしょう」
やはり、堂条兄弟は胸襟《きようきん》を開いて語り合うことがあまりなかったらしい。それともことが色恋に関わっているからだろうか?──それにしても、この質問に対して返ってくるのは同じような答えばかりだ。そのせいか、警部もくどく尋ねることはなかった。
「では、商品企画室のデザイナー、長池伸介さんと鷺尾さんの関係についてはどうですか?」
秀二は苦笑を浮かべた。
「随分とおしゃべりな人間が社内にいるようですね。鷺尾さんを巡って兄と長池君が争っているなど、つまらないゴシップです。刑事さんが耳を傾けるに値しない妄言《もうげん》ですよ」
警部は黙って秀二を凝視している。相手は、また苦笑いとともに口を開いた。
「そのゴシップは社内に遍《あまね》く広まっているものではありません。幹部と本部スタッフの数人にしか知られていないはずです。そんな中に告げ口癖のある人間がいるとは、情けない」
「情報提供者は事件の解決に協力しようとしているのです。その点を堂条さんが誤解してもらっては困ります」
警部は咎《とが》めるような口調になる。秀二は口元の笑みを引っ込めた。
「失礼しました。おっしゃるとおりですね。──しかし、先ほどの質問にお答えすることはありません。そんな三角関係について、私は何ら関知しておりませんので」
警部はこの件について、さらにいくつかの質問を放ってつついたのだが、秀二の答えはのらりくらりだった。そんな彼だが、火村が割り込んだ時は表情が硬くなった。彼が尋ねたのは、堂条秀一の女性観についてだった。
「……女性観と言われましても。はて、どうお答えすればいいんでしょうか」
火村はゆっくりと脚を組んだ。
「兄弟であまりそんなことは話さないものかもしれませんね。まぁ、見当をつけてしゃべっていただけませんか?」
さすがに秀二は考えた。やがて──
「彼はまだ結婚をしたことがありませんが、独身主義者ではありませんでした。私が離婚した直後に『人生の墓場から這い出してきたよ。ひとり身を守っている兄貴は賢明だ』と言うと、『ガラが現れないだけだ』と言っていましたから」
「ガラ?」
警部はにぎり飯に混じっていた小石を噛《か》んだような顔をした。秀二が説明を加える。
「ガラというのは、兄の偶像だったサルバドール・ダリの夫人の名前です。ダリは大変な愛妻家で、妻のことを女神と呼んで熱愛していたそうです」
妻子を顧《かえり》みない無頼派芸術家の伝説に凡人たちはしばしば惹《ひ》かれるが、ダリのようにその反対に徹底した芸術家の伝説も天才にふさわしく思える。ガラは、『シュールレアリスム宣言』を著わしたアンドレ・ブルトンの親友だったシュールレアリスム詩人、ポール・エリュアールの元夫人だった。ロシア人の彼女が夫と知り合ったのは、結核で静養していたスイスのサナトリウムでのことだった。その夫と、シュールレアリスム画家の大御所だったマックス・エルンストと三角関係のまま同じ屋根の下で暮したこともあるというから、ガラは『ダリの女神』というより、『シュールレアリスムの女神』と呼んで差し支えないかもしれない。
やがてガラはダリと出会う。
一九二九年の夏、彼女がエリュアール夫人として、海辺の町カダケスに居住していた二十五歳のダリの元を訪れた時、彼はたちまち彼女に恋をした。ガラはダリと結ばれ──それまでダリはディープキスの経験さえなかったらしい──エリュアールの寛大な許しを得てダリ夫人となる。彼女は、狂人か天才か、と世界を騒がせ続けたダリの妻であり、愛人であり、母親であり、モデルであり、マネージャーであり、精霊であり、女神である存在となった。そして、二人はカダケスからほど近いポルト・リガトの漁師小屋を買い取って、死が二人を分かつまで仲睦《なかむつま》じく暮すのだ。
しかし、ダリの生涯を眺めた時、激しく人を愛するという行為は哀《かな》しくもある、と私は思う。どれほど賛美しても賛美し足りない女性を伴侶《はんりよ》とし、二十世紀の芸術家として最大級の名声と富を掴《つか》んだダリだが、その晩年には悲哀が漂っている。一九八二年七月に妻を亡くすと、ダリは精神的に死んでしまうのだ。食べ物に毒が投じられているという妄想のために栄養失調になり、一九八四年八月には就眠中に火事に遭って大火傷を負う。そして、この世に自分一人で存在することに耐えかねたように、ついに八九年一月に永眠。老ダリが大火傷を負ったというニュースは日本の新聞でも報じられ、私はいたましい想いでそれを読んだ覚えがある。また、かつての暴れん坊の面影を全くなくし、廃人のようになった晩年のダリの写真を見た時も、むしょうに哀しかった。──人は激しく誰かを愛することで燃えるような生きる力を得るが、それと同時に一人で生きられなくなってしまうのだ。まだ伴侶を見つけられないでいるうちに、私はダリとガラの物語からそれを知ってしまった。
話を戻そう。
「しかし、その後に堂条社長はガラを見つけたんじゃないでしょうか? 鷺尾優子さんに出会ったことで──」
火村は呪文《じゆもん》を唱《とな》えるかのように、ねっとりとした調子で言った。
「判りません。私には、そんなことは答えられませんよ」
秀二は何故か苦しげに答えた。火村はその語尾にかぶせて聞く。
「では──秀一氏が彼の女神、ガラを求めていた。それはお認めになりますね?」
「認めるだって? 私は堂条秀一ではありませんよ。どうして彼がひそかに抱いた感情について認めるだの認めないだのという選択を迫られなくてはならないんですか?」
秀二には火村の問いかけ方が不愉快だったらしい。助教授は、ここでふっと声から力を抜いた。
「あなたが秀一氏の弟さんだから聞くんです。子供の頃からずっとそばにいらした、たった一人の方だから、お考えを伺いたいんですよ」
秀二は顎《あご》を上げ、天井の片隅に視線をやった。そして、両膝の上に置いた手を軽く拳にする。
「おっとりとした私と違って、兄は腕白小僧でした。強いものが好きだった。しかし、私以上に甘えたがりやで淋《さび》しがりな男でもあったんです。産みの母親を八歳で亡くして、愛情に飢えていたのかもしれませんね。私を産んだ母親も私が八歳の時に死んでしまったんですが、その時、彼は私の倍も涙を流してくれましたよ。『お前が可哀想だ』と言って。本当のことを言うと、私は厳格だった母親をあまり好いていなかったので、兄が思ってくれたほどのショックは受けていなかったんですけれどね。……何の話をしていたんでしたっけ? ああ、そう。兄が鷺尾さんを『私のガラ』と見ていたかどうか、ということでしたね。ええ、彼女はガラだったかもしれません。兄は愛情に飢えていたようですが、『私のことを好きになってくれ』と女性、いや、他人に望んだことはこれまで皆無だったでしょう。しかし、彼女に対しては、見栄を脱ぎ捨てて求愛していたかもしれません」
「求愛とは、結婚の申し込みのことですか?」
「話してくれたことはありません。お知りになりたいのなら、鷺尾さんご自身に質して下さい」
火村に目配せされ、警部は「そのつもりです」と応えた。
それから火村は口をつぐんで、再び警部が質問者になった。彼は事件当日の秀二の行動を確認する。
「パリ出張を終えて、その日の正午前に成田空港に降り立つ予定でした」秀二は面倒がらずに答える。
「そして、一日に数便しかない成田発大阪空港行きに乗り換えて、夕方には自宅でくつろげるはずだったんです。ところが、電気系統の不良が見つかったとかで、飛行機がシャルル・ド・ゴール空港を離陸するのが二時間以上遅れてしまい、成田に着いたのは結局、午後三時過ぎになってしまいました。おかげで、昼過ぎの大阪行きの便を逃してしまい、乗れたのは七時発の飛行機でした。時差ボケの頭を抱えてマンションにたどり着いたのは九時です。機内でほとんど眠れなかったものですから、帰るとすぐにベッドにもぐり込みましたよ。その夜も、翌日も誰にも会っていません。きつい出張だったせいか風邪をひいてしまい、ずっと寝ていたからです」
パリ発の飛行機が延着したことが事実かどうかなど、とうに警察は確かめているのだろう。しかし、八時に大阪空港に着いたのだとすれば、犯行時間に殺人現場に立つことは充分可能だったであろう。空港から現場まで、車を走らせれば一時間も必要としないのだから。彼を容疑の圏外に出すことはできない、と私は黙って考えていた。
その後、死体発見時の状況を再現してもらったが、新しい事実は炙《あぶ》り出てこなかった。それで秀二からの聞き取りは終わり、警部は礼を述べてから、鷺尾優子を呼んでくれるよう頼んだ。
秘書の濃紺のセクレタリースーツは、まるで喪服のようだった。目立つアクセサリーもつけていない。自然に垂らした前髪の合間から覗《のぞ》く額が広い。装いはいたって地味だったものの、化粧──ナチュラルなメイクだったが──は抜群にうまかった。鷺尾優子は、やはり、火村と私が八日前にレストランで見かけた女性だった。堂条秀一の目に女神と映っていたかもしれない、美しい女性。離れた席に座っていた自分たちを彼女が覚えているはずもないのに、最初に目を合わせる際、私は少し身構えていた。
「何なりとお聞き下さい」
張りのある凛《りん》とした声だった。堂条秀一の死をどう悲しんでいるのだろうか、という興味とともに、私は彼女を見つめた。
まず、死体発見時のことから話してもらったのだが、一つ、気になる発言があった。湯川部長が運転する車で六甲に駈《か》けつけ、明かりが消えた家の前に立った時に、彼女は不吉なものを感じたというのだ。ドアが開けられた時、家の中に入った時、その嫌な感じはますます強まっていったそうだ。
「何を根拠に不安になったのか判りません。ただ、あそこでよくないことが起きている、いえ、起きてしまった、という気がしてなりませんでした。不思議です。虫の知らせとしか言いようがありません」
捜査に益する情報だとは思えなかったが、私には印象的だった。警部は興味なさそうだったのに、火村はこの話を流してしまわずに一度引き止める。
「現場に着いた時に、理由の定かでない不吉なものを覚えたということですね。遺体が入っていたフロートカプセルを開く直前には何もお感じにならなかったんですか?」
あまり意味のない質問だとも思えたが、火村は真剣な様子だった。優子は片頬に人差し指を当て、少し考える。
「……感じなかったんです。どうしてだと聞かれても困ってしまいますが、あのカプセルのある小部屋に入った時も、中を見せてあげようと言われた時も、何も感じませんでした。邸内に社長のお姿がなかったので、『二階のバルコニーで夜景を見ながらコーヒーでも飲んでいこう』と副社長がおっしゃったんですが、そんな話をしているうちに不安を忘れてしまっていたんでしょう。ですから、社長のご遺体を発見した時は、大きな悲鳴をあげながら、ああ、私が感じた嫌な予感というのはこのことだったんだわ、と頭の隅で納得していたような気がします」
もういい、判った、というように火村は頷いた。樺田警部は、事件当夜の彼女のアリバイに話を移した。
「金曜日の夜は七時に帰宅して、ずっと一人でいらしたとこの前伺いました。それを証明してくれる人はいないものでしょうか?」
彼女は残念そうに首を振った。
「一人で食事をして、その後はずっと本を読んでいましたので、アリバイの証人になってくれるような方はいません」
どうやらその夜、関係者らはみんな夜遊びを慎んでいたらしい。堂条秀二も、吉住訓夫も、彼女も。
「週末の夜に、友だちや恋人と町へ繰り出したりはなさらないんですか?」
「もちろん、そういう日もあります。でも、先週は違いました」
きっぱりとした答えだった。しかし、警部は彼女がするりと身をかわして逃げた先に立ちふさがる。
「プライベートなことに立ち入ることを許して下さい。──週末をともに過ごすことがあるという恋人とは、営業企画室の長池さんでしょうか?」
彼女の柳眉《りゆうび》の端が少し持ち上がった。そんなことを聞かれるのが心外なのだろう。だが、躊躇《ためら》うことはなかった。
「そうです」と優子は顎《あご》を引いて答えた。「長池さんとは月に何度か、映画を観にいったりお酒を飲みにいったりすることがあります。恋人なのかと聞かれたならば、『いいえ、フィアンセです』とお答えします」
「フィアンセというと……婚約者ですか?」
思いがけない返事に狼狽《ろうばい》したのか、警部は判りきったことを確認した。私も驚いたし、火村にとっても不意打ちだったはずだ。彼は組んでいた脚をさっと解いた。
「はい、半月前に彼からプロポーズされて、先々週の水曜日にお受けしました。まだ、いつ式を挙げるかなどは決めていませんし、私の実家の両親にも紹介していませんが、フィアンセであることに違いはありません」
「そのことを知っている人はいますか?」
「一人だけいます。昨日のお葬式の帰りに、彼はいずれ判ることだから、と五十嵐店長に話したんだそうです。もしかすると、五十嵐さんが誰かに漏らしているかもしれません」
警部は唸《うな》りながら、自分の頬をぺたぺたと軽く叩《たた》いた。
「五十嵐店長だけだということは……堂条社長は知らなかったんですか?」
「はい、彼も私もまだ打ち明けていませんでした」
火村が「先週の火曜日、心斎橋のフランスレストランで堂条社長と食事をご一緒なさっていましたね?」
今度は優子が不意打ちをくらって驚く番だった。
「どうしてそれをご存知なんですか?」
「なぁに、世間は狭いもので、その場に私と有栖川もいたからですよ。驚くのはそこまでにして。──鷺尾さんに対して堂条社長が好意を抱いていた、あなたもそれを認めていた、という証言を私たちは得ています。端的に言って、あなたと社長と長池さんとは三角関係だった、という見方が周囲にあったんですよ」
「そんな──」
「否定しますか?」
彼女は観念したように溜《た》め息をつき、「否定はしません」と言った。
「それは結構。つまり、気詰りな三角関係はもう結末に至ったわけですね。そうとなれば、早く堂条社長にそれを伝えて、彼の期待を断ってしまわなくてはならないと思うんじゃないですか?」
「そうですね。……火村先生は、ずばずばと質問なさるんですね」
彼女はお手上げだ、というように両掌を彼に向けた。
「あなたのお時間をあまり無駄にしたくないからです。──それで、先々週の水曜日以降に、社長に婚約のことを話しましたか?」
「いいえ。いつかは報告しなくてはならないことですが、まだ言えませんでした。社長が精神的にちょっとお疲れのようでしたので、よいタイミングではないと思って黙っていることにしたんです」
「社長が察していたという気配はありませんでしたか?」
「私には感じられませんでした」
火村は次に、よりあからさまな聞き方をした。
「あなたと堂条社長とは、どんな関係だったんですか?」
彼女が気分を害したのは明らかだった。唇がきっと結ばれる。
「仕事の上の、上司と部下という関係以外は何もありません。たまにねぎらいの意味で夕食をごちそうになることはありましたけれど、あの方と寝たこともなければ、口に出して求愛されたことも皆無です。邪推なさるのはご自由だ、と私は平気でいられますが、亡くなった社長に対して礼を失すると思います」
「はっきりとお答えいただいて感謝します。非礼をお詫びした上で、もう一つ聞かせて下さい。──噂《うわさ》を信じれば、堂条社長と長池さんは恋敵《こいがたき》だったわけですが、二人の間に摩擦が生じていた形跡はありますか?」
彼女は刀を振り下ろすように、斜めに大きく首を振った。
「まるでありません。優越的立場を利用して部下に不利を強いるなどという卑しいことは、社長が最も嫌っていたことです。あの方はそんな矮小《わいしよう》な人物ではなかったんです」
火村はまた謝罪した。「故人を侮辱する気は毛頭なかったので、どうかお許し下さい。では、あなた方が婚約したことを報告したなら、社長は祝福の言葉をかけてくれたんでしょうね?」
「どうお答えしていいか判りません。そんな仮定の質問に軽率に答えられる人間は尊敬されないと思います」
火村先生もかたなしに見えた。だが、へこたれることを知らない助教授は重ねて尋ねる。
「長池さんにプロポーズをされた時、あなた迷いましたか?」
「正直に申せば、ちょっと迷いました。それは、まだしばらく独身でいたい、という気分の問題であって、社長と彼を比べて逡巡《しゆんじゆん》したわけではありません」
少し沈黙が訪れた。火村が言葉を切ったからだ。彼は、じっと彼女を見つめている。瞳《ひとみ》の奥を覗《のぞ》くような、無礼な視線だった。本人もそれに気づいたのか「失礼」とまた謝罪する。
「二年前からジュエリー堂条にお勤めだと聞いています。それまでは何をなさっていたんですか?」
火村の視線がそれて、彼女はほっとした顔をしていた。
「準大手の証券会社の秘書課に勤務していました。体を壊すほどの激務だったもので、ここに転職しました」
「どなたかの紹介があったとか?」
「ちょうど秘書に欠員が出るからと、店長の五十嵐さんが紹介して下さったんです」
初耳だったらしく、警部が「え?」と聞き返した。優子は補足する。
「五十嵐店長は父の知り合いなもので」
警部は「そうですか」と起こしかけた上体を戻した。
「ご両親とは別に暮してらっしゃるんですね?」と火村。
「はい。社会人になってからは、ずっと」
「どちらにお住いですか?」
「土佐堀《とさぼり》です」
中之島の南だ。都心の中の都心でひとり暮しをしているわけである。
その後、判明したのは、彼女が運転免許を持っていないということぐらいだった。
お次に呼ばれたのは長池伸介だった。大きなペイズリー柄のネクタイを振り子のように振りながら入ってきたデザイナーは、ややだらしのない足取りで私たちの向い側に着席した。肉体労働とは無縁であることは、その華奢《きやしや》な指を見ればすぐ知れる。しかし、体つきはがっしりとしていたし、面構えはなかなか引き締まっていた。負けん気が強そうな男だな、と私は思う。女性に好かれそうなルックスでもある。
彼は、警部に紹介された私たちを興味深そうにじろじろと見た。あたかも、自分にとってどの程度敵なのか、推し測っているかのようだった。
「さっきまで鷺尾さんからお話を伺っていました。ご婚約をなさったそうですね」
彼は睨むような視線を警部に返す。
「はい、そうです」
「おめでとうございます。ほっとなさったでしょう」
「まぁ、そうかな」
彼は右手で前髪をしごきながら言った。ワイシャツの袖口から、チェーンのブレスレットがちらりと覗く。
「三角関係の顛末《てんまつ》について伺いたいわけでしょ? 私を呼びにきた彼女が、どんな話をさせられたかを教えてくれましたから、見当はついていますよ」
刑事に呼び立てられようとも守勢に回る気はない、と宣言しているかのようだった。小生意気な口のきき方だが、私は嫌いではない。
「社内恋愛というのはやりにくいことがあるものです。ことにあなたのようなケースだと、さぞプレッシャーが掛かったと思うのですが、いかがでしたか?」
「確かにやりにくいこともありました。しかし、封建時代の殿様を相手にしていたわけではありませんから、危害を加えられたり脅しをかけられたりするはずもないでしょう。むしろ、あんなことになってバツが悪かったのはずっと年が離れた社長の方だったと信じますよ」
これには私も同意する。社会的な地位、名声と、莫大《ばくだい》な富を背中にしょっていたからこそ、苦しい戦いだったかもしれない。
警部は、彼に対してもアリバイの確認を求めた。だが、彼もまた、寄り道などせずに千里の自宅に帰り、外出することはなかったと言う。社長から命じられたデザイン画を描くため、帰ってからも残業を余儀なくされていたからだ。深夜までかけてそれを完成させたことを証言してくれる人間はいない。ただ、翌日の昼過ぎに六甲の社長別宅にファクシミリで送信したことだけは証拠が残されている。
「先週の週末は、鷺尾さんとお会いになる予定はなかったんですか?」
「金曜日はありませんでした。日曜の夜は一緒に食事をしましたけれどね」
「その時、堂条社長にどういう形で伝えるか、などという話もなさったんでしょうか?」
「はい。具体的にいつ、とは決めませんでしたけれど、なるべく早く、彼女の口から伝えてもらうことにしました。と同時に、彼女の転職についても話し合いました。求人広告を見て、応募してみようかと考えている会社が二、三あると言っていました」
「社長について話されたのはそれぐらいですか?」
「はい。面倒くさいけれど、それがすめばもう万事解決だ、と言い合って、その話題はおしまいです。ただ、彼女は、会社に残る私について心配しているようでした。デザイナーとしての私の力量を社長は正当に評価してくれていましたから、その点は安心しろと私は言いました。第一、彼女をさらわれたからといって、仕事の上で私に不当な扱いをするなどというみっともないことは、社長の自尊心が許さなかったはずなんです」
彼から聴取することは、他にあまりなかった。言い回しを換えた同じような質問が途切れると「もういいですか?」と聞いてくる。
「少しだけ質問させて下さい」
火村が穏やかに言った。長池は浮かせかけた腰を降ろして「どうぞ」と言う。
「六甲の社長宅に行ったことはありますか?」
「いいえ、一度もありません」
そう答えられては、続けて尋ねることはない。
「では──金曜日の夕方に社長から命じられた残業について。それは、あなたに自宅で残業を強いるほどの緊急性があったんでしょうか?」
「なくはありませんでした。月曜日にプレゼンテーションすることになっていたデザインの下絵を、金曜の午後『見せてみろ』と言われてお見せしたところ、社長は気に入らなかった。『これではもの足りない』と言われたなら、残業をしてやり直すしかありませんからね。土曜か日曜のうちにファックスで送れ、っておっしゃったのも、そこで見て駄目なら再度『月曜までにやり直しをしろ』と言うつもりだったんでしょう」
「つまり、納得がいく指示だったわけですね?」
「上の人が言うことなんて、いつもそんなものですよ」長池はさばさばとした口調で言う。「仕事なんてものは、急ぐといえば急ぐ、というものばかりでしょう? 特にこの貧乏性でせわしない国においては」
「ここでの仕事に満足していましたか?」
「報酬について多少の不満はありましたが、よそへ移ろうというほどではありませんでした。社長は私の才能を充分に認め、将来に期待もしてくれていたようですから、その意味では恵まれた職場だと思っていました」
「学校を出てすぐここに就職なさったんですか?」
「そうです。美大で造形をしていた頃から興味があったので。ジュエリー堂条を選んだことに特別な理由はありません。量販チェーン店のイメージから踏み出すためにグレードアップしようと、デザイナーの確保と養成に熱心だと聞いたことがあったからにすぎません」
「お住いはどちらですか?」
「千里の万博公園近くです」
「車はお持ちですか?」
これは、彼が現場への足を持っていたかどうかを聞いたものだろう。
「マークUに乗っています」
犯人の条件の一つは備えているわけだ。だが、今日ここで聞いた話を信じるならば、彼を疑う大きな根拠が消え去ったことになる。彼は堂条秀一との争いに勝利していたのだから、相手を亡き者にする必要などありはしなかったのだ。
長池が放免された後、私は火村に聞いた。
「彼らが婚約していたという話を信じるか?」
彼は「いい質問だ」と笑った。
「信じる根拠はないよな」
警部が次に五十嵐を呼ぼうとしたところでオフィスから優子が顔を出し、私に電話が入っていると告げた。
「どうして私に……?」
怪訝《けげん》に思いながら立つ。警部と火村も顔を見合わせていた。
「東洋アドの吉住さんからです」
受話器を私に手渡しながら、彼女は言った。「すみません」と言いながら受け取る。
「呼び出して申し訳ない。今、弁護士のところで秀二さんと一緒なんや。そこにいると聞いたもんやから」
私たちが鷺尾優子らから話を聞いているうちに、秀二はとうに退社していたようだ。
「何か?」とだけ聞く。
「今夜会えるか? できれば火村先生にもきてもらいたいんやけど」
低く落とした彼の声の背後は、しんと静まり返っていた。事務所の廊下の公衆電話からでもかけているのかもしれない。
「事件に関して話でもあるのか?」
「そうや」
そんな短い言葉に、緊張がみなぎっていた。私は、きたな、と思う。
「どんな話か、今、聞けるか?」
「無理や。──こっちがどれぐらいかかるかはっきりせんから、今夜、九時でもかまわんか?」
即座に承諾する。打ち明けようとしている話の触りさえも漏らそうとしないことが、私の不安を煽《あお》った。
「『ナルシス』にしよう。あそこへ九時までに行く」
「判った」
私は応接室に戻り、火村に『後で言う』と目顔で伝えた。警部は気になるようだったが、何の電話だったのか尋ねはしなかった。失礼なようだったが、うかつなことは言わない方がいいと思ったのだ。警察に隠しだてをするつもりはないものの、私や火村を信頼して何ごとかを打ち明けようとしている吉住を裏切ることはできない。
「では、続けましょう」
警部は無表情のまま言った。
五十嵐が呼ばれた。彼は自らの知るところをすべて吐き出してくれたので、私たちは、次に相馬智也を呼ばなくてはならなくなった。
関係者たちからの聴取を終えると、警部らはすぐに捜査本部に戻っていったが、火村と私は吉住と会うまで時間がたっぷりとあったので、何も急ぐことはなかった。
「宝石で目の保養でもしていくか」
私から提案した。欠伸《あくび》をしながらも火村が同意したので、二階に降り、煌々《こうこう》と照らし出されたショーケースを一つずつ覗《のぞ》いて回る。刑事についてきた二人組だということは知れていたらしく、店員たちは誰もそばに寄ってこようとはしなかった。おかげで、落ち着いて宝飾品の観賞をすることができて都合がよかった。
「当店自慢の品は一階の奥にございます」
不意に背中から声をかけられた。振り向くと、鷺尾優子が上品な微笑をたたえて立っている。
「見学のお客様でしたら、ご案内させていただきます。社長が相馬室長に命じて造らせたもので、ダリのジュエリーの複製です。ご覧になりますか?」
「ええ、是非」と私は答える。
優子は、レディをエスコートする騎士のような自信に満ちた足取りで、私たちを階下に導いた。
一階売場は奥に行くと段差があった。数段の階段を登り、少し右に曲がると明かりは間接照明になってがらりと雰囲気が変わった。そこはもう売場ではないらしく、立ち並んだ台の上にそれぞれガラスケースがのり、スポットライトが当てられていた。小さな美術館めいた陳列室になっているのだ。
「鎌倉のダリ美術館にあるものとそっくりに造られています」
優子は白い腕の内側を見せながら、どうぞご覧なさい、というように手近のケースを示した。火村と二人で額を寄せ合いながら、展示物を覗《のぞ》き込む。
白い歯を剥《む》き出しにした唇がそこにあった。歯は十三個の大粒の真珠。上下の唇はルビーをびっしり並べて造られていた。いかにも豪華で、そして少しエロティックで、グロテスクで、非常に美しい。視線の角度を変えると、真っ赤な宝石は歌うようにきらきらと細かくきらめいた。
「それは『ルビーの唇』。こちらにあるのは『時の眼』です」
唇の隣りは目だった。木の葉の形をした枠の中に、Daliの署名が書かれた眼球が嵌《は》め込んである。蒼《あお》くて、緑色で、えも言われぬ玄妙な色彩だ。ダイヤモンドとルビーで飾られた輪郭の端から、ダイヤの涙がひと粒こぼれていた。
「どれもダリが夫人のためにデザインして、ニューヨークの宝石店カーロス・アレマニーに造らせたものです。制作されたのは一九四九年から五八年にかけてです。四千カラットのトパーズや、何千万円もするスター・サファイアの他、一千年前の大王椰子《だいおうやし》の化石など、世界中から集めた珍しい石がオリジナルには使われています」
ルビーとエメラルドをあしらわれ、一対の受話器の形をしたイヤリング。ダリのトレードマークであるぐにゃぐにゃの柔らかい時計が木の枝に垂れ下がった形をした18金とダイヤのブローチ。二百三十個のルビーがかたどったハート型には、18金の蜂《はち》の巣がのり、さらにその中心にはダイヤが散らされていた。それなど、幼児の手に渡したら迷うことなく、甘くておいしそう、と口に入れてしまうだろう。そういえば、『可食性』はダリが追求した重要なモチーフの一つだ。
「あ、ちょうど開くところです」
優子が指差すケースに目をやると、『生きている花』という作品名がまず見えた。なるほど、花だ。南海の海底か、密林の奥か、はたまたどこか遠い星に自生しているかもしれないような未知の植物が一輪。そして、そのか細い黄金の茎《くき》の先の花は、今、ゆっくりと開花するところだった。やはりこの世の花ではない。開いた花弁の内側には、びっしりとダイヤが埋め込まれていたのだ。
「電気仕掛けの花なんですね」
判りきったことを優子に向かって言った。
「三分おきに開閉します」
見事なものだ、と感嘆しながら、私は何か妙な音が一番奥のガラスケースから聞こえてきていることに気づいていた。低く、くぐもった音。何だろう、と訝《いぶか》りながら覗《のぞ》くと、そこにも動く宝石彫刻があった。
「『王家の心臓』です」
私の視線が向くのと同時に、優子が言った。
ルビーでできた心臓だった。本当に命が宿り、血液を送り出しているように見えるほどリアルに、規則的に脈打っている。私が耳にして何だろう、と思ったのは、この心臓の鼓動に連動して流されている効果音だったのだ。じっとその運動を見つめていると、呼吸が同調して乱れて息苦しくなってきそう。
これも他の作品と同じだ。──豪華で、エロティックで、グロテスクで、美しい。
「素晴らしいコレクションですね」
顔を上げて言うと、優子は微《かす》かに笑った。
「石は本物ですけど、作品としてはイミテーションなのを社長は残念がっていました」
「これだけのものを、サルバドール・ダリはすべてガラに捧《ささ》げたんですね」
私はいくつものケースをぐるりと見回す。
「いいえ、もっとです。実際のコレクションは三十七点ありました」
「凄《すご》いな。ガラという女性はさぞ幸福に思ったでしょうね」
優子は笑みを浮かべたまま、小首を傾《かし》げた。
「さぁ、それはどうでしょうか。もちろん悪い気はしなかったでしょうけれど。本当のところはご本人にしか判りません。むしろ、これだけのものを愛情の証《あかし》として差し出せたダリが幸福だったことの方が確かなんじゃありませんか?」
穿《うが》った見方のようだが、それは言い得ているかもしれない。「愛されるより、愛したい」という言葉は、下手な歌謡曲の歌詞にもしばしば登場する。
「社長とお話を合わせるために、ダリに関する本を読んだり映画を観たりもしましたけれど、私はガラという女性はあまり好きになれませんでした。ダリの芸術的霊感を触発させ続けたことや、彼の作品が売れない頃はその売り込みにも手腕を発揮したことを聞くと、彼女がダリと巡り合ったことは、ダリ自身にとっても芸術にとってもよいことだった、とは思いますけど……」
「ガラという女性はあまり評判がよくなかったそうですね」
火村が初めて口を開いた。
「『暗い魂を持ったロシア女』などという悪口を言われ続けた女性です。妻への愛情を貫いたダリとは大違いで、創作に打ち込む彼を置いて、他の男性と奔放《ほんぽう》に遊び回ったそうですし。そもそも人妻だった彼女がダリの元へ走ったのは、詩人だった夫や、別に言い寄ってきていた画家のエルンストよりも、ダリの方が売れるようになる、と見抜いたからだという説もあります。彼女はダリを食いものにしたと……」
「そんなこと、ちっとも悪くない。非難されるどころか、フェミニストの鑑《かがみ》と賞賛されていいような女性ではありませんか」
火村は醒めた口調で言う。優子の口元にもう笑みはなかった。
「権力と贅沢《ぜいたく》にしか興味を示さない態度とフェミニズムとは関係がありません」
ここで彼女は、ダリのごく初期のパトロンだったというド・フォーシニー=リュサンジョ公がガラを評した言葉を駄目押しのように引用した。曰《いわ》く──『厳しい女で、どんな種類のデリカシーも持っていなかった。きついだけで心がなかった』
火村は議論を続けようとせず、頷《うなず》いた。
「なるほど、あなたの美意識からはずれた女性だったのですね。──でも、もしかすると、あなたは彼女に同情しもしていませんか? 賛美されるにしても、蔑《さげす》まれるにしても、ダリ夫人としてしか扱われないガラこと、エレナ・デルヴィナ・ディアコノフに」
彼女はちょっと考えてから──
「もしかすると、そうなのかもしれませんね。ガラは虫が好かないというのは感情の上澄みでしかなくて、女は特定の男の女神になるために生まれてくるわけじゃない、ということが言いたかっただけなのかもしれません」
私を通り越して、優子は火村に微笑する。
私たちがそんなやりとりを交わしている間も、王家の心臓は、休まず脈打ち続けていた。
その夜──
火村と私は八時に『ナルシス』の一番奥に席をとり、吉住を待った。御堂筋に面したビルの地下にあるこの店には、サラリーマン時代に彼と数回飲みにきたことがあった。そのうちの一度は、とんでもない誤植をやらかしてクライアントに「あんたらは二度とうちに顔を出すな」と怒鳴られた日だったっけ。電鉄会社が開発した某ニュータウンの広告で、駅から徒歩5分を5年とやってしまったのだから、弁解の余地はなかった。「そこまで派手に間違えば、誤植やって客も判るわい」と彼はやけくそになって笑い、酔いつぶれた。思い出すと、それもなつかしい。
「ここは自称クリエイター御用達の店か?」
店内を見渡しながら火村は言った。壁にも床にも模造大理石が貼《は》ってあり、それが薄暗い間接照明を反射して冷たく光っている。カウンター後ろの壁には、芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》や三島由紀夫《みしまゆきお》、太宰治《だざいおさむ》ら自殺した小説家の写真をシルクスクリーンにした肖像が並ぶ。十五あるテーブルの間には、ステンレス製のねじくれたオブジェが置かれ、国籍不明の未来世界を演出するとともに、各席を秘密めいた場所にする機能を果たしていた。流れているのはフィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒといった現代音楽ばかりだ。そして、八割方埋まった客席でグラスを傾け、談笑に興じている男女の半分は、いかにも芸術家かマスコミ関係者然としていた。──しかし、最後のそれは笑うわけにはいかないか。火村と私だって、堅気には見えないだろう。見えないばかりか、現実に……
「ナルシストのおにいちゃん、おねえちゃんがいっぱいだ」
火村は、頭上でもの憂げに回転しているお飾りの扇風機めがけて紫煙を吹き上げた。
「イモな店で悪かったな」
私が言うと、友人はくわえ煙草のまま「がまんしてやるよ」と憎らしく応えた。
「それにしても、鷺尾優子という女性はいかにも有能な秘書みたいやったけれど、あんなに男を惑わせては困りものやな」
私はモスコミュールをなめながら言った。長池の上司、相馬までもが彼女に言い寄っていたと五十嵐が言い出し、相馬自身もそれを認めたことを指して言ったのだ。そうなってしまうのは彼女に責任があるのかどうか判らないが──おそらくないのだろう──、社長まで悩ませてしまうのは会社にとって好ましいことではないだろう。
「困りものなのは男どもだよ。どいつもこいつも女神がいなけりゃ生きていけないんだから」
「おお、女嫌いがぼやいてる」
女嫌いなど言われるのも愉快ではないらしく、彼は退屈そうに欠伸《あくび》の真似をした。優しい私は話を変えてやる。
「鷺尾、長池の二人が先々週のうちから婚約してたっていうのを、君は疑ってるんやろう?」
「信じてないだけさ。あの二人がいつ、どういう形で婚約したのか、なんて余人には伺い知れないことだから、いくらでも口裏を合わせることができる。実際に示し合わせての嘘《うそ》だったとしたら、目的はもちろん、長池に社長を殺す動機がなかったと警察にアピールすることだ」
「うん。ただ、そうやって動機を隠したんやとしても、長池が犯人やとは限らんわな。痛くもない腹を探られるのが嫌で、そんな虚偽の証言をしただけかもしれん」
そんな可能性もある、と思って私は言った。だが、彼女と彼を積極的に怪しんでいるわけではない。
「まぁ、そうなんだけど、その仮説も本当は矛盾を孕《はら》んでいる。長池が堂条秀一を殺害して、自分の動機を糊塗《こと》するために鷺尾と口裏を合わせたんだとすると、彼女はもともと長池サイドに立っていたことになる。長池が『僕が殺したんだけど庇《かば》ってくれる?』と切り出したにしても、『僕を信じて面倒から避けさせてくれる?』と欺いたんだとしても、ことは殺人事件なんだから、彼女は軽々しく口裏合わせの共犯者になることはないだろう。長池を庇う気持ちか、信じる気持ちを持っていればこそ話を合わせたんだ。さて、二人がそんな関係だったんだとすると、長池は彼女を奪うために秀一を殺す必要はなかったことになる。──判る?」
なめられたものだ。それしきの論理展開についていけなくて推理作家が務まるものか。
「もちろん判る」と言ってから考えて「つまり……『婚約しています』と二人が言い張っているそのことから、鷺尾優子の愛情が長池に注がれていると判るわけか。そうすると……やっぱり長池はシロなのかな」
鷺尾優子にまつわるトラブルが解消ずみだとすると、堂条秀一殺害の動機はやはり彼の遺産を狙《ねら》った人間がいたということなのだろうか? 警察がそう考えたなら、吉住に注がれる目はより厳しいものになってしまうかもしれない。
吉住。──吉住はまだだろうか?
ちらちらと入り口を振り向いてみたが、彼はなかなかやってこなかった。九時を過ぎ、私たちは飲み物をもう一杯ずつオーダーする。結局、九時十五分まで待たされた。
「遅くなってすみません」
席に着く彼を見て、私は少し驚いた。照明の当り具合のせいか、げっそりと頬《ほお》がこけたようになっている。相続に関して厄介な事態が出来したのだろうか、と思った。
「お呼びたてしておいて、申し訳ありませんでした」
詫《わ》びているのだが、火村や私の顔をまともに見ようとしない。目が合うことを避けるかのように、蝶《ちよう》ネクタイのボーイを捜すために視線を店中に泳がせていた。
「前置きは抜きにして、早速、話を聞かせてもらおうか」
赤い髪に銀粉をまぶしたボーイがオーダーを聞いて去るなり、私は吉住を急き立てた。彼は力なく笑う。
「ああ、話す。聞いてもらうよ。けれど、その前にちょっとだけ休ませてくれ。今日は疲れたわ」
そう言う横顔に刻まれた陰翳《いんえい》の濃さを見つめて、私は胸騒ぎを覚えだしていた。隣りのテーブルで突然、女たちの嬌声《きようせい》があがる。狂人めいた、不自然に歪《ゆが》んだ声だった。そんな騒々しさを、メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』が包み込んでいる。彼の話──何らかの告白──を聞こうと、人間ではない何か、この店の中の空気そのものが耳をそばだてているかのような気もした。彼が口を開くのを火村と私は黙って待った。待っている間に、黄色い光を壁にぶつけている照明のシェードに描かれた絵が店名にちなんだ水仙だということに初めて気がついた。それに何度も視線を留めたことがあったというのに。
「もっと早くくるつもりだったんですけど、刑事の尾行をまくのに手間取ってしまったんです」
吉住の弁明に、私はまた驚かされた。
「刑事の尾行がついてるのか?」
彼は不貞腐《ふてくさ》れた様子で煙草をくわえた。
「ばっちりついてる。昨日の葬式の後からやないかな。アリスの家から帰る道も付き合ってくれたし、今日も朝からずっと一緒やった。そこのひっかけ橋の上で若いのがストリート漫才やっててえらい人だかりやったんや。そこでいきなり走ってやって、どうにかまくことができた」
ひっかけ橋とは、道頓堀川《どうとんぼりがわ》にかかる戎橋《えびすばし》のことで、大阪随一のナンパの名所になっている。日夜、その上でパフォーマンスが行なわれ、テレフォンクラブのティッシュペーパーが晩秋の街路の落葉のごとく散乱している。刹那《せつな》の快楽を求める男女、一人で夜を過ごす孤独に耐えられない男女の姿は朝まで絶えない。原色に染まった川面には、阪神タイガースが優勝したといってはカーネル・サンダースが投げ込まれ、優勝を逃したといっては素面《しらふ》のまま男も女も飛び込む。お馴染《なじ》みのグリコの巨大なネオンなど、赤い灯青い灯に照らされたそれは、世界一ユニークな橋の一つだろう。──そう、ここは大阪、ミナミ。新宿にも香港《ホンコン》にも負けない世界中で一番ケバイ夜がここにある。女たちのコスチュームの露出度とケバさに、やくざの輝きさえ褪《あ》せる街。今宵は、はさみを打ち振る電動のお化け蟹《がに》に励まされながら、尾行をまかれた刑事がこの街の雑踏のどこかを駈《か》け回っている。あの蟹はアルバイトが裏で自転車を漕《こ》いで発電して動かしている、という噂《うわさ》があるそうな。この街のふざけっぷりには笑わされるぜ。
「私たちと会うのに、その刑事をまく必要があったんですか?」
火村は尋ねた。両掌で包んだバーボンのグラスを覗《のぞ》き込んでいた吉住は、はっとしたように面を上げる。
「まかなくてはならなかったんです。お二人に会ってお話しするだけならばいいんですが、お見せしなくてはならないものがあるもんですから……」
何だろう、と私は彼が携えてきた薄い鞄《かばん》を一瞥《いちべつ》した。
「いや、ここに入ってるんやない。淀屋橋に置いてある」
「置いてあるって……持ってきてくれたらよかったやないか。ひょっとして、これから淀屋橋まで行くのか?」
「面倒やけど、頼む。刑事につけられながら、持ってうろうろできる代物やないんや。見たら判ってもらえると思う」
釈然としなかった。火村はオーケーと言うように片手を上げた。
「では、淀屋橋まで行きましょう。もちろん、あなたがグラスを空けてから」
吉住は琥珀色《こはくいろ》の酒をぐいっと呷った。それからコトンと音をたててグラスをテーブルに置いて、上目遣いに火村と私を見る。
「正直に、洗いざらいお話ししておけばよかったのに、私は隠しごとをしていました。私は大変大きな問題を抱えています。もちろん、堂条秀一殺害に関した問題です。早く始末してしまおうと思っていたのですが、刑事につけ回されだしたので、それもままならなくなりました。にっちもさっちもいかなくなってしまったんですよ。それで、力をお借りすることにしました。力と、知恵を授けて下さい。私はどうすればいいのか、助言して下さい。その前に……どうか私を信じて欲しいんです。私は兄を殺していません」
そう訴えた後、私たちの反応を正視しかねたのか、彼は横を向いてまたグラスを大きく傾けた。
「あなたを悩ませているのは、どういうことですか?」
火村は静かに尋ねた。吉住は目の高さに掲げたグラスを握りしめる。
「泥沼に足を取られてしまったようなんです。このままでは、私は兄を殺した犯人にされてしまいかねません。昨日のうちに相談をしておくべきでした。いや、金沢ででもアリスに打ち明けてればよかったでしょうに」
ここまできたというのに、なかなか話すふんぎりがつかないでいるらしい。やがて、中味を半分ほど残したグラスを置いた彼は、伝票をひったくるように取った。
「行きましょうか」
私たちは一旦《いつたん》地上へ出てから、地下鉄に乗るためにまた地下にもぐった。難波《なんば》から淀屋橋までは三駅だ。赤い顔をした飲んだ帰りの乗客たちに混じった私たちは、吊《つ》り革につかまったままずっと無言だった。その頭上では『ダリ社長のシュールな死』『繭の中の全裸死体』などという活字が躍る週刊誌の広告がゆらゆらと揺れていた。
十分もかからず淀屋橋に着いた。吉住を先頭に改札を抜ける。彼は人ごみを掻《か》き分けながら、コインロッカーめがけて真直ぐに進む。どうやら、刑事の目のあるところで持ち運べなかった何かは、その箱に収められているらしい。
「月曜日からここに隠してあったんです。取り出さないまま二日経過したら駅員に開けられてしまいますから、水曜日の夜、一度取り出してすぐまた入れ直しておいたんです。捨ててしまおうにも、どこへ捨てていいのか判らなかったし、捨ててしまうと、本当のことを話さなくてはならなくなった時に、証拠がなくなってしまうことになるので……それもまずいかな……と考えて……よけい捨てられなくなってしまって……」
吉住はあちこちのポケットを探りながら、切れ切れに何かぶつぶつとしゃべっていた。ロッカーの鍵《かぎ》を捜しているらしい。
「あったあった」
すべてのポケットをまさぐってから見つけた鍵。それを鍵穴に指し込む彼の指先は顫《ふる》えており、額には汗の玉が浮かんでいた。何が飛び出してくるのか、私は固唾《かたず》を飲んで見守る。
宝物でも扱うような手つきで彼が取り出したのは、一泊旅行に持っていくのに便利だと思える、布製の手提げ鞄《かばん》だった。この中のものが吉住を苦しめているのだろう。金沢で気がついた彼の暗い面持ちの意味が、ようやく理解できるらしい。
「ここでは開けることはできんから、人目のないところに行ってから中味を見てもらいたい。もしよかったら、アリスのマンションへ──」
ビデオの一時停止ボタンが押されたかのように、彼の表情が凍りついた。大きく見開いた目は、火村と私の肩の向こうの何かを凝視している。
振り向いた私は、思わず驚きの声をあげるところだった。
「その中に入っているものを拝見できますか?」
猟犬の目をした野上刑事が立っていた。
「早く見せなさい」
野上刑事に一喝された吉住は、呆然《ぼうぜん》とした様子のままファスナーを開け、鞄の中味を示した。野上は私を押しのけて、その鞄の上に顔を突き出す。抗議するわけにもいかない私は、刑事の肩越しに首を伸ばした。
くしゃくしゃに丸められたシャツだのスラックスだのが押し込まれているのが見える。それだけなら何のことはなかったはずなのだが、皺《しわ》くちゃの衣類に明らかに凝固した人血と覚しいものが付着しているのを認め、私は頭にハンマーの一撃をくらったような気がした。何ということだ。吉住が見せようとしていたのが、これほど直接的な証拠物件だったとは、全く予想外だった。
野上は口をすぼめて頷《うなず》いていた。そして、ひと言。
「このドス黒いのは堂条秀一の血か。後生大事にどうしてこんなものを取っておいたのか、理解に苦しみますな」
吉住は苦しげに顔を歪めて、火村と私を見た。
「どうしてこんなことになったのか、教えて下さい。私には何が何やらさっぱり判らないんです」
助けを求められても、私は返す言葉を見つけられなかった。こちらこそわけが判らない。雑踏を行き交う者たちが、どうしたのだろう、と好奇の眼差《まなざ》しを投げかけながら通り過ぎていく。野上は吉住の手からひったくるように鞄を取って、勢いよくファスナーを閉めた。
「署までご同行いただきましょう。そうすれば、お話はゆっくりと聞かせてもらうことができます」
気がつくと、彼の後ろにもう一人、若い刑事らしい男が立っていた。野上の目配せで、公衆電話に走っていく。
「吉住さん。これは任意同行です。承知しますね? あなたが無実ならば、そうすることが賢明です」
火村の問いかけに、彼は口を半開きにしたまま頷いた。
「弁護士を呼ぶことを希望しますか?」
これには首を左右に振る。
「私は兄を殺していません。話せば判ってもらえるはずです」
弱々しい声だった。こんなものを所持していた理由が本当に警察に通じるのだろうか、と私は大いに心配する。助教授も同じことを感じたらしい。
「私とアリスも同席して彼の話を聞いていいでしょうか?」
火村はくるりと振り返って野上に尋ねた。部長刑事はふんと鼻を鳴らす。
「樺田警部の許可があれば私は嫌だと言えません。吉住さんを運ぶために近くにパトカーを呼びますから、お二人は神戸までタクシーでついてくればいいでしょう。捜査本部のある灘《なだ》署までね」
その答えに、火村は満足したようだった。
「そうさせていただきます」
私は吉住に聞こえないように、助教授の耳元で囁《ささや》いた。
「あいつを信じてやれるか?」
卑劣なことに、私は自分の気持ちも定かではないまま、火村の心優しい返事を期待していたのだ。
彼の答えは見事なものだった。
「話を全部聞いてから決めるさ」
吉住はがっくりと肩を落とし、真直ぐ立つ力も喪失したかのようにコインロッカーにもたれかかっていた。顔面蒼白で、じっと足元に視線を落としていたが、ぽつりとひと言呟いた。
「ほっとした……」
第六章 最低の夜
その夜──
吉住が六甲の家に着いたのは、九時五十分だった。車庫に車を入れて玄関の呼び鈴を鳴らすと、すぐに扉が開いて秀一が現われた。吉住がここを訪問した時はいつものことだが、兄は遠来の珍客を歓待するような笑みを浮かべている。その夜は、いかにもくつろいだ様子の赤いポロシャツ姿だった。
「よぅ、お疲れ。一人で先に一杯やっていたよ」
顔が赤く染まっていないところをみると、まだほんの少し飲んだ程度らしい。秀一はかなりいける口であったが、飲むとすぐ面に表れる方なのだ。
「こっちですごすのは今晩だけですか?」
靴を脱ぎながら聞く。年の差のせいもあって、秀一に対しては仕事を離れても敬語で話すことにしていた。もちろん、ジュエリー堂条を訪問した時もそんなしゃべり方だったし、秀一のことを『社長』と呼んでいたから、二人が異母兄弟だなどと気がついている社員はいるはずがない。
「いいや。日曜日までいるつもりだ。最近、ますますここの居心地がよく思えて困る。そのうちねぐらを移したくなりそうだ」
「それもいいんじゃないですか。大阪に通うぐらい、運転手を雇って送り迎えをしてもらえば楽なもんでしょう」
「人に運転してもらうのはあまり好きじゃないんで、それは気が進まんな」
秀一は真顔で応えた。
「運転してもらうのが好きやないとは、変な社長さんですね」
リビングに入ってみると、なるほどテーブルの上にホワイトホースのボトルとグラスがのっている。音楽も流れていない部屋の真ん中で、文字どおりなめるように飲んでいたのだろう。秀一はキッチンから新しいグラスを取ってきて、吉住の分を注いだ。二人ともストレートで飲むのが常だ。
「もう一件の仕事の方も順調か?」
秀一は自分のグラスにも注ぎ足しながら言う。もう一件の仕事というのは、吉住がここへくるまでに夕食をともにしながら打ち合わせをしていた某電機メーカーの仕事を指している。
「しごく順調ですよ。ジュエリー堂条さんほどうるさくないですから」
「よく言うな。あれだけ多額の広告費を使っていながら、うちのストアイメージがいつまでたっても『地方の宝石屋』なのは、東洋アドさんの責任だろう。社長の私の髭《ひげ》ばかりが妙に売れてしまったけれど、そんなパブリシティを御社に頼んだ記憶はない。AEを変えてもらおうか」
「首都圏の店が弱いのは私のせいやないですからね。出店戦略の読み違いまで代理店のせいにされてはかないません。社長の顔が予期せず売れてしまったことについては、利用法は様々に考えられるわけですよ。これまでにもアイディアとして漏らしたことがありますが、社長にCFにご出演願うということも──」
「よしてくれ。もっと品格のあるのにしろ」
「では、こんなのはいかがですか?」
彼は丸めて持ってきた紙を取り出した。大理石を貼《は》ったテーブルの上で広げようとしたが、癖がついてしまっているので、一度逆にきつく巻いてから広げ直す。電機メーカーの人間に会う前に中之島の会社に立ち寄って取ってきたラフのヴィジュアルだ。
「ダリの名画を使っています。秋のキャンペーンはこういうイメージでいこうと思うんですけど、ここに社長の顔をだまし絵風にあしらうという趣向はどうですか?」
「もういい、判った。仕事にからんだ話はやめにしよう。ここへきてまでそれでは息が詰まる。絵は後であらためて見せてもらうよ」
秀一は口をへの字に曲げた。慌ただしく会社に戻ってせっかく取ってきたものなのに、社長の興味を惹《ひ》くことはできなかったらしい。ヘッドコピーの案をいくつか並べて感想を聞くつもりだったのだが、それも無理のようだ。ここへ仕事を持ち込むことは慎むべきだったのだ。
「それより、今日はせわしなかったかな。夕方はうちにきてもらって、メーカーさんと晩飯を食べながら打ち合わせして、それから六甲まできてもらったんだから」
ばたばた飛び回るのが性分に合っている吉住としては、それしき何ほどのことでもない。
「平気です。今日なんかはいいとして、忙しくなりそうなのはこれからなんですよ。それで、今夜は是非、予定どおりにフロートカプセルを使わせてもらおうと楽しみにしていました。しばらく週末も休日もなくなってしまいそうなんで」
「お座敷が多くて忙しいのは結構なことだ」
「ビジネスばかりでもないんですけどね。明日、明後日は知人の結婚式で金沢、来週の週末は同僚の引越しの手伝いに愛車ぐるみ駆り出されるてな具合です」
「ふむ、それにしたって声がかかるだけよしとせねばならないな。『君はいいから休んでて』と辞されるのは淋《さび》しいだろう」
「それはそうかもしれません」
秀一は吉住のグラスにウィスキーを注ぎ足した。
「富美子《とみこ》さんはお元気なのかな?」
吉住の母のことだった。
「ええ、看護婦時代の友だちが多いのでしょっちゅう旅行に行ったり、食事に行ったり楽しくやってるみたいです」
「それはいい。それはいいけど、お前が顔を見せないと淋しがるぞ。仕事が面白かったり忙しいのはいいとして、電話もしてあげろ。一人息子なんだから」
「はい」と殊勝に応える。
「親孝行したい俺には親はなし、だ」
彼が言う親とは、母親だけを指すことが多かった。母をいたわれとは、彼自身が幼くして母を亡くしたためだろう。
秀一は機嫌よさそうに微笑していた。左手中指の指輪をしきりにいじっているのが気になって、吉住は「何なんです?」と指差して聞く。
「新しい指輪だよ。リングが二重になっていて、外側のがくるくる回転するんだ。手が淋しい時におもちゃになっていい。以前、フランスで見かけたのをアレンジして、長池に作らせたんだ。いい出来だよ」
吉住がよく見えるように、秀一は手首を捻《ひね》って甲を向けた。リングに石は嵌《はま》っておらず、プラチナでできた牡牛座《タウラス》のシンボルがついていた。
「長池というと、例の……」
吉住はそこで言葉を切って、秀一の反応を窺《うかが》った。彼は指輪で遊びながら、ふむと頷《うなず》く。
「優秀な男だ。与えられた仕事をそつなくこなす、という以上のことができる。やる気と才能の両方を兼ね備えているんだから、わが社としても大事にしてやらんとな。──たとえ、個人的に多少のわだかまりがあろうとも」
秀一は鷹揚《おうよう》に言った。鷺尾優子はいずれ自分に落ちる、と半ば確信しているかのような余裕に満ちた口調だったので、吉住は意外に思う。彼の目には、長池優勢と映っていたからだ。秀一もその情勢をうすうすとでも察知しており、長池には暗い敵意を抱いていると思っていたのに。もしかすると、水面下で何か動きが生じているのかもしれない。秀一は本気で彼女に惚《ほ》れている。合意さえとりつければ、当然結婚ということになるだろう。しかし、いくつか年下のあの美女が自分の義理の姉になる日がくるかもしれない、とはまるで実感が湧《わ》かなかった。
「兄さんは若いうちにもっと遊んでおくべきだったんやないですか?」
そんな台詞《せりふ》が口をついて出ていた。秀一は指先の運動を止めて怪訝《けげん》そうに吉住を見返す。口が滑ったのを自覚しながら、吉住は言葉を継ぐ。
「大変おせっかいなことを言うようであれですけど、女に対して免疫を持っておくべきだったんやないかな、と思うんです。鷺尾さんというのはなかなか魅力的な女性ですよ。けれど、兄さんほどのスケールの男には不釣り合いな気がして……」
秀一は胸の前で両手を組み合わせ、顎を上げた。視線は吉住に向けられたままなので、彼は兄から見下ろされているように感じる。その目に怒りがこめられていたら、吉住は無躾《ぶしつけ》な自分の発言を悔いただろう。が、兄は冷静であり、黒い瞳《ひとみ》はむしろ涼しげだった。
「私は美しいものが好きだ。今の仕事にがむしゃらに打ち込んでこられたのも、それがただ親父譲りの商売だったからではなく、宝石を扱う仕事だったからなんだ。私は宝石が、石そのものが大好きだよ。その輝き、えも言われぬ色彩の豊かさ、愛らしさ。神秘的で、高貴で、本音を言えば人間風情を飾るには惜しいぐらいだ。あいつらの名前を唱《とな》えるだけで、空中に美がちらばるような気がする。──柘榴石《ガーネツト》、紫水晶《アメシスト》、蛋白石《オパール》、金剛石《ダイヤモンド》、翠玉《エメラルド》、藍玉《アクアマリン》、黄玉《トパーズ》、風信子石《ジルコン》、猫目石《キヤツツアイ》、虎目石《タイガーズアイ》、血玉髄《ブラツドストーン》、菫青石《マイオライト》、橄欖石《ペリドツト》、緑簾石《ゾイサイト》、青金石《ラピスラズリ》、電気石《トルマーン》、尖晶石《スピネル》、紅玉《ルビー》、青玉《サフアイア》、月長石《ムーンストーン》、真珠、瑪瑙《めのう》、珊瑚《さんご》、琥珀《こはく》、翡翠《ひすい》、トルコ石、孔雀《くじやく》石……」
彼は宝石の名を滔々《とうとう》と呼び上げた。
「宝石の条件を四つ挙げられるか? うちの販売戦略に関わっていても知らないだろうから教えてやろう。まず、宝石は硬くなくてはならない。最も脆《もろ》い石を〇、最も硬いダイヤモンドを十とした相対指数の硬度でいうと、七以上が宝石にあたる。条件の二として、いつまでも変質しないという耐久性。次にその価値を保証するための希少性だな。あと一つは言わずと知れたこと。──美しさだ。この美しさというのは、万人が認める美でなくてはならない。宝石もガラス玉も同じだ、などと野蛮なことを口走る無粋な男にしたところで、本物の輝きを間近で見れば溜め息をつくに決まってる。この四つが宝石の条件というものだ。まぁ、宝石には数学的厳密性を持った定義というのはないんだがな」
吉住は、秀一が何を言い出したのか、よく判らないまま聞いていた。
「宝石の美は、万人に認められた美だ。そうでなくては宝石という言葉の意味が空洞になってしまう。誰もが認めざるを得ない美。私はそれをひさいでいる。──だが、女性の美は違う」
彼はグラスを光に透かした。
「女性の美は千差万別だ。ある男はこの輝きこそ至高のものだと信じ、別の男は別の輝きを発見して詠嘆する。それぞれにとって、自分が見つけた輝きが宝石になるんだ。女を選ぶのに訓練を積んだ鑑定師の技能は必要がない。遊べば目を肥やせるとお前は考えているようだが、そうやっているうちに目が曇っていく男だってたくさんいるに違いない。私は自分が発見した美を信じている。女性の美の条件は、男が見出せるかどうかの一点に尽きる」
吉住は作り笑いを浮かべた。そして、この話題があまり重いものにならないようにしようと努める。
「それはそうです。男や女は鑑定書を示しながらお互いをやりとりするもんじゃありませんからね。愛する異性なんて、自分の幻影を投影するスクリーンみたいなもんです。しかるべき相手に見出されれば、誰もが宝石になって輝く。──ただ、どうしようもなく厄介なのは、希少性の方でしょうね。同じカラット数のダイヤモンドに、同じカットを施し、同じ台座に嵌《は》め込めば、同じ指輪ができ上がるのに対して、惚《ほ》れた女や男には代替物がない」
秀一は深く頷《うなず》いた。
「それはどうしようもないな。人間は、こればかりは諦《あきら》めるしかない、ということをその中で学ばざるを得ない。自分に気がない異性の愛情を掴《つか》もうとすることは、死んだものを生き返らせることと同様に不可能なことだと、一度でも片想いに泣いた人間なら痛感するだろう」
頷きながら話す彼の口ぶりは、個人的な体験から切断された一般論を語っているようにしか聞こえない。
あくまでも気取っていたいだけなのかもしれない、と吉住は不意に思った。秀一が泰然としているのは、恋の戦いの流れを逆に転じる希望が胸にあるからではなく、敗北の日が近いからなのかもしれない。スタイリストらしく、見苦しく騒がず、静かに諦念《ていねん》に身を沈めようとしているのではないのか? 精一杯|恰好《かつこう》をつけたいだけなのではないか?
だが、秀一は思い出したようにこう続けるのだった。
「彼女は私にとってかけがえのない宝石だ。私と釣り合っているかどうかなど、お前が言うことなんかできやしないよ。私には、彼女自身をもっともっと輝かせる能力もある。
問題なのは、宝石とは比べものにならない希少性をもった上に、彼女には意志があるということだな。有り金をはたいたって買い落とせるという保証はない。私は彼女にとって宝石なのか? 彼女が『はい』と言ってくれるのを、息を殺して待つしかない。その点では無力だ」
秀一は目尻《めじり》に皺《しわ》を寄せて笑った。
「あんまり無力なので、快いぐらいだよ」
吉住は激しく混乱していた。兄の言葉は強い自信と確信に満ちて聞こえたかと思うと、次の瞬間には世にも頼りなく響く。その様は、まるで大きな波濤《はとう》にのって上下する舟のようだ。これは単に、彼の不安定な精神状態の表出にすぎないのか、それとも……
「兄さんには勝算がおありなんでしょう?」
こらえきれずに、彼はずばりと尋ねた。あるんでしょう、と肯定的な聞き方をしたのは遠慮からに他ならない。
目尻の皺も、横に開いた口元の笑みもそのままに、秀一は答えた。
「負けないよ」
吉住は飾り棚にのった宇宙象が背負っている四角|錐《すい》をなでていた。いつも見ているものだが、おかしな彫刻だ。象がオベリスクをのせているのも変だが、何よりも蜘蛛《くも》のように細くて長い脚でふんばっているのが奇怪だ。
「宇宙の彼方の天国へ昇ろうとする象の脚は無重力と重力の狭間《はざま》で引き伸ばされている。オベリスクは、かつてはファラオの権力の象徴だったが、現代においてはテクノロジーの進歩を象徴している」というわけの判らない解説を兄にされたことがある。彼は子供っぽく、講釈を楽しんでいるようだった。
その兄が戻ってきた。
「入ってもいいぞ」
ふつうならこれは風呂が沸いたと告げる言葉だが、ここではフロートカプセルの準備ができたということだ。
「はい、それでは」
彼は象の鼻をひと撫でしてから、飾り棚の前を離れる。仕事のことや、兄の恋の行方についてあれこれ考えることも面倒になっていた。こんな時こそ、カプセルの中で無になるのがいい。
カプセルのある小部屋に入ると、彼は衣類を脱いで丁寧にたたみ、籠《かご》に入れた。秀一が用意してくれた清潔そうなバスタオルが脇に置いてある。熱めの湯を頭から浴びると、気持ちのよさに、彼は思わず「ううん」と唸《うな》っていた。
コントロールパネルの脇のスイッチをオンにして、カプセルの開口部を開ける。そして、わずかにぬめりのある液体の中に、右足からそっとつかった。
蓋《ふた》を閉じると、完全に闇《やみ》が現れる。開いた両目の上に、はらりと闇の布が掛けられたかのようだった。やがて、彼は自分が目を開いているのか、閉じているのかも判然としなくなる。慈悲深く、大きな掌にのっているように、体が浮かび、後頭部をのせたカプセル底部の縁以外には、触感に感じるものは何もなくなっていった。そして、体中の細胞が崩れ、体温と同じ温度に設定されたエポジウム溶液にとろりとろりと溶け出していくように思えた。
ひと時、煩わしいものすべてから逃れた彼は、兄に呼びかける。
──恋愛には勝つも負けるもない。楽にやりなさいや。
恋愛からの連想で、明後日招かれている友人の結婚式のことを思う。花婿は大学時代のゼミ友だちで、自分とは対照的に真面目一本の堅物だった。転勤先でよほど可愛い嫁さんを見つけたのか、にやけた声で電話をかけてきたっけ。あいつの元同僚で脱サラして推理作家になった有栖川有栖もやってくるそうなので、久しぶりに会えるのも楽しみだ。おっかなびっくり小説家になったあいつは、元気でやっているだろうか? そういえば、いつか酔った彼から高校時代の悲恋の物語を聞いたことがある。なかなか哀れを誘う話だった。嘘《うそ》か誠か定かではないが、その悲劇的な日が、自分が小説を書いた最初の日だと言っていた。酔った上とはいえ、ぽろりと他人に話せるのだから、悪い体験ではなかっただろう。だが──
ここで、また秀一のことを考えてしまう。高校生の失恋ならば、それが当人にとってどれほど苦しいものであろうとも、周囲の者は傷ついた彼を優しく見守ってやることができるだろう。それが青春の思い出になるんだよ、などと慰めることもできる。十代の失恋を美しく、微笑《ほほえ》ましいもののように仕立てた小説や映画はごまんとある。しかし、もしも秀一が真摯《しんし》な恋に破れたならば、世間はそんな暖かい目を向けてくれないのではないだろうか? 成功者が女のことで挫折《ざせつ》した。四十面さげた社長さんが、部下に女をさらわれた。それをちょっと愉快に思うのが、意地悪い世間というものではないのか?
──勝たせてやりたい。
勝つも負けるもない、と思ったばかりなのに、もうそんなふうに思い直していた。
それにしても、惚《ほ》れたはれたが多すぎる。歌も、小説も、映画も、のべつまくなしに愛だの恋だのと唾《つば》を飛ばしてわめいている。まるで恋に落ちることが尊いことだという信仰が蔓延《まんえん》してしまったかのようだ。秀一もその毒にあてられてしまったのかもしれない。あるいは、そろそろ子孫を残す算段をせよと、ドーキンス博士のいう利己的遺伝子《セルフイツシユ・ジーン》に命じられてでもいるのだろうか?
吉住にしても、眩しい目で見ては胸をときめかせる女は周りに何人か持っていた。が、女に惚れたとしても、縛られるのはごめんだという思いが強い。自分の感情をコントロールできないというのは、いかなる場合でも不快なことだ。忘我の盲目的な恋を賛美するような物語が、彼は基本的に好きではなかったのだ。相対的な価値さえろくにない情報の海を泳ぎ、自らも虚《うつ》ろな情報を発信しながらも──いや、そうであるからか?──、彼が求めているものはモラルだった。モラル。現代を生きる人間たちに必要なものはそれだ。我を捨てないこと、目を見開いてそこにあるものを直視すること。そして、知恵のある行動を選ぶことこそが必要なのだ。あらゆる世代でそれぞれにモラルが欠如している。それぞれが、違ったやり方で知恵を喪失している。愛だの恋だのを、呑気《のんき》に美だと信じている場合ではないのだ。愛し合う二人だけの繭《まゆ》作りも結構だが、それを美しいと称《たた》える気になどなれない。
しかし、ここで彼は苦笑してしまう。でっちあげすれすれのマーケティングに乗って、虚飾まみれの情報を垂れ流しながら、どんなモラルを築き、実践すればいいのか? 社会の風潮に違和感を訴えるだけでは何にもならない。行動を起こすこと。それにはプラカードもシュプレヒコールもいらない。各自が、モラルを意識した生活の実践を始めることが肝心なのだ。
それにしても──今夜はむやみに色んなことを考えてしまうようだ。どうせなら、もっととりとめのない想念に漂いたいのに、思考がなかなか弛緩《しかん》しない。外の世界で受けた刺激と緊張がまだ解けていないのだろう。体だけでなく、心も液体にして、溶液に溶かし込んでしまうようにしよう。
やがて、彼は眠りに落ちた。
そして夢を見る。
夢の中の秀一には、髭がなかった。彼がダリを真似た髭を生やし始めたのは大学を卒業して間もなくなので、理屈からいえばそれ以前の姿だということになるのだが、そう若くも見えない。
『秀二が蝋燭屋《ろうそくや》なんかを始めるから、こっちまで迷惑だ』
水中のスピーカーから漏れるような、朧《おぼ》ろにくぐもった声だった。
秀一はしきりにぼやき、吉住をどこかに導こうとしていた。やたらと看板、ポールサインが多いだけでうら寂れた町を抜け、草原に出る。視野が百八十度広がった。雑草に踝《くるぶし》まで埋まりながら、茫漠《ぼうばく》とした野原を二人は黙ったまま進む。
『こんなところで蝋燭屋なんか開業してもうかるんですか?』
そう言う自分の声も普通ではない。秀一は髭のない鼻の下を人差し指で掻きながらにやにやと笑った。
『もうかるだのもうからないだの、あいつはそんなことどうでもいいんだろう。まぁ、何でもやってみるがいい』
理解を示しているというより、突き放した言い方だ。吉住は、うかつにそれに乗らないでいよう、と口をつぐんでいた。
気がついたらそこに、一本の古木が立っていた。高さは二十メートルほどもあるだろうか。天に向かって何ごとかを訴えるように広げた枝は、ほとんどの葉を落としていた。木の向う側遠くに赤茶けた荒野があり、ぽつねんとグランドピアノが置かれている。ダリの絵からの引用らしい。
草原のただ中に立つその木の裏に回ると、人がすっぽりと入れるほどの洞《ほら》があった。その中にいじけたように縮こまった人影がある。──秀二だ。
『こんなところで商売ができるわけがないだろう』
秀一が声をかける。洞にもぐった男は『商売?』と聞き返す。
『商売なんかするつもりはない。俺が蝋燭屋でも始めると聞いてきたのか?』
『そうだ。訓夫にそう聞いた』
吉住は呆気《あつけ》にとられた。そんなことを言った覚えなどない。秀一が教えてくれたことだったではないか。
『そうか。あいつは誰も彼も蝋燭屋だと思い込むからな』
秀一はそう言ってざらついた木の幹を撫《な》でた。傍らに吉住が立っていることなど忘れてしまったかのようだ。
『蝋燭屋はあいつだよ』
秀二が言う。秀二は、爪を立てて幹を引っ掻《か》きだした。やがて、蝋か精液のような樹液がにじみ出てくる。彼は、指先についたそれを執拗《しつよう》にこね回した。
『あいつが蝋燭屋か』
秀一は汚れた指で、鼻の下をひと擦《こす》りした。
夢から覚めた。闇《やみ》の中で目覚める。あまり心浮き立つ夢ではなかったためだろう、吉住は口の中が苦かった。いや、意味が判らなかったが、ひどい悪夢だったような気がする。自分の邪《よこしま》な欲望が変容して意識下に昇ってきたからだろうか? どんな欲望かは読み取れないが、どうせろくなものではないように思える。カプセルの中でうとうととしたことはこれまでにもあったが、夢を見たのは初めてだった。今夜はいつもと様子が違う。
早く出てしまおうか、と思っているところに軽やかなチャイムの音が聞こえてきた。四十分の瞑想《めいそう》時間が終了したことを告げる合図だ。やれやれ、と安心した。
蓋《ふた》を開けると、眩《まばゆ》い光が差し込む。彼は目を細めながら外に出た。エポジウム溶液を洗い流すために、まずはシャワーだ。身も心もしっかり覚醒《かくせい》させようと、熱い湯を強く噴出させた。体がほてるほど湯を浴びてから、バスタオルを取ろうと籠《かご》に寄ったところで、彼はようやく外界で起きた異変に気づいた。
きちんとたたんで籠に入れた衣服がくしゃくしゃに乱れているのだ。それだけなら驚愕《きようがく》で息を呑《の》むほどのことではないのだが、ずっと大きな異状があった。シャツにも、スラックスにも、べったりと血のように赤いものがなすりつけられていたのだ。
「何や、これは?」
彼は声に出して自問した。見れば見るほど血のようだ。カプセルの中で浮かんでいる間に何が起こったのだろう?
彼はバスタオルを腰に巻き、兄に説明を求めようと小部屋を出かけた。ドアが何かに当たって開かない。抵抗にかまわず押し開いた瞬間、彼は家中に響くような悲鳴をあげた。
戸口で、頭から血を流した秀一が倒れていた。
屈《かが》み込んで、横を向いた兄の顔を覗《のぞ》き込んだ。ぞっとしたことに、その両目は見開かれたままだ。彼は恐る恐る肩に手を置いて、呼びかけることもなく揺すってみたが、秀一は全く反応を示さなかった。次に、勇気を振り絞って脈を取る。兄の体の中を血液が循環していないことは、それによって明らかになった。
これはどういうことだ? 悪夢の続きを見ているのだろうか? 彼はまずそう思った。渾身《こんしん》の力を込めて頬《ほお》をつねってみると、鈍いながらも痛みが走った。夢ではないのだ。しかし、それにしても、こんなことが、一体、どういうことが……
彼は頭を抱えた。落ちつけ、落ちつけと自分に言い聞かせようとしたが、その試みはいつまでたっても成功しなかった。
本当に死んでいるのか、と未練がましい思いに駆られて再び兄の顔を覗《のぞ》き込んだ時、彼はまた短く悲鳴をあげずにはいられなかった。こと切れた秀一の鼻の下には、髭がなかったのだ。
やはりこれは夢の続きだ。入れ子細工の悪夢なのだ、と信じようとした。そして、その頬に触れてみる。──嫌になるほどリアルに、硬直の気配を感じた。恐怖と絶望が彼の足元から腰、胸、そしてゆっくりと喉元《のどもと》まで這《は》い上がってきて、やがて全身を呑《の》み込んだ。冷たい手に心臓を鷲掴《わしづか》みにされて、彼はがたがたと顫《ふる》えた。
──どういうことなのか説明をしてくれ。
説明を、説明を。彼はそれを捜し求めるために兄の死体を跨《また》ぎ、よろよろとリビングに向かった。途中、点々と血痕が続いていたので、足を降ろす場所を注意深く選ばなくてはならなかった。秀一は血を滴らせながらリビングからカプセルの部屋の前までたどり着いたらしい。では、リビングには何があるのか? 説明を、説明を。
説明はなかった。
リビングにはもちろん誰の姿もない。しばらく前まで兄と二人で囲んでいたテーブルが動き、心持ち斜めになっている他に変わっていることといえば、飾り棚の前を起点にした血痕が自分の足元までぽつりぽつりと続いて、フローリングの床を汚していることだけであった。──そんなものは何の説明にもなりはしない。
説明を、説明を。
彼は口を半ば開いたまま視線を巡らせ、部屋の中にヒントでもないものかと、仔細《しさい》に調べた。何も発見することはできず、彼の問いかけを拒むかのように、静寂だけが深かった。
受けた衝撃が強烈だったとはいえ、次第に彼に思考力が戻ってくる。どうやら兄は何者かに襲われて負傷し、ついには絶命したらしい。その何者かとは強盗だろうか? こんなところに強盗が押し入るなど、考えにくいが、強盗でなければ何だというのだ?
いや、そんなことを自分が考えて悩む必要はないではないか。それを調べるのは警察の仕事だ。まず、一一〇番に通報しなくては。
彼は電話に寄ろうとして、はたと思い留まった。
──俺が疑われる。
ぞくりとするほど赤い危険信号が、彼の脳裏で激しく明滅したのだ。ここには自分と兄の二人しかいなかった。酒に酔っていさかいを起こし、かっとなった自分が何かで兄を殴りつけて死に至らしめた。第三者にはそうとしか見えないのではないか? 彼はさらに不利な状況を思い描く。母親が違うことを遠因にして、兄と自分の関係が元々良好ではなかったと邪推される恐れもあるのではないか? 兄は昔から自分に親しく接してくれたが、そんなことを積極的に証言してくれる人間はいない。秀二が事情を聴取されたなら、「普通の兄弟と変わらない付き合いだった」ぐらいのことはしゃべってくれるだろうが、それ以上の庇《かば》いだてはしてくれそうもない。それどころか、反対に、彼が真っ先に自分を疑うことさえ考えられる。彼とは秀一のように胸襟《きようきん》を開いて語り合ったこともないし、何を考えているのかよく判らない男だ。信頼するわけにはいかない。
それよりもっとまずいことは、自分が秀一の血縁者だという事実かもしれない。異母兄を亡き者にして、その億単位の遺産を狙《ねら》ったと勘繰る人間は、警察にも、世間にも必ずいるはずだ。耐えられない。そんな愚劣な目にさらされるかと思っただけで、喉《のど》の奥にすっぱいものが込み上げてくる。
このまま警察に通報するのは危険だ。
吉住はそう結論を出した。では、どうする? 頭の中の赤いランプは緊急事態発生を叫ぶばかりで、彼に知恵を授けてはくれなかった。
リビングに立ち尽くしたまま、夜が明けるのではないか、と思えるほど長い数分が経過した。悪夢は去らない。やはりこれは現実だったのだ、と状況を受け入れた彼は、ある選択に追いたてられていった。
ここから逃げるのがいい。
彼の脳裏では、冤罪《えんざい》の二文字がフラッシュしていたのだ。いくらありのままの事実を話そうとも、それが信じてもらえないという恐れが大きい。そんなリスクを何としても回避すべきだ。もし、このまま逃走したとしたら、事件と自分を結びつけるものはない。今夜ここにやってくることを知っている人間は、この世に一人もいないのだから。本当にそうか?──慎重に記憶を確かめてみるが、いない。わざわざ一一〇番をすることが、ひどく愚かなことに思えてきて、彼は電話の前を離れた。
それがおよそモラルの欠けらもない結論であることを、自覚しなかったわけではない。何をどうなすのがモラルか、などと悠長に検討している場合ではない、と感じたのだ。いや、いかなる場合でも、自分の生存のためになして許されないことというものはないだろう。それどころか、理不尽な災いからわが身を守ることは、モラルだ。
自分自身への言い訳にわずかな時間を費やすと、彼の頭脳は思考能力を急速に取り戻していった。現実にどう対処するべきか、という知恵が次々に浮かんでくる。なすべきことは、非常に多かった。
まず、ここから逃走するために絶対に必要なものは衣服だ。腰にバスタオルを巻いた恰好で山を下るわけにはいかないのは当然のこと──それではまるで浮気中に旦那と鉢合わせした間男だ──、血に染まった自分の衣服をまとうことも不可能なのだから。彼は二階の秀一の寝室に駈《か》け上がった。クロゼットを開けて適当なものを物色しようとしたのだが、いきなりその企ては挫折《ざせつ》する。そこには、パジャマの他、身に着けるものは何もなかったのである。しかし、彼は一度舌打ちをしただけで嘆くこともせず、すぐに階下に取って返した。
兄の亡骸《なきがら》の元へ寄る。もしかしたら、幻だったのではないだろうか、などと願うこともなくなっていたので、廊下に横たわった死体をかなり冷静な目で見ることができた。彼はその肩と二の腕を掴《つか》んで、そっと仰向けにしてみる。期待していたとおり、着衣はそれほど汚れていなかった。クロゼットが空っぽなのを見た瞬間に、これを剥《は》いで着替えるしかない、と即座に決断していた。ぞっとしないことだが、選択の余地はないのである。
さっきと比べると死体の肌触りは明らかに冷たくなっていたし、硬直も進行していた。だがそんなことにかまうこともない。着替えが調達できたことに対する安堵《あんど》だけがあった。死体が下着しか身につけておらず、邸内に脱いだものが見当たらないことは疑惑を招くだろうが、勝手に悩ませておけばいい。
ポロシャツとスラックスを脱がせ、下着をつけずに直接まとう。血痕がついていないかとあらためてみたが、幸い目立つ汚れはほとんどない。赤いシャツ、紺のスラックスという配色のせいもあるだろう。僥倖《ぎようこう》に感謝しかけたところで、冷静さを回復した彼の頭脳は不吉な匂いを嗅《か》ぎとった。
秀一の頭からの出血は夥《おびただ》しいという量ではなさそうだ。であるから、その着衣に血痕の付着が乏《とぼ》しいことに納得はいく。だが、脱衣籠《かご》にたたんで置いてあった自分の衣服が真っ赤に染まっていたのは何故なのか? こんな大きな矛盾にさえ、たった今まで気がつかなかった。着替える手は瞬時も休めず、何故なのか考える。
理由は一つしかない。秀一を殺害した犯人が、立ち去る前に悪意をもって彼の衣服を入念に汚したのだ。何者かが故意に行なったのでなければ、あれだけべったりと血がつくはずがない。フロートカプセルの壁一枚を隔てたところに犯人が立っていた時間があるのだ。そいつが悪辣《あくらつ》な所業に及んでいる時、自分は眠り込んであのわけの判らない夢を見ていたのかもしれない。もし、覚醒《かくせい》していたとしても、犯人が音をたてずに忍び込んできたのなら気がつかなかったかもしれない。しかし、あの夢は彼に警告を発していたように思える。わずかの距離ですれ違ったその犯人がどんな顔、どんな姿をしていたのか見当もつかないことが無気味であり、またもどかしかった。
下着姿に剥《む》かれた兄は、いよいよ無残に見えた。が、それをすまなく思う暇などない。着替えを終えたら、次は汚れた自分の衣服の処理だ。とにかくこの現場から持ち去らなくてはならない。ワイシャツとスラックスを丸め、上着を風呂敷《ふろしき》のように使ってくるみ、ネクタイをねじ込んだ。紙袋でも捜して、それに入れて持ち出すようにすればいいだろう。これで衣服に関する問題は解決した。
まだ片付けなくてはならないことは山積している。彼はテーブルの上に視線を貼《は》りつけた。ウィスキーのボトルとグラスが二つ。自分が口をつけたグラスをそのままにしておくわけにはいかない。彼は、うんと一度|頷《うなず》いてから、早速行動に移った。どちらが自分のグラスだったかは、ウィスキーの残量から確信を持っていえたので、キッチンの流しで丁寧に洗い、丁寧に拭《ぬぐ》い、サイドボードの一番奥にしまった。これで顔見知りの訪問者がいた痕跡そのものを抹消《まつしよう》できた。指紋はいたるところに遺っているだろうが、そんなものはかまいはしない。彼が何度もここにきていることぐらいは、秀二が言明してくれるだろうから。さぁ、まだこれからだ。
グラスと同じぐらい重要なのは、フロートカプセルを使った形跡を警察は察知するのではないか、ということだった。あの贅沢《ぜいたく》な道具を使う人間は、所有者の秀一を除くと吉住一人しかいない。何としても、今夜カプセルに入ったのは秀一であることにしてしまわなくてはならない。その偽装工作として、下着だけの死体をカプセルの傍らに放置しておけばこと足りるだろうか? いや、不充分だ。死体を全裸にして、カプセルに入れておかなければ万全ではない。不快な作業になるが、そうしなかったなら、秀一の死体は当然検視を受けるだろうから、そこで『堂条秀一は生前エポジウム溶液に入った痕跡なし』という鑑定が下されるかもしれない。被害者は死の直前にフロートカプセルに入っていない──フロートカプセルは当夜使われた痕跡《こんせき》がある──フロートカプセルに入った者が存在していた──被害者の異母弟がフロートカプセルを愛好していた──よって、当夜、その男が現場にいた。数珠《じゆず》つなぎに好ましくない推論が展開されてしまう。絶対に駄目だ。
そうと決まれば早くすませてしまいたい。彼は三度死体のところに戻り、顔をそむけながら仕事にかかった。死後硬直がさらに進行しているため、思うようにはかどらない。
彼は苦心してシャツを脱がせ終えると、脱衣籠にほうり込んだ上、籠ごとひっくり返す。それから、亡き兄の体を担ぎ上げて、カプセルの中に入れた。壊れものを扱うように、ゆっくり、ゆっくりと。
蓋《ふた》を閉めた時は、さすがにほっと溜《た》め息をついた。死体と下着をとりあえず見えないところに片付けることができた。このカプセルに投じることによって、兄の死そのものをなかったことにできるならどれだけ嬉《うれ》しいことだろう、と虚《むな》しく思う。フロートカプセルにそんな効用があったなら、あらゆる家庭、あらゆるオフィスにあっという間に普及すること間違いない。悩みのシュレッダー。人生のダストシュート。画期的というより革命的なその新製品に、どんなネーミングをしてやるべきか? 芸はないが、素直に『トラブルシューター』というのはどうか?
馬鹿な思いを振り払い、彼は室内に不都合なものはないかチェックしてみた。特にない。リビングに戻って椅子に掛け、この後のことについて落ち着いて考えてみることにした。
しかし──
落ち着こうという気持ちと裏腹に、彼の精神は極度の緊張に耐えられなくなってきていた。兄の冷たい死体を肩に担いだ不快感と、それを暗い水の中に投じた罪悪感のためか、一度は冷静さを取り戻しかけていた精神状態は、このあたりから再び瓦解《がかい》していったのかもしれない。が、奇妙なことなのだが、それと同時に、頭が鮮やかに冴え渡っていきもしたのだ。
彼は眉間《みけん》に拳を押し当て、下唇を強く噛《か》みながら何をしなくてはならないか考えた。こんなところは一刻も早く飛び出したいのだが、つまらないやり残しをすれば命取りになる。モラルなどという言葉はとうに彼の辞書から失せていた。
自分が今夜ここにやってきたという痕跡は消えた。秀一は何者かに襲われ、絶命した後にフロートカプセルに投げ込まれたということだけしか犯行現場は語らない。本当にこれですべてOKなのか否かを検討した。彼の頭脳が常にも増して冴え──だが、かなりいびつに歪《ゆが》んだ──を発揮したのは、その回答においてだった。
このまま自分が去り、入れ違いに警察がやってきたなら、彼らはどんな物語を描くだろう? 犯人像はよく判らない。凶器も不明。ただ、リビングの飾り棚付近で犯行は行なわれたこと。秀一は頭部を何かで殴られ、血を流しながら奥へ逃げたことは床に残された血痕から判るだろう。この部分は、彼自身もそう想像しているだけだ。秀一は逃げようとしたが、ついには犯人に息の根を止められてしまう。犯人は、その後、死体を裸にしてから、フロートカプセルに投じた──
変だ。犯人はどうして死体を裸にしてカプセルに入れなくてはならないのか? その理由が追及されることを想定しておくべきだろう。そうなれば、中には自分が施した偽装工作の意図を見破る者も出てくるかもしれない。『犯人は自分がフロートカプセルを使っていた痕跡を消すため、わざわざ死体の服を脱がせてカプセルに入れたのではないか』。そんな賢察をする人間が一人でもいれば、自分の喉元《のどもと》に刃が突きつけられることになる。まさかそこまで考えることはあるまい、と油断しては危険だ。──では、どうする?
手はある。
カプセルの小部屋を犯行現場だと誤認させてやればいいのだ。秀一はカプセルに入っているところを襲われたのかもしれない、と迷ってくれればさらによい。これだ。そうミスリードするためには、リビングから小部屋前まで点々と続いた血痕を拭《ふ》きとってしまわなくてはならない。
後になって考えた時、吉住は、あの場でどうしてそんなところまで気を回したのかが不思議だった。過剰なまでの先回り。頭脳が暴走していたのだろう。
彼は洗面所で雑巾《ぞうきん》、浴室で洗面器を調達し、てきぱきと作業にかかった。床を雑巾がけするなど、小学校の掃除当番以来の経験だ。
流れた血の量が大したものでなかったからか、思っていたほどの苦痛を感じないうちに完了することができた。もう、ここまでくれば毒を食らわば皿までも、という境地に達していたせいもあるだろう。『毒を食らわば皿までも』。彼は、とびきり落語的なその言い回しが好きだった。古人はよくまぁ、そんなとぼけた表現を編み出したものだ、と今さらのようにおかしくなり、汚れた雑巾を固く絞りながらくすりと笑ってしまう。
──俺は笑った。
次の瞬間、そのことに慄然《りつぜん》としながらも、拭き残した血痕はないか、と目は床をなめ回していた。
よし、と判断すると、雑巾と洗面器を元あった場所に戻してから、また椅子に座って考えた。もうこれでここを立ち去っていいかどうかを。大丈夫だ、これで大丈夫だ、と急《せ》き立てる声が聞こえていたが、焦らず五分は熟考に費やした。
──遺漏はない。
そう断を下してから初めて壁の時計を見た。すでに一時を過ぎている。確認のために腕時計を見ようとして、「あっ」と叫んでしまった。手首に時計がない。慌ててカプセルの小部屋に飛んでいってみると、脱衣|籠《かご》の中に転がっていた。とんでもない忘れものを遺してしまうところだったのだ。彼はしばし動悸《どうき》が治まらなかった。素早く腕に嵌《は》めて、走って部屋を出る。カプセルの蓋《ふた》ががらりと開いて、甦った秀一が現れそうな恐怖にかられたからだった。
──こんなドジを踏みかけてるようでは先が思いやられるぞ。
彼は自分を叱咤《しつた》しながら、持ち去るべきものをまとめにかかった。ショルダーバッグ、キャンペーン用ポスター案のカラーコピー、汚れた衣類。他にはないはずだが──そう、それだけだ。A3のカラーコピーをくるくると丸めて鞄の端に差して、衣服は二階の書斎で見つけたデパートの紙袋に押し込む。
ようやく脱出できるぞと鼻息を荒げながら玄関に行った彼だが、そこでまたしてもトラブルに遭遇するのだ。靴がない。どういうことなんだ、と彼はわめきたかった。もしやと思って下駄箱を覗《のぞ》いてみたが、空っぽだった。
「やりやがったな」
やがてそう呟《つぶや》いた。カプセルでまどろんでいる間に秀一を殺し、自分の衣類に血をなすりつけた犯人のしわざに決まっている。ご丁寧なことに、彼の靴だけではなく、秀一のも奪っていってくれたようだ。
「畜生、クソ野郎が」
だが、怒っている場合ではなかった。彼は靴下のまま家を飛び出した。車庫に駐めたBMWが無事か、猛烈に心配になってきたのだ。壊されでもしていたら万事休すだった。だから、砂利を蹴散らす足の裏の痛みも忘れて駈けつけた車庫に愛車の無事な姿を確認した時は、安堵《あんど》で泣き笑いの表情を浮かべていた。これは犯人のせめてもの情けなのだろうか? それとも奴にも時間がなかったからか? 単に気がつかなかっただけ?──ええい、どうだってかまいはしない!
汚れものをトランクにほうり込み、すぐに発車させた。これでうちに帰れる。
山を下りながら、木々の間から見える夜景に時折目をやった。深夜とあって、瞬《またた》く光はいくらか少なくなっている。灯の消えた家々には、つらい夜、眠れぬ夜、枕を濡《ぬ》らす夜をすごしている人間たちが何人もいることだろう。だが、断言してもいいと思った。
今夜、最低なのは俺だ。
第七章 真珠の目の女神
要所要所で質問を挾んでいた樺田警部、野上部長刑事も途中からは沈黙し、広告マンが語るに任せていた。火村と私は二人の警察官の後方、壁際に用意してもらったストゥールに掛けて、吉住の顔を正面から見つつ、無言でそのやりとりに耳を傾ける。彼は両手を膝《ひざ》に置き、終始うつ向いたままだった。
殺人現場を後にしたところまで話し終えた吉住は、深い溜《た》め息をついて小休止した。取調室の時計の針は、そろそろ午前一時を指そうとしている。樺田はワイシャツの胸ポケットからセブンスターのボックスを取り出し、重要参考人に一本勧めてから自分もくわえた。
「自宅に帰ってからのことを話して下さい。血のついた服やズボンをコインロッカーに隠していた理由も含めてね」
吉住は煙草を片手に説明を始める。
「家に帰り着いたのは午前一時半頃でした。現場から持ち出した衣類はめったなところに捨てられないので、とりあえず自宅まで持って帰ったんです。ごみ袋に詰めて、そのあたりにぽいと捨てればいいだろう、と考えながら、その夜は何もせずに眠りました。疲れてぐったりしていたせいか、恐ろしい経験をした直後だというのに、自分でも気味が悪いぐらい、すんなりと寝つくことができました。
ところが、朝を迎え、さて捨てようという段になって、どこにどうやって捨てたらいいのか、判らなくなってしまったんです。マンションのごみドラムに投入すればそれでおしまいだと思っていたのに、実際にやろうとすると、まずそれがこわくてできなかったんです。常識的に考えれば、袋に入れて捨ててしまえば、人目に触れる心配は皆無に等しいんでしょう。でも、できなかった。どこで中味が知れるか判らない。こんなものが出てきたぞ、となったらたちまち兄の事件に結びつけられるでしょうし、出所が私のマンションあたりだと判明したら、それだけで犯人にされてしまいます。自宅から離れたところに捨てよう。そう決めたものの、大きなごみをこっそりと捨てるのに適した場所はなかなか思いつかなかったんです。どうしたものかと焦っているうちに午後になりました。時間切れです。友人の結婚式に出席するため、金沢に出発しなければならない日だったからです。目も耳もふさいで現実から逃げ出すような気持ちもあったんでしょう。結論を先送りにすることにした私は、汚れた衣類を押し入れにしまったまま、金沢に向かいました。旅に出るのをこれ幸いと鞄《かばん》に詰めて持ち出し、遠方で捨ててしまえばいいような気もしたんですが、そうする度胸もなかったんですね。運んでいる途中でひょんなことから見られたらどうしようと思ったり、金沢で発見された上に兄の事件とのつながりをつき止められたなら、それこそ、吉住訓夫という弟はその日金沢にいたぞ、となっておしまいだ、と思ったりしたからです」
そんな苦悩を抱えていたのなら、友人の慶事を喜ぶどころか、さぞ気の重い旅だったことだろう。少し元気がなかった、というぐらいの認識しかできなかったことを、私は悔いた。友人が苦しんでいることを気がついてやるべきだった、と懺悔《ざんげ》するのは偽善的だが、鈍感だったことは否めない。他者への関心と観察力が揃《そろ》って欠如していたのだ。仮にも小説家ではないか。これでは一人前のものが書けないわけだ、と私は自嘲した。
「日曜日の夜になって金沢から戻りました。兄の死体が発見されたというニュースが報じられていないことで、私はまた悩まなくてはなりませんでした。兄はまだエポジウム溶液に浮かんでいるのだ、と思うと、申し訳なくてたまらなくなったからです。何を今さら殊勝なことを、とお思いになるでしょうね。でも、本当です。二昼夜遅れてしまいましたが、警察に連絡するべきだ、と良心の声が私の両肩をつかんで激しくゆすぶったんです。結局その声に従う勇気さえ、なかったんですけど……」
彼は遅すぎる自己批判の鞭《むち》をふるっていた。そして、同じ体験をしたことのない私には、彼を非難する気は起こらなかった。
刑事たちが彼をどんな目で見ているのかは、彼らの背後にいるので判らない。ただ、野上が冷徹に響く声で促した。
「そうはしなかったんやろう?──服はどうした?」
吉住は柔順に「はい」と言って続ける。
「月曜日になれば、当然会社に行かなくてはなりません。どうして休日のうちに始末してしまわなかったのか、と後悔しても手遅れです。そして、私は知恵を絞った挙句に、実に馬鹿げた捨て方を思いついたんです。海に捨てよう。しかし、神戸の埠頭《ふとう》から投げ捨てる気にはなれませんでした。誰かに目撃されて怪しまれた場合、警察は引き揚げることが可能だからです。そこで、船に乗って、沖で捨てればいいと考えたんです」
「船? 港巡りの観光船か?」野上が聞く。
「いいえ。思いついたのが日曜の夜中でしたから、そんなものはありません。翌朝にやろうとしたんです」
「しかし、月曜日にあんたはちゃんと朝から会社へ……」
野上がはたと口をつぐんだ。それから、ああと調子はずれの声を発する。
「判ったぞ。月曜日の朝、あんたは出勤途上にジュエリー堂条の女子社員と会ったろう? 地下鉄中央線の弁天町駅から乗り込んできた、と彼女は証言しているんや。通常の通勤経路やったら、そんなところをうろうろするはずがない。あんたはあの朝、船で通勤したんや」
吉住は、恐れ入りました、というように頭を下げた。
「はい、そうです。早起きをして、例のものを詰め込んだ鞄を持って家を出ました。別府を前夜に出て、翌朝に大阪の弁天埠頭に着く船が神戸に寄ります。それに乗るためでした。船上から投げ捨ててしまおうと計画したんです」
神戸から大阪へ船で通勤する。これは確かに意表を突いたルートだ、と私は感心した。
「考えたもんですね」
樺田は苦笑とともにコメントした。吉住も微かな笑みを浮かべる。
「苦肉の策です。実は、以前にも利用したことがあるコースなんです。それはもっと楽しいことでしたけれど。──大阪の女の子と神戸で遊んで、船で送って帰したことがありました。夕闇《ゆうやみ》の神戸港から大阪まで、一時間の旅です。気が利いてるわって、好評だったんですよ」
なるほど、言われてみれば、デートコース穴場ガイドに出てきそうなルートだった。吉住が笑みを取り戻したのも束の間、その取り戻しかけた余裕を挫《くじ》くように、ここで野上はつっけんどんに言う。
「なら、どうして捨てなかった?」
吉住は真顔に戻った。
「私はとことん間抜けだったんです。人の目がないところからぽいっと捨てられると思っていたんですけど、そううまくはいきませんでした。神戸だ、もうすぐ大阪だ、と船上に出ている客が多くて、とても捨てられたものではありませんでした」
野上はストップをかけ、これに噛みついた。
「捨てられたやろう。誰かに見られても、捨てたらブツは海の底に沈むんや。そしたら、警察が回収しようにもできんのやから、捨てたらそれですんだやないか」
まるでそうしなかったことを責めるような言い種《ぐさ》だった。もちろんきつい皮肉だ。
「おっしゃるように、捨ててしまえばそれですむ、とも思いました。それなのに思い留まったのは、その期《ご》に及んで、これは捨ててはいけないものではないか、と思い直し始めたからです」
野上は、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「少しは理性が戻ってきたということですかな?」
「理性というか……。つまり、これを海に捨ててしまった場合、絶対に取り返しがつかなくなってしまうと考えたんです。事件が発覚して、捜査が進み、真犯人が見つかったとします。私が鞄に詰めたものが重要な証拠になるだろうと思うと、その時になって、ああ捨てなければよかった、と地団駄《じだんだ》を踏むことになるかもしれない。それで、海に捨てることが躊躇《ためら》われました」
信じたのかどうか、野上は何も言わなかった。樺田がワイシャツの両袖《りようそで》をまくりながら──
「船から捨てられなかったのは判りました。弁天埠頭に着いてからの行動を説明して下さい」
哀れな吉住の苦悩は、ここからまだまだ続いたのだ。
「その鞄を持って出社するわけにはいきませんでしたから、淀屋橋駅のコインロッカーにとりあえず預けました。月曜日が忙しいのは毎度のことですが、その日は特に多忙でした。午後からずっと外に出っぱなしで、会社に帰ったのが九時過ぎ。そこで秀二さんから訃報《ふほう》を聞いたんです。すぐに灘署にこいと言われました。ロッカーに入れた鞄をどうにかしなくては、と焦りましたが、どうしていいか思いつかないまま、警察に飛んで行きました。子供になったような気分でした。もう、何をどうしていいか判らなくなっていたんです」
「鞄は月曜日からずっと同じロッカーに入っていたわけではないでしょう? 二日経過して誰も引き取りにこない場合は、駅員が開けてしまうはずですよ」
樺田が抜かりなく尋ねる。
「ええ、知っていました。ですから、火曜日の午後、通夜の準備を抜け出して一度取り出して、すぐまた同じロッカーに入れ直しておいたんです。もうその時点では、どこかに捨てに行こうという気も失せていました。適当な捨て場を思いつかなかったし、例のものが必要になる局面があるかもしれないと考えたし、そもそも、時間的な余裕がまるでありませんでしたから……」
「では、いつまでもそうやって出し入れを繰り返しながら保管しておこう、と思ったんですか?」
「とりあえずはそうしようと……。でも、昨日の午後からそれもできなくなったことを知りました。自分に尾行がついていることに気がついたからです。疑われている、という恐れももちろんありましたが、それよりも、ロッカーの中の鞄をどうしたらいいのか、を考えると途方に暮れてしまいました。私は──」
彼はここで顔を上げ、火村と私を見た。離れていても、その両目が充血していることが判る。
「もう隠しだてをするのは限界だと悟りました。そこで、火村先生と有栖川に相談することにしたんです。有栖川は私のことを心配して、月曜の夜に電話をくれた時も、水曜日の葬儀の後で会った時も『何か話しておくことはないか?』と聞いてくれました。それなのに、私は白を切り続けていました。そのことを詫《わ》びた上で、ロッカーの中のものを見せて、すべてを打ち明けることにしたんです。一人で悶々《もんもん》とすることには耐えられなくなっていましたし、木曜日のうちにロッカーを開けなくてはなりませんでしたから、昨夜が告白のリミットでした」
彼はそう言って赤い目を擦《こす》った。
「どうして警察に言わない?」
野上が吼《ほ》えた。吉住は深々と頭を下げる。
「すみません。刑事さんを愚弄《ぐろう》するつもりは毛頭ありませんでした。ただ、怖かったんです。フロートカプセルから出て兄の遺体を発見した時でさえ『濡衣《ぬれぎぬ》を着せられるかもしれない』と恐れた臆病者《おくびようもの》の私にとって、警察の敷居は限りなく高いものになっていたんです。火村先生たちに相談をすれば、警察に出頭してあらいざらい話すように助言されることは目に見えていました。そう承知しながらも、まずは先生たちに聞いてもらいたかった。せめて、何かアドバイスが欲しかったんです」
「けしからんよ」
野上の腹の虫はなかなか治まらないようだった。無理もない。好意を抱いていない火村を吉住が信頼したことだけでなく、ひっかけ橋の上でまかれそうになったことで、憤懣《ふんまん》やる方ないのだろう。案の定、そのことで嫌味を言う。
「人ごみの中を走らされて、こっちはえらい迷惑やった。ま、あの程度でまかれるほど焼きは回ってないけどな」
最後は、食い下がって獲物を釣り上げた自分を褒めていた。
顔を上げた吉住の乾いた声が部屋に響いた。
「お話ししたことはすべて真実です。嘘偽《うそいつわ》りは一切申しておりません」
私はその顔を見つめる。伊達男《だておとこ》の面影はどこにいったのやら。『ナルシス』で見たやつれた横顔は錯覚ではなかったらしく、その頬《ほお》ははっきりと落ち窪《くぼ》んでいた。しかし、彼が話したとおりのことを体験し、この数日間、それを懸命に隠してきたのだとしたら、頬がこけるのも無理はないかもしれない。おそらく胃の具合もいいはずがないだろう。
「信じていただけますか?」
そう聞かずにはいられなかったらしい。応えたのは樺田だった。
「にわかには信じにくいお話です。フロートカプセルの中でうたた寝をして、出てみたら秀一氏が殺されていたとは……」
野上はより率直だった。
「いいかげんな言い逃れに聞こえますな」
吉住の顔からさらに血の気が引き、紙のように白くなった。事態は深刻だ。やはり弁護士を呼んだ方がよかったのではないか、と私は思った。傍らの火村は人差し指で唇をなでながら、相変わらず黙っている。
「火村先生はどうです? 信じていただけますか?」
吉住は助教授に救いを求めた。火村は手を止める。
「驚くべきお話でした。確信は持てませんが、私は一応信じます」
野上が背もたれに肘《ひじ》を掛けて振り向いた。目に敵意が窺《うかが》える。
「ちょっと先生。気安めはかえって残酷というものですよ。信じるなんて軽はずみなことを言うのはよして、判らないことは判らないでいいではありませんか」
火村は右の靴の踵《かかと》で、左の足首をぼりぼりと掻《か》きながら応える。
「少なくとも、彼の話が真っ赤な嘘だと信じる根拠はないようです」
よせよ、というように野上はかぶりを振った。
「殺人現場は山のてっぺんに近い一軒家だった。金曜日の夜をそこですごそうとした主人が殺された。吉住氏はその日、その時間に、その家にいた。しかし犯行が行なわれたのは、たまたま彼がフロートカプセルに入っている間だった。すべてはその四十分間にすんでしまったので何も知らない。こんな偶然がすんなり受け入れられますか?」
「水の上を歩いた、というのなら即座に否定しますが、彼の話はそういう性質のものではありません。あり得たかもしれないことです」
野上は嗤《わら》っていた。
「世の中には信じられないような偶然が起きることもあるでしょう。吉住氏が遭遇したのがそんなケースだ、と簡単に納得することは、私にはできません。──もちろん、彼の話が出鱈目《でたらめ》だという証拠はありませんよ。まだね」
火村は同感だ、というように頷いた。
「おっしゃるとおりです。そこで、彼の話に嘘が混じっていないかどうか調べるために、私が若干の質問をすることを許可していただけますか?」
樺田がすぐに承諾してくれた。
「かまいませんよ。先生がどんな質問をなさるか興味があります」
「じゃ──」
火村は両手の指を軽く鳴らしながら、吉住に疑問点を質し始めた。
「吉住さん、あなたが金曜日の夜、六甲の家を訪問することを知っていた人はいますか?」
「いいえ」と硬い声が答える。「いませんでした。人にしゃべる必要もないことですから」
「では、六甲の家に向かう途中、誰かに車でつけられていたということは考えられますか?」
「いいえ、なかったでしょう。通行量の少ない道ですから、ついてくる車があれば気がついたはずです。もっとも、相手がよほど距離をおいてついてきていたのなら、判らなかったかもしれません」
火村はまだ下品に指を鳴らしている。
「実はね、吉住さん、あなたがカプセルに入っていた間に犯行が行なわれたことについて、私は野上刑事と同意見なんです。あまりにもタイミングがよすぎる。いや、あなたの立場に立てば、タイミングが悪すぎる。お話になったことが事実なのなら、そこに犯人の作為が働いているのではないか、と思うんです。──あなたが現場に着いた時、あの家にいたのは本当に秀一氏だけでしたか?」
彼は少し考えた。
「そう聞かれても……家中をくまなく見て回ったわけではありません。でも、誰か先客がいたのなら、兄はそう言ったでしょう」
「わけあって伏せていたのかもしれない。あるいは、何者かが彼にも気づかれないように潜伏していたのかもしれません。そういう可能性は否定しませんね?」
「……はい、否定することはできません」
樺田と野上は椅子を斜めにして、火村と吉住を交互に見ながら耳を傾けていた。二人ともメモをとりながら聞いている。
「カプセルに入っている時、あなたは不審な物音を耳にしなかったんですか? 私はあのカプセルの中にもぐり込んだことがありますが、外部の音が完全に遮断されるわけではありませんでしたよ」
「おかしな音を聞いた記憶はありません。確かにカプセルに入ったまま、室内にいる人間と会話を交わすぐらいのことはできますけれど、隣りのリビングとなるとそうはいきません」
吉住が平然と答えたのが、野上の気に障ったらしく、いきなり割り込む。
「しかし、人殺しがあったんやろ? どたんばたんと大きな音がしたはずや。怒声や悲鳴も飛んだと思われる。それが聞こえなかったんですかな?」
「聞こえませんでした。もしかすると、眠っていたのかもしれません」
これはしても実りのない議論だろう。犯行に際して何ホーンのどたばたがあったかは、正確に窺《うかが》い知ることができない。
「それはおいておきましょう」
火村が言った。
「あなたがカプセルに入ったのは十一時前でしたね。では、出た時刻を言えますか?」
「四十分間入っていましたから、十一時四十分というところでしょう」
吉住は簡単に答えたが、火村はかくっと首を傾げた。
「違いますよ。あの夜に限ってタイマーは五十分にセットしてあったんですから、十一時五十分のはずです」
「ああ、そうでしたね」と吉住は自分の右頬を叩く。
「そりゃそうだろうな。無音の暗闇《くらやみ》の中にいれば、四十分も五十分も差異はないでしょう」
樺田、野上の両刑事は興味深そうに火村たちのやりとりを聞いていた。
「あなたは着替えをした際、腕時計を脱衣|籠《かご》に忘れているのに気づいて慌てたそうですね。ということは、カプセルを出た直後は、腕時計を見なかったわけだ。無論、血に汚れた自分の服を見て、死体を発見して、時計を見る間もなかったでしょうけど。あの夜のカプセルは五十分にセットしてありました。あなたが出た後でセットしなおしたわけはありませんね? だって、あなたは昨日の夜、アリスのマンションで『あれにタイマーがついていたんですってね?』という発言をしていましたものね」
「はい。その時にも言いましたけれど、フロートカプセルというのは中に人が入って四十分経過したらチャイムが鳴るように設定された器械だと思っていました」
「いいでしょう。カプセルを出てからあなたがタイマーをいじったということはなかった。また、あなたが逃げた後で謎《なぞ》の人物がもの陰から忍び出てきて、無意味にタイマーの設定時間を変えたとも考えられない。よって、あなたは五十分間の長湯を体験したんですよ」
何故、と呟《つぶや》いて吉住は黙り込んだ。
「それは犯人の細工やないかな」と私はおずおずと言った。「犯人は悪意をもって吉住の服に血をなすりつけたらしい。けど、その時、犯人はいつカプセルが開いて吉住が出てくるかひやひやしていたやろう。脱衣籠はまさにカプセルのすぐ傍らに設置されていたんやからな。それで、タイマーをいじって十分時間を稼いだということやないか?」
火村は立てた親指で私を指しながら吉住に「どう思います?」と意見を聞く。
「さぁ……そういうこともあるかもしれませんけれど……」
火村はさっきの反対側に首を傾げた。
「それはどうでしょうか。私は現場でフロートカプセルも、そのコントロールパネルも見たんですが、あれは予備知識のない人間がちらりと見て、『おお、これだこれだ』と手を打っていじれるようなものではないですね。もし、アリスが言ったとおりのことを犯人が行なったのだとしたら、それは、カプセルの使用方法を知っていた堂条秀二氏である疑いが濃厚であると言わざるを得ません」
「ちょっと待って下さい。そんな短絡的に結論を出さないで下さいよ」
吉住は狼狽《ろうばい》したようだ。火村は落ち着き払った様子でそれを制する。
「結論なんか出していませんので、安心して下さい。うーん、この件は私も混乱しているところなので留保しましょうか。
話を変えますよ。あなたは着替えの服を捜しに二階に上がったし、拭《ふ》き掃除の道具を取りに洗面所や浴室にも行ったし、コップを片付けにキッチンに入りもしましたね。その時、邸内に自分以外の人間がひそんでいた気配などはなかったんですね?」
「犯人がひそんでいたかもしれない、と先生はおっしゃるんですか?」
吉住は気味悪そうに眉《まゆ》をひそめた。
「念のために伺いたいだけです」
「判りません。そんなことはこれっぽっちも頭になかったから、気がつかなかったのかもしれません」
「あなたが立ち去る際、車庫にあったのは秀一氏の車とあなたのBMWの二台だけですね?」
「ええ、それは確かです」
「家の周辺に駐まっていた車は?」
「ないですね。あれば気がつかなかったはずがありません」
「オートバイは?」
「見ていません。でも、林に隠してあったのなら判らなかったかもしれません」
ということは、やはり犯人は吉住よりも先に逃走している公算が大だ。吉住がBMWで去った後で犯人が逃走したのであれば、秀一の車を使うしかなかっただろう。しかし、彼の車は死体発見時に車庫にあった。まさか、犯人が日曜のうちに返しにきたというわけもあるまい。
「また話を変えます。──凶器らしきものはご覧になっていないんですね?」
「はい」
「あなたが現場から持ち出したものは、秀一氏のポロシャツとスラックス以外にありませんか?」
「ありません」
「記憶をたぐって下さい。あなたがカプセルに入る前と出た後で、現場に何か変わった点はなかったでしょうか? なくなったものや増えたものはありませんか?」
吉住は拳を額に押し当てて考え始めた。一分ばかりその姿勢を保ってから、ゆっくりと顔を上げる。充血したままの目には、悲壮感がこもっていた。
「自信を持って答えるのは困難です。何も気がつきませんでした」
「消えていることに気がついたのは、秀一氏の髭だけなんですね?」
「ああ、そうです。秀一の髭がなくなっていたことが違っていましたね」
「愚問を承知で伺います。頭から血を流して倒れている死体を見た時、それが秀一氏であることをすぐに確信できましたか?」
これには自信があるらしく、吉住の口調はきっぱりとしていた。
「確信しました。髭がない顔をいきなり見たのではなく、倒れている人間の体つきやヘアスタイルをまず目にしてすぐさま判ったわけですから、錯覚ではありません。体を揺するまで秀一の顔は目から上だけ見えていて、髭のなくなった鼻から下は肩の陰になっていて見えなかったんです」
火村は唇をなでて、少し黙り込んだ。部屋の中がしんと静まり返る。誰もが、吉住の話が信じるに足るものかどうかを慎重に吟味しているのだろう。
もちろん、私も私なりに考えていた。彼の話は野上の言うとおり『にわかに信じがたい』ものかもしれない。だが、でっち上げにしては細部まで説明がゆき届いていることが、彼にとって有利な材料だと思う。水曜日に現場を訪れた火村は、樺田の話を聞き、邸内をひと巡りした後でいくつかの疑問点を並べてみせた。吉住の証言は、その疑問点に呼応し、回答を与えることができるのではないのだろうか?
火村が現場で抱いたのは、疑問というより違和感に近いものだったのかもしれない。どうして犯人はわざわざ死体をフロートカプセルに隠したのか? 床を丁寧に掃除したのか? 衣類を持ち去ったのか? 現場は錯乱した状態であった。──火村はそれについて『それらは犯人の計画に基づいたものなのか、不測の事態に対応したものなのか』と自問していた。いい勘をしている。まぐれかもしれないが、彼は正しく混乱していたのだ、ということが今になると判る。犯人は相当に混乱していたようだ、と彼は推察しなかった。そのようでもあり、そのようでもない、と感じていた。これがポイントだったのだ。──吉住の供述をまるごと信じたなら、現場の錯乱状態の多くの部分は『犯人ではない、現場に居合せた第三者』によってもたらされたことになるわけだから。吉住証言を信じてもいい、という側に火村が傾きつつあるらしいのは、そのあたりのニュアンスに真実味を覚えているためかもしれない。
「火村先生、いかがです? 新たな確信が湧《わ》いてきましたか?」
野上がせっつくように尋ねた。火村は小指をポキンと小さく鳴らす。まさか部長刑事を挑発しているのではあるまいな、と私は心配した。
「彼の話が嘘《うそ》だとは思いません。すべてが事実かどうかはさておき、おおむね現実にあったことではないかと思います。というのは、彼が捜査をミスリードさせるために凝った嘘を捏造《ねつぞう》する必要もないと考えるからです」
そんな言葉に野上が納得するはずがない。彼は体の向きを変え、背もたれを大きく開いた股《また》で挾んだ。
「論理的に説明していただこうやないですか。吉住氏には嘘をつく必要が大ありやったかもしれんでしょう。堂条秀一殺害の動機があるんですからね。彼が得る利益は半端な金額やないんですよ」
不安げな吉住にちらりと視線を投げてから、火村は落ち着いてそれに応じた。
「私が彼をある程度信じる根拠は、鞄に詰めてコインロッカーに預けてあったあの汚れものの存在です」
「あれこそ彼が有罪である物的証拠ではないんですか?」
野上は反射的に言い返した。
「刺激的なブツがいきなり舞台表に登場したので、私も正直いって驚きました。事件の核心に関与したものでしか手にし得ないものですからね。しかし、実はあれこそ、彼は無実であるという印象を放射していはしないでしょうか? 彼があの鞄を大阪湾の海底に沈めてしまわなかったことを、彼のために祝福したい」
また講義口調になっていやがる。野上の苛立《いらだ》ちはさらに昂《こう》じていくようだった。
「いいですか、火村先生。あの鞄に入っていたのは、血に汚れた吉住氏自身のワイシャツとスラックス。それから、彼が自宅に戻るために着た秀一氏のポロシャツとスラックス。これは、先生の表現を使うんやったら『事件の核心に関与』した証拠です。言い換えたら『殺人を実行』したことの証拠でしょう?」
「私はそうは思わない。──被害者が頭に受けた傷は鈍器の殴打によるものであり、鋭利な刃物で創傷を負わされたわけではありません。出血はさほど多くなかった。ですから、被害者の着衣にはほとんど血痕が付着していませんでした。それはいい。妙なのは、吉住氏のシャツとスラックスにべったりと血がついていたことです。あれは返り血じゃない。明らかに、故意になすり付けられたものだということはお認めになるでしょう? 悪意をもって何者かが彼の衣類を汚したとしか考えられません。その何者かとは、あまりにも当然のことながら吉住氏自身ではない。彼が自分の服を殺人現場でわざわざ汚し、それを自宅に持ち帰り、鞄に詰めてコインロッカーに預けておく、などという行動をとったと考えるよりも、先ほど彼が語った話をそのまま信じる方が容易だ。──私が彼を信じる根拠とは、そういうことなんです」
樺田と野上は同時に腕組みをして、同じように口元を歪めた。吉住はどこか放心した様子。私は、立ち上がって火村に握手を求めたい心境だった。剃刀《かみそり》のごとき切れ味を発揮した推理ではなかった。それはごくありきたりの常識的な観察だったのだが、私の曇った頭には浮かんでこなかった見方だった。要するに、彼はあくまでも冷静に全体を見渡していたということだろう。
「信じて下さって、ありがとうございます」
ようやく極度の緊張がほぐれたようで、吉住はふだんのままの声で礼を述べた。火村はにこりともしない。
「吉住さんに義理や借りがあって言ったわけじゃありませんよ。警察はもちろんのこと、私だって真相が知りたい。そのために、あなたはできる限りの情報を提出しなくてはなりません。口はばったいようですが、秀一氏の遺体と現場にあのような細工をしたことの責任は重いんですから」
吉住はまた肩を落とさなくてはならなかった。樺田がそれに追い撃ちをかける。
「吉住さんにはまだまだ伺いたいことがあります。現場にご同行いただいて、検証に立ち会ってもらう必要もありますね。しかし、もうこんな時間です」二時を過ぎていた。「署の仮眠室に泊まっていただきましょうか。そうすれば、明日の朝から用事をすませることができる」
吉住は「いや、でも……」と口ごもる。
「でも、私の家はここから歩いても帰れなくはありません。また明日の朝、あらためて出頭するというわけにはいきませんか?」
樺田は派手に空咳《からせき》を払った。
「自分の布団《ふとん》でゆっくり休みたいというお気持ちは判りますけれど、ここにお泊まりいただいた方がわれわれには好都合なんです。ご協力いただけませんか?」
彼を解放したくないのだ。鎖のついた首輪で、警察署の柱につないでおきたいのに違いない。そして、私たちが抗議をするより早く、警部はこんな提案を加えるのだった。
「空いている部屋を使っていただきましょうか。ちょうどベッドが三つありますから、火村先生と有栖川さんもお泊まりいただけますよ。これからまたタクシーを呼んで大阪に戻るのは不経済でしょうからね」
火村は即座に答えた。
「そうさせて下さい」
そういうわけで、誠にありがたいことだが、私たち三人は灘署の仮眠室に宿泊することになった。樺田警部が火村と私のベッドまで用意してくれたのは純粋な親切心の発露ではなく、吉住を引き留めておくための餌《えさ》にするためだろう。窮地に陥って困惑している吉住に助言を与える機会を設けてくれたのだ、と善意に解釈することもできるが、真意はどちらか不明だ。
私たちはベッドに腰を降ろし、まずはひと息ついた。鉄パイプを組み立てたものに板を渡しただけのような簡素なベッドだった。こんなものがずらりと何十も並んだら、野戦病院の眺めになりそうだ。片隅の小さなテーブルに、何も活《い》けられていない花瓶と武骨な陶器の灰皿が一つのっていた。
「明日になったら、私は逮捕されるんでしょうか?」
憔悴《しようすい》をたたえた顔を火村に向けて、吉住が尋ねた。助教授は灰皿をベッドの上に置いて「さぁ」と言う。
「どう出てくるでしょうね。野上刑事などは、とりあえずあなたを勾留して締め上げたいと熱望しているかもしれません。叩《たた》けばすぐに吐くかもしれない、と信じてね。あなたが逃走する恐れというのは薄いと見てくれるかもしれませんが、証拠隠滅について危惧するかもしれない。難しい状況です」
「逮捕されるんですか?」
火村はキャメルをななめにくわえて火を点けた。
「責任を持って受け合うことはできませんが、あなたは泳がされるかもしれない。エースストライカー並みにしっかりガードされてね。現時点であなたを逮捕しても、起訴に持ち込むだけの証拠に欠けています。当局は何とか凶器を見つけ出したいところでしょう。あなたは血のついた服を後生大事に持って、手元から放していなかったわけだから、凶器もまだ処分しかねてどこかに隠している可能性がある。これを取りにひょこひょこ出向いたところが御用できれば、彼らにとって理想的だろうなぁ」
「そんなもの隠してませんよ。天地神明に誓って、私はやってないんですから」
「まぁ、落ち着いて。──どうです?」
火村が勧めた煙草を吉住はもらった。
「私はこの事件に強く惹《ひ》かれています。是非とも真相を突き止めたい。ですから、吉住さんが本当に無実だったなら、結果としてお力になれるでしょう」
「要するに、真犯人をあげて、彼の嫌疑を晴らすっていうことやな?」と私は言った。
「犯人があげられたらおのずとそうなるな。もちろん、その過程で吉住さんが犯人として不適格であることが立証できるかもしれない」
火村は指の間に煙草を挾んだ手でこめかみを掻《か》きながら言うと、吉住に向き直った。
「あなたの衝撃的な告白は大変興味深かった。刑事の前では触れませんでしたが、私が気になったのは、実は──あなたがフロートカプセルの中で見た夢のことです」
私は思わず首肯していた。夢の中に登場した堂条秀一に髭がなかったことがどうもひっかかったのだ。その夢を見た直後、目覚めた彼は髭のない秀一の死体と対面している。これはいわゆる予知夢の一種ではないか。事件の解明に関係はないだろうが、不思議な暗合だ。
「正直に話して下さい。いいですか、自分自身をだますのもやめて正直に告白して欲しいんです」
火村は懺悔僧《ざんげそう》のように吉住に迫った。
「あなたは堂条兄弟を憎んでいますか?」
吉住はきょとんとした。
「……どうしてそんなことをお聞きになるのか判りません。私には、憎しみもわだかまりもないつもりです」
「父親を彼らに独占されていた恨みはありませんか? 母親が法律上の夫を持てなかった恨みを、彼ら二人にぶつけてはいませんか? 彼らが不当に多くのものを所有していると感じていなかったでしょうか?」
「いえ……そうは、思いません」
火村は「そうですか」と言い、それ以上深く追及しようとはしなかった。吉住はそれでよけい気になったのか、質問の意味を尋ねる。
「何故、そんなことを聞いたんですか? 先生は心理学にも精通なさっているそうですから、夢判断という奴でしょうか?」
「灰が落ちますよ」
火村の言葉の意味がとっさに判らなかったらしく、彼は「え?」と聞き返した。
「煙草の灰ですよ」
火村は灰皿を差し出した。そして、前の問いに答える。
「夢判断なんてゲームみたいなものですから、私の絵解きを聞いてがっくりこないで下さいよ。──あなたの夢に何度も出てきた『蝋燭屋《ろうそくや》』という言葉が私には面白かっただけです。夢の中の秀二氏によると、あなたは彼ら二人が蝋燭屋だと言っていたようです。あなたはそれを自覚していなかったので、秀二氏にそれを指摘されて戸惑っていた。あなたが当惑したのも無理はない。夢の検閲官が採用した『蝋燭屋』という言葉を並べ換えると、『クソ野郎』という軽蔑《けいべつ》と憎悪に満ちた罵倒《ばとう》の言葉になるんですよ」
ごく初歩的なアナグラムだ。私は小説の中でその何倍もの長さのアナグラミングをしたことがあるが、これにはまるで気がつかなかった。
「眠っている脳がそんな洒落《しやれ》を言うものですか?」
「フロイト流に解釈するならば、夢の中でクソ野郎なんて露骨な言葉を出すと、あなたが無意識下に抑えてある憎しみが顕在化してしまうことになるので、脳は言葉の検閲を実施したのかもしれません。睡眠中の脳の洒落としては、まずまずの水準の洒落でしょう。『サルバドール・ダリ』のことを、彼の宿敵に回ったアンドレ・ブルトンが『ドル亡者』と揶揄《やゆ》したことをご存知ですか? あれなどはいかにも覚醒《かくせい》した脳の仕事で、Salvador DaliとAvidadollasの綴《つづ》り換《か》えなんですよ。うまいものです」
火村はにやにや笑ったかと思うと、すっと真顔に戻る。
「あなたが私たちに話したことで、訂正をするようなことはありませんか?」
吉住も神妙な顔になるよりなかった。
「金曜の夜のこと以外は、ありのままお話ししたつもりです。無意識については保証しかねますが」
火村はまたこめかみを掻《か》いた。
「イージーな俗流の夢判断にこだわるつもりはありませんが、あなた方三人のご兄弟の間に、わだかまりや反発が伏在していた気配を私は嗅《か》いでしまいました。秀一、秀二の両氏の関係も、これまで何人かの方に聞いてきたより複雑だったのかもしれない。いかがですか?」
「二人の兄についてお話ししたことに嘘《うそ》はありません。本当にそうなのか、と詰問されれば、よく知りませんと答えるしかありません。──さっきもフロートカプセルの扱い方を知っている人間ということで名前が出ましたけれど、火村先生は秀二さんを疑っているんでしょうか?」
彼は声を低めて尋ねた。そして、火村が煙草をふかす間に、返事を待つのももどかしげに言う。
「お聞きになっているかどうか知りませんが、秀二さんは車の運転ができません。ご本人の主義だとかで、運転免許を取得していないんです。バイクにも乗れません。ですから、現場へ行き来することができないわけで、犯人の条件を欠いていると思います」
「そんなことはありませんよ」と火村はさらりと言った。「現場には、秀一氏の車に同乗してきたのかもしれない。つまり、あなたよりも先にあの家に到着していたとも考えられるわけです。誰かが自分よりも先にきていた可能性をあなたは否定しなかったじゃないですか」
「ええ、それは否定しません。でも、現場から逃走する時はどうしたとおっしゃるんですか? 家まで送り届けてくれる人間は誰もいなかったはずですよ。映画の私立探偵のように私の車のトランクにひそんでいたんでもない。そこには……例のものを入れましたから」
「ハイヤーを呼んだはずもありませんしね。とすると、のんびり歩いたのかもしれません」
「まさか……」
「心地よい春の夜風にふかれながら、ね」
「それはないですよ」吉住は納得しかねていた。「てくてく歩いて逃げたんなら、私が車で逃げる時に追い抜いたはずです。そんな人影はありませんでしたよ。ヘッドライトに気がついて、さっと身を隠したんだろう、とでもおっしゃいますか? ピンときません。それに、山を下りるだけならまだいいとして、大阪まで歩いて帰ったわけはない。電車も走っていないし、途中でタクシーを拾ったんですか?」
そう考えるぐらいなら、まだ、もっとありそうなことがある。
「堂条秀二ともう一人、運転ができる何者かが一緒にいたとしたら逃げられたやろう」
「ほぉ、その第四の人物も俺より先に着いてて、二階のどこかに隠れてたっていうのか? 千客万来やな。いくらなんでも、それはなぁ。──どうです、先生?」
「すべて保留しましょう」
相変わらず堂々と宣言してくれた。そして──
「あなたのお話の中で重要だったのは、死の間際の秀一氏が、鷺尾優子さん争奪戦に勝利する自信を覗《のぞ》かせていたことです。単に負け惜しみを言っていただけなのか、それとも本心からの言葉だったのか、そのあたりはいかがですか?」
「微妙なところです。自信の片鱗《へんりん》のようなものを覗かせていたのは事実ですが、それらしいことを言った端から、不安そうな声になったり……。一応の勝算は得ているものの、まだ不安材料も多い、という感じだったかもしれません」
「鷺尾さんの言質《げんち》を取っているとか、長池氏の失策なり退却なりを予期しているとか、自信の根拠を示そうとはしなかったんですね?」
「はい」
火村は立ち上がって、二本の吸い殼が入った灰皿をテーブルに戻した。
「今日は弁護士にお会いになっていたんですね。遺言に不自然な条項はありませんでしたか?」
「いいえ。私が半分を相続できるという指定について、優遇されすぎではないか、と疑義を差し挾む人はいるかもしれませんけれどね」
「そのことに対して、秀二氏の反感を買っているということは?」
「秀一さんから聞いていたのか、彼は承知していたようです。面白くなさそうな素振りも、嫌味の一つもありません」
「鷺尾さんに何かを贈与するとか、彼女に利益をもたらすようなことはありませんでしたか?」
「一切ありませんでした。顧問弁護士によると、その遺言状が作成されたのは四年以上前のことだそうですから、鷺尾さんへの言及があるはずがありません。──ひょっとすると、先生は彼女まで疑っているんですか?」
「あれ、そんなふうに聞こえましたか?」
吉住はただちにイエスと答えた。
「とんでもなく邪悪な計画が浮かびましたよ。彼女は長池さんとできていながら、秀一さんの気を持たせるべく曖昧《あいまい》な態度をしばらくとり続けておいて、頃合いを見て結婚をほのめかす。そして、秀一さんが遺言状の書き換えをするように巧みに誘導して、それが完了した時点で彼を殺害する。──そんなことをお考えになったんやないですか?」
火村は笑った。
「あなたは時々、恐ろしく先回りするんですね。そんな無理がある殺人計画を思い描いていたわけではありません。ただ、関係者のみんなに犯人像を重ねて、着せ替え人形をしていただけです」
「では、長池さんも疑えないではありません。今言った計画を鷺尾さんと二人で練って、彼が手を下したのかもしれない」
「そこまで言うんやったら、相馬という室長も仲間に入れてあげた方がええんやないか」
私は言った。「どうして?」と吉住は聞く。
「彼も鷺尾さんに求愛をしたことがあるからや。彼女が入社してきた当初のことらしいけどな。やんわり拒まれた上、社長と部下の長池による戦いが始まったので、これでは見込みがないと諦《あきら》めたらしい。けれど、それは外からの観察にすぎない。胸の奥では激しく嫉妬《しつと》してたかもしれん。現実には長池が勝ちを掌中に納めていたらしいけど、相馬の目には地位と経済力にものをいわせた社長が優勢と映っていたとも考えられる。それで、憎しみのあまり──」
私は止められる前に発言をやめた。
「──というようなストーリーも無理がありすぎるな」
「いい子だ、自分で気がついて。しかし、別の事実と結びついて脚光を浴びる局面が訪れるかもしれないから、どこかにしまっておけよ」
火村は欠伸《あくび》を噛《か》み殺しながら言った。
「……疲れました」
欠伸の連鎖反応を起こした吉住が、目をこすりながらぽつりと言う。火村はやれやれというように肩をすくめた。
「お疲れでしょう。──それにしても、やってくれたもんですね、吉住さん。派手に現場を掻《か》き回してくれたわりには、有益な情報をほとんど提供してくれなかった。離陸したのも束《つか》の間、天候不良で出発地に逆戻りする飛行機に乗せられたような気分です」
「すみません」
「謝罪はもういいですよ。とにかく希望を胸に朝を待ちましょう。そして、運よく解放されたなら、一切の不審な挙動を避けていつもどおりにふるまって下さい。もう隠しごとはないわけでしょ?」
「ありません」
「結構。──もう三時ですね。そろそろ休むとしましょうか。長くて苦しかった一日も終わりです」
消灯した後、昨日一日、カナリアに餌《えさ》をやっていないことに私は気がついた。
明け方。
「あの髭が、判んねぇよな」
そんな火村の寝言を聞いた。
翌朝、八時から緊急の捜査会議が開かれた。火村が刑事部長の要請を受けてそれに出席している間、吉住と私は不安を抱えたまま休憩室で待機する。会議は一時間ほどで終わった。
「どうやった?」
出てきた彼に尋ねる。執刀医に手術の成否を聞く心境だ。火村は「まぁまぁだ」と、とぼけた返事をした。
「おい、何がまぁまぁや。こっちはやきもきしてたんやから、真面目にやれよ」
「俺は自分が怖くなるぐらい真面目だぜ」と言ってから吉住を見る。「あなたの供述に一応の一貫性があることが認められています。現場であなた立ち会いの元に再調査を行なうことになりましたから、私たちもそれについていきます。あったがままのことを、落ち着いて話すようにして下さい。うまくいけば、犯人をつきとめる突破口が開けるかもしれない」
「できる限りの努力をします」
「秀二さんには連絡しましたか?」
吉住ははっとしたようだった。
「いいえ。電話をすることなんか思いつきもしませんでした。これから会社の方にかけてみます」
「その必要はありません。警察から一報を入れたそうですから。彼とは六甲の現場で会えるでしょう」
「そうですか……」
彼は気が重そうだった。
そんな私たちのやりとりを、野上がドアの陰から覗《のぞ》いていた。
近所の喫茶店のモーニングを取り寄せて署内で朝食をすませ、六甲の現場に出発したのは十時前だった。吉住は樺田警部と同じ車。火村と私は別の車で、むっつり黙り込んだ野上の後ろに座った。今日はよく晴れてるだのさっきのコーヒーはうまかっただの、乗ってしばらくは雑談の種を蒔《ま》いていた火村だが、車が山を登りだすと口をつぐみ、道路の両側に交互に目を配っていた。まるで、風景の中に封印された意味を探り出そうとしているかのようだった。
現場に到着すると、早速、吉住は当夜の様子の再演を命じられた。秀一に招き入れられたところから克明に話すことを求められ、彼は額に汗を浮かべながらそれに応えていく。火村は腕組みをしたまま、ただじっと見守っていた。吉住の供述がどこかで齟齬《そご》をきたし、破綻《はたん》するのではないかと私ははらはらしていた。おそらく捜査官たちは舌なめずりをしながらそれを待っているのだろう。誰も彼もが険しい目付きを注ぎ、語気鋭い質問をさかんに浴びせる。しかし、彼らが期待する瞬間はなかなか訪れはしなかった。
「血の跡がフロートカプセルの部屋へと続いているのは、被害者が吉住さんの助けを求めようとしたためだと考えれば、筋は通る」
ハンチングをかぶった初老の刑事がそんなことを言いだした。そう見るのは早計である、と野上の他何人かが反論した。意見が割れる。とにかく、ごく一部であるにせよ、吉住証言に説得力を認める刑事が現れだしていることは確かなようだ。
検証の途中、秀二が営業車で駈けつけてきた。湯川部長が運転手を務めてきたようだ。秀二と対面した吉住は自嘲《じちよう》めいた笑顔を作りながら「厄介なことになりました」と小声で言った。
「車の中に馬場《ばば》先生がいる。二階に上がっていてもらうから、後で一緒に相談しよう」
馬場先生とは、堂条兄弟の顧問弁護士だということだった。吉住は恐縮しきった様子で礼を言った。
現場検証が再開されると、秀二は一番後方からそれを見ていた私にすり寄ってきた。
「有栖川さんとおっしゃいましたね。教えて下さい。かなり深刻な事態なんでしょうか?」
私は彼に軽く背中を押されながら、リビングの外のホールに出た。湯川はわが身を持て余したように、階段脇に突っ立っている。案外、しっかりと聞き耳をたてているのかもしれない。狭いホールに私たちの小声の会話はよく反響し、彼が耳を澄ましていなくても筒抜けだろう。秀二はそんなことにかまってはいないらしかった。
私はことの経緯を説明し、火村が吉住の供述に信憑性を認めていることを付加した。秀二の表情は終始難しげで、火村の見解にも愁眉《しゆうび》を開くことはなかった。彼の胸中に渦巻いているものが吉住への同情なのか、疑惑なのかは判らない。激しく混乱しているのかもしれない。もちろん、それは彼自身が犯人ではないという前提でのことだが。
「とんでもないことになった。こんな馬鹿騒ぎに巻き込まれるとは、思ってもみませんでしたよ」
彼はホールにぐるりと飾られた石版画を忌々しそうに見回しながら、囁《ささや》くような声で悪態をつく。
「これまで営々と築いてきたものが、世間の嘲笑《ちようしよう》にさらされているようで耐えられない気持ちです。今朝の朝刊にも、この事件を面白おかしく取り上げた週刊誌の広告がいくつか載っていましたよ。悲劇ではなく、喜劇だ。どこか滑稽《こつけい》な事件だと報じているようです。ダリの真似をした兄のキャラクターが元々コミカルだったところに、殺されて、裸にされて、髭を剃《そ》られて、おかしなタンクにほうり込まれていたっていうんですから、そんな反応にもなるんでしょうか。殺人事件を面白がるなど不謹慎極まりないことですが、私だって立場が違えば同じものを面白がるかもしれませんしね。この上、腹違いの弟の遺産目当ての犯行だった、ということになったらどうなることやら」
私にまるで警戒感を抱かないのか、彼は多弁だった。
「吉住君が今、切実に金を欲しがる理由なんかないことを私は知っています。動機はないと言っていい。それなのに、他で適当な人間が見つからないものだから……」
彼はまた壁の絵を眺める。
「兄とダリの大きな相違点は、兄が他人の目を非常に気にした、ということでしょう。あんな髭を生やしたりして目立つことは好きだったものの、恨みや妬《ねた》みを買うことは避けたがった。ダリは『攻撃されると自分は有頂天になる。成功の温度計は満たされない連中の嫉妬《しつと》だ』という意味のことを言っていたそうですが、兄にはとても到達できない境地でしょう。がみがみ口やかましく言いながらも、その反面で部下の目をとても気にしていましたしね」
「ということは、世間で思っているほど剛胆な人ではなかったんですね?」
「剛胆な一面もありましたが、ある面ではごくナイーブでした。あの繭《まゆ》がその象徴でしょう」
「サルバドール・ダリのように、ご自分のことをある種の天才だと信じていたということはあるでしょうか?」
「『神のごときダリ』と自称した男と比べられる人間はいませんよ。兄は自分の中に天才など見出していなかったと思いますよ。ただダリの生き方に共鳴して、憧《あこが》れていただけですよ」
私たちの会話はそこで中断された。警察と吉住による現場検証が一段落し、彼らがぞろぞろとホールに出てきたからだ。最後に出てきた火村は「まぁまぁだ」とまた私に耳打ちした。吉住は、しばし秀二と話すことが許可された。秀二はすぐに異母弟を弁護士の元へ連れていく。後には湯川が取り残された。
「外へ出ませんか」と火村は声をかけた。
「社内の様子はどうですか?」
砂利を敷いた庭をぶらぶら歩きながら火村は尋ねる。
「動揺していますよ。刑事の出入りだけやなしに、マスコミの連中がのこのこ入ってきたりするし、冷やかしのお客も多い。私も仕事がろくに手につきません。早いところ解決していただかんことには、当分こんな状態が続くでしょう」
湯川の声は冴えなかった。
「社長の死を発見して以来、ここにくるのは初めてですか?」
「はい。立派な邸宅ですが、何かひとときの栄華の跡のようで、虚《むな》しいですね」
彼は煉瓦《れんが》造りの家を振り仰ぐ。一陣の風が吹き、薄くなったその頭髪をなぶった。
殺人現場にはダリのコレクションが控え目に飾られていた。下界では、クリスマスのデコレーションのような輝きが瞬《またた》いていた。そして、堂条秀一は真っ暗な水に浮かんでいた。無残な死。ソロモン王の栄華に模するにはあまりにもささやかだったとはいえ、彼もまた小さな王国を持っていた。もう少しましな死に方があったろうに。一台のパトカーが門前に停車するのを、私はぼんやりと眺めていた。左右のドアが勢いよく開き、刑事が飛び出してくる。彼らの硬い表情を見て、初めて緊迫したものを感じた。おそらく、吉住にとっていいことか、よくないことか、のいずれかが発生したのだ。
「何か見つけたな」
そう言うが早いか、火村は足早に刑事の後を追って玄関に向かった。湯川と私は顔を見合わせてから、おっとりと続く。
リビングはちょっとした騒ぎになっていた。階上から呼び戻された吉住に何かを示しながら、樺田が説明を求めているのを、私は刑事たちの肩の隙間《すきま》から覗《のぞ》き込む。一同の中央、テーブルの上にのせられているのは、二足の男ものの靴だった。黒靴と茶のカジュアルシューズ。
「はっきり答えて下さい」
樺田の苛立《いらだ》ったような声が飛んだ。吉住は唾《つば》を飲み込むしぐさをしてから──
「黒は兄の靴、茶色は私の靴です」
「絶対に間違いありませんね? ──秀二さんはご覧になっていかがですか?」
「黒い方には見覚えがあります。確かに兄はそんなのを履いていました。吉住君の靴については知りません」
副社長は迷う様子なく即答した。
どうやら殺人現場から犯行の直後に持ち去られた──と吉住が証言した──秀一と彼の靴が発見されたらしい。どこから、何故今になって現れたのか、私は大いに興味をそそられた。その場の全員が食い入るような眼差《まなざ》しを靴に向けている。だが、驚くのはまだ十数秒早かったのだ。
「では、これはどういうものですか?──あれを」
警部は傍らに立つ手袋をした刑事──たった今、駈けつけた刑事だ──に目顔で命じた。部下は、提げていた布袋から何か細長いものを取り出し、ゴトリとテーブルに置く。私は首を突き出して見たのだが、靴と違って、それが一体何であるのかが、すぐには判らなかった。
何かをかたどった置物だということは判る。青銅色をしており、高さは三十センチ余り。現代的な彫刻らしかった。
「さぁ、これは知りません」
吉住が言うと、秀二も首を傾げる。演技をしているふうではなかった。
「存じませんね。何なんですか?」
樺田は二人の目を交互に見ながら、ゆっくりとそれに答えた。
「ここから二百メートル下ったところに小さな川がありますね。その下流側の川岸の叢《くさむら》に落ちていました。先にお見せした二足の靴と一緒に転がっていたんですよ」
ことの重大さが判った。現場から犯人が持ち去った靴と一緒に発見されたということは、この置物が凶器だということではないのか? 見たところ血などは付着していないようだが、台座の上のくびれた部分を握って振り回せば、凶器としていかにも使い勝手がよさそうだ。
警部は白い手袋をした手で証拠物件を持ち上げて、よく見ろ、というように吉住と秀二の前に突きつける。おかげで私にもよく見えるようになった。それは紗《しや》をまとった天女か女神の像らしかったが、いかにも粗雑な造形で、とても芸術品と呼べた代物ではなかった。まさか、こんな陳腐なものをダリ社長が飾っていたとは思えないのだが。
「もしかすると、兄はこれで頭を殴られたということですか?」
秀二が、大きな指輪の嵌《はま》った人差し指で指しながら尋ねた。警部は言明を避ける。
「まだ、そう決めつけるわけにはいきません。これから科学捜査研究所に運んで、詳しく調査することになるでしょう。とにかく、事件に大きな関連性があることは間違いがありません」
後ろから誰かが背中に圧力を加えてくるので、私は体を横にずらして場所を空けようとした。押してきたのは湯川だった。彼は興奮した様子で、ずり落ちてくる眼鏡を掛け直しながら、さらに前の刑事の肩に手を置いて身を乗り出す。そして、舌をもつれさせながら何ごとかを訴えようとした。
「そ、それは、私、見覚えが」
樺田の首がくるりと振り返った。
「知っているんですか?」
「はい」湯川は胸をはった。「去年の秋、社員旅行で伊勢志摩《いせしま》に行った時に見ました。土産物屋《みやげものや》で売っていた置物です。どこかで見たんやけどなぁ、とさっきから考えていて、ようやく思い出しました」
樺田は手の中の置き物にちらりと視線を向けてから、秀二に質問した。
「いかがですか、副社長? あなたも記憶していますか?」
「いいえ、ありません。知人に不幸があって、その秋の旅行に私は参加していないからです。──湯川部長、刑事さんにもっと詳しく話して下さい」
湯川はハンカチを取り出して、顔中に噴き出てくる汗を拭《ぬぐ》った。
「はい。二日目に鳥羽《とば》の真珠島に渡ったんですが……いやいや、ミキモトがそんなものを売るはずがないな。確か、その後で寄った水族館の近くの土産物屋の奥の棚に陳列してあったものだと思います。あまりにも不恰好で、俗悪なデザインなので、みんなで『こら、あんまりやで』と笑っていたら、長池君が『ここまでくると芸術品です』と言って……」
「買ったのか?」
野上が色めき立った。
「はい。キッチュなのが気に入ったそうです。さすがにデザイナーはセンスが凡人と違うな、とみんな呆《あき》れて、また笑いました。結構、いい値がしたはずです」
女神の両眼に、変形した真珠が象眼してあることに気がついた。なるほど、ご当地オリジナルの土産物ということか。
「長池伸介が購入したんですね? 他に同じものを買った人間は?」
樺田は唾を飛ばして尋ねた。
「いません。長池君だけが買いました。お確かめになりたいのなら、うちの本社の社員たちに聞いてみて下さい。みんな覚えているはずです」
「くそ、長池か!」
野上は右の拳で左の掌をパシンと叩《たた》いた。
「彼は出社していますね?」と樺田に聞かれて、湯川は頷《うなず》く。
「デカ長、彼にこの目のきれいな美女とご対面してもらおうじゃないですか。捜査本部にご案内しようか」
「善は急げ、ですな。遠藤を連れていきます」
部長刑事は、若い部下を顎《あご》でしゃくって誘い、よれよれのスーツの裾《すそ》を翻して出ていった。いつの間にか、隣りに火村が立っていた。
「急展開やな」
「これじゃ火村先生はつらいよ。なかなか真価が発揮できなくて」
彼は、人差し指で唇《くちびる》をゆっくりとなでていた。
それから彼は樺田の元へ寄り、靴と凶器──らしきもの──発見の経緯について尋ねた。警部はまだ真珠の目の女神を手にしたままだ。
「まるで、早くに見つけてどこかに隠していたものを、ひょいと持ってきたようなタイミングだな、とお思いになっているかもしれませんね。これは純然たる偶然ですよ。吉住氏がぎょっとするようなものを引っぱり出してきたので、それと突き合わせるために何としても凶器を見つけ出せ、と発破《はつぱ》をかけはしました。しかし、それがこんなにすぐに結実して、正直なところこっちが驚いています」
「ずっと前から続いていた捜索がたまたま今朝、成果を出したということですね。そりゃそうでしょう。たまたまに決まってる。そんなことは全然気にもならない。ご同慶の至りだ。それより──」
火村は邪魔くさそうに言ってから、人差し指を立てた。
「もう一度聞かせて下さい。あれらの品は、川の下流の川岸に転がっていたんですね?」
「はい。お断わりしておきますけれど、河原にごろごろ転がっていたんではありませんよ。それならもっと早くに見つかった。手間どったのは深い叢《くさむら》の中に埋もれていたからです」
「ええ、そうでしょう。ところで、下流ということは、山を下る際、進行方向の向かって右側になる。これは吉住氏にとって有利な材料になりますね?」
警部はぱちぱちと瞬《まばた》きする。
「どうしてですか?」
「犯人は逃走する車の窓からやばい品を投げ捨てたんでしょう。運転席のある右の窓から捨てたとすれば、下流の河原にそれらが転がったことは納得がいきます。ところが、その犯人が吉住氏であったとなると、いささか都合が悪くなってしまうんじゃないですか? それは、彼の愛車がBMWだからです。そのステアリングは左側についているでしょ? 窓から何かを捨てた場合、靴や凶器は上流に落ちたでしょう。もちろん、蓋然性《がいぜんせい》の問題ですが」
「犯人は車から降りて捨てたのかもしれませんからね」
警部は鼻白《はなじろ》む。火村はにこやかな笑みを浮かべて相槌《あいづち》を打った。
「そうですねぇ。しかし、忙しい時にわざわざ車を止めることもなかっただろう、とも思えます。車から降りなかったのなら、やはり左側の窓から捨てたでしょうねぇ。狭い車内で窮屈な思いをしながら、右側の窓へ手を伸ばす必要はなかったはずだ。ガムの噛《か》み滓《かす》を路上に捨てるんならまだしも、ちょっとした遠投をするんだから」
警部は苦笑いをした。
「参考意見というところですね」
噂《うわさ》の吉住氏は、壁にもたれて何とか両足で立っていた。
第八章 生者たちの繭《まゆ》
灘署に連れてこられた長池には、ものおじした様子がなかった。醜悪な真珠の女神の写真を眼前に突き付けられてもひるむことなく、平然としている。もし彼が犯人だとしたら、よほど肝が据わっているということになるだろう。
「これがどうかしたんですか?」
そう言って上げた目は、むしろ涼しげだった。
「湯川部長から聞いていますよ。この置物はあなたが鳥羽水族館近くの土産物屋《みやげものや》で買い求めたものですね?」
真正面に掛けた樺田がねっとりと尋ねた。その隣りには野上が座り、火村と私は今回も壁際の椅子《いす》をあてがわれて傍聴させてもらっていた。捜査が決定的に進展する瞬間に立ち会えるかもしれない、と私は緊張で硬くなっていた。
「ええ、同じものを持っています」
あくまでも冷静な長池に対し、警部も焦らずに質問を重ねていく。
「あまりいい出来の置物だとは思わないんですけど、こういうのが玄人《くろうと》好みなんでしょうか?」
「いえいえ、玄人はよけい相手にしませんよ。私がこれを買ったのは、不出来ながら作者の思い込みのようなものが伝わってきて好もしく思えたからです。素朴派の絵画を愛《め》でる気持ちに通じるとでも言うかなぁ。それがまた土産物屋の世俗的なグッズに埋没している情景がいじらしくて、連れて帰ってやることにしたんです。それに──」
彼は女神の両目を示した。
「お気づきでしょうが、この目に嵌《はま》った二つの真珠はきれいな球形ではなく、片側に歪《ゆが》んだ涙の雫《しずく》みたいになっていますね。異形真珠で、こんな形になったものをドロップと呼びます。天然真珠の屑《くず》なんだろうなぁ。本来は売り物にならないんですが、それをうまく使っています。このドロップのおかげで、何とも味のある表情になっています。相馬室長なんかは『こんなもの』と言って嗤《わら》ってましたけれど、偶然がいい効果を出してて面白いですよ。二万円は高かったけどなぁ」
そんなものだろうか?
「同じものを持っているとおっしゃいましたね。同じものというより、これはあなたが社員旅行の折に買った像そのものなんではありませんか?」
「いやぁ、そんなことはないでしょう。私が買ったのは家にありますから」
「今、現在もですか?」
「はい。少なくとも、今朝、家を出る時にはちゃんとありましたよ」
応答のリズムが乱れ、警部の言葉が一瞬遅れた。
「出勤前というと、午前八時頃でしょうか?」
「正確に言うと七時四十五分ですね。いつもその時間に千里の家を出ます。その時点であったことは間違いありませんよ」
長池はそこで卓上の女神像写真の顔をしげしげと覗《のぞ》き込んだ。そして、何か確信を得たように頷《うなず》いて──
「この目、さっきも説明したようにドロップといってできそこないの真珠ですから、区別がつくんですよ。いびつに歪んだ形がうちにあるのとは違っていますね。ちょっと見たら判ることですよ」
なるほど。宝石を見慣れたプロならなおさら違いがよく識別できるだろう。
「あのね、長池さん」
警部の口調ががらりと変わり、相談を持ち掛けるようなものになった。
「ぶっちゃけた話をしよう。あなたと私の間にあるこの女神様は、堂条秀一氏殺害に用いられた凶器であることがほぼ確実なんですよ」
「……これがですか?」
宝石デザイナーが初めて驚きを表わした。
「そう。現場近くで今日の午前十時頃に発見されました。その時一緒にいた湯川さんから、これはあなたが去年の秋に買った品物であると聞いたのでお呼び立てしたんです。しかし、あなたは自分が買ったものは今朝も自宅にあったと言う」
「ええ……ですから、この机の上にあるのは私のじゃない」
「それならこいつは誰の持ち物だ、ということになる。が、その前に是非とも確認しておかなくてはならないのは、あなたの今の話が本当かどうかということです。ご理解いただけますね?」
「もちろんです」長池は右手で髪を掻《か》き上げた。「いやぁ、どうしてこんなおかしなことになったのか判りませんけれど、この凶器が私のものでないとすぐに証明したいですね。できることなら刑事さんにご同行いただいて、私の家に見にきていただきたいと思います」
「そうしましょう。ただ、ですね──」
「はい?」
「長池さんのお宅にこれと同じものがあったとして、それが昨年の秋にお買いになったものだという証明はできないでしょう?」
「おっしゃることがピンときませんけど……」
長池は落ちてきてもいない髪をまた神経質に掻き上げた。
「こっちは勘繰るのが仕事ですからね。つまり、先週金曜日の夜にあなたが自宅から持ち出した女神像で堂条氏を殺し、それを捨て去った後に、伊勢まで日帰り旅行をして同じものを買ったという可能性を否定することはできないでしょう?」
どうしてそんなことをしなくてはならないのだ? 意味がないではないか、とオブザーバーの私は思った。
「どうしてそんなことをしなくてはならないんですか?」長池もすぐさま聞き返した。「今おっしゃったことは理解できませんよ。まず、何故、私が自宅の置物を凶器に使おうなんてするんです? 殺人犯の心理としてしごく不自然です。私は殺人の経験はありませんが、実行するとしたら、足がつかないようにどこにでもあるありきたりのものを凶器に選ぶでしょう。それに、後でわざわざ伊勢へ行って買い直すぐらいなら、女神像を現場付近に捨てるなんて行動をとるはずがないと思いますけど」
警部は、まぁまぁというように両掌を相手に向けた。
「全くそのとおりなんですけどね。その理屈に加えて、あなたの家に鎮座しているのがまぎれもなく去年の秋に買った女神像そのものであると立証する手立てがあれば完璧《かんぺき》だ、と思ったんですよ」
長池は臆《おく》しないばかりではなく、堂々と警部に反論をするようになっていた。
「無理ですね。例えばですよ、うちの女神像をお見せしながら『これは確かに去年買ったものです。ほら、この傷は今年の三月三日に落としてつけたものなんです』なんて私が言ったとして、信じていただけますか? いや、実際にはそんな目立つ傷や汚れもないはずだから、私自身、断言しかねるかもしれません。もしも、『お前が留守の間に忍び込んだ何者かがすり換えたという可能性はないか?』という突飛な質問を受けたら、『そんなことはあり得ない』と言えません」
警部は含み笑いを漏らした。
「長池さんのおっしゃることはごもっともです。とにかく、ご自宅の女神像をあらためさせていただくことが先ですね。野上刑事が同行します」
「それなら善は急げ、ということで」
二人が退出すると、樺田はくるりと椅子ごと振り向いて「いかがですか?」と火村に抽象的な質問を投げた。助教授は下唇のラインを人差し指でなぞっている。
「どうにもこうにも錯乱状態が続いていますね。長池氏がぶつけてきた疑問が私の頭の中でもエコーしている。確かに、彼が犯人だとしたら、あんな特異なものを凶器に使う道理がありません。出所をたぐりやすいなんてもんじゃなくて、購入する現場を大勢の同僚に目撃され、からかいの材料にまでされたことがある品ですからね。まさか、たまたまそれを携えて堂条氏を訪問したところ、激昂《げつこう》することがあって、発作的に手にしていた女神様で殴り殺してしまった、ということもないでしょう」
「警察の嫌疑が長池氏に向くように真犯人が誘導しようとして、あんな特徴のある置物を凶器に用いた、ということはないか?」
私は深く考えもせずに言った。
「しっくりこないな、アリス」と火村。「長池伸介が持っている置物と同じものを手に入れ、それを凶器に使ったら彼に濡衣《ぬれぎぬ》を着せることができる、と真犯人が考えたんじゃないかって? それは短絡的すぎる。いや、お前が短絡的なんじゃなくて、それが策略だとしたら、真犯人の思考が短絡だって言ってんだぜ」
同じことじゃねぇか。
「そんな甘い期待を真犯人がしたとは考えにくい。これがまだ長池氏が持っているのと同じナイフを凶器にしたとかいうんなら理解できるさ。ところが、現実に使われたのは旅行の土産《みやげ》の置物なんだ。警察だって『長池伸介が犯人なら、わざわざこんなものを使うだろうか?』と疑問に思うに決まってるじゃないか。──しかも、警察に問い質されれば、長池氏は『私の買った女神像はちゃんと自宅にあります。何なら実物をお見せしましょう』と言って、それを容易に立証してしまうだろう。
要するに、長池伸介が犯人であっても、別の何者かが彼を罠《わな》に嵌《は》めようとしたんだとしても、どうして女神像が凶器に使われたのかということの説明はつかないままというわけだな」
「それが錯乱状態ということか?」
「そう。──もしかすると、この事件の謎《なぞ》は新たに舞台に登場してきたこの凶器に集約されるのかもしれない。何故、凶行に際して犯人はこんなものを選んだのか? あるいは、こんなものを使わざるを得なかったのか?」
「現場から立ち去る途中でその女神様をぽいと橋の上から投げ捨てたことも含めて」
こう言うと、火村は今度は素直に頷《うなず》いた。
「確かに。──犯人は凶器が発見されることを覚悟していたのかもしれない。何が何でも隠したかったのなら、もっと慎重に処分する手立てがあっただろうからな」
「吉住を信じるんなら、堂条秀一の死体がフロートカプセルに入っていた理由やら何やらが判ったわけやけど、どうしてあんなものが凶器なのかは理解できんな」
「何故、死体に髭がなかったか、もだ」
火村はすねたように言った。
そんなやりとりを無言で聞いていた警部が口を開きかけたところに、一人の刑事が飛び込んできた。凶器を見つけたブツ班の刑事だ。
「指紋が出ました。一つだけですけど、鮮明な拇指紋《ぼしもん》です」
「こいつに遺ってたんだな?」
警部は女神像の写真を指しながら、色めき立って問い返した。
「はい。くびれた脚の部分は拭《ふ》き取った形跡がありましたが、首の裏に」
「照合したか?」
凶器から検出された指紋と何とを照合したのか、その時は判らなかった。
「はい。一致する人物がいました」
「誰だ!?」
大声で尋ねる警部に、部下も興奮した様子で答える。
「長池伸介の上司の、相馬です」
「なんてこった」火村は私の肩を肘《ひじ》で強く突いた。
「こりゃ駄目だ。わけが判んねぇぞ、畜生」
樺田警部と遠藤刑事の車に同乗させてもらい、私たちも心斎橋に急行した。
ジュエリー堂条に乗り込む直前、警部は遠藤に命じて捜査本部に電話を掛けさせた。長池の自宅に赴いた野上から連絡が入っていないか、と聞くためだ。そして、短い電話を終えると、遠藤はその内容を私たちに伝える。
「長池の家には、ちゃんと土産物の女神像が飾ってあったそうです。凶器と全く同じ製品です」
「すぐにばれる嘘《うそ》をつくはずもないと思っていましたけれどね」
火村は開き直ったように落ち着き払って言った。
「とにかく長池の影は薄くなりました。相馬に筋の通った説明をしてもらおうじゃありませんか」
警部は力士のように両の頬を掌で叩《たた》き、気合いを入れた。
私たちが駈けつけた時、相馬は部内ミーティング──もちろんその中に長池はいなかった──の最中だったが、呼び立てられるとすぐに応接室に飛んできた。待ち構える警部の表情から、ただごとではない、という雰囲気を察したのだろう。一瞬、ひるんだように戸口で足を止めた。
「あの……どういったご用でしょうか?」
樺田警部、遠藤刑事、火村、私の顔を順に見ながらソファに掛けた彼は、さかんに瞬《まばた》きをしながら来意を聞く。
「社長さん殺しの捜査が今朝になって進展をみましてね。凶器が発見されたんですよ」
「ああ、そうですか」
そんなことは自分と関係ないではありませんか、と目が訴えている。
「凶器は鳥羽で売られている女神をかたどった置物です。ブロンズ製で両目に真珠が象眼してあるんです」
警部がひと呼吸措《お》くので、相馬は何か言葉を挾まなくてはならないような気分になったらしい。
「鳥羽の土産……。ああ、そんなのがあるのを知っています。去年、社員旅行で行ったことがありますから」
「覚えてらっしゃるんですね?」
「はい。そのようなものがあったことは。……そ、それが凶器だとおっしゃいました?」
「はい」
相馬は口元に右手を当てたまま、何かに考えを巡らしているようだった。副社長といい彼といい、商売がらか女性的なしぐさが目につく。
「去年の社員旅行の際、その置物を買った方が社内にいましたね?」
「はい」という返事。
「それは長池伸介さんですね?」
やはり「はい」
「他にいませんでしたか?」
答えは「いいえ」に変わった。
「これは重要な質問です。長池さんと同じ置物を買った人は本当にいなかったんですね?」
「いません。決してセンスのいい品物ではありませんでしたから、『お前、こんなものを買うのか』と私たちははやし立てたぐらいです」
「あなたも買わなかった?」
警部のしつこい尋ね方に、相馬は微かに眉間《みけん》を寄せた。
「社員旅行中ではなく、その後、別の機会に買ったということもありませんね?」
「ありません。とても買う気になれない商品でしたから」
警部はちょっと言葉を切り、遠藤と顔を見合わせた。その切れ目をついて相馬が尋ねる。
「あのー、それが凶器だったということは、つまり、犯人は長池君だということなんでしょうか?」
「長池さんはその置物をまだ自宅に飾っていました。たった今、その確認を取りました」
相馬はもう、自分がどんな表情を作ればいいのか判らない、というような曖昧《あいまい》な笑顔になっていた。
「では、どういうことになるんでしょう? 犯人は彼が買ったのと同じ置物を偶然持っていたということになるんですか?」
「さぁ、偶然なのかどうかは相馬さんご自身に説明していただきましょうか。社長殺しに使われた方の置物には、あなたの右親指の指紋がついていたんですよ」
「まさか!」
「警察は嘘《うそ》をつかない」
猛獣使いの鞭《むち》のように、警部の言葉が唸《うな》った。相馬は救いを求めるように視線をあちこちに彷徨《さまよ》わせる。
「そんなことがあるわけありませんよ。私はあんなものに触ったこともないんですから。──第一、どうして私の指紋と合うなんてことが判るんですか? 私には前科のぜの字もないんだから、警察に指紋が記録されてなんかいないはずです」
「あなたにいただいた名刺についていました」
相馬は逃げ道を懸命に捜しているようだった。
「そんな乱暴な調べ方ってありませんよ。抗議します。抗議した上で、あらためて私の指紋を採ってもらうことにします。こんなことはきっと何かの間違いだ。名刺に誰か別の人間の指紋がついていたに違いありません。まだそれなら考えられる。だって、触ってもいない置物に指紋がつくなんてあり得ないんですから」
「そこまでおっしゃるのなら、この場で指紋を採らせていただきましょうか」
「いいですとも」相馬は両手をテーブルの上に置いた。「右の親指ではなく、他の指だった、と後で言われないように、十の指全部のを採取してもらいましょう」
遠藤が素早く道具一式を取り出した。インク、用紙、ティッシュペーパーと指を拭《ぬぐ》う洗剤までも揃《そろ》えててきぱきと並べる。相馬は、まるで指を詰める道具を突きつけられたかのように顔をしかめていた。
「やり方を言います。まず一本ずつ採った後で、掌紋もお願いしたいんですが」
「何でもいいですよ。早いところすませましょう」
自分が追い込まれていることを自覚してか、単に指紋を採られることに屈辱を感じてか、相馬はつらそうだった。──作業は五分ほどで終わった。
「コピーとファクシミリをお借りできますか? これを拡大した上で鑑識に送信して、凶器についていた指紋と一致するかどうか見てもらいたいので」
警部はにこやかに言った。
「どうぞ。隣りの営業部のものをお使い下さい。近くにいる者に断わっていただければ、刑事さんに向かって嫌だと言うはずがありません」
「遠藤君、これ、鑑識の浦部《うらべ》さんへ」
遠藤刑事は中腰になりながら「はい」と答え、採取したばかりの相馬の指紋、掌紋を手に出ていった。そして、ここで相馬が手を洗うために洗面所に立ったため、ひと区切りとなる。
「女神像に触ったことはない、とあれだけはっきり断言するんですから、やはり何かの間違いなんでしょうか?」
私が言うと、警部は「さぁ、どうでしょう。ああ言いながら、言い訳を捻《ひね》り出す時間稼ぎをしているだけなのかもしれません。とにかく、鑑定の結果待ちですよ。当たりかはずれか、すぐに判るスピード籤《くじ》ですから、そう長くかからないでしょう」
「もし彼が社長殺しの犯人だとしたら、動機はやはり嫉妬《しつと》ということになりますか?」
「社長から秘書を横取りしたくて殺人を犯してしまう、とは常識では考えにくいことです。それに、相馬がどれだけ理解していたか判りませんが、鷺尾優子がなびいていたのは長池の方でしたからね。いや、そもそも恋敵《こいがたき》を殺したからといって、彼女の気持ちが自分に向くなどということはないわけで……突っ込んで調べてみる必要がありますね」
「火村先生のご意見はどうなんや?」
助教授はキャメルをくゆらせていた。
「そうねぇ。警部は言い訳を捻り出す時間稼ぎなどとおっしゃいましたが、凶器に指紋がついていたことに明快な説明がつくとは思えませんね。吉住氏が昨夜聞かせてくれた『カプセルから出てみたら兄が死んでいたんです』という告白以上のアクロバティックな釈明が要求されるでしょうから」
「釈明できなければ一件落着ということですよ。抗議します、なんてさっきは威勢よく言ってましたけれど、肝が坐《すわ》ったタマではなさそうですから、外堀が埋まれば吐くでしょう」
そうかもしれない。──警部は、複雑に考えすぎるのはやめよう、と言うように微笑していた。
「ちょっと遅いな」
火村が言った。手を洗いに行った相馬が戻るのが遅い、ということらしい。気になって「見てこようか」と私が腰を上げると、助教授は頷《うなず》く。まさかすぐにつかまるのを承知しながら逃走したわけでもあるまいが、少し心配しつつ廊下に出てみた。逃げられたりしたら警部も火村も面目がない。
相馬はいた。すでに洗面所を出ていて、営業部の部屋で数人と立ち話をしている。一人が何かパネルのようなものを手にしているので、仕事の打ち合わせに見える。
「相馬さん」
呼びかけると振り返り「や、失礼」と言う。
「東洋アドさんから秋のゴールドキャンペーンのヴィジュアルが今届いたものですから、つい……」
そんなことをしている場合じゃないだろう、と思いかけたが、どれどれと覗《のぞ》いてしまう。ダリの最も有名な作品『時間の持続性』をモチーフにした絵だった。長い睫毛《まつげ》の目を閉じた、カマンベールチーズのように柔らかそうな画家の横顔──一見、奇怪な軟体動物の死骸《しがい》に見える──が浜辺に横たわっている。傍らの木の枝に引っ掛かってぐにゃりと垂れたり、蟻《あり》に食べられる不思議な四つの時計。本来は上部にきれいな青で描かれた空がこの広告では鮮やかな金色に輝いていて、そこに赤い小町文字のコピーがかぶさっている。『世紀は黄昏《たそが》れても──黄金はまた輝く』。あまり感心しないポスターだったが、それを口にしなくてよかった。パネルを差し出していたのはこれを制作した東洋アドの人間だったのだ。
「ま、というわけですので、レイアウトを直して仕上げてからまたお持ちします。その時は吉住に持ってこさせられればいいんですが……」
吉住の同僚の広告マンの言葉に、私はずきりと胸が痛んだ。昨夜、吉住が重要参考人として警察に引き立てられたことが会社に伝われば、彼の立場はひどくまずいものになるだろう。遺産を相続して辞するつもりでいるのならそれでもよいが。──本部においてきた彼が今どうしているのかが気になってきた。
「相馬さん、よろしいですか?」
応接室の戸口に立った樺田警部の声が飛んできた。彼は「はい、すぐ参ります」と腰を折って応えた。
「直せたら夕方にでもファックスで送りますんで」
パネルを小脇に抱えた広告マンがそそくさと去ったので、営業部室内がよく見えるようになった。壁際のファクシミリの前で遠藤刑事が腕組みしているのを目にして、さては、と私は思った。刑事が照会している指紋の照合の結果がどう出るかが気になって、その様子を窺《うかが》っていたのかもしれない。
相馬と私が席に戻ると、警部の質問が再開される。彼はまず、くどい念押しをした。
「もう一度だけ確認しておきます。女神像に触ったことはない、とあくまでもおっしゃるんですね」
「はい。何度聞かれても答えは変わりません」
「そうですか」警部は首筋をなでながら「ところで、先週の金曜日の夜の相馬さんの行動ですけどね、もう一度よく思い出していただけませんか?」
「よく思い出せって……すでにお話ししてあるとおりです。六時に退社した後は、本屋とパチンコ屋に寄って、レストランで一人で食事をして帰りました。江坂のマンションに帰ったのは九時頃でした。ひとり暮しなので証言してくれる人はいませんけれど、帰宅した後はずっと録画してあったビデオを観ていて、外出していません」
「ビデオで観ていたのは何でしたっけ?」
「ヴィスコンティの『ベニスに死す』と『山猫』です」
おやおや、随分と高尚だな、と思うのは、私が平素レンタルするものが柔らかすぎるのだろうか?
「近所に酒のつまみでも買いに行きませんでしたか? あるいはお知り合いから電話があったとかいうことは?」
「ないです。ありませんでした。この前にお答えした後も考えてみたんですが、ただ、ひたすら一人でした」
最後の方はやけになっているような口調だった。そんな動揺した様子を観察しながら、もし彼が犯人だとしたら、落ちるのも時間の問題だな、と私は思っていた。
「蒸し返すことばかりで恐縮なんですがね」と警部は前置きして「あなたと鷺尾優子さんとのご関係について再度伺いたいんです」
「多少表現は変わるかもしれませんが、同じ内容のことしか話せませんよ」
「その内容が正確ならもちろんそれで結構です。──あなたは鷺尾さんに心惹《ひ》かれたことがあったとおっしゃいました。しかし、彼女の丁重な拒絶にあって諦めたとか。その後、彼女にアプローチを試みたことはありませんか?」
「ありません。社長と長池君がひそかな争奪戦を繰り広げていることを知っていましたから、そんなところにのこのこ間抜け面さげて出陣していく気になんてなれませんでした」
「もう鷺尾さんに対しては関心がなかったということですね?」
「そうです。元来、私は恋愛に淡白な体質なんです」──この表現はちょっと笑える──「肘鉄《ひじてつ》を喰《く》ってもしつこくアタックを続けるなんて、げんなりしますね」
彼の言うことはもっともらしく響いた。相馬には、どこか草食動物を思わせる線の細さがあったからかもしれない。加えて、恋愛につまずいてプライドがダメージを負うことを回避するタイプにも見える。──だが、自分自身のそんな観察など当てにならないことも、承知している。つまるところ、彼が本心を語っているのやら体裁を繕っているのやら、神のみぞ知る、だ。
もっとも、先ほど彼が中座した時に話していたように、鷺尾優子を堂条秀一から引き離すために犯行に及んだ、という動機はかなり現実味が乏しい。彼が犯人だとしても、まだ私たちの視野に入っていない別の事情が存在しているのかもしれない。そして、その見えないライン上に鷺尾優子がいるかどうかは定かでない。
もうこれぐらいで勘弁して欲しい、という表情を相馬が見せ始めたところに、ファックスした後、電話の前でずっと返事を待っていた遠藤が戻ってきた。彼は食いつきそうな目で警部を見る。
「結果が出ました。こちらから送信した相馬さんの指紋と凶器に遺っていた指紋とは、ほぼ間違いなく一致するそうです」
「嘘《うそ》だ!」
相馬は勢いよく立ち上がって叫んだ。
「嘘に決まっている。私はそんなものに触ったことはない。もちろん、社長を殺してなんかいない! こんな出鱈目《でたらめ》が通るもんですか!」
部屋の外に声が漏れることなど、全く意に介していないようだった。彼は「無茶苦茶だ」「間違いだ」と言い張る。そんな彼に、警部は冷たい視線を投げかけていた。
「あなたは、鷺尾優子さんの愛情を堂条社長が獲得することに耐えられず、犯行に及んだのではありませんか?」
「違います」
「社長を殺した上、もう一人の恋敵、長池伸介さんに罪を着せるために、彼が持っていると社内の大勢が知っている置物と同じものを買い求め、凶器にしたのではありませんか? 犯行現場に転がしておいてはその意図があまりにも露骨なので、やがて見つかるであろう、という程度の処分の仕方をしておいた。橋の上から投げ捨ててね」
「橋の上から投げ捨てたですって? 知りませんよ。凶器は橋の下にあったんですか? 知ったことではありません。私はやっていないんです」
相馬は何度も頭を振り、長い髪を振り乱した。
「と、まぁ、そんな見方もできるということです。私が今言ったことは、あなたが招きかねない疑惑のサンプルです」警部は揉《も》み手をする。「署にご同行いただいて、もっと詳しいお話を伺いましょうか」
「……弁護士を呼びたい」
一転して蚊の鳴くような返答だった。相馬は苦しげに顔を歪《ゆが》ませている。
「灘署から電話してもらいましょう」
彼は貝のように口をつぐんでしまった。触ったはずもない凶器に指紋がついていたことについて、言い訳を考え出す時間もなかったのかもしれない。
火村と私とは捜査本部に戻らなかった。「話し相手になってくれそうな人を捜して、聴き込みをしますので」と火村は言い、警部たちの車を見送ったのだ。
「もう君の出番はなくなったのか?」
店先で意地悪く尋ねると、彼は「はっ!」と笑った。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。相馬氏が『恐れ入りました』と崩れれば出番はなくなるわな。けれど、自分は無実だと主張し続けたら、色んなことにこっちが説明をつけなくちゃならない」
そう。一つは動機の問題。
もう一つはどうしてあんなものを凶器に使ったのか、という問題だろう。警部は『長池伸介に罪を着せるため』と疑惑のサンプルとやらを突きつけていたが、それはやはり浅はかすぎる。私自身が二時間ほど前に口にした仮説ながら、やはりその時火村に言われたように、それは『短絡的』で『ピンとこない』ものだった。
「あ、髭の問題もある」と私は思い出して言う。「なんで社長の髭を剃って持ち去ったのかという疑問を棚上げにしたままだ」
「そうだな。有栖川先生が突《つつ》き回すんなら、やっぱりそのあたりかな」
「お前も考えろ」
「考えるのはいいけど、あそこでもじもじしてる内気な部長さんと会見した後にしようぜ。──あの顔はトイレに行きたいのをこらえているわけじゃなさそうだ」
振り返ってみると、店内の階段脇に湯川が立って遠慮がちにこちらを見ていた。私と目が合ったので決心がついた、というように、彼はこちらに歩き始める。
「先ほどはどうも。ご苦労様でした。湯川さんの証言のおかげで捜査は進みだしましたよ」
火村の言葉を相手は無視した。そして──
「相馬さんは逮捕されたんですか?」
周囲には店員も客もいなかったのだが、彼は極端に小さな声で私たちにそう尋ねてきた。逮捕ではない、事情聴取だ、と助教授が説明すると、湯川は唇をきっと噛《か》んだ。
「相馬さんが大きな声を出すものですから、廊下にいた私はあらましを聞いてしまいました。やっぱりあの土産物が凶器で、そこから相馬さんの指紋が検出されたとか……」
「ええ、そうです」
火村は短く言って、相手の話を待った。と、湯川は──
「ちょっとよろしいですか? お話ししておいた方がいいことがありますので、隣りの喫茶店で」
話し相手になってくれる者を捜すまでもなく、向こうから飛び込んできた。私たちは無論かまわないと答え、『ラルブル』という店に入った。馴染《なじ》みの店らしく、彼はぐんぐんと進んで一番奥の席に私たちを導いた。
「凶器から指紋が検出されたとなると、事態は深刻ですね」
おしぼりで両手を拭《ぬぐ》いながら、湯川は沈んだ声で言った。傍らの大きな熱帯魚の水槽にその横顔がぼんやりと映っている。
「深刻ですね。ご本人は無実を叫んでいましたけれど、凶器に指紋が遺っていたとなっては。──薄弱ながら動機もあるし、アリバイはまるでないという状況ですから、容疑は濃厚です」
「アリバイがないんですねぇ……」
「週末を一人で過ごしたので、誰も証人になってくれないとか」
「一人で何をしていたと言ってるんですか?」
私は、おやっと思った。アリバイの有無よりも、相馬がどう言っているかに重大な関心がある、というように、彼が大きく身を乗り出したからだ。
「本を買って、パチンコをして、食事をして、九時頃に自宅に戻った。帰ってからはビデオを見ていた。それだけです」
湯川はまた唇を噛んだ。そして、ここが思案のしどころだ、というように腕を組んで唸《うな》った。
「相馬さんの話におかしな点がありますか? ご存知のことがあれば教えて下さい」
火村が穏やかに促す。湯川は逡巡《しゆんじゆん》していたが、どのみち話すことは決めていたはずで、やがて「実は」と話しだす。
「私は大変なおせっかいをしようとしているのかもしれません。殺人犯人の嫌疑をかけられてまで相馬さんが守ろうとしていることをばらそうというんですから。しかし、捜査を横道にそらして進行を妨げるようなことがあってはならないとも思いますので、知っていることをありのまましゃべらせてもらうことにします。……本当でしたら刑事さんがいる時に話しておくべきだったんでしょうけど、どうにも相馬さん自身の前では言いにくいことだったもので……」
などとしきりに予防線を張る。
「それは彼のアリバイに関係することなんですね?」
「そうです。他ならぬアリバイについてです。──彼は堂条社長を殺していません。おそらく、彼にはアリバイが成立するからです」
火村は小さく口笛を吹いた。それが本当ならば、樺田警部が操縦|桿《かん》を握った飛行機は、またもやキリモミしながら墜落することになる。
「『おそらくアリバイが成立する』という表現に引っ掛かりますね。まぁ、いいや。何故『おそらく成立する』のか、それをどういった事情で湯川さんがご存知なのか、順を追って話してみて下さい」
湯川は背筋を伸ばした。
「事件があった先週の金曜日の夜、私の妻が相馬さんを見かけているんです。場所は西梅田の大阪ベルホテル。時間は午後六時過ぎです。妻は高校時代の同窓会に出席するためにそこにいたんですが、相馬さんと同じエレベーターに乗ったので、すぐ間近に見たそうです。本人と会ったこともあるし、帰ってから写真を見て確かめたけれど間違いない、と申しております」
「日付、時間、場所も、それが相馬さんだったことも確かだと?」
「はい。それを聞いたのは今週の水曜日でした。社長の葬儀から帰ってから、雑談として聞きました」
私は割り込んで「午後六時に梅田のホテルにいたとしても、アリバイにはならないんやないですか? 犯行があったのは午後十一時過ぎと推定されています。梅田から現場まで車で一時間もかかりませんよ」
「ええ、ええ。判っています。ここから先を聞いて下さい」
私は失礼を詫《わ》び、黙ることにした。
「そのぉ……ここから先を話す前に確認したいんですけれど、大阪ベルホテルに行ったことを相馬さんは警察に話していないんですね?」
「はい。買い物もパチンコも食事も心斎橋ですませて、江坂に帰ったということでした」
「やっぱり隠したがってるんやなぁ」
湯川はそんなことを口の中でぶつぶつ呟き、この期に及んでまだしばし言い渋っていた。
「妻が相馬さんを見かけたのは六時過ぎだけです。その時、彼はエレベーターを途中の階で降りたんですが、ちょっと妙な気がしたそうです。まるで出張にきたかのように小さな旅行鞄を持っていたので、泊まりなのかな、と思って。──まぁ、そんなことは同窓会が始まったらすぐに忘れてしまったんですが、それが終わってロビーに降りて、二次会はどうしようか、と旧友と話している時に、今度は別の知った人物を目撃したんだそうです。それが……鷺尾さんだったというんです」
「ほぉ」と火村は声を出した。ここで彼女の名前が登場することは、彼にとっても私と同様、意外だったらしい。
「斜め後ろから見ただけだ、と言うので、人違いではないか、と私は聞きました。ところが妻は、以前、社内のパーティで会った時と同じヘアスタイル、同じ服装だったので、本人に違いないと断言するんです。さっき相馬さんを見たばかりなのに、今度は鷺尾さんが、と驚いて、彼女を目で追跡していると、エレベーターに乗り込んでいく。どこで降りるんだろう、とさらに注目していたら、案の定──これはその時の妻の感想ですが──相馬さんが降りたのと同じフロアの八階でエレベーターは停ったそうです。──つまり、その、二人は、密会していたんですよ」
「奥様が鷺尾さんらしき女性を目撃したのは何時頃ですか?」
「九時前です」
「見たのはそれが最後ですね?」
「はい。二次会に繰り出したものですから」
「その女性が相馬さんと同じフロアで降りたということは確実なんですか? エレベーターに乗り合わせていた他の人が降りたのかもしれない」
「いいえ。乗っていたのは鷺尾さん一人だったそうです。もっとも、彼女は相馬さんと同じフロアで降りたのではなくて、そこで誰かが乗ってきたために停止したという可能性はありますけれど……。しかし、状況証拠として、二人が部屋で会っていた疑いは濃いと思います。妻の言葉で言うならオフィスラブですね。思いもかけない組み合わせだったので、私も聞いてびっくりしました」
二人が本当に密会をしていたのか、オフィスラブを楽しんでいたのか、を決めつけることはできない。しかし、湯川夫人を信じるならば、相馬が警察に語った当日の行動に虚偽があったことだけは明らかになった。殺人事件の捜査に対して、何かよほど特別な事情がない限り、偽りを語ることはないだろう。ただの形式的なアリバイ聴取ならばへそ曲りがいい加減なことをしゃべったりするかもしれないが、自分の身に直接殺人の嫌疑が掛かり、捜査本部へ同行を求められる段になってまだ冗談を続けるということは普通ないはずだ。と考えるに、鷺尾優子と密会していたという憶測が真実味を帯びてくる。相馬はどうしてもそれを隠したいのだ。殺人の容疑が深まり、抜き差しならなくなったら告白しなくてはならないにしろ、疑いがじき晴れるかもしれない現段階では、まだ話したくないということかもしれない。
「相馬さんと鷺尾さんがホテルの一室で会うような仲だとは、湯川さんにとっても意外だったんですね?」
「そらそうです。表面上、そんなふうに見えませんでしたし、社長と長池君とのことがありましたから……」
枯葉に擬態したリーフフィッシュが水槽をひらひらと泳いでいるのを眺めながら、私は考え込んでいた。──私たちは、長池伸介と鷺尾優子の双方から、二人が内々に婚約したことを聞いた。それを知っていなかったならば、堂条秀一と長池、鷺尾の三角関係は実は空虚なフィクションであって、美人秘書が愛しく想っているのは相馬智也であったのか、と驚いたかもしれない。ここにいるリーフフィッシュのように周囲を欺いていやがったのか、と。しかし、長池と鷺尾は婚約したという。となると……
鷺尾は意に添わず相馬にホテルへ呼び出されたのだろうか? 例えば、彼に弱みを握られていて拒めなかったとか? そうだとすると、相馬の行為は脅迫に当たる。だから警察に対して口をつぐんでいるのかもしれない。単なるオフィスラブならば、「どうかご内聞に」と断わってから打ち明けもするだろう。これはあり得る、と私は一人で納得しかけていた。
「おそらくアリバイがある、と言った意味がお判りいただけたでしょうか? 相馬さんの鞄を見た妻は、宿泊するらしい、とすぐ思ったと言います。ケチなラブホテルなどではなく、場所はシティホテルです。二人はその夜、ひと晩中一緒だったんではないか、と私は思います」
湯川はハンカチを取り出し、額の汗を拭《ぬぐ》った。
「おせっかいと申したのは、こういうことだからです。自分は無実なのだから、当夜のアリバイについて話さなくてもそのうち真犯人が捕まる、と相馬さんは期待しているのかもしれない。しかし、さっきも言いましたように、それは捜査に対する一種の妨害ではないでしょうか? ですから、早くお耳に入れておいた方がいいと思ったんです」
そこまでしゃべると、ようやく肩の荷が降りた、というように彼は溜《た》め息をつき、とっくに冷えきっているであろうコーヒーに口をつけた。
「興味深いお話でした」そう言って火村もコーヒーカップを取る。「警察に報告する前に、ことの真偽を当事者に質《ただ》してみることにしましょう」
「当事者というと……?」と私が聞く。
「決まってるじゃねぇか。ミズ鷺尾優子さ」
なるほど、それが一番早いのは確かだろう。
「刑事さんからいきなり詰問されるより、まず先生方から尋ねられる方が気が楽ではないか、という気もします」と湯川は賛意を表してから「ただ、生憎《あいにく》なことに、彼女は本日欠勤しているんです。社長の遺体発見のショック、通夜、葬儀と続いた上に、ここ数日の深夜に及ぶ超過勤務がこたえたらしく、体調を崩してしまったとかで」
「それなら自宅にいそうですね。電話してから訪問しようか」
火村は万年筆のキャップをはずしながら、湯川に秘書の電話番号を尋ねる。せっつかれた営業部長は慌てて電子手帳のキーを叩《たた》いた。
鷺尾優子が私たちとの待ち合わせ場所に指定したのは、奇しくもホテルのロビーだった。清潔そうなダンガリーシャツの両袖《りようそで》をまくり、ジーンズをはいた女性が立ち上がるのを見た時、すぐに彼女だと気がつかなかった。これまで見た職場での服装、あるいはレストランでのドレスアップした服装と随分違っていたためだ。長い髪も後ろで束ねていた。
「お休みのところ、お呼び立てして申し訳ありません」
火村が言うと彼女は、安心しなさい、というように微笑《ほほえ》んだ。
「かまいません。欠勤したのは病気というのではなく、ちょっと精神的に疲れたので一服したかっただけなんです。会社が大変な時に体《てい》のいいずる休みですね。──それに、この恰好をご覧になって実感されたと思いますけど、私のマンションはこのすぐ近く、歩いて数分のところですから」
彼女は挨拶《あいさつ》のために立ち上がったまま、腰を降ろそうとしなかった。
「お話というのは社長の事件に関係したことでしょう。ここの喫茶室は静かすぎて不適当ですから、外に出てよろしいですか?」
私たちに異存はなかった。小さなシティホテルを出ると、そのすぐ前は公園だった。そこ、靱《うつぼ》公園は、緑地面積が極端に少ない大阪市内にあって、有数のまともな広さを持っており、園内にはサッカー場やテニスコートといった施設もあった。大きな幹線道路に挾まれ、周囲の高層オフィスビル、マンションに見下ろされながらも、かろうじて都会のオアシスという趣を保っている。
「まだ少し早いですね」
薔薇《ばら》園の間を歩きながら私が言うと、優子は「そうですね」とパーゴラを見上げながら応えた。開花の季節にここを散策したことはないが、五月上旬ともなれば、新緑の中に華麗な色彩が満ち、馥郁《ふくいく》たる香りが周りを包むのだろう。
「青い薔薇というのがないことはご存知でしょう?」
彼女は私の目をまともに見て言った。
「ええ。赤、青、黄色の三色を揃《そろ》って持った花はないんでしょ? 薔薇には赤と黄色があるから、青が欠けているわけですね」
「長池さんの作品に『青薔薇』というのがあるんです。サファイアとアクアマリンを組み合わせて銀の葉にのせたブローチで、それは素敵なものなんですよ」
唐突な話題だったが、婚約者の才能を称《たた》える惚気《のろけ》なのかもしれない。うっとりした表情を浮かべる彼女に聞く。
「宝石がお好きなんですね?」
「だってきれいじゃないですか」彼女は屈託なく言った。「ただきれいなだけじゃなくて、その輝きは永遠です。永遠の美というのはやっぱり尊いでしょう」
永遠の美とはまた素朴な信仰だな、と私は思った。宝石などというものは元素記号で表わされる鉱物にすぎず、しかるべき化学反応を与えてやれば蒸発してしまう存在ではないか。私は少しおかしく思い、そして彼女を少し可愛いと思った。幼稚なことを考えるものだ、と傲慢《ごうまん》に見下して思うのではなく、好きだから好き、というに等しい飾りのない答え方に好感を持ったのだ。宝石の輝きは永遠だとも言える。ついでに本格推理小説や阪神タイガースも不滅かもしれない。
「いつも宝石を身に着けてるんですね。それは水晶ですか?」
私は彼女の胸元で揺れる短いペンダントにちょっと目をやりながら言った。
「ええ、そうです。これはお守りです」
幾分舌足らず気味に彼女は答えた。すると、聡明で有能な秘書、周囲の男たちを煩悶《はんもん》させた女神という彼女のイメージは、私の中で霧のように薄らいでいく。リラックスしたスタイルでリラックスした会話を私と交わしている休日の彼女は、二十七歳という年齢より低く見えさえしてきていた。
「お守りね。そうか、水晶には神秘のパワーがあるから」
普通に言ったつもりだったのだが、私の言葉に何か小馬鹿にした響きを感じたのか、優子は心外そうな目で私の顔を覗《のぞ》いた。
「迷信なんか信じて、とお思いですか? それは違います。宝石には病気を癒《いや》す力があるし、意味を読み解けば人を導いてもくれるんですよ」
「そうかもしれませんね」
そんな議論をするために時間を割いてもらったわけではないので、私は打ち切るために──失礼なことではあるが──適当な返事をしていた。優子はその気配を察したのか、不意に黙ってしまう。そして、何故か少し恥じるように俯《うつむ》いてしまったので、私は反省した。
「社内の皆さんの動揺も鎮まってきましたか?」
雑談はもういいだろう、というように、火村が私の反対側から優子に問いかけた。
「多少は落ち着きました。でも、犯人が捕まらないことには……。一部の週刊誌などは、内部の人間の怨恨《えんこん》による犯行だ、なんて無責任な憶測を平気で書いていますし」
事件発生以降の会社内の様子について、火村が本題に入る前のウォーミングアップのようにあれこれ尋ね、混乱ぶりを優子が話すうちに、私たちはセンターコート近くまできていた。
「それで、お聞きになりたいことというのは何なんですか、火村先生?」
彼女の方から切りだしたので、火村は苦笑する。
「あそこらに掛けてお話ししましょう」
彼はセンターコートを囲むコンクリート席を指差して言った。そして、階段状になったその中ほどに並んで腰を降ろすと、無人のテニスコートを眺めたまま「鷺尾さん」と呼びかけた。
「失礼なことを伺いますが、本当のことを聞かせて下さい。事件の捜査の行方を左右するかもしれないことです」
「もしかして、また長池さんとのことで?」
ぴたりと揃えた両膝の上に両手をのせ、彼女は聞き返した。
「いいえ、そうではありません。──金曜日の夜のあなたの行動について、訂正することはないかをお聞きしたいんです?」
火村を真ん中に座っていたので、私は首を伸ばして優子の様子を窺っていた。と、助教授のその言葉を投げられた瞬間、彼女の眉《まゆ》がわずかに動くのが見えた。おそらく、火村も見逃さなかったことだろう。
「おかしなことをおっしゃいますね。訂正することがあるはずだ、と言われたような気がしましたけれど、思い当たる節はありません」
「あの夜、あなたを梅田で見かけたという人がいるんです。覚えはありませんか?」
彼女の返事はきっぱりとしたものだった。
「ありません。──どなたがそんなことをおっしゃっているんですか?」
「今は伏せさせて下さい。その人に嘘《うそ》をつく理由もないと思うんですが、曰く、西梅田の大阪ベルホテルで九時頃お見かけしたということです」
「嘘でなければ人違いでしょう。絶対にそれは私ではありません」
火村はコートを見たまま続けた。
「その人は、あなたに酷似した女性を見かける少し前、商品企画室の相馬さんの姿も目撃しているんです。そして、あなたは相馬さんが降りたのと同じフロアにエレベーターで上がっていった、と。その人は、偶然にしてはできすぎているので、お二人は密会していたのではないか、と疑っています」
彼女は火村の横顔を睨《にら》んだ。まるで、火村自身が許せない暴言を吐いたと錯覚したかのように、きつく言う。
「とんでもない中傷です。根も葉もない嘘八百です。こんな時に何故そんなひどいことが言えるんでしょう。どなたの発言なのか教えて下さい。私、厳重に抗議をさせていただきます」
火村は彼女を振り向いた。
「全面的に否定するんですね?」
「はい。これまで警察の方から不愉快な質問を受けたり、マスコミ関係者から無躾にマイクを突きつけられたりしましたけれど、こんなに腹が立ったことはありません。情けなくなりました」
大した剣幕だったが、火村は平然としていた。そんな態度が彼女の怒りの炎に油を注ぐような効果を発揮したのだろう。さらに抗議のトーンが上がる。
「火村先生はそんな愚劣な質問を私にする前に、相馬室長にはお話しになったんですか? 室長なら怒るよりも大笑いなさると思いますけれど」
「相馬さんには聞いていませんし、今の話はまだ警察にも伝わっていません。もしも事実だとしたら、『ばれてますよ』とあなたのお耳に先にお入れする方がいいかなとも思ったものですから」
「ばれるも何も。事実無根です」
「婚約者がいるあなたが進んで逢引《あいび》きをしたとは私たちにも思いにくい。特別な事情があったというのなら是非打ち明けて欲しいんです。相馬さんから脅迫まがいのことを言われて渋々出向いて行ったということでもありませんか?」
「会っていないと言ったら会っていません」
繰り返し否定の言葉を叩《たた》きつけられながらも、火村はめげずにもう一度尋ねるのだった。
「匿名《とくめい》の証人は午後六時過ぎにホテルで相馬さんを見、九時頃にあなたを見たと話しています。相馬さんは梅田などに寄っていないと供述していましたから、何らかのわけがあって嘘《うそ》をついていたことになるわけです。それはいいんです。問題は九時以降、あなたと彼が一緒だったかどうかということです。もしそうだったのなら、正直に話して下さい。それによって当夜の彼のアリバイが成立します。否定なさるのなら、アリバイは不成立です。六時に梅田にいたとしても、それから現場に向かえば犯行に間に合ってしまうからです。──いかがですか?」
「絶対にそんな事実はありません。つまらないことを何度も聞かないで下さい」
「実は今朝、凶器が見つかったんです」
「え?」と彼女の興奮は宙吊《ちゆうづ》りになって中断した。
「その凶器から相馬さんの指紋が検出されたものですから、彼は非常に苦しい立場に追い込まれています。もし、彼があなたとの逢引きを隠し通そうとしているのなら、彼の嫌疑はますます強くなっていきます。──まぁ、お会いになっていないのなら、彼が逮捕されようと知ったことではないでしょうけれどね」
春の風が私たちの髪をなぶって過ぎた。美しい女性を怒らせているところだというのに、何て気持ちのいい風だろう、と私は思った。
「いい風」
ところが、体をそらせて空を仰いで言ったのは、その美人だった。そして、私たちを見て落ち着いた声で聞く。
「相馬室長がそんな苦境に立たされているとは知りませんでした。あの方が社長を殺したとは思えませんけれど、事実を曲げてまで室長のアリバイを証明するわけにもいきません。あの夜、私は梅田に行ったことはないし、室長と逢引きをしたりもしませんでした。嘘はついていません。信じて下さい」
「判りました」
まず、火村が、次に同じ言葉で私が認めた。
だが、気のせいか、彼女はふと不安げな表情を覗《のぞ》かせた。そして、私たちに聞こえるようにぽつりと独白した。
「誰が言いだしたのか知らないけど、こんな噂《うわさ》が長池君の耳に入ったら嫌だわ」
やはり舌足らず気味の言葉だった。長池君という呼び方を私たちの前でしたのも初めてだ。
「事実でないんなら、信じてもらえばいいことです」
火村があまりにもあっさりと言ってすますので、彼女はくすりと笑う。
「なんて無責任な先生でしょう」
「私やアリスはさておき、フィアンセなら信じてくれるでしょう」
「やっぱり先生は信じて下さらないんですか? さっき判りましたとおっしゃったのに?」
「誤解を招くような言い方をしてすみませんでした。あなたのアリバイがないことが判った、と言ったつもりだったんです。何か思い出したらご連絡下さい」
優子は小さく肩をすくめ、「あれば」と応えた。
また春風が吹く。西の空は、まだ夕焼けには時間がありそうだった。
行く手、御堂筋の南のどん詰まりに大阪球場の廃墟《はいきよ》が立ちふさがっていた。大阪のど真ん中という立地のよさのため、子供の頃、「野球が観たい」と言うと、父は私をよくあそこに連れていってくれたものだ。甲子園球場に行きたがる私は「遠い。帰りが大変だから」とたしなめられ、仕方なく南海ホークス対東映フライヤーズなどで妥協していたっけ。その南海ホークスは名前が変わって大阪を去り、市内一等地に主を失った球場が遺された。新空港オープンに伴うミナミ再開発計画の中で、いずれ取り壊されることは運命づけられているのだが、それまでの猶予期間である現在、廃墟は奇妙キテレツな使い方をされている。かつて杉浦《すぎうら》、スタンカ、野村《のむら》、広瀬《ひろせ》らの勇姿が躍ったグラウンドにはモデルハウスが建ち並び、劇団四季が建てたドームシアターでは『キャッツ』──日本中で大阪が最も愛したミュージカル、なんだそうだ──がロングラン上演されている。『神聖なるグラウンド』に静かに終焉《しゆうえん》の秋《とき》を迎えさせてやる余裕など、もちろん都市にはないのだ。それにしても──『モデルハウスとミュージカルが野球場で不意に出会う』というこの情景は、シュールレアリスムのあのテーゼ『ミシンとこうもり傘が手術台の上で不意に出会う』ことからくる異化効果の美も顔負けではないか。
「ちゃんと場所、判ってんだろうな?」
よしなしごとを考えながら歩いていた私に、火村から声が飛んだ。
「メモを取りながら聞いたから大丈夫やろう。鷺尾さんが教えてくれた道が正確やったらな。──ほれ、信号を渡って、球場の右手に回るぞ」
私は一歩先に立って歩きながら、メモをちらりとまた一瞥《いちべつ》した。
靱《うつぼ》公園で鷺尾優子と別れた後、火村は捜査本部の樺田警部に電話を入れ、湯川から聞いた話をそのまま伝えた。秘書と会い、相馬と前後してホテルに現われたのは自分ではない、と彼女から強く否定されたことも。
それから突如として昼食をとっていないことに気がつき、六時という中途半端な時間に早過ぎる夕食を簡単にすませてから、夕陽丘《ゆうひがおか》の私のマンションに帰った。火村先生はまたわが家のリビングのソファで眠ることにしたわけだが、ここに至って初めてコンビニに着替えの下着を買いに行った。
「ついでにビールを買ってくる」
そう行って出ていったすぐ後に、書斎の電話が鳴ったのだ。七時五分。
「ジュエリー堂条の鷺尾です。先ほどは失礼なことを申しました」
出てみると、相手が意外だったこともさることながら、その神妙な口調に私は少し驚いた。それを抑えて、どうしてこの番号が判ったのか、とまず尋ねる。
「番号案内で聞きました。有栖川という高貴なお名前が大阪に何人もいるとお思いですか?」
「ああ、それはそうですね」私は自分の頭をコンと叩いた。「こちらこそご無礼いたしました。──わざわざお電話いただいて、何でしょう?」
公園でしゃべったことは全部撤回します、などと言い出すかもしれない、その場合は言い回しの細部を書き留めようと思い、私はメモ用紙とボールペンを手に取った。
「あの時は、はねつけるような言い方をしてしまいましたが、一人になってから反省いたしました。でも、話した内容について訂正することはないんですよ」
それなら何のために今、NTTを利用しているのだ?
「先ほどまで刑事さんがいらしてました。先生方と同じことを私に問い質《ただ》すためです。もちろん、私は同じ答えをいたしました」
「そうですか」──それでどうしたのだ?
「『わが身可愛さに嘘《うそ》をつくと、相馬さんの両手が完全に後ろに回りますよ』なんて恫喝《どうかつ》されて、また立腹したんですけど……」
言葉が途切れたが、私はボールペンを握ったまま待った。
「あんなことを言いだしたのが誰なのか知りませんけれど、きっと会社の内部の方でしょう? その人の口から『鷺尾は相馬室長とホテルで逢引きしていた』というデマが広まることが私は怖いんです。信じてもらえるかどうかで彼を試すようなことになっては嫌だ、ということを火村先生にも判っていただきたかった」
「私には判りますよ」
などと言ってから、一人いい子になろうとする自分に笑いそうになった。
「長池君はこれまでじっとがまんしてくれていたから、これ以上、不愉快な思いをさせたくないんです。それに、今日は機嫌が悪かったのでとても打ち明ける気にはなりませんでした」
「警察に呼ばれたことを怒っていたんですか?」
「はい。まずそれです。先生方がお帰りになってしばらくしてから帰社したんですけど、相馬室長が刑事さんに連れていかれたことに対して『あいつら、誰も彼もをとりあえず引っぱってみるつもりか』と悪態をついたり、東洋アドさんから送られてきたポスターのデザインを見ては『今度は芸術作品を愚弄しやがって。広告屋の馬鹿さ加減には愛想が尽きた』って」
馬鹿呼わりされた広告屋の吉住のことをまた思い出した。夕方近くになってようやく解放され、自宅に帰してもらったそうなので、とりあえずほっとできただろう。
「そんなわけですから、相馬さんのアリバイが成立しなくてもそれは私の責任ではないから平気ですが、いやらしいデマが長池さんの耳に届くことを恐れています。ですから、それを証明しなくては、と思いました。私はあの夜、梅田のホテルになんか行かなかった。それだけは証明したい。ですから……やっぱり、本当のことを言います」
「本当のこと? あなたのついた嘘とは何です?」
籠《かご》の中でカナリアが小さくはばたくのが視野の片隅に見えた。
「金曜日の夜、梅田に行かなかったというのは本当です。でも、真直ぐ家に帰ったというのは実は嘘です。私はあの夜、九時半から十時半まで『ライトハウス』というところにいたんです。そこにラピス・ラズリ・ノワールという人物がいます」
「『ライトハウス』というのはバーか何かの名前ですか?」
「場所を言います」
あらかじめ用意していたらしい言葉で彼女が道順をしゃべりだしたので、私は慌てた。
メモを見ながら球場と府立体育館の間を進んだ。ごちゃごちゃと謂集《いしゆう》する呑《の》み屋、スナック、中華料理店、寿司屋、輸入CD店、わけの判らない店、得体の知れない店。ミナミの喧騒《けんそう》が背中に去り、人通りもぐっと減ったこのあたりは、場末の雰囲気がぷんぷん匂う街だった。
「『ライトハウス』。あったぜ」
火村が小さな雑居ビルの上を見上げて言った。三階の窓にカッティングテープで書かれた片仮名の店名がある。その窓には黒いカーテンが降りており、一体、何をするところなのかを示すヒントはどこにもなかった。一階は改装中でクローズした喫茶店、二階も『ライトハウス』と同じく正体不明の店だった。建物の右手に階段がある。
「とにかく入ってみよう」と私はメモをしまった。
私たちは細くて急で薄暗い階段を昇っていった。三階に上がると、廊下もなく、すぐにドアになっている。ペンキが滴った跡が盛り上がって遺るほど厚く塗装された、真っ黒なドアだった。そこに釘のようなもので引っ掻《か》いて『ライトハウス──灯の館』とある。緊張しながらも、私の好奇心はじんじんと痺《しび》れだしていた。
「へへ、こりゃ妖《あや》しいな」
火村はにやにや笑いながらノックした。
「お入りなさい」
芝居がかってはいたが、威厳のある声が中から響いた。
火村が扉を開く。中は一面、扉と同じ色だった。
天井も、壁も、床も、ヴェルヴェットのように光沢のある黒い布、黒いカーテン、黒い絨緞《じゆうたん》で覆われていたのだ。また、天井から緞帳《どんちよう》のように厚い幕が不規則に下がり、室内を分割している。見渡したところ光源は天井からぶら下がった白熱灯一つ。それだけでも来訪者を驚かすのに充分なのに、二十畳以上ある部屋の奥には黒く四角いテントが張られていた。いや、それはテントと呼ぶより天蓋《てんがい》つきの大きなベッドに似ている、と言った方が適切かもしれない。天井から床まで分厚そうな黒布が下がり、部屋の中にもう一つの密閉空間が作られていたのだ。「お入りなさい」と招いた声の主は、その中にいるに違いない。明かりが灯っているらしく、内側からぼんやりと光が漏れている。
「幕をくぐってこちらにいらっしゃい」
厳かに声が命じた。私たちは意味もなく垂れ下がった黒幕を払いながら進み、黒テントをばさりとめくった。
びっくりするようなことはなかった。むしろ予期していたとおりのものがそこに揃《そろ》っていたのだから。
閉ざされた真っ黒な空間の中にあったのは丸テーブルが一つ、その手前には青のソファ。いずれも粗大ごみ捨て場から拾ってきたような代物だった。丸テーブルの上に敷かれた黒いマットにはソフトボール大の水晶球《すいしようきゆう》が鎮座し、その向こうには胡散臭《うさんくさ》いいでたちの人物──声から男だと判る──が一人、椅子《いす》に深く掛けている。
「そこにお座りなさい」
男は黒魔術師のように、先の尖《とが》った黒い頭巾《ずきん》をかぶり、だぶだぶの黒衣を着て、黒いマントをまとっていたのだ。黒衣の胸元には濃青色の石をいくつもつないだペンダントをぶら提げているのが目を惹《ひ》く。くり抜かれた両目の部分から、細い目が覗《のぞ》いていた。ソファを指した節くれだった指とその声から推測して、男は五十を越えた年配ではないかと思われる。
「あなたがラピス・ラズリ・ノワールですか?」
火村が長い脚を大きく組みながら尋ねた。彼は微かに口元に笑みを浮かべていたが、相手の表情はもちろん読み取れない。
「いかにも」と時代劇めいた返答がくる。「私のことを、どなたに聞いておいでになった? 無用な宣伝などを行なっておらぬゆえ、リーディングを施した誰かから聞いてこられたのであろう?」
「京都のお茶屋と同じ経営方針なわけだ。それが本当だとしたら、開業して最初の客がどこから出現したのか説明がつきませんがね」
助教授の挑発するようなへらず口に、ラピス・ラズリ・ノワールは気分を害しただろうと私は思った。が、その目はどうやら笑っているらしい。
「半信半疑でいらしたか。何にしろ、男二人が肩を寄せ合ってここに座っているということは、外の世界の懊悩《おうのう》を抱え込んでのことだろう。さぁ、何なりと尋ねて私を試すがいい」
「首から提げてる石は瑠璃《るり》ですか?」
火村はしばし黒頭巾と会話を楽しむことにしたらしい。
「いかにも。ラピス・ラズリとはラテン語とペルシャ語の合成語で、青い石を意味しておる。これは太古より最大の価値と霊力を認められてきた宝石だ。アッシリア、バビロニアから出土される人類最古の印章はラピス・ラズリで作られているし、死者の魂を黄泉《よみ》に導く古代エジプトの『死者の書』は太陽神の目をかたどったこの石に掘られていた。アトランティスの礎石はラピス・ラズリであった、また、稲妻によってモーゼの十戒が刻まれたのがラピス・ラズリだった、という伝承もあるぐらい特別な存在の石なのだ」
「あなたはその石と交信するわけだ」
「そう。石は私のエーテル体と感応し、チャンラ中枢を解き放ってくれる。霊的視力が促進され、知恵は昂《たか》まり、導きが得られるのだ」
「テーブル上のクリスタル・ボールは飾り?」
「これは受像機であり、私はこの曇りなき水晶球の中に訪れるイメージを幻視する。室内のすべてが黒く塗りつぶされているのは、微弱な力でしか届かないイメージをより鮮明に視《み》るために他ならない」
「下世話な話で恐縮ながら、繁盛していますか?」
「使命感を満たせるだけのことはしておる」
火村は鼻で溜《た》め息をついた。
「もういいや。──他のお客がこないうちに本題に入りましょう。私たちにここを紹介してくれたのは、鷺尾優子という女性です」
黒頭巾の細い目がさらに細く、糸のようになり、肩が揺らいだ。動揺が包み隠した体全体から発せられたようだ。
「ムッシュ・ラピス・ラズリ・ノワール。あなたの服にはポケットがついていますね? その中に五十円玉が一枚入っているということも彼女から聞いています。そして、その穴には糸が通してあるとか。催眠術の小道具だそうですね?」
黒頭巾は黙り込んでしまった。
「宝石のお告げをリーディングするだけじゃなくて、あなたは催眠術の心得もおありなんだ。迷える者たちの魂の救済に必要なんでしょう。違いますか?」
「……いかにも」と掠《かす》れた声が答えた。
「鷺尾さんがあなたの催眠術による|癒し《ヒーリング》を必要としたことがありますか?」
「ある。あった」
黒|頭巾《ずきん》は座り直し、わずかに腰を引いた。逃げ出す用意をしているようでもあり、火村と私に飛びかかられることを恐れているようでもあった。
「この密室で女性に催眠術をかけることに成功したら、私など不埒《ふらち》な所業に及びかねないなぁ。──あなたほどの方ともなれば、そんな卑しい妄想《もうそう》はしないのかな?」
火村は身を乗り出し、丸テーブルに両手をついた。
「鷺尾さんから何を聞いたんだ?」
黒頭巾の声から鹿爪《しかつめ》らしさが消えた。われわれ同様の、ただのおっさんの声だ。
「具体的な話は聞いちゃいない。ただ、不愉快な目に遭いかけたということを仄《ほの》めかされてきただけだ。──彼女はここによくきたのか?」
「半年ほど前から……月に一、二度のペースで……」
虚仮威《こけおど》しのスタイルもこうなってはからっきし役に立っていなかった。椅子ごと後退《あとずさ》りした彼の背中は、もう壁にくっついてるようだ。
「恋の悩みの相談に?」
「そうだ。若い恋人と未来を築くことができるかどうか占って欲しい、と言われた」
「三角関係の話も出たろ?」
「年長の男からも求愛されている、と聞いた。愛情を抱いているのは年下の男の方だが、簡単に答えを出せず、迷っていると……」
「で、瑠璃のお告げは何と?」
「今月の初め頃……純粋に愛せる男にしなさいと……それが後悔のない選択だと……」
「おや、ご神託には過激なところがないじゃないの。で、その結果、彼女がどんな行動を起こしたか聞いたかい?」
「若い恋人と婚約したと聞いた」
「彼女に催眠術をかけたのはいつ?」火村は水晶球を覗《のぞ》き込みながら尋ねた。「嘘《うそ》をつくとここに現れますよ」
頭巾の下で低い呻《うめ》き声がした。
「先週の週末」
「金曜? 土曜?」
「金曜だ。彼女はいつも金曜日の夜に予約してやってきた」
「何時頃?」
「それも毎度同じで、九時半。一時間ほどここにいた」
「どうして催眠術をかけたのか聞きたい」
ラピス・ラズリ・ノワールは頭巾の中に手を入れた。汗を拭《ぬぐ》うためらしい。
「婚約者を決めたが、まだ不安が残っているというので、それを消してあげましょうと、私から……」
「彼女に悪さをしたね?」
「いや……そんなことはできなかった。催眠術なんかかかっていなかった。彼女は適当に術に嵌《は》まったふりをしていただけなんだから。悪さといっても、それは、本当に悪ふざけに等しいものでしかなかった」
「しかし、人前ではとても言えないことだ。恋人には知られたくないことだ。──そうだね、ムッシュ・ラピス・ラズリ・ノワール?」
長い名前の霊能者はがっくりとうなだれた。
「鷺尾さんは伴侶《はんりよ》の選択にかなり迷っていたんですか?」
火村は口調を和らげた。黒頭巾は「そう、迷っていた」と弱々しく答える。
「あの人は秘書だとか。しっかりしていて、仕事がよくできそうな女性だ。しかし、仕事はてきぱきとこなせても、自分自身の将来についての大きな決断を下しかねて、おろおろしていたらしい。その迷いを払ってやることはできたと思う」
灯台《ライトハウス》の役目は果たしたということか。
「かもね。──しかし、そんなにおろおろするということは、彼女は若い年下の男をそんなに深くは愛していなかったのかな? それとも、年長の男の財力に未練があったんだろうか?」
意見を求められた黒頭巾は、ううんと唸《うな》った。
「年下の男の方が好きだ、と言う気持ちははっきりしていたようだ。ただ、生涯を共にする運命で結ばれているのはどちらなのか、を知りたがっていたんだ。定めにそむくのは不安だから、と本気で言う。──私は、心が惹《ひ》かれるということが、すなわち運命の声を聞いているのだ、と話したよ。石もそう告げている、と言うと、ほっとしたようだった」
彼は、気を鎮めようとしてか、指先で瑠璃《るり》のペンダントをいじり続けていた。
「彼女は私を信じ、アドバイスを受け入れると言って、本当に若い恋人を婚約者に選んだ。それなのに、信頼を裏切って……申し訳ないことをしてしまったと、後悔している」
「もう結構」火村は体を起こした。「聞きたかったことは聞きました」
「出来心だったんだ。あの人があんまり美しかったので……」
私はそんな陳腐な釈明など聞きたくなかった。カチンときたので、友人の尻馬《しりうま》に乗って、降参している男に非難の言葉をぶつける。
「お美しい石を首からぶら提げててそれはないでしょう。あなたは彼女以外の女性にもそんなことをしてたんやないですか?」
「そんなことは誓ってない。信じてもらいたい」
随分と虫のいい嘆願だ。火村は、まぁまぁと私を止めた。
「ここへ警察がこなかったのは、彼女もその夜の出来事を内密にしておきたかったからです。ただ、私たちは彼女がここへきたことを確認する必要があった。どうやら間違いではなかったようですね。私たちの訪問の目的は達せられました。おいとましましょう」
私は、黒|頭巾《ずきん》の男に対して非常な憤りを覚えていた。このままあっさり帰る気になれない。
「その頭巾を取って素顔を見せて下さい。私はあなたの顔を覚えておきたい。信じて欲しいなんて言うんやったら、顔ぐらい見せるもんやないですか?」
火村はぼりぼりと頭を掻《か》いただけで、何も言わなかった。
ラピス・ラズリ・ノワールは「はい」と小さく答え、苦しそうに三角形の頭巾を脱いだ。気の弱そうな、胡麻塩《ごましお》頭の男の顔が現われる。目の下の肉がたるんだ、優子の父親といっていいような年の男だ。
「もう、あのようなことは二度といたしません」
彼は深く頭を垂れた。
彼を屈服させた。まるで、強大な権力者になったかのようだ。私は相手の弱みを執拗《しつよう》に責め立てて、石を投げた。過ちを犯した者に懺悔《ざんげ》を求めるお前自身の心に罪はないのか、という問いかけが胸の内で起こった。
男はみじめさを噛《か》みしめているようだった。
その顔を見ているうちに、『みじめな想い出』という抽斗《ひきだし》に分類されて眠っていた自分自身の苦い記憶が不意にいくつも思い出され、私は悲鳴をあげたくなった。
私が声のない悲鳴をあげたのと同じ頃、灘署の取調室では相馬智也が覚悟を決め、真実の告白を始めていた。
「半日間、警察の皆さんに隠しごとをしてご迷惑をおかけしました。これ以上嘘をつくことは皆さんの足を引っぱるだけですし、誤解されると鷺尾さんにも迷惑が及びます。あったとおりのことを話すことにします」
前髪を掻き上げる彼の前には、樺田警部と遠藤刑事の姿があった。
「伺いましょう」
どうやら肚《はら》をくくったようだな、と樺田は思った。遠藤はボールペンの尻《しり》でほっぺたを突きながら、じっと参考人を見据えている。
「金曜日の午後五時半に会社を出た私は、大阪駅のロッカーに預けてあった旅行鞄を取り出してから、六時五分頃、大阪ベルホテルにチェックインしました。一人で宿泊するためです」
「心斎橋の本屋だのパチンコ屋だのには寄らなかったんですね?」
樺田に聞かれると、相馬は「はい」とはっきり答えた。
「湯川部長の奥様と同じエレベーターに乗り合わせたとは思いもしませんでした。しかし、そのおかげでアリバイが成立しそうなわけですから、偶然に感謝しなくてはなりません」
「六時にそのホテルにいたからといって、あなたのアリバイは成立しませんよ」
警部がすかさず割り込んだが、彼は平気だった。
「ええ、それだけならアリバイになりません。でも、私がそのホテルにチェックインしたことの証人にはなっていただけますね? ちなみに、私は鷺尾優というふざけた偽名で投宿しました。それ以降の行動については、これから真実を話しますので、どうか皆さんでお確かめ下さい。証人は必ず何人かいるはずです」
覚悟を決めて犯行を自供するわけではなかった。樺田は失望しながらも、では何を吐くんだ、と興味をそそられた。
「ほぉ、余裕|綽々《しやくしやく》ですね。──チェックイン以降について早く聞かせてもらいましょう」
「江坂に住んでいる私がわざわざ梅田のホテルに泊まったのは、週末の趣味のためでした。それがお話ししにくかったので、これまで隠していたんです」
彼はうつ向き、汚れた机の表面を凝視しながら語った。
「その趣味を覚えたのは、もうかれこれ三年ほども前のことでした。初めのうちは同好の士が集まるクラブで楽しんでいました。週末にシティホテルを使って遊び始めたのが、今年の一月末からです」
「趣味とは何です?」
じれったくなって警部は尋ねた。彼が躊躇《ためら》いをみせたので、遠藤が聞く。
「鷺尾優子さんとの逢引《あいび》きではないんですか?」
「何度も言ったようにそれは違います。あの夜も、鷺尾さんはホテルにきていませんでした。湯川部長の奥様が後ろ姿を見た女性は──私でした」
「何?」
二人の刑事の声が重なった。
「私の趣味とは、女装です。女性になって街を歩くことなんです」
樺田はぽかんと口を半開きにしたまま、しばし次の質問を考えていた。やがて──
「あなたはホモセクシャルなんですか?」
「いいえ。そうではないんです。私の趣味はただ、女性と同じ恰好をして、気持ちも女性になりきって雑踏にまぎれること。自分は男である、というスイッチを切ることなんです」
「それが……楽しい?」
「はい。女性に変身することは、刺激的で、わくわくして、楽しいには違いがないんですが、それと同時に、ひと時、男をやめるということが私を楽にさせてくれました。生まれてから死ぬまでのべつまくなしに男をやらなくてもいい、やかましくて見飽きた部屋からちょっと抜け出して、隣りの部屋で休憩することもできるんだ、と気がつき、実際に試してみたら、とてもリラックスできたんです。馬鹿馬鹿しいとお思いでしょうが、女性に化けるという趣味は、私にとって大きな意味を持つようになっていました。想像力を働かせて、いくらかでもご理解いただきたいと思います」
相馬は熱っぽく話した。事件当夜の行動を正しく認識してもらいたいということから熱弁をふるっているのではなく、異性に変身することによって人は慰撫《いぶ》されるのだ、という教えを伝えようとするがゆえのようにも見えた。
「ふぅむ、ストレス解消ということですか」
遠藤がひと言でまとめてしまいかけると、相馬は首を振った。
「そういう言い方をすると嘘になってしまいます。公私とも順風|満帆《まんぱん》でストレスなんかなかったとしても、私は女性になって楽しんだでしょう。二つの性を往来するという自由は、単なる暇つぶしや気散じを超越した喜びです」
もう彼は、告白前のように照れたり恥じたりしたふうではなく、顔を上げ、相手の目を交互に見つめながらしゃべっている。放っておくとひと晩中演説をやらかすかもしれない、と警部は思い、ストップをかけた。
「それで、あの夜、ホテルにチェックインしてからどうしたんですか?」
「鷺尾さんに化けました。彼女にとてもよく似合っていたヘアスタイルと同じヘアピースと、やはりとてもよく似合っていたワンピースと同じような服を用意していたんです。靴もです。どれもあちこち捜し回って手に入れました。あの日の私の目的は、単に男を捨てて女になる、というだけではなく、彼女になりきることでした。歩き方も、挙措《きよそ》も、精一杯真似たつもりです。フロントで鷺尾優という偽名を使ったところから、ゲームは始まっていました」
「鷺尾優子になりきる。──彼女への愛情が屈折してそうなったんですか?」
問われた相馬は片頬に手を当てた。生物学的な女性以上に女性的な、名女形のような優雅なしぐさだった。
「そうです。多分……そうなんでしょう」
「何年か前、あなたは鷺尾さんに言い寄ったことがあると聞いていますよ」遠藤が直截《ちよくさい》に言った。「正直言って、あなたの趣味は私にはよく理解できない。あなたは女性に対して、男性としての興味も持っているんですか?」
「はい。私はまぎれもなく男です。ただ、時々それを忘れたくなるだけです。性転換願望もありません。私は男であることに一応は満足していますから、男稼業を廃業する気はさらさらありません。男でいることが鬱陶《うつとう》しいのではなく、女性になってしまいたいのでもなく、二つの性を行き来したいんです」
遠藤は肩をすくめた。樺田が聞く。
「チェックインして、鷺尾さんに化けてからどうしました?」
「念入りに化粧をすませると七時半でした。それから、ホテルの地下にある『シュテルン』というドイツ風レストランで食事をしました。もちろん一人だけの食事です。あれこれ単品でオーダーしましたけれど、ウェイターは私が男であることにはまるで気がついていない様子でした。本当にだませているのか、相手が気がつかないふりをしているだけなのか、私にはよく判ります。食事をすませたらどこかもの欲しげな若い男がたくさんいる店に行って、彼らの視線を楽しもうという計画でした。ところが、デザートに溶けかかったようなアイスクリームが出てきたものですから、それを服にこぼしてしまったんです。そのまま夜の街に出て行くわけにはいかなくなったので、仕方なく一度部屋に帰ることにしました。それが九時頃ですから、湯川夫人が見たのはその時の私でしょう」
話に一貫性と具体性がある、と警部は認めないわけにはいかなかった。
「染み抜きは得意なんです。幸い、それほどひどく汚したわけではありませんでしたから、丁寧に拭《ふ》けばほとんど判らなくなりました。汚れが落ちたので、九時半ぐらいにホテルを出て、街に冒険に出ました。十二時に戻るまで入った店は二軒です。最初に入ったのは『夜間飛行』というバー。そこではカクテルを何種類か飲んで、バーテンさんと少し言葉を交わしました。行ったのは三回目なんですけど、『うまくなりましたね、お客さん』なんて言われました。あの人はきっと私のことを覚えてくれているでしょう。そこにいたのは十時半まで。二軒目は『レイヴィング・アンド・ドゥルーリング』というハウス系のクラブで、踊ったりはせず、そこでもカクテルを飲んでいました。バーテンさんに見破られたように、ここでも私が男だという正体が割れてしまいました。相手はジョージと名乗るにきび面の男の子で、私にすり寄ってあれこれしゃべってきました。そこに入りびたっている常連らしく、顔見知りが何人も彼に声をかけていましたね。彼はゲイでした。私が女装した野郎だということぐらい、ひと目で判ったそうです。クラブミュージックだのハウスミュージックだのは元々ゲイの音楽だからか、彼は選曲にとてもうるさくて、DJを『やめやめ、このイモ!』とからかったり、私に色々と音楽指南をしてくれたりしました。二十分ほど一緒でした。最後に『来週の金曜の夜にきたら、もっとおもろい話したるで』と笑って言ってくれたぐらいですから、アリバイの証人になってくれるでしょう。それぞれの店の場所は──」
相馬が自信を持って話す店名とその所在、そして証人候補の名前を手帳に控えながら遠藤は聞く。
「ジョージと別れたのは何時です?」
「十一時四十五分ぐらいです。ホテルに帰ったのは先ほど言いましたように十二時。それから男に戻って、シャワーを浴びて寝ました。──口からでまかせを言っているとお疑いなら、今の話に出てきた店で証人を捜して下さい。まだあれから一週間もたっていませんから、記憶は失われていないと思います」
警部と部下はすぐに応答できなかった。
「私は鷺尾さんとホテルで密会などしていませんでした。堂条社長を六甲山で殺してもいません。それを証明してくれる人たちはちゃんといます」
刑事らの困惑した表情に勇気を得たのか、相馬はここぞとばかりに力んで訴えた。
「もちろん裏は取りますよ。けどね──」
樺田がどすのきいた声で言うと、相馬はまた不安そうな顔になる。
「相馬さんのアリバイを証言してくれる人間を捜すのもいいけれど、われわれには他にも仕事があるんですよ。例えば、凶器になったあの置物に、どうしてあなたの指紋が遺っていたか、とかね。──今の冒険|譚《たん》の余勢を駆って、これについても説明していただけませんかね?」
「いえ……それは、私にもさっぱり……」
彼は絶句した。
夜が更けていく。
私は、過ぎ去りかけている今日一日を振り返りながら、飲み干したビールのアルミ缶をゆっくり握りつぶした。
「結局、走り回っただけで収穫はなかったな。徒労もええところや」
少し前にかかってきた樺田警部の電話を思い出しつつ、私は不満たらしく言った。
「鷺尾優子、相馬智也の二人の関係者を二人消し込めたんだから、よしとしろよ。文句の多い助手は馘《くび》だぜ」
火村はソファに崩れたまま言う。眠くてたまらない、という声だった。
「先生、スタミナがなくなったな。まだ十一時やっていうのにもうねんねか?」
「俺はこのフィールドワークを始める前、徹夜に近いことして論文を書いたんだって言ってるだろ。有栖川先生みたいに譫言《うわごと》をワープロで打ちゃあいいって仕事じゃないんだから」
「人の作品に向かって譫言とは何や」と言うと、彼はあっさり「すまん、悪かった」と詫びた。
「おい、マジで謝るなよ。冗談やっていうぐらい判ってる」
「いや、本気で言ったから謝ったんだ」
私はわざわざ腰を浮かして尻《しり》の下のクッションを取り、彼にぶつけた。ぶつけてから、新婚ごっこもどきをしてる場合ではない、とわれに返る。
「けど、相馬智也にあんなユニークな趣味があったとは気がつかんかったな。まぁ、そう聞いてみたら、彼は華奢《きやしや》で、色白で、女装ぐらいこなせそうにも思える」
「異性装癖か。優しい趣味じゃないか」
「理解できるわな」
「ああ、もちろん理解できる」
私たちは理解理解と繰り返した。彼と私は時々このように、口に出して『自分が他者を理解していること』を確認し合う。とても共感などできない主義、思想、趣味でも、理解は可能でありたい、という共通の認識からくる二人ひと組の口癖だ。遠い他者と自分たちの間だけでなく、彼と私の間にも当然ながら共感しがたい主義、思想の食い違いは多々あった。死刑に対する賛否などもその一例だ。しかし、お互いに相手の考えることを『それも考えとして成立する』と理解することは放棄するまい、と考えていた。とまぁ、立派なことを言っても、実践が難しい場面も多い。──ただ、相馬の探偵小説めいた趣味を理解することは造作もなかった。
「堂条秀一にとってフロートカプセルにつかっている時が安らぎのひと時やったように、相馬は男のスイッチをオフにしている間、救われるものがあったんやろう」
「彼の繭《まゆ》だったわけだ」
「繭ね」
昨日ここで交わされたコクーニング現象、オタクなどという言葉が思い出される。繭──コクーン──COCOON。こいつは面白い。英語で綴った時のCOCOONという字面は、まるで蚕《かいこ》の形を表わしているようではないか。英語が象形文字だとは知らなかった。
「繭と言えば、鷺尾優子にとっては、あのいかがわしい占い師の黒幕の中で聴く託宣が繭だったのかもしれないな。好きな男と結ばれてもいいのでしょうか、と運命にお伺いをたてなくては安心できないなんて、ある意味で気の毒なことさ」
「火村先生の繭は何や?」
彼は大きな欠伸《あくび》をした。そして──
「学問にかこつけて人間を狩ることさ」
あまりにも自嘲《じちよう》的な口調だった。答えたくなかったのだ、聞かなければよかった、と私は思った。火村が犯罪者を蝿《はえ》のようにはたき落としたがる理由を私はまだ理解できていないのだ。
「人を狩る、というのは犯罪者を狩ることで、ひいては悪を狩るということやろ?」
そんなふうに話を接ごうとすると、火村はふんと鼻を鳴らした。
「犯罪が悪かどうかなんて言い切ることはできない。そんなものは近世以降にでっち上げられたフィクションかもしれないんだからな」
「犯罪がフィクションだなんてことがあるか? そら、まぁ、時代や場所が違えば、犯罪になったりならなかったり、ということはあるけれど」
火村はぼりぼりと頭を掻《か》いた。
「ふぅむ。推理作家は犯罪について考えたりしないんだよな。まぁ、俺にしたって偉そうなことは言えないけどよ。──この前、学会に出て隅っこでおとなしくしてたら、某国立大学の先生に叱《しか》られたんだ。俺のフィールドワークについて知ってる先生で、曰《いわ》く『君は犯罪者を遊び半分でハンティングしているのか? 権力者によって捏造《ねつぞう》された法律を侵犯した者を無批判に悪だと決めつけて、刑事警察のボランティアなどをしているのか? この世のあらゆる犯罪が冤罪《えんざい》であるかもしれないのに』」
その先生の言うことも極端すぎて判りにくい。火村は語気を強める。
「俺だって判ってるさ。犯罪という概念も、それを裁くという概念も、どっちも人間の創造物、文化にすぎない」
疲れている友人に、私は重い話をふきかけてしまったのかもしれない。彼の口調は、教壇に立っている時のものになりかかっていた。
その時、彼の犯罪学講義に邪魔が入った。私の書斎の電話が鳴りだしたのだ。火村と一瞬顔を見合わせた後、私は受話器を取りに飛んでいく。「夜分申し訳ありません」という声の主は一時間ほど前にも電話があった樺田警部であった。
「火村に代わります」
自分にも聴こえるよう、拡声ボタンを押してから受話器を友人に手渡した。火村はソファの上で上半身を起こす。
──ああ、先生、お休みになろうとしているところをすみません。
「何か新情報ですか?」と助教授は早く本題に入るように促す。
──相馬智也の証言が一部ですが確認できました。
「裏が取れたんですね?」
もう? と私は驚いた。
──『夜間飛行』という店のバーテンが相馬の供述どおりのことがあったのを覚えていました。ただ、問題なのは面通しです。明日にでも、彼に同じメイクと扮装《ふんそう》をしてもらって、バーテンに会ってもらうつもりです。
相馬にとって愉快なことではないだろう。同情するが、アリバイを証明するためにはやむを得ない。
──もう一つの何とかいう店での聴き込みはまだです。ジョージとかいう若いのがうまく見つかればいいんですがね。まぁ、それが失敗したとしても、バーテンの証言が得られたら彼のアリバイは成立します。
「もうここまできたら、彼に対する樺田さんの心証はシロでしょう?」
──そんな気がしています。となると、凶器に遺った指紋の説明がつかなくなるんですけれどね。
啼《な》かないカナリアの籠《かご》の脇で、私は壁にもたれて耳を傾けていた。
「凶器と言えば、出所は判明したんですか?」と火村は質問を変える。
──それもお伝えしようとしていたんです。午後、すぐに鳥羽へ捜査員を二人やりました。あの女神像を販売している店は鳥羽で一軒しかないらしいんですよ。社員旅行の折に長池伸介が買ったという店だけが扱っているオリジナルな商品だったわけです。
「その店で聴き込みをしたんですね?」
──ええ、もちろんです。彼らはついさっき戻ってきたところですので、これから今日の捜査会議を始めます。
「凶器を買った人間は判らなかったんですか?」
それこそ最も重要なところだ。
──判れば苦労はなかったんですけどね。
「手掛かりはなしですか?」
──犯人は面が割れないように手を打っていたようです。詳しくは会議後……だと遅くなりすぎますから、明朝にでもお知らせしましょう。とりあえず、速報は以上です。
「わざわざありがとうございました。また、お願いします」
警部の「では、おやすみなさい」を聞いてから火村は通話ボタンを切り、私に受話器を返した。そして、人差し指を口元で立てる。
「おい、事件のことについてしゃべるなよ。今日はもう店じまいしたんだから。考えるのは明日だ」
「判った」
私は椅子に掛けた。火村を解放してやるのが思いやりなのだろうが、途中で断たれた話の続きも気になる。
「民間の捜査会議は措《お》いておくことにしよう。その代わりに、すべての犯罪は冤罪《えんざい》である、犯罪とその処罰は文化にすぎない、という講義の続きを聴かせろ」
「虚弱な俺を殺す気か?」
彼は再びソファにごろんと横になり、両腕を頭の下で組む。そして、ぼやきながらもリクエストに応えてくれた。
「極端な例をあげようか。──古代の日本において罪と罰とは何だったか? 罪の語源は『つつしみ』で、これは窃盗《せつとう》や殺人といったものだけでなく、疫病や自然災害も包含した言葉なんだ。それは、共同体を悩ませるトラブルであると同時に、ケガレだった。そして罪に直面した彼らにとっては、困った結果になってしまったというよりも、むしろ社会がケガレてしまったという恐れの方が大きかったらしい。彼らは罪と罰との対照表など持っていなかった。罪を犯した者に制裁を加えるよりも、振りかかってきたケガレを祓《はら》い清めることに力を注いだ。それはこんな具合だ。『みなつきのつもごりの大祓へ』と祝詞《のりと》をあげ、『はらえつもの』という供物を神に供える。そうすれば、神々は罪を手から手へ渡し、山から川、川から海へと押し流していってくれる。行きつくところは根の国とも底の国とも言われる冥府《めいふ》。そこには、『はやさすらひめ』という神が待ち構えている。イギリスの現在の裁判所前に立つ女神像は、罪と罰の均等を計るための秤《はかり》を持っているそうだけど、根の国の神は何を持っていると思う? 手ぶらさ。その神は、流れてきた罪をさすり、消滅させてしまうんだよ」
なるほど、話は違うがよく理解できたことがある。収賄罪《しゆうわいざい》や外為法《がいためほう》違反で逮捕された政治家たちが地元の選挙で勝つと「禊《みそぎ》はすんだ」と胸を張って永田町《ながたちよう》に舞い戻ってくるのは、古代日本人のDNAがなせる業なのだろう。故郷の選挙民に優しくなでなでされて罪が消えてしまったわけだ。
火村はまた大きな欠伸《あくび》をした。
「共同体のシステムがシンプルなうちはそんなファンタジーでことは足りていたんだろう。しかし、社会システムが複雑になるに従って祝詞とお祓いは効力を失っていく。人間が野山にまばらに住んでいるうちは、生活廃水など川へ流せばすんでいたのに、現代の都市が下水道なしに汚物を処理できなくなったのと同じことさ。神様のご威光だけでは駄目だ、となった時、犯罪は悪であり、よって、社会秩序維持を義務づけられた権力者が裁かなくてはならない、という文化が誕生した。かつてはクソは肥料になった。それが今日では通用せず、クソはクソでしかないとひたすら忌避される。生産に寄与しないろくでなしはクソでしかない、肥料にもならないから犯罪者─悪人を、顔をしかめながら始末する。それが近世以降の法の裁きだ」
「けど、人を裁けるのは神ではなく人だけだ、というのがお前の持論だったんやないのか?」
「それが真実である、当然である、と考えてのことでもない。社会科学にこれが唯一、絶対という結論はないから、俺の持論は俺の自由な選択だ」
それはそうだが……
「ここで過程についてしゃべる気はないけれど、俺は罪刑法定主義に撞着《どうちやく》した。下水道は壊せないということか、と聞かれたら、眠くて死にそうな犯罪学者にそんなこと聞くなクソ野郎、と今夜は答える」
どうしようもなく巨大なジレンマを抱えているらしい彼の真意は、今日もつかめないままになりそうだった。学生たちに問われるたびにクソ野郎と答えているわけではないだろうが。
「罪も罰も文化という馬に乗ってどこへでも走る。ヘイホー。北でも南でも。西でも東でも。ただな、自分が乗っている馬が暴走しだしたと判ったら、俺は乗って走りながらその馬を蹴り殺してやりたい、とも思ってるんだぜ」
もう眠らせてやった方がいいだろう。
「最後に、さっきの某国立大学先生からふきかけられた議論にどう応じたのか教えてくれるか?」
「議論なんかしちゃいないよ」と彼は吐き捨てる。「そんなことをする時間はなかったし、相手は俺を理解したくないようだったから」
火村は眩《まぶ》しげに顔をしかめ、寝返りを打ってあちらを向いてしまった。
「眠らせろ」
「すまん」と私は詫《わ》び、リビングの明かりを消した。「おやすみ」
「お疲れ」
私は受話器を戻しに書斎に入った。窓から差し込んだ明るい月明かりを浴びて、ここ数日使っていない商売道具のワープロがぼんやりと光っている。背を丸めてそれに向かい、小説を綴《つづ》る自分の姿を想像した。
私にも繭はある。それはおそらく──いや、きっと──小説を書くということなのだろう。
小説を書くこととは、私にとってとりも直さず推理小説を書くことだ。それも、推理小説の洗練された──とは自称しないが、そう思っていることが明らかな──読み手たちの一部から時代錯誤と幼児性の産物であると白眼視される本格推理小説。自分の書いたものを譫言《うわごと》だの駄文だのと卑下したりはしないが、やはりそれは娯楽のための絵空事にすぎない。しかし、それを書くことは私にとって『たかが推理小説を書くこと』ではなかった。
受話器を戻してから、私はワープロの前の椅子に腰を降ろして、回想の中に沈み込んでいく。小説を書き始めた日のことが脳裏に甦《よみがえ》る。小説を書き始めた日。それがいつなのか私は特定して言うことができた。
高校二年、十七歳の夏、七月九日。
蒸し暑い夜だった。
それ以前から、小説を書いてみようかな、とは思っていた。発作的に実行に移したのは、それから二日|遡《さかのぼ》った七月七日に起因している。
十七歳で迎えた七夕の夜。私はせっせと一通の恋文をしたためていた。相手は隣りのクラスの女の子。一年の時はクラスメイトで、その頃から秘かに想いを寄せていた。恥ずかしながら、彼女に関する諸々の情報を、私は今でも完全に記憶している。生れて初めて書いたこの恋文は、自分でじかに手渡そう、と思いながら書いたっけ。勇気を持て、と自分を励ましながら。
翌日の放課後。都合のいいことに一人で下校しようとしている彼女に校門で追いつき、「これを読んで欲しい」と差し出した。彼女は白い封筒をちらりと見て「うん」と言い、素早く鞄にしまった。「バイバイ」と手を振りながら微笑してくれたので、心からほっとした。私は思いつめた表情をしていたに違いないから、受け取ったものが恋文であることはすぐに判ったと思う。それなのに困惑した素振りを見せなかったということは……。遠ざかっていく小さな紺色のリボンを見つめながら、脈があるぞ、と私が胸を高鳴らせたのも無理はない。
夜になってもよく晴れていて、月が明るかった。今夜と同じようだ。それが天の祝福であるかに思えて、私はカーテンを開け、月光を浴びながらベッドに入った。もしかすると、今頃、彼女は自分への返信を書いているかもしれない、と想像すると、輾転反側《てんてんはんそく》を繰り返しながらなかなか寝つくことができなかった。
目が覚めると、待ち遠しかった翌朝がちゃんと訪れていた。今日は嬉《うれ》しい返事がもらえる。そう思うと、学校に向かいながら足が地に着かず、宙を浮きながら歩いているかのようだった。あれほどわくわくしながら登校したことは、後にも先にも一度もない。
だが、返事はもらえなかった。彼女は欠席していたのだ。
拍子抜けしてしまったが、楽しみが一日伸びただけだと思った。──あの日、私はまだ幸福だったのだ。
そしてその翌朝。登校してみると、その噂《うわさ》は悪臭のように学校中に漂い、遍《あまね》く広がっていた。彼女が大怪我をしたという。
──手首を切ったらしい。
情報通が教えてくれた。
──まさか。
──嘘《うそ》やない。あいつの近所に住んでる奴から聞いたんや。一昨日の夜、救急車がきて大騒ぎやったらしい。病気の婆さんがいてる家やから、また発作でも起こしたんかな、とみんな思てたんやけど、昨日の夕方になったらしゃべりの近所のおばはんが言いふらしてたんやて。『あそこの娘さん、手首切って自殺しようとしたんやて』って。
──どうして自殺なんかしようとしたんや?
──知るかよ。親も『判らん』って泣いてるそうやから。
私は教室の片隅で叫びだしそうになるのをこらえた。悲鳴を喉《のど》の奥に押し込めても、それは体中の皮膚を突き破り、しぶきを飛ばして迸《ほとばし》りそうだった。
本当に倒れるかと思った。壁に寄りかかってからくも立ちながら、私は何割か意識を失ったのだ。
まさか、まさか、まさか。
私の手紙を受け取る彼女の素振りはふだんどおりで、何も変わったところなどなかったのに。小さく手を振りながらの「バイバイ」という声は明るかったのに。
自分がオタクだったのかどうかは判らないが、足元の地面が崩れた時に、私は虚構に逃げ込んだ。その夜から小説を書き始めたのだ。文字どおり──ではないが──サンドバッグを殴るように、明け方近くまで原稿用紙に文章を書き殴り続けた。小説の中に逃げ込まなければ、真っ黒な悪夢のような現実に、私の脆弱《ぜいじやく》な精神は引き裂かれてしまう、と思い、奥歯をカチカチ鳴らせながら書いた。クーラーをきかせていたはずなのに、湧《わ》き出てくる汗がぽたぽたと原稿用紙の上に落ちた。筆は止まることがなく、うっとりとするような文章が時には書けた。それがどんなものだったかは忘れてしまったが、十七歳だったその男にとっては、まぎれもなく美文、名文だったらしい。
もちろん、書いたのは、ゲームまがいのたかが本格推理小説だった。今になってしたり顔で理屈をこねるなら、私は本格推理小説という小宇宙《ミクロコスモス》を描くことで救われようとしたのだろう。そして、虚構の──しかし小説の中ではパーフェクトな──論理を振りかざし、世界を粘土のように玩弄《がんろう》して、何かに精一杯の復讐《ふくしゆう》をしようと試みたのかもしれない。そう。ちょうど患者に箱庭作りを行なわせて癒《いや》す精神科医の箱庭療法を自らに施していたのだ。
二カ月ほどして、彼女は学校に姿を見せた。左の手首に巻かれた白い包帯を遠くから見た時、私は立ち尽くした。どうして命を絶とうなどとしたのか、という質問を投げかけられる者は一人もいなかった。ただ、幼稚園から一緒だった友人には、ひと言ぽつりと漏らしたそうだ。
──生きててもつまらないと思って。
そうだろう。生きててもつまらないのではないか、と考えたことがない人間なんかおそらくいない。
けれど──やはり──何故、彼女が死のうなんて思ったのだ?
何故、私の恋文を手にした日に死のうとした?
死のうか、と思っているところに渡された一通の恋文。およそ恋心などそそられることのない男から寄こされた、情熱の汗をインクにして書かれたような、真摯《しんし》なだけが取柄のうざったい手紙。
──やっぱり生きててもつまらない。
彼女がそんなふうに意地悪く思ったかどうかは判らない。もしかすると、私の書いた手紙など、彼女にとっては道端で無理矢理に手渡された美容院オープンのチラシほどの意味もなかったのかもしれない。もちろん、そうだとしても私は哀しい。
私に小説を書かせた日のことは、『みじめな想い出』という抽斗《ひきだし》にしまい込み、厳重に封印したはずだった。しかし、もちろんのこと、忘却してしまうことはかなわず、それは時折じくじくとにじみ出てきて私を嘖《さいな》んだ。今夜、黒|頭巾《ずきん》の占い師が見せた表情が、どうやらまた、その記憶をほじくり出してしまったようだ。
いつかひどく酔っ払って、この悲恋物語を吉住にしたことがある。あの『ナルシス』という店でだった。泣き上戸の彼が目を潤《うる》ませてくれたことに驚いたものだ。
彼女の消息については何も知らない。当然ながら、もう恋心などはとうに失せているが、彼女がまだこの街にいるかもしれないと思うと、大阪に生まれてよかった、と思った。これが小さな田舎町だったなら、私は彼女に不意に出会ったり、その後の彼女の生活を耳にすることに耐え切れず、故郷を飛び出していたのに違いないから。
あれからもう十六年もたつのか。
私の人生を二つに折り畳んだら、あの日はほぼ真ん中にくることになるのか、と思うと、感慨は深かった。
そして、いつしか私は推理小説を書くことを職業にしてしまった。あの日が私の人生の向きを折り曲げたのだ。
左手の書架に並んだ自分の著書に手を伸ばし、指先で背表紙をなぞる。
私の小説。私の繭よ。
第九章 鳥羽《とば》にて
火村に揺り起こされたので、一体何時なのかと枕元《まくらもと》の時計を見ると、何とまだ八時半だった。私は強く抗議しないではいられなかった。
「こんな時間に起こすんやったらそう言うといてくれ。もう少しはゆっくり寝てられると思うてたのに」
すると、火村は壁に右手を突いて体を支えながら、思いもよらないことを言うのだった。
「早く着替えなよ。これから旅に出るんだから」
まだ目が覚めきらない私は、両手で瞼をこすりながら問い返すしかない。
「旅? 角の煙草屋へか?」
吉行淳之介《よしゆきじゆんのすけ》ふうに言うと、彼はすました顔で「鳥羽さ」と答えた。
火村がせかすものだから、着替えをすませると、朝食もとらずにばたばたとマンションを飛び出した。上六へ出て、鳥羽行きの近鉄特急に乗る。近鉄名物のおしぼりで手を拭《ふ》き、駅で慌てて買ったサンドイッチのパッケージを開けながら、私は突然の旅立ちの説明を求めた。
「実は、お前がぐーすか眠ってる間に電話を無断で借用させてもらった。朝っぱらから樺田警部を呼び出して、事件についてあれこれ話した。八時から朝の会議があるっていうから、大急ぎで言いたいことを言って、聞きたいことを聞いた」
「大したもんだ。昨日の夜はぐったりしてたのに、さすがに回復力が早いな。──休講にしますって連絡は大学に入れたか?」
私はまだ眠いのだ。
「それは昨日中にすませてある。──警部にまず尋ねたのは、凶器に遺っていた相馬氏の指紋について。彼のアリバイが成立したとし、これまでの証言が正しいとするなら、何故、触った覚えのないものに指紋がついていたのか、という疑問が生じるだろう?」
「謎《なぞ》やな、あれは」
「判ったよ」
火村はさらりとこともなげに言った。私は「ほんまか?」と聞く。「触っていないものに指紋がつくなんてことは、アクロバットみたいな説明が必要やって、お前は言うてたぞ」
「霊感めくけれど、今朝、明け方にうつらうつらしていてはっと気がついたことがあるんだ。気がついたというより、思い出したと言った方が当たってるかもしれないな。アクロバットでも何でもなかった。昨日の午後、ジュエリー堂条で相馬氏の話を聞いた時のことなんだけど、アリスだってそれを見てるんだぜ」
もったいぶって言いながら、火村はハムサンドをつまんだ。同じものを見ていながら気がつかないのか、と言われれば──樺田警部も同じ立場だが──少しは癪《しやく》に障《さわ》る。しかし、二十秒ほど考えても何も浮かぶことはなかった。
「触っていないものに指紋がつくはずがない。彼は、女神像に触ったことを自分で忘れていたのさ。そうだとしか考えられない」
あまりにも常識的な見方であるから、反論はせずに黙ってしばらく聞くことにする。
「問題の女神像は鳥羽の土産物屋《みやげものや》でしか売られていないそうだし、彼は去年の社員旅行以外に鳥羽を訪れていない。となると、ことは簡単じゃないか。彼は社員旅行中、土産物屋で女神像に手を触れたんだよ。おそらくそれは、長池氏が買ったものではなく、同じ棚に並んでいた別の商品だ」
助教授はまたハムサンドを口に運ぶ。バランスを考えて食べなければ卵サンドばかりが残って仕方がないではないか、と私は思って見ていた。
「簡単じゃないか、と言うけど、そう決めつける根拠があるのか?」
「ごくささいなことなんだ。長池氏が土産物屋であの女神像を買った時に相馬氏は、『お前、こんなものを買うのか?』とからかったと言う。そう話しただろ? 俺が明け方思い出したのは、それを語った彼の手の動きだった。『こんなものを買うのか?』と言いながら、彼は、軽く何かを掴《つか》むしぐさをしたんだよ」
そうだっただろうか? 私の記憶にはなかった。
「俺はすぐに捜査本部に電話をした。一昨日の吉住氏と同じように、遅くまで事情聴取を受けた相馬氏は灘署に一泊していたということだったので、すぐ彼に尋ねてもらうことができたよ。『こんなものを買うのか?』と言いながら、棚にあったもう一つの女神像に触らなかったかどうか。彼の返事は『そういえばそうだったような気がする』というものだった」
私は正直なところ白《しら》けた気分になっていた。「そうだったような気がする」という相馬の反応はいかにも信憑性《しんぴようせい》が乏《とぼ》しい。困っているところに火村が差し出したもっともらしい仮説に、渡りに舟と飛び乗っただけなのではないか? 思ったことが顔に出る私の気持ちを読み取った友人は、にやりと笑った。
「都合のいい言い訳を俺が提供してやっただけじゃねぇか、と思ってるだろ?」
「まぁな」
「そうとは限らない、と俺は思っている。彼の手の動きがいかにも無意識のしぐさに見えたからだ。もし、私が捻《ひね》り出した言い訳をあらかじめ彼が周到に用意していたんならば、もっと早い段階で自分の口から伝えていただろう。ぎりぎりまで追い詰められても自分からアピールしなかったという点で、信憑性を認めてもいいとは思わないか?」
「まぁな」と私は繰り返した。「そうかもな」
会議前の警部に言いたいことを言い、聞きたいことを聞いた、と火村はさっき言った。言いたいことというのが明け方の霊感だったとしたら、聞きたいことというのは何だ?
「凶器を買ったのがどんな人間だったのか、についても尋ねたよ」と彼はすかさず説明する。「例の女神像というのは、『いわたや』という土産物屋のオリジナル商品なんだそうだ。某美大を卒業した若|旦那《だんな》がデザインしたんだけど、昨日見たとおりの出来ばえだ。日本人の美的感覚も捨てたものじゃないのか、これがさっぱり売れない。どれぐらい売れないのかというと、売り出してもう三年になるというのにまだ二つしか売れていないぐらいだ」
「二つ? 二つか? ということは、そのうちの一つを長池氏が買って、もう一つは堂条秀一を殺した犯人が買ったということやな?」
そんなに売れない商品だったのなら、どんな客が買ったのか店員が覚えていてもよさそうなものではないか。──昨日の遅い電話で警部は否定的なことを言っていたが。
「もちろんそういうことだ。そして、店員はその二つがどんなふうに売れたのかをおよそのところを覚えていた。若旦那が道楽で造った不細工なのが売れたぜ、って陰でくすくす笑ってたんだろうな。一つは半年ほど前に団体旅行の若い男が仲間に冷やかされながら買ったというから、これは明らかに長池伸介氏だな。──そして、残る一つを買った物好きこそが誰あろう……」
「早く言え」
「判んなかったとさ」
「そこまで犯人に肉薄してて、判らん?」
予期していた答えであったが、私は口元を歪めて言った。
「客は帽子をかぶり、サングラスをかけていたので、人相が判らなかったんだ」
「けど、性別とおよその年齢、身体的特徴ぐらいは覚えてないのか?」
「客は男だ。年齢は二十代後半から四十ぐらい、と全く曖昧《あいまい》だ。身体的特徴も特に目立ったところはなかった、とか」
やれやれ。
「犯人が用心していたんだから、それも仕方がないのかもしれない。これまで捜査線上に上がった関係者すべての写真を見せてみたんだが、ピンとくる顔はなかったという」
「関係者というと、ジュエリー堂条の人間の写真か?」
「堂条秀二に借りていった社員旅行の写真を見せたそうだ。秀二はその旅行に不参加だったので、別に内緒で撮っていた秀二本人の写真も念のために見せたんだけど、よく判らない、という返事しか得られなかったとさ」
「ご苦労さん、か」
「帽子にサングラスの男が女神像を購入したのは三月下旬。日曜日だったかもしれない、ということだ。時期からみて、堂条秀一殺害の凶器に使うことを目的として買われた疑いが濃厚だろう」
私は、火村が手を伸ばしかけた最後のハムサンドをひったくってから、尋ねるべきことを思い出した。
「凶器になった第二の女神像が売られた経緯を警察はつきとめたけど、客の素姓《すじよう》は判らんかった。──そしたら、何で俺らは鳥羽へ向かってるんや? 誰も出張経費をもってくれんというのに」
「土産物屋に再調査に行くのさ。確認したいことがあるんだ。捜査員が尋ねそこねた質問をぶつけてみる」
「ほぉ、探偵をやらかすわけか」
上六を出て三十分。大阪平野の狭さを実感させるように、左の車窓にはもう山が迫っていた。朝起きていきなり「旅に出る」と言われて飛び出したわけだが、こういうこともたまにはあっていいではないか、と思えてきた。このところ東京に仕事半分で出かける以外は、取材旅行らしいものもしていなかったので解放感も込み上げてくる。
などとぼんやり考えていて、私は火村の言葉に反応するのが遅れた。
「確かめる……。捜査員が尋ねそこねた質問……。何を確かめるんや?」
「それは向こうについてのお楽しみ」
それもいいだろう。
睡眠不足が旅情に勝り、私はころりと寝た。
関西の大方の小学生は修学旅行で伊勢《いせ》を訪れる。つまり、小国民たちはわけも判らないまま神武《じんむ》天皇を祀《まつ》った神社を参拝させられるわけである。そんなことを疑問に思ったのははるか後になってからのことで、もちろん当時は気にもしなかった。それも当然のことで、伊勢に入った児童らはまず、いの一番に神社見学をすませ、五十鈴川《いすずがわ》──ここの水はケガレをチャラにし、褌《ふんどし》姿で飛び込んだ某大企業の戦士らの脳を洗う──を泳ぐ鯉《こい》を眺めると、さっさと楽しいコースに移っていくからだ。二見浦《ふたみがうら》の夫婦岩《めおといわ》、朝熊山《あさまやま》のスカイライン、イルカやアシカのショーが見られるイルカ島を含む島巡り、鳥羽水族館、エトセトラ。世界で初めて真珠養殖に成功した御木本幸吉《みきもとこうきち》の不撓不屈《ふとうふくつ》のサクセスストーリー学習、海女《あま》の素もぐりの実演見学を含めた鳥羽の真珠島もコースからはずされることはない。
私がその鳥羽を訪れるのは、小学六年の修学旅行以来だから二十一年ぶりということになる。海に臨んだ終点の鳥羽駅で降り、真珠島に行くなら島巡りの船に乗るんだったかな、と思っていたら、まるで違った。記憶というのは本当にあてにならない。御木本幸吉の島は駅から徒歩五分ばかりのところにあり、陸地から百メートルと離れていないその小島は橋でつながっていた。磯の香りがする。海辺の町にやってきたのは久しぶりなので、ちょっと一泊して舟盛りやら伊勢|海老《えび》なんぞを賞味したい気分にもなったが、そんな悠長なことはしていられない。海辺まで迫った山の上に点々と散ったホテル群を眺めつつ、また出直してこよう、と諦《あきら》めた。
初めてこの地を踏んだ火村は珍しそうに陸続きの真珠島を見やっていたが、聴き込みが先だ。後学のために調査の後で立ち寄ることにして、ひとまずはその前を通過した。
真珠島と向き合った水族館の周辺に土産物屋が立ち並んでいる。目指す『いわたや』はその中でも大きな店で、一階が土産物屋、二階がレストランになっていた。屋上の馬鹿でかい看板がすぐに目についたので、私たちは鳥羽駅の改札口を出て十分後には、もうその店頭に立っていた。店先には真珠漬けやら、修学旅行生が衝動買いする提灯《ちようちん》だの孫の手だのという雑貨、水族館にちなんだらしいラッコやペンギンのぬいぐるみ、少し奥に入るとパールのネックレス、ブローチがショーケースに陳列されている。いかにも観光地の土産物屋という雰囲気が楽しい。
奥の壁面の棚には、ここでなくても、というありきたりの日本人形が並んでいたが、その中にあの女神像が一体だけのっていた。あるな、と私たちは頷《うなず》き合う。不恰好な置物は市松《いちまつ》人形に挾まれてひどく居心地が悪そうに見える。確かに、よほどの物好きでなければ手に取ろうという気にもならないだろうし、二万円という値を見たらすぐに棚に戻すに違いない。
火村は女神像から視線をそらし、何故かきょろきょろしていたが、ショーケースの前までくると、顎《あご》を掻《か》きながら柄にもなくブローチを覗《のぞ》き込みだした。まさか買うんじゃないだろうな、と思っていると、「すみません」と店員を呼ぶ。水色の制服を着た二十歳ぐらいの女性が「はい」と応えて飛んでくる。
「これを下さい」
げ。
こいつ何のつもりだ、と私は呆れて友人を見た。聴き込みをするにあたって儀礼的に買い物をするのなら、孫の手でも充分ではないか。
「隠し妻にか?」と聞く。
「婆ちゃんにだよ」
彼は学生時代から足かけ十四年も同じ下宿にお世話になっている。すっかり時代遅れになってしまった下宿屋にはもう彼しか店子《たなこ》はいないのだが、婆ちゃんとは、七十歳になるそこの大家さんなのだ。頻繁に出入りしていた私にも色々とよくしてくれた。口は悪いが心優しい友人は店員にそれを包装してもらいながら、腕組みをして溜《た》め息をついた。
「芝居見物にめかし込んでいくのが好きだからいいと思うんだ。旅先で土産を買って帰ったりしたら、また無駄使いをして、って叱《しか》られるだけなんだけどな」
火村先生も婆ちゃんの前では子供同然なのだ。
「お待たせいたしました」と品物を渡され、代金を払ってから彼はようやく本題に入った。
「お忙しいところを申し訳ないんですが、ちょっとお聞きしたいことがあるんです。あちらの置物についてなんですけどね」
「はい。あれがどうかしましたでしょうか?」
にこやかだった店員の目に翳《かげ》が差した。同じものについて刑事があれこれ聞きにきたことを知っているのだろう。火村は先回りしてまずそれに言及する。
「あの置物を誰に売ったか、昨日、刑事さんが尋ねにきたでしょう?」
「はい。おいでになりました」
彼女は緊張した面持ちで答えた。火村は買った品をポケットに収めながら、
「私は兵庫県警の捜査に協力している犯罪学者の火村といいます。補足してお尋ねしたいことがいくつかあってきたんですが、昨日と同じ方にお話を伺えますか?」
「はい。店長を呼んでまいります」
彼女は逃げるように去ったかと思うと、間もなく私たちとあまり年の違わないらしい岩田店長を連れて戻ってきた。同じ制服を着た彼こそが女神像をデザインした若|旦那《だんな》その人であった。芸術家の矜持《きようじ》なのか、豊かな顎髭《あごひげ》をたくわえている。
「パールヴィーナスについてお尋ねだそうですが、どういうことでしょうか?」
腹痛を鎮めようとするかのように、彼は腹の上で両手を組んで尋ねてきた。女神がパールヴィーナスと命名されていることを初めて知った。
「あの品物を買った人間について調べています。パールヴィーナスはこちらのオリジナル商品だそうですね?」
「そうです。実は私が制作したものなんですよ。ですから、鳥羽はおろか、日本中、どこを捜しても販売している店は他にありません」
不細工、悪趣味、まがいものと陰でさんざん悪評を買っているとは露知らぬ様子で、店主は胸を張った。女子店員は接客のためにそっとこの場を離れていく。
「発売したのは三年ほど前だとか?」
「はい、ちょうど三年ぐらいですね。デザインしてから発売まで準備期間が二年かかっています」
どうでもいいことまで答える若旦那は、パールヴィーナスがよほどご自慢なのだろう。これまで陰口をたくさん聞いているので、そんな彼と対面して、何か申し訳ないような気がしてくる。おそらく、私の自信作も世間のどこかで似たような目に遭っているのだろう。
「今、一体だけ店頭に出ていますが、いつもあんなふうなんですか?」
「三体造ったので、売り出した当初は三つ並んでいました。そのうち二つが売れて、あれだけになったんです」
若旦那は、大好評発売中、とPOPをとりつけたそうだった。ともあれ、そういうことであれば、相馬の指紋が凶器についていたことを説明した火村の仮説は成り立たなくもない。
三年間で何体売れたのか、いつ売れたのか、それぞれを買ったのはどんな客だったか、すでに承知していることを火村は質問した。返ってきた返事は知っているとおりのものだ。
「三月にお買い上げいただいたお客様について、昨日もしつこく刑事さんから聞かれました。その時にお話ししましたように、茶色いベレー帽を目深にかぶっていた上、真っ黒なサングラスをかけてらっしゃいましたのでね。どんな方だったかと言われても、弱ってしまうんです。お売りしたのは私ですが、品物を指差しながら『これ』と一言おっしゃっただけで、それ以外は口をきかなかったように思います。ぶっきらぼうな人だな、という印象だけが残っていますね」
「刑事さんはたくさん写真を見せたでしょう?」
「はい。この中にその客がいるか、と聞かれました。人相は説明しかねても写真を見たら判るんじゃないか、と思ったんですけど、ピンとくる顔はありませんでしたね」
ここまでは昨日の刑事の轍《てつ》をたどったにすぎない。さて、次に何を質問するのだろう、と私は火村の横顔を見た。
「では、これをご覧いただけますか」
助教授は右手をひるがえしてジャケットの内ポケットに入れたかと思うと、一枚の紙片を取り出し、ゆっくりと岩田《いわた》店長に差し出した。若旦那は顎髭をいじりながら首を突き出して覗《のぞ》き込む。私の頭の中では、低くドラムロールが轟《とどろ》いていた。慎重になっているらしく、返答はなかなか返ってこない。
「いかがですか?」
火村の問いかけに、相手は深く頷《うなず》く。
「これは似ています。顔もですけど、全体の雰囲気もよく似ています」
力強いその答えを聞いて、私は思わず身顫《みぶる》いがした。ついに犯人の化けの皮が剥《はが》れたのだ。
「これまで見た中で一番よく似ていますね?」
「はい。それは確かです」
私は「ちょっと失礼」と手を伸ばし、紙片をひったくった。網膜に意外なものが像を結ぶ。
──火村の奴、こんなものを用意していたのか。
感嘆する私の傍らで、火村は会心の笑みを浮かべていた。
大きな収穫を得て、店を出る。
私は火村に尋ねたいことが山ほどあったのだが、「しばらく考えさせてくれ」と先手を打たれて口をつぐむよりなかった。
「昼飯はどうする?」
気を遣いながらご意向を伺うと「後だ」という返事がぽんと返ってくる。満腹は思索の敵だということなのだろう。しかし、そこいらをふらふら歩き回りながら推理の迷宮を彷徨《さまよ》っていては、車にはねられてしまう。火村先生自身もそれを危惧《きぐ》したのか──
「真珠島ってのに行ってみようか」
かくして、私は二十一年ぶりに御木本幸吉の島に渡った。長い杖《つえ》を右手にした御木本翁の立派な像と、海女《あま》の実演のスタンドはほぼ記憶にあるとおりだった。四十分おきに行なわれるというショーがちょうど始まりかけていたので、私たちは二階建てになったそのスタンドに昇って、海女たちのデモンストレーションを眺めた。小さな海女舟に乗って現われた海女たちが、次々に足から海に飛び込むと、くるりと器用に倒立して、影がぼんやり見えるというあたりまで深く潜水していく。深く長く海に潜る海女と、春風に吹かれながらカメラを構えてそれを見下ろす観客。ショーというのはそういうものだが、観《み》る者と観られる者との差の大きさが私を少し切なくさせる。ここでもまたわが身に引き寄せ、小説家と読者の彼岸の差も同じことだな、と感じる。手摺《てす》りにもたれて海女たちの見事な潜りっぷりを観ながら、私も観客の拍手が得られるようなものを書きたい、と思う。私は自分が紡いだ繭《まゆ》を鬻《ひさ》ぎ続けなくてはならないのだから。海面に顔を出した海女たちは、肺へ急激な負担がかからないよう独特の呼吸法を行なうので、哀調を帯びた口笛のような音をたてる。それを磯笛、磯嘆きと呼ぶ、というアナウンスを耳にして、私は微笑した。二十一年前にも全く同じ解説を聞いて、この言葉は書かされるに決まっている修学旅行の作文に折り込んだ方がいいな、などと生真面目に心の中でメモしていたのを思い出したからだ。懐かしい。
火村も隣りで手摺りに頬杖《ほおづえ》を突いて、ショーを観ていた。が、その頭の中でどんな推理が回転しているのかは窺い知れなかった。
私の思考は乱反射を起こしてしまっていたが、朧《おぼろ》げに真相の輪郭が見えてきてもいる。これが私の作品ならばこういう結末にもっていくだろう、というプロットを得ている。しかし、ぼんやりとしていて判らないことはまだまだ多く、火村の説明を待たなくてはならないだろう。
拍手に送られながら海女たちを乗せた舟が去り、スタンドに観客の姿がなくなっても私たちだけはその場を動かない。青い海、緑が濃い島々、行き交ういくつもの小舟を眺めながら、二人ともしばらく黙っていた。
「これで事件の捜査は終わったのか?」
やがて私は尋ねる。
「まだ完全には判らない。けれど、今まで想像していたものとは全く違った絵が見えてきている」
彼はキャメルを斜めにくわえて火を点けた。
「あの繭の中ではとんでもないことが起きていたのかもしれない」
「繭の中で?」
自分なりのプロットを構築しかけていたつもりなのに、彼が何を言おうとしているのか、私にはほとんど理解ができなかった。
「蚕《かいこ》は繭を作ってその中で変態する。アコヤ貝は殼の中に侵入してきた異物を何千重にも真珠質で巻いて、宝石を作る。──人間の繭の中でも色んなものが変化して、色んなものが作られるんだろうな」
少し判るような気がした。
彼が煙草を一本吸い終えてから、私たちは真珠博物館に足を向けてみる。アコヤ貝への核の植え付けに始まり、真珠の選別、それが加工されてネックレスになっていく工程の実演を観ながら、私は火村の述懐めいた言葉を反芻《はんすう》していた。古今東西の宝飾真珠の展示を観ては、亡きダリ社長が愛した石の美を想う。火村はそれらを熱心に見つめているかと思うと、次の瞬間には虚空に視線を泳がせていた。
リファレンスコーナーには真珠に関する文献がコレクションされて書架に並んでいた。『エラリー・クイーンの新冒険』『ポワロの事件簿1』『二人で探偵を』『チャンドラー短編集3』などというミステリも含まれていたが、目次をめくって確かめるまでもなく、それらは皆、真珠がモチーフとなった作品であった。もちろん横溝正史《よこみぞせいし》の『真珠郎』『真珠塔』も揃っている。俺もそろそろ仕事に戻らなくてはな、と思う。──事件も大詰めにきているようだから。
「じゃ、飯食って大阪に戻るか」
出口に向かいかけながら火村は言った。
「この島で海を見ながらすませよう。──俺の考えを聞いてくれ」
絵が完成したのだ。
「よし、判った」
私の想像がどこまで真相に迫ってるのかも、とうとうはっきりとする。
火村が土産物屋の若旦那に示した例のものをポケットからそっと取り出し、私はもう一度それを見た。週刊誌のグラビアから切り取った写真に、火村が修正液とサインペンで細工をしたものだ。私が眠っている間に描いたのだろう。
それは、ベレー帽を目深にかぶり、サングラスをかけた、髭のない堂条秀一の写真だった。
第十章 きらめくもの
「冷めるよ。食べないの?」
伸介が声をかけた。
「ええ。向こうに行ってから食べる」
優子はそう答え、ガサガサと音をたてながら膝《ひざ》の上のハンバーガーの袋を持ち直した。できたてのチーズバーガーのぬくもりが掌に伝わってくる。
「腹がへってると言ったからドライブスルーに寄ったのに」
ステアリングを握った伸介は、真直ぐに前を見たまま言った。赤いシャツの胸で彼自身がデザインした銀のペンダントが揺れている。火食鳥《ひくいどり》をかたどったそれが揺れるのに合わせるように、カーコンポからはずっとゴンチチの軽快なギターが流れていた。
小雨が降っている。朝からしとしとと降り、意地悪く、やみそうでやまない雨だった。街の明かりも、車のテールランプも濡《ぬ》れてにじんでいる。
「だって、向こうに着いても屋台が出てるわけでもなし、何も食べられないでしょう? 食料は買い込んでいかなくっちゃ」
「しっかり考えてくれてるんだね」
相変わらず食べ物の用意は周到だな、とその目が笑っている。つられて優子もくすくすと笑いだしてしまった。時差退社して駅で落ち合い、コンサートに行ったことがウイークデーには何度かあった。彼女はサンドイッチだのホットドッグを会場に持ち込んでは、食べる機を逸して、コンサートが終わるまで膝の上で抱え続けるはめになるのが常だった。
「この一週間、忙しかったでしょ?」と優子は聞く。
「まぁね。社長が死んで、今週初めからごたごたしてた上に、警察に振り回されて昨日も一日まるで仕事にならなかったから。僕はすぐに放免されたけれど、相馬さんがひどい目にあったみたいだ。ま、ようやく土曜日までたどり着けたという感じかな。長い一週間だった。今日は昼過ぎまで寝てたよ」
「疲れてたのね」
それなのに、六時近くになって急に「いつか君に話してたところへドライブしよう」と電話をしてきたのは、気分がくさくさするので遊びに行きたくなったのだろう。
中央環状線を西へ走っていた車は左折して空港線に入る。
「そっちこそ大変だろう?」
伸介はここでちらりと優子を見た。
「大変っていっても、私はできる範囲のことしかしてないから平気よ。総務も少しずつ落ち着いてきてるけど、とにかく早く犯人が捕まらないことにはね」
「そうだね」
ここで彼は話題を変えた。
「香港《ホンコン》にはいつ行く予定だった?」
「ゴールデンウィークに入ってすぐ。二十九日に発って四泊五日だから、五月三日の夕方に帰ってくる。──長池君と一緒だったらいいんだけど」
連れの高校時代の友人には申し訳ないが、それが優子の本心だった。そんな気持ちを察するふうでもなく、彼は無表情で前方を見ていた。バンパーを堂々とへこませたクーペが一台、するりと追い越していった。いつもの長池なら簡単に追い抜きを許さないのだが、今夜は少し様子が違う。
「アメリカでホームステイをしたり、オーストラリアでコアラを抱いたこともあるのに、香港は初めてとはね」
「それがどうしたの? 何もおかしいことはないじゃないの」
「おかしくはないか」と認める。「僕がした海外旅行は香港だけだ。ゼミの卒業旅行で香港に行くってみんなが言い出したんで、貧乏《びんぼう》学生のこっちは昼夜のアルバイトで慌てて旅費を稼いだもんだよ」
「面白いところなんでしょ?」
「大阪だな、あれは」と言ってから伸介は自分でうんと頷《うなず》いた。
「香港が大阪?」
「でかい田舎《いなか》なんだ。彌敦道《ネイザン・ロード》っていうのが九龍《クーロン》半島側のメインストリートなんだけど、これがまぁ、何て言うか、銀座や五番街やリージェント・ストリートとは違って、町の商店街が巨人症にかかって異様にふくれたような通りなんだ。目立てば勝ちだ、というアホみたいな看板にも共感を覚えるよ」
「空港が近いからネオンサインなんかは点滅させられないと聞いたことがあるわ」
「それでいいんだろうな。ネオン点滅合戦まで始まったら香港がまるごとパチンコ屋もどきになりそうな気がして怖い」
「でも、香港島側は超高層ビルが林立してて、田舎どころかスーパーシティ、大都会でしょう?」
「暑苦しいぐらいビルが建ってるけど、東京の姉妹版というより、パラレルワールドの大阪を見るみたいなんだ。匂いが似てる」
「ふぅん」
伸介は「ここだな」と呟《つぶや》いて、ステアリングを右に切り、ぐっと交通量の減った道に進路をとる。
「空港もしかりだね。ビルの屋上をかすめて降りて行くところなんか、大阪空港と同じだ。伊丹《いたみ》よりちょっと遠慮がないだけで」
「啓徳《カイタツク》空港ね」
「オープンデッキの二階建てバスでナイトツァーでもしたら、ジェット機が通過する真下の通りでバスを停めてその凄《すご》さを体験させてくれるよ。『公害問題なんて起きないのか?』とガイドに聞いたら『ない。やかましいかわりに、このあたりのアパートは家賃が安い。窓は二重になっているから問題はない』とさ」
「へぇ、たくましさ感じるわね」
「空港の脇の道でもバスが停る。飛行機が左手から降下してきて、すぐ目の前で着陸するところが見物できるよ。名所の少ない大阪とはそのへんが違ってて、あそこは街中が見せ物になるんだ」
「これから行くところとどっちが凄いの?」
伸介は悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「実は、これから行くところの方」
「何だ。じゃ、旅行に行ったら、大阪の方がもっと凄かった、って興醒めするの?」
「そうか。そういうことになるな。それはまずい。──行くのやめようか?」
伸介は真顔で尋ねてきた。
「いいわよ。もうそこへ向かってるんだから」
「もうあそこだもんな」
右手の空に探照灯の光が伸びているのが見えてきた。空港が近いのだ。頭上のジェット機の轟音《ごうおん》もより大きくなってきている。
「サムソナイトをひきずって数日後に行く空港までドライブすることになるとは思わなかった」
「雨の中を呼び出して、しち面倒くさいデートになって悪かったかな」
「ううん」と首を振った。「面倒くさいデートなんてあるはずがないじゃないの」
伸介の左手がステアリングを離れ、優子の膝頭に触れた。優子はその手に、その繊細な指に微笑《ほほえ》みかける。
「びっくりするよ。ジャンプしたら飛行機の腹にタッチできそうなんだ」
「まさか」
「百聞は一見に如かず。僕は体験したことがあるんだから」
「んもう。──この前はどこの誰とその刺激的な飛行機見物に行ったのやら」
彼女は人差し指で伸介の肩を突きながら言った。
「高校時代に家から自転車をこいでわざわざ見に行ったんだよ。散歩がてらに歩いて行けるようなところじゃないから、車できたカップルばっかりだった。よーし、俺もいつか彼女を連れてきてやるぞ、と思ったんだ」
「ふぅん、今夜その夢がかなうわけね」
「そ」
膝の上から立ち昇るハンバーガーの匂いに、おなかが鳴った。伸介が耳を澄ますしぐさをする。
「向こうに着いたらすぐ食べようね」
わざと甘えた声を出したのだが、長池はにこりともしなかった。音楽が途切れ、車内が不意にしんと鎮まり返ったのが、優子には不吉に思える。
伸介の声がその中に響いた。
「君に電話する前まで、火村という犯罪学者と会ってたんだ」
「まだ降ってるか?」
カーテンをめくった火村の背中に私は尋ねた。
「ああ。霧も出てきた」
彼が体を脇へよけると、夜の闇の中を、左から右へゆっくりと白いものが流れているのが見える。窓ガラスにはわずかに雨がしたたっていた。
「ここいらに霧はしょっちゅうだ」
「深山の奥深くにいるような気になりますね」
テーブルを挾んだ向かい側で、堂条秀二と吉住訓夫が、やはり窓を見ながら言葉を交わしている。いずれも沈み込むように低かったが、それでいて、どこか突き抜けたように陰鬱《いんうつ》さのない声だった。
私たち四人がいるこの部屋で堂条秀一が殺されたのは、もう八日前のことになる。それを思い出すと心からくつろいだ気分になることはできなかったが、私は、静寂の大きな掌に包まれたような落ち着きを感じることもできた。亡きダリ社長の二人の異母弟も同様なのかもしれない。
「先生もこちらにお掛けになって下さい。そして、お話を伺いたい」
秀二が私の横の空いた椅子を示しながら言った。友人は黙ってやってきて腰を降ろす。だが、すぐには副社長のリクエストに応えなかった。
「ご遺品の整理は進みましたか?」
二人の弟は、この六甲山の別宅に遺された品々のリストを作成するために夕方からの時間を費やしていたのだ。
「もうすべて終わりました。大したものはないと思っていたんですが、絵と蔵書にはなかなか値打ちのありそうなものがありましたね。火村先生からお電話がなかったなら、とっくに引き上げていたでしょう」
「申し訳ありません」と火村は詫《わ》びた。
鳥羽からとんぼ返りをして大阪に戻り、千里中央の喫茶店で長池伸介と会見した。その後、火村はこの二人を電話で捜し、六甲にいることを突き止めると、「そこに行ってもいいか?」と言って押しかけてきたのだ。「事件について話がある」と言われては、彼らも「都合が悪い」と断わることができなかっただろう。
「事件に関するお話というのは何でしょう?」秀二はまた促す。「警察からは連絡がありませんが、進展があったんですか?」
火村は頷《うなず》いた。
「先週の金曜日に一体ここで何があったのか。一部に想像をまじえることを許していただけるなら、ご説明することができます。まだ警察も掴《つか》んでいない真相です」
二人は驚きを面に出した。そこまで期待していなかった、ということがありありと窺える。
「それは……誰が兄を殺したのか判ったということですか?」
吉住が尋ねた。問わずもがなの質問だ。
火村の返事はただひと言──「はい」
「ちょ、ちょっと待って下さい」秀二は座り直した。「それは大変なことです。警察も掴んでいない真相を先生はご存じなんですね? それをどうして私たちに先に話して下さるんですか? 是非とも拝聴したいとは思いますけれど、どういうおつもりでそうなさるのかが……」
もっともな疑問だろう。
「そこが私流ということですね」
秀二は納得がいくはずもなく、少し迷惑そうな表情さえ浮かべだした。
「失礼なことを言いますけれど、先生が突き止めた犯人がこうしている間に逃げてしまうということはないんですか?」
「まず官憲にご注進するべきではないか、とお考えのようですね。犯人を取り逃がす心配はないだろう、とお答えしておきましょう。──そして、私が警察より先にお二人に真相について語らせていただく理由については、おいおいご理解が得られることと考えています」
奥歯にものが挾まったようなものの言い方なので、彼らはますます合点がいかない、という様子だった。しかし、それ以上追及しようともしない。そして、とりあえず話を聞いてみようではないか、というように軽く視線をからませ合っていた。
「私が先頭をきって真相に到達することができたのは、鳥羽まで赴いてある事実を明らかにすることができたからです」
ここで火村は鳥羽行きまでの経緯を説明した。凶器になった女神像は『いわたや』という土産物屋のオリジナル商品であること。パールヴィーナスと名づけられたそれは三年前に売り出されて、これまでにたった二つしか販売されていないこと。そのうちの一つは去年の秋に長池伸介が買ったものだが、それは現在もデザイナーの自宅に飾られていて犯行には使われなかったということ。もう一つの女神像──すなわち凶器──は先月の下旬にベレー帽にサングラスの男が購入していること。だが、刑事が昨日行なった聴き込み捜査で判ったのはそこまでで、人相を隠したその客が何者であるかは判明しなかったこと。
二人の聴衆は息を詰めて彼の話に聴き入っていた。顛末《てんまつ》をすべて承知している私も思わず肩に力が入る。
「捜査員は女神像を売った店主にジュエリー堂条の皆さんが写っている社員旅行の写真、吉住さんの写真、秀二さんの写真を見せましたが、どの顔もサングラスの男とは違うようだ、と答えていました。ところが、今日、私が見せたこの顔には積極的に反応を示してくれたんです」
彼が目で合図を送ってきた。それを受けて私は手帳に挾んでおいた例の写真を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。週刊誌のグラビアを加工してできた、髭のない堂条秀一の肖像である。ベレー帽とサングラスが描き加えられているせいもあってか、それが誰なのかが二人にはにわかに判らないようだった。
「兄ですか?」
早く気がついたのは吉住だった。秀二も「おっ」と声をあげる。
「そういえばそうだ。目深にかぶった帽子とサングラスで顔の大半が隠れている上、髭をホワイトで塗りつぶしてあるので判りませんでした。雑誌の切り抜きに悪戯書《いたずらが》きをしたもののようですが、ひょっとして先生のしわざですか?」
「ええ。もちろん、ただ面白がって無礼な悪ふざけをしたわけではありません。私はこれを作ってから鳥羽に発《た》ったんです」
うっ、と吉住が呻《うめ》いた。火村の話のかなり先までを瞬時に理解したためかもしれない。彼は汗もかいていないのに、ゆっくりと額を手の甲で撫《な》でた。
「兄の写真に細工したこれを鳥羽へ持っていったんですね? ということは、先生は、女神の置物を買った人物は兄だったと考えたんですか?」
「そのとおりです。そして、置物を売った店主に当たってみた結果、凶器になった女神像を買ったのはこの写真のように化けた秀一氏であることはほぼ間違いがありません」
「化けた? 化けたとはどいういうことです?」
秀二は緊張と興奮を鎮めるためか、ゴロワーズをくわえながら尋ねた。フランス煙草の強い香りが私の鼻を突く。
「秀一氏のこの恰好は化けた姿、すなわち変装した姿だとお思いにはなりませんか? サングラスとベレー帽については趣味の領域でしょうけれど、トレードマークでもあるご自慢の髭をきれいに剃《そ》ってしまっているのは、変装でなければ何故なんでしょう? 普通ならつけ髭をするところを、髭で世間に顔が売れている彼は剃り落としたのです。そして、変装をしたことがばれないように、会社ではつけ髭をつけていたというわけです。――いいですか? 秀一氏の遺体に髭がなかったのは、犯行後に犯人が剃り落としたためではなく、生前に、それも死の三週間ばかり前に彼自身が剃っていたからなんですよ」
秀二は天井を見上げながら、一度深く煙草を吸った。そして「しかし……」とだけ言いかけて黙った。
「では秀二さんにお伺いしたい。まず、秀一氏が髭を剃ってしまっていたことを知っていましたか?」
「いいえ、全く気がつかなかった。知っていればこれまでにお話ししていますよ」
「変装をする以外に、彼が髭を剃った理由を考えつきますか?」
「いや、特に思い当たることはありません。しかし、どうして兄は変装などをする必要があったのかと逆にお尋ねしたいですね」
火村は相変わらずだらしなく結んだネクタイの結び目に人差し指を掛け、さらに引き下げた。
「考えられることは一つ。鳥羽で女神像を買ったことを後になって突き止められないようにするためです。彼は極秘のうちにあのヴィーナスを手に入れたかったのです。市井《しせい》の無名人である私が同じ立場にあったとしたら、サングラスの一つもかければ充分だったことですが、マスコミにしばしば紹介される有名人の彼にとってことはそう簡単ではなかった。サングラスをした上にマスクではあまりにも変装していることが露骨ですし、警察が土産物屋からその証言を得たなら、『その人物は最大の特徴である髭を隠すためにマスクをして現れたのではないか』と考えることも想像されます。そうなっては薮蛇《やぶへび》だ。一方、髭がトレードマークの彼がそれを剃れば、人相は見違えるほど変わってしまうことが期待できました。賢明な化け方だといえるでしょう。ただ、そうすると今度は髭を剃ったことを身近にいる人たちに隠すという課題が残るんですけれど、それについても、きれいに剃った自分自身のダリ髭を接着剤で貼《は》りつければ、発覚するおそれは少ない。その髭は蝋《ろう》で固《かた》めてあったものですしね。へまをして人前でぽろりと落としでもしない限りはね」
ここで火村は言葉を切った。
二人の聴衆が混乱していることは明らかだった。今の火村の話の中にはとんでもない矛盾が含まれている。殺された堂条秀一が、後の警察の捜査の妨害を意図して動いていたという点が不可解であるし、そもそも警察が捜査を行なうことを想定していたのは何故かが理解できないはずだ。だが、二人は下手な質問は話の進行を妨げるだけだと気を回したかのように、何も尋ねようとはしなかった。
窓の外では、山が吐く息のような霧が、さらに濃くなって躍っている。
「私たちは事件の真相にたどり着くための鍵《かぎ》を二つ手にすることができた、と思いませんか? 今のように考えることによって、まず、遺体の髭が失われていたことに説明がつきます。そしてもう一つ。凶器になった置物を購入したのは被害者自身であり、彼はその事実を隠蔽《いんぺい》したがっていたというジグソーパズルの新しい一片を手に入れることができるわけです」
「その二つ目の方は真相にたどり着くための鍵になるんでしょうか?」たまりかねたように吉住が言った。「兄がどうしてあれをこっそり入手する必要があったのか、という別の謎をこしらえる結果になると思うんですけど」
「難しく考えなくてもいいでしょう。現象を素直に見つめると、いたって単純な構図が見えてきます。まず、去年の秋にあの女神像を見た時にはその拙《つたな》さを嗤《わら》ったものの、数カ月後にやはりあれはなかなかの出来ではないか、と思い直して秀一氏は鳥羽に飛んでいった、ということはないでしょう。人の心の動きは不確かでありますが、それしきの気まぐれを実行するために自身のアイデンティティに関わる大切な髭を剃ることは考えがたいからです。いいですか、ただサングラスとベレー帽という小道具を使っただけの変装ではないんですよ。やや大袈裟《おおげさ》に表現するならば、彼は肉体の一部を切り落としてまで自分の行動を秘密にしたかったのです。よほどの事情がなくては、そんなことはしなかったはずだ」
火村は拳を握る。
「さぁ、ここで私と一緒にジャンプをして、謎の谷を飛び越えて下さい。堂条秀一社長が秘密のうちにあの置物──金銭的価値も、美的価値もなさそうではあるけれど、いかにも人の頭に振り下ろすには都合がよさそうなあの女神像──を買ったのは何故ですか? そう。殺人の凶器に使うためだったんです」
「まさか!」
秀二はゴロワーズをくわえていることも忘れて絶叫した。火の点《つ》いた煙草はテーブルの上に転がって大理石を焦がす。
「信じられない。とんでもない論理の飛躍ではありませんか。一体、兄が誰を、何のために殺そうとしたというんです?」
火村は、相手の目に視線を突き刺すように見返して断言する。
「長池伸介を、嫉妬《しつと》のために」
何台かの車が路肩に並んで縦列駐車していた。こんな雨の夜だというのに、やはり物好きはいるらしい。土曜日のせいもあるかもしれない。
「降りて」
伸介に言われて、優子は傘を手に車を出た。そして、轟音に空を振り仰いで、思わず大きな声をあげる。
「見て、きたわ!」
降下してきたジャンボジェットが正に前方を横切るところだった。巨大な建造物そのもののような鉄の塊が空気を裂きつつ右手から飛来してきて、左手の滑走路に舞い降りていく。こんなに間近で飛んでいる飛行機を見たことなど、もちろん初めてだった。
「もっと近くで見られるの?」
興奮して尋ねると、伸介は傘を広げながら微笑して頷《うなず》く。
「ああ。あの真下まで行って見られるよ。頭の上にのしかかってくるようなのがね」
「行こう。早く行きましょう」
優子は伸介の傘の下にもぐり込んだ。自分の赤い傘はたたんだまま手に持つことにする。どうせそぼ降るような細かな雨だった。
薄暗くてよく判らなかったが、ここはどうやら小さな川の土手らしかった。川を隔ててすぐに大阪空港の滑走路になっており、右手の金網の向こうは雑木が生い茂った公園らしい。さすがに隠れたデートコースとあって、雨の中にちらほらとカップルの寄り添った姿があったが、男ばかりの三人連れやら、中年の夫婦らしい組み合わせも中にはいる。
「いつかここに好きな女の子を連れてきたい、と思ってたんだ。その彼女が『凄い!』って歓声をあげて、嬉《うれ》しそうに僕を振り返るところが見たかったんだ」
「男の人もそんなことを考えるのね」
「男の子は、かもしれない」
伸介は東の空を指差した。
「ほら、どんどんくる」
赤と緑の光を翼に点灯した飛行機が、真直ぐにこちらに向かってきていた。その光景は、映画の『未知との遭遇』で観たUFOとあまりにもそっくりなので、優子は胸がわくわくとしてくる。
「大きいわ」
「あれはまだかなり遠いよ」
あちこちの人影が同じ彼方を見やっている。しかし、嬉しいことに、みんな互いの声が聞こえない程度に離れて散らばっていた。
「こわいな」
優子は声を顫《ふる》わせた。ぐんぐん近づいてくるそれは、まさに自分の立っている場所めがけて突っ込んでくるように見えたからだ。次第に大きくなっていくキーンという金属的な音が、体の周囲の空気を激しく振動させている。
逃げ出したくなるほど真正面に飛んできたそれは、やがて彼女らの頭上を通過した。視野いっぱいにジャンボジェットの銀色の腹が広がり、優子は何かとんでもない秘密を目撃したかのように息を飲みながらそれを目で追った。轟音が鼓膜を刺し、風がスカートの裾を煽《あお》る。首を捻《ひね》りながら飛行機を追うと、巨体は滑らかに滑走路に車輪を着けてみるみる走り去っていった。
気がつくと、彼女は無意識のうちにしゃがみ込んでいた。照れ笑いを浮かべながら腰を伸ばし、伸介に言う。
「凄い……」
「な?」
「うん、脈が早くなった」
軽い動悸《どうき》がしている。伸介は白い歯を見せて幸福そうに微笑《ほほえ》んだ。
「長年の夢がたった今かなったよ」
「オーバーなこと言って」
彼は真剣な眼差《まなざ》しになって、また夜空を指す。信じられないことに、すでにもう二機が着陸態勢を整えながら相次いでこちらに向かってきていた。まるで朝の地下鉄のような混雑ぶりではないか。こんな綱渡りを毎日していて、管制官は胃を壊さないのだろうか、と優子はつまらない心配をした。
「今度もジャンボね」
「ノースウェストかな」彼は優子の肩を押した。「ほら、もっとそっちに寄って。そこが本当に飛行機が通る真下だよ。振り向くと滑走路の中心の灯が一直線に見えるだろう?」
「さっきのところでいいわよ。あれで充分」
「駄目だ。真下に行こう」
「もう」優子はふくれた。「いいわ。今度は絶対にしゃがまないから」
「そう努力してみなよ」
私たちの上に落ちてくるなんてことはあり得ない。ここで見物していた人が事故にあったなんて聞いたことがない、と懸命に自分に言い聞かせたが、やはり機体が二、三十メートル頭上を行き過ぎる時は平静ではいられず、彼女は腰を引いて、ついにはしゃがみ込んでしまっていた。機体が落ちてくるわけはないけれど、もし小さな部品の一つでもぽろりとはずれ、その直撃を受けたら命はない、と思うと、こわくてがまんできなかったのだ。
「こんなところがあったのねぇ」優子はさりげなく背筋を伸ばしながら言う。「観客席を作って入場料を取ればいいのに」
「ジェットコースターに飽きたあなたにぴったりです、とか言って?」
「うん、そんな感じね」
赤、青、エメラルドグリーンにきらびやかに彩られた滑走路を優子はうっとりと見つめた。この世のものならぬ美しさだ。だが、その向こうに見える六甲山にちらばった明かりに気がついて、愉快ではないことをふと思い出した。そんな胸の内の動きを敏感に察したのか、伸介は――
「あれはゴルフ場の明かりだよ。社長の家はここからは見えないんじゃないかな」
「見えても明かりが灯ってるわけないものね」
伸介の顔は、すぐ近くにあった。楽しい話を期待した優子だが、彼が生唾《なまつば》を飲んでごくりと喉《のど》を鳴らすのに、おやっと思う。
「優子さん」
「何?」
彼は一度大きく深呼吸をしてから、彼女の耳元に口を寄せて口早に言った。
「堂条社長を殺したのは僕だ」
冗談ではない、ということが瞬時に判った。そのきっぱりとした声の響きが、愛を誓う言葉にも似ていたからだ。
「……本当にそうなの?」
掠《かす》れた声でようやく問い返すと、彼は顎《あご》を引いて「ああ」と言う。
「君だったら僕の話を最後まで冷静に聞いてくれると思う。黙ってひと通り聞いて欲しい」
「聞くわ」
またあらたな一機が向かってくるのが目の隅に映っていたが、もうそんなものはブラウン管の上の映像に等しく、どこかはるか遠い世界の光景にすぎなかった。
「僕はこれっぽっちの嘘偽《うそいつわ》りもなく、すべてを告白する。だから、信じて聞いて欲しい」
「信じるに決まってるじゃないの。早くあなたが一人で抱え込んでいたものを、全部私にも分けてちょうだい」
彼の端正な顔に傘の影が落ちている。その向こうから見つめる目を、ありったけの想いを込めて見返しながら優子は訴えた。
「まず、僕には社長を殺そうだなんていう意志はなかったことを判ってもらいたい。社長を殺したいと本気で思ったことなんてかつてなかった」
「ええ、そうよ。そうに違いない」
頭上をジェット機が飛び越えた。もう刺激や恐怖など感じる余裕はなかったが、ただ、声がかき消されたために二人は、しばし、やむなく話を中断させた。それから──
「その僕が社長を殺したというのは、やむを得ない事態が起きたからなんだ。──先週の金曜日の夕方、僕と相馬さんが社長室に呼ばれていった時のことを覚えてる?」
情景がはっきりと思い出せた。
「ええ、五時から打ち合わせだったのに、吉住さんがきてて待たされたんだったわね」
「その後のことだよ。僕たちが社長と夏のダイヤモンドキャンペーンの打ち合わせを終えて出てきた時のことを覚えてるね? 社長は僕に『君のうちにファックスはあるか?』と聞いてから、『月曜までにデザイン画の下書きを送っておいてくれ。私は六甲の別宅にいる』というようなことを言っただろう?」
「ええ、言った」
「ところが、六時に退社する直前に社長は廊下で僕を見つけるとすり寄ってきて、全く違うことを言ったんだ。『今夜、六甲のうちにきてくれないか。一度二人でじっくりと話したいことがある。君に無理を頼むのは、今夜きて欲しいということだけで、それ以外には何もないと約束する』。最後のあたりは、暗に、君と僕とに干渉することはもうやめる、と保証しているみたいだった。それで、僕は彼の希望どおりにすることにした。あまり気が進まなかったけれど、これっきりだと思うと我慢できないはずはなかったし、うまいタイミングをとらえられたら、僕たちがもう婚約したことを話すこともできると思ったからね」
「そうね」優子は胸を締めつけられるような圧迫感を感じながら「けれど、どうして堂条社長は長池君にそんなお願いをしたの?」
彼女の問いかけを伸介は黙殺した。
「社長は二人で立ち話をしていることを誰かに見られるのを、避けたがっているようだった。落ち着かない様子でちらちらと廊下の両側に視線を投げていたし、早口で用件をまくしたてたからね。『これがうちの場所だ』と地図を手渡して『ここに、きっかり今夜十一時にきてくれ。仕事上の先客と鉢合わせしてもらいたくないから、この時間は必ず守って欲しい。早くきてもらっては困るが、しかし、遅れてもらいたくはない』とまくしたてた。どうも言うことがおかしい、とその時に思わないでもなかった。けれど、あの気まぐれで気難しい社長の依頼に対して、『どうしてそうでなくてはならないのですか?』と聞き返すことは、とてもできなかったよ」
優子は深く頷《うなず》いた。そんなことは判っている。サラリーマンというのがどういうものか、目《ま》のあたりにしてきているし、自分だってサラリーマンであることに違いはないのだから。
「僕は承諾して、社長の意向に従うことにした。七時まで仕事をして、心斎橋で食事をすませてから家に帰ったのは九時。さっとシャワーを浴びてから着替えて、すぐに家を出た。早くても遅くてもいけないというのだから、少し早めに着くぐらいに出発して、時間を調節することにしたわけだよ。初めて行くところだし、時間について念押しされてたから気を遣ったな」
優子は食い入るように伸介の顔を見つめる。その後ろから、また一機、近づいてくるのがピントはずれのまま見えていた。
「指定された十一時ちょうどに僕はあの家の前に車を駐めた。その五分ぐらい前に近くまできていたんだけど、時計を見ながら待っていたんだ。先客がいるとかだったから、その人が去る車が見られるかな、と思っていたのに、車なんて全く通らなかったよ」
飛行機の灯が彼の肩の上で大きくなっていく。
「車庫に車を回してみると、二台が駐車してあった。どちらも社長の車かな、一台は客のものかな、と思いながら車庫の脇に停車させて、玄関の呼び鈴を鳴らした。社長はすぐに出てきたよ。赤いポロシャツを着てね。『さぁ、入って』と招かれて、リビングに入ってみると、テーブルの上にウィスキーのボトルと飲みさしのグラスが二つのっていた。『お客さんは帰ったんですか?』と聞くと、『少し前にね』ということだ。初めて訪問した家のリビングで椅子を勧められることもなく、私はぼけっと立っていた。社長は『早速、用件の一つをすませてしまおう』と言って、私を飾り棚の前に導いた。ダリの宇宙象の複製が置いてあったよ。そして、それを私に示しながら『これにありったけの石を埋め込んで、動くようにしてみたいんだが、君ならどんなアイディアを出してくれるかな』などと言う。これまたおかしな注文だな、と感じながら宇宙象に顔をくっつけて『そうですねぇ』と眺めていたら……」
飛行機が迫る。
「背中に妙な気配を感じて振り向いたら、すぐ後ろに社長がいた。『どうかしましたか?』と聞きかけた時、彼の手がさっと持ち上がったかと思うと、もの凄い勢いで僕の頭めがけて振り降ろされてきた。とっさに脇に飛んで身をかわしたよ。『何をするん──』と叫んで、僕は彼が持っているものをもぎ取った。夢中だったんだ。僕は自分の手に移ったそれを振り上げて、彼の額に思い切り──」
世界の終わりを告げるような轟音が恐ろしく響き渡る。禍々《まがまが》しい巨大な影が、背後から伸介にのしかかって飲み込んでしまいそうに見えた。
嫌だ。
どんなものが襲いかかってきても彼を渡したりしない。私が守ってみせる。
「長池君!」
優子は伸介にむしゃぶりついて、その胸に顔を埋めた。
「兄が長池伸介を殺そうとしたですって? それは無茶ですよ、先生。そんなことがあるわけがない」
吉住の抗議に、火村は「おや、何故?」と無情な調子で聞き返した。
「どうしてあるわけがないんです? 感情的に受け入れられませんか?」
「感情的も何も、鷺尾さんを奪うためにそんな馬鹿げたことを兄がするなんて考えられないことです。確かに兄には短気なところもありましたが、分別盛りの大人の男ですよ。女性を取り合って、恋敵を殺害しようだなどと思うものですか。口論の挙句についかっとして手近にあったもので相手に殴りかかった、というのならまだ理解することもできます。しかし、三週間も前に変装して凶器を購入した上の計画的犯行を企んでいたやなんて、本当に無茶な推理です。それより何より、兄には社会的地位があったし、かなりの資産も有していました。それらすべてを失うかもしれないという無謀な博打《ばくち》を打つとは信じられません。──おい、そうは思わんか?」
そんな形で意見を求められても、私は彼の期待に応えることができない。吉住は舌打ちをして、火村にさらに駁《ばく》した。
「第一、兄が長池さんを殺そうとしていたかどうかなんか、関係ないやないですか。どうして兄が変装をして置物を買ったかは不可解ですけど、殺されたのは兄なんですよ」
私は彼をそっと止めた。
「まぁ、待て。とにかく火村の話を聞いてくれ」
吉住は少し憮然《ぶぜん》となった。秀二も同じ反応をするのではないか、と私は案じたのだが、あにはからんや、次男の副社長は腕組みをしたまま黙考していた。ゴロワーズをテーブルに落とした時の衝撃はいくらか治まったらしい。
「私は、殺人の凶器に使われることになる置物を変装して買ったのが堂条秀一氏であったから、すなわち彼は殺人を計画していたと単純に断じているのではありません。あれは拳銃でもギロチンでもなく、ただの置物なんですからね。しかし、事件に前後して発生した様々なことが、秀一氏の企みを示しています。肉親のお二人にすれば非常に認めづらいことでしょうが、どうか冷静に考えながら聞いて下さい」
火村は声を和らげてそう断わってから、真相の究明を進めていった。
「彼は女神像をひそかに買った。大切な髭を自ら剃り落とすことまでしてたのだから、よほどの重大機密だったんです。私は、それは彼が殺人を計画していたからではないか、と仮定しました。彼が誰かに殺意を抱くとするなら、それは長池伸介氏だったであろうことは容易に思いつきます。無茶だとおっしゃらずにしばらく我慢していて下さいよ。そうすると、それまで奇妙に思えたり、意味がないと思われていた事物が、3Dの絵が像を結ぶようにちゃんとした形をとりだしたんですよ。──よろしいですか? 色々ありますが、その最たるものは、犯行が実に微妙なタイミングで行なわれたということです」
実に微妙なタイミング。
それはこういうことである。一泊するつもりでここを訪れていた吉住がフロートカプセルに入っている時間を見透かしたように犯人がやってきて犯行をすませ、風のように逃げ去ったというのはあまりにもできすぎていないか? そんな偶然は信じにくいということで、凶器が発見されるまで警察は吉住にかけた疑いをなかなか弱めようとしなかったではないか。この問題に火村は解答を与えることに成功したと言いたいのだ。
「秀一氏が長池氏を殺そうと計画していたのなら、そういう疑問にも答えが出せます。あれほど絶妙のタイミングで犯行が行なわれたのは、秀一氏が犯人をその時間に招き入れたからなのです」
「犯人?」
二人はユニゾンで問い返した。
堂条秀一が長池伸介を殺そうとしていた、という話にショックを受けたために、誰が彼を殺したかを巡る話をしていたということを忘れていたのだろう。
「犯人を招き入れたとおっしゃいましたが、ひょっとすると、それは長池さんのことですか?」
吉住が目を丸くして尋ねた。
「ええ。彼が秀一氏を女神像で殴って殺したんです」
「先生は、兄が長池君殺害を計画していたと言ったではありませんか?」秀二はテーブルの縁をとんと叩いて「長池君が兄を殺しただなんて、それがどうしていきなり逆転してしまうんですか?」
「皮肉な結末ですね。秀一氏は、彼に返り討ちにあってしまったということです」
もう二人は言葉もないようだった。火村のよく通る声だけが部屋中に響く。
「二人の役割が不意に百八十度逆転してしまったわけで、そのためにすべてが混乱、錯綜《さくそう》してしまったんです。反論はしばらく措《お》いていただいて、しばらく私の推断についてきて下さい。いいですか? 金曜日の午後十一時までは『犯人─堂条秀一・被害者─長池伸介』というキャスティングが行なわれていたのだけれど、十一時以後、それは『犯人─長池伸介・被害者─堂条秀一』に反転してしまったのです。それを頭に入れて、ここから先を聞いて下さい。──えーと、どこまでいってたっけ?」
聞かれて私は「絶妙のタイミングで犯行が行なわれたのは、堂条社長が長池伸介を呼んでいたから、というあたり」
「そうそう。──つまり、秀一氏は、吉住さんを自在に操ったんです。それぐらいは彼ならたやすいことでしたね。あの夜、十一時をわずかに回った時間に訪ねてこいと長池氏に命じておいた上、十一時少し前に、先客のあなたにフロートカプセルに入るように促したんですよ。そして、彼らは会った。世界中の誰もが知らない完璧《かんぺき》な密会だ。事件はそのさなかに起きたわけです」
だからあんな実に微妙なタイミングで犯行が行なわれたのだ。そうだとも。──よし、次いけ、火村。
「そう考えることによって、フロートカプセルから出てきたあなたを驚倒させた舞台裏が見えてくるでしょう、吉住さん?」
彼は素直にイエスとは答えなかった。
「あなたがフロートカプセルに入っている間に長池氏を招いて密会する、などということを秀一氏が行なった理由がまず知りたいようですね。彼が部下を所定の時間に呼びつけた目的こそ、殺人だったと私は考えています」
「どうもそこが納得できません」秀二がやんわりと異議を唱《とな》えた。「兄が人殺しを計画していたと仮定するのはいいとしましょう。しかし、訓夫君が隣りの部屋にいる時を見計らって犯行を行なうというのは変です」
「変なもんですか。そうすることによって、彼は鉄壁のアリバイを構築しようと試みたのです」
「アリバイ?」と二人が同時に今度は呟く。
「さっき使った表現を繰り返しますが、この密会こそ、世界の誰もが知らない完璧な密会だったはずです。秀一氏は何人もの部下の前で『私は今夜、六甲の別宅にいる』と話し、それと同じ場で長池氏に向かってこういう指示を放った。『土、日のうちにデザイン画の下書きを六甲の家にファックスで送れ』。これは『そのためには今夜は仕事を自宅に持ち返って残業せよ』と命じるに等しいでしょう。ですから、それだけでも両者がその夜に六甲で会ったとは誰も思わない。まして、その夜は吉住さんがくることになっていたんですからね。そして、吉住さんには別の客人がやってくるなどとはおくびにも出さないでおく。──ここまでお膳立《ぜんだ》てをしておいてから、時間を厳格に指定してこっそりと長池氏を呼び寄せたらどうなります?」
火村と目が合った秀二はひょいと肩をすくめた。
「どうもならないんじゃありませんか? そんなことがアリバイとは言えないでしょう。当夜、兄が六甲にいたことを訓夫君が証言してくれるのはいいとして、それだけでは現場不在証明にはならない。兄は長池君の死体をいつまでもここに置いておくことなどできなかったはずですから、そのうち死体をどこかに捨てにいくつもりだったことになるでしょう? ところが、そんなことをしたなら、彼がどこで殺されたか、という肝心の『犯行現場』が特定しないことになるんですからね」
「特定させればいい」
火村はこともなげに言った。
「特定させればいいんですよ。自分はここ六甲にいた。長池氏は離れた別の場所にいて、そこで殺された、とね。別の場所とはどこかというと、それはもう、千里の彼の自宅以上のところは考えられません。彼は当夜ずっとそこにいて、せっせと残業をしていたであろう、と周囲の者たちは思っていたわけですから。──どうすれば現場を特定できるかは自明のことですね。死体をこっそりと彼の自宅に運ぶんですよ。もちろん、吉住さんが泊まっている間には不可能ですから、金曜の夜は邸内のどこか適当な場所に隠しておいて、土曜日の夜にでも行なうつもりだったに違いありません」
推理小説でいう死体移動トリックという奴だ。アリバイ作りには重宝な手口ではあるが、これを実行するとなると厄介な点は多い。下手に死体を動かせば体の表面に浮いた死斑《しはん》の状態から移動させたことが悟られてしまうし、犯行現場をでっち上げるにしても科学捜査にかかれば血痕の不自然さその他、突き止められてはならないチェックポイントは少なくない。秀一はそれらを慎重さによってカバーする自信を持っていたのであろう。──さらに、彼はもうひと工夫を施そうとしていた。
「長池氏を殺害し、その死体移動も無事に完了したとします。しかし、それでも秀一氏はまだ安心できなかったでしょう。警察は『六甲で殺して後でこっそり運んだんではないか』と見抜くかもしれない。アリバイを補強するものが必要だ、と考えたんではないでしょうか。そこで採用されたのが、長池氏の家にしかないもの──しかも、持ち運べるけれど持ち歩くことなど通常はないもの──を凶器に使うというアイディアです。そういうもので彼を殺し、自宅に運んで転がしておく。これならば犯行が千里で行なわれたことを疑ぐられないのではないか、と考えたわけです。その凶器に女神像が採用されたのは必然です。秀一氏が知っている『長池氏の家にしかないもの』はあれ以外にありませんでしたし、しかも女神像は『持ち運べるけれど持ち歩くことなど通常はないもの』に該当した上、『殺人の凶器に充分なりうる』という必要条件も満たしていたからです。かつ、まだそれに加えて好都合な点があった。長池氏が女神像を買ったのが社員旅行の折だったということですよ。すなわち、あの置物は犯人が現場に持ち込んだものではなく、『元々彼の家にあったもの』であることの証人がたくさんいるということ。それほどまでに便利なものであるから、秀一氏はわざわざ鳥羽まで出かけ、髭を犠牲にする変装までして買ったんですね。長池氏の死体を彼の自宅に運んで、凶器を転がしておく。そして、彼が買って飾っていたパールヴィーナスをかっさらって処分してしまえばアリバイ工作完了です」
ここで吉住がストップをかけた。
「そういうトリックを行なおうとしたのなら、兄は髭を剃って鳥羽へ小旅行をしてまでパールヴィーナスとやらを買う必要なんかなかったんやないですか? サングラスやベレー帽で変装して買い物をしたり、つけ髭がばれないかとびくびくするぐらいなら、長池さんをここへ呼ぶ時に『君が鳥羽で買ったあの置物を持参してくれたまえ』と指示すればすんだではないですか。その方がはるかに簡単だった」
火村は回答を用意していた。
「所定の時刻に長池氏をここへこさせることだけでも、実際は無理のある指示です。『ゆっくりと話をしたい』とぼかしておけば、鷺尾優子さんに関すること、すなわち両者にとって非常にプライベートなことだな、と長池氏は推察してくれたでしょうが、『パールヴィーナスを持参しろ』ときたら違和感を抱くでしょう。『デザイン的に面白いところがあったような気がするので』と仕事がらみめかしても、彼は首を傾げるかもしれない。とにかく不必要な警戒心なしにここへきてもらわなくてはならなかったわけですから、女神像は自分で調達しておくことがベターだったでしょう」
秀一の用心深さについて、火村はさらに説明を加える。
「彼はいたって慎重でした。そもそも、手の込んだ変装をして女神像を買ったということからして、実はその表われなのです。──計画どおりにことがすめば、長池氏は自宅にいるところを何者か──強盗か、恨みを抱く顔見知り──に襲われ、飾ってあった置物で殴り殺されたということになるはずでした。そんな場合に、警察が『被害者が買って持っていた女神像と凶器は同一のものなのだろうか? 別のものとすり換えられているのではないか?』と検討することはまずなかったと想像できるではありませんか。それなのに、万一に備えて変装をしておいたというのは、かなりの用心深さと言えます」
「しかし、結果としてはそんなつまらない変装をしたために、先生に見破られたということになりますね?」
吉住はしたり顔で言ったが、火村は首を振った。
「つまらない変装でもありませんよ。もしも彼の計画が完成していたなら、私だって『女神像はもう一つあったのではないか』と考えたはずがありません。秀一氏が第二の女神像を購入していた、と突き止めることができたのは、計画が狂って、彼が殺されてしまったからです。まず、そのために事件の周辺に女神像が二つ存在することがばれてしまった。『一つは長池伸介がずっと持っているものだとしたら、凶器になった第二の女神像は誰がいつ買ったものだ?』という疑問がにわかに湧《わ》いてきた。そして、秀一氏が死んでしまったことによって、髭のない彼の顔が私たちの目にさらされたことも真相解明に寄与したわけです。繰り返しますが、彼の計画が成功していたなら、刑事も私も鳥羽の『いわたや』へ聴き込みに飛んでいくことさえなかったでしょう」
あわや完全犯罪になるところだった、と火村は強調しているようだった。堂条社長が返り討ちにあったせいでそれは崩れたのだが、それはそれで事件の様相を複雑怪奇なものにしてしまったわけだ。犯罪というのは、いや、人間の行為というのはおかしな動きをする。
少し沈黙が入り込む。
窓の外はもう真っ白になっていた。その白い闇は微かにゆらめいている。じっと耳を澄ませると、霧が擦《す》れ合って、衣擦《きぬず》れか囁《ささや》きのように音をたてるのが聞こえてきそうだった。
「どうも先生のお話には無理が多いですね。フロートカプセルにつかっていたとはいえ、私が隣りの部屋にいる間に兄が殺人を犯そうとしたやなんて、その計画は危険すぎます。そりゃぁ、長池さんを後ろから不意打ちでもしたんなら、大した音もたてずに犯行をすませられたかもしれません。カプセルに入っていたら気がつかなかったでしょう。しかし、時間がなさすぎませんか? まず、私を予定どおりの時刻にカプセルに入れたとしても、長池さんが約束の時刻に遅れてくるかもしれない。これがすでに賭けです。ま、それは措いて、彼がきちんと定められていた時刻にやってきたとしましょう。招き入れて数分のうちに犯行を終えたとしても、その死体と凶器を隠さなくてはなりませんよね。血が流れたら拭《ふ》いて消さなくてはならないし、えーと、それから……そうそう、彼が乗ってきた車も家の裏なりに回して隠す必要があった」
「彼の靴もね」と火村。
「そうですよ。兄は、私がカプセルに入っている間にそれだけの作業をやり遂げようとしたというのは、どうにも危なっかしい」
「しかし、それだけに成功した時の効果も大きいとふんだんでしょう。もし、長池氏の到着が遅れるようなことがあったら、その時点で決行を中止する、という心づもりなどもあったでしょう。長池氏を殴殺してしまったらもう後戻りはできなくなりますけれどね。──秀一氏もそこは計画段階で検討したはずです。だから、あの日に限ってフロートカプセルのタイマーが、ふだんより十分長い、五十分にセットされていたんだと思います」
「タイマーがいつものと違っていたのは、兄が時間稼ぎのためにやったことだとおっしゃるんですか?」
吉住は噛《か》みつくように言った。
「そうです。できるならばもっと余裕が欲しかったでしょうけれど、あまり大胆に時間を狂わせたらあなたに気づかれてしまいますからね。十分間というのが無難で妥当なボーナスだったんでしょう」
「しかし……」
「そう考えれば理屈に合う。所有者以外であのカプセルを使ったことがあるのは、ここにいるお二人だけだったんでしょう? 秀二さんは一度入ったことがあるだけで、吉住さんは定期的に利用していた。その吉住さんですら、『タイマーがついていたんですってね』と言ったではありませんか。タイマーのダイアルをいじったのは、秀一氏であるとみるのがいたって自然です。そして、これまでお話ししてきた仮説を採用すれば、彼が何故そんな細工をしたのか、という疑問を生じさせることもないわけです」
二人の異母弟は顔を見合わせた。どうする、このままではこいつの術中にどんどん嵌《は》められていくばかりだぞ、と懸念し合っているかのようだ。
「ちょっと、まとめてみましょう」
火村は合掌するように十本の指先を合わせた。
「恋敵の存在を抹殺したいと願った秀一氏は、長池氏の殺害を計画しました。当局の捜査が開始されれば自分に嫌疑がかかってくるのは必至だろうから、是非ともアリバイを偽造したい。そこで発案したのが死体移動による奸計だった。彼をこの六甲の別宅に招いて殺害した後で、千里の家に運んで、さもそこで犯行が行なわれたように現場をでっち上げること。そのために慎重に選ばれたのがあのパールヴィーナスという置物です。それがいかにうまく凶器の条件を満たしているかは先ほど確認しましたね。まさか、あんなものが彼の自宅以外の場所にあるとは誰も考えまい、というところを突いたわけです。もちろん、いくら死体を巧妙に移動させて偽の犯行現場をこしらえたからといって、それだけではアリバイ工作になりません。死亡推定時間内──およその見当をつけることしかできなかったでしょうが──に、私はそこへたどり着けない六甲の別宅にいました、という証明が必要なわけですから。そこで、彼は吉住さんを利用することにした。あなたならこの六甲の別宅へ招かれるのに何の不自然なこともないもの。しかも、あなたが来訪する目的はフロートカプセルに入るためです。その間に外部で少々のことが起きても知られる心配はないとなれば、素晴らしく都合がいい。だって、『ちょっと失礼』と証人に断わってしばしいなくなり、その間に付近で犯行を早業ですませて戻ってくる、というようなことをする必要もなく、証人の方が『では失礼』と中座した時間を犯行に当てられるのですから」
思わず頷《うなず》いてしまってから、秀二がはっとした顔になる。
「吉住さんが中座している間に長池氏を呼びよせ、殺害してしまう。カプセルのタイマーを通常より十分間だけ進ませて時間稼ぎをしつつ、死体や車などの処理をすませて、戻ってきた吉住さんとそしらぬ顔で対すれば、後になって証言を求められたあなたが『兄はずっと私と一緒でした。ちょっと席を立って千里に行って帰ってくるなんて絶対に不可能です』と力強く断言してくれることは疑いようがないでしょう。そして、夜が更けるまで兄弟で語り合い、あなたが『私が寝ついてから兄はこっそり家を抜け出して千里に向かうことは可能でした』などと言うことがないように駄目を押すつもりだったに違いありません。あなたが土曜日に帰ったら、その夜に長池氏の死体を彼自身の車に積んで、千里の家に運べばすべておしまいだ。秀一氏は、長池氏の自宅付近の様子をあらかじめ下見をしていたでしょうね。そうやって死体移動させた後、彼の車を駐車場に置いて、おそらく自分は他に用意しておいた車か何かで立ち去る計画だったと思われますが、立案者に聞けませんから、このあたりは細部がはっきりと断定できません。
とにかく、アリバイ工作の骨子はこのように決まりました。後はそれを補強してやればいい。そこで彼は、金曜日の夕方に会社でひと芝居打ちました。大勢の耳があるところで『私は土曜と日曜は六甲の別宅にいる』ということと『君は週末は自宅に仕事を持ち帰れ』の意のことを口にして、情報操作を施すことを試みたんです。『月曜までにファックスで送れ』と言っても、その相手を殺害するつもりでいるのですから、全く虚《うつ》ろな指示です。おそらく、月曜日に長池氏が出社してこないのを聞いて、『おかしいな。デザイン画のファックスもこなかったし』ととぼけて芝居をするつもりでいたのだと思います」
火村は体を斜めにして、右腕を椅子の背にだらりと掛ける。
「ここまでは彼が計画したことです。現実は軌道をはずれてまるで違うコースをたどりました。
秀一氏は何らかの口実を設けて、長池氏を呼びつけます。時間厳守を命じられた部下は、律儀にそれに従ってやってきたんでしょう。そのわずか前に吉住さんをフロートカプセルに入れることにも成功していた。しかし、ことが計画どおりに運んだのはそこまでだった。殺そうとした相手に返り討ちにあうという、最悪の形で計画は破綻《はたん》してしまったんですから」
優子は、伸介の両肩に爪《つめ》を食い込ませて掴《つか》み、婚約者の目をきっと見据えた。
「正当防衛じゃないの。あなたは人殺しなんかじゃないわ。どうしようもなくてした正当防衛なんだもの」
彼女はその言葉を自分自身の胸にも打ち込もうとしたのだ。
「そうかもしれない」
弱々しい男の声に、彼女は叱りつけるように言う。
「何がそうかもしれない、よ! これ以上はないというぐらい立派な正当防衛じゃないの。どこの法廷のどんな裁判官でも無罪の判決を下すに決まっている」
「そうかもしれない」伸介はまた言った。「でも、人の命を奪ってしまったことは確かだ」
「自分の命を守るためだったんだから、それも仕方がないことよ」
これ以上、愚図愚図言うようなら怒鳴りつけてやろうか、と優子は思った。
「社長の命を奪ったことについて僕は免罪されるかもしれない。でも、その後でしたことについては許されないだろう」
彼の落ち着いた口調に、優子は自分も冷静になろうと思い直した。
「どういうこと?」
「社長の額を殴りつけたところまでは、やむを得ないことだったかもしれない、と僕自身も思う。彼の額が割れて血が噴き出した。それで彼はもう戦意を喪失したらしく、僕に背中を見せて逃げようとした。僕も逃げ出せばよかったんだ。でも、そうしなかった。彼の形相の凄《すさま》じさを眼前に見て、やらなければやられるという恐怖が全身を貫いていた。多分、不意打ちをくらったことへの怒りもあっただろう。それに、もしかすると、それまで意識下に抑え込んでいた怒り──彼が君に求愛していたことへの憎しみに近い怒り──と、とどめを刺さなくてはいつか君を奪われるかもしれないという恐怖が爆発したのかもしれない。僕は隣りの部屋に逃げようとした彼を追った。そして、突き飛ばして転倒させた上、馬乗りになって彼を……」
「もうやめて!」
彼はやめなかったが、少しだけ話を端折《はしよ》った。
「過剰な防衛だったんだ。そのことは自分が一番よく知っている。それも仕方がなかったと君は庇《かば》ってくれるだろうけれど、僕の罪はまだ他にもある。逃げようとした社長は、『訓夫!』と叫んだので、意外にも隣りの部屋に誰かいるらしいことを察して驚いた。社長を殺してしまったのは、その隣りの部屋の扉の前だった。中から誰かが飛び出してくるかと思ったのに、何の反応もない。人がいるような気配が感じられなかったので、僕はそっとドアを開けてみて、あのおかしなフロートカプセルと対面したんだよ。シャワーがあったし、タイル貼《ば》りの風呂場に似た作りの部屋だったよね。フロートカプセルがどういうものなのか、僕にはほとんど予備知識がなかったけれど、脱衣籠に上着から下着までの衣類が入っているのを見れば、このタンクみたいなものの中に人がいるんだな、ということは判ったよ。訓夫というのが吉住さんの名前だとは知らなかった。けれど、籠のネクタイは夕方見た彼がしていたものだとすぐに思い当たった。──僕はそこで何をしたと思う?」
答えることを禁じるかのように、飛行機が頭上にきた。細い彼の髪が揺れるのを、ただ見つめて彼女は黙っている。
「何をどう考えてそんなことをしたのか、よく判らない。僕はね、脱衣籠の衣類を掴《つか》み出して、それに倒れた社長が流している血をなすりつけたんだ。もちろん、全く目的のないままにしたわけじゃない。吉住さんがカプセルから出てこないのは、音が遮断されていて、外部で起きたことに気づいていないのだろう。それなら自分が助かる望みはある。カプセルから出てきたら、彼はすぐに社長の死体を発見するだろう。それは避けられないけれど、これは大変だ、と警察に通報されることは困る。自分が現場を離れる時間が欲しかったからね。そこで、もし、死体を発見した彼自身の服が血で汚れていたらその時間稼ぎができるのではないか、と思ったんだ。下手に通報したりすれば自分が疑われるかもしれない、と吉住さんが懸念し、一一〇番しないことを期待したんだ。……彼に罪を着せようとしたわけじゃない」
「ええ、判るわ」
やっと言葉を返せた。
「けれど、彼をパニックに陥れてやろうという意地悪く考えたのも確かなんだろうな。ほら、僕が彼に好感を持っていないことは知ってるだろ?」
軽薄で馬鹿な広告屋。何度かそう言ったことがあるのを覚えている。吉住の境遇については何も知らなかったから、能天気なお坊ちゃんだと思って伸介は反感を抱いていたのかもしれない。
「やっぱり彼への反感のせいかな。通報されるのを防ぐだけなら、電話線を切断したらよかったんだから。──彼に恐慌を起こさせるため、僕は服を汚しただけじゃなくて、彼が履いてきた靴も持って逃げた。さすがに車にまでは手をつけなかったけれどね。そこまでするのはやりすぎだと思ったし、車庫に駐車してあるどちらが彼のものか判らなかったから。それに、あれこれ細工をしているうちにカプセルが開いて吉住さんがひょっこりと出てくる恐れがあった」
彼はそこで「大丈夫?」と優子に尋ねた。顔色が悪いのかもしれない、と彼女は思い、「大丈夫」と言い切る。
「みんな話して。全部話すのよ」
気がつくと、彼が差しかけた傘はずっとあらぬ方に向けられていたらしく、二人とも雨の中に傘なしで立っているのも同然だった。もう伸介の頭髪はしっぽりと濡《ぬ》れ、風になぶられることもなくなっている。背中が冷たい、と優子は思った。
「ああ、話してしまうよ。──逃げる際に僕が現場から持ち出したのは吉住さんの靴だけじゃない。社長の靴も社長を殴りつけた鈍器も持って逃げた。何しろ凶器だからね。ただの鈍器ならば、指紋さえ拭《ぬぐ》っておけば自分につながる証拠品にはならない、と思って捨て置いたかもしれない。でも、そうはいかなかったんだ」
その理由はすぐに判った。
「あなたが鳥羽で買ったのと同じ置物だったからね?」
「そう。俺の家にある置物がいつの間にここにきていたんだ、と驚いた。ついさっき家を出る時にもその置物はちゃんと飾り棚にのっているのを見ていたんだけれど、こっちも逆上していたから、そのことは頭の中から吹き飛んでしまっていた。断じてこれを現場に遺していくわけにはいかない、と思ったのも無理はないだろう?」
彼の頬から顎へ、雨が流れ落ちていた。自分の頬にも雨が走るのを優子は感じる。
「車をスタートさせた途端に、汗が滝のように噴き出してきて、背筋に悪寒が走った。だけど、とんでもないことになってしまった、と怯《おび》えながらも、僕は自分をこうなだめてもいたんだ。『ばれるわけがない。お前は今夜ずっと家にいることになっているのだから。直接それを証言してくれる者はいないが、会社の人たちが間接的に証言してくれる。社長と秘密の会談をしようとしていたことなど誰も知らない。いや、社長自身がそうし向けたのだから、知る者がいるはずがないんだ』とね。そう考えると、いくらか気が楽になってきた。
で、持ち出してきた置物と吉住さんの靴は助手席に転がしてあったんだけど、これをどうにかしなければならない。置物については自分のものだと勘違いしていたから、自宅に持ち帰らなくてはならないのだろうか、と悩んだ。それについては即座に判断できなかったけど、靴の方はさっさと手元から放したかった。僕は橋の上で車を停めて、靴を窓から下へ投げ捨てた。それから、これはどうしたものかな、と置物の方を手に取って見つめてみると、それが自分の家にあったものでないことに気がついたんだ。あの置物の目はドロップの真珠が嵌《は》め込んであったんだけど、その形が明らかに僕の持っているものと異なっていた。ではこれはどこから現われたんだ、とわけが判らなくなりながらも、とにかく自分のものでないことだけは確信できた。そうとなれば、これも手元に置いておくことはない。僕は、靴と同じように置物も捨ててしまった。投げた後で、こんなところに凶器を捨ててよかったんだろうか、と思いもしたけれど、心配することはないはずだと結論を下した。だって、それがどこから出てきたものかさえ僕は本当に知らなかったんだから。指紋はもちろん拭《ふ》いておいたしね。
精神的にふらふらになって家に帰りついたら、頭から布団《ふとん》をかぶってさっさと眠ってしまいたかったけれど、そうもいかなかったのが苦痛だったよ。どうしてだか判る? 残業をしなくちゃならなかったからだよ」
「残業って何?」
「社長に命じられたデザイン画の下書きを描くことだよ。社長は死んでしまったんだからそんなもの送信しても仕方がないことは承知していたけれど、描いて送らないわけにはいかなかった。社長の死を僕が知っていたから送らなかったのではないか、と疑われてはかなわないからね。虚《むな》しい残業だった。どうでもいい仕事だと判りながら、ある程度の出来のもの、それなりのものでなかったら誰かに不審がられるような気がして、根を詰めてやったよ。描き上げたのは明け方近かった。ひと眠りして目が覚めたのが昼過ぎ。このあたりでファックスするのが自然かな、と思って送信したよ。
それで──それで──」
彼はまた大きく深呼吸をした。
「それでおしまいだ」
信じられないようなことなのに、彼の話は優子の頭にしみ込んでいき、すべてを受け止めることができた。真実を打ち明けてくれているのだと判った。
「まだまだわけの判らないことが多いだろう? 社長があんな置物を持っていたのは何故か。カプセルに吉住さんが入っているのを承知しながら、隣りの部屋で僕に襲いかかってきたのは何故か。それから、これは僕も奇妙に思っていたんだけれど、社長の髭がなかったのは何故か。そんな謎については、火村先生が推理を披露《ひろう》してくれたよ」
「ああ、あの先生と会ったって言ったわね」
「先生の考えはこうだった──」
頭上の轟音にかまわず、伸介は語り続けた。
休憩のつもりか、火村はキャメルをくわえた。最後の一本らしく、ボックスをぽいとテーブルの端に転がした。彼のキャメルが半分ほど灰になったところで「先生」と秀二が呼びかける。
「では、兄の死は自業自得だとおっしゃるんですか?」
「残念ながらそういうことになります」
火村は煙草を指に挾んだまま、遠くの壁に視線を投げた。
「犯罪学の中には、犯罪者ではなく被害者を研究対象とした被害者学という分野があります。ベンジャミン・メンデルソーンという学者が提唱したもので、そこで被害者の有責性という概念が唱えられています。つまり、犯人だけではなく被害者にも責任がある、というケースの検証ですね。これは普通、五段階に分類されるんですが、まず一つは『完全に責任のない被害者』。通り魔犯罪の被害者がその典型でしょう。二つ目は『有責性の少ない被害者』。無茶な堕胎を自ら行なって命を落とす無知な女性などをメンデルソーンは挙げていますね。三つ目が『加害者と同程度に有責性のある被害者』。どっちもどっちの喧嘩《けんか》の敗者がこれに当たる。四つ目は『加害者よりも有責性のある被害者』。加害者を挑発して犯行に至らしめた場合などがこれです。最後の五つ目は『最も有責性がある被害者』で、これはすなわち、正当防衛でダメージを受けた被害者を指します。──秀一氏は、この五つ目に該当するかもしれません」
秀二はがっくりと首を折るようにうなだれた。
「私が、このことを警察に話すより前に弟である皆さんに打ち明ける気になったことが、いくらかご理解いただけましたか?」
火村がかけた言葉に、秀二はうなだれたまま微かに頷いた。
「先生のお心遣いだったんですね。ありがとうございます」
吉住は放心したように床を見ている。
「そして、犯人が逃走するおそれがないことも判っていただけたんではないでしょうか。秀一氏の死は殺人事件ではなく、ほとんど正当防衛に近かったんですから、ことが発覚したなら、長池氏は逃亡者になるよりも法廷に立つことを選ぶでしょう。いえ、現にそう言ってくれました」
「彼と話したんですか?」と秀二が聞く。
「ええ。鳥羽から帰ってすぐに。彼は何もかもしゃべってくれましたよ。どうして社長に髭がなかったのか、どうして自分の持っているのと同じ置物を社長が持っていたのか、などを疑問に思っていたので、それらについては私の考えを話しました」
「……髭」吉住が顔を上げた。「髭や。兄がつけていたつけ髭とやらは一体どうなったんですか? そもそも、鳥羽で内緒の買い物をすませた後も、彼がつけ髭をずっとしていたのはどうしてですか? 遺体の鼻の下はつるつるだったそうですけど、伸ばしかけていてもよかったはずです」
「一度に二つの質問をされてしまいましたから、後者からお答えしましょう。彼が凶器入手後もつけ髭で過ごしていたのは、やがて実行しなくてはならない死体運搬というひと仕事に備えてのことだったと推測できます。千里の長池宅の付近をうろついているところを目撃されたら非常にまずいことになります。とにかく彼は有名人なんですから。それで、髭のない顔を保持していたんでしょう。──つけ髭がどこに消えたかの答えは長池氏が教えてくれましたよ。金曜の夜、揉み合ううちにつけ髭がはずれて飛んだんだそうだ。髭のない社長の顔に彼は仰天しましたが、もちろん、どういうことだ、と相手に尋ねるわけにもいかない。彼は秀一氏を倒した。そして、吉住さんの衣服に悪さをしてから、つけ髭のことなどかまう余裕もなく逃げたんですが、家に帰り着いてから心底ぎょっとしたそうです。つけ髭がスラックスの折り重しに入っていたんですよ。接着剤のせいです。彼は悲鳴をあげてから、すぐにそれをトイレで流してしまったということです」
こればかりは長池本人に聞かなければ判らないことだった。
「長池氏は、ひと晩だけ心の準備をする時間が欲しいと言いました。明日になったら警察に自分の足で出頭する、と約束してくれました。私たちはそれを信じて、彼に少しだけ猶予をあげてもいいんではないですか?」
まず秀二が、ちょっと遅れて吉住が頷いた。吉住にすれば、長池が仕掛けてきた悪意が多少なりともひっかかったのかもしれない。
「しかし、長池さんはよく自分のしたことを認めましたね」
少し間をあけてから吉住は言う。
「これまでおろおろしながら聞いていましたけれど、よく考えてみると、兄の頭を殴打したのが彼であるという確固たる証拠は存在しないんではありませんか? 自分がしたことを認めた長池さんは潔いといえば潔いけれども、言い掛かりだ、ととぼけることもできたように思えます」
「おっしゃるとおり、証拠はほとんどありません。彼が真実を打ち明けてくれたのは、張り詰めていた緊張の糸を切って楽になりたかったからかもしれません。警察が自分に的を絞って、捜査の輪をじりじりと狭めてくることへの不安も大きかっただろうし、正当防衛を主張しうるのだから、逮捕される前に自首する方が断然賢い、という常識的な判断もあったでしょう。そして──彼の言動のささやかな矛盾点を私が指摘したことも効いたようでした」
吉住は「矛盾点とはどういうものです?」
「犯行の夜にあなたがここに持ってきたものに関係しているんですよ。秋のゴールドキャンペーンのヴィジュアル案でしたっけ?」
「ええ、そうです。それがどうかしましたか?」
「堂条社長の死によって、そのゴールドキャンペーンの広告をどうするか、なんていう問題はしばし消し飛んだ。吉住さんの方が警察にあらぬ疑いをかけられて仕事にならなかったせいもあるしね。昨日の午後、東洋アドの方がジュエリー堂条の本社にパネルを持って訪れて打ち合わせをしていたようですが──」
「はい。私が行けなかったので代わりの者が行ったようです」
「その場に長池氏はいませんでした。彼の買った女神像が凶器だと思われて、警察の取調べを受けていたからです。吉住さんの代理の方は『直しができたらファックスで送ります』と言って、そのパネルを脇に抱えて帰っていきました。長池氏はその後で帰社した。ですから、帰ってきた彼はゴールドキャンペーンのヴィジュアル案を見ていません。そういうことになりますね?」
彼は秀二と吉住が納得しているのを確認してから続けた。
「ところが、その事実に合わない言葉が彼の口から発せられているんです。昨日の七時頃にアリスが受けた鷺尾さんからの電話にこういう話が出てきました。──本人からどうぞ」
火村は私にしゃべる機会を与えてくれた。
「警察から解放されて戻った長池さんがとても不機嫌だった、と彼女は言っていました。警察を罵《ののし》ったり、キャンペーンの広告案をけなしたり。その中に──聞き流せよ、吉住──『今度は芸術作品を愚弄《ぐろう》しやがって。広告屋の馬鹿さ加減には愛想が尽きた』という台詞《せりふ》があったといいます」
「それがどないしたんや?」
吉住は私に向かって尋ねてきたが、答えは火村が受け持った。
「微妙なところなんですけれどね。──あのヴィジュアルが芸術作品を愚弄しているなどと彼が言うのはおかしいんです。ダリの名画をパロディにしたのが気にくわないというだけならまだ判りますよ。でも、『今度は芸術作品を愚弄して』の『今度は』がひっかかる。ということは、これまでは芸術作品を愚弄するような広告はなかったということになります。ところが、ジュエリー堂条本社の壁に貼《は》られていた過去のポスターの中に、ボッティチェリやダ・ヴィンチの絵をあしらったものがあったと私は記憶しています。何もダリの絵が使われた今回のヴィジュアル案を見て、『今度は芸術作品を愚弄して』と毒づくことはないじゃないですか」
「あの……先生は何がおっしゃりたいんですか?」
秀二が困ったような表情をして聞く。
「彼が今度の広告にむっとなったのは、元の作品では青く描かれた空が金色に変えられていたからではないでしょうか? 機嫌が悪くて八つ当たりをしたんだとしても、『今度は』という副詞を使った理由はそれでしか説明がつかない」
秀二はますます判らない、というように首を捻《ひね》った。
「しかし、彼は吉住さんの代理の某氏が携えてきたパネルを見ていない。その夕方にファックスで送られてきたレイアウト修正案を見ただけだ。それなのに、どうして色使いがパロディになっていることが判ったんでしょう? 彼はね、それを事前に目にしているんですよ。いつ、どこで? そう。先週の金曜日の夜に、ここで見たんです。吉住さんが社長に見てもらうために持ってきたカラーコピーのヴィジュアル案をね」
「ああ、なるほど……」と広告マンは理解した。
「あなたがフロートカプセルに入っている間、カラーコピーはテーブルの上に広げられていました。長池氏はそれを見たんでしょう。そうでなければ、『今度は芸術作品を愚弄しやがって』という台詞が彼の口から出るはずはない。彼は金曜日の夜、ここにきたんですよ。あなたのカラーコピーがこのテーブルの上で広げられている間──すなわち犯行の時──にね」
ふぅと吉住は長い溜《た》め息をついた。
「そういうことですか。それを指摘されることは、長池さんにとってショックだったのかもしれません」
私はいらぬ口を挾まないように黙って聞いてきた。しかし、火村の謎解きがすべて終わった今になって、さっき吉住が言ったことが気になってきてしまった。多くのものを手にしている堂条秀一が、どれほど熱烈に愛していたのか知らないが、持てるものすべてを賭けて殺人を実行に移そうとするものだろうか?
「動機は本当に単なる嫉妬やったんやろうか?」
私は火村に問いかけた。と、いきなり秀二が立ち上がって私を驚かせる。彼は何も言わずリビングを出て、階上へ足早に上がっていった。どうしたのだろうと不審に思いながら待つと、彼は一分とたたないうちに戻ってきた。そして、一枚の写真を火村と私の前に差し出した。色が変色しかけたその古い写真に、幼子を抱いた若い女性が写っていた。背景は、公園の噴水らしいものが見えている。いや、背景などどうでもいい。その優しくて、かつ利発そうな女性は、鷺尾優子に実によく似た顔立ちをしていることに気がつき、私ははっとした。
「子供は秀一。抱いているのは死んだ秀一の母です」
吉住も興味をそそられたのか、腰を浮かせて写真を覗《のぞ》き込む。逆さのままでもこの写真の意味がすぐに判ったらしく「似てる」と嘆声をあげた。
「鷺尾さんは彼の女神だったんだろう、と俺は言いかけたんだけど」火村は写真を凝視したまま言った。「母親でもあったとは知らなかった」
「鷺尾さんを初めて見た時に、秀一の実母とつながりがある人ではないか、と私は思ったぐらいです。他人の空似だと後で判りましたけれどね」秀二は窓の方を向いたままだった。「訓夫君も知らなかったでしょう。私だけが胸にしまっていたんです。できることなら、兄のために、このことは人に話したくなかった」
誰もが口をつぐんだ。
私は考える。「あの繭《まゆ》の中ではとんでもないことが起きていたのかもしれない」という火村の言葉の意味を。
堂条秀一は、フロートカプセルという胎内で完全犯罪を夢見たのかもしれない。優しく慈愛に満ちた人工の母の胸に抱かれながら、邪悪な殺人計画を練ったのだとしたら、彼にとって繭とは何だったのだろう?
窓の向こうはまだ霧だ。今夜、宝石をばら撒いたようにきらめく夜景は、この山から望むべくもない。
女神と出会いそこね、サルバドール・ダリになれなかった堂条秀一社長。
もう、誰もあなたを傷つけない。
安らかに眠りなさい。
伸介の髪の先から雨がしたたりだしている。もう、彼は傘をたたんでしまっており、二人は濡《ぬ》れるに任せていた。
月曜日の夜、六甲の屋敷の玄関先で覚えた不吉な予感の正体はこれだったのか、と優子は気がついた。霊感などないはずの自分ではあったが、愛する男が置き去りにした苦悶《くもん》があそこに沈殿しているのを感じることができたのかもしれない。
「私が悪かったのね。自分の気持ちにさえ自信が持てずに、曖昧《あいまい》な態度をとっていた私に責任があるんだわ」
自責の言葉に対して、男は軽く首を振ってみせるだけだった。
「ほら、飛ぶよ」
彼女の肩の向こうを見ながら彼は呟《つぶや》く。振り返ると、一機のジャンボが滑走路へと進み、ジェットエンジンを噴かして離陸の態勢に入っていた。かん高いエンジン音が一オクターブ上がる。二人はその飛翔に何かを託すかのように、黙ってそれを見つめた。巨大な旅客機は猛烈な速さで走りだしたかと思うと、やがてふわりと大地を離れた。強い風が吹き寄せ、フェンスの金網をがたがたと揺らす。雨に目を細めながら見上げると、明滅するストロボランプが、大きく夜空で旋回していた。星のない夜に、星が生まれたかのようにきらめいている。
「長池君」
優子は呼びかけて、伸介を振り返った。彼は、まるで逃げていく小鳥を見送るような目をして、飛び去る飛行機を見つめている。
「そんな目をしないで。私はここにいるわ。ずっとあなたのそばにいるわよ!」
「自首するよ」
彼は優子の瞳《ひとみ》を見返しながら言った。
「それがいい。あなたは悪くないもの。本当のことを刑事さんにも話してちょうだい。もしも、もしも、刑務所に行くようなことがあっても、私は待っているから」
「ありがとう……」
彼の目が微笑した。優子は不意に瞼《まぶた》が灼《や》けるように熱くなるのを感じた。
「今夜は二人ですごしましょう。警察に行くのは明日になってからにして」
彼の口元に笑みが広がったが、その首はゆっくりと横に振られた。
「そのつもりだったけれど、やっぱりよそう」
「どうして……?」
嫌だ、と叫びかけた優子に、伸介は遠くに佇《たたず》む人影をそっと指差した。いつからそこにいたのか、人影は、じっとこちらを見つめていた。
「もう、あそこにいるんだ」
黒い傘の中の顔がどうにか判る。会社にも何度かやってきたことがある野上とかいう刑事だった。まるで気がつかなかった。尾《つ》けられていたのだ。ずっと見られていたのだ。
「愛してる」
優子は、彼の頬を両掌で包んで引き寄せた。雨で冷たくなった唇を重ね合わせる頭上を、また爆音が通り過ぎる。
──落ちてこい、飛行機。今、彼と私の上に落ちてこい。
そう思った。
伸介の両腕が背中に回り、彼女を力の限り抱きしめた。
エピローグ
遅まきながら、次のようなエピソードをご紹介する。これもまた、天才ダリの自叙伝『わが秘められた生涯』からの引用である。
一九二九年のあの夏。
地中海に面したカダケスの漁村。
エリュアール夫人であったガラに恋したダリは、体の内から噴き上げる情熱に身悶《みもだ》えした。かなわぬ想いへの渇望。それは性的ヒステリーと呼ぶのがふさわしかっただろう。
やがて夏が過ぎゆくにつれて、ルネ・マグリット夫妻やルイス・ブニュエルといった仲間たちがカダケスを去っていった。そして、ガラの夫である詩人ポール・エリュアールも。海辺に九月が訪れていた。
ダリは、ガラとともに岩山に登った。が、風の激しさに坂道を下り、突風から身を隠せる石のベンチに腰を降ろした。荒涼とした残忍なほど鉱物的な場所で、頭上には消えかかった銀色の三日月が出ていたという。
ダリは初めての口づけを経験する。
狂おしい気持ちに駆られた彼は、ガラの髪を掴《つか》んで、全身を顫《ふる》わせながら叫んだ。
──さぁ、君は僕にどうしてもらいたいのか、いうんだ! 僕の目をじっと見ながら、ゆっくりというんだ。二人とも恥ずかしくてたまらなくなるような、いちばん下品で、ものすごく猥褻《わいせつ》な言葉を使うんだぞ!
ガラは答えた。
──私を殺して!
彼女を抱きしめて接吻《せつぷん》し「よし、やろう!」と叫んだダリだが、そんなことが実行できようはずがなかった。
ガラは自らの秘められた生涯を語った。彼女自身を生体解剖した。それが進むほどにダリの中でガラは『いっそう精緻《せいち》になり、さらにいっそうはなやかに開花』していったという。
その後、ダリはこう記している。
いったいどうしたのだ、ダリ? せっかくお前の大好物の犯罪が贈り物としてさし出されているというのに、今となってもう欲しくなくなったというのか! そうだ! あの聡明《そうめい》な美女、わが生命のグラディヴァ、ガラが彼女の告白という剣の一撃で、飾り立てた孤独のベッドのうえで私が幼い頃から見つめつづけて来たあの蝋人形を、わが偽記憶の怪物的ガルーチカを、一刀両断にたたき切り、その死せる鼻はものの見事に、私の最初の接吻という譫妄《せんもう》的な砂糖のまっただ中に飛びこんだのだ。
かくして、ガラは私を犯罪から離乳させ、私の狂気を癒《いや》してくれた。ありがとう! 私は君を愛したい! 私は君と結婚する!
まるで魔法のように、私のヒステリー症状はひとつひとつ消えて行った。ふたたび私は自分の哄笑《こうしよう》と微笑と身振りの主人となった。薔薇《ばら》のようにみずみずしい新たな健康が私の精神の中心に育ち始めた。
これが、もう一人のダリの物語である。
火村は京都に帰っていき、私は夕陽丘の自宅に戻ってきた。
五日ぶりに一人の夜になった。迎えてくれたのは、啼《な》かないカナリアだけだ。いや、もうとうに籠《かご》の中で眠っていたらしい彼女は、私がリビングの明かりを点《つ》けて安眠を邪魔したことに抗議するべく羽根を鳴らしただけなのだろう。
留守番電話にいくつかメッセージが入ってるようだったが、再生する気になれなかった。水を一杯飲んだだけで、明かりを消す。
「疲れた」
壁に向かって呟いてから、すぐにベッドに寝転がった。そして、着替えもしないまま眠ってしまった。
翌日は日曜日だった。目覚めたのは正午をかなり回ってからだ。むやみに腹がへっていたが、それもそのはず。昨夜は、六甲を下山して火村と大阪駅で別れた後も何も食べなかったのだ。
ぼんやりと、何もせず、何も考えない日曜日にしよう、と決めてベッドを出た。腹の足しになるものはないのか、と冷蔵庫を開くと、見事に空っぽだ。かろうじて残っていた卵を三つとも使って、目玉焼きとスクランブルエッグを作りにかかった。こんな食事ばっかりしていては、コケコッコーと寝言を言いだすようになってしまうのではないか、と苦笑しながら。
何も考えないことにしたはずなのに、長池伸介はどうしただろうか、と気になる。卵だらけの昼食を食べながらテーブルの上に朝刊を広げてみたが、まだ事件の終幕を報じる記事はなかった。
コーヒーを淹れていると、チャイムが鳴った。誰だ、と思いながらインターホンに出てみる。
「真野です」
隣人が帰ってきたのだ。ぼさぼさの髪に手櫛《てぐし》を入れる。だらしなく着替えをせずに寝てしまったことが幸いして、さほど待たせずにドアを開けることができた。
隣人は小さな薔薇《ばら》の花をプリントしたシャツを着て、眩《まぶ》しいような笑みを浮かべて立っていた。
「ありがとうございました。これ、つまらないものですけど」
一礼し、洋菓子らしい包みを差し出しながら言う。
「あ、そうか。土曜日にお戻りになるとおっしゃってましたね。昨日、きて下さったんやないですか? 帰りが遅かったもので、失礼しました」
「いいえ、かまわないんですよ」
「名無しのレディは元気にしていますよ」
「いつもお世話をかけてしまって」
「どういたしまして。──ちょっと待って下さい」
鳥籠を取りに行こうとして、私は足を止めた。
堂条秀一の繭《まゆ》から生まれた今度の事件は、捜査のさなかも、解決をみてからも、私の気持ちを内へと向かわせすぎた。開いた淋《さび》しい抽斗《ひきだし》を閉じてしまおう。
「ちょうどコーヒーを淹《い》れているところだったんです」
私はくるりと振り返った。
「あ、ほんと。いい匂いがしていますね」
彼女は鼻をくんくんさせてみせる。
「このお菓子を、一緒に召し上がりませんか?」
──了──
本書の執筆にあたり、次の文献を参考にさせていただきました。末尾ながらお礼申し上げます。
「わが秘められた生涯」(サルバドール・ダリ/足立康・訳/滝口修造・監修)新潮社
「ダリとの対話」(サルバドール・ダリ&アラン・ボスケ/岩崎力・訳)美術公論社
「ダリ展カタログ 1992年」(千足伸行・監修)「芸術新潮 1984年4月号」新潮社
「宝飾品市場 その知られざる世界」(山口遼)日本経済新聞社「ぼくたちの犯罪論 クロストーク刑法学解体新書」(佐藤直樹・編)白順社
本作は純粋なフィクションであるから、描かれた事件、人物、団体などにモデルは存在しない。実在する場所、交通機関の一部にさえ、故意に歪曲《わいきよく》が加えられている。
角川文庫『ダリの繭』平成5年12月10日初版発行
平成12年10月10日20版発行