【あるYの悲劇】 有栖川有栖
1
映画を観終《みお》えて外に出てみると、秋の日はもうとっぷり暮れかかっていた。ネオンサインが何となくもの哀しい。本来的に映画なんて、暗がりの底に身を沈めて独《ひと》りきりで鑑賞するものだが、たまには連れがいたらな、とふと思う。ふだんはそんなことを考えたりしないのに、初秋の風が私を感傷に誘っているのかもしれない。いや、単に斜め前にいたカップルがいちゃつくのを二時間も見せつけられたせいか。
サウスタワー・ホテルの窓の灯を見上げながら、私は高島屋の方へと交差点を渡る。勤め帰りのサラリーマンやOLが連れ立って歩く姿が目立った。デパートの正面入口あたりには、待ち合わせをしている男女が多い。ああ、そうか。今日は金曜日だったんだ、と気づいた。そういえば、どこか浮《うわ》ついた空気が街に漂っている。今の自分には関係がないことだが、かつて印刷会社で営業をしていた頃は、同僚たちと楽しい金曜日の宵《よい》を過ごしたこともある。
「そうか、金曜日か」
小声で呟《つぶや》いて、あてもないまま東へ歩く。あてはなかったが、どこで夕食をとろうか、とぼんやり思案していた。独りで食事をするのは慣れっこのはずが、今宵《こよい》はそれもわびしく感じる。三十四歳、独身。一年に何日かこんな日もある。だからといって、道行く女性に気軽に声をかけられるタイプでもない。シャイだからか、プライドが高いからか? その両方なのだろうが、もしも私が女だったら、街で気安く声を掛けてくる通りすがりの男など相手にしないことだけは確信があった。男でいる今より、さらにプライドが高い人間になっていた気がする。
頭髪を金色に染めた若い男が、不意に何かを私に突き出した。テレホンクラブの電話番号を刷り込んだティッシュ・ペーパーだ。機械的に受け取って、通り過ぎる。男は両方の手にティッシュを持ち、通行人の性別に応じてブルーのそれとピンクのそれを分けて手渡していた。男性用と女性用の別があるのだ。前方にも同じような男がもう一人いて、こちらの髪は紫色だった。七十が近そうなご婦人が「ちょうだい」と催促《さいそく》してピンク色のティッシュをもらっている。もちろん男は「お婆ちゃんには関係ないよ」と拒《こば》んだりしなかった。
レザー・ジャケットの胸に何か縫《ぬ》い取りがしてある。虎か、豹《ひょう》か? 覗《のぞ》き込みながら近づきかけると、男と目が合った。
「何?」
私の目つきが胡乱《うろん》だったのか、紫色の髪の男はぶっきらぼうに尋《たず》ねた。ひしゃげたような鼻をしていて美男子の典型からは遠いが、口許《くちもと》が引き締まったいい面構《つらがま》えをしている。
「いや、別に」私はとっさに訊《き》き返す。「バンドやってるの?」
相手は無言で頷《うなず》いた。
「俺も昔やってたんや」嘘《うそ》である。「色んなバイトしながら」
「あ、そう」
それがどうした、と言いたげだ。私はその右手からティッシュを抜き取り、小さく手を振って立ち去った。おかしなオッサンや、と思われたに違いない。
雑踏でティッシュを配るアマチュア・ミュージシャンは見慣れた街の点景だが、彼らと言葉を交《か》わしたことがある人間は少ないはずだ。まともな会話にはならなかったけれど、私はしゃべった。人恋しくなったためではなく、ほんの気まぐれだ。もしかすると、紫色の髪の彼が、三ヵ月前に出会ったある男に似ていたからなのかもしれない。
浜本欣彦《はまもとよしひこ》。
髪は金髪に染めていた。彼がベースを弾《ひ》いていたロックバンドの名前は……。
〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉。
言うまでもなく、夢野久作《ゆめのきゅうさく》の名作『ドグラ・マグラ』をもじったナンセンスな名前だ。夢野久作ファンの自分が回転寿司屋で思いついたのだ、と浜本が言ってたっけ。他のメンバーは夢野久作という作家も知らなかったが、語呂《ごろ》がふざけていて面白い、ということでバンド名に採用されたのだ、とも。
〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉の歌をテープで一曲だけ聴いた。演奏は決してうまいとは言えなかったし、楽曲自体もインディーズ・バンド的うさん臭さに幻想文学趣味をまぶしただけが取《と》り柄《え》のようで、その時はあまり感心しなかった。なのに、今でもサビの部分を口ずさむことができそうだ。
あいつが下劣
こいつは馬鹿
文句ばっかり並べやがって
どこへ行っても臭いなら
そりゃ、お前自身の匂いだろ
はは。うまいこと言うじゃないか。聴き直したくなってきた。インディーズ系バンドの中でもマイナーだったが、アメリカ村に行って探せば彼らのCDをまだ扱っている奇特なレコード屋もあるかもしれない。
振り返ってみると、人の流れの中に紫色の頭が覗いていた。夕闇は深まっていく。
私は西心斎橋《にししんさいばし》に向かうべく方向転換した。この後の予定が決まった。〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉のCDが見つかったなら、静かなレストランを見つけて食事をとろう。いつもより、ちょっとだけ豪勢な料理を選んで。楽しい宵は、独りでも創《つく》れる。
2
三ヵ月ほど前。七月二日のこと。
夕陽丘《ゆうひがおか》の私のマンションに火村英生《ひむらひでお》から電話が入った時、私は某大学の推理小説研究会から送られてきたアンケートの回答を書いているところだった。Q1は「ペンネームの由来は何ですか?」という、よくある質問。有栖川有栖《ありすがわありす》なんてペンネームだとしか思われないだろうけれど、答えは「本名」の二文字ですむから楽である。知り合いのある作家は、「ペンネームの由来を説明すると長くなるから、面倒くさくてかなわないんだ。いいよな、本名と答えればいい奴は。俺も今度から『本名です』と嘘ついてすませようかな」とぼやいていた。アンケートのQ2は「お好きなミステリのベスト5は?」。「一位はエラリー・クイーンの『Yの悲劇』」と答えることに決めているのだが、ベスト5となると答えを用意していない。この齢《とし》になるとベストなんとかを選んで遊ぶのには、ほとほと飽きているのだが……。
などとやっているところに電話だ。大学時代から付き合いのある犯罪学者は、「忙しいか?」とまず訊いてきた。
「そうやなぁ。二週間以内に書かんといかん短編があるから暇でもないけれど、とりたてて忙しいわけでもないし……」
「煮え切らない奴だな」友人は私の言葉を遮《さえぎ》った。「どっちでもいいや。殺人現場にくる気があるのなら、これから言う場所にこい。メモの用意はいいか? 大阪市|都島《みやこじま》区──」
えらく唐突だな、と思いながら、私はとりあえず殺人現場とやらの住所をメモに控えた。〈グランカーサ都島〉というマンションの604号室、と。
「京都から出張か。臨床犯罪学者の火村先生は、本日そこでフィールドワーク中というわけやな。有能な助手のご用命ということは、難しそうな事件なのか?」
電話の脇に置いてあった車のキーをいじりながら言う。返事はイエスでもノーでもなかった。
「くれば判《わか》る。──ところで、〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉っていうインディーズ系のロックバンドを知っているか?」
「ユメノ……ドグラ・マグラ?」
「マグロ、だ。まだ自主制作のCDを一枚出したばかりらしい」
ロック好きの私でも、インディーズ系の駆け出しバンドを知っているはずがない。〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉か。メジャー・デビューすることをあらかじめ放棄しているかのようなバンド名である。
「被害者は山元優嗣《やまもとゆうじ》といって、そのバンドのギタリストだ。自分が使っていたエレキギターで頭を殴られて死んでいた。犯行は昨日《きのう》の夜。バンドのメンバーの一人が瀕死《ひんし》の被害者を発見したんだけれど、手遅れだった」
ロックバンドのギタリストが自分のギターで殴り殺されたとは、悲惨な死に様だ。
「まるで『Yの悲劇』やな」
私がぽつりと呟いたのを、火村は聞き逃さなかった。
「どういうことだ?」
「ああ、いや、何でもない。エラリー・クイーンの『Yの悲劇』っていうミステリのことを連想したんや。その小説の中で殺されるのはギタリストやないけれど、凶器が楽器なんで」
「ギターで殴り殺されるのか?」
「いいや、マンドリン。他にいくらでも適当な道具があったし、毒薬も所持していたのに、犯人はどうしてマンドリンなんていうものを強引に凶器に選択したのか、という疑問がラストで鮮やかに解明される小説なんやけど、今回の事件にはそういう謎はなさそうやな。マンドリンと違ってエレキギターは重量があって堅いから、殺人の凶器としてさほど不自然やない。被害者がギタリストやったそうやから、そのギターも手近なところに置いてあったんやろうし」
何故《なぜ》か火村は黙り込んでしまった。私は妙なことを口走っただろうか? 短い沈黙を破った彼は予想外のことを言う。
「持つべきものは推理作家の友人だよ。こっちにくる時に、その『Yの悲劇』という本を持ってきてくれないか。あるだろう」
三種類の訳を揃えてある。
「エラリー・クイーンの小説がギタリスト殺しに関係してるとでも?」
「多分、何の関係もないだろう。ただ、ちょっと気になることがあるんだ。詳《くわ》しいことは現場で話す」
気を引くような言い方をしやがるな、と思いつつも、了解して電話を切った。整理の悪い本棚ではあるが、ご贔屓《ひいき》のクイーンの本だけはすぐに手に取れるところに並べてある。私は『Yの悲劇』の一冊を抜き取り、メモした住所がどのあたりか地図で確かめてから部屋を出た。
ふだん車で走ることが少ないエリアだったが、〈グランカーサ都島〉はすぐに判った。北側が大川《おおかわ》に面した十階建てのマンションで、見たところまだ築後五年以内だ。付近には木造の古い家屋と新しそうな高層マンションが混在していた。駐車禁止でないことを確かめてから、私は川べりで車を停《と》める。朝夕は通勤の足となる水上バスが、のんびりと川面《かわも》を進んでいた。
六階のあたりを見上げると、真ん中あたりのバルコニーが青いビニールシートで覆《おお》われていて、捜査員のものらしい人影が動いているのが隙間《すきま》からちらりと見えた。間違いない、あの部屋が殺人現場なのだ。私は早足で玄関の方に回った。
エレベーターで上がる。このマンションは縁起をかついて4で始まる部屋番号がないとかで、604号室は五階にある、と電話で聞いていた。廊下での証拠品収集作業は完了しているらしく、こちらにも掛かっていたであろうシートは撤去されていた。人影もない。私はチャイムを鳴らした。
「お待ちしていました、有栖川さん。いつもご苦労さまです」
出迎えてくれたのは、大阪府警捜査一課の船曳《ふなびき》警部だ。火村のフィールドワークに立ち合ううちに、彼とはすっかり顔馴染《かおなじ》みになっている。仕事には厳しいが人情味のある親父さんで、犯罪捜査に協力する部外者の火村との信頼の絆《きずな》も強い。まだそれほど気温は上昇していないのに、太鼓腹にサスペンダーの警部は額に汗を浮かべていた。夏が苦手であろうことは、体型から推察できる。
〈海坊主《うみぼうず》〉と渾名《あだな》されるその豊満な体の向こうから、火村がこちらに歩いてくるのが見えた。上着は脱いでいて、腕まくりしたブルーのシャツにだらしなく結んだネクタイをぶら下げている。「早かったな」というのが挨拶《あいさつ》だった。十畳ほどのリビングを見渡したところ、捜査員の姿はない。さっきバルコニーにいたのは火村だったのだろう。
「このリビングが現場だ。血腥《ちなまぐさ》いものはないから安心してくれ」
「だいぶ慣れたから、そんな心配は必要ないぞ。遺体はそんなに無惨な様子やったんか?」
「元々ここには遺体はなかった。被害者は瀕死の状態で発見されて、病院に運ばれる途中で死んだんだ。額と頭頂部にひどい裂傷を負っていたから、もちろん無惨な様子だったと言うしかないな。──被害者の山元優嗣が横たわっていたのは、そこだ」
彼は顎《あご》でしゃくってソファの前の床を指した。乾いた血溜《ちだま》りが遺《のこ》っている。その脇には底に血がついたスリッパが転がり、ソファのチャコールグレーの布地にも、どす黒い染みが点々と散っていた。だいぶ慣れたと強がってみせたが、やはり気持ちのいいものではない。
ソファと向かい合った壁際には、テレビとオーディオを収納した立派なボードがあり、CDラックは和洋のロックのアルバムで埋まっていた。AV機器そのものはさして高級なものではなかったが、アンプとスピーカーはいいものを使っている。そんな現場観察をしながら、私は背中で火村の声を聞く。
「傷の形状から、犯人は立った状態の被害者の頭頂部めがけてギターで一撃を加えたとみられる。被害者は大きなダメージを受けてソファに倒れこんんだようだ。その額に犯人はさらにギターを振り下ろし、被害者は床に昏倒《こんとう》した、というところだ。傷は二つ。死因は脳挫傷《のうざしょう》だが、どちらが致命傷になったかは判然としない」
「頭部の他には、右手に打撲の痕《あと》があるだけです」船曳が補足する。「おそらく額を殴られる際、身を守ろうとして受けたものでしょう」
エレキギターで頭に二発か。犯行の情景を想像して、そんな殺され方は真《ま》っ平《ぴら》だな、と思う。
「凶器のギターはそこに落ちていました。被害者が愛用していたものだそうです」
振り向いて警部が指差した先を見ると、床に白いビニールテープが貼《は》ってあった。その形は、アルファベットのYに似ている。どうやら〈使用楽器〉はフライングVらしい。ボディがVの形をしたギターなのでそういう名前がついているのだが、あれはネックと合わせると全体の形がYの字に見える。
「弦が三本切れて、ネックは折れていた」火村は言う。「リッチー・ブラックモアが叩き壊したみたいに」
リッチーがアンコールの頂点でギターを壊してみせるパフォーマンスは有名だが、彼とこの事件を結びつけるのは難しい。フェンダーのストラトキャスターしか使わないから。
「私はエレキギターなんていうものを手に取ってみたのは初めてでしたが、重たいんですなぁ。それに石みたいに堅い」
〈海坊主〉警部はギターを弾く真似をしながら言った。手つきは怪しいが、体型がアメリカ人っぽいのでカントリー・ミュージックの大御所に見えなくもない。
「エレキギターが殺人事件の凶器に使われた前例というのはあるんですか?」
「寡聞《かぶん》にして知りません。凶器は鑑識に回してありますので、後ほど写真でご覧いただきましょう。さて、事件の概要についてですが──」
まず被害者について。殺されたのは山元優嗣、二十二歳。この部屋の主である。大阪市内の大学に籍を置いていたが、アルバイトとバンド活動に打ち込んでいたため、ここ一年以上、学校にはまったく足を向けていなかった。浪人と留年を経験しているので、大学二年生。山元がギターを弾いていた〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉は高校時代からの友人を中心に結成されたバンドで、ライブハウスを中心に活動をしていた。自主制作による初のCDアルバムをリリースしたのは、つい一ヵ月前のことだった。
「その程度のバンドなら、ライブハウスで活動といっても儲けどころか足が出ていたでしょう。被害者はここに一人で住んでいたということでしたね。分譲なのか賃貸なのか知りませんが、よくこれだけのマンションに住めたもんです」
私が疑問をさし挟む。〈グランカーサ都島〉はゴージャスな高級マンションでもなかったが、この604号室は平均的な四人家族が暮らせそうな3LDKだ。普通なら若いアマチュア・ミュージシャンが一人暮らしできるとも思えない。
「ここは分譲マンションです。一部、賃貸で入居している人もいるそうですけれどね。被害者は、居酒屋でアルバイトをして生活費やバンド活動費を捻出《ねんしゅつ》していたそうです。ですから、3LDKの部屋を購入する資力なんかもちろんありません。ここは彼の父親が所有してるんです」
「家族とは別居しているんですか?」
「母親とは死別していて、肉親は父親一人だけです。損害保険会社に勤務する父親は二年前に東京本社へ転勤になったため、あちらに別のマンションを買って、大阪市内の大学に入学した息子だけがこちらに残りました。経済的には余裕があったんですな」
「父一人子一人ですか。さぞ力を落としてらっしゃるでしょうね」
「そうですね。でも、今朝ほど病院でお話ししましたが、気丈そうな親父さんですよ。ひと晩かけて東京から車で飛んでいらした。昼頃になってさすがに心身の疲れが吹き出したようで、現在は梅田《うめだ》にとったホテルで休んでいます。──事件の話に戻りますよ」
この現場から消防と警察に通報をしたのは、バンド仲間の沢口彩花《さわぐちあやか》だった。警察に記録された通報時刻は昨夜の十時一分。彼女は山元優嗣と小学生時代からの幼馴染《おさななじ》みで、ここから徒歩で十分ほどのところに住んでいる。彼が貧しい食生活を送っているのをふだんから心配していたので、時々、余分に作った手料理を運んでやっていたのだそうだ。昨夜も彼の好物の散らし寿司を持ってやってきて、チャイムを鳴らしたところ返事がない。ドアに鍵が掛かっていないのを不審に思いながら入ってみると、ギタリストが頭から血を流してうめいていた。ひどい傷だ。びっくりして駆け寄り、介抱しようとしたのだが意識がなくなった。それで、自分の携帯電話で一一九番と一一〇番に報《しら》せた──。
「すぐに救急車が駈けつけたが、被害者は病院に到着する前に息絶えた。とまぁ、そういう経緯です」
「沢口さんがやってきたのは、犯行からどれぐらい後なんでしょうか?」
「それは定かではありませんが、受傷の様子からみて二十分とたっていなかったようです。ほとんど犯行直後やったのかもしれません」
「沢口さんは犯人らしき人物を目撃していないんですか?」
「ええ。しかし、非常に重要な証言をしてくれました。意識を喪失《そうしつ》する前に、被害者は犯人が誰なのか告げようとしたんです」
額をギターで割られているのだから、被害者は犯人の顔を真正面からしっかりと見たはずだ。可能ならば、当然そいつの名前を言い遺すであろう。
「そうすると、事件は解決したのも同然ということですか?」
それならば民間の協力者である火村や私がしゃしゃり出てくる必要はなさそうだが。
「いえいえ。それがおかしな具合なんです。沢口彩花は、被害者が口にした言葉の意味が理解できなかったので、どういうことなのか聞き直そうとした。そうしたら、彼はおかしな身振りを繰り返した挙げ句、人差し指に自分の血をつけて壁になすりつけたんだそうですよ」
「その痕が、あれさ」
火村が壁の一点を示す。血溜り近く、床から十センチもない低い位置に、赤黒い痕跡が遺っていた。ダイイング・メッセージということか。
「被害者が最後の力を振り絞《しぼ》って書いたものが……これ?」
火村が「そうだ」と答える。
なるほど、こういうことだったのか。
「どうしてエラリー・クイーンの小説を持ってきてくれやなんて頼まれたのか、その理由が判ったわ」
私はあらためて壁の緋《ひ》文字に目をやる。やや崩れかかってはいたが、それはアルファベットの大文字のYと見るのが自然だった。
3
沢口彩花の家は洋品店だった。地元の中学校指定の制服をまとったマネキンが、店頭のショーケースに並んでいる。船曳警部を先頭に中に入った。レジカウンターで、ふっくらした中年の婦人が伝票の整理をしていた。彼女は警部を見るなり、手を止めて会釈《えしゃく》する。彩花の母親だった。
「何度も申し訳ありません。お嬢さんはいらっしゃいますか? 昨日のことをもう一度伺いにきたんですが」
「部屋におりますので、呼んできます」と言ってから、彼女は遠慮がちに尋ねる。「あのぉ、それで、優嗣君を殺した犯人は捕まりそうですか?」
「まだ捜査を始めたばかりなので、はっきりとしたことはお答えできません。全力をあげてかかっています」
「よろしくお願いします」母親は深々と頭を垂れた。「優嗣君がこんな小さかった頃から知っているもので、私もつらくて。娘は私の何倍も悲しんでいますけれどね。友だちを亡くしただけでも悲しいのに、その子が死ぬところに立ち合《お》うたんですから、それはそれはショックやと思います」
「お察しします。ところで不躾《ぶしつけ》ですが、亡くなった山元さんとお嬢さんとは──」
母親はピンときたようだ。
「ただの幼馴染みですよ。それから音楽の仲間。ボーイフレンドという感じでもありませんでした。『ギターに倒れられたら困るから救援物資よ』と言って栄養のあるものを優嗣君に持っていったりしていましたけれど、それは親切心からのことです。優しい子なんです」
二人が恋人同士で痴情《ちじょう》のもつれが事件に発展したのでは、と警察に勘繰《かんぐ》られることを恐れているのだろう。母親はそんなふうに釘を刺してから、娘を呼びに引っ込んだ。
やがて現われた沢口彩花は、母親とは対照的にスレンダーだった。茶髪のショートカットと細身のジーンズがよく似合っている。今は事件のショックで憔悴《しょうすい》して表情が暗いようだが、目鼻立ちのはっきりとした華やかな顔をしていた。
「どうぞお上がりください」
警部が口を開くより早く、彼女は奥へ招いた。私たちは二階の彼女の部屋に通される。六畳の和室だった。予想に反して、およそ若い女の子の部屋らしい装飾がない。iマックが鎮座した小さな机と文庫本が詰まった本棚があるだけで、いたってシンプルだ。ミュージシャンの部屋らしくもない。ポスターがぺたぺたと貼ってあるでもなく、楽器すら見当たらないのだ。ただ、白っぽい壁紙に、水色のサインペンで細いストライプ模様が描かれているのだけが目を引く。
「この模様はあなたがお描きになったんですか?」
火村の問いに、彩花はこっくりと頷いた。
「この部屋のコンセプトは、雨の中の庵《いおり》なんです。世捨て人が庵に住んでいて、外では雨が降っている、という情景を思い浮かべたら寛《くつろ》げるので、自分でこんなふうにデザインしてみました。母は『アホなことばっかりして』と呆《あき》れていましたけれど。まともに就職せずバンドをやってるのも、アホなことに含まれているんでしょう」
面白い子だな、と思った。発想がユニークなだけでなく、そぼ降る雨を丁寧に美しく表現できている。
「お部屋に楽器がないということは、ヴォーカルを担当なさっているんですか?」
本題に入る前の世間噺《せけんばなし》めかして私が訊くと、今度はかぶりを振った。
「コーラスぐらいはしますけど、私の担当はキーボードです。楽器は別の部屋に置いてます。ピアノやらシンセやら、ここには入りきらないので」
「バンドは何人で?」
「四人です。優嗣君がギター、私がキーボード。その他にヴォーカルとベースの浜本君、ドラムスの用賀《ようが》さん」
「どなたがリーダーですか?」
「浜本君。私と優嗣君と彼は高校時代からバンドを組んでいて、決めたわけでもないけど、ずっと彼が実質上のリーダーです。詞も曲も、たいてい彼が書いてるし」
「ギターの山元さんが曲を書くんではなかったんですか?」
「優嗣君も書いたけれど、浜本君ほどうまくなかった。下手ではないんですよ。ただ、オリジナリティに難があったんです。いつもUFOやMSGにあったようなリフばっかしで……」
「ははぁ、マイケル・シェンカーのファンだったのか」多くのギター・キッズが憧れたプレイヤーだ。「それで山元さんは彼と同じフライングVを使ってたんですね」
私の言葉に、彼女は顔を上げて小首《こくび》を傾《かし》げた。
「刑事さん、ハードロックがお好きなんですか?」
「いえいえ」と警部が手を振る。「ご紹介するのが遅れました。こちらのおふた方は刑事やないんです。犯罪社会学を専門になさっている英都大学助教授の火村英生先生と、推理作家の有栖川有栖さんといって──」
私たちが捜査に加わっている事情について、警部は手短に説明した。彩花は「ああ、そうですか」と納得する。
「どうりで、お二人とも刑事さんらしくないと思いました。警察が犯罪学の先生や推理作家の方に捜査協力をあおぐとは知りませんでしたけれど、よろしくお願いします。早く優嗣君にあんなことをした犯人を見つけてください」
彼女は畳《たたみ》に両手をついて頭を下げた。あまり役に立たない助手もどきであるが、使命感が込み上げてくる。
「そういうわけで、つらいでしょうけど昨日のことについて再度お伺いしたいんです。大変重要なことなのであなたから直接聞きたい、と火村先生と有栖川さんもおっしゃっていますので」
「判りました。何度でも証言します」
彩花は膝《ひざ》を揃《そろ》えて座り直した。警部が話の糸口をつける。
「昨日は練習もなく、バンドのメンバーは皆さんバラバラだったんでしたね?」
「はい。私は京橋《きょうばし》まで買物に出たりしていました。浜本君と用賀さんはバイト。優嗣君も居酒屋のバイトがある日だったんですけど、練習スタジオの予約の件で電話をしてみたら、風邪《かぜ》気味で体がだるいので休む、ということでした。そんなにしんどそうな声でもなかったから、半分ずる休みかな、とも思ったんですけど」
「その電話はいつ頃ですか?」
「お昼過ぎ。一時ぐらいです。彼、その時間には家にいてることが多いんです」
「体調がよくないらしいと聞いたから、差し入れに行くことにしたんですね?」
「はい。本当に病気やったらかわいそうなので。彼が好きな散らし寿司とお味噌汁を作って持っていってあげることにしました」
「それが十時前でしたね。夕食にしては遅くないですか?」
「六時頃にもう一度電話をして、『救援物資を運んであげよか?』と訊いたら、『昼飯を中途半端な時間に食べたので、夜食を差し入れて欲しい』というリクエストやったんです」
そういう次第で、彼女は九時四十分頃に家を出て、〈グランカーサ都島〉に向かう。途中のコンビニで食後のおやつにスナック菓子を買ったので、優嗣の部屋の前に立ったのは九時五十五分頃になっていた。チャイムを鳴らし、インターホンに呼びかけても返事がない。何時に行くかは言っていなかったが、自分がくることは伝わっているから外出するはずないのにな、と怪訝《けげん》に思いながらドアのノブをひねってみると、不用心なことに鍵が掛かっていなかった。訝《いぶか》りながら「優嗣君」と呼びかけながら室内に入る。そして、床に倒れてうめいている優嗣を発見したのだ。
「私はかなり混乱しました。何が起きたのか判らなくて、滑って転んだくらいであんなことになるはずないのに、『どうしたん? どこで打ったん?』と問いかけました。すると彼は、消え入りそうな声で『殴られた』と答えたんです。それで、犯罪に巻き込まれたんや、とやっと理解できました」
優嗣が体を起こそうとするので、彩花は肩を抱いて手助けし、ソファにもたれさせてやる。そして、誰にやられたのか、と尋ねた。だが、優嗣の顎はがくがくと痙攣《けいれん》するように動くだけで、なかなか言葉が出てこない。そんなことより救急車を呼ばなくては、と彼女は携帯電話で消防署にダイヤルした。通報を終えて電話を切り、警察にも報せた方がいいだろう、と一一〇番しかけた時に、優嗣の掠《かす》れた声が聞こえた。
「『何、優嗣君?』と訊き返すと、彼は同じことを繰り返しました。昨日から警部さんにお話ししているとおり、それは……」
彩花は言い淀む。警部は続きを促した。
「聞こえたままを、あなたの口から先生方に言ってください」
「はい」彼女は火村と私を見て「『やまもと』と言ったように聞こえました」
私は、きょとんとしてしまった。やまもと? 山元は彼自身の苗字《みょうじ》ではないか。ギタリストは、自分を襲《おそ》った犯人の名前を告げようとしたのではなかったのか?
「変ですよね。とっさに意味が判りませんでしたけど、これはもしかしたら、頭を殴られたせいで正常な受け答えができなくなっているのかもしれない、と思いました。私のことを救急隊員と勘違いして、『自分の名前が言えますか?』と質問されているんやないか、と」
ああ、そうか。そういう錯覚はあるかもしれない。
「私が『彩花やで。判ってる?』と顔を突き出してみせると、優嗣君は微《かす》かに頷いたように見えました。でも、まだ勘違いをしてるのかもしれません。それで、犯人が誰か知りたいというより、彼の意識がちゃんとしているかどうかを確かめるために『誰にやられたの?』と訊きました。そうしたら、苦しそうに顔を歪《ゆが》めて何か言うたんですけれど、もう声にならないんです」
思い出しながら話すのに、多大の苦痛が伴っていることだろう。
「唇の動きで判りませんでしたか?」
火村が穏やかに尋ねる。
「それが……やっぱり『やまもと』と動いたみたいに見えたんです。その前後にも、唇をぱくぱくさせていましたが、うめいていただけかもしれません」
どうしたらいいのだろう、と彩花は狼狽《ろうばい》した。何か話しかけ続けていないと、彼の意識が遠くなってそのまま死んでしまうかもしれない。そう思うと狂おしい気分になって、何でもいいから問いかけ続けなくては、と思った。だから、さらに尋ねた。「誰が優嗣君を殴ったんや?」と。その場面を想像すると、胸が痛む。
だが、優嗣はもはや声を発することが不可能になっていた。しゃべることを諦《あきら》めた彼は、ボディ・ランゲージで答えようとする。ゆっくりと右腕を上げて、傍らの床に落ちているエレキギターを指差したのである。逆上していたため、彩花はその時に初めて凶器がギターであることを知った。
「血がついたギターがそばに転がってたのに、これで殴られたのか、ということすら気がつかなかったんです。何てひどいことを、と身顫《みぶる》いしました」
「言葉を挟んで失礼します」私は言った。「優嗣さんが床のギターを指差したので、これで殴られたのか、と判ったんですね。けれど、それってあなたの問いかけの答えにはなっていませんよね」
「そうですね。言葉が通じていない、と思いました。だから、とりあえず『これでやられたんやね。判った』と応じてから、『殴った人は誰?』としつこく尋ねました。彼はなおもギターを指したままでした」
これは駄目だ、と彩花は親指の爪を噛《か》んだ。どうするべきか。話しかけて無理をさせない方がいいのだろうか、と迷っているうちに救急車のサイレンが聞こえてきた。その音は少しずつ近くはなってくるのだが、なかなかマンションの前までこないので、もどかしくてならなかった。
と、優嗣が再び床に崩れ落ちた。両の目は虚《うつ》ろで、死が彼を迎えにきていることが知れた。彩花は彼の生命の火を消さないように「しっかりして」と懸命に呼びかける。優嗣は何か言い遺したそうだった。もう助からない。間に合わなかった、と彼女は覚悟を決めかけた。それでも、「がんばって。救急車がきたからもう大丈夫やよ」と励ますことはやめなかた。
「『もう動かんと、じっとしてて』と言ったのに、彼は従いませんでした。人差し指を血溜りに浸して、指先に自分の血を塗《ぬ》りたくりました。そして、壁にYとだけ書いて……そこで意識を失ったんです。びっくりして脈をとったら、すごく弱くなっていて、ほとんどなくなっていて……」
その後は放心したあまり記憶に欠落があって、救急隊員がドアを開けて入ってきたことにさえ、彼女は気がつかなかったという。沢口彩花の話はそこまでだった。
「丁寧にお話しいただいて、ありがとうございました」警部が言う。「こちらからいくつか質問させてもらいたいんですがね。よろしいですか? あなたが優嗣さんの部屋を訪ねた際、不審な人物を見かけたりしませんでしたか?」
「昨日の夜の質問の繰り返しですね。いいえ、何も見ていません。私は普通にエレベーターで上がりましたから、犯人が階段を使ったんならすれ違うこともなかったでしょう」
「あなたが現場に着いたのは、犯行が行われたほんの数分後だった可能性もあるんです。ですから今は思い出せなくても、よく考えて気がついたことがあれば連絡してください」
「そうします。けれど、誰も見んかったんですよ。私にそんなことを訊くより、マンション内の人に聞き込みをして回った方がよいと思います」
もちろん、全戸の全住民に対して聞き込みがかけられている。警部は「それも行なっています」と答えてから質問を変えた。
「ところで、例の『やまもと』ですけどね、あれについて思いついたことはありませんか? あなたがおっしゃったように、優嗣さんの意識が朦朧《もうろう》としていて自分の名前を口走ったのかもしれませんが、そうやないかもしれんでしょ。『やまもと』というのは、よくある苗字です。自分と同姓の『やまもと』という人物に襲われた、と言いたかったんやないでしょうか?」
そう尋ねられても、彼女が確信を持って答えられるはずもない。
「私が知ってる範囲では、彼が親しくしてた中に『やまもと』という人はいませんでした。学生時代には山本というクラスメイトがいたこともあったでしょうけど……全然ピンときませんね」
「沢口さんは小学校から高校まで、優嗣さんと同じ学校だったんですね。後で、それぞれの卒業アルバムをお貸し願えますか?」
彩花は承諾したが、縁の切れたかつてのクラスメイトを調べても無駄だろう、と思っているふうである。『やまもと』よりも、私は壁の血文字の方が気に懸《か》かっていた。
「優嗣さんが書き遺したYについてお尋ねします。彼は、Yの後にも何か続けて書こうとしていたんでしょうか?」
「はい、おそらく」という回答だった。「Yと書いた後、彼の指がほんのちょっと右に動きました。あれは多分、続けて何か書こうとしたんです。でも、もう命が残っていなかった……」
彼女は口惜《くちお》しそうだ。私も悔しい。命を懸けて遺そうとしたメッセージなのに、伝わらなかったとは。どうにかして解読できないものか。欠けた情報を想像力で補えないものか、と思う。
火村はどんな気持ちなのだろう、とその表情を窺《うかが》ったが、何も読み取れなかった。非情なばかりの冷静な眼差《まなざ》しで、観察するように彩花を見つめている。
「山元優嗣さんは、どんな方でしたか?」
そんな彼が初めて尋ねた。彼女は言葉を選ぶ間も措《お》かずに答える。
「人から憎まれるような子ではありませんでしたよ。ちょっとおぼっちゃんタイプで、わがままなところもあったけど、気のいい子です。男にも女にも親切やったし、さっぱりしてて、優しかった。私なんか性悪説論者で、渡る世間は鬼ばかり、人を見たら泥棒と思え、と思うのに、彼は人間の悪意をあんまり信じてなかった。浜本君がヘヴィーな曲を書いてきたら、『歌詞がネガティヴすぎる』と難色を示すぐらいでした」
「敵らしい敵はいなかったわけですね?」
「はい」
「しかし、彼の部屋に物色《ぶっしょく》の跡はありませんでした。犯人が無理やり侵入した形跡もない。つまり、優嗣さんは彼自身が相招き入れた顔見知りに殺害されたとみるのが自然なんですよ」
「そんなことを言われても……。私は、彼について感じたまま、ありのままを話しただけです」
彩花はいささか気分を害したようだった。火村は言い方が不適切だったことを詫《わ》びる。
「失礼しました。いがみ合っている人物はいなかったとしても、一方的に優嗣さんに悪意を抱いている人間がいたのかもしれない、と思っただけです。もちろん、現時点ではそう考える明瞭な根拠もないのですが」
幼馴染みは無言だった。付け加えることはない、という意味の沈黙なのだろう。
「バンドのメンバーとの関係は良好だったんですか?」
「CDができて、みんな盛り上がっていました。どこまでメジャーになれるか、自分たちの未来が楽しみになってきたところだったんです。関係が悪いはずありません。私の話が物足りないんでしたら、浜本君や用賀さんに訊いてみたらどうですか」
その二人には、これから個別に事情を聞きに行くことになっていた。彩花は、ふぅと大きな溜め息をつく。
「初めてのCDが優嗣君の追悼《ついとう》アルバムになってしもうた……」
4
彩花から小・中・高校の卒業アルバムを借りた後、私たちは現場に戻る。604号室では、学者然とした眼鏡の鮫山《さめやま》警部補が待機していた。「ご苦労さまです」と挨拶を交わしてから、警部補は声を低くして警部に耳打ちする。
「父親がきました。被害者の部屋にいます。それから、下の階の住人が帰ってきたので話が聞けました」
「そうか。どやった?」
「山崎《やまざき》という自由業の男です。独身者で、一人暮らし。昨日の夜、事件があった時間には部屋にいたそうですが、人が争うような物騒な音は聞こえなかった、と話しています。ただ、重たそうなものが床に落ちる音ははっきり聞いたと証言しています」
警部はわずかに興味を引かれたらしい。
「その時間は覚えてたか?」
「九時半から四十五分の間だった、という答えです。パソコン相手に碁《ご》を打っていたんだそうで、それ以上のことは思い出せない、と」
おそらく凶器が投げ捨てられた音だろう。このマンションならば生活音が上下の階に簡単に洩《も》れたりしそうにないが、フローリングの床にものが落ちるとかなり響くはずだ。
「その物音はリビングの天井から聞こえたのか?」
警部は確認のために尋ねる。
「おそらくそうだろう、という言い方です。山崎氏がゲームをしていたのは奥の六畳間で、音は斜め方向から聞こえたようです」
「天井のどのへんから、どの程度の音が聞こえたのか実地で試《ため》してみてもええな。ギターをほうり投げて。──他に何か聞けたことはないか?」
「ありません。被害者とは、エレベーターで顔を合わせることがあるぐらいだったが、すぐ上の部屋で殺人事件があったと聞いて驚いている、と言っていたぐらいです。都会のマンションですから、真上の部屋に誰が住んでいるのか知らないのが普通です。山崎氏はここに引っ越してきて、まだ半年だそうですし」
十年住んでいても知らなかったかもしれない。
犯行時刻が九時半から四十五分の間であった公算が大きくなったが、証人はゲームに没頭していたのかもしれず、どこまで信憑《しんぴょう》性があるのか判らない。もし彼の話が正確だったとしても、犯行時刻が九時四十分から十時前だということは諸々の状況から明らかなので、あまり重要な証言でもなさそうだ。
ドアが開く音がして、初老の男がリビングに現われた。高級そうな夏物のスーツに、きちんとネクタイを締めている。私たちを見ると、半分白くなった頭を下げた。被害者の父、山元|昭善《あきよし》だった。
「息子の部屋に足を踏み入れたのは、十年ぶりです。優嗣は中学生になってから、親が部屋に入ることを断固として拒絶していましたし、私もあえて入室しようとはしなかったもので。──音楽以外に興味のあるものはなかったみたいですね」
学校で担任教師と面談しているかのような落ち着いた話しぶりだった。しかし、一人息子を突然に殺人事件で亡くしたことを悲しんでいないはずはなく、目の下には隈《くま》ができている。どこか猛禽《もうきん》を思わせる横顔だった。鉤鼻《かぎばな》のせいだけでなく、意志の強靱《きょうじん》さと気性の激しさを窺わせる顔だ。
「息子の交友関係については、今朝ほどもお話ししたとおりです。私は何も知りません。あいつが最も懇意にしていた友人の名前はおろか、恋人がいたのかどうかも。バンド活動をしていたことは承知していても、CDを制作したことも知らなかった。他人同士も同然だったんです。離れて暮らしていても頻繁《ひんぱん》に連絡をとる親子もいるのでしょうが、われわれは違いました」
昭善は淡々と話した。捜査に非協力的なのではなく、警察が無駄に労力を費やすのを省こうとしているかのようだ。乾いた口調だった。
火村は手短に自分と私の素性を明かしてから尋ねる。
「便りがないのはよい便り、という親子の方が多数派でしょう。それとも、優嗣さんとの間で何か確執《かくしつ》でもあったんでしょうか?」
「さすがに立ち入ったことを訊かれるものですね」と昭善は皮肉っぽく言ってから「そういうわけではありません。単に、私たちが相手に無関心だっただけでしょう。私は五年前に妻を亡くしました。息子は十七歳だった。もともと私と息子との親子関係は希薄で、お互いに煙たがっているところすらありましたから、妻が死んで以降、同じ屋根の下で暮らしながら没交渉になっていったんです。私が若い愛人を作って朝帰りするのを白けた目で見ながら、優嗣は音楽にのめり込んでいきました。私は私で、目の覚めるような才能があるでもないのに音楽に没入する息子のことを、二流の男として見ていた気もします。それがあいつに伝わり、われわれの溝はますます深まっていったのでしょう。あいつが一浪してやっとこさ滑り込んだ大学も、決して私の眼鏡にかなうところではなかった。優嗣は優嗣で父親の人生について、愛人を囲える程度の高給だけが取り柄。つまらない仕事に一生を捧げた失敗作と軽蔑し、嗤《わら》っていたのだと思います」
気が滅入《めい》る。そこまで分析できているのなら、この父と子はもっと話し合うことができなかったのか? どうするべきか判っていたらできるというものでもないが。
「あいつが大学に入学すると同時に私が本社への転勤が決まり、大阪と東京で別れて暮らすことになりました。気詰まりな相手と離れられることに、父子ともほっとしたものです。距離を措いた方が関係が改善されるかもしれない、という期待も虚しく、私たちは漸次《ぜんじ》、疎遠になっていっただけだった。その果てがこの結末とは哀しいことです」
「優嗣さんと最後に連絡をとったのは、いつ頃ですか?」
火村の口調には感傷の欠けらもこもっていない。その方が昭善は救われるだろう。
「正月休みに三日ほどこちらに帰ってきて、それっきりです。電話の一本もかけ合っていません」
「仕送りを無心されるようなことは?」
「ありません。ここの管理費と光熱費、それから学費については私の口座からの引き落としになっていましたが、それ以外の生活費はすべてアルバイトで稼いでいたようです。好きでもない父親に小遣いまでせびることは自尊心が抵抗したでしょうし、バンド仲間の手前もあるので多少は苦労がしたかったんでしょう。何しろ、ロックンローラーですからね」
最後の言葉には、明らかに息子への揶揄《やゆ》が込められていた。
「正月に会った優嗣さんの印象はいかがでしたか?」
「相変わらず無愛想でした。私を避けるためか、昼間はずっと外出していましたし。それが当たり前なので、特に変わった様子もなかった。『最近どうだ?』『何もないよ』という貧しい会話ぐらいしかしていません」
「息子さんの部屋に入ったこともなかったのなら、何か変化があっても判りませんね。七ヵ月ぶりにこのマンションに帰ってきて、お気づきになったことはありませんか?」
「いいえ」と即答する。「細かなものが増えたり減ったりしているのでしょうけれど、答えられません。あいつの友人に尋ねてください。沢口さんにでも」
「沢口彩花さんについては──」
「バンド仲間で幼馴染みだったそうですが、私は今朝までお名前も知りませんでした。もちろん、死んだ妻ならそのお嬢さんをよく存じ上げていたんでしょうけれど」
昭善は右手をスーツのポケットに入れる。取り出したのは、一枚のCDだった。〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉のアルバムだ。ソラリゼーションを掛けて写したメンバーの写真がジャケットになっていて、『トラウマ市場』というタイトルが読めた。
「息子の部屋にありました。インディーズ……とは、どういう意味なんですか?」
その問いには、私が答える。大手のレコード会社と契約せずに自主制作したCDのことで、昨今、そうしたアルバムを足掛かりにメジャーになっていくバンドも多いのだ、と。父親は、何かを理解したように頷いた。
「アンダーグラウンド・シーンの音楽ということですね。こう見えても、私だって学生時代にはアングラ芝居の台本を書いたこともあるんです。『消えない蒙古斑《もうこはん》を持つ地母神の偉大な臀部《でんぶ》が一発の放屁《ほうひ》とともに覚醒《かくせい》する朝』という題名でした」
それはまた濃いタイトルだ。シュルレアリスム絵画の表題の下手なパロディのようである。父親は、それを生前の息子に話して笑われた方がよかったろうに……その機会は惜しくも永遠に失われてしまった。
昭善の許しを得て、私は優嗣の部屋を見せてもらう。これまでに行なったライブのチラシ──最近はフライヤーと呼ぶのか? ──で壁一つが埋めつくされていた。粗悪な紙にザラついたデザインのものばかりなので、部屋の印象はいたって陰気臭いが、大人が若者に投げ与える既製品を拒んでいる姿勢が窺えて、好もしく思う。
〈Yumeno Dogura Maguro〉
チラシには、そんな横文字の表記もあった。真っ赤な刷り文字のうちの大きなY・D・Mが浮かび上がって見える。それが〈Yのダイイング・メッセージ〉の略号に思えた。
その反対側の壁際にベッド。隅《すみ》にライティング・デスク。別の隅に音楽雑誌が詰まった本棚。窓の下にギターが二本立てかけてあった。一つはまだ新しそうなレス・ポール、もう一つはピック・ガードが傷だらけのフォークギターだ。後者は彼が生まれて初めて手にしたギターなのかもしれない。こざっぱりと片づいているのは、見苦しいものをすべてベッドの下に押し込んであるためらしい。けばけばしい表紙の雑誌が、床まで垂れたシーツの陰に何冊か覗いている。恋人でもないなら彩花がこの寝室に入ることはないはずだが、万一の場合、目に触れないようにしていたのだろう。
「机の抽斗《ひきだし》にあった手帳や郵便物のたぐいは、警察の方が捜査本部に持っていって目を通しているのだそうです」
父親はそう言って、ほとんど空っぽになった抽斗の一つを開けて見せ、すぐに閉じた。
「日記はなかったんですか?」
「なかったようですね。手帳は細々とした書き込みでいっぱいだったそうですが」
会話が途切れた。
私は壁一面のチラシを眺め渡す。会場は京阪神の小さなライブハウスがほとんどで、四人のメンバーのステージ写真をあしらったものも、ちらほらと混じっていた。フライングVを低めにかまえた山元優嗣は、意図的にか、つまらなさそうな顔で写っている。それがサマになっていた。顎が細く、繊細そうでいて癇《かん》が強そうなところは父親に似ていなくもない。
私は窓辺の二本のギターを見る。主を失った楽器は淋しそうだった。
5
用賀は、約束の時間に一分遅れてやってきただけなのに、「すみません、すみません」と派手なバンダナを巻いた頭をぺこぺこ下げた。サングラスに顎髭《あごひげ》という外見にあまり似合わない。
「昨夜も遅い時間に色々と伺ったのに、恐縮です」
鮫山警部補はそれに応えて丁重に言った。彼も浜本も、優嗣が殺害されたという報せを聞いて病院に駈けつけ、そこで昨夜のうちに警察からのヒアリングを受けていた。そこでひととおりのことは話しているのだ。
「そちらが火村先生と有栖川さんですか。初めまして」
そう言いながら、彼は名刺を取り出した。初アルバムの完成を機に、CDの紹介を刷り込んだものを作ったのだそうだ。もらった名刺には〈ユメノ・ドグラ・マグロ ドラマー 用賀明〉とあった。ルビが振ってあって、明は『めい』と読むらしい。フェイントの効《き》いた名前だ。
「あらためて聞きたいことがある、ということですが、何でも訊いてください。あ、場所を指定して申し訳ありませんでした。近所だと、変なことになりかねへんので。うちは母親が美容院をしているもんで、『あそこの息子さん、刑事から殺人事件のことで事情聴取されてたで』てな噂が流れたら商売に差し障《さわ》るんです。ただでさえ、『用賀さんとこの明君は、音楽にかぶれてフラフラしてる』と囁《ささや》かれてますから」
彼が指定した場所は、アメリカ村のはずれにある喫茶店だった。独りでぼけっとするのに愛用している店だとか。輸入レコード店と並んで雑居ビルの二階にあって狭苦しい。
「お母さん想いなんですね」
私が言うと、照れたように「いえいえ」と首を振る。
「母親はどうでもええんですけど、商売は大事にしてやらんと」
彼が注文したコーヒーがきてから、本題に移った。優嗣の人物評は、彩花から聞いたものとさして変わらない。気のいい男、敵を作りやすいタイプではなかった云々《うんぬん》。
「バンドの中で、彼はどんなポジションを占めていたんですか?」火村はキャメルをくわえる。「ギタリストという以外に」
「俺も吸っていいですか。──はぁ、ポジション。どう答えたらええんかな」
髭のドラマーはセブンスターの煙を天井に吹き上げた。
「浜本がリーダー格で、ほとんどの曲も書いていたんです。優嗣は、黙々とギターを弾いてました。バンドの方向性と彼が本当にやりたい音楽は微妙にズレてたみたいですけど、そんなことはどこでもありますからね。アルバムもできたし、満足してたんやないかと思います。──うちの音、聴いてもらえましたか?」
「まだです」との返事に、用賀は説明を始めた。
「メッセージ色の強い、暗めの曲が多いかな。浜本の趣味で文学的なのもある。売るのは難しい面もあるけど、悪くないですよ。浜本はいい声してるし、彩花ちゃんの高速キーボードはカッコいいし、曲と合ってなくても平気な優嗣のヘヴィーメタリック・ギターソロにもファンがついていた。リズムが狂いがちなドラムスをチェンジすれば、もうひと皮|剥《む》けるかもしれません」
「必ず聴かせていただきます。──他の三人は高校時代からバンドを組んでいて、そこにあなたが加わったのが今の〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉なんですね?」
「はい。楽器屋の伝言板でドラムスを募《つの》ってたので、それに俺から連絡をとったんです。仲よしグループに後から参加したので、ちょっと遠慮してますけど、居心地のいいバンドですよ」
「人間関係も円満で?」
「俺が酔って誰かにからまないかぎり」
タイミングを図っていたように、ここで鮫山が割り込む。
「その件について、昨日のお話では違うニュアンスのこともおっしゃっていましたね」
用賀は、何のことでしょう、という顔をしてとぼけたが、渋々と話しだした。
「昨日の夜は動揺していて、口が滑ったんですよ。優嗣と彩花ちゃんの関係を浜本が勘繰《かんぐ》ってて、勝手にやきもきしてる、という話のことですね? ああ、よけいなことを口走りました。忘れてください。三角関係でもめてたわけでもないんやし」
「沢口さんによると、優嗣さんとの間に恋愛感情はまったく介在していなかったそうです。それは事実とは異なるんですか?」
「彼女がそう言うんなら、事実なんでしょう。俺もそう思ってました。でも、浜本の目には違って映ってたみたいですよ。彩花ちゃんって面倒見がええし、家が優嗣んちの近所やもんで、晩飯の差し入れとかしてるでしょ。それを邪推《じゃすい》してるんです」
「誤解しているわけですか。それが原因で喧嘩《けんか》になったことは?」
「ありません」
「あなたが知るかぎりにおいては、ですね?」
ドラマーはサングラスをはずした。思っていた以上に落ち着いた理知的な顔になる。
「もちろん、そうです。ただし、どんな質問に対しても俺は自分が知る範囲のことしか答えられませんよ。俺が知るかぎり、優嗣の目玉は二つやったし、レッド・ツェッペリンのドラマーはジョン・ボーナムでした」
警部補の言葉尻を捉《つか》まえて怒っている。けっこう短気なところもあるようだ。しかし、鮫山はさらに彼にとって楽しくない質問を用意していた。
「昨日は宅配便の配送センターでアルバイトをしていたそうですね。摂津富田《せっつとんだ》のバイト先を出たのが夜の八時。それから梅田|界隈《かいわい》のゲームセンターで独りで遊んで、帰宅したのが十一時半。その間、知った人とは会っていない。そうでしたね?」
「ええ。昨日、病院で話したとおりです」
「優嗣さんと連絡をとったりもしていないんでしたね?」
「そうですよ」用賀は鼻白む。「電話で話してもいませんし、あいつのマンションに訪ねていってギターを振り回したりもしてません。アリバイがないって言いたいんでしょうけど、俺が優嗣を殺す動機として何を妄想してるのか聞かせてもらえますか?」
「報告の必要があって形式的に確かめているだけです。気にしないでください」
「気にしますって。──やれやれ、やなぁ。彩花ちゃんから聞きましたよ。優嗣は最期《さいご》に『やまもと』って言い残したんでしょ? それが犯人の名前やないんですか?」
「『やまもと』という名前に心当たりがあるんですか?」
「ありません。俺が身近に知ってる『やまもと』は優嗣だけでした。──あっ!」
急に大声を出したので、「どうしました?」と鮫山が身を乗り出す。
「優嗣の奴、死ぬ前になんで自分の名前を言い残したんやろうって不思議に思うてましたけど、もしかしたらその『やまもと』というのは、自分の肉親を指してるんやないですか? あいつの身内やったら、山元という人間はたくさんおったでしょう」
たくさんはいない。父親の山元昭善ぐらいだ。昭善が事件当時、本当に東京にいたことが確認できているのかどうか知らないが、推理としては論外だろう。
「どうですか、推理作家のセンセ。この推理の出来は?」
「無理がありすぎますね。肉親の誰かが犯人だとしたら、『親父』とか『神戸の叔父』とか『従兄《いとこ》の太郎』という言い方をするのが自然でしょう。ましてや、被害者は瀕死の状態で、できるだけ言葉を節約したがっていたはずですから、『やまもと』から始めるわけがない」
私はきっぱりと否定した。鮫山は別の興味を抱いたようだ。
「優嗣さんの肉親はお父さんだけです。理由があって彼を疑っているんですか?」
「いえいえ、あいつの親父さんがどんな人かなんて知りませんよ。大手の保険会社に勤めてて、東京で暮らしてる、と聞いたことがあるだけです」
「親父さんと自分の関係について、優嗣さんから聞いたことはありますか?」
これも鮫山の質問だ。
「二十歳も過ぎて、うちのお父ちゃんはどんな人、なんて話すこともありませんよ。あいつが親父さんについて語るのを聞いたことは一回だけです。『東京で好きに暮らしてる』とだけ」
「そうですか……」
警部補が黙ると、用賀は逆に尋ねてくる。
「彩花ちゃんに『やまもと』と言うただけでなく、あいつは壁に自分の血でYと書いたそうですね。そのYは、アルファベットで『やまもと』と書きかけたんでしょうか?」
鮫山は私たちを見た。犯罪学者と推理作家に意見があるなら拝聴したい、ということらしい。Yが『YAMAMOTO』のYだとは考えにくいのではないか。
「それはどうでしょう。沢口さんは優嗣さんが『やまもと』と言ったのを、しっかり聞き取っています。死の間際にあらためて同じことを横文字で書く必要はなかったわけです。何か別の言葉を遺そうとしたんやないでしょうか。それが何かは見当がつきませんけれど」
「『やまもと』と言ったのが彩花ちゃんに伝わったかどうか、優嗣は確信が持てんかったのかもしれませんよ。だから、文字で書こうとしたのかも」
その可能性を完全には否定はできない。火村の考えはどうなのだろう? 横目で様子を窺うと、助教授は人差し指で唇をなぞっていた。脳細胞をフル稼働させ、何かをまとめている時の癖だ。
「皆目《かいもく》判りません」
彼はそう答え、ドラマーは失望を顕《あら》わにした。しかし、それは嘘だろう。おそらく本当の答えはこうだ。
──今、ここでは言えない。
6
用賀が店を出て行くと、鮫山は都島署の捜査本部に電話を入れた。今しがたの会見について船曳警部に報告するためだ。私はぬるくなったコーヒーを飲みながら、火村に話しかける。
「どうやらエラリー・クイーンの『Yの悲劇』とこの事件とは無関係らしいけど、Yに縁が深い事件ではあるな。被害者のイニシャルが山元優嗣やからY・Y。彼が遺したダイイング・メッセージも壁に記したY。『やまもと』という意味不明の言葉もYで始まるし、凶器の形もY。ついでに、彼がいたバンド〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉のイニシャルもYか」
友人は黙ってキャメルをふかしている。
「壁のYは、何かを書きかけて中絶したものやから、意味が判らんのは仕方がない。奇妙なのは声で遺された『やまもと』というメッセージや。これはやはり、被害者が自分の名前を口にしただけなんやろうか?」
「そうかもしれない」
「あるいは、何か別の言葉やったのを、沢口彩花が聞き違えたのか?」
「とも考えられる」
「お。さっき人のことを『煮え切らない奴』と言ってくれたわりには、奥歯にものを挟んでしゃべるやないか」
「料理が本当に煮え切ってないんだから、仕方がないだろ」
このへらず口にとっさに切り返せないのが悔しい。少し考えてから、やっと言い返す。
「待ってたらその料理は煮えるのか? ガス焜炉《こんろ》のスイッチが入ってなかったりせんとええんやけどな」
「それは大丈夫だろう、多分」
それならこのへんで味見をさせろ、と言いかけたところで、鮫山の電話が終わった。彼は電話をしまいながら、
「失礼しました。これから会う浜本欣彦について警部から情報を仕入れていたものですから」
「浜本がどうかしたんですか?」と私。
「事件当時の彼のアリバイについて、裏をとろうとしていたんですよ。彼にとっては残念ながら、どうやら成立しないみたいです」
警察は彼を積極的に疑っているのだろうか?
「浜本欣彦が山元優嗣に対して抱いていた嫉妬心が犯行の動機だとお考えなんでしょうか?」
「それも考慮に入れています。もう一つは、例の『やまもと』です。あれは被害者が『はまもと』と言ったのを沢口彩花が聞き違えたのではないか、という説を唱える刑事がいるんですよ」
「それはないでしょう」私は苦笑してしまう。「『やまもと』と『はまもと』では確かに子音一つしか違っていませんけれど、イントネーションがまるで別物です。そりゃ、二つの抑揚が一致する地方もあるかもしれない。でも、被害者は大阪生まれの大阪育ちだったんでしょう? 聞いた沢口彩花も大阪の人間だった。そんな錯誤が生じるとは信じられません」
「私も有栖川さんのお考えに同感です」と警部補は認めながらも「しかし、被害者と交遊が深かった人間から洗っていくのは常道です。死に際のことですから、『やまもと』の抑揚が非情にいびつだったのかもしれませんしね」
苦しい仮説だ。しかし、鮫山はさらにこう続けた。
「ただ、『はまもと』説を採用すると筋が通ることもある。壁に書かれた血文字のYに説明がつきやすくなるんです」
つまり、こういうことか。優嗣は「浜本欣彦にやられた」と言おうとしたのだが、それがうまく彩花に伝わらなかった。彼女には「やまもと」としか聞こえなかったようだ。そうではない、と言いたいのに声が出ない。そこで、彼は人差し指に血をなすりつけて、壁に『YOSHIHIKO』と記そうとした──
私は火村に顔を向けた。
「もしかして、火村先生の推理も『はまもと』説なのか?」
「だったら、有栖川センセに軽蔑されるんだろうな」
ああ、されるとも。臨床犯罪学者という看板──私が与えたものだが──も下ろしてもらわなくてはなるまい。
「大きく譲歩して『やまもと』は『はまもと』の聞き違えだった、という仮説を認めたとしても、壁のYの解釈に納得がいかん。犯人は浜本欣彦である、と伝えたいんやったら、他に書き方がいくらでもあるやないか。平仮名の『は』、片仮名の『ハ』、あるいは漢字の『浜』と書くのが自然で合理的や。ギヴン・ネームの『よしひこ』と書くにしても、わざわざアルファベットで表記するのは不合理すぎる」
「お前の言う通りだ」
助教授は力強く頷いた。どうやら『はまもと』説は脳裏になかったようである。ならばよい。私はとりあえず、はずしかけた看板をもとに戻した。
では、お前はどんな仮説を構築しつつあるのか、と質《ただ》したかったのだが、鮫山に遮られた。そろそろ浜本との会見場所へ移動しなくてはならない、と言って伝票を手にするので、やむなく私も腰を上げた。冷房の効いた店から出ると、先ほどまでより湿度が上がったようで、むっと暑かった。
七月初めの日は長い。六時が近いのに、太陽はまだ見上げるほど高いところで輝いている。若者文化が充溢《じゅういつ》したカラフルな通りを行く女の子たちは、すでに大胆に肌を露出させていた。あちらの店、こちらの店から流れてくる音楽が路上で入り混じる。音楽を掻《か》き分けるようにして、私たちは浜本と待ち合わせている次の店へと急いだ。先ほどの喫茶店で用賀と一緒に話を聞くこともできたのに、あえてそうしなかったのだ。
〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉のリーダーが指定したのは、無国籍料理を売り物にしたレストランの階上にある喫茶店だった。こちらは狭いだけでなく、洞窟のように薄暗い。先ほどの喫茶店よりはるかに癖の強い店だ。壁にはシヴァ神を描いたタペストリーが掛かり、店内には香とシタールの音色が漂っていた。ぴっちりとタイトなTシャツを着た金髪の男が、隅の窓際の席に座っていた。白濁した飲み物をストローで啜《すす》っている。優嗣の部屋に貼ってあったチラシで見覚えがあった。目が合うと、鮫山が「どうも」と片手を上げる。
「用賀さんと話したところなんでしょう? 彼から電話がありました」
浜本は挨拶抜きでそう切り出した。テーブルのグラスの傍らには携帯が置いてある。
「お互いの腹の中を探ったり、告げ口がしやすいように、僕らを分けて聞き取りということですね。隠すことなんかないのに。刑事さんたちとどんなお話をしたかは、全部教えてもらいました。彩花からも電話がありました。そちらが犯罪学者の先生で、こちらが推理作家さんですね?」
彼は正しく指摘した。
「告げ口を期待しているわけではありません。プライバシーに関係するので仲間の耳には入れたくない、というお話もあろうかと配慮しただけです」
鮫山は紳士的な口調で言ったが、相手が納得したかは怪しかった。私たちがメニューからめいめい冷たい飲み物を注文するのを待って、浜本は質問をぶつけてきた。
「皆さんは本気で僕を疑っているんですか? 何度も話を聞きたがるし、バイト先にも刑事さんが聞き込みにきたそうだし」
他のメンバーから何度も話を聞いているし、バイト先に刑事が出向いたのは捜査の必要上やむを得ないことなのだ、と警部補は説明した。それでも浜本の緊張はほぐれないようで、腕組みをしたまま尻をもぞもぞと動かし、何度も座り直す。そのたびに、喉仏《のどぼとけ》の下でチョーカーが揺れた。眉が上がった精悍《せいかん》な顔つきをしているわりには、神経質なのだろう。
「刑事さんたちにいらぬ告げ口をした、と用賀さんが気に病《や》んでいましたよ。僕と優嗣の間でトラブルがあったなんて誤解しているのなら、すぐに頭から振り払ってください。うちのメンバーはうまくいっていたんだ。アルバムもできたし、これから力を合わせて伸《の》し上がっていこう、というところだったんです」
鮫山は、ひとまず相手の言うことに理解を示してみせる。なるほど、それはよく判る。その上で、しかし、と続ける。捜査官として、関係者のアリバイはすべて検証しておかなくてはならない。そういう因果な商売なのだ、と笑ってみせた。
「まあ、いいでしょう」浜本もつられて笑い「それで、僕のアリバイはどうでした? 見事に成立ですよね?」
余裕をみせかけた彼だが、鮫山の答えを聞いて「まさか」と再び気色《けしき》ばんだ。
「アリバイは認められないって、そんな馬鹿なことがあるもんですか。僕は独りで部屋にこもっていたんじゃないんですよ。心斎橋の雑踏の中にいた。そこでせっせとティッシュを配っていたんだから、千人単位の人間とすれ違っている。僕が五時から十時半まで心斎橋にいたことは確認できたでしょう。優嗣のマンションで十時前にあいつを殺すなんて、不可能だった」
「それが、調べたところ、どうもうまくないんです。あなたは大勢の人間と接触しすぎたようです」
「……どういうことです?」
浜本は剣を象《かたど》ったチョーカーをいじっている。
「何千人とすれ違おうが、何百人にティッシュを手渡そうが、みんな赤の他人のあなたのことなんか記憶していない、ということですよ。あなただって、そうでしょう? 鳩《はと》の群れにパン屑を撒《ま》いていたのも同然で、どこの誰と会ったのか、証言できっこない」
「それは判っていますよ」と浜本は認める。「千人単位の人間と言ったのは言葉の綾《あや》です。でも、僕があの時間にソニータワーの半径五十メートル以内でティッシュを配っていたことは、バイト先のマネージャーが知っているはずだ。僕らがちゃんと仕事をしているかをチェックするため、三十分から一時間おきに巡回していますから」
鮫山は首を振った。
「男性用と女性用をきちんと分けて配布しているか、一人に一個ずつ手渡すというルールを遵守《じゅんしゅ》しているか、をチェックして回ることになっているんだそうですね。それを破ったら馘《くび》だ、とあなたたちは契約時に釘を刺されている。しかし、それは建前《たてまえ》だったようですよ。あの日、あなたの雇い主であるテレホンクラブのマネージャーは、一度もアルバイトの勤務態度をチェックしていない。私たちが確認できたのは、あなたが昨日の午後五時に前のアルバイトからティッシュ配布を引き継ぎ、十時半に配りきれなかった分を台車に積んで事務所に帰ってきた、という事実だけです。つまり、アリバイは成立しないことになる」
浜本は、金色に染めた頭髪をぽりぽりと掻き乱した。
「どんな甘い捜査をしているんでしょうね、警察は。マネージャーが巡回をさぼっていたんだとしても、僕が汗水たらして働いていた姿を目撃した人間はいくらでも探し出せるじゃないですか。たとえば、付近で同じようにティッシュやチラシを撒いていたアルバイトや、近くの店の店員だとか。そういったところまで調べてくれましたか?」
「はい。残念ながら、結果はあなたが望むものではありません。金髪の若い男性がティッシュを配っていたような気がするが、という証言しか得られませんでした。顔なんか覚えていない、そもそも顔を見ていない、という証人ばかりで。ビルの陰にティッシュの箱をのせた台車が長時間にわたって放置されていた、という話なら聞きました。あなたにとって、有利な証言ではありませんね」
浜本は大いに失望したように見受けられた。しかし、すぐに口の端を曲げてにやりと笑う。
「そうかそうか。ティッシャーなんて、透明人間も同じということか。いくらド派手な金髪にしていたって、そんなものはロック野郎の制服みたいなもんだし。いい題材をもらったな。『見えないアリバイ』とかいういい曲が書けそうだ。うちのバンドっぽくていい。どうです、転んでもただでは起きないでしょう?」
「さすがはソングライターですね」
私がおだてると、うれしそうだ。
「不愉快な経験をしても、それがネタにできる仕事って、いいですよね。小説家もそうでしょう?」
「ええ、まぁ」
好んで不愉快な経験をしたくはないが。
「僕らの曲、聴いてもらえました? 夢野久作からバンド名を採ったわりには、少しも夢野っぽくないけれど」
「やっぱり『ドグラ・マグラ』からきているんですね?」
「当たり前ですよ。うちのロックが目指しているのは脳味噌がでんぐり返りするような切支丹伴天連《キリシタンバテレン》の幻魔術です。……って、僕が回転寿司屋で鮪《まぐろ》をつまみながら思いついた名前だから、いいかげん極まりないですけれどね。──どんな音楽をやってるか聴いてもらえましたか? まだ? それじゃ、これを差し上げます」
彼は足許に置いていた紙袋をまさぐって、カセットテープを取り出した。レーベルに『MONK』と書いてある。ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクのことか? まさかマシュー・グレゴリー・ルイスのゴシック小説から採っているのではあるまいな、と思ったらそちらが半分正解だった。
「ぶつぶつ文句をたれる、の文句です。M・G・ルイスの小説の破戒僧《マンク》と掛けてあります。デモ用テープなんで一曲しか入っていませんが、宅録のわりにいい音質ですよ」
「読書家なんですね」
「体育会系のミュージシャンにはなりたくないもので。日本人は、すぐそうなるでしょ。感じたことだけを歌にして喜んでいる。イギリスなんかじゃアイアン・メイデンがコールリッジの『老水夫行』をそのまんまヘヴィー・メタルにしたりするのに。歌がそこそこうまいとか、それらしく作曲ができるというだけで、知性は人並み以下の奴が創る音楽って、くだらないと評する以前に、存在として不潔ですよ」
自分たちのバンドを〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉と命名するセンスはいいのか、と皮肉ってみたくなったが、雑談に流れてはいけない。私は礼を言ってカセットをポケットにしまう。彼が自分の音楽に絶大な自信を有していることだけは判った。
「〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉というバンドは浜本さんを中心に回っていたんですか?」
この訊き方は、彼のお気に召さなかった。
「僕が一人で好き勝手やっていたバンドじゃない。チームワークのいい、バランスのとれたバンドだったんです。僕だけが曲を書いていたのでもありません。優嗣の曲もライブでしょっちゅう演奏していました。中にはいいのもあったけれど……」
「あまり受けなかったんですか?」
「というよりも、彼自身が満足していなかったというべきかな。どれかアルバムに収録しようと思っていたら、あいつがノーと言った。『俺の曲が入ると温《ぬる》くなるからやめよう』って。そのへん自分に妥協せず、厳しくて、『俺の歌には欠けているものがある』と言い切っていた」
謙虚なロックンローラーだ。火村が突っ込む。
「何が欠けている、と彼は考えていたんでしょう?」
「色々なものが足りないと感じていたみたいです。『人間に対する悪意が弱い』とカッコつけてたこともある。『他人の悪意を受けとめたことがない』なんて、気障《きざ》なことも言っていましたね。そんなことより、もっとエフェクターを器用に使いこなせるようになって欲しかったのに」
彼は淋しそうに目を伏せてから、すっと顔を上げて私たちを端から順に見る。
「こんなことを言っても犯人の白々しい演技だと思われるのかもしれませんが、僕は昨日からめげています。『素敵な女性からの電話が鳴りっぱなし』てなアホ丸出しの広告を配っている間に大事な友人が殺された、と思うと悲しいよりも腹が立つ」
それから、鮫山に焦点を合わせて強い調子で訴えた。
「あいつを殺した犯人を必ず捕まえてくださいよ。もたもたしてると、警察侮辱的な歌を書いてメガヒットさせてみせる」
浜本との会見は、あまり収穫のないままに──私にはそう感じた──終わった。先に店を出た彼が大股に去っていくのを、窓から見送る。鮫山が、何故かこくりと頷いた。
「とりあえず浜本を張ってるんですよ」
「……張っている?」
「あそこに森下がいます」
通りに視線を戻すと、バックプリントのTシャツにジーンズの若い男がどこからか現われ、浜本の後をつけて歩きだしていた。言われてみると、それは鮫山の部下の森下刑事の後ろ姿のようだ。いつもアルマーニのスーツで決め込んでいる彼だが、今はアメリカ村に溶け込んでいる。この近くで、適当なTシャツを調達して着替えたのかもしれない。
「しかし……ええんですかね、大阪府警の刑事があれで」
背中にプリントされているのは、赤・黄・緑のラスターカラーに塗り分けられたマリファナの葉だった。
7
薄暗い店を出た私たちは、火村の希望で現場に戻ることになった。地下鉄を長堀鶴見緑地《ながほりつるみりょくち》線、谷町《たにまち》線と乗り継いで都島駅まできたところで、助教授は「沢口彩花に確認したいことがある」と言い出した。何か聞き洩らしたことがあるらしい。もう七時をとうに過ぎ、初夏の日も暮れなずんでいた。
留守でなければいいが、と思いながら訪ねると、彩花は店番をしていた。母親は夕食の支度をしているらしい。
「何か判ったんですか?」
私たちの顔を見るなり、彼女は身を乗り出した。
「いいえ。そうではなく、あなたに訊き忘れていたことがあったんです。一つだけ答えてください」
火村は手帳を取り出して、白紙のページを開く。
「優嗣さんは意識を失う直前、壁にYと書き記したんですよね。その時、血のついた彼の指がどう動いたのか正確に思い出して欲しいんです」
彩花は手帳とペンを受け取りながら、「はぁ」と頼りない声を出す。
「私が確かめたいのは、彼が書こうとしていたのが本当にアルファベットのYなのかどうか、ということです。そこの判断を誤ると、捜査方針に狂いが生じかねませんので。彼がどのようにYらしきものを書いたのか、忠実に再現してください」
彼女は「はぁ」ともう一度言ってから、ペンを手にしたまま五秒ほど考え込んだ。
「こう……ですね」
まず縦に棒を引く。それからV。
不自然だ、と私は瞬時に思った。
「Yという字を書く時、そんな書き方をするかな。書き順がおかしい。どうです、鮫山さん?」
自分の掌に大きくYの字を書いてから、警部補は「書きませんね」と私に同意してくれた。
アルファベットには正式な書き順などない、と聞いたことがある。だから、Yをどのように書いても人の勝手ではあるけれど、最初に縦の棒を下ろして、後からその上にVをくっつけるというのは異例なのではあるまいか。あり得ない、とまで断言はしないが。
「その時は何とも感じませんでしたけれど、こういう書き方って普通はしませんね」
彩花も訝しんでいる。
これはYではない。彼の手許《てもと》が狂って、偶然にYの形になってしまっただけなのだ──おそらく。
そうだと仮定しよう。では、彼は本当は何を書き記したかったのか? ローマ数字のWやYと書いたつもりだったのかもしれないし、Mと書きかけたのかもしれない。Nがずれて歪《ゆが》んだ可能性もあれば、はたまたIとVの二文字だったとも考えられる。もちろん、数字やアルファベットとはかぎらない。平仮名や片仮名、漢字の何かを書きたかったのが、とんでもなく崩れてしまったのかも。
「Yでないとしたら何だったのか、確かめることは不可能やな」
それが私の結論だった。火村は、また人差し指で唇をひと撫《な》でする。そして、手帳とペンを彩花の手から取った。
「どうもありがとう。参考になりました」
沢口洋品店を出て現場マンションに向かいながら、私はまっすぐ前を見て歩く火村に話しかけた。
「壁のダイイング・メッセージ解読は絶望的やな。どんなふうに歪《ゆが》んだ可能性もあるわけやから。ややこしい漢字のごく一部だったのかもしれんし、ひょっとすると変な書き順で書いたYだった、という可能性も残る。本当はどうだったのかは、死んだ山元優嗣にしか判らんことや」
これに対する火村の返事は短かった。
「そうかな」
解けるというのか? 馬鹿な。私は反論せずにはいられなかった。
「無理や。ぐちゃぐちゃに歪んだ文字かもしれんのやぞ。いや、文字である保証すらない。あれは絵やったのかも。可能性は無限にある。そこから唯一の正解を導く方法があるわけがない」
「可能性が無限にあるとは思っていない」
相変わらず、彼はまっすぐ前を見据《みす》えたままだった。前方に〈グランカーサ都島〉が見えてくる。ほとんどの窓に明かりが灯っていた。
「鮫山さん」
火村は不意に警部補に向き直る。
「現場の下の部屋の山崎さんとやらに、話を伺いたいんです。凶器のギターが床に落ちた時の音を再現してその聞こえ方を確かめてもらおう、と船曳警部がおっしゃっていましたね。あれをお願いしたい」
鮫山は了解した。
「山崎氏がお留守でなければいいんですけれどね。株で食べている、と豪語している人です。家で仕事をしているということでしたから、ご在宅だと思うんですが」
四階に上がり、504号室の前に立つ。山崎洋二と書かれた表札の下のチャイムを鳴らす前に、火村は私にこう言った。
「いいか、アリス。思いがけないことがあっても、顔に出すな」
「……何が起きるって言うんや?」
「それは楽しみにしてな。何も起きないかもしれない」
ひどく気になったが、問い質している間はなかった。火村がチャイムのボタンを押し、すぐに「はい」という返事がインターホンから返ってきたからだ。助教授は、鮫山に応えてもらう。
「昼間、お伺いした警察の鮫山です。今、ちょっとよろしいでしょうか? お時間はとらせませんので」
ドアが開いた。顔を出したのは、黒いジャージの上下を着た三十代前半ぐらいの男だった。不精髭《ぶしょうひげ》が伸び、頭髪はぼさぼさだ。終日、パソコンを相手に株取引をしていて、身形《みなり》に気を遣わないのかもしれない。ついでに血色も悪い。
「お食事中ではなかったですか?」と警部補が言うと、ジャージの男は「いえ」と答えた。
「それならよかった。実は、昼間お話しした実験をしたいんです。これから上の部屋で犯行の様子を再現するので、昨夜の物音と比べてどうかを聴いてみてくださいますか? それで、もしも違った点があれば教えて欲しいんです。五、六分ですみますので。──それから、こちらは犯罪社会学を専門になさっている火村先生と有栖川さんといいます。このおふた方も実験に立ち合っていただきたいんです。かまいませんか?」
「はぁ……はい、いいですよ」
ドアが大きく開いた。鮫山は腰を折って礼を述べた。
「では、私は上の部屋に参ります。今から五分後にある音をたてますので、注意して聴いていてください」
警部補は階段で五階に上がっていった。504号室の主は無表情のまま「どうぞ」と私たちを招き入れてくれる。リビングのテーブルやソファの周辺に、新聞や経済雑誌が乱雑にちらばっていた。どの雑誌にも、たくさん付箋がついている。本当に投資で飯を食っているらしい。
「儲《もう》かっていますか?」
私はつまらない質問をする。投資家は「そこそこは」と微笑した。うまくやっているらしい。
「階上で音がした時、私は奥の六畳間にいたんです。実験なら、そこにいた方がいいですね」
「そうですね」と私が応える。火村は何故か、じっと投資家の横顔を見つめていた。おかしな奴だ。彼の頬に何かついているわけでもないのに。
机上にパソコンが二台並んだ六畳間に入り、鮫山の実験を待つ。楽器を粗末に扱って心苦しいが、優嗣の部屋にあったレス・ポールのギターを床に投げ落としてみることになっていた。
「もうそろそろですね」
腕時計を一瞥《いちべつ》してそう言った時、火村が「あのぅ、失礼ですが」と声をかけた。
「はい、何でしょう?」
「どこかでお目にかかっていませんか?」
「私と先生が……ですか?」
火村は頷く。それは奇遇だ。だから彼の顔をしげしげと見ていたのか。
「大学の先生に知り合いはいないんですけれどね。はて、どこでお会いしたんでしょうか?」
「それを度忘れしてしまって……。『やまもと』さんですよね?」
「あ、はい、そうです」
私は右手で口をふさいだ。驚きの声を圧《お》し殺すために。
8
それから三日後。
捜査本部は、504号室の住人を山元優嗣殺害事件の犯人として逮捕した。被疑者が全面自供したのが拘留二日目である。当局は拘留期間を延長してさらなる取り調べを行なったが、明確な殺意の立証は困難であると判断。かくして、『やまもと』は傷害致死容疑で送検された。
9
練習スタジオの厚くて重い防音扉を押し開けて入ると、浜本欣彦と用賀明がベースとドラムスの掛け合いをやっていた。床に座ってペットボトルのコーラを飲んでいた沢口彩花が、私たちに最初に気づいてぴょこんと立ち上がる。
「よくいらしてくださいました、先生方。お忙しい中、ありがとうございます」
火村は、気にするな、と言うように首を振って、砕けた調子で言う。
「夏休み中だから、そんなに忙しくないんだ。こっちの小説家はいつも夏休みみたいなもんだし」
大きなお世話だ。事実だとしても、他人に言われたくはない。
「お呼び立てして、すみません」
「ご無理を言いました」
浜本と用賀が演奏の手を止め、私たちの方にやってくる。用賀はサングラスをはずして、胸ポケットにしまった。
「昨日が四十九日でした。早いものです」彩花がしんみりと言う。「優嗣君がいなくなった、という実感がまだ湧《わ》かないんですけれど……。ただ、犯人がすぐに捕まったことだけは、せめてもの救いです」
「火村先生と有栖川さんのおかげです」
浜本がパイプ椅子を両手に提《さ》げてきて、私たちに勧めてくれた。バンドの面々も椅子に掛ける。
「犯人は完全に自白したんですよね。裁判になったら証言を覆したりせえへんやろか、と心配しているんですが」
スティックを手にしたドラマーはそれだけが気懸かりだと言う。
「大丈夫だよ」と火村は請け合う。「犯人の供述には確かな一貫性があるし、優嗣さんの爪の間に残存していた繊維は『やまもと』のジャージのものと一致した。また、優嗣さんを殴打した直後の興奮からか、犯人は鼻血を流したことを自供していて、その血痕を拭《ぬぐ》った痕跡も供述どおりの場所で検出されている。さらに、事件の原因となった〈配達物〉の包みには、ちゃんと優嗣さんの指紋が遺っていた。今さらじたばたしても、無駄な抵抗というもんだ」
「そう聞いて安心しました。あとは厳しい裁きを希望するだけです。それで優嗣君が帰ってくるわけでもないけど……」
「もう少し元気出せよ、彩花ちゃん」浜本が肩に手を置く。「今日はガンガン弾きまくるところを火村先生たちに聴いてもらうんだろう? 優嗣の追悼セッションなんだから、情けない音を出されちゃ困る」
今日を最後に、この三人で演奏することはなくなるのだそうだ。これからどのように音楽を続けていくのか決めていないままで。火村と私は、その記念すべきステージにご招待されたわけだ。
「それにしても、ひどい話やな。宅配便の誤配が原因であんなことになったやなんて。もし優嗣が、『なんや、こんなもん。知るかい』と不親切に棄《す》ててしまいでもしてたら、殺されることはなかったのに」
そう言う用賀と違って、彩花は優嗣にも腹を立てている。
「『お宅の荷物が間違ってうちに届きました』と親切に持って行くだけやったら、何も起きへんかったんでしょう。彼も悪い。自分当ての宅配便やと思って開けてしもうたまでは仕方がないけど、それがヤバイものやと知って、あんなこと……」
山元優嗣の許に誤って配達された荷物。住所等はすべてローマ字で表記されており、送り主の名前はなかった。誰からだろう、と開けてみると、中身はビニールパックされた白い粉末だ。これは何なのだ、と不審に思った優嗣はあらためて宛名を見ると、そこには『Yoji Yamamoto』とあった。自分の姓名とよく似ている。住所の最後が504となっているのを見て、やっとピンときた。〈グランカーサ都島〉の部屋番号は、縁起を担《かつ》いで変則的なつけ方になっていて、4で始まる部屋がなかった。だから、五階にある彼の部屋が604号であり、その真下の部屋が504号になっている。この荷物は、真下の部屋の住人に宛られたものなのだろう、と彼は推察した。そして、504号室の下りて行ってみると、表札には『山崎洋二』とあった。『Yoji』は合っている。『Yamamoto』は『Yamazaki』の誤記なんだな、と思ったことだろう。
「好奇心が災いしたな」用賀が残念がる。「この白い粉は麻薬なんやないか、と怪しんで、サンプルをくすねたのがまずかった」
ビニールパックの内容物は純度の高いヘロインだった。送り主は東京在住のアメリカ人の某。株だけでは食べていけない504号室の住人は、インターネットで知り合った某からヘロインを購入し、自分も用いながら転売して稼いでいた。
「高価なクスリをくすねたりしたら、少量でもすぐにばれるわ。それで犯人は、秘密が露見するんやないか、と恐れたんや」
浜本の見方は少し異なる。
「犯人は、『山元優嗣に脅迫されていた。そのことについて彼の部屋で話し合っているうちに激高してしまい、近くにあったギターで思わず殴った』と供述しているだろ? 僕は、あれは苦しまぎれの言い逃れでもないんじゃないか、と思っている。優嗣は本当に脅しめいたことを言ったのかもしれない」
「どうして優嗣君がそんな卑劣なことをするって思うの? 軽はずみなことは言わんといて。彼の名誉に関わることやよ」
むくれる彩花を、浜本はなだめる。
「怒らないでくれ。優嗣を侮辱するつもりはないんだ。小遣い稼ぎを目的に恐喝をしてた、とは考えていない。もしかしたら、あいつは自分の中の〈悪意〉を発動させてみたかったのでは、と想像しているだけなんだ。ほら、優嗣、言ってただろ。『人に本気で悪意をぶつけたり、ぶつけられた経験がないから詞が書けないのかもしれない』とか」
「まさか、そんなことで優嗣君が……」
「穿《うが》ちすぎやで、浜本」
彩花と用賀は、その想像を否定した。私には何とも言えない。火村も黙って聞いているだけだった。
「まぁ、いいや」と浜本はその話を打ち切って「それにしても、『山崎』と書いて『やまもと』と読む、なんて苗字があるとは知らなかった。日本人の名前は奥が深いね」
私にとっても驚きだった。山元優嗣と山崎洋二の出会いの情景が目に浮かぶ。
──604号室の者です。荷物が間違って届いたみたいなんですけれど、こちらでいいんでしょうか? 504号室の『Yoji Yamamoto』宛てになっているんですけれども。
──それなら私です。山崎と書いて『やまもと』と読むんです。
──えっ、そんな読み方があったんですか? 私も『やまもと』という名前なんですけれど、初耳です。
私はものの本で調べた結果を話す。
「『やまもと』というのは山の麓《ふもと》という意味で、『やまざき』は山の先っぽを指す。ですから対照的なようですけれど、見方を変えれば同じ意味になるんやそうです。視点を転じれば、人間にとっての山の頂上は神様にとって山の麓になります。それで、山崎を『やまもと』と読むんやそうです」
仮説なのかもしれない。これが正しいのだとしたら、平安神宮にある〈右近の橘《たちばな》〉と〈左近の桜〉のようなものか。あれは神殿から見ての右、左である。
「山崎と書いて『やまもと』と読む、という苗字が存在するのは判りました。せやけど、山崎洋二は『やまざき』としてみんなに認知されてたそうやないですか。刑事が聞き込みに行った時も『やまざきさんですか?』『はい、そうです』と応対してたんでしょ。山崎の本当の読み方を隠し通せると思うてたんですか?」
用賀の疑問に火村が答える。
「隠し通すつもりなんか、彼にはまるでなかったのさ。だって、優嗣さんが『やまもと』と言い残して死んだことを、犯人は知らなかったんだよ。俺の苗字の本当の読み方を刑事に知られてはいけない、と考えるわけがない」
「それやったら、なんで『やまざき』と読むふりをしていたんでしょう?」
「面倒だったからさ」
「はぁ?」
スティックを玩《もてあそ》んでいた用賀の手がぴたりと止まる。
「面倒だから『やまざき』で通していたんだ。本人がそう言っている」
「面倒だったからって……大事な大事な自分の苗字ですよ? 『やまもとと読んでください』とアピールするのが当然やないですか?」
「君はそうしているんだね?」
「は? ……ああ、そうですよ。『あきら』やなしに『めい』と読んでくれ、と自己紹介の度に必ず言います。フェイントの効いた名前には、宿命的にそういう面倒臭さが付きまといます」
「『めい』はまだいい。しかし、山崎を『やまもと』と読むというのは、フェイントの次元が違うだろう。出会った人間はその読み方を確認しようともせず、百人が百人とも『やまざき』と読む。生涯にわたって訂正を求め続けるより、いっそ『やまざき』で通した方が面倒がなくていい、と思いもするよ」
ある作家の言葉を思い出す。ペンネームの由来を説明すると長くなるから本名だと言って通そうか、というぼやき。
「でも、宅配便に『Yoji Yamamoto』と書いてあったということは、ヘロインのやりとりをしていたアメリカ人には『やまもと』と律儀《りちぎ》に名乗っていたんですね。そっちこそ、偽名でよさそうなものなのに」
浜本が訝る。
「麻薬の売買の決算をクレジットカードでやっていたんだ。だから、彼は本名を名乗らざるを得なかったのさ。──納得したかい?」
相手が頷いたので、火村は話を進める。
「山崎洋二は、優嗣さんがダイイング・メッセージを遺したことを知っていて『やまざき』のふりをしたわけじゃない。だから、私が面識のあるふりをして『やまもとさんですよね?』と呼びかけた時、『はい、そうです』と素直に返事をしたんだ。『おや、この火村という男は自分の名前を正確に知っているぞ。どこかできちんと挨拶をした人間なのかもしれない』と思って」
「『はい、そうです』という答えが返ってきた時は、やった、と思ったでしょう。でも、その後の会話はどうしたんですか?」
用賀の疑問はもっともだ。
「そりゃ続けようがないから、適当にごまかしたよ。学生時代に旅先で会わなかったか、とか言ってね。もちろん彼は否定したけれど、『そんなに似ていましたか。苗字まで同じだとしたら、遠い親戚かもしれませんね』と笑っておしまいだった」
「それにしても」彩花が感服したように「火村先生って、すごいですね。山崎と書いて『やまもと』と読む変わった苗字がある、なんてことまでご存じやったんですから」
「いや、そんなことは知らなかったよ。はったりで訊いただけさ」
火村は、にやりと笑う。
「はったり……ですか。それでもすごい、と思います。もしかしたら、山崎を『やまもと』と読むのかもしれない、やなんて私はとても想像できません」
「そうじゃない。私が想像したのは、504号室の山崎氏には、『やまもと』という別名があるのかもしれない、ということだけだよ。かつて芸能界にいたとか、ささやかに文筆業を営《いとな》んでいるとかいう可能性もなくはないだろう」
彩花は、そう聞いても合点がいかないらしい。もどかしげに両肩を揺すりながら、なおも尋ねた。
「でもでも不思議です。どうして火村先生は、504号室の人間に疑いの目を向けたんですか? 隣りの部屋や704号室の人が『やまもと』という別名を持っているかもしれないやないですか。真下の部屋の人間が怪しい、と疑った根拠を聞かせてください」
用賀と浜本も、同感だと言うように頷いている。火村はゆっくりと脚を組んだ。
「それは優嗣さんが教えてくれたんだよ。壁に血で書いた、あのダイイング・メッセージでね」
「判りませんねぇ」浜本が唇を尖らせる。「Yが、どうして504号室を指すんですか?」
「あれはYじゃないよ」
「判りません」と彩花も言う。「彼がどういう書き順であれを書いたのかについて、先生はこだわっていましたね。そのおかげで、縦の棒の後にVを書いたものだった、と私は思い出しました。縦の棒とV。それで、どうして山崎洋二が浮かび上がるんです。判りません」
「判りますよ」
私は思わず呟いていた。三人が、揃ってこちらを見る。
「ああ、いや。皆さんが怪訝に思うのが判る、ということ。瀕死の優嗣さんが書いた意味不明のメッセージをどうやったら解読できるのか、私も理解に苦しんだ。何を書こうとして歪んだのか、解けるはずがないと思って。やっぱりYのつもりで書いた可能性もあるしね」
「あれはね、文字でも絵でもなく、記号だった。下向きの矢印だったのさ。矢印を描こうとし、手許が狂ったわけだ」
火村は虚空《こくう》に↓と描いてみせた。納得した顔は一つもない。声に出して反問したのは浜本だ。
「つまり、真下の部屋の奴にやられた、という意味ですか。結果はそうだったわけですが……Yらしきものを見て、これは下向きの矢印だ、と推定できるものですか? 別の解釈が無限にできそうに思いますけれど」
「たとえば、ローマ数字のYだとか、アルファベットのMの書きかけだとか」
私が考えたのと同じようなことを彩花が言う。
「違うね。YでもMでもNでもない。そういった可能性はない、きっと矢印だ、と私は考えた。どうしてかって? それはね、優嗣さんが壁に描いたからだよ」
聴衆の反応が鈍いので、火村は人差し指を立てて続けた。
「いいかい、床に倒れ込んだ彼は最後の力を振り絞り、指に血をなすりつけて沢口さんに何ごとかを伝えようとしたんだよ。矢印の一つもまともに描けない状態だった彼が、何故に理由もなく壁にメッセージを描く? 苦しかったろうに。右腕を持ち上げる労力を使ったりせず、床に描けばよかったじゃないか」
「つまり、ダイイング・メッセージをわざわざ壁に描いたのは……」
浜本は大きく目を見開いた。
「そう。垂直の方向性を表現する必要があったからだ。それ以外の必然性が考えられるかい? だから、あれははっきりと下を指し示した矢印なんだよ」
「でも、先生」ベーシストは頭を掻きながら「彩花ちゃんの証言によると、優嗣はYに続けてまだ何か書こうとしていたらしいじゃないですか。それは──」
「それが何なのかは誰にも判らない。私が想像するに、手許が狂って矢印がYになってしまったことに気づいて、書き直そうとしたんだろう」
「ふぅん、それはそうかもしれませんが」用賀が何か言いたそうだ。「真下の部屋の奴にやられた、と伝えたかったんやったら、床に『504号』とでも書いてくれた方がよかったのに」
「その方がありがたかったね。しかし、形式論理的になるが、『504号』と書こうとするのはリスクが大きい。彼にはほとんど余力がなかった。もしもメッセージが不完全な形になり、『5』や『50』としか書けなかった場合、意味はまったく伝わらなくなるだろ。彼は、そんな事態を回避したかったのかもしれない。最も簡便なメッセージは、下向きの矢印だ」
「あのぅ、もしかしたら……」彩花が口許を手で覆いながら「優嗣君がギターを指差したのは、これで殴られた、ということじゃなくて……」
助教授は頷く。
「彼は、何とか君に犯人を教えようとがんばったんだよ。まず、その名を『やまもとようじ』と言葉で伝えようとしたけれど、途中で声が出せなくなってしまった。そこで、『犯人は下の部屋の人間だ』と察してもらおうとして、床を指差した。それが、君には凶器のギターを指しているようにしか見えなかったんだね。まだ伝わっていない。ならば、と最後には自分の血で──」
「私が鈍感やったから、伝わらなかったんやわ。彼、きっと悔しかったでしょうね。『この馬鹿、どうして判ってくれないんだ』と、私の鈍さを罵《ののし》っていたかも……」
彩花は目尻に涙を浮かべた。用賀と浜本が、両側から肩を叩いて慰める。そんなことで恨むもんか、一生懸命に理解しようとする姿に感謝していたはずだ、と。
「めそめそすんなよ。ここらでぱーっとやるか? 狂熱の追悼セッション」
用賀がスティックをくるくる回した。
「聴きたいな」と私はけしかける。「〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉の最後のライブ」
浜本が立ち上がり、ベースを取る。
「あいにくですが、〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉の曲はやりません。ギターがいませんから。あのバンドの歴史は、一枚のアルバムに封印しました」
こぼれかけた涙を拭いて彩花が立った時、ドアが開いた。もう一人の招待客、優嗣の父親だった。
「遅くなりました。演奏はこれからですか?」
「ちょうど始まるところです。どうぞ」
私が勧める椅子に、若かりし頃『消えない蒙古斑を持つ地母神の偉大な臀部が一発の放屁とともに覚醒する朝』という芝居を書いた男は一礼して着席した。
かつて〈ユメノ・ドグラ・マグロ〉というバンドに所属していた三人は、所定の位置につく。火村が人差し指と中指で鋭い口笛を鳴らした。
彩花はあらかじめ作ってあるシンセサイザーの音を確かめてから「何をやる?」とベースとドラムスに尋ねる。
「そうやな」用賀はバス・ドラを一発鳴らして「この編成やし、オーディエンスの平均年齢が高いし。懐かしのエマーソン・レイク&パーマーでもやるか?」
「ELPか。うーん、うちのテイストと違うからなぁ」と言いながらチューニングをし直そうとする浜本の間の悪さに、シンセの前の紅一点が嘆息する。
「もういい。リズム・セクションは黙って私の即興演奏《インブロ》についてきたらええんよ」
彩花のしなやかな指が、鍵盤の上に振り下ろされた。
fin.