TITLE : 生まれ出づる悩み
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生まれ出づる悩み
フランセスの顔
クララの出家
石にひしがれた雑草
注釈
生まれ出づる悩み
私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。ねじ曲がろうとする自分の心をひっぱたいて、できるだけ伸び伸びした真直な明るい世界に出て、そこに自分の芸術の宮殿を築き上げようともがいていた。それは私にとってどれほど喜ばしいことだっただろう。と同時にどれほど苦しいことだっただろう。私の心の奥底には確かに――すべての人の心の奥底にあるのと同様な――火が燃えてはいたけれども、その火を燻《いぶ》らそうとする塵《ちり》芥《あくた》の堆積はまたひどいものだった。かき除けても容易に火の燃え立ってこないような瞬間には私はみじめだった。私は、机の向こうに開かれた窓から、冬が来て雪に埋もれて行く一面の畑を見渡しながら、滞りがちな筆を叱りつけ叱りつけ運ばそうとした。
寒い。原稿紙の手ざわりは氷のようだった。
陽《ひ》はずんずん暮れて行くのだった。灰色から鼠色に、鼠色から墨色にぼかされた大きな紙を眼の前にかけて、上から下へと一気に視線を落として行く時に感ずるような速さで、昼の光は夜の闇に変わって行こうとしていた。午後になったと思う間もなく、どんどん暮れかかる北海道の冬を知らないものには、日が逸《いち》早《はや》く蝕《むしば》まれるこの気味悪い淋しさは想像がつくまい。ニセコアンの丘陵の裂け目からまっしぐらにこの高原の畑地を眼がけて吹きおろしてくる風は、わりあいに粒の大きい軽やかな初冬の雪《せつ》片《ぺん》を煽《あお》り立て煽り立て横さまに舞い飛ばした。雪片は暮れ残った光の迷子のように、ちかちかした印象を見る人の眼に与えながら、悪戯《いたずら》者《もの》らしくさんざん飛び廻った元気にも似ず、降りたまった積雪の上に落ちるやいなや、寒い薄紫の死を死んでしまう。ただ窓に来てあたる雪斤だけがさらさらさらさらとささやかに音を立てるばかりで、他のすべての奴らは残らず唖《おし》だ。快活らしい白い唖の群れの舞踏――それは見る人を涙ぐませる。
私は淋しさのあまり筆をとめて窓の外を眺めてみた。そして君のことを思った。
私が君にはじめて会ったのは、私がまだ札幌に住んでいるころだった。私の借りた家は札幌の町はずれを流れる豊平川という川の右岸にあった。その家は堤の下の一町歩ほどもある大きな林《りん》檎《ご》園《えん》の中に建ててあった。
そこにある日の午後君は尋ねてきたのだった。君は少し不機嫌そうな、口の重い、癇《かん》で背たけが伸びきらないといったような少年だった。汚ない中学校の制服の立襟のホックをうるさそうにはずしたままにしていた、それが妙なことにまことにはっきりと私の記憶に残っている。
君は座につくとぶっきらぼうに自分の描いた画《え》を見てもらいたいと言いだした。君は片手では抱《かか》えきれないほど油画や水彩画を持ちこんできていた。君は自分自身を平気で虐《しいた》げる人のように、風呂敷包みの中から乱暴に幾枚かの画を引き抜いて私の前に置いた。そしてじっと探るように私の顔を見詰めた。あからさまに言うと、その時私は君をいやに高慢ちきな若者だと思った。そして君の方には頭も向けないで、よんどころなく差し出された画を取り上げて見た。
私は一眼見て驚かずにはいられなかった。少しの修練も経てはいないらしい幼稚な技巧ではあったけれども、その中には不思議に力がこもっていてそれがすぐ私を襲ったからだ。私は画面から眼を放してもう一度君を見なおさないではいられなくなった。で、そうした。その時、君は不安らしいそのくせ意地張りな眼つきをして矢張り私を見続けていた。
「どうでしょう。それなんかはくだらない出来だけれども」
そう君はいかにも自分の仕事を軽《けい》蔑《べつ》するように言った。もう一度あからさまに言うが、私は一方で君の画に喜ばしい驚きを感じながらも、いかにも思いあがったような君の物腰には一種の反感を覚えて、ちょっと皮肉でも言ってみたくなった。
「くだらない出来がこれほどなら、会心の作というのはたいしたものでしょうね」とかなんとか。
しかし私は幸いにもとっさにそんな言葉で自分を穢すことを遁《のが》れたのだった。それは私の心が美しかったからではない。君の画がなんといっても君自身に対する私の反感に打ち勝って私に迫っていたからだ。
君がその時持ってきた画の中で今でも私の心の底にまざまざと残っている一枚がある。それは八号の風景に描かれたもので、軽川あたりの泥炭地を写したと覚しい晩秋の風景画だった。荒涼と見渡す限りに連なった地平線の低い葦原を一面に蔽《おお》うた霙《みぞれ》雲《ぐも》の隙間から午後の日がかすかに漏れて、それが、草の中からたった二本ひょろひょろと生い伸びた白樺《しらかば》の白い樹皮を力弱く照らしていた。単色を含んできた筆の穂が不器用に画布《カンバス》にたたきつけられて、そのままけし飛んだような手荒な筆触で、自然の中にはけっして存在しないといわれる純白の色さえ他の色と練り合わされずに、そのままべとりとなすりつけてあったりしたが、それでもじっと見ていると、そこには作者の鋭敏な色感が存分にうかがわれた。そればかりか、その画が与える全体の効果にもしっかりと纒まった気分が行き渡っていた。悒《ゆう》鬱《うつ》――十六、七の少年にははぐくめそうもない重い悒鬱を、見る者はすぐ感ずることができた。
「たいへんいいじゃありませんか」
画に対してすなおになった私の心は私にこう言わさないではおかなかった。
それを聞くと君はこころもち顔を赤くした――と私は思った。すぐ次の瞬間に来ると、君はしかし私を疑うような、自分を冷《あざ》笑《わら》うような冷やかな表情をして、しばらくの間私と画とを等分に見較べていたが、ふいと庭の方へ顔をそむけてしまった。それは人を馬鹿にした仕打ちとも思えば思われないことはなかった。二人は気まずく黙りこくってしまった。私は所在なさに黙ったまま画を眺めつづけていた。
「そいつは何処《どこ》ん所が悪いんです」
突然また君の無愛想な声がした。私は今までの妙にちぐはぐになった気分から、ちょっと自分の意見をずばずばと言いだす気にはなれないでいた。しかし改めて君の顔を見ると、言わさないじゃおかないぞといったような真剣さが現われていた。少しでも間に合わせを言おうものなら軽蔑してやるぞといったような鋭さが見えた。よし、それじゃ存分に言ってやろうと私もとうとう本当に腰を据えてかかるようにされていた。
その時私が口に任せてどんな生意気を言ったかは幸いなことに今はおおかた忘れてしまっている。しかしとにかく悪口としては技巧が非常に危なっかしいこと、自然の見方が不親切なこと、モティヴが耽《たん》情《じよう》的《てき》すぎることなどを列《なら》べたに違いない。君は黙ったまままじまじと眼を光らせながら、私の言うことを聴いていた。私が言いたいことだけをあけすけに言ってしまうと、君はしばらく黙りつづけていたが、やがて口の隅だけにはじめて笑いらしいものを漏らした。それがまた普通の微笑とも皮肉な痙《けい》攣《れん》とも思いなされた。
それから二人はまた二十分ほど黙ったままで向かい合ってすわりつづけた。
「じゃまた持ってきますから見てください。今度はもっといいものを描いてきます」
その沈黙の後で、君が腰を浮かせながら言ったこれだけの言葉はまた僕を驚かせた。まるで別な、初《うぶ》な、すなおな子供でも言ったような無邪気な明るい声だったから。
不思議なものは人の心の働きだ。この声一つだった。この声一つが君と私とを堅く結びつけてしまったのだった。私は結局君をいろいろに邪推したことを悔いながらやさしく尋ねた。
「君は学校は何処です」
「東京です」
「東京? それじゃもう始まっているんじゃないか」
「ええ」
「なぜ帰らないんです」
「どうしても落第点しか取れない学科があるんでいやになったんです。……それから少し都合もあって」
「君は画をやる気なんですか」
「やれるでしょうか」
そう言った時、君はまた前と同様な強情らしい、人に迫るような顔つきになった。
私もそれに対してなんと答えようもなかった。専門家でもない私が、五、六枚の画を見ただけでその少年の未来の運命全体をどうして大胆にも決定的に言いきることができよう。少年の思い入ったような態度を見るにつけ、私にはすべてが恐ろしかった。私は黙っていた。
「僕はそのうち郷里に――郷里は岩《いわ》内《ない》です――帰ります。岩内のそばに硫黄を掘り出している所があるんです。その景色を僕は夢にまで見ます。その画を作り上げて送りますから見てください。……画が好きなんだけれども、下手だからだめです」
私の答えないのを見て、君は自分をたしなめるように堅い淋しい調子でこう言った。そして私の眼の前に取り出した何枚かの作品をめちゃくちゃに風呂敷に包みこんで帰って行ってしまった。
君を木戸の所まで送り出してから、私はひとりで手広い林檎畑の中を歩きまわった。林檎の枝は熟した果実でたわわになっていた。ある樹などは葉がすっかり散り尽くして、赤々とした果実だけが真裸で累《る》々《る》と日にさらされていた。それは快く空の晴れ渡った小春日和の一日だった。私の庭下駄に踏まれた落葉は乾いた音をたてて微《み》塵《じん》に押しひしゃがれた。豊満の淋しさというようなものが空気の中にしんみりと漂っていた。ちょうどそのころは、私も生活のある一つの岐路に立って疑い迷っていた時だった。私は冬を眼の前に控えた自然の前に幾度も知らず識らず棒立ちになって、君のことと自分のこととをまぜこぜに考えた。
とにかく君は妙に力強い印象を私に残して、私から姿を消してしまったのだ。
その後君からは一度か二度問合せか何かの手紙が来たきりでぱったり消息が途絶えてしまった。岩内から来たという人などに邂《あ》うと、私はよくその港にこういう名前の青年はいないか、その人を知らないかなぞと尋ねてみたが、さらに手がかりは得られなかった。硫黄採掘場の風景画もとうとう私の手許には届いてこなかった。
こうして二年三年と月日がたった。そしてどうかした拍子に君のことを思い出すと、私は人生の旅路の淋しさを味わった。一度とにかく顔を合わせて、ある程度まで心を触れ合った同士が、いったん別れたが最後、同じこの地球の上に呼吸しながら、未来永劫復《ま》たと邂逅《めぐりあ》わない……それはなんという不思議な、淋しい、恐ろしいことだ。人とはいうまい、犬とでも、花とでも、塵とでもだ。孤独に親しみやすいくせにどこか殉《じゆん》情《じよう》的《てき》で人なつっこい私の心は、どうかした拍子に、このやむを得ない人間の運命をしみじみと感じて深い悒鬱に襲われる。君も多くの人の中で私にそんな心持ちを起こさせる一人だった。
しかもあさはかな私ら人間は猿と同様に物忘れする。四年五年という歳月は君の記憶を私の心からきれいに拭い取ってしまおうとしていたのだ。君はだんだん私の意識の閾《しきい》を踏み越えて、潜在意識の奥底に隠れてしまおうとしていたのだ。
この短からぬ時間は私の身の上にも私相当の変化を牽《ひ》き起こしていた。私は足かけ八年住み慣れた札幌《*》――ごく手短にいっても、そこで私のうえにもいろいろな出来事が湧き上がった。妻も迎えた。三人の子の父ともなった。永い間の信仰から離れて教会とも縁を切った。それまでやっていた仕事にだんだん失望を感じ始めた。新しい生活の芽が周囲の拒絶をも無みして、そろそろと芽ぐみかけていた。私の眼の前の生活の道にはおぼろげながら気味悪い不幸の雲が蔽いかかろうとしていた。私は始終私自身の力を信じていいのか疑わねばならぬのかの二筋道に迷いぬいた――を去って、私には物足らない都会生活が始まった。そして眼にあまる不幸のつぎつぎに足許からまくし上がるのを手をこまぬいてじっと眺めねばならなかった。心の中に起こったそんな危機の中で、私は捨て身になって、見も知らぬ新しい世界に乗り出すことを余儀なくされた。それは文学者としての生活だった。私は今度こそは全くひとりで歩かねばならぬと決心の臍《ほぞ》を堅めた。またこの道に踏み込んだ以上は、できてもできなくても人類の意志と取り組む覚悟をしなければならなかった。私は始終自分の力量に疑いを感じ通しながら原稿紙に臨んだ。人々が寝入って後、草も木も寝入って後、ひとり目覚めてしんとした夜の寂《せき》寞《ばく》の中に、万年筆のペン先が紙にきしり込む音だけを聞きながら、私は神がかりのように夢中になって筆を運ばしていることもあった。私の周囲には亡霊のような魂がひしめいて、紙の中に生まれ出ようと苦しみあせっているのをはっきりと感じたこともあった。そんな時気がついてみると、私の眼は感激の涙に漂っていた。芸術におぼれたものでなくって、そういう時のエクスタシーを誰が味わい得よう。しかし私の心が痛ましく裂け乱れて、純一な気持ちが何処《どこ》の隅にも見つけられない時の淋しさはまたなんと喩《たと》えようもない。その時私は全く一塊の物質にすぎない。私にはなんにも残されない。私は自分の文学者であることを疑ってしまう。文学者が文学者であることを疑うほど、世に空虚な頼りないものが復《ま》たとあろうか。そういう時に彼は明らかに生命から見放されてしまっているのだ。こんな瞬間に限っていつでも決まったように私の念頭に浮かぶのは君のあの時の面影だった。自分を信じていいのか悪いのかを決しかねて、たくましい意志と冷刻な批評とが互いに表に衷《うち》に戦って、思わず知らずすべてのものに向かって敵意を含んだ君のあの面影だった。私は筆を捨てて椅子から立ち上がり、部屋の中を歩き廻りながら自分につぶやくように言った。
「あの少年はどうなったろう。道を踏み迷わないでいてくれ。自分を誇大して取り返しのつかない死出の旅をしないでいてくれ。もし彼に独自の道を切り開いて行く天《てん》稟《ぴん》がないのなら、どうか正直な勤勉な凡人として一生を終わってくれ。もうこの苦しみは俺一人だけでたくさんだ」
ところが去年の十月――といえば、川岸の家で偶然君というものを知ってからちょうど十年目だ――のある日、雨のしょぼしょぼと降っている午後に一封の小包が私の手許に届いた。女中がそれを持ってきた時、私は干魚が送られたと思ったほど部屋の中が生臭くなった。包みの油紙は雨水と泥とでひどく汚れていて、差出人の名前がようやくのことで読めるくらいだったが、そこに記された姓名を私は誰ともはっきり思い出すことができなかった。ともかくもと思って私はナイフでがんじょうな渋びきの麻糸を切りほごしにかかった。油紙を一皮めくるとその中にまた麻糸で堅く結わえた油紙の包みがあった。それをほごすとまた油紙で包んであった。ちょっと腹の立つほど念の入った包み方で、百合《ゆり》根を剥がすように一枚一枚むいて行くと、ようやく幾枚もの新聞紙の中から、手垢でよごれ切った手製のスケッチ帖が三冊、きりきりと棒のように巻き上げられたのが出てきた。私は小気味悪い魚の匂いを始終気にしながらその手帖を拡げてみた。
それはどれも鉛筆で描かれたスケッチ帖だった。そしてどれにも山と樹木ばかりが描かれてあった。私は一眼見ると、それが明らかに北海道の風景であることを知った。のみならず、それは明らかに本当の芸術家のみが見得る、そして描き得る深刻な自然の肖像画だった。
「やっつけたな!」とっさに私は少年のままの君の面影を心いっぱいに描きながら下《した》唇《くちびる》を噛《か》みしめた。そして思わずほほえんだ。白状するが、それがもし小説か戯曲であったら、その時の私の顔には微笑の代わりに苦い嫉妬《しつと》の色が濃くみなぎっていたかもしれない。
その晩になって一封の手紙が君から届いてきた。矢張り厚い画学紙に擦り切れた筆で乱雑にこう走り書きがしてあった。
「北海道ハ秋モ晩《おそ》クナリマシタ。野原ハ、毎日ノヨウニツメタイ風ガ吹イテイマス。
日頃愛惜シタ樹木ヤ草花ナドガ、イツトハナク落葉シテシマッテイル。秋ハ人ノ心ニ色々ナ事ヲ思ワセマス。
日ニヨリマストアタリノ山々ガ浮キアガッタカト思ワレル位空ガ美シイ時ガアリマス。然シ大テイハ風ト一所ニ雨ガバラバラヤッテ来テ路ヲ悪クシテイルノデス。
昨日スケッチ帖ヲ三冊送リマシタ。イツカあなたニ画ヲ見テモライマシテカラ、故郷デ貧乏漁夫デアル私ハ、毎日忙シイ仕事ト激シイ労働ニ追ワレテイルノデ、ツイ今年マデ画ヲカイテ見タカッタノデスガ、ツイ描ケナカッタノデス。
今年ノ七月カラ始メテ画用紙ヲトジテ画帖ヲ作リ、鉛筆デ(モノ)ニ向カッテ見マシタ。併シ労働ニ害サレタ手ハ思ウヨウニ自分ノ感力ヲ現ワス事ガ出来ナイデ困リマス。
コンナツマラナイ素描帖ヲ見テ下サイト言ウノハ大ヘンツライノデス。然シ私ハイツワラナイデ始メタ時カラノヲ全部送リマシタ。(中略)
私ノ町ノ智的素養ノ幾分ナリトモアル青年デモ、自分トイウモノニツイテ思イヲメグラス人ハ少ナイヨウデス。青年ノ多クハ小サクサカシクオサマッテイルモノカ、ツマラナク時ヲ無為ニ送ッテイマス。デスガ私ハ私ノ故郷ダカラ好キデス。
色々ナモノガ私ノ心ヲオドラセマス。私ノスケッチニ取ルベキ所ノアルモノガアルデショウカ。
私ハ何トナクコンナツマラヌモノヲあなたニ見テモラウノガハズカシイノデス。
山ハ絵具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニ描イテ見タイモノダト思ッテイマス。私ノスケッチデハ私ノ感ジガドウモ出ナイデコマリマス。
私ノ山ハ私ガ実際ニ感ジルヨリモアマリ平面ノヨウデス。樹木モドウモ物体感ニトボシク思ワレマス。
色ヲツケテ見タラヨカロウト考エテイマスガ、時間ト金ガナイノデ、コンナモノデ腹イセヲシテイルノデス。
私ハ色々ナ構図デ頭ガ一パイニナッテイルノデスガ、何シロマダ描クダケノ腕ガナイヨウデス。
御忙シイあなたニコンナ無遠リョヲカケテ大ヘンスマナク思ッテイマス、イツカ御ヒマガアッタラ御教示ヲ願イマス。
十月末」
こう思ったままを書きなぐった手紙がどれほど私を動かしたか、君にはちょっと想像がつくまい。自分が文学者であるだけに、私は他人の書いた文字の中にも真実と虚偽とを直感するかなり鋭い能力が発達している。私は君の手紙を読んでいるうちに涙ぐんでしまった。魚臭い油紙と、立派な芸術品であるスケッチ帖と、君の文字との間には一分の隙もなかった。「感力」という君の造語は立派な内容を持つ言葉として私の胸に響いた。「山ハ絵具ヲドッシリ付ケテ山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニ描イテ見タイ」……山が地上から空にもれあがる……それはすばらしい自然への肉迫を表現した言葉だ。言葉の中に沁み渡ったこの力は、軽く対象を見て過ごす微温な心の、まねにも生み出し得ない調子を持った言葉だ。
「誰も気もつかず注意も払わない地球の隅っこで、尊い一つの魂が母胎を破り出ようとして苦しんでいる」
私はそう思ったのだ。そう思うとこの地球というものが急により美しいものに感じられたのだ。そう感ずるとなんとなく涙ぐんでしまったのだ。
そのころ私は北海道行きを計画していたが、雑用に紛れて躊《ちゆう》躇《ちよ》するうちに寒くなりかけてきたので、もう一層やめようかと思っていたところだった、しかし君のスケッチ帖と手紙とを見ると、ぜひ君に会ってみたくなって、一徹にすぐ旅行の準備にかかった。その日から一週間とたたない十一月の五日には、もう上野駅から青森への直行列車に乗っている私自身を見いだした。
札幌での用事を済まして農場《*》に行く前に、私は岩《いわ》内《ない》にあてて君に手紙を出しておいた。農場からはそう遠くもないから、来られるなら来ないか、なるべくならお目にかかりたいからといって。
農場に着いた日には君は見えなかった。その翌日は朝から雪が降りだした。私は窓の所へ机を持って行って、原稿紙に向かって呻《しん》吟《ぎん》しながら心待ちに君を待つのだった。そして渋りがちな筆を休ませる間に、今まで書き連ねてきたような過去の回想やら当面の期待やらをつぎつぎに脳《のう》裡《り》に浮かましていたのだった。
夕闇はだんだん深まって行った。事務所をあずかる男が、ランプを持ってきたついでに、夜食の膳を運ぼうかと尋ねたが、私はひょっとすると君が来はしないかという心づかいから、わざとそのままにしておいてもらって、またかじりつくように原稿紙に向かった。大きな男の姿が部屋からのっそりと消えて行くのを、視覚のはずれに感じて、都会から久しぶりで来てみると、物でも人でも大きくゆったりしているのに、いまさらながら一種の圧迫をさえ感ずるのだった。
渋りがちな筆がいくらもはかどらないうちに、夕闇はどんどん夜の暗さに代わって、窓ガラスの先方は雪と闇とのぼんやりした明暗《キヤロスキユロ》になってしまった。自然は何かに気を障《ささ》えだしたように、夜と共に荒れ始めていた。底力のこもった鈍い空気が、音もなく重苦しく家の外壁に肩をあてがってうんと凭《も》たれかかるのが、畳の上にすわっていてもなんとなく感じられた。自然が粉雪をあおりたてて、処きらわずたたきつけながら、のたうち廻って呻《うめ》き叫ぶそのものすごい気配はもう迫っていた。私は窓ガラスに白木綿のカーテンを引いた。自然の暴威をせき止めるために人間が苦心して創り上げたこのみじめな家屋という領土が脆《もろ》く小さく私の周囲に眺めやられた。
突然、ど、ど、ど……という音が――運動が(そういう場合、音と運動との区別はない)天地に起こった。さあ始まったと私は二つに折った背中を思わず立てなおした。同時に自然は上歯を下《した》脣《くちびる》にあてがって思いきり長く息気《いき》を吹いた。家がぐらぐらと揺れた。地面から跳《おど》り上がった雪が二、三度はずみを取っておいて、どっと一気に天に向かって、謀《む》叛《ほん》でもするように、降りかかって行くあの悲壮な光景が、まざまざと部屋の中にすくんでいる私の想像に浮かべられた。だめだ。待ったところがもう君は来やしない。停車場からの雪道はもう疾《と》うに埋まってしまったに違いないから。私は吹雪《ふぶき》の底にひたりながら、物淋しくそう思って、また机の上に眼を落とした。
筆はますます渋るばかりだった。軽い陣痛のようなものはときどき起こりはしたが、大切な文字は生まれ出てくれなかった。こうして私にとって情けないもどかしい時間が三十分も過ぎたころだったろう、農場の男がまたのそりと部屋にはいってきて客来を知らせたのは。私の喜びを君は想像することができる。矢張り来てくれたのだ。私はすぐに立って事務室の方へかけつけた。事務室の障子を開けて、二畳敷きほどもある大《おお》囲《い》炉《ろ》裡《り》の切られた台所に出てみると、そこの土間に、一人の男がまだ靴も脱がずに突っ立っていた。農場の男も、その男にふさわしく肥って大きな内儀《かみ》さんも、普通な背たけにしか見えないほどその客という男は大きかった。言葉どおりの巨人だ。頭からすっぽりと頭巾のついた黒っぽい外套を着て、雪まみれになって、口から白い息気《いき》をむらむらと吐き出すその姿は、実際人間という感じを起こさせないほどだった。子供までがおびえた眼つきをして内儀さんの膝の上に丸まりながら、その男をうろんらしく見詰めていた。
君ではなかったなと思うと僕は期待に裏切られた失望のために、いらいらしかけていた神経のもどかしい感じがさらにつのるのを覚えた。
「さ、ま、ずっとこっちにお上がりなすって」
農場の男は僕の客だというのでできるだけ丁寧にこう言って、囲炉裡のそばの煎餅《せんべい》布《ふ》団《とん》を裏返した。
その男はちょっと頭で挨拶して囲炉裡の座にはいってきたが、天井の高いだだっ広い台所に点《とも》された五分心のランプと、ちょろちょろと燃える木節の囲炉裡火とは、黒い大きな塊的《マツス》とよりこの男を照らさなかった。男がぐっしょり湿った兵隊の古長靴を脱ぐのを待って、私は黙ったまま案内に立った。今はもう、この男によって、むだな時間がつぶされないように、いやな気分にさせられないようにと心ひそかに願いながら。
部屋にはいって二人が座についてから、私ははじめて本当にその男を見た。男はぶきっちょうに、それでも四角に下座にすわって、丁寧に頭を下げた。
「しばらく」
八畳の座敷に余るような錆《さび》を帯びた太い声がした。
「あなたは誰方《どなた》ですか」
大きな男はちょっときまりが悪そうに汗でしとどになった真赤な額をなでた。
「木本です」
「え、木本君〓」
これが君なのか。私は驚きながら改めてその男をしげしげと見なおさなければならなかった。癇《かん》のために背たけも伸びきらない、どこか病質にさえ見えた悒鬱な少年時代の君の面影は何処《どこ》にあるのだろう。また落葉《から》松《まつ》の幹の表皮からあすこここにのそき出している針葉の一本をも見逃さずに、愛《あい》撫《ぶ》し理解しようとする、スケッチ帖で想像されるような鋭敏な神経の所有者らしい姿はどこにあるのだろう。地をつぶしてさしこをした厚衣《あつし》を二枚重ね着して、どっしりと落ちついた君のすわり形は、私より五寸も高く見えた。筋肉で盛り上がった肩の上に正しく嵌《は》め込まれた、牡牛のように太い頸にやや長めな赤銅色の君の顔は、健康そのもののようにしっかりと乗っていた。筋肉質な君の顔は、何処から何処まで引き締まっていたか、輪郭の正しい目鼻立ちの隈々には、心の中から湧いて出る寛大な微笑の影が、自然に漂っていて、脂肪気のない君の容貌をも暖かく見せていた。「なんという無類な完全な若者だろう」私は心の中でこう感嘆した。恋人を君に紹介する男は、深い猜《さい》疑《ぎ》の眼で恋人の心を見守らずにはいられまい。君の与えるすばらしい男らしい印象はそんなことまで私に思わせた。
「吹雪《ふぶ》いてひどかったろう」
「なんの。……温《ぬく》くって温くって汗がはあえらく出ました。けんど道がわかんねえで困ってると、仕合わせよく水車番に遇ったからすぐ知れました。あれは親身な人だっけ」
君のすなおな心はすぐ人の心に触れるとみえる。あの水車番というのは実際この辺で珍しく心持ちのいい男だ。君は手拭を腰から抜いて湯気が立たんばかりに汗になった顔を幾度も押し拭った。
夜食の膳が運ばれた。「もう我慢がなんねえ」と言って、君は今まで堅くしていた膝《ひざ》をくずして胡坐《あぐら》をかいた。「きちょうめんにすわることなんぞははあねえもんだから」二人は子供同士のような楽しい心で膳に向かった。君の大食は愉快に私を驚かした。食後の茶を飯茶碗に三杯続けさまに飲む人を私ははじめて見た。
夜食をすましてから、夜中まで二人の間に取りかわされた楽しい会話を私は今だに同じ楽しさをもって思い出す。戸外ではここを先途と嵐が荒れまくっていた。部屋の中ではストーヴの向座に胡坐《あぐら》をかいて、癖のように時おり五分刈りの濃い頭の毛を逆さになで上げる男惚れのする君の顔が部屋を明るくしていた。君はがんじょうな文鎮《おもし》になって小さな部屋を吹雪から守るように見えた。温まるにつれて、君の周囲から蒸れ立つ生臭い魚の香は強く部屋じゅうにこもったけれど、それは荒い大海をなまなましく聯想させるだけで、なんの不愉快な感じも起こさせなかった。人の感覚というものも気ままなものだ。
楽しい会話といった。しかしそれはおもしろいという意味ではもちろんない。なぜなれば君はしばしば不器用な言葉の尻を消して、曇った顔をしなければならなかったから。そして私も君の苦しい立場や、自分自身の迷いがちな生活を痛感して、暗い心に捕えられねばならなかったから。
その晩君が私に話して聞かしてくれた君のあれからの生活の輪郭を私はここにざっと書き連ねずにはおけない。
札幌で君が私を訪れてくれた時、君には東京に遊学すべき途《みち》が絶たれていたのだった。一時北海道の西海岸で、小樽をすら凌《りよう》駕《が》して賑やかになりそうな気勢を見せた岩内港は、さしたる理由もなく、少しも発展しないばかりか、だんだんさびれて行くばかりだったので、それにつれて君の一家にも生活の苦しさが加えられてきた。君の父上と兄上と妹とが気を揃えて水入らずにせっせと働くにもかかわらず、そろそろと泥沼の中に滅入り込むような家運の衰勢をどうすることもできなかった。学問というものに興味がなく、したがって成績のおもしろくなかった君が、芸術に捧誓したい熱意を抱きながら、その淋しくなりまさる古い港に帰る心持ちになったのはそのためだった。そういうことを考え合わすと、あの時君がなんとなく暗い顔つきをして、いらいらしく見えたのがはっきりわかるようだ。君は故郷に帰っても、仕事の暇々には、心あてにしている景色でも描くことを、せめてはの頼みにして札幌を立ち去って行ったのだろう。
しかし君の家庭が君に待ち設けていたものは、そんな余裕のある生活ではなかった。年のいった父上と、どっちかといえば漁夫としての健康は持ち合わせていない兄上とが、普通の漁夫と少しも変わりのない服装で網をすきながら君の帰りを迎えた時、大きな漁場の持ち主という風が家の中から根こそぎなくなっているのを眼《ま》のあたりに見やった時、君はそれまでの考えののんきすぎたのに気がついたに違いない。十分の思慮もせずにこんな生活の渦巻きの中に我から飛び込んだのを、君の芸術的欲求は何処《どこ》かで悔んでいた。その晩磯《いそ》臭い空気のこもった部屋の中で、枕にはつきながら、陥《おとし》穽《あな》にかかった獣のようないらだたしさを感じて瞼《まぶた》を合わすことができなかったと君は私に告白した。そうだったろう。その晩一晩だけの君の心持ちを委しく考えただけで、私は一つの力強い小品を作り上げることができると思う。
しかし親思いですなおな心を持って生まれた君は、君を迎えようとする生活から逃れ出ることをしなかったのだ。詰襟のホックをかけずに着慣れた学校服を脱ぎ捨てて、君は厚衣《あつし》を羽織る身になった。明鯛《すけそう》から鱈《たら》、鱈から鰊《にしん》、鰊から烏賊《いか》というように、四季絶えることのない忙しい漁《ぎよ》撈《ろう》の仕事にたずさわりながら、君は一年じゅうかの北海の荒波や激しい気候と戦って淋しい漁夫の生活に没頭しなければならなかった。しかも港内に築かれた防波堤が、技師のとんでもない計算違いから、波を防ぐ代わりに、砂をどんどん港内に流し入れる破目になってから、船《ふな》繋《がか》りのよかった海岸は見る見る浅瀬に変わって、出漁には都合のいい目ぬきの位置にあった君の漁場は廃《すた》れ物同様になってしまい、やむなく高い駄賃を出して他人の漁場を使わなければならなくなったのと、北海道第一といわれた鰊の群《く》来《き》が年々減って行くために、さらぬだに生活の圧迫を感じてきていた君の家は、親子が気心を揃え力を合わして、命がけに働いても年々貧窮に追い迫られがちになって行った。
親身な、やさしい、そして男らしい心に生まれた君は、黙ってこのありさまを見て過ごすことはできなくなった。君は君に近いものの生活のために、正しい汗を額に流すのを悔いたり恥じたりしてはいられなくなった。そして君はまっしぐらに労働生活の真中心《まつただなか》に乗り出した。寒暑と波濤と力業と荒くれ男らとの交わりは君の筋骨と度胸とを鉄のように鍛え上げた。君はすくすくと大木のようにたくましくなった。
「岩内にも漁夫は多いども腕力にかけて俺らに叶うものは一人だっていねえ」
君はあたりまえの事を言って聞かせるようにこう言った。私の前にすわった君の姿は私にそれを信ぜしめる。
パンのために生活のどん底まで沈みきった十年の月日――それは短いものではない。たいていの人はおそらくその年月の間にそういう生活から跳ね返る力を失ってしまうだろう。世の中を見渡すと、何百万、何千万の人々が、こんな生活にその天授の特異な力を踏みしだかれて、空しく墳墓の草となってしまったろう。それは全く悲しいことだ。そして不条理なことだ。しかし誰がこの不条理な世相に非難の石を抛つことができるだろう。これは悲しくも私たちの一人一人が肩の上に背負わなければならない不条理だ。特異な力を埋め尽くしてまでも、当面の生活に没頭しなければならない人々に対して、私たちは尊敬に近い同情をすら捧げねばならぬ悲しい人生の事実だ。あるがままの実相だ。
パンのために精力のあらん限りを用い尽くさねばならぬ十年――それは短いものではない。それにもかかわらず、君は性格の中に植え込まれた憧《どう》憬《けい》を一刻も捨てなかったのだ。捨てることができなかったのだ。
雨のためとか、風のためとか、一日も安閑としてはいられない漁夫の生活にも、なすことなく日を過ごさねばならぬ幾日かが、一年の間にはたまにくる。そういう時に、君は一冊のスケッチ帖(小学校用の粗雑な画学紙を不器用に網糸で綴ったそれ)と一本の鉛筆とを、魚の鱗《うろこ》や肉片がこびりついたまま、ごわごわに乾いた仕事着の懐《ふところ》にねじ込んで、ぶらりと朝から家を出るのだ。
「逢う人は俺らこと気違いだというんです。けんど俺ら山をじっとこう見ていると、何もかも忘れてしまうです。誰だったか何かの雑誌で『愛は奪ふ』《*》というものを書いて、人間が物を愛するのはその物を強《ふん》奪《だ》くるだと言っていたようだが、俺ら山を見ていると、そんな気は起こしたくも起こらないね。山がしっくり俺らこと引きずり込んでしまって、俺らただあきれて見ているだけです。その心持ちが描いてみたくって、あんな下手なものをやってみるが、からだめです。あんな山の心持ちを描いた画があらば、見るだけでも見たいもんだが、ありませんね。天気のいい気持ちのいい日にうんと力瘤《こぶ》を入れてやってみたらと思うけんど、暮らしも忙しいし、やっても俺らにはやっぱり手に余るだろう。色つけてもみたいが、絵具は国に引っ込む時、絵の好きな友だちにくれてしまったから、俺らのような絵にはまた買うのも惜しいし。海を見れば海でいいが、山を見れば山でいい。もったいないくらいそこいらにすばらしい好いものがあるんだが、力が足んねえです」
と言ったりする君の言葉も容《よう》子《す》も私には忘れることのできないものになった。その時は胡坐《あぐら》にした両脛《すね》を手でつぶれそうに堅く握って、胸に余る興奮を静かな太い声でおとなしく言い現わそうとしていた。
私どもが一時過ぎまで語り合って寝床にはいって後も、吹きまく吹雪は露ほども力をゆるめなかった。君は君で、私は私で妙に寝つかれない一夜だった。踏まれても踏まれても、自然が与えた美妙な優しい心を失わない、失い得ない君のことを思った。仁王のようなたくましい君の肉体に、少女のように敏感な魂を見いだすのは、このうえなく美しいことに私には思えた。君一人が人生の生活というものを明るくしているようにさえ思えた。そして私はだんだん私の仕事のことを考えた。どんなにもがいてみてもまだまだ本当に自分の所有を見いだすことができないで、ややもするとこじれた反抗や敵《てき》愾《がい》心《しん》から一時的な満足を求めたり、生活をゆがんで見ることに興味を得ようとしたりする心の貧しさ――それが私を無念がらせた。そしてその夜は、君のいかにも自然な大きな生長と、その生長に対して君が持つ無意識な謙譲と執着とが私の心に強い感激を起こさせた。
次の日の朝、こうしてはいられないといって、君は嵐の中に帰りじたくをした。農場の男たちすらもう少し空模様を見てからにしろと強いて止めるのも聞かず、君は素足にかちんかちんに凍った兵隊靴をはいて、黒い外套をしっかり着こんで土間に立った。北国の冬の日暮らしにはことさら客がなつかしまれるものだ。名残を心から惜しんでだろう、農場の人たちも親身にかれこれと君をいたわった。すっかり頭巾を被《かぶ》って、十二分に身じたくをしてから出かけたらいいだろうと皆んなが寄って勧めたけれども、君は素朴なはばかりから帽子も被らずに、重々しい口調で別れの挨拶をすますと、ガラス戸を引き開けて戸外に出た。
私はガラス戸をこづいて、外面に降り積んだ雪を落としながら、吹き溜まった真白な雪の中をこいで行く君を見送った。君の黒い姿は――矢張り頭巾は被らないままで、頭をむき出しにして雪になぶらせた――君の黒い姿は白い地面に腰まで埋まって、あるいは濃く、あるいは薄く、縞《しま》になって横降りに降りしきる雪の中を、ただ一人だんだん遠ざかって、とうとう霞んで見えなくなってしまった。
そして君に取り残された事務所は、君の来る前のような単調な淋しさと降りつむ雪とに閉じこめられてしまった。
私がそこを発って東京に帰ったのは、それから三、四日後のことだった。
今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿《つばき》が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り拡げて吸い込んでいる。君の住む岩内の港の水は、まだ流れこむ雪解けの水に薄濁るほどにもなってはいまい。鋼鉄を水で溶かしたような海面が、ややもすると角立った波を挙げて、岸を目がけて終日攻めよせているだろう。それにしてももう老いさらばえた雪道を器用に拾いながら、金魚売りが天《てん》秤《びん》棒を担《にな》って、無理にも春を喚《よ》び覚ますような売り声を立てる季節にはなったろう。浜には津軽や秋田辺から集まってきた旅雁のような漁夫たちが、鰊の建網の修繕をしたり、大釜の据えつけをしたりして、黒ずんだ自然の中に、毛布の甲がけや外套のけばけばしい赤色を播《ま》き散らす季節にはなったろう。このごろ私はまた妙に君を思い出す。君の張り切った生活のありさまを頭に描く。君はまざまざと私の想像の視野に現われて出てきて、見るように君の生活とその周囲とを私に見せてくれる。芸術家にとっては夢と現《うつつ》との閾《しきい》はないといっていい。彼は現実を見ながら眠っていることがある。夢を見ながら見開いていることがある。私が私の想像にまかせて、ここに君の姿を写し出してみることを君は拒むだろうか。私の鈍《にぶ》い頭にも同感というものの力がどのくらい働き得るかを私は自分で試してみたいのだ。君の寛大はそれを許してくれることと私はきめてかかろう。
君を思い出すにつけて、私の頭にすぐ浮かび出てくるのは、なんと言っても淋しく物すさまじい北海道の冬の光景だ。
長い冬の夜はまだ明けない。雷《らい》電《でん》峠《とうげ》と反対の湾の一角から長く突き出た造り損《そこ》ねの防波堤は、大蛇の亡骸《むくろ》のような真黒い姿を遠く海の面に横たえて、夜目にも白く見える波《は》濤《とう》の牙《きば》が、小休《おや》みもなくその胴腹に噛いかかっている。砂浜に繋《もや》われた百艘近い大和船は、舳《へさき》を沖の方へ向けて、互いにしがみつきながら、長い帆を左右前後に振り立てている。その側に、さまざまの漁具と弁当のお櫃《ひつ》とを持って集まってきた漁夫たちは言葉少なに物を言い交わしながら、防波堤の上に建てられた組合の天気予報の信号燈を見やっている。暗い闇の中に、白と赤との二つの火が、夜鳥の眼のようにぎらりと光っている。赤と白との二つの球は、危険警戒を標示する信号だ。船を出すには一番鳥が啼《な》きわたる時刻まで待ってからにしなければならぬ。町の方は寝鎮まって灯一つ見えない。それらのすべてを被いくるめて凍った雲は幕のように空低く懸《かか》っている。音を立てないばかりに雲は山の方から沖の方へと絶え間なく走り続ける。汀《なぎさ》まで雪に埋まった海岸には、見渡せる限り、白波がざぶんざぶん砕けて、風が――空気そのものをかっ浚《さら》ってしまいそうな激しい寒い風が雪に閉ざされた山を吹き、漁夫を吹き、海を吹きまくって、まっしぐらに水と空との閉じ目を眼がけて突きぬけて行く。
漁夫たちの群れから少し離れて、一《ひと》団《かたま》りになったお内儀《かみ》さんたちの背中から赤子の激しい泣き声が起こる。しばらくしてそれが鎮まると、風の生み出す音の高い不思議な沈黙がまた天と地とにみなぎり満ちる。
稍々二時間も経《た》ったと思うころ、綾《あや》目《め》も知れない闇の中から、硫黄が嶽の山頂――右肩を聳やかして、左をなで肩にした――が雲の産んだ鬼《おに》子《ご》のように、空中に現われ出る。鈍い土がまだ振り向きもしないうちに、空は逸《いち》早《はや》くも暁の光を吸い始めたのだ。
模範船(港内に四、五艘《そう》あるのだが、船も大きいし、それに老練な漁夫が乗り込んでいて、他の船に駈け引き進退の合図をする)の船頭が頭を鳩《あつ》めて相談をし始める。何処とも知れず、あの昼には気《け》疎《うと》い羽色を持った烏《からす》の声が勇ましく聞こえだす。漁夫たちの群れもお内儀さんたちの団《かたま》りも、石のような不動の沈黙から急に生き返ってくる。
「出すべ」
そのさざめきの間に、潮で錆びきった老船頭の幅の広い塩辛声が高くこう響く。
漁夫たちは力強い鈍さをもって、互いに今まで立ち尽くしていた所を歩み離れて銘々の持ち場につく。お内儀さんたちは右に左に良人や兄や情人やを介抱して駈け歩く。今まで陶酔したように多愛もなく波に揺られていた船の艫《とも》には、漁夫たちが膝《ひざ》頭《がしら》まで水に浸って、喚《わめ》き始める。罵《ののし》り騒ぐ声が一としきり聞こえたと思うと、船は拠《よん》どころなさそうに、右に左に揺らぎながら、船首を高く擡《もた》げて波頭を切り開き切り開き、狂い暴れる波打ちぎわから離れて行く。最後の高い罵りの声と共に、今までの鈍さに似ず、あらゆる漁夫は猿のように船の上に飛び乗っている。ややもすると舳を岸に向けようとする船の中からは、長い竿が水の中に幾本も突き込まれる。船はやむを得ずまた立ちなおって沖を眼指す。
この出船の時の人々の気組み働きは、誰にでも激烈なアレッグロで終わる音楽の一片を思い起こさすだろう。がやがやと騒ぐ聴衆のような雲や波の擾《じよう》乱《らん》の中から、漁夫たちの鈍い Largo Pianissimo 《*》ともいうべき運動が起こって、それがはじめのうちは周囲の騒《そう》音《おん》の中に消されているけれども、だんだんとその運動は熱情的となり力づいて行って、霊を得たように、漁夫の乗り込んだ船が波を切り波を切り、だんだんと早くなる一定のテンポを取って沖に乗り出して行くさまは、力強い楽手の手で思い存分大胆に奏でられる Allegro Molto《*》を思い出させずにはおかぬだろう。すべてのものの緊張した其《そ》処《こ》には、いつでも音楽が生まれるものとみえる。
船はもう一個の敏活な生き物だ。船《ふな》縁《べり》からは百足虫《むかで》のように艪《ろ》の足を出し、艫《とも》からは鯨《くじら》のように舵の尾を出して、あの物悲しい北国特有な漁夫の懸け声に励まされながら、真暗に襲いかかる波のしぶきを凌《しの》ぎ分けて、沖へ沖へと岸を遠ざかって行く。海岸に一団《かたま》りになって船を見送る女たちの群れはもう命のない黒い石ころのようにしか見えない。漁夫たちは艪を漕ぎながら、帆《ほ》綱《ほづな》を整えながら、浸水《あく》を汲み出しながら、その黒い石ころと、模範船の艫から一の字を引いて怪火のように流れる炭火の火の子とを眺めやる。長い鉄の火箸に火の起こった炭を挟んで高く挙げると、それが風を喰って盛んに火の子を飛ばすのだ。すべての船は始終それを目あてにして進退をしなければならない。炭火が一つ挙げられた時には、天候の悪くなる印と見て船を停め、二つ挙げられた時には安全になった印として再び進まねばならぬのだ。暁《ぎよう》闇《あん》を、物々しく立ち騒ぐ風と波との中に、海《うな》面《づら》低く火花を散らしながら青い焔を放って、燃え上がり燃えかすれるその光は、幾百人の漁夫たちの命を勝手に支配する運命の手だ。その光が運命のものすごさをもって海の上に長く尾を引きながら消えて行く。
何処からともなく海鳥の群れが、白く長い翼に羽音を立てて風を切りながら、船の上に現われてくる。猫のような声で小さく呼び交わすこの海の砂漠の漂浪者は、さっと落としてきて波に腹をなでさすかと思うと、翼を返して高く舞い上がり、ややしばらく風に逆らってじっとこたえてから、思いなおしたように打ち連れて、小気味よく風に流されて行く。その白い羽根がある瞬間には明るく、ある瞬間には暗く見えだすと、長い北国の夜もようやく明け離れて行こうとするのだ。夜の闇は暗く濃く沖の方に追いつめられて、東の空には黎《れい》明《めい》の新しい光が雲を破り始める。物すさまじい朝焼けだ。あやまって海に落ち込んだ悪魔が、肉づきのいい右の肩だけを波の上に現わしている、その肩のような雷《らい》電《でん》峠《とうげ》の絶《ぜつ》巓《てん》をなでたりたたいたりして叢立《むらだ》ち急ぐ嵐雲は、炉に投げ入れられた紫のような光に燃えて、山ふところの雪までも透明な藤色に染めてしまう。それにしても明け方のこの暖かい光の色に比べて、なんという寒い空の風だ。長い夜のために冷えきった地球は、今そのいちばん冷たい呼吸を呼吸しているのだ。
私は君を忘れてはならない。もう港を出離れて木の葉のように小さくなった船の中で、君は配《はい》繩《なわ》の用意をしながら、恐ろしいまでに荘厳なこの日の序幕を眺めているのだ。君の父上は舵《かじ》座《かじざ》に胡坐《あぐら》をかいて、ときどき晴雨計を見やりながら、変化の烈しいそのころの天気模様を考えている。海の中から生まれてきたような老漁夫の、皺《しわ》にたたまれた鋭い眼は、雲一片の徴《しるし》をさえ見落とすまいと注意しながら、顔には木彫りのような深い落ちつきを見せている。君の兄上は、凍って自由にならない手の平を腰のあたりの荒布に擦《こす》りつけて熱を呼び起こしながら、帆綱を握って、風の向きと早さに応じて帆を立てなおしている。傭われた二人の漁夫は二人の漁夫で、二《ふた》尋《ひろ》おきに本《ほん》繩《なわ》から下がった針に餌をつけるのに忙《せ》わしい。海の上を見渡すと、港を出てからてんでんばらばらに散らばって、朝の光に白い帆をかがやかした船という船は、等しく沖を眼がけて波を切り開いて走りながら、君の船と同様な仕事にいそしんでいるのだ。
夜が明け離れると海風と陸風との変わり目が来て、さすがに荒れがちな北国の冬の海の上もしばらくは穏やかになる。やがて瀬は達せられる。君らは水の色を一眼見たばかりで、海中に突き入った陸地と海そのものの界ともいうべき瀬がどう走っているかをすぐ見て取ることができる。
帆が下ろされる。勢いで走りつづける船足は、舵のために右なり左なりに向けなおされる。同時に浮標《うき》のついた配《はい》繩《なわ》の一端が氷のような波の中にざぶんざぶんと投げこまれる。二十五町から三十町に余る長さを持った繩全体が海上に長々と横たえられるまでには、朝早くから始めても、日が子《し》午《ご》線《せん》近く来るまでかからねばならないのだ。君らの船は艪《ろ》に操《あやつ》られて、横波を食いながらしぶしぶ進んで行く。ざぶり……ざぶり……寒気のために比重の高くなった海の水は、凍りかかった油のような重さで、ものすごい印度《インジゴ》藍の底の方に、雲間を漏れる日光で鈍く光る配繩の餌を呑み込んで行く。
今まで花のような模様を描いて、海面の処々に日光を恵んでいた空が、急にさっと薄曇ると、何処からともなく時雨《しぐれ》のように霰《あられ》が降ってきて海面を泡立たす。船と船とは、見る見る薄い糊のような青白い膜に距てられる。君の周囲には小さな白い粒が乾ききった音を立てて、あわただしく船板を打つ。君はこざかしい邪魔者から毛糸の襟巻きで包んだ顔をそむけながら、配繩を丹念に下ろし続ける。
すっと空が明るくなる。霰は何処かへ行ってしまった。そして真青な海面に、漁船は蔭になり日向《ひなた》になり、堅い輪郭を描いて、波にもまれながら淋しく漂っている。
機嫌買いな天気は、一日のうちに幾度となくこうした顔のしかめ方をする。そして日が西に廻るに従ってこの不機嫌は募って行くばかりだ。
寒暑をかまっていられない漁夫たちも吹きざらしの寒さにはひるまずにはいられない。配繩を投げ終わると、身ぶるいしながら五人の男は、舵座におこされた焜《こん》炉《ろ》の火の囲りに慕い寄って、大きなお櫃《ひつ》から握り飯をわしづかみにつかみ出して喰いむさぼる。港を出る時には一とかたまりになっていた友船も、今は木の葉のように小さく互い互いからかけ隔たって、心細い弱々しそうな姿を、涯《はて》もなく露《ろ》領《りよう》に続く海原のここかしこに漂わせている。三里の余も離れた陸地は、高い山々の半腹から上だけを水の上に見せて、降り積んだ雪が日を受けた所は銀のように、雲の蔭になった所は鉛のように、妙に険しい輪郭を描いている。
漁夫たちは口を食物で頬張らせながら、昨日の漁のありさまや、今日の予想やらをいかにも地味な口調で語り合っている。そういう時に君だけは自分が彼らの間に不思議な異邦人であることに気づく。同じ艪を操り、同じ帆綱をあつかいながら、なんという悲しい心の距たりだろう。押しつぶしてしまおうと幾度試みても、すぐ後からまくしかかってくる芸術に対する執着をどうすることもできなかった。
とはいえ、飛行機の将校にすらなろうという人の少ない世の中に、生きては人の冒険心をそそっていかにも雄々しい頼みがいある男と見え、死んでは万人にその英雄的な最後を惜しみ仰がれ、遺族まで生活の保障を与えられる飛行将校にすらなろうという人の少ない世の中に、荒れても晴れても毎日毎日、一命を投げてかかって、緊張しきった終日の労働に、玉の緒《*》で炊き上げたような飯を食って一生を過ごして行かねばならぬ漁夫の生活、それにはいささかも遊戯的な余裕がないだけに、命とかけがえの真実な仕事であるだけに、言葉には現わし得ないほどの尊さと厳粛さとを持っている。ましてや彼らがこのめざましい健《けな》気《げ》な生活を、やむを得ぬ、苦しい、しかし当然な正しい生活として、誇りもなく、矯《きよう》飾《しよく》もなく、不平もなく、すなおに受け取り、軛《くびき》にかかった輓《ひき》牛《うし》のような柔順な忍耐と覚悟とをもって、勇ましく迎え入れている、その姿を見ると、君は人間の運命のはかなさと美しさとに同時に胸をしめ上げられる。
こんなことを思うにつけて、君の心の眼にはまざまざと難破船の痛ましい光景が浮かび出る。君は矢張り舵座《かじざ》にすわって他の漁夫と同様に握り飯を食ってはいるが、いつの間にか人々の会話からは遠のいて、物思わしげに黙りこくってしまう。そして果てしもなく回想の迷路をたどって歩く。
それはある年の三月に君が遭遇した苦い経験の一つだ。模範船からすぐ引き上げろという信号がかかったので、今までも気づかいながら仕事を続けていた漁船は、打ち込み打ち込む波《は》濤《とう》と戦いながら配繩をたくし上げにかかったけれども、吹き始めた暴風は一秒ごとに募るばかりで、船頭はやむなく配繩を切って捨てさせなければならなくなった。
「またはあ銭《ぜに》こ海さ捨てるだ」
と君の父上は心から歎息してつぶやきながら君に命じて配繩を切ってしまった。
海の上はただ狂い暴れる風と雪と波ばかりだ。縦横に吹きまく風が、思いのままに海をひっぱたくので、つるし上げられるように高まった三角波が互いに競って取っ組み合うと、取っ組み合っただけの波はたちまち真白な泡の山に変じて、そのいただきが風にちぎられながら、すさまじい勢いで目あてもなく倒れかかる。眼も向けられないような濃い雪の群れは、波を追ったり波から遁《のが》れたり、さながら風の怒りを挑《いど》む小悪魔のように、面憎く舞いながら右往左往に飛びはねる。吹き落としてきた雲のちぎれは、大きな霧のかたまりになって、海とすれすれに波の上を矢よりも早く飛び過ぎて行く。
雪と浸水とで糊《のり》よりもすべる船板の上を君ははうようにして舳《へさき》の方へにじり寄り、左の手に友綱の鉄環をしっかりと握って腰を据えながら、右手に磁石をかまえて、大声で船の進路を後ろに伝える。二人の漁夫は大竿を風上になった舷《ふなべり》から二本突き出して、動かないように結びつける。船の顛《てん》覆《ぷく》を少しなりとも防ごうためだ。君の兄上は帆綱を握って、舵座にいる父上の合図どおりに帆の上げ下げを誤るまいと一心になっている。そしてその間にもしっきりなしに打ち込む浸水《あく》を急がしく汲んでは舷から捨てている。命がけに呼びかわす互い互いの声は妙にうわずって、風に半分がた消されながら、それでも五人の耳にはものすごくも心強くも響いてくる。
「おも舵っ」
「右にかわすだってえば」
「右だ……右だぞっ」
「帆綱をしめろやっ」
「友船は見えねえかよう。いたらくっつけやーい」
どう吹こうかとためらっていたような疾風がやがてしっかり方向を定めると、これまでただあてもなく立ち騒いでいたらしく見える三角波は、だんだんと丘陵のような紆濤《うねり》に変わって行った。言葉どおりに水平に吹雪く雪の中を、後ろの方から、見上げるような大きな水の堆積が、想像も及ばない早さでひた押しに押してくる。
「来たぞーっ」
緊張し切った五人の心はまたさらに恐ろしい緊張を加えた。まぶしいほど早かった船足が急によどんで、後ろに吸い寄せられて、艫《とも》が薄気味悪く持ち上がって、船中に置かれた品物ががらがらと音をたてて前にのめり、人々も何かに取りついて腰のすわりを定めなおさなければならなくなった瞬間に、船は一と煽《あお》り煽って、ものすごい不動から、奈落の底までもとすさまじい勢いで波の背をすべり下った。同時に耳に余る大きな音を立てて、紆濤《うねり》は屏《びよう》風《ぶ》倒しに倒れかかる。湧きかえるような泡の混乱の中に船を揉まれながら行く手を見ると、いったん壊れた波はすぐまたものすごい丘陵に立ちかえって、眼の前の空を高くしきりながら、見る見る悪夢のように遠ざかって行く。
ほっと安《あん》堵《ど》の息気《いき》をつく隙も与えず、後ろを見ればまた紆濤《うねり》だ。水の山だ。その時、
「危ねえ」
「ぽきりっ」
というけたたましい声を同時に君は聞いた。そして同時に野獣の敏感さをもって身構えしながら後ろを振り向いた。根元から折れて横倒しに倒れかかる帆柱と、急に命を失ったように皺になってたたまれる帆布と、その蔭から、飛び出しそうに眼をむいて、大きく口を開けた君の兄上の顔とが映った。
君はとっさに身をかわして、頭から打ってかかろうとする帆柱から身をかばった。人々は騒ぎ立って艪を構えようとひしめいた。けれども無二無三な船足の動揺には打ち勝てなかった。帆の自由である限りは金輪際船を顛覆させないだけの自信を持った人たちも、帆を奪い取られては途方に暮れないではいられなかった。船《ふな》足《あし》のとまった船ではもう舵もきかない。船は波の動揺のまにまに勝手ほうだいに荒れ狂った。
第一の紆濤《うねり》、第二の紆濤、第三の紆濤には天運が船を顛覆から庇《かば》ってくれた。しかし特別に大きな第四の紆濤を見た時、船中の人々は観念しなければならなかった。
雪のために薄くぼかされた真黒な大きな山、その頂からは、火が燃え立つように、ちらりちらりと白い波頭が立っては消え、消えては立ちして、瞬間ごとに高さを増して行った。吹き荒れる風すらがそのためにさえぎりとめられて、船の周囲には気味の悪い静かさが満ち拡がった。それを見るにつけても波の反対の側をひた押しに押す風の激しさ強さが思いやられた。艫《とも》を波の方へ向けることも得しないで、力なく漂う船の前まで来ると、波の山は、いきなり、獲物に襲いかかる猛獣のように思いきり背延びをした。と思うと、波頭は吹きつける風に反りを打って〓《どう》と崩れこんだ。
はっと思ったその時遅く、君らはもう真白な泡に五体を引きちぎられるほどもまれながら、船底を上にして顛覆した船体にしがみつこうともがいていた。見ると君の眼の届く所には、君の兄上が頭からずぶ濡れになって、ぬるぬると手がかりのない舷《ふなべり》に手をあてがってはすべり、手をあてがってはすべりしていた。君は大声を揚げて何か言ってるらしかった。しかしお互いに大きく口を開くのが見えるだけで、声は少しも聞こえてこない。
割合に小さな波があとからあとから押し寄せてきて、船を揺り上げたり押しおろしたりした。そのたびごとに君たちは船との縁を絶たれて、水の中に漂わねばならなかった。そして君は、着込んだ厚衣《あつし》の芯まで水が透って鉄のように重いのにもかかわらず、一心不乱に動かす手足と同じほどの忙《せ》わしさで、眼と鼻ぐらいの近さに押し逼《せま》った死から遁れ出る道を考えた。心の上澄みは妙におどおどとあわてているわりあいに、心の底は不思議に気味悪く落ちついていた。それは君自身にすらものすごいほどだった。空といい、海といい、船といい、君の思案といい、一つとして眼あてなく動揺しないものはない中に、君の心の底だけが悪落ちつきに落ちついて、「死にはしないぞ」とちゃんと決め込んでいるのがかえって薄気味悪かった。それは「死ぬのがいやだ」「生きていたい」「生きる余席のある限りはどうあっても生きなければならぬ」「死にはしないぞ」という本能の論理的結論であったのだ。この恐ろしい盲目な生の事実が、そしてその結論だけが、眼を見据えたように、君の心の底に落ちつき払っていたのだった。
君はこのものすごい無気味な衝動に駆り立てられながら、水《みず》船《ぶね》なりにも顛覆した船を裏返す努力に力を尽くした。残る四人の心も君と変わりはないとみえて、険しい困苦と戦いながら、四人とも君のいる舷の方へ集まってきた。そして申し合わしたように、いっしょに力を合わせて、船の胴腹にはい上がるようにしたので、船は一方にかしぎ始めた。
「それ今一と息だぞっ」
君の父上が搾《しぼ》り切った生命を声にしたように叫んだ。一同はまた懸命な力をこめた。
折りよく――全く折りよく、天運だ――その時船の横面に大きな波が浴びせこんできたので、片方だけに人の重なりの加わった船はくるりと裏返った。舷《ふなべり》までひたひたと水に埋もれながらもとにかく船は真向きになって水の面に浮かび出た。船が裏返る拍子に五人は五人ながら、すっぽりと氷のような海の中にもぐり込みながら、急に勢いづいて船の上に飛び上がろうとした。しかししこたま着込んだ衣服は思うざま濡れ透っていて、ややともすれば人々を波の中に吸い込もうとした。それが一方の舷に取りついて力をこめればまた顛覆するにきまっている。生死のせとぎわにはまり込んでいる人々の本能は恐ろしいほど敏《びん》捷《しよう》な働きをする。五人の中の二人はとっさに反対の舷に廻った。そして互いに顔を見合わせながら、一度にやっと声をかけ合わせて半身を舷に乗り上げた。足の方を船底に吸い寄せられながらも、半身を水から救い出した人々の顔に現われたなんともいえない緊張した表情――それを君は忘れることができない。次の瞬間にはわっと声をあげて男泣きに泣くか、それとも我を忘れて狂うように笑うか、どちらかをしそうな表情――それを君は忘れることができない。
すべてこうした懸命な努力は、降りしきる雪と、荒れ狂う水と、海面をこすって飛ぶ雲とで表わされる自然の憤怒の中で行なわれたのだ。怒った自然の前には、人間は塵ひとひらにも及ばない。人間などという存在は全く無視されている。それにもかかわらず君たちは頑固に自分たちの存在を主張した。雪も風も波も君たちを考えにいれてはいないのに、君たちは強いてもそれらに君たちを考えさせようとした。
舷を乗り越して奔馬のような波頭がつぎつぎにすり抜けて行く、それに腰まで浸しながら、君たちは船の中に取り残された得物をなんでもかまわず取り上げて、それを働かしながら、死から遁るべき一路を切り開こうとした。ある者は艪を拾いあてた。あるものは船板を、あるものは水柄杓を、あるものは長いたわしの柄を、何ものにも換えがたい武器のようにしっかり握っていた。そして舷から身を乗り出して、子供がするように、水を漕いだり、浸水をかき出したりした。
吹き落ちる気配も見えない嵐は、果てもなく海上を吹きまくる。眼に見える限りはただ波頭ばかりだ。犬のような敏捷さで方角を嗅《か》ぎ慣れている漁夫たちも、今は東西の定めようがない。東西南北は一つの鉢の中で擦りまぜたように渾《こん》沌《とん》としてしまった。
薄い暗黒。天からともなく地からともなく湧き起こる大叫喚。ほかにはなんにもない。
「死にはしないぞ」――そんなはめになってからも、君の心の底は妙に落ち着いて、薄気味悪くこの一事を思いつづけた。
君の傍には一人の若い漁夫がいたが、その右の顳《こめ》《かみ》の辺からなまなましい色の血が幾条にもなって流れていた。それだけがはっきり君の眼に映った。「死にはしないぞ」――それを見るにつけても君はまたしみじみとそう思った。
こういう必死な努力が何分続いたのか、何時間続いたのか、時間というもののすっかりなくなってしまったこの世界では少しもわからない。しかしながらとにかく君が何物も納《い》れ得ない心の中に、疲労という感じを覚えだして、これは困ったことになったと思ったころだった。突然一人の漁夫が意味のわからない言葉を大きな声で叫んだのは。今まででも五人が五人ながら始終何か互いに叫び続けていたのだったのが、この叫び声は不思議にきわ立って皆んなの耳に響いた。
残る四人は思わず言い合わせたようにその漁夫の方を向いて、その漁夫が眼をつけている方へ視線をたどって行った。
船!……船!
濃い吹雪の幕のあなたに、さだかには見えないが、波の背《そびら》に乗って四十五度ぐらいの角度に船首を下に向けながら、帆をいっぱいに開いて、矢よりも早く走って行く一艘の船!
それを見ると何かが君の胸をどきんと下からつき上げてきた。君は思わずすすり泣きでもしたいような心持ちになった。何はさて措《お》いても君たちはその船を目がけて助けを求めながら近寄って行かねばならぬはずだった。余の人たちも君と同様、確かに何物かを眼の前に認めたらしく、奇怪な叫び声を立てた漁夫が、眼を大きく開いて見つめている辺を等しく見つめていた。そのくせ一人として自分らの船をそっちの方へ向けようとしているらしい者はなかった。それを訝《いぶ》かる君自身すら心がただわくわくと感傷的になりまさるばかりで、急いで働かすべき手はかえって萎《な》えてしまっていた。
白い帆をいっぱいに開いたその船は、依然として船首を下に向けたまま、矢のように走って行く。降りしきる吹雪を隔てたことだから、乗組みの人の数もはっきりとは見えないし、水の上にわりあいに高く現われている船の胴も、木の色というよりは白堊のような生白さに見えていた。そして不思議なことには、波の腹に乗っても波の背に乗っても、舳《へさき》は依然として下に向いたままである。風の強弱に応じて帆を上げ下げする様子もない。いつまでも眼の前に見えながら、四十五度ぐらいに船首を下向きにしたまま、矢よりも早く走って行く。
ぎょっとして気がつくと、その船はいつの間にか水から離れていた。波頭から三段も上と思われる辺を船は傾《かし》いだまま矢よりも早く走っている。君の頭はかーんとしてすくみ上がってしまった。同時に船はだんだん大きくぼやけて行った。いつの間にかその胴体は消えてなくなって、ただ真白い帆だけが矢よりも早く動いて行くのが見やられるばかりだ。と思う間もなくその白い大きな帆さえが、降りしきる雪の中に薄れて行って、やがてはかき消すように見えなくなってしまった。
怒濤。白沫。さっさっと降りしきる雪。眼をかすめて飛び交わす雲の霧。自然の大叫喚……その真中心《まつただなか》に頼りなく揉みさいなまれる君たちの小さな水船……やっぱりそれだけだった。
生死の間にさまよって、疲れながらも緊張しきった神経に起こる幻覚《ハルシネーシヨン》だったのだと気がつくと、君は急に一種の薄気味悪さを感じて、力を一度にもぎ取られるように思った。
さきほど奇怪な叫び声を立てたその若い漁夫は、やがて眠るようにおとなしく気を失って、ひょろひょろとよろめくと見る間に、くずれるように胴の間にぶっ倒れてしまった。
漁夫たちは何か魔でもさしたように思わず極度の不安を眼に現わして互いに顔を見合わせた。
「死にはしないぞ」
不思議なことにはそのぶっ倒れた男を見るにつけて、また漁夫たちの不安げな容《よう》子《す》を見るにつけて、君は懲《こ》りずに薄気味悪くそう思いつづけた。
君たちがほんとうに一艘の友船と出くわしたまでには、どれほどの時間が経っていたろう。しかしとにかく運命は君たちには無関心ではなかったとみえる。急に十倍も力を回復したように見えた漁夫たちが、必死になって君たちの船とその船とを繋《つな》ぎ合わせ、半分がた凍ってしまった帆を形ばかりに張り上げて、風の追うままに船を走らせた時には、なんともいえない幸福な感謝の心が抑えても抑えてもむらむらと胸の先にこみ上げてきた。
着く処に着いてから思い存分の手当てをするからしばらく我慢してくれと心の中に詫びるように言いながら、君は若い漁夫を卒倒したまま胴の間の片隅に抱きよせて、すぐ自分の仕事にかかった。
やがて行く手の波の上にぼんやりと雷電峠の突角が現われだした。山脚は海の中に、山頂は雲の中に、山腹は雪の中に揉みに揉まれながら、けっして動かないものがはじめて君たちの前に現われたのだ。それを見つけた時の漁夫たちの心の勇み……魚が水に遇ったような、野獣が山に放たれたような、太陽が西を見つけ出したようなその喜び……船の中の人たちは思わず足爪立てんばかりに総立ちになった。人々の心までが総立ちになった。
「峠が見えたぞ……北に取れや舵を……隠れ岩さ乗り上げんな……雪崩《なだれ》にも打たせんなよう……」
そういう声がてんでんに人々の口からわめかれた。それにしても船はひどく流されていたものだ。雷電峠から五里も離れた瀬にいたものが、いつのまにかこんな処に来ているのだ。見る見る風と波とに押しやられて船は吸い付けられるように、吹雪の間から真黒に天までそそり立つ断《だん》崕《がい》に近寄って行くのを、漁夫たちはそうはさせまいと、帆をたてなおし、艪を押して、横波を喰わせながら船を北へと向けて行った。
陸地に近づくと波はなお怒る。たてがみを風になびかして暴れる野馬のように、波頭は波の穂になり、波の穂は飛沫になり、飛沫はしぶきになり、しぶきは霧になり、霧はまた真白い波になって、息もつかせずあとからあとからと山裾に襲いかかって行く。山裾の岩壁に打ちつけた波は、煮えくりかえった熱湯をぶちつけたように、湯気のような白沫を五丈も六丈も高く飛ばして、反りを打ちながら海の中にどっとなだれ込む。
その猛烈な力を感じてか、断崕の出鼻に降り積もって、徐々に斜面をすべり下りてきていた積雪が、地面との縁から離れて、すさまじい地響と共に、何百丈の高さから一気になだれ落ちる。いただきを離れた時には一握りの銀末にすぎない。それが見る見る大きさを増して、隕《いん》星《せい》のように白い尾を長く引きながら、音も立てずにまっしぐらに落としてくる。あなやと思う間にそれは何十里にもわたる水晶の大簾《すだれ》だ。ど、ど、どどどしーん……さあーっ……。広い海面が眼の前で真白な平野になる。山のような五百《いお》重《え》の大波はたちまち逐い退けられてさざなみ一つ立たない。どっとそこを目がけて狂風が四方から吹き起こるそのものすさまじさ。
君たちの船は悪鬼に逐い迫られたようにおびえながら、懸命に東北へと舵を取る。磁石のような陸地の吸引力からようよう自由になることのできた船は、また揺れ動く波の山と戦わねばならぬ。
それでも岩内の港が波の間に隠れたり見えたりし始めると、漁夫たちの力は急に五倍にも十倍にもなった。今までの人数の二倍も乗っているように船は動いた。岸から打ち上げる目標の烽火《のろし》が紫だって暗黒な空の中でぱっと弾《はじ》けると、〓《さん》々《さん》として火花を散らしながら闇の中に消えて行く。それを目がけて漁夫たちは有る限りの艪を黙ったままでひた漕ぎに漕いだ。その不思議な沈黙が、互いに呼び交わすむごたらしい叫び声よりもかえって力強く人々の胸に響いた。
船が波の上に乗った時には、波打ちぎわに集まって何か騒ぎ立てている群衆が見やられるまでになった。やがて嵐の間にも大砲のような音が船まで聞こえてきた。と思うと救助繩が空をかける蛇《へび》のように曲がりくねりながら、船から二、三段距たった水の中にざぶりと落ちた。漁夫たちはその方へ船を向けようとひしめいた。第二の爆声が聞こえた。繩はあやまたず船に届いた。
二、三人の漁夫がよろけ転びながらその繩の方へ駈け寄った。
音は聞こえずに烽火の火花は間を置いて怪火のようにはるかの空にぱっと咲いてはすぐ散って行く。
船は繩に引かれてぐんぐん陸の方へ近寄って行く。水底が浅くなったために無二無三に乱れ立ち騒ぐ波濤の中を、互いにしっかりしがみ合った二艘の船は、半分がた水の中を潜《もぐ》りながら、半死のありさまで進んで行った。
君ははじめて気がついたように年老いた君の父上の方を振り返ってみた。父上は膝から下を水に浸して舵《かじ》座《ざ》にすわったまま、じっと君を見詰めていた。今まで絶えず君と君の兄上とを見詰めていたのだ。そう思うと君はなんともいえない骨肉の愛着にきびしく捕えられてしまった。君の眼には不覚にも熱い涙が浮かんできた。君の父上はそれを見た。
「あなたが助かってよござんした」
「お前が助かってよかった」
両人の眼はとっさの間にも互いに親しみをこめてこう言い合った。そしてこの嬉しい言葉を語る眼から互い互いの眼は離れようとしなかった。そうしたままでしばらく過ぎた。
君は満足しきってまた働き始めた。もう眼の前には岩《いわ》内《ない》の町が、汚く貧しいながらに、君にとってはなつかしい岩内の町が、新しく生まれ出たままのように立ち列《つら》なっていた。水難救済会の制服を着た人たちが、右往左往に駈け廻るありさまもまざまざと眼に映った。
なんともいえない勇ましい新しい力――上《あげ》潮《しお》のように、腹のどん底からむらむらと湧き出してくる新しい力を感じて、君は「さあ来い」と言わんばかりに、艪をひしげるほど押しつかんだ。そして矢声をかけながら漕ぎ始めた。涙があとからあとからと君の頬を伝って流れた。
唖《おし》のように今まで黙っていたほかの漁夫たちの口からも、やにわに勇ましいかけ声があふれて出て君の声に応じた。艪は梭《おさ》のように波を切り破って激しく働いた。
岸の人たちが呼びおこす声が君たちの耳にもはいるまでになった。と思うと君はだんだん夢の中に引き込まれるようなぼんやりした感じに襲われてきた。
君はもう一度君の父上の方を見た。父上は舵座にすわっている。しかしその姿は前のように君になんらの逼《せま》った感じを牽《ひ》き起こさせなかった。
やがて船底にじゃりじゃりと砂の触れる音が伝わった。船はとどこおりなく君が生まれ君が育てられたその土の上に引き上げられた。
「死にはしなかったぞ」
と君は思った。同時に君の眼の前は見る見る真暗になった。……君はその後を知らない。
君は漁夫たちと膝《ひざ》をならべて、同じ握り飯を口に運びながら、心だけはまるで異邦人のように距たってこんなことを想い出す。なんという真剣なそして険《けわ》しい漁夫の生活だろう。人間というものは、生きるためには、いやでも死の側近くまで行かなければならないのだ。いわば捨て身になって、こっちから死に近づいて、死の油断を見すまして、かっぱらいのように生の一片をひったくって逃げてこなければならないのだ。死は知らんふりをしてそれを見やっている。人間は奪い取ってきた生をたしなみながらしゃぶるけれども、ほどなくその生はまた尽きて行く。そうするとまた死の眼の色を見すまして、死の方に偸《ぬす》み足で近寄って行く。ある者は死があまり無頓着そうに見えるので、つい気を許して少し大胆に高慢に振舞おうとする。と鬼一口だ。もうその人は地の上にはいない。ある者は年と共に意気地がなくなって行って、死の姿がいよいよ恐ろしく眼に映り始める。そしてそれに近寄る冒険を躊躇する。そうすると死はやおら物憂げな腰を上げて、そろそろとその人に近寄ってくる。ガラガラ蛇に見こまれた小鳥のように、その人は逃げも得しないですくんでしまう。次の瞬間にその人はもう地の上にはいない。人の生きて行く姿はそんな風にも思いなされる。実ははかないともなんとも言いようがない。その中にも漁夫の生活の激しさは格別だ。彼らは死に対して喧嘩をしかけんばかりのせっぱつまった心持ちで出かけて行く。陸の上ではなんといっても偽善も彌《び》縫《ぼう*》もある程度までは通用する。ある意味では必要であるとさえも考えられる。海の上ではそんなことは薬の足しにしたくもない。真裸な実力と天運ばかりがすべての漁夫の頼みどころだ。その生活はほんとに悲壮だ。彼らがそれを意識せず、生きるということはすべてこうしたものだとあきらめをつけて、疑いもせず、不平も言わず、自分のために、自分の養わなければならない親や妻や子のために、毎日毎日板子一枚の下は地獄のような境界に身を放《な》げ出して、せっせと骨身を惜しまず働く姿はほんとうに悲壮だ。そしてみじめだ。なんだって人間というものはこんなしがない苦労をして生きて行かなければならないのだろう。
世の中には、ことに君が少年時代を過ごした都会という所には、毎日毎日安逸な生を食傷するほどむさぼって一生夢のように送っている人もある。都会とはいうまい。だんだんとさびれて行くこの岩内の小さな町にも、二、三百万円の富を祖先から受け嗣《つ》いで、小樽には立派な別宅を構えてそこに妾を住まわせ、自分は東京のある高等な学校をともかくも卒業して、話でもさせればそんなに愚鈍にも見えないくせに、一年じゅうこれといってする仕事もなく、退屈をまぎらすための行楽に身を任せて、それでも使いきれない精力の余剰を、富者のぜいたくの一つである癇《かん》癪《しやく》に漏らしているのがある。君はその男をよく知っている。小学校時代には教室まで一つだったのだ。それが十年かそこらの年月の間に、二人の生活は恐ろしくかけ隔たってしまったのだ。君はそんな人たちを一度でもうらやましいと思ったことはない。その人たちの生活の内容の空しさを想像する十分の力を君は持っている。そして彼らの導くような生活をするのは道理があると合点がゆく。金があって才能が平凡だったら勢いああしてわずかに生の倦《けん》怠《たい》から遁《のが》れるほかはあるまいとひそかに同情さえされぬではない。その人たちが生に飽満して暮らすのはそれでいい、しかし君の周囲にいる人たちが何故あんな恐ろしい生死の境の中から生きることを僥《ぎよう》倖《こう》しなければならない運命にあるのだろう。何故彼らはそんな境遇――死ぬ瞬間まで一分の隙も見せずに身構えていなければならないような境遇にいながら、何故生きようとしなければならないのだろう。これは君に不思議な謎のような心地を起こさせる。ほんとうに生は死よりも不思議だ。
その人たちは他人眼にはどうしても不幸な人たちといわなければならない。しかし君自身の不幸に比べてみると、はるかに幸福だと君は思い入るのだ。彼らにはとにかくそういう生活をすることがそのまま生きることなのだ。彼らはきれいさっぱりとあきらめをつけて、そういう生活の中に頭からはまり込んでいる。少しも疑ってはいない。それなのに君は絶えずいらいらして、目前の生活を疑い、それに安住することはできないでいる。君は喜んで君の両親のために、君の家の苦しい生活のために、君のがんじょうな力強い肉体と精力とを提供している。君の父上のかりそめの風邪が癒《なお》ってしばらくぶりで、いっしょに漁に出て、夕方になって家に帰ってきてから、一家が睦《むつ》まじくちゃぶ台のまわりを囲んで暗い五燭の電燈の下で箸を取り上げる時、父上が珍しく木彫りのような固い顔に微笑を湛えて、
「今夜ははあまんまが甘《うめ》えぞ」
と言って、飯茶碗をちょっと押しいただくように眼八分に持ち上げるのを見る時なぞは、君はなんといっても心から幸福を感ぜずにはいられない。君は目前の生活をけっして悔やんでいるわけではないのだ。それにもかかわらず、君は何かにつけてすぐ暗い心になってしまう。
「画《え》が描きたい」
君は寝ても起きても祈りのようにこの一つの望みを胸の奥深く大事にかき抱いているのだ。その望みをふり捨ててしまえることなら世の中は簡単なのだ。
恋――互いに思い合った恋といってもこれほどの執着はあり得まいと君は自身の心を憐れみ悲しみながらつくづくと思うことがある。君の厚い胸の奥からは深い溜息が漏れる。
雨の日などに土間にすわりこんで、兄上や妹さんなぞといっしょに、配《はい》繩《なわ》の繕いをしたりしていると、どうかした拍子に皆んなが仕事に夢中になって、睦《むつ》まじく交わしていた世間話すら途絶えさして、黙りこんで手先ばかりを忙《せ》わしく働かすような時がある。こういう瞬間に、君は我にもなく手を休めて、茫然と夢でも見るように、君の見ておいた山の景色を思い出していることがある。この山とあの山との距たりの感じは、界の線をこういう曲線で力強く描きさえすれば、きっといいに違いない、そんなことを一心に思い込んでしまう。そして鋏《はさみ》を持った手の先で、自然《ひとりで》に、想像した曲線を膝の上に幾度も描いては消し、描いては消ししている。
またある時は沖に出て、配繩をたぐり上げる大事な忙《せ》わしい時に、君は板子の上にすわって、二本ならべて立てられたビール瓶《びん》の間から繩をたぐり込んで、釣りあげられた明《すけ》鯛《そう》が瓶にせかれるために、針の縁《えん》を離れて胴の間にぴっぴっ跳ねながら落ちて行くのをじっと見やっている。そして、クリムソン・レーキ《*》を水に薄く溶かしたよりもっと鮮明な光を持った鱗《うろこ》の色に吸いつけられて、思わずぼんやりと手の働きをやめてしまう。
これらの場合はっと我に返った瞬間ほど君をみじめにするものはない。居睡りしたのを見つけられでもしたように、君はきょとんと恥ずかしそうにあたりを見廻してみる。ある時は兄上や妹さんが、暗まって行く夕方の光に、なお気ぜわしく眼を繩によせて、せっせとほつれを解《ほど》いたり、切れ目をつないだりしている。ある時は漁夫たちが、寒さに手を海老《えび》のように赤くへしまげながら、息せき切って配繩をたくし上げている。君は子供のように思わず耳許《もと》まで赤面する。
「なんというだらしのない二重生活だ。俺はいったい俺に与えられた運命の生活に男らしく服従する覚悟でいるんじゃないか。それだのにまだ小っぽけな才能に未練を残して、柄にもない野心を捨てかねているとみえる。俺はどっちの生活にも真剣にはなれないのだ。俺の画に対する熱心だけからいうと、画かきになるためには十分過ぎるほどなのだが、それだけの才能があるかどうかということになると判断のしようがなくなる。もちろん俺に画の描き方を教えてくれた人もなければ、俺の画を見てくれる人もない。岩《いわ》内《ない》の町でのたった一人の話し相手のKは、俺の画を見るたびごとに感心してくれる。そしてどんな苦しみを経ても画かきになれと勧めてくれる。しかしKは第一俺の友だちだし、第二に画が俺以上にわかるとは思われぬ。Kの言葉はいつでも俺を励まし鞭《むちう》ってくれる。しかし俺はいつでもその後ろにうぬぼれさせられているのではないかという疑いを持たずにはいられない。どうすればこの二重生活を突き抜けることができるのだろう。生まれからいっても、今までの運命からいっても、俺は漁夫で一生を終えるのが相当しているらしい。Kもあの気むずかしい父の下で調剤師で一生を送る決心を悲しくもしてしまったらしい。俺から見るとKこそは立派な文学者になれそうな男だけれども、Kは誇張なく自分の運命をあきらめている。悲しくもあきらめている。待てよ、悲しいというのはほんとうはKのことではない。そう思っている俺自身のことだ。俺はほんとうに悲しい男だ。親父にも済まない。兄や妹にも済まない。この一生をどんな風に過ごしたら、俺はほんとうに俺らしい生き方ができるのだろう」
そこに居ならんだ漁夫たちの間に、どっしりと男らしいがんじょうな胡坐《あぐら》を組みながら、君は彼らとは全く異邦の人のような淋しい心持ちになってこんなことを思いつづける。
やがて漁夫たちはそこらをかたづけてやおら立ち上がると、胴の間に降り積んだ雪をつまんで、手の平で擦り合わせて、指に粘りついた飯粒を落とした。そして配繩の引き上げにかかった。
西に舂《うすづ》きだすと日脚はどんどん歩みを早める。おまけに上の方からたるみなく吹き落としてくる風に、海《うな》面《づら》は妙に弾力を持った凪《な》ぎ方をして、その上を霰《あられ》まじりの粉雪がさーっと来ては過ぎ、過ぎては来る。君たちは手袋を脱ぎ去った手を真赤にしながら、氷点以下の水でぐっしょり濡れた配繩をその一端からたぐり上げ始める。三間四間おきぐらいに、眼の下二尺もあるような鱈《たら》がぴちぴち跳ねながら引き上げられてくる。
三十町に余るくらいな配繩を全然たくしこんでしまうころには、海の上は少し墨汁を加えた牛乳のようにぼんやり暮れ残って、そこらに眺めやられる漁船のあるものは、帆を張り上げて港を目指してみたり、あるものは淋しい掛け声をなお海の上に響かせて、忙《せ》わしく配繩を上げているのもある。夕暮れに海上に点々と浮かんだ小船を見わたすのは悲しいものだ。そこには人間の生活がそのはかない末梢を淋しくさらしているのだ。
君たちの船は、海風が凪《な》ぎて陸風に変わらないうちにと帆を立て、艪を押して陸地を目がける。晴れては曇る雪時雨《しぐれ》の間に、岩内の後ろに聳える山々が、高いのから先に、水平線上に現われ出る。船歌を唄いつれながら、漁夫たちは見慣れた山々の頂きを繋ぎ合わせて、港のありかをそれとおぼろげながら見定める。そこには妻や母や娘らが、寒い浜風に吹きさらされながら、噂とりどりに汀《なぎさ》に立って君たちの帰りを待ちわびているのだ。
これも牛乳のような色の寒い夕靄《もや》に包まれた雷電峠の突角がいかつく大きく見えだすと防波堤の突先にある燈台の灯が明滅して船路を照らし始める。毎日のことではあるけれども、それを見ると、君といわず人々の胸の中には、今日もまず命は無事だったという底深い喜びがひとりでに湧き出してきて、陸に対する不思議なノスタルジヤが感ぜられる。漁夫たちの船歌はいちだんと勇ましくなって、君の父上は船の艫《とも》に漁獲を知らせる旗を揚げる。その旗がばたばたと風にあおられて音を立てる――その音がいい。
だんだん間近になった岩内の町は、黄色い街燈の灯のほかには、まだ燈火もともさずに黒く淋しく横たわっている。雪のむら消えた砂浜には、今朝と同様に女たちが彼処此処にいくつかの固い群れになって、石ころのようにこちんと立っている。白波がかすかな潮の香と音とをたてて、その足許に行っては消え、行っては消えするのが見え渡る。
帆がおろされた。船は海岸近くの波に激しく動揺しながら、艫《とも》を海岸の方に向けかえてだんだんと汀に近寄って行く。海産物会社の印《しるし》袢《ばん》天《てん》を着たり、犬の皮か何かを裏につけた外套を深々と羽織ったりした男たちが、右往左往に走りまわるその辺を目がけて、君の兄上が手慣れたさばきでさっと友綱を投げると、それがすぐ幾十人もの男女の手で引っ張られる。船はしきりと上下する舳に波のしぶきを喰いながら、どんどん砂浜に近寄って、やがて疲れきった魚のように黒く横たわって動かなくなる。
漁夫たちは艪や帆や帆の始末を簡単にしてしまうと、舷《ふなべり》を伝わって陸に跳り上がる。海産物製造会社の人夫たちは、漁夫たちと入れ替わって、船の中に猿《ましら》のように飛び込んで行く。そしてまだ死にきらない鱈の尾をつかんで、礫《つぶて》のように砂の上に抛《ほう》り出す。浜に待ち構えている男たちは、眼にもとまらない早わざで数を数えながら、魚を畚《もつこ》の中にたたき込む。漁夫たちは吉例のように会社の数取人に対して何かと故障を言いたててわめく。一日ひっそりかんとしていた浜も、このしばらくの間だけは、さすがに賑やかな気分になる。景気にまき込まれて、女たちのある者まで男といっしょになって喧嘩腰に物を言いつのる。
しかしこの華々しい賑わいも長い間ではない。命をなげ出さんばかりの険しい一日の労働の結果は、わずか十数分の間で多愛もなく会社の人たちに処分されてしまうのだ。君が君の妹を女たちの群れの中から見つけ出して、忙《せ》わしく眼を見交わし、言葉を交わす暇もなく、浜の上には乱暴に踏み荒らされた砂と、海藻と小魚とが砂まみれになって残っているばかりだ。そして会社の人夫たちは後をも見ずにまた他の漁船の方へ走って行く。
こうして岩内じゅうの漁夫たちが一生懸命に捕獲してきた魚は瞬くうちにさらわれてしまって、墨のように煙突から煙を吐く怪物のような会社の製造所へと運ばれて行く。
夕焼けもなく日はとっぷりと暮れて、雲は紫に、灯《ともしび》は光なくただ赤くばかり見える初夜になる。君たちは今朝のとおりに幾かたまりかの黒い影になって、疲れきった五体を銘々の家路に運んで行く。寒気のために五臓まで締めつけられたような君たちは口をきくのさえ物《もの》惰《のう》くてできない。女たちがはしゃいだ調子で、その日のうちに陸の上で起こったいろいろな出来事――いろいろな出来事といっても、きわ立って珍しいことやおもしろいことは一つもない――を話し立てるのを、ぶっつり押し黙ったままで聞きながら歩く。しかしそれがなんという快さだろう。
しかし君の家が近くなるにつれて妙に君の心を脅かし始めるものがある。それは近年引き続いて君の家に起こった種々な不幸がさせるわざだ。長病いの後に良人に先立った君の母上に始まって、君の家族の周囲には妙に死というものが執念くつき纏《まと》わっているように見えた。君の兄上の初生児も取られていた。汗水が凝り固まってできたような銀行の貯金は、その銀行が不景気のあおりを食って破産したために、水の泡になってしまった。命とかけがえの漁場が、間違った防波堤の設計のために、全然役に立たなくなったのは前にもいったとおりだ。こらえ性のない人々の寄り集まりなら、身代が朽ち木のようにがっくりと折れ倒れるのはありがちといわなければならない。ただ君の家では、父上といい、兄上といい、根性骨の強い正直な人たちだったので、すべての激しい運命を真正面から受け取って、骨身を惜しまず働いていたから、曲がったなりにも今日今日を事欠かずに過ごしているのだ。しかし君の家を襲ったような運命の圧迫はそこいらじゅうに起こっていた。軒を並べて住みなしていると、どこの家にもそれ相当な生計が立てられているようだけれども、一軒一軒に立ち入ってみると、このごろの岩内の町には鼻を酸くしなければならないようなことがそこいらじゅうにまくしあがっていた。ある家は眼に立って零落していた。嵐に吹きちぎられた屋根板が、いつまでもそのままで雨の漏れるに任せた所もすくなくない。眼鼻立ちの揃った年ごろの娘が、嫁入ったという噂もなく姿を消してしまう家もあった。立派に家《いえ》框《まち》が立ちなおったと思うとその家は代が替わったりしていた。そろそろと地の中に引きこまれて行くような薄気味悪い零落の兆候が町全体に何処となく漂っているのだ。
人々は暗々裡にそれに脅かされている。いつどんなことがまくし上がるかもしれない――そういう不安は絶えず君たちの心を重苦しく押しつけた。家から火事を出すとか、家から出さないまでも類焼の災難に遇うとか、持ち船が沈んでしまうとか、働き盛りの兄上が死病に取りつかれるとか、鰊《にしん》の群《く》来《き》がすっかりはずれるとか、ワク船が流されるとか、いろいろに想像されるこれらの不幸の一つだけに出くわしても、君の家にとっては足腰の立たない打撃となるのだ。疲れた五体を家路に運びながら、そして馬鹿に建物の大きなわりあいに、それにふさわない暗い灯でそこと知られる柾葺《まさぶ*》きの君の生まれた家屋を眼の前に見やりながら、君の心は運命に対する疑いのために妙におくれがちになる。
それでも閾《しきい》をまたぐと土間の隅の竈《かまど》には火が暖かい光を放って水飴のように軟らかく撓《しな》いながら燃えている。どこからどこまで真黒に煤けながら、だだっ広い囲炉裡の間はきちんとかたづけてあって、居心よさそうにしつらえてある。嫂《あによめ》や妹の心づくしを君はすぐ感じてうれしく思いながら持って帰った漁具――寒さのために凍り果てて触れ合えば石のように音を立てる――をそれぞれの処に始末すると、これもからからと音を立てるほど凍り果てた仕事着を一枚一枚脱いで、竈のあたりに懸けつらねて普段着に着がえる。一日の寒気に凍えきった肉体はすぐ熱を吹き出して、顔などはのぼせ上がるほどぽかぽかしてくる。普段着の軽い暖かさ、一椀の熱湯の味のよさ。
小気味よいほどしたたか夕《ゆう》餉《げ》を食った漁夫たちが、
「親方さんお休み」
と挨拶してぞろぞろ出て行った後には、水入らずの家族五人が囲炉裡の火に真赤に顔を照らし合いながらさし向かいになる。戸外ではさらさらと音を立てて霰《あられ》まじりの雪が降りつづけている。七時というのにもうその界隈は夜ふけ同様だ。どこの家もしんとして赤子の泣く声が時おり聞こえるばかりだ。ただ遠くの遊廓の方から、朝寝のできる人たちが寄り集まっているらしい酔狂のさざめきだけが途切れ途切れに風に送られて伝わってくる。
「俺らはあ寝まるぞ」
わずかな晩酌に昼間の疲労を存分に発して、眼をとろんこにした君の父上が、まず囲炉裡の側に床をとらして横になる。やがて兄上と嫂とが次の部屋に退くと、囲炉裡の側には、君と君の妹だけが残るのだ。
時が静かに淋しく、しかし睦《むつ》まじくじりじりと過ぎて行く。
「寝づに」
針の手をやめて、君の妹はおとなしく顔を上げながら君に言う。
「先に寝れ、いいから」
胡坐《あぐら》の膝の上にスケッチ帖を拡げて、と見こう見している君は、振り向きもせずに、ぶっきらぼうにそう答える。
「朝げにまた眠いとってこづき起こされべえに」にっと片頬に笑みを湛えて妹は君に悪戯らしい眼を向ける。
「なんの」
「なんのでねえよ、そんだもの見こくってなんのたしになるべえさ。皆んなよって笑っとるでねえか、〓《やまさ》の兄さんこと暇さえあれば見ったくもない画べえ描いて、なんするだべって」
君は思わず顔を上げる。
「誰が言った」
「誰って……皆んな言ってるだよ」
「お前もか」
「私は言わねえ」
「そうだべさ。それならそれでいいでねえか。わけのわからねえ奴さなんとでも言わせておけばいいだ。これを見たか」
「見たよ。……荘園の裏から見た所だなあそれは。山は私気に入ったども、雲が黒すぎるでねえか」
「差し出口はおけやい」
そして君たち二人は顔を見合って溶けるように笑み交わす。寒さはしんしんと脊骨まで徹って、戸外には風の落ちた空を黙って雪が降り積んでいるらしい。
今度は君が発意する。
「おい寝べえ」
「兄さん先に寝なよ」
「お前寝べし……明日また一番に起きるだから……戸締まりは俺らがするに」
二人はわざと意趣に争ってから、妹はとうとう先に寝ることにする。君はなお半時間ほどスケッチに見入っていたが、寒さに堪えきれなくなってやがて身を起こすと、藁《わら》草《ぞう》履《り》を引っかけて土間に降り立ち、竈の火許を十分に見届け、漁具の整頓を一わたり注意し、入口の戸に錠前をおろし、雪の吹きこまぬよう窓の隙間をしっかりと閉じ、そしてまた囲炉裡座に帰ってみると、ちょろちょろと燃えかすれた根《ね》粗《そ》朶《だ》の火におぼろに照らされて、君の父上と妹とが炉縁の二方に寝くるまっているのが物淋しく眺められる。一日一日生命から遠ざかって行く老人と、若々しい生命の力に悩まされているとさえ見える妹との寝顔は、明滅する焔の前に幻のような不思議な姿を描き出す。この老人の老い先をどんな運命が待っているのだろう。この処女の行く末をどんな運命が待っているのだろう。未来はすべて暗い。そこではどんなことでも起こり得る。君は二人の寝顔を見つめながらつくづくとそう思った。そう思うにつけて、その人たちの行く末については、すなおな心で幸あれかしと祈るほかはなかった。人の力というものがこんな厳粛な瞬間にはいちばん便りなく思われる。
君はスケッチ帖を枕許に引きよせて、垢《あか》じみた床の中にそのままもぐり込みながら、氷のような蒲団の冷たさが体の温かみで暖まるまで、まじまじと眼を見開いて、君の妹の寝顔を、憐れみとも愛ともつかぬ涙ぐましい心持ちで眺めつづける。それは君が妹に対して幼少の時から何かのおりに必ず抱くなつかしい感情だった。
それもやがて疲労の夢が押し包む。
今岩内の町に目覚めているものは、おそらく朝寝坊のできる富んだ惰《なま》け者と、燈台守りと犬ぐらいのものだろう。夜は寒く淋しくふけて行く。
君。君はこんな私の自分勝手な想像を、私が文学者であるということから許してくれるだろうか。私の想像はあとからあとからと引き続いて湧いてくる。それがあたっていようがあたっていまいが君は私がこうして筆取るそのもくろみに悪意のないことだけは信じてくれるだろう。そして無邪気な微笑をもって、私の唯一の生命である空想が勝手次第に育って行くのを見守っていてくれるだろう。私はそれに頼ってさらに書き続けて行く。
鰊の漁《りよう》期《き》――それは北方に住む人の胸にのみしみじみと感ぜられるなつかしい季節の一つだ。この季節になると長く地の上を領していた冬が老いる。北風も、雪も、囲炉裡も、綿入れも、雪鞋《つまご》も、等しく老いる。一片の雲のたたずまいにも、自然のもくろみと予言とを人一倍鋭敏に見て取る漁夫たちの眼には、朝夕の空の模様が春めいてきたことをまざまざと思わせる。北西の風が東に廻るにつれて、単色に堅く凍りついている雲が、蒸されるようにもやもやとくずれだして、淡いながら暖かい色の晴雲に変わって行く。朝から風もなく晴れ渡った午後なぞに波打ちぎわに出てみると、やや緑色を帯びた青空のはるか遠くの地平線高く、幔《まん》幕《まく》を真一文字に張ったような雪雲の堆積に日が射して、まんべんなく薔《ば》薇《ら》色に輝いている。なんという美妙な美しい色だ。冬はあすこまで遠退いて行ったのだ。そう思うと、不幸を突き抜けて幸福に出遇った人のみが感ずる、あの過去に対する寛大な思い出が、ゆるやかに浜に立つ人の胸に流れこむ。五か月の長い厳冬を牛のように忍耐強く辛抱しぬいた北人の心に、もう少しでひねくれた根性にさえなりかねた北人の心に、春の約束がほのぼのと恵み深く響き始める。
朝晩の凍《し》み方はたいして冬と変わりはない。濡れた金物がべたべたと糊のように指先に粘りつくことは珍しくない。けれども日が高くなると、さすがに何処《どこ》か寒さにひびがいる。浜辺は急に景気づいて、納屋の中からは大釜や締め框《かまち》が担ぎ出され、ホック船やワク船をつとのように蔽《おお》うていた蓆《むしろ》が取りのけられ、旅烏といっしょに集まってきた漁夫たちが、綾を織るように雪の解けた砂浜を行き違って、目まぐるしい活気を見せ始める。
鱈《たら》の漁獲がひとまず終わって鰊《にしん》の先駆《はしり》もまだ群《く》来《け》てこない。海に出て働く人たちはこの間に少しの間息をつく暇を見いだすのだ。冬の間から一心にうかがっていたこの暇に、君はある日朝からふいと家を出る。もちろん懐ろの中には手馴れたスケッチ帖と一本の鉛筆とを潜まして。
家を出ると往来には漁夫たちや、女でめん(女労働者)や、海産物の仲買いといったような人人が賑やかに浮き浮きして行ったり来たりしている。根雪が氷のように磐《いわ》になって、その上を雪解けの水が、一冬の塵埃に染まって、泥炭地の湧水のような色でどぶどぶと漂っている。馬《ば》橇《そり》に材木のように大きななまなましい薪をしこたま積み載せて、その悪路を引っぱって来た一人の年配な内儀《かみ》さんは、君を認めると、引き綱をゆるめて腰を延ばしながら、戯れた調子で大きな声をかける。
「はれ兄さんもう浜さ行くだね」
「うんにゃ」
「浜でねえ? たらまた山かい。魚を商売にする人が暇さえあれば山さ突っぱしるだから怪《け》体《たい》だあてばさ。いい人《ふと》でもいるだんベさ。は、は、は、……。うんすら妬《や》いてこすに、一押し手を貸すもんだよ」
「口はばったいことべ言うと鰊様が群来《くけ》てはくんねえぞ。おかしな婆《ば》様《さま》よなあお前も」
「婆《ば》様《さま》だ!? 人《ふと》聞きの悪いことべ言わねえもんだ。人《ふと》様《さま》が笑うでねえか」
実際この内儀さんのはしゃいた雑《ぞう》言《ごん》には往来の人たちがおもしろがって笑っている。君は当惑して、橇の後ろに廻って三、四間ぐんぐん押しやらなければならなかった。
「そだ。そだ。兄《あん》さんいい力だ。浜まで押してくれたら己《お》らお前《めえ》に惚れてこすに」
君はあきれて橇から離れて逃げるように行く手を急ぐ。おもしろがって二人の問答を聞いていた群集は思わず一度にどっと笑いくずれる。人々のその高笑いの声にまじって、内儀さんがまた誰かに話しかける大声がのびやかに聞こえてくる。
「春が来るのだ」
君は何につけても好意に満ちた心持ちでこの人たちを思いやる。
やがて漁師町をつきぬけて、この市街では目ぬきな町筋に出ると、冬じゅう空屋になっていた西洋風の二階建の雨戸が繰り開けられて、札幌のある大きなデパートメント・ストアの臨時出店が開かれようとしている。藁《わら》屑《くず》や新聞紙のはみ出た大きな木箱が幾個か店先に抛り出されて、広告のけばけばしい色旗が、活動小屋の前のように立て列べてある。そして気の利《き》いた手代が十人近くも忙しそうに働いている。君はこの大きな臨時の店が、岩《いわ》内《ない》の小売商人にどれほどの打撃であるかを考えながら、自分たちの漁獲が、資本のないためにほかの土地から投資された海産物製造会社によって捨て値で買い取られる無念さをも思わないではいられなかった。「大きな手にはつかまれる」……そう思いながら君はその店の角を曲がってわりあいにさびれた横町にそれた。
その横町を一町も行かない所に一軒の薬種店があって、それにつづいて小さな調剤所がしつらえてあった。君はそこのガラス窓から中をのぞいてみる。ずらっと列べた薬種瓶の下の調剤卓の前に、もたれのないくり抜きの事務椅子に腰かけて、黒い事務マントを羽織った悒《ゆう》鬱《うつ》そうな小柄な若い男が、一心に小形の書物を読みふけっている。それはKといって、君が岩内の町に持っているただ一人の心の友だ。君はくすんだガラス板に指先を持って行ってほとほととたたく。Kは機敏に書物から眼を挙げてこちらを振りかえる。そして驚いたように座を立ってきてガラス障子を開ける。
「何処に」
君は黙ったまま懐中からスケッチ帖を取り出して見せる。そして二人は互いに理解するようにほほえみかわす。
「君は今日は出られまい」
君は東京の遊学時代を記念するために、大事にとっておいた書生の言葉を使えるのが、この友だちに会う時の一つの楽しみだった。
「だめだ。このごろは漁夫で岩内の人数が急に殖《ふ》えたせいか忙《せ》わしい。しかし今日はまだ寒いだろう。手が自由に動くまい」
「何、画は描けずとも山を見ていればそれでいいだ。久しく出てみないから」
「僕は今これを読んでいたが(と言ってKはミケランジェロの書《しよ》翰《かん》集《しゆう》を君の眼の前にさし出して見せた)すばらしいもんだ。こうしていてはいけないような気がするよ。だけれどもとても及びもつかない。いいかげんな芸術家というものになって納まっているより、この薄暗い薬局で、黙りこくって一生を送るほうが矢張り僕には似合わしいようだ」
そう言って君の友は悒鬱な小柄な顔をひときわ悒鬱にした。君は励ます言葉も慰める言葉も知らなかった。そして心咎めするもののようにスケッチ帖を懐ろに納めてしまった。
「じゃ行って来るよ」
「そうかい。そんなら帰りには寄って話して行きたまえ」
この言葉を取り交わして、君はその薄汚れたガラス窓から離れる。
南へ南へと道を取って行くと節《せつ》婦《ぷ》橋《ばし》という小さな木《もつ》橋《きよう》があって、そこから先にはもう家並みは続いていない。溝泥をこね返したような雪道はだんだんきれいになって行って、地面に近い所が水になってしまった積雪の中に、君の古い兵隊長靴はややともするとすぽりすぽりと踏み込んだ。
雪に蔽われた野は雷電峠の麓の方へ爪先上がりに広がって、おりから晴れ気味になった雲間を漏れる日の光が、地面の蔭日《ひ》向《なた》を銀と藍とでくっきりと彩《いろど》っている。寒い空気の中に雪の照り返しがかっかっと顔をほてらせるほど強く射してくる。君の顔は見る見る雪焼けがして真赤に汗ばんできた。今までがんじょうに被っていた頭巾をはねのけると、眼界は急にようようと広がって見える。
なんという宏大な厳かな景色だ。胆《い》振《ぶり》の分水嶺から分かれて西南を指す一連の山波が、地平から力強く伸び上がってだんだん高くなりながら、岩内の南方へ走ってくると、そこにはからずも陸の果てがあったので、突然水ぎわに走りよった奔《ほん》馬《ば》が、揃えた前脚を踏み立てて、思わず平頸《*》を高く聳やかしたように、山は急にそそり立って、沸騰せんばかりに天を摩している。今にもすさまじい響を立ててくずれ落ちそうに見えながら、何百万年か、昔のままの姿でそそり立っている。そして今はただ一色の白さに雪で被われている。そして雲が空を動くたびごとに、山は居ずまいをなおしたかのように姿を変える。君は久し振りで近々とその山を眺めるともう有頂天になった。そして余のことはきれいに忘れてしまう。
君はただいちずにがむしゃらに本道から道のない積雪の中に足を踏み入れる。行く手に黒ずんで見える楡《にれ》の切り株の所まで腰から下まで雪にまみれてたどり着くと、君はそれに兵隊長靴を打ちつけて脚の雪を払い落としながらたたずむ。そして眼を据えてもう一度雪野の果てに聳え立つ雷電峠を物珍しく眺めて魅入られたように茫然となってしまう。幾度見ても倦きることのない山のたたずまいが、この前見た時と相違のあるはずはないのに、全く異なった表情をもって君の眼に映ってくる。この前見に来た時は、それは厳冬の一日のことだった。矢張り今日と同じ処に立って、凍える手に鉛筆を運ぶこともできず、黙ったまま立って見ていたのだったが、その時の山は地面から静々と盛り上がって、雪雲に閉ざされた空をしっかとつかんでいるように見えた。その感じは恐ろしく執念深く力強いものだった。君はその前に立って押しひしゃげられるような威圧を感じた。今日見る山はもっとすなおな大きさと豊かさとをもって静かに君を掻き抱くように見えた。ふだん自分の心持ちが誰からも理解されないで、一種の偏屈人のように人々から取り扱われていた君には、この自然が君に対して求めてくる親しみはしみじみとしたものだった。君はまたさらに眼を挙げて、なつかしい友に向かうようにしみじみと山の姿を眺めやった。
ちょうど親しい心と心とが出遇った時に、互いに感ぜられるような温かい涙ぐましさが、君の雄々しい胸の中に湧き上がってきた。自然は生きている。そして人間以上に強く高い感情を持っている。君には同じ人間の語る言葉だが英語はわからない。自然の語る言葉は英語よりもはるかに君にはわかりいい。ある時には君が使っている日本語そのものよりももっと感情の表現の豊かな平明な言葉で自然が君に話しかける。君はこの涙ぐましい心持ちを描いてみようとした。
そして懐中からいつものスケッチ帖を取り出して切り株の上に置いた。開かれた手帳と山とをかたみがわりに見やりながら、君は丹念に鉛筆を削り上げた。そして粗末な画学紙の上には、たくましく荒くれた君の手に似合わない繊細な線が描かれ始めた。
ちょうど人の肖像を描こうとする画家が、その人の耳《じ》目《もく》鼻《じ》口《こう》をそれぞれ綿密に観察するように、君は山の一つの皺《しわ》一つの襞《ひだ》にも君だけが理解すると思える意味を見いだそうと努《つと》めた。実際君の眼には山のすべての面《かお》は、そのまますべての表情だった。日光と雲との明暗《キヤロスキユロ》に彩《いろど》られた雪の重なりには、熱愛をもって見極めようと努める人々にのみ説き明かされる貴い謎が潜めてあった。君は一つの謎を解き得たと思うごとに、小躍りしたいほどの喜びを感じた。君の周囲には今はもう生活の苦情もなかった。世間に対する不安も不幸もなかった。自分自身に対するおくれがちな疑いもなかった。子供のような快活な無邪気な一本気な心……君の脣からは知らず知らず軽い口笛が漏れて、君の手は躍るように調子を取って、紙の上を走ったり、山の大きさや角度を計ったりした。
そうして幾時間が過ぎたろう。君の前には「時」というものさえなかった。やがて一つのスケッチが出来上がって、軽い満足の溜息と共に、働かし続けていた手をとめて、片手にスケッチ帖を取り上げて眼の前に据えた時、君は軽い疲労――軽いといっても、君が船の中で働く時の半日分の労働の結果よりは軽くない――を感じながら、今日が仕事のよい収穫であれかしと祈った。画学紙の上には、吹き変わる風のために乱れがちな雲の間に、その頂を見せたり隠したりしながら、真白にそそり立つ峠の姿と、その手前の広い雪の野のここかしこに叢立《むらだ》つ針葉樹の木立や、薄く炊煙を地になびかして処々に立つみじめな農家、これらの間を鋭い刃物で断ち割ったような深い峡《はざ》間《ま》、それらが特種な深い感じをもって特種な筆触で描かれている。君はややしばらくそれを見やって微笑《ほほえ》ましく思う。久し振りで自分の隠れた力が、哀れな道具立てによってではあるが、とにかく形を取って生まれ出たと思うと嬉しいのだ。
しかしながら狐《こ》疑《ぎ》は待ちかまえていたように、君が満足の心を十分味わう暇もなく、足許から押し寄せてきて君を不安にする。君は自分にへつらうものに対して警戒の眼を向ける人のように、自分の満足の心持ちを厳しく調べてかかろうとする。そして今描き上げた画を容赦なく山の姿と較べ始める。
自分が満足だと思った所は何処《どこ》にあるのだろう。それはいわば自然の影絵にすぎないではないか。向こうに見える山はそのまま寛大と希望とを象徴するような一つの生きた魂的《マツス》であるのに、君のスケッチ帖に縮め込まれた同じものの姿は、なんの表情も持たない線と面との集まりとより君の眼には見えない。
この悲しい事実を発見すると君はやっきとなって次のページをまくる。そして自分の心持ちをひときわ謙遜な、そして執着の強いものにし、粘り強い根気でどうかして山をそのまま君の画帖の中に生かし込もうとする、新たな努力が始まると、君はまたすべてのことを忘れ果てて一心不乱に仕事の中に魂を打ち込んで行く。そして君が昼弁当を食うことも忘れて、四枚も五枚ものスケッチを作った時には、もうだいぶ日は傾いている。
しかしとてもそこを立ち去ることはできないほど、自然は絶えず美しくよみがえって行く。朝の山には朝の命が、昼の山には昼の命があった。夕方の山にはまたしめやかな夕方の山の命がある。山の姿は、その線と蔭日向とばかりでなく、色彩にかけても、日が西に廻るとすばらしい魔術のような不思議を現わした。峠のある部分は鋼鉄のように寒く硬く、また他の部分は気化した色素のように透明で消え失せそうだ。夕方に近づくにつれて、やや煙り始めた空気の中に、声も立てずに粛然と聳えているその姿には、汲んでも汲んでも尽きない平明な神秘が宿っている。見ると山の八合目と覚しい空高く、小さな黒い点が静かに動いて輪を描いている。それは一羽の大鷲に違いない。眼を定めてよく見ると、長く伸ばした両の翼を微《み》塵《じん》も動かさずに、身体全体をやや斜めにして、大きな水の渦に乗った枯れ葉のように、その鷲は静かに伸びやかに輪を造っている。山が物言わんばかりに生きてると見える君の眼には、この生物はかえって死物のように思いなされる。ましてや平原の処々に散在する百姓家などは、山が人に与える生命の感じに較べれば、みじめな幾個かの無機物にすぎない。
昼は真冬からは著しく延びてはいるけれども、もう夕暮れの色はどんどん催してきた。それと共に肌身に寒さも加わってきた。落日に彩《いろど》られて光を呼吸するように見えた雲も、煙のような白と淡藍との蔭日向《ひなた》を見せて、雲と共に大空の半分を領していた山も、見る見る寒い色に堅くあせて行った。そして靄《もや》ともいうべき薄い膜が君と自然との間を隔てはじめた。
君は思わず溜息をついた。言い解きがたい暗愁――それは若い人が恋人を思う時に、その恋が幸いに幸福であるにもかかわらず、胸の奥に感ぜられるような――が不思議に君を涙ぐましくした。君は鼻をすすりながら、ばたんと音を立ててスケッチ帖を閉じて、鉛筆といっしょにそれを懐《ふところ》に納めた。凍《い》てた手は懐の中の温かみをなつかしく感じた。弁当は食う気がしないで、切り株の上からそのまま取って腰にぶらさげた。半日立ち尽くした脚は、動かそうとすると電気をかけられたようにしびれていた。ようようのことで君は雪の中から爪先をぬいて一歩一歩本道の方へ帰って行った。はるか向こうを見ると山から木材や薪炭を積み下ろしてきた馬橇がちらほらと動いていて、馬の首につけられた鈴の音が冴えた響きをたてて幽《かす》かに聞こえてくる。それは漂浪の人がはるかに故郷の空を望んだ時のようななつかしい感じを与える。その消え入るような、淋しい、冴えた音がことになつかしい。不思議な誘惑の世界から突然現世に帰った人のように、君の心はまだ夢心地で、芸術の世界と現実の世界との淡々しい境界線をたどっているのだ。そして君は歩きつづける。
いつの間にか君は町に帰って例の調剤所の小さな部屋で、友だちのKと向き合っている。Kは君のスケッチ帖を興奮した目つきで彼処此処見返している。
「寒かったろう」
とKが言う、君はまだ本当に自分に帰りきらないような顔つきで、
「うむ。……寒くはなかった。……その線の鈍ってるのは寒かったからではないんだ」
と答える。
「鈍っていはしない。君がすっかり何もかも忘れてしまって、駈けまわるように鉛筆をつかった様子がよく見えるよ。今日のは皆んな非常に僕の気に入ったよ。君も少しは満足したろう」
「実際の山の形に較べてみたまえ。……僕は親父にも兄貴にもすまない」
と君は急いで言いわけする。
「なんで?」
Kは怪《け》訝《げん》そうにスケッチ帖から眼を上げて君の顔をしげしげと見守る。
君の心の中には苦い灰汁のようなものが湧き出てくるのだ。漁にこそ出ないが、本当をいうと漁夫の家には一日として安閑としていい日とてはないのだ。今日も、君が一日を画に暮らしていた間に、君の家では家じゅうで忙《せ》わしく働いていたのに違いないのだ。建網に損じの有る無し、網をおろす場所の海底の模様、大釜を据えるべき位置、桟橋の改造、薪炭の買い入れ、米塩の運搬、仲買人との契約、肥料会社との交渉……そのほか鰊漁の始まる前に漁場の持ち主がしておかなければならないことはあり余るほどあるのだ。
君は自分が画に親しむことを道楽だとは思っていない。いないどころか、君にとってはそれは、生活よりもさらに厳粛な仕事であるのだ。しかし自然と抱き合い、自然を画の上に活かすということは、君の住む所では君一人だけが知っている喜びであり悲しみであるのだ。ほかの人たちは――君の父上でも、兄妹でも、隣り近所の人でも――ただ不思議な子供じみた戯れとよりそれを見ていないのだ。君の考えどおりをその人たちの頭の中にたんのうができるように打ちこむというのは思いも及ばぬことだ。
君は理窟ではなんら恥ずべきことがないと思っている。しかし実際ではけっしてそうは行かない。芸術の神聖を信じ、芸術が実生活の上に玉座を占むべきものであるのを疑わない君も、その事柄が君自身に関係してくると、思わず知らず足許がぐらついてくるのだ。
「俺が芸術家であり得る自信さえできれば、俺は一刻の躊《ちゆう》躇《ちよ》もなく実生活を踏みにじっても、親しいものを犠牲にしても、歩み出す方向に歩み出すのだが……家の者どもの実生活の真剣さを見ると、俺は自分の天才をそうやすやすと信ずることができなくなってしまうんだ。俺のようなものを描いていながら彼らに芸術家顔をすることが恐ろしいばかりでなく、僣《せん》越《えつ》なことに考えられる。俺はこんな自分が恨めしい、そして恐ろしい。皆んなはあれほど心から満足して今日今日を暮らしているのに、俺だけはまるで陰謀でも企んでいるように始終暗い心をしていなければならないのだ。どうすればこの苦しさこの淋しさから救われるのだろう」
平常のこの考えがKと向かい合っても頭から離れないので、君は思わず「親父にも兄貴にもすまない」と言ってしまったのだ。
「どうして?」と言ったKも、君も、そのまま黙ってしまった。Kには、物を言われないでも君の心はよくわかっていたし、君はまた君で、自分はきれいにあきらめながらどこまでも君を芸術の捧誓者たらしめたいと熱望する、Kの淋しい、自己を滅した、温かい心の働きをしっくりと感じていたからだ。
君ら二人の眼は悒鬱な熱に輝きながら、互いに瞳を合わすのをはばかるように、やや燃えかすれたストーヴの火を眺め入る。
そうやって黙っているうちに君はたまらないほど淋しくなってくる。自分を憐れむともKを憐れむとも知れない哀情がこみ上げて、Kの手を取り上げてなでてみたい衝動を幾度も感じながら、めめしさを退けるようにむずがゆい手を腕の所で堅く組む。
ふと煤けた天井から垂れ下がった電球が光を放った。驚いて窓から見るともう往来は真暗になっている。冬の日の舂《うすづ》き隠れる早さを今さらに君はしみじみと思った。掃除の行き届かない電球は埃《ごみ》と手垢とでことさら暗かった。それが部屋の中をなお悒鬱にして見せる。
「飯だぞ」
Kの父の荒々しい癇走った声が店の方からいかにもつっけんどんに聞こえてくる。ふだんから自分の一人息子の悪友でもあるかのごとく思いなして、君が行くとかつて機嫌のいい顔を見せたことのないその父らしい声だった。Kはちょっと反抗するような顔つきをしたが、陰性なその表情をますます陰性にしただけで、きぱきぱと盾《たて》をつく様子もなく、父の心と君の心とをうかがうように声のする方と君の方とを等分に見る。
君は長座をしたのがKの父の気に障《さわ》ったのだと推すると座を立とうとした。しかしKはそういう心持ちに君をしたのを非常に物足らなく思ったらしく、君にもぜひ夕食をいっしょにしろと勧めてやまなかった。
「じゃ僕は昼の弁当を喰わずにここに持ってるからここで食おうよ。遠慮なく済ましてきたまえ」
と君は言わなければならなかった。
Kは夕食を君に勧めながら、ほんとうはそれを両親に打ち出して言うことを非常に苦にしていたらしく、さればとてまずい心持ちで君を還すのも堪えられないと思いなやんでいたらしかったので、君の言葉を聞くと活路を見いだしたように少し顔を晴れ晴れさせて調剤室を立って行った。それも思えば一家の貧窮がKの心に染み渡ったしるしだった。君はひとりになるとだんだん暗い心になり増さるばかりだった。
それでも夕飯という声を聞き、戸の隙から漏れる焼き魚の匂いをかぐと、君は急に空腹を感じだした。そして腰に結び下げた弁当包みを解いてストーヴに寄り添いながら椅子に腰かけたままの膝の上でそれを開いた。
北海道には竹がないので、竹の皮の代わりにへぎで包んだ大きな握り飯はすっかり凍ててしまっている。春立った時節とはいいながら一日寒空に、切り株の上にさらされていたので、飯粒は一粒一粒ぼろぼろに固くなって、持った手の中からこぼれ落ちる。試みに口に持って行ってみると米の持つ甘味はすっかり奪われていて、無味な繊維のかたまりのような触角だけが冷たく舌に伝わってくる。
君の眼からは突然、君自身にも思いかけなかった熱い涙がほろほろとあふれ出た。じっとすわったままではいられないような寂《せき》寥《りよう》の念が真暗に胸じゅうに広がった。
君はそっと座を立った。そして弁当を元どおりに包んで腰にさげ、スケッチ帖を懐《ふところ》にねじこむと、こそこそと入口に行って長靴をはいた。靴の皮は夕方の寒さに凍って鉄板のように堅く冷たかった。
雪は燐のようなかすかな光を放って、真黒に暮れ果てた家々の屋根を被うていた。淋しいこの横町は人の影も見せなかった。しばらく歩いて例のデパートメント・ストアの出店の角近くに来ると、一人の男の子がスケート下駄(下駄の底にスケートの歯をすげたもの)をはいて、できぼくに凍った道の上をがりがりと音をさせながら走ってきた。その児はスケートに夢中になって君の側をすりぬけても君には気がついていないらしい。
「氷の上がすべれだした時はほんとに夢中になるものだ」
君は自分の遠い過去をのぞき込むように淋しい心の中にこう思う。何事を見るにつけても君の心は痛んだ。
デパートメント・ストアの在る本通りに出ると打って変わって賑やかだった。電燈も急に明るくなったように両側の家を照らして、そこには店の者と購買者との影が綾を織った。それは君にとっては、その場合の君にとっては、一つ一つ見知らぬものばかりのようだった。そこいらから起こる人声や荷《に》橇《ぞり》の雑音などがぴんぴんと君の頭を針のように刺戟する。見物人の前に引き出された見世物小屋の野獣のようないらだたしさを感じて、君は眉根の所に電光のように起こる痙《けい》攣《れん》を小うるさく思いながら、むずかしい顔をしてさっさと賑やかな往来を突きぬけて漁師町の方へ急ぐ。
しかし君の家が見えだすと君の足はひとりでにゆるみがちになって、君の頭は知らず識らず、なお低くうなだれてしまった。そして君は疑わしそうな眼をときどき上げて、見知り越しの顔にでも遇いはしないかと気づかった。しかしこの界隈はもう静まり返っていた。
「だめだ」
突然君はこう小さく言って往来の真中に立ちどまってしまった。そうして立ちすくんだその姿の首から肩、肩から背中に流れる線は、もしそこに見守る人がいたならば、思わずぞっとして異常な憂愁と力とを感ずるに違いない不思議に強い表現を持っていた。
しばらく釘づけにされたように立ちすくんでいた君は、やがて自分自身をもぎ取るように決然と肩をそびやかして歩きだす。
君は自分でも何処《どこ》をどう歩いたか知らない。やがて君が自分に気がついて君自身を見いだした所は、海産物製造会社の裏の険《けわ》しい崕《がけ》を登りつめた小山の上の平地だった。
全く夜になってしまっていた。冬は老いて春は来ない――その壊れ果てたような荒涼たる地の上高く、寒さをかすかに光にしたような雲のない空が、息気《いき》もつかずに、凝然として延び広がっていた。いろいろな光度といろいろな光彩でちりばめられた無数の星々の間に、冬の誇りなる参宿《オライオン》が、微妙な傾斜をもって三つならんで、何かの凶徴のようにひときわぎらぎらと光っていた。星は語らない。ただはるかな山裾から、干潮になった無《む》月《げつ》の潮《しお》騒《ざい》が、海妖の単調な誘惑の歌のように、なまめかしく撫《な》でるように聞こえてくるばかりだ。風が落ちたので、凍りついたように寒く沈みきった空気は、この海のささやきのために鈍く震えている。
君はその平地の上に立ってぼんやりあたりを見廻していた。君の心の中には先ほどから恐ろしい企図《たくらみ》が眼ざめていたのだ。それは今日に始まったことではない。ともすれば君の油断を見すまして、泥沼の中からぬるりと頭を出す水の精のように、その企図《たくらみ》は心の底から現われ出るのだ。君はそれを極端に恐れもし、憎みもし、卑しみもした。男と生まれながら、そんな誘惑を感ずることさえやくざなことだと思った。しかしいったんその企図が頭を擡《もた》げたが最後、君は魅入られた者のように、もがき苦しみながらもじりじりとそれを成就するためにはすべてを犠牲にしても悔いないような心になって行くのだ、その恐ろしい企図とは自殺することなのだ。
君の心は妙にしんと底冷えがしたようにとげとげしく澄みきって、君の眼に映る外界の姿は突然全く表情を失ってしまって、固い、冷たい、無慈悲な物の積み重なりにすぎなかった。無際限なただ一つの荒廃――その中に君だけが呼吸を続けている、それがたまらぬほど淋しく恐ろしいことに思いなされる荒廃が君の上下四方に広がっている。波の音も星の瞬きも、夢の中の出来事のように、君の知覚の遠い遠い末梢に、感ぜられるともなく感ぜられるばかりだった。すべての現象がてんでんばらばらに互いの連絡なく散らばってしまった。その中で君の心だけが張りつめて死の方へとじりじり深まって行こうとした。重《おも》錘《り》をかけて深い井戸へ投げ込まれた燈明のように、深みに行くほど君の心は、光を増しながら、感じを強めながら、最後には死というその冷たい氷の表面に消えてしまおうとしているのだ。
君の頭がしびれて行くのか、世界がしびれて行くのか、ほんとうにわからなかった。恐ろしい境界に臨んでいるのだと幾度も自分をいましめながら、君は平気な気持でとてつもないのんきなことを考えたりしていた。そして君は夜のふけて行くのも寒さの募るのも忘れてしまって、そろそろと山鼻の方へ歩いて行った。
脚の下遠く黒い岩浜が見えて波の遠音が響いてくる。
ただ一飛びだ。それで煩悶も疑惑もきれいさっぱり帳消しになるのだ。
「家の者たちはほんとうに気が違ってしまったとでも思うだろう。……頭が先にくだけるかしらん。足が先に折れるかしらん」
君はまたたきもせずにぼんやり崖の下をのぞきこみながら、他人のことでも考えるように、そう心の中でつぶやく。
不思議なしびれはどんどん深まって行く。波の音などは少しずつかすかになって、耳にはいったりはいらなかったりする。君の心はただいちずに、眠り足りない人が思わず瞼《まぶた》をふさぐように、崖の底を目がけてまろび落ちようとする。危い……危い……他人のことのように思いながら君の心は君の肉体を崖のきわからまっさかさまに突き落とそうとする。
突然君は跳ね返されたように正気に帰って後ろに飛び退《すざ》った。耳をつんざくような鋭い音響が君の神経をわななかしたからだ。
ぎょっと驚いていまさらのように大きく眼を見張った君の前には平地から突然下方に折れ曲がった崖の縁《へり》が、地球の傷口のように底深い口を開けている。そこに知らず織らず近づいて行きつつあった自分を省みて、君は本能的に身の毛をよだてながら正気になった。
鋭い音響は眼の下の海産物製造会社の汽笛だった。十二時の交代時間になっていたのだ。遠い山の方からその汽笛の音はかすかに反響になって、二重にも三重にも聞こえてきた。
もう自然はもとの自然だった。いつの間にか元どおりな崩壊したような淋しい表情に満たされて涯《はて》もなく君の周囲に広がっていた。君はそれを感ずると、ひたと底のない寂《せき》寥《りよう》の念に襲われだした。男らしい君の胸をぎゅっと引きしめるようにして、熱い涙がとめどなく流れ始めた。君はただひとり真夜中の暗闇の中にすすり上げながら、真白に積んだ雪の上にうずくまってしまった。立ち続ける力さえ失ってしまって。
君よ〓
このうえ君の内部生活を忖《そん》度《たく》したり揣《し》摩《ま》したりするのは僕のなし得るところではない。それは不可能であるばかりでなく、君を涜《けが》すと同時に僕自身を涜すことだ。君の談話や手紙を綜合した僕のこれまでの想像は誤っていないことを僕に信ぜしめる。しかし僕はこのうえの想像を避けよう。ともかく君はかかる内部の葛《かつ》藤《とう》の激しさに堪えかねて、去年の十月にあのスケッチ帖と真率な手紙とを僕に送ってよこしたのだ。
君よ。しかし僕は君のために何をなすことができようぞ。君とお会いした時も、君のような人が――全然都会の臭味から免疫されて、過敏な神経や過重な人為的智見に煩わされず、強健な意力と、強《きよう》靭《じん》な感情と、自然にはぐくまれた叡智とをもって自然を端的に見ることのできる君のような土の子が――芸術の捧《ほう》誓《せい》者《しや》となってくれるのをどれほど望んだろう。けれども僕は喉《のど》まで出そうになる言葉を強いて抑えて、すべてを擲《なげう》って芸術家になったらいいだろうとは君に勧めなかった。
それを君に勧めるものは君自身ばかりだ。君がただひとりで忍ばなければならない煩悶――それは痛ましい陣痛の苦しみであるとはいえ、それは君自身の苦しみ、君自身で癒さなければならぬ苦しみだ。
地球の北端――そこでは人の生活が、荒くれた自然の威力に圧倒されて、痩地におとされた雑草の種子のように弱々しく頭を擡《もた》げてい、人類の活動の中心からは見のがされるほど隔たった地球の北端の一つの地角に、今、一つすぐれた魂は悩んでいるのだ。もし僕がこの小さな記録を公けにしなかったならば誰もこのすぐれた魂の悩みを知るものはないだろう。それを思うとすべての現象は恐ろしい神秘に包まれて見える。いかなる結果をもたらすかもしれない恐ろしい原因は地球のどの隅っこにも隠されているのだ。人は畏れないではいられない。
君が一人の漁夫として一生を過ごすのがいいのか、一人の芸術家として終身働くのがいいのか、僕は知らない。それを軽々しく言うのはあまりに恐ろしいことだ。それは神から直接君に示されなければならない。僕はその時が君の上に一刻も早く来るのを祈るばかりだ。
そして僕は、同時に、この地球の上のそこここに君と同じ疑いと悩みとを持って苦しんでいる人々の上に最上の道が開けよかしと祈るものだ。この切なる祈りの心は君の身の上を知るようになってから僕の心の中にことに激しく強まった。
ほんとうに地球は生きている。生きて呼吸している。この地球の生まんとする悩み、この地球の胸の中に隠れて生まれ出ようとするものの悩み――それを僕はしみじみと君によって感ずることができる。それは湧き出で跳《おど》り上がる強い力の感じをもって僕を涙ぐませる。
君よ! 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿《つばき》が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り拡げて吸い込んでいる。春が来るのだ。君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし……僕はただそう心から祈る。
フランセスの顔
たけなわな秋のある一夜。
光の綾を織り出した星々の地色は、底光りのする大空の紺青だった。その大空は地の果てから地の果てにまで拡がっていた。
淋しく枯れ渡った一《ひと》叢《むら》の黄金色の玉《とう》蜀《もろ》黍《こし》、細い蔓《つる》――その蔓はもう霜枯れていた――から奇蹟のように育ち上がった大きな真赤なパムプキン。最後の審判の喇《ラツ》叭《パ*》 でも待つように、ささやきもせず立ち連なった黄葉の林。それらの秋のシンボルを静かに乗せて暗に包ませた大地の色は、鈍色に黒ずんだ紫だった。そのたけなわな秋の一夜のこと。
私たちは彼女の家に近づいた。末の妹のカロラインが、つきまつわるサン・ベルナール種のレックスを押しのけながら、逸《いち》早《はや》く戸を開けると、石油ランプの琥《こ》珀《はく》色《いろ》の光が焔の剣のような一筋のまぶしさを広縁に投げた。私と連れ立った彼女の兄たちと妹とは、孤独の客のいるのも忘れて、蛾《が》のように光と父母とを目がけて駆け込んだ。私は少し当惑してはいるのをためらった。ばね仕掛けであるはずの戸が自然にしまらないのを不思議に思ってふと気がつくと、彼女が静かにハンドルを握りながら、ほほえんで立っていた。私は彼女にはいれと言った。彼女は黙ったまま軽くかぶりをふって、少しはにかみながらそれでもじっと私の目を見詰めて動こうとはしなかった。私は心から嬉しく思って先にはいった。その瞬間から私は彼女を強く愛した。
フランセス――しかし人々は彼女を愛してファニーと呼ぶのだ。
その夜は興ある座談に時が早く移った。ファニーとカロラインの眠る時が来た。ブロンドの巻髪を持ったカロラインはもう眠がった。栗色の癖のない髪をアメリカ印度人のように真中から分けて耳の下でぷつりと切ったファニーの眼はまだ堅かった。ファニーはどうしてもまだ寝ないと言い張った。齢《とし》をとったにこやかな母が怒るまねをして見せた。ファニーは父の方に訴えるような眼つきを投げたが、とうとう従順に母の膝に頭を埋めた。母は二人の童女の項《うなじ》に軽く手を置き添えて、口の中で小さな祝祷を捧げてやった報酬に、まず二人から寝前の接吻を受け取った。それから父と兄らとが接吻を受けた。二人が二階にかけ上がろうとすると母が呼びとめて、お客様にも挨拶をするものだと軽くたしなめた。カロラインは飛んで帰ってきて私と握手した。ファニーは――ファニーは頸飾りのレースだけが眼立つほど影になった室の隅から軽く頸をかしげて微笑を送ってよこした。そして二人は押し合いへし合いしながらがたがたと小さい階子をかけ上って行った。その賑やかな音の中に「ファニーのはにかみ屋め、いたずら千万なくせに」と言う父のひとり言がささやかれた。
*      *      *
寒く、淋しく、穏やかに、晩秋の田園の黎《れい》明《めい》が来た。窓ガラスに霜華が霞ほど薄く現われていた。衣服の着代えをしようとしてがんじょう一方な木製の寝台の側に立っていると、戸外でカロラインと気軽く話し合うファニーの弾《はず》むような声が聞こえた。私はズボンつりをボタンにかけながら窓ぎわに倚《よ》り添って窓外を見下ろした。
一面の霜だ、庭めいた屋前の芝生の先に木柵があって、木柵に並行した荷馬車の通うほどな広さの道の向こうには、かなり大きな収穫小屋が聳《そび》えて見えた。収穫小屋の後ろにはおおかた耡《す》き返されて大きな土塊のごろごろする畑が、荒れ地のように紫がかって拡がっていた。その処々は、落葉した川柳が箒《ほうき》をさかしまに立て連ねたようにならんでいる。轍《わだち》の泥のかんかんにこびりついたままになっている収穫車の上には、しまい残された牧草が魔女の髪のようにしだらなく垂れ下がっていた。それらすべての上に影と日向《ひなた》とをはっきり描いて旭《あさひ》が横ざしにさしはじめていた。烏《からす》の声と鶏の声とが遠くの方から引きしまった空気を渡ってガラス越しに聞こえてきた。自然は産後の疲れにやつれ果てて静かに産《さん》褥《じよく》に眠っているのだ。その淋しさと農人の豊かさとが寛大と細心の象徴のように私の眼の前に展《ひら》けて見えた。
私はファニーを探し出そうとした。眼の届く限りに姿は見えないと思う間もなく収穫小屋の裏木戸が開いて、斑《ふ》入りの白い羽を半分開いて前に行くものの背を乗り越し乗り越し走り出た一群の鶏といっしょに、二人の童女が現われ出た。二人が日向に立ったそのまわりには首を上に延ばしたりお辞儀をしたりする鶏が集まった。一羽はファニーの腕にさえとまった。カロラインがかかげていたエープロンをさっと振り払うと、燕《えん》麦《ばく》が金の砂のように凍った土の上に散らばった。一羽の雄鶏は群れから少し離れて高々と時をつくった。
ファニーのエープロンの中には小屋のあちこちから集めた鶏卵があった。彼女はそれを一つ一つ大事そうに取り出して、カロラインと何か言い交わしながら、木戸を開いて母屋の方に近づいてきた。朝寒がその頬に紅をさして、白い歯なみが恥ずかしさを忘れたように「ほほえみの戸口」から美しく現われていた。私はズボンつりを左手に持ちなおして、右の中指で軽く窓のガラスをはじいた。ファニーは笑《え》みかまけたままの顔を上げて私の方を見た。自然に献げた微笑を彼女は人間にも投げてくれた。私の指先はガラスの伝えた快い冷たさを忘れて熱くなった。
*      *      *
夏が来てから私はまたこの農家を訪れた。私は汽車の中でなだらかな斜面の半腹に林《りん》檎《ご》畑を後ろにしてうずくまるように孤立するフランセスの家を考えていた。白く塗られた白《はく》堊《あ》がまだらになって木地を現わした収穫小屋、その後ろに半分隠れて屋根裏ともいえる低い二階を持った古風な石造りの母屋、その壁面にならんで近づく人をじっと見守っているような小さな窓、前さがりの庭に立ちそぼつ骨ばった楡《にれ》ととねりこ、そして眼をさすように上を向いて尖《とが》った潅木の類、綿と荊棘《いばら》とに身よそおいした薊《あざみ》の亡《なき》骸《がら》、針金のように地にのたばった霜枯れの蔓草、風にからからと鳴るその実、糞尿に汚れ返ったエイシャー種の九頭の乳牛、飴のような色に氷った水たまり、乳を見ながら飲もうともしない病児のように、物うげに日光を尻目にかけてうずくまった畑の土……。
しかしその家に近づいた私の眼は私の空想を小気味よく裏切ってくれた。エメラルドの珠玉を連ねわたしたように快い緑に包まれた小楽園はいったい何処《どこ》から湧いて出たのだ。母屋の壁の鼠色も収穫小屋のまだらな灰白色も、緑蔭と日光との綾の中にさながら小《こ》跳《おど》りをしているようだ。木戸はきしむ音もたてずに軽々と開いた。私はビロードの足ざわりのする芝生を踏んで広縁に上がった。虫除けの網戸を開けて戸をノックした。一度。二度。三度。応《こた》える者がない。私はなんの意味もなくほほえみながら静かに立ってあたりを見廻した。縁の欄干から軒にかけて一面に張りつめた金網にはナスターシャムと honay-suckle とが細かくからみ合って花をつけながら、卵黄ほどな黄金の光を板や壁の所々に投げ与えていた。その濃緑の帷《とばり》からは何処ともなく甘い香りと蜂の羽音とがあふれ出てひそやかな風に揺られながら私を抱き包んだ。
突然裏庭の方で笑いどよめく声が起こった。私はまた酔い心地にほほえみながら、楡の花のほろほろと散る間をぬけて台所口の方に廻った。冬の間に燃《た》き捨てた石炭殻の堆のほかには、靴のふみ立て場もないほどにクロヴァーが茂って、花が咲きほこっていた。よく肥った猫が一匹人おじもせずにうずくまって草の間に惜しげもなく流れこぼれた牛の乳をなめていた。
台所口をぬけるとむっとするほどむれ立った薔《ば》薇《ら》の香りが一時に私を襲ってきた。感謝祭に来た時には荊棘《いばら》の迷路であった十坪ほどの地面が今は隙《すき》間《ま》もなく花に埋まって、夏の日の光の中でいちばん麗しい光がそれを押し包んでいた。私は自分の醜さを恥じながらその側を通った。ふと薔薇の花がたわわに動いた。見返る私の眼にフランセスの顔が映った。彼女は薔薇といっしょになってほほえんでいた。
腕にかけた経木籃から摘み取った花をこぼしこぼしフランセスの駈け出す後に私も従った。跣足《はだし》になった肉づきの恰好な彼女の脚は、木柵の横木を軽々と飛び越して林檎畑にはいって行った。私は彼女の飛び越えた所にひとかたまり落ち散った花を、気ぜわしく拾い上げた。見るとファニーは安楽椅子に仰向きかげんに座を占めた母に抱きついて処きらわず続けさまに接吻していた。蜘《く》蛛《も》の巣にでも悩まされたように母が娘を振り離そうとするのを、スカルキャップを被った小柄な父は、読みかけていた新聞紙をかいやって鉄縁の眼鏡越しに驚いて眺めていた。此処《ここ》ではまた酒のような芳《ほう》醇《じゆん》な香が私を襲った。シャツ一枚になって二の腕までまくり上げた兄らの間には大きな林檎圧搾機が置かれて、銀色の竜頭からは夏を煎《せん》じつめたようなサイダー《*》の原汁がきらきらと日に輝きながら真黒に煤《すす》けた木樽にしたたっていた。その側に風に吹き落とされた未熟の林檎が累《るい》々《るい》と積み重ねられていた。兄らは私を見つけると一度に声を上げた。そして蜜蜂に体のめぐりをわんわん飛び廻らせながら一人一人やってきて大きな手で私の手を堅く握ってくれた。その手はどれも勤労のために火のように熱していた。私は少し落ち着いてからファニーの方を見た。彼女は上気した頬を真赤にさせて、スカーツから下はむきだしになった両足をつつましく揃《そろ》えて立っていた。あの眼はなんという眼だ。この何もかにも明らさまな夏の光の下で何を訝《いぶか》り何を驚いているのだ。
*      *      *
ある朝両親はいつものとおり古ぼけた割幌の軽車を重い耕馬に牽《ひ》かせて、その朝カロラインが集めて廻った鶏卵を丹念に木箱に詰めたのを膝掛けの下に置いて、がらがらと轍の音をたてながら村の方に出かけて行った。帰りの馬車は必要な肉類と新聞紙と一束の手紙類とをもたらしてくるのだ。私は朝の読書に倦んでカロラインを伴れて庭に出た。花園の側に行くとその受持ちをしているファニーが花の中からついと出てきて私たちをさしまねいた。そして私を連れて林檎畑にはいって行った。カロラインと何かひそひそ話をした彼女の眼はいたずらそうな光を輝かしていた。少し私を駆け抜けてから私の方を向いて立ち止まって私にも止まれと言った。私は止まった。自分の方を真直に見てほかに眼を移してはいけないと言った、私はどうして他《よそ》見《み》をする必要があろう。一、二、三、兵隊のように歩調を取って自分の所まで歩いてこい、そう彼女は私に厳命を下した。私はすなおにも彼女を突き倒すほどの意気込みで歩きだした。五歩ほど来たと思うころ私は思わず跳り上がった。跣足になった脚の向《むこう》脛《ずね》に注射針を一どきに十筒も刺し通されたほどの痛みを覚えたからだ、ファニーとカロラインが体を二つに折って笑いこけているのをいまいましくにらみつけながら足許を見ると、紫の花をつけた一茎の大《おお》薊《あざみ》が柊《ひいらぎ》のような葉を拡げて立っていた。私はいきなり不思議な衝動に駆られた。森の中に逃げ込むニンフのようなファニーを追いつめて後ろから抱きすくめた私はバッカスのようだった。ファニーは盃に移されたシャンパンが笑うように笑い続けて身もだえした。頭の上に拡がった桜の葉蔭からは桜桃についた一群の椋《むく》鳥《どり》が驚いてうとましい声を立てながら一時に飛び立った。私ははっと恥を覚えてファニーを懐《ふところ》から放した。私の胸は小痛いほどの動《どう》悸《き》にわくわくと恐れおののいていた。ファニーは人の心の険しさを知らないのだ。踊る時のような手ぶりをして事もなげに笑い続けていた。
*      *      *
書棚とピアノとオルガンと、にわか百姓の素《す》性《じよう》を裏切る重々しい椅子とで昼も小暗い父の書斎は都会からの珍客で賑わっていた。すべてが煤《すす》けて見える部屋の一隅に、盛り上げた雪のように純白なリンネルを着た貴女はなめらかな言葉で都会人らしく田園を褒め讃えていた。今日はカロラインまでが珍しく靴下と靴とをはいていた。ふと其《そ》処《こ》にファニーが素足のままで手に一輪の薔《ば》薇《ら》を捧げて急がしくはいってきた。彼女は貴女のいるのに気づくと手持ち無沙汰そうに立ちすくんだ。貴女とファニーとがこの部屋の二つの極のように見えた。母が母らしく立ち上がって無作法を責めながら髪をけずり衣物を整えに二階にやろうとするのを、貴女は椅子から立ち上がりさえして押しとどめた。そして飾り気のない姿の可憐さと、野山に教えられた無邪気な表情とをあくまで賞めそやした。ファニーはもう通常の快活さを取りかえして、はにかみもせずに父に近づいて、その皺《しわ》くちゃな手に薔薇の花を置いた。
「パパ、これがこの夏咲いた花の中でいちばん大きなきれいな花です」
父はくすぐったいようにほほえみながら、茎を指先につまんでくるくるとまわしてみた。都会人の田舎人を讃美すべきこの機会を貴女はどうしてのがしていよう。
「ファニー貴女は小さな天使そのものですね」
ときれいな言葉で言いながら父の方に手を延ばした。父は事もなげに花を貴女に渡すと、貴女はちょっと香をかいで接吻して、驚いた表情をしながらその花に見とれてみせた。ファニーははじめてほがらかな微笑を頬に湛えて貴女の方を見た。そして脚の隠れそうな物蔭に腰から上だけを見せて座を占めた。貴女は続けてときどき花の香をかぎかぎ、ファニーを相手に、怜《れい》悧《り》らしくちょいちょい一座を見渡しながら、
「この薔薇は紅いでしょう。なぜ世の中には紅いのと白いのとあるか知っておいで?」
と首を華やかにかしげて聞いた。ファニーは「知りません」とすなおに答えて頭をふった。
「それでは教えてあげましょうね。その代わりこれをくださいよ。昔ある所にね」という風にナイチンゲールが胸を荊《い》棘《ばら》にかき破られてその血で白の花弁を紅に染めたというオスカー・ワイルドの小話を語り始めた。ファニーばかりでなく母までが感に入ってそのなめらかな話し振りに聞き惚れた。話がしまわないうちに台所裏で鶏がけたたましくなき騒いだ。鶏の世話を預かるカロラインは大きな眼を皿のようにして跳り上がった。家内じゅうも大事が起こったように聞き耳を立てた。カロラインが部屋を飛び出しながら、またレックスが悪戯《いたずら》をしたんだと叫ぶと、犬好きのファニーは無気になって大きな声で「レックスがそんなことをするもんですか。猫よきっとそれは」と口惜しそうに叫んだ。「ミミーなもんですか」と口返しする癇高な妹の声はもう台所口の方で聞こえた。一座が鎮まると貴女は薔薇の話は放りやって、父や母とロスタンのシャンテクレール《*》の噂《うわさ》を始めだした。ファニーはもう会話の相手にはされていなかった。その当時売り出した、バリモアというオペラ女優の身ぶりなどを巧みにまねながら貴女は手に持っていた薔薇を無意識に胸にさしてしまった、しばらく黙って聞いていたファニーが突然激しくパパと呼びかけた。私はファニーを見た。いやにまじめくさった彼女の頬はふくれていた。父はたしなるように娘を見やった。ファニーは負けていなかった。ちょっと言葉を途切らした貴女がまた話し続けようとすると、ファニーはまた激しくパパと言う。父は貴女の手前怒って見せなければならなくなった。
「不作法な奴だな、なんだ」
「That rose was given to you, Papa dear !」
「I know it.」
「You don't know it !」
しまいの言葉を言った時ファニーの唇は震えていた。涙が溜ったのじゃあるまい。しかし眼は輝いていた。父は少し自分の弱味が裏切られたような苦笑いをしている。貴女はほほえんでしばらく口をつぐんでいたが、また平気で前の話を始めだした。父と母とはこの場の不作法を償い返そうとでもするように、いっそう気を入れて貴女の話に耳を傾けた。繊細な情緒にいつでもふるえているように見えた貴女の心は、ファニーの胸の中を汲み取ってはやらぬらしい。田舎娘は矢張り田舎娘だとさえも思ってはいないようだ。私は可哀そうになってファニーを見た。その瞬間に彼女も私を見た。私は勉《つと》めて好意をこめた微笑を送ってやろうとしたが、それは彼女のいらいらと怒った眼つきのために打ちくだかれた。ファニーは軽蔑したように二度とは私を見返らなかった。そしてしばらくしてからふと立って外に出て行った。入れちがいにカロラインがはいってきて鶏の無事だったことを事々しく報告した。貴女は父母になり代わったように、笑みかまけてカロラインの報告にうなずいて見せた。
しばらくしてから戸がまた開いたと思うとファニーがそっとはいってきた。忠義を尽くしながらかえって主人に叱られた犬のような遠慮と謙遜とを身ぶりに見せながら父の側に近づいて、そっとその手にまた一輪の薔薇の花を置いた。話の途切れるのをおとなしく待ちうけて、
「それが二番目にきれいな薔薇なの、パパ」
と言いながら柔和な顔をして貴女を見た。一生懸命に柔和であろうとする小さな努力が傍《はた》目《め》にもよく見えた。
「そうか」無口な父は微笑を苦笑いに押し包んだような顔をして言った。
「これを〇〇夫人にあげましょうか」
父はただうなずいた。
「これが貴女のです」
ファニーはそれを貴女に渡した。貴女は軽く挨拶してそれを受け取るとさきほどのに添えて胸にさした。ファニーは貴女が最初の薔薇と取り代えてくれるに違いないと思い込んでいたらしいのに、貴女はまたそれには気がつかないらしい。ファニーがいつまでもどかないので挨拶がし足ないと思ったのか、
「Thank you once more, dear.」
とまた軽く辞儀をした。ファニーもその場の仕儀で軽く頭を下げたものだから、もうどうすることもできなかった。うつむいたままでまた室を出て行った。その姿のいたいたしさは私の胸を刺すばかりだった。
私はしばらくじっとして堪えていたが、なんだかファニーが哀れでならなくなって、静かに部屋をすべり出た。食堂と居間とを兼ねた隣の部屋にも彼女はいなかった。静かな台所でことことと音のするのを便りに其《そ》処《こ》の戸を開けてみると、ファニーが後ろ向きになって洗い物をしていた。人の近づくのに気がついて振り返った彼女の眼は、火のように燃えていた。そして気でも狂ったようにしたたった水を私の顔にはじきかけた。
貴女が暇乞《いとまご》いをして立つ時、父は物優しくファニーの無礼をことわって、いちばん美しい薔薇を返してもらった。客の帰ったのを知って台所から出て来たファニーが父の手にその薔薇のあるのをちらと見ると、もうたまらないというようにかけ寄ってその胸に顔を埋めた。父が何かたしなめると、
「This rose is yours anyhow, Papa.」
とファニーが震え声で言った。そして堪え堪えしていたすすり泣きがややしばらく父の胸と彼女の顔との間からメロディーのように聞こえていた。
*      *      *
次の年の春に私はまたこの一つの家を訪れた。桜の花が雪のように白くなって散り始め、ライラックがそのろうたけた紫の花房と香とで畑の畦《あぜ》を飾り、林檎が田舎娘のような可憐な薄紅色の蕾を武骨な枝に処せまきまで装い、菫《すみれ》と浦公英《たんぽぽ》が荒士を玉座のようにし、軟らかい牧草の葉がうら若いバッカスの顔の幼毛のように生え揃い、カックーが林の静かさを作るために間遠に鳴き始めるころだった。空には鳩がいた。木には木鼠がいた。地には亀の子がいた。
すべての物の上に慈悲のような春雨が暖かく静かに降りそそいでいた。私の靴には膏《こう》薬《やく》のように粘る軟土が慕いよった。去年の夏訪れた時に誰もいなかった食堂を兼ねた居間には、すべての家族がいた。私の姿を見ると一同は総立ちになって「ハロー」を叫んだ。ファニーがいつもの決活さで飛んできて戸を開けてくれた。遠慮のなくなった私は、日本人のするように戸口で靴をぬぎ始めた。毛の毬《まり》のようなきれいな仔猫が三匹すぐ背をまるめて靴の紐に戯れかかった。
母と握手した。彼女は去年のままだった。父と握手した。彼はめっきり齢《とし》をとって見えた。ファニーの兄たちは順繰りに去年の兄ぐらいずつの背たけになっていた。カロラインはベビーと呼ばれるのが似合わぬくらいになった。ファニーは――今までいたはずのファニーは見えなかった。
少しせっかちな父は声を上げてその名を呼んだが答えがない。父はしばらく私と一別以来のことを話し合ったりしていたが、矢張り気になるとみえて、また大声でファニーを呼び立てた。その声の大きさに背負投げを喰わしてファニーの「Here you are」という返事は、すぐ二階に通う戸の後ろから来た。そして戸が開いた。ファニーは前から戸の間ぎわまで来ていたのにきっかけを待って出てこなかったのだと知った私は、ちょっと勝手が違うような心持ちがした。顔じゅう赤面しながらそれでも恥ずかしさを見せまいとするように白い歯なみをあらわにほほえんでファニーはつかつかと私の前に来て、堅い握手をした。
「めかして来たな」
兄から放たれたこの簡単なからかいは、しかしながらファニーの心を顛《てん》倒《とう》させるのに十分だった。顔を火のように赤くしてその兄をにらんだと思うと戸口の方に引き返した。部屋じゅうにどっと笑いが鳴りはためいた。ファニーの眼にはもう涙の露がたまっていた。
ファニーはけっして素足を人に見せなくなった。そして一年の間に長く延びた髪の毛は、ファウストのマーガレットのように二つに分けて組み下げにされていた。それでもその翌日から彼女は去年のとおりな決活な、無遠慮な、心から善良なファニーになった。私たちはカロラインと三人でよく野山に出て馬鹿馬鹿しい悪戯《いたずら》をして遊んだ。
其《そ》処《こ》に行ってから三日目に、この家で決めてある父母の誕生日が来た。兄たちは鶏と七面鳥とを屠《ほふ》った。私と二人の娘とは部屋の装飾をするために山に羊歯《しだ》の葉や草花を採りに行った。
木戸を開けて道に出ると、収穫小屋の側に日向《ひなた》に群がって眼を細くしながら日の光を浴びていた乳牛が、静かに私たちを目がけて木柵のきわに歩みよってきた。毛衣を着かえたかと思うようにつやつやしい毛なみは一本一本きらきらと輝いた。生まれてほどもない仔牛は始終驚き通しているような丸い眼で人を見やりながら、柵から首を長く延ばして、さし出す二本の指を、ざらざらした舌で器用に巻いてちゅうちゅう吸った。私たちは一つかみずつの青草をまんべんなく牛にやって、また歩きだした。カロラインは始終大きな声で歌い続けた。その声が軽い木《こ》魂《だま》となって山から林からかえってくる。
カロラインはまた電信をしようと言いだした。ファニーはいやだと言った。末子のカロラインはすぐ泣き声になってどうしてもするのだと言い張る。ファニーは姉らしく折れてやって三人は手をつないだ。私は真中にいてカロラインからファニーにファニーからカロラインに通信をうけつぐのだ、カロラインが堅く私の手を握ると私もファニーの手を堅く握らねばならぬ。去年までは私がファニーの手を堅くしめるとファニーも負けずにしめ返したのに、今年はどうしても堅く握り返すことをしない。そしてその手は気味の悪いほど冷たかった。ファニーから来る通信がいつでもなまぬるいので、カロラインは腹を立ててわやくを《*》言いだした。ファニーは「それではやめる」と言ったきり私の手を放してしまった。カロラインがいかに怒ってみても頼んでみても、もうファニーは私の手をつなごうとはしなかった。
森にはいると森の香が来て私たちを包んだ。樫《かし》も、楡《にれ》もいたやもすべての葉はライラックの葉ほど軟らかくて浅い緑を湛えていた。木の幹がその特殊な皮はだをこれ見よがしに葉漏りの日の光にさらして、その古い傷口からは酒のような樹液がじんわりと浸《し》み出ていた。樹液のにじみ出ている所にはぎっと穴を出たばかりの小さな昆虫が黒くなってたかっていた。蛛《く》蜘《も》も巣をかけはじめたけれども、その巣にはまだ犠牲になった羽虫がからまっているようなことはない。露だけが宿っていた。静かに立って耳をそばだてるとかすかに音が聞こえる。落葉が朽ちるのか、根が水を吸うのか、巻き葉が拡がるのか、虫がささやくのか、風が渡るのか、その静かな音、音ある静かさの間に啄木鳥《きつつき》とむささびがかっかっと聞こえ、ちちと聞こえる声を立てる。頭を上げると高い梢をすれずれにかすめて湯気のような雲が風もないのに飛ぶように走る。その先には光のような青空が果てしもなく人の視力を吸い上げて行く。
私たち三人は分かれ分かれになって花をあさり競った。あまりに遠く隔てると互いに呼びかわすその声が、美しい丸みを持って自分の声とは思えないほどだ。私は酔い心地になって、日あたりのいい斜面を選んで、羊歯《しだ》を折り敷いて腰をおろした。村の方からは太《たい》鼓《こ》囃《ばや》しをごく遠くで聞くような音がかすかにほがらかに伝わってくる。足の下に踏みにじられた羊歯の青くさい香を私は耳でかいでいるような気がした。私はごく上品なセンチメンタルな哀傷を覚えた。そして長いとも短いとも定めがたい時が過ぎた。
ふと私は左の耳に人の近づく気配を感じた。足音を忍んでいるのを知ると私は一種の期待を感じた。そしてその足音の主がファニーであれかしと祈った。足音はやや斜め後ろから間近になると突然私の眼の前に、野花をうざうざするほど摘み集めた見覚えのある経木の手籃が放り出された。私はおもむろに左を見上げた。ファニーが上気して体じゅうほほえんで立っていた。
しばらく躊《ちゆう》躇《ちよ》していたがファニーはやがて私の命ずるままに私の側近くすわった。二人きりになると彼女はかえって心のぎごちなさを感じないようにも見えた。何か話し合っているうちに二人はいつしか兄弟のような親しみに溶け合った。彼女は手籠を引きよせて、花を引き出しながらその名を教えてくれた。蕃紅花《さふらん》、毛莨《あまなのきばな》、委《あま》〓《どころ》、Bloodroot. 小田巻草、ふうりん草、Pokeweed ……Bloodrootはこのとおり血が出る。蕃紅花は根が薬になる。Pokeweed の芽生えはアスパラガスの代わりに食べられるけれども根は毒だから食べてはいけない。毛莨は可愛いではないか、王の酒杯という名もある。小田巻草は心変わりの花だ。そういう風に言ってきてふとしばらく黙った。そして私をじっと見た。私は彼女の足許に肱《ひじ》をついて横たわりながら彼女の顔を見上げた。今までついぞ見たことのなかった媚《こ》びるような表情が浮かんでいた。彼女はそれを意識せずにやっている。それはわかる。しかし私は不快に思わずにはいられなかった。
There's Fennel for You, and Columbsines……《*》
ふと彼女は狂気になったオフェリヤが歌う小歌を口ずさんで小田巻草を私に投げつけた。ファニーはとうとう童女の境を越えてしまったのだ。私は自然に対して裏切られた苦々しさを感じて顔をしかめた。私はもう一度顔を挙げて「ファニー」と呼んだ。ファニーはいそいそとすぐ「なに?」と応《こた》えたが、私の顔にも声にも今までとは違った調子の現われたのを見て取って、自分も妙に取りかたづけた顔になった。
「お前はもう童女じゃない、処女になってしまったんだね」
ファニーは見る見る額《ひたい》のはえぎわまで真赤になった。自分の肢体を私の眼の前に曝《さら》すその恥ずかしさをどうしていいのかわからないように、深々とうなだれて顔を挙げようとはしなかった。手も足も胴も縮められるだけ縮めて私の眼に触れまいとするように彼女は恥に震えた。
火のようなものが私の頭をぬけて通った。ファニーは私の言葉に勘違いをしたな。私はそんなつもりで言ったのじゃないと気が付くと、私はたまらないほどファニーがいじらしく可哀そうになった。
「そんなに髪を伸ばして組んだりなんぞするからいけないんだ。元のようにおし」
しかしその言葉は、落葉が木の枝から落ちて行くように、彼女の心に触れもしないですべり落ちた。
帰り路にカロラインは私たち二人の変わり果てた態度にすぐ気がついて訝《いぶか》りだした。幼心に私たちは口喧嘩でもしたと思ったのだろう、二人の間を行きつもどりつしてなだめようと骨折った。
この日から私は童女の清浄と歓喜とに燃えた元のようなファニーの顔を見ることができなくなってしまった。
*      *      *
永久にこの家から暇乞《いとまご》いをすべき日が来た。ファニーは朝から私の前に全く姿を見せなかった。昼ごろ馬車の用意ができたので、私は家族のものに離別の握手をしたが、ファニーは矢張りいなかった。兄らは広縁に立って大きな声でその名を呼んでみた。むだだった。私は庭に降りて収穫小屋の方に行ってみた。その表戸によりかかって春の日を浴びながら彼女はぼんやり畑の方を見込んで立っていた。私のひとりで近づくのを見ると彼女ははっと思いなおしたようにずかずかと歩み寄ってきた。私はせめてはこの間の言いわけをして別れたいと思っていた。二人は握手した。冷え切ったファニーの手は堅く私の手を握った。私がものを言う前にファニーは形ばかり口の隅に笑みを見せながら「Farewell!」と言った。
「ファニー」
私の続ける暇も置かせずファニーはまた「Farewell!」とたたみかけて言った。そしてもう一度私の手を堅く握った。
クララの出家
これもまさしく人間生活史の中に起こった実際の出来事の一つである。
また夢に襲われてクララは暗いうちに眼をさました。妹のアグネスは同じ床の中で、姉の胸によりそってすやすやと静かに眠りつづけていた。千二百十二年の三月十八日、救世主のエルサレム入城を記念する棕櫚《しゆろ》の安息日の朝のこと。
数多い見知り越しの男たちの中でどういうわけか三人だけがつぎつぎにクララの夢に現われた。その一人は矢張りアッシジ《*》の貴族、クララの家からは西北に当たるヴィヤ・サン・パオロに住むモントルソリ家のパオロだった。夢の中にも、腰に置いた手の、指から肩に至るしなやかさが眼についた。クララの父親は期待をもった微笑を頬に浮かべて、品よくひかえ目にしているこの青年を、もっと大胆に振舞えと励ますように見えた。パオロは思い入ったようにクララに近づいてきた。そしてフランスから輸入されたと思われる精巧な頸飾りを、美しい金象《ぞう》眼《がん》のしてある青銅の箱から取り出して、クララの頸に巻こうとした。上品で端麗な若い青年の肉体が近寄るに従って、クララは甘い苦痛を胸に感じた。青年が近寄るなと思うとクララはもう上気して軽い瞑眩《めまい》に襲われた。胸の皮膚はくすぐられ、肉はしまり、血は心臓から早く強く押し出された。胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこわばって、その存在を思うことにすら、消え入るばかりの羞《しゆう》恥《ち》を覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑の瞳《ひとみ》は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂った。軽く開いた脣《くちびる》は熱い息気《いき》のためにかさかさに乾いた。脂《あぶら》汗《あせ》の泌み出た両手は氷のように冷えて、青年を押しもどそうにも、迎え抱こうにも、力を失って垂れ下がった。肉体はややともすると後ろに引き倒されそうになりながら、心はしゃにむに前の方に押し進もうとした。
クララは半分気を失いながらもこの恐ろしい魔術のような力に抵抗しようとした。破滅が眼の前に迫った。深《しん》淵《えん》が脚の下に開けた。そう思って彼女はなんとかせねばならぬと悶《もだ》えながらもなんにもしないでいた。あわておののく心は潮のように荒れ狂いながら青年の方に押し寄せた。クララはやがてかのしなやかなパオロの手を自分の首に感じた。熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く失われてしまった。彼女は苦痛に等しい表情を顔に浮かべながら、眼を閉じて前に倒れかかった。そこにはパオロの胸があるはずだ。その抱き取られる時にクララは元のクララではなくなるべきはずだ。
もうパオロの胸に触れると思った瞬間は来て過ぎ去ったが、不思議にもその胸には触れないでクララの体は抵抗のない空間に傾き倒れて行った。はっと驚く暇もなく彼女は何処《どこ》ともわからない深みへまっしぐらに陥って行くのだった。彼女は眼を開こうとした。しかしそれは堅く閉じられて盲目《めしい》のようだった。真暗な闇の間を、颶《ぐ》風《ふう*》のような空気の抵抗を感じながら、彼女は落ちほうだいに落ちて行った。
「地獄に落ちて行くのだ」胆《きも》を裂くような心《こころ》咎《とが》めが突然クララを襲った。それは本当はクララがはじめから考えていたことなのだ。十六の歳《とし》から神の子キリストの婢女《しもべ》として生き通そうと誓った、その神聖な誓《せい》言《ごん》を忘れた報いに地獄に落ちるのになんの不思議がある。それは覚悟しなければならぬ。それにしても聖処女にとって世に降誕した神の子キリストの御顔を、金《こん》輪《りん》際《ざい》拝し得られぬ苦しみは忍びようがなかった。クララはとんぼがえりを打って落ちながら一心不乱に聖母を念じた。
ふと光ったものが眼の前を過ぎて通ったと思った。と、その両肱《ひじ》は棚のようなものに支えられて、膝がしらも堅い足場を得ていた。クララは改《かい》悛《しゆん》者《しや》のようにすすり泣きながら、棚らしいものの上に組み合わせた腕の間に顔を埋めた。
泣いてるうちにクララの心はたちまち軽くなって、やがては十ばかりの童女の時のような何事も華やかに珍しい気分になって行った。突然華やいだ放《ほう》胆《たん》な歌声が耳に入った。クララは首をあげて好奇の眼を見張った。両肱は自分の部屋の窓《まど》枠《わく》に、両膝は使いなれた樫《かし》の長椅子の上に乗っていた。彼女の髪は童女の習慣どおり、侍童《ページ》のように、肩あたりまでの長さに切り下げにしてあった。窓からは、おぼろ夜の月の光の下に、この町の堂母《ドーモ》なるサン・ルフィノ寺院とその前の広場とが、なめらかな陽春の空気に柔らめられて、夢のように見渡された。寺院の北側をロッカマジョーレの方に登る坂を、一つの集団となってよろけながら、十五、六人の華《きや》奢《しや》な青年が、声をかぎりに青春を讃美する歌をうたって行くのだった。クララはこの光景を窓から見おろすと、夢の中にありながら、これは前に一度目撃したことがあるのにと思っていた。
そう思うと、同時に窓の下の出来事はずんずんクララの思うとおりにはかどって行った。
夏には夏の我を待て。
春には春の我を待て。
夏には隼《たか》を腕に据えよ。
春には花に口を触れよ。
春なり今は。春なり我は。
春なり我は。春なり今は。
我がめぐわしき少女《おとめ》。
春なる、ああ、この我ぞ春なる。
寝しずまった町並《な》みを、張りのある男声の合唱が鳴りひびくと、無頓着な無恥な高笑いがそれに続いた。あの青年たちはもう立ち止まるころだとクララが思うと、そのとおりに彼らは突然坂の中途で足をとめた。互いに何か探し合っているようだったが、やがて彼らは広場の方に、「フランシス」「ベルナルドーネの若い騎士」「円卓子《パンサ・ロトンダ》の盟主」などと声々に呼び立てながら、はぐれた伴侶を探しにもどってきた。彼らは広場の手前まで来た。そして彼らの方に二十二、三に見える一人の青年が夢遊病者のように足もともしどろに歩いてくるのを見つけた。クララも月影でその青年を見た。それはコルソの往還を一つへだてたすぐ向こうに住むベルナルドーネ家のフランシスだった。華美を極めた晴れ着の上に定《じよう》紋《もん》をうった蝦《えび》茶《ちや》のマントを着て、飲み仲間の主権者たることを現わす笏《しやく》を右手に握った様子は、ほかの青年たちにまさった無《ぶ》頼《らい》の風俗だったが、その顔は痩《や》せ衰えてものすごいほど青く、眼は足もとから二、三間さきの石畳を孔のあくほど見入ったまま瞬《またた》きもしなかった。そしてよろけるような足どりで、見えないものに引きずられながら、堂母《ドーモ》の広場の方に近づいてきた。それを見つけると、引き返してきた青年たちは一度にときをつくって駈けよりざまにフランシスを取りかこんだ。「フランシス」「若い騎士」などとその肩まで揺《ゆす》って呼びかけても、フランシスは恐ろしげな夢からさめる様子はなかった。青年たちはそのていたらくにまたどっと高笑いをした。「新妻のことでも想像して魂がもぬけたな」一人がフランシスの耳に口をよせて叫んだ。フランシスはついた狐が落ちたようにきょとんとして、石畳から眼をはなして、自分を囲むいくつかの酒にほてった若い笑顔を苦《にが》々《にが》しげに見廻した。クララは即興詩でも聞くように興味を催して、窓から上体を乗り出しながらそれに眺め入った。フランシスはやがて自分の纏ったマントや手に持つ笏《しやく》に気がつくと、はじめて今までふけっていた歓楽の想い出の糸口が見つかったように苦《にが》笑《わら》いをした。
「よく飲んで騒いだもんだ。そうだ、私は新妻のことを考えている。しかし私がもらおうとする妻は君らには想像もできないほど美しい、富裕な純潔な少女なんだ」
そう言って彼は笏《しやく》を上げて青年たちに一足先に行けと眼で合図した。青年たちが騒ぎ合いながら堂母《ドーモ》の蔭に隠れるのを見届けると、フランシスはいまいましげに笏を地に投げつけ、マントと晴れ着とをずたずたに破りすてた。
次の瞬間にクララは錠のおりた堂母《ドーモ》の入口に身を投げかけて、犬のようにまろびながら、悔恨の涙にむせび泣く若いフランシスを見た。彼女は奇異の思いをしながらそれを眺めていた。春の月はおぼろに霞んでこの光景を初めからしまいまで照らしている。
寺院の戸が開いた。寺院の内部は闇で、その闇は戸の外にあふれ出るかと思うほど濃かった。その闇の中から一人の男が現われた。十歳の童女から、いつの間にか、十八歳の今のクララになって、年に相当した長い髪を編下げにして寝衣を着たクララは、恐怖の予覚を持ちながらその男を見つめていた。男は入口にうずくまるフランシスに眼をつけると、きっとクララの方に鋭い眸《ひとみ》を向けたが、フランシスの襟元をつかんで引きおこした。ぞろぞろと華やかな着物だけが宙につるし上がって、肝腎のフランシスは溶けたのか消えたのか、影も形もなくなっていた。クララは恐ろしい衝動を感じてそれを見ていた。と、やがてその男の手に残った着物が二つに分かれて、一つはクララの父となり、一つは母となった。そして二人の間に立つその男は、クララの許《いい》婚《なずけ》のオッタヴィアナ・フォルテブラッチョだった。三人はクララの立っている美しい芝生より一段低い沼地がかった黒土の上に単調にずらっとならんで立っていた――父は脅かすように、母は欺くように、男は怨《うら》むように。戦の街《ちまた》を幾度もくぐったらしい、日に焼けて男性的なオッタヴィアナの顔は、飽くことなき功名心と、強い意志と、生《き》一本な気性とで、固い輪郭を描いていた。そしてその上を貴族的な誇りが包んでいた。今まで誰の前にも弱味を見せなかったらしいその顔が、恨みを含んでじっとクララを見入っていた。クララは許婚の仲であるくせに、そしてこの青年の男らしい強さを尊敬しているくせに、その愛をおとなしく受けようとはしなかった。クララは夢の中にありながら生まれ落ちるとから神に獻げられていたような不思議な自分の運命を思いやった。晩《おそ》かれ早かれ生みの親を離れて行くべき身の上も考えた。見ると三人は自分の方に手を延ばしている。そしてその足は黒土の中にじりじりと沈みこんで行く。脅かすような父の顔も、欺くような母の顔も、怨むようなオッタヴィアナの顔も見る見る変わって、眼に逼《せま》る難儀を救ってくれと、恥も忘れて叫ばんばかりにゆがめた口を開いている。しかし三人とも声は立てずに死のように静かで陰鬱だった。クララは芝生の上からそれをただ眺めてはいられなかった。口まで泥の中に埋まって、涙をいっぱいためた眼でじっとクララに物を言おうとする三人の顔のほかに、果てしのないその泥の沼には多くの男女の頭が静かに沈んで行きつつあるのだ。頭が沈みこむとぬるりと四方からその跡を埋めに流れ寄る泥の動揺は身の毛をよだてた。クララは何もかも忘れて三人を救うために泥の中に片足を入れようとした。
その瞬間に彼女は真《まつ》黄《きい》に照り輝く光の中に投げ出された。芝生も泥の海ももうそこにはなかった。クララは眼がくらみながらも起き上がろうともがいた。クララの胸をつかんで起こさせないものがあった。クララはそれが天使ガブリエル《*》であることを知った。「天国に嫁ぐためにお前は浄められるのだ」そう言う声が聞こえたと思った。同時にガブリエルは爛《らん》々《らん》と燃える炎の剣をクララの乳房の間からずぶりとさし通した。燃えさかった尖《きつ》頭《さき》は下腹部まで届いた。クララは苦悶の中に眼をあげてあたりを見た。まぶしい光に明滅して、十字架にかかったキリストの姿が厳かに見やられた。クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉のごとくおののいた。喉も裂け破れる一声に、全身に張り満ちた力をしぼりきろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクララの夢はさめた。
クララはアグネスの眼をさまさないようにそっと起き上がって窓から外を見た。眼の下には夢で見たとおりのルフィノ寺院が暁《あかつき》闇《やみ》の中に厳かな姿を見せていた。クララは扉をあけて柔らかい春の空気を快く吸い入れた。やがてポルタ・カプチイニの方にかすかな東明《しののめ》の光が漏れたと思うと、救世主のエルサレム入城を記念する寺の鐘が一時に鳴りだした。快活な同じ鐘の音は、麓の町からも聞こえてきた。牡鶏が村から村に時鳴《とき》を啼き交わすように。
今日こそは出家してキリストに嫁ぐべき日だ。その朝の浅い眠りを覚ました不思議な夢も、思い入った心には神の御告げに違いなかった。クララは涙ぐましい、しめやかな心になってアグネスを見た。十四の少女は神のように眠りつづけていた。
部屋は静かだった。
クララは父母や妹たちより少しおくれて、朝の礼拝に聖《サン》ルフィノ寺院に出かけて行った。在家の生活の最後の日だと思うと、さすがに名残りが惜しまれて、彼女は心を凝らして化粧をした。「クララの光りの髪」とアッシジで歌われたその髪を、真珠紐で編んで後ろに垂れ、ヴェネチヤの純白な絹を着た。家の者のいない隙に、手早く置き手紙と形《かた》見《み》の品物を取りまとめて机の引出しにしまった。クララの眼にはあとからあとから涙が湧き流れた。眼に触れるものは何から何までなつかしまれた。
一人の婢《はした》女《め》を連れてクララは家を出た。コルソの通りには織るように人が群れていた。春の日はうららかに輝いて祭日の人心をさらに浮き立たした。男も女も僧侶もクララを振りかえって見た。「光りの髪のクララが行く」そう言う声があちらこちらでささやかれた。クララは心の中で主の祈りを念仏のように繰り返し繰り返しひたすらに眼の前を見つめながら歩いて行った。この雑《ざつ》鬧《とう》な往来の中でも障碍になるものは一つもなかった。広い秋の野を行くように彼女は歩いた。
クララは寺の入口をはいるとまっすぐにシッフィ家の座席に行ってアグネスの側に座を占めた。彼女はフォルテブラッチョ家の座席からオッタヴィアナが送る視線をすぐに左の頬に感じたけれども、もうそんなことに頓着はしていなかった。彼女は座席につくと面《おもて》を伏せて眼を閉じた。ややともすると所もわきまえずに熱い涙が眼がしらににじもうとした。それは悲しさの涙でもあり喜びの涙でもあったが、同時にどちらでもなかった。彼女は今まで知らなかった涙が眼を熱くしだすと、妙に胸がわくわくしてきて、急に深淵のような深い静かさが心を襲った。クララは明らかな意識の中にありながら、すべてのものが夢のように見る見る彼女から離れて行くのを感じた。無一物な清浄な世界にクララの魂だけがただ一つ感激に震えて燃えていた。死を宣告される前のような、奇怪な不安と沈静とがかわるがわる襲ってきた。不安が沈静に代わるたびにクララの眼には涙が湧き上がった。クララの処女らしい体は蘆《あし》の葉のように細かくおののいていた。光のようなその髪もまた細かに震えた。クララの手は自らアグネスの手を覓《もと》めた。
「クララ、あなたの手の冷たく震えること」
「しっ、静かに」
クララは頼りないものを頼りにしたのを恥じて手を放した。そして咽《む》せるほどな参詣人の人いきれの中でまた孤独に還った。
「ホザナ《*》……ホザナ……」
内陣から合唱が聞こえ始めた。会衆の動揺は一時に鎮まって座席を持たない平民たちは敷石の上にひざまずいた。開け放した窓からは、柔らかい春の光と空気とが流れこんで、壁に垂れ下がった旗や旒《ながばた》を静かになぶった。クララはふと眼をあげて祭壇を見た。花に埋められ香をたきこめられてビザンチン型《*》の古い十字架聖像《クロチエ・フイツソ》が奥深くすえられてあった。それを見るとクララは咽《む》せ入りながら、「アーメン」と心に称えて十字を切った。なんという貧しさ。そしてなんという慈愛。
祭壇を見るとクララはいつでも十六歳の時の出来事を思い出さずにはいなかった。ことにこの朝はその回想が厳しく心に逼った。
今朝の夢で見たとおり、十歳のとき眼のあたり目撃した、ベルナルドーネのフランシスの面影はその後クララの心を離れなくなった。フランシスが狂気になったという噂《うわさ》も、父から勘当を受けて乞食の群れに加わったという風聞も、クララの乙女心を不思議に強く打って響いた。フランシスのことになるとシッフィ家の人々は父から下女の末に至るまで、いい笑いぐさにした。クララはそういう雑《ぞう》言《ごん》を耳にするたびに、自分でそんなことを口走ったように顔を赤らめた。
クララが十六歳の夏であった、フランシスが十二人の伴侶《なかま》とローマに行って、イノセント三世《*》から、キリストを模範にして生活することと、寺院で説教することとの印可を受けて帰ったのは。このことがあってからアッシジの人へのフランシスに対する態度は急に変わった。ある秋の末にクララが思いきってその説教を聞きたいと父に歎願した時にも、父は物好きな奴だと言ったばかりで別にとめはしなかった。
クララの回想とはその時のことである。クララは矢張りこの堂母《ドーモ》のこの座席にすわっていた。着物を重ねても寒い秋寒に講壇には真裸なレオンというフランシスの伴侶《なかま》が立っていた。男も女もこの奇異な裸形《らぎよう》に奇異な場所で出遇って笑いくずれぬものはなかった。卑しい身分の女などはあからさまに卑《ひ》猥《わい》な言葉をその若い道士に投げつけた。道士はすべての反感に打ち克つだけの熱意をもって語ろうとしたが、それには未だ少し信仰が足りないように見えた。クララは顔を上げ得なかった。
そこにフランシスがこれも裸《ら》形《ぎよう》のままではいってきてレオに代わって講壇に登った。クララはなお顔を得上げなかった。
「神、その独《ひとり》子《ご》、聖霊およびキリストの御弟子の頭《かしら》なる法皇の御許しによって、末世の罪人、神の召によって人を喜ばす軽業師なるフランシスが善良なアッシジの市民に告げる。フランシスは今日教友のレオに堂母《ドーモ》で説教するようにと言った。レオは神を語るだけの弁才を神から授かっていないと拒んだ。フランシスはそれなら裸《はだか》になって行って、体で説教しろと言った。レオは雄雄しくも裸《はだか》になって出て行った。さてレオが去った後、レオにかかる苦《く》行《ぎよう》を強いながら、何事もなげに居残ったこのフランシスを神は厳しく鞭《むちう》ちたもうた。眼ある者は見よ。懺《ざん》悔《げ》したフランシスは諸君の前に立つ。諸君はフランシスの裸《ら》形《ぎよう》を憐れまるるか。しからば諸君が眼を注いで見ねばならぬものが彼処にある。眼あるものはさらに眼をあげて見よ」
クララはいつの間にか男の裸体と相対していることも忘れて、フランシスを見やっていた。フランシスは「眼をあげて見よ」と言うと同時に祭壇に安置された十字架聖像《クロチエ・フイツソ》をうやうやしく指さした。十字架上のキリストは痛ましくも痩せこけた裸形のままで会衆を見下ろしていた。二十八のフランシスは何処《どこ》といってきわ立って人眼を引くような容貌を持っていなかったが、祈祷と、断食と労働のためにやつれた姿は、霊化した彼の心をそのまま写し出していた。長い説教ではなかったが、神の愛、貧窮の祝福などを語って彼がアーメンと言って口をつぐんだ時には、人々の愛心がどん底からゆすりあげられて思わず互いに固い握手をしてすすり泣いていた。クララは人々の泣くようには泣かなかった。彼女は自分の眼が燃えるように思った。
その日彼女はフランシス懺悔の席に列なることを申しこんだ。懺悔するものはクララのほかにもたくさんいたが、クララはわざと最後を選んだ。クララの番が来て祭壇の後ろのアプス《*》に行くと、フランシスはただ一人獣《けもの》色《いろ》といわれる樺《かば》色《いろ》の百姓服を着て、繩の帯を結んで、胸の前に組んだ手を見入るように首を下げて、壁添いの腰かけにかけていた。クララを見ると手まねで自分の前にある椅子にすわれと指した。二人は向かいあってすわった。そして眼を見合わした。
曇った秋の午後のアプスは寒く淋しく暗み渡っていた。ステインド・グラスから漏れる光線はいくつかの細長い窓を暗く彩《いろど》って、それがクララの髪の毛に来てしめやかに戯れた。恐ろしいほどにあたりは物静かだった。クララの燃える眼は命の綱のようにフランシスの眼にすがりついた。フランシスの眼は落ち着いた愛に満ち満ちてクララの眼をかき抱くようにした。クララの心は酔いしれて、フランシスの眼を通してその尊い魂を拝もうとした。やがてクララの眼に涙があふれるほどたまったと思うと、ほろほろと頬を傳って流れはじめた。彼女はそれでも真向にフランシスを見守ることをやめなかった。こうしてまたいくらかの時が過ぎた。クララはただ黙ったままですわっていた。
「神の処女《むすめ》」
フランシスはやがて厳かにこう言った。クララは眼をほかにうつすことができなかった。
「あなたの懺悔は神に達した。神は嘉《よみ》したもうた。アーメン」
クララはこのうえ控えてはいられなかった。椅子からすべり下りると敷石の上に身を投げ出して思い存分泣いた。その小さい心臓は無上の歓喜のために破れようとした。思わず身をすり寄せて素足のままのフランシスの爪先に手を触れると、フランシスは静かに足を引きすざらせながら、いたわるように祝福するように、彼女の頭に軽く手を置いて間遠につぶやきはじめた。小雨の雨垂れのようにその言葉は、清く、小さく鋭く、クララの心を打った。
「何よりもいいことは心の清く貧しいことだ」
ひとりごとのようなささやきがこう聞こえた。そしてしばらく沈黙が続いた。
「人々は今のままで満足だと思っている。私にはそうは思えない。あなたもそうは思わない。神はそれをよしと見たまうだろう。兄弟の日、姉妹の月は輝くのに、人は輝く喜びを忘れている。雲雀《ひばり》は歌うのに人は歌わない。木は跳るのに人は跳らない。淋しい世の中だ」
また沈黙。
「沈黙は貧しさほどに美しく尊い。あなたの沈黙を私は美《うま》酒《ざけ》のように飲んだ」
それから恐ろしいほどの長い沈黙が続いた。突然フランシスは慄《ふる》える声を押し鎮めながらつぶやいた。
「あなたは私を恋している」
クララはぎょっとしてあらためて聖者を見た。フランシスは激しい心の動揺からとっさの間に立ちなおっていた。
「そんなに驚かないでもいい」
そう言って静かに眼を閉じた。
クララは自分で知らなかった自分の秘密をその時フランシスによってはじめて知った。長い間の不思議な心の迷いをクララは種々に解きわずらっていたが、それがその時はじめて解かれたのだ。クララはフランシスの明《めい》察《さつ》をなんと感謝していいのか、どう詫びねばならぬかを知らなかった。狂気のような自分の泣き声ばかりがクララの耳にややしばらくいたましく聞こえた。
「わが神、わがすべて」
また長い沈黙が続いた。フランシスはクララの頭に手を置きそえたまま黙祷していた。
「私の心もおののく。……私はあなたに値しない。あなたは神に行く前に私に寄道した。……さりながら愛によってつまずいた優しい心を神は許したまうだろう。私の罪をもまた許したまうだろう」
かく言ってフランシスはすっと立ち上がった。そして今までとは打って変わって神々しい威厳でクララを圧しながら言葉を続けた。
「神の御名によりて命ずる。永久に神の清き愛《まな》児《ご》たるべき処女よ。腰に帯して立て」
その言葉は今でもクララの耳に焼きついて消えなかった。そしてその時からもう世の常の処女ではなくなっていた。彼女はその時の回想に心をうわずらせながら、その時泣いたように激しく泣いていた。
ふと「クララ」と耳近くささやくアグネスの声に驚かされてクララは顔を上げた。空想の中に描かれていたアプスの淋しさとは打って変わって、堂内にはひしひしと群集がひしめいていた。祭壇の前に集まった百人に余る少女は、棕《しゆ》櫚《ろ》の葉の代わりに、月桂樹の枝と花束とを高くかざしていた――夕栄えの雲がたなびいたように。クララの前にはアグネスを従えて白い髯《ひげ》を長く胸に垂れた盛装の僧《そう》正《じよう》が立っている。クララが顔を上げると彼は慈悲深げにほほえんだ。
「嫁《とつ》ぎ行く処女《おとめ》よ。お前の喜びの涙に祝福あれ。この月桂樹は僧正によって祭壇から特にお前にもたらされたものだ。僧正の好意と共に受けおさめるがいい」
クララが知らないうちに祭事は進んで、最後の儀式すなわち参詣の処女に僧正手ずから月桂樹を渡して、救世主の入城を頌《しよう》歌《か》する場合になっていたのだ。そしてクララだけが祭壇に来なかったので僧正みずからクララの所に花を持って来たのだった。クララが今夜出家するという手はずをフランシスから知らされていた僧正はクララに他《よ》所《そ》ながら告別を与えるためにこの破格な処置をしたのだと気がつくと、クララはまたさらに涙のわき返るのをとどめ得なかった。クララの父母は僧正の言葉をフォルテブラッチョ家との縁談と取ったのだろう、笑みかまけながら挨拶の辞儀をした。
やがて百人の処女の喉から華々しい頌《しよう》歌《か》が起こった。シオンの山の凱歌《*》を千年の後に反響さすような熱と喜びのこもった女声高音が内陣から堂内を震動さして響き渡った。会衆は蠱《こ》惑《わく》されて聞き惚れていた。底の底から清められ深められたクララの心は、露ばかりの愛のあらわれにも嵐のように感動した。花の間に顔を伏せて彼女は少女の歌声に揺られながら、無我の祈祷に浸りきった。
「クララ……クララ」
クララは眼をさましていたけれども返事をしなかった。幸いに母のいる方には後ろ向きに、アグネスに寄り添って臥《ね》ていたから、そのまま息気《いき》を殺して黙っていた。母は二人ともよく寝たもんだというようなことを、母らしい愛情に満ちた言葉で言って、何か衣裳らしいものを大椅子の上にそっくり置くと、忍び足に寝台に近よってしげしげと二人の寝姿を見守った。そして夜着をかけ添えて軽く二つ三つその上をたたいてから静かに部屋を出て行った。
クララの枕はしぼるように涙に濡れていた。
無《む》月《げつ*》の春の夜はしだいにふけた。町の諸門をとじる合図の鐘は二時間も前に鳴ったので、コルソに集まって売買に忙しかった村の人々の声高な騒ぎも聞こえず、軒なみの店ももうしまって寝しずまったらしい。女《め》猫《ねこ》を慕う男《お》猫《ねこ》の思い入ったような啼き声が時おり聞こえるほかには、クララの部屋の時計の錘子《おもり》が静かに下りて歯車をきしらせる音ばかりがした。山の上の春の空気はなごやかに静かに部屋に満ちて、堂母《ドーモ》から二人が持って帰った月桂樹と花束の香を隅々まで籠めていた。
クララは取りすがるように祈りに祈った。眼をあけると間近にアグネスの眠った顔があった。クララを姉とも親とも慕う無邪気な、すなおな、天使のように浄《きよ》らかなアグネス。クララがこの二、三日ややともすると眼に涙をためているのを見て、自分もいっしょに涙ぐんでいたアグネス。……そのアグネスの睫《まつ》毛《げ》はいつでも涙で洗ったように美しかった。ことに色白なその頬は寝入ってから健康そうに上気して、その間に形よく盛り上がった小鼻は穏やかな呼吸と共に微細に震えていた。「クララの光りの髪、アグネスの光りの眼」といわれた、無類な潤みを持って童女にしてはどこか哀れな、大きなその眼は見ることができなかった。クララは、見つめるほど、骨肉のいとしさがこみ上げてきて、そっと掌で髪から頬をなでさすった。その手に感ずる暖かいなめらかな触感はクララの愛欲を火のようにした。クララは抱きしめて思い存分いとしがってやりたくなって半身を起こして乗しかかった。同時にその場合の大事がクララを思いとどまらした。クララは肱《ひじ》をついて半分身を起こしたままで、アグネスを見やりながらほろほろと泣いた。死んだ一人児を母がなでさすりながら泣くように。
ぜんまいのきしむ音と共に時計が鳴りだした。クララは数を数えないでもちょうど夜半であることを知っていた。そして涙を拭いもあえず静かに床からすべり出た。打ち合わせておいた時刻が来たのだ。安息日が過ぎて神聖月曜日が来たのだ。クララは床から下り立つと昨日堂母《ドーモ》に着て行ったヴェネチヤの白絹を着ようとした。それは花嫁にふさわしい色だった。しかし見ると大椅子の上に昨夜母の持って来てくれたほかの衣裳が置いてあった。それはクララが好んで着た藤紫の一揃いだった。神聖月曜日にも聖《サン》ルフィノ寺院で式があるから、昨日のものとは違った服装をさせようという母の心づくしがすぐ知れた。クララは嬉しくありがたく思いながらそれを着た。そして着ながらもしこれが両親の許しを得た結婚であったならばと思った。父はおそらくあすこの椅子にかけて微笑しながら自分を見守るだろう。母と女中とは前に立ち後ろに立ちして化粧を手伝うことだろう。そう思いながらクララは音を立てないように用心して、かけにくい背中のボタンをかけたりした。そしていつもの習慣どおりに小箪《だん》笥《す》の引出しから頸飾りと指輪との入れてある小箱を取り出したが、それはこの際になってなんの用もないものだと気がついた。クララはふとその宝玉に未練を覚えた。その一つ一つにはそれぞれの思い出がつきまつわっていた。クララは小箱の蓋に軽い接吻を与えて元のとおりにしまいこんだ。淋しい花嫁の身じたくは静かな夜の中に淋しく終わった。そのうちに心はだんだん落ち着いて力を得て行った。こんなに泣かれてはいよいよ家を逃れ出る時にはどうしたらいいだろうと思った床の中の心配は無用になった。沈んではいるがしゃんと張りきった心持ちになって、クララは部屋の隅の聖像の前にひざまずいて燭《ともし》火《び》を捧げた。そして静かに身の来《こ》し方《かた》を顧みた。
幼い時からクララにはいい現わし得ない不満足が心の底にあった。いらいらした気分はよく髪の結い方、衣服の着せ方に小言を言わせた。さんざん小言を言ってからひとりになるとなんともいえない淋しさに襲われて、部屋の隅でただ一人半日も泣いていた記憶もよみがえった。クララはそんな時には大好きな母の顔さえ見ることを嫌った。ましてや父の顔は野獣のように見えた。いまに誰か来て私を助けてくれる。堂母《ドーモ》の壁画にあるような天国に連れて行ってくれるからいいとそう思った。いろいろな宗教画があるたびに自分の行きたい所は何処《どこ》だろうと思いながら注意した。そのうちにクララの心の中には二つの世界が考えられるようになりだした。一つはアッシジの市民が、僧侶をさえこめて、上から下まで生活している世界だ。一つは市民らが信仰しているにせよ、いぬにせよ、敬意を捧げているキリストおよび諸聖徒の世界だ。クララは第一の世界に生い立って栄《えい》耀《よう》栄《えい》華《が》を極むべき身分にあった。第二の世界に何故渇仰の眼を向けだしたか、クララ自身もわからなかったが、当時ペルジャの町に対して勝利を得て独立と繁盛との誇りに賑やか立ったアッシジの辻を、豪奢の市民に立ち交りながら、「平和を求めよそして永遠の平和あれ」と叫んで歩く名もない乞食の姿を彼女はなんとなく考え深く眺めないではいられなかった。やがて死んだのか宗旨代えをしたのか、その乞食は影を見せなくなって、市民は誰はばからず思うさまの生活にふけっていたが、クララはどうしても父や父の友だちなどの送る生活に従って活きようと思う心地はなかった。そのころにフランシス――この間まで第一の生活の先頭に立って雄々しくも第二の世界に盾をついたフランシス――が百姓の服を着て、子供らに狂人と罵《ののし》られながらも、聖《サン》ダミヤノ寺院の再《さい》建《こん》勧《かん》進《じん》にアッシジの街に現われだした。クララは人知れずこの乞食僧の挙動を注意していた。そのころにモントルソリ家との婚談も持ち上がって、クララはたびたび自分の窓の下で夜おそく歌われる夜曲を聞くようになった。それはクララの心を躍らし、ときめかした。同時にクララは何物よりもこの不思議な力を恐れた。
その時分クララは著者の知れないある古い書物の中に下のような文句を見いだした。
「肉におぼれんとするものよ。肉は霊への誘惑なるを知らざるや。心の眼鈍きものはまず肉によりて愛に目ざむるなり。愛に目ざめてそをはぐくむものは霊に至らざればやまざるを知らざるや。されど心の眼さときものは肉に倚《よ》らずしてただちに愛の隠るる所を知るなり。聖処女の肉によらずして救い主を孕《はら》みたまいしごとく、汝ら心の眼さときものは聖霊によりて諸善の胎《たい》たるべし。肉の世の広さに恐るることなかれ。一度恐れざれば汝らは神の恩恵によりて心の眼さとく生まれたるものなることを覚るべし」
クララは幾度もそこを読み返した。彼女の迷いはこの珍しくもない句によって不思議に晴れて行った。そしてフランシスに対して好意を持ちだした。フランシスを弁護する人がありでもすると、嫉妬を感じないではいられないほど好意を持ちだした。その時からクララはすべての縁談を顧みなくなった。フォルテブラッチョ家との婚約を承諾した時でも、クララは一応辞退しただけで、跡は成り行きにまかせていた。彼女の心はそんなことには止まってはいなかった。ただ心をこめて浄《きよ》い心身をキリストに獻げる機ばかりをうかがっていたのだ。そのうちに十六歳の秋が来て、フランシスの前に懺悔をしてから、彼女の心は全く肉の世界から逃れ出ることができた。それからの一年半の長い長い天との婚約の試煉も今夜で果てたのだ。これからは一人の主に身も心も獻げ得る嬉しい境涯が自分を待っているのだ。
クララの顔はほてって輝いた。聖像の前に最後の祈りを捧げると、いそいそとして立ち上がった。そして鏡を手に取って近々と自分の顔を写してみた。それが自分の肉との最後の別れだった。彼女の眼にはアグネスの寝顔が吸いつくように可憐に映った。クララは静かに寝床に近よって、自分の臥《ね》ていた跡に堂母《ドーモ》から持ち帰った月桂樹の枝を敷いて、その上に聖像を置き、そのまわりを花で飾った。そしてもう一度聖像に祈祷を捧げた。
「御心ならば、主よ、アグネスをも召したまえ」
クララは軽くアグネスの額に接吻した。もう思い残すことはなかった。
ためらうことなくクララは部屋を出て、父母の寝室の前の床板に熱い接吻を残すと、戸を開けてバルコンに出た。手《て》欄《すり》から下をすかして見ると、暗の中に二人の人影が見えた。「アーメン」と言う重い声が下から響いた。クララも「アーメン」と言って応じながら用意した綱で道路に降り立った。
空も路も暗かった。三人はポルタ・ヌオバの門番に賂《まかな》いしてやすやすと門を出た。門を出るとウムブリヤの平野は真暗に遠く広く眼の前に展《ひら》け渡った。モンテ・ファルコの山は平野から暗い空に崛《くつ》起《き》しておごそかにこっちを見つめていた。淋しい花嫁は頭巾で深々と顔を隠した二人の男に守られながら、すがりつくようにエホバに祈祷を捧げつつ、星の光を便《たよ》りに山坂を曲がりくねって降りて行った。
フランシスとその伴侶との礼拝所なるポルチウンクウラの小《しよう》龕《がん》の灯がはるか下の方に見え始める坂の突《とつ》角《かく》に、炬火《たいまつ》を持った四人の教友がクララを待ち受けていた。今まで氷のように冷たく落ち着いていたクララの心は、瀕死者がこの世に最後の執着を感ずるようにきびしく烈しく父母や妹を思った。炬火の光に照らされてクララの眼は未練にももう一度涙でかがやいた。いい知れぬ淋しさがその若い心を襲った。
「私のために祈ってください」
クララは炬火を持った四人にすすり泣きながら歎願した。四人はクララを中央に置いて黙ったままうずくまった。
平原の平和な夜の沈黙を破って、はるか下のポルチウンクウラからは、新嫁を迎うべき教友らが、心をこめて歌いつれる合唱の声が、静かにかすかにおごそかに聞こえてきた。
石にひしがれた雑草
姿を隠す時が来た。何をぐすぐすのさばっているのだと心の中で君にさいなまれる時も果てた。君といっしょにこの地球の上にいながら姿を隠すのか、あるいはあの世に姿を隠すのか、そんなことは詮議してくれるな。たとえ詮議したところがむだだ、僕が姿を隠した後に、君はこの置き手紙一つのほかは何物も見いださないだろうから。ああ、いったい僕はこの世の中に何をするために、生まれてきたのだ。何になるために生まれてきたのだ。人を殺すために!? そして一人の道化役《クラウン》になるために!? 笑え、笑え。豚も海鼠も、さけるまで口を開いて笑え。しかも僕が笑えといえば、彼奴《あいつ》らすら笑いかけた口を結んでしまって、しかつめらしく僕を尻眼にかけるに違いないのだ。(ここで僕は一言、「馬鹿」とか「畜生」とか、捨て台詞《ぜりふ》が言ってやりたいのだが、僕の胸のすききるほどの台詞はあいにくまだ日本語には発明されていない)
姿を隠す前に、僕は君の恋人であり、僕の妻であるM子を生《なま》殺《ごろ》しにした顛《てん》末《まつ》を君にだけ知らせておきたいと思うのだ。僕が何か目的があってそんなことをしたと思ってはいけない。僕には目的はない。目的なぞがあるものか。君を悲しませようとするのでもない。苦しませようとするのでもない。人間が好んで運命を狂わせる、その醜い姿を見せつけようというのでもない。運命が人間をもてあそぶ、その没《も》義《ぎ》道《どう》な戯れを思い知らせようというのでもない。ましてや君を喜ばせようと企むのでもない。僕はただなんだか君に書き残しておきたいと思うから書くだけのことだ。強いて目的といえばそれだけのものだ。君がこの置き手紙からどんな結論を引き出そうとも、それは僕の知ったことじゃないのだ。なんにも目的がなくなってしまうと、人間の姿というものがかなり露骨に見え透くよ。悪魔の眼が冴えてるのもたぶんはそのためなのだろう。
三つ児の魂百までというが、考えて見ると、人間もずいぶん変わるものだ。二人が〇〇大学にいた時はお互いにきまじめな青年だったね。僕がこんなになり果てようとは、その時どうして考え得られよう。まあしかしそんなことはどうでもいい。
君も覚えているだろう、二人ともB先生の歌《か》留《る》多《た》会に招かれた晩のことを。そしてはじめてM子に遇った時のことを。顔も心も煤《すす》けたような人でありながら、Bさんははしゃぐことの好きな人だった。どんな遊戯でも科学的に綿密な研究をして、機敏そうもない風をしながら妙に上《じよう》手《ず》だった。君なんぞはなかなか練習も積んでいて、すばしこい質だったのに、先生に刃向かうといつでもさんざんに負かされてしまった。その中にM子だけは互角だったので、二人だけで勝負をさせようということになった。その時だ、僕がM子に牽《ひ》きつけられてしまったのは。
M子はいろいろと辞退していたが、辞退しきれなくなると、死に身になったような顔をして、ぼうっと頬を赤めながら、「それじゃちょっとお待ちくださいましね」と言って一人で台所の方へ立って行った。この勝負に非常な興味を催した一座はM子の帰るのを今や遅しと待ちうけていたが、思ったより暇が取れた。いつでもせかせかと細かいことに気のつくBさんは、M子が勝手を知らないと見て取って、僕に行ってみてやれと命じた。始終家の人のようにB家に出入りしていた僕は、命ぜられるとすぐ座を立って、廊下からドアーを開けて食堂の方へ出て行った。食堂は真暗だった。そこにはからずも僕は女のくすくすと忍び笑いをする声を聞いた。
「どなた? ちょいと電燈のスイッチをひねってくださいましな。どなた? (ここで彼女は廊下から来る光で僕を透して見ているようだった)Aさんじゃいらっしゃらないの」
「そうです」
僕はもうしどろもどろだった。
「Aさん? じゃ、ちょいといらしってちょうだい。こんな馬鹿なことをしてしまいましたのよ」
いたずらいたずらした声が小さく艶《なま》めかしくまたこう響いた。僕の眼はまだ闇には慣れていなかったから、その時の処置としては電燈を燈《とも》すことがいちばん早道だった。僕はそれを感じていた。そのくせそうはせずに、僕は手探りで声のする方へ近よって行った。
「ここですわ」
いきなり湿りっぽい、柔らかな、案外冷たい小さな手が僕の手をやんわりと握って引き寄せた。はっと思うまに僕は、M子と着物を触れ合うほどの近さに立っていた。鼻の先にはあの悪魔的に人を誘惑する日本髷《まげ》の半分腐ったような濃厚な匂がむせるほど漂っていた。
「こんなに。ね」
そう言いながらM子は僕の手を握った自分の手を前髪の所に持ち上げた。僕は自分の手がM子の手よりも冷えて行くのを感じながら、もっと冷たい若い女の髪の毛というものにはじめて触れてみた。その無類な繊細な感じと、言い現わしがたい快い弾力とは、僕の注意を本能の奥底まで浸み込ました。僕の指はそれをぐっと握りしめたい欲念でのたうった。
「ここですのよ」
M子がもう一つの手を添えて僕の指を導いたそこには、天井から下げられた鉄《はり》条《がね》のランプ釣りが髪にからまりついていた。
M子は中腰になってぎごちなさそうに立っている。そのふっくらした胸は僕の胃部の辺で触れたり離れたりする。その暖かい息気《いき》はときどき僕の頸の辺に流れてくる。僕はいつまでもそうしていたい心持ちと、座敷の人々の思わくを気にする心持ちで、わくわくしながら、震える手先でランプ釣りから前髪をほごそうとあせったけれども、暗くはあるしらちが明かなかった。M子はだんだんじれはじめてきた。
「取れませんか……まだ?……取れませんか……痛い」
僕ははじめて電燈をつける気になって、M子から離れてスイッチをひねった。二人はまざまざと灯の光に照らされた。
「どうなすって、真青なお顔をなさって。だめですわねどうせ。あら、ここにこんないいものがありますわ」
そう言いながらM子は頭を据えたまま手を延ばして、ミシン台の上にあった大きな裁縫用の西洋鋏を取り上げた。そして左手でいいかげんに前髪の一部分をつかみ丸めながら、容赦もなくじゃきりとそれを切ってしまった。真黒な毛が一束切り揃えられて、真白な富士額に房々とふりかかった。とめる暇もなかった。僕は茫然としてその艶美な乱暴を見守るばかりだった。
「乱暴ですね」
「だって早く先生を負かしてあげたいんですもの。今水をいただいて帰ってくると、いきなり前髪がこんなに引っかかってしまっちゃって、……もうよござんすわ、どうもありがとうございました。さあまいりましょう」
そう言ってM子は僕の存在を無視したようにどんどん一人で廊下の方へ出て行ってしまった。僕は夢からさめたように物足らなく思いながらその後につづいた。と、座敷にはいろうとする所で、M子が戸のハンドルを握ったまま立ち止まったので、勢いよく歩いて行った僕は危く彼女にぶつかろうとした。M子は片手で前髪を器用にかき上げながら、振り向けた晴れ晴れしい顔をまともに廊下の電燈に照らして見せた。
「祈っててちょうだいね。どうぞ。きっと勝ってお目にかけますわ。いいこと?」
その眼は接吻しろといわんばかりに物をいっていた。しかし次の瞬間に彼女はもう廊下には立っていなかった。
全くその時の勝負は一座の人気を湧き立たした。B先生に加勢するものとM子に加勢するものとが二手に分かれてひしめき合った。君はM子の側にすわって、手を出してM子を邪魔せんばかりにして、Bさんに加勢していたね。僕は黙ったまま、大ぜいの後ろに突っ立って、腕組みをして二人の勝負を見ていた。本統は二人を見ていたのでもない、勝負を見ていたのでもない、M子を孔のあくほど見つめていたのだ。彼女は断ち切った前髪のややともすれば額に落ちかかるのを左手で押さえつけながら、落ち着き払って戦っていた。高い所から見おろしている僕の眼には、襟足の美しい、脂《あぶら》の乗った真白な後頸《うなじ》と、こごむので抜き衣紋になった、強い刺戟を与える半襟と、高く大きく脊負い上げたお太鼓の帯とが、揺れたり靡《なび》いたりしてちかちかとまぶしく映った。
「誰がいったいこの女を独占するようになるのだろう。あの髪を、あの後頸《うなじ》を、あの女に似合わしい衣類を、そしてその美しい着こなし方を。あの女が誰にも独占されるのでなければ、俺も別に独占する気はない。俺は静かにあの女を嘆美していればそれで済む。が……」
しかし誰があのままでM子を捨てておくものかと思うと、僕はこみ上げるような嫉《しつ》妬《と》を誰にともなく感じてきた――いても立ってもいたたまれないような嫉妬を。僕にはM子の心の自由に動くのが咀《のろ》われてきた。人の心の自由に動くのが咀われてきた。何か一思いに殺してでもしまえばはじめて安心ができるような嫉妬だ。そして僕よりも確かに年上らしい、おそらく才はじけたM子に、僕がどう映じているかを推測すれば、この奇怪な嫉妬はなおさら嵩《こう》じるばかりだった。M子を見つめたまま僕は昂奮で脂油に濡れた手で顔を撫《な》でまわすように見せかけながら、手の平に残った前髪の移り香を嗅《か》いだ。それから大事に手を握りしめてまた胸の所で組み合わせた。
「万歳!」
突然こんな声が聞こえたと思うと、群がってこごみなりにすわっていた男女の客が、いっせいに腰を伸ばして両手を挙げた。勝負がついたのだ。M子が勝ったのだ。電燈が急に華やかに光りだしたように見える中で、B先生はいつもの燻《くす》んだ顔に燻んだ微笑を浮かべて、残った札を数えていた。M子は今までの沈着に似ず、すっかり上気して晴れ晴れと愛敬笑いをしていた。その眼の活《いき》々《いき》した輝き、尋常なくせに大きく見える表情深い眼の! がやがやいう中で君は何かM子に抗議を持ち出しているらしかった。M子は自分の味方になってくれた人々に訴えるように、あちこちに眼を流しながら、弁解していた。僕はその一《いち》瞥《べつ》を一心に待ちうけていた。その勝利を祈るはずだった僕が、M子の一瞥を恵まれるのは当然だったのだ。けれども彼女はしまいまで僕の存在を無視したように振舞った。僕の眼は輝いたけれども、彼女の眼はとうとう僕の上には輝かなかった。何事も明らさまな、あるがままな一座の中にいながら、僕一人は暗い淋しい迷路をぐるぐると迷い歩いていた。もちろん誰もそんなことを気《け》取《ど》ろうはずがない。それは僕にとって、都合のよい、同時にたまらないほど物淋しいことだった。僕は弱者らしく気むずかしくなって君ともろくろく口をきかなくなってしまった。君はそんなことに気もつかなかったろうけれども。
帰る時にB先生はM子の家が僕の近所だからいっしょに行くようにと言った。一種の反感とあきらめから僕は割合に冷淡にM子と連れ立って、人通りの少ない寒い夜の街を歩いた。自分の手の届かない物をあまのじゃくから真価以下にまで見下げる、あの心持ちで僕はM子に対していた。それにもかかわらずM子はひとりではしゃいで、B先生との勝負のいきさつを、嬌《なま》めかしい小刻みな笑いで句点をうちながら、熱心に語りつづけた。女の自己主義《イゴイズム》がこういう時には極端に発揮される。そんな場合女というものは相手の心持ちなぞはてんで考えてはいないのだ。それがまた馬鹿馬鹿しいことには、いい知れぬ蠱《こ》惑《わく》的な無邪気な愛敬として男の心を捕えるものなのだ。さもしい男の心だ。僕は街燈の下に来ると、思わず、知らん振りをしながらM子を愉《ぬす》見《み》した。見得をする必要のなくなったM子は富士額に前髪のたれかかるのをかき上げようとはしていなかった。肉感的な程度に悒《ゆう》鬱《うつ》に眉頭に散らばった一房の髪の毛は、彼女の魅力を自然に強めていた。身だしなみを崩《くず》した放恣な姿がそこに暗示されていた。彼女はまた話しながら絶えず右手の甲を唇《くちびる》にあてて接吻するように吸った。注意して見ると一条長く蚯蚓《みみず》脹《ば》れができていた。彼女が手の甲を唇に持って行くたんびに、僕の胸はおぞましくもときめいた。負け惜しみをやる僕の心をすっかり見抜いてるもう一つの僕の心は、昂奮に熱したり皮肉に冷えたりした。とにかく僕はM子が醸《かも》した悪酒にしたたか酔いしれていたのだ。
別れる時に教えられて見ると、思いがけなくもM子は僕のいる親類の家のすぐ隣の小ぎれいな二階建に住んでることが知れた。別れぎわになるとM子は急に僕に対して恐ろしく親しげな風を見せだした。M子はともすると此方《こちら》で恥ずかしくなるまでひたひたと僕に身をすり寄せてきたりした。
「こんなに近く住まいながら私今まであなたのお姿も見ませんでしたのよ。不思議ですわね。ほんとに不思議ですわね。でも口惜しいわ。馬鹿にされてたようですもの。でも私めったに戸外《そと》に出ないからあたりまえなのかもしれませんけれども。今度から私もっと気をつけますわ、ほんとに」
またおべんちゃらを言う、と僕はM子を苦々しく思いながら、胸の中はゴム毬《まり》のようにはずんでいた。
僕は家に帰るとすぐ部屋にはいって、脂油でしとしとになった手の平を、洗いたてのハンケチで念入りに押し拭った。そのハンケチに乗り移されたM子の前髪の匂は長い間消えずに、僕の机の引出しの中で匂っていた。
その晩から僕は激しい恋の病にかかってしまったのだ。そうだ恋の病という言葉がいちばんふさわしい。恋に落ちたといったくらいではそのころの僕の心の状態《ありさま》をはっきりと現わしてはいない。ふっと気がついてみると僕はどの瞬間にもM子のことばかり思っていた。その恋は、僕が今まで軽く味わってきたような、清いローマンチックな、その代わり、美しい夢としておいてもそれで済ませて行けるようなものではなかった。肉にまで喰い込んで行かなければとても満足しない、きわめて現実的な、そこいらにたくさんころがっているような恋だった。ただそれは病といわなければ適当しないほど執心の深い恋だった。
もっともこうなって行くにはある時間の経過を必要とした。のみならず私の心持ちは不思議だった。私はM子その人に執着したというよりも、M子が他人に占領されるのを思っただけでも我慢していられない、その不思議な競争心ともいうべきものに執着していたようだ、これはもちろん今になってその当時を回想しての判断だ。いったいワイニンゲルのいいだした婦人の二種の典型、すなわち家婦型と娼《しよう》婦《ふ》型との中で、娼婦型の女はその魅力を女自身に備えているというよりは、その周囲を取り巻く男とその女との関係の間に持ってるようだ。そういう女は不思議に男の羨《せん》望《ぼう》と嫉妬とを挑発することに妙を得ている。そういう女はきっとすべてのものを逆用する。いつでも敵の刃を奪って敵を斃《たお》そうとする。男はまた奇怪にも卒直な愛の発露をさしおいて、男の遺産なる争闘欲の満足に異常な興味を寄せる。そして女を勝利品と心得て互いに夢中になっていがみ合う。そのいがみ合う程度が強まれば強まるほど、女はじっとしたままで、男たちの心の中にずんずん魅力と価値とを増して行くのだ。たとえその女が一人の男の所有に帰した後でも、そういう女が男に対して取る手段に変わりはない。男に与える不安定の感じだ。男は女自身を愛するというよりもこの不安定な心持ちから自分を救い出そうとするためにもがき苦しんで、その女を全然占領し尽くそうとあせるのだ。
ワイニンゲルは客観的に女の二つの典型の実在を主張しているようだ。それはある程度まで争われない事実だとしても、大部分は問題となった男と女との間に自然に生ずる関係から来ることだといったほうがいい。たとえばM子はある他の男にとっては家婦型というべき女かもしれないが、僕にとっては確かに娼婦型の女だったのだ。いわばM子は僕の苦手だったのだ。M子と結婚してから後でも、冷静に考える時には、僕はこれだけのことをはっきり了解していた。それだのに実際を見ろ。僕はとうとうこんな置き手紙を書くべき運命に追いつめられているのだ。……なんという醜態だ。
一徹で、極端な内気で、妙に片意地の強い二十歳という無経験な当時の僕は、歌留多会の晩から、見も知らぬ悒鬱な世界にどんどん深入りして行った。何事も見漏らすまい聞き漏らすまいと隣の二階家に注意を怠らなかったにもかかわらず、その後しばらくの間、M子の姿なり声なりは夢にも捕えることができなかった。ただそこの家の井戸端に干される洗濯物の中に、M子のものらしい下着の類を見いだした時だけ、僕はM子を想像でかいま見るばかりだった。
ある日――それは板塀に沿うて植え込んである潅木の類の病葉が落ち尽くして、それが土と同じ色になって二寸もある霜柱の上に終日乗ったままになってるような、みじめな、暗い、二月のある夕方だった――僕は書見に倦《あ》きたような体《てい》で、いつものとおり眼と耳とを極度に働かしながら、そのくせ放心した顔つきをして、隣に近い庭の隅をぶらぶら歩いていた。と、突然隣の家の二階の窓障子が開いた音がした。それまで地面ばかり見つめていた僕ははっと思って眼ざとく音のした方へ顔を上げた。そのとたんに障子はもう半分締められていたが、M子らしい女の人の姿が、確かにちらりと視覚に触れた。同時に葉書の半分ほどの大きさの紙切れが、かなり早い速力で窓を離れて僕の家の庭の方へ落ちてきた。火のような氷のような棍棒形をした何物かが不意に小痛いほどぶつかってきて、心臓をどきんと下から押しひしゃげたと思うと、体じゅうの脈搏が苦しいほど高まったのを僕はまざまざと感じた。紙はそこに落ちている。しかし僕はさそくにそれを拾い上げる勇気を失っていた。M子がどこからかそっと見ていないとも限らないと思った。それは僕の心を全くしゃちこばらしてしまった。その紙を拾うのは夜になってからが都合がいい。けれども確かに拾ったことをM子に見せるためには今でなければいけない。しかし今拾うにはまず四周に気を配らなければならない。その様子をM子が二階から見ていると思うととてもできない。
しかし僕はとうとう思い切って大胆になるよりしかたがなかった。僕は押しきって人もなげにその紙を拾い上げた。そして眼を定めてそれを見た。ちょうど紙の真中とも思われるあたりの下の方にNという字だけが小さく美しく書いてあった。僕はとにかくそれを持って部屋に帰った。
そんな時に人は妙に伝奇的になる。僕は机の上に、香水の匂のかすかに漂うすべすべした紙片をおいてじっと見やりながら、トルストイのアンナ・カレニナ《*》 を思い出していた。愛し合う男女が、言おうとする文句の頭字だけを書きならべて、普通の会話のように心を通じあったというあの条《くだり》を。ところが僕にはNだけではM子の意志をどう想像してみることもできなかった。まさかNoを言おうとするのではあるまい。さんざん考えた末に僕はとうとう考えあぐんでしまって、結局M子が書き損ないの紙を窓から捨てたのを、偶然に僕が拾ったまでだと思ってみた。それでもその紙の一端にさし込んである丸鋲《びよう》から見ると、錘《おも》りをつけて僕の庭に落とそうとしたM子の意志が推測されないでもないと思った。恋する者にはこんなくだらないこと一つが生死の問題よりも大きく考えられる。その晩僕は眠ることができなかった。
翌日庭を散歩すると不思議にもまた丸鋲を錘りにした紙が落ちていた。それには前と同じ位置にOの字がたった一つ書いてあった。僕の恐れたNoという字が誤たず綴られることになるではないか。
僕には見えない所で僕の動静をM子は疾《と》うから見守っていたのだ。そして僕にむだな苦しみをさせまいための慈悲心から、二枚の紙切れを恵んでくれたのだ。どっちでもいいから迷いから解き放されたいと思っていたくせに、こう突然決定的な運命を見せつけられると、僕は自制を失うまでに絶望的な悲しみと怒りとに襲われてしまった。そしてその晩M子にあてて昂奮ではち切れそうな長い手紙を書いた。それを一晩じゅう素《す》膚《はだ》の胸に抱いて運命にあらんかぎりの哀訴をした。
翌朝早く僕はまたその手紙を持って庭に出た。塀越しに隣の庭に投げ入れようとしていたのだ。ところがどうだ、その朝も潅木の枯れ枝の上に昨日と同じ紙切れがまた引っかかっているではないか。それにはOと同じ位置にIの字が書かれていた。僕は死刑の瞬間に大赦に遇った人のように勇み立ってしまった。その翌日には紙の左端にEが現われていて、二字ほどの間を置いて、TSNという三字が読まれた。NとOで綴方の見当をつけ習った僕は、毎朝早くその紙切れを拾って来ては一枚一枚上に重ねて文句の出来上がるのを一日千秋の思いで楽しむようになった。ちょうど一週間目の朝にその綴りは完成した。それはこうだった。
NOON
THIS
STATION
渋谷
TO
COME
M子という女はこんなことをする女なのだ。逆に持っていったのもM子らしいが、NOで人を威かしておいて、後の昂奮を引き立たせようとするだじゃれはことさらM子だ。君は、それは僕の思いなしで、M子の企らんだことじゃないというかもしれない。それはそう思うなら君の御勝手というものだ。ただし君はM子については僕ほど苦しまされてはいないのだという、それだけのことを言い添えておこう。とにかくトルストイの描いた男女と僕ら二人との間に挟まってる距離は、この一つの小さな挿話が雄弁に説明しているよ。
それからのことは委しく書くまでもない。君もだいたいは僕から聞かされて知ってるし、M子が蜜よりも甘い言葉で君を引きつけようとしていた時分、君をじらせる武器の一つとして、M子から十分の誇張を持って伝えられていることだと思うから。しかしここに一言言い添えておかなければならないことがある。それは、心の動き方の激しかったのは僕のほうであったかもしれないにせよ、この恋愛を実行に移した主動者はM子だったということだ。僕がこの事件をはじめて君に告白した時も、M子をより女らしく美しく描こうとする一種の技巧的な心持ちから、また僕自身の昂奮がM子よりはるかに激しかったのを意識せずにはいられなかった、その弱味から、事件の全体には僕のほうがより多くの責任を持ってるように言ったと記憶するが、実際は明らかにそうではなかったのだ。ここに封入する手紙を読んでみたまえ。これは二人が渋谷の停車場ではじめて遇ってから一か月とたたないうちにM子が僕に書いてよこしたものだ。
(M子の手紙)
「Aさん。
「昨日までは、私あなたのいとしい姉さんでしたのね。あなたは少し不満らしく、それでも忍耐深いおとなしい弟のように私につかえてくださいましたわね。けれども私はなんという恐ろしいことをあなたに強いてしまったのでしょう。なんという悲しい報いを見なければならないのでしょう。あなたより三か年だけよけい思慮のあるべき私が……
「純潔の破れるその脆《もろ》さをどう悲しみましょう。あんなにお泣きになったあなたの涙を思い出すと、今でも私の胸はつぶれます。私も泣かずにはいられませんでした。けれども罪深い私はあなたに悲しんでいただく資格はありません。あなた私を許してくださる? 許してくださいましね、どうか。私はもうあなたの姉でもなんでもなくなったんですからね。あなたを恋いこがれる哀れな一人の少女になってしまったのですからね。許してちょうだいね。憐れんでちょうだいね。あなたゆえに罪に沈んだ私の心を少しでも察してくださったら……アアA様、お別れした時のあなたの悲しそうなお顔が、いつまでもいつまでも私の心から離れずにいます。私はあなたにもう一度お目にかかって、得心がいくまでお詫《わ》びをしなければいやです。いやです。明日。いいえ今日会ってくださいまし。きっとこの車屋にすぐ御返事渡してくださいまし、きっと、きっと。
死にまでの思いをこめて M子」
どこまでもわざと下《した》手《で》に出たこの空々しい手紙を見ろ。姉と弟として清い熱い交際をしようと先方から言い出しておきながら、残酷に鼠をもてあそぶ猫のように、恋に溺《おぼ》れきった僕を一か月の間死なんばかりにもてあそんだのはM子じゃないか。おもねりきった娼姉のように、二十三歳の豊満な肉体と感情とにあらん限りの技巧を凝《こ》らして、さらぬだにあえぎ求めていた僕の肉情を緊張の極点にまであおり立て、幾度か機会をつかむ間ぎわまで僕を釣っておきながら、空を切りかえして飛びかわす燕《つばめ》のように、突然見えないほど遠退《の》いて、恐ろしく高い所から天使のような冷やかな眼で、誘惑に打ちのめされて恥ずかしさに顔も得上げない僕を静かに眺める、その残忍さを、僕はどれほどM子を恨み自分を責めて堪え忍んだか。僕は自分の無邪気さから、M子を全く天使のような心の女と見誤っていた。僕自身の汚れた要求が知らず知らず色に出るのを憐れむあまりに、心にもなく僕の意を迎えてみても、とても自分の堕落に堪えられないで、元の気高い、罪を知らずに蠱《こ》惑《わく》的なM子に還るのだと思った。そう思うと僕は自分の汚れに愛《あい》憎《そ》が尽き果てて、M子が意識せずに持ち合わしているらしい誘惑の力を咀いに咀った。しまいには煩《はん》悶《もん》のあまりに僕の心も身も痩せ衰えた。このままで続けば一年も経たないうちに死病に取りつかれるか気が違うとさえ思った。いっそM子から離れてしまおうと決心したことも二度や三度ではなかった。しかしそんな決心は三日とは続かなかった。M子が二階から投げてよこす一行の文句は、何もかも忘れさせるに十分だった。M子が最後の情熱を与えなければ殺してしまおうと思って、凶器を用意してM子と会ったこともあった。そういう時にはM子はきっと有頂天な望みをその次の日に約束するように見えた。僕はおぞましくも復活を信ぜさせられた宗教狂のように、目前の悪行を快く放《ほう》擲《てき》した。次の日にはM子を悪《にく》む代わりに自分を責める隣れな弱者になり果てていた。
今になるとすべてがきわめて明瞭だ。なぜM子は僕のような人間を選んだか。それは肉の戯れに餓えた彼女は食を択《えら》ぶ暇がなかったからだ。M子は自分の周囲を見まわした。そこには手近に僕がいた。僕はM子より年が若く、めんどうな監視を受けないで済む親類の家に寄寓しており、容貌も人なみで、童貞で、情熱的だった。快味の多いflirtation《*》には相手が童貞で情熱的であるのを必要とするのだ。M子は打算のうえから僕を選んだのだ。M子はまた戯れはどこまでも実行に移ってはならないことを知っていた。そして彼女はできるだけ興味多く、言葉を換えて言えば、実行の閾まで踏み込んで、存分に私をもてあそぼうとしたのだ。
ところが気の毒ながらM子は一か月も経たない中に自分の作った陥穽に陥ってしまった。戯れの昂奮から思わず自分を失ってしまった。畢竟自然はM子以上に悪戯好きで巧妙なのだ。M子は自分で自分に驚いたに違いない。しかし驚いた時には気の毒ながら遊戯本能以外のある欲念が目覚めてしまったのだ。M子が一か月目に僕と作ったような関係を新しく他人に求めるのはずいぶん大儀なことだ。そしてともかくももう少しの間僕を取り逃がしてはならないと決めたのだ。
けれどもその時の僕は突然M子から飛びのいていた。僕は第一自分の悪念がM子をとうとう肉に陥れたという苦痛でおののいていた。M子からはもう元のような濃厚な捧誓を受けることはできないまでに僕は自分の醜さに打ち負けたと思った。今までの情熱が急にちぢこんで、責任という重苦しい感じが突然非常な力でのしかかってきた。その時になって僕ははじめてM子と自分とを結びつけて僕の生活の将来を考えだしたのだ。それで僕は妙におくれが先立って、M子を懼《おそ》れて、極端な悒鬱に陥りながらM子と別れたのだ。
あの何所《どこ》までも下《した》手《で》に出たM子の手紙がなぜ僕に送られたかは、これだけのことをいえば了解されるはずだ。
ともかくその時の僕にはあの手紙がどれほど嬉しく情け深く読まれたかわからない。僕は早速M子と会った。二人は銘々違った意味で心を安んじ合った。
ああその時の僕の喜びと満足! 世界はその時から全く新しく変わった。M子の家はM子が生まれたに似合わない厳格な家だったから、僕はなんとしても、公然その家でM子に会うことができなかった。したがってM子と会う手段もずいぶんくどい道行きを工夫しなければならなかった。それは非常に僕を物足らなく思わせたけれども、同時に僕を物語中の立役《ヒーロー》のように仕立てあげたことも疑いない。今までの無目的な功名心ははっきりした形を取って眺めやられた。することにも考えることにも中心ができた。ともかく一つの仕事に成功したもののみが感ずる心の張りというものもできた。実際はろくなこともしでかさないくせに、始終何かもくろんでそれに熱中した。熱心にそれをM子に言って聞かせることが誇らしかった。しかしこんな夢のような世界に住みきっていながらも、僕の情熱には真剣なところがあったとみえる。M子の僕に対する愛もだんだんまじめになって行った。ここでも僕はM子の愛の成長に対して皮肉な見方のできるくらいな余裕は持っているつもりだ。しかしこれは君にいうが、そんな見方はあまり穿《うが》ち過ぎた、したがって中核には触れ得ない結果になる。M子だってニンフではない。心臓は持っている。女だ、人間だ。ある場合には世の中を正しく見ることもできるはずだ。
そのころM子に対する結婚の申込みはそこにもここにも起こっていた。あの家の裕《ゆた》かな生活と、当人の豊艶な容貌で、二十三まで結婚をしないでいたのが不思議なくらいだ。M子は申込みを跳《は》ねつけるたびごとに委しい事情を僕に告げて僕の喜びをそそった。そして真味に二人が営んで行くべき生活のことなどを語り合った。しかし僕がM子の両親に結婚を申し込もうとする段になると、M子はきっと今はその時機でないと言って根強く反対した。
「だってそれはだめよ、私の所に申込みをしてくるのは皆んな立派な位置もあり財産もあり経歴もある人たちばかりなんですもの。あなたなんか両親に鼻であしらわれてしまいますわ。私を信じていてくださればそれでいいじゃありませんか。やんちゃな坊ちゃんだこと。いつもいつもそんな駄々ばかしこねて」
そして上手なしぐさで僕を丸めこんでしまった。
実際それは不思議だった。M子は暗示らしいことですら言うのではないけれども、M子と会っていると僕の生活観は目に立って変わって行った。M子との関係ができる前は、君も知ってるとおり僕は非世間的な独善主義者で、何か小さな仕事でも一つだけを克《こく》明《めい》に守って行こうとするような男だった。世間的なことといえば、善悪にかかわらず虫が好かなかった。しかしM子を知ってからは、何事によらずおもて立ったことが眼につくようになった。落ちついて哲学上の思索でもして身を立てようと思っていた僕は、いつの間にか実業界に飛び込もうと考えるようになっていた。経済学や理財学というような物を自己流に読んでみても、そこには哲学書類に見られない生に密着した生きた問題がたくさん蓄えられているのを発見するように思った。今までとは見違えるように金づかいも荒くなっていた。早く世間に頭を出したい気分でいらいらしだした。大学の課程なんぞ踏んで行くのが馬鹿に見えてならなくなった。うんと飛び離れた冒険的な事業でもやって退《の》けて、世間をあっと言わせてみたくってたまらなくなった。
僕が二十二の秋だった、二人の関係がいろいろと親しい人々の間で噂されだしたのは。今から思うとこれはM子自身が書いた狂言なのだ。この二年の間にM子は僕との関係についてきっとさまざまに考えてみたに違いない。M子はさすがに僕の真実にはほだされていた。それに親がかりの身でわがままほうだいに自分の好きなまねをして、青春の楽しみを引き延ばしていたかったことから、思わずぶらぶらと二十五まで未婚で通したM子の周囲には、あらぬ噂が立つと共に、求婚するものも非常に年の進んだ人だとか、後妻にとかいう、なんとなく燻《くす》んだ色彩のものが多くなったに違いないのだ。それから見ればM子は僕を良人《おつと》に選んで厳しく鞭《むちう》ったら、いいかげんに出来上がった人にたよるよりもおもしろくもあると思ったろう。僕の家が十分な資産のある旧家であることも彼女は見のがさなかったに違いない。年下だということも結局M子には気安いことだった。そこでM子はとうとう決心をしたのだ。決心をするとM子は思いどおりを果たさずにはおかない智慧と意志とを持っている。
M子の両親は二人の関係を親類や縁者から聞かされて驚いたことだったろう。潮時を見きわめたとみえて、あの時M子は今結婚を申し込めと僕に智慧を授けた。僕はすぐ自分の親の承諾を無理やりに得て先方に申し込んだ。M子の思わくどおりエリコはすぐ落ちた。
しかし表立って式を挙げるには僕の年が若すぎるという先方の言い分を受け入れて、僕はすぐ洋行することになった。世間の噂を消すためにもそれに限るとのことだった。M子に未練が残らないのではない。けれども妙に人を功名に急がすあの不思議な彼女の魅力が僕を振い起たした。
これからだよ僕が君に本当に言って聞かせようとするのは。
外遊の三年――長くはない。しかしこの短い年月の間僕ぐらい死に身になって奮闘努力したものが日本人の中に幾人あるだろう。僕は初め何処《どこ》かの大学にはいって相当の社会上の資格をつけようとしたが、日本の社会、ことに実業界がおいおいには実際の手腕に依頼することが多くなると思ったので、欧州には一年滞在したきりで、米国に移って行った。そして誰に紹介を頼むこともなく、新聞の広告に応じて、アトランチック・シチーという避暑地に行って、ユダヤ人の経営している「球ころがし」の店に傭われたのを手始めとして、あらん限りの商売上の経験を積んでみた。外遊してから二年間はM子から始終手紙が届いてきた。それは、その熱烈な愛情の告白と、未来に対する冷静な計画とをもって、火の鞭のように僕の心を励ました。僕は自分の生まれた月日を祝福しないではいられなかった。一人の男の一生に、もし満足な婦人からの満足な愛が得られなかったら、他の点においてその人がいかに幸運であろうとも、畢竟不運だといわなければならない。恋愛の成就を人生の軽い事実にすぎないと見る人々は、ほんとうの生の要求を知らない人か、その要求を満たす力をなんらかの点で持ち合わさない人の負け惜しみにすぎないといってもいいだろう。一度しか享《う》け得ない人生に、女性の心からの捧誓を贏《か》ち得た喜びは、なんといっても男としての最大の勝利の一つだ。そうその時の僕は誇りをもって思った。僕の心の中にはひとりでに力があとからあとから湧き上がって、生まれつき以上に快活なまめな大胆な若者になった。実際今から考えても、M子が僕に及ぼした影響は超自然的だといってもいいぐらいだ。
米国に渡ってから一年の短い月日のうちに僕はずんずん西洋人の間に信用を作って行って、その年の終わりには、非常に日本びいきな米国人で、日本政府から名誉領事の待遇を受けている老紳士の事務所にはいって、かなり重要な取引きまで引き受けるようになった。僕はその老人の秘書のような役目で、ニューヨーク市の大金持ちたちと顔を合わせる機会を得次第、その交際を続ける工夫をした。そして帰朝後に僕の仕事として選むべき大会社の代理販売店の基礎を作っておくことに全力を注いだ。僕の保護者なる老紳士も僕の企てを賛成して、その勢力範囲内で十分の援助を与えてくれたから、僕は四、五か所の大製造会社と非常に有利な契約を取り結ぶことができた。
僕はさらに二年を費やして、十分に米国の商売上の取引きの機微に通じようとした。そのころからだ、M子の消息が見る見る間遠になって、ふっつりと絶えてしまったのは。僕が絶えず送っていた僕の生活の微細な報知に対して、M子からなんとなく浅薄な賞賛と激励とが来るようになった。恋人の本能からどんな短い文句の中にも僕は明らかに筆者の心力の強さを感ずることができた。消息が杜絶えがちになると共に、M子の筆からは熱がしたたらずに、ただの黒いインキがしたたるばかりだと僕に思わせることがたび重なった。僕は変だと思った。そのうち、忘れもしない僕がM子と別れてから三年目のある日、僕が事務上の用事で旅行したシラキウスという町で、留守宅から廻送されたM子の手紙は特に不思議なものだった。筆のうえでは言い現わせない事情ができて、これから当分便りを絶つ。(今から思うとそれはM子が君の見ている前で書いた手紙に相違ないのだ。M子が君からいやにしつこく僕との関係の絶ちがたいものであるのを諷されたので、M子がいつもの癖のようにきかん気らしく少し顔色を青くして、眉頭を震わせながら、これ見よがしに君の書《しよ》翰《かん》箋《せん》を使ってさらさらと書き流したものに相違ないのだ)便りがない間は死なずにいてあなたの成功を祈っていると思ってくれ。手紙には書けない深い思いが通っていると思ってくれ。こうだ。その手紙の表情はことに浅薄だった。頭からあなたが嫌いになったというのはまだ堪えられる。冷え切った心で暖かい言葉を送られるくらいその言葉を受ける人に取って気持ちの悪いことはない。僕はけっしてM子は疑わないでいたのだ。少なくとも僕の理性はその時はM子を堅く信じていた。しかし僕の心に響く手紙の言葉の空虚さをどうすることもできなかった。
僕はすぐ少し詰《なじ》ったような手紙を出した。その手紙に対してはもちろん返事は来なかった。僕はそれでもこの奇怪な不思議に耐え忍ぼうとした。計画しただけは果たしてから帰朝しようと思った。しかしすべては無益だった。結局は僕のこの苦心も努力もM子のためなのだ。M子といっしょにこの結果を味わいたいためなのだ。だから苦しい最後の一年で僕はもう我慢ができなくなった。僕の乗ったスエズ廻りの汽船は、香港《ホンコン》を出てからいかにも穏やかに、煮えくりかえるような心の僕を乗せながら、神戸港にはいった。久し振りで見た日本の景色――それはなつかしいものでなければならなかった。しかし勝海舟が築いたという砲塁も、それに続く画のような松原も、六甲山の翠《みどり》を礁してたたえられた美しい港内の水も、僕の眼にはなんのつ・や・もなく映った。船が錨《いかり》を下ろす間も遅しと遠廻りに待ちうけていたランチや艀船は、磁石に吸い寄せられた鉄屑のように、船の周囲に集まってきたが、誰にも帰朝を知らせなかった僕は、それらの中に僕の存在を注意する人間を一人として見いだすことができないのだ。僕はすごすごとして故国の士を踏んだ。
僕は故郷にも立ち寄らずに、大事なものを入れたトランク一つを持って、真直に東京行きの急行に乗った。僕には始めから不思議な予感があった。それは東京に着いて君に会ったら、M子の一年の沈黙の謎《なぞ》が解かれるだろうということだった。昔からそう親しく交わっていたのでもない君がどうして僕の念頭に浮かび出たのか、それは今でもわからない。列車が東京に近づくに従って、僕は名状しがたい一種の悪感に襲われだした。かわるがわるに手が冷えたり、足が冷えたり、背中が冷えたりした。熱のさしてくる前のような心持ちの悪い一種の身震いがぶるぶると胸の処についた。夜汽車で風邪《かぜ》にかかったのではないかと思ってみたが、喉《のど》にも鼻にも別状はなかった。ただ鼻の奥が妙につまって口がからからに乾いてはいた。膝《ひざ》頭《がしら》のがくつく脚をふみしめて停車場を出ると雨だった。じくじくと長続きするらしい六月の雨が降りだしていた。
外国にいた習慣から、僕は煤《すす》に汚れた顔や手を洗ってシャツが替えたかった。で、すぐ人力車を頼んで近くの旅館に案内させようとした。しかし車の中で今日がちょうど日曜であることを思い出した。僕は君が日曜には教会に行くことを知っていた。教会からたぶんまた外出するだろう。そうしたら明日でなければ遇うことができない。それは堪えられないほど間ぬるいことだ。時間を見ると十一時ちょっと前だったから、これから急がせれば閉会までには間に合わないことはあるまいと思って、車夫にその足ですぐ築《つき》地《じ》に行くように命じた。前幌をすっかり掛けた狭い車の中で、僕は気分ばかりでなく窒息を感じ眩暈《めまい》を感じた。眼の前に小さく明けられたセルロイドの見通しも、雨のために現象を乱して、見るものがことごとくゆがんだりにじんだりした。ちょうど涙をいっぱいためた眼で物を見るのと同じだった。それが僕の心をことさら暗くした。
煉《れん》瓦《が》造りの教会が見えだすとやにわに僕の心ははずみだした。日本に着いてからはじめて友情のこもった言葉を交わすという期待だけでもそのはずだったが、僕の場合にはその後ろにもっと心をはずますものがあった。見ると教会の入口からはぞろぞろ会衆が出てくるところだった。幾組もの会集がこっちへ向いて傘をさしかけて、もうぬかるみになりかかった悪路を拾いながら歩いてきた。僕は腰かけから乗り出して、かいがないとは知りながら、指の先でセルロイドを押し拭いながら眼を定めた。
君がいた。M子がいた。しかも君とM子とがいたわり合うように両方から洋傘を寄せ合わせて教会からの帰りというよりは芝居からの帰りというような、晴れやかな微笑を取り交わしながら歩いていた。
「おい車屋おろしてくれ」
しわがれた声がとっさに僕の口からおめかれた。その声を聞くとちょうど車の傍を歩いていたM子は、ぎょっとした風で思わず立ち止まって僕の車の方を見た。その眼――今でもその眼を思い出すほど僕の復讐心を痛快に満足させるものはない。あの心の底まで腐れ果てたM子も僕の声は記憶していたのだ。そしてその声に脅かされるだけの本能的な貞操の断片を持っていたのだ。しかし僕の声をそんな所で聞こうとはどうして思おう。M子はすぐ自分の幻覚を侮《あざ》笑《わら》うような、薄気味の悪い顔をして、君の後に追いついて行った。
轅棒《ながえ》がおろされて前幌がはね退けられる間も待っていられないで、僕は狂気のごとく車から飛び降りた。君らはもう後ろ姿を僕に見せていた。嫉妬――嫉妬というのは普通の嫉妬を言い現わす言葉だ。そんな言葉はこの場合役に立たない。何もかにもあまりに明白だ。恋する者の本能が誤たず刺し通す両《もろ》刃《ば》の剣に、僕の胸は火のように凍っていた。しかしなんという卑劣な心だ、僕はこんな明らかな姿を見せつけられても、まだ本能に裏切る余裕を示そうとした。そしてポケットの中に入れてある短銃の代わりに、慇《いん》懃《ぎん》な声を取り出していた。
「加藤君じゃないか」
何事も知らぬ君は平気な顔で立ち止まりながら此方へふり向いた。M子も立ち止まってふり向いた。しかしM子はいったん僕が車の中からかけた声を疑いはしたが、車が止まって中から飛び出した男が足早に近づいてくるのを気《け》取《ど》った時には、すでにいちばん忌むべき出来事に刃向かうだけの覚悟を準備しようとしていたものらしい。はっと驚いたらしく見せたその顔には、自然《ひとりで》の驚きはもういくらも潜んではいなかった。学生時代から一躍してとにかく紳士らしい体裁に替わった僕を、そして予報もなく君の眼の前に天降った僕を、君はしばらくは見分けかねたように、返事もせずにまじまじと眺めようとした。とたんに君は真青になった。
「しばらく」
「まあ、ほんとに驚きましたわ」
僕が君に言った言葉と、M子が僕に言った言葉とが気まずくかち合わせをした。M子はいきなり僕に近づいてきて、自分の洋傘を雨ざらしになった僕にさしかけながらも、もう涙ぐんだ眼でじっと僕を見た。二十八――女の二十八――悪《にく》むべき妖《よう》艶《えん》。やや小肥りになっただけで、すらりとすなおに背たけの高いM子は、若いまま熟しきっていた、古い葡萄《ぶどう》酒《しゆ》が赤いままで芳《ほう》醇《じゆん》なように、かつてその美酒を心ゆくまですすった僕にとって、この眼前の誘惑はどれほどだったと思う。その吸われるべく作られたような赤い唇は眼の前一尺の所にあるのだ。もしその時君というものが邪魔していなかったら、僕の心が眼を支配する代わりに、眼が心を支配していたに違いない。いかなる程度にせよ、君がM子に触れたと思うと、僕の眼に映るM子の姿は美麗な独楽《こま》のように見えた。その美を楽しむためには、力まかせに鞭《むちう》つよりほかに道がないのだ。
「いつお帰りになったの。たいへんおやつれになったわ。ね(と言って君の方を見た)いったい今何処《どこ》にいらっしゃるの。これからすぐ宅にいらっしゃいましな」
甘えるようにM子は首をかしげて見せた。夜汽車の煤で汚れたままの僕の顔をやつれたと思うのも無理はない。しかしその言葉の裏には、三年の間の超人間的な労苦のために全然《すつかり》少年の若さを失って、干からびきった僕を醜く思う語気が明らかにうかがわれた。僕は冷やかにM子から君に眼睛《ひとみ》を移した。
学生時代に見たっきりだから君も変わっていた。しかし君はあの時分から妙に色男といったような典型《タイプ》だったな。何所《どこ》から何所まで細々と華《きや》車《しや》にできていて、声がときどきちょっとかすれるのさえ君を艶《なま》めかしくした。そのくせ君の度胸には不思議にすわりのいい所があって、誰にでも臆面《おくめん》なく正面を切った。教師に対しても同輩に対しても、君はふだんの謙抑な言葉尠《すく》なな様子にも似ず、快活とも見え、軽侮とも思えるような態度を見せることがあった。そんな瞬間に君が口尻に現わすゆがみ――人によっては、ことに女性などは、それを愛嬌と見るかもしれない――そのゆがみを僕は極端に厭《いと》わずにはいられなかった。僕はなめらかに人に取り入る人間にはわりあいにたやすく籠絡される方だったけれども、君のその口の側のゆがみがあるだけで、僕はどうしても君に気を許すことができなかったくらいだ。
君は変わっていた。君は学生時代よりも少し肉づきがよくなったためか、よほど重々しくなって、左の方できれいに白い額の上に分けた黒漆の髪と、金縁の眼鏡とは、教養ある君の紳士振りをいちだんと高めていた。女は君を注意せずにはいられまい。一般の男が女に与える全体からの力強い感じは君は持ち合わしていないかもしれないが、女は君の細部《デテイル》に思わず眼を牽《ひ》かれるだろう。右の耳の上で巻かれた癖《くせ》髪《げ》とか、白い額にはっきりはめられた小さい黒子《ほくろ》とか、すなおに高まって行く鼻の線とか、例のほほえむ時の口尻の奇怪なゆがみとか、桜貝のような指の爪とか、臆面もなく夢みるように女を見る眼鏡の奥の二重瞼の眼とか、腰から下を流れるしなやかな長い線とか……
君は変わっていた。しかし君が僕に対して好意を見せるように、その場の仕儀を取り繕《つくろ》うようにほほえんだ時、口尻に現わした例のゆがみは昔のままだった。僕はそれを見た瞬間に君に対する不快の念が嘔《はき》気《け》のように胸先にこみ上げてくるのを覚えた。「いかにしても油断のならない男だ」僕は自分の確信を裏書きするように心の中でうなずいた。しかしこの場合君を〓《とりこ》にするのが僕にとってどれほど大切であるかを僕は忘れなかった。僕は強いて親しさを装いながら君に話しかけた。
「僕は何よりも先に君に伺いもし御相談もしたいと思うことがあるんだが、用がなければこれから僕の宿まで来てくれませんか」
ところがこんな場合にかけてはなかなかずうずうしいはずの君は、おかしいようにまごついてしまった。僕はいい気持ちで、君が眼の向け所もなくせかせかするのを眺めやった。
「い、行きましょう。これといって別に用もないんですが……」
僕はとっさにM子の心が眼まぐるしく働いたと思った。M子はますます平気を装おうとしていたが、その仮面がどうしても小さ過ぎるほど、緊張した心の素顔の大きいのを僕は見て取った。M子は雨が僕に降りかかることなどは忘れたように、洋傘を僕から遠ざけて、僕のいるのにもかまわず、よく物をいうその眼で君の眼に物をいっていた。
「だって加藤さん今日は午後から組会があるのをお忘れになって?」
「あ、そうでしたね」
君はたったそれだけの言葉に、百万の援兵でも得たように勇み立ってこう答えた。
僕はなんでもかんでも先に君に会うに限ると思ったから、M子の家に行くのは断わって、車屋から旅館の名を聞いて、それを君らに知らして、夕方に君とそこで会う約束をしてまた車に乗った。
僕は宿についてから出された昼飯を喰って、顔も洗いシャツも替えたらしかった。しかしそこいらのことは思い出そうとしても夢のようだ。とにかく僕がはっきり自分を意識した時は、雨外套を着ただけで傘もささずに田《た》端《ばた》の高台をひとりぼっちで歩いていた。眼の前の道傍には雨気を帯びた雑草がぞくぞくと気持ちよさそうに葉先を天に向けて、生い伸びていた。雨に洗われた真青な葉色は見れば見るほど美しいものだった。僕は珍しい発見でもしたように、一つ一つ綿密にそれを眺めながら目あてもない道を歩いて行った。なんという恵み深い自然の姿だ。
「さきを越されて引き退っている俺ではないぞ」すぐこんな悪魔のような気分が度《ど》胸《むね》をついた。君を半日僕から奪ったM子は、いったいどんな奸計を廻らそうとしているのだろう。敏感な彼女は僕の気づいたことを気づいているのだ。もう遁《のが》れる道はないと思っているのだ。それでもそこをどうごまかそうとするだろう。ごまかす気ならそれで僕はごまかされた風に出てみせてやる。それとも風を喰って姿を隠そうとでもするだろうか。馬鹿! 二人が生きてる間は、僕の眼から逃《のが》れられると思わぬがいい。神が二人を見失っても僕は見失いはしない。それとも正面からすべてを告白して、僕に離婚を迫ろうとするだろうか。それはM子のいちばんしそうなことだ。そして僕の立場をいちばん苦しめるやり方だ。僕の立場としてはそれを拒むべきなんらの申しわけもない。そう思うと僕は急に力が抜けて、崖《がけ》ぎわに転がしてある切り石の上に腰をおろしてしまった。
どか落ちになった足許から、遠く遠く隅田川と江戸川との水積地が紙のように平らに広がって、どんよりと動きもせぬ雨雲が、僕の心のようにそれを蔽《おお》うていた。雨は静かに降るともなく降っている。海から流れてきたらしい白い鳥が、五、六羽ずつ群れになって、あわただしく飛び廻っていた。眼の下には工場や汽車が眼まぐるしく働いているけれども、一帯の眺めは哀れなほど物静かだ。ぼんやりその広々とした野の景色を眺めながら、僕はM子をただ僕の情熱を飽くまで満足さしてくれた一人の女として考え始めた。尋常なくせに大きく見えるその眼を、吸われるように作られた赤い唇を、心持ちそれ上がった才はじけた鼻を、僕の肩にもたれかかったその襟頸を、感情が高まるほど美しさを増すその声を。僕はM子になぶり殺されるために生まれてきたのだ。だから彼女を失うことはできないのだ。そんなことを思いながらふと気がつくと僕は思わず手を挙げて、蠱惑的な肖像を描きだした目前の空間を払い退けていた。離婚を拒めば僕の男は廃《すた》ってしまうのだ。男の誇り――それをどうしよう。といって、M子を君に委ねるのは、僕に対する君の勝利を認めることだ。ここでも僕は自分の誇りを踏みにじらなければならない、たとえば僕がこの打撃から立ちなおって、どれほどすばらしい大事業家になろうとも、どれほど勝れた新妻を迎えようとも、どれほど気高い聖者になり遂げようとも、畢竟僕はM子を他に奪われたその点においては立派な敗者だ。生活の甦《そ》生《せい》によってこの事実を忘れ得るようなのんき者があるいはこの世にいるのかもしれない。しかし僕にだけは忘れられない。奪い返すか殺すか――そうだ奪い返すか殺すか。「おお俺はM子を愛する」。この愛の正否を誰が冷やかな心で批判することができる。正しかろうが正しくあるまいが、価値があろうが価値があるまいが、悲壮であろうが滑稽であろうが、俺にはM子を愛するというほかにM子に対する感情を言い現わす言葉がないのだ。M子の有する欠点なり、悪意なり、不貞操なりがそのままに僕には誘惑なのだ。それは病的ともいえよう。そうだ病的だ。しかし病的がどうしたというのだ。僕にはそんな病的な感情ですら持つ機会の与えられない健やかな人間が憐れまれるばかりだ。奪い返すか殺すか――そうだ奪い返すか殺すか。……僕の手は知らず知らず衣嚢の上から短銃を探ってみた。そして眼からはとめどなく涙が流れた。しまいにはたまらなくなって、僕はすすり上げながら泣きだした。どのくらいそうやって僕は丸まっていたろう。
気がついて立ち上がると四辺は夕方の光になっていた。僕は今朝の約束を思い出して帰るしたくをした。見ると今まで腰かけていた切り石の下からも雑草ははい出ていた。根はまさしく石の下にあるのに、もがき苦しんで伸びた葉が、いじけながらも重い石の覊《きずな》を払いのけて、光と雨との分け前にありつこうとしている。僕はほかの草のことなどは忘れてしまって、その草一つを石から自由にしてやろうと思った。そして力まかせに切り石を動かしてみた。石は冷やかに動こうとはしなかった。「可哀そうに、秋が来ると、お前は逸早く萎《しぼ》んでしまうのだ」そう思いながら僕はその雑草を見捨てて立ち上がった。
その晩かなり遅くだったな、君とM子とが僕の旅館に尋ねてきたのは。君は僕に見られるたびごとにいやにおどおどしていた。けれどもM子は立派な覚悟ができたらしく落ちつき払っていた。あれは君の趣味なのだろう、M子は明治初年ごろの束髪にしていた。そしてそれに細い黒のリボンをさしていた。それがその髪形にさして不調和にも見えずに、その夜の情景にすばらしくよくそぐっていた。M子はそんなことにかけては全く天才といっていい。
その時のことは君が知ってるとおりだから改めて書きたてまい。しかしM子が過去一年間の君との情交を情理並び至るというような筋目の立った感傷的な調子で語り終わった時には、僕は思わず君らの境遇に同情したことを言っておこう。その後で君は、いやに法律家じみたぎごちない口調で、僕の友人として、キリスト教徒として、また一個の人間として、たとえM子に対する同情と尊敬との結果だったとはいえ、あんな不始末をして退《の》けた罪を陳謝して、M子に対してこれから断然潔白な立場に返ることを男らしく誓ったね。そしてM子の蹉《さ》跌《てつ》を憐れみ許して、元のM子として愛するようにと歎願したね。そこに行くとM子は消え入るばかりに泣きだした。そして涙の中からようやく、自分の深い罪はとても僕の許しを受けるに余りすぎる。たとい僕が許しても自分には受けられない。告白を聞いてもらえただけでも嬉しい。このうえは孤児院にでも行って、静かな一生を送りたいと言ったっけね。「狂言をするない」僕は君ら二人に石でも投げつけるようにどなってやりたかった。それは一面だ。一面には僕の心の中で思わず躍り上がる悪戯者がいた。田《た》端《ばた》で思い設けていたのとはまるで違った申し出をされたその意外さに加えて、ともかくもM子がまた僕に戻るというその喜びは僕の心のどん底を有頂天にしてしまったのだ。
僕はきわめて落ちついてこう言った。
「加藤君よく言ってくださった。僕はあなたの純一な気持ちには感じます。おっしゃるとおりに考えましょう。しかしはたして今後君に対して以前と同様の交際ができるかどうかは、しばらく経ってからの僕の判断に任せてください。M子さん、二人の運命はあまり恐ろしかった。けれども僕はなんにも言いますまい。どうか僕に信頼してもらいたい。僕は虚心になってあなたを許します」
僕はそう言い終わると、我れ知らず熱い涙を流していた。君ら二人もすすり泣いた。
けれどもその時の言葉を僕の心の底の言葉で翻訳してみせようか。それはこうだ。
「加藤! 貴様の狂言じみた言葉に俺が乗ると思うのか。うっかりM子を俺に戻した貴様は百年目だと思え。今度は貴様が苦しむ番だぞ。M子! お前がどんなに運命を狂わせようとしたって俺の執着に変わりはないよ。俺は死ぬまでお前を愛しているんだ。許すも許さないもない。お前が俺のものにならなければ死ぬところだったんだ。危《あぶな》かったんだ。さあまた俺の胸に来い」
君のほうにもそれぞれ翻訳文はあるだろう。ともかく、それでいて、三人はまじめくさって声を忍びながら泣いたのだ。……咄《とつ》!
こんな風に僕ら三人の間の狂った関係が整理されて後一か月して精養軒で結婚式を挙げると僕とM子とは新家庭の主人公となった。M子は生まれ代わったように老成なつつましやかな主婦になった。海外で送っていた、ひとりぼっちで波濤を泳ぎきるような、荒れすさんだ険難な生活は一場の悪夢のように僕の記憶から薄れて行った。しかし僕はM子の本性の要求のなんであるかを知っていた。知っていたというより感じていた。否、もっとあからさまにいうなら、M子が万事に費用を節して、広い交際も求めず、暇さえあれば庖《ほう》厨《ちゆう》や裁縫のことに気を配って、ひたすら家庭の和楽に一心をこめているにもかかわらず、僕には自らけばけばした生活を追い求める心持ちが強まって行った。僕はM子の反対もかまわずにこの豪壮な屋敷をそっくり買い取った。そして海外にいた時、そこいらじゅうの大会社と契約しておいた代理売りさばきの業務を開始した。三年間の一心不乱な努力の結果として、齢《とし》の割合には実務を切りまくって行く腕もできていたし、伝来の財産も仕事をどんどん広めて行くのに差し支えなかったから、またたく暇に僕の店は日本じゅうに取引き先を持つようになった。信用はまた僕の資産を四倍にも五倍にも融通させた。商売は見当がつくまでに早くも三年というものだが、A商店という名は一年足らずで、その道の人たちの間にも十分の重味をもって取り扱われるようになった。
M子はしかしこのすばやい成功を非常に恐れるらしく見えた。彼女は明敏な頭脳で、絶えず僕から事業の様子を聞いて、あっといわせるような助言をしていたが、ある晩食後の小休みの時、ぜひ仕事の手をこれ以上に延ばさないようにと拝むように頼むのだった。
「私にはもうこれ以上は頭が働きませんわ。もう怖《こわ》くって本当にいや。あなたどうお思いになって? 私はもっと静かな意味のある生活がしとうござんすわ。こんなにお金のことにばかり頭をなやましていますと、信仰のことなんかさえ考える暇がなくなってしまって。それにあなたはろくろく家にはいらっしゃらないし、第三者《ほか》から見たらいいかもしれないけれども、私はいやですわ。それにあなたはこんな仕事には本統は適してはいらっしゃらないわね。……いやよ、そんな怖い顔をなすっちゃ。そういえばこのごろはお顔まで怖くなったわ」
何を隠そう、僕は全く疲れ始めていた。時間というものの見さかえさえもなくあせり過ぎた結果、仕事は眼の届かないほど伸びたけれども、それを支えて行く労苦は一とおりではなかった。僕もその時少し手を拡げ過ぎたのを後悔し始めている時だった。ことにM子の態度が落ちついて見えるほど、僕の作り元気はしぼんで行った。
僕の眼の前にははからず本統の幸福が笑みかけてきたように思えた。齢というものがM子にも響いてきたのだ。僕の切実な愛情がいくらか本統に浸み込んでくれたのだ。そう僕は思った。僕の本性にかなった生活が可能であるらしく眺めやられた。僕は占めたと思った。M子も僕も本統に救われる時が来たのだと思った。僕はM子に対して警戒をゆるめると共に、ねじくれない愛情をもって臨むことにしようと思うようになった。
それは厳冬がいつとはなしに春に替わるような喜びだった。手かげんをしながら仕事の範囲を引きしめて行った結果、商店の業務は店員に任せておいてもさして案じる必要がなくなった。二人はよく終日家で暮らすようになった。M子を厳しく自分に縛りつける欲念から、無残なまでにM子に無理強いした不自然な性欲の遂行も、二人の間の適度な要求にまで緩和された。僕は本統に女から何を要求すべきかを学び始めたと思った。
それはある夏の午後だった。書斎で読書に倦《あ》きた僕は、何一つ足りないものもないような豊かな心持ちで机から離れた。開け放った張出し窓《ベーウインドー》の外からは、蒸れた芝生の薫《かお》りと、ものうげな生活のさざめきとが、涼しい高台の微風に送られて流れてきた。僕は静かに書斎を出て、広い濡縁《ベランダ》を通って、居間《シツチングルーム》の方へ行ってみた。幅の広い庇《ひさし》で影を作ったその広間は、外光が明らかであるだけに、よけい暗く見えて、冷え冷えする空気がひいやりとよどんでいた。荷馬車の馬などが日射病にかかって斃《たお》れているに違いない同じ東京の市中とは思われないほどの静かさと涼しさがそこにはあった。あまりの静かさに人気のないものと思ってはいって行った僕は、隅の方の長椅子に深々と腰をかけて、編物を手に持ったまま、安らかに仮睡《うたたね》をしているM子を見いだした。僕はいまさらに親しさを覚えてじっとその寝姿を見守った。齢に似合わしいだけの華美な浴衣を少しはだけかげんに着て、寝汗にしっとりと潤った顔をややあおむけて、吸われるために作られたような赤い唇を少し開いて、軽い呼吸のたびごとに小鼻がかすかに動いていた。僕は足音を偸《ぬす》みながら長椅子に近づいて行って、M子の側にそっと腰をおろした。そしてまたしげしげと彼女の寝姿を見守った。
何処《どこ》にも二十九という年齢や、貞操を乱した暗い生活を暗示するM子はいなかった。母の膝から下ろされたばかりの童女のように、可愛らしい形に手の先を逆に折り曲げて、造ったように美しい素足にトルコ風なスリッパーを片々はいて、汗で額に粘りついた髪のもつれも罪のないものだった。脱げた片々のスリッパーが、足許から二、三寸の所に斜になっているのさえ、不思議ながんぜない感じを眺める眼に与えた。
僕はほほえましい気分になっていつまでもM子の姿を見つめていた。……そのうちに僕の眼の中にひとりでに涙がたまってきた。僕はなんともいえない清い素《す》直《なお》な気持ちに返ってこう思った。
「もう俺は断じてM子を疑うことをしまい。女として誰が女らしい本性を願わないものがあろう。正しい愛に育まれさえしていたら、M子もけっしてあんな暗い道は通りはしなかったのだ。肉念の勝ったM子の体質は、いわれもない周囲の警戒と猜《さい》疑《ぎ》とのために、我知らず反抗的な蹉跌をあえてしたろうとも、それはM子として心苦しい正当防《ぼう》禦《ぎよ》といってもいいものだったのだ。M子を本統のM子にするには疑わずに愛するほかはなかったのだ。俺はもっとよく考えてみなければならない。眠ったM子を見ろ、この罪のなさを。彼女は俺を見、世間を見ると、我知らず心にもない身構えをするのだ。そして彼女にはその豊かな肉体を利用して身構えるほかに、身構えのしようがないのだ。俺はもっと男らしい大きな心に立ち帰らなければいけない」
だんだん自分までが浄められて行く、その感じは恐ろしく殉情的なものだった。今までの邪《じや》慳《けん》を洗おうとするように涙が流れ落ちた。
ふとM子がかすかに眼を開いた。そして軽い溜息をするとまたうつらうつら眠りに落ちようとした。が、突然自分の側に人のいるのに気づいたとみえて、本統に眼を開いて、眼に涙をいっぱいためた僕の方を見た。僕の顔にはあらん限りの好意と愛情とがひとりでにこめられていた。
「あら、いやですわ恥ずかしい」
そう言ってM子はしなをしながら顔を隠してしまった。
「眼が覚めたかい」
僕はそう言って静かに居ずまいを改めながら優しくM子の手を取った。M子の手は軽やかにほてっていた。それがいかにも可憐な初《うい》々《うい》しい感じを僕の掌に伝えてきた。いったいM子に対してこんなデリケートな感じで接して行くのは間違っているのだ。M子はもっと硬化している。もっとあくどい心で触れなければききめがないのだ。しかし殉情的な所の取りきれないお坊っちゃん育ちの僕は、ややもすると自分の心持ちでM子をあしらおうとした。
「私は今日あなたに詫《わび》をしなければならない。今日まで私はなんといってもあなたを疑い続けていた。女の心の鏡に一度焼きついたものが根こそぎ取りきれようとはどうしても思われなかったのだよ。それでも私は心の中でどれほどこの疑いに苦しめられたかしれやしない。男らしくない奴だと自分でたしなめてもみるのだが、一ぺん心に喰い入った疑いの蛇の頭は、つぶしてもつぶしてもまた元どおりになるんだものね。しかし今日という今日こそは心が定まったよ。私はこれまでの卑怯きわまる態度を根こそぎ取ってしまう。そして生まれ代わってあなたといっしょに暮らそうと思う。あなたを少しでも疑い続けなければならないというのは私には全く苦し過ぎる。全く人間が一日一日に堕落して行く。……お互いに世の中を広く生きようね。もう過去は過去として過去の中に葬ってしまうんだ。そしてお互いに明るい気分になろう。ね、それでいいだろう。あなたは私の信頼にそむかないでくれるね。恐い夢を見たのだ。二人の世界をいつまでもあんなことで暗くしていては損だ。そうじゃないか。もうけっして心配しないがいいぜ。あなたがあのことでいつまでも私にひけ目を見せると僕はかえって不快になるんだよ。私の幸福が何所《どこ》から湧くか、あなたは十分知っているだろう。……それでいいんだ」
そんなことをくどくどと僕は説き始めた。それがいかにM子には甘ったるく乳臭く聞こえようとも、M子はそれをすぐ顔に現わすような女ではない。M子は自分の耳を信じかねたように、眼を大きくして僕の言葉を聞いていたが、やがて僕の心持ちを呑み込んだらしく、いきなり僕の胸にぴったりとすがりついて、痛ましいほど激しく泣きだした。人間の心と心とがしっくり溶け合うような瞬間を僕らは一生のうちに幾度味わうだろう。それは全く地上の天国というものだ。そんな時だけ人は立派に天使になる。それを人間は意識せぬながらに求め憧《あこが》れているのだ。僕はそんなことを思いながら不思議に浄化された胸にくだけよとM子を抱きすくめていた。
「私みたいな罪人をよくもよくもあなたは……もうなんにも申しません。拝みます拝みます。私、心が苦しくって死にそうです」
おい、ここを読む時の君の顔を僕は見てやりたいものだ。M子のこの言葉は君の胸に抱かれて言った言葉の復習だったのに違いないのだ。しかしここではまだ悔《あざ》笑《わら》うなよ。笑うにはまだ少し早いのだ。
それからの二人は今までよりもなおさら精神的になって行った。事業とか金を儲《もう》けるとかいうことがさして僕の頭に強い響きを与えなくなったと共に、もう少しなんとか余裕のある上品な生活にはいってみたいと思うようになった。M子はM子で日曜日には必ず教会に出席し、寝る前には必ず聖書を僕に読んで聞かせた。金曜日の夕方には僕から学資の補助を受けている学生たちが七、八人も集まってきて、無邪気な快濶な談話や遊戯に一夜を賑わした。僕はだんだんそんなことにも趣味を覚えるようになった。かつてB先生の所で勝手を振舞った僕は、若いくせにB先生のような心持ちで、M子に下知《*》 などをした。男たちを引き寄せるM子の腕はやはり水ぎわ立っていた。「おばさん」と言って学生たちは僕よりもM子を何かにつけて中心にした。袴《はかま》のほころび、遠足の弁当、洋服の注文――たくさんの召使いがいるにもかかわらず、M子はまめまめしく自分でそんな煩わしい仕事に当たった。金曜日の朝というとM子がいつもよりはしゃいで見えるのが、僕に軽い気まずさを起こさせるほどだった。
とにかく二人は幸福だった。大くくりな所に行くと、男だけに僕のほうが正しい大きな見方をしていたけれども、日常の出来事をはきはき見事に纏《まと》めて行くM子の伎倆はすばらしく歯切れがよかった。年《とし》嵩《かさ》を笠に着て、ちょいちょいしたことに姉らしく振舞ってみせるのもけっして不快の種にはならなかった。世間でAの奥さんはAさん以上の切れ者だなどと噂されても、ある点でM子にしっかり優れているとの自信を、M子によって持たせられていた僕には、それが結句嬉しかった。これまでM子がとかく難癖をつけていた両親との同居をM子のほうから言いだした時も、ただ一つ物足りないこととして子供が欲しいと言いだした時も、僕は自分の誠意の勝利を心強く意識した。M子がそう言いだせばそれでいいのだ。僕にはその二つの問題はたいしたことではない。というより、今になってみるとそんなことの起こらぬほうが結句僕には望ましいことだった。
こうした幸福な平和な生活がなんの障《さわ》りもなく半年続いた。年は冬になって商人に忙しい歳暮が近づいた。さすがの僕も毎日せわしい思いをして、四方に自動車を飛ばし歩いて、取引き先との総勘定をしなければならぬ日が幾日も続いた。M子はM子で歳暮物とか、商店員や召使いの心づけとか、春着のしたくとかに忙殺されて終日家の中で三越を呼んだり高島屋を呼んだりして騒いでいた。顔を合わせれば二人とも忙《せ》わしそうに、それでも忙しいのが幸福ででもあるように、こう忙しくっちゃ本統に困るなどと言い合った。
忘れもしないそれは十二月の二十四日だった。綿のように疲れ果てた僕は、夜の九時ごろ、自家の暖かさと気安さとを慕いながら自動車で神田の通りを駈けさせていた。ちょうど小川町の交叉点に来た時、電車から降りようとしている一人の女に眼がとまった。外套の裾《すそ》をかばいながら、こごみかげんに車掌台から片足を下ろしたところで、黒い毛の襟《えり》巻《まき》をしていたから、顔ははっきり見えなかったけれども、物腰が確かにM子らしかった。僕は思わず座席《シーツ》からのし上がって、もしそれがM子ならば自動車をとめて同乗させようとした拍子に、M子に続いて電車から降りかけた男に眼がついた。加藤だな――もう自動車は十間も先を走っていた。僕はすぐ振り返って小窓から後ろをすかして見た。女も男も人ごみの中になってもう見えなかった。
「馬鹿な」
しばらく考えてから僕はこう思いなおした。こんなやくざな疑いが姿もない波瀾を起こすのだ。信ずるくらいなら信じきろう。僕は自分のさもしい心を悔いながらそう考えた。
M子は留守だったがすぐ帰ってきた。そして黒毛の襟巻を脱ぎながら、さも珍しいことでも起こったように、
「あなた小川町の停留所の所をお通りになったでしょう。そうでしょう。どうも車の形がそうらしかったもの。明日のクリスマスに教会の子供さんたちに何か上げたいと思って中西屋まで行ってきましたの。この忙《せ》わしいのにおせっかい至極なことね」
何を僕は考えていたのだろうと思った。それほどM子の顔は罪のない晴れやかなものだった。
次の朝いつものとおり入浴のために浴室《バスルーム》にはいった。脱衣室で寝衣を脱ごうとすると、掃除の行き届いたモザイクの床の上に五分四方ほどの紙切れの落ちているのを見つけ出した。平常《ふだん》なら僕はそれを見返りもしなかったろう。しかし昨日の今日だった。僕の心の奥の奥には、かすかながら醜い猜《さい》疑《ぎ》の青鬼がのぞき出ていたとみえる。僕はそれを拾い上げた。西洋書翰箋の隅の部分で、二方は直角をなして真直に裁たれてい、他の二方だけが鋸《のこぎり》の歯のように裂かれていた。表には「落付か」と三字だけ見えていた。裏には最初の一字が半分切れていて「郎〓」という二字だけがはっきり読まれた。その「郎〓」を見ると、僕が君の名前をすぐ頭に浮かべてみたのに不思議はあるまい。君の名前には郎がついている。もしや……「畜生!」僕の手はもう震えた。そして半分になった上の字を見極めようとした。思いなしで梅治郎という君の名の字が想像されないでもなかったが、全く違った字のようにも見えた。「馬鹿な」との一言でかたづけてはしまえなく僕はなっていた。で、その紙切れを浴衣《バスロープ》の衣嚢にしっかりとしまうと、僕は気を落ちつけながら湯に浸った。そしてガラスのきれいに拭われた小窓から、寒そうな青空をじっと見つめながら考えた。
それは恐ろしい瞬間だった。白煉瓦張りの清《すが》々《すが》しい四壁がずっと傾きかかってきて、今にもがらっと僕の上に落ち込みはしないかと思った。僕の体はいつもより重く湯の中に沈み込むようだった。
あれは脱衣室の隅にある西洋便所にたたき込まれた紙屑の一片に違いない。外部から吹き飛ばされてきたはずはない。……いったいこんなことを思うのは正しいことなのか。「人を盗賊と呼べ、その人は盗賊になるだろう」とカーライルは言っている。……カーライルもへちまもあるか。あれを落としたものがM子であろうとは思えない。おおかた便所を掃除した召使いの袂《たもと》から落ちたものだろう。ああM子、もう罪を犯してはいけないぞ。本統だ。これは僕が心から言う。僕一人の利己主義《エゴイズム》から言うのではないのだ。もう僕も苦しみたくはない。お前も苦しましたくはない。今朝M子はまだ寝ている。先に浴室に来なかったのがM子の失態だ。知らないでいれば僕は結局前のとおりに幸福だったんじゃないか。それにはM子が先に起きさえすればよかったんだ。けれども、あの紙切れの名前が松次郎なりただの太郎なりであったとしたら。そうでないと誰が言えよう。昨夜最後に厠《かわや》に行ったのはM子だ。召使いはあすこに出入りしない。だからともかくもあれがM子の手から落とされたのに疑いはない。そうだ疑いはない。……。いったいこの湯はぬるいのか、熱いのか、ちょうどいいのか。そうだとしたら、少なくともM子はある男から手紙を受けたのだ。それだけはもう間違いのないことだ。「しっかり落付かないと露われますよ」「私は落付かない心地であなたを待ちこがれています」「逐電して〇〇に落付こうじゃありませんか」「すっかりAを落付かせたあなたの腕を私は恐ろしく思いますよ」……悪魔! ………。しかし馬鹿な取越し苦労をするな。馬鹿な! へっ、俺はこんな廻り気な、さもしい男だとは自分ながら思わなかった。すべてが夢だったら、すべてがなんでもない偶然だったら、僕はこのうえない間抜けになるのだ。一片の紙切れにこんな苦労をするめめしい男があるか。……。紙切れじゃないM子だ。それは小さな問題どころか。ああ叶《かな》うことなら僕は黙って眼をふさいでいたい。実際眼をふさいでいたのだ。それを、M子が、そうだ、M子が僕からきれいに離れたいばかりに狂言を書いたのだ。危うくその手に乗るところだった。ふむ、危いところだった。誰がM子を離れさすか。しかし、しかし、何より望ましいことは善いことだ。平和なことだ。狂いのない愛情だ。何故それが許されないのだ。
僕の脳は順序正しく働く力を失って、こんなことを連絡なく、ぼんやりした自己亡失の無想の間々に考えていた。
僕が本統の僕に帰った時には、冷やかな意思が鋼鉄のように重く険《けわ》しく胸の中にみなぎり満ちていた。血みどろな一種の興味さえ加わっていた。命にかけても、あの紙切れから事実を探り出さなければならぬぞという命令が、神託のように僕の上に下されていた。
僕が寝室にはいると、その時寝床から起き上がったM子は裾前を合わせながら僕の方へにこやかに振り向いたが、僕を見るとはっとしたように驚いた。僕の顔色がよほど変わっていたとみえる。僕は湯の中で突然眩暈《めまい》を起こしたが、それはたぶんあまり忙しかった結果だったろうからしばらく休むといって、そのまま寝床にはいった。
M子はいつものとおりな気安さでいろいろにいたわってくれてから、今日はクリスマスでどうしても朝から教会に行かなければならないからといって、小間使いに細々と看護から食物の注意を与えて、昨日買い入れた包物をしこたま自動車に積み乗せて家を出た。
M子がいなくなると僕はすぐ小間使いを下《しも》に追いやってしまった。そして寝室に錠をおろしておいて、心の中に一種の痛みを感じながら、ある限りのM子の手紙を引き出して調べにかかった。名前が違っていても、文句が普通でも、浴室に落ちていた紙切れと質の似かよったものは丹念に読み返した。しかしそこには少しも怪しい所はなかった。僕はこうして居間《シツチングルーム》も客間も調べてみた。さらに怪しい形跡はない。しまいには物置きになっている屋下室《ガレツト》に行った。三年の間僕が旅から旅に使い古したトランクの中にはぎっしり文殻がつめてあるのだ。薄暗く空気のむれきった天井の低い小部屋の中で、その古トランクを見るということが、すでに十分僕を涙ぐました。トランクの中からは、湿気をひいた数百通の思想や感情の亡《なき》骸《がら》が現われ出たが、一束になったM子からの手紙が出てきた時には、僕は悲しかった。そして今はもう回復のできない追想のために魂まで打ちくだかれようとした。さし迫った大事な仕事も忘れて、かたっぱしからそれに読みふけった後に、その中からことに思い出の多い四、五通を抜き出した(この手記の中に取り入れたあの手紙もその四、五通の中にあったものだ)。それから僕は根ほり葉ほり君からの消息を尋ね求めた。一枚の葉書には君の名が頭文字《イニシヤル》しか書いてなかった。一通の手紙には「加藤生」と君の姓だけが書かれていた。その字体が紙切れのと痛く違っているようでもあった。だいぶ似ているようでもあった。疑うものには、その疑いをさらに疑う者には、何もかもわからなくなってしまうものだ。
しかしこの物淋しい小部屋は僕に大切な暗示を与えてくれた。蒸れきって暑いくせに、何所《どこ》までも冷やかな感じしか与えないこの部屋は、僕の心に意地悪い冷静さを強いていた。落ちつかなければいけない。僕の心はどんなに揺れ動こうとも、僕の顔には鉄のような仮面を被らなければならない。事がこうと決まるまでは、自分にすら自分の心を気《け》取《ど》らすな。僕はこの祈願を繰り返しながらM子の手紙を握りしめて階段を下った。
その夜M子と僕とは長椅子に膝をならべて倚《よ》り添いながら、M子からクリスマスの景況を楽しげに聞いていた。M子は存分に僕の仮面に欺かれていた。「見ていろよ」僕は快活にM子の膝頭をたたいた。
「おもしろそうだなあ。家でもひとつクリスマスをやろうじゃないか、書生さんたちを呼んで。明後日の晩を都合して。元の書生に返って僕も騒ぎたくなったよ。あなたが前髪を切った晩のように。もっともあのころは僕は妙に仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》な男だったが、このごろになってかえって若返ったよ。あなただってはしゃぐことにかけちゃ、昔に変わらないからな」
M子の眼は本能的に輝いた。
「でもこの節《せつ》季《き》の忙《せ》わしさに。のんきね。けれども書生さんがたは喜びましょうよ。女中たちにもずいぶん忙《せ》わしい思いをさせたから、一晩ぐらいは遊ばしてやりましょうかね。じゃほんとにお呼びしましょうか」
と言いながら。
「ほんとにやろうよ。それからあなたの教会の人たちもついでに呼ぼうじゃないか。酒だけぬきにすれば来てくれるだろう。平常《ふだん》世話になってもいるし、僕も近づきになっておきたいから。……それからね、あなたが元いた築地の教会の方の人々も呼ぼうや。どうせ来てもらうなら多いほうがいい。加藤君にはぜひ来てもらおう」
僕のにこやかな仮面はくずれなかった。それにもかかわらず君の名を聞くとM子はいつものとおり不快な顔をして黙ってしまった。
「あなたはまた私をおいじめになるおつもり?」
しばらくしてから、彼女は恨めしそうな眼を見張って、僕の心を読むようにじっとにらんだ。それは美しいやさにらみだった。
「M子、思い違いをしちゃ困るよ。本統をいうとね、僕はどうかして加藤君とは疾《と》うから打ち解けたいと思っていたんだ。けれども妙にこじれた心がそれを許さなかった。隠し立てをしないで言えば、あなたの心底もしっくりとは呑み込めなかった。そんなこんなで心にもなく僕は今日までぐずぐずしていたんだが、もうそうやっているのがいかにもあなたに済まなくなってしまったんだ。M子、僕はあなたを露ほどでも疑うのがもういやだ。M子(僕はM子の背中から腋《わき》の下に手をまわしてM子を引き寄せた。そしてその美しい富士額に軽く接吻した。どういうものかその時情欲の深い彼女の唇には触れることができなかった)あなたは本統に僕を生き返らしてくれた。僕はもう誰とも障壁を設けてはいられなくなった。そねんだり疑ったりするのは苦しいことだ。人間が全く下等になってしまう。あなたも心がきまってさえいたら加藤君と交際したって、いいだろう。交際するのを恐ろしがるようではかえって僕に不安を残すようなものだ。わかったね。いいね、加藤君を呼んでも」
ある学者は悲しいから泣くのではなく、泣く表情をするから悲しくなるのだといった。全く不思議なものだ。こんなことを言ってるうちに、僕はいつの間にか気分まで妙にしんみりしてしまっていた。心からこんなことが言えるのじゃないかとまで思った。
それからM子がいかに突然椅子からすべり下りて僕の膝に突っ伏したか、いかに僕の寛大な取りなしを感謝したか、いかに湧き返る涙をむせび泣いたか、そしてしまいには、いかに二人か情に迫って堅い抱擁の中に幾度も幾度も接吻を取り交わしたか、――それは君の想像に任せよう。M子はそれを真情からしていたに違いない、僕が空々しい自分の述懐にしんみりしてしまったように。人間というものはどうかした拍子に自分以上になったり自分以下になったりするものだ。人の心の険しさはそこにあるのだ。
こうしてM子がとうとう自分を裏切らなかったように、僕も仕事の切《きつ》先《さ》きを露ほども鈍らせはしなかった。僕はすぐ君に向けて簡単な招待の手紙を書いた。
君の来ないのは知れきっている。しかしそれは僕の目的じゃないのだ。君の自筆の返事――それだけを君から奪い取りさえすればたくさんなのだ。普通毛筆ばかり使い慣れてる僕はわざと万年筆を用いて書いた――君がペン、ことに万年筆を用いるように(紙切れに用いられたものは万年筆に違いないと鑑定をつけていたから)。僕は明瞭に自分の姓と名とを書いた――君も姓と名とを用いるように。僕は西洋風の封筒をつかった――君があやまたず洋紙を用いるように。僕は「落ち付いてお話がしたい」と書いた――君も「落ち付」という字を何所《どこ》かで用いるようにと思って。
二十六日の朝、自動車で出かける前に、僕は門前まで行って自分でその手紙を投函した。「してはならないことをしてしまったのではないか」という考えが電光のように僕の頭を閃《ひらめ》いて通った。しかしそれは赤い郵便函の蓋ががちゃんと音をたてて廻ってしまった後だった。僕は上野の停車場まで行って自動車を返して、徒歩で田端の高台に出た。手紙を出してしまってみると返事が来るまでM子と顔を合わしてはいられない気がしたのだ。
岡も野も霜枯れて、筑《つく》波《ば》からおろして来る風が、桜の木の細かい枝をならしながらびゅうびゅう吹いていた。すれ違うものは昼夜の交代をする職工の群ればかりだった。皆んな眼を動かすのさえ寒いように一か所を見定めたまま、風にもたれかかって足早に歩いていた。その人たちはどれもこれも貧しく持病持ちらしく見えた。風に羽向かって岡の方へ飛んできながら、いくら羽ばたきしてもちょっとも進み得ぬ烏《からす》の群れは、申し合わして断念したように、突然矢よりも早く野末に小さく押し流されて行った。轍《わだち》の跡をそのまま道はかんかんに凍っていて、僕は幾度も足を輾《か》えした。この春新しくされたらしい街燈のガラスは敲《たた》き破られていた。掛茶屋の葭簀《よしず》はずたずたに裂けていた。霜にいためられて漬菜のようにべとべとになった叢《くさむら》の中から、尾花の穂だけが未練らしく頭をもたげて、ちぢれかじかんだ穂先を得手勝手に振り動かしていた。なんというみじめさ、なんという貧しさ。その中で僕だけは猟虎《らつこ*》の冬帽子に毛襟の厚外套を着て、駱《らく》駝《だ》の頸巻きに顔の半分がたをしっかり包んで歩いていたのだ。そして僕は眼に触れるすべてのものより比べものにならぬほどみじめな貧しい存在であるのを知っていたのだ。枯れ葉ですら風に乗って走る。小鳥ですら灌木の蔭にとまり木を持っている。僕には何があるのだ。
どうか君が返事をよこさないでくれ。少なくとも君の手跡が一夜のうちに変化していてくれ。君が会社からの帰りがけに、古本屋である石《いし》摺《ず》りを見つけ出して、急にその字体が気に入って、今までの字体を改めたとすれば……その些《さ》細《さい》な出来事が僕の運命を光明に導くかもしれないのだ。もう僕は人を疑ったり恨んだりしなければならない苦痛に堪えきれない。ほんの少しばかりにせよ、正しい生活をかいま見せられた僕は、もうあの裏道の泥の中ばかりを拾って通るような、すべての物事を裏返して検《たしか》めるような、夜だけ眼をさまして歯がみをするような、太陽が黒い鉄の球にしか見えないような、陰惨な、酸鼻な猜疑の生活をするのに倦《あ》き果てた。僕には、人に裏をかかせて平気でいられないめめしい猜疑心があり、自分の領土を露ほども侵させまいとする気ままな利己心があり、表には卑下しながら、裏ではせせら笑う高慢心があったとしても、その奥にそれらを卑しみ厭うだけの欲求が全く欠けているわけではないのだ。平常は気もつかないでいる。しかしその時のようなせっぱつまった窮地に立つと、自分の善良と小心とにはっきり気づくのだ。君の返事を受け取るまでの僕のこの苦痛をどうしたら救うことができるだろう。
運命よ、もし少しでも親切心があるなら、M子を貞節な女であらしてくれ。お前が僕を苦しめると苦しめないとはお前の絶大な仕事の上にそうたいした関係があるのではないのだ。もしお前さえちょっとかげんをしてくれれば、僕はM子に対してこのうえない忠実な勤勉な良人《おつと》となるに違いないのだ。そして僕らは他人の邪魔にならない程度に、少しずつ自分たちの生活をよくして行くことができるのだ。僕は運命に対してけっして僣《せん》越《えつ》な望みを持たないことを誓う。もし富が悪ければ富を捨てる。もし事業が悪ければ事業をやめる。もし人の世話を焼くのが悪ければ人のいない所に行って住む。M子さえ僕の愛を――これだけは何にかけても誓えるほど真実な愛を踏みにじってくれさえしなければ、僕はなんでもする、何にでもなる。どうか許してくれ。それだけは許してくれ。
そう思って僕は、願いを叶えてくれるものさえあれば、誰にでもすがりついて哀願したかった。思い切って君の所に行こうか。そして真心を打ち明けて頼もうか。君はおそらくは「笑談もほどほどにしたまえ」と言いながら、怒りの色を見せて、君にすがりつく僕のおののく手を払い退けるだろう。
なんだって君のような人間が生きているのだ。なんだって僕のこの心持ちを気違いじみた狂言としか思うことのできない君というものが生きているのだ。君のように真剣というもののわからない人間さえいなければ、僕は今よりはるかに美しい幸福な人間になっていたのだ。
けれどもだめだ。君がいなくてもM子がいる。M子の心が腐っていれば、たとい君がいなくても、君と同じものを見つけるのは小石を拾うようにたやすいことなのだから。M子だ、M子だ、M子だ、おおM子なのだ。
しかしM子がどうしたというのだ。僕がM子を愛したとしても、そしてその愛がM子の受け得る最上の愛だったとしても、M子がその愛を受けたくないとしたらどうなのだ。僕はM子を愛するだけの話だ。そしてM子は愛しないだけの話だ。何所《どこ》に非点の打ち所がある。何所に非難の入れ所がある。
僕はしまいに何もかもわからなくなってしまった。僕の心はすっかり打ち摧《くだ》かれた。赤子のように凍《い》ててた路上に突っ伏して、どうか僕がいちばん悪いことを考えて、いちばん愚かなことをした人間でありますようにと祈るほかはないと思った。たったあれだけの紙切れで、どこまでも信じ抜こうと決心していたM子に対して疑いを持ちだした僕は、いったいなんというおおそれた馬鹿者だろう。この場限りそんなねじけた心はもぎ取って棄ててしまえと思った。そうしたら運命が自然に僕らの関係の上にほほえんでくれるようにも思った。
これは前からも幾度か考えないではなかったことだけれども、この場合にことにきびしく考えたのは君のことだった。不思議なのは僕の心だ。僕は君を考え出すたびごとに、君がこの世に生まれ出てきたわけがわからなく思った。君という人間は用もないのに偶然に創り出された邪魔者だとしか僕には思われなかった。だから君が早く死んで行くのは僕にとっては何より合理的なことだった。「何をぐずぐずこの世の中にのさばっているのだ」そう僕は思った(君はこの手紙の冒頭に、君が僕に対して同じことを思っている推測をしているのに気がついたろう。それは明らかに僕の心で君の心を推測したのだ。そしてそれは間違ってはいないはずだ)。しかし同時に僕は誰が想像するよりもいちばん深く君の立場を想像してそれに同情していた。偽善だと君が思おうと思うまいと勝手だが、僕は君に同情していたのだ。僕がこれほどM子を愛し、M子に溺《おぼ》れ、M子に殉じているその心で察すると、君が彼女に対して同じく執着を感ずるのは当然としか僕には思われなかった。のみならず君が執着を感じているというのは僕にとって一つの誇りでさえあった。M子の魅力は僕一人のうぬぼれから編み出した妄《もう》想《そう》でないことが証拠立てられるからだ。
しかしそれ以上にまで君が切り込んで来ていはしまいかと思うと、僕は胸が焼けただれた。その瞬間に僕の心からは客観性が全然失われてしまった。僕は自分が崇高な利己主義者になり上がって行くのを感じた。僕とM子とのほかには人間はいなかった。僕とM子との関係のほかには世界はなかった。がむしゃらに自分の運命が――運命が自分にいかに仕えようとするかを試みたい誘惑からどうしても遁《のが》れることができなかった。君からの返書を見たい衝動を退けきることができなかった。君だってそのくらいの僕の心持ちはわかるだろう。なるほどそれは正当なことではなかったかもしれない。もし僕がその時その誘惑に打ち勝っていたら、その潔い心の拡がりがM子をとうとう僕の髪の中に抱きすくめさせたかもしれない。ふむ、かもしれない。しかしとにかく事実僕はそうはしなかったのだ。
田端の高台を行き尽くして巣鴨に出た。巣鴨を行き尽くして大塚に出た。大塚を行き尽くして新宿に出た。時計を見ると二時半だった。君から返事の来る時間さえ過ごしてしまえば、もう別に恐ろしい眼に遇う気づかいがないような気がして、僕はいつまでも足に任せて品川の方まで東京の場末をずっと歩き廻ろうと思っていた。ところが代々木の御料地の辺を歩いている時にふと大事なことが頭に浮かんだ。それはM子が君の手紙を受け取ると、大胆不敵にもそれを読み終わってから、すぐ暖炉の中にくべてしまいはしないかという疑いだった。
見たところさして大きなことでもないと思われるこの疑いは突然僕の度《ど》胸《むね》をつきあけて、僕は思わず知らず往来に立ちどまってしまった。
「そんなことをさせてたまるか」――僕の心はその瞬間から鬼になった。仮面も何もあるものか。僕は殺気立った期待に震えながらそこからすぐ電車で家に帰ってきた。M子は明日の用意のために外出していて不在だった。僕はほっと安心の息《い》気《き》をついた。
それはその夜の一時が鳴った瞬間だった、今か今かと躊《ちゆう》躇《ちよ》していた僕が、そっと僕の肩に巻いたM子のしなやかな腕をはずして寝台から起き上がったのは。M子は乱れた髪を羽根枕に埋めたまま、規則正しい可憐な呼吸をして深寝をしていた。足の裏に氷のような床《ゆか》の冷たさを感じながら、僕は素《す》跣足《はだし》のまま次室《アンテ・ルーム》に出て、ボタンを押した。電燈がぽっかりと事もなげに部屋じゅうに輝いた。僕はすぐ書卓に近づいて引出しの錠を開けた。そして君の手紙と懐中物《ポケツトブツク》とを取り出した。僕は思わず顔を寝室の方へふり向けて耳をそばだてた。宏壮な石造の建築は墓のように寒く静かだった。
僕はがたがたと震えだしていた。懐中物《ポケツトブツク》から取り出した紙切れと君からの手紙とを両手の間にしっかり挟んで額《ひたい》にあてがった。突然僕は本統に謙《けん》遜《そん》な清浄な心になっていた。
「すべてが最善の現実であるよりは最悪な一場の夢であれ」
僕は祈った。僕ほどの虚《むな》しい心で祈ったものが幾人あるか僕は知りたい。神託を受けようとする敬《けい》虔《けん》な巫女《みこ》のように、僕の胸はおののいて熱していた。そして恐ろしい躊躇の何《なん》分《ぷん》かが過ぎた。
ついに僕は震える手先を無理に引き離した。
震える手先は封を切った。
震える手先は紙を撫《な》でた。
涙に漂いながら僕の二つの眼の光はじっと君の姓名を刺し通した。
僕は思わず驚いた。
その瞬間に僕の心はぷつりと音をたてて断ち切れてしまったのだ。
おい加藤。君にはこの心地は察せられまい。
人の心を軽く秤《はかり》にかける奴は咀われるがいい。
僕はもっと落ちついて筆を執らなければならない。……待ちたまえ。
それから僕がその部屋にいたたまれなくなって、応接室まで忍んで行って、沈黙した暗闇の中に爪を磨いて僕の堕落を待ちかまえていた復讐という女の悪魔とどんな契りを結んだかを語るのはあまりに悲惨だ。とにかくその翌日寝床から起き上がった僕は、別に角も生やしてはいなかった。鱗《うろこ》も生えてはいなかった。きわめてしとやかな昔のままの若い紳士だった。
正月の祝儀に僕が正装で自動車を君の貧弱な玄関に乗りつけたのは確か三日だったね。初めはいやに警戒していた君が、うまうまと僕の甘言に乗せられて、その夕方いっしょに僕の家に来た時の僕の美事なとりなし振りを君は覚えているだろう。食事を終わった時には、君はもうM子に対して、僕の前でもかまわずに、親しい友人として会話を取り交わすことを恐れないまでになっていた。これを手始めにして三人の間の交際がたびかさなると、僕はしばしば君ら二人を残したままで座をはずしたものだ。僕は他の部屋にたったひとりいて、君らの間に取り交わされる眼と眼との会話や、物の受け渡しをする時触れ合う指と指とのささやきを眼で見るよりも明らかに想像していた。そして思う存分僕の嫉妬に油をそそぐことを楽しんだ。胸まで裂けそうに憤怒が嵩《こう》じて、拳は思わず知らず鉄のように固く握られ、膝節がぶるぶるとおののいて、殺気のために口の中がからからに乾くのを、ある限りの意志を尖らしてじっとこらえるあの快さはまた格別だ。「もう我慢ができない」「なんだそんなことで、まあも少し待ちたまえ」「俺は行く」「まあその前にこれを見て行きたまえ。そら今M子が卓の下で足先を延ばしたろう。そらあいつの足にさわったろう。今度は顔を見るんだ。思わず笑み交わそうとして――は、やめた――ね、とうとう溶けるようにほほえんだろう。そんなに急《せ》くもんじゃないよ。今度は暖炉架《マンテルピース》に立っていった。どうだ顔をよせあって何かあの上に乗っているものを探しているぜ。そら見つかった。M子が足を爪立てて手を延ばした。あいつが後ろから抱くようにしてやっている」「糞《くそ》っ」とうとう僕の唇の辺に薄気味の悪い皮肉な笑いが現われる。それが嫉妬のorgasmだ。それで存分満足すると、僕はいっそう巧妙な仮面を被って君らの所にはいって行く。君らがきわどい所を僕に見つけられれば、見つけられるほど、僕の上機嫌はますます高まる。
僕はこうして僕の意志を研《と》ぎ嫉妬を磨くことを覚えた。
僕が馬鹿になればなるほど、M子の僕に対する厚意と愛情とは増して行った。僕はそれを巧妙におだて上げた。僕はまずM子を今までの僕の束縛からすっかり解放するのが必要だと思った。僕は機会を見ては、生活の状態をだんだん結婚当時のありさまに戻して行った。ただ違う点は元のような心にもない外部の圧迫から――すなわちM子の機嫌を取るためにぜいたくをするのではないよという点だ。僕は一つのしっかりした目的を遂行するために喜び勇んで華やかな生活に乗り出したのだ。はじめのうちこそM子は義理らしく眉をひそめていたが、その本性をどうして曲げきることができよう。しばらくすると思う存分図に乗ってきた。庭に建てられた宏大もない温室も、市川に買い入れた鴨《かも》場《ば》も、数か所に造った別荘も、品川湾に浮かべたヨットもことごとくその時の恰好な記念碑なのだ。君までがその余沢をこうむって、今では僕が提供した資本で、一かどの大きな顔になったのだ。
M子の嗜《し》好《こう》は教会から劇場に移り、書生さんから美少年に移った。僕の客間は芸術愛好者のサロンになった。だいたいM子は微妙な感情の所有者ではなく、粗《そ》笨《ほん》な鑑賞力しかない女だったけれども、持って生まれた才気を働かして、上手にばつを合わせて行くだけのことはできた。彼女はたちまち芸術界の保護女神《パトロネス》になった。何か少し飛び離れたものか、美しいものか、あり合わせの生活を無視したものか、醜いものか、魂と没交渉なものさえ見つければ、すぐインスピレーションを感じてしまって、有頂天に騒ぎ立てる彼奴《あいつ》ら芸術家という連中には、M子は全く持ってこいの代《しろ》物《もの》だったのだ。M子が画になると世間は騒いだ。M子が詩になると世間は騒いだ。
僕はまた僕のもくろみの一つとしてM子に虚言《うそ》をつく稽古をうんとさせた。虚言をつかせるのは、金銭を浪費させるほどたやすい仕事ではない。ある程度まで巧妙に僕はM子の裏をかいてみせなければならないからだ。たとえばM子がある美少年と密会した事実をさぐり当てたとする。僕は巧妙な方法でそれを君の耳に入れておいて、何気なく君を晩餐に招待する。君の心はもとより平らではない。M子は恋人の敏感からすぐそれを気《け》取《ど》りながら、あり合わせ以上の美しい甘たるさをもって君の気分を立てなおそうとする。君はそうはさせまいと無理にも感情をこじらせてかかる。おまけに君ら二人はその心のいきさつを僕に感づかれてはならないのだ。その間を苦心しながら繍縫して行くM子を見守るのは興の深いことだった。
もとよりこんな策略をするには密偵《いぬ》を飼うのが第一だった。僕の家の使用人はM子が気づかない程度でだんだん取り替えられていた。湯水のように金銭を呑まされて、肥りかえった密偵ばかりが家の内をうろつくようになった。M子が僕より先にその手段を講じていたのはもちろんのことだ。二人は知らん顔をしながら、互いに陰謀でせめぎ合った。しかし僕はとうとう勝ち目になった。第一なんといっても僕のほうが金を自由に使うことができた。それからM子が家の中を支配する間に、僕は世間を支配していた。それからいちばん大事なのは、僕の素行が恐ろしく非難のないものだったことだ。僕のやけくそはやけくそを通り越していた。あいつがその気なら俺もその気になってみせるぞというようなけちっぽい境界は通り越していた。どんな仕事にも身を慎むということは大切なことだ。一つの事業のためには他のすべては犠牲に供されねばならないのだからな。で、M子の密偵《いぬ》は結局M子をかばうことはできても、僕に吠・えつくことはできなかった。M子がそれをどれほどもどかしく思ったか、それはよく察せられる。
ぜいたくな生活、精神的な養分の枯渇、あらゆる淫《いん》靡《び》な膳立て、虚偽の常習、そんなものがよってたかってそのころのM子を立派な娼婦に仕立てあげてくれた。不思議に若さを失わぬ二十九の豊満な肉体は、湧きかえるような淫《いん》蕩《とう》な黒血を、やや青味を帯びるまでに白いなめらかな皮膚で、はち切れそうに包んでいた。肥ったといっては当たらない。充実しきったのだ。ルーベンス《*》の女ではない、ダネーを描いたコレッジオ《*》の女だ。肉体にも頭の働きにもどこか男性的なきたならしくないはきはきした所を持ちながら、情に堪えないようなlanguor《*》が体全体から蒸れ立っていた。それはまるで晩春の日光に醗酵しきった黒牡《ぼ》丹《たん》の花のようだった。彼女が欲念に燃えながら、同時に僕から骨と智慧とを奪い取ってしまうために、うかがいを定めてじりじりと近づいてくる時は、そこに一種のすごささえ伴った。僕はいつともなく何事も打ち忘れて、彼女から受ける狂気のような死のような忘我に浸りきってしまおうとさえした。畢竟これが世に生まれて男がつかみ得るいちばん強いいちばん確かないちばん満足な事実であると感じさせられた。M子のような境遇に置かれた二十九の多淫な女の、節制から解き放されたその欲念はどうだ。一晩じゅうその刺戟にさいなまれて彼女の寝ないことは珍しくなかった。彼女が寝床の中で体をもみながらヒステリー患者のようにわけもなく泣きだして、しまいには自分で自分を恐れだして僕に救いを求めるようなことがまれでなくなった。
僕はしかしいかなる瞬間にも根性骨は失わなかった。M子を抱きよせて接吻の礫《つぶて》をばらばらと打ちつけている時でも、M子の心に何が描かれているかを火のように感じていた。M子が引きつったようになった眼をふさぐのは、感情からの要求というよりも、僕の姿を見ないためなのだ。M子の想像の集中力を乱さないためなのだ。M子の欲念が高潮すれはするほど、僕の存在はM子の心の中から霧のように消えて行って、その後に君の面影がだんだん濃く描かれて行くのだ。なんというあさましい不敵な合金術《アルケミー》だ。僕のように心が断ち切れて、復讐の悪魔と怪しい契りを結んだものでなかったら、この恐ろしい事実はその人を気絶させるか狂乱させてしまったろう。僕ですらが真青になっていた。声を放ってどならないためには、砕けるまでに歯を喰いしばっていなければならなかった。M子の神経が昂奮からゆるんで行って、名状しがたくだるい快い眠りに陥るのを見すますと、僕は夜の獣のように顔を擡《もた》げて、かさかさに乾いた眼でその寝顔を噛むようにいつまでも眺めた、その場をさらずずぶりとその美しい喉《のど》を刺し通したい敵意と、その血肥りに盛り上がった胸にのしかかりたい衝動とにがたがたとおののきながら。しかしその奥にはどうかしてM子を助けたい、自分が助かりたい祈願を捨てることができなかった。
そんなことではまだだめだぞと僕の胸の中の皮肉屋がそっぽを向いてこうそらうそぶいた。
まあ仕上げを見ていろ、そう言い返しながら僕はまた勇気を鼓して仕事の完成に急いだ。浪費のために落ち目になった商会の仕事の歯車に油を食わせるために、僕は面もふらず投機的な仕事に眼をつけて行った。東京じゅうの同業者の手に汗を握らせるような離れわざを平気でして退《の》けてみせた。実際荒《すさ》み果ててきた僕の心は、性来臆病な僕をひっぱたいて大胆不敵な男にしてしまった。高い円柱の上に片足で立って、蟻ほどに小さく見える下界の人間たちを、危い命のせとぎわの中にあざ笑ってやりたいような気分が常住なものになっていた。
しかし本統に性格的な下地を持たないものに、そんな仕事がいつまでも成功しようはずはない。僕の片足は見る見る疲れてきた。そして体の中心がややもすればぐらついた。それでも僕はあらん限りの意志を働かして自分自身に刃向かった。どんなことがあっても僕はM子を僕の企図の頂点まで引っ張って行かなければ承知ができなかったのだ。あせる心を強いて押さえながら僕は急いだ。兵糧の尽きないうちに敵を窮地に陥れなければならないのだから。
その年の初秋の朝だった。二人はいつものとおり上機嫌で朝餉をしまってから庭に出た。芝草の葉の上には玉のように露が宿って、松葉牡丹の花はまだ花弁を閉じていた。晴れやかな空気の中を、生活のいそしみの響きが軽いささやきのように伝わってきた。僕らは芝生道を曲がりくねってさまよいながらやがて温室の所に出た。小さな水晶宮を見るような透明な建物の中には、熱帯の植物が鬱《うつ》蒼《そう》として茂っていた。二人の園丁が広葉の中に現われ出たり隠れ込んだりして働いていた。ここにも僕の飼養する二匹の犬がいる。
「はいろうか」
「ええ」
何か他事を思っていたらしいM子はこう気のない返事をした。二人は戸を開けてはいった。
「まあいい匂い」
M子は眼がさめたように顔を晴れ晴れさせて、あたりを見まわした。
「どの花なの、この匂いのするのは」
年とったほうの犬は、ちょっと僕に横眼をくれて、一つの蘭の鉢を棚から下ろした。
「始終いつけますと匂いなんぞわからなくなりますが、これででもございましょうか」
とおずおず言った。
「お見せ……ちがうわ」
こう言ってM子は幾鉢も匂いをかいだ。そしてどれもM子が思うような匂いはしないと言いだした。
「そりゃあなた無理だ。この中の匂いはここにある花全体の匂いなんだもの。似寄った匂いで我慢するよりしかたがないさ」
「でも上等な葉巻きのような匂いがするんですもの。そんな花はありませんわ」
僕は煙草《たばこ》を吸わない。いつでも上等の葉巻きの匂いをさせているのは君なのだ。M子はさんざんそこにある鉢物の匂いをかいでから、
「じゃこれで我慢をしておくわ」
と言って、一輪七、八円もしそうな大輪の花が鈴なりについた蘭の鉢を選んだ。僕はその鉢を持ちながらM子の後から歩いた。そしてひとりでに鼻をかすめるその匂いをかぐと、思わず君の姿が心に浮かんできた。それは全く似寄った匂いだった。ふむ、おもしろいと思った。胸の中で僕は目まぐるしくM子をわなにかける工夫をした。そして広縁に昇る拍子に、その鉢をわざとしたたか靴ぬぎ石に敲《たた》きつけた。
「まあこわい」
「しまった」
こう同時に言って向き合った二人の間に、南洋の珍花は鉢の土にまみれて痛ましく横たわっていた。見る見るM子の顔には僕に対する烈しい憎悪と軽蔑の色があからさまに現われた。僕の過失をいつでも笑ってかばいなれた彼女としてはこれはついにないことだった。
「こんなにしておしまいになって! そそっかしいにもほどがありますわ」
覚悟をしていながら、さすがの僕も思わずかっとなった。これはM子が女中にすら使わないような言葉ではないか。
その瞬間にしかし僕は己れに返った。とうとう、そうだとうとう薬がききだしたのだ。見やあがれ。来い悪魔、戦いがおもしろくなってきた。来い悪魔、俺の顔から表情を奪ってくれ。
僕はへりくだった顔つきをして恐る恐るM子を下から見上げた。
「全く馬鹿っちゃない。あなたの大事の花だったのに。まあこらえておくれ、今日僕が代わりを見つけてくるから」
「この花が東京なんかにありますもんですか」
「まあ探してみるさ」
「それはお勝手よ」
僕は一日じゅう東京を探し廻った。そして八十七円でようやく一鉢を見つけ出して持って帰ってきた。M子は尻眼にかけただけで、ありがとうとも言わなかった。
薄ぺらな女の心がとうとう僕の陥穽《おとしあな》にはまったのだ。今までかすかながら被衣《かつぎ》を着ていた彼女の驕《きよう》慢《まん》と放恣とは、その醜い面《つら》框《がまち》を臆面もなく僕に見せだしたのだ。嫉妬と陰謀とで精魂を尽くした僕は、もう一つ屈辱というものを忍ばなければならなくなったわけだ。しかしながら勝利は忍びやかに近づいている。煮えくり返るような僕は、M子の愛におぼれきって、意地も才覚も消え失せた、馬鹿馬鹿しく肉欲的な、そのくせそれを女に強いるだけの勇気のない、みじめな男の姿をすっぽりと仮装した。
M子が君の所にしげしげ出入りしたり、三日も四日も家を外にして行く先も知らせずに旅に出るようになったのはそれからのことだ。
君は忘れようとも僕は忘れやしない。君らの密会の度数と場所とは僕の日記に丹念に書き込んであるが、それよりも明白に心の中に彫《きざ》みつけてあるのだからな。そして君らがすっかり僕に油断して、思いほうだいの歓楽にふけりきっている時、いつでも僕の耳や眼は君らの傍にあって、じっと様子を見聞きしていたのだ。僕の心はいつの間にか立派に二重に働くようになっていた。商会の事務室で机の前に腰かけている時でも、自分の家の食卓にひとりぼっちで物足らなそうに箸を動かしている時でも、僕の心は君らの後をつけて廻っていたのだ。密偵《いぬ》からの電話で、M子を君の家に見いだす時には、僕の心は君の家にいた。電報で君らを避暑地に見いだす時には、僕はその避暑地にいた。そしてM子に影のあるように、僕はM子の背後に佇《ちよ》立《りつ》していた。夢でか、想像でか、あるいは夕暮れ時の薄暗い光線によって惹起される幻《まぼろし》でか、君はどうかした拍子に、死霊のようにやつれきった僕が、歯がみしながら充血した眼でM子をにらみつけているのを見たことはなかったか。この奇怪な性格の分散は僕を痩せさせた。痩せただけの肉は一個の幻となってM子の影にまぎれこんだ。君らが密会の夜、閉《た》てようとする襖《ふすま》がぎくしゃくして閉たぬことはなかったか。そこには僕がいたのだ。寝起きに束ねようしたM子の髪がほつれて、どうしても解けぬことはなかったか。そこには僕がいたのだ。君らが抱擁と接吻とに倚《よ》り添おうとした時、部屋の柱がぱちんと音をたててはじけたことはなかったか。そこには僕がいたのだ。ああ、吸血鬼の執拗と悪意とをもって僕はM子のいる何所《どこ》にでもいたのだぞ。消え失せようとするM子の良心の焔を煽《あお》りながら、僕はM子のいる所には必ずいたのだぞ。忘恩と薄情とが、愛の哀訴をすげなく退けて、その重傷に、あかぎれの切れた荒々しい荒淫の指先を触れた時には、僕が復《ふく》讐《しゆう》の匕《あい》口《くち》を砥《と》石《いし》にかけて、切れ味を自分の髪の毛に試していた時なのだぞ。
M子の驕慢は思う存分に募った――それと共に厚顔無耻な淫欲も。この時機を誤たず見すました僕は第二の手段を取りはじめた。
「M子。僕を嫉妬がましいことを言う男と思ってはいけないよ。僕は何もあなたを疑うわけでもなく、叱るわけでもないんだが、このごろちょいちょい馬鹿なことを耳にすると、何を言うかと思いながらも矢張り心持ちはよくないからね」
僕はやさしく人形のように美しいM子の手を取って膝の上で愛撫するのだ。
「まあなんて言うの」
「なに、なんでもないことだがね」
「そんなら何も気になさらないだっていいわ。でも私そんなに見えて」
「そう気を廻しちゃ話ができないよ」
「よござんす。どんなこと? おっしゃってちょうだい」
「一週間前の今日あなたと加藤とが新橋に落ち合って逗《ず》子《し》の別荘まで行って三日滞在したとか、昨日の晩あなたがあの待合へ加藤を呼んで十二時過ぎまで芸妓を二人あげてふざけたとか、現に今日は向島の方へ行ったとか(これは皆んな実際M子のしなかったことをわざと言ったのだ)そんなことを言う奴があるんでね。あなたの御両親にでも聞かれたら、お互いに痛くもない腹をさぐられるのはめんどうだからね」
「ほほは、あなたもずいぶん神経質ね(M子は勝ち誇ったように笑う)少し交際らしい交際をすればそのくらいのことは誰でも言われますわ。勝手になんとでも言わせておおきなさいましな」
「しかしM子……」
「あなたもおわかりにならない。(M子はもう向《むかつ》腹《ぱら》を立てている)夫婦の間でなんて水臭いんでしょう。あなたはまた私が忘れようとしていることを思い出さしてお苦しめになるつもりなのね。私にどんなおちどがあれば……」
「そうじゃないよM子。(僕はあわてて見せる。M子の引っ込めようとする手先を無理に引き寄せて熱い接吻する)僕が悪かった。もうなんにも言わない。僕の心だってわかっているはずじゃないか」
「わかっていますから離してちょうだい」
「まあそう怒らないでくれ、僕は淋しくなっちまう。もうこれからどんなことがあってもこんなことは言わないから、ね。お互いに気まずくなるのは僕もいやなのだ。結婚のしたてには夫婦喧嘩も光沢《つや》があったが、このごろになると心から不愉快だ。たとえばお前が築地《つきじ》のあの待合を出る時加藤の下駄をなおしてやったとか、大《おお》磯《いそ》に泊り込んだ晩に帳場に談じつけて隣の客を逐い払ったとか、(これはほんとうにM子のしたことを言うのだ)そんなでたらめなことを言う奴があっても、僕はけっして真《ま》には受けないから」
さすがのM子もぎょっとした表情をちらっと顔に浮かべてあきれながら僕を見るのだ。
ある時はまた、M子が自動車で君としめし合わせておいた場所に行こうとすると、運転手はM子からの命令も待たずに、その方向に車を走らせた。またある時は定めておいた場所に君がいつまでも来ないので、遇った時に恨みを言うと、君は驚きながら、所を変えたとM子から電話で知らしてきたので、そこにいったら待ちぼけを喰わされたとあべこべに恨みを言った。
M子は明らかに僕に対して敵意を見せるようになってきた。偽《いつわ》りで固めたなりにも、平穏だった家の中にはどことなく殺気がたってきた。しかし僕はどれほどM子に対して腑《ふ》抜《ぬ》けな信じやすい良人だったろう。どんなにM子が無理を言っても、僕は唯《い》々《い》として盲従した。どんなにM子が怒っても、僕はおろおろしてひたすらその怒りをなだめようとした。ああ、そのころの僕の苦しみを誰が知る。乞食の土足にかけられた王者も、いつか見たあの切り石にひしがれた雑草の根も、僕を見たら自分たちの幸運をほほえむだろう。
この場合M子の取る道が二つよりなかったのは君も察することができると思う。一つは僕に離縁を求めることだ。一つは僕との愛の争闘を飽くまで続けて、僕を斃《たお》してしまうことだ。M子はけなげにも後者を選んだ。そして一方には君との醜い関係に死に物狂いに深入りしながら、あらん限りの誘惑と魅力とで僕の魂と肉体とをずたずたに引き裂いてしまおうとした。
けなげなM子! しかし貴様は要するに僕の敵ではないのだ。M子が荒淫と敵意とで自分を擦り減らしている間に、僕は聖者のような身持ちで自分の肉体を愛護していたのだ。僕の意志がM子の思い入った意志の強さに及ばないとしても、命をかけた愛の鬼子なる嫉妬がそれを補って余りがあったのだ。
M子の周囲に描かれた魔術の輪はだんだんに狭まって行った。僕が伝来の資産と事業の利益とをいっしょにして播《ま》き散らした鼻薬で、君らの密会に使われていた場所はいろいろな口実のもとに君らを受け入れなくなってきた。君らはやむを得ず君の家か僕の別荘で顔を合わせるほかに道がなくなった。しかしそう密会の場所が制限されると僕のほうが俄《が》然《ぜん》として優強の立場に立った。君らの行動はいちいち手に取るように僕に伝わってきた。君の家には無気味な影が何所にともなく待ち伏せしていて、M子が来ると絶えず不思議を行なった。ある時はM子のコートが失くなった。ある時はM子の枕から針が一度に三本も四本も出た。
僕は眼も放さずに君らの行動を見すまして、それから君らの心が互いにどう働き合っているかを感知していた。僕には君らの心が乱れたりくっついたりしだしたのがうかがわれた。とうとう最後の打撃を加うべき時になったのだ。僕が手綱をゆるめた時に、M子が有頂天のあまり、女のあさはかさと悪戯好きな欲念から、もてあそんだ幾人もの美少年との間に取り交わした贈物や手紙のすべてが君の所に誰の手からともなく送られたのはその時だ。M子の心と肉とを遺《い》憾《かん》なく独占したつもりでひとり笑壺に入っていた君が、それを見てどんな顔をしたかも僕はちゃんと知っている。男を操る手段として、いろいろな男から挑《いど》みかけられたいきさつをM子から絶えず聞かされていながら、心の底にうぬぼれの自信をあり余るほど持っていた君は、根がお人よしなだけに、どれほど驚きもし腹も立てたことだったろう。それから君らの間には妙に喰い違った感情が持ち上がりだした。不義な逸楽におぼれた男女ほど取りとめのない恨みを結ぶものはない。それは自分たちの醜い心が、当然造り出す恐ろしい幻覚だ。
M子は自分から進んで家に引きこもりがちになった。毎朝彼女を侵す激しい頭痛。なんでもないことに涙ぐまれる取りとめのない悲哀。突然の激怒。今までの乱雑な性的生活から遮断された結果、三十の女盛りをさいなみ虐《しいた》げる恐ろしい欲念。M子は毎日そういう笞《むち》の下にうめき苦しんだ。
M子の顔はだんだん醜くなってきた。筋肉のゆるんだ眼のまわりに暈《くま》を取る紫色の輪や、やむ時なく左の口尻をひきつらす電光のような痙《けい》攣《れん》や、だんだん目立ってくる頬骨や、あの美しい富士額を曇らして現われ出た立《たて》皺《じわ》や、乾いた顔の皮膚の上に、妙に塩っぽく湿って癖のついた髪の毛などは、彼女の齢をしみじみと彼女に思い知らしたに違いない。はかなくもろい女の肉の盛りはもう過ぎようとしているのだ。女が鏡の選り好みをして、地色を白く輪郭を丸く見せる不自然な鉄面に顔を映しながら、いつまでも化粧の刷毛をひねくりまわすのは、この取り返しのつかない危機がさせるわざだ。憐れなM子はしまいには鏡をさえ恐れるようになった、ひそかに僕の顔を恐れるように。
僕はしかしますます親切なM子の良人だった。M子が涙ぐむと、あらん限りの才覚をしてM子を笑わせようとしながら、場合にふさわないとっぴな滑稽をして退《の》けた。M子が怒ると、その足許にひざまずかんばかりに男を捨てて、撲《ぶ》たれても撲たれてもはい寄る犬のようなまねをした。M子はいっしょになって笑う代わりに火のように怒った。また機嫌をなおす代わりに気違いのように笑いだした。僕はそれにもかかわらず根気強くM子の求めるものを与えようと一生懸命に気をもんだ。ただしいつでも見当違いにではあるが。ただM子が痛ましい本能の要求に鞭《むちう》たれて、敵意も反感も失い果てて、欲念の満足を僕に強いようとする時だけは、僕は冷然として凍った石のようになってしまった。
それは忘れもしない二月の二十九日の夜のことだった。僕はまた床《とこ》の中でM子をむごたらしく、しかし体裁よくしりぞけた。けれども凍った石は心《しん》まで凍っていたのではない。石は自分の弱さを地獄にまで咀いながら、その本性の愛着にうちのめされて、根かぎりに無言の叫びをおめいていたのだ。
突然M子ががばと起き上がって裸足《はだし》のまま床《ゆか》に降りた。激しいすすり泣きの声がものすごく部屋じゅうに伝わった。そしてしばらくためらっているようだったが、恐ろしい勢いで次室《アンテ・ルーム》に続く戸を開けようとした。その瞬間に僕はもう彼女を後ろから抱きすくめていた。
「離してください」
「何所《どこ》に行くんだ、こんなに晩《おそ》く」
「離してください」
「いけない」
「離してください――離さないんですか」
幽霊のように蒼白いM子は雪白な寝衣の下でがたがたと震えながら、振り向いて平べったい色のない声でこう言った。
「M子、気を落ちつけなくちゃいけない。まあここにおいで。どうしたんだいったいこのごろは。寝たくなければそれでいい、ここに椅子がある。さ」
M子は黙ったまますなおに椅子に腰をかけて、足の爪先をじっと見入りながら、小刻みに震えていた。
「来い悪魔、もう末期だ。俺の心に憐れみを知らしてくれるなよ」と僕は口の中に言いながら、椅子の背に手をかけて、髪を解きほごしたM子の形のいい後頸《うなじ》を思いのままに眼で恥ずかしめていた。骨に喰い入るような夜中の寒さか、それとも永くしりぞけられていた肉の哀訴か、とにかく一種のしびれるような力が僕をも震いおののかした。
「あなた私をなぶり殺しになさるおつもりね」
やがてM子は元の姿勢を少しも崩《くず》さずに落ちついてこう言った。
「何を言うんだね。あなた気でも違ったのか」
「ええ」
すぐM子が答えた。また長い沈黙。
「私死んだってあなたからは離れはしませんからね」
M子はじっと首をひねって僕を見上げた。眼睛《ひとみ》の上下に白眼に見えるほど大きく瞼《まぶた》が開かれていた。そして左の口尻が今にも泣きだしそうに激しく痙攣した。僕は思わずぞっとした。しかしその瞬間に僕はいきなり抑えることのできない激情に捕えられた。僕はとっさにM子の前にまわってM子の両手を握っていた。
「よく言ってくれたM子。僕は嬉しい。その言葉が嬉しい。今まで我慢に我慢をしていたが、もう何もかも言ってしまう。笑わないで聞いておくれ。あなたをはじめて見たあの晩から僕はもう生命まであなたにやってしまっていたんだ。なんたる因縁だか知らないが、僕はどうしてもあなたを僕から手離すことができないんだ。おおこの髪だったな、あなたがあの晩惜しげもなく切ってしまったのは。いい姉さんになってあなたは僕を本統にいたわってくれた。あのころのことを思うと、僕は、幸福な人間だったと思う。全く僕のような幸福な人間はなかった。……あなたも幸福だったね。二人は幸福だったね……そして二人とも情深いいい人間だったね。……ちぇっ悪魔! 僕は何を言ってるんだ。幸福だったんじゃない幸福なのだ。僕はね、M子、今でもこのとおり幸福なんだよ。見ろ、僕を、ね。僕の涙を間違えちゃいけない。それは加藤のことをはじめて知った時には、さすがの僕もあなたをどれほど憎く思ったかしれない。いく度手が短銃《ピストル》にいったかしれない。なぜといってあなたを加藤に取られるくらいなら。この手であなたを殺すほうがどれだけいいかしれなかったんだからな。それほど僕はあなたを愛していたんだ。……愛しているんだ。おお愛しているんだM子。……けれどもあなたは加藤からきれいに離れて僕に帰ってきてくれた。はじめのうちこそ僕はあなたをいろいろと疑いもした。それは許してくれていいだろう。僕がその疑いをきれいに心から拭い取るためには命をかけるほどの覚悟がなければできないことだったのだから。ね、M子。しかし今となっては……今となっては、僕はあなたを信じきっているんだよ。悪魔にでも神にでも誓う、僕はあなたを毛の先ほども疑った覚えはないんだよ。僕ぐらい幸福な男はないんだ。ああ僕ぐらい……あなたは死んでも僕を離れないと言ってくれるし……」
M子は突然捧のように立ち上がって耳を押えた。そして折りまげた右の肘《ひじ》で僕を突き飛ばしておいて、自分は椅子の後ろに退いて椅子を盾《たて》に取った。
「空々しいことを……空々しいことを……そんなにまでして……私あなたがいやです、嫌いです、憎い」
「ええしめ殺してやれ」という心の叫びを女の悪魔はどっこいとさえぎった。一瞬真赤に見えた寝室が、再び元の夜の光の中に眺めやられるまでには、僕はくだけるほど歯を喰いしばらなければならなかった。僕は哀訴に顔をしかめながら言葉をついだ。
「M子!……M子! なぜそんな情けないことを言いだすんだ。僕の心を塵ほどでも察してくれたら、あれから僕がどんな真実な心であなたを信じ通していたか……」
M子は狂気のように耳を押えて頭をふった。
「もうたくさん! 部屋を出てください。私立派にあなたのさせたいことをしてみせますから。男らしくもないかただ。出てくださいといったら出てくださいまし」
「そう言わずと……」
ぎりぎりっと歯がみしながらM子は界《さかい》のドアにかけよってそれを開いた。
「さあ出てください」
僕は恨めしそうにM子を見やった。そしてM子の心が和らぐ様子のないのを気《け》取《ど》ってあきらめたようにM子の言うままになった。
「それじゃ今夜は二階の客の寝室に行って寝よう。しかしこの戸の鍵をお貸し。あなたがあまり激昂していて心配だから、僕が外から錠をかっておくから」
M子は僕の無策をあざわらうように無言で鍵を僕の手に渡した。
僕はその部屋を出ると、たまらなくなって声を出して泣きながら無我夢中に階段を駈け上がって客の寝室に突き入った。戸をしめると真夜中の闇が喉の奥まで呼吸と共に吸い込まれそうだった。それは僕の眼が暗いのか心が暗いのかわからなかった。頭にはがらがらと続けさまに物のくずれ落ちる音がすさまじく聞こえていた。喜びの涙と悲しみの涙と、勝利の笑いと絶望の笑いとが旋風のように僕の五体からほとばしった。……おお今M子はかねて用意していたモルヒネをあの卓の引出しから取り出しているのだ。おお俺には見える、M子は震える手で今それを眼の先にかざして眺めている。M子の良心よ、今こそ見納めに最後の眼をしっかりと開くがいい。そして生の尊さを心ゆくまで見詰めるがいい。それともこの瞬間にも加藤の姿がM子の心を捕えて離れないというのか。……畜生……しかし待て。M子を失おうとする俺がこんなに苦しむように、加藤を失おうとするM子が矢張り俺ほど苦しんでいるとしたら。誰が運命に敵することができよう。もし俺たちの間の運命が不幸にして狂ったものだったら、俺たちは運命を尻眼にかけてやるためにも互い互いに憐《あわ》れみ合わなければならないはずじゃないか。……人間というものはなぜこう淋しく生きなければならないのだ。この淋しさ……俺はもうこの淋しさにひとりでいるに堪えない。俺はもう一度M子に行こう。そしてその罪を何もかも許してやろう。今までの俺のよこしまな心を泣いて詫びよう。そして二人はまた情け深い美しい心の持ち主になろう。それはなんといういいことだ。……M子が飲む。待てM子! ははははお前はモルヒネだと思ってそれを飲むのか。モルヒネがモルヒネではないのだ。はははは貴様を良心の苦痛から救い出すべき霊薬は、疾《と》うの昔に俺の手で無害な眠り薬に代えてあるのを知らないのか。馬鹿……馬鹿。死んだつもりのM子は明日の朝またぽっかりと瞼《まぶた》を開くのだ。ははははそしてひとしお俺を恨み憎むのだ。ああそれほどお前は俺を憎まずにはいられないのか。俺はなんという月日の下に生まれたのだ、M子!……ええ飲め飲めそして仮睡するまでの断末魔の苦痛にもだえぬけ。腐っても濁っても俺の愛の刃で心をさし貫かれているお前は、いかに加藤のことばかりを頭に浮かべて死にぎわの歓楽にふけろうとしても、ふけり得ない痛い傷を持ってるはずだ。今こそ思い知れ。その傷の吽《な》き叫ぶ声を死といっしょに苦く飲め。そして明日の朝この煩悩の娑《しや》婆《ば》に再び目ざめてくる前に地獄のどん底を思い存分さまよってこい。……憐れなM子よ。お前は死ぬ覚悟をすらしているのだな。死ぬ覚悟を……ああ俺はこれ以上の不幸には堪えきれない。許そう。矢張りM子を許そう。M子を加藤にやろう。そして俺はひとりで生きよう。それは少しはM子の心を和らげて、その片隅に俺の割り込む場所ができないとも限らない。俺はそれだけの満足でも取り返さなければならない急場に追いつめられているのだ。無惨ななぶり殺し……俺はそれを想像するに堪えなくなった。M子がすやすやと眠っている。俺が短銃をその胸にあてがって、思いきって引き金をひく。天地が壊れる。俺の驚きあきれた眼の前に、血みどろになったM子が白眼をして、びくびくと手足を動かしながら呻《うめ》いている。見る見る息気《いき》の根が細って行く。死ぬ。……それはまだ想像ができる、我慢ができる。一思いになら今の俺だってやりかねない。……M子が自分から進んで劇薬を飲むのを俺は見て知らん振りしている。それを飲む前にM子は死と根かぎりとっくまなければならないのだ。あの恐ろしい死を眼の前に見詰めなければならないのだ。彼女は俺に対する怨《えん》恨《こん》のある限りを胸に思い浮かべるのだ――死に対して絶望的な勇気を振るい起こすために。また死ぬ間ぎわに訣《わか》れを告げかねたが加藤に対しては溶けて流れるような恋慕の情にむせぶのだ――死に対して絶望的な勇気を振るい起こすために。彼女の心臓は激情のために張り切って今にも裂けようとするのだろう。M子は思いきって、半分狂気して白い粉を口に入れる。唾《つば》を吸い取るような粉薬の舌ざわり。ききめを強くするために思いきりたくさん飲む水。死とがっきり抱き合う拍子に不覚にも起こる足のよろめき。もう言葉では言い現わせないどす黒い深い烈しい暴力――罪の苦痛、その苦痛があの豊満な肉をそぎ、あの多情な血をしぼり、心臓に大石を乗せ、脳味噌を熱湯で煮る呵《か》責《しやく》の地獄……それでいてM子は地獄にでも行き得ることか、明日の太陽が出ると共に、またこの俺の生きている現実世界に、……それは我ながら残酷だった。どうしてこんな心になってしまったんだ。この美しい世の中を俺はなぜこんな穢らわしい僻《ひが》事《ごと》で汚そうとはしていたのだ。我ながらなんという憎むべき心だ。おお、今M子は薬を飲み終わって、死を覚悟して静かに床の上に横たわっている。むごいむごい……M子許してくれ。俺は今何もかも白状する。俺は甘んじて自分の身を退く。……劇薬ではないのだお前の飲んだのは……お前を殺すくらいなら俺が死ぬ。なんという気狂いだ俺……」
僕は呼吸することさえ忘れているらしかった。そしてやにわに夢中でその部屋を飛び出した。
廊下には煌《こう》々《こう》と電燈がついていた。その光に眼を射られると、僕はたちまち現実の世界に帰った。
僕があの薬をすり代えたのを、M子が自分の密偵《いぬ》をつかってちゃんと知っていないと誰がいえよう。M子はまた狂言を書こうとしているのだ。
復讐!――復讐! 最後までの復讐! この場になってなんの未練だ。最悪の結果をきたらすべき復讐〓 悪魔! こぞって今竅《あな》を出ろ〓 僕は足の力を失って絨《じゆう》氈《たん》の上に四角にすわりこんでしまった。そして狂人のように頭髪を引きむしって泣きながら笑い続けた。
やがてこの現世地獄の空の端にも夜がほのぼのと白み始めた。
その翌日の九時ごろ死のような熟睡から眼ざめたM子は、命がけの期待が裏切られて、自分が矢張り僕の住む同じ世界に住んでいるのを知ると、突然卒倒してそれから強度のヒステリーに陥ってしまった。意識のくつがえったM子を僕はいかなる狂熱をもって愛撫したか。それは地獄にこきおろした天国だった。天国に引きずり上げた地獄だった。
昨日から、M子は、僕が近づくと、歯をむいて狂犬のように飛びかかる。
僕の家産はM子をここまで引きずり込むためにことごとく蕩《とう》尽《じん》した。明日あたりは執達吏が、この家の差し押えに債主から送られるだろう。
すべてが終わった。僕は今日姿を隠す。これから僕がどうするかまたどうなるかは君の知ったことじゃない。
君のなまぬるい神経に僕ら三人の運命の結末がどう映るか。とにかく僕は魂のもぬけになったM子を君に与える。人間が一生の間におそらくは一度より経験しない尊い深い生命の燃焼を、一片の思いやりもなく、ふざけきった心でもてあそんだ君が、はたして君の恋人を死より救い得るかどうか、僕は何所《どこ》かで楽しみに見ているぞ。
注 釈
生まれ出づる悩み
* 足かけ八年住み慣れた札幌 明治四十一年、東北帝国大学農科大学の英語講師として札幌に赴任してから、大正四年、肺結核の妻の看病のため、辞表を出して帰京するまでの八年間をいう。
* 農場 羊蹄山のふもと、狩太村にある有島農場のこと。
* 『愛は奪ふ』 有島武郎が大正六年に発表した「惜しみなく愛は奪ふ」という小論文のこと。愛は与えるよりも奪う本能であるとし、相互に奪い合うことによって相互が自己を拡張し、充実するといった内容のもの。大正九年の同名の長論文はこの考えを敷《ふ》衍《えん》させたもの。
* Largo pianissimo  イタリア語。Largoは音楽上の速度記号で「遅く」、pianissimoは強弱信号で「できるだけ弱く」という意味。
* Allegro Molto Allegroは速度記号で「快速に」、「活発に」、Moltoは「きわめて」という形容詞。
* 玉の緒 魂の緒の義で「いのち」のこと。
* 彌縫 一時のまにあわせみ取り繕うこと。
* クリムソン・レーキ Crimson lake 深紅色の西洋絵の具。
* 柾葺き こけらぶき、ともいう。檜《ひのき》または槇《まき》を薄くはいだ板(こけら板)の厚いほうを下にし羽重ねにして屋根をふくこと。
* 平頸 馬の首の、たてがみの下の左右の平らなところ。
フランセスの顔
* 最後の審判の喇叭《ラツパ》 キリストが再臨して最後の審判を行う時に先立って喇叭の音が響きわたるという聖書の記事による。
* サイダー りんご酒のこと。
* ロスタンのシャンテクレール Edmond Rostand 一八六八年―一九一八年。フランスの詩人、劇作家。喜劇「シラノ・ドゥ・ベルジュラック」の作者。「シャンテクレール」(Chantecler)は一九一〇年の作。
* わやく 関西方言。「わや」ともいう。道理に合わない事。むちゃ。
* There's Fennel for You, and Columbsines…… シェイクスピアの四大悲劇の一つ、「ハムレット」の中で父を殺されて発狂したオフィーリアが歌う小歌。
クララの出家
* アッシジ 中部イタリア、ウムブルヤ地方の一都市。フランシスコ会発祥の地として有名である。
* 颶風 強烈な風。
* 天使ガブリエル 大天使の一人。聖母マリヤに受胎を告知した天使。
* ホザナ ギリシア語。ばんざい、の意。キリストがエルサレムに入城した際、民衆が棕櫚《しゆろ》の葉を道に敷き、「ホザナ」とたたえた故事による。
* ビザンチン型 東ローマ帝国のキリスト教建築、装飾美術の様式をいう。
* イノセント三世 一一六〇年―一二一六年。歴代教皇中の最有力者。
* アプス 聖堂の後部の壁を半円型あるいは多角形に張り出した部分をいい、上に半ドームを架けている。
* シオンの山の凱歌 シオンはもともと、聖なる山といわれたエルサレム南東部の丘だが、転じて天における神の都の意味となった。世の終わりに救われた聖徒たちが神の都で歌う勝ち歌。
* 無月 空が曇って月の見えないこと。俳《はい》諧《かい》の季語のひとつ。
石にひしがれた雑草
* アンナ・カレニナ 「戦争と平和」と並び称されるトルストイの傑作。美しい人妻、アンナの姦《かん》通《つう》をとりあげている。有島は、遊学の帰途から読みはじめたいへん感動した。
* flirtation 恋愛遊戯。
* 下知 さしずすること。
* 猟虎《らつこ》 ラッコ。いたち科の海獣、体長一メートルくらいで毛皮は珍重される。
* ルーベンス 十七世紀を代表するフランダース出身の画家。健康な官能の美しさを多く描いた。
* ダネーを描いたコレッジォ イタリア後期ルネサンスの代表的画家。生涯追及したのは、ルネサンス風の崇高さ雄大さではなく、人間らしい微妙な感情の抽出であった。独特の光の明暗によってリリカルな動きを現そうとした。ダネーは晩年の作品。
* languor だらけたうっとうしさ。
生《うま》まれ出《い》づる悩《なや》み
有《あり》島《しま》 武《たけ》郎《お》
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平成12年9月15日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『生まれ出づる悩み』昭和44年5月10日初版刊行