TITLE : 或る女
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。
本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。
本文中に「*」が付されている箇所には注釈があります。「*」が付されていることばにマウスポインタを合わせると、ポインタの形が変わります。そこでクリックすると、該当する注釈のページが表示されます。注釈のページからもとのページに戻るには、「Ctrl」(Macの場合は「コマンド」)キーと「B」キーを同時に押すか、注釈の付いたことばをクリックしてください。
目 次
或る女
注 釈
新橋を渡る時、発車を知らせる二番目の鈴《ベル》が、霧とまではいえない九月の朝の、けむった空気に包まれて聞こえてきた。葉子《*》は平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。そして車が、鶴《つる》屋《や》という町の角の宿屋を曲がって、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駈《か》けぬける時、停車場の入口の大戸を閉《し》めようとする駅夫と争いながら、八《はち》分《ぶ》がた閉まりかかった戸のところに突っ立ってこっちを見《み》戍《まも》っている青年の姿を見た。
「まあおそくなって済みませんでしたこと……まだ間に合いますかしら」
と葉子が言いながら階段を昇ると、青年はそまつな麦《むぎ》稈《わら》帽子をちょっと脱いで、黙ったまま青い切符を渡した。
「おやなぜ一等になさらなかったの。そうしないといけないわけがあるから代えてくださいましな」
と言おうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけ開《あ》いている改札口へと急いだ。改札はこの二人の乗客を苦々しげに見やりながら、左手を延ばして待っていた。二人がてんでんに切符を出そうとする時、
「若奥様、これをお忘れになりました」
と言いながら、羽被《はつぴ》の紺の香《におい》の高くするさっきの車夫が、薄い大柄なセルの膝《ひざ》掛《か》けを肩にかけたままあわてたように追い駈けて来て、オリーブ色の絹のハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。
「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇《かん》癪《しやく》声《ごえ》をふり立てた。
青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみがみ怒《ど》鳴《な》り立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃくにした。葉子は今まで急ぎ気味であった歩みをぴったり止めてしまって、落ちついた顔で、車夫の方に向きなおった。
「そう御苦労よ。家に帰ったらね、今日は帰りが遅くなるかもしれませんから、お嬢さんたちだけで校友会にいらっしゃいってそう言っておくれ。それから横浜の近江《おうみ》屋《や》――西洋小間物屋が来たら、今日こっちから出かけたからって言うようにってね」
車夫はきょときょとと改札と葉子とをかたみがわりに見やりながら、自分が汽車にでも乗りおくれるようにあわてていた。改札の顔はだんだん険しくなって、あわや通路を閉めてしまおうとした時、葉子はするするとその方に近よって、
「どうも済みませんでしたこと」
と言って切符をさし出しながら、改札の眼の先で花が咲いたようにほほえんで見せた。改札は馬鹿になったような顔つきをしながら、それでもおめおめと切符に孔《あな》を入れた。
プラットフォームでは、駅員も見送り人も、立っているかぎりの人々は二人の方に眼を向けていた。それを全く気づきもしないような物腰で、葉子は親しげに青年と肩を並べて、しずしずと歩きながら、車夫の届けた包み物の中には何があるかあててみろとか、横浜のように自分の心を牽《ひ》く町はないとか、切符をいっしょにしまっておいてくれろとか言って、音楽者のようにデリケートなその指先で、わざとらしく幾度か青年の手に触れる機会を求めた。列車の中からはある限りの顔が二人を見迎え見送るので、青年が物慣れない処女のように羞《はに》かんで、しかも自分ながら自分を怒っているのが葉子にはおもしろく眺《なが》めやられた。
いちばん近い二等車の昇降口のところに立っていた車掌は右の手をポッケットに突っ込んで、靴の爪《つま》先《さき》で待ち遠しそうに敷石を敲《たた》いていたが、葉子がデッキに足を踏み入れると、いきなり耳をつんざくばかりに呼子を鳴らした。そして青年(青年は名を古藤といった)が葉子に続いて飛び乗った時には、機関車の応笛が前方で朝の町の賑《にぎ》やかなさざめきを破って響き渡った。
葉子は四角なガラスを箝《は》めた入口の繰り戸を古藤《*》が勢いよく開けるのを待って、中にはいろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻のように鋭く眼を走らしたが、左側の中央近く新聞を見入った、痩《や》せた中年の男に視線がとまると、はっと立ちすくむほど驚いた。しかしその驚きは瞬《またた》く暇もないうちに、顔からも脚《あし》からも消え失せて、葉子は悪びれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現われるように、軽い微笑を右の頬《ほお》だけに浮かべながら、古藤に続いて入口に近い右側の空席に腰を下ろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指をなんとも言えない好い形に折り曲げた左手で、鬢《びん》の後《おく》れ毛をかき撫《な》でるついでに、地《じ》味《み》に装って来た黒のリボンに触《さわ》ってみた。青年の前に座を取っていた四十三、四の脂《あぶら》ぎった商人体《てい》の男は、あたふたと立ち上がって自分の後ろのシェードを下ろして、おりふし横ざしに葉子に照りつける朝の光線をさえぎった。
紺の飛白《かすり》に書生下《げ》駄《た》をつっかけた青年に対して、素性が知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情を湛《たた》えたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすら牽かずにはおかなかった。乗客一同の視線は綾《あや》をなして二人の上に乱れ飛んだ。葉子は自分が青年の不思議な対照になっているという感じを快く迎えてでもいるように、青年に対してことさら親しげな態度を見せた。
品川を過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉子はきびしく自分を見《み》据《す》える眼を眉《まゆ》のあたりに感じておもむろにその方を見かえった。それは葉子が思ったとおり、新聞に見入っているかの痩せた男だった。男の名は木《き》部《べ》孤《こ》〓《きよう*》と言った。葉子が車内に足を踏み入れた時、誰よりも先に葉子に眼をつけたのはこの男であったが、誰よりも先に眼をそらしたのもこの男で、すぐ新聞を目八分にさし上げて、それに読み入って素知らぬふりをしたのに葉子は気がついていた。そして葉子に対する乗客の好奇心が衰え始めたころになって、彼は本気に葉子を見つめ始めたのだ。葉子はあらかじめこの刹《せつ》那《な》に対する態度を決めていたからあわても騒ぎもしなかった。眼を鈴のように大きく張って、親しい媚《こ》びの色を浮かべながら、黙ったままで軽くうなずこうと、少し肩と顔とをそっちにひねって、心持ち上向きかげんになった時、稲妻のように彼女の心に響いたのは、男がその好意に応じてほほえみかわす様子のないということだった。実際男の一文字眉は深くひそんで、その両眼はひときわ鋭さを増して見えた。それを見て取ると葉子の心の中はかっとなったが、笑みかまけた眸《ひとみ》はそのままで、するすると男の顔を通り越して、左側の古藤の血気のいい頬のあたりに落ちた。古藤は繰り戸のガラス越しに、切割りの崕《がけ》を眺めてつくねんとしていた。
「また何か考えていらっしゃるのね」
葉子は痩せた木部にこれ見よがしという物腰で華《はな》やかに言った。
古藤はあまりはずんだ葉子の声にひかされて、まんじりとその顔を見守った。その青年の単純なあからさまな心に、自分の笑顔の奥の苦い渋い色が見抜かれはしないかと、葉子は思わずたじろいだほどだった。
「なんにも考えていやしないが、蔭《かげ》になった崕の色が、あまり綺《き》麗《れい》だもんで……紫に見えるでしょう。もう秋がかってきたんですよ」
青年は何も思っていはしなかったのだ。
「本当にね」
葉子は単純に応じて、もう一度ちらっと木部を見た。痩せた木部の眼は前と同じに鋭く輝いていた。葉子は正面に向きなおるとともに、その男の眸の下で、悒《ゆう》鬱《うつ》な険しい色を引きしめた口のあたりに漲《みなぎ》らした。木部はそれを見て自分の態度を後悔すべきはずである。
葉子は木部が魂を打ちこんだ初恋の的だった。それはちょうど日清戦争が終局を告げて、国民一般は誰彼の差別なく、この戦争に関係のあった事柄や人物やに事実以上の好奇心をそそられていたころであったが、木部は二十五という若い齢《とし》で、ある大新聞社の従軍記者になって支那に渡り、月並みな通信文の多い中に、きわだって観察の飛び離れた心力のゆらいだ文章を発表して、天才記者という名を博してめでたく凱《がい》旋《せん》したのであった。そのころ女流キリスト教徒の先覚者として《*》、キリスト教婦人同盟の副会長をしていた葉子の母は、木部の属していた新聞社の社長と親しい交際のあった関係から、ある日その社の従軍記者を自宅に招いて慰労の会食を催した。その席で、小柄で白《はく》皙《せき》で、詩吟の声の悲壮な、感情の熱烈なこの少壮従軍記者ははじめて葉子を見たのだった。
葉子はその時十九だったが、すでに幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手ぎわよく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクト《*》は十分に持っていた。十五の時に、袴《はかま》を紐《ひも》で締める代わりに尾《び》錠《じよう》で締める工夫《くふう》をして、一時女学生界の流行を風《ふう》靡《び》したのも彼女である。その紅《あか》い唇《くちびる》を吸わして首席を占めたんだと、厳格で通っている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮名を負わせたのも彼女である。上野の音楽学校にはいってヴァイオリンの稽《けい》古《こ》を始めてから二か月ほどの間にめきめき上達して、教師や生徒の舌を捲《ま》かした時、ケーベル博士一人は渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と無愛想に言って退《の》けた。それを聞くと「そうでございますか」と無造作に言いながら、ヴァイオリンを窓の外に抛《ほう》りなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。キリスト教婦人同盟の事業に奔走し、社会では男まさりのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人《おつと》を全く無視して振舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇《ぼ》指《し》と食指との間にちゃんと押えて、一歩もひけをとらなかったのも彼女である。葉子の眼にはすべての人が、ことに男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男をかなり近くまで潜《もぐ》り込ませておいて、もう一歩というところで突っ放した。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるということを直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても、自分との関係の絶頂がどこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情け容赦もなくその男を振り捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼らは等しく葉子を見誤っていたことを悔いるように見えた。なぜというと、彼らは一人として葉子に対して怨《えん》恨《こん》を抱いたり、憤怒を漏らしたりするものはなかったから。そして少しひがんだ者たちは自分の愚を認めるよりも葉子を年不相当にませた女と見るほうが勝手だったから。
それは恋によろしい若葉の六月のある夕方だった。日本橋の釘《くぎ》店《だな》にある葉子の家には七、八人の若い従軍記者がまだ戦《せん》塵《じん》の抜けきらないようなふうをして集まって来た。十九でいながら十七にも十六にも見れば見られるような華奢《きやしや》な可憐な姿をした葉子が、慎みの中にも才走った面影を見せて、二人の妹とともに給仕に立った。そして強《し》いられるままに、ケーベル博士から罵《ののし》られたヴァイオリンの一手も奏《かな》でたりした。木部の全霊はただ一目でこの美しい才気の漲りあふれた葉子の容姿に吸い込まれてしまった。葉子も不思議にこの小柄な青年に興味を感じた。そして運命は不思議な悪戯《いたずら》をするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容《よう》貌《ぼう》――骨細な、顔の造作の整った、天才風に蒼《おあ》白《じろ》い滑《なめ》らかな皮膚の、よく見ると他の部分の繊《せん》麗《れい》なわりあいに下《か》顎《がく》骨《こつ》の発達した――までどこか葉子のそれに似ていたから、自意識の極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見つけ出したように思って、一種の好奇心を挑発せられずにはいなかった。木部は燃えやすい心に葉子を焼くようにかき抱いて、葉子はまた才走った頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗宴はさりげなく終わりを告げた。
木部の記者としての評判は破天荒といってもよかった。いやしくも文学を解するものは木部を知らないものはなかった。人々は木部が成熟した思想を提《ひつさ》げて世の中に出て来る時の華《はな》々《ばな》しさを噂《うわさ》し合った。ことに日清戦役という、その当時の日本にしては絶大な背景を背負っているので、この年少記者はある人々からは英雄《ヒーロー》の一人とさえして崇拝された。この木部がたびたび葉子の家を訪れるようになった。その感傷的な、同時にどこか大望に燃え立ったようなこの青年の活気は、家じゅうの人々の心を捕えないではおかなかった。ことに葉子の母が前から木部を知っていて、非常に有為多望な青年だと讃《ほ》めそやしたり、公衆の前で自分の子とも弟ともつかぬ態度で木部をもてあつかったりするのを見ると、葉子は胸の中でせせら笑った。そして心を許して木部に好意を見せ始めた。木部の熱意が見る見る抑《おさ》えがたく募りだしたのはもちろんのことである。
かの六月の夜が過ぎてからほどもなく木部と葉子とは恋という言葉で見られねばならぬような間柄になっていた。こういう場合葉子がどれほど恋の場面を技巧化し芸術化するに巧みであったかは言うに及ばない。木部は寝ても起きても夢の中にあるように見えた。二十五というそのころまで、熱心な信者で、清教徒風の誇りを唯一の立場としていた木部がこの初恋においてどれほど真剣になっていたかは想像することができる。葉子は思いもかけず木部の火のような情熱に焼かれようとする自分を見いだすことがしばしばだった。
そのうちに二人の間柄はすぐ葉子の母に感づかれた。葉子に対してかねてからあることでは一種の敵意を持ってさえいるように見えるその母が、この事件に対して嫉妬《しつと》とも思われるほど厳重な故障を持ちだしたのは、不思議でないというべき境を通り越していた。世故に慣れきって、落ちつき払った中年の婦人が、心の底の動揺に刺《し》戟《げき》されてたくらみ出すと見える残虐な譎計《わるだくみ》は、年若い二人の急所をそろそろと窺《うかが》いよって、腸も通れと突き刺してくる。それを払いかねて木部が命限りにもがくのを見ると、葉子の心に純粋な同情と、男に対する無条件的な捨て身な態度が生まれ始めた。葉子は自分で造り出した自分の穽《おとしあな》に他愛もなく酔い始めた。葉子はこんな眼もくらむような晴れ晴れしいものを見たことがなかった。女の本能が生まれてはじめて芽をふき始めた。そして解剖刀《メス》のような日ごろの批判力は鉛のように鈍ってしまった。葉子の母が暴力では及ばないのを悟って、すかしつなだめつ、良人《おつと》までを道具につかったり、木部の尊信する牧師を方便にしたりして、あらん限りの知力を搾《しぼ》った懐柔策も、なんのかいもなく、冷静な思慮深い作戦計画を根気よく続ければ続けるほど、葉子は木部を後ろにかばいながら、健気《けなげ》にもか弱い女の手一つで戦った。そして木部の全身全霊を爪の先想《おも》いの果てまで自分のものにしなければ、死んでも死ねない様子が見えたので、母もとうとう我を折った。そして五か月の恐ろしい試練の後に、両親の立ち会わない小さな結婚の式が、秋のある午後、木部の下宿の一間で執り行なわれた。そして母に対する勝利の分《ぶん》捕《どり》品《ひん》として、木部は葉子一人のものとなった。
木部はすぐ葉山に小さな隠れ家のような家を見つけ出して、二人は睦《むつ》まじくそこに移り住むことになった。葉子の恋はしかしながらそろそろと冷え始めるのに二週間以上を要しなかった。彼女は競争すべからぬ関係の競争者に対して見事に勝利を得てしまった。日清戦争というものの光も太陽が西に沈むたびごとに減じて行った。それらはそれとしていちばん葉子を失望させたのは、同棲後はじめて男というものの裏を返して見たことだった。葉子を確実に占領したという意識に裏書きされた木部は、今までおくびにも葉子に見せなかった女《め》々《め》しい弱点を露骨に現わし始めた。後ろから見た木部は葉子には取りどころのない平凡な気の弱い精力の足りない男にすぎなかった。筆一本握ることもせずに朝から晩まで葉子に膠《こう》着《ちやく》し、感傷的なくせに恐ろしくわがままで、今日今日の生活にさえ事欠きながら、万事を葉子の肩になげかけてそれが当然なことでもあるような鈍感なお坊ちゃんじみた生活のしかたが葉子の鋭い神経をいらいらさせだした。始めのうちは葉子もそれを木部の詩人らしい無邪気さからだと思ってみた。そしてせっせせっせと世話女房らしく切り廻すことに興味をつないでみた。しかし心の底の恐ろしく物質的な葉子にどうしてこんな辛抱がいつまでも続こうぞ。結婚前までは葉子のほうから迫ってみたにもかかわらず、崇高と見えるまでに極端な潔癖屋だった彼であったのに、思いもかけぬ貪《どん》婪《らん》な陋《ろう》劣《れつ》な情欲の持ち主で、しかもその欲求を貧弱な体質で表わそうとするのに出喰《でつく》わすと、葉子は今まで自分でも気がつかずにいた自分を鏡で見せつけられたような不快を感ぜずにはいられなかった。夕食を済ますと葉子はいつでも不満と失望とでいらいらしながら夜を迎えねばならなかった。木部の葉子に対する愛着が募れば募るほど、葉子は一生が暗くなりまさるように思った。こうして死ぬために生まれてきたのではないはずだ。そう葉子はくさくさしながら思い始めた。その心持ちがまた木部に響いた。木部はだんだん監視の眼をもって葉子の一挙一動を注意するようになってきた。同棲してから半か月もたたないうちに、木部はややもすると高圧的に葉子の自由を束縛するような態度をとるようになった。木部の愛情は骨に沁《し》みるほど知り抜きながら、鈍っていた葉子の批判力はまた磨《みが》きをかけられた。その鋭くなった批判力で見ると、自分と似寄った姿なり性格なりを木部に見いだすということは、自然が巧妙な皮肉をやっているようなものだった。自分もあんなことを想い、あんなことを言うのかと思うと、葉子の自尊心は思う存分に傷つけられた。
ほかの原因もある。しかしこれだけで十分だった。二人がいっしょになってから二か月目に、葉子は突然失《しつ》踪《そう》して、父の親友で、いわゆる物事のよくわかる高山という医者の病室に閉じ籠《こも》らしてもらって、三日ばかりは食う物も食わずに、あさましくも男のために眼のくらんだ自分の不覚を泣き悔やんだ。木部が狂気のようになって、ようやく葉子の隠れ場所を見つけて会いに来た時は、葉子は冷静な態度でしらじらしく面会した。そして「あなたの将来のおためにきっとなりませんから」と何気なげに言って退《の》けた。木部がその言葉に骨を刺すような諷《ふう》刺《し》を見いだしかねているのを見ると、葉子は白く揃《そろ》った美しい歯を見せて声を出して笑った。
葉子と木部との間柄はこんな他愛もない場面を区切りにしてはかなくも破れてしまった。木部はあらんかぎりの手段を用いて、なだめたり、すかしたり、強迫までしてみたが、すべては全く無益だった。いったん木部から離れた葉子の心は、何者も触れたことのない処女のそれのようにさえ見えた。
それから普通の期間を過ぎて葉子は木部の子を分《ぶん》娩《べん》したが、もとよりそのことを木部に知らせなかったばかりでなく、母にさえある他の男によって生んだ子だと告白した。実際葉子はその後、母にその告白を信じさすほどの生活をあえてしていたのだった。しかし母は眼《め》敏《ざと》くもその赤坊に木部の面影を探り出して、キリスト信徒にあるまじき悪意をこの憐《あわ》れな赤坊に加えようとした。赤坊は女中部屋に運ばれたまま、祖母の膝《ひざ》には一度も乗らなかった。意地の弱い葉子の父だけは孫の可愛さからそっと赤坊を葉子の乳母《うば》の家に引き取るようにしてやった。そしてそのみじめな赤坊は乳母の手一つに育てられて定子《*》という六歳の童女になった。
その後葉子の父は死んだ。母も死んだ。木部は葉子と別れてから、狂《きよう》瀾《らん》のような生活に身を任せた。衆議院議員の候補に立ってもみたり、純文学に指を染めてもみたり、旅僧のような放浪生活も送ったり、妻を持ち子を成し、酒にふけり、雑誌の発行も企てた。そしてそのすべてにいちいち不満を感ずるばかりだった。そして葉子が久し振りで汽車の中で出《で》遇《あ》った今は、妻子を里に返してしまって、ある由《ゆい》緒《しよ》ある堂上華族の寄食者となって、これといってする仕事もなく、胸の中だけにはいろいろな空想を浮かべたり消したりして、とかく回想にふけりやすい日送りをしている時だった。
その木部の眼は執《しゆう》念《ね》くもつきまつわった。しかし葉子はそっちを見向こうともしなかった。そして二等の切符でもかまわないからなぜ一等に乗らなかったのだろう。こういうことがきっとあると思ったからこそ、乗り込む時もそう言おうとしたのだのに、気が利《き》かないっちゃないと思うと、近ごろになく起きぬけから冴《さ》え冴《ざ》えしていた気分が、沈みかけた秋の日のように陰ったり滅《め》入《い》ったりしだして、冷たい血がポンプにでもかけられたように脳の透《すき》間《ま》という透間をかたく閉ざした。たまらなくなって向かいの窓から景色でも見ようとすると、そこにはシェードが下ろしてあって、例の四十三、四の男が厚い唇をゆるく開けたままで、馬鹿な顔をしながらまじまじと葉子を見やっていた。葉子はむっとしてその男の額から鼻にかけたあたりを、遠慮もなく発矢《はつし》と眼で鞭《むち》うった。商人は、本当に鞭うたれた人が泣きだす前にするように、笑うような、はにかんだような、不思議な顔のゆがめ方をして、さすがに顔を背《そむ》けてしまった。その意気地のない様子がまた葉子の心をいらいらさせた。右に眼を移せば三、四人先に木部がいた。その鋭い小さな眼は依然として葉子を見守っていた。葉子は震えを覚えるばかりに激《げつ》昂《こう》した神経を両手に集めて、その両手を握り合わせて膝の上のハンケチの包みを押えながら、下駄の先をじっと見入ってしまった。今は車内の人が申し合わせて侮辱でもしているように葉子には思えた。古藤が隣座にいるのさえ、一種の苦痛だった。その瞑《めい》想《そう》的《てき》な無邪気な態度が、葉子の内部的経験や苦《く》悶《もん》と少しも縁が続いていないで、二人の間には金輪際理解が成り立ち得ないと思うと、彼女は特別に毛色の変わった自分の境界に、そっと窺《うかが》い寄ろうとする探偵をこの青年に見いだすように思って、その五分刈りにした地蔵頭までが顧みるにも足りない木の屑《くず》がなんぞのように見えた。
痩せた木部の小さな輝いた眼は、依然として葉子を見つめていた。
なぜ木部はかほどまで自分を侮辱するのだろう。彼は今でも自分を女とあなどっている。小《ちつ》ぽけな才力を今でも頼んでいる。女よりもあさましい熱情を鼻にかけて、今でも自分の運命に差し出がましく立ち入ろうとしている。あの自信のない臆《おく》病《びよう》な男に自分はさっき媚《こび》を見せようとしたのだ。そして彼は自分がこれほどまで誇りを捨てて与えようとした特別の好意を眦《まなじり》を反《か》えして退けたのだ。
痩せた木部の小さな眼は依然として葉子を見つめていた。
この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた二人の中年の紳士の口から起こった。その笑い声と葉子となんの関係もないことは葉子にもわかりきっていた。しかし彼女はそれを聞くと、もう欲にも我慢がしきれなくなった。そして右の手を深々と帯の間にさし込んだまま立ち上がりざま、
「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」
と捨てるように古藤に言い残して、いきなり繰り戸を開けてデッキに出た。
だいぶ高くなった日の光がぱっと大森田圃《たんぼ》に照り渡って、海が笑いながら光るのが、並木の向こうに広過ぎるくらい一どきに眼にはいるので、軽い瞑眩《めまい》をさえ覚えるほどだった。鉄の手《て》欄《すり》にすがって振り向くと、古藤が続いて出て来たのを知った。その顔には心配そうな驚きの色が明らさまに現われていた。
「ひどく痛むんですか」
「ええかなりひどく」
と答えたがめんどうだと思って、
「いいからはいっていてください。大げさに見えるといやですから……大丈夫危《あぶ》なかありませんとも……」
と言い足した。古藤は強《し》いてとめようとはしなかった。そして、
「それじゃはいっているが本当に危のうござんすよ……用があったら呼んでくださいよ」
とだけ言ってすなおにはいって行った。
「Simpleton!《*》」
葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように古藤のことなんぞは忘れてしまって、手欄に臂《ひじ》をついたまま放心して、晩夏の景色をつつむ引き締った空気に顔をなぶらした。木部のことも思わない。緑や藍や黄色のほか、これと言って輪廓のはっきりした自然の姿も眼に映らない。ただ涼しい風がそよそよと鬢《びん》の毛をそよがして通るのを快いと思っていた。汽車は目まぐるしいほどの快速力で走っていた。葉子の心はただ渾《こん》沌《とん》と暗く固まった物の周《まわ》りを飽きることもなく幾度も幾度も左から右に、右から左に廻っていた。こうして葉子にとっては永い時間が過ぎ去ったと思われるころ、突然頭の中を引っかき回すような激しい音を立てて汽車は六郷川の鉄橋を渡り始めた。葉子は思わずぎょっとして夢からさめたように前を見ると、釣橋の鉄材が蛛《くも》手《で》になって上を下へと飛び跳《は》ねるので、葉子は思わずデッキのパンネルに身を退《ひ》いて、両《りよう》袖《そで》で顔を抑《おさ》えて物を念じるようにした。
そうやって気を静めようと眼をつぶっているうちに、睫《まつげ》を通し袖を通して木部の顔とことにその輝く小さな両眼とがまざまざと想像に浮かび上がってきた。葉子の神経は磁石に吸い寄せられた砂鉄のように、堅くこの一つの幻像の上に集注して、車内にあった時と同様な緊張した恐ろしい状態に返った。停車場に近づいた汽車はだんだんと歩度をゆるめていた。田圃のここかしこに、俗悪な色で塗り立てた大きな広告看板が連ねて建ててあった。葉子は袖を顔から放して、気持ちの悪い幻像を払いのけるように、一つ一つその看板を見迎え見送っていた。ところどころに火が燃えるようにその看板は眼に映って木部の姿はまたおぼろになって行った。その看板の一つに、長い黒髪を下げた姫が経巻を持っているのがあった。その胸に書かれた「中将湯」という文字を、何気なしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子のことを思い出した。そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。
その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の眼《まなこ》で見つめているうちに、だんだんとその鼻の下から髭《ひげ》が消え失せていって、輝く眸《ひとみ》の色は優しい肉感的な温《あたた》かみを持ちだしてきた。汽車は徐々に進行をゆるめていた。やや荒れ始めた三十男の皮膚の光沢《つや》は、神経的な青年の蒼白い膚の色となって、黒く光った軟《やわ》らかい頭《つむり》の毛がきわだって白い額を撫《な》でている。それさえがはっきり見え始めた。列車はすでに川崎停車場のプラットフォームにはいって来た。葉子の頭の中では、汽車が止まりきる前に仕事をし遂《おお》さねばならぬというふうに、今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいでいった。そして列車が動かなくなった時、葉子はその人の傍《かたわら》にでもいるようにうっとりとした顔つきで、思わず識《し》らず左手を上げて――小指をやさしく折り曲げて――軟らかい鬢の後《おく》れ毛をかき上げていた。これは葉子が人の注意を牽《ひ》こうとする時にはいつでもする姿態《しな》である。
この時、繰り戸がけたたましく開いたと思うと、中から二、三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。
しかもその最後から、涼しい色合いのインバネス《*》を羽織った木部が続くのを感づいて、葉子の心臓は思わずはっと処女の血を盛ったようにときめいた。木部が葉子の前まで来てすれすれにその側を通り抜けようとした時、二人の眼はもう一度しみじみと出遇った。木部の眼は好意を込めた微笑に浸されて、葉子の出ようによっては、すぐにも物を言いだしそうに唇さえ震えていた。葉子も今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わずほほえみかけたのであったが、その瞬間燕《つばめ》返《がえ》しに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷酷な驕《きよう》慢《まん》な光をその眸《ひとみ》から射出したので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた枯れ葉のように、二人の間を空しくひらめいて消えてしまった。葉子は木部のあわて方を見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よく酬《むく》い得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。木部は痩せたその右肩を癖のように怒らしながら、急ぎ足に濶歩《かつぽ》して改札口のところに近づいたが、切符を懐中から出すために立ち止まった時、深い悲しみの色を眉の間に漲《みなぎ》らしながら、振り返ってじっと葉子の横顔に眼を注いだ。葉子はそれを知りながらもとより侮《ぶ》蔑《べつ》の一《いち》瞥《べつ》をも与えなかった。
木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子の眼がじっとその後ろ姿を逐《お》いかけた。木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。そしてその眼には淋《さび》しく涙がたまっていた。
「また会うことがあるだろうか」
葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそう言っていたのだった。
列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手《て》欄《すり》に倚《よ》りかかりながら木部のことをいろいろと思いめぐらした。やや色づいた田圃の先に松並木が見えて、その間から低く海の光る平凡な五十三次ふうな景色が、電柱で句《く》読《とう》を打ちながら、空洞《うつろ》のような葉子の眼の前で閉じたり開いたりした。赤《あか》蜻蛉《とんぼ》も飛びかわす時節で、その群れが、燧《ひうち》石《いし》から打ち出される火花のように、赤い印象を眼の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて見える神奈川を過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を過ぎた太陽の光が、紅葉《もみじ》坂《ざか》の桜並木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。
煤《ばい》煙《えん》で真黒にすすけた煉瓦壁の蔭《かげ》に汽車が停《と》まると、中からいちばん先に出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。葉子はパラソルを杖《つえ》に弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客はさきを越してしまって、二人はいちばんあとになっていた。客を取りおくれた十四、五人の停車場づきの車夫が、待合部屋の前にかたまりながら、やつれて見える葉子に眼をつけて何かと噂《うわさ》し合うのが二人の耳にもはいった。「むすめ」「らしゃめん《*》」というような言葉さえそのはしたない言葉の中には交じっていた。開港場のがさつな卑しい調子は、すぐ葉子の神経にびりびりと感じてきた。
なにしろ葉子は早く落ちつくところを見つけ出したかった。古藤は停車場の前方の川添いにある休憩所まで走って行ってみたが、帰って来るとぶりぶりして、駅夫あがりらしい茶店の主人は古藤の書生っぽ姿をいかにも馬鹿にしたような断わり方をしたといった。二人はしかたなくうるさくつき纏《まつ》わる車夫を追い払いながら、潮の香の漂った濁った小さな運河を渡って、ある狭い穢《きたな》い町の中ほどにある一軒の小さな旅人宿にはいって行った。横浜というところには似もつかぬような古風な外構えで、美《み》濃《の》紙《がみ》のくすぶり返った置《おき》行燈《あんどん》には太い筆つきで相模《さがみ》屋《や》と書いてあった。葉子はなんとなくその行燈に興味を牽《ひ》かれてしまっていた。悪戯《いたずら》好きなその心は、嘉《か》永《えい》ごろの浦賀にでもあればありそうなこの旅籠《はたご》屋《や》に足を休めるのを恐ろしくおもしろく思った。店にしゃがんで、番頭と何か話しているあばずれたような女中までが眼に留まった。そして葉子が体《てい》よく物を言おうとしていると、古藤がいきなり取りかまわない調子で、
「どこか静かな部屋に案内してください」
と無愛想にさきを越してしまった。
「へいへい、どうぞこちらへ」
女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわず、番頭と眼を見合わせて、蔑《さげす》んだらしい笑いを漏らして案内に立った。
ぎしぎしと板ぎしみのする真黒な狭い階子《はしご》段《だん》を上って、西に突き当たった六畳ほどの狭い部屋に案内して、突っ立ったままで荒っぽく二人を不思議そうに女中は見比べるのだった。油じみた襟《えり》元《もと》を思い出させるような、西に出窓のある薄《うす》汚《ぎたな》い部屋の中を女中をひっくるめてにらみ廻しながら古藤は、
「外部《そと》よりひどい……どこか他所《よそ》にしましょうか」
と葉子を見返った。葉子はそれには耳も仮《か》さずに、思慮深い貴女のような物腰で女中の方に向いて言った。
「隣室《となり》も明《あ》いていますか……そう。夜まではどこも明いている……そう。お前さんがここの世話をしておいて? ……なら余《ほか》の部屋もついでに見せておもらいしましょうかしらん」
女中はもう葉子には軽蔑の色は見せなかった。そして心得顔に次の部屋との間《あい》の襖《ふすま》を開ける間に、葉子は手早く大きな銀貸を紙に包んで、
「少しかげんが悪いし、またいろいろお世話になるだろうから」
と言いながら、それを女中に渡した。そしてずっと並んだ五つの部屋を一つ一つ見て廻って、掛軸、花《か》瓶《びん》、団扇《うちわ》さし、小《こ》屏風《びようぶ》、机というようなものを、自分の好みに任せてあてがわれた部屋のとすっかり取りかえて、隅《すみ》から隅まで綺《き》麗《れい》に掃除をさせた。そして古藤を正座に据えて小ざっぱりした座布団にすわると、にっこりほほえみながら、
「これなら半日ぐらい我慢ができましょう」
と言った。
「僕はどんなところでも平気なんですがね」
古藤はこう答えて、葉子の微笑を追いながら安心したらしく、
「気分はもうなおりましたね」
とつけ加えた。
「ええ」
と葉子は何げなく微笑を続けようとしたが、その瞬間につと思い返して眉をひそめた。葉子には仮病を続ける必要があったのをつい忘れようとしたのだった。それで、
「ですけれどもまだこんななんですの。こら動《どう》悸《き》が」
と言いながら、地味な風《ふう》通《つう》の単衣《ひとえ》物《もの*》の中にかくれた華《はな》やかな襦《じゆ》袢《ばん》の袖をひらめかして、右手を力なげに前に出した。そしてそれと同時に呼吸をぐっとつめて、心臓と覚《おぼ》しいあたりに烈しく力をこめた。古藤はすき通るように白い手《て》頸《くび》をしばらく撫《な》で廻していたが、脈所に探りあてると急に驚いて眼を見張った。
「どうしたんです、え、ひどく不規則じゃありませんか……痛むのは頭ばかりですか」
「いいえ、お腹《なか》も痛みはじめたんですの」
「どんなふうに」
「ぎゅっと錐《きり》ででももむように……よくこれがあるんで困ってしまうんですのよ」
古藤は静かに葉子の手を離して、大きな眼で深々と葉子をみつめた。
「医者を呼ばなくっても我慢ができますか」
葉子は苦しげにほほえんで見せた。
「あなただったらきっとできないでしょうよ。……慣れっこですから堪《こら》えてみますわ。その代わりあなた永田さん……永田さん、ね、郵船会社の支店長の……あすこに行って船の切符のことを相談して来ていただけないでしょうか。御迷惑ですわね。それでもそんなことまでお願いしちゃあ……ようござんす、私、車でそろそろ行きますから」
古藤は、女というものはこれほどの健康の変調をよくもこうまで我慢をするものだと言うような顔をして、もちろん自分が行ってみると言い張った。
実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を調《ととの》えかたがた、米国行きの船の切符を買うために古藤を連れてここに来たのだった。葉子はそのころすでに米国にいるある若い学士と許嫁《いいなずけ》の間柄になっていた。新橋で車夫が若奥様と呼んだのも、このことが出入りのものの間に公然と知れわたっていたからのことだった。
それは葉子が私生児を設けてからしばらく後のことだった。ある冬の夜、葉子の母の親《おや》佐《さ》が何かの用でその良人の書斎に行こうと階子段を昇りかけると、上から小間使がまっしぐらに駈け下りて来て、危く親佐に打《ぶ》っ突かろうとしてその側をすりぬけながら、何か意味のわからないことを早口に言って走り去った。その島《しま》田《だ》髷《まげ》や帯の乱れた後姿が、嘲《ちよう》弄《ろう》の言葉のように眼を打つと、親佐は唇を噛《か》みしめたが、足音だけはしとやかに階子段を上って、いつもに似ず書斎の戸の前に立ち止まって、しわぶきを一つして、それから規則正しく間をおいて三度戸をノックした。
こういうことがあってから五日とたたぬうちに、葉子の家庭すなわち早月《さつき》家《け》は砂の上の塔のように脆《もろ》くも崩《くず》れてしまった。親佐はことに冷静な底気味悪い態度で夫婦の別居を主張した。そして日ごろの柔和に似ず、傷ついた牡《お》牛《うし》のように元どおりの生活を恢《かい》復《ふく》しようとひしめく良人や、中にはいっていろいろ言いなそうとした親類たちの言葉を、きっぱりと却《しりぞ》けてしまって、良人を釘《くぎ》店《だな》のだだっ広い住宅にたった一人残したまま、葉子ともに三人の娘を連れて、親佐は仙台に立ち退《の》いてしまった。木部の友人らが葉子の不人情を怒って、木部のとめるのも聴《き》かずに、社会から葬ってしまえとひしめいているのを葉子は聞き知っていたから、ふだんならば一も二もなく父を庇《かば》って母に楯《たて》をつくべきところを、すなおに母のするとおりになって、葉子は母とともに仙台に埋《うず》もれに行った。母は母で、自分の家庭から葉子のような娘の出たことを、できるだけ世間に知られまいとした。女子教育とか、家庭の薫《くん》陶《とう》とかいうことをおりあるごとに口にしていた親佐は、その言葉に対して虚偽という利子を払わねばならなかった。一方を揉《も》み消すためには一方にどんと火の手をあげる必要がある。早月母子が東京を去ると間もなく、ある新聞は早月ドクトルの女性に関するふしだらを書き立てて、それにつけての親佐の苦心と貞操とを吹聴したついでに、親佐が東京を去るようになったのは、熱烈な信仰から来る義憤と、愛児を父の悪感化から救おうとする母らしい努力に基づくものだ。そのために彼女はキリスト教婦人同盟の副会長という顕要な位置さえ投げ棄てたのだと書き添えた。
仙台における早月親佐はしばらくの間は深く沈黙を守っていたが、見る見る周囲に人を集めて華華しく活動をし始めた。その客間は若い信者や、慈善家や、芸術家たちのサロンとなって、そこからリバイバル《*》や、慈善市や、音楽会というようなものが形をとって生まれ出た。ことに親佐が仙台支部長として働き出したキリスト教婦人同盟の運動は、その当時野火のような勢いで全国に拡《ひろ》がり始めた赤十字社の勢力にもおさおさ劣らないほどの盛況を呈した。知事令夫人も、名だたる素封家の奥さんたちもその集会には列席した。そして三か年の月日は早月親佐を仙台にはなくてはならぬ名物の一つにしてしまった。性質が母親とどこか似過ぎているためか、似たように見えて一調子違っているためか、それとも自分を慎むためであったか、はたの人にはわからなかったが、とにかく葉子はそんな華やかな雰囲気に包まれながら、不思議なほど沈黙を守って、ろくろく晴れの座などには姿を現わさないでいた。それにもかかわらず親佐の客間に吸い寄せられる若い人々の多数は葉子に吸い寄せられているのだった。葉子の控え目なしおらしい様子がいやが上にも人の噂《うわさ》を引く種となって、葉子という名は、多才で、情緒の細《こま》やかな、美しい薄命児を誰にでも思い起こさせた。彼女の立ちすぐれた眉《み》目《め》形《かたち》は花柳の人たちさえうらやましがらせた。そしていろいろな風聞が、清教徒風に質素な早月の侘《わび》住居《ずまい》の周囲を霞《かすみ》のように取りまき始めた。
突然小さな仙台市は雷にでも打たれたようにある朝の新聞記事に注意を向けた。それはその新聞の商売敵《がたき》であるある新聞の社主であり主筆である某が、親佐と葉子との二人に同時に慇《いん》懃《ぎん》を通じているという、全紙にわたった不倫極まる記事だった。誰も意外なような顔をしながら心の中ではそれを信じようとした。
この日髪の毛の濃い、口の大きい、色白な一人の青年を乗せた人力車が、仙台の町じゅうを忙《せわ》しく駈け廻ったのを注意した人はおそらくなかったろうが、その青年は名を木村《*》といって、日ごろから快活な活動好きな人として知られた男で、その熱心な奔走の結果、翌日の新聞紙の広告欄には、二段抜きで、知事令夫人以下十四、五名の貴婦人の連名で、早月親佐の寃《えん》罪《ざい》が雪《すす》がれることになった。この稀《け》有《う》の大げさな広告がまた小さな仙台の市中をどよめき渡らした。しかし木村の熱心も口弁も葉子の名を広告の中に入れることはできなかった。
こんな騒ぎが持ち上がってから早月親佐の仙台における今までの声望は急になくなってしまった。そのころちょうど東京に居残っていた早月が病気に罹《かか》って薬に親しむ身となったので、それをしおに親佐は子供を連れて仙台を切り上げることになった。
木村はその後すぐ早月母子を追って東京に出て来た。そして毎日入りびたるように早月家に出入りして、ことに親佐の気に入るようになった。親佐が病気になって危篤に陥った時、木村は一生の願いとして葉子との結婚を申し出た。親佐はやはり母だった。死期を前に控えて、いちばん気にせずにいられないものは、葉子の将来だった。木村ならばあのわがままな、男を男とも思わぬ葉子に仕えるようにして行くことができると思った。そしてキリスト教婦人同盟の会長をしている五十《いそ》川《がわ》女史《*》に後事を託して死んだ。この五十川女史のまあまあというような不思議な曖《あい》昧《まい》な切盛りで、木村は、どこか不確実ではあるが、ともかく葉子を妻とし得る保証を握ったのだった。
郵船会社の永田は夕方でなければ会社から退《ひ》けまいというので、葉子は宿屋に西洋物店のものを呼んで、必要な買物をすることになった。古藤はそんならそこらをほッつき歩いてくると言って、例の麦《むぎ》稈《わら》帽子を帽子掛けから取って立ち上がった。葉子は思い出したように肩越しに振り返って、
「あなた先刻《さつき》パラソルは骨が五本のがいいとおっしゃってね」
と言った。古藤は冷淡な調子で、
「そう言ったようでしたね」
と答えながら、何かほかのことでも考えているらしかった。
「まあそんなにとぼけて……なぜ五本のがお好き?」
「僕が好きと言うんじゃないけれども、あなたはなんでも人と違ったものが好きなんだと思ったんですよ」
「どこまでも人をおからかいなさる……ひどいこと……行っていらっしゃいまし」
と情を迎えるように言って向きなおってしまった。古藤が縁側に出るとまた突然呼びとめた。障子にはっきり立ち姿をうつしたまま、
「なんです」
と言って古藤は立ち戻る様子がなかった。葉子は悪戯《いたずら》者《もの》らしい笑いを口のあたりに浮かべていた。
「あなたは木村と学校が同じでいらしったのね」
「そうですよ、級は木村の……木村君のほうが二つも上でしたがね」
「あなたはあの人をどうお思いになって」
まるで少女のような無邪気な調子だった。古藤はほほえんだらしい語気で、
「そんなことはもうあなたのほうが委《くわ》しいはずじゃありませんか……心《しん》のいい活動家ですよ」
「あなたは?」
葉子はぽんと高飛車に出た。そしてにやりとしながらがっくりと顔を上向きにはねて、床の間の一蝶のひどい偽《まがい》物《もの》を見やっていた。古藤がとっさの返事に窮して、少しむっとした様子で答え渋っているのを見て取ると、葉子は今度は声の調子を落として、いかにも頼《たよ》りないというふうに、
「日盛りは暑いからどこぞでお休みなさいましね。……なるたけ早く帰って来てくださいまし。もしかして、病気でも悪くなると、こんなところで心細うござんすから……よくって」
古藤は何か平凡な返事をして、縁板を踏みならしながら出て行ってしまった。
朝のうちだけからっと破ったように晴れ渡っていた空は《*》、午後から曇り始めて、真白な雲が太陽の面を撫《な》でて通るたびごとに暑気は薄れて、空一面が灰色にかき曇るころには、膚寒く思うほどに初秋の気候は激変していた。時雨《しぐれ》らしく照ったり降ったりしていた雨の脚《あし》も、やがてじめじめと降り続いて、煮しめたような穢《きたな》い部屋の中は、ことさら湿《しと》りが強くくるように思えた。葉子は居留地の方にある外国人相手の洋服屋や小間物屋などを呼び寄せて、思いきったぜいたくな買物をした。買物をしてみると葉子は自分の財《さい》布《ふ》のすぐ貧しくなっていくのを怖《おそ》れないではいられなかった。葉子の父は日本橋ではひとかどの門戸を張った医師で、収入も相当にはあったけれども、理財の道に全く暗いのと、妻の親《おや》佐《さ》が婦人同盟の事業にばかり奔走していて、そのなみなみならぬ才能を、少しも家のことに用いなかったため、その死後には借金こそ残れ、遺産といっては憐《あわ》れなほどしかなかった。葉子は二人の妹を抱えながらこの苦しい境遇を切り抜けてきた。それは葉子であればこそし遂《おお》せてきたようなものだった。誰にも貧乏らしい気色《けしき》は露ほども見せないでいながら、葉子は始終貨幣一枚一枚の重さを計って支払いするような注意をしていた。それだのに眼の前に異国情調の豊かなぜいたく品を見ると、彼女の貪《どん》欲《よく》は甘いものを見た子供のようになって、前後も忘れて懐中にありったけの買物をしてしまったのだ。使をやって正金銀行で換えた金貨は今鋳出されたような光を放って懐中の底にころがっていたが、それをどうすることもできなかった。葉子の心は急に暗くなった。戸外の天気もその心持ちに合《あい》槌《づち》を打つように見えた。古藤はうまく永田から切符をもらうことができるだろうか。葉子自身が行き得ないほど葉子に対して反感を持っている永田が、あの単純なタクトのない古藤をどんなふうに扱ったろう。永田の口から古藤はいろいろ葉子の過去を聞かされはしなかったろうか。そんなことを思うと葉子は悒《ゆう》鬱《うつ》が生み出す反抗的な気分になって、湯をわかせて入浴し、寝床をしかせ、最上等のシャンペンを取りよせて、したたかそれを飲むと前後も知らず眠ってしまった。
夜になったら泊り客があるかもしれないと女中の言った五つの部屋はやはり空《から》のままで、日がとっぷりと暮れてしまった。女中がランプを持って来た物音に葉子はようやく眼を覚まして、仰《あお》向《む》いたまま、煤《すす》けた天井に描かれたランプの丸い光輪をぼんやりと眺めていた。
その時じたッじたッと濡《ぬ》れた足で階子《はしご》段《だん》を昇って来る古藤の足音が聞こえた。古藤は何かに腹を立てているらしい足どりでずかずかと縁側を伝って来たが、ふと立ち止まると大きな声で帳場の方に怒《ど》鳴《な》った。
「早く雨戸を閉《し》めないか……病人がいるんじゃないか。……」
「この寒いのになんだってあなたも言いつけないんです」
今度はこう葉子に言いながら、建《たて》付《つ》けの悪い障子を開けていきなり中にはいろうとしたが、その瞬間にはっと驚いたような顔をして立ちすくんでしまった。
香水や、化粧品や、酒の香をごっちゃにした暖かいいきれがいきなり古藤に迫ったらしかった。ランプがほの暗いので、部屋の隅々までは見えないが、光の照り渡る限りは、雑多に置きならべられたなまめかしい女の服地や、帽子や、造花や、鳥の羽根や、小道具などで、足の踏みたて場もないまでになっていた。その一方に床の間を背にして、郡内の布団《*》の上に掻《かい》巻《まき》を脇の下から羽織った、今起きかえったばかりの葉子が、派手な長襦袢一つで、東ヨーロッパの嬪《ひん》宮《きゆう》の人のように、片《かた》臂《ひじ》をついたまま横になっていた。そして入浴と酒とでほんのりほてった顔を仰向けて、大きな眼を夢のように見開いてじっと古藤を見た。その枕もとにはシャンペンの瓶が本式に氷の中につけてあって、飲みさしのコップや、華奢《きやしや》な紙入れや、かのオリーヴ色の包み物を、しごきの赤が火の蛇《くちなわ》のように取り巻いて、その端が指輪の二つ箝《はま》った大理石のような葉子の手にもてあそばれていた。
「お遅うござんしたこと。お待たされなすったんでしょう。……さ、おはいりなさいまし。そんなもの足ででもどけてちょうだい、散らかしちまって」
この音楽のようなすべすべした調子の声を聞くと、古藤ははじめて illusion《*》から目覚めたふうではいって来た。葉子は左手を二の腕がのぞき出るまでずっと延ばして、そこにあるものを一払いに払いのけると、花壇の土を掘り起こしたように汚《きたな》い畳が半畳ばかり現われ出た。古藤は自分の帽子を部屋の隅にぶちなげて置いて、払い残された細形の金鎖をかたづけると、どっかと胡坐《あぐら》をかいて正面から葉子を見すえながら、
「行って来ました。船の切符もたしかに受け取って来ました」
と言って懐《ふとこ》ろの中を探りにかかった。葉子はちょっと改まって、
「ほんとにありがとうございました」
と頭を下げたが、たちまちroughish《*》な眼つきをして、
「まあそんなことはいずれあとで、ね、……なにしろお寒かったでしょう、さ」
と言いながら飲み残りの酒を盆の上に無造作に捨てて、二、三度左手をふって滴《しずく》を切ってから、コップを古藤にさしつけた。古藤の眼は何かに激昂しているように輝いていた。
「僕は飲みません」
「おやなぜ」
「飲みたくないから飲まないんです」
この角ばった返答は男を手もなくあやし慣れている葉子にも意外だった。それでその後の言葉をどう継ごうかと、ちょっとためらって古藤の顔を見やっていると、古藤はたたみかけて口を切った。
「永田ってのはあれはあなたの知人ですか。思いきって尊大な人間ですね。君のような人間から金を受け取る理由はないが、とにかくあずかっておいて、いずれ直接あなたに手紙で言ってあげるから、早く帰れって言うんです、頭から。失敬な奴だ」
葉子はこの言葉に乗じて気まずい心持ちを変えようと思った。そしてまっしぐらに何か言いだそうとすると、古藤はおっかぶせるように言葉を続けて、
「あなたはいったいまだ腹が痛むんですか」
ときっぱり言って堅くすわりなおした。しかしその時に葉子の陣立てはすでにできあがっていた。初めのほほえみをそのままに、
「ええ、少しはよくなりましてよ」
と言った。古藤は短兵急に、
「それにしてもなかなか元気ですね」
とたたみかけた。
「それはお薬にこれを少しいただいたからでしょうよ」
とシャンペンを指した。
正面からはね返された古藤は黙ってしまった。しかし葉子も勢いに乗って追い迫るようなことはしなかった。矢《や》頃《ごろ》を計ってから語気をかえてずっと下《した》手《て》になって、
「妙にお思いになったでしょうね。悪うございましてね。こんなところに来ていて、お酒なんか飲むのは本当に悪いと思ったんですけれども、気分がふさいでくると、私にはこれよりほかにお薬はないんですもの。先刻《さつき》のように苦しくなってくると私はいつでもお湯を熱めにして浴《はい》ってから、お酒を飲み過ぎるくらい飲んで寝るんですの。そうすると」
と言って、ちょっと言いよどんでみせて、
「十分か二十分ぐっすり寝入るんですのよ……痛みも何も忘れてしまっていい心持ちに……。それから急に頭がかっと痛んできますの。そしてそれといっしょに気が滅《め》入《い》りだして、もうもうどうしていいかわからなくなって、子供のように泣きつづけると、そのうちにまた眠たくなって一寝入りしますのよ。そうするとその後はいくらかさっぱりするんです。……父や母が死んでしまってから、頼みもしないのに親類たちからよけいな世話をやかれたり、他人《ひと》力《ぢから》なんぞを的《あて》にせずに妹二人を育てて行かなければならないと思ったりすると、私のような、他人《ひと》様《さま》とちがって風変わりな、……そら、五本の骨でしょう」
と淋しく笑った。
「それですものどうぞ堪《かん》忍《にん》してちょうだい。思いきり泣きたい時でも知らん顔をして笑って通していると、こんな私みたいな気まぐれ者になるんです。気まぐれでもしなければ生きて行けなくなるんです。男のかたにはこの心持ちはおわかりにはならないかもしれないけれども」
こう言ってるうちに葉子は、ふと木部との恋がはかなく破れた時の、我れにもなく身に沁《し》み渡る淋しみや、死ぬまで日蔭者であらねばならぬ私生児の定子のことや、はからずも今日まのあたり見た木部の、心《しん》からやつれた面《おも》影《かげ》などを思い起こした。そしてさらに、母の死んだ後、日ごろ見向きもしなかった親類たちが寄り集まって来て、早月《さつき》家《け》には毛の末ほども同情のない心で、早月家の善後策について、さも重大らしく勝手気ままなことを親切ごかしにしゃべり散らすのを聞かされた時、どうにでもなれという気になって、暴れ抜いたことが、自分にさえ悲しい思い出となって、葉子の頭の中を矢のように早くひらめき通った。葉子の顔には人に譲ってはいない自信の色が現われ始めた。
「母の初《しよ》七日《なぬか》の時もね、私はたて続けにビールを何杯飲みましたろう。なんでも瓶がそこいらにごろごろ転《ころ》がりました。そしてしまいには何がなんだか夢中になって、宅に出入りするお医者さんの膝を枕に、泣き寝入りに寝入って、夜《よ》中《なか》をあなた二時間の余も寝続けてしまいましたわ。親類の人たちはそれを見ると一人帰り二人帰りして、相談も何もめちゃくちゃになったんですって。母の写真を前に置いといて、私はそんなことまでする人間ですの。おあきれになったでしょうね。いやな奴でしょう。あなたのようなかたから御覧になったら、さぞいやな気がなさいましょうねえ」
「ええ」
と古藤は眼も動かさずにぶっきらぼうに答えた。
「それでもあなた」
と葉子は切なそうに半ば起き上がって、
「外《うわ》面《つら》だけで人のすることをなんとかおっしゃるのは少し残酷ですわ。……いいえね」
と古藤の何か言いだそうとするのをさえぎって、今度はきっとすわりなおった。
「私は泣き言《ごと》を言って他人《ひと》様《さま》にも泣いていただこうなんて、そんなことはこれんばかりも思やしませんとも……なるならどこかに大砲のような大きな力の強い人がいて、その人が真剣に怒って、葉子のような人非人はこうしてやるぞと言って、私を押えつけて心臓でも頭でも摧《くだ》けて飛んでしまうほど折檻をしてくれたらと思うんですの。どの人もどの人もちゃんと自分を忘れないで、いいかげんに怒ったり、いいかげんに泣いたりしているんですからねえ。なんだってこう生《なま》温《ぬる》いんでしょう。
義一さん(葉子が古藤をこう名で呼んだのはこの時がはじめてだった)あなたが今朝、心《しん》の正直ななんとかだとおっしゃった木村に縁づくようになったのも、その晩のことです。五十《いそ》川《がわ》が親類じゅうに賛成さして、晴れがましくも私を皆んなの前に引き出しておいて、罪人にでも言うように宣告してしまったのです。私が一口でも言おうとすれば、五十川の言うには母の遺言ですって。死人に口なし。ほんとに木村はあなたがおっしゃったような人間ね。仙台であんなことがあったでしょう。あの時知事の奥さんはじめ母のほうはなんとかしようが娘のほうは保証ができないとおっしゃったんですとさ」
言い知らぬ侮《ぶ》蔑《べつ》の色が葉子の顔に漲《みなぎ》った。
「ところが木村は自分の考えを押し通しもしないで、おめおめと新聞には母だけの名を出してあの広告をしたんですの。
母だけがいい人になれば誰だって私を……そうでしょう。そのあげくに木村はしゃあしゃあと私を妻にしたいんですって、義一さん、男ってそれでいいものなんですか。まあね物のたとえがですわ。それとも言葉ではなんと言ってもむだだから、実行的に私の潔白を立ててやろうとでもいうんでしょうか」
そう言って激昂しきった葉子は噛み捨てるように甲《かん》高《だか》くほほと笑った。
「いったい私はちょっとしたことで好き嫌《きら》いのできる悪い質《たち》なんですからね。と言って私はあなたのような生《き》一本でもありませんのよ。
母の遺言だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて地《じ》道《みち》に暮らさなければ母の名誉を汚すことになる。妹だって裸でお嫁入りもできまいといわれれば、私立派に木村の妻になって御覧にいれます。その代わり木村が少しつらいだけ。
こんなことをあなたの前で言ってはさぞ気を悪くなさるでしょうが、真直《まつすぐ》なあなただと思いますから、私もその気で何もかも打ち明けて申してしまいますのよ。私の性質や境遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな境遇にいる私がこう考えるのにもし間違いがあったら、どうか遠慮なくおっしゃってください。
ああいやだったこと。義一さん、私こんなことはおくびにも出さずに今の今までしっかり胸にしまって我慢していたのですけれども、今日はどうしたんでしょう、なんだか遠い旅にでも出たような淋しい気になってしまって……」
弓《ゆ》弦《づる》を切って放したように言葉を消して葉子は俯《うつ》向《む》いてしまった。日はいつの間にかとっぷりと暮れていた。じめじめと降り続く秋雨に湿《しと》った夜風が細々と通って来て、湿気でたるんだ障子紙をそっと煽《あお》って通った。古藤は葉子の顔を見るのを避けるように、そこらに散らばった服地や帽子などを眺め廻して、なんと返答をしていいのか、言うべきことは腹にあるけれども言葉には現わせないふうだった。部屋は息気《いき》苦しいほどしんとなった。
葉子は自分の言葉から、その時のありさまから、妙にやるせない淋しい気分になっていた。強い男の手で思い存分両肩でも抱きすくめて欲しいような頼《たよ》りなさを感じた。そして横腹に深々と手をやって、さし込む痛みを堪《こら》えるらしい姿をしていた。古藤はややしばらくしてから何か決心したらしくまともに葉子を見ようとしたが、葉子の切なさそうな哀れな様子を見ると、驚いた顔つきをして我れ知らず葉子の方にいざり寄った。葉子はすかさず豹《ひよう》のように滑《なめ》らかに身を起こして逸《いち》早《はや》くもしっかり古藤のさし出す手を握っていた。そして、
「義一さん」
と震えを帯びて言った声は存分に涙に濡《ぬ》れているように響いた。古藤は声をわななかして、
「木村はそんな人間じゃありませんよ」
とだけ言って黙ってしまった。
だめだったと葉子はそのとたんに思った。葉子の心持ちと古藤の心持ちとはちぐはぐになっているのだ。なんという響きの悪い心だろうと葉子はそれをさげすんだ。しかし様子にはそんな心持ちは少しも見せないで、頭から肩へかけてのなよやかな線を風の前の て《ヽ》っ《ヽ》せ《ヽ》ん《ヽ*》の蔓《つる》のように震わせながら、二度、三度深々とうなずいてみせた。
しばらくしてから葉子は顔を上げたが、涙は少しも眼に溜《たま》ってはいなかった。そしていとしい弟でもいたわるように布団から立ち上がりざま、
「済みませんでしたこと、義一さん、あなた御飯はまだでしたのね」
と言いながら、腹の痛むのを堪えるような姿で古藤の前を通りぬけた。湯でほんのりと赤らんだ素足に古藤の眼が鋭くちらっと宿ったのを感じながら、障子を細目に開けて手をならした。
葉子はその晩不思議に悪魔じみた誘惑を古藤に感じた。童貞で無経験で恋の戯れにはなんのおもしろみもなさそうな古藤、木村に対してと言わず、友だちに対して堅苦しい義務観念の強い古藤、そういう男に対して葉子は今までなんの興味をも感じなかったばかりか、働きのない没情漢《わからずや》と見限って、口先ばかりで人間並みのあしらいをしていたのだ。しかしその晩葉子はこの少年のような心を持って肉の熟した古藤に罪を犯させてみたくってたまらなくなった。一夜のうちに木村とは顔も合わせることのできない人間にしてみたくってたまらなくなった。古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのが妬《ねた》ましくてたまらなくなった。幾枚も皮を被《かぶ》った古藤の心のどん底に隠れている欲念を葉子の蠱惑力《チヤーム》で掘り起こしてみたくってたまらなくなった。
気《き》取《ど》られない範囲で葉子があらん限りの謎を与えたにもかかわらず、古藤が堅くなってしまってそれに応ずる気色《けしき》のないのを見ると葉子はますますいらだった。そしてその晩は腹が痛んでどうしても東京に帰れないから、いやでも横浜に宿ってくれと言いだした。しかし古藤は頑《がん》として聴《き》かなかった。そして自分で出かけて行って、品もあろうことか真赤《まつか》な毛布を一枚買って帰って来た。葉子はとうとう我を折って最終列車で東京に帰ることにした。
一等の客車には二人のほかに乗客はなかった。葉子はふとした出来心から古藤を陥《おとしい》れようとしたもくろみに失敗して、自分の征服力に対するかすかな失望と、存分の不快とを感じていた。客車の中ではまたいろいろと話そうといっておきながら、汽車が動きだすとすぐ、古藤の膝《ひざ》の側で毛布にくるまったまま新橋まで寝通してしまった。
新橋に着いてから古藤が船の切符を葉子に渡して人力車を二台傭《やと》って、その一つに乗ると、葉子はそれにかけよって懐中から取り出した紙入れを古藤の膝に放り出して、左の鬢《びん》をやさしくかき上げながら、
「今日のお立替えをどうぞその中から……明日はきっといらしってくださいましね……お待ち申しますことよ……さようなら」
と言って自分ももう一つの車に乗った。葉子の紙入れの中には正金銀行から受け取った五十円金貨八枚がはいっている。そして葉子は古藤がそれをくずして立替えを取る気《き》遣《づか》いのないのを承知していた。
葉子が米国に出発する九月二十五日は明日に迫った。二百二十日の荒れそこねたその年の天気は、いつまでたっても定まらないで、気違い日和《びより》ともいうべき照り降りの乱雑な空《そら》合《あ》いが続き通していた。
葉子はその朝暗いうちに床を離れて、蔵の蔭になった自分の小部屋にはいって、前々からかたづけかけていた衣類の始末をし始めた。模様や縞《しま》の派手なのは片端からほどいて丸めて、次の妹の愛子にやるようにと片隅に重ねたが、その中には十三になる末の妹の貞《さだ》世《よ》に着せても似合わしそうな大柄なものもあった。葉子は手早くそれをえり分けてみた。そして今度は船に持ち込む四季の晴れ衣を、床の間の前にある真黒に古ぼけたトランクのところまで持って行って、蓋《ふた》を開けようとしたが、ふとその蓋の真中に書いてあるY・Kという白文字を見て忙しく手を控えた。これは昨日古藤が油絵具と画筆とを持って来て書いてくれたので、乾ききらないテレビンの香がまだかすかに残っていた。古藤は、葉子・早月の頭文字Y・Sと書いてくれとおりいって葉子の頼んだのを笑いながら退けて、葉子・木村の頭文字Y・Kと書く前に、S・Kとある字をナイフの先で丁寧に削ったのだった。S・Kとは木村貞一のイニシャルで、そのトランクは木村の父が欧米を漫遊した時使ったものなのだ。その古い色を見ると、木村の父の太っ腹な鋭い性格と、波《は》瀾《らん》の多い生《しよう》涯《がい》の極《ごく》印《いん》がすわっているように見えた。木村はそれを葉子の用にと残して行ったのだった。木村の面影はふと葉子の頭の中を抜けて通った。空想で木村を描くことは、木村と顔を見合わす時ほどの厭《いと》わしい思いを葉子に起こさせなかった。黒い髪の毛をぴったりと綺《き》麗《れい》に分けて、怜《さ》かしい中高の細《ほそ》面《おもて》に、健康らしい薔《ば》薇《ら》色《いろ》を帯びた容貌や、甘過ぎるくらい人情に溺《おぼ》れやすい殉情的な性格は、葉子に一種のなつかしさを感ぜしめた。しかし実際顔と顔とを向かい合わせると、二人は妙に会話さえはずまなくなるのだった。その怜かしいのが厭《い》やだった。柔和なのが気に障《さわ》った。殉情的なくせに恐ろしく勘定高いのがたまらなかった。青年らしく土俵ぎわまで踏み込んで事業を楽しむという父に似た性格さえ小ましゃくれて見えた。ことに東京生まれと言ってもいいくらい都慣れた言葉や身のこなしの間に、ふと東北の郷土の香を嗅《か》ぎ出した時には噛んで捨てたいような反感に襲われた。葉子の心は今、おぼろげな回想から、実際膝つき合わせた時に厭やだと思った印象に移って行った。そして手に持った晴れ衣をトランクに入れるのを控えてしまった。長くなり始めた夜もそのころにはようやく白み始めて、蝋《ろう》燭《そく》の黄色い焔《ほのお》が光の亡《なき》骸《がら》のように、ゆるぎもせずに点《とも》っていた。夜の間静まっていた西風が思い出したように障子にぶつかって、釘《くぎ》店《だな》の狭い通りを、河岸で仕出しをした若い者が、大きな掛け声でがらがらと車を牽《ひ》きながら通るのが聞こえだした。葉子は今日一日に眼まぐるしいほどあるたくさんの用事をちょっと胸の中で数えてみて、大急ぎでそこらをかたづけて、錠を下ろすものには錠を下ろしきって、雨戸を一枚繰って、そこから射《さ》し込む光で大きな手文庫からぎっしりつまった男文字の手紙を引き出すと風呂敷に包み込んだ。そしてそれを抱えて、手燭を吹き消しながら部屋を出ようとすると、廊下に叔母が突っ立っていた。
「もう起きたんですね……かたづいたかい」
と挨《あい》拶《さつ》してまだ何か言いたそうであった。両親を失ってからこの叔母夫婦と、六歳になる白痴の一人息子とが移って来て同居することになったのだ。葉子の母が、どこか重々しくって男《お》々《お》しい風采をしていたのに引きかえ、叔母は髪の毛の薄い、どこまでも貧相に見える女だった。葉子の眼はその帯しろ裸《*》な、肉の薄い胸のあたりをちらっとかすめた。
「おやお早うございます……あらかたかたづきました」
と言ってそのまま二階に行こうとすると、叔母は爪にいっぱい垢《あか》のたまった両手をもやもやと胸のところでふりながら、さえぎるように立ちはだかって、
「あのお前さんがかたづける時にと思っていたんだがね。明日のお見送りに私は着て行くものがないんだよ。お母さんのもので間に合うのはないだろうかしらん。明日だけ借りれば後はちゃんと始末をしておくんだからちょっと見ておくれでないか」
葉子はまたかと思った。働きのない良人《おつと》に連れ添って、十五年の間丸帯一つ買ってもらえなかった叔母の訓練のない弱い性格が、こうさもしくなるのを憐れまないでもなかったが、物《もの》怯《お》じしながら、それでいて、欲にかかるとずうずうしい、人の隙《すき》ばかりつけねらう仕打ちを見ると、虫《むし》唾《ず》が走るほど憎かった。しかしこんな思いをするのも今日だけだと思って部屋の中に案内した。叔母はそらぞらしく気の毒だとか済まないとか言い続けながら錠を下ろした箪《たん》笥《す》をいちいち開《あ》けさせて、いろいろと勝手に好みを言った末に、りゅうとした一《ひと》揃《そろ》えを借ることにして、それから葉子の衣類までをとやかく言いながら去りがてにいじくり廻した。台所からは、味噌汁の香がして、白痴の子がだらしなく泣き続ける声と、叔父が叔母を呼び立てる声とが、すがすがしい朝の空気を濁すように聞こえて来た。葉子は叔母にいいかげんな返事をしながらその声に耳を傾けていた。そして早月家の最後の離散ということをしみじみと感じたのであった。電話はある銀行の重役をしている親類がいいかげんな口実を作ってただ持って行ってしまった。父の書斎道具や骨《こつ》董《とう》品《ひん》は蔵書といっしょに糶《せり》売《うり》をされたが、売上げ代はとうとう葉子の手にははいらなかった。住居は住居で、葉子の洋行後には、両親の死後何かに尽力したという親類の某《なにがし》が、二束三文で譲り受けることに親族会議で決まってしまった。少しばかりある株券と地所とは愛子と貞世との教育費に充《あ》てる名義で某々が保管することになった。そんな勝手ほうだいなまねをされるのを葉子は見向きもしないで黙っていた。もし葉子がすなおな女だったら、かえって食い残しというほどの遺産はあてがわれていたに違いない。しかし親族会議では葉子を手におえない女だとして、他所《よそ》に嫁入って行くのをいいことに、遺産のことにはいっさい関係させない相談をしたくらいは葉子は疾《と》うに感づいていた。自分の財産となればなるべきものを一部分だけあてがわれて、黙って引っ込んでいる葉子ではなかった。それかと言って長女ではあるが、女の身として全財産に対する要求をすることの無益なのも知っていた。で「犬にやるつもりでいよう」と臍《ほぞ》を堅めてかかったのだった。今、後に残ったものは何がある。切り廻しよく見かけを派手にしている割合に、不足がちな三人の姉妹の衣類諸道具が少しばかりあるだけだ。それを叔母は容赦もなくそこまで切り込んで来ているのだ。白紙のようなはかない寂しさと、「裸になるなら綺麗さっぱり裸になってみせよう」という火のような反抗心とが、むちゃくちゃに葉子の胸を冷やしたり焼いたりした。葉子はこんな心持ちになって、先ほどの包みを抱えて立ち上がりながら、俯《うつ》向《む》いて手ざわりのいい絹物を撫《な》で廻している叔母を見下ろした。
「それじゃ私まだほかに用がありますししますから錠を下ろさずにおきますよ。ごゆっくり御覧なさいまし。そこにかためてあるのは私が持って行くんですし、ここにあるのは愛と貞にやるのですから別になすっておいてください」
と言い捨てて、ずんずん部屋を出た。往来には砂《すな》埃《ぼこり》が立つらしく風が吹き始めていた。
二階に上がってみると、父の書斎であった十六畳の隣の六畳に、愛子と貞世とが抱き合って眠っていた。葉子は自分の寝床を手早くたたみながら愛子を呼び起こした。愛子は驚いたように大きな美しい眼を開くと半分夢中で飛び起きた。葉子はいきなり厳重な調子で、
「あなたは明日から私の代わりをしないじゃならないんですよ。朝寝坊なんぞしていてどうするの。あなたがぐずぐずしていると貞《さあ》ちゃんが可哀そうですよ。早く身じまいをして下のお掃除でもなさいまし」
とにらみつけた。愛子は羊のように柔和な眼を眩《まば》ゆそうにして、姉を窃《ぬす》み見ながら、着物を着かえて下に降りて行った。葉子はなんとなく性の合わないこの妹が、階子段を降りきったのを聞きすまして、そっと貞世の方に近づいた。面《おも》ざしの葉子によく似た十三の少女は、汗じみた顔には下げ髪がねばりついて、頬は熱でもあるように上気している。それを見ると葉子は骨肉のいとしさに思わずほほえませられて、その寝床にいざり寄って、その童女を羽がいに軽く抱きすくめた。そしてしみじみとその寝顔に眺め入った。貞世の軽い呼吸は軽く葉子の胸に伝わって来た。その呼吸が一つ伝わるたびに、葉子の心は妙に滅《め》入《い》って行った。同じ胎《はら》を借りてこの世に生まれ出た二人の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、果ては寂しい、ただ寂しい涙がほろほろととめどなく流れ出るのだった。
一家の離散を知らぬ顔で、女の身《み》空《そら》をただひとり米国の果てまでさすらって行くのを葉子は格別なんとも思っていなかった。振《ふり》分《わけ》髪《がみ》の時分から、あくまで意地の強い眼はしの利《き》く性質を思うままに増長さして、ぐんぐんと世の中を傍《わき》眼《め》もふらず押し通して二十五になった今、こんな時にふと過去を振り返ってみると、いつの間にかあたりまえの女の生活をすりぬけて、たった一人見も知らぬ野末に立っているような思いをせずにはいられなかった。女学校や音楽学校で、葉子の強い個性に引きつけられて、理想の人ででもあるように近寄って来た少女たちは、葉子におどおどしい同性の恋を捧げながら、葉子に inspireされて《*》、我れ知らず大胆な奔放な振舞いをするようになった。そのころ「国民文学《*》」や「文学界《*》」に旗挙げをして、新しい思想運動を興そうとした血気なロマンティックな青年たちに、歌の心を授けた女の多くは、おおかた葉子から血脈を引いた少女らであった。倫理学者や、教育家や、家庭の主権者などもそのころから猜《さい》疑《ぎ》の眼を見張って少女国を監視しだした。葉子の多感な心は、自分でも知らない革命的とも言うべき衝動のために的《あて》もなく揺《ゆる》ぎ始めた。葉子は他人を笑いながら、そして自分をさげすみながら、真《まつ》暗《くら》な大きな力に引きずられて、不思議な道に自覚なく迷い入って、しまいにはまっしぐらに走りだした。誰も葉子の行く道のしるべをする人もなく、他の正しい道を教えてくれる人もなかった。たまたま大きな声で呼び留める人があるかと思えば、裏表の見えすいたぺてんにかけて、昔のままの女であらせようとするものばかりだった。葉子はそのころからどこか外国に生まれていればよかったと思うようになった。あの自由らしく見える女の生活、男と立ち並んで自分を立てて行くことのできる女の生活……古い良心が自分の心をさいなむたびに、葉子は外国人の良心というものを見たく思った。葉子は心の奥底でひそかに芸者をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った。こんな心持ちで年をとって行く間に葉子はもちろん何度もつまずいてころんだ。そしてひとりで膝の塵《ちり》を払わなければならなかった。こんな生活を続けて二十五になった今、ふと今まで歩いて来た道を振り返ってみると、いっしょに葉子と走っていた少女たちは、疾《と》うの昔に尋常な女になり済ましていて、小さく見えるほど遠くの方から、憐れむようなさげすむような顔つきをして、葉子の姿を眺めていた。葉子はもと来た道に引き返すことはもうできなかった。できたところで引き返そうとする気は微《み》塵《じん》もなかった。「勝手にするがいい」そう思って葉子はまたわけもなく不思議な暗い力に引っ張られた。こういうはめになった今、米国にいようが日本にいようが少しばかりの財産があろうがなかろうが、そんなことは些《さ》細《さい》な話だった。境遇でも変わったら何か起こるかもしれない。元のままかもしれない。勝手になれ。葉子を心の底から動かしそうなものは一つも身近には見当たらなかった。
しかし一つあった。葉子の涙はただわけもなくほろほろと流れた。貞世は何事も知らずに罪なく眠りつづけていた。同じ胎を借りてこの世に生まれ出た二人の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、この子もやがては自分が通って来たような道を歩くのかと思うと、自分を憐れむとも妹を憐れむとも知れない切ない心に先立たれて、思わずぎゅっと貞世を抱きしめながら物を言おうとした。しかし何を言い得ようぞ。喉《のど》もふさがってしまっていた。貞世は抱きしめられたのではじめて大きく眼を開いた。そしてしばらくの間、涙に濡《ぬ》れた姉の顔をまじまじと眺めていたが、やがて黙ったまま小さい袖《そで》でその涙を拭《ぬぐ》い始めた。葉子の涙は新しく湧《わ》き返った。貞世は痛ましそうに姉の涙を拭いつづけた。そしてしまいにはその袖を自分の顔に押しあてて何か言い言いしゃくり上げながら泣きだしてしまった。
葉子はその朝横浜の郵船会社の永田から手紙を受け取った。漢学者らしい風格の、上手な字で唐《とう》紙《し》牋《せん*》に書かれた文句には、自分は故早月氏には格別の交《こう》誼《ぎ》を受けていたが、あなたに対しても同様の交際を続ける必要のないのを遺憾に思う。明晩(すなわちその夜)のお招きにも出席しかねる、と剣もほろろに書き連ねて、追伸に、先日あなたから一言の紹介もなく訪問して来た素性の知れぬ青年の持参した金は要《い》らないからお返しする。良人の定まった女の行動は、申すまでもないが慎むが上にもことに慎むべきものだと私どもは聞き及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの為替《かわせ》が同封してあった。葉子が古藤を連れて横浜に行ったのも、仮病をつかって宿屋に引き籠《こも》ったのも、実をいうと船商売をする人には珍しい厳格なこの永田に会うめんどうを避けるためだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引き裂こうとしたが、ふと思い返して、丹念に墨をすりおろして一字一字考えて書いたような手紙だけずたずたに破いて屑《くず》籠《かご》に突っ込んだ。
葉子は地味な晴行衣《よそいき》に寝衣を着かえて二階を降りた。朝食は喰《た》べる気がなかった。妹たちの顔を見るのも気づまりだった。
姉妹三人のいる二階の、隅《すみ》から隅まできちんと小綺麗にかたづいているのに引きかえて、叔母一家の住まう下座敷は変に油ぎって汚《よご》れていた。白痴の児《こ》が赤坊同様なので、東の縁に干してある襁褓《むつき》から立つ塩臭い匂いや、畳の上に踏みにじられたままこびりついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出てみると、そこには叔父が、襟《えり》の真黒に汗じんだ白い飛白《かすり》を薄寒そうに着て、白痴の子を膝の上に乗せながら、朝っぱらから柿《かき》をむいてあてがっていた。その柿の皮があかあかと紙屑とごったになって敷石の上に散っていた。葉子は叔父にちょっと挨拶をして草履を探しながら、
「愛さんちょっとここにおいで。玄関が御覧、あんなに汚れているからね、綺麗に掃除しておいてちょうだいよ。――今夜はお客様もあるんだのに……」
と駈けて来た愛子にわざとつんけんいうと、叔父は神経の遠くのほうであてこすられたのを感じたふうで、
「おお、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。かもうてくださるな、おいお俊――お俊というに、何しとるぞい」
とのろまらしく呼び立てた。帯しろ裸の叔母がそこにやって来て、またくだらぬ口《くち》論《いさかい》をするのだと思うと、泥《どろ》の中でいがみ合う豚かなんぞを思い出して、葉子は踵《かかと》の塵を払わんばかりにそこそこ家を出た。細い釘《くぎ》店《だな》の往来は場所柄だけに門《かど》並《な》み綺麗に掃除されて、打ち水をした上を、気のきいた風体の男女が忙しそうに往き来していた。葉子は抜け毛の丸めたのや、巻煙草の袋の千切れたのが散らばって箒《ほうき》の目一つない自分の家の前を眼をつぶって駆けぬけたいほどの思いをして、ついそばの日本銀行にはいってありったけの預金を引き出した。そしてその前の車屋で始終乗りつけのいちばん立派な人力車を仕立てさして、その足で買物に出かけた。妹たちに買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの土産品や、新しいどっしりしたトランクなどを買い入れると、引き出した金はいくらも残ってはいなかった。そして午後の日がやや傾きかかったころ、大塚窪《くぼ》町《まち》に住む内田という母の友人を訪れた。内田《*》は熱心なキリスト教の伝道者として、憎む人からは蛇《だ》蝎《かつ》のように憎まれるし、好きな人からは預言者のように崇拝されている天才肌《はだ》の人だった。葉子は五つ六つのころ、母に連れられて、よくその家に出入りしたが、人を恐れずにぐんぐん思ったことを可愛らしい口もとから言いだす葉子の様子が、始終人から距《へだ》てをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が来ると内田は、何か心のこだわった時でも機《き》嫌《げん》をなおして、窄《せま》った眉根を少しは開きながら、「また子猿が来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱを撫《な》で廻したりなぞした。そのうち母がキリスト教婦人同盟の事業に関係して、たちまちのうちにその牛《ぎゆう》耳《じ》を握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐ機嫌を損じて、早月親佐を責めて、キリストの精神を無視した俗悪な態度だと息《いき》捲《ま》いたが、親佐がいっこうそれにとり合う様子がないので、両家の間は見る見る疎《うと》々《うと》しいものになってしまった。それでも内田は葉子だけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子の噂《うわさ》をして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞと言ったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった一人の娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしいところのある少女を見ると、内田は日ごろの自分を忘れたように甘々しい顔つきをした。人が恐れるわりあいに、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈な性格の奥にとじこめられて小さく澱《よど》んだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずることがあった。葉子は母に黙ってときどき内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋に通して笑い話などをした。ときには二人だけで郊外の静かな並木道などを散歩したりした。ある時内田はもう娘らしく成長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私のただ一人の道《みち》伴《づ》れだ」などと言った。葉子は不思議な甘い心持ちでその言葉を聞いた。その記憶は永く忘れ得なかった。
それがあの木部との結婚問題が持ち上がると、内田はいやおうなしにある日葉子を自分の家に呼びつけた。そして恋人の変心を詰《なじ》り責める嫉妬深い男のように、火と涙とを眼からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から激昂させられた。「誰がもうこんなわがままな人のところに来てやるものか」そう思いながら、生《いけ》垣《がき》の多い、家並みの疎《まば》らな、轍《わだち》の跡の滅入りこんだ小石川の往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇の催した晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落としたような、自分をこの世につり上げている糸の一つがぷつんと切れたような不思議な淋しさの胸に逼《せま》るのをどうすることもできなかった。
「キリストに水をやったサマリヤの女《*》のことも思うから、このうえお前には何も言うまい――他人《ひと》の失望も神の失望もちっとは考えてみるがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」
そんなことがあってから五年を過ぎた今日、郵便局に行って、永田から来た為替を引き出して、定子を預かってくれている乳母の家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束を算《かぞ》えながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したのだった。物のないところに物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚の方に走らした。
五年経《た》っても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり延びた垣《かき》添《ぞ》いの桐の木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格《こう》子《し》戸《ど》を開《あ》けて、帯前を整えながら出て来た柔和な細君と顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」と言ったが、その瞬間にはっとためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって行った。しばらくすると嘆息しながら物を言うような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのは勝手だが俺《おれ》が会うことはないじゃないか」と言ったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたんと閉じる音がした。葉子は自分の爪先を見つめながら下《した》唇《くちびる》をかんでいた。
やがて細君がおどおどしながら立ち現われて、まずと葉子を茶の間に招じ入れた。それと入れ代わりに、書斎では内田が椅子を離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸を開けて出て行ってしまった。
葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうとするのを、何気ない顔でじっと堪《こら》えた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきり言いたいことを言って退けたかった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ち摧《くだ》かれるなり、打ち摧くなりしてみたかった。それだったのに思い入って内田のところに来てみれば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷やかに酷《むご》く思われた。
「こんなことを言っては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたのことをいろいろに言って来る人があるもんですからね、あのとおりの性質でしょう。どうも私にはなんとも言いなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだと私思いますの。このごろはことさら誰にも言われないようなごたごたが家の内にあるもんですから、よけいむしゃくしゃしていて、本当に私どうしたらいいかと思うことがありますの」
意地も生《き》地《じ》も内田の強烈な性格のために存分に打ち砕かれた細君は、上品な顔立てに中世紀の尼にでも見るような思いあきらめた表情を浮かべて、捨て身の生活のどん底にひそむ淋しい不足をほのめかした。自分より年下で、しかも良人からさんざん悪評を投げられているはずの葉子に対してまで、すぐ心が砕けてしまって、張りのない言葉で同情を求めるかと思うと、葉子は自分のことのように歯がゆかった。眉《まゆ》と口とのあたりにむごたらしい軽蔑の影が、まざまざと浮かび上がるのを感じながら、それをどうすることもできなかった。葉子は急に青味を増した顔で細君を見やったが、その顔は世故に慣れきった三十女のようだった。(葉子は思うままに自分の年を五つも上にしたり下にしたりする不思議な力を持っていた。感情次第でその表情は役者の技巧のように変わった)
「歯がゆくはいらっしゃらなくって」
と切り返すように内田の細君の言葉をひったくって、
「私だったらどうでしょう。すぐおじさんと喧《けん》嘩《か》して出てしまいますわ。それは私、おじさんを偉いかただとは思っていますが、私こんなに生まれついたんですからどうしようもありませんわ。一から十までおっしゃることをはいはいと聞いていられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなたみたいなかたに、そう笠《かさ》にかからずとも、私でもお相手になさればいいのに……でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやってお仕事がおできになるんですのね。私だけは除《の》け物ですけれども、世の中はなかなかよくいっていますわ。……あ、それでも私はもう見放されてしまったんですものね、いうことはありゃしません。本当にあなたがいらっしゃるのでおじさんはお仕合わせですわ。あなたは辛抱なさるかた。おじさんはわがままでお通しになるかた。もっともおじさんにはそれが神様のおぼしめしなんでしょうけれどもね。……私も神様のおぼしめしかなんかでわがままで通す女なんですからおじさんとはどうしても茶碗と茶碗ですわ。それでも男はようござんすのね、わがままが通るんですもの。女のわがままは通すよりしかたがないんですから本当に情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ……」
内田の細君は自分よりはるか年下の葉子の言葉をしみじみと聞いているらしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられなかった。一昨日あたり結ったままの束髪だった。癖のない濃い髪には薪《たきぎ》の灰らしい灰がたかっていた。糊《のり》気《け》のぬけきった単衣も物淋しかった。その柄の細かいところには里の母の着古しというような香《にお》いがした。由緒ある京都の士族に生まれたその人の皮膚は美しかった。それがなおさらその人を憐れにして見せた。
「他人のことなぞ考えていられやしない」しばらくすると葉子はすてばちにこんなことを思った。そして急にはずんだ調子になって、
「私明日アメリカに発《た》ちますの、ひとりで」
と突拍子もなく言った。あまりの不意に細君は眼を見張って顔をあげた。
「まあ本当に」
「はあ本当に……しかも木村のところに行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」
細君がうなずいてなお仔《し》細《さい》を聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、
「だから今日はお暇《いとま》乞《ご》いのつもりでしたの。それでもそんなことはどうでもようございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってくださいまし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって……あなたどうぞお体をお大事に。太郎さんはまだ学校でございますか。大きくおなりでしょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」
と言いながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上がった。
玄関に送って出た細君の眼には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思いなおすと、心臓の鼓動が止まるほど葉子の心はかっとなった。そして唇を震わしながら、
「もう一《ひと》言《こと》おじさんにおっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは人の尤《とが》も許してあげてくださいましって。……もっともこれは、あなたのおために申しますの。私は誰にあやまっていただくのもいやですし、誰にあやまるのもいやな性分なんですから、おじさんに許していただこうとは頭《てん》から思ってなどいはしませんの。それもついでにおっしゃってくださいまし」
口のはたに戯《じよう》談《だん》らしく微笑を見せながら、そう言っているうちに、大《おお》濤《なみ》がどすんどすんと横隔膜につきあたるような心地がして、鼻血でも出そうに鼻の孔が塞《ふさ》がった。門を出る時も唇はなお口惜しそうに震えていた。日は植物園の森の上に舂《うすづ》いて、暮れ方近い空気の中に、今朝から吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、今朝早く風の吹き始めたころに、土蔵わきの小部屋で荷造りをした時の心とを較《くら》べてみて、自分ながら同じ心とは思い得なかった。そして門を出て左に曲がろうとしてふと道傍の捨て石にけつまずいて、はっと眼が覚めたようにあたりを見廻した。やはり二十五の葉子である。いいえ昔たしかに一度けつまずいたことがあった。そう思って葉子は迷信家のようにもう一度振り返って捨て石を見た。その時に日は……やはり植物園の森のあの辺にあった。そして道の暗さもこのくらいだった。自分はその時、内田の奥さんに内田の悪口を言って、ペテロとキリストとの間に取り交わされた寛《かん》恕《じよ》に対する問答《*》を例に引いた。いいえ、それは今日したことだった。今日意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙をこぼした。その時にも自分は二十五……そんなことはない。そんなことのあろうはずがない……変な……。それにしてもあの捨て石には覚えがある。あれは昔からあすこにちゃんとあった。こう思い続けてくると、葉子は、いつか母と遊びに来た時、何か怒ってその捨て石に噛《かじ》りついて動かなかったことをまざまざと心に浮かべた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぼっちの石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり眼先に現われた。と思うとやがてその輪《りん》廓《かく》が輝きだして、眼も向けられないほど耀《かがや》いたが、すっと惜しげもなく消えてしまって、葉子は自分の体が中《ちゆう》有《う*》からどっしり大地に下り立ったような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口から顎《あご》を伝って胸の合わせ目をよごした。驚いてハンケチを袂《たもと》から探り出そうとした時、
「どうかなさいましたか」
という声に驚かされて、葉子ははじめて自分の後に人力車がついて来ていたのに気がついた。見ると捨て石のあるところはもう八、九町後ろになっていた。
「鼻血なの」
と応《こた》えながら葉子ははじめてのようにあたりを見た。そこには紺《こん》暖簾《のれん》をところせまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子は取りあえずそこにはいって、人目を避けながら顔を洗わしてもらおうとした。
四十恰好の克明らしい内儀《かみ》さんがわがことのように金《かな》盥《だらい》に水を移して持って来てくれた。葉子はそれで白粉《おしろい》気《け》のない顔を思う存分に冷やした。そして少し人心地がついたので、帯の間から懐中鏡を取り出してなおそうとすると、鏡がいつの間にか真二つに破《わ》れていた。先刻けつまずいた拍子に破れたのかしらんと思ってみたが、それくらいで破れるはずはない。怒りに任せて胸がかっとなった時、破れたのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それとも明日の船出の不吉を告げる何かの業《わざ》かもしれない。木村との行く末の破滅を知らせる悪い辻《つじ》占《うら》かもしれない。またそう思うと葉子は襟元に凍った針でも刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身《み》慄《ぶる》いをした。いったい自分はどうなって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議な自分の運命を思うにつけ、これから先の運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な悒《ゆう》鬱《うつ》な眼つきをして店を見廻した。帳場にすわり込んだ内儀さんの膝に凭《もた》れて、七つほどの少女が、じっと葉子の眼を迎えて葉子を見つめていた。痩《や》せぎすで、痛々しいほど眼の大きな、そのくせ黒眼の小さな、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や石《せつ》鹸《けん》の香につつまれて、ぼんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡の破れたのと縁でもあるらしく眺められた。葉子の心は全くふだんの落ちつきを失ってしまったようにわくわくして、立ってもすわってもいられないようになった。馬鹿なと思いながら怖《こわ》いものにでも追いすがられるようだった。
しばらくの間葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立ち去ることもしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれというすてばちな気になって元気をとりなおしながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物《もの》憂《う》かった。定子に会ったところがどうなるものか。自分のことすら次の瞬間にはとりとめもないものを、他人のこと――それはよし自分の血を分けた大切なひとり子であろうとも――などを考えるだけが馬鹿なことだと思った。そしてもう一度そこの店から巻紙を買って、硯《すずり》箱《ばこ》を借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単に認《したた》めて、永田から送ってよこした為替《かわせ》の金を封入して、その店を出た。そしていきなりそこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛けをはぐって、蹴《け》込《こ》みに打ちつけてある鑑札にしっかり眼を通しておいて、
「私はこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさりあるから大事にしてね」
と車夫に言いつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょときょとと見やりながら空《から》俥《ぐるま》を引いて立ち去った。大八車が続けさまに田舎に向いて帰って行く小石川の夕暮れの中を、葉子は傘を杖《つえ》にしながら思いにふけって歩いて行った。
こもった哀愁が、醗しない酒のように、葉子の顳《こめ》〓《かみ》をちかちかと痛めた。葉子は人力車の行方《ゆくえ》を見失っていた。そして自分では真直《まつす》ぐに釘《くぎ》店《だな》の方に急ぐつもりでいた。ところが実際は眼に見えぬ力で人力車に結びつけられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっと気がついた時にはいつの間にか、乳母が住む下谷池の端のある曲がり角《かど》に来て立っていた。
そこで葉子はぎょっとして立ち停《ど》まってしまった。短くなりまさった日は本郷の高台に隠れて、往来には厨《くりや》の煙とも夕《ゆう》靄《もや》ともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプの灯がことに赤くちらほらちらほらと点《とも》っていた。通り慣れたこの界《かい》隈《わい》の空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚を撫《な》でた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいるところに牽《ひ》きつけられるようにさえ思えた。葉子の唇は暖かい桃の皮のような定子の頬の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんすの《*》弾力のある軟らかい触感を感じていた。葉子の膝はふうわりとした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼きついた。眼には、曲がり角の朽ちかかった黒《くろ》板《いた》塀《べい》を透《とお》して、木部から稟《う》けた笑窪《えくぼ》のできる笑顔がいやおうなしに吸いついてきた。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりを偸《ぬす》むように見廻した。とちょうどそこを通りかかった内儀《かみ》さんが、何かを前掛けの下に隠しながらじっと葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。
葉子は悪事でも働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそこそとそこを立ち退《の》いて不忍《しのばず》の池に出た。そして過去も未来も持たない人のように、池の端につくねんと突っ立ったまま、池の中の蓮《はす》の実の一つに眼を定めて、身動きもせずに小半時立ち尽くしていた。
日の光がとっぷりと隠れてしまって、往来の灯ばかりが足もとのたよりとなるころ、葉子は熱病患者のように濁りきった頭をもてあまして、車に揺られるたびごとに眉《まゆ》を痛々しくしかめながら、釘店に帰って来た。
玄関にはいろいろの足駄や靴が列《なら》べてあったが、流行を作ろう、少なくとも流行に遅れまいという華《はな》やかな心を誇るらしい履《はき》物《もの》といっては一つも見当たらなかった。自分の草《ぞう》履《り》を始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分のために親戚や知人が寄って別れを惜しむというその席に顔を出すのが、自分自身を馬鹿にしきったことのようにしか思われなかった。こんなくらいなら定子のところにでもいるほうがよほどましだった。こんなことのあるはずだったのをどうしてまた忘れていたものだろう。どこにいるのもいやだ。木部の家を出て、二度とは帰るまいと決心した時のような心持ちで、拾いかけた草履をたたきに戻そうとしたそのとたんに、
「姉さんもういや……いや」
と言いながら、身を震わしてやにわに胸に抱きついて来て、乳の間の窪《くぼ》みに顔を埋めながら、成人のするような泣きじゃくりをして、
「もう行っちゃいやですと言うのに」
とからく言葉を続けたのは貞世だった。葉子は石のように立ちすくんでしまった。貞世は朝から不機嫌になって誰の言うことも耳には入れずに、自分の帰るのばかりを待ちこがれていたに違いないのだ。葉子は機械的に貞世に引っ張られて階《はし》子《ご》段《だん》を昇って行った。
階子段を昇りきってみると客間はしんとしていて、五十《いそ》川《がわ》女史の祈《き》祷《とう》の声だけがおごそかに聞こえていた。葉子と貞世とは恋人のように抱き合いながら、アーメンと言う声の一座の人々から挙げられるのを待って室にはいった。列座の人々はまだ殊勝らしく頭を首垂《うなだ》れている中に、正座近くすえられた古藤だけは昂《こう》然《ぜん》と眼を見開いて、襖《ふすま》を開《あ》けて葉子がしとやかにはいって来るのを見《み》戍《まも》っていた。
葉子は古藤にちょっと眼で挨《あい》拶《さつ》をしておいて、貞世を抱いたまま末座に膝をついて、一同に遅刻の詫びをしようとしていると、主人座にすわり込んでいる叔父が、我が子でもたしなめるように威儀を作って、
「なんたら遅いことじゃ。今日はお前の送別会じゃぞい。……皆さんにいこうお待たせするが済まんから、今五十川さんに祈祷をお頼み申して、箸《はし》を取っていただこうと思ったところであった……いったいどこを……」
面と向かっては、葉子に口小言一つ言いきらぬ器量なしの叔父が、場所もおりもあろうにこんな場合に見せびらかしをしようとする。葉子はそっちに見向きもせず、叔父の言葉を全く無視した態度で急に晴れやかな色を顔に浮かべながら、
「ようこそ皆様……遅くなりまして。つい行かなければならないところが二つ三つありましたもんですから……」
と誰にともなく言っておいて、するすると立ち上がって、釘店の往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭を撫《な》でながら、自分の上にばかり注がれる満座の視線を小うるさそうに払い除《の》けた。そして片方の手でだいぶ乱れた鬢《びん》のほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤の方に走った。
「しばらくでしたのね……とうとう明朝《あした》になりましてよ。木村に持って行くものは、いっしょにお持ちになって?……そう」
と軽い調子で言ったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物の見事にさえぎられてしまった。葉子は古藤にそれだけのことを言うと、今度は当の敵ともいうべき五十川女史に振り向いて、
「小母《おば》さま、今日途中でそれはおかしなことがありましたのよ。こうなんですの」
と言いながら男女をあわせて八人ほど居《い》列《なら》んだ親類たちにずっと眼を配って、
「車で駈《か》け通ったんですから前も後もよくはわからないんですけれども、大時計の角のところを広小路に出ようとしたら、その角にたいへんな人だかりですの。なんだと思って見てみますとね。禁酒会の大道演説で、大きな旗が二、三本立っていて、急ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍しいということはないんですけれども、その演説をしている人が……誰だとお思いになって……山脇さんですの」
一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻しかつめらしい顔をした叔父はもう白痴のように口を開けたままで薄笑いを漏らしながら葉子を見つめていた。
「それがまたね、いつものとおりに金時のように頸《くび》筋《すじ》まで真赤ですの。『諸君』とかなんとか言って大手を振り立ててしゃべっているのを、肝心の禁酒会員たちは呆気《あつけ》にとられて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわいわいとおもしろがってたかっているのも全くもっともですわ。そのうちに、あ、叔父さん、箸をおつけになるように皆様におっしゃってくださいまし」
叔父があわてて口の締りをして仏頂面に立ち返って、何か言おうとすると、葉子はまたそれには頓着なく五十川女史の方に向いて、
「あのお肩の凝りはすっかりお治《なお》りになりまして」
と言ったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父の言いだそうとする言葉は気まずくもはち合せになって、二人は所在なげに黙ってしまった。座敷は、底の方に気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史の側にすわって、神経質らしく眉をきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光をときどき葉子に浴びせかけていたが、いたたまれない様子でちょっと居ずまいをなおすと、ぎくしゃくした調子で口を切った。
「葉子さん、あなたもいよいよ身の堅まるせとぎわまで漕《こ》ぎつけたんだが……」
葉子は隙《すき》を見せたら切り返すからと言わんばかりな緊張した、同時に物を物ともしないふうでその男の眼を迎えた。
「なにしろ私ども早月家の親類にとってはこんなめでたいことはまずない。ないにはないがこれからがあなたに頼みどころだ。どうぞひとつ私どもの顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいがいかがです。木村君は私もよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍しくはきはきできるし、若いに似合わぬ物のわかった仁《じん》だ。こんなことまで比較に持ち出すのはどうか知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、私などは初めから不賛成だった。今度のはじたい段が違う。葉子さんが木部氏のところから逃げ帰って来た時には、私もけしからんと言った実は一人だが、今になってみると葉子さんはさすがに眼が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁《じん》なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上がるにきまっている。これからはなんと言っても信用と金だ。官界に出ないのなら、どうしても実業界に行かなければうそだ。擲《てき》身《しん》報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのようなまじめな信者にしこたま金を造ってもらわんじゃ、神の道を日本に伝え拡《ひろ》げるにしてからが容易なことじゃありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記者の修業をすると口癖のように妙なことを言ったもんだが(ここで一座の人はなんの意味もなく高く笑った。おそらくはあまりしかつめらしい空気を打ち破って、なんとかそこに余裕《ゆとり》をつけるつもりが、皆んなに起こったのだろうけれども、葉子にとってはそれがそうは響かなかった。その心持ちはわかっても、そんなことで葉子の心をはぐらかそうとする彼らのあさはかさがぐっと癪《しやく》に障《さわ》った)新聞記者はともかくも……じゃない、そんなものになられては困りきるが(ここで一座はまたわけもなく馬鹿らしく笑った)米国行きの願いはたしかに叶《かな》ったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろう。後のことは私どもがたしかに引き受けたから心配は無用にして、身をしめて妹さんの方のしめしにもなるほどの奮発を頼みます……ええと、財産のほうの処分は私と田中さんとで間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世語は、五十《いそ》川《がわ》さん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷惑ですが。いかがでしょう皆さん(そう言って彼は一座を見渡した。あらかじめ申し合せができていたらしく一同は待ち設けたようにうなずいてみせた)どうじゃろう葉子さん」
葉子は乞食の嘆願を聞く女王のような心持ちで、〇〇局長と言われるこの男の言うことを聞いていたが、財産のことなどはどうでもいいとして、妹たちのことが話題に上るとともに、五十川女史を向こうに廻して詰問のような対話を始めた。なんと言っても五十川女史はその晩そこに集まった人々の中ではいちばん年配でもあったし、いちばんはばかられているのを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるような頑丈な骨組みで、がっしりと正座に居なおって、葉子を子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心は逸《はや》り熱した。
「いいえ、わがままだとばかりお思いになっては困ります。私は御承知のような生まれでございますし、これまでもたびたび御心配かけてきておりますから、人様同様に見ていただこうとはこれっぱかりも思ってはおりません」
と言って葉子は指の間になぶっていた楊《よう》枝《じ》を老女史の前にふいと投げた。
「しかし愛子も貞世も妹でございます。現在私の妹でございます。口幅ったいと思《おぼ》し召《め》すかもしれませんが、この二人だけは私たとい米国におりましても立派に手塩にかけて御覧に入れますから、どうかおかまいなさらずにくださいまし。それは赤坂学院も立派な学校には違いございますまい。現在私も小母《おば》さまのお世話であすこで育てていただいたのですから、悪くは申したくはございませんが、私のような人間が、皆様のお気に入らないとすれば……それは生まれつきもございましょうとも、ございましょうけれども、私を育て上げたのはあの学校でございますからねえ。なにしろ現在いてみたうえで、私この二人をあすこに入れる気にはなれません。女というものをあの学校ではいったいなんと見ているのでござんすかしらん……」
こう言っているうちに葉子の心には火のような回想の憤怒が燃え上がった。葉子はその学校の寄宿舎で一個の中性動物として取り扱われたのを忘れることができない。やさしく、愛らしく、しおらしく、生まれたままの美しい好意と欲念との命ずるままに、おぼろげながら神というものを恋しかけた十二、三歳ごろの葉子に、学校は祈祷と、節欲と、殺情とを強制的にたたき込もうとした。十四の夏が秋に移ろうとしたころ、葉子はふと思い立って、美しい四寸幅ほどの角帯のようなものを絹糸で編みはじめた。藍の地に白で十字架と日月とをあしらった模様だった。物事にふけりやすい葉子は身も魂も打ち込んでその仕事に夢中になった。それを造り上げた上でどうして神様の御《み》手《て》に届けよう、というようなことはもとより考えもせずに、早く造り上げてお喜ばせ申そうとのみあせって、しまいには夜の目もろくろく合わさなくなった。二週間に余る苦心の末にそれはあらかたできあがった。藍の地に簡単に白で模様を抜くだけならさしたることでもないが、葉子は他人のまだしなかった試みを加えようとして、模様の周囲に藍と白とを組合せにした小さな笹《ささ》縁《べり》のようなものを浮き上げて編み込んだり、ひどく伸び縮みがして模様が歪形《いびつ》にならないように、目立たないようにカタン糸を編み込んでみたりした。できあがりが近づくと葉子は片時も編針を休めてはいられなかった。ある時聖書の講義の講座でそっと机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい乙女心にどうしてこの夢よりもはかないもくろみを白状することができよう。教師はその帯の色合いから推して、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五、六の醜い容貌の舎監は、葉子を監禁同様にしておいて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。
葉子はふと心の眼を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻《ほん》弄《ろう》した。青年は間もなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめた虎の子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからのことである。
「古藤さん愛と貞とはあなたに願いますわ。誰がどんなことを言おうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私昨日田島さんの塾に行って、田島さんにお会い申してよくお頼みして来ましたから、少しかたづいたらはばかりさまですがあなた御自身で二人を連れていらしってください。愛さんも貞ちゃんもわかりましたろう。田島さんの塾にはいるとね、姉さんといっしょにいた時のようなわけにはゆきませんよ……」
「姉さんてば……自分でばかり物をおっしゃって」
といきなり恨めしそうに、貞世は姉の膝を揺《ゆす》りながらその言葉をさえぎった。
「さっきから何度書いたかわからないのに平気でほんとにひどいわ」
一座の人々から妙な子だというふうに眺められているのにも頓着なく、貞世は姉の方に向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長い袖の下に入れて、その掌《てのひら》に食指で仮名を一字ずつ書いて手の平《ひら》で拭き消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字をたどってみると、
「ネーサマハイイコダカラ『アメリカ』ニイッテハイケマセンヨヨヨヨ」
と読まれた。葉子の胸は我れ知らず熱くなったが、しいて笑いにまぎらしながら、
「まあ聞きわけのない児《こ》だこと、しかたがない。今になってそんなことを言ったってしかたがないじゃないの」
とたしなめ諭《さと》すように言うと、
「しかたがあるわ」
と貞世は大きな眼で姉を見上げながら、
「お嫁に行かなければよろしいじゃないの」
と言って、くるりと首を廻して一同を見渡した。貞世の可愛い眼は「そうでしょう」と訴えているように見えた。それを見ると一同はただなんということもなく思いやりのない笑い方をした。叔父はことに大きなとんきょな声で高々と笑った。先刻から黙ったままで俯《うつ》向《む》いて淋しくすわっていた愛子は、沈んだ恨めしそうな眼でじっと叔父をにらめたと思うと、たちまち湧《わ》くように涙をほろほろと流して、それを両袖で拭《ぬぐ》いもやらず立ち上がってその部屋をかけ出した。階子段のところでちょうど下から上って来た叔母と行き遇ったけはいがして、二人が何か言い争うらしい声が聞こえて来た。
一座はまた白け渡った。
「叔父さんにも申し上げておきます」
と沈黙を破った葉子の声が妙に殺気を帯びて響いた。
「これまで何かとお世話さまになってありがとうございましたけれども、この家をたたんでしまうことになれば、妹たちも今申したとおり塾に入れてしまいますし、この後はこれといってたいしてごやっかいはかけないつもりでございます。赤の他人の古藤さんにこんなことを願ってはほんとに済みませんけれども、木村の親友でいらっしゃるのですから、近い他人ですわね。古藤さん、あなた貧《びん》乏《ぼう》籤《くじ》を背負い込んだと思し召して、どうか二人を見てやってくださいましな。いいでしょう。こう親類の前ではっきり申しておきますから、ちっとも御遠慮なさらずに、いいとお思いになったようになさってくださいまし。あちらへ着いたら私またきっとどうともいたしますから。きっとそんなに長い間御迷惑はかけませんから。いかが、引き受けてくださいまして?」
古藤は少し躊《ちゆう》躇《ちよ》するふうで五十川女史を見やりながら、
「あなたは先刻《さつき》から赤坂学院のほうがいいとおっしゃるように伺っていますが、葉子さんの言われるとおりにして差し支えないのですか。念のために伺っておきたいのですが」
と尋ねた。葉子はまたあんなよけいなことを言うと思いながらいらいらした。五十川女史は日ごろの円滑な人ずれのした調子に似ず、何かにひどく激《げつ》昂《こう》した様子で、
「私は亡《な》くなった親《おや》佐《さ》さんのお考えはこうもあろうかと思ったところを申したまでですから、それを葉子さんが悪いとおっしゃるなら、その上とやかく言いともないのですが、親佐さんは堅い昔風な信仰を持ったかたですから、田島さんの塾は前から嫌いでね……よろしゅうございましょう、そうなされば。私はとにかく赤坂学院がいちばんだとどこまでも思っとるだけです」
と言いながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじまじと眺めた。葉子は貞世を抱いたまましゃんと胸をそらして眼の前の壁の方に顔を向けていた、たとえばばらばらと投げられるつぶてを避けようともせずに突っ立つ人のように。
古藤は何か自分一人で合点したと思うと、堅く腕組みをしてこれも自分の前の眼八分のところをじっと見つめた。
一座の気分はほとほと動きがとれなくなった。その間でいちばん早く機《き》嫌《げん》をなおして相《そう》好《ごう》を変えたのは五十川女史だった。子供を相手にして腹を立てた、それを年がいないとでも思ったように、気を変えてきさくに立ちじたくをしながら、
「皆さんいかが、もうお暇《いとま》にいたしましたら……お別れする前にもう一度お祈りをして」
「お祈りを私のようなもののためになさってくださるのは御無用に願います」
葉子は和らぎかけた人々の気分にはさらに頓着なく、壁に向けていた眼を貞世に落として、いつの間にか寝入ったその人のつやつやしい顔を撫《な》でさすりながらきっぱりと言い放った。
人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞世がいつの間にか膝の上に寝てしまったのを口実にして人々を見送りには立たなかった。
最後の客が帰って行った後でも、叔父叔母は二階をかたづけには上って来なかった。挨拶一つしようともしなかった。葉子は窓の方に頭を向けて、煉《れん》瓦《が》の通りの上にぼうっと立つ灯の照り返しを見やりながら、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙ってすわり続けていた。間遠に日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、釘店の人通りは寂しいほど疎《まば》らになっていた。
姿は見せずに、どこかの隅で愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。
「愛さん……貞《さあ》ちゃんが寝ましたからね、ちょっとお床を敷いてやってちょうだいな」
我れながら驚くほどやさしく愛子に口をきく自分を葉子は見いだした。性が合わないというのか、気が合わないというのか、ふだん愛子の顔さえ見れば葉子の気分は崩《くず》されてしまうのだった。愛子が何事につけても猫のように従順で少しも情というものを見せないのがことさら憎かった。しかしその夜だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子がいつものようにすなおに立ち上がって、洟《はな》をすすりながら黙って床をとっている間に、葉子はおりおり往来の方から振り返って、愛子のしとやかな足音や、綿を薄く入れた夏布団の畳に触れるささやかな音を見入りでもするようにその方に眼を定めた。そうかと思うとまた今さらのように、食い荒らされた食物や、敷いたままになっている座布団のきたならしく散らかった客間をまじまじと見渡した。父の書棚のあった部分の壁だけが四角に濃い色をしていた。そのすぐ側に西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先は剥《は》がされずに残っていた。
「姉さま敷けました」
しばらくしてから、愛子がこうかすかに隣で言った。葉子は、
「そう御苦労さまよ」
とまたしとやかに応《こた》えながら、貞世を抱きかかえて立ち上がろうとすると、また頭がぐらぐらッとして、おびただしい鼻血が貞世の胸の合わせ目に流れ落ちた。
底光りのする雲母《きらら》色《いろ》の雨雲が縫い目なしにどんよりと重く空いっぱいにはだかって、本牧の沖合いまで東京湾の海はものすごいような草色に、小さく波の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。昨日の風が凪《な》いでから、気温は急に夏らしい蒸し暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって弱りきった労働者が、そぼふる雨の中にぐったりと喘《あえ》いでいるように見えた。
靴の先で甲板をこつこつと敲《たた》いて、俯《うつ》向《む》いてそれを眺めながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤はひとりごとのように葉子に言った。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、本当はさして注意もせずに、ちょうど自分の眼の前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接に暇もなげな田川法学博士《*》の眼尻の下がった顔と、その夫人の痩せぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭く眺めやっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで縁日のように賑《にぎわ》っていた。葉子の見送りに来たはずの五十川女史は先刻から田川夫人の側につききって、世話好きな、人の好い叔母さんというような態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶していた。葉子の方へは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二、三間離れたところに、蜘《く》蛛《も》のような白痴の児を小《こ》婢《おんな》に背負わして、自分は葉子から預かった手鞄と袱《ふく》紗《さ》包みとを取り落とさんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送り人の群れを見てあっけにとられていた。葉子の乳母は、どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病そうな青い顔つきをして、サルンの入口の戸の蔭にたたずみながら、四角に畳んだ手拭いを真赤になった眼のところに絶えず押しあてては、偸《ぬす》み見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみな一団になって、田川家の威光に圧せられたように隅の方にかたまっていた。
葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやると言い聞かせられていた。田川といえば、法曹界ではかなり名の聞こえたわりあいに、どこといってとりとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人の噂のために世人の記憶にあざやかであった。感受力の鋭敏なそしてなんらかの意味で自分の敵に廻さなければならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影は永いこと宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我の強い、情のほしいままな、野心の深いわりあいに手練《タクト》の露骨な、良人《おつと》を軽く見てややともすると笠にかかりながら、それでいて良人から独立することのとうていできない、いわば心《しん》の弱い強がり家《や》ではないかしらんというのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中でほほえまずにはいられなかった。
「なんだか話が混雑したようだけれども、それだけ言っておいてください」
ふと葉子は幻想《レエリー》から破れて、古藤の言うこれだけの言葉を捕えた。そして今まで古藤の口から出た伝言の文句はたいてい聞き漏らしていたくせに、そらぞらしげにもなくしんみりとした様子で、
「確かに……けれどもあなた後から手紙ででも詳しく書いてやってくださいましね。間違いでもしていると大変ですから」
と古藤をのぞき込むようにして言った。古藤は思わず笑いを漏らしながら、「間違うと大変ですから」という言葉を、時おり葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。そして、
「なに、間違ったって大事はないけれども……だが手紙は書いて、あなたの寝床《バース》の枕《まくら》の下に置いときましたから、部屋に行ったらどこにでもしまっておいてください。それから、それといっしょにもう一つ……」
と言いかけたが、
「なにしろ忘れずに枕の下を見てください」
この時突然「田川法学博士万歳」という大きな声が、桟橋からデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。葉子と古藤とは話の腰を折られて互いに不快な顔をしながら、手《て》欄《すり》から下の方をのぞいてみると、すぐ眼の下に、そのころ人の少し集まるところにはどこにでも顔を出す轟《とどろき》という剣舞の師匠だか撃剣の師匠だかする頑丈な男が、大きな五つ紋の黒羽織に白っぽい鰹魚《かつお》縞《じま》の袴《はかま》をはいて、桟橋の板を朴《ほお》の木下駄で踏み鳴らしながら、ここを先途と喚《わめ》いていた。その声に応じて、デッキまでは昇って来ない壮士体《てい》の政客や某私立政治学校の生徒がいっせいに万歳を繰り返した。デッキの上の外国船客は物珍しさに逸《いち》早《はや》く、葉子が倚《よ》りかかっている手欄の方に押し寄せて来たので、葉子は古藤をうながして、急いで手欄の折れ曲がった角に身を引いた。田川夫婦もほほえみながら、サルンから挨拶のために近づいて来た。葉子はそれを見ると、古藤の側に寄り添ったまま、左手をやさしく上げて、鬢《びん》のほつれをかき上げながら、頭を心持ち左にかしげてじっと田川の眼を見やった。田川は桟橋の方に気を取られて急ぎ足で手欄の方に歩いていたが、突然見えぬ力にぐっと引きつけられたように、葉子の方に振り向いた。
田川夫人も思わず良人の向く方に頭を向けた。田川の威厳に乏しい眼にも鋭い光がきらめいては消え、さらにきらめいて消えたのを見すまして、葉子ははじめて田川夫人の眼を迎えた。額の狭い、顎の固い夫人の顔は、軽蔑と猜《さい》疑《ぎ》の色を漲《みなぎ》らして葉子に向かった。葉子は、名前だけをかねてから聞き知って慕っていた人を、今眼の前に見たように、うやうやしさと親しみとの交り合った表情でこれに応じた。そしてすぐそのそばから、夫人の前にも頓着なく、誘惑の眸《ひとみ》を凝らしてその良人の横顔をじっと見やるのだった。
「田川法学博士夫人万歳」「万歳」「万歳」
田川その人に対してよりもさらに声高な大歓呼が、桟橋にいて傘を振り帽子を動かす人々の群れから起こった。田川夫人は忙《せわ》しく葉子から眼を移して、群集にとっときの笑顔を見せながら、レースで笹縁を取ったハンケチを振らねばならなかった。田川のすぐ側に立って、胸になにか赤い花をさして型のいいフロック・コー卜を着て、ほほえんでいた風流な若紳士は、桟橋の歓呼を引き取って、田川夫人の面前で帽子を高く挙げて万歳を叫んだ。デッキの上はまたひとしきりどよめき渡った。
やがて甲板の上は、こんな騒ぎのほかになんとなく忙しくなってきた。事務員や水夫たちが、物せわしそうに人中を縫うてあちこちする間に、手を取り合わんばかりに近よって別れを惜しむ人々の群れがここにもかしこにも見え始めた。サルン・デッキから見ると、三等客の見送り人がボーイ長にせき立てられて、続々舷《げん》門《もん》から降り始めた。それと入れ代わりに、帽子、上衣、ズボン、襟飾《ネクタイ》、靴などの調和の少しもとれていないくせに、むやみに気取った洋装をした非番の下級船員たちが、濡《ぬ》れた傘を光らしながら駈《か》けこんで来た。その騒ぎの間に、一種生《なま》臭《ぐさ》いような暖かい蒸気が甲板の人を取り捲《ま》いて、フォクスル《*》の方で、今までやかましく荷物をまき上げていた扛重機《クレーン》の音が突然やむと、かーんとするほど人々の耳はかえって遠くなった。隔たったところから互いに呼びかわす水夫らの高い声は、この船にどんな大危険でも起こったかと思わせるような不安を播《ま》き散らした。親しい間の人たちは別れの切なさに心がわくわくしてろくに口もきかず、義理一遍の見送り人は、ややともするとまわりに気が取られて見送るべき人を見失う。そんなあわただしい抜《ばつ》錨《びよう》のまぎわになった。葉子の前にも、急にいろいろな人が寄り集まって来て、思い思いに別れの言葉を残して船を降り始めた。葉子はこんな混雑な間にも田川の眸《ひとみ》がときどき自分に向けられるのを意識して、その眸を驚かすようななまめいた姿体《ポーズ》や、頼《たよ》りなげな表情を見せるのを忘れないで、言葉少なにそれらの人に挨拶した。叔父と叔母とは墓の穴まで無事に棺を運んだ人夫のように、通り一遍のことを言うと、預り物を葉子に渡して、手の塵《ちり》をはたかんばかりにすげなく、真先に舷《げん》梯《てい》を降りて行った。葉子はちらっと叔母の後ろ姿を見送って驚いた。今の今までどことて似通うところの見えなかった叔母も、その姉なる葉子の母の着物を帯まで借りて着込んでいるのを見ると、はっと思うほどその姉にそっくりだった。葉子はなんということなしにいやな心持ちがした。そしてこんな緊張した場合にこんなちょっとしたことにまでこだわる自分を妙に思った。そう思う間もあらせず、今度は親類の人たちが五、六人ずつ、口々に小やかましく何か言って、憐《あわ》れむような妬《ねた》むような眼つきを投げ与えながら、幻影のように葉子の眼と記憶とから消えて行った。丸《まる》髷《まげ》に結ったり教師らしい地《じ》味《み》な束髪に上げたりしている四人の学校友だちも、今は葉子とはかけ隔たった境界の言葉づかいをして、昔葉子に誓った言葉などは忘れてしまった裏切り者のそらぞらしい涙を見せたりして、雨に濡らすまいと袂《たもと》を大事にかばいながら、傘にかくれてこれも舷梯を消えて行ってしまった。最後に物《もの》怯《お》じする様子の乳母が葉子の前に来て腰をかがめた。葉子はとうとう行き詰まるところまで来たような思いをしながら、振り返って古藤を見ると、古藤は依然として手欄に身を寄せたまま、気抜けでもしたように、眼を据《す》えて自分の二、三間先をぼんやり眺めていた。
「義一さん、船の出るのも間がなさそうですからどうか此女《これ》……私の乳母ですの……の手を引いて下ろしてやってくださいましな。すべりでもすると怖うござんすから」
と葉子に言われて古藤ははじめて我に返った。そしてひとりごとのように、
「この船で僕もアメリカに行ってみたいなあ」
とのんきなことを言った。
「どうか桟橋まで見てやってくださいましね。あなたもそのうちぜひいらっしゃいましな……義一さんそれではこれでお別れ。本当に、本当に」
と言いながら葉子はなんとなく親しみをいちばん深くこの青年に感じて、大きな眼で古藤をじっと見た。古藤も今さらのように葉子をじっと見た。
「お礼の申しようもありません。この上のお願いです。どうぞ妹たちを見てやってくださいまし。あんな人たちにはどうしたって頼んではおけませんから。……さようなら」
「さようなら」
古藤は鸚鵡《おうむ》返しに没《も》義《ぎ》道《どう》にこれだけ言って、ふいと手《て》欄《すり》を離れて、麦《むぎ》稈《わら》帽子を眼《ま》深《ぶか》に被《かぶ》りながら、乳母につき添った。
葉子は階《はし》子《ご》の上り口まで行って二人に傘をかざしてやって、一段一段遠ざかって行く二人の姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、雨に濡れた傘の辺を幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とはぜひ見送りがしたいと言うのを、葉子は叱りつけるように言ってとめてしまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、なんの気なしに愛子が前髪から抜いて鬢《びん》を掻こうとした櫛《くし》が、脆《もろ》くもぽきりと折れた。それを見ると愛子は堪《こら》え堪えていた涙の堰《せき》を切って声を立てて泣きだした。貞世は初めから腹でも立てたように、燃えるような眼からとめどなく涙を流して、じっと葉子を見つめてばかりいた。そんな痛々しい様子がその時まざまざと葉子の眼の前にちらついたのだ。一人ぽっちで遠い旅に鹿《か》島《しま》立《だ》って行く自分というものがあじきなくも思いやられた。そんな心持ちになると忙しい間にも葉子はふと田川の方を振り向いてみた。中学校の制服を着た二人の少年と、髪をお下げにして、帯をおはさみにしめた少女とが、田川と夫人との間にからまってちょうど告別をしているところだった。つき添いの守《もり》の女が少女を抱き上げて、田川夫人の唇《くちびる》をその額に受けさしていた。葉子はそんな場面を見せつけられると、他人《ひと》事《ごと》ながら自分が皮肉で鞭《むち》うたれるように思った。竜をも化して牝《めす》豚《ぶた》にするのは母となることだ。今の今まで焼くように定子のことを思っていた葉子は、田川夫人に対してすっかり反対のことを考えた。葉子はそのいまいましい光景から眼を移して舷《げん》梯《てい》の方を見た。しかしそこにはもう乳母の姿も古藤の影もなかった。
たちまち船首の方からけたたましい銅《ど》鑼《ら》の音が響き始めた。船の上下は最後のどよめきに揺《ゆら》ぐように見えた。長い綱を引きずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手で支えながら、あたりの空気に激しい動揺を起こすほどの勢いで急いで葉子の傍《かたわら》を通りぬけた。見送り人はいっせいに帽子を脱いで舷梯の方に集まって行った。そのさいになって五十川女史ははたと葉子のことを思い出したらしく、田川夫人に何か言っておいて葉子のいるところにやって来た。
「いよいよお別れになったが、いつぞやお話しした田川の奥さんにおひきあわせしようからちょっと」
葉子は五十川光史の親切ぶりの犠《ぎ》牲《せい》になるのを承知しつつ、一種の好奇心に牽《ひ》かされて、その後について行こうとした。葉子にはじめて物を言う田川の態度も見てやりたかった。その時、
「葉子さん」
と突然言って、葉子の肩に手をかけたものがあった。振り返るとビールの酔いの匂いがむせかえるように葉子の鼻を打って、眼の心《しん》まで紅《あか》くなった知らない若者の顔が、ちかぢかと鼻先にあらわれていた。はっと身を引く暇《いとま》もなく、葉子の肩はびしょ濡《ぬ》れになった酔いどれの腕でがっしりと捲《ま》かれていた。
「葉子さん、覚えていますか私を……あなたは私の命なんだ。命なんです」
と言ううちにも、その眼からはほろほろと煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかな頬《ほお》を伝った。膝《ひざ》から下がふらつくのを葉子にすがって危く支えながら、
「結婚をなさるんですか……おめでとう……おめでとう……だがあなたが日本にいなくなると思うと……いたたまれないほど心細いんだ……私は……」
もう声さえ続かなかった。そして深々と息気《いき》をひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣きだした。
この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。誰だとも、いつどこで遇《あ》ったとも思い出す由がない。木部孤《こ》〓《きよう》と別れてから、なんということなしにすてばちな心地になって、誰彼の差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気儘を振舞ったその間に、偶然に出遇って別れた人の中の一人でもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったのであろうか。とにかく葉子には少しも思い当たる節《ふし》がなかった。葉子はその男から離れたい一心に、手に持った手鞄と包み物とを甲板の上に抛《ほう》りなげて、若者の手をやさしく振りほどこうとしてみたが無益だった。親類や朋輩たちのことあれがしな眼が等しく葉子に注がれているのを葉子は痛いほど身に感じていた。と同時に、男の涙が薄い単衣《ひとえ》の目を透《とお》して、葉子の膚に沁《し》みこんでくるのを感じた。乱れたつやつやしい髪の匂いもつい鼻の先で葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこには微《かす》かな誇りのような気持ちが湧《わ》いてきた。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって葉子の心の中で渦《うず》巻《ま》いた。葉子は、
「さ、もう放してくださいまし、船が出ますから」
ときびしく言っておいて、噛《か》んで含めるように、
「誰でも生きてる間は心細く暮らすんですのよ」
とその耳もとにささやいてみた。若者はよくわかったというふうに深々とうなずいた。しかし葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。
物々しい銅鑼の響きは左舷から右舷に廻って、また船首の方に聞こえて行こうとしていた。船員も乗客も申し合わしたように葉子の方を見守っていた。先刻から手持ち無沙汰そうにただ立って成り行きを見ていた五十川女史は思いきって近寄って来て、若者を葉子から引き離そうとしたが、若者はむずかる子供のように地だんだを踏んでますます葉子に寄り添うばかりだった。船首の方に群がって仕事をしながら、この様子を見守っていた水夫たちはいっせいに高く笑い声を立てた。そしてそのうちの一人はわざと船じゅうに聞こえ渡るような嚏《くさめ》をした。抜《ばつ》錨《びよう》の時刻は一秒一秒に逼《せま》っていた。物笑いの的になっている、そう思うと葉子の心はいとしさから激しいいとわしさに変わって行った。
「さ、お放しください、さ」
ときわめて冷酷に言って、葉子は助けを求めるようにあたりを見廻した。
田川博士の側にいて何か話をしていた一人の大《たい》兵《ひよう》な船員がいたが、葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなりに大《おお》股《また》に近づいて来て、
「どれ、私が下までお連れしましょう」
と言うやいなや、葉子の返事も待たずに若者をこともなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっとなって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右脇にかいこんで、やすやすと舷梯を降りて行った。五十川女史はあたふたと葉子に挨拶もせずにその後に続いた。しばらくすると若者は桟橋の群集の間に船員の手から下ろされた。
けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送り人たちはこの声で活を入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな体躯を猿《ましら》のように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋からしずしずと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまたその早《はや》業《わざ》に驚いて眼を見張った。
葉子の眼は怒気を含んで手《て》欄《すり》からしばらくの間かの若者を見据えていた。若者は狂気のように両手を拡《ひろ》げて船に駈け寄ろうとするのを、近所に居合わせた三、四人の人があわてて引き留める、それをまたすり抜けようとして組み伏せられてしまった。若者は組み伏せられたまま左の腕を口にあてがって思いきり噛みしばりながら泣き沈んだ。その牛の吽《うめ》き声のような泣き声が気《け》疎《うと》く船の上まで聞こえて来た。見送人は思わず鳴りを静めてこの狂暴な若者に眼を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄に片手をかけたまま突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。と言って葉子はその若者の上ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、虚《うつ》ろな余裕がそこにはあった。古藤が若者の方には眼もくれずにじっと足もとを見つめているのにも気がついていた。死んだ姉の晴れ着を借り着していい心地になっているような叔母の姿も眼に映っていた。船の方に後ろを向けて(おそらくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた心をひしいだに違いない)手拭いをしっかりと両眼にあてている乳母も見逃してはいなかった。
いつの間に動いたともなく船は桟橋から遠ざかっていた。人の群れが黒《くろ》蟻《あり》のように集まったそこの光景は、葉子の眼の前に展《ひら》けて行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなっていった。葉子の眼は葉子自身にも疑われるようなことをしていた。その眼は小さくなった人影の中から乳母《うば》の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納めに眺めようとせず、凝然として小さくうずくまる若者のらしい黒点を見つめていた。若者の叫ぶ声が、桟橋の上で打ち振るハンケチのときどきぎらぎらと光るごとに、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布の端から余滴《したたり》がぽつりぽつりと葉子の顔を打つたびに、断続して聞こえて来るように思われた。
「葉子さん、あなたは私を見殺しにするんですか……見殺しにするん……」
一〇
はじめての旅客も物慣れた旅客も、抜錨したばかりの船の甲板に立っては、落ちついた心でいることができないようだった。跡始末のために忙しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの昂奮にじっとしてはいられないような顔つきをして、乗客は一人残らず甲板に集まって、今まで自分たちが側《そば》近く見ていた桟橋の方に眼を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように手欄に倚《よ》りかかって、静かな春雨のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、波止場の方を眺めていたが、けれどもその眸《ひとみ》にはなんにも映ってはいなかった。その代わり眼と脳との間と覚《おぼ》しいあたりを、親しい人や疎《うと》い人が、何かわけもなくせわしそうに現われ出て、めいめいいちばん深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたら大変なことになると、心のどこかの隅では考えていた。そのくせ、それを物々しく恐れるでもなかった。身体までが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。
若者が現われた。(どうしてあの男はそれほどの因縁もないのに執《しゆう》念《ね》くつきまつわるのだろうと葉子は他人《ひと》事《ごと》のように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやく眩《まぶ》しい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。噛みしめたその左の腕から血がぽたぽたとしたたっていた。そのしたたりが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹《にじ》色《いろ》にきらきらと巴《ともえ》を描いて飛び跳った。
「……私を見捨てるん……」
葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、眼が覚《さ》めたようにふっとあらためて港を見渡した。そして、なんの感じも起こさないうちに、熟睡からちょっと驚かされた赤児が、また他愛なく眠りに落ちて行くように、再び夢とも現《うつつ》ともない心に返って行った。港の景色はいつの間にか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみついた若者の姿が、まざまざと現われ出た。葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血の故《せい》とでも言うのだろうか。ことによるとヒステリーにかかっているのではないかしらんなどとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば悠《ゆう》々《ゆう》閑《かん》閑《かん》と澄み渡った水の隣に、薄紙一《ひと》重《え》の界《さかい》も置かず、たぎり返って渦巻き流れる水がある。葉子の心はその静かなほうの水に浮かびながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを他人事のように眺めやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄によりかかってじっと立っていた。
「田川法学博士」
葉子はまたふと悪戯《いたずら》者《もの》らしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対の舷《ふなべり》の籐椅子に腰かけて、世辞世辞しく近寄って来る同船者と何か戯《じよう》談《だん》口《ぐち》でもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想はまたかの若者に還《かえ》って行った。葉子はふと右の肩に暖かみを覚えるように思った。そこには若者の熱い涙が浸《し》み込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような眼つきをして、やや頭を後ろに引きながら肩のところを見ようとすると、その瞬間、若者を船から桟橋に連れ出した船員のことがはっと思い出されて、今まで盲《めし》いていたような眼に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような眼を見開いたまま、船員の濃い眉《まゆ》から黒い口《くち》髭《ひげ》のあたりを見守っていた。
船はもうかなり速力を早めて、霧のように降るともなく降る雨の中を走っていた。舷側から吐き出される捨て水の音がざあざあと聞こえだしたので、遠い幻想の国から一足飛びに取って返した葉子は、夢ではなく、まがいもなく眼の前に立っている船員を見て、なんということなしにぎょっと本当に驚いて立ちすくんだ。はじめてアダムを見たイヴのように葉子はまじまじと珍しくもないはずの一人の男を見やった。
「ずいぶん長い旅ですが、なに、もうこれだけ日本が遠くなりましたんだ」
と言ってその船員は右手を延べて居留地の鼻を指した。がっしりした肩をゆすって、勢いよく水平に延ばしたその腕からは、強く烈しく海上に生きる男の力がほとばしった。葉子は黙ったまま軽くうなずいた、胸の下のところに不思議な肉体的な衝動をかすかに感じながら。
「お一人ですな」
塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子はまた黙ったまま軽くうなずいた。
船はやがて乗りたての船客の足もとにかすかな不安を与えるほどに速力を早めて走りだした。葉子は船員から眼を移して海の方を見渡してみたが、自分の側に一人の男が立っているという、強い意識から起こって来る不安はどうしても消すことができなかった。葉子にしてはそれは不思議な経験だった。こっちから何か物を言いかけて、この苦しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何か物を言ったらきっとひどい不自然な物の言い方になるに決まっている。そうかと言ってその船員には無頓着にもう一度前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっと煙った霧雨のかなたさえ見透せそうに眼がはっきりして、さきほどのおっかぶさるような暗愁は、いつの間にかはかない出来心のしわざとしか考えられなかった。その船員は傍若無人に衣嚢《かくし》の中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、ときどき思い出したように顔を引いて眉をしかめながら、襟《えり》の折り返しについた汚点《しみ》を、拇《おや》指《ゆび》の爪でごしごしと削っては弾《はじ》いていた。
葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働きだした。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大《おお》股《また》ではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄から離れて自分の船室の方に階子段を降りて行こうとした。
「どこにおいでです」
後ろから、葉子の頭から爪先までを小さなものででもあるように、一目に籠《こ》めて見やりながら、その船員はこう尋ねた。葉子は、
「船室までまいりますの」
と答えないわけにはいかなかった。その声は葉子のもくろみに反して恐ろしくしとやかな響きを立てていた。するとその男は大股で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、
「船室《カビン》ならば永田さんからのお話もありましたし、おひとり旅のようでしたから、医務室の傍《わき》に移しておきました。御覧になった前の部屋より少し窮屈かもしれませんが、何かに御便利ですよ。御案内しましょう」
と言いながら葉子をすり抜けて先に立った。何か芳《ほう》醇《じゆん》な酒のしみと葉巻煙草《シガー》との匂《にお》いが、この男固有の膚の匂いででもあるように強く葉子の鼻をかすめた。葉子は、どしんどしんと狭い階子段を踏みしめながら降りて行くその男の太い頸《くび》から広い肩のあたりをじっと見やりながらその後に続いた。
二十四、五脚の椅子が食卓に背を向けてずらっと列《なら》べてある食堂の中ほどから、横丁のような暗い廊下をちょっとはいると、右の戸に「医務室」と書いた頑丈な真《しん》鍮《ちゆう》の札がかかっていて、その向かいの左の戸には「No.12 早月葉子殿」と白墨で書いた漆塗りの札が下がっていた。船員はつかつかとそこにはいって、いきなり勢いよく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけを外《はず》して、上衣を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出したが、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、あわてて首を引っ込めてしまった。船員は大きなはばかりのない声で、
「おい十二番はすっかり掃除ができたろうね」
と言うと、医務室の中からは女のような声で、
「さしておきましたよ。綺《き》麗《れい》になってるはずですが、御覧なすってください。私は今ちょっと」
と船医は姿を見せずに答えた。
「こりゃいったい船医の私室《プライベート》なんですが、あなたのためにお明け申すって言ってくれたもんですから、ボーイに掃除するように言いつけておきましたんです。ど、綺麗になっとるかしらん」
船員はそうつぶやきながら戸を開《あ》けて一わたり中を見廻した。
「むむ、いいようです」
そして道を開いて、衣嚢《かくし》から「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と書いた大きな名刺を出して葉子に渡しながら、
「私が事務長をしとります。御用があったらなんでもどうか」
葉子はまた黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。そして自分の部屋ときめられたその部屋の高い閾《しきい》を越えようとすると、
「事務長さんはそこでしたか」
と尋ねながら田川博士がその夫人と打ち連れて廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って挨拶しようとしている間に、洋装の田川夫人は葉子を目《め》指《ざ》して、スカーツの絹ずれの音を立てながらつかつかと寄って来て眼鏡《めがね》の奥から小さく光る眼でじろりと見やりながら、
「五十川さんが噂《うわさ》していらしったかたはあなたね。なんとかおっしゃいましたねお名は」
と言った。この「なんとかおっしゃいましたね」という言葉が、名もないものを憐《あわ》れんで見てやるという腹を十分に見せていた。今まで事務長の前で、珍しく受け身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、強い衝動を受けたようになって我れに返った。どういう態度で返事をしてやろうかということが、一番に頭の中で二十日《はつか》鼠《ねずみ》のように烈しく働いたが、葉子はすぐ腹を決めてひどく下《した》手《て》に尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を投げておいて、丁寧に低くつむりを下げながら、
「こんなところまで……恐れ入ります。私早月葉《よう》と申しますが、旅には不慣れでおりますのにひとり旅でございますから……」
と言って眸《ひとみ》を稲妻のように田川に移して、
「御迷惑ではございましょうがなにぶんよろしく願います」
とまたつむりを下げた。田川はその言葉の終わるのを待ちかねたように引き取って、
「なに不慣れは私の妻も同様ですよ。なにしろこの船の中には女は二人ぎりだからお互いです」
とあまりなめらかに言って退《の》けたので、妻の前でもはばかるように今度は態度を改めながら事務長に向かって、
「チャイニース・ステアレージ《*》には何人ほどいますか日本の女は」
と問いかけた。事務長は例の塩から声で、
「さあ、まだ帳簿もろくろく整理してみませんから、しっかりとはわかりかねますが、なにしろこのごろはだいぶ殖《ふ》えました。三、四十人もいますか。奥さんここが医務室です。なにしろ九月といえば旧の二八月の八月ですから、太平洋のほうは暴《し》けることもありますんだ。たまにはここにも御用ができますぞ。ちょっと船医も御紹介しておきますで」
「まあそんなに荒れますか」
と田川夫人は実際恐れたらしく、葉子を顧みながら少し色をかえた。事務長は事もなげに、
「暴けますんだずいぶん」
と今度は葉子の方をまともに見やってほほえみながら、おりから部屋を出て来た興《こう》録《ろく》という船医を三人に引き合わせた。
田川夫妻を見送ってから葉子は自分の部屋にはいった。さらぬだにどこかじめじめするような船室《カビン》には、今日の雨のために蒸すような空気がこもっていて、汽船特有な西洋臭い匂いがことに強く鼻についた。帯の下になった葉子の胸から背にかけたあたりは汗がじんわりにじみ出たらしく、むしむしするような不愉快を感ずるので、狭苦しい寝台《バース》を取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に、窮屈に積み重ねられた小荷物を見廻しながら、帯を解き始めた。化粧鏡のついた箪笥の上には、果《くだ》物《もの》の籠《かご》が一つと花束が二つ載せてあった。葉子は襟《えり》前《まえ》をくつろげながら、誰からよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、その側《そば》から厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の写真だった。まだ女学校に通っているらしい、髪を束髪にした娘の半身像で、その裏には「興録さま。取り残されたる千代より」としてあった。そんなものを興録がしまい忘れるはずがない。わざと忘れたふうに見せて、葉子の心に好奇心なり軽い嫉妬なりを煽《あお》り立てようとする、あまり手もとの見え透いたからくりだと思うと、葉子はさげすんだ心持ちで、犬にでもするようにぽいとそれを床の上に抛《ほう》りなげた。一人の旅の婦人に対して船の中の男の心がどういうふうに動いているかをその写真一枚が語り貌《がお》だった。葉子はなんということなしに小さな皮肉な笑いを唇のところに浮かべていた。
寝台の下に押し込んである平べったいトランクを引き出して、その中から浴衣《ゆかた》を取り出していると、ノックもせずに突然戸を開けたものがあった。葉子は思わず羞《しゆう》恥《ち》から顔を赤らめて、引き出した派手な浴衣を楯《たて》に、しだらなく脱ぎかけた長《なが》襦《じゆ》袢《ばん》の姿をかくまいながら立ち上がって振り返ってみると、それは船医だった。華《はな》やかな下着を浴衣のところどころからのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身を斜《しや》にして立った葉子の姿は、男の眼にはほしいままな刺《し》戟《げき》だった。懇意ずくらしく戸もたたかなかった興録もさすがにどぎまぎして、はいろうにも出ようにも所在に窮して、閾《しきい》に片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。
「とんだふうをしていまして御免くださいまし。さ、おはいり遊ばせ。なんぞ御用でもいらっしゃいましたの」
と葉子は笑いかまけたように言った。興録はいよいよ度を失いながら、
「いいえなに、今でなくってもいいのですが、もとのお部屋のお枕の下にこの手紙が残っていましたのを、ボーイが届けて来ましたんで、早くさし上げておこうと思って実はなにしたんでしたが……」
と言いながら衣嚢《かくし》から二通の手紙を取り出した。手早く受け取って見ると、一つは古藤が木村に宛《あ》てたもの、一つは葉子にあてたものだった。興録はそれを手渡すと、一種の意味ありげな笑いを眼だけに浮かべて、顔だけはいかにももっともらしく葉子を見やっていた。自分のしたことを葉子もしたと興録は思っているに違いない。葉子はそう推量すると、かの娘の写真を床の上から拾い上げた。そしてわざと裏を向けながら見向きもしないで、
「こんなものがここにも落ちておりましたの。お妹さんでいらっしゃいますか。お綺麗ですこと」
と言いながらそれをつき出した。
興録は何か言いわけのようなことを言って部屋を出て行った。と思うとしばらくして医務室の方から事務長のらしい大きな声が聞こえて来た。それを聞くと、事務長はまだそこにいたかと、葉子は我れにもなくはっとなって、思わず着かえかけた衣物《きもの》の衣紋《えもん》に左手をかけたまま、俯《うつ》向《む》きかげんになって横眼をつかいながら耳をそばだてた。破裂するような事務長の笑い声がまた聞こえて来た。そして医務室の戸をさっと開けたらしく、声が急に一倍大きくなって、
「Devil take it! No tame creature then, eh?《*》」と乱暴に言う声が聞こえたが、それとともにマッチを擦《す》る音がして、やがて葉巻をくわえたままの口《く》籠《ごも》りのする言葉で、
「もうじき検疫船だ。準備はいいだろうな」
と言い残したまま事務長は船医の返事も待たずに行ってしまったらしかった。かすかな匂いが葉子の部屋にも通《かよ》って来た。
葉子は聞き耳をたてながらうなだれていた顔を上げると、正面をきってなんということなしに微笑を漏らした。そしてすぐぎょっとしてあたりを見廻したが、我れに返って自分一人きりなのに安《あん》堵《ど》して、いそいそと衣物を着かえ始めた。
一一
絵島丸が横浜を抜《ばつ》錨《びよう》してからもう三日たった。東京湾を出抜けると、黒潮に乗って、金華山沖あたりからは航路を東北に向けて、まっしぐらに緯《い》度《ど》を上って行くので、気温は二日目あたりから目立って涼しくなって行った。陸の影はいつの間にか船のどの舷《ふなべり》からも眺めることはできなくなっていた。背羽根の灰色な腹の白い海鳥が、ときどき思い出したように淋しい声で啼《な》きながら、船の周囲を群れ飛ぶほかには、生き物の影とては見ることもできないようになっていた。重い冷たい潮霧《ガス》が野《の》火《び》の煙のようにもうもうと南に走って、それが秋らしい狭《さ》霧《ぎり》となって、船体を包むかと思うと、たちまちからっと晴れた青空を船に残して消えて行ったりした。格別の風もないのに海面は色濃く波打ち騒いだ。三日目からは船の中に盛んにスティームが通り始めた。
葉子はこの三日というもの、一度も食堂に出ずに船室にばかり閉じ籠っていた。船に酔ったからではない。はじめて遠い航海を試みる葉子にしては、それが不思議なくらいたやすい旅だった。ふだん以上に食欲さえ増していた。神経に強い刺戟が与えられて、とかく鬱《うつ》結《けつ》しやすかった血液も濃く重たいなりにもなめらかに血管の中を循環し、海から来る一種の力が体の隅々まで行きわたって、うずうずするほどな活力を感じさせた。漏らしどころのないその活気が運動もせずにいる葉子の体《からだ》から心に伝わって、一種の悒《ゆう》鬱《うつ》に変わるようにさえ思えた。
葉子はそれでも船室を出ようとはしなかった。生まれてからはじめて孤独に身を置いたような彼女は、子供のようにそれが楽しみたかったし、また船中で顔見知りの誰彼ができる前に、これまでのこと、これからのことを心にしめて考えてもみたいとも思った。しかし葉子が三日の間船室に引き籠り続けた心持ちには、もう少し違ったものもあった。葉子は自分が船客たちから激しい好奇の眼で見られようとしているのを知っていた。立役は幕明きから舞台に出ているものではない。観客が待ちに待って、待ちくたぶれそうになった時分に、しずしずと乗り出して、舞台の空気を思うさま動かさねばならぬのだ。葉子の胸の中にはこんな狡獪《ずるがしこ》いいたずらな心も潜んでいたのだ。
三日目の朝電燈が百合《ゆり》の花の萎《しぼ》むように消えるころ葉子はふと深い眠りから蒸し暑さを覚えて眼を覚《さ》ました。スティームの通って来るラディエターから、真空になった管の中に蒸汽の冷えたしたたりが落ちて立てる激しい響きが聞こえて、部屋の中は軽く汗ばむほど暖まっていた。三日の間狭い部屋の中ばかりにいてすわり疲れ寝疲れのした葉子は、狭苦しい寝台《バース》の中に窮屈に寝ちぢまった自分を見いだすと、下になった半身に軽い痺《しび》れを覚えて、体を仰《あお》向《む》けにした。そして一度開いた眼を閉じて、美しく円味を持った両の腕を頭の上に伸ばして、寝乱れた髪をもてあそびながら、覚めぎわの快い眠りにまた静かに落ちて行った。が、ほどもなく本当に眼をさますと、大きく眼を見開いて、あわてたように腰から上を起こして、ちょうど眼通りのところにある一面に水気で曇った眼《め》窓《まど》を長い袖《そで》で押し拭《ぬぐ》って、ほてった頬をひやひやするその窓ガラスに擦《す》りつけながら外を見た。夜は本当には明け離れていないで、窓の向こうには光のない濃い灰色がどんよりと拡《ひろ》がっているばかりだった。そして自分の体がずっと高まってやがてまた落ちて行くなと思わしいころに、窓に近い舷にざあっとあたって砕けて行く波濤が、単調な底力のある震動を船室に与えて、船は幽《かす》かに横にかしいだ。葉子は身動きもせずに眼にその灰色を眺めながら、噛《か》みしめるように船の動揺を味わってみた。遠く遠く来たという旅情が、さすがにしみじみと感ぜられた。しかし葉子の眼には女らしい涙は浮かばなかった。活気のずんずん恢復しつつあった彼女には何かパセティックな夢でも見ているような思いをさせた。
葉子はそうしたままで、過ぐる二日の間暇にまかせて思い続けた自分の過去を夢のように繰り返していた。連絡のない終わりのない絵巻がつぎつぎに拡げられたり捲《ま》かれたりした。キリストを恋い恋うて、夜も昼もやみがたく、十字架を編み込んだ美しい帯を作って献《ささ》げようと一心に、日課も何もそっちのけにして、指の先がささくれるまで編針を動かした可憐な少女も、その幻想の中に現われ出た。寄宿舎の二階の窓近く大きな花を豊かに開いた木《もく》蘭《らん》の香までがそこいらに漂っているようだった。国分寺跡の、武蔵野の一角らしい櫟《くぬぎ》の林も現われた。すっかり少女のような無邪気なすなおな心になってしまって、孤《こ》〓《きよう》の膝に身も魂も投げかけながら、涙とともにささやかれる孤〓の耳うちのように震えた細い言葉を、ただ「はいはい」と夢心地にうなずいて呑み込んだ甘い場面は、今の葉子とは違った人のようだった。そうかと思うと左岸の崕《がけ》の上から広瀬川を越えて青葉山を一面に見渡した仙台の景色がするすると開け渡った。夏の日は北国の空にもあふれ輝いて、白い礫《こいし》の河原の間を真青に流れる川の中には、赤《あか》裸《はだか》な少年の群れが赤々とした印象を眼に与えた。草を敷かんばかりに低くうずくまって、華《はな》やかな色合いのパラソルに日をよけながら、黙って思いにふける一人の女――その時には彼女はどの意味からも女だった――どこまでも満足の得られない心で、だんだんと世間から埋もれて行かねばならないような境遇に押し込められようとする運命。確かに道を踏みちがえたとも思い、踏みちがえたのは、誰がさしたことだと神をすら詰《なじ》ってみたいような思い。暗い産室も隠れてはいなかった。そこの恐ろしい沈黙の中から起こる強い快い赤《あか》児《ご》の産声――やみがたい母性の意識――「我れすでに世に勝てり」とでも言ってみたい不思議な誇り――同時に重く胸を押えつける生の暗い急変。かかる時思いも設けず力強く迫って来る振り捨てた男の執着。明日をも頼みがたい命の夕闇にさまよいながら、切れ切れな言葉で葉子と最後の妥協を結ぼうとする病床の母――その顔は葉子の幻想を断ち切るほどの強さで現われ出た。思い入った決心を眉《まゆ》に集めて、日ごろの楽天的な性情にも似ず、運命と取り組むような真剣な顔つきで大事の結着を待つ木村の顔。母の死を憐《あわ》れむとも悲しむとも知れない涙を眼には湛《たた》えながら、氷のように冷えきった心で、俯《うつ》向《む》いたまま、口一つきかない葉子自身の姿……そんな幻像《まぼろし》があるいはつぎつぎに、あるいは折り重なって、灰色の霧の中に動き現われた。そして記憶はだんだんと過去から現在の方に近づいて来た。と、事務長の倉地の浅黒く日に焼けた顔と、その広い肩とが思い出された。葉子は思いもかけないものを見いだしたようにはっとなると、その幻像は他愛もなく消えて、記憶はまた遠い過去に帰って行った。それがまただんだん現在の方に近づいて来たと思うと、最後にはきっと倉地の姿が現われ出た。
それが葉子をいらいらさせて、葉子ははじめて夢《ゆめ》現《うつつ》の境から本当に眼ざめて、うるさいものでも払いのけるように、眼窓から眼をそむけて寝台《バース》を離れた。葉子の神経は朝からひどく昂《こう》奮《ふん》していた。スティームで存分に暖まってきた船室の中の空気は息気《いき》苦しいほどだった。
船に乗ってからろくろく運動もせずに、野菜気の尠《すく》ない物ばかりを貪《むさぼ》り食べたので、身内の血には激しい熱がこもって、毛の尖《さき》へまでも通うようだった。寝台から立ち上がった葉子は瞑眩《めまい》を感ずるほどに上気して、氷のような冷たいものでもひしと抱きしめたい気持ちになった。で、ふらふらと洗面台の方に行って、ピッチャー《*》の水をなみなみと陶器製の洗面盤にあけて、ずっぷり浸《ひた》した手拭いをゆるく絞《しぼ》って、ひやっとするのをかまわず、胸をあけて、それを乳房と乳房との間にぐっとあてがってみた。強い烈しい動《どう》悸《き》が押えている手の平《ひら》へ突き返して来た。葉子はそうしたままで前の鏡に自分の顔を近づけて見た。まだ夜の気が薄暗くさまよっているうちに、頬をほてらしながら深い呼吸をしている葉子の顔が、自分にすらものすごいほどなまめかしく映っていた。葉子は物好きらしく自分の顔にわけのわからない微笑を湛《たた》えてみた。
それでもそのうちに葉子の不思議な心のどよめきは鎮《しず》まっていった。鎮まっていくにつれ、葉子は今までの引き続きでまた瞑《めい》想《そう》的《てき》な気分に引き入れられていた。しかしその時はもう夢想家ではなかった。ごく実際的な鋭い頭が針のように光って尖っていた。葉子は濡《ぬ》れ手拭いを洗面盤に抛《ほう》りなげておいて、静かに長椅子に腰をおろした。
笑いごとではない。いったい自分はどうするつもりでいるんだろう。そう葉子は出発以来の問いをもう一度自分に投げかけてみた。小さい時からまわりの人たちにはばかられるほど才はじけて、同じ年ごろの女の子とはいつでも一調子違った行き方を、するでもなくしてこなければならなかった自分は、生まれる前から運命にでも呪《のろ》われているのだろうか。それかといって葉子はなべての女の順々に通って行く道を通ることはどうしてもできなかった。通ってみようとしたことは幾度あったかわからない。こうさえ行けばいいのだろうと通って来てみると、いつでもとんでもなく違った道を歩いている自分を見いだしてしまっていた。そしてつまずいては倒れた。まわりの人たちは手を取って葉子を起こしてやるしかたも知らないような顔をしてただ馬鹿らしく侮笑《あざわら》っている。そんなふうにしか葉子には思えなかった。幾度ものそんな苦い経験が葉子を片意地な、少しも人を頼《たよ》ろうとしない女にしてしまった。そして葉子はいわば本能の向かせるように向いてどんどん歩くよりしかたがなかった。葉子は今さらのように自分のまわりを見廻してみた。いつの間にか葉子はいちばん近しいはずの人たちからもかけ離れて、たった一人で崕《がけ》のきわに立っていた。そこでただ一つ葉子を崕の上に繋《つな》いでいる綱には木村との婚約ということがあるだけだ。そこに踏みとどまればよし、さもなければ、世の中との縁はたちどころに切れてしまうのだ。世の中に活《い》きながら世の中との縁が切れてしまうのだ。木村との婚約で世の中は葉子に対して最後の和《わ》睦《ぼく》を示そうとしているのだ。葉子にとって、この最後の機会をも破り捨てようというのはさすがに容易ではなかった。木村という首《くび》桎《かせ》を受けないでは生活の保障が絶え果てなければならないのだから。葉子の懐中には百五十弗《ドル》の米貨があるばかりだった。定子の養育費だけでも、米国に足を下ろすやいなや、すぐに木村にたよらなければならないのは眼の前にわかっていた。後《ご》詰《づ》めとなってくれる親類の一人もないのはもちろんのこと、ややともすれば親切ごかしにないものまでせびり取ろうとする手合いが多いのだ。たまたま葉子の姉妹の内実を知って気の毒だと思っても、葉子ではというように手出しを控えるものばかりだった。木村――葉子には義理にも愛も恋も起こり得ない木村ばかりが、葉子に対するただ一人の戦士なのだ。あわれな木村は葉子の蠱惑《チャーム》に陥ったばかりで、早月家の人々からいやおうなしにこの重い荷を背負わされてしまっているのだ。
どうしてやろう。
葉子は思い余ったその場遁《のが》れから、箪笥《たんす》の上に興録から受け取ったまま投げ捨てておいた古藤の手紙を取り上げて、白い西洋封筒の一端を美しい指の爪で丹念に細く破り取って、手筋は立派ながらまだどこかたどたどしい手跡でペンで走り書きした文句を読み下してみた。
「あなたはおさんどんになるということを想像してみることができますか。おさんどんという仕事が女にあるということを想像してみることができますか。僕はあなたを見る時はいつでもそう思って不思議な心持ちになってしまいます。いったい世の中には人を使って、人から使われるということを全くしないでいいという人があるものでしょうか。そんなことができ得るものでしょうか。僕はそれをあなたに考えていただきたいのです。
あなたは奇態な感じを与える人です。あなたのなさることはどんな危険なことでも危険らしく見えません。行きづまった末にはこうという覚悟がちゃんとできているように思われるからでしょうか。
僕があなたにはじめてお目にかかったのは、この夏あなたが木村君といっしょに八《や》幡《はた》に避暑をしておられた時ですから、あなたについては僕は、なんにも知らないと言っていいくらいです。僕は第一一般的に女というものについてなんにも知りません。しかし少しでもあなたを知っただけの心持ちから言うと、女の人というものは僕にとっては不思議な謎《なぞ》です。あなたはどこまで行ったら行きづまると思っているんです。あなたはすでに木村君で行きづまっている人なんだと僕には思われるのです。結婚を承諾した以上はその良人《おつと》に行きづまるのが女の人の当然な道ではないでしょうか。木村君で行きづまってください。木村君にあなたを全部与えてください。木村君の親友としてこれが僕の願いです。
全体同じ年齢でありながら、あなたからは僕などは子供に見えるのでしょうから、僕の言うことなどは頓着なさらないかと思いますが、子供にも一つの直覚はあります。そして子供はきっぱりした物の姿が見たいのです。あなたが木村君の妻になると約束した以上は、僕の言うことにも権威があるはずだと思います。
僕はそうは言いながら一面にはあなたがうらやましいようにも、憎いようにも、可哀そうなようにも思います。あなたのなさることが僕の理性を裏切って奇性な同情を喚《よ》び起こすようにも思います。僕は心の底に起こるこんな働きを強いて押しつぶして理屈一方に固まろうとは思いません。それほど僕は道学者ではないつもりです。それだからと言って、今のままのあなたでは、僕にはあなたを敬親する気は起こりません。木村君の妻としてあなたを敬親したいから、僕はあえてこんなことを書きました。そういう時が来るようにしてほしいのです。
木村君のことを――あなたを熱愛してあなたのみに希望をかけている木村君のことを考えると僕はこれだけのことを書かずにはいられなくなります。
古藤義一
木村葉子様」
それは葉子にとっては本当に子供っぽい言葉としか響かなかった。しかし古藤は妙に葉子には苦手だった。今も古藤の手紙を読んでみると、馬鹿馬鹿しいことが言われているとは思いながらも、いちばん大事な急所を偶然のようにしっかり捕えているようにも感じられた。本当にこんなことをしていると、子供と見くびっている古藤にも憐れまれるはめになりそうな気がしてならなかった。葉子はなんということなく悒《ゆう》鬱《うつ》になって古藤の手紙を巻きおさめもせず膝《ひざ》の上に置いたまま眼をすえて、じっと考えるともなく考えた。
それにしても、新しい教育を受け、新しい思想を好み、世事に疎《うと》いだけに、世の中の習俗からも飛び離れて自由でありげに見える古藤さえが、葉子が今立っている崕《がけ》のきわから先には、葉子が足を踏み出すのを憎み恐れる様子を明らかに見せているのだ。結婚というものが一人の女にとって、どれほど生活という実際問題と結びつき、女がどれほどその束縛の下《もと》に悩んでいるかを考えてみることさえしようとはしないのだ。そう葉子は思ってもみた。
これから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでにいろいろと想像しないではいられなかった。米国の人たちはどんなふうに自分を迎え入れようとはするだろう。とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、なんのかかわりもない社会の中に乗り込むのはおもしろい。和服よりもはるかに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗では米国人を笑わせないことができる。歓楽でも哀傷でもしっくりと実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的な絆《きずな》から解き放されて、その力だけに働くことのできる生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも男の手を借りずに自分を周《まわ》りの人に認めさすことのできる生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸のできる生活がそこにはあるに違いない。少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんなことを空想するとむずむずするほど快活になった。そんな心持ちで古藤の言葉などを考えてみると、まるで老人の繰《くり》言《ごと》のようにしか見えなかった。葉子は長い黙想の中から活《い》き活きと立ち上がった。そして化粧をすますために鏡の方に近づいた。
木村を良人とするのになんの屈託があろう。木村が自分の良人であるのは、自分が木村の妻であるというほどに軽いことだ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思ってほほえんだ。そして乱れかかる額《ひたい》ぎわの髪を、振り仰いで後ろに撫《な》でつけたり、両方の鬢《びん》を器用にかき上げたりして、良工が細《さい》工《く》物《もの》でもするように楽しみながら元気よく朝化粧を終えた。濡れた手拭いで、鏡に近づけた眼のまわりの白粉《おしろい》を拭《ぬぐ》い終わると、唇を開いて美しく揃った歯並みを眺め、両方の手の指を壺《つぼ》の口のように一《ひと》所《ところ》に集めて爪の掃除が行き届いているか確かめた。見返ると船に乗る時着て来た単衣《ひとえ》のじみな衣物《きもの》は、世捨人のようにだらりと寂しく部屋の隅の帽子かけにかかったままになっていた。葉子は派手な袷《あわせ》をトランクの中から取り出して寝衣《ねまき》と着かえながら、それに眼をやると、肩にしっかりとしがみついて、泣きおめいたかの狂気じみた若者のことを思った。と、すぐその側《そば》から若者を小脇に抱えた事務長の姿が思い出された。小雨の中を、外《がい》套《とう》も着ずに、小荷物でも運んで行ったように若者を桟橋の上に下ろして、ちょっと五十川女史に挨《あい》拶《さつ》して船から投げた綱にすがるやいなや、静かに岸から離れてゆく船の甲板の上に軽々と上って来たその姿が、葉子の心をくすぐるように楽しませて思い出された。
夜はいつの間にか明け離れていた。眼窓の外は元のままに灰色はしているが、活き活きとした光が添い加わって、甲板の上を毎朝規則正しく散歩する白髪の米人とその娘との跫《あし》音《おと》がこつこつ快活らしく聞こえていた。化粧をすました葉子は長椅子にゆっくり腰をかけて、両《りよう》脚《あし》を真直ぐに揃えて長々と延ばしたまま、うっとりと思うともなく事務長のことを思っていた。
その時突然ノックをしてボーイがコーヒーを持ってはいって来た。葉子は何か悪いところでも見つけられたようにちょっとぎょっとして、延ばしていた脚の膝を立てた。ボーイはいつものように薄笑いをしてちょっと頭を下げて銀色の盆を畳《たた》み椅《い》子《す》の上においた。そして今日も食事はやはり船室に運ぼうかと尋ねた。
「今晩からは食堂にしてください」
葉子は嬉《うれ》しいことでも言って聞かせるようにこう言った。ボーイはまじめくさって「はい」と言ったが、ちらりと葉子を上眼で見て、急ぐように部屋を出た。葉子はボーイが部屋を出てどんなふうをしているかがはっきり見えるようだった。ボーイはすぐにこにこと不思議な笑いを漏らしながらケーク・ウォーク《*》の足つきで食堂の方に帰って行ったに違いない。ほどもなく、
「え、いよいよ御《ご》来《らい》迎《ごう》?」
「来たね」
と言うような野卑な言葉が、ボーイらしい軽薄な調子で声高に取り交わされるのを葉子は聞いた。
葉子はそんなことを耳にしながらやはり事務長のことを思っていた。「三日も食堂に出ないで閉じ籠《こも》っているのに、なんという事務長だろう、一ぺんも見舞いに来ないとはあんまりひどい」こんなことを思っていた。そしてその一方では縁もゆかりもない馬のようにただ頑丈な一人の男がなんでこう思い出されるのだろうと思っていた。
葉子は軽い溜《ため》息《いき》をついて何気なく立ち上がった。そしてまた長椅子に腰かける時には棚の上から事務長の名刺を持って来て眺《なが》めていた。「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉《*》」と明《みん》朝《ちよう*》ではっきり書いてある。葉子は片手でコーヒーをすすりながら、名刺を裏返してその裏を眺めた。そして真白なその裏に何か長い文句でも書いてあるかのように、二重になる豊かな顎《あご》を襟《えり》の間に落として、少し眉をひそめながら、永い間まじろぎもせず見つめていた。
一二
その日の夕方、葉子は船に来てからはじめて食堂に出た。着物は思いきって地味なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。二十を越すや越さずに見える、眼の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の藍《あい》鼠《ねずみ》は、なんとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向いが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣りに取ってあった。そのほかの船客もたいがいはすでにテーブルに向かっていた。葉子の跫《あし》音《おと》が聞こえると、逸早く眼くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ちつかぬ様子をしだしたのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいた鬚《ひげ》の白いアメリカ人の船長であった。あわてて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔を真赤にして座に返った。葉子はしとやかに人々の物ずきらしい視線を受け流しながら、ぐるっと食卓を廻って自分の席まで行くと、田川博士は窃《ぬす》むように夫人の顔をちょっと窺《うかが》っておいて、肥《ふと》った体をよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。
すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たい眸《ひとみ》の光を浴びているのを心地悪いほどに感じた。やがてきちんと慎《つつ》ましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に田川夫人の方に眼をやってそっと挨拶すると、今までの角《かど》々《かど》しい眼にもさすがに申しわけほどの笑みを見せて、夫人が何か言おうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途《と》切《ぎ》らしていた田川博士も事務長の方を向いて何か言おうとしたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、葉子に集めていた眸を田川夫妻の方に向けた。「失礼」と言ってひかえた博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、皆んなに聞こえるほどはっきり澄んだ声で、
「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船にはお困りですか」
と言った。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落として会《え》釈《しやく》するのをそう不快には思わぬくらいだった。二人の間の挨拶はそれなりで途切れてしまったので、田川博士はおもむろに事務長に向かってしつづけていた話の糸目をつなごうとした。
「それから……その……」
しかし話の糸口は思うように出て来なかった。こともなげに落ちついた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子はすぐ見て取った。思いどおりに一座の気分を動揺させることができるという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長の指図でボーイらが手器用に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士の方の話に耳を立てた。
葉子が食堂に現われて自分の視界にはいって来ると、臆《おく》面《めん》もなくじっと眼を定めてその顔を見やった後に、無頓着にスプーンを動かしながら、ときどき食卓の客を見廻して気を配っていた事務長は、下唇を返して鬚の先を吸いながら、塩さびのした太い声で、
「それからモンロー主義《*》の本体は」
と話の糸目を引っ張り出しておいて、まともに博士を打ち見やった。博士は少し面《おも》伏《ぶ》せな様子で、
「そう、その話でしたな。モンロー主義もその主張は初めのうちは、北米の独立諸州に対してヨーロッパの干渉を拒むというだけのものであったのです。ところがその政策の内容は年とともにだんだん変わっている。モンローの宣言は立派に文字になって残っているけれども、法律というわけではなし、文章も融通がきくようにできているので、取りようによっては、どうにでも伸縮することができるのです。マッキンレー氏などはずいぶん極端にその意味を拡張しているらしい。もっともこれにはクリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう一人有力な黒幕があるはずだ。どうです斎藤君」
と二、三人おいた斜向《はすか》いの若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、真赤になって、今まで葉子に向けていた眼を大急ぎで博士の方にそらして見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、さらに赤くなって術《すべ》ない身振りをした。これほどな席にさえかつて臨んだ習慣のないらしいその人の素性がそのあわて方に十分に見え透いていた。博士は見《み》下《くだ》したような態度で暫時その青年のどぎまぎした様子を見ていたが、返事を待ちかねて、事務長の方を向こうとした時、突然はるか遠い食卓の一端から、船長が顔を真赤にして、
「You mean Teddy the roughrider?《*》」
と言いながら子供のような笑顔を人々に見せた。船長の日本語の理解力をそれほどに思い設けていなかったらしい博士は、この不意打ちに今度は自分がまごついて、ちょっと返事をしかねていると、田川夫人がさそくにそれを引き取って、
「Good hit for you, Mr. Captain!《*》」
と癖のない発音で言って退《の》けた。これを聞いた一座は、ことに外国人たちは、椅子から乗り出すようにして夫人を見た。夫人はその時人の眼にはつきかねるほどの敏捷《すばしこ》さで葉子の方を窺《うかが》った。葉子は眉一つ動かさずに、下を向いたままでスープをすすっていた。
慎み深く大《おお》匙《さじ》を持ちあつかいながら、葉子は自分に何かきわだった印象を与えようとして、いろいろなまねを競《きそ》い合っているような人々のさまを心の中で笑っていた。実際葉子が姿を見せてから、食堂の空気は調子を変えていた。ことに若い人たちの間には一種の重苦しい波動が伝わったらしく、物を言う時、彼らは知らず知らず激昂したような高い調子になっていた。ことにいちばん年若く見える一人の上品な青年――船長の隣座にいるので葉子は家柄の高い生まれに違いないと思った――などは、葉子と一《ひと》眼《め》顔を見合わしたが最後、震えんばかりに昂奮して、顔を得《え》上《あ》げないでいた。それだのに事務長だけは、いっこう動かされた様子が見えぬばかりか、どうかした拍子に顔を合わせた時でも、その臆面のない、人を人とも思わぬような熟視は、かえって葉子の視線をたじろがした。人間を眺めあきたような気《け》倦《だ》るげなその眼は、濃い睫《まつ》毛《げ》の間からinsolent《*》な光を放って人を射た。葉子はこうして思わず眸《ひとみ》をたじろがすたびごとに事務長に対して不思議な憎しみを覚えるとともに、もう一度その憎むべき眼を見すえてその中に潜む不思議を存分に見《み》窮《きわ》めてやりたい心になった。葉子はそうした気分にうながされてときどき事務長の方に牽《ひ》きつけられるように視線を送ったが、そのたびごとに葉子の眸は脆《もろ》くも手きびしく追い退けられた。
こうして妙な気分が食卓の上に織りなされながらやがて食事は終わった。一同が座を立つ時、物慣らされた物腰で、椅子を引いてくれた田川博士にやさしく微笑を見せて礼をしながらも、葉子はやはり事務長の挙動を仔《し》細《さい》に見ることに半ば気を奪われていた。
「少し甲板に出て御覧になりましな。寒くとも気分は晴れ晴れしますから。私もちょっと部屋に帰ってショールを取って出てみます」
こう葉子に言って田川夫人は良人《おつと》とともに自分の部屋の方に去って行った。
葉子も部屋に帰ってみたが、今まで閉じ籠《こも》ってばかりいるとさほどにも思わなかったけれども、食堂ほどの広さのところからでもそこに来てみると、息気《いき》づまりがしそうに狭苦しかった。で、葉子は長椅子の下から、木村の父が使い慣れた古トランク――その上に古藤が油絵具でY・Kと書いてくれた古トランクを引き出して、その中から黒い駝《だ》鳥《ちよう》の羽のボアを取り出して、西洋臭いその匂《にお》いを快く鼻に感じながら、深々と頸《くび》を捲《ま》いて、甲板に出て行ってみた。窮屈な階《はし》子《ご》段《だん》をややよろよろしながら昇って、重い戸を開けようとすると外気の抵抗がなかなか激しくって押しもどされようとした。きりっと搾《しぼ》り上げたような寒さが、戸の隙《すき》から縦に細長く葉子を襲った。
甲板には外国人が五、六人厚い外《がい》套《とう》にくるまって、堅いティークの床をかつかつと踏みならしながら、押し黙って勢いよく右往左往に散歩していた。田川夫人の姿はその辺にはまだ見いだされなかった。塩気を含んだ冷たい空気は、室内にのみ閉じ籠っていた葉子の肺を押し拡げて、頬には血液がちくちくと軽く針をさすように皮膚に近く突き進んでくるのが感ぜられた。葉子は散歩客にはかまわずに甲板を横ぎって船べりの手《て》欄《すり》によりかかりながら、波また波と果てしもなく連なる水の堆《たい》積《せき》をはるばると眺めやった。折り重なった鈍色の雲のかなたに夕日の影は跡形もなく消え失せて、闇は重い不思議なガスのように力強くすべての物を押しひしゃげていた。雪をたっぷり含んだ空だけが、その闇とわずかに争って、南方には見られぬ暗い、燐《りん》のような、淋《さび》しい光を残していた。一種のテンポを取って高くなり低くなりする黒い波《は》濤《とう》のかなたには、さらに黒ずんだ波の穂が果てしもなく連なっていた。船は思ったより激しく動揺していた。赤いガラスを箝《は》めた檣《しよう》燈《とう》が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取って閃《ひらめ》いた。閃くたびに船が横かしぎになって、重い水の抵抗を受けながら進んで行くのが、葉子の足から体に伝わって感ぜられた。
葉子はふらふらと船にゆり上げゆり下げられながら、まんじりともせずに、黒い波の峰と波の谷とがかわるがわる眼の前に現われるのを見つめていた。豊かな髪の毛を透して寒さがしんしんと頭の中に滲《し》みこむのが、初めのうちは珍しくいい気持ちだったが、やがて痺《しび》れるような頭痛に変わって行った。……と急に、どこをどう潜んで来たとも知れない、いやな淋しさが盗《とう》風《ふう》のように葉子を襲った。船に乗ってから春の草のように萌《も》えだした元気はぽっきりと心《しん》を留められてしまった。顳《こめ》〓《かみ》がじんじんと痛みだして、泣きつかれの後に似た不愉快な睡《ねむ》気《け》の中に、胸をついて嘔《はき》気《け》さえ催してきた。葉子はあわててあたりを見廻したが、もうそこいらには散歩の人足も絶えていた。けれども葉子は船室に帰る気力もなく、右手でしっかりと額を押えて、手《て》欄《すり》に顔を伏せながら念じるように眼をつぶってみたが、言いようのない淋しさはいや増すばかりだった。葉子はふと定子を懐妊していた時の烈しい悪阻《つわり》の苦痛を思い出した。それはおりから痛ましい回想だった。……定子……葉子はもうその笞《しもと》には堪えないというように頭を振って、気を紛《まぎ》らすために眼を開いて、とめどなく動く波の戯れを見ようとしたが、一眼見るやぐらぐらと眩暈《めまい》を感じて一たまりもなくまた突っ伏してしまった。深い悲しい溜《ため》息《いき》が思わず出るのを留めようとしてもかいがなかった。「船に酔ったのだ」と思った時には、もう体じゅうは不快な嘔《おう》感《かん》のためにわなわなと震えていた。
「嘔《は》けばいい」
そう思って手欄から身を乗り出す瞬間、体じゅうの力は腹から胸元に集まって、背は思わずも激しく波打った。その後はもう夢のようだった。
しばらくしてから葉子は力が抜けたようになって、ハンケチで口もとを拭いながら、頼りなくあたりを見廻した。甲板の上も波の上のように荒涼として人気がなかった。明るく灯の光の漏れていた眼窓は残らずカーテンで蔽《おお》われて暗くなっていた。右にも左にも人はいない。そう思った心のゆるみにつけ込んだのか、胸の苦しみはまた急によせ返して来た。葉子はもう一度手欄に乗り出してほろほろと熱い涙をこぼした。たとえば高くつるした大石を切って落としたように、過去というものが大きな一つの暗い悲しみとなって胸を打った。物心を覚えてから二十五の今日まで、張りつめ通した心の糸が、今こそ思い存分ゆるんだかと思われるその悲しい快《こころよ》さ。葉子はその空しい哀感にひたりながら、重ねた両手の上に額を乗せて手欄によりかかったまま重い呼吸をしながらほろほろと泣き続けた。一時性貧血を起こした額は死人のように冷えきって、泣きながらも葉子はどうかするとふっと引き入れられるように、仮睡に陥ろうとした。そしてははっと何かに驚かされたように眼を開くと、また底の知れぬ哀感がどこからともなく襲い入った。悲しい快さ。葉子は小学校に通っている時分でも、泣きたい時には、人前では歯を喰《く》いしばっていて、人のいないところまで行って隠れて泣いた。涙を人に見せるというのは卑しいことにしか思えなかった。乞食が哀れみを求めたり、老人が愚痴を言うのと同様に、葉子には穢《けが》らわしく思えていた。しかしその夜に限っては、葉子は誰の前でもすなおな心で泣けるような気がした。誰かの前でさめざめと泣いてみたいような気分にさえなっていた。しみじみと憐れんでくれる人もありそうに思えた。そうした気持ちで葉子は小娘のように他愛もなく泣きつづけていた。
その時甲板のかなたから靴の音が聞こえて来た。二人らしい跫《あし》音《おと》だった。その瞬間までは誰の胸にでも抱きついてしみじみ泣けると思っていた葉子は、その音を聞きつけるとはっという間もなく、張りつめたいつものような心になってしまって、大急ぎで涙を押し拭《ぬぐ》いながら、踵《くびす》を返して自分の部屋に戻ろうとした。が、その時はもう遅かった。洋服姿の田川夫妻がはっきりと見分けがつくほどの距離に進みよっていたので、さすがに葉子もそれを見て見ぬふりでやり過ごすことは得しなかった。涙を拭いきると、左手を挙げて髪のほつれをしなおしながらかき上げた時、二人はもうすぐ傍《そば》に近寄っていた。
「あらあなたでしたの。私どもは少し用事ができておくれましたが、こんなにおそくまで室外《そと》にいらしってお寒くはありませんでしたか。気分はいかがです」
田川夫人は例の目下の者に言い慣れた言葉を器用に使いながら、はっきりとこう言ってのぞき込むようにした。夫妻はすぐ葉子が何をしていたかを感づいたらしい。葉子はそれをひどく不快に思った。
「急に寒いところに出ましたせいですかしら、なんだか頭《つむり》がぐらぐらいたしまして」
「お嘔《もど》しなさった……それはいけない」
田川博士は夫人の言葉を聞くともっともというふうに、二、三度こっくりとうなずいた。厚外套にくるまった肥った博士と、暖かそうなスコッチの裾《すそ》長《なが》の服に、ロシア帽《ぼう》を眉《まゆ》ぎわまで被《かぶ》った夫人との前に立つと、やさ形の葉子は背《せ》丈《た》けこそ高いが、二人の娘ほどに眺められた。
「どうだいっしょに少し歩いてみちゃ」
と田川博士が言うと、夫人は、
「ようございましょうよ、血液がよく循環して」と応じて葉子に散歩をうながした。葉子はやむを得ず、かつかつと鳴る二人の靴の音と、自分の上草履の音とを淋しく聞きながら、夫人の側にひき添って甲板の上を歩き始めた。ギーイときしみながら船が大きくかしぐのにうまく中心をとりながら歩こうとすると、また不快な気持ちが胸先にこみ上げて来るのを葉子は強く押し静めてこともなげに振舞おうとした。
博士は夫人との会話の途切れ目を捕えては、話を葉子に向けて慰め顔にあしらおうとしたが、いつでも夫人が葉子のすべき返事をひったくって物を言うので、せっかくの話は腰を折られた。葉子はしかし結句それをいいことにして、自分の思いにふけりながら二人に続いた。しばらく歩きなれてみると、運動ができたためか、だんだん嘔《はき》気《け》は感ぜぬようになった。田川夫妻は自然に葉子を会話からのけものにして、二人の間で四方《よも》山《やま》の噂《うわさ》話《ばなし》を取り交わし始めた。不思議なほどに緊張した葉子の心は、それらの世間話にはいささかの興味も持ち得ないで、むしろその無意味に近い言葉の数々を、自分の瞑《めい》想《そう》を妨げる騒音のようにうるさく思っていた。と、ふと田川夫人が事務長と言ったのを小耳にはさんで、思わず針でも踏みつけたようにぎょっとして、黙想から取って返して聞き耳を立てた。自分でも驚くほど神経が騒ぎ立つのをどうすることもできなかった。
「ずいぶんしたたか者らしゅうございますわね」
そう夫人の言う声がした。
「そうらしいね」
博士の声には笑いがまじっていた。
「賭博《ばくち》が大の上手《じょうず》ですって」
「そうかねえ」
事務長の話はそれぎりで絶えてしまった。葉子はなんとなく物足らなくなって、また何か言いだすだろうと心待ちにしていたが、その先を続ける様子がないので、心残りを覚えながら、また自分の心に帰って行った。
しばらくすると夫人がまた事務長の噂をし始めた。
「事務長の側にすわって食事をするのはどうも厭《い》やでなりませんの」
「そんなら早月さんに席を代わってもらったらいいでしょう」
葉子は闇の中で鋭く眼をかがやかしながら夫人の様子を窺《うかが》った。
「でも夫婦がテーブルに列《なら》ぶって法はありませんわ……ねえ早月さん」
こう戯《じよう》談《だん》らしく夫人は言って、ちょっと葉子の方を振り向いて笑ったが、別にその返事を待つというでもなく、はじめて葉子の存在に気づきでもしたように、いろいろと身の上などを探りを入れるらしく聞き始めた。田川博士もときどき親切らしい言葉を添えた。葉子は初めのうちこそ慎《つつ》ましやかに事実にさほど遠くない返事をしていたものの、話がだんだん深入りして行くにつれて、田川夫人という人は上流の貴夫人だと自分でも思っているらしいに似合わない思いやりのない人だと思いだした。それはありうちの質問だったかもしれない。けれども葉子にはそう思えた。縁もゆかりもない人の前で思うままな侮《ぶ》辱《じよく》を加えられるとむっとせずにはいられなかった。知ったところがなんにもならない話を、木村のことまで根ほり葉ほり問いただしていったいどうしようという気なのだろう。老人でもあるならば、過ぎ去った昔を他人にくどくどと話して聞かせて、せめて慰むということもあろう。「老人には過去を、若い人には未来を」という交際術の初歩すら心得ないがさつな人だ。自分ですらそっと手もつけないで済ませたい血なまぐさい身の上を……自分は老人ではない。葉子は田川夫人が意地にかかってこんな悪戯《わるさ》をするのだと思うと激しい敵意から唇をかんだ。
しかしその時田川博士が、サルンから漏れて来る灯の光で時計を見て、八時十分前だから部屋に帰ろうと言いだしたので、葉子は別に何も言わずにしまった。三人が階子段を降りかけた時、夫人は、葉子の気分にはいっこう気づかぬらしく、――もしそうでなければ気づきながらわざと気づかぬらしく振舞って、
「事務長はあなたのお部屋にも遊びに見えますか」
と突拍子もなくいきなり問いかけた。それを聞くと葉子の心はなんということなしに理不尽な怒りに捕えられた。得意な皮肉でも思い存分に浴びせかけてやろうかと思ったが、胸をさすり下ろしてわざと落ちついた調子で、
「いいえちっともお見えになりませんが……」
とそらぞらしく聞こえるように答えた。夫人はまだ葉子の心持ちには少しも気づかぬふうで、
「おやそう。私の方へはたびたびいらして困りますのよ」
と小声でささやいた。「何を生意気な」葉子は前後《あとさき》なしにこう心の中に叫んだが一言も口には出さなかった。敵意――嫉妬とも言い代えられそうな――敵意がその瞬間からすっかり根を張った。その時夫人が振り返って葉子の顔を見たならば、思わず博士を楯《たて》にとって恐れながら身をかわさずにはいられなかったろう、――そんな場合には葉子はもとよりその瞬間に稲妻のようにすばしこく隔《かく》意《い》のない顔を見せたには違いなかろうけれども。葉子は一言も言わずに黙礼したまま二人に別れて部屋に帰った。
室内はむっとするほど暑かった。葉子は嘔《はき》気《け》をもう感じてはいなかったが、胸元が妙にしめつけられるように苦しいので、急いでボアをかいやって床の上に捨てたまま、投げるように長椅子に倒れかかった。
それは不思議だった。葉子の神経は時には自分でも持て余すほど鋭く働いて、誰も気のつかない匂いがたまらないほど気になったり、人の着ている衣物の色合いが見ていられないほど不調和で不愉快であったり、周囲の人が腑《ふ》抜《ぬ》けな木偶《でく》のようにかいなく思われたり、静かに空を渡って行く雲の脚《あし》が瞑眩《めまい》がするほどめまぐるしく見えたりして、我慢にもじっとしていられないことは絶えずあったけれども、その夜のように鋭く神経の尖《とが》ってきたことは覚えがなかった。神経の末《まつ》梢《しよう》が、まるで大風に遇《あ》った梢《こずえ》のようにざわざわと音がするかとさえ思われた。葉子は脚と脚とをぎゅっとからみ合わせてそれに力をこめながら、右手の指先を四本揃えてその爪先を、水晶のように固い美しい歯で一思いに激しく噛《か》んでみたりした。悪《お》寒《かん》のような小刻みな身ぶるいが絶えず足の方から頭へと波動のように伝わった。寒いためにそうなるのか、暑いためにそうなるのかよくわからなかった。そうしていらいらしながらトランクを開いたままで取り散らした部屋の中をぼんやり見やっていた。眼はうるさく霞《かす》んでいた。ふと落ち散ったものの中に葉子は事務長の名刺があるのに眼をつけて、身をかがめてそれを拾い上げた。それを拾い上げると真二つに引き裂いてまた床になげた。それはあまりに手ごたえなく裂けてしまった。葉子はまた何かもっとうんと手ごたえのあるものを尋ねるように熱して輝く眼でまじまじとあたりを見廻していた。と、カーテンを引き忘れていた。恥ずかしい様子を見られはしなかったかと思うと胸がどきんとしていきなり立ち上がろうとした拍子に、葉子は窓の外に人の顔を認めたように思った。田川博士のようでもあった。田川夫人のようでもあった。しかしそんなはずはない、二人はもう部屋に帰っている。事務長……
葉子は思わず裸体を見られた女のように固くなって立ちすくんだ。激しいおののきが襲ってきた。そしてなんの思慮もなく床の上のボアを取って胸にあてがったが、次の瞬間にはトランクの中からショールを取り出してボアといっしょにそれを抱えて、逃げる人のように、あたふたと部屋を出た。
船のゆらぐごとに木と木との擦《す》れあう不快な音は、おおかた船客の寝しずまった夜の寂《せき》寞《ばく》の中にきわだって響いた。自動平衡器の中にともされた蝋《ろう》燭《そく》は壁板に奇怪な角度を取って、ゆるぎもせずにぼんやりと光っていた。
戸を開けて甲板に出ると、甲板のあなたは先刻《さつき》のままの波また波の堆《たい》積《せき》だった。大煙筒から吐き出される煤煙は真黒い天の河のように無月の空を立ち割って水に近く斜めに流れていた。
一三
そこだけは星が光っていないので、雲のあるところがようやく知れるくらい思いきって暗い夜だった。おっかぶさって来るかと見上ぐれば、眼のまわるほど遠のいて見え、遠いと思って見れば、今にも頭を包みそうに近く逼《せま》ってる鋼《はがね》色《いろ》の沈黙した大空が、際限もない羽を垂れたように、同じ暗色の海原に続くところから波が湧《わ》いて、闇の中をのたうちまろびながら、見渡す限り喚《わめ》き騒いでいる。耳を澄まして聞いていると、水と水が激しくぶつかり合う底の方に、
「おーい、おい、おい、おーい」
と言うかと思われる声ともつかない一種の奇怪な響きが、舷《ふなべり》をめぐって叫ばれていた。葉子は前後左右に大きく傾く甲板の上を、傾くままに身を斜めにして辛く重心を取りながら、よろけよろけブリッジに近いハッチの物《もの》蔭《かげ》までたどりついて、ショールで深々と頸から下を巻いて、白ペンキで塗った板囲いに身を寄せかけて立った。たたずんだところは風《かざ》下《しも》になっているが、頭の上では、檣《ほばしら》から垂れ下がった索綱の類が風にしなってうなりを立て、アリュウシャン群島近い高緯度の空気は、九月の末とは思われぬほど寒く霜を含んでいた。気負いに気負った葉子の肉体はしかしさして寒いとは思わなかった。寒いとしてもむしろ快い寒さだった。もうどんどんと冷えていく衣物の裏に、心臓のはげしい鼓動につれて、乳房が冷たく触れたり離れたりするのが、なやましい気分を誘い出したりした。それにたたずんでいるのに脚が爪先からだんだんに冷えていって、やがて膝から下は知覚を失い始めたので、気分は妙に上《うわ》ずってきて、葉子の幼ない時からの癖である夢とも現《うつつ》とも知れない音楽的な錯覚に陥って行った。五体も心も不思議な熱を覚えながら、一種のリズムの中に揺り動かされるようになって行った。何を見るともなく凝然と見定めた眼の前に、無数の星が船の動揺につれて光のまたたきをしながら、ゆるいテンポを調《ととの》えてゆらりゆらりと静かにおどると、帆綱の呻《うな》りが張りきったバスの声となり、その間を「おーい、おい、おい、おーい……」と心の声とも波のうめきともわからぬトレモロ《*》が流れ、盛り上がり、くずれこむ波また波がテノルの役目を勤めた。声が形となり、形が声となり、それからいっしょにもつれ合う姿を葉子は眼で聞いたり耳で見たりしていた。なんのために夜寒を甲板に出て来たか葉子は忘れていた。夢遊病者のように葉子はまっしぐらにこの不思議な世界に落ちこんで行った。それでいて、葉子の心の一部分はいたましいほど醒《さ》めきっていた。葉子は燕《つばめ》のようにその音楽的な夢幻界を翔《か》け上り潜《くぐ》りぬけてさまざまなことを考えていた。
屈辱、屈辱……屈辱――思索の壁は屈辱というちかちかと寒く光る色で、一面に塗りつぶされていた。その表面に田川夫人や事務長や田川博士の姿が目まぐるしく音律に乗って動いた。葉子はうるさそうに頭の中にある手のようなもので無性に払い除《の》けようと試みたがむだだった。皮肉な横目をつかって青みを帯びた田川夫人の顔が、攪《か》き乱された水の中を、小さな泡《あわ》が逃げてでも行くように、ふらふらとゆらめきながら上の方に遠ざかって行った。まずよかったと思うと、事務長の insolent な眼つきが低い調子の伴音となって、じっと動かない中にも力ある震動をしながら、葉子の眼睛《ひとみ》の奥を網膜まで見透すほどぎゅっと見据えていた。「なんで事務長や田川夫人なんぞがこんなに自分を煩わすだろう。憎らしい。なんの因縁で……」葉子は自分をこう卑しみながらも、男の眼を迎え慣れた媚《こ》びの色を知らず知らず上《うわ》瞼《まぶた》に集めて、それに応じようとするとたん、日に向かって眼を閉じた時に綾《あや》をなして乱れ飛ぶあの不思議な種々な色の光体、それに似たものが繚《りよう》乱《らん》として心を取り囲んだ。星はゆるいテンポでゆらりゆらりと静かにおどっている。「おーい、おい、おい、おーい」……葉子は思わずかっと腹を立てた。その憤りの膜の中にすべての幻影はすーっと吸い取られてしまった。と思うとその憤りすらが見る見るぼやけて、後には感激のさらにない死のような世界が果てしもなくどんよりと澱《よど》んだ。葉子はしばらくは気が遠くなって何事もわきまえないでいた。
やがて葉子はまたおもむろに意識の閾《しきい》に近づいて来ていた。
煙突の中の黒い煤《すす》の間を、横すじかいに休らいながら飛びながら、上って行く火の子のように、葉子の幻想は暗い記憶の洞穴の中を右左によろめきながら奥深くたどって行くのだった。自分でさえ驚くばかり底の底にまた底のある迷路を恐る恐る伝って行くと、果てしもなく現われ出る人の顔のいちばん奥に、赤い衣物《きもの》を裾《すそ》長《なが》に着て、眩《まばゆ》いほどに輝き渡った男の姿が見えだした。葉子の心の周囲にそれまで響いていた音楽は、その瞬間ぱったり静まってしまって、耳の底がかーんとするほど空恐ろしい寂《せき》寞《ばく》の中に、船の舳《へさき》の方で氷をたたき破るような寒い時《とき》鐘《がね》の音が聞こえた。「カンカン、カンカン、カーン」……。葉子は何時の鐘だと考えてみることもしないで、そこに現われた男の顔を見分けようとしたが、木村に似た容《よう》貌《ぼう》がおぼろに浮かんでくるだけで、どう見なおしてみてもはっきりしたことはもどかしいほどわからなかった。木村であるはずはないんだがと葉子はいらいらしながら思った。「木村は私の良人《おつと》ではないか。その木村が赤い衣物を着ているという法があるものか。……可哀そうに、木村はサン・フランシスコから今ごろはシヤトルの方に来て、私の着くのを一日千秋の思いで待っているだろうに、私はこんなことをしてここで赤い衣物を着た男なんぞを見つめている。千秋の思いで待つ? それはそうだろう。けれども私が木村の妻になってしまったが最後、千秋の思いで私を待ったりした木村がどんな良人に変わるかは知れきっている。憎いのは男だ……木村でも倉地でも……また事務長なんぞを思い出している。そうだ、米国に着いたらもう少し落ち着いて考えた生き方をしよう。木村だって打てば響くくらいはする男だ。……あっちに行って纏《まと》まった金ができたら、なんと言ってもかまわない、定子を呼び寄せてやる。あ、定子のことなら木村は承知の上だったのに。それにしても木村が赤い衣物などを着ているのはあんまりおかしい……」ふと葉子はもう一度赤い衣物の男を見た。事務長の顔が赤い衣物の上に似合わしく乗っていた。葉子はぎょっとした。そしてその顔をもっとはっきり見つめたいために重い重い瞼《まぶた》を強いて押し開く努力をした。
見ると葉子の前にはまさしく、角燈を持って焦茶色のマントを着た事務長が立っていた。そして、
「どうなさったんだ今ごろこんなところに、……今夜はどうかしている……岡さん、あなたの仲間がもう一人ここにいますよ」
と言いながら事務長は魂を得たように動き始めて、後ろの方を振り返った。事務長の後ろには、食堂で葉子と一《ひと》目《め》顔を見合わすと、震えんばかりに昂《こう》奮《ふん》して顔を得上げないでいた上品なかの青年が、真青な顔をして物に怯《お》じたように慎《つつ》ましく立っていた。
眼はまざまざと開いていたけれども葉子はまだ夢心地だった。事務長のいるのに気づいた瞬間からまた聞こえだした波《は》濤《とう》の音は、前のように音楽的なところは少しもなく、ただ物狂おしい騒音となって船に迫っていた。しかし葉子は今の境界が本当に現実の境界なのか、先刻不思議な音楽的の錯覚にひたっていた境界が夢幻の中の境界なのか、自分ながら少しも見《み》界《さかい》がつかないくらいぼんやりしていた。そしてあの荒唐な奇怪な心の adventure《*》をかえってまざまざとした現実の出来事でもあるかのように思いなして、眼の前に見る酒に赤らんだ事務長の顔は妙に蠱《こ》惑《わく》的《てき》な気味の悪い幻像となって、葉子を脅かそうとした。
「少し飲み過ぎたところに溜《た》めといた仕事を詰めてやったんで眠れん。で散歩のつもりで甲《かん》板《ぱん》の見廻りに出ると岡さん」
と言いながらもう一度後ろに振り返って、
「この岡さんがこの寒いに手《て》欄《すり》から体を乗り出してぽかんと海を見とるんです。取り押えてケビンに連れて行こうと思うとると、今度はあなたに出喰《でつく》わす。物好きもあったもんですねえ。海を眺めて何がおもしろいかな。お寒かありませんか、ショールなんぞも落ちてしまった」
どこの国《くに》訛《なま》りともわからぬ一種の調子が塩さびた声で操《あやつ》られるのが、事務長の人となりによくそぐって聞こえる。葉子はそんなことを思いながら事務長の言葉を聞き終わると、はじめてはっきり眼がさめたように思った。そして簡単に、
「いいえ」
と答えながら上眼づかいに、夢の中からでも人を見るようにうっとりと事務長のしぶとそうな顔を見やった。そしてそのまま黙っていた。
事務長は例の insolent な眼つきで葉子を一目に見くるめながら、
「若いかたは世話が焼ける……さあ行きましょう」
と強い語調で言って、からからと傍《ぼう》若《じやく》無《ぶ》人《じん》に笑いながら葉子をせき立てた。海の波の荒涼たるおめきの中に聞くこの笑い声は diabolic《*》 なものだった。「若いかた」……老成ぶったことを言うと葉子は思ったけれども、しかし事務長にはそんなことを言う権利でもあるかのように葉子は皮肉な竹箆《しつぺ》返《がえ》しもせずに、おとなしくショールを拾い上げて事務長の言うままにその後に続こうとして驚いた。ところが長い間そこにたたずんでいたものと見えて、磁《じ》石《しやく》で吸いつけられたように、両脚は固く重くなって一寸も動きそうにはなかった。寒気のために感覚の麻《ま》痺《ひ》しかかった膝《ひざ》の関節は強いて曲げようとすると、筋を絶つほどの痛みを覚えた。不用意に歩きだそうとした葉子は、思わずのめり出さした上体を辛く後ろに支《ささ》えて、情《なさけ》なげに立ちすくみながら、
「ま、ちょっと」
と呼びかけた。事務長の後ろに続こうとした岡と呼ばれた青年はこれを聞くと逸《いち》早《はや》く足を止めて葉子の方を振り向いた。
「はじめてお知り合いになったばかりですのに、すぐお心安だてをして本当になんでございますが、ちょっとお肩を貸していただけませんでしょうか。なんですか足の先が凍ったようになってしまって……」
と葉子は美しく顔をしかめてみせた。岡はそれらの言葉が拳《こぶし》となって続けさまに胸を打つとでも言ったように、しばらくの間どぎまぎ躊《ちゆう》躇《ちよ》していたが、やがて思いきったふうで、黙ったまま引き返して来た。身の丈《た》けも肩幅も葉子とそう違わないほどな華《きや》車《しや》な体をわなわなと震わせているのが、肩に手をかけないうちからよく知れた。事務長は振り向きもしないで、靴の踵《かかと》をこつこつと鳴らしながら早二、三間のかなたに遠ざかっていた。
鋭敏な馬の皮膚のようにだちだちと震える青年の肩におぶいかかりながら、葉子は黒い大きな事務長の後姿を仇《あだ》かたきでもあるかのように鋭く見つめてそろそろと歩いた。西洋酒の芳《ほう》醇《じゆん》な甘い酒の香が、まだ酔いから醒《さ》めきらない事務長の身のまわりを毒々しい靄《もや》となって取り捲《ま》いていた。放縦という事務長の心の蔵は、今不用心に開かれている。あの無頓着そうな肩のゆすりの蔭《かげ》にすさまじい desire の火が激しく燃えているはずである。葉子は禁断の木《こ》の実をはじめて喰《く》いかいだ原人のような渇欲を我れにもなく煽《あお》りたてて、事務長の心の裏を引っ繰り返して縫い目を見《み》窮《きわ》めようとばかりしていた。おまけに青年の肩に置いた葉子の手は、華車とはいいながら、男性的な強い弾力を持つ筋肉の震えをまざまざと感ずるので、これらの二人の男が与える奇怪な刺《し》戟《げき》はほしいままに絡《から》まりあって、恐ろしい心を葉子に起こさせた。木村……何をうるさい、よけいなことは言わずと黙って見ているがいい。心の中を閃《ひらめ》き過ぎる断片的な影を葉子は枯れ葉のように払いのけながら、眼の前に見る蠱《こ》惑《わく》に溺《おぼ》れていこうとのみした。口から喉《のど》は喘《あえ》ぎたいほどに干からびて、岡の肩に乗せた手は、生理的な作用から冷たく堅くなっていた。そして熱をこめて湿《うる》んだ眼を見張って、事務長の後姿ばかりを見つめながら、五体はふらふらと他愛もなく岡の方に倚《よ》りそった。吐き出す気息《いき》は燃え立って岡の横顔を撫《な》でた。事務長は油断なく角燈で左右を照らしながら甲板の整《せい》頓《とん》に気を配って歩いている。
葉子はいたわるように岡の耳に口をよせて、
「あなたはどちらまで」
と聞いてみた。その声はいつものように澄んではいなかった。そして気を許した女からばかり聞かれるような甘たるい親しさが籠《こも》っていた。岡の肩は感激のためにひとしお震えた。頓《とみ》には返事もし得ないでいたようだったが、やがて臆病そうに、
「あなたは」
とだけ聞き返して、熱心に葉子の返事を待つらしかった。
「シカゴまでまいるつもりですの」
「僕も……私もそうです」
岡は待ち設けたように声を震わしながらきっぱりと答えた。
「シカゴの大学にでもいらっしゃいますの」
岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか恐ろしくためらうふうだったが、やがて曖《あい》昧《まい》に口の中で、
「ええ」
とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子は闇の中で眼をかがやかしてほほえんだ。そして岡を憐《あわ》れんだ。
しかし青年を憐れむと同時に葉子の眼は稲妻のように事務長の後姿を斜めにかすめた。青年を憐れむ自分は事務長に憐れまれているのではないか。始終一歩ずつ上《うわ》手《て》を行くような事務長が一種の憎しみをもって眺められた。かつて味わったことのないこの憎しみの心を葉子はどうすることもできなかった。
二人に別れて自分の船室に帰った葉子はほとんど delirium《*》 の状態にあった。眼睛《ひとみ》は大きく開いたままで、盲目《めくら》同様に部屋の中の物を見ることをしなかった。冷えきった手先はおどおどと両の袂《たもと》をつかんだり離したりしていた。葉子は夢中でショールとボアとをかなぐり捨て、もどかしげに帯だけほどくと、髪も解かずに寝台の上に倒れかかって、横になったまま羽根枕を両手でひしと抱いて顔を伏せた。なぜと知らぬ涙がその時堰《せき》を切ったように流れ出した。そして涙は後から後から漲《みなぎ》るようにシーツを湿《うるお》しながら、充血した唇《くちびる》は恐ろしい笑いを湛《たた》えてわなわなと震えていた。
一時間ほどそうしているうちに泣き疲れに疲れて、葉子はかけるものもかけずにそのまま深い眠りに陥って行った。けばけばしい電燈の光はその翌日の朝までこの媚《なまめ》かしくもふしだらな葉子の丸寝姿を画いたように照らしていた。
一四
なんといっても船旅は単調だった。たとい日々夜々に一瞬もやむことなく姿を変える海の波と空の雲とはあっても、詩人でもないなべての船客は、それらに対して途方に暮れた倦《けん》怠《たい》の視線を投げるばかりだった。地上の生活からすっかり遮《しや》断《だん》された船の中には、ごく小さなことでも眼新しい事件の起こることのみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつくような濃霧の間を、東へ東へと心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、あらわには知れないながら、何か淋《さび》しい過去を持つらしい、妖《よう》艶《えん》な、若い葉子の一挙一動を、絶えず興味深くじっと見守るように見えた。
かの奇怪な心の動乱の一夜を過ごすと、その翌日から葉子はまたふだんのとおりに、いかにも足もとがあやうく見えながら少しも破《は》綻《たん》を示さず、ややもすれば他人の勝手になりそうでいて、よそからはけっして動かされない女になっていた。はじめて食堂に出た時の慎《つつ》ましやかさに引きかえて、時には快活な少女のように晴れやかな顔つきをして、船客らと言葉を交《か》わしたりした。食堂に現われる時の葉子の服装だけでも、退屈に倦《うん》じ果てた人々には、物好きな期待を与えた。ある時は葉子は慎しみ深い深窓の婦人らしく上品に、ある時は素養の深い若いディレッタントのように高尚に、またある時は習俗から解放された adventuressとも思われる放《ほう》胆《たん》を示した。その極端な変化が一日のうちに起こってきても、人々はさして怪しく思わなかった。それほど葉子の性格には複雑なものが潜んでいるのを感じさせた。絵島丸が横浜の桟橋に繋《つな》がれている間から、人々の注意の中心となっていた田川夫人を、海気にあって息気《いき》をふき返した人魚のような葉子の傍において見ると、身分、閲《えつ》歴《れき》、学殖、年齢などといういかめしい資格が、かえって夫人を固い古ぼけた輪《りん》廓《かく》にはめこんで見せる結果になって、ただ神体のない空虚な宮殿のような空《そら》いかめしい興なさを感じさせるばかりだった。女の本能の鋭さから田川夫人はすぐそれを感づいたらしかった。夫人の耳もとに響いて来るのは葉子の噂《うわさ》ばかりで、夫人自身の評判は見る見る薄れて行った。ともすると田川博士までが、夫人の存在を忘れたような振舞いをする、そう夫人を思わせることがあるらしかった。食堂のテーブルを挟んで向かい合う夫妻が他人同士のような顔をして互い互いに窃《ぬす》み見をするのを葉子がすばやく見て取ったことなどもあった。といって今まで自分の子供でもあしらうように振舞っていた葉子に対して、今さら夫人は改まった態度も取りかねていた。よくも仮面を被って人を陥れたという女らしいひねくれた妬《ねた》みひがみが、明らかに夫人の表情に読まれだした。しかし実際の処置としては、口惜しくても虫を殺して、自分を葉子まで引き下げるか、葉子を自分まで引き上げるよりしかたがなかった。夫人の葉子に対するしうちは戸板を返すように違ってきた。葉子は知らん顔をして夫人のするがままに任せていた。葉子はもとより夫人のあわてたこの処置が夫人には致命的な不利益であり、自分には都合のいい仕合わせであるのを知っていたからだ。案の定、田川夫人のこの譲歩は、夫人になんらかの同情なり尊敬なりが加えられる結果とならなかったばかりでなく、その勢力はますます下り坂になって、葉子はいつの間にか田川夫人と対等で物を言い合っても少しも不思議とは思わせないほどの高みに自分を持ち上げてしまっていた。落ち目になった夫人は年がいもなくしどろもどろになっていた。恐ろしいほどやさしく親切に葉子をあしらうかと思えば、皮肉らしく馬鹿丁寧に物を言いかけたり、あるいは突然路傍の人に対するようなよそよそしさを装ってみせたりした。死にかけた蛇ののたうち廻るのを見やる蛇使いのように、葉子は冷やかにあざ笑いながら、夫人の心の葛《かつ》藤《とう》を見やっていた。
単調な船旅に倦《あ》き果てて、したたか刺戟に餓《う》えた男の群れは、この二人の女性を中心にして知らず識《し》らず渦《うず》巻《まき》のようにめぐっていた。田川夫人と葉子との暗闘は表面には少しも目に立たないで戦われていたのだけれども、それが男たちに自然に刺戟を与えないではおかなかった。平らな水に偶然落ちて来た微風のひき起こす小さな波紋ほどの変化でも、船の中では一かどの事件だった。男たちはなぜともなく一種の緊張と興味とを感ずるように見えた。
田川夫人は微妙な女の本能と直覚とで、じりじりと葉子の心の隅《すみ》々《ずみ》を探り廻しているようだったが、ついにここぞという急所をつかんだらしく見えた。それまで事務長に対して見下したような丁寧さを見せていた夫人は、見る見る態度を変えて、食卓でも二人は、席が隣り合っているからという以上な親しげな会話を取り交わすようになった。田川博士までが夫人の意を迎えて、何かにつけて事務長の室に繁《しげ》く出入りするばかりか、事務長はたいていの夜は田川夫妻の部屋に呼び迎えられた。田川博士はもとより船の正客である。それを外《そ》らすような事務長ではない。倉地は船医の興録までを手伝わせて、田川夫妻の旅情を慰めるように振舞った。田川博士の船室には夜おそくまで灯がかがやいて、夫人の興ありげに高く笑う声が室外まで聞こえることが珍しくなかった。
葉子は田川夫人のこんなしうちを受けても、心の中で冷笑《あざわら》っているのみだった。すでに自分が勝ちみになっているという自覚は、葉子に反動的な寛大な心を与えて、夫人が事務長を〓《とりこ》にしようとしていることなどはてんで問題にはしまいとした。夫人はよけいな見当違いをして、痛くもない腹を探っている、事務長がどうしたというのだ。母の胎《はら》を出るとそのままなんの訓練も受けずに育ち上ったようなぶしつけな、動物性の勝った、どんなことをしてきたのか、どんなことをするのかわからないような高《たか》が事務長になんの興味があるものか。あんな人間に気を引かれるくらいなら、自分は疾《と》うに喜んで木村の愛になずいているのだ。見当違いもいいかげんにするがいい。そう歯がみをしたいくらいな気分で思った。
ある夕方葉子はいつものとおり散歩しようと甲板に出てみると、はるか遠い手《て》欄《すり》のところに岡がたった一人しょんぼりと倚《よ》りかかって、海を見入っていた。葉子はいたずら者らしくそっと足音を盗んで、忍び忍び近づいて、いきなり岡と肩をすり合わせるようにして立った。岡は不意に人が現われたので非常に驚いたふうで、顔をそむけてその場を立ち去ろうとするのを、葉子はいやおうなしに手を握って引き留めた。岡が逃げ隠れようとするのも道理、その顔には涙のあとがまざまざと残っていた。少年から青年になったばかりのような、内気らしい、小柄な岡の姿は、何もかも荒々しい船の中ではことさらデリケートな可憐なものに見えた。葉子はいたずらばかりでなく、この青年に一種の淡《あわ》々《あわ》しい愛を覚えた。
「何を泣いてらしったの」
小首を存分傾けて、少女が少女に物を尋ねるように、肩に手を置きそえながら聞いてみた。
「僕……泣いていやしません」
岡は両方の頬《ほお》を紅《あか》く彩《いろど》って、こう言いながらくるりと体をそっぽうに向け換えようとした。それがどうしても少女のようなしぐさだった。抱きしめてやりたいようなその肉体と、肉体につつまれた心。葉子はさらにすり寄った。
「いいえいいえ泣いてらっしゃいましたわ」
岡は途方に暮れたように眼の下の海を眺めていたが、遁《のが》れる術《すべ》のないのを覚《さと》って、大ぴらにハンケチをズボンのポッケットから出して眼を拭《ぬぐ》った。そして少し恨むような眼つきをして、はじめてまともに葉子を見た。唇までが苺《いちご》のように紅くなっていた。青白い皮膚に箝《は》め込まれたその紅さを、色彩に敏感な葉子は見逃すことができなかった。岡は何かしら非常に昂《こう》奮《ふん》していた。その昂奮してぶるぶる震えるしなやかな手を葉子は手欄ごとじっと押えた。
「さ、これでお拭《ふ》きあそばせ」
葉子の袂《たもと》からは美しい香のこもった小さなリンネルのハンケチが取り出された。
「持ってるんですから」
岡は恐縮したように自分のハンケチを顧みた。
「何をお泣きになって……まあ私ったらよけいなことまで伺って」
「なにいいんです……ただ海を見たらなんとなく涙ぐんでしまったんです。体が弱いもんですからくだらないことにまで感傷的になって困ります。……なんでもない……」
葉子はいかにも同情するように合《が》点《てん》合《が》点《てん》した。岡が葉子とこうしていっしょにいるのをひどく嬉《うれ》しがっているのが葉子にはよく知れた。葉子はやがて自分のハンケチを手欄の上においたまま、
「私の部屋へもよろしかったらいらっしゃいまし。またゆっくりお話ししましょうね」
となつこく言ってそこを去った。
岡はけっして葉子の部屋を訪れることはしなかったけれども、このことのあって後は、二人はよく親しく話し合った。岡は人なじみの悪い、話の種のない、ごく初心《うぶ》な世慣れない青年だったけれども、葉子はわずかなタクトですぐ隔てを取り去ってしまった。そして打ち解けてみると彼は上品な、どこまでも純粋な、そして慧《さ》かしい青年だった。若い女性にはそのはにかみやなところから今まで絶えて接していなかったので、葉子にはすがりつくように親しんできた。葉子も同性の恋をするような気持ちで岡を可愛がった。
そのころからだ、事務長が岡に近づくようになったのは。岡は葉子と話をしない時はいつでも事務長と散歩などをしていた。しかし事務長の親友とも思われる二、三の船客に対しては口もきこうとはしなかった。岡はときどき葉子に事務長の噂《うわさ》をして聞かした。そして表面はあれほど粗暴のように見えながら、考えの変わった、年齢や位置などに隔てをおかない、親切な人だと言ったりした。もっと交際してみるといいとも言った。そのたびごとに葉子は激しく反対した。あんな人間を岡が話相手にするのは実際不思議なくらいだ。あの人のどこに岡と共通するような優《すぐ》れたところがあろうなどとからかった。
葉子に引きつけられたのは岡ばかりではなかった。午《ご》餐《さん》が済んで人々がサルンに集まる時などは団《だん》欒《らん》がたいてい三つぐらいに分かれてできた。田川夫妻の周囲にはいちばん多数の人が集まった。外国人だけの団体から田川の方に来る人もあり、日本の政治家実業家連はもちろん我れ先にそこに馳《は》せ参じた。そこからだんだん細く糸のようにつながれて若い留学生とか学者とかいう連中が陣を取り、それからまただんだん太くつながれて、葉子と少年少女らの群れがいた。食堂で不意の質問に辟《へき》易《えき》した外交官補などは第一の連絡の綱となった。衆人の前では岡は遠慮するようにあまり葉子に親しむ様子は見せずに不《ふ》即《そく》不《ふ》離《り》の態度を保っていた。遠慮会釈なくそんなところで葉子に忸《な》れ親しむのは子供たちだった。真白なモスリンの衣物を着て赤い大きなリボンを装った少女たちや、水兵服で身軽に装った少年たちは葉子の周囲に花輪のように集まった。葉子がそういう人たちをかたみがわりに抱いたりかかえたりして、お伽《とぎ》話《ばなし》などして聞かせている様子は、船中の見ものだった。どうかするとサルンの人たちは自分らの間の話題などは捨てておいてこの可憐な光景をうっとり見やっているようなこともあった。
ただ一つこれらの群れからは全く没交渉な一団があった。それは事務長を中心にした三、四人の群れだった。いつでも部屋の一隅の小さなテーブルを囲んで、そのテーブルの上にはウイスキー用の小さなコップと水とが備えられていた。いちばんいい香りの煙草の烟《けむり》もそこから漂ってきた。彼らは何かひそひそと語り合っては、ときどき傍若無人な高い笑い声を立てた。そうかと思うとじっと田川の群れの会話に耳を傾けていて、遠くの方から突然皮肉の茶々を入れることもあった。誰言うとなく人々はその一団を犬《けん》儒《じゆ》派《は*》と呼びなした。彼らがどんな種類の人でどんな職業に従事しているかを知る者はなかった。岡などは本能的にその人たちを忌《い》み嫌《きら》っていた。葉子も何かしら気のおける連中だと思った。そして表面はいっこう無頓着に見えながら自分に対して十分の観察と注意とを怠っていないのを感じていた。
どうしてもしかし葉子には、船にいるすべての人の中で事務長がいちばん気になった。そんなはず、理由のあるはずはないと自分をたしなめてみてもなんのかいもなかった。サルンで子供たちと戯れている時でも、葉子は自分のしてみせる蠱《こ》惑《わく》的《てき》な姿態《しな》がいつでも暗々裡に事務長のためにされているのを意識しないわけにはいかなかった。事務長がその場にいない時は、子供たちをあやし楽しませる熱意さえ薄らぐのを覚えた。そんな時に小さい人たちはきまってつまらなそうな顔をしたり欠伸《あくび》をしたりした。葉子はそうした様子を見るとさらに興味を失った。そしてそのまま立って自分の部屋に帰ってしまうようなことをした。それにもかかわらず事務長はかつて葉子に特別な注意を払うようなことはないらしく見えた。それが葉子をますます不快にした。夜など甲板の上を漫《そぞろ》歩《ある》きしている葉子が、田川博士の部屋の中から例の無遠慮な事務長の高笑いの声を漏れ聞いたりなぞすると、思わずかっとなって、鉄の壁すら射通しそうな鋭い瞳《ひとみ》を声のする方に送らずにはいられなかった。
ある日の午後、それは雲行きの荒い寒い日だった。船客たちは船の動揺に辟《へき》易《えき》して自分の船室に閉じこもるのが多かったので、サルンががら明きになっているのを幸い、葉子は岡を誘い出して、部屋の角になったところに折れ曲がって据えてあるモロッコ皮のディワンに膝と膝を触れ合わさんばかり寄り添って腰をかけて、トランプをいじって遊んだ。岡は日ごろそういう遊戯には少しも興味を持っていなかったが、葉子と二人きりでいられるのを非常に幸福に思うらしく、いつになく快活に札をひねくった。その細いしなやかな手からぶきっちょうに札が捨てられたり取られたりするのを葉子はおもしろいものに見やりながら、断続的に言葉を取り交わした。
「あなたもシカゴにいらっしゃるとおっしゃってね、あの晩」
「ええ言いました。……これで切ってもいいでしょう」
「あらそんなものでもったいない……もっと低いものはおありなさらない?……シカゴではシカゴ大学にいらっしゃるの?」
「これでいいでしょうか……よくわからないんです」
「よくわからないって、そりゃおかしゅうござんすわね、そんなことお決めなさらずに米国《あつち》にいらっしゃるって」
「僕は……」
「これでいただきますよ……僕は……何」
「僕はねえ」
「ええ」
葉子はトランプをいじるのをやめて顔を上げた。岡は懺《ざん》悔《げ》でもする人のように、面を伏せて紅《あか》くなりながら札をいじくっていた。
「僕の本当に行くところはボストンだったのです。そこに僕の家で学資をやってる書生がいて僕の監督をしてくれることになっていたんですけれど……」
葉子は珍しいことを聞くように岡に眼をすえた。岡はますます言い憎そうに、
「あなたにお逢い申してから僕もシカゴに行きたくなってしまったんです」
とだんだん語尾を消してしまった。なんという可憐さ……葉子はさらに岡にすり寄った。岡は真剣になって顔まで青ざめてきた。
「お気に障《さわ》ったら許してください……僕はただ……あなたのいらっしゃるところにいたいんです、どういうわけだか……」
もう岡は涙ぐんでいた。葉子は思わず岡の手を取ってやろうとした。
その瞬間にいきなり事務長が激しい勢いでそこにはいって来た。そして葉子には眼もくれずに激しく岡を引っ立てるようにして散歩に連れ出してしまった。岡は唯《い》々《い》としてその後に随《したが》った。
葉子はかっとなって思わず座から立ち上がった。そして思い存分事務長の無礼を責めようと身構えした。その時不意に一つの考えが葉子の頭をひらめき通った。「事務長はどこかで自分たちを見守っていたに違いない」。
突っ立ったままの葉子の顔に、乳房を見せつけられた子供のようなほほえみがほのかに浮かび上がった。
一五
葉子はある朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて緯度はだんだん下っていったので、寒気も薄らいでいたけれども、なんといっても秋立った空気は朝ごとに冷え冷えと引きしまっていた。葉子は温室のような船室からこのきりっとした空気に触れようとして甲板に出てみた。右《う》舷《げん》を廻って左舷に出るとはからずも眼の前に陸影を見つけ出して、思わず足を止めた。そこには十日ほど念頭から絶え果てていたようなものが海面から浅くもれ上がって続いていた。葉子は好奇な眼をかがやかしながら、思わずいったん停《と》めた足を動かして手《て》欄《すり》に近づいてそれを見渡した。オレゴン松《*》がすくすくと白波の激しく噛《か》みよせる岸辺まで密生したバンクーバー島の低い山波がそこにあった。ものすごく底光りのする真青な遠洋の色は、いつの間にか乱れた波の物狂わしく立ち騒ぐ沿海の青灰色に変わって、その先に見える暗緑の樹林はどんよりとした雨空の下に荒涼として横たわっていた。それはみじめな姿だった。距《へだ》たりの遠いせいか船がいくら進んでも景色にはいささかの変化も起こらないで、荒涼たるその景色はいつまでも眼の前に立ち続いていた。古綿に似た薄雲を漏れる朝日の光が力弱くそれを照らすたびごとに、煮えきらない影と光の変化がかすかに山と海とをなでて通るばかりだ。長い長い海洋の生活に慣れた葉子の眼には陸地の印象はむしろ汚ないものでも見るように不愉快だった。もう三日ほどすると船はいやでもシヤトルの桟橋に繋《つな》がれるのだ。向こうに見えるあの陸地の続きにシヤトルはある。あの松の林が切り倒されて少しばかりの平地となったところに、ここに一つかしこに一つというように小屋が建ててあるが、その小屋の数が東に行くにつれてだんだん多くなって、しまいには一かたまりの家屋ができる。それがシヤトルであるに違いない。うら淋《さび》しく秋風の吹きわたるその小さな港町の桟橋に、野獣のような諸国の労働者が群がるところに、この小さな絵島丸が疲れきった船体を横たえる時、あの木村が例のめまぐるしい機敏さで、アメリカ風になり済ましたらしい物腰で、まわりの景色に釣り合わない景気のいい顔をして、船《ふな》梯《ばし》子《ご》を上って来る様子までが、葉子には見るように想像された。
「いやだいやだ。どうしても木村といっしょになるのはいやだ。私は東京に帰ってしまおう」
葉子はだだっ子らしく今さらそんなことを本気に考えてみたりしていた。
水夫長と一人のボーイとが押し並んで、靴と草《ぞう》履《り》との音をたてながらやって来た。そして葉子の側《そば》まで来ると、葉子が振り返ったので二人ながら慇《いん》懃《ぎん》に、
「お早うございます」
と挨《あい》拶《さつ》した。その様子がいかにも親しい目上に対するような態度で、ことに水夫長は、
「御退屈でございましたろう。それでもこれであと三日になりました。今度の航海にはしかしおかげさまで大助かりをしまして、昨夕《ゆうべ》からきわだってよくなりましてね」
とつけ加えた。
葉子は一等船客の間の話題の的であったばかりでなく、上級船員の間の噂《うわさ》の種であったばかりでなく、この長い航海中に、いつの間にか下級船員の間にも不思議な勢力になっていた。航海の八日目かに、ある老年の水夫がフォクスルで仕事をしていた時、錨《いかり》の鎖に足先を挟まれて骨を挫《くじ》いた。プロメネード・デッキで偶然それを見つけた葉子は、船医より早くその場に駆《か》けつけた。結びっこぶのように丸まって、痛みのためにもがき苦しむその老人の後に引きそって、水夫部屋の入口まではたくさんの船員や船客が物珍しそうについて来たが、そこまで行くと船員ですらが中にはいるのを躊《ちゆう》躇《ちよ》した。どんな秘密が潜んでいるか誰も知る人のないその内部は、船中では機関室よりも危険な一区域と見なされていただけに、その入口さえが一種人を脅《おびや》かすような薄気味悪さを持っていた。葉子はしかしその老人の苦しみもがく姿を見るとそんなことは手もなく忘れてしまっていた。ひょっとすると邪魔者扱いにされてあの老人は殺されてしまうかもしれない。あんな齢《とし》までこの海上の荒々しい労働に縛《しば》られているこの人には頼りになる縁者もいないのだろう。こんな思いやりがとめどもなく葉子の心を襲い立てるので、葉子はその老人に引きずられてでも行くようにどんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空気は蒸《む》れ上がるように人を襲って、蔭の中にうようよと蠢《うごめ》く群れの中からは太く錆《さ》びた声が投げかわされた。闇に慣れた水夫たちの眼はやにわに葉子の姿を引っ捕えたらしい。見る見る一種の昂奮が部屋の隅々にまで充《み》ちあふれて、それが奇怪な罵《ののし》りの声となってものすごく葉子に逼《せま》った。だぶだぶのズボン一つで、筋くれ立った厚みのある毛胸に一糸もつけない大男は、やおら人《ひと》中《なか》から立ち上がると、ずかずか葉子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに葉子の顔を孔《あな》の開くほどにらみつけて、聞くにたえない雑《ぞう》言《ごん》を高々と罵って、自分の群れを笑わした。しかし葉子は死にかけた子にかしずく母のように、そんなことには眼もくれずに老人の傍《そば》に引き添って、臥《ね》やすいように寝床を取りなおしてやったり、枕をあてがってやったりして、なおもその場を去らなかった。そんなむさ苦しい汚ないところにいて老人がほったらかしておかれるのを見ると、葉子はなんということなしに涙が後から後から流れてたまらなかった。葉子はそこを出て無理に船医の興録をそこに引っ張って来た。そして権威を持った人のように水夫長にはっきりした指《さし》図《ず》をして、はじめて安心してゆうゆうとその部屋を出た。葉子の顔には自分のしたことに対して子供のような喜びの色が浮かんでいた。水夫たちは暗い中にもそれを見《み》遁《のが》さなかったとみえる。葉子が出て行く時には一人として葉子に雑言を抛《な》げつけるものがいなかった。それから水夫らは誰言うとなしに葉子のことを「姉《あね》御《ご》姉《あね》御《ご》」と呼んで噂するようになった。その時のことを水夫長は葉子に感謝したのだ。
葉子はしんみにいろいろと病人のことを水夫長に聞きただした。実際水夫長に話しかけられるまでは、葉子はそんなことは思い出しもしていなかったのだ。そして水夫長に思い出させられてみると、急にその老水夫のことが心配になりだしたのだった。足はとうとう不具になったらしいが痛みはたいていなくなったと水夫長が言うと葉子ははじめて安心して、また陸の方に眼をやった。水夫長とボーイとの跫《あし》音《おと》は廊下のかなたに遠ざかって消えてしまった。葉子の足もとにはただかすかなエンジンの音と波が舷《ふなばた》を打つ音とが聞こえるばかりだった。
葉子はまた自分一人の心に帰ろうとしてしばらくじっと単調な陸地に眼をやっていた。その時突然岡が立派な西洋絹の寝衣《ねまき》の上に厚い外《がい》套《とう》を着て葉子の方に近づいて来たのを、葉子は視角の一端にちらりと捕えた。夜でも朝でも葉子がひとりでいると、どこでどうしてそれを知るのか、いつの間にか岡がきっと身近に現われるのが常なので、葉子は待ち設けていたように振り返って、朝の新しいやさしい微笑を与えてやった。
「朝はまだずいぶん冷えますね」
と言いながら、岡は少し人になれた少女のように顔を赤くしながら葉子の傍に身を寄せた。葉子は黙ってほほえみながらその手を取って引き寄せて、互いに小さな声で軽い親しい会話を取り交わし始めた。
と、突然岡は大きなことでも思い出した様子で、葉子の手をふりほどきながら、
「倉地さんがね、今日あなたにぜひ願いたい用があるって言ってましたよ」
と言った。葉子は、
「そう……」
とごく軽く受けるつもりだったが、それが思わず息気《いき》苦しいほどの調子になっているのに気がついた。
「なんでしょう、私になんぞ用って」
「なんだか私ちっとも知りませんが、話をして御覧なさい。あんなに見えているけれども親切な人ですよ」
「まだあなただまされていらっしゃるのね。あんな高慢ちきな乱暴な人私嫌《きら》いですわ。……でも先方《むこう》で会いたいと言うのなら会ってあげてもいいから、ここにいらっしゃいって、あなた今すぐいらしって呼んで来てくださいましな。会いたいなら会いたいようにするがようござんすわ」
葉子は実際激しい言葉になっていた。
「まだ寝ていますよ」
「いいからかまわないから起こしておやりになればよござんすわ」
岡は自分に親しい人を親しい人に近づける機会が到来したのを誇り喜ぶ様子を見せて、いそいそと駈《か》けて行った。その後ろ姿を見ると葉子は胸に時ならぬときめきを覚えて、眉の上のところにさっと熱い血の寄って来るのを感じた。それがまた憤《いきどお》ろしかった。
見上げると朝の空を今まで蔽《おお》うていた綿のような初秋の雲はところどころほころびて、洗いすました青空が眩《まば》ゆく切れ目切れ目に輝きだしていた。青灰色に汚《よご》れていた雲そのものすらが見違えるように白く軽くなって美しい笹《ささ》縁《べり》をつけていた。海は眼も綾《あや》な明暗をなして、単調な島影もさすがに頑固な沈黙ばかりを守りつづけてはいなかった。葉子の心は抑《おさ》えよう抑えようとしても軽く華《はな》やかにばかりなって行った。決戦……と葉子はその勇み立つ心の底で叫んだ。木村のことなどは遠《とお》の昔に頭の中からこそぎ取るように消えてしまって、その後にはただ何とはなしに、子供らしい浮き浮きした冒険の念ばかりが働いていた。自分でも知らずにいたような weird《*》な激しい力が、想像も及ばぬところにぐんぐんと葉子を引きずって行くのを、葉子は恐れながらもどこまでもついて行こうとした。どんなことがあっても自分がその中心になっていて、先方《むこう》を牽《ひ》きつけてやろう。自分をはぐらかすようなことはしまいと始終張り切ってばかりいたこれまでの心持ちと、この時湧くがごとく持ち上がって来た心持ちとは比べものにならなかった。あらん限りの重荷を洗いざらい思いきりよく投げ棄《す》ててしまって、身も心も何か大きな力に任《まか》しきるその快《こころよ》さ心安さは葉子をすっかり夢心地にした。そんな心持ちの相違を比べてみることさえできないくらいだった。葉子は子供らしい期待に眼を輝かして岡の帰って来るのを待っていた。
「だめですよ。床の中にいて戸も開けてくれずに、寝言みたいなことを言ってるんですもの」
と言いながら岡は当惑顔で葉子の側に現われた。
「あなたこそだめね。ようござんすわ、私が自分で行ってみてやるから」
葉子にはそこにいる岡さえなかった。少し怪《け》訝《げん》そうに葉子のいつになくそわそわした様子を見守る青年をそこに捨ておいたまま葉子は険しく細い階子段を降りた。
事務長の部屋は機関室と狭い暗い廊下一つを隔てたところにあって、日の目を見ていた葉子には手さぐりをして歩かねばならぬほど勝手がちがっていた。地震のように機械の震動が廊下の鉄壁に伝わって来て、むせ返りそうな生暖かい蒸気の匂《にお》いとともに人を不愉快にした。葉子は鋸《おが》屑《くず》を塗りこめてざらざらと手《て》触《ざわ》りのいやな壁を撫《な》でて進みながらようやく事務室の戸の前に来て、あたりを見廻して見て、ノックもせずにいきなりハンドルをひねった。ノックをする隙《ひま》もないようなせかせかした気分になっていた。戸は音も立てずにやすやすと開いた。「戸も開けてくれずに……」との岡の言葉から、てっきり鍵がかかっていると思っていた葉子にはそれが意外でもあり、あたりまえにも思えた。しかしその瞬間には葉子は我れ知らずはっとなった。ただ通りすがりの人にでも見つけられまいとする心が先に立って、葉子は前後のわきまえもなく、ほとんど無意識に部屋にはいると、同時にぱたんと音をさせて戸を閉めてしまった。
もうすべては後悔にはおそすぎた。岡の声で今寝床から起き上がったらしい事務長は、荒い棒《ぼう》縞《じま》のネルの筒《つつ》袖《そで》一枚を着たままで、眼のはれぼったい顔をして、小山のような大きな五体を寝床にくねらして、突然はいって来た葉子をぎっと見守っていた。遠《とお》の昔に心の中は見透しきっているような、それでいて言葉もろくろく交わさないほどに無頓着に見える男の前に立って、葉子はさすがにしばらくは言い出《い》ずべき言葉もなかった。あせる気を押し鎮《しず》め押し鎮め、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようと勉《つと》めたが、今までに覚えない惑乱のために、頭はぐらぐらとなって、無意味だと自分でさえ思われるような微笑を漏らす愚かさをどうすることもできなかった。倉地は葉子がその朝その部屋に来るのを前からちゃんと知り抜いてでもいたように落ちつき払って、朝の挨拶もせずに、
「さ、おかけなさい。ここが楽だ」
といつものとおりな少し見下ろした親しみのある言葉をかけて、昼間は長椅子代わりに使う寝台の座を少し譲って待っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまま、
「何か御用がおありになるそうでございますが……」
固くなりながら言って、ああまた見え透くことを言ってしまったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかけるように、
「用は後で言います。まあおかけなさい」
と言ってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はその言いなりほうだいになるよりしかたがなかった。「お前は結局はここにすわるようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来を予知しきっているのが葉子の心を一種すてばちなものにした。「すわってやるものか」という習慣的な男に対する反抗心はただわけもなくひしがれていた。葉子はつかつかと進みよって事務長と押し並んで寝台に腰かけてしまった。
この一つの挙動が――このなんでもない一つの挙動が急に葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで今まで失いかけていたものを自分の方にたぐり戻した。そして事務長を流し眼に見やって、ちょっとほほえんだその微笑には、先刻《さつき》の微笑の愚かしさが潜んでいないのを信ずることができた。葉子の性格の深みから湧き出る怖《おそ》ろしい自然さがまとまった姿を現わし始めた。
「何御用でいらっしゃいます」
そのわざとらしい造り声の中にかすかな親しみをこめてみせた言葉も、肉感的に厚みを帯びた、それでいて賢《さか》しげに締りのいい二つの唇にふさわしいものとなっていた。
「今日船が検疫所に着くんです、今日の午後に。ところが検疫医がこれなんだ」
事務長は朋《ほう》輩《ばい》にでも打ち明けるように、大きな食指を鍵《かぎ》形《がた》にまげて、たぐるような恰《かつ》好《こう》をして見せた。葉子がちょっと判じかねた顔つきをしていると、
「だから飲ましてやらんならんのですよ。それからポーカーにも負けてやらんならん。美人がいれば拝ましてもやらんならん」
となお手まねを続けながら、事務長は枕もとにおいてある頑《がん》固《こ》なパイプを取り上げて、指の先で灰を押しつけて、吸い残りの煙草《たばこ》に火をつけた。
「船をさえ見ればそうした悪戯《わるさ》をしおるんだから、海坊主を見るような奴です。そういうと頭のつるりとした水母《くらげ》じみた入道らしいが、実際は元気のいい意気な若い医者でね。おもしろい奴だ。一つ会って御覧。私でからがあんなところに年じゅう置かれればああなるわさ」
と言って、右手に持ったパイプを膝《ひざ》頭《がしら》に置き添えて、向きなおってまともに葉子を見た。しかしその時葉子は倉地の言葉にはそれほど注意を払ってはいない様子を見せていた。ちょうど葉子の向う側にある事務テーブルの上に飾られた何枚かの写真を物珍しそうに眺めやって、右手の指先を軽く器用に動かしながら、煙草の煙が紫色に顔をかすめるのを払っていた。自分を囮《おとり》にまで使おうとする無礼もあなたなればこそなんとも言わずにいるのだという心を事務長もさすがに推《すい》したらしい。しかしそれにもかかわらず事務長は言いわけ一つ言わず、いっこう平気なもので、綺《き》麗《れい》な飾紙のついた金口煙草の小箱を手を延ばして棚《たな》から取り上げながら、
「どうです一本」
と葉子の前にさし出した。葉子は自分が煙草をのむかのまぬかの問題を弾《はじ》き飛ばすように、
「あれはどなた?」と写真の一つに眼を定めた。
「どれ」
「あれ」葉子はそう言ったままで指さしはしない。
「どれ」と事務長はもう一度言って、葉子の大きな眼をまじまじと見入ってからその視線をたどって、しばらく写真を見分けていたが、
「はああれか。あれはね私の妻子ですんだ。荊《けい》妻《さい》と豚《とん》児《じ》どもですよ」
と言って高々と笑いかけたが、ふと笑いやんで、険しい眼で葉子をちらっと見た。
「まあそう。ちゃんと御写真をお飾りなすって、おやさしゅうござんすわね」
葉子はしんなりと立ち上がってその写真の前に行った。物珍しいものを見るという様子をしてはいたけれども、心の中には自分の敵がどんな獣物であるかを見極めてやるぞという激しい敵《てき》愾《がい》心《しん》が急に燃えあがっていた。前には芸者ででもあったのか、それとも良人《おつと》の心を迎えるためにそう造ったのか、どこか玄人《くろうと》じみた綺麗な丸《まる》髷《まげ》の女が着飾って、三人の少女を膝に抱いたり側《そば》に立たせたりして写っていた。葉子はそれを取り上げて孔《あな》の開《あ》くほどじっと見やりながらテーブルの前に立っていた。ぎごちない沈黙がしばらくそこに続いた。
「お葉さん」(事務長ははじめて葉子をその姓で呼ばずにこう呼びかけた)突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きもできないように抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のような assault《*》に出ることを直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、その assaultを、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前触れもなく起こってこようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞《しゆう》恥《ち》から起こる貞操の防衛に駆られて、熱しきったような冷えきったような血を一時に体内に感じながら、抱えられたまま、侮《ぶ》蔑《べつ》をきわめた表情を二つの眼に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷やかな眼の光はかりそめの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に息気《いき》のかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷な眸《ひとみ》には眼もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強く煽《あお》り立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を十分回復した健康な男の容貌の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力が籠《こも》っていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の心持ちを見せつけながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な牽《けん》引《いん》の力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。息気《いき》せわしく吐く男の溜《ため》息《いき》は霰《あられ》のように葉子の顔を打った。火と燃え上がらんばかりに男の体からは desire《*》 の焔《ほむら》がぐんぐん葉子の血脈にまで拡《ひろ》がって行った。葉子は我れにもなく異常な昂《こう》奮《ふん》にがたがた震え始めた。
*     *     *
ふと倉地の手がゆるんだので葉子は切って落とされたようにふらふらとよろけながら、危く踏み止《とど》まって眼を開くと、倉地が部屋の戸に鍵《かぎ》をかけようとしているところだった。鍵が合わないので、
「糞《くそ》っ」
と後ろ向きになってつぶやく倉地の声が最後の宣告のように絶望的に低く部屋の中に響いた。
倉地から離れた葉子はさながら母から離れた赤子のように、すべての力が急にどこかに消えてしまうのを感じた。後に残るものとては底のない、頼りない悲哀ばかりだった。今まで味わって来たすべての悲哀よりもさらに残酷な悲哀が、葉子の胸をかきむしって襲ってきた。それは倉地のそこにいるのすら忘れさすくらいだった。葉子はいきなり寝床の上に丸まって倒れた。そして俯《うつ》伏《ぶ》しになったまま痙《けい》攣《れん》的《てき》に激しく泣きだした。倉地がその泣き声にちょっとためらって立ったまま見ている間に、葉子は心の中で叫びに叫んだ。
「殺すなら殺すがいい。殺されたっていい。殺されたって憎みつづけてやるからいい。私は勝った。なんといっても勝った。こんなに悲しいのをなぜ早く殺してはくれないのだ。この哀《かな》しみにいつまでも浸っていたい。早く死んでしまいたい。……」
一六
葉子は本当に死の間をさまよい歩いたような不思議な、混乱した感情の狂いに泥《でい》酔《すい》して、事務長の部屋から足もとも定まらずに自分の船室に戻って来たが、精も根も尽き果ててそのままソファの上に打《ぶ》っ倒れた。眼の周《まわ》りに薄黒い暈《かさ》のできたその顔は鈍い鉛色をして、瞳《どう》孔《こう》は光に対して調節の力を失っていた。軽く開いたままの唇から漏れる歯並みまでが、光なく、ただ白く見やられて、死を連想させるような醜い美しさが耳のつけ根まで漲《みなぎ》っていた。雪《ゆき》解《げ》時《どき》の泉のように、あらん限りの感情が目まぐるしく湧き上がっていたその胸には、底の方に暗い悲哀がこちんと澱《よど》んでいるばかりだった。
葉子はこんな不思議な心の状態から遁《のが》れ出ようと、思い出したように頭を働かしてみたが、その努力は心にもなく微《かす》かなはかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もいわば堪えきれぬほどの切なさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやりと眼を覚《さ》ましそうになったり、意識の仮《か》睡《すい》に陥ったりした。猛烈な胃《い》痙《けい》攣《れん》を起こした患者が、モルヒネの注射を受けて、間《かん》歇《けつ》的《てき》に起こる痛みのために無意識に顔をしかめながら、麻薬の恐ろしい力の下に、ただ昏《こん》々《こん》と奇径な仮睡に陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力でときどき驚いたように乱れさわぎながら、たちまちものすごい沈滞の淵《ふち》深く落ちて行くのだった。葉子の意志はいかに手を延ばしても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を持って、ただぼーと黄色く煙っていた。その黄色い煙の中をときどき紅い火や青い火がちかちかと神経をうずかして駆け通った。息気《いき》づまるような今朝の光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現われて来ても、葉子はそれに対して毛の末ほども心を動かされはしなかった。それは遠い遠い木《こ》魂《だま》のように虚《うつ》ろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分とのこれほどな恐ろしい距《へだ》たりを、葉子は恐れげもなく、なるがままに任せておいて、重く澱んだ絶望的な悲哀にただわけもなくどこまでも引っ張られて行った。その先には暗い忘却が待ち設けていた。涙で重った瞼《まぶた》はだんだん打ち開いたままの瞳を蔽って行った。少し開いた唇の間からは、うめくような軽い鼾《いびき》が漏れ始めた。それを葉子はかすかに意識しながら、ソファの上に俯《うつ》向《む》きになったまま、いつとはなしに夢もない深い眠りに陥っていた。
どのくらい眠っていたかわからない。突然葉子は心臓でも破裂しそうな驚きに打たれて、はっと眼を開いて頭を擡《もた》げた。ずきずきずきと頭の心《しん》が痛んで、部屋の中は火のように輝いて面も向けられなかった。もう昼ごろだなと気がつくうちにも、雷とも思われる叫《きよう》喚《かん》が船を震わして響き渡っていた。葉子はこの瞬間の不思議に胸をどきつかせながら聞き耳を立てた。船のおののきとも自分のおののきとも知れぬ震動が葉子の五体を木の葉のようにもてあそんだ。しばらくしてその叫喚がやや鎮《しず》まったので、葉子はようやく、横浜を出て以来絶えて用いられなかった汽笛の声であることを悟った。検疫所が近づいたのだなと思って、襟《えり》元《もと》をかき合わせながら、静かにソファの上に膝《ひざ》を立てて、眼窓から外面《とのも》をのぞいてみた。今朝までは雨雲に閉じられていた空も見違えるようにからっと晴れ渡って、紺《こん》青《じよう》の色は日の光のために奥深く輝いていた。松が自然に美しく配置されて生え茂った岩がかった岸がすぐ眼の先に見えて、海はいかにも入江らしく可憐なさざなみをつらね、その上を絵島丸は機関の動《どう》悸《き》を打ちながら徐《しず》かに走っていた。幾日の荒々しい海路からここに来てみると、さすがにそこには人間の隠れ場らしい静かさがあった。
岸の奥まったところに白い壁の小さな家屋が見られた。その傍には英国の国旗が微風に煽《あお》られて青空の中に動いていた。「あれが検疫官のいるところなのだ」そう思った意識の活動が始まるやいなや、葉子の頭ははじめて生まれ代わったようにはっきりとなっていった。そして頭がはっきりしてくるとともに、今まで切り放されていたすべての過去があるべき姿をとって、明瞭に現在の葉子と結びついた。葉子は過去の回想が今見たばかりの景色からでも来たように驚いて、急いで眼窓から顔を引っ込めて、強敵に襲いかかられた孤軍のように、たじろぎながらまたソファの上に臥《ね》倒《たお》れた。頭の中は急に叢《むら》がり集まる考えを整理するために激しく働きだした。葉子はひとりでに両手で髪の毛の上から顳《こめ》〓《かみ》のところを押えた。そして少し上眼をつかって鏡の方を見やりながら、今まで閉止していた乱想の寄せ来るままに機敏にそれを送り迎えようと身構えた。
葉子はとにかく恐ろしい崕《がけ》のきわまで来てしまったことを、そしてほとんど無反省で、本能に引きずられるようにして、その中に飛び込んだことを思わないわけにはいかなかった。親類縁者にうながされて、心にもない渡米を余儀なくされた時に自分で選んだ道――ともかく木村といっしょになろう。そして生まれ代わったつもりで米国の社会にはいりこんで、自分が見つけあぐねていた自分というものを、探り出してみよう。女というものが日本とは違って考えられているらしい米国で、女としての自分がどんな位置にすわることができるか試《ため》してみよう。自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでないところに生まれて来たのだ。自分の生まるべき時代とところとはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つことができるはずなのだ。生きているうちにそこを探し出したい。自分の周囲にまつわって来ながらいつの間にか自分を裏切って、いつどんなところにでも平気で生きていられるようになり果てた女たちの鼻をあかさしてやろう。若い命を持ったうちにそれだけのことをぜひしてやろう。木村は自分のこの心の企《たくら》みを助けることのできる男ではないが、自分の後について来られないほどの男でもあるまい。葉子はそんなことも思っていた。日清戦争が起こったころから葉子ぐらいの年配の女が等しく感じだした一種の不安、一種の幻滅――それを激しく感じた葉子は、謀《む》叛《ほん》人《にん》のように知らず知らず自分の周《まわ》りの少女たちにある感情的な教《きよう》唆《さ》を与えていたのだが、自分自身ですらがどうしてこの大事なせとぎわを乗り抜けるのかは、少しもわからなかった。そのころの葉子は事ごとに自分の境遇が気に喰《く》わないでただいらいらしていた。その結果はただ思うままを振舞って行くよりしかたがなかった。自分はどんなものからも本当に訓練されてはいないんだ。そして自分にはどうにでも働く鋭い才能と、女の強み(弱みとも言わば言え)になるべき優れた肉体と激しい情緒とがあるのだ。そう葉子は知らず知らず自分を見ていた。そこから盲《めくら》滅《めつ》法《ぽう》に動いて行った。ことに時代の不思議な目覚めを経験した葉子にとっては恐ろしい敵は男だった。葉子はそのために何度つまずいたかしれない。しかし、世の中には本当に葉子を扶《たす》け起こしてくれる人がなかった。「私が悪ければなおすだけのことをしてみせて御覧」葉子は世の中に向いてこう言い放ってやりたかった。女を全く奴隷の境界に沈め果てた男はもう昔のアダムのように正直ではないんだ。女がじっとしている間は慇《いん》懃《ぎん》にしてみせるが、女が少しでも自分で立ち上がろうとすると、打って変わって恐ろしい暴王になり上がるのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている。葉子は女学校時代にしたたかその苦い杯を嘗《な》めさせられた。そして十八の時木《き》部《べ》孤《こ》〓《きよう》に対して、最初の恋愛らしい恋愛の情を傾けた時、葉子の心はもう処女の心ではなくなっていた。外界の圧迫に反抗するばかりに、一時火のように何物をも焼き尽くして燃え上がった仮《かり》初《そ》めの熱情は、圧迫のゆるむとともに脆《もろ》くも萎《な》えてしまって、葉子は冷静な批評家らしく自分の恋と恋の相手とを見た。どうして失望しないでいられよう。自分の一生がこの人に縛りつけられて萎《しな》びて行くのかと思う時、またいろいろな男にもてあそばれかけて、かえって男の心というものを裏返してとっくりと見極めたその心が、木部という、空想の上でこそ勇気も生彩もあれ、実生活においては見下げ果てたほど貧弱で簡単な一書生の心と強いて結びつかねばならぬと思った時、葉子は身震いするほど失望して木部と別れてしまったのだ。
葉子の嘗《な》めたすべての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせるものばかりだった。しかしなんという自然の悪戯《いたずら》だろう。それとともに葉子は、男というものなしには一刻も過ごされないものとなっていた。砒《ひ》石《せき》の用法を謬《あやま》った患者が、その毒の恐ろしさを知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の喜びの源《みなもと》を、まかり違えば、生そのものを蝕《むしば》むべき男というものに、求めずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。
肉欲の牙《きば》を鳴らして集まって来る男たちに対して、(そういう男たちが集まって来るのは本当は葉子自身がふり撒《ま》く香のためだとは気づいていて)葉子は冷笑しながら蜘《く》蛛《も》のように網を張った。近づくものは一人残らずその美しい四《よつ》手《で》網《あみ》にからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。ただあの妖《よう》力《りよく》ある女《じよ》郎《ろう》蜘《ぐ》蛛《も》のように、生きていたい要求から毎日その美しい網を四つ手に張った。そしてそれに近づきもし得ないで罵《ののし》り騒ぐ人たちを、自分の生活とは関係のない木か石ででもあるように冷然と尻《しり》目《め》にかけた。
葉子は本当を言うと、必要に従うというほかに何をすればいいのかわからなかった。
葉子にとっては、葉子の心持ちを少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の眼から見た親類という一群れはただ貪《どん》欲《よく》な賤《せん》民《みん》としか思えなかった。父は憐れむべく影の薄い一人の男性にすぎなかった。母は――母はいちばん葉子の身近にいたと言っていい。それだけ葉子は母と両立し得ない仇《きゆう》敵《てき》のような感じを持った。母は新しい型にわが子を取り入れることを心得てはいたが、それを取り扱う術《すべ》は知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほどするすると成長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかった。その結果二人の間には第三者から想像もできないような反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のおかげで曲折のおもしろさと醜さとを加えた。しかしなんといっても母は母だった。正面からは葉子のすることなすことに批点を打ちながらも、心の底でいちばんよく葉子を理解してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚えるのだった。
母が死んでからは、葉子は全く孤独であることを深く感じた。そして始終張りつめた心持ちと、失望から湧《わ》き出る快活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、どこからともなく不意に襲って来る不安は葉子を底知れぬ悒《ゆう》鬱《うつ》の沼に蹴《け》落《お》とした。自分は荒磯に一本流れよった流れ木ではない。しかしその流れ木よりも自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より自分はうら淋しい。こんな生活よりほかにする生活はないのかしらん。いったいどこに自分の生活をじっと見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はしみじみ思うことがないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。葉子はこうした淋しさにうながされて、乳母の家を尋ねたり、突然大塚の内田に遇《あ》いに行ったりしてみるが、そこを出て来る時にはただひとしおの心の空《むな》しさが残るばかりだった。葉子は思い余ってまた淫《みだ》らな満足を求めるために男の中に割ってはいるのだった。しかし男が葉子の眼の前で弱みを見せた瞬間に、葉子は驕《きよう》慢《まん》な女王のようにその捕虜から面を背《そむ》けて、その出来事を悪夢のように忌み嫌《きら》った。冒険の獲物はきまりきってとるにも足らないやくざものであることを葉子はしみじみ思わされた。
こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に駆り立てられて葉子は木村という降参人をともかくその良人《おつと》に選んでみた。葉子は自分がなんとかして木村にそりを合わせる努力をしたならば、一生涯木村と連れ添って、普通の夫婦のような生活ができないものでもないと一時思うまでになっていた。しかしそんなつぎはぎな考え方が、どうしていつまでも葉子の心の底を蝕《むしば》む不安を医《いや》すことができよう。葉子が気を落ちつけて、米国に着いてからの生活を考えてみると、こうあってこそと思い込むような生活には、木村は除《の》け者になるか、邪魔者になるほかはないようにも思えた。木村と暮らそう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形を玩具箱にしまったものか、いっそ捨ててしまったものかと躊《ちゆう》躇《ちよ》する少女の心に似たぞんざいなためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。
そういう時突然葉子の前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋に繋がれた絵島丸の甲板の上で、はじめて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生まれて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地を憐《あわ》れみもし畏《おそ》れもした。今まで誰の前に出ても平気で自分の思う存分を振舞っていた葉子は、この男の前では思わず知らず心にもない矯《きよう》飾《しよく》を自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのとちょうど反対の動作をしていた。無条件的な服従ということも事務長に対してだけはただ望ましいことにばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命ははじめて本当に燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない欲望すらが少しも不思議でなく受け入れられた。そのくせ表面《うわべ》では事務長の存在をすら気がつかないように振舞った。ことに葉子の心を深く傷つけたのは、事務長のものうげな無関心な態度だった。葉子がどれほど人の心を牽《ひ》きつけることを言った時でも、した時でも、事務長は冷然として見向こうともしなかったことだ。そういう態度に出られると、葉子は、自分のことは棚《たな》に上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が日一日と募って行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。
しかし葉子はとうとう今朝の出来事に打《ぶ》っ突かってしまった。葉子は恐ろしい崕のきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の眼の前で今まで住んでいた世界はがらっと変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは木《こつ》葉《ぱ》微《み》塵《じん》になくなってしまっていた。倉地を得たらばどんなことでもする。どんな屈辱でも蜜《みつ》と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!
葉子の心はこんなに順序立っていたわけではない。しかし葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながらこんな心持ちを果てしもなく噛《か》みしめた。そして追想は多くの迷路をたどりぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを牝鹿のように立ち上がって、過去と未来とを断ち切った現在刹《せつ》那《な》の眩《くら》むばかりな変身に打ちふるいながらほほえんだ。
その時ろくろくノックもせずに事務長がはいって来た。葉子のただならぬ姿には頓着なく、
「もうすぐ検疫官がやって来るから、さっきの約束を頼みますよ。資本入らずで大役が勤まるんだ。女というものはいいものだな。や、しかしあなたのはだいぶ資本がかかっとるでしょうね。……頼みますよ」と戯《じよう》談《だん》らしく言った。
「はあ」葉子はなんの苦もなく親しみの限りをこめた返事をした。その一声の中には、自分でも驚くほどな蠱《こ》惑《わく》の力が籠《こ》められていた。
事務長が出て行くと、葉子は子供のように足なみ軽く小さな船室の中を小《こ》跳《おど》りして飛び廻った。そして飛び廻りながら、髪をほごしにかかって、ときどき鏡に映る自分の顔を見やりながら、堪《こら》えきれないように窃《ぬす》み笑いをした。
一七
事務長のさしがねはうまい坪にはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかり年《とし》老《と》った次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたりまえならば、なんとかかとか必ず苦情の持ち上がるべき英国風の小やかましい検疫もあっさり済んで放《ほう》蕩《とう》者《もの》らしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこで機《き》嫌《げん》よく帰って行くことになった。
停《と》まるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、二人の医官を乗せて行くモーター・ボートが舷《げん》側《そく》を離れるのを待っていた。折り目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの舵《かじ》座《ざ》に立ち上がって、手《て》欄《すり》から葉子といっしょに胸から上を乗り出した船長となお戯《じよう》談《だん》を取り交わした。船《ふな》梯《ばし》子《ご》の下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて合図をすると、船梯子はきりきりと水平に捲《ま》き上げられていく、それをこともなげに身軽く駈《か》け上がって来た。検疫官の眼は事務長への挨《あい》拶《さつ》もそこそこに、思いきり派手な装いを凝らした葉子の方に吸いつけられるらしかった。葉子はその眼を迎えて情をこめた流眄《ながしめ》を送り返した。検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物を言おうとした時、けたたましい汽笛が一《いち》抹《まつ》の白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からは凄《すさ》まじい推進機の震動が起こり始めた。このあわただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、噪《そう》音《おん》にもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにことほほえみながらうなずいて見せた。そしてただ一時の悪戯《いたずら》心《ごころ》から髪に插《さ》していた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足もとにすべり落ちた。検疫官が片手に舵《かじ》綱《づな》を操《あやつ》りながら、有頂天になってそれを拾おうとするのを見ると、船《ふな》舷《ばた》に立ちならんで物珍しげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客はいっせいに手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見廻した。西洋の婦人たちは等しく葉子を見やって、その花々しい服装から、軽率《かるはずみ》らしい挙動を苦々しく思うらしい顔つきをしていた。それらの外国人の中には田川夫人も交っていた。
検疫官は絵島丸が残して行った白沫の中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集はまた思い出したように漫《まん》罵《ば》を放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよくわかる白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥ずかしげな眼を葉子に送ったが、葉子がはしたない群集の言葉にも、苦々しげな船客の顔色にも、少しも頓着しないふうで、ほほえみ続けながらモーター・ボートの方を見守っているのを見ると、未通女《おぼこ》らしくさらに真赤になってその場をはずしてしまった。
葉子は何事も屈託なくただおもしろかった。体じゅうをくすぐるような生の歓びから、ややもするとなんでもなく微笑が自然に浮かび出ようとした。「今朝から私はこんなに生まれ代わりました御覧なさい」と言って誰にでも自分の喜びを披《ひ》露《ろう》したいような気分になっていた。検疫官の官舎の白い壁も、その方に向かって走って行くモーター・ボートも見る見る遠ざかって小さな箱庭のようになった時、葉子は船長室での今日の思い出し笑いをしながら、手《て》欄《すり》を離れて心あてに事務長を眼で尋ねた。と、事務長は、はるか離れた船《せん》艙《そう》の出口に田川夫妻と鼎《かなえ》になって、何かむずかしい顔をしながら立ち話をしていた。いつもの葉子ならば三人の様子で何事が語られているかぐらいはすぐ見て取るのだが、その日はただ浮き浮きした無邪気な心ばかりが先に立って、誰にでも好意のある言葉をかけて、同じ言葉で酬《むく》いられたい衝動に駆られながら、なんの気なしにそっちに足を向けようとして、ふと気がつくと、事務長が「来てはいけない」と激しく眼に物を言わせているのが覚《さと》れた。気がついてよく見ると田川夫人の顔にはまごうかたなき悪意がひらめいていた。
「またおせっかいだな」
一秒の躊《ちゆう》躇《ちよ》もなく男のような口調で葉子はこう小さくつぶやいた。「かまうものか」そう思いながら葉子は事務長の眼使いにも無頓着に、快活な足どりでいそいそと田川夫妻の方に近づいて行った。それを事務長もどうすることもできなかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげて後《おく》れ毛をかき上げながら顔じゅうを蠱《こ》惑《わく》的《てき》なほほえみにして挨拶した。田川博士の頬《ほお》には逸《いち》早《はや》くそれに応ずる物やさしい表情が浮かぼうとしていた。
「あなたはずいぶんな乱暴をなさるかたですのね」
いきなり震えた帯びた冷やかな言葉が田川夫人から葉子に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い挑戦的な調子で震えていた。田川博士はこのとっさの気まずい場面を繕《つくろ》うため何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめようとするらしかったが、夫人の悪意はせき立って募るばかりだった。しかし夫人は口に出してはもうなんにも言わなかった。
女の間に起こる不思議な心と心との交渉から、葉子はなんということなく、事務長と自分との間に今朝起こったばかりの出来事を、輪《りん》廓《かく》だけではあるとしても田川夫人が感づいているなと直覚した。ただ一言ではあったけれども、それは検疫官とトランプをいじったことを責めるだけにしては、激し過ぎ、悪意がこめられ過ぎていることを直覚した。今の激しい言葉は、そのことを深く根に持ちながら、検疫医に対する不謹慎な態度をたしなめる言葉のようにして使われているのを直覚した。葉子の心の隅《すみ》から隅までを、溜《りゆう》飲《いん》の下がるような小気味よさが小《こ》躍《おど》りしつつ走《は》せめぐった。葉子は何をそんなにことごとしくたしなめられることがあるのだろうというような少ししゃあしゃあした無邪気な顔つきで、首をかしげながら夫人を見守った。
「航海ちゅうはとにかく私葉子さんのお世話をお頼まれ申しているんですからね」
初めはしとやかに落ちついて言うつもりらしかったが、それがだんだん激して途切れがちな言葉になって、夫人はしまいには激動から息気《いき》をさえはずましていた。その瞬間に火のような夫人の瞳《ひとみ》と、皮肉に落ちつき払った葉子の瞳とが、ぱったり出っ喰《くわ》して小ぜり合いをしたが、また同時に蹴返すように離れて事務長の方に振り向けられた。
「ごもっともです」
事務長は虻《あぶ》に当惑した熊のような顔つきで、柄にもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って、
「私も事務長であってみれば、どのお客様に対しても責任があるのだで、御迷惑になるようなことはせんつもりですが」
ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこしだした。
「そうむきになるほどのことでもないじゃありませんか。高《たか》が早月さんに一度か二度愛《あい》嬌《きよう》を言うていただいて、それで検疫の時間が二時間から違うのですもの。いつでもここで四時間の以上もむだをせにゃならんのですて」
田川夫人がますますせき込んで、矢《や》継《つぎ》早《ばや》にまくしかけようとするのを、事務長はこともなげに軽軽とおっかぶせて、
「それにしてからがお話はいかがです、部屋で伺いましょうか。ほかのお客様の手前もいかがです。博士、例のとおり狭っこいところですが、甲板ではゆっくりもできませんで、あそこでお茶でも入れましょう。早月さんあなたもいかがです」
と笑い笑い言ってからくるりッと葉子の方に向きなおって、田川夫妻には気がつかないように頓《とん》狂《きよう》な顔をちょっとして見せた。
横浜で倉地の後に続いて船室への階段を下りる時はじめて嗅《か》ぎ覚えたウイスキーと葉巻とのまじり合ったような甘たるい一種の香が、この時幽《かす》かに葉子の鼻をかすめたと思った。それを嗅ぐと葉子は情熱のほむらが一時に煽《あお》り立てられて、人前では考えられもせぬような思いが、旋風《つむじかぜ》のごとく頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる暇《いとま》もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと思うような微笑が、覚えず葉子の眉の間に浮かび上がった。事務長は小むずかしい顔になって振り返りながら、
「いかがです」ともう一度田川夫妻をうながした。しかし田川博士は自分の妻の大人《おとな》げないのを憐《あわ》れむ物わかりのいい紳士という態度を見せて、態《てい》よく事務長にことわりを言って、夫人といっしょにそこを立ち去った。
「ちょっといらっしゃい」
田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこう言いながら先に立った。葉子は小娘のようにいそいそとその後について、薄暗い階子段にかかると男におぶいかかるようにして小《こ》世《ぜ》話《わ》しく降りて行った。そして機関室と船員室との間にある例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸を開《あ》けた時、ぱっと明るくなった白い光の中に、 nonchalant《*》 な diabolic な男の姿を今さらのように一種の畏《おそ》れとなつかしさとをこめて打ち眺めた。
部屋にはいると事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしくめんどうくさそうに吐《と》息《いき》一つして、帳簿をテーブルの上に放りなげておいて、また戸から頭だけつき出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。そして戸を閉《し》めきると、はじめてまともに葉子に向きなおった。そして腹をゆすり上げて続けさまに思い存分笑ってから、
「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どうだい」と言ったような調子で言って、脚《あし》を開いて akimbo をして突っ立ちながら、ちょいと無邪気に首をかしげてみせた。
そこにボーイが戸の後ろから顔だけ出した。
「シャンペンだ。船長のところにバーから持ってこさしたのが、二、三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。……何がおかしいかい」
事務長は葉子の方を向いたままこう言ったのであるが、実際その時ボーイは意味ありげににやにや薄笑いをしていた。
あまりにこともなげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心の切なさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにいられなくなった。今朝の記憶のまだなまなましい部屋の中を見るにつけても、激しく嵩《たか》ぶってくる情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられないもどかしさが苦しく胸に逼《せま》るのだった。今まではまるきり眼中になかった田川夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ二人の二十女も、果ては事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君といっしょになって苦しい敵意を葉子の心に煽《あお》り立てた。ボーイにまで笑いものにされて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。自分の身も心もただ一息にひしぎ潰《つぶ》すかと見えるあの恐ろしい力は、自分を征服するとともにすべての女に対しても同じ力で働くのではないか。そのたくさんの女の中の影の薄い一人の女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代えがたく思われる今朝の出来事があった後でも、ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついてから始終自分でも言い現わすことのできない何物かを逐《お》い求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかりとつかむことはどうしてもできず、そのくせいつでもその力の下に傀《かい》儡《らい》のように的《あて》もなく動かされていた。葉子は今朝の出来事以来なんとなく思い昂《あが》っていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。しかしそれも今から思えば幻影にすぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるようなことをした自分はなんということをしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救うことができるのだろうと思ってくると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらいことだった。どうしてもはっきりと事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾に業《ごう》を煮やしながら、自分を蔑《さげす》み果てたような絶望的な怒りの色を唇のあたりに宿して、黙ったまま陰《いん》鬱《うつ》に立っていた。今までそわそわと小魔のように葉子の心を廻《めぐ》り躍《おど》っていた華やかな喜び――それはどこに行ってしまったのだろう。
事務長はそれに気づいたのか気がつかないのか、やがて倚《よ》りかかりのない円い事《じ》務《む》榻《いす》に尻をすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を赤《あか》児《ご》同様の無邪気さで犯し得る質《たち》の男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつさきを越されているのかしらんという不安までが心の平《へい》衡《こう》をさらに狂わした。
「田川博士は馬鹿馬鹿で、田川の奥さんは悧《り》口《こう》馬鹿と言うんだ。ははははは」
そう言って笑って、事務長は膝《ひざ》頭《がしら》をはっしと打った手をかえして、机の上にある葉巻をつまんだ。
葉子は笑うよりも腹立たしく、腹立たしいよりも泣きたいくらいになっていた。唇をぶるぶると震わしながら涙でも溜《たま》ったように輝く眼は剣を持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は無頓着に下を向いたまま、一心に葉巻に火をつけている。葉子は胸に抑えあまる恨みつらみを言いだすには、心があまりに震えて喉《のど》が乾ききっているので、下唇を噛《か》みしめたまま黙っていた。
倉地はそれを感づいているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやりどころのない淋《さび》しさを感じていた。
ボーイがシャンペンとコップとを持ってはいって来た。そして丁寧にそれを事務テーブルの上に置いて、先刻《さつき》のように意味ありげな微笑を漏らしながら、そっと葉子を窃《ぬす》み見た。待ち構えていた葉子の眼はしかしボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっとしてとんでもないことをしたというふうに、すぐ慎み深い給仕らしく、そこそこに部屋を出て行った。
事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子の方にさし出した。葉子は黙って立ったまま手を延ばした。何をするにも心にもない作りごとをしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいいかげん乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだという懼《おそ》ろしい予想に押しひしがれて、頭は氷で捲《ま》かれたように冷たく気《け》うとくなった。胸から喉《のど》もとにつきあげてくる冷たいそして熱い球のようなものを雄々しく飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると眼《め》頭《がしら》を熱く潤《うるお》してきた。薄《うす》手《で》のコップに泡を立てて盛られた黄金色の酒は葉子の手の中で細かいさざなみを立てた。葉子はそれを気《け》取《ど》られまいと、強いて左の手を軽くあげて鬢《びん》の毛をかき上げながら、コップを事務長のと打ち合わせたが、それをきっかけに願《がん》でもほどけたように今まで辛く持ちこたえていた自制は根こそぎ崩《くず》されてしまった。
事務長がコップを器用に唇にあてて、仰《あお》向《む》きかげんに飲みほす間、葉子は盃《さかずき》を手にもったまま、ぐびりぐびりと動く男の喉を見つめていたが、いきなり自分の盃を飲まないまま盆の上にかえして、
「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」
と力をこめるつもりで言ったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。そして堰《せき》を切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切歯で噛みきるばかりに強いて喰《く》いとめた。
事務長は驚いたらしかった。眼を大きくして何か言おうとするうちに、葉子の舌は自分でも思い設けなかった情熱を帯びて震えながら動いていた。
「知っています。知っていますとも……。あなたはほんとに……ひどいかたですのね。私なんにも知らないと思ってらっしゃるの。ええ、私は存じません、存じません、ほんとに……」
何を言うつもりなのか自分でもわからなかった。ただ激しい嫉妬《しつと》が頭をぐらぐらさせるばかりに嵩《こう》じてくるのを知っていた。男がある機会には手傷も負わないで自分から離れて行く……そういういまいましい予想で取り乱されていた。葉子は生来こんなみじめな真暗な思いに捕えられたことがなかった。それは生命がみすみす自分から離れて行くのを見守るほどみじめで真暗だった。この人を自分から離れさすくらいなら殺してみせる、そう葉子はとっさに思いつめてみたりした。
葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事務長に倒れかかりたい衝動を強いてじっと堪《こら》えながら、綺麗に整えられた寝台にようやく腰を下ろした。美妙な曲線を長く描いてのどかに開いた眉《まゆ》根《ね》は痛ましく眉《み》間《けん》に集まって、急に痩《や》せたかと思うほど細った鼻筋は恐ろしく感傷的な痛痛しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装った服装までが、皮肉の反語のように小《こ》股《また》の切れあがった痩せ形なその肉を痛ましく虐《しいた》げた。長い袖《そで》の下で両手の指を折れよとばかり組み合わせて、何もかも裂いて捨てたいヒステリックな衝動を懸命に抑えながら、葉子は唾《つば》も飲みこめないほど狂おしくなってしまっていた。
事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇なあきれた顔つきをして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリッパを脱ぎ落としたその白足袋の足もとから、やや乱れた束髪までをしげしげと見上げながら、
「どうしたんです」
と訝《いぶか》るごとく聞いた。葉子はひったくるようにさそくに返事をしようとしたけれども、どうしてもそれができなかった。倉地はその様子を見ると今度はまじめになった。そして口の端《はた》まで持って行った葉巻をそのままトレイ《*》の上に置いて立ち上がりながら、
「どうしたんです」
ともう一度聞きなおした。それと同時に、葉子も思いきり冷酷に、
「どうもしやしません」
と言うことができた。二人の言葉がもつれ返ったように、二人の不思議な感情ももつれ合った。もうこんなところにはいない、葉子はこの上の圧迫には堪えられなくなって、華やかな裾を蹴《け 》乱《みだ》しながらまっしぐらに戸口の方に走り出ようとした。事務長はその瞬間に葉子のなよやかな肩をさえぎりとめた。葉子はさえぎられてぜひなく事務テーブルの側に立ちすくんだが、誇りも恥も弱さも忘れてしまっていた。どうにでもなれ、殺すか死ぬかするのだ、そんなことを思うばかりだった。こらえにこらえていた涙を流れるに任せながら、事務長の大きな手を肩に感じたままで、しゃくり上げて恨めしそうに立っていたが、手近に飾ってある事務長の家族の写真を見ると、かっと気がのぼせて前後のわきまえもなく、それを引ったくるとともに両手にあらん限りの力をこめて、人殺しでもするような気負いでずたずたに引き裂いた。そして揉《も》みくたになった写真の屑《くず》を男の胸も透れと投げつけると、写真のあたったそのところに噛みつきもしかねまじき狂乱の姿となって、捨て身に武者ぶりついた。事務長は思わず身を退《ひ》いて両手を伸ばして走りよる葉子をせき止めようとしたが、葉子は我れにもなく我武者にすり入って、男の胸に顔を伏せた。そして両手で肩の服地を爪も立てよとつかみながら、しばらく歯を喰《く》いしばって震えているうちに、それがだんだんすすり泣きに変わって行って、しまいにはさめざめと声を立てて泣きはじめた。そしてしばらくは葉子の絶望的な泣き声ばかりが部屋の静かさをかき乱して響いていた。
突然葉子は倉地の手を自分の背中に感じて、電気にでも触れたように驚いて飛び退《の》いた。倉地に泣きながらすがりついた葉子が倉地からどんなものを受け取らねばならぬかは知れきっていたのに、優しい言葉でもかけてもらえるかのごとく振舞った自分の矛盾にあきれて、恐ろしさに両手で顔を蔽《おお》いながら部屋の隅に退《さが》って行った。倉地はすぐ近寄って来た。葉子は猫に見込まれた金糸雀《カナリヤ》のように身《み》悶《もだ》えしながら部屋の中を逃げにかかったが、事務長は手もなく追いすがって、葉子の二の腕を捕えて力まかせに引き寄せた。葉子も本気にあらん限りの力を出してさからった。しかしその時の倉地はもうふだんの倉地ではなくなっていた。今朝写真を見ていた時、後ろから葉子を抱きしめたその倉地が目ざめていた。怒った野獣に見る狂暴な、防ぎようのない力が嵐《あらし》のように男の五体をさいなむらしく、倉地はその力の下に呻《うめ》きもがきながら、葉子にまっしぐらにつかみかかった。
「また俺《おれ》を馬鹿にしやがるな」
という言葉が喰いしばった歯の間から雷のように葉子の耳を打った。
ああこの言葉――このむき出しな有《う》頂《ちよう》天《てん》な昂《こう》奮《ふん》した言葉こそ葉子が男の口から確かに聞こうと待ち設けた言葉だったのだ。葉子は乱暴な抱擁の中にそれを聞くとともに、心の隅に軽い余裕のできたのを感じて自分というものがどこかの隅に頭を擡《もた》げかけたのを覚えた。倉地のとった態度に対して作為のある応対ができそうにさえなった。葉子は前どおりすすり泣きを続けてはいたが、その涙の中にはもう偽りの滴《しずく》すら交っていた。
「いやです放して」
こう言った言葉も葉子にはどこか戯曲的な不自然な言葉だった。しかし倉地は反対に葉子の一語一語に酔いしれて見えた。
「誰が離すか」
事務長の言葉はみじめにもかすれおののいていた。葉子はどんどん失ったところを取り返して行くように思った。そのくせその態度は反対にますます頼りなげなやるせないものになっていた。倉地の広い胸と太い腕との間に羽がいに抱きしめられながら、小鳥のようにぶるぶると震えて、
「本当に離してくださいまし」
「いやだよ」
葉子は倉地の接吻を右に左によけながら、さらに激しくすすり泣いた。倉地は致命傷を受けた獣のように呻いた。その腕には悪魔のような血の流れるのが葉子にも感ぜられた。葉子はほどを見計らっていた。そして男の張りつめた情欲の糸が絶ち切れんばかりに緊張した時、葉子はふと泣きやんできっと倉地の顔を振り仰いだ。その眼からは倉地が思いもかけなかった鋭い強い光が放たれていた。
「本当に放していただきます」
ときっぱり言って、葉子は機敏にちょっとゆるんだ倉地の手をすりぬけた。そして逸《いち》早《はや》く部屋を横筋かいに戸口まで逃げのびて、ハンドルに手をかけながら、
「あなたは今朝この戸に鍵《かぎ》をおかけになって、……それは手《て》籠《ご》めです……私……」
と言って少し情に激して俯《うつ》向《む》いてまた何か言い続けようとするらしかったが、突然戸を開けて出て行ってしまった。
取り残された倉地はあきれてしばらく立っているようだったが、やがて英語で乱暴な呪《じゆ》詛《そ》を口走りながら、いきなり部屋を出て葉子の後を追って来た。そして間もなく葉子の部屋のところに来てノックした。葉子は鍵をかけたまま黙って答えないでいた。事務長はなお二、三度ノックを続けていたが、いきなり何か大声で物を言いながら船医の興録の部屋にはいるのが聞こえた。
葉子は興録が事務長のさしがねでなんとか言いに来るだろうとひそかに心待ちにしていた。ところがなんとも言って来ないばかりか、船医室からはときどきあたりをはばからない高笑いさえ聞こえて、事務長は容易にその部屋を出て行きそうな気配もなかった。葉子は昂奮に燃え立ついらいらした心でそこにいる事務長の姿をいろいろ想像していた。ほかのことは一つも頭の中にははいって来なかった。そしてつくづく自分の心の変わり方の激しさに驚かずにはいられなかった。「定子! 定子!」葉子は隣にいる人を呼び出すような気で小さな声を出してみた。その最愛の名を声にまで出してみても、その響きの中には忘れていた夢を思い出したほどの反応《こたえ》もなかった。どうすれば人の心というものはこんなにまで変わり果てるものだろう。葉子は定子を憐《あわ》れむよりも、自分の心を憐れむために涙ぐんでしまった。そしてなんの気なしに小卓の前に腰をかけて、大切なものの中にしまっておいた、そのころ日本では珍しいファウンテン・ペンを取り出して、筆の動くままにそこにあった紙きれに字を書いてみた。
「女の弱き心につけ入りたもうはあまりに酷《むご》き御心とただ恨めしく存じまいらせそろ妾《わらわ》の運命はこの船に結ばれたる奇《く》しきえにしや候いけん心がらとは申せ今は過去のすべて未来のすべてを打ち捨ててただ眼の前の恥ずかしき思いに漂うばかりなる根なし草の身となり果てまいらせそろをこともなげに見やりたもうが恨めしく恨めしく死」
となんの工夫もなく、よく意味もわからないで一《いつ》瀉《しや》千里に書き流してきたが、「死」という字に来ると、葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのままを事務長に言ってやるのは、思い存分自分をもてあそべと言ってやるのと同じことだった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きで汚していた。
と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。葉子は我れにもなく頭《つむり》を上げて、しばらく聞き耳を立ててから、そっと戸口に歩み寄ったが、後はそれなりまた静かになった。
葉子は恥ずかしげに座に戻った。そして紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いてみたりしながら、ずきんずきんと痛む頭をぎゅっと肘《ひじ》をついた片手で押えてなんということもなく考えつづけた。
念が届けば木村にも定子にもなんの用があろう。倉地の心さえつかめば後は自分の意地一つだ。そうだ。念が届かなければ……念が届かなければ……届かなければあらゆるものに用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。……どうして……私はどうして……けれども……葉子はいつの間にか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなおぼこな思いが潜んでいたかと思うと、抱いて撫《な》でさすってやりたいほど自分が可愛ゆくもあった。そして木部と別れて以来絶えて味わわなかったこの甘い情緒に自分からほだされ溺《おぼ》れて、心中でもする人のような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。
やがて酔いつぶれた人のように頭《つむり》を擡《もた》げた時は、疾《と》うに日がかげって部屋の中には華《はな》やかに電燈がともっていた。
いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっと思った。その時葉子の部屋の戸にどたりと突きあたった人の気配がして、「早月《さつき》さん」と濁って塩がれた事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上がってたじろぎながら部屋の隅に逃げかくれた。そして体じゅうを耳のようにしていた。
「早月さんお願いだ。ちょっと開けてください」
葉子は手早く小机の上の紙を屑《くず》籠《かご》になげ棄てて、ファウンテン・ペンを物蔭に放りこんだ。そしてせかせかとあたりを見廻したが、あわてながら眼窓のカーテンを閉《し》めきった。そしてまた立ちすくんだ、自分の心の恐ろしさにまどいながら。
外部では握り拳《こぶし》で続けさまに戸を敲《たた》いている。葉子はそわそわと裾《すそ》前《まえ》をかき合わせて、肩越しに鏡を見やりながら涙を拭いて眉《まゆ》を撫でつけた。
「早月さん!!」
葉子はややしばしとつおいつ躊《ちゆう》躇《ちよ》していたが、とうとう決心して、何かあわてくさって、鍵をがちがちやりながら戸を開けた。
事務長はひどく酔ってはいって来た。どんなに飲んでも顔色もかえないほどの強《ごう》酒《しゆ》な倉地が、こんなに酔うのは珍しいことだった。締めきった戸に仁《に》王《おう》立ちによりかかって、冷然とした様子で離れて立つ葉子をまじまじと見すえながら、
「葉子さん、葉子さんが悪ければ早月さんだ。早月さん……僕のすることはするだけの覚悟があってするんですよ。僕はね、横浜以来あなたに惚《ほ》れていたんだ。それがわからないあなたじゃないでしょう。暴力? 暴力がなんだ。暴力は愚かな事《こ》った。殺したくなれば殺しても進《し》んぜるよ」
葉子はその最後の言葉を聞くと瞑眩《めまい》を感ずるほど有頂天になった。
「あなたに木村さんというのがついてるくらいは、横浜の支店長から聞かされとるんだが、どんな人だか僕はもちろん知りませんさ。知らんが僕のほうがあなたに深《ふか》惚《ぼ》れしとることだけは、この胸三寸でちゃんと知っとるんだ。それ、それがわからん? 僕は恥も何もさらけ出して言っとるんですよ。これでもわからんですか」
葉子は眼をかがやかしながら、その言葉を貪《むさぼ》った。噛みしめた。そして呑《の》み込んだ。
こうして葉子にとって運命的な一日は過ぎた。
一八
その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟《さん》橋《ばし》に"Car to the Town. Fare 15¢《*》"と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓から見やられた。米国への上陸が禁ぜられている支那の苦力《クリー》がここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に騒々しくなった。事務長は忙しいとみえてその夜はついに葉子の部屋に顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなるほど葉子はたとえようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着した不安からこれほどまで綺麗に遠ざかり得るものとは思いも設けていなかった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立って躍《おど》りたいほどの ecstasy《*》を苦もなく押え得る強い力の潜んだ平和だった。すべてのことに飽き足った人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いにはじめて勝って兜《かぶと》を脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢のように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて燈火を見つめていた。倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれどもなんといっても心安かった。ともすれば微笑が唇《くちびる》の上をさざなみのようにひらめき過ぎた。
けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度は掌《てのひら》を返したように変わってしまった。一夜の間にこれほどの変化を惹《ひ》き起こすことのできる力を、葉子は田川夫人のほかに想像し得なかった。田川夫人が世に時めく良人《おつと》を持って、人の眼に立つ交際をして、女盛りと言い条、もういくらか降り坂であるのに引きかえて、どんな人の配偶にしてみても恥ずかしくない才能と容《よう》貌《ぼう》とを持った若若しい葉子のたよりなげな身の上とが、二人に近づく男たちに同情の軽重を起こさせるのはもちろんだった。しかし道徳はいつでも田川夫人のような立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使うことを忘れない種類の人であった。そして船客たちの葉子に対する同情の底に潜む野心――はかない、野心とも言えないほどの野心――もう一つ言い換えれば、葉子の記憶に親切な男として、勇《ゆう》悍《かん》な男として、美貌な男として残りたいというほどな野心――に絶望の断定を与えることによって、その同情を引っ込めさせることのできるのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまったことも不快の一つだった。こんなことから事務長と葉子との関係は巧妙な手段で逸《いち》早《はや》く船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子はたちまち船中の社交から葬られてしまった。少なくとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対してよそよそしい態度をしてみせるようになった。中にもいちばん憐れなのは岡だった。誰がなんと告げ口したのか知らないが、葉子が朝おそく眼を覚《さま》して甲板に出てみると、いつものように手《て》欄《すり》に倚《よ》りかかって、もう内海になった波の色を眺めていた彼は、葉子の姿を認めるやいなや、ふいとその場をはずして、どこかへ影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで幽霊のようだった。船の中にいることだけは確かだが、葉子がどうかしてその姿を見つけたと思うと、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。そのくせ葉子は思わぬ時に、岡がどこかで自分を見守っているのを確かに感ずることがたびたびだった。葉子はその岡を憐れむことすらもう忘れていた。
結句船の中の人たちから度外視されるのを気安いこととまでは思わないでも、葉子はかかる結果にはいっこう無頓着だった。もう船は今日シヤトルに着くのだ。田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」の下に苦々しい思いをするのも今日限りだ。そう葉子は平気で考えていた。
しかし船がシヤトルに着くということは、葉子にほかの不安を持ち来たさずにはおかなかった。
シカゴに行って半年か一年木村と連れ添うほかはあるまいとも思った。しかし木部の時でも二か月とは同棲していなかったとも思った。倉地と離れては一日でもいられそうにはなかった。しかしこんなことを考えるには船がシヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はそのことは第一に考えてくれているに違いない。葉子は今の平和を強いてこんな問題でかき乱すことを欲しなかったばかりでなくとてもできなかった。
葉子はそのくせ、船客と顔を見合わせるのが不快でならなかったので、事務長に頼んで船橋に上げてもらった。船は今瀬《せ》戸《と》内《うち》のような狭い内海を動揺もなく進んでいた。船長はビクトリアで傭《やと》い入れた水先案内と二人ならんで立っていたが、葉子を見るといつものとおり顔を真赤にしながら帽子を取って挨拶した。ビスマークのような顔をして、船長より一《ひと》がけも二《ふた》がけも大きい白髪の水先案内はふと振り返ってじっと葉子を見たが、そのまま向きなおって、
「Charmin' little lassie! wha'is that?《*》」
とスコットランド風な強い発音で船長に尋ねた。葉子にはわからないつもりで言ったのだ。船長があわてて何かささやくと、老人はからからと笑ってちょっと首を引っ込ませながら、もう一度振り返って葉子を見た。
その毒気なくからからと笑う声が、恐ろしく気に入ったばかりでなく、乾いて晴れ渡った秋の朝の空となんとも言えない調和をしていると思いながら葉子は聞いた。そしてその老人の背中でも撫でてやりたいような気になった。船は小《こ》動《ゆる》ぎもせずにアメリカ松の生え茂った大島小島の間を縫って、舷《げん》側《そく》に来てぶつかるさざなみの音ものどかだった。そして昼近くなってちょっとした岬《みさき》をくるりと船がかわすと、やがてポート・タウンセンドに着いた。そこでは米国官憲の検査が型ばかりあるのだ。崩《くず》した崕《がけ》の土で埋め立てをして造った、桟橋まで小さな漁村で、四角な箱に窓を明けたような、なまなましい一色のペンキで塗り立てた二、三階建ての家並みが、嶮《けわ》しい斜面に沿うて、高く低く立ち連なって、岡の上には水上げの風車が、青空に白い羽根をゆるゆる動かしながら、かったんこっとんとのんきらしく音を立てて廻っていた。鴎《かもめ》が群れをなして猫に似た声で啼《な》きながら、船の周《まわ》りを水に近くのどかに飛び廻るのを見るのも、葉子には絶えて久しい物珍しさだった。飴《あめ》屋《や》の呼び売りのような声さえ町の方から聞こえて来た。葉子はチャート・ルームの壁にもたれかかって、ぽかぽかと射す秋の日の光を頭から浴びながら、静かな恵み深い心で、この小さな町の小さな生活の姿を眺めやった。そして十四日の航海の間に、いつの間にか海の心を心としていたのに気がついた。放《ほう》埓《らつ》な、移り気な、想像も及ばぬパッションにのたうち廻って呻《うめ》き悩むあの大海原――葉子は失われた楽園を慕い望むイヴのように、静かに小さくうねる水の皺《しわ》を見やりながら、はるかな海の上の旅路を思いやった。
「早月さん、ちょっとそこからでいい、顔を貸してください」
すぐ下で事務長のこう言う声が聞こえた。葉子は母に呼び立てられた少女のように、嬉《うれ》しさに心をときめかせながら、船橋の手《て》欄《すり》から下を見下ろした。そこに事務長が立っていた。
「One more over there, look!《*》」
こう言いながら、米国の税関吏らしい人に葉子を指さして見せた。官吏はうなずきながら手帳に何か書き入れた。
船は間もなくこの漁村を出発したが、出発すると間もなく事務長は船橋に昇って来た。
「Here we are! Seattle is as good as reached now.《*》」
船長にともなく葉子にともなく言っておいて、水先案内と握手しながら、
「Thanks to you.」
とつけ足した。そして三人でしばらく快活に四《よ》方《も》山《やま》の話をしていたが、ふと思い出したように葉子を顧みて、
「これからまた当分は眼が廻るほど忙しくなるで、その前にちょっと御相談があるんだが、下に来てくれませんか」
と言った。葉子は船長にちょっと挨拶を残して、すぐ事務長の後に続いた。階《はし》子《ご》段《だん》を降りる時でも、眼の先に見える頑《がん》丈《じよう》な広い肩から一種の不安が抜け出て来て葉子に逼《せま》ることはもうなかった。自分の部屋の前まで来ると、事務長は葉子の肩に手をかけて戸を開けた。部屋の中には三、四人の男が濃く立ちこめた煙草の煙の中にところ狭く立ったり腰をかけたりしていた。そこには興録の顔も見えた。事務長は平気で葉子の肩に手をかけたままはいって行った。
それは始終事務長や船医と一かたまりのグループを作って、サルンの小さなテーブルを囲んでウイスキーを傾けながら、ときどき他の船客の会話に無遠慮な皮肉や茶々を入れたりする連中だった。日本人が着るといかにも嫌《いや》味《み》に見えるアメリカ風の背広も、さして取ってつけたようには見えないほど、太平洋を幾度も往来したらしい人たちで、どんな職業に従事しているのか、そういう見分けには人一倍鋭敏な観察力を持っている葉子にすら見当がつかなかった。葉子がはいって行っても、彼らは格別自分たちの名前を名乗るでもなく、いちばん安楽な椅子に腰かけていた男が、それを葉子に譲って、自分は二つに折れるように小さくなって、すでに一人腰かけている寝台に曲がりこむと、一同はその様子に声を立てて笑ったが、すぐまた前どおり平気な顔をして勝手な口をききはじめた。それでも一座は事務長には一《いち》目《もく》置いているらしく、また事務長と葉子との関係も、事務長から残らず聞かされている様子だった。葉子はそういう人たちの間にあるのを結句気安く思った。彼らは葉子を下級船員のいわゆる「姉御」扱いにしていた。
「向こうに着いたらこれで悶《もん》着《ちやく》ものだぜ。田川の嬶《かかあ》め、あいつ、一《ひと》味《み》噌《そ》擦《す》らずにおくまいて」
「因《いん》業《ごう》な生まれだなあ」
「なんでも正面から打《ぶ》っ突かって、いさくさ言わせず決めてしまうほかはないよ」
などと彼らは戯《じよう》談《だん》ぶった口調で親身な心持ちを言い現わした。事務長は眉《まゆ》も動かさずに、机に倚《よ》りかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。その中の一人は甲《か》斐《い》絹《き》のどてらを着ていた。
「このままこの船でお帰りなさるがいいね」
とそのどてらを着た中年の世渡り巧者らしいのが葉子の顔を窺《うかが》い窺い言うと、事務長は少し屈託らしい顔をしてものうげに葉子を見やりながら、
「私もそう思うんだがどうだ」
と訊《たず》ねた。葉子は、
「さあ……」
と生返事をするほかなかった。はじめて口をきく幾人もの男の前で、とっかわ物を言うのがさすがにおっくうだった。興録は事務長の意向を読んで取ると、分別ぶった顔をさし出して、
「それに限りますよ。あなた一つ病気におなりなさりゃ世話なしですさ。上陸したところが急に動くようにはなれない。またそういう体では検疫がとやかくやかましいに違いないし、この間のように検疫所で真裸にされるようなことでも起これば、国際問題だのなんだのって始末におえなくなる。それよりは出帆まで船に寝ていらっしゃるほうがいいと、そこは私が大丈夫やりますよ。そしておいて船の出ぎわになってやはりどうしてもいけないと言えばそれっきりのもんでさあ」
「なに、田川の奥さんが、木村っていうのに、味噌さえしこたま擦《す》ってくれればいちばんええのだが」
と事務長は船医の言葉を無視した様子で、自分の思うとおりをぶっきらぼうに言ってのけた。
木村はそのくらいなことで葉子から手を引くようなはきはきした気象の男ではない。これまでもずいぶんいろいろな噂《うわさ》が耳にはいったはずなのに「僕はあの女の欠陥も弱点も皆んな承知している。私生児のあるのももとより知っている。ただ僕はクリスチャンである以上、なんとでもして葉子を救い上げる。救われた葉子を想像してみたまえ。僕はその時いちばん理想的な better halfを持ち得ると信じている」と言ったことを聞いている。東北人のねんじりむっつりしたその気象が、葉子には第一我慢のしきれない嫌《けん》悪《お》の種だったのだ。
葉子は黙って皆んなの言うことを聞いているうちに、興録の軍略がいちばん実際的だと考えた。そしてなれなれしい調子で興録を見やりながら、
「興録さん、そうおっしゃれば私仮《け》病《びよう》じゃないんですの。この間じゅうから診《み》ていただこうかしらと幾度か思ったんですけれども、あんまり大げさらしいんで我慢していたんですが、どういうもんでしょう……少しは船に乗る前からでしたけれども……お腹《なか》のここが妙にときどき痛むんですのよ」
と言うと、寝台に曲がりこんだ男はそれを聞きながらにやりにやり笑い始めた。葉子はちょっとその男をにらむようにしていっしょに笑った。
「まあ機《しお》の悪い時にこんなことを言うもんですから、痛い腹まで探られますわね……じゃ興録さん後《のち》ほど診ていただけて?」
事務長の相談というのはこんな他愛もないことで済んでしまった。
二人きりになってから、
「では私これから本当の病人になりますからね」
葉子はちょっと倉地の顔をつついて、その唇に触れた。そしてシヤトルの市街から起こる煤《ばい》煙《えん》が遠くにぼんやり望まれるようになったので、葉子は自分の部屋に帰った。そして洋風の白い寝衣《ねまき》に着かえて、髪を長い編下げにして寝床にはいった。戯《じよう》談《だん》のようにして興録に病気の話をしたものの、葉子は実際かなり長い以前から子宮を害しているらしかった。腰を冷やしたり、感情が激《げつ》昂《こう》したりした後では、きっと収縮するような痛みを下腹部に感じていた。船に乗った当座は、しばらくの間は忘れるようにこの不快な痛みから遠ざかることができて、幾年ぶりかで申しどころのない健康のよろこびを味わったのだったが、近ごろはまただんだん痛みが激しくなるようになってきていた。半身が麻《ま》痺《ひ》したり、頭が急にぼーっと遠くなることも珍しくなかった。葉子は寝床にはいってから、軽い疼《いた》みのあるところをそっと平手で擦《さす》りながら、船がシヤトルの波止場に着く時のありさまを想像してみた。しておかなければならないことが数かぎりなくあるらしかったけれども、何をしておくということもなかった。ただなんでもいいせっせと手当たり次第したくをしておかなければ、それだけの心尽くしを見せておかなければ、もくろみどおり首尾が運ばないように思ったので、一ぺん横になったものをまたむくむくと起き上がった。
まず昨日着た派手な衣類がそのまま散らかっているのをたたんでトランクの中にしまいこんだ。臥《ね》る時まで着ていた着物は、わざと華《はな》やかな長《なが》襦《じゆ》袢《ばん》や裏地が見えるように衣《え》紋《もん》竹《だけ》に通して壁にかけた。事務長の置き忘れて行ったパイプや帳簿のようなものは丁寧に抽《ひき》出《だし》に隠した。古藤が木村と自分とに宛《あ》てて書いた二通の手紙を取り出して、古藤がしておいたように、枕の下に差しこんだ。鏡の前には二人の妹と木村との写真を飾った。それから大事なことを忘れていたのに気がついて、廊下越しに興録を呼び出して薬《くすり》瓶《びん》や病床日記を調《ととの》えるように頼んだ。興緑の持って来た薬瓶から薬を半分がた痰《たん》壺《つぼ》に捨てた。日本から木村に持って行くように託された品々をトランクから取り分けた。その中からは故郷を思い出させるようないろいろな物が出て来た。香《にお》いまでが日本というものをほのかに心に触れさせた。
葉子は忙《せわ》しく働かしていた手を休めて、部屋の真ん中に立ってあたりを見廻してみた。萎《しぼ》んだ花束が取り除《の》けられてなくなっているばかりで、あとは横浜を出た時のとおりの部屋の姿になっていた。旧《ふる》い記憶が香のように染みこんだそれらの物を見ると、葉子の心は我れにもなくふとぐらつきかけたが、涙もさそわずに淡く消えて行った。
フォクスルで起重機の音がかすかに響いて来るだけで、葉子の部屋は妙に静かだった。葉子の心は風のない池か沼の面のようにただどんよりと澱《よど》んでいた。体はなんのわけもなくだるくものうかった。
食堂の時計が引きしまった音で三時を打った。それを合図のように汽笛がすさまじく鳴り響いた。港にはいった合図をしているのだなと思った。と思うと今まで鈍く脈打つように見えていた胸が急に激しく騒ぎ動きだした。それが葉子の思いも設けぬ方向に動きだした。もうこの長い船旅も終わったのだ。十四、五の時から新聞記者になる修業のために来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。来たいとは思いながら本当に来ようとは夢にも思わなかった米国に着いたのだ。それだけのことで葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は狂うような心を強いて押し鎮《しず》めながら、船の着くのを埠《ふ》頭《とう》に立って涙ぐみつつ待っているだろう。そう思いながら葉子の眼は木村や二人の妹の写真の方にさまよって行った。それとならべて写真を飾っておくこともできない定子のことまでが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、膝《ひざ》に抱き上げて愛撫してやる母親にもはぐれたあの子は今あの池の端《はた》の淋《さび》しい小家で何をしているのだろう。笑っているかと想像してみるのも悲しかった。泣いているかと想像してみるのも憐《あわ》れだった。そして胸の中が急にわくわくとふさがってきて、堰《せ》きとめる暇《いとま》もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで寝台の側に駈《か》けよって、枕もとにおいといたハンケチを拾い上げて眼《め》頭《がしら》に押しあてた。すなおな感傷的な涙がただわけもなく後から後から流れた。この不意の感情の裏切りにはしかし引き入れられるような誘惑があった。だんだん底深く沈んで哀《かな》しくなって行くその思い、なんの思いとも定めかねた深い、わびしい、悲しい思い。恨みや怒りを綺《き》麗《れい》に拭《ぬぐ》い去って、あきらめきったようにすべてのものをただしみじみとなつかしくみせるその思い。いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母、……なぜこんななつかしい世に自分の心だけがこう哀しく一人《ひとり》ぼっちなのだろう。なぜ世の中は自分のようなものを憐れむしかたを知らないのだろう。そんな感じの零細な断片がつぎつぎに涙に濡《ぬ》れて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らずそれらの感じにしっかりすがりつこうとしたけれども無益だった。感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い際涯《はてし》のない悲哀が、愛憎のすべてをただ一色に染めなして、どんよりと拡《ひろ》がっていた。生を呪《のろ》うよりも死が願われるような思いが、逼《せま》るでもなく離れるでもなく、葉子の心にまつわりついた。葉子は果ては枕に顔を伏せて、本当に自分のためにさめざめと泣き続けた。
こうして小《こ》半《はん》時《とき》もたった時、船は桟橋に繋《つな》がれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子はものうげに頭を擡《もた》げてみた。ハンケチは涙のためにしぼるほど濡れて丸まっていた。水夫らが繋《つなぎ》綱《づな》を受けたりやったりする音と、鋲《びよう》釘《くぎ》を打ちつけた靴で甲板を歩き廻る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりしたとりとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。
と突然戸外で事務長の、
「ここがお部屋です」
と言う声がした。それがまるで雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっとなった。準備をしておくつもりでいながらなんの準備もできていないことも思った。今の心持ちは平気で木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、立ち上がってもどうすることもできないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがばと伏さってしまった。
戸が開いた。
「戸が開いた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中で呻《うめ》いた。そして息気《いき》もとまるほど身内がしゃちこばってしまっていた。
「早月さん、木村さんが見えましたよ」
事務長の声だ。ああ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁の方に顔を向けた。……事務長の声だ……。
「葉子さん」
木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく二人の顔を見ることはどうしてもできない。葉子は二人に背《うし》ろを向けますます壁の方にもがきよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。
「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を……後《ご》生《しよう》ですから今この部屋を……出てくださいまし……」
木村はひどく不安げに葉子に倚《よ》りそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と嫌《けん》悪《お》とのために身をちぢめて壁にしがみついた。
「痛い……いけません……お腹が……早く出て……早く……」
事務長は木村を呼び寄せて何かしばらくひそひそ話し合っているようだったが、二人ながら跫《あし》音《おと》を盗んでそっと部屋を出て行った。葉子はなおも息気《いき》も絶え絶えに、
「どうぞ出て……あっちに行って……」
と言いながら、いつまでも泣き続けた。
一九
しばらくの間食堂で事務長と通り一遍の話でもしているらしい木村が、ころを見計らって再度葉子の部屋の戸を敲《たた》いた時にも、葉子はまだ枕に顔を伏せて、不思議な感情の渦《うず》巻《まき》の中に心を浸していたが、木村が一人ではいって来たのに気づくと、はじめて弱々しく横向きに寝なおって、二の腕まで袖《そで》口《ぐち》のまくれた真白な手をさし延べて、黙ったまま木村と握手した。木村は葉子の激しく泣いたのを見てから、こらえこらえていた感情がさらに嵩《こう》じたものか、涙をあふれんばかり眼《め》頭《がしら》にためて、厚ぼったい唇を震わせながら、痛々しげに葉子の顔つきを見入って突っ立った。
葉子は、今まで続けていた沈黙の惰性で第一口をきくのがものうかったし、木村はなんと言いだしたものか迷う様子で、二人の間には握手のまま意味深げな沈黙が取りかわされた。その沈黙はしかし感傷的という程度であるにはあまりに長く続き過ぎたので、外界の刺《し》戟《げき》に応じて過敏なまでに満《みち》干《ひ》のできる葉子の感情は今まで浸っていた痛烈な動乱から一《ひと》皮《かわ》一《ひと》皮《かわ》平調に還《かえ》って、果てはその底に、こう嵩じては厭《いと》わしいと自分ですらが思うような冷やかな皮肉が、そろそろ頭を持ち上げるのを感じた。握り合わせたむずかゆいような手を引っ込めて、眼元まで布団《ふとん》を被《かぶ》って、そこから自分の前に立つ若い男の心の乱れを嘲《あざ》笑《わら》ってみたいような心にすらなっていた。永《なが》く続く沈黙が当然惹《ひ》き起こす一種の圧迫を木村も感じてうろたえたらしく、なんとかして二人の間の気まずさを引き裂くような、心の切なさを表わす適当の言葉を案じ求めているらしかったが、とうとう涙に潤った低い声で、もう一度、
「葉子さん」
と愛するものの名を呼んだ。それは先ほど呼ばれた時のそれに比べると、聞き違えるほど美しい声だった。葉子は、今まで、これほど切な情を籠《こ》めて自分の名を呼ばれたことはないようにさえ思った。「葉子」という名にきわだって伝奇的な色彩が添えられたようにも聞こえた。で、葉子はわざと木村と握り合わせた手に力をこめて、さらになんとか言葉をつがせてみたくなった。その眼も木村の唇に励ましを与えていた。木村は急に弁力を回復して、
「一日千秋の思いとはこのことです」
とすらすらとなめらかに言って退《の》けた。それを聞くと葉子は見事期待に背負《しよい》投《な》げを喰《く》わされて、その場の滑《こつ》稽《けい》に思わず噴き出そうとしたが、いかに事務長に対する恋に溺《おぼ》れきった女心の残虐さからも、さすがに木村の他意ない誠実を笑いきることは得しないで、葉子はただ心の中で失望したように「あれだから嫌《い》やになっちまう」とくさくさしながら喞《かこ》った。
しかしこの場合、木村と同様、葉子も恰《かつ》好《こう》な空気を部屋の中に作ることに当惑せずにはいられなかった。事務長と別れて自分の部屋に閉じ籠《こも》ってから、心静かに考えておこうとした木村に対する善後策も、思いよらぬ感情の狂いからそのままになってしまって、今になってみると、葉子はどう木村をもてあつかって好いのか、はっきりしたもくろみはできていなかった。しかし考えてみると、木《き》部《べ》孤《こ》〓《きよう》と別れた時でも、葉子には格別これという謀略があったわけではなく、ただその時々にわがままを振舞ったにすぎなかったのだけれども、その結果は葉子が何か恐ろしく深い企《たくら》みと手《て》練《くだ》を示したかのように人にとられていたことも思った。なんとかして漕《こ》ぎ抜けられないことはあるまい。そう思って、まず落ちつき払って木村に椅《い》子《す》をすすめた。木村が手近にある畳み椅子を取り上げて寝台の側《そば》に来てすわると、葉子はまたしなやかな手を木村の膝の上において、男の顔をしげしげと見やりながら、
「本当にしばらくでしたわね。少しおやつれになったようですわ」
と言ってみた。木村は自分の感情に打ち負かされて身を震わしていた。そしてわくわくと流れ出る涙が見る見る眼からあふれて、顔を伝って幾筋となく流れ落ちた。葉子は、その涙の一《ひと》零《しずく》が気まぐれにも、俯《うつ》向《む》いた男の鼻の先に宿って、落ちそうで落ちないのを見やっていた。
「ずいぶんいろいろと苦労なすったろうと思って、気が気ではなかったんですけれども、私のほうも御承知のとおりでしょう。今度こっちに来るにつけても、それは困って、ありったけのものを払ったりして、ようやく間に合わせたくらいだったもんですから……」
なお言おうとするのを木村は忙しく打ち消すようにさえぎって、
「それは十分わかっています」
と顔を上げた拍子に涙の雫がぽたりと鼻の先からズボンの上に落ちたのを見た。葉子は、泣いたために妙に脹《は》れぼったく赤くなって、てらてらと光る木村の鼻の先が急に気になりだして、悪いとは知りながらも、ともするとそこへばかり眼が行った。
木村は何からどう話し出していいかわからない様子だった。
「私の電報をビクトリヤで受け取ったでしょうね」
などともてれ隠しのように言った。葉子は受け取った覚えもないくせにいいかげんに、
「ええ、ありがとうございました」
と答えておいた。そして一《いつ》時《とき》も早くこんな息気《いき》づまるように圧迫して来る二人の間の心のもつれから逃れる術《すべ》はないかと思案していた。
「今はじめて事務長から聞いたんですが、あなたが病気だったと言ってましたが、いったいどこが悪かったんです。さぞ困ったでしょうね。そんなこととはちっとも知らずに、今が今まで、祝福された、輝くようなあなたを迎えられるとばかり思っていたんです。あなたは本当に試練の受けつづけというもんですね。どこでした悪いのは」
葉子は、不用意にも女を捕えてじかずけに病気の種類を聞きただす男の心の粗雑さを忌みながら、当たらずさわらず、前からあった胃病が、船の中で食物と気候との変わったために、だんだん嵩《こう》じてきて起きられなくなったように言い繕《つくろ》った。木村は痛ましそうに眉《まゆ》を寄せながら聞いていた。
葉子はもうこんなほどほどな会話には堪えきれなくなってきた。木村の顔を見るにつけて思い出される仙台時代や、母の死というようなことにもかなり悩まされるのをつらく思った。で、話の調子を変えるために強いていくらか快活を装って、
「それはそうとこちらの御事業はいかが」
と仕事とか様子とか言う代わりに、わざと事業という言葉をつかってこう尋ねた。
木村の顔つきは見る見る変わった。そして胸のポッケットにのぞかせてあった大きなリンネルのハンケチを取り出して、器用に片手でそれをふわりと丸めておいて、ちんと鼻をかんでから、また器用にそれをポッケットに戻すと、
「だめです」
といかにも絶望的な調子で言ったが、その眼はすでに笑っていた。サンフランシスコの領事が在留日本人の企業に対して全然冷淡で盲目であるということ、日本人間に嫉視《しつし》が激しいので、サンフランシスコでの事業のもくろみは予期以上の故障に遇《あ》ってだいたい失敗に終わったこと、思いきった発展はやはり想像どおり米国の西部よりも中央、ことにシカゴを中心として計画されなければならぬということ、幸いに、サンフランシスコで自分の話に乗ってくれるある手堅いドイツ人に取次ぎを頼んだということ、シヤトルでも相当の店を見いだしかけているということ、シカゴに行ったら、そこで日本の名誉領事をしているかなりの鉄物商の店にまず住み込んで米国における取引きの手心を呑《の》み込むと同時に、その人の資本の一部を動かして、日本との直《じか》取《とり》引《ひ》きを始める算段であるということ、シカゴの住まいはもう決まって、借りるべきフラットの図面まで取り寄せてあるということ、フラットは不経済のようだけれども部屋の明いた部分を又《また》貸《が》しをすれば、たいして高いものにもつかず、住まい便利は非常にいいということ……そういう点にかけては、なかなか綿密に行き届いたもので、それをいかにも企業家らしい説服的な口調で順序よく述べて行った。会話の流れがこう変わってくると、葉子ははじめて泥の中から足を抜き上げたような気軽な心持ちになって、ずっと木村を見つめながら、聞くともなしにその話に聞き耳を立てていた。木村の容貌はしばらくの間に見違えるほど refine されて《*》、元から白かったその皮膚は何か特殊な洗料で底光りのするほど磨《みが》きがかけられて、日本人とは思えぬまでなめらかなのに、油で綺《き》麗《れい》に分けた濃い黒髪は、西洋人の金髪にはまた見られぬような趣きのある対照をその白《はく》皙《せき》の皮膚に与えて、カラーとネクタイの関係にも人に気のつかぬ凝り方を見せていた。
「会いたてからこんなことを言うのは恥ずかしいですけれども、実際今度という今度は苦闘しました。ここまで迎いに来るにもろくろく旅費がない騒ぎでしょう」
と言ってさすがに苦しげに笑いにまぎらそうとした。そのくせ木村の胸にはどっしりと重そうな金鎖がかかって、両手の指には四つまで宝石入りの指輪がきらめいていた。葉子は木村の言うことを聞きながらその指に眼をつけていたが、四つの指輪の中に婚約の時取りかわした純金の指輪もまじっているのに気がつくと、自分の指にはそれを箝《は》めていなかったのを思い出して、何喰わぬ様子で木村の膝《ひざ》の上から手を引っ込めて顎《あご》まで布団《ふとん》を被《かぶ》ってしまった。木村は引っ込められた手に追いすがるように椅《い》子《す》を乗り出して、葉子の顔に近く自分の顔をさし出した。
「葉子さん」
「なに?」
また Love-scene か。そう思って葉子はうんざりしたけれども、すげなく顔を背《そむ》けるわけにもいかず、やや当惑していると、おりよく事務長が型ばかりのノックをしてはいって来た。葉子は寝たまま、眼でいそいそと事務長を迎えながら、
「まあようこそ……さきほどは失礼。なんだかくだらないことを考えだしていたもんですから、ついわがままをしてしまって済みません……お忙しいでしょう」
と言うと、事務長はからかい半分の冗談をきっかけに、
「木村さんの顔を見るとえらいことを忘れていたに気がついたで。木村さんからあなたに電報が来とったのを、私ゃビクトリヤのどさくさでころり忘れとったんだ。済まんことでした。こんな皺《しわ》になりくさった」
と言いながら、左のポケットから折り目に煙草の粉がはさまって揉《も》みくちゃになった電報紙を取り出した。木村は先刻《さつき》葉子がそれを見たと確かに言ったその言葉に対して、怪《け》訝《げん》な顔つきをしながら葉子を見た。些《さ》細《さい》なことではあるが、それが事務長にも関係を持つことだと思うと、葉子もちょっとどぎまぎせずにはいられなかった。しかしそれはただ一瞬間だった。
「倉地さん、あなたは今日少しどうかなすっていらっしゃるわ。それはその時ちゃんと拝見したじゃありませんか」
と言いながらすばやく眼くばせすると、事務長はすぐ何かわけがあるのを気《け》取《ど》ったらしく、巧みに葉子にばつを合わせた。
「なに? あなた見た?……おおそうそう……これは寝ぼけ返っとるぞ、はははは」
そして互いに顔を見合わせながら二人はしたたか笑った。木村はしばらく二人をかたみがわりに見《み》較《くら》べていたが、これもやがて声を立てて笑いだした。木村の笑いだすのを見た二人は無性におかしくなってもう一度新しく笑いこけた。木村という大きな邪魔者を眼の前に据《す》えておきながら、互いの感情が水のように苦もなく流れ通うのを二人は子供らしく楽しんだ。
しかしこんな悪戯《いたずら》めいたことのために話はちょっと途切れてしまった。くだらないことに二人から湧《わ》き出た少しぎょうさん過ぎた笑いは、かすかながら木村の感情を害《そこ》ねたらしかった。葉子は、この場合、なお居残ろうとする事務長を遠ざけて、木村とさし向いになるのが得策だと思ったので、ほどもなくきまじめな顔つきに返って、枕の下を探って、そこに入れておいた古藤の手紙を取り出して木村に渡しながら、
「これをあなたに古藤さんから。古藤さんにはずいぶんお世話になりましてよ。でもあのかたのぶまさかげんったら、それはじれったいほどね。愛や貞の学校のこともお頼みして来たんですけれども心もとないもんよ。きっと今ごろは喧《けん》嘩《か》腰《ごし》になって皆んなと談判でもしていらっしゃるでしょうよ。見えるようですわね」
と水を向けると、木村ははじめて話の領分が自分の方に移って来たように、顔色をなおしながら、事務長をそっちのけにした態度で、葉子に対しては自分が第一の発言権を持っていると言わんばかりに、いろいろと話しだした。事務長はしばらく風向きを見計らって立っていたが突然部屋を出て行った。葉子はすばやくその顔色を窺《うかが》うと妙にけわしくなっていた。
「ちょっと失礼」
木村の癖で、こんな時まで妙によそよそしく断わって、古藤の手紙の封を切った。西洋罫《けい》紙《し》にペンで細かく書いた幾枚かのかなり厚いもので、それを木村が読み終わるまでには暇がかかった。その間、葉子は仰《あお》向《む》けになって、甲板で盛んに荷揚げしている人足らの騒ぎを聞きながら、やや暗くなりかけた光で木村の顔を見やっていた。少し眉《まゆ》根《ね》を寄せながら、手紙に読みふける木村の表情には、ときどき苦痛や疑惑やの色が往《い》ったり来たりした。読み終わってからほっとした溜《ため》息《いき》とともに木村は手紙を葉子に渡して、
「こんなことを言ってよこしているんです。あなたに見せてもかまわないとあるから御覧なさい」
と言った。葉子は別に読みたくもなかったが、多少の好奇心も手伝うのでとにかく眼を通してみた。
「僕は今度くらい不思議な経験を嘗《な》めたことはない。兄が去って後の葉子さんの一身に関して、責任を持つことなんか、僕はしたいと思ってもできはしないが、もし明白に言わせてくれるなら、兄はまだ葉子さんの心を全然占領したものとは思われない」
「僕は女の心には全く触れたことがないと言っていいほどの人間だが、もし僕の事実だと思うことが不幸にして事実だとすると、葉子さんの恋には――もしそんなのが恋と言えるなら――だいぶ余裕があると思うね」
「これが女の tact というものかと思ったようなことがあった。しかし僕にはわからん」
「僕は若い女の前に行くと変にどぎまぎしてしまってろくろく物も言えなくなる。ところが葉子さんの前では全く異なった感じで物が言える。これは考えものだ」
「葉子さんという人は兄が言うとおりに優れた天《てん》賦《ぷ》を持った人のようにも実際思える。しかしあの人はどこか片輪じゃないかい」
「明白に言うと僕はああいう人はいちばん嫌《きら》いだけれども、同時にまたいちばん牽《ひ》きつけられる、僕はこの矛盾を解きほごしてみたくなってたまらない。僕の単純を許してくれたまえ。葉子さんは今までのどこかで道を間違えたのじゃないかしらん。けれどもそれにしてはあまり平気だね」
「神は悪魔に何一つ与えなかったが Attraction だけは与えたのだ。こんなことも思う。……葉子さんの Attraction はどこから来るんだろう。失敬失敬。僕は乱暴を言い過ぎてるようだ」
「ときどきは憎むべき人間だと思うが、ときどきはなんだか可哀そうで可哀そうでたまらなくなる時がある。葉子さんがここを読んだら、おそらく唾《つば》でも吐きかけたくなるだろう。あの人は可哀そうな人のくせに、可哀そうがられるのが嫌いらしいから」
「僕には結局葉子さんが何がなんだかちっともわからない。僕は兄が彼女を選んだ自信に驚く。しかしこうなった以上は、兄は全力を尽くして彼女を理解してやらなければいけないと思う。どうか兄らの生活が最後の栄冠に至らんことを神に祈る」
こんな文句が断片的に葉子の心に沁《し》みて行った。葉子は激しい侮《ぶ》蔑《べつ》を小鼻に見せて、手紙を木村に戻した。木村の顔にはその手紙を読み終えた葉子の心の中を見透そうとあせるような表情が現われていた。
「こんなことを書かれてあなたどう思います」
葉子はこともなげにせせら笑った。
「どうも思いはしませんわ。でも古藤さんも手紙の上では一枚がた男を上げていますわね」
木村の意気込みはしかしそんなことではごまかされそうにはなかったので、葉子はめんどうくさくなって少し険《けわ》しい顔になった。
「古藤さんのおっしゃることは古藤さんのおっしゃること。あなたは私と約束なさった時から私を信じ私を理解してくださっていらっしゃるんでしょうね」
木村は恐ろしい力をこめて、
「それはそうですとも」
と答えた。
「そんならそれで何も言うことはないじゃありませんか。古藤さんなどの言うこと――古藤さんなんぞにわかられたら人間も末ですわ――でもあなたはやっぱりどこか私を疑っていらっしゃるのね」
「そうじゃない……」
「そうじゃないことがあるもんですか。私はいったんこうと決めたらどこまでもそれで通すのが好き。それは生きてる人間ですもの、こっちの隅《すみ》あっちの隅と小さなことを捕えてとがめだてを始めたら際限はありませんさ。そんな馬鹿なことったらありませんわ。私みたいな気《き》随《ずい》なわがまま者はそんなふうにされたら窮屈で窮屈で死んでしまうでしょうよ。私がこんなになったのも、つまり、皆んなで寄ってたかって私を疑い抜いたからです。あなただってやっぱりその一人かと思うと心細いもんですのね」
木村の眼は輝いた。
「葉子さん、それは疑い過ぎというもんです」
そして自分が米国に来てから嘗《な》め尽くした奮闘生活もつまりは葉子というものがあればこそできたので、もし葉子がそれに同情と鼓《こ》舞《ぶ》とを与えてくれなかったら、その瞬間に精も根も枯れ果ててしまうに違いないということを繰り返し繰り返し熱心に説いた。葉子はよそよそしく聞いていたが、
「うまくおっしゃるわ」
と留《とど》めをさしておいて、しばらくしてから思い出したように、
「あなた田川の奥さんにお遇《あ》いなさって」
と尋ねた。木村はまだ遇わなかったと答えた。葉子は皮肉な表情をして、
「いまにきっとお遇いになってよ。いっしょにこの船でいらしったんですもの。そして五十《いそ》川《がわ》の小母《おば》さんが私の監督をお頼みになったんですもの。一度お遇いになったらあなたはきっと私なんぞ見向きもなさらなくなりますわ」
「どうしてです」
「まあお遇いなさって御覧なさいまし」
「何かあなた批難を受けるようなことでもしたんですか」
「ええええたくさんしましたとも」
「田川夫人に? あの賢夫人の批難を受けるとは、いったいどんなことをしたんです」
葉子はさも愛《あい》想《そ》が尽きたというふうに、
「あの賢夫人!」
と言いながら高々と笑った。二人の感情の糸はまたも糾《もつ》れてしまった。
「そんなにあの奥さんにあなたの御信用があるのなら、私から申しておくほうが早手廻しですわね」
と葉子は半分皮肉な半分まじめな態度で、横浜出航以来夫人から葉子が受けた暗《あん》々《あん》裡《り》の圧迫に尾《お》鰭《ひれ》をつけて語ってきて、事務長と自分との間に何かあたりまえでない関係でもあるような疑いを持っているらしいということを、他人《ひと》事《ごと》でも話すように冷静に述べて行った。その言葉の裏には、しかし葉子に特有な火のような情熱が閃《ひらめ》いて、その眼は鋭く輝いたり涙ぐんだりしていた。木村は電火にでも打たれたように判断力を失って、一部始終をぼんやりと聞いていた。言葉だけにもどこまでも冷静な調子を持たせ続けて葉子はすべてを語り終わってから、
「同じ親切にも真《しん》底《そこ》からのと、通り一遍のと二つありますわね。その二つがどうかしてぶつかり合うと、いつでも本当の親切のほうが悪者扱いにされたり、邪魔者に見られるんだからおもしろうござんすわ。横浜を出てから三日ばかり船に酔ってしまって、どうしましょうと思った時にも、御親切な奥さんは、わざと御遠慮なさってでしょうね、三度三度食堂にはお出になるのに、一度も私のほうへはいらしってくださらないのに、事務長ったら幾度もお医者さんを連れて来るんですもの、奥さんのお疑いももっともと言えばもっともですの。それに私が胃病で寝込むようになってからは、船中のお客様がそれは同情してくださって、いろいろとしてくださるのが、奥さんには大のお気に入らなかったんですの。奥さんだけが私を親切にしてくださって、ほかのかたは皆んな寄ってたかって、奥さんを親切にして上げてくださる段取りにさえなれば、何もかも無事だったんですけれどもね、中でも事務長の親切にして上げ方がいちばん足りなかったんでしょうよ」
と言葉を結んだ。木村は唇《くちびる》を噛《か》むように聞いていたが、いまいましげに、
「わかりましたわかりました」
合点しながらつぶやいた。
葉子は額の生えぎわの短い毛を引っ張っては指に巻いて上眼で眺めながら、皮肉な微笑を唇のあたりに浮かばして、
「おわかりになった? ふん、どうですかね」
と空《そら》うそぶいた。
木村は何を思ったかひどく感傷的な態度になっていた。
「私が悪かった。私はどこまでもあなたを信ずるつもりでいながら、他人の言葉に多少とも信用をかけようとしていたのが悪かったのです。……考えてください、私は親類や友人のすべての反対を犯してここまで来ているのです。もうあなたなしには私の生涯は無意味です。私を信じてください。きっと十年を期して男になってみせますから……もしあなたの愛から私が離れなければならんようなことがあったら……私はそんなことを思うに堪えない……葉子さん」
木村はこう言いながら眼を輝かしてすり寄って来た。葉子はその思いつめたらしい態度に一種の恐怖を感ずるほどだった。男の誇りも何も忘れ果て、捨て果てて、葉子の前に誓いを立てている木村を、うまうま偽っているのだと思うと、葉子はさすがに針で突くような痛みを鋭く深く良心の一隅に感ぜずにはいられなかった。しかしそれよりもその瞬間に葉子の胸を押しひしぐように狭《せば》めたものは、底のないものすごい不安だった。木村とはどうしても連れ添う心はない。その木村に……葉子は溺《おぼ》れた人が岸辺を望むように事務長を思い浮かべた。男というものの女に与える力を今さらに強く感じた。ここに事務長がいてくれたらどんなに自分の勇気は加わったろう。しかし……どうにでもなれ。どうかしてこの大事な瀬戸を漕《こ》ぎぬけなければ浮かぶ瀬はない。葉子は大それた謀《む》反《ほん》人《にん》の心で木村の caress《*》 を受くべき身構え心構えを案じていた。
二〇
船の着いたその晩、田川夫妻は見舞いの言葉も別れの言葉も残さずに、大ぜいの出迎え人に囲まれて堂々と威儀を整えて上陸してしまった。その余の人々の中にはわざわざ葉子の部屋を訪れて来たものが数人はあったけれども、葉子はいかにも親しみをこめた別れの言葉を与えはしたが、後まで心に残る人とては一人もいなかった。その晩事務長が来て、狭っこい boudoir《*》のような船室で晩《おそ》くまでしめじめと打ち語った間に、葉子はふと二度ほど岡のことを思っていた。あんなに自分を慕っていはしたが岡も上陸してしまえば、詮《せん》方《かた》なくボストンの方に旅立つ用意をするだろう。そしてやがて自分のこともいつとはなしに忘れてしまうだろう。それにしてもなんという上品な美しい青年だったろう。こんなことをふと思ったのもしかし束《つか》の間で、その追憶は心の戸を敲《たた》いたと思うとはかなくもどこかに消えてしまった。今はただ木村という邪魔な考えが、もやもやと胸の中に立ち迷うばかりで、その奥には事務長の打ち勝ちがたい暗い力が、魔王のように小《こ》動《ゆる》ぎもせずうずくまっているのみだった。
荷役の目まぐるしい騒ぎが二日続いた後の絵島丸は、泣きわめく遺族に取り囲まれた虚《うつ》ろな死《し》骸《がい》のように、がらんと静まり返って、騒々しい桟橋の雑《ざつ》閙《とう》の間に淋《さび》しく横たわっている。
水夫が、輪切りにした椰《や》子《し》の実で汚《よご》れた甲板を単調にごしごしごしごしと擦《こす》る音が、時というものをゆるゆる磨《す》り減らすやすりのように日がな日ねもす聞こえていた。
葉子は早く早くここを切り上げて日本に帰りたいという子供じみた考えのほかには、おかしいほどそのほかの興味を失ってしまって、他郷の風景に一《いち》瞥《べつ》を与えることも厭《いと》わしく、自分の部屋の中に籠《こも》りきって、ひたすら発船の日を待ちわびた。もっとも木村が毎日米国という香を鼻をつくばかり身の廻りに漂わせて、葉子を訪れて来るので、葉子はうっかり寝床を離れることもできなかった。
木村は来るたびごとにぜひ米国の医者に健康診断を頼んで、大事なければ思いきって検疫官の検疫を受けて、ともかくも上陸するようにと勧めてみたが、葉子はどこまでもいやを言い通すので、二人の間にはときどき危険な沈黙が続くことも珍しくなかった。葉子はしかし、いつでも手ぎわよくその場合場合を操《あやつ》って、それから甘い歓語を引き出すだけの機才《ウイツト》を持ち合わしていたので、この一か月ほど見知らぬ人の間に立ち交って、貧乏の屈辱を存分に嘗《な》め尽くした木村は、見る見る温柔な葉子の言葉や表情に酔いしれるのだった。カリフォルニヤから来るみずみずしい葡萄《ぶどう》やバナナを器用な経《きよう》木《ぎ》の小《こ》籃《かご》に盛ったり、美しい花束を携えたりして、葉子の朝化粧がしまったかと思うころには木村が欠かさず尋ねて来た。そして毎日くどくどと興録に葉子の容態を開き糺《ただ》した。興録はいいかげんなことを言って一日延ばしに延ばしているのでたまらなくなって木村が事務長に相談すると、事務長は興録よりもさらに要領を得ない受け答えをした、しかたなしに木村は途方に暮れて、また葉子に帰って来て泣きつくように上陸を迫るのであった。その毎日のいきさつを夜になると葉子は事務長と話しあって笑いの種にした。
葉子はなんということなしに、木村を困らしてみたい、いじめてみたいというような不思議な残酷な心を、木村に対して感ずるようになっていった。事務長と木村とを目の前に置いて、何も知らない木村を、事務長が一流のきびきびした悪《あく》辣《らつ》な手で思うさま翻《ほん》弄《ろう》して見せるのを眺めて楽しむのが一種の痼《こ》疾《しつ》のようになった。そして葉子は木村を通して自分の過去のすべてに血のしたたる復讐をあえてしようとするのだった。そんな場合に、葉子はよくどこかでうろ覚えにしたクレオパトラの插《そう》話《わ》を思い出していた。クレオパトラが自分の運命の窮迫したのを知って自殺を思い立った時、幾人も奴隷を目の前に引き出さして、それを毒蛇の餌《え》食《じき》にして、その幾人もの無《む》辜《こ》の《*》人々が悶《もだ》えながら絶命するのを、眉《まゆ》も動かさずに見ていたという插話を思い出していた。葉子には過去のすべての呪《じゆ》詛《そ》が木村の一身に集まっているようにも思いなされた。母の虐《しいた》げ、五十川女史の術数、近親の圧迫、社会の環視、女に対する男の覬《き》覦《ゆ*》、女の苟《こう》合《ごう*》などという葉子の敵を木村の一身におっかぶせて、それに女の心が企《たくら》み出す残虐なしうちのあらん限りを瀉《そそ》ぎかけようとするのであった。
「あなたは丑《うし》の刻《こく》参《まい》りの藁《わら》人《にん》形《ぎよう*》よ」
こんなことをどうかした拍子に面と向かって木村に言って、木村が怪《け》訝《げん》な顔でその意味を〓《く》みかねているのを見ると、葉子は自分にもわけのわからない涙を眼にいっぱい溜《た》めながらヒステリカルに笑いだすようなこともあった。
木村を払い捨てることによって、蛇が殻を抜け出ると同じに、自分のすべての過去を葬ってしまうことができるようにも思いなしてみた。
葉子はまた事務長に、どれほど木村が自分の思うままになっているかを見せつけようとする誘惑も感じていた。事務長の眼の前ではずいぶん乱暴なことを木村に言ったりさせたりした。ときには事務長のほうが見かねて二人の間をなだめにかかることさえあるくらいだった。
ある時木村の来ている葉子の部屋に事務長が来合わせたことがあった。葉子は枕もとの椅子に木村を腰かけさせて、東京を発《た》った時の様子を委《くわ》しく話して聞かせているところだったが、事務長を見るといきなり様子をかえて、さもさも木村を疎《うと》んじたふうで、
「あなたは向こうにいらしってちょうだい」
と木村を向こうのソファに行くように眼で指《さし》図《ず》して、事務長をその跡にすわらせた。
「さ、あなたこちらへ」
と言って仰《あお》向《む》けに寝たまま上《うわ》眼《め》をつかって見やりながら、
「いいお天気のようですことね。……あのときどきごーっと雷のような音のするのは何?……私うるさい」
「トロですよ」
「そう……お客様がたんとおありですってね」
「さあ少しは知っとるものがあるもんだで」
「昨夕《ゆうべ》もその美しいお客がいらしったの? とうとうお話にお見えにならなかったのね」
木村を前に置きながら、この無謀とさえ見える言葉を遠慮会釈もなく言いだすのには、さすがの事務長もぎょっとしたらしく、返事もろくろくしないで木村の方に向いて、
「どうですマッキンレーは。驚いたことが持ち上がりおったもんですね」
と話題を転じようとした。この船の航海中シヤトルに近くなったある日、当時の大統領マッキンレーは兇徒の短銃に斃《たお》れたので、この事件は米国での噂《うわさ》の中心になっているのだった。木村はその当時の模様を委しく新聞紙や人の噂で知り合わせていたので、乗り気になってその話に身を入れようとするのを、葉子はにべもなくさえぎって、
「なんですねあなたは、貴夫人の話の腰を折ったりして、そんなごまかしくらいではだまされてはいませんよ。倉地さん、どんな美しいかたです。アメリカ生《きつ》粋《すい》の人ってどんななんでしょうね。私、見たい。遇《あ》わしてくださいましな今度来たら。ここに連れて来てくださるんですよ。他のものなんぞなんにも見たくはないけれど、こればかりはぜひ見とうござんすわ。そこにいくとね、木村なんぞはそりゃあ野《や》暮《ぼ》なもんですことよ」
と言って、木村のいる方をはるかに下《した》眼《め》で見やりながら、
「木村さんどう? こっちにいらしってからちっとは女のお友だちがおできになって? Lady Friend というのが?」
「それができんでたまるか」
と事務長は木村の内行を見抜いて裏書きするように大きな声で言った。
「ところができていたらお慰み、そうでしょう? 倉地さんまあこうなの。木村が私をもらいに来た時にはね。石のように堅くすわりこんでしまって、まるで命の取りやりでもしかねない談判のしかたですのよ。そのころ母は大病で臥《ふせ》っていましたの。なんとか母におっしゃってね、母に。私、忘れちゃならない言葉がありましたわ。ええと……そうそう(木村の口調を上手にまねながら)『私、もしほかの人に心を動かすようなことがありましたら神様の前に罪人です』ですって……そういう調子ですもの」
木村は少し怒気をほのめかす顔つきをして、遠くから葉子を見つめたまま口もきかないでいた。事務長はからからと笑いながら、
「それじゃ木村さん今ごろは神様の前にいいくらかげん罪人になっとるでしょう」
と木村を見返したので、木村もやむなく苦りきった笑いを浮かべながら、
「己れをもって人を計る筆法ですね」
と答えはしたが、葉子の言葉を皮肉と解して、人前でたしなめるにしてはやや軽過ぎるし、冗談と見て笑ってしまうにしては確かに強過ぎるので、木村の顔色は妙にぎごちなくこだわってしまっていつまでも晴れなかった。葉子は唇だけに軽い笑いを浮かべながら、胆《たん》汁《じゆう》の漲《みなぎ》ったようなその顔を下眼で快げにまじまじと眺めやった。そして苦い清涼剤でも飲んだように胸のつかえを透かしていた。
やがて事務長が座を立つと、葉子は、眉をひそめて快からぬ顔をした木村を、強いてまた旧《もと》のように自分の側《そば》近くすわらせた。
「いやな奴っちゃないの。あんな話でもしていないと、ほかになんにも話の種のない人ですの……あなたさぞ御迷惑でしたろうね」
と言いながら、事務長にしたように上眼に媚《こび》を集めてじっと木村を見た。しかし木村の感情はひどくほつれて、容易に解ける様子はなかった。葉子を故意に威圧しようと企《たく》らむわざとな改まり方も見えた。葉子は悪戯《いたずら》者《もの》らしく腹の中でくすくす笑いながら、木村の顔を好意をこめた眼つきで眺め続けた。木村の心の奥には何か言いだしてみたいくせに、なんとなく腹の中が見透かされそうで、言いだしかねている物があるらしかったが、途切れがちながら話が小《こ》半《はん》時《とき》も進んだ時、とてつもなく、
「事務長は、なんですか、夜になってまであなたの部屋に話しに来ることがあるんですか」
とさりげなく尋ねようとするらしかったが、その語尾は我れにもなく震えていた。葉子は陥穽《わな》にかかった無知な獣を憫《あわ》れみ笑うような微笑を唇に浮かべながら、
「そんなことがされますものかこの小さな船の中で。考えても御覧なさいまし。さきほど私が言ったのは、このごろは毎晩夜になると暇なので、あの人たちが食堂に集まって来て、酒を飲みながら大きな声でいろんなくだらない話をするんですの。それがよくここまで聞こえるんです。それに昨夜《ゆうべ》あの人が来なかったからからかってやっただけなんですのよ。このごろは質《たち》の悪い女までが隊を組むようにしてどっさり船に来て、それは騒々しいんですの。……ほほほほあなたの苦労性ったらない」
木村は取りつく島を見失って、二の句がつげないでいた。それを葉子は可愛い眼を上げて、無邪気な顔をして見やりながら笑っていた。そして事務長がはいって来た時途切らした話の糸口を見事に忘れずに拾い上げて、東京を発《た》つ時の模様をまた仔《し》細《さい》に話しつづけた。
こうしたふうで葛《かつ》藤《とう》は葉子の手一つで勝手に紛《まぎ》らされたりほごされたりした。
葉子は一人の男をしっかりと自分の把《は》持《じ》の中に置いて、それが猫が鼠でも弄《な》ぶるように、勝手に弄ぶって楽しむのをやめることができなかったと同時に、ときどきは木村の顔を一眼見たばかりで、虫《むし》唾《ず》が走るほど厭《えん》悪《お》の情に駆り立てられて、我れながらどうしていいかわからないこともあった。そんな時にはただ一図に腹痛を口実にして、一人になって、腹立ち紛れにあり合わせたものを取って床の上に抛《ほう》ったりした。もう何もかも言ってしまおう。もてあそぶにも足らない木村を近づけておくには当たらないことだ。何もかも明らかにして気分だけでもさっぱりしたいとそう思うこともあった。しかし同時に葉子は戦術家の冷静さをもって、実際問題を勘定に入れることも忘れはしなかった。事務長をしっかり自分の手の中に握るまでは、早計に木村を逃がしてはならない。「宿屋きめずに草鞋《わらじ》を脱ぐ」……母がこんなことを葉子の小さい時に教えてくれたのを思い出したりして、葉子は一人で苦笑いもした。
そうだ、まだ木村を逃がしてはならぬ。葉子は心の中に書き記《しる》してでもおくように、上眼を使いながらこんなことを思った。
またある時葉子の手もとに米国の切手の貼《は》られた手紙が届いたことがあった。葉子は船へなぞ宛《あ》てて手紙をよこす人はないはずだがと思って開いてみようとしたが、また例の悪戯《いたずら》な心が動いて、わざと木村に開封させた。その内容がどんなものであるかの想像もつかないので、それを木村に読ませるのは、武器を相手に渡しておいて、自分は素手で格闘するようなものだった。葉子はそこに興味を持った。そしてどんな不意な難題が持ち上がるだろうかと、心をときめかせながら結果を待った。その手紙は葉子に簡単な挨《あい》拶《さつ》を残したまま上陸した岡から来たものだった。いかにも人柄に不似合いな下手《へた》な字体で、葉子がひょっとすると上陸を見合わせてそのまま帰るということを聞いたが、もしそうなったら自分も断然帰朝する。気違いじみた仕《し》業《わざ》とお笑いになるかもしれないが、自分にはどう考えてみてもそれよりほかに道はない。葉子に離れて路傍の人の間に伍《ご》したらそれこそ狂気になるばかりだろう。今まで打ち明けなかったが、自分は日本でも屈指な豪商の身内に一人子と生まれながら、体が弱いのと母が継母であるために、父の慈悲から洋行することになったが、自分には故国が慕われるばかりでなく、葉子のように親しみを覚えさしてくれた人はないので、葉子なしには一刻も外国の土に足を止めていることはできぬ。兄弟のない自分には葉子が前世からの姉とより思われぬ。自分を憐《あわ》れんで弟と思ってくれ。せめては葉子の声の聞こえるところ顔の見えるところにいるのを許してくれ。自分はそれだけの憐れみを得たいばかりに、家族や後見人の譏《そし》りもなんとも思わずに帰国するのだ。事務長にもそれを許してくれるように頼んでもらいたい。ということが、少し甘い、しかし真率な熱情をこめた文体で長々と書いてあったのだった。
葉子は木村が問うままに包まず岡との関係を話して聞かせた。木村は考え深く、それを聞いていたが、そんな人ならぜひ遇《あ》って話をしてみたいと言いだした。自分より一段若いと見ると、かくばかり寛大になる木村を見て葉子は不快に思った。よし、それでは岡を通して倉地との関係を木村に知らせてやろう。そして木村が嫉妬《しつと》と憤《ふん》怒《ぬ》とで真黒になって帰って来た時、それを思うまま操《あやつ》ってまた元の鞘《さや》に納めてみせよう。そう思って葉子は木村の言うままに任せておいた。
次の朝、木村は深い感激の色を湛《たた》えて船に来た。そして岡と会見した時の様子を委《くわ》しく物語った。岡はオリエンタル・ホテルの立派な一室にたった一人でいたが、そのホテルには田川夫妻も同宿なので、日本人の出入りがうるさいと言って困っていた。木村の訪問したというのを聞いて、ひどくなつかしそうな様子で出迎えて、兄でも敬うようにもてなして、やや落ちついてから隠し立てなく真率に葉子に対する自分の憧憬のほどを打ち明けたので、木村は自分の言おうとする告白を、他人の口からまざまざと聞くような切《せつ》な情にほだされて、もらい泣きまでしてしまった。二人は互いに相憐れむというようななつかしみを感じた。これを縁に木村はどこまでも岡を弟とも思って親しむつもりだ。が、日本に帰る決心だけは思い止《とど》まるように勧めておいたと言った。岡はさすがに育ちだけに事務長と葉子との間のいきさつを想像に任せて、はしたなく木村に語ることはしなかったらしい。木村はそのことについてはなんとも言わなかった。葉子の期待は全くはずれてしまった。役者下手なために、せっかくの芝居が芝居にならずにしまったことを物足らなく思った。しかしこのことがあってから岡のことがときどき葉子の頭に浮かぶようになった。女にしてもみまほしいかの華《きや》車《しや》な青春の姿がどうかするといとしい思い出となって、葉子の心の隅《すみ》に潜むようになった。
船がシヤトルに着いてから五、六日経《た》って、木村は田川夫妻にも面会する機会を造ったらしかった。そのころから木村は突然傍《わき》目《め》にもそれと気がつくほど考え深くなって、ともすると葉子の言葉すら聞き落としてあわてたりすることがあった。そしてある時とうとう一人胸の中には納めていられなくなったとみえて、
「私にゃあなたがなぜあんな人と近しくするかわかりませんがね」
と事務長のことを噂《うわさ》のように言った。葉子は少し腹部に痛みを覚えるのをことさら誇張して脇腹を左手で押えて、眉《まゆ》をひそめながら聞いていたが、もっともらしく幾度もうなずいて、
「それは本当におっしゃるとおりですから何も好んで近づきたいとは思わないんですけれども、これまでずいぶん世話になっていますしね、それにああ見えていて思いのほか親切気のある人ですから、ボーイでも水夫でも怖《こわ》がりながらなついていますわ。おまけに私お金まで借りていますもの」
とさも当惑したらしく言うと、
「あなたお金は無しですか」
木村は葉子の当惑さを自分の顔にも現わしていた。
「それはお話ししたじゃありませんか」
「困ったなあ」
木村はよほど困りきったらしく握った手を鼻の下にあてがって、下を向いたまましばらく思案に暮れていたが、
「いくらほど借りになっているんです」
「さあ診察料や滋養品で百円近くにもなっていますかしらん」
「あなたは金は全く無しですね」
木村はさらに繰り返して言って溜《ため》息気《いき》をついた。
葉子は物慣れぬ弟を教えいたわるように、
「それに万一私の病気がよくならないで、ひとまず日本へでも帰るようになれば、なおなお帰りの船の中では世話にならなければならないでしょう。……でも大丈夫そんなことはないとは思いますけれども、さきざきまでの考えをつけておくのが旅にあればいちばん大事ですもの」
木村はなおも握った手を鼻の下に置いたなり、なんにも言わず、身動きもせず考え込んでいた。
葉子は術《すべ》なさそうに木村のその顔をおもしろく思いながらまじまじと見やっていた。
木村はふと顔を上げてしげしげと葉子を見た。何かそこに字でも書いてありはしないかとそれを読むように。そして黙ったまま深々と嘆息した。
「葉子さん。私は何から何まであなたを信じているのがいいことなのでしょうか。あなたの身のためばかり思っても言うほうがいいかとも思うんですが……」
「ではおっしゃってくださいましななんでも」
葉子の口は少し親しみを籠《こ》めて冗談らしく答えていたが、その眼からは木村を黙らせるだけの光が射られていた。軽はずみなことをいやしくも言ってみるがいい、頭を下げさせないではおかないから。そうその眼はたしかに言っていた。
木村は思わず自分の眼をたじろがして黙ってしまった。葉子は片意地にも眼で続けさまに木村の顔を鞭《むち》うった。木村はその笞《しもと》の一つ一つを感ずるようにどぎまぎした。
「さ、おっしゃってくださいまし……さ」
葉子はその言葉にはどこまでも好意と信頼とをこめてみせた。木村はやはり躊《ちゆう》躇《ちよ》していた。葉子はいきなり手を延ばして木村を寝台に引きよせた。そして半分起き上がってその耳に近く口を寄せながら、
「あなたみたいにみずくさい物のおっしゃり方をなさるかたもないもんね。なんとでも思っていらっしゃることをおっしゃってくださればいいじゃありませんか。……あ、痛い……いいえさして痛くもないの。何を思っていらっしゃるんだかおっしゃってくださいまし、ね、さ。なんでしょうねえ。伺いたいことね。そんな他人行儀は……あ、あ、痛い、おお痛い……ちょっとここのところを押えてくださいまし。……さし込んで来たようで……あ、あ」
と言いながら、眼をつぶって、床の上に寝倒れると、木村の手を持ち添えて自分の脾《ひ》腹《ばら》を押えさして、つらそうに歯を喰《く》いしばってシーツに顔を埋めた。肩でつく息気《いき》がかすかに雪《せつ》白《ぱく》のシーツを震わした。
木村はあたふたしながら、今までの言葉などはそっちのけにして介抱にかかった。
二一
絵島丸はシヤトルに着いてから十二日目に纜《ともづな》を解いて帰航するはずになっていた。その出発があと三日になった十月十五日に、木村は、船医の興録から、葉子はどうしてもひとまず帰国させるほうが安全だという最後の宣告を下されてしまった。木村はその時にはもうだいたい覚悟を決めていた。帰ろうと思っている葉子の下心をおぼろげながら見て取って、それを翻すことはできないとあきらめていた。運命に従順な羊のように、しかし執《しゆう》念《ね》く将来の希望を命にして、現在の不満に服従しようとしていた。
緯度の高いシヤトルに冬の襲いかかって来るさまはすさまじいものだった。海岸線に沿うてはるか遠くまで連続して見渡されるロッキーの山々はもうたっぷりと雪がかかって、隠やかな夕空に現われ慣れた雲の峰も、古綿のように形の崩《くず》れた色の寒い霰《あられ》雲《ぐも》に変わって、人をおびやかす白いものが、今にも地を払って降りおろして来るかと思われた。海沿いに生え揃ったアメリカ松《まつ》の翠《みどり》ばかりが毒々しいほど黒ずんで、眼に立つばかりで、濶《かつ》葉《よう》樹《じゆ》の類は、いつの間にか、葉を払い落とした枝先を針のように鋭く空に向けていた。シヤトルの町並みがあると思われる辺からは――船の繋《つな》がれているところから市街は見えなかった――急に煤《ばい》煙《えん》が立ち増さって、忙《せ》わしく冬じたくを整えながら、やがて北半球を包んで攻め寄せてくる真白な寒気に対して覚《おぼ》束《つか》ない抵抗を用意するように見えた。ポッケットに両手をさし入れて、頭を縮め気味に、波止場の石畳を歩き廻る人々の姿にも、不安と焦燥との窺《うかが》われる忙わしい自然の移り変わりの中に、絵島丸はあわただしい発航の準備をし始めた。絞《こう》盤《ばん》の歯車のきしむ音が船首と船尾とからやかましく冴え返って聞こえ始めた。
木村はその日も朝から葉子を訪れて来た。ことに青白く見える顔つきは、何かわくわくと胸の中に煮え返る想《おも》いをまざまざと裏切って、見る人の憐れを誘うほどだった。背水の陣と自分でも言っているように、亡父の財産をありったけ金に代えて、手っ払いに日本の雑貨を買い入れて、こちらから通知書一つ出せば、いつでも日本から送ってよこすばかりにしてあるものの、手もとにはいささかの銭も残ってはいなかった。葉子が来たならばと金の上にも心の上にもあてにしていたのが見事にはずれてしまって、葉子が帰るにつけては、なけなしのところからまたまたなんとかしなければならないはめに立った木村は、二、三日のうちに、糠《ぬか》喜びも一時の間で、孤独と冬とに囲まれなければならなかった。
葉子は木村が結局事務長にすがり寄って来るほかに道のないことを察していた。
木村ははたして事務長を葉子の部屋に呼び寄せてもらった。事務長はすぐやって来たが、服なども仕事着のままで何かよほどせわしそうに見えた。木村はまあと言って倉地に椅《い》子《す》を与えて、今日はいつものすげない態度に似ず、おりいっていろいろと葉子の身の上を頼んだ。事務長は始めの忙しそうだった様子に引きかえて、どっしりと腰を据えて正面から例の大きく木村を見やりながら、親身に耳を傾けた。木村の様子のほうがかえってそわそわしく眺めやられた。
木村は大きな紙入れを取り出して、五十弗《ドル》の切手を葉子に手渡しした。
「何もかも御承知だから倉地さんの前で言うほうが世話なしだと思いますが、なんと言ってもこれだけしかできないんです。こ、これです」
と言って淋《さび》しく笑いながら、両手を出して拡《ひろ》げて見せてから、チョッキをたたいた。胸にかかっていた重そうな金鎖も、四つまで箝《は》められていた指輪の三つまでも失くなっていて、たった一つ婚約の指輪だけが貧乏臭く左の指にはまっているばかりだった。葉子はさすがに「まあ」と言った。
「葉子さん、私はどうにでもします。男一匹なりゃどこにころがり込んだからって、――そんな経験もおもしろいくらいのものですが、これんばかりじゃあなたが足りなかろうと思うと、面目もないんです。倉地さん、あなたにはこれまでさえいいかげん世話をしていただいてなんとも済みませんですが、私ども二人はお打ち明け申したところ、こういうていたらくなんです。横浜へさえおとどけくださればその先はまたどうにでもしますから、もし旅費にでも不足しますようでしたら、御迷惑ついでになんとかしてやっていただくことはできないでしょうか」
事務長は腕組みをしたまままじまじと木村の顔を見やりながら聞いていたが、
「あなたはちっとも持っとらんのですか」
と聞いた。木村はわざと快活に強いて声高く笑いながら、
「綺《き》麗《れい》なもんです」
とまたチョッキをたたくと、
「そりゃいかん。なに、船賃なんぞいりますものか。東京で本店にお払いになればいいんじゃし、横浜の支店長も万事心得とられるんだで、御心配いりませんわ。そりゃあなたお持ちになるがいい。外国にいて文《もん》なしでは心細いもんですよ」
と例の塩《しお》辛《から》声《ごえ》でやや不《ふ》機《き》嫌《げん》らしく言った。その言葉には不思議に重々しい力がこもっていて、木村はしばらくかれこれと押し問答をしていたが、結局事務長の親切を無にするこの気の毒さに、直《すぐ》な心からなおいろいろと旅中の世話を頼みながら、また大きな紙入れを取り出して切手をたたみ込んでしまった。
「よしよしそれで何も言うことはなし。早月《さつき》さんはわしが引き受けた」
と不敵な微笑を浮かべながら、事務長ははじめて葉子の方を見返った。
葉子は二人を眼の前に置いて、いつものように見比べながら二人の会話を聞いていた。あたりまえなら、葉子はたいていの場合、弱いものの味方をしてみるのが常だった。どんな時でも、強いものがその強みを振りかざして弱い者を圧迫するのを見ると、葉子はかっとなって、理が非でも弱いものを勝たしてやりたかった。今の場合木村は単に弱者であるばかりでなく、その境遇もみじめなほどたよりない苦しいものであることは存分に知り抜いていながら、木村に対しての同情は不思議にも湧《わ》いてこなかった。齢《とし》の若さ、姿のしなやかさ、境遇のゆたかさ、才能の華《はな》やかさというようなものをたよりにする男たちの蠱《こ》惑《わく》の力は、事務長の前では吹けば飛ぶ塵《ちり》のごとく対照された。この男の前には、弱いものの哀れよりも醜さがさらけ出された。
なんという不幸な青年だろう。若い時に父親に死に別れてから、万事思いのままだった生活からいきなり不自由な浮世のどん底に放り出されながら、めげもせずにせっせと働いて、後ろ指をさされないだけの世渡りをして、誰からも働きのある行く末頼もしい人と思われながら、それでも心の中の淋しさを打ち消すために思い入った恋人は仇《あだ》し男に反《そむ》いてしまっている。それをまたそうとも知らずに、その男の情けにすがって、消えるに決まった約束をのがすまいとしている。……葉子は強いて自分を説服するようにこう考えてみたが、少しも身にしみた感じは起こってこないで、ややもすると笑いだしたいような気にすらなっていた。
「よしよしそれで何も言うことはなし。早月さんはわしが引き受けた」
という声と不敵な微笑とがどやすように葉子の心の戸を打った時、葉子も思わず微笑を浮かべてそれに応じようとした。が、その瞬間、眼ざとく木村の見ているのに気がついて、顔には笑いの影は微《み》塵《じん》も現わさなかった。
「わしへの用はそれだけでしょう。じゃ忙《せわ》しいで行きますよ」
とぶっきらぼうに言って事務長が部屋を出て行ってしまうと、残った二人は妙にてれて、しばらくは互いに顔を見合わすのもはばかって黙ったままでいた。
事務長が行ってしまうと葉子は急に力が落ちたように思った。今までのことがまるで芝居でも見て楽しんでいたようだった。木村のやるせない心の中が急に葉子に逼《せま》って来た。葉子の眼には木村を憐れむとも自分を憐れむとも知れない涙がいつの間にか宿っていた。
木村は痛ましげに黙ったままでしばらく葉子を見やっていたが、
「葉子さん今になってそう泣いてもらっちゃ私がたまりませんよ。機《き》嫌《げん》をなおしてください。またいい日も廻って来るでしょうから。神を信ずるもの――そういう信仰が今あなたにあるかどうか知らないが――お母さんがああいう堅い信者でありなさったし、あなたも仙台時分には確かに信仰を持っていられたと思いますが、こんな場合にはなおさら同じ神様から来る信仰と希望とを持って進んで行きたいものだと思いますよ。何事も神様は知っていられる……そこに私はたゆまない希望をつないで行きます」
決心したところがあるらしく力強い言葉でこう言った。何の希望! 葉子は木村のことについては、木村のいわゆる神様以上に木村の未来を知りぬいているのだ。木村の希望というのはやがて失望にそして絶望に終わるだけのものだ。何の信仰! 何の希望! 木村は葉子が据えた道を――行きどまりの袋小路を――天使の昇り降りする雲の梯《かけはし》のように思っている。ああ何の信仰!
葉子はふと同じ眼を自分に向けてみた。木村を勝手気ままにこづき廻す威力を備えた自分はまた誰に何者に勝手にされるのだろう。どこかで大きな手が情けもなく容赦もなく冷然と自分の運命を操《あやつ》っている。木村の希望がはかなく断ち切れる前、自分の希望が逸《いち》早《はや》く断たれてしまわないとどうして保証することができよう。木村は善人だ。自分は悪人だ。葉子はいつの間にか純な感情に捕えられていた。
「木村さん。あなたはきっと、しまいにはきっと祝福をお受けになります……どんなことがあっても失望なさっちゃいやですよ。あなたのようなよいかたが不幸にばかりお遇《あ》いになるわけがありませんわ。……私は生まれるときから呪《のろ》われた女なんですもの。神、本当は神様を信ずるより……信ずるより憎むほうが似合っているんです……ま、聞いて……でも、私卑《ひ》怯《きよう》はいやだから信じます……神様は私みたいなものをどうなさるか、しっかり眼を明いて最後まで見ています」
と言っているうちに誰にともなく口惜しさが胸いっぱいにこみ上げてくるのだった。
「あなたはそんな信仰はないとおっしゃるでしょうけれども……でも私にはこれが信仰です。立派な信仰ですもの」
と言ってきっぱり思いきったように、火のように熱く眼に溜《たま》ったまま流れずにいる涙を、ハンケチでぎゅっと押し拭いながら、黯《あん》然《ぜん》と頭を乗れた木村に、
「もうやめましょうこんなお話。こんなことを言ってると、言えば言うほど先が暗くなるばかりです。ほんとに思いきって不仕合わせな人はこんなことをつべこべと口になんぞ出しはしませんわ。ね、いや、あなたは自分のほうから滅《め》入《い》ってしまって、私の言ったことくらいでなんですねえ、男のくせに」
木村は返事もせずに真青になって俯《うつ》向《む》いていた。
そこに「御免なさい」と言うかと思うと、いきなり戸を開けてはいって来たものがあった。木村も葉子も不意を打たれて気さきをくじかれながら、見ると、いつぞや錨《いかり》綱《づな》で足を怪我した時、葉子の世話になった老水夫だった。彼はとうとう跛脚《びっこ》になっていた。そして水夫のような仕事にはとても役に立たないから、幸いオークランドに小農地を持ってとにかく暮らしを立てている甥《おい》を尋ねてやっかいになることになったので、礼かたがた暇《いとま》乞《ご》いに来たというのだった。葉子は紅《あか》くなった眼を少し恥ずかしげにまたたかせながら、いろいろと慰めた。
「なにねこう老いぼれちゃ、こんな稼《か》業《ぎよう》をやってるがてんでうそなれど、事務長さんとボンスン(水夫長)とが可哀そうだと言って使ってくれるで、いい気になったが罰あたったんだね」
と言って臆《おく》病《びよう》に笑った。葉子がこの老人を憐れみいたわるさまは傍《はた》目《め》もいじらしかった。日本には伝言を頼むような近親《みより》さえない身だというようなことを聞くたびに、葉子は泣きだしそうな顔をして合点合点していたが、しまいには木村の止めるのも聞かず寝床から起き上がって、木村の持って来た果物をありったけ籃《かご》につめて、
「陸《おか》に上がればいくらもあるんだろうけれども、これを持っておいで。そしてその中に果物でなくはいっているものがあったら、それもお前さんに上げたんだからね、人に取られたりしちゃいけませんよ」
と言ってそれを渡してやった。
老人が来てから葉子は夜が明けたようにはじめて晴れやかなふだんの気分になった。そして例の悪戯《いたずら》らしいにこにこした愛《あい》嬌《きよう》を顔一面に湛《たた》えて、
「なんという気さくなんでしょう。私、あんなお爺《じい》さんのお内儀《かみ》さんになってみたい……だからね、いいものをやっちまった」
きょとりとしてまじまじ木村のむっつりとした顔を見やる様子は大きな子供とより思えなかった。
「あなたからいただいたエンゲージ・リングね、あれをやりましてよ。だってなんにもないんですもの」
なんとも言えない媚《こび》をつつむおとがいが二重になって、綺麗な歯並みが笑いのさざなみのように唇の汀《みぎわ》に寄せたり返したりした。
木村は、葉子という女はどうしてこうむら気で上すべりがしてしまうのだろう、情けないというような表情を顔一面に漲《みなぎ》らして、何か言うべき言葉を胸の中で整えているようだったが、急に思い捨てたというふうで、黙ったままでほっと深い溜息をついた。
それを見ると今まで珍しく押えつけられていた反抗心が、またもや旋風のように葉子の心に起こった。「ねちねちさったらない」と胸の中をいらいらさせながら、ついでのことに少しいじめてやろうという企《たくら》みが頭を擡《もた》げた。しかし顔はどこまでも前のままの無邪気さで、
「木村さんお土産《みやげ》を買ってちょうだいな。愛も貞もですけれども、親類たちや古藤さんなんぞにも何かしないじゃ顔が向けられませんもの。今ごろは田川の奥さんの手紙が五十川の小母さんのところに着いて、東京ではきっと大騒ぎをしているに違いありませんわ。発《た》つ時には世話を焼かせ、留守《るす》は留守で心配させ、ぽかんとしてお土産一つ持たずに帰って来るなんて、木村もいったい木村じゃないかと言われるのが、私、死ぬよりつらいから、少しは驚くほどのものを買ってちょうだい。さきほどのお金で相当のものが買《と》れるでしょう」
木村はだだっ児《こ》をなだめるようにわざとおとなしく、
「それはよろしい、買えとなら買いもしますが、私はあなたがあれを纏《まと》まったまま持って帰ったらと思っているんです。たいていの人は横浜に着いてから土産を買うんですよ。そのほうが実際恰《かつ》好《こう》ですからね。持ち合わせもなしに東京に着きなさることを思えば、土産なんかどうでもいいと思うんですがね」
「東京に着きさえすればお金はどうにでもしますけれども、お土産は……あなた横浜の仕入れものはすぐ知れますわ……御覧なさいあれを」
と言って棚《たな》の上にある帽子入れのボール箱に眼をやった。
「古藤さんに連れて行っていただいてあれを買った時は、ずいぶん吟味したつもりでしたけれども、船に来てから見ているうちにすぐ倦《あ》きてしまいましたの。それに田川の奥さんの洋服姿を見たら、我慢にも日本で買ったものを被《かぶ》ったり着たりする気にはなれませんわ」
そう言ってるうちに木村は棚から箱をおろして中をのぞいていたが、
「なるほど型はちっと古いようですね。だが品はこれならこっちでも上の部ですぜ」
「だからいやですわ。流行おくれとなると値段の張ったものほど見っともないんですもの」
しばらくしてから、
「でもあのお金はあなた御入用ですわね」
木村はあわてて弁解的に、
「いいえ、あれはどの道あなたに上げるつもりでいたんですから……」
と言うのを葉子は耳にも入れないふうで、
「ほんとに馬鹿ね私は……思いやりもなんにもないことを申し上げてしまって、どうしましょうねえ。……もう私どんなことがあってもそのお金だけはいただきませんことよ。こう言ったら誰がなんと言ったってだめよ」
ときっぱり言いきってしまった。木村はもとより一度言いだしたら後へは引かない葉子の日ごろの性分を知り抜いていた。で、言わず語らずのうちに、その金は品物にして持って帰らすよりほかに道のないことを観念したらしかった。
*     *     *
その晩、事務長が仕事を終えてから葉子の部屋に来ると、葉子は何か気に障《さ》えた風をしてろくろくもてなしもしなかった。
「とうとうかたがついた。十九日の朝の十時だよ出航は」
と言う事務長の快活な言葉に返事もしなかった。男は怪《け》訝《げん》な顔つきで見やっている。
「悪党」
としばらくしてから、葉子は一言これだけ言って事務長をにらめた。
「なんだ?」
と尻上りに言って事務長は笑っていた。
「あなたみたいな残酷な人間は私はじめて見た。木村を御覧なさい可哀そうに。あんなに手ひどくしなくったって……恐ろしい人ってあなたのことね」
「なに?」
とまた事務長は尻上りに大きな声で言って寝床に近づいて来た。
「知りません」
と葉子はなお怒って見せようとしたが、いかにも刻みの荒い、単純な、他意のない男の顔を見ると、体のどこかが揺られる気がしてきて、わざと引き締めて見せた唇《くちびる》の辺から思わずも笑いの影が潜み出た。
それを見ると事務長は苦い顔と笑った顔とをいっしょにして、
「なんだいくだらん」
と言って、電燈の近所に椅子をよせて、大きな長い脚《あし》を投げ出して、夕刊新聞を大きく開いて眼を通し始めた。
木村とは引きかえて事務長がこの部屋に来ると、部屋が小さく見えるほどだった。上向けた靴の大きさには葉子は吹き出したいくらいだった。葉子は眼で撫《な》でたりさすったりするようにして、この大きな子供みたような暴君の頭から足の先までを見やっていた。ごわっごわっとときどき新聞を折り返す音だけが聞こえて、積み荷があらかたかたづいた船室の夜は静かに更《ふ》けて行った。
葉子はそうしたままでふと木村を思いやった。
木村は銀行に寄って切手を現金に換えて、店の締まらないうちにいくらか買物をして、それを小脇に抱えながら、夕食もしたためずに、ジャクソン街にあるという日本人の旅店に帰り着くころには、町々に燈《ひ》がともって、寒い靄《もや》と煙との間を労働者たちが疲れた五体を引きずりながら歩いて行くのにたくさん出《で》遇《あ》っているだろう。小さなストーブに煙の多い石炭がぶしぶし燃えて、けばけばしい電燈の光だけが、鞭《むち》うつようにがらんとした部屋の薄《うす》穢《ぎたな》さを煌《こう》々《こう》と照らしているだろう。その光の下で、ぐらぐらする椅子に腰かけて、ストーブの火を見つめながら木村が考えている。しばらく考えてから淋《さび》しそうに見るともなく部屋の中を見廻して、またストーブの火に眺め入るだろう。そのうちにあの涙の出やすい眼からは涙がほろほろととめどもなく流れ出るに違いない。
事務長が音をたてて新聞を折り返した。
木村は膝《ひざ》頭《がしら》に手を置いて、その手の中に顔を埋めて泣いている。祈っている。葉子は倉地から眼を放して、上眼を使いながら木村の祈りの声に耳を傾けようとした。途切れ途切れな切ない祈りの声が涙にしめって確かに……確かに聞こえて来る。葉子は眉《まゆ》を寄せて注意力を集注しながら、木村が本当にどう葉子を思っているかをはっきり見《み》窮《きわ》めようとしたが、どうしても思い浮かべてみることができなかった。
事務長がまた新聞を折り返す音を立てた。
葉子ははっとして淀《よど》みに支《ささ》えられた木の葉がまた流れ始めたように、すらすらと木村の所作を想像した。それがだんだん岡の上に移って行った。哀れな岡! 岡もまだ寝ないでいるだろう。木村なのか岡なのかいつまでもいつまでも寝ないで火の消えかかったストーブの前にうずくまっているのは……更けるままにしみ込む寒さはそっと床を伝わって足の先からはいあがって来る。男はそれにも気がつかぬふうで椅子の上にうなだれている。すべての人は眠っている時に、木村の葉子も事務長に抱かれて安々と眠っている時に……。
ここまで想像してくると小説に読みふけっていた人が、ほっと溜《ため》息《いき》をしてばたんと書物をふせるように、葉子も何とはなく深い溜息をしてはっきりと事務長を見た。葉子の心は小説を読んだ時のとおり無関心の pathos をかすかに感じているばかりだった。
「おやすみにならないの?」
と葉子は鈴のように涼しい小さい声で倉地に言ってみた。大きな声をするのもはばかられるほどあたりはしんと静まっていた。
「う」
と返事はしたが事務長は煙草《たばこ》をくゆらしたまま新聞を見続けていた。葉子も黙ってしまった。
ややしばらくしてから事務長もほっと溜息をして、
「どれ寝るかな」
と言いながら椅子から立って寝床にはいった。葉子は事務長の広い胸に巣喰うように丸まって少し震《ふる》えていた。
やがて子供のようにすやすやと安らかな鼾《いびき》が葉子の唇から漏れてきた。
倉地は暗闇の中で長い間まんじりともせず大きな眼を開いていたが、やがて、
「おい悪党」
と小さな声で呼びかけてみた。
しかし葉子の規則正しく楽しげな寝息は露ほども乱れなかった。
真夜中に、恐ろしい夢を葉子は見た。よくは覚えていないが、葉子は殺してはいけないいけないと思いながら人殺しをしたのだった。一方の眼は尋常に眉の下にあるが、一方のは不思議にも眉の上にある、その男の額から黒血がどくどくと流れた。男は死んでもものすごくにやりにやりと笑い続けていた。その笑い声が木村木村と聞こえた。始めのうちは声が小さかったがだんだん大きくなって数も殖《ふ》えてきた。その「木村木村」という数限りもない声がうざうざと葉子を取り捲《ま》き始めた。葉子は一心に手を振ってそこから遁《のが》れようとしたが手も足も動かなかった。
ぞっとして寒気を覚えながら、葉子は闇の中に眼をさました。恐ろしい凶夢の名残《なご》りは、ど、ど、ど……と激しく高くうつ心臓に残っていた。葉子は恐怖におびえながら一心に暗い中をおどおどと手探りに探ると事務長の胸に触れた。
「あなた」
と小さい震え声で呼んでみたが男は深い眠りの中にあった。なんとも言えない気味悪さがこみ上げてきて、葉子は思いきり男の胸をゆすぶってみた。
しかし男は材木のように感じなく熟睡していた。
二二
どこかから菊の香がかすかに通って来たように思って葉子は快い眠りから眼を覚《さ》ました。自分の側《そば》には、倉地が頭からすっぽりと布団を被って、鼾も立てずに熟睡していた。料理屋を兼ねた旅館のに似合わしい派手な縮《ちり》緬《めん》の夜具の上にはもうだいぶ高くなったらしい秋の日の光が障子越しに射《さ》していた。葉子は往復一か月の余を船に乗り続けていたので、船《ふな》脚《あし》の揺《ゆら》めきの名残りが残っていて、体がふらりふらりと揺れるような感じを失ってはいなかったが、広い畳の間に大きな軟らかい夜具をのべて、五体を思うまま延ばして、一晩ゆっくりと眠り通したその心地よさは格別だった。仰《あお》向《む》けになって、寒からぬ程度に暖まった空気の中に両手を二の腕までむき出しにして、軟らかい髪の毛に快い触覚を感じながら、何を思うともなく天井の木《もく》目《め》を見やっているのも、珍しいことのように快かった。
やや小半時もそうしたままでいると、帳場でぼんぼん時計が九時を打った。三階にいるのだけれどもその音はほがらかに乾いた空気を伝って葉子の部屋まで響いて来た。と、倉地がいきなり夜具をはね除《の》けて床の上に上体を立てて眼をこすった。
「九時だな今打ったのは」
と陸《おか》で聞くとおかしいほど大きな塩がれ声で言った。どれほど熟睡していても、時間には鋭敏な船員らしい倉地の様子がなんのことはなく葉子をほほえました。
倉地が立つと、葉子も床を出た。そしてその辺をかたづけたり、煙草を吸ったりしている間に(葉子は船の中で煙草を吸うことを覚えてしまったのだった)倉地は手早く顔を洗って部屋に帰って来た。そして制服に着かえ始めた。葉子はいそいそとそれを手伝った。倉地特有な西洋風に甘ったるいような一種の匂《にお》いがその体にも服にもまつわっていた。それが不思議にいつでも葉子の心をときめかした。
「もう飯を喰《く》っとる暇はない。またしばらく忙《せわ》しいで木《こ》っ葉《ぱ》微《み》塵《じん》だ。今夜は晩《おそ》いかもしれんよ。俺たちには天長節も何もあったもんじゃない」
そう言われてみると葉子は今日が天長節なのを思い出した。葉子の心はなおなお寛《かん》濶《かつ》になった。
倉地が部屋を出ると葉子は縁側に出て手《て》欄《すり》から下をのぞいてみた。両側に桜並木のずっとならんだ紅葉《もみじ》坂《ざか》は急《きゆう》勾《こう》配《ばい》をなして海岸の方に傾いている。そこを倉地の紺《こん》羅《ら》紗《しや》の姿が勢いよく歩いて行くのが見えた。半分がた散り尽くした桜の葉は真紅に紅葉して、軒並みに掲げられた日章旗が、風のない空気の中にあざやかに列《なら》んでいた。その間に英国の国旗が一本交って眺められるのも開港場らしい風情を添えていた。
遠く海の方を見ると税関の桟橋に繋《もや》われた四艘《そう》ほどの汽船の中に、葉子が乗って帰った絵島丸もまじっていた。真青に澄みわたった海に対して今日の祭日を祝賀するために檣《ほばしら》から橋にかけわたされた小《こ》旗《ばた》が翫具《おもちゃ》のように眺められた。
葉子は長い航海の始終を一場の夢のように思いやった。その長旅の間に、自分の一身に起こった大きな変化も自分のことのようではなかった。葉子は何がなしに希望に燃えた活《い》き活《い》きした心で手欄を離れた。部屋には小ざっぱりと身じたくをした女中が来て寝床をあげていた。一間半の大床の間に飾られた大花活《い》けには、菊の花が一《ひと》抱《かか》え分も活けられていて、空気が動くたびごとに仙人じみた香を漂わした。その香を嗅《か》ぐと、ともするとまだ外国にいるのではないかと思われるような旅心が一気にくだけて、自分はもう確かに日本の土の上にいるのだということがしっかり思わされた。
「いいお日和《ひより》ね。今夜あたりは忙しいんでしょう」
と葉子は朝飯の膳《ぜん》に向かいながら女中に言ってみた。
「はい今夜は御宴会が二つばかりございましてね。でも浜のかたでも外務省の夜会にいらっしゃるかたもございますから、たんと込み合いはいたしますまいけれども」
そう応《こた》えながら女中は、昨晩遅く着いて来た、ちょっと得体の知れないこの美しい婦人の素《す》性《じよう》を探ろうとするように注意深い眼をやった。葉子は葉子で「浜」という言葉などから、横浜という土地を形にして見るような気持ちがした。
短くなってはいても、なんにもすることなしに一日を暮らすかと思えば、その秋の一日の長さが葉子にはひどく気になりだした。明後日東京に帰るまでの間に、買物でも見て歩きたいのだけれども、土産《みやげ》物《もの》は木村が例の銀行切手を崩してあり余るほど買って持たしてよこしたし、手もとには哀れなほどより金は残っていなかった。ちょっとでもじっとしていられない葉子は、日本で着ようとは思わなかったので、西洋向きに注文した派手過ぎるような綿入れに手を通しながら、とつおいつ考えた。
「そうだ古藤に電話でもかけてみてやろう」
葉子はこれはいい思案だと思った。東京のほうで親類たちがどんな心持ちで自分を迎えようとしているか、古藤のような男に今度のことがどう響いているだろうか、これは単に慰みばかりではない、知っておかなければならない大事なことだった。そう葉子は思った。そして女中を呼んで東京に電話を繋《つな》ぐように頼んだ。
祭日であったせいか電話は思いのほか早く繋がった。葉子は少し悪戯《いたずら》らしい微笑を笑窪《えくぼ》の入るその美しい顔に軽く浮かべながら、階段を足早に降りて行った。今ごろになってようやく床を離れたらしい男女の客がしどけない風をして廊下の此《こ》処《こ》彼処《かしこ》で葉子とすれ違った。葉子はそれらの人々には眼もくれずに帳場に行って電話室に飛び込むとぴっしりと戸をしめてしまった。そして受話器を手に取るが早いか、電話に口を寄せて、
「あなた義一さん? ああそう。義一さんそれは滑《こつ》稽《けい》なのよ」
とひとりでにすらすらと言ってしまって我れながら葉子ははっと思った。その時の浮き浮きした軽い心持ちから言うと、葉子にはそう言うより以上に自然な言葉はなかったのだけれども、それではあまりに自分というものを明白にさらけ出していたのに気がついたのだ。古藤は案の定答え渋っているらしかった。頓《とみ》には返事もしないで、ちゃんと聞こえているらしいのに、ただ「なんです?」と聞き返して来た。葉子にはすぐ東京の様子を飲み込んだように思った。
「そんなことどうでもよござんすわ。あなたお丈夫でしたの」
と言ってみると「ええ」とだけすげない返事が、機械を通してであるだけにことさらすげなく響いて来た。そして今度は古藤のほうから、
「木村……木村君はどうしています。あなた会ったんですか」
とはっきり聞こえて来た。葉子はすかさず、
「はあ会いましてよ。相変わらず丈夫でいます。ありがとう。けれども本当に可哀そうでしたの。義一さん……聞こえますか。明後日《あさつて》私東京に帰りますわ。もう叔母のところには行けませんからね、あすこには行きたくありませんから……あのね、透《すき》矢《や》町のね、双《そう》鶴《かく》館《かん》……つがいの鶴《つる》……そう、おわかりになって?……双鶴館に行きますから……あなた来てくだされる?……でもぜひ聞いていただかなければならないことがあるんですから……よくって?……そうぜひどうぞ。明々後日《しあさつて》の朝? ありがとうきっとお待ち申していますからぜひですのよ」
葉子がそう言っている間、古藤の言葉はしまいまで奥歯に物のはさまったように重かった。そしてややともすると葉子との会見を拒もうとする様子が見えた。もし葉子の銀のように澄んだ涼しい声が、古藤を選んで哀訴するらしく響かなかったら、古藤は葉子の言うことを聞いてはいなかったかもしれないと思われるほどだった。
朝から何事も忘れたように快かった葉子の気持ちはこの電話一つのために妙にこじれてしまった。東京に帰れば今度こそはなかなか容易ならざる反抗が待ちうけているとは十二分に覚悟して、その備えをしておいたつもりではいたけれども、古藤の口うらから考えてみると面とぶつかった実際は空想していたよりも重大であるのを思わずにはいられなかった。葉子は電話室を出ると今朝はじめて顔を合わした内儀《おかみ》に帳場格《ごう》子《し》の中から挨《あい》拶《さつ》されて、部屋にも伺いに来ないでなれなれしく言葉をかけるそのしうちにまで不快を感じながら、そうそう三階に引き上げた。
それからはもう本当になんにもすることがなかった。ただ倉地の帰って来るのばかりがいらいらするほどに待ちに待たれた。品川台場沖あたりで打ち出す祝砲が幽《かす》かに腹にこたえるように響いて、子供らは往来でそのころしきりにはやった南《ナン》京《キン》花火をぱちぱちと鳴らしていた。天気がいいので女中たちははしゃぎきった冗《じよう》談《だん》などを言い言いあらゆる部屋を明け放して、ぎょうさんらしくはたきや箒《ほうき》の音を立てた。そしてただ一人この旅館では居残っているらしい葉子の部屋を掃除せずに、いきなり縁側に雑《ぞう》巾《きん》をかけたりした。それが出て行けがしのしうちのように葉子には思えば思われた。
「どこか掃除の済んだ部屋があるんでしょう。しばらくそこを貸してくださいな。そしてここも綺麗にしてちょうだい。部屋の掃除もしないで雑巾がけなぞしたってなんにもなりはしないわ」
と少し険を持たせて言ってやると、今朝来たのとは違う、横浜生まれらしい、悪ずれのした中年の女中は、はじめて縁側から立ち上がって小《こ》めんどうそうに葉子を畳廊下一つを隔てた隣りの部屋に案内した。
今朝まで客がいたらしく、掃除は済んでいたけれども、火鉢だの、炭取りだの、古い新聞だのが、部屋の隅《すみ》にはまだ置いたままになっていた。開け放した障子から乾いた暖かい光線が畳の表三分ほどまで射しこんでいる、そこに膝《ひざ》を横崩しにすわりながら、葉子は眼を細めて眩《まぶ》しい光線を避けつつ、自分の部屋をかたづけている女中の気配に用心の気を配った。どんなところにいても大事な金《かね》目《め》なものをくだらないものといっしょに放り出しておくのが葉子の癖だった。葉子はそこにいかにも伊達《だて》で寛《かん》濶《かつ》な心を見せているようだったが、同時にくだらない女中ずれができ心でも起こしはしないかと思うと、細心に監視するのも忘れはしなかった。こうして隣りの部屋に気を配っていながらも、葉子は部屋の隅にきちょうめんに折りたたんである新聞を見ると、日本に帰ってからまだ新聞というものに眼を通さなかったのを思い出して、手に取り上げて見た。テレビン油のような香がぷんぷんするのでそれが今日の新聞であることがすぐ察せられた。はたして第一面には「聖寿万歳」と肉太に書かれた見出しの下に貴《き》顕《けん》の肖像が掲げられてあった。葉子は一か月の余も遠《とお》退《の》いていた新聞紙を物珍しいものに思ってざっと眼をとおしはじめた。
一面にはその年の六月に伊藤内閣と更《こう》迭《てつ》してできた桂《かつら》内閣《*》に対していろいろな注文を提出した論文が掲げられて、海外通信には支那領土内における日露の経済的関係を説いたチリコフ伯の演説の梗《こう》概《がい》などが見えていた。二面には富口という文学博士が「最近日本におけるいわゆる婦人の覚《かく》醒《せい》」という続き物の論文を載せていた。福田という女の社会主義者《*》のことや、歌人として知られた与謝野晶子女史のことなどの名が現われているのを葉子は注意した。しかし今の葉子にはそれが不思議に自分とはかけ離れたことのようにみえた。
三面にくると四号活字で書かれた木部孤《こ》〓《きよう》という字が眼についたので思わずそこを読んでみる葉子はあっと驚かされてしまった。
〇某大汽船会社船中の大怪事
事務長と婦人船客との道ならぬ恋――
船客は木部孤〓の先妻
こういうおおぎょうな標題がまず葉子の眼を小痛く射つけた。
「本邦にて最も重要なる位置にある某汽船会社の所有船〇〇丸の事務長は、さきごろ米国航路に勤務中、かつて木部孤〓に嫁してほどもなく姿をくらましたる莫《ばく》連《れん》女《おんな》某が一等船客として乗り込みいたるをそそのかし、その女を米国に上陸せしめずひそかに連れ帰りたる怪事実あり。しかも某女と言えるは米国に先行せる婚約の夫まである身分のものなり。船客に対して最も重き責任を担《にな》うべき事務長にかかる不《ふ》埒《らち》の挙動ありしは、事務長一個の失態のみならず、某汽船会社の体面にも影響する由々しき大事なり。ことの仔《し》細《さい》は漏れなく本紙の探知したるところなれども、改《かい》悛《しゆん》の余地を与えんため、しばらく発表を見合わせおくべし。もしある期間を過ぎても、両人の醜行改まる模様なき時は、本紙は容赦なく詳細の記事を掲げて畜生道に陥りたる二人を懲戒し、あわせて汽船会社の責任を問うこととすべし。読者請う刮《かつ》目《もく》してその時を待て」
葉子は下唇を噛《か》みしめながらこの記事を読んだ。いったい何新聞だろうと、その時まで気にも留めないでいた第一面を繰り戻して見ると、麗々と「報正新報」と書してあった。それを知ると葉子の全身は怒りのために爪の先まで青白くなって、抑えつけても抑えつけてもぶるぶると震えだした。「報正新報」と言えば田川法学博士の機関新聞だ。その新聞にこんな記事が現われるのは意外でもあり当然でもあった。田川夫人という女はどこまで執《しゆう》念《ね》く卑しい女なのだろう。田川夫人からの通信に違いないのだ。「報正新報」はこの通信を受けると、報道の先《せん》鞭《べん》をつけておくためと、読者の好奇心を煽《あお》るためとに、逸《いち》早《はや》くあれだけの記事を載せて、田川夫人からさらに委《くわ》しい消息の来るのを待っているのだろう。葉子は鋭くもこう推した。もしこれがほかの新聞であったら、倉地の一身上の危機でもあるのだから、葉子はどんな秘密な運動をしても、この上の記事の発表は揉《も》み消さなければならないと胸を定めたに相違なかったけれども、田川夫人が悪意を籠《こ》めてさせている仕事だとしてみると、どの道書かずにはおくまいと思われた。郵船会社のほうで高圧的な交渉でもすればとにかく、そのほかには道がない。くれぐれも憎い女は田川夫人だ……こういちずに思いめぐらすと葉子は船の中での屈辱を今さらにまざまざと心に浮かべた。
「お掃除ができました」
そう襖《ふすま》越《ご》しに言いながら先刻《さつき》の女中は顔も見せずにさっさと階下に降りて行ってしまった。葉子は結句それを気安いことにして、その新聞を持ったまま、自分の部屋に帰った。どこを掃除したのだと思われるような掃除のしかたで、はたきまでが違い棚《だな》の下におき忘られていた。過敏にきちょうめんで綺麗好きな葉子はもうたまらなかった。自分でてきぱきとそこいらをかたづけておいて、パラソルと手《て》携《さ》げを取り上げるがいなやその宿を出た。
往来に出るとその旅館の女中が四、五人早じまいをして昼間の中を野毛山の大神宮の方にでも散歩に行くらしい後ろ姿を見た。そそくさと朝の掃除を急いだ女中たちの心も葉子には読めた。葉子はその女たちを見送るとなんということなしに淋《さび》しく思った。
帯の間に挟《はさ》んだままにしておいた新聞の切抜きが胸を焼くようだった。葉子は歩き歩きそれを引き出して手携げにしまいかえた。旅館は出たがどこに行こうというあてもなかった葉子は俯《うつ》向《む》いて紅葉坂を下りながら、さしもしないパラソルの石突きで霜解けになった土を一《ひと》足《あし》一足突きさして歩いて行った。いつの間にかじめじめした薄《うす》汚《ぎた》ない狭い通りに来たと思うと、はしなくもいつか古藤といっしょに上がった相模《さがみ》屋《や》の前を通っているのだった。「相模屋」と古めかしい字体で書いた置《おき》行燈《あんどん》の紙までがその時のままで煤《すす》けていた。葉子は見覚えられているのを恐れるように足早にその前を通りぬけた。
停車場前はすぐそこだった。もう十二時近い秋の日は華《はな》やかに照り満ちて、思ったより数多い群衆が運河にかけ渡したいくつかの橋を賑《にぎ》やかに往来していた。葉子は自分一人が皆んなから振り向いて見られるように思いなした。それがあたりまえの時ならば、どれほど多くの人にじろじろと見られようとも度を失うような葉子ではなかったけれども、たった今いまいましい新聞の記事を見た葉子ではあり、いかにも西洋じみた野《や》暮《ぼ》臭《くさ》い綿入れを着ている葉子であった。服装に塵《ちり》ほどでも批《ひ》点《てん》の打ちどころがあると気がひけてならない葉子としては、旅館を出て来たのが悲しいほど後悔された。
葉子はとうとう税関波止場の入口まで来てしまった。その入口の小さな煉《れん》瓦《が》造りの事務所には、年の若い監視補たちが二重金《きん》釦《ぼたん》の背広に、海軍帽を被って事務をとっていたが、そこに近づく葉子の様子を見ると、昨日上陸した時から葉子を見知っているかのように、その飛び放れて派手造りな姿に眼を定めるらしかった。物好きなその人たちは早くも新聞の記事を見て問題となっている女が自分に違いないと目星をつけているのではあるまいかと葉子は何事につけても愚痴っぽくひけ目になる自分を見いだした。葉子はしかしそうしたふうに見つめられながらもそこを立ち去ることができなかった。もしや倉地が昼飯でも喰《た》べにあの大きな五体を重々しく動かしながら船の方から出て来はしないかと心待ちがされたからだ。
葉子はそろそろと海岸通りをグランド・ホテルの方に歩いてみた。倉地が出て来れば、倉地のほうでも自分を見つけるだろうし、自分のほうでも後ろに眼はないながら、出て来たのを感づいてみせるという自信を持ちながら、後ろも振り向かずにだんだん波止場から遠ざかった。海沿いに立て連ねた石《いし》机《ぐい》を繋《つな》ぐ頑丈な鉄鎖には、西洋人の子供たちが犢《こうし》ほどな洋犬やあまにつき添われてこともなげに遊び戯れていた。そして葉子を見ると心安立てに無邪気にほほえんで見せたりした。小さな可愛いい子供を見るとどんな時どんな場合でも、葉子は定子を思い出して、胸がしめつけられるようになって、すぐ涙ぐむのだった。この場合はことさらそうだった。見ていられないほどそれらの子供たちは悲しい姿に葉子の眼に映った。葉子はそこから避けるように足を返してまた税関の方に歩み近づいた。監視課の事務所の前を来たり往《い》ったりする人数は絡《らく》繹《えき》として絶えなかったが、その中に事務長らしい姿はさらに見えなかった。葉子は絵島丸まで行ってみる勇気もなく、そこを幾度もあちこちして監視補たちの眼にかかるのもうるさかったので、すごすごと税関の表門を県庁の方に引き返した。
二三
その夕方倉地が埃《ほこり》にまぶれ汗にまびれて紅葉《もみじ》坂《ざか》をすたすたと登って帰って来るまでも葉子は旅館の閾《しきい》をまたがずに桜の並木の下などを徘《はい》徊《かい》して待っていた。さすがに十一月となると夕暮れを催した空は見る見る薄寒くなって風さえ吹きだしている。一日の行楽に遊び疲れたらしい人の群れに交って不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに顔をしかめた倉地は真向に坂の頂上を見つめながら近づいて来た。それを見ると葉子は一時に力を恢《かい》復《ふく》したようになって、すぐ跳《おど》り出して来る悪戯《いたずら》心《ごころ》のままに、一本の桜の木を楯《たて》に倉地をやり過ごしておいて、後ろから静かに近づいて手と手とが触れ合わんばかりに押し列《なら》んだ。倉地はさすがに不意を喰ってまじまじと寒さのために少し涙ぐんで見える大きな涼しい葉子の眼を見やりながら、「どこから湧《わ》いて出たんだ」と言わんばかりの顔つきをした。一つ船の中に朝となく夜となくいっしょになって寝起きしていたものを、今日はじめて半日の余も顔を見合わさずに過ごしてきたのが思った以上に物《もの》淋《さび》しく、同時にこんなところで思いもかけず出《で》遇《あ》ったが予想のほかに満足であったらしい倉地の顔つきを見て取ると、葉子は何もかも忘れてただ嬉《うれ》しかった。その真黒に汚《よご》れた手をいきなり引っつかんで熱い唇で噛《か》みしめて労《いたわ》ってやりたいほどだった。しかし思いのままに寄り添うことすらできない大道であるのをどうしよう。葉子はその切ない心を拗《す》ねてみせるよりほかなかった。
「私もうあの宿屋には泊りませんわ。人を馬鹿にしているんですもの。あなたお帰りになるなら勝手にひとりでいらっしゃい」
「どうして……」
と言いながら倉地は当惑したように往来に立ち止まってしげしげと葉子を見なおすようにした。
「これじゃ(と言って埃にまみれた両手を拡《ひろ》げ襟《えり》頸《くび》を抜き出すように延ばして見せて渋い顔をしながら)どこにも行けやせんわな」
「だからあなたはお帰りなさいましと言ってるじゃありませんか」
そう冒頭《まえおき》をして葉子は倉地と押し並んでそろそろ歩きながら、女将のしうちから女中のふしだらまで尾《お》鰭《ひれ》をつけて讒訴《いいつ》けて、早く双鶴館に移って行きたいとせがみにせがんだ。倉地は何か思案するらしくそっぽを見い見い耳を傾けていたが、やがて旅館に近くなったころもう一度立ち止まって、
「今日双鶴館《あそこ》から電話で部屋の都合を知らしてよこすことになっていたがお前聞いたか……(葉子はそういいつけられながら今まですっかり忘れていたのを思い出して、少しくてれたように首を振った)……ええわ、じゃ電報を打ってから先に行くがいい。わしは荷物をして今夜後から行くで」
そう言われてみると葉子はまた一人だけ先に行くのがいやでもあった。といって荷物の始末には二人のうちどちらか一人居残らねばならない。
「どうせ二人いっしょに汽車に乗るわけにもいくまい」
倉地がこう言い足した時葉子は危く、では今日の「報正新報」を見たかと言おうとするところだったが、はっと思い返して喉《のど》のところで抑《おさ》えてしまった。
「なんだ」
倉地は見かけのわりに恐ろしいほど敏《びん》捷《しよう》に働く心で、顔にも現わさない葉子の躊《ちゆう》躇《ちよ》を見て取ったらしくこう詰《なじ》るように尋ねたが、葉子がなんでもないと応《こた》えると、少しも拘《こう》泥《でい》せずに、それ以上問い詰めようとはしなかった。
どうしても旅館に帰るのがいやだったので、非常な物足らなさを感じながら、葉子はそのままそこから倉地に別れることにした。倉地は力の籠《こも》った眼で葉子をじっと見てちょっとうなずくと後をも見ないでどんどんと旅館の方に濶《かつ》歩《ぽ》して行った。葉子は残り惜しくその後ろ姿を見送っていたが、それになんということもない軽い誇りを感じてかすかにほほえみながら、倉地が登って来た坂道を一人で降りて行った。
停車場に着いたころにはもうガスの灯がそこらに点《とも》っていた。葉子は知った人に遇《あ》うのを極端に恐れ避けながら、汽車の出るすぐ前まで停車場前の茶店の一《ひと》間《ま》に隠れていて一等室に飛び乗った。だだっ広いその客車には外務省の夜会に行くらしい三人の外国人が銘々、デコルテー《*》を着飾った婦人を介抱して乗っているだけだった。いつものとおりその人たちは不思議に人を牽《ひ》きつける葉子の姿に眼をそばだてた。けれども葉子はもう左手の小指を器用に折り曲げて、左の鬢《びん》のほつれ毛を美しくかき上げるあの嬌態《しな》をして見せる気はなくなっていた。室の隅に腰かけて、手《て》携《さ》げとパラソルとを膝《ひざ》に引きつけながら、たった一人その部屋の中にいるもののようにおうように構えていた。偶然顔を見合わせても、葉子は張りのあるその眼を無邪気に(本当にそれは罪を知らない十六、七の乙女の眼のように無邪気だった)大きく見開いて相手の視線をはにかみもせず迎えるばかりだった。先方の人たちの年齢がどのくらいで容貌がどんなふうだなどということも葉子は少しも注意してはいなかった。その心の中にはただ倉地の姿ばかりがいろいろに描かれたり消されたりしていた。
列車が新橋に着くと葉子はしとやかに車を出たが、ちょうどそこに、唐《とう》桟《ざん》に角帯を締めた、箱丁《はこや*》とでも言えば言えそうな、気のきいた若い者が電報を片手に持って、眼ざとく葉子に近づいた。それが双鶴館からの出迎えだった。
横浜にも増して見るものにつけて連想の群がり起こる光景、それから来る強い刺戟……葉子は宿から廻された人力車の上から銀座通りの夜のありさまを見やりながら、危く幾度も泣きだそうとした。定子の住む同じ土地に帰って来たと思うだけでももう胸はわくわくした。愛子も貞世もどんな恐ろしい期待に震えながら自分の帰るのを待ちわびているだろう。あの叔父叔母がどんな激しい言葉で自分をこの二人の妹に描いてみせているか、かまうものか。なんとでも言うがいい。自分はどうあっても二人を自分の手に取り戻してみせる。こうと思い定めた上は指もささせはしないから見ているがいい。……ふと人力車が尾張町の角を左に曲がると暗い細い通りになった。葉子は目ざす旅館が近づいたのを知った。その旅館というのは、倉地が色沙汰でなく贔屓《ひいき》にしていた芸者がある財産家に落籍《ひか》されて開いた店だというので、倉地からあらかじめかけ合っておいたのだった。人力車がその店に近づくに従って葉子はその女将《おかみ》というのにふとした懸《け》念《ねん》を持ち始めた。未知の女同志が出《で》遇《あ》う前に感ずる一種の軽い敵《てき》愾《がい》心《しん》が葉子の心をしばらくは余の事柄から切り放した。葉子は車の中で衣紋《えもん》を気にしたり、束髪の形をなおしたりした。
昔の煉《れん》瓦《が》建てをそのまま改造したと思われる漆《しつ》喰《くい》塗りの頑丈な、角《かど》地面の一構えに来て、煌《こう》々《こう》と明るい入口の前に車夫が梶《かじ》棒《ぼう》を降ろすと、そこにはもう二、三人の女の人たちが走り出て待ち構えていた。葉子は裾《すそ》前《まえ》をかばいながら車から降りて、そこに立ちならんだ人たちの中からすぐ女将を見分けることができた。背《せ》丈《た》けが思いきって低く、顔形も整ってはいないが、三十女らしく分別の備わった、きかん気らしい、垢《あか》ぬけのした人がそれに違いないと思った。葉子は思い設けた以上の好意をすぐその人に対して持つことができたので、ことさら快い親しみを持ち前の愛《あい》嬌《きよう》に添えながら、挨《あい》拶《さつ》をしようとすると、その人はこともなげにそれをさえぎって、
「いずれ御挨拶は後ほど、さぞお寒うございましてしょう。お二階へどうぞ」
と言って自分から先に立った。居合わせた女中たちは眼はしをきかしていろいろと世話に立った。入口の突当りの壁には大きなぼんぼん時計が一つかかっているだけでなんにもなかった。その右手の頑丈な踏み心地のいい階《はし》子《ご》段《だん》を上りつめると、他の部屋から廊下で切り放されて、十六畳と八畳と六畳との部屋が鍵《かぎ》形《がた》に続いていた。塵《ちり》一つすえずにきちんと掃除が届いていて、三か所に置かれた鉄《てつ》瓶《びん》から立つ湯気で部屋の中は軟らかく暖まっていた。
「お座敷へと申すところですが、御《ご》気《き》さくにこちらでおくつろぎくださいまし……三《み》間《ま》ともとってはございますが」
そう言いながら女将は長火鉢の置いてある六畳の間へと案内した。
そこにすわって一とおりの挨拶を言葉少なに済ますと、女将は葉子の心を知り抜いているように、女中を連れて階下に降りて行ってしまった。葉子は本当にしばらくなりとも一人になってみたかったのだった。軽い暖かさを感ずるままに重い縮《ちり》緬《めん》の羽織を脱ぎ捨てて、ありたけの懐中物を帯の間から取り出してみると、凝りがちな肩も、重苦しく感じた胸もすがすがしくなって、かなり強い疲れを一時に感じながら、猫板《*》の上に肘《ひじ》を持たせて居ずまいを崩してもたれかかった。古びを帯びた蘆屋釜から鳴りを立てて白く湯気の立つのも、綺麗にかきならされた灰の中に、堅そうな桜炭の火が白い被衣《かつぎ》の下でほんのりと赤らんでいるのも、精巧な用《よう》箪《だん》笥《す》の嵌《は》め込まれた一間の壁に続いた器用な三尺床に、白菊を插《さ》した唐《から》津《つ》焼きの釣り花《はな》活《い》けがあるのも、幽《かす》かにたきこめられた沈《じん》香《こう》の匂いも、目のつんだ杉《すぎ》柾《まさ》の天井板も、ほっそりと磨きのかかった皮つきの柱も、葉子にとっては――重い、硬《こわ》い、堅い船室からようやく開放されて来た葉子にとってはなつかしくばかり眺められた。こここそは屈強の避難所だというように葉子はつくづくあたりを見廻した。そして部屋の隅にある生《き》漆《うるし》を塗った桑の広《ひろ》蓋《ぶた》を引き寄せて、それに手《て》携《さ》げや懐中物を入れ終わると、飽くこともなくその縁《ふち》から底にかけての円みを持った微妙な手触りを愛《め》で慈《いつく》しんだ。
場所柄とてそこここからこの界《かい》隈《わい》に特有な楽器の声が聞こえて来た。天長節《*》であるだけに今日はことさらそれが賑《にぎ》やかなのかもしれない。戸外にはぽくりやあずま下駄の音が少し冴《さ》えて絶えずしていた。着飾った芸者たちが磨き上げた顔をびりびりするような夜寒に惜しげもなく伝法に《*》曝《さら》して、さすがに寒気に足を早めながら、招《よ》ばれたところに繰り出して行くその様子が、まざまざと履《はき》物《もの》の音を聞いたばかりで葉子の想像には描かれるのだった。相乗りらしい人力車の轍《わだち》の音も威勢よく響いて来た。葉子はもう一度これは屈強な避難所に来たものだと思った。この界隈では葉子は眦《まなじり》を反《かえ》して人から見られることはあるまい。
珍しくあっさりした、魚の鮮《あたら》しい夕食を済ますと葉子は風呂をつかって、思い存分髪を洗った。足しない船の中の淡水では洗っても洗ってもねちねちと垢《あか》の取りきれなかったものが、触れば手が切れるほどさばさばと油が抜けて、葉子は頭の中まで軽くなるように思った。そこに女将も食事を終えて話相手になりに来た。
「たいへんお遅うございますこと、今夜のうちにお帰りになるでしょうか」
そう女将は葉子の思っていることを魁《さきが》けに言った。「さあ」と葉子もはっきりしない返事をしたが、小寒くなってきたので浴衣《ゆかた》を着かえようとすると、そこに袖《そで》だたみにしてある自分の衣物につくづく愛《あい》想《そ》が尽きてしまった。この辺の女中に対してもそんなしつっこいけばけばしい柄の衣物は二度と着る気にはなれなかった。そうなると葉子は遮《しや》二《に》無《む》二《に》それがたまらなくなってくるのだ。葉子はうんざりした様子をして自分の衣物から女将に眼をやりながら、
「見てくださいこれを。この冬は米国にいるのだとばかり決めていたので、あんなものを作ってみたんですけれども、我慢にももう着ていられなくなりましたわ。後生。あなたのところに何かふだん着の明《あ》いたのでもないでしょうか」
「どうしてあなた。私はこれでござんすもの」
と女将は剽《ひよう》軽《きん》にも気軽くちゃんと立ち上がって自分の背《せ》丈《た》けの低さを見せた。そうして立ったままでしばらく考えていたが、踊りで仕込み抜いたような手つきではたと膝の上をたたいて、
「ようございます。私一つ倉地さんをびっくらさして上げますわ。私の妹分に当たるのに柄といい年《とし》恰《かつ》好《こう》といい、失礼ながらあなた様とそっくりなのがいますから、それのを取り寄せてみましょう。あなた様は洗い髪でいらっしゃるなり……いかが、私がすっかり仕立てて差し上げますわ」
この思いつきは葉子には強い誘惑だった。葉子は一も二もなく勇み立って承知した。
その晩十一時を過ぎたころに、纏《まと》めた荷物を人力車四台に積み乗せて、倉地が双鶴館に着いて来た。葉子は女将の入れ知恵でわざと玄関には出迎えなかった。葉子は悪戯《いたずら》者《もの》らしくひとり笑いをしながら立て膝をしてみたが、それには自分ながら気がひけたので、右足を左の腿《もも》の上に積み乗せるようにしてその足先をとんびにしてすわってみた。ちょうどそこにかなり酔ったらしい様子で、倉地が女将の案内も待たずにずしんずしんという足どりではいって来た。葉子と顔を見合わした瞬間には部屋を間違えたと思ったらしく、少しあわてて身を引こうとしたが、すぐ櫛《くし》巻《ま》き《*》にして黒《くろ》襟《えり》をかけたその女が葉子だったのに気がつくと、いつもの渋いように顔を崩して笑いながら、
「なんだ馬鹿をしくさって」
とほざくように言って、長火鉢の向い座にどっかと胡坐《あぐら》をかいた。ついて来た女将は立ったまましばらく二人を見《み》較《くら》べていたが、
「ようよう……変てこなお内裏《だいり》雛《びな》様《さま》」
と陽気にかけ声をして笑いこけるようにぺちゃんとそこにすわり込んだ。三人は声を立てて笑った。
と、女将は急にまじめに返って倉地に向かい、
「こちらは今日の報正新報を……」
と言いかけるのを、葉子はすばやく眼でさえぎった。女将は危い土《ど》端《たん》場《ば》で踏み止《とど》まった。倉地は酔眼を女将に向けながら、
「なに」
と尻上がりに問い返した。
「そう早耳を走らすと聾《つんぼ》と間違えられますとさ」
と女将はこともなげに受け流した。三人はまた声を立てて笑った。
倉地と女将との間に一別以来の噂《うわさ》話《ばなし》がしばらくの間取り交わされてから、今度は倉地がまじめになった。そして葉子に向かってぶっきらぼうに、
「お前もう寝ろ」
と言った。葉子は倉地と女将とをならべて一眼見たばかりで、二人の間の潔白なのを見て取っていたし、自分が寝て後の相談と言うても、今度の事件を上手に纒めようというについての相談だということが呑《の》み込めていたので、すなおに立って座をはずした。
中の十畳を隔てた十六畳に二人の寝床はとってあったが、二人の会話はおりおりかなりはっきり漏れて来た。葉子は別に疑いをかけるというのではなかったが、やはりじっと耳を傾けないではいられなかった。
何かの話のついでに入用なことが起こったのだろう、倉地はしきりに身のまわりを探って、何かを取り出そうとしている様子だったが、「あいつの手《て》携《さ》げに入れたかしらん」という声がしたので葉子ははっと思った。あれには「報正新報」の切抜きが入れてあるのだ。もう飛び出して行っても遅いと思って葉子は断念していた。やがてはたして二人は切抜きを見つけ出した様子だった。
「なんだあいつも知っとったのか」
思わず少し高くなった倉地の声がこう聞こえた。
「道理でさっき私がこのことを言いかけるとあのかたが眼で留めたんですよ。やはりあちらでもあなたに知らせまいとして。いじらしいじゃありませんか」
そう言う女将の声もした。そして二人はしばらく黙っていた。
葉子は寝床を出てその場に行こうかとも思った。しかし今夜は二人に任せておくほうがいいと思い返して布団を耳まで被《かぶ》った。そしてだいぶ夜がふけてから倉地が寝に来るまで快い安眠に前後を忘れていた。
二四
その次の朝女将と話をしたり、呉服屋を呼んだりしたので、日がかなり高くなるまで宿にいた葉子は、いやいやながら例のけばけばしい綿入れを着て、羽織だけは女将が借りてくれた、妹分という人の烏《う》羽《ば》黒《ぐろ》の縮《ちり》緬《めん》の紋付きにして旅館を出た。倉地は昨夜の夜ふかしにもかかわらずその朝早く横浜の方に出かけた後だった。今日も空は菊日和とでもいう美しい晴れ方をしていた。
葉子はわざと宿で車を頼んでもらわずに、煉瓦通りに出てから綺麗そうな辻待ちを傭《やと》ってそれに乗った。そして池の端の方に車を急がせた。定子を眼の前に置いて、その小さな手を撫《な》でたり、絹糸のような髪の毛をもてあそぶことを思うと葉子の胸は我れにもなくただわくわくとせき込んできた。眼鏡《めがね》橋《ばし》を渡ってから突当りの大時計は見えながらなかなかそこまで車が行かないのをもどかしく思った。膝の上に乗せた土産《みやげ》の翫具《おもちや》や小さな帽子などをやきもきしながらひねり廻したり、膝掛けの厚い地をぎゅっと握り締めたりして、逸《はや》る心を押し鎮めようとしてみるけれどもそれをどうすることもできなかった。車がようやく池の端に出ると葉子は右、左、と細い道筋の角《かど》角《かど》で指《さし》図《ず》した。そして岩崎の屋敷裏にあたる小さな横町の曲がり角で車を乗り捨てた。
一か月の間来ないだけなのだけれども、葉子にはそれが一年にも二年にも思われたので、その界隈が少しも変化しないで元のとおりなのがかえって不思議なようだった。じめじめした小《こ》溝《みぞ》に沿うて根ぎわの腐れた黒《くろ》板《いた》塀《べい》の立ってる小さな寺の境内を突っきって裏に廻ると、寺の貸地面にぽっつり立った一戸建ての小家が乳母の住むところだ。没《も》義《ぎ》道《どう》に頭を切り取られた高《こう》野《や》槇《まき》が二本旧《もと》の姿で台所前に立っている、その二本に干《ほし》竿《ざお》を渡して小さな襦《じゆ》袢《ばん》や、丸洗いにした胴着が暖かい日の光を受けてぶら下がっているのを見ると葉子はもうたまらなくなった。涙がぽろぽろと他愛もなく流れ落ちた。家の中では定子の声がしなかった。葉子は気を落ちつけるために案内を求めずに入口に立ったまま、そっと垣根から庭をのぞいて見ると、日あたりのいい縁側に定子がたった一人、葉子にはしごき帯を長く結んだ後ろ姿を見せて、一心不乱にせっせと少しばかりのこわれ翫具《おもちゃ》をいじくり廻していた。何事にまれ真剣な様子を見せつけられると、――傍《わき》目《め》もふらず畑を耕す農夫、踏切りに立って子供を背負ったまま旗をかざす女房、汗をしとどに垂らしながら坂道に荷車を押す共《とも》稼《かせ》ぎの夫婦――わけもなく涙につまされる葉子は、定子のそうした姿を一眼見たばかりで、人間力ではどうすることもできない悲しい出来事にでも出《で》遇《あ》ったように、しみじみと淋《さび》しい心持ちになってしまった。
「定ちゃん」
涙を声にしたように葉子は思わず呼んだ。定子がびっくりして後ろを振り向いた時には、葉子は戸を開けて入口を駈《か》け上がって定子の側にすり寄っていた。父に似たのだろう痛々しいほど華《きや》車《しや》作りな定子は、どこにどうしてしまったのか、声も姿も消え果てた自分の母が突然側近くに現われたのに気を奪われた様子で、頓《とみ》には声も出さずに驚いて葉子を見守った。
「定ちゃんママだよ。よく丈夫でしたね。そしてよく一人でおとなにして……」
もう声が続かなかった。
「ママちゃん」
そう突然大きな声で言って定子は立ち上がりざま台所の方に駈けて行った。
「婆《ばあ》やママちゃんが来たのよ」
と言う声がした。
「え!」
と驚くらしい婆やの声が裏庭から聞こえた。と、あわてたように台所を上がって、定子を横抱きにした婆やが、被っていた手拭いを頭《つむり》からはずしながら転《ころ》がり込むようにして座敷にはいって来た。二人は向き合ってすわると両方とも涙ぐみながら無言で頭を下げた。
「ちょっと定ちゃんをこっちにお貸し」
しばらくしてから葉子は定子を婆やの膝から受け取って自分の懐《ふとこ》ろに抱きしめた。
「お嬢さま……私にはもう何がなんだかちっともわかりませんが、私はただもう口惜《くや》しゅうございます。……どうしてこう早くお帰りになったんでございますか……皆様のおっしゃることを伺っているとあんまり業《ごう》腹《はら》でございますから……もう私は耳をふさいでおります。あなたから伺ったところがどうせこう年をとりますと腑《ふ》に落ちる気づかいはございません。でもまあお体がどうかと思ってお案じ申しておりましたが、御丈夫で何よりでございました……なにしろ定子様がお可哀そうで……」
葉子に溺《おぼ》れきった婆やの口からさも口惜しそうにこうした言葉がつぶやかれるのを、葉子は淋しい心持ちで聞かねばならなかった。耄《もう》碌《ろく》したと自分では言いながら、若い時に亭主に死に別れて立派に後《ご》家《け》を通して後ろ指一本指《さ》されなかった昔《むかし》気質《かたぎ》のしっかり者だけに、親類たちの蔭《かげ》口《ぐち》や噂で聞いた葉子の乱行にはあきれ果てていながら、この世でのただ一人の秘蔵物として葉子の頭から足の先までも自分の誇りにしている婆やの切ない心持ちは、ひしひしと葉子にも通じるのだった。婆やと定子……こんな純粋な愛情の中に取り囲まれて、落ち着いた、しとやかな、そして安穏な一生を過ごすのも、葉子は望ましいと思わないではなかった。ことに婆やと定子とを眼の前に置いて、つつましやかな過不足のない生活を眺めると、葉子の心は知らず知らずなじんで行くのを覚えた。
しかし同時に倉地のことをちょっとでも思うと葉子の血は一時に湧き立った。平穏な、その代わり死んだも同然な一生がなんだ。純粋な、その代わり冷えもせず熱しもしない愛情がなんだ。生きる以上は生きてるらしく生きないでどうしよう。愛する以上は命と取り代えっこをするくらいに愛せずにはいられない。そうした衝動が自分でもどうすることもできない強い感情になって、葉子の心を本能的に煽《あお》ぎ立てるのだった。この奇怪な二つの矛盾が葉子の心の中には平気で両立しようとしていた。葉子は眼前の境界でその二つの矛盾をわりあいに困難もなく使い分ける不思議な心の広さを持っていた。ある時には極端に涙《なみだ》脆《もろ》く、ある時には極端に残虐だった。まるで二人の人が一つの肉体に宿っているかと自分ながら疑うようなこともあった。それが時にはいまいましかった。時には誇らしくもあった。
「定《さあ》ちゃま。ようございましたね、ママちゃんが早くお帰りになって。お立ちになってからでもお聞き分けよくママのマの字もおっしゃらなかったんですけれども、どうかするとこうぼんやり考えてでもいらっしゃるようなのがお可哀そうで、一時はお体でも悪くなりはしないかと思うほどでした。こんなでもなかなか心は働いていらっしゃるんですからねえ」
と婆やは、葉子の膝の上に巣《す》喰《く》うように抱かれて、黙ったまま、澄んだ瞳《ひとみ》で母の顔を下からのぞくようにしている定子と葉子とを見較べながら、述懐めいたことを言った。葉子は自分の頬《ほお》を、暖かい桃の膚のように生毛《うぶげ》の生えた定子の頬にすりつけながら、それを聞いた。
「お前のその気象でわからないとお言いなら、くどくど言ったところがむだかもしれないから、今度のことについては私なんにも話すまいが、家の親類たちの言うことなんぞはきっと気にしないでおくれよ。今度の船にはとんでもない一人の奥さんが乗り合わしていてね、その人がちょっとした気まぐれからあることないこと取りまぜてこっちに言ってよこしたので、ことあれかしと待ち構えていた人たちの耳にはいったんだから、これから先だってどんなひどいことを言われるか知れたもんじゃないんだよ。お前も知ってのとおり私は生まれ落ちるとから旋毛《つむじ》曲《ま》がりじゃあったけれども、あんなに周囲《まわり》からこづき廻されさえしなければこんなになりはしなかったのだよ。それは誰よりもお前が知ってておくれだわね。これからだって私は私なりに押し通すよ。誰がなんと言ったってかまうもんですか。そのつもりでお前も私を見ていておくれ。広い世の中に私がどんな失策《しくじり》をしでかしても、心から思いやってくれるのは本当にお前だけだわ。……今度からは私もちょいちょい来るだろうけれども、この上ともこの子を頼みますよ。ね、定ちゃん。よく婆やの言うことを聞いていい子になってちょうだいよ。ママちゃんはここにいる時でもいない時でも、いつでもあなたを大事に大事に思ってるんだからね。……さ、もうこんなむずかしいお話はよしてお昼のおしたくでもしましょうね。今日はママちゃんがおいしい御馳走を作《こし》らえて上げるから定ちゃんもお手伝いしてちょうだいね」
そう言って葉子は気軽そうに立ち上がって台所の方に定子と連れだった。婆やも立ち上がりはしたがその顔は妙に冴《さ》えなかった。そして台所で働きながらややともすると内所で鼻をすすっていた。
そこには葉山で木部孤〓と同棲していた時に使った調度が今だに古びを帯びて保存されたりしていた。定子を側においてそんなものを見るにつけ、少し感傷的になった葉子の心は涙に動こうとした。けれどもその日はなんと言っても近ごろ覚えないほどしみじみとした楽しさだった。何事にでも器用な葉子は不足がちな台所道具を巧みに利用して、西洋風な料理と菓子とを三《み》品《しな》ほど作った。定子はすっかり喜んでしまって、小さな手足をまめまめしく働かしながら、「はいはい」と言って庖《ほう》丁《ちよう》をあっちに運んだり、皿をこっちに運んだりした。三人は楽しく昼飯の卓に就《つ》いた。そして夕方まで水入らずにゆっくり暮らした。
その夜は妹たちが学校から来るはずになっていたので葉子は婆やの勧める晩飯も断わって夕方その家を出た。入口のところにつくねんと立って婆やに両肩を支えられながら姿の消えるまで葉子を見送った定子の姿がいつまでもいつまでも葉子の心から離れなかった。夕闇にまぎれた幌《ほろ》の中で葉子は幾度かハンカチを眼にあてた。
宿に着くころには葉子の心持ちは変わっていた。玄関にはいってみると、女学校でなければ履《は》かれないような安下駄の汚なくなったのが、お客や女中たちの気取った履物の中に交って脱いであるのを見て、もう妹たちが来て待っているのを知った。さっそくに出迎えに出た女将に、今夜は倉地が帰って来たら他所《よそ》の部屋で寝るように用意をしておいてもらいたいと頼んで、静々と二階へ上がって行った。
襖《ふすま》を開けてみると二人の姉妹はぴったりとくっつき合って泣いていた。人の足音を姉のそれだとは十分に知りながら、愛子のほうは泣き顔を見せるのがきまりが悪いふうで、振り向きもせずにひとしお首垂《うなだ》れてしまったが、貞世のほうは葉子の姿を一眼見るなり、跳ねるように立ち上がって激しく泣きながら葉子の懐《ふとこ》ろに飛びこんで来た。葉子も思わず飛び立つように貞世を迎えて、長火鉢の傍の自分の座にすわると、貞世はその膝に突っ伏してすすり上げすすり上げ可憐な背中に波を打たした。これほどまでに自分の帰りを待ちわびてもい、喜んでもくれるのかと思うと、骨肉の愛着からも、妹だけは少なくとも自分の掌《しよう》握《あく》の中にあるとの満足からも、葉子はこの上なく嬉《うれ》しかった。しかし火鉢からはるか離れた向う側に、うやうやしく居ずまいを正して、愛子がひそひそと泣きながら、規則正しくお辞儀をするのを見ると葉子はすぐ癪《しやく》に障《さわ》った。どうして自分はこの妹に対して優しくすることができないのだろうとは思いつつも、葉子は愛子の所作《しよさ》を見るといちいち気に障らないではいられないのだ。葉子の眼は意地悪く剣《けん》を持って冷やかに小柄で堅《かた》肥《ぶと》りな愛子を激しく見据えた。
「会いたてからつけつけ言うのもなんだけれども、なんですねえそのお辞儀のしかたは、他人行儀らしい。もっと打ち解けてくれたっていいじゃないの」
と言うと愛子は当惑したように黙ったまま眼を上げて葉子を見た。その眼はしかし恐れても恨んでもいるらしくはなかった。小羊のような、睫《まつ》毛《げ》の長い、形のいい大きな眼が、涙に美しく濡《ぬ》れて夕月のようにぽっかりと列《なら》んでいた。悲しい眼つきのようだけれども、悲しいというのでもない。多恨な眼だ。多情な眼でさえあるかもしれない。そう皮肉な批評家らしく葉子は愛子の眼を見て不快に思った。大多数の男はあんな眼で見られると、この上なく詩的な霊的な一《いち》瞥《べつ》を受け取ったようにも思うのだろう。そんなことさえすばやく考えの中につけ加えた。貞世が広い帯をして来ているのに、愛子が少し古びた袴《はかま》をはいているのさえ蔑《さげす》まれた。
「そんなことはどうでもようござんすわ。さ、お夕飯にしましょうね」
葉子はやがて自分の妄《もう》念《ねん》をかき払うようにこう言って、女中を呼んだ。
貞世は寵児《ペツト》らしくすっかりはしゃぎきっていた。二人が古藤に伴《つ》れられてはじめて田島の塾に行った時の様子から、田島先生が非常に二人を可愛がってくれることから、部屋のこと、食事のこと、さすがに女の子らしく細かいことまで自分一人の興に乗じて談《かた》り続けた。愛子も言葉少なに要領を得た口をきいた。
「古藤さんがときどき来てくださるの?」
と聞いてみると、貞世は不平らしく、
「いいえ、ちっとも」
「ではお手紙は?」
「来てよ、ねえ愛姉さま。二人のところに同じくらいずつ来ますわ」
と、愛子は控え目らしくほほえみながら上目越しに貞世を見て、
「貞ちゃんのほうによけい来るくせに」
となんでもないことで争ったりした。愛子は姉に向かって、
「塾に入れてくださると古藤さんが私たちに、もうこれ以上私のして上げることはないと思うから、用がなければ来ません。その代わり用があったらいつでもそう言っておよこしなさいとおっしゃったきりいらっしゃいませんのよ。そうしてこちらでも古藤さんにお願いするような用はなんにもないんですもの」
と言った。葉子はそれを聞いてほほえみながら古藤が二人を塾に伴れて行った時の様子を想像してみた。例のようにどこの玄関番かと思われる風《ふう》体《てい》をして、髪を苅る時のほか剃《す》らない顎《あご》鬚《ひげ》を一、二分ほども延ばして、頑丈な容貌や体格に不似合いな羞《はに》かんだ口《くち》弁《つき》で、田島という、男のような女学者と話をしている様子が見えるようだった。
しばらくそんな表面的な噂話などに時を過ごしていたが、いつまでもそうはしていられないことを葉子は知っていた。この年齢《とし》の違った二人の妹に、どっちにも堪《たん》念《ねん》のいくように今の自分の立場を話して聞かせて、悪い結果をその幼い心に残さないように仕向けるのはさすがに容易なことではなかった。葉子は先刻《さつき》からしきりにそれを案じていたのだ。
「これでも召し上がれ」
食事が済んでから葉子は米国から持って来たキャンディーを二人の前に置いて、自分は煙草を吸った。貞世は眼を丸くして姉のすることを見やっていた。
「姉さまそんなもの吸っていいの?」
と会《え》釈《しやく》なく尋ねた。愛子も不思議そうな顔をしていた。
「ええこんな悪い癖がついてしまったの。けれども姉さんにはあなたがたの考えてもみられないような心配なことや困ることがあるものだから、つい憂《う》さ晴らしにこんなことも覚えてしまったの。今夜はあなたがたにわかるように姉さんが話してあげてみるから、よく聞いてちょうだいよ」
倉地の胸に抱かれながら、酔いしれたようにその頑丈な、日に焼けた、男性的な顔を見やる葉子の、乙女というよりももっと子供らしい様子は、二人の妹を前に置いてきちんと居ずまいを正した葉子のどこにも見いだされなかった。その姿は三十前後の、十分分別のある、しっかりした一人の女性を思わせた。貞世もそういう時の姉に対する手心を心得ていて、葉子から離れてまじめにすわりなおした。こんな時うっかりその威厳を冒すようなことでもすると、貞世にでも誰にでも葉子は少しの容赦もしなかった。しかし見たところにはいかにも慇《いん》懃《ぎん》に口を開いた。
「私が木村さんのところにお嫁に行くようになったのはよく知ってますね。米国に出かけるようになったのもそのためだったのだけれどもね、もともと木村さんは私のように一度先にお嫁入りした人をもらうようなかたではなかったんだしするから、本当は私どうしても心は進まなかったんですよ。でも約束だからちゃんと守って行くには行ったの。けれどもね先方《むこう》に着いてみると私の体の具合がどうもよくなくって上陸はとてもできなかったからしかたなしにまた同じ船で帰るようになったの。木村さんはどこまでも私をお嫁にしてくださるつもりだから、私もその気ではいるのだけれども、病気ではしかたがないでしょう。それに恥ずかしいことを打ち明けるようだけれども、木村さんにも私にもあり余るようなお金がないものだから、行きも帰りもその船の事務長という大切な役目のかたにお世話にならなければならなかったのよ。そのかたが御親切にも私をここまで連れて帰ってくださったばかりで、もう一度あなたがたにも遇《あ》うことができたんだから、私はその倉地というかた――倉はお倉の倉で、地は地球の地と書くの。三吉というお名前は貞ちゃんにもわかるでしょう――その倉地さんには本当にお礼の申しようもないくらいなんですよ。愛さんなんかはそのかたのことで叔母さんなんぞからいろいろなことを聞かされて、姉さんを疑っていやしないかと思うけれども、それにはまたそれでめんどうなわけのあることなのだから、夢にも人の言うことなんぞをそのまま受け取ってもらっちゃ困りますよ。姉さんを信じておくれ、ね、よござんすか。私はお嫁なんぞに行かないでもいい、あなたがたとこうしているほど嬉《うれ》しいことはないと思いますよ。木村さんのほうにお金でもできて、私の病気が治《なお》りさえすれば結婚するようになるかもしれないけれども、それはいつのことともわからないし、それまでは私はこうしたままで、あなたがたといっしょにどこかにお家を持って楽しく暮らしましょうね。いいだろう貞ちゃん。もう寄宿なんぞにいなくってもようござんすよ」
「お姉さま私寄宿では夜になると本当は泣いてばかりいたのよ。愛姉さんはよくお寝になっても私は小さいから悲しかったんですもの」
そう貞世は白状するように言った。先刻《さつき》まではいかにも楽しそうに言っていたその可憐な同じ唇から、こんな哀れな告白を聞くと葉子はひとしおしんみりした心持ちになった。
「私だってもよ。貞ちゃんは宵の口だけくすくす泣いても後はよく寝ていたわ。姉様、私は今まで貞ちゃんにも言わないでいましたけれども……皆んなが聞こえよがしに姉様のことをかれこれ言いますのに、たまに悪いと思って貞ちゃんと叔母さんのところに行ったりなんぞすると、それは本当にひどい……ひどいことをおっしゃるので、どっちに行っても口惜しゅうございましたわ。古藤さんだってこのごろはお手紙さえくださらないし……田島先生だけは私たち二人を可哀そうがってくださいましたけれども……」
葉子の思いは胸の中で煮え返るようだった。
「もういい勘《かん》忍《にん》してくださいよ。姉さんがやはり至らなかったんだから。お父さんがいらっしゃればお互いにこんないやな目には遇わないだろうけれども(こういう場合葉子はおくびにも母の名は出さなかった)親のない私たちは肩身が狭いわね。まああなたがたはそんなに泣いちゃだめ。愛さんなんですねあなたから先に立って。姉さんが帰った以上は姉さんになんでも任して安心して勉強してくださいよ。そうして世間の人を見返しておやり」
葉子は自分の心持ちを憤《いきどお》ろしく言い張っているのに気がついた。いつの間にか自分までが激しく昂《こう》奮《ふん》していた。
火鉢の火はいつか灰になって、夜寒が秘《ひそ》やかに三人の姉妹にはいよっていた。もう少し睡気を催してきた貞世は、泣いた後の渋い眼を手の中でこすりながら、不思議そうに昂奮した青白い姉の顔を見やっていた。愛子はガスの燈《ひ》に顔を背《そむ》けながらしくしくと泣き始めた。
葉子はもうそれを止めようとはしなかった。自分ですら声を出して泣いてみたいような衝動をつき返しつき返し水《みぞ》落《おち》のところに感じながら、火鉢の中を見入ったまま細かく震えていた。
生まれかわらなければ恢《かい》復《ふく》しようのないような自分の越し方行く末が絶望的にはっきりと葉子の心を寒く引き締めていた。
それでも三人が十六畳に床を敷いて寝てだいぶたってから、横浜から帰って来た倉地が廊下を隔てた隣りの部屋に行くのを聞き知ると、葉子はすぐ起きかえってしばらく妹たちの寝《ね》息気《いき》を窺《うかが》っていたが、二人がいかにも無心に赤々とした頬をしてよく寝入っているのを見《み》窮《きわ》めると、そっとどてらを引っかけながらその部屋を脱け出した。
二五
それから一日おいて次の日に古藤から九時ごろに来るがいいかと電話がかかって来た。葉子は十時過ぎにしてくれと返事をさせた。古藤に会うには倉地が横浜に行った後がいいと思ったからだ。
東京に帰ってから叔母と五十川女史のところへは帰ったことだけを知らせておいたが、どっちからも訪問はもとよりのこと一言半句の挨拶もなかった。責めて来るなり慰めて来るなり、なんとかしそうなものだ。あまりと言えば人を踏みつけにした仕業《しわざ》だとは思ったけれども、葉子としては結句それがめんどうがなくっていいとも思った。そんな人たちに会っていさくさ口をきくよりも、古藤と話しさえすればその口裏から東京の人たちの心持ちもだいたいはわかる。積極的な自分の態度はその上で決めても遅くはないと思案した。
双鶴館の女将は本当に眼から鼻に抜けるように落度なく、葉子の影身になって葉子のために尽くしてくれた。その後ろには倉地がいて、あのいかにも疎大らしく見えながら、人の気もつかないような綿密なところにまで気を配って、采《さい》配《はい》を振っているのはわかっていた。新聞記者などがどこをどうして探り出したか、初めのうちは押し強く葉子に面会を求めて来たのを、女将が手ぎわよく追い払ったので、近づきこそはしなかったが遠巻きにして葉子の挙動に注意していることなどを、女将は眉《まゆ》をひそめながら話して聞かせたりした。木部の恋人であったということがひどく記者たちの興味を牽《ひ》いたように見えた。葉子は新聞記者と聞くと、震え上がるほどいやな感じを受けた。小さい時分に女記者になろうなどと人にも口外した覚えがあるくせに、探訪などに来る人たちのことを考えるといちばん賤《いや》しい種類の人間のように思わないではいられなかった。仙台で、新聞社の社長と親《おや》佐《さ》と葉子との間に起こったこととして不倫な捏《ねつ》造《ぞう》記事(葉子はその記事のうち、母に関してはどの辺までが捏造であるか知らなかった。少なくとも葉子に関しては捏造だった)が掲載されたばかりでなく、母のいわゆる寃《えん》罪《ざい》は堂々と新聞紙上で雪《すす》がれたが、自分のはとうとうそのままになってしまった、あの苦い経験などがますます葉子の考えを頑《かたく》なにした。葉子が「報正新報」の記事を見た時も、それほど田川夫人が自分を迫害しようとするなら、こちらもどこかの新聞を手に入れて田川夫人に致命傷を与えてやろうかという(道徳を米の飯と同様に見て生きているような田川夫人に、その点に傷を与えて顔出しができないようにするのは容易なことだと葉子は思った)企《たくら》みを自分ひとりで考えた時でも、あの記者というものを手なずけるまでに自分を堕落させたくないばかりにそのもくろみを思い止《とど》まったほどだった。
その朝も倉地と葉子とは女将を話し相手に朝飯を食いながら新聞に出たあの奇怪な記事の話をして、葉子が遠《とお》にそれをちゃんと知っていたことなどを談《かた》り合いながら笑ったりした。
「忙しいにかまけて、あれはあのままにしておったが……一つはあまり短兵急にこっちから出しゃばると足もとを見やがるで、……あれはなんとかせんとめんどうだて」
と倉地はがらっと箸《はし》を膳《ぜん》に捨てながら、葉子から女将に眼をやった。
「そうですともさ。くだらない、あなた、あれであなたの御職掌にでもけちがついたら本当に馬鹿馬鹿しゅうござんすわ。報正新報社になら私御懇意のかたも二人や三人はいらっしゃるから、なんなら私からそれとなくお話してみてもようございますわ。私はまたお二人とも今まであんまり平気でいらっしゃるんで、もうなんとかお話がついたのだとばかり思ってましたの」
と女将は怜《さか》しそうな眼に真味な色を見せてこう言った。倉地は無頓着に「そうさな」と言ったきりだったが、葉子は二人の意見がほぼ一致したらしいのを見ると、いくら女将が巧みに立ち廻ってもそれを揉《も》み消すことはできないと言いだした。なぜと言えばそれは田川夫人が何か葉子を深く意趣に思ってさせたことで、「報正新報」にそれが現われたわけは、その新聞が田川博士の機関新聞だからだと説明した。倉地は田川と新聞との関係をはじめて知ったらしい様子で意外な顔つきをした。
「俺はまた興録の奴……あいつはべらべらした奴で、右左のはっきりしない油断のならぬ男だから、あいつの仕事かとも思ってみたが、なるほどそれにしては記事の出かたが少し早過ぎるて」
そう言ってやおら立ち上がりながら次の間に着かえに行った。
女中が膳部をかたづけ終わらぬうちに古藤が来たという案内があった。
葉子はちょっと当惑した。誂《あつら》えておいた衣類がまだできないのと、着具合がよくって、倉地からもしっくり似合うと讃《ほ》められるので、その朝も若者のちょいちょい着らしい、黒《くろ》繻《じゆ》子《す》の襟《えり》の着いた、伝法な棒《ぼう》縞《じま》の身幅の狭い着物に、黒繻子と水色匹田《ひつた》の昼夜帯《*》をしめて、どてらを引っかけていたばかりでなく、髪までやはり櫛《くし》巻《ま》きにしていたのだった。ええ、いいかまうものか、どうせ鼻をあかさせるならのっけからあかさせてやろう、そう思って葉子はそのままの姿で古藤を待ち構えた。
昔のままの姿で、古藤は旅館というよりも料理屋といったふうの様子に少し鼻じろみながらはいって来た。そうして飛び離れて風体の変わった葉子を見ると、なおさら勝手が違って、これがあの葉子なのかと言うように、驚きの色を隠し立てもせずに顔に現わしながら、じっとその姿を見た。
「まあ義一さんしばらく。お寒いのね。どうぞ火鉢によってくださいましな。ちょっとごめんくださいよ」
そう言って、葉子はあでやかに上体だけを後ろにひねって、広《ひろ》蓋《ぶた》から紋付きの羽織を引き出して、すわったままどてらを着なおした。なまめかしい匂《にお》いがその動作につれて密《こま》やかに部屋の中に動いた。葉子は自分の服装がどう古藤に印象しているかなどを考えてもみないようだった。十年も着慣れたふだん着で昨日も会ったばかりの弟のように親しい人に向かうようなとりなしをした。古藤は頓《とみ》には口もきけないように思い惑っているらしかった。多少垢《あか》になった薩《さつ》摩《ま》絣《がすり》の衣物を着て、観《かん》世《ぜ》撚《より》の羽《は》織《おり》紐《ひも》にも、きちんとはいた袴《はかま》にも、その人の気質が明らかに書き記《しる》してあるようだった。
「こんなでたいへん変なところですけれどもどうか気楽になさってくださいまし。それでないとなんだか改まってしまってお話がしにくくっていけませんから」
心おきない、そして古藤を信頼している様子を巧みにもそれとなく気《け》取《ど》らせるような葉子の態度はだんだん古藤の心を静めて行くらしかった。古藤は自分の長所も短所も無自覚でいるような、そのくせどこかに鋭い光のある眼を挙げてまじまじと葉子を見始めた。
「何より先にお礼。ありがとうございました妹たちを。一昨日二人でここに来てたいへん喜んでいましたわ」
「なんにもしやしない、ただ塾に連れて行って上げただけです。御丈夫ですか」
古藤はありのままをありのままに言った。そんな序曲的な会話を少し続けてから葉子はおもむろに探り知っておかなければならないような事柄に話題を向けて行った。
「今度こんなひょんなことで私アメリカに上陸もせずに帰って来ることになったんですが、本当をおっしゃってくださいよ、あなたはいったい私をどうお思いになって」
葉子は火鉢の縁に両《りよう》肘《ひじ》をついて、両手の指先を鼻の先に集めて組んだりほどいたりしながら、古藤の顔に浮かび出るすべての意味を読もうとした。
「ええ、本当を言いましょう」
そう決心するもののように古藤は言ってから一《ひと》膝《ひざ》乗り出した。
「この十二月に兵隊に行かなければならないものだから、それまでに研究室の仕事をかたづくものだけはかたづけておこうと思ったので、何もかも打ち捨てていましたから、この間横浜からあなたの電話を受けるまでは、あなたの帰って来られたのを知らないでいたんです。もっとも帰って来られるような話はどこかで聞いたようでしたが。そして何かそれには重大なわけがあるに違いないとは思っていましたが。ところがあなたの電話を切ると間もなく木村君の手紙が届いて来たんです。それはたぶん絵島丸より一日か二日早く大北汽船会社の船が着いたはずだから、それが持って来たんでしょう。ここに持って来ましたが、それを見て僕は驚いてしまったんです。ずいぶん長い手紙だから後で御覧になるなら置いて行きましょう。簡単に言うと(そう言って古藤はその手紙の必要な要点を心の中で整頓するらしくしばらく黙っていたが)木村君はあなたが帰るようになったのを非常に悲しんでいるようです。そしてあなたほど不幸な運命にもてあそばれる人はない。またあなたほど誤解を受ける人はない。誰もあなたの複雑な性格を見《み》窮《きわ》めて、その底にある尊い点を拾い上げる人がないから、いろいろなふうにあなたは誤解されている。あなたが帰るについては日本でも種々さまざまな風説が起こることだろうけれども、君だけはそれを信じてくれちゃ困る。それから……あなたは今でも僕の妻だ……病気に苦しめられながら、世の中の迫害を存分に受けなければならない憐れむべき女だ。他人がなんと言おうと君だけは僕を信じて……もしあなたを信ずることができなければ僕を信じて、あなたを妹だと思ってあなたのために戦ってくれ……本当はもっと最大級の言葉が使ってあるのだけれどもだいたいそんなことが書いてあったんです。それで……」
「それで?」
葉子は眼の前で、こんがらがった糸が静かにほごれて行くのを見つめるように、不思議な興味を感じながら、顔だけは打ち沈んでこううながした。
「それでですね。僕はその手紙に書いてあることとあなたの電話の『滑《こつ》稽《けい》だった』という言葉とをどう結びつけてみたらいいかわからなくなってしまったんです。木村の手紙を見ない前でもあなたのあの電話の口調には……電話だったせいかまるでのんきな冗談口のようにしか聞こえなかったものだから……本当を言うとかなり不快を感じていたところだったのです。思ったとおりを言いますから怒らないで聞いてください」
「何を怒りましょう。ようこそはっきりおっしゃってくださるわね。あれは私も後で本当に済まなかったと思いましたのよ。木村が思うように私は他人の誤解なんぞそんなに気にしてはいないの。小さい時から慣れっこになってるんですもの。だから皆さんが勝手なあて推量なぞをしているのが少しは癪《しやく》にさわったけれども、滑稽に見えてしかたがなかったんですのよ。そこにもってきて電話であなたのお声が聞こえたもんだから、飛び立つように嬉《うれ》しくって思わずしらずあんな軽はずみなことを言ってしまいましたの。木村から頼まれて私の世話を見てくださった倉地という事務長のかたもそれは気さくな親切な人じゃありますけれども、船ではじめて知り合いになったかただから、お心安立てなんぞはできないでしょう。あなたのお声がした時には本当に敵の中から救い出されたように思ったんですもの……まあしかしそんなことは弁解するにも及びませんわ。それからどうなさって?」
古藤は例の厚い理想の被《かつぎ》の下から、深く隠された感情がときどききらきらとひらめくような眼を、少し物《もの》惰《う》げに大きく見開いて葉子の顔をつれづれと見やった。初対面の時には人並みはずれて遠慮がちだったくせに、少し慣れてくると人を見《み》徹《とお》そうとするように凝視するその眼は、いつでも葉子に一種の不安を与えた。古藤の凝視にはずうずうしいというところは少しもなかった。また故意にそうするらしい様子も見えなかった。少し鈍と思われるほど世事に疎《うと》く、事物の本当の姿を見て取る方法に暗いながら、真正直に悪意なくそれをなし遂げようとするらしい眼つきだった。古藤なんぞに自分の秘密がなんで発《あば》かれてたまるものかと多《た》寡《か》をくくりつつも、その物軟らかながらどんどん人の心の中にはいり込もうとするような眼つきに遇《あ》うと、いつか秘密のどん底を誤《あやま》たずつかまれそうな気がしてならなかった。そうなるにしてもしかしそれまでには古藤は長い間忍耐して待たなければならないだろう、そう思って葉子は一面小気味よくも思った。
こんな眼で古藤は、明らかな疑いを示しつつ葉子を見ながら、さらに語り続けたところによれば、古藤は木村の手紙を読んでから思案に余って、その足ですぐ、まだ釘《くぎ》店《だな》の家の留守番をしていた葉子の叔母のところを尋ねてその考えを尋ねてみようとしたところが、叔母は古藤の立場がどちらに同情を持っているか知れないので、うっかりしたことは言われないと思ったか、何事も打ち明けずに、五十川女史に尋ねてもらいたいと逃げを張ったらしい。古藤はやむなくまた五十川女史を訪問した。女史とは築地のある教会堂の執事の部屋で会った。女史の言うところによると、十日ほど前に田川夫人のところから船中における葉子の不《ふ》埒《らち》を詳細に知らしてよこした手紙が来て、自分としては葉子のひとり旅を保護し監督することはとても力に及ばないから、船から上陸する時もなんの挨《あい》拶《さつ》もせずに別れてしまった。なんでも噂《うわさ》で聞くと病気だと言ってまだ船に残っているそうだが、万一そのまま帰国するようにでもなったら、葉子と事務長との関係は自分たちが想像する以上に深くなっていると断定しても差し支えない。せっかく依額を受けてその責めを果たさなかったのは誠に済まないが、自分たちの力では手に余るのだから推《すい》恕《じよ》していただきたいと書いてあった。で、五十川女史は田川夫人がいいかげんな捏《ねつ》造《ぞう》などする人でないのをよく知っているから、その手紙を重立った親類たちに示して相談した結果、もし葉子が絵島丸で帰って来たら、回復のできない罪を犯したものとして、木村に手紙をやって破約を断行させ、一面には葉子に対して親類一同は絶縁する申し合せをしたということを聞かされた。そう古藤は語った。
「僕はこんなことを聞かされて途方に暮れてしまいました。あなたは先刻《さつき》から倉地というその事務長のことを平気で口にしているが、こっちではその人が問題になっているんです。今日でも僕はあなたにお会いするのがいいのか悪いのかさんざん迷いました。しかし約束ではあるし、あなたから聞いたらもっと事柄もはっきりするかと思って、思いきって伺うことにしたんです。……あっちにたった一人いて五十川さんから恐ろしい手紙を受け取らなければならない木村君を僕は心から気の毒に思うんです。もしあなたが誤解の中にいるんなら聞かせてください。僕はこんな重大なことを一《いつ》方《ぽう》口《ぐち》で判断したくはありませんから」
と話を結んで古藤は悲しいような表情をして葉子を見つめた。小《こ》癪《しやく》なことを言うもんだと葉子は心の中で思ったけれども、指先でもてあそびながら少し振り仰いだ顔はそのままに、憐れむような、からかうような色を微《かす》かに浮かべて、
「ええ、それはお聞きくださればどんなにでもお話はしましょうとも。けれどもてんから私を信じてくださらないんならどれほど口を酸《す》っぱくしてお話をしたってむだね」
「お話を伺ってから信じられるものなら信じようとしているのです僕は」
「それはあなたがたのなさる学問ならそれでようござんしょうよ。けれども人情ずくのことはそんなものじゃありませんわ。木村に対してやましいことはいたしませんと言ったってあなたが私を信じていてくださらなければ、それまでのものですし、倉地さんとはお友だちというだけですと誓ったところが、あなたが疑っていらっしゃればなんの役にも立ちはしませんからね。……そうしたもんじゃなくって?」
「それじゃ五十川さんの言葉だけで僕にあなたを判断しろとおっしゃるんですか」
「そうね。……それでもようございましょうよ。とにかくそれは私が御相談を受ける事柄じゃありませんわ」
そう言ってる葉子の顔は、言葉に似合わずどこまでも優しく親しげだった。古藤はさすがに怜《さか》しく、こう縺《もつ》れてきた言葉をどこまでも追おうとせずに黙ってしまった。そして「何事も明らさまにしてしまうほうが本当はいいのだがな」と言いたげな眼つきで、格別虐《しいた》げようとするでもなく、葉子が鼻の先で組んだりほどいたりする手先を見入った。そうしたままでややしばらくの時が過ぎた。
十一時近いこの辺の町並みはいちばん静かだった。葉子はふと雨《あま》樋《どい》を伝う雨垂れの音を聞いた。日本に帰ってからはじめて空は時雨《しぐ》れていたのだ。部屋の中は盛んな鉄《てつ》瓶《びん》の湯気でそう寒くはないけれども、戸外は薄ら寒い日和《ひより》になっているらしかった。葉子はぎごちない二人の間の沈黙を破りたいばかりに、ひょっと首を擡《もた》げて腰窓の方を見やりながら、
「おやいつの間にか雨になりましたのね」
と言ってみた。古藤はそれには答えもせずに、五《ご》分《ぶ》苅《が》りの地蔵頭を俯垂《うなだ》れて深々と溜《ため》息《いき》をした。
「僕はあなたを信じきることができればどれほど幸いだかしれないと思うんです。五十川さんなぞより僕はあなたと話しているほうがずっと気持ちがいいんです。それはあなたが同じ年ごろで、――たいへん美しいというためばかりじゃないと(その時古藤はおぼこらしく顔を赤らめていた)思っています。五十川さんなぞはなんでも物を僻《ひが》目《め》で見るから僕はいやなんです。けれどもあなたは……どうしてあなたはそんな気象でいながらもっと大胆に物を打ち明けてくださらないんです。僕はなんと言ってもあなたを信ずることができません。こんな冷淡なことを言うのを許してください。しかしこれはあなたにも責《せめ》があると僕は思いますよ。……しかたがない僕は木村君に今日あなたと会ったこのままを言ってやります。僕にはどう判断のしようもありませんもの……しかしお願いしますがねえ。木村君があなたから離れなければならないものなら、一刻でも早くそれを知るようにしてやってください。僕は木村君の心持ちを思うと苦しくなります」
「でも木村は、あなたに来たお手紙によると私を信じきってくれているのではないんですか」
そう葉子に言われて、古藤はまた返す言葉もなく黙ってしまった。葉子は見る見る非常に昂《こう》奮《ふん》してきたようだった。抑え抑えている葉子の気持ちが抑えきれなくなって激しく働きだしてくると、それはいつでも惻《そく》々《そく》として人に迫り人を圧した。顔色一つ変えないで元のままに親しみを込めて相手を見やりながら、胸の奥底の心持ちを伝えて来るその声は、不思議な力を電気のように感じて震えていた。
「それで結構。五十川の小母《おば》さんは始めからいやだいやだと言う私を無理に木村に添わせようとしておきながら、今になって私の口から一言の弁解も聞かずに、木村に離縁を勧めようと言う人なんですから、それや私恨みもします。腹も立てます。ええ、私はそんなことをされて黙って引っ込んでいるような女じゃないつもりですわ。けれどもあなたは初手から私に疑いをお持ちになって、木村にもいろいろ御忠告なさったかたですもの、木村にどんなことを言っておやりになろうとも私にはねっから不服はありませんことよ。……けれどもね、あなたが木村のいちばん大切な親友でいらっしゃると思えばこそ、私は人一倍あなたを頼りにして今日もわざわざこんなところまで御迷惑を願ったりして、……でもおかしいものね、木村はあなたも信じ私も信じ、私は木村も信じあなたも信じ、あなたは木村は信ずるけれども私を疑って……そ、まあ待って、疑ってはいらっしゃりません。そうです。けれども信ずることができないでいらっしゃるんですわね……こうなると私は倉地さんにでもおすがりして相談相手になっていただくほかしようがありません。いくら私娘の時から周囲《まわり》から責められ通しに責められていても、今だに女手一つで二人の妹まで背負って立つことはできませんからね。……」
古藤は二重に折っていたような腰を立てて、少しせきこんで、
「それはあなたに不似合いな言葉だと僕は思いますよ。もし倉地という人のためにあなたが誤解を受けているのなら……」
そう言ってまだ言葉を切らないうちに、もう遠《とお》に横浜に行ったと思われていた倉地が、和服のままで突然六畳の間にはいって来た。これは葉子にも意外だったので、葉子は鋭く倉地に眼くばせしたが、倉地は無頓着だった。そして古藤のいるのなどは度外視した傍若無人さで、火鉢の向《むこう》座《ざ》にどっかと胡坐《あぐら》をかいた。
古藤は倉地を一眼見るとすぐ倉地と悟ったらしかった。いつもの癖で古藤はすぐ極度に固くなった。中断された話の続きを持ち出しもしないで、黙ったまま少し伏し眼になってひかえていた。倉地は古藤から顔の見えないのをいいことに、早く古藤を返してしまえというような顔つきを葉子にしてみせた。葉子はわけはわからないままにその注意に従おうとした。で、古藤の黙ってしまったのをいいことに、倉地と古藤とを引き合わせることもせずに自分も黙ったまま静かに鉄《てつ》瓶《びん》の湯を土瓶に移して、茶を二人に勧めて自分もゆうゆうと飲んだりしていた。
突然古藤は居ずまいをなおして、
「もう僕は帰ります。お話は中途ですけれどもなんだか僕は今日はこれでお暇《いとま》がしたくなりました。あとは必要があったら手紙を書きます」
そう言って葉子にだけ挨拶して座を立った。葉子は例の芸者のような姿のままで古藤を玄関まで送り出した。
「失礼しましてね、本当に今日は。もう一度でようございますからぜひお会いになってくださいましな。一生のお願いですから、ね」
と耳打ちするようにささやいたが古藤はなんとも答えず、雨の降りだしたのに傘も借りずに出て行った。
「あなたったらまずいじゃありませんか、なんだってあんな幕に顔をお出しなさるの」
こう詰《なじ》るように言って葉子が座につくと、倉地は飲み終わった茶碗を猫板の上にとんと音をたてて伏せながら、
「あの男はお前、馬鹿にしてかかっているが、話を聞いていると妙に粘り強いところがあるぞ。馬鹿もあのくらい真直ぐに馬鹿だと油断のできないものだ。も少し話を続けていてみろ、お前の遣《や》り繰《く》りでは間に合わなくなるから。いったいなんでお前はあんな男をかまいつける必要があるんか、わからないじゃないか。木村にでも未練があれば知らないこと」
こう言って不敵に笑いながら押しつけるように葉子を見た。葉子はぎくりと釘《くぎ》を打たれたように思った。倉地をしっかり握るまでは木村を離してはいけないと思っている胸算用を倉地に偶然に言い当てられたように思ったからだ。しかし倉地が本当に葉子を安心させるためには、しなければならない大事なことが少なくとも一つ残っている。それは倉地が葉子と表向き結婚のできるだけの始末をしてみせることだ。手っ取り早く言えばその妻を離縁することだ。それまではどうしても木村をのがしてはならない。そればかりではない、もし新聞の記事などが問題になって、倉地が事務長の位置を失うようなことにでもなれば、少し気の毒だけれども木村を自分の鎖から解き放さずにおくのが何かにつけて便宜でもある。葉子はしかし前の理由はおくびにも出さずに後の理由を巧みに倉地に告げようと思った。
「今日は雨になったで出かけるのが大儀だ。昼には湯豆腐でもやって寝てくれようか」
そう言って早くも倉地がそこに横になろうとするのを葉子は強いて起き返らした。
二六
「水戸とかでお座敷に出ていた人だそうですが、倉地さんに落籍《ひか》されてからもう七、八年にもなりましょうか、それは穏当ないい奥さんで、とても商売をしていた人のようではありません。もっとも水戸の士族のお娘《むすめ》御《ご》で出るが早いか倉地さんのところにいらっしゃるようになったんだそうですからそのはずでもありますが、ちっとも擦《す》れていらっしゃらないでいて、気もおつきにはなるし、しとやかでもあり、……」
ある晩双鶴館の女将が話に来て四方《よも》山《やま》の噂のついでに倉地の妻の様子を語ったその言葉は、はっきりと葉子の心に焼きついていた。葉子はそれが優《すぐ》れた人であると聞かされれば聞かされるほど妬《ねた》ましさを増すのだった。自分の眼の前には大きな障《しよう》碍《がい》物《ぶつ》が真暗に立ちふさがっているのを感じた。嫌《けん》悪《お》の情にかきむしられて前後のことも考えずに別れてしまったのではあったけれども、かりにも恋らしいものを感じた木部に対して葉子が抱く不思議な情緒、――ふだんは何事もなかったように忘れ果ててはいるものの、思いも寄らないきっかけにふと胸を引き締めて捲《ま》き起こってくる不思議な情緒、――一種の絶望的なノスタルジア――それを葉子は倉地にも倉地の妻にも寄せて考えてみることのできる不幸を持っていた。また自分の生んだ子供に対する執着。それを男も女も同じ程度にきびしく感ずるものかどうかは知らない。しかしながら葉子自身の実感から言うと、なんと言ってもたとえようもなくその愛着は深かった。葉子は定子を見ると知らぬ間に木部に対して恋に等しいような強い感情を動かしているのに気がつくことがしばしばだった。木部との愛着の結果定子が生まれるようになったのではなく、定子というものがこの世に生まれ出るために、木部と葉子とは愛着の覊《きずな》に繋《つな》がれたのだとさえ考えられもした。葉子はまた自分の父がどれほど葉子を溺《でき》愛《あい》してくれたかをも思ってみた。葉子の経験から言うと、両親ともいなくなってしまった今、慕わしさなつかしさをよけい感じさせるものは、格別これといって情愛の徴《しるし》を見せはしなかったが、始終軟らかい眼色で自分たちを見守ってくれていた父のほうだった。それから思うと男というものも自分の生ませた子供に対しては女に譲らぬ執着を持ち得るものに相違ない。こんな過去の甘い回想までが今は葉子の心を鞭《むちう》つ笞《しもと》となった。しかも倉地の妻と子とはこの東京にちゃんと住んでいる。倉地は毎日のようにその人たちに遇っているのに相違ないのだ。
思う男をどこからどこまで自分のものにして、自分のものにしたという証拠を握るまでは、心が責めて責めて責めぬかれるような恋愛の残虐な力に葉子は昼となく夜となく打ちのめされた。船の中での何事も打ち任せきったような心やすい気分は他人《ひと》事《ごと》のように、遠い昔のことのように悲しく思いやられるばかりだった。どうしてこれほどまでに自分というものの落ちつき所を見失ってしまったのだろう。そう思う下から、こうしては一刻もいられない。早く早くすることだけをしてしまわなわれば、取り返しがつかなくなる。どこからどう手をつければいいのだ。敵を斃《たお》さなければ、敵は自分を斃すのだ。なんの躊《ちゆう》躇《ちよ》。なんの思案。倉地が去った人たちに未練を残すようならば自分の恋は石や瓦と同様だ。自分の心で何もかも過去はいっさい焼き尽くしてみせる。木部もない、定子もない。まして木村もない。皆んな捨てる、皆んな忘れる。その代わり倉地にも過去という過去をすっかり忘れさせずにおくものか。それほどの蠱《こ》惑《わく》の力と情熱の炎とが自分にあるかないか見ているがいい。そうしたいちずの熱意が身をこがすように燃え立った。葉子は新聞記者の来襲を恐れて宿にとじ籠《こも》ったまま、火鉢の前にすわって、倉地の不在の時はこんな妄《もう》想《そう》に身も心もかきむしられていた。だんだん募ってくるような腰の痛み、肩の凝《こ》り。そんなものさえ葉子の心をますますいらだたせた。
ことに倉地の帰りのおそい晩などは、葉子は座にもいたたまれなかった。倉地の居間になっている十畳の間に行って、そこに倉地の面影を少しでも偲ぼうとした。船の中での倉地との楽しい思い出は少しも浮かんでこずに、どんな構えとも想像はできないが、とにかく倉地の住居のある部屋に、三人の娘たちに取り捲かれて、美しい妻にかしずかれて杯を干している倉地ばかりが想像に浮かんだ。そこに脱ぎ捨ててある倉地のふだん着はますます葉子の想像をほしいままにさせた。いつでも葉子の情熱を引っつかんでゆすぶり立てるような倉地特有の膚の香、芳《ほう》醇《じゆん》な酒や煙草から香《にお》い出るようなその香を葉子は衣類をかき寄せて、それに顔を埋めながら、麻《ま》痺《ひ》して行くような気持ちで嗅ぎに嗅いだ。その香のいちばん奥に、中年の男に特有なふけのような不快な香、他人ののであったなら葉子は一たまりもなく鼻を掩《おお》うような不快な香を嗅ぎつけると、葉子は肉体的にも一種の陶酔を感じてくるのだった。その倉地が妻や娘たちに取り捲かれて楽しく一夕を過ごしている。そう思うとあり合わせるものを取って打《ぶ》ち毀《こわ》すか、つかんで引き裂きたいような衝動がわけもなく嵩《こう》じてくるのだった。
それでも倉地が帰って来ると、それは夜おそくなってからであっても葉子はただ子供のように幸福だった。それまでの不安や焦燥はどこにか行ってしまって、悪夢から幸福な世界に目覚めたように幸福だった。葉子はすぐ走って行って倉地の胸に他愛なく抱かれた。倉地も葉子を自分の胸に引き締めた。葉子は広い厚い胸に抱かれながら、単調な宿屋の生活の一日じゅうに起こった些《さ》細《さい》なことまでを、その表情の裕《ゆた》かな、鈴のような涼しい声で、自分を楽しませているもののごとく語った。倉地は倉地でその声に酔いしれて見えた。二人の幸福はどこに絶頂があるのかわからなかった。二人だけで世界は完全だった。葉子のすることは一つ一つ倉地の心がするように見えた。倉地のこうありたいと思うことは葉子があらかじめそうあらせていた。倉地のしたいと思うことは、葉子がちゃんとし遂げていた。茶碗の置き場所まで、着物のしまい所まで、倉地は自分の手でしたとおりを葉子がしているのを見いだしているようだった。
「しかし倉地は妻や娘たちをどうするのだろう」
こんなことをそんな幸福の最中にも葉子は考えないこともなかった。しかし倉地の顔を見ると、そんなことは思うも恥ずかしいような些細なことに思われた。葉子は倉地の中にすっかり融け込んだ自分を見いだすのみだった。定子までも犠牲にして倉地をその妻子から切り放そうなどいうたくらみはあまりに馬鹿らしい取越し苦労であるのを思わせられた。
「そうだ生まれてからこのかた私が求めていたものはとうとう来ようとしている。しかしこんなことがこう手近にあろうとは本当に思いもよらなかった。私みたいな馬鹿はない。この幸福の頂上が今だと誰か教えてくれる人があったら、私はその瞬間に喜んで死ぬ。こんな幸福を見てから下り坂にまで生きているのはいやだ。それにしてもこんな幸福でさえがいつかは下り坂になる時があるのだろうか」
そんなことを葉子は幸福に浸りきった夢心地の中に考えた。
葉子が東京に着いてから一週間目に、宿の女将《おかみ》の周旋で、芝の紅葉館と道一つ隔てた苔《たい》香《こう》園《えん》という薔薇《ばら》専門の植木屋の裏にあたる二階建ての家を借りることになった。それは元紅葉館の女中だった人がある豪商の妾になったについて、その豪商という人が建ててあてがった一構えだった。双鶴館の女将はその女と懇意の間だったが、女に子供が幾人かできて少し手狭過ぎるのでよそに移転しようかと言っていたのを聞き知っていたので、女将のほうで適当な家を探し出してその女を移らせ、その跡を葉子が借りることに取り計らってくれたのだった。倉地が先に行って中の様子を見て来て、杉林のために少し日当りはよくないが、当分の隠れ家としては屈強だと言ったので、すぐさまそこに移ることに決めたのだった。誰にも知れないように引っ越さねばならぬというので、荷物を小別けして持ち出すのにも、女将は自分の女中たちにまで、それが倉地の本宅に運ばれるものだと言って知らせた。運搬人はすべて芝の方から頼んで来た。そして荷物があらかたかたづいたところで、ある夜遅く、しかもびしょびしょと吹き降りのする寒い雨風のおりを選んで葉子は幌《ほろ》車《ぐるま》に乗った。葉子としてはそれほどの警戒をするには当たらないと思ったけれども、女将がどうしても聴《き》かなかった。安全なところに送り込むまではいったんお引き受けした手前、気が済まないと言い張った。
葉子が誂《あつら》えておいた仕立ておろしの衣類を着かえているとそこに女将も来合わせて脱ぎ返しの世話を見た。襟《えり》の合わせ目をピンで留めながら葉子が着がえを終えて座につくのを見て、女将は嬉《うれ》しそうに揉《も》み手をしながら、
「これであすこに大丈夫着いてくださりさえすれば私は重荷が一つ降りると申すものです。しかしこれからがあなたはごたいていじゃございませんね。あちらの奥様のことなど思いますと、どちらにどうお仕向けをしていいやら私にはわからなくなります。あなたのお心持ちも私は身にしみてお察し申しますが、どこから見ても批点の打ちどころのない奥様のお身の上も私には御《ご》不《ふ》憫《びん》で涙がこぼれてしまうんでございますよ。でね、これからのことについちゃ私はこう決めました。なんでもできますことならと申し上げたいんでございますけれども、私には心底をお打ち明け申しましたところ、どちら様にも義理が立ちませんから、薄情でも今日かぎりこのお話には手をひかせていただきます。……どうか悪くお取りになりませんようにね……どうも私はこんなでいながらかい性がございませんで……」
そう言いながら女将《おかみ》は口を切った時の嬉しげな様子にも似ず、襦《じゆ》袢《ばん》の袖《そで》を引き出す隙《すき》もなく眼に涙をいっぱいためてしまっていた。葉子にはそれが恨めしくも憎くもなかった。ただなんとなく親身な切なさが自分の胸にもこみ上げてきた。
「悪く取るどころですか。世の中の人が一人でもあなたのような心持ちで見てくれたら、私はその前に泣きながら頭を下げてありがとうございますと言うことでしょうよ。これまでのあなたのお心尽くしで私はもう十分。またいつか御恩返しのできることもありましょう。……それではこれでごめんくださいまし。お妹御にもどうか着物のお礼をくれぐれもよろしく」
少し泣き声になってそう言いながら、葉子は女将とその妹分にあたるという人に礼心に置いて行こうとする米国製の二つの手《て》携《さ》げをしまいこんだ違い棚をちょっと見やってそのまま座を立った。
雨風のために夜は賑《にぎ》やかな往来もさすがに人通りが絶え絶えだった。車に乗ろうとして空を見上げると、雲はそう濃くはかかっていないとみえて、新月の光がおぼろに空を明るくしている中を嵐模様の雲が恐ろしい勢いで走っていた。部屋の中の暖かさに引きかえて、湿気を十分に含んだ風は裾《すそ》前《まえ》を煽《あお》ってぞくぞくと膚に逼《せま》った。ばたばたと風に弄《なぶ》られる前《まえ》幌《ほろ》を車夫がかけようとしている隙から、女将がみずみずしい丸《まる》髷《まげ》を雨にも風にも思うまま打たせながら、女中のさしかざそうとする雨傘の蔭《かげ》に隠れようともせず、何か車夫に言い聞かせているのが大事らしく見やられた。車夫が梶《かじ》棒《ぼう》を挙げようとする時女将が祝儀袋をその手に渡すのが見えた。
「さようなら」
「お大事に」
はばかるように車の内《うち》外《そと》から声が交わされた。幌にのしかかってくる風に抵抗しながら車は闇の中を動きだした。
向い風がうなりを立てて吹きつけて来ると、車夫は思わず車を煽らせて足を止めるほどだった。この四、五日火鉢の前ばかりにいた葉子にとっては身を切るかと思われるような寒さが、厚い膝かけの目まで通して襲って来た。葉子はさきほど女将の言葉を聞いた時にはさほどとも思っていなかったが、少しほど立った今になってみると、それがひしひしと身に応《こた》えるのを感じだした。自分はひょっとするとあざむかれている、もてあそびものにされている。倉地はやはりどこまでもあの妻子と別れる気はないのだ。ただ長い航海中の気まぐれから、出来心に自分を征服してみようと企てたばかりなのだ。この恋のいきさつが葉子から持ち出されたものであるだけに、こんな心持ちになってくると、葉子は矢も楯《たて》もたまらず自分にひけ目を覚えた。幸福――自分が夢想していた幸福がとうとう来たと誇りがに喜んだその喜びはさもしい糠《ぬか》喜《よろこ》びにすぎなかったらしい。倉地は船の中でと同様の喜びでまだ葉子を喜んではいる。それに疑いを入れよう余地はない。けれども美しい貞節な妻と可憐な娘を三人まで持っている倉地の心がいつまで葉子に牽《ひ》かされているか、それを誰が語り得よう、葉子の心は幌の中に吹きこむ風の寒さとともに冷えて行った。世の中から綺麗に離れてしまった孤独な魂がたった一つそこには見いだされるようにも思えた。どこに嬉しさがある、楽しさがある。自分はまた一つの今までに味わわなかったような苦悩の中に身を投げ込もうとしているのだ。またうまうまと悪戯者の運命にしてやられたのだ。それにしてももうこのせとぎわから引くことはできない。死ぬまで……そうだ死んでもこの苦しみに浸りきらずにおくものか、葉子には楽しさが苦しさなのか、苦しさが楽しさなのか、全く見《み》界《さかい》がつかなくなってしまっていた。魂を締め木にかけてその油でも搾《しぼ》りあげるような悶《もだ》えの中にやむにやまれぬ執着を見いだして我れながら驚くばかりだった。
ふと車が停《と》まって梶棒がおろされたので葉子ははっと夢心地から我れに返った。恐しい吹き降りにたっていた。車夫が片足で梶棒を踏まえて、風で車のよろめくのを防ぎながら、前幌をはずしにかかると、真暗だった前方から幽《かす》かに光が漏れて来た。頭の上ではざあざあと降りしきる雨の中に、荒海の潮《しお》騒《さい》のようなものすごい響きが何か変事でも湧《わ》いて起こりそうに聞こえていた。葉子は車を出ると風に吹き飛ばされそうになりながら、髪や新調の着物の濡《ぬ》れるのもかまわず空を仰いで見た。漆を流したような雲で固く鎖《とざ》された雲の中に、漆よりも色濃くむらむらと立ち騒いでいるのは古い杉の木立ちだった。花壇らしい竹垣の中の灌《かん》木《ぼく》の類は枝先を地につけんばかりに吹きなびいて、枯れ葉が渦《うず》のようにばらばらと飛び廻っていた。葉子は我れにもなくそこにべったりすわり込んでしまいたくなった。
「おい早くはいらんかよ、濡れてしまうじゃないか」
倉地がランプの燈をかばいつつ家の中から怒鳴るのが風に吹きちぎられながら聞こえて来た。倉地がそこにいるということさえ葉子には意外のようだった。だいぶ離れたところでどたんと戸か何かはずれたような音がしたと思うと、風はまた一しきりうなりを立てて杉《すぎ》叢《むら》をこそいで通りぬけた。車夫は葉子を助けようにも梶棒を離れれば車をけし飛ばされるので、提灯《ちょうちん》の尻を風《かざ》上《かみ》の方に斜に向けて八分に上げながら何か大声に後ろから声をかけていた。葉子はすごすごとして玄関口に近づいた。一《いつ》杯《ぱい》機《き》嫌《げん》で待ちあぐんだらしい倉地の顔の酒ほてりに似ず、葉子の顔は透き通るほど青ざめていた。なよなよとまず敷台に腰を下ろして、十歩ばかり歩くだけで泥《どろ》になってしまった下《げ》駄《た》を、足先で手伝いながら脱ぎ捨てて、ようやく板の間に立ち上がってから、虚《うつ》ろな眼で倉地の顔をじっと目入った。
「どうだった寒かったろう。まあこっちにお上がり」
そう倉地は言って、そこに出合わしていた女中らしい人に手ランプを渡すと華《きや》車《しや》な少し急な階《はし》子《ご》段《だん》を昇って行った。葉子は吾妻《あずま》コートも脱がずにいいかげん濡れたままで黙ってその後からついて行った。
二階の間は電燈で昼間より明るく葉子には思われた。戸という戸ががたぴしと鳴りはためいていた。板《いた》葺《ぶ》きらしい屋根に一寸釘でも敲《たた》きつけるように雨が降りつけていた。座敷の中は暖かくいきれて、飲み食いする物が散らかっているようだった。葉子の注意の中にはそれだけのことがかろうじて入って来た。そこに立ったままの倉地に葉子は吸いつけられるように身を投げかけて行った。倉地も迎え取るように葉子を抱いたと思うとそのままそこにどっかと胡坐《あぐら》をかいた。そして自分の火照《ほて》った頬《ほお》を葉子のにすりつけるとさすがに驚いたように、
「こりゃどうだ冷えたにも氷のようだ」
と言いながらその顔を見入ろうとした。しかし葉子は無《む》性《しよう》に自分の顔を倉地の広い暖かい胸に埋めてしまった。なつかしみと憎しみとのもつれ合った、かつて経験しない激しい情緒がすぐに葉子の涙を誘い出した。ヒステリーのように間《かん》歇《けつ》的《てき》に牽《ひ》き起こるすすり泣きの声を噛《か》みしめても噛みしめても止めることができなかった。葉子はそうしたまま倉地の胸で息気《いき》を引き取ることができたらと思った。それとも自分の嘗《な》めているような魂の悶《もだ》えの中に倉地を捲《ま》き込むことができたらばとも思った。
いそいそと世話女房らしく喜び勇んで二階に上がって来る葉子を見いだすだろうとばかり思っていたらしい倉地は、この理由も知れぬ葉子の狂体に驚いたらしかった。
「どうしたというんだな、え」
と低く力をこめて言いながら、葉子を自分の胸から引き離そうとするけれども、葉子はただ無性にかぶりを振るばかりで、だだっ児《こ》のように、倉地の胸にしがみついた。できるならその肉の厚い男らしい胸を噛み破って、血みどろになりながらその胸の中に顔を埋めこみたい――そう言うように葉子は倉地の着物を噛んだ。
徐《しず》かにではあるけれども倉地の心はだんだん葉子の心持ちに染められて行くようだった。葉子をかき抱く倉地の腕の力は静かに加わって行った。その息気づかいは荒くなってきた。葉子は気が遠くなるように思いながら、締め殺すほど引きしめてくれと念じていた。そして顔を伏せたまま涙の隙から切れ切れに叫ぶように声を放った。
「捨てないでちょうだいとは言いません……捨てるなら捨ててくださってもようござんす……その代わり……その代わり……はっきりおっしゃってください、ね……私はただ引きずられて行くのがいやなんです……」
「何を言ってるんだお前は……」
倉地の噛んでふくめるような声が耳もと近く葉子にこうささやいた。
「それだけは……それだけは誓ってください……ごまかすのは私はいや……いやです」
「何を……何をごまかすかい」
「そんな言葉が私は嫌《きら》いです」
「葉子!」
倉地はもう熱情に燃えていた。しかしそれはいつでも葉子を抱いた時に倉地に起こる野獣のような熱情とは少し違っていた。そこにはやさしく女の心をいたわるような影が見えた。葉子はそれを嬉しくも思い、物足らなくも思った。
葉子の心の中は倉地の妻のことを言いだそうとする熱意でいっぱいになっていた。その妻が貞淑な美しい女であると思えば思うほど、その人が二人の間に挾まっているのが呪《のろ》わしかった。たとい捨てられるまでも一度は倉地の心をその女から根こそぎ奪い取らなければ堪《たん》念《ねん》ができないようなひた向きに狂暴な欲念が胸の中でははちきれそうに煮えくり返っていた。けれども葉子はどうしてもそれを口の端《は》にのせることはできなかった。その瞬間に自分に対する誇りが塵芥《ちりあくた》のように踏みにじられるのを感じたからだ。葉子は自分ながら自分の心がじれったかった。倉地のほうから一言もそれを言わないのが恨めしかった。倉地はそんなことは言うにも足らないと思っているのかもしれなしが……いいえそんなことはない、そんなことのあろうはずはない。倉地はやはり二《ふた》股《また》かけて自分を愛しているのだ。男の心にはそんな淫《みだ》らな未練があるはずだ。男の心とは言うまい、自分も倉地に出遇うまでは、異性に対する自分の愛を勝手に三つにも四つにも裂いてみることができたのだ。……葉子はここにも自分の暗い過去の経験のために責めさいなまれた。進んで恋の〓《とりこ》となったものが当然陥らなければならないたとえようのないほど暗く深い疑惑は後から後から口実を作って葉子を襲うのだった。葉子の胸は言葉どおりに張り裂けようとしていた。
しかし葉子の心が傷《いた》めば傷むほど倉地の心は熱して見えた。倉地はどうして葉子がこんなに機嫌を悪くしているのかを思い迷っている様子だった。倉地はやがて強いて葉子を自分の胸から引き放してその顔を強く見守った。
「何をそう理屈もなく泣いているのだ……お前は俺を疑ぐっているな」
葉子は「疑わないでいられますか」と答えようとしたが、どうしてもそれは自分の面目にかけて口には出せなかった。葉子は涙に解けて漂うような眼を恨めしげに大きく開いて黙って倉地を見返した。
「今日俺はとうとう本店から呼び出されたんだった。船の中でのことをそれとなく聞き糺《ただ》そうとしおったから、俺は残らず言って退《の》けたよ。新聞に俺たちのことが出た時でもが、あわてるがものはないと思っとったんだ。どうせいつかは知れることだ。知れるほどなら、大っぴらで早いがいいくらいのものだ。近いうちに会社のほうは首になろうが、俺は、葉子、それが満足なんだぞ。自分で自分の面《つら》に泥を塗って喜んでいる俺が馬鹿に見えような」
そう言っから倉地は激しい力で再び葉子を自分の胸に引き寄せようとした。
葉子はしかしそうはさせなかった。すばやく倉地の膝から飛び退《の》いて畳の上に頬を伏せた。倉地の言葉をそのまま信じて、すなおに嬉しがって、心を涙に溶いて泣きたかった。しかし万一倉地の言葉がその場遁《のが》れの勝手な造りごとだったら……なぜ倉地は自分の妻や子供たちのことを言っては聞かせてくれないのだ。葉子はわけのわからない涙を泣くより術《すべ》がなかった。葉子は突っ伏したままでさめざめと泣きだした。
戸外の嵐は気勢を加えて、ものすさまじく更《ふ》けて行く夜を荒れ狂った。
「俺の言うたことがわからんならまあ見とるがいいさ。俺はくどいことは好かんからな」
そう言いながら倉地は自分を抑制しようとするように強いて落ち着いて、葉巻を取り上げて煙草盆を引き寄せた。
葉子は心の中で自分の態度が倉地の気をまずくしているのをはらはらしながら思いやった。気をまずくするだけでもそれだけ倉地から離れそうなのがこの上なくつらかった。しかし自分で自分をどうすることもできなかった。
葉子は嵐の中に我れと我が身をさいなみながらさめざめと泣き続けた。
二七
「何を私は考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんなことはついぞないことだのに」
葉子はその夜倉地と部屋を別にして床に就いた。倉地は階上に、葉子は階下に。絵島丸以来二人が離れて寝たのはその夜がはじめてだった。倉地が真心をこめた様子でかれこれ言うのを、葉子はすげなく跳《は》ねつけて、せっかくとってあった二階の寝床を、女中に下に運ばしてしまった。横になりはしたがいつまでも寝つかれないで二時近くまで言葉どおりに輾《てん》転《てん》反《はん》側《そく》しつつ、繰り返し繰り返し倉地の夫婦関係を種々に妄想したり、自分にまくしかかってくる将来の運命をひたすらに黒く塗ってみたりしていた。それでも果ては頭も体も疲れ果てて夢ばかりな眠りに陥ってしまった。
うつらうつらとした眠りから、突然たとえようのない淋《さび》しさにひしひしと襲われて、――それはその時見た夢がそんな暗示になったのか、それとも感覚的な不満が眼を覚《さ》ましたのかわからなかった――葉子は暗《くら》闇《やみ》の中に眼を開いた。嵐のために電線に故障ができたとみえて、眠る時には点《つ》け放しにしておいた灯《ひ》がどこもここも消えているらしかった。嵐はしかしいつの間にか凪《な》ぎてしまって、嵐の後の晩秋の夜はことさら静かだった。山《さん》内《ない》一面の杉森からは深山のような鬼気がしんしんと吐き出されるように思えた。蟋蟀《こおろぎ》が隣の部屋の隅でかすれがすれに声を立てていた。わずかなしかも浅い睡眠にはすぎなかったけれども葉子の顔は暁《あかつき》前《まえ》の冷えを感じて冴《さ》え冴《ざ》えと澄んでいた。葉子はまず自分がたった一人で寝ていたことを思った。倉地と関係がなかったころはいつでも一人で寝ていたのだが、よくもそんなことが永年にわたってできたものだったと自分ながら不思議に思われるくらい、それは今の葉子を物足らなく心淋しくさせていた。こうして静かな心になって考えると倉地の葉子に対する愛情が誠実であるのを疑うべき余地はさらになかった。日本に帰ってから幾日にもならないけれども、今まではとにかく倉地の熱意に少しも変わりが起こったところは見えなかった。いかに恋に眼がふさがっても、葉子はそれを見極めるくらいの冷静な眼力は持っていた。そんなことは十分に知り抜いているくせに、おぞましくも昨夜のような馬鹿なまねをしてしまった自分が自分ながら不思議なくらいだった。どんなに情に激した時でもたいていは自分を見失うようなことはしないで通してきた葉子にはそれがひどく恥ずかしかった。船の中にいる時にヒステリーになったのではないかと疑ったことが二、三度ある――それが本当だったのではないかしらんとも思われた。そして夜着にかけた洗いたてのキャリコの裏の冷え冷えするのをふくよかな頤《おとがい》に感じながら心の中でひとりごちた。
「何を私は考えていたのだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんなことはついぞないことだのに」
そう言いながら葉子は肩だけ起きなおって、枕《まくら》頭《もと》の水を手さぐりでしたたか飲みほした。氷のように冷えきった水が喉《のど》もとを静かに流れ下って胃の腑《ふ》に拡《ひろ》がるまではっきりと感じられた。酒も飲まないのだけれども、酔後の水と同様に、胃の腑に味覚ができて舌の知らない味を味わい得たと思うほど快く感じた。それほど胸の中は熱を持っていたに違いない。けれども脚《あし》のほうは反対に恐ろしく冷えを感じた。少しその位置を動かすと白さをそのままな寒い感じがシーツから逼《せま》って来るのだった。葉子はまたきびしく倉地の胸を思った。それは寒さと愛着とから葉子を追い立てて二階に走らせようとするほどだった。しかし葉子はすでにそれをじっと耐《こら》えるだけの冷静さを恢《かい》復《ふく》していた。倉地の妻に対する処置は昨夜のようであっては手ぎわよくは成し遂げられぬ。もっと冷めたい知恵に力を借りなければならぬ――こう思い定めながら暁の白《しら》むのを知らずにまた眠りに誘われて行った。
翌日葉子はそれでも倉地より先に眼を覚まして手早く着がえをした。自分で板戸を繰り開けて見ると、縁先には、枯れた花壇の草や灌木が風のために吹き乱された小庭があって、その先は、杉、松、その他の喬《きよう》木《ぼく》の茂みを隔てて苔《たい》香《こう》園《えん》の手広い庭が見やられていた。昨日までいた双鶴館の周囲とは全く違った、同じ東京の内とは思われないような静かな鄙《ひな》びた自然の姿が葉子の眼の前には見渡された。まだ晴れきらない狭《さ》霧《ぎり》をこめた空気を通して、杉の葉越しに射《さ》しこむ朝の日の光が、雨にしっとりと潤《うるお》った庭の黒土の上に、真直ぐな杉の幹を棒《ぼう》縞《じま》のような影にして落としていた。色さまざまな桜の落葉が、日向《ひなた》では黄に紅に、日影では樺《かば》に紫に庭を彩《いろど》っていた。彩っていると言えば菊の花もあちこちにしつけられていた。しかし一帯の趣味は葉子の喜ぶようなものではなかった。塵《ちり》一つさえないほど、貧しく見える瀟《しよう》洒《しや》な趣味か、どこにでも金銀がそのまま捨ててあるような驕《きよう》奢《しや》な趣味でなければ満足ができなかった。残ったのを捨てるのが惜しいとかもったいないとかいうような心持ちで、よけいな石や植木などを入れ込んだらしい庭の造り方を見たりすると、すぐさまむしり取って眼にかからないところに投げ捨てたく思うのだった。その小庭を見ると葉子の心の中にはそれを自分の思うように造り変える計画がうずうずするほど湧《わ》き上がってきた。
それから葉子は家の中を隅《すみ》から隅まで見て廻った。昨日玄関口に葉子を出迎えた女中が、戸を繰る音を聞きつけて、逸《いち》早《はや》く葉子のところに飛んで来たのを案内に立てた。十八、九の小《こ》綺《ぎ》麗《れい》な娘で、きびきびした気象らしいのに、いかにも蓮《はす》葉《は》でない、主人を持てば主人思いに違いないのを葉子は一目で見《み》貫《ぬ》いて、これはいい人だと思った。それはやはり双鶴館の女将が周旋してよこした、宿に出入りの豆腐屋の娘だった。つや(彼女の名はつやと言った)は階子段下の玄関に続く六畳の茶の間から始めて、その隣りの床の間付きの十二畳、それから十二畳と廊下を隔てて玄関とならぶ茶席風の六畳を案内し、廊下を通った突き当りにある思いのほか手広い台所、風呂場を経て張り出しになっている六畳と四畳半(そこがこの家を建てた主人の居間となっていたらしく、すべての造作に特別な数《す》寄《き》が凝らしてあった)に行って、その雨戸を繰り明けて庭を見せた。そこの前《せん》栽《ざい》はわりあいに荒れずにいて、眺めが美しかったが、葉子は垣《かき》根《ね》越しに苔香園の母《おも》屋《や》の下の便所らしい汚ない建物の屋根を見つけて困ったものがあると思った。そのほかには台所の側につやの四畳半の部屋が西向きについていた。女中部屋を除いた五つの部屋はいずれもなげしつきになって、三つまでは床の間さえあるのに、どうして集めたものかとにかく掛物なり置物なりがちゃんと飾られていた。家の造りや庭の様子などにはかなりの注文も相当の眼識も持ってはいたが、絵画や書のことになると葉子はおぞましくも鑑識の力がなかった。生まれつき機敏に働く才気のお蔭で、見たり聞いたりしたところから、美術を愛好する人々と膝をならべても、とにかくあまりぼろらしいぼろは出さなかったが、若い美術家などが讃《ほ》める作品を見てもどこが優れてどこに美しさがあるのか葉子には少しも見当のつかないことがあった。絵と言わず字と言わず、文学的の作物などに対しても葉子の頭は憐れなほど通俗的であるのを葉子は自分で知っていた。しかし葉子は自分の負けじ魂から自分の見方が凡俗だとは思いたくなかった。芸術家などいう連中には、骨《こつ》董《とう》などをいじくって古《ふる》味《み》というようなものをありがたがる風流人と共通したような気取りがある。その似而非《えせ》気取りを葉子は幸いにも持ち合わしていないのだと決めていた。葉子はこの家に持ち込まれている幅《ふく》物《もの》を見て廻っても、本当の値打ちがどれほどのものだかさらに見当がつかなかった。ただあるべきところにそういう物のあることを満足に思った。
つやの部屋のきちんと手ぎわよくかたづいているのや、二、三日空家になっていたのにもかかわらず、台所が綺麗に拭《ふ》き掃除がされていて、布巾《ふきん》などがすがすがしくからからに乾《かわ》かして懸けてあったりするのはいちいち葉子の眼を快く刺《し》戟《げき》した。思ったより住まい勝手のいい家と、はきはきした清潔好きな女中とを得たことがまず葉子の寝起きの心持ちをすがすがしくさせた。
葉子はつやの汲んで出したちょうどいいかげんの湯で顔を洗って、軽く化粧をした。昨夜のことなどは気にもかからないほど心は軽かった。葉子はその軽い心を抱きながら静かに二階に上って行った。何とはなしに倉地に甘えたいような、詫《わ》びたいような気持ちでそっと襖《ふすま》を明けてみると、あの強烈な倉地の膚の香が暖かい空気に満たされて鼻をかすめてきた。葉子は我れにもなく駈《か》けよって、仰《あお》向《む》けに熟睡している倉地の上に羽がいにのしかかった。
暗い中で倉地は眼覚めたらしかった。そして黙ったまま葉子の髪や着物から花弁のようにこぼれ落ちるなまめかしい香を夢心地で嗅いでいるようだったが、やがい物《もの》惰《う》げに、
「もう起きたんか。何時だな」
と言った。まるで大きな子供のようなその無邪気さ。葉子は思わず自分の頬を倉地のにすりつけると、寝起きの倉地の頬は火のように熱く感ぜられた。
「もう八時。……お起きにならないと横浜のほうがおそくなるわ」
倉地はやはり物惰げに、袖口からにょきんと現われ出た太い腕を延べて、短い散《ざん》切《ぎ》り頭をごしごしと掻《か》き廻しながら、
「横浜?……横浜にはもう用はないわい。いつ首になるか知れない俺がこの上の御奉公をしてたまるか。これも皆んなお前のお蔭だぞ。業《ごう》つくばりめ」
と言っていきなり葉子の頸《くび》筋《すじ》を腕にまいて自分の胸に押しつけた。
しばらくして倉地は寝床を出たが、昨夜のことなどはけろりと忘れてしまったように平気でいた。二人がはじめて離れ離れに寝たのにも一言も言わないのがかすかに葉子を物足らなく思わせたけれども、葉子は胸が広々としてなんということもなく喜ばしくってたまらなかった。で、倉地を残して台所に下りた。自分で自分の食べるものを料理するということにもかつてない物珍しさと嬉しさとを感じた。
畳一畳がた日の射しこむ茶の間の六畳で二人は朝《あさ》餉《げ》の膳《ぜん》に向かった。かつては葉山で木部と二人でこうした楽しい膳に向かったこともあったが、その時の心持ちと今の心持ちとを比較することもできないと葉子は思った。木部は自分でのこのこと台所まで出かけて来て、長い自炊の経験などを得意げに話して聞かせながら、自分で米を磨《と》いだり、火を燃《た》きつけたりした。その当座は葉子もそれを楽しいと思わないではなかった。しかししばらくのうちにそんなことをする木部の心持ちがさもしくも思われてきた。おまけに木部は一日一日と物《もの》臭《ぐ》さになって、自分では手を下しもせずに、邪魔になるところに突っ立ったまま指図がましいことを言ったり、葉子にはなんらの感興も起こさせない長詩を例の御自慢の美しい声で朗々と吟《ぎん》じたりした。葉子はそんな目に遇《あ》うと軽《けい》蔑《べつ》しきった冷やかな眸でじろりと見返してやりたいような気になった。倉地は始めからそんなことはてんでしなかった。大きなだだっ児《こ》のように、顔を洗うといきなり膳の前に胡坐《あぐら》をかいて、葉子が作って出したものを片端からむしゃむしゃと綺麗にかたづけていった。これが木部だったら、出す物の一つ一つに知ったかぶりの講釈をつけて、葉子の腕前を感傷的に賞《ほ》めちぎって、かなりたくさんを喰《く》わずに残してしまうだろう。そう思いながら葉子は眼で撫《な》でさするようにして倉地が一心に箸《はし》を動かすのを見守らずにはいられなかった。
やがて箸と茶碗とをからりと放《な》げ捨てると、倉地は所在なさそうに葉巻をふかしてしばらくそこらを眺め廻していたが、いきなり立ち上がって尻っぱしょりをしながら裸足《はだし》のまま庭に飛んで降りた。そしてハーキュニース《*》が針仕事でもするようなぶきっちょうな様子で、狭い庭を歩き廻りながら片隅からかたづけだした。まだびしゃびしゃするような土の上に大きな足跡が縦横に印《しる》された。まだ枯れ果てない菊や萩《はぎ》などが雑草といっしょくたに情けも容赦もなく根こぎにされるのを見るとさすがの葉子もはらはらした。そして縁ぎわにしゃがんで柱にもたれながら、時にはあまりのおかしさに高く声を挙げて笑いこけずにはいられなかった。
倉地は少し働き疲れると苔《たい》香《こう》園《えん》の方を窺《うかが》ったり、台所の方に気を配ったりしておいて、大急ぎで葉子のいるところに寄って来た。そして泥になった手を後ろに廻して、上体を前に折り曲げて、葉子の鼻の先に自分の顔を突き出してお壺《つぼ》口《ぐち》をした。葉子も悪戯《いたずら》らしく周囲に眼を配ってその顔を両手に挾みながら自分の唇を与えてやった。倉地は勇み立つようにしてまた土の上にしゃがみこんだ。
倉地はこうして一日働き続けた。日がかげるころになって葉子もいっしょに庭に出てみた。ただ乱暴な、しょうことなしの悪戯仕事とのみ思われたものが、かたづいてみるとどこからどこまで要領を得ているのを発見するのだった。葉子が気にしていた便所の屋根の前には、庭の隅にあった椎《しい》の木が移してあったりした。玄関前の両側の花壇の牡《ぼ》丹《たん》には、藁《わら》で器用に霜囲いさえしつらえてあった。
こんな淋《さび》しい杉森の中の家にも、ときどき紅葉館の方から音曲の音がくぐもるように聞こえて来たり、苔香園から薔薇《ばら》の香りが風の具合でほんのりと香って来たりした。ここにこうして倉地と住み続ける喜ばしい期待はひと向きに葉子の心を奪ってしまった。
平凡な人妻となり、子を生み、葉子の姿を魔物か何かのように冷笑《あざわら》おうとする、葉子の旧友たちに対して、かつて葉子が抱いていた火のような憤りの心、腐っても死んでもあんなまねはしてみせるものかと誓うように心であざけったその葉子は、洋行前の自分というものをどこかに置き忘れたように、そんなことは思いも出さないで、旧友たちの通って来た道筋にひた走りに走り込もうとしていた。
二八
こんな夢のような楽しさが他愛もなく一週間ほどはなんの故障も牽《ひ》き起こさずに続いた。歓楽に耽《たん》溺《でき》しやすい、したがっていつでも現在をいちばん楽しく過ごすのを生まれながら本能としている葉子は、こんな有《う》頂《ちよう》天《てん》な境界から一歩でも踏み出すことを極端に憎んだ。葉子が帰ってから一度しか会うことのできない妹たちが、休日にかけてしきりに遊びに来たいと訴え来るのを、病気だとか、家の中がかたづかないとか、口実を設けて拒んでしまった。木村からも古藤のところか五十川女史のところかに宛てて便りが来ているには相違ないと思ったけれども、五十川女史はもとより古藤のところにさえ住所が知らしてないので、それを廻送してよこすこともできないのを葉子は知っていた。定子――この名はときどき葉子の心を未練がましくさせないではなかった。しかし葉子はいつでも思い捨てるようにその名を心の中から振り落とそうと努めた。倉地の妻のことは何かの拍子につけて心を打った。この瞬間だけは葉子の胸は呼吸もできないくらい引き締められた。それでも葉子は現在目前の歓楽をそんな心痛で破らせまいとした。そしてそのためには倉地にあらん限りの媚《こ》びと親切とを捧げて、倉地から同じ程度の愛《あい》撫《ぶ》を貪《むさぼ》ろうとした。そうすることが自然にこの難題に解決をつける導火線《みちび》にもなると思った。
倉地も葉子に譲らないほどの執着をもって葉子が捧げる杯から歓楽を飲み飽きようとするらしかった。不休の活動を命としているような倉地ではあったけれども、この家に移って来てから、家を明けるようなことは一度もなかった。それは倉地自身が告白するように破天荒なことだったらしい。二人は、はじめて恋を知った少年少女が世間も義理も忘れ果てて、生命さえ忘れ果てて肉体を破ってまでも魂を一つに溶かしたいとあせる、それと同じ熱情を捧げ合って互い互いを楽しんだ。楽しんだというよりも苦しんだ。その苦しみを楽しんだ。倉地はこの家に移って以来新聞も配達させなかった。郵便だけは移転通知をしておいたので倉地の手もとに届いたけれども、倉地はその表書きさえ眼を通そうとはしなかった。毎日の郵便はつやの手によって束にされて、葉子が自分の部屋に定めた玄関側の六畳の違い棚《だな》に空《むな》しく積み重ねられた。葉子の手もとには妹たちからのほかには一枚の葉書さえ来なかった。それほど世間から自分たちを切り放しているのを二人とも苦痛とは思わなかった。苦痛どころではない、それが幸いであり誇りであった。門には「木村」とだけ書いた小さい門札が出してあった。木村という平凡な姓は二人の楽しい巣を世間に発《あば》くようなことはないと倉地が言い出したのだった。
しかしこんな生活を倉地に永い間要求するのは無理だということを葉子はついに感づかねばならなかった。ある夕食の後倉地は二階の一間で葉子を力強く膝の上に抱き取って、甘いささやきを取り交わしていた時、葉子が情に激して倉地に与えた熱い接吻の後にすぐ、倉地が思わず出た欠伸《あくび》をじっと噛み殺したのを逸《いち》早《はや》く見て取ると、葉子はこの種の歓楽がすでに峠を越したことを知った。その夜は葉子には不幸な一夜だった。かろうじて築き上げた永遠の城塞が、はかなくも瞬間の蜃《しん》気《き》楼《ろう》のように見る見る崩れて行くのを感じて、倉地の胸に抱かれながらほとんど一夜を眠らずに通してしまった。
それでも翌日になると葉子は快活になっていた。ことさら快活に振舞おうとしていたには違いないけれども、葉子の倉地に対する溺《でき》愛《あい》は葉子をしてほとんど自然に近い容易さをもってそれをさせるに十分だった。
「今日は私の部屋でおもしろいことして遊びましょう。いらっしゃいな」
そう言って少女が少女を誘うように牡《お》牛《うし》のように大きな倉地を誘った。倉地は煙ったい顔をしながら、それでもその後からついて来た。
部屋はさすがに葉子のものであるだけ、どことなく女性的な軟《やわ》らかみを持っていた。東向きの腰高窓には、もう冬といっていい十一月末の日が熱のない光を射つけて、アメリカから買って帰った上等の香水をふりかけた匂《にお》い玉から幽《かす》かながらきわめて上品な芳《ほう》芬《ふん》を静かに部屋の中にまき散らしていた。葉子はその匂い玉の下がっている壁ぎわの柱の下に、自分にあてがわれたきらびやかな縮《ちり》緬《めん》の座布団を移して、それに倉地をすわらせておいて、違い棚から郵便の束をいくつとなく取り下ろして来た。
「さあ今朝は岩戸の隙《すき》から世の中をのぞいて見るのよ。それもおもしろいでしょう」
と言いながら倉地に寄り添った。倉地は幾十通とある郵便物を見たばかりでいいかげんげんなりした様子だったが、だんだんと興味を催してきたらしく、日の順に一つの束からほどき始めた。
いかにつまらない事務用の通信でも、交通遮《しや》断《だん》の孤島か、障壁で高く囲まれた美しい牢獄に閉じこもっていたような二人にとっては予想以上の気散じだった。倉地も葉子もありふれた文句にまで思い存分の批評を加えた。こういう時の葉子はそのほとばしるような暖かい才気のために世にすぐれておもしろみの多い女になった。口を衝《つ》いて出る言葉言葉がどれもこれも絢《けん》爛《らん》な色彩に包まれていた。二日目のところには岡から来た手紙が現われ出た。船の中での礼を述べて、とうとう葉子と同じ船で帰って来てしまったために、家元では相変わらずの薄志弱行と人ごとに思われるのが彼を深く責めることや、葉子に手紙を出したいと思ってあらゆる手がかりを尋ねたけれども、どうしてもわからないので会社で聞き合わせて事務長の住所を知り得たからこの手紙を出すということや、自分はただただ葉子を姉と思って尊敬もし慕いもしているのだから、せめてその心を通わすだけの自由が与えてもらいたいということだのが、思い入った調子で、下手《へた》な字体で書いてあった。葉子は忘却の廃《はい》址《し》の中から、なまなまとした少年の大理石像を掘りあてた人のようにおもしろかった。
「私が愛子の年ごろだったらこの人と心中ぐらいしているかもしれませんね。あんな心を持った人でも少し齢《とし》を取ると男はあなたみたいになっちまうのね」
「あなたとはなんだ」
「あなたみたいな悪党に」
「それはお門《かど》が違うだろう」
「違いませんとも……御同様にと言うほうがいいわ。私は心だけあなたに来て、体はあの人にやるとほんとはよかったんだが……」
「馬鹿! 俺《おれ》は心なんぞに用はないわい」
「じゃ心のほうをあの人にやろうかしらん」
「そうしてくれ。お前にはいくつも心があるはずだから、ありったけくれてしまえ」
「でも可哀そうだからいちばん小さそうなのを一つだけあなたの分に残しておきましょうよ」
そう言って二人は笑った。倉地は返事を出すほうに岡のその手紙を仕分けた。葉子はそれを見て軽い好奇心が湧《わ》くのを覚えた。
たくさんの中からは古藤のも出て来た。宛《あて》名《な》は倉地だったけれども、その中からは木村から葉子に送られた分厚な手紙だけが封じられていた。それと同時に木村の手紙が後から二本まで現われ出た。葉子は倉地の見ている前で、そのすべてを読まないうちにずたずたに引き裂いてしまった。
「馬鹿なことをするじゃない。読んでみるとおもしろかったに」
葉子を占領しきった自信を誇りがな微笑に見せながら倉地はこう言った。
「読むとせっかくの昼御飯がおいしくなくなりますもの」
そう言って葉子は胸糞の悪いような顔つきをして見せた。二人はまた他愛なく笑った。
報正新報社からのもあった。それを見ると倉地は、一時は揉《も》み消しをしようと思ってわたりをつけたりしたのでこんなものが来ているのだがもう用はなくなったので見るには及ばないと言って、今度は倉地が封のままに引き裂いてしまった。葉子はふと自分が木村の手紙を裂いた心持ちを倉地のそれにあてはめてみたりした。しかしその疑問もすぐ過ぎ去ってしまった。
やがて郵船会社から宛てられた江戸川紙《*》の大きな封書が現われ出た。倉地はちょっと眉《まゆ》に皺《しわ》をよせて少し躊《ちゆう》躇《ちよ》したふうだったが、それを葉子の手に渡して葉子に開封させようとした。何の気なしにそれを受け取った葉子は魔がさしたようにはっと思った。とうとう倉地は自分のために……葉子は少し顔色を変えながら封を切って中から卒業証書のような紙を二枚と、書記が丁寧に書いたらしい書簡一封とを探り出した。
はたしてそれは免職と、退職慰労との会社の辞令だった。手紙には退職慰労金の受取方に関する注意がことごとしい行書で書いてあるのだった。葉子はなんと言っていいかわからなかった。こんな恋の戯れの中からかほどな打撃を受けようとは夢にも思ってはいなかったのだ。倉地がここに着いた翌日葉子に言って聞かせた言葉は本当のことだったのか。これほどまでに倉地は親身になってくれていたのか。葉子は辞令を膝《ひざ》の上に置いたまま下を向いて黙ってしまった。眼がしらのところが非常に熱い感じを得たと思った、鼻の奥が暖かく塞《ふさ》がってきた。泣いている場合ではないと思いながらも、葉子は泣かずにはいられないのを知り抜いていた。
「本当に私が悪うございました……許してくださいまし……(そう言ううちに葉子はもう泣き始めていた)……私はもう日蔭の妾《めかけ》としてでも囲い者としてでもそれで十分に満足します。ええ、それで本当にようござんす。私は嬉《うれ》しい……」
倉地は今さら何を言うというような平気な顔で葉子の泣くのを見守っていたが、
「妾も囲い者もあるかな、俺には女はお前一人よりないんだからな。離縁状は横浜の土を踏むといっしょに嬶《かかあ》に向けてぶっ飛ばしてあるんだ」
と言って胡坐《あぐら》の膝で貧乏ゆすりをし始めた。さすがの葉子も息気《いき》をつめて、泣きやんで、あきれて倉地の顔を見た。
「葉子、俺が木村以上にお前に深《ふか》惚《ぼ》れしているといつか船の中で言って聞かせたことがあったな。俺はこれでいざとなると心にもないことは言わないつもりだよ。双鶴館にいる間も俺は幾日も浜には行きはしなんだのだ。たいていは家内の親類たちとの談判で頭を悩ませられていたんだ。だがたいていけりがついたから、俺は少しばかり手廻りの荷物だけ持って一足先にここに越して来たのだ。……もうこれでええや。気がすっぱりしたわ。これには双鶴館のお内儀《かみ》も驚きくさるだろうて……」
会社の辞令ですっかり倉地の心持ちをどん底から感じ得た葉子は、この上倉地の妻のことを疑うべき力は消え果てていた。葉子の顔は涙に濡《ぬ》れひたりながらそれを拭き取りもせず、倉地にすり寄って、その両肩に手をかけて、ぴったりと横顔を胸にあてた。夜となく昼となく思い悩みぬいたことがすでに解決されたので、葉子は喜んでも喜んでも喜び足りないように思った。自分も倉地と同様に胸の中がすっきりすべきはずだった。けれどもそうはいかなかった。葉子はいつの間にか去られた倉地の妻その人のような淋《さび》しい悲しい自分になっているのを発見した。
倉地はいとしくってならぬようにエボニー色《*》の雲のように真黒にふっくりと乱れた葉子の髪の毛をやさしく撫《な》で廻した。そしていつもに似ずしんみりした調子になって、
「とうとう俺も埋《うも》れ木になってしまった。これから地面の下で湿気を喰いながら生きて行くよりほかにない。――俺は負け惜しみを言うは嫌《きら》いだ。こうしている今でも俺は家内や娘たちのことを思うと不《ふ》憫《びん》に思うさ。それがないことなら俺は人間じゃないからな。……だが俺はこれでいい。満足この上なしだ。……自分ながら俺は馬鹿になり腐ったらしいて」
そう言って葉子の首を固くかき抱いた。葉子は倉地の言葉を酒のように酔い心地に呑《の》み込みながら「あなただけにそうはさせておきませんよ。私だって定子を見事に捨てて見せますからね」と心の中で頭を下げつつ幾度も詫《わ》びるように繰り返していた。それがまた自分で自分を泣かせる暗示となった。倉地の胸に横たえられた葉子の顔は、綿入れと襦《じゆ》袢《ばん》とを通して倉地の胸を暖かく侵すほど熱していた。倉地の眼も珍しく曇っていた。そうして泣き入る葉子を大事そうにかかえたまま、倉地は上体を前後に揺《ゆす》ぶって、赤子でも寝かしつけるようにした。戸外ではまた東京の初冬に特有な風が吹き出たらしく、杉森がごうごうと鳴りを立てて、枯れ葉が明るい障子に飛鳥のような影を見せながら、からからと音を立てて乾いた紙にぶつかった。それは埃《ほこり》立った、寒い東京の街路を思わせた。けれども部屋の中は暖かだった。葉子は部屋の中が暖かなのか寒いのかさえわからなかった。ただ自分の心が幸福に淋しさに燃え爛《ただ》れているのを知っていた。ただこのままで永遠は過ぎよかし。ただこのままで眠りのような死の淵《ふち》に陥れよかし。とうとう倉地の心と全く融《と》け合った自分の心を見いだした時、葉子の魂の願いは生きようということよりも死のうということだった。葉子はその悲しい願いの中に勇み甘んじて溺《おぼ》れて行った。
二九
このことがあってからまたしばらくの間、倉地は葉子とただ二人の孤独に没頭する興味を新しくしたように見えた。そして葉子が家の中をいやが上にも整頓して、倉地のために住み心地のいい巣を造る間に、倉地は天気さえよければ庭に出て、葉子の逍《しよう》遥《よう》を楽しませるために精魂を尽くした。いつ苔香園との話をつけたものか、庭の隅に小さな木戸を作って、その花園の母《おも》屋《や》からずっと離れた小《こ》逕《みち》に通い得る仕掛けをしたりした。二人はときどきその木戸をぬけて目立たないように、広々とした苔香園の庭の中をさまよった。店の人たちは二人の心を察するように、なるべく二人から遠ざかるように勉《つと》めてくれた。十二月の薔薇《ばら》の花園は淋しい廃園の姿を目の前に拡《ひろ》げていた。可憐な花を開いて可憐な匂いを放つくせにこの灌《かん》木《ぼく》はどこか強い執着を持つ植木だった。寒さにも霜にもめげず、その枝の先にはまだ裏咲きの小さな花を咲かせようともがいているらしかった。種々な色の蕾《つぼみ》がおおかた葉の散り尽くした梢《こずえ》にまで残っていた。しかしその花弁は存分に霜に虐《しいた》げられて、黄色に変色して互いに膠《こう》着《ちやく》して、恵み深い日の目に遇《あ》っても開きようがなくなっていた。そんな間を二人は静かな豊かな心でさまよった。風のない夕暮れなどには苔香園の表門を抜けて、紅葉館前のだらだら坂を東照宮の方まで散歩するようなこともあった。冬の夕方のこととて人通りは稀れで二人が彷《さまよ》う道としてはこの上もなかった。葉子はたまたま行き遇う女の人たちの衣《い》裳《しよう》を物珍しく眺めやった。それがどんなに粗末な不《ぶ》恰《かつ》好《こう》な、いでたちであろうとも、女は自分以外の女の服装を眺めなければ満足できないものだと葉子は思いながらそれを倉地に言ってみたりした。つやの髪から衣服までを毎日のように変えて装わしていた自分の心持ちにも葉子は新しい発見をしたように思った。本当は二人だけの孤独に苦しみ始めたのは倉地だけではなかったのか。ある時にはその淋しい坂道の上下から、立派な馬車や抱え車が続々坂の中段を目ざして集まるのに遇うことがあった。坂の中段から紅葉館の下に当たる辺に導かれた広い道の奥からは、能楽のはやしの音がゆかしげに漏れて来た。二人は能楽堂での能の催しが終りに近づいているのを知った。同時にそんなことを見たのでその日が日曜日であることにも気がついたくらい二人の生活は世間からかけ離れていた。
こうした楽しい孤独もしかしながら永遠には続き得ないことを、続かしていてはならないことを鋭い葉子の神経は眼ざとく覚《さと》って行った。ある日倉地が例のように庭に出て土いじりに精を出している間に、葉子は悪事でも働くような心持ちで、つやに言いつけて反《ほ》古《ご》紙《がみ》を集めた箱を自分の部屋に持って来さして、いつか読みもしないで破ってしまった木村からの手紙を選《え》り出そうとする自分を見いだしていた。いろいろな形に寸断された厚い西洋紙の断片が木村の書いた文句の断片をいくつもいくつも葉子の眼に曝《さら》し出した。しばらくの間葉子は引きつけられるようにそういう紙片を手当たり次第に手に取り上げて読みふけった。半成の画が美しいように断簡には言い知れぬ情緒が見いだされた。その中に正しく織り込まれた葉子の過去が多少の力を集めて葉子に逼《せま》って来るようにさえ思えだした。葉子は我れにもなくその思い出に浸って行った。しかしそれは長い時が過ぎる前に壊《くず》れてしまった。葉子はすぐ現実に取って返していた。そしてすべての過去に嘔《はき》気《け》のような不快を感じて箱ごと台所に持って行くとつやに命じて裏庭でその全部を焼き捨てさせてしまった。
しかしこの時も葉子は自分の心で倉地の心を思いやった。そしてそれがどうしてもいい徴候でないことを知った。そればかりではない。二人は霞《かすみ》を喰って生きる仙人のようにしては生きていられないのだ。職業を失った倉地には、口にこそ出さないが、この問題は遠からず大きな問題として胸に忍ばせてあるのに違いない。事務長ぐらいの給料で余財ができているとは考えられない。まして倉地のように身分不相応な金《かね》遣《づか》いをしていた男にはなおのことだ。その点だけから見てもこの孤独は破られなければならぬ。そしてそれは結局二人のためにいいことであるに相違ない。葉子はそう思った。
ある晩それは倉地のほうから切り出された。長い夜を所在なさそうに読みもしない書物などをいじくっていたが、ふと思い出したように、
「葉子。ひとつお前の妹たちを家に呼ぼうじゃないか……それからお前の子供っていうのもぜひここで育てたいもんだな。俺も急に三人まで子を失《な》くしたら淋《さび》しくってならんから……」
飛び立つような思いを葉子は逸《いち》早《はや》くも見事に胸の中で押し鎮めてしまった。そうして、
「そうですね」
といかにも興味なげに言ってゆっくりと倉地の顔を見た。
「それよりあなたのお子さんを一人なり二人なり来てもらったらいかが。……私奥さんのことを思うといつでも泣きます(葉子はそう言いながらもう涙をいっぱいに眼にためていた)。けれど私は生きてる間は奥さんを呼び戻して上げてくださいなんて……そんな偽善者じみたことは言いません。私はそんな心持ちは微《み》塵《じん》もありませんもの。お気の毒なということと、二人がこうなってしまったということとは別物ですものねえ。せめては奥さんが私を詛《のろ》い殺そうとでもしてくだされば少しは気持ちがいいんだけれども、しとやかにしてお里に帰っていらっしゃると思うとつい身につまされてしまいます。だからと言って私は自分が命を放《な》げ出して築き上げた幸福を人に上げる気にはなれません。あなたが私をお捨てになるまではね、喜んで私は私を通すんです。……けれどもお子さんなら私本当にちっともかまいはしないことよ。どうお呼び寄せになっては?」
「馬鹿な。今さらそんなことができてたまるか」倉地は噛《か》んで捨てるようにそう言って横を向いてしまった。本当を言うと倉地の妻のことを言った時には葉子は心の中をそのまま言っていたのだ。その娘たちのことを言った時にはまざまざとした虚言《うそ》をついていたのだ。葉子の熱意は倉地の妻を香《にお》わせるものはすべて憎かった。倉地の家のほうから持ち運ばれた調度すら憎かった。ましてその子が呪わしくなくってどうしよう。葉子は単に倉地の心を引いてみたいばかりに怖《こわ》々《ごわ》ながら心にもないことを言ってみたのだった。倉地の噛んで捨てるような言葉は葉子を満足させた。同時に少し強過ぎるような語調が懸《け》念《ねん》でもあった。倉地の心底をすっかり見て取ったという自信を得たつもりでいながら、葉子の心は何かの機《おり》につけてこうぐらついた。
「私がぜひと言うんだからかまわないじゃありませんか」
「そんな負け惜しみを言わんで、妹たちなり定子なりを呼び寄せようや」
そう言って倉地は葉子の心を隅々まで見抜いてるように、大きく葉子を包みこむように見やりながら、いつもの少し渋いような顔をしてほほえんだ。
葉子はいい潮時を見計らって巧みにも不《ふ》承《しよう》不《ぶ》承《しよう》そうに倉地の言葉に折れた。そして田島の塾からいよいよ妹たち二人を呼び寄せることにした。同時に倉地はその近所に下宿するのを余儀なくされた。それは葉子が倉地との関係をまだ妹たちに打ち明けてなかったからだ。それはもう少し先に適当な時機を見計らって知らせるほうがいいという葉子の意見だった。倉地にもそれに不服はなかった。そして朝から晩までいっしょに寝起きをするよりは、離れたところに住んでいて、気の向いた時に遇うほうがどれほど二人の間の戯れの心を満足させるかしれないのを、二人はしばらくの間の言葉どおりの同棲の結果として認めていた。倉地は生活を支《ささ》えて行く上にも必要であるし、不休の活動力を放射するにも必要なので解職になって以来何か事業のことをときどき思いふけっているようだったが、いよいよ計画が立ったのでそれに着手するためには、当座のところ、人々の出入りに葉子の顔を見られないところで事務をとるのを便宜としたらしかった。そのためにも倉地がしばっくなりとも別居する必要があった。
葉子の立場はだんだんと固まってきた。十二月の末に試験が済むと、妹たちは田島の塾から小しばかりの荷物を持って帰って来た。ことに貞世の喜びといってはなかった。二人は葉子の部屋だった六畳の腰窓の前に小さな二つの机を並べた。今までなんとなく遠慮がちだったつやも生まれ代わったように快活なはきはきした少女になった。ただ愛子だけは少しも嬉《うれ》しさを見せないで、ただ慎み深くすなおだった。
「愛姉さん嬉しいわねえ」
貞世は勝ち誇るもののごとく、縁側の柱に倚《よ》りかかってじっと冬枯れの庭を見つめている姉の肩に手をかけながら倚り添った。愛子は一《ひと》所《ところ》を瞬《またた》きもしないで見つめながら、
「ええ」
と歯切れ悪く答えるのだった。貞世はじれったそうに愛子の肩をゆすりながら、
「でもちっとも嬉しそうじゃないわ」
と責めるように言った。
「でも嬉しいんですもの」
愛子の答えは冷然としていた。十畳の座敷に持ち込まれた行李《こうり》を明けて、汚れ物などを選《え》り分けていた葉子はその様子をちらと見たばかりで腹が立った。しかし来たばかりのものをたしなめるでもないと思って虫を殺した。
「なんて静かなところでしょう。塾よりもきっと静かよ。でもこんなに森があっちゃ夜になったら淋しいわねえ。私ひとりでお便所《はばかり》に行けるかしらん。……愛姉さん、そら、あすこに木戸があるわ。きっと隣のお庭に行けるのよ。あの庭に行ってもいいのお姉様。誰のお家むこうは?……」
貞世は眼にはいるものはどれも珍しいと言うようにひとりでしゃべっては、葉子にとも愛子にともなく質問を連発した。そこが薔薇《ばら》の花園であるのを葉子から聞かされると、貞世は愛子を誘って庭下駄をつっかけた。愛子も貞世に続いてそっちの方に出かける様子だった。
その物音を聞くと葉子はもう我慢ができなかった。
「愛さんお待ち。お前さんがたのものがまだかたづいてはいませんよ。遊び廻るのは始末をしてからになさいな」
愛子は従順に姉の言葉に従って、その美しい眼を伏せながら座敷の中にはいって来た。
それでもその夜の夕食は珍しく賑《にぎ》やかだった。貞世がはしゃぎきって、胸いっぱいのものを前後も連絡もなくしゃべり立てるので愛子さえも思わずにやりと笑ったり、自分のことを容赦なく言われたりすると恥ずかしそうに顔を赤らめたりした。
貞世は嬉しさに疲れ果てて夜の浅いうちに寝床にはいった。明るい電燈の下に葉子と愛子と向かい合うと、久しく遇わないでいた骨肉の人々の間にのみ感ぜられる淡い心おきを感じた。葉子は愛子にだけは倉地のことを少し具体的に知らしておくほうがいいと思って、話のきっかけに少し言葉を改めた。
「まだあなたがたにお引き合わせがしてないけれども倉地っていうかたね、絵島丸の事務長の……(愛子は従順に落ち着いてうなずいてみせた)……あのかたが今木村さんになりかわって私の世話を見ていてくださるのよ。木村さんからお頼まれになったものだから、迷惑そうにもなく、こんないい家まで見つけてくださったの。木村さんは米国でいろいろ事業を企てていらっしゃるんだけれども、どうもお仕事がうまくいかないで、お金が注ぎ込みにばかりなっていて、とてもこっちには送ってくだされないの、私の家はあなたも知ってのとおりでしょう。どうしてもしばらくの間は御迷惑でも倉地さんに万事を見ていただかなければならないのだから、あなたもそのつもりでいてちょうだいよ。ちょくちょくここにも来てくださるからね。それにつけて世間では何かくだらない噂《うわさ》をしているに違いないが、愛さんの塾なんかではなんにもお聞きではなかったかい」
「いいえ、私たちに面と向かって何かおっしゃるかたは一人もありませんわ。でも」
と愛子は例の多恨らしい美しい眼を上《うわ》眼《め》に使って葉子を窃《ぬす》み見るようにしながら、
「でもなにしろあんな新聞が出たもんですから」
「どんな新聞?」
「あらお姉様御存じなしなの。報正新報に続き物でお姉様とその倉地というかたのことが長く出ていましたのよ」
「ヘーえ」
葉子は自分の無知にあきれるような声を出してしまった。それは実際思いもかけぬというよりは、ありそうなことではあるが今の今まで知らずにいた、それに葉子はあきれたのだった。しかしそれは愛子の眼に自分を非常に無《む》辜《こ》らしく見せただけの利益はあった。さすがの愛子も驚いたらしい眼をして姉の驚いた顔を見やった。
「いつ?」
「今月の始めごろでしたかしらん。だもんですから皆さんがたの間ではたいへんな評判らしいんですの。今度も塾を出て来年から姉のところから通いますと田島先生に申し上げたら、先生も家の親類たちに手紙やなんかでだいぶお聞き合わせになったようですのよ。そして今日私たちを自分のお部屋にお呼びになって『私はお前さんがたを塾から出したくはないけれども、塾に居続ける気はないか』とおっしゃるのよ。でも私たちはなんだか塾にいるのが肩身が……どうしてもいやになったもんですから、無理にお願いして帰って来てしまいましたの」
愛子はふだんの無口に似ずこういうことを話す時にはちゃんと筋目が立っていた。葉子には愛子の沈んだような態度がすっかり読めた。葉子の憤《ふん》怒《ぬ》は見る見るその血相を変えさせた。田川夫人という人はいつまで自分に対して執念を寄せようとするのだろう。それにしても夫人の友だちには五十川という人もあるはずだ。もし五十川の小母さんが本当に自分の改《かい》悛《しゆん》を望んでいてくれるなら、その記事の中止なり訂正なりを、田川夫人の手を経てさせることはできるはずなのだ。田島さんもなんとかしてくれようがありそうなものだ。そんなことを妹たちに言うくらいならなぜ自分に一言忠告でもしてはくれないのだ(ここで葉子は帰朝以来妹たちを預かってもらった礼をしに行っていなかった自分を顧みた。しかし事情がそれを許さないのだろうくらいは察してくれてもよさそうなものだと思った)それほど自分はもう世間から見くびられ除《の》け者にされているのだ。葉子は何かたたきつけるものでもあれば、そして世間というものが何か形を備えたものであれば、力の限り得物をたたきつけてやりたかった。葉子は小刻みに震えながら、言葉だけはしとやかに、
「古藤さんは」
「たまにお便りをくださいます」
「あなたがたも上げるの」
「ええたまに」
「新聞のことを何か言って来たかい」
「なんにも」
「ここの番地は知らせて上げて」
「いいえ」
「なぜ」
「お姉様の御迷惑になりはしないかと思って」
この小娘はもう皆んな知っている、と葉子は一種の怖《おそ》れと警戒とをもって考えた。何事も心得ながらしらじらしく無邪気を装っているらしいこの妹が敵の間《かん》諜《ちよう》のようにも思えた。
「今夜はもうお休み。疲れたでしょう」
葉子は冷然として、燈の下に俯《うつ》向《む》いてきちんとすわっている妹を尻眼にかけた。愛子はしとやかに頭を下げて従順に座を立って行った。
その夜十一時ごろ倉地が下宿の方から通《かよ》って来た。裏庭をぐるっと廻って、毎夜戸じまりをせずにおく張出しの六畳の間から上がって来る音が、じれながら鉄《てつ》瓶《びん》の湯気を見ている葉子の神経にすぐ通じた。葉子はすぐ立ち上がって猫のように足音を盗みながら急いでそっちに行った。ちょうど敷居を上がろうとしていた倉地は暗い中に葉子の近づく気配を知って、いつものとおり、立ち上がりざまに葉子を抱擁しようとした。しかし葉子はそうはさせなかった。そして急いで戸を締めきってから、電燈のスイッチをひねった。火の気のない部屋の中は急に明るくなったけれども身を刺すように寒かった。倉地の顔は酒に酔っているように赤かった。
「どうした顔色がよくないぞ」
倉地は訝《いぶか》るように葉子の顔をまじまじと見やりながらそう言った。
「待ってください、今私ここに火鉢を持って来ますから。妹たちが寝ばなだからあすこでは起すといけませんから」
そう言いながら葉子は手あぶりに火をついで持って来た。そして酒《しゆ》肴《こう》もそこにととのえた。
「色が悪いはず……今夜はまたすっかり向《むか》っ腹《ぱら》が立ったんですもの。私たちのことが報正新報に皆んな出てしまったのを御存じ?」
「知っとるとも」
倉地は不思議でもないという顔をして眼をしばたたいた。
「田川の奥さんという人は本当にひどい人ね」
葉子は歯を噛みくだくように鳴らしながら言った。
「全くあれは方《ほう》図《ず》のない悧《り》巧《こう》馬鹿だ」
そう吐き捨てるように言いながら倉地の語るところによると、倉地は葉子に、きっとそのうち掲載される「報正新報」の記事を見せまいために引っ越して来た当座わざと新聞はどれも購読しなかったが、倉地だけの耳へはある男(それは絵島丸の中で葉子の身の上を相談した時、甲《か》斐《い》絹《き》のどてらを着て寝床の中に二つに折れ込んでいたその男であるのが後で知れた。その男は名を正井と言った)からつやの取次ぎで内《ない》秘《ひ》に知らされていたのだそうだ。郵船会社はこの記事が出る前から倉地のためにまた会社自身のために、極力揉《も》み消しをしたのだけれども、新聞社では一向応ずる色がなかった。それから考えるとそれは当時新聞社の慣用手段の懐《ふところ》金《がね》を貪《むさぼ》ろうというもくろみばかりからきたのでないことだけは明らかになった。あんな記事が現われてはもう会社としても黙ってはいられなくなって、大急ぎで詮《せん》議《ぎ》をした結果、倉地と船医の興録とが処分されることになったというのだ。
「田川の嬶《かかあ》の悪戯《いたずら》に決まっとる。馬鹿に口惜しかったとみえるて。……が、こうなりゃ結局パッとなったほうがいいわい。皆んな知っとるだけいちいち申しわけを言わずと済む。お前はまたまだそれしきのことにくよくよしとるんか。馬鹿な。……それより妹たちは来とるんか。寝顔にでもお目にかかっておこうよ。写真――船の中にあったね――で見ても可愛らしい子たちだったが……」
二人はやおらその部屋を出た。そして十畳と茶の間との隔ての襖《ふすま》をそっと明けると、二人の姉妹は向かい合って別々の寝床にすやすやと眠っていた。緑色の笠のかかった、電燈の光は海の底のように部屋の中を思わせた。
「あっちは」
「愛子」
「こっちは」
「貞世」
葉子は心ひそかに、世にも艶《あで》やかなこの少女二人を妹に持つことに誇りを感じて暖かい心になっていた。そして静かに膝をついて、切り下げにした貞世の前髪をそっと撫《な》であげて倉地に見せた。倉地は声を殺すのに少なからず難儀なふうで、
「そうやるとこっちは、貞世は、お前によく似とるわい。愛子は、ふむ、これはまたすてきな美人じゃないか。俺はこんなのは見たことがない………お前の二の舞でもせにゃ結構だが」
そう言いながら倉地は愛子の顔ほどもあるような大きな手をさし出して、そうしたい誘惑を退けかねるように、紅《べに》椿《つばき》のような紅いその唇に触れてみた。
その瞬間に葉子はぎょっとした。倉地の手が愛子の唇に触れた時の様子から、葉子は明らかに愛子がまだ目覚めていて、寝たふりをしているのを感づいたと思ったからだ。葉子は大急ぎで倉地に目くばせしてそっとその部屋を出た。
三〇
「僕が毎日――毎日とは言わず毎時間あなたに筆を執《と》らないのは執りたくないから執らないのではありません。僕は一日あなたに書き続けていてもなお飽き足らないのです。それは今の僕の境界では許されないことです。僕は朝から晩まで機械のごとく働かねばなりませんから。
あなたが米国を離れてからこの手紙はたぶん七回目の手紙としてあなたに受け取られると思います。しかし僕の手紙はいつまでも暇を窃《ぬす》んで少しずつ書いているのですから、僕から言うと日に二度も三度もあなたにあてて書いてるわけになるのです。しかしあなたはあの後一回の音信も恵んではくださらない。
僕は繰り返し繰り返し言います。たといあなたにどんな過失どんな誤《ご》謬《びゆう》があろうとも、それを耐え忍び、それを許すことにおいては主キリスト以上の忍耐力を持っているのを僕はみずから信じています。誤解しては困ります。僕がいかなる人に対してもかかる力を持っているというのではないのです。ただあなたに対してです。あなたはいつでも僕の品性を尊く導いてくれます。僕はあなたによって人がどれほど愛し得るかを学びました。あなたによって世間で言う堕落とか罪悪とかいうものがどれほどまで寛容の余裕があるかを学びました。そうしてその寛容によって、寛容する人自身がどれほど品性を陶《とう》冶《や》されるかを学びました。僕はまた自分の愛を成就するためにはどれほどの勇者になり得るかを学びました。これほどまでに僕を神の眼に高めてくださったあなたが、僕から万一にも失われるというのは想像ができません。神がそんな試練を人の子にくだされる残虐はなさらないのを僕は信じています。そんな試練に堪えるのは人力以上ですから。今の僕からあなたが奪われるというのは神が奪われるのと同じことです。あなたは神だとは言いますまい。しかしあなたを通してのみ僕は神を拝むことができるのです。
ときどき僕は自分で自分を憐《あわ》れんでしまうことがあります。自分自身だけの力と信仰とですべてのものを見ることができたらどれほど幸福で自由だろうと考えると、あなたを煩わさなければ一歩を踏み出す力をも感じ得ない自分の束縛を呪《のろ》いたくもなります。同時にそれほど慕わしい束縛は他にないことを知るのです。束縛のないところに自由はないといった意味であなたの束縛は僕の自由です。
あなたは――いったん僕に手を与えてくださると約束なさったあなたは、ついに僕を見捨てようとしておられるのですか。どうして一回の音信も恵んではくださらないのです。しかし僕は信じて疑いません。世にもし真理があるならば、そして真理が最後の勝利者ならばあなたは必ず僕に還《かえ》ってくださるに違いないと。なぜなれば、僕は誓います。――主よこの僕《しもべ》を見守りたまえ――僕はあなたを愛して以来断じて他の異性に心を動かさなかったことを。この誠意があなたによって認められないわけはないと思います。
あなたは従来暗いいくつかの過去を持っています。それが知らず知らずあなたの向上心を躊《ちゆう》躇《ちよ》させ、あなたをやや絶望的にしているのではないのですか。もしそうならあなたは全然誤謬に陥っていると思います。すべての救いは思いきってその中から飛び出すほかにはないのでしょう。そこに停滞しているのはそれだけあなたの暗い過去を暗くするばかりです。あなたは僕に信頼を置いてくださることはできないのでしょうか。人類の中に少なくも一人、あなたのすべての罪を喜んで忘れようと両手を拡《ひろ》げて待ち設けているもののあるのを信じてくださることはできないでしょうか。
こんなくだらない理屈はもうやめましょう。
昨夜書いた手紙に続けて書きます。今朝ハミルトン氏のところから至急に来いという電話がかかりました。シカゴの冬は予期以上に寒いのです。仙台どころの比ではありません。雪は少しもないけれども、イリー湖を多湖地方から渡って来る風は身を切るようでした。僕は外套の上にまた大外套を重ね着していながら、風に向いた皮膚に沁《し》み透る風の寒さを感じました。ハミルトン氏の用というのは来年セントルイスに開催される大規模な博覧会の協議のため急にそこにおもむくようになったから同行しろというのでした。僕は旅行の用意はなんらしていなかったが、ここにアメリカニズムがあるのだと思ってそのまま同行することにしました。自分の部屋の戸に鍵《かぎ》もかけずに飛び出したのですからバビコック博士の奥さんは驚いているでしょう。しかしさすがに米国です。着のみ着のままでここまで来ても何一つ不自由を感じません。鎌倉あたりまで行くのにも膝かけから旅カバンまで用意しなければならないのですから、日本の文明はまだなかなかのものです。僕たちはこの地に着くと、停車場内の化粧室で髭《ひげ》を剃《そ》り、靴を磨《みが》かせ、夜会に出ても恥ずかしくないしたくができてしまいました。そしてすぐ協議会に出席しました。あなたも知っておらるるとおりドイツ人のあの辺における勢力は偉いものです。博覧会が開けたら、我々は米国に対してよりもむしろこれらのドイツ人に対して緊《きん》褌《こん》一番する必要があります。ランチの時僕はハミルトン氏に例の日本に買い占めてあるキモノその他の話をもう一度しました。博覧会を前に控えているのでハミルトン氏も今度は乗り気になってくれまして、高島屋と連絡をつけておくためにとにかく品物を取り寄せて自分の店で捌《さば》かしてみようと言ってくれました。これで僕の財政は非常に余裕ができるわけです。今まで店がなかったばかりに、取り寄せても荷やっかいだったものですが、ハミルトン氏の店で取り扱ってくれれば相当に売れるのはわかっています。そうなったら今までと違ってあなたのほうにも足りないながら仕送りをして上げることができましょう。さっそく電報を打っていちばん早い船便で取り寄せることにしましたから不日着荷することと思っています。
今は夜もだいぶ更《ふ》けました。ハミルトン氏は今夜も饗応に呼ばれて出かけました。大嫌いなテーブル・スピーチになやまされているのでしょう。ハミルトン氏は実にシャープなビジネスマンライキな人です。そして熱心な正統派の信仰を持った慈善家です。僕はことのほか信頼され重宝がられています。そこから僕のライフ・キャリヤアを踏み出すのは大なる利益です。僕の前途には確かに光明が見えだしてきました。
あなたに書くことは底《てい》止《し》なく書くことです。しかし明日の奮闘的生活(これは大統領ルーズベルトの著書の "Strenuous Life" を訳してみた言葉です。今この言葉は当地の流行語になっています)に備えるために筆を止めねばなりません。この手紙はあなたにも喜びを分けていただくことができるかと思います。
昨日セントルイスから帰って来たら、手紙がかなり多数届いていました。郵便局の前を通るにつけ、郵便函を見るにつけ、脚夫に行き遇《あ》うにつけ、僕はあなたを連想しないことはありません。自分の机の上に来信を見いだした時はなおさらのことです。僕は手紙の束の間をかき分けてあなたの手《しゆ》蹟《せき》を見いだそうと勉めました。しかし僕はまた絶望に近い失望に打たれなければなりませんでした。僕は失望はしましょう。しかし絶望はしません。できません葉子さん、信じてください。僕はロングフェローのエヴァンジェリン《*》の忍耐と謙《けん》遜《そん》とをもってあなたが僕の心を本当に汲み取ってくださる時を待っています。しかし手紙の束の中からはわずかに僕を失望から救うために古藤君と岡君との手紙が見いだされました。古藤君の手紙は兵営に行く五日前に書かれたものでした。いまだにあなたの居所を知ることができないので、僕の手紙はやはり倉地氏にあてて廻送していると書いてあります。古藤君はそうした手続きを取るのをはなはだしく不快に思っているようです。岡君は人に漏らし得ない家庭内の紛《ふん》擾《じよう》や周囲から受ける誤解を、岡君らしく過敏に考え過ぎて弱い体質をますます弱くしているようです。書いてあることにはところどころ僕の持つ常識では判断しかねるようなところがあります。あなたからいつか必ず消息が来るのを信じきって、その時をただ一つの救いとして待っています。その時の感謝と喜悦とを想像で描き出して、小説でも読むように書いてあります。僕は岡君の手紙を読むと、いつでも僕自身の心がそのまま書き現わされているように思って涙を感じます。
なぜあなたは自分をそれほどまで韜《とう》晦《かい》しておられるのか、それには深いわけがあることと思いますけれども、僕にはどちらの方面から考えても想像がつきません。
日本からの消息はどんな消息も待ち遠しい。しかしそれを見終わった僕はきっと憂《ゆう》鬱《うつ》に襲われます。僕にもし信仰が与えられていなかったら、僕は今どうなっていたかを知りません。
前の手紙との間に三日が経《た》ちました。僕はバビコック博士夫婦と今夜ライシアム座にウエルシ嬢の演じたトルストイの『復活《*》』を見物しました。そこにはキリスト教徒として眼を背けなければならないような場面がないではなかったけれども、終わりのほうに近づいて行っての荘厳さは見物人のすべてを捕捉してしまいました。ウエルシ嬢の演じた女主人公は真に迫りすぎているくらいでした。あなたがもしまだ『復活』を読んでおられないのなら僕はぜひそれをお勧めします。僕はトルストイの『懺《ざん》悔《げ*》』をK氏の邦文訳で日本にいる時読んだだけですが、あの芝居を見てから、暇があったらもっと深くいろいろ研究したいと思うようになりました。日本ではトルストイの著書はまだ多くの人に知られていないと思いますが、少なくとも『復活』だけは丸善からでも取り寄せて読んでいただきたい、あなたを啓発することが必ず多いのは請け合いますから。僕らは等しく神の前に罪人です。しかしその罪を悔い改めることによって等しく選ばれた神の僕《しもべ》となり得るのです。この道のほかには人の子の生活を天国に結びつける道は考えられません。神を敬い人を愛する心の萎《な》えてしまわないうちにお互いに光を仰ごうではありませんか。
葉子さん、あなたの心に空虚なり汚点なりがあってもどうぞ絶望しないでくださいよ。あなたをそのままに喜んで受け入れて、――苦しみがあればあなたとともに苦しみ、あなたに悲しみがあればあなたとともに悲しむものがここに一人いることを忘れないでください。僕は戦ってみせます。どんなにあなたが傷ついていても、僕はあなたを庇《かば》って勇ましくこの人生を戦ってみせます。僕の前に事業が、そして後ろにあなたがあれば、僕は神の最も小さい僕《しもべ》として人類の祝福のために一生を献《ささ》げます。
ああ、筆も言語もついに無益です。火と熱する誠意と祈りとを籠《こ》めて僕はここにこの手紙を封じます。この手紙が倉地氏の手からあなたに届いたら、倉地氏にもよろしく伝えてください。倉地氏に迷惑をおかけした金銭上のことについては前便に書いておきましたから見てくださったと思います。願わくは神我らとともに在《いま》したまわんことを。
明治三十四年十二月十三日」
倉地は事業のために奔走しているのでその夜は年越しに来ないと下宿から知らせて来た。妹たちは除夜の鐘を聞くまでは寝ないなどと言っていたがいつの間にか睡《ね》むくなったとみえて、あまり静かなので二階に行ってみると、二人とも寝床にはいっていた。つやには暇が出してあった。葉子に内所で「報正新報」を倉地に取り次いだのは、たとい葉子に無益な心配をさせないためだという倉地の注意があったためであるにもせよ、葉子の心持ちを損じもし不安にもした。つやが葉子に対してもすなおな敬愛の情を抱いていたのは葉子もよく心得ていた。前にも書いたように葉子は一眼見た時からつやが好きだった。台所などをさせずに、小間使いとして手廻りの用事でもさせたら顔《かお》容《かたち》といい、性質といい、取り廻しといいこれほど理想的な少女はないと思うほどだった。つやにも葉子の心持ちはすぐ通じたらしく、つやはこの家のために蔭《かげ》日向《ひなた》なくせっせと働いたのだった。けれども新聞の小さな出来事一つが葉子を不安にしてしまった。倉地が双鶴館の女将《おかみ》に対しても気の毒がるのをかまわず、妹たちに働かせるのがかえっていいからとの口実のもとに暇をやってしまったのだった。で勝手の方にも人《ひと》気《け》はなかった。
葉子は何を原因ともなくそのころ気分がいらいらしがちで寝つきも悪かったので、ぞくぞく沁み込んで来るような寒さにもかかわらず、火鉢の側《そば》にいた。そして所在ないままにその日倉地の下宿から届けて来た木村の手紙を読んでみる気になったのだ。
葉子は猫板に片《かた》肘《ひじ》を持たせながら、必要もないほど高価だと思われる厚い書《しよ》牋《せん》紙《し》に大きな字で書き綴《つづ》ってある木村の手紙を一枚一枚読み進んだ。大人《おとな》びたようで子供っぽい、そうかと思うと感情の高潮を示したと思われるところも妙に打算的なところが離れきらないと葉子に思わせるような内容だった。葉子はいちいち精読するのがめんどうなので行《ぎよう》から行に飛び越えながら読んで行った。そして日づけのところまで来ても格別な情緒を誘われはしなかった。しかし葉子はこの以前倉地の見ている前でしたようにずたずたに引き裂いて捨ててしまうことはしなかった。しなかったどころではない、その中には葉子を考えさせるものが含まれていた。木村は遠からずハミルトンとかいう日本の名誉領事をしている人の手から、日本を去る前に思いきってして行った放資の回収をしてもらえるのだ。不即不離の関係を破らずに別れた自分のやり方はやはり図にあたっていたと思った。
「宿屋きめずに草鞋《わらじ》を脱」ぐ馬鹿をしない必要はもうない、倉地の愛は確かに自分の手に握り得たから。しかし口にこそ出しはしないが、倉地は金の上ではかなりに苦しんでいるに違いない。倉地の事業というのは日本じゅうの開港場にいる水先案内業者の組合を作って、その実権を自分の手に握ろうとするのらしかったが、それが仕上がるのは短い日月にはできることではなさそうだった。ことに時節が時節がら正月にかかっているから、そういうものの設立にはいちばん不便な時らしくも思われた。木村を利用してやろう。
しかし葉子の心の底にはどこかに痛みを覚えた。さんざん木村を苦しめ抜いたあげくに、なおあの根の正直な人間をたぶらかしてなけなしの金を搾《しぼ》り取るのは俗に言う「つつもたせ《*》」の所業と違ってはいない。そう思うと葉子は自分の堕落を痛く感ぜずにはいられなかった。けれども現在の葉子にいちばん大事なものは倉地という情人のほかにはなかった。心の痛みを感じながらも倉地のことを思うとなお心が痛かった。彼は妻子を犠牲に供し、自分の職業を犠牲に供し、社会上の名誉を犠牲に供してまで葉子の愛に溺《おぼ》れ、葉子の存在に生きようとしてくれているのだ。それを思うと葉子は倉地のためになんでもしてみせてやりたかった。時によると我れにもなく侵してくる涙ぐましい感じをじっと堪《こら》えて、定子に会いに行かずにいるのも、そうすることが何か宗教上の願《がん》がけで、倉地の愛を繋《つな》ぎとめる禁厭《まじない》のように思えるからしていることだった。木村にだっていつかは物質上の償い目に対して物質上の返礼だけはすることができるだろう。自分のすることは「つつもたせ」とは形が似ているだけだ。やってやれ。そう葉子は決心した。読むでもなく読まぬでもなく手に持って眺めていた手紙の最後の一枚を葉子は無意識のようにぽたりと膝の上に落とした。そしてそのままじっと鉄瓶から立つ湯気が電燈の光の中に多様な渦紋を描いては消え描いては消えするのを見つめていた。
しばらくしてから葉子は物憂げに深い吐息を一つして、上体をひねって棚《たな》の上から手文庫を取り下ろした。そして筆を噛《か》みながらまた上眼でじっと何か考えるらしかった。と、急に生きかえったようにはきはきなって、上等の支《し》那《な》墨《ずみ》を眼《がん》の三つまではいった真円《まんまる》い硯《すずり》にすり下ろした。そして軽く麝《じや》香《こう》の漂うなかで男の字のような健筆で、精巧な雁《がん》皮《ぴ》紙《し》の巻紙に、一気に、次のように認《したた》めた。
「書けばきりがございません。伺えばきりがございません。だから書きもいたしませんでした。あなたのお手紙も今日いただいたものまでは拝見せずにずたずたに破って捨ててしまいました。その心をお察しくださいまし。
噂《うわさ》にもお聞きとは存じますが、私は見事に社会的に殺されてしまいました。どうして私がこの上あなたの妻と名乗れましょう。自業自得と世の中では申します。私も確かにそう存じています。けれども親類、縁者、友だちにまで突き放されて、二人の妹を抱えてみますと、私は眼もくらんでしまいます。倉地さんだけがどういう御縁かお見捨てなく私ども三人をお世話くださっています。こうして私はどこまで沈んで行くことでございましょう。本当に自業自得でございます。
今日拝見したお手紙も本当は読まずに裂いてしまうのでございましたけれども……私の居所をどなたにもお知らせしないわけなどは申し上げるまでもございますまい。
この手紙はあなたに差し上げる最後のものかと思われます。お大事にお過ごしあそばしませ。蔭ながら御成功を祈り上げます。
ただいま除夜の鐘が鳴ります。
大晦日の夜
葉より
木村様
葉子はそれを日本風の状袋に収めて、毛筆で器用に表記を書いた。書き終わると急にいらいらしだして、いきなり両手に握って一と思いに引き裂こうとしたが、思い返して捨てるようにそれを畳の上に放《な》げ出すと、我れにもなく冷やかな微笑が口尻をかすかに引きつらした。
葉子の胸をどきんとさせるほど高く、すぐ最寄《もよ》りにある増《ぞう》上《じよう》寺《じ》の除夜の鐘が鳴りだした。遠くからどこの寺のともしれない鐘の声がそれに応ずるように聞こえて来た。その音に引き入れられて耳を澄ますと夜の沈黙《しじま》の中にも声はあった。十二時を打つぼんぼん時計、「かるた」を読み上げるらしいはしゃいだ声、何に驚いてか夜《よ》啼《な》きをする鶏……葉子はそんな響きを探り出すと、人の生きているというのが恐ろしいほど不思議に思われだした。
急に寒さを覚えて葉子は寝じたくに立ち上がった。
三一
寒い明治三十五年の正月が来て、愛子たちの冬期休暇も終りに近づいた。葉子は妹たちを再び田島塾のほうに帰してやる気にはなれなかった。田島という人に対して反感を抱いたばかりではない。妹たちを再び預かってもらうことになれば葉子は当然挨拶に行って来《く》べき義務を感じたけれども、どういうものかそれがはばかられてできなかった。横浜の支店長の永井とか、この田島とか、葉子には自分ながらわけのわからない苦手の人があった。その人たちが格別偉い人だとも、恐ろしい人だとも思うのではなかったけれども、どういうものかその前に出ることに気が引けた。葉子はまた妹たちが不言不語《いわずかたらず》のうちに生徒たちから受けねばならぬ迫害を思うと不《ふ》憫《びん》でもあった。で、毎日通学するには遠すぎるという理由の下にそこをやめて、飯倉にある幽蘭女学校というのに通わせることにした。
二人が学校に通いだすようになると、倉地は朝から葉子のところで退校時間まで過ごすようになった。倉地の腹心の仲間たちもちょいちょい出入りした。ことに正井という男は倉地の影のように倉地のいるところには必ずいた。例の水先案内業者組合の設立について正井がいちばん働いているらしかった。正井という男は、一見放漫なように見えていて、剃刀《かみそり》のように目《め》端《はし》の利《き》く人だった。その人が玄関からはいったら、そのあとに行ってみると履《はき》物《もの》は一つ残らず揃えてあって、傘は傘で一隅にちゃんと集めてあった。葉子も及ばないすばやさで花瓶の花の萎《しお》れかけたのや、茶や菓子の足りなくなったのを見て取って、翌日は忘れずにそれを買い調えて来た。無口のくせにどこかに愛《あい》嬌《きよう》があるかと思うと、馬鹿笑いをしている最中に不思議に陰険な眼つきをちらつかせたりした。葉子はその人を観察すればするほどその正体がわからないように思った。それは葉子をもどかしくさせるほどだった。ときどき葉子は倉地がこの男と組合設立の相談以外の秘密らしい話し合いをしているのに感づいたが、それはどうしても明確に知ることができなかった。倉地に聞いてみても、倉地は例ののんきな態度でこともなげに話題をそらしてしまった。
葉子はしかしなんと言っても自分が望み得る幸福の絶頂に近いところにいた。倉地を喜ばせることが自分を喜ばせることであり、自分を喜ばせることが倉地を喜ばせることである、そうした作為のない調和は葉子の心をしとやかに快活にした。何にでも自分がしようとさえ思えば適応し得る葉子にとっては、抜け目のない世話女房になるくらいのことはなんでもなかった。妹たちもこの姉を無二のものとして、姉のしてくれることは一も二もなく正しいものと思うらしかった。始終葉子から継《まま》子《こ》あつかいにされている愛子さえ、葉子の前にはただ従順なしとやかな少女だった。愛子としても少なくとも一つはどうしてもその姉に感謝しなければならないことがあった。それは年齢のお蔭もある。愛子は今年で十六になっていた。しかし葉子がいなかったら、愛子はこれほど美しくはなれなかったに違いない。二、三週間のうちに愛子は山から掘り出されたばかりのルビーと磨きをかけ上げたルビーとほどに変わっていた。小《こ》肥《ぶと》りで背《せ》丈《た》けは姉よりもはるかに低いが、ぴちぴちと締まった肉づきと、抜け上がるほど白い艶《つや》のある皮膚とはいい均整を保って、短くはあるが類のないほど肉感的な手足の指のさき細なところに利点を見せていた。むっくりと牛乳色の皮膚に包まれた地蔵肩の上に据えられたその顔はまた葉子の苦心に十二分に酬《むく》いるものだった。葉子が頸《くび》ぎわを剃《そ》ってやるとそこに新しい美が生まれ出た。髪を自分の意匠どおりに束ねてやるとそこに新しい蠱《こ》惑《わく》が湧き上がった。葉子は愛子を美しくすることに、成功した作品に対する芸術家と同様の誇りと喜びとを感じた。暗いところにいて明るい方に振り向いた時などの愛子の卵形の顔形は美の神ビーナスをさえ妬《ねた》ますことができたろう。顔の輪《りん》廓《かく》と、やや額ぎわを狭くするまでに厚く生え揃った黒《こく》漆《しつ》の髪とは闇の中に溶けこむようにぼかされて、前からのみ来る光線のために鼻筋は、ギリシヤ人のそれに見るような、規則正しく細長い前面の平面をきわだたせ、潤《うるお》いきった大きな二つの瞳と、締まって厚い上下の唇とは、皮膚を切り破って現われ出た二対の魂のようになまなましい感じで見る人を打った。愛子はそうした時にいちばん美しいように、闇の中に淋《さび》しくひとりでいて、その多恨な眼でじっと明るみを見つめているような少女だった。
葉子は倉地が葉子のためにしてみせた大きな英断に酬《むく》いるために、定子を自分の愛《あい》撫《ぶ》の胸から裂いて捨てようと思いきわめながらも、どうしてもそれができないでいた。あれから一度も訪れこそしないが、時おり金を送ってやることと、乳母《うば》から安否を知らさせることだけは続けていた。乳母の手紙はいつでも恨みつらみで満たされていた。日本に帰って来てくださったかいがどこにある。親がなくて子が子らしく育つものか育たぬものかちょっとでも考えてみてもらいたい。乳母もだんだん年をとっていく身だ。麻疹《はしか》にかかって定子は毎日毎日ママの名を呼び続けている、その声が葉子の耳に聞こえないのが不思議だ。こんなことが消息のたびごとにたどたどしく書き連ねてあった。葉子はいても立ってもたまらないようなことがあった。けれどもそんな時には倉地のことを思った。ちょっと倉地のことを思っただけで、歯を喰《く》いしばりながらも、苔《たい》香《こう》園《えん》の表門からそっと家を抜け出る誘惑に打ち勝った。
倉地のほうから手紙を出すのは忘れたと見えて、岡はまだ訪れては来なかった。木村にあれほど切な心持ちを書き送ったくらいだから、葉子の住所さえわかれば尋ねて来ないはずはないのだが、倉地にはそんなことはもう念頭になくなってしまったらしい。誰も来るなと願っていた葉子もこのごろになってみると、ふと岡のことなどを思い出すことがあった。横浜を立つ時に葉子にかじりついて離れなかった青年を思い出すことなどもあった。しかしこういうことがあるたびごとに倉地の心の動き方をもきっと推察した。そうしてはいつでも願をかけるようにそんなことは夢にも思い出すまいと心に誓った。
倉地がいっこうに無頓着なので、葉子はまだ籍を移してはいなかった。もっとも倉地の先妻がはたして籍を抜いているかどうかも知らなかった。それを知ろうと求めるのは葉子の誇りが許さなかった。すべてそういう習慣をてんから考えの中に入れていない倉地に対して今さらそんな形式ごとを迫るのは、自分の度胸を見《み》透《すか》されるという上からもつらかった。その誇りという心持ちも、度胸を見透されるという恐れも、本当を言うと葉子がどこまでも倉地に対してひけ目になっているのを語るにすぎないとは葉子自身存分に知りきっているくせに、それを勝手に踏みにじって、自分の思うとおりを倉地にして退《の》けさす不敵さを持つことはどうしてもできなかった。それなのに葉子はややともすると倉地の先妻のことが気になった。倉地の下宿のほうに遊びに行く時でも、その近所で人妻らしい人の往来するのを見かけると葉子の眼は知らず識《し》らず熟視のためにかがやいた。一度も顔を合わせないが、わずかな時間の写真の記憶から、きっとその人を見分けてみせると葉子は自信していた。葉子はどこを歩いてもかつてそんな人を見かけたことはなかった。それがまた妙に裏切られているような感じを与えることもあった。
航海の初期における批点の打ちどころのないような健康の意識はその後葉子にはもう帰って来なかった。寒気が募るにつれて下腹部が鈍痛を覚えるばかりでなく、腰の後ろの方に冷たい石でも釣り下げてあるような、重苦しい気分を感ずるようになった。日本に帰ってから足の冷えだすのも知った。血管の中には血の代わりに文火《とろび》でも流れているのではないかと思うくらい寒気に対して平気だった葉子が、床の中で倉地に足のひどく冷えるのを注意されたりすると不思議に思った。肩の凝るのは幼少の時からの痼《こ》疾《しつ》だったがそれが近ごろになってことさら激しくなった。葉子はちょいちょい按《あん》摩《ま》を呼んだりした。腹部の痛みが月経と関係があるのを気づいて、葉子は婦人病であるに相違ないとは思った。しかしそうでもないと思うようなことが葉子の胸の中にはあった。もしや懐妊では……葉子は喜びに胸を躍《おど》らせてそう思ってもみた。牝《めす》豚《ぶた》のように幾人も子を生むのはとても耐えられない。しかし一人はどうあっても生みたいものだと葉子は祈るように願っていたのだ。定子のことから考えると自分には案外子運があるのかもしれないとも思った。しかし前の懐妊の経験と今度の徴候とはいろいろな点で全く違ったものだった。
一月の末になって木村からははたして金を送って来た。葉子は倉地が潤沢につけ届けする金よりもこの金を使うことにむしろ心安さを覚えた。葉子はすぐ思いきった散財をしてみたい誘惑に駆《か》り立てられた。
ある日当たりのいい日に倉地とさし向かいで酒を飲んでいると苔香園の方から藪《やぶ》鶯《うぐいす》の啼《な》く声が聞こえた。葉子は軽く酒ほてりのした顔を挙げて倉地を見やりながら、耳では鶯の啼き続けるのを注意した。
「春が来ますわ」
「早いもんだな」
「どこかへ行きましょうか」
「まだ寒いよ」
「そうねえ……組合のほうは」
「うむあれがかたづいたら出かけようわい。いいかげんくさくさしおった」
そう言って倉地はさもめんどうそうに杯の酒を一《ひと》煽《あお》りに煽りつけた。
葉子はすぐその仕事がうまく運んでいないのを感づいた。それにしてもあの毎月の多額な金はどこから来るのだろう。そうちらっと思いながらすばやく話を他にそらした。
三二
それは二月初旬のある日の昼ごろだった。からっと晴れた朝の天気に引きかえて、朝日がしばらく東向きの窓に射す間もなく、空は薄曇りに曇って西風がゴウゴウと杉森にあたってものすごい音を立て始めた。どこにか春をほのめかすような日が来たりした後なので、ことさら世の中が暗《あん》澹《たん》と見えた。雪でもまくしかけてきそうに底冷えがするので、葉子は茶の間に置《おき》炬燵《ごたつ》を持ち出して、倉地の着代えをそれにかけたりした。土曜だから妹たちは早《はや》退《び》けだと知りつつも倉地はものぐさそうに外出のしたくにかからないで、どてらを引っかけたまま火鉢の側にうずくまっていた。葉子は食器を台所の方に運びながら、来たり行ったりするついでに倉地と物を言った。台所に行った葉子に茶の間から大きな声で倉地が言いかけた。
「おいお葉(倉地はいつの間にか葉子をこう呼ぶようになっていた)俺は今日は二人に対面して、これから勝手に出はいりのできるようにするぞ」
葉子は布《ふ》巾《きん》を持って台所の方からいそいそと茶の間に帰って来た。
「なんだってまた今日……」
そう言ってつき膝をしながらちゃぶ台を拭《ぬぐ》った。
「いつまでもこうしているが気づまりでしょうないからよ」
「そうねえ」
葉子はそのままそこにすわり込んで布巾をちゃぶ台にあてがったまま考えた。本当はこれはとうに葉子のほうから言い出すべきことだったのだ。妹たちのいない隙《すき》か、寝てからの暇を窺《うかが》って、倉地と会うのは、始めのうちこそあいびきのような興味を起こさせないでもないと思ったのと、葉子は自分の通って来たような道はどうしても妹たちには通らせたくないところから、自分の裏面を窺わせまいという心持ちとで、今までついずるずるに妹たちを倉地に近づかせないでおいたのだったが、倉地の言葉を聞いてみると、そうしておくのが少し延び過ぎたと気がついた。また新しい局面を二人の間に開いて行くにもこれは悪いことではない。葉子は決心した。
「じゃ今日にしましょう。……それにしても着物だけは着代えていてくださいましな」
「よしきた」
と倉地はにこにこしながらすぐ立ち上がった。葉子は倉地の後ろから着物を羽織っておいて羽がいに抱きながら、今さらに倉地の頑《がん》丈《じよう》な雄々しい体格を自分の胸に感じつつ、
「それは二人ともいい子よ。可愛《かわい》がってやってくださいましよ。……けれどもね、木村とのあのことだけはまだ内証よ。いいおりを見つけて、私から上手に言って聞かせるまでは知らんふりをしてね……よくって……あなたはうっかりするとあけすけに物を言ったりなさるから……今度だけは用心してちょうだい」
「馬鹿だな、どうせ知れることを」
「でもそれはいけません……ぜひ」
葉子は後ろから背延びをしてそっと倉地の後ろ頸《くび》を吸った。そして二人は顔を見合わせてほほえみかわした。
その瞬間に勢いよく玄関の格子戸ががらっと開いて「おお寒い」と言う貞世の声が疳《かん》高《だか》く聞こえた。時間でもないので葉子は思わずぎょっとして倉地から飛び離れた。次いで玄関口の障子が開いた。貞世は茶の間に駈《か》け込んで来るらしかった。
「お姉様雪が降ってきてよ」
そう言っていきなり茶の間の襖《ふすま》を開けたのは貞世だった。
「おやそう……寒かったでしょう」
とでも言って迎えてくれる姉を期待していたらしい貞世は、置炬燵にはいって胡坐《あぐら》をかいている途方もなく大きな男を姉のほかに見つけたので、驚いたように大きな眼を見張ったが、そのまますぐに玄関に取って返した。
「愛姉さんお客様よ」
と声をつぶすように言うのが聞こえた。倉地と葉子とは顔を見合わしてまたほほえみかわした。
「ここにお下《げ》駄《た》があるじゃありませんか」
そう落ち着いて言う愛子の声が聞こえて、やかて二人は静かにはいって来た。そして愛子はしとやかに貞世はぺちゃんとすわって、声を揃えて「ただいま」と言いながら辞儀をした。愛子の年ごろの時、厳格な宗教学校で無理強いに男の子のような無趣味な服装をさせられた、それに復讐するような気で葉子の装わした愛子の身なりはすぐ人の眼を牽《ひ》いた。お下げをやめさせて、束髪にさせた項《うなじ》とた《ヽ》ぼ《ヽ*》の《ヽ》ところには、そのころ米国での流行そのままに、蝶結びの大きな黒いリボンがとめられていた。古代紫の紬《つむぎ》地《じ》の着物に、カシミヤの袴《はかま》を裾《すそ》短《みじ》かにはいて、その袴は以前葉子が発明した例の尾錠どめになっていた。貞世の髪はまた思いきって短くおかっぱに切りつめて、横の方に深紅のリボンが結んであった。それがこの才はじけた童女を、膝《ひざ》までくらいな、わざと短く仕立てた袴とともに可憐にもいたずらいたずらしく見せた。二人は寒さのために頬を真紅《まつか》にして、眼を少し涙ぐましていた。それがことさら二人に別々な可憐な趣を添えていた。
葉子は少し改まって二人を火鉢の座から見やりながら、
「お帰りなさい。今日はいつもより早かったのね。……お部屋に行ってお包みをおいて袴を取っていらっしゃい、その上でゆっくりお話しすることがあるから……」
二人の部屋からは貞世がひとりではしゃいでいる声がしばらくしていたが、やがて愛子は広い帯をふだん着と着かえた上にしめて、貞世は袴をぬいだだけで帰って来た。
「さあここにいらっしゃい。(そう言って葉子は妹たちを自分の身近にすわらせた)このおかたがいつか双鶴館でお噂《うわさ》した倉地さんなのよ。今までもときどきいらしったんだけれどもついにお目にかかるおりがなかったわね。これが愛子、これが貞世です」
そう言いながら葉子は倉地の方を向くともうくすぐったいような顔つきをせずにはいられなかった。倉地は渋い笑いを笑いながら案外まじめに、
「お初に(と言ってちょっと頭を下げた)二人とも美しいねえ」
そう言って貞世の顔をちょっと見てからじっと眼を愛子にさだめた。愛子は格別恥じる様子もなくその柔和な多恨な眼を大きく見開いてまんじりと倉地を見やっていた。それは男女の区別を知らぬ無邪気な眼とも見えた。先天的に男というものを知りぬいてその心を試みようとする淫婦の眼とも見られないことはなかった。それほどその眼は奇怪な無表情の表情を持っていた。
「はじめてお目にかかるが、愛子さんおいくつ」
倉地はなお愛子を見やりながらこう尋ねた。
「私はじめてではございません。……いつぞやお目にかかりました」
愛子は静かに眼を伏せてはっきりと無表情な声でこう言った。愛子があの年ごろで男の前にはっきりああ受け答えができるのは葉子にも意外だった。葉子は思わず愛子を見た。
「はて、どこでね」
倉地もいぶかしげにこう問い返した。愛子は下を向いたまま口をつぐんでしまった。そこにはかすかながら憎悪の影がひらめいて過ぎたようだった。葉子はそれを見《み》逃《の》がさなかった。
「寝顔を見せた時にやはり彼女《あれ》は眼を覚《さま》していたのだな。それを言うのかしらん」
とも思った。倉地の顔にも思いかけずちょっとどぎまぎしたらしい表情が浮かんだのを葉子は見た。「なあに……」激しく葉子は自分で自分を打ち消した。
貞世は無邪気にも、この熊のような大きな男が親しみやすい遊び相手と見て取ったらしい。貞世がその日学校で見聞きして来たことなどを例のとおり残らず姉に報告しようと、なんでもかまわず、なんでも隠さず、言ってのけるのに倉地が興に入って相《あい》槌《づち》を打つので、ここに移って来てから客の味を全く忘れていた貞世は嬉《うれ》しがって倉地を相手にしようとした。倉地はさんざん貞世と戯れて、昼近く立って行った。
葉子は朝食がおそかったからと言って、妹たちだけが昼食の膳《ぜん》についた。
「倉地さんは今、ある会社をお立てになるのでいろいろ御相談事があるのだけれども、下宿では周《まわ》りがやかましくって困るとおっしゃるから、これからいつでもここで御用をなさるように言ったから、きっとこれからもちょくちょくいらっしゃるだろうが、貞ちゃん、今日のように遊びのお相手にばかりしていてはだめよ。その代わり英語なんぞでわからないことがあったらなんでもお聞きするといい、姉さんよりいろいろのことをよく知っていらっしゃるから……それから愛さんは、これから倉地さんのお客様も見えるだろうから、そんな時にはいちいち姉さんの指図を待たないではきはきお世話をして上げるのよ」
と葉子はあらかじめ二人に釘をさした。
妹たちが食事を終わって二人で後始末をしているとまた玄関の格《こう》子《し》が静かに開く音がした。
貞世は葉子のところに飛んで来た。
「お姉様またお客様よ。今日はずいぶんたくさんいらっしゃるわね。誰でしょう」
と物珍しそうに玄関の方に注意の耳をそばだてた。葉子も誰だろうと訝《いぶか》った。ややしばらくして静かに案内を求める男の声がした。それを聞くと貞世は姉から離れて駈け出して行った。愛子が襷《たすき》をはずしながら台所から出て来た時分には、貞世はもう一枚の名刺を持って葉子のところに取って返していた。金《きん》縁《ぶち》のついた高価らしい名刺の表には岡《おか》一《はじめ》と記してあった。
「まあ珍しい」
葉子は思わず声を立てて貞世とともに玄関に走り出た。そこには処女のように美しく小柄な岡が雪のかかった傘をつぼめて、外《がい》套《とう》の滴《したた》りを紅をさしたように赤らんだ指の先ではじきながら、女のようにはにかんで立っていた。
「いいところでしょう。おいでには少しお寒かったかもしれないけれども、今日はほんとうにいいおりからでしたわ。隣に見えるのが有名な苔香園、あすこの森の中が紅葉館、この杉の森が私大好きですの。今日は雪が積もってなおさら綺麗ですわ」
葉子は岡を二階に案内して、そこのガラス戸越《ご》しにあちこちの雪景色を誇りがに指呼してみせた。岡は言葉少なながら、ちかちかと眩《まぶ》しい印象を眼に残して、降り下り降り煽《あお》る雪の向こうに隠見する山《さん》内《ない》の木立ちの姿を嘆賞した。
「それにしてもどうしてあなたはここを……倉地から手紙でも行きましたか」
岡は神秘的にほほえんで葉子を顧みながら「いいえ」と言った。
「そりゃおかしいこと……それではどうして」
縁側から座敷へ戻りながらおもむろに、
「お知らせがないもので上がってはきっといけないとは思いましたけれども、こんな雪の日ならお客もなかろうからひょっとかすると会ってくださるかとも思って……」
そういう言い出しで岡が語るところによれば、岡の従妹《いとこ》に当たる人が幽蘭女学校に通学していて、正月の学期から早月《さつき》という姉妹の美しい生徒が来て、それは芝山内の裏坂に美人屋敷と言って界《かい》隈《わい》で有名な家の三人姉妹の中の二人であるということや、一番の姉に当たる人が「報正新報」で噂を立てられた優れた美《び》貌《ぼう》の持ち主だということやが、早くも口さがない生徒間の評判になっているのを何かのおりに話したのですぐ思い当たったけれども、一日一日と訪問を躊《ちゆう》躇《ちよ》していたのだとのことだった。葉子は今さらに世間の案外に狭いのを思った。愛子と言わず貞世の上にも、自分の行跡がどんな影響を与えるかも考えずにはいられなかった。そこに貞世が、愛子が調《ととの》えた茶器をあぶなっかしい手つきで、眼八分に持って来た。貞世はこの日淋《さび》しい家の内に幾人も客を迎える物珍しさに有《う》頂《ちよう》天《てん》になっていたようだった。満面に偽りのない愛《あい》嬌《きよう》を見せながら、丁寧にぺっちゃんとお辞儀をした。そして顔にたれかかる黒髪を振り仰いで頭を振って後ろにさばきながら、岡を無邪気に見やって、姉の方に寄り添うと大きな声で「どなた」と聞いた。
「いっしょにお引き合わせしますからね、愛さんにもおいでなさいと言っていらっしゃい」
二人だけが座に落ち着くと岡は涙ぐましいような顔をしてじっと手あぶりの中を見込んでいた。葉子の思いなしかその顔にも少しやつれが見えるようだった。普通の男ならばたぶんさほどにも思わないに違いない家の中のいさくさなどに繊細過ぎる神経をなやまして、それにつけても葉子の慰《い》撫《ぶ》をことさらにあこがれていたらしい様子は、そんなことについては一言も言わないが、岡の顔にははっきりと描かれているようだった。
「そんなにせいたっていやよ貞ちゃんは。せっかちな人ねえ」
そう穏やかにたしなめるらしい愛子の声が階下でした。
「でもそんなにおしゃれしなくったっていいわ。お姉様が早くっておっしゃってよ」
無遠慮にこう言う貞世の声もはっきり聞こえた。葉子はほほえみながら岡を暖かく見やった。岡もさすがに笑いを宿した顔を上げたが、葉子と見かわすと急に頬をぽっと赤くして眼を障子の方にそらしてしまった。手あぶりの縁に置かれた手の先が幽《かす》かに震うのを葉子は見のがさなかった。
やがて妹たち二人が葉子の後ろに現われた。葉子はすわったまま手を後ろに廻して、
「そんな人のお尻のところにすわって、もっとこっちにおいでなさいな。……これが妹たちですの。どうかお友だちにしてくださいまし。お船でごいっしょだった岡一様。……愛子さんあなたお知り申していないの……あの失礼ですがなんとおっしゃいますの、お従妹《いとこ》御《ご》さんのお名前は」
と岡に尋ねた。岡は言葉どおりに神経を転倒させていた。それはこの青年を非常に醜くかつ美しくしてみせた。急いですわりなおした居ずまいをすぐ意味もなく崩《くず》して、それをまた非常に後悔したらしい顔つきを見せたりした。
「は?」
「あの私どもの噂をなさったそのお嬢様のお名前は」
「あのやはり岡と言います」
「岡さんならお顔は存じ上げておりますわ。一つ上の級にいらっしゃいます」
愛子は少しも騒がずに、倉地に対した時と同じ調子でじっと岡を見やりながら即座にこう答えた。その眼は相変わらず淫《いん》蕩《とう》と見えるほど極端に純潔だった。純潔と見えるほど極端に淫蕩だった。岡は怖《お》じながらもその眼から自分の眼をそらすことができないようにまともに愛子を見て見る見る耳たぶまでを真赤にしていた。葉子はそれを気《け》取《ど》ると愛子に対していちだんの憎しみを感ぜずにはいられなかった。
「倉地さんは……」
岡は一路の逃げ路をようやく求め出したように葉子に眼を転じた。
「倉地さん? たった今お帰りになったばかり惜しいことをしましてねえ。でもあなたこれからはちょくちょくいらしってくださいますわね。倉地さんもすぐお近所にお住まいですからいつかごいっしょに御飯でもいただきましょう。私日本に帰ってからこの家にお客様をお上げするのは今日がはじめてですのよ。ねえ貞ちゃん。……本当によく来てくださいましたこと。私遠《とお》から来ていただきたくってしょうがなかったんですけれども、倉地さんからなんとか言って上げてくださるだろうと、そればかりを待っていたのですよ。私からお手紙を上げるのはいけませんもの(そこで葉子はわかってくださるでしょうと言うような優しい眼つきを強い表情を添えて岡に送った)。木村からの手紙であなたのことは委《くわ》しく伺っていましたわ。いろいろお苦しいことがおありになるんですってね」
岡はそのころになってようやく自分を恢《かい》復《ふく》したようだった。しどろもどろになった考えや言葉もやや整ってみえた。愛子は一度しげしげと岡を見てしまってからは、けっして二度とはその方を向かずに、眼を畳の上に伏せてじっと千里も離れたことでも考えている様子だった。
「私の意気地のないのが何よりもいけないんです。親類の者たちはなんと言っても私を実業の方面に入れて父の事業を嗣《つ》がせようとするんです。それはたぶん本当にいいことなんでしょう。けれども私にはどうしてもそういうことがわからないから困ります。少しでもわかれば、どうせこんなに病身で何もできませんから、母はじめ皆んなの言うことを聴《き》きたいんですけれども……私はときどき乞食にでもなってしまいたいような気がします。皆んなの主人思いな眼で見つめられていると、私は皆んなに済まなくなって、なぜ自分みたいな屑《くず》な人間を惜しんでいてくれるのだろうとよくそう思います……こんなこと今まで誰にも言いはしませんけれども。突然日本に帰って来たりなぞしてから私は内々監視までされるようになりました。……私のような家に生まれると友だちというものは一人もできませんし、皆んなとは表面だけで物を言っていなければならないんですから……心が淋しくってしかたがありません」
そう言って岡はすがるように葉子を見やった。岡が少し震えを帯びた、汚《よご》れっ気の塵《ちり》ほどもない声の調子を落としてしんみりと物を言う様子にはおのずからな気高い淋しみがあった。戸障子をきしませながら雪を吹きまく戸外の荒々しい自然の姿に比べてはことさらそれが目立った。葉子には岡のような消極的な心持ちは少しもわからなかった。しかしあれでいて、米国くんだりから乗って行った船で帰って来るところなぞには、粘り強い意力が潜んでいるようにも思えた。平凡な青年ならできてもできなくとも周囲のものに煽《おだ》てあげられれば疑いもせずに父の遺業を嗣ぐまねをして喜んでいるだろう。それがどうしてもできないというところにもどこか違ったところがあるのではないか。葉子はそう思うとなんの理解もなくこの青年を取り捲《ま》いてただわいわい騒ぎ立てている人たちが馬鹿馬鹿しくも見えた。それにしてもなぜもっとはきはきとそんなくだらない障《しよう》碍《がい》くらい打ち破ってしまわないのだろう。自分ならその財産を使ってから、「こうすればいいのかい」とでも言って、囲《まわ》りで世話を焼いた人間たちを胸のすききるまで思い存分笑ってやるのに。そう思うと岡の煮えきらないような態度が歯がゆくもあった。しかしなんといっても抱きしめたいほど可憐なのは岡の繊《せん》美《び》な淋しそうな姿だった。岡は上手に入れられた甘露をすすり終わった茶碗を手の先に据えて綿密にその作りを覚《しよう》翫《がん》していた。
「お覚えになるようなものじゃございませんことよ」
岡は悪いことでもしたように顔を赤くしてそれを下においた。彼はいいかげんな世辞は言えないらしかった。
岡ははじめて来た家に長居するのは失礼だと来た時から思っていて、機会あるごとに座を立とうとするらしかったが、葉子はそういう岡の遠慮に感づけば感づくほど巧みにもすべての機会を岡に与えなかった。
「もう少しお待ちになると雪が小降りになりますわ。今、こないだインドから来た紅茶を入れてみますから召し上がってみてちょうだい。ふだんいいものを召し上がりつけていらっしゃるんだから、鑑定をしていただきますわ。ちょっと、……ほんのちょっと待っていらしってちょうだいよ」
そういうふうに言って岡を引き止めた。始めの間こそ倉地に対してのようにはなつかなかった貞世もだんだんと岡と口をきくようになって、しまいには岡の穏やかな問いに対して思いのままを可愛らしく語って聞かせたり、話題に窮して岡が黙ってしまうと貞世のほうから無邪気なことを聞き糺《ただ》して、岡をほほえましたりした。なんといっても岡は美しい三人の姉妹が(そのうち愛子だけは他の二人とは全く違った態度で)心を籠《こ》めて親しんで来るその好意には敵しかねて見えた。盛んに火を起こした暖かい部屋の中の空気にこもる若い女たちの髪からとも、懐《ふところ》からとも、膚からとも知れぬ柔軟な香りだけでも去りがたい思いをさせたに違いなかった。いつの間にか岡はすっかり腰を落ち着けて、言いようなく快く胸の中のわだかまりを一掃したように見えた。
それからというもの、岡は美人屋敷と噂される葉子の隠れ家におりおり出入りするようになった。倉地とも顔を合わせて、互いに快く船の中での思い出し話などをした。岡の眼の上には葉子の眼が義眼《いれめ》されていた。葉子のよしと見るものは岡もよしと見た。葉子の憎むものは岡も無条件で憎んだ。ただ一つその例外となっているのは愛子というものらしかった。もちろん葉子とて性格的にはどうしても愛子と納《い》れ合わなかったが、骨肉の情としてやはり互いに言いようのない執着を感じあっていた。しかし岡は愛子に対しては心からの愛着を持ちだすようになっていることが知れた。
とにかく岡の加わったことが美人屋敷の彩《いろど》りを多様にした。三人の姉妹は時おり倉地、岡に伴われて苔香園の表門の方から三田の通りなどに散歩に出た。人々はそのきらびやかな群れに物好きな眼をかがやかした。
三三
岡に住所を知らせてから、すぐそれが古藤に通じたと見えて、二月にはいってからの木村の消息は、倉地の手を経ずに直接葉子にあてて古藤から廻送されるようになった。古藤はしかし頑固にもその中に一言も自分の消息を封じ込んでよこすようなことはしなかった。古藤を近づかせることは一面木村と葉子との関係を断絶さす機会を早める恐れがないでもなかったが、あの古藤の単純な心をうまく繰《あやつ》りさえすれば、古藤を自分のほうになずけてしまい、したがって木村に不安を起こさせない方便になると思った。葉子は例のいたずら心から古藤を手なずける興味をそそられないでもなかった。しかしそれを実行に移すまでにその興味は嵩《こう》じてはこなかったのでそのままにしておいた。
木村の仕事は思いのほか都合よく運んで行くらしかった。「日本における未来のピーボデー」という標題に木村の肖像まで入れて、ハミルトン氏配下の敏腕家の一人として、また品性の高潔な公共心の厚い好個の青年実業家として、やがては日本において、米国におけるピーボデーと同様の名声を贏《か》ち得べき約束にあるものと賞讃したシカゴ・トリビューン《*》の「青年実業家評判記」の切抜きなどを封入して来た。思いのほか巨額の為替《かわせ》をちょいちょい送ってよこして、倉地氏に支払うべき金額の全体を知らせてくれたら、どう工面しても必ず送付するから、一日も早く倉地氏の保護から独立して世評の誤《ご》謬《びゆう》を実行的に訂正し、あわせて自分に対する葉子の真情を証明してほしいなどと言ってよこした。葉子は――倉地に溺《おぼ》れきっている葉子は鼻の先でせせら笑った。
それに反して倉地の仕事のほうはいつまでも目鼻がつかないらしかった。倉地の言うところによれば日本だけの水先案内業者の組合と言っても、東洋の諸港や西部米国の沿岸にあるそれらの組合とも交渉をつけて連絡を取る必要があるのに、日本の移民問題が米国の西部諸州でやかましくなり、排日熱が過度に煽《せん》動《どう》されだしたので、何事も米国人との交渉は思うようにいかずにその点で行きなやんでいるとのことだった。そう言えば米国人らしい外国人がしばしば倉地の下宿に出入りするのを葉子は気がついていた。ある時はそれが公使館の館員ででもあるかと思うような、礼装をして見事な馬車に乗った紳士であることもあり、ある時はズボンの折り目もつけないほどだらしのないふうをした人相のよくない男でもあった。
とにかく二月にはいってから倉地の様子が少しずつ荒《すさ》んできたらしいのが目立つようになった。酒の量もいちじるしく増してきた。正井が噛みつくように怒鳴られていることもあった。しかし葉子に対しては倉地は前にもまさって溺《でき》愛《あい》の度を加え、あらゆる愛情の証拠をつかむまでは執《しつ》拗《よう》に葉子を虐《しいた》げるようになった。葉子は眼もくらむ火酒を煽《あお》りつけるようにその虐げを喜んで迎えた。
ある夜葉子は妹たちが就寝してから倉地の下宿を訪れた。倉地はたった一人で淋しそうにソウダ・ビスケット《*》を肴《さかな》にウィスキーを飲んでいた。ちゃぶ台の周囲には書類や港湾の地図やが乱暴に散らけてあって、台の上の虚《から》のコップから察すると正井か誰か、今客が帰ったところらしかった。襖《ふすま》を明けて葉子のはいって来たのを見ると倉地はいつもになくちょっと嶮《けわ》しい眼つきをして書類に眼をやったが、そこにあるものを猿《えん》臂《ぴ》を延ばして引き寄せて忙《せ》わしく一まとめにして床の間に移すと、自分の隣りに座布団を敷いて、それにすわれと顎《あご》を突き出して合図した。そして激しく手を鳴らした。
「コップと炭酸水を持って来い」
用を聞きに来た女中にこう言いつけておいて、激しく葉子をまともに見た。
「葉ちゃん(これはそのころ倉地が葉子を呼ぶ名前だった。妹たちの前で葉子と呼び捨てにもできないので倉地はしばらくの間お葉さんお葉さんと呼んでいたが、葉子が貞世を貞ちゃんと呼ぶのから思いついたと見えて、三人を葉ちゃん、愛ちゃん、貞ちゃんと呼ぶようになった。そして差向いの時にも葉子をそう呼ぶのだった)木村に貢《みつ》がれているな。白状しっちまえ」
「それがどうして?」
葉子は左の片《かた》肘《ひじ》をちゃぶ台について、その指先で鬢《びん》のほつれをかき上げながら、平気な顔で正面から倉地を見返した。
「どうしてがあるか。俺は赤の他人に俺の女を養わすほど腑《ふ》抜《ぬ》けではないんだ」
「まあ気の小さい」
葉子はなおも動じなかった。そこに婢《おんな》がはいって来たので話の腰が折られた。二人はしばらく黙っていた。
「俺はこれから竹《たけ》柴《しば》へ行く。な、行こう」
「だって明朝困りますわ。私が留守だと妹たちが学校に行けないもの」
「一筆書いて学校なんざあ休んで留守をしろと言ってやれい」
葉子はもちろんちょっとそんなことを言ってみただけだった。妹たちの学校に行った後でも、苔《たい》香《こう》園《えん》の婆さんに言葉をかけておいて家を明けることは常始終だった。ことにその夜は木村のことについて倉地に合点させておくのが必要だと思ったので言い出された時からいっしょする下心ではあったのだ。葉子はそこにあったペンを取り上げて紙切れに走り書きをした。倉地が急病になったので介抱のために今夜はここで泊る。明日の朝学校の時刻までに帰って来なかったら、戸締りをして出かけていい。そういう意味を書いた。その間に倉地は手早く着代えをして、書類を大きな支《し》那《な》鞄《かばん》に突っ込んで錠《じよう》を下ろしてから、綿密に開くか開かないかを調べた。そして考えこむように俯《うつ》向《む》いて上眼をしながら、両手を懐ろにさし込んで鍵《かぎ》を腹帯らしいところにしまい込んだ。
九時過ぎ十時近くなってから二人は連れ立って下宿を出た。増上寺前に来てから車を傭《やと》った。満月に近い月がもうだいぶ寒空高くこうこうとかかっていた。
二人を迎えた竹柴館の女中は倉地を心得ていて、すぐ庭先に離れになっている二《ふた》間《ま》ばかりの一軒に案内した。風はないけれども月の白さでひどく冷え込んだような晩だった。葉子は足の先が氷で包まれたほど感覚を失っているのを覚えた。倉地の浴した後で、熱目な塩湯にゆっくり浸ったのでようやく人心地がついて戻って来た時には、すばやい女中の働きで酒《しゆ》肴《こう》が調《ととの》えられていた。葉子が倉地と遠出らしいことをしたのはこれがはじめてなので、旅先にいるような気分が妙に二人を親しみ合わせた。ましてや座敷に続く芝生のはずれの石垣には海の波が来て静かに音を立てていた。空には月が冴《さ》えていた。妹たちに取り捲かれたり、下宿人の眼をかねたりしていなければならなかった二人はくつろいだ姿と心とで火鉢に倚《よ》り添った。世の中は二人きりのようだった。いつの間にか良人《おつと》とばかり倉地を考え慣れてしまった葉子は、ここに再び情人を見いだしたように思った。そして何とはなく倉地をじらしてじらしてじらし抜いたあげくに、その反動から来る蜜のような歓語を思いきり味わいたい衝動に駆られていた。そしてそれがまた倉地の要求でもあることを本能的に感じていた。
「いいわねえ。なぜもっと早くこんなところに来なかったでしょう。すっかり苦労も何も忘れてしまいましたわ」
葉子はすべすべとほてって少しこわばるような頬を撫《な》でながら、とろけるように倉地を見た。もうだいぶ酒の気のまわった倉地は、女の肉感をそそり立てるような匂《にお》いを部屋じゅうに撒《ま》き散らす葉巻をふかしながら、葉子を尻目にかけた。
「それは結構。だが俺にはさっきの話が喉《のど》につかえて残っとるて。胸糞が悪いぞ」
葉子はあきれたように倉地を見た。
「木村のこと?」
「お前は俺の金を心任せに使う気にはなれないんか」
「足りませんもの」
「足りなきゃなぜ言わん」
「言わなくったって木村がよこすんだからいいじゃありませんか」
「馬鹿!」
倉地は右の肩を小山のように聳《そびや》かして、上体を斜《しや》に構えながら葉子をにらみつけた。葉子はその眼の前で海から出る夏の月のようにほほえんでみせた。
「木村は葉ちゃんに惚《ほ》れとるんだよ」
「そして葉ちゃんは嫌《きら》ってるんですわね」
「冗談は措《お》いてくれ。……俺や真剣で言っとるんだ。俺たちは木村に用はないはずだ。俺は用のないものはかたっぱしから捨てるのが立て前だ。嬶《かかあ》だろうが子だろうが……見ろ俺を……よく見ろ。お前はまだこの俺を疑っとるんだな。後《あと》釜《がま》には木村をいつでもなおせるように喰《く》い残しをしとるんだな」
「そんなことはありませんわ」
「ではなんで手紙のやりとりなどしおるんだ」
「お金が欲しいからなの」
葉子は平気な顔をしてまた話をあとに戻した。そして独酌で杯を傾けた。倉地は少し吃《ども》るほど怒りが募っていた。
「それが悪いと言っとるのがわからないか……俺の面《つら》に泥を塗りこくっとる……こっちに来い(そう言いながら倉地は葉子の手を取って自分の膝の上に葉子の上体をたくし込んだ)。言え、隠さずに。今になって木村に未練が出てきおったんだろう。女というはそうしたもんだ。木村に行きたくば行け、今行け。俺のようなやくざをかまっとると芽は出やせんから。……お前には太《ふ》て腐《くさ》れがいっちよく似合っとるよ……ただし俺をだましにかかると見当違いだぞ」
そう言いながら倉地は葉子を突き放すようにした。葉子はそれでも少しも平静を失ってはいなかった。あでやかにほほえみながら、
「あなたもあんまりわからない……」
と言いながら今度は葉子のほうから倉地の膝に後ろ向きにもたれかかった。倉地はそれを退けようとはしなかった。
「何がわからんかい」
しばらくしてから、倉地は葉子の肩越しに杯を取り上げながらこう尋ねた。葉子には返事がなかった。またしばらくの沈黙の時間が過ぎた。倉地がもう一度何か言おうとした時、葉子はいつの間にかしくしくと泣いていた。倉地はこの不意打ちに思わずはっとしたようだった。
「なぜ木村から送らせるのが悪いんです」
葉子は涙を気《け》取《ど》らせまいとするように、しかし打ち沈んだ調子でこう言いだした。
「あなたの御様子でお心持ちが読めない私だとお思いになって? 私ゆえに会社をお引きになってから、どれほど暮らし向きに苦しんでいらっしゃるか……そのくらいは馬鹿でも私にはちゃんと響いています。それでもしみったれたことをするのはあなたもお嫌い、私も嫌い……私は思うようにお金をつかってはいました。いましたけれども……心では泣いてたんです。あなたのためならどんなことでも喜んでしよう……そうこのごろ思ったんです。それから木村にとうとう手紙を書きました。私が木村をなんと思ってるか、今さらそんなことをお疑いになるのあなたは。そんな水臭いまわし気をなさるからつい口憎しくなっちまいます。……そんな私だか私ではないか……(そこで葉子は倉地から離れてきちんとすわりなおして袂《たもと》で顔を被うてしまった)泥捧をしろとおっしゃるほうがまだましです……あなたお一人でくよくよなさって……お金の出所を……暮らし向きが張り過ぎるなら張り過ぎると……なぜ相談に乗らせてはくださらないの……やはりあなたは私を親身には思っていらっしゃらないのね……」
倉地は一度は眼を張って驚いたようだったが、やがてこともなげに笑いだした。
「そんなことを思っとったのか。馬鹿だなあお前は。御好意は感謝します……全く。しかしなんぼ痩《や》せても枯れても、俺は女の子の二人や三人養うにことは欠かんよ。月に三百や四百の金が手廻らんようなら首をくくって死んでみせる。お前をまで相談に乗せるようなことはいらんのだよ。そんな蔭にまわった心配事はせんことにしょうや。こののんき坊の俺までがいらん気も揉《も》ませられるで……」
「そりゃ虚言《うそ》です」
葉子は顔を被うたままきっぱりと矢《や》継《つぎ》早《ばや》に言い放った。倉地は黙ってしまった。葉子もそのまましばらくはなんとも言い出でなかった。
母《おも》屋《や》の方で十二を打つ柱時計の声が幽《かす》かに聞こえて来た。寒さもしんしんと募っていたには相違なかった。しかし葉子はそのいずれをも心の戸の中までは感じなかった。始めは一種の企《たく》らみから狂言でもするような気でかかったのだったけれども、こうなると葉子はいつの間にか自分で自分の情に溺《おぼ》れてしまっていた。木村を犠牲にしてまでも倉地に溺れ込んで行く自分が憐《あわ》れまれもした。倉地が費用の出所をついぞ打ち明けて相談してくれないのが恨みがましく思われもした。知らず識《し》らずのうちにどれほど葉子は倉地に喰い込み、倉地に喰い込まれていたかをしみじみと今さらに思い知った。どうなろうとどうあろうと倉地から離れることはもうできない。倉地から離れるくらいなら自分はきっと死んでみせる。倉地の胸に歯を立ててその心臓を噛み破ってしまいたいような狂暴な執念が葉子を底知れぬ悲しみへ誘い込んだ。
心の不思議な作用として倉地も葉子の心持ちは刺青《いれずみ》をされるように自分の胸に感じて行くらしかった。ややほど経《た》ってから倉地は無感情のような鈍い声で言いだした。
「全くは俺が悪かったのかもしれない。一時は全く金には弱り込んだ。しかし俺は早や世の中の底《そこ》潮《しお》にもぐり込んだ人間だと思うと度胸が据わってしまいおった。毒も皿も喰ってくれよう、そう思って(倉地はあたりをはばかるようにさらに声を落とした)やりだした仕事があの組合のことよ。水先案内の奴らは委《くわ》しい海図を自分で作って持っとる。要塞地の様子も玄人《くろうと》以上ださ。それを集めにかかってみた。思うようにはいかんが、食うだけの金は余るほど出る」
葉子は思わずぎょっとして息気《いき》がつまった。近ごろ怪しげな外国人が倉地のところに出入りするのも心当たりになった。倉地は葉子が倉地の言葉を理解して驚いた様子を見ると、ほとほと悪魔のような顔をしてにやりと笑った。すてばちな不敵さと力とが漲《みなぎ》ってみえた。
「愛想が尽きたか……」
愛想が尽きた。葉子は自分自身に愛想が尽きようとしていた。葉子は自分の乗った船はいつでも相客もろともに転覆して沈んで底知れぬ泥土の中に深々と潜《もぐ》り込んで行くことを知った。売国奴、国賊、――あるいはそういう名が倉地の名に加えられるかもしれない……と思っただけで葉子は怖毛《おぞけ》を振って、倉地から飛び退《の》こうとする衝動を感じた。ぎょっとした瞬間にただ瞬間だけ感じた。次にどうかしてそんな恐ろしいはめから倉地を救い出さなければならないという殊勝な心にもなった。しかし最後に落ち着いたのは、その深みに倉地をことさら突き落としてみたい悪魔的な誘惑だった。それほどまでの葉子に対する倉地の心尽くしを、臆病な驚きと躊《ちゆう》躇《ちよ》とで迎えることによって、倉地に自分の心持ちの不徹底なのを見下げられはしないかという危《き》惧《ぐ》よりも、倉地が自分のためにどれほどの堕落でも汚辱でも甘んじて犯すか、それをさせてみて、満足しても満足しても満足しきらない自分の心の不足を満たしたかった。そこまで倉地を突き落とすことは、それだけ二人の執着を強めることだとも思った。葉子は何事を犠牲に供しても灼《しやく》熱《ねつ》した二人の間の執着を続けるばかりでなくさらに強める術を見いだそうとした。倉地の告白を聞いて驚いた次の瞬間には、葉子は意識こそせねこれだけの心持ちに働かれていた。「そんなことで愛想が尽きてたまるものか」と鼻であしらうような心持ちにすばやくも自分を落ち着けてしまった。驚きの表情はすぐ葉子の顔から消えて、妖婦にのみ見る極端に肉的な蠱《こ》惑《わく》の微笑がそれに代わって浮かみ出した。
「ちょっと驚かされはしましたわ。……いいわ、私だってなんでもしますわ」
倉地は葉子が不言不語《いわずかたらず》のうちに感激しているのを感得していた。
「よしそれで話はわかった。木村……木村からも搾《しぼ》り上げろ、かまうものかい。人間並みに見られない俺たちが人間並みに振舞っていてたまるかい。葉ちゃん……命」
「命!……命!! 命!!!」
葉子は自分の激しい言葉に眼もくるめくような酔いを覚えながら、あらん限りの力を籠めて倉地を引き寄せた。膳《ぜん》の上のものが音を立てて覆《くつがえ》るのを聞いたようだったが、その後は色も音もない焔《ほのお》の天地だった。すさまじく焼け爛《ただ》れた肉の欲念が葉子の心を全く暗ましてしまった。天国か地獄かそれは知らない。しかも何もかも微《み》塵《じん》につき摧《くだ》いて、びりびりと震動する炎々たる焔に燃やし上げたこの有頂天の歓楽のほかに世に何者があろう。葉子は倉地を引き寄せた。倉地において今まで自分から離れていた葉子自身を引き寄せた。そして切るような痛みと、痛みからのみ来る奇怪な快感とを自分自身に感じて陶然と酔いしれながら、倉地の二の腕に歯を立てて、思いきり弾力性に富んだ熱したその肉を噛《か》んだ。
その翌日十一時過ぎに葉子は地の底から掘り起こされたように地球の上に眼を開いた。倉地はまだ死んだもの同然にいぎたなく眠っていた。戸板の杉の赤みが鰹《かつお》節《ぶし》の心《しん》のように半透明に真赤に光っているので、日が高いのも天気が美しく晴れているのも察せられた。甘《あま》酸《ず》っぱくたちこもった酒と煙草の余《よ》燻《くん》の中に、隙《すき》間《ま》漏《も》る光線が、透明に輝く飴《あめ》色《いろ》の板となって縦に薄暗さの中を区切っていた。いつもならば真赤に充血して、精力に充《み》ち満ちて眠りながら働いているように見える倉地も、その朝は眼の周囲に死色をさえ注《さ》していた。むき出しにした腕には青筋が病的に思われるほど高く飛び出てはいずっていた。泳ぎ廻る者でもいるように頭の中がぐらぐらする葉子には、殺人者が兇行から眼《め》覚《ざ》めていった時のような底の知れない気味悪さが感ぜられた。葉子はひそやかにその部屋を抜け出して戸外に出た。
降るような真昼の光線に遇《あ》うと、両眼は脳心の方に遮《しや》二《に》無《む》二《に》引きつけられてたまらない痛さを感じた。乾いた空気は息気《いき》をとめるほど喉を干《ひ》からばした。葉子は思わずよろけて入口の下見板に寄りかかって、打撲を避けるように両手で顔を隠して俯《うつ》向《む》いてしまった。
やがて葉子は人を避けながら芝生の先の海ぎわに出てみた。満月に近いころのこととて潮は遠く退《ひ》いていた。蘆《あし》の枯れ葉が日を浴びて立つ沮《そ》洳《じよ》地《ち》のような平地が眼の前に拡《ひろ》がっていた。しかし自然は少しも昔の姿を変えてはいなかった。自然も人も昨日のままの営みをしていた。葉子は不思議なものを見せつけられたように茫《ぼう》然《ぜん》として潮《しお》干《ひ》潟《がた》の泥を見、鱗《うろこ》雲《ぐも》で飾られた青空を仰いだ。昨夜のことが真実ならこの景色は夢であらねばならぬ。この景色が真実なら昨夜のことは夢であらねばならぬ。二つが両立しようはずはない。……葉子は茫然としてなお眼にはいって来るものを眺め続けた。
麻《ま》痺《ひ》しきったような葉子の感覚はだんだん恢《かい》復《ふく》してきた。それとともに瞑眩《めまい》を感ずるほどの頭痛をまず覚えた。次いで後腰部に鈍重な疼《いた》みがむくむくと頭をもたげるのを覚えた。肩は石のように凝っていた。足は氷のように冷えていた。
昨夜のことは夢ではなかったのだ……そして今見るこの景色も夢ではあり得ない……それはあまりに残酷だ、残酷だ。なぜ昨夜を界にして、世の中は加《か》留《る》多《た》を裏返したように変わっていてはくれなかったのだ。
この景色のどこに自分は身を措《お》くことができよう。葉子は痛切に自分が落ち込んで行った深淵の深みを知った。そしてそこにしゃがんでしまって、苦い涙を泣き始めた。
懺《ざん》悔《げ》の門の堅く閉ざされた暗い道がただ一筋、葉子の心の眼には行く手に見やられるばかりだった。
三四
ともかくも一家の主となり、妹たちを呼び迎えて、その教育に興味と責任とを持ち始めた葉子は、自然自然に妻らしくまた母らしい本能に立ち帰って、倉地に対する情念にもどこか肉から精神に移ろうとする傾きができてくるのを感じた。それは楽しい無事とも考えれば考えられぬことはなかった。しかし葉子は明らかに倉地の心がそういう状態の下には少しずつ硬《こわ》ばって行き冷えて行くのを感ぜずにはいられなかった。それが葉子には何よりも不満だった。倉地を選んだ葉子であってみれば、日が経《た》つに従って葉子にも倉地が感じ始めたと同様な物足らなさが感ぜられて行った。落ち着くのか冷えるのか、とにかく倉地の感情が白熱して働かないのを見せつけられる瞬間は深い淋《さび》しみを誘い起こした。こんなことで自分の全我を投げ入れた恋の花を散ってしまわせてなるものか。自分の恋には絶頂があってはならない。自分にはまだどんな難路でも舞い狂いながら登って行く熱と力とがある。その熱と力とが続く限り、ぼんやり腰を据えて周囲の平凡な景色などを眺めて満足してはいられない。自分の眼には絶《ぜつ》巓《てん》のない絶巓ばかりが見えていたい。そうした衝動は小休《こや》みなく葉子の胸にわだかまっていた。絵島丸の船室で倉地が見せてくれたような、何もかも無視した、神のように狂暴な熱心――それを繰り返して行きたかった。
竹柴館の一夜はまさしくそれだった。その夜葉子は、次の朝になって自分が死んで見いだされようとも満足だと思った。しかし次の朝生きたままで眼を開くと、その場で死ぬ心持ちにはもうなれなかった。もっと嵩《こう》じた歓楽を追い試みようという欲念、そしてそれができそうな期待が葉子を未練にした。それからというもの葉子は忘《ぼう》我《が》渾《こん》沌《とん》の歓喜に浸るためには、すべてを犠牲としても惜しまない心になっていた。そして倉地と葉子とは互い互いを楽しませそして牽《ひ》き寄せるためにあらん限りの手段を試みた。葉子は自分の不可犯性(女が男に対して持ついちばん強大な蠱《こ》惑《わく》物《ぶつ》のすべてまで惜しみなく投げ出して、自分を倉地の眼に娼婦以下のものに見せるとも悔いようとはしなくなった。二人は、傍《わき》眼《め》には酸鼻だとさえ思わせるような肉欲の腐敗の末遠く、互いに淫楽の実を互い互いから奪い合いながらずるずると壊《くず》れこんで行くのだった。
しかし倉地は知らず、葉子にとってはこの忌まわしい腐敗の中にも一《いち》縷《る》の期待が潜んでいた。一度ぎゅっとつかみ得たらもう動かないある物がその中に横たわっているに違いない、そういう期待を心の隅から拭《ぬぐ》い去ることができなかったのだった。それは倉地が葉子の蠱惑に全く迷わされてしまって再び自分を恢復し得ない時期があるだろうというそれだった。恋をしかけたもののひけめとして葉子は今まで、自分が倉地を愛するほど倉地が自分を愛してはいないとばかり思った。それがいつでも葉子の心を不安にし、自分というものの居据りどころまでぐらつかせた。どうかして倉地を痴《ち》呆《ほう》のようにしてしまいたい。葉子はそれがためにはある限りの手段をとって悔いなかったのだ。妻子を離縁させても、社会的に死なしてしまっても、まだまだ物足らなかった。竹柴館の夜に葉子は倉地を極印つきの兇《きよう》状《じよう》持ちにまでしたことを知った。外界から切り離されるだけそれだけ倉地が自分の手に落ちるように思っていた葉子はそれを知って有頂天になった。そして倉地が忍ばねばならぬ屈辱を埋め合わせるために葉子は倉地が欲すると思わしい激しい情欲を提供しようとしたのだ。そしてそうすることによって、葉子自身が結局自己を銷《しよう》尽《じん》して倉地の興味から離れつつあることには気づかなかったのだ。
とにもかくにも二人の関係は竹柴館の一夜から面目を改めた。葉子は再び妻から情熱の若々しい情人になって見えた。そういう心の変化が葉子の肉体に及ぼす変化は驚くばかりだった。葉子は急に三つも四つも若やいだ。二十六の春を迎えた葉子はそのころの女としてはそろそろ老いの徴候をも見せるはずなのに、葉子は一つだけ年を若く取ったようだった。
ある天気のいい午後――それは梅の蕾《つぼみ》がもう少しずつふくらみかかった午後のことだったが――葉子が縁側に倉地の肩に手をかけて立ち並びながら、うっとりと上気して雀の交るのを見ていた時、玄関に訪れた人の気配がした。
「誰でしょう」
倉地は物《もの》惰《う》さそうに、
「岡だろう」
と言った。
「いいえきっと正井さんよ」
「なあに岡だ」
「じゃ賭《か》けよ」
葉子はまるで少女のように甘ったれた口調で言って玄関に出てみた。倉地が言ったように岡だった。葉子は挨拶もろくろくしないでいきなり岡の手をしっかりと取った。そして小さな声で、
「よくいらしってね。その間《あい》着《ぎ》のよくお似合いになること。春らしいいい色地ですわ。今倉地と賭けをしていたところ。早くお上がりあそばせ」
葉子は倉地にしていたように岡のやさ肩に手を廻してならびながら座敷にはいって来た。
「やはりあなたの勝ちよ。あなたはあてごとがお上手だから岡さんを譲って上げたらうまくあたったわ。今御《ご》褒《ほう》美《び》を上げるからそこで見ていらっしゃいよ」
そう倉地に言うかと思うと、いきなり岡を抱きすくめてその頬に強い接吻を与えた。岡は少女のように恥じらって強《し》いて葉子から離れようともがいた。倉地は例の渋いように口もとをねじってほほえみながら、
「馬鹿!……このごろこの女は少しどうかしとりますよ。岡さん、あなた一つ背中でもどやしてやってください。……まだ勉強か」
と言いながら葉子に天井を指してみせた。葉子は岡に背中を向けて「さあどやしてちょうだい」と言いながら、今度は天井を向いて、
「愛さん、貞《さあ》ちゃん、岡さんがいらしってよ。お勉強が済んだら早く下りておいで」
と澄んだ美しい声で蓮《はす》葉《は》に叫んだ。
「そうお」
と言う声がしてすぐ貞世が飛んで下りて来た。
「貞ちゃんは今勉強が済んだのか」
と倉地が聞くと貞世は平気な顔で、
「ええ今済んでよ」
と言った。そこにはすぐ華《はな》やかな笑いが破裂した。愛子はなかなか下に降りて来ようとはしなかった。それでも三人は親しくちゃぶ台を囲んで茶を飲んだ。その日岡は特別に何か言いだしたそうにしている様子だったが。やがて、
「今日は私少しお願いがあるんですが皆様聴《き》いてくださるでしょうか」
重苦しく言いだした。
「ええええあなたのおっしゃることならなんでも……ねえ貞ちゃん(とここまでは冗談らしく言ったが急にまじめになって)……なんでもおっしゃってくださいましな、そんな他人行儀をしてくださると変ですわ」
と葉子が言った。
「倉地さんもいてくださるのでかえって言いよいと思いますが古藤さんをここにお連れしちゃいけないでしょうか。……木村さんから古藤さんのことは前から伺っていたんですが、私ははじめてのおかたにお会いするのがなんだかおっくうな質《たち》なもので二つ前の日曜日までとうとうお手紙も上げないでいたら、その日突然古藤さんのほうから尋ねて来てくださったんです。古藤さんも一度お尋ねしなければいけないんだがと言っていなさいました。で私、今日は水曜日だから、用便外出の日だから、これから迎えに行って来たいと思うんです。いけないでしょうか」
葉子は倉地だけに顔が見えるように向きなおって「自分に任せろ」と言う眼つきをしながら、
「いいわね」
と念を押した。倉地は秘密を伝える人のように顔色だけで「よし」と答えた。葉子はくるりと岡の方に向きなおった。
「ようございますとも(葉子はそのようにアクセントをつけた)あなたにお迎いに行っていただいてはほんとに済みませんけれども、そうしてくださると本当に結構。貞ちゃんもいいでしょう。またもう一人お友だちが増《ふ》えて……しかも珍しい兵隊さんのお友だち……」
「愛姉さんが岡さんに連れていらっしゃいってこの間そういったのよ」
と貞世は遠慮なく言った。
「そうそう愛子さんもそうおっしゃってでしたね」
と岡はどこまでも上品な丁寧な言葉で事のついでのように言った。
岡が家を出るとしばらくして倉地も座を立った。
「いいでしょう。うまくやってみせるわ。かえって出入りさせるほうがいいわ」
玄関に送り出してそう葉子は言った。
「どうかなあいつ、古藤の奴は少し骨張り過ぎてる……が悪かったら元々だ……とにかく今日俺のいないほうがよかろう」
そう言って倉地は出て行った。葉子は張出しになっている六畳の部屋を綺麗にかたづけて、火鉢の中に香を燃《た》きこめて、心静かにもくろみをめぐらしながら古藤の来るのを待った。しばらく会わないうちに古藤はだいぶ手《て》硬《ごわ》くなっているようにも思えた。そこを自分の才力で丸めるのが時にとっての興味のようにも思えた。もし古藤を軟化すれば木村との関係は今よりも繋《つな》ぎがよくなる……。
三十分ほどたったころ一つ木の兵営から古藤は岡に伴われてやって来た。葉子は六畳にいて、貞世を取次ぎに出した。
「貞世さんだね。大きくなったね」
まるで前の古藤の声とは思われぬような大人びた黒ずんだ声がして、がちゃがちゃと佩《はい》剣《けん》を取るらしい音も聞こえた。やがて岡の先に立って恰《かつ》好《こう》の悪い汚《きた》ない黒の軍服を着た古藤が、皮類の腐ったような香《にお》いをぷんぷんさせながら葉子のいるところにはいって来た。
葉子は他意なく好意を籠《こ》めた眼つきで、少女のように晴れやかに驚きながら古藤を見た。
「まあこれが古藤さん? なんて怖《こわ》いかたになっておしまいなすったんでしょう。元の古藤さんはお額のお白いところだけにしか残っちゃいませんわ。がみがみと叱ったりなすっちゃいやですことよ。本当にしばらく。もう金《こん》輪《りん》際《ざい》来てはくださらないものとあきらめていましたのに、よく……よくいらしってくださいました。岡さんのお手柄ですわ……ありがとうございました」
と言って葉子はそこにならんですわった二人の青年をかたみ代わりに見やりながら軽く挨拶した。
「さぞおつらいでしょうねえ。お湯は? お召しにならない? ちょうど沸《わ》いていますわ」
「だいぶ臭くってお気の毒ですが、一度や二度湯につかったってなおりはしませんから……まあはいりません」
古藤ははいって来た時のしかつめらしい様子に引きかえて顔色を軟《やわ》らがせられていた。葉子は心の中で相変わらずの Simpletonだと思った。
「そうねえ何時まで門限は?……え、六時? それじゃもういくらもありませんわね。じゃお湯はよしていただいてお話のほうをたんとしましょうねえ。いかが軍隊生活は、お気に入って?」
「はいらなかった前以上に嫌《きら》いになりました」
「岡さんはどうなさったの」
「私まだ猶予中ですが検査を受けたってきっとだめです。不合格のような健康を持つと、私軍隊生活のできるような人がうらやましくってなりません。……体でも強くなったら私、もう少し心も強くなるんでしょうけれども……」
「そんなことはありませんねえ」
古藤は自分の経験から岡を説伏するようにそう言った。
「僕もその一人だが、鬼のような体格を持っていて、女のような弱虫が隊にいてみるとたくさんいますよ。僕はこんな心でこんな体格を持っているのが先天的の二重生活を強いられるようで苦しいんです。これからも僕はこの矛盾のためにきっと苦しむに違いない」
「なんですねお二人とも、妙なところで謙《けん》遜《そん》のしっこをなさるのね。岡さんだってそうお弱くはないし、古藤さんときたらそれは意志堅固……」
「そうなら僕は今日もここなんかには来やしません。木村君にも遠《とお》に決心をさせているはずなんです」
葉子の言葉を中途から奪って、古藤はしたたか自分自身を鞭《むち》うつように激しくこう言った。葉子は何もかもわかっているくせにしらを切って不思議そうな顔つきをしてみせた。
「そうだ、思いきって言うだけのことは言ってしまいましょう。……岡君立たないでください。君がいてくださるとかえっていいんです」
そう言って古藤は葉子をしばらく熟視してから言い出すことを纏《まと》めようとするように下を向いた。岡もちょっと形を改めて葉子の方を窃《ぬす》み見るようにした。葉子は眉《まゆ》一つ動かさなかった。そして側《そば》にいる貞世に耳うちして、愛子を手伝って五時に夕食の食べられる用意をするように、そして三縁亭から三皿ほどの料理を取り寄せるように言いつけて座をはずさした。古藤は躍《おど》るようにして部屋を出て行く貞世をそっと眼のはずれで見送っていたが、やがておもむろに顔を挙げた。日に焼けた顔がさらに赤くなっていた。
「僕はね……(そう言っておいて古藤はまた考えた)……あなたが、そんなことはないとあなたは言うでしょうが、あなたが倉地というその事務長の人の奥さんになられると言うのなら、それが悪いって思ってるわけじゃないんです。そんなことがあるとすりゃ、そりゃしかたのないことなんだ。……そしてですね、僕にもそりゃわかるようです。……わかるって言うのは、あなたがそうなればなりそうなことだと、それがわかるって言うんです。しかしそれならそれでいいから、それを木村にはっきりと言ってやってください。そこなんだ僕の言わんとするのは。あなたは怒るかもしれませんが、僕は木村に幾度も葉子さんとはもう縁を切れって勧告しました。これまで僕があなたに黙ってそんなことをしていたのは悪かったからお断わりをします(そう言って古藤はちょっと誠実に頭を下げた。葉子も黙ったまままじめにうなずいてみせた)。けれども木村からの返事は、それに対する返事はいつでも同一なんです。葉子から破約のことを申し出て来るか、倉地という人との結婚を申し出て来るまでは、自分は誰の言葉よりも葉子の言葉と心とに信用をおく。親友であってもこの問題については、君の勧告だけでは心は動かない。こうなんです。木村ってのはそんな男なんですよ(古藤の言葉はちょっと曇ったがすぐ元のようになった)。それをあなたは黙っておくのは少し変だと思います」
「それで……」
葉子は少し座を乗り出して古藤を励ますように言葉を続けさせた。
「木村からは前からあなたのところに行ってよく事情を見てやってくれ、病気のことも心配でならないからと言って来てはいるんですが、僕は自分ながらどうしようもない妙な潔癖があるもんだからつい伺いおくれてしまったのです。なるほどあなたは先よりは痩《や》せましたね。そうして顔の色もよくありませんね」
そう言いながら古藤はじっと葉子の顔を見やった。葉子は姉のように一段の高みから古藤の眼を迎えて鷹《おう》揚《よう》にほほえんでいた。言うだけ言わせてみよう、そう思って今度は岡の方に眼をやった。
「岡さん。あなた今古藤さんのおっしゃることをすっかりお聞きになっていてくださいましたわね。あなたはこのごろ失礼ながら家族の一人のようにこちらに遊びにおいでくださるんですが、私をどうお思いになっていらっしゃるか、御遠慮なく古藤さんにお話しなすってくださいましな。けっして御遠慮なく……私どんなことを伺ってもけっしてけっしてなんとも思いはいたしませんから」
それを聞くと岡はひどく当惑して顔を真赤にして処女のようにはにかんだ。古藤の側に岡を置いて見るのは、青銅の花《か》瓶《びん》の側に咲きかけの桜を置いて見るようだった。葉子はふと心に浮かんだその対比を自分ながらおもしろいと思った。そんな余裕を葉子は失わないでいた。
「私こういう事柄には物を言う力はないように思いますから……」
「そう言わないで本当に思ったことを言ってみてください。僕は一徹ですからひどい思い間違いをしていないとも限りませんから。どうか聞かしてください」
そう言って古藤も肩章越しに岡を顧みた。
「本当に何も言うことはないんですけれども……木村さんには私口に言えないほど御同情しています。木村さんのようないいかたが今ごろどんなにひとりで淋《さび》しく思っておられるかと思いやっただけで私淋しくなってしまいます。けれども世の中にはいろいろな運命があるのではないでしょうか。そして銘々は黙ってそれを耐えて行くよりしかたがないように私思います。そこで無理をしようとするとすべてのことが悪くなるばかり……それは私だけの考えですけれども。私そう考えないと一刻も生きていられないような気がしてなりません。葉子さんと木村さんと倉地さんとの関係は私少しは知ってるようにも思いますけれども、よく考えてみるとかえってちっとも知らないのかもしれませんねえ。私は自分自身が少しもわからないんですからお三人のことなども、わからない自分の、わからない想像だけのことだと思いたいんです。……古藤さんにはそこまではお話ししませんでしたけれども、私自分の家の事情がたいへん苦しいので心を打ち開けるような人を持っていませんでしたが……ことに母とか姉妹とかいう女の人に……葉子さんにお目にかかったら、なんでもなくそれができたんです。それで私は嬉《うれ》しかったんです。そうして葉子さんが木村さんとどうしても気がお合いにならない、そのことも失礼ですけれども今のところでは私想像が違っていないようにも思います。けれどもそのほかのことは私なんとも自信をもって言うことができません。そんなところまで他人が想像をしたり口を出したりしていいものかどうかも私わかりません。たいへん独善的に聞こえるかもしれませんが、そんな気はなく、運命にできるだけ従順にしていたいと思うと、私進んで物を言ったりしたりするのが恐ろしいと思います。……なんだか少しも役に立たないことを言ってしまいまして……私やはり力がありませんから、何も言わなかったほうがよかったんですけれども……」
そう絶え入るように声を細めて岡は言葉を結ばぬうちに口をつぐんでしまった。その後には沈黙だけがふさわしいように口をつぐんでしまった。
実際その後には不思議なほどしめやかな沈黙が続いた。たき込めた香《こう》の香《にお》いがかすかに動くだけだった。
「あんなに謙《けん》遜《そん》な岡君も(岡はあわててその讃辞らしい古藤の言葉を打ち消そうとしそうにしたが、古藤がどんどん言葉を続けるのでそのまま顔を赤くして黙ってしまった)あなたと木村とがどうしても折り合わないことだけは少なくとも認めているんです。そうでしょう」
葉子は美しい沈黙をがさつな手でかき乱された不快をかすかに物足らなく思うらしい表情をして、
「それは洋行する前、いつぞや横浜にいっしょに行っていただいた時委《くわ》しくお話ししたじゃありませんか。それは私どなたにでも申し上げていたことですわ」
「そんならなぜ……その時は木村のほかには保護者はいなかったから、あなたとしてはお妹さんたちを育てて行く上にも自分を犠牲にして木村に行く気でおいでだったかもしれませんがなぜ……なぜ今になっても木村との関係をそのままにしておく必要があるんです」
岡は激しい言葉で自分が責められるかのようにはらはらしながら首を下げたり、葉子と古藤の顔とをかたみ代わりに見やったりしていたが、とうとういたたまれなくなったと見えて、静かに座を立って人のいない二階の方に行ってしまった。葉子は岡の心持ちを思いやって引き止めなかったし、古藤は、いてもらったところがなんの役にも立たないと思ったらしくこれも引き止めはしなかった。插《さ》す花もない青銅《からかね》の花瓶一つ……葉子は心の中で皮肉にほほえんだ。
「それより先に伺わしてちょうだいな、倉地さんはどのくらいの程度で私たちを保護していらっしゃるか御存じ?」
古藤はすぐぐっと詰まってしまった。しかしすぐ盛り返して来た。
「僕は岡君と違ってブルジョアの家に生まれなかったものですから、デリカシーというような美徳をあまりたくさん持っていないようだから、失礼なことを言ったら許してください。倉地って人は妻子まで離縁した……しかも非常に貞節らしい奥さんまで離縁したと新聞に出ていました」
「そうね新聞には出ていましたわね。……ようございますわ、かりにそうだとしたらそれが何か私と関係のあることだとでもおっしゃるの」
そう言いながら葉子は少し気に障《さ》えたらしく、炭取りを引き寄せて火鉢に火をつぎ足した。桜炭の火花が激しく飛んで二人の間に弾《はじ》けた。
「まあひどいこの炭は、水をかけずに持って来たとみえるのね。女ばかりの世帯だと思って出入りの御用聞きまで人を馬鹿にするんですのよ」
葉子はそう言い言い眉《まゆ》をひそめた。古藤は胸をつかれたようだった。
「僕は乱暴なもんだから……言い過ぎがあったら本当に許してください。僕は実際いかに親友だからといって木村ばかりをいいようにと思ってるわけじゃないんですけれども、全くあの境遇には同情してしまうもんだから……僕はあなたも自分の立場さえはっきり言ってくださればあなたの立場も理解ができると思うんだけれどもなあ。……僕はあまり直線的過ぎるんでしょうか。僕は世の中を sun-clear に見たいと思いますよ。できないもんでしょうか」
葉子は撫《な》でるような好意のほほえみを見せた。
「あなたが私本当にうらやましゅうござんすわ。平和な家庭にお育ちになってすなおになんでも御覧になれるのはありがたいことなんですわ。そんなかたばかり世の中にいらっしゃるとめんどうがなくなってそれはいいんですけれども、岡さんなんかはそれから見ると本当にお気の毒なんですの。私みたいなものをさえああして頼りにしていらっしゃるのを見るといじらしくって今日は倉地さんの見ている前でキスして上げっちまったの。……他人《ひと》事《ごと》じゃありませんわね(葉子の顔はすぐ曇った)。あなたと同様はきはきしたことの好きな私がこんなに意地をこじらしたり、人の気をかねたり、好んで誤解を買って出たりするようになってしまった、それを考えて御覧になってちょうだい。あなたには今はおわかりにならないかもしれませんけれども……それにしてももう五時。愛子に手料理を作らせておきましたから久しぶりで妹たちにも会ってやってくださいまし、ね、いいでしょう」
古藤は急に固くなった。
「僕は帰ります。僕は木村にはっきりした報告もできないうちに、こちらで御飯をいただいたりするのはなんだか気がとがめます。葉子さん頼みます、木村を救ってください。そしてあなた自身を救ってください。僕は本当を言うと遠くに離れてあなたを見ているとどうしても嫌《きら》いになっちまうんですが、こうやってお話ししていると失礼なことを言ったり自分で怒ったりしながらも、あなたは自分でもあざむけないようなものを持っておられるのを感ずるように思うんです。境遇が悪いんだきっと。僕は一生が大事だと思いますよ。来《らい》世《せ》があろうが過《か》去《こ》世《せ》があろうがこの一生が大事だと思いますよ。生きがいがあったと思うように生きて行きたいと思いますよ。転《ころ》んだって倒れたってそんなことを世間のようにかれこれくよくよせずに、転んだら立って、倒れたら起き上がって行きたいと思います。僕は少し人並みはずれて馬鹿のようだけれども、馬鹿者でさえがそうして行きたいと思ってるんです」
古藤は眼に涙をためて痛ましげに葉子を見やった。その時電燈が急に部屋を明るくした。
「あなたは本当にどこか悪いようですね。早く治《なお》ってください。それじゃ僕はこれで今日は御免をこうむります。さようなら」
牝《め》鹿《じか》のように敏感な岡さえがいっこう注意しない葉子の健康状態を、鈍重らしい古藤が逸《いち》早《はや》く見て取って案じてくれるのを見ると、葉子はこの素朴な青年になつかしみを感ずるのだった。葉子は立って行く古藤の後ろから、
「愛さん貞《さあ》ちゃん古藤さんがお帰りになるといけないから早く来ておとめ申しておくれ」
と叫んだ。玄関に出た古藤のところに台所口から貞世が飛んで来た。飛んで来はしたが、倉地に対してのようにすぐ躍《おど》りかかることは得しないで、口もきかずに、少し恥ずかしげにそこに立ちすくんだ。その後から愛子が手拭いを頭から取りながら急ぎ足で現われた。玄関のなげしのところに照り返しをつけて置いてあるランプの光をまともに受けた愛子の顔を見ると、古藤は魅入られたようにその美に打たれたらしく、目礼もせずにその立ち姿に眺め入った。愛子はにこりと左の口尻に笑《え》窪《くぼ》の出る微笑を見せて、右手の指先が廊下の板にやっと触《さわ》るほど膝《ひざ》を折って軽く頭を下げた。愛子の顔には羞《しゆう》恥《ち》らしいものは少しも現われなかった。
「いけません、古藤さん。妹たちが御恩返しのつもりで一生懸命にしたんですから、おいしくはありませんが、ぜひ、ね。貞ちゃんお前さんその帽子と剣とを持ってお逃げ」
葉子にそう言われて貞世はすばしこく帽子だけ取り上げてしまった。古藤はおめおめと居残ることになった。
葉子は倉地をも呼び迎えさせた。
十二畳の座敷にはこの家に珍しく賑《にぎ》やかな食卓がしつらえられた。五人がおのおの座について箸を取ろうとするところに倉地がはいって来た。
「さあいらっしゃいまし、今夜は賑やかですのよ。ここへどうぞ(そう言って古藤の隣の座を眼で示した)。倉地さん、このかたがいつもお噂《うわさ》をする木村の親友の古藤義一さんです。今日珍しくいらしってくださいましたの。これが事務長をしていらしった倉地三吉さんです」
紹介された倉地は心おきない態度で古藤の傍にすわりながら、
「私はたしか双鶴館でちょっとお目にかかったように思うが御挨拶もせず失敬しました。こちらには始終お世話になっとります。以後よろしく」
と言った。古藤は正面から倉地をじっと見やりながらちょっと頭を下げたきり物も言わなかった。倉地は軽々しく出した自分の今の言葉を不快に思ったらしく、苦りきって顔を正面になおしたが、強いて努力するように笑顔を作ってもう一度古藤を顧みた。
「あの時からすると見違えるように変わられましたな。私も日清戦争の時は半分軍人のような生活をしましたが、なかなかおもしろかったですよ。しかし苦しいこともたまにはおありだろうな」
古藤は食卓を見やったまま、
「ええ」
とだけ答えた。倉地の我慢はそれまでだった。一座はその気分を感じてなんとなく白《しら》け渡った。葉子の手慣れた tact でもそれはなかなか一掃されなかった。岡はその気まずさを強烈な電気のように感じているらしかった。ひとり貞世だけはしゃぎ返った。
「このサラダは愛姉さんがお醋《す》とオリーブ油を間違って油をたくさんかけたからきっと油っこくってよ」
愛子はおだやかに貞世をにらむようにして、
「貞ちゃんはひどい」
と言った。貞世は平気だった。
「その代わり私がまたお醋《す》を後から入れたから酸《す》っぱ過ぎるところがあるかもしれなくってよ。も少しついでにお葉も入れればよかってねえ、愛姉さん」
皆んなは思わず笑った。古藤も笑うには笑った。しかしその笑い声はすぐ鎮《しず》まってしまった。
やがて古藤が突然箸《はし》を措《お》いた。
「僕が悪いためにせっかくの食卓をたいへん不愉快にしたようです。済みませんでした。僕はこれで失礼します」
葉子はあわてて、
「まあそんなことはちっともありませんことよ。古藤さんそんなことおっしゃらずにしまいまでいらしってちょうだいどうぞ。皆んなで途中までお送りしますから」
ととめたが古藤はどうしても聴かなかった。人々は食事半《なか》ばで立ち上がらねばならなかった。古藤は靴を履《は》いてから、帯皮を取り上げて剣をつると、洋服の皺《しわ》を延ばしながら、ちらっと愛子に鋭く眼をやった。始めからほとんど物を言わなかった愛子は、この時も黙ったまま、多恨な柔和な眼を大きく見開いて、中座をして行く古藤を美しくたしなめるようにじっと見返していた、それを葉子の鋭い視覚は見逃がさなかった。
「古藤さん、あなたこれからきっとたびたびいらしってくださいましよ。まだまだ申し上げることがたくさん残っていますし、妹たちもお待ち申していますから、きっとですことよ」
そう言って葉子も親しみを込めた眸《ひとみ》を送った。古藤はしゃちこ張った軍隊式の立礼をして、さくさくと砂利の上に靴の音を立てながら、夕闇の催した杉森の下道の方へと消えて行った。
見送りに立たなかった倉地が座敷の方でひとりごとのように誰に向かってともなく「馬鹿!」と言うのが聞こえた。
三五
葉子と倉地とは竹柴館以来たびたび家を明けて小さな恋の冒険を楽しみ合うようになった。そういう時に倉地の家に出入りする外国人や正井などが同伴することもあった。外国人は主に米国の人だったが、葉子は倉地がそういう人たちを同座させる意味を知って、そのなめらかな英語と、誰でも――ことに顔や手の表情に本能的な興味を持つ外国人を――蠱《こ》惑《わく》しないではおかない華《はな》やかな応接ぶりとで、彼らを〓《とりこ》にすることに成功した。それは倉地の仕事を少なからず助けたに違いなかった。倉地の金まわりはますます潤沢になって行くらしかった。葉子一家は倉地と木村とから貢《みつ》がれる金で中流階級にはあり得ないほど余裕のある生活ができたのみならず、葉子は十分の仕送りを定子にして、なお余る金を女らしく毎月銀行に預け入れるまでになった。
しかしそれとともに倉地はますます荒《すさ》んで行った。眼の光にさえ旧《もと》のように大海にのみ見る寛《かん》濶《かつ》な無頓着なそして恐ろしく力強い表情はなくなって、いらいらとあてもなく燃えさかる石炭の火のような熱と不安とが見られるようになった。ややともすると倉地は突然わけもないことにきびしく腹を立てた。正井などは木葉《こつぱ》微《み》塵《じん》に叱り飛ばされたりした。そういう時の倉地は嵐《あらし》のような狂暴な威力を示した。
葉子も自分の健康がだんだん悪いほうに向いて行くのを意識しないではいられなくなった。倉地の心が荒《すさ》めば荒むほど葉子に対して要求するものは燃え爛《ただ》れる情熱の肉体だったが、葉子もまた知らず識《し》らず自分をそれに適応させ、かつは自分が倉地から同様な狂暴な愛撫を受けたい欲念から、先のことも後のことも考えずに、現在の可能のすべてを尽くして倉地の要求に応じて行った。脳も心臓も振り廻して、ゆすぶって、敲《たた》きつけて、一気に猛火であぶり立てるような激情、魂ばかりになったような、肉ばかりになったような極端な神経の混乱、そしてその後に続く死滅と同然の倦《けん》怠《たい》疲労。人間が有する生命力をどん底から験《た》めし試みるそういう虐待が日に二度も三度も繰り返された。そうしてその後では倉地の心はきっと野獣のようにさらに荒んでいた。葉子は不快極まる病理的の憂《ゆう》鬱《うつ》に襲われた。静かに鈍く生命を脅かす腰部の病み、二匹の小魔が肉と骨との間にはいり込んで、肉を肩にあてて骨を踏んばって、うんと力任せに反《そ》り上がるかと思われるほどの肩の凝り、だんだん鼓動を低めて行って、呼吸を苦しくして、今働きを止めるかと危《あやぶ》むと、一時に耳にまで音が聞こえるくらい激しく動きだす不規則な心臓の動作、もやもやと火の霧で包まれたり、透明な氷の水で満たされるような頭脳の狂い、……こういう現象は日一日と生命に対する、そして人生に対する葉子の猜《さい》疑《ぎ》を激しくした。
有頂天の溺《でき》楽《らく》の後に襲って来る淋しいとも、悲しいとも、はかないとも形容のできないその空虚さは何よりも葉子につらかった。たといその場で命を絶ってもその空虚さは永遠に葉子を襲うもののようにも思われた。ただこれから遁《のが》れるただ一つの道はすてばちになって、一時的のものだとは知り抜きながら、そしてその後にはさらに苦しい空虚さが待ち伏せしているとは覚悟しながら、次の溺楽を逐《お》うほかはなかった。気分の荒んだ倉地も同じ葉子と同じ心で同じことを求めていた。こうして二人は底止するところのないいずこかへ手をつないで迷い込んで行った。
ある朝葉子は朝湯を使ってから、例の六畳で鏡台に向かったが一日一日に変わって行くような自分の顔にはただ驚くばかりだった。少し縦に長く見える鏡ではあるけれども、そこに映る姿はあまりに細っていた。その代わり眼は前にも増して大きく鈴を張って、化粧焼けとも思われぬ薄い紫色の色素がその周《まわ》りに現われてきていた。それが葉子の眼にたとえば森林に囲まれた澄んだ湖のような深みと神秘とを添えるようにも見えた。鼻筋は痩《や》せ細って精神的な敏感さをきわだたしていた。頬の傷々《いたいた》しくこけたために、葉子の顔に言うべからざる暖かみを与える笑《え》窪《くぼ》を失おうとしてはいたが、その代わりにそこには悩ましく物思わしい張りを加えていた。ただ葉子がどうしても弁護のできないのはますます眼立ってきた固い下《した》顎《あご》の輪《りん》廓《かく》だった。しかしとにもかくにも肉情の昂《こう》奮《ふん》の結果が顔に妖《よう》凄《せい》な精神美をつけ加えているのは不思議だった。葉子はこれまでの化粧法を全然改める必要をその朝になってしみじみと感じた。そして今まで着ていた衣類までが残らず気に喰わなくなった。そうなると葉子は矢も盾《たて》もたまらなかった。
葉子は紅《べに》の交った白紛《おしろい》をほとんど使わずに化粧をした。顎の両側と眼の囲《まわ》りとの紅粉をわざと薄く拭き取った。枕を入れずに前髪を取って、束髪の髷《まげ》を思いきり下げて結ってみた。鬢《びん》だけを少しふくらましたので顎の張ったのも眼立たず、顔の細くなったのもいくらか調節されて、そこには葉子自身が期待もしなかったような廃《はい》頽《たい》的《てき》な同時に神経質的なすごくも美しい一つの顔面が創造されていた。あり合わせのものの中からできるだけ地味な一揃いを選んでそれを着ると葉子はすぐ越後屋に車を走らせた。
昼過ぎまで葉子は越後屋にいて注文や買物に時を過ごした。衣服や身の周りのものの見立てについては葉子は天才と言ってよかった。自分でもその才能には自信を持っていた。したがって思い存分の金を懐《ふとこ》ろに入れていて買物をするくらい興の多いものは葉子にとっては他になかった。越後屋を出る時には、感興と昂奮とに自分を傷《いた》めちぎった芸術家のようにへとへとに疲れきっていた。
帰りついた玄関の靴脱ぎ石の上には岡の細長い華《きや》車《しや》な半靴が脱ぎ捨てられていた。葉子は自分の部屋に行って懐中物などをしまって、湯《ゆ》呑《のみ》でなみなみと一杯の白湯《さゆ》を飲むと、すぐ二階に上がって行った。自分の新しい化粧法がどんなふうに岡の眼を刺《し》戟《げき》するか、葉子は子供らしくそれを試みてみたかったのだ。彼女は不意に岡の前に現われようために裏《うら》階《ばし》子《ご》からそっと登って行った。そして襖《ふすま》を開けるとそこに岡と愛子だけがいた。貞世は苔《たい》香《こう》園《えん》にでも行って遊んでいるのかそこには姿を見せなかった。
岡は詩集らしいものを開いて見ていた。そこにはなお二、三冊の書物が散らばっていた。愛子は縁側に出て手《て》欄《すり》から庭を見下ろしていた。しかし葉子は不思議な本能から、階子段に足をかけたころには、二人はけっして今のような位置に、今のような態度でいたのではないということを直覚していた。二人が一人は本を読み、一人が縁に出ているのは、いかにも自然でありながら非常に不自然だった。
突然――それは本当に突然どこから飛び込んで来たのか知れない不快の念のために葉子の胸はかきむしられた。岡は葉子の姿を見ると、わざっとくつろがせていたような姿勢を急に正して、読みふけっていたらしく見せた詩集をあまりに惜しげもなく閉じてしまった。そしていつもより少しなれなれしく挨《あい》拶《さつ》した。愛子は縁側から静かにこっちを振り向いて平生《ふだん》と少しも変わらない態度で、柔順に無表情に縁板の上にちょっと膝をついて挨拶した。しかしその沈着にもかかわらず、葉子は愛子が今まで涙を眼にためていたのをつきとめた。岡も愛子も明らかに葉子の顔や髪の様子の変わったのに気づいていないくらい心に余裕のないのが明らかだった。
「貞《さあ》ちゃんは」
と葉子は立ったままで尋ねてみた。二人は思わずあわてて答えようとしたが、岡は愛子を窃《ぬす》み見るようにして控えた。
「隣の庭に花を買いに行ってもらいましたの」
そう愛子が少し下を向いて髷《まげ》だけを葉子に見えるようにしてすなおに答えた。「ふふん」と葉子は腹の中でせせら笑った。そしてはじめてそこにすわって、じっと岡の眼を見つめながら、
「何? 読んでいらしったのは」
と言って、そこにある四六細型の美しい表装の書物を取り上げてみた。黒髪を乱した妖《よう》艶《えん》な女の頭、矢で貫かれた心臓、その心臓からぽたぽた落ちる血の滴《したた》りがおのずから字になったように図案された「乱れ髪《*》」という標題――文字に親しむことの大嫌いな葉子も噂《うわさ》で聞いていた有名な鳳《おおとり》晶《あき》子《こ》の詩集だった。そこには「明星《*》」という文芸雑誌だの、春雨の「無花果《いちじゆく*》」だの、兆《ちよう》民《みん》居《こ》士《じ》の「一年有半《*》」だのという新刊の書物も散らばっていた。
「まあ岡さんもなかなかのロマンティストね、こんなものを愛読なさるの」
と葉子は少し皮肉なものを口尻に見せながら尋ねてみた。岡は静かな調子で訂正するように、
「それは愛子さんのです。私今ちょっと拝見しただけです」
「これは」
と言って葉子は今度は「一年有半」を取り上げた。
「それは岡さんが今日貸してくださいましたの。私わかりそうもありませんわ」
愛子は姉の毒舌をあらかじめ防ごうとするように。
「へえ、それじゃ岡さん、あなたはまたたいしたリアリストね」
葉子は愛子を眼中にもおかないふうでこう言った。去年の下半期の思想界を震《しん》撼《かん》したようなこの書物と続編とは倉地の貧しい書架の中にもあったのだ。そして葉子はおもしろく思いながらその中をときどき拾い読みしていたのだった。
「なんだか私とはすっかり違った世界を見るようでいながら、自分の心持ちが残らず言ってあるようでもあるんで……私それが好きなんです。リアリストというわけではありませんけれども……」
「でもこの本の皮肉は少し痩《や》せ我慢ね。あなたのようなかたにはちょっと不似合いですわ」
「そうでしょうか」
岡は何とはなく今にでも腫《はれ》物《もの》に触《さわ》られるかのようにそわそわしていた。会話は少しもいつものようには弾《はず》まなかった。葉子はいらいらしながらもそれを顔には見せないで今度は愛子のほうに槍《やり》先《さき》を向けた。
「愛さんお前こんな本をいつお買いだったの」
と言ってみると、愛子は少しためらっている様子だったが、すぐにすなおな落ち着きを見せて、
「買ったんじゃないんですの。古藤さんが送ってくださいましたの」
と言った。葉子はさすがに驚いた。古藤はあの会食の晩、中座したっきり、この家には足踏みもしなかったのに……。葉子は少し激しい言葉になった。
「なんだってまたこんな本を送っておよこしなさったんだろう。あなたお手紙でも上げたのね」
「ええ、……くださいましたから」
「どんなお手紙を」
愛子は少し俯《うつ》向《む》きかげんに黙ってしまった、こういう態度をとった時の愛子のしぶとさを葉子はよく知っていた。葉子の神経はびりびりと緊張してきた。
「持って来てお見せ」
そう厳格に言いながら、葉子はそこに岡のいることも意識の中に加えていた。愛子は執《しつ》拗《よう》に黙ったまますわっていた。しかし葉子がもう一度催促の言葉を出そうとすると、その瞬間に愛子はつと立ち上がって部屋を出て行った。
葉子はその隙《すき》に岡の顔を見た。それはまた無《む》垢《く》童貞の青年が不思議な戦《せん》慄《りつ》を胸の中に感じて、反感を催すか、牽《ひ》きつけられるかしないではいられないような眼で岡を見た。岡は少女のように顔を赤めて、葉子の視線を受けきれないで眸《ひとみ》をたじろがしつつ眼を伏せてしまった。葉子はいつまでもそのデリケートな横顔を注視《みつめ》つづけた。岡は唾《つば》を飲みこむのもはばかるような様子をしていた。
「岡さん」
そう葉子に呼ばれて、岡はやむを得ずおずおず頭を上げた。葉子は今度は詰《なじ》るようにその若々しい上品な岡を見つめていた。
そこに愛子が白い西洋封筒を持って帰って来た。葉子は岡にそれを見せつけるように取り上げて、取るにも足らぬ軽いものでも扱うように飛び飛びに読んでみた。それにはただあたりまえなことだけが書いてあった。しばらくめで見た二人の大きくなって変わったのには驚いたとか、せっかく寄って作ってくれた御馳走をすっかり賞味しないうちに帰ったのは残念だが、自分の性分としてはあの上我慢ができなかったのだから許してくれとか、人間は他人の見よう見まねで育って行ったのではだめだから、たといどんな境遇にいても自分の見識を失ってはいけないとか、二人には倉地という人間だけはどうかして近づけさせたくないと思うとか、そして最後に、愛子さんは詠歌がなかなか上手だったがこのごろできるか、できるならそれを見せてほしい、軍隊生活の乾燥無味なのには堪えられないからとしてあった。そして宛名は愛子、貞世の二人になっていた。
「馬鹿じゃないの愛さん、あなたこのお手紙でいい気になって、下手《へた》くそなぬたでもお見せ申したんでしょう……いい気なものね……この御本といっしょにもお手紙が来たはずね」
愛子はすぐまた立とうとした。しかし葉子はそうはさせなかった。
「一本一本お手紙を取りに行ったり帰ったりしたんじゃ日が暮れますわ。……日が暮れると言えばもう暗くなったわ。貞ちゃんはまた何をしているだろう……あなた早く呼びに行っていっしょにお夕飯のしたくをしてちょうだい」
愛子はそこにある書物を一と抱《かか》えに胸に抱いて、俯《うつ》向《む》くと愛らしく二重になる顎《あご》で押えて座を立って行った。それがいかにもしおしおと、細かい挙動の一つ一つで岡に哀訴するように見れば見なされた。「互いに見交わすようなことをしてみるがいい」そう葉子は心の中で二人をたしなめながら、二人に気を配った。岡も愛子も申し合わしたように瞥視《べつし》もし合わなかった。けれども葉子は二人がせめては眼だけでも慰め合いたい願いに胸を震わしているのをはっきりと感ずるように思った。葉子の心はおぞましくも苦々しい猜《さい》疑《ぎ》のために苦しんだ。若さと若さとが互いにきびしく求め合って、葉子などをやすやすと袖《そで》にするまでにその情炎は嵩《こう》じていると思うと耐えられなかった。葉子は強いて自分を押し鎮めるために、帯の間から煙草入れを取り出してゆっくり煙を吹いた。煙管《きせる》の先が端なく火鉢にかざした岡の指先に触れると電気のようなものが葉子に伝わるのを覚えた。若さ……若さ……。
そこには二人の間にしばらくぎこちない沈黙が続いた。岡が何を言えば愛子は泣いたんだろう。愛子は何を泣いて岡に訴えていたのだろう。葉子が教えきれぬほど経験した幾多の恋の場面の中から、激情的ないろいろの光景がつぎつぎに頭の中に描かれるのだった。もうそうした年齢が岡にも愛子にも来ているのだ。それに不思議はない。しかしあれほど葉子にあこがれ溺《おぼ》れて、いわば恋以上の恋とも言うべきものを崇拝的に捧げていた岡が、あの純直な上品なそしてきわめて内気な岡が、見る見る葉子の把《は》持《じ》から離れて、人もあろうに愛子――妹の愛子のほうに移って行こうとしているらしいのを見なければならないのはなんということだろう。愛子の涙――それは察することができる。愛子はきっと涙ながらに葉子と倉地との間にこのごろ募って行く奔放な放《ほう》埓《らつ》な醜行を訴えたに違いない。葉子の愛子と貞世とに対する偏《へん》頗《ぱ》な愛憎と、愛子の上に加えられる御殿女中風な圧迫とを嘆いたに違いない。しかもそれをあの女に特有な多恨らしい、冷やかな、淋しい表現法で、そして息気《いき》づまるような若さと若さとの共鳴の中に……。
勃《ぼつ》然《ぜん》として焼くような嫉妬が葉子の胸の中に堅く凝《こご》りついてきた。葉子はすり寄っておどおどしている岡の手を力強く握りしめた。葉子の手は氷のように冷たかった。岡の手は火鉢にかざしてあったせいか、珍しく火照《ほて》って臆病らしい油汗が掌《てのひら》にしとどににじみ出ていた。
「あなたは私がお怖《こわ》いの」
葉子はさりげなく岡の顔をのぞき込むようにしてこう言った。
「そんなこと……」
岡はしょうことなしに腹を据えたようにわりあいにしゃんとした声でこう言いながら、葉子の眼をゆっくり見やって、握られた手には少しも力を籠《こ》めようとはしなかった。葉子は裏切られたと思う不満のためにもうそれ以上冷静を装ってはいられなかった。昔のようにどこまでも自分を失わない、粘り気の強い、鋭い神経はもう葉子にはなかった。
「あなたは愛子を愛していてくださるのね。そうでしょう。私がここに来る前愛子はあんなに泣いて何を申し上げていたの?……おっしゃってくださいな。愛子があなたのようなかたに愛していただけるのはもったいないくらいですから、私喜ぶともとがめだてなどはしません、きっと。だからおっしゃってちょうだい。……いいえ、そんなことをおっしゃってそれやだめ、私の眼はまだこれでも黒うござんすから。……あなたそんな水臭いお仕向けを私になさろうと言うの? まさかとは思いますがあなた私におっしゃったことを忘れなさっちゃ困りますよ。私はこれでも真剣なことには真剣になるくらいの誠実はあるつもりですことよ。私あなたのお言葉は忘れてはおりませんわ。姉だと今でも思っていてくださるなら本当のことをおっしゃってください。愛子に対しては私は私だけのことをして御覧に入れますから……さ」
そう疳《かん》走《ばし》った声で言いながら葉子はときどき握っている岡の手をヒステリックに激しく振り動かした。泣いてはならぬと思えば思うほど葉子の眼からは涙が流れた。さながら恋人に不実を責めるような熱意が思うざま湧《わ》き立ってきた。しまいには岡にもその心持ちが移って行ったようだった。そして右手を握った葉子の手の上に左の手を添えながら、上下から挟むように押えて、岡は震え声で静かに言いだした。
「御存じじゃありませんか、私、恋のできるような人間ではないのを。年こそ若うございますけれども心は妙にいじけて老いてしまっているんです。どうしても恋の遂げられないような女のかたにでなければ私の恋は動きません。私を恋してくれる人があるとしたら、私、心が即座に冷えてしまうのです。一度自分の手に入れたら、どれほど尊いものでも大事なものでも、もう私には尊くも大事でもなくなってしまうんです。だから私、淋しいんです。なんにも持っていない、なんにも空《むな》しい……そのくせそう知り抜きながら私、何かどこかにあるように思ってつかむことのできないものに憬《あこが》れます。この心さえなくなれば淋しくってもそれでいいのだがなと思うほど苦しくもあります。何にでも自分の理想をすぐあてはめて熱するような、そんな若い心が欲しくもありますけれども、そんなものは私には来はしません……春にでもなってくるとよけい世の中は空しく見えてたまりません。それを先刻《さつき》ふと愛子さんに申し上げたんです。そうしたら愛子さんがお泣きになったんです。私、あとですぐ悪いと思いました、人に言うようなことじゃなかったのを……」
こういうことを言う時の岡は言う言葉にも似ず冷酷とも思われるほどただ淋しい顔になった。葉子には岡の言葉がわかるようでもあり、妙にからんでも聞こえた。そしてちょっとすかされたように気勢を殺《そ》がれたが、どんどん湧き上がるように内部から襲い立てる力はすぐ葉子を理不尽にした。
「愛子がそんなお言葉で泣きましたって? 不思議ですわねえ。……それならそれでようござんす。……(ここで葉子は自分にも堪えきれずにさめざめと泣きだした)岡さん私も淋しい……淋しくって、淋しくって……」
「お察し申します」
岡は案外しんみりした言葉でそう言った。
「おわかりになって?」
と葉子は泣きながら取りすがるようにした。
「わかります。……あなたは堕落した天使のようなかたです。ごめんください。船の中ではじめてお眼にかかってから私、ちっとも心持ちが変わってはいないんです。あなたがいらっしゃるんで私、ようやく淋しさからのがれます」
「嘘《うそ》!……あなたはもう私に愛想をおつかしなのよ。私のように堕落したものは……」
葉子は岡の手を放して、とうとうハンケチを顔にあてた。
「そういう意味で言ったわけじゃないんですけれども……」
ややしばらく沈黙した後に、当惑しきったように淋しく岡はひとりごちてまた黙ってしまった。岡はどんなに淋しそうな時でもなかなか泣かなかった。それが彼をいっそう淋しく見せた。
三月末の夕方の空はなごやかだった。庭先の一重桜の梢《こずえ》には南に向いた方に白い花弁がどこからか飛んで来てくっついたようにちらほら見えだしていた。その先には赤く霜枯れた杉森がゆるやかに暮れ初《そ》めて、光を含んだ青空が静かに流れるように漂っていた。苔香園の方から園丁が間遠に鋏《はさみ》をならす音が聞こえるばかりだった。
若さから置いて行かれる……そうした淋しみが嫉妬に代わってひしひしと葉子を襲ってきた。葉子はふと母の親《おや》佐《さ》を思った。葉子が木部との恋に深入りして行った時、それを見守っていた時の親佐を思った。親佐のその心を思った。自分の番が来た……その心持ちはたまらないものだった。と、突然定子の姿が何よりもなつかしいものとなって胸に逼《せま》ってきた。葉子は自分にもその突然の連想の経路はわからなかった。突然もあまりに突然――しかし葉子に逼るその心持ちは、さらに葉子を畳に突っ伏して泣かせるほど強いものだった。
玄関から人のはいって来る気配がした。葉子はすぐそれが倉地であることを感じた。葉子は倉地と思っただけで、不思議な憎悪を感じながらその動静に耳をすました。倉地は台所の方に行って愛子を呼んだようだった。二人の跫《あし》音《おと》が玄関の隣りの六畳の方に行った。そしてしばらく静かだった。と思うと、
「いや」
と小さく退けるように言う愛子の声が確かに聞こえた。抱きすくめられて、もがきながら放たれた声らしかったが、その声の中には憎悪の影は明らかに薄かった。
葉子は雷に撃たれたように突然泣きやんで頭を挙げた。
すぐ倉地が階《はし》子《ご》段《だん》を昇って来る音が聞こえた。
「私、台所にまいりますからね」
何も知らなかったらしい岡に、葉子はわずかにそれだけを言って、突然座を立って裏階子に急いだ。と、かけ違いに倉地は座敷にはいって来た。強い酒の香がすぐ部屋の空気を汚《よご》した。
「やあ春になりおった。桜が咲いたぜ。おい葉子」
いかにも気さくらしく塩がれた声でこう叫んだ倉地に対して、葉子は返事もできないほど昂奮していた。葉子は手に持ったハンケチを口に押し込むように銜《くわ》えて、震える手で壁を細かく敲《たた》くようにしながら階子段を降りた。
葉子は頭の中に天地の壊《くず》れ落ちるような音を聞きながら、そのまま縁に出て庭下駄を履《は》こうとあせったけれどもどうしても履けないので、跣足《はだし》のまま庭に出た。そして次の瞬間に自分を見いだした時にはいつ戸を開けたとも知らず物置小屋の中にはいっていた。
三六
底のない悒《ゆう》鬱《うつ》がともすると烈しく葉子を襲うようになった。いわれのない激怒がつまらないことにもふと頭をもたげて、葉子はそれを押し鎮めることができなくなった。春が来て、木の芽から畳の床に至るまですべてのものが膨《ふく》らんできた。愛子も貞世も見違えるように美しくなった。その肉体は細胞の一つ一つまですばやく春を嗅《か》ぎつけ、吸収し、飽満するように見えた。愛子はその圧迫に堪えないで春の来たのを恨むようなけだるさと淋しさとを見せた。貞世は生命そのものだった。秋から冬にかけてにょきにょきと延び上がった細々した体には、春の精のような豊麗な脂肪がしめやかに沁みわたって行くのが眼に見えた。葉子だけは春が来ても痩せた。来るにつけて痩せた。ゴム毬《まり》の弧線のような肩は骨ばった輪《りん》廓《かく》を、薄着になった着物の下からのぞかせて、潤沢な髪の毛の重みに堪えないように頸《くび》筋《すじ》も細々となった。痩せて悒鬱になったことから生じた別種の美――そう思って葉子がたよりにしていた美もそれはだんだん冴《さ》え増さって行く種類の美ではないことを気づかねばならなくなった。その美はその行くてには夏がなかった。寒い冬のみが待ち構えていた。
歓楽ももう歓楽自身の歓楽は持たなくなった。歓楽の後には必ず病理的な苦痛が伴うようになった。ある時にはそれを思うことすらが失望だった。それでも葉子はすべての不自然な方法によって、今は振り返ってみる過去にばかり眺められる歓楽の絶頂を幻影としてでも現在に描こうとした。そして倉地を自分の力の支配の下に繋《つな》ごうとした。健康が衰えて行けば行くほどこの焦燥のために葉子の心は休まなかった。全盛期を過ぎた伎《ぎ》芸《げい》の女にのみ見られるような、傷《いた》ましく廃《はい》頽《たい》した、腐《ふ》菌《きん》の燐《りん》光《こう》を思わせる凄《せい》惨《さん》な蠱《こ》惑《わく》力《りよく》をわずかな力として葉子はどこまでも倉地を〓《とりこ》にしようとあせりにあせった。
しかしそれは葉子の傷ましい自覚だった。美と健康とのすべてを備えていた葉子には今の自分がそう自覚されたのだけれども、はじめて葉子を見る第三者は、ものすごいほど冴えきって見える女盛りの葉子の惑力に、日本には見られないようなコケットの典型を見いだしたろう。おまけに葉子は肉体の不足を極端に人目を牽《ひ》く衣服で補うようになっていた。その当時は日露の関係も日米の関係も嵐の前のような暗い徴候を現わしだして、国人全体は一種の圧迫を感じだしていた。臥《が》薪《しん》嘗《しよう》胆《たん》というような合い言葉がしきりと言論界には説かれていた。しかしそれと同時に日清戦争を相当に遠い過去として眺め得るまでに、その戦役の重い負担から気のゆるんだ人々は、ようやく調整され始めた経済状態の下で、生活の美装ということに傾いていた。自然主義は思想生活の根底となり、当時病天才の名をほしいままにした高山樗《ちよ》牛《ぎゆう》らの一団はニイチェの思想を標《ひよう》榜《ぼう》して「美的生活」とか「清盛論」というような大胆奔放な言説《*》をもって思想の維新を叫んでいた。風俗問題とか女子の服装問題とかいう議論が守旧派の人々の間には喧《かまびす》しく持ち出されている間に、その反対の傾向は、殻を破った芥《け》子《し》の種のように四方八方に飛び散った。こうして何か今までの日本にはなかったようなものの出現を待ち設け見守っていた若い人々の眼には、葉子の姿は一つの天啓のように映ったに違いない。女優らしい女優を持たず、カフエーらしいカフエーを持たない当時の路上に葉子の姿は眩《まぶ》しいものの一つだ。葉子を見た人は男女を問わず目をそばだてた。
ある朝葉子は装いを凝らして倉地の下宿に出かけた。倉地は寝ごみを襲われて眼を覚《さま》した。座敷の隅《すみ》には夜を更《ふ》かして楽しんだらしい酒《しゆ》肴《こう》の残りが敗《す》えたようにかためて置いてあった。例の支《し》那《な》鞄《かばん》だけはちゃんと錠がおりて床の間の隅にかたづけられていた。葉子はいつものとおり知らんふりをしながら、そこらに散らばっている手紙の差出人の名前に鋭い観察を与えるのだった。倉地は宿《しゆく》酔《すい》を不快がって頭を敲《たた》きながら寝床から半身を起こすと、
「なんで今朝はまたそんなにしゃれ込んで早くからやって来おったんだ」
とそっぽに向いて、欠伸《あくび》でもしながらのように言った。これが一か月前だったら、少なくとも三か月前だったら、一夜の安眠に、あのたくましい精力の全部を回復した倉地は、いきなり寝床の中から飛び出して来て、そうはさせまいとする葉子をいやおうなしに床の上に捩《ね》じ伏せていたに違いないのだ。葉子は傍《わき》目《め》にもこせこせとうるさく見えるような敏捷《すばしこ》さでその辺に散らばっている物を、手紙は手紙、懐中物は懐中物、茶道具は茶道具とどんどんかたづけながら、倉地の方も見ずに、
「昨日の約束じゃありませんか」
と無愛想につぶやいた。倉地はその言葉ではじめて何か言ったのをかすかに思い出したふうで、
「なにしろ俺は今日は忙しいでだめだよ」
と言って、ようやく伸びをしながら立ち上がった。葉子はもう腹に据えかねるほど怒りを発していた。
「怒ってしまってはいけない。これが倉地を冷淡にさせるのだ」――そう心の中には思いながらも、葉子の心にはどうしてもその言うことを聞かぬ悪戯《いたずら》好きな小悪魔がいるようだった。即座にその場を一人だけで飛び出してしまいたい衝動と、もっと巧みな手《て》練《くだ》でどうしても倉地をおびき出さなければいけないという冷静な思慮とが激しく戦い合った。葉子はしばらくの後にかろうじてその二つの心持ちを混ぜ合わせることができた。
「それではだめね……またにしましょうか。でも口惜しいわ、このいいお天気に……いけない、あなたの忙しいは嘘《うそ》ですわ。忙しい忙しいって言っときながらお酒ばかり飲んでいらっしゃるんだもの。ね、行きましょうよ。こら見てちょうだい」
そう言いながら葉子は立ちがって、両手を左右に広く開いて、袂《たもと》が延びたまま両腕からすらりと垂れるようにして、やや険を持った笑いを笑いながら倉地の方に近寄って行った。倉地もさすがに、今さらその美しさに見惚《みと》れるように葉子を見やった。天才が持つと称せられるあの青色をさえ帯びた乳白色の皮膚、それがやや浅黒くなって、眼の縁に憂いの雲をかけたような薄紫の暈《かさ》、霞んで見えるだけにそっと刷《は》いた紅粉、きわだって赤く彩《いろど》られた唇、黒い焔《ほのお》を上げて燃えるような眸《ひとみ》、後ろにさばいて束ねられた黒《こく》漆《しつ》の髪、大きなスペイン風の玳《たい》瑁《まい*》の飾り櫛《ぐし》、くっきりと白く細い喉《のど》を攻めるようにきりっと重ね合わされた藤色の襟《えり》、胸の凹みにちょっとのぞかせた、燃えるような緋《ひ》の帯上げのほかは、濡《ぬ》れたかとばかり体にそぐって底光りのする紫《し》紺《こん》色《いろ》の袷《あわせ》、その下に慎《つつ》ましく潜んで消えるほど薄い紫色の足袋《たび》(こういう色足袋は葉子が工夫しだした新しい試みの一つだった)そういうものが互い互いに溶け合って、のどやかな朝の空気の中にぽっかりと、葉子という世にも稀れなほど凄《せい》艶《えん》な一つの存在を浮き出さしていた。その存在の中から黒い焔を上げて燃えるような二つの眸が生きて動いて倉地をじっと見やっていた。
倉地が物を言うか、身を動かすか、とにかく次の動作に移ろうとするその前に、葉子は気味の悪いほどなめらかな足取りで、倉地の眼の先に立ってその胸のところに、両手をかけていた。
「もう私に愛想が尽きたら尽きたとはっきり言ってください、ね。あなたは確かに冷淡におなりね。私は自分が憎うござんす、自分に愛想を尽かしています。さあ言ってください、……今……この場で、はっきり……でも死ねとおっしゃい、殺すとおっしゃい。私は喜んで……私はどんなにうれしいかしれないのに。……ようござんすわ、なんでも私本当が知りたいんですから。さ、言ってください。私どんなきつい言葉でも覚悟していますから。悪びれなんかしはしませんから……あなたは本当にひどい……」
葉子はそのまま倉地の胸に顔をあてた。そして始めのうちはしめやかにしめやかに泣いていたが、急に激しいヒステリーふうなすすり泣きに変わって、汚《きた》ないものにでも触れていたように倉地の熱気の強い胸もとから飛びしざると、寝床の上にがばと突っ伏して激しく声を立てて泣きだした。
このとっさの激しい脅威に、近ごろそういう動作には慣れていた倉地だったけれども、あわてて葉子に近づいてその肩に手をかけた。葉子はおびえるようにその手から飛び退《の》いた。そこには獣に見るような野性のままの取り乱し方が美しい衣裳にまとわれて演ぜられた。葉子の歯も爪《つめ》も尖《とが》って見えた。体は激しい痙《けい》攣《れん》に襲われたように痛ましく震えおののいていた。憤怒と恐怖と嫌悪とがもつれ合いいがみ合ってのた打ち廻るようだった。葉子は自分の五体が青空遠くかきさらわれて行くのを懸命に喰い止めるために布団でも畳でも爪の立ち歯の立つものにしがみついた。倉地は何よりもその激しい泣き声が隣近所の耳にはいるのを恥じるように背に手をやってなだめようとしてみたけれども、そのたびごとに葉子はさらに泣き募って遁《のが》れようとばかりあせった。
「何を思い違いをしとる、これ」
倉地は喉《のど》笛《ぶえ》を開けっ放した低い声で葉子の耳もとにこう言ってみたが、葉子は理不尽にも激しく頭を振るばかりだった。倉地は決心したように力任せにあらがう葉子を抱きすくめて、その口に手をあてた。
「ええ、殺すなら殺してください……くださいとも」
という狂気じみた声をしっと制しながら、その耳もとにささやこうとすると、葉子は我れながら夢中であてがった倉地の手を骨も摧《くだ》けよと噛《か》んだ。
「痛い……何しやがる」
倉地はいきなり一方の手で葉子の細頸を取って自分の膝《ひざ》の上に乗せて締めつけた。葉子は呼吸がだんだん苦しくなって行くのをこの狂乱の中にも意識して快く思った。倉地の手で死んで行くのだなと思うとそれがなんとも言えず美しく心安かった。葉子の五体からはひとりでに力が抜けて行って、震えを立てて噛み合っていた歯がゆるんだ。その瞬間をすかさず倉地は噛まれていた手を振りほどくと、いきなり葉子の頬《ほお》げたをひしひしと五、六度続けさまに平手で打った。葉子はそれがまた快かった。そのびりびりと神経の末《まつ》梢《しよう》に答えてくる感覚のために体じゅうに一種の陶酔を感ずるようにさえ思った。「もっとお打ちなさい」と言ってやりたかったけれども声は出なかった。そのくせ葉子の手は本能的に自分の頬を庇《かば》うように倉地の手の下るのを支えようとしていた。倉地は両《りよう》肘《ひじ》まで使って、ばたばたと裾《すそ》を蹴《け》乱《みだ》して暴れる両《りよう》脚《あし》のほかには葉子を身動きもできないようにしてしまった。酒で心臓の昂奮しやすくなった倉地の呼吸は霰《あられ》のようにせわしく葉子の顔にかかった。
「馬鹿が……静かに物を言えばわかることだに……俺がお前を見捨てるか見捨てないか……静かに考えてもみろ、馬鹿が……恥《はじ》曝《さら》しなまねをしやがって……顔を洗って出なおして来い」
そう言って倉地は捨てるように葉子を寝床の上にどんと放り投げた。
葉子の力は使い尽くされて泣き続ける気力さえないようだった。そしてそのまま昏《こん》昏《こん》として眠るように仰《あお》向《む》いたまま眼を閉じていた。倉地は肩で激しく息気をつきながら傷《いた》ましく取り乱した葉子の姿をまんじりと眺めていた。
一時間ほどの後には葉子はしかしたった今牽《ひ》き起こされた乱脈騒ぎをけろりと忘れたもののように快活で無邪気になっていた。そして二人は楽しげに下宿から新橋駅に車を走らした。葉子が薄暗い婦人待合室の色の剥《は》げたモロッコ皮のディバン《*》に腰かけて、倉地が切符を買って来るのを待ってる間、そこに居合わせた貴婦人というような四、五人の人たちは、すぐ今までの話を捨ててしまって、こそこそと葉子についてささやき交わすらしかった。高慢というのでもなく謙《けん》遜《そん》というのでもなく、きわめて自然に落ち着いて真直ぐに腰かけたまま、柄《え》の長い白の琥《こ》珀《はく》のパラソルの握りに手を乗せていながら、葉子にはその貴婦人たちの中の一人がどうも見知り越しの人らしく感ぜられた。あるいは女学校にいた時に葉子を崇拝してその風俗をすらまねた連中の一人であるかとも思われた。葉子がどんなことを噂《うわさ》されているかは、その婦人に耳打ちされて、見るように見ないように葉子を窃《ぬす》み見る他の婦人たちの眼色で想像された。
「お前たちはあきれ返りながらの心の中のどこかで私をうらやんでいるのだろう。お前たちの、その物《もの》怯《お》じしながらも金目をかけた派《は》手《で》作りな衣裳や化粧は、社会上の位置に恥じないだけの作りなのか、良人《おつと》の眼に快く見えようためなのか。そればかりなのか。お前たちを見る路傍の男たちの眼は勘定に入れていないのか。……臆《おく》病《びよう》卑《ひ》怯《きよう》な偽善者どもめ!」
葉子はそんな人間からは一段も二段も高いところにいるような気位を感じた。自分の扮粧がその人たちのどれよりも立ちまさっている自信を十二分に持っていた。葉子は女王のように誇りの必要もないというみずからの鷹《おう》揚《よう》を見せてすわっていた。
そこに一人の夫人がはいってきた。田川夫人――葉子はその影を見るか見ないかに見て取った。しかし顔色一つ動かさなかった(倉地以外の人に対しては葉子はその時でもかなりすぐれた自制力の持ち主だった)。田川夫人は元よりそこに葉子がいようなどとは思いもかけないので、葉子の方にちょっと眼をやりながらもいっこうに気づかずに、
「お待たせいたしまして済みません」
と言いながら貴婦人らの方に近寄って行った。互いの挨拶が済むか済まないうちに、一同は田川夫人によりそってひそひそとささやいた。葉子は静かに機会を待っていた。ぎょっとしたふうで、葉子に後ろを向けていた田川夫人は、肩越しに葉子の方を振り返った。待ち設けていた葉子は今まで正面に向けていた顔をしとやかに向けかえて田川夫人と眼を見合わした。葉子の眼は憎むように笑っていた。田川夫人の眼は笑うように憎んでいた。「生意気な」……葉子は田川夫人が眼をそらさないうちに、すっくと立って田川夫人の方に寄って行った。この不意打ちに度を失った夫人は(明らかに葉子が真紅《まつか》になって顔を伏せるとばかり思っていたらしく、居合わせた婦人たちもそのさまを見て、容《よう》貌《ぼう》でも服装でも自分らを蹴落とそうとする葉子に対して溜《りゆう》飲《いん》を下ろそうとしているらしかった)少し色を失って、そっぽを向こうとしたけれどももう遅かった。葉子は夫人の前に軽く頭を下げていた。夫人もやむを得ず挨拶のまねをして、高《たか》飛《び》車《しや》に出るつもりらしく、
「あなたはどなた?」
いかにも横《おう》柄《へい》に魁《さきが》けて口を切った。
「早月葉でございます」
葉子は対等の態度で悪びれもせずこう受けた。
「絵島丸ではいろいろお世話様になってありがとう存じました。あのう……報正新報も拝見させていただきました。(夫人の顔色が葉子の言葉一つごとに変わるのを葉子は珍しいものでも見るようにまじまじと眺めながら)たいそうおもしろうございましたこと。あんなに委《くわ》しく御通信になりましてねえ、お忙しくいらっしゃいましたろうに。……倉地さんもおりよくここに来合わせていらっしゃいますから……今ちょっと切符を買いに……お連れ申しましょうか」
田川夫人は見る見る真青になってしまっていた。折り返して言うべき言葉に窮してしまって、つたなくも、
「私はこんなところであなたとお話しするのは存じがけません。御用でしたら宅へおいでを願いましょう」
と言いつつ今にも倉地がそこに現われて来るかとひたすらそれを怖《おそ》れるふうだった。葉子はわざと夫人の言葉を取り違えたように、
「いいえどういたしまして私こそ……ちょっとお待ちくださいすぐ倉地さんをお呼び申してまいりますから」
そう言ってどんどん待合所を出てしまった。後に残った田川夫人がその貴婦人たちの前でどんな顔をして当惑したか、それを葉子は眼に見るように想像しながら悪戯《いたずら》者《もの》らしくほくそえんだ。ちょうどそこに倉地が切符を買って来かかっていた。
一等の客室には他に二、三人の客がいるばかりだった。田川夫人以下の人たちは誰かの見送りか出迎えにでも来たのだとみえて、汽車が出るまで影も見せなかった。葉子はさっそく倉地にことの始終を話して聞かせた。そして二人は思い存分胸をすかして笑った。
「田川の奥さん可哀そうにまだあすこで今にもあなたが来るかともじもじしているでしょうよ、ほかの人たちの手前ああ言われてこそこそと逃げ出すわけにもいかないし」
「俺がひとつ顔を出して見せればまたおもしろかったにな」
「今日は妙な人に遇《あ》ってしまったからまたきっと誰かに遇いますよ。奇妙ねえ、お客様が来たとなると不思議にたて続くし……」
「不仕合わせなんぞも来だすと束になって来くさるて」
倉地は何か心ありげにそう言って渋い顔をしながらこの笑い話を結んだ。
葉子は今朝の発作の反動のように、田川夫人のことがあってからただなんとなく心が浮き浮きしてしようがなかった。もしそこに客がいなかったら、葉子は子供のように単純な愛嬌者になって、倉地に渋い顔ばかりはさせておかなかったろう。「どうして世の中にはどこにでも他人の邪魔に来ましたと言わんばかりにこうたくさん人がいるんだろう」と思ったりした。それすらが葉子には笑いの種となった。自分たちの向座にしかつめらしい顔をして老年の夫婦者がすわっているのを、葉子はしばらくまじまじと見やっていたが、その人たちのしかつめらしいのが無《む》性《しよう》にグロテスクな不思議なものに見えだして、とうとう我慢がしきれずに、ハンケチを口にあててきゅっきゅっと噴き出してしまった。
三七
天心に近くぽつりと一つ白く湧《わ》き出た雲の色にも形にもそれと知られるようなたけなわな春が、ところどころの別荘の建物のほかには見渡すかぎり古く寂《さ》びれた鎌倉の谷《やと》々《やと》にまであふれていた。重い砂土の白ばんだ道の上には落ち椿《つばき》が一重桜の花とまじって無残に落ち散っていた。桜の梢《こずえ》には紅《あか》味《み》を持った若葉がきらきらと日に輝いて、浅い影を地に落とした。名もない雑木までが美しかった。蛙の声が眠く田圃《たんぼ》の方から聞こえて来た。休暇でないせいか、思いのほかに人の雑《ざつ》閙《とう》もなく、時おり、同じ花《はな》簪《かんざし》を、女は髪に男は襟《えり》にさして先《せん》達《だつ》らしいのが紫の小旗を持った、遠いところから春を逐《お》って経《へ》めぐって来たらしい田舎の人たちの群れが、酒の気も借らずにしめやかに話し合いながら通るのに行き遇うくらいものだった。
倉地も汽車の中から自然に気分が晴れたとみえて、いかにも屈託なくなってみえた。二人は停車場の付近にあるある小《こ》綺《ぎ》麗《れい》な旅館を兼ねた料理屋で中《ちゆう》食《じき》をしたためた。日朝様《*》ともどんぶく様ともいう寺の屋根が庭先に見えて、そこから眼病の祈《き》祷《とう》だという団扇《うちわ》太鼓《だいこ》の音がどんぶくどんぶくと単調に聞こえるようなところだった。東の方はその名さながらの屏風《びようぶ》山《やま》が若葉で花よりも美しく装われて霞《かす》んでいた。短く美しく苅《か》り込まれた芝生の芝はまた萌《も》えていなかったが、ところ疎《まば》らに立ち連なった小松は緑をふきかけて、八重桜はのぼせたように花で首垂《うなだ》れていた。もう袷《あわせ》一枚になって、そこに食物を運んで来る女中は襟《えり》前《まえ》をくつろげながら夏が来たようだと言って笑ったりした。
「ここはいいわ。今日はここで宿《とま》りましょう」
葉子は計画から計画で頭をいっぱいにしていた。そしてそこに用《い》らないものを預けて、江の島の方まで車を走らした。
帰りには極《ごく》楽《らく》寺《じ》坂《ざか》の下で二人とも車を捨てて海岸に出た。もう日は稲村が崎の方に傾いて砂浜はやや暮れはじめていた。小《こ》坪《つぼ》の鼻の崕《がけ》の上に若葉に包まれてたった一軒建てられた西洋人の白ペンキ塗りの別荘が、夕日を受けて緑色に染めたコケットの、髪の中のダイヤモンドのように輝いていた。その崕下の民家からは炊《すい》煙《えん》が夕《ゆう》靄《もや》といっしょになって海の方にたなびいていた。波打ちぎわの砂はいいほどに湿って葉子の吾妻《あずま》下《げ》駄《た》の歯を吸った。二人は別荘から散歩に出て来たらしい幾組かの上品な男女の群れと出遇ったが、葉子は自分の容貌なり服装なりが、そのどの群れのどの人にも立ち勝《まさ》っているのを意識して、軽い誇りと落ち着きを感じていた。倉地もそういう女を自分の伴《はん》侶《りよ》とするのをあながち無頓着には思わぬらしかった。
「誰かひょんな人に遇うだろうと思っていましたがうまく誰にも遇わなかってね。向こうの小坪の人家の見えるところまで行きましょうね。そうして光明寺《*》の桜を見て帰りましょう。そうするとちょうどお腹がいい空《す》き具合になるわ」
倉地はなんとも答えなかったが、むろん承知でいるらしかった。葉子はふと海の方を見て倉地にまた口を切った。
「あれは海ね」
「仰《おお》せのとおり」
倉地は葉子がときどきとてつもなくわかりきったことを少女みたいな無邪気さで言う、またそれが始まったというように渋そうな笑いを片頬に浮かべてみせた。
「私もう一度あの真中心《まつただなか》に乗り出してみたい」
「してどうするのだい」
倉地もさすが長かった海の上の生活を遠く思いやるような顔をしながら言った。
「ただ乗り出してみたいの。どーっと見《み》界《さか》いもなく吹きまく風の中を、大波に思い存分揺られながら、転覆《ひつくりか》えりそうになっては立てなおって切り抜けて行くあの船の上のことを思うと、胸がどきどきするほどもう一度乗ってみたくなりますわ。こんなところ嫌《い》やねえ、住んでみると」
そう言って葉子はパラソルを開いたまま柄《え》の先で白い砂をざくざくと刺し通した。
「あの寒い晩のこと、私が甲板の上で考え込んでいた時、あなたが灯をぶら下げて岡さんを連れて、やっていらしったあの時のことなどを私はわけもなく思い出しますわ。あの時私は海でなければ聞けないような音楽を聞いていましたわ。陸《おか》の上にはあんな音楽は聞こうといったってありやしない。おーい、おーい、おい、おい、おい、おーい……あれは何?」
「なんだそれは」
倉地は怪《け》訝《げん》な顔をして葉子を振り返った。
「あの声」
「どの」
「海の声……人を呼ぶような……お互いで呼び合うような」
「なんにも聞こえやせんじゃないか」
「その時聞いたのよ……こんな浅いところでは何が聞こえますものか」
「俺は永年海の上で暮らしたが、そんな声は一度だって聞いたことはないわ」
「そうお。不思議ね。音楽の耳のない人には聞こえないのかしら。……確かに聞こえましたよ、あの晩に……それは気味の悪いようなものすごいような……いわばね、いっしょになるべきはずなのにいっしょになれなかった……その人たちが幾億万と海の底に集まっていて、めいめい死にかけたような低い音で、おーい、おーいと呼び立てる、それがいっしょになってあんなぼんやりした大きな声になるかと思うようなそんな気味の悪い声なの……どこかで今でもその声が聞こえるようよ」
「木村がやっているのだろう」
そう言って倉地は高々と笑った。葉子は妙に笑えなかった。そしてもう一度海の方を眺めやった。眼も届かないような遠くの方に、大島が山の腰から下は夕《ゆう》靄《もや》にぼかされてなくなって、上の方だけがへの字を描いてぼんやりと空に浮かんでいた。
二人はいつか滑《なめり》川《がわ》の川口のところまで来着いていた。稲《いな》瀬《せ》川《がわ》を渡る時、倉地は、横浜埠《ふ》頭《とう》で葉子にまつわる若者にしたように、葉子の上体を右手に軽々とかかえて、苦もなく細い流れを跳《おど》り越してしまったが、滑川のほうはそうはいかなかった。二人は川幅の狭そうなところを尋ねてだんだん上流の方に流れに沿うて上って行ったが、川幅は広くなって行くばかりだった。
「めんどうくさい、帰りましょう」
大きなことを言いながら、光明寺までには半分道も来ないうちに、下駄全体が滅《め》入《い》りこむような砂道で疲れ果ててしまった葉子はこう言いだした。
「あすこに橋が見える。とにかくあすこまで行ってみようや」
倉地はそう言って海岸線に沿うてむっくり盛れ上がった砂丘の方に続く砂道を昇り始めた。葉子は倉地に手を引かれて息気《いき》をせいせい言わせながら、筋肉が強直するように疲れた足を運んだ。自分の健康の衰退が今さらにはっきり思わせられるようなそれは疲れ方だった。今にも破裂するように心臓が鼓動した。
「ちょっと待って弁《べん》慶《けい》蟹《がに》を踏みつけそうで歩けやしませんわ」
そう葉子は申しわけらしく言って幾度か足を停《と》めた。実際その辺には紅い甲《こう》良《ら》を背負った小さな蟹がいかめしい鋏《はさみ》を上げて、ざわざわと音を立てるほどおびただしく横行していた。それがいかにも晩春の夕暮れらしかった。
砂丘を上りきると材木座の方に続く道路に出た。葉子はどうも不思議な心持ちで、浜から見えていた乱《みだれ》橋《ばし》の方に行く気になれなかった。しかし倉地がどんどんそっちに向いて歩きだすので、少しすねたようにその手に取りすがりながらもつれ合って人《ひと》気《け》のないその橋の上まで来てしまった。
橋の手前の小さな掛け茶屋には主人の婆《ばあ》さんが葭《よし》で囲った薄暗い小部屋の中で、こそこそと店をたたむしたくでもしているだけだった。
橋の上から見ると、滑川の水は軽く薄濁って、また芽を吹かない両岸の枯れ葦《あし》の根を静かに洗いながら音も立てずに流れていた。それが向こうに行くと吸い込まれたように砂の盛れ上がった後ろに隠れて、またその先に光って現われて、穏やかなリズムを立てて寄せ返す海辺の波の中に溶けこむように注いでいた。
ふと葉子は眼の下の枯葦の中に動くものがあるのに気がついて見ると、大きな麦《むぎ》桿《わら》の海水帽を被って、杭《くい》に腰かけて、釣《つり》竿《ざわ》を握った男が、帽子の庇《ひさし》の下から眼を光らして葉子をじっと見つめているのだった。葉子は何の気なしにその男の顔を眺めた。
木部孤《こ》〓《きよう》だった。
帽子の下に隠れているせいか、その顔はちょっと見忘れるくらい年がいっていた。そして服装からも、様子からも、落《らく》魄《はく》というような一種の気分が漂っていた。木部の顔は仮面のように冷然としていたが、釣竿の先は不注意にも水に浸って、釣糸が女の髪の毛を流したように水に浮いて軽く震えていた。
さすがの葉子も胸をどきんとさせて思わず身を退《しざ》らせた。「おーい、おい、おい、おい、おーい」………それがその瞬間に耳の底をすーっと通ってすーっと行方《ゆくえ》も知らず過ぎ去った。怯《お》ず怯《お》ずと倉地を窺《うかが》うと、倉地は何事も知らぬげに、暖かに暮れて行く青空を振り仰いで眼いっぱいに眺めていた。
「帰りましょう」
葉子の声は震えていた。倉地はなんの気なしに葉子を顧みたが、
「寒くでもなったか、唇《くちびる》が白いぞ」
と言いながら欄《らん》干《かん》を離れた。二人がその男に後ろを見せて五、六歩歩み出すと、
「ちょっとお待ちください」
と言う声が橋の下から聞こえた。倉地ははじめてそこに人のいたのに気がついて、眉をひそめながら振り返った。ざわざわと葦を分けながら小路を登って来る跫《あし》音《おと》がして、ひょっこり眼の前に木部の姿が現われ出た。葉子はその時はしかしすべてに対する身構えを十分にしてしまっていた。
木部は少し馬鹿丁寧なくらいに倉地に対して帽子を取ると、すぐ葉子に向いて、
「不思議なところでお目にかかりましたね、しばらく」
と言った。一年前の木部から想像してどんな激情的な口調で呼びかけられるかもしれないと危ぶんでいた葉子は、案外冷淡な木部の態度に安心もし、不安も感じた。木部はどうかすると居なおるようなことをしかねない男だと葉子はかねて思っていたからだ。しかし木部ということを先方から言い出すまでは包めるだけ倉地には事実を包んでみようと思って、ただにこやかに、
「こんなところでお目にかかろうとは……私も本当に驚いてしまいました。でもまあ本当にお珍しい……ただいまこちらの方にお住まいでございますの?」
「住まうというほどもない……くすぶりこんでいますよハハハハ」
と木部は虚《うつ》ろに笑って、鍔《つば》の広い帽子を書生っぽらしく阿《あ》弥《み》陀《だ》に被った。と思うとまた急いで取って、
「あんなところからいきなり飛び出して来てこうなれなれしく早月さんにお話をしかけて変にお思いでしょうが、僕はくだらんやくざ者で、それでも元は早月家にはいろいろごやっかいになった男です。申し上げるほどの名もありませんから、まあ御覧のとおりの奴です。……どちらにおいでです」
と倉地に向いて言った。その小さな眼には勝《すぐ》れた才気と、敗《ま》け嫌《ぎら》いらしい気象とがほとばしってはいたけれども、じじむさい顎《あご》髭《ひげ》と、伸びるままに伸ばした髪の毛とで、葉子でなければその特長は見えないらしかった。倉地はどこの馬の骨かと思うような調子で、自分の名を名乗ることはもとよりせずに、軽く帽子を取ってみせただけだった。そして、
「光明寺の方へでも行ってみようかと思ったのだが、河が渡れんで……この橋を行っても行かれますだろう」
三人は橋の方を振り返った。真直《まつす》ぐな土《ど》堤《て》道《みち》が白く山のきわまで続いていた。
「行けますがね、それは浜伝いのほうが趣がありますよ。防風草《ぼうふ*》でも摘みながらいらっしゃい。河も渡れます、御案内しましょう」
と言った。葉子は一《いつ》時《とき》も早く木部から遁《のが》れたくもあったが、同時にしんみりと一別以来のことなどを語り合ってみたい気もした。いつか汽車の中で遇ってこれが最後の対面だろうと思った、あの時からすると木部はずっとさばけた男らしくなっていた。その服装がいかにも生活の不規則なのと窮迫しているのを思わせると、葉子は親身な同情にそそられるのを拒《こば》むことができなかった。
倉地は四、五歩先立って、その後から葉子と木部とは間を隔てて並びながら、また弁慶蟹のうざうざいる砂道を浜の方に降りて行った。
「あなたのことはたいてい噂《うわさ》や新聞で知っていましたよ……人間てものはおかしなもんですね。……私はあれから落《らく》伍《ご》者《しや》です。何をしてみても成り立ったことはありません。妻も子供も里に返してしまって今は一人でここに放浪しています。毎日釣をやってね……ああやって水の流れを見ていると、それでも晩飯の酒の肴《さかな》くらいなものは釣れてきますよハハハハハ」
木部はまた虚《うつ》ろに笑ったが、その笑いの響きが傷口にでもこたえたように急に黙ってしまった。砂に喰《く》い込む二人の下駄の音だけが聞こえた。
「しかしこれでいて全くの孤独でもありませんよ。ついこの間から知り合いになった男だが、砂山の砂の中に酒を埋めておいて、ぶらりとやって来てそれを飲んで酔うのを楽しみにしているのと知り合いになりましてね……そいつの人生観《ライフ・フイロソフイー》が馬鹿におもしろいんです。徹底した運命論者ですよ。酒を呑んで運命論を吐くんです。まるで仙人ですよ」
倉地はどんどん歩いて二人の話し声が耳に入らぬくらい遠ざかった。葉子は木部の口から例の感傷的な言葉が今出るか今出るかと思って待っていたけれども、木部にはいささかもそんなふうはなかった。笑いばかりでなく、すべてに虚《うつ》ろな感じがするほど無感情に見えた。
「あなたは本当に今何をなさっていらっしゃいますの」
と葉子は少し木部に近よって尋ねた。木部は近寄られただけ葉子から遠《とお》退《の》いてまた虚ろに笑った。
「何をするもんですか。人間に何ができるもんですか。……もう春も末になりましたね」
とてつもない言葉を強いてくっつけて木部はそのよく光る眼で葉子を見た。そしてすぐその眼を返して、遠ざかった倉地をこめて遠く海と空との境目に眺め入った。
「私あなたとゆっくりお話がしてみたいと思いますが……」
こう葉子はしんみり窃《ぬす》むように言ってみた。木部は少しもそれに心を動かされないように見えた。
「そう……それもおもしろいかな。……私はこれでも時おりはあなたの幸福を祈ったりしていますよ、おかしなもんですね、ハハハハ(葉子がその言葉につけ入って何か言おうとするのを木部はゆうゆうとおっかぶせて)あれが、あすこに見えるのが大島です。ぽつんと一つ雲が何かのように見えるでしょう空に浮いて……大島って伊豆の先の離れ島です、あれが私の釣をするところから正面に見えるんです。あれでいて、日によって色がさまざまに変わります。どうかすると噴煙がぽーっと見えることもありますよ」
また言葉がぽつんと切れて沈黙が続いた。下駄の音のほかに波の音もだんだんと近く聞こえだした。葉子はただただ胸が切なくなるのを覚えた。もう一度どうしてもゆっくり木部に遇いたい気になっていた。
「木部さん……あなたさぞ私を恨んでいらっしゃいましょうね。……けれども私あなたにどうしても申し上げておきたいことがありますの。なんとかして一度私に会ってくださいません? そのうちに。私の番地は……」
「お会いしましょう『そのうちに』……そのうちにはいい言葉ですね……そのうちに……。話があるからと女に言われた時には、話を期待しないで抱擁か虚無かを覚悟しろって名言がありますぜ、ハハハハハ」
「それはあんまりなおっしゃり方ですわ」
葉子はきわめて冗談のようにまたきわめてまじめのようにこう言ってみた。
「あんまりかあんまりでないか……とにかく名言には相違ありますまい、ハハハハハ」
木部はまた虚《うつ》ろに笑ったが、また痛いところにでも触れたように突然笑いやんだ。
倉地は波打ちぎわ近くまで来ても渡れそうもないので遠くからこっちを振り向いて、むずかしい顔をして立っていた。
「どれお二人に橋渡しをして上げましょうかな」
そう言って木部は川辺の葦を分けてしばらく姿を隠していたが、やがて小さな田《た》舟《ぶね》に乗って竿《さお》をさして現われて来た。その時葉子は木部が釣道具を持っていないのに気がついた。
「あなた釣竿は」
「釣竿ですか……釣竿は水の上に浮いてるでしょう。いまにここまで流れて来るか……来ないか……」
そう応《こた》えて案外上手に舟を漕《こ》いだ。倉地は行き過ぎただけを忙《いそ》いで取って返して来た。そして三人は危かしく立ったまま舟に乗った。倉地は木部の前もかまわず脇の下に手を入れて葉子を抱えた。木部は冷然として竿を取った。三突きほどで他愛なく舟は向う岸に着いた。倉地が逸《いち》早《はや》く岸に飛び上がって、手を延ばして葉子を助けようとした時、木部が葉子に手を貸していたので、葉子はすぐにそれをつかんだ。思いきり力を籠めたためか、木部の手が舟を漕いだためだったか、とにかく二人の手は握り合わされたまま小刻みに烈しく震えた。
「やっ、どうもありがとう」
倉地は葉子の上陸を助けてくれた木部にこう礼を言った。
木部は舟からは上がらなかった。そして鍔《つば》広《ひろ》の帽子を取って、
「それじゃこれでお別れします」
と言った。
「暗くなりましたから、お二人とも足もとに気をおつけなさい。さようなら」
とつけ加えた。
三人は相当の挨拶を取り交わして別れた。一町ほど来てから急に行くてが明るくなったので、見ると光明寺裏の山の端《は》に、夕月が濃い雲の切れ目から姿を見せたのだった。葉子は後ろを振り返ってみた。紫色に暮れた砂の上に木部が舟を葦《あし》間《ま》に漕《こ》ぎ返して行く姿が影絵のように黒く眺められた。葉子は白《しろ》琥《こ》珀《はく》のパラソルをぱっと開いて、倉地にはいたずらに見えるように振り動かした。
三、四町来てから倉地が今度は後ろを振り返った。もうそこには木部の姿はなかった。葉子はパラソルをたたもうとして思わず涙ぐんでしまっていた。
「あれはいったい誰だ」
「誰だっていいじゃありませんか」
暗さにまぎれて倉地に涙は見せなかったが、葉子の言葉は痛ましく疳《かん》走《ばし》っていた。
「ローマンスのたくさんある女はちがったものだな」
「ええ、そのとおり……あんな乞《こ》食《じき》みたいな見っともない恋人を持ったことがあるのよ」
「さすがはお前だよ」
「だから愛想が尽きたでしょう」
突如としてまた言いようのない淋しさ、哀《かな》しさ、口惜しさが暴風のように襲ってきた。また来たと思ってもそれはもう遅かった。砂の上に突っ伏して、今にも絶え入りそうに身もだえする葉子を、倉地は聞こえぬ程度に舌打ちしながら介抱せねばならなかった。
その夜旅館に帰ってからも葉子はいつまでも眠らなかった。そこに来て働く女中たちを一人一人つっけんどんにきびしくたしなめた。しまいには一人として寄りつくものがなくなってしまうくらい。倉地も始めのうちはしぶしぶつき合っていたが、ついには勝手にするがいいと言わんばかりに座敷を代えてひとりで寝てしまった。
春の夜はただ、こともなくしめやかに更《ふ》けて行った。遠くから聞こえて来る蛙の鳴き声のほかには、日朝様の森あたりで啼《な》くらしい梟《ふくろう》の声がするばかりだった。葉子とはなんの関係もない夜鳥でありながら、その声には人を馬鹿にしきったような、それでいて聞くに堪えないほど淋しい響きが潜んでいた。ほう、ほう……ほう、ほうほうと間遠に単調に同じ木の枝と思わしいところから聞こえていた。人々が寝《ね》鎮《しず》まってみると、憤《ふん》怒《ぬ》の情はいつか消え果てて、言いようのない寂《せき》寞《ばく》がその後に残った。
葉子のすること言うことは一つ一つ葉子を倉地から引き離そうとするものばかりだった。今夜も倉地が葉子から待ち望んでいたものを葉子は明らかに知っていた。しかも葉子はわけのわからない怒りに任せて自分の思うままに振舞った結果、倉地には不快極まる失望を与えたに違いない。こうしたままで日がたつに従って、倉地はいやおうなしにさらに新しい性的興味の対象を求めるようになるのは目前のことだ。現に愛子はその候補者の一人として倉地の眼には映り始めているのではないか。葉子は倉地との関係を始めから考えたどってみるにつれて、どうしても間違った方向に深入りしたのを悔いないではいられなかった。しかし倉地を手なずけるためにはあの道を択《えら》ぶよりしかたがなかったようにも思える。倉地の性格に欠点があるのだ。そうではない。倉地に愛を求めて行った自分の性格に欠点があるのだ。……そこまで理屈らしく理屈をたどってきてみると、葉子は自分というものが踏みにじっても飽き足りないほどいやな者に見えた。
「なぜ私は木部を捨て木村を苦しめなければならないのだろう。なぜ木部を捨てた時に私は心に望んでいるような道をまっしぐらに進んで行くことができなかったのだろう。私を木村に強いて押しつけた五十《いそ》川《がわ》の小母さんは悪い……私の恨みはどうしても消えるものか。……と言っておめおめとその策略に乗ってしまった私はなんというふがいない女だったのだろう。倉地にだけは私は失望したくないと思った。今までのすべての失望をあの人で全部取り返してまだ余りきるような喜びを持とうとしたのだった。私は倉地とは離れてはいられない人間だと確かに信じていた。そして私の持ってるすべてを……醜いもののすべてをも倉地に与えて悲しいとも思わなかったのだ。私は自分の命を倉地の胸にたたきつけた。それだのに今は何が残っている……何が残っている……。今夜かぎり私は倉地に見放されるのだ。この部屋を出て行ってしまった時の冷淡な倉地の顔!……私は行こう。これから行って倉地に詫《わ》びよう、奴隷のように畳に頭をこすりつけて詫びよう……そうだ。……しかし倉地が冷酷な顔をして私の心を見も返らなかったら……私は生きてる間にそんな倉地の顔を見る勇気はない。……木部に詫びようか……木部は居所さえ知らそうとはしないのだもの……」
葉子は痩《や》せた肩を痛ましく震わして、倉地から絶縁されてしまったもののように、淋しく哀《かな》しく涙の枯れるかと思うまで泣くのだった。静まりきった夜の空気の中に、ときどき鼻をかみながらすすり上げすすり上げ泣き伏す痛ましい声だけが聞こえた。葉子は自分の声につまされてなおさら悲哀から悲哀のどん底に沈んで行った。
ややしばらくしてから葉子は決心するように、手近にあった硯《すずり》箱《ばこ》と料紙とを引き寄せた。そして震える手先を強いて繰りながら簡単な手紙を乳母《うば》にあてて書いた。それには乳母とも定子とも断然縁を切るから以後他人と思ってくれ。もし自分が死んだらここに同封する手紙を木部のところに持って行くがいい。木部はきっとどうしてでも定子を養ってくれるだろうからという意味だけを書いた。そして木部あての手紙には、
「定子はあなたの子です。その顔を一目御覧になったらすぐおわかりになります。私は今まで意地からも定子は私一人の子で私一人のものとするつもりでいました。けれども私が世にないものとなった今は、あなたはもう私の罪を許してくださるかとも思います。せめては定子を受け入れてくださいましょう。
葉子の死んだ後
隣れなる定子のママより
定子のお父様へ」
と書いた。涙は巻紙の上にとめどなく落ちて字をにじました。東京に帰ったら溜《た》めておいた預金の全部を引き出してそれを為替《かわせ》にして同封するために封を閉じなかった。
最後の犠牲……今までと《ヽ》つ《ヽ》お《ヽ》い《ヽ》つ《ヽ*》捨てかねていた最愛のものを最後の犠牲にしてみたら、たぶんは倉地の心がもう一度自分に戻って来るかもしれない。葉子は荒《あら》神《がみ》に最愛のものを生牲《いけにえ》として願いを聴《き》いてもらおうとする太古の人のような必死な心になっていた。それは胸を張り裂くような犠牲だった。葉子は自分の眼からも英雄的に見えるこの決心に感激してまた新しく泣きくずれた。
「どうか、どうか、……どうーか」
葉子は誰にともなく手を合わして、一心に念じておいて、雄々しく涙を押し拭《ぬぐ》うと、そっと座を立って、倉地の寝ている方へと忍びよった。廊下の明りは大半消されているので、ガラス窓からおぼろにさし込む月の光がたよりになった。廊下の半分がた燐《りん》の燃えたようなその光の中を、痩せ細っていっそう背《せ》丈《た》けの伸びて見える葉子は、影が歩むように音もなく静かに歩みながら、そっと倉地の部屋の襖《ふすま》を開いて中にはいった。薄暗く点《とも》った有明けの下に倉地は何事も知らぬげに快く眠っていた。葉子はそっとその枕もとに座を占めた。そして倉地の寝顔を見守った。
葉子の眼にはひとりでに涙が湧《わ》くようにあふれ出て、厚ぼったいような感じになった唇は我れにもなくわなわなと震えてきた。葉子はそうしたままで黙ってなおも倉地を見続けていた。葉子の眼に溜《たま》った涙のために倉地の姿は見る見るにじんだように輪《りん》廓《かく》がぼやけてしまった。葉子は今さら人が違ったように心が弱って、受け身にばかりならずにはいられなくなった自分が悲しかった。なんという情けない可哀そうなことだろう。そう葉子はしみじみと思った。
だんだん葉子の涙はすすり泣きに代わって行った。倉地が眠りの中でそれを感じたらしく、うるさそうに呻《うめ》き声を小さく立てて寝返りを打った。葉子はぎょっとして息気《いき》をつめた。
しかしすぐすすり泣きはまた帰って来た。葉子は何事も忘れ果てて、倉地の床の側にきちんとすわったままいつまでもいつまでも泣き続けていた。
三八
「何をそう怯《お》ず怯《お》ずしているのかい。そのボタンを後ろにはめてくれさえすればそれでいいのだに」
倉地は倉地にしては特にやさしい声でこう言った、ワイシャツを着ようとしたまま葉子に背を向けて立ちながら。葉子はとんでもない失策でもしたように、シャツの背部につけるカラーボタンを手に持ったままおろおろしていた。
「ついシャツを仕替える時それだけ忘れてしまって……」
「言いわけなんぞはいいわい。早く頼む」
「はい」
葉子はしとやかにそう言って寄り添うように倉地に近寄ってそのボタンをボタン孔《あな》に入れようとしたが、糊《のり》が硬《こわ》いのと、気おくれがしているのでちょっとははいりそうになかった。
「済みませんがちょっと脱いでくださいましな」
「めんどうだな、このままでできようが」
葉子はもう一度試みた。しかし思うようにはいかなかった。倉地はもう明らかにいらいらしだしていた。
「だめか」
「まあちょっと」
「出せ、貸せ俺に。なんでもないことだに」
そう言ってくるりと振り返ってちょっと葉子をにらみつけながら、ひったくるようにボタンを受け取った。そしてまた葉子に後ろを向けて自分でそれを嵌《は》めようとかかった。しかしなかなかうまくいかなかった。見る見る倉地の手は烈しく震えだした。
「おい、手伝ってくれてもよかろうが」
葉子があわてて手を出すとはずみにボタンは畳の上に落ちてしまった。葉子がそれを拾おうとする間もなく、頭の上から倉地の声が雷のように鳴り響いた。
「馬鹿! 邪魔をしろと言いやせんぞ」
葉子はそれでもどこまでも優しく出ようとした。
「ごめんくださいね、私お邪魔なんぞ……」
「邪魔よ。これで邪魔でなくてなんだ……ええ、そこじゃありゃせんよ。そこに見えとるじゃないか」
倉地は口を尖《とが》らして顎《あご》を突き出しながら、どしんと足を挙げて畳を踏み鳴らした。
葉子はそれでも我慢した。そしてボタンを拾って立ち上がると倉地はもうワイシャツを脱ぎ捨てているところだった。
「胸糞の悪い……おい日本服を出せ」
「襦《じゆ》袢《ばん》の襟がかけずにありますから……洋服で我慢してくださいましね」
葉子は自分が持っていると思うほどの媚《こ》びをある限り眼に集めて嘆願するようにこう言った。
「お前には頼まんまでよ……愛ちゃん」
倉地は大きな声で愛子を呼びながら階下の方に耳を澄ました。葉子はそれでも根かぎり我慢しようとした。階子段をしとやかに昇って愛子がいつものように柔順に部屋にはいって来た。倉地は急に相《そう》好《ごう》をくずしてにこやかになっていた。
「愛ちゃん頼む、シャツにそのボタンをつけておくれ」
愛子は何事の起こったかを露知らぬような顔をして、男の肉感をそそるような堅肉《かたじし》の肉体を美しく折り曲げて、雪白のシャツを手に取り上げるのだった。葉子がちゃんと倉地にかしずいてそこにいるのを全く無視したようなずうずうしい態度が、ひがんでしまった葉子の眼には憎々しく映った。
「よけいなことをおしでない」
葉子はとうとうかっとなって愛子をたしなめながらいきなり手にあるシャツをひったくってしまった。
「貴様は……俺が愛ちゃんに頼んだになぜよけいなことをしくさるんだ」
とそう言って威《い》丈《たけ》高《だか》になった倉地には葉子はもう眼もくれなかった。愛子ばかりが葉子の眼には見えていた。
「お前は下にいればそれでいい人間なんだよ。おさんどんの仕事もろくろくできはしないくせによけいなところに出しゃばるもんじゃないことよ。……下に行っておいで」
愛子はこうまで姉にたしなめられても、逆《さから》うでもなく怒るでもなく、黙ったまま柔順に、多恨な眼で姉をじっと見て静々とその座をはずしてしまった。
こんなもつれ合ったいさかいがともすると葉子の家で繰り返されるようになった。ひとりになって気が鎮《しず》まると葉子は心の底から自分の狂暴な振舞いを悔いた。そして気を取りなおしたつもりでどこまでも愛子をいたわってやろうとした。愛子に愛情を見せるためには義理にも貞世につらく当たるのが当然だと思った。そして愛子の見ている前で、愛するものが愛する者を僧んだ時ばかりに見せる残虐な呵《か》責《しやく》を貞世に与えたりした。葉子はそれが理不尽極まることだとは知っていながら、そう偏《へん》頗《ぱ》に傾いてくる自分の心持ちをどうすることもできなかった。それのみならず葉子には自分の鬱《うつ》憤《ぷん》を漏らすための対象がぜひ一つ必要になってきた。人でなければ動物、動物でなければ草木、草木でなければ自分自身に何かなしに傷害を与えていなければ気が休まなくなった。庭の草などをつかんでいる時でも、ふと気がつくと葉子はしゃがんだまま一茎の名もない草をたった一本摘みとって、眼に涙をいっぱい溜めながら爪の先でずたずたに切り虐《さいな》んでいる自分を見いだしたりした。
同じ衝動は葉子を駆《か》って倉地の抱擁に自分自身を思い存分虐《しいた》げようとした。そこには倉地の愛を少しでも多く自分に繋《つな》ぎたい欲求も手伝ってはいたけれども、倉地の手で極度の苦涌を感ずることに不満足極まる満足を見いだそうとしていたのだ。精神も肉体もはなはだしく病に蝕《むしば》まれた葉子は抱擁によっての有頂天な歓楽を味わう資格を失ってからかなり久しかった。そこにはただ地獄のような呵責があるばかりだった。すべてが終わってから葉子に残るものは、嘔《おう》吐《と》を催すような肉体の苦痛と、強いて自分を忘我に誘おうともがきながら、それが裏切られて無益に終わった、その後に襲って来る唾《だ》棄《き》すべき倦《けん》怠《たい》ばかりだった。倉地が葉子のその悲惨な無感覚を分け前してたとえようもない憎悪を感ずるのはもちろんだった。葉子はそれを知るとさらに言い知れないたよりなさを感じてまた烈《はげ》しく倉地に挑《いど》みかかるのだった。倉地は見る見る一歩一歩葉子から離れて行った。そしてますますその気分は荒《すさ》んで行った。
「貴様は俺に厭《あ》きたな。男でも作りおったんだろう」
そう唾でも吐き捨てるようにいまいましげに倉地があらわに言うような日も来た。
「どうすればいいんだろう」
そう言って額のところに手をやって頭痛を忍びながら葉子はひとり苦しまねばならなかった。
ある日葉子は思いきってひそかに医師を訪れた。医師は手もなく、葉子のすべての悩みの原因は子宮後屈症と子宮内膜炎とを併発しているからだと言って聞かせた。葉子はあまりにわかりきったことを医師がさも知ったかぶりに言って聞かせるようにも、またそののっぺりした白い顔が、恐ろしい運命が葉子に対して装うた仮面で、葉子はその言葉によって真暗な行くてを明らかに示されたようにも思った。そして怒りと失望とを抱きながらその家を出た。帰途葉子は本屋に立ち寄って婦人病に関する大部な医書を買い求めた。それは自分の病症に関する徹底的な知識を得ようためだった。家に帰ると自分の部屋に閉じ籠《こも》ってすぐだいたいを読んでみた。後屈症は外科手術を施して位置矯《きよう》正《せい》をすることによって、内膜炎は内膜炎を抉《けつ》掻《そう》することによって、それが器械的の発病である限り全治の見込みはあるが、位直矯正の場合などに施《し》術《じゆつ》者《しや》の不注意から子宮底に穿《せん》孔《こう》を生じた時などには、往々にして激烈な腹膜炎を結果する危険が伴わないでもないなどと書いてあった。葉子は倉地に事情を打ち明けて手術を受けようかとも思った。ふだんならば常識がすぐそれを葉子にさせたに違いない。しかし今はもう葉子の神経は極度に脆《ぜい》弱《じやく》になって、あらぬ方向にばかり我れにもなく鋭く働くようになっていた。倉地は疑いもなく自分の病気に愛《あい》想《そ》を尽かすだろう。たといそんなことはないとしても入院の期間に倉地の肉の要求が倉地を思わぬ方に連れて行かないとは誰れが保証できよう。それは葉子の僻《ひが》見《み》であるかもしれない、しかしもし愛子が倉地の注意を牽《ひ》いているとすれば、自分の留守の間に倉地が彼女に近づくのはただ一歩のことだ。愛子があの年であの無経験で、倉地のような野性と暴力とに興味を持たぬのはもちろん、一種の厭悪をさえ感じているのは察せられないではない。愛子はきっと倉地を退けるだろう。しかし倉地には恐ろしい無恥がある。そして一度倉地が女を己《おのれ》の力の下に取りひしいだら、いかなる女も二度と倉地から遁《のが》れることのできないような奇怪の麻酔の力を持っている。思想とか礼儀とかに煩わされない、無尽蔵に強烈で征服的な生のままな男性の力はいかな女をもその本能に立ち帰らせる魔術を持っている。しかもあの柔順らしく見える愛子は葉子に対して生まれるとからの敵意を挟んでいるのだ。どんな可能でも描いてみることができる。そう思うと葉子は我が身で我が身を焼くような未練と嫉妬《しつと》のために前後も忘れてしまった。なんとかして倉地を縛り上げるまでは葉子は甘んじて今の苦痛に堪え忍ぼうとした。
そのころからあの正井という男が倉地の留守を窺《うかが》っては葉子に会いに来るようになった。
「あいつは犬だった。危く手を噛ませるところだった。どんなことがあっても寄せつけるではないぞ」
と倉地が葉子に言い聞かせてから一週間も経《た》たない後に、ひょっこり正井が顔を見せた。なかなかのしゃれ者で、寸分の隙《すき》もない身なりをしていた男が、どこかに貧窮を香《にお》わすようになっていた。カラーには薄《う》っすり汗じみができて、ズボンの膝には焼けこげの小さな孔《あな》が明いたりしていた。葉子が上げる上げないも言わないうちに、懇意ずくらしくどんどん玄関から上がりこんで座敷に通った。そして高価らしい西洋菓子の美しい箱を葉子の眼の前に風呂敷から取り出した。
「せっかくおいでくださいましたのに倉地さんは留守ですから、はばかりですが出なおしてお遊びにいらしってくださいまし。これはそれまでお預かりおきを願いますわ」
そう言って葉子は顔にはいかにも懇意を見せながら、言葉には二の句がつげないほどの冷淡さと強さとを示してやった。しかし正井はしゃあしゃあとして平気なものだった。ゆっくり内《うち》衣嚢《がくし》から巻煙草入れを取り出して、金口を一本つまみ取ると、炭の上に溜《たま》った灰を静かにかき除《の》けるようにして火をつけて、のどかに香のいい煙を座敷に漂わした。
「お留守ですか……それはかえって好都合でした……もう夏らしくなってきましたね、隣の薔薇《ばら》も咲きだすでしょう……遠いようだがまだ去年のことですねえ、お互いさまに太平洋を往ったり来たりしたのは……あのころがおもしろい盛りでしたよ。私たちの仕事もまだにらまれずにいたんでしたから……ときに奥さん」
そう言っておりいって相談でもするように正井は煙草盆を押し退けて膝を乗り出すのだった。人を侮《あなど》ってかかってくると思うと葉子はぐっと癪《しやく》に障《さわ》った。しかし以前のような葉子はそこにはいなかった。もしそれが以前であったら、自分の才気と力量と美《び》貌《ぼう》とに十分の自信を持つ葉子であったら、毛の末ほども自分を失うことなく、優《ゆう》婉《えん》に円滑に男を自分のかけた陥穽《わな》の中に陥れて、自《じ》繩《じよう》自《じ》縛《ばく》の苦い目に遇《あ》わせているに違いない。しかし現在の葉子は他愛もなく敵を手もとまで潜りこませてしまってただいらいらとあせるだけだった。そういう破《は》目《め》になると葉子は存外力のない自分であるのを知らねばならなかった。
正井は膝を乗り出してから、しばらく黙って敏《びん》捷《しよう》に葉子の顔色を窺っていたが、これなら大丈夫と見きわめをつけたらしく、
「少しばかりでいいんです、ひとつ融通してください」
と切り出した。
「そんなことをおっしゃったって、私にどうしようもないくらいは御存じじゃありませんか。それや余人じゃなし、できるものならなんとかいたしますけれども、姉妹三人がどうかこうかして倉地に養われている今日のような境界では、私に何ができましょう。正井さんにも似合わない的《まと》違《ちが》いをおっしゃるのね。倉地なら御相談にもなるでしょうから面と向かってお話しくださいまし。中にはいると私が困りますから」
葉子は取りつく島もないようにと嫌《いや》味《み》な調子でずけずけとこう言った。正井はせせら笑うようにほほえんで金口の灰を静かに灰咲きに落とした。
「もう少しざっくばらんに言ってくださいよ、昨日今日のお交際《つきあい》じゃなし。倉地さんとまずくなったくらいは御承知じゃありませんか。……知っていらっしってそういう口のききかたは少しひど過ぎますぜ、(ここで仮面を取ったように正井は不《ふ》貞《て》腐《くさ》れた態度になった。しかし言葉はどこまでも穏当だった)嫌《きら》われたって私は何も倉地さんをどうしようのこうしようのと、そんな薄情なことはしないつもりです。倉地さんに怪我があれば私だって同罪以上ですからね。……しかし……ひとつなんとかならないもんでしょうか」
葉子の怒りに昂《こう》奮《ふん》した神経は正井のこの一言にすぐおびえてしまった。何もかも倉地の裏面を知り抜いてるはずの正井が、すてばちになったら倉地の身の上にどんな災難が降りかからぬとも限らぬ。そんなことをさせてはとんだことになるだろう。そんなことをさせてはとんだことになる。葉子はますます弱みになった自分を救い出す術《すべ》に困《こう》じ果てていた。
「それを御承知で私のところにいらしったって……たとい私に都合がついたとしたところで、どうしようもありませんじゃないの。なんぼ私だっても、倉地と仲たがえをなさったあなたに倉地の金をなにする……」
「だから倉地さんのものをおねだりはしませんさ。木村さんからもたんまり来ているはずじゃありませんか。その中から……たんとたあ言いませんから、窮境を助けると思ってどうか」
正井は葉子を男たらしと見くびった態度で、情夫を持ってる妾にでも逼《せま》るようなずうずうしい顔色を見せた。こんな押し問答の結果葉子はとうとう正井に三百円ほどの金をむざむざとせびり取られてしまった。葉子はその晩倉地が帰って来た時もそれを言い出す気力はなかった。貯金は全部定子の方に送ってしまって、葉子の手もとにはいくらも残ってはいなかった。
それからというもの正井は一週間とおかずに葉子のところに来ては金をせびった。正井はそのおりおりに、絵島丸のサルンの一隅に陣取って酒と煙草とにひたりながら、何か知らんひそひそ話をしていた数人の人たち――人を見《み》貫《ぬ》く眼の鋭い葉子にもどうしてもその人たちの職業を推察し得なかった数人の人たちの仲間に倉地がはいって始めだした秘密な仕事の巨《こ》細《さい》を漏らした。正井が葉子を脅かすために、その話には誇張が加えられている、そう思って聞いてみても、葉子の胸をひやっとさせることばかりだった。倉地が日清戦争にも参加した事務長で、海軍の人たちにも航海業者にもわりあいに広い交際があるところから、材料の蒐《しゆう》集《しゆう》者《しや》としてその仲間の牛耳を取るようになり、露国や米国に向かって漏らした祖国の軍事上の秘密はなかなか容易ならざるものらしかった。倉地の気分が荒《すさ》んで行くのももっともだと思われるような事柄を数々葉子は聞かされた。葉子はしまいには自分自身を護《まも》るためにも正井の機《き》嫌《げん》を取りはずしてはならないと思うようになった。そして正井の言葉が一語一語思い出されて、夜なぞになると眠らせぬほどに葉子を苦しめた。葉子はまた一つの重い秘密を背負わなければならぬ自分を見いだした。このつらい意識はすぐにまた倉地に響くようだった。倉地はともすると敵の間《かん》謀《ちよう》ではないかと疑うような険しい眼で葉子をにらむようになった。そして二人の間にはまた一つの溝《みぞ》がふえた。
そればかりではなかった。正井に秘密な金を融通するためには倉地からのあてがいだけではとても足りなかった。葉子はありもしないことをまことしやかに書き連ねて木村のほうから送金させねばならなかった。倉地のためならとにもかくにも、倉地と自分の妹たちとが豊かな生活を導くためにならとにもかくにも、葉子は一種の獰《どう》悪《あく》な誇りをもってそれをして、男のためになら何事でもというすてばちな満足を買い得ないではなかったが、その金がたいてい正井の懐《ふとこ》ろに吸収されてしまうのだと思うと、いくら間接には倉地のためだとはいえ葉子の胸は痛かった。木村からは送金のたびごとに相変わらず長い消息が添えられて来た。木村の葉子に対する愛着は日を追うてまさるとも衰える様子は見えなかった。仕事のほうにも手違いや誤算があってはじめの見込みどおりには成功とは言えないが、葉子のほうに送るくらいの金はどうしてでも都合がつくくらいの信用は得ているからかまわず言ってよこせとも書いてあった。こんな信実な愛情と熱意を絶えず示されるこのごろは葉子もさすがに自分のしていることが苦しくなって、思いきって木村にすべてを打ち開けて、関係を絶とうかと思い悩むようなことがときどきあった。その矢先なので、葉子は胸にことさら痛みを覚えた。それがますます葉子の神経をいらだたせて、その病気にも影響した。そして花の五月が過ぎて、青葉の六月になろうとするころには、葉子は痛ましく痩せ細った、眼ばかりどぎつい純然たるヒステリー症の女になっていた。
三九
巡査の制服は一気に夏服になったけれども、その年の気候はひどく不順で、その白服がうらやましいほど暑い時と、気の毒なほど悪冷えのする日が入れ代わり立ち代わり続いた。したがって晴雨も定めがたかった。それがどれほど葉子の健康にさし響いたか知れなかった。葉子は絶えず腰部の不愉快な鈍痛を覚ゆるにつけ、暑くて苦しい頭痛に悩まされるにつけ、何一つ身体に申し分のなかった十代の昔を思い忍んだ。晴雨寒暑というようなものがこれほど気分に影響するものとは思いも寄らなかった葉子は、寝起きの天気を何よりも気にするようになった。今日こそは一日気が晴れ晴れするだろうと思うような日は一日もなかった。今日もまたつらい一日を過ごさねばならぬというその忌まわしい予想だけでも葉子の気分を害《そこな》うには十分過ぎた。
五月の始めごろから葉子の家に通う倉地の足はだんだん遠《とお》退《の》いて、ときどきどこへとも知れぬ旅に出るようになった。それは倉地が葉子のしつっこい挑《いど》みと、激しい嫉妬《しつと》と、理不尽な疳《かん》癖《ぺき》の発作とを避けるばかりだとは葉子自身にさえ思えない節《ふし》があった。倉地のいわゆる事業には何かかなり致命的な内《うち》場《ば》破《わ》れが起こって、倉地の力でそれをどうすることもできないらしいことはおぼろげながらも葉子にもわかっていた。債権者であるか、商売仲間であるか、とにかくそういう者を避けるために不意に倉地が姿を隠さねばならぬらしいことは確かだった。それにしても倉地の疎遠はひたすらに葉子には憎かった。
ある時葉子は激しく倉地に迫ってその仕事の内容をすっかり打ち明けさせようとした。倉地の情人である葉子が倉地の身に大事が降りかかろうとしているのを知りながら、それに助力もし得ないという法はない、そう言って葉子はせがみにせがんだ。
「こればかりは女の知ったことじゃないわい。俺が喰《くら》い込んでもお前にはとばっちりが行くようにはしたくないで、打ち明けないのだ。どこに行っても知らない知らないで一点張りに通すがいいぜ。……二度と聞きたいとせがんでみろ、俺はうそほんなしにお前とは手を切ってみせるから」
その最後の言葉は倉地の平生に似合わない重苦しい響きを持っていた。葉子が息気《いき》をつめてそれ以上をどうしても迫ることができないと断念するほど重苦しいものだった。正井の言葉から判じても、それは女手などでは実際どうすることもできないものらしいので葉子はこれだけは断念して口をつぐむよりしかたがなかった。
堕落と言われようと、不貞と言われようと、他人《ひと》手《で》を待っていてはとても自分の思うような道は開けないと見切りをつけた本能的の衝動から、知らず識《し》らず自分で選び取った道の行くてに眼も眩《くら》むような未来が見えたと有頂天になった絵島丸の上の出来事以来一年もたたないうちに、葉子が命も名も捧げてかかった新しい生活は見る見る土台から腐りだして、もう今は一陣の風さえ吹けば、さしもの高楼ももんどり打って地上に崩《くず》れてしまうと思いやると、葉子はしばしば真剣に自殺を考えた。倉地が旅に出た留守に倉地の下宿に行って「急用ありすぐ帰れ」という電報をその行く先に打ってやる。そして自分は心静かに倉地の寝床の上で刃《やいば》に伏していよう。それは自分の一生の幕切れとしては、いちばんふさわしい行為らしい。倉地の心にもまだ自分に対する愛情は燃えかすれながらも残っている。それがこの最後によって一《いつ》時《とき》なりとも美しく燃え上がるだろう。それでいい、それで自分は満足だ。そう心から涙ぐみながら思うこともあった。
実際倉地が留守のはずのある夜、葉子はふらふらとふだん空想していたその心持ちにきびしく捕えられて前後も知らず家を飛び出したことがあった。葉子の心は緊張しきって天気なのやら曇っているのやら、暑いのやら寒いのやらさらに差別がつかなかった。盛んに羽虫が飛びかわして往来の邪魔になるのをかすかに意識しながら、家を出てから小半町裏坂を下りて行ったが、ふと自分の体が穢《よご》れていて、この三、四日湯にはいらないことを思い出すと、死んだ後の醜さを恐れてそのまま家に取って返した。そして妹たちだけがはいったままになっている湯殿に忍んで行って、さめかけた風呂につかった。妹たちはとうに寝入っていた。手拭い掛けの竹《たけ》竿《ざお》に濡《ぬ》れた手拭いが二筋だけかかっているのを見ると、寝入っている二人の妹のことがひしひしと心に逼《せま》るようだった。葉子の決心はしかしそのくらいのことでは動かなかった。簡単に身じまいをしてまた家を出た。
倉地の下宿近くなった時、その下宿から急ぎ足で出て来る背《せ》丈《た》けの低い丸《まる》髷《まげ》の女がいた。夜のことではあり、その辺は街燈の光も暗いので、葉子にはさだかにそれとわからなかったが、どうも双鶴館の女将《おかみ》らしくもあった。葉子はかっとなって足早にその後をつけた。二人の間は半町とは離れていなかった。だんだん二人の間に距離がちぢまっていって、その女が街燈の下を通る時などに気をつけて見るとどうしても思ったとおりの女らしかった。さては今まであの女を真正直に信じていた自分はまんまと詐《いつわ》られていたのだったか。倉地の妻に対しても義理が立たないから、今夜以後葉子とも倉地の妻とも関係を絶つ。悪く思わないでくれと確かにそう言った、その義《ぎ》侠《きよう》らしい口車にまんまと乗せられて、今まで殊勝な女だとばかり思っていた自分の愚かさはどうだ。葉子はそう思うと眼が廻ってその場に倒れてしまいそうな口惜しさ恐ろしさを感じた。そして女の形を目がけてよろよろとなりながら駈《か》け出した。その時女はその辺に辻《つじ》待《ま》ちをしている車に乗ろうとするところだった。取り遁《に》がしてなるものかと、葉子はひた走りに走ろうとした。しかし足は思うようにはかどらなかった。さすがにその静けさを破って声を立てることもはばかられた。もう十間というくらいのところまで来た時車はがらがらと音を立てて砂利《じやり》道《みち》を動きはじめた。葉子は息気《いき》せき切ってそれに追いつこうとあせったが、見る見るその距離は遠ざかって、葉子は杉森で囲まれた淋《さび》しい暗闇の中にただ一人取り残されていた。葉子はなんということなくその辻車のいたところまで行ってみた。一台よりいなかったので飛び乗って後を追うべき車もなかった。葉子はぼんやりそこに立って、そこに字でも書き残してあるかのように、暗い地面をじっと見つめていた。確かにあの女に違いなかった。背《せい》恰《かつ》好《こう》といい、髷《まげ》の形といい、小刻みな歩きぶりといい、……あの女に違いなかった。旅行に出ると言った倉地は疑いもなくうそを使って下宿にくすぶっているに違いない。そしてあの女を仲人《なこうど》に立てて先妻とのよりを戻そうとしているに決まっている。それになんの不思議があろう。永年連れ添った妻ではないか。可愛い三人の娘の母ではないか。葉子というものに一日一日疎《うと》くなろうとする倉地ではないか。それになんの不思議があろう。……それにしてもあまりと言えばあまりな仕打ちだ。なぜそれならそうと明らかに言ってはくれないのだ。言ってさえくれれば自分にだって恋する男に対しての女らしい覚悟はある。別れるとならば綺麗さっぱりと別れてもみせる。……なんという踏みつけ方だ。なんという恥《はじ》曝《さら》しだ。倉地の妻はおおそれた貞女ぶった顔を震わして、涙を流しながら、「それではお葉さんという方にお気の毒だから、私はもう亡《な》いものと思ってくださいまし……」……見ていられぬ、聞いていられぬ。……葉子という女はどんな女だか、今夜こそは倉地にしっかり思い知らせてやる……。
葉子は酔ったもののようにふらふらした足どりでそこから引き返した。そして下宿屋に来着いた時には、息気《いき》苦しさのために声も出ないくらいになっていた。下宿の女たちは葉子を見ると「またあの気《き》狂《ちが》いが来た」と言わんばかりの顔をして、その夜の葉子のことさらに取りつめた顔色には注意を払う暇《いとま》もなく、その場をはずして姿を隠した。葉子はそんなことには気もかけずにものすごい笑顔でことさららしく帳場にいる男にちょっと頭を下げてみせて、そのままふらふらと階《はし》子《ご》段《だん》を昇って行った。ここが倉地の部屋だというその襖《ふすま》の前に立った時には、葉子は泣き声に気がついて驚いたほど、我知らずすすり上げて泣いていた。身の破滅、恋の破滅は今夜の今、そう思って荒々しく襖を開いた。
部屋の中には案外にも倉地はいなかった。隅《すみ》から隅までかたづいていて、倉地のあの強烈な膚の香《にお》いもさらに残ってはいなかった。葉子は思わずふらふらとよろけて、泣きやんで、部屋の中に倒れこみながらあたりを見廻した。いるに違いないとひとり決《ぎ》めをした自分の妄想が破れたという気は少しも起こらないで、確かにいたものが突然溶けてしまうかどうかしたような気味の悪い不思議さに襲われた。葉子はすっかり気抜けがして、髪も衣《え》紋《もん*》も取り乱したまま横ずわりにすわったきりでぼんやりしていた。
あたりは深山のようにしーんとしていた。ただ葉子の眼の前をうるさく行ったり来たりする黒い影のようなものがあった。葉子は何物という分別もなく初めはただうるさいとのみ思っていたが、しまいにはこらえかねて手を挙げてしきりにそれを追い払ってみた。追い払っても追い払ってもそのうるさい黒い影は眼の前を立ち去ろうとはしなかった。……しばらくそうしているうちに葉子は寒気がするほどぞっと怖《おそ》ろしくなって気がはっきりした。
急に周囲《あたり》には騒がしい下宿屋らしい雑音が聞こえだした。葉子をうるさがらしたその黒い影は見る見る小さく遠ざかって、電燈の周囲をきりきりと舞い始めた。よく見るとそれは大きな黒い夜《よ》蛾《が》だった。葉子は神がかりが離れたようにきょとんとなって、不思議そうに居ずまいを正してみた。
どこまでが真実で、どこまでが夢なんだろう……。
自分の家を出た、それに間違いはない。途中から取って返して風呂をつかった、……なんのために? そんな馬鹿なことをするはずがない。でも妹たちの手拭いが二筋濡れて手拭いかけの竹竿にかかっていた、(葉子はそう思いながら自分の顔を撫でたり、手の甲を調べてみたりした。そして確かに湯にはいったことを知った)それならそれでいい。それから双鶴館の女将の後をつけたのだったが、……あの辺から夢になったのかしらん。あすこにいる蛾をもやもやした黒い影のように思ったりしていたことから考えてみると、いまいましさから自分は思わず背《せ》丈《た》けの低い女の幻影を見ていたのかもしれない。それにしてもいるはずの倉地がいないという法はないが……葉子はどうしても自分のして来たことにはっきり連絡をつけて考えることができなかった。
葉子は……自分の頭ではどう考えてみようもなくなって、ベルを押して番頭に来てもらった。
「あのう、あとでこの蛾を追い出しておいてくださいな……それからね、さっき……と言ったところがどれほど前だか私にもはっきりしませんがね、ここに三十恰《かつ》好《こう》の丸《まる》髷《まげ》を結った女の人が見えましたか」
「こちら様にはどなたもお見えにはなりませんが……」
番頭は怪《け》訝《げん》な顔をしてこう答えた。
「こちら様だろうがなんだろうが、そんなことを聞くんじゃないの。この下宿屋からそんな女の人が出て行きましたか」
「さよう……へ、一時間ばかり前ならお一人お帰りになりました」
「双鶴館のお内儀《かみ》さんでしょう」
図星をさされたろうと言わんばかりに葉子はわざとおうような態度を見せてこう聞いてみた。
「いいえそうじゃございません」
番頭は案外にもそうきっぱりと言いきってしまった。
「それじゃ誰」
「とにかく他のお部屋においでなさったお客様で、手前どもの商売上お名前までは申し上げかねますが」
葉子もこの上の問答の無益なのを知ってそのまま番頭を返してしまった。
葉子はもう何者も信用することができなかった。本当に双鶴館の女将が来たのではないらしくもあり、番頭までが倉地とぐるになっていてしらじらしい虚言《うそ》を吐《つ》いたようにもあった。
何事も当てにはならない。何事もうそから出た誠だ。……葉子は本当に生きていることがいやになった。
……そこまで来て葉子ははじめて自分が家を出て来た本当の目的がなんであるかに気づいた。すべてにつまずいて、すべてに見限られて、すべてを見限ろうとする、苦しみぬいた一つの魂が、虚無の世界の幻の中から消えて行くのだ。そこには何の未練も執着もない。嬉《うれ》しかったことも、悲しかったことも、悲しんだことも、苦しんだことも、畢《ひつ》竟《きよう》は水の上に浮いた泡《あわ》がまたはじけて水に帰るようなものだ。倉地が、死骸になった葉子を見て嘆こうが嘆くまいが、その倉地さえ幻の影ではないか。双鶴館の女将だと思った人が、他人であったように、他人だと思ったその人が、案外双鶴館の女将であるかもしれないように、生きるということがそれ自身幻影でなくってなんであろう。葉子は覚《さ》めきったような、眠りほうけているような意識の中でこう思った。しんしんと底も知らず澄み透った心がただ一つぎりぎりと死の方に働いて行った。葉子の眼には一《ひと》雫《しずく》の涙も宿ってはいなかった。妙に冴《さ》えて落ち着き払った眸《ひとみ》を静かに働かして、部屋の中を静かに見廻していたが、やがて夢遊病者のように立ち上がって、戸棚の中から倉地の寝具を引き出して来て、それを部屋の真中に敷いた。そうしてしばらくの間その上に静かにすわって眼を瞑《つぶ》ってみた。それからまた立ち上がって全く無感情な顔つきをしながら、もう一度戸棚に行って、倉地が始終身近に備えている短銃をあちこちと尋ね求めた。しまいにそれが本箱の引出しの中の幾通かの手紙と、書き損《そこ》ねの書類と、四、五枚の写真とがごっちゃにしまい込んであるその中から現われ出た。葉子は妙に無関心な心特ちでそれを手に取った。そして恐ろしいものを取り扱うようにそれを体から離して右手にぶら下げて寝床に帰った。そのくせ葉子は露《つゆ》ほどもその兇器に怖《おそ》れを懐《いだ》いているわけではなかった。寝床の真中にすわってから短銃を膝《ひざ》の上に置いて手をかけたまましばらく眺めていたが、やがてそれを取り上げると胸のところに持って来て鶏頭を引き上げた。
きりっ
と歯切れのいい音を立てて弾筒が少し回転した。同時に葉子の全身は電気を感じたようにびりっとおののいた。しかし葉子の心は水が澄んだように揺がなかった。葉子はそうしたまま短銃をまた膝の上に置いてじっと眺めていた。
ふと葉子はただ一つし残したことのあるのに気がついた。それがなんであるかを自分でもはっきりとは知らずに、いわば何物かの余儀ない命令に服従するように、また寝床から立ち上がって戸棚の中の本箱の前に行って引出しを開けた。そしてそこにあった写真を丁寧に一枚ずつ取り上げて静かに眺めるのだった。葉子は心ひそかに何をしているんだろうと自分の動作《しうち》を怪しんでいた。
葉子はやがて一人の女の写真を見つめている自分を見いだした。長く長く見つめていた。……そのうちに、白痴がどうかしてだんだん真人間に還《かえ》る時はそうもあろうかと思われるように、葉子の心は静かに静かに自分で働くようになって行った。女の写真を見てどうするのだろうと思った。早く死ななければいけないのだがと思った。いったいその女は誰だろうと思った。……それは倉地の妻の写真だった。そうだ倉地の妻の若い時の写真だ。なるほど美しい女だ。倉地は今でもこの女に未練を持っているだろうか。この妻には三人の可愛い娘があるのだ。「今でもときどき思い出す」そう倉地の言ったことがある。こんな写真がいったいこの部屋なんぞにあってはならないのだが。それは本当にならないのだ。倉地はまだこんなものを大事にしている。この女はいつまでも倉地に帰って来ようと待ち構えているのだ。そしてまだこの女は生きているのだ。……それが幻なものか。生きているのだ、生きているのだ。……死なれるか、それで死なれるか。何が幻だ、何が虚無だ。このとおりこの女は生きているではないか……危うく……危うく自分は倉地を安《あん》堵《ど》させるところだった。そしてこの女を……このまだ生《しよう》のあるこの女を喜ばせるところだった。
葉子は一刹那の違いで死の界《さかい》から救い出された人のように、驚喜に近い表情を顔一面に漲《みなぎ》らして裂けるほど眼を見張って、写真を待ったまま飛び上がらんばかりに突っ立ったが、急に襲いかかるやるせない嫉妬の情と憤怒とに怖ろしい形相になって、歯がみをしながら、写真の一端をくわえて、「いい……」と言いながら、総身の力をこめて真二つに裂くと、いきなり寝床の上にどうと倒れて、ものすごい叫び声を立てながら、涙も流さずに叫びに叫んだ。
店のものがあわてて部屋にはいって来た時には、葉子はしおらしい様子をして、短銃を床の下に隠してしまって、しくしくと本当に泣いていた。
番頭はやむを得ず、てれ隠しに、
「夢でも御覧になりましたか、たいそうなお声だったものですから、つい御案内もいたさず飛び込んでしまいまして」
と言った。葉子は、
「ええ、夢を見ました。あの黒い蛾が悪いんです。早く追い出してください」
そんなわけのわからないことを言って、ようやく涙を押し拭った。
こういう発作を繰り返すたびごとに、葉子の顔は暗くばかりなって行った。葉子には、今まで自分が考えていた生活のほかに、もう一つ不可思議な世界があるように思われてきた。そうしてややともすればその両方の世界に出たり入ったりする自分を見いだすのだった。二人の妹たちはただはらはらして姉の狂暴な振舞いを見守るほかはなかった。倉地は愛子に刃物などに注意しろと言ったりした。
岡の来た時だけは、葉子の機《き》嫌《げん》は沈むようなことはあっても狂暴になることは絶えてなかったので、岡は妹たちの言葉にさして重さを置いていないように見えた。
四〇
六月のある夕方だった。もうたそがれ時で、電燈が点《とも》って、その周囲におびただしく杉森の中から小さな羽虫が集まってうるさく飛び廻り、藪《やぶ》蚊《か》がすさまじく鳴きたてて軒先に蚊柱を立てているころだった。しばらくめで来た倉地が、張出しの葉子の部屋で酒を飲んでいた。葉子は痩せ細った肩を単衣《ひとえ》物《もの》の下に尖《とが》らして、神経的に襟をぐっと掻《か》き合わせて、きちんと膳《ぜん》の側にすわりて、華《きや》車《しや》な団扇《うちわ》で酒の香に寄りたかって来る蚊を追い払っていた。二人の間にはもう元のようにこんこんと泉のごとく湧《わ》き出る話題はなかった。たまに話が少し弾《はず》んだと思うと、どちらかに差しさわるような言葉が飛び出して、ぷつんと会話を杜《と》絶《だ》やしてしまった。
「貞ちゃんやはりだだをこねるか」
一口酒を飲んで、溜《ため》息《いき》をつくように庭の方に向いて気を吐いた倉地は、自分で気分を引き立てながら思い出したように葉子の方を向いてこう尋ねた。
「ええ、しょうがなくなっちまいました。この四、五日ったらことさらひどいんですから」
「そうした時期もあるんだろう。まあたんといびらないでおくがいいよ」
「私ときどき本当に死にたくなっちまいます」
葉子はとてつもなく貞世の噂《うわさ》とは縁もゆかりもないこんなひょんなことを言った。
「そうだ俺もそう思うことがあるて……。落ち目になったら最後、人間は浮き上がるがめんどうになる。船でもが浸水し始めたら埒《らち》はあかんからな。……したが、俺はまたもう一《ひと》反《そ》り反ってみてくれる。死んだ気になって、やれんことは一つもないからな」
「本当ですわ」
そう言った葉子の目はいらいらと輝いて、にらむように倉地を見た。
「正井の奴が来るそうじゃないか」
倉地はまた話題を転ずるようにこう言った。葉子がそうだとさえ言えば、倉地はわりあいに平気で受けて「困った奴に見込まれたものだが、見込まれた以上はしかたがないから、突腹《ひもじ》がらないだけの仕向けをしてやるがいい」と言うに違いないことは、葉子によくわかってはいたけれども、今まで秘密にしていたことをなんとか言われやしないかとの気《き》遣《づか》いのためか、それとも倉地が秘密を持つのならこっちも秘密を持ってみせるぞという腹になりたいためか、自分にもはっきりとはわからない衝動に駆られて、何ということなしに、
「いいえ」
と答えてしまった。
「来ない?……それやお前いいかげんじゃろう」
と倉地はたしなめるような調子になった。
「いいえ」
葉子は頑《がん》固《こ》に言い張ってそっぱを向いてしまった。
「おいその団扇《うちわ》を貸してくれ、煽《あお》がずにいては蚊でたまらん……来ないことがあるものか」
「誰からそんな馬鹿なことお聞きになって?」
「誰からでもいいわさ」
葉子は倉地がまた歯に衣《きぬ》着《き》せた物の言い方をすると思うとかっと腹が立って返辞もしなかった。
「葉ちゃん。俺は女の機嫌を取るために生まれて来はせんぞ。いいかげんを言って甘く見くびるとよくはないぜ」
葉子はそれでも返事をしなかった。倉地は葉子の拗《す》ね方に不快を催したらしかった。
「おい葉子! 正井は来るのか来んのか」
正井の来る来ないは大事ではないが、葉子の虚言を訂正させずにはおかないと言うように、倉地は詰め寄せてきびしく問い迫った。葉子は庭の方にやっていた眼を返して不思議そうに倉地を見た。
「いいえと言ったらいいえとより言いようはありませんわ。あなたの『いいえ』と私の『いいえ』は『いいえ』が違いでもしますかしら」
「酒も何も飲めるか……俺が暇を無理に作ってゆっくりくつろごうと思うて来れば、いらんことに角を立てて……なんの薬になるかいそれが」
葉子はもう胸いっぱい悲しくなっていた。本当は倉地の前に突っ伏して、自分は病気で始終身体が自由にならないのが倉地に気の毒だ。けれどもどうか捨てないで愛し続けてくれ。身体がだめになっても心の続く限りは自分は倉地の情人でいたい。そうよりできない。そこを憐《あわ》れんでせめては心の誠を捧げさしてくれ。もし倉地があからさまに言ってくれさえすれば、元の細君を呼び迎えてくれてもかまわない。そしてせめては自分を憐れんでなり愛してくれ。そう嘆願がしたかったのだ。倉地はそれに感激してくれるかもしれない。俺はお前も愛するが去った妻も捨てるには忍びない。よく言ってくれた。それならお前の言葉に甘えて哀れな妻を呼び迎えよう。妻もさぞお前の黄金のような心には感ずるだろう。俺は妻とは家庭を持とう。しかしお前とは恋を持とう。そう言って涙ぐんでくれるかもしれない。もしそんな場面が起こり得たら葉子はどれほど嬉しいだろう。葉子はその瞬間に、生まれ代わって、正しい生活が開けてくるのにと思った。それを考えただけで胸の中からは美しい涙がにじみだすのだった。けれども、そんな馬鹿を言うものではない、俺の愛しているのはお前一人だ。元の妻などに俺が未練を持っていると思うのが間違いだ。病気があるのならさっそく病院にはいるがいい、費用はいくらでも出してやるから。こう倉地が言わないとも限らない。それはありそうなことだ。その時葉子は自分の心を立ち割って誠を見せた言葉が、情けも容赦も思いやりもなく、踏みにじられ穢《けが》されてしまうのを見なければならないのだ。それは地獄の苛《か》責《しやく》よりも葉子には堪えがたいことだ。たとい倉地が前の態度に出てくれる可能性が九十九あって、後の態度を探りそうな可能性が一つしかないとしても、葉子には思いきって嘆願をしてみる勇気が出ないのだ。倉地も倉地で同じようなことを思って苦しんでいるらしい。なんとかして元のようなかけ隔てのない葉子を見いだして、だんだんと陥って行く生活の窮境の中にも、せめてはしばらくなりとも人間らしい心になりたいと思って、葉子に近づいてきているのだ。それをどこまでも知り抜きながら、そして身につまされて深い同情を感じながら、どうしても面と向かうと殺したいほど憎まないではいられない葉子の心は自分ながら悲しかった。
葉子は倉地の最後の一言でその急所に触れられたのだった。葉子は倉地の眼の前で見る見るしおれてしまった。泣くまいと気張りながら幾度も雄々しく涙を飲んだ。倉地は明らかに葉子の心を感じたらしく見えた。
「葉子! お前はなんでこのごろそうよそよそしくしていなければならんのだ。え?」
と言いながら葉子の手を取ろうとした。その瞬間に葉子の心は火のように怒っていた。
「よそよそしいのはあなたじゃありませんか」
そう知らず知らず言ってしまって、葉子は没《も》義《ぎ》道《どう》に手を引っ込めた。倉地をにらみつける眼からは熱い大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。そして、
「ああ……あ、地獄だ地獄だ」
と心の中で絶望的に切なく叫んだ。
二人の間にはまたもや忌まわしい沈黙が繰り返された。
その時玄関に案内の声が聞こえた。葉子はその声を聞いて古藤が来たのを知った。そして大急ぎで涙を押し拭った。二階から降りて来て取次ぎに立った愛子がやがて六畳の間にはいって来て、古藤が来たと告げた。
「二階にお通ししてお茶でも上げておおき。なんだって今ごろ……御飯時もかまわないで……」
とめんどうくさそうに言ったが、あれ以来来たことのない古藤に遇《あ》うのは、今のこの苦しい圧迫から遁《のが》れるだけでも都合がよかった。このまま続いたらまた例の発作で倉地に愛想を尽かさせるようなことをしでかすにきまっていたから。
「私ちょっと会ってみますからね、あなたかまわないでいらっしゃい。木村のことも探っておきたいから」
そう言って葉子はその座をはずした。倉地は返事一つせずに杯を取り上げていた。
二階に行ってみると、古藤は例の軍服に上等兵の肩章をつけて、胡坐《あぐら》をかきながら貞世と何か話をしていた。葉子は今まで泣き苦しんでいたとは思えぬほど美しい機嫌になっていた。簡単な挨拶を済ますと古藤は例の言うべきことから先に言い始めた。
「ごめんどうですがね、明日定期検閲なところが今度は室内の整《せい》頓《とん》なんです。ところが僕は整頓風呂敷を洗濯しておくのをすっかり忘れてしまってね。今特別に外出を伍長にそっと頼んで許してもらって、これだけ布を買って来たんですが、縁を縫ってくれる人がないんで弱って駈けつけたんです。大急ぎでやっていただけないでしょうか」
「おやすい御用ですともね。愛さん!」
大きく呼ぶと階下にいた愛子が平生に似合わず、あたふたと階《はし》子《ご》段《だん》を昇って来た。葉子はふとまた倉地を念頭に浮かべていやな気持ちになった。しかしそのころ貞世から愛子に愛が移ったかと思われるほど葉子は愛子を大事に取り扱っていた。それは前にも書いたとおり、強いても他人に対する愛情を殺すことによって、倉地との愛がより緊《かた》く結ばれるという迷信のような心の働きから起こったことだった。愛しても愛し足りないような貞世につらく当たって、どうしても気の合わない愛子を虫を殺して大事にしてみたら、あるいは倉地の心が変わってくるかもしれないとそう葉子は何がなしに思うのだった。で、倉地と愛子との間にどんな奇怪な徴候を見つけ出そうとも、念にかけても葉子は愛子を責めまいと覚悟をしていた。
「愛さん古藤さんがね、大急ぎでこの縁を縫ってもらいたいとおっしゃるんだから、あなたして上げてちょうだいな。古藤さん、今下には倉地さんが来ていらっしゃるんですが、あなたはお嫌《きら》いねお遇いなさるのは……そう、じゃこちらでお話でもしますからどうぞ」
そう言って古藤を妹たちの部屋の隣に案内した。古藤は時計を見い見いせわしそうにしていた。
「木村から便りがありますか」
木村は葉子の良人《おつと》ではなく自分の親友だと言ったような風で、古藤はもう木村君とは言わなかった。葉子はこの前古藤が来た時からそれを気づいていたが、今日はことさらその心持ちが目立って聞こえた。葉子はたびたび来ると答えた。
「困っているようですね」
「ええ、少しはね」
「少しどころじゃないようですよ、僕のところに来る手紙によると。なんでも来年に開かれるはずだった博覧会が来々年《さらいねん》に延びたので、木村はまたこの前以上の窮境に陥ったらしいのです。若いうちだからいいようなもののあんな不運な男もすくない。金も送っては来ないでしょう」
なんというぶしつけなことを言う男だろうと葉子は思ったが、あまり言うことにわだかまりがないので皮肉でも言ってやる気にはなれなかった。
「いいえ相変わらず送ってくれますことよ」
「木村っていうのはそうした男なんだ」
古藤は半ばは自分に言うように感激した調子でこう言ったが、平気で仕送りを受けているらしく物を言う葉子にはひどく反感を催したらしく、
「木村からの送金を受け取った時、その金があなたの手を焼きただらかすようには思いませんか」
と激しく葉子をまともに見つめながら言った。そして油で汚《よご》れたような赤い手で、せわしなく胸の真《しん》鍮《ちゆう》釦《ぼたん》をはめたりはずしたりした。
「なぜですの」
「木村は困りきってるんですよ。……本当にあなた考えて御覧なさい……」
勢い込んでなお言い募ろうとした古藤は、襖《ふすま》を明け開いたままの隣の部屋に愛子たちがいるのに気づいたらしく、
「あなたはこの前お眼にかかった時からすると、またひどく痩《や》せましたねえ」
と言葉を反《そ》らした。
「愛さんもうできて?」
と葉子も調子をかえて愛子に遠くからこう尋ね、「いいえまだ少し」と愛子が言うのをしおに葉子はそちらに立った。貞世はひどくつまらなそうな顔をして、机に両《りよう》肘《ひじ》を持たせたまま、ぼんやりと庭の方を見やって、三人の挙動などには眼もくれないふうだった。垣根添いの木の間からは、種々な色の薔薇《ばら》の花が夕闇の中にもちらほらと見えていた。葉子はこのごろの貞世は本当に変だと思いながら、愛子の縫いかけの布を取り上げてみた。それはまだ半分も縫い上げられてはいなかった。葉子の疳《かん》癪《しやく》はぎりぎり募ってきたけれども、強いて心を押し鎮めながら、
「これっぽっち……愛子さんどうしたというんだろう。どれ姉さんにお貸し、そしてあなたは……貞ちゃんも古藤さんのところに行ってお相手をしておいで」
「僕は倉地さんに遇ってきます」
突然後ろ向きの古藤は畳に片手をついて肩越しに向き返りながらこう言った。そして葉子が返事をする暇もなく立ち上がって階子段を降りて行こうとした。葉子はすばやく愛子に眠くばせして、下に案内して二人の用を足してやるようにと言った。愛子は急いで立って行った。
葉子は縫い物をしながら多少の不安を感じた。あのなんの技巧もない古藤と、疳《かん》癖《ぺき》が募りだして自分ながら始末をしあぐねているような倉地とがまともに打《ぶ》突《つ》かり合ったら、どんなことをしでかすかもしれない。木村を手の中に丸めておくことも今日二人の会見の結果でだめになるかもわからないと思った。しかし木村といえば、古藤の言うことなどを聞いていると葉子もさすがにその心根を思いやらずにはいられなかった。葉子がこのごろ倉地に対して持っているような気持ちからは、木村の立場や心持ちがあからさま過ぎるくらい想像ができた。木村は恋するものの本能から遠《とお》に倉地と葉子との関係は了解しているに違いないのだ。了解して一人ぽっちで苦しめるだけ苦しんでいるに違いないのだ。それにもかかわらずその善良な心からどこまでも葉子の言葉に信用を置いて、いつかは自分の誠意が葉子の心に徹するのを、あり得べきことのように思って、苦しい一日一日を暮らしているのに違いない。そしてまた落ち込もうとする窮境の中から血の出るような金を欠かさずに送ってよこす。それを思うと、古藤が言うようにその金が葉子の手を焼かないのは不思議と言っていいほどだった。もっとも葉子であってみれば、木村に醜いエゴイズムを見いださないほどのんきではなかった。木村がどこまでも葉子の言葉を信用してかかっている点にも、血の出るような金を送ってよこす点にも、葉子が倉地に対して持っているよりはもっと冷静な功利的な打算が行なわれていると決めることができるほど木村の心の裏を察していないではなかった。葉子の倉地に対する心持ちから考えると木村の葉子に対する心持ちにはまだ隙があると葉子は思った。葉子がもし木村であったら、どうしておめおめ米国三界にい続けて、遠くから葉子の心を翻す手段を講ずるようなのんきなまねがして済ましていられよう。葉子が木村の立場にいたら、事業を捨てても、乞食になっても、すぐ米国から帰って来ないじゃいられないはずだ。米国から葉子といっしょに日本に引き返した岡の心のほうがどれだけすなおでまことしやかだかしれやしない。そこには生活という問題もある。事業ということもある。岡は生活に対して懸念などする必要はないし、事業というようなものはてんで持ってはいない。木村とはなんと言っても立場が違ってはいる。と言ったところで、木村の持つ生活問題なり事業なりが、葉子といっしょになってから後のことを顧慮してきれていることだとしてみても、そんな気持ちでいる木村にはなんといっても余裕があり過ぎると思わないではいられない物足りなさがあった。よし真《まつ》裸《ぱだか》になるほど、職業から放れて無一文になっていてもいい、葉子の乗って帰って来た船に木村も乗っていっしょに帰って来たら、葉子はあるいは木村を船の中で人知れず殺して海の中に投げ込んでいようとも、木村の記憶は哀《かな》しくなつかしいものとして死ぬまで葉子の胸に刻みつけられていたろうものを。……それはそうに相違ない。それにしても木村は気の毒な男だ。自分の愛しようとする人が他人に心を牽《ひ》かれている……それを発見することだけで悲惨は十分だ。葉子は本当は、倉地は葉子以外の人に心を牽かれているとは思ってはいないのだ。ただ少し葉子から離れてきたらしいと疑い始めただけだ。それだけでも葉子はすでに熱鉄を呑《の》まされたような焦燥と嫉妬とを感ずるのだから、木村の立場はさぞ苦しいだろう。……そう推察すると葉子は自分のあまりと言えばあまりに残虐な心に胸の中がちくちくと刺されるようになった。「金が手を焼くように思いはしませんか」との古藤の言った言葉が妙に耳に残った。
そう思い思い布の一方を手早く縫い終わって、縫い目を器用にしごきながら眼を挙げると、そこには貞世が先刻《さつき》のまま机に両《りよう》肘《ひじ》をついて、たかって来る蚊も追わずにぼんやりと庭の向こうを見続けていた。切り下げにした厚い黒《こく》漆《しつ》の髪の毛の下にのぞき出した耳《みみ》朶《たぶ》は霜焼けでもしたように赤くなって、それを見ただけでも、貞世は何か昂《こう》奮《ふん》して向こうを向きながら泣いているに違いなく思われた。覚えがないではない。葉子も貞世ほどの齢《とし》の時には何か知らず急に世の中が悲しく見えることがあった。何事もただ明るく快く頼もしくのみ見えるその底からふっと悲しいものが胸を抉《えぐ》って湧き出ることがあった。取り分けて快活ではあったが、葉子は幼い時から妙なことに臆《おく》病《びよう》がる児《こ》だった。ある時家族じゅうで北国の淋《さび》しい田舎の方に避暑に出かけたことがあったが、ある晩がらんと客の空《す》いた大きな旅籠《はたご》屋《や》に宿った時、枕を並べて寝た人たちの中で葉子は床の間に近いいちばん端しに寝かされたが、どうしたかげんでか気味が悪くてたまらなくなりだした。暗い床の間の軸物の中からか、置物の蔭《かげ》からか、得《え》体《たい》のわからないものが現われ出て来そうなような気がして、そう思いだすとぞくぞくと総身に震えが来て、とても頭を枕につけてはいられなかった。で、眠りかかった父や母にせがんで、その二人の中に割りこましてもらおうと思ったけれども、父も母もそんなに大きくなって何を馬鹿を言うのだと言って少しも葉子の言うことを取り上げてはくれなかった。葉子はしばらく両親と争っているうちにいつの間にか寝入ったとみえて、翌日眼を覚ましてみると、やはり自分が気味の悪いと思ったところに寝ていた自分を見いだした。その夕方、同じ旅籠屋の二階の手《て》摺《すり》から少し荒れたような庭を何の気なしにじっと見入っていると、急に昨夜のことを思い出して葉子は悲しくなりだした。父にも母にも世の中のすべてのものにも自分はどうかして見放されてしまったのだ。親切らしく言ってくれる人は皆んな自分に虚事《うそ》をしているのだ。いいかげんのところで自分はどんと皆んなから突き放されるような悲しいことになるに違いない。どうしてそれを今まで気づかずにいたのだろう。そうなった暁に一人でこの庭をこうして見守ったらどんなに悲しいだろう。小さいながらにそんなことを一人で思いふけっているともうとめどなく悲しくなってきて父がなんと言っても母がなんと言っても、自分の心を自分の涙にひたしきって泣いたことを覚えている。
葉子は貞世の後ろ姿を見るにつけてふとその時の自分を思い出した。妙な心の働きから、その時の葉子が貞世になってそこに幻のように現われたのではないかとさえ疑った。これは葉子には始終ある癖だった。はじめて起こったことが、どうしてもいつかの過去にそのまま起こったことのように思われてならないことがよくあった。貞世の姿は貞世ではなかった。苔《たい》香《こう》園《えん》は苔香園ではなかった。美人屋敷は美人屋敷ではなかった。周囲だけが妙にもやもやして心《しん》の方だけが澄みきった水のようにはっきりしたその頭の中には、貞世のとも、幼い時の自分のとも区別のつかないはかなさ悲しさがこみ上げるように湧いていた。葉子はしばらくは針の運びも忘れてしまって、電燈の光を背に負って夕闇に埋れて行く木立ちに眺め入った貞世の姿を、恐ろしさを感ずるまでになりながら見続けた。
「貞ちゃん」
とうとう黙っているのが無気味になって葉子は沈黙を破りたいばかりにこう呼んでみた。貞世は返事一つしなかった。……葉子はぞっとした。貞世はああしたままで通り魔にでも魅いられて死んでいるのではないか。それとももう一度名前を呼んだら、線香の上に溜《たま》った灰が少しの風で崩れ落ちるように、声の響きでほろほろとかき消すようにあのいたいけな姿はなくなってしまうのではないだろうか。そしてその後には夕闇に包まれた苔香園の木立ちと、二階の縁側と、小さな机だけが残るのではないだろうか。……ふだんの葉子ならばなんという馬鹿だろうと思うようなことをおどおどしながらまじめに考えていた。
その時階下で倉地のひどく激《げつ》昂《こう》した声が聞こえた。葉子ははっとして長い悪夢からでも覚めたように我れに帰った。そこにいるのは姿は元のままだが、やはりまごうかたなき貞世だった。葉子はあわてていつの間にか膝からずり落としてあった白布を取り上げて、階下の方にきっと聞き耳を立てた。事態はだいぶ大事らしかった。
「貞ちゃん。……貞ちゃん……」
葉子はそう言いながら立ち上がって行って、貞世を後ろから羽がいに抱きしめてやろうとした。しかしその瞬間に自分の胸の中に自然にできあがらしていた結《けち》願《がん》を思い出して、心を鬼にしながら、
「貞ちゃんと言ったらお返事をなさいな。なんのことです拗《す》ねたまねをして。台所に行ってあとのすすぎ返しでもしておいで、勉強もしないでぼんやりしていると毒ですよ」
「だってお姉様私苦しいんですもの」
「嘘《うそ》をお言い。このごろはあなた本当にいけなくなったこと。わがままばかししていると姉さんは聴《き》きませんよ」
貞世は淋しそうな恨めしそうな顔を真赤にして葉子の方を振り向いた。それを見ただけで葉子はすっかり打ち摧《くだ》かれていた。水《みぞ》落《おち》のあたりをすっと氷の棒でも通るような心持ちがすると、喉《のど》のところはもう泣きかけていた。なんという心に自分はなってしまったのだろう……葉子はその上その場にはいたたまれないで、急いで階下の方へ降りて行った。
倉地の声に交じって古藤の声も激して聞こえた。
四一
階《はし》子《ご》段《だん》の上り口には愛子が姉を呼びに行こうか行くまいかと思案するらしく立っていた。そこを通り抜けて自分の部屋に来てみると、胸毛をあらわに襟《えり》を濶《ひろ》げて、セルの両《りよう》袖《そで》を高々とまくり上げた倉地が、胡坐《あぐら》をかいたまま、電燈の燈《ひ》の下に熟《じゆく》柿《し》のように赤くなってこっちを向いて威丈高になっていた。古藤は軍服の膝をきちんと折って真直ぐに固くすわって、葉子には後ろを向けていた。それを見るともう葉子の神経はびりびりと逆《さか》立《だ》って自分ながらどうしようもないほど荒れすさんできていた。「何もかもいやだ、どうでも勝手になるがいい」するとすぐ頭が重くかぶさってきて、腹部の鈍痛が鉛の大きな球のように腰を虐《しいた》げた。それは二重に葉子をいらいらさせた。
「あなたがたはいったい何をそんなに言い合っていらっしゃるの」
もうそこには葉子はタクトを用いる余裕さえ持っていなかった。始終腹の底に冷静さを失わないで、あらん限りの表情を勝手に操縦してどんな難関でも、葉子に特有なしかたで切り開いて行くそんな余裕はその場にはとても出て来なかった。
「何をと言ってこの古藤という青年はあまり礼儀をわきまえんからよ。木村さんの親友親友と二言目には鼻にかけたようなことを言わるるが、わしもわしで木村さんから頼まれとるんだから、一人よがりのことは言うてもらわんでもがいいのだ。それをつべこべろくろくあなたの世話も見ずにおきながら、言い立てなさるので、筋が違っていようと言って聞かせて上げたところだ。古藤さん、あなた失礼だがいったいいくつです」
葉子に言って聞かせるでもなくそう言って、倉地はまた古藤の方に向きなおった。古藤はこの侮辱に対して口答えの言葉も出ないように激昂して黙っていた。
「答えるが恥ずかしければ強いても聞くまい。が、いずれ二十《はたち》は過ぎていられるのだろう。二十過ぎた男があなたのように礼儀をわきまえずに他人《ひと》の生活の内輪にまで立ち入って物を言うは馬鹿の証拠ですよ。男が物を言うなら考えてから言うがいい」
そう言って倉地は言葉の激昂しているわりあいに、また見かけのいかにも威丈高なわりあいに、十分の余裕を見せて、空《そら》嘯《うそぶ》くように打ち水をした庭の方を見ながら団扇《うちわ》をつかった。
古藤はしばらく黙っていてから後ろを振り仰いで葉子を見やりつつ、
「葉子さん……まあ、す、すわってください」
と少しどもるように強いて穏やかに言った。葉子はその時はじめて、我れにもなくそれまでそこに突ったったままぼんやりしていたのを知って、自分にかつてないようなとんきょなことをしていたのに気がついた。そして自分ながらこのごろは本当に変だと思いながら二人の間に、できるだけ気を落ち着けて座についた。古藤の顔を見るとやや青ざめて、顳《こめ》〓《かみ》のところに太い筋を立てていた。葉子はその時分になってはじめて少しずつ自分を恢《かい》復《ふく》していた。
「古藤さん、倉地さんは少しお酒を召し上がったところだからこんな時むずかしいお話をなさるのはよくありませんでしたわ。なんですか知りませんけれども今夜はもうそのお話は綺《き》麗《れい》にやめましょう。いかが?……またゆっくりね……あ、愛さん、あなたお二階に行って縫いかけを大急ぎで仕上げておいてちょうだい、姉さんがあらかたしてしまってあるけれども……」
そう言って先刻から逐《ちく》一《いち》二人の争論を聴いていたらしい愛子を階上に追い上げた。しばらくして古藤はようやく落ち着いて自分の言葉を見いだしたように、
「倉地さんに物を言ったのは僕が間違っていたかもしれません。じゃ倉地さんを前に置いてあなたに言わしてください。お世辞でもなんでもなく、僕は始めからあなたには倉地さんなんかにはない誠実なところが、どこかに隠れているように思っていたんです。僕の言うことをその誠実なところで判断してください」
「まあ今日はもういいじゃありませんか、ね。私、あなたのおっしゃろうとすることはよっくわかっていますわ。私けっして仇《あだ》やおろそかには思っていません本当に。私だって考えてはいますわ。そのうちとっくり私のほうから伺っていただきたいと思っていたくらいですからそれまで……」
「今日聞いてください。軍隊生活をしていると三人でこうしてお話しする機会はそうありそうにはありません。もう帰営の時間が逼《せま》っていますから、長くお話はできないけれども……それだから我慢して聞いてください」
それならなんでも勝手に言ってみるがいい、仕儀によっては黙ってはいないからという腹を、かすかに皮肉に開いた唇《くちびる》に見せて葉子は古藤に耳を仮《か》す態度を見せた。倉地は知らんふりをして庭の方を見続けていた。古藤は倉地を全く度外視したように葉子の方に向きなおって、葉子の眼に自分の眼を定めた。率直な明らさまなその眼にはその場合にすら子供じみた羞《しゆう》恥《ち》の色を湛《たた》えていた。例のごとく古藤は胸の金《きん》釦《ぼたん》をはめたりはずしたりしながら、
「僕は今まで自分の因循からあなたに対しても木村に対しても本当に友情らしい友情を現わさなかったのを恥ずかしく思います。僕は遠《とお》にもっとどうかしなければいけなかったんですけれども……木村、木村って木村のことばかり言うようですけれども、木村のことを言うのはあなたのことを言うのも同じだと僕は思うんですが、あなたは今でも木村と結婚する気が確かにあるんですかないんですか、倉地さんの前でそれをはっきり僕に聞かせてください。何事もそこから出発して行かなければこの話は畢《ひつ》竟《きよう》まわりばかり廻ることになりますから。僕はあなたが木村と結婚する気はないと言われてもけっしてそれをどうと言うんじゃありません。木村は気の毒です。あの男は表面はあんなに楽天的に見えていて、意志が強そうだけれども、ずいぶん涙っぽいほうだから、その失望は思いやられます。けれどもそれだってしかたがない。第一始めから無理だったから……あなたのお話のようなら……。しかし事情が事情だったとは言え、あなたはなぜいやならいやと……そんな過去を言ったところが始まらないからやめましょう。……葉子さん、あなたは本当に自分を考えてみて、どこか間違っていると思ったことはありませんか。誤解しては困りますよ、僕はあなたが間違っていると言うつもりじゃないんですから。他人のことを他人が判断することなんかはできないことだけれども、僕はあなたがどこか不自然に見えていけないんです。よく世の中では人生のことはそう単純に行くもんじゃないと言いますが、そうしてあなたの生活なんぞを見ていると、それはごく外面的に見ているからそう見えるのかもしれないけれども、実際ずいぶん複雑らしく思われますが、そうあるべきことなんでしょうか。もっともっと clearに sun-clearに自分の力だけのこと、徳だけのことをして暮らせそうなものだと僕自身は思うんですがね……僕にもそうでなくなる時代が来るかもしらないけれども、今の僕としてはそうより考えられないんです。一時は混雑も来、不和も来、喧《けん》嘩《か》も来るかはしれないが、結局はそうするよりしかたがないと思いますよ。あなたのことについても僕は前からそういうふうにはっきりかたづけてしまいたいと思っていたんですけれど、姑《こ》息《そく》な心からそれまでにいかずともいい結果が生まれて来はしないかと思ったりして今日までどっちつかずで過ごしてきたんです。しかしもうこの以上僕には我慢ができなくなりました。
倉地さんとあなたと結婚なさるならなさるで木村も断念《あきら》めるよりほかに道はありません。木村にとっては苦しいことだろうが、僕から考えるとどっちつかずで煩《はん》悶《もん》しているのよりどれだけいいかわかりません。だから倉地さんに意向を伺おうとすれば、倉地さんは頭から僕を馬鹿にして話を親身に受けてはくださらないんです」
「馬鹿にされるほうが悪いのよ」
倉地は庭の方から顔を返して、「どこまで馬鹿にできあがった男だろう」というように苦笑いをしながら古藤を見やって、また知らぬ顔に庭の方を向いてしまった。
「そりゃそうだ。馬鹿にされる僕は馬鹿だろう。しかしあなたには……あなたには僕らが持ってる良心というものがないんだ。それだけは馬鹿でも僕にはわかる。あなたが馬鹿と言われるのと、僕が自分を馬鹿と思っているそれとは、意味が違いますよ」
「そのとおり、あなたは馬鹿だと思いながら、どこか心の隅で『なに馬鹿なものか』と思いよるし、私はあなたを嘘《うそ》本《ほん》なしに馬鹿と言うだけの相違があるよ」
「あなたは気の毒な人です」
古藤の眼には怒りというよりも、ある激しい感情の涙が薄く宿っていた。古藤の心の中のいちばん奥深いところが汚されないままで、ふと眼からのぞき出したかと思われるほど、その涙をためた眼は一種の力と清さとを持っていた。さすがの倉地もその一言には言葉を返すことなく、不思議そうに古藤の顔を見た。葉子も思わず一種改まった気分になった。そこにはこれまで見慣れていた古藤はいなくなって、その代わりにごまかしの利《き》かない強い力を持った一人の純潔な青年がひょっこり現われ出たように見えた。何を言うか、またいつものようなありきたりの道徳論を振り廻すと思いながら、一種の軽《けい》侮《ぶ》をもって黙って聞いていた葉子は、この一言で、いわば古藤を壁ぎわに思い存分押しつけていた倉地が手もなく弾《はじ》き返されたのを見た。言葉の上やしうちの上やでいかに高圧的に出てみても、どうすることもできないような真実さが古藤からあふれ出ていた。それに歯向かうには真実で歯向かうほかはない。倉地はそれを持ち合わしているかどうか葉子には想像がつかなかった。その場合倉地はしばらく古藤の顔を不思議そうに見やった後、平気な顔をして膳《ぜん》から杯を取り上げて、飲み残して冷えた酒をてれかくしのように煽《あお》りつけた。葉子はこの時古藤とこんな調子で向かい合っているのが恐ろしくってならなくなった。古藤の眼の前でひょっとすると今まで築いてきた生活が崩《くず》れてしまいそうな危《き》惧《ぐ》をさえ感じた。で、そのまま黙って倉地のまねをするようだが、平気を装いつつ煙管《きせる》を取り上げた。その場のしうちとしては拙《つたな》いやり方であるのを歯がゆくは思いながら。
古藤はしばらく言葉を途切らしていたが、また改まって葉子の方に話しかけた。
「そう改まらないでください。その代わり思っただけのことをいいかげんにしておかずに話し合わせてみてください。いいですか。あなたと倉地さんとのこれまでの生活は、僕みたいな無経験なものにも、疑問としてかたづけておくことのできないような事実を感じさせるんです。それに対するあなたの弁解は詭《き》弁《べん》とより僕には響かなくなりました。僕の鈍い直覚ですらがそう考えるのです。だからこのさいあなたと倉地さんとの関係を明らかにして、あなたから木村に偽りのない告白をしていただきたいんです。木村が一人で生活に苦しみながらたとえようのない疑惑の中にもがいているのを少しでも想像してみたら……今のあなたにはそれを要求するのは無理かもしれないけれども……。第一こんな不安定な状態からあなたは愛子さんや貞世さんを救う義務があると思いますよ僕は。あなただけに限られずに、四方八方の人の心に響くというのは恐ろしいことだとは本当にあなたには思えませんかねえ。僕には側で見ているだけでも恐ろしいがなあ。人にはいつか総勘定をしなければならない時が来るんだ。いくら借りになっていてもびくともしないという自信もなくって、ずるずるべったりに無反省に借りばかり作っているのは考えてみると不安じゃないでしょうか。葉子さん、あなたには美しい誠実があるんだ。僕はそれを知っています。木村にだけはどうしたわけか別だけれども、あなたはびた一文でも借りをしていると思うと寝心地が悪いというような気象を持っているじゃありませんか。それに心の借金ならいくら借金をしていても平気でいられるわけはないと思いますよ。なぜあなたは好んでそれを踏みにじろうとばかりしているんです。そんな情けないことばかりしていてはだめじゃありませんか。……僕ははっきり思うとおりを言い現わし得ないけれども……言おうとしていることはわかってくださるでしょう」
古藤は思い入ったふうで、油で汚《よご》れた手を幾度も真黒に日に焼けた眼頭のところに持って行った。蚊がぶんぶんと攻めかけて来るのも忘れたようだった。葉子は古藤の言葉をもうそれ以上は聞いていられなかった。せっかくそっとしておいた心のよどみが掻《か》きまわきれて、見まいとしていた穢《きたな》いものがぬらぬらと眼の前に浮き出て来るようでもあった。塗りつぶし塗りつぶししていた心の壁に罅《ひび》が入って、そこから面《おもて》も向けられない白い光がちらと射《さ》すようにも思った。もうしかしそれはすべてあまり遅い。葉子はそんな物を無視してかかるほかに道がないと思った。ごまかしていけないと古藤の言った言葉はその瞬間にもすぐ葉子にきびしく答えたけれども、葉子は押しきってそんな言葉をかなぐり捨てないではいられないと自分からあきらめた。
「よくわかりました。あなたのおっしゃることはいつでも私にはよくわかりますわ。そのうち私きっと木村のほうに手紙を出すから安心してくださいまし。このごろはあなたのほうが木村以上に神経質になっていらっしゃるようだけれども、御親切はよく私にもわかりますわ。倉地さんだってあなたのお心持ちは通じているに違いないんですけれども、あなたが……なんと言ったらいいでしょうねえ……あなたがあんまり真正面からおっしゃるもんだから、つい向《むか》っ腹《ぱら》をお立てなすったんでしょう。そうでしょう、ね、倉地さん。……こんないやなお話はこれだけにして妹たちでも呼んでおもしろいお話でもしましょう」
「僕がもっと偉いと、言うことがもっと深く皆さんの心にはいるんですが、僕の言うことは本当のことだと思うんだけれどもしかたがありません。それじゃきっと木村に書いてやってください。僕自身は何も物ずきらしくその内容を知りたいとは思ってるわけじゃないんですから……」
古藤がまだ何か言おうとしている時に愛子が整《せい》頓《とん》風呂敷のできあがったのを持って、二階から降りて来た。古藤は愛子からそれを受け取ると思い出したようにあわてて時計を見た。葉子はそれには頓着しないように、
「愛さんあれを古藤さんにお目にかけよう。古藤さんちょっと待っていらしってね。今おもしろいものをお目にかけるから。貞ちゃんは二階? いないの? どこに行ったんだろう……貞ちゃん!」
こう言って葉子が呼ぶと台所の方から貞世が打ち沈んだ顔をして泣いた後のように頬《ほお》を赤くしてはいって来た。やはり自分の言った言葉に従って一人ぽっちで台所に行ってすすぎ物をしていたのかと思うと、葉子はもう胸が逼《せま》って眼の中が熱くなるのだった。
「さあ二人でこの間学校で習って来たダンスをして古藤さんと倉地さんとにお目におかけ。ちょっとコティロン《*》のようでまた変わっていますの。さ」
二人は十畳の座敷の方に立って行った。倉地はこれをきっかけにからっと快活になって、今までのことは忘れたように、古藤にも微笑を与えながら「それはおもしろかろう」と言いつつ後に続いた。愛子の姿を見ると古藤も釣り込まれるふうに見えた。葉子はけっしてそれを見《み》遁《のが》さなかった。
可憐な姿をした姉と妹とは十畳の電燈の下に向かい合って立った。愛子はいつでもそうなようにこんな場合でもいかにも冷静だった。普通ならばその年ごろの少女としては、やりどころもない羞恥を感ずるはずであるのに、愛子は少し眼を伏せているほかにはしらじらとしていた。きゃっきゃっと嬉《うれ》しがったり恥ずかしかったりする貞世はその夜はどうしたものかただ物《もの》憂《う》げにそこにしょんぼりと立った。その夜の二人は妙に無感情な一対の美しい踊り手だった。葉子が「一二三」と合図すると、二人は両手を腰骨のところに置き添えて静かに回旋しながら舞い始めた。兵営の中ばかりにいて美しいものを全く見なかったらしい古藤は、しばらくは何事も忘れたように恍《こう》惚《こつ》として二人の描く曲線のさまざまに見とれていた。
と突然貞世が両袖を顔にあてたと思うと、急に舞いの輪からそれて、一散に玄関側の六畳に駈《か》け込んだ。六畳に達しないうちに痛ましくすすり泣く声が聞こえだした。古藤ははっとあわててそっちに行こうとしたが、愛子が一人になっても、顔色も動かさずに踊り続けているのを見るとそのまままた立ち止まった。愛子は自分の仕《し》遂《おお》すべき務めを仕遂せることに心を集める様子で舞いつづけた。
「愛さんちょっとお待ち」
と言った葉子の声は低いながら帛《きぬ》を裂くように疳《かん》癖《ぺき》らしい調子になっていた。別室に妹の駈け込んだのを見向きもしない愛子の不人情さを憤る怒りと、命ぜられたことを中途半端でやめてしまった貞世を憤る怒りとで葉子は自制ができないほど慄《ふる》えていた。愛子は静かにそこに両手を腰から降ろして立ち止まった。
「貞ちゃん、なんですその失礼は。出ておいでなさい」
葉子は激しく隣室に向かってこう叫んだ。隣室から貞世のすすり泣く声が哀れにもまざまざと聞こえて来るだけだった。抱きしめても抱きしめても飽き足らないほどの愛着をそのまま裏返したような憎しみが、葉子の心を火のようにした。葉子は愛子にきびしく言いつけて貞世を六畳から呼び返さした。
やがてその六畳から出て来た愛子は、さすがに不安な面《おも》持《も》ちをしていた。苦しくってたまらないと言うから額《ひたい》に手をあててみたら火のように熱いと言うのだ。
葉子は思わずぎょっとした。生まれ落ちるとから病気一つせずに育ってきた貞世は前から発熱していたのを自分で知らずにいたに違いない。気むずかしくなってから一週間くらいになるから、何かの熱病にかかったとすれば病気はかなり進んでいたはずだ。ひょっとすると貞世はもう死ぬ……それを葉子は直覚したように思った。眼の前で世界が急に暗くなった。電燈の光も見えないほどに頭の中か暗い渦《うず》巻《ま》きでいっぱいになった。ええ、いっそのこと死んでくれ。この血祭りで倉地が自分にはっきり繋《つな》がれてしまわないと誰が言えよう。人《ひと》身《み》御《ご》供《くう》してしまおう。そう葉子は恐怖の絶頂にありながら妙にしんとした心持ちで思いめぐらした。そしてそこにぼんやりしたまま突っ立っていた。
いつの間に行ったのか、倉地と古藤とが六畳の間から首を出した。
「お葉さん……ありゃ泣いたためばかりの熱じゃない。早く来て御覧」
倉地のあわてるような声が聞こえた。
それを聞くと葉子ははじめてことの真相がわかったように、夢から眼《め》覚《ざ》めたように、急に頭がはっきりして六畳の間に走り込んだ。貞世はひときわ背《せ》丈《た》けが縮まったように小さく丸まって、座布団に顔を埋めていた。膝《ひざ》をついて側によって後頸《うなじ》のところに触《さわ》ってみると、気味の悪いほどの熱が葉子の手に伝わって来た。
その瞬間に葉子の心はでんぐり返しを打った。いとしい貞世につらく当たったら、そしてもし貞世がそのために命を落とすようなことでもあったら、倉地を大丈夫つかむことができると何がなしに思い込んで、しかもそれを実行した迷信とも妄想ともたとえようのない、狂気じみた結願がなんの苦もなくばらばらに崩《くず》れてしまって、その跡にはどうかして貞世を活《い》かしたいというすなおな涙ぐましい願いばかりがしみじみと働いていた。自分の愛するものが死ぬか活きるかの境目に来たと思うと、生への執着と死への恐怖とが、今まで想像も及ばなかった強さでひしひしと感ぜられた。自分を八つ裂きにしても貞世の命は取りとめなくてはならぬ。もし貞世が死ねばそれは自分が殺したんだ。何も知らない、神のような少女を……葉子はあらぬことまで勝手に想像して勝手に苦しむ自分をたしなめるつもりでいても、それ以上に種々な予想が激しく頭の中で働いた。
葉子は貞世の背を擦《さす》りながら、嘆顔するように哀《あい》恕《じよ》を乞うように古藤や倉地や愛子までを見まわした。それらの人々はいずれも心痛げな顔色を見せていないではなかった。しかし葉子から見るとそれは皆んな贋《にせ》物《もの》だった。
やがて古藤は兵営への帰途医者を頼むといって帰って行った。葉子は、一人でも、どんな人でも貞世の身近から離れて行くのをつらく思った。そんな人たちは多少でも貞世の生命をいっしょに持って行ってしまうように思われてならなかった。
日はとっぷり暮れてしまったけれどもどこの戸締りもしないこの家に、古藤が言ってよこした医者がやって来た。そして貞世は明らかに腸チブスに罹《かか》っていると診断されてしまった。
四二
「お姉様……行っちゃいやあ……」
まるで四つか五つの幼児のように頑《がん》是《ぜ》なくわがままになってしまった貞世の声を聞き残しながら葉子は病室を出た。おりからじめじめと降りつづいている五月雨《さみだれ》に、廊下には夜明けからの薄暗さがそのまま残っていた。白衣を着た看護婦が暗いだだっ広い廊下を、上《うわ》草履《ぞうり》の大きな音をさせながら案内に立った。十日の余も、夜昼の見《み》界《さかい》もなく、帯も解かずに看護の手を尽くした葉子は、どうかするとふらふらとなって、頭だけが五体から離れてどこともなく漂って行くかとも思うような不思議な錯覚を感じながら、それでも緊張しきった心持ちになっていた。すべての音響、すべての色彩が極度に誇張されてその感覚に触れてきた。貞世が腸チブスと診断されたその晩、葉子は担架に乗せられたその憐れな小さな妹につき添ってこの大学病院の隔離室に来てしまったのであるが、その時別れたなりで、倉地は一度も病院を尋ねては来なかったのだ。葉子は愛子一人が留守する山《さん》内《ない》の家の方に、少し不安心ではあるけれどもいつか暇をやったつやを呼び寄せておこうと思って、宿もとに言ってやると、つやはあれから看護婦を志願して京橋の方のある病院にいるということが知れたので、やむを得ず倉地の下宿から年を取った女中を一人頼んでもらうことにした。病院に来てからの十日――それは昨日から今日にかけてのことのように短く思われもし、一日が一年に相当するかと疑われるほど永くも感じられた。
その長く感じられるほうの期間には、倉地と愛子との姿が不安と嫉妬《しつと》との対照となって葉子の心の眼に立ち現われた。葉子の家を預かっているものは倉地の下宿から来た女だとすると、それは倉地の犬と言ってもよかった。そこに一人残された愛子……長い時間の間にどんなことでも起こり得ずにいるものか。そう気を廻しだすと葉子は貞世の寝台の傍にいて、熱のために唇がかさかさになって、半分眼を開けたまま昏《こん》睡《すい》しているその小さな顔を見つめている時でも、思わずかっとなってそこを飛び出そうとするような衝動に駆《か》り立てられるのだった。
しかしまた短く感じられるほうの期間にはただ貞世ばかりがいた。末子として両親から嘗《な》めるほど溺《でき》愛《あい》もされ、葉子の唯一の寵《ちよう》児《じ》ともされ、健康で、決活で、無邪気で、わがままで、病気ということなどはついぞ知らなかったその子は、引き続いて父を失い、母を失い、葉子の病的な呪《じゆ》詛《そ》の犠牲となり、突然死病に取りつかれて、夢にも現《うつつ》にも思いもかけなかった死と向かい合って、ひたすらに恐れおののいている、その姿は、千丈の谷底に続く崕《がけ》のきわに両手だけで垂《た》れ下がった人が、そこの土がぼろぼろと崩れ落ちるたびごとに、懸命になって助けを求めて泣き叫びながら、少しでも手がかりのある物にしがみつこうとするのを見るのと異ならなかった。しかもそんなはめに貞世を陥れてしまったのは結局自分に責任の大部分があると思うと、葉子はいとしさ悲しさで胸も腸も裂けるようになった。貞世が死ぬにしても、せめては自分だけは貞世を愛し抜いて死なせたかった。貞世を仮りにもいじめるとは……まるで天使のような心で自分を信じきり愛し抜いてくれた貞世を仮りにも没《も》義《ぎ》道《どう》に取り扱ったとは……葉子は自分ながら葉子の心の埒《らち》なさ恐ろしさにないても悔いても及ばない悔いを感じた。そこまで詮《せん》じつめてくると、葉子には倉地もなかった。ただ命にかけても貞世を病気から救って、貞世が元どおりにつやつやしい健康に帰った時、貞世を大事に大事に自分の胸にかき抱いてやって、
「貞ちゃんお前はよくこそ治《なお》ってくれたね。姉さんを恨まないでおくれ。姉さんはもう今までのことを皆んな後悔して、これからはあなたをいつまでもいつまでも後生大事にしてあげますからね」
としみじみと泣きながら言ってやりたかった。ただそれだけの願いに固まってしまった。そうした心持ちになっていると、時間はただ矢のように飛んで過ぎた。死の方へ貞世を連れて行く時間はただ矢のように飛んで過ぎると思えた。
この奇怪な心の葛《かつ》藤《とう》に加えて、葉子の健康はこの十日ほどの激しい昂《こう》奮《ふん》と活動とでみじめにも害《そこな》い傷つけられているらしかった。緊張の極点にいるような今の葉子にはさほどと思われないようにもあったが、貞世が死ぬか治るかして一息つく時が来たら、どうして肉体を支《ささ》えることができようかと危《あやぶ》まないではいられない予感がきびしく葉子を襲う瞬間は幾度もあった。
そうした苦しみの最中に珍しく倉地が尋ねて来たのだった。ちょうど何もかも忘れて貞世のことばかり気にしていた葉子は、この案内を聞くと、まるで生まれ代わったようにその心は倉地でいっぱいになってしまった。
病室の中から叫ぶに叫ぶ貞世の声が廊下まで響いて聞こえたけれども、葉子はそれには頓着していられないほどむきになって看護婦の後を追った。歩きながら衣《え》紋《もん》を整えて、例の左手を挙げて鬢《びん》の毛を器用にかき上げながら応接室のところまで来ると、そこはさすがにいくぶんか明るくなっていて、開き戸の側のガラス窓の向こうに頑丈な倉地と、思いもかけず岡の華《きや》車《しや》な姿とが眺められた。
葉子は看護婦のいるのも岡のいるのも忘れたようにいきなり倉地に近づいて、その胸に自分の顔を埋めてしまった。何よりもかによりも長い長い間遇《あ》い得ずにいた倉地の胸は、数限りもない連想に飾られて、すべての疑惑や不快を一掃するに足るほどなつかしかった。倉地の胸から触れ慣れた衣《きぬ》ざわりと、強烈な膚の匂いとが、葉子の病的に嵩《こう》じた感覚を乱酔さすほどに伝わって来た。
「どうだ、ちっとはいいか」
「おおこの声だ、この声だ」……葉子はかく思いながら悲しくなった。それは長い間闇の中に閉じこめられていたものが偶然燈《ひ》の光を見た時に胸を突いて湧き出て来るような悲しさだった。葉子は自分の立場をことさら隣れに描いてみたい衝動を感じた。
「だめです。貞世は、可哀そうに死にます」
「馬鹿な……あなたにも似合わん、そう早う落胆する法があるものかい。どれひとつ見舞ってやろう」
そう言いながら倉地は先刻《さつき》からそこにいた看護婦の方に振り向いた様子だった。そこに看護婦も岡もいるということはちゃんと知っていながら、葉子は誰もいないもののような心持ちで振舞っていたのを思うと、自分ながらこのごろは心が狂っているのではないかとさえ疑った。看護婦は倉地と葉子との対話ぶりで、この美しい婦人の素性を呑《の》み込んだというような顔をしていた。岡はさすがに慎《つつ》ましやかに心痛の色を顔に現わして椅子の背に手をかけたまま立っていた。
「ああ、岡さんあなたもわざわざお見舞いくださってありがとうございました」
葉子は少し挨《あい》拶《さつ》の機会をおくらしたと思いながらもやさしくこう言った。岡は頬《ほお》を紅《あか》めたまま黙ってうなずいた。
「ちょうど今見えたもんだでごいっしょしたが、岡さんはここでお帰りを願ったがいいと思うが……(そう言って倉地は岡の方を見た)なにしろ病気が病気ですから……」
「私、貞世さんにぜひお会いしたいと思いますからどうかお許しください」
岡は思い入ったようにこう言って、ちょうどそこに看護婦が持って来た二枚の白い上《うわ》っ張《ぱ》りのうち少し古く見える一枚を取って倉地よりも先に着始めた。葉子は岡を見るともう一つのたくらみを心の中で案じ出していた。岡をできるだけたびたび山内の家のほうに遊びに行かせてやろう。それは倉地と愛子とが接触する機会をいくらかでも妨げる結果になるに違いない。岡と愛子とが互いに愛し合うようになったら……なったとしてもそれは悪い結果ということはできない。岡は病身ではあるけれども地位もあれば金もある。それに愛子のみならず、自分の将来にとっても役に立つに相違ない。……とそう思うすぐその下から、どうしても虫の好かない愛子が、葉子の意志の下にすっかり繋《つな》ぎつけられているような岡を偸《ぬす》んで行くのを見なければならないのが面《つら》憎《にく》くも妬《ねた》ましくもあった。
葉子は二人の男を案内しながら先に立った。暗い長い廊下の両側に立ち並んだ病室の中からは、呼吸困難の中からかすれたような声でディフテリヤらしい幼児の泣き叫ぶのが聞こえたりした。貞世の病室からは一人の看護婦が半ば身を乗り出して、部屋の中に向いて何か言いながら、しきりとこっちを眺めていた。貞世の何か言い募る言葉さえが葉子の耳に届いて来た。その瞬間にもう葉子はそこに倉地のいることなども忘れて、急ぎ足でその方に走り近づいた。
「そらもう帰っていらっしゃいましたよ」
と言いながら顔を引っ込めた看護婦に続いて、飛び込むように病室にはいってみると、貞世は乱暴にも寝台の上に起き上がって、膝小僧も露《あら》わになるほど取り乱した姿で、手を顔にあてたままおいおいと泣いていた。葉子は驚いて寝台に近寄った。
「なんというあなたは聞きわけのない……貞《さあ》ちゃんその病気で、あなた、寝台から起き上がったりするといつまでも治りはしませんよ。あなたの好きな倉地の小父さんと岡さんがお見舞いに来てくださったのですよ。はっきりわかりますか、そら、そこを御覧、横になってから」
そう言い言い葉子はいかにも愛情に満ちた器用な手つきで軽く貞世を抱《かか》えて床の上に臥《ね》かしつけた。貞世の顔は今まで盛んな運動でもしていたように美しく活き活きと紅《あか》味《み》がさして、房々した髪の毛は少しもつれて汗ばんで額《ひたい》ぎわに粘りついていた。それは病気を思わせるよりも過剰の健康とでもいうべきものを思わせた。ただその両眼と唇だけは明らかに尋常でなかった。すっかり充血したその眼はふだんよりも大きくなって、二《ふた》重《え》瞼《まぶた》になっていた。その眸《ひとみ》は熱のために燃えて、おどおどと何者かを見つめているようにも、何かを見いだそうとして尋ねあぐんでいるようにも見えた。その様子はたとえが葉子を見入っている時でも、葉子を貫いて葉子の後の方はるかのところにあるある者を見極めようとあらん限りの力を尽くしているようだった。唇は上下ともからからになって、内《うち》紫《むらさき》という柑《かん》類《るい》の実をむいて天《てん》日《ぴ》に干したように乾いていた。それは見るもいたいたしかった。その唇の中から高熱のために一種の臭気が呼吸のたびごとに吐き出される、その臭気が唇のいちじるしいゆがめ方のために、眼に見えるようだった。貞世は葉子に注意されて物《もの》惰《う》げに少し眼をそらして倉地と岡とのいる方を見たが、それがどうしたんだというように、少しの興味も見せずにまた葉子を見入りながらせっせと肩をゆすって苦しげな呼吸をつづけた。
「お姉さま……水……氷……もう行っちゃいや……」
これだけ幽《かす》かに言うともう苦しそうに眼をつぶってほろほろと大粒の涙をこぼすのだった。
倉地は陰鬱な雨《あま》脚《あし》で灰色になったガラス窓を背景にして突っ立ちながら、黙ったまま不安らしく首をかしげた。岡は日ごろのめったに泣かない性質に似ず、倉地の後ろにそっと引きそって涙ぐんでいた。葉子には後ろを振り向いて見ないでもそれが眼に見るようにはっきりわかった。貞世のことは自分一人で背負って立つ。よけいな憐れみはかけてもらいたくない。そんないらいらしい反抗的な心持ちさえその場合起こらずにはいなかった。過ぐる十日というもの一度も見舞うことをせずにいて、今さらそのゆゆしげな顔つきはなんだ。そう倉地にでも岡にでも言ってやりたいほど葉子の心はとげとげしくなっていた。で、葉子は後ろを振り向きもせずに、箸《はし》の先につけた脱脂綿を氷水の中に浸しては、貞世の口を拭《ぬぐ》っていた。
こうやってもののやや二十分が過ぎた。飾り気も何もない板張りの病室にはだんだん夕暮れの色が催してきた。五月雨《さみだれ》はじめじめと小休《おや》みなく戸外では降りつづいていた。「お姉様治《なお》してちょうだいよう」とか「苦しい……苦しいからお薬をください」とか「もう熱を計るのはいや」とかときどき囈《うわ》言《ごと》のように言っては、葉子の手にかじりつく貞世の姿はいつ息気《いき》を引き取るかもしれないと葉子に思わせた。
「ではもう帰りましょうか」
倉地が岡をうながすようにこう言った。岡は倉地に対し葉子に対して少しの間返事をあえてするのをはばかっている様子だったが、とうとう思いきって、倉地に向かって言っていながら少し葉子に対して嘆願するような調子で、
「私、今日はなんにも用がありませんから、こちらに残らしていただいて、葉子さんのお手伝いをしたいと思いますから、お先にお帰りください」
と言った。岡はひどく意志が弱そうに見えながら一度思い入って言いだしたことは、とうとう仕《し》畢《おお》せずにはおかないことを、葉子も倉地も今までの経験から知っていた。葉子は結局それを許すほかはないと思った。
「じゃわしはお先するがお葉さんちょっと……」
と言って倉地は入口の方にしざって行った。おりから貞世はすやすやと昏《こん》睡《すい》に陥っていたので、葉子はそっと自分の袖《そで》を捕えている貞世の手をほどいて、倉地の後から病室を出た。病室を出るとすぐ葉子はもう貞世を看護している葉子ではなかった。
葉子はすぐに倉地に引き添って肩をならべながら廊下を応援室の方に伝って行った。
「お前はずいぶんと疲れとるよ。用心せんといかんぜ」
「大丈夫……こっちは大丈夫です。それにしてもあなたは……お忙しかったんでしょうね」
たとえば自分の言葉は稜《かど》針《ばり》で、それを倉地の心臓に揉《も》み込むというような鋭い語気になってそう言った。
「全く忙しかった。あれからわしはお前の家には一度もよう行かずにいるんだ」
そう言った倉地の返事にはいかにもわだかまりがなかった。葉子の鋭い言葉にも少しも引けめを感じているふうは見えなかった。葉子でさえが危くそれを信じようとするほどだった。しかしその瞬間に葉子は燕《つばめ》返《がえ》しに自分に帰った。何をいいかげんな…それはしらじらしさが少し過ぎている。この十日の間に、倉地にとってはこの上もない機会の与えられた十日の間に、杉森の中の淋《さび》しい家にその足跡の印《しる》されなかったわけがあるものか。……さらぬだに、病み果て疲れ果てた頭脳に、極度の緊張を加えた葉子は、ぐらぐらとよろけて足もとが廊下の板に着いていないような憤《ふん》怒《ぬ》に襲われた。
応接室まで来て上《うわ》っ張《ぱ》りを脱ぐと、看護婦が噴霧器を持って来て倉地の身のまわりに消毒薬を振りかけた。その幽《かす》かな匂いがようやく葉子をはっきりした意識に返らした。葉子の健康が一日一日と言わず、一時間ごとにもどんどん弱って行くのが身に沁《し》みて知れるにつけて、倉地のどこにも批点のないような頑《がん》丈《じよう》な五体にも心にも、葉子はやりどころのないひがみと憎しみを感じた。倉地にとっては葉子はだんだんと用のないものになって行きつつある。絶えず何か眼新しい冒険を求めているような倉地にとっては、葉子はもう散りぎわの花にすぎない。
看護婦がその室を出ると、倉地は窓のところに寄って行って、衣嚢《かくし》の中から大きな鰐《わに》皮《がわ》のポケットブックを取り出して、拾円札のかなりの束を引き出した。葉子はそのポケットブックにもいろいろの記憶を持っていた。竹柴館で一夜を過ごしたその朝にも、その後のたびたびのあいびきの後の支払いにも、葉子は倉地からそのポケットブックを受け取って、ぜいたくな支払いを心持ちよくしたのだった。そしてそんな記憶はもう二度とは繰り返せそうもなく、なんとなく葉子には思えた。そんなことをさせてなるものかと思いながらも、葉子の心は妙に弱くなっていた。
「また足らなくなったらいつでも言ってよこすがいいから……俺のほうの仕事はどうもおもしろくなくなってきおった。正井の奴何か容易ならぬ悪戯《わるさ》をしおった様子もあるし、油断がならん。たびたび俺がここに来るのも考えものだて」
紙幣を渡しながらこう言って倉地は応援室を出た。かなり濡《ぬ》れているらしい靴を履《は》いて、雨水で重そうになった洋傘をばさばさ言わせながら開いて、倉地は軽い挨拶を残したまま夕闇の中に消えて行こうとした。間をおいて道側に点《とも》された電燈の灯が、濡れた青葉をすべり落ちて泥濘《ぬかるみ》の中に燐《りん》のような光を漂わしていた。その中をだんだん南門の方に遠ざかって行く倉地を見送っていると葉子はとてもそのままそこに居残ってはいられなくなった。
誰の履物とも知らずそこにあった吾妻《あずま》下《げ》駄《た》をつっかけて葉子は雨の中を玄関から走り出て倉地の後を追った。そこにある広場には欅《けやき》や桜の木が疎《まば》らに立っていて、大規模な増築のための材料が、煉《れん》瓦《が》や石や、ところどころに積み上げてあった。東京の中央にこんなところがあるかと思われるほど物淋しく静かで、街燈の光の届くところだけに白く光って斜めに雨のそそぐのがほのかに見えるばかりだった。寒いとも暑いともさらに感じなく過ごしてきた葉子は、雨が襟《えり》脚《あし》に落ちたのではじめて寒いと思った。関東にときどき襲ってくる時ならぬ冷え日でその日もあったらしい。葉子は軽く身震いしながら、いちずに倉地の後を追った。やや十四、五間も先にいた倉地は跫《あし》音《おと》を聞きつけたと見えて立ち停《ど》まって振り返った。葉子が追いついた時には、肩はいいかげん濡れて、雨の滴《しずく》が前髪を伝って額に流れかかるまでになっていた。葉子は幽かな光にすかして、倉地が迷惑そうな顔つきで立っているのを知った。葉子は我れにもなく倉地が傘を持つために水平に曲げたその腕にすがりついた。
「先刻《さつき》のお金はお返しします。義理ずくで他人からしていただくんでは胸がつかえますから……」
倉地の腕のところで葉子のすがりついた手はぶるぶると震えた。傘からは滴《したた》りがことさら繁《しげ》く落ちて、単衣《ひとえ》をぬけて葉子の肌《はだ》ににじみ通った。葉子は、熱病患者が冷たいものに触れた時のような不快な悪《お》寒《かん》を感じた。
「お前の神経は全く少しどうかしとるぜ。俺のことを少しは思ってみてくれてもよかろうが……疑うにもひがむにもほどがあっていいはずだ。俺はこれまでにどんな不《ふ》貞《て》腐《くさ》れをした。言えるなら言ってみろ」
さすがに倉地も気にさえているらしく見えた。
「言えないように上手に不貞腐れをなさるのじゃ、言おうったって言えやしませんわね。なぜあなたははっきり葉子には厭《あ》きた、もう用がないとお言いになれないの。男らしくもない。さ、取ってくださいましこれを」
葉子は紙幣の束をわなわなする手先で倉地の胸のところに押しつけた。
「そしてちゃんと奥さんをお呼び戻しなさいまし。それで何もかも元どおりになるんだから。はばかりながら……」
「愛子は」と口もとまで言いかけて、葉子は恐ろしさに息気《いき》を引いてしまった。倉地の細君のことまで言ったのはその夜がはじめてだった。これほど露骨な嫉妬の言葉は、男の心を葉子から遠ざからすばかりだと知り抜いて慎んでいたくせに、葉子は我れにもなく、がみがみと妹のことまで言って退《の》けようとする自分にあきれてしまった。
葉子がそこまで走り出て来たのは、別れる前にもう一度倉地の強い腕でその暖かく広い胸に抱かれたいためだったのだ。倉地に悪たれ口をきいた瞬間でも葉子の願いはそこにあった。それにもかかわらず口の上では全く反対に、倉地を自分からどんどん離れさすようなことを言って退《の》けているのだ。
葉子の言葉が募るにつれて、倉地は人目をはばかるようにあたりを見廻した。互い互いに殺し合いたいほどの執着を感じながら、それを言い現わすことも信ずることもできず、要もない猜《さい》疑《ぎ》と不満とにさえぎられて、見る見る路傍の人のように遠ざかって行かねばならぬ、――そのおそろしい運命を葉子はことさら痛切に感じた。倉地があたりを見廻した――それだけの挙動が、機を見計らっていきなりそこを逃げ出そうとするもののようにも思いなされた。葉子は倉地に対する憎悪の心を切ないまでに募らしながら、ますます相手の腕に堅く寄り添った。
しばらくの沈黙の後、倉地はいきなり洋傘をそこにかなぐり捨てて、葉子の頭を右腕で巻きすくめようとした。葉子は本能的に激しくそれに逆《さか》らった。そして紙幣の束を泥濘《ぬかるみ》の中に敲《たた》きつけた。そして二人は野獣のように争った。
「勝手にせい……馬鹿っ」
やがてそう激しく言い捨てると思うと、倉地は腕の力を急にゆるめて、洋傘を拾い上げるなり、後をも向かずに南門の方に向いてずんずんと歩きだした。憤怒と嫉妬とに昂《こう》奮《ふん》しきった葉子は躍起となってその後を追おうとしたが、脚《あし》は痺《しび》れたように動かなかった。ただだんだん遠ざかって行く後ろ姿に対して、熱い涙がとめどなく流れ落ちるばかりだった。
しめやかな音を立てて雨は降りつづけていた。隔離病室のある限りの窓にはかんかんと灯が点《とも》って、白いカーテンが引いてあった。陰惨な病室にそう赤々と灯の点っているのはかえってあたりを物すさまじくしてみせた。
葉子は紙幣の束を拾いあげるほか、術《すべ》のないのを知って、しおしおとそれを拾い上げた。貞世の入院料はなんと言ってもそれで支払うよりしようがなかったから。言いようのない口惜《くや》し涙がさらに湧き返った。
四三
その夜遅くまで岡は本当に忠実《まめ》やかに貞世の病床につき添って世話をしてくれた。口少なにしとやかによく気をつけて、貞世の欲することをあらかじめ知り抜いているような岡の看護ぶりは、通り一遍な看護婦の働きぶりとはまるで較《くら》べものにならなかった。葉子は看護婦を早く寝かしてしまって、岡と二人だけで夜の更《ふ》けるまで氷《ひよう》嚢《のう》を取りかえたり、熱を計ったりした。
高熱のために貞世の意識はだんだん不明瞭になってきていた。退院して家に帰りたいとせがんでしようのない時は、そっと向きをかえて臥《ね》かしてから、「さあもうお家ですよ」と言うと、嬉《うれ》しそうに笑顔を漏らしたりした。それを見なければならぬ葉子はたまらなかった。どうかした拍子に、葉子は飛び上がりそうに心が責められた。これで貞世が死んでしまったなら、どうして生き永らえていられよう。貞世をこんな苦しみに陥れたものは皆んな自分だ。自分が前どおりに貞世に優しくさえしていたら、こんな死病は夢にも貞世を襲って来はしなかったのだ。人の心の報いは恐ろしい……そう思ってくると葉子は誰に詫《わ》びようもない苦悩に息気《いき》づまった。
緑色の風呂敷で包んだ電燈の下に、氷嚢を幾つも頭と腹部とにあてがわれた貞世は、今にも絶え入るかと危《あやぶ》まれるような荒い息気づかいで夢《ゆめ》現《うつつ》の間をさまようらしく、聞きとれない囈言《うわごと》をときどき口走りながら、眠っていた。岡は部屋の隅の方に慎ましく突っ立ったまま、緑色を透かしてくる電燈の光でことさら青白い顔色をして、じっと貞世を見守っていた。葉子は寝台に近く椅子を寄せて、貞世の顔をのぞき込むようにしながら、貞世のために何かし続けていなければ、貞世の病気がますます重るという迷信のような心づかいから、要もないのに絶えず氷嚢の位置を取りかえてやったりなどしていた。
そして短い夜はだんだんに更けて行った。葉子の眼からは絶えず涙がほうり落ちた。倉地と思いもかけない別れ方をしたその記憶が、ただわけもなく葉子を涙ぐました。
と、ふっと葉子は山《さん》内《ない》の家のありさまを想像に浮かべた。玄関側の六畳ででもあろうか、二階の子供の勉強部屋ででもあろうか、この夜更けを下宿から送られた老女が寝入った後、倉地と愛子とが話し続けているようなことはないか。あの不思議に心の裏をけっして他人に見せたことのない愛子が、倉地をどう思っているかそれはわからない。おそらくは倉地に対しては何の誘惑も感じてはいないだろう。しかし倉地はああいうしたたか者だ。愛子は骨に徹する怨恨を葉子に対して抱いている。その愛子が葉子に対して復《ふく》讐《しゆう》の機会を見いだしたとこの晩思い定めなかったと誰が保証し得よう。そんなことは遠の昔に行なわれてしまっているのかもしれない。もしそうなら、今ごろは、このしめやかな夜を……太陽が消えてなくなったような寒さと闇とが葉子の心に被《おお》いかぶさってきた。愛子一人ぐらいを指の間に握りつぶすことができないと思っているのか……見ているがいい。葉子はいらだちきって毒蛇のような殺気立った心になった。そして静かに岡の方を顧みた。
何か遠い方の物でも見つめているように少しぼんやりした眼つきで貞世を見守っていた岡は、葉子に振り向かれると、その方にすばやく眼を転じたが、そのものすごい無気味さに脊《せき》髄《ずい》まで襲われたふうで、顔色をかえて眼をたじろがした。
「岡さん。私一生のお頼み……これからすぐ山《さん》内《ない》の家まで行ってください。そして不要な荷物は今夜のうちに皆んな倉地さんの下宿に送り返してしまって、私と愛子のふだん使いの着物と道具とを持って、すぐここに引っ越して来るように愛子に言いつけてください。もし倉地さんが家に来ていたら、私から確かに返したと言ってこれを渡してください(そう言って葉子は懐《ふところ》紙《がみ》に拾円紙幣の束を包んで渡した)。何時までかかってもかまわないから今夜のうちにね。お頼みを聞いてくださって?」
なんでも葉子の言うことなら口返答をしない岡だけれどもこの常識をはずれた葉子の言葉には当惑してみえた。岡は窓ぎわに行ってカーテンの蔭《かげ》から戸外を透かしてみて、ポケットから巧《こう》緻《ち》な浮彫を施した金時計を取り出して時間を読んだりした。そして少し躊《ちゆう》躇《ちよ》するように、
「それは少し無理だと私、思いますが……あれだけの荷物をかたづけるのは……」
「無理だからこそあなたを見込んでお願いするんですわ。そうねえ、入り用のない荷物を倉地さんの下宿に届けるのはなにかもしれませんわね。じゃかまわないから置き手紙を婆やというのに渡しておいてくださいまし。そして婆やに言いつけて明日でも倉地さんのところに運ばしてくださいまし。それなら何もいさくさはないでしょう。それでもおいや? いかが?……ようございます。それじゃもうようございます。あなたをこんなに晩《おそ》くまでお引きとめしておいて、またぞろめんどうなお願いをしようとするなんて私もどうかしていましたわ。……貞ちゃんなんでもないのよ。私今岡さんとお話していたんですよ。汽車の音でもなんでもないんだから、心配せずにお休み……どうして貞世はこんなに怖《こわ》いことばかり言うようになってしまったんでしょう。夜中などに一人で起きていて囈言《うわごと》を聞くとぞーっとするほど気味が悪くなりますのよ。あなたはどうぞもうお引き取りくださいまし。私車屋をやりますから……」
「車屋をおやりになるくらいなら私行きます」
「でもあなたが倉地さんになんとか思われなさるようじゃお気の毒ですもの」
「私、倉地さんなんぞをはばかって言っているのではありません」
「それはよくわかっていますわ。でも私としてはそんな結果も考えてみてからお頼みするんでしたのに……」
こういう押し問答の末に岡はとうとう愛子の迎えに行くことになってしまった。倉地がその夜はきっと愛子のところにいるに違いないと思った葉子は、病院に泊るものと高をくくっていた岡が突然真夜中に訪れて来たので倉地もさすがにあわてずにはいられまい。それだけの狼《ろう》狽《ばい》をさせるにしても快いことだと思っていた。葉子は宿直部屋に行って、しだらなく睡入《ねい》った当番の看護婦を呼び起こして人力車を頼ました。
岡は思い入った様子でそっと貞世の病室を出た。出る時に岡は持って来たパラフィン紙に包んである包みを開くと美しい花束だった。岡はそれをそっと貞世の枕もとにおいて出て行った。
しばらくすると、しとしとと降る雨の中を、岡を乗せた人力車が走り去る音が幽《かす》かに聞こえて、やがて遠くに消えてしまった。看護婦が激しく玄関の戸締りする音が響いて、その後はひっそりと夜が更《ふ》けた。遠くの部屋でディフテリヤに罹《かか》っている子供の泣く声が間遠に聞こえるほかには、音という音は絶え果てていた。
葉子はただ一人いたずらに昂奮して狂うような自分を見いだした。不眠で過ごした夜が三日も四日も続いているのにかかわらず、睡《ねむ》気《け》というものは少しも襲ってこなかった。重石を垂《つ》り下げたような腰部の鈍痛ばかりでなく、脚部は抜けるようにだるく冷え、肩は動かすたびごとにめりめり音がするかと思うほど固く凝り、頭の心は絶え間なくぎりぎりと痛んで、そこからやりどころのない悲哀と疳《かん》癪《しやく》とがこんこんと湧《わ》いて出た。もう鏡は見まいと思うほど顔はげっそりと肉がこけて、眼の周《まわ》りの青黒い暈《かさ》は、さらぬだに大きい眼をことさらにぎらぎらと大きく見せた。鏡を見まいと思いながら、葉子はおりあるごとに帯の間から懐中鏡を出して自分の顔を見つめないではいられなかった。
葉子は貞世の寝息を窺《うかが》っていつものように鏡を取り出した。そして顔を少し電燈の方に振り向けてじっと自分を映してみた。おびただしい毎日の抜け毛で額《ひたい》ぎわのいちじるしく透いてしまったのが第一に気になった。少し振り仰いで顔を映すと頬《ほお》のこけたのがさほどに目立たないけれども、顎《あご》を引いて下《した》俯《む》きになると、口と耳との間には縦に大きな溝《みぞ》のような凹《くぼ》みができて、下《か》顎《がく》骨《こつ》が目立っていかめしく現われ出ていた。長く見つめているうちにはだんだん慣れてきて、自分の意識で強いて矯《きよう》正《せい》するために、痩《や》せた顔もさほどとは思われなくなりだすが、ふと鏡に向かった瞬間には、これが葉子葉子と人々の目をそばだたした自分かと思うほど醜かった。そうして鏡に向かっているうちに、葉子はその投影を自分以外のある他人の顔ではないかと疑いだした。自分の顔より映るはずがない。それだのにそこに映っているのは確かに誰か見も知らぬ人の顔だ。苦痛に虐《しいた》げられ、悪意に歪《ゆが》められ、煩《ぼん》悩《のう》のために支離滅裂になった亡者の顔……葉子は背筋に一時に氷をあてられたようになって、身震いしながら思わず鏡を手から落とした。
金属の床に触れる音が雷のように響いた。葉子はあわてて貞世を見やった。貞世は真赤に充血して熱の籠《こも》った眼をまんじりと開いて、さも不思議そうに中《ちゆう》有《う》を見やっていた。
「愛姉さん……遠くでピストルの音がしたようよ」
はっきりした声でこう言ったので、葉子が顔を近寄せて何か言おうとすると昏《こん》々《こん》として他愛もなくまた眠りに陥るのだった。貞世の眠るのとともに、なんとも言えない無気味な死の脅かしが卒然として葉子を襲った。部屋の中にはそこらじゅうに死の影が満ち満ちていた。眼の前の氷水を入れたコップ一つも次の瞬間にはひとりでに倒れて壊《こわ》れてしまいそうに見えた。物の影になって薄暗い部分は見る見る部屋じゅうに拡《ひろ》がって、すべてを冷たく暗く包み終わるかとも疑われた。死の影は最も濃く貞世の眼と口の周《まわ》りに集まっていた。そこには死が蛆《うじ》のようににょろにょろと蠢《うごめ》いているのが見えた。それよりも……それよりもその影はそろそろと葉子を眼がけて四方の壁から集まり近づこうとひしめいているのだ。葉子はほとんどその死の姿を見るように思った。頭の中がシーンと冷え通って冴えきった寒さがぞくぞくと四《し》肢《し》を震わした。
その時宿直室の掛け時計が遠くの方で一時を打った。
もしこの音を聞かなかったら、葉子は恐ろしさのあまり自分のほうから宿直室へ駈け込んで行ったかもしれなかった。葉子はおびえながら耳を聳《そばだ》てた。宿直室の方から看護婦が草履《ぞうり》をばたばたと引きずって来る音が聞こえた。葉子はほっと息気《いき》をついた。そしてあわてるように身を動かして、貞世の頭の氷《ひよう》嚢《のう》の溶け具合を験《しら》べてみたり、掻《かい》巻《ま》きを整えてやったりした。海の底に一つ沈んでぎらっと光る貝殻のように、床の上で影の中にものすごく横たわっている鏡を取り上げて懐ろに入れた。そうして一室一室と近づいて来る看護婦の跫《あし》音《おと》に耳を澄ましながらまた考え続けた。
今度は山内の家のありさまがさながらまざまざと眼に見るように想像された。岡が夜更《ふ》けにそこを訪れた時には倉地が確かにいたに違いない。そしていつものとおり一種の粘り強さをもって葉子の言《こと》伝《づ》てを取り次ぐ岡に対して、激しい言葉でその理不尽な狂気じみた葉子のでき心を罵《ののし》ったに違いない。倉地と岡との間には暗《あん》々《あん》裡《り》に愛子に対する心の争闘が行なわれたろう。岡の差し出す紙幣の束を怒りに任せて畳の上に敲《たた》きつける倉地の威《い》丈《たけ》高《だか》な様子、少女にはあり得ないほどの冷静さで他人《ひと》事《ごと》のように二人の間のいきさつを伏眼ながらに見守る愛子の一種毒々しい妖《よう》艶《えん》さ。そういう姿がさながら眼の前に浮かんで見えた。ふだんの葉子だったらその想像は葉子をその場にいるように昂奮させていたであろう。けれども死の恐怖に激しく襲われた葉子はなんとも言えない嫌《けん》悪《お》の情をもってのほかにはその場面を想像することができなかった。なんというあさましい人の心だろう。結局は何もかも滅びて行くのに、永遠な灰色の沈黙の中に崩れ込んでしまうのに、目前の貪《どん》婪《らん》に心火の限りを燃やして、餓《が》鬼《き*》同様に命を噛《か》み合うとはなんというあさましい心だろう。しかもその醜い争いの種子を播《ま》いたのは葉子自身なのだ。そう思うと葉子は自分の心と肉体とがさながら蛆《うじ》虫《むし》のように汚《きた》なく見えた。……なんのために今まであってないような妄《もう》執《しゆう》に苦しみ抜いてそれを生命そのもののように大事に考え抜いていたことか。それはまるで貞世が始終見ているらしい悪夢の一つよりもさらにはかないものではないか。……こうなると倉地さえが縁もゆかりもないもののように遠く考えられだした。葉子はすべてのものの空《むな》しさにあきれたような眼を挙げて今さららしく部屋の中を眺め廻した。なんの飾りもない、修道院の内部のような裸な室内がかえってすがすがしく見えた。岡の残した貞世の枕もとの花束だけが、そしておそらくは(自分では見えないけれども)これほどの忙しさの間にも自分を粉飾するのを忘れずにいる葉子自身がいかにも浮薄なたよりないものだった。葉子はこうした心になると、熱に浮かされながら一歩一歩なんの心のわだかまりもなく死に近づいて行く貞世の顔が神《こう》々《ごう》しいものにさえ見えた。葉子は祈るような詫《わ》びるような心でしみじみと貞世を見入った。
やがて看護婦が貞世の部屋にはいって来た。形式一遍のお辞儀を睡《ねむ》そうにして、寝台の側に近奇ると、無頓着なふうに葉子が入れておいた検温器を出して灯《ひ》にすかして見てから、胸の氷嚢を取りかえにかかった。葉子は自分一人の手でそんなことをしてやりたいような愛着と神聖さとを貞世に感じながら看護婦を手伝った。
「貞ちゃん……さ、氷嚢を取りかえますからね……」
とやさしく言うと、囈言《うわごと》を言い続けていながらやはり貞世はそれまで眠っていたらしく、痛々しいまで大きくなった眼を開いて、まじまじと意外な人でも見るように葉子を見るのだった。
「お姉様なの……いつ帰って来たの。お母様が先刻《さつき》いらしってよ……いやお姉様、病院いや帰る帰る……お母様お母様(そう言ってきょろきょろとあたりを見廻しながら)帰らしてちょうだいよう。お家に早く、お母様のいるお家に早く……」
葉子は思わず毛《け》孔《あな》が一本一本逆立つほどの寒気を感じた。かつて母という言葉も言わなかった貞世の口から思いもかけずこんなことを聞くと、その部屋のどこかにぼんやり立っている母が感ぜられるように思えた。その母のところに貞世は行きたがってあせっている。なんという深いあさましい骨肉の執着だろう。
看護婦が行ってしまうとまた病室の中はしんとなってしまった。なんとも言えず可憐な澄んだ音を立てて水溜りに落ちる雨《あま》垂《だ》れの音はなお絶え間なく聞こえ続けていた。葉子は泣くにも泣かれないような心になって、苦しい呼吸をしながらもうつらうつらと生死の間を知らぬげに眠る貞世の顔をのぞき込んでいた。
と、雨垂れの音に混《まじ》って遠くの方に車の轍《わだち》の音を聞いたように思った。もう眼を覚まして用事をする人もあるかと、なんだか違った世界の出来事のようにそれを聞いていると、その音はだんだん病室の方に近寄って来た。……愛子ではないか……葉子は愕《がく》然《ぜん》として夢から覚めた人のようにきっとなってさらに耳を聳《そばだ》てた。
もうそこには死生を瞑《めい》想《そう》して自分の妄執のはかなさをしみじみと思いやった葉子はいなかった。我執のために緊張しきったその眼は怪しく輝いた。そして大急ぎで髪のほつれをかき上げて、鏡に顔を映しながら、あちこちと指先で容子《ようす》を整えた。衣《え》紋《もん》もなおした。そしてまたじっと玄関の方に聞き耳を立てた。
はたして玄関の戸の開く音が聞こえた。しばらく廓下がごたごたする様子だったが、やがて二、三人の跫《あし》音《おと》が聞こえて、貞世の病室の戸がしめやかに開かれた。葉子はそのしめやかさでそれは岡が開いたに違いないことを知った。やがて開かれた戸口から岡にちょっと挨《あい》拶《さつ》しながら愛子の顔が静かに現われた。葉子の眼は知らず知らずそのどこまでも従順らしく伏目になった愛子の面に激しく注がれて、そこに書かれたすべてを一時に読み取ろうとした。小羊のように睫《まつ》毛《げ》の長いやさしい愛子の眼はしかし不思議にも葉子の鋭い眼光にさえ何物をも見せようとはしなかった。葉子はすぐいらいらして、何事も発《あば》かないではおくものかと心の中で自分自身に誓言を立てながら、
「倉地さんは」
と突然真正面から愛子にこう尋ねた。愛子は多恨な眼をはじめてまともに葉子の方に向けて、貞世の方にそれをそらしながら、また葉子を窃《ぬす》み見るようにした。そして倉地さんがどうしたと言うのか意味が読み取れないというふうを見せながら返事をしなかった。生意気をしてみるがいい……葉子はいらだっていた。
「小父《おじ》さんもいっしょにいらしったかいと言うんだよ」
「いいえ」
愛子は無愛想なほど無表情に一《ひと》言《こと》そう答えた。二人の間にはむずかしい沈黙が続いた。葉子はすわれとさえ言ってやらなかった。一日一日と美しくなって行くような愛子は小《こ》肥《ぶと》りな体を慎ましく整えて静かに立っていた。
そこに岡が小道具を両手に下げて玄関の方から帰って来た。外《がい》套《とう》をびっしょり雨に濡《ぬ》らしているのから見ても、この真夜中に岡がどれほど働いてくれたかがわかっていた。葉子はしかしそれには一言の挨拶もせずに、岡が道具を部屋の隅《すみ》におくやいなや、
「倉地さんは何か言っていまして?」
と険を言葉に持たせながら尋ねた。
「倉地さんはおいでがありませんでした。で婆やに言《こと》伝《づ》てをしておいて、お入用の荷物だけ造って持って来ました。これはお返ししておきます」
そう言って衣嚢《かくし》の中から例の紙幣の束を取り出して葉子に渡そうとした。
愛子だけならまだしも、岡までがとうとう自分を裏切ってしまった。二人が二人ながら見え透いた虚言《うそ》をよくもああしらじらしく言えたものだ。おおそれた弱虫どもめ。葉子は世の中が手ぐすね引いて自分一人を敵に廻しているように思った。
「へえ、そうですか。どうも御苦労さま。……愛さんお前はそこにそうぼんやり立ってるためにここに呼ばれたと思っているの? 岡さんのその濡れた外套でも取ってお上げなさいな。そして宿直室に行って看護婦にそう言ってお茶でも持っておいで。あなたの大事な岡さんがこんなにおそくまで働いてくださったのに……さあ岡さんどうぞこの椅子に(と言って自分は立ち上がった)……私が行ってくるわ、愛さんも働いてさぞ疲れたろうから……よござんす、よござんすったら愛さん……」
自分の後を追おうとする愛子を刺し貫くほどにらめつけておいて葉子は部屋を出た。そうして火をかけられたようにかっと逆上しながら、ほろほろ口惜し涙を流して暗い廊下を夢中で宿直室の方へ急いで行った。
四四
敲《たた》きつけるようにして倉地に返してしまおうとした金は、やはり手に持っているうちに使い始めてしまった。葉子の性癖としていつでもできるだけ豊かな快い夜昼を送るようにのみ傾いていたので、貞世の病院生活にも、誰に見せてもひけを取らないだけのことを上《うわ》辺《べ》ばかりでもしていたかった。夜具でも調度でも家にあるものの中でいちばん優《すぐ》れたものを選んで来てみると、すべてのことまでそれにふさわしいものを使わなければならなかった。葉子が専用の看護婦を二人も頼まなかったのは不思議なようだが、どういうものか貞世の看護をどこまでも自分一人でしてのけたかったのだ。その代わり年とった女を二人傭《やと》って交代に病院に来さして、洗い物から食事のことまでを賄《まかな》わした。葉子はとても病院の食事では済ましていられなかった。材料のいい悪いはとにかく、味はとにかく、何よりも穢《きたな》らしい感じがして箸《はし》もつける気になれなかったので、本郷通りにある或る料理屋から日々入れさせることにした。こんなあんばいで、費用は知れないところに思いのほかかかった。葉子が倉地が持って来てくれた紙幣の束から支払おうとした時は、いずれそのうち木村から送金があるだろうから、あり次第それから埋め合わせをして、すぐそのまま返そうと思っていたのだった。しかし木村からは、六月になって以来一度も送金の通知は来なかった。葉子はそれだからなおさらのこともう来そうなものだと心持ちをしたのだった。それがいくら待っても来ないとなるとやむを得ず持ち合わせた分から使って行かなければならなかった。まだまだと思っていうちに束の厚みはどんどん減って行った。それが半分ほど減ると、葉子は全く返済のことなどは忘れてしまったようになって、あるに任せて惜しげもなく支払いをした。
七月にはいってから気候はめっきり暑くなった。椎《しい》の樹《き》の古葉もすっかり散り尽くして、松も新しい緑に代わって、草も木も青い焔《ほのお》のようになった。長く寒く続いた五月雨《さみだれ》の名《な》残《ご》りで、水蒸気が空気中に気味悪く飽和されて、さらぬだに急に堪えがたく暑くなった気候をますます堪えがたいものにした。葉子は自身の五体が、貞世の恢《かい》復《ふく》をも待たずにずんずん崩れて行くのを感じないわけにはいかなかった。それとともに勃《ぼつ》発《ぱつ》的《てき》に起こってくるヒステリーはいよいよ募るばかりで、その発作に襲われたが最後、自分ながら気が違ったと思うようなことがたびたびになった。葉子は心ひそかに自分を恐れながら、日々の自分を見守ることを余儀なくされた。
葉子のヒステリーは誰彼の見《み》界《さかい》なく破裂するようになったがことに愛子に屈強の逃げ場を見いだした。なんと言われても罵《ののし》られても、打ち据えられさえしても、屠《と》所《しよ》の羊のように柔順に黙ったまま、葉子にはまどろしく見えるくらいゆっくり落ち着いて働く愛子を見せつけられると、葉子の疳《かん》癪《しやく》は嵩《こう》じるばかりだった。あんなすなおな殊勝気なふうをしていながらしらじらしくも姉を欺《あざむ》いている。それが倉地との関係においてであれ、岡との関係においてであれ、ひょっとすると古藤との関係においてであれ、愛子は葉子に打ち明けない秘密を持ち始めているはずだ。そう思うと葉子は無理にも平地に波《は》瀾《らん》が起こしてみたかった。ほとんど毎日――それは愛子が病院に寝泊りするようになったためだと葉子は自分決めに決めていた――幾時間かの間、見舞いに来てくれる岡に対しても、葉子はもう元のような葉子ではなかった。どうかすると思いもかけない時に明白な皮肉が矢のように葉子の唇から岡に向かって飛ばされた。岡は自分が恥じるように顔を紅《あか》らめながらも、上品な態度でそれを堪《こら》えた。それがまたなおさら葉子をいらつかす種になった。
もう来られそうもないと言いながら倉地も三日に一度くらいは病院を見舞うようになった。葉子はそれをも愛子ゆえと考えずにはいられなかった。そう激しい妄《もう》想《そう》に駆《か》り立てられてくると、どういう関係で倉地と自分とを繋《つな》いでおけばいいのか、どうした態度で倉地をもちあつかえばいいのか、葉子にはほとほと見当がつかなくなってしまった。親身に持ちかけてみたり、よそよそしく取りなしてみたり、その時の気分気分で勝手な無技巧なことをしていながらも、どうしても遁《のが》れ出ることのできないのは倉地に対するこちんと固まった深い執着だった。それは情けなくも激しく強くなり増さるばかりだった。もう自分で自分の心根を憫《びん》然《ぜん》に思ってそぞろに涙を流して、みずからを慰めるという余裕すらなくなってしまった。乾ききった火のようなものか息気《いき》苦しいまでに胸の中にぎっしりつまっているだけだった。
ただ一人貞世だけは……死ぬか生きるかわからない貞世だけは、この姉を信じきってくれている……そう思うと葉子は前にも増した愛着をこの病児にだけは感じないでいられなかった。「貞世がいるばかりで自分は人殺しもしないでこうしていられるのだ」と葉子は心の中でひとりごちた。
けれどもある朝そのかすかな希望さえ破れねばならぬような事件がまくし上がった。
その朝は暁から水が滴《したた》りそうに空が晴れて、珍しくすがすがしい涼風が木の間から来て窓の白いカーテンをそっと撫《な》でて通るさわやかな天気だったので、夜通し貞世の寝台の傍につき添って、睡《ねむ》くなるとそうしたままでうとうとと居睡りしながら過ごしてきた葉子も、思いのほか頭の中が軽くなっていた。貞世もその晩はひどく熱に浮かされもせずに寝続けて、四時ごろの体温は七度八分まで下がっていた。緑色の風呂敷を通して来る光でそれを発見した葉子は飛び立つような喜びを感じた。入院してから七度台に熱の下がったのはこの朝がはじめてだったので、もう熱の剥《はく》離《り》期《き》が来たのかと思うと、とうとう貞世の命は取り留めたという喜悦の情で涙ぐましいまでに胸はいっぱいになった。ようやく一心が届いた。自分のために病気になった貞世は、自分の力でなおった。そこから自分の運命はまた新しく開けて行くかもしれない。きっと開けて行く。もう一度心おきなくこの世に生きる時が来たら、それはどのくらいいいことだろう。今度こそは考えなおして生きてみよう。もう自分も二十六だ。今までのような態度で暮らしてはいられない。倉地にも済まなかった。倉地があれほどある限りのものを犠牲にして、しかもその事業と言っている仕事はどう考えてみても思わしく行っていないらしいのに、自分たちの暮らし向きはまるでそんなことも考えないような寛《かん》濶《かつ》なものだった。自分は決心さえすればどんな境遇にでも自分を嵌《は》め込むことくらいできる女だ。もし今度家を持つようになったらすべてを妹たちに言って聞かして、倉地といっしょになろう。そして木村とははっきり縁を切ろう。木村といえば……そうして葉子は倉他と古藤とが言い合いをしたその晩のことを考えだした。古藤にあんな約束をしながら、貞世の病気に紛れていたと言うほかに、てんで真相を告白する気がなかったので今ではなんの消息もしないでいた自分がとがめられた。本当に木村にも済まなかった。今になってようやく長い間の木村の心の苦しさが想像される。もし貞世が退院するようになったら――そして退院するに決まっているが――自分は何を措《お》いても木村に手紙を書く。そうしたらどれほど心が安くそして軽くなるかしれない。……葉子はもうそんな境界が来てしまったように考えて、誰とでもその喜びを分ちたく思った。で、椅子にかけたまま右後ろを向いてみると、床板の上に三畳畳《たたみ》を敷いた部屋の一隅に愛子が他愛もなくすやすやと眠っていた。うるさがるので貞世には蚊《か》帳《や》を垂《つ》ってなかったが、愛子のところには小さな白い西洋蚊帳が垂ってあった。その細かい目を通して見る愛子の顔は人形のように整って美しかった。その愛子をこれまで憎み通しに憎み、疑い通しに疑っていたのが、不思議を通り越して、奇怪なことにさえ思われた。葉子はにこにこしながら立って行って蚊帳の側によって、
「愛さん……愛さん」
そうかなり大きな声で呼びかけた。昨夜《ゆうべ》遅く枕に就《つ》いた愛子はやがてようやく睡《ねむ》そうに大きな眼を静かに開いて、姉が枕もとにいるのに気がつくと、寝過ごしでもしたと思ったのか、あわてるように半身を起こして、そっと葉子を窃《ぬす》み見るようにした。日ごろならばそんな挙動をすぐ疳《かん》癪《しやく》の種にする葉子も、その朝ばかりは可哀そうなくらいに思っていた。
「愛さんお喜び、貞ちゃんの熱がとうとう七度台に下がってよ。ちょっと起きてきて御覧、それはいい顔をして寝ているから……静かにね」
「静かにね」と言いながら葉子の声は妙に弾《はず》んで高かった。愛子は柔順に起き上がってそっと蚊《か》帳《や》をくぐって出て、前を合わせながら寝台の側に来た。
「ね?」
葉子は笑《え》みかまけて愛子にこう呼びかけた。
「でもなんだか、だいぶんに蒼《あお》白《じろ》く見えますわね」
と愛子が静かに言うのを葉子は忙《せ》わしく引ったくって、
「それは電燈の風呂敷のせいだわ……それに熱が取れれば病人は皆んな一度はかえって悪くなったように見えるものなのよ。本当によかった。あなたも親身に世話してやったからよ」
そう言って葉子は右手で愛子の肩をやさしく抱いた。そんなことを愛子にしたのは葉子としてははじめてだった。愛子は恐れをなしたように身をすぼめた。
葉子はなんとなくじっとしてはいられなかった。子供らしく、早く貞世が眼を覚《さ》ませばいいと思った。そうしたら熱の下がったのを知らせて喜ばせてやるのにと思った。しかしさすがにその小さな眠りを揺り覚ますことはし得ないで、しきりと部屋の中をかたづけ始めた。愛子が注意の上に注意をしてこそとの音もさせまいと気を遣《つか》っているのに、葉子がわざとするかとも思われるほど騒々しく働くさまは、日ごろとはまるで反対だった。愛子はときどき不思議そうな眼つきをしてそっと葉子の挙動を注意した。
そのうちに夜がどんどん明け離れて、電燈の消えた瞬間はちょっと部屋の中が暗くなったが、夏の朝らしく見る見るうちに白い光が窓から容赦なく流れ込んだ。昼になってからの暑さを予想させるような涼しさが青葉の軽い匂《にお》いとともに部屋の中に充《み》ちあふれた。愛子の着かえた大柄な白の飛白《かすり》も、赤いメリンスの帯も、葉子の眼をすがすがしく刺《し》戟《げき》した。
葉子は自分で貞世の食事を作ってやるために宿直室の側にある小さな包《ほう》厨《ちゆう》に行って、洋食店から届けて来たソップを温めて塩で味をつけている間も、だんだ起き出て来る看護婦たちに貞世の昨夜の経過を誇りがに話して聞かせた。病室に帰ってみると、愛子がすでに目覚めた貞世に朝じまいをさせていた。熱が下がったので機嫌のよかるべき貞世はいっそう不機嫌になって見えた。愛子のすること一つ一つに故障を言い立てて、なかなか言うことを聞こうとはしなかった。熱の下がったのにつれてはじめて貞世の意志が人間らしく働きだしたのだと葉子は気がついて、それも許さなければならないことだと、自分のことのように心で弁《べん》疏《そ》した。ようやく洗面が済んで、それから寝台の周囲を整頓するともう全く朝になっていた。今朝こそは貞世がきっと賞美しながら食事を取るだろうと葉子はいそいそと丈けの高い食卓を寝台のところに持って行った。
その時思いがけなくも朝がけに倉地が見舞いに来た。倉地も涼しげな単衣《ひとえ》に絽《ろ》の羽織を羽織ったままだった。その強健な、物を物ともしない姿は夏の朝の気分としっくりそぐって見えたばかりでなく、その日に限って葉子は絵島丸の中で語り合った倉地を見いだしたように思って、その寛濶な様子がなつかしくのみ眺められた。倉地も勉《つと》めて葉子の立ちなおった気分に同じているらしかった。それが葉子をいっそう快活にした。葉子は久しぶりでその銀の鈴のような澄み透った声で高調子に物を言いながら二《ふた》言《こと》目《め》には涼しく笑った。
「さ、貞ちゃん、姉さんが上手に味をつけてきて上げたからソップを召し上がれ。今朝はきっとおいしく食べられますよ。今までは熱で味も何もなかったわね、可哀そうに」
そう言って貞世の身近に椅子を占めながら、糊《のり》の強いナフキンを枕から喉にかけてあてがってやると、貞世の顔は愛子の言うようにひどく青みがかって見えた。小さな不安が葉子の頭をつきぬけた。葉子は清潔な銀の匙《さじ》に少しばかりソップをしゃくい上げて貞世の口もとにあてがった。
「まずい」
貞世はちらっと姉をにらむように盗み見て、口にあるだけのソップを強いて飲みこんだ。
「おやどうして」
「甘ったらしくって」
「そんなはずはないがね。どれそれじゃも少し塩を入れてあげますわ」
葉子は塩をたしてみた。けれども貞世は美味《うま》いとは言わなかった。また一口飲み込むともういやだと言った。
「そう言わずとも少し召し上がれ、ね、せっかく姉さんがかげんしたんだから。第一食べないでいては弱ってしまいますよ」
そううながしてみても貞世は金輪際あとを食べようとはしなかった。
突然自分でも思いも寄らない憤怒が葉子に襲いかかった。自分がこれほど骨を折ってしてやったのに、義理にももう少しは食べてよさそうなものだ。なんというわがままな子だろう(葉子は貞世が味覚を恢《かい》復《ふく》していて、流動食では満足しなくなったのを少しも考えに入れなかった)。
そうなるともう葉子は自分を統《とう》御《ぎよ》する力を失ってしまっていた。血管の中の血が一時にかっと燃え立って、それが心臓に、そして心臓から頭に衝《つ》き進んで、頭《ず》蓋《がい》骨《こつ》はばりばりと音を立てて破れそうだった。日ごろあれほど可愛がってやっているのに、……憎さは一倍だった。貞世を見つめているうちに、その痩《や》せきった細首に鍬《くわ》形《がた》にした両手をかけて、一思いにしめつけて、苦しみ悶《もが》く様子を見て、「そら見るがいい」と言い捨ててやりたい衝動がむずむずと湧《わ》いてきた。その頭の廻りにあてがわるべき両手の指は思わず知らず熊手のように折れ曲がって、烈しい力のために細かく震えた。葉子は兇器に変わったようなその手を人に見られるのが恐ろしかったので、茶碗と匙とを食卓にかえして、前垂れの下に隠してしまった。上《うわ》瞼《まぶた》の一文字になった眼をきりっと据えてはたと貞世をにらみつけた。葉子の眼には貞世のほかにその部屋のものは倉地から愛子に至るまですっかり見えなくなってしまっていた。
「食べないかい」
「食べないかい。食べなければ云《うん》々《ぬん》」と小言を言って貞世を責めるはずだったが、初句を出しただけで、自分の声のあまりに激しい震えように言葉を切ってしまった。
「食べない……食べない……御飯でなくってはいやあだあ」
葉子の声の下からすぐこうしたわがままな貞世のすねにすねた声が聞こえたと葉子は思った。真黒な血潮がどっと心臓を破って脳天に衝き進んだと思った。眼の前で貞世の顔が三つにも四つにもなって泳いだ。その後には色も声も痺《しび》れ果ててしまったような暗黒の忘我が来た。
「お姉様……お姉様ひどい……いやあ……」
「葉ちゃん……あぶない……」
貞世と倉地の声とがもつれ合って、遠いところからのように聞こえて来るのを、葉子は誰かが何か貞世に乱暴をしているのだなと思ったり、この勢いで行かなければ貞世は殺せやしないと思ったりしていた。いつの間にか葉子はただ一筋に貞世を殺そうとばかりあせっていたのだ。葉子は闇黒の中で何か自分に逆らう力と根限りあらそいながら、ものすごいほどの力をふり搾《しぼ》って闘っているらしかった。何がなんだかわからなかった。その混乱の中に、あるいは今自分は倉地の喉《のど》笛《ぶえ》に針のようになった自分の十本の爪を立てて、ねじりもがきながら争っているのではないかとも思った。それもやがて夢のようだった。遠ざかりながら人の声とも獣の声とも知れぬ音響が幽《かす》かに耳に残って、胸のところにさし込んで来る痛みを吐きけのように感じた次の瞬間には、葉子は昏《こん》々《こん》として熱も光も声もない物すさまじい暗黒の中に真《まつ》逆《さか》様《さま》に浸って行った。
ふと葉子は擽《くす》むるようなものを耳のところに感じた。それが音響だとわかるまでにはどのくらいの時間が経過したかしれない。とにかく葉子はがやがやという声をだんだんとはっきり聞くようになった。そしてぽっかり視力を恢復した。見ると葉子は依然として貞世の病室にいるのだった。愛子が後ろ向きになって寝台の上にいる貞世を介抱していた。自分は……自分はと葉子ははじめて自分を見廻そうとしたが、身体は自由を失っていた。そこには倉地がいて葉子の頸《くび》根《ね》っこに腕を廻して、膝《ひざ》の上に一方の足を乗せて、しっかりと抱きすくめていた。その足の重さが痛いほど感じられだした。やっぱり自分は倉地を死神のもとへ追いこくろうとしていたのだなと思った。そこには白衣を着た医者も看護婦も見えだした。
葉子はそれだけのことを見ると急に気のゆるむのを覚えた。そして涙がぽろぽろと出てしかたがなくなった。おかしな……どうしてこう涙が出るのだろうと怪しむうちに、やるせない悲哀がどっとこみ上げてきた。底のないような淋《さび》しい悲哀……そのうちに葉子は悲哀とも睡《ねむ》さとも区別のできない重い力に圧せられてまた知覚から物のない世界に落ち込んで行った。
本当に葉子が眼を覚ました時には、真《まつ》蒼《さお》に晴天の後の夕暮れが催しているころだった。葉子は部屋の隅《すみ》の三畳に蚊《か》帳《や》の中に横になって寝ていたのだった。そこには愛子のほかに岡も来合わせて貞世の世話をしていた。倉地はもういなかった。
愛子の言うところによると、葉子は貞世にソップを飲まそうとしていろいろに言ったが、熱が下がって急に食欲のついた貞世は飯でなければどうしても食べないと言って聴《き》かなかったのを、葉子は涙を流さんばかりになって執《しゆう》念《ね》くソップを飲ませようとした結果、貞世はそこにあったソップ皿を臥《ね》ていながらひっくり返してしまったのだった。そうすると葉子はいきなり立ち上がって貞世の胸もとをつかむなり寝台から引きずり下ろしてこづき廻した。幸いにい合わした倉地が大事にならないうちに葉子から貞世を取り放しはしたが、今度は葉子は倉地に死に物狂いに喰《く》ってかかって、そのうちに激しい癪《しやく》を起こしてしまったのだとのことだった。
葉子の心は空《むな》しく痛んだ。どこにとて取りつくものもないような空しさが心には残っているばかりだった。貞世の熱はすっかり元どおりに昇ってしまって、ひどくおびえるらしい囈《うわ》言《ごと》を絶え間なしに口走った。節《ふし》々《ぶし》はひどく痛みを覚えながら、発作《ほつさ》の過ぎ去った葉子は、ふだんどおりになって起き上がることもできるのだった。しかし葉子は愛子や岡への手前すぐ起き上がるのも変だったのでその日はそのまま寝続けた。
貞世は今度こそは死ぬ。とうとう自分の末路も来てしまった。そう思うと葉子はやる方なく悲しかった。たとい貞世と自分とが幸いに生き残ったとしても、貞世はきっと永《えい》劫《ごう》自分を命の敵と怨《うら》むに違いない。
「死ぬに限る」
葉子は窓を通して青から藍《あい》に変わって行きつつある初夏の夜の景色を眺めた。神秘的な穏やかさと深さとは脳心に沁《し》み通るようだった。貞世の枕もとには若い岡と愛子とが睦《むつ》まじげにいたり立ったりして貞世の看護に余念なく見えた。その時の葉子にはそれは美しくさえ見えた。親切な岡、柔順な愛子……二人が愛し合うのは当然でいいことらしい。
「どうせすべては過ぎ去るのだ」
葉子は美しい不思議な幻影でも見るように、電気燈の緑の光の中に立つ二人の姿を、無常を見《み》貫《ぬ》いた隠者のような心になって打ち眺めた。
四五
このことがあった日から五日経《た》ったけれども倉地はぱったり来なくなった。便りもよこさなかった。金も送っては来なかった。あまりに変なので岡に頼んで下宿のほうを調べてもらうと三日前に荷物の大部分を持って旅行に出ると言って姿を隠してしまったのだそうだ。倉地がいなくなると刑事だという男が二度か三度いろいろなことを尋ねに来たとも言っているそうだ。岡は倉地からの一通の手紙を持って帰って来た。葉子はすぐに封を開いてみた。
「事重大となり姿を隠す。郵便では累を及ぼさんことを恐れ、これを主人に託しおく。金も当分は送れぬ。困ったら家財道具を売れ。そのうちにはなんとかする。読後火中」
とだけ認《したた》めて葉子への宛名も自分の名も書いてはなかった。倉地の手《しゆ》蹟《せき》には間違いない。しかしあの発作以後ますますヒステリックに根性のひねくれてしまった葉子は、手紙を読んだ瞬間にこれは造りごとだと思い込まないではいられなかった。とうとう倉地も自分の手から遁《のが》れてしまった。やるせない恨みと憤りが眼も眩《くら》むほどに頭の中を攪《かく》乱《らん》した。
岡と愛子とがすっかり打ち解けたようになって、岡がほとんど入り浸りに病院に来て貞世の介抱をするのが葉子には見ていられなくなって来た。
「岡さん、もうあなたこれからここにはいらっしゃらないでくださいまし。こんなことになると御迷惑があなたにかからないとも限りませんから。私たちのことは私たちがしますから。私はもう他人に頼りたくはなくなりました」
「そうおっしゃらずにどうか私をあなたのお側《そば》に置かしてください。私、けっして伝染なぞを恐れはしません」
岡は倉地の手紙を読んではいないのに葉子は気がついた。迷惑と言ったのを病気の伝染と思い込んでいるらしい。そうじゃない。岡が倉地の犬でないとどうして言えよう。倉地が岡を通して愛子と慇《いん》懃《ぎん》を通わし合っていないと誰が断言できる。愛子は岡をたらし込むくらいは平気でする娘だ。葉子は自分の愛子くらいの年ごろの時の自分の経験の一々が生き返ってその猜《さい》疑《ぎ》心《しん》を煽《あお》り立てるのに自分から苦しまねばならなかった。あの年ごろの時、思いさえすれば自分にはそれほどのことは手もなくしてのけることができた。そして自分は愛子よりももっと無邪気な、おまけに快活な少女であり得た。寄ってたかって自分を欺《だま》しにかかるのなら、自分にだってしてみせることがある。
「そんなにお考えならおいでくださるのはお勝手ですが、愛子をあなたにさし上げることはできないんですからそれは御承知くださいましよ。ちゃんと申し上げておかないと後になっていさくさが起こるのはいやですから……愛さんお前も聞いているだろうね」
そう言って葉子は畳の上で貞世の胸にあてる湿布を縫っている愛子の方にも振り向いた。首垂《うなだ》れた愛子は顔も上げず返事もしなかったから、どんな様子を顔に見せたかを知る由はなかったが、岡は羞《しゆう》恥《ち》のために葉子を見かえることもできないくらいになっていた。それはしかし岡が葉子のあまりと言えば露骨な言葉を恥じたのか、自分の心持ちを発《あば》かれたのを恥じたのか葉子の迷いやすくなった心にはしっかりと見《み》窮《きわ》められなかった。
これにつけかれにつけもどかしいことばかりだった。葉子は自分の眼で二人を看視して同時に倉地を間接に看視するよりほかはないと思った。こんなことを思うすぐ側から葉子は倉地の細君のことも思った。今ごろは彼らはのうのうとして邪魔者がいなくなったのを喜びながら一つ家に住んでいないとも限らないのだ。それとも倉地のことだ、第二第三の葉子が葉子の不幸をいいことにして倉地の側に現われているのかもしれない。……しかし今の場合倉地の行方《ゆくえ》を尋ねあてることはちょっとむずかしい。
それからというもの葉子の心は一秒の間も休まらなかった。もちろん今まででも葉子は人一倍心の働く女だったけれども、そのころのような激しさはかつてなかった。しかもそれがいつも表から裏を行く働き方だった。それは自分ながら全く地獄の苛《か》責《しやく》だった。
そのころから葉子はしばしば自殺ということを深く考えるようになった。それは自分でも恐ろしいほどだった。肉体の生命を絶つことのできるような物さえ眼に触れれば、葉子の心はおびえながらもはっと高鳴った。薬局の前を通るとずらっと列《なら》んだ薬《くすり》瓶《びん》が誘惑のように眼を射た。看護婦が帽子を髪にとめるための長い帽子ピン、天井の張ってない湯殿の梁《はり》、看護婦室に薄赤い色をして金《かな》盥《だらい》にたたえられた昇《しよう》汞《こう》水《すい*》、腐敗した牛乳、剃刀《かみそり》、鋏《はさみ》、夜更けなどに上野の方から聞こえて来る汽車の音、病室から眺められる生理学教室の三階の窓、密閉された部屋、しごき帯、……なんでもかでもが自分の肉を喰《は》む毒蛇のごとく鎌《かま》首《くび》を立てて自分を待ち伏せしているように思えた。ある時はそれらをこの上なく恐ろしく、ある時はまたこの上なく親しみ深く眺めやった。一《いつ》疋《ぴき》の蚊にさされた時さえそれがマラリヤを伝える種類であるかないかを疑ったりした。
「もう自分はこの世の中に何の用があろう。死にさえすればそれでことは済むのだ。この上自身も苦しみたくない。他人も苦しめたくない。いやだいやだと思いながら自分と他人とを苦しめているのが堪《た》えられない。眠りだ。長い眠りだ。それだけのものだ」
と貞世の寝息を窺《うかが》いながらしっかり思い込むような時もあったが、同時に倉地がどこかで生きているのを考えると、たちまち燕《つばめ》返《がえ》しに死から生の方へ、苦しい煩《ぼん》悩《のう》の生の方へ激しく執着して行った。倉地の生きてる間に死んでなるものか……それは死よりも強い誘惑だった。意地にかけても、肉体のすべての機関がめちゃめちゃになっても、それでも生きていてみせる。……葉子はそしてそのどちらにも本当の決心のつかない自分にまた苦しまねばならなかった。
すべてのものを愛しているのか憎んでいるのかわからなかった。貞世に対してですらそうだった。葉子はどうかすると、熱に浮かされて見《み》界《さかい》のなくなっている貞世を、継母がまま子をいびり抜くように没《も》義《ぎ》道《どう》に取り扱った。そして次の瞬間には後悔しきって、愛子の前でも看護婦の前でもかまわずにおいおいと泣きくずおれた。
貞世の病状は悪くなるばかりだった。
ある時伝染病室の医長が来て、葉子が今のままでいてはとても健康が続かないから、思いきって手術をしたらどうだと勧告した。黙って聞いていた葉子は、すぐ岡の差入れ口だと邪推して取った。その後ろには愛子がいるに違いない。葉子がついていたのでは貞世の病気は癒《なお》るどころか悪くなるばかりだ(それは葉子もそう思っていた。葉子は貞世を全快させてやりたいのだ。けれどもどうしてもいびらなければいられないのだ。それはよく葉子自身が知っていると思っていた)。それには葉子をなんとかして貞世から離しておくのが第一だ。そんな相談を医長としたものがいないはずがない。ふむ、……うまいことを考えたものだ。その復《ふく》讐《しゆう》はきっとしてやる。根本的に病気を癒してからしてやるから見ているがいい。葉子は医長との対話のうちに早くもこう決心した。そうして思いのほか手っとり早く手術を受けようと進んで返答した。
婦人科の室は伝染病室とはずっと離れたところに近ごろ新築された建物の中にあった。七月のなかばに葉子はそこに入院することになったが、その前に岡と古藤とに依頼して、自分の身近にある貴重品から、倉地の下宿に運んである衣類までを処分してもらわなければならなかった。金の出所は全く杜《と》絶《だ》えてしまっていたから。岡がしきりと融通しようと申し出たのもすげなく断わった。弟同様の少年から金まで融通してもらうのはどうしても葉子のプライドが承知しなかった。
葉子は特等を選んで日当たりのいい広々とした部屋にはいった。そこは伝染病室とは比べものにもならないくらい新式の設備の整った居心地のいいところだった。窓の前の庭はまだ掘りくり返したままで赤土の上に草も生えていなかったけれども、広い廊下の冷やかな空気は凉しく病室に通りぬけた。葉子は六月の末以来はじめて寝床の上に安々と体を横たえた。疲労が回復するまでしばらくの間手術は見合わせるというので葉子は毎日一度ずつ内診をしてもらうだけですることもなく日を過ごした。
しかし葉子の精神は昂奮するばかりだった。一人になって暇になってみると、自分の心身がどれほど破壊されているかが自分ながら恐ろしいくらい感ぜられた。よくこんなありさまで今まで通してきたと驚くばかりだった。寝台の上に臥《ね》てみると二度と起きて歩く勇気もなく、また実際できもしなかった。ただ鈍痛とのみ思っていた痛みは、どっちに臥返ってみても我慢のできないほどな激痛になっていて、気が狂うように頭は重くうずいた。我慢にも貞世を見舞うなどということはできなかった。
こうして臥ながらにも葉子は断片的にいろいろなことを考えた。自分の手もとにある金のことをまず思案してみた。倉地から受け取った金の残りと、調度類を売り払ってもらってできた纏《まと》まった金とが何にもかにもこれから姉妹三人を養って行くただ一つの資本だった。その金が使い尽くされた後には今のところ、何をどうするという目途《あて》は露ほどもなかった。葉子はふだんの葉子に似合わずそれが気になりだしてしかたがなかった。特等室なぞにはいり込んだことが後悔されるばかりだった。といって今になって等級の下がった病室に移してもらうなどとは葉子としては思いも寄らなかった。
葉子はぜいたくな寝台の上に横になって、羽根枕に深々と頭を沈めて、氷《ひよう》嚢《のう》を額にあてがいながら、かんかんと赤土に射している真夏の日の光を、広々と取った窓を通して眺めやった。そうして物心ついてからの自分の過去を針で揉《も》み込むような頭の中でずっと見渡すように考えたどってみた。そんな過去が自分のものなのか、そう疑ってみねばならぬほどにそれははるかにもかけ隔たったことだった。父母――ことに父の嘗《な》めるような寵《ちよう》愛《あい》の下に何一つ苦労を知らずに清い美しい童女としてすらすらと育ったあの時分がやはり自分の過去なのだろうか。木部との恋に酔いふけって、国分寺の櫟《くぬぎ》の林の中で、その胸に自分の頭を託して、木部の言う一語一語を美酒のように飲みほしたあの少女はやはり自分なのだろうか。女の誇りという誇りを一身に集めたような美貌と才能の持ち主として、女たちからは羨《せん》望《ぼう》の的となり、男たちからは嘆美の祭壇とされたあの青春の女性はやはりこの自分なのだろうか。誤解の中にも攻撃の中にも昂《こう》然《ぜん》と首を擡《もた》げて、自分は今の日本に生まれて来《く》べき女ではなかったのだ。不幸にも時と処とを間違えて天上から送られた王女であるとまで自分に対する矜誇《ほこり》に満ちていた、あの妖《よう》婉《えん》な女性はまごう方なく自分なのだろうか。絵島丸の中で味わい尽くし嘗《な》め尽くした歓楽と陶酔との限りは、はじめて世に生まれ出た生きがいをしみじみと感じた誇りがなしばらくは今の自分と結びつけていい過去の一つなのだろうか……日はかんかんと赤土の上に照りつけていた。油《あぶら》蝉《ぜみ》の声は御殿の池をめぐる鬱《うつ》蒼《そう》たる木立ちの方から沁み入るように聞こえていた。近い病室では軽病の患者が集まって、何かみだららしい雑談に笑い興じている声が聞こえて来た。それは実際なのか夢なのか。それらのすべては腹立たしいことなのか、哀しいことなのか、笑い捨つべきことなのか、嘆き恨まねばならぬことなのか。……喜怒哀楽のどれか一つだけでは表わし得ない、不思議に交錯した感情が、葉子の眼からとめどなく涙を誘い出した。あんな世界がこんな世界に変わってしまった。そうだ貞世が生死の境に彷徨《さまよ》っているのはまちがいようのない事実だ。自分の健康が衰え果てたのも間違いのない出来事だ。もし毎日貞世を見舞うことができるのならばこのままここにいるのもいい。しかし自分の身体の自由さえ今はきかなくなった。手術を受ければどうせ当分は身動きもできないのだ。岡や愛子……そこまで来ると葉子は夢の中にいる女ではなかった。まざまざとした煩《ぼん》悩《のう》が勃《ぼつ》然《ぜん》としてその歯《は》噛《が》みしたものすごい鎌首をきっと擡《もた》げるのだった。それもよし。近くいても看視の利《き》かないのを利用したくば思うさま利用するがいい。倉地と三人で勝手な陰謀を企てるがいい。どうせ看視の利かないものなら、自分は貞世のためにどこか第二流か第三流の病院に移ろう。そしていくらでも貞世のほうを安楽にしてやろう。葉子は貞世から離れるといちずにそのあわれさが身に沁みてこう思った。
葉子はふとつやのことを思い出した。つやは看護婦になって京橋あたりの病院にいると双鶴館から言って来たのを思い出した。愛子を呼び寄せて電話で探させようと決心した。
四六
真《まつ》暗《くら》な廊下が古ぼけた縁側になったり、縁側の突当りに階《はし》子《ご》段《だん》があったり、日当たりのいい中二階のような部屋があったり、納《なん》戸《ど》と思われる暗い部屋に屋根を打ち抜いてガラスを嵌《は》めて光線が引いてあったりするような、いわばその界《かい》隈《わい》にたくさんある待合の建物に手を入れて使っているような病院だった。つやは加《か》治《じ》木《き》病院というその病院の看護婦になっていた。
長く天気が続いて、その後に激しい南風が吹いて、東京の市街は埃《ほこり》まぶれになって、空も、家屋も、樹木も、黄粉《きなこ》でまぶしたようになったあげく、気持ち悪く蒸し蒸しと膚を汗ばませるような雨に変わったある日の朝、葉子はわずかばかりな荷物を持って人力車で加治木病院に送られた。後ろの車には愛子が荷物の一部分を持って乗っていた。須田町に出た時、愛子の車は日本橋の通りを真直ぐに一足先に病院に行かして、葉子は外《そと》濠《ぼり》に沿うた道を日本銀行からしばらく行く釘《くぎ》店《だな》の横丁に曲がらせた。自分の住んでいた家を他所《よそ》ながら見て通りたい心持ちになっていたからだった。前《まえ》幌《ほろ》の隙《すき》間《ま》からのぞくのだったけれども、一年の後にもそこにはさして変わった様子は見えなかった。自分のいた家の前でちょっと車を止まらして中をのぞいてみた。門札には叔父の名はなくなって、知らない他人の姓名が掲げられていた。それでもその人は医者だとみえて、父の時分からの永寿堂病院という看板は相変わらず玄関の〓《なげし》に見えていた。長三洲と署名してあるその字も葉子には親しみ深いものだった。葉子がアメリカに出発した朝も九月ではあったがやはりその日のようにじめじめと雨の降る日だったのを思い出した。愛子が櫛《くし》を折って急に泣きだしたのも、貞世が怒ったような顔をして眼に涙をいっぱい溜めたまま見送っていたのもその玄関を見ると描くように思い出された。
「もういい早くやっておくれ」
そう葉子は車の上から涙声で言った。車は梶《かじ》棒《ぼう》を向け換えられて、また雨の中を小さく揺れながら日本橋の方に走りだした。葉子は不思議にそこにいっしょに住んでいた叔父叔母のことを泣きながら思いやった。あの人たちは今どこにどうしているだろう。あの白痴の児《こ》ももうずいぶん大きくなったろう。でも渡米を企ててからまだ一年とは経《た》っていないんだ。へえ、そんな短い間にこれほどの変化が……葉子は自分で自分にあきれるようにそれを思いやった。それではあの白痴の児も思ったほど大きくなっているわけではあるまい。葉子はその子のことを思うとどうしたわけか定子のことを胸が痛むほどきびしく想《おも》い出してしまった。鎌倉に行った時以来、自分の懐《ふとこ》ろからもぎ放してしまって、金輪際忘れてしまおうと堅く心に契《ちぎ》っていたその定子が……それはその場合葉子を全くみじめにしてしまった。
病院に着いた時も葉子は泣き続けていた。そしてその病院のすぐ手前まで来て、そこに入院しようとしたことを心から後悔してしまった。こんな落《らく》魄《はく》したような姿をつやに見せるのが堪えがたいことのように思われだしたのだ。
暗い二階の部屋に案内されて、愛子が準備しておいた床に横になると葉子は誰に挨《あい》拶《さつ》もせずにただ泣き続けた。そこは運河の水の匂《にお》いが泥臭く通って来るようなところだった。愛子は煤《すす》けた障子の蔭《かげ》で手廻りの荷物を取り出して案配した。口少なの愛子は姉を慰めるような言葉も出さなかった。外部が騒々しいだけに部屋の中はなおさらひっそりと思われた。
葉子はやがて静かに顔を挙げて部屋の中を見た。愛子の顔色が黄色く見えるほどその日の空も部屋の中も寂《さび》れていた。少し黴《かび》を持ったように埃《ほこり》っぽくぶくぶくする畳の上には丸盆の上に大学病院から持って来た薬《くすり》瓶《びん》が乗せてあった。障子ぎわには小さな鏡台が、違い棚には手文庫と硯《すずり》箱《ばこ》が飾られたけれども、床の間には幅《ふく》物《もの》一つ、花《はな》活《い》け一つ置いてなかった。その代わりに草色の風呂敷に包み込んだ衣類と黒い柄《え》のパラソルとが置いてあった。薬瓶の乗せてある丸盆が、出入りの商人から到来のもので、縁《ふち》のところに剥げたところができて、表には赤い短冊のついた矢が的に命中している画が安っぽい金で描いてあった。葉子はそれを見ると盆もあろうにと思った。それだけでもう葉子は腹が立ったり情けなくなったりした。
「愛さんあなた御苦労でも毎日ちょっとずつは来てくれないじゃ困りますよ。貞ちゃんの様子も聞きたいしね。……貞ちゃんも頼んだよ。熱が下がって物事がわかるようになる時には私も癒《なお》って帰るだろうから……愛さん」
いつものとおりはきはきとした手答えがないので、もうぎりぎりしてきた葉子は険を持った声で、「愛さん」と語気強く呼びかけた。言葉をかけるとそれでもかたづけものの手をおいて葉子の方に向きなおった愛子は、この時ようやく顔を上げておとなしく「はい」と返事をした。葉子の眼はすかさずその顔を発矢《はつし》と鞭《むち》うった。そして寝床の上に半身を肘《ひじ》に支えて起き上がった。車で揺られたために腹部は痛みを増して声を挙げたいほどうずいていた。
「あなたに今日ははっきり聞いておきたいことがあるの……あなたはよもや岡さんとひょんな約束なんぞしてはいますまいね」
「いいえ」
愛子は手もなくすなおにこう答えて眼を伏せてしまった。
「古藤さんとも?」
「いいえ」
今度は顔を上げて不思議なことを問いただすと言うようにじっと葉子を見つめながらこう答えた。そのタクトがあるような、ないような愛子の態度が葉子をいやが上にいらだたした。岡の場合にはどこか後ろめたくて首を垂れたとも見える。古藤の場合にはわざとしらを切るために大胆に顔を上げたとも取れる。またそんな意味ではなく、あまり不思議な詰問が二度まで続いたので、二度目には怪《け》訝《げん》に思って顔を上げたのかとも考えられる。葉子は畳みかけて倉地のことまで問い正そうとしたが、その気分は摧《くだ》かれてしまった。そんなことを聞いたのが第一愚かだった。隠し立てをしようと決心した以上は、女は男よりもはるかに巧妙で大胆なのを葉子は自分で存分に知り抜いているのだ。自分から進んで内《うち》兜《かぶと》を見透かされたようなもどかしさはいっそう葉子の心を憤《いきどお》らした。
「あなたは二人から何かそんなことを言われた覚えがあるでしょう。その時あなたはなんと御返事したの」
愛子は下を向いたまま黙っていた。葉子は図星をさしたと思って嵩《かさ》にかかって行った。
「私は考えがあるからあなたの口からもそのことを聞いておきたいんだよ。おっしゃいな」
「お二人ともなんにもそんなことはおっしゃりはしませんわ」
「おっしゃらないことがあるもんかね」
憤怒に伴ってさしこんでくる痛みを憤怒とともにぐっと押えつけながら葉子はわざと声を和らげた。そうして愛子の挙動を爪の先ほども見《み》逃《のが》すまいとした。愛子は黙ってしまった。この沈黙は愛子の隠れ家だった。そうなるとさすがの葉子もこの妹をどう取り扱う術もなかった。岡なり古藤なりが告白をしているのなら、葉子がこの次に言い出す言葉で様子は知れる。この場合うっかり葉子の口車には乗られないと愛子は思って沈黙を守っているのかもしれない。岡なり古藤なりから何か聞いているのなら、葉子はそれを十倍も二十倍もの強さにして使いこなす術を知っているのだけれども、生憎《あいにく》その備えはしていなかった。愛子は確かに自分をあなどりだしていると葉子は思わないではいられなかった。寄ってたかって大きな詐《さ》偽《ぎ》の網を造って、その中に自分を押しこめて、周囲から眺めながらおもしろそうに笑っている。岡だろうが古藤だろうが何があてになるものか。……葉子は手傷を負った猪《いのしし》のように一直線に荒れて行くよりしかたがなくなった。
「さあお言い愛さん、お前さんが黙ってしまうのは悪い癖ですよ。姉さんを甘くお見でないよ。……お前さん本当に黙ってるつもりかい……そうじゃないでしょう、あればあるなければないで、はっきりわかるように話をしてくれるんだろうね……愛さん……あなたは心から私を見くびってかかるんだね」
「そうじゃありません」
あまり葉子の言葉が激してくるので、愛子は少し怖《おそ》れを感じたらしくあわててこう言って言葉で支えようとした。
「もっとこっちにおいで」
愛子は動かなかった。葉子の愛子に対する憎悪は極点に達した。葉子は腹部の痛みも忘れて、寝床から跳《おど》り上がった。そうしていきなり愛子のたぶさをつかもうとした。
愛子はふだんの冷静に似ず、葉子の発作を見て取ると、敏《びん》捷《しよう》に葉子の手もとをすり抜けて身をかわした。葉子はふらふらとよろけて一方の手を障子紙に突っ込みながら、それでも倒れるはずみに愛子の袖《そで》先《さき》をつかんだ。葉子は倒れながらそれをたぐり寄せた。醜い姉妹の争闘が、泣き、わめき、叫び立てる声の中に演ぜられた。愛子は顔や手に掻《か》き傷を受け、髪をおどろに乱しながらも、ようやく葉子の手を振り放して廊下に飛び出した。葉子はよろよろとした足取りでその後を追ったが、とても愛子の敏捷さには叶《かな》わなかった。そして階《はし》子《ご》段《だん》の降り口のところでつやに喰《く》い止められてしまった。葉子はつやの肩に身を投げかけながらおいおいと声を立てて子供のように泣き沈んでしまった。
幾時間かの人事不省の後に意識がはっきりしてみると、葉子は愛子とのいきさつをただ悪夢のように思い出すばかりだった。しかもそれは事実に違いない。枕もとの障子には葉子の手のさし込まれた孔《あな》が、大きく破れたまま残っている。入院のその日から、葉子の名は口さがない婦人患者の口の端《は》にうるさく上っているに違いない。それを思うと一時でもそこにじっとしているのが、堪えられないことだった。葉子はすぐほかの病院に移ろうと思ってつやに言いつけた。しかしつやはどうしてもそれを承知しなかった。自分が身に引き受けて看護するから、ぜひともこの病院で手術を受けてもらいたいとつやは言い張った。葉子から暇を出されながら、妙に葉子に心を引きつけられているらしい姿を見ると、この場合葉子はつやにしみじみとした愛を感じた。清潔な血が細いしなやかな血管を滞りなく流れ廻っているような、すべすべと健康らしい、浅黒いつやの皮膚は何よりも葉子には愛らしかった。始終吹き出物でもしそうな、膿《うみ》っぽい女を葉子は何よりも呪《のろ》わしいものに思っていた。葉子はつやのまめやかな心と言葉に引かされてそこにい残ることにした。
これだけ貞世から隔たると葉子ははじめて少し気のゆるむのを覚えて、腹部の痛みで突然眼を覚ますほかには他愛なく眠るようなこともあった。しかしなんといってもいちばん心にかかるものは貞世だった。ささくれて、赤く干《かわ》いた唇《くちびる》から漏《も》れ出るあの囈《うわ》言《ごと》……それがどうかするとちかぢかと耳に聞こえたり、ぼんやりと眼を開いたりするその顔が浮き出して見えたりした。そればかりではない、葉子の五官は非常に敏捷になって、おまけにイリュウジョンやハルシネーション《*》を絶えず見たり聞いたりするようになってしまった。倉地なんぞはすぐ側にすわっているなと思って、苦しさに眼をつぶりながら手を延ばして畳の上を探ってみることなどもあった。そんなにはっきり見えたり聞こえたりするものが、すべて虚構であるのを見いだす淋《さび》しさはたとえようがなかった。
愛子は葉子が入院の日以来感心に毎日訪れて貞世の容体を話して行った。もう始めの日のような狼《ろう》藉《ぜき》はしなかったけれども、その顔を見たばかりで、葉子は病気が重るように思った。ことに貞世の病状が軽くなって行くという報告は激しく葉子を怒らした。自分があれほどの愛着を籠《こ》めて看護してもよくならなかったものが、愛子なんぞの通り一遍の世話で治《なお》るはずがない。また愛子はいいかげんな気休めに虚言《うそ》をついているのだ。貞世はもうひょっとすると死んでいるかもしれない。そう思って岡が尋ねて来た時に根掘り葉掘り聞いてみるが、二人の言葉があまりに符合するので、貞世のだんだんよくなって行きつつあるのを疑う余地はなかった。葉子には運命が狂いだしたようにしか思われなかった。愛情というものなしに病気が治せるなら、人の生命は機械でも造り上げることができるわけだ。そんなはずはない。それだのに貞世はだんだんよくなって行っている。人ばかりではない、神までが、自分を自然法の他の法則でもてあそぼうとしているのだ。
葉子は歯がみをしながら貞世が死ねかしと祈るような瞬間を持った。
日は経《た》つけれども倉地からは本当になんの消息もなかった。病的に感覚の昂奮した葉子は、ときどき肉体的に倉地を慕う衝動に駆《か》り立てられた。葉子の心の眼には、倉地の肉体のすべての部分は触れることができると思うほど具体的に想像された。葉子は自分で造り出した不言議な迷宮の中にあって、意識の痺《しび》れきるような陶酔にひたった。しかしその酔いが醒《さ》めた後の苦痛は、精神の疲弊といっしょに働いて、葉子を半死半生の堺に打ちのめした。葉子は自分の妄想に嘔吐を催しながら、倉地といわずすべての男を呪《のろ》いに呪った。
いよいよ葉子が手術を受けるべき前の日が来た。葉子はそれをさほど恐ろしいこととは思わなかった。子宮後屈症と診断された時、買って帰って読んだ浩《こう》澣《かん》な医書によって見ても、その手術はわりあいに簡単なものであるのを知り抜いていたから、そのことについてはわりあいにやすやすとした心持ちでいることができた。ただ名状しがたい焦燥と悲哀とはどうかたづけようもなかった。毎日来ていた愛子の足は二日おきになり三日おきになりだんだん遠ざかった。岡などは全く姿を見せなくなってしまった。葉子は今さらに自分の周《まわ》りを淋しく見廻してみた。出遇うかぎりの男と女とが何がなしに牽《ひ》き着けられて、離れることができなくなる、そんな磁力のような力を持っているという自負に気負って、自分の周囲には知ると知らざるとを問わず、いつでも無数の人々の心が待っているように思っていた葉子は、今はすべての人から忘られ果てて、大事な定子からも倉地からも見放し見放されて、荷物のない物置部屋のような貧しい一室の隅《すみ》っこに、夜具にくるまって暑気に蒸されながら崩《くず》れかけた五体を頼りなく横たえねばならぬのだ。それは葉子にとってはあるべきこととは思われぬまでだった。しかしそれが確かな事実であるのをどうしよう。
それでも葉子はまだ立ち上がろうとした。自分の病気が癒《い》えきったその時を見ているがいい。どうして倉地をもう一度自分のものに仕《し》遂《おお》せるか、それを見ているがいい。
葉子は脳心にたぐり込まれるような痛みを感ずる両眼から熱い涙を流しながら、徒然《つれづれ》なままに火のような一心を倉地の身の上に集めた。葉子の顔にはいつでもハンケチがあてがわれていた。それが十分も経《た》たないうちに熱く濡《ぬ》れ通って、つやに新しいのと代えさせねばならなかった。
四七
その夜六時過ぎ、つやが来て障子を開いてだんだん満ちて行こうとする月が瓦屋根の重なりの上にぽっかり上ったのをのぞかせてくれている時、見知らぬ看護婦が美しい花束と大きな西洋封筒に入れた手紙とを持ってはいって来てつやに渡した。つやはそれを葉子の枕もとに持って来た。葉子はもう花も何も見る気にはなれなかった。電気もまだ来ていないのでつやにその手紙を読ませてみた。つやは薄明りにすかしすかし読みにくそうに文字を拾った。
「あなたが手術のために入院なさったことを岡君から聞かされて驚きました。で、今日が外出日であるのを幸いにお見舞します。
「僕はあなたにお目にかかる気にはなりません。僕はそれほど偏狭に出来上がった人間です。けれども僕は本当にあなたをお気の毒に思います。倉地という人間が日本の軍事上の秘密を外国に漏らす商売に関係したことが知れるとともに、姿を隠したという報道を新聞で見た時、僕はそんなに驚きませんでした。しかし倉地には二人ほどの外《がい》妾《しよう》があるとつけ加えて書いてあるのを見て、本当にあなたをお気の毒に思いました。この手紙を皮肉にとらないでください。僕には皮肉は言えません。
「僕はあなたが失望なさらないように祈ります。僕は来週の月曜日から習《なら》志《し》野《の》の方に演習に行きます。木村からの便りでは、彼は窮迫の絶頂にいるようです。けれども木村はそこを突き抜けるでしょう。
「花を持って来てみました。お大事に。
古 藤 生」
つやはつかえつかえそれだけを読み終わった。始終古藤をはるか年下な子供のように思っている葉子は、一種侮《ぶ》蔑《べつ》するような無感情をもってそれを聞いた。倉地が外妾を二人持ってるという噂《うわさ》は初耳ではあるけれども、それは新聞の記事であってみればあてにはならない。その外妾二人というのが、美人屋敷と評判のあったそこに住む自分と愛子くらいのことを想像して、記者ならば言いそうなことだ。ただそう軽くばかり思ってしまった。
つやがその花束をガラス瓶《びん》に活《い》けて、なんにも飾ってない床の上に置いて行った後、葉子は前同様にハンケチを顔にあてて、機械的に働く心の影と戦おうとしていた。
その時突然死が――死の問題ではなく――死がはっきりと葉子の心に立ち現われた。もし手術の結果、子宮底に穿《せん》孔《こう》ができるようになって腹膜炎を起こしたら、命の助かるべき見込みはないのだ。そんなことをふと思い起こした。部屋の姿も自分の心もどこといって特別に変わったわけではなかったけれども、どことなく葉子の周囲には確かに死の影がさまよっているのをしっかりと感じないではいられなくなった。それは葉子が生まれてから夢にも経験しないことだった。これまで葉子が死の問題を考えた時には、どうして死を招き寄せようかということばかりだった。しかし今は死のほうがそろそろと近寄って来ているのだ。
月はだんだん光を増して行って、電燈に灯《ひ》も点《とも》っていた。眼の先に見える屋根の間からは、炊《すい》煙《えん》だか、蚊《か》遣《やり》火《び》だかが薄《うつ》すらと水のように澄みわたった空に消えて行く。履《はき》物《もの》、車馬の類、汽笛の音、うるさいほどの人々の話し声、そういうものは葉子の部屋をいつものとおり取り捲《ま》きながら、そして部屋の中はとにかく整頓して灯が点っていて、少しの不思議もないのに、どことも知れずそこには死がはい寄って来ていた。
葉子はぎょっとして、血の代わりに心臓の中に氷の水を瀉《そそ》ぎこまれたように思った。死のうとする時はとうとう葉子には来ないで、思いもかけず死ぬ時が来たんだ。今までとめどなく流していた涙は、近づく嵐の前のそよ風のようにどこともなく姿をひそめてしまっていた。葉子はあわてふためいて、大きく眼を見開き、鋭く耳を聳《そびや》かして、そこにある物、そこにある響きを捕えて、それにすがりつきたいと思ったが、眼にも耳にも何か感ぜられながら、何が何やら少しもわからなかった。ただ感ぜられるのは、心の中がわけもなくただわくわくとして、すがりつくものがあれば何にでもすがりつきたいと無《む》性《しよう》にあせっている、その目まぐるしい欲求だけだった。葉子は震える手で枕を撫《な》で廻したり、シーツを摘《つ》まみ上げてじっと握り締めてみたりした。冷たい油汗が掌《てのひら》ににじみ出るばかりで、握ったものは何の力にもならないことを知った。その失望は形容のできないほど大きなものだった。葉子は一つの努力ごとにがっかりして、また懸命にたよりになるもの、根のあるようなものを追い求めてみた。しかしどこを探してみてもすべての努力が全くむだなのを心では本能的に知っていた。
周囲の世界は少しのこだわりもなくずるずると平気で日常の営みをしていた。看護婦が草履で廊下を歩いて行く、その音一つを考えてみても、そこには明らかに生命が見いだされた。その足は確かに廊下を踏み、廊下は礎《いしずえ》に続き、礎は大地に据《す》えられていた。患者と看護婦との間に取り交わされる言葉一つにも、それを与える人と受ける人とがちゃんと大地の上に存在していた。しかしそれらは奇妙にも葉子とは全く無関係で没交渉だった。葉子のいるところにはどこにも底がないことを知らねばならなかった。深い谷に誤って落ち込んだ人が落ちた瞬間に感ずるあの焦燥……それが連続して止む時なく葉子を襲うのだった。深さのわからないような暗い闇が、葉子をただ一人真中に据えておいて、果てしなくそのまわりを包もうと静かに静かに近づきつつある。葉子は少しもそんなことを欲しないのに、葉子の心持ちには頓着なく、休むことなく止まることなく、悠々閑々として近づいて来る。葉子は恐ろしさにおびえて声も得上げなかった。そしてただそこから遁《のが》れ出たい一心に心ばかり焦りに焦った。
もうだめだ、力が尽ききったと、観念しようとした時、しかし、その奇怪な死は、すうっと朝霧が晴れるように、葉子の周囲から消え失せてしまった。見たところ、そこには何一つ変わったこともなければ変わった物もない。ただ夏の夕が涼しく夜に繋《つな》がろうとしているばかりだった。葉子はきょとんとして庇《ひさし》の下にみずみずしく漂う月を見やった。
ただ不思議な変化の起こったのは心ばかりだった。荒磯に波また波が千変万化して追いかぶさって来ては激しく打ち摧《くだ》けて、真白な飛《ひ》沫《まつ》を空高く突き上げるように、これといって取りとめのない執着や、憤りや、悲しみや、恨みやが蛛《くも》手《で》によれ合って、それが自分の周囲の人たちと結びついて、わけもなく葉子の心を掻《か》きむしっていたのに、その夕方の不思議な経験の後では、一筋の透明な淋しさだけが秋の水のように果てしもなく流れているばかりだった。不思議なことには寝入っても忘れきれないほどな頭脳の激痛も痕《あと》なくなっていた。
神がかりに遇《あ》った人が神から見放された時のように、葉子は深い肉体の疲労を感じて、寝床の上に打ち伏さってしまった。そうやっていると自分の過去や現在が手に取るようにはっきり考えられだした。そして冷やかな悔恨が泉のように湧き出した。
「間違っていた……こう世の中を歩いて来るんじゃなかった。しかしそれは誰の罪だ。わからない。しかしとにかく自分には後悔がある。できるだけ、生きてるうちにそれを償っておかなければならない」
内田の顔がふと葉子には思い出された。あの厳格なキリストの教師ははたして葉子のところに尋ねて来てくれるかどうかわからない。そう思いながらも葉子はもう一度内田に遇って話をしたい心持ちを止めることができなかった。
葉子は枕もとのベルを押してつやを呼び寄せた。そして手文庫の中から洋紙でとじた手帳を取り出さして、それに毛筆で葉子の言うことを書き取らした。
「木村さんに。
「私はあなたを詐《いつわ》っておりました。私はこれから他の男に嫁入ります。あなたは私を忘れてくださいまし。私はあなたのところに行ける女ではないのです。あなたのお思い違いを十分御自分で調べてみてくださいまし。
「倉地さんに。
「私はあなたを死ぬまで。けれども二人とも間違っていたことを今はっきり知りました。死を見てから知りました。あなたにはおわかりになりますまい。私は何もかも恨みはしません。あなたの奥さんはどうなさっておいでです。……私はいっしょに泣くことができる。
「内田の小父さんに。
「私は今夜になって小父さんを思い出しました。小母《おば》様によろしく。
「木部さんに。
「一人の老女があなたのところに女の子を連れてまいるでしょう。その子の顔を見てやってくださいまし。
「愛子と貞世に。
「愛さん、貞ちゃん、もう一度そう呼ばしておくれ。それでたくさん。
「岡さんに。
「私はあなたをも怒ってはいません。
「古藤さんに。
「お花とお手紙とをありがとう。あれから私は死を見ました。
七月二十一日
葉子」
つやはこんなぽつりぽつりと短い葉子の言葉を書き取りながら、ときどき怪《け》訝《げん》な顔をして葉子を見た。葉子の唇は淋しく震えて、眼にはこぼれない程度に涙がにじみ出していた。
「もうそれでいいありがとうよ。あなただけね、こんなになってしまった私の側《そば》にいてくれるのは。……それだのに、私はこんなに零落した姿をあなたに見られるのがつらくって、来た日は途中からほかの病院に行ってしまおうかと思ったのよ。馬鹿だったわね」
葉子は口ではなつかしそうに笑いながら、ほろほろと涙をこぼしてしまった。
「それをこの枕の下に入れておいておくれ。今夜こそは私久しぶりで安々とした心持ちで寝られるだろうよ、明日の手術に疲れないようによく寝ておかないといけないわね。でもこんなに弱っていても手術はできるのかしらん……もう蚊《か》帳《や》を垂《つ》っておくれ。そしてついでに寝床をもっとそっちに引っ張って行って、月の光が顔にあたるようにしてちょうだいな。戸は寝入ったら引いておくれ。……それからちょっとあなたの手をお貸し。……あなたの手は温かい手ね。この手はいい手だわ」
葉子は人の手というものをこんなになつかしいものに思ったことはなかった。力を籠《こ》めた手でそうっと抱いて、いつまでもやさしくそれを撫《な》でていたかった。つやもいつか葉子の気分に引き入れられて、鼻をすするまでに涙ぐんでいた。
葉子はやがて打ち開いた障子から蚊帳越しにうっとりと月を眺めながら考えていた。葉子の心は月の光で清められたかと見えた。倉地が自分を捨てて逃げ出すために書いた狂言が計らずその筋の嫌《けん》疑《ぎ》を受けたのか、それとも恐ろしい売国の罪で金をすら葉子に送れぬようになったのか、それはどうでもよかった。よしんば妾が幾人あってもそれもどうでもよかった。ただすべてが空しく見える中に倉地だけがただ一人本当に生きた人のように葉子の心に住んでいた。互いを堕落させ合うような愛し方をした、それも今はなつかしい思い出だった。木村は思えば思うほど涙ぐましい不幸な男だった。その思い入った心持ちは何事もわだかまりのなくなった葉子の胸の中を清水《しみず》のように流れて通った。多年の迫害に復《ふく》讐《しゆう》する時機が来たというように、岡までをそそのかして、葉子を見捨ててしまったと思われる愛子の心持ちにも葉子は同情ができた。愛子の情けに引かされて葉子を裏切った岡の気持ちはなおさらよくわかった。泣いても泣いても泣き足りないように可哀そうなのは貞世だった。愛子はいまにきっと自分以上に恐ろしい道に踏み迷う女だと葉子は思った。その愛子のただ一人の妹として……もしも自分の命がなくなってしまった後は……そう思うにつけて葉子は内田を考えた。すべての人は何かの力で流れて行くべき先に流れて行くだろう。そしてしまいには誰でも自分と同様に一人ぼっちになってしまうんだ。……どの人を見ても憐《あわ》れまれる……葉子はそう思いふけりながら静かに静かに西に廻って行く月を見入っていた。その月の輪《りん》廓《かく》がだんだんぼやけて来て、空の中に浮き漂うようになると、葉子の睫《まつ》毛《げ》の一つ一つにも月の光が宿った。涙が眼尻からあふれて両方の顳《こめ》〓《かみ》のところをくすぐるようにするすると流れ下った。口の中は粘液で粘った。許すべき何人もない。許さるべき何事もない。ただあるがまま……ただ一《いち》抹《まつ》の清い悲しい静けさ。葉子の眼はひとりでに閉じて行った。整った呼吸が軽く小鼻を震わして流れた。
つやが戸をたてにそーっとその部屋にはいった時には、葉子は病気を忘れ果てたもののように、がたぴしと戸を締める音にも目覚めずに安らけく寝入っていた。
四八
その翌朝手術台に上がろうとした葉子は昨夜の葉子とは別人のようだった。激しい呼鈴の音で呼ばれてつやが病室に来た時には、葉子は寝床から起き上がって、認《したた》め終わった手紙の状袋を封じているところだったが、それをつやに渡そうとする瞬間にいきなりいやになって、唇をぶるぶる震わせながらつやの見ている前でそれをずたずたに裂いてしまった。それは愛子に宛《あ》てた手紙だったのだ。今日は手術を受けるから九時までにぜひとも立会いに来るように認めたのだった。いくら気丈夫でも腹を立ち割る恐ろしい手術を年若い女が見ていられないくらいは知っていながら、葉子は何がなしに愛子にそれを見せつけてやりたくなったのだ。自分の美しい肉体が酷《むごた》らしく傷つけられて、そこから静脈を流れているどす黒い血が流れ出る、それを愛子が見ているうちに気が遠くなって、そのままそこに打《ぶ》っ倒れる、そんなことになったらどれほど快いだろうと葉子は思った。幾度来てくれろと電話をかけても、なんとか口実をつけてこのごろ見も返らなくなった愛子に、これだけの復讐をしてやるのでも少しは胸がすく、そう葉子は思ったのだ。しかしその手紙をつやに渡そうとする段になると、葉子には思いもかけぬ躊《ちゆう》躇《ちよ》が来た。もし手術中にはしたない囈《うわ》言《ごと》でも言ってそれを愛子に聞かれたら。あの冷酷な愛子が面も背《そむ》けずにじっと姉の肉体が切りさいなまれるのを見続けながら、心の中で存分に復讐心を満足するようなことがあったら。こんな手紙を受け取ってもてんで相手にしないで愛子が来なかったら……そんなことを予想すると葉子は手紙を書いた自分に愛想が尽きてしまった。
つやは恐ろしいまでに激《げつ》昂《こう》した葉子の顔を見やりもし得ないで、おずおずと立ちもやらずにそこにかしこまっていた。葉子はそれがたまらないほど癪《しやく》に障《さわ》った。自分に対してすべての人が普通の人間として交わろうとはしない。狂人にでも接するような仕打ちを見せる。誰も彼もそうだ。医者までがそうだ。
「もう用はないのよ。早くあっちにおいで。お前は私を気狂いとでも思っているんだろうね。……早く手術をしてくださいってそう言っておいで。私はちゃんと死ぬ覚悟をしていますからってね」
昨夕《ゆうべ》なつかしく握ってやったつやの手のことを思い出すと、葉子は嘔吐を催すような不快を感じてこう言った。汚《きた》ない汚ない何もかも汚ない。つやは所在なげにそっとそこを立って行った。葉子は眼で噛《か》みつくようにその後ろ姿を見送った。
その日天気は上々で東向きの壁は触《さわ》ってみたら内部からでもほんのりと暖かみを感ずるだろうと思われるほど暑くなっていた。葉子は昨日までの疲労と衰弱とに似ず、その日は起きるとから黙って臥《ね》てはいられないくらい、体が動かしたかった。動かすたびごとに襲ってくる腹部の鈍痛や頭の混乱をいやが上にも募らして、思い存分の苦痛を味わってみたいようなすてばちな気分になっていた。そしてふらふらと少しよろけながら、衣《え》紋《もん》も乱したまま部屋の中をかたづけようとして床の間のところに行った。懸《かけ》軸《じく》もない床の間の片隅には昨日古藤が持って来た花が、暑さのために蒸れたように萎《しぼ》みかけて、甘ったるい香を放ってうなだれていた。葉子はガラス瓶《びん》ごとそれを持って縁側のところに出た。そしてその花のかたまりの中にむずと熱した手を突っ込んだ。死《し》屍《し》から来るような冷たさが葉子の手に伝わった。葉子の指先は知らず知らず縮まって行って没《も》義《ぎ》道《どう》にそれを爪も立たんばかり握りつぶした。握りつぶしては瓶から引き抜いて手《て》欄《すり》から戸外に投げ出した。薔薇《ばら》、ダリア、小《お》田《だ》巻《まき》、などの色とりどりの花がばらばらに乱れて二階から部屋の下に当たる汚ない路頭に落ちて行った。葉子はほとんど無意識に一つかみずつそうやって投げ捨てた。そして最後にガラス瓶を力任せに敲《たた》きつけた。瓶は眼の下で激しく壊《こわ》れた。そこからあふれ出た水が乾ききった縁側板に丸い斑《はん》紋《もん》をいくつとなく散らかして。
ふと見ると向こうの屋根の物干し台に浴衣《ゆかた》の類を持って干しに上がって来たらしい女中ふうの女が、じっと不思議そうにこっちを見つめているのに気がついた。葉子とは何の関係もないその女までが、葉子のすることを怪しむらしい様子をしているのを見ると、葉子の狂暴な気分はますます募った。葉子は手欄に両手をついてぶるぶると震えながら、その女をいつまでもいつまでもにらみつけた。女のほうでも葉子の仕打ちに気づいて、しばらくは意趣に見返すふうだったが、やがて一種の恐怖に襲われたらしく、干し物を竿《さお》に通しもせずにあたふたとあわてて物干し台の急な階《はし》子《ご》を駈け下りてしまった。後には燃えるような青空の中に不規則な屋根の波ばかりが眼をちかちかさせて残っていた。葉子はなぜにとも知れぬ溜《ため》息《いき》を深くついてまんじりとそのあからさまな景色を夢かなぞのように眺め続けていた。
やがて葉子はまた我れに返って、ふくよかな髪の中に指を突っ込んで激しく頭の地《じ》をかきながら部屋に戻った。
そこには寝床の側に洋服を着た一人の男が立っていた。激しい外光から暗い部屋の方に眼を向けた葉子には、ただ真黒な立ち姿が見えるばかりで誰とも見分けがつかなかった。しかし手術のために医員の一人が迎えに来たのだと思われた。それにしても障子の開く音さえしなかったのは不思議なことだ。はいって来ながら声一つかけないのも不思議だ。と、思うと得《え》体《たい》のわからないその姿は、その囲《まわ》りの物がだんだん明らかになって行く間に、たった一つだけ真黒なままでいつまでも輪廓を見せないようだった。いわば人の形をした真暗な洞《ほら》穴《あな》が空気の中に出来上がったようだった。初めの間好奇心をもってそれを眺めていた葉子は見つめれば見つめるほど、その形に実質がなくって、真暗な空虚ばかりであるように思いだすと、ぞーっと水を浴びせられたように怖《おぞ》毛《け》を震った。「木村が来た」……何ということなしに葉子はそう思い込んでしまった。爪の一枚一枚までが肉に吸い寄せられて、毛という毛が強直して逆《さか》立《だ》つような薄気味悪さが総身に伝わって、思わず声を立てようとしながら、声は出ずに、唇ばかりが幽《かす》かに開いてぶるぶると震えた。そして胸のところに何か突きのけるような具合に手を挙げたまま、ぴったりと立ち止まってしまった。
その時その黒い人の影のようなものがはじめて動きだした。動いてみるとなんでもない、それはやはり人間だった。見る見るその姿の輪廓がはっきりわかってきて、暗さに慣れてきた葉子の眼にはそれが岡であることが知れた。
「まあ岡さん」
葉子はその瞬間のなつかしさに引き入れられて、今まで出なかった声を吃《ども》るような調子で出した。岡はかすかに頬《ほお》を紅《あか》らめたようだった。そしていつものとおり上品に、ちょっと畳の上に膝《ひざ》をついて挨《あい》拶《さつ》した。まるで一年も牢獄にいて、人間らしい人間に遇《あ》わないでいた人のように葉子には岡がなつかしかった。葉子とはなんの関係もない広い世間から、一人の人が好意を籠《こ》めて葉子を見舞うためにそこに天《あま》降《くだ》ったとも思われた。走り寄ってしっかりとその手を取りたい衝動を抑えることができないほどに葉子の心は感激していた。葉子は眼に涙をためながら思うままの振舞いをした。自分でも知らぬ間に、葉子は、岡の側近くすわって、右手をその肩に、左手を畳に突いて、しげしげと相手の顔を見やる自分を見いだした。
「御無沙汰していました」
「よくいらしってくださってね」
どっちから言いだすともなく二人の言葉は親しげにからみ合った。葉子は岡の声を聞くと、急に今まで自分から逃げていた力が恢《かい》復《ふく》してきたのを感じた。逆境にいる女に対して、どんな男であれ、男の力がどれほど強いものであるかを思い知った。男性の頼もしさがしみじみと胸に逼《せま》った。葉子は我知らずすがりつくように、岡の肩にかけていた右手をすべらして、膝の上に乗せている岡の右手の甲の上からしっかりと捕えた。岡の手は葉子の触覚に妙に冷たく響いてきた。
「永く永くお遇いしませんでしたわね。私あなたを幽霊じゃないかと思いましてよ。変な顔つきをしたでしょう。貞世は……あなた今朝病院の方からいらしったの?」
岡はちょっと返事をためらったようだった。
「いいえ家から来ました。ですから私、今日の御様子は知りませんが、昨日までのところではだんだんおよろしいようです。眼さえ覚めていらっしゃると『お姉様お姉様』とお泣きなさるのが本当にお可哀そうです」
葉子はそれだけ聞くともう感情が脆《もろ》くなっていて胸が張り裂けるようだった。岡は眼ざとくもそれを見て取って、悪いことを言ったと思ったらしかった。そして少しあわてたように笑い足しながら、
「そうかと思うと、たいへんお元気なこともあります。熱の下がっていらっしゃる時なんかは、愛子さんにおもしろい本を読んでおもらいになって、喜んで聞いておいでです」
とつけ足した。葉子は直覚的に岡がその場の間に合わせを言っているのだと知った。それは葉子を安心させるための好意であるとはいえ、岡の言葉はけっして信用することができない。毎日一度ずつ大学病院まで見舞いに行ってもらうつやの言葉に安心ができないでいて、誰か眼に見たとおりを知らせてくれる人はないかと焦《あせ》っていたやさき、この人ならばと思った岡も、つや以上にいいかげんを言おうとしているのだ。この調子では、遠《とお》に貞世が死んでしまっていても、人たちは岡が言って聞かせるようなことをいつまでも自分に言うのだろう。自分には誰一人として胸を開いて交際しようという人はいなくなってしまったのだ。そう思うと淋しいよりも、苦しいよりも、かっととり上気《のぼ》せるほど貞世の身の上が気《き》遣《づか》われてならなくなった。
「可哀そうに貞世は……さぞ痩《や》せてしまったでしょうね?」
葉子は口裏をひくようにこう尋ねてみた。
「始終見つけているせいですか、そんなにも見えません」
岡はハンケチで頸《くび》の囲《まわ》りを拭って、ダブル・カラーの合わせを左の手でくつろげながら少し息気《いき》苦しそうにこう答えた。
「なんにもいただけないんでしょうね」
「ソップと重湯だけですが両方ともよく食べなさいます」
「ひもじがっておりますか」
「いいえそんなでも」
もう許せないと葉子は思い入って腹を立てた。腸チブスの予後にあるものが、食欲がない……そんなしらじらしい虚構《うそ》があるものか。皆んな虚構だ。岡の言うことも皆んな虚構だ。昨夜は病院に泊らなかったという、それも虚構でなくてなんだろう。愛子の熱情に燃えた手を握り慣れた岡の手が、葉子に握られて冷えるのももっともだ。昨夜はこの手は……葉子は眸《ひとみ》を定めて自分の美しい指にからまれた岡の美しい右手を見た。それは女の手のように白くなめらかだった。しかしこの手が昨夜は、……葉子は顔を挙げて岡を見た。ことさらにあざやかに紅《あか》いその唇……この唇が昨夜は……
眩暈《めまい》がするほど一度に押し寄せて来た憤怒と嫉妬とのために、葉子は危くその場にあり合わせたものに噛《か》みつこうとしたが、からくそれを支えると、もう熱い涙が眼をこがすように痛めて流れだした。
「あなたはよく嘘《うそ》をおつきなさるのね」
葉子はもう肩で息気《いき》をしていた。頭が激しい動《どう》悸《き》のたびごとに震えるので、髪の毛は小刻みに生き物のようにおののいた。そして岡の手から自分の手を離して、袂《たもと》から取り出したハンケチでそれを押し拭った。眼に入る限りのもの、手に触れる限りのものがまた穢《けが》らわしく見え始めたのだ。岡の返事も待たずに葉子は畳みかけて吐き出すように言った。
「貞世はもう死んでいるんです。それを知らないとでもあなたは思っていらっしゃるの。あなたや愛子に看護してもらえば誰でもありがたい往生ができましょうよ。本当に貞世は仕合わせな子でした。……おおおお貞世! お前はほんとに仕合わせな子だねえ。……岡さん言って聞かせてください、貞世はどんな死に方をしたか。飲みたい死に水も飲まずに死にましたか。あなたと愛子がお庭を歩き廻っているうちに死んでいましたか。それとも……それとも愛子の眼が憎々しく笑っているその前で眠るように息気《いき》を引き取りましたか。どんなお葬式が出たんです。早《はや》桶《おけ》はどこで注文なさったんです。私の早桶のより少し大きくしないとはいりませんよ。……私はなんという馬鹿だろう、早く丈夫になって思いきり貞世を介抱してやりたいと思ったのに……もう死んでしまったのですものねえ。嘘です……それならなぜあなたも愛子ももっとしげしげ私の見舞いには来てくださらないの。あなたは今日私を苦しめに……なぶりにいらしったのね……」
「そんなとんでもない!」
岡がせきこんで葉子の言葉の切れ目に言いだそうとするのを、葉子は激しい笑いでさえぎった。
「とんでもない……そのとおり。ああ頭が痛い。私は存分に呪《のろ》いを受けました。御安心なさいましとも。けっしてお邪魔はしませんから。私はさんざん踊りました。今度はあなたがたが踊っていい番ですものね。……ふん、踊れるものなら見事に踊って御覧なさいまし。……踊れるものなら、ははは」
葉子は狂女のように高々と笑った。岡は葉子の物狂おしく笑うのを見ると、それを恥じるように真紅《まつか》になって下を向いてしまった。
「聞いてください」
やがて岡はこう言ってきっとなった。
「伺いましょう」
葉子もきっとなって岡を見やったが、すぐ口尻に酷《むごた》らしい皮肉な微笑を湛《たた》えた。それは岡の気さきをさえ折るに十分なほどの皮肉さだった。
「お疑いなさってもしかたがありません。私、愛子さんには深い親しみを感じております……」
「そんなことなら伺うまでもありませんわ。私をどんな女だと思っていらっしゃるの。愛子さんに深い親しみを感じていらっしゃればこそ、今朝はわざわざいつごろ死ぬだろうと見に来てくださったのね。なんとお礼を申していいか、そこはお察しくださいまし。今日は手術を受けますから、死《し》骸《がい》になって手術室から出て来るところをよっく御覧なさってあなたの愛子に知らせて喜ばしてやってくださいましよ。死にに行く前にとくとお礼を申します。絵島丸ではいろいろ御親切をありがとうございました。おかげさまで私は淋しい世の中から救い出されました。あなたをお兄さんともお慕いしていましたが、愛子に対しても気恥ずかしくなりましたから、もうあなたとは御縁を断ちます。と言うまでもないことですわね。もう時間が来ますからお立ちくださいまし」
「私、ちっとも知りませんでした。本当にそのお体で手術をお受けになるのですか」
岡はあきれたような顔をした。
「毎日大学に行くつやは馬鹿ですから何も申し上げなかったんでしょうよ。申し上げてもお聞こえにならなかったかもしれませんわね」
と葉子はほほえんで、真青になった顔にふりかかる髪の毛を左の手で器用にかき上げた。その小指は痩《や》せ細って骨ばかりのようになりながらも美しい線を描いて折れ曲がっていた。
「それはぜひお延ばしくださいお願いしますから……お医者さんもお医者さんだと思います」
「私が私だもんですからね」
葉子はしげしげと岡を見やった。その眼からは涙がすっかり乾いて、額のところには油汗がにじみ出ていた。触れてみたら氷のようだろうと思われるような青白い冷たさが生《は》えぎわかけて漂っていた。
「ではせめて私に立ち会わしてください」
「それほどまでにあなたは私がお憎いの?……麻酔中に私の言う囈《うわ》言《ごと》でも聞いておいて笑い話の種になさろうというのね。ええ、ようございますいらっしゃいまし、御覧に入れますから。呪いのために痩せ細ってお婆さんのようになってしまったこの体を頭から足の爪先まで御覧に入れますから……今さらおあきれになる余地もありますまいけれど」
そう言って葉子は痩せ細った顔にあらん限りの媚《こ》びを集めて、流《ながし》眄《め》に岡を見やった。岡は思わず顔を背《そむ》けた。
そこに若い医員がつやを伴《つ》れてはいって来た。葉子は手術のしたくができたことを見て取った。葉子は黙って医員にちょっと挨拶したまま衣《え》紋《もん》をつくろってすぐ座を立った。それに続いて部屋を出て来た岡などは全く無視した態度で、怪しげな薄暗い階子段を降りて、これも暗い廊下を四、五間たどって手術室の前まで来た。つやが戸のハンドルを廻してそれを開けると、手術室からはさすがに眩《まぶ》しい豊かな光線が廊下の方に流れて来た。そこで葉子は岡の方にはじめて振り返った。
「遠方をわざわざ御苦労さま。私はまたあなたに肌《はだ》を御覧に入れるほどの莫《ばく》連《れん》者《もの》にはなっていませんから……」
そう小さな声で言ってゆうゆうと手術室にはいって行った。岡はもちろん押しきって後については来なかった。
着物を脱ぐ間に、世話に立ったつやに葉子はこうようやくにして言った。
「岡さんがはいりたいとおっしゃっても入れてはいけないよ。それから……それから(ここで葉子は何がなしに涙ぐましくなった)もし私が囈《うわ》言《ごと》のようなことでも言いかけたら、お前に一生のお願いだからね、私の口を……口を抑《おさ》えて殺してしまっておくれ。頼むよ。きっと!」
婦人科病院のこととて女の裸体は毎日幾人となく扱いつけているくせに、やはり好奇な眼を向けて葉子を見守っているらしい助手たちに、葉子は痩せさらばえた自分をさらけ出して見せるのが死ぬよりつらかった。ふとした出来心から岡に対して言った言葉が、葉子の頭にはいつまでもこびりついて、貞世はもう本当に死んでしまったもののように思えてしかたがなかった。貞世が死んでしまったのに何を苦しんで手術を受けることがあろう。そう思わないでもなかった。しかし場合が場合でこうなるよりしかたがなかった。
真白な手術衣を着た医員や看護婦に囲まれて、やはり真白な手術台は墓場のように葉子を待っていた。そこに近づくと葉子は我れにもなく急におびえが出た。思いきり鋭利なメスで手ぎわよく切り取ってしまったらさぞさっぱりするだろうと思っていた腰部の鈍痛も、急に痛みが止まってしまって、身体全体がしびれるようにしゃちこばって冷汗が額にも手にもしとどに流れた。葉子はただ一つの慰《い》藉《しや》のようにつやを顧みた。そのつやの励ますような顔をただ一つのたよりにして、細かく震えながら仰《あお》向《む》けに冷やっとする手術台に横たわった。
医員の一人が白布の口あてを口から鼻の上にあてがった。それだけで葉子はもう息気《いき》がつまるほどの思いをした。そのくせ眼は妙に冴《さ》えて眼の前に見る天井板の細かい木《もく》理《め》までが動いて走るように眺められた。神経の末梢が大風に遇ったようにざわざわと小気味悪く騒ぎ立った。心臓が息気苦しいほどときどき働きを止めた。
やがて芳《ほう》芬《ふん》の激しい薬滴が布の上にたらされた。葉子は両手の脈所を医員に取られながら、その香を薄気味悪く嗅《か》いだ。
「ひとーつ」
執力者が鈍い声でこう言った。
「ひとーつ」
葉子のそれに応ずる声は激しく震えていた。
「ふたーつ」
葉子は生命の尊さをしみじみと思い知った。死もしくは死の隣へまでの不思議な冒険……そう思うと血は凍るかと疑われた。
「ふたーつ」
葉子の声はますます震えた。こうして数を読んで行くうちに、頭の中がしんしんと冴えるようになって行ったと思うと、世の中がひとりでに遠《とお》退《の》くように思えた。葉子は我慢ができなかった。いきなり右手を振りほどいて力任せに口のところを掻い払った。しかし医員の力はすぐ葉子の自由を奪ってしまった。葉子は確かにそれにあらがっているつもりだった。
「倉地が生きてる間――死ぬものか、……どうしてももう一度その胸に……やめてください。狂気で死ぬとも殺されたくはない。やめて……人殺し」
そう思ったのか言ったのか、自分ながらどっちとも定めかねながら葉子は悶《もだ》えた。
「生きる生きる……死ぬのはいやだ……人殺し!……」
葉子は力のあらん限り戦った、医者とも薬とも……運命とも……葉子は永久に戦った。しかし葉子は二十も数を読まないうちに、死んだ者同様に意識なく医員らの眼の前に横たわっていたのだ。
四九
手術を受けてから三日を過ぎていた。その間非常に望ましい経過をとっているらしく見えた容態は三日目の夕方から突然激変した。突然の高熱、突然の腹痛、突然の煩《はん》悶《もん》、それは激しい驟《しゆう》雨《う》が西風に伴われて嵐がかった天気模様になったその夕方のことだった。
その日の朝からなんとなく頭の重かった葉子は、それが天候のためだとばかり思って、強《し》いてそういうふうに自分を説服して、憂慮を抑えつけていると、三時ごろからどんどん熱が上がりだして、それとともに激しい下腹部の疼《とう》痛《つう》が襲って来た。子宮底穿《せん》孔《こう》?! なまじっか医書を読みかじった葉子はすぐそっちに気を廻した。気を廻しては強いてそれを否定して、一《いつ》時《とき》延ばしに容態の回復を待ちこがれた。それはしかしむだだった。つやがあわてて当直医を呼んで来た時には、葉子はもう生死を忘れて床の上に身を縮み上がらしておいおいと泣いていた。
医員の報告で院長も時を移さずそこに駈《か》けつけた。応急の手あてとして四個の氷《ひよう》嚢《のう》が下腹部にあてがわれた。葉子は寝衣《ねまき》がちょっと肌に触るだけのことにも、生命をひっぱたかれるような痛みを覚えて思わずきゃっと絹を裂くような叫び声を立てた。見る見る葉子は一寸の身動きもできないくらい疼痛に痛めつけられていた。
激しい音を立てて戸外では雨の脚《あし》が瓦屋根を敲《たた》いた。むしむしする昼間の暑さは急に冷え冷えとなって、にわかに暗くなった部屋の中に、雨から逃げ延びて来たらしい蚊がぶーんと長く引いた声を立てて飛び廻った。青白い薄闇に包まれて葉子の顔は見る見る崩《くず》れて行った。痩《や》せ細っていた頬はことさらげっそりとこけて、高々と聳《そび》えた鼻筋の両側には、落ち窪《くぼ》んだ両眼が、中《ちゆう》有《う》の中を所《ところ》嫌《きら》わずおどおどと何物かを探し求めるように輝いた。美しく弧を描いて延びていた眉《まゆ》は、めちゃくちゃに歪《ゆが》んで、眉《み》間《けん》の八の字のところにちかぢかと寄り集まった。かさかさに乾ききった唇からは吐く息気《いき》ばかりが強く押し出された。そこにはもう女の姿はなかった。得体のわからない動物が悶えもがいているだけだった。
間をおいてはさし込んでくる痛み……鉄の棒を真赤に焼いて、それを下腹の中を所嫌わずえぐり廻すような痛みが来ると、葉子は眼も口もできるだけ堅く結んで、息気《いき》もつけなくなってしまった。何人そこに人がいるのか、それを見廻すだけの気力もなかった。天気なのか嵐なのか、それもわからなかった。稲妻が空を縫って走る時には、それが自分の痛みが形になって現われたように見えた。少し痛みが退くとほっと吐《と》息《いき》をして、助けを求めるようにそこについている医員に眼ですがった。痛みさえ治《なお》してくれれば殺されてもいいという心と、とうとう自分に致命的な傷を負わしたと恨む心とが入り乱れて、旋風のように体じゅうを通り抜けた。倉地がいてくれたら……木村がいてくれたら……あの親切な木村がいてくれたら……そりゃだめだ。もうだめだ。……だめだ。貞世だって苦しんでいるんだ、こんなことで……痛い痛い痛い……つやはいるのか(葉子は思いきって眼を開いた。眼の中が痛かった)いる。心配そうな顔をして、……うそだあの顔が何が心配そうな顔なものか……皆んな他人だ……なんの縁故もない人たちだ……皆んなのんきな顔をして何事もせずにただ見ているんだ……この悩みの百分の一でも知ったら……あ、痛い痛い痛い!……定子……お前はまだどこかに生きているのか、貞世は死んでしまったのだよ、定子……私も死ぬんだ死ぬよりも苦しい、この苦しみは……ひどい、これで死なれるものか……こんなにされて死なれるものか……何か……どこか……誰か……助けてくれそうなものだのに……神様! あんまりです……
葉子は身《み》悶《もだ》えもできない激痛の中で、シーツまで濡《ぬ》れ透るほどな油汗を体じゅうにかきながら、こんなことをつぎつぎに口走るのだったが、それはもとより言葉にはならなかった。ただときどき痛い痛いと言うのがむごたらしく聞こえるばかりで、傷ついた牛のように叫ぶほかはなかった。
ひどい吹き降りのうちに夜が来た。しかし葉子の容態は険悪になって行くばかりだった。電燈が故障のために来ないので、室内には二本の蝋《ろう》燭《そく》が風に煽《あお》られながら、薄暗くともっていた。熱度を計った医員は一度一度その側まで行って、眼をそばめながら度盛りを見た。
その夜苦しみ通した葉子は明け方近く少し痛みから遁《のが》れることができた。シーツを思いきりつかんでいた手を放して、弱々と額のところを撫《な》でると、たびたび看護婦が拭《ぬぐ》ってくれたのにもかかわらず、ぬるぬるするほど手も額も油汗でしとどになっていた。「とても助からない」と葉子は他人《ひと》事《ごと》のように思った。そうなってみると、いちばん強い望みはもう一度倉地に会ってただ一眼その顔を見たいということだった。それはしかし望んでも叶《かな》えられることでないのに気づいた。葉子の前には暗いものがあるばかりだった。葉子はほっと溜息をついた。二十六年間の胸の中の思いを一時に吐き出してしまおうとするように。
やがて葉子はふと思いついて眼でつやを求めた。夜通し看護に余念のなかったつやは眼ざとくそれを見て寝床に近づいた。葉子は半分眼つきに物を言わせながら、
「枕の下枕の下」
と言った。つやが枕の下を探すとそこから、手術の前の晩につやが書き取った書き物が出て来た。葉子は一生懸命な努力でつやにそれを焼いて捨てろ、今見ている前で焼いて捨てろと命じた。葉子の命令はわかっていながら、つやが躊《ちゆう》躇《ちよ》しているのを見ると、葉子はかっと腹が立って、その怒りに前後を忘れて起き上がろうとした。そのために少しなごんでいた下腹部の痛みが一時に押し寄せて来た。葉子は思わず気を失いそうになって声を挙げながら、脚《あし》を縮めてしまった。けれども一生懸命だった。もう死んだ後にはなんにも残しておきたくない。なんにも言わないで死のう。そういう気持ちばかりが激しく働いていた。
「焼いて」
悶《もん》絶《ぜつ》するような苦しみの中から、葉子はただ一言これだけを夢中になって叫んだ。つやは医員にうながされているらしかったが、やがて一台の蝋燭を葉子の身近に運んで来て、葉子の見ている前でそれを焼き始めた。めらめらと紫色の焔《ほのお》が立ち上がるのを葉子は確かに見た。
それを見ると葉子は心からがっかりしてしまった。これで自分の一生はなんにもなくなったと思った。もういい……誤解されたままで、女王は今死んで行く……そう思うとさすがに一《いち》抹《まつ》の哀愁がしみじみと胸をこそいで通った。葉子は涙を感じた。しかし涙は流れて出ないで、眼の中が火のように熱くなったばかりだった。
またもひどい疼《とう》痛《つう》が襲い始めた、葉子は神の締《し》め木《ぎ》にかけられて、自分の体が見る見る痩せて行くのを自分ながら感じた。人々が薄気味悪げに見守っているのにも気がついた。
それでもとうとうその夜も明け離れた。
葉子は精も根も尽き果てようとしているのを感じた。身を切るような痛みさえがときどきは遠いことのように感じられだしたのを知った。もうし残していたことはなかったかと働きの鈍った頭を懸命に働かして考えてみた。その時ふと定子のことが頭に浮かんだ。あの紙を焼いてしまっては木部と定子とが遇う機会はないかもしれない。誰かに定子を頼んで……葉子はあわてふためきながらその人を考えた。
内田……そうだ内田に頼もう。葉子はその時不思議ななつかしさをもって内田の生涯を思いやった。あの偏《へん》頗《ぱ》で頑《がん》固《こ》で意地張りな内田の心の奥の奥に小さく潜んでいる澄み透った魂がはじめて見えるような心持ちがした。
葉子はつやに古藤を呼び寄せるように命じた。古藤の兵営にいるのはつやも知っているはずだ。古藤から内田に言ってもらったら内田が来てくれないはずはあるまい、内田は古藤を愛しているから。
それから一時間苦しみ続けた後に、古藤の例の軍服姿は葉子の病室に現われた。葉子の依頼をようやくのみこむと、古藤はいちずな顔に思い入った表情を湛《たた》えて、急いで座を立った。
葉子は誰にとも何にともなく息気を引き取る前に内田の来るのを祈った。
しかし小石川に住んでいる内田はなかなかにやって来る様子も見せなかった。
「痛い痛い痛い……痛い」
葉子が前後を忘れ我れを忘れて、魂を搾《しぼ》り出すようにこう呻《うめ》く悲しげな叫び声は、大雨の後の晴れやかな夏の朝の空気をかき乱して、いたましく聞こえ続けた。
注 釈
*葉子 初出の「或る女のグリンプス」(明治四十四年一月〜大正二年三月『白樺』掲載)では、田《た》鶴《ず》子となっている。モデルは、佐々城本《ほん》支《し》・豊《とよ》寿《じゆ》の長女、信子で、国木田独歩の最初の妻(約五か月で解消)。相馬黒光とは従姉妹同士。昭和二十四年九月二十二日、栃木県芳賀郡真《も》岡《おか》町大字荒町二一六二の地で七十一歳の波乱多い生涯を閉じた。
*古藤 作者、有島武郎のおもかげがみられる。武郎の札幌農学校での同窓の友―森広《ひろし》(作中では木村)が信子の許婚者となったことから、信子を知った。
*木部孤〓 初出の「或る女のグリンプス」では、木田孤〓となっている。モデルは、「源をぢ」「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などで著名な作家、国木田独歩。明治二十七年の日清戦争のころ、国民新聞社に入社し、従軍記者として軍艦予代田に乗り組み、『国民新聞』に「愛弟通信」を発表し注目された。この『国民新聞』の徳富蘇峰の尽力によって佐々城信子を妻とすることができたのであった。信子関係の資料として「欺かざるの記」や小説「鎌倉夫人」がある。
*女流キリスト教徒の先覚者として…… 佐々城信子の母である豊寿は、明治十九年、明治女学校の創設者―木村鐙子、女子学院長―矢島揖子、らとともにキリスト教婦人矯風会の創設にあたり、その最初の書記をつとめた。
*タクト tact(英)。手練、手ぎわ。
*定子 独歩と信子との間に生まれた浦子。豊寿はこの浦子を自分の子として籍に入れたので戸籍上では信子と姉妹となっている。独歩は最初は浦子の存在を知らず、のちになってはじめて知ったという。
*「Simpleton!」(英)。「ばか!」
*インバネス Inverness(英)。男子の外套の一種で「とんび」とも言う。これを長くして和服用にしたものを「二重まわし」と言う。
*「らしゃめん」 わが国の女で西洋人の妾《めかけ》となったものを卑しめていう。
*風通の単衣物 風通組織で紋様を織りだした単衣の着物。夏の着物。
*リバイバル Revival(英)。信仰復興運動。
*木村 モデルは有島と同窓の友、森広《ひろし》。明治十四年札幌農学校長となった森源三の長男。有島は渡米(明治三十六年)してすぐ森と会い、友情を暖めた。その時のことを有島は日記に次のように記している。――「森君は兄弟も及ばざる親情をもって、おのれの事務を廃して余らのために種々なる便宜を与え呉れぬ。(中略)兄と余とはかわるがわる信子君につきて見聞したる所、並びに余らの彼女につきてかくと信じたる事を語りぬ。彼の胸のしばしば波打ちて涙睫《まつげ》に逼《せま》らんとせしは、余これを見のがす事あたわざりき。余も幾度か涙に破れんとせり。森はいわく『余今に及びてなお彼女をめとらんとは言わず。されどもはじめて彼女と約する時、余はよく彼女の性質素行のいかなるものなるかを知り、彼女が世上に種々なる風評を伝えらるるとも決してこれをもって煩いとなす事なく永く相信ずべきをもってせり。しかしてこのたびの事、事甚大にして既に疑惑をはさむべき余地なきがごときも、未だ動かすべからざる証左を得たりと言うにあらず。軽々しく人と世との評する所を信じて妄動せんは余のきわめてたえるあたわざる所なりしなり。然れども余は他の方面より、余のこの事あるがために老年の両親を苦しましめ朋友に苦慮を増さしむるを思えば、自己一身の事のために他者をそこなうの苦痛をなすに堪えず。ついに彼女に送るに絶交の書をもってせり。されども余の素願は、もとより彼女の内部に潜める才能を認め、願わくはその外部の付着物を除かんとするにありしがゆえに自今といえどももしかつて余の行為にして彼女をいささかなりとも苦しましめしものありとせば、余は甘んじてこれを除去するに勉めざるべからず』と。これ実に美しき覚悟なり。(後略)」(明治三十六年九月十四日)
*五十川女史 モデルは、明治大正期の教育家、矢島揖子。明治五年、小学校の女教員を振り出しに教育界に身を投じ、明治二十二年には、女子学院を創設した。明治十九年には、佐々城信子の母、豊寿らとともに、キリスト教婦人矯風会を創立し、同会の会長として三十五年間もの間、全国の会員を統括した。
*朝のうちだけからっと破ったように晴れ渡っていた空は…… ここでは、「或る女のグリンプス」から「或る女」(前篇)へという改作の問題を取りあげてみる。「或る女のグリンプス」と「或る女」(前篇)とを比べた場合、まず目につくのは、大幅な増補であろう。そしてそのほとんどは、葉子の心理描写である。つまり、葉子の心理描写が精詳になっているのである。ここで取りあげた部分は、そのほんの一例にすぎない。「煮しめたようなきたない部屋の中は〜前後も知らず眠ってしまった」という葉子の心理の記述は、「或る女のグリンプス」には全くない。つまり「朝の中だけ〜じめじめと降り続いて」に相当する部分―状況の記述しかないのである。また、文体のほうで言えば、「晴れ渡った」→「晴れ渡っていた」「激変した」→「激変していた」「照り降りした」→「照ったり降ったりしていた」というように「〜た」が「〜いた」に変わっていることが指摘できる。これは、生硬な文章から脱却したことを感じさせる。
*郡内の布団 山梨県郡内地方から産出する絹織物(郡内縞ともいう)でつくられた布団。
*illusion (英)。幻覚。幻想。
*roughish (英)。あらあらしい。激しい。
*てっせん 鉄線蓮の略。葉柄で他物に巻きつく。初夏、葉脈に大きな白色または淡青紫の花をつける。
*帯しろ裸 細帯を巻いただけのだらしない格好。
*inspire されて (英)。霊感を与えられて。感化されて。
*「国民文学」 この当時には、『国民文学』という雑誌はない。たぶん、国木田独歩らの『青年文学』のことかと思われる。
*「文学界」前期浪漫主義運動の拠点となった文芸雑誌。明治二十六年(一八九三)、巌本善治主宰の『女学雑誌』を母胎として創刊され、明治三十一年(一八九八)五八号をもって廃刊された。同人は、星野天知、平田禿木、島崎藤村、北村透谷、戸川秋骨、馬場孤蝶、上田敏らで、これら同人のほか、樋口一葉、田山花袋、松岡(柳田)国男、三宅花圃、幸田露伴、太田玉茗、川上眉山らが執筆した。
*唐紙牋 もとは中国で製し、わが国に輸入された。表面は粗剛で質はもろいが、墨汁の吸収が良く書画用として用いられる。国産の和唐紙をも言う。
*内田 モデルは、内村鑑三(一八六一―一九三〇)。明治三十三年、「聖書之研究」を創刊して以来、無教会主義を唱え、生涯を聖書の研究と講義に尽くした。教育勅語に対する不敬事件、日露戦争の際の非戦論でも著名。有島武郎、志賀直哉も一時内村鑑三に傾倒し、親しく教えを請うたことがあった。なお、信子の母、豊寿は、死に際して信子の後事を鑑三に託したと言われる。
*キリストに水をやったサマリヤの女 サマリヤは、パレスチナの中央部にある地方で、南はユダヤ、北はガラリアと接する。サマリヤとユダヤは反目しあっていて、交際は絶えて無かった。イエスは、ある時サマリヤのスカルという町に行き、井戸のそばに休んだ。そしてそこに来あわせたサマリヤの女と井戸の水を飲ませてほしいと問答したことが「ヨハネ伝」第四章にある。イエスは、この女によってサマリヤ人の中に多くの信者を見たとされている。
*ペテロとキリストとの間に取り交わされた寛恕に対する問答 「マタイ伝」第十八章に「ペテロイエスに来りていいけるは、主よいくたびまでわが兄弟の我に罪を犯すをゆるすべきか、七度までか。イエス彼にいいけるは、汝に七度とはいわじ、七度を七十倍せよ」とある。
*中有 仏教語。人が死んで次の生を受けるまでの間。すなわち、次生の生縁の熟さないため、至るべき所に至らぬ期間(四十九日間)をいう。生有、本有、死有とともに四有の一つ。
*めれんす メリンスのこと。スベイン産のメリー羊の毛で織ったことから言う。薄く柔らかく織った毛織物。とうちりめん、モスリンとも言う。
*田川法学博士 モデルは、法学博士・弁護士の鳩山和夫(一八五六―一九一一)。コロンビア大学、エール大学で法学を学び、帰朝後、東大講師を経て、外務権大書記官、取調局長となり、条約改正に参画した。その後しばらく弁護士界に身を投じたが、たびたび代議士に選ばれ、改進党、進歩党の領袖となり、明治二十九年には衆議院議長に推された。早稲田大学総長をつとめたこともある。夫人は春子。長男は、もと総理大臣の鳩山一郎。
*フォクスル forecastle(英)。前甲板。
*チャイニース・ステアレージ 中国人や三等船客が乗る下等船室。
*Devil take it! No tame creature then, eh?(英)。畜生、おもしろくもねえやつだ。
*ピッチャー pitcher(英)。水差し。
*ケーク・ウォーク cake walk(英)。アメリカ黒人間の余興。もっとも独特で、優美な足どりで歩くものが、賞としてケーキをもらう。それから発達したダンス。
*倉地三吉 モデルは、ヴィクトリア号事務長、武井勘三郎。信子との間に一女(瑠璃子)をもうけた。なおこの「或る女」が昭和二十九年、監督、豊田四郎で映画化された時、この倉地には、有島武郎の長男で俳優の森雅之が扮し、京マチ子の葉子を相手に好演した。
*明朝 明朝活字の略。木版または活版の字体の一種。縦の画は太く、横の画が細いもの。現在、新聞、雑誌、書籍などでよく用いている。
*モンロー主義 アメリカ合衆国第五代大統領モンローが打ち出したもの。一八二三年、スペインが神聖同盟の余威をかり、南アメリカの植民地の独立運動を兵力によって鎮圧しようとした時、モンローはこれに反抗して、アメリカがヨーロッパ諸国の国際紛争に関与しないと同時に、アメリカには、ヨーロッパ諸国の干渉を許さないと宣言した。
*You mean teddy the roughrider?(英)。「あなたはテディを馬ならしだとおっしゃるのですか」の意。テディはアメリカ合衆国第二十六代大統領ルーズベルトを狩猟好きにちなんでいったもの。
*Good hit for you, Mr.Captain!(英)。「名言ですわ、船長!」
*insolent(英)。横柄な。
*トレモロ tremolo(イタリヤ語)。ふるえるような音、震音。
*adventure(英)。冒険。
*diabolic(英)。悪魔的な。
*delirium(英)。精神錯乱。
*犬儒派 元来は、ソクラテスの弟子、アンチステネスがおこしたギリシャ哲学の一派で、個人的精神の自由を確保するために世俗的煩いを避け、恬淡無欲な自然生活を営むことを理想として、社会的習慣を無視し、文化的生活を軽べつした。一種の皮肉屋。
*オレゴン松 北アメリカのロッキー山脈地方やカナダに産するまつ科の巨木。建材として用いられるが、あまり良質のものではない。
*weird(英)。運命の。
*assault(英)。強姦。襲撃。
*desire(英)。情欲。
*nonchalant(英)。無頓着な。無関心な。
*トレイ tray(英)。盆。
*"Car to the Town. Fare 15¢"(英)。町までの車賃十五セント。
*ecstasy(英)。有頂天。
*「Charmin' little lassie! wha' is that?」 (英)。「何とまあきれいなかただろう。どんなかたですか」
*「One more over there, look!」(英)。「あそこにもう一人、ほら」
*「Here we are! Seattle is as good as reached now.」(英)。「さあ、もうシアトルですよ」
*refine されて(英)。洗練されて。
*caress(英)。愛撫。接吻。
*boudoir(仏)。婦人の私室。
*無辜の 何の罪もない。
*覬覦 野心をいだくこと。
*苟合 すぐ人に迎合すること。
*丑の刻参りの藁人形 嫉妬深い女などが他人をのろい殺そうとして毎夜丑の刻(午前一時〜三時)に寺社に参拝し、わら人形などをくぎで木に打ちつけると、七日目の満願の夜に願いがかなうという。ここでは、葉子にとって疫病神以外の何者でもない木村が毎日、葉子のところにやってくることを皮肉って言っている。
*木村 この果てしなく続く「木村」の三角形は「或る女」の中でも特異な表現。もとの「或る女のグリンプス」には見られない。葉子を取り巻き、たたみ重なるようにして葉子を追いつめる木村の語が、葉子の強迫観念を表わすのを効果的にしている。
*その年の六月に伊藤内閣と更迭してできた桂内閣 一九〇一年(明治三十四年)六月、第一次桂太郎内閣は成立した。
*福田という女の社会主義者 女流民権家の福田英《ひで》子(一八六五―一九二七)のこと。大井憲太郎の大阪事件に連座し、出獄ののちキリスト教、社会主義に接し、婦人解放運動の先駆者として活躍した。自叙伝「妾の半生涯」がある。
*デコルテー ローブ・デコルテの略。ぬきえりの服。夜会服は多く、ネックラインを深くとってある。
*箱丁 芸妓に従って箱に入れた三味線を持ち運ぶ男。
*猫板 長火鉢の端にわたす引板(よく猫がうずくまるので言う)。
*天長節 戦前までの天皇誕生日。ここでは明治天皇の誕生日の十一月三日。
*伝法に 小いきに。いなせに。
*櫛巻き 女の髪の結い方の一つ。髪を櫛に巻きつけて結いあげる。
*黒繻子と水色匹田の昼夜帯 昼夜帯はもと、黒繻子に白裏をつけた女帯をいったが、転じて、裏と表とに異なる布《ふ》帛《はく》を用いて仕立てた帯を言う。ここでは、表が黒繻子、裏が水色の匹田しぼり模様で仕立てた昼夜帯、結ぶと裏の匹田しぼりが少し見え、黒繻子と、いきな調和を見せる。
*ハーキュニース ジュピターの子で、豪強できこえるギリシャの英雄ヘラスレス。
*江戸川紙 もと東京都文京区江戸川付近から製出した手漉《すき》紙で、書簡用巻紙に用いられた。
*エボニー色 こくたん色。
*ロングフェローのエヴァンジェリン ロングフェロー(Henry Warsuworth Longfellow 一八〇七―一八八二)は、アメリカの詩人。エヴァンジェリン(Evangeline)は、ロングフェロー作の詩、およびその詩の女主人の名前。エヴァンジェリンは、相思の仲であったガブリエルと婚約した翌日、イギリス官憲による移民追放にあい、別れ別れとなってアメリカに渡る。エヴァンジェリンはガブリエルを探し求め続けるが、尋ねあぐんで尼となり慈善事業に身を投じたが、ある時、施療病院のベツドに死にかかっているガブリエルを見出す。しかし時すでに遅く、ガブリエルは他界してしまう。エヴァンジェリンもすぐあとを追い、天国で二人の魂は永遠に結ばれるという筋。
*『復活』 はじめ「コーニの手記」と題されていた。ある娘を誘惑した男が、陪審員となり、出頭した法廷で、自分が犯した娘と再会し、自分の罪の恐ろしさに気づき、改心する物語。のち徹底的に改作され、政治的、社会的テーマを鋭く分析し、帝政ロシアにおける裁判、教会、行政などの不合理をあからさまに描いている。
*『懺悔』 七十年代の終わりに精神的危機に見舞われた自己の姿を、過去の自己が歩んだ道をも含めて赤裸々に告白したもので、一八八二年、雑誌『ロシア思想』に発表されたが直ちに発禁となった。晩年の宗教論文と並んで、宗教的転向後のトルストイの面目をうかがうにはきわめて重要な作品。
*「つつもたせ」 夫のある女が、夫としめし合わせて、他の男と通じ、それを言いががりとして夫がその男をゆすり、金銭を巻きあげる。「美人局」。
*たぼ 日本髪の後方に張り出た部分、たぼがみ。
*シカゴ・トリビューン アメリカの新聞経営者、マッコーミック(Robert Rutherford Mccormick一八八〇―一九五五)の創立による日刊新聞。普通の日刊紙としては最大の九十万の発行部数を有している。しかしながら孤立主義を振りかざし、反動的で、事実を曲げることが多く、ハースト系新聞とともに信頼できない新聞といわれている。
*ソウダ・ビスケット ソーダ・クラッカー。重曹を含ませて軽く焼きあげたもので塩味がある。
*「乱れ髪」 正しくは「みだれ髪」。明治三十四年八月刊行された与謝野晶子の歌集。最初、鳳《おうとり》(晶子の旧姓)晶子の名で出版された。藤島武二の手になる、大胆な装丁は、奔放無比な、恋愛本能の解放をうたった内容とともに、画期的なものとして注目された。
*「明星」 詩歌の総合雑誌で、『文学界』を継承してわが国浪漫主義運動の拠点となった。同誌名の雑誌は三度刊行され、それぞれ、第一次、第二次、第三次と便宜的に区別されている。ここでは第一次『明星』(明治三十三年四月〜明治四十一年十一月、通巻一〇〇号)のこと。与謝野鉄幹が始めた文学結社―東京新詩社―の機関誌で、はじめ丈《ますら》夫《お》振《ぶり》を重視したが、次第に、浪漫主義、芸術至上主義、唯美主義に傾いていった。晶子をはじめとして、山川登美子、増田(茅野)雅子、相馬御風、岩野泡鳴、薄田泣菫、蒲原有明、高村光太郎、石川啄木、萩原朔太郎、木下杢太郎、吉井勇、北原白秋、堀口大學、など数多くの詩人・作家を胎出した。
*春雨の「無花果」 明治三十四年、中村春雨(吉蔵)が早稲田在学中『大阪毎日新聞』の懸賞小説に応募して当選し、文壇に名を得た社会的宗教小説。明治四十年、伊井蓉峰一座によって上演された。
*兆民居士の「一年有半」 中江兆民(一八四七―一九〇一)の随想・評論集。明治三十四年九月刊行。喉頭癌のために余命一年半と宣告されたのを契機に「生前の遺稿」としてまとめられたもので、政治、経済、社会、文化と広くわたっての論文が収められている。
*「美的生活」とか「清盛論」というような大胆奔放な言説 「美的生活」は、明治三十四年『太陽』に掲載された高山樗牛の評論「美的生活を論ず」で、ニイチェの反俗主義、本能満足主義を高唱したもの。「清盛論」もまた、ニイチェの思想を踏まえた超人主義を主張している。樗牛は、『太陽』誌上で熱情的な美文でもって、浪漫的本能満足主義を提唱して一世を風靡《び》し、与謝野晶子の「みだれ髪」とともに、わが国浪漫主義運動に大きな影響を及ぼした。
*玳瑁 爬虫類の一種。長さ一メートルに達する海亀。背甲は鼈《べつ》甲《こう》といって珍重し、各種の装飾品にする。
*ディバン divan(英)。長いすの一種。
*日朝様 鎌倉にある本覚寺のこと。日朝は、室町時代の日蓮宗の僧。伊豆国に生まれ、日延に招かれて身延山を嗣いだ。鎌倉の本覚寺に日蓮の遺骨を分納し、本身延として信徒の参詣に便あらしめた。
*光明寺 浄土宗の寺。念阿良忠が開祖。壮大な伽藍は有名。鎌倉材木座最南の地にあり、国宝当麻曼荼羅縁起絵巻を持つ。
*防風草 せり科の多年生草木。中国原産。高さ九〇センチにもなる。夏、秋のころ、白色の小五弁花を開く
*とつおいつ 「取りつ置きつ」の転。あれやこれやと思案が定まらないで、とやかく迷っての意。
*衣紋 着物の襟《えり》を胸で合わせたところ。
*コティロン cotillon(英)。コティヨンともいう。八人が一組で踊るフランス宮廷舞踊の一種。十八世紀にヨーロッパで流行した。
*餓鬼 仏教語で悪業の報いとして餓鬼道に落ちた亡者をいう。皮肉痩せからびて、咽喉細く針の孔のようで飲食することができず、常に飢渇に苦しむという。
*昇汞水 塩化第二水銀の水溶液。消毒に用いられる。きわめて有毒である。
*ハルシネーション hallucination(英)。妄想。まぼろし。幻覚。
〈矢沢 麗子〉
或《あ》る女《おんな》
有《あり》島《しま》武《たけ》郎《お》
-------------------------------------------------------------------------------
平成12年11月10日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『或る女』昭和44年7月10日初版刊行
平成5年6月20日改訂31版