TITLE : 一房の葡萄
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。
本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。
目 次
一《ひと》房《ふさ》の葡《ぶ》萄《どう》
おぼれかけた兄《きよう》妹《だい》
碁《ご》石《いし》を飲んだ八《や》っちゃん
ぼくの帽《ぼう》子《し》のお話
かたわ者
火事とポチ
真《ま》夏《なつ》の夢《ゆめ》
燕《つばめ》と王《おう》子《じ》
一《ひと》房《ふさ》の葡《ぶ》萄《どう》
ぼくは小さい時に絵をかくことがすきでした。ぼくの通《かよ》っていた学校は横《よこ》浜《はま》の山の手という所にありましたが、そこいらは西洋人ばかり住んでいる町で、ぼくの学校も教師は西洋人ばかりでした。そしてその学校の行きかえりには、いつでもホテルや西洋人の会社などがならんでいる海岸の通りを通るのでした。通りの海《うみ》沿《ぞ》いに立って見ると、真《まつ》青《さお》な海の上に軍《ぐん》艦《かん》だの商船だのがいっぱいならんでいて、煙《えん》突《とつ》からけむりの出ているのや、檣《ほばしら》から檣へ万《ばん》国《こく》旗《き》をかけわたしたのやがあって、目がいたいようにきれいでした。ぼくはよく岸に立ってその景《け》色《しき》を見わたして、家に帰ると、覚えているだけをできるだけ美しく絵にかいてみようとしました。けれどもあのすきとおるような海の藍《あい》色《いろ》と、白い帆《ほ》前《まえ》船《せん》などの水ぎわ近くにぬってある洋《よう》紅《こう》色《しよく》とは、ぼくの持っている絵の具ではどうしてもうまく出せませんでした。いくらかいてもかいてもほんとうの景色で見るような色にはかけませんでした。
ふとぼくは学校の友だちの持っている西洋絵の具を思い出しました。その友だちはやはり西洋人で、しかもぼくより二つくらい年が上でしたから、身《せ》長《い》は見上げるように大きい子でした。ジムというその子の持っている絵の具は舶《はく》来《らい》の上等のもので、軽い木の箱《はこ》の中に、十二種《いろ》の絵の具が、小さな墨《すみ》のように四角な形にかためられて、二列にならんでいました。どの色も美しかったが、とりわけて藍《あい》と洋《よう》紅《こう》とはびっくりするほど美しいものでした。ジムはぼくより身《せ》長《い》が高いくせに、絵はずっとへたでした。それでもその絵の具をぬると、へたな絵さえなんだか見ちがえるように美しくなるのです。ぼくはいつでもそれをうらやましいと思っていました。あんな絵の具さえあれば、ぼくだって海の景色を、ほんとうに海に見えるようにかいて見せるのになあと、自分の悪い絵の具をうらみながら考えました。そうしたら、その日からジムの絵の具がほしくってほしくってたまらなくなりましたけれども、ぼくはなんだかおくびょうになって、パパにもママにも買ってくださいと願う気になれないので、毎日毎日その絵の具のことを心の中で思いつづけるばかりで幾《いく》日《にち》か日がたちました。
今ではいつのころだったか覚えてはいませんが、秋だったのでしょう、葡《ぶ》萄《どう》の実《み》が熟《じゆく》していたのですから。天気は冬が来る前の秋によくあるように、空のおくのおくまで見すかされそうに晴れわたった日でした。ぼくたちは先生といっしょに弁《べん》当《とう》をたべましたが、その楽しみな弁当の最中でも、ぼくの心はなんだか落ち着かないで、その日の空とはうらはらに暗かったのです。ぼくは自分一人《ひとり》で考えこんでいました。だれかが気がついて見たら、顔もきっと青かったかもしれません。ぼくはジムの絵の具がほしくってほしくってたまらなくなってしまったのです。胸《むね》がいたむほどほしくなってしまったのです。ジムはぼくの胸の中で考えていることを知っているにちがいないと思って、そっとその顔を見ると、ジムはなんにも知らないように、おもしろそうに笑ったりして、わきにすわっている生徒と話をしているのです。でもその笑っているのがぼくのことを知っていて笑っているようにも思えるし、何か話をしているのが、「いまに見ろ、あの日本人がぼくの絵の具を取るにちがいないから」といっているようにも思えるのです。ぼくはいやな気持になりました。けれども、ジムがぼくを疑《うたが》っているように見えれば見えるほど、ぼくはその絵の具がほしくてならなくなるのです。
ぼくはかわいい顔はしていたかもしれないが、からだも心も弱い子でした。その上おくびょう者《もの》で、言いたいことも言わずにすますようなたちでした。だからあんまり人からは、かわいがられなかったし、友だちもないほうでした。昼御飯がすむとほかの子どもたちは活発に運動場に出て走りまわって遊びはじめましたが、ぼくだけはなおさらその日は変に心がしずんで、一人だけ教《きよう》場《じよう》にはいっていました。そとが明るいだけに教場の中は暗くなって、ぼくの心の中のようでした。自分の席にすわっていながら、ほくの目は時々ジムの卓《テイブル》の方に走りました。ナイフでいろいろないたずら書きが彫《ほ》りつけてあって、手あかで真《まつ》黒《くろ》になっているあのふたをあげると、その中に本や雑記帳や石《せき》板《ばん》といっしょになって、飴《あめ》のような木の色の絵の具箱があるんだ。そしてその箱の中には小さい墨《すみ》のような形をした藍《あい》や洋《よう》紅《こう》の絵の具が……ぼくは顔が赤くなったような気がして、思わずそっぽを向いてしまうのです。けれどもすぐまた横目でジムの卓《テイブル》の方を見ないではいられませんでした。胸のところがどきどきとして苦しいほどでした。じっとすわっていながら、夢《ゆめ》で鬼《おに》にでも追いかけられた時のように気ばかりせかせかしていました。
教場にはいる鐘《かね》がかんかんと鳴りました。ぼくは思わずぎょっとして立ち上がりました。生徒たちが大きな声で笑ったりどなったりしながら、洗《せん》面《めん》所《じよ》の方に手をあらいに出かけて行くのが窓《まど》から見えました。ぼくは急に頭の中が氷のように冷たくなるのを気味悪く思いながら、ふらふらとジムの卓《テイブル》の所に行って、半分夢《ゆめ》のようにそこのふたをあげて見ました。そこにはぼくが考えていたとおり、雑記帳やえんぴつ箱とまじって、見覚えのある絵の具箱がしまってありました。なんのためだか知らないがぼくはあっちこっちをむやみに見回してから、手早くその箱のふたをあけて藍《あい》と洋《よう》紅《こう》との二色を取り上げるが早いか、ポケットの中におしこみました。そして急いでいつも整列して先生を待っている所に走って行きました。
ぼくたちはわかい女の先生に連れられて教場にはいりめいめいの席にすわりました。ぼくはジムがどんな顔をしているか見たくってたまらなかったけれども、どうしてもそっちの方をふり向くことができませんでした。でもぼくのしたことをだれも気のついた様《よう》子《す》がないので、気味が悪いような安心したような心持ちでいました。ぼくの大すきなわかい女の先生のおっしゃることなんかは耳にはいりははいっても、なんのことだったかちっともわかりませんでした。先生も時々不思議そうにぼくの方を見ているようでした。
ぼくはしかし先生の目を見るのがその日に限ってなんだかいやでした。そんなふうで一時間がたちました。なんだかみんな耳こすりでもしているようだと思いながら一時間がたちました。
教場を出る鐘《かね》が鳴ったので、ぼくはほっと安心してため息をつきました。けれども先生が行ってしまうと、ぼくはぼくの級でいちばん大きなそしてよくできる生徒に、
「ちょっとこっちにおいで」とひじの所をつかまれていました。ぼくの胸は、宿題をなまけたのに先生に名をさされた時のように、思わずどきんとふるえはじめました。けれどもぼくはできるだけ知らないふりをしていなければならないと思って、わざと平気な顔をしたつもりで、しかたなしに運動場のすみに連れて行かれました。
「君はジムの絵の具を持っているだろう。ここに出したまえ」
そういってその生徒はぼくの前に大きく広げた手をつき出しました。そういわれるとぼくはかえって心が落ち着いて、
「そんなもの、ぼく持ってやしない」と、ついでたらめをいってしまいました。そうすると三、四人の友だちといっしょにぼくのそばに来ていたジムが、
「ぼくは昼休みの前にちゃんと絵の具箱を調べておいたんだよ。一つもなくなってはいなかったんだよ。そして昼休みが済んだら二つなくなっていたんだよ。そして休みの時間に教場にいたのはきみだけじゃないか」とすこしことばをふるわしながら言いかえしました。
ぼくはもうだめだと思うと急に頭の中に血が流れこんで来て顔が真《まつ》赤《か》になったようでした。するとだれだったかそこに立っていた一人がいきなりぼくのポケットに手をさしこもうとしました。ぼくはいっしょうけんめいにそうはさせまいとしましたけれども、多《た》勢《ぜい》に無《ぶ》勢《ぜい》でとてもかないません。ぼくのポケットの中からは、見る見るマーブル玉(今のビー玉のことです)や鉛《なまり》のメンコなどといっしょに、二つの絵の具のかたまりがつかみ出されてしまいました。「それ見ろ」といわんばかりの顔をして、子どもたちはにくらしそうにぼくの顔をにらみつけました。ぼくのからだはひとりでにぶるぶるふるえて、目の前が真《まつ》暗《くら》になるようでした。いいお天気なのに、みんな休み時間をおもしろそうに遊び回っているのに、ぼくだけはほんとうに心からしおれてしまいました。あんなことをなぜしてしまったんだろう。取りかえしのつかないことになってしまった。もうぼくはだめだ。そんなに思うと、弱虫だったぼくはさびしく悲しくなってきて、しくしくと泣きだしてしまいました。
「泣いておどかしたってだめだよ」とよくできる大きな子がばかにするような、にくみきったような声で言って、動くまいとするぼくをみんなで寄ってたかって二階に引っぱって行こうとしました。ぼくはできるだけ行くまいとしたけれども、とうとう力まかせに引きずられて、はしご段《だん》を登らせられてしまいました。そこにぼくのすきな受持の先生の部《へ》屋《や》があるのです。
やがてその部屋の戸をジムがノックしました。ノックするとは、はいってもいいかと戸をたたくことなのです。中からはやさしく「おはいり」という先生の声が聞こえました。ぼくはその部屋にはいる時ほどいやだと思ったことはまたとありません。
何か書きものをしていた先生は、どやどやとはいって来たぼくたちを見ると、すこしおどろいたようでした。が、女のくせに男のように頸《くび》の所でぶつりと切った髪《かみ》の毛を右の手でなであげながら、いつものとおりのやさしい顔をこちらに向けて、ちょっと首をかしげただけで、なんの御用というふうをなさいました。そうするとよくできる大きな子が前に出て、ぼくがジムの絵の具を取ったことをくわしく先生に言いつけました。先生はすこしくもった顔つきをしてまじめにみんなの顔や、半分泣きかかっているぼくの顔を見くらべていなさいましたが、ぼくに「それはほんとうですか」と聞かれました。ほんとうなんだけれども、ぼくがそんないやなやつだということを、どうしてもぼくのすきな先生に知られるのがつらかったのです。だからぼくは答える代わりにほんとうに泣きだしてしまいました。
先生はしばらくぼくを見つめていましたが、やがて生徒たちに向かって静かに「もういってもようございます」といって、みんなをかえしてしまわれました。生徒たちはすこし物足らなそうにどやどやと下におりていってしまいました。
先生はすこしの間なんとも言わずに、ぼくの方も向かずに、自分の手のつめを見つめていましたが、やがて静かに立って来て、ぼくの肩《かた》の所を抱《だ》きすくめるようにして「絵の具はもう返しましたか」と小さな声でおっしゃいました。ぼくは返したことをしっかり先生に知ってもらいたいので深々とうなずいて見せました。
「あなたは自分のしたことをいやなことだったと思っていますか」
もう一度そう先生が静かにおっしゃった時には、ぼくはもうたまりませんでした。ぶるぶるとふるえてしかたがないくちびるを、かみしめてもかみしめても泣き声が出て、目からは涙《なみだ》がむやみに流れて来るのです。もう先生に抱《だ》かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました。
「あなたはもう泣くんじゃない。よくわかったらそれでいいから泣くのをやめましょう、ね。次の時間には教場に出ないでもよろしいから、私のこのお部屋にいらっしゃい。静かにしてここにいらっしゃい。私が教場から帰るまでここにいらっしゃいよ。いい?」とおっしゃりながらぼくを長《なが》椅《い》子《す》にすわらせて、その時また勉強の鐘《かね》がなったので、つくえの上の書物を取り上げて、ぼくの方を見ていられましたが、二階の窓まで高くはい上った葡《ぶ》萄《どう》蔓《づる》から、一《ひと》房《ふさ》の西洋葡萄をもぎとって、しくしくと泣きつづけていたぼくのひざの上にそれをおいて、静かに部屋を出て行きなさいました。
一《いち》時《じ》がやがやとやかましかった生徒たちはみんな教場にはいって、急にしんとするほどあたりが静かになりました。ぼくはさびしくってさびしくってしようがないほど悲しくなりました。あのくらいすきな先生を苦しめたかと思うと、ぼくはほんとうに悪いことをしてしまったと思いました。葡萄などはとても食べる気になれないで、いつまでも泣いていました。
ふとぼくは肩《かた》を軽くゆすぶられて目をさましました。ぼくは先生の部屋でいつのまにか泣《な》き寝《ね》入りをしていたと見えます。すこしやせて身《せ》長《い》の高い先生は、笑《え》顔《がお》を見せてぼくを見おろしていられました。ぼくはねむったために気分がよくなって今まであったことはわすれてしまって、すこしはずかしそうに笑いかえしながら、あわててひざの上からすべり落ちそうになっていた葡《ぶ》萄《どう》の房《ふさ》をつまみ上げましたが、すぐ悲しいことを思い出して、笑いも何も引っこんでしまいました。
「そんなに悲しい顔をしないでもよろしい。もうみんなは帰ってしまいましたから、あなたもお帰りなさい。そして明《あ》日《す》はどんなことがあっても学校に来《こ》なければいけませんよ。あなたの顔を見ないと私は悲しく思いますよ。きっとですよ」
そういって先生はぼくのカバンの中にそっと葡萄の房を入れてくださいました。ぼくはいつものように海岸通りを、海をながめたり船をながめたりしながら、つまらなく家に帰りました。そして葡萄をおいしく食べてしまいました。
けれども次の日が来るとぼくはなかなか学校に行く気にはなれませんでした。お腹《なか》がいたくなればいいと思ったり、頭《ず》痛《つう》がすればいいと思ったりしたけれども、その日に限って虫歯一本いたみもしないのです。しかたなしにいやいやながら家は出ましたが、ぶらぶらと考えながら歩きました。どうしても学校の門をはいることはできないように思われたのです。けれども先生の別れの時のことばを思い出すと、ぼくは先生の顔だけはなんといっても見たくてしかたがありませんでした。ぼくが行かなかったら先生はきっと悲しく思われるにちがいない。もう一度先生のやさしい目で見られたい。ただその一《ひと》事《こと》があるばかりでぼくは学校の門をくぐりました。
そうしたらどうでしょう、まず第一に待ちきっていたようにジムが飛んで来て、ぼくの手をにぎってくれました。そして昨日《きのう》のことなんかわすれてしまったように、親切にぼくの手をひいて、どぎまぎしているぼくを先生の部屋に連れて行くのです。ぼくはなんだかわけがわかりませんでした。学校に行ったらみんなが遠くの方からぼくを見て、「見ろどろぼうのうそつきの日本人が来た」とでも悪《わる》口《くち》をいうだろうと思っていたのに、こんなふうにされると気味が悪いほどでした。
二人《ふたり》の足音を聞きつけてか、先生はジムがノックしない前に戸をあけてくださいました。二人は部屋の中にはいりました。
「ジム、あなたはいい子、よく私の言ったことがわかってくれましたね。ジムはもうあなたからあやまってもらわなくってもいいと言っています。二人は今からいいお友だちになればそれでいいんです。二人ともじょうずに握《あく》手《しゆ》をなさい」と先生はにこにこしながらぼくたちを向かい合わせました。ぼくはでもあんまりかってすぎるようでもじもじしていますと、ジムはぶらさげているぼくの手をいそいそと引っぱり出してかたくにぎってくれました。ぼくはもうなんといってこのうれしさを表わせばいいのかわからないで、ただはずかしく笑うほかありませんでした。ジムも気持よさそうに、笑顔をしていました。先生はにこにこしながらぼくに、
「昨日の葡《ぶ》萄《どう》はおいしかったの」と問われました。ぼくは顔を真赤にして「ええ」と白《はく》状《じよう》するよりしかたがありませんでした。
「そんならまたあげましょうね」
そういって、先生は真《まつ》白《しろ》なリンネルの着物につつまれたからだを窓からのび出させて、葡萄の一《ひと》房《ふさ》をもぎ取って、真白い左の手の上に粉《こ》のふいたむらさき色の房を乗せて、細長い銀色のはさみでまん中からぷつりと二つに切って、ジムとぼくとにくださいました。真白い手のひらにむらさき色の葡《ぶ》萄《どう》のつぶが重なって乗っていたその美しさをぼくは今でもはっきりと思い出すことができます。
ぼくはその時から前よりすこしいい子になり、すこしはにかみ屋でなくなったようです。
それにしてもぼくの大すきなあのいい先生はどこに行かれたでしょう。もう二度とは会えないと知りながら、ぼくは今でもあの先生がいたらなあと思います。秋になるといつでも葡萄の房《ふさ》はむらさきに色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。
(一九二一年作)
おぼれかけた兄《きよう》妹《だい》
土《ど》用《よう》波《なみ》という高い波が風もないのに海岸に打ち寄せるころになると、海水浴に来ている都《みやこ》の人たちもだんだん別《べつ》荘《そう》をしめて帰ってゆくようになります。今までは海岸の砂《すな》の上にも水の中にも、朝から晩まで、たくさんの人が集まって来て、砂山からでも見ていると、あんなにおおぜいな人間がいったいどこから出て来たのだろうと、不思議に思えるほどですが、九月にはいってから三日目になるその日には、見わたすかぎり砂《すな》浜《はま》のどこにも人《ひと》っ子一人《ひとり》いませんでした。
私の友だちのMと私と妹とはおなごりだといって海水浴にゆくことにしました。おばあ様が波があらくなってくるから行かないほうがよくはないかとおっしゃったのですけれども、こんなにお天気はいいし、風はなしするからだいじょうぶだといっておっしゃることを聞かずに出かけました。
ちょうど昼すこし過ぎで、上天気で、空には雲一つありませんでした。昼間でも草の中にはもう虫の音《ね》がしていましたが、それでも砂は熱くなって、はだしだと時々草の上に駆《か》け上《あ》がらなければいられないほどでした。Mはタオルを頭からかぶってどんどん飛んで行きました。私は麦《むぎ》わら帽《ぼう》子《し》をかぶった妹の手を引いてあとから駆けました。すこしでも早く海の中につかりたいので三人は息を切って急いだのです。
うねりといいますね、その波がうねっていました。ちゃぷりちゃぷりと小さな波が波打ちぎわでくだけるのではなく、すこし沖《おき》の方に細長い小山のような波ができて、それが陸の方を向いてだんだんおし寄《よ》せて来ると、やがてその小山のてっぺんがとがってきて、ざぶりと大きな音をたてて一度にくずれかかるのです。そうするとしばらく間《ま》をおいてまたあとの波が小山のように打ち寄せて来ます。そしてくずれた波はひどい勢いで砂の上にはい上がって、そこらじゅうを白いあわで敷《し》きつめたようにしてしまうのです。三人はそうした波の様《よう》子《す》を見るとすこし気味悪くも思いました。けれどもせっかくそこまで来ていながら、そのまま引き返すのはどうしてもいやでした。で、妹に帽《ぼう》子《し》をぬがせて、それを砂の上にあお向けにおいて、着物やタオルをその中にまるめこむと私たち三人は手をつなぎ合わせて水の中にはいってゆきました。
「ひきがしどいね」
とMがいいました。ほんとうにそのとおりでした。ひきとは、水が沖《おき》の方にひいて行く時の力のことです。それがその日はたいへん強いように私たちは思ったのです。くるぶしくらいまでより水の来《こ》ない所に立っていても、その水がひいてゆく時にはまるで急な川の流れのようで、足の下の砂がどんどん掘《ほ》れるものですから、うっかりしているとたおれそうになるくらいでした。その水の沖の方に動くのを見ていると目がふらふらしました。けれどもそれが私たちにはおもしろくってならなかったのです。足のうらをくすぐるように砂が掘《ほ》れて足がどんどん深くうずまってゆくのがこの上なくおもしろかったのです。三人は手をつないだまますこしずつ深い方にはいってゆきました。沖《おき》の方を向いて立っていると、ひざの所で足がくの字に曲がりそうになります。陸の方を向いていると向こうずねにあたる水がいたいくらいでした。両足をそろえてまっすぐに立ったままどっちにもたおれないのを勝ちにしてみたり、片《かた》足《あし》で立ちっこをしてみたりして、三人はおもしろがって人魚のようにはね回りました。
そのうちにMがひざぐらいの深さの所まで行ってみました。そうするとうねりが来るたびごとにMは背《せ》のびをしなければならないほどでした。それがまたおもしろそうなので私たちもだんだん深みに進んでゆきました。そして私たちはとうとう波のない時には腰《こし》ぐらいまで水につかるほどの深みに出てしまいました。そこまで行くと波が来たらただ立っていたままでは追っつきません。どうしてもふわりと浮《う》き上《あ》がらなければ水を飲ませられてしまうのです。
ふわりと浮き上がると私たちはたいへん高い所に来たように思いました。波が行ってしまうので地面に足をつけると、海岸の方を見ても海岸は見えずに波の背《せ》中《なか》だけが見えるのでした。そのうちにその波がざぶんとくだけます。波打ちぎわが一面に白くなって、いきなり砂山や妹の帽《ぼう》子《し》などが手に取るように見えます。それがまたこの上なくおもしろかったのです。私たち三人は土《ど》用《よう》波《なみ》があぶないということも何もわすれてしまって波《なみ》越《こ》しの遊びを続けさまにやっていました。
「あら大きな波が来てよ」
と沖の方を見ていた妹がすこしこわそうな声でこういきなりいいましたので、私たちも思わずその方を見ると、妹のことばどおりに、これまでのとはかけはなれて大きな波が、両手をひろげるような格《かつ》好《こう》でおし寄せて来るのでした。泳ぎのじょうずなMもすこし気味悪そうに陸の方を向いていくらかでも浅い所までにげようとしたくらいでした。私たちはいうまでもありません。腰《こし》から上をのめるように前に出して、両手をまたその前につき出して泳ぐような格《かつ》好《こう》をしながら歩こうとしたのですが、なにしろひきがひどいので、足を上げることも前にやることも思うようにはできません。私たちはまるで夢《ゆめ》の中でこわいやつに追いかけられている時のような気がしました。
後ろからおし寄せて来る波は私たちが浅い所まで行くのを待っていてはくれません。見る見る大きく近くなって来て、そのてっぺんにはちらりちらりと白いあわがくだけ始めました。Mは後ろから大声をあげて、
「そんなにそっちへ行くとだめだよ、波がくだけると巻《ま》きこまれるよ。今のうちに波を越《こ》すほうがいいよ」
といいました。そういわれればそうです。私と妹とは立ちどまってしかたなく波の来るのを待っていました。高い波がびょうぶを立てつらねたようにおし寄せて来ました。私たち三人はちょうどぐあいよくくだけないうちに波の背を越すことができました。私たちはからだをもまれるように感じながらも、うまくその大波をやりすごすことだけはできたのでした。三人はようやく安心して泳ぎながら顔を見合わせてにこにこしました。そして波が行ってしまうと三人ながら泳ぎをやめてもとのように底の砂の上に立とうとしました。
ところがどうでしょう、私たちは泳ぎをやめるといっしょに、三人ながらずぼりと水の中にくぐってしまいました。水の中にくぐっても足は砂につかないのです。私たちはおどろきました。あわてました。そしていっしょうけんめいにめんかきをして、ようやく水の上に顔だけ出すことができました。その時私たち三人がたがいに見合わせた目といったら、顔といったらありません。顔は真《まつ》青《さお》でした。目は飛び出しそうに見開いていました。今の波一つでどこか深い所に流されたのだということを、私たちは言い合わさないでも知ることができたのです。言い合わさないでも私たちは陸の方を目がけて泳げるだけ泳がなければならないということがわかったのです。
三人はだまったままでからだを横にして泳ぎはじめました。けれども私たちにどれほどの力があったかを考えてみてください。Mは十四でした。私は十三でした。妹は十一でした。Mは毎年学校の水泳部に行っていたので、とにかくあたりまえに泳ぐことを知っていましたが、私は横のし泳ぎをすこしと、水の上にあお向けに浮くことを覚えたばかりですし、妹はようやく板をはなれて二、三間泳ぐことができるだけなのです。
ごらんなさい、私たちは見る見る沖《おき》の方へと流されているのです。私は頭を半分水の中につけて横のしで泳ぎながら時々頭を上げて見ると、そのたびごとに妹は沖の方へと私からはなれてゆき、友だちのMはまた岸の方へと私からはなれて行って、しばらくののちには三人はようやく声がとどくくらいおたがいにはなればなれになってしまいました。そして波が来るたんびに私は妹を見失ったりMを見失ったりしました。私の顔が見えると妹は後ろの方からあらん限りの声をしぼって、
「にいさん来てよ……もうしずむ……苦しい」
とよびかけるのです。実際妹は鼻の所ぐらいまで水にしずみながら声を出そうとするのですから、そのたびごとに水を飲むとみえて、真青な苦しそうな顔をして私をにらみつけるように見えます。私も前に泳ぎながら心は後ろにばかり引かれました。幾《いく》度《ど》も妹のいる方へ泳いで行こうかと思いました。けれども私は悪い人間だったとみえて、こうなると自分の命が助かりたかったのです。妹の所へ行けば、二人《ふたり》ともいっしょに沖《おき》に流れて命がないのは知れきっていました。私はそれがおそろしかったのです。なにしろ早く岸について漁夫《りようし》にでも助けに行ってもらうほかはないと思いました。今から思うとそれはずるい考えだったようです。
でもとにかくそう思うと私はもう後ろも向かずに無《む》我《が》夢《む》中《ちゆう》で岸の方を向いて泳ぎだしました。力がなくなりそうになるとあお向けに水の上に臥《ね》てしばらく息をつきました。それでも岸はすこしずつ近づいてくるようでした。いっしょうけんめいに……いっしょうけんめいに……、そして立ち泳ぎのようになって足を砂につけてみようとしたら、またずぶりと頭までくぐってしまいました。私はあわてました。そしてまたいっしょうけんめいで泳ぎだしました。
立ってみたら水がひざの所ぐらいしかない所まで泳いで来ていたのはそれからよほどたってのことでした。ほっと安心したと思うと、もう夢《む》中《ちゆう》で私は泣《な》き声《ごえ》を立てながら、
「助けてくれえ」
といって砂《すな》浜《はま》を気ちがいのように駆《か》けずり回りました。見るとMははるかむこうの方で私と同じようなことをしています。私は駆けずり回りながらも妹の方を見ることをわすれはしませんでした。波打ちぎわからずいぶん遠い所に、波にかくれたり現われたりして、かわいそうな妹の頭だけが見えました。
浜には船もいません。漁夫《りようし》もいません。その時になって私はまた水の中に飛びこんで行きたいような心持ちになりました。大事な妹を置きっぱなしにして来たのがたまらなく悲しくなりました。
その時Mがはるかむこうから、一人のわかい男の袖《そで》を引っぱってこっちに走って来ました。私はそれを見ると何もかもわすれてその方に駆けだしました。わかい男というのは、土地の者ではありましょうが、漁夫《りようし》とも見えないような通りがかりの人で、肩《かた》に何かになっていました。
「早く……早く行って助けてください……あすこだ、あすこだ」
私は涙《なみだ》を流しほうだいに流して、じだんだをふまないばかりにせき立てて、ふるえる手をのばして妹の頭がちょっぴり浮かんでいる方をさしました。
わかい男は私のさす方を見定めていましたが、やがて手早くになっていたものを砂の上におろし、帯《おび》をくるくると解いて、着物をいっしょにその上におくと、ざぶりと波を切って海の中にはいって行ってくれました。
私はぶるぶるふるえて泣《な》きながら、両手の指をそろえて口の中へおしこんで、それをぎゅっと歯でかみしめながら、その男がどんどん沖《おき》の方に遠ざかって行くのを見送りました。私の足がどんな所に立っているのだか、寒いのだか、暑いのだか、すこしも私にはわかりません。手足があるのだかないのだか、それもわかりませんでした。
抜《ぬ》き手を切って行く若《わか》者《もの》の頭もだんだん小さくなりまして、妹とのへだたりが見る見る近よって行きました。若者の身のまわりには白いあわがきらきらと光って、水を切った手がぬれたまま飛《とび》魚《うお》が飛ぶように海の上に現われたりかくれたりします。私はそんなことをいっしょうけんめいに見つめていました。
とうとう若者の頭と妹の頭とが一つになりました。私は思わず指を口の中から放して、声を立てながら水の中にはいってゆきました。けれども二人がこっちに来るののおそいことおそいこと。私はまたなんのわけもなく砂の方に飛び上がりました。そしてまた海の中にはいって行きました。どうしてもじっとして待っていることができないのです。
妹の頭は幾度も水の中にしずみました。時にはしずみきりにしずんだのかと思うほど長く現われて来ませんでした。若者もどうかすると水の上には見えなくなりました。そうかと思うと、ぽこんとはね上がるように高く水の上に現われ出ました。なんだか曲《きよく》泳《およ》ぎでもしているのではないかと思われるほどでした。それでもそんなことをしているうちに、二人はだんだん近くなって来て、とうとうその顔までがはっきり見えるくらいになりました。が、そこいらは打ち寄せる波がくずれるところなので、二人はもろともに幾《いく》度《ど》も白いあわのうずまきの中にすがたをかくしました。やがて若者ははうようにして波打ちぎわにたどりつきました。妹はそんな浅みに来ても若者におぶさりかかっていました。私は有《う》頂《ちよう》天《てん》になってそこまで飛んで行きました。
飛んで行って見ておどろいたのは若者のすがたでした。せわしく深く息をついて、からだはつかれきったようにゆるんでへたへたになっていました。妹は私が近づいたのを見ると夢《む》中《ちゆう》で飛んで来ましたが、ふっと思いかえしたように私をよけて砂《すな》山《やま》の方を向いて駆《か》け出しました。その時私は妹が私をうらんでいるのだと気がついて、それは無理のないことだと思うと、この上なくさびしい気持になりました。
それにしても友だちのMはどこに行ってしまったのだろうと思って、私は若者のそばに立ちながらあたりを見回すと、はるかな砂山の所をおばあ様を助けながら駆けおりて来るのでした。妹は早くもそれを見つけてそっちに行こうとしているのだとわかりました。
それで私はすこし安心して、若者の肩《かた》に手をかけて何かいおうとすると、若者はうるさそうに私の手をはらいのけて、水の寄せたり引いたりする所にすわりこんだまま、いやな顔をして胸《むね》のあたりをなでまわしています。私はなんだかことばをかけるのさえためらわれてだまったままつっ立っていました。
「まああなたがこの子を助けてくださいましたんですね。お礼の申しようもござんせん」
すぐそばで息せき切ってしみじみ言われるおばあ様の声を私は聞きました。妹は頭からずぶぬれになったままで泣きじゃくりをしながらおばあ様にぴったり抱《だ》かれていました。
私たち三人はぬれたままで、着物やタオルをこわきにかかえておばあ様といっしょに家の方に帰りました。若者はようやく立ち上がってからだをふいて行ってしまおうとするのをおばあ様がたってたのんだので、だまったまま私たちのあとからついて来ました。
家に着くともう妹のために床《とこ》がとってありました。妹は寝《ね》巻《ま》きに着かえて寝《ね》かしつけられると、まるで夢《む》中《ちゆう》になってしまって、熱を出して木《こ》の葉《は》のようにふるえ始めました。おばあ様は気《き》丈《じよう》なかたでかいがいしく世話をすますと、若者に向かって心の底からお礼を言われました。若者はあいさつのことばも得《え》言《い》わないような人で、ただだまってうなずいてばかりいました。おばあ様はようやくのことでその人の住まっている所だけを聞き出すことができました。若者は麦《むぎ》湯《ゆ》を飲みながら、妹の方を心配そうに見ておじぎを二、三度して帰って行ってしまいました。
「Mさんが駆《か》けこんで来なすって、おまえたちのことを言いなすった時には、私は目がくらむようだったよ。おとうさんやおかあさんからたのまれていて、おまえたちが死にでもしたら、私は生きてはいられないからいっしょに死ぬつもりであの砂《すな》山《やま》をおまえ、Mさんより早く駆《か》け上がりました。でもあの人が通り合わせたおかげで助かりはしたもののこわいことだったねえ、もうもう気をつけておくれでないとほんとにこまりますよ」
おばあ様はやがてきっとなって私を前にすえてこうおっしゃいました。日ごろはやさしいおばあ様でしたが、その時のことばには私は身も心もすくんでしまいました。すこしの間でも自分一人が助かりたいと思った私は、心の中をそこらじゅうから針《はり》でつかれるようでした。私は泣くにも泣かれないでかたくなったままこちんとおばあ様の前に下を向いてすわりつづけていました。しんしんと暑い日が縁《えん》の向こうの砂に照りつけていました。
若者の所へおばあ様が自分でお礼に行かれました。そして何かお礼の心でおばあ様が持って行かれたものをその人はなんといっても受け取らなかったそうです。
それから五、六年の間はその若者のいる所は知れていましたが、今はどこにどうしているのかわかりません。私たちのいいおばあ様はもうこの世においでになりません。私の友だちのMは妙《みよう》なことから人に殺されて死んでしまいました。妹と私ばかりが今でも生き残っています。その時の話を妹にするたびに、あの時ばかりはにいさんを心からうらめしく思ったと妹はいつでもいいます。波が高まると妹のすがたが見えなくなったその時の事を思うと、今でも私の胸は動《どう》悸《き》がして、そらおそろしい気持になります。
(一九二一年作)
碁《ご》石《いし》を飲んだ八《や》っちゃん
八《や》っちゃんが黒い石も白い石もみんなひとりで両手でとって、股《もも》の下に入れてしまおうとするから、ぼくはおこってやったんだ。
「八っちゃん、それはぼくんだよ」
といっても、八っちゃんは目ばかりくりくりさせて、ぼくの石までひったくりつづけるから、ぼくはかまわずに取りかえしてやった。そうしたら八っちゃんが生《なま》意《い》気《き》にぼくのほっぺたをひっかいた。おかあさんがいくら八っちゃんは弟だからかわいがるんだとおっしゃったって、八っちゃんがほっぺたをひっかけばぼくだってくやしいからぼくも力まかせに八っちゃんのちっぽけな鼻の所をひっかいてやった。指の先が目にさわった時には、ひっかきながらもちょっと心配だった。ひっかいたらすぐ泣《な》くだろうと思った。そうしたらいい気持だろうと思ってひっかいてやった。八っちゃんは泣かないでぼくにかかって来た。投げ出していた足を折りまげて尻《しり》を浮《う》かして、両手をひっかく形にして、だまったままでかかって来たから、ぼくはすきをねらってもう一度八っちゃんのだんご鼻の所をひっかいてやった。そうしたら八っちゃんはしばらく顔じゅうを変ちくりんにしていたが、いきなり尻《しり》をどんとついてぼくの胸《むね》の所がどきんとするような大きな声で泣きだした。
ぼくはいい気味で、もう一つ八っちゃんのほっぺたをなぐりつけておいて、八っちゃんの足もとにころげている碁《ご》石《いし》を大急ぎでひったくってやった。そうしたら部《へ》屋《や》のむこうに日なたぼっこしながら着物を縫《ぬ》っていた婆《ばあ》やが、めがねをかけた顔をこちらに向けて、上《うわ》目《め》でにらみつけながら、
「また泣かせて、にいさん悪いじゃありませんか年《とし》かさのくせに」
といったが、八っちゃんが足をばたばたやって死にそうに泣くものだから、いきなり立って来て八っちゃんを抱《だ》き上《あ》げた。婆やは八っちゃんにお乳《ちち》を飲ませているものだから、いつでも八っちゃんの加《か》勢《せい》をするんだ。そして、
「おおおおかわいそうにどこを。ほんとうに悪いにいさんですね。あらこんなに目の下をみみずばれにしてにいさん、ごめんなさいとおっしゃいまし。おっしゃらないとおかあさんにいいつけますよ。さ」
だれが八っちゃんなんかにごめんなさいするもんか。始めっていえば八っちゃんが悪いんだ。ぼくはだまったままで婆やをにらみつけてやった。
婆やはわあわあ泣く八っちゃんの背《せ》中《なか》を、抱いたまま平手でそっとたたきながら、八っちゃんをなだめたり、ぼくになんだか小《こ》言《ごと》をいい続けていたが、ぼくがどうしてもあやまってやらなかったら、とうとう、
「それじゃようござんす。八っちゃんあとで婆やがおかあさんにみんないいつけてあげますからね、もう泣くんじゃありませんよ、いい子ね。八っちゃんは婆やの御《ご》秘《ひ》蔵《ぞう》っ子。にいさんと遊ばずに婆やのそばにいらっしゃい。いやなにいさんだこと」
といってぼくが大急ぎで一かたまりに集めた碁《ご》石《いし》の所に手を出して一つかみつかもうとした。ぼくは大急ぎで両手でふたをしたけれども、婆やはかまわずにすこしばかり石を拾《ひろ》って婆やのすわっている所に持っていってしまった。
ふだんならぼくは婆やを追いかけて行って、婆やがなんといっても、それを取りかえして来るんだけれども、八っちゃんの顔にみみずばれができていると婆やのいったのが気がかりで、もしかするとおかあさんにもしかられるだろうと思うとすこしぐらい碁石は取られてもがまんする気になった。なにしろ八っちゃんよりはずっとたくさんこっちに碁石があるんだから、ぼくはいばっていいと思った。そして部《へ》屋《や》のまん中に陣《じん》どって、その石を黒と白とに分けて畳《たたみ》の上にきれいにならべ始めた。
八っちゃんは婆やのひざに抱《だ》かれながら、まだくやしそうに泣きつづけていた。婆やが乳をあてがっても飲もうとしなかった。時々思い出しては大きな声を出した。しまいにはその泣き声がすこし気になりだして、ぼくは八っちゃんとけんかしなければよかったなあと思い始めた。さっき八っちゃんがにこにこ笑《わら》いながら小さな手に碁石をいっぱいにぎって、ぼくがいらないといったのもぼくは思い出した。その小さなにぎりこぶしが目の前でひょこりひょこりと動いた。
そのうちに婆《ばあ》やが畳《たたみ》の上ににぎっていた碁《ご》石《いし》をばらりとまくと、泣きじゃくりをしていた八っちゃんは急に泣きやんで、婆やのひざからすべりおりてそれをおもちゃにし始めた。婆やはそれを見ると、
「そうそう、そうやっておとなにお遊びなさいよ。婆やは八っちゃんのおちゃんちゃんを急いで縫《ぬ》い上げますからね」
と言いながら、せっせと縫い物をはじめた。
ぼくはその時、白い石で兎《うさぎ》を、黒い石で亀《かめ》を作ろうとした。亀のほうはできたけれども、兎のほうはあんまり大きく作ったので、片《かた》方《ほう》の耳の先が足りなかった。もう十ほどあればうまくできあがるんだけれども、八っちゃんが持っていってしまったんだからしかたがない。
「八っちゃん十だけ白い石くれない?」
といおうとしてふっと八っちゃんの方に顔を向けたが、縁《えん》側《がわ》の方を向いて碁石をおもちゃにしている八っちゃんを見たら、口をきくのが変になった。今けんかしたばかりだから、ぼくから何かいい出してはいけなかった。だからしかたなしにぼくは兎をくずしてしまって、もうすこし小さく作りなおそうとした。でもそうすると亀のほうが大きくなり過ぎて、兎が居《い》眠《ねむ》りしないでも亀のほうが駆《か》けっこに勝ちそうだった。だからこまっちゃった。
ぼくはどうしても八っちゃんに足らない碁石をくれろといいたくなった。八っちゃんはまだ三つですぐわすれるから、そういったらさっきのようにまるいにぎりこぶしだけうんと手をのばしてくれるかもしれないと思った。
「八っちゃん」
といおうとしてぼくはその方を見た。
そうしたら八っちゃんは婆《ばあ》やのお尻《しり》の所で遊んでいたが真《まつ》赤《か》な顔になって、目にいっぱい涙《なみだ》をためて口を大きく開いて、手と足とをいっしょうけんめいにばたばたと動かしていた。ぼくは始め清《せい》正《しよう》公《こう》様《さま》にいるかったいの乞《こ》食《じき》がお金をねだるまねをしているのかと思った。それでもあのおしゃべりの八っちゃんが口をきかないのが変だった。おまけに見ていると、両手を口のところにもって行って、無理に口の中に入れようとしたりした。なんだかふざけているのではなく、本気の本気らしくなってきた。しまいには目を白くしたり黒くしたりして、げえげえと吐《は》きはじめた。
ぼくは気味が悪くなってきた。八っちゃんが急にこわい病気になったんだと思いだした。ぼくは大きな声で、
「婆や……婆や……八っちゃんが病気になったよう」
とどなってしまった。そうしたら婆やはすぐ自分のお尻の方をふり向いたが、八っちゃんの肩《かた》に手をかけて自分の方に向けて、急にあわてて後ろから八っちゃんを抱《だ》いて、
「あら八っちゃんどうしたんです。口をあけてごらんなさい。口をですよ。こっちを、明るい方を向いて……ああ碁《ご》石《いし》を飲んだじゃないの」
と言うと、にぎりこぶしをかためて、八っちゃんの背中を続けさまにたたきつけた。
「さあ、かーっと言ってお吐《は》きなさい……それもう一度……どうしようねえ……八っちゃん、吐くんですよう」
婆やは八っちゃんをかっきりひざの上に抱《だ》き上げてまた背中をたたいた。ぼくはいつ来たとも知らぬうちに婆やのそばに来て立ったままで八っちゃんの顔を見おろしていた。八っちゃんの顔は血が出るほど赤くなっていた。婆やはどもりながら、
「にいさんあなた、早くいって水を一ぱい……」
ぼくは皆《みな》まで聞かずに縁《えん》側《がわ》に飛び出して台所の方に駆《か》けて行った。水を飲ませさえすれば八っちゃんの病気はなおるにちがいないと思った。そうしたら婆やが後ろからまたよびかけた。
「にいさん水は……早くおかあさんの所にいって、早く来てくださいと……」
ぼくは台所に行くのをやめて、今度はいっしょうけんめいでお茶の間の方に走った。
おかあさんも障《しよう》子《じ》を明けはなして日なたぼっこをしながら静かに縫い物をしていらしった。そのそばで鉄びんのお湯がいい音《おと》をたてて煮《に》えていた。
ぼくにはそこがそんなに静かなのが変に思えた。八っちゃんの病気はもうなおっているのかもしれないと思った。けれども心の中は駆けっこをしている時みたいにどきんどきんしていて、うまく口がきけなかった。
「おかあさん……おかあさん……八っちゃんがね……こうやっているんですよ……婆やが早く来てって」
といって八っちゃんのしたとおりのまねを立ちながらして見せた。おかあさんはすこしだるそうな目をして、にこにこしながらぼくを見たが、ぼくを見ると急に二つに折れていた背中をまっすぐになさった。
「八っちゃんがどうかしたの」
ぼくはいっしょうけんめいまじめになって、
「うん」
と思いきり頭を前の方にこくりとやった。
「うん……八っちゃんがこうやって……病気になったの」
ぼくはもう一度前と同じまねをした。おかあさんはぼくを見ていて思わず笑おうとなさったが、すぐ心配そうな顔になって、大急ぎで頭にさしていた針をぬいて針《はり》さしにさして、あわてて立ち上がって、前かけの糸くずを両手ではたきながら、ぼくのあとから婆やのいる方に駆《か》けていらしった。
「婆や……どうしたの」
おかあさんはぼくをおしのけて、婆やのそばに来てこうおっしゃった。
「八っちゃんがあなた……碁《ご》石《いし》でもお飲みになったんでしょうか……」
「お飲みになったんでしょうかもないもんじゃないか」
おかあさんの声はおこった時の声だった。そしていきなり婆やからひったくるように八っちゃんを抱《だ》き取って、自分が苦しくってたまらないような顔をしながら、ばたばた手足を動かしている八っちゃんをよく見ていらしった。
「象《ぞう》牙《げ》のお箸《はし》を持ってまいりましょうか……それでのどをなでますと……」婆《ばあ》やがそう言うか言わぬに、
「とげがささったんじゃあるまいし……にいさんあなた早く行って水を持っていらっしゃい」
とぼくの方をごらんになった。婆やはそれを聞くと立ち上がったが、ぼくは婆やが八っちゃんをそんなにしたように思ったし、用はぼくがいいつかったのだから、婆やの走るのをつきぬけて台所に駆けつけた。けれども茶わんをさがしてそれに水を入れるのは婆やのほうが早かった。ぼくはくやしくなって婆やにかぶりついた。
「水はぼくが持ってくんだい。おかあさんはぼくに水を……」
「それどころじゃありませんよ」
と婆やはおこったような声を出して、ぼくがかかって行くのを茶わんを持っていないほうの手でふりはらって、八っちゃんの方にいってしまった。ぼくは婆やがあんなに力があるとは思わなかった。ぼくは、
「ぼくだいぼくだい水はぼくが持って行くんだい」
と泣きそうにおこって追っかけたけれども、婆やがそれをおかあさんの手にわたすまで婆やに追いつくことができなかった。ぼくは姿やが水をこぼさないでそれほど早く駆けられるとは思わなかった。
おかあさんは婆やから茶わんを受け取ると八っちゃんの口の所にもって行った。半分ほど襟《えり》頸《くび》に水がこぼれたけれども、それでも八っちゃんは水が飲めた。八っちゃんはむせて、苦しがって両手で胸の所を引っかくようにした。ふところの所にぼくがたたんでやった「だまかし船《ぶね》」が半分顔を出していた。ぼくは八っちゃんがほんとうにかわいそうでたまらなくなった。あんなに苦しめばきっと死ぬにちがいないと思った。死んじゃいけないけれどもきっと死ぬにちがいないと思った。
今までくやしがっていたぼくは急に悲しくなった。おかあさんの顔が真《まつ》青《さお》で、手がぶるぶるふるえて、八っちゃんの顔が真赤で、ちっとも八っちゃんの顔みたいでないのを見たら、一人《ひとり》ぼっちになってしまったようで、がまんのしようもなく涙《なみだ》が出た。
おかあさんはぼくがべそをかき始めたのに気もつかないで、夢《む》中《ちゆう》になって八っちゃんの世話をしていなさった。婆やはひざをついたなりでのぞきこむように、おかあさんと八っちゃんの顔とのくっつき合っているのを見おろしていた。
そのうちに八っちゃんが胸にあてがっていた手を放しておどろいたような顔をしたと思ったら、いきなりいつものとおりな大きな声を出してわーっと泣きだした。おかあさんは夢《む》中《ちゆう》になって八っちゃんをだきすくめた。婆やはせきこんで、
「通りましたね、まあよかったこと」
といった。きっと碁石がお腹《なか》の中にはいってしまったのだろう。おかあさんもすこし安心なさったようだった。ぼくは泣きながらも、おかあさんを見たら、その目に涙《なみだ》がいっぱいたまっていた。
その時になっておかあさんは急に思い出したように、婆やにお医者さんに駆《か》けつけるようにとおっしゃった。婆やはぴょこぴょこと幾《いく》度《ど》も頭を下げて前だれで顔をふきふき立って行った。
泣きわめいている八っちゃんをあやしながら、おかあさんはきつい目をして、ぼくに早く碁《ご》石《いし》をしまえとおっしゃった。ぼくはしかられたような、悪いことをしていたような気がして、大急ぎで碁石を白も黒もかまわず入れ物にしまってしまった。
八っちゃんは寝《ね》床《どこ》の上にねかされた。どこもいたくはないとみえて、泣くのをよそうとしては、また急に何か思い出したようにわーっと泣きだした。そして、
「さあもういいのよ八っちゃん。どこもいたくはありませんわ。弱いことそんなに泣いちゃあ。かあちゃんがおさすりしてあげますからね、泣くんじゃないの。……あのにいさん」
といってぼくを見なすったが、ぼくがしくしく泣いているのに気がつくと、
「まあにいさんも弱虫ね」
といいながらおかあさんも泣きだしなさった。それだのに泣くのをぼくにかくして泣かないようなふうをなさるんだ。
「にいさん泣いてなんぞいないで、お座《ざ》ぶとんをここに一つ持って来てちょうだい」
とおっしゃった。ぼくはおかあさんが泣くので、泣くのをかくすので、なお八っちゃんが死ぬんではないかと心配になっておかあさんのおっしゃるとおりにしたら、ひょっとして八っちゃんが助かるんではないかと思って、すぐ座ぶとんを取りに行ってきた。
お医者さんは、白いひげのほうではない、金《きん》縁《ぶち》のめがねをかけたほうのだった。そのわかいお医者さんが八っちゃんのお腹をさすったり、手くびをにぎったりしながら、心配そうな顔をしておかあさんと小さな声でお話をしていた。お医者の帰った時には、八っちゃんは泣きづかれにつかれてよく寝《ね》てしまった。
おかあさんはそのそばにじっとすわっていた。八っちゃんは時々こわい夢《ゆめ》でも見るとみえて急に泣きだしたりした。
その晩はぼくは婆《ばあ》やと寝た。そしておかあさんは八っちゃんのそばに寝なさった。婆やが時々起きて八っちゃんの方に行くので、せっかくねむりかけたぼくは幾《いく》度《ど》も目をさました。八っちゃんがどんなになったかと思うと、ぼくはほんとうにさびしく悲しかった。
時《と》計《けい》が九つ打ってもぼくは寝られなかった。寝られないなあと思っているうちに、ふっと気がついたらもう朝になっていた。いつのまに寝てしまったんだろう。
「にいさん目がさめて」
そういうやさしい声がぼくの耳もとでした。おかあさんの声を聞くとぼくのからだはあたたかになる。ぼくは目をぱっちり開いてうれしくって、思わず寝がえりをうって声のする方に向いた。そこにおかあさんがちゃんと着がえをして、頭をきれいに結《ゆ》って、にこにことしてぼくを見つめていらっしった。
「およろこび、八っちゃんがね、すっかりよくなってよ。夜《よ》中《なか》にお通じがあったから碁石が出て来たのよ。……でもほんとうにこわいから、これからにいさんも碁《ご》石《いし》だけはおもちゃにしないでちょうだいね。にいさん……八っちゃんが悪かった時、にいさんは泣いていたのね。もう泣かないでもいいことになったのよ。今日《きよう》こそあなたがたにいちばんすきなお菓《か》子《し》をあげましょうね。さ、お起き」
と言ってぼくの両《りよう》脇《わき》に手を入れて、抱《だ》き起こそうとなさった。ぼくはくすぐったくてたまらないから、大きな声を出してあははあははと笑った。
「八っちゃんが目をさましますよ、そんな大きな声をすると」
と言っておかあさんはちょっとまじめな顔をなさったが、すぐあとからにこにこしてぼくの寝《ね》巻《ま》きを着かえさせてくださった。
ぼくの帽《ぼう》子《し》のお話
「ぼくの帽子はおとうさんが東京から買って来てくださったのです。ねだんは二円八十銭で、かっこうもいいし、らしゃも上等です。おとうさんがたいせつにしなければいけないとおっしゃいました、ぼくもその帽子がすきだからたいせつにしています。夜《よる》は寝《ね》る時にも手に持って寝ます」
つづり方の時にこういう作文を出したら、先生がみんなにそれを読んで聞かせて、「寝る時にも手に持って寝ます。寝る時にも手に持って寝ます」と二度そのところをくり返してわはははとお笑《わら》いになりました。みんなも、先生が大きな口をあいてお笑いになるのを見ると、いっしょになって笑いました。ぼくもおかしくなって笑いました。そうしたらみんながなおのこと笑いました。
そのたいせつな帽子がなくなってしまったのですからぼくはほんとうにこまりました。いつものとおり「ごきげんよう」をして、本の包みをまくらもとにおいて、帽子のぴかぴか光るひさしをつまんで寝たことだけはちゃんと覚えているのですが、それがどこへか見えなくなったのです。
目をさましたら本の包みはちゃんとまくらもとにありましたけれども、帽《ぼう》子《し》はありませんでした。ぼくはおどろいて、半分寝《ね》床《どこ》から起き上がって、あっちこっちを見回しました。おとうさんもおかあさんも、なんにも知らないように、ぼくのそばでよく寝《ね》ていらっしゃいます。ぼくはおかあさんを起こそうかとちょっと思いましたが、おかあさんが「おまえさんお寝ぼけね、ここにちゃんとあるじゃありませんか」といいながら、わけなく見つけだしでもなさると、すこしはずかしいと思って、起こすのをやめて、かいまきの袖《そで》をまくり上げたり、まくらの近所をさがしてみたりしたけれども、やっぱりありません。よくさがしてみたらすぐ出てくるだろうと初めのうちは思って、それほど心配はしなかったけれども、いくらそこいらをさがしても、どうしても出て来《こ》ようとはしないので、だんだん心配になってきて、しまいにはのどが干《ひ》からびるほど心配になってしまいました。寝《ね》床《どこ》のすその方もまくってみました。もしや手に持ったままで帽子のありかをさがしているのではないかと思って、両手を目の前につき出して、手のひらと手の甲と、指の間とをよく調べてもみました。ありません。ぼくは胸《むね》がどきどきしてきました。
昨日《きのう》買っていただいた読《とく》本《ほん》の字引きがいちばんたいせつで、その次にたいせつなのは帽子なんだから、ぼくは悲しくなりだしました。涙《なみだ》が目にいっぱいたまってきました。ぼくは「泣《な》いたってだめだよ」と涙をしかりつけながら、そっと寝床をぬけ出して本だなの所に行って、上から下までよく見ましたけれども、帽子らしいものは見えません。ぼくはほんとうにこまってしまいました。
「帽《ぼう》子《し》を持って寝たのは一昨日《おととい》の晩で、昨夜《ゆうべ》はひょっとするとそうするのをわすれたのかもしれない」とふとその時思いました。そう思うと、持って寝たようでもあり、持つのをわすれて寝たようでもあります。「きっとわすれたんだ。そんなら中《なか》の口《くち》におきわすれてあるんだ。そうだ」ぼくは飛び上がるほどうれしくなりました。中の口の帽子かけにひさしのぴかぴか光った帽子が、知らん顔をしてぶらさがっているんだ。なんのこったと思うと、ぼくはひとりでにおもしろくなって、ふすまをがらっと勢《いきお》いよくあけましたが、その音におとうさんやおかあさんが目をおさましになると大変だと思って、後ろをふり返って見ました。物音にすぐ目のさめるおかあさんも、その時にはよく寝《ね》ていらっしゃいました。ぼくはそうっとふすまをしめて、中の口の方に行きました。いつでもそこの電《でん》燈《とう》は消してあるはずなのに、その晩ばかりは昼のように明るくなっていました。なんでもよく見えました。中の口の帽子かけには、おとうさんの帽子のとなりに、ぼくの帽子がいばりくさってかかっているにちがいないとは思いましたが、なんだかやはり心配で、ぼくはそこに行くまで、なるべくそっちの方を向きませんでした。そしてしっかりその前に来てから、「ばあ」をするように、急に上を向いて見ました。おとうさんの茶色の帽子だけが、知らん顔をしてかかっていました。あるにちがいないと思っていたぼくの帽子はやはりそこにもありませんでした。ぼくはせかせかした気持になって、あっちこっちを見回しました。
そうしたら中の口の格《こう》子《し》戸《ど》に黒いものがはさまっているのを見つけ出しました。電燈の光でよく見ると、おどろいたことにはそれがぼくの帽子らしいのです。ぼくは夢《む》中《ちゆう》になって、そこにあったぞうりをひっかけて飛び出しました。そして格子戸をあけて、ひしゃげた帽子を拾《ひろ》おうとしたら、不思議にも格子戸がひとりでに音もなく開いて、帽子がひょいと往《おう》来《らい》の方へころがりだしました。格子戸のむこうには雨《あま》戸《ど》がしまっているはずなのに、今夜に限ってそれも開いていました。けれどもぼくはそんなことを考えてはいられませんでした。帽子がどこかに見えなくならないうちにと思って、あわててぼくも格子戸のあきまから駆《か》け出しました。見ると帽子は投げられた円《えん》盤《ばん》のように二、三間《げん》先をくるくるとまわって行きます。風もふいていないのに不思議なことでした。ぼくはなにしろいっしょうけんめいに駆《か》け出して帽子に追いつきました。まあよかったと安心しながら、それを拾《ひろ》おうとすると、帽子はじょうずにぼくの手からぬけ出して、ころころと二、三間先にころがって行くではありませんか。ぼくは大急ぎで立ち上がってまたあとを追いかけました。そんなふうにして、帽子はぼくにつかまりそうになると、二間《けん》ころがり、三間《げん》ころがりして、どこまでもぼくからにげのびました。
四つかどの、学校の道具を売っているおばさんの所まで来ると帽子のやつ、そこに立ち止まって、独《こ》楽《ま》のように三、四へん横まわりをしたかと思うと、調子をつけるつもりかちょっと飛び上がって、地面に落ちるや否《いな》や学校の方を向いておどろくほど早く走りはじめました。見る見る歯《は》医《い》者《しや》の家の前を通り過ぎて、しじゅうぼくたちをからかう小《こ》僧《ぞう》のいる酒屋の天《てん》水《すい》おけに飛び乗って、そこでまたきりきり舞《まい》をしておけのむこうに落ちたと思うと、今度ははすむこうの三《さん》軒《げん》長《なが》屋《や》の格《こう》子《し》窓《まど》の中ほどの所を、風にふきつけられたようにかすめて通って、それからまた往《おう》来《らい》の上を人通りがないのでいい気になって走ります。ぼくも帽《ぼう》子《し》の走るとおりを、右に行ったり左に行ったりしながら追いかけました。夜のことだからそこいらは気味の悪いほど暗いのだけれども、帽子だけははっきりとしていて、記章までちゃんと見えていました。それだのに帽子はどうしてもつかまりません。始めのうちはおもしろくも思いましたが、そのうちにくやしくなり、腹《はら》がたち、しまいには情けなくなって、泣《な》きだしそうになりました。それでもぼくはがまんしていました。そして、
「おおい、待ってくれえ」
と声を出してしまいました。人間のことばが帽子にわかるはずはないとおもいながらも、声を出さずにいられなくなってしまったのです。そうしたら、どうでしょう、帽子が――その時にはもう学校の正門の所まで来ていましたが――急に立ち止まってこっちをふり向いて、
「やあい、追いつかれるものなら、追いついてみろ」
といいました。確かに帽子がそういったのです。それを聞くと、ぼくは「なにくそ」と負けない気が出て、いきなりその帽子に飛びつこうとしましたら、帽子もぼくもいっしょになって学校の正門の鉄のとびらをなんの苦もなくつきぬけていました。
あっと思うとぼくは梅《うめ》組《ぐみ》の教室の中にいました。ぼくの組は松《まつ》組《ぐみ》なのに、どうして梅組にはいりこんだかわかりません。飯《いい》本《もと》先生が一銭銅貨を一枚《まい》皆に見せていらっしゃいました。
「これを何枚飲むとお腹のいたみがなおりますか」
とお聞きになりました。
「一枚飲むとなおります」
とすぐ答えたのはあばれ坊《ぼう》主《ず》の栗《くり》原《はら》です。先生が頭をふられました。
「二枚です」と今度はおとなしい伊《い》藤《とう》が手を上げながらいいました。
「よろしい、そのとおり」
ぼくは伊藤はやはりよくできるのだなと感心しました。
おや、ぼくの帽子はどうしたろうと、今まで先生の手にある銅貨にばかり気を取られていたほくは、不意に気がつくと、大急ぎでそこらを見回しました。どこで見失ったか、そこいらに帽子はいませんでした。
ぼくはあわてて教室を飛び出しました。広い野原に来ていました。どっちを見ても短い草ばかりはえた広い野です。真《まつ》暗《くら》に曇《くも》った空にぼくの帽子が黒い月のように高くぶらさがっています。とても手も何も届きはしません。飛行機に乗って追いかけてもそこまでは行けそうにありません。ぼくは声も出なくなってうらめしくそれを見つめながらじだんだをふむばかりでした。けれども、いくらじだんだをふんでにらみつけても、帽子のほうは平気な顔をして、そっぽを向いているばかりです。こっちから何かいいかけても返事もしてやらないぞというようないじわるな顔をしています。おとうさんに、帽《ぼう》子《し》がにげ出して天に登って真《まつ》黒《くろ》なお月様になりましたといったところが、とても信じてくださりそうではありませんし、明日からは、帽子なしで学校にも通《かよ》わなければならないのです。こんなばかげたことがあるものでしょうか。あれほど大事にかわいがってやっていたのに、帽子はどうしてぼくをこんなにこまらせなければいられないのでしょう。ぼくはなおなおくやしくなりました。そうしたら、また涙《なみだ》というやっかいものが両方の目からぽたぽたと流れ出してきました。
野原はだんだん暗くなっていきます。どちらを見ても人《ひと》っ子《こ》一《ひと》人《り》いませんし、人の家《うち》らしい灯《ひ》の光も見えません。どういうふうにして家に帰れるのか、それさえわからなくなってしまいました。今までそれは考えてはいないことでした。ひょっとしたら狸《たぬき》が帽子に化《ば》けてぼくをいじめるのではないかしら。狸が化けるなんて、大うそだと思っていたのですが、その時ばかりはどうもそうらしい気がしてしかたがなくなりはじめました。帽子を売っていた東京の店が狸の巣《す》で、おとうさんが化かされていたんだ。狸がぼくを山の中に連れこんで行くために第一におとうさんを化かしたんだ。そういえばあの帽子はあんまりぼくの気にいるようにできていました。ぼくはだんだん気味が悪くなってそっと帽子を見上げてみました。そうしたら真《まつ》黒《くろ》なお月様のような帽子が小さくまるまった狸のようにも見えました。そうかと思うとやはりぼくのだいじな帽子でした。
その時遠くの方でぼくの名まえをよぶ声が聞こえはじめました。泣くような声もしました。いよいよ狸の親《おや》方《かた》が来たのかなと思うと、ぼくはおそろしさに背《せ》骨《ぼね》がぎゅっとちぢみ上がりました。
ふとぼくの目の前にぼくのおとうさんとおかあさんとが寝《ね》巻《ま》きのままで、目を泣きはらしながら、大さわぎをしてぼくの名をよびながらさがしものをしていらっしゃいます。それを見るとぼくは悲しさとうれしさとがいっしょになって、いきなり飛びつこうとしましたが、やはりおとうさんもおかあさんも狸の化けたのではないかと、ふと気がつくと、なんだかうす気味が悪くなって飛びつくのをやめました。そしてよく二人《ふたり》を見ていました。
おとうさんもおかあさんもぼくがついそばにいるのにすこしも気がつかないらしく、おかあさんはぼくの名をよびつづけながら、たんすの引き出しをいっしょうけんめいにたずねていらっしゃるし、おとうさんは涙《なみだ》で曇《くも》るめがねをふきながら、本だなの本を片っぱしから取出して見ていらっしゃいます。そうです、そこには家《うち》にあるとおりの本だなとたんすとが来ていたのです。ぼくはいくらそんな所をさがしたってぼくはいるものかと思いながら、しばらくは見つけられないのをいい事にしてだまって見ていました。
「どうもあれがこの本の中にいないはずはないのだがな」
とやがておとうさんがおかあさんにおっしゃいます。
「いいえ、そんな所にはいません。またこのたんすの引き出しにかくれたなりで、いつのまにか寝《ね》こんだにちがいありません。月の光が暗いのでちっとも見つかりはしない」
とおかあさんはいらいらするように泣きながらおとうさんに返事をしていられます。
やはりそれはほんとうのおとうさんやおかあさんでした。それにちがいありませんでした。あんなにぼくのことを思ってくれるおとうさんやおかあさんがほかにあるはずはないのですもの。ぼくは急に勇気が出てきて顔じゅうがにこにこ笑いになりかけてきました。「わっ」といって二人をおどろかしてあげようと思って、いきなり大きな声を出して二人の方に走り寄りました。ところがどうしたことでしょう。ぼくのからだは学校の鉄のとびらをなんの苦もなく通りぬけたように、おとうさんとおかあさんとを空気のように通りぬけてしまいました。ぼくはおどろいてふり返って見ました。おとうさんとおかあさんとは、そんなことがあったのはすこしも知らないように相変わらず本だなとたんすをいじっていらっしゃいました。ぼくはもう一度二人の方に進み寄って、二人に手をかけてみました。そうしたら、二人ばかりではなく、本だなまでもたんすまでも空気と同じようにさわることができません。それを知ってか知らないでか、二人は前のとおりいっしょうけんめいに、泣きながら、しきりとぼくの名をよんでぼくをさがしていらっしゃいます。ぼくも声を立てました。だんだん大きく声を立てました。
「おとうさん、おかあさん、ぼくここにいるんですよ。おとうさん、おかあさん」
けれどもだめでした。おとうさんもおかあさんも、ぼくのそこにいることはすこしも気づかないで、夢《む》中《ちゆう》になってぼくのいもしない所をさがしていらっしゃるんです。ぼくは情《なさ》けなくなってほんとうにおいおい声を出して泣いてやろうかと思うくらいでした。
そうしたら、ぼくの心にえらい知《ち》恵《え》がわいてきました。あの狸《たぬき》帽《ぼう》子《し》が天の所でいたずらをしているので、おとうさんやおかあさんはぼくのいるのがおわかりにならないんだ。そうだ、あの帽子に化けている狸おやじを征《せい》伐《ばつ》するよりほかはない。そう思いました。で、ぼくは空中にぶらさがっている帽子を目がけて飛びついて、それをいじめて白《はく》状《じよう》させてやろうと思いました。ぼくは高飛びの身構えをしました。
「レデー・オン・ゼ・マーク……ゲッセット……ゴー」
力いっぱいはね上がったと思うと、ぼくのからだはどこまでもどこまでも上の方へと登《のぼ》って行きます。おもしろいように登って行きます。とうとう帽《ぼう》子《し》の所に来ました。ぼくは力《りき》みかえって帽子をうんとつかみました。帽子が「いたい」といいました。その拍《ひよう》子《し》に帽子が天のくぎからはずれでもしたのか帽子をつかんだまま、まっさかさまに下の方へと落ちはじめました。どこまでもどこまでも。もう草原に足がつきそうだと思うのに、そんなこともなく、際《さい》限《げん》もなく落ちて行きました。だんだんそこいらが明るくなり、かみなりが鳴り、しまいには目もあけていられないほど、まぶしい火の海の中にはいりこんで行こうとするのです。そこまで落ちたら焼け死ぬほかはありません。帽子が大きな声を立てて、
「助けてくれえ」
とどなりました。ぼくはおそろしくてただうなりました。
ぼくはだれかに身をゆすぶられました。びっくりして目をあいたら夢《ゆめ》でした。
雨戸を半分あけかけたおかあさんが、ぼくのそばに来ていらっしゃいました。
「あなた、どうかおしかえ、たいへんにうなされて……お寝《ね》ぼけさんね、もう学校に行く時間が来ますよ」
とおっしゃいました。そんなことはどうでもいい。ぼくはいきなりまくらもとを見ました。そうしたらぼくはやはり後《ご》生《しよう》大《だい》事《じ》にひさしのぴかぴか光る二円八十銭の帽子を右手でにぎっていました。
ぼくはずいぶんうれしくなって、それからにこにことおかあさんの顔を見て笑いました。
かたわ者
昔《むかし》トゥロンというフランスのある町に、二人《ふたり》のかたわ者がいました。一人《ひとり》はめくらで一人はちんばでした。この町はなかなか大きな町で、ずいぶんたくさんのかたわ者がいましたけれども、この二人のかたわ者だけは特別に人の目をひきました。なぜだというと、ほかのかたわ者は自分の不《ふ》運《うん》をなげいてなんとかしてなおりたいなおりたいと思い、人に見られるのをはずかしがって、あまり人目に立つような所にはすがたを現わしませんでしたが、その二人のかたわ者だけは、ことさら人の集まるような所にはきっとでしゃばるので、かたわ者といえば、この二人だけがかたわ者であるように人々は思うのでした。
いったいをいうと、トゥロンという町にはかたわ者といっては一人もいないはずなのです。その理由は、この町の守り本《ほん》尊《ぞん》に聖《サン》マルティンというえらい聖者の木《もく》像《ぞう》があって、それに願《がん》をかけると、どんな病気でもかたわでもすぐなおってしまうからでした。ところが私の今お話しするさわぎが起こった年から五十年ほど前に、町のおもだった人々が、その聖者の尊《そん》像《ぞう》をないしょで町から持ち出して、五、六里《り》もはなれた所にある高い山の中にかくまってしまったのです。なぜそんなことをしたかというと、ヨーロッパの北の方からおびただしい海《かい》賊《ぞく》がやって来て、フランスのどここことなくあばれまわり、手あたりしだいに金《きん》銀《ぎん》財《ざい》宝《ほう》をうばって行ってしまうので、もし聖者の尊《そん》像《ぞう》でもぬすまれるようなことがあったら、もったいないばかりか、町の名《な》折《お》れになるというので、だれも登《のぼ》ることのできないような険《けわ》しい山のてっぺんにお移ししてしまったのです。
それからというもの、このトゥロンの町もかたわ者ができるようになったのです。で、さっき私がお話しした二人のかたわ者、すなわち一人のめくらと一人のちんばとは、自分たちが不幸な人間だということを悲しんで、人間なみになりたいと遠くからでも聖者に願《がん》かけをしたらよさそうなものを、そうはしないで、自分がかたわ者に生まれついたのをいいことにして、人の情けで遊んで飯《めし》を食おうという心を起こしました。
めくらの名まえをかりにジャンといい、ちんばの名まえをピエールといっておきましょう。このジャンとピエールとは初めの間は市《いち》場《ば》などに行って、あわれな声を出して自分のかたわを売りものにして一銭《せん》二銭の合《ごう》力《りき》を願っていましたが、人々があわれがって親切をするのをいい事にしてだんだん増《ぞう》長《ちよう》しました。そしてめくらのジャンのほうはト占《うらない》者《しや》になり、ちんばのピエールのほうは巡《じゆん》礼《れい》になりました。
ジャンはト占《うらない》者《しや》にふさわしいようなものものしい学者めいた服《ふく》装《そう》をし、目《め》明《あ》きには見えないものが見え、目明きには考えられないものが考えられるとふれて回って、聖《サン》マルティンのおるすをあずかる予《よ》言《げん》者《しや》だと自分からいいだしました。さらぬだに守り本《ほん》尊《ぞん》が町にないので心細く思っていた人々は、始めのうちこそジャンの広《こう》言《げん》をばかにしていましたが、そのいう事が一つ二つあたったりしてみると、なんだかたよりにしたい気持になって、しだいしだいに信者がふえ、ジャンはしまいにはたいそうな金持ちになって、町じゅう第一とも見えるような御《ご》殿《てん》を建ててそれに住まい、ぜいたくざんまいなくらしをするようになりましたが、その御殿もその中のいろいろなたから物も、聖《サン》マルティンの尊《そん》像《ぞう》がお山からお下りになったら、一まとめにして献《けん》上《じよう》するのだといっていたものですから、だれもジャンのぜいたくざんまいをとがめ立てする人はありませんでした。そしてジャンはいつのまにか金《かね》の力で町のおもだった人を自分の手《て》下《した》のようにしてしまい、おそろしくえらい人間だということになってしまいました。そうなるとお金はひとりでのようにジャンのふところを目がけて集まって来ました。
ピエールはピエールで、ちがったしかたで金をためにかかりました。ピエールはジャンのようにえらいものらしくいばることをしないで、どこまでも正直でかわいそうなかたわ者らしく見せかけました。「私にはジャンのような神様から授《さず》かった不思議な力などはありません。あたりまえなけちな人間で、しかもいろいろな罪《つみ》を犯《おか》しているのだから、神様がかたわになさったのも無理はありません。だから私は自分の罪ほろぼしに、何か自分を苦しめるようなことをして神様のおいかりをなだめなければなりません。この心持ちをあわれと思ってください」などと口ぐせのようにいいました。そこでピエールの仕事というのは大きなふくろを作って、それに町の人々が奉《ほう》納《のう》するお金や品物を入れて、ちんばを引き引き聖《サン》マルティンの尊《そん》像《ぞう》の安置してある険《けわ》しい山に登《のぼ》ることでした。足の達《たつ》者《しや》な人でも登れないような所に、このかたわ者が命がけで登るというのですから、中には変だと思う人もありましたが、そういう人にはピエールはいつでも悲しげな顔をしてこう答えました。
「お疑《うたが》いはごもっともです。けれどもいつか私の一心がどれほど強かったかを皆様はごらんくださるでしょう。海《かい》賊《ぞく》がせめこんで来なくなるような時代が来て聖《サン》マルティン様が山からお下りになる時になったら、おむかいに行った人たちは、尊《そん》像《ぞう》がどこにあるか知れないほど、町のかたがたの奉《ほう》納《のう》品《ひん》が尊像のまわりに積み上げてあるのを見ておどろきになるのでしょうから」
そのことばつきがいかにもたくみなので、しまいにはそれを疑う人がなくなって、ピエールがお山に登る時が来たということになると、だれかれとなくいろいろめずらしいものや金《かね》めのかかるものをピエールのふくろの中に入れてやりました。
ピエールは山のふもとまでは行きましたが、ほんとうは一度も山に登ったことはありません。人々の奉納したものはみんな自分がぬすんでしまって、知れないように思うままなぜいたくをしてくらしていました。
トゥロンにはたくさんのかたわ者ができた中にも、二人のえらいかたわ者がいる。一人は神様の心を知る予《よ》言《げん》者《しや》、一人は神様の忠義なしもべ、さすがにトゥロンは聖《サン》マルティンを守り本《ほん》尊《ぞん》とあおぐ町だけあると、他の町々までうわさされるようになりました。
そうやっているうちに、海賊どもは商売がうまくいかないためか、だんだんと人数が減《へ》っていって、めったにフランスまではせめ入って来なくなり、おかげでフランスの町々はまくらを高くして寝《ね》ることができるようになりました。
ここでトゥロンでも年寄った人々がよりより相談して、長い間山の中にかくまっておいた尊《そん》像《ぞう》を町におむかえしようという事に決まりました。それにしてもその事がうっかり海《かい》賊《ぞく》のほうにでも聞こえれば、どんなさまたげをしないものでもないし、また一つにはいきなり町におむかえして不幸な人々に不意な喜びをさせようというので、二十人ほどの人がそっと夜中に山に登ることになりました。
そうとは知らないジャンとピエールは、かたわを売りものにしたばかりで、しこたまたくわえこんだお金を、湯《ゆ》水《みず》のように使ってぜいたくざんまいをしていましたが、尊像が山からお下りになるその日も、朝からジャンの御《ご》殿《てん》のおくに陣《じん》取《ど》って、酒を飲んだり、おいしい物を食べたりして、思うままのことをしゃべり散らしていました。
ジャンがいうには、
「こうしていればかたわも重《ちよう》宝《ほう》なものだ。世の中のやつらは知《ち》恵《え》がないからかたわになるとしょげこんでしまって、丈《じよう》夫《ぶ》な人間、あたりまえな人間になりたがっているが、おれたちはそんなばかはできないなあ」
ピエールのいうには、
「丈夫な人間、あたりまえの人間のしていることを見ろ。汗《あせ》水《みず》たらして一日働いても、今日今日をやっと過ごしているだけだが、おれたちはかたわなばかりで、なんにもしないで遊びながら、町の人たちがつくり上げたお金をかたっぱしからまき上げることができる。どうか死ぬまでちんばでいたいものだ」
「おれも人なみに目が見えるようになっちゃ大変だ。人なみになったらおれにも何一つ仕事という仕事はできないのだから、その日から乞《こ》食《じき》になるよりほかはない。もう乞食のくらしはこりごりだ」
とジャンは相づちをうちました。
ところが戸《そ》外《と》が急ににぎやかになって、町の中を狂《きよう》気《き》のように馳《は》せちがう人馬の足音が聞こえだしたと思うと、寺々のかねが勢いよく鳴りはじめました。町の人々は大きな声で賛《さん》美《び》の歌をうたいはじめました。ジャンとピエールは朝から何がはじまったのかと思って、まどをあけて往《おう》来《らい》を見ると、年寄りも子どもも男も女も皆《みな》戸《そ》外《と》に飛び出して、町の門の方を見やりながら物待ち顔に、口々にさけんでいます。よく聞いてみると聖《サン》マルティンの尊《そん》像《ぞう》がやがて山から町におはいりになるといっているのです。
それを聞いた二人は胆《きも》がつぶれんばかりにおどろいてしまいました。
「奉《ほう》納《のう》したものが山の上に積んであると、おれのいいふらしたうそはすっかり知れてしまった。おれはもう町の人たちに殺されるにきまっている」
とピエールが頭の毛をむしると、
「おれのこの御殿もたからも今日《きよう》から聖《サン》マルティンのものになってしまうのだ。おれの財《ざい》産《さん》は今日からなんにもなくなるのだ。聖《サン》マルティンのちくしょうめ」
とジャンはジャンで見えない目からくやし涙《なみだ》を流します。
「でもおれは命まで取られそうなのだ」
とピエールがいうと、
「命を取られるのは、まだ一思いでいい。おれは一《いち》文《もん》なしになって、皆にばかにされて、うえ死にをしなければならないんだ。五分切《ぎ》り、一《いつ》寸《すん》だめしも同様だ。ああこまったなあ、おまけに聖《サン》マルティンが町にはいれば、おれのかたわはなおるかもしれないのだ。かたわがなおっちゃ大変だ。おいピエール、おれを早くほかの町に連れ出してくれ」
とジャンはせかせかとピエールの方に手さぐりで近づきました。
町の中はまるで祭日の晩のようににぎやかになり増さってゆくばかりです。
「といって、おれはちんばだからとても早くは歩けない……ああこまったなあ。どうかいつまでもかたわでいたいものだがなあ。じゃあジャン、おまえは私をおぶってくれ。おまえはおれの足になってくれ、おれはおまえの目になるから」
ピエールはこういいながらジャンにいきなりおぶさりました。そしてジャンにさしずをすると、ジャンはあぶない足どりながらピエールを背《せ》負《お》っていっさんに駆《か》け出しました。
「ハレルーヤ ハレルーヤ ハレルーヤ」
という声がどよめきわたって聞こえます。
ジャンとピエールとを除《のぞ》いた町じゅうの病人やかたわ者は人間なみになれるよろこびの日が来たので、有《う》頂《ちよう》天《てん》になって、聖《サン》マルティンのお着きを待ちうけています。
その間をジャンとピエールは人波にゆられながらにげようとしました。
そのうちにどうでしょう。ジャンの目はすこしずつあかるくなって、綾《あや》目《め》が見えるようになってきました。あれとおどろくまもなくその背《せ》中《なか》でさしずをしていたピエールはいきなりジャンの背中から飛びおりるなり、足早にすたこらと門の反対の方に歩きだしました。
ジャンはそれを見るとおどろいて、
「やいピエール、おまえの足はどうしたんだ」
といいますと、ピエールも始めて気がついたようにおどろいて、ジャンを見かえりながら、
「といえばおまえは目が見えるようになったのか」
と不思議がります。二人は思わずかたずをのんでたがいの顔を見かわしました。
「大変だ」
と二人はいっしょにさけびました。たくさんの人々にとりかこまれた古い聖《サン》マルティンの尊《そん》像《ぞう》がしずしずと近づいて来ていたのです。その御《ご》利《り》益《やく》で二人の病気はもうなおり始めていたのです。
二人のかたわ者はかたわがなおりかけたと気がつくと、ぺたんと地びたに尻《しり》もちをついてしまいました。そして二人は、
「とんでもないことになったなあ」
「情けないことになったなあ」
といい合いながら、一人は目をこすりながら、一人は足をさすりながら、おいおいといって泣きだしました。
火事とポチ
ポチの鳴き声でぼくは目がさめた。
ねむたくてたまらなかったから、うるさいなとその鳴き声をおこっているまもなく、真《まつ》赤《か》な火が目に映《うつ》ったので、おどろいて両方の目をしっかり開いて見たら、戸《と》だなの中じゅうが火になっているので、二度おどろいて飛び起きた。そうしたらぼくのそばに寝《ね》ているはずのおばあさまが何か黒い布《きれ》のようなもので、夢《む》中《ちゆう》になって戸だなの火をたたいていた。なんだか知れないけれどもぼくはおばあさまの様《よう》子《す》がこっけいにも見え、おそろしくも見えて、思わずその方に駆《か》けよった。そうしたらおばあさまはだまったままでうるさそうにぼくをはらいのけておいてその布のようなものをめったやたらにふり回した。それがぼくの手にさわったらぐしょぐしょにぬれているのが知れた。
「おばあさま、どうしたの?」
と聞いてみた。おばあさまは戸だなの中の火の方ばかり見て答えようともしない。ぼくは火事じゃないかと思った。
ポチが戸の外で気ちがいのように鳴いている。
部《へ》屋《や》の中は、障《しよう》子《じ》も、壁《かべ》も、床《とこ》の間《ま》も、ちがいだなも、昼間のように明るくなっていた。おばあさまの影《かげ》法《ぼう》師《し》が大きくそれに映《うつ》って、怪《ばけ》物《もの》か何かのように動いていた。ただおばあさまがぼくに一《ひと》言《こと》も物をいわないのが変だった。急に唖《おし》になったのだろうか。そしていつものようにはかわいがってくれずに、ぼくが近寄ってもじゃま者あつかいにする。
これはどうしても大変だとぼくは思った。ぼくは夢中になっておばあさまにかじりつこうとした。そうしたらあんなに弱いおばあさまがだまったままで、いやというほどぼくをはらいのけたのでぼくはふすまのところまでけし飛ばされた。
火事なんだ。おばあさまが一人《ひとり》で消そうとしているんだ。それがわかるとおばあさま一人ではだめだと思ったから、ぼくはすぐ部屋を飛び出して、おとうさんとおかあさんとが寝《ね》ている離《はな》れの所へ行って、
「おとうさん……おかあさん……」
と思いきり大きな声を出した。
ぼくの部屋の外で鳴いていると思ったポチがいつのまにかそこに来ていて、きゃんきゃんとひどく鳴いていた。ぼくが大きな声を出すか出さないかに、おかあさんが寝《ね》巻《ま》きのままで飛び出して来た。
「どうしたというの?」
とおかあさんはないしょ話のような小さな声で、ぼくの両《りよう》肩《かた》をしっかりおさえてぼくに聞いた。
「たいへんなの……」
「たいへんなの、ぼくの部屋が火事になったよう」といおうとしたが、どうしても「大変なの」きりであとは声が出なかった。
おかあさんの手はふるえていた。その手がぼくの手を引いて、ぼくの部屋の方に行ったが、あけっぱなしになっているふすまの所から火が見えたら、おかあさんはいきなり「あれえ」といって、ぼくの手をふりはなすなり、その部屋に飛びこもうとした。ぼくはがむしゃらにおかあさんにかじりついた。その時おかあさんははじめてそこにぼくのいるのに気がついたように、うつ向いてぼくの耳の所に口をつけて、
「早く早くおとうさんをお起こしして……それからお隣《となり》に行って、……お隣のおじさんを起こすんです、火事ですって……いいかい、早くさ」
そんなことをおかあさんはいったようだった。
そこにおとうさんも走って来た。ぼくはおとうさんにはなんにもいわないで、すぐ上がり口に行った。そこは真《まつ》暗《くら》だった。はだしで土《ど》間《ま》に飛びおりて、かけがねをはずして戸をあけることができた。すぐ飛び出そうとしたけれども、はだしだと足をけがしておそろしい病気になるとおかあさんから聞いていたから、暗やみの中で手さぐりにさぐったら大きなぞうりがあったから、だれのだか知らないけれどもそれをはいて戸《そ》外《と》に飛び出した。戸《そ》外《と》も真暗で寒かった。ふだんなら気味が悪くって、とても夜《よ》中《なか》にひとりで歩くことなんかできないのだけれども、その晩だけはなんともなかった。ただ何かにつまずいてころびそうなので、思いきり足を高く上げながら走った。ぼくを悪《わる》者《もの》とでも思ったのか、いきなりポチが走って来て、ほえながら飛びつこうとしたが、すぐぼくだと知れると、ぼくの前になったりあとになったりして、門の所まで追っかけて来た。そしてぼくが門を出たら、しばらくぼくを見ていたが、すぐ変な鳴き声を立てながら家の方に帰っていってしまった。
ぼくも夢中で駆《か》けた。お隣《となり》のおじさんの門をたたいて、
「火事だよう!」
と二、三度どなった。その次の家も起こすほうがいいと思ってぼくは次の家の門をたたいてまたどなった。その次にも行った。そして自分の家の方を見ると、さっきまで真《まつ》暗《くら》だったのに、屋根の下の所あたりから火がちょろちょろと燃え出していた。ぱちぱちとたき火のような音も聞こえていた。ポチの鳴き声もよく聞こえていた。
ぼくの家は町からずっとはなれた高《たか》台《だい》にある官《かん》舎《しや》町《まち》にあったから、ぼくが「火事だよう」といって歩いた家はみんな知った人の家だった。あとをふりかえって見ると、二人三人黒い人《ひと》影《かげ》がぼくの家の方に走って行くのが見える。ぼくはそれがうれしくって、なおのこと、次の家から次の家へとどなって歩いた。
二十軒《けん》ぐらいもそうやってどなって歩いたら、自分の家からずいぶん遠くに来てしまっていた。すこし気味が悪くなってぼくは立ちどまってしまった。そしてもう一度家の方を見た。もう火はだいぶ燃え上がって、そこいらの木や板べいなんかがはっきりと絵にかいたように見えた。風がないので、火はまっすぐに上の方に燃えて、火の子が空の方に高く上がって行った。ぱちぱちという音のほかに、ぱんぱんと鉄《てつ》砲《ぽう》をうつような音も聞こえていた。立ちどまってみると、ぼくのからだはぶるぶるふるえて、ひざ小《こ》僧《ぞう》と下あごとががちがち音を立てるかと思うほどだった。急に家がこいしくなった。おばあさまも、おとうさんも、おかあさんも、妹や弟たちもどうしているだろうと思うと、とてもその先までどなって歩く気にはなれないで、いきなり来た道を夢《む》中《ちゆう》で走りだした。走りながらもぼくは燃え上がる火から目をはなさなかった。真《まつ》暗《くら》ななかに、ぼくの家だけがたき火のように明るかった。顔までほてってるようだった。何か大きな声でわめき合う人の声がした。そしてポチの気ちがいのように鳴く声が。
町の方からは半《はん》鐘《しよう》も鳴らないし、ポンプも来ない。ぼくはもうすっかり焼けてしまうと思った。明《あ》日《す》からは何を食べて、どこに寝《ね》るのだろうと思いながら、早くみんなの顔が見たさにいっしょうけんめいに走った。
家のすこし手前で、ぼくは一人の大きな男がこっちに走って来るのに会った。よく見るとその男は、ぼくの妹と弟とを両《りゆう》脇《わき》にしっかりとかかえていた。妹も弟も大きな声を出して泣《な》いていた。ぼくはいきなりその大きな男は人さらいだと思った。官《かん》舎《しや》町《まち》の後ろは山になっていて、大きな森の中の古寺に一人の乞《こ》食《じき》が住んでいた。ぼくたちが戦《いくさ》ごっこをしに山に遊びに行って、その乞食を遠くにでも見つけたら最後、大急ぎで、「人さらいが来たぞ」といいながらにげるのだった。その乞《こ》食《じき》の人はどんなことがあっても駆《か》けるということをしないで、ぼろを引きずったまま、のそりのそりと歩いていたから、それにとらえられる気づかいはなかったけれども、遠くの方からぼくたちのにげるのを見ながら、牛のような声でおどかすことがあった。ぼくたちはその乞食を何よりもこわがった。ぼくはその乞食が妹と弟とをさらって行くのだと思った。うまいことには、その人はぼくのそこにいるのには気がつかないほどあわてていたとみえて、知らん顔をして、ぼくのそばを通りぬけて行った。ぼくはその人をやりすごして、すこしの間どうしようかと思っていたが、妹や弟のいどころが知れなくなってしまっては大変だと気がつくと、家に帰るのはやめて、大急ぎでその男のあとを追いかけた。その人はほんとうに早かった。はいている大きなぞうりがじゃまになってぬぎすてたくなるほどだった。
その人は、大きな声で泣きつづけている妹たちをこわきにかかえたまま、どんどん石《いし》垣《がき》のある横町へと曲がって行くので、ぼくはだんだん気味が悪くなってきたけれども、火事どころのさわぎではないと思って、ほおかぶりをして尻《しり》をはしょったその人の後ろから、気づかれないようにくっついて行った。そうしたらその人はやがて橋《はし》本《もと》さんという家の高い石段をのぼり始めた。見るとその石段の上には、橋本さんの人たちが大ぜい立って、ぼくの家の方を向いて火事をながめていた。そこに乞食らしい人がのぼって行くのだから、ぼくはすこし変だと思った。そうすると、橋本のおばさんが、上からいきなりその男の人に声をかけた。
「あなた帰っていらしったんですか……ひどくなりそうですね」
そうしたら、その乞《こ》食《じき》らしい人が、
「子どもさんたちがけんのんだから連れて来たよ。竹《たけ》男《お》さんだけはどこに行ったかどうも見えなんだ」
と妹や弟を軽々とかつぎ上げながらいった。なんだ。乞食じゃなかったんだ。橋本のおじさんだったんだ。ぼくはすっかりうれしくなってしまって、すぐ石段を上って行った。
「あら、竹男さんじゃありませんか」
と目《め》早くぼくを見つけてくれたおばさんがいった。橋本さんの人たちは家じゅうでぼくたちを家の中に連れこんだ。家の中には燈火《あかり》がかんかんとついて、真暗なところを長い間歩いていたぼくにはたいへんうれしかった。寒いだろうといった。葛《くず》湯《ゆ》をつくったり、丹《たん》前《ぜん》を着せたりしてくれた。そうしたらぼくはなんだか急に悲しくなった。家にはいってから泣《な》きやんでいた妹たちも、ぼくがしくしく泣きだすといっしょになって大きな声を出しはじめた。
ぼくたちはその家の窓《まど》から、ぶるぶるふるえながら、自分の家の焼けるのを見て夜を明かした。ぼくたちをおくとすぐまた出かけて行った橋本のおじさんが、びっしょりぬれてどろだらけになって、人ちがいするほど顔がよごれて帰って来たころには、夜がすっかり明けはなれて、ぼくの家の所からは黒いけむりと白いけむりとが別々になって、よじれ合いながらもくもくと立ち上っていた。
「安心なさい。母《おも》屋《や》は焼けたけれども離《はな》れだけは残って、おとうさんもおかあさんもみんなけがはなかったから……そのうちに連れて帰ってあげるよ。けさの寒さは格別だ。この一面の霜《しも》はどうだ」
といいながら、おじさんは井《い》戸《ど》ばたに立って、あたりをながめまわしていた。ほんとうに井戸がわまでが真《まつ》白《しろ》になっていた。
橋本さんで朝《あさ》御《ご》飯《はん》のごちそうになって、太陽が茂《も》木《ぎ》の別《べつ》荘《そう》の大きな槙《まき》の木の上に上ったころ、ぼくたちはおじさんに連れられて家に帰った。
いつのまに、どこからこんなに来たろうと思うほど大ぜいの人がけんか腰《ごし》になって働いていた。どこからどこまで大雨のあとのようにびしょびしょなので、ぞうりがすぐ重くなって足のうらが気味悪くぬれてしまった。
離《はな》れに行ったら、これがおばあさまか、これがおとうさんか、おかあさんかとおどろくほどにみんな変わっていた。おかあさんなんかは一度も見たことのないような変な着物を着て、髪《かみ》の毛なんかはめちゃくちゃになって、顔も手もくすぶったようになっていた。ぼくたちを見るといきなり駆《か》けよって来て、三人を胸《むね》のところに抱《だ》きしめて、顔をぼくたちの顔にすりつけてむせるように泣きはじめた。ぼくたちはすこし気味が悪く思ったくらいだった。
変わったといえば家の焼けあとの変わりようもひどいものだった。黒こげの材木が、積み木をひっくり返したように重なりあって、そこからけむりがくさいにおいといっしょにやって来た。そこいらが広くなって、なんだかそれを見るとおかあさんじゃないけれども涙《なみだ》が出てきそうだった。
半分こげたり、びしょびしょにぬれたりした焼け残りの荷物といっしょに、ぼくたち六人は小さな離《はな》れでくらすことになった。御飯は三度三度官《かん》舎《しや》の人たちが作って来てくれた。熱いにぎり飯《めし》はうまかった。ごまのふってあるのや、中から梅《うめ》干《ぼ》しの出てくるのや、海苔《のり》でそとを包んであるのや……こんなおいしい御飯を食べたことはないと思うほどだった。
火はどろぼうがつけたのらしいということがわかった。井《い》戸《ど》のつるべなわが切ってあって水をくむことができなくなっていたのと、短刀が一本火に焼けて焼けあとから出てきたので、どろぼうでもするような人のやったことだと警《けい》察《さつ》の人が来て見こみをつけた。それを聞いておかあさんはようやく安心ができたといった。おとうさんは二、三日の間、毎日警察に呼び出されて、しじゅう腹《はら》をたてていた。おばあさまは、自分の部屋から火事が出たのを見つけだした時は、あんまり仰《ぎよう》天《てん》して口がきけなくなったのだそうだけれども、火事がすむとやっと物がいえるようになった。そのかわり、すこし病気になって、せまい部屋のかたすみに床《とこ》を取ってねたきりになっていた。
ぼくたちは、火事のあった次の日からは、いつものとおりの気持になった。そればかりではない、かえってふだんよりおもしろいくらいだった。毎日三人で焼けあとに出かけていって、人《にん》足《そく》の人なんかに、じゃまだ、あぶないといわれながら、いろいろのものを拾《ひろ》い出して、めいめいで見せあったり、取りかえっこしたりした。
火事がすんでから三日めに、朝目をさますとおばあさまがあわてるようにポチはどうしたろうとおかあさんにたずねた。おばあさまはポチがひどい目にあった夢《ゆめ》を見たのだそうだ。あの犬がほえてくれたばかりで、火事が起こったのを知ったので、もしポチが知らしてくれなければ焼け死んでいたかもしれないとおばあさまはいった。
そういえばほんとうにポチはいなくなってしまった。朝起きた時にも、焼けあとに遊びに行ってる時にも、なんだか一つ足らないものがあるようだったが、それはポチがいなかったんだ。ぼくがおこしに行く前に、ポチは離《はな》れに来て雨戸をがりがり引っかきながら、悲しそうにほえたので、おとうさんもおかあさんも目をさましていたのだとおかあさんもいった。そんな忠義なポチがいなくなったのを、ぼくたちはみんなわすれてしまっていたのだ。ポチのことを思い出したら、ぼくは急にさびしくなった。ポチは、妹と弟とをのければ、ぼくのいちばんすきな友だちなんだ。居《きよ》留《りゆう》地《ち》に住んでいるおとうさんの友だちの西洋人がくれた犬で、耳の長い、尾《お》のふさふさした大きな犬。長い舌《した》を出してぺろぺろとぼくや妹の頸《くび》の所をなめて、くすぐったがらせる犬、けんかならどの犬にだって負けない犬、めったにほえない犬、ほえると人でも馬でもこわがらせる犬、ぼくたちを見るときっと笑《わら》いながら駆《か》けつけて来て飛びつく犬、芸当はなんにもできないくせに、なんだかかわいい犬、芸当をさせようとすると、はずかしそうに横を向いてしまって、大きな目を細くする犬。どうしてぼくはあのだいじな友だちがいなくなったのを、今日《きよう》まで思い出さずにいたろうと思った。
ぼくはさびしいばかりじゃない、くやしくなった。妹と弟にそういって、すぐポチをさがしはじめた。三人で手分けをして庭に出て、大きな声で「ポチ……ポチ……ポチ来《こ》いポチ来い」とよんで歩いた。官《かん》舎《しや》町《まち》を一《いつ》軒《けん》一《いつ》軒《けん》聞いて歩いた。ポチが来てはいませんか。いません。どこかで見ませんでしたか。見ません。どこでもそういう返事だった。ぼくたちは腹もすかなくなってしまった。御飯だといって、女中がよびに来たけれども帰らなかった。茂《も》木《ぎ》の別荘の方から、乞《こ》食《じき》の人が住んでいる山の森の方へも行った。そして時々大きな声を出してポチの名をよんでみた。そして立ちどまって聞いていた。大急ぎで駆《か》けて来るポチの足音が聞こえやしないかと思って。けれどもポチのすがたも、足音も、鳴き声も聞こえては来なかった。
「ポチがいなくなってかわいそうねえ。殺されたんだわ。きっと」
と妹は、さびしい山道に立ちすくんで泣きだしそうな声を出した。ほんとうにポチが殺されるかぬすまれでもしなければいなくなってしまうわけがないんだ。でもそんなことがあってたまるものか。あんなに強いポチが殺される気づかいはめったにないし、ぬすもうとする人が来たらかみつくに決まっている。どうしたんだろうなあ。いやになっちまうなあ。
……ぼくは腹がたってきた。そして妹にいってやった。
「もとはっていえばおまえが悪いんだよ。おまえがいつか、ポチなんかいやな犬、あっち行けっていったじゃないか」
「あら、それは冗《じよう》談《だん》にいったんだわ」
「冗《じよう》談《だん》だっていけないよ」
「それでポチがいなくなったんじゃないことよ」
「そうだい……そうだい。それじゃなぜいなくなったんだか知ってるかい……そうれ見ろ」
「あっちに行けっていったって、ポチはどこにも行きはしなかったわ」
「そうさ。それはそうさ……ポチだってどうしようかって考えていたんだい」
「でもにいさんだってポチをぶったことがあってよ」
「ぶちなんてしませんよだ」
「いいえ、ぶってよほんとうに」
「ぶったっていいやい……ぶったって」
ポチがぼくのおもちゃをめちゃくちゃにこわしたから、ポチがきゃんきゃんというほどぶったことがあった。……それを妹にいわれたら、なんだかそれがもとでポチがいなくなったようにもなってきた。でもぼくはそう思うのはいやだった。どうしても妹が悪いんだと思った。妹がにくらしくなった。
「ぶったってぼくはあとでかわいがってやったよ」
「私だってかわいがってよ」
妹が山の中でしくしく泣《な》きだした。そうしたら弟まで泣きだした。ぼくもいっしょに泣きたくなったけれども、くやしいからがまんしていた。
なんだか山の中に三人きりでいるのが急にこわいように思えてきた。
そこへ女中がぼくたちをさがしに来て、家ではぼくたちが見えなくなったので心配しているから早く帰れといった。女中を見たら妹も弟も急に声をはりあげて泣きだした。ぼくもとうとうむやみに悲しくなって泣きだした。女中に連れられて家に帰って来た。
「まああなたがたはどこをうろついていたんです、御飯も食べないで……そして三人ともそんなに泣いて……」
とおかあさんはほんとうにおこったような声でいった。そしてにぎり飯を出してくれた。それを見たら急に腹がすいてきた。今まで泣いていて、すぐそれを食べるのはすこしはずかしかったけれども、すぐ食べはじめた。
そこに、焼けあとで働いている人《にん》足《そく》が来て、ポチが見つかったと知らせてくれた。ぼくたちもだったけれども、おばあさまやおかあさんまで、大さわぎをして「どこにいました」とたずねた。
「ひどいけがをして物置きのかげにいました」
と人足の人はいって、すぐぼくたちを連れていってくれた。ぼくはにぎり飯をほうり出して、手についてる御飯つぶを着物ではらい落としながら、大急ぎでその人のあとから駆《か》け出した。妹や弟も負けず劣《おと》らずついて来た。
半焼けになった物置きが平べったくたおれている、その後ろに三、四人の人足がかがんでいた。ぼくたちをむかえに来てくれた人足はその仲《なか》間《ま》の所にいって、「おい、ちょっとそこをどきな」といったらみんな立ち上がった。そこにポチがまるまって寝《ね》ていた。
ぼくたちは夢《む》中《ちゆう》になって「ポチ」とよびながら、ポチのところに行った。ポチは身動きもしなかった。ぼくたちはポチを一目見ておどろいてしまった。からだじゅうをやけどしたとみえて、ふさふさしている毛がところどころ狐《きつね》色《いろ》にこげて、どろがいっぱいこびりついていた。そして頭や足には血が真《まつ》黒《くろ》になってこびりついていた。ポチだかどこの犬だかわからないほどきたなくなっていた。駆《か》けこんでいったぼくは思わずあとずさりした。ポチはぼくたちの来たのを知ると、すこし頭を上げて血走った目で悲しそうにぼくたちの方を見た。そして前足を動かして立とうとしたが、どうしても立てないで、そのままねころんでしまった。
「かわいそうに、落ちて来た材木で腰《こし》っ骨《ぽね》でもやられたんだろう」
「なにしろ一晩じゅうきゃんきゃんいって火のまわりを飛び歩いていたから、つかれもしたろうよ」
「見ろ、あすこからあんなに血が流れてらあ」
人足たちが口々にそんなことをいった。ほんとうに血が出ていた。左のあと足のつけ根の所から血が流れて、それが地面までこぼれていた。
「いたわってやんねえ」
「おれゃいやだ」
そんなことをいって、人足たちも看《かん》病《びよう》してやる人はいなかった。ぼくはなんだか気味が悪かった。けれどもあんまりかわいそうなので、こわごわ遠くから頭をなでてやったら、鼻の先をふるわしながら、目をつぶって頭をもち上げた。それを見たらぼくはきたないのも気味の悪いのもわすれてしまって、いきなりそのそばに行って頭をかかえるようにしてかわいがってやった。なぜこんなかわいい友だちを一度でもぶったろうと思って、もうポチがどんなことをしてもぶつなんて、そんなことはしまいと思った。ポチはおとなしく目をつぶったままでぼくの方に頭を寄せかけて来た。からだじゅうがぶるぶるふるえているのがわかった。
妹や弟もポチのまわりに集まって来た。そのうちにおとうさんもおかあさんも来た。ぼくはおとうさんに手伝って、バケツで水を運んで来て、きれいな白いきれで静かにどろや血をあらい落としてやった。いたい所をあらってやる時には、ポチはそこに鼻先を持って来て、あらう手をおしのけようとした。
「よしよし静かにしていろ。今きれいにしてきずをなおしてやるからな」
おとうさんが人間に物をいうようにやさしい声でこういったりした。おかあさんは人に知れないように泣《な》いていた。
よくふざけるポチだったのにもうふざけるなんて、そんなことはちっともしなくなった。それがぼくにはかわいそうだった。からだをすっかりふいてやったおとうさんが、けががひどいから犬の医者をよんで来るといって出かけて行ったるすに、ぼくは妹たちに手伝ってもらって、藁《わら》で寝《ね》床《どこ》を作ってやった。そしてタオルでポチのからだをすっかりふいてやった。ポチを寝床の上に臥《ね》かしかえようとしたら、いたいとみえて、はじめてひどい声を出して鳴きながらかみつきそうにした。人夫たちも親切に世話してくれた。そして板きれでポチのまわりに囲いをしてくれた。冬だから、寒いから、毛がぬれているとずいぶん寒いだろうと思った。
医者が来て薬をぬったり飲ませたりしてからは、人足たちもおかあさんも行ってしまった。弟も寒いからというのでおかあさんに連れて行かれてしまった。けれどもおとうさんとぼくと妹はポチのそばをはなれないで、じっとその様《よう》子《す》を見ていた。おかあさんが女中に牛《ぎゆう》乳《にゆう》で煮《に》たおかゆを持って来させた。ポチは喜んでそれを食べてしまった。火事の晩から三日の間ポチはなんにも食べずにしんぼうしていたんだもの、さぞおかゆがうまかったろう。
ポチはじっとまるまってふるえながら目をつぶっていた。目がしらの所が涙《なみだ》でしじゅうぬれていた。そして時々細く目をあいてぼくたちをじっと見るとまたねむった。
いつのまにか寒い寒い夕方がきた。おとうさんがもう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だから家にはいろうといったけれども、ぼくははいるのがいやだった。夜どおしでもポチといっしょにいてやりたかった。おとうさんはしかたなく寒い寒いといいながら一人で行ってしまった。
ぼくと妹だけがあとに残った。あんまりよく睡《ね》るので死んではいないかと思って、小さな声で「ポチや」というとポチはめんどうくさそうに目を開いた。そしてすこしだけしっぽをふって見せた。
とうとう夜になってしまった。夕御飯でもあるし、かぜをひくと大変だからといっておかあさんが無理にぼくたちを連れに来たので、ぼくと妹とはポチの頭をよくなでてやって家に帰った。
次の朝、目をさますと、ぼくは着物も着かえないでポチの所に行って見た。おとうさんがポチのわきにしゃがんでいた。そして、「ポチは死んだよ」といった。ポチは死んでしまった。
ポチのお墓《はか》は今でも、あの乞《こ》食《じき》の人の住んでいた、森の中の寺の庭にあるかしらん。
真《ま》夏《なつ》の夢《ゆめ》 ――ストリンドベルヒ――
北の国も真夏のころは花よめのようなよそおいをこらして、大地は喜びに満ち、小川は走り、牧《まき》場《ば》の花はまっすぐに延《の》び、小鳥は歌いさえずります。その時一羽《わ》の鳩《はと》が森のおくから飛んで来て、寝《ね》ついたなりで日をくらす九十に余《あま》るおばあさんの家の窓《まど》近く羽を休めました。
物の二十年も臥《ふ》せったなりのこのおばあさんは、二人《ふたり》のむすこが耕《たがや》すささやかな畑《はた》地《ち》のほかに、窓《まど》越《ご》しに見るものはありませなんだが、おばあさんの窓のガラスは、にじのようなさまざまな色のをはめてあったから、そこからのぞく人間も世間も、普通のものとは異《こと》なっていました。まくらの上でちょっと頭さえ動かせば、目に見える景《け》色《しき》が赤、黄、緑、青、鳩《はと》羽《ば》というように変わりました。冬になって木々のこずえが、銀《ぎん》色《いろ》の葉でも連《つら》ねたように霜《しも》で包まれますと、おばあさんはまくらの上で、ちょっと身動きしたばかりでそれを緑にしました。実際は灰《はい》色《いろ》でも野は緑に空は蒼《あお》く、世の中はもう夏のとおりでした。おばあさんはこんなふうで、魔《ま》術《じゆつ》でも使える気でいるとたいくつをしませんでした。そればかりではありません。この窓ガラスにはもう一つ変わった所があって、ガラスのきざみ具《ぐ》合《あい》で見るものを大きくも小さくもする事ができるようになっておりました。だからもし大きなむすこが腹《はら》をたてて帰って来て、庭先でどなりでもするような事があると、おばあさんは以前のような、小さい、言う事をきく子どもにしようと思っただけで、即《そく》座《ざ》にちっぽけに見る事もできましたし、孫《まご》たちがよちよち歩きで庭に出て来るのを見るにつけ、そのおい先を考えると、ワン、ツー、スリー、拡《かく》大《だい》のガラスからのぞきさえすれば、見るまに背《せ》の高い、育ち上がったみごとな大男になってしまいました。
こんなおもしろい窓ではありますが、夏が来るとおばあさんはその窓をあけ放させました。いかな窓でも夏の景《け》色《しき》ほどな景色は見せてくれませんから。さて夏の中でもすぐれた美しい聖ヨハネ祭に、そのおばあさんが畑《はたけ》と牧《まき》場《ば》とを見わたしていますと、ひょっくり鳩《はと》が歌い始めました。声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓《かん》喜《き》をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず来いとよび立てました。
おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしいとも思いませんでしたから、礼を言って断《こと》わってしまいました。
で鳩は今度は牧場を飛《と》び越《こ》して、ある百《ひやく》姓《しよう》がしきりと井《い》戸《ど》を掘《ほ》っている山の中の森に来ました。その百姓は深い所にはいって、頭の上に六尺《しやく》も土のある様《よう》子《す》はまるで墓《はか》のあなの底にでもいるようでした。
あなの中にいて、大空も海も牧場も見ないこんな人こそは、きっと天国に行きたいにちがいないと思いましたから、鳩は木の枝《えだ》の上で天国の歓喜を鳩らしく歌い始めました。
ところが百姓は、
「いやです。私はまず井《い》戸《ど》を掘《ほ》らんければなりません。でないと夏分のお客さんは水にこまるし、あのかわいそうな奥《おく》さんと子ども衆もいなくなってしまいますからね」
と言いました。
で鳩《はと》は今度は海岸に飛んで行きました。そこではさきほどの百《ひやく》姓《しよう》の兄弟にあたる人が引《ひ》き網《あみ》をしていました。鳩は蘆《あし》の中にとまって歌いました。
その男も言いますには、
「いやです。私は何より先に家で食うだけのものを作らねばなりません。でないと子どもらがひもじいって泣《な》きます。あとの事、あとの事。まだ天国の事なんか考えずともよろしい。死ぬ前には生きるという事があるんだから」
で鳩はまた百姓の言ったかわいそうな奥さんが夏を過ごしている、大きないなかの住宅にとんで行きました。その時奥さんは縁《えん》側《がわ》に出て手ミシンで縫《ぬい》物《もの》をしていました。顔は百《ゆ》合《り》の花のような血の気のない顔、頭の毛は喪《も》のベールのような黒い髪《かみ》、しかして罌《け》粟《し》のような赤い毛の帽《ぼう》子《し》をかぶっていました。奥さんは聖ヨハネの祭日にむすめに着せようとして、美しい前《まえ》掛《か》けを縫《ぬ》っていました。むすめはお母さんの足もとの床《ゆか》の上にすわって、布《ぬの》切《き》れの端《はし》を切りこまざいて遊んでいました。
「なぜパパは帰っていらっしゃらないの」
とその小さい子がたずねます。
これこそはそのわかいおかあさんにはいちばんつらい問いであるので、答えることができませんかった。おとうさんはおかあさんよりもっと深い悲しみを持って、今は遠い外国に行っているのでした。
ミシンはすこし損《そん》じてはいますが、それでも縫《ぬ》い進みました。――人の心《しん》臓《ぞう》であったら出血のために動かなくなってしまうほどたくさん針《はり》が布をさし通して、一縫いごとに糸をしめてゆきます――不思議な。
「ママ今日《きよう》私は村に行って太陽が見たい、ここは暗いんですもの」
とその小さな子が申しました。
「昼過ぎになったら、太陽を拝《おが》みにつれて行ってあげますからね」
そう言えばここは、この島の海岸の高いがけの間にあって暗い所でした。おまけに住宅は松《まつ》の木《こ》陰《かげ》になっていて、海さえ見えぬほどふさがっていました。
「それからたくさんおもちゃを買ってちょうだいなママ」
「でもたくさん買うだけのお金がないんですもの」
とおかあさんは言いながらひときわあわれにうなだれました。昔《むかし》は有り余《あま》った財産も今はなけなしになっているのです。
でも子どもが情けなさそうな顔つきになると、おかあさんはその子をひざに抱《だ》き上《あ》げました。
「さあ私の頸《くび》をお抱き」
子どもはそのとおりにしました。
「ママをキスしてちょうだい」
しかして小鳥のように半分開いたこの子の口からキスを一つもらいました。しかしてヒヤシンスのように青いこの子の目で見やられると、母の美しい顔は、子どもと同じな心置きのない無《む》邪《じや》気《き》さに返って、まるで太陽の下に置かれた幼《よう》児《じ》のように見えました。
「ここで私は天国の事などは歌うまい。しかしできるなら何かこの二人《ふたり》の役にたちたいものだ」
と鳩は思いました。
しかして鳩は、この奥さんがこれから用足しに行く「日の村」へと飛んで行きました。
そのうちに午後になりましたから、このかわいい奥さんは腕《うで》に手かごをかけて、子どもの手を引いて出かける用意をしました。奥さんはまだ一度もその村に行った事はありませんが、島の向こう側《がわ》で日の落ちる方にあるという事は知っていました。またそこに行く途《と》中《ちゆう》には柵《さく》で囲《かこ》まれた六つの農場と、六つの門とがあるという事を、百《ひやく》姓《しやく》から聞かされていました。
でいよいよ出かけました。
やがて二人は石ころや木《き》株《かぶ》のある険《けわ》しい坂《さか》道《みち》にかかりましたので、おかあさんは子どもを抱《だ》きましたが、なかなか重い事でした。
この子どもの左足はたいへん弱くって、うっかりすると曲がってしまいそうだから、ひどく使わぬようにしなければならぬと、お医者の言った事があるのでした。
わかいおかあさんはこの大事な重荷のために息を切って、森の中は暑いものだから、汗《あせ》の玉が顔から流れ下りました。
「のどがかわきました、ママ」
とおさないむすめは泣《な》きつくのでした。
「いい子だからこらえられるだけこらえてごらんなさい。あちらに着きさえすれば水をあげますからね」
とおかあさんは言いながら、赤《あか》ん坊《ぼう》のようなかわいたその子の口をすうてやりますと、子どもはかわきもわすれてほおえみました。
でも日は照り切って、森の中の空気はそよともしません。
「さあおりてすこし歩いてみるんですよ」
と言いながらおかあさんはむすめをおろしました。
「もうくたびれてしまったんですもの」
子どもは泣く泣くすわりこんでしまいます。
ところでそこにきれいなきれいな赤薔《ば》薇《ら》の色をした小さい花がさいて巴旦杏《はたんきよう》のようなにおいをさせていました。子どもはこれまでそんな小さな花を見た事がなかったものですから、またにこにことほおえみましたので、それに力を得《え》て、おかあさんは子どもを抱《だ》き上げて、さらに行く手を急ぎました。
そのうちに第一の門に来ました。二人はそこを通って跡《あと》に〓《かきがね》をかけておきました。
するとどこかで馬のいななくような声が聞こえたと思うと、放れ馬が行く手に走り出て道のまん中にたちふさがって鳴きました。その鳴き声に応ずる声がまた森の四方にひびきわたって、大地はゆるぎ、枝はふるい、石は飛びました。しかして途《と》方《ほう》にくれた母子二人は二十匹《ぴき》にも余《あま》る野馬の群《む》れに囲まれてしまいました。
子どもは顔をおかあさんの胸にうずめて、心配で胸の動《どう》悸《き》は小《しよう》時《ど》計《けい》のようにうちました。
「私こわい」
と小さな声で言います。
「天に在《ま》します神様――お助けください」
とおかあさんはいのりました。
と黒鳥の歌が松の木の間で聞こえるとともに馬どもはてんでんばらばらにどこかに行ってしまって、四囲《あたり》は元の静けさにかえりました。
そこで二人は第二の門を通ってまた〓《かきがね》をかけました。
その先には作物を作らずに休ませておく畑《はたけ》があって、森の中よりもずっと熱い日がさしていました。灰《はい》色《いろ》の土《つち》塊《くれ》が長く幾《いく》畦《あぜ》にもなっているかと思うと、急にそれが動きだしたので、よく見ると羊《ひつじ》の群れの背《せ》が見えていたのでした。
羊《ひつじ》、その中にも小羊はおとなしいけものですが、雄《お》羊《ひつじ》はいじめもしないのにむやみに人にかかるいたずらをするやつで、うっかりはしていられません。ところがその雄羊が一匹《ぴき》小《こ》溝《みぞ》を飛《と》び越《こ》えて道のまん中にやって来ました。しかして頭を下げたなりであとしざりをします。
「私こわいママ」
と胸をどきつかせながらむすめが申します。
「めぐみ深い在天の神様、私どもをお助けください」
と言って天の一方を見上げながらおかあさんがいのりますと、そこに蝶《ちよう》のような羽ばたきをさせながら、小さな雲雀《ひばり》がおりていました。そしてそれが歌をうたいますと、雄羊は例の灰色の土《つち》塊《くれ》の中にすがたをかくしてしまいました。
そこで今度は第三の門に来ましたが、ここはじゅくじゅくの湿《しつ》地《ち》ですから、うっかりすると足が滅《め》入《い》りこみます。所々の草むらは綿《わた》の木の白い花でかざった壁《かべ》のようにも思われます。なにしろどろの中に落ちこまないようにまっすぐに歩かなければなりませんでした。おまけにここには、子どもたちがうっかりすると取ってしかられる、毒《どく》のある黒木いちごがはえていました。むすめは情けなさそうにそれを見ました。まだこの子は毒とはなんのことだか知りませんでしたから。
なお歩いて行きますと、木の間から何か白いものがやって来るのに気がつきました。見るうちに太陽はかくれて、白《はく》霧《む》が四囲《あたり》を取りまきました。いかにも気味がよくありません。
するうちにその霧《きり》の中から、ねじ曲がった二本の角《つの》のある頭が出て、それがほえると、続いてたくさんの頭が現われ出て、だんだん近づいて来ました。
「こわうござんす、ママ、ほんとうにこわい」
と子どもが申します。
「偉《い》大《だい》なめぐみ深い神様、私どもにあわれみを垂《た》れさせたまえ」
とおかあさんは道のわきに行って、草むらと草むらとの間の沼《ぬま》の中へ身を伏《ふ》せて心の底からいのりました。
その時ひびきを立てて、海から大風が来て森の中をふきぬけました。この大きな神風にあっては森の中の木という木はみななびき伏しました。その中で一本のわかい松も幹《みき》をたわめて、寄るべないこのおかあさんの耳に木のこずえが何かささやきました。しかしておかあさんがむすめを抱《だ》かないほうの手を延《の》ばしてその枝をつかむと、松はみずから立ちなおって、うれいにしずむおかあさんを沢《さわ》の中から救い上げてくれました。
その時霧《きり》はふきはらわれて、太陽はまた照り始めました。しかして二人は第四の門に近づきました。途《と》中《ちゆう》で帽《ぼう》子《し》を落として来たおかあさんは、髪《かみ》の毛で子どもの涙《なみだ》をぬぐってやりますと、子どもはうれしげにほおえみました。そのほおえみがまたあわれなおかあさんの心をなぐさめて、今までの苦しみをわすれて第五の門に着くほどの力が出てきました。ここまで来るともう気が確《たし》かになりました。なぜというと、向こうには赤い屋根と旗《はた》が見えますし、道の両《りよう》側《がわ》には白あじさいと野《の》薔《ば》薇《ら》が恋《こい》でもしているように二つずつならんで植《う》わっていましたから。
むすめもひとりで歩けました。しかして手かごいっぱいに花を摘《つ》み入れました。聖ヨハネ祭の夜宮には人形のリザが、その花の中でいい夢《ゆめ》を見てねむるんです。
こんなふうにおもしろく、二人は苦労もわすれて歩きました。もう赤楊《はんのき》の林さえぬければ、「日の村」へ着くはずでした。やがて二人は丘《おか》を登って右に曲がろうとすると、そこにまた雄《お》牛《うし》が一匹立っているのに出会いました。
にげる事もかないません。くずおれておかあさんはひざをつき、子どもをねかしてその上を守るように自分の頭を垂《た》れますと、長い毛が黒いベールのように垂れ下がりました。
しかして両手をさし出してだまったなりでいのりました。子どもの額からは苦《く》悶《もん》の汗《あせ》が血のしたたりのように土の上に落ちました。
「神様、私の命をおめしになるとも、この子の命だけはお助けください」
といのると、頭の上で羽ばたきの音がしますから、見上げると、白《しろ》鳩《ばと》が村の方に飛んで行って雄牛のすがたはもうありませんでした。
おかあさんが子どもをさがしますと、道のそばで苺《いちご》を摘んでおりました。しかしておかあさんはその苺をだれがそこにはやしてくださったかをうなずきました。
しかしてとうとう二人は六番めの門をくぐって町の中をさまよい歩きました。
その町というのは、大きな菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》や楓《かえで》の木のしげった下を流れる、緑の堤《つつみ》の小川の岸にありました。しかして丘《おか》の上には赤い鐘《しよう》楼《ろう》のある白い寺だの、ライラックのさきそろった寺領の庭だの、ジャスミンの花にうもれた郵《ゆう》便《びん》局《きよく》だの、大《おお》槲樹《かしわのき》の後ろにある園丁《にわつくり》の家だのがあって、見るものことごとくはなやかです。そよ風になびく旗、河《か》岸《し》や橋につながれた小《こ》舟《ぶね》、今日こそ聖ヨハネの祭日だという事が察《さつ》せられます。
ところがそこには人の子一人おりません。二人はまず店に買い物に行って、そこでむすめは何か飲むつもりでしたが、店はみんなしまっていました。
「ママのどがかわきますよ」
二人は郵便局に行きました。そこもしまっています。
「ママお腹《なか》がすきました」
おかあさんはだまったままでした。子どもはなぜ日曜でもないのに店がしまって、そこいらに人がいないのかわかりませんでした。むすめは園丁《にわつくり》の所に行ってみましたが、そこもしまっていて、大きな犬が門の所に寝《ね》ころんでいるばかりでした。
「ママくたびれました」
「私もですよ、どこかで水を飲みましょうね」
で二人は家ごとをおとずれてみましたが、いずれもしめてありました。子どもはこの上歩く事はできません、足はつかれてびっこをひいていました。おかあさんはむすめの美しいからだが横に曲がったのを見ると、もうたまらないで、道のそばにすわって子どもを抱《だ》き取りました。子どもはすぐ寝入ってしまいました。
その時鳩《はと》がライラックに来てとまって天国の歓《かん》喜《き》と絶えせぬこの世の苦しみ悲しみを声美しく歌いました。
おかあさんはねむった子どものあお向いた顔を見おろしました。顔のまわりの白いレースがちょうど白《しら》百合《ゆり》の花びらのようでした。それを見るとおかあさんは天国を胸《むね》に抱《だ》いてるように思いました。
ふと子どもは目をさまして水を求めました。
おかあさんはだまっているほかありませんでした。
子どもは泣《な》きだして、
「お家《うち》に帰りましょう」
と申します。
「あのおそろしい旅をもう一度ですか。とてもとても。私は海の中にはいるほうがまだましだと思う」
とおかあさんは答えましたが、
やはり子どもは、
「お家に行きたい」
と言い張りました。
おかあさんは立ち上がりました。
見るとかなたの丘《おか》の後ろにわかい赤楊《はんのき》の林がありましたが、よく見ているとそれがしきりに動きます。それでおかあさんは、すぐそこには人が集まって、聖ヨハネ祭の草屋を作るために、その葉を採《と》っているのだと気がつきました。しかしてそこには水があると見こみをつけてそっちに行ってみました。
途《と》中《ちゆう》には生けがきに取りめぐらされて白い門のある小さな住居のあるのを見ましたが、戸は開いたままになって快《こころよ》く二人のはいるに任《まか》せてありました。おかあさんは門をはいって、芍《しやく》薬《やく》と耘斗葉《おまき》の園《その》に行きました。見ると窓にはみんなカーテンが引いてありまして、しかもそれがことごとく白い色でした。ただ一つの屋根窓だけが開いていて、二つの棕《しゆ》櫚《ろ》の葉の間から白い手が見えて、小さなハンケチを別れをおしんでふるかのようにふっていました。
おかあさんはまた入り口の階《かい》段《だん》を上ってみますと、はえしげった草の中に桃金嬢《てんにんか》と白《しろ》薔《ば》薇《ら》との花輪が置いてありましたが、花よめの持つのにしては大き過ぎて見えました。
それから露《ぬれ》縁《えん》に上って案《あん》内《ない》をこうてみました。
答える人はありませんので住居の中にはいって行きました。床の上に薔薇にうめられて、銀の足を持って黒《くろ》綾《あや》の棺《ひつぎ》が置いてありました。しかしてその棺の中には、頭に婚《こん》礼《れい》のかんむりを着けたわかいむすめがねかしてありました。
その室のかべというのは新しい荒《あら》けずりの松板でヴァニスをかけただけですから、節《ふし》がよく見えていました。黒ずんだ枝《えだ》の切り去られたなごりのたまご形の節の数々は目の玉のように思いなされました。
この奇《き》怪《かい》な壁《かべ》のすがたにはじめて目をとめたものはむすめでした。
「まあたくさんな目が」
とそう言いだしました。
なるほどいろいろな目がありました。大きくって親切らしいまじめな目や、小さくかがやくあいきょうのある子どもの目や、白目の多《おお》過《す》ぎるおこったらしい目や、心の中まで見ぬきそうなすきのない目などがありました。またそこに死んでいるむすめをなつかしそうに打ち見やる、大きなやさしい母らしい目もありまして、その眼中にはすき通るような松やにの涙《なみだ》が宿《やど》って、夕日の光をうけて金《こん》剛《ごう》石《せき》のようにきらきら光っていました。
「そこにいるお嬢《じよう》さんはねむっていらっしゃるの」
と子どもははじめて死《し》骸《がい》に気がついて、おかあさんにたずねました。
「そうです、ねむっていらっしゃるんです」
「花よめさんでしょうか、ママ」
「そうです花よめさんです」
よく見るとおかあさんはそのむすめを見知っているのでした。そのむすめは真夏のころ帰って来るあの船乗りの花よめとなるはずでしたが、その船乗りが秋にならなければ帰れないという手紙をよこしたので、落《らく》胆《たん》してしまったのでした。木の葉が落ちつくして、こがらしのふき始める秋まで待《ま》つ事はたえ切れなかったのです。
おかあさんは鳩《はと》の歌に耳をかたむけて、その言うことばがよくわかっていたのですから、この屋《や》敷《しき》を出て行くにつけても行く先が知れていました。
重い手かごを門の外に置いて、子どもを抱《だ》き上げて、自分と海岸との間に横たわる広《こう》野《や》をさしておかあさんは歩きだしました。その野は花の海で、花粉のためにさまざまな色にそまったおかあさんの白い裳《もすそ》のまわりで、花どもが細々とささやきかわしていました。蜂《はち》鳥《どり》や、蜂《はち》や、胡《こ》蝶《ちよう》が翅《つばさ》をあげて歌いながら、綾《あや》のような大きな金色の雲となって二人の前を走って歩きました。おかあさんは歩みも軽く海岸の方に進んで行きました。
川の中には白い帆《はん》艇《てい》が帆《ほ》をいっぱいに張って、埠《ふ》頭《とう》を目がけて走って来ましたが、舵《かじ》の座《ざ》にはだれもおりませんでした。おかあさんは花と花のにおいにひたりながら進みますから、その裳は花《はな》床《どこ》よりもなおきれいな色になりました。
おかあさんは海岸の柳《やなぎ》の木《こ》陰《かげ》に足をとめましたが、その柳の幹《みき》と枝《えだ》とにはさまった巣《す》が、風のまにまに柳がなびくにつれて、ゆれ動いて小鳥らを夢《ゆめ》にさそいます。むすめはその小鳥らをなでてやりたがりました。
「いえ、鳥の巣《す》にはふれるものではありません」
とおかあさんは言いました。
こうして二人が海岸の石原の上に立っていると、一艘《そう》の舟《ふね》がすぐ足もとに来て着きましたが、中には一人も乗り手がありませんでした。
でおかあさんは子どもを連れてそれに乗りました。船はすぐ方向をかえて、そこをはなれてしまいました。
墓《はか》場《ば》のそばを帆《ほ》走《ばし》って行く時、すべての鐘《かね》は鳴りましたが、それはすこしも悲しげにはひびきませんでした。
船がだんだん遠ざかってフョールドに来てみますと、そこからは太洋の波が見えました。
むすめはかくまで海がおだやかで青いのに大喜びをしましたが、よく見ると二人の帆走っているのは海《うな》原《ばら》ではなくって美しくさきそろった矢《や》車《ぐるま》草《そう》の花の中でした。むすめは手をのばしてそれを摘《つ》み取りました。
花は起きたり臥《ふ》したりしてさざなみのように舷《げん》に音をたてました。しばらくすると二人はまた白い霧《きり》に包まれました上にほんとうの波の声さえ聞こえてきました。しかし霧の上では雲雀《ひばり》が高くさえずっていました。
「どうして雲雀は海の上なんぞで鳴くんでしょう」
と子どもが聞きました。
「海があんまり緑ですから、雲雀は野原だと思っているんでしょう」
とおかあさんは説《と》き明かしました。
とたちまち霧は消えてしまって、空は紺《こん》青《じよう》に澄《す》みわたって、その中を雲雀がかけていました。遠い遠い所に木のしげった島が見えます。白《しら》砂《すな》の上を人々が手を取り合って行きかいしております。祭《さい》壇《だん》から火の立ち登る柱《ちゆう》廊《ろう》下《か》の上にそびえた黄金の円《まる》屋《や》根《ね》に夕ぐれの光が反《う》映《つ》って、島の空高く薔《ば》薇《ら》色《いろ》と藍《あい》緑《みどり》色《いろ》とのにじがかかっていました。
「あれはなんですか、ママ」
おかあさんはなんと答えていいか知りませんでした。
「あれが鳩《はと》の歌った天国ですか、いったい天国とはなんでしょう、ママ」
「そこはね、みんながおたがいに友だちになって、悲しい事も争闘《あらそい》もしない所です」
「私はそこに行きたいなあ」
と子どもが言いました。
「私もですよ」
と憂《う》さ辛《つら》さに浮《う》き世《よ》をはかなんださびしいおかあさんも言いました。
燕《つばめ》と王《おう》子《じ》 (翻案)
燕《つばめ》という鳥は所をさだめず飛びまわる鳥で、暖かい所を見つけておひっこしをいたします。今は日本が暖かいからおもてに出てごらんなさい。羽根がむらさきのような黒でお腹《なか》が白で、のどの所に赤い首《くび》巻《ま》きをしておとう様のおめしになる燕《えん》尾《び》服《ふく》の後部《うしろ》みたような、尾のある雀《すずめ》よりよほど大きな鳥が目まぐるしいほど活発に飛び回っています。このお話はその燕のお話です。
燕のたくさん住んでいるのはエジプトのナイルという世界中でいちばん大きな川の岸です――おかあ様に地図を見せておもらいなさい――そこはしじゅう暖かでよいのですけれども、燕も時々はあきるとみえて群《む》れを作ってひっこしをします。ある時その群れの一つがヨーロッパに出かけて、ドイツという国を流れているライン川のほとりまで参りました。この川はたいそうきれいな川で西岸には古いお城《しろ》があったり葡《ぶ》萄《どう》の畑《はたけ》があったりして、川ぞいにはおりしも夏ですから葦《あし》が青々とすずしくしげっていました。
燕はおもしろくってたまりません。まるでみなで鬼《おに》ごっこをするようにかけちがったりすりぬけたり葦《あし》の間を水に近く日がな三《さん》界《がい》遊びくらしましたが、その中一つの燕はおいしげった葦原の中の一本のやさしい形の葦とたいへんなかがよくって羽根がつかれると、そのなよなよとした茎《くき》先《さき》にとまってうれしそうにブランコをしたり、葦とお話をしたりして日を過ごしていました。
そのうちに長い夏もやがて末になって、葡《ぶ》萄《どう》の果《み》も紫《むらさき》水《すい》晶《しよう》のようになり、落ちて地にくさったのが、あまいかおりを風に送るようになりますと、村のむすめたちがたくさん出て来てかごにそれを摘《つ》み集めます。摘み集めながらうたう歌がおもしろいので、燕たちもうたいつれながら葡萄摘みの袖《そで》の下だの頭《ず》巾《きん》の上だのを飛びかけって遊びました。しかしやがて葡萄の収穫《とりいれ》も済《す》みますと、もう冬ごもりのしたくです。朝ごとに河《かわ》面《も》は霧《きり》が濃《こ》くなってうす寒くさえ思われる時《じ》節《せつ》となりましたので、気の早い一人《ひとり》の燕がもう帰ろうと言いだすと、他のもそうだと言うのでそろそろ南に向かって旅立ちを始めました。
ただやさしい形の葦《あし》となかのよくなった燕は帰ろうとはいたしません。朋《ほう》輩《ばい》がさそってもいさめても、まだ帰らないのだとただをこねてとうとうひとりぽっちになってしまいました。そうなるとたよりにするものは形のいい一本の葦ばかりであります。ある時その燕は二人《ふたり》っきりでお話をしようと葦の所に行って穂《ほ》の出た茎《くき》先《さき》にとまりますと、かわいそうに枯《か》れかけていた葦はぽっきり折れて穂先が垂《た》れてしまいました。燕はおどろいていたわりながら、
「葦さん、ぼくは大変な事をしたねえ、いたいだろう」
と申しますと葦は悲しそうに、
「それはすこしはいたうございます」
と答えます。燕は葦がかわいそうですからなぐさめて、
「だっていいや、ぼくは葦《あし》さんといっしょに冬までいるから」
すると葦が風の助けで首をふりながら、
「それはいけません、あなたはまだ霜《しも》というやつを見ないんですか。それはおそろしいしらがの爺《じい》で、あなたのようなやさしいきれいな鳥は手もなく取って殺します。早く暖かい国に帰ってください、それでないと私はなお悲しい思いをしますから。私は今《こ》年《とし》はこのままで黄色く枯《か》れてしまいますけれども、来年あなたの来る時分にはまたわかくなってきれいになってあなたとお友だちになりましょう。あなたが今年死ぬと来年は私一人っきりでさびしゅうございますから」
ともっともな事を親切に言ってくれたので、燕《つばめ》もとうとう納《なつ》得《とく》して残りおしさはやまやまですけれども見かえり見かえり南を向いて心細いひとり旅をする事になりました。
秋の空は高く晴れて西からふく風がひやひやと膚《はだ》身《み》にこたえます。今日《きよう》はある百姓《ひやくしよう》の軒《のき》下《した》、明《あ》日《す》は木《こ》陰《かげ》にくち果てた水車の上というようにどこという事もなく宿を定めて南へ南へとかけりましたけれども、容《よう》易《い》に暖かい所には出ず、気候は一日一日と寒くなって、大すきな葦の言った事がいまさらに身にしみました。葦と別れてから幾《いく》日《にち》めでしたろう。ある寒い夕方野こえ山こえようやく一つの古い町にたどり着いて、さてどこを一夜のやどりとしたものかと考えましたが思わしい所もありませんので、日はくれるししかたがないから夕日を受けて金色に光った高い王子の立像の肩《かた》先《さき》に羽を休める事にしました。
王子の像《ぞう》は石だたみのしかれた往《おう》来《らい》の四つかどに立っています。さわやかにもたげた頭からは黄金の髪《かみ》が肩《かた》まで垂《た》れて左の手を帯刀《おはかせ》のつかに置いて屹《きつ》としたすがたで町を見下しています。たいへんやさしい王子であったのが、まだ年のわかいうちに病気でなくなられたので、王様と皇《こう》后《ごう》がたいそう悲しまれて青銅《からかね》の上に金の延《の》べ板《いた》をかぶせてその立像を造《つく》り記念のために町の目ぬきの所にそれをお立てになったのでした。
燕はこのわかいりりしい王子の肩に羽をすくめてうす寒い一夜を過ごし、翌《あくる》日《ひ》町中をつつむ霧《きり》がやや晴れて朝日がうらうらと東に登ろうとするころ旅立ちの用意をしていますと、どこかで「燕、燕」と自分をよぶ声がします。はてなと思って見回しましたがだれも近くにいる様《よう》子《す》はないから羽をのばそうとしますと、また同じように「燕、燕」とよぶものがあります。燕は不思議でたまりません。ふと王子のお顔をあおいで見ますと王子はやさしいにこやかな笑《え》みを浮《う》かべてオパールというとうとい石のひとみで燕をながめておいでになりました。燕はふと身をすりよせて、
「今私をおよびになったのはあなたでございますか」
と聞いてみますと王子はうなずかれて、
「いかにも私だ。実はおまえにすこしたのみたい事があるのでよんだのだが、それをかなえてくれるだろうか」
とおっしゃいます。燕はまだこんなりっぱなかたからまのあたりお声をかけられた事がないのでほくほく喜びながら、
「それはお安い御用です。なんでもいたしますからごえんりょなくおおせつけてくださいまし」と申し上げました。
王子はしばらく考えておられましたがやがて決心のおももちで、
「それではきのどくだが一つたのもう、あすこを見ろ」
と町の西の方をさしながら、
「あすこにきたない一《いつ》軒《けん》立《だ》ちの家があって、たった一つの窓《まど》がこっちを向いて開いている。あの窓の中をよく見てごらん。一人の年《とし》老《と》った寡《か》婦《ふ》がせっせと針仕事をしているだろう、あの人はたよりのない身で毎日ほねをおって賃《ちん》仕《し》事《ごと》をしているのだがたのむ人が少いので時々は御飯も食べないでいるのがここから見える。私はそれがかわいそうでならないから何かやって助けてやろうと思うけれども、第一私はここに立ったっきり歩く事ができない。おまえどうぞ私のからだの中から金をはぎとってそれをくわえて行って知れないようにあの窓から投げこんでくれまいか」
とこういうたのみでした。燕は王子のありがたいお志《こころざし》に感じ入りはしましたが、このりっぱな王子から金をはぎ取る事はいかにも進みません。いろいろと躊《ちゆう》躇《ちよ》しています。王子はしきりとおせきになります。しかたなく胸《むね》のあたりの一枚《まい》をめくり起こしてそれを首《しゆ》尾《び》よく寡《か》婦《ふ》の窓から投げこみました。寡婦は仕事に身を入れているのでそれには気がつかず、やがて御飯時にしたくをしようと立ち上がった時、ぴかぴか光る金の延《の》べ板《いた》を見つけ出した時の喜びはどんなでしたろう、神様のおめぐみをありがたくおしいただいてその晩は身になる御飯をいたしたのみでなく、長くとどこおっていたお寺のお布《ふ》施《せ》も済《す》ます事ができまして、涙を流して喜んだのであります。燕《つばめ》も何かたいへんよい事をしたように思っていそいそと王子のお肩《かた》にもどって来て今日《きよう》の始末をちくいち言《ごん》上《じよう》におよびました。
次の朝燕は、今日こそはしたわしいナイル川に一日も早く帰ろうと思って羽《う》毛《もう》をつくろって羽ばたきをいたしますとまた王子がおよびになります。昨日《きのう》の事があったので燕は王子をこの上もないよいかたとしたっておりましたから、さっそく御返事をしますと王子のおっしゃるには、
「今日はあの東の方にある道のつきあたりに白い馬が荷《に》車《ぐるま》を引いて行く、あすこをごらん。そこに二人の小さな乞《こ》食《じき》の子が寒むそうに立っているだろう。ああ、二人はもとは家《うち》の家来の子で、おとうさんもおかあさんもたいへんよいかたであったが、友だちの讒《ざん》言《げん》で扶《ふ》持《ち》にはなれて、二、三年病気をすると二人とも死んでしまったのだ、それであとに残された二人の小児はあんな乞《こ》食《じき》になってだれもかまう人がないけれども、もしここに金の延《の》べ金《がね》があったら二人はそれを御《ご》殿《てん》に持って行くともとのとおり御家来にしてくださる約《やく》束《そく》がある。おまえきのどくだけれども私のからだからなるべく大きな金をはがしてそれを持って行ってくれまいか」
燕はこの二人の乞食を見ますときのどくでたまらなくなりましたから、自分の事はわすれてしまって王子の肩のあたりからできるだけ大きな金の板をはがして重そうにくわえて飛び出しました。二人の乞食は手をつなぎあって今日はどうして食おうと困《こう》じ果てています。燕は快活に二人のまわりを二、三度なぐさめるように飛びまわって、やがて二人の前に金の板を落としますと、二人はびっくりしてそれを拾《ひろ》い上げてしばらくながめていましたが、兄なる少年は思い出したようにそれを取り上げて、これさえあれば御《ご》殿《てん》の勘《かん》当《どう》も許《ゆる》されるからと喜んで妹と手をひきつれて御殿の方に走って行くのを、しっかり見《み》届《とど》けた上で、燕はいい事をしたと思って王子の肩《かた》に飛び帰って来て一部始終の物語をしてあげますと、王子もたいそうお喜びになってひとかたならず燕の心の親切なのをおほめになりました。
次の日も王子は燕の旅立ちをきのどくだがとお引《ひ》き留《と》めになっておっしゃるには、
「今日は北の方に行ってもらいたい。あの烏《からす》の風《かざ》見《み》のある屋根の高い家の中に一人の画家がいるはずだ。その人はたいそう腕《うで》のある人だけれどもだんだんに目が悪くなって、早く療《りよう》治《じ》をしないとめくらになって画家を廃《はい》さねばならなくなるから、どうか金を送って医者に行けるようにしてやりたい。おまえ今日も一つほねをおってくれまいか」
そこで燕はまた自分の事はわすれてしまって、今度は王子の背《せ》のあたりから金をめくってその方に飛んで行きましたが、画家は室内《なか》には火がなくてうす寒いので窓をしめ切って仕事をしていました。金の投げ入れようがありません。しかたなしに風見の烏に相談しますと、画家は燕が大すきで燕の顔さえ見ると何もかもわすれてしまって、そればかり見ているからおまえも目につくように窓の回りを飛び回ったらよかろうと教えてくれました。そこで燕は得《え》たりとできるだけしなやかな飛びぶりをしてその窓の前を二、三べんあちらこちらに飛びますと、画家はやにわに面《おもて》をあげて、
「この寒いのに燕が来た」
と言うや否《いな》や窓を開いて首をつき出しながら燕の飛び方に見ほれています。燕は得たりかしこしとすきを窺《うかが》って例の金の板を部《へ》屋《や》の中に投げこんでしまいました。画家の喜びは何にたとえましょう。天の助けがあるから自分は眼病をなおした上で無《む》類《るい》の名画をかいて見せると勇《いさ》み立って医師の所にかけつけて行きました。
王子も燕もはるかにこれを見て、今日も一ついい事をしたと清い心をもって夜のねむりにつきました。
そうするうちに気候はだんだんと寒くなってきました。青銅《からかね》の王子の肩《かた》ではなかなかしのぎがたいほどになりました。しかし王子は次の日も次の日も今まで長い間見て知っている貧《まず》しい正《しよう》直《じき》な人や苦しんでいるえらい人やに自分のからだの金を送りますので、燕はなかなか南に帰るひまがありません。日中は秋とは申しながらさすがに日がぽかぽかとうららかで黄《こ》金《がね》色《いろ》の光が赤いかわらや黄になった木の葉を照らしてあたたかなものですから、燕は王子のおおせのままにあちこちと飛び回って御用をたしていました。そのうちに王子のからだの金はだんだんにすくなくなってかわいそうにこの間までまばゆいほどに美しかったおすがたが見る影《かげ》もないものになってしまいました。ある日の夕方王子は静かに燕をかえり見て、
「燕、おまえは親切ものでよくこの寒いのもいとわず働いてくれたが、私にはもう人にやるものがなくなってしまってこんなみにくいからだになったからさぞおまえも私といっしょにいるのがいやになったろう。もうお帰り、寒くなったし、ナイル川には美しい夏がおまえを待っているから。この町はもうやがて冬になるとさびしいし、おまえのようなしなやかなきれいな鳥はいたたまれまい。それにしてもおまえのようなよい友だちと別れるのは悲しい」とおっしゃいました。燕はこれを聞いてなんとも言えないここちになりまして、いっそ王子の肩《かた》で寒さにこごえて死んでしまおうかとも思いながらしおしおとして御返事もしないでいますと、だれか二人王子の像《ぞう》の下にある露《ろ》台《だい》に腰《こし》かけてひそひそ話をしているものがあります。
王子も燕も気がついて見ますとそこには一人のわかい武《ぶ》士《し》と見《み》目《め》美しいおとめとが腰をかけていました。二人はもとよりお話を聞くものがあろうとは思いませんので、しきりとたがいに心のありたけを打ち明かしていました。やがて武士が申しますのには、
「二人は早く結《けつ》婚《こん》したいのだけれどもたいせつなものがないのでできないのは残念だ。それは私の家では結婚する時にきっと先祖から伝えてきた名玉を結婚の指《ゆび》輪《わ》に入れなければできない事になっています、ところがだれかがそれをぬすんでしまいましたからどうしても結婚の式をあげることはできません」
おとめはもとよりこの武士がわかいけれども勇《ゆう》気《き》があって強くってたびたびの戦いで功《こう》名《みよう》てがらをしたのをしたってどうかその奥《おく》さんになりたいと思っていたのですから、涙《なみだ》をはらはらと流しながら嘆《たん》息《そく》をして、なんのことばの出しようもありません。しまいには二人手を取りあって泣いていました。
燕《つばめ》は世の中にはあわれな話もあるものだと思いながらふと王子をあおいで見ますと、王子の目からも涙《なみだ》がしきりと流れていました。燕はおどろいてちかぢかとすりよりながら「どうなさいました」と申しますと王子は、
「きのどくな二人だ。かのわかい武《ぶ》士《し》の言う名玉というのは今は私のひとみになっている、二つのオパールの事であるが、王が私の立像を造《つく》られようとなされた時、私のひとみに使うほどりっぱな玉がどこにもなかったので、たいそう心をいためておいでなさると悪いへつらいずきな家来が、それはおやすい御用でございますと言ってあのわかい武士の父上をおとずれてよもやまの話のまぎれにそっとあの大事な玉をぬすんでしまったのだ。私はもう目が見えなくなってもいいからどうか私の目からひとみをぬき出してあの二人にやってくれ」
とおっしゃりながらなお涙をはらはらと流されました。およそ世の中でめくらほどきのどくなものはありません。毎日きれいに照らす日の目も、毎晩美しくかがやく月の光も、青いわか葉も紅《あか》い紅葉《もみじ》も、水の色も空のいろどりも、みんな見えなくなってしまうのです。試《こころ》みに目をふさいで一日だけがまんができますか、できますまい。それを年が年じゅう死ぬまでしていなければならないのだから、ほんとうに思いやるのもあわれなほどでしょう。
王子はありったけの身のまわりをあわれな人におやりなすったのみか、今はまた何よりもたいせつな目までつぶそうとなさるのですもの。燕はほとほとなんとお返事をしていいのかわからないでうつぶいたままでこれもしくしく泣《な》きだしました。
王子はやがて涙《なみだ》をはらって、
「ああこれは私が弱かった。泣くほど自分のものをおしんでそれを人にほどこしたとてなんの役にたつものぞ。心から喜んでほどこしをしてこそ神様のお心にもかなうのだ。昔《むかし》キリストというおかたは人間のためには十《じゆう》字《じ》架《か》の上で身を殺してさえ喜んでいらっしたのではないか。もう私は泣かぬ。さあ早くこの玉を取ってあのわかい武《ぶ》士《し》にやってくれ、さ、早く」
とおせきになります。燕はなおも心を定《き》めかねて思いわずらっていますうちに、わかい武士とおとめとは立ち上がって悲しそうに下を向きながらとぼとぼとお城《しろ》の方に帰って行きます。もう日がとっぷりとくれて、巣《す》に帰る鳥が飛び連れてかあかあと夕《ゆう》焼《やけ》けのした空のあなたに見えています。王子はそれをごらんになるとおしかりになるばかり、燕をせいて早くひとみをぬけとおっしゃいます。燕はひくにひかれぬ立場になって、
「それではしかたがございません、御《ご》免《めん》こうむります」
と申しますと、観念して王子の目からひとみをぬいてしまいました。おくれてはなるまいとその二つをくちばしにくわえるが早いか、力をこめて羽ばたきしながら二人のあとを追いかけました。王子はもとのとおり町を見下ろした形で立っていられますが、もうなんにも見えるのではありませんかった。
燕がものの四、五町も走って行って二人の前にオパールを落としますとまずおとめがそれに目をつけて取り上げました。わかい武士は一目見るとおどろいてそれを受け取ってしばらくは無言で見つめていましたが、
「これだ、これだ、この玉だ。ああ私はもう結《けつ》婚《こん》ができる。結婚をして人一倍の忠義ができる。神様のおめぐみ、ありがたいかたじけない。この玉をみつけた上は明《あ》日《す》にでも御《ご》婚《こん》礼《れい》をしましょう」
と喜びがこみ上げて二人とも身をふるわせて神にお礼を申します。
これを見た燕はどんなけっこうなものをもらったよりもうれしく思って、心も軽く羽根も軽く王子のもとに立ちもどってお肩《かた》の上にちょんとすわり、
「ごらんなさい王子様。あの二人の喜びはどうです。おどらないばかりじゃありませんか。ごらんなさい泣《な》いているのだかわらっているのだかわかりません。ごらんなさいあのわかい武《ぶ》士《し》が玉をおしいただいているでしょう」
と息もつかずに申しますと、王子は下を向いたままで、
「燕や私はもう目が見えないのだよ」
とおっしゃいました。
さて次の日に二人の御《ご》婚《こん》礼《れい》がありますので、町中の人はこの勇ましいわかい武士とやさしく美しいおとめとをことほごうと思って朝から往《おう》来《らい》をうずめて何もかもはなやかな事でありました。家々の窓からは花《はな》輪《わ》や国旗やリボンやが風にひるがえって愉《ゆ》快《かい》な音楽の声で町中がどよめきわたります。燕はちょこなんと王子の肩にすわって、今馬車が来たとか今小児が万《ばん》歳《ざい》をやっているとか、美しい着物の坊《ぼう》様《さま》が見えたとか、背《せい》の高い武士が歩いて来るとか、詩人がお祝いの詩を声ほがらかに読み上げているとか、むすめの群《む》れがおどりながら現われたとか、およそ町に起こった事を一つ一つ手に取るように王子にお話をしてあげました。王子はだまったままで下を向いて聞いていらっしゃいます。やがて花よめ花むこが騎《き》馬《ば》でお寺に乗りつけてたいそうさかんな式がありました。その花むこの雄《お》々《お》しかった事、花よめの美しかった事は燕の早口でも申しつくせませんかった。
天気のよい秋びよりは日がくれると急に寒くなるものです。さすがににぎやかだった御《ご》婚《こん》礼《れい》が済みますと、町はまたもとのとおりに静かになって夜がしだいにふけてきました。燕は目をきょろきょろさせながら羽根を幾《いく》度《ど》か組み合わせ直して頸《くび》をちぢこめてみましたが、なかなかこらえきれない寒さで寝《ね》つかれません。まんじりともしないで東の空がぼうっとうすむらさきになったころ見ますと屋根の上には一面に白いきらきらしたものがしいてあります。
燕はおどろいてその由《よし》を王子に申しますと、王子もたいそうおおどろきになって、
「それは霜《しも》というもので――霜と言う声を聞くと燕は葦の言った事を思い出してぎょっとしました。葦はなんと言ったか覚えていますか――冬の来た証《しよう》拠《こ》だ、まあ自分とした事が自分の事にばかり取りまぎれていておまえの事を思わなかったのはじつに不《ふ》埒《らち》であった。長々御世話になってありがたかったがもう私もこの世には用のないからだになったからナイルの方に一日も早く帰ってくれ。かれこれするうちに冬になるととてもおまえの生命は続かないから」
としみじみおっしゃいました。燕《つばめ》はなんでいまさら王子をふりすてて行かれましょう。たとえこごえ死にに死にはするともここ一《ひと》足《あし》も動きませんと殊《しゆ》勝《しよう》な事を申しましたが、王子は、
「そんなわからずやを言うものではない。おまえが今《こ》年《とし》死ねばおまえと私の会えるのは今年限り。今日ナイルに帰ってまた来年おいで。そうすれば来年またここで会えるから」
と事をわけて言い聞かせてくださいました。燕はそれもそうだ、
「そんなら王子様来年またお会い申しますから御《ご》無《ぶ》事《じ》でいらっしゃいまし。お目が御不自由で私のいないために、なおさらの御不自由でしょうが、来年はきっとたくさんのお話を持って参りますから」
と燕は泣く泣く南の方へと朝晴れの空を急ぎました。このまめまめしい心よしの友だちがあたたかい南国へ羽をのして行くすがたのなごりも王子は見る事もおできなさらず、おいたわしいお首《つむり》をお下げなすったままうすら寒い風の中にひとり立っておいででした。
さてそのうちに日もたって冬はようやく寒くなり雪だるまのできる雪がちらちらとふりだしますと、もうクリスマスには間もありません。欲《よく》張《ば》りもけちんぼうも年寄りも病人もこのころばかりは晴れ晴れとなって子どものようになりますので、かしげがちの首もまっすぐに、下向きがちの顔も空を見るようになるのがこのごろです。で、往《おう》来《らい》の人は長々見わすれていた黄《こ》金《がね》の王子はどうしていられる事かとふりあおぎますと、おどろくまい事かすき通るほど光ってござった王子はまるで癩《らい》病《びよう》やみのように真《まつ》黒《くろ》で、目は両方ともひたとつぶれてござらっしゃります。
「なんだこのぶざまは、町のまん中にこんなものは置いて置けやしない」
と一人が申しますと、
「ほんとうだ、クリスマス前にこわしてしまおうじゃないか」
と一人がほざきます。
「生きているうちにこの王子は悪い事をしたにちがいない。それだからこそ死んだあとでこのざまになるんだ」とまた一人がさけびます。
「こわせこわせ」
「たたきこわせたたきこわせ」
という声がやがてあちらからもこちらからも起こって、しまいには一人が石をなげますと一人はかわらをぶつける。とうとう一かたまりのわかい者がなわとはしごを持って来てなわを王子の頸《くび》にかけるとみんなで寄ってたかってえいえい引っぱったものですから、さしもに堅《けん》固《ご》な王子の立像も無《む》惨《ざん》な事には礎《いしずえ》をはなれてころび落ちてしまいました。
ほんとうにかわいそうな御《ご》最《さい》期《ご》です。
かくて王子のからだは一か月ほど地の上に横になってありましたが、町の人々は相談してああして置いてもなんの役にもたたないからというのでそれをとかして一つの鐘《かね》を造ってお寺の二階に収《おさ》める事にしました。
その次の年あの燕がはるばるナイルから来て王子をたずねまわりましたけれども影《かげ》も形もありませんかった。
しかし今でもこの町に行く人があれば春でも夏でも秋でも冬でもちょうど日がくれて仕事が済《す》む時、灯《ともしび》がついて夕炊《ゆうげ》のけむりが家々から立ち上る時、すべてのものが楽しく休むその時にお寺の高い塔《とう》の上から澄《す》んだすずしい鐘《かね》の音が聞こえて鬼《おに》であれ魔《ま》であれ、悪い者は一《いつ》刻《こく》もこの楽しい町にいたたまれないようにひびきわたるそうであります。めでたしめでたし。
一《ひと》房《ふさ》の葡《ぶ》萄《どう》
有《あり》島《しま》 武《たけ》郎《お》
-------------------------------------------------------------------------------
平成12年10月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『一房の葡萄』昭和27年3月10日初版刊行