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受精
帚木蓬生
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受 精
吐く息が白く、毛糸の手袋の指がかじかむ。
口元に指先をもってきて、息をかけると、白さは霧のようにあたりに散った。舞子《まいこ》は明生《あきお》を思った。
あのとき蛾眉《がび》山の離れ湯まで降りて行く途中で、明生は不意に振り向き、抱きしめたのだ。互いの吐く息が混じりあい、舞子は明生の唇を受けとめた。目を閉じる直前、赤い椿の花が、庭灯の余光に浮かび上がった。
明生は口づけをする前に、何と言ったのだったか。
〈舞子さん好きだ〉〈舞子さんきれいだ〉それとも、単に〈愛している〉だったのか。
自分の耳が記憶していないのが恨めしい。
その代わり、離れ湯にはいってからの光景はすべてを覚えている。小さな裸電球に照らし出された湯の底にあった岩の石組みまで、思い出せそうだ。茶室のような造りで、湯舟が一坪、洗い場は畳一枚くらいの広さしかなく、軒下の窓からは、樹木の枝に積もった雪が見えた。湯は隅の岩の間から絶えず流れ落ち、〈飲めます〉という木札とともに、小さな竹びしゃくが置いてあった。
明生の前でそんなふうに全裸をさらすのは初めてだった。それまでは、明生のアパートでも別々に入浴し、抱かれるときでさえ明かりを消し、何かしら布をまとっていた。
しかしその湯殿では全裸こそが似つかわしく、一段高い所にある脱衣場に立ったとき、何の抵抗もなく羽織も浴衣《ゆかた》も脱ぎ捨てたのだ。
湯舟の中では遠慮がちに離れていたのに、「背中を流してあげる」と言ったのは舞子のほうだった。明生は嬉《うれ》しそうな顔で、勢いよく立ち上がり、洗い場のコンクリートの上にしゃがみ込んだ。舞子も上がり、タオルに石けんをすりこんで明生の背中に当てる。意外に力が要ることも初めて知った。「上手、上手」と言いながら明生は気持良さそうに背中を丸めた。身体《からだ》全部を洗ってやろうと思ったのはそのときだ。
前にまわってかがみ、明生の首から胸、腕と洗った。明生は黙って、されるがままにしている。「立って」と舞子から言われて、先生に命じられた生徒のように起立した。舞子は膝《ひざ》をついて、目の前の太股《ふともも》や臑《すね》にタオルをあてた。毛深くてまっすぐの明生の脚は好きだった。膝の後ろにも手をまわしてこすった。もうそのときには、明生のものが逞《たくま》しく突き出していた。舞子は自分でも知らないうちに、新たに手にした石けんをそこになすりつける。樫《かし》の木と同じだと思った。舞子の指の力では微動だにしなかった。
右側の木立のなかでバサリと音がする。雪ぼこりがたっていた。杉の枝に積もった雪が落ちたのだ。舞子は耳を澄ます。どこからか読経の声がしてくる。ひとりの声ではない。四、五人が唱和している声だ。
雪で覆われたゆるやかな石段。石段の両側に広がる杉木立のところどころに僧房があり、それぞれが独立した修行の場となっている。一般の参拝客は立ち入り禁止で、漏れ出る音で房内の様子を想像するしかない。
石段の雪には足跡がなかった。屋根に積もった雪との対照が美しい、朱塗りの山門をくぐった境内も、同様に、人が歩いた形跡はない。
コートの襟を合わせながら、足は自然に茶店の方角に向かっていた。茶店は閉まっていたが、その脇《わき》からの眺めはいつも見事だった。
かつて明生と一緒にその場に立ったとき、山裾《やますそ》から成沢《なるさわ》一帯の稲田の広がり、真庭《まにわ》湖までが一望のもとに見おろせた。平野は黄色を呈し、山肌には燃えるような紅葉と銀杏《いちよう》が点在していて、時の経つのも忘れて見入った。
いま、山も野も無彩色のなかに沈んでいる。真庭湖でさえ、黒っぽい塊でしかない。
舞子は襟元に合わせた両手に息をかける。明生が湯殿で抱いてくれた雄々しさが蘇《よみがえ》った。あのとき明生は、泡のついたままの身体で舞子を抱きしめたのだ。洗い場の上に舞子を仰向けにし、好きだ好きだと言いながら乳房に口をつけた。揉《も》みしだかれていくうちに、背中の下のセメントの硬さも、髪が濡《ぬ》れるのも気にならなくなった。樫の棒のような明生の一部がはいってきた瞬間には、アーッと声を上げていた。
明生の背は泡でぬめった。尻《しり》も同じだった。触れ合った両脚だけに、ゴワゴワと毛深さを感じた。激しい動きに、言葉さえ割れ、身体全体が揺れ続けた。初めの絶頂が来たあともそれはなかなか去らず、また新たな絶頂に襲われ、舞子は明生の名を呼んだ。気が遠くなるのをこらえていると、快感はよどみなく身体全体にいきわたり、自分が意識だけになったような気がした。
明生が何度か舞子の名を呼び、落葉が舞い落ちるように身体を預けてくると、自分はもう湖になっていた。さざ波の立つ身体で明生を抱きしめた。
あれがちょうど一年前だ。身体はまだ明生の形と温《ぬく》もりをそっくり記憶している。
舞子は椿堂に向かう。ひと所に立っているのが苦しかった。自分がつけたブーツの足跡のそばに、逆向きの跡を延ばしていく。
銅板|葺《ぶ》きの屋根が十センチほどの雪で包まれていた。まだつららも残っている。堂の左手にある椿は屋根の高さまで達して、無数の花をつけていた。葉上の雪と赤い花が色を競いあっている。
堂の正面は、左右に釣鐘の形をした火灯窓《かとうまど》が配され、中央に二枚の戸がある。手をかけると、あっけなく手前に開いた。
中は薄暗かったが、白一色の外側に対して、くすんだ木目が気持をなごませる。土間で足踏みをし、ブーツの雪を落とした。
暗がりに目が慣れてくるにつれて、仏像の輪郭が浮かび上がってくる。まるで舞子のために、奥の方から出てきたかのように、全身をさらけ出している。
不動明王は台座の上で跏坐《かざ》していた。弁髪を左に垂らし、右目を見開き、左目は半ば閉じ、口を一文字に結ぶ。右手で宝剣をまっすぐ支え持ち、軽く上げた左手には羂索《けんさく》を垂らしている。青黒く塗られた身体から発しているのは紅蓮《ぐれん》の炎だ。
木彫でところどころ虫喰《むしく》いのいたみがあるにもかかわらず、四肢体幹に漲《みなぎ》る力と、火焔光《かえんこう》に残る朱は周囲を威圧している。
「不動明王は大日如来《だいにちによらい》のもうひとつの姿だよ」
この場に立って、明生は言った。
舞子には初耳だった。寺はもとより、博物館にも稀《まれ》にしか足を運ばないので、どの仏像も同じにしか見えない。しかし不動明王だけは別で、数ある他の仏像とは、炎に包まれた異形《いぎよう》の顔相で一線を画していた。その不動明王が、優美な大日如来と同一人物であるのを知らされて、思わず明生に寄り添い、腕をとった。仏の世界が一挙に人の世界に近づいた気がした。
舞子は不動明王の左右に位置する童子の木像にも眼を移す。いずれも一メートルほどの高さで、初めの頃は朱や金で色付けされていたのだろうが、今では褪色《たいしよく》して鉄錆《てつさび》色になっている。
左側の童子は、やんちゃな餓鬼大将といった感じだ。捻《ねじ》れた棒を地面に斜めに突き立て、両手を重ね、その上に顎《あご》をのせてじっと前方を睨《にら》む。遠くからやって来る人間共を眺めながら、さてどんな意地悪をしてやるかなと思案しているような顔だ。
それとは全く対照的に、右にある童子はふくよかな表情で空を眺め、手を合わせている。いかにも子供らしい純真さと聡明《そうめい》さが出ている。不動明王の激しい炎と怒れる形相《ぎようそう》に接したあとでは、ほっとした気持になる。
明生と一緒に来た際も、舞子はこの童子に魅了された。明生には言わなかったが、結婚して子供を生むときはこんな子供をさずかりたいと内心で思い、ひとりで顔を赤らめてしまった。
明生がいなくなった今、もうそれは永遠にかなわなくなってしまった。
舞子は、不動明王を見、左側の童子に眼をやり、また右側の童子に見入る。涙が溢《あふ》れてくる。身体から力が抜けていき、立っているのがやっとだ。また振り出しに戻っていた。
何度も立ち直ろうと思い、いろんなことをした。もっとも、初めの三ヵ月はどうやって過ごしたか記憶にない。会社には行き、机の上に並ぶ書類をパソコンに作成し直し、見積書の計算もした。残業にも応じた。よくも休まなかったと思う。休めば、アパートの中に閉じこもり、死ぬことしか頭に浮かんでこなかった。これではいけないと思って、月曜から金曜日までは歯をくいしばって出勤した。その代わり、土日はパジャマも脱がずに、ベッドの上で寝ていた。目を閉じているうちに電話が鳴ると、はっとして明生からではないかと手を伸ばし、もう明生はこの世にはいないのだと気づき、愕然《がくぜん》とする。涙を拭《ふ》きながら、電話の音が止むのを待った。
しばらくたつと、買物や料理もできるようになった。しかし、商店街の人混みのなかで、スーツ姿の明生を見かけたような錯覚にとらわれた。知らぬ間に、明生の好物だったカラシレンコンを買ったりした。そんなときには買物を続ける気も失せ、そそくさとアパートに帰った。悲しみは、赤く焼けた炭火のようにいつまでも残った。
何度その繰り返しだったろう。月日は経っても、自分はその悲しみの出発点から一歩も動いていなかった。
蛾眉山に登ってみようと思ったのも、あるいはまた歩き出せるかなと考えての果てだった。ベッドの脇に重ねておいた郵便物の中味にふと眼がいき、その気になった。大判の一枚の絵葉書にすぎず、なぜそれが自分のもとに送られて来たかは分からない。明生の不幸があって後に届いたもので、舞子はそのままゴミ箱に捨てるに忍びず、枕許《まくらもと》に置いていた。ひとつはその山寺が、明生と一緒に訪れた場所であったからであり、絵葉書の写真が美しかったからでもある。うっすらと雪の降った朝に撮ったのだろうか、山の緑と雪の対比が鮮やかで、その山腹に僧房と山門、堂塔などが、枯山水《かれさんすい》の中の石のように配置されている。そして、石上に〈苦〉と〈悲〉の文字が小さく刻印されていた。
葉書の宛先《あてさき》は正《まさ》しく舞子の住所になっていた。明生と蛾眉山に登ったとき、どこかで記帳をしただろうか。いやそんな覚えはない。しかしそれ以上はこだわらず、舞子は会社に二日だけの年休を申し出て来てみたのだ。
悲しみから遠ざかろうとして、やっぱり出発点に立ち戻っていた。──不動明王と二つの童子を前にして、そう思う。
後ろで声がした。人を驚かせるような声ではなく、暖かい風がふっと襟元をぬけるような人声だった。
「不動明王が気に入りましたか」
顔は逆光になって判らなかったが、頭髪を剃《そ》り上げた僧で、どこか日本語に癖があった。
「はい。不動明王もいいですが、こちらの童子も好きです」
舞子は微笑しながら答える。僧衣の男性と口をきいたのは、生まれてこのかた初めてだ。
「そうでしょうね。あなたのようにどれかひとつ好きになってももちろん構いませんが、三つをひとまとめにして見ていただくと、不動三尊像の面白味が分かります」
舞子はこのときはっきりと、目の前の僧が外国人であることを確信する。〈ありがたみ〉と言わずに〈面白味〉という言い方をしたのだ。
案の定、窓から漏れる雪明かりに照らされた僧の顔は日本人ではなかった。鼻が高く、目が窪《くぼ》み、口のまわりに細かい皺《しわ》が刻まれている。年齢は七十歳前後だろうか。
「参拝する際、私共はまず左側の|制※[#「口+宅のつくり」、unicode5412]迦《せいたか》童子に眼を奪われます。あのこちらを窺《うかが》うような表情に、つい引き込まれるのです。そのあと、右側の矜羯羅《こんがら》童子の静かな合掌姿に眼が移り、そこでひと息つきます。可愛《かわい》げな慈悲の心に溢れるお顔ですが、まだ未完成の慈悲心でしょう。そしていよいよ、上目づかいに視線を上げると、不動明王の姿が立ち現れるのです」
僧は舞子の傍まで歩を進め、不動明王を見上げる。しゃべるときの口の動きは外国人のそれではなく、日本人の口の開け方になっている。もしかしたら自分が生きた年月よりも彼のほうが日本滞在歴は長いのではないかと、舞子は思った。
「この怒りの形相《ぎようそう》こそ、慈悲の窮極の姿です。炎は一切衆生の煩悩を焼き尽くし、私共の菩提《ぼだい》心を開発するのです」
「慈悲と怒りがどうして一緒になるのですか」
相手が日本人の僧なら訊《き》いていなかったかもしれない。外国人であれば、何か言葉を見つけてくれそうな気がした。
「慈悲というのは、棒のようにじっと立っているものではありません。戦うものなのです。外に向かっては魔障《ましよう》を寄せつけず、内に向かっては煩悩を殺さねばなりません」
僧は言いやみ、舞子を見やった。「それにしても、こんな仏の恰好《かつこう》は嫌だと、あなたは思っているようですね」
「いいえ」
舞子は首を振る。「このお不動様の本当の姿が如来様だと思うと、そのお気持が分かる気がします」
「知っていたのですか」
僧の口から意外だという驚きの声が漏れる。
教えてくれたのは亡くなった恋人ですと、舞子は胸の内で言う。涙がみるみるうちに溢れてきた。
僧は黙って舞子を見つめる。
「一緒に祈って進ぜましょう」
長い沈黙のあと、僧が言った。
木の柵《さく》を開き、中にはいる。草履を脱いで、不動明王の前に坐《すわ》った。小机の中から炉といくつかの壺《つぼ》を取り出した。
僧は舞子には理解しにくい言葉を吐いて、何度かぬかずく。しかしそのあとの語句は抵抗なく耳にはいった。
──観想せよ、如来の心はこれ実相、実相はこれ智火、炉はこれ如来の身なり。火はこれ法身の智火なり。炉の口はすなわちこれ如来の口なり。
お経には全く外国|訛《なま》りがない。張りのある低い声が堂内いっぱいに響き渡る。舞子は手を合わせた。
明生を思った。いつまでもあなたを忘れません。いいえ、できることならあなたのもとに行きたい。あなたのいないこの世など、生きていても無益です。
あのときの予感は正しかった。明生の交通事故死を聞いた瞬間、全身から血の気がひき、〈幸せはきのうまでで終わったのだ〉と考えた。時間がそこを境にして変質していた。目が見、耳が聴き、手が触れるものすべてが無意味になっていた。
それはまだ続いている。おぞましいくらいに続いている。自分は生ける屍《しかばね》も同然だ。
恐る恐る目を開ける。僧の前にある炉に火が燃え盛っていた。僧はその炎の中に、経を唱えながら、小さな木片を投げ込んでいく。そのたびに火焔が揺れ、色が変化する。
香が堂内にたちこめていた。僧が投げた香木が燃えているのだろう。
目の前の紅蓮の炎と読経の声、たちこめる香に舞子は恍惚《こうこつ》となる。
──想え、火天の御口より入って心|蓮花台《れんげだい》に至って微妙の供具となる。
──観せよ、この花、炉中に至って宝蓮花座となる。
僧は床に額をこすりつける。舞子も合掌したまま閉眼した。身体《からだ》が内側から熱くなっていく。まるで僧の唱える読経の声が、耳を通じて身体の中に燃えるものを投じていくかのようだ。
この読経がいつまでも続いて欲しい。この声と香のなかに立ちつくしている限り、身のつらさを忘れられそうだ。激しいリズムの音楽に身をくねらせているのと似ている。いやオーケストラの演じる静かな曲に身を浸しているのと同じかもしれない。どちらも明生と行った。〈ゼッタ〉というディスコには明生が連れて行ってくれたし、ウィーン・フィルの演奏も一緒に聴いた。明生と向かい合って踊るだけで楽しく、明生の隣に坐って二時間、好きな音楽が聴けると思うだけで心が躍った。こういう時間がいつまでも続けばいいと願ったのだ。
読経が終わっている。僧が立って段を降り、草履をはき直した。
「ついて来なさい」
僧が言った。命令口調ではなかった。舞子は僧の背中を見ながら、堂の外に出る。
雪が美しい。鈍色《にびいろ》の雲から白いかけらがこぼれるように落ちてきて、白一色の中に溶けこんでいく。雪のひとかけらが光の色を宿している。光が姿をとどめるために、雪になったのだ。
僧は、後ろを振り返らずに歩く。素足に草履だが、踵《かかと》が雪に埋まっては消え、また立ち現れる。くるぶしが桃色に染まっていた。
鐘楼の横を通るとき、甘い香りが匂《にお》った。舞子は立ち止まり、香りの源を探した。やはり臘梅《ろうばい》だ。まだ三分咲きくらいだろうが、白い雪をかぶりながらも、ひっそりと黄色い花びらを開いている。
「好きなんですね。この花が」
まるで舞子の足音を聞いていたように、初めて僧が向き返った。
「はい。梅よりも早く咲いて、匂いも豊かですから」
臘梅が好きだったのは明生だ。冬に咲く花は何でも愛《いと》しいと、まるで年寄りみたいなことを言った。あれは、もう先行きが短い自分の命を予感していたのだろうか。
僧は舞子の顔をしばらく凝視していたが、また歩き出す。黒い僧衣の肩に雪がうっすらと積もっていた。
岩肌のむき出した断崖《だんがい》が、目の前にそびえていた。二百メートルくらいの上方から、滝が段差をつくって流れ落ちている。水量も豊かで、境内の見所のひとつになっている。千日回峰行《せんにちかいほうぎよう》の際、この滝の裏側を必ず通るのだと、案内板に記されていたのを読んだことがある。
僧はしかし、滝の方向には目もくれず、左側の建物に向かった。手前に門があり、木の扉が半開きになっていた。立札には〈用なき者、立入りを禁ず〉と墨書してある。
僧は木扉を両側に大きく開いて、中に踏み込む。
「わたしもはいっていいのでしょうか」
舞子は訊《き》いた。
「あなたは用ある者でしょう」
僧は笑った。
門の内側は中庭になっていて、灯籠《とうろう》が四基左右対称に立っている。奥の方に大きな堂があった。
障子を張った戸が閉ざされていて、内部は見えない。
僧は雪の中庭に足を踏み込まずに、右側の回廊をたどった。三和土《たたき》に雪が降り込んでいる。僧の足元で、細かい雪が埃《ほこり》のように舞う。
「ここで履き物を脱ぎましょう」
正面にまわり、石段を上がったところで言われた。
ストッキングを通して触れた木の床は、しかし冷たくはなかった。ぶ厚い杉の板は、空気の温《ぬく》もりを吸い込んでいるかのように、ほんのりと暖かい。
二重の障子の内側にはいると、寒気が遠のく。部屋は三方が障子で、広さは二十畳か三十畳くらいはあるだろう。正面に金色のすだれがかかっていた。
障子とすだれの上方にある壁と天井は、すべて仏像の絵で埋めつくされている。曼陀羅《まんだら》を描いたものだろうか。一枚の絵ではなく、部屋いっぱいにそれがあることからすれば、この空間そのものが曼陀羅ともいえた。
僧はすだれの手前に正座した。舞子も膝《ひざ》を折り、坐った。
「ここは何をするところなのですか」
二人の間にテーブルも小机もないので、奇妙な気がした。
「このすだれの奥で、お経をあげます」
僧はじっと舞子をみつめる。静かな視線と、どっしりと坐って動かない身体は、そのまま仏像のように見えた。
「一日、ここで読経をしていると、自分というものがなくなってきます」
僧は微笑する。「この身体は確かにここに坐っているのですが、それも生きているのではなく、そこの燭台《しよくだい》、そこのすだれ、そこの柱と同じものになってしまうのです。生も死もない──」
「生も死もない」
舞子は思わず復唱していた。
「そうです。生と死の境なんて、もともとないに等しいのです。試しに、あなたの頭のなかには、生きているものだけがありますか」
僧は微笑したままの顔で訊いた。舞子は考えたあとかぶりを振る。頭を占拠しているのは明生の思い出だけだ。明生はこの世にはもういない。
「そうでしょう。頭のなかの意識というものには、生と死の区別がないのです。はじめから無なのです。あなたとこの私。この建物、外の雪。無です。夢そのものです」
「わたしが夢そのもの?」
「だって、夢は無そのものでしょう。あなたの夢を手にとって、誰か他の人に示せますか。あなたの頭のなかだけの現象。再現性がない。誰か他の人があなたを夢のなかでみるかもしれない。逆にあなたが、誰か他の人を夢のなかでみることもあるでしょう。その夢のなかには生きた人も死んだ人も区別なく出てきます。この世というよりも夢のようなものなのです。つまり無です」
僧の顔から微笑が消えている。舞子は惹《ひ》き寄せられるように僧の目を見つめた。
「無ですから、苦しみも悲しみもない。いや悲しみはあるかもしれません。無そのものに悲しみの味が秘められていますから。喜びさえも悲しみに包まれています。いや無や悲しみが外側を彩っているので、すべてが喜びの色合を帯びてくるのです。白く降り積む雪、鳥の声、岩清水の音、路傍の花──」
僧の優しい言葉づかいとは裏腹に、険しい表情が舞子の正面にあった。「逆に、無に裏打ちされない喜びなど、この世にはありません。万物の命は線香花火よりも短いし、笑いこけている劇場の床が抜けて、奈落《ならく》に落ちる。それが人の世です」
舞子は頷《うなず》く。あらゆる喜びと幸せにも結末があるという真実は、明生の死で証明ずみだった。あの瞬間、すべてが停止した。舞台の明かりが消えたように、一瞬にして舞台が見えなくなった。しかもそれは一時の停電ではなく、永遠の停電なのだ。
「無に気づくことが苦しみをやわらげ、生きている喜びを増すのですか」
「そうです。その境地が読経によってたち現れるのです」
「わたしにはできません」
舞子は力なく首を振る。
「読経は僧がするものです。あなたのような方は、読経しなくてもその境地に辿《たど》りつくことができます。簡単なことです。僧だから難しく、普通の人はたやすいのです」
まさか、と舞子は思う。僧が言うような高みに、俗世間にある人間が容易に到達できるなど考えられない。
僧は舞子の疑問を見透かしたように言い継ぐ。
「ただひとつ、信じさえすればいいのです。衆生の人々は、その信じる心だけが命綱です。あとは何にもいりません。信じる素直な心があれば、修行を積み上げた僧と素手で太刀打ちができます」
「何を信じればいいのでしょう」
「仏様です。一切の空を支えておられる仏様をです。仏様と言っても想像しにくければ、あなたがさっき見たお不動様でもいいのです。お不動様を通して仏様に近づけます。少しもむずかしくありません」
僧はまた微笑する。「そうすれば、ちょうど白黒の写真が反転するように、暗い世界が明るくなるのです。あなたがこの世で失った人々、あなたは、その人たちが、いま闇《やみ》の中にいると思っているでしょう」
僧の問いに舞子は頷く。正座している足が痛くなってよさそうなのに、どこにも苦痛を感じない。
「あの人たちは、闇のなかに葬り去られているのではないのです。ここに今も生きています。あなたが気づかないだけです。あの人たちはあなたを見、あなたに話しかけているのに」
舞子はほとんど失神しそうになっていた。明生がどこかにいて、自分に語りかけているなんて。
明生に会えるのなら、自分はどんなことだってする。
「いつでもおいでなさい」
突然、僧は話を打ち切るように言った。「一年間、休みをとることはできませんか」
「会社を休むのですか」
「そうです。いうなれば出家ですが、一年後には還俗《げんぞく》できます。あなたは何年生きてこられましたか」
「二十四年──」
「その齢で一年間、人生の小休止をするのは、素晴らしいと思いますよ。その後の人生がとてつもなく価値あるものになります」
その後の人生などどうでもよかった。明生を見ることができ、感じられ、その声を聞ければ充分なのだ。
「お金のことなど心配はいりません。仏様におつかえするのですから。あなたの信じる意志と身体《からだ》ひとつで山門をくぐって来なさい」
僧は立ち上がる。舞子の坐《すわ》っている正面の障子を開けた。
八枚くらいはある障子を、まるでスクリーンのように左右に滑らせると、さらに廊下の先に雨戸があった。一枚が幅一間分はある大きな戸だったが、僧が手をかけると、右側の方向に、いとも簡単に動き、すべて戸袋の中におさまっていく。
見事な雪景色だった。僧が招いたので、舞子は近寄り、廊下の手前で坐った。
岩と黄色がかった土塀だけの庭だ。一面に雪が積もっているので、枯山水なのか、苔庭《こけにわ》なのかは判らない。しかし目の前には三色しかない。岩と土塀の瓦《かわら》の原色、その上に敷きつめる白い雪。二つの無彩色を切り裂くように、黄橙《きだいだい》の色が高さ一メートルで横に走る。簡素きわまりない抽象画であり彫刻だ。
もう気持は定まっていた。
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朝七時にアパートを出て、勤め先には八時少し前に着く。まだ誰も来ていない。ヤカンをコンロにかけ、コピー機のスイッチを入れる。その間に室内の床を掃く。机の上も軽く雑巾《ぞうきん》がけしてやる。社員は二十名いるが、事務関係はそのうち五分の一で、あとは現場担当などで、一日顔を見せないこともある。
母方の遠縁にあたる社長が一代で築きあげた内装会社が、不況のなかでも倒れずに生き抜いてこれたのは、事業を拡げない手堅い方針のおかげだ。扱うのはビルの配管工事が主体で、注文主はホテルが多かった。とくにミヤコ・ホテルは、その揺籃期《ようらんき》からの得意先だ。大きくなって系列ホテルをもつようになってからも、水まわり関係の仕事は一手に任せてくれている。それほど仕事の出来上がりがいいという証拠には違いない。ミヤコ・ホテルからの注文には社長自身が出向いて陣頭指揮をとる。客室の水漏れや配管変更のため、夜間作業になることが多い。それでも他の注文を後回しにしてでも仕上げてしまう。ミヤコ・ホテル受注工事の魅力は、何と言っても工事完了時の現金決済で、これは他のどの取引先でもやってくれない芸当だ。
高校を出て二年間専門学校に通い、パソコンと経理を習った。就職先を探していたとき、母がこの会社で事務員を募集していると知らせてくれた。母の伯父《おじ》のいとこかなにかで、遠縁ではあるが、他人に少しばかり毛がはえた程度としか自分では思われなかった。ひとり採用するのに十人も求職者が来て、そのなかには四年制大学を出た子もいたそうだ。そんな難関をパスしたのだから、縁故採用なのかもしれない。給料は、アパートを借りて自炊し、母にも小遣いを送り、自分の身のまわりも飾れるくらいには、出してくれた。
舞子が就職するまで、その会社ではパソコンなどなかったのだが、社長の鶴の一声でさっそく富士通の機械がはいった。機器の選択も舞子に任せてくれた。但し、予算は小さく、企業用のものは買えなかった。
パソコンがはいると、それまで各自が手書きにしていた書類が、持ち込まれるようになった。見積書を出すのに、手書き文書だと受けつけない会社もあって、是非とも頼むと言われ、引き受けると、加速度的に作業量が増えた。まるでパソコン専属の事務員だ。肚《はら》を決めて、見積書や請求書、報告書など、書式を決めて簡素化し、仕事がしやすいようにした。いうなれば、他の大きな企業がとっくの昔にやっていたオフィス革命の小型版を、二十年遅れでやったようなものだ。その分、社長には感謝された。
会社には、それまで女性事務員はひとりしかいなかった。社長の二号さんで六十代半ば、経理を一手にひき受けていて、社員はひそかに五十万婆さん≠ニ陰口をたたいていた。給料の手取りが五十万円だからだ。高給取りのくせに、彼女の仕事といえば社員の給料の計算だけで、その他諸々の経理は税理士まかせ。出社してもやることがないので、十時頃出て来ておもむろに書類をひろげるともうお昼。持参の弁当をゆっくり食べて、また丁寧に歯磨きをする。午後も、三時頃から帰り仕度をして、四時には退社する。その脇《わき》で伝票の整理やら書類作成で、どんなに舞子が大童《おおわらわ》であろうとお構いなしだ。
五十万婆さんは、舞子や他の若い社員がクーラーを安易につけたがるのも嫌がった。腰が冷えて具合が悪くなるかららしい。外回りの社員にとって、涼しい会社に帰ってくるのはオアシスに辿《たど》りつくようなものだろうが、室内が屋外とさして変わらない温度だから落胆する。自分が寒いのならセーターでもオーバーコートでも着て仕事すればいい、と社員はまた陰口をきく。
そういう社員の陰口も反発も、全く歯牙《しが》にかけないところが、また彼女のすさまじさでもあった。
これだけ働いても、給料は彼女の半分にもならないのだと、五十万婆さんを見るたび、舞子は全身から力が抜けていく。同時にその恨めしさは社長にまで向き、どこが良くてああいう女を二号にしているのかと、腹立たしさよりもむしろ軽蔑《けいべつ》を覚えた。
そのうち社員は、今まで五十万婆さんのところに持ち込んでいた書類を、舞子に依頼するようになり、こともあろうに五十万婆さんまでも、ちょっとした計算を舞子に頼み出した。こんな仕事もしないで一体あなたは何をしに会社に来ているのですか、と喉《のど》まで言葉が出かかるのをぐっとこらえた。いきおい仕事は舞子のほうになだれ込み、その分五十万婆さんはますます暇になる。
暇になるからといって、彼女になにか趣味がある様子でもなかった。旅行好きでもない、観劇に行くわけでもない。お茶や踊りをしている話は聞いたことがない。かといって衣裳《いしよう》道楽でもなく、春夏秋冬その時々で、着古した洋服を取り替えるだけだ。ひとり暮らしで、貯め込んだお金をあの世まで持って行けるわけでもなし、どんなつもりでいるのだろうと、舞子はよけい腹立たしくなる。
勤め出して三年目、給料がさして変わらないのに業《ごう》を煮やして、舞子は社長に談判した。入社した頃と今では仕事の量は二倍に増えているのに、給金は横這《よこば》い、少しは考えてくれと訴えた。比較の対象に五十万婆さんのことも口にしようかと思ったが、それはやめた。
社長は舞子の直訴に驚いた様子で、当惑しながらも、考慮してみようと歯切れの悪い返事をした。しかし翌月もその次の月も、給料袋の中味は変わらず、夏のボーナスにほんの少しだけ色がついただけだった。
この黙殺には五十万婆さんがひと役買っているとしか考えられなかった。社長が彼女に相談するのは当然の成り行きであり、そこで舞子の評価がいろいろ取沙汰《とりざた》されたに違いない。
そう考えると、給料が変わらないのは彼女のせいだと思われてならない。気にかけまいと自然に振る舞っても、彼女の動きが目についてしまう。
五十万婆さんの机は舞子の左後ろにあったのだが、そのうち左肩だけが凝るようになった。朝のうちは何ともなかったのに、帰る頃になると左の後頭部から左肩にかけて、板のように固くなる。
思いあまって、郷里の母に電話をした。この十年スーパーのレジでパート勤務を続けている母親は、会社はそうしたもの、給料が思うようになる会社なんてない、何事も辛抱が肝腎《かんじん》と、却って説教を垂れた。一足す一が二にならないのが社会、能力のない者が上に立って法外な給料を貰《もら》うのも社会。母親は単純に割り切っていた。
比べるからいけないのだ。五十万婆さんを部屋の置物だと思えばいい。置物なら仕事もしないし、じっと坐っているだけ。その置物が五十万稼ぐと考えるからよくないのであり、社長が毎月そこにお供え物をしているとみなせば、さして気にかける必要もない。──舞子はそう考えることにした。
置物だから、たまに先方が口をきいても、答えなくてもいいのかもしれない。聞こえないふりをすべきだ。暑い時は暑いですと言って、断固クーラーのスイッチを入れればいい。社員が次々と頼んでくる仕事に対しては、できないものはできないと断固|突《つ》っ撥《ぱ》ねるべきだ。手当がないのだから、残業までして仕上げることもない。
そうやって戦線をたて直し始めると、身体の不調はいくらかやわらいだ。
そんな頃、アパートの近くにフィットネスクラブが完成した。基礎工事が始まった頃は、ホテルでも建つのかと思っていたが、工事現場はさして高くならず、二階建くらいで停まったので妙だなと思っていたのだ。
建物の外壁が整い出した頃、郵便受にチラシがはいった。今申し込めば入会金なし、年間二万円でプール、アスレチックとも自由に利用できるというのがうたい文句だった。二万といえば、月二千円にもならない。しかも通常なら入会金は三万円だという。はいらなければ、馬鹿をみると思い、その日のうちに仮事務所に支払いに行った。
払いを済ませたあとで、もしかしたら取り込み詐欺みたいなものではないかと心配になった。建物は完成せずに倒産になり、払い込んだ金は返ってこなかったという新設ゴルフ場の記事が新聞に載っていたからだ。
しかしその半月後の土曜日に、無事フィットネスクラブは出来上がり、舞子は午後になって出かけてみた。ちょうど桜の咲き初める頃で、辻《つじ》公園の桜を眺めて横切り、新装なったクラブまで足を運んだ。時計で正確に測っても、アパートから七分しかかからなかった。
クラブは一階が受付とプール、二階がカフェテラスとアスレチックになっていた。初日だったからか、更衣室は人で溢《あふ》れ、子供たちが走り回っていた。いざ水着に着替え、キャップをかぶってプールサイドに出てみて、予感は見事に適中した。真夏のリゾート海岸なみに混んでいたのだ。二十五メートル、十二コースは、子供用、初心者用、その他と区分けされており、ようやくその他のコースだけが、比較的空いている。
舞子は老若男女が泳ぐのを眺めながら、型通りの準備体操をした。イチ、ニ、サン、シと口の中で唱えながら手足を動かしていると、中学、高校生の頃が突然思い出された。中高一貫教育の女子高だったが、プール施設は完備していて、夏場の四ヵ月くらい、体操と言えばプールに駆り出された。高跳び込み用のプールや、シンクロ用のプールも併設され、それぞれの運動部は、全国大会にも出場するくらいの技術をもっていた。
だからコーチ陣も揃《そろ》っており、中学入学のときはカナヅチでも、六年後に卒業する際には、たいていの競泳型はこなせるようになる。舞子自身も、専門学校の合宿で海に行き、友人たちの目の前でバタフライを披露《ひろう》し、えらく感心されたのを覚えている。
プールサイドで手を振り上げ、膝《ひざ》を折っていると、そんな学校時代の光景が次々と頭に蘇《よみがえ》ってくる。
しかしあの頃と違って、担当教師の命令に従って身体《からだ》を動かさなくてもよかった。手足の動きを多少はしょっても、叱《しか》られはしない。ガラス張りの壁にあった椅子《いす》が空いたのでそこに腰をおろし、足首を丁重にまわす。こんな具合に手で足を振る動作も、久しく忘れていた。そこに足がちゃんとついている事実さえ、就職している間に頭から消え去っていたのだ。
高校や専門学校時代に比べて、腿《もも》と腰に肉がついているのにも改めて気がつく。下を向くとき、下腹に皺《しわ》ができるし、太腿を動かす際、肉の揺れ方がひどいような気もする。
それでも、舞子は自分のスタイルには自信があった。首から肩、上腕にかけてのなだらかな線も気に入っている。襟元の広く開いたTシャツを好んで着るのもそのためだ。乳房の形にも自信があった。バストは八十六か七くらいだが、アンダーバストは七十そこそこだ。学生時代よりも乳房が大きくなったのか、自分ではそれまでCカップだと思っていたのに、あるときランジェリーショップの店員に試着を命じられ、改めてDカップですよと注意された。小さ過ぎるブラジャーをつけていると、形が崩れるという。コンロに手が当たったくらいびっくりした。店員が持ってきたDカップは、なるほどそのほうが胸の谷間までぴったりと密着してくれる。それ以来、少々高くはつくが、Dカップだ。
高校時代、足を揃えて起立すると太腿の間に隙間《すきま》ができていたのが、今ではほんのかすかだが腿が触れ合う。それでも人形の足のようにまっすぐな脚には、自分でも感謝している。ミニスカートは恥ずかしいからはかない。しかし短いキュロットなら何着か持っている。Tシャツに短いキュロット、今日もその装いで来た。
体操を終えて、プールにはいる。水は冷たいが跳び上がるほどではない。この程度の水温が丁度良いのは分かっている。足で弾みをつけ、胸元まである水面に浮かび、ゆっくり手足を動かす。力みすぎると、先行する中年の男性に追突するし、あとから泳いで来る女性に水をかぶらせることになる。
二十五メートルを泳ぎ切っても息は切れていない。隣のコースに移って、また同じようにクロールで泳ぐ。
二往復ばかりしたところで、さすがに息が上がり始めた。そのままやめるのはしゃくだったから、さらに一往復し終えてプールサイドに上がった。たった百五十メートルで疲れを感じるなど歯がゆい。就職している間に体力が落ちていたのだ。五十万婆さんの顔が浮かび、自分の身体がなまってしまったのも彼女のせいのような気がした。
その後も、週三日、水土日と欠かさず通った。当初混んでいたプールも、倦《あ》いた連中が出はじめたのか、週末の午後でさえさして混み合わなくなった。体力も少しずつ回復してきて、千メートル泳いでも平気でいられる。
通い始めてひと月もたった頃だろうか。最後にバタフライで二百メートルを泳ぎきり、水から上がった。
椅子に掛けたタオルで身体を拭《ふ》いているとき、横あいから話しかけられた。
「本当にお上手ですね」
グレー無地のパンツとキャップをかぶった背の高い男性だった。「よくお会いするので、泳ぎっぷりをずっと勉強させてもらっていました」
はにかみがちに言い、隣の椅子に腰をおろした。舞子はどう答えていいものか、頭のなかで考える。毎回見られていたとは、気味悪くもあり、何か嬉《うれ》しくもある。
「もうずっと泳いでいなかったものですから」
笑いながら舞子は答えた。無理に笑ったのではなく、自然に笑顔になったのは、その男に嫌悪感を感じていないのだと気づいた。
「ぼくなんか、プールで泳ぐのは十年ぶりです。近くにこれができたので来てみました」
ひょっとしたら自分と同じ動機でプール通いを始めたのかもしれないと、舞子は思った。しかしここで住所や電話番号を訊《き》かれても、気安く口にしてはいけない。
「じゃ、ぼくもひと泳ぎ」
こちらの警戒心とは裏腹に、男はさっと立ち上がる。毛深い足が目にはいり、舞子は見てはいけないものを目にしたような気になる。一瞬視線をそらしたが、プールにはいる前の男の方をまた見てしまった。筋肉隆々というのでもない。ぶくぶくと肥ってもいない。
男は、キャップの上にあげていたゴーグルをおろして目をおおう。どことなく優しくみえていた顔がきつくなり、鋭さを増した。
泳ぎはクロールだ。形は整っている。前後の人の列に配慮しながらゆっくりと泳ぐ。息継ぎでこちら側に顔を上げるとき、見られているのではないかと思ったが、舞子はそのまま眼をそらさない。見つめていると、男が腕を前方に伸ばすたびにあらわになる黒々とした腋毛《わきげ》が妙に気になり出した。今までは、男性のその部分を見ても平気だっただけに、驚く。坐《すわ》っていられなくなって舞子は立ち上がり、プールにはいる。
男と同じクロールにするのは悪い気がし、平泳ぎは蛙《かえる》の形になるので嫌だ。かといって背泳だと、大きなバストを誇っているのだと思われる。それならまたドルフィン泳ぎしかない。しかし男まさりの泳法ではある。これも気がひけた。
仕方なく無難なクロールにした。手足を動かしながら、そんな堂々巡りのことを考えるなんて頭がどうかしていると反省する。気にしないことだ、と息を継ぐたびに自分に言いきかせた。
プールから上がると、男の姿はなかった。
シャワーを浴び、髪を乾かす。ほどよく疲れ、爽快《そうかい》だったが、どこかに忘れ物をしてきたような感覚があった。
確かに、それまでなまっていた筋肉はすみずみまで賦活されている。肺の中に澱《よど》んでいた空気でさえも、全部入れ替わった感じがある。しかしそれでも、何かおさまりのつかない感情がしこりのように残っている。
キュロットとTシャツの上にカーディガンを羽織ってカフェテラスに行ったのも、そのままアパートに帰りたくなかったからだ。
螺旋《らせん》階段を昇るとガラス張りのカフェテラスがある。混んではいないなと視線を浮かしたとき、ガラスの向こう側で手が上がった。プールにいた男が笑っていた。
ガラスの仕切りに接してテーブルが並べられ、そのひとつに男は坐っていたのだ。舞子は思わず、手をあげていた。足はひとりでにそのテーブルに向いた。
「ここに来ると思っていました。いや、来てもらいたいなと考えていたんです」
男はちょっと照れて、窓の外を指さす。
ビルの谷間に夕陽が沈みかけていた。両側とも十五階くらいの、ガラスをふんだんに使った建物で、直方体ではなく、側面に凹凸のある造りをしている。異なる形の積木をくっつけた形だ。
二つのビルの間は、低い建物ばかりで、夕陽はそこにぴったりとおさまって沈みかけている。西の空全体が茜色《あかねいろ》に染まっていた。
「ほら、のっぽのビルが、何かイースター島のモアイみたいに見えるでしょう」
そう言われると、そんな具合に見える。夕陽を背にして、ガラス造りの巨大なモアイが向かいあっている。
男が待っていたというのは自分そのものではなく、この風景を見せたかっただけなのだと、舞子は少しばかり落胆する。
気がつくとウェイトレスが注文を待ってじっと立っていた。レモンスカッシュがあるかどうか訊くと頷《うなず》いた。男はオレンジジュースを飲んでいる。
「レモンスカッシュですか。なつかしい。じゃぼくも、それを追加」
男は笑った。舞子も、初めからレモンスカッシュを飲もうと思っていたわけではない。それどころか一年以上は口にしていない。不意にそれが飲みたくなったにすぎない。
「こんな景色があったのですね」
舞子はまた窓の外を眺める。夕陽の位置がぐっと下がって、下縁が民家の屋根に接触している。
「この近くに住みながら、今まで気がつきませんでした。都会の巨大モアイ。この名所は人に言わないでおきましょう。あ、ぼくは布川です。布川明生」
男はぴょこんと頭を下げた。
「北園《きたぞの》舞子です」
下の名前まで言う必要はなかったかもしれないと後悔した。
「マイコって、舞子さんのマイコですか。いい名前です」
明生は心底感心したような顔をした。「ぴったりです」
「以前は嫌いだったのです」
答えると、明生は不思議そうな顔をした。
「何か軽薄なようで」
「軽薄ではありませんよ」
真顔で明生は否定する。
名前が好きになったのは専門学校にはいってからで、複数のクラスメートから「素敵。とりかえたいくらいだけど、こればっかりはね」と言われた。気に入り始めると、名は形を表わすで、沈み込んだり、小さく縮こまったりするのは、自分にふさわしくないと思うようになった。
しかしその後、あの会社に勤め出してからは、そうではない。明るく軽快に、の反対になりつつあるのだ。
「プールでの泳ぎぶりは、名前そのものでした」
明生はレモンスカッシュのストローに口をつけ、上目づかいに舞子を見る。「さっき螺旋階段を昇ってくるときも、そうです」
意外だった。泳ぎ疲れて、ステップにかける足だって重く感じたのだ。しかし明生の口ぶりには冗談も皮肉も混じってはいない。
「ぼくの名前は、明るく生きると書くでしょう。小さいときは別段何も考えなかったのですが、この齢になると、名前に助けられます。ほら、上を向いて歩こうとか、唇に歌をとか、心に太陽をとかいう、決まり文句と同じです。決まり文句も捨てたものではありません」
「明生、明るく生きる」
舞子は笑いながら口に出して言う。
「そうです。悪くないでしょう」
レモンスカッシュは少し味が濃すぎる。厨房《ちゆうぼう》係がまだ慣れていないのか、レモンスカッシュの注文が少ないからだろう。帰りに、ひとこと注意しておこうかと舞子は思った。いやそれはまた別の機会にしよう。そんな気の強い厚かましいところを明生には見られたくない。
「実際ぼくの仕事場は、言ってみれば陰気くさいところです」
「何をされているのですか」
「土掘り」
「土木関係?」
舞子は少しがっかりする。明生にあのダブダブズボンは似合わない気がした。
「いえ、恰好《かつこう》つけて言うと考古学、平たく言えば穴掘りと土掻《つちか》きでしょうか」
「面白そう」
舞子は思わず目を輝かす。考古学という言葉に修学旅行で見た正倉院の外観を思い浮かべ、そのあと、どこかの歴史史料館に陳列してあった素焼の土器が目にちらついた。おわんを大きくしたような土器を二つ重ねたのはカメ棺とかいう名がつけられていたような気がする。
「骨も扱うのですか」
棺の中には茶色になった人骨もあった。舞子は自分の背中が冷やりとしてくるのを感じる。
「骨は宝物です。人でも犬でも、魚の骨でも、出てきたときは心のなかで万歳を叫びます」
明生の目が子供のように光る。「陰気くさい作業も、そのときはパッと明るくなります」
骨が宝なら、それはそうだろう。舞子は妙に納得する。
「この前は、トイレが見つかりました」
身を乗り出して言ったあと、明生はスイマセンと詫《わ》びた。
「平気です」
興味を覚えながら舞子は先を促す。
「トイレも、貴重な情報がいっぱい詰まった宝物です。それこそ玉手箱。人間が食べて、完全に消化されないものが貯まっているでしょう。消化されたものでも、土壌成分を分析して、どんな食物を口にしていたか、大体の予想がつくのです」
「面白そう」
また言ってしまう。
実際、机についてパソコンを打ったり、伝票の数字の計算ばかりしているよりは、何倍も気持が沸き立つ仕事だ。
「ま、そんな宝物発見ばかり続けばいいのですけど。やっぱりどんな仕事にも嫌な面はありますよ」
明生は音をたてて、レモンスカッシュを飲み終える。「この仕事、第一お金になるものではないでしょう。それに他人から見れば、馬鹿馬鹿しいものです。道路拡張や宅地造成工事の際、何か古墳のようなものが見つかったら、市や県の教育委員会に報告しなければならない法律があります。工事をストップして、調査をするため、ぼくたちが呼ばれます。これが行政発掘です」
発掘光景は学生時代に見たことがある。道路拡張のためのブルドーザーが土を掘り返していたが、ある日を境にして工事が中断した。その日以後ブルドーザーやトラックの類《たぐい》は姿を消して、代わりに十数人の集団が、露出した土にへばりついて土をザルで集め始めたのだ。土木員の服装をした中年女性もいれば、大学生のアルバイトのようなジーンズ姿も見られた。土は既に一メートルか二メートル掘り下げられており、大小さまざまの穴が露呈していた。白くペンキのようなもので印をつけられている部分もある。雨の日には、青いシートがかぶせられた。
人力による土の掻き出しは一ヵ月弱も続いただろうか。またある日を境に、ブルドーザーとトラックがやって来て、あたり一帯砂利が撒《ま》かれ、小火口のような穴は見えなくなった。
「発掘にもお金がかかるのでしょう。費用は誰が出すのですか」
「原因者負担です。道路建設中であれば、国道か県道か村道かで、出所が分かれます。団地が建設中なら、その造成をしている不動産会社、個人住宅を建てているときは、その個人」
「それじゃ、遺跡らしいものが出ても、工事主はちっとも嬉《うれ》しくないですよね。小判がザクザク見つかるのなら別ですけど」
「だから、ケチな施工主は、遺跡らしいものが出てきても、知らん顔でブルドーザーを動かすのです。あの馬鹿でかいショベルカーで土を掘り上げてしまえば、もうただの土くれですからね」
明生の話に、熱がはいり始める。「でもそれが発覚すると罰金はとられるし、新聞には書きたてられるし、企業イメージがぐんと下がるので、この頃ではもっとズルい手をつかうようになりました」
「どんな手ですか」
「調査を早目に切り上げるのです。期間も短く、人員も少なくすれば、調査費用はぐっと安くなります」
明生は言いさしたが、もっと話したげに窓の外を見やる。夕陽はビルの間に完全に沈み、空は鈍色《にびいろ》になっていた。代わりにビルの窓がところどころ明るくなっている。
「でも、そうなるときちんとした調査はできにくいのではないですか」
「そこです、現場の研究者が悩むのは。ぼくが勤める埋蔵文化財センターは、文部省認可といっても、役所ではありません。私的企業です。助成金や寄附はありますが、委託調査が大きな収入源です。あまり金のかかり過ぎる調査をしていると、建設業者から依頼がこなくなる。しかしいい加減な調査だと、ろくな報告書は書けない。建設業者は、とにかく発掘調査を依頼して、調べるものは調べたという証明書が欲しいだけです。内容なんかどうだっていいのですよ。
センターの所長は大学の名誉教授で、考古学界の大御所ですが、今はもうセンターの財源をいかに豊かにするかが彼の関心事です。発掘は一兆円産業になっていますから、どこの研究機関でも、受注獲得に手を伸ばし始めています。お菓子に八方から蟻《あり》が集まってきている状態です」
「そうなんですか」
舞子はびっくりする。
発掘というと、俗世とはかけ離れた仙人のような世界かと思っていたが、明生の説明でヴェールがはがれた。
「センターの収入源のための発掘と、学術調査としての良心的な仕事。この二つはなかなか両立しません。ま、そんなわけで、このプールで憂さを晴らそうと思ったのです。来て良かった。舞子さんとも知り合いになれて。ありがとうございました」
明生はぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ」
舞子もつられて中学生のようにお辞儀をする。自分にも明生と同様にムシャクシャするものがあってプールに来るはめになったのだが、次元が違う気がした。自分のはたかだか五十万婆さんへのひがみが原因だ。とても明生に話せたものではない。
フィットネスクラブを出、街灯の下を二人肩を並べて歩いた。街路樹がザワザワと音をたてていた。不思議に思って足を停めると、明生が「インコですよ」と言った。
「セキセイインコが繁殖して、何十羽と樹の中に棲《す》みついているのです。もうずい分前からですよ。このあたりでは、インコもスズメみたいに珍しくなくなりました。音は気味悪いが、インコと思えば風流ですよ」
明生は樹の中を指さす。街灯の光が届くところに、小さな黒い影がいくつも蠢《うごめ》いている。そのなかの数匹に光があたり、確かにインコの黄色いくちばしと、鮮やかな羽毛の色が見分けられた。
この道は、これまでも何度となく帰りを急いだはずなのに、一度も注意を払ったことがない。それだけ外界に気が向いていなかったのだ。会社のごたごたばかりが頭のなかを占領していた証拠だ。
「じゃまた、ぼくはこっちの方ですから」
明生が不意に言った。
「おやすみなさい」
自分も手を上げて別方向に歩き始めたが、胸の内が火が消えたようになった。もっと一緒にいたかった。こんな気持になったのは初めてだ。
しかし、これからも明生には会えるはずだ。プール通いは何曜日と何曜日なのか訊《き》いておかなかったのが残念だった。
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境内の桜の蕾《つぼみ》がほんのり赤くなっていた。雪に覆われて厳しい外観を呈していた寺のたたずまいに、暖かさが感じられる。靴底の下で鳴る砂利も、どこか弾んだ音をたてる。門の根にある植込みに、黄色い水仙が一本、花をつけていた。
門をくぐると、右側は山茶花《さざんか》の生垣で、鮮やかな緑の葉の間から、白い花をいくつものぞかせている。その先に低い押し戸があって、中の庭と庵《いおり》がのぞけた。
舞子ははいるべきか迷ったが、呼び鈴らしいものもないので、そのまま飛び石をつたって、庵の前に立つ。入口の木戸の脇《わき》に釦《ボタン》がついていた。約束よりは十分ほど遅くなっていた。押す。奥の方で小さく音が鳴った。
応答がないのでもう一度押そうとしたとき、引戸が開いた。
「こんにちは」
作務衣《さむえ》を着た僧が背をかがめ、舞子を迎え入れた。雪の日に見たときは七十過ぎの老僧だと感じたが、今はそれよりも十歳は若くみえる。
「よく来てくれました。さ、どうぞ」
庵の内部は土間で、左に二間ほどの座敷、突きあたりは台所や水場になっているらしい。照明はなく、明かり窓から漏れる光だけが内部を浮かび上がらせている。
舞子は上がり框《がまち》で靴を揃《そろ》え、畳を踏む。安手の畳とは違って、弾き返すような固さがあった。
「コートは脱がなくてもいいです。まだまだ寒いですから」
そう言われてみると、庵の中の温度も外と変わらない。室内にも外気と同じような、凜《りん》とした空気が張りつめていた。
僧は障子を二枚、左右に開け放った。縁側の向こうに、庭が広がっていた。
「熱いお茶にしますか、それともコーヒーにしますか。紅茶もあります」
微笑しながら僧が尋ねる。舞子はこんな所で紅茶を飲むのも興があると思い、そう答えた。
庭に向かって正座する。枯山水で、玉砂利だけの簡素な造りだ。幅が十メートル、奥行きは五メートルくらいだろうか。突き当たりは青々とした棒樫《ぼうかし》で仕切られていた。
砂利には波の模様がついていて、四個ある石を結びつけている。その紋理をたどっていくうちに、ある形をなしているのに舞子は気づいた。
庭の手入れをするのも、例の僧の役目だろうが、模様には何か意図があるのだろうか。
樫の葉の緑と砂利の白が、見事な対比をつくっていたが、いかに常緑樹とはいえ、葉一枚、落ちていないところからすれば、ほとんど毎日、庭は清められているのに違いない。
「庭にはマンジ印が描かれているのですね」
西洋風の紅茶|茶碗《ぢやわん》が出されたとき、舞子は尋ねてみた。
「右マンジではなく左マンジです」
僧は答える。
「何か意味があるのですか」
「マンジというのは、梵語《ぼんご》の万の字です。功徳を意味します」
さらりとした答えに、舞子はそれ以上訊けなくなる。本当は、右マンジと左マンジの違いや、どうしてこの庭には左マンジを使っているかが知りたかったのだ。
「私の名前はヘルムート」
そう言って懐から名刺を取り出す。
小さな和紙の上に〈辺留無戸〉とだけ印刷されていた。
「北園舞子です」
舞子は素早くお辞儀をする。〈辺留無戸〉とは何ともお洒落《しやれ》な名をつけたものだと思う。世界の涯《はて》に留まり、戸などつけずに、誰へだてなく来客してもらう、くらいの意味だろうか。
「どうですか。しばらく通ってみることに決めましたか」
僧が訊いた。
「まだ完全には決めていません。どうするか決めようと思って、来させてもらいました」
舞子が恐る恐る言うと、僧は深々と頷《うなず》く。なじるような表情は微塵《みじん》もなかった。
紅茶は、日頃口にしている味とは違い、数種類の香料が混じっている。シナモンかキャネルか考えているうちに、気持がくつろいでくる。眠気ではなく、肩の力が抜けていく感じだ。
ほんの数分、石庭に向かって坐《すわ》っているだけなのに、もう何時間もそうやって庭と対峙《たいじ》している思いがする。いつのまにか自分自身が石になり、庭の一部と化している。
「舞子さん、あなたがここに来られて、喜んでいる人がいます」
不意に横合いから言われて、我に返る。僧が穏やかな視線を送っていた。二人を隔てる距離は畳一枚だ。しかし声は、十メートルも二十メートルも離れたところから耳にはいったような錯覚があった。辺留無戸の外国語|訛《なま》りのせいだろうか。
「誰が喜んでいるのですか」
「若い男の人です。名前は分かりませんが」
「そんな」
舞子は狼狽《ろうばい》する。自分が僧庵にやってくるのを、誰が喜ぶというのか。
「舞子さんは、強く心に思っている人がいませんか」
真剣な眼がこちらに注がれる。僧の目の青い光彩まで見分けられた。
「います」
金縛りにかかったように答えていた。
「その人は不慮の死に遭っているでしょう」
「はい」
胸の内で何かがはじけ、目が熱くなる。涙が出そうになるのをこらえた。
「その人が喜んでいるのです。あなたがここに坐っているのを──」
僧が低く、しかし強い声で言う。「彼はあなたを見ているはずです」
どこから?
そう尋ねようとして、言葉を呑《の》んだ。この空気が、目の前の庭が、明生なのだ。自分は明生に見つめられ包み込まれている。
「あなたも、それが分かるでしょう。彼は生きているのです」
「明生さんが?」
思わず訊いていた。
「その方は明生さんというのですか」
僧は納得したように頷く。「彼はあなたに会いたがっています」
「会えるのですか」
「会えますとも」
辺留無戸は泰然と頷く。
気を失いそうだった。明生を見ることができ、声を聞くことができれば、いやそうでなくとも、感じることさえできれば、すべてをなげ出してもいい。
「私について来なさい」
辺留無戸は立ち上がり、石庭に沿った廊下を歩み、つきあたりの壁に手をかけた。土壁が戸になっている。上下左右を閉ざされたトンネルのような廊下が、ゆるやかな下り勾配《こうばい》で延びていた。床も天井も、側壁もすべて木板で張られている。真新しい檜《ひのき》の香がした。
「死というのは形の変化に過ぎません」
辺留無戸の声が響いた。「現世の人間が勝手に名付けたものです。この宇宙の森羅万象からみれば、彼らにもやはり生があり、魂があるのです」
二十メートルも歩いただろうか。二人が鉄の扉の前に来ると、足元を照らす間接照明がひとりでに明るくなった。
「ここをのぞきなさい」
左側の板壁に、双眼鏡に似たものが突き出ている。舞子は目を当てる。展望台にある望遠鏡のような感じがする。暗かった視野が白くなり、赤い模様が浮かび上がる。先刻、石庭で眺めた左マンジだ。カチカチと鋭い音がし、模様が激しく点滅した。酒に酔ったように頭の中がしびれている。快いしびれ方だ。
眼を離すと扉が開いた。先は真白に輝いていて、何も見えない。目を慣らそうとして立ちつくしているうちに、後ろで扉が閉まった。
「振り向かないように」
背後で辺留無戸の声が制した。「私の言う通りに進めばいいのです」
有無を言わさぬ口調に、舞子は思わず「はい」と返事をしてしまう。
光に目が慣れると、前方にある物体の輪郭が浮かび上がってくる。すべてが透明な物体でできていた。迷路のように空間が仕切られているが、仕切りが透明なために遠近が判らない。壁はすべて曲面でできている。曲がった壁は一定のところで光を反射し、視野を遮っていた。
舞子は方向を探ろうとして天井を見上げる。しかし天井らしきものは見えず、透明な曲面はそのままオーロラのように上に延び、その先は闇《やみ》の奥に消えている。
「通路をそのまま歩いて」
声が言った。平らなのは透明な床だけだ。床の下も透けて、何もない。深海に張った氷の上を歩くような感じだ。
壁に寄りかかろうとして、舞子は声をあげそうになる。右腕は何の抵抗もなく曲面を突き抜けていた。透明な壁には文字通り実体がなかった。
「見える通りに歩けばいいのです」
辺留無戸の声は共鳴音を帯びている。幾重もの壁にぶち当たって響くように、残響が声のまわりにくっつく。
「恐いことなんかありません。私がついていますから。そう、通路のままに、左へ行き、右に曲がり、決して急がなくていい」
身体《からだ》を左右に捻《ひね》り、足を踏み出していくうちに、舞子は自分が踊らされているような錯覚にとらわれる。ダンスの相手に動きを任せ、右に回転したり、また左に回ったり──。
実際にはどれだけ歩いたか分からなかった。目の前に透明なガラスでできたテーブルがあった。テーブルにしては低いなと思ったとき、「そこに横になりなさい」という声がした。声の主を捜したが、周囲には誰もいない。
「迷うことはありません。横になって」
空間のどのあたりに自分がいるのかは、全く見当がつかない。
靴を脱ぎ、ガラス台の上に横になる。スカートの裾《すそ》が気になって、固く両脚を閉じた。四角いガラスの塊の上に頭部をのせる。上半身が少しずつ沈んでいく感覚がした。
天井の高さが判らないので、建物の内部にいる感じがしない。大地の上にこしらえられた迷路に迷い込んだ気分だ。
それでも妙に落ち着いていられるのは、何重にも周囲に重なっている透明な曲面の壁のおかげだろう。
「目を閉じて。ここで眠ると思えばいいのです」
辺留無戸の声に従った。頭の周囲でまたカチカチという鋭い音がする。頭をフードのような物が覆ったような気配がした。
あのときの感じに似ていると舞子は思う。顔が赤くなる。確かにあのときだ。明生に付き添われて産婦人科を訪れた。春の初めだ。あるべきはずの生理が、十日過ぎても始まらず、思い余って明生に打ち明けた。明生は一瞬真剣な表情になり、「はっきり診察してもらおう」と言った。
産婦人科は明生が見つけてくれた。ビルの谷間にひっそりと建つ医院で、駐車場もない。院長一家は車は持たないのだろうかといぶかしく思ったのと、紅《べに》かなめの生垣の内側から、はっとするくらい鮮やかな紫色をした花蘇芳《はなずおう》が三メートルか四メートルの高さに伸びていたのを覚えている。産婦人科に、この生垣の朱色と蘇芳のどぎつい紫色はふさわしくないのではと、明生と並んで敷地内にはいりながら考えた。
待合室に三人ばかり先客がいるのを見て安堵《あんど》した。明生は落ち着いた態度で、しかも目立たないようにソファーに腰をおろし、女性週刊誌に見入った。誰の眼にも新婚の若夫婦に映るだろうという気がして、舞子は明生がついて来てくれたことに心の内で感謝した。
血液検査と尿検査のあと、改めて診察室に呼ばれたとき、明生が何故この医院を選んだのか分かった。院長は五十代半ばと思われる女性だった。暗がりで横になり下腹部を出して超音波の検査を受けるのも、相手が同性だと思えば、恥ずかしさも十分の一くらいになる。優しい声に従って診察台の上で足を開き、内診を受けた。これが男性医師だったら何倍もの屈辱感と羞恥心《しゆうちしん》を感じるに違いないと思った。
「妊娠はしていませんよ。生理が遅れているだけです」
診察が終わって告げられた。舞子のほうではほっとしたのに、院長は若夫婦の期待が空振りに終わったのに同情する口調だった。
「一週間後には他の検査結果も出ますから、電話を入れて下さい」
はいと答え、丁重に頭を下げていた。待合室に戻ると、明生が雑誌から顔を上げた。その瞬間、はかりごとを思いついたのだ。
受付で料金を払う間も深刻な表情を崩さず、玄関では黙って靴をはく。
庭の内側から眺める花蘇芳は、松の後方で、そこだけ原色の絵の具で塗りたくったように紫色に染まりきっていた。
「できているって」
悲しそうでもなく、ましてや嬉《うれ》しそうでもない口調で言った。
「やっぱり」
明生は低く答えた。舞子はその横顔をちらりと見る。何か考えている様子で、五、六歩行ってから口を開いた。
「嬉しいな。びっくりしたけど、こんなことって、初めから予感していたような気もする。一足す一が二になるくらい、当たりまえの理屈だしね。ぼくと舞子の結晶が、とうとうできたのだ。本当に、一足す一は二だった。舞子とぼくの足し算。素晴らしい足し算」
何かをふっ切ったように、晴れ晴れした顔で舞子の目を覗《のぞ》き込む。
その瞬間、舞子は明生を試した自分が嫌な人間に思えた。
「ごめん。嘘《うそ》言って」
白状したとたん、涙がすっと溢《あふ》れてきて、明生にすがりつく恰好《かつこう》になった。明生は歩みを停め、舞子の身体を受けとめる。
「そうか。まだ足し算にはならなかったんだね。泣くことなんかない。辛《つら》い思いをさせちゃったね」
肩をポンと叩《たた》いた。「でもいずれ、足し算ができるよ。楽しみが延びたと思えばいい」
この人はいつでも自分と一緒になる気持でいるのだと、舞子はそのとき感じた。
明生は舞子の涙をハンカチでぬぐう。産婦人科医院にはいる前の、糸のからまったような気持が、真直ぐになっている。もうこの人に自分の一生を預けるのだと、舞子は心のなかで言いきかせる。誰がなんといっても、この明生についていくのだ。たとえ明生が事故に遭って半身不随になっても、勤め先をクビになっても、自分が汗みどろになって、食べさせていってやる。
並んで歩きながら、舞子は自分の気持を固めていた。
「何か食べようか」
明生から言われて、急に空腹を感じた。「何が食べたい?」
「何でも、でもめん類はいや」
「どうして」
「分からないけど」
こんな特別な日に、ツルツルと口の中にかき込んでしまう食事なんて味気ないというのが本心だ。
「新しく建ったビルの二階に中華料理店がある。行ってみようか。昼だから飲茶《ヤムチヤ》がバイキングになっている。看板に書いてあった。まだサーヴィス期間かもしれない」
明生の手を握って歩きながら、甘いものが食べたくなる。杏仁《アンニン》豆腐もいいし、胡麻《ごま》団子やエビシュウマイもいい。今なら二人前くらい食べられそうだ。
幸い料理店は開店セール中で、飲茶のバイキングが千二百円で食べられた。そのうえ、十二時前なので先客も少なく、ゆっくりと好きな料理を皿に載せられた。
「まるで曼荼羅《まんだら》のようだね」
テーブルに向かい合って坐《すわ》ったとき、舞子の皿を見て明生が言った。「それも仏さんたちが窮屈そうに坐っている」
自分では白い皿に、なるべく見た目がよくなるように、八種類くらいの料理を並べたつもりだったが、ひとつひとつを仏様に見立ててしまえば、様子は変わってくる。仏様の満員電車だ。
「お腹はどうせすぐに空くから平気」
負け惜しみを言って、まず大好きな胡麻団子をひとつ口に入れる。そういえば一度、母とふたりで同じものを作ったことがあった。白玉粉を水で練り、あんこはできあいのものにたっぷりと砂糖を入れて甘くする。思ったよりも難しかったのが、平たくした粉の上に適量のあんこをのせて、破れないように球形をつくることだ。下手をすれば、中からあんこがはみ出してくる。そこを塞《ふさ》ごうとすると別のところが破れる。生地が手のひらにくっつくのにも困ったが、これはサラダオイルを手のひらに塗ることで解決した。
出来上がった団子は大小さまざまで、母と笑いこけた。しかし量だけは多い。百個以上はできたのではなかったか。胡麻の上をころがして、油で揚げた。玉が浮きあがり、こんがりとキツネ色になれば完成だ。いくら好物でも百個は食べられそうもなく、隣近所におすそわけした。あとで、「あれはおいしかった。どこの店で買ったのか」と言った人もいたくらいだから、味は良かったのに違いない。
シュウマイにも舌鼓《したつづみ》をうち、あっと言う間に五個を口の中にいれた。産婦人科の診察台にあがって緊張した分、空腹になったのだ。
明生が目を丸くするのを尻目《しりめ》に、皿の上の曼荼羅を全部たいらげる。明生のほうは三個とった大学イモをまだ皿に残している。
「さあ、次は何にしようかな」
舞子は宣言して立ち上がる。明生があきれたという顔をする。
杏仁豆腐を小鉢についで、席に戻った。菱形《ひしがた》をした白いかけらが、新たな食欲をそそる。スプーンで口に入れて閉じると、舌がとろけそうだ。
「おいしい?」
明生が訊《き》く。
「おいしい」
「本当においしそうだ」
明生は笑う。
食べ終わる頃に、ようやくテーブルが混んできていた。
「バイキングは舞子と来るに限る」
勘定を済ませて外に出たとき明生が言った。「二人で三人前はたいらげるから」
「苦しい。二キロは太ったかもしれない」
「舞子の場合は少々太っても平気」
明生は握っていた手を放して、あっという間に十歩ほど駆け出す。追っていきたいけど、足がいうことをきかない。
「ほら、いい形だよ。歩く姿もかわいい」
黒っぽい服を着た中年女性が振り返って眺めるのにも構わず、明生がはやしたてる。
「馬鹿」
少し駆けて追いつこうとしたが、明生は笑いながら後ろ向きのままで後ずさりする。後ろから自転車のべルを鳴らされてようやく立ち止まった。
「近くで見る舞子もいいけど、少し離れて眺める舞子も素敵」
臆面《おくめん》もなく言われて、舞子は顔を赤くする。明生には妙な癖があって、二人きりのときよりも、電車の中や通りを歩くときに、周囲も気にせずに、おのろけを口にするのだ。
明生はまた横に並び、舞子の手を握った。道は高台まで続いているらしい。こんなところがあるなんて舞子は知らなかった。道の両側は三、四メートルの高さはある夾竹桃《きようちくとう》で、今は青々とした葉を繁らせているだけだ。夏の盛りになれば、真紅かピンクの花をびっしりとつけるに違いない。強い日射しを照り返して、それは壮観だろう。白いブラウスに深いピンクのキュロット、そして白いシューズをはいて、明生と一緒にその頃もう一度来てみたい気がする。そのとき、明生も、白いパンツにバスケットシューズをはいているのだ。
高台にはベンチがあって、海が見えた。海がこんなに近くにあるとは考えてもみなかった。白い客船が右の方からゆっくりと移動してくる。客船よりは半分くらいの大きさの黒い汽船が、反対方向から近づいていた。
「舞子は外国に行ったことは?」
「ない。明生さんはあるの」
「あることはある。でも本当に行きたい外国は、好きな人と一緒に行くためにとっておいたんだ。好きな人と見る初めての国、そのほうが感激もひとしお大きくなると思って」
「分からないでもない」
舞子はフーンと鼻で小さな息をする。
「舞子が行きたい国は」
「いっぱいある。オーストラリアのコアラ、バリ島、スペインのアルハンブラ、ベニス、イギリスのネス湖、スイスのレマン湖、イタリアのナポリ、イスタンブール、それからエジプトのピラミッド、ペルーのインカ帝国の跡、イースター島」
「何だ何だそれは。キリがない」
「でもそのくらいかな」
「パリとかロンドンとかニューヨークは」
「それはどうだっていいの。どうしてか分からないけど」
「つかめたぞ」
明生が声をあげる。「舞子が嫌いなのは寒い所と大都会」
「あらそうかしら」
「試しに、ストックホルムやオスロ、モスクワを思い浮かべてごらん」
湖まで凍ったストックホルム、小川がスケートのコースみたいに凍りつくオスロ、防寒服に着ぶくれたモスクワ。女性雑誌で見たことがあるが、考えるだけで鳥肌がたってくる。
「ほら顔に出た」
「雪や寒さはそんなに嫌じゃないけど」
舞子は反論してみる。
「それはたまたまの雪景色。年に一度か二度あるくらいの雪化粧が好きなだけ。何日もそこにいてくれといわれたら、舞子は逃げ出す」
なるほど図星だ。確かに暑いところは好きだ。ブラウスとブラジャーが汗でじっとりするのはさすがに嫌だが、Tシャツが汗の重みで垂れ下がるくらい、夏の日照りの下を歩いても気にならないし、第一、熱い砂浜で寝そべって青い空を見上げるときなど、身も心も充電されていくような気がする。
「ぼくも暑いのが好きだな。いつか舞子と旅行するなら、南方の海。沖縄、与論島、石垣島、台湾、フィリピン、バリ島」
明生が地名を口にするたびに、周囲の温度が上がっていくようだ。「でも、今日はここにしよう」
坂道を下りかけてひょいと横道にそれる。石段があって、その途中に細長い塔のような建物があった。十二、三階の高さはあるだろう。ラブホテルにしては明るく、ヘルシーな感じがする。
自動ドアの中は仕切りがあって、エレベーターも二基、互いのカップルが顔を合わせなくてもいい。
「最上階にしたよ」
パネルで部屋を選んできた明生が、エレベーターの中で十二階を押す。せり上がってくる足元を見たとき、カーペットに〈トロピカル〉という文字が書かれているのに気がつく。ラブホテルの名前は〈熱帯〉なのだ。
「熱帯行きなのね」
言うと、明生は黙って頷《うなず》く。なぜか真剣な表情だ。
十二階の廊下にはバナナの木みたいな観葉植物が配置され、その向こうでルームナンバーが点滅している。
明生がドアを開けて先にはいる。靴を脱ぎさらに奥のドアを押すと、ソファーにテーブル、スタンドバーの止まり木が見えた。左側の壁をおおうパネルには、ヤシの茂る海岸の写真が大映しになっている。
「思ったより広い。眺めもいいし」
バスルームやベッドルームを見てきた明生が言った。カーテンを開けると、また海が見える。先ほど眺められた客船も貨物船も消えていて、小さな漁船が七、八隻、散らばっているだけだ。
「飲み物は? 何でもあるよ。パッションジュースにコーラ、強壮ドリンク、ビール」
「じゃ、シャワーを浴びてからビールがいいかな」
喉《のど》はカラカラになっていたが、もう少しは我慢できる。喉が痛くなるくらい刺激的なビールのほうがおいしい。
「そうか、シャワーだけのほうがいいかもしれないね」
鏡の前で衣服を脱いでいると、明生が言う。舞子の右腕にある小さなバンソウコウに気がついたのだ。採血の注射|痕《あと》上に看護婦が貼《は》りつけてくれたものだ。
明生が温度を調節して、シャワーをかけてくれる。髪にしぶきがかからないようにするところなどはうまいものだ。
「はい回転」
明生はまるで社交ダンスの練習のように言う。身体《からだ》が向かい合わせになった。
「そのまま、そのまま」
明生はシャワーをとめ、ボディシャンプーを手のひらにつける。舞子の肩から胸元、下腹部に塗りこんでいく。背中は、自分から移動して後ろに回った。
「くすぐったい」
舞子は悲鳴を上げる。
「だめだめ。動いちゃ」
明生は腰から尻、そして脚に手のひらを滑らせていく。「もう一度、念入りに」
また正面に戻って向かい合わせになる。明生の両の手のひらが舞子の乳房をゆっくりと揉《も》みしだく。立っていられなくなって、舞子は手を明生の肩にかけた。
そのまま明生に抱きすくめられる。唇が合わさる。明生の手が背中をしっかりと押さえつけた。
「ベッドで待っていなさい」
足の力が抜けかけたとき、明生が身体を離した。改めてシャワーをかけられて、浴室を送り出された。自分が子供になったような気がした。父親に身体を洗ってもらった女の子だ。
バスタオルで肌をふき、鏡に見入る。化粧を落とした顔も、自分では気に入っている。眉《まゆ》はもともと墨など重ねなくても細くてくっきりしているし、ルージュを落とした唇もほんのりと血の気がさしている。
タオルを巻きつけてベッドまで行き、素肌のままでシーツのなかに身を入れた。明生がもうすぐ来てくれると思うと、胸が苦しいくらいに嬉《うれ》しくなる。腹這《はらば》いになって、枕許《まくらもと》のボードを操作するうちに音楽が流れ出す。何回かボタンを押してテンポの遅いクラシックに変えた。
目を閉じる。明生が浴室を出てくる様子が思い浮かぶ。
すぐに来て欲しい。いやまだ来なくてもいい。どうせ来てくれるのだから、待つ時間が長くても、その時間には嬉しさが詰まっている。
浴室のドアが開く音がする。予期した通り、ベッドが重みで沈み、空けておいた左側に明生の身体が横たわる。
まだ目を閉じていた。
「舞子、好きだよ。いっぱい愛している」
明生が耳元で言う。舞子は薄く目を開ける。明生が笑っていた。首筋に抱きついて唇を重ねる。さっき浴室で抱き合ったのと同じ姿勢が、今度は垂直から水平に変わっただけなのだと思う。水平が良いにきまっている。立っている必要なんかない。明生を抱きしめることだけに神経をつかっていられるからだ。
明生の舌が首筋から乳房へと下がっていく。声が口から出てしまう。明生の名を呼びたくなる。明生がそこにいるのを確かめたくて、頭をしっかり両手で挟みこむ。
〈明生〉
いったん声にすると、シャンパンのように、栓を開けられた口から、言葉にならない声が溢《あふ》れ出る。
〈もっともっと〉
全身で明生を感じていたかった。身を捩《よじ》り、明生をきつく抱きしめる。吐息でさえ明生とひとつになり、動きさえも共振してしまう。
もうこれ以上は待っていられない。
両の脚を大きく広げた。自分が蝶になった気がする。左右の羽根を開いた極彩色の蝶だ。脚が宙に浮く。明生の名を呼ぶごとに身体が浮き上がっていく。脚を開いたままでベッドから浮遊する。
脚が上方になり、頭の下の方になって半|宙吊《ちゆうづ》りの形だ。上方は澄みきった青空だ。雲ひとつかかっていない。首を捻《ひね》って下を見やる。海の青がある。砂浜が見える。どこだろう。
明生の姿を探した。天空の一点、あるいは海原の縁辺に明生がいるのではないかと、頭を巡らす。しかし姿は見えない。
明生は空に消え、海に同化したのだろうか。自分ひとりが空を飛んでいる。中世の画集で、こんな恰好《かつこう》の天使の姿を見たことがある。
舞子は目を開ける。透明な台の上に仰臥《ぎようが》位で横たわっている自分に気がつく。足はぴったりと揃《そろ》えていた。衣服に乱れはない。
立ち上がる。身体が軽い。充分に休息をとったあとの肉体のように、四肢のすみずみまで軽やかだ。
出ていくとき、御堂の扉のような厚い仕切りはひとりでに開いた。その先に、ほの暗い和室があった。
「ごらんになりましたか」
石庭を前にして辺留無戸が坐《すわ》っていた。
「わたしは眠っていたのでしょうか」
「眠っていたような気がしますか」
辺留無戸が穏やかな顔を向ける。「眠りではなく、現実の世界です。眠りとはどこか違うでしょう」
確かに夢とは違う。夢なら断片的で、すぐ消えるもろさがあるが、今しがた体験したことはずっしりした重みをもっている。
「いわば魂の世界。物や身体を、衣服みたいに脱ぎ捨てたあとの世界なのです。会えましたか」
「会えました」
舞子は答える。「わたしが会いたい人に」
胸が熱くなる。明生の顔、声、そして皮膚と皮膚が触れあった感触がまざまざと蘇《よみがえ》ってくる。
「その人も喜んでいるはずです。向こうからは、あなたのことはずっと見えていた。話しかけもしていたのに、あなたのほうが無視していた。今ようやく言葉を交わせたのです。もう彼を見失うことはありません」
「生きているのですね、彼は」
「もちろん」
辺留無戸が力強く頷く。「あなたにそれが見えなかっただけ。彼には見えていた。一方通行のマジックミラーのようなものでした」
明生が生きている。何と素晴らしいことだろう。明生を見ることができ、会話をすることができ、抱き合えるなんて。
このまま静かに坐っていれば、明生とは別れなくてすむ。ここを立ち去ると、もう明生を感じられなくなるのではないか。
「もう大丈夫です。あなたが彼の存在を知ったからには、どこにいこうとも、彼はあなたについていきます」
辺留無戸の柔和な顔に、うっすらと赤味がさした。心の内を読まれた気がして舞子は驚く。もしかしたら辺留無戸は、明生と自分が抱き合ったのも知っているのではないか。
「いつでも来なさい」
「週末ごとに、お邪魔していいでしょうか」
「もちろん。ずっとここに住んでも構いません」
「ずっとですか」
「そう。不動明王におつかえするのが務めです。堂内の掃除をしたり、食事をしたり、一日の決まった時間にお経の勉強をすればいいのです。今の勤めとさして変わらないかもしれません」
辺留無戸は正座して膝《ひざ》を崩さず、舞子の返事を待つかのように、視線を石庭の方にそらした。
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レースのカーテンから朝の日射しがはいり込んでいる。部屋には午前中だけしか陽が射さない。十畳ひと間のワンルームに、セミダブルのベッドとソファー、木製の本箱と食器棚、ビニールの衣裳《いしよう》ダンス、丸テーブルに籐《とう》の椅子《いす》二脚があるだけだ。三階建の建物自体は築二十年以上になるそうだが、中にいる限り新築同然だ。ローンを組み、奮発して購入したのが、ベッドとランプだった。
ランプは土台が白大理石で、ステンレスの細い軸がそこから二メートルほど立ち上がり、ゆるやかなカーブを描いて、半球型のプラスチックの笠《かさ》が、ちょうど大きな花のように垂れて床面を照らしてくれる。六万円もしたが、デパートでそれを見たとき一時間もその場から立ち去れず、とうとう十二回の分割払いで買った。勤めから帰って来て、まずそのランプをつける。服を着替えながら、どっしりとした大理石、鋼鉄のしなり、大きな花弁のような笠をうっとりしながら見つめる。あるじの帰りを待ち受けてくれるペットと同じなのかもしれない。
明生も、そのランプとベッドが気に入っていた。部屋を暗くして、ランプの微灯だけをつけ、ベッドに仰臥した姿勢で、
「ベッドとランプ、そして舞子と、この三つでぼくは王侯貴族になったみたいな気がする。大理石づくりの部屋にカーペットを敷きつめ、豪華な寝台、きれいなお姫様。ここは宮殿だ」
と言った。
実際、白いシーツにくるまれ、ほんのりと明るいランプに照らされて、素肌になった明生の身体を眺め上げていると、舞子も同じ気持になる。ここは宮殿の一室、窓を開けると遠くまで庭園が広がり、遠くの芝生の上で、鹿がじっと耳を立てている。
明生の写真はガラスの額に入れて、ベッド脇《わき》の台に置いていた。二枚のガラスで写真を挟みこみ、L字型をした黒い鉄の棒で支えるシンプルなデザインだ。二千円か三千円しかしなかったが、単純な造形が良かった。ごてごてした額縁の中に明生を押し込めるよりも、よほどいい。
明生は笑っている。九州を旅行したときのもので、何泊めかに吹上浜《ふきあげはま》のホテルに寄った。朝食を食べたあと、連れ立って海の方に行った。松林を抜けても海はまだ遠く、砂浜を手をつないで歩いていた。スポーツシューズが、細かい砂にとられてのめり込む。砂浜の陰になって海は見えず、風の合い間をぬって潮騒《しおさい》が届くのみだった。
「靴は脱いだほうがいいね、ここは」
明生は裸足《はだし》になる。舞子もスパッツだったのでストッキングははいていない。白いズック靴を脱いだ。二人とも靴はそこに置いておくつもりだ。
「靴は揃《そろ》えておかないほうがいいよ」
舞子が下駄箱にしまうように、きれいな砂の上に靴を置くと、明生が注意した。
「どうして」
「二人とも波にさらわれたら、靴を見て、人は自殺だと思う」
なるほど。
「でもわたし、自分のはやっぱり揃えておく。代わりに、明生さんのをいい加減にする」
舞子は明生の靴をいろいろ置き変えてみたあと、片方を裏返しにし、もう一方を海の方角とは斜めになるようにした。
「参ったなあ」
明生が笑う。「これじゃ、まるで淑女と酔っぱらいのカップルになってしまう」
「いいの。誰も自殺と思わないから」
また手をつないで砂の坂に立ち向かった。足の裏で崩れる砂の感触が快い。下の方からマッサージを受けているようだ。
滑りながらも、明生に引っ張られるようにして登りつめると、眼前に白い浜と海が開けた。日本にもこんな砂丘があるのかと思うほどの浜の広さだった。明生は握っていた手を放して、何か叫ぶ。一気に駆け下ったあと舞子の方を向く。舞子も走り出す。最後のところで倒れそうになり、そのまま明生の広げた腕にとびこむ。すっと身体《からだ》が宙に浮き、アイスダンスのように一回転させられてから、地上におろされた。
波打ち際まで、さらに五十メートルくらい歩いただろうか。きめ細かい砂の上に、いくつもの白い波の帯ができていた。風にその泡が飛ばされる。
「塩が泡になったものだよ、きっと」
明生が手で掬《すく》い、口で味わう。「うん、塩の花だ」
明生の口のまわりが、白い髭《ひげ》をつけたようになっておかしい。それを言うと、明生は顎《あご》にもわざと泡をつけた。
「海辺に辿《たど》りついた浦島太郎だ」
笑いながら、背を曲げて杖《つえ》をつく恰好をする。「舞子は、竜宮城から連れて帰ったお姫様」
「じゃ、わたしもお婆ちゃんになろう」
「駄目」
明生から制されたが、舞子はもう手で泡をつかみとっていた。しかしお婆ちゃんのメーキャップってどうするのだろうかと、一瞬迷う。
「玉手箱のわたしもお婆ちゃん」
泡は両方の眉《まゆ》につけた。もうひと掬いを頭にも塗りつける。
「そのままそのまま、外人の舞子になった」
明生はズボンのポケットからインスタントカメラを出して構える。「駄目駄目、いくら腰をかがめてもお婆ちゃんにはならない。はい胸を張って、海の方を見て」
注文をつけて、何ポーズも撮る。泡はいつの間にか風に吹き飛ばされてしまった。
そのときの胸をつき出した写真は、化粧品会社のモデルに似てなくもない。少し横向きにカメラを見おろしながら笑っている。
写真は、明生の写真と背中合わせにガラスに挟んでいるが、自分のを表側にしたことはない。
「明生、ちゃんと見ている?」
舞子は起き上がりながら言う。
バスルームでパジャマを脱ぎ、裸身で鏡の前に立つ。明生はそんなとき、不意に後方に現れることがあった。いつの間にか肖像写真のように二人が鏡に映っているのだ。明生が裸のときもあった。きちんとしたスーツ姿のときもある。青いスーツの前に立つ自分の裸って、エロチックだなと思った瞬間、後ろからぎゅっと抱きしめられ、明生の腕が舞子の乳房に触れた。
振り向いて、そのまま明生の胸によりかかったが、あのスーツの生地の感触と、日なたの匂《にお》いはまだ生々しく記憶している。
「明生、ちゃんと見るのよ」
あなたがいつくしんだ身体は、まだそのままにしてあるのだから。──舞子は口の中で言ってみる。
あなたが思うとき、その人はいつでも立ち現れるのです。辺留無戸はそう言った。事故の前は四六時中一緒にいることはできなかったが、確かに今では、明生のことを想像しない時などないので、常時一緒にいられるのだ。
会社勤めも苦にはならない。以前は会うのも会社がひけてからだ。今は違う。会社にも明生と一緒に行ける。パソコンで書類を完成させているときも、コピーをしているときも、お茶をいれているときも、明生と一緒なのだ。
〈明生さんにもお茶を入れてやりましょうか〉
給湯場でお湯を沸かしながら、舞子は言ってみる。
〈でも今日はまだ駄目、今度きれいな湯呑《ゆの》みを買ってくるから〉
それでも、湯呑みをすするとき、〈明生も少し飲んでみて〉と数分間そのままにして、その間他の仕事を片付ける。〈おいしかった。そう、じゃ今度はわたしの番〉そう呟《つぶや》きながら、熱い茶を口に入れる。
五十万婆さんがほとんど一時間おきに化粧バッグを取り出して、おしろいを塗り直したり、リップラインをかきなおす仕草も、大して気にはならない。
〈ほら明生、あれがよく話していたひと。さっき鏡で自分の顔を眺めていたと思ったら、今は爪研《つめと》ぎよ。さすがにマニキュアは匂《にお》いがするから塗り重ねないけど〉
舞子は上役たちもじっくり観察して、明生とひそひそ話をする。
〈サラ金から電話がかかってきたら、居ないことにしてくれと言っているあの係長。競馬にのめり込んで借金だらけなの。次のボーナス分も含めて、うちの会社に六百万円近い借金があるのじゃないかしら。その他、電話が頻繁にかかってくるサラ金も二、三ヵ所あるから、全体の借金はそうね、二千万近いのじゃないかって、課長たちは噂《うわさ》をしている〉
〈そんな風には見えないって。そうね、外見だけで人は分からないっていう見本かもしれない。口はうまいし、愛嬌《あいきよう》もいい。太っ腹なところを見せるために、時々、昼御飯も四、五人分おごってやる。でもね、ひとりでいるときの顔って、ぞっとするくらい暗いの。あるとき、彼が駅に向かって歩いているのを反対側の歩道から見たことがあるわ。声をかけることもできなかった。野良犬を思い出しちゃった。どこにも食べ物が見つからずに、首をうなだれて道を辿っている痩《や》せ犬〉
〈課長は社長に忠告しているらしいわ。このままでいると、いつか会社の金をごっそり使い込むかもしれない。どうにかするなら今ですと何度か言ったそうだけど、人が良いのか、ケチなのか、社長はなかなか決断がつかない。それも会社に借金があるからなの。クビにしてしまえば、その借金がフイになる恐れがある。雇っていれば、ボーナス毎に少しずつ返済されるからなの。でもね。またいつか、どさっと借金して、会社への負債も増えていくわ、きっと〉
〈コピーを何十枚か頼まれたときなど、やりかけの仕事があっても今はすぐに席を立つの。椅子から離れて、何歩か移動するのだって、良い運動になる。いつか明生が教えてくれたわね。坐《すわ》り続けるよりも、カロリーを消費する機会を与えてくれたのだから、むしろ感謝しないといけないって〉
〈部長からタバコを切らした、すまない買って来てくれないか、と言われても、嫌な顔をしなくてすむ。少なくとも三階の階段を登り降りしなくてはいけないし、自動販売機まで五十メートルは歩く。これだっていい運動だし、気分転換になるわ〉
明生の言ったことが、この頃になってようやく分かるようになった。聞き流していたことが、次々と蘇《よみがえ》ってくる。明生の言葉が脳のどこかに残っていて、芽が出るように今になって意識にのぼってくる。
昼休みになると、外勤の人は別にして、内勤者も、たいてい外に出ていく。弁当持参の五十万婆さんと舞子だけが、その場に残ることが多い。
弁当も、明生が好きな物を入れるようにしている。明生と知り合ってから、弁当を作ってやったのはたったの三度。レンタカーでドライブしたとき、舞子が弁当をこしらえた。難しい海苔巻《のりまき》よりは稲荷《いなり》ずしが好きなので内心ほっとした。お握りは、中にこんぶの佃煮《つくだに》を入れ、海苔で包むのを好んだ。これも大して手がかからない。おかずは、ウィンナー、トリの唐揚げ、卵焼き。ピンク色のカマボコには切り目を入れて、ワサビを少しだけ挟み込んだ。
明生が思いがけず喜んだのは、花見に行ったときだ。シートとポータブルのガスコンロは明生が持って来た。それらを大きな紙袋に入れ、さらにフライパンも持たせた。これでは花見ではなくて、貧乏人の家出のよう。ない荷物は布団だけじゃないかなと、明生は笑った。舞子は舞子のほうで、かなり重いバスケットを運んだ。
小高い丘は一面が桜の木で覆われていて、電球を連ねた照明が、樹木を結びつけるようにして帯状になっている。平たい場所はもう花見の一団が占拠するか、青いシートが敷いてあるかで、舞子たちが腰をおろしたのは、小さな桜の傍の、少し斜めになった場所だった。
「大丈夫よ、ワインとコンロを立てる所だけ水平なら」
坐りにくくてごめんという明生を舞子は慰め、てきぱきとバスケットの中味をとり出していく。
十メートルばかり離れた所にいる一団は、二十人ほどの男女混合で、真中に炭火焼きのセットを置き、あとは買って来た弁当と一リットル入りのビール数本で賑《にぎ》わっている。
一段上の平地にも別な団体が陣取り、こちらは子供もいて、どうやら親戚《しんせき》同士か、隣組が誘いあって来ている様子だ。コンロなどはなく、それぞれが自作の弁当を持ち寄り、ビールや清酒、ジュースなど、入り乱れて飲み合い、子供は大人たちの間をぬってはしゃぎ回っている。
コンロに火をつけ、フライパンを置く。バターをひく。その間に、明生が赤ワインを開ける。上等のものではなく、安売り酒屋の店先にあった一本四百八十円の代物だ。
熱くなったフライパンの中に、アサリを入れる。泥抜きは充分にすませていた。
「うまそうだ」
明生が唾《つば》を呑《の》みこみながら言う。焼鳥屋にはいって明生が必ず頼む料理が、湯豆腐とアサリのバター焼き、そして少し懐に余裕があれば、最初にナマコの酢の物だった。
「はい次はワイン」
舞子の指示で、明生がワインをアサリの上にふりかけ、さらに刻んだネギとタマネギも入れて、蓋《ふた》をする。
「用意万端だね」
明生が感心する。明生を驚かすつもりで、バスケットの中味は秘密にしていた。
「お弁当もどうぞ」
重箱二つをシートの上に並べる。卵焼き、ウィンナー、手羽先の唐揚げ、ワサビ入りのカマボコ、キュウリ入りチクワ、小さな赤カブ、枝豆と、色合も美しく詰め込んでいた。
「乾杯」
明生がついでくれたコップを当てあって、ぐっとワインをひと呑みする。チクワを頬《ほお》ばって桜を眺める。頭上にも桜、下の方の広場にも桜だ。
横にいた会社のグループがこちらを時々眺めているのに気がつく。どうやらコンロとフライパンがもの珍しいようだ。
「できたわよ」
舞子は陽気に言い、蓋を取る。バターとネギの匂いが食欲をそそる。口を開いたアサリは、大きな身をさらけ出している。小さな貝ジャクシで、紙皿につぎ分けた。
おいしそう、来年からわたしたちもあれにしない?
そんな声が舞子の耳にはいる。彼女たちにも分けてあげたいが、明生の食べっぷりを見ていると、ひとりで全部たいらげる勢いだ。
「桜にアサリとはね。そしてワイン。実にいい」
明生は手づかみでアサリを口に入れては殻を出し、ワインを傾ける。桜など後回しでもよさそうな目をしている。
ペーパータオルでフライパンを拭《ふ》き上げて、またバターをおとす。
「まだあるの?」
「あるのよ。今夜は焼鳥屋の出張なんだから」
舞子は店主よろしくまたワインをひと呑みして、フライパンの中にエビとイカを入れる。塩|胡椒《こしよう》をふりかけて蓋をする。こんなのは料理というほどのものではないのに、会社員の一団は男性までも、次は何が出てくるかうかがうような視線を投げかける。
イカだけを先に出して、また別の紙皿に盛る。
「うまい」
明生が舌鼓《したつづみ》を打つ。「小さい時から、夜店のイカ焼きを食べたくてね。でも、一度冷凍してあるところを見て不潔な気がして、買う気がしない。これは舞子の手料理だから心配ない」
「さあ、どうだか」
舞子は自分もイカをかじってみる。大丈夫だ。固くなってはいない。
「これなら白ワインが良かったかな。ぐっと冷やしたのを」
「桜にはやっぱりレッドワインよ。白は寂しい」
舞子はグラスのワインと桜の色を比べてみる。紙コップではなくて、わざわざワイングラスを持参した甲斐《かい》があった。
エビは殻を手でむかねばならない。おしぼりはビニール袋に入れて持ってきている。明生に渡すと、「用意周到、完全武装だ」とあきれ返る。
本当はいつも何か忘れる性質なのだが、花見の日取りが決まってから、頭のなかで予行練習をし、必要なものはその都度メモしておいたのだ。
下の広場ではカラオケが始まっている。周囲に配慮してか、音量はそこそこに絞っているのでさして喧《やかま》しくはない。額の禿《は》げ上がった男性が古い演歌を歌っている。
ワインが身体全体にいき渡って、良い気分になる。明かりに照らし出された桜がきれいだ。時折ヒラヒラと花びらが落ちてくる。
「満開の寸前だね」
あらかた食べ終えた明生が言った。アサリもエビもなくなり、皿にはイカが少し残っているだけだ。
「来年も来れるかしら」
舞子は思わず口にする。明生と桜、そしておいしい弁当、あとは少しのワイン。一年に一度それさえあれば、あとの日々がどんなに辛《つら》くっても、幸せな一年になる。
「来れるよ。来年もさ来年も、十年後だって、二十年後だって」
二本目のワインを真剣な手つきで開けながら明生が答える。
二十年後といえば、もうおばさんだ。三十年後になれば、おばあさんの入口に立っている。
「でも、場所は変わるかもしれないな。奈良や東京、あるいは仙台になるかも」
「場所は違ってもいい。桜の季節になったら、毎年、出かけましょう。ね」
「いいよ」
明生とまたグラスをつき合わせる。誕生日の祝いよりも、桜の祝いのほうがいい。齢を数えなくていい分、気楽だ。
そうだ、今夜桜見に行ってみよう。明生も来るだろう。舞子は身仕度をしてアパートを出る。
地下街のワイン店でシャンパンを一本買った。シャンパングラスは二個、ハンドバッグに忍ばせていた。デパートの地下食品売場で、ブリチーズを買う。
足は市内電車の方に向いていた。五時過ぎだが土曜日なので、電車は混んでいない。
終点の蛾眉《がび》山下で降りた。乗客は大半が花見に行くらしく、参道に人の列ができていた。門前の店はまだ閉まっていない。
参道奥の石段は照明がつけられ、あたかも天に登っていく階段のようだ。舞子はシャンパンを揺らさないように、胸元にかかえこむ。
石段を登りつめると、庭もライトアップされていた。夜に訪れるのは初めてで、どこか勝手が違う。空中庭園を歩くような感じがした。
桜が植えられているのは西側のゆるやかな斜面で、人もそこに群れている。
境内なので禁じられているのか、カラオケの音も響かず、人混みの割には静かだ。適当な間隔でビニールを敷き、持参の弁当を広げている。
人ひとり坐れる石が空いていた。舞子はそこにハンカチを敷いて腰をおろす。明生から教えられた通り、しばらくシャンパンの瓶は立てておく。いつか明生は、栓を抜いたシャンパンの瓶をテーブルの上に置き、ナイフの先でコンコンと瓶の腹を叩《たた》いて見せた。音がするたびに、細かい泡がどこからともなく生じて上に昇っていき、まるで手品のようだった。
芝生の上に陣取った花見客が不思議そうにこちらを見る。シャンパンが珍しいのだろうか。
チーズはもう一枚のハンカチにのせ、膝《ひざ》の上に置く。シャンパンの栓の抜き方も明生流だ。針金をほどき、左手で栓全体を包み込むようにし、右手で瓶の底をがっちりつかむ。左手は固定し、右手でつかんだ瓶を静かに回転させるのだ。コルクが指一本の幅だけ抜けたあと、今度は左手だけを使う。こねているうちに、内部の圧力でコルクがもち上がり、ほんの小さな音をたてて抜ける。そのあとも瓶を動かしてはいけない。斜めにしたまましばらく待つと、泡が溢《あふ》れ出るようなことにはならない。
「ほら、あなたが言った通りにできたわ」
舞子はシャンパングラスを傾けて、静かにつぐ。グラスの底から、小さな泡が浮き上がる。
それを眺めるのが好きだ。シャンパンをすぐ飲むなんて、もったいない。琥珀《こはく》色の液体の中から際限なく生まれ出てくる泡。まるで深海の泡を瓶の中に封じ込めていたようだろう? じっと眺めていると、不思議な気持になる。──明生は言った。
舞子もグラスを目の高さにもち上げて、泡の動きをみつめる。
「じゃ、乾杯」
グラスをかかげて、唇にもっていく。
眼を上げると、前方の山肌に滝が見えた。白い帯を垂らしたように、イリュミネーションに照らし出されている。昼間は山肌の奥に隠されていたのが、今は桜とともに山の主役になっている。耳を澄ますと、滝の音がかすかに聞き分けられた。
夜の滝をこうやって明生と二人で見るのは初めてだ。花見客も、滝を眺めやった目で、頭上の桜を静かに鑑賞する。
チーズをナイフで薄く切り分け、口に入れる。シャンパンのかすかな刺激を、チーズが柔らかく鎮めてくれる。
「明生さん、何か話して」
舞子は言うが、明生は笑っているだけだ。桜を眺め、滝に眼をやる。二人一緒にいればもう何もいらないといった横顔だ。
明生がしゃべってくれなくても幸せだ。話を聞いてくれる明生がいればいいのだ。
ここにあなたと初めて来たとき、滝の傍まで行こうかと誘われたけど、二の足を踏んだ。少し踵《かかと》の高い靴で、スカートだったから、坂を登り下りする自信がなかった。
遠くから眺めて美しく、近寄るとアラが見えてがっかりするものは多いけど、滝は違うとあなたは言った。近くにあると思った滝は、山の中にはいってしまうと、なかなかすぐには行きつけない。目を遮る杉林にはいり、岩のころがる地面を這《は》いつくばりながら歩き続ける。滝の音は少しずつ大きくなってくるのに、姿はまだ見えない。
林をぬけ切った瞬間、轟音《ごうおん》とともに目の前が開ける。眼を上げると頭上はるか上まで水の柱だ。もう少し近づく。水しぶきがかかり、風の具合で虹《にじ》ができる。音には全くリズムがない。棒のようにまっすぐな音だ。落ちる水にもリズムがない。全く同じ量の水がのべつまくなしに落下してくる。
たぶん、そのリズムのなさに、見る者は圧倒されるのだろう。あなたはそう言った。
切れめのない水、切れめのない音が、こうやって百年、千年、いや一万年も前からここにあり続けているのだと思ったとたん、時間が消えてしまう。滝を前にして、昔と今が一枚の紙のようにくっついてしまう。見る者は、時間を奪われたかたちで、滝と対峙《たいじ》するのだとあなたは言った。
だからよけい、行くのがそら恐ろしくなって、そんな重大な体験など、今はしたくない。こうやってあなたと境内を歩くだけで充分、とわたしは答えた。
なぜそんな風に考えたのか、今なら分かる。明生と一緒にいるのに、時間が消えてしまうなんて、そんなもったいないことに耐えられなかった。時間が、棒みたいになることが嫌だった。
でも、今度はあなたと一緒に滝の傍まで行ってみよう。一時間でも二時間でも、そこに立ち尽くすわ。水しぶきがかかっても、肩を寄せ合いながら。
「マイコさんではないですか」
後ろから、聞き覚えのある声が言った。
辺留無戸《ヘルムート》が立っていた。作務衣《さむえ》が暗がりに溶けこみ、顔だけが赤く光っている。
「庵《いおり》にはいって、お茶でもいかがです」
笑った眼が、舞子の前のシャンパンの空瓶に行き、また舞子の顔に戻る。酔ったのが判ったかなと舞子は頬《ほお》に手をあてる。熱くなっていた。
立ち上がるとき、足がふらついたが、そのあとは大丈夫だ。シャンパングラスを持ち出したりして、大がかりな花見なのに、辺留無戸は何も言わずに、片付けるのを手伝ってくれる。
「ちょうど良かった。今夜は大事な話があるのです」
辺留無戸が押し殺した声で言った。
折戸からはいり、石庭に面した座敷に坐《すわ》る。
月の明かりはさして強くないのに、ちりばめられた石が、妙に浮き上がって見えた。石の内部に青白い照明を埋め込んだような光り方だ。
左マンジに箒《ほうき》の目を入れられた砂が波に見えてしまう。
酔っているせいだろうかと舞子が首をかしげたとき辺留無戸が茶を運んできた。
「砂の下から青い照明をあてているのです」
辺留無戸が言った。
「石にも?」
「床の下から、水平にビームを当てています」
ほろ苦い緑茶が、酔いを醒《さ》ましてくれそうな気がした。
「さっき言われたお話とは何でしょう?」
舞子は背筋を伸ばして訊《き》く。
「あの人の子供は欲しくありませんか」
微笑を浮かべる口元とは裏腹に、眼は鋭く舞子をとらえていた。
あの人が誰を指しているかは分かった。子供というのは、自分と明生の赤ん坊のことなのだ。
「欲しいです」
つい先刻までは、そんなことは考えてもみなかった。ありえないことだと思っていたのだ。
「欲しいでしょうね。さっき二人の姿を見ていてそう思いました」
「見ていたのですか」
辺留無戸は頷《うなず》く。今度は目も笑っている。
「彼も喜びますよ、きっと」
辺留無戸は茶碗《ちやわん》を手にとり、ゆっくりひと口飲んでから、視線を石庭に向けた。
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ソウルの金浦《キムポ》空港は、首都の国際空港としてはどことなくきらびやかさを欠いている。
乗り継ぎの時間まで二時間あった。一緒に降りた日本人観光客のなかには、時間つぶしのためリムジンで市内観光に出かける者も多かった。
舞子は指定された通り、二階に上がり、VIP用のラウンジを探した。表示はすぐ見つかった。入口で航空券を見せると、係員はにっこり頷いてくれた。
ホテルのロビーに似たつくりだが、壁際には、机やパソコン、電話の揃《そろ》った事務用のコーナーもあり、白人男性がひとり、受話器に向かい英語でしゃべっていた。
窓際の椅子《いす》が全部空いている。外の景色を見たい気がして、そこに坐る。しかし、目の前は飛行場ではなく、ただの空港駐車場なので期待は裏切られた。
あとからはいってきた家族連れがソファーに坐り、ジュース・ボックスを開け、好きな缶を取り出して飲み出す。中年の父親はビール缶だった。
舞子も立って行き、人参の絵柄のついた缶ジュースを選んだ。ハングル表示だから何ひとつ読めない。飲んでみると、案の定、人参ジュースだが、薬草の味が舌に残る。いかにも韓国風だと思った。
駐車場には、ひっきりなしに車が出入りしている。一般乗客用ではなく、空港出入りの業者のための駐車場らしく、バンや商用車が多い。車が一台出口を塞《ふさ》いでいる。建物から出て来た男は、自分の車の前にあるその乗用車を手で押して通路を空け、何事もなかったように出て行った。サイドブレーキが引かれていないのだ。そこへまた別の小型トラックがはいり込み、さらに入口を、あとから来た乗用車が平気で塞ぐ。
今度はその前に停めていた乗用車に運転手が戻って来て、前後の車を丁寧に押しのけて間隙《かんげき》を作り、そそくさと出て行く。
日本を出るのは初めてなのに、日帰り旅行をするかのように平常心でいられるのが不思議だった。
病院があるのはブラジルだと辺留無戸から知らされたときは、さすがに驚いたが、それも次の瞬間には、納得していた。サンパウロからさらに四時間東に飛んでサルヴァドールに着く。病院はそこから車で一時間半の海辺にあるらしかった。
「旅費も滞在費も、すべて用意してあげます。あなたは、大船に乗った気持でそこに行き、無事に赤ん坊を生めばいいのです。周囲の人には一年間の留学だと言っておいたらどうでしょう」
石庭を前にして、辺留無戸は笑いかけた。実際、途方もない大船、跳んだりはねたりしてもびくともしない、空母のような大船に乗っているような気分になった。
パスポートもひとりで取りに行ったし、東京のブラジル大使館に電話をして、必要書類を揃えて、郵送でビザ申請もした。
「妊娠したら一度日本に戻って、また出国してもいいのです」
辺留無戸は、スケジュール表と片道の航空券を舞子の前に置いた。
飛行機はソウルで乗り継ぎになっていた。
「ソウルで、もうひとり、あなたと同じ目的でブラジルに行く女性が乗ります」
数枚重ねの航空券をもの珍し気に眺めている舞子に、辺留無戸は言い添える。
「そうすると、その病院には、いろんな国からの人が集まってくるのですね」
「そうです。世界で唯一、その病院だけが技術をもっているのです。いいところです。白い砂の海岸が何キロも続き、ヤシの林が海辺を縁どりしています。ほらちょうど、日本の海岸に松林があるでしょう。松の代わりにヤシがあって、その緑の中に病院が建てられています」
「行ったことがあるのですか」
舞子は訊いた。
「四年前でしたか、そのときはまだ建設中でした」
辺留無戸は太鼓判を捺《お》すように、ゆっくり頷いた。
会社には辞職願いを出した。理由を訊かれて、一年間アメリカにホームスティをしに行くのだと答えた。本当は南米だが、アメリカには変わりはない。びっくりした社長は、戻ってきたらまた働くように言ってくれた。あの五十万婆さんも同じことを口にしたが、舞子は内心で、あなたがまだそこに居続けているかぎり再入社なぞする気にならないと、舌を出した。
社員たちは、いきつけの居酒屋で送別会を開いてくれた。ビルの地下にあるその店は魚料理が専門だが、宴会のときなどコースで頼むと味が落ち、単品でとったほうが値段もさして変わらないのにうまかった。もちろんそのときも単品で頼み、舞子はしばらくの食べおさめだと思い、初めから毛ガニと格闘した。社長と五十万婆さんも少し遅れてかけつけた。てんでに短い挨拶《あいさつ》をしてくれたが、いつの間にか、自分がシンデレラガールか、一念発起の勉強家にされていることに気がついた。カナダの一富豪にメイドの仕事はないかと手紙を書いたところOKの返事が来た。ホームスティをしながら、近くの大学で英語の勉強をするのだ。おめでとう。偉くなっても、このちっぽけな会社で働く自分たちを忘れないでくれ。そんな具合だ。
最後に立たされた舞子は、新大陸に行くとか人生の勉強のやり直しとか大袈裟《おおげさ》なものではなく、少しばかりの休暇です、と答えた。これがまた、なるほどと社長たちを納得させた。恋人に急死された痛手を癒《い》やしに外国に行くのだと、思い直されてしまったようだった。
訂正する気もおこらなかった。
明生は一緒なのだ。生きている。彼がついているから不安も感じない。
ハネムーンと同じなのだ。遠いブラジルにハネムーンに行き、そこで妊娠する。
実家のほうには、辺留無戸に言われた通り短期留学だと手紙で知らせた。行く先はどこか、期間はどのくらいか、費用はどうなっているのか、一度帰ってきたらどうかと母親から返事が来たので、電話をかけ、急に決まった話なので帰る余裕はない、費用の心配もいらない、向こうに着いたら手紙を出すと答えた。
娘がホームスティで外国に行く話など、田舎でも珍しくもなくなっている。ブラジルというと昔は移民船がよく出ていたけど、今は留学なんだね、と母親は妙なところで感心していた。
ブラジルについては、舞子自身も大して知らない。サッカーが強い国、赤道に近いところにアマゾン川が流れている。あとはリオのカーニバルの様子を、週刊誌のグラビアで見たくらいだ。
広すぎて、日本の観光案内書もほんの一部だけを載せているに過ぎません、行ってあなたの目で見るのが一番、と辺留無戸は陽気に口元をゆるめた。それでも舞子は地図のはいったガイドブックを一冊買ってきて、辺留無戸に見せた。せめて、病院がどのあたりに位置するかくらいは、知っておきたかった。
この辺です、と彼はサルヴァドールの北の海岸を指さした。地図の上には地名も書き込まれていない。アマゾン川の長さだけがやたらと目立つ。舞子はそれ以上|詮索《せんさく》するのをやめた。
「途中何があっても心配はいりません。飛行機の中はちゃんと乗務員が面倒みてくれるし、現地につけば、エスコート要員がいます」
辺留無戸は言った。要員という言葉が僧侶《そうりよ》の口から漏れたのを、舞子は奇妙なとりあわせだなと思った。
このラウンジ内にも、要員がそれとなく配置されているのだろうか。舞子はそっと室内を見回す。受付にいたのは制服の職員で、衝立《ついたて》の陰になって見えない。ソファーには先刻の家族連れと、中年のビジネスマンらしい四人組、ディスプレイと電話のついたコーナーに坐っているのは白髪の紳士、コーヒーコーナーのストゥールには中年男性と若い女性のカップルが腰かけている。
ひとりでいる白髪の紳士は七十歳くらいだろう。コーヒーサーヴァーの前ですれ違ったとき、男性香水の匂《にお》いがした。白人はこんな年齢になっても香水をつけるのだろうかと思った。
どこにも要員らしい者はいない。要員が配置されるのは飛行機に乗ってからだろうか。搭乗券を取り出してみる。プレスティージ・クラスと書いてある。エコノミー・クラスでないのは確かだ。旅費も滞在費も出していない丸抱えの旅行なのに、申し訳ない気がする。費用はいったいどこから出ているのだろうか。
それを尋ねると、辺留無戸は平然として、心配いりません、教団は信者を援助するくらいの資金は充分にあるのです、と答えた。本来なら、信者が教団になにがしかのお金を納入するのが通例だろうが、舞子はびた一文支払ったこともない。第一、信者になったという取り決めさえもしていないのだ。ただ辺留無戸の僧庵《そうあん》に出入りして知り合いになったに過ぎない。
合衆国には、牧場を所有し、スーパーマーケットのチェーン店を経営する裕福な教団があるとも聞く。辺留無戸が所属しているのもそういった類《たぐい》なのかもしれない。利益は、慈善事業のように、信仰の道にはいりかけた者に対して、惜し気もなく使われるのだろう。
明生も一緒だから、これはハネムーンだと思っていい。
不安にかられないのも、いつも傍に明生がついていてくれるからだ。
明生はこれまで香港とシンガポールには行ったことがある。知り合って以降はどこにも行っていない。国外に出るよりも、舞子とここにじっとしているほうが良いと、明生は笑った。でも次に出かけるとしたら舞子が行きたい所にする。それまでじっくり考えておくようにと、明生はつけ加えた。
行きたいところはたくさんあった。しかしそのなかにブラジルははいっていなかった。
「驚いたでしょう?」
舞子は明生に問いかける。
「いやたぶんこうなると思っていた」
明生は驚かない。「舞子が選ぶとしたらありきたりのところではない。きっといいところ」
真顔のまま、ボサノバ風に口笛を短く鳴らした。
セカンドバッグの中から、南米の観光案内を取り出す。書店の旅行コーナーに、何種類もの南米編があったのには驚いた。北米やヨーロッパなら当然だが、ブラジル・アルゼンチンまでもがちゃんとシリーズの中に加えられている。しかし、ブラジルのみという案内書はない。なるべくブラジルに頁を多くさき、カラー写真の多いものを選んだ。
ちりばめられた写真を眺めただけでも、ひと筋縄ではいかない広さであるのが分かる。地図では小さな国だと錯覚してしまうが、写真には、海岸あり、高層ビルあり、アマゾンありで、登場する人物も、白人から褐色の肌、黒人、東洋人とさまざまだ。いったい何がブラジルかと問われれば、世界にあるものすべてが揃っている国、それがブラジル、と旅行書は前書きで宣言していた。
本の中に一枚、海辺の写真があった。砂浜と海と空だけの単純な写真だが、左の隅に二人の人物が写っている。ひとりは子供で、しゃがんで砂遊びをしている。もうひとりはその母親だろう。子供の傍《そば》で後ろにそり返り、右手を地面につけ、左手を空に向けている。ダンスの一ポーズのようだ。身体《からだ》の線が美しい。二人とも褐色の肌で、母親の白い水着と子供の白いバケツだけが、光を反射している。
写真の説明には、バイーア地方の海岸とだけ記してある。
舞子はその一枚を眺めて想像をたくましくする。海には島影ひとつ見えない。なるほどそこは大西洋だ。白い波頭の高さを見ても、かなり強い海風が吹いている。かといって空は群青《ぐんじよう》色で、ほんの一片だけ薄い雲が浮かんだ快晴だ。黄色味がかった砂浜には、足跡がひとつとしてない。とすれば、この浜は海水浴場ではなく、ありきたりの海岸で、浜は何キロにもわたって続き、近くにこの母子の住む小さな村があるのだろう。
こんな海辺に行ってみたいと思った。明け方、あるいは陽の沈む夕方でもいい。明生と並んで、こんな渚《なぎさ》を歩くのだ。靴も脱ぎ、身につけているものも全部脱ぐ。手をつないで砂を踏みしめる。手を放して、明生の前を走っていく。また手を取りあって、波の中に進んでいく。
白亜の病院は、海岸のヤシ林に囲まれて建っているという。
仕事からも、街の喧騒《けんそう》からも離れて、何ヵ月もそんなところで暮せるなんて、夢のようだ。辺留無戸と不動明王に感謝しなければいけない。
蛾眉《がび》山の眉山寺《びざんじ》で、雪の日に見た不動明王像を思い出す。明生を亡くして悲嘆の底にいた目に、不動明王の形相は無言の救いになった。はじめ、あの真紅な口と背中の炎は、起きた不幸を怒っているように見えたが、しばらく眺めていると、嘆き悲しんでいるこちらの心を叱《しか》りつけているように思えた。悲しいだろうが、まだこの世の終わりなんかではない、顔を上げて生きよ、と不動明王は全身で語りかけていた。
如来様の慈悲|溢《あふ》れる顔と身体も、この世の中を生き抜くためには、時としてあのような険しさをまとわなければならなくなるのだ。理にあわない不幸や邪悪を叱責《しつせき》し、共に怒ってやり、一方で、うちひしがれてしまっている衆生にも、喝を入れ、鼓舞してやる。
不動明王が明生と自分を救ってくれ、その仲介役が辺留無戸だった、と舞子は思う。
出発三十分前になっていた。舞子はバッグを持って化粧室にたつ。鏡の中で化粧直しをしているとき、もうひとり女性がはいってきてキャビネットの中に身を入れた。はっとするほど美しく、エアホステスかと錯覚したほどだ。
韓国人女性はおしなべて美しかった。引き締まった身体つきで、肌も白い。しかも顔の美しさが、日本人とは異なっている。日本人女性が丸みをもった美しさだとすれば、韓国人女性は鋭角的な美しさをもっている。
ラウンジを出て、出国検査を受けたあと、二十一番ゲートの近くで待機した。韓国人旅行客に混じって日本人の旅行客も何人か目につく。やはり、顔の丸みと、ふっくらした身体つきで、その見分けは案外やさしい。なかには、英語でもない外国語をしゃべる日本人もいるが、おそらく日系のブラジル人だろう。ラフな服装で、通常の日本人とは見分けられる。
ゲートの前でアナウンスが始まる。まず韓国語、そして英語、三つめは別の女性に交代する。多分ポルトガル語だろう。なめらかで、踊っているような言葉だ。最後に日本語に切り替わって舞子はほっとする。それがなければ、何ひとつ理解できないところだった。アナウンスの内容は、五分後に搭乗を開始する、混雑防止のため、車|椅子《いす》利用の乗客と七十歳以上の高齢者、赤ん坊をつれた客を優先、ついで座席番号三十番までの乗客が先になるというものだ。
搭乗口を眺めていると、車椅子に乗っているのは若い男性で、片足がそっくりギプスにはいっている。他の怪我《けが》はないようだから、サッカーか何かをしていての骨折だろう。赤ん坊連れの母親が三人もいるのには驚かされる。二人は東洋人、ひとりは黒人だ。サンパウロまで三十時間、途中のロスアンジェルスで降りるとしても赤ん坊にとっては大変な長旅だ。
しかし赤ん坊は三人とも泣いてはいない。二人は母親に抱かれて眠っており、もうひとりも、韓国人らしい母親の胸におさまり、上機嫌で周囲を見回している。
自分もやがて、赤ん坊を抱く身になるのだと思ったが、実感が湧《わ》かない。赤ん坊は明生との愛の結晶だから、どんなにかいとおしいだろう。それは想像がつく。しかし、抱いて母乳を与えるのは、まだまだ遠い先のことのような気がしてくる。
明生と自分が結ばれてできる赤ん坊。考えただけでも、胸が熱くなる。その子のためには、何でもしてやれそうだ。どんな苦労でも引き受けられる。巣の中に残した雛鳥《ひなどり》のため、何回も何回も餌《えさ》をとっては戻る、ひたむきな母鳥。自分もあんな風になるだろう。
赤ん坊が歩くようになれば、手を引いて公園まで連れていく。海の見える高台に上がり、沖を行く船を見せてやろう。もう少し大きくなったら、プールに一緒に行ってもいい。明生と知り合った場所で、泳ぎを教えてやろう。
もう一度アナウンスがあり、番号の若い乗客が席を立って並び始めた。舞子も立ち上がる。
通路のガラス窓越しにジャンボジェットが見えた。機体の入口にいたホステスは、舞子の座席券に眼をやり、二階ですと日本語で言った。
二階席は中央に通路があり、青味がかったシートが左右に二席ずつ配置されている。そこにもホステスがいて、舞子を左前方窓際の席に坐《すわ》らせた。手荷物を棚に入れるか、これも日本語で訊《き》かれ、断った。
座席が半分ほど埋まったとき、右側に女性が坐った。ラウンジの化粧室で見かけた韓国美人だ。眼が合ったとき微笑しただけで、すぐにパンフレットに手を伸ばして読み始める。舞子もそれにならった。英語、韓国語の他に日本語の案内があった。隣の女性が読んでいるのは韓国語版だ。
長旅の間、お互いに何も話しかけられないほどつまらないものはない。英語にも大して自信はない。韓国語は文盲に等しい。漢字なら少しは通じるかもしれないと思い、バッグの中に入れた手帳を思い浮かべた。
「どちらに行くのですか」
隣の女性が訊いてきたのはそのときだ。語頭の濁音が少し清音がかって聞こえた他は、立派な日本語だった。ブラジルまでです、と舞子はほっとして答える。
「わたしもです。嬉《うれ》しいです。名前はイ・カンスンと言います」
舞子は嬉しくなって自己紹介をする。
「イ・カンスンというのは、どんな字を書くのですか」
音で覚えておくよりも、字でのほうが頭にはいりやすい。舞子はさっそく手帳を取り出した。
「このボールペン、かわいいですね」
ペリカンの顔を形どったボールペンをしばらく眺めて、白い頁に〈李寛順〉と書く。なるほど、漢字なら絶対忘れない。
李寛順はまだボールペンをしげしげと見つめ、ノックを押して芯《しん》を出し入れしている。明生がデパートの文房具店で見つけてくれた物で、形と色が気に入り、もう二年ぐらい使っている。
「ここが目で、この爪《つめ》のところがくちばしですね。本当に良くできている」
寛順は感心しながらボールペンを返した。「マイコというのはどう書きますか」
今度は舞子が同じ頁に自分の名を書く番だ。下の方にローマ字読みもつけ加えた。
「舞子というのは、芸者さんのことも言うのでしょう」
寛順が訊く。日本に関する知識も相当なものだと、舞子は舌を巻く。
「ええ、同じです。わたしは、踊りや唄《うた》など少しもできませんけど」
「姓と合わせて、いい名前。北の国に春が来て、蝶々が舞っているような」
お世辞でもない口調で、寛順は言う。「それとは反対に、わたしのほうは強い名前なのです」
「そんなふうには感じませんけど」
手帳に書かれた漢字に眼をおとす。優しそうな名前ではないか。
「この名前だと、韓国人は十人中十人、ある人物を思い出します」
寛順は言いさす。整った顔が、当惑したように舞子に向けられた。
「どんな人ですか」
「韓国のジャンヌ・ダルクです」
思い切ったように言う。「日本からの独立を唱えて運動を起こし、投獄されて死んだ女性です。亡くなったのが十六歳ですから、十代で死んだジャンヌ・ダルクと似ています。火あぶりにはなりませんでしたが、日本軍から、拷問《ごうもん》を受けて死にました」
寛順が言いにくそうにしていたのも、そのせいだったのだと舞子は思う。
「すみません」
「いいです。舞子さんが謝る必要はありません。ずっと昔の出来事です」
昔と言っても、江戸時代や明治時代の話ではない。相手の立場になって考えてみれば、やっぱりすみませんと頭を下げるしかない。
ホステスが食前酒を配り始める。プラスチック製ではあるが、ちゃんとワイングラスの形をした容器が置かれ、アルコールが注がれた。シャンパンに近い味がして、すぐにでも酔いそうな強さだ。
隣の寛順はもうグラスを空けていて、配られたメニューに見入っている。
英語とハングル、日本語で書かれているので舞子にも分かる。前菜とメインディッシュはそれぞれ三種類の中から選択できるようになっていた。料理人などいるはずがないのに、どうやって注文の品の数合わせをするか舞子は心配になる。
子羊の肉かプルコギか迷った末に、後者にした。寛順へのすまなさをこめたつもりだ。
「何だか太りそう」
舞子は正直な感想を口にする。
「本当に」
寛順も頷《うなず》く。「通路をジョギングするわけにもいかないでしょう」
「かといって、食べる量を少なくするのも難しい。出されたものは全部食べる癖がついていますから」
すらりとした身体つきの寛順に比べて、舞子のほうは丸みを帯びた体格で、二キロや三キロはすぐ増えてしまう。
「夕食は全部食べて、次の食事からは思い切り残しましょう」
何を根拠にしたのか、寛順が説得力のある提案をした。
前菜のテリーヌ、生野菜のサラダ、マッシュルームのスープ、そしてプルコギが、広々としたトレイに所狭しと置かれた。
飲み物は、ホステスがワゴンに十数種のボトルを載せて運んできて、自由に選ばせる。寛順がシャンパン、舞子は赤ワインをとった。
料理もなかなかの味で、ワインにもコクがあった。
「これだとすぐ酔っぱらいそうです」
「シャンパンもおいしいですよ」
寛順はグラスを手にして、中の泡立ちを見つめる。「ほら、小さな泡が少しずつ下から上がってくるでしょう。これが最後まで続くのが、良いシャンパンです」
明生と同じようなシャンパン通かもしれない。寛順はグラスをゆっくりと口にもっていく。
チーズは小さなカマンベールで、丸いプチパンがついていた。
「プルコギの味はどうですか」
寛順が訊いた。
「おいしいです。でも本物のプルコギは食べたことがないので、比較できません」
正直に答える。韓国料理店は年に一回行くか行かないかで、それも焼肉とワカメのスープ、稀《まれ》にクッパを頼むくらいだった。
「本当のプルコギって、日本には少なくて、普通のカルビ焼きが多いのでしょう」
寛順が言った。「舞子さんも、いつか韓国に来て下さい」
「行きます」
ワインがはいったせいか、口が軽くなっている。実際に寛順がいるのなら、行けそうな気がする。
「釜山《プサン》から高速バスで三時間のところです、わたしの田舎は」
寛順が言うのを聞きながら舞子は朝鮮半島の地図を思い浮かべる。斧《おの》の形をした国土の中のソウルと釜山の位置だけはおおよそ判る。しかし、他の地方は白地図と同じだ。
「釜山からどちらの方ですか、寛順さんの故郷は」
「西の方です。全羅南道《チヨンラナムド》の順天《スンチヨン》の近くです。それはそれは田舎で、田んぼと低い山ばかり。でもいいところ」
寛順は田舎の風景を思い出すように視線を浮かす。こんなきれいな人が田舎暮らしをしていたことがあるなんて、舞子は不思議な気がする。
「楽安《ナガン》という村で、小さな観光地です」
「温泉村ですか」
田んぼの中の観光地と言えば、舞子にはそんなものしか思いつかない。
「いいえ。古い村です」
「村?」
「三百年くらい前の村がそのまま残っています。藁葺《わらぶ》きで土壁の家に村人が住み、村の周囲は昔のままの城壁で囲まれています」
日本にも江戸時代の宿場町がそっくり保存されている地域はあるが、農村が残っているという話は聞いたことがない。
「村人は観光で生活しているのですか」
「食堂をしたりしている人もいますが、大部分は農業です。田んぼは城壁の外にあるので、城門から出て働きます。村の中は車もはいれません。村人の駐車場は城門の外にあります」
「冷暖房は?」
「暖房はオンドルですから心配いりません。冷房は扇風機ぐらいです。でも夏もそんなに暑く感じません。土壁が厚くて、庇《ひさし》が長いですから」
寛順の日本語は話せば話すほどなめらかになってくる。「城壁の中には宮殿もあるのです。宮殿といっても、村を治める王様が住んでいた所で、平屋で瓦《かわら》屋根、質素な造りです」
おとぎ話に出てくるような村のたたずまいだ。そんな村が襲撃や焼き打ちにも遭わずに、何百年ももちこたえられたとは信じ難い。
「その館の前に大きな樫《かし》の木があって、ブランコが掛けられていました。高さは屋根の三倍くらいはあるでしょうか。太い枝に毎年新しい縄を巻きつけて垂らすのです。村の青年の仕事ですが、男の子はそのブランコには乗れません」
「ブランコは女の子の遊びなのですね」
「そうです。でもやっぱり傍で見ていて乗りたくなるのでしょうね。誰もいないとき、こっそり乗っている男の子もいました。女の子の前で乗ると、女だといってはやしたてられるので、あくまでもこっそりです」
「男の子は見ているだけ、というのがいい風習ですね」
日本のゴム跳び遊びのようなものだろう。あれに男の子が加わると様にならない。
「そうやって見ているだけで大きくなった男の子が青年になると、木に登り、老人たちの編んでくれた縄でブランコを掛け替えるのです」
「その役に選ばれるのは名誉なんでしょう?」
舞子は興味を覚えて訊く。
「一年にひとりですからね。あんな高い木に登って、太い枝の上を這《は》って行くので、それは勇気がいると思います。女性でその現場を見た者は誰もいません。七月の満月の夜に掛け替えが行われるのですが、女は見てはいけないことになっています。誰かひとりでも女性が隠れ見すると、登っている男性が落ちるのだそうです」
「翌朝、ブランコの乗り初めの儀式かなにかあるのですか」
日本のしきたりだったら当然そうだ。
「ありません。日の出とともに、誰でも乗っていいのです。女の子はきれいなチマ・チョゴリを着て、ブランコの下に集まります。ヨチヨチ歩きの子供など、おじいちゃん、おばあちゃんも正装をして、一家全員に連れられて来ます。ブランコに乗っているところを一緒に写真に撮ったりもします。初めてブランコに乗る子なんか、恐くて泣きべそをかいているのですが、周りのみんなは笑って写真に写るのです」
何という美しい風習だろう。一本の木に吊《つ》り下げられたブランコが、子供たちや大人たちに年毎の思い出をつくってくれるのだ。しかもお金を出して着飾る必要もなく、豪華な料理をつくってどんちゃん騒ぎの宴を張るのでもない。それでいて、村人の心をひとつにし、老若男女の気持をなごませてくれる。
「朝日が田んぼの上にあがるのを、ブランコから眺めるのは、本当にきれいです。いつまでも見ていたいのですけど、待っている友達がいるので、替わってやりますが。
中学生や高校生になると、夕方乗りに来ます。今度は、山の端に沈む夕陽をブランコの上から眺めます。空が赤く染まり、田んぼも稲が青々としていて、それはいい気分です」
「素敵ですね」
舞子は自分までそのブランコに乗ったような気分にさせられる。長いブランコだから、大きく揺らしていけば、屋根ぐらいの高さには上がるだろう。そこから村の四方を眺められるなんて胸が躍る。
村の女の子や娘たちが、入れ替わり立ち替わりブランコに乗るのを、村の老人たちは木陰の縁台に坐《すわ》って、キセルでタバコをふかしながら見つめるのだろう。あそこの娘も大きくなったなと、目を細めながら。
少年や青年たちだって、遠くから、成長した少女のチマ・チョゴリ姿を眩《まぶ》しそうに観察しているのかもしれない。
「寛順さんがブランコに乗ると、男の子たちが寄ってきていたでしょう。本当にきれいだから、村の少年や青年が放っておくはずがありません」
「そんな」
寛順は、舞子が予期しなかったほどに頬《ほお》を赤らめた。
「そんなブランコって、ロマンチックだわ。日本だと、低いブランコが学校の運動場の片隅にあるくらい。恋人たちの語らいの場所にはなりません」
舞子は胃の中にはいったアルコールを薄める気分で、プチパンとチーズを口にする。まだあと何食か続くはずなのに、身体《からだ》がはちきれそうだ。ブラジルに着く時までに二キロどころか五キロ肉がついているかもしれない。隣を見ると、寛順はパンもチーズもほんのひとかけらしか手をつけていなかった。
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ロスアンジェルスでの給油には一時間半かかると機内アナウンスが言った。
夕食をとったあと眠ってしまった。前後不覚の眠りで、寛順から起こされたときには、自分がどこにいるのか一瞬判らなかった。
「舞子さん、朝食です」
寛順が言った。慌てて腕時計を見ると、四時間ばかり寝た計算だった。
「もう朝食ですか」
舞子は驚いて周囲を見渡す。ホステスがワゴンの上にミルクやジュースの類《たぐい》をのせて、給仕していた。
オレンジジュースを貰《もら》ったとき、朝食には何が良いか、英語で訊《き》かれた。オムレツという単語だけが耳にはいったので、同じ単語を口にした。
寛順の前に運ばれてきたのはミルクと粥《かゆ》だ。
「朝の粥はお腹にたまらないのよ」
と言い、食後の飲み物にも人参茶を選んだ。
「ひと口飲んでみますか」
舞子は寛順から勧められて口にもっていく。香りも味も独特で、いっぺんに眠気が醒《さ》めた気になった。以前、会社の同僚が韓国旅行の土産に人参ゼリーを買って来たが、それと同じ味だ。あのゼリーも小さな消しゴムくらいの大きさだったのに、身体が火照《ほて》り、夜も眠れなくなったのを覚えている。
トランジットの待合室は、一般客とは別の一室が用意されていた。
二人のいるところから三、四メートル離れたソファーには、飛行機のプレスティージ・クラスで一緒だった白髪の老紳士が坐っていた。雑誌から顔を上げたとき舞子と眼が合ったが、さり気なくスクリーンの方に顔の向きを変えた。
化粧室に立ち、戻って来ると、寛順がコーヒーをついで待っていた。
「舞子さんは、砂糖もミルクも全部入れるのよね。わたしは半分ずつ」
機内で観察していたのだろう、寛順が言った。
舞子はスティックシュガーにしろ、容器入りのミルクにしろ、残すのがもったいない気がする。小さな容器を振って、中のミルクを全部出し切り、あきれられたこともあるほどだ。だから、努力しても体重が減らないのかもしれない。
窓ガラス越しに、空港一階のロビーが見える。カートを引いて移動する女性客や、アタッシェケースを下げたビジネスマン、ただそこにたむろしているだけの黒人青年などを眺めていると、はるばる来たような、それでいてここが合衆国だとは実感できない妙な気分にかられる。
「ところで舞子さん、ブラジルのどこに行くの」
同じように窓の向こうを眺めていた寛順が訊いた。
「サルヴァドールという所。サンパウロからまた飛行機を乗り換えなければならないそうなの」
「それは病院?」
「そうなの」
「じゃ、わたしと同じよ」
寛順が声をあげる。「あなたがブラジルへひとりで行くと言ったから、もしかしたらと思ったの。良かった」
安堵《あんど》したのはこちらだと舞子は思う。辺留無戸は韓国から同行する女性がいると言ったが、それが寛順だったのだ。彼女が一緒なら、どんなことがあっても恐くない。
「あなたが行ったのは、やっぱり禅寺?」
舞子は訊いた。
「そう。順天から山の方にはいったところ。小さいけど、由緒のあるお寺」
寛順は穏やかな横顔をみせながら答える。
「何度も通ったのね」
舞子は確かめる。
「初めは死ぬつもりだったから、そこのお寺の上の方にある湖に行ったの。水にはいる覚悟はできていたわ。ちょうど四月だったかしら。松林の緑が目にしみて、湖の水は真青なの。たぶん、水の成分のせいね。一時間くらい岸辺にしゃがんで、これから水にはいろうというときに、後ろから呼びとめられた。頭を剃《そ》った白人の老僧で、お嬢さん、死ぬ前にそのわけを聞かせてくれないか、と言われた」
寛順は当時を思い起こすように、ガラスの向こうの人混みをぼんやり眺めやる。
ひょっとしたら、寛順の恋人は同郷の青年ではないのかと、舞子は思う。寛順がブランコに乗るのを遠くから見ていた少年、長じてからは、ブランコの傍の木陰で彼女と語らった青年ではなかったか。
室内にアナウンスが始まる。サンパウロという地名だけが耳に聞きとれた。寛順が自分の搭乗券を取り出して確認する。
「舞子さん、わたしたちの飛行機よ。でも急がなくていい。早く行っても混んでいるだけ」
寛順は落ちつきはらってコーヒーを口にもっていく。
「つらかったのね」
何気なく呟《つぶや》いていた。どうして分かるのかと言うように寛順が顔を向ける。
「分かる。わたしもあなたと同じだから」
言ったとき、舞子はほっとした気持になる。本来ならこんな話題になれば、また涙が出てくるものなのに、今は違う。微笑さえ口元に浮かべることができるのだ。
「そう。わたしたちって、思いも同じなのね。双生児のようなものかもしれないわ」
寛順がどこか納得したように言った。
二人並んで部屋を出る。搭乗口にはほんの数人しか残っていなかった。
「わたしが好きな人は金東振《キムドンジン》と言うの。ほらさっき話した村に生まれて、ずっとそこに住んでいた。長男だから、農業を継がなくてはいけなくて、高校にも行ったけど、お父さんが病気で入院してからは、学校もやめたの」
寛順の恋人なら、訊かなくても想像がつく。たぶん明生と違ってがっしりとした野性的な男性だ。陽焼けした顔に、白い歯が光るような。
機内のホステスが入れ替わっていた。ブラジル人も二人いて、韓国人ホステスがとりすましているのに比べ、愛嬌《あいきよう》がいい。アナウンスから日本語が消え、英語と韓国語、ポルトガル語だけになっている。
「高校を卒業したあと、わたしは釜山の旅行専門の学校に行ったから、会うのは月に一回くらいだったの。楽しみだった。彼には妹さんがひとりいて、わたしよりは三つ年下で、姉さんのように慕ってくれた。田植えや稲刈りのときは手伝うようになったわ。今までしたこともなかったので、最初は足手まとい。手取り足取り教えてもらい、学校を卒業する頃には、田植えも稲刈りもできるようになった」
「すごい」
舞子は心底びっくりする。田植えも稲刈りも、人力でするのは古い写真でしか見たことがない。しかも、すれ違う男性が全員振り返るような美人の寛順が田んぼで働くなど、想像だにしにくい。
「すごくはないの」
「でも、泥ばかりの田んぼにはいるのでしょう」
「それはそう。膝下《ひざした》まで足が埋まる。でもね、一列植え終えたあとで、ふと顔を上げると、昔ながらの石の城壁に囲まれた村が見えるの。何だか自分が中世の女性になったような気がして、幸せな気分になるの」
メニューを持ってきたホステスに、寛順は韓国語で礼を言い、続ける。「バスも自動車も、電気もない当時の生活は確かに不便。でもね、時間に追われる釜山の生活では味わえない、人間らしい営みがあったと思うの」
「分かる」
舞子は頷《うなず》く。もう夕食なのか、ホステスが注文を訊く。メニューには英語とハングルでしか書いていない。
「わたしは寛順さんと同じでいい」
「じゃ、アペリティフもわたしと同じシャンパン」
ホステスが運んできたシャンパンで寛順と乾杯する。
「さっきの話、もっと続けさせて」
「どうぞ、どうぞ」
「こんなこと、今まで誰にも話したことないの」
寛順の日本語は旅行専門学校仕込みなのだろう。ほぼ完璧《かんぺき》だ。
「田植えが終わると、東振の一家三人と連れ立って、田んぼ道を村の門の方に向かうの。夕陽に古い門が輝いて、城壁も橙色《だいだいいろ》に染まって、またそこでも自分が十七世紀の村人になった気持にさせられる。門の上は楼閣なの。城壁も、幅が二メートルから三メートルはある。昔の兵士はその上を巡回していたのでしょうね。今は、白いパジ・チョゴリを着た村のお年寄りが寄り集まってキセルでタバコをすっている。それが下の道から見えてね。お爺《じい》さんたちも『親孝行の東振が帰ってきた』と言って、手をあげてくれる」
「もう日本では見られない風景よ」
寛順は言わないが、そのとき、村の長老たちは寛順の方も見やって、似合いの二人だと思ったに違いない。
「門をはいると道が狭くなって、両側は野菜畑。大根や豆やホーレン草が植えられて、庭にはニワトリが放し飼い。家は昔ながらの藁葺《わらぶき》に土壁でしょう。足を洗って、お風呂《ふろ》を沸かし、その間にわたしたちは夕食の用意をする。もう東振のお母さんも妹も、わたしをお客さん扱いにはしない。そのほうが嬉《うれ》しいの。
夕食といってもそんなにごちそうではないわ。豆腐のはいったお味噌汁《みそしる》にキムチが三、四種類、それにもやし入りのスープがつくくらいの質素なもの」
「質素じゃないわ」
韓国料理は知らないが、キムチが三つも四つもあると聞いただけで、舞子は豪華なテーブルに思えてくる。
「一緒に食べて、そのあと彼が家まで送ってくれて。両親も、彼のことは公認だったの」
ホステスが機内食を運んでくる。最初はマッシュルームのグラタンとサラダだ。野菜サラダに添えられたアンチョビの塩味がおいしい。
「秋になると、今度は稲刈り」
「寛順さんの稲刈りなんて、ピンとこない」
「本当にこの手で稲刈りしたのよ」
寛順がフォークを持つ手を放して、自分の目の前にかざす。とても農婦の手には見えない。
「稲刈りが終わる頃にはカサカサになるでしょう?」
「お湯につけたらしみるくらい。でも、クリームをたっぷりすり込んでおけば、一、二週間で元通りになる。辛《つら》いのは腰のほうかしら。それと陽焼け」
「陽焼け止めクリームは?」
「それはもう必需品、それに幅広の麦藁《むぎわら》帽子に白いタオルで、素肌を全部隠すの。彼がわたしの恰好《かつこう》を見て、今年も北朝鮮の秘密部隊だねと冷やかすの。わたしだって初めの頃は陽焼けなんて、あまり気にしなかった。でもね、年毎に重装備になっていったの」
それはそうだ。ハイティーンの頃は、海水浴でも大いに肌を焼いたものだ。明生と知り合ってから、褐色の肌とは縁がなくなった。肌に残った水着の跡が冬になっても消えないのを知り、こういう事が重なれば、ひと夏毎に黒くなるのではと心配になった。
「でもね、舞子さんも分かると思うけど、田植えにしろ、稲刈りにしろ、楽しいのは彼と一緒にいられることだったの」
「きっとそう」
舞子は頷く。明生と一緒に働く機会はなかった。会社勤めをしていたとき、この職場に明生がいたらどんなに良かろうかと思った。同じフロア、あるいは同じビルにはいっている会社でもいい。そうすれば、朝の出勤時や昼休みに顔を合わせる機会も増える。働くのだって楽しみになったはずだ。
「彼って、破れた麦藁帽子をかぶり、シャツ一枚にジーンズなの。時々立ち上がって、わたしのほうに声をかけてくれる。真黒に焼けた顔に汗が玉のように光って、白い歯が見える。疲れもいっぺんに吹きとんだわ」
メインディッシュはチキンで、ピーナッツを使ったソースがかけてある。まあまあの味だ。寛順がホステスを呼びとめて、二人のグラスにシャンパンをつぎ足させた。
「田んぼや畑で働くのが、デート代わりだったのね」
「本当にそうなの。今から考えると不思議。彼が釜山まで来ることもなかった。来てもたぶん気に入らないだろうと思って、誘いもしなかった。彼が釜山の地下鉄に乗り、繁華街を歩く姿など想像できなかったから」
「じゃ、寛順さんも、いずれはその村に帰る心づもりだったのね」
「農家の手伝いに慣れてくるにつれて、抵抗はなくなったの。釜山の生活が却ってシャボン玉のように感じられた。田舎ではお化粧も着飾ることもできないけど、太陽があって、風があって、植物があって、動物や昆虫もいる。小さい頃、ブランコに揺られながら、自分は将来をどう考えていたのかなって、思い返してみたの。そうすると、決して都会の生活を夢みていたのではないのね。友達は、デザイナーやエアーホステス、デパートの店員など、いろんな希望をもっているようだったけど、わたしはどこか違った。一度は都会に出るかもしれないけど、どうせ最後はこの土地に戻ってくる気がしていたの。
街で子供を育てている自分の姿など、思い描くことはできないのに、あの村で子供と一緒に遊んでいる光景は浮かんでくる。畦道《あぜみち》でセリを摘んだり、ブランコに乗せたり、稲を刈ったあとの田んぼでかけっこをしたり」
寛順はしみじみとした口調になっていた。
舞子は自分が子育てをしている姿など、これまで考えてもみなかったことに気づく。あくまでも明生と二人だけの生活を夢みて、赤ん坊など二人の間には介在しなかったのだ。
しかし今はどこか寛順に似た心境になっている。少なくとも街中では子供を育てたくない。少し足を延ばせば野原があり、水鳥の憩う水辺があるような所で暮らしてみたい。
「時々そうやって田舎に帰るのが楽しみで、釜山での仕事も続けられたの。街での生活に未練がなくなってきたのが、二十四歳のときだったかしら。韓国では、女性が二十五歳になっても独身だと、周囲からいろいろ言われるのよ。日本でもそう?」
「韓国ほどではないけど、家族は心配する。当の本人は平気でいても」
「そんなとき彼が、そろそろ釜山から帰ってきたらどうかと言ってくれたの。嬉しかったわ」
「プロポーズね」
「そう。とうとう彼のもとで一生暮らせるのだと思った」
「好きな故郷に両足をどっかりおろして」
「決して生活は豊かではないけど、食べ物は自分たちで作る。彼と一緒にいることが、豊かさといえば豊かさ」
「そうだわ、本当に」
寛順が口にした言葉に舞子は感じ入る。欲しい物に囲まれての生活が豊かなのではなく、最愛の人と共に暮らせることこそが豊かさなのではないか。
「彼の両親も、わたしの両親も賛成してくれたの。彼のお母さんは心臓の持病があって、元気なうちに安心させておきたいという彼の考えも働いたのね。日取りを決めるまで、すんなり進んだ。わたしも勤め先の観光会社に辞表を出して、故郷に帰った。式の二週間前だったかしら。どうせ彼の家に住むのだから、大きな家財道具なんか必要でない。小さな化粧ダンスと鏡台を用意するだけでよかった。
式はもちろん古いしきたりにのっとってやることに決まった。宮殿の部屋を使って式を挙げ、その前庭で明け方まで飲んで唄《うた》っての式よ。雨が降ったらテントを張ればすむことだし。村の人総出で、それも伝統|衣裳《いしよう》に身を包むから、地元のテレビ局も取材を村長に申し込みに来たくらい。村でそんな結婚式を挙げるのは数年ぶりとかで、みんな楽しみで張り切っていたわ」
寛順はそこまで言って、急に黙り込む。
食事は終わっていた。前の方の乗客のなかには早々に座席をリクライニングにして眠り始めている者もいる。
舞子は何も言わずに待つ。不幸は結婚式のあとに起こったのだろうか。
「結婚式の前の日は雨だったわ。でも次の日は晴れるという天気予報だったから、みんな安心していた。結婚衣裳を頼んでいる家が隣村にあったの。もう六十近い縫い子さんだけど、腕が良くて、その付近の村で行われる式の服は、彼女が一手に引き受けているくらいなのよ。彼もパジ・チョゴリ、わたしもチマ・チョゴリを注文しておいた。それを彼が自転車でとりに行ってくれたのね。レインコートを着て、荷台には衣裳が濡《ぬ》れないように何重ものビニール袋をくくりつけてね」
翌日結婚を控えた寛順の許婚者《いいなずけ》にとって、多少の雨なんか苦にもならなかったろう。いやむしろ、雨から晴天への転換こそ、二人の未来を祝福するようにも感じられるものだ。斜めに降りそそぐ雨の中を、力強くペダルを踏んで行く彼の姿は、思い浮かべるだけで胸が詰まる。
「あの人、暗くなる前には衣裳を届けるからと言っていたので、わたしは待っていたの。ところが夕食を終えても、彼は来ない。雨だから、ひょっとしたら明日の朝に延期したのか、いやそれなら電話してくるはずだと思っていた」
寛順は苦しげに言葉を継ぐ。「電話が鳴ったのは七時半頃だったかしら。母が出て、そのまま倒れるように椅子《いす》に腰をおろしたの。びっくりした父が、代わりに受話器を耳にあてた。低い声で、分かりました、順天《スンチヨン》の羅州《ラジユ》病院ですね、といって受話器を置いたの。その瞬間、わたしはすべてを覚ったような気がしたわ。父が途切れ途切れに、東振が事故に遭って病院に運び込まれた、今から行くが、ついてくるか、と訊いた──」
何というむごい仕打ちなのか。舞子は息を呑《の》み、寛順の青白い横顔を見つめる。
「電話をかけてくれたのは、彼の妹だったの。病院は車で三十分くらいのところにあって、父は車の中でも、あの病院は腕の良い医者が揃《そろ》っているので心配はいらないと励ましてくれた。病院に着くと集中治療室に案内された。気を確かに持たないといけないと、それだけを自分に言いきかせて、彼のベッドに近づいたの。頭を包帯で巻かれた彼がベッドに横たわっていて、わたしが傍に寄ったとき、彼のお母さんが、『ほら寛順さんが来てくれたよ』と耳元で叫んだの。その瞬間、彼は目を少し見開くようにして、大きな息をひとつしたわ。でもそれから胸がぴくりとも動かなくなって、お医者さんが人工呼吸器を取りつけた。わたしは、これで昨日までの幸せはもう終わりなんだと思った。
それから隣の部屋に呼ばれて、主治医が頭の写真を壁にかけて、説明を始めた。もう脳全体が壊れて手術もできない、人工呼吸器をはずせばいずれは呼吸も停まる、と言ったの」
舞子は明生の交通事故を想像する。あのときも、明生と一緒に自分も死んだのだと思った。
「父は悲しむ代わりに、一体誰が許婚者をこんな身体《からだ》にしたのだと、控え室にいた警官に問い詰めたわ。トラックが自転車をはねるのを遠くから見ていた通行人はいたらしい。でもトラックはそのまま無灯火で走り去って、あとになって警察が検問を敷いたときには、姿をどこかに隠してしまっていた。
自転車はアメ細工のように曲がっていて、荷台の衣裳だけがビニールに包まれて、泥ひとつついていなかった」
「そんな──」
舞子は絶句する。神の手はどこまで残酷な仕打ちをすればいいのか。寛順と許婚者が神に対して、どんな暴虐を働いたというのか。
「彼の胸だけは規則正しく上下していたわ。手も足も触れると温かい。彼のお母さんが、『東振、起きなさい。ほら寛順だよ』と泣きじゃくりながら呼びかけた。わたしも思わず彼の胸を揺すった。あんなに陽焼けして逞《たくま》しい胸も、なんだか脱け殻のようで、自分の力では動かないの。『お兄ちゃん、家に帰ろう』と叫んでいる彼の妹の声を聞きながら、わたしは、もし東振が明日まで生きていたら、予定通り結婚式をしようと決心した。婚礼衣裳が汚れもせずに残ったのは、彼の思いが神様に通じたのだという気がしたの」
「神様?」
そんな不幸のどん底に突き落とされたときにも、寛順はまだ神様を信じていたのだろうか。
「わたしはキリスト教徒でもないし、仏教徒でもない。でもね、そう思ったの。わたしの両親も彼の母も納得してくれて、翌日、彼に真新しい青色のチョゴリと白のパジを着せてやった。わたしも薄桃色のチマと草色と赤のチョゴリを身につけた。村から長老がひとり来て、集中治療室の中で、結婚式を挙げたの。みんな泣いていたわ。父も母も、彼の母も妹も、村の長老も、遠くから眺めていたお医者さんも看護婦も涙を流していた。わたしはしっかり歯をくいしばって泣かなかった。だって、彼が泣いていないのにわたしが悲しむわけにはいかない。頭は包帯で巻かれ、口には人工呼吸器がつながれていたけど、彼の顔はずっと安らかだった。のぞき込むと、微笑《ほほえ》んでいるようにさえ見えた」
「彼も分かったのでしょうね、きっと」
舞子の言葉に寛順は静かに頷く。
「式を挙げたあと、主治医の先生から呼ばれたわ。脳波をとってみたら、もう脳は活動していない、いわば脳死の状態になってしまったと言うの」
「脳死?」
これまで新聞や雑誌で読んだ言葉ではあったが、目の前の生きた人間の口から聞いたのは初めてだ。舞子は寛順の整った口元を見つめる。
「それでわたし、どうしたらいいのか、主治医に尋ねた。すると、配偶者はあなたなのだから、どうするかはあなたが決めるのですと、言われた」
「人工呼吸器をはずせば、そのまま呼吸は停止するのね」
舞子の声は掠《かす》れた。
「わたしは彼のお母さんにも相談した。機械で胸が膨らんでいる息子を見るのは辛《つら》い、とお母さんが言ったとき、もう決心したの。午前中に結婚式を挙げて、夕方には彼の呼吸は停まった。青い婚礼衣裳のままお棺に入れてあげた。故郷の家で一晩お通夜をした。本当ならその夜は、村の館の中庭で夜通しの宴会が続くはずだったのに、静かな悲しい夜になってしまった。わたしは結婚衣裳を喪服に着替える気にはならなかった。お棺の中の彼が婚礼の服を着ているのに、わたしが喪服なんか着られない。
翌日の葬式のとき、空は予報通り真青に晴れ上がっていたわ。お棺の傍を歩きながら、わたしは空を見上げて、彼が身につけている衣裳とちょうど同じ青さだと思った。わたしが婚礼の衣裳を着ていたせいで、村の人もみんな結婚式用の衣裳を着てくれていたの。あの村ができて三百年か四百年になるかもしれないけど、結婚式の行列のまま、お墓のある山所《サンソ》に行ったのは初めてだったと思うわ」
辛そうに話をしていた寛順の口調が静かになる。何度も何度もその場面を心の内で反芻《はんすう》しているうちに、波打つ情念が凪《な》いで澄んできたのだろう。
「そのときの婚礼衣裳は、トランクの中に入れて持ってきているのよ」
沈黙のあと、明るい声で寛順が言った。
「そんな悲しみ、よく耐えることができたわね」
後ろの座席からは軽い寝息が聞こえてくる。室内灯は完全には消えず、スクリーンには、カーチェイスの映画がまだ上映されていた。寛順は声を低めた。
「何週間も自分の部屋から出なかった。母も気を利かして、食事のときだけ呼んでくれた。食事中、両親や妹は何気ない会話を交わしてくれたけど、わたしにはテレビがしゃべっているようだった。食べ終わるとまた部屋に籠《こも》ったわ。時々妹が部屋をのぞきに来たけど、自殺しないかと心配になったのだと思う。
でもね、人間の悲しみというのは、いつかはほんの少しだけど小さくなる。もちろん消えるものでは決してないけど──」
舞子は頷く。そう絶対に消えることなんかありえない。しかし、どん底の悲しみは、月日がたつと少しは目減りがして、底上げされるものだ。
「自分が死んでしまえば、彼を覚えている人間がひとり少なくなる。──そう考えることで、死ぬのにブレーキがかかったような気がする。友人が手紙をくれて、早くもとの仕事に復帰するのが一番の健康法よと勧めてくれた。何もしないと、余計暗い穴から出られなくなると言うの。そうかもしれないと思った。でも釜山のあの騒々しさと忙しさを考えると、どうしても足がそちらに向かないの。
二週間が過ぎ、一ヵ月が過ぎた頃、ふと松湖寺《ソノサ》が頭に蘇《よみがえ》ったの。そこの湖は彼と三回ほど訪れたことがあった。一度は順天までバスで出て、そこからまた一時間バスに揺られて着いたし、あとの二回は、彼が農業用の小型トラックで連れて行ってくれた。
その湖を見てみたい気がしたの。前に彼と行った通りに、バスで出かけたわ。不思議なものね。ガタガタ揺れるバスの運転手は、村から順天までも、順天から松湖寺までも、二年前と同じ人だった。座席は空いていて、わたしの坐《すわ》っている隣に彼がいないだけ」
舞子にも身に沁《し》みる辛さだ。あるべきところに彼がいない寂しさ。こんな面白いことがあったのよと、今度彼に会ったら話そうと反射的に考えたあと、不在に気がつくのだ。
「わたしは窓の外を眺めながら、心の内で彼に話しかけていた。田んぼや畑の作物も同じで、遠くの山の形も同じ、この辺の土は赤いので、稲作よりは果樹のほうがいいかもしれないと彼は言っていた。そんなことを思い出しているうちに涙が溢《あふ》れてきたの。窓からはいる風を顔にあてて、そのままにしていたわ」
「そうやって着いたのが、さっき言った湖なのね」
「不思議だったわ」
寛順は舞子の方を見やる。もう悲しみを振り切った顔だ。
「湖の縁に立ったとき、この水の中にはいっていったら死ねて、彼と会えるのではないかという気がしたの。靴を脱いで立ち上がったとき、後ろから声をかけられたのよ」
「寺のお坊さんね」
何故かそんな気がした。
「外国|訛《なま》りのある韓国語で、せっかくここまで来たのだから、お堂に詣でてみる気はないかと訊《き》かれた。別に断る理由もなかった。美しい仏様を拝んでから、水の中にはいってもいいのではないかと思ったの」
「どんな仏様だった?」
「そのお寺の敷地は山の南斜面全体に広がっているの。お坊さんが案内してくれたお堂は湖の水が湧《わ》き出ている岩盤の横に建てられていた。八角形のお堂で、中には木造の仏像があったの。それが息を呑《の》むほど美しかったわ」
「どんな形の仏像?」
舞子は自分が眉山寺《びざんじ》で見た不動明王像を思い浮かべた。雪景色のなかで、仏像の背後にある火焔《かえん》がこの世のものとも思えないくらいに赤かった。
「ロダンの考える人に似た仏像。右手を頬《ほお》に当てて瞑想《めいそう》にふけっている──」
半跏思惟《はんかしい》像といわれるものかもしれない。舞子も美術の教科書で見たことがある。
「坐った高さが一メートルくらいで、色は塗られていなくて、かすかに木目が浮き出ていた。窓を通してはいってくる湖の光が、仏像の表面に当たって、揺れるのよ。光の揺れ具合で、仏像の表情が変化する。微笑したかと思うと、深く考え込む顔になったり、悲しみの表情になったり。わたしはその前に立ったまま、時のたつのも忘れていた」
自分が眉山寺の不動明王像の前に立ったときは、内側からつき上げられる衝撃を感じた。消えかけた炎が、新たな風によって力を取り戻し、再び燃え上がるような力だ。寛順は、それとは反対の静謐《せいひつ》な慰めを受けたのだろうか。
「眺めているうちに、悲しみのなかにも安らぎがあるのかもしれないという気がしてきたの。人が生きているというのは、変化のないただ一色に塗りつぶされた時間を過ごすのではない。その時その時、一瞬一瞬を揺らぎながら生きていくのだと思ったわ。死んでしまえば、その揺らぎは消えてしまう。一面の暗黒になってしまう。そう思った瞬間、それまで石のように重かった心が、ふと軽くなった。
そしたら、後ろにいた老僧が、どうです、気に入られたのだったら、しばらくこの寺のなかで過ごしていかれませんか、と言ったの。びっくりしたわ。長く滞在するつもりでお寺に来たわけではなかったから。老僧は、来るのはいつでもいい、寝泊まりする僧庵《そうあん》は好きなときに使える、家族の人たちとゆっくり話し合って来なさいと言ってくれた」
スクリーンの画面は飛行場だ。イヤホーンをつけていないので音は全く聞こえないが、四輪駆動のジープに追跡されて、小型乗用車が逃げ回っている。時折、運転席のヒロインの顔が大写しになった。
「いったん家に帰って、一週間ほど松湖寺に行くと両親に告げたときは、尼さんになるのかと驚かれた。でもそうでないと知ったとき、両親はむしろ安心して許してくれた。山寺での合宿に参加するような荷作りをして、父が車で送ってくれた。もちろん山門の下で別れたけど、わたしが暗い顔はしていなかったので、父は何か肩の荷をおろしたような顔をして帰って行ったわ」
松湖寺での滞在中に、寛順は恋人と再会することができたのだ。
「その僧庵はどんなだった?」
舞子は自分の場合と比較したくなる。
「僧庵は木造で質素なつくりだったけど、岩屋は不思議な所だった。湖の傍の岩山をくりぬき、天井も床も壁も木で覆ってあったわ。でもそれに青や赤、緑の極彩色がほどこされていた。韓国の寺院はみんなそうなの。そんな色彩の中を突き進むと、瞑想の寝台があった。そこに東振が、青い婚礼衣裳を着て、頭には冠をつけて待っていてくれた。彼の声も聞け、彼の身体にも触れることができたのよ」
寛順の顔がかすかに赤味を帯びる。潤んだ目で舞子を凝視した。
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隣の席の寛順はまだ眠っている。光線よけのアイマスクをかぶったまま、背もたれに寄りかかり、二つの唇がわずかに開いている。きれいな寝顔だ。
舞子は左側の窓のブラインドを半分だけ開ける。進行方向の左は東側にあたるはずだ。
地平線が黒く見えていた。その上はほんのりと橙色《だいだいいろ》がかっている。地球の夜明けなのだろう。もしかしたら、アマゾンの上空なのかもしれない。
黒い地平線上の色彩が少しずつ変化する。地平線のすぐ上は、目の覚めるような朱色だ。その上が橙色、さらに茜《あかね》色から黄色、青、群青《ぐんじよう》色という具合に、色が層をなしている。地球の反対側に来たのだという思いがした。
イヤホーンをセットしてみる。打楽器をバックにしたコーラスだ。明るく、踊りたくなるようなリズムで、マリア、マリアと繰り返される。愛する恋人への讃歌《さんか》なのだろうか。
地平線上の色彩がまた変化している。黄色の帯の部分が幅を広げ、やがてその下の橙の帯も次第に膨らみを増してくる。そのあと橙の中央に、筆で横一線で刷《は》いたような赤い線が出現する。太陽ではなかった。
機体の下に、薄く白い雲が張っているのが分かる。雲のさらに下はまだ黒灰色の世界だ。
黒い地平線に凹凸が生じ始めていた。山や谷といった地球そのものの地形だろう。それに呼応するように、黄色の帯の上の青味がかった部分が拡大し、黄と青の境界線が二つに分かれる。
その瞬間、大気が口を開けた恰好《かつこう》になり、太陽の光が射し始める。まだ力のある光ではなく、白と淡色の光だ。いや太陽の周囲にある大気の色彩かもしれない。
地球が大気に包まれている事実を見せつけられる思いがして、舞子の眼は倦《あ》かずに窓の外に釘付《くぎづ》けになる。
橙色の中に埋まっていた朱色の線が消えていくのと同時に、上方の青の帯がせり上がっていき、群青色を呑み込んでしまう。
いま薄い雲の下はただの黒灰色ではなく、確かに大地のひだが見分けられる。
そのときだ。地平線の一点にルビーのように赤くて丸い太陽が姿を現す。
「きれいだわ」
思わず叫んでいた。
「舞子さん、お早う」
寛順がアイマスクをはずしながら言った。
「見て。朝日よ。生まれて初めて、こんな美しい朝日を見るのは」
ブラインドを全部上げて、寛順のために、肩をずらしてやる。
「本当。きれいな赤」
もう一分もたっただろうか。太陽の上半分だけが地平線上に出ている。地上に光を与えるのが太陽の役割だというのが、よく理解できる。さらに二分ほどたったときに、太陽の下限がようやく地平線から離れた。空にはもう群青色がなく、地平線スレスレに存在していた橙色の帯も、薄い黄色に褪色《たいしよく》してしまった。
「こんなにして、毎日太陽が昇るのだとしたら、本当に感動するわ」
寛順が言う。
「わたしたちが知らないだけね。寝坊したり、街中にいたら、地平線なんか見えないし」
「真新しい太陽、そして真新しい地球」
寛順の声がすがすがしく耳に響く。
「あれは川なんだわ」
それまで雲が白く筋状になびいていたと思っていたのは、錯覚だった。網の目のように分かれた川が白く光っている。流れの間を埋めるのは深々とした樹林だ。
「アマゾンの支流だわ、きっと」
寛順が言った。
乗客のほとんどがもう目を覚ましている。
エアホステスが機敏に動いて、朝食を配る準備を始めた。
窓の外はもう暗くない。あれだけ朱色に染まっていた太陽が普通の白さになり、代わりに、川の表面が赤く照らし出されている。
アマゾンの川に棲《す》む魚たち、密林の動物たちに、ちょうど今、朝が訪れているのだ。
川のさざ波、密林の中の鳥や獣《けもの》の鳴き声が聞こえてきそうだ。
「いよいよ南米ね」
クロワッサンを頬《ほお》ばりながら寛順が言う。「こんなところまで来るとは思わなかった。そして舞子さんに会うなんて」
「わたしも同じ気持。でもよかった。寛順さんと一緒で」
ひとりだったら、夜も眠れなかったかもしれない。寛順が隣にいたからこそ、添乗員に守られた気分で、安心できたのだ。
ベーコンエッグにヨーグルト、濃いエスプレッソをとり終えたとき、機内アナウンスがあった。あと一時間でサンパウロ空港に到着するのだと、寛順が訳してくれた。
スクリーンに新しいプログラムが映写されている。隠し撮りの爆笑ものだ。言葉は理解できなくても、おとし所は分かった。
札束を入れたジュラルミンのケースを手押し車に積んで、銀行員が建物から出てくる。路上に停めた現金輪送車に積み込むが、そのうちの一個を道に落としたまま発車してしまう。残ったケースを不思議そうに眺める通行人。誰も持って行こうとしない。そのうち太った女性がそれを抱えて、建物内の銀行に運び入れる。
女性が写真を撮ってくれと言って、カメラを通行人の男性に渡す。女性は建物の前でポーズをとる。男は道路の端からカメラを構える。そこへ大きな看板をかかえた二人のペンキ屋が通りかかり、視野を遮ってしまう。仕方なく男は待つ。看板が行き過ぎたあと、女性も姿を消してしまっている。男は唖然《あぜん》として、手元のカメラを眺める。
乗客からも笑いが起こる。着陸前に笑わせておくのも、緊張をほぐすのには確かに効果的だ。
機体が傾いたとき、ブラジルの大地が眺められた。赤茶けた土地と深緑の森林が混じりあい、白い街が点在している。
機体が態勢をたて直すと、もう何も見えない。ぐんぐん高度が下がる。スクリーンに飛行場が映し出され、赤いランプに向かって近づいていく。
軽い衝撃とともに着陸した瞬間、後方の席で拍手が起こっていた。
滑走路からはずれて機体が滑らかに移動していく。大小の航空機があちこちに散らばっている。機体のマークは馴染《なじ》みのないものばかりだ。
「やっと着いた。まだ先があるけど、ひとまずこれで長旅は終わった」
寛順がほっとした顔を見せた。
舞子にとって寛順は添乗員と同じだ。ぴったりくっついて入国管理の前に並ぶ。係官は何も訊かずにパスポートを返してくれた。
心配になったのは荷物受け取りのときだ。寛順の白い旅行ケースはすぐに吐き出されてきた。その後も次々と荷物が現れ、乗客がそれを持って出ていくのに、舞子の荷物はいくら待っても出て来ない。ホール一杯に溢《あふ》れんばかりだった客も三分の二になり、半分になり、最後には十四、五人に減ってしまった。
「わたしの荷物はソウルで積み残されたのではないかしら」
「大丈夫よ。運悪く奥の方に入れられたのだわ」
寛順は悠然とワゴンに腰をおろした。
ピンクの紐《ひも》を巻きつけた紺色の旅行ケースが、ターンテーブルの上にとび出したのはその直後だ。
ワゴンに二人の荷物を乗せて出口の方に進む。申告する物などなく、検閲もなしに外に出られた。
「あそこよ」
寛順が言う。出迎えの人垣の中程に、厚紙を頭上にかざした黒人青年がいた。アルファベットで寛順と舞子の名前が書かれている。青年のほうでもこちらに気づいたらしく、笑顔で近づき、英語で話しかけた。
舞子は寛順にならい、さし出された青年のぶ厚い手を握った。自分の手が異様に白く見える。
青年はジョアンと名乗った。
「乗り換えのために別の航空会社のカウンターに行くのですって」
寛順が通訳してくれた。
ジョアンが押していくワゴンを追いながら、舞子はごった返す人の波に眼を走らせる。なるほど、ここは異国だ。白人や黒人、その中間の小麦色の肌をした人々、そして東洋人と、さまざまな人種が入り乱れている。
ジョアンは女性の係員のいるカウンターで陽気にしゃべり、二人のパスポートとチケットを提示している。空港使用料を払い、荷物も引き渡すと、戻ってきて英語を口にした。
「一時間ほど時間があるが、どうするかって」
寛順が訊《き》いた。
「喉《のど》が渇いたから、どこかで休まない?」
ジョアンが一緒なら、飲み物を注文するのも簡単だろう。どんな飲料水があるのかも興味があった。
ジョアンは分かったという顔をして歩き出す。滑走路の見えるセルフサーヴィスの店で、まず席を取った。カウンターにはジョアンだけが並んだ。すべてが任せっきりだ。
「暑いわ」
寛順がスーツの上着を脱ぐ。舞子も初めて気がつく。まるっきり温度が違う。ブラウスの上のカーディガンを脱いでも、まだ暑さを感じた。
ジョアンが持ってきたのは、緑色の瓶にはいった飲料水だ。〈グァラナ〉だと教えるとき、ジョアンの舌が、赤い口の中で別の生き物のように動いた。
「ガラナの実から作ったコーラのようなものだって」
寛順が言う。ほんのりと甘味がついている。コーラと比べてどこか気の抜けた味だ。
サルヴァドールに着いたら、向こうにも出迎えの案内人がいるのか、寛順が訊いた。
寛順の英語は分かりやすいが、ジョアンのは歌うような抑揚があって皆目理解できない。
ジョアンの右手の甲に、鳥の足の入墨があった。上手ではない絵柄だが、ワシの爪《つめ》のような形をしている。
「サルヴァドールの空港には係員がいるそうよ。そこからは車で二時間くらいのところらしいわ」
寛順はさらに目的地がどんな所かジョアンに問い質《ただ》した。
ジョアンは紙ナプキンを広げ、寛順からボールペンを借りて絵を画き始める。
どうやら海岸らしい。海辺にヤシの木が何本も立ち、その間に小屋が立てられている。奥の方に塔のようなものが描かれた。
「灯台?」
ジョアンは頷《うなず》く。その根元に、小さな生き物をつけ加える。
「亀?」
またジョアンが頷き、寛順に説明する。
「海亀が卵を産みに来る海岸らしい」
同じような海岸がいくつか日本にもあるのは、新聞で読んだ。砂浜を四輪駆動車が走って子亀をひき殺したり、卵をつぶしているという記事だった。
「やっぱり春かしら。だったら今は秋だから残念」
舞子の言葉を寛順が訳すと、ジョアンは人なつっこく笑う。
「舞子さん、わたしたちのところの秋は、ブラジルではちょうど春よ。産卵が見られるかもしれない」
ジョアンは腕と首を動かして、亀が砂の上を這《は》う仕草をしてみせる。
「良い所らしいわ。魚がいっぱいいて、お祭りもあって」
ジョアンはまた楽器を演奏するような真似をする。弦楽器をつまびく動作をし、低く唱《うた》ってみせる。
それではもう時間だという顔でジョアンが立ち上がる。ゲート前で別れるとき握手をした。黒い皮膚のなかで、青い入墨が土俗的な装飾品に見えた。
「とうとうお金は使わなかった」
寛順が言った。ジョアンが買って来てくれた飲料水にしても、どのくらいの値段か知らないままだ。
「お金の単位は何かしら」
「表示を見るとR$と書いてあった。でも何て読むのか、さっぱり分からない」
寛順が首を振る。
航空券の他に辺留無戸《ヘルムート》から二千ドルのトラベラーズチェックを渡されていた。寛順も同じだろう。
「サルヴァドールに着いたら、銀行で少し現地のお金に換えよう。そうしないと何だか、変な気持」
舞子の意見に寛順も同意する。
サルヴァドール行きのヴァリグ航空機は小さく、通路の左右に二列ずつ座席が並んでいた。中年の体格のよいホステスが、愛想良く出迎えてくれる。十分もしないうちに席は八割方埋まった。
後方を眺めたとき、舞子は白髪の老紳士がいるのに気がつく。ソウルの待合室でも、サンパウロまでの飛行機でも一緒だった客だ。ホステスのひとりを呼んで何か言いつけている。ポルトガル語らしかった。
制服の男が操縦席から出て来て、乗客の客を数え、また操縦席に消える。観光バスの運転手が、トイレ休憩のあと人数を確認するのとそっくりだ。
左前方には黒人女性と白人男性のカップルが坐《すわ》っている。太った中年男性が、若い黒人女性の小さな身体を包み込むようにして話をしている。荷物入れからバッグを取ってハンカチを出してやったり、スカーフを肩に巻いてやったり、まめな動きは映画のシーンのようだ。
機体が離陸して水平飛行になったとたん、三人のホステスが昼食を配り始めた。飲み物だけが注文のようだ。
「グァラナ」
舞子はジョアンが口にした単語を思い出して言ってみる。ホステスはにっこり頷き、ワゴンの下から緑色の瓶を取り出して、栓を開けた。寛順も同じ物を頼んだ。
湿度が低いのか、喉の渇きが早かった。
配られたトレイの上には、サラダとパン、パスタ、肉、ハムが盛られ、牛肉の塊は、それだけで食欲が満たされるほど大きい。すべてを半分だけ食べたところで満腹になった。寛順も、たて続けの食事にうんざりしたらしく、ハムとサラダだけを食べている。
他の乗客は旺盛《おうせい》な食欲だ。黒人女性の恋人は食べている間も、飲んでいる間も、小まめに彼女のほうに話しかける。にもかかわらず、いったいどうやって食べる時間をつくったのか、トレイの上の物はなくなっていた。
手持ちぶさたになると眠気が襲ってくる。快いまどろみのなかで、着陸準備のアナウンスを聞いた。窓際の寛順がじっと外を眺めている。機体が少しずつ降下していく。全部で三十数時間の旅だったが、日本を発ったのがもう何週間も前のような気がする。
「沼がたくさん見える」
寛順が言った。さらに高度が下がると、灌木《かんぼく》と草原、その間に散らばる泥地が視野にはいるようになった。
空港はサルヴァドールの街からはずれたところにあるのだろうが、それにしても荒地に等しい地帯だ。
着陸した時の衝撃はジャンボジェット機よりも大きかった。拍手は起こらない。外に見えるのは小型機ばかりだ。
タラップに出たとき、暑いと思った。日射しが強く、三十分日なたにいれば、間違いなく肌に火ぶくれが起こる。こういう気候で何よりも必要なのは陽焼け止めクリームと帽子だろうが、その二つとも旅行ケースの中だ。
空港ビルまで二百メートルくらいの距離をゆっくり歩いた。乗客の誰も急がない。舞子と寛順の足取りでさえ、前を行く男性を追い越しそうになる。
「とうとう着いた」
ほっとしたように言った寛順の目の下に、薄いクマができていた。気丈には見えたが、疲れは舞子と同じなのだ。
荷物の受け取りは、サンパウロほどには待たなくてすんだ。ワゴンに旅行ケースを二つ乗せて舞子が押した。
ロビーに出たとき、小柄な青年が近づいて来た。
「キタゾノ・マイコとリー・カンスンか」
小さなメモを見ながらたどたどしい英語で訊く。
そうだと答えると、男は舞子を押しのけるようにしてワゴンのハンドルを取った。
こちらだと男は顎《あご》をしゃくり、ワゴンを押す。男の右手の甲に入墨があるのに舞子は気がつく。サンパウロで会ったジョアンと同じ鳥の足の絵柄だ。
「両替をしたいわ」
寛順が英語で言うと、男は首を振った。
「ここはレートが悪い。両替なら病院でいくらでもできる」
そんな返答だった。
タクシー乗り場の後方で、男は広い駐車場に向かって手を上げた。道路向こうのどの車が応答したのかは判らない。
「俺《おれ》はロベリオ」
男は手をさし伸べて二人に言った。ジョアンと同じ年頃だろうが、ロベリオのほうが肌の色が褐色で、顔立ちも西洋風だ。待っている間も、ハミングし、ステップを踏むようにして足を動かした。
黒い大型のメルセデス・ベンツが三人の前に停まる。ロベリオはドアを開けて、舞子と寛順を後部座席に坐らせ、旅行ケースをトランクに押し込んだ。ワゴンを建物内に返しにいく間、黒人の運転手は携帯電話で何か連絡していた。
前方にタクシー乗り場があった。ソウルから一緒だった白髪の老紳士が列の中程に並んでいる。この暑さなのに老紳士はスーツを着込んだままだ。
ロベリオは助手席に戻るなり、カーステレオのスイッチを押した。
テンポの激しい音楽が聞こえ出す。打楽器のリズムとサクソホーンのメロディにのって、女性歌手が軽快に歌う。同じ歌詞の繰り返しを耳にしているうちに、こちらの身体《からだ》も浮き足立ってくる。
ロベリオが振り返り、いい音楽だろうというように片目をつぶる。自分も上体を動かし手でリズムをとる。
クーラーが効いて、半袖《はんそで》のブラウスだけでは寒いくらいだ。寛順はスーツの上着を羽織って、窓の外に眼をやっている。
「あれは竹でしょう」
信号で停まったとき、寛順が道端を指さした。舞子も身を乗り出して眺める。孟宗竹《もうそうちく》なみの太さの竹には違いないが、表面は黄色がかっている。ひと株ごとに何本も密集し、節も大きく、肉も厚そうだ。真直ぐではなく、弓なりにそりかえっている。
「竹には違いないけど、何か密林の竹のよう」
一瞬、舞子は京都の竹林を思い浮かべる。青い竹がすっくと立ち、石を投げれば、カーンと音がするような引き締まった空間。いま目の前にある竹は、群生すれば、昼なお暗く、足を踏み入れようにも隙間《すきま》がなく、投げられた石は鈍い音ではじき返されるだけだろう。
「ほんとうに地球の反対側」
寛順がポツリと言った。どこか不安気な表情だ。
「大丈夫よ。ずっと二人一緒なんだから」
舞子のほうが慰める立場になっていた。
交叉点《こうさてん》を過ぎて、車が速度を上げる。高速道路でもないのに、どの車もかなりのスピードだ。十分ほどして家並みが途絶え、赤土のむき出した大地が、道の両側に広がった。
「テラロッシャ」
ロベリオが言った。赤い大地の意味だと英語でつけ加える。
舗装が悪く、時々車は速度を下げて徐行する。
途中何度か小さな川を渡ったが、流れは澱《よど》んでいて、水草が茶色の水面を覆い、池のような外観を呈していた。
道端に物売りが店を出している。ヤシの葉やバナナの葉を上にかぶせただけの簡単な日よけを作り、台の上に果物を並べている。売り人は、黒人の老婆だったり、子供だったりした。
赤レンガを積み上げた家が畑の奥に見えている。
畑の作物は半ば黄色、干からびていて、手入れもいきとどいていない。家の窓の一部にはガラスがなく、庭に原色の洗濯物が風になびいていた。
交叉点はあっても、一度も信号機に出くわさない。それだけ車の往来が少なかった。
左側に別荘風の家が建ち並び、右側には砂浜がひらけているところで、車は最徐行になった。道路に、高さ五十センチほどの隆起が五メートル間隔で三本作られている。どの車もそこでは徐行を強いられる仕組みだ。
赤土の大地を抜けると、土の色が白に変わった。
「まさか塩ではないわよね」
舞子の質問を寛順が英語に直す。
「塩ではなくて砂」
ロベリオが後ろを振り向いて答える。何が物珍しいのだと言わんばかりの表情で、音楽に合わせて身体を揺すった。
白い土の拡がりの向こうに海岸が見え始める。日本なら、こういう場所には松が植えられているはずだが、ちょうど同じような恰好《かつこう》で、ヤシの木が生い繁っている。その間に、赤屋根に白壁の家が点在している。
水平線上に島影は全くなかった。
空だけが初夏の日本の空と似ていた。青く澄んだなかに、ふっくらした白雲が底を平らにし、重なりあいながら浮かんでいる。
「病院もこんな場所にあるらしいわ」
ロベリオと話をしていた寛順が言った。「でも近代的な大病院らしい」
舞子は出発前に見た一枚の写真を思い浮かべた。水平線の見える人気のない海岸で、ひとりの女性が柔軟体操のようなポーズをとり、その脇《わき》で幼児が砂遊びをしていた。あの写真が旅行の決意をさせたのだ。明生の子供が生めるなら、地球の反対側に旅するなんて平気、どうせ一度は死を覚悟した身だからと思った。
ヤシ林に縁取られた海を眼前にすると、あの写真が具体性を帯びてくる。これから訪れる海浜の病院で赤ん坊ができれば、写真のように砂浜の上に出て、波と戯《たわむ》れることができる。傍で明生も見守っていてくれるだろう。
前方に、青い制服の警官が二人立っているのが見えた。車は急に速度をゆるめる。警官が停車を命じたわけではなかった。運転手とロベリオがご苦労さんと言うように手を上げる。二人の警官は満足気に顎《あご》を引いて応じた。
農家らしい家が三軒、樹木の向こうにのぞいていた。前庭が畑になっていて、鶏が十数羽、土をつつき返していた。バナナ畑からひょっこり姿を現した女性は、巻きスカートにTシャツのみで、頭の上にタライのように大きい平べったい容器をのせている。裸足《はだし》だった。
二車線の直線道路はところどころアスファルトがめくれ、凹凸ができている。車は穴を巧妙に回避して百キロ近いスピードで走る。中央線など無いに等しい。前方に対向車が現れ、近づくと、双方とも左右に分かれてそのままの速度でやり過ごす。
「セナは知っているだろう」
ロベリオが訊いた。寛順も舞子も名前は耳にしていた。知っていると二人が頷《うなず》くと、世界一だったと、ロベリオは親指を立ててみせる。そのあとで、彼の死には、全ブラジル人が涙を流したのだと言った。
こういう悪路を走っていれば、普通の人間でも運転は上手になるかもしれないと、舞子は思う。ロベリオに言ってやりたかったが、寛順に通訳させるほどのこともなく、黙った。
ロベリオは寛順に向かって、まだセナの話を続けている。寛順の顔が時折、苦痛に歪《ゆが》む。おそらくセナの事故死を恋人の死と重ね合わせているのだ。寛順の涙だって、全ブラジル人がセナの死に対して流した涙に匹敵したはずだ。
舞子はたまらなくなり、窓外に眼をそらす。
道路標識にさまざまな言葉が書かれている。しかし地名らしい単語の他は、何ひとつ意味が理解できない。PRAIAという綴《つづ》りが四回、五回と出てきたとき、舞子はバッグからポルトガル語の辞書をとり出した。
「何だい、それは」
身体を後ろに向けて寛順と話をしていたロベリオが、舞子に訊いた。辞書を受け取ると、物珍しげに頁を繰る。いろいろな単語が載っているのに驚いた様子だ。
「で、分からなかったのは?」
言われて舞子はPRAIAを示す。
「ビーチ、ビーチ」
ロベリオは英語を口にした。
道路脇に比較的大きな村落が見え始める。赤い屋根|瓦《かわら》に土壁が多く、商店や食堂も混じっている。
「プライア・デ・オスピタウ」
ロベリオが言った。〈病院海岸〉という意味らしかった。
車は右折し、石畳の道路にはいる。古い道路なのか、車がやっと離合できるくらいの道幅いっぱいに、手のひら大の石が敷きつめられていた。
村落をひとつ過ぎると、左側に大きな沼地が出現し、石畳はそこで切れた。赤土混じりの道は未舗装で、両側にヤシ並木があった。
「着いたようね」
寛順が窓の外を示して言った。樹木の間に別荘のような建物が姿を見せていた。回廊のように長く延び、その向こうに近代的な五、六階建ビルがそびえている。
赤土道は沼の先端でトの字型に分岐し、車はゆっくり右折する。アスファルト舗装に変わり、車の揺れがおさまった。
道の先に、アールヌーボー風に装飾された鉄製の門扉があった。芝生の上で馬が二頭、草を食《は》んでいる。
門の脇の小さな守衛所に、黒人が四、五人たむろしていた。きちんと制服を着こんだ者もいれば、半ズボンに上半身裸の者もいる。
黒塗りの乗用車が停止すると、制服の黒人が運転手と言葉を交わし、右手を上げた。それを合図に、裸足に半ズボンの青年二人が鉄扉の向こう側まで走り、左右に開いてくれる。車はゆっくり再発進した。
「舞子さん、ほら、国旗が」
寛順が言ったのはそのときだ。右前方の芝生の上に二十数基の白いポールが立ち並び、その大部分に国旗が掲げられていた。イギリス、フランス、ドイツ、カナダ、スウェーデン、スイス、寛順の大韓民国、そして日の丸も星条旗の横にあった。
「わたしたちのためかしら」
舞子が訊く。
「たぶんね。歓迎のしるしよ、きっと」
寛順が答える。
車が通路の途中で停止していた。五、六メートル先に、犬くらいの大きさの黒白まだらの鳥がいた。七面鳥のように、顔の皮膚がただれて赤いが、とさかがない。脚には扇のような水かきがついている。顔を横に向けて、片眼で車の方を睨《にら》みつけていた。
「またスーの奴《やつ》だ」
ロベリオがいまいましげに叫ぶ。ドアを開けて外に出、鳥を抱きかかえて戻ってくる。ロベリオの膝《ひざ》の上に坐ると、鳥は満足そうに低く唸《うな》った。
「車に若い女性を乗せて戻ってくると、こいつは必ず、ここで車を停めやがる」
ロベリオが言った。
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病院の受付はホテルのレセプションそっくりだった。カウンターの向こうの係員たちも白衣を着ていない。舞子は寛順《カンスン》に教えられながら、一枚の書類に名前と生年月日、国籍とパスポートの番号、有効期間を記入した。男の係員が部屋の鍵《かぎ》をロベリオに渡す。ロベリオが待ち受けていた黒人少年に合図する。少年は寛順と舞子の旅行ケースを手押し車に乗せ、運び始めた。
「病室はこっち」
ロベリオが言った。少年が消えた方向とは反対なので、舞子は迷った。
「大丈夫。こちらが近道なんだから」
ロベリオは軽快な足取りで歩き出す。受付のあった場所は、三つに分かれた棟の中央部分にあたっていた。後方の廊下は六階建の白亜のビルまで延び、正面で左右に分かれる廊下は、二階建の回廊のような長く連なる病棟につながっていた。
ロベリオは二階への階段を上がる。廊下の床は橙色のタイル張りで、海側に部屋が並び、右側には窓ガラスがはめられておらず、吹きさらしだ。芝生の中の花壇に赤い花が咲き乱れている。
すぐ横を歩いていた寛順が悲鳴を上げた。
「猫、いやネズミでもないし」
窓辺に蔦《つた》がからみつき、よく見ると灰色の動物が四、五匹、枝の上で動かずにいた。長い尾は猫に似ているが、小さな顔は猿のようでもある。
「猿だって」
ロベリオの説明に寛順は納得する。
居室の近くまで猿がやってくるとは驚きだ。何から何まで、常識が裏切られる思いがする。
二十室ほどをやりすごして、ロベリオは〈A227〉の前で立ち止まる。ドアの前に寛順の旅行ケースが置かれている。すぐ隣の228号が舞子の部屋で、荷物はもう運ばれていた。
「夕食までは自由時間、詳しい規則については、部屋の中に案内書があるので、読んでおくように。分からないことがあれば、受付に電話して、俺を呼んでくれ」
ロベリオは言って、二人に部屋の鍵を渡した。寛順と別々に部屋に入る。
部屋は前室と後室、テラスから成っていた。前室は洗面台と衣裳《いしよう》ダンス、冷蔵庫、バスタブにシャワーのある浴室、トイレがついており、六畳くらいの広さは優にある。後室は十畳ほどで、広めのベッド、椅子《いす》と机、大きな長椅子に低いテーブルが置かれている。壁にエアーコンディショナー用のスイッチがあり、あらかじめONにされていたためか、涼しかった。
テラスに通じる仕切りはガラス戸と網戸、鎧戸《よろいど》の三重になっていた。観音開きの鎧戸を閉めると、外光から完全に遮断される。
舞子が気に入ったのはベランダと、そこからの眺めだ。四畳半くらいの広さしかないが、屋根はそれよりも二メートル近く外に張り出して、深々とした日陰をつくっている。籐《とう》製の椅子と、やはり籐製の丸い足のせが置かれ、麻布でできた白いハンモックが吊《つ》られていた。
足のせの上に立って、まるで小舟をひきよせるようにハンモックの端をつかみ、身体《からだ》をゆっくりその中に入れた。曲がった身体がハンモックにおさまる。宙吊りになった浮遊感が快い。
頭を巡らすと、庭が一望できた。すぐ傍にヤシの葉が見える。頭上高く仰ぐのと違って、近くでみると一枚の葉の大きさに目を見張りたくなる。三メートルくらいの葉脈に、七、八十センチはある葉が両側に櫛《くし》の歯のようについている。ヤシの葉を四、五枚重ねるだけで、小屋の屋根は葺《ふ》けそうな感じだ。
ハンモックから出て手摺《てすり》の傍に立つ。庭の向こうに海が望めた。右側の方は河口になっているらしく、カヌーが二隻、草の上に裏返しにされていた。
電話が鳴る。部屋にはいって受話器をとった。
「舞子さん、行ってもいい?」
寛順の声がした。
「どうぞ、どうぞ」
机の上にあったパンフレットも横文字なので読む気にならない。寛順が説明してくれれば助かる。
「すごい所」
寛順がはいってくるなり言う。「食事は三食ともレストランに行けば食べられる。飲み物は冷蔵庫の中の物を好きなだけ飲める。翌日にはちゃんと中味を補充してくれるって。クリーニングは、袋に入れておくと、翌日にはでき上がりだと書いてあった」
「病院というより、リゾート地のホテルね」
「ホテル以上。いろんなレジャーもあるの。乗馬やサーフィン、カヌー、遠足、ダンス、チェス、アーチェリー」
寛順はベランダに出て、遠くを指さす。
カヌーが裏返しになっている原っぱの先に、枯草の壁のようなものが作られ、その手前にヤシの葉で葺かれた東屋《あずまや》がある。どうやらそこがアーチェリー場のようだ。
「ちっとも病院臭くない。よほど身体を動かさないと、一ヵ月もすると十キロは肉がついてしまう」
寛順が困った顔をする。
「せいぜい動くわ」
言ったものの、疲れがいっぺんに来た感じがする。椅子に坐《すわ》った身体は容易に動かない。
「スコールよ、きっと」
外を眺めていた寛順が言った。
海の方角がまたたく間に暗くなっていた。小鳥が木から木へと目まぐるしく移る。まるで雨宿りする場所を探しているようだ。先客があれば、その葉陰を追い立てられて別の避難所に移動する。
たちまち雨の音がし始める。ヤシの葉を太い雨脚が叩《たた》く。数分前の日照りが信じられない。幸い軒が張り出しているため、ベランダまで雨しぶきは吹き込まない。にわかに周囲の空気がひんやりとしてくる。
寛順も呆気《あつけ》にとられて雨を眺めている。
どこに隠れていたのか、雀の倍くらいの大きさの鳥が、ヤシの葉の上に姿を現す。濡《ぬ》れるのも構わず、横すべりに移動しながら、くちばしを葉のへりで磨くような動作を繰り返す。
雨はそのあと土砂降りになり、二人は部屋の中に退散した。
雨の音で会話も聞きとりにくく、大きな声で話し合う。
十分くらいして音が小さくなり、またベランダに出た。
雨脚がまばらになっていた。やがて陽が射し始め、雨滴はヤシの葉先から垂れ落ちるものだけになる。
海の上の空はもう青一色になっている。舞台照明のような変わり身の速さだ。芝生が緑色の輝きを取り戻し、ヤシの葉先で水滴が光る。
「これだと、畑も水撒《みずま》きしなくていいわね」
寛順が感心したように言った。
「ほんと、人間もシャワー代わりに利用できる」
裸になって外に出、石けんを塗っていれば、スコールですべてが洗い流されるはずだ。
再び鳥の声が聞こえ出す。姿は見えないが、少なくとも三、四種類はいる。そのうちのひとつは蝉《せみ》のように、長く尾をひく鳴き方をする。ひょっとしたら、鳥ではなく大きな昆虫か、猿の一種なのかもしれなかった。
「さっき、ベッドに横になっている間に夢をみたの」
寛順が言った。
「何の夢?」
「ほら飛行機の中で話をしたでしょう。わたしの村のブランコ。そのブランコに乗っている夢。ほんの二、三分眠っている間の夢。自分が少女に戻っていた」
その夢のなかに、他にも誰か村人が出ていたのかもしれない。恋人が傍にいなかったのか訊《き》いてみたい気がしたが、やめた。
「舞子さんがいてくれて、本当に良かった。これがひとりだと、どんなに心細かったか」
舞子と同じようなことを寛順が言う。
「お互いさま」
「ずっと一緒よ」
「ずっと一緒。お願いします」
舞子は頭を下げる。
「お腹すいた。まだ夕食は早過ぎるかしら」
腕時計を見る。五時過ぎだ。ちょうど日本との時差は十二時間くらいだから、そろそろ朝食かなという時刻に相当する。
「そうね。どんなところか、見物しながら行ってみようか。その前に着替えをしなくちゃ。一時間後、ドアの前に集合でどうかしら」
「はい承知しました」
舞子はおどけながら答える。
旅行ケースの中味を取り出して、棚の上に置いた。
着替えといっても、下着の他はTシャツが四枚、巻きスカート一枚とショートパンツが二枚、それにスパッツくらいしか持ってきていない。白いTシャツにピンクのショートパンツ、白いズックを今夜のために選ぶ。夜だから少しはおめかしをしたほうがいいと思い、白のヘアバンドを用意した。
軽くシャワーを浴びた。湯の出方も申し分ない。
鏡に映った鼻の頭が赤くなっている。そういえば、腕も陽焼けしていて、半袖《はんそで》シャツの跡が判るほどだ。この分でいくと、Tシャツの形は何日もしないうちに肌に刻まれるに違いない。
仕方ないわよね、と舞子は鏡の中の自分に言いかける。こんなに日射しの強い国で、太陽から逃げることばかり考えていては、せっかくの滞在が台無しになる。それよりは陽焼けなんか気にしないで動き回ったほうが得策だ。
ベランダの戸を閉め、部屋を出る。小さなポーチを肩から吊るした。寛順の部屋の前には、竹籠《たけかご》の中にミネラルウォーターの瓶が一本置かれている。さっそく寛順が飲んだのだろう。舞子はまだ冷蔵庫の中までは確かめていなかった。添乗員をしていただけあって、寛順は旅慣れしている。
寛順は赤いTシャツに黒いショートパンツ、赤いシューズだ。舞子には絶対できない色の組み合わせだが、寛順にはよく似合っている。
「舞子さん、鍵はちゃんと首にかけたほうがいいわ。ペンダント代わりよ。これで何もかもがタダになるのだから」
言われて舞子は、ポーチから鍵を取り出し、首にかけ直す。金色の鎖に、亀のマークのはいった飾り板がついていて、ペンダントにしてもおかしくないデザインだ。
廊下に出ていた猿は姿を消していた。玄関近くにいたはずの馬が中庭に移動し、二頭が三頭に増えている。
受付の前に人だかりがしていた。いずれも老人で、長逗留《ながとうりゆう》するらしく、黒人のポーターに大きな旅行ケースを運ばせている。
回廊が海の方に向けて張り出し、途中に掲示板があった。
「毎日のスケジュールが書かれている。サンバの踊り、カヌー、乗馬、ウィンドサーフィンと、盛りだくさん」
寛順が説明する。ポルトガル語、英語、ドイツ語の三通りで表示されているらしかった。
「どうしてドイツ語かしら」
「ドイツからの入院患者が多いのかもしれない。ほら金持の国だから、療養しながらのバカンスよ」
回廊の途中に売店があり、ひとつは絵葉書や小さな土産物、もうひとつの店はTシャツや帽子、サンダルなどを並べていた。値段の表示はR$というブラジル価格で、そのまま一ドルと思えば良いと寛順が教えてくれた。そうするとTシャツの値段も千五百円から二千円程度で、日本と比べても決して安くはない。
レストランには照明がついていたが、一本の長い竹が腰の高さで入口を塞《ふさ》いでいる。
「六時半からだって。あと十分くらい」
寛順が腕時計を見る。遅い夕食が普通なのか、待っている者はいない。プールの脇《わき》で寝そべったり、カフェテラスで飲み物を飲んでいる客が目立つ。
「海岸まで出てみようか」
舞子が誘った。プールの横の通路を抜けると、芝生の間を砂まじりの小径《こみち》が海の方に延びていた。
「あれは何?」
寛順が立ち止まる。芝生の中央に、白と黒の彫像のようなものが二十個ほど立っている。近づいてみて、それが野外のチェス盤だと判った。大理石で市松模様が作られていた。馬の頭に似た白と黒の駒《こま》は、それだけで芝生の飾り物になっている。
海岸沿いに寝椅子《ねいす》のような木造りのベンチが置かれていた。ヤシの葉で葺《ふ》いた一本柱の屋根が影をつくり、何組かのカップルがその下に寝そべっていた。
見渡す限りの長い海岸線だった。砂浜の幅は二、三十メートルで、左側はヤシの林が大きな弧を描いて張り出し、右側は草地と浜が四、五キロ先まで続いている。
風はなく、波はゆるやかなうねりで陸地目がけて迫ってくる。遠くから海面がめくり上がり、砂浜に行きつく前に、たまりかねたように反転する。白い波頭があちこちで生まれては消える。
「これが大西洋だわね」
髪をかき上げながら寛順が感慨深げに言った。「この向こうはヨーロッパとアフリカ」
そうした感慨は、島影がひとつもないので、一層切実に伝わってくる。海水を隔てただけで、欧州大陸やアフリカ大陸と向かいあっているのだ。
右手の方から黒人が砂浜を歩いてくる。釣竿《つりざお》とビクを手にしていた。二人の方には故意に視線を送らず、まっすぐ前を見て歩く。三十歳くらいだろうか、橙色《だいだいいろ》のTシャツに白のショートパンツを身につけ、裸足《はだし》で歩く姿勢が半分シルエットになる。
左のヤシの木陰から、紺色の制服を着た警備員が出てきた。耳にトランシーバーを当てている。漁師の歩く姿をじっと見据えながら、トランシーバーに応答していた。
「私有地だから、一応見張りだけはしっかりしているのね」
舞子は感心する。ベランダに出ていたときも、雨が上がったあと、やはり同じような制服の警備員が、ゆっくり中庭を横切っていくのを目撃していた。
敷地内で見かける滞在者はほとんどすべてが白人なのに対して、警備員やポーター、受付の係員、掃除人はすべて黒人か褐色の肌をした者ばかりだ。
「あーあ、お腹すいた」
舞子は背伸びして言う。「どれだけでも、はいりそう」
「行きましょう」
寛順が笑って同意する。まだ暗くないのに、庭園のあちこちにある水銀灯がともる。レストランやカフェテラスは白熱灯の照明で、どこか室内が赤っぽい。
レストラン前の竹のバーが取り払われ、入口にショートパンツにTシャツの女性が陣取っていた。テニスの審判員が腰かけるような高い椅子に坐り、手にノートを持っている。
寛順がペンダントの鍵《かぎ》を見せると、彼女は愛想良くノートに印をつけた。舞子もそれにならう。
「コンバンワ」
その混血の女性が両手を合わせ、日本語で言いかけた。舞子は驚きながらも同じ挨拶《あいさつ》を返す。誰か日本人が日本語を教えたのだろう。とはいえ、合掌だけは日本風ではなく、東南アジアのやり方だ。
レストランは広く、バイキング形式になっていた。
ひと目見ただけで、食べ物の豊富さに圧倒される。手前のテーブルには、五、六種のジュース類がガラス容器に入れられ、その奥には果物類が並ぶ。マンゴー、パパイア、スイカ、メロン、バナナと、色彩はジュース類に劣らず多様だ。パンの種類も多く、チーズパンのようなものからケーキ風なものまで、やはり六種類くらい、竹製のバスケットに入れられていた。メインになる料理もさまざまだ。それぞれにポルトガル語の名称と英語による説明が加えられ、百グラムあたりのカロリーが表示されている。
舞子は前菜にサラミと二種類のハムを選び、白い民族|衣裳《いしよう》を着た女性が目の前で揚げてくれるバナナを皿に受け、柱のそばのテーブルについた。寛順も皿に魚と野菜の煮込み、ソーセージをのせて、向かい側の椅子に坐《すわ》る。
「選ぶのが大変。舞子さん、飲み物は?」
「あのピンク色のがいい」
舞子は何か分からないながらも指さす。黄色や赤のジュースよりは良さそうな気がしたからだ。
「じゃ、取ってくる」
寛順が二つのコップを手にして戻って来る。
ピンク色の飲み物はスイカの生ジュースだ。寛順はメロンジュースにしていた。
「毎日こんなじゃ、先が思いやられる」
寛順はそれでも嬉《うれ》しそうに言う。
塩気がきいた生ハムは、甘い揚げバナナと口の中でほどよく調和した。
座席が埋まり始めていた。アルコール類だけは給仕に注文するようになっているらしく、水割りや生ビールを入れたグラスを白い制服の給仕が手際良く運ぶ。
「そのバナナ、おいしい?」
寛順が訊《き》く。
「おいしい」
舞子はナイフで一切れ分けてやり、寛順の皿に入れる。寛順はさっそく口にして、満足気に頷《うなず》く。
「普通のバナナじゃないわね。野菜としてのバナナかもしれない」
「野菜バナナ?」
確かにバナナの産地であれば、幾種類ものバナナがあっていいのかもしれない。煮ておいしいバナナ、揚げ物用のバナナ、サラダ向きのバナナという具合にだ。
前菜を食ベ終えて、二人で交互に新たに皿を満たしに立った。八十センチくらいの長さの魚がそのままの姿で煮込まれ、切り目を入れられている。久しぶりに魚を口にするような気がして、舞子は手を伸ばす。赤ピーマンと一緒に煮た肉もおいしそうだった。ピンポン玉大のチーズパンを二個、プチパンを一個取る。次の飲み物はオレンジジュースにした。
寛順はバナナの揚げ物と、ギョウザを大きくしたような白っぽい食べ物を取って来る。
もう席の八割ほどが埋まっている。五十歳以上の年配者と若い女性が多く、三十歳四十歳代はほとんどいない。YWCAと老人会を一緒にしたような年齢配分だ。
七時になって生演奏が始まった。
レストランの片隅が舞台になっていて、四人が楽器をかなで、六十がらみの男性が静かに歌い出す。ボサノバだろう、語りかけるような歌い方だ。舞台の上方にある棚には、人の顔をした土着の木彫が飾ってあるが、そのどぎつい形相と、繊細な洗練された歌声が全く対照的だ。
「病気になっても、こんなところで養生すれば治りが早いわ。食べ物も何種類もあって、食欲も出る」
舞子の言い草に寛順も頷く。
「ブラジルの食べ物に慣れない患者でも、これくらい何種類も用意されると、どれか好きなものに出会える」
「わたし、初めから慣れないものなんてないわ」
「舞子さんはそうね、きっと」
「デザートにパパイアがあったでしょう。最後にあれを食べてみたい」
「はいはい、わたしもおつきあいします」
寛順は笑う。実のところ、舞子はバナナの葉の上に並べられていたパパイアがなくなりはしないかと、さっきから気になっていたのだ。客のなかには、主菜をはぶいて、初めから果物類をどっさり皿に盛って席につく者もいた。
ナプキンをテーブルに置いて、二人一緒にパパイアを取りに行く。大きな皿に三切れを並べ、隙間《すきま》にスイカを二切れのせた。寛順はパパイア、マンゴー、スイカ、メロンをそれぞれ一切れずつ取る。
スイカは日本のものと比べて色が薄く、甘味も少なかった。しかし、パパイアは期待を裏切らなかった。ナイフで切り目を入れて、皮の近くの果肉まで残さず食べた。
「こんなにいっぱい食べられるなんて夢のよう」
舞子はしみじみと言う。
「メロンもマンゴーもいい味」
寛順は言ったが、舞子にとってはパパイアさえあれば充分だ。
「こんなに何個も食べている人なんていないわね」
「大丈夫、誰も笑いはしない」
バンドの演奏が〈ベサメムーチョ〉に変わっていた。記憶にある熱情的な歌い方とは違って、静かな声だ。抑揚も少なく、スローテンポで悲しげに歌う。
歌詞の意味は分からないが、亡き人を恋うる歌のようにも聞こえる。
「こんなベサメムーチョは初めて」
寛順が顔を上げ、舞台の方を見やる。「お酒でも飲みたい感じ」
「でも、お酒がはいると、涙が出そう」
伴奏のバイオリンもギターもチェロも、ゆったりと腕と手を動かしている。
レストランを出る時には、席のほとんどが満席で、入口で待っている患者も三、四人いた。
チェック係の女性は日本語ではなくポルトガル語を口にした。舞子の耳には〈ボーア・ノイチ〉という音に聞こえた。
「グッド・ナイトという意味」
寛順が言った。
プールサイドの照明に、水面が青白く光っている。昼間の熱気がいつの間にかおさまり、海に向けて吹く風も、首筋に心地よい。
舞子は寛順を誘って、ヤシの樹の傍にある小さなテーブルに席をとる。
席につくと、カフェテラスのウェイターがロウソク入りのランプを持って来た。寛順が英語で何か言うと、彼は一度店の中にひっこみ、厚紙に書いたメニューを手渡す。
「舞子さん、ビールもカクテルもあるけど、何にする?」
メニューを見ながら寛順が訊く。
「何かここの土地のものがいい」
寛順が舞子の言葉を伝える。ウェイターは黒い手を伸ばしてメニューの中のひとつを指さす。それでいい、と舞子は頷く。
「どんなものがくるかしら」
寛順がテーブルに肘《ひじ》をついて言う。
「たぶん、強いお酒」
「ヤシの実から作った?」
「それともパパイアから作ったアルコール」
「メニューにはカイプ何とかと書いてあったけど」
星が満天に出ていた。右側が欠けた月は陸地寄りにあった。星の位置がバラバラだと感じたのは、見慣れた星座がないせいだと気づく。
「南十字星はどれかしら」
「わたしも知らない」
寛順はぐるりと空を見回した。「星を眺めているとよけい迷路にはいり込んだ気持にさせられる。一種の星酔いかしら」
「でも月だけは同じね」
かすかに海の音がしていた。隣のテーブルに坐った白人女性三人の会話が、なぜか波の音によく似合った。
ウェイターが注文のグラスを二個テーブルに置き、舞子たちの鍵番号を確かめる。
「カイピリーニャ」
寛順が飲み物の名を訊いたとき、ウェイターは白い歯をほころばせて答えた。
透明な液体の中に氷とレモンのぶつ切りがはいり、大きめのストローがさしてある。
「これは強い」
ストローに口をつけた寛順が驚いて言う。
なるほど辛口で、舌にピリッと刺激があり、苦味のある香りもする。これまでに飲んだどのアルコールとも似ていない。
「でも飲みつけると癖になりそう」
舞子はもう頭の片隅が酔い始めているような気がする。
隣のテーブルの女性たちが口にしているのはビールらしい。真赤なガウンを羽織った女性が舞子たちの飲み物をチラリと見やり、視線が合ったとき笑顔をつくった。〈おいしいでしょう〉とでも言いたげな表情だ。
「もう日本を離れて一年も経ったような気がする。何もかもが、新しいものずくめだから」
「わたしも。自分が変わっていくのが分かる。場所の移動で、時間の長さも変わるのよ。地球の裏側に来たので、自分も裏返しになったような気がする」
「裏返し?」
思わず舞子も口にする。革袋をそっくりひっくり返した恰好《かつこう》が頭に浮かぶ。なるほど、言い得て妙だ。革袋そのものの成分は少しも変わっていないが、今まで日の当たらなかったところが表面に出て、新鮮な日光を浴び、逆に表立ったところが陰に隠されてしまっている。
「別な自分がこれから少しずつ現れて来そう。これまで知らなかった自分」
寛順はストローでひと口飲み、大きな深呼吸をした。
「そうよね。そうでなくちゃ」
「舞子さん、何があっても、助け合っていきましょう」
「お願いします」
舞子は頭を下げる。
本当は指切りゲンマンでもしたいところだが、韓国にそういう風習があるかどうかも知らず、子供じみた気もしてやめた。
カイピリーニャの酔いは独特だ。強いアルコールのくせに、身体《からだ》は火照《ほて》ってこない。身体の内側を冷やすと同時に、酔いは頭を澄んだ状態にする。空から雲を吹き払うように、雑念がどこかに吹き飛び、今ここでの気分だけを味わいたくなるのだ。
レストランでの演奏は終わっていた。音楽の代わりに波の音だけが聞こえる。
「眠くなった」
ベッドに横になれば三十秒で眠れそうだ。
「わたしも。戻ろうか。初日からあまり夜更かししないほうがいいわよね」
テーブルを立って、回廊を歩く。芝生の上を散歩する人影が見えた。六階建の病院の本館が木立の向こうに光の塔のように立っている。ほとんどの窓に明かりがついていた。
それに比べて、二階建の滞在棟のほうは、薄暗くひっそりとしている。
「明日の朝は何時にしようかしら」
部屋の前で寛順が訊いた。腕時計を見ると九時少し前だ。九時間たっぷり眠ったとして、七時少し前には起きられるだろう。
「七時半」
「はい。おやすみ、舞子さん」
「おやすみなさい」
部屋にはいって明かりをつける。
ドアの下に白い紙が置かれていた。英語でタイプ打ちされた文章だ。宛名はミズ・M・キタゾノになっている。明日の午前九時、本館五階に来て欲しいとの大よその文面は、二、三度読んでいるうちにつかめた。
その瞬間、舞子は自分が単なる物見遊山の旅行者ではなく、目的をもった患者である事実を改めてかみしめた。
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患者や白衣の医師がエレベーターから降りてくる。
東洋人が珍しいのか、ムームーのような派手な衣裳《いしよう》を着た太った中年女性が舞子の方を眺め、眼が合うと「こんにちは」と言うように口ごもった。
そうだ、お早う、今日は、ありがとうくらいはポルトガル語で覚えておこうと舞子は思う。
エレベーターは三基並んでいて、どれが先行するか判る仕組みだ。黒人の看護婦と一緒に、上りのエレベーターに乗り込む。看護婦の問いかけに、舞子は「フォース、プリーズ」と答える。五階を四階と言うのは寛順から教えられていた。看護婦が分かったというように微笑してボタンを押してくれる。「サンキュー」という言葉も自然に口から出た。
看護婦は四階で降りた。扉が閉まり、舞子はひとりになった空間の中で深呼吸をした。
エレベーターが停止して扉が開く。足を踏み入れたのは、深い緑色の絨毯《じゆうたん》で覆われた床だった。右側に大理石の彫刻、前方にガラス戸で仕切られた広い廊下が見えた。
その手前に大理石像がある。母と子の座像で、若い母親が椅子《いす》に坐《すわ》り、膝《ひざ》に抱いた赤ん坊に乳房を与えようとしている。子供の愛くるしい顔を眺めおろす母親の表情が、喜びに満ちた優しさをたたえている。赤ん坊に話しかける母親の声が聞こえてきそうで、舞子はしばらくそこにたたずんだ。
本当にブラジルまで来ていた。ようやくその実感が湧《わ》く。
今朝は鳥の声で目が覚めた。ピーピーと笛を吹くような鳴き声に、別な鳥の太い声も混じっていた。鎧戸《よろいど》がベランダからの光を遮断しているので部屋は真暗だ。舞子は慌てて明かりをつけ、デジタル時計の数字を読んだ。六時半だった。
前の夜、化粧を落としてパジャマに着替えるとき、もう眠気が襲ってきた。時計を目覚しに設定しなければいけないと思いながらも、英語の説明が面倒臭く、諦《あきら》めるのと寝入ってしまったのが同時だ。
何の夢をみたかも思い出さない。気がつくと森の中にいて鳥の声を聞きながら、木の葉から漏れ射す朝の光を見上げていた。あれ、どこに自分はいるのだろうと思ったときに目が覚めた。
起き上がって網戸を手前に引く。鐙戸を押しやったとき、外の光が待ち構えていたように射し込み、ベランダの手摺《てすり》にいた小鳥が飛び立った。
潮の香りはしない。森の匂《にお》いがした。空はまだ完全に青味を帯びていないが、今日も晴れ渡りそうな明るさを秘めていた。
アーチェリー場の手前を、灰青色の制服を着た黒人が大きな歩調で歩いていく。夜の間も、警備員たちは敷地内を巡回していたのだろう。
シャワーを浴びるとき、ついでに髪も洗った。ドライヤーをかけなくても、タオルで拭《ふ》きとるだけですみそうなくらい、空気が乾燥していた。裸でいても寒さは感じない。衣服をつけるとき、午前中の面接を思い出し、ブラウスとキュロットスカートを選んだ。乳液をすり込み、陽焼け止めクリームを首筋や腕に塗る。
赤くなった鼻の先はパウダーで目立たなくした。
七時半に部屋のブザーが鳴った。戸を開けると、上から下まで白ずくめの寛順が立っていた。ヘアバンド、イアリングも白で、腰のポーチだけが淡いブルーだ。
「昨夜《ゆうべ》、寛順のところにはメモがはいっていなかった?」
舞子が訊《き》いた。
「あった。今日の午後、面接があるの。一時から」
「わたしは九時。やっぱり本館の五階?」
「そう。五階の二号室」
「なんだか急に病人にされたような気がする」
「面接だけ向こうの病棟に行くのだから、病人と思う必要なんかない」
寛順は鷹揚《おうよう》に言った。
プールに浮いた木の葉を、黒人の掃除人が柄の長い網ですくいとっている。その向こうの芝生の上では、初老の男が松葉かきのようなもので草の上を掃き、時折それを上に向け、黄色くなった樹木の葉を一枚一枚地上に落としていた。
「オハヨウゴザイマス」
レストランの入口に陣取った女性が、前夜と同じように胸の前で両手を合わせた。舞子も同じ言葉で応じた。寛順はどこで覚えたのかポルトガル語だ。
白い民族衣裳を着たウェイトレスが庭寄りのテーブルを勧めてくれた。
彼女は白い歯を見せて笑い、窓の外を指さした。通路|脇《わき》の石の上にパパイアが三切れ置かれ、子猫大の猿が六、七匹かじりついている。前日見たのと同じ種類の猿だった。
「カメラを持ってくればよかった」
寛順が口惜しがった。尾が身体の長さくらいはあり、蛇のように動く。群から少し離れたところに、ひと回り小さい猿がいて、口に怪我《けが》をしていた。パパイアを食べたそうにしているが、恐がって近づけない。猫のように悲しげに鳴くだけだ。
他の客も猿に気がつき、眺めている。そのうちのひとりがパパイアを取ってきて、傷ついた猿の前に置いた。すると、今まで他のパパイアに食いついていた猿が一斉に新しいパパイアにとりつき、ひ弱な猿はそこでもはじき出された。
黒人の掃除人も、仕方ないという表情で眺めている。結局、傷ついた猿は、他の猿が食べ残したパパイアに口をつけ、一心にかじりつく。もうどんなに脅されても逃げないという覚悟がうかがわれた。元気な猿たちは、それを無視して木立の方に移動した。
「さあ、わたしたちも食べましょう」
どこかほっとしたように寛順が言った。
夕食と違って料理の品数は少ないが、パンやシリアルの種類は減っておらず、ベーコンと卵はコックが注文に応じて焼いてくれた。クロワッサンとプチパン、それに丸いチーズパンを取った。牛乳とオレンジジュース、野菜サラダも忘れずにトレイにのせてテーブルに戻った。果物のコーナーには前夜と同じように、パパイアやスイカ、メロンが並べられていた。
ウェイトレスが来て、コーヒーにするか紅茶にするかを訊き、小さめのカップについでくれた。前の夜、眠れなくなるのを懸念して飲まなかったから、初めてのコーヒーだ。
真黒なコーヒーに、黄色味を帯びた固形の砂糖を入れた。コーヒーの強い苦さが、精製されない砂糖の荒々しい甘さと見事に溶けあっていた。
「午前中、舞子が病院に行っている間、わたしは何かレッスンに参加してみよう。ダンスか乗馬か」
寛順が言った。
「馬に乗ったことあるの?」
「ない。たぶん、昨日見たあの馬よ。おとなしそうだったでしょう。どうせ、指導員がつくはずだから」
「わたしも乗りたい。二人一緒のときにしない?」
「じゃ、しばらく乗らないでおく。他のもので暇をつぶしておくわ」
寛順が立ち上がり、舞子も続く。近代的な造りの本館は、舞子たちの部屋とは反対側にあった。
回廊が本館と滞在棟を結んでいた。天井も壁も白一色に統一され、所々に大理石の彫刻が設置されていた。水瓶を担ぐ女性や、踊り子、あるいは女性兵士といった、ほとんどが等身大の女性像だ。
中程に、頭部にヴェールをかぶせられた裸婦の座像があった。あたかも本物の布をかぶったように、若い女性の顔がこちらを向いている。目鼻立ちは隠されたままだ。上半身は裸体で、右手で乳房を隠し、肩まで垂れるヴェールの他は、腰布が身体を覆っているだけだ。
「これは囚人か、奴隷よ」
寛順が台座に眼をやった。像の左手は縄がゆわえつけられ、石に打ち込まれた金輪に固定されていた。
囚《とら》われ人だとすれば、顔を隠しているヴェールがよけい残酷に見えてくる。顔だけがヴェールに覆われているだけでなく、運命も目隠しにあっているのと同じだ。ヴェールの下の目は、そんな自分の運命にあらがうように、果敢に上の方を凝視していた。
舞子は後ろ髪をひかれる思いでその場を離れた。
通路を抜けると本館の一階に出た。外来の待合ロビーになっているらしく、高い天井から三角柱の電光掲示板が吊《つ》り下がっていて、診療科と担当医、診療室の番号が、どの方角からも分かった。
受付と薬剤部、検査部門の前にそれぞれソファーが置かれ、既に患者が待機していた。百人近い患者数なのに混雑しているように見えないのは、充分すぎるスペースとバランス良く置かれている大理石彫刻と観葉植物のせいだろう。車椅子で移動する患者の顔や、頭に包帯を巻いている女性の顔にも苦痛の表情はうかがわれない。
患者の大半が白人で、ピンクがかった白衣を着た看護婦や医師のなかに、有色人種が何人か見られた。
「この病院にはお金持が集まっているのだわ、きっと。近くのリゾート地に泊まりながら、外来の治療を受けるのかもしれない。ヴァカンスと治療が一緒にできるから、病人にとっては理想郷」
寛順の指摘の正しさは、正面玄関を出て、広い駐車場を眺めてみてはっきりした。車の半分はメルセデス・ベンツの高級車だった。
玄関ホールに白一色ではない彫像があった。
女性が花束を右手にかかげ、人を誘っている像だが、左肩から胸、腰にまとっている布に色がついていた。舞子は近づいて像に手を触れ、声をあげそうになる。衣服の部分だけは、緑がかった色違いの大理石だ。
「白の大理石と色つきの大理石をつなぎ合わせたのでしょうね」
寛順も感心した。「でもどこでつないでいるのか全く判らないわ。色つきの大理石で洋服を作って、白の大理石の肌の上に着せたよう」
緑がかった大理石の複雑な模様が、そのまま衣服の柄になっている。左肩にかけられた布は左の乳房だけを覆い、裾《すそ》の方は石とは思えない軽やかさで、風になびいていた。
「そろそろ時間」
見とれていると寛順が言った。「わたしは十二時頃プールの傍にいる。終わったら来てね」
寛順とはそこで別れた。
「ミズ・マイコ・キタゾノ?」
ガラスでできた自動扉が開き、中から出てきた中年の婦人が訊いた。金髪を後ろに束ね、薄化粧にルージュだけをひいている。じっとこちらに見入る瞳《ひとみ》の色が、ブラウスの青とほとんど同じだった。
「イエス」
思わず答えた。英語が口をついて出たことに満足する。
「ドクター・ジルヴィー・ライヒェル」
中年女性は自分の名前のあとに何か続けたが、舞子には身ぶりだけの分しか伝わらない。
案内された部屋は薄暗く、調度品が少ない。壁に掛けられている絵は、水滴を画面一杯に描いている。同じ画家のものを日本の美術館で見た記憶があった。
「長い旅をよく耐えました」
ソファーに向かい合って坐《すわ》ったとき、ジルヴィーが言った。不思議によく分かる英語になっていた。
「ミズ・キタゾノは選ばれた人です。この病院であなたは、さらに選ばれた人間になります」
ジルヴィーの眼がじっとこちらを見つめる。口に出して答えなくても、気持を汲《く》み取るような視線だ。
「受精《コンセプシヨン》の前に準備期間が必要です」
コンセプションの意味が分からないと思った瞬間、ジルヴィーはその単語の説明をした。
「いいですね、心身ともに最高の状態に達したときに受精が成立します。わたしの面接も、そのためのものです」
それから大事なことがもうひとつ、とジルヴィーは続ける。
「ここで体験したことは、わたしが解禁するまでは誰にも言ってはいけません。せっかく昇りつめた最高の状態が、その瞬間壊れてしまいます」
ジルヴィーの唇が動くのを舞子はじっと見つめる。唇から漏れ出る英語が、まるで日本語のように頭のなかにはいってくる。
「分かりました」
舞子は答えていた。
「行きましょうか」
ジルヴィーが舞子の手を取る。患者を誘導する看護婦のような動作だった。
彼女のあとに続いて、ぶ厚い絨毯《じゆうたん》の上を歩く。両方に部屋があり、やはり大理石像が左右交互に置かれている。すべてが母子像だ。
右から四番目の扉を彼女は開け、舞子を招き入れる。紫がかった薄明かりのなかで、椅子《いす》に坐らせられた。部屋の奥行きが分からず、じっとしていると、ジルヴィーが扉を閉めた。
「マイコさん、しばらくぶりです」
独特の訛《なま》りのある日本語が天井から降りてくる。辺留無戸《ヘルムート》の声だった。
「そのまま立ち上がって、前方に進みなさい。いつものように装置をのぞき込むのです」
声が半ば命令調に言う。
舞子は立ち上がり、一歩二歩と進む。
双眼鏡のような穴に両眼を当てる。光が激しく点滅し、その間に赤い左マンジの模様がとらえられた。
目を離すと不透明ガラスの扉が左右に開き、更に一歩前に出たとき、背後で扉が閉じた。
その瞬間、眼前が明るくなり、立ち現れたのは、記憶に残っている光景そのものだった。
大きな火炉の中で火が燃え盛り、辺留無戸が経文を唱えながら、小さな札を次々と投げ込んでいる。踊るように形を変える炎に、舞子の眼は吸い寄せられる。辺留無戸の唱える低い声が耳に快い。
さまざまな迷い、辺留無戸がかつて言った言葉によれば、罪と汚れが、炎と呪文《じゆもん》によって浄められるというのは、おそらく本当なのだ。火を見つめ、経文を唱える声を聞いていると、身も心も澄みきっていく。
舞子は眉山寺《びざんじ》の境内に立った雪の日を思い出す。一面の銀世界のなかで椿の花が一、二点、血のしたたりのように咲いていた。
古い御堂が境内の奥にぽつんと建っており、舞子は足跡ひとつない雪を踏みながら、近づいたのだ。何かそこに仏像が安置されているような気がし、もしそうなら、安らかな顔に手を合わせてみたいと思った。
外の寒気から逃れるようにして御堂にはいった瞬間、静けさとは反対の熱気にまず圧倒された。低く、しかし力強い呪文が堂内に満ち、炎から放たれる熱気が、冷えきった身体《からだ》に突き刺さる。
舞子は立ちすくむ。不動明王の像が炎の向こうからこちらを見据えていた。予想していた静謐《せいひつ》な表情の仏像とは正反対の怒りの形相に初めは後ずさりした。ところが次の瞬間、その怒りの感情が、こちらの気持にすんなりとはいり込んできたのだ。悲しみにうちひしがれているとばかり自分では思っていたのだが、実はそうではなかった。怒りが悲しみの裏にべっとりと張りついていたのだ。不動明王がその悲しみのヴェールをはぎとり、裏にある怒りを掴《つか》み出していた。
怒りの形相を眺めている両眼から涙が溢《あふ》れ出してきた。一体、わたしが何をしたというのだろう。明生が何をしたというのか。あのとき、心の底から天を恨んだ。この世をあらしめているものを恨んだ。この世にあるすべてに、呪《のろ》いの言葉を投げかけた。呪いながら何度も何度も泣いた。もう涙は涸《か》れてしまっていたはずなのに、不動明王の怒りに誘われた涙は違っていた。怒りを洗い流す涙だった。
新たな涙を流し終え、再び不動明王の顔を凝視したとき、初めの怒りの形相の陰に微笑が感じられた。お前の怒りは充分分かった。もう泣く必要はない。──そう言っているように見えたのだ。
今、辺留無戸の向かい側に立って、こちらを睨《にら》んでいる不動明王も同じ表情をしている。怒りの下に透けて見えるのは、如来像の優しげな顔だ。
──会わせて下さい。明生さんに。
舞子は辺留無戸の背中ごしに、不動明王に語りかける。その願いに応えるかのように、炎がひときわ高くなり、読経の声が強まった。
炎は人の怒りを燃えつくすもの、読経はその怒りを慰めるもの。いつか辺留無戸が語ってきかせた言葉が蘇《よみがえ》る。
どのくらい時間が経ったか。読経が止み、炎が少しずつ勢いをなくしていく。
「マイコさん、もう一歩先に進んで下さい」
背を向けたままで辺留無戸が言った。
言われた通りに、舞子は一歩、祭壇に近づく。すると眼前にあった祭壇も不動明王も一瞬にして消え、暗闇《くらやみ》に戻る。音もしない。まるで奈落《ならく》の底につき落とされたような錯覚にかられる。自分の身体さえも、周囲の暗がりに溶けこんでしまっている。
少しずつ目の前に光が射し込んでくる。
黄色がかった壁、その前に広がる白砂利と灰色の石が視野にはいってくる。さらに明るさが増すと、手前に縁側と障子がはっきりと形を成し、すぐ右側の畳の上に辺留無戸が正座をしていた。微笑しながら舞子を見やった。
「マイコさん、旅はどうでしたか」
返事を待つかのように口をつぐむ。
「楽しみました。ここでの生活も楽しんでいます。まだ始まったばかりですけど」
自分の発する声が、微妙にどこかに反響する。それに反して辺留無戸の声は直接耳に届く。
「それは良かった。マイコさんが、きっと気に入ってくれると思っていました。何もかもが日本とは違うでしょう。いろいろな人間が一緒に生きている国、松林の代わりにヤシの生い繁る海岸」
「ここで知り合った韓国の友達が、まるで自分が裏返しになったようだと言いました」
「裏返し? ハハハ、それは面白い」
辺留無戸は口元に皺《しわ》を寄せて微笑する。深く納得したときの癖だ。
「表にあった自分が裏になって、裏に隠されていた自分が表になるような──」
「それはいいことです。自分の隅々まで知ることになる」
辺留無戸は深々と頷《うなず》く。「ほらマイコさん、この庭を眺めて下さい」
辺留無戸はゆっくり顔を石庭の方に向けた。
玉砂利と壁の対比が美しい。自然を模しながら、自然とは反対の極にある人工的な美しさだ。
「気持がなごみます。ブラジルにいて、日本の庭に接することができるなんて」
「私はいつでもここにいます。マイコさん、もう一歩前に進んで下さい」
辺留無戸の言葉に従って、舞子はおずおずと右足を踏み出す。縁側と辺留無戸の姿が消え、石庭が次第に薄らいでいき、再び闇が周囲を包んだ。
舞子は暗闇の中に立ちながら、期待に胸を膨らませる。この不安定な気分は、以前にも経験していた。何か快いことが待ちかまえている予兆が、身体を少しずつ染めあげてくる。もう時間に身を任せていればいい。
周囲が少しずつ明るくなっていく。透明な曲面の仕切りでできた迷路が、眼の前に立ち現れる。足元も透明で、まるで氷の上を歩いている感じがした。
天井は暗く、どのくらい高いのか判らない。
──いつもと同じに、通路に沿って進んで下さい。
辺留無戸の声がどこからか響いてきた。
舞子はゆっくり歩く。通い慣れた道のような気がする。何度か曲がるうちに、迷路の中央付近に到達した。
ガラスでできた寝台も、かつて見たのと同じだった。
──さあ、もう分かっているでしょう。そこに横たわるのです。
辺留無戸が命じるままに、寝台に上がった。四角いガラスの枕《まくら》に頭をのせる。
天井に眼が向く。寝台の上方だけが、井戸の底を逆さにしたように、どこまでも高く突き抜け、その奥に小さな光がいくつも点滅していた。
目を閉じた瞬間、頭の一部をフードが覆う。身体全体から力が抜けていく。
──そう。それでいい。以前の要領通り──。
辺留無戸の嬉《うれ》しそうな声が耳に届く。
海岸に立っていた。足元を波が洗うと、粉のように細かい砂が足裏で動いた。青い海が陽光を反射している。右にも左にも弓なりに広がる砂浜は、遠くにひとつ人影があるだけで、他に動くものといえば波だけだ。
人影がまっすぐこちらに近づいてくる。顔の輪郭がはっきりする前から、舞子はそれが誰だか判っていた。彼が手を上げる。舞子も右手を上げて振る。間違いなく明生だ。
お互いの顔が見分けられるようになると、もう胸が張り裂けそうになる。明生は近づくなり舞子の腰に手を回して抱き上げた。一回転二回転、よろけてそのまま二人とも砂の上に倒れ込む。
「やっぱり、来ていたのね」
「いつも舞子のいる所にぼくはいる。会いたかった」
明生は舞子の唇を口で塞《ふさ》ぐ。
紛れもない明生の身体だ。舞子は明生の背中を手で確かめる。
「泳ごう」
「でも用意してきていないわ」
「水着がなくても平気。上着だけ脱げばいいのだから。この土地の若者はみんなそう」
明生はTシャツとジーンズを脱ぎ、シューズの上に重ねる。舞子も下着だけになる。ブラジャーもはずした。スリップの下はパンティだけだ。恥ずかしくはない。砂浜には二人しかいない。海も浜もひとり占めできるのだ。
手をつないで波の中に足を踏み出す。渚《なぎさ》から眺めていたときと比べて、波は思っていた以上に高い。うねりがくるたびに身体が揺れ、舞子は明生の手を固く握りしめる。
「プールで一緒に泳いだのを思い出す。舞子は覚えているかい」
明生が顔を向けた。
「覚えている。でも、プールでは手なんかつなげなかった。並んで泳ぐか、明生のあとについて泳ぐか」
「ぼくが舞子の後ろを泳いだこともある」
「海は初めてね」
「初めて。しかも大西洋だ」
足が立たなくなって、舞子は平泳ぎになる。明生もそれにならった。波のうねりは泳ぎを妨げるほどではなかったが、波と波の間にはいった瞬間、岸も水平線も見えなくなる。波でつくられた溝のなかに、二人だけ残されたようだ。長い溝のなかに埋もれて立ち泳ぎをし、明生と向かい合う。しばらくすると今度は波の頂上に押し上げられ、左右に視野が広がる。一方は島影ひとつない水平線、他方は延々と続く砂浜。浜の向こうにヤシの緑が帯状に連なっている。
再び波の間におさまったとき、明生の姿がないのに気がつく。「明生」と思わず呼んだ。こんなところにひとりぼっちなんていやだ。泣きたくなる。「明生、どこ」
本当に泣きべそをかき始めた瞬間、明生の頭がすぐ傍にぽっかり浮き出る。
「だめよ、びっくりさせちゃ」
「大西洋の素もぐり」
明生は片手で立ち泳ぎをしながら、手のひらの中の小さな石を見せる。
「こんな石がいっぱいある」
明生は石を捨てて泳ぎ出す。
「置いていったら、駄目」
舞子も後を追う。平泳ぎでひとしきり進んだあと、明生が振り返った。岸がさらに遠のいていた。
舞子は急に不安になる。このまま黙っていれば、明生はどんどん沖へ行ってしまいそうな気配だ。岸に戻るつもりなんかなさそうにも思える。
「明生、恐い」
後ろから呼びかける。明生は泳ぎをやめ、振り返る。波のせいで、明生が舞子を見おろす恰好《かつこう》になる。明生は笑ったままで答えない。今度は舞子のほうが高くなり、波の谷間にはいった明生を眺めおろす。シーソーゲームの感覚が、よけい舞子を不安にさせた。
「岸に戻ろうよ」
舞子が泣きそうになりながら言ったとき、明生がすっと近づいた。
「じゃ、ぼくの背中に乗るかい。親亀の上に子亀が乗るように」
明生が平泳ぎの姿勢で誘う。明生の傍にいられるならどんな泳ぎになってもいい。
舞子は明生の肩に手をかける。すぐに波が襲ってきて、二人とも頭から海水をかぶる。それでも舞子は手を放さない。
明生は力強く腕を動かす。沈みそうになっても懸命に泳ぐ。舞子を背負っているので、足は自由にならない。二つめの波は何とか乗り越えられた。そのあと要領が分かり、波の頂点に立ったあと、坂を下るように二人が一体となって一心に泳ぐ。明生が腕で漕《こ》ぎ、舞子が足で蹴《け》るのだ。
ぴったり密接した身体《からだ》が快い。抱きついた腕の下で、明生の肩甲骨が逞《たくま》しく盛り上がり、伸縮を繰り返す。何度かまた波をかぶったが、もう恐くなかった。明生にしがみつくことで、奇妙な安堵《あんど》感が生まれていた。
波が来る毎に渚が近づき、もう足が立ちそうになる。それでも明生が泳ぎ続けるので、舞子も身体を預ける。最後はもつれあって渚に打ち上げられた。
「途中で溺《おぼ》れるかと思った」
肩で息をしながら明生が言う。
「わたしはもう安心だと、大船に乗った気持」
「途中で舞子が手を放すかと思ったけど、最後までくっついているので必死だった」
スリップの下に透けて見える肌が気になって、舞子は腕組みをする。
浜に人影は見えない。立ち上がって深みまで行き、身体についた砂を洗いおとした。
衣服を脱ぎ捨てた場所が、波打ち際から遠ざかっていた。引き潮なのだろう。衣服を手に取り、裸足《はだし》のまま砂浜の奥まで行く。タオルがなく、ハンカチで肌を拭《ふ》いた。濡《ぬ》れたハンカチを明生が絞って、自分の身体をぬぐう。
靴の上に腰かけているうちに、明生の身体は乾き始めている。舞子のスリップも、三十分も風にさらしていれば乾きそうだ。
「本当に嬉しい。明生と一緒で」
舞子は、こみ上げる嬉しさをそのまま口にした。
「ぼくたちだけの海、ぼくたちだけの砂浜。好きなときに、二人でここに来ることができる」
明生は同意を求めるように、舞子に顔を向ける。
舞子は目を閉じる。明生がキスをしてくれるのを待ち受けた。明生の唇を感じたとき、身体から潮が引くように力が抜け出す。
乳房にも明生の唇があたる。忘れかけていた感覚が蘇《よみがえ》る。
「会いたかった」
「わたしも」
感激で胸が張り裂けそうだ。明生の存在を確かめたくて、胸元にある明生の頭を両手でとらえた。明生の舌のなかで乳首が固くうち震える。
明生の手が舞子の身体を愛撫《あいぶ》する。喜びは二重奏になり、明生がかなでる調べを目を閉じて聴いた。風の音も波の音も消えて、快い身体の調べだけが鼓膜に響いてくる。
「抱くよ」
明生が耳元で囁《ささや》く。「抱いて」舞子は答えた。
もう身体全体が明生を迎え入れていた。明生との接点を局部に感じ、その接点が波紋のように拡がっていく。明生の唇がうなじを這《は》い、耳たぶに達し、また乳首に戻る。
舞子はのけぞりつつ、両手で明生の身体をまた確かめる。筋肉質の背中、そしてなつかしい臀部《でんぶ》のふくらみに爪《つめ》を立てる。
明生は舞子の名を呼びながら動きをやめない。やめて欲しくはなかった。舞子は明生の臀部をさらに激しく抱え込みながら、オーガスムが湧《わ》きあがってくるのを感じた。波のようなうねりで、次第に身体が浮き上がり、頂点に達したあと、またゆっくりと谷間に沈むが、それは次のより高い波の訪れまでの序曲にすぎない。
明生が激しい息づかいの下で、舞子の名を呼び続ける。二つの肉体がひとつの塊となって、波とともにせり上がっていく。
それは先刻海の中にいた時の感覚にそっくりだった。岸に近づくにつれて波は高くなり、明生に重ねた舞子の身体は、白しぶきをたてる最後の波とともに、渚に打ち上げられる。
明生の身体を感じながら、舞子は波の音を聞いていた。時折、鳥の声が混じる。海鳥の声ではなく、ベランダで耳にした鳥の鳴き声だ。
首筋を風が撫《な》で、日陰が移動していく。足先に日の光を感じる。
満ち足りたひとつの肉体。感覚のすみずみまでが、充分の酸素を与えられたように潤っている。
舞子は目を開ける。自分の身体だけに柔らかい光があたり、周囲は薄暗い。身体も乾き、衣服の乱れもなかった。
渚に横たわっていた身体が、いつの間にかここに運ばれていたような錯覚がする。明生の身体を抱きしめたときの感触、明生の声を聞いた聴覚、そして明生とともにオーガスムに達したときの悦《よろこ》びが、太い芯棒《しんぼう》のように身体をつき通している。
満ち足りた気分で舞子は寝台からおりる。立ち上がった瞬間、足を踏み出す方向だけがほんのり明るくなる。月光に照らされた道のようだ。明るさに従ってゆっくり歩いた。
最後の扉が開くと、石庭の見える座敷が眼前に広がっていた。辺留無戸の姿はなかった。舞子はしばらくそこにたたずみ、石庭を眺めやる。
赤い壁、左マンジを形どった玉砂利、散在する石。
二十分もそこに立っていただろうか。読経の声が低く耳に届いて、舞子はわずかに位置を変える。その瞬間、目の前の光景が御堂に入れ替わっていた。
辺留無戸が背中を向けたまま、読経をしている。像は、目を見開いて怒りの表情で舞子を睨《にら》みつけていた。
「それではまた明日、同じ時刻に」
読経が途絶えたとき、辺留無戸が言った。
舞子は彼の背中に向かって深く頷《うなず》く。
辺留無戸の読経の声が一段と高くなる。不動明王の像が次第に遠ざかっていき、周囲が暗くなる。
眼の前に扉があり、踏み出すと左右に開いた。
明るい廊下に出た。赤ん坊を顔の高さまで抱き上げている婦人像が、向かい側に置かれていた。赤ん坊は笑いながら、小さな手を広げ、母親のほうは頬《ほお》に口づけをしようとする。ほほえましい情景だ。
ジルヴィーが部屋から出て来て舞子の肩を抱く。
「ミズ・キタゾノ、大成功でしたよ」
彼女の声が耳元でささやいた。
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エレベーターの中で腕時計を見ると十二時少し前になっていた。二時間近くを、明生と一緒に過ごした計算になる。身も心も満ち足りていた。明生がここに来ているのは確かだ。
回廊に大理石像が並んでいる。舞子は改めて、ひとつずつ鑑賞する。山菜摘みをする女性、水瓶を頭の上に担いだエプロン姿の女性、タンバリンを持つ踊り子、水浴びをする前だろうか、衣服を足元におとしてしまっている女性。そして舞子が一番気に入っているヴェールをかぶった女性像は、花籠《はなかご》を手にした娘の像の横にあった。
舞子は奇妙な事実に気がつく。大理石像は例外なく白人女性をモデルにしていて、身体つきと容貌《ようぼう》には、黒人や東洋人の特徴は何ひとつ見られない。ブラジルが人種の見本市と言われるくらいに、多民族が共存して暮らしているのとは対照的だ。この病院の所有者、あるいは内装を担当したデザイナーは、白人崇拝主義者なのだろうか。
同じ白人女性像でも、ヴェールの女性だけが際立っているのは、囚《とら》われ人という異常な事態にあるからだ。自分が魅《ひ》かれたのもそのせいなのかもしれない。これから毎日のようにこの像の前を通るに違いない。そのたびに、この囚われた女性像が自分を呼びとめるような気がしてくる。
廊下を抜けると、レストランの向こうにプールが見えた。肥満体の男女が水の中にはいり、水球に似たゲームをやっている。男女合わせて十人ほどで、白と青の帽子でチームを判別できる。泳いで移動する者はほとんどおらず、歩くか、投げるかだが、ボールは予期しない方角に飛んでいき、そのたびに嘆声が上がった。おそらく、肥満の治療として運動をさせているのだろう。端の方にいる女性は、水着からはみ出した二の腕が丸太のように太い。
プールサイドにあるカフェテラスも賑《にぎ》わっている。パラソルの下で寛順《カンスン》が手を上げた。白いワンピースを着た金髪の女性が一緒だ。
舞子が近づくと、彼女のほうが椅子《いす》を一脚用意してくれた。
「舞子、こちらはユゲット。フランスから来ているって」
寛順が紹介した。
舞子も片言の英語で自己紹介をする。ユゲットの英語は、寛順ほど流暢《りゆうちよう》ではなく、舞子も気おくれせずに英単語を並べることができた。
「ユゲットは一階の滞在棟にいるのですって」
寛順がゆっくりした英語で言う。もうユゲットの前では日本語を使わないつもりらしい。
ウェイターが注文を取りに来る。
「昼食にはサンドイッチがお薦め。中に挟んだハムと野菜がおいしい」
ユゲットが勧める。青灰色の瞳《ひとみ》がキビキビとよく動く。三人とも同じ物を頼み、飲み物を追加した。
「どのくらい、ここにいるのですか」
舞子の質問に、ユゲットは三本指を示した。日本人と違って、立てるのは小指と薬指を残した他の三本だ。
「だから、もうこの辺のことは大てい知っているって」
寛順が補足する。
「とっても面白い所。この近くの村も、サルヴァドールの町も」
ユゲットは休まずにしゃべる。「ここはポルトガルとアフリカを一緒にしたようなところ。わたしが戸惑ったくらいだから、あなたたち二人は、もっと驚いたでしょう?」
「昨日着いたばかりで、びっくりの連続」
「たった一日で、もう一ヵ月もいたような」
舞子も寛順に同調する。
サンドイッチは、焼いたトーストにハムと卵焼き、トマトとパパイアが挟まれていた。
オレンジジュースには氷が入れられて、渇いた喉《のど》に心地良い。
「運動を心がけていないと、太ってしまう」
ユゲットが言う。「でも、わたしはこれから太っていくだけ」
「あら、どうして」
ユゲットがどこか嬉《うれ》しそうな表情を見せたのを不思議に思って、舞子は訊《き》いた。
「お腹に赤ちゃんがいるの」
代わりに寛順が答えていた。
「今でも少し大きい」
ユゲットは椅子をずらして、自分の腹部を手で触れてみせる。ワンピースの上からではさして目立たないが、スリムな体型の彼女にしてはこころもち大きくなっているようにも感じられた。
「わたしもう行かなくちゃ」
寛順が腕時計を眺め、ジュースを口に入れる。「夕方、またここで会おうね。舞子は部屋に戻っているでしょう」
「うん、寛順の戻る頃には部屋にいる」
寛順が本館の方に行くのを、ユゲットと二人で見送った。プールの中でのゲームは終わり、中年の男女はプールサイドに上がっていた。座椅子の形をしたデッキに横になり、本を開いている女性もいたが、腹の周囲は二メートル近くあるに違いない。小山のように盛り上がっていた。
「あの人たち、ドイツや北欧から来ているのよ」
眼で示しながらユゲットが教えてくれる。
「やっぱり、肥満の治療?」
「そう。ひと月で十キロおとすというのが、この病院のうたい文句」
ユゲットが身振りを混じえて説明する。ひと月十キロだと半年で六十キロ、百キロある女性も、六ヵ月後には四十キロの均整のとれた身体になるのだ。西欧の金持たちがこの病院に殺到するのも分かる。
「じゃ、ひと夏ここで過ごせば、六十キロの人は五十キロ、七十キロの人は六十キロになるのね」
「そう。バカンスを楽しみながら十キロの肉をおとせる。毎年来る患者もいるそうよ」
「毎年来るとしたら、痩《や》せていくばかりじゃない?」
「そこよ、問題は」
ユゲットの目がいたずらっぽく輝く。「マイコはダイエットしたことないの?」
「したいけど、どうせできないから」
「したことがあるなら分かるはずよ。十キロ減らしても、十キロなんかすぐに元に戻ってしまう。ときにはおまけがつくこともある。だから、一年に一回ここに来て十キロ痩せて、国に帰ったら一生懸命頑張って、次のバカンスまで十キロのオーバーウェイトにとどめればいいのよ」
ユゲットの口にするブロークンな英語が楽々と耳にはいってくる。舞子も頭に浮かぶ英単語を臆《おく》せずに並べたてた。
「じゃ、あの大きな人たちも、また同じようになって戻ってくるのかしら」
「多分そうよ。確かめてはいないけど」
ユゲットは明るい笑い声をたてた。互いに片言の英語を口にしているだけなのに、思いが通じ合うのが不思議だ。人は同じような環境に置かれると、短い言葉や仕草のみで意思疎通ができるのかもしれない。飼育箱の中のハムスターたちが、言葉なしで仲良く生きているのと同じだ。
超近代的な病院とリゾートホテルを融合したような施設、目の前に広がる青い海、ヤシ林。そのなかに世界各地からやってきた富裕な患者たちが入れられている。いや泳がされている。
「わたしの担当医は日系三世よ」
ユゲットがぽつりと言った。「ドクター・ツムラ」
「この病院で診てもらっているお医者さん?」
産婦人科という英語が分からず、舞子は知識の範囲でなんとか単語を並べたてる。
「そう。サンパウロの医学部で勉強したって」
「いくつぐらい?」
「三十二歳だと言っていた。日本人って若くみえる。マイコだってそう。フランスに行けば、ハイティーンと間違えられるわ。きっと」
「ハイティーンなんて、ずっと昔」
舞子は答えながら、女子高の制服を思い出す。深緑の上着にチェックのスカートで、入学前から憧《あこが》れたスタイルだった。それがもう遠い昔のことに感じられる。
「そのドクター、日本語できるの?」
「知らない。わたし、日本語できないから。いや待って、グッバイがサヨナラ。あとはトヨタ、ニッサン、スシ、ハイク」
ユゲットは一生懸命、記憶の中から日本語を引き出す。こんな混じりっけのないフランス人の頭の中に、日本語の単語が詰まっていたなんて驚きだ。ただし俳句がアイクに聞こえる。
「今度の診察のとき、何か日本語で言ってみる。彼が日本語を知っていれば驚くわ。何がいいかしら」
「お願いします、はどうかしら」
「オネガイシマス? どんな意味?」
「診察室にはいるときに患者が言う言葉。相手の先生の反応が面白いわ、きっと」
「オネガイシマス、オネガイシマス」
ユゲットが口ずさむ。
「お願いします。何か頼みごとをするときには、いつでも使える」
「じゃ、シルヴプレと同じね。フランス語の」
「シルヴプレ」
舞子も真似をしてみるが、舌がもつれそうになる。ユゲットは顔を舞子の方に向けてゆっくり発音する。テレビ会話の講師そっくりだ。ユゲットの可愛い舌が上にまくれ上がり、丸まった唇が前に突き出る。
舞子の発音を五、六回直して、ユゲットはようやく満足する。日本語を覚えるのは大雑把《おおざつば》なくせにフランス語を教えるとなると厳格で手抜きがない。不公平のような気がしたが、最後に言ったシルヴプレは、ユゲットを大いに満足させた。
「少し散歩してみようか」
ユゲットが誘った。まだ海辺に立っただけで、病院の周辺はほとんど知らなかった。
朝、猿たちが戯れていた小径《こみち》に出た。アーチェリー場に、七、八人の男女のグループがいて、小柄な指導員から手ほどきを受けている。
「寛順はダンスのレッスンに出たいと言っていたわ」
「ダンスも何種類かあって、わたしがやってみたのはエアロビクスとサンバ」
「どちらが面白い?」
「サンバ。ステップが難しいけど」
ユゲットは立ち止まり、リズムを口ずさみながらステップを踏んだ。複雑な足の動きで、時折腰のひねりが加わる。舞子にはとうていできそうもないステップだ。
「先生はジョアナ、レストランの入口に腰かけている女性」
舞子に両手を合わせてオハヨウゴザイマス、コンバンワを言った混血の女性に違いない。彼女が先生ならいつか習ってみてもいい。
ヤシの木の陰に制服の警備員が立ち、トランシーバーを耳にあてていた。昨日よりは波の穏やかな海に、七、八人が遊んでいた。警備員は彼らの脱ぎ捨てた衣服を見張っている様子だ。
木製の座椅子《ざいす》が海に向かっていくつも並べられていた。背もたれの角度は調節できるらしく、寝そべっている者もあれば、安楽椅子のようにして本を読んでいる男性もいる。舞子は旅行ガイドと辞書以外の本を持って来なかったことを一瞬後悔した。日本語の本など、ここではとても手にはいらないだろう。となると、活字が恋しくなれば、辞書かガイドブックを隅から隅まで読むしかない。
しかし少なくとも今は本なんかいらない。大西洋のかなたから吹いてくるこの微風、汽笛さえも混じらないこの純粋な波音が自分の本なのだ。舞子は海に向かって胸をひろげ、深呼吸をする。
「どっちの方向にする?」
ユゲットが右と左の海岸をそれぞれ指示して訊いた。「こっちは長い海岸。こっちは村と灯台があるわ」
選ぶのはあなた、というようにユゲットは笑って見せる。ワンピースの腹部が、細身の身体《からだ》にしては心もち突き出している。
舞子は黙って右の方に手を上げた。村の方にはいずれ行ってみたいが、今はユゲットと二人だけで静かな海辺を歩いてみたい。
「だったら裸足《はだし》のほうがいいわ」
ユゲットはシューズを脱ぐ。舞子もそれにならった。草の上に二足を並べる。ヤシの木陰に立っていた警備員が、分かったというように頷《うなず》いた。
なるほど、細かい砂の上は裸足のほうが歩きやすく、快い。貝殻が全くないと思ったのは間違いで、砂の中に、砂よりも小さく砕かれた殻の破片が混じっていた。
後ろを振り返ると、ヤシの樹林のむこうに病院本館の白い建物がすっくと立っていた。コンクリートとガラスからできたその建築物以外に、ヤシ林から突き出している物は一切ない。二階建の滞在棟も、レストランなどのある建物群も、すべてヤシの樹海が包み込んでしまっている。
砂浜が河口で寸断されていた。病院の敷地の境界線になっている河だろう。深くはなさそうで、中洲《なかす》が二つできている。ユゲットは浅瀬を選んで舞子を誘導した。
流れはゆるやかで、膝下《ひざした》までの水深しかなく、まくりあげたパンツの裾《すそ》が少し濡《ぬ》れたくらいだ。二つの中洲の間で、子供が貝採りをしていた。姉弟だろうか、「ボーア・タールヂ」と声をかけたユゲットに顔を上げる。黒い肌にはめこまれた澄んだ目がキラキラ光る。弟のほうは舞子たちの見ている前で、さっそく貝を採ってみせる。川底に足を這《は》わせ、砂の下にある貝を探りあてて、得意顔で手で取り出す。アサリよりは大きな二枚貝が、ビニール袋に三、四十個入れられていた。
河口を渡りきると砂の色に白っぽさがなくなり、黄色味が増す。粒も小さく、足の裏の感触がさらに柔らかくなる。
前方の渚《なぎさ》を、白いものが覆っていた。細かい泡の集積は、広大な綿菓子のようだ。小さな塊から畳数枚分の広さのものまで、波打ち際に寄り集まっている。波がそれを移動させ、風が泡の先端をひきちぎっていく。海水を含んだ渚の泡は、わずかの風でも、すっと音もなく移動した。
「塩の花」
ユゲットが言った。
舞子は明生と訪れた九州の海岸を思い出す。規模こそ小さかったが同じような白い波頭が泡となって、花のように咲き乱れていた。明生は泡を口元にくっっけ、浦島太郎だとおどけてみせた。
ユゲットが一番深そうな泡の中に足を入れる。膝から下がすっぽり隠れて、雲の上に立っているようだ。舞子も真似をする。足にまつわりつく軽い泡が心地良い。渚は二、三十キロ先の小さな岬まで、すべて波の花で縁どられていた。
「どこかで休憩しようかしら」
ユゲットが砂浜の後方を指さす。砂浜に小さな断層ができ、その上は平たい台地になっている。
二人で砂の断層をよじ登る。足元の砂が崩れ落ち、何度かやり直して、ようやく登りきった。砂地に昼顔に似たつる草が這っている。ヤシの葉陰に腰をおろすと、前方に白い渚と島影ひとつない大海原が眺められた。
「お腹にあの人の子が宿っていると思うと、勇気がでてくるの」
金色の髪をかきあげて、ユゲットが言った。
「あのときは、もう自分も駄目かと思った。シャンソンの歌詞にあるのだけれど、また同じ朝がやってきて、同じように夜の来るのが不思議だった」
ユゲットがつる草の花を手のひらにのせる。きれいなピンク色だ。匂《にお》いがするのか鼻を近づけた。
「どうやって食事をしたのかも思い出せない。部屋のカーテンもおろし、明かりもつけずにいたわ。テレビだって見る気はしなかった。電話はいつもスイッチを切って留守の録音にしていた。でもね、アパルトマンの階段を上がる音がすると、アランじゃないかしらって、耳がそばだつの。じっとドアの内側で待ったわ。彼はノックを必ず三回したから、聞き分けがつくの。でも足音はそのまま四階の方に上がって行った。これが現実なのだと自分に言いきかす反面、そんなはずはないと、別な自分が否定する」
「本当にそう」
舞子は深々と頷く。現実か非現実か、二人の自分が言い争う状態は、体験者でないと理解できない。
「アランが事故に遭ったのは霧の深い日なの。トレーラーの運転手だったから、パリとリヨン、マルセイユの間のオートルートをいつも往復していた。運転は本当に好きだったの。どんなにムシャクシャする時でも運転台に坐《すわ》ると気が鎮まると言っていた。わたしも何度か助手席に乗せてもらったわ。アランの口癖は、わたしとトレーラーと仕事があれば、もう何もいらない。家がなくてもトレーラーの中で生活すればいい。子供ができたらトレーラーの中で育てると言うの。
でもね、わたしはそんなに車は好きではなかった。パリでは小さなシトロエンに乗っていたけど、バスと地下鉄の乗り継ぎが不便だから仕方なくそうしたのよ。小さな道から大きな道に出ると緊張して神経を使う。たまに環状線を走らなければならないときなど、もう嫌。みんなどうしてあんなにスイスイ運転できるのかと思う。わたしにはカーステレオも聞く余裕がない。もう必死でハンドルにしがみついているだけ。
アランはそんなわたしをなんとか教育したかったようよ。すぐ前の車ではなく、三台前の車から見ておくといい。できれば運転手の性別や年齢も確かめ、そのうえで運転の癖も観察して、性格も想像してみるべきだというの。嫌な運転の仕方だと思えば、その後ろにはつかずに車線を変更するか、後続車に前を譲るといいのだって。やっぱりプロなのね。そんな運転、わたしにはどんなに努力してもできなかった」
ユゲットはチラリと舞子の方を見やった。あなたはどう、と訊《き》きたげな視線だ。
「運転免許証は持っているけど、車がないからほとんど乗ったことはないの」
答えながら、舞子はユゲットが、アランを失った事故の話をあとへあとへと引き延ばしているような気がした。運転が好きで上手なアランが、いつか事故に遭遇してしまったのだ。
「これからもたぶん運転はしないと思うわ」
舞子は口にしていた。運転放棄の気持を、具体的に他人に表明したのは初めてだった。明生の事故のあと、もう運転なんかできそうもないと何度か思いながら、それについて改めて考えたことはなかったのだ。次の免許証の更新はしないと、舞子は今はっきりと思う。
「わたしももう車には乗らない」
ユゲットが言う。「夜の国道での事故。霧の中をトラックが中央線を越えて迫って来たの。急ブレーキをかけたトレーラーはジャックナイフみたいになった。アランが運び込まれた病院に着いたのが夜中の一時。パリから車をとばしながら、生きていて欲しいとそれだけ祈っていた。ムランという町の病院で、最初に脳外科の医師から頭の写真を見せられた。ああ、これは駄目だということかと血の気がひいたわ。
脳の写真がどうなっているかは、わたしには分からない。容器に入れたオムレツを床のうえに落とすと、オムレツが壊れてしまうでしょう。そんな具合にもうアランの脳がなっていると医師が言うの」
ユゲットは手のひらの上で花びらをそっと吹きやった。「そのあと病室に案内された。アランの頭は包帯がぐるぐる巻きで、口にも器具がつけられ、いろんな管が身体をとり囲んでいた。裸の胸は、確かにアランだった。でも、いくら呼びかけても、何も答えてくれない。不思議な気がしたわ。眠っているのなら、揺り動かせば目を覚ましてくれる。でもそうではないの。ただ、身体がそこにあるだけ。涙も出なかった。ぼんやりと坐って、アランの胸が機械仕掛けで上下するのを見つめていた。
アランの両親と妹さんがブルターニュから到着したのは、そのあと。アランは運転免許証の中にわたしの写真、移ったばかりの住所と電話番号のメモを入れていたのね。それでわたしにまず病院から連絡があったの。ご両親に電話を入れたのはわたしだった。お母さんはアランを見るなり気を失って、他の部屋に連れて行かれた。妹さんもお母さんに付き添って、お父さんだけがアランの傍に残った。
お父さんはもう医師から大体の話は聞いていたのか、わたしに向かって残念だとおっしゃった。息子はあなたを幸せにしてやると言っていた。自分もあなたと息子が幸せになるのを楽しみにしていた。あまりにも手放しで息子の幸せを期待していたので、神様が自分に試練を与えたのかもしれない。自分たち二人を許してくれ、と言われるの。わたしはもう泣くしかなかった。静かな涙なの。
アランを許さないなんて、お父さんを許さないなんて、そんなことありませんと、わたしは必死で答えた。でも、神様だけは許せない。わたしは胸の内で思った。いったいどういう理由で、わたしたちからアランを取り上げてしまったのか。わたしたちが一体何をしたというのですか」
ユゲットは海から吹いてくる風に顔を向けなおす。舞子は自分の足元に落ちたピンクの花びらを見つめるだけだ。
「結局、翌日、人工呼吸器をはずすのにお父さんが同意された。心臓や内臓、目の摘出にも、お父さんが署名した。アランがドナーカードを作っていたのは、わたしも知っている。わたしには強制しなかったけど、冗談ではよく言っていた。もしものときは、移植された人のところに行ってみてくれ。俺《おれ》の一部がそこで生きているから、慰みにはなるって。
でもね、とうとう行かなかった。行く気なんかしない。好きな人の存在なんて、その皮膚でも心臓でも目でもない。全体としての魂なの。たとえ身体がみんななくなったとしても、魂があればいいのよ。だから、アランの身体の一部がどんな人に移植されたか、わたしは知らない」
舞子はようやく顔を上げる。彼女の言うことは真実だ。亡き人の遺骨があったり、遺髪や爪《つめ》が家族のもとに届けられるが、それは何もないより少しましなだけで、生きているその人の代わりには絶対にならないのだ。そんな身体の部品よりも、むしろ愛する人の残した絵や文章のほうに、魂の存在は感じられる。
「ひと月くらいしてから思い出の場所に行った。アランが中学生の頃まで住んでいたモレという町があるの。パリの郊外よ。川に沿った古い町で、彼はそこの教会が大好きだった。教会は川の中洲《なかす》に、城砦《じようさい》のように建てられている。水かさが増しても平気なのね。両岸から石の橋で教会に渡るのだけれど、それだけでもう何か普段の生活から抜け出した気持になるのね。
礼拝堂は、ステンドグラスが上下に分かれているの。天井近くのと、床の上のと。上の方のステンドグラスには聖人たちの姿が描かれていて、下の方は村人たちの生活の図が表わされている。中にはいると本当に不思議な気持になる。下のステンドグラスは少し暗くて、明るさが微妙に変わるのよ。川面の反射光がガラスに当たるからなの。上の方のステンドグラスは、それに比べると明るくて、いかにも天上の国がそこにあるような気がしてくる。アランはそれが気に入っていたのね。そんなに信心深いほうではなかったけど、結婚式はその教会で挙げようと言っていた。
わたしはそこに週末毎に通ったわ。郊外バスに揺られて、麦畑の向こうにモレの町が現れ、もっと近づくと木立の陰に教会の屋根と尖塔《せんとう》が見えてくる。ほっとしたわ。アランの魂がそこに帰って来ていると思えてならなかった。週末に教会に行くために、月曜から金曜までを歯をくいしばって働いていたようなもの。教会を訪問できると思うと、仕事もなんとかこなせた」
ユゲットは、そのときの苦しみを想起するように、しばらく言い澱《よど》む。
先刻から浜の先にポツンと見えていた人影が、次第にはっきりしてくる。つばのある帽子をかぶり、橙色《だいだいいろ》のTシャツに白いショーツの男性だ。手にしているのは釣竿《つりざお》らしい。
「五、六回教会に通った時だったかしら。礼拝堂でたったひとり祈っているとき、神父さんから声をかけられたわ。ドイツ語|訛《なま》りがあった。もうかなりのお齢で、八十歳に近いようだけど、声は若々しく、背筋もピシッと伸びていて、わたしの顔にじっと見入るの。そして、あなたはずっと以前、男の人とここに何度か来ましたね。覚えていますよと言った。わたしは、急に胸が張り裂けそうになって、ワッと泣き出した。もう、神父さんがいるのも、礼拝堂であることも忘れて、声を出して泣いた。アランの事故があって以後、我を忘れて泣いたのはその時が初めてだった。それまでは悲しかったけど、泣けなかった。泣けばアランが悲しむようで、泣けなかった。我慢することをアランが望んでいるような気がしていたの。悲しみを自分で堰止《せきと》めていたのね。それが、神父さんのひとことで一気に噴き出した。その礼拝堂でなら、泣いてもいいと思った。
泣き尽くしたとき、神父さんはわたしの肩に手を置いて、ついて来なさい、あなたにふさわしい場所に案内してやると言われた。わたしは頷《うなず》いたわ。
川の中洲は中世の頃は本物の城砦《じようさい》になっていて、地下牢《ちかろう》や、船着場、倉庫などがあって、その一部を、領主が教会に造り変えていたのね。古い建物の部分は神父さんや修道僧などの居室に使われ、一般の市民は足を踏み入れられなかった。
神父さんについて行くと、なるほど、昔の城だけあって、階段や部屋が迷路のように連なっていた。石段を下って行き、長い通路を歩いた先で、ホールのような場所に出た。天井は高く、周囲の岩肌はいびつだけど人工的に削られて、いくつもの段差ができていた。
川の底の地下通路を経て、中世の石切り場に出たのだと、神父さんが教えてくれた。中洲の城を造るとき、そこの石を切り出して積み上げていったらしいの。
階段状になった壁のところどころに、黒っぽい四角の石が横に置かれてあった。神父さんはそれを指さして、教会創設当時からの歴代の神父、修道僧のお棺だと教えてくれた。棺の石材だけは、その土地の石ではないようで、もっときめが細かった。
そんな地下ホールの奥に、小さな祭壇が設けられていて、そこはもう別世界だった。ロウソクが何本もともされ、たぶん地上に開けられた窓からだろうけど、ひと筋の明かりがマリア像にふりかかっていた。ルネッサンスの画家たちがよく描いた聖母像があるでしょう。マリアがキリストを抱き、天上からの光が射し込んでいる絵。それとそっくりの光景が、実際に目の前に現れたのよ。わたしはあまりの荘厳さに、その場に立ち尽くしてしまったわ」
ユゲットはうっとりとした表情で言いさし、渚《なぎさ》を歩いていく黒人に眼をやった。釣竿を手にした黒人は、木陰にいる二人には当然気づいているはずだが、視線を合わせることもなく、まっすぐ前方を見たままだ。手にした網びくの中には小さな魚が何匹かはいっていた。
「神父さんは、ここが気に入ったなら、礼拝堂に来るたびに訪れていいとおっしゃった。嬉《うれ》しかった。毎日でも来たいと思った。だから、その町の近くの支店に転勤の希望を出したの。若い人はみんなパリに出たがっているから、逆に郊外への転勤は歓迎されるわ。ひと月後には転勤がかなって、そのモレの町に住み始めた。アランが少年時代までいた町だと思うと、元気が湧《わ》いてきた。教会にはほとんど毎日のように通ったわ。そして、神父さんの手引きで、アランと再会することができたの」
そうだったのだと舞子は納得する。自分もそうだったし、寛順も山の麓《ふもと》にある寺で恋人と会うことができた。
舞子はユゲットの腹に眼をやる。目立たないくらいに丸味を帯びている。満ち足りて、美しく輝くユゲットの顔。その横顔を眺めながら、自分も間もなく明生の子供を妊《みごも》ることができるのだと思う。
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11
夕食時には三人が揃《そろ》った。目の下にあったくまが消え、寛順の顔が輝いていた。舞子とユゲットが行った海岸を自分も是非見てみたいと言った。
「時間は山ほどある。面接と診察以外はすべて自由時間。それをいかに生き生きと過ごせるかが大切だって、ドクター・ツムラにいつも言われる。母親の喜びがお腹の子に伝わるのね。受精前も同じよ。ヒトの身体《からだ》って畑の土壌と同じだと彼は言うの」
ユゲットはしゃべりながら、肉の塊にナイフを入れ、器用にフォークの先につき刺す。しゃべっては食べる一連の動作が実に自然だ。舞子はそうはいかない。肉を切り分けるとなると、それに全神経を集中して耳がおろそかになる。
前日の夜と違って、さまざまな肉が焼かれていた。給仕がサーベルのように長い金串《かなぐし》に突き刺した肉を持って、テーブルをまわる。客の求めに応じて、注文の量だけ鋭い包丁で切りおとしてくれる。シュラスコだとユゲットが教えてくれた。
舞子はほんの少しと言ったのだが、愛想の良い給仕はそんなに少しではおいしくないといった顔をし、こぶし大の塊を切り取ってくれた。肉の種類も調味の仕方も違った串が六種類ばかりあったものの、そのうちのひとつでもう満腹になりそうだった。
寛順のほうは、給仕に肉よりは野菜が好きだからと断ったので、巨大な肉塊を免れている。
「確かに、卵子をつくるときも、母親が幸せか否かで質が変わってくるのではないかしら」
寛順は舞子の意見を求めるように顔を向けた。うんうんと同意したあと、
「ユゲットも、受精前になにか特別に幸せな状態におかれたの?」
と訊《き》いた。
「そうね」
ユゲットは考える顔つきになる。「本当に、ずっとハッピーな状態だった、今もそれが続いているけど」
どんな具合にハッピーだったのか知りたくて、舞子は話の続きを待つ。しかしユゲットは言いさしたまま、楽器の鳴り出した舞台の方に眼を向けた。
前夜と違って、ボーカルは褐色の肌をした女性だ。三十代半ばで、黒い髪を後ろで束ね、身体の線を強調する黄色いドレスを着ている。
エネルギッシュな歌唱を予想していたが、静かな演奏にのった歌は、囁《ささや》き声に近かった。この国では、声を張り上げる歌は存在しないのだろうか。
「レストランの客を眺めても、病人とはとても思えない人ばかりでしょう。若いカップルも多いし」
ユゲットが周囲を見回す。
「新婚客の多い韓国の済州島《チエジユド》のリゾートホテルそっくり」
寛順が応じる。
「この病院の産婦人科は、先端の医療技術をもっているから、世界中から患者が集まってくる。患者といっても、すべてが病人ではなく、健常人が大半だけど」
「まさかクローン人間づくりではないでしょうね」
寛順が冗談混じりで言う。
「ドクター・ツムラの話では、人工受精と胎児診断の技術がとびぬけているって」
「それで、海岸にある寝|椅子《いす》がいつもカップルで満員なのね。ひとりで行くのが遠慮される」
舞子が言う。
「その人たちの病室は、別の場所にバンガロー風に作ってある。一戸建になっていて、自分で料理も作れるらしいわ。家庭生活の延長でもあるし、こんなレストランで旅行気分も味わえる」
「人工受精もいろいろなやり方があるのでしょう」
寛順がいかにも興味津々といった顔をした。
「それはよりどりみどり。試験管の中で受精させるものから、精子を母体に注入して受精させる方法まで。胎児診断も同じ。卵子の段階でもう診断ができるっていうの。ほら、自分が遺伝的に何か欠陥があるとするでしょう。いくつかの卵子のうち、その欠陥のない卵子だけを選び出すのよ。選び出された卵子は、試験管の中で受精させてもいいし、体内に戻して受精を待ってもいい。選択が可能なの」
ユゲットの医学的な知識は、彼女が保険会社に勤めていたのと無関係ではないような気がした。
「男性のほうも選べるのね」
寛順が質問する。給仕人が新たにラムの肉塊を持って来たのを、三人とも断った。
「男性の場合は知らない。でもそれは受精卵で調節できるのではないかしら。受精卵を取り出して、四個に分裂させるでしょう。それを全部調べれば、男性のほうの悪い遺伝子が含まれているかどうかは判る。悪いのは捨てて、立派なのだけを子宮に戻してやればいい」
「そうすると、途中で人工中絶しなくてもすむ」
寛順が感心する。しかし舞子には、悪い遺伝子といっても、具体的にどういうものをさすのか想像がつかない。高校の担任の娘さんがダウン症ではあった。四十歳近くなって妊娠し、羊水|穿刺《せんし》で胎児診断をしたら、ダウン症の可能性が大だという結果が出たが、出産のほうを選んだという。そんな悩みはおくびにも出さない底抜けに明るい先生だった。
「胎児ができてからの診断で中絶すれば、両親は罪の意識を感じるでしょうね、当然」
舞子はユゲットに訊く。
「赤ん坊の形ができていると罪の意識があって、できていなければ罪の意識がないというのは、本当はいけないと思うの。でもね、実際はそうらしいわ。羊水に浮かぶ胎児の細胞より前の段階は、たぶん子宮の胎盤。その細胞でも診断はつく。そうすれば、まだ人間の形ができていないうちに、その胎盤を流してしまえばいいのだから──」
ユゲットは、考えるように言いやむ。
女性ボーカルの澄んだ声が、レストラン内に霧のように沁《し》み入っている。複雑なリズムを軽々と歌い上げていく。意味は分からないが、単調なフレーズが繰り返された。
「でも、ドクター・ツムラが言うには、受精卵が四つに分裂したうちのひとつを選び、あとの三個を捨てるのと、人の形をした胎児を葬り去るのとは、本質的に差がないって」
「それはそう、確かに。理論上は」
寛順は言い、手を頬《ほお》に当てた。
「でもね、わたしはたとえどんな胎児であっても、生んで育てていくわ」
きっぱりと言ったユゲットの声は、女性ボーカルの静かな歌声と重なりあって、舞子の耳の底に残った。たぶん自分もそうだろうと思う。
「ユゲットも検査は受けたのでしょう? どうだったの」
寛順が冷静に尋ねる。
「ドクター・ツムラはセ・ボンと言うだけ」
「セ・ボン?」
舞子はオウム返しに訊く。
「立派だというフランス語よ。わたしが彼に教えたら、反対に使われてしまった。この料理も、おいしいのでセ・ボン」
「セ・ボン」
寛順も一緒になって笑う。皿の上にあった西洋アザミを口に入れ、しごいて食べる。舞子も彼女の真似をして皿に盛ったのだが、塩味がするだけのもので、何枚か食べてもう興味を失っていた。
三人で交互にテーブルを立ち、デザートを選ぶ。パパイアがのった舞子の皿を見て、寛順が喜ぶ。
「マイコの主食は、ライスの代わりにパパイア」
「最初に食べ過ぎると、あとになって見るのも嫌になる。反対に、最初は嫌だったものが、だんだんおいしくなる。舌が慣れてくるのね」
そう答えるユゲットがデザートに選んだのは赤紫のジャムだ。パンにつけて食べるのではなく、スプーンでそのまま口にもっていく。
まだ味見をしていない食物が大半残っていることに舞子は思い至る。これまでは、知っているものから手をつけていたが、土地の食べ物も努めて味わっていこう。まだ滞在は長いのだ。
八時少し前にレストランを出た。まだ半分の椅子が客で埋まっていた。プールの横のカフェテラスに席をとろうとしたとき、小ホールの方に人が集まっているのに気がついた。
「時々、ショーがあるから、それかもしれない」
ユゲットが言った。
小ホールは円型の造りで、丸太のままの木を柱につかい、屋根を支える桟も木製だった。腰をおろすだけの段差が、半円型に舞台をとりまいている。
観客は思い思いに階段状の座席に腰をおろし、舞台を眺めている。肌の色の違う男性が八人、舞台に立っていた。
袖《そで》に置かれたスタンドマイクを使って、黒人女性が何かしゃべっている。演目の紹介だろうか。
八人の男性のうち五人が弓のような楽器を手にしていたが、舞子は小柄な男性がロベリオだと気づく。サルヴァドールの空港から病院まで付き添ってくれた職員だ。
「カポエイラ」
ユゲットが教えてくれる。「この地方の民族舞踊。踊りと武術を一緒にしたもの。ジュウドウやアイキドウと似ている」
ユゲットが合気道《あいきどう》まで知っているのには、舞子も恐れ入る。
男たちの服装は上半身裸で、下半身は柔道着を少し長くしたようなズボンをはいている。
弓の形をした楽器は、弦の下方にヤシの実を半分に切った共鳴箱がついている。断面を身体に押しつけたり、離したりして音に強弱をつけているものの、一本弦から出る音は単調だ。八人全員が時々かけ声を出す。同じリズムで同じかけ声が反復されるうちに、奇妙な一体感が聴衆にも伝わってくる。
やがて、楽器を持たない三人が、素手で空手のような型を披露し始めた。両手を前に突き出したり、上方に上げたりするが、不思議に音楽と同調している。空手と異なるのは、動きがゆるやかで丸みを帯びている点だ。|太極拳と《たいきよくけん》も似ているが、舞台の端から端まで大車輪のように転がっていくところには、踊りの要素も感じられる。
「弦楽器だけど、打楽器と同じね。素朴な楽器。これなら誰でも作れそう」
じっと眺めていた寛順が言う。弓は竹でできており、共鳴箱はヤシの実、爪《つめ》はどうみても、その辺にころがっている平らな石だ。音の高低は指では調節できない。
「武道と踊りと音楽の組み合わせとは、よく考えたわ」
舞子の正直な感想だ。農民たちは支配者から隠れて、武術の練習などできない。踊りだと偽れば、領主の目もくらますことができよう。それに音楽もつければ、もう怪しまれずにすむ。
「この音楽にはアフリカを感じない?」
ユゲットが寛順と舞子に訊く。「アフリカからサルヴァドールに連れて来られた黒人たちは、何とかして音の出る物を作ろうとした。竹とヤシの実と石、それが原料。動物の皮もいらない。そして掛け声。
ほらこのリズムにはアフリカの音が引き継がれている。遠い故郷を思い起こしながら、歌ったのよ。だから、力強いリズムの裏にもの悲しさがある」
ユゲットはじっと舞台に眼を注ぎ、耳を傾ける。その思いで聴けば、単調な掛け声は悲しげでもある。少なくとも喜びに満ちた声ではない。どちらかと言えば、耐え忍ぶ声だ。
今度ロベリオに会ったら、楽器を近くで見せてもらおうと舞子は思う。
踊り手の上半身に汗がふき出し、ロベリオたち演奏者の額にも汗がにじんでいる。曲は二十分も続いただろうか、歌い手が一斉に声を上げたところで踊りも音も止んだ。八人が足早に舞台の袖に引っ込み、アナウンスもないままにショーは終わった。
「ブラジルって不思議な国。とてつもないお金持がいるかと思えば、その傍にその日の暮らしにもこと欠く貧しい人がいるのね。その貧富の差に誰も驚かないの、皮膚の色がさまざまな人がいて驚かないのと、全く同じなのよね」
部屋に戻るときにユゲットが言った。
「それじゃ、またあした」
寛順にも挨拶《あいさつ》して自分の部屋にはいった。
ドアの下に、前夜と同じようにメモ紙が置かれていた。
〈明朝九時、最初の診察。本館一階、一〇八号室〉
英語の文字はそんなふうに読みとれた。
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12
本館一階にある産婦人科外来は独特の造りになっていた。中央に衝立《ついたて》で区切られた広い待合室があり、患者はそれぞれ番号をうたれた診察室の前の区画で待たねばならない。患者のプライバシーに配慮した構造だ。
寛順もやはり九時からの診察になっていたが、待つ場所は違った。舞子のいる区画には、三十代後半と思われる黒人夫婦がいた。男性のほうはちゃんとスーツを着こんでいる。スーツにネクタイという正装を久しぶりに見た気がした。女性の首と手首、そして何本かの指を飾っているのは金鎖と指輪だ。舞子はさり気なく女性の腹に眼をやる。膨らんでいるが、それが単なる肥満か妊娠によるものかは判別しにくい。
黒人夫婦は診察室の上の緑ランプがついたのを確かめて、中にはいった。
どんな診察を受けるのか、不安が胸をよぎる。産婦人科は、明生と行ったあの一回きりしか経験がない。もともと病気には無縁だった。風邪は何回かひいたが、市販の薬で治った。怪我《けが》もしなかった。
注射も嫌だ。
一度だけ献血をしたときも針を刺されるのが恐かった。明生と一緒でなければしていない。ちょうど公園の桜が満開で、その下の小さな広場に献血車が停まっていたのだ。献血すると何かいいことがあると、明生が誘った。血液を牛乳瓶二本分取られると聞いて尻込《しりご》みした。取られた分すぐ新しいのができる。若いのだからと明生が言った。それでも迷いながら桜の花を眺め上げた。すると奇妙にも、何か自分の血も余っているような気がしてきたのだ。
明生と一緒に献血車にはいった。明生はちゃんと献血カードを持っていて、それを見ると何回も献血をした記録があった。
「すごい」
舞子が驚くのを、明生はニヤニヤしながら見ていた。
「舞子と会ったのは、献血した翌日。だから献血が縁結びの神様」
明生が笑いながら言ったのは、献血がすんで二人一緒に車から出てきたときだ。貰《もら》った缶ジュースを、公園のベンチに坐《すわ》って飲んだ。
黒人夫婦が出て来たあと、診察室の緑ランプがつく。立ち上がって扉をノックし、中にはいった。小部屋があり、黒人の看護婦が舞子の名前と部屋の鍵《かぎ》を確かめる。
「おしっこはしていませんね」
彼女が訊《き》いた。朝しただけだと答える。
身長と体重が手際よく測定される。仰臥《ぎようが》位で血圧を測る。テレビのリモコンのような器具のボタンを押し、次は採血だ。針は刺されたままで、シリンダーが全部で六回変わった。
奥の扉を看護婦が開け、白衣を着た男性が迎え入れた。鼻髭《はなひげ》をたくわえた東洋人を前にして、舞子はユゲットの言葉を思い出していた。
「こんにちは。北園舞子です」
自分から日本語で名乗る。
「ドクター・ツムラ。今日からあなたの主治医です」
顔はどこからみても日本人なのに、アクセントは外国人並みだ。
「よろしくお願いします」
ユゲットに教えていた日本語がそのまま口をついて出る。ツムラ医師は椅子《いす》を勧めた。丸椅子ではなく、応接室にあるような肘《ひじ》かけのついた椅子だ。
「日本語が思いつかないときは、英語を混じえます。構いませんか。その代わり、北園さんは日本語のみで話して結構です。分からなかったら訊き返します」
真面目な表情で言う。通常の日本人とどこか違うのは、曖昧《あいまい》な表情がないことだ。真剣な表情と愛想の良い表情ははっきりしていて、その中間がない。
「ブラジルに来て何日目ですか」
「三日目です。でも、もう一ヵ月も二ヵ月もここにいるような気がします」
「無理もありません。百パーセント違う国ですから。でも気に入りそうですか」
「気に入りました。友達もできたし」
「それは良かった。住む土地が好きになるのが、健康のもとです」
彼は机に向かい、キイボードを叩《たた》いた。画面に横文字が浮かび出る。
「これまでの病気は?」
「ありません」
「長く飲んだ薬もありませんか」
「ないです。風邪をひいたときも、市販の薬を一日飲めば治りました」
「生理が始まった年齢は」
「小学五年、十一歳です」
「その後、ずっと規則的にありますね」
「はい」
「最後の生理は?」
「ブラジルに立つ前に終わりました。十月十日です」
「その前の生理は」
「確か九月一日から九月七日です」
舞子の返答を聞きながら、ツムラ医師はキイボードに指を走らせる。自分に関するデータのすべてがコンピューターの中に打ち込まれていくのだと、舞子は思う。もしかすると、パパイア好きであることも、そこにちゃんと記録されているのかもしれない。
「これまでに妊娠の経験は」
「ありません」
主治医は頷《うなず》き、机の上にあるボタンを押した。診察室にはいってきた黒人看護婦が舞子をカーテンの向こう側に連れていき、衣服を脱ぐように命じた。
恥ずかしさが一瞬こみあげたが、黒人看護婦の丁重な応対がそれを救った。ブラジャーもはずし、上半身裸になると、白いガウンを肩からかけてくれた。パンツを脱ぎ、パンティも脱衣籠に入れる。
産婦人科用らしい診察台と普通の診察台が並んで置かれ、それぞれにテレビのモニターのような器具が設置されている。看護婦は平たい診察台の方に舞子を誘導する。
舞子が横になると、看護婦がガウンの前をはだけさせ、腹部にゼリーのようなものを塗った。ツムラ医師が姿を見せ、脇《わき》に腰をおろす。
「まず超音波で腹部の検査をしておきます。全然痛くありません」
ぎこちない日本語だが、優しさは充分に伝わった。
いつの間にか羞恥心《しゆうちしん》は消えていた。
露出した下腹部にゼリー状の液体が塗られ、その上を金属質の器具が走る。
「冷たいですが、少しの辛抱です」
ツムラ医師が、目をモニターの画面に釘付《くぎづ》けにしたままで言う。
舞子も顎《あご》を上げて画面を眺める。白黒の波模様だけで、何が何やらさっぱり分からない。
「肝臓も脾臓《ひぞう》も胆のうも、子宮も異常ないです」
ツムラ医師は途中で何回かボタンを押した。そのあとティッシュで、腹についたゼリーを丁重にぬぐう。
「診察は終わりです。服を着て下さい」
言い残して衝立の向こうに消えた。看護婦が器具を整理し、隣にいる舞子に笑顔を見せる。恐いことなんかなかったでしょうという表情だ。
「北園さん、どうぞ坐って下さい」
衣服を着て元の場所に行くと、待っていたようにツムラ医師が椅子《いす》を勧めた。
「これから毎朝、目覚めたときに体温表をつけて下さい。やったことはありますか」
「ないです」
「体温計はこれです。口の中に入れます。つけるのはこの表です」
机の上にあった表を渡す。「ボールペンはありますね」
「あります」
細かいところまで気のつく医師だと舞子は感心する。
「他に何か質問は?」
「次の診察はいつでしょうか」
「それはこちらから連絡します。データが揃《そろ》った頃に。他には」
「ユゲットも主治医は先生ですね」
「ユゲット? ああ、ミズ・マゾー。会いましたか」
「友達になりました」
「それはいい。他には?」
「ありません」
「じゃ、またこの次に」
主治医は体温計と表を紙袋に入れて、舞子に手渡す。ドアを開けてくれたのも彼だ。看護婦と一緒に笑顔で見送った。
緊張が安心感に変わっているのに気づく。診察、それも産婦人科の診察は心身ともに疲れるものだと覚悟していたが、杞憂《きゆう》だった。
外来の正面玄関の方に足を向ける。色違いの大理石を組み合わせた像の前に立って、しばらく眺めた。
外の駐車場には陽光がふり注いでいた。
駐車場の向こう側は、竹垣で境され、長屋風の平屋が並んでいる。病院職員用の住宅だろうか。通路は舗装されておらず、赤土がむき出しになっていた。洗濯場のような所で、黒人女性が三人、話をしながら働いている。空地に何本もロープが張られ、シーツが数十枚干されていた。女たちは舞子の方に訝《いぶか》るような視線を向けた。
ヤシ林の脇に粗末なサッカー場が作られている。普通の半分以下の広さで、ネットは破れたままだ。芝生の上に作られた患者用のテニスコートと比べると、手入れの差は歴然としている。
ヤシ林の先に橙色《だいだいいろ》の屋根が見えていた。平屋だがかなりの広さだ。ヤシの木陰にベンチがあり、赤ん坊を抱いた母親や老婆が腰かけている。服装や肌の色からして近くの住民に違いない。舞子が近づくと、物珍しげに顔を上げ、何か呟《つぶや》く。〈こんにちは〉という意味のボン・ヂーアだと分かり、舞子も口に出して言った。
その平屋が病院付属の診療所のようだった。近在の貧しい住民用に無料診療を施しているのだと、ユゲットから聞いていた。
開けられた窓から中が見える。風通しが良いので内部は涼しそうだ。三十人ほどが椅子に腰かけて待っている。子供と高齢者の姿が目立った。
白衣を着た褐色の肌の看護婦が、足腰の不自由な老人を支えて歩かせている。老人の右足が異様に大きくなっていた。
大理石像の飾られた本館や、リゾート風の病室とは、比較にならない質素な診療所だ。しかし住民にとっては恵みの雨にも等しい存在なのだろう。患者は何時間待たされても構わないという表情で、待合室にたむろしていた。
診療所の前に駐車場はない。乗用車どころか自転車さえも置かれていなかった。患者は歩いて来るのだろう。アフリカの診療所には、数日がかりで山野を越えて受診しにくる病人がいるというが、ここも同じなのかもしれない。いかにもブラジルらしいと舞子は思う。
豊かさと貧しさが、ブラジルでは上下の隔りなく共存している。そこには、豊かさは善、貧困は悪といった価値観はない。豊かさと貧しさは、いわばビフテキとお茶漬けがともに料理として存在を誇っているように、横並びなのだ。貧しいからうなだれ、金持だから胸を張るといった態度は、ブラジルでは希薄だ。その証拠に、ヤシの木陰で憩う患者さえ堂々としているではないか。
ブラジルに来て三日目なのに、自分でも不思議なほどくつろいでいた。何かを追い求めている飢餓感がない。たかが三日でこういう変化が起こったとしたら、一ヵ月後、二ヵ月後にはどこまで自分が変わるのか、そら恐ろしくもなる。
生温《なまぬる》い風が吹き始め、そのあと風はひやりとした感触に変わる。遠くで雷のような音が鳴った。スコールかもしれないと感じたとき、照明をおとしたように周囲が暗くなる。木陰にいた老人や女性たちが診療所の軒下に居場所を移すのを見て、舞子もそれにならう。小走りで病院まで戻るには遅過ぎる気がした。
案の定、一分もしないうちに、樹木の葉に雨滴が当たり出した。豆を撒《ま》くような音が、あたり一面に響き渡る。
ヤシ林の下はまだ雨が漏らない。背の高い黒人が裸足《はだし》のまま、ゆっくりと樹木の下を横切り、近づいてくる。スコールなど我関せずという顔つきだ。
「ジャポネーザ?」
舞子の横にいた少年が突然言った。日本人かの意味だと分かって頷く。まだブラジル語のイエスもノーも知らないのだと思い知った。
「セナ、ホンダ」
「セナ、ホンダ?」
少年の目をのぞき込みながら、舞子は繰り返す。
「スィン。セナ、ホンダ」
少年は笑みを顔中に広げ、ハンドルを握る仕草をしてみせた。舞子はやっとF1レーサーの名前だと思い知る。ロベリオもセナの名を口にしたが、彼が乗っていたレーシングカーがホンダとは初耳だ。
「セナ、ブラジル」
舞子が言う。
「スィン、セナ・エ・ブラジェーロ」
少年は二度繰り返し、自分もブラジル人だというように胸を張った。周囲にいた村人も二人のやりとりを笑って眺めていたが、そのうちのひとりが、大きな仕草を混じえて何か説明し始める。まだ四十歳前だと思われる顔つきなのに、上の前歯が全部欠けていた。
自分たちは向こうの村の住人だ、あなたは病院の患者か、と尋ねていることに舞子はようやく思い至る。舞子も負けずに、英語でホスピタルを連発した。やりとりのなかで、病院がオスピターウと言うのだと分かった。学校で習った単語と違って、実際のやりとりで知った単語はもう忘れようもなかった。
今度は、男の横にいた太った女性が、どこが悪いのかと言うように、身体の部位を手で触れてみせた。舞子は返事に困り、仕方なく腹を指で示す。まさか、赤ん坊が生まれるのだとは言えない。まだ腹は少しも大きくなっていない。
女はふーんと納得し、白い歯を見せて笑う。あそこの病院におれば、どんな病気だって大丈夫だというように、まくしたてた。
逆に、あなた方はどこが悪いのか舞子は訊《き》いてみたかったが、単語のひとつも思い浮かばない。
病気談議が終わると、最初の少年が何か一心に言い始める。指を目に当てている仕草からすれば、「見たか?」という意味なのかもしれないが、何を見たのかが分からない。少年はとうとうたまりかね、雨に濡《ぬ》れるのも構わず、小枝を拾って地面に絵を画き出した。
走り書きではなく、念入りに線を一本一本引く。亀の形が地面に描かれた。舞子がははんと頷いたあとも、少年は小枝を手放さず、亀の甲羅の模様までも丁寧に画き入れた。
「タルタルーガ」
「タルタルーガ?」
少年が顔を上げて言った単語をそのまま口にすると、周囲の連中がそうだそうだとはやしたてた。先刻の女性が再び身振りを加えて、説明する。どうやらその亀が村の中にいるのだと、舞子は理解した。病院の近くの浜に海亀が産卵をしに来ることは聞かされていた。だから部屋の鍵《かぎ》には亀のデザインが使われているのだ。
村人がその亀を捕らえて飼っているのだろうか。
少年は自分の描いた絵が見事に通じたのを知り、思いついたようにまた枝を手にした。今度は他の連中も何事かと見守る。
何か塔のような建物だ。この辺に残されている遺跡かなと舞子は思ったが、少年が塔のてっぺんの所にサーチライトのような線を描くのを見て、納得する。しかし灯台を意味する英語は知らなかった。
舞子が頷《うなず》くのを確かめて、少年はなおも描き続ける。軒が大きくせり出しているとはいえ、地面のある所は雨が降り込む。少年は上半身を濡らしながら、木の枝の絵筆を振るう。
万年筆を立てたような灯台の下に、普通の造りの家が描かれる。教会かなという予測ははずれて、屋根の上に十字架はとうとう描かれなかった。家は全部で三軒、庭に丸い円ができ上がる。池かなと舞子は思った。少年はその円の中に、先程の亀の絵と同じものを小さく二匹三匹と描き込んだ。
「ムゼーウ」
少年が言う。
「ムゼーウ?」
「スィン、ムゼーウ、ムゼーウ」
周りを取り囲む人たちの何人かが口を揃える。ミュージアムのことかと、舞子はようやく勘をひらめかせた。なるほど、灯台の下に亀のムゼーウがあるのだ。ブラジル人がセナを誇りにしていたように、村人たちも自分の村にある海亀の博物館を誇りにしているのだ。
雨が小降りになり、絵を描きやめた少年が、今度はどこか控え目に何かしゃべり出す。
どうやら、興味があるなら博物館に案内してやろうかと言っているらしかった。舞子は思案する。間もなく昼食時だ。姿を見せなければ、寛順《カンスン》やユゲットが心配するだろう。
腕時計を示しながら、用事があると日本語で言うと、少年は納得した。
「ダミアン」
少年は自分の胸を指でさす。
「ダミアン?」
「スィン、メウ・ノーメ・エ・ダミアン」
名乗っているのに違いなかった。
「マイコ」
舞子も同じように言う。少年は分かったと頷き、マイコ、マイコと口にした。
スコールの去ったあとの大地は、草木の色も空気もすがすがしい。黒い雲が垂れこめていた空に、ほころびが生じ、もう青空がのぞいている。
手を振って少年たちと別れた。
「チャウ」「アテー・ローゴ」
患者たちが口々に言い、手を振る。
どこか気持が軽くなっていた。病院の中だけで生活するのとは違って、地元の村人たちとの接触には泥臭い刺激があった。
ダミアンと口の中で言ってみる。十四、五歳だろうから、日本なら中学生だ。日本の少年のような、背伸びしたよそよそしさがない。児童をそのまま大きくした素直さが、雨をものともせずに地面に絵を描き続けたひたむきさに表われていた。
自分だったら、ひとりの異国からの旅人に、あそこまで熱心に自分の村のことを知らせる気になどならないだろう。言葉が通じないと判れば、もうそれで説明を諦《あきら》めてしまうに違いない。所詮《しよせん》日本では、その程度の人と人とのつながりなのだ。
ブラジルでは、行きずりの人間でも興味を抱く。決しておしつけがましい接近の仕方ではなく、相手に興味があるとみたら、とことんそこに自分の時間を注いでくれる気がする。ここでは、見知らぬ者同士が見えないものでつながれている。
どうせ病院に何ヵ月も滞在するのなら、この国のこと、病院の外の生活も知りたかった。できればポルトガル語も覚えてみたい。英語と同じく、ポルトガル語だって体当たりしているうちに扉は開くはずだ。
草の上で、馬が三頭、黙々と草を食《は》んでいる。手綱はつけられておらず、放し飼いに等しかった。白色と栗毛と黒馬と色合が違うので、どこかサーカス用の飾り物の印象がある。同じサラブレッドでも競走馬のような鋭さは感じさせない。いつも二頭か三頭でいるところをみると、乗馬のレッスンを希望する患者はあまりいないのだろう。いつか寛順やユゲットと一緒に乗ってみたかった。
芝生の中の通路から、万国旗を掲げたポールが見えた。二十数本のポールに各国の旗が垂れ、そのなかに確かに日本、フランス、韓国の旗がある。おそらく日本人は自分ひとりだろうから、あの旗は自分の身代わりだ。
閉ざされた門の脇《わき》に制服の警備員が二人立っていた。ひとりはトランシーバーを耳に当てたままで、舞子の方をじっと見つめた。もっと国旗を眺めていたかったが、不審な人物と思われそうで、病棟の方に向かった。
スコールのあとの涼しさはもう影をひそめ、直射日光が肌に突きささる。いちいち陽焼けを気にする用心深さももうどこか薄らぎ始めていた。
ユゲットはプールサイドの木陰で本を読んでいた。舞子が声をかけると、手を上げて応じる。
「何の本?」
「ブラジル人の作家。よく読まれているというので買ったの。もちろんフランス語訳」
ユゲットは文庫本より少し大きめの本を見せた。フランス語の題名を見ても、何のことか分からない。
「羊飼いの話。スペインが舞台だけど、どこにでも通用しそうな話。人はそれぞれ運命という宝物をもっているって」
「宝物?」
「そう。その人の本来の運命は宝物なのですって。ところが、たいていの人はそれに気づかずに、自分の運命からはずれたところで生きてしまう」
「宝物でない人生を?」
「そう」
ユゲットはどこか不安げに頷く。
「恐い話」
舞子も思わず口にする。自分が辿《たど》っている道が本来の宝物でないニセの道だとすれば、それ以上恐い話はない。
「宝物の運命とそうでない生き方と、どうやって見分けるの?」
舞子はユゲットの横の木椅子に坐《すわ》りながら訊《き》く。
「それはこれからの楽しみ。読み終えたら教えてあげるわ」
プールの中で歓声が上がっていた。今日のチームは妊婦ばかりのようだ。やや膨らんだお腹をした女性から、臨月間近と思われる体型の母親まで、十数人が二手に分かれてボールを奪いあっている。反対側の陣地から思い切って投げたボールが見事にゴールにはいり、全員が手を叩《たた》いた。
「妊婦が動き回るというのは良いことらしいの。でも地上だと足に負担がかかり過ぎるので、水の中がちょうどいいって。動かないと身体の感覚が鈍くなるでしょう。お産のとき、どこに力を入れていいか判らなくなる。だって、あれはおしっこでもなく、うんこでもなく、微妙なところを通って出てくるから、勝手が分からないものね」
ユゲットは身振りを混じえて大真面目にしゃべった。
「さっき、馬を見た。午後からでも乗ってみたいわ」
「わたしはもう駄目。お腹の中の赤ちゃんのことを考えると。本当に、乗るなら今のうちよ」
ユゲットが残念そうに言う態度には余裕が感じられた。妊《みごも》ったという点では、舞子よりはずっと先輩なのだ。
寛順が野外チェスの横で手を振っている。白いTシャツ、赤のショートパンツ、そして赤い麦藁《むぎわら》帽子のようなものを頭にかぶっている。夏のファッション雑誌に載せてもいい現代的な美しさだ。その恰好《かつこう》で診察を受けたはずはないので、一度宿舎に戻ったのだろう。
「売店に行ったら、帽子があったので買っちゃった」
カフェテラスに三人で坐ったとき、寛順は帽子をとってみせる。形は日本の麦藁帽子のつばをせばめ、もっと平たくした恰好で、粗い編み方になっている。赤味がかった橙色《だいだいいろ》で染められ、目の粗さが目立たない。湿気の多い日本でなら誰も買わないだろうが、この乾いた暑さのなかでは、原色がよく映える。
「寛順の主治医はどんな人?」
舞子は訊いた。
「ドイツ系のブラジル人。両親も祖父母もドイツ人だというから、純粋のドイツ人と同じだわ。口からドイツ語が漏れないのがおかしいくらい。英語も上手だった。年齢は、そうね、三十代半ば。舞子の先生は」
「わたしのほうは日系三世で、ユゲットと同じ先生」
「そうだったの」
ユゲットが言った。「じゃ日本語で話ができたのね」
「大体の話は通じた」
「舞子もコンピューターのデータを見た?」
寛順が訊いた。
「よく知らないけど、わたしの返事は、みんなコンピューターの中に入れていたみたい」
「もちろんそうだけど、その前にわたしたちのことはみんな、あのコンピューターに記録されているの。家族や生まれ育った環境、もしかしたら好きな食べ物や、性格まで。わたしがそれとなく尋ねたら、彼は否定も肯定もしなかった」
「カンスンの推理は正しいわ。この病院は情報のお城なの。患者に関するすべての情報は漏れなくコンピューターにはいっている。わたしは部屋の冷蔵庫を開けるたびに思うのだけど、飲むのはいつもエヴィアンばかり。それもちゃんとデータになっているはずよ」
「とすると、舞子」
寛順が笑顔を向ける。「あなたのパパイア好きもコンピューターにはいっている」
「寛順のその帽子だって、そうよ。赤の麦藁を買ったって。ショートパンツも赤だから、色は赤を好むって」
「残念でした。本当に好きなのはブルーよ。でも赤もまあまあ」
舞子は先刻、診療所に出かけていったことまで報告されてはいないか気になった。
「この病院で、遺伝子診断もされていると言ったでしょう。その情報を患者さんが知りたいのはもちろんだけど、その他にも知りたい人はまだいるの。誰だか分かる?」
ユゲットが問いかける。
「遺伝子診断というと、将来、病気になるかどうか、ある程度予想がつくのね」
寛順が確かめる。
「そう。具体的にはどんな病気かは知らないけれど」
「だったら、知りたがるのは恋人、または許婚者《フイアンセ》じゃないかしら」
寛順がちょっと考える表情をした。「これから結婚する相手が、変な遺伝子をもっていないかどうか、調べたがる」
「わざわざそんなことするかしら」
舞子は首を捻《ひね》る。「わたしならしない」
「舞子、わたしだってしないと思うわ。でも世の中にはそういう人はたくさんいる」
寛順は意見を求めるようにユゲットを見た。
「そうね。人間てみんな好奇心のかたまり。だって、みんな自分の将来を知りたくて、占い師のもとに行きたがるじゃない。パリにもモンマルトルにそういう通りがあるわ。水晶の玉の上に手をかざした占い師が、あなたが結婚しようと思っている相手は、四十歳前に死んでしまう。それが嫌なら、結婚はやめなさい、結婚をするのなら、それを覚悟で、とか言われるのよ」
「そんな占い師のところには最初から行きたくない」
舞子は思わず言ってしまう。
「嫌でしょう。ところが人間というのは、未来を知りたがるものなの」
ユゲットは自信たっぷりに言う。「遺伝子の診断は、占い師の予想よりもはっきりしているから、もっとすごい」
「確かに、遺伝子の有無で、将来その人が病気になるかどうか判るのだったら」
寛順が改めて納得する。
「仮に病気にならないとしても、世の中にはいろいろなことが起こるわ。火事や地震、事故。遺伝以外のことも重大よ」
舞子は苦しまぎれに言う。
「でも未知のものを少しでも減らそうとするのは、正常な気持の働きよ。たぶん、舞子だって本心は知りたがっていると思う。でも別の健全な理性が、それにブレーキをかけているのよ」
寛順がたしなめる。
「理性とは別に、知っておくほうが絶対に得になることもある」
ユゲットが謎《なぞ》をかけるように言う。
「何、それ?」
「遺伝子診断で、自分が将来発病すると判れば、若いうちに高額の保険にはいっておける。韓国や日本ではどうか知らないけれど、フランスでは自由に保険を選べるわ。そうすれば将来病気になっても、自分の負担は軽くて済む。情報はお金よ。自分の身体《からだ》に関する情報も、早く掴《つか》んだ者が勝ち」
「医学情報がビジネス」
寛順が感心したように言い、グァラナのストローに口をつけた。
午前中のスコールが幻だったかのように、太陽が輝いている。芝生の向こうにあるチェスの駒《こま》が、すべてを溶かすような日射しの下で、じっと動かない。
「午後は、二人で馬に乗るといいわ。乗馬の練習をするなら今のうち」
深刻な話を打ち切るように、ユゲットが言った。
「陽焼け止めクリームはたっぷり塗らないとね」
寛順が舞子に念を押した。
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13
三時に受付の前で待っていると、ロベリオがやって来た。白のショートパンツに黄色いTシャツを着て、裸足《はだし》だ。舞子と寛順を見て、何だあんたたちかというような顔をした。
「馬に乗ったことは?」
「二人とも初めて」
寛順が代表して答える。
「だったら今日は歩くだけ。走るのはまだ先」
ロベリオはぶっきらぼうに言う。
芝生の上にいつもの三頭の馬がいた。つながれておらず、仲良く寄り添って草を食《は》んでいる。
ロベリオは寛順に白馬、舞子に栗毛の馬をあてがった。
「まずは乗り方」
そう言って、二人をそれぞれの馬の横に立たせる。
遠くから見るよりも倍近い大きさに舞子は圧倒される。自分の背丈よりも高い動物に、こんなに近づいたことはない。ぬいぐるみの動物と違って、腹の毛は硬く、生温かく、しかも呼吸のたびに動く。馬は首をもたげたまま横目で舞子をうかがうようにした。
ロベリオは少し離れた所で黒馬に二度乗り降りして手本を示す。そのあと、舞子たちに手取り足取りで要領を伝授する。
どうやら、はずみをつけて一気に跨《また》がるのがコツらしい。馬は相当訓練されているようで、舞子と寛順が及び腰で何度も失敗するのを、我慢づよく耐えている。ロベリオに尻《しり》を押され五、六度試すうちに、なんとか馬の背に跨がれるようになった。二階にいるような高さだ。
「あんたたちは、馬から好かれている」
二頭の手綱を引きながらロベリオが言う。まんざらお世辞でもなさそうだ。
ゆっくりと芝生の上を一周、二周する。どこか自動車学校での訓練に似ていた。自動車と異なりハンドルやブレーキがないだけ楽だが、振り落とされる危険度は高い。舞子は寛順の方を見て、無理に笑った。寛順はあまり恐がっていない。白い馬に赤いパンツと橙色の帽子がよく映える。小さい時からブランコに乗りつけているせいで、高い所で揺れるのも平気なのかもしれない。
「今度は、自分たちだけで一周。止まるときは、手綱をぐっと手前に引けばいい。それがブレーキ」
ロベリオが手綱さばきをしてみせ、放すと、馬は心得たとばかり、歩みを速めた。もともとの順番が決まっているのか、寛順の白馬が先頭に立ち、舞子の栗毛も心得顔でそのあとに続く。この速さなら振り落とされる心配はなさそうだ。一周を無事に回り終えたところで、手綱をぐっと引く。馬はまるでペダルを踏んだように停止した。自動車よりも素直な停止だ。
「さあ今度は三人で出発」
ロベリオが身軽なこなしで黒馬に跨がる。そのまま歩き出すと、白馬も栗毛もあとに続いた。一番後ろになった舞子はうろたえる。置いてきぼりにされたら、帰り道も判らない。落馬のときは大声をあげることに決めて、いくらか気が軽くなった。
馬は国旗掲揚台の横を通って門の方に向かう。ロベリオが振り返るたびに、舞子は精一杯の笑顔を返した。
守衛が門を開く。高級乗用車を送るときのような丁重さで三頭を通し、また閉めた。
赤土の道をしずしずと進む。池が見えていたが、周囲に眼を配る余裕などない。赤土の上だと落馬したとき痛いはずだ。舞子は馬のたて髪ばかり見つめた。
百メートルほど行くと、赤土道からはずれて小径《こみち》にはいる。左右は沼地で、水草が青と黄色の花をつけていた。舞子は頭を巡らせて病院の方向を確かめる。左後方の樹木の間に本館の建物が見えた。
川に細い土橋がかかっていた。馬がやっと行き交えるくらいの幅で、三、四メートル下に浅い流れがあった。馬の背からは、川底がずっと下にあるように見え、身がすくむ。川を渡るとヤシ林にはいった。陽がいくらか遮られ、ひやりとする。
海が見えた。渚《なぎさ》に白い泡が積もっている。昨日ユゲットと訪れた海岸だろう。
「あれは塩の花よ」
寛順に日本語で知らせる。
砂浜を横切って、馬は波打ち際まで進んだ。
寛順がロベリオに何か訊く。
「やっぱり舞子さんの言う通り」
舞子たちが珍しがるのを、ロベリオは逆に不思議がる。寛順と舞子の馬を自分の右側に歩かせた。寄せくる波を、ロベリオの乗る黒馬が足で蹴散《けち》らす。
いつの間にか、馬の動きに身体が順応していた。背筋をまっすぐにして、周囲の景色を眺める余裕ができている。
「気持いい。映画の主人公になったみたい」
寛順が舞子を振り返る。
「寛順は本当に白馬が似合う。カメラを持ってくれば良かった。きれいなプリンセス」
「プリンセス」
寛順が英語に直してロベリオに言う。
「二人のプリンセス。自分はそれを守るナイト」
ロベリオが嬉しそうに答える。
しばらく行くと塩の花は消えて、普通の砂浜になった。
「タルタルーガ?」
舞子がダミアンから習った単語を口にする。ロベリオは首を振った。
「海亀は反対側、病院より向こうの海岸」
ロベリオは英語で答え、大きく身体を捻る。後方に病院の本館だけがヤシの林の上に突き出ている。村のたたずまいは樹木のなかにおさまって見えない。
遠くの海岸に人が出ていた。近くに観光客用のホテルがあるのだろう。砂浜には小屋がたち並び、その前にパラソルを広げた椅子《いす》とテーブルがいくつも置かれていた。
客のほとんどが白人だ。水着になって砂の上に寝ころんだり、海にはいって泳いでいる。
舞子はそこまで行ってみたかったが、今日はここまでというようにロベリオが手前のところでUターンした。
今度は寛順と舞子の馬が波打ち際を歩く。
馬の足元に打ち寄せる波を見ていると落馬しそうになる。舞子は必死で足を踏んばった。
ロベリオが速度を上げる。白馬と栗毛も黒馬にならった。揺れのピッチも速くなり、舞子はますます身を硬くした。
橋の近くまで戻ってきたとき、悲鳴のようなものが聞こえた。
女性の声だった。英語で「ヘルプ」と叫んでいるのだと舞子が理解した瞬間、ロベリオは馬を駆って沼地の方に走り出していた。
「何かしら」
寛順と顔を見合わせる。馬の手綱を引き締め、停止させるのが、お互い精一杯だ。
ロベリオの馬は沼地を横切って疾走する。水しぶきが白く上がった。もう悲鳴はやんでいた。
ロベリオは森と沼地の境まで辿《たど》りつくと、慌てて馬から降りる。そのまま地面にかがみ込み、姿が見えなくなった。黒馬だけは首をもたげて、いい汗をかいたとでもいいたげにいなないた。
「行ってみよう」
寛順が言う。恐る恐る馬の腹を蹴《け》って、道から沼地へはいった。舞子の栗毛は何の指示もしないのに、白馬のあとに続いた。
沼地の中央まで進んだとき、ロベリオが立ち上がるのが見えた。舞子と寛順の方に向かって、来てはいけないというように首を振った。しかし寛順はそのまま馬を歩かせる。栗毛もそれに続く。ロベリオは素早く馬に跨がる。
「ここにいてくれ、知らせてくる」
英語で言い残すと、険しい表情で走り出す。すれ違うとき、黄色いTシャツの胸元と腕に、赤い血のようなものがついているのが見えた。
馬に乗っていなければ、舞子もその場に立ちつくしていたに違いない。しかし、寛順の乗った白馬も、舞子の栗毛も、当然のことのように森の方へ歩みを進めた。
キャーッと叫んだのは寛順だ。嫌なものを目にしたとでもいうように、顔をそむける。舞子は反射的に、寛順が眼をやった方向に視線を向ける。視野にはいったのは、白と赤と金色の色彩だった。褐色を主体にした沼地のなかで、その三色はいかにもどぎつかった。
気が遠くなりかけるのを必死でこらえる。馬の背中にしがみつく。
金色は仰向けに倒れた女性の髪の色、白は彼女が身につけているワンピース、そして赤は、血の色──。そこまで考えて、舞子は目を閉じる。
「舞子、どうしよう」
寛順から問いかけられて我に返る。馬から降りるべきだと思った。足元が濡《ぬ》れるなどどうでもよかった。倒れている女性は沼地に横たわっているのだ。
自分でも不思議なくらい軽やかに、下馬していた。寛順もそれにならい、二人で寄り添いながら、女性に近づく。
寛順は落ち着きをとり戻していた。かがみ込むと、胸元をじっと見つめる。決心したように、そこに耳をつけた。
「死んでいる」
そうだろうと舞子は思った。首筋が真一文字に深くえぐられ、そこから出た血液が、白いシャツと地面を赤く染めていたからだ。
寛順は蒼白《そうはく》な顔で、周囲を見渡す。まだ付近に犯人が潜んではいないかというように、腰をかがめた。
「犯人はこの近くよ。悲鳴を聞いてから、まだ五分もたっていない」
寛順が言うのに、舞子は返事しようにも声が出ない。立っていると危険な気がして、寛順と同じようにかがみ込んだ。
仰向けになった女性の腹部に視線がいったのはそのときだ。スリムな身体つきの割には、そこだけが異様に膨らんでいる。
「お腹の中に赤ちゃんがいるのではない?」
寛順に訊《き》いた。
彼女は今初めて気がついたというように、腹部に眼を向ける。
「妊娠していたのね」
寛順は蒼白の顔を舞子に向けた。「この人、きっとわたしたちと同じ入院患者よ。ここで出産するつもりだったのよ」
改めて女性の顔に見入る。陽焼けはしているが美しい白い肌だ。目はうっすらと開かれ、唇の間からきれいな歯がのぞいている。
傍にいた白い馬がいななく。舞子は立ち上がって橋の方を眺める。黒っぽいワゴン車が橋の向こうに停車し、中から男が三人出てきた。その後方から、馬に乗ったロベリオが追いつき、先導するようにして沼地に駆け込む。男たちは担架を手にして後に続く。
舞子はどこか妙だという思いがした。なぜ救急車が来ないのだろう。それともロベリオはもうこの女性が息絶えていたのが、はっきり判っていたのだろうか。
「二人とも、さあ馬に乗って」
ロベリオが険しい口調で命じた。
舞子は栗毛に近寄り手綱をとったが、あぶみに足がかからない。三、四回試みて、ようやく跨《また》がった。もうそのときには、男たちが死体を担架に載せて、橋のたもとまで運んでいた。ワゴンの後部ドアを開けて担架を入れると、二十メートルほど戻り、向きを変えて走り去った。
ロベリオは何事もなかったように、平然と馬を歩かせる。橋を渡って門の近くまで来たとき、馬を停めた。
「さっきのことは誰にも言わないように」
ロベリオは首を横に振った。もし口外すれば大変なことになるぞというすごみが感じられる。
守衛が門を開けてくれた。死体を運んだワゴンもここから病院の敷地内にはいったのだろうか。それともどこか別の場所に行ってしまったのか。付近を見渡しても、それらしい車はなかった。
芝生の上のポールに、各国の国旗が翻っている。死んだ女性がこの病院の入院患者だとすれば、この国旗のうちのどれかが国籍であるはずだ。馬の背に揺られながら、舞子は考えた。
「ありがとう、ロベリオ」
馬からおり、手綱を渡しながら寛順が言う。
「どういたしまして、ミズ・リーとミズ・──」
ロベリオは舞子の方をじっと眺める。
「北園です」
「ミズ・キタゾノ」
ロベリオは頭の中に刻みつけたとでもいうように、口の中で何か唱えた。
寛順が礼を言うのを真似て、舞子も英語でロベリオに感謝する。
「また、馬に乗りたいときはいつでもどうぞ」
そう答えたとき、ロベリオは初めて笑顔を見せた。
寛順と連れだって歩く。お互い黙っているのに、滞在棟ではなく、人の声のするプールサイドに近づいていた。まだ先刻の生々しい光景が頭から去らない。寛順も同じなのだろう、思いつめた顔をまっすぐ前に向けている。まるで余計な話はしてはいけないとでもいうように唇を引き締めていた。
プールでは水しぶきがあがっている。妊婦たちの水球遊びだ。
水しぶきのかからないところに木椅子が空いていた。二つを引き寄せて、その上に身体を横たえる。
「部屋で話をするより、ここのほうがいいと思ったの」
妊婦たちの歓声にかき消されない程度のはっきりした声で、寛順が言った。「まだ身体が震えているわ。何が何だか分からないまま馬に跨がっていた」
確かにそうだ。あの光景を目撃してからまだ二十分そこらしか経っていない。夢だったのかと思うほど、目の前の屈託のない光景とは落差がある。
「どうしてロベリオは救急車を呼ばなかったのかしら」
舞子は疑問を口にした。
「救急車も必要かもしれないけど、もう息はしていなかったから、呼ばなければいけなかったのは警察よ。現場をそのまま保存して、もちろん死体を動かさずに調べるのが本当」
「じゃ、あのワゴンは何のために来たのかしら」
「死体を片付けるためよ」
寛順の日本語が、〈死体〉の箇所で独特の言い方になる。注意深く発音するためか、シタイがシダイと濁り、それがまた舞子の頭のなかで不気味に聞こえる。
「じゃ、彼女を殺した犯人をロベリオたちがかばっているの?」
近くに日本語の分かる人間はいないと知っていても、潜めた声になる。
「そうとは限らない。病院としては、これがスキャンダルになるのを恐れたのかもしれない」
「いずれにしても、ロベリオはあの女の人がこの病院の患者だと、すぐ分かったのね」
舞子はロベリオが馬からおりてしばらくかがんでいた光景を思い出す。二分か三分、いや実際は一分くらいの時間に過ぎなかったかもしれない。妊婦だということにロベリオも気づいたのか。
「顔を覚えていたのよ。それにもしかしたら、ペンダントもつけていたのかもしれない。わたしたちと同じように」
寛順は、ルームナンバーが刻印された自分のペンダントに手を触れる。
「わたしたちが駆けつけたときは、彼女はペンダントはしていなかったわ」
「していなかった。胸に耳をつけたから。ペンダントがあれば覚えているはず」
「ロベリオが隠したのね」
「その可能性が高いわ」
寛順が重々しく頷《うなず》く。
舞子は足に何かが当たったのを感じ、思わず周囲を見回す。水球のボールが、ヤシの木にぶつかって方角を転じ、こちら側まで飛んできていた。舞子はボールを拾い上げて投げ返す。
少し動いただけで、息切れがした。
二人の様子をどこからか見られている気がした。
「人ひとり殺されたのを、そんなに簡単に隠し通せるかしら」
震える声で、舞子は訊いた。
「病院ならできるわ。妊婦には何が起きても不思議じゃないのよ。急激な妊娠中毒症でもいいし、心不全や腎臓《じんぞう》の病気、何でもあるわ。仮に家族が来ても、首筋の傷くらいきれいに隠せる」
寛順の声が冷え冷えと胸に響く。
「でも、寛順とわたしは知っている──」
「そうなの」
寛順は軽く顎《あご》をひく。「ロベリオをのぞけばね。だから彼が恐い目でわたしたちに口封じしたのよ」
「病院にとって、わたしたちは邪魔な存在ということね」
「その邪魔さ加減も、彼女が誰に殺されたかで変わってくる。病院側が単純にスキャンダルだけを恐れているのなら、たいしたことにはならない。でも、殺した犯人と病院がつながっていれば、わたしたちは本当の邪魔者」
「邪魔者?」
「そうならないためにはロベリオが命じた通りにするのが唯一の道」
寛順はきっぱり言い、遠くから投げられた水球が見事にネットにはいったのを見て手を叩《たた》く。舞子も拍手した。
いつもと同じ楽団が静かな演奏をしている。ひとつ前の曲は〈イパネマの娘〉だったが、今聴いている曲名は知らない。初めて耳にする曲でないのは確かだ。
寛順はポルトガルワインをもうグラスに二杯飲み、今は三杯目だ。舞子は酔いを感じなかった。寛順も同じなのだろう。真剣な目をして、ユゲットの話に耳を傾けている。
夕食に来る前に、寛順と連れ立って部屋に戻った。プールサイドで立ち上がるとき、「もうこの話は、廊下や部屋の中では絶対にしないこと」と寛順が念を押した。
シャワーを浴びている間も、どこからか覗《のぞ》かれているような感覚を追い払えなかった。そそくさと着替え、薄化粧をする。髪をブラッシングしながら、死体の金髪をいつの間にか思い出していた。あれほど美しい女性なら、レストランで食事をしていても人目をひいたはずだ。ユゲットに訊いてみれば、知っている可能性は大きい。
「明生、こういうとき、どうすればいいの」
ベランダに出て、夕暮の庭と海を見やる。いま明生の姿はどこにもない。
そうだ忘れよう。あの事件はなかったことにすれば万事がうまくいく。昼間みた夢だったのだ。
「二人とも馬に乗っていたわね」
ユゲットが言った。「診察から帰りがけに廊下から見えた。ちょうど門からはいって戻ってくるところだった。堂々として、とても初心者とは思えない」
「振り落とされないようにするだけで精一杯。少し駆け足になったときは、身が縮むほど恐かった」
寛順が答える。
「ロベリオは教えるのが上手だしね」
ユゲットは舞子のほうに確かめる。
「本当にそうかもしれない。一日で、病院の周囲を一周できたのだから」
舞子は何気なく答えたが、再び、目のなかに湿地帯の様子が浮かび上がった。
寛順がじっと舞子を見つめる。それ以上余計なことは口外するなという眼だ。
「どの辺まで行ったの?」
「塩の花の広がっている海岸。ユゲットと行ったところ」
「ああ、あそこね。あの渚《なぎさ》もいいけど、潮がひいたときに、川|を遡《さかのぼ》って行くのもいい。きれいな水鳥が顔の傍をさっと横切るの。宝石みたいに、青や赤い小さな鳥が──」
「しばらく馬には乗らない」
寛順がポツリと言う。
「あら、どうして」
「恐くて」
寛順は笑ったが、彼女もまた頭のなかで、あの死体の横たわる光景を思い浮かべているのは確かだ。
曲がまた変わる。囁《ささや》くような歌声だったが、舞台の上で赤い口を開けている木彫と同じように、今の舞子にはどこか不気味さを帯びて感じられた。
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14
三日月が出ている。それでも砂浜は、星明かりで黄昏時《たそがれどき》くらいには明るい。二人の影さえも、足元には見分けられた。
「こんな晩だろうか、海亀が卵を産みにやってくるのは」
明生が言った。なつかしい声だ。耳に快く、胸に沁《し》みいるような響きをもっている。
「一度でいいから見てみたい」
舞子はその産卵場面を思い浮かべる。懐中電灯を親亀にあてるなど不躾《ぶしつけ》なことはしたくない。あくまでも月明かりの下で、息をひそめて眺めるのだ。母亀はこちらが危害を加えないと知れば、じっと動かずに、卵を次々と産み落とすだろう。白くピンポン玉のような、少しネバつく粘液に包まれた卵を──。
三十分あるいは一時間かけて産卵している間、母亀は何度か目に涙を浮かべるという話を聞いたことがある。わが身の命と引き換えに、子を産める幸運に感謝しているのだろうか。たぶん、そうだろう。悲しみの涙などであるはずがない。一年を荒海で耐えて生き抜き、伴侶《はんりよ》と邂逅《かいこう》し、その命を授かったのだから、砂の上に横たわっている間は、苦しいながらも恍惚《こうこつ》とした時間なのだ。
自分も赤ん坊を生むとき、涙を流すだろうか。舞子はふと考える。
全身の力をふりしぼり、胎内にあったものをついに外界に送り出すとき、そして赤ん坊の第一声を聞くとき、泣き出すはずだ。それは悲しみの涙などであるはずがない。明生の分身を、この身体《からだ》で養い続け、人のかたちとして生み出すのだから。
明生の手を強く握りしめる。明生は波の音を楽しむように、しばらく黙った。
昼間の高い波のうねりが嘘《うそ》のように、控え目な波の寄せ返しになっていた。
海も夜は眠るのだろうか。
渚は波が打ち寄せ、水に覆われたところだけ白く光る。踏みしだく砂の感触、冷たい水の感覚が快い。
「ぼくは舞子が楽しんでいる姿を眺めていると、心から嬉《うれ》しくなる。朝食の席で、パパイアを食べているとき、ベランダに出て深呼吸をしているとき、芝生の間にどんな小さな花が咲いているか、膝《ひざ》をついて調べているとき、ぼくは目を細めて見つめている」
「パパイアを食べる姿なんて嫌だ」
「実際おいしそう」
明生は笑った。
こんな夕闇《ゆうやみ》の迫る海岸なのに、海の上に漁火《いさりび》はひとつも見えない。夜に漁をするなど、この土地の村人たちは思いもよらぬのだろう。
「明生はこのあたり、ずい分歩いたでしょう」
「いろんな所に行ってみた。ブラジルって、正反対のものが矛盾なくおさまっている国。──貧と富、善と悪、文明と未開、白人と黒人、信仰と不信心、明と暗。それだけ、ふところの深い国なんだろうね。矛盾が当然だと、みんなが思っている。ぼくたち日本人にはない感覚だ。ぼくたちは統一とか画一とか均一が好きなのだから」
「その落差が恐いときがあるの。明暗の違い。明るいものの傍に、暗いものが口をあけて待っているような」
「そのほうが、人は一生懸命に生きるのかもしれない。暗い穴がどこにあるか、五感全部を使って察知しながら生きていかなければならないからね。いわば、ライブ感覚。そこが安全ボケした日本人と違うところ」
ライブ感覚──。明生の吐いた言葉が舞子の胸に深くつき刺さる。ブラジルに来て漠然と感じていたものが、そのひとことで言い当てられたような気がする。
何が起こるか分からない現場で、一瞬一瞬を精一杯生きる感覚。沼地の死体を目撃して以来、その感覚がますます研ぎすまされている。
「ライブ感覚のなかにいると、人はだんだんピュアになっていく」
今度は明生が舞子の手を握りしめる。「愛とか幸福とか、悲しみだとか、月や星について考えるようになる。お金とか名誉だとか、憎しみだとか、そんなドロドロしたものはどうでもよくなる。もっと美しいもの、もっと普遍的なものに、知らず知らず近づいていく。だからブラジルでは、貧しくても、星のように澄んだ心の持主がいる。日本だと、貧しいと心も貧しく、逆にお金がたっぷりあっても、心が腐ってくる」
明生の話を聞きながら、舞子は診療所で会ったダミアンを思い浮かべる。雨に濡《ぬ》れるのも構わず、地面に亀の絵を描き、いつか博物館に連れていってやると言ったのだ。
「心が腐るために生きるなんて、つまらない」
明生がぽつんと言い添える。
本当にそうだ。生きるというのは、頭上にある星のように、くっきりと光ることではないのか。ドロドロした醜いもの、腐ったものはどんなに大きな天体であっても、夜の暗闇《くらやみ》のなかで決して光らない。
浜辺とヤシ林の間に砂止めの仕切りがしてあると思ったのは、十数|艘《そう》の木舟だった。仕切りなら海岸線と平行になっているはずだが、それらはいずれも海に向かって、横にたてかけてある。幅一メートル、長さ五メートルくらいのもので、丸太を七、八本横に並べて結わえ、後方に坐《すわ》る台を取りつけただけの簡単なつくりだ。その舟に乗って漁師が海に出ているところは、遠くから眺めたことがある。椅子《いす》に腰かけて櫂《かい》を操り、釣糸を垂れているので、なんとものどかに思えた。
舟と舟との間に腰をおろす。左右の舟が衝立《ついたて》の役目をする。前方に、月に照らされた浜と海が見える。
「星がきれいだ。日本にはこんなに星はないよ」
仰向けになった明生が言う。
「日本では星は見なかったけど、ブラジルの夜はどこか違う、変だという気がした。それは星空のせいだったのだわ。日本と星座が違うので、そう感じたのよ。やっぱり日本でも知らないうちに星の位置は、頭のなかに刻み込まれていたのね」
「それは小さな頃の記憶かもしれない。ぼくたちの小さな頃までは、日本にも星空があった」
明生の声が快く舞子の耳に届く。この声が好きだった。女の人が幸せになるかどうか、顔や形より声を聞けば判ると言ったのも明生だ。不必要にカン高かったり、濁った声の女性は、幸福に縁がないそうだ。
それは男性に対しても言えるのではないかと舞子は思う。耳に快いバリトンの持主は、相手を幸せにしてくれるのだ。だから、当の男性も幸せになる。
明生の声の他は、潮騒《しおさい》しか聞こえない。
幸せなこの時間がいつまでも続いてくれればいい。朝になり、昼が来てまた夜が訪れる。変化はあっても、星空がいつも変わらぬ姿で立ち現れるように、明生との時間は未来|永劫《えいごう》まで続いて欲しい。
舞子は身を起こして、明生の胸に耳をあてる。押しつけた耳に鼓動が聞こえ、別の耳には海の音が届く。鼓動と潮騒の間に自分がいた。明生の腕が、舞子の髪を優しく撫《な》でる。
「本当に夢のよう。明生と二人でいられるなんて」
「夢でも何でもない。星の輝きや波の音と同じように、確かなことなんだ」
「本当にそう」
舞子は言い、手で明生の胸の広がりを確かめる。なめらかな感触が好きだった。
明生が舞子の身体を引き寄せ、唇を合わせる。
「舞子、舞子、舞子」
舞子の首筋に唇を這《は》わせながら何度も口にする。
舞子は耳なし芳一の話を思い出す。芳一は身体全体に南無妙法蓮華経を書かれたが、明生は舞子の肌のすべてに、舞子の名前を刻みつけそうな勢いだ。
舞子はたまらず、身を横たえる。渚が一瞬斜めになり、青光りする波頭が視野を横切った。あとは満天の星が目を覆った。静かに目を閉じる。明生が衣服を脱がせていくのが分かった。唇の愛撫《あいぶ》は、またしても耳なし芳一だ。身体全体が燃え上がり、明生の名を呼ぶ。
明生の身体がすぐ上にあった。星空を遮断するように、明生の顔がシルエットになる。二つの身体がひとつになっていた。両側を舟で仕切られた月明かりのなかで、お互いの名前だけを呼びかわす。
身も心も激しく反応するのが舞子には分かる。
明生が上体を離そうとしたとき、舞子もその身体にしがみつき、胸に顔を押しあてる。最後の瞬間まで溶け合っていたかった。
大波が渚を洗うように、それは繰り返し繰り返し舞子を襲い、そのたびに明生の背に爪《つめ》をたてた。
震えが何度か来た。
重なり合ったままで、海の音を聞く。波と波との間隔が間遠になっていた。先刻まで、急《せ》かすように押し寄せていた波が、今は眠るようにリズムを緩めている。
明生の指に自分の指をからませる。まるで波に漂う舟を舫綱《もやいづな》で繋《つな》ぎとめるかのように。
「離れないでね」
「離れないさ。いつも傍にいる」
明生の包み込むような声が返ってくる。舞子はその瞬間、沼地に横たわる金髪の妊婦を思い浮かべる。あれは白昼夢であって欲しい。
「何を考えている?」
明生が訊《き》く。
「何も。ただ、瞼《まぶた》を閉じても星の散らばりが見えるから、不思議」
まるで瞼は透明なスクリーンだ。まばたきをしても、星の群は消えずにそのまま夜空にはめこまれている。
舞子は星の散らばりに形をみつけようとする。自分と明生だけの星座をつくり出すのだ。例えばヤシ座。木がすっくと伸び、先の方で葉がいくつか垂れ下がる。あるいは、釣り舟座。長い舟の上で、人が釣竿《つりざお》を垂れている。
そんな形に近い星の群はあっても、どこかに不要な星が混じって、実際は別の形になってしまう。
今夜見つけてしまわなくてもいい。ここに滞在している間に、明生と自分だけが知っている星座を見つけ出すのだ。舞子は自分の裸身を星の下にさらけ出す。乳房にも太腿《ふともも》にも星の光があたるのを感じる。さらさらとした快い光だ。
「マイコさん」
海の方角から声がする。波が寄せるようにその声は何度か繰り返された。
舞子は暗闇の中で目を開けていた。目が慣れてくると、周囲が少しずつはっきりしてきた。ガラス台の上に横になり、透明な曲面の壁に取り囲まれている。
起き上がって自分の足で立つ。もうどう歩いていいかは覚えていた。海岸の砂を踏むような気持で足を進めた。
扉の外の茶室に辺留無戸《ヘルムート》が坐って、舞子に声を掛ける。
「どう、そちらの生活に慣れましたか」
「慣れました」
舞子は微笑を返す。
「何か不都合なことは?」
「何もないです。友達もできたし」
「それは良かった。ホームシックにはかかりませんね」
試すような訊き方だ。
「日本のことさえ思い出せません」
自分でも不思議ではあった。ここの生活に満足しているのか、それとも必死で溶けこもうとしているのか。
「たぶんそうでしょう。あなたの顔を見れば分かる」
辺留無戸は口のへりを吊《つ》り上げて笑った。
「もうすぐですよ。あなたが待ち望んでいる日は」
「はい」
素直な返事になっている。待ち望んだ日の意味は理解できる。
辺留無戸は立って隣室に移り、不動明王の前に正座した。舞子はその背後から不動明王の顔を眺める。もう何度見たことだろう。どういう表情をしているか、空で覚えていてもよさそうだが、いつも初めて見るような感覚に陥るのだ。
不動明王の前で辺留無戸が読経する。その背中に合掌したあと舞子は出口に向かう。
自動扉の前に立ったとき、外は雪かもしれないという思いにかられた。不動明王に最初に出会った日の雪の光景が蘇《よみがえ》り、全身に寒さを感じた。あの日、寒さから逃れるようにして御堂の中に足を踏み入れ、護摩焚《ごまだ》きの炎に遭遇したのだ。
しかし扉の外は寒くも暑くもない。大理石の母子像の間を静かに進む。
「ミズ・キタゾノ。明日はドクター・ツムラの診察です」
ジルヴィーが部屋から出て来て言った。いつも笑顔をつくってはくれるが、笑いの形になっているのは口元だけで、目は笑わない。紙片で顔の下半分を隠してしまえば、怒っている顔になるはずだ。
エレベーターを降り、ロビーを抜けて本館の外に出る。雪景色とは反対の、むき出しの日射しが照りつけていた。駐車場のアスファルトの上を歩く気にならず、横道にそれ、ハイビスカスの植込みに沿った小径《こみち》に足が向く。
赤と黄色のハイビスカスの間を歩くうちに、突然、沼地のあの現場に行ってみる気になっていた。足早に入口の方に急いだ。
ポールの旗がすべて垂れている。それでも日の丸と韓国の旗、フランスの三色旗は見分けられた。
守衛は舞子の顔をみると、開いていた通用門の方へどうぞという仕草をした。哨舎《しようしや》の中にも二人守衛がいて、テーブルに足を投げ上げ、サッカーのテレビ中継を見ていた。
高いヤシの並木道を三百メートルほど歩いた。
道端に、打ち捨てられたヤシの実があり、そこから新たな芽が出ていた。もうその芽も一メートルほどの高さになっている。
小径にそれて橋の方に向かう。
広い沼には釣り人の姿もなく、ひっそりと静まり返っている。
足元で羽音がして、カラスよりは大きい鳥が飛び立った。青味がかった美しい羽根の色だ。鳥は低く沼の上を飛びながら、そのまま森の中に姿を消した。
馬で渡った木橋の付近まで来る。沼には、水があり、仕方なく沼の端を迂回《うかい》した。
緑のなかで、ピンクのTシャツに白いスパッツという服装は目立つ。しかし引き返してしまえば悔いが残る。
雑草を踏みしだきながら水辺を歩き、十分くらいして森に行きつく。竹の大きな株があちこちにあり、その間を雑木が埋めている。通路らしきものはない。なぜこんな場所に彼女がいたのか不思議だ。
木橋の方角を沼の様子から大方の見当をつけた。森の縁に蹄《ひづめ》の跡があった。恐らくロベリオが馬をとめた場所だ。その向こうに水草が蹴散《けち》らされ、人と蹄の入り乱れた跡がかすかに見えた。
舞子は目をこらし、死体が横たわっていた場所を探す。血痕《けつこん》はもうどこにも残っていなかった。
車で乗りつけた男たちが駆けつけ、死体を担架に乗せたのを思い起こす。
その痕跡は残っているが、水草に付着していたはずの血の跡がない。
沼には強い復原力があって小さな凹凸や濁った水くらいは、またたく間に消し去ってしまうのかもしれない。数日後には、人馬の跡さえも消えてしまう可能性もあった。
舞子は森の中に眼を向ける。身重の女性が悲鳴を上げたのはたぶん森の中であり、そこから逃れ出ようとして沼の縁まで辿《たど》りついたのだ。
しかし森の中の地面は下草か落葉で覆われ、足跡などつきようがない。
もう一度沼の周囲を見回す。
やはりその場所以外は考えられない。死体とともに、現場すら消失しかけている。これなら警察官を連れてきたところで、相手にしてくれないだろう。
腰を上げようとして、地面に眼がいく。黄緑色の植物が密生していた。高さは十四、五センチで、カマキリのような葉が伸び、手に相当するところに小さな壺《つぼ》がひとつぶらさがっている。壺の内側には、下に向かって細かい毛が密集していた。食虫植物だと分かったのは、小さい虫がその壺の中にはいったまま出て来なかったからだ。
中を覗くと、虫は細かい毛にはばまれて抜け出せないでいた。断続的に羽根を震わせるだけだ。毛の向きから考えて、入るのは容易で、出るのは難しいらしい。
舞子はそのうちの一株を手で掘り上げ、ハンカチに包む。
立ち上がり、木橋の方向を眺める。明るかった空が陰り始めていた。舞子は急ぎ足でその場を離れる。森の縁を駆け、木橋を渡った。
門の近くまで戻ったとき、もう雨がパラつき出す。守衛は早く帰ったほうがいいと言うように、駆け足の真似をした。
部屋にはいり、ベランダに出た。プランターには赤と白のベゴニアが植えられていたが、空いた場所に、ハンカチに包んだ株を植える。
スコールは、土砂降りに変わり、プランターの上もまたたく間に湿ってくる。
手を洗い、濡《ぬ》れた髪をタオルで拭《ふ》いた。
寛順《カンスン》の部屋の戸を叩《たた》いたが返事はない。
雨の降り込む廊下を小走りで通り抜ける。
寛順はカフェテラスにひとり坐《すわ》っていた。
「どこに行っていたの。心配したわ」
軒下に垂らされた雨よけのビニールに雨滴が当たり、大きな音をたてた。いきおい、話し声も大きくなる。
「沼地の向こうの森まで。ほら、例のことがあったところ」
「何をしに?」
舞子の返事に、寛順の顔色が変わった。
「あそこがどうなっているのか、見てみたかったの」
「――――」
「跡形もなくなっていたわ。血痕もなかった。この雨で、すべてが洗い流されるはずよ」
「誰からも見られなかった?」
「見られなかったと思う」
「危いわ。ロベリオが言ったこと忘れたの?」
「ロベリオも、あそこに行くなとは言わなかった」
激しい雨音にかき消されないように、大声でサンドイッチを注文する。寛順はコーヒーを追加した。
「でもね、寛順。わたしにはひと事には思えない。こちらの新聞なんか読めないけど、きっとどの新聞も報じていないわ。もし事件になっているなら、この病院にも警官が来るし、第一あの現場は検証のために立入り禁止になっているはず。彼女は葬り去られたのよ。それも一度ではなく二度」
舞子は寛順の目の前で指を二本立てた。
「一度は殺され、二度目はその死も抹殺されたということね」
寛順が間を置いてから、重々しく言った。
「そう。彼女の叫び声がまだ耳に残っている」
「わたしだって、目を閉じるとあの光景が浮かんでくる。地面に横たわる身体《からだ》。お腹が大きかった──」
寛順はビニールシートの向こうの雨脚をしばらく見つめたあとで、言葉を継いだ。「でもね、それとこれとは別。ロベリオの忠告は守ったほうがいい」
寛順が重々しく念を押す。
海の方角が少し明るくなっていた。しかし雨脚はすぐには衰えず、舞子と寛順がコーヒーを飲み終えた頃に小降りになり、その数分後にはピタリと止んだ。
「ロベリオだわ」
寛順が低い声で言う。
ビニールシートがはずされると、その席から庭園やプールが見渡せた。
ロベリオは長い柄のついた網を手にして、プールの中に散った木の葉を取り出している。いつでも鼻唄《はなうた》を口にしているような日頃の陽気さは消え、考え込んでいるような表情だ。
落葉を全部取り終えると、網を手にしてレストランの陰に姿を消した。
「わたしたちが、何にも気にしていないことを示すために、乗馬の練習は続けるべきよ」
寛順が言った。
「乗るには勇気がいる」
舞子は答える。実際、馬の背に跨《また》がっていると例の悲鳴を聞くような気がする。
「明日の午後、申し込んでおこうか。二人一緒なら平気よ。予定はどうなっているの」
「午後はあいている」
舞子はジルヴィーの言葉を思い出す。一週間毎のスケジュール表でも渡してくれれば良さそうなのに、翌日の分しか知らせないのは不自然で、あたかもこちら側の自由を束縛するようなやり方だ。
「海の方に行ってみようか。食後の散歩」
寛順が腰を上げる。
ロベリオが戻って来て、プールサイドにある濡れたベンチを丁寧に拭いている。二人に気づいた様子はない。
砂浜の上でシューズを脱ぎ、裸足《はだし》で歩いた。普段は熱をもっている砂も、今はひやりとしている。足首まで濡らす波のほうが生温かった。
「あの先に、海亀の博物館があるそうなの」
誰からか聞いたのだろう、寛順も知っていた。
「行ってみる?」
「今日は疲れた。またの機会がいい」
今はそんな気分になれない。
真中が擦り減って指輪のように穴のあいた貝を見つける。小指にならはいりそうだ。
波音のあい間に、二人の名前を呼ぶ声が届く。振り返ると、ヤシの木の下でユゲットが手を振っていた。
濡れた寝椅子《ねいす》を三つ並べ、ハンカチで拭き上げる。
ユゲットを真中にして横になった。
「お昼に会えるかと思っていたけど、どうしたの」
「雨も降っていたし、お腹も空かないから、ずっと部屋にいた」
ユゲットは、少しふくれたお腹をいたわるように、寝椅子の角度を調節する。「スコールが来ると、食欲がなくなるのよ。雨を見ながら何か食べる気がしないのね。だって、ここの雨って騒々しいでしょう。フランスのように静かに降る雨ではない」
「わたしはスコールがあがったとたん、お腹がすく」
舞子が言うと、二人とも笑った。
「本当はね。ドクター・ツムラから、嫌なことを聞いたの。そのショックもあったのよ」
「何?」
寛順が訊《き》く。
「自分の患者が急死した話。その患者、わたしも知っていた」
「女の人?」
舞子は何気なく質問していた。ユゲットの向こうで、寛順が上体をもたげた。
「そう。名前は、バーバラ。ドイツ国籍だけど母方にイタリア人の血が混じっていると言っていた」
舞子は寛順と眼を合わせる。二人とも同じ思いだった。
「どんな病気で亡くなったの?」
訊いたのは寛順だ。質問は自分に任せろといった表情を舞子にしてみせる。
「自殺。病院の屋上から飛び降りたのよ」
〈スイサイド〉という英語が舞子には分からなかったが、ユゲットがしてみせた仕草と、それに続く単語で理解できた。寛順の顔からすっと血の気がひく。
「それで、死体は、そのドクター・ツムラが見たの?」
寛順が抑揚のない声で訊く。
「呼ばれて駆けつけたときは、もう息絶えていたそうだわ。それもそうね。病院の屋上からだと即死のはず」
「いつのことなの」
寛順の質問が舞子の耳にも届く。舞子は視線を宙に浮かしたまま、ユゲットの返事を待った。
「昨日の夕方らしいわ。スキャンダルだから病院は黙っているのね。誰ひとりそんな話はしなかったし、職員だって口にしない。ドクター・ツムラから聞いてびっくりした」
ユゲットは嘆息する。
「その人、やはり妊娠していた?」
舞子が訊きたかった質問を、寛順が口にしていた。
「確か六ヵ月。もうすぐ超音波検査で男の子か女の子が判ると言っていたから」
寛順は舞子の顔を見て小さく頷《うなず》く。
ツムラ医師が見たという死体は、沼地にあった死体と同じものだ。
首筋の切傷に彼は気がつかなかったのだろうか。
四、五十メートル離れたヤシの木陰に警備員が立っていた。こちらは見ていないが、トランシーバーに口を当て、何か連絡している。
「その人、死ぬほどの悩み事があったのかしら」
上体を寝せたあと寛順が訊いた。
「何か悩んでいる様子はあったわ。それも、この半月くらいのこと。それ以前は陽気で、やっぱりラテン系の血が混じっていると思ったくらい」
沼地にあった死体が屋上から放り投げられ、落下していく光景が浮かぶ。
「可哀相《かわいそう》」
思わず舞子は口にする。
「もっと彼女の悩みを聞いてやればよかった」
ユゲットがポツリと漏らす。
トランシーバーを手にした警備員が、三人の前をゆっくり通り過ぎる。寛順はその姿を全く無視して、寝椅子の上に頭をのせ、目を閉じた。
「サルヴァドールには、バーバラの知り合いがいたはずだわ」
ユゲットが言った。「部屋に帰れば、その住所も電話番号も判る。いつか彼女がそこに遊びに行ったとき、電話をかけたことがあった。画家かデザイナーで、一度連れていってくれると言っていたけど、とうとう行けずじまい。彼女が亡くなったのも、もしかしたらまだ知らないかもしれない。今日のうちに連絡してみる」
「知らせたほうが絶対いい」
舞子は思わず言っていた。このままだと、彼女の本当の死因は闇に葬られ、自殺死にされてしまうのだ。
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15
レストランの入口で、ジョアナがいつものように両手を胸の前で合わせ、「コンバンワ」と挨拶《あいさつ》する。舞台近くのテーブルが空いていて、そこに席を取った。
演奏は、二人が皿に食べ物を満たして席に戻ったときに始まった。
「ここなら、何をしゃべっても聞かれる心配はないわ」
香料のたっぷりかかったマトンを切り分けながら寛順が言った。「部屋だと恐い。電話はなおさら用心しなくちゃ」
舞子は、シャケに似た赤身の魚のマッシュルーム和《あ》えを皿に取っていた。
「深刻な顔をしちゃ駄目よ。あくまで、音楽を楽しんでいるふり」
寛順は笑顔をつくって周囲を眺めた。
レストランは、ほぼ満席だ。隅の方にある広いテーブルを占領しているのは、団体客のようで、中年の男女ばかりだ。声高に話している言葉は英語でもポルトガル語でもない。
「ユゲットよ」
ユゲットにテーブルの位置を示してくれたのはジョアナだ。ユゲットはゆっくり近づいてくる。白いヘアバンドで金髪を束ね、ムームーのようにゆったりとした白いドレスを着ている。肩と背中が大きくカットされ、人目をひく。
「フランス人も、団体で来るとあつかましくなるわ」
ユゲットが苦笑した。「リヨンの近くの農家の人たち。バカンスついでに、健康チェックをして貰《もら》いに来たそうよ」
「ユゲットは、自分がフランス人であるとは言わなかったでしょう?」
寛順が皮肉っぽく訊く。
「図星。一緒にされてはかなわないから、ブラジル人にしておいたの」
ユゲットは片目をつぶる。
料理を取りに行ったものの、皿には、カボチャをつぶして甘味をつけたデザート風な物と、野菜とハムのサラダがのっているだけだ。
「さっき、サルヴァドールに電話してみた」
「彼女の知り合いのところね」
寛順が問い返す。
「五十歳くらいかしら。英語はあまり上手ではないけど、本当にびっくりしていた」
「どういう関係なの? 彼女とは」
「訊かなかった。五、六度サルヴァドールに来て、ひと月前が最後だったらしいわ。そのあと電話が何回かあって、心配はしていたのですって」
「何の心配?」
舞子が訊く。
「彼はそれを言わないの」
ユゲットは眉《まゆ》をひそめた。「逆に、どこから電話をしているのか、わたしに訊くので、病院の部屋からだと答えた。すると、じゃだめだ、他のところから電話をしてもらうか、直接会って話をするしかないって」
「つまり、電話を誰かに盗聴されるのを警戒しているのね」
寛順が冷静に言った。
演奏が、初老の男性から女性ボーカルに替わっていた。艶《つや》のあるのびやかな声だ。フランス人の一行もなりをひそめ、歌声に聞き入っている。
「たぶん、彼女が死ぬ前に、その男性に何か言っていたのだと思うわ。だから、彼のほうは病院に疑いをもっている──」
「どんな疑い?」
謎《なぞ》をかけるように寛順が問う。
「それが分かればね」
ユゲットは首を振り、チーズパンを指でちぎって口の中に入れた。
舞子はデザートのパパイアを取りに行く。ここに来て、もう何切れのパパイアを食べただろう。日本で一生のうちに食べられる量の何倍かは口にした。最初は珍しかった味が、もう当たり前になっていた。
「マイコはホームシックにはかからない?」
寛順が席を立ち、二人になったときユゲットが訊いた。
「まだかかる暇がない。いろいろなことが起こったから」
舞子は何とか答える。実際まだ日本には葉書さえも出していない。
「ユゲットは、ホームシックにかかったことあるの?」
反対に舞子が尋ねる。
「今まではなかったけど、この頃、そうなのかもしれない」
ユゲットの口元に、寂し気な笑みが浮かぶ。
「時折、このまま帰ろうかとも思うの」
「じゃあ向こうで出産するのね」
「そう」
「ドクター・ツムラはどう言っている?」
「一度帰って、出産時期になってもう一度帰ってもいいとは言ってくれる」
「でも臨月近くになっての旅は大変でしょう」
「実際、それは大変。ずっとここにいるほうが楽に決まっている。でもそれがくせ者なのよ」
ユゲットは小さな嘆息をする。「こんなに何ひとつ不自由のない生活をしているようで、実はがんじがらめの生活。目に見えない鎖が巻きついている──」
「見えない鎖?」
思いもよらぬ言葉に、舞子は訊き直す。
「ここに鎖があるみたい。マイコは感じない?」
ユゲットが胸に手を当てた。舞子と同じように、亀のデザインのはいった鍵《かぎ》をペンダントのように垂らしていた。
「ほら、魚の放し飼いがあるじゃないの。海の中に網が張られているわけではないけど、魚は餌場《えさば》の近くの海域から外には出ない。自由に泳ぎ回っているけど、実際は水槽に飼われているのと同じ」
寛順がスイカとメロンを皿の上にのせて戻ってくる。
ボサノバの演奏が終わって、フランス人の一団の話し声が次第に高くなる。最後には、小柄な男性が立ち上がって音頭をとり出した。
一斉に歌い始めたのは〈ラ・マルセイエーズ〉だ。ユゲットがあきれたように、肩をそびやかした。
「フランス人も団体になると日本人の旅行客と似ている」
寛順が苦笑する。
「行きましょう」
ユゲットが立ち上がる。怒ったように歩き出した。
「オヤスミナサイ」
出口でジョアナが声をかけた。
ユゲットのあとについて庭の方に向かう。月明かりの下で、野外チェスの市松模様がくっきり浮き出ていた。
チェス盤の横に、大理石のベンチがあった。四人がけで、やはり石の肘《ひじ》かけで仕切られていた。ユゲットを真中にして坐《すわ》った。
「不思議だけど、ここでチェスをしている人なんか見たことがない。だから、この椅子《いす》はいつも空いている。昼でも夜でもここに来て坐るのが、わたしの日課だった。チェスの駒《こま》を眺めていると妙に気持が落ちつく。チェスなんかしたこともないのに──」
「動かない石の像がいいのよ、きっと」
寛順が言う。
「自分もそのなかのひとつになった気持になるのかもしれない。一時間でも二時間でも、ここに坐っていた」
ユゲットは、黒々と重なるヤシの樹木、その奥の暗い海に眼を向ける。「そうそう、バーバラと何度か会ったのもここだったわ」
ようやく思い出したというように、ユゲットは坐り直した。
「最後に会ったのは?」
寛順が訊いた。
「十日くらい前かしら。あの人は白いローブを着ていて、海の方から、そこの小径《こみち》をゆっくり歩いてきたの。そのシルエットが美しいのと、両手に何かを掲げ持っていたので、ニンフが海から上がって来たようだった。チェスの盤の向こうまで来たところで、わたしに気づき、今晩はと声をかけてくれた。気持の良い夜ですねって返事したので、彼女、チェス盤の中にはいって、手に持ったサンダルを地面におき、駒をひとつだけ、動かしたの。かなりな重さなので、彼女は抱くようにして運んだ。わたしがそれを手伝うわけにもいかず、見ているしかなかった」
「どうして彼女、チェスの駒を動かしたのかしら」
舞子は訊いた。身重のバーバラが黒いチェスの駒を、何かに憑《つ》かれたように移動する。異様な光景だ。
「なぜかは知らない。動かすときに、ひとりごとを言っていた。そのあとわたしの方に笑顔を向けて、海の音って日によって変わるのね、と言ったの。特に今夜は風が強くて、何か吠《ほ》えているようですね、とわたしは答えた。
バーバラはわたしの横に坐るのかと思ったけど、そのまま〈ボーア・ノイチ〉と言い残して、行ってしまった。詩人か芸術家のような人だなって、彼女を見ながら思った」
三人とも黙った。海鳴りが耳に届く。風が強くなっていた。
「チェスの位置は、その時とどこか変わっているのかしら」
寛順が訊《き》く。
「さあ、覚えていない。でもバーバラが抱えたのは黒のキングだった」
その駒を探すように、寛順は、視線をチェス盤の方に向けた。
──バーバラは殺されたのよ。
突然口にしそうになるのを、舞子はかろうじてこらえた。
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16
「血液検査、ホルモン検査、尿検査、心電図、胸部レントゲン、腹部超音波検査、すべて正常。つまり、完璧《かんぺき》な母体になることができます」
ツムラ医師はコンピューターの画面を操作しながら言った。
「そうすると、もうこれからは検査は当分ないのですね」
「あとの検査は妊娠後です。確実に赤ん坊が育っているか、追跡します」
ツムラ医師はすべて任せなさいという表情で、片目をつぶってみせる。日本人離れした仕草だ。
「コーヒーでもどうですか」
コンピューターの画面を消して彼が言う。
「よろしいのですか」
「大丈夫です。日本からの患者さんは初めてですから、こういう時でないと話を聞けません」
「日本人は、これまで誰も来なかったのですか」
「日系ブラジル人はいても、日本から来た日本人はあなたが初めて。だから芝生の中の掲揚台に日の丸があがったのも初めて。あの旗を見ると嬉《うれ》しくなります」
ツムラ医師は立ってコーヒーサーヴァーのスイッチを入れた。舞子にコーヒーを出す心づもりは初めからあったのだ。
「ツムラ先生は日本へ行ったことはあるのですか」
後ろ姿に問いかける。
「あります。三年前です」
振り向いた顔が懐かしそうにゆるむ。
「どちらへ」
「千葉大学の産婦人科。半年間、そこで超音波診断の研修をしました」
「じゃあ、その時、日本もあちこち見て回られたのですね」
「いいえ、祖父の出身地の熊本と、学会で行った京都だけです。あとは、東京に週末に何度か行きました」
ツムラ医師は二人分のコーヒーを机の上に置いた。添えられた砂糖は黄色味を帯びた塊だった。
「祖母は天草《あまくさ》の出身ですが、そこにはとうとう行く機会はありませんでした」
当時を思い起こすように、ゆっくりスプーンをかき回す。「熊本の親戚《しんせき》の家に泊まってみて、やっぱり自分はもう日本人ではないと思いました。何から何まで、慣れないことばかりです。言葉づかいはもちろん、洗顔からトイレ、食事まで。本当に地球の裏側に来たと感じました」
「千葉大学では、そんな体験はなかったのですか」
「大学は短期滞在用の宿舎があって、いつも十五名くらいの外国人が住んでいたのです。すべて西欧式でした。あれなら、サンパウロ大学の学生寮と同じです」
舞子の目の前にいる三十歳を少しばかり過ぎた医師は、顔を見る限り、正真正銘の日本人だ。それなのに、日本の風習から遠く隔たったところに行ってしまっている。日本に住んでいた祖父から数えて、わずか三代というのにだ。
「たった半年間なのに、日本語は本当にお上手です」
お世辞抜きの感想だった。
「日本語は子供時代に父母からも習ったし、中学、高校の頃は日本語セミナーにも通いました。こんな変わった言葉を勉強して何になるのかなと思っていましたが、実際留学してみて、言葉のうえではあまり苦労がなかったので、努力は報われました。しかし、今でも書くのは駄目です。日本の同僚なんかに日本語で手紙の返事を書くときは、パソコンを使います。あれだと、難しい漢字を書く必要がありませんから」
「この病院はもう長いのですか」
日本語の会話だといろいろ訊きたくなる。いつもの控え目さが消えてしまう。
「まだ一年足らずです」
「この病院に来られたのは、技術が進んでいるからですか」
どうしても訊いておきたかった質問だ。
「一種のヘッド・ハンティングでした」
半ば得意気にツムラ医師は答える。
「雇用の条件も良かったし、病院の水準も一部の特殊技術では、大学病院を超えていました。しかし決定的な動機となったのは、この土地をあまり知らなかったことです」
「未知の場所への憧《あこが》れ?」
「そうです。日系ブラジル人というのは、ほとんどがサンパウロの周辺に住んでいます。それ以外の土地に定住しているのは、ほんのわずか。特に黒人文化が濃厚なこのサルヴァドール一帯は、日系人にとって縁遠い場所です。ブラジル人でありながら、ブラジルを知らないという後ろめたさはずっとありました」
「進んだ医療と、未知の土地への興味。その二つともかなえられたのですね」
「今のところは」
ツムラ医師は答えたあとで言い澱《よど》む。「しかし、良いことずくめでないのは確かです。この地方の風物を知るといっても、そんなに出歩く暇はありません。医療のほうだって、悲しい出来事もあります」
「分かるような気がします」
舞子は小さく相槌《あいづち》をうった。
「とくに産婦人科はそうなんです。生命を誕生させるそばで、人の命が消えていく──」
ツムラ医師はコーヒーカップを口にもっていき、何か考える表情になった。
「ユゲットから聞いたのですけど、お腹の大きい女性が亡くなったとか」
舞子は身じろぎもせずに言った。
「ミズ・マゾーが漏らしましたか。彼女にとってもショックだったのでしょうね。妊娠六ヵ月です。一度に二つの命が消えました」
「死ぬには、何か理由があったのでしょうか」
舞子は〈自殺〉という単語を故意に避けた。
「全く分かりません。患者にとって、主治医なんか遠い存在なのでしょう。心の内までは見せてくれない。あなたもそうでしょう?」
ツムラ医師が皮肉っぽく笑う。
「最初はそうでも、長いつきあいになるにつれて、そうでもなくなると思います」
舞子は真剣に答える。
「あなたも何か気になることがあれば、ぼくに言って下さい。同じ日本人の血が流れているし、日本語で語り合えるのですから。それに、ブラジルはぼくの生まれた国。できることは何でもします」
舞子は主治医が微笑《ほほえ》むのをじっと見つめる。初対面のとき、鼻髭《はなひげ》が何かわざとらしく思えたが、今はたいして気にならない。
「高い所から落ちた人の死体って、どんなふうになるのですか」
舞子の質問に、ツムラ医師は驚いたような表情をした。
「あなたは、自殺死体に興味があるのですか」
「いえ、高いところから飛び降りるなんて、わたしにはとても恐くて──」
舞子は背筋を伸ばして答える。
「人間も物も、本質的には同じです。皮袋の中に固い物を入れて、高い所から落とせばどうなるかの問題です」
ツムラ医師は残酷さをいくらかでもやわらげる言い方をした。「皮袋の中味はぐしゃぐしゃに砕けます。もっとも、頭部だけは別です。これは卵を袋で包んだのと同じですから、殻は壊れ、中味もぐしゃぐしゃになっています。身体《からだ》の中の赤ん坊も、そうです。人間の皮膚は比較的強いので、丸い形は一応保たれていますが──」
舞子は思わず顔をしかめる。首をえぐられたバーバラの死体も残酷そのものだったが、まがりなりにも美しい身体は保たれていた。しかし落下死体は、それとは比べものにならないくらいに悲惨ではないか。
「皮袋そのものは破れないのですか」
「落ちただけでは、そう簡単に破れません。ただ、ミズ・ハースのように、途中に何か余計な物があって、ひっかけられたりすると、皮膚も傷つきます」
「そういう場合、出血はどうなのでしょうか」
舞子は、多量の出血が見られた彼女の死体を思い浮かべていた。あれだけの出血があれば、屋上から投げ落としたところで、もう血は出ないだろう。
「内臓に損傷があっても、身体の中に出血すれば、外からは判りません」
ツムラ医師はそこまで答えてから、何かを思い出したように口をつぐんだ。
これ以上は踏み込めない気がした。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
舞子は礼を言う。
「いいえ。いつかこのあたりを案内しましょう」
ツムラ医師は立ち上がり、ドアを開けた。
外来のロビーは患者で賑《にぎ》わっていた。
子供連れの若夫婦、中年の男性に付き添われた若い妊婦など、小さな子供やお腹の大きい女性にばかり眼がいく。
しばらく玄関ホールに坐《すわ》って、花束を掲げた大理石像を眺めた。白い肌に緑の衣裳《いしよう》が美しい。とても大理石の模様だとは思えない。
カフェテリアまで戻る途中で、土産物店に寄った。絵葉書やガラス細工、砂絵などを売る店と、Tシャツや帽子、水着、サンダルを売る店が並んでいる。
舞子は窓際にぶら下がっている風鈴のようなものに魅かれ、ドアを押した。
風鈴は、陶磁器でも金属でもなく、色のついた石を五ミリほどの厚さに切り、五、六個を円形にテグスで吊《つ》るしたものだ。風で石片が揺れるときに互いがぶつかり、涼しい音をたてる。石の厚さと大きさで音色も異なった。
黒人の女性店員は、椅子《いす》に腰かけて、舞子の様子をにこやかに眺めている。
紫色の縞《しま》模様のある石と、琥珀《こはく》色の石が気に入ったが、音色をどちらにするか迷った。カン高く品のいい色は琥珀色のほうだが、涼しい音色は紫色の石だ。
「これをもらいます」
舞子は紫のほうを選ぶ。店員は頷き、鉤《かぎ》から石風鈴をとりはずした。
「きれいな音でしょう」
店員はにこやかな顔で言う。訓練を受けているのか、なめらかな英語だ。
「ストーン・サウンド」
「そう。石の音」
舞子は日本語で言い直す。そう言えば、細い葉巻のような貝を何本か吊るして風鈴にしたのは日本でも見かけた。あれが貝の音とすれば、これは確かに石の音だ。ブラジルには似つかわしい。
店員は石片をぴったり重ね合わせる。もともとひとつの石から切り出したものなので、原石の形になってしまう。石の表面は灰黒色で内部の切り口の美しさとは似ても似つかない。
店員は石を輪ゴムで固め、さらにその上を薄い紙でくるんだ。舞子の胸にかかった鍵《かぎ》のペンダントを見て、部屋番号を記入した。舞子がサインをすると、複写になっている部分を、品物に添えて渡した。千円弱の値段になる。高いようでもあり、とてつもなく安いような気もした。
初めての買物だった。病院にいる限り、現金を扱う機会はなかった。レストランやカフェテラスでの食事、部屋の冷蔵庫の中の飲み物、ブラウスなどのクリーニング、一切が無料だ。乗馬のレッスン料だってとられない。
ユゲットが言っていたように、それは却って、不自由さを意味するのかもしれない。物の値段を知るのは、その土地を知る基本ではないだろうか。病院の中に一日中とどまっていてはいけないような気がする。
ベランダの軒下に吊るした風鈴は網戸越しの風が当たると、澄んだ音をたてた。
プランターのベゴニアの横で、植えたばかりの食虫植物が緑の葉を伸ばしている。水などやったことはないのに、もう完全に根づいていた。
ドアにノックがあった。チェーンをかけたままで小さくドアを開ける。寛順だった。
「壁に掛けてある絵だけは違うのね」
室内を見回して寛順が言う。
ベッドの上にある黒人の顔を描いた絵は、ピカソばりの抽象画だが、もっと土俗的だ。舞子が気に入っていたのは、絵そのものではなく、竹でできた額縁だった。日本の竹と違って、肉質が厚く節が多く、その力強さが原色の絵によく似合っている。
「可愛い。買ったの?」
寛順が、目ざとく石の風鈴を見つけていた。
「さっき。音もいいし、眺めるだけで美しい」
「ガラスかと思ったら石なのね」
寛順が指で触れて、音を出す。「わたしが買ったのは砂絵」
「細首の瓶に色砂を詰めたものね」
土産屋のショーウィンドウに飾ってあるのを見て知っていた。瓶は香水瓶の大きさから缶ビール大のものまでさまざまだが、中に描かれた絵は、海岸風景だ。海があり、砂浜があり、ヤシが繁り、家が並んでいる。海に舟が出ているところまで描いているものもあって、どうやってそれを作るのか、首をかしげたものだ。いまだにそれは分からない。
「机の上に置いているけど、見るたび不思議だと思う。色のついた砂を上から詰めていくとしても、ヤシの木を一本描くのだって難しい。ずっと解けないパズルが目の前にぶら下がっている感じ。それに比べると、風鈴はいい。時々聞きに来るわ」
寛順はいかにも気に入ったというように、また指で石片を揺らせた。
「さっき、ドクター・ツムラに会った」
舞子が言うと、寛順は唇に指をあて、眼で制した。
「食事に行こうか」
それだけ言って、舞子を外に連れ出す。
「部屋の中での会話には気をつけないと。大切な話は、こうやって歩きながらが一番」
舞子は寛順の言葉に頷《うなず》きながら、胸に吊るした鍵のペンダントに手をやる。まさかそこにまで盗聴器は仕掛けられてはいまいが、確かめるにこしたことはない。
首からはずして、亀のデザインと鎖の部分を調べる。
「わたしも、それを疑ったの。大丈夫みたいよ」
寛順が笑った。
「ドクター・ツムラは、あのことを知らないみたい。飛び降りたと信じきっている。もう少しで、本当のことを言いそうになった」
「駄目。わたしたちだけの秘密。秘密が漏れたとき、わたしたちにも災難がふりかかってくる。ここは当分、だまされたふりをしておくのが一番。午後に馬に乗るのも、そのためよ。逆にわたしたちが、ロベリオを観察するの」
カフェテラスで軽食をとった。ユゲットの姿を探したが、見つからない。
濃いコーヒーを飲んだ。
「寛順の主治医はどんな人?」
「ラクビー選手のように体格が良く、金髪で青い目。ああいう整った顔を見ると、こういう男性を五十年前のドイツがつくりたかったのだなと思う。レーベンス・ボルヌで」
「何よ、それ」
「ナチス・ドイツが実行した〈生命の泉〉。金髪で青い目の若者ばかりを集めて集団生活をさせ、子供を生ませたの。生まれた子供はもちろん国家の手で育てるという計画。いわば飼育場みたいなもの」
「じゃ、その先生も東洋人には偏見がありそう?」
「そんな風には見えない。患者を対等に扱う訓練を受けているのじゃないかしら。むしろ、丁寧なくらい。でも、無駄口はきかない。わたしとしては、いろいろな質問をしてみたいのだけど、そんな雰囲気ではないの」
寛順は二時になったのを見届けて席を立った。
「舞子、いいわね。例のことに関しては、全く忘れたという顔をするのよ」
寛順は念をおした。
芝生の上で、三頭の馬とロベリオが待っていた。
二人が笑顔で挨拶《あいさつ》すると、ロベリオも笑いながら、乗れという仕草をした。相手もこちらの出方をうかがっていると舞子は直感した。
「馬の夢を見たの」
舞子が言うと、ロベリオが興味深そうな視線を向けた。
「馬から落ちた夢?」
「いいえ、馬がわたしを乗せたまま、停まってくれないの。海岸を全速力で走って、最後には、空に舞い上がった」
「空に?」
ロベリオが驚いた表情をする。
「海岸線がどんどん遠ざかっていくの」
「それで、最後はどうなったの?」
寛順までが訊いた。
「停めるのはどうすればいいのか、必死で考えた。手綱を引くのか、足で締めつけるのか、お尻《しり》を叩《たた》くのか。ちょうど、壊れた機械のボタンを、手当たり次第押すのと同じで、いろんなことをしてみた。馬の耳をひっぱったり、首に抱きついたり。それでもとまらないから、トマッテェーと日本語で叫んだの。そしたら目が覚めた」
「気持良さそうで、恐い夢」
寛順が胸を撫《な》で下ろす。
「落馬する夢よりは、ずっといい。俺もそんな夢みてみたい。空飛ぶ夢など、生まれてこの方、みたことがないな」
舞子と寛順がうまく乗馬したのを見届けて、ロベリオは身軽に黒馬に跨《また》がった。準備運動をするように、まずは芝生の上を並足で一周する。
「どちらに行く?」
ロベリオが訊《き》いた。
「どこへでも。あなたのお勧めの場所」
寛順が毅然《きぜん》と答える。二回目だというのに、乗馬姿も堂々としていた。
ロベリオは頷き、先頭に立つ。守衛たちに見送られたあと、赤土の道に出る。
ロベリオの黒馬、寛順の白馬、舞子の栗毛の順に続いた。
赤土道から沼地に向かう小径《こみち》に折れたとき、寛順もさすがに驚き、ちらりと舞子の方を振り返る。自分は大丈夫だというように舞子は頷く。
木橋から意外な物が見えた。
沼と森の境界付近で、大型のショベルカーがアームを持ち上げていた。操作をする運転手以外、人の姿はない。
道路を作っているのだろうか。バーバラの死体のあった場所とショベルカーのいる所は、わずかしか離れていない。
「少し速度を上げる」
ロベリオが言った。白馬と栗毛も、ロベリオの言葉を理解したように、歩みを速めた。
ショベルカーの手前からヤシ林の方に向かう。
車が通れるくらいの道が、ヤシ林を貫いていた。ヤシの木陰を通り抜けたあと、左右は雑木林に変わった。
道はゆるやかな上り坂になり、ロベリオは速度を落とした。
「見晴らし台がある。もう少しだ」
ロベリオが叫び、寛順と舞子の横についた。
「二人とも大分うまくなった。ほら、背中を丸めてはいけない」
ロベリオは舞子の方を見て、正しい姿勢の模範を示す。
突然、頭の上でけたたましい鳴き声がした。
「猿」
ロベリオが言う。
「病院にいる小さな猿と同じ?」
寛順が訊いた。
「いや違う。もっと大きいやつ。人間を襲うことがある」
ロベリオがニコリともしないで答えた。
ロベリオの素振りが以前と微妙に違うのを舞子は感じる。こんなとき、前のロベリオだったら、笑って歯をむき、おどけてみせたはずだ。
「猿に襲われたら、わたしたちは逃げられない。木の上に登っても、猿はどこまでも追いかけてくる」
寛順が頭上を見上げ、気味悪そうに言う。
「ひとつだけ安全なのは、水の中」
真面目な顔でロベリオが応じる。「泳ぎの上手な猿は少ない。だから川の中央にくるか、海にはいるといい。俺《おれ》なんか、一度襲われてみたいと思うけど、近づいてもくれない。向こうも相手を選ぶようだ。狙《ねら》われるのは、決まって女子供と年寄り」
「でもこちらが何もしなければ、安全なのでしょう」
舞子は助けを求める気持になっていた。
「猿は、この森を自分のものだと思っているから、はいってくる人間はみんな敵になる」
バーバラが森の中を逃げる姿が、頭に浮かんだ。いくら逃げたところで、猿の速さにはかなわない。それも一匹や二匹ではなかろう。数匹が前後しながら、身重のバーバラを追いかける。
──いや、バーバラを襲ったのは猿ではない。人間なのだ。むしろ、猿は木の上から惨劇を目撃していたのかもしれない。
舞子は混乱した頭を整理するように、木の枝を見上げる。緑の葉の間に赤い実が見えた。いかにも猿が好みそうな木の実だ。
もしかしたら、あのショベルカーは証拠を消し去るための工作ではないのか。──そんな考えがひらめく。道を作るのを口実にして、死体の横たわっていた地形までも変えてしまう。現場が消えてしまえば、残った証人は寛順と自分の記憶だけではないか。
ロベリオは無表情で手綱を操っている。寛順は背中だけしか見えないが、しっかり坂の上に眼をやっているようだ。
ロベリオは自分たちをどこへ連れて行こうというのだろう。何か企《たくら》んでいるのではないか。
舞子は平静さを装いながら、ロベリオの服と馬の装備を観察する。橙色《だいだいいろ》のTシャツに白いショートパンツ、そして白いズックをはいている。持物は何もなく、馬の鞍《くら》にも荷物などはない。
坂を登りきった高台に樹木はなく、四方の見晴らしがきいた。
海岸の左端に白い塔の先がのぞくのは、灯台だろう。右端は弓なりの岬になっている。
「こちら側は、俺の村があるところ」
ロベリオが内陸の方を指さした。村といっても、一面の森、あるいは耕地で、村落らしいものは見えない。
「ここから、およそ百五十キロくらい離れたところ」
二人の怪訝《けげん》な表情を読みとってか、ロベリオがつけ足す。
地平線まで平地が連なっている。百五十キロといってもどのあたりか見当がつかない。
「どんな村?」
寛順が訊いた。
「どこに行ってもサトウキビ畑。それ以外、何もない。だから俺は嫌になって町に出てきた。サトウキビ畑の中で、一生を終わりたくなかった」
「海のほうが気に入ったのね」
舞子が訊く。
「サトウキビよりはいい。海だと何でもある。魚も船も、人間も」
「じゃあ、今の生活、満足?」
寛順が確かめる。
「ああ、そこそこにね。でも夢にはまだ遠い。金を貯めたら、小さなホテルを建てる。バンガローが十個くらい散らばったのをね。そこに、村の連中を年に何組かずつ連れてきて、ただで泊まらせる」
「ただで?」
「そう。一週間くらい。その手始めは、もちろん両親、その次が兄夫婦、そして姉夫婦という具合さ。十年もすれば、村人全部をひと通り呼べる勘定さ」
「いい夢ね。素晴らしいわ」
寛順が言う。もしかしたら、ロベリオは悪い人間ではないのかもしれないと舞子は思う。
「そんなホテルができたら、わたしたち泊まりに来る。ね」
寛順から屈託のない笑顔を向けられて、舞子も同意した。
「あんたたち病院の待遇に満足しているだろうけど、やっぱりあそこは、ブラジルではない。本当のブラジルはもっと違う」
ロベリオは一瞬怒ったような顔になった。
「でも、こうやって馬に乗るのも、ブラジルをもっと知るためよ。病院内のプールで泳ぐより、よっぽど良いと思ったの」
寛順が言うのを、ロベリオは真剣な顔で聞き、しばらく黙った。
「さあ、もう時間だ。今日はこのくらいにしておこう」
ロベリオの腹蔵のない言い方に、舞子は救われたと思った。
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17
マイクロバスが受付前に停まっていた。週末毎にサルヴァドールまで往復するという。前の夜、ユゲットが舞子や寛順の分まで申し込んでくれていた。
バスは車体の下に、もう一段低いステップがはめこまれている。肥った初老の婦人の手を取って、ステップをあがるのを手助けしているのはジョアナだ。反対側から舞子が肘《ひじ》を支えてやると、ジョアナは胸の前で両手を合わせ、アリガトゴザイマスと言った。コンニチワ、コンバンワ、オハヨゴザイマスに続いて彼女が知っている四番目の日本語だ。
前から三番目の席にユゲット、その後部に寛順《カンスン》と舞子が坐《すわ》った。二十名近い乗客の大部分が中年以上で、若い乗客は舞子たちだけだ。
「お年寄りたちは、ミサにいくのよ。病院の中にある教会は形だけでつまらないから、サルヴァドールの有名な教会まで行って、お祈りするの」
ユゲットが耳打ちする。
「ユゲットは行かなくていいの?」
寛順が訊く。
「わたしはどんな教会でもいい。全然こだわらない」
運転席に坐ったのはジョアナだった。愛嬌《あいきよう》のある顔を向け、市内まで一時間ちょっとだと告げた。
車体のスプリングも改善してあるのか、細かな揺れが極端に少ない。
門を出てしばらく行くと車窓から森が見えた。沼の先で、ショベルカーがアームを上下させている。道の造成はだいぶ進んでいるようだ。
「やっぱり舞子の言った通りね」
その方向を見やって寛順が日本語を口にする。
「あの日、馬に乗ってあそこまで行ったのが、夢か現実か判らなくなる」
「夢だと思えばいい」
寛順が短く応じた。
石畳の道を最徐行して通過したあと、車は舗装道路に出た。往来の少ない二車線をかなりの速度で走る。一週間前に見た風景が車外に広がっていた。
道端によしず張りの小屋が並び、スイカやバナナ、サトウキビを売っている。破れたシャツを着た黒人がアスファルトの上を裸足《はだし》で歩く。家畜小屋のような家から、乳呑み児を抱えた女性が出てくる。
自分たちの滞在する病院と比べて何という違いだろう。大理石像の置かれた回廊、豊富なメニューをもつレストラン、落葉ひとつないプールなど、庶民にとっては想像外の存在なのだ。日本にも貧富の差はあるが、ブラジルではその百倍以上の格差はあるとみていい。病院の中にいる限り、その落差は目にはいらない。
マイクロバスは、道を横切る隆起の手前で慎重に徐行する。
「ロンバダ」
ユゲットが後ろを振り向いて言う。
「そうロンバダ」
ブラジルに来て最初に覚えた単語のうちのひとつだ。あとはまだオブリガーダ、ボン・ヂーア、ボーア・ノイチ、ボーア・タールヂくらいしか知らない。ジョアナの日本語なみだ。
「カンスンもマイコも、数字は覚えた?」
「少しは、ユゲット先生」
寛順が笑う。
「今日は絶対必要になる」
ユゲットは一から十までを数え始める。
「ウン、ドイス、トゥレース、クァトロ、シンコー──」
寛順と一緒にユゲットの真似をするうちに、ジョアナが聞きつけて手本を示す。
「ウン、ドイス、トゥレース──」
合唱になると言いやすく、四、五回で何とか覚えてしまう。
「その次は、ポル・ファヴォールとオブリガーダ。買物の時には欠かせない」
これも寛順と二人でオウム返しをする。
周囲の乗客がニヤニヤしながら見ている。
「その次は?」
面白くなって舞子が訊《き》く。この調子ならサルヴァドールに着くまで、二十くらいの単語は覚えられそうだ。会話集で勉強するよりもよっぽど能率が良い。
「もうこれで全部」
「なあんだ」
寛順が笑う。
「でもこれで、今までたいていは間に合ったのよ」
ユゲットは澄まし顔で応じる。
その後も何度か覚えた単語を口にしてみた。
少しずつ通行量が増えている。特にトラックが多い。日本のように、ピカピカに磨かれたトラックは一台もなく、例外なく埃《ほこり》にまみれている。乗用車も似たりよったりで、洗車など一度もしてないように汚れている。
「もう市内にはいっている」
ユゲットが言った。
前方にビルの立ち並ぶ丘があった。マイクロバスが急坂を登り出す。坂の多い街だ。それもゆるやかな坂ではなく、断崖《だんがい》に近い。
「あれが、国際的な建築の賞を貰《もら》った建物」
ユゲットが指さす方向に、赤と黒、黄の格子縞《こうしじま》のようなビルが見えていた。真四角ではなく、木のように横に枝を出した造りだ。鉄筋コンクリートで縦横の骨組みを造り、そこを土台に、矩形《くけい》の居住ブロックを載せた恰好《かつこう》になっている。そのブロックひとつひとつの色が異なるので、格子縞に見えてしまう。ブラジルらしいのは、その色の組み合わせだった。骨組みが赤、ブロックは黒、橙、そして一個だけ中央付近に黄色がある。日本でなら、入居者が敬遠するような色の配合だ。
ジョアナがポルトガル語で何か叫ぶ。きょとんとして聞いていると、訛《なま》りのある英語でつけ加えた。
「今日停めるのは丘の上の教会前らしい」
ユゲットが分かりやすい英語に直してくれる。「いつも丘の上か下かの、どちらかに停車するのよ。上はいろんな教会がある。下だったら市場の前なので、買物には便利」
マイクロバスはさらにジグザグの坂を登って行く。
眼下に海が見えるようになると、道は石畳に変わった。旧い市街地なのだろう。両側の建物も重厚な石造りだ。
坂を登りつめたところが広場になっていた。ジョアナは古びた教会の前にマイクロバスを停めた。
「集合は三時。この場所です」
ジョアナがポルトガル語と英語で言う。
「四時間はある」
ユゲットが腕時計を見る。「時間は充分。問題はすぐに道が判るかどうかよ」
「病院を出る前に、電話は入れなかったの?」
寛順が訊く。
「昨夜《ゆうべ》電話したから待ってくれているはず。道に迷ったら電話を入れて訊くわ」
「バーバラが死んだことは伝えたの?」
舞子の問いにユゲットが頷《うなず》く。
「詳しくは直接話すことにしたの。でも辛《つら》い役目。こんなことって初めてだし」
「病院からその人のところへは連絡が行っていないのね?」
「保護者でもないし、知らなかったようよ」
バスから降りて歩き出したとたん、物売りの少年たちから取り囲まれた。
「サンバ、ボサノバ。ファイヴ・ヘアイス」
少年たちがさし出すのはカセットテープだ。ユゲットはそっ気なく拒絶する。物珍しげに立ち止まった舞子と寛順めがけて、四人の少年がいっせいにしゃべり出す。
「ポーチに気をつけて」
ユゲットから注意された。寛順は肩から斜めがけしたポーチを小脇《こわき》にかかえた。舞子も思わず、ウェストポーチを手でかばう。
カセットテープでは駄目と思ったのか、少年のひとりは、布テープの束を舞子の目の前に突きつけた。
「何なのこれ」
「お守り。これを指に巻きつけていると何か良いことがあるらしいわ」
助け舟を出すようにユゲットが教える。
「一本で、ワン・ヘアウ」
少年は一本指を立てた。
「三本で、ワン・ヘアウ」
舞子が言い放つ。いくら御利益があろうと、たかが一センチ幅、五十センチくらいの長さの布に、日本円にして百円も払う気はない。
少年は分かったというように頷き、束の中から三本を引き抜いて舞子に手渡す。仕方なく、舞子もポーチを開け、折り畳んだ一レアル紙幣を渡した。
寛順のほうはまだカセット売りの少年二人につかまっていたが、払いのけるようにして、ユゲットと舞子のあとを追ってきた。
「いらないといくら言ってもしつこいのよ」
「カンスン、もっときつく言わないと駄目。怒ったように、きっぱりと」
ユゲットが教え諭す。濃いサングラスをかけて、いかにも西洋人といった印象だ。
舞子が買った布テープには、白地に黒く何か書いてあるが、どんな意味なのかは理解できない。ユゲットと寛順に一本ずつ渡すと、ユゲットがさっそく、右手の人さし指に巻きつける。
「一日中はめておかないと効果がないの」
「何の効果?」
「すべて」
「すべてだと、何だか無責任すぎる。日本だと、交通安全とか安産だとか、学業成就だとか専門があるのに」
「それぞれお守りが違うの?」
ユゲットが面白がる。
「こんなテープではなくて、大ていは四角いお札。商売繁盛のお札は、学業成就には効かない。だから大変」
「まるで病院と同じね、いくつもの科があって。日本のお守りは進歩している」
カセット売りの少年がひとり、まだ寛順につきまとっていたが、大声でノーと言われ、とうとう諦《あきら》める。百メートル近く押し問答しながら歩いてきた計算になる。並はずれたしつこさだ。
石畳の両側には土産物店が軒を連ねていた。木彫りの仮面、大小の太鼓、マラカスなどの楽器が目をひく。弓にヤシの実をくくりつけたような楽器は、病院のショーで見たものだ。これ以上は思いつかないほどの派手な色に塗り分けられている。
油絵や真鍮細工《しんちゆうざいく》、布もこの街の特産らしい。店の前に立つ店員が盛んに呼び込みをしている。
三角形の広場で、道は三方向に分岐している。広場の隅に停めたバンのスピーカーが、景気の良い音楽をがなりたてていた。バンの車体の文字と音符からして、CD店の宣伝らしい。
「こっちらしいわ」
革サンダル屋で道を訊いたユゲットが言う。
石畳はさらに狭くなり、車は下りのみの一方通行になっている。土産物店は減り、両側の建物は住居用だろう、各階の窓に洗濯物が翻っている。汚れた石壁にスプレーの落書があった。
「十三番だから確かこの建物」
左側にある建物プレートを見上げてユゲットが言った。両側の石造りに比べると、一階低く、間口も狭い。
ユゲットは木扉の外にあるボタンを押した。内部でブザーが鳴り、ノブを回すと木扉は内側に開いた。
中は薄暗く、外気に比べて温度が低い。暗い石段が上まで延びている。小窓からだけの日光で、足元がようやく明るいだけだ。
ユゲットは先頭にたって四階まで上がる。赤い扉の前にユゲットが立つ。表札はなく、扉は何回も鍵《かぎ》を取り替えられたのか、釘《くぎ》の跡がいくつも残っていた。ユゲットが呼び鈴を押した。
扉がわずかに開けられ、チェーンの向こうから中年男の顔が一部のぞいた。
「朝、電話したユゲット・マゾーです。こちら二人は友人──」
英語で言うと、男は黙ったままチェーンをはずし、扉を大きく開けた。
お香の匂《にお》いが鼻をつく。それも日本で使われる香ではなくインド産のような濃厚な匂いだ。
「クラウス・ハース」
舞子と寛順が自己紹介をすると、短い言葉が返ってきた。そのまま無雑作に中に招き入れる。
アトリエ兼物置きと言っていい部屋だ。窓際に四個のイーゼルが置かれ、それぞれに描きかけらしい絵が掛かっている。壁には、ブリキ板、ひしゃげた空缶、木の根っこなどが所狭しと吊《つ》り下げられていた。木箱の手前には、完成した大小の絵が立て掛けてある。土産物店で見たのと同じ様式の絵だ。
不揃《ふぞろ》いの椅子を三脚持って来て勧め、クラウス自身は道具入れの箱に腰をおろした。
「バーバラが死んだって本当か」
クラウスが怒ったように言った。抑揚のないブツ切りの英語だ。年齢は五十前後だろうが、薄くなった縮れ毛のせいで老けて見える。
「屋上から飛び降りて自殺したそうです」
ユゲットが答える。「ときどき連絡はあったはずですが、自殺をほのめかす言動はあったのでしょうか」
「ない。その逆だ。殺されるのを恐れていた」
頬骨《ほおぼね》に張りついたような薄い皮膚が、ピクピクと震えた。
「殺されるって、誰から?」
ユゲットが驚く番だった。
「誰からかは知らん。しかし少なくとも、自分の身の上に変わったことが起これば、殺人かそれに準じたものと考えていい、と言っていた」
「殺人に準じたもの?」
ユゲットが呆然《ぼうぜん》とする。
「ああ、例えば、口をきけない状態とか、植物人間だとか──」
「そこまで言っていたのですか」
ユゲットが怯《おび》えた眼で舞子と寛順の方を見た。
「だから、今朝、あんたから電話で知らせを受けたとき、とうとう起こったかと思った。あんな感受性の強い子が、飛び降りなんかは絶対にしない。するなら、眠りながら死ぬ睡眠薬自殺だろう。建物から飛び降りれば、落ちるまで何秒かある。その間は生きているのだ。その恐さにあの子が耐えられるはずはない。強い酒でも飲んでいればの話だが、生憎《あいにく》彼女は酒は嫌いだ。口にしたことさえない。そういうわけの分からん物を、死ぬ前に口に入れるとも思わない。それとも、飛び降りた屋上に酒瓶でもころがっていたなら別だが」
クラウスは一気にしゃべった。
「確かに、バーバラがアルコールを飲んでいるのは、見たことがないわ」
ユゲットが述懐する。
「病院だから、ちゃんと死因は調べたのだろう? 何と言っていた?」
「わたしの主治医がやはりバーバラの担当だったので訊《き》いてみました」
舞子が懸命に英語を口に出すと、クラウスはさらによく聞きとろうとして、身を乗り出した。「正式な死体の検査はやっていません」
「そこがおかしい」
クラウスは首を捻《ひね》った。「病院で患者が死んだとき、解剖をするのは当たり前だろう。自殺患者であってもだ。いや、自殺患者こそ本当に自殺かどうか、調べなくてはいかん」
「バーバラは何を恐れていたのですか」
寛順が横あいから訊いた。
「知らん。あんたはどうかね」
クラウスは顔をユゲットの方に向ける。
「全く心当たりありません。時々顔を合わせるだけで、立ち入った話はしていないのです。彼女がどこの出身かも知らないくらいですから」
「バーバラが病院に来る前から、誰かにつけ回されていたとは考えられませんか」
また寛順が訊いた。
「いや、それはない。サルヴァドールに来た当初は、そんな素振りはなかった。病院におれるのを運がいいと言っていたくらいだ。変わったのはこの一、二ヵ月くらいだ」
「検屍《けんし》しなかったのは、どう考えてもおかしいわ」
ユゲットが呟《つぶや》くように言うのを聞きながら、舞子は、背中が冷えていくのを覚えた。主治医のツムラ医師も、早過ぎる死体の処理にひと役買っているのだろうか。いやそんなことはない。彼自身、バーバラの死には衝撃を受けている様子だった。
「腹が減った」
思い出したようにクラウスが言う。「まだ朝飯を食べていない。あんたら、つき合わないか。うまい所がある。今の時間なら空いている」
クラウスはもう立ち上がっていた。
街路に出ると、クラウスもサングラスをかけた。絵の具で汚れた綿のパンツに、革のサンダルをはいている。
「バーバラも気に入っていたレストランだ──」
クラウスはもっと言いたげだったが、途中で口元をぎゅっと締めた。
坂をさらに一、二分下り、小さな公園の中を右に折れた。観光客の姿はない。木陰の草の上にタオルを敷き、三人の男が寝ていた。枕《まくら》は鞄《かばん》の類《たぐい》で、三人とも左を下にして川の字になっている。
広場に面した石造りの建物に、クラウスは案内した。レストランらしい看板はどこにも出ていない。手前の階段を二階まで上がった。踊り場に木の彫刻が置いてあった。長い顔がモアイ像を連想させる。
二階のレストランにはいると、黒いスーツを着た黒人の給仕が、テーブルに案内した。
先客は遠くのテーブルにいる三人連れだけだ。壁際にズラリと並んだ給仕の数に舞子はびっくりする。二十人近くはいるだろう。まだ高校生くらいの年恰好《としかつこう》で、白い詰襟の長袖《ながそで》シャツに黒ズボン、黒靴という服装だ。
全員が、同じように左腕にナプキンをかけている。
「ここは学校だから、さしずめ、あんたたちは教材」
サングラスをはずしたクラウスの目が皮肉っぽく笑った。
「料理学校?」
ユゲットの問いにクラウスは顎《あご》をひく。
「コックとウェイターの両方の学科があって、二年で卒業するとブラジル各地に散っていく。バイーア料理はブラジル料理の原点ということになっている。就職率は百パーセント、リオやサンパウロだけでなく、ブラジリア、ベレンやマナウスからも引き手があるらしい。料理はまあ、生徒が作るのだからね。それでも良い材料は使ってあるし、何より種類が多い」
クラウスは立ち上がる。
部屋の中央に楕円《だえん》形の上下二段になったテーブルが置かれていた。上段にはケーキとパン類、下段にはマンゴーやスイカ、ブドウなどの果物とコンポート類が載せられている。
クラウスはまず食べるのはこっちだというように、三人を壁際に連れていく。左側に皿に盛られた料理、右側にステンレスで仕切られた容器があり、一区画毎に異なる料理が入れられている。全部で三十種類くらいはあるだろうか、ひとつひとつに料理名がつけられていた。しかしポルトガル語だから、舞子にはさっぱり分からない。料理の色合と形で、口に合うものか否かを判断するしかない。
肉料理とウィンナー、魚のバター焼のようなものと、紫色をした野菜の煮つけを皿に盛る。紫色の野菜など、普通なら食指は動かないが、クラウスが勧めたので、結局四人全員が少しずつ皿にとった。
席につこうとすると、給仕がそれとなく近づいて椅子《いす》を引いてくれる。飲み物の注文は別の給仕がとる。ひとつのテーブルに三、四人がかりだ。部屋の隅には、三十歳くらいのスーツ姿の男がいて、おそらく教師だろう、応対の様子を厳しい視線で眺めている。
舞子は料理の味よりも、給仕の卵たちの振る舞いのほうに興味をひかれた。新たな客がはいってくるたび、室内の空気が張りつめた。
料理はおしなべて油っこく、味もこってりとしている。これが本当のバイーア料理だとすれば、病院で出される料理は、外国人用に味が調節されているのかもしれない。紫色の野菜は少しすっぱく、それがなんともさわやかだった。
「ひと月前にバーバラとここで昼飯を食べた。あれが最後になった」
クラウスが大豆の煮込みをスプーンですくいながら言った。
「その時、バーバラはどんな話をしましたか」
寛順が訊くと、クラウスは口の中のものを咀嚼《そしやく》し、新たにビールをぐいっと飲んだ。
「それが思い出せない。食い物の話をし、食べ終わって、下町の市場《フエイラ》に行った」
「何か、彼女買いましたか」
「Tシャツや布製の袋かな。荷物にならない物がいいと言っていた」
「彼女、帰国するつもりだったのですか」
ユゲットが眼を上げる。
「俺もそうかなと思った。Tシャツも五、六枚、袋も三個か四個買った。土産のつもりだったのかもしれない」
「バーバラの電話があったのは、そのあとですね」
舞子の質問に、クラウスはそうだと頷《うなず》く。
「サルヴァドールに来た当初は、もっと長くいるようなことを言っていた。途中で気持が変わったのだろう。その理由が何だったかは、分からない」
客が増え始めていた。
料理はどれも違う味を持ち、決してまずくはないが、少量で充分という気がした。はじめから少量しか取っていなかったユゲットは、デザートを取りに席を立った。
「バーバラは、ドイツで何をしていたのですか」
寛順がそれとなく訊く。
「コンピューター会社だ。大学での専攻が情報処理でね。大学は奨学金を貰《もら》って行ったはずだよ」
「両親はドイツにいるのですね」
舞子が訊く。
「二人とも死んだ。俺《おれ》の兄は心筋|梗塞《こうそく》、兄嫁も二年前に癌《がん》で亡くなった。祖父母も、その前に死んでいたから、バーバラの身内は俺しかいない」
「恋人は?」
ひと呼吸おいてから、寛順が質問した。
「好きな男はいるはずだよ。わざわざ、ブラジルまで病気の治療に来る気になったのも、それと関係あるのかもしれない」
「どんな病気だと言っていたのですか」
舞子が訊く。
「不妊症《ステリリテイ》の治療だと言っていた。結婚してもいないのにそんな治療が必要かと思ったけど、そういうこと、俺から立ち入って訊けないからね」
クラウスは瓶のビールがなくなったのを確かめて給仕を呼ぶ。
舞子と寛順はユゲットと入れ代わりに席を立った。
「舞子、あのことは決して言ってはならないわ」
寛順が、砂糖菓子のようなものを取りながら日本語で言った。「わたしたちはあくまで知らぬふり。クラウスに動いてもらえばいい」
寛順の真意は充分にのみこめなかったが、舞子は同意する。
デザートにパパイアと、イチゴジャムのようなペースト状のものを皿に載せた。
「あんたらもあの病院か」
クラウスの質問に三人とも頷く。
「誰だって病院には行けるんだな」
「それはもう。普通の総合病院ですから」
ユゲットが答える。
「このまま黙っておくわけにはいかない。納得がいくまで調べてみる」
クラウスは決心したように言った。
「どこか身体《からだ》に悪いところがあれば、まず外来患者になることです」
寛順が言った。
「以前、腹が痛んで町医者でレントゲンを撮ってもらったとき、胆《たん》のうに石が溜《た》まっていると言われたことはある。手術を勧められたが、痛みは一日でなくなったのでやめた」
「じゃあ、それです。もう一度診てもらうのです。入院になれば、もっといいかもしれません」
「しばらく外来に通ってもいい。病院の近くに宿はあるかい」
「一応観光地ですから、小さなホテルやペンションがあります」
ユゲットが答えた。
「そのときは、あんたたちにもお世話になる」
クラウスは勢いよくビールをコップについだ。
室内はほぼ満席になっている。給仕の卵たちの何人かが教師から呼ばれて、小声で注意を受けていた。
「入院となれば、まずあんたのところに電話を入れる」
クラウスがユゲットに言う。「入院にならなくてホテル暮らしになっても、頃合いを見て電話してみる。それじゃバーバラを悼んで」
クラウスがグラスをさし出す。ユゲットはオレンジジュースのグラス、舞子と寛順はグァラナのはいったグラスで応じる。
「あんたら二人、バーバラに会ったことは」
潤んだ目でクラウスが訊《き》く。
「ありません」
寛順がきっぱりと答える。
「そうか。それなのによく来てくれた」
しみじみとした口調でクラウスが言う。
舞子の脳裡《のうり》にバーバラの最後の姿が蘇《よみがえ》る。
バーバラは自殺などではなく殺されたのだ。舞子は自分に言いきかせた。
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「こんな所に住む子供は、学校にはどうやって行くのかしら」
舞子が訊くと、明生は残念そうに首を振った。
「学校なんて行かない。日本の考え方でブラジルを見てはいけないよ。学校に行きたければ、学校の近くに住むしかない」
「じゃあ、読み書きは?」
不安になったのは舞子のほうだ。
「親が教えない限り、覚えない。でも、その親が知らない可能性もあるし」
明生は車のスピードをゆるめる。山中の道は未舗装で、車の轍《わだち》がいくつも残っていた。
舞子は、今しがた見た道端の家を思い出す。幹線道路からはずれて三十分ほどの間に、人家を目にしたのは二軒だけで、その二軒さえも、人の足でなら二、三十分は離れているだろう。屋根には、テレビのアンテナどころか、家の傍に電柱さえなかった。それでいて、道路|脇《わき》にはテニスコートくらいの広さのサッカー場があり、両サイドのゴールによれよれの網が張られていた。子供用の遊び場だろう。
「この間、サルヴァドールに行ったと言っていたね。街を歩いていて、本屋を見かけたかい?」
「ううん。気づかなかった。新聞売りのスタンドみたいなのはあったけど」
「そんなものさ。新聞や雑誌は、土産物屋が片手間に売っている。しかし、本格的な本屋は、あの街全体で二軒か三軒しかない。それだけ需要が少ないからさ。市民にとって大切なのは、文字よりリズムかもしれない」
「リズム?」
「そう、サンバとかボサノバとか」
明生はハンドルを握ったまま、上体を動かす。
「サンバの歌詞も簡単で、繰り返しが多い。複雑な意味はリズムでつける」
「リズムが言葉ね」
「そうそう」
明生の返事に、ひょっとしたらサッカーもリズムと同じように、ブラジルの言葉ではないかと思う。どんな辺ぴな場所にも手作りのサッカー場はあるのだから。
読み書きは余計な装飾品なのかもしれない。ブラジルの人々が身を飾るのに幾重にも重なった布地は必要でないのと同様、生きていくのに読み書きはいらないのだ。
現に今の自分がそうだった。日本語の本も新聞も身のまわりにはないし、手紙も書かない。目に見える仕草、耳に届く言語だけが、判断の材料だ。その分、精神がシンプルになり、感覚が研ぎ澄まされていくような気がする。
でこぼこ道が下り坂になり、途中から海が見え始めた。
川が海に注ぐ岸辺に十軒ほどの集落があり、木陰に、古びた乗用車と小型トラックが停まっていた、明生は車をその横につける。小さな村なのに、川べりに教会が建てられている。
砂浜は川向こうにあって、こちら側の浜には漁船が係留されていた。男たちが網を広げて、破れた箇所をつくろっている。
さてどうしたものか迷っていると、二人の少年が近づいて来た。ポルトガル語は理解できないが、どうやら向こう岸まで行くなら、舟で渡してやると言っているらしかった。
「クァント」
明生が訊くと、年長のほうの少年が親指を一本突き出した。明生は仕草で、二人で一ヘアウなのか、ひとりで一ヘアウなのか確かめる。どうやら、片道ひとり一ヘアウらしい。往復二人で四ヘアイスだ。明生は値切らずに妥協する。
小舟には櫓《やぐら》も櫂《かい》もついておらず、少年は砂浜に突き刺していた竹竿《たけざお》を持ってきた。
明生と舞子を乗せると、小さい男の子は舳先《へさき》に坐《すわ》り、竿を腕にかかえた。年長の少年が膝《ひざ》まで水に浸って、舟を押し、はずみをつけて飛び乗る。竹竿を受け取って、川床に突き立てる。
川の流れはかなり急で、舳先を川上に向けながら移動する。船頭が少年二人でも、危い感じはしない。堂々たる竿さばきだ。
渡り終えると、少年はまた舟を降りて押し、砂浜に舳先を乗り上げさせた。明生が二ヘアイス支払う。少年たちは、帰りは手を上げて呼んでくれと言い残し、対岸に戻って行った。
浜の中央に、屋根も壁も葦《あし》でつくった小屋が一軒あった。
明生と舞子は小屋の陰で、水着に着替えた。
砂浜からは対岸の集落と、そこから海に突き出した岬が眺められた。岬は樹木で覆われ、所々に別荘らしい白っぽい建物が見える。陸地づたいよりも、海路で行き来するしかないような場所だ。
海には舟も出ていない。見渡す限り、海にはいっているのは二人だけだ。
遠浅だった。明生と並んで沖の方に進んでいく。
川から流れてくるところだけ海の色が薄く、水も冷たい。足元の砂は細かく、歩きやすかった。
「このままだと、岬まで歩けそう」
明生が舞子の手を取る。胸元までの水深はどこまで歩いても、深くならない。
「こんなきれいな川、初めてだわ」
舞子は、身体《からだ》を浸している水が、何十キロ何百キロも山奥からはるばる下ってきたことを思う。そんな川がこの河口でようやく旅を終え、海と混ざり合っているのだ。それも、こんなに美しく、静かな形で。
水の感触で、海水中の川の流れが判る。
「本当だ。塩の味がしない」
指をしゃぶってみて、明生が言った。
「ここで川と海が一緒になるなんて、いい気分」
舞子は周囲を見渡す。岬と集落と、今しがた舟で渡った川、そして長々と続く砂浜、葦小屋、また海。
「どんな所にも教会があるんだね」
明生が川の傍の小さな教会を眺めやる。屋根の上の十字架がなければ、ただの小屋と間違うような質素な造りだ。
明生と一緒なら、こんな村で一生を終えてもいいと舞子は思う。
「もうここまで来ると、海だね」
また海水の味をみて明生が言った。
足元の砂が次第に盛り上がり、浅くなっていく。岸からは百メートル近く離れているのに、まだ腰までの深さしかない。
岬に点在する別荘のたたずまいが、一層はっきりしてくる。平屋だけでなく、三階建の大きなものもある。緑の中で白い屋根と壁が宝石のように美しい。ひとつひとつの別荘は道でつながっている気配はなく、海岸にある個々の船着場から上がっていくしかないようだ。サルヴァドールの金持たちが、週末だけ海路で訪れてくるのだろう。
さらに進むと浅瀬がなくなり、そこで二人は引き返した。
岸辺に向かい出すと、川の流れが障壁になった。流れからはずれると進みやすくなったものの、水深は胸まできて、それから先は泳ぐしかなかった。明生の手を放し、平泳ぎになる。
ほとんど波がない。葦小屋の方を目ざして、ゆっくり泳ぐ。広大な湾の中で、動いているのは舞子と明生だけだった。
明生の足がつくようになると、舞子はその肩に手をおいて、足だけを動かす。浅くなるに従い、明生が膝を曲げて背を低くする。
最後には、明生も身体を平らにして泳ぐ。ちょうど鯉のぼりが重なってなびいている形になった。
突然、明生が身体を沈め、舞子は支えを失い、慌てて水をかく。後ろにまわった明生から今度は逆に肩に手をかけられた。たまらず、舞子の身体は沈んでしまい、足で立つしかなかった。
海から上がる。細かい砂に二人の足跡をつける。
「舞子の足は、現地の人たちの足に似ている」
足跡を眺めて明生が言う。明生が扁平足《へんぺいそく》なのは知っていた。土踏まずの部分もべったりと足跡がつき、逆三角形の上に、五本の指がのっている形になる。一方舞子のは、踵《かかと》と足先を外側の弧が結びつけるだけの形になっている。
「でも舞子の足跡も、こっちの住民とは絶対区別がつく。五本の足の指が、扉のように開いているのが現地の人たち。足の指でしっかり砂をつかんでいる。そこへいくと、ぼくたちのは、ただ足を大地の上にのせているだけ」
渚《なぎさ》から少しでも遠ざかると、熱い砂の上に足を長く置いておけなくなる。明生は小刻みに足をたぐり、葦小屋の方に駆け出す。舞子も走った。
小屋が日陰をつくっていた。バスタオルを二枚広げて坐る。海から吹いて来る風が、濡《ぬ》れた肌を撫《な》でていく。
「ここまで来れたとはね」
明生が嬉《うれ》しそうに言う。「本当に地球の反対側」
「ひとりだけでは来れなかった。明生が一緒だったから」
仰向けになった明生の顔を、上から見下ろす。明生は眩《まぶ》しげに目を細めた。
明生の乱れた髪を指で撫でつけてやる。普段は無雑作にしている髪型だが、濡れてオールバックになったときの感じも、舞子は気に入っていた。額が広くなり、どこか肉感的で鋭い印象を与える。水の中にはいっていたときは目立たなかった唇の色も、赤味を増している。その唇の形も舞子は好きだ。
明生の胸に手のひらを置く。見覚えのある形で胸毛が生えている。触れると快いくらいの柔らかい毛だ。珍しがって指先で撫でてみたこともある。それを明生は面白がった。男の身体はどこの部分でも、舞子には初めてであり、まして手でさわったことなどなかったから、たとえは良くないが新品の自動車と同じだったのだ。
胸元に顔をつけたまま、まどろんだこともある。柔らかさと堅固さが一緒になった胸板は温《ぬく》もりがあり、鼓動まで聞こえる。
「この中にはいってしまいたい」
胸の中に身体ごとはいってしまえば、もう離れることもない。そう言うたび、明生は舞子を力いっぱい抱きしめて、「ほらひとつになった」と叫ぶ。舞子が息苦しくなるまで放さないのだ。
「シャム双生児だったらいいのに」
舞子が言うと、
「不便だろうなあ」
気のすすまない明生の返事が返ってくる。「坂道になると、舞子は歩かないから、ぼくが荷物を背負って歩く恰好になってしまう。ぼくがじっとして本を読みたいときでも、舞子はどこかきれいな店に行って、ケーキを食べたがる」
「そういうときは、お店まで行って、明生は本を読み、わたしはケーキをゆっくり食べればいい。明生が勉強してくれれば、わたしは何もしなくていい。楽だわ」
「じゃ、お尻《しり》のところで、つなげてもらうことにしよう」
「お尻は嫌。だって明生の顔が見えない」
「じゃ、肩と肩は?」
「そしたら、抱き合えない。いつも同じ方向しか見られないし」
舞子は首を振る。
「だったら、お腹とお腹をくっつけてもらうしかない」
「ずっとお互い、見つめ合える。でも移動するときはどうするの」
「それは自由さ。ダンスと一緒だから、足を揃《そろ》えさえすれば、前後左右、どこにでも行ける」
舞子はテレビで見た社交ダンスの競技を思い浮かべる。あんなにリズムがぴったり合えば良いが、合わなければ悲惨だ。
「もうひとつ心配なのは、いつも同じものを食べなければいけなくなること。舞子がうどんで、ぼくがそばにしたいことだってあるだろう。ぴったり向かい合っていたら、それもできない。真中に置いた大きな丼からそれぞれが箸《はし》でかきこむしかない」
明生も、大変だという顔をする。
「そのときは明生が右を向いてそばを食べ、わたしは左を向いてうどんを食べる」
「いずれにしても大仕事で大変」
「大変だけど、離れなくていい」
舞子は意地になって言い張る。
砂浜の上を滑るようにして風が吹きぬける。肌がもうすべすべに乾いていた。
舞子は明生に身体を寄せ、手を握りしめる。真青な空が目にはいる。どこにも雲がない。動くものさえ見えない。時が止まったような、このままで一日、ひと月、一年と過ぎ去ってもいいような感覚にとらわれる。
目を覚まして立ち上がる。ガラスのベッドも周囲の透明な壁も、今までのように気にはならない。迷路の中もすんなりと歩けて、扉の前に立てた。
開いた扉の向こうに、辺留無戸《ヘルムート》が姿を現す。坐ったままの姿勢で舞子の方を直視した。
「万事、うまくいっています。何も心配しなくていい。マイコさんのほうで気になることは?」
独特の口調で訊く。
「ありません」
バーバラのことが頭をよぎったのを抑えた。ジルヴィーとの面接でも、そう答えた。彼女の前に出ると何もかも話したくなるのだが、その一点だけには封をしていた。
〈もうすぐです。もう、あなたの準備は整っています。身も心も〉
ジルヴィーは満足気に言った。
辺留無戸の肩越しに石庭が眺められる。何と異質な風景だろう。ブラジルの海、砂浜、樹木に慣れた目には、まるで箱庭だ。隅々まで計算し尽くされた人工物。しかしだからといって小さくはない。数学の無限大の記号のようだ。記号自体は単なる印だが、人間の頭の中でそれは無限大になる。石庭も、実体は石と砂と壁に過ぎないのに、見る人の観念のなかに本物以上の自然が立ち現れる。
辺留無戸は僧衣の襟元に手をあてて居住いを正し、次の間に移動した。
不動明王の前に坐《すわ》り、背中を向けたまま祈り始める。不動明王の怒りの形相が、辺留無戸の声色に従って微妙に変化する。燭台《しよくだい》のロウソクの炎が揺れ、明暗の動きで、不動明王の顔貌《がんぼう》が変化する。あるときは泣くように怒り、あるときは強圧的な怒りを示す。
舞子は十分ほど辺留無戸の読経を聞き、不動明王の姿を眺め続けた。ブラジルにいながら日本にもいる。──その不思議さが何の違和感もなく受け入れられた。
廊下に並ぶ大理石の彫像の白さが眩《まぶ》しい。母親が抱く赤ん坊も白玉のように光っている。
ジルヴィーに見送られて部屋を出た。
エレベーターで一階まで降りた。
レストランに行く渡り廊下でも、両側の大理石像をひとつずつ眺める。やはり一番|魅《ひ》かれるのは、ヴェールをかぶった奴隷像だ。これだけは、大理石を割ったらそこにこの女性が隠されていたというような新鮮さを失っていない。
ヴェールをかぶされているのは何故だろうか。奴隷の顔が醜いからだろうか。いや、透けて見える表情はむしろ美しい。奴隷に目隠しをしているのだろうか。それならヴェールは用をなさない。薄いヴェールを透かして、周りの動きは、おぼろげながら分かってしまう。
多分、商品にヴェールをかぶせることによって、買い手側の興味をつのらせるのだ。
それを知ってか知らずか、ヴェールの女性は、膝《ひざ》を折った姿勢で上体を起こし、右手で乳房を隠しながら、耳だけをそばだてている。あたりの雑踏から聞こえてくる会話に耳を澄ますように。彼女が祈るのはただひとつ。情けのある主人に売られることだろう。そんな憫《あわ》れさが全身に漂っている。
通路を行き来する他の滞在客たちは、おしなべて像に無関心だ。像よりも立ち止まっている舞子を不思議がり、頭から足先まで眺めやって通り過ぎる。
プール脇《わき》の寝椅子《ねいす》にユゲットの姿が見える。つば広の帽子をかぶり、膨らんだ腹を持て余すようにして、本を読んでいた。
舞子が横の椅子に腰をおろすと、帽子を上にずらして視線を向けた。
「この本を読むのも三度目。こんなことならぶ厚いのを十冊くらい持ってきておけばよかった」
文庫本よりは縦長で、紙の質も悪い。表紙には安手の色で、運河のある街が描かれていた。
「表紙からしてスパイ小説」
「まあ、そんなところ。舞台はベニスで、時代は十七世紀。運河の底を走る潜水艦が大活躍する話」
「そんな時代に潜水艦があったの?」
「ありはしないわ。どうせ読み物だからそうなっている。でも、空気抜きの穴があって、逃げるときは、水の中にじっと潜んでいられるの。だから、貴族の館に忍び込んで、お姫様をさらって、その潜水艦で逃走ができる。読んでいると、何だか自分が魚になったみたい。いつの間にか、魚の目でベニスの街を見ている。不思議な感覚だわ」
ユゲットは本を閉じる。
「寛順は?」
「部屋じゃないかしら。彼女が来たら何か食べよう。朝、お腹いっぱい食べたばかりなのに、もうお腹がすく。不思議よ」
「健康な証拠」
舞子は寝椅子の上で、大きく背伸びをする。目の前のプールでひと泳ぎしたいくらいに力は余っていたが、水の中にはいるのは明生とだけと心決めしていた。
「来たわ、カンスンが」
ユゲットが手を上げる。寛順は、上下とも白ずくめで、肩から吊《つ》るしているポーチだけが真赤だ。
「クラウスに会った」
傍に寄るなり、寛順が小声で言った。
「どこで」
「外来の待合室でよ」
「彼も気がついたの?」
「あの人が合図したから判った。それだけで、話はしなかった」
「じゃ、入院になるかどうかはまだはっきりしないわね」
カフェテラスのテーブルに移動する。口に入れるのはいつものエッグサンドだ。
「彼にはこちらから連絡をしてはいけないのだったわね」
ユゲットが言う。
「いずれユゲットのところに電話を入れると言っていたわ」
舞子はサルヴァドールでの会話を思い出しながら答える。
「そのときも部屋の電話では、さしさわりのない話だけすべきよ」
寛順が補足した。
「わたしがここに来た当初、バーバラはよくサンバのグループにはいっていた」
ユゲットがカフェテラス横の広場を見やった。夕方になると、毎日サンバのレッスンが開かれ、ジョアナの指導で十数名の滞在客が身体《からだ》を動かしていた。通りかかった舞子もはいらないかと手招きされ、思い切って加わった。まだ明るいうちに腰を蝉のように震わすのは恥ずかしかったが、終わる頃には慣れた。
「あの人、背が高かったから、不器用なのが却って目立つの。自分の手足を持て余しているみたいで。ところがメキメキ上手になって、一ヵ月もすると、周囲が見とれるくらいになった。はっとするような美人でしょう。レッスンを受ける患者に男性が増えたのもその頃よ。見ているのも楽しいけど、彼女の傍で踊れるのはもっと楽しいと思ったのじゃないかしら。そのうちお腹が大きくなってやめたけど。あの頃の明るい顔からは、何かに悩んでいるなんて少しも感じられなかった」
ユゲットがしんみりと言った。
昼食のあと、寛順とユゲットが診察を受けに行っている間に、舞子は村の方に初めて足を向けた。診療所の前には、相変わらず人の列ができていた。木陰で胸をはだけ、赤ん坊に乳をふくませている女性がこちらを見て笑った。前にここに来た際に会ったのだろうが、黒人女性の顔は覚えにくい。頭に巻いた黄色い布が鮮やかだ。舞子は笑顔を返しただけで行き過ぎた。
日射しが強く、サルヴァドールの土産店で買った麦藁《むぎわら》帽子が役に立っていた。前の方のひさしが大きく、周囲のピンクの紐《ひも》が素敵なので、三ヘアイスだったのをクラウスに半分まで値切ってもらった。百六十円か七十円の品物には絶対見えない。
診療所から十分も歩かないうちに、村の入口に行きつく。橙色《だいだいいろ》の瓦《かわら》で葺《ふ》いた家は、ほとんどが平屋か二階建だ。一般住宅の間に土産物店や民宿じみたホテルもあるところからすると、観光客も訪れるのだろう。それもリゾートホテルに滞在できるような金持ではなく、一般市民でも手が届くような観光地に違いない。
道は二手に分かれ、大きいほうの道が海の方角に向かっていた。外を歩いている村人はいない。開け放たれた家の入口には暖簾《のれん》のような布がおろされ、隙間《すきま》から薄暗い奥が見える。
小さな広場に、オンボロバスが一台、客も運転手もいないままに停車していた。停留所らしい屋根の下に木製のベンチが置かれていたが、そこにも人はいない。
広場の隅に、にわかづくりの屋台があった。すり切れたテープの音楽はそこから出ていた。
舞子が中を覗いたとき、店番の青年と眼が合う。
「ボーア・タールヂ」と黒人青年は戸惑ったように口ごもった。
二階建の家の前で、褐色の肌の中年男性が、ひとりでセメントをこねていた。レンガを敷いて通路を作るのだろうが、急ぐでもなく、休むでもなく、ゆったりした動きだ。
Tシャツや帽子を吊るした店の横が、彫刻の土産物店だった。壁に木彫の仮面を掛け、軒下にニス仕上げをした彫刻を置いている。いずれも流木か、掘り出した木の根をそのまま加工した作品だ。中央にある像は、足を広げ、大きな舌を出して苦しみの表情をしている。木の股《また》をうまく利用して人体に変化させていた。
木彫屋から三、四軒先にある比較的大きな建物は、倉庫のような外観をしていたが、小さな窓から子供の声が聞こえてきた。子供たちの声の合間に、大人の声もする。舞子は不意に幼稚園での体験を思い浮かべた。先生が黒板に平仮名を書き、園児は一斉にそれを読むのだ。
しかし学校にしては校門も運動場もない。
子供の声を耳にしながら道を辿《たど》ると、海辺に出た。
小さな教会が建てられていた。四角いステンドグラスの窓と十字架がなければ、漁具置き場と見間違うくらいの簡素な建物だ。
半壊した船が砂浜に引き上げられ、放置されていた。痩《や》せた老人が舟の影に椅子を置き、海を見つめている。
右側に弓なりになった浜があり、パラソルと椅子が並べられていた。椅子もパラソルも色分けされ、奥に並んだ十数軒の小屋に所属しているのだろう。
何か飲もうと思って近寄っていくと、手前の小屋から、黒人の少年が飛び出して来た。黄色いTシャツに黒い半ズボンをはいているが裸足《はだし》だ。
ダミアンだった。
「ボーア・タールヂ、ダミアン」
舞子が言うと、少年はニッと白い歯を見せた。手をとって、砂浜の方に案内し、黄色に塗られた椅子に坐らせる。
ダミアンが手真似で何か飲まないか訊《き》く。舞子はスィンと答え、ストローで飲む仕草をしてみせた。
ダミアンは頷《うなず》き、ヤシの葉葺きの小屋に駆け込む。
それぞれの小屋は同じ造りで、カウンターの向こうにコップを並べた棚があり、その下に流しが置かれているようだ。ダミアンがはいった小屋では、褐色の肌をした女性が立ち働いていた。
ダミアンはヤシの実を一個かかえて来て、テーブルに置く。表面が濡《ぬ》れていて冷たい。なたで切ったような穴が一ヵ所開けられ、太めのストローが突っ込まれていた。
「レイチ・デ・ココ」
「レイチ・デ・ココ」
ダミアンの口調を真似る。
渇いた喉《のど》を、かすかに甘味のあるその液体が潤す。
「サボローゾ?」
おいしいか? というようにダミアンが目を輝かす。「サボローゾ」と舞子も同じ言葉を繰り返す。ダミアンは安心したように頷いた。
浜から離れた所にある漁船に、男たちが乗り込んでいた。小舟で近寄って乗り移り、五人ばかり乗ったところで、錨《いかり》を手動で巻き上げ、エンジンをかけた。
「ペースカ」
遠ざかる船を指さして、ダミアンが言う。意味はどうにか見当がつく。
ヤシの汁は惜しみ惜しみ飲んだつもりだったが、すぐになくなった。
「クァント?」
舞子がウェストポーチの口を開けながら訊くと、ダミアンは首を振る。自分のおごりだとでも言いたげだ。舞子は逆に首を振り、二ヘアイス取り出してダミアンに押しつける。ダミアンは駄目だと拒絶し、その代わりこっちに来てみろと小屋の方に誘った。
女性は遠くから見たよりも年配で、三十歳を越したくらいだろうか。笑って、おいしかったかと訊いた。
英語が全く通じず、彼女がダミアンの母であるかどうかもはっきり判らない。物珍しげに小屋の中を眺めていると、壁にたてかけてある弓の形の楽器が目にとまる。いつか小ホールでロベリオたちが弾いていたものだ。
ダミアンが楽器を手に取り、演奏してみせる。
弦が一本しかないので、単調な音だ。おわんの形をした共鳴具を身体に当てたり離したりして、音色を変える。メロディーよりもリズムをとる楽器のようだ。
ダミアンは終始真剣な顔をくずさない。それに聴き入る店の女主人も真顔だ。
もうこれで全部だというように、ダミアンは最後の音を響かせて、楽器を身体から離した。
「オブリガーダ」
舞子は礼を言う。たったひとりの聴衆のために弾いてくれたのが嬉《うれ》しい。
ダミアンが女主人と言葉を交わすとき、〈マンィ〉という語を聞いたような気がした。
「この人はダミアンのお母さんか?」
英語で何度もマザーと発音するうちに、ダミアンは意味がとれたようだった。マザーマザーと何度か言って頷いた。
そう言えば、顔が似ていなくもないが、どちらかと言えば母親のほうが肌色は褐色に近い。ダミアンのほうはもっと黒い色だ。
他の小屋の店主たちも、珍しい客が来ているという顔つきで、こちらを眺めている。
舞子はダミアンの母にも代金をさし出したが、首を振って受けとらなかった。
ダミアンがついて来いと言う。どうやら以前地面に描いてみせた海亀を見せてくれるつもりらしかった。
勇んで砂の上を歩くダミアンに、横の店の黒人青年が声をかける。ダミアンは立ち止まり、エスコートするように遅れがちな舞子の方に手をさし伸ばした。
半壊した船をやりすごして浜の先まで行くと、白い灯台が姿を現す。病院の売店で見た絵葉書に写っていた灯台だ。
灯台の下が海亀の博物館になっていた。日本のように大がかりなものではない。小さな看板がかかり、平屋が三軒並んでいるだけの施設だ。入場料もいらなかった。
売店があり、プリント絵柄のTシャツやキイホルダー、布製帽子が並べられている。太った女性が二人、店の中でおしゃべりをしていた。ダミアンと舞子に気がつき、声をかける。
「マイコ」
おばさん二人を無視して、ダミアンが舞子の手を引っ張る。
屋根だけある建物の中に、三つの水槽が作られていた。その中の二つに海水が注ぎ込まれ、中に小さな亀が飼われていた。
手前の水槽にいるのは子亀で、中央の水槽には、うちわ大の亀が二十匹ほど泳いでいる。普通の石亀と違って、泳ぎがうまい。
空の水槽を掃除していた黒人にダミアンが話しかける。男は水槽から出て、セメント造りの建物の方へ歩いた。木の扉を鍵《かぎ》で開けて、中の明かりをつける。
外から見たよりは広い室内だ。陳列ケースが並び、中央に大きな水槽があった。
ダミアンが得意気に水槽を指さす。なるほど大きな海亀だ。直径一メートルくらいの甲羅をもつ海亀が二匹、水深の浅い所に身を横たえている。
ケースの中には剥製《はくせい》にされた海亀や、卵も展示されている。卵はいわゆる卵形ではなく、ピンポン玉そっくりだ。
壁のパネル写真は、産卵中の海亀の姿を大写しにしていた。明かりに照らし出されて、迷惑そうな表情のまま、目を見開いている。途中で逃げ出すわけにはいかないのだろう。観念した様子がうかがわれる。
ブラジルを中心にした地図があり、海亀の行動範囲が図示されていた。人工衛星の図も描かれている。おそらく発信装置をつけた海亀の動きを、人工衛星で追跡した成果なのだろう。南は南極近く、北はキューバの近く、東はアフリカ西海岸まで、赤い点が打たれていた。
ダミアンが、地図を眺めて舞子はどこから来たのか訊く。幸い地図の左隅に日本と韓国が描かれていた。
「ここ」
ひしゃげた形の日本列島を指で示したが、ダミアンは不可解な顔をする。舞子が日本人であるのは知っているのに、日本の正確な位置は分かっていないのだ。
「ジャパウン?」
「そう、ジャパウン」
舞子も口真似で答える。発音までもが耳慣れないため、自分の国という感じがしない。それでも、地図の端っこにある日本を指で何度も押した。
博物館から出ると、係の男が水槽に海水を入れ始めていた。
ダミアンとその男が何か話をしている。何か書く物を持っていないかと、ダミアンが手つきで訊く。ボールペンと手帳を出してやると、ダミアンは石の上に腰かけて、数字を書きつける。11と3だ。どうやら十一月三日のことらしい。数字の横に、小さく海亀の図を描く。お尻からは卵を産み出していた。
十一月三日が、海亀のやってくる日らしかった。おそらく満月か何かの夜だろう。ダミアンは、この日にこの砂浜に来るべきだと、その数字を〇で囲った。
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19
「舞子さん、お昼はぼくがおごりましょうか」
診察が終わったとき、コンピューターの画面から眼を離して、ツムラ医師が日本語で訊いた。
「ありがとうございます」
「少し待って下さい。回廊付近はどうでしょう。十分後に行きます」
「分かりました」
舞子は診察室を出る。
同じ日本人のよしみからか、初めミズ・キタゾノと呼んでいたツムラ医師も、診察が重なるにつれて、舞子さんと呼ぶようになっていた。
玄関近くの空いていたソファーにしばらく坐《すわ》り、腕時計を見て回廊に向かう。ツムラ医師とは大理石の像の前で鉢合せになった。
「ここはぼくの気に入りの場所です。病院の中に好きな場所なんてほとんどないですけど」
ツムラ医師はざっと彫像を見回す。「ほら、ちょっと見た目には美術館のようでしょう」
「わたしもここは好きです」
舞子が言うと、ツムラ医師は意外そうな顔をする。
「どれか気に入った像がありますか」
どこか値踏みするような口調だ。
「これです」
ためらわずに答えていた。
「ぼくと同じだ」
ツムラ医師が嬉しそうな声を上げる。「よくできています。本当に」
舞子ももう一度、像を眺める。
「繋《つな》がれて、顔を隠されているところに、妙に魅《ひ》かれます」
「隠すことで、見る人の想像力を刺激するのでしょうね。男性だったら、あのヴェールの下に、自分の理想とする美しい女性を思い描くでしょう。女性だったら解き放してやりたくなる。いずれにしても、すべてが観客の想像力にゆだねられています」
ツムラ医師はそう言って歩き出す。漠然と考えていたことが、ツムラ医師の説明で明確になったような気がした。
「それからもうひとつ、これは舞子さんには無関係かもしれませんが、あの像にぼくは陰の部分も見てしまうのです。二重映しになった陰を」
ツムラ医師は舞子を振り返る。舞子はどこに連れて行かれるのか不安なまま、石像の陰の部分とは何だろうかと首をかしげる。
「あの彫刻は白人奴隷を描いていましたね。本当は、黒人奴隷こそがその場には似つかわしいのです。サルヴァドールは、アフリカから連れてこられた黒人たちの上陸港だったのです。それこそ何十万、何百万人と運んで来たのではないでしょうか。そのひとりひとりに肉親との別れがあったのですから」
ツムラ医師の口調が湿っぽくなる。
「考えてもみませんでした」
「故郷から根こそぎ連れてこられ、親子兄弟離れ離れに売られていく。こんなに悲しい出来事はありませんよ。ブラジルの大地というのは、そんな悲しみが沁《し》み込んでいるのです──」
もしかしたらツムラ医師は黒人女性を愛したことがあるか、恋人が黒人なのかもしれないと舞子は思う。
奴隷の話を聞いたいま、あの大理石像も、もうこれまでと同じ視線では見られそうにもない。
「あ、もうすぐスコールが来ますよ」
ツムラ医師が海の方角を向く。青い空に雲はなく、陽光の下でスプリンクラーがゆっくり回転している。どこにスコールの兆候が読みとれるのか不思議だった。
芝生を渡ったあと、三メートルはある夾竹桃《きようちくとう》の植え込みの前に出た。さらに奥にはいると、三階建の建物が四棟、バラ園やハイビスカスの咲き乱れる中庭を挟んで並んでいた。舞子もまだ足を踏み入れたことのない場所で、乗馬の練習の際に遠目に見たときは、中規模のホテルだと勝手に思い込んでいたのだ。
ツムラ医師は建物の中央にある扉の前で、プレートの数字をいくつか押した。
「あまり大した料理はできませんが、いかにもブラジルらしいというのを作ります」
自動扉が開くと、舞子を先に促した。
「ここは医師宿舎ですか」
「そうです。それも独身用で、向こうのは既婚者用。ちゃんと食堂もあって、そこで食べることもできます。もちろん、自分の部屋で作っても構いません。ぼくは食堂の世話になるのは夕方のみです。舞子さんたちが食べるレストランはおいしいですか」
「わたしは大好きです。たいていの料理が口にあいます」
「それは良かった。あのレストランでの夕食一食分は、ブラジル人の平均賃金の一週間分に相当します。つまり、朝昼晩の食事を二日間食べて、一ヵ月の給料が丸々吹っ飛ぶ勘定です。おいしいのは、まあ当然でしょう」
階段をのぼりながらツムラ医師は言った。「そこへいくと、ぼくが作るのは一般のブラジル人が食べる料理。いいでしょう?」
「いいです。すみません」
なるほどそういう意味をこめて、ツムラ医師はわざわざここに連れてきたのかと舞子は思った。
三階にある居室は、単身用にしては広々としていた。ダイニングとリビングが一緒になり二十畳くらいの広さはあるだろうか。ベランダには金属製の椅子《いす》とテーブルが置いてあった。
「夜、ここに坐《すわ》って星を眺めるのが好きなんです。ピンガでも飲みながら」
確かに海の方の雲行きが怪しくなっている。ツムラ医師の予測が的中していた。
「それじゃ、ここに坐って待っていて下さい。すぐ用意します」
ツムラ医師は部屋の中にはいり、白衣を脱いで、首からエプロンをかぶった。
生温《なまぬる》い風が吹き始め、夾竹桃の枝が揺れ出す。目をこらすと、遠くにあるヤシの葉も一定方向になびいている。もう空の半分が灰色になり、陽がたちどころに翳《かげ》った。
雨は突如として降り出す。海の方から押し寄せてくるのでもなかった。パラパラと屋根や樹木にはじける雨音がしたあと、一挙に本降りになった。舞子は慌てて室内にはいった。
「もう少しで、できます」
エプロンをつけたツムラ医師が、オレンジジュースに氷を入れて持ってくる。レストランで出されるジュースもおいしいが、それよりももっと風味があった。日本の果汁百パーセントのジュースなど遠く及ばない味だ。
肉を炊《いた》める匂《にお》いが鼻をつく。
数分後、出来上がった料理がテーブルに置かれる。ライスのなかに野菜や肉が混じり、外観はどこか焼飯に似ている。
「どうぞ」
「いただきます」
舞子は手を合わせ、さっそくスプーンで料理を口に入れる。
味に油っこさはなく、牛肉がはいっているにもかかわらず、どこかさらりとしていた。
「おいしいです。何という料理ですか」
「コミーダ・アサーダ」
「先日、サルヴァドールの料理学校で、いろんな料理を見たのですが、これはなかったような気がします」
「そうでしょうね。これはツムラ家の料理ですから」
ツムラ医師は、してやったりという顔をする。
「日本語に訳すると?」
「ヤキメシ」
「なあーんだ。それなら知っています。でも日本の焼飯とはどこか違います」
「米も肉も油も違うからでしょうね。そもそもは祖父が作り始めて、父が香料も考えたらしいのです。気に入ってもらえて、安心しました」
ツムラ医師はほっとした顔をする。
「先生のおじいさんがブラジル移民なんですね」
舞子はツムラ医師が日系三世だったのを思い出す。
「そうです。一九一五年に祖父が渡ってきたのです。十四歳のときです。同じ村の人の養子になって、移民の募集に応募しました」
「どうして養子なのですか」
「家族に三人、働き手がないと移民が許可にならなかったのです。ブラジル政府にしてみれば、人手が欲しくて外国人を招き入れるのですからね。もっとも形だけの養子なので、こちらに定住したあと、何年かして養父母とは別れてひとり立ちしました」
「来た当初は大変だったのでしょうね」
移民について学校で習ったことなどない。周囲にもそんな家族はいなかった。
「それはもう」
舞子が食べ終わったのを見て、ツムラ医師は皿を取り下げ、冷蔵庫の中からガラスの器にはいったデザートを運んでくる。
ヨーグルトをからめたフルーツポンチで、冷たさがなんとも舌に快い。今し方作った様子はなかったので、朝から準備して冷蔵庫に入れておいたのだろう。そうすると、ツムラ医師が昼食に誘ったのは単なる思いつきではなさそうだ。
「イミンはキミンだと父が言っていたのを覚えています。棄《す》てられた民という意味です。狭い日本を出てブラジルの大地へ、というのは表向きのスローガンで、実際は日本では食っていけない次男坊や三男坊が移民になったのです。
祖父はサンパウロ近くのコーヒー農園で働いてお金をため、十年後それで土地を買って独立したのです。今度はコーヒーではなく野菜を作って、道端で売ったり行商したりしました。結婚したのは三十過ぎてからです。三男二女が生まれました」
ツムラ医師は三男二女のところで発音しにくそうに口ごもった。
「子だくさんなのですね」
「子供は宝でしたから。ぼくの父は次男坊で、中学校を出ると、日本人がやっているクリーニング屋に働きに出て、後に独立して弟と二人で店を大きくしていきました。父の姉は美容師の資格をとって、店を一軒もち、そこで妹を働かせ、学校にもやったのです。言うなれば子供たちが上から順に、下の子供たちの進学と就職を手助けしました」
ツムラ医師は淡々と言う。舞子には初めて聞く移民の生活だった。
「クリーニング屋と美容室は、今でも日系人がやっているところが多いですよ。資金も少なくてすむし、家族の人手があれば、やれるでしょう。そんなに汚い商売でもない。苦しい農業から抜け出すには一番でした。
でも、本当に大変だったのは、祖父が結婚して子供が出来た頃に起こった第二次世界大戦です。ブラジルはもちろん連合国側につきましたから、日系人は敵国人になったのです。日本語教育が禁止されたり商売を邪魔されたり大変だったようです。そのうえ、戦争が終わってからも、日系人たちは二つに分かれて争いました」
「日系人同士で争うのですか」
舞子には奇妙な話に聞こえた。
「大多数の日系人が日本敗戦のニュースを嘘《うそ》だとみなして、いずれ天皇の軍隊が自分たちを南米まで迎えに来ると信じたのです」
冗談だと思って舞子はツムラ医師の表情をうかがったが、真剣な眼に見返された。
「だって、新聞もラジオもあったのでしょう」
「もちろん。しかし、すべてをニセの情報だと思ってしまった。それも九割以上の日本人がです。それがいわゆる勝ち組です。祖父は反対の負け組でした。負け組は、ニュースの真実性を知らせるために小さな新聞を作って、日本人の間に流しました。これが、勝ち組の怒りを誘ったのです。負け組の運動をハイセン・カタルと呼びました。ハイセンは肺の上の方のことで、カタルは結核のことです。そんな語呂合《ごろあ》わせだけならよかったのかもしれませんが、勝ち組は腹いせに負け組のリーダーたちを襲ったのです。結局、リーダーのうち三人が殺されました。祖父も殺されかけたのですが、子供だった父が大声を出して抵抗したので、相手は逃げていったそうです。しかし祖父の親友はその犠牲になりました」
「争いはいつまで続いたのですか」
「戦争が終わった五年後ですよ。全く、人間の判断力というのは、先入観次第で恐ろしいほど狂うものです。そんなとき人数なんて問題ではありません。いやもしかすると、人数が多いほど間違った方向に流されていくのかもしれません。しかも、あれだけ敗戦の情報がはいっていながら、それを逆にニセの宣伝情報として、耳を貸そうとしなかったのですから。天皇の軍隊が負けるはずはないという先入観のもとでは、目も耳も用を足していなかったということです。あの頃、日本人は三十万か四十万か、いたはずですけどね」
ツムラ医師はハンカチを出して鼻髭《はなひげ》をぬぐう。「しかし今はもう、そんな昔のことを話題にする日系人も少なくなりました。体験者である一世は亡くなるし、三世も、学校で習うのはブラジルの歴史で、日系人の歴史ではないですからね」
「ツムラ先生のようなのは、むしろ珍しい?」
「まあ、そうでしょうね。大学教育を受けるほど、ブラジル人だという意識が強くなり、日系人意識は薄れます。かといってブラジル人と結婚するのは極めて稀《まれ》です。姿かたちは日本人のまま、中味はブラジル人になりきっていくのです。変でしょう?」
「先生はそう感じません。こうやって日本語で話せるからでしょうか」
舞子は首を捻《ひね》る。
「本当にブラジルの日系人というのは奇妙なんですよ。他の国の移民はまだ、二世代前の生活環境に留まっているのに、日系人だけは世代毎に職業を変えてきた。一世は農業、二世はクリーニング屋か商店、三世は建築士か弁護士。サンパウロ大学の医学部でも、二割以上が日系人です。だからブラジル人は冗談に、医学部にはいるには勉強するよりも、日本人ひとりを殺したほうが早いと言います」
ツムラ医師は初めて笑う。
窓の外のスコールがいくらか勢いをなくしていた。
「いつか舞子さんに、バーバラについて訊かれたことありますね」
雨脚の具合を調べ、こちらを向いたときツムラ医師が言った。
「はい。自殺した人のことでしょう」
さり気なく舞子は答える。
「ぼくも気になって調べたのです」
「死体をですか」
「いや、一件書類をです。書類といっても、すべて、コンピューターの中のデータですが」
舞子はツムラ医師が操作していたコンピューターの端末を思い出す。自分に関する情報のすべてが、その画面の中に入れられているのだ。
「データは全部消えていました。彼女のところだけ、そっくりです」
ツムラ医師の声がはっきり耳に届く。スコールが止み、雨音がすっかり消えていた。
「どうしてなのですか」
「分かりません。まるで、初めからバーバラ・ハースという女性が存在しなかったかのようにです。彼女はぼくがちゃんと診察し、検査のデータを入力したのですからね。半年にわたって」
「コンピューターの管理は?」
「それは病院の中央情報室でやっています。病院の端末はすべて、そこのコンピューターにつながれています。ぼくもそこに出向いて、どうなったのか訊きました」
「責任者にですか」
「もちろんです。考えられないエラーですからね」
ツムラ医師はそのときの怒りを思い出したように、声を荒らげた。「彼の話では、バーバラが亡くなった時点で、データを移動しようとしたのだそうです。その途中ですべてが紛失して、現在調査中だというのです」
「データのコピーはないのですか」
「それが、バックアップ態勢をとっていなかったの一点張りです」
「そんな──。嘘を言っているとしか思えません」
「いずれにせよ、結局データは消えたままですよ。ですから、ぼくが彼女について知っているのは、この手で診察した感触だけ」
ツムラ医師は純粋に医学的な表現をしたのに違いなかったが、舞子は急に恥ずかしさを覚える。自分の身体《からだ》も同じように、彼によって診察されているのだ。
「可哀相です。その人」
舞子は呟《つぶや》く。湿地の縁に倒れていた彼女の最後の姿が、目の底にはっきり浮かび上がる。コンピューターの中のデータだけでなく、彼女が最後に辿《たど》りついたその場所でさえも、今はショベルカーで消されてしまっていた。
「ぼくは誤ちを犯したかもしれません。検屍《けんし》か病理解剖をしておけばよかった」
ツムラ医師は言い、席を立つ。舞子にコーヒーはどうかと尋ね、ドリップ式の器具にセットし終えて戻ってきた。
「しかしもう取り返しがつきません。いったい何があったのか──」
ツムラ医師はじっと舞子の方を見つめた。
もしかしたら、と舞子は身を硬くする。ツムラ医師はこちらに鎌《かま》をかけているのではないか。こうやって昼食にさそったのも何か下心があってのことではなかったか。
「その人とは一度も会ったことはなくて、ユゲットから聞いただけですし」
舞子は当惑してみせた。
「ミズ・マゾーにも訊《き》いてみました。彼女はバーバラが自殺するはずはないと否定しました」
「死体の発見者は誰ですか?」
舞子は質問する。少なくとも、誰かがバーバラの死体を屋上まで運び上げ、下に落下させたのだ。その人物たちが、あの沼地まで車でやって来た連中と同じである可能性は高い。
ロベリオが馬で人を呼びに行ったあと、ワゴン車で来た男たちは三人だ。三人とも黒人で、その後病院内で顔を見かけたことはない。いや、こちらが気がつかないだけかもしれない。黒人の顔を見分けるのにはまだ慣れていない。
「ぼくが来てくれと電話で呼ばれ、駆けつけたとき、四人いました」
「何時頃でしょう?」
「五時過ぎでした。外来の診察が終わりかけたとき」
舞子たちがバーバラの死体を発見したのは四時半頃だろう。とすれば、彼らは収容した死体をすぐさま屋上に運び上げたのだ。
「その場にいたのは全員黒人でしたか」
「三人は黒人。もうひとりはハンスです」
「ハンス?」
「そう。ハンス・ヴァイガントが白衣姿で黒人と一緒に遺体の傍に立っていた。ぼくの顔を見て、ハンスはもう駄目だというように首を振ったのです」
「ヴァイガントというのは、寛順《カンスン》の主治医でしょう」
「ええ、金髪で青い目をしたドイツ系ブラジル人」
ツムラ医師はさらに記憶を呼び起こすように言葉を継ぐ。「ハンスは近くを通りかかったとき、ドスンと音がしたので来てみるとこの惨状だったと、ぼくに言った。そのせいで、ぼくも死体を調べることもないと思った」
後悔の念がツムラ医師の顔に浮かぶ。
「自殺でないとすれば?」
「殺された──」
押しつぶした声が返ってくる。「そうとしか考えられないでしょう。屋上から無理に突き落とされたか、その前に殺され、投げ落とされたか。いずれにしても、もっと死体を調べておくべきだった」
「殺されたとしたら、誰にですか」
声が次第に小さくなる。落ちつけ、舞子は自分に言いきかす。
「病院に自由に出入りできる人間でしょう。屋上に彼女をおびき出せる人間です。しかし、バーバラが一体何をしたというのだろう」
ツムラ医師はひとりごとのように言う。
舞子は返事に窮し、コーヒーを少し口に含んだ。甘みと苦味が気つけ薬のように舌を刺激する。
「ぼくにできるのは、もう一度その現場に行き、屋上と死体の落下点を調べることでしょう。検屍をしなかったつぐないです。ハンスにも会って、その時の状況を詳しく訊いてみる。居合わせた三人の黒人が誰だったか判ればなおいい」
ツムラ医師はようやく決心がついたように頷《うなず》く。
「いずれにしても舞子さんにはあまり関係のないことです。心配しないでいいです。せっかくお昼に誘ったのに、暗い話になってしまって、すみません」
ツムラ医師を疑う必要はないのかもしれない。舞子はすべてを打ち明けたくなる衝動を、内心で思いとどまる。
バーバラの死因に疑いをもち、動き出した人間が二人いる。クラウス・ハースとツムラ医師だ。二人とも危険な領域にはいっていく。
いや、彼ら二人が表立った行動をとればとるほど、立場が危くなるのはむしろ自分たちなのだ。
舞子は身震いを感じた。
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20
舞子は隣室の扉を叩《たた》いた。寛順と連絡をとるには電話をかければすむのだが、盗聴されているとも限らない。いやそれどころか、各部屋に隠しカメラが設置されている可能性だってある。
「誰?」
寛順が英語で訊いたので、舞子は小さく日本語で答える。ドアが薄目に開き、寛順はチェーンをはずした。
舞子が夕食に誘うと、寛順は頷き、ポーチを手にして出てきた。
「ずっと部屋にいたの?」
寛順が訊いた。
「ベッドにころがっていたら、いつの間にか眠っていたの」
「お昼も食べなかったのね」
「お昼は、ドクター・ツムラに招ばれたの。日系人の主治医。日本料理とブラジル料理をミックスしたような料理をごちそうになった」
「電話をかけても出ないから、ちょっと心配したわ」
「ごめんなさい、急な誘いだったから」
歩きながら話すのが一番安全のような気がする。夕食の時間にはまだ間があり、二人は海辺の方に足を向けた。
アーチェリー場で、男二人、女性ひとりが的に向かっていた。女性の矢は三本、標的に刺さっているが、男たちの矢は標的の周囲にだらしなく垂れ下がっている。
男たちがぐっと弓を引く。ひとりが放った矢は、勢い余って壁を越えて見えなくなる。別の男の矢は足元にぽとりと落ちた。指導員の青年が首を振り、矢の持ち方を教え直している。
「寛順の主治医はドイツ系ブラジル人だったわね」
「そう。ドクター・ヴァイガント。いかにもドイツ系という感じの美男子」
寛順は幾分皮肉っぽく答える。ああいうタイプの美男子は好みでないという気持が読みとれた。
「ドクター・ツムラがバーバラの死体の傍に駆けつけたとき、彼がもう来ていたらしい」
「どうして?」
「偶然現場近くを通りかかって、大きな音がしたので来てみると、女性が倒れていた。そんなふうにドクター・ツムラには説明したらしいわ。自殺に間違いないという態度だったので、ドクター・ツムラも病理解剖を要求しなかったって」
「何か変ね」
寛順は首をかしげる。
「それからもうひとつ。バーバラのデータはすべてコンピューターから消えているそうよ。ドクター・ツムラも驚いていた」
「ありそうなことね。舞子はドクター・ツムラに何か言った?」
「言わない。話を聞くだけにしておいた」
「いいわね。わたしたちは何も知らないことになっている。ただ、じっと観察するだけ。決して誰にも言ってはいけない。ユゲットにも主治医にもよ」
寛順が思いつめた表情で念をおす。
海辺の椅子には数組が寝そべっていた。本を読んでいる者、水着のままうつぶせになり、夕陽で日光浴をしている者、上体を起こしてじっと海を見つめているカップル。──いつもと変わらない静かな光景だ。
釣り人が二人、海に出ている。漁を終えたのか、丸木|筏《いかだ》の腰かけに跨《また》がり、櫂《かい》を漕《こ》ぎ始めた。
「バーバラは、誰か頼りになる人を探していたのよ」
寛順が低い声で言った。
「どうして分かったの」
舞子の問いには答えず、寛順は砂浜の方にゆっくり下り始める。舞子もあとに続いた。ヤシの木陰にいた警備員がじっとこちらに眼を向けている。
「いつかユゲットが言ったでしょう。バーバラが野外チェスをしていたと」
「ひとりでチェスの駒《こま》を動かしていたことね。覚えているわ」
「わたしもチェスをしてみたの」
「チェスできるの?」
「駒が何種類あるかも知らない」
寛順が笑いながら首を振る。「だから、誰も見ていないときに、ひとつずつ駒を動かした。意外と重かったわ」
寛順は後ろを振り返って、さり気なく警備員の様子をうかがう。
「チェスの駒は大理石でできていて、中は小さな空洞になっている。黒のキングの中に、紙片が隠されていた」
抑揚を欠く口調だった。舞子は立ち止まって、寛順の顔を見る。
「木切れを斜めにして押さえつけ、簡単には落ちないようにしていたのよ。多分書いたのはバーバラだと思う。署名はなかったけど、女文字の英語」
「誰かに宛《あ》てた手紙なの?」
「それが誰かは判らない。もしかしたら、不特定の人に宛てたのかもしれない」
寛順は文面の内容を口にしたくない様子だ。
「まるで遺書ね。その手紙、持っている?」
舞子の問いに、寛順は重々しくかぶりを振った。
「午後になって、また元の場所に戻したわ。黒のキングの位置も、前と同じ所。だから何ひとつ状況は変わっていない。もしバーバラが誰かに連絡をとっていたとしたら、きっとその本人が姿を現すはず。わたしたちはじっとそれを観察しておけばいい」
「手紙の内容はどこかに書き写しておいたのでしょう?」
「何回か読んで、頭に入れただけ。舞子、何にも証拠を残さないのが大切。これだけは忘れないように」
寛順は足元から小さな貝殻を拾い上げ、砂を払った。「バーバラがどうして殺されなければならなかったか、その手紙から見当はつくわ」
何気ない動作とは裏腹の深刻味が、その口ぶりから伝わってくる。「だから、その内容を知ったわたしも、考え方によってはバーバラと同じ立場に置かれたの。分かる? わたしの言いたいこと」
真剣な眼に見つめられ、舞子は深々と頷《うなず》く。
「行きましょう。ガードマンがこちらを見ているわ」
寛順がヤシの木を見やって話を切り上げる。
戻りながら、舞子は不安になる。寛順までがバーバラのあとを追う行為に走っていた。一体自分はどうすればいいのか。
手紙の内容を寛順から聞き出しておけば、二人で運命は分けあえる。いや、訊いても寛順は言ってくれないだろう。
それともチェスの駒から紙片をこっそり取り出してみるべきか。それも駄目だ。せっかくの寛順の心遣いが無駄になる。
海辺の長椅子にいた患者たちがほとんど姿を消していた。レストランの方に戻った。
入口にいたジョアナが奥を指さした。ユゲットは舞台から離れたテーブルにひとりで坐《すわ》っていた。舞子と寛順に気がつき、嬉《うれ》しそうに顎《あご》をしゃくる。
「今夜は何か有名な歌手が特別出演するそうなの。それでいつもより客が多いでしょう」
ユゲットが言った。道理で、舞台に近い席はすべて埋まっている。
食べ物を皿によそって席に戻ったとき、演奏が始まった。騒がしかった室内が静まり返る。いつもなら、楽器が鳴り始めても、テーブルの会話はそのまま続けられるのだが、どこか違う。
ボサノバ風の一曲が終わったとき、舞台の後ろから、黒っぽい薄衣をまとった女性が姿を現した。拍手がおこる。すぐに歌い出した声は澄んで深味があり、最初のフレーズから観客の耳を捕らえた。
三十代の半ばだろうか。白人で均整のとれた身体つきをしている。ゆるやかに上体を動かすだけで表情はあまり変えない。
「歌詞は少し理解できる」
ユゲットが言った。「恋人よ、わたしはあなたについていく。月の夜にあなたの足跡を追いながら。恋人よ、わたしはあなたについていく。風の日にあなたの歌声を聞きながら。大体そんな意味──」
なるほど、どこか繰り返しの多い曲だ。愛の唄《うた》だと分かれば、目を閉じ、歌声を耳にするだけで情景が浮かぶ。燃えつきるような華々しい愛ではない。静かだが、決して途切れないような、強靭《きようじん》な愛だ。
舞子は正面にいる寛順が涙を浮かべているのに気がつく。ユゲットもそれを見て、大丈夫かというように覗き込んだ。
「何でもないわ。歌声を聞いていて、妙に悲しくなってしまった」
寛順は笑いながら、涙をハンカチでぬぐう。レストランの客すべてが、私語をやめて聴き入っていた。中音のなめらかな声が観客の間を通り抜けていく。暗い海岸までも、その声は届いているかもしれない。ヤシの木の下に寝そべり、海上の星を眺めながら聴くのが、最もふさわしい曲なのかもしれなかった。
寛順の涙を見て、舞子はつい先刻、彼女が漏らしたチェスの駒の秘密を思い浮かべる。その手紙に書かれていた内容が、寛順の気持を揺さぶっていたのではないのか。歌はそこに最後の数滴を加えて激情を誘ったのだ。
「ハースは入院になったそうよ。明日、ホテルを引きあげて、病院の本館に入院してくる。さっきホテルのほうに電話したら、そう言っていた」
ユゲットが思い出したように口にする。
「部屋の電話を使ったの?」
舞子が訊《き》く。
「待合ロビーの公衆電話から。カンスンが注意して以来、もう部屋の電話は使わないことにしているの」
寛順はいくらか平静さを取り戻し、ユゲットの言葉を聞いている。
次の曲に移っていた。テンポの速い軽快な歌だ。ユゲットも数瞬歌詞を聞きとろうとしていたが、首を振って諦《あきら》める。
舞子は自分で勝手に想像する。サルヴァドールの石畳が舞台だ。おそらくはまだ陽が沈んでしまわない夕刻時だろう。男の子が手作りの楽器をもち出して演奏を始める。もちろん即興だ。そこへ別な男の子も加わって、歩道にあったバケツを叩き出す。時々合いの手を入れて叫ぶ。ブルンブルンと手製の楽器を鳴らしながら、最初の男の子が歌い出す。陽が落ちてしまわないうちに、一日の最後を歌って踊ろう。一日の悲しみと疲れは、すべて歌と踊りで洗い流してしまうのだ。そうすればまた新しい明日が生まれる──。
そのうち、近くに住む女の子たちも姿を現して、足でリズムを取り始める。足を交叉《こうさ》させ、腰を震わせ、腕も曲げて、即興の踊りになっていく。男の子二人の傍で、女の子三人が踊る。窓から眺める大人たち。誰もが見とれている。生まれたての歌と踊りに、街全体が拍手を送る。
「舞子」
寛順が低い声で呼びかけていた。夢から引き出されたように、舞子はまばたきをする。
「ステージ前のテーブルにいる男性、どこかで見かけなかった?」
寛順は顔だけで方向を示した。舞子は椅子《いす》をずらして舞台を見やる。
「男二人に女性ひとりのテーブル。白髪頭の小柄な男。横顔が見えるでしょう?」
四人がけのテーブルだが、坐っているのは三人で、舞台の側だけ、椅子ははずされていた。金髪の女性は肩を出した赤いローブを身につけている。その左側の大柄な男性も金髪で三十代半ばだろうか。寛順が注意を促した男は、確かに舞子も覚えていた。
最初に出会ったのはソウルの空港ではなかったか。ラウンジでトランジットを待っていたときに一緒だった。サンパウロで乗り換えたサルヴァドール行きのプロペラ機にも乗り込んできた。最後に別れたのはサルヴァドールに到着してからだ。寛順と舞子がロベリオの車を待つ間に、彼はタクシーでどこかに走り去った。
「ソウルからサルヴァドールまで一緒だった」
舞子は男から目を離さずに答える。一見学者風ではある。大学で古典か古代史でも教えているといっても通用しそうな風貌《ふうぼう》だ。同席しているカップルのほうは、金回りの良い若手実業家という身だしなみをしていて、彼とはどこか釣り合いがとれていない。テーブルの上の皿は既に片づけられ、ウィスキーとワインのグラスだけが置かれていた。三人とも歌に聞き入り、曲が終わったときに短い会話を交わした。
「やっぱりソウルからわざわざこの病院に入院しにきたのかしら」
「まさか。サルヴァドールに住んでいて、ここの病院の名声を頼って来院したのじゃないかしら」
寛順が答える。「それにしても偶然ね。むこうも変だと思っているかもしれない。さっき、ちらっとこちらを見ていたから」
「あの人なら、患者じゃないわ」
寛順と舞子のやりとりを聞いていたユゲットが言った。「たぶん、この病院の経営者のひとり。前にも病院で見かけたことがある。医師や看護婦とも顔見知りのようだし」
「ここのお偉いさんが、どうしてソウルまで行く用事があったのかしら」
舞子は首をかしげる。
「ソウルとは限らないわ。東京や大阪の可能性だってある。ソウルは単なるトランジットだともみなせるから」
寛順が言った。
歌が変わる。ほとんどの客が食事を終えて、レストランというよりライブハウスの雰囲気になっていた。
白髪の男は金髪のカップルとの会話をやめ、じっと歌に耳を傾けている。寂しげな曲だ。
「これも簡単な歌詞」
ユゲットが小さな声でいった。「波を眺めていると、私の胸も波になる。寄せては返し、あなたのことばかり思い出す。昼も夜も──」
確かに切ないメロディーだ。小さなリズムが寄り合わさって大きなリズムとなり、それがどこか波のうねりを連想させる。
本当に愛は波だ。いつも途切れることなく、胸に打ち寄せる。渚《なぎさ》が乾く暇もなく、次の思いが押し寄せて渚を潤していく。
ユゲットは歌詞を追いながら耳をそばだてている。寛順のほうは、何か考えるようにして舞台に眼をやっていた。
さらに二曲歌って舞台は終わった。アンコールはなく、客の半分は満足した様子で席を立った。白髪の男と金髪のカップルも立ち上がる。
「やっぱりこちらを見たわ」
ユゲットがさり気なく言う。「あなたたちのことを気にしているのは確かね」
再びレストランが静かになったところで、舞子たちはそこを出、カフェテラスに場所を移した。ヤシの木の下ではなく、一番端のテーブルが空いていた。カフェテラスの照明はそこまで届かない。テーブルに置かれているガラス瓶入りのロウソクが、小さな炎を揺らす。
注文をとりに来たウェイターに、寛順はカイピリーニャ、舞子とユゲットはグァラナを頼んだ。
暗さに慣れてくると、海の方角の陰影が目にはいるようになる。
「こんな夜だと、眠ってしまうのがもったいない。かといってテレビを見るのも、惜しい。好きなだけ星の下にいたい」
ユゲットが深呼吸をするようにして言う。「最初ここに来たときは、陽の輝く昼間のほうが好きだったの。陽に焼けるのも構わず、海辺を歩きまわったわ。でも、二ヵ月を過ぎる頃から、日没後の時間が好きになった。多分、あなたたちが来てくれたおかげもあるけど」
「わたしは初めから宵の口が好きだった。だってアルコールの時間が始まるでしょう」
早くもカイピリーニャのグラスを口にもっていきながら寛順が答える。「舞子は?」
「夜は恐い。ほら、お芝居を見ていて場面が終わって舞台が暗くなるでしょう。何か不安で、恐い気持になってしまう。舞台が明るくなると、ほっとする。それと同じ」
舞子は庭の奥にあるチェスの駒の並びに眼をやった。この距離からは、黒白の見分けがかろうじてつくだけで、どれが黒のキングかは判別できない。
「ユゲット」
寛順が訊いた。「コンピューターを自由に扱える部屋があると聞いたけど、どこにあるか知っている?」
「本館の二階にあるわ。五、六台並んでいて、誰でも使える。わたしなんか診察の帰りにちょっと立ち寄って、インターネットで出版情報を見る。パリにフナックという大きな本屋があるの。そこを呼び出せば、フランスでどんな新刊が出ているか分かるので便利。出版社によっては、中味まで宣伝している所もあって、わざわざ本を注文しなくてもいいくらい」
ユゲットの返事に寛順は何か思案するように頷いた。
「マイコも日本が恋しくなったらアクセスしてみるといい」
ユゲットが言った。
「日本にいるとき、ずっとコンピューターの画面ばかり眺めていたの。ここまで来て、また画面の前に坐《すわ》る気はしないわ。寛順は違うかもしれないわね。韓国のいろんなリゾート地を呼び出して楽しめる」
「以前はやったけどね」
寛順は目下の目的はそうではないとでも言いたげに、かぶりを振った。
「わたしがこの病院に来て感じたのは、失われたものが戻ったということ。それが具体的には何か分からなかったけど、カンスンがコンピューターの話をしたので、なるほどと思った。要するに、視覚以外の感覚が復活して、活力を取り戻したのよ」
ユゲットは二人の顔を交互に見る。「マイコと同じで、わたしも働きづめのときは目ばかり使っていた。耳や鼻や舌、触覚は眠っていたのも同然。いや眠っていたのではなくて、麻酔でもかけられたように眠らされていたの。ところが、ここに来て、耳や鼻、舌と皮膚が本来の力を発揮し出した。目はぼんやり開いているだけでよくなってしまった」
なるほど、舞子は自分が漠然ととらえていた感覚を見事に言い当てられた気になる。ユゲットは続けた。
「さっきの演奏がそうよ。どちらかと言えば、目は休んでいた。耳が歌声を聴き、皮膚で夕闇《ゆうやみ》の大気を感じ、鼻は潮の匂《にお》いを、そして舌はブラジル料理を大いに味わっていた。今だってそう、薄明かりの中で、目はほとんど半睡状態よ。働いているのは耳と鼻と、皮膚と舌──」
舞子は明生と並んで横たわった海辺を思い起こす。
あのとき、目は眩《まぶ》しくて開けていられなかった。肌の感触で明生の皮膚、陽の輝き、砂の温もり、そして海風を感じたのだ。耳には、潮騒《しおさい》にのって明生の声が優しく届いた。そして明生が上体をもたげて口づけをしてくれたとき、この嗅覚《きゆうかく》で明生の微かな体臭を感じ、舌は明生の舌とからまってひとつになったのだ。
その間、目は何を見ていたのだろう。何も見ていなかった。強いて言えば、単に残像だけを余韻として保っていただけだ。海と合流する河口、岬に点在する白い別荘、そして湾内の鏡のような海面が、目の底に焼きついていた。目はその残像を蝉の脱け殻のように置き捨てて、うたた寝をしていたに過ぎない。
コンピューターの画面の前だと、それとは全く反対のことが起こる。指先はキイボードに触れているが、あれは別に指先でなくてもいいのかもしれない。棒切れにだって務まる単純な作業だ。いや、画面の前に坐るのだって、人間でなくてもいいはずだ。目だけがあれば、もう充分用を足せる。
「こんな生活をしたあとだと、もうコンピューターの前には坐れないかもしれない」
舞子は正直な感想を述べる。
「わたしも、フランスに戻ったら、なるべくあんな化物とは無縁な所で働きたい」
半ば興醒《きようざ》めした調子でユゲットが同意する。
「別にわたしがコンピューターの禁断症状に陥ったというわけではないの」
寛順がやんわりと制する。「少しだけ、調べたいことがあるの。明日、行ってみるわ」
寛順はカイピリーニャのグラスを口にもっていく。
舞子は寛順が野外チェスの方を見やるかどうか、さり気なくうかがう。しかしその素振りはなかった。おいしそうにレモン入りのピンガを少しずつ口に運ぶだけだ。
「今日、わたしの主治医が面白いこと話してくれた」
寛順が舞子の顔を見る。「例の金髪の典型的なドイツ人」
「カンスンはそのドクターを好きでないわね」
ユゲットが横槍《よこやり》を入れる。「言い方で分かるわ」
「彼が変な質問をしたの。あなたはひと月のうちで性欲が特に激しくなるときがあるかと、訊いたの」
「いくら主治医だって、不躾《ぶしつけ》な質問だわ」
ユゲットが眉《まゆ》をひそめる。
「でも、医学的な質問だという顔をしているので、わにしも真面目に、性欲に変化を感じたことはないと答えたわ。そうするとまた身を乗り出してきて、例えば生理前とか、排卵日の前後でも変化はないのかと、また訊《き》くの。ありませんと答えた」
「本人は医学的な調査のつもりね」
「いや、案外医学調査のふりをして、下心は別にあるのかもしれない」
ユゲットが軽蔑《けいべつ》をこめて言う。
「すると彼、満足したように、やっぱりそうか、とボールペンを置いて向き直った。チンパンジーと人間は九十八パーセントの遺伝子が共通しているのに、性行動だけが際立って違っていると言うの」
「いよいよ失礼ね。わたしたちをチンパンジーと比べようっていうのね」
ユゲットが怒りながらも、寛順に先を促した。
「チンパンジーには発情期があって、お尻《しり》が赤くなるのに、人間にはそれがない。それが第一の違い。第二の違いは、チンパンジーが公然と性行動をするのに、人間の性行動はプライベートな場所でのみ行われる──」
「ま、それはそうだわね」
ユゲットが不満気に頷《うなず》く。舞子は自分が口を出せるような話ではないので、黙るしかない。
「特に発情期がなくて、いつでも密かに性行動ができるのはどうしてだろうか、と主治医がわたしに訊くの。冷やかしではなくて、真剣な顔でよ」
「何と答えたの?」
「答えようがないわ。すると彼はニヤリと笑って、二つの要因が考えられるはずだと言うの。ひとつはそれによって、男同士の争いが軽減される。チンパンジーだと、発情期のメスを巡ってオスが戦い、優位に立ったオスがそのメスを選ぶ。逆に人間では発情期が隠されているので、男性間の戦いはおこらず、連続的な性行動が組織のつながりをより密接にすることができる。むしろ、女性が男性を選ぶ結果になる。しかも一夫一妻制だから、それから先が女性の腕の見せどころらしい。性行動の本来の目的は、強い子孫を残すことだわね」
寛順から確認を求められて、舞子は慌てて頷く。
「単純に言えばね」
「ところが一夫一妻だと、単純に事は運ばない。強い子孫を残せそうな男性は、経済的に余裕がなかったりするでしょう。そのとき、いつも秘密の裡《うち》に性行動ができるという条件が威力を発揮する」
寛順は思わせぶりに一呼吸おいた。「もちろん、あくまでもドクター金髪の意見よ。通常の性行動は財力のあるパートナーと行い、強い子孫を残す本当の性行動は、パートナー以外と行う、というように使い分けができる。そうすると、強いパートナーの子供が財力のあるパートナーに育てられて、理想的な育児ができるでしょう」
「ふーん」
ユゲットが不満気な嘆息を漏らす。
「アメリカとイギリスで生まれてくる赤ん坊の五パーセントから三十パーセントが、婚外性交によるものらしいわ」
「そんなに多いの?」
舞子も驚く。
「ドクター金髪は面白いデータを披露してくれた。不妊症の女性が人工受精のドナーの選択をする場合、どの要素を重要視するかというと、健康、体力、知力、外観になるけど、普通に生活を共にするパートナーは性格の良さが第一にくるらしい」
「それは分かるわね」
ユゲットが半ば納得する。「でも変な研究」
「まあ、あの主治医に似つかわしい研究テーマのような気もする」
寛順は皮肉な表情を見せた。
「でもねカンスン、そのドクター金髪の理論でいけば、女性が排卵の前後で選ぶパートナーが本当にその遺伝子を子孫として残したい男、逆に一番妊娠しにくい生理中に選ぶ相手は、単なるお遊びか、生計をたてやすくするための便宜的な男ということになるわね」
ユゲットが意見を求めるように舞子と寛順の顔を見た。「だから、カンスンにいつ頃性欲が高まるか訊いたのじゃない?」
「わたしはそんなこと考えたこともない」
舞子は正直に首を振る。
「無意識の問題なんだと思うけど、本当にそんな女性がいるかなあ」
ユゲットも首をかしげた。
「あのドクター、性欲のパターンで、女性の性格も判るのだと言っていた。ユゲットの言ったことと関係するかもしれない。わたしは自分の性欲に大した変化はないと答えたけど、それが自覚できる人もいるって」
「わたしは、どちらかというと生理の直前かしら」
ユゲットが神妙な顔になる。
「その微妙なところも計算に入れると、排卵日前後に性欲が高くなる女性と、ユゲットのように生理と重なって性欲が増す女性、そして三番目は排卵日と生理日の両方に高くなる女性と三つの種類が考えられるわね。そんな目でみてみると、わたしなんか、どちらかというと三番目にあたるかなと思ったりもする」
寛順が言った。
「わたしは生理と生理の間だから、排卵日かもしれない」
舞子は明生との関係を思い浮かべながら答える。排卵日の付近で抱かれたときのほうが感じやすいとは、どことなく自覚していた。
「じゃ、わたしたちだけでその三つのパターンが揃《そろ》ったわけね。ドクター金髪が聞けば大喜びするわ」
ユゲットが笑う。「で、そのパターン分けによる性格判断というのは?」
「舞子のように排卵日の前後に性欲があがるのは、貞節で辛抱強く、どんなに貧乏しても子供を育てていくタイプ。だって、本能が求める男性と、意識的に好きな男性が一致しているでしょう。そこへいくとユゲットのように生理前に高くなるのは子育て向きではなくて、好みの男性に魅《ひ》かれる享楽派。悪く思わないでね。あくまでもドクター金髪の仮説から想定した結論だから」
「分かっている。それで、カンスンのように両方あるのは?」
ユゲットが苦笑しながら訊いた。
「物事を打算的に考えるタイプ。つまり世渡り上手というのかしら。自分では当たっているとは思わないけど」
「わたしだって当たっているとは思わない」
ユゲットも否定する。「どうせ、男性がやりそうな研究だと思うわ。手前勝手な解釈よ」
「じゃ、女性が避妊薬のピルを飲み出したら、その解釈も通用しなくなるわね。いつだって女性の側で妊娠を調節できるわけだから。それに、もう女性だって働いて生活をたてられるから、子育てにあたって、男性に頼らなくてもいいでしょう。そうなると、寛順の主治医の仮説も変わらざるをえなくなる」
舞子は言う。
「なるほど。彼が得意になってしゃべるのを一方的に聞かされるだけだったけど、舞子のような考え方もできるわね。今度会ったとき、反論してやるわ。彼は産婦人科医のくせに、女性をどこか実験動物とみなしているようなところがある」
「そんな主治医には理性で対抗するに限る、理屈には理屈よ」
ユゲットが腕時計をロウソクに近づけて時刻を見る。カフェテラスの客も半分くらいに減っていた。
席を立つ。
風が出ていた。どこか冷たさを含んだ重い風だ。夜のうちにスコールが来るのかもしれない。
滞在棟の階段の前でユゲットと別れた。
「舞子、さっきコンピューターのことを訊いたでしょう」
風から声を守るように寛順が耳元で言った。「それについてはバーバラが書いていたのよ。どうやって病院のコンピューターにアクセスすればいいかも。わたしが思うに、バーバラはコンピューターには相当詳しい人だったのじゃないかしら。叔父《おじ》によると、システムエンジニアだったと言うし」
「それで、寛順は自分で操作してみるつもり?」
舞子はまたしても胸の動悸《どうき》を感じる。
「やってみるわ。でも大丈夫。コンピューターというのは、姿を隠しながらどこまでもアクセスできるから。じゃ」
戸の前で寛順は小さく手を上げる。「おやすみ」
「おやすみ」
舞子は鍵《かぎ》を入れて扉を開ける。暗い部屋にはいるときはいつも中に誰かがはいっていそうな気がする。照明をつけ、部屋の隅々まで明るくして、トイレやタンスの中まで調べないと気持が落ち着かない。
バルコニーの明かりがついていた。部屋を出る時、そこだけ消し忘れていたのだろう。舞子はハンモックの横に立って外を眺める。星が見えないのは、雲が出始めている証拠だ。漁船も浮かばない海は、暗闇《くらやみ》の中に完全に消え去っている。庭の所々にある外灯の周囲だけがほの明るく、樹木と芝生の緑を浮かび上がらせていた。
部屋の戻りがけにプランターに眼をやった。ベゴニアの脇《わき》に植えていた食虫植物は、青々とした葉を広げている。湿地の縁に群生していたときよりも、ひと回り大きくなったような気もする。
三個垂れ下がった壺《つぼ》のひとつに、蜂に似た虫がひっかかっていた。壺の中に上半身を突っ込み、抜けられなくなって死んでいる。しゃがんでよく見ると、もう頭の一部が溶け出していた。
バルコニーの明かりを消し、網戸と鎧戸《よろいど》を閉める。風だけははいるように、一番内側のガラス戸は開けたままにしておいた。
睡気が襲ってきていた。ベッドにはいるなり眠りにつけそうだった。
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リカルド・ツムラは暗然とした気持で受話器を置いた。十三歳年上の長兄ロベルトからの電話で、サルヴァドールにいつまでいる気なのかと詰問された。言葉を濁していると、お前の医学部進学の助力をしたのは、サルヴァドールで働いてもらうためではなかったと兄は慨嘆した。
ロベルトの希望は、サンパウロの中心街に産婦人科の診療所を構えることだった。これから子供の数は増えるばかり、日系人医師の評判はいいので、日系人ばかりではなく白人たちも患者として来るはずだ。開業の資金くらいはいくらでも出すと、ロベルトは言った。建築資材の店を開き、従業員を二十人ほど雇って、外装や内装の仕事を手広くやっている彼らしい自信が、忠告には裏打ちされていた。
「もうしばらく、この病院で勉強しようと思っています」
「お前はまだあのことを気にしているのか」
兄が訊いた。
「気にしないでいられるはずはありません」
むっとしながら答えた。兄が相手だと、患者を前にしたときと違って、なぜか感情がむき出しになる。
「そうか。まだ俺《おれ》を恨んでいるのだな」
返事はしなかった。しばらく沈黙をやり過ごしたあとでロベルトが続けた。
「まあいい。しかし、サンパウロのど真中で開業するというのは俺だけでなく、ツムラ一族の悲願なんだ。そのために、俺たち親兄弟が力を合わせてお前を援助してきた。お前が戻ってくれば、みんながどんなに喜ぶか。すぐにとは言わん。頭の隅にでも俺の考えをしまっておいて、その気になったら帰って来い」
ロベルトは考えるように言葉を呑《の》みこんだ。「サルヴァドールというのは黒人が初めてブラジルに連れて来られた所だろう。言うなればアフリカ人の古里だ。日本人が初めて居ついたのはサンパウロだ。日系人の古里はサンパウロであることを忘れないように」
駄目押しをする感じで電話は切れた。
自分がサルヴァドールを州都とするバイーア州に来たことは、それまでさして自覚はしていなかった。あくまでもこのフォルテ・ビーチ病院の臨床研究の内容に魅かれたからで、サルヴァドールとは無関係だと思っていた。
しかしもしかしたら、ロベルトが言ったように、アフリカ黒人の古里であるサルヴァドールが、意識の底で手招きしたのかもしれない。
サルヴァドールの名は、死んだマリアから何度か聞いた。親類が何家族か、まだ市内に住み、自分も年に一回は行くのだと言っていた。
彼女がサルヴァドール行きを誘ったことはあったろうか。いやそれはなかった。マリア自身は、黒人文化が煮えたぎっているあの街を見せたくなかったとも考えられる。
彼女のことをまだ忘れられないのかと兄は訊《き》いた。忘れられるはずがない。空気のように、あるいは樹木の緑のように、いつも身体《からだ》と五感がその思い出をつかんで放さない。
マリアと知り合ったのは医学部にあったボランティアの会でだった。医師の卵や看護学生たちが集まって、孤児院や救済会、養老院などを訪問して診察するのが主な活動だったが、医療だけでなく、慰問団のような役目も果たした。診察が終わると、楽器の演奏をしたり、人形劇を演じたりした。会員にとっては、日頃は教えられる側だけの立場から、医療を施す側に立てるという喜びに加え、音楽も演劇も、あるいは詩の朗読さえできる魅力のある活動の場だったのだ。
教会の運営になる孤児院に行ったときのことだ。もう八十歳を越す尼僧の院長が、ツムラを日系の医学生だと知って話しかけて来た。昔は日本人の子供さんをよく預ったものです、と彼女は穏やかな表情で言った。日本人の移民にはそんなに孤児が多かったのですか、とツムラは訊いた。
「いいえ、家の中ではとても育ててはいけないような子供だったのです。父と娘の子供だったり、祖父と孫の間にできた赤ん坊だったり。そう、兄と妹の間に生まれた子供もいました」
尼僧院長の言葉に、ツムラはしばらく口もきけなかった。麻痺《まひ》した思考のなかで、日本の移民たちが置かれた惨状が、ある具体性をもって立ち現れた。外部との交流を断たれた閉鎖的な日本人社会。貧困、暴力、絶望などが、彼らをそうした近親|相姦《そうかん》の行為に駆りたてたのだろう。
「それらの子供たちはどうなりました」
やっとの思いで問い返していた。
「たいていは立派に育ちましたが、中には身体や知能に問題のある子が出て、早死にする子供もありました。ええ、もう戦争前のことですから」
尼僧院長はもう話は忘れなさいと言うように、ゆっくり首を振った。
その孤児院には、知的障害の子や身体の不自由な子供もいたが、みんなおしなべて明るい表情をしていた。車|椅子《いす》に乗った脳性マヒの男の子も、診察だというと喜んで衣服を脱ぎ、誇らしげに胸を突き出した。上肢の筋肉は意志の通りには動かないのだろうが、心音も呼吸音も異常ない。「はい、元気そのもの」と声をかけ、肩を叩《たた》いてやると、「ありがとう」と礼を言った。
その日、二時間の検診で、夜驚症の女の子と中耳炎の男の児が見つかった。診察のあと、十名のメンバーで指人形劇やマンドリンの演奏をした。自分が台本を書いた劇を披露するのも、舞台に立つのも初めてだった。人形に着せる衣裳《いしよう》は、女性だけでなく、男性たちも針と糸を持って縫い上げたものだ。
ブラジルにはコルデルと呼ばれる民衆本がある。八頁から十六頁程度の厚さしかない絵入りの小冊子で、韻律形式でさまざまな物語が綴《つづ》られる。恋愛話であったり、冒険|譚《たん》や宗教物だったりした。ツムラはそんな小冊子からヒントを得て、子供向けの小話《ピアーダ》を作った。
主人公は生まれつき足の悪い少年と、キリンと呼ばれた知恵遅れの背の高い青年にした。その二人が力を合わせ、キリンが足の不自由な少年を肩車にすると、向かうところ敵なしの活躍をするようになる。
二人は交代でガラス器具屋の店番をしているのだが、少年が店番をしているとき、すばしっこい泥棒がはいり込んで、店の物を持ち出す。少年が追いかけようとするが、足が不自由なのでとうとう逃げられてしまう。キリンが店番をしていると、別のずる賢い泥棒が来て、買物の合計をうまくごまかされてしまった。店の主人から叱《しか》られた二人は相談しあって、ひとりが店番をしているとき、もうひとりはカーテンの陰に隠れて休むことにした。
翌週キリン青年の店番のとき、計算をごまかした男が、髭《ひげ》とカツラで変装してやってきた。同じような手口でキリンを煙に巻き始めたのを、少年はカーテンの後ろで聞き、これが前の詐欺師だと感づいた。カーテン越しに、そっと青年に入れ知恵をして知らせ、計算も正確にしてやる。前回と違ってだまされないと知った詐欺師はレジの傍に来て、現金をわしづかみしようとする。それを青年と少年が協力して捕まえ、警察につき出すのだ。
次の日、足の不自由な少年が店番をしていると、客のいない時間を見計らって、髭の泥棒が忍び込む。少年が自由に歩けないのを知っているので、男は袋に高価な花瓶を詰め込み、逃げようとした。カーテンの陰に隠れていたキリン青年が少年を肩車にして追いかける。またたく間に泥棒に追いつき、これまた御用だ。
他愛のない筋書きだったが、最後のところで少年が青年の肩の上に乗ると、観客はどっと手を叩いた。二人して泥棒を追いかける場面も、子供たちが立ち上がって応援してくれた。
ツムラは少年の役で指人形を操ったが、青年の肩の上にひょいと乗る場面は何回も練習した。肩車で走るのも難しかった。すぐに追いついてもいけない。泥棒との距離が縮まるかと思えば、また広がる。子供たちが我を忘れて応援し始めたところで、ようやく追いすがるのだ。
詐欺師と泥棒には前科があった。警察署長は感謝状をくれ、店の主人も金一封をさし出したところで幕。大きな拍手が起こり、ツムラはほっと胸を撫《な》でおろした。
次の出し物が、マリアによる詩の朗読だった。リハーサルでは、マリアが舞台に出て、ここで十分間を経過と言うだけだったので、誰も詩の内容を知らなかった。ツムラもその時までは、彼女の詩など読んだことも聞いたこともなかった。
マリアは黒い衣裳をつけ、イヤリングとネックレス、ブレスレットだけが金色だった。薄暗くされた舞台には椅子がひとつ置かれ、マリアはそこに何も持たずに坐《すわ》った。
コルデルが口頭で演じられるのを見るのは初めての経験だった。もともとコルデルは、民衆詩人によって街角で詠じられた詩篇であることは知っていた。しかしツムラが接していたのはあくまで小冊子のほうだったのだ。
マリアは澄んだ静かな声で、この救済施設の周囲にある森の描写を始めた。
大きな木、小さな灌木《かんぼく》、そこに憩うさまざまな鳥。鳥は次々と池の端にやってきて、水を飲む。夜になってやっと鳴き出すフクロウもいる。
森を寝ぐらにした鳥たちがこの園にやってくるのは何故だろう。中庭のジャカランダの木にとまって、園児が遊ぶのを眺めたりする。なかには窓の外のバルコニーから、教室を覗《のぞ》き込む鳩もいる。かん高い声をあげて、屋根すれすれに飛び去る鳥もいる。何故だろう。
それは鳥たちの子供がこの園にたくさん集まっているからだ。鳥たちは自分の子供が元気でいるか、楽しく遊んでいるか、読み書き計算も勉強しているか、確かめるためにやってくるのだ。
そう、あの鳥たちは、みんなのお父さんお母さん、兄さん姉さん、妹や弟たちが、姿を変え、遠い所から飛んで来ているのだ。一日でもう帰ったり、一週間滞在したり、あるいは何ヵ月もあの森に留まっている鳥がいる。
でもみんな、園にいる子供たちを見に来ていることに変わりはない──。
マリアは脚韻を踏んだ詩句を次々と並べる。子供たちだけでなく、尼僧の先生たちや、職員、そしてツムラたち団員の気持を完全に掴《つか》んでいた。
マリアは森に住む鳥の名を二十種も列挙しただろうか。あるいは三十種だったかもしれない。ツムラが知らない鳥の名前ももちろんあって、そのひとつひとつの名が、森の豊かさ、生き生きとした鳥の生活を言い表わす効果をあげていた。
──ほらみんな、耳を澄ませてごらん。
マリアはそっと頭を傾ける。子供たちも思わず聞き耳を立てる。そこでマリアは再び鳥の名を呪文《じゆもん》のように唱え始める。まるで鳥の鳴く声がその名前に重なるように。
──みんなのお父さん鳥はどれかしら。お母さん鳥は?
──あれ、いま窓の外を飛んでいった鳥がいるわ。
マリアは立ち上がって窓の外を眺める。子供たちも、いまにも立ち上がりそうな気配だ。
──また夕方も、夜も、明日の朝も、鳥たちは、みんなの顔を見にくるはずよ。だからそのときは、元気にしているよと、手を小さく振ってあげるのよ。
マリアは子供たちの方に向き返り、手を振る。手を振りながら舞台の袖に消えた。
子供たちは大人たちの拍手で、ようやく我に返ったようだった。目を輝かせて手を叩く。車椅子の子も、一生懸命に左右の手のひらをぶつけている。マリア自身が鳥になっていた。
その詩が自作だと知ってツムラは二度驚かされた。
「半分はその場での即興なの。本当に紙の上に書いておくのは、三分の一くらいの長さしかない。舞台に上がって、その場の雰囲気で適当に継ぎ足していく。鳥の名前だけはしっかり暗記したけど」
マリアは笑いながら言った。「コルデルで大切なのは、一見くどいと思われる言葉でも、これでもかこれでもかというくらい並べたてることなの。それが一種の繰り返しのリズムになる。観客はリズムに酔うように、言葉の羅列に酔ってしまう」
なるほどと頷《うなず》くツムラに、マリアは再び鳥の名前を歌うように並べたてる。全部で二十八種あった。
ツムラがかつて読んだコルデルに義賊の物語があったが、その山賊の手下の名前が三頁にわたって書き連ねられていた。もちろんそれは本名に渾名《あだな》もつけ足したもので、ひとりひとりの特徴を表わしてはいた。読んでいるうちに、自分までが盗賊のひとりになった錯覚にかられた。
マリアのコルデル語りはその後も続けられた。老人ホームを訪れたときには、逆に昔話をしてやる。たいていはコーヒー農園で奴隷のように働いてきた高齢者ばかりだったから、マリアの口で歌われる農作業の辛《つら》さは心に沁《し》み入るようだった。このときマリアが単語を連ねたのは風の種類と雲の形だった。大風、烈風、雨風、そよ風、突風など、二十種あまりの風の種類を耳にしているうちに、コーヒー園での労働の苛酷《かこく》さが頭のなかに浮かんでくる。
雲は逆に浮雲、綿雲、鰯《いわし》雲、紫雲、飛行機雲というように、どちらかといえば農民の安息を表わしていた。仕事に疲れてひと休みするときに、顔を上げて空を眺める。雲がパンに見えたり、あるいはケーキの形になって浮かんでいる。
コーヒー農場の労働者にとって、雲は夢と同じだったに違いない。いつか農場を出て、自分の土地を持つか、街で小さな店を開くか、さまざまな形をした流れる雲に自分の夢を託したのだ。マリアの朗唱を聞きながら目に涙をためる老人がいたのは、その証拠だろう。
マリアは詩作だけでなく歌も上手だった。韻を踏んだ言葉を自在に連ねる能力と、リズム感は、もしかしたら根をひとつにするのではないかと思わせるほどだった。確かにそこには黒人の血が流れていた。
黒人のリズム感は民族の血だと思わされたのは、小学四年か五年のときだった。勉強ができなければ、小学一年生でも二年生にはなれない。三年たってもまだ小学一年に留まることもあるので、小学五年ともなると、十八歳か二十歳くらいの大人の顔をした同級生が、教室の後ろの席にずらりと並んでいた。昼休みになると、彼ら大人生徒が歌い出す。楽器なんてない。給食の食器とフォーク、木製の机、下敷、筆箱の蓋《ふた》を叩いたり、こすったりして音を出す。それが立派な音楽になり、歌の伴奏になった。
マリアにさらに親しみを覚えたのは、医学部卒業後、産婦人科を専攻するようになってからだ。しばらくしてマリアも小児科病棟勤務から産婦人科へ移って来た。てきぱきとした働きぶりはツムラの想像通りだった。
休日にはボランティアの会にも連れ立って顔を出していたので、一週間のうち会わない日はないくらいになっていた。二人っきりで会ったのは、翌年の暮のカーニバルの日だ。サンパウロから三百キロばかり離れた古い港町パラチに宿をとった。二人とも行ったことのない町だったが、ツムラが同僚から聞いていて、一度は行きたいと思っていた場所だ。宿はその友人を通して取ってもらった。マリアはツムラの誘いに顔を輝かせた。
「わたしも聞いたことがある。大潮《おおしお》の日には町中が水びたしになる町でしょう。月に一回そうやって町のゴミが海に洗い流されてきれいになる」
マリアの話は逆にツムラには初耳だった。「パラチというのは、確かその町の中を流れる川でとれる魚の名前ではなかったかしら」
細かいことまで知っているのは、さすがにマリアだと妙なところに感心もした。
サンパウロから四時間ほどのドライブは少しも苦にならなかった。中古のフォルクスワーゲンが途中で調子を崩さなかったのも幸いした。車を持たないマリアは、車窓から見える景色を大いに楽しんだ様子だった。
「詩人は何だって題材にできるから羨《うらや》ましいな」
ツムラはからかい半分に言った。赤土の上に一メートルの高さで突き出た蟻塚《ありづか》を、マリアが物珍しげに眺めていたからだ。円錐《えんすい》形をしたその形は、原っぱの中に置かれた野外彫刻のようにも見えた。
「蟻塚もそうだけど、わたしは他のことも考えていた」
「何を?」
「どうしてあなたが、わたしをこんなに楽しませてくれるのだろうかって」
「あなた呼ばわりはよくない。ドクター・ツムラというのもよくない。リカルドでいい」
「じゃリカルド」
マリアは白い歯を見せて首をすくめた。「リカルドといるだけで楽しいのはなぜかと考えていたの」
「詩人に喜んでもらえることだったら、何でもする」
「その詩人はやめて、よくないわ」
マリアはツムラの口調を真似た。「わたしはマリア」
自分の名を言ったが、彼女独特のアクセントがあって、マリーアという具合に聞こえた。
「マリアが喜ぶことだったら何でもしてあげたい」
答えながらツムラは、まだ自分の気持を打ち明けていないことに気がつく。その機会はきっと夜のうちに訪れる。そう思った。
途中、林の陰にあるカフェテリアで昼食をとった。湖がテラスの下に広がっていた。
「サンパウロ以外でのカーニバルなんて何年ぶりかしら」
マリアが考える顔つきになる。
「ぼくはサンパウロ以外は知らない」
実を言えば、カーニバルの時期にサンパウロを不在にする口実を、両親や兄たちに言わなければならなかったのだ。表向き、郊外の病院の当直に行くという理由をつけてごまかした。
「五年前、まだ看護学生だった頃、海岸の村で過ごしたことがあった。村の中でもカーニバルがあって、やっぱり踊ってしまった。村の祭も悪くないわ」
「村でも夜通し踊るのかい」
「もちろん明け方まで。でも年長者から少しずつ帰って行って、わたしたちが最後の組になっちゃった」
今夜はどんなカーニバルだろうかと、マリアは湖の方を見て深呼吸をした。
パラチの町に着いたのは三時過ぎだ。車は町の中心部にははいり込めないようになっていた。標識に従って車を進めると、川の傍の広場に出た。教会があり、その前庭に咲き誇るイペーの花が見事だった。
バッグを肩にして車を降り、土産物屋で道を訊《き》いてホテルまで歩いた。道は中央が凹《へこ》んだ石畳で、両側の建物のほとんどは一階建、中世ポルトガルの街並がそのままの形で保存されている。外壁も白漆喰《しろしつくい》で塗り直されていた。
予約したホテルは、かつては貴族の館だったらしく、プールのある中庭を囲んで、コの字形に回廊が巡らされていた。回廊の奥に大小の部屋があったが、クーラーはなく、備えつけの扇風機がひとつ、天井で大きな羽根をゆるやかに回しているだけだ。ホテルと名がついていたので冷房完備の部屋を想像していたツムラは、マリアに詫《わ》びた。
「この町にはぴったりよ。車を町中に入れないと聞いただけで、もう気に入ったの。ほらベニスがそうなんでしょう。島には車を持ち込めない」
どこか違う気がしたが、はしゃぐマリアには頷くしかなかった。
木製のベッドが二つ並び、その脇《わき》には古い木枠に入れられた鏡があり、箪笥《たんす》もみるからに年代物だった。
荷物を整理したあとで庭に出てみた。人の胴体以上に大きな木が何本もあり、庭の大部分が日陰になって涼しい。回廊に置かれているベンチに坐っていると、汗がひいていくのが分かる。
回廊にはさまざまな武器、農器具が無雑作に置かれていた。錆《さび》ついた槍《やり》、旧式の鉄砲、大鍋《おおなべ》、蒸溜酒《じようりゆうしゆ》を作る真鍮《しんちゆう》製の装置、石臼《いしうす》など、数世紀前の大農場の生活ぶりがしのばれた。
「リカルド、これを見て」
マリアが小さく手招きした。壁に鉄輪のようなものがはめられている。
「たぶんこれは奴隷を繋《つな》いでいたもの」
マリアはしゃがんで、床にころがっている丸い石にも手を触れる。「そしてこれは足枷《あしかせ》──」
なるほど、人間の頭大の石に鉄のくさびが打ち込まれ、そこに五十センチほどの長さの鉄鎖がついている。人の足を入れる輪までは残っていなかった。
「この足枷をはめられ、片手はこの壁に固定されたのかもしれない」
「なにかの刑罰だろうか」
窮屈な姿勢を思い描きながらツムラは呟《つぶや》く。
「罰ではなくて、農場から帰ってくると、ここに繋がれたのじゃないかしら。眠るのも、この不自由な恰好《かつこう》で腰をおろしたはず」
「家畜以下だね」
家畜だったら動ける余裕くらいはとってある。
「ここで眠るのだったら、雨の日は濡《ぬ》れるわね」
マリアは恨めし気に、屋根の上にのぞく空を見上げた。まるで自分が奴隷になったような目つきだ。
ブラジルで奴隷が解放になったのは一八八八年で、世界でも二番目に遅かったことは、誰もが学校で習った。まだそれから百年程度しか経っていないのだ。
「こんな道具を保存しておくのは、いいね。少なくとも当時の農夫たちの辛《つら》さが千分の一でも伝わってくる」
「思いやる心があれば──」
マリアはどこか泣き笑いの顔をした。
部屋に戻ってまずマリアがシャワーを浴びた。そのあとツムラもシャワー室にはいる。湯舟はなく、レンガで三方を囲んだ質素な造りだったが、湯はたっぷり出た。
白いレースのついたブラウスに着替えたマリアが鏡に向かっていた。金色のイヤリングとネックレスが光る。巻きスカートから出た褐色の脚は、陸上選手を思わせるように引き締まっている。
シャワーを浴びた身体《からだ》が熱く、ツムラは扇風機の前に立つ。首振りを停めようとしたがボタンが見つからなかった。
「その扇風機、首振りしかしないの」
鏡の中でツムラの動きを見て、マリアが言った。
「扇風機まで年代物だね」
ツムラは仕方なくシャツの前をはだけたまま、扇風機の動きに従って移動する。
「何だか変」
マリアが首をすくめて笑う。「まるでカーニバルの踊りのリハーサルね」
髪を上げ、薄化粧をしたマリアは、はっとするほど美しかった。
七時だったが、まだ外は充分に明るい。ホテルのフロントで簡単な街図をもらった。教会の位置と通りの名が記されている。小さな街なのに教会が二十近くあった。
「昔は、階級毎に教会が違っていたから」
マリアが言った。「昔ならリカルドとわたしは同じ教会に行けなかった」
「ぼくだって移民の子だよ」
「移民と奴隷は違うわ」
マリアが優しく否定する。
「まあね。たしかに、ぼくの祖父はあんな足枷はつけられずにすんだ」
「カーニバルは、そんな階級を全部なくして、みんなごちゃまぜにするために生まれたのよ、きっと」
カーニバルの起源は知らない。案外マリアの考えがあたっているような気がする。年に一度、暑い中でリズムに酔いしれているうちに、人と人とを隔てる人為的な垣根など忘れてしまうのだ。
町はまだ音を出していなかった。上演開始を待つ舞台のように静かだ。
通りには人の姿があった。土産物やレストランに出入りする様子に、残された時間に何もかも片づけてしまおうとする切迫感が感じられる。
色とりどりの布やレースを売る土産物店、帽子屋、ガラス器具店、革製のサンダルばかりを売る店、アイスクリーム屋。サンパウロよりはずっと小規模の店が並ぶ。建物の造りからすれば、昔はそこは馬小屋で、ひとつひとつの店が一頭分の厩《うまや》に相当しているようだ。
馬小屋通りを過ぎると、二つの通りがひとつになり道幅が広くなる。しかし中央がへこんだ石畳は同じだ。レストランが軒を並べていた。どの店も人がいっぱいで、出てきた客と入れ違いに店にはいり、やっと席がとれた。
「値段はやっぱりサンパウロ並み」
メニューを眺めてマリアが言った。
「立派な観光地だから。まあ食事にありつけるだけでも、ありがたい」
周りの客が食べている皿を見渡し、魚料理と貝料理を注文した。飲み物はマリアも当然というようにカイピリーニャを希望する。
「酔っぱらって、人混みではぐれたときが心配だわ」
マリアが茶目っ気たっぷりに言う。
「ホテルの名前は?」
「忘れちゃった」
「侯爵ホテル」
「あ、そうだった。場所は川の傍」
「はぐれたら、すぐにホテルに戻ること。ひとりで踊っていては駄目」
ツムラも笑いながら念をおす。「マリアがひとりで踊ると、すぐにひとりでなくなる」
「心配だったら、紐《ひも》で結びつけておくべきね」
「腕と腕をね」
「ついでに足と足も。周りの人もきっと喜ぶわ。下手な仮装より、よっぽどいい」
「踊るのが大変。練習が要る」
「じゃ今年は諦《あきら》めて、来年めざして一年間練習よ」
「いいね。そんな恋人同士ばかり百組集めてチームをつくれば、グランプリ間違いなし」
恋人という言葉に、ツムラは自分ながら驚く。
マリアは何も気づかなかったように、もうひと口カイピリーニャを飲んだ。
「リズムはやっぱりサンバ。あなたの右手とわたしの左手がひとつになった。あなたの右足とわたしの左足がひとつになった。サンバのリズムで踊るうち、あなたの心とわたしの心がひとつになった──」
マリアが小声で歌う。舞台で朗読する詩と同じで、即興だろう。
「離れたわたしの右手とあなたの左手。離れたあなたの左足とわたしの右足。互いを探しながら、ひとつになっていく」
「上手、上手」
ツムラはテーブルの上で小さく拍手をする。
給仕が運んできた料理は、心焦るカーニバルの夜にしては、コックも浮かれ気分にならず、本腰を入れていた。ニンニクを利かせたフェージョの味も悪くない。
店を出るまでに、カイピリーニャを二杯ずつ飲んでいた。
街のどこからかサンバのリズムが響いていた。方角は人の流れで判った。見物人だけでなく、地元の踊り手たちも衣裳《いしよう》をつけて、十人二十人と連れ立って歩く。残念そうなのは子供たちだ。見るだけで参加できないとあって、羨《うらや》ましげに大人たちの晴れ姿を見ている。
「サンパウロの下町では、マチネーといって子供たちだけのカーニバルをしたわ」
マリアが言う。
「ぼくたちの地域ではなかったな」
「わたしの住んでいた地区は黒人が九割を占めていたから。子供たちだけが踊るマチネーがあったの。十人くらいが一チーム、学校の体育館で思い思いに踊った。コスチュームも、母や姉たちに習って自分で縫った。口紅がつけられるのもカーニバルの日だけ。体育館の中だけでは面白くないので、上級生が先生たちに頼んで校門の外まで出してもらったときもある。そのまま踊りながら街中まで出て行きたかったわ」
「サンバは先生が教えるのかい?」
「ううん、教える人はどこにでもいる。親戚《しんせき》のおじさんだったり、近所のおばさんだったり、それぞれが秘伝の振りつけをもっているのよ。相手が子供だから喜んで教えてくれるわ」
そういう具合に小学生のときから踊っていれば、大人になったときはもう誰もがいっぱしのダンサーになっているのは道理だ。
「来たわ、先頭のチームよ」
マリアが叫んだ。
黄色の装束が、薄明かりの中で花が咲いたように映える。イペーの花の色と全く同じだ。女性はわずかに胸と腰を隠しているのみで、黄色の編上げのサンダル、髪を束ねる黄色いリボンが何とも美しい。黄色いTシャツとパンタロンをはいた男たちが楽器をかきならす。女性の腰が激しく揺れ、肩が震える。リオデジャネイロやサンパウロのような大都市のチームと違って、小人数なのが幸いしている。狭い路地に舞う黄色い蝶と言ってもよいくらいだ。
ツムラはマリアの肩を抱いて歩道の上に立つ。見物人たちもサンバのリズムに合わせてその場でステップを踏む。もう街中が音と一緒に伸縮を始めていた。
次のチームは赤と白の斜め縞《じま》を基調にしていた。男性のなかには、顔と胸、腕に赤と白の塗料で縞模様を描いている者もいる。上体をのけぞらせてトランペットを吹く。その横で、斜め縞の衣裳をつけた女性たちが踊る。黒人もいれば、白人もムラータも入り混じっての踊りの輪だ。
チームとチームの間には隙《すき》ができていて、歩道の上の観客は自分の気に入ったチームのあとについて歩く。
四つか五つのチームをやり過ごしたあとで、マリアは石畳の上に飛び出す。腰を揺すりながらツムラを誘った。
前方のチームは黄緑のコスチューム、後方のチームは鮮やかな橙色《だいだいいろ》を身にまとっている。さまざまな皮膚の色にひとつの色がアクセントをつけ、その後ろに雑多な服装をした見物人が続く。踊りの形はさまざまだ。音楽にしてもチーム毎に違ってはいるが、混じり合ってまた別の曲が生じている。街全体が複雑な音を出すひとつの楽器になっていた。
踊りには休みがなかった。ツムラもサンパウロでのカーニバルは毎年のように見に行った。三十分か一時間だけ踊りの輪に加わったことはある。しかし今度は違った。踊りの輪ではなく、渦だ。一度はいってしまえば、街が動きをやめてしまわない限り、渦からは出られそうにもない。
向かいあって踊るマリアの胸元には、もう汗の玉が光っている。チームの女性たちが煽情《せんじよう》的に身体を震わすのとは対照的に、マリアは軽くステップを踏み、上体を動かすだけだ。あくまで自分たちは付録だという謙虚さが出ている。
「チームの中でやるよりも、こうやって気楽に踊るほうがずっと楽。今夜はリカルドとわたしでひとつのチーム」
マリアが言った。二人でひとつのチームとは言い得て妙だ。音楽はどれに合わせてもいいのだ。前方を行くチームの激しいリズムに乗ってもいいし、後方のチームの打楽器を主体にした音に合わせてもいい。疲れたときは、街全体がかもしだす大きな音のうねりに、身体の動きを任せればすむ。
マリアの首筋や胸元で汗の玉が大きくなる。身体を震わすたびに、汗は黒褐色の肌の上を滑って落ちていく。まるでフロントグラスについた雨滴のようだ。マリアの激しい動きがワイパーと同じだ。
「こんなに踊り続けることなんて、今までなかった」
ツムラはマリアの黒い瞳《ひとみ》に向かって言う。目だけが、動かずにツムラをきっちりと視野に入れていた。
「まだまだ始まったばかり。カーニバルは、一年間使わずに眠っていた筋肉を喜ばす時なの。少しぐらい動かしただけでは喜んでくれないわ。動きがすべての筋肉に伝わるには時間がかかる」
「知らなかった」
「わたしたちが持っている骨格筋は四百個。日頃使っているのはそのうちの三割くらいよ。リカルドも解剖学で習ったはず。わたしたちが獣《けもの》であったときは、その筋肉全部を使っていたのに。カーニバルは、わたしたちが獣に還る日」
「だから喧嘩《けんか》も人殺しも起こるんだ」
「あれはまだ一部だけの筋肉しか使っていない証拠。だから他の筋肉が怒って爆発してしまったの。ほら無心で踊っていると、どこの筋肉が動きたがっているか分かるでしょう」
マリアは微笑する。身体はすばしこく動いているのに、微笑だけはスローモーションのようにゆったりとしている。
ツムラはマリアの前で首をかしげ、どの筋肉が動いていないか測るような仕草をする。
「リカルド、後ろを向いて」
マリアの指図に従って背中を見せる。マリアは動きながら、ツムラの背中に指を当てた。
「ほら、ここの筋肉が動きたがっている」
指摘されたのは斜腹筋だ。そう言えばマリアの踊りを見ていたとき、レースのブラウスの下で筋が細かに震えていた。褐色の滑らかな皮膚を通して、それが見えたのだ。しかしそんな脇腹《わきばら》の筋肉まで動かすには、どんな踊りをすればいいのか。
マリアに向き直ってツムラは訊《き》く。そのためにはまずこんな具合にすればいい、とマリアは笑う。ツムラも真似をする。左手を腰の後ろに回し、右手は頭の左で優しく動かす。あくまでもサンバのリズムに合わせてだ。そのあと、さっきと対称の姿勢をとる。右手を腰の後ろ、左手は頭の右。その間にもステップを踏み、腰を振る。
「どう?」
マリアの問いかけも、リズムになっていた。
「何だか、確かに斜腹筋が動いている気がする」
「そうそう。日頃していない動きをするためには、日頃していない姿勢をしなければいけない。何故って、運動は姿勢の連続的な変化だから」
「それはそう」
激しい動きのなかでも論理的に考えられるマリアの頭のほうが、ツムラには驚きだった。即興でコルデルの朗読ができるのと似たような能力なのだろう。
いつの間にか、海に面した広場に出ていた。小さな教会が正面に立っている。鐘楼も小ぢんまりとしていて、おそらく低い階級の住民が通った教会だろう。教会の正面が海を見据えているのは、自分たちの祖先が連れられて来た方角を確かめるためだ。
二千人ほどは集まっているだろうか。もう見ているだけの者はいない。観光客も住人に混じって踊っている。なかには、観光客だけでひとかたまりになっている一団もある。音楽は横にいるチームのものを拝借して踊る。音は無料だ。月明かりの下で、誰もが笑い、汗をかき、楽器をかなで、身体《からだ》をうち震わす。
「上手になったわ」
マリアが白い歯を見せる。「もうひとりでに身体が動くでしょう。今度は、その身体の言うことに自分を任せるといい」
音楽が響いているのはこの広場だけではなかった。町の方々に広場があって、どの地域の踊り手がどの広場に集結するのかは決められているのだろう。路地に居残って踊るチームももちろんあるはずだ。
すぐ傍で黄色い衣裳の男女が楽器を演奏し、踊っている。石畳の路上で見たときと、踊りの勢いは衰えるどころか、さらに激しくなっている。
ツムラもマリアと向かいあったまま踊る。頭を振り、腕を動かし、胸を震わせ、腰を揺すり、脚でステップを踏むのだ。これまで人並にサッカーをし、医学部対抗の陸上競技では四百メートルと八百メートルで優勝したこともある。瞬発力よりは持久力に自信があった。しかしこの踊りではその類《たぐい》の持久力はさして役に立たない。あれはあくまでも無音のなかでの動きであり、意志の力で筋肉を操るものだった。今は違う。動きの下敷になっているのはサンバであり、筋肉はそれに乗って動いているのだ。
マリアの表情を眺めていると、それがよく分かる。動く頭が、動く身体の上にのっかってはいるが、顔の表情はどこまでも穏やかだ。視線はツムラに注がれ、時折笑う。ツムラの息があがりかけると、腕をとり、少し動きを小さくしてくれる。動きながら休むことができるようだ。
マリアの汗びっしょりだったブラウスが、身体の温《ぬく》みで半乾きになっている。
踊りながら腰を抱くとき、彼女の小さな筋肉まで動いているのが感じられた。
喉《のど》の渇きを覚えた。どこかに飲み物を売っている店はないか、黄色い衣裳の男に訊く。すると男は片目をつぶり、踊りの輪の中央に置いてあった竹籠《たけかご》を開いた。楽器入れだとばかり思っていたが、中には飲料水のボトルがぎっしりつまっている。「あんたら二人は、俺《おれ》たちのチームに貢献している。特にあんたのフィアンセはスカウトしたいくらいだ」男はボトルを一本渡し、金を渡そうとするツムラを笑って制した。
ボトルからコーラを直接飲み、マリアにもさし出す。二人で全部飲み干す。男は空になったボトルを受け取ると竹籠の中に入れた。
「あの人たち、身体の中の水分を全部出し切ってしまうつもりだわ。いよいよ脱水状態になりかけたときに水分を補給するのよ。そうするとカーニバルを境にして、体液も全部入れ換わる」
「体液なんか、じっとしていても入れ換わる」
ツムラは反論する。
「それは医学的な知識。みんなは、そう思っていないの」
脱水状態は意識を下げるのにも役立つ。一種のトランス状態だ。いよいよフラフラになったところで水を補給する。その繰り返しで、踊り手たちはいつも恍惚《こうこつ》としていられる。
サンバのリズムは今が最高潮だ。演奏するほうも踊るほうもひとつになっている。リズムがひとりひとりの身体をつき抜けていく。どんなスポーツでもどんな音楽でも、これほどの運動量をもたないだろう。
腕時計を見る。零時半だ。踊りの輪がしぼむ気配はない。
「そろそろ帰ろうか」
マリアが言った。彼女のほうでも夜通し踊るつもりではないらしい。
「旅先で倒れたら大変」
「それも医師と看護婦がね」
黄色チームの男に合図をして列からはずれた。
町のいたるところに踊りの群があった。
「この分だと、みんな踊り明かすつもりだ」
ツムラは改めて感心する。
「ひと休みして、また出て来てもいいわ」
マリアが言った。
ホテルのフロントには中年女性が居眠りしながら坐《すわ》っていた。若い者は全員出払っているのに違いなかった。
部屋にはいってもまだ町中の音楽が聞こえる。
「リカルド、ありがとう」
マリアがじっと見上げる。思い切り抱き寄せて唇を合わせた。
抱きしめたマリアの肩は、踊りの最中のように息が弾んでいた。唇から首筋、胸元ヘ口を滑らせていくと、マリアは自分からブラウスを脱いだ。下着は簡単にとれて、マリアの乳房が露《あらわ》になる。
マリアの肌はかすかに塩の味がした。マリアの身体から噴き出た塩だと思うと、なおさらいとおしい。
「リカルド」
マリアがしがみつく。
マリアの乳房は、ベッドにあおむけになっても形を崩さず、ツムラはそこに唇を当てた。
「サンバが終わるまで、ずっとずっとこうやっていたい」
マリアが言う。彼女の腰、尻、そして脚を唇で確かめていく。踊ったあとの褐色の肌は光沢をもち、すぐ下に弾みのある筋肉が息づいていた。
「リカルド」
喘《あえ》ぐようにしてマリアが何度も声を上げる。
「カーニバルの続き」
ツムラがマリアの唇に口を重ねながら言う。マリアが頷《うなず》き、ツムラの胸にしがみつく。確かにまだサンバのリズムが耳に届いている。
「こんなカーニバル、初めてよ」
「マリア、カーニバルはすべての筋肉に動きの喜びを与えると言ったね」
「言ったわ」
「ぼくはカーニバルで、これまで使っていなかった感情が動いた。何だと思う?」
「何?」
「人を愛するということ」
「それが初めてなの?」
「これほど深くだよ。ぼくは誰を愛しているか?」
「誰?」
「マリアだよ」
「わたしもリカルドが好き。大好き。好きになってはいけないのだけど──」
マリアは問いかけるように目を見開く。「でも、好きなものは好き」
上体をもたげてツムラの胸板に顔を押し当てる。
「リカルド」
マリアがうわ言のように叫ぶ。
明け方までシーツにくるまって眠った。目を覚ましたのは、鎧戸《よろいど》から漏れてくる光のためではなく、サンバのリズムのためだ。音は今始まったような新鮮さで、細かいリズムを保っていた。
鎧戸は開かずに、リズムを耳にしながら再びマリアの身体を指で撫《な》でる。マリアはまだ目を閉じたままだ。
「サンバが聞こえる。リカルドが傍にいてくれる。光が射す。わたしはリカルドのもの」
マリアが途切れ途切れに言葉を口にする。まるで詩の朗読のようだ。
ツムラはマリアの乳首を間近に見る。固くサクランボのように鮮やかな色をしている。乳首を支える乳房も手のひらで愛撫《あいぶ》する。美しい形だ。
「この胸も、この手足も、この心も、みんなリカルドのもの。わたしはカーニバルの夜にリカルドのものになった」
マリアの黒い瞳《ひとみ》がツムラを見上げる。
「それは違う。ぼくのほうがマリアのものさ」
ツムラが言うと、マリアは目を開ける。
「本当に?」
問われてツムラが頷く。マリアは嬉《うれ》しそうにツムラの首筋に腕を回す。
自分の黄色い肌とマリアの褐色の裸が重なるとき、ツムラはサンパウロの動物園で目撃したヘビの交尾を思い浮かべた。黄色と黒のヘビが地面の上で、まるで縄を綯《な》ったようにからみ合い、身動きひとつしないのだ。係員が棒の先で持ち上げても、我関せずでひとつになったままだった。
マリアのしなやかな手と足がツムラの身体にからみつく。町のカーニバルの音はまだ続いていた。
三月になって、ツムラはマリアから妊娠したことを告げられた。
「カーニバルでできた子よ」
マリアは嬉しそうに言った。
ツムラが結婚の意志を兄たちに知らせたのは、その直後だ。相手が黒人女性だと知って兄のロベルトは、急に態度を変えた。
「絶対に許さない。ツムラ一族にそんな例はない。日本人の純血をずっと守り続けるのがツムラ家の方針だ」
説得で態度を改めるような兄ではなかった。マリアを引き合わせたところで、軟化は期待できない。ツムラは黙って引き下がった。兄たちとは絶縁覚悟でマリアと一緒になるしか、道は残されていなかった。兄たちが納得していない事実は、マリアの耳には入れなかった。
マリアが熱を出したのは三月の終わりだった。三十九度の熱が三日たっても下がらず、大学病院の内科に入院させた。ツムラの同級生が主治医になってくれた。妊娠三ヵ月であることもツムラの口から彼に告げた。真菌性の脳髄膜炎だと確定診断がついたのは入院の翌々日だ。
「抗真菌剤を大量に使うが、胎児への影響は無視できない。それだけは承知しておいてくれ。万が一の時は、胎児診断も可能だろうから、そのあとどうするかは君たちが決めることだ」
主治医が何を言いたいのかは分かった。奇形児かどうかは出産前に見分けがつくので、人工流産も可能である旨、それとなくにおわせたのだ。
しかし抗真菌剤の効き目が悪かった。熱は下がるどころか、四十度になるときもあり、マリアは何度もけいれんを起こした。抗けいれん剤が持続的に血管の中に投与された。
四十度前後の熱が一週間続いたとき、ほとんど連日の徹夜で治療してくれた主治医がツムラを呼んだ。
「まだ治験段階の抗真菌剤があるが、使わせてもらえないだろうか。彼女の家族に訊いたら、君にすべて判断をゆだねているというのだ」
マリアの母親と兄も田舎から出てきていたが、重態の彼女を目のあたりにしても取り乱す様子はなかった。あとで分かったことだが、母親はそれまでも子供を二人疫病で亡くしていた。身内の死は稀《まれ》な出来事ではなかったのだ。しかし、マリアの胎内に赤ん坊ができ、間もなく結婚するはずだったと白状したとき、母親は初めて涙を流した。
「あなたと一緒になれたなんて、あの子は幸福でした」
母親は言い、無口な兄も傍で頷いた。
主治医が試みた新薬も奏効せずに、昏睡《こんすい》状態をさらに一週間続けたあと、心停止がきた。午後四時頃で、ツムラがちょうどマリアの病室を訪れているときだった。蘇生《そせい》術を施す余裕さえなかった。同僚の看護婦たちが、泣きながらマリアの身体から器具をとりはずした。
力及ばなかったと、主治医が頭を垂れるのをツムラのほうが慰めた。真菌による脳炎は誰がやっても難物なのだ。むしろ二週間近く延命させてくれたのを功とすべきだろう。
マリアの母親と兄は病院の処置に何度も礼を言った。遺体はツムラが車を雇い、四百キロ離れたマリアの故郷まで一日がかりで運んだ。サトウキビで成り立っている村だった。ほとんどの村人が葬式に参列した。その村の女性で大学まで進んだのは、マリアが初めてだったのを知らされた。
「小さい頃から、年寄りの話を聞くのが好きな子でした」
と村の長老が言い、
「私の教え子のなかでも一番賢い子供でした」
と中年の校長が述懐した。
「あの子の夢は、この村に診療所をつくることでした」
片足を引きずる女性がツムラに耳打ちした。
「ドウトールを連れて来るのは無理だから、せめて自分が看護婦として常駐し、いざ重症のときはドウトールを呼ぶのだと言っていました」
マリアの名付け親だという彼女は、そうつけ加えた。
人の背丈ほどの深さに掘られた穴に、マリアの棺《ひつぎ》は沈められた。土をかけ、棺が見えなくなったとき、初めて涙が出た。もう生きているマリアを見られないのだと、自分に言いきかせた。マリアは記憶のなかにしか存在しないのだと、胸の内で唱えた。
これから先、マリアの記憶はどんな小さな断片さえも忘れてはならなかった。マリアの笑顔、白い歯、やわらかな声、白衣を着たときの清楚《せいそ》な姿、玉の汗を滴らせて踊る様子、コルデルを朗唱するときの真剣な横顔。全部の記憶がそのまま凍結されていれば、彼女は生きているのと同じだと思った。
翌々日から再び病院の中の生活が始まった。外来に出ても、病院にはいっても、ナーシングステーションに戻っても、マリアとの思い出が影のようにつきまとった。マリアの記憶は薄れるどころか、ほんの小さなきっかけで意識がたちのぼってきた。
同僚たちもそれとなく気づかいをしてくれた。ミスが出ても面と向かって責めずに、黙って埋め合わせをしていたようだ。
ボランティアのグループもしばらく続けていたが、マリアのいない活動にはどこか力がはいらなかった。舞台に立つたび、コルデルの自作自演をしていたマリアを思い出し、却って胸が締めつけられた。半年くらい通ったあと、正式に脱会した。
マリアの記憶は日毎に鮮明になっていく。忘れる心配はなかった。むしろマリアが生きていた頃には忘れてしまっていた記憶が、日々の生活のなかで唐突に立ち現れたりした。その意味では、マリアの思い出を身のまわりに貼《は》りつけて暮らしているようなものだった。
ただひとつマリアが生きているときと決定的に違うのは、新しい出来事が積み重ねられないことだった。過去のなかにマリアと生きた証《あかし》を掘り出すしか、手段は残されていないのだ。サンパウロにうまい寿司レストランが開店したと聞き、まだマリアに寿司を食べさせていないことに思い当たる。電話しようと思ったところで、マリアがいないのに気がつく。忘れはしない彼女の電話番号を押してはみたものの、使用されていない旨の音声が冷たく受話器に響いてきた。留守番電話とは異なる虚しい応答だった。六九一・三三四四──その電話番号は一生忘れないだろう。一九七六年一月二十二日という彼女の誕生日とともにだ。
二ヵ月ほどして兄のロベルトから連絡があった。こちらから長く音信を絶っていたので、気にしたのだろう。
「どうしている、顔を見せないが元気か」
兄から訊《き》かれて、さし障りのない返事をした。
「あれはどうなった」
兄は重ねて訊いた。
「マリアのことですか」
「ああ」
まだ決心がつかねば説教を垂れてやる、そんな無言の圧力が口調にこめられている。
「死にました」
「死んだ?」
電話のむこうで兄が絶句した。
「もう二ヵ月になります」
「何でまた」
「病気です。大学病院でも救えませんでした」
「それは大そうなことだ」
兄は何か口ごもる。「まあ、結婚したあとに死なれるよりは良かったかもしれん」
慰めるつもりで吐かれた言葉だったろうが、ツムラは怒りに唇をかんだ。
「結婚していれば、こんなことにはならなかったと思います」
自分の激情が鎮まるのを待って言った。本当にそんな気がした。一緒に暮らし始めていれば、環境も変わり、脳炎の病原菌に侵入されることもなかったのではないか。マリアは兄たちの反対に感づいていたのかもしれない。その失望が病原菌への抵抗力を弱めたとも考えられるのだ。
「まだそんなことを思っているのか。済んだことは忘れろ」
兄は言った。返事はしなかった。
「とにかく顔を出せ。分かったな」
兄は命令口調で言うと電話を切った。
その後も兄とは会う機会がなかった。
夏になって、教室で日本での研修の話がもち上がった。主任教授は日本語ができるツムラに白羽の矢をたてた。いい機会だと思い、両親にだけ挨拶《あいさつ》をしに行って、八月の末にブラジルを発った。
半年の日本滞在中、両親には絵葉書を出した。帰国したことも兄には知らせなかった。その年の盆も正月にも、当直を口実にして実家には帰らなかった。兄から何度か催促があったのも無視した。
サルヴァドール行きの話が持ち込まれたのは、次の年の春だ。主任教授から、フォルテ・ビーチ病院の理事長を紹介され、大学病院のカフェテラスで会った。
理事長はドイツ系ブラジル人で、長身で艶《つや》のある肌からは、七十歳という年齢は感じられなかった。
驚かされたのは、その病院の水準だった。扱っている患者数はいわずもがな、胎児診断や遺伝子治療、不妊治療、疫学調査まで、こと産婦人科に限っても、並の大学病院では足元にも及ばぬほどの能力をもっていた。
「患者はブラジルだけでなく、北米、ヨーロッパ各国、アジア諸国からもやって来ます。リゾートホテルと先端医療、高水準の研究を三位《さんみ》一体として融合させたのが、私たちの病院なのです」
理事長は胸を張った。医療スタッフはブラジル各地の大学から、それも若手の有望株ばかりをヘッドハントしてきたものだという。
提示された待遇も破格だった。年俸は大学病院の二倍とまではいかなくても、宿舎支給などの条件を考えれば、実質二倍強の報酬に相当した。
しかし待遇がそれほどでなかったとしても、やはり赴任は決めていただろう。サルヴァドールは黒人の故郷だった。アフリカから連れて来られた奴隷は、まずサルヴァドールでブラジルの土を踏んだ。マリアの祖先もそうだったはずだ。病院への赴任の話は、死んだマリアの手引きかもしれないと思った。
病院に赴任した日は、ちょうど開院記念日で、大がかりな祝賀会が開かれた。カーニバル風の踊りも披露された。
職員の八割が白人、一割がムラータ、残りの一割が黒人という割合で、東洋人はツムラひとりだった。そのためか破天荒な踊りはなく、舞踏会のような優美なカーニバルで、内心落胆した。
しかし、飲み疲れて浜辺に出たとき、その美しさに目を見張った。星月夜で、海も凪《な》いでいた。マリアが傍にいてくれればと切実に思った。
マリア。
ひとりでに叫んでいた。レストランから響いてくる楽器の音にもかかわらず、声は海の上を遠くまで渡っていくような気がした。
マリア。マリア。
腹の底から声をふり絞って呼んだ。何度も叫んで全身の力が抜け、へたり込む。四つん這《ば》いになって泣いた。葬式のとき以来の涙だった。
気がつくと波頭が顔を洗っていた。渚《なぎさ》でそのまま寝入っていたのだ。
レストランでは踊りがまだ続いていた。濡《ぬ》れた衣服を誰も訝《いぶか》らなかった。全裸に近い姿になって踊る女性もいたし、頭からシャンパンをかけて濡れねずみになっている男性もいた。
「あなたを見ていると、どこかやはり日本人を感じます」
大学病院までスカウトに来てくれた理事長が近づいて来て言った。
「理事長は日本人と会ったことがあるのですか」
ドイツ系ブラジル人であり、まさか日本に住んでいたはずはないと思って、ツムラは訊いた。
「会った。もう五十年以上も前にね。ベルリンでだった。日本人は優秀だった。ドクター・ツムラはその頃の日本人を思い起こさせる。あなたの祖父がブラジルに移住してきたのでしたね。当時の日本人の気質が、そのままタイムカプセルのように凝縮されて、引き継がれているのでしょうね」
理事長がドイツ生まれであり、思春期までをそこで過ごしたことを、初めて知らされていた。それにしても、戦前の日本人と似ていると言われたのは意外だった。
「ドクター・ツムラはこんなジョークは知っていますか。次回は、イタリア抜きでやりましょう。ドイツ人と日本人が会ったとき、必ず言うセリフですよ」
理事長が笑うのをポカンとして聞いていた。意味が分からぬでもなかったが、どこか時代錯誤のような気がした。
「それもずっと昔の話です。私はユーゲントのリーダーでした。総統から話しかけられたこともあります」
理事長は総統というところで心なしか顔を上気させた。
「総統というとヒトラーのことですか」
ツムラは確かめる。
「そう、ヒトラー総統。あの人は偉大だった。あれほどの人物は数世紀にひとりしか出ない。キリスト、アレキサンダー大王、ナポレオン、フリードリッヒ大王──」
ツムラは本気かという思いで、理事長の顔を凝視する。真顔だった。
「その総統の側近に日本人の少佐がいた。武術の達人でもあり、ドイツ語がうまく、いかにもサムライの風貌《ふうぼう》をしていた。ある会合の席上で、その少佐が刀を抜いて技を披露したのです。葦《あし》の束を五本立て、少佐はその中ほどに位置していました」
遠くを見る目つきで理事長は続ける。「少佐は両手を垂らしてじっとしていました。身体《からだ》が動いたと思った瞬間、刀が宙を舞い、数秒後には刀は鞘《さや》の中におさまり、彼は最初の姿勢に戻っていました。五本の葦の束が真二つになって床の上に落ちたのは、その直後です。ホールに集まっていた全員が感激しました。ユーゲントの代表は私を入れて三人いましたが、少年の目に、その技が深く焼きついたのです。ピストルの早撃ちでも、あんなにはいきません。ピストルは音がしますが、日本刀は音もなく葦を切ったのです。
そのあとも少佐の姿は何度か見かけました。敗戦の色が濃くなるにつれて、他のドイツ人将校の態度が浮き足立ってくるのが、私たち少年には良く分かったのです。しかしその日本人少佐は違っていました。初めから最後まで泰然としていました」
「少佐と言葉を交わしたことはあったのですか」
ツムラは理事長の話にひき込まれるのを覚えた。
「一度だけあります。一九四五年の三月でしたか。総統官邸の中庭で、総統の謁見があったとき、特別警護にその少佐がついていたのです。少佐が近づいてきたとき、私は小声で話しかけました。少佐殿の刀の技を見たことがございますと。すると彼は頷《うなず》き、こう言ったのです。ドイツの興亡は、あなた方若い人の力にかかっている。我々が亡んだあとも志を継げば、必ずやドイツは永遠に栄えると──」
「我々は亡ぶと言ったのですか、その日本人将校は?」
「言った。もちろん他のドイツ軍将校の耳には届かず、私と近くにいたユーゲントの友人二、三人が耳にしただけです。日本人少佐は敗戦をしっかり覚悟していたと思います。私たちユーゲントはそんなことになるとは考えていません。偉大なドイツが負けるはずはないと、将校たちから吹きこまれていました。それだけに、その日本人将校の覚悟には驚かされました」
「信じられましたか、すぐに」
ツムラは訊いていた。お互いにシャンパンのグラスを手にし、レストランから離れた芝生の上に立っていた。サンバの音楽は相変わらず響き、頭上には形の良い月が出ていた。
「あのサムライの口から出た言葉です。ユーゲントの他の友人はいざ知らず、私は信じました。かと言って落胆したわけではありません。お前たちがいる間はドイツは滅びない、その言葉は胸に残りました。総統の後ろ姿を眼の端で追いましたが、涙が出たのを覚えています。ヒトラー総統もこの日本人将校もいなくなるのだと思うと、悲しくなったのです」
理事長の顔が月の光に照らされて白く浮かび上がる。口元に刻まれた皺《しわ》や、たるんだ皮膚は紛れもなく七十歳の老人のものだったが、眼光には、はっとさせられる若々しさが宿っていた。彼の脳裏には、五十年以上も前の出来事が昨日のような鮮明さで保持されているのだろう。
「その日本人将校は、その後どうなったのですか」
地下の司令室で自殺したヒトラーの最期については、ツムラも知ってはいた。
「分かりません。たぶん、最後のベルリンの攻防で亡くなったか、ソ連軍につかまり、処刑されたかでしょう。ずっとあとになって、個人的に日本側の資料も調べましたが、生きている証拠は得られませんでした」
理事長は黙り込み、シャンパンをゆっくり口に含んだ。「とんだ昔話になってしまいました。いや、あなたの顔を見たら急に昔のことが思い出されて──。あれからもう半世紀以上もたってしまった。私もあと十年は生きようと思うが、これからの十年が最も重要な年月です。それにはドクター・ツムラ、あなたの力添えは絶対に不可欠なのです」
さし出された手をツムラは複雑な気持で握り返した。
あれから七ヵ月経っている。この病院の良さは充分に分かったつもりだ。まず優秀なスタッフ。それも功成り名遂げて過去の人となった大御所ではなく、これから花を咲かせるに違いない若手の人材がブラジル全土から集められていた。第二は、最新の医療機器が揃《そろ》えられていることだ。磁気共鳴装置や超音波機械はむろん、遺伝子診断や胎児診断に欠かせない高価なキットもふんだんに入手できた。
それら二つを支えているのが潤沢な財政だった。世界各地から訪れる富裕な患者たちは保険外の診療を喜んで受け、なかには救命あるいは子宝を授けられたお礼にと、多額の寄附をして退院する者もいた。
もうひとつツムラが感心したのは、金に糸目をつけない自由診療のかたわら、貧しい地元民相手の診療所も併設している点だった。そこでは治療費はとらず、近辺の住民なら誰でも受診できた。評判を聞きつけ、地元民になりすまして治療を受けに来る患者もなかにはいるとの話さえあるくらいだ。
そしてリゾート地とも見間違うレストランや病棟の配置、滞在患者のためのレジャーやスポーツ施設、日々の催しなども、未来の医療はかくあるべしの青写真を既に実現していた。
赴任して良かったと、思い始めていた矢先の出来事だった。バーバラ・ハースの死は、そのまま見逃せば誰も疑問を抱かずに人々の記憶から消えていくに違いない。特に彼女の主治医だった自分が沈黙していれば、彼女の死は病院内にありふれている他の多くの死のなかに、ひっそりとおさまるものだった。
バルコニーから星空が眺められる。静かな夜だ。乾いた風が快い。
バーバラ・ハースの受診目的は、冷凍精子による膣内《ちつない》受精だった。心理学者のライヒェル博士によって得られた病歴が、産科の主治医であるツムラに渡されていた。精子は交通事故で急死した彼女の夫のものであり、生前に万が一に備えて採取していたのが、死後の受精を可能にしていた。事故および亡き夫に関する話題は一切回避するようにと、ライヒェル女史のコメントが付記されていた。心理的な傷口に触れないことが最良の精神的なケアなのだとツムラは納得した。
膣内受精そのものは性交と本質的な差はない。ただ正確な排卵日を知り、それに合わせて適確な子宮内の位置に適量の精液を注入してやらねばならない。しかもその前に、膣や子宮内の環境要因も整えておかなければならない。異常な環境では、せっかく精液を注入しても受精は起こらず、たとえ受精しても着床までには至らないのだ。
体外での受精は、そういう通常の手技が失敗したときの最終手段として考慮されていた。
バーバラ・ハースは何の障害もなく、初回の注入で妊娠した。その後の経過も順調そのもので、週に一回体調の変化をチェックすれば済んだ。
ライヒェル女史のほうのカウンセリングはほとんど一日おきに続けられているようだった。それは受精前からのもので、通常の妊娠と異なるハンディキャップをカウンセリングで補うのだとツムラは説明を受けていた。
妊娠したと知ってバーバラは喜んだ。その姿にはこれから先、女手ひとつで子供を育てていく労苦よりも、赤ん坊を得ることができた当面の喜びのほうが優って見えていた。ツムラは無理はないと思った。もし自分が女性であり、仮に死んだマリアが男性だとしたとき、その子供を妊娠できるのであれば、どんな苦労にも耐えてその子を育てていくに違いなかったからだ。
バーバラ・ハースのあとにフランスから来たユゲット・マゾーの主治医になり、彼女にも同様のやり方で成功裡《せいこうり》に受精を導くことができた。そして三人目の症例がマイコ・キタゾノだった。
日本人女性は日本留学中に知る機会があった。彼女たちは、日系のブラジル人女性とは姿形は全く同じでも、中身は百八十度対照的だった。言葉はもちろん、知識や自己主張、立ち振る舞いが違う。ひと口に言えば、本物の日本人女性は世の中を知らず、狭い世界で生きていて、自己主張をしなかった。自分の個性を打ち出すよりも、周囲の色にどうすれば程良く染まるかだけを考えているように見えた。ツムラにはそれが物足りなかった。
その点、舞子はどこか違っていた。あくまでも控え目ではあるが、自分の意志をもち、必要なときには自分の主張を口にした。
バーバラの死について質問をしてきたときもそうだ。
本当に簡単に自殺だと片づけていいのですか、と舞子は挑むような視線をこちらに向けた。
バーバラがある時期悩んでいたのは確かだ。妊娠四ヵ月の超音波診断で、胎児に形態異常があるのが判明した。上肢が通常よりも短いのだ。悩んだ末、彼女に正直に告げた。奇形には知的障害も合併しやすい。それも話した。主治医として申し訳ない気持でいっばいだった。手技がまずかったわけではなく、あくまで偶然の産物だが、こんなとき矢面に立たされるのは主治医なのだ。
しかし彼女は自分を責めなかった。それどころか、しばらくすると、悩みを克服したように、このまま妊娠を継続しますと言い放ったのだ。毅然《きぜん》とした態度に頭が下がった。最愛の男性の子供であれば、どんな障害児でもいとおしむ気持に心うたれた。
そんな彼女が自ら死を選ぶとはやはり考えにくい。彼女の死をこのまま見過ごせば一生悔いが残る。彼女が何故死んだのかつきとめるのも主治医の責務なのだ。
どうすれば真相が明らかになるのか。
死体のあった現場をもう一度検証し、あのとき傍にいた人間にひとりずつ確かめてみるべきだろう。
ツムラはそこまで考えると、バルコニーの手摺《てすり》の傍に寄り、暗がりの奥に黒いシルエットだけをさらしている六階建の本館を眺めやった。
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寛順《カンスン》は静かにドアを閉め、鍵《かぎ》をかけた。隣室の舞子はもう寝入っている頃だろう。十一時を少しまわっていた。風がなく、まだ昼間の熱気が室内に残っている。蝉《せみ》の声が遠くでする。日中よりは間のびした鳴き方だ。
廊下の照明はついており、遠くからでもこちらの動きは分かるはずだ。黒のブラウスに黒のスパッツを身につけていた。暗がりで目立たなくするためだが、深夜に歩き回っても怪しまれる服装ではないつもりだ。
ポーチの中には、小型の懐中電灯と筆記用具だけしか入れていない。カメラは断念した。フラッシュはどうせ使えない。ある程度様子が分かれば、改めて現場に行くこともできる。最初からすべてを手にしようとするのは危険だ。
階下に降りたとき、中庭のヤシの木の下に人影が立っているのに気がつく。寛順は階段の手摺に手をかけたまま、目をこらした。
「東振《トンジン》」
小さな声が口から漏れた。そのまま中庭の芝生を踏んで近づく。確かに東振だ。笑いかけ、白い歯が唇の間からこぼれた。
「出てくる頃だと思って、ずっと待っていた」
東振は低い声で言った。
「わたしが出て来なかったら、どうするつもりだったの?」
寛順はまだ胸の高まりを感じる。
「その時は朝まで待つさ。待つことには慣れている」
東振は優しく寛順の手をとった。庭園と海辺を仕切る生垣の方へ早足で歩く。もう敷地内は隈《くま》なく知り尽くしているような足取りだ。
背をかがめて生垣の隙間《すきま》を通り抜けると、目の前に砂浜が広がった。いつの間にか蝉の声が波音に変わっていた。
生垣が死角になって、病院の建物は見えない。渚《なぎさ》の向こうに海があり、左右に続く砂浜は数百メートル先で闇《やみ》に溶け込んでいる。二人だけの場所だった。
「寛順、会いたかった」
東振は寛順を抱き締める。頑丈な両腕の中に抱きすくめられると、他に何もいらなくなる。その瞬間、自分が確かに生きている感覚に包まれる。
「裸になってくれ」
もどかしげに東振が言う。寛順はブラウスに手をかける。一枚一枚服をはぎとっていく時間も、寛順は好きだった。余分な感情を浄化していき、全部を脱ぎ捨てたとき、東振が好きだという思いだけになる。
乳房が星明かりの下で露《あらわ》になる。肌に触れる大気の冷ややかさが心地良い。
衣服の上に全裸で横たわった。見えていた星が東振の身体《からだ》で見えなくなる。
「東振、会えて嬉《うれ》しい」
寛順は目を開け、東振の頭をしっかりと両手でつかむ。東振の熱い息が下降していく。
東振の舌がその場所をとらえていた。身をのけぞらせる。もう目を開けていることができない。閉じた目にしかし、星の明かりはいつまでも残っている気がした。
「東振が欲しい」
やっとそれだけを言う。脚がひとりでに開く。まるで大きな波をそこに受けとめるように。
波は東振そのものといってもよかった。波が高まるにつれて、身体の感覚が麻痺《まひ》してくる。寛順は声を上げ、東振の波に乗る。
東振がおもむろに身をひく。寛順の顔を見つめ、好きだよと言う。
また身体がゆっくり揺れる。波の動きだった。
うねりが来るたび寛順の口から小さな声が漏れる。身体全体が東振の動きに同調していた。二人の身体が離れ、身体が二つに折り曲げられたとき、寛順は自分の位置さえ分からなくなっている。
自分はひとつの球形だった。東振に愛撫《あいぶ》されるゴムマリだ。丸くへこみ、また膨らむ。弾力には限度がない。東振の形と動きに合わせて、寛順の球体は自在な形をとる。
これまでも、東振と会うたびに、自分は球形になっていた。最初は故郷の村での城壁の傍だった。九月の日暮れ時で、石はまだ昼間の温《ぬく》もりを残していた。藁《わら》屋根はもう古びて、所々隙間ができていたが、たとえ城壁の上を人が通っても、姿は隠してくれる。東振は陽焼けした身体を寛順に密着させ、そのままひとつになった。寛順は自分が球形になっていくのを感じた。手足の凹凸がなくなり、胴体が膨らみ、どこまでも弾みはじめる。ゴムマリだった。
ゴムマリになった場所を、寛順はひとつひとつ記憶している。稲刈り前の田んぼは乾いた匂《にお》いがし、裸で横たわると、黄色い稲が壁になり、真青な空だけしか、もう二人を眺めているものはなかった。一日中でもその空の下で過ごせそうだった。日が翳《かげ》ってきたとき、服を着て立ち上がった。山陰に沈みかけた夕陽が、穂波を一面|橙色《だいだいいろ》に染め上げ、東振の顔も柿色に輝いた。
東振の魚捕りについて行ったときも、両側は竹藪《たけやぶ》で、頭上に青い空がのぞいていた。川上にも川下にも人の姿は見えず、川の水だけが音をたてて流れている。竹の間から漏れた光が流れの表面でキラキラ光る。砂洲《さす》の四分の一ほどが日なたになっていた。その乾いた場所に衣服を脱ぎ捨てて横たわった。自分が人魚になった気がした。きれいだよ、東振が言った。笹の間から漏れる光がプリズムを通ったように輝いて、水面も砂も斑《まだら》になった。二人の身体にも、同じような光の斑ができた。
青い線が水面すれすれ、顔の傍を走り抜ける。カワセミだと東振が言った。
「わたしたちを見に来たのかしら」
二人の裸が、カワセミの目にはどう映ったのだろうか。
「必ず戻って来る」
東振が確信あり気に答える。本当かなと思いながら水音を聞いていた。
「ほら戻ってきた」
耳元で東振の声がする。カワセミの通り過ぎた残像だけを見たような気がした。
ひなげしの咲く野原でも球形になった。山裾《やますそ》の斜面には梨畑が広がり、東振について剪定《せんてい》に行った帰りだった。中腹の公園に小学生の一団が遠足に来ていた。子供たちの声が届く。
地面から見上げるひなげしは大きな植物のようだった。青空に向けて茎を伸ばし、葉を広げ、橙色と赤の花を誇らしげにさし出している。一面花だらけというのに、花の匂いはしない。快い風に、汗ばんでいた身体はすぐにさらさらになった。
「働いたあと、寛順を抱くのが一番いい」
東振が囁《ささや》く。
「仕事の途中でもよかったわ」
東振がいれば、いつどこででも球形になれる気がした。
ひばりの声がした。衣服をつけながら、空を見上げる。陽光が眩《まぶ》しいだけで、どこにも鳥の姿は見えない。
「あそこだよ」
東振が指さす方向をしばらく見つめていると、青い空のなかに黒い一点が見えた。ほんのゴマの実みたいな点だ。
「あそこからだと、わたしたちの身体は見えなかったはず」
「いや、ひばりの目は人間の目とは違う。どんなに高く上がっても、自分の巣のありかは知っているからね。さっきのも見られた」
東振は笑う。「だから鳴いたんだよ」
「どう言って?」
「巣が近くにあるので、長居はするなって」
「じゃ、しばらく居てやろうかな。意地悪してやる」
寛順も笑った。
波の音がする。山裾のひなげし畑でひばりの声を耳にしたときから、もう何年もたってしまった気がする。こんな異郷の地まで来たことが嘘《うそ》のようだ。しかしあのときの自分と今の自分をつないでいるのが東振なのだ。東振は変わらない。
東振とはここに来てからも毎日のように会えた。ドクター・ライヒェルの面接が終わって、別室の戸を開けると、松湖寺《ソノサ》と同じ造りの御堂がそこにあった。老師が語りかけ、梵語《ぼんご》でのお経が始まる。寛順は椅子《いす》にかけたまま、じっと頭を垂れる。
お経の途中で隣室に促される。床は透明で、迷路が曲面の透明な壁で作られていた。迷路の中をどう歩くかは、足元がほのかに浮き上がるので判る。
行き着く先は決まっていた。迷路の中央に位置するガラスの寝台に横たわる。目を閉じると身体がいったん浮き、それから静かに沈むような気がしてくる。そのあと身体は横滑りになり、明るい場所に出るのだ。
あるとき、岬の先端にある古い城壁の外を、東振と歩いた。東振はそこを何度も訪れたような顔をして案内してくれる。城壁の石垣は黒く、それだけで三階分くらいの高さがあり、上に漆喰《しつくい》造りの壁がさらにのっている。無粋な窓からは、その建物が宮殿ではなく、牢獄《ろうごく》のような雰囲気が伝わってきた。
「アフリカから運んできた奴隷を一定期間、入れておくための場所だったんだ」
東振が言った。
海風をよけるようにして、石垣の陰に入口が設けられていた。石の冷たさなのだろう、中にはいると、ひやりとした。全体に屋根のある建物だと思ったのは間違いで、中庭をロの字形に囲んで、三層の部屋が並んでいた。中庭の一角は、小さな舞台を見おろすように十数段の観客席が四半円形にとり巻いている。
「お芝居でもしたのかしら」
寛順が訊《き》くと東振は激しく首を振った。
「品定めの場所だよ。奴隷があそこに連れ出され、白人の買い主たちが観客席に坐《すわ》って値段をつける。これがその証拠」
東振は石の舞台に上がり、壁にとりつけてある鉄の輪を指さした。「奴隷につけた鎖をこれに通したんだ」
そこに立ってみると、階段の上に本当に買い主たちがいて、じっと視線が注がれている錯覚がした。
そんな市が立つ日まで、奴隷たちは石でできた部屋に閉じ込められていたのだ。
部屋は十メートル四方だろうか、真中に一段低い通路が設けられ、左右が高くなっている。奴隷は足を通路に向けて横たわるのだろう。足枷《あしかせ》用の金具が、通路の側面に十数個ずつはめ込まれていた。
「二十四人分の部屋なのね」
金具の数を数えて寛順が言う。
「ちょうど二ダースだ。人間も物品と同じだったんだ」
東振が答える。
同じような部屋が、向こう側とこちら側に六部屋ずつあった。片側だけで一グロス、両側で二グロスの奴隷が繋《つな》がれていた勘定になる。
東振は黙りこくったまま、二階へ続く石段を登る。二階も一階と同じ造作になっていた。長方形の部屋は調理場であり、反対側がトイレになっている。
「汚物はここから直接海に落ちていったのだろうね」
滑り台のような穴が、急角度で下の方まで突き抜けている。海面は見えなかったが、満潮になれば、穴の開口部まで潮の流れが来るのだろう。
三階の各部屋は比較的狭く、衛兵や管理人たちの居室だったようだ。石の床と壁にもう風化が始まっていた。
東振は屋上に寛順を誘った。人ひとりがやっと通れるような狭い石段を上がりきると、四方の視界がひらけた。三方が海で、陸続きの先には白っぽい街並と港が眺められた。
「奴隷たちの誰ひとり、ここまでは上がれなかったろうね。ここにいたのは衛兵たちだ。奴隷船が水平線の向こうに見えたら、すぐ親方に知らせたんだろう」
すぐそばに東振の顔があった。「二人で住むなら、この屋上でもいい。窓からいつも海が見えて、天井を開けると星がすぐ近くまで降りてくる」
「木のベッドを外に出して眠れば、星も海も全部眺められる。奴隷でなくて良かった」
寛順はベッドの置き場所を考えるように歩き回る。
「ここが部屋の入口で、ここが台所、ここにソファーを置いて──」
東振は石の銃眼に寄りかかって寛順の動きを眺める。
「はいベッドの用意ができました。どうぞ」
寛順が勧めると、東振は石の上に横たわる。その横に寛順も腰をおろす。廃墟《はいきよ》の中にいるのは二人きりだ。乾いた風が吹き抜ける。
東振の皮膚の熱さと石の温もりがほとんど等質だ。
頭の中に奴隷の姿が浮かぶ。足枷で繋がれて眠るのと、こうやって愛する男に思う存分抱かれるのと、何という違いだろう。
「東振、好きよ」
寛順の声を海風がどこかに運び去る。「好きよ」
何度も繰り返す。また肌に汗がにじみ出す。
寛順は目を開ける。陽光がふたりの身体を暖かく包み込んでいる。目を閉じる。東振が寛順の名を呼んだ。東振の声だ。東振からそうやって何百回、何千回呼ばれただろう。死ぬまで呼ばれ続けたい。
東振の身体は日なたの匂いがした。田畑で陽にさらされて働き続けたときの匂いだ。一本一本の逞《たくま》しい筋肉が陽の光をたっぷり吸い込んでいる。
「ほら寛順、耳を澄ませてごらん」
身体を寄せたままで東振が言う。音が響いてくるのは吹き抜けの中庭の方からだ。セリ市のような掛け声だった。
「奴隷がひとりずつセリにかけられている。鎖につながれた奴隷は涙を浮かべて空を仰いでいるよ」
まるでその光景が見えるかのように東振は言った。
「わたしたちのように裸かしら」
「動物が衣服をつけないのと同じ。男も女も裸。つけているのは足枷と手の鎖だけ」
東振の返事に、寛順は慌てて自分の手足を眺める。足枷も鎖もついていなかった。
「わたしたちは解放された奴隷」
「そうだね。どこに行くのも自由だ。ぼくはいつも傍にいる」
東振の静かな声が耳に届く。そうだ、この声を耳が記憶し、この肌が東振の感触を覚えている間は、東振はいつも自分の傍にいるのだ。
不意に名前を呼ばれる。セリ市での名前のような気がして、寛順は目を開ける。衣服をまとい、ガラスの寝台の上に横たわっていた。
周囲を取りまく壁の上方は、暗闇《くらやみ》のなかに溶け込んでいる。天井がどのくらい高いかは測りようがない。
寝台から降りて通路に立つ。ゆっくり歩く。扉が開くと薄暗い御堂の中にはいっていた。極彩色の柱の間に老師が坐っている。
「元気そうで何よりだ」
老師は深々と頷《うなず》く。
「白松山《ペクソンサン》の紅葉はもう色づきましたか」
寛順は訊いた。
「それは見事なくらいだ。夕陽が当たると全山が黄色と紅色に染まる。池の傍に銀杏《いちよう》の樹があったのを覚えているかな」
寛順の目の底に、一本だけそびえる古木が浮かび上がる。寺の境内と池の境にぽつんと立っていた。
「あれが今は黄金色になって、池に映っている姿が実に美しい」
老師は背を向け、お経を唱え始める。
「もう行きなさい」
やがて、背中を向けたままで老師が言った。読経の声を耳にしながら部屋を出る。
廊下に並ぶ白い大理石の像が眩《まぶ》しい。乳房にとりつく赤ん坊を抱く優しげな母親像。しゃがんで子供と会話をしている母親。像はすべて母と子の交流を描いていた。
「ミズ・リー、もう準備は整いつつありますよ」
ライヒェル女史が言った。「あなたの脳の状態、身体の準備状態ともに、順調に経過しています。あなたもそれを感じるはずです」
その通りだと思った。
「他に気になることは?」
「ありません」
寛順は言下に答える。
「それではまた明日がドクター・ヴァイガントの診察です」
ライヒェル女史はドアを開け、丁重に寛順を送り出した。
波の音がする。満天に星が輝いていた。東振が横にいる。満ち足りた気分だ。
「行くわ」
寛順が立ち上がる。東振はすべてを了解しているように顎《あご》を引いた。
後ろ姿に東振がじっと眼を注いでいるのが分かる。また会えるのだ。会えない時間が長ければ長いほど、会ったときの嬉《うれ》しさが膨らんだ。その期待で、一日一日を生きていけるのだ。
庭に置かれた外灯が通路を照らしている。正面にレストランとカフェテラスの建物、右手は病院本館、左手には二階建のバンガロー風の病棟が見えていた。本館の一部三ヵ所にまだ明かりがともっている。それが病室か研究室かは判らなかった。
腕時計を見た。十二時五分前だ。警備員に会った時の口実は考えている。眠れないので夜の海を眺めに行ったと答えれば、さして怪しまれないだろう。
バーバラ・ハースがメモを残していた野外チェス盤が見える。薄明かりの中でチェスの像が小動物のようにうずくまっている。
警備員の姿はない。
本館の正面入口とは反対側に回る。地下一階に続く外階段を降りる。
明かりはそこまでは届かず、寛順はペンシルライトをつけた。
ステンレスの扉の横に数字盤がはめ込まれている。〈6307〉を素早く押した。扉が左右に開いた。身体を中に滑り込ませると、ひとりでに扉が閉まり、真暗闇になった。
動かずに、目が闇に馴《な》れるまで待った。中から外に出るためには、扉の中央にあるボタンを押せばよいはずだ。いつでも逃げ出す覚悟はできていた。
全くの暗闇で、壁にとりつけてあるリードランプだけが唯一の光だ。そのボタンを押せば廊下全体が明るくなるはずだった。
耳を澄ます。どこかで換気扇が回る音がする。
ペンシルライトを再びつけた。クリーム色のリノリュームの床が照らし出された。
バーバラのメモによれば、エレベーターが廊下の中ほど、階段は廊下の突き当たりにあるはずだ。
ライトを再び消して壁づたいに歩く。壁が途切れる。そこがエレベーターの昇降口だ。ライトをつけ、昇りのボタンを押すと、エレベーターの扉が開いて、光が思いきり広がった。中にはいって扉を閉める。昇るかどうか迷った。引き返すなら、今のうちのような気がした。また日を改めて来ればよいのだ。一回ずつ、道すじを延ばしていくこともできる。
しかしこれまでは誰にも見つからずに順調にきている。昇ることに決めた。
最上階の六階のボタンを押した。階段を使ったほうがよかったような気もした。
エレベーターは音もなく上昇し、六階で停止する。開いた扉の陰に隠れてしばらく待った。扉が閉まりかけたとき、思い切って外に飛び出す。
扉が完全に閉まる。廊下は真暗で、リードランプがかすかな光を放出している。壁に寄り添いながら、耳を澄ます。暗がりに馴れない目よりは、耳のほうが頼りになる。
何も聞こえない。
突然バーバラの死体が思い出された。鋭く首筋をえぐられ、膨らんだ腹部をいたわるようにして、水草の上に横たわっていた。
いま自分を動かしているのは、バーバラの意志なのかもしれない。
廊下には、部屋にはいる三つの入口があるはずで、そのどれも暗証番号は判っている。三つの大部屋がどういう用途の使い分けをされているかについて、バーバラは簡単な説明を加えていた。
一番手前の部屋が〈標本《サンプル》〉、真中が〈個人《パーソナル》〉、一番奥が〈会社《カンパニー》〉 だ。
ライトをつけて腕時計を見る。午前一時十三分。二時に巡回があるとバーバラは書き記していた。三つの部屋をすべて見る余裕があるかどうか。警備員の巡回が十分か二十分早まる可能性だってあるのだ。
手前の扉の横にある数字盤を押す。扉の一部でクリック音がした。扉の中央に立つと両側に開いた。部屋の内部も暗闇だ。ライトの先に、巨大金庫のようなハンドルが浮かび上がった。
寛順は息を潜めて、ライトの先端を少しずつ移動させる。正面には金庫、右には実験室のようなガラス張りのコーナーがあり、机の上に端末がのっている。手前の机にも端末が設置され、書類などはない。おそらくこの部屋自体が、わずかひとりか二人の人間によって管理されているのだろう。
ハンドルに光を当てる。ハンドルは大小二つあって、それぞれにダイヤルがついているのも、バーバラのメモ通りだ。ダイヤルの目盛を記憶しているかどうか、寛順は頭のなかで確かめる。〈マン・オーチョン・サムベック・イーシボー〉と、数字だけはハングルで暗記しているのが不思議だ。
五|桁《けた》のダイヤルを回し終え、小さいほうのハンドルに移ったとき、何か物音を聞いたような気がした。耳を澄ます。エレベーターの音だろうか。しかしその直後、廊下を踏みつける足音を聞きつけ、寛順は釘付《くぎづ》けになった。部屋の中には隠れる場所はない。机の下に身を入れたところで、すぐに見つかってしまう。
寛順は反射的にダイヤルを回した。そこも五桁の数字だ。ハンカチをかぶせた指先が震える。右のハンドルを右へ二回、左のハンドルを左へ三回、夢中で回す。耳だけは廊下の足音を追っていた。
ハンドルを引くと、大きな扉が手前に動いた。中がどうなっているか確める余裕はなかった。冷やりとした寒気が首筋に触れた。音をたてないように、ぶ厚い扉を閉めた。その瞬間を境にして、一切の音が消えた。そして一切の光も。
恐らく、このぶ厚い扉を閉めたのと同時に、警備員は廊下の数字盤を操作したのではなかったか。
音をたてないように扉は閉めたつもりだが、現実に音がしなかったかどうか。音を聞きたくない耳が、わずかな音を聞きもらしたような気もした。
外の状況は全く判らなかった。寛順は観念する。暗闇の中で目だけは大きく見開いていた。
急速に寒気を感じた。冷気は手先と首筋に容赦なくまとわりつく。寛順は扉に耳をつけようとして、反射的に身を退いた。吸い寄せられるほどの冷たさだった。
金庫ではなく、冷凍室だ。そう直感したとき、恐怖が襲った。このままじっとしていれば、数分で全身が凍りついてしまうだろう。
寛順はライトをつけた。透明なロッカーの中に防寒着のようなものが掛けられている。半透明の中仕切りの奥は、床から天井まで、数十段の棚が作られ、灰色の容器が隙間《すきま》なく並んでいた。
寛順は防寒具の二着のうちの一着をとり、腕を通す。ロッカーに掛けている間は電流が通っているのか、防寒着の内側は生温かった。
もう一着の防寒具を小脇《こわき》にかかえ、扉の傍で待機する。警備員がはいって来たとき、咄嗟《とつさ》に外に出、扉を閉めるつもりでいた。ダイヤルを回してしまえば、もう中から開けることはできまい。警備員は凍死を待つしかないのだ。
扉が開けられる気配はない。もう十分ほどは経過しているだろう。外はもともと狭い空間だから、警備員が見回りに時間をとるとは考えにくかった。
足先の感覚がなくなっていくのが分かる。寛順はロッカー内にあった長靴をはき、手袋をつけた。
あと三、四分だと、寛順は自分に言いきかせる。
中仕切りの奥は、さらに温度が低く設定されているらしかった。防寒服のフードを目深におろす。長居はできそうにない。
ライトを棚に当てた。各容器に二つのアルファベットと六桁の数字が打たれていた。その中味が何かは判らない。
寛順は扉の所まで戻り、防寒着を脱いだ。手袋と靴を元の位置に返し、扉の外に出る。
廊下の様子をうかがい、音がしないのを確かめて、戸を開ける。暗い中に、リードランプの赤い光が五、六ヵ所灯っているだけだ。警備員がいつもの時間より早く巡回したとすれば、あと数時間は、ここまで上がって来ないだろう。残り二つの部屋を見る余裕はありそうだ。
真中の部屋のドアの番号を押して中にはいる。暗闇の中に立ちつくしたあと、ペンシルライトの光を走らせる。端末をのせた机が四個、向かい合わせに置かれていた。入口と向かいあった壁は電光パネルになっていて、世界地図が描かれている。それ以外は何の変哲もない部屋だ。
三番目の部屋も似たり寄ったりで、壁のパネルまでも同じに見えた。
寛順はライトでパネルの隅から隅まで照らしてみる。地図自体は同じだが、世界中の大都市の横に会社名のようなものが併記されている。韓国のところにはソウルがあり、その脇にHANJINと書かれていた。韓進《ハンジン》という大会社で、運輸から証券までも扱っている複合企業だ。その韓進が、どうしてこの病院と関係があるのか。
ボタンのようなものがパネルの右下の方にあった。果たしてそれがパネルの電源かどうかは確かめようがない。
寛順は一瞬迷ったが、いったんペンシルライトを消し、暗闇のなかでそのボタンを押した。
音はしなかった。パネルの後方に明かりが灯った。思ったよりも大きい。縦三メートル、横は五メートルくらいはあるだろうか。世界の主要都市が網羅されている。
寛順は十秒ほどそれを眺めたあと、慌ててボタンを押す。パネルの照明が消えたとき、胸が高鳴っていた。窓はないと思っていたのだが、小窓が二つ、机の横につくられていた。カーテンはなく、室内の光は外にそのまま漏れたに違いない。
寛順は部屋を出、エレベーターまで戻った。エレベーターが上がってくるまでの時間がもどかしい。扉が開いたとき、内部の明るさにどぎまぎした。
地階まで降り、暗い廊下を歩き、玄関の外に出る。しばらく外の様子をうかがったあと、石段を登って地上にあがる。
建物の中と比べて少し明るい。満月に近い月が、海とは反対側に傾いていた。
建物を見上げて、最上階に小さな窓があるのを確かめる。室内に照明がついたのは、漏れた光で一目|瞭然《りようぜん》だった。
ライトはつけずに、薄闇の中を海側に進んだ。
波の音がしていた。どこかにほっとした気持が芽生えた。本館を振り返る。まだ明かりのついた部屋が三、四ヵ所はある。
「セニョリッタ」
中庭にはいりかけたとき、後ろから声をかけられ、寛順は息を呑《の》む。黒人の警備員だった。白目だけが光を反射している。
「ボーア・ノイチ」
努めて冷静に応じた。
「おひとりですか」
警備員は寛順の胸元に光るキイ・ペンダントに眼を走らせた。病院の滞在客であることが判ったのか、語調を柔らげた。
「ええ、海亀が浜に上がっているのではないかと思って」
咄嗟に思いついた言い訳だった。
「海亀の産卵はまだ先です。今夜はまだ早い」
男は月を見上げた。「でもこんな時間にひとり歩きは危険です。次からはお友達と一緒にして下さい」
警備員は白い歯を見せて微笑する。
「オブリガーダ」
寛順は礼を言い、中庭の通路にはいる。男がじっと後ろ姿を眺めているような気配を感じた。
プールの手前にある野外チェス盤の上に、さまざまな駒《こま》が見える。白と黒の区別が、今は月光の加減で見分けられた。バーバラのメモのはいった黒のキングは、まだ元の位置から動いていない。
疲れと眠気が全身を襲ってきた。部屋のベッドでぐっすり眠りたい気がした。考えるのはそのあとだ。
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「赤ん坊は順調に育っていますね」
モニターを見ながらツムラ医師が言った。画面は、妊婦のほうも顔を上げれば眺められる。主治医はそれまでも毎回、難しい地図を教え諭すようにして説明してくれたが、ユゲットはいまだに画像に馴染《なじ》めない。黒い画面に、白い大小の線が切れ切れに集積しているだけなのだ。そのうちのどれが子宮でどれが膀胱《ぼうこう》であると言われても、すんなりとは頭にはいらない。第一、膨れた腹の表面に四角い探査器具をあてただけで、腹の内部の様子が判るということ自体、不思議でならない。
「身体《からだ》の調子はどうですか。疲れやすさとか、食欲とか」
器具をしまい、腹についた潤滑剤を拭《ふ》きとったあと、ツムラ医師が訊《き》いた。
「食欲はあり過ぎて困るくらいです。そのせいか、疲れもあまり感じません」
ユゲットは上体を起こして答える。
「運動も適度にしていますね」
ツムラ医師の黒い目がじっとこちらに向けられる。口髭《くちひげ》がなければ、まだ二十歳くらいにしか見えないほどの童顔で、東洋人というのはどうして年齢より若く見えるのか、ユゲットは不思議に思う。マイコやカンスンも同様で、ことにマイコに至っては、フランスでならまだ高校生としても通用するほどだ。
「例のプールの中のバスケットボールみたいなのには加わりませんが、よく歩いています。海岸や川べりや森の中を」
「それはいい。海の音を聞き、樹木の香をかぐのは、あなただけでなく、お腹の中の赤ん坊にもいいのです。大都市のスモッグの臭いや、警笛の音に比べたら、天と地の違いです。それでこそ、ここに滞在する価値があります」
ツムラ医師は真顔で言った。
もともとこの病院には優秀な医師ばかりが集められていると聞かされていたが、単に手術の手技や検査機器の操作と診断技術に秀でているだけではないようだった。それは、ツムラ医師から妊娠の成功をほのめかされたときに感じたことだ。
それまで順調だった生理が予定日を過ぎてもないので、ユゲットはツムラ医師に告げた。
「ぼくの診断では九割以上の確率で、妊娠ですね」
上半身を診察し終えて、彼は言った。「尿検査をすればはっきりしますが」
検査もしないで妊娠がどうして判るのか、ユゲットは訊いた。
「乳首の周囲の色の変化です。片方がくすんで片方が光っているようでしたら、妊娠の兆候です。両方とも光っていたり、逆にくすんでいるようでしたら、妊娠していません。もっともこれは、初産婦だけにあてはまるもので、経産婦では判りません」
ツムラ医師が予言した通り、その後の尿検査で妊娠は確認された。
ユゲットは裸の乳房を鏡に映して、主治医が言ったように乳暈《にゆううん》が変色しているか観察してみたが、どんな具合に違うのか、とうとうつかめなかった。まさか主治医にもう一度説明してくれとは言えず、そのままにしてしまった。
今はその乳首も赤味を増してきている。しかし何といっても、目立つのは膨らみ出した腹部だ。まだこれが手始めなのだと思うと、最後にはどのくらいまで大きくなってしまうのか、横からの姿を鏡に映して溜息《ためいき》をつく。
とはいえ、毎日自分の姿を眺めていると、腹の突き出た女体も次第に美しく思えてくる。それどころか、女性はこんな姿のほうが、一番美しいのではないかと勝手な考えにとらわれてしまう。
医学的な知識や診察手技だけでなく、一見非科学的に見えるものにも、ツムラ医師は理解を示した。
「ブラジル人がサンバを踊れるのは、もう母親の胎内でリズムを聞いているからですよ。同じように、胎内で波の音を聞いていると、天才的なサーファーが生まれます」
冗談とも本気ともつかぬ話を真顔で口にした。
「もともと目や耳は、意地悪で疑い深い感覚なのです」
そんな抽象的な話題も主治医は好んだ。「何故かというと、目は敵をいち早く見つけること、耳も外敵の音をいち早く聞きつけることが主な役割だったからです。嗅覚《きゆうかく》や触覚、味覚は、そこへいくと、猜疑《さいぎ》心はぐっと低くなって、むしろ仲間やパートナーを探しあてたり、愛を確かめあったり、身体を養ったりする穏和な感覚ですよ。平たく言えば、視覚と聴覚はいつもビクビクしている。戦々|兢々《きようきよう》としている。そんなところへ、安らかさを与えると、視覚と聴覚は心底ほっとする。何よりの慰みになります」
主治医の話は、まんざら荒唐無稽《こうとうむけい》にも思えず、ユゲットは傾聴する姿勢になった。
「だからこそ、美術や音楽が成立しているんです。猜疑心の強い、いつもびくびくしている目と耳に、美しい形や色、音を呈示するのは、ちょうど狩人に追われ、手傷を負ったウサギを保護し、治療してやるようなものです」
ツムラ医師はそこでちょっと言いさし、机の前のボードに掛けた絵に眼をやった。半具象の木版画で、三、四色に彩色されている。描かれているのは船のようでもあり、平原の中の一軒屋にも見える。
「その目と耳からの感動はそのまま、お腹の中の赤ちゃんに伝わって行きます。いいですね。あなたの感動は、そのまま胎児の感動です。言うなれば、あなたのハートと胎児はコインの表と裏──」
そこまで言われたとき、ユゲットは思わず頷《うなず》いていた。この日系人の医師は、女性以上に女性の身体と心理を知り尽くしている、そんな感慨に包まれた。
──胎児はハートと同じ。
これまでは、お腹の中にいる赤ん坊に対して、どこか異物感をもっていた。自分とは違う物体が身体の一部に巣食っているという感覚だ。しかし、その赤ん坊に自分のハートが重なっていると思えば、限りなくいとおしくなる。
主治医とのそんなやりとりのあと、日々のちょっとした動作もないがしろにできなくなった。
朝の日の出、海の青さ、白い波、波音、緑色の樹木、鳥のさえずり、スコールの音、雨上がりの景色、ハイビスカスの花、白い馬、マイコやカンスンたちとの会話、レストランでの音楽。──自分を取りまくすべての人間や事物に、歓びと美しさを見いださねば損だと思う。
例えば、海に面した寝椅子《ねいす》に横になっているとき、目の前の砂浜を土地の老人が横切って行く。真黒の膚、皺《しわ》くちゃの顔、色の褪《あ》せたパンツに裸足《はだし》、手にしているのは粗末な銛《もり》と小さな水中眼鏡だけだ。ユゲットは初めその姿を、このリゾート海岸にふさわしくない闖入《ちんにゆう》者と感じ、眉《まゆ》をひそめたものだった。海岸の汚点だとさえ思ったのだ。
いまは違う。あの老人が銛で突いた魚をぶら下げて帰る姿を美しい光景だと思って眺める。おそらくこの近くに住み、小さい頃から五十年、六十年にわたって同じ漁をしながら生計をたてているのだろう。その生き方と歴史を、老人の後ろ姿に感じて、感動してしまうのだ。
あるいは、その老人が海に潜る光景も想像してみる。そんなに深くないこの付近の岩場や浅瀬は、彼にとって大地の地形以上に親しいものに違いない。地上の樹木の配置、地面の隆起と同じように、潮の流れや海底の凹凸を知りつくしているはずだ。だから岩と岩の間に潜むどんな魚でも、彼の目から逃れることはできない。音も影もなく接近した彼の銛が、自分の胴体を貫いたとき、ようやく身の不運を覚えるのだ。
彼は、その日の家族の糧《かて》と隣人に分けてやる分量だけを捕獲すると、海から上がる。決して魚を一網打尽にすることはない。恵みの海に感謝しつつ、帰路につく。
夕陽が老人の横顔を赤々と照らす。ユゲットは、そんな彼に一度話しかけてみようかと思う。〈たくさん獲《と》れましたね。何という魚ですか〉そんな会話もポルトガル語で、できそうな気がする。
老人は何と答えるだろうか。ひとことふたことしか会話は成立しないだろう。しかし、そのやりとりは、自分のハート、腹の中の赤ん坊に喜びをもたらすはずだ。
二日に一度、ライヒェル女史の許《もと》を訪れる意味も、改めて分かるようになってきた。本館六階に設置されたあの不思議な場所は、今もってその造りがどうなっているか理解できないが、時空を超えた特異な空間であることは確かだ。
白く光る透明な迷路と、前室のなつかしい風景が絶妙の対比を形づくっていた。白い大理石像の並ぶ廊下を歩いて、第一の扉の前に立つ。扉の先には、モレ村の教会堂の内陣が再現されていた。黒光りする祭壇や、川面に反射する陽光を受けるステンドグラスは、見る者を自然にひざまずかせてしまう。
奥からヴェルナー神父が優しい微笑を投げかけ、今日も一緒に祈りましょうと言う。素直に頭を垂れる。外界から切り離されて、気持がさらさらと透明になっていく。
そして十分後には第二の扉の中にはいる。透明な床と壁は、初めは水のような冷たさを感じたが、次第に安らぎさえも覚えるようになった。天井の見えない、床の下も見えない迷路は、それまでの人生で体験したことのない空間だった。それだけに、過去のどんな記憶をも喚起されず、そこで味わう体験のみが蓄積される。いわば、純粋培養された体験が、汚染されることなく何層にも積み重ねられるのだ。
妊娠前と妊娠後で、中央にあるガラスの寝台が一部だけ変化した。妊娠後、寝台に横たわると、下部に納められていたガラスのフードがもち上がり、すっぽりと下腹部を覆った。あたかも、不慮の事故から胎児を守るかのような装置だった。
目を閉じると、自分の身体がゆっくり下降していくのを感じる。ある程度まで沈むと横に滑り始める。まるで水底を流れていくように、目の前に澄んだ水の層があり、その上から日光が降り注ぐ。
気がつくと川の傍でアランと魚釣りをしていたり、川に面した中世の城跡を二人で散歩をしている。アランは、お腹の中の赤ん坊を気づかい、ゆっくり歩く。一メートル九十センチはある彼が歩幅を縮めて緩慢に歩くのだから、傍目《はため》には足踏みしているくらいにしか見えない。城跡に登りたいというと、高そうな石段のところでひょいと身体を持ち上げてくれた。
「やっぱり赤ん坊の分だけ重くなっている」
ある時などは、ユゲットの身体を丸ごと抱えて、城跡の下から上まで一気に駆け上がった。転んで落とされはしまいかと、必死で首にしがみつき、声をあげた。それをアランは却って面白がり、速度を早める。さすがに城のてっぺんに着いたときには、息を弾ませていた。
眺望が素晴らしかった。てんさい畑のゆるやかな起伏の向こうに、夕陽が沈みかけていた。
アランが近くにあった棒切れを地面に突き刺し、静かに頭を垂れる。
「ほら何かを思い出さないかい」
「分かった。ミレーの晩鐘」
「そう。場所は違うけどね」
顔を上げて笑い、また祈る。ユゲツトもその横に立ち、手を胸の前で握りしめた。
「お腹の中の赤ん坊が生まれてきたら、ブルターニュの田舎に戻るかもしれない。それでいいかい。ユゲットは農婦になるのさ。赤ん坊は籠《かご》に入れて地面に置いておく。ぼくらは畑仕事。もっともミレーの頃と違って、鍬《くわ》ではなくトラクターを使って土を耕すのだけど」
アランは初めて胸の内を打ち明ける。畑なんかいじったことさえなかったが、アランと一緒なら何でもやれそうな気がした。
城跡からの下りがけにも、アランはユゲットの手をとり、危なっかしい場所では軽々と抱き上げてくれた。崩れかけた城壁が茜色《あかねいろ》に染まっている。見とれていると、アランがユゲットを後ろから抱き寄せた。アランとの口づけは、いつも踏み台が必要だった。石段の落差とか、石の上だとか、絶妙な足場をアランは決して見逃さない。いつしかユゲットのほうでも、そのタイミングの予想がつくようになっていた。
そのときもそうだ。壁の根元にユゲットが立ち、アランは地面の凹《へこ》みに足を置く。そうすれば背をかがめるだけで、ユゲットの唇を奪うことができる。
アランの首に手を回してキスを受ける。二人の影が長く尾をひいている。ミレーの絵と同じだ。そう思ったとき、本当に遠くで教会の鐘が鳴った。
丘の下にトラックは停めてあった。夕陽が地平線に沈んでいくのが、トラックの荷台からも眺められる。てんさい畑ととうもろこし畑が橙色《だいだいいろ》に染まり、空には赤紫の雲がたなびいていた。
アランはユゲットの肩をひき寄せて、やさしく言葉をかける。わずかに突き出た下腹部にも手を触れた。
「ここにぼくたちの宝物がある。ユゲットとぼくがこの大地で出会った証《あか》し」
ユゲットは、フロントガラスを透過した夕陽がアランの髭面《ひげづら》を赤く染め上げるのを眺める。それでなくとも陽焼けしたアランの精悍《せいかん》な顔が、アポロンのように見える。アランの手がユゲットの着ている物をゆっくりとはぎとる。白い肌が夕陽に赤く染まっていく。
ハンドルに手をかけて、身体《からだ》の均衡をとる。アランがぴったりと胸を寄せる。夕陽が赤味を増しながら、もう半分まで地平線に隠されていた。
「ユゲット、素敵だよ」
アランが叫ぶ。ユゲットもアランの名前を呼ぶ。身体が散り散りになりそうだった。身体の内部で何かがふくらみ、はじける。真赤な夕陽が、ほんの一点だけを地上に残している。抱き合ったままで、その一点が消えるのを眺めた。
「このまま運転して行こうか」
アランがおどけて言った。
「わたしは平気よ」
胸を張って答える。本当は、膨らんだ腹部など、アラン以外の誰にも見せたくはなかった。
「駄目、風邪をひいたら、それこそ一大事」
アランは身体を離し、ユゲットが服を着るのに手を貸す。
丘を下るとき、トラックの運転席が小さな家のように感じられた。赤ん坊が生まれたら、あやしながら、外に流れゆく景色を思う存分見せてやるのだ。ユゲットはそんな場面を想像して、アランの肩に頭を寄せていた。
「バーバラについて訊《き》きたいのですが」
衣服を着終わったとき、ツムラ医師が質問した。
「何でしょうか」
「彼女、お腹の中の赤ん坊のことで、何かあなたに相談しなかったですか」
「いいえ」
ユゲットは首を振る。妊《みごも》った女性は、腹の中の赤ん坊を宝物のように思っているものだ。その宝物について、第三者にくどくどと話したくはない。
「彼女、赤ん坊のことで何か悩んでいたのですか」
ユゲットはひっかかるものを感じて逆に問いただす。
「もう亡くなったから言っていいでしょう」
ツムラ医師は一瞬考える表情になる。「十六週を超えた頃、胎児に奇形《アノマリ》があるのが判ったのです」
「奇形《アノマリ》?」
「先天異常です。上肢の発生異常でした。通常の胎児と比べて、明らかに腕が短いのです。超音波診断で分かりました」
ユゲットは咄嗟《とつさ》にサリドマイド児の奇形を思い浮かべる。テレビで見ただけだが、その女性は肩に直接手のひらがくっついているような上肢をもっていた。用を足しにくいその腕の代役を、両足が見事に果しているのには目を見張った。じゃがいもの皮も、右足で挟んだ包丁と左足が協同してむき、四つに切った。乗用車のハンドルを操作するのも足だった。
「奇形がある胎児は知能の低い確率が高くなる、と統計的な数字を示して正直に説明しました」
「バーバラは驚いたでしょうね」
「どの母親もそうです。しかし、事態をそのままにして引き延ばすより、早い時点で告げるのが主治医の務めです。できることなら、したくない役目ですが、こればかりは産婦人科医が背負った運命です」
ツムラ医師は自分に言いきかせるように言葉を継ぐ。「それも単に告げるだけでなく、あくまで相手の立場に身を寄せて知らせてやるのです。ぼくだってまだこんな経験は数回しかありません」
「彼女は何と言いました?」
「原因は何ですか? と彼女は尋ねました。当然の疑問です。ぼくは分からないとしか、答えようがなかったのです。精子側の要因と母体側の要因のどちらか、あるいは双方か。いずれにしても確かめようがないのです。すべては神の意志のまま、と考えるのが一番正確かもしれません」
「バーバラはどう答えたのでしょうか」
「よく分かりました、ときっぱり言いました。何の迷いも、その表情にはありませんでした。奇形であろうが、少し知恵遅れであろうが、わたしの子供です。これまで通り、お腹で育て、立派に生みます。どうか主治医として手を貸して下さい、と頼まれました」
「そうですか」
バーバラなら、そんな風に答えただろうとユゲットは思う。何度も話したわけではないが、彼女にはどこか芯《しん》の強さがあった。
「しかしその後、ドクター・ライヒェルからは再考するように促されていたようです」
「人工的に流産するほうを選べというのですね」
ユゲットの問いにツムラ医師は頷《うなず》く。
「まさか、それで悩んでいたとは思わないのですが」
「彼女、そんなことで気持は動きません」
何故かユゲットはそう確信した。
「そうですよね」
ツムラ医師は安堵《あんど》する。「それ以後、彼女も奇形についてずい分調べ始めたようです。二階にあるコンピューター室によくこもっていました。もともとコンピューターが専門だったので、いろんな大学のコンピューターにアクセスもしたのでしょう。知識を得れば得るほど出産への意志を固めていったようでした。例えば、こういうことがありました。ある時、バーバラがこう言ったのです。ダウン症の子供に早期から教育を施すと、さしたる知能低下も目立たなくなるそうですが、それは教育の効果ではなく、親の愛情効果らしいですね、と訊くのです。コンピューターのデータで知ったのでしょう。昔の親は子供がダウン症だと判ると、もう意欲をなくしていた。それが結果的に知能低下をもたらした面があるのは本当なのです。たとえ奇形児だったとしても、健常児以上に愛情を注げば素晴らしい子供になる。彼女はそう信じていました。だから、ぼくは彼女の死が自殺とはどうも思えないのです」
最後のところでツムラ医師は声を潜めた。
「思い詰めていれば、傍目《はため》にもそれとなく分かります」
ユゲットは率直に言った。
「あなたもそう思いますか」
ツムラ医師は考える目つきになった。「主治医として、バーバラの死が何だったのかつきとめる責任を感じます」
ユゲットは黙って、ツムラ医師の顔を見つめる。バーバラの死が自殺ではないとしたら、事故死か他殺ではないか。過失によって屋上から墜落するとは考えられない。残るのは他殺だ。
大柄なバーバラがひとりで浜辺のほうから歩いてくる姿を思い出す。目が青いので、ブルー系の衣服を身にまとっていることが多かったが、そのときも青いゆったりとしたワンピースを着ていた。よく似合うと誉めたユゲットに、サルヴァドールの市場で買ったのだと答えた。本当は3Lサイズの服だったのを、妊婦用に自分で手を入れたのだと言う。膨らんだ下腹部が、何か誇らしげに見えた。彼女が亡くなる二週間ばかり前のことだ。
「このことは内緒に」
ツムラ医師が診察の終わりを告げる。「どうか良い刺激をお腹の赤ん坊に」
「オブリガーダ、ドウトール」
ユゲットはポルトガル語で言い、手をさし伸べる。
一階の待合ロビーに出て、バーバラの叔父《おじ》のことが頭に浮かんだ。入院したとは連絡があったが、どこの病棟かは判らず仕舞いだ。連絡を待つしかない。
ユゲットは診療所の方に足を向ける。
「地域住民向けの診療所で診ている患者が重症だった場合、この病院に入院させるのですか」
いつかツムラ医師に訊いたことがある。
「入院費が高いので、彼らには無理です」
「すると、あくまでも通院ですね」
驚いてユゲットは訊き返した。
「そうです。受診資格を、この地域の住民と制限したのはそのためもあると聞いています。患者のなかには、診療所の紹介状をもって、町中の病院に入院しにいく者もいます。診断もつき、治療法も書いてあるので、先方の病院も受け入れやすいはずです」
ツムラ医師はひと呼吸おいてから続けた。「仮にあの診療所が、ブラジル全土に向かって開かれていたとしたら、それこそ巡礼の地になって、各地から貧しい患者が集まってくるでしょうね。山奥から何日もかかってここに来、診断をつけてもらって、また山奥に帰っていく。どんな重症患者でも、放っておかれるよりはいいし、周囲の者も安心します。一度、医者に診てもらったという安堵感がありますから。その代わり、診療所の前にはテント村ができますよ。それがブラジルの現状です。医療水準が地域によって違うし、懐具合によって、受けられる医療に天地の開きがあります」
この病院は、村人にとって、収入と健康の源でもあるのだ。ツムラ医師の言葉を聞きながらユゲットは思った。職にありつけ、かつ無料の通院治療を受けることができる。大きな産業もないこの地域の住民にとって、フォルテ・ビーチ病院の存在は大きな福音なのだ。
診療所の周囲は、いつ見ても清掃が行き届いている。診療所に世話になる村人たちが、交代で掃除をしているからだ。木陰のベンチに痩《や》せた老婆が横になり、その横に少女が付き添っていた。診療の順番を待っているのだろう。
赤土の道に出た。村のある方向に歩き、三叉路《さんさろ》を左に折れた。右に行けば村の中心に出るが、左はやがて坂道になり、小高い丘に行きつく。ユゲットはその道が好きだった。村のたたずまいを見おろせ、その向こうに青い海と灯台が望見できた。
たぶん村人が植えたのだろう、道端にはハイビスカスが咲き乱れていた。手入れはされていないが、思い思いに枝を伸ばして黄色い花をつけている。ハイビスカスは赤い花も好きだが、黄色いほうがブラジルの大地には似合う。そういえば、ブラジル人そのものが総じて赤よりも黄色好みではないか。赤土、緑の樹木、青い海、そんな色彩の中で、黄色に出会うと気持がなごむ。
ハイビスカスの後方から鳥が飛びたつ。鳩くらいの大きさで、頭のてっぺんが赤い。この付近ではよく見かける鳥だが、名前はまだ聞いていなかった。これだけ植物や鳥、昆虫、岩石に囲まれながら、ほとんどその呼び名を知らないのが不思議だった。もともとそういう博物学に詳しいほうではないが、フランスにいるときは、普段目にする木や草花、鳥や虫の名は知っていた。
名称が分からないと、刺激が五感に生々しくはいってくる半面、思考につながってこない。刺激が知覚されただけで終わり、そこから先に進まない。自分が幼児あるいは未開人になったような気がする。いや未開人だってそれなりに事物に名前をつけ、植物の用途や岩石の使い方は知っていたはずで、貶《おとし》めるわけにはいかない。
逆にそれらの名前を知らない効用はある。先入観がないから、その草木、鳥や昆虫のあり方がまっすぐ五感に突きささってくる。
黄色いハイビスカスの花は、道の両側に咲き誇ってはいるが、ひとつひとつの花は一日でしおれてしまう。何日も咲いているように見えるのは錯覚だ。その証拠に、花びらを大きく広げている花のそばに、咲き終えて萎《しぼ》んだ花があり、地面を眺めると、まだ黄色味を残した花が葉巻の形になって落ちていた。
蝉が鳴いている。フランスで聞く蝉よりもずっと力強い声で鳴く。しかも人の足音で鳴き止む気配もない。声は横からではなく、頭のはるか上の方から降ってくる。人の話し声も消し去ってしまいそうな勢いだ。
丘の上に近づくにつれて樹木が少なくなり、白い山肌が露出してくる。海を見渡せる高台に小屋がぽつんと立てられていた。
小屋の中から人が出て来て手を上げた。アランに間違いなかった。小屋の前に立ち、じっと眼をそらさずにいる。
登って来た甲斐《かい》があったとユゲットは思う。小屋の手前で立ち止まり、額の汗を拭《ふ》いたとき、アランが歩み寄ってきた。Tシャツに半ズボン、革のサンダルという身なりは、夏のトレーラーに乗るときのものだ。筋肉質の毛深い長い脚がズボンから出ている。
「大変だったろう。その身体《からだ》で」
腹部の膨らみに眼をやりながらアランが言った。
「まだ大丈夫。あと二ヵ月もすれば登れなくなるかもしれないけど」
言い終わらないうちに、アランに抱きすくめられる。いつもの癖で、反射的に足場を探す。しかしアランはユゲットの身体を軽々と抱え上げ、赤ん坊を運ぶようにして、小屋の前まで戻った。
「ほら、ここからの眺めはどこかイル・ド・フランスの大地と似ている。海を畑と思えばいいのさ。小麦畑やとうもろこし畑、てんさい畑が地平線のかなたまで続いているように、ここでは海が水平線まで広がっている。時々漁師が小さい舟で漕《こ》ぎ出していくのが見える。小さなトラクターで、丘ひとつ耕す農民と瓜《うり》二つだね」
ユゲットも頭を巡らせて海の方角を見る。穏やかな海だ。畑の中をまっすぐ延びるマロニエの道の代わりに、海岸寄りにヤシの林が細長く横に広がっている。
「一日中ここで海を眺めていることだってある。倦《あ》きることもない。そしてユゲットのことも考える」
「わたしは、忘れたことなどない」
ユゲットはアランの顔を眺める。髭《ひげ》が少し伸びているが、唇の血色も良い。少しばかり尖《とが》った顎《あご》が、アランをどことなく学者風の顔にしている。スーツを着こみ、小脇《こわき》に書類|鞄《かばん》でもはさめば、銀行員としても立派に通用しそうな顔立ちだ。もっとも陽焼けしているので、バカンス帰りの九月でないといけない。
小屋はヤシの葉で深々と屋根が葺《ふ》かれていた。中にはいると、ひんやりとし、汗がひく。
「ぼくはいつもここで昼寝をする。海から吹いてくる風が窓を抜けていって、気持がいい」
白いシーツを敷いたベッドにユゲットを横たえると、アランは言った。
「もう動くだろうね」
ユゲットの腹に耳をつけて、アランが訊く。
「まだよ」
「そうかな、心臓の鼓動が聞こえるけど」
「本当に? わたしは自分で聞けないから」
「確かに聞こえる」
アランは耳をユゲットの胸につけ直す。「ユゲットの心臓の音とは違う」
アランは新しいものでも発見したように微笑する。
ツムラ医師がユゲットの腹に機械をあて、胎児の心音をモニターに描出してくれたことはあった。波形だけでは実感が湧《わ》かないと言うと、今度は音を増幅器でひろってくれた。タッタッタッという速いリズムが胎児の鼓動だと知らされたとき、自分の身体の中にもうひとつの生命が宿っているのだと初めて実感できた。
アランの逞《たくま》しい身体に胸を押しつける。もう全身の力がゆるみかけていた。
アランがまた自分の名前を呼ぶ。身体がひらひらと舞い上がる。一枚の木の葉になって宙に浮かんだかと思うと、水面に落ち、清流の中を流されていく。
葉は岩の間で激しく揺れ、渦巻にかかって回転し、また波しぶきの中に引き込まれる。アランの名を呼ぶのは自分だ。
流れはまたゆるやかになり、再び激流にさしかかる。木の葉になった肉体は、波しぶきの先に突き上げられ、空を舞う。回転しながら水面に落ち、渦の中央深く吸い込まれていく。
お互いに名前を呼び続けつつ、水底で回転する。そしてまた、ゆるゆると水面近くまで浮上する。漏れ入る光が虹色《にじいろ》になっている。
アランの両腕も自分の胸元も、淡い虹色に染められている。ユゲットはアランの胸に顔を埋める。そうやって休息をとるのが好きだった。
「また来てくれるね」
アランの声は、胸郭の中でくぐもって響いた。
「来るわ。あなたの赤ちゃんと一緒に」
ユゲットは膨らんだ下腹部を撫《な》でてみせる。
「名前はもう考えている。フィリップだ」
「フィリップ・ポアンソー。いい名前だわ。政治家でも実業家でも似合いそう」
「農民としてもいい名前だよ。新鮮な野菜を作って、朝の暗いうちにトラックに積み、町に売りに行く。ポアンソー親子の野菜なら文句のつけようがないと、町の住人にも評判さ。自分の手で作った野菜を、自分の知った客が食べてくれると思うと、それだけで嬉《うれ》しいものさ。食卓で、みんながおいしいと舌鼓《したつづみ》をうっているのを想像してみるだけで、疲れはふっとんでしまう」
「あなたに似て背が高いわ、きっと」
「それは分からない。ユゲットに似ているかもしれない。女だったら、ぼくみたいに大きくなるのは考えものだ」
アランは困ったという顔をする。
「女だったときの名前は?」
「考えていない。エリザベトでもいいし、マドレーヌでもいい」
「あまり乗り気ではなさそうね」
ユゲットはおかしくなる。まるで初めから赤ん坊は男の子と決めてかかっている様子だ。
「いっそユゲット・ジュニアにでもするか」
笑いながらアランが答える。
不思議なのは、自分でも腹の中の赤ん坊が男児のような気がしてならないことだ。
ユゲットは下着を身につける。もう行かなければならない時間だ。アランは寝ころんだままユゲットの動きを見つめた。
「そのまま横を向いて」
アランが命令した。まだ下着姿だった。
「お腹がいい形になっている」
うっとりした顔でアランが言った。「もっともっと大きくなっていくんだね」
「まだ始まったばかりなの」
ユゲットは答える。もっとお腹が大きくなれば、この丘に登ってくるのもひと仕事になるに違いない。しかし、必ず登ってくる自分の姿を確かに思い描くことができる。途中で何回も休み、息をつくだろう。自分の眼はヤシの葉葺きの小屋をしっかり見据え、一歩一歩足を踏みしめるのだ。そのうちアランが小屋の外に出てくる。その広げられた両腕の中に思い切り、飛び込んでいく。まるでゴールがそこにあるように──。
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クラウス・ハースは病室にはいるなり、その眺望に驚かされた。正面に見えるのは海と空だけであり、窓辺に寄って下を眺めると、海岸の砂浜と灯台がようやく視野にはいってくる。
病室は海側しか空いていない、しかも室料は陸側の五十パーセント割高と聞かされ、数秒迷ったが、諾の返事をした。入院日数は五日、それだけの短期入院で村のペンションに泊まる二ヵ月分の費用に相当した。それくらいの貯えはあったし、もう少し勤勉に働けば、すぐに取り戻せる額ではあった。
ベッドと小机、衣裳《いしよう》入れにシャワーのついた小部屋が廊下をはさんで両側にずらりと並ぶ。全部個室なのも病院の方針なのだろう。看護婦にはまだ二、三人しか接していないが、よく訓練されている印象を受けた。
消化器専門の主治医は四十代半ばだろう。説明するのを自分の仕事の重要部分だと考えているふしがあった。疑問点、不可解な点はありませんかと、話の途中で何度も訊《き》かれた。こちらは一度で理解してしまおうとは思っていないから、大した質問事項もない。自分の病気のことなど、いっぺんに分かろうとすること自体が無理なのだ。絵を描く腕だって、すべてを説明されたからといってすぐに描けるものでもない。頭での理解と、腕の動きや眼力などは別問題なのだ。病気も同じだろう。少しずつ身体で覚えていくしかない。
主治医の説明が終わると、今度は婦長がやってきて、どんな説明を主治医から受けたのかを訊き始める。主治医と看護婦の間で何の連絡もなされていないのかと、腹が立ったが、誤解にすぎなかった。
どれだけ患者が理解したかを第三者の目で確かめ、またそれを主治医にフィードバックさせる方法だったのだ。なるほど、いくら主治医が万言をつくして説明したところで、患者が分からなければ用を足したとは言えない。
「疑問があれば、いつでも主治医、看護婦に訊いて下さい。あなたの身体の持ち主はあなた自身、他の誰でもありません」
まだ三十代と思われる婦長はそう言って面接を終えた。
自分の身体は自分のもの──。分かりきった事実だが、自分の所有物でこれほど知らない物体もない。クラウスは窓際に立って思う。
例えば、家、土地、家具、日用雑貨に至るまで、自分の持ち物はほぼ知り尽くしている。絵の画材だってそうだ。どの絵筆を使って、どの絵の具を混ぜ合わせるか、長年の間に頭が覚えてしまっている。風景を描くときも、静物を題材にするときも、穴のあくほど見て、また見る。
その割には自分の身体は、見ているようで見ていなかった。せいぜい髭を剃《そ》るときと、薄くなった髪に櫛《くし》を入れるときぐらいだ。
医者にかかったのも、数えるくらいしかない。二十代の終わり、喧嘩《けんか》して殴られ、風船のように腫《は》れあがった顔で病院に行った。膨れ上がった瞼《まぶた》のせいで前は見えず、口も開かなかった。医師は頭全体のレントゲンを撮り、骨折はなし、腫れがひくまで喧嘩はせず、冷やすのが一番だと言い、薬の処方もしてくれなかった。
ブラジルに来た当初、下痢になって医者の処に駆けこんだことがある。水が悪かったのか、食い物にあたったのか、二日目になっても水のような便しか出ず、このまま死んでは浮かばれないと、思い切って受診した。薬をもらうと下痢はすぐとまり、三日間、点滴を打ちに通って元気になった。
そのあと、身を捩《よじ》るほどの腹痛があり、近くの医者で胆石だと言われた。手術を勧められているうちに痛みがひき、手術は立ち消えになった。
それ以来、医者の顔を見たことはない。ちょっとした風邪や腹痛くらいは、蜂蜜《はちみつ》入りの熱いコーヒー、あるいはココナツの汁を温めて飲んで治した。酒を飲んで正体不明になり、朝気がついたときは全身打撲とかすり傷だったこともある。そのときも病院へは行かず、氷で冷やした。
だから、この入院は久しぶりの定期点検みたいなものだ。初めて外来を受診したとき、肝臓が悪いと言われ、酒歴をこと細かく質問された。アルコールを飲み始めた年齢、飲まない日がなくなった年齢の他、朝酒、昼間酒はいつから始まったか、飲み出すとやめられなくなりはしないか、夜中に目を覚ましてまたアルコールを口にしないか。酔ってしたことを覚えていないこともありはしないか。よくもまあ、酒に関するこんな多様な質問があるものと感心しながら、正直に答えた。肝臓の悪さにも段階があります、と主治医は何か重大宣言をするような口調になった。初期から最終段階まであると言われて、最終段階とは何ですか、と訊き直した。肝臓|癌《がん》です、と主治医は答えた。
「私はそれでしょうか」
クラウスはどぎまぎして訊き返す。一瞬最悪の事態を頭のどこかで覚悟していた。
「もっと詳しい検査をしてみる必要があります」
主治医のその答えで検査入院を決めたのだ。渡りに船でもあった。村のペンションに泊まって、この病院の素性を探るには限度がある。いくら外来患者とはいえ、一日中、病院の内外をうろつくことはできない。
入院が五日間だとすれば、その間にある程度の探りを完了してしまわねばならない。検査のための入院だから一日中ベッドにへばりつく必要はなかろう。逆にあちこちの検査室に出かけて行かねばなるまい。その機会を利用すべきだ。
バーバラは兄のひとり娘だが、知っているのは十二、三歳までだ。もの静かで、ひとりで人形遊びや本を読んでいる姿が記憶に残っている。その後、大学まで進み、コンピューター会社に就職したとの知らせは兄から受けた。兄も鼻高々だった。その直後だ。兄の心筋|梗塞《こうそく》、兄嫁の直腸癌と不幸が続き、バーバラは一年半のうちに肉親を失ってしまった。兄の葬式にはドイツに帰ることができたが、兄嫁の葬式にはとうとう行けなかった。悔やみの手紙だけはバーバラに出した。しっかりした内容の返事がひと月あとに来た。いかにも気丈な彼女らしい手紙だった。
そして二年後、今度は突然、今、ブラジルに来ているとの電話がはいった。それがフォルテ・ビーチ病院への入院の知らせだったのだ。何か悪い病気でもあるのかと、暗い気持になって問いただした。もう病気などはたくさんだという思いがあった。
「病気ではありません。不妊の治療のためです。妊娠するために来ました」
電話の声は明るく答えた。そうか、もう結婚したのかと、そのときはほっとしたのを覚えている。これで地下の兄夫婦も喜ぶだろうと思った。
しかしその後会ったときの口ぶりから、結婚はしていないように感じた。こちらからも問いただしはしなかった。本人が口にしたくないものを無理に吐かせるのは、暴力以上に野蛮なことなのだ。そんな権利は誰ももってはいない。
バーバラは、月に一回はやってきただろうか。幸せそうだった。両親の死の悲しみもどうやら乗り越えられたのだなと思い、安心もした。サルヴァドールの旧市街地区ペルリーニョを案内したり、バザールの市場でちょっとした買物もした。ドイツの町並とは違って、どこか雑然としたペルリーニョのたたずまいは気に入ったようだった。路上のテーブルに坐《すわ》り、水色や黄色、あるいはピンク色に塗り分けられた建物の壁を見上げて、叔父《おじ》さんはこういう風土に刺激を感じているのですねと言った。暗くくすんだドイツの街にいたら、絵も暗くなってしまう、少なくともドイツにとどまっていたら今の叔父さんの絵は生まれていないはずだとも言われた。
彼女がアパートを訪問したとき、壁やキャンバスに掛かっていた絵を見たのだろう。改めて言われてみると、確かにドイツに戻って、市街地あるいは山里でスケッチブックを広げている自分の姿は思い描けない。室内にこもってイマジネーションだけで絵筆をふるう姿は、なおさら想像しがたい。どんよりとした陽の下ではキャンバスやスケッチブックに向かおうとする気にもならなくなる。
色彩の狂乱、荒々しい原色の風土、照りつける陽光が、自分の絵に養分を与えている。バーバラの指摘でその事実に眼が向けられたと言っていい。
それ以後だ。サルヴァドールの街が今まで以上に好きになり、描く気力も倍加した。何年かぶりでペルリーニョの建物と坂道をスケッチし始め、一方でデフォルメした半具象の油絵も描き出した。この土地でしか描けない絵だと分かると、思う存分奔放な色づかいをしたくなる。サルヴァドールに初めから住んでいる画家は、この土地の良さが逆につかめないはずだ。他国生まれだからこそ、ブラジルの陽光と風土を新鮮な目でとらえられる。
バーバラがうまく妊娠したことは、二回目か三回目に会ったときに告げられた。どういう治療でそうなったかは訊かなかったが、バーバラはいかにも嬉しげだった。
病院も気に入った様子で、出産までそこにいるつもりだと言った。バーバラもやはりこのブラジルの明るさに魅了された様子がみてとれた。恋人も呼び寄せて、ずっとここで生活したらどうかと言ったこともある。〈その必要はないの〉と彼女はうっとりした表情で答えた。
バーバラが沈んだ様子を見せたのは、腹の膨らみがかなり目立つようになってからだ。お腹の中の赤ん坊は順調に育っているかと訊くと、にっこり笑って頷《うなず》いてはくれた。
最後に会ったときは、また元気を取り戻していた。バーバラの気に入っているペルリーニョのカフェで半日話し込んだ。叔父さんはずっとひとりで寂しくないのかと、真顔で質問され、内心でたじろいだ。
全くひとりではないと、はぐらかして答えるしかなかった。好きなときに会って話せる女友達は何人かいるが、一緒に住むほどまではお互いに考えないだけなのだ。しかしそんな微妙な心情まで説明するのは面倒くさかった。すると、子供は欲しくないのかと、第二の質問がぶつけられた。
これに対しては、欲しくはないと率直に返答が出てきた。自分の子供など、考えてみただけで気味が悪い。
「それは、叔父さんが本当に女の人を好きになったことがないからです」
バーバラは驚いた顔をして言った。「本当に好きになったら、その人との子供を妊《みごも》って育ててみたい」
それは男と女の差ではないかと、反論はしてみた。そんなはずはないとバーバラは首を振った。
「愛する人と家庭をもって、そこで二人の間にできた子供を育てていく。もうこれは人間だけでなく、動物全体の本能だと思うのです」
バーバラは譲らずに主張する。
「動物としての本能が欠けているのかもしれない。それとも、愛する相手が出てきていないのか」
そんな風に答えるしかなかった。
「きっと後者です」
バーバラは言い、しばらく考えたあとでつけ加えた。「でも、ひょっとしたら叔父さんの子供って、アトリエで描き続ける絵かもしれない。きっとそう。そうなると、叔父さんが愛しているのはミューズの女神──」
彼女は明るい表情になり、コーラのストローに口をつけた。
反射的に頭に浮かんだのはミケランジェロだ。彼には子供はなかった。欲しいとも思わなかっただろう。彼が欲しかったのはミューズの神の手助けだけだ。
「ショパンだってそう。あの人はいろんな女性を好きになったけど、子供はいらなかった。その代わり曲を書いた。それで充分だった」
「少し寂しい気もするね」
バーバラに教えられた気持になって答えた。
「でもそういう人たちもいないと、この世の中は成り立ちません」
どこか慰めてくれるような口調だった。
兄夫婦はいい娘をこの世に残してくれた。その娘がドイツを離れ、こうやってサルヴァドールに来ているのは神の手の導きだろうと、バーバラの美しい顔を眺めながら思ったものだ。
その彼女が自ら死を選ぶなど考えられない。
一体、彼女に何が起こったのか。手がかりはただひとつ、最後に交わした電話の内容だ。昼飯を町でとって帰ってきたとたん、アトリエの電話が鳴った。受話器をとると、バーバラのほっとしたような声が聞こえた。
「よかった。三回目の電話で、これが駄目なら諦《あきら》めようと思っていたわ」
バーバラは部屋からでなく、外来の待合室の電話を使っているらしかった。「一度会って、叔父さんに伝えたいことがあるの」
電話ではいけないのかと訊《き》き直すと、バーバラはそうだと言う。
「だけど、これだけは伝えておかないと。叔父さん、もしわたしの身に何か起こったら、病院の言い分をそのまま信じては駄目」
五日後の日曜日に会う約束をして、そそくさと電話は切れた。そして約束の日に彼女は姿を見せず、彼女の女友達からの連絡で事故を知らされたのだ。
バーバラは何を直接訴えたかったのか。
入院手続きをする際、窓口の事務員にバーバラ・ハースの名をあげて、滞在していた病室と主治医の名前を訊いた。事務員はコンピューターの画面をしばらく見ていたが、そういう入院患者はいないと首を振った。現在はいないが、二週間前までは確かにいたはずだから調べてくれと、執拗《しつよう》に食い下がった。係の男は今度は書類を出し、頁を繰ったあと、病室は滞在棟のB124、主治医はドクター・ツムラだと言った。
その主治医にはまだ連絡をとっていない。いや、とるべきかどうか、決めかねているというのが本当のところだ。
クラウスは窓辺から身を離し、ベッドに横になる。昼食はとらないように言われている。午後からさっそく検査を始めるためだろう。検査と検査のあい間に病院内をもう一度歩き回ってみるつもりでいた。
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黒馬に乗ったロベリオが病院の門を出て沼地に向かったとき、舞子は身がすくむのを覚えた。白馬に跨《またが》る寛順《カンスン》の顔をさりげなく見やる。橙色《だいだいいろ》の麦藁《むぎわら》帽子の陰になって、彼女の表情は読みとりにくいが、動揺している気配はない。
湿地を迂回《うかい》して、新しくできた道にはいる。
バーバラが倒れていた場所は、跡形もなく消え去っていた。
突然、先頭を行くロベリオが歌い出す。自分でリズムをとり、馬に跨がったまま上体を動かす。
歌詞は同じ発音の繰り返しだ。
「はいこれは、二人の楽器」
ロベリオが馬をとめ、ポケットから木片を取り出して寛順と舞子に渡した。手のひらに載るくらいの平べったい笛だった。
寛順が吹いてみる。舞子も真似する。思ったよりも高い音だ。柔らかい木の中をT字形にくりぬき、中の空洞に小さな木玉を入れ込んである。吹くたびにその玉が回転して乾いた音が出る。
「俺が手を上げたら、二人で思い切り笛を鳴らす。いいな」
ロベリオが笑顔を向けた。
ロベリオ、寛順、舞子の順にゆるい坂を登って行く。ロベリオが歌《うた》う。さっきと同じ歌だ。右手が上がるのを見て、舞子も寛順も笛を吹く。またロベリオが歌い出す。いつの間にか二人の吹く笛が、音頭のようになっていた。民謡の合いの手に似ている。人の声ではなく笛の音だから、祭り気分になってくる。
馬までが歩調を合わせていた。拍子は四拍子でも三拍子でもない。もっと複雑なリズムで、いくつかの旋律を終えると再びもとに戻ってくる。そのうち、ロベリオの手の動きを見なくても、笛の鳴らしどころが判るようになった。
寛順もロベリオの背に合わせて、身体《からだ》を動かす。笛を吹くところで舞子の方を振り向き、ピーッと鳴らす。ロベリオの合図がなくなると、寛順は大きく頷いてみせた。
丘の上まで行きつくとロベリオは歌いやめた。馬から降りて、手綱を木の枝に結びつける。寛順と舞子にも小休止を告げた。
「あの唄の踊り、あんたたちが習いたかったら、いつでも教えてやるよ」
ロベリオはステップを踏んでみせた。
「歌詞はどんな意味なの」
寛順が訊く。
「恋唄さ、片思いの。
あんたは俺を知らないだろうが、俺はあんたを知っている。あんたの名前と住所、通る道、好きな色、好きな食べ物。でもいつか来る。あんたが俺を知る日が。俺の名前と住所、通る道、好きな色、好きな食べ物──」
「簡単ね。唄の中味は」
「簡単。誰にでも歌える。子供から年寄りまで。バイーアの音楽ってそんなもの」
ロベリオは何か思いついたように言いさす。「ちょっと待っていてくれ。すぐ戻る」
ロベリオは身を翻して森の中にはいって行く。その後ろ姿を舞子はじっと見つめた。
「舞子、大丈夫よ」
こちらの心細さを察知したように寛順が言った。「馬の様子を見れば分かるわ。恐いことにはならない」
白馬と黒馬は草を食《は》み、舞子の栗毛は、何か命令を待つかのように左目でこちらを眺めている。
「ロベリオがわたしたちをこちらに連れてきたのは、あのことを確かめるためよ。現場はすっかり変わった。だからあの事件もなかったのと同じ。忘れろ、と言いたいのだと思うわ」
寛順が、帽子で陰になった顔を向ける。「でもね。あのロベリオ、気の良いところがあるわ。唄を聞いていても、そう思うでしょう。どこかでわたしたちをかばっていてくれている」
「忘れていなくても、忘れたふりをしておけという意味?」
「そう。それを彼は願っている。でなければ、こんな風に現場の前を通るはずはない。乗馬を練習する場所なんて、他にもいっぱいあるはずだから」
二人は倒木の上に腰をおろす。
寛順が笛を口にして勢いよく吹いた。鋭い音は森の奥深く吸い込まれていく。不安な気持が鎮まりそうで、舞子も吹く。音色は微妙に違うが、響き渡る強さは同じだ。
「バーバラは病院の重要な秘密を知ったのよ。それをどこかに漏らそうとしたから殺された」
寛順は言い、また笛を吹く。
「どんな秘密?」
口の中が急に渇く。
「今に分かるわ」
寛順は短く答え、笛を吹き鳴らす。「多分ロベリオ、慌てているわ。何事かと。あの人、見かけはぶっきらぼうだけど、悪人ではない」
そう言ってまた吹く。舞子があっけにとられていると、後ろのほうで音がしてロベリオが姿を現す。両手いっぱいにパパイアを抱えていた。
「笛はそんな具合に吹くものではない。非常ベルとは違う」
それでもどこか安堵《あんど》したように言った。「もぎたてのパパイアだ。持って帰って冷蔵庫に入れておくといい」
ロベリオは鞍《くら》についている袋にパパイアの実を入れ、馬に跨がる。舞子と寛順も鞍に手をかけた。
「どこか行きたいところがあれば」
ロベリオが訊いた。
「できれば海岸の方」
舞子が答える。前に渚《なぎさ》を通ったのは乗り初めのときで、周囲の景色を眺めるゆとりなどなかった。
「それでは出発」
ロベリオの号令に合わせて、寛順が車掌のように笛を吹いた。
「下り坂は用心。唄ってはいけない」
ロベリオが注意する。
湿地帯まで狭い道を一列になって下る。
海岸に出ると、日射しが強くなる。昼顔に似た植物が砂地の上を這《は》い、ピンクの花をつけていた。
馬は波打ち際すれすれのところで並足になった。やはりロベリオ、寛順、舞子の順だ。もう海も波も見渡せるだけの余裕ができている。前を行く寛順が、背筋をピッと伸ばして手綱を握っている。つば広の麦藁帽子とノースリーブのシャツがよく似合う。映画の場面のようだ。
ロベリオの黒馬が速度をあげた。後ろの二頭もそれにならうが、乗っている人間を気づかうような走り方だ。振り落とされそうになれば停まってくれる、そんな思いやりを栗毛に感じた。
病院の庭に続く浜まで来たとき、椅子《いす》に坐《すわ》っている女性が手を振り出す。寛順と舞子の名前を呼んでいる。ユゲットだった。
「あんたたちの友達だ。じゃ、ここでレッスンは終わり」
ロベリオが言った。寛順と顔を見合わせながら馬から降りる。
「これは?」
寛順が木笛を見せる。
「プレゼント。でも無闇《むやみ》やたらに吹いてはいけない」
ロベリオはウィンクして注意する。舞子と寛順に三個ずつパパイアをやると、黒馬に跨がった。白馬と栗毛の手綱を握って悠然と帰っていく。
「二人とも上手になったわ」
近づくとユゲットが言った。手許に小さな本が置いてあった。
「馬がいいのよ」
寛順が答える。近くの寝椅子を運んできて、屋根の影にはいるように三つをうまく並べた。
「乗馬は無理、水の中が一番いいって主治医は言うの。ほらプールで水球みたいなゲームをやっているでしょう。あれ」
「知っている」
プールサイドでいつも見かける遊びだ。
「頭に色のついた帽子をかぶるのが嫌なの。それよりはひとりで海に出たほうがいい。陽が傾いたら泳ごうと思っている。あなたたちは泳いだ?」
舞子は首を振る。海辺にいながら、海にはいるのはむしろ稀《まれ》だった。いつでも泳げると思う気持が、却って災いしているのかもしれない。
「でも、カンスンやマイコと違って、わたしの醜い身体は人に見せられない」
「そんなことないわ。お腹に赤ん坊をもっている女性って美しい。もう四、五年になるかしら、妊婦だけを撮った写真集を見たことがある。美しいと思った。みんな満ち足りた顔をしていて、嫉妬《しつと》さえ感じた」
寛順がユゲットに反論する。「いずれ、わたしたちも、ユゲットと同じ身体になるのだから」
相槌《あいづち》を求められて舞子も同意する。
「わたしに赤ちゃんができたら、プールよりも海で遊ぶ。波遊びをしたり、砂でお城を作ったり。だから、真黒に陽焼けするわ。構わないの。馬に乗るのは今だけ」
「三人ともお腹が大きくなったら、わたしも心強い。何をするのも一緒」
ユゲットは膨らんだ腹部に手をやった。
左側にある小屋から、男たち五人がカヤックを運び出していた。服装からして二人の黒人は病院の職員だ。中年の白人男性三人が救命ジャケットを着るのを手伝っている。三人はどうやら初心者らしく、注意を受ける顔も真剣だ。
準備ができると、ひとりずつカヤックに乗り込み、指導員から船体を波に向かって押しやってもらう。三人とも必死で漕《こ》ぎ出す。どうにか波に直角に進んではいるものの、速度が出ない。指導員が心配気に眺めている。
「ドクター・ツムラと会ったけど、だいぶ調べが進んだらしいわ」
ユゲットが言った。
「バーバラのことね」
寛順が低い声で応じる。
「死体を発見した職員に会って確かめたらしいの」
舞子は周囲を見渡す。警備員の姿はない。カヤックの三人は岸から四、五十メートル離れたところでUターンする。波と波の間で素早く身体の向きを変えるのがコツらしい。
「職員たちは音がしたのを聞きつけて現場に駆けつけたらしいの」
「自分で飛び降りたか、突き落とされたかは、調べようがないのね」
寛順が念を押すと、ユゲットは首を振った。
「仕方がないので、ドクター・ツムラはあの日のバーバラの足取りを調べてみるつもりらしい」
「屋上には誰でも簡単に上がれるの?」
舞子が訊《き》く。
「屋上には星を観察するための望遠鏡が備えつけられているので、受付で鍵《かぎ》を貰《もら》えば誰でも上がれるらしいわ。でもバーバラが鍵を借りた形跡はない」
「どうやって上がったのかしら」
舞子は不思議がってみせる。ツムラ医師がバーバラの死因をつきとめようとすればするほど、彼の立場は危険になる。いや彼だけでなく自分たちも怪しまれるのだ。舞子はさり気なく寛順の顔をうかがった。
「それが判ればね」
寛順は何か考える表情で言う。
「わたしは突き落とされたのではないかと思うの」
ユゲットが呟《つぶや》いた。
「どうして?」
寛順が振り向いた。
「無理に連れて行かれて、数人がかりで屋上から落とすのよ。前以《まえもつ》て注射か何かで眠らせておけば、抵抗もされない。ドクター・ツムラの話では、屋上には腰の高さの手摺《てすり》しかなく、人ひとり投げるくらいは簡単らしいわ」
「ドクター・ツムラも、ユゲットと同じ考えなの?」
寛順が確かめる。
「可能性のひとつだと考えているようよ」
落下死体の発見者たちひとりひとりに質問し、当日のバーバラの行動を掴《つか》もうとするツムラ医師のやり方は、やはり危険だ。ツムラ医師に事実を告げるべきではないだろうか。
カヤックに乗った三人が岸に近づく。そのまま渚に乗り上げるつもりだったらしいが、波にあおられてカヤックもろともひっくり返った。哀れな恰好《かつこう》で砂浜に打ち上げられる。
「カヤックって思ったより難しいのね」
寛順がその有様を眺めて言った。「一度やってみようかと思ったけど」
「わたし二度、乗った。海ではなく、沼地まで運んでもらって。波がないからなんとか乗れた」
「沼というのは森の傍?」
舞子は湿地帯に舟を浮かべるのは困難だと思って訊く。
「いや、村に行く途中にある沼で、水深は一メートルか二メートル。ワニがいると指導員が脅かすので、恐くなっちゃった。もちろん嘘《うそ》でしょうけど、ワニがいなくてもヘビはいそうな気がした」
確かにブラジルにいると、一番安心して見ていられるのが海で、その次が川、最も不気味なのが湖か沼。特に沼や湿地帯になると、何が出てくるか予想もつかない。
「お昼にしようか。あなたたちが貰ったパパイアを食べよう」
ユゲットが立ち上がる。
カフェテラスのテーブルにつき、注文を取りに来たウェイターにパパイアを切ってくれるよう頼んだ。
「バーバラの叔父《おじ》さんと本館の中で偶然会ったわ。入院になったらしい」
「何か分かったの?」
寛順が尋ねる。
「入院している間に、もとの主治医に会うと言っていた」
「ドクター・ツムラね」
舞子が言う。「本当はドクター・ヴァイガントにも会うといい。寛順の主治医よ。バーバラの死体が見つかったとき、彼が傍にいたらしいの」
「変ね。ドクター・ヴァイガントが、バーバラの死体の傍にいたということ自体、不自然な気もする」
寛順が納得できないといった表情で首をかしげた。
ウェイターがサンドイッチとパパイア、ビールとジュースをもってくる。パパイアは形良く切り分けられていた。
「おいしい」
寛順がひと口食べて言う。「ロベリオはおいしい実のなる木を知っているのね」
「あなたたち気に入られているわよ。わたしのときには、そんなサーヴィスしてくれなかった」
ユゲットがわざとむくれてみせる。「案外、白人のわたしより、東洋人のあなたたちに親しみを感じているのかもしれない」
「そうかしら」
舞子はためらいがちに言う。
「彼のことよく知らないけど器用さでは職員随一よ。乗馬はするし、カヤックも教えるし、カポエイラ・ダンスやサンバもうまい。一度、プールで彼が泳ぐのを見たけど、バタフライなんて、もう本格的。スポーツマンで、遊び好きというところかしら。ここにいる限り、彼と仲良くなって損はしない」
ユゲットが気楽に答えるのを、寛順は真剣な顔で聞く。
しかし、舞子はバーバラの死体を見つけたときの彼の振る舞いと声が忘れられない。漏らせば殺すとは言わなかったものの、それくらいの凄味《すごみ》は態度にこめられていた。
ユゲットが言うようにスポーツ万能だとすれば、彼はこの病院の用心棒、あるいは刺客のような役割を任されているのかもしれない。馬の上で歌ってみせたり、パパイアの実をプレゼントしたのは、あくまでこちらの目を欺くためではないのか。
寛順はビールを飲み干して庭の方に眼をやっている。芝生の上に容赦なく陽が降りそそぎ、スプリンクラーが水しぶきをあげながら回っている。しぶきが作る虹《にじ》の向こうに、大理石の野外チェス盤があった。緑の中に、白と灰色の大理石で碁盤の目が描かれ、その上に白と黒のチェスが向かい合う。ゲームは、ある時点で中断したままなのだろう。その緊張感が駒《こま》の配置から伝わってくるようだ。
陽が傾いてテーブルの近くに日陰がなくなったのを機に席を立った。
「わたしたち二人のこと、ロベリオは安心しているみたいね」
階段際でユゲットと別れたあと、寛順が言った。話の深刻さを紛らすように、木の笛を軽く鳴らす。舞子はとてもそんな気分にはなれず、手の中で握りしめるだけだ。
「このまま安心させるべきだわ」
「そうね」
舞子も頷く。しかしその行為がどこかでバーバラを見捨てることにつながっているのではないかと思う。
「ビールがきいた。少し眠るわ」
寛順は舞子に笑いかけ、自室の戸を開けた。
舞子の部屋はきれいに片づいている。掃除は午前と午後の二回されていることもある。部屋係と顔を合わせないので、不在のときを見計らってはいってくるのだろう。
ベランダに出て、ハンモックに身を沈めた。初めのうちは窮屈さを感じたが、馴《な》れると宙ぶらりんの姿勢に快さを感じる。空を眺め目を閉じているうちに、二時間も眠り込んだこともある。
馬に跨《また》がり、ロベリオの後ろについていく光景が頭に浮かんだ。ロベリオが歌ったサンバのリズムまでが蘇《よみがえ》ってくる。
舞子は目を開けて、ヤシの木立を眺める。この病院に来て以来、目の前に実際にある風景と、思い出す光景の間に、少しずつ差がなくなってきている。
例えばハンモックの中から見える青空と中庭の緑だ。こうやって目を閉じても、空と樹木は脳裡《のうり》から去らない。去るどころか、瞼《まぶた》が外からの刺激を断った分、よけいに鮮やかに思い出される。こうした変化もブラジルでの生活が板についてきた証拠だろう。
どこかで蝉が鳴き始める。鳥の声のようにかん高い鳴き声だが、鳥と違って息を継ぐための小休止がない。一分も二分も同じ調子で音を出し続ける。
風が少し出てきた。スコールの前ぶれかもしれなかった。
ハンモックから降りて、部屋にはいり、シャワーをあびた。髪をとき、化粧をし直した。
診察の前にはいつもそうやって身だしなみを整えている。
鏡の前に立つ。陽焼けのせいか、少しばかりやせて、身体《からだ》が引き締まった感じがある。首筋も二の腕も同じように黒くなっているので、胸元の白さと比べなければならない。
Tシャツもブラウスも、黄色やピンクが似合うようになった。サルヴァドールで買った黄色のワンピースは薄手の合成繊維なので、洗って絞らずに干しておくと、そのまま着られた。日本円にして千円の代物を、今ではほとんど三日おきに着ている。夜着る時は、これに黄色のヘアバンドをし、昼間は白いズックとの組み合わせがいい。
今もその服装だ。布製の白いポーチを肩から吊《つ》るし、部屋を出た。
水平線上に黒雲が出ていた。次第にこちらまで広がって来る気配だ。知らぬ間に、スコールの前兆を見分けられるようになっていた。
回廊を通るとき、ヴェールをかぶった女奴隷の像の前で足をとめた。何か訴えるように、顔をこちらに向けている。それがバーバラに見え、彼女が呼びかけているのではないだろうかと思うときがあった。
診察室で、ツムラ医師に体温表をさし出す。舞子が毎朝つけているものだ。
「間もなく排卵ですね」
表を見て主治医は言う。「それにあわせて受精を試みます。ドクター・ライヒェルからの連絡でも、あなたの心理状態は申し分ないということです」
あの背の高い心理学者とツムラ医師が自分のことを話し合っている光景は、あまり想像しにくい。直接面談するのではなく、メールでのやりとりかもしれなかった。
「受精の方法は簡単です。静脈麻酔で眠っている間にすべて終わります。苦痛はありません。いやむしろ、夢見心地の間にすべてが終了します」
「夢見心地?」
「そうです。通常の受精と本質的には同じですから」
ツムラ医師は微笑を浮かべて答える。「成功率は百パーセントで、これだけは普通以上です」
いよいよ来るべきものが来たのだ。嬉《うれ》しくて飛び上がりそうになる半面、不安もある。ユゲットの膨らんだ腹部を思い出した瞬間、気分が少し楽になった。
「受精の日は追って知らせます。何か質問は?」
ツムラ医師の日本語が、最初の頃と比べて上手になったと思う。言葉だけでなく、仕草も日本人のように控え目になっている。もっともこれは舞子に接しているときだけなのかもしれないが。
舞子は白状するなら今しかないという気がした。ロベリオから口止めされ、寛順からも厳しく注意されてはいたが、このまま黙っていれば、ツムラ医師自身が危険にさらされる。それを見過ごしていいはずはない。
最後の質問を待つようにして、ツムラ医師は机の上に両手を重ねた。
診察室の中には二人の他、誰もいない。看護婦はツムラ医師が呼ばない限り、はいって来ない。
「バーバラのことは調べがついたのですか」
気を鎮めながら訊《き》いた。
「今、あの日の足取りを調べているところです」
ツムラ医師の表情が引き締まる。
「彼女を見たのは、多分わたしが最後です」
わたしたちと言う代わりに、わたしと言っていた。それでいいと自分で納得する。ツムラ医師の顔色が変わった。
「どこで見たのですか」
「病院の外にある沼地です。首から血を流して死んでいました。いえ、駆けつけたときは、まだ最後の息があったのかもしれませんが」
「舞子さん、誰かと一緒だったのですか」
ツムラ医師の目が光った。
「ロベリオです。乗馬のレッスン中でした。湿地帯のところまで来たとき、女性の悲鳴が聞こえて、そこにバーバラが倒れていました」
何故か涙がこみあげ、舞子はハンカチを取り出す。
「その死体を病院まで運んだのは?」
声を低めて、ツムラ医師が訊く。
「ロベリオがいったん病院まで戻り、ワゴン車に乗った男たち三人が来て、死体を運び去りました」
「じゃ、あなたはロベリオに口止めされたのですね」
沈黙のあと、ツムラ医師が舞子の顔を覗《のぞ》き込むようにして問いかける。
舞子は頷《うなず》く。
「舞子さん、ありがとう」
ツムラ医師はわずかに表情をゆるめる。「ロベリオはぼくも知っています。あとの三人は覚えていますか」
舞子は首を振る。
「三人とも黒人で、病院の警備員のようにも見えましたが、誰というふうには覚えていません」
「そうでしょうね」
ツムラ医師は納得し、黙った。
これで良かったのだと舞子は思う。寛順との約束を守り通すよりも、主治医にこうやって危険信号を送っておいたほうが結局はいいのだ。
「舞子さんも苦しかったでしょう? こういう悲しいことを自分の胸の内にしまいこむなんて」
ツムラ医師はゆっくり言葉を継ぐ。「でも、これからは舞子さんに危害が及ぶようにはさせません。実は、ぼくの宿舎の郵便受に、差し出し人のない手紙が入れられていたのです。手紙といってもメモみたいな英文です。絵葉書に手書きで、封筒も病院の売店に売っている航空便用のものです」
「何と書いてあったのですか」
「病院内の地図と、入口のドアの暗証番号、それにここを調査する必要があるという添え書です。文字はブロック体なので、男文字か女文字か判断しにくいのですが」
「病院のどの場所を調べろというのですか」
もう病院のほうでツムラ医師の行動に疑惑をいだき、何か働きかけているのだろうか。
「ぼくも、病院の中にそういうセクションがあるのは知りませんでした。しかしいったい誰があの手紙をよこしたのか。その動機もつかめずにいるのです」
「どうするつもりですか」
「すぐには動けません。とくに舞子さんから、今のような話を聞いたあとでは、用心深くなります」
主治医は考える顔つきになる。「舞子さんが彼女の死体を見た場所は、そのままになっていますか」
舞子は首を振った。
「ショベルカーがはいって、あっという間に林道ができました。その事件の直後三、四日のことです」
「偶然ではありませんね」
ツムラ医師は唸《うな》った。
「彼女の大きくなったお腹が記憶から消えないのです。本当に可哀相《かわいそう》でした」
「そうでしょうね」
ツムラ医師は何度も頷く。「言いにくいことを告げてくれて、舞子さんありがとう。いいですか、これから先も、ロベリオには怪しまれないよう、平気な顔を見せておくのです」
「はい」
舞子は答える。寛順には申し訳なかった。しかし少なくとも彼女の名前は出していない。最低限の約束は守ったつもりだ。
ツムラ医師は診察室のドアを自分で開けてくれた。舞子の目を直視して、「アテー・ローゴ」と優しく言った。
外来ホールを通って回廊まできたとき、ツムラ医師の郵便受に投げ込まれた手紙を思い出す。あるいはもう既にツムラ医師は、相手の術中にはまりつつあるのではないか。そうであれば、バーバラを死に追いやった見えない組織は、早晩こちらにも手を伸ばしてくるに違いない。ツムラ医師が言ったように、知らぬふりを決め込んでいるだけでいいのか。それとも何か対処法を考えたほうがいいのか。
舞子は、ヴェールをかぶった女奴隷像を眺めながら考えた。
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舞子を見送って診察室のドアを閉めたあと、ツムラは暗然として椅子《いす》に坐《すわ》り続けた。
ロベリオと一緒にバーバラの死体を運んだ男たちは、十中八九、彼女の落下死体の傍にいた連中と同じだろう。いずれも守衛室に所属する警備員で、そのうち二人には直接話を聞いていた。一番下っ端のザカリアスという男は、本館の屋上を何気なく見上げたら、女性が柵《さく》から上半身を乗り出していたと証言した。何をするのだろうとなおも眺めていると、はじかれたように屋上から宙に飛び、落下したのだと、身ぶり手ぶりを混じえて言った。もうひとりの警備員は音を聞いて駆けつけ、現場でドクター・ヴァイガントとザカリアスに会ったと話してくれた。
だが、事実が舞子の言う通りだとすれば、ザカリアスが嘘《うそ》をついていることになる。バーバラが自分で飛び降りたか、何人がかりで死体を抱え上げて放り投げたかは、遠くからでも当然見分けられる。
ヴァイガントはどうだったか。彼は今、隣の診察室にいるはずだが、一昨日宿舎に向かう際にそれとなく問いただしていた。
「どうしてそんなことを気にするのだ」
彼は不機嫌な顔になった。「何のためにひとりの妊婦が殺されなければならないのだ。患者に死なれた主治医はいろいろ思い悩むものさ。自分を責めたがる。きみのやったことに落度はなかった」
「コンピューターで彼女のカルテを取り出そうとしたんだ。全部抹殺されていた」
ツムラがつけ加えると、彼は瞬時考える顔つきになった。
「俺も一度苦い体験をしたことがある。子宮|癌《がん》の患者で、術中に死んだ例があったんだ。あとになって統計が必要になり、コンピューターで検索しようとしたら、出て来ない。結局、管理部門のミスだと判明した。死亡患者を別のディスクに移すとき、間違えて抹消してしまったらしいんだ。きみのケースもそうかもしれない」
ヴァイガントとのやりとりはそこで終わった。
もしヴァイガントがあの現場に先に来ていなければ、バーバラの死体を病理解剖に出していたはずだ。具体的には彼がどんな言葉を吐いたかは忘れたが、頭から飛び降り自殺だと決めてかかっていたので、こちらとしてもそれに抗《さから》えなくなってしまった。
バーバラの診療記録の消滅は、やはり故意になされたのだろう。そしてヴァイガントがあの場に居あわせていたのも作為あってのことなのだ。
ツムラは机を離れ、外来担当の看護婦に声をかけて、待合室に出た。他の診療科の患者がまだ十数名、ソファーに腰かけていた。
いつものように正面玄関から駐車場の方へ足を運ぶ。
車の進入路をスーが塞《ふさ》いでいる。わざわざ羽根を広げて通せんぼをしているので、車の助手席から男が出てくる。スーは横に逃げるのではなく、そのままスタスタと道の向こう側に歩いて行く。車は後ろからついていくしかない。
ツムラは本館の側面まで来て足をとめる。半地階に続く石段の入口は庭木に遮られて、通路からは見えない。一度その近くを通ったことがあったが、霊安室への入口かと思ったくらいだ。それほど人の出入りは目立たなかった。
ツムラはさり気なくその前を通り過ぎ、また庭の方に足を向けた。
あのメモを書いた人間は一体誰なのか。こちらがバーバラの死に疑いをもっていることを知り、おびき寄せるために郵便受に入れたのか。それとも、舞子と同じように、何かの手助けとして行動したのだろうか。
郵便受にはいっていたメモのことを、舞子は全く知らないと言った。嘘ではなかろう。彼女の表情がそれを物語っているし、第一、メモに添えられていた英文には誤りがない。舞子にあそこまで正確な英語が書けるとは思えない。
部屋に上がり、もう一度メモを取り出して眺める。〈冷凍庫〉〈コンピューター室〉〈バーバラが興味をもっていた場所〉〈巡回時刻〉、その四つが英文で書かれているすべてであり、あとは扉の入口の暗証番号らしきものが、手書きの地図に添えられている。
男文字か女文字かの判断はつけにくい。わずかに数字の丸みが女文字のような印象を与える。
絵葉書の写真は、病院の先にある灯台を上空から撮ったものだ。入江と教会、海亀の博物館が写っていた。病院の売店で手にはいる絵葉書だ。
仮に自分をその場所におびき寄せる文書であれば、もう少し英文が長くなり、いかにもそれらしい文句を書き連ねるのではないか。このメモはそれとは逆に淡々としている。執拗《しつよう》さが感じられない。
シャワーをあびたあと、七時過ぎに宿舎の中央にある食堂に足を向けた。
病院内の豪華なレストランと違って、食堂は定食しか出さない。内装も大学の食堂と大差ない。細長いテーブルが十数個並べられ、その間に天井まで届く観葉植物が配置されている。そのうちの傑作は、窓際にある巨大サボテンで、その先端が天井に食い込んでいるため、柱かと見間違うほどだ。
その横のテーブルにヴァイガントが坐っていた。ツムラはトレイをかかえ、彼の真向かいの席を取る。
ヴァイガントがツムラに気づき、テーブルの上の赤ワインを勧めた。一本をひとりで空けるつもりだったのか、色白の顔に赤味がさしている。夕食には、水代わりにワインを飲むのが彼の習慣だった。
「俺がサンパウロ時代、訴訟に苦しめられたのは知っているね」
ヴァイガントが不意に言った。
ツムラは頷く。仮死状態で生まれた赤ん坊に運動機能障害が出たため、主治医であったヴァイガントが訴えられたのだ。しかも出生の三年後であり、若い弁護士が両親の話を聞きつけて、訴訟に持ち込んだのが発端だった。一年半続いた裁判は、結局ヴァイガントに落度はなかったという判決を出した。
「今日、救急部に妊婦が運び込まれて、俺が呼ばれたんだ。明日なら、きみが当番日で呼ばれたのだろうがね」
ヴァイガントはワインを飲み干し、ステーキにナイフを入れる。
「交通事故か?」
「そう。運転していたのは亭主だ。センターラインを越えて対向車が来たので、慌ててハンドルを切って、逆に路肩の岩に激突した。居眠り運転だったのだろう。亭主のやつ、頭から血を流していたが、俺の顔を見て真青になった。俺もぎょっとした」
「きみを訴えた弁護士か?」
ツムラの問いに、ヴァイガントはしかめ顔で頷《うなず》く。
「一瞬その場から立ち去ろうかと思った。あの裁判で、どれだけ苦しんだか。時間をとられたくらいならまだいい。裁判で、こちらの医療の技量を相手からトコトン貶《おとし》められると、本当に心身共に参ってくる。その悪夢をもたらした張本人が目の前にいるんだからな。吐き気がしたよ」
「向こうはどう言った?」
「泣き出した」
ヴァイガントは蒼《あお》ざめた顔で答える。「母子とも救ってくれと言うんだ。結婚五年目にして、ようやくさずかった赤ん坊らしいんだ」
ヴァイガントはふっと息をつく。
「俺は、最善を尽くすとだけ答えて手術室にはいった」
「助かったのか」
「骨盤の骨折はあったが、子宮の損傷はなかった。帝王切開で、七ヵ月の胎児を無事とり出せた」
「母体のほうは?」
「肋骨《ろつこつ》も折れて気胸になっていた。これは外科に頼んで、二、三ヵ月もすれば全快する見込みだ。あの弁護士、女房の笑顔を見、保育器の中の赤ん坊と対面したとき、俺の手を握ってボロボロ涙を流したよ。三年前、あなたには実に申し訳ないことをしたと謝った」
「良かったじゃないか」
ツムラは慰める。
「偶然だろうね。一週間の休みをとって、この近くに滞在している間の事故だったらしい。よその地域だと助からなかった」
「そうだろうな」
フォルテ・ビーチ病院に運び込まれたからこそ、母子ともに助かったわけで、ヴァイガントの指摘は誇張でもない。
ツムラは、ヴァイガントが勧める二杯目のワインは断った。
「ところで、あの不幸な患者の足取りはつかめたかい」
あらかた食事を終え、ヴァイガントはワインだけを口にしていた。
「彼女か」
ツムラは名前を出さず、右手で落下する仕草をしてみせる。「おおよそは判った」
「それで」
ヴァイガントの眼がじっとこちらに注がれる。
「昼飯をとったあと部屋を出たらしい。どこに行ったかは知らない。病院の外でないのは確かだ」
まだそこまでは確認していないが、ツムラはさり気なく告げる。
「屋上へはどうやって行けたのか?」
「鍵《かぎ》はあの日かかっていなかったらしい。警備員から聞いた」
それも嘘だった。そのあたりの事実を確認しようと思った矢先に、舞子の告白を聞いたのだ。
「何か悩みがあったのだろうね」
ヴァイガントの顔に酔いが出ている。目もとが赤いのに、視線だけは相変わらず鋭かった。
「胎内にいる赤ん坊のことで悩んでいたのは確かだ」
「奇形か?」
「そう。超音波で判明していた。それでも生むと言っていたがね」
「それだな、原因は」
ヴァイガントが言った。「心理的な援助はジルヴィーがしていたと思うが。可哀相なことをした」
ヴァイガントがしんみりとした口調になる。「しかし、もうすべて済んだことだからな」
「そうだな」
ツムラは答え、ステーキを口に入れた。
食堂内に人が増え、周囲がざわつき出す。賑《にぎ》やかなのは、飲み放題のアルコールのせいもあった。
「きみの疫学調査のほうは進んでいるのか」
ツムラは訊《き》いた。生理前におこるさまざまな不定愁訴がヴァイガントの研究主題だった。性格と不定愁訴の関係、都市在住者と山村地域の住人での愁訴の比較に、テーマを絞り込んでいた。
「なにせ数をこなさないと説得力がないので、根気がいる」
「少しは結果が出ているのだろう?」
「まあな。一番目立つのは、症状の社会文化的な伝播《でんぱ》だろうね。母親に生理前の不定愁訴があれば、その娘にも出るようになる。体質の遺伝というより、一種の学習効果だろう。同じように、情報のいきとどかない山村の女性には症状が出にくい。労働条件は厳しいはずなのに、生理前症候群という考え方を知らないので、症状も出ない。面白いもんだよ」
「じゃ、結果はもう出たようなものだ」
「あとは例数を重ねていくだけだ。各群二百例ずつ集めれば文句は出ないだろう」
「いい研究だな」
ツムラはお世辞ぬきで言った。動物実験や臨床例に基づく研究には多くの医学者がとびつく反面、最も敬遠されるのが、足でデータを集める必要のある疫学調査なのだ。フィールドワークなど、臨床医がするべきことではないと言う連中が多いなかで、ヴァイガントは地道にデータを集めていた。
ツムラが食事を終えると、二人連れだって食堂を出た。
満天に星が輝いていた。いい夜空だとヴァイガントが空を眺める。同僚から誉められたせいもあって、上機嫌だ。自分の宿舎の前で別れるとき、ツムラに「ボーア・ノイチ」と手を上げた。
ツムラは階段を上がりかけて、郵便受に眼をやる。中はからっぽだった。
階段をゆっくりのぼった。
まだ決めかねていた。ヴァイガントがバーバラの死について何か知っているのは確かだ。しかし、郵便受にはいっていたメモは、たぶんヴァイガントのあずかり知らぬところだろう。
自室の明かりをつけ、ベランダに出る。風が心地よい。椅子《いす》に坐《すわ》った。薄暗がりのなかで考え続ける。
メモが仮におびき寄せの道具だった場合、自分もバーバラと同じような処理の仕方をされるのだろうか。自殺に見せかけるのは不自然なので、事故死が装われるかもしれない。一番手っ取り早いのが水死だ。夜の海を泳いでいて波にのまれたとするのは、さして難しくない。あるいは、病院内を歩いていて強盗に襲われたとする方法もある。警備員たちが口合わせをして証言すれば、警察も疑いをはさむ余地がなくなる。
万が一に備えて遺書めいたものを誰かに渡しておくべきだろうか。例えば、サンパウロの長兄に手紙を書いたほうがいいのか。
暗い海の方角に無数の星が散らばっている。
マリアのことが思い出された。
彼女の死も突然だった。一週間前まで元気で笑っていた顔、弾んでいた肉体が、ある一瞬を境にして動かなくなってしまう。冷たくなった身体を前にして、この世界には何ひとつ働きかけるものが残されていなかった。
どんな大きな山でも少しは削り取れる。どんなに広い海でも、その一部を埋め立てて形を変えることができる。
しかし人の死の事実だけは、一ミリとてつき崩せないのだ。
残された者にできるのは、死をこちらの側で飾ることでしかない。ちょうど愛する人の写真や肖像画を、廊下に掛けたり、あるいは寝室に置くようにだ。絵や写真にまでしなくても、ある者は心の奥底にしまい込んでいるだろうし、ある者は思い出の木を植えるかもしれない。またある者は、二人で訪れた場所に年に一度立つかもしれず、また、愛する人の墓を毎月のように訪れることもあろう。
自分はそうした具体的な処し方は何ひとつしてこなかった。強いていえば、星空のどこかで、マリアがこちらを見ているような気がした。雲ひとつない夜空に星があらわになっているのを眺めていると、決まってマリアのことが思い出された。暗い舞台でマリアがスポットライトをあび、自作のコルデルを朗読する姿が立ち現れる。
終わると立ち上がり、にっこり笑う。舞台の袖《そで》に引っ込んで、〈どうだった?〉とツムラに訊く。ツムラが頷く。〈良かったよ〉
マリアのつくったコルデルは、全部でいくつくらいあったろうか。二十は下るまい。そのどれも文字にはしていない。この耳と目が記憶しているだけだ。森の鳥の話、野原の草の話、星座の話、歌う岩の話──。
日本に留学しているときも、ブラジルを舞台にしたそれらの話をことあるごとに思い出した。稲妻を伴う日本の台風に、マリアのスコールの話を重ね合わせもした。日本の花火と、マリアのつくったカーニバル用のコルデルを比べたこともある。
今夜もマリアは星空から見ていてくれるはずだ。
腕時計を見る。十時半だ。
ツムラはベランダの戸を閉め、シャツの上から白衣を着た。夜目に白衣は目立つが、それも計算のうえだ。
右手には古びたノートと、学生時代に使った病理学の教科書を持った。ノートの間に、郵便受にはいっていた絵葉書を挟み込む。診察のときに欠かさないネクタイはしないほうが自然だ。研究の途中で用事ができ、現場に急いでいるという恰好《かつこう》にしたかった。
星明かりの下を、周囲には眼を配らず、真直ぐ歩く。通路から脇《わき》にはいると、水銀灯の明かりは届かなくなる。
半地下への階段を降り、そこで初めて診察用のライトをつけた。暗記していたコード番号を押す。ステンレスの扉についた把手《とつて》を回すと、内側に動いた。
廊下のスイッチを押すかどうか迷ったが、昼間外から見た限りでは、一階の庭側には窓は一個も設けられてはいなかった。明かりをつけても外に漏れる心配はない。それより、暗がりのなかで行動するほうがおかしい。
リードランプを押すと、廊下が明るくなる。掃除がいきとどいているだけでなく、廊下に何ひとつ置かれていない。まるで大きな金庫の内部と同じで、左側にいくつかある扉の上には標示板さえなかった。
エレベーターで六階まで上がった。動揺はなかった。誰かと会っても、堂々と言い逃れするつもりでいた。
六階の廊下も窓はなく、右側に三つのドアが並んでいるだけだ。一番奥のドアまで歩き、メモに従って暗証番号の通りにボタンを押す。
室内はなるほどコンピューター室で、壁いっぱいに張られたパネルが目をひいた。世界の大都市がほとんど網羅されている地図だ。何かのネットワークであるのは明らかだ。ツムラは白衣からカメラを出してパネル全体と、室内の様子を八枚に分けて撮った。
明かりを消して部屋を出る。ひとつの部屋をじっくり調べるよりも、三部屋の構造をまず大雑把《おおざつぱ》につかみたかった。
真中の部屋も、奥の部屋と造作はほとんど変わらない。パネルの中に描かれた都市名がわずかに変化しているだけだ。
地図上のネットワークが何を意味しているのか。あとで写真を引き伸ばしたときに比較すれば、違いは判るかもしれない。ツムラは同じように、室内の配置をカメラにおさめる。
最後の部屋にはいる。想像していた通りの造りだ。冷凍庫の前に立って、正面の様子を撮影する。
メモを見て冷凍庫のダイヤルを回した。中は二重構造になっていて、中仕切りの向こうにもうひとつ冷凍庫があった。
身体が冷えきる前に、ロッカーの中の防寒服と手袋、長靴を身につけた。カメラを防寒服の中に入れる。低温では作動しない恐れがあった。
中仕切りの先に足を踏み入れる。工場のような広さのところに、高い棚が整然と並ぶ。一見して、血液標本の貯蔵庫だと判別がついた。金属性の容器が棚にびっしり詰まっている。容器には番号が打たれ、貯蔵庫の外のレバーを操作して、目ざすサンプルを思い通り取り出せるようになっている。ひとつの容器に五百人分の血液標本がはいるとして、この部屋全体でどのくらいの標本があるのか、五十万人くらいか。
ツムラは防寒服の中からカメラを出して素早くシャッターを切る。中仕切りの外も撮影した。
ロッカーに防寒具を収めて、冷凍庫の外に出る。コンピューターの操作盤もカメラに撮った。机の上にキラリと光る物があった。
その小片を手にとった。ほぼ一センチ四方の薄いもので、金属でもプラスチックでもない。明かりに透かして見る。片面に無数の線がプリントされていた。電子回路を組み込んだチップだ。
ツムラはテーブルの上の装置を調べる。機械の中央に、チップを載せる四角い凹《へこ》みがあった。冷凍庫から自動的に出される血液標本、チップ、解析器、そしてコンピューターのモニター、その四パーツから装置が成り立っている。
ツムラは装置の電源を入れた。モニターが明るくなる。チップを中央の凹みに載せる。サンプル番号をコンピューターに打ち込む。当てずっぽうだが、最初の二|桁《けた》はアルファベットで、次の六桁は数字だったのを思い出す。
初めの二回はVACANTと標示が出た。その標示番号にまだサンプルが納められていないのだろう。三回目のインプットは有効だった。装置の動く音がかすかにする。モニターを見つめながら待った。モニターが動き、標本番号と名前、年齢、性別、住所さらに国籍が表示された。二歳の男児で、合衆国の住所だ。
冷凍庫から出た金属の容器が頭上のレールをつたって、装置の上に止まる。さらに、その中の一本が装置の中に誘導され、赤ランプが緑色に変わった。
操作盤上のボタンを押すと、チップが上にあがり、また下がるのが、プラスチックの窓を通して見えた。サンプル中の血液がチップにかけられたのだろう。チップの表面には特殊な加工がなされているのか、血液はチップ全体に拡散した。表示が赤から緑に変わったのを見届けて、キイボードを操作する。モニターに新たな表示が浮き上がった。〈診断:筋ジストロフィー(デュシャン型)〉
ツムラは呆然《ぼうぜん》としながらモニターを眺める。わずか一滴の血液で確定診断がなされていた。しかも二歳の男児に対してだ。
この時期にはまだ症状は現れない。両親にも分からないどころか、かかりつけの小児科医でさえも、その患児の筋肉の異常には気づくまい。
ツムラは、コンピューターの画面と装置をカメラに撮った。
終了のボタンを押すと、金属の容器がひとりでに動き出し、天井をつたって冷凍庫の中に消えた。その間、チップは自動的に装置の別の場所に移され、洗浄される。乾燥後、再び元の位置に戻った。
ツムラは新たに別の番号を画面に入力する。背後で音がして、自動検索装置が作動した。
容器が天井に飛び出して、同じようにレールをつたって下降し、解析器の上方に接続した。
血液標本のかすかな一滴がチップの上に垂れ、広がった。
ツムラはモニターに見入る。オーストラリアの三歳の男児だった。診断のボタンを押す。文字が浮かび出る。〈診断:ハンチントン舞踏病〉
ツムラは唸《うな》った。ハンチントン舞踏病は第四染色体短腕に異常がある優性の遺伝病だが、三歳で症状が現れることは絶対にない。とすれば、家族に負因を持つ親が、子供の血液を送って、早期診断を依頼したのだろう。そうでなければ、無作為に血液を集めて、これだけの頻度で遺伝疾患が判明するはずはない。
ツムラはその画面もカメラに収める。
操作を終了させ、使いきったチップを取り出して元の位置に置いた。
もう小一時間近くが経過していた。警備員が巡回してくる恐れがあった。テーブルの上に何も痕跡《こんせき》を残していないのを確かめて、部屋の外に出た。
この区画が、遺伝子疾患を調べるための血液貯蔵庫と、データ分析に使われているのは確実だった。しかし何のために、病院の診療部門と完全に切り離されているのか。
六階廊下の照明を消してエレベーターに乗り込む。一階で降りたとき、そこが明るいのに気づいた。不審に思った瞬間、横あいから声をかけられた。
「ボーア・ノイチ」
ツムラは平静を装って言った。中年の警備員は、これまでも病院内で見かけている。馬に乗って騎馬警官よろしく、海岸を巡回していたこともあるので、格付けは上のほうだろう。アルコールを入れているのか、褐色の顔が妙にギラついている。
「何の用で?」
訊問《じんもん》口調で訊《き》かれた。
「ドクター・ヴァイガントから頼まれて、資料を取りに来た」
ツムラは高飛車に答える。
「ドクター・ヴァイガント?」
警備員は了解したように頷《うなず》き、ツムラが手にした古びたノートに眼をやる。
「彼の研究熱心さには頭が下がる。おかげでこちらも徹夜の勉強だ」
ツムラは苦笑しながらつけ加えた。
「ご苦労さまです。ボーア・ノイチ」
警備員は言った。
一階の扉から外に出たとき、どっと疲れを感じた。すべてはカメラに収めている。自室でひと眠りしたあと、考えなければならないことが山ほど残されているような気がした。
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27
朝九時に出発するマイクロバスには二十人たらずが乗り込んだ。運転手はジョアナではなく、黒人の男性だ。年配の乗客が前の方に坐《すわ》り、舞子たちは中程に席をとった。お腹の大きいユゲットも、車は気にしていない。
「このあたりの夢のような景色もいいけど、たまにサルヴァドールの雑踏を味わわないと世捨て人になる」
舞子と寛順《カンスン》の間に挟まれてユゲットが言った。
前の座席の中年女性四人は、買物の話をしている。そのうちのひとりは紙片に買物リストを書いており、隣の厚化粧の女性が細かく助言をしてやっていた。どうやら市場でしこたま買い込み、そのまま自宅へ配送させるつもりのようだ。テーブルと椅子《いす》、ナプキンなどの単語も聞こえる。食堂で使う一式を買うのに違いない。
舞子には特別買いたい物はない。きのうツムラ医師から預かったフィルムをひと巻、ポーチの中に入れていた。診察のあと、舞子が日曜日にサルヴァドールまで行くと聞いて、彼は鞄《かばん》の中からコダックのフィルムを取り出した。
「サルヴァドールの写真屋だと三十分で焼きつけてくれる。大事なものです。誰にも見せないで下さい」
ツムラ医師は声を潜めて言い、百レアル札を一枚手渡した。
「サルヴァドールの古い街並をもう一度歩いてみたい。旅行ガイドを読んだら、興味がわいてきた」
寛順が英語の本を見せた。病院の売店で買ったのだろう。活字ばかりで写真がなく、舞子は頁をペラペラとめくっただけで返す。
「わたしは例のレストランに行きたい。病院では出ない地元のバイーア料理がたくさんあったでしょう」
ユゲットのひと言で昼食の場所は決まったも同然だった。
「クラウスはまだサルヴァドールには戻っていないわね」
寛順が訊いた。
「退院はしていないはず。一度見舞いに行こうとは思うけど」
「わたしはベランダから見かけたことがある。夕方よ。スケッチブックを持って、庭の中を散歩していた。病人というより、画家の格好だった」
舞子が口をはさむ。たぶんスケッチをするふりをして、病院の中の様子を調べていたのだ。
「案外、病院が気に入って居つくかもしれないわね」
ユゲットが応じる。
海岸線が見えていた。なるほど絵のような美しさだ。ヤシの並木があり、芝生のなかに白い壁、赤い屋根の別荘が点在し、その向こうは海だ。綿のような白い雲が控え目に浮いている。
別荘の群が切れると、砂洲《さす》とヤシの林だけになった。砂洲の手前は浅い川だろうか。カヌーのようなものを操って、水草から何かを採集していた。
砂洲にはやはりヤシが育ち、いくつも日陰をつくっている。目をこらすと、そこにも水着をつけた海水浴客が何人か見えた。そして砂洲の向こうはやはり海と青空と雲だ。
「この間、マイコはプールで泳いでいたわね」
ユゲットが思い出したように言う。
夕食前のほんの三十分くらいだったろうか。プールに誰もはいっていないのを見て、部屋で水着に着替え、十数回、行ったり来たりしたのだ。そのうち人が増えたので、上がって部屋に戻った。ユゲットは途中から来て、プールサイドの寝椅子で本でも読んでいたのだろう。
「きれいな泳ぎで、びっくりした」
「舞子の泳ぎって、見たことがない」
寛順も驚く。
「久しぶりだったから息が続かなかった。海が近くてプールがあると、却って泳がないものね」
泳ぎながら、明生《あきお》とプールに通っていた頃を思い出していた。明生と並んで泳ぐ背泳が好きだった。
「今度はマイコが先生になって、わたしたち二人が生徒。あのやかましい水球の仲間入りするより、ずっといい」
ユゲットが言う。
「お腹の大きいのが三人、スイスイと泳いだら面白い」
寛順も乗り気になっていた。
病院内のすべてのレクリエーションには指導員がついているのだろうが、まだ泳ぎそのもののレッスン風景に出くわしたことはなかった。
バスは前回とは違う道筋を辿《たど》った。
陸路から突然海岸に出、前方に海が開けた。岬の先にある城砦《じようさい》のような建物には見覚えがあった。
マイクロバスは海岸の方には下って行かず、ジグザグに坂道を登った。着いたのは、やはり前回と同じ教会前の広場だった。
黒人の運転手が、出発時刻は三時半だと告げた。前の座席に坐っていた中年の四人組は、早くも物売りの少年につきまとわれている。
前回来たときは修理中だった教会が、出入り自由になっていた。ユゲットに誘われて、石段を登った。物売りも柵《さく》の中までは追って来ない。
礼拝堂の内部は金色と褐色で内装が施され、円形のステンドグラスから透過してくる陽光だけが頼りだ。柱の陰の薄暗い席で、老婆がじっと頭を垂れていた。
祭壇と天井に金箔《きんぱく》がふんだんに使われている他は、説教台も腰板も椅子も、すべてコーヒー色の木材でできている。どこか土俗的な雰囲気がする。
「白人たちの教会ではなかったのね、きっと」
ユゲットが金色のキリスト像を見上げて言った。褐色の十字架にかかげられたキリストの顔はヨーロッパ人ではない。髪も縮れ毛で、ムラータの容貌《ようぼう》に近い。
舞子と寛順が祭壇の周囲を眺めている間、ユゲットは膝《ひざ》を折って祈っていた。
教会を出たとたん、カセット売りの少年と、祈りの文句を書いたリボン売りの女の子が寄って来る。二人は兄妹なのか、石畳の下り坂まで来ても諦《あきら》めない。寛順が仕方なく一レアル紙幣を与えて、女の子から三本のリボンを買った。
「ここに来るたびに買わされる」
寛順は苦笑し、ユゲットと舞子に一本ずつ分けてやる。舞子はポーチのベルトに結びつける。日本の神社で買うお守り札と思えばいいのだが、お札を押し売りする子供など日本にはいない。まさしくここはブラジルだ。
坂道の途中にコダックの看板が出ていた。店構えの大きなカメラ屋で、カメラの他に望遠鏡なども売っている。舞子は二人に外で待っててもらい、店の中にはいる。英単語を並べながら、一時間で出来上がるか訊いた。鼻髭《はなひげ》を生やした店の主人は、人差指を立てて承知したと言い、控え証を出し名前を尋ねる。マイコ・キタゾノと発音したが、店主はそのアルファベットが分からず、最後には舞子が自ら記入するはめになった。
「日本人か?」
店主は笑顔を見せた。舞子が頷くと、「この店のカメラの九割は日本製だ」と両手を広げた。
店を出るとき、自分がずっと、カメラの存在さえ忘れていたのに気づいた。三十六枚撮りのインスタントカメラを三個スーツケースの中に入れてはいたが、撮ったのはまだ十枚にも満たない。もともと写真には興味がなかったが、ブラジルに来てからは、この頭がすべての場面を記憶しておいてくれそうな気がするのだ。
「レストランにはいる前に、カンスンが見たがっている旧市街に行って見ようか」
ユゲットが誘った。
医学部の古い建物跡から坂道を横に曲がった。真中の凹《へこ》んだ狭い石畳が建物の間に延びている。車のはいり込む幅はなく、通路の上には出窓が何重にも張り出していた。
通路は途中で鉤形《かぎがた》に曲がり、広い階段通りに出た。大通りがそのまま急な石段になっており、下の方にある広場まで続く。石段の両側が古い町並だった。
「車なんかいらない時代の街のたたずまいね」
寛順が感激した面持で言う。「自転車だって、この階段道だと登って来れない」
「お手伝いや奴隷がいたから、こんな不便な所に住めたのかもしれない」
ユゲットが石段に腰をおろして言った。
「でも、本当に人間だけの街ね。路地からこの石段に出れば、まっすぐ海が見渡せるでしょう。陽が沈むのを見ながら、ここでいろんな遊びができる。石段上がりをしたり、石にクレヨンで絵を描いたり」
その情景がありありと浮かぶ。舞子もユゲットの傍に坐《すわ》った。寛順だけが立ったまま海を眺め、また振り返って石段の上を見つめる。カメラにおさめたら、カレンダーの写真になりそうな寛順の美しさだ。
「海辺のリゾートもいいけど、こんな古い街並もいい」
ユゲットが嘆息する。「サルヴァドールって、海を眺めるためにできた街なのよ。先祖がアフリカから連れてこられたので、その子孫もずっと海を眺めながら暮らした。海のかなたにきっと天国を感じていたのだわ」
石段の下の方から、黒い服をまとった老婆がゆっくり登って来る。手に竹籠《たけかご》をかかえ、一歩一歩足を踏みしめる。黒い犬が一緒で、早足で四、五段登っては、主人の到着するのを待ち、また駆け登る。
近づいて来ると、老婆はまず寛順に「ボーア・タールヂ」と言い、ついで舞子たちにも笑顔を見せた。息切れもしていない様子で、重そうな籠の中には、丸いパンと紙包み、マンゴーに似た果物がはいっていた。
寛順がいつまでもその後ろ姿を見送っている。寛順の頭のなかには、故郷の古い村が思い出されているのかもしれない。農村と港という違いはあっても、同じように住民が中世以来の住居に生活しているところなのだ。
再び狭い石畳を通る間、寛順は何か考えるように口をつぐんでいた。
表通りでは、土産物店の前で男たちが呼び込みをしている。「ヤスイヨ」という日本語を舞子に浴びせかけた男もいた。店内にTシャツを山のように積み上げている。
広場に面した料理学校はすぐ判った。
レストランには四、五組の先客がいたが、運良く窓際のテーブルに坐れた。
舞子は、病院のレストランで見かけなかった料理だけを皿についでいく。ほんの一口だけ取るのを見て、給仕の卵が近づき、皿を持ってくれる。舞子は給仕が選ぼうとする料理に対して、イエスかノーを言えばいい。給仕は舞子の指示通り、十種類ほどの料理を色鮮やかに皿につぎ分け、微笑しながら舞子に渡した。
ルーレット盤のようになった舞子の皿を見て、寛順もユゲットも手を叩《たた》く。いい考えだと感心する。全部味わって、二皿目には気に入った料理だけを攻めれば良いのだと言うが、そこまで食欲があるかどうか分からない。
食べるとき、パレットの上の絵の具をナイフとフォークでかき混ぜるような気分になる。黒っぽい温野菜にはかすかな甘味があった。橙色《だいだいいろ》に煮つめられた牛肉は、独特のカレー風味がきいていて、もう少し食べたい気がした。
「あれを見て」
窓際にいたユゲットが、食べる手を休めて言った。
「ドクター・ライヒェルじゃない?」
寛順も声を上げる。舞子は上体を伸ばして窓の外を見やった。
向かい側の歩道をひとりで降りてきているのはジルヴィー・ライヒェルだ。病院にいる時の比較的地味な服装とは違って、金色のブラウスに白いパンツ姿だ。大柄な金髪は、人通りの多いなかでもかなり目立つ。
「なかなか魅力的な中年だわ」
ユゲットが見とれている。
ジルヴィーは付近の地理には馴れている様子だ。五階建のビルの前で立ち止まり、鍵《かぎ》で扉を開けて中に消えた。
「店でもないのに何の用事かしら。まさかこんなところに別荘がある訳ではないし」
寛順が首を捻《ひね》った。
ジルヴィーは面接のとき、こちらの心理状態や関心事、子供時代の思い出についてはよく尋ねるくせに、自分に関しては何ひとつ話さない。ただ病院の近くにある一戸建の住宅に住み、紺色のベンツ車で通ってくるのだけは知っている。それも彼女から話したのではなく、たまたま病院の駐車場で彼女と出くわし、舞子が質問したから分かったのだ。
周囲の建物が外壁を塗り直しているなかで、その五階建のビルだけがくすんだ灰色のままになっている。二階から最上階までバルコニーつきの窓があるものの、すべて鎧戸《よろいど》がおろされて、内部は見えない。両隣のビルの窓にプランターが置かれたり、洗濯物が干されているのとは対照的だ。屋上にある衛星放送用のアンテナと、避雷針のような高いアンテナだけが、不釣合に真新しい。
「たぶん、好きな男の人でもいるのよ。若々しい装いはそのため──」
ユゲットが片目をつぶる。「どんな恋人と出てくるのか、じっくり見張ってみようか」
交代で料理を取りに行った。舞子が気に入った二つの料理を皿に盛ろうとすると、また給仕が近づいて来た。やはり口に合ったでしょうという素振りで話しかける。舞子が少しでいいと言うのを無視して食べきれそうもない量をよそってくれた。
「気に入られたのよ、きっと」
寛順が言う。「わたしのときなんか、じっと遠くから眺めるだけ」
舞子はデザートを半ば諦《あきら》め、覚悟を決めて温野菜と牛肉を口に入れる。
ビールを飲んでいる寛順は、目の縁がほんのり赤くなっていた。
メインディッシュを食べ終わる頃になっても、ジルヴィーは建物から出て来ない。
「やっぱり普通の用事ではないわ。愛の巣があるのかもしれない」
ユゲットが言う。
「でも愛の巣なら、もう少し窓辺をきれいにしてもよさそう」
舞子は反論する。少なくとも自分なら、鎧戸を開け放ち、レースのカーテン越しに外の光を室内に入れたくなる。
「わたしも舞子と同じ意見」
寛順が賛成する。「やっぱり、何かの用事よ。それも重大な」
最後はどこか茶化すように言った。
ユゲットがデザートにチーズを取り、寛順が大盛りのアイスクリームを持ってきたのに比べて、舞子は迷った挙句パパイアをひと切れ皿にのせた。
「もう夕食は食べなくていい」
舞子は他の客を眺めながら言う。すべてのテーブルが客で埋まっていたが、他人が食べているのを見るだけで苦しくなる。
「マイコはそれが口癖。夕食をお腹いっぱい食べて、もう朝食はいらないと言ったはずなのに、翌朝になると、ちゃんとパパイアを四切れも五切れも食べてしまう」
ユゲットが笑う。「それでいて体重が増えないのだから羨《うらや》ましい」
「出てきた!」
寛順が窓の外を見やった。
ジルヴィーはさして周囲を気にする様子もなく、扉を閉める。同じ坂道を脇目《わきめ》もふらずに上がって行く。
手にしたハンドバッグも来がけと同じだった。
「何かを注文しに来たという感じね」
寛順が確信ありげに言った。「例えば靴の注文とか洋服の仮縫い──」
「それだったら、お店の看板が出ているはずよ。あの建物には何にも標示がない」
ジルヴィーの後ろ姿を最後まで見送ったあとで、ユゲットが異を唱える。
「だから、何か特別な靴とか洋服とか」
答えた寛順自身も笑った。
「あるいは、ジルヴィー自身が、何かカウンセリングを受けているのかもしれない。そういうのってよくあるでしょう。心理学者がまたその上の心理学者に治療をしてもらう例。その証拠に、彼女、来たときよりも帰りがけのほうが生き生きとしていたわ。一時間半という時間も、カウンセリングにはちょうどいい」
舞子が言うと、二人とも感心したように頷《うなず》く。
「なるほど、それね。専門家だけのカウンセリングだと、看板など掲げなくてもいい」
ユゲットが結論づける。「でも、彼女には、わたしたちが見ていたことは言わないことね。自尊心の問題だから」
そう言って給仕を呼ぶ。
三人で三十八ヘアイスの代金は、ひとり十三ヘアイスずつ出し、余った一ヘアウをチップとしてテーブルに置いた。
レストランの出口でも三、四人の給仕に見送られた。
広場に出て、ジルヴィーが訪れた建物の前に行ってみる。表札も何もない。木製の扉についた真鍮《しんちゆう》の把手《とつて》だけは、ピカピカに光っていた。
坂道を登り、舞子は途中にあるカメラ屋でプリントされた写真を受け取った。
「まだ何枚もフィルムは残っていましたよ」
と髭面《ひげづら》の店主は言い添える。代金は二十五ヘアイスで、ツムラ医師に見せるためのレシートもポーチの中にしまい込む。
あと一時間くらいしか残っていない。海辺の市場に行って買物をするにも中途半端な時間だった。
上の広場にある石像の前で、男が弾き語りをしていた。木箱に腰かけ、ニスの剥《は》げたギターをかかえて伴奏をとり、語りかけるように唱う。ボサノバなのかもしれないが、ところどころに叫びを入れて、民族音楽風でもある。
舞子は一ヘアウをギターケースの中に入れた。十ヘアイス紙幣や硬貨が既にはいっているところからすれば、かなりの人気者なのだろう。傍で聞いているのは二十人足らずだが、木陰のベンチや石の柵《さく》に腰かけている観光客も耳を傾けている様子だ。
教会の裏手にある店の外に、テーブルとパラソルが出されていた。
席をとってコーヒーを注文する。
「みんな教会の正面ばかり眺めたがるけど、わたしは後陣が好き。パリのノートルダム寺院もそうだし、シャルトルの大聖堂もそう」
ユゲットが教会を眺めやって言う。なるほど、教会の正面が、漆喰《しつくい》や木材、タイルなどで華やかに装飾されているのに比べ、後ろの方は美しさよりも実質的な力強さが優っている。大きな柱と大きな梁《はり》が縦横に交叉《こうさ》して、高い屋根と鐘楼を支えている。
「舞子、写真を撮ったのね、見てもいいかしら」
寛順が訊いた。ツムラ医師からは誰にも見せるなと言われていた写真だ。
「わたしの撮ったフィルムではないの」
「誰の?」
「ドクター・ツムラ」
「だったら、よけい見たい。どうせカメラ屋が見ているのだから、わたしたちが見ても構わないわよ」
ユゲットが言った。
「じゃ、わたしが確かめてみる」
迷いながらも、舞子は袋から写真を撮り出し、まず自分で点検する。室内でフラッシュをたいたらしく、色が良くない。秘密めいた写真を期待していた舞子は落胆し、二十数枚の写真をテーブルの上に置いた。
「何か実験室のようね」
そのうちの一枚に眼をやったユゲットは、興味がないというように写真を押しやる。
寛順だけが一枚一枚を吟味していく。
「ドクター・ツムラはこれをどこで撮ったのかしら」
寛順が訊《き》いた。
「知らない。ただわたしがサルヴァドールに行くと聞いて、即日仕上がりを頼んだの」
「プリントを急いだのね」
「そう思うわ」
舞子の返事に寛順は納得し、また写真に眼を走らせた。
見終わった写真をユゲットに渡す。
「どこかしら」
ユゲットに言われても舞子は首を振るしかない。写真はパネルのようなものを写し出していた。
「少なくとも実験室ではないわね」
首をかしげたユゲットに、寛順は別の写真を手渡す。
「これは保険会社の名前だわ」
五、六枚目の写真を手にしたとき、ユゲットが言った。カメラはコンピューターの画面を大写しにしていて、横文字が十行ほど並んでいる。ユゲットはその下の方の文字を指さした。
「ブルークロス・ブルーシールドというのはアメリカの保険会社」
寛順が驚いた顔をすると、ユゲットは続ける。「わたしも保険会社に勤めていたから、世界の主な保険会社は知っている」
「じゃ、これは?」
寛順は握っていた別の写真を見せた。やはりコンピューターの画面が写り、似たような文字が連なっている。
「このボストン・ミューチュアル・ライフというのも保険会社」
ユゲットが唸《うな》る。
「そうすると、この画面には患者の名前と年齢、性別、国籍、連絡先、診断名、保険会社が記録されているわけね」
寛順が確かめるように言う。
「待って。さっきの写真、これこれ」
ユゲットは、パネルを撮影した写真をもう一度見直す。「たぶんここに標示されているのは、保険会社の所在地よ。ボストン・ミューチュアル・ライフはもちろんボストンが本拠地、ブルークロス・ブルーシールドはコネチカット州にあるから、ここがそうかもしれない。東京にもソウルにも、いくつか赤い点が打たれているでしょう。当然、保険会社はあるはずよ」
念をおされて、舞子も寛順も頷く。
「でも、なぜわざわざこんなパネルをつくるのかしら」
寛順が首を捻《ひね》る。
「それは簡単。ネットワークを示すためで、わたしが勤めていた会社にもあった。フランス国内の支店と、海外で提携している会社を、こんなふうに書き入れた地図を作っていた。ほら、このネットワークの中心がサルヴァドールだから、そこにある会社と、これらの会社がネットワークを形成している」
「これはたぶん、サルヴァドールではなくて、わたしたちのいるフォルテ・ビーチ病院」
横あいから寛順が言った。
「なるほど。それでドクター・ツムラが写真を撮ったのね」
ユゲットが頷く。
「でも、どうして病院が、世界中の保険会社とつながりをもっているのかしら」
舞子は疑問を口にした。こんな写真をツムラ医師が撮ったこと自体、理解できなかった。
「ここに診断名が載っているでしょう。病気と保険会社は大いに関係がある。ちょうど自動車販売会社が自動車保険会社と提携しているようなものよ」
ユゲットに答えられても、舞子にはすんなりと理解できない。自動車と人間は違うような気がする。
「病院としても、その患者がどこの会社の保険にはいっているかは、把握しておく必要があるのじゃないかしら」
ユゲットはつけ加えた。
「でも、これは普通の患者ではないのかもしれない」
黙って聞いていた寛順が、別の写真を二人の前にさし出す。
棚の上に銀色の容器がぎっしり並んでいる。何かの保管庫なのだろう。
「ドクター・ツムラがこれを同じ場所で撮ったとすれば、この検査材料の持主がコンピューターにインプットされているのではないかしら」
半ば確信ありげに寛順が言った。
「すると、これらは一連の検査材料の管理物ね。材料を整理し、診断をつけて、保険会社と間をとりもつ──」
ユゲットが自分を納得させるようにコーヒーに口をつける。
「しかし、病院がこんな保険会社のパネルを壁に飾ることってあるかしら」
舞子はまだ納得がいかない。
「舞子、ドクター・ツムラには、今日のうちにこの写真を持って行くのでしょう?」
寛順が真剣な眼を向けた。
「急いでいたので、夕食前にでも渡すわ」
「そしたら、ちゃんと言うのよ。さっきユゲットが教えてくれたこと」
「保険会社?」
「そう」
寛順から頷かれても、舞子にはそれが何故重要なのか分からなかった。
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28
手術は思いの他、短時間で済んでいた。
〈ハースさん、目を開けて〉と若い女性の声で言われたとき、自分は女中を雇っている覚えがないがと不思議に思った。いや自分の家ではなく、ペンションに来ているのだと考え直した。朝寝坊をして、そこの娘に起こされている。目を開け、上体を起こそうとしたが、身体《からだ》が動かない。
顔の上に、ピンク色のマスクをつけ、同色のキャップをかぶった女性の顔があった。自分が手術室にいるのが分かったのはその時だ。〈手術は終わりました〉麻酔担当の女医はそう言って微笑した。
「何時ですか」
自分の第一声は掠《かす》れていた。喉《のど》に入れられていた器具はもうない。
「五時十分」
そうすると手術は一時間半くらいしかかかっていない。うたた寝をしたのと同じくらいの眠りでしかない。
手術室には、主治医に付き添われてはいっていた。徒歩でだ。手術室はホールのように広く、周囲に大小の小部屋が十室ばかりあった。そのひとつひとつが手術室だと気づいたのは、四番の部屋に案内されてからだ。ばかでかい電灯の下の台にも、自分でよじのぼって横になった。何だかセルフ・サーヴィスのレストランに似ていると思った。
主治医は手術室の隅で何か操作していたが、突然音楽が聞こえてきた。手術室に有線放送を引いているはずはないので、主治医がカセットテープをかけたのだろう。曲は何度も耳にしたことのある〈バイーアの月〉だ。それも原作者のジョアン・ボスコの唄《うた》だった。主治医がこちらにウィンクして出て行った。
緑色の手術衣を着た看護婦二人が、手術台の周囲に道具を揃《そろ》え、枕元《まくらもと》に麻酔科医が坐《すわ》って器具を扱っている間、その音楽を聞いていた。
やはり前の日、主治医があなたは手術室でどんな音楽が聞きたいかと質問した。まさか内臓の一部を切りとってもらうハラキリに際して音楽など聞けるとは思ってもみないので、咄嗟《とつさ》には思い浮かばなかった。しかし数秒後、〈バイーアの月〉を口にしていた。
主治医はしかしその曲を知らなかったらしく、歌手名を確かめたあとで、音楽ライブラリーで探しておきます、なければすぐにでも買いにやらせますと答えたのだ。ジョアン・ボスコが作詞・作曲をし、クララ・ヌネスが歌って一時は少しはやった歌だが、もうヌネスが死んで十五年にはなる。三十歳そこそこの主治医が知らないのも無理はない。
『バイーアの月は太陽よりも明るい。月を眺める女たちの目が輝きはじめるから』
そんな出だしの歌を聞いているうちに、左腕に点滴の針が入れられ、半分眠たくなり、麻酔科医の質問が催眠術のようになって眠ってしまったのだ。
目を覚ましたときの音楽も、やはり〈バイーアの月〉だった。まさか手術中の一時間半、その曲ばかりかけていたわけではなく、執刀者たちは好きなサンバあたりで景気をつけていたに違いない。それでも主治医の心遣いは嬉《うれ》しかった。
「手術は成功です」
切り取った胆のうをトレイに載せて、主治医が言った。ハサミで胆のうを切開すると、黒っぽい石が十個ばかり出てきた。
「持って行きますか」
冗談かと思ったが、主治医は大真面目だった。体内にできた石を棚に飾っておくような趣味はない。丁重に断った。
手術室からも歩いて出たのには、自分でも驚いた。腹壁に四個穴が開けられただけらしい。麻酔がきいているのか、痛みはどこにも感じない。
病室に戻ると別の点滴が待っていた。空腹だったが、食事開始は明朝からだと、看護婦が告げた。
もうその点滴も三分の一ほどになっている。
窓の外は暗くなりかけていた。麻酔の切れがけに、手術創に痛みが戻るかもしれない、そのときは知らせるようにと看護婦が言ったのを思い出す。ガーゼをあてられた腹部に手をやって、痛みを確かめる。鈍いひきつりのようなものがあるだけだ。
ひと息ついて目を閉じようとしたとき、今朝外来ホールで見かけた老人のことが思い出された。
手術前の不安をおさえるために、外来待合室まで降りて、売店で新聞を買った。エレベーターのところまで戻りかけて、その老人とすれ違った。どこかで見たと思い、振り返って背中を眺めた。小柄で白髪、年齢は七十近いだろうが、背筋をピンと張った姿勢にはまだ若々しさが充分残っている。
彼の姿を最初に見たのはサルヴァドールの旧市街地区でだ。それも一度や二度ではない。よく食事をしにいく料理学校の近くで何度も出会っていた。歩道で行き会ったこともあるし、カフェテラスに坐っていて、彼が建物の中にはいって行くのも見た。
観光客の多いあの地区で、彼の姿が記憶に残ったのは、ひとつにはあの建物によく出入りしているからであり、もうひとつには、Tシャツに半ズボンというような軽装とは正反対の、スーツにネクタイという恰好《かつこう》だったからだ。七十歳に近い老人が堂々とスーツを着こなしている姿は、あのサルヴァドールでは目立たないのがおかしい。
その彼がこの病院に来ているのは、持病の診察のためだろうかと思いながら、後ろ姿を眼で追った。病気をかかえている様子には見えない。いつもの軽快な足取りでエレベーターまで行き、勝手知ったように乗り込んだ。
旧市街地区のあの建物が売りに出されたのは、もう十年も前だ。持主だった歯科医師が引退のために、建物ごと手放したのだ。
二百年以上たつ古い建物なので簡単に買い手はつかず、一、二年後にドイツ人企業家が購入したらしかった。新しい所有者が決まっても、外見は全くそのままで、内装だけが変えられたという話だ。看板が出るわけでもなく、人の出入りがあるわけでもなく、建物の存在は数年間近在の住民から半ば忘れられていた。
しかし、二年ばかり前から、その建物に出入りする人間がぽつぽつ現れた。黒人やメスチーソ、ムラータではなく、すべて白人というのも、人目をひいた。かといって、その建物に何があるかは定かではなく、近くの商店主たちは、屋上に新しく設けられた二種類のアンテナを眺めて、ポルノ映画でも鑑賞する白人のクラブができたのではないかと噂《うわさ》をしていたのだ。
なるほど、いかがわしい映画の秘密鑑賞クラブだとすれば、一見紳士風の白人ばかりが通うのも納得できた。若い者は少なく、中年から高齢者が大部分で、稀《まれ》に中年女性が混じっていることもあった。
出入りする連中のなかでも、白髪の老人は一番の長老格だったろう。ポルノ映画鑑賞と老紳士の組み合わせを、内心では傑作だと思った。
その老人が、病気の治療でこの病院に出入りしているのではないとすれば、ポルノ映画鑑賞の会員が病院内にでもいるのだろうか。
クラウスは目を閉じたまま考え続けた。
点滴がもう終わりかけたかと思い、目を開けたとき、ドアにノックがあった。「どうぞ」返事をした。
黒人看護婦と一緒にはいってきたのはユゲットだった。
ユゲットは、看護婦が点滴セットを片づけるのをドアの近くに立って待つ。看護婦が出て行ったあと、改めて笑顔を向けた。
「よく来てくれたね」
実際に嬉しかった。
「手術が終わったばかりなんですってね。いつもの様子と変わらないので驚きました」
ユゲットは、手にしていた小さな花瓶を枕頭台《ちんとうだい》の上に置く。小ぶりなひまわりが四つ、花をつけていた。
「腹に穴を四つ開けられただけですんだ。安静は必要ではなく、少々の痛みくらい我慢して動いたほうがいいと言うんだ。これじゃ病院というよりも、スポーツの強化合宿所のようなものだ」
クラウスは苦笑する。手術前の病院生活で栄養状態が改善したのか、あるいはアルコールぬきが良かったのか、ひとり暮らしのときより皮膚に血の気があった。
「しかし、ありがとう。明日になったらさっそく、ひまわりを写生してみる」
クラウスは花に眼をやる。
「わたしだけでなく、三人からのものです」
「あとの二人は元気か。確かカンスンとマイコ。どっちがどの名かは忘れた」
「背の高いほうがカンスン、丸顔の日本人がマイコ」
ユゲットは教えてやる。「二人と一緒に、昨日サルヴァドールに行きました。いつか昼食をご馳走《ちそう》になったレストランで、お腹いっぱい食べた」
「思い出させないでくれ。この病院の食事も悪くはないが、あそこの味つけと種類の多さにはかなわない」
クラウスは唾《つば》を呑《の》み込む。
「あのレストランの真向いに、ひょろ高い建物があるでしょう? 五階建で、暗い感じの」
ユゲットが訊《き》く。
「屋上にアンテナのある建物かい」
「そうです。どういう建物なのですか、あれは」
「俺《おれ》もはいったことはない。昔は歯科医の所有だったのだが、七、八年前に持主が変わって、近所の者も出入りしなくなった」
クラウスはベッドの上に身体を起こし、ユゲットに椅子《いす》を勧めた。
「あの建物に、わたしたちを担当している心理学者がはいっていったのです」
「ほう」
クラウスは驚く。「この病院の職員だね。男か」
「いいえ、女性です。ジルヴィー・ライヒェルといって、四十歳くらいでしょうか」
「ライヒェル? ドイツ人か」
クラウスが首を捻《ひね》る。
「ドイツ系ブラジル人」
「背が高くて、髪は少し栗色がかった金髪ではないか」
「知っているのですか」
ユゲットがびっくりして訊き返す。
「いや俺も見かけたことがある。黒人の多い界隈《かいわい》なので、どうしても白人は目立つ。俺のようにだらしなくなってしまえば、泥の中のなまずと同じで人目もひかない。そうか、あの女がこの病院に勤めているとは」
クラウスは老紳士のことも思い浮かべたが、ユゲットには言わなかった。
「直接彼女に訊いてみてもいいのですが、悪いような気もするし。カンスンやマイコは、あそこに彼女の若い恋人が住んでいるのだと言うのです」
「全くの的はずれでもないだろうな。分かった。彼女には訊かないほうがいい。俺が退院したあと、調べてみる」
クラウスが考える表情になる。「その金髪の心理学者というのはどんな人間なんだ」
クラウスは声を低めた。
「わたしたち患者の心の状態を観察し、ケアしてくれる人」
「じゃ、頻繁に会うのだな」
「初めの頃は、面接も長時間だったけど、この頃では週二回、顔を合わせて様子を訊かれるくらい」
ユゲットは言葉を探しながら言う。何故だか分からないが、ジルヴィーとの面接の内容になると、すべてがおぼろげになってしまうのだ。この病院に到着した当初の面接は、二時間、三時間にもおよぶことがあった。自分の生いたち、家族のこと、恋愛の体験、仕事、趣味などについて詳細に訊かれた。そして何よりもこと細かに質問されたのが、アランに関する事柄だ。
どこで出会ったのか、どんなふうにして好きになっていったのか、彼との性体験、その感激、何を将来誓いあっていたのかと、彼女の部屋で訊かれた。部屋は広くなかったが、スイッチひとつで薄暗がりになり、プラネタリウムのように天井に小さな明かりがついた。壁からは波の音が響いてきて、あたかも夜の海辺に二人|坐《すわ》っているような錯覚にさせられた。向かい合ったジルヴィーの顔はかすかにしか見えない。
彼女の声は波の音とともに耳に届き、自分の気持が何の抵抗もなく口から出ていく。まるで寄せる波がひくように、問答が行われた。
ジルヴィーが身動きひとつせずに耳を傾けてくれたのは、アランの事故とそのあとの悲しみについてだった。ユゲットは、話しながら涙が出るのをおさえられなかった。
事故があって、アランが病院に収容されたと聞かされたとき、あるいはもしやと最悪の事態を一瞬思い描いた。足から力が抜けて立っていられなくなり、椅子に坐り込んで、受話器だけはしっかり耳に押しつけていた。病院の名前と住所、電話番号をメモしたが、それが墓碑銘のような気がして、受話器を置いたあとも呆然《ぼうぜん》としていた。
霧の濃い道をパリ郊外に向け、車を走らせるとき、胸の内で祈り続けていた。こんな理不尽なことは、この世に起こるはずはなかった。アランが一体どんな悪いことをしたというのだろう。わたしがどんな悪いことをしたのかと、ユゲットは問い続けた。周囲が次第に暗くなっていくのが、そのままアランの命を象徴しているようにも感じ、必死でハンドルを握りしめた。
三度ほど車を停めて道順を訊いたから、病院に行きついたのは真夜中を過ぎていた。警備員が救急外来まで案内してくれたが、もうそこには誰もいなかった。手術室の上のランプも消えたままだった。
警備員は電話で連絡をとってくれた。〈植物状態《ア・レタ・ヴエジエタテイフ》〉という単語が彼の口から漏れたとき、頭から血がひくのが分かった。
ブルターニュから両親と妹が駆けつけ、事故から二十時間後に人工呼吸器がはずされた。遺体の安置された霊安室まで足を運ぶのが恐かった。アランの両親と妹がそこにいた。母親は、取りすがっていた柩《ひつぎ》から顔を上げ、無言で首を横に振った。妹がまた声を上げて泣きじゃくった。ユゲットを柩のそばまで誘導したのはアランの父親だった。
「最後のお別れをしてやってくれませんか」
と彼は言い、柩の蓋《ふた》を下方へずらした。
包帯でぐるぐる巻きにされたアランがそこにいた。閉じた目と整った鼻だけが、包帯の間から出ている。ユゲットは思わず上体をかがめて、両手でアランの頭部を挟んだ。名前を呼んだが、目は開かない。頬《ほお》をすり寄せる。包帯が邪魔になった。いつもそうやって触れ合ったアランの唇を包帯が遮っていた、何よりも体温がなかった。包帯を通して伝わってくるのは、石のような冷たさだ。
またひとしきり声を上げて泣く。一晩でも二晩でも泣き続けたい気がした。アランの父親がそっと肩に手を置き、柩から身体を引き離した。
蓋が閉められ、もうこれで永遠にアランとは会えないのだと思った。アランの母親が勧めてくれた椅子に坐った。
「ユゲット、ごめんなさいね」
そう母親が言ったとき、また涙が溢《あふ》れ出した。「ごめんなさいね」
ユゲットは両手で顔を覆う。柩が大きければ、アランと二人並んでそこに横たわることができる。墓の中で朽ち果ててしまえば、永久にアランの傍にいられるのだ。涙の下で、その光景がありありと思い描かれた。
「アランも、さぞかし口惜しいだろう」
アランの父が言った。「ユゲット、本当に申し訳ないことをした。アランは、うちに帰ってくるたび、あなたのことを話していたよ。それがこうやってひとりで旅立ってしまう──」
父親が絶句する。これから埋めていかねばならない悲しみの深さに圧倒されたのか、黙り込んだ。
もうこの悲しみの淵《ふち》から抜け出ることなどありえない気がした。
その後どうやって葬式に参列し、何日後に仕事に復帰したのか、よく覚えていない。化粧はルージュだけをひいて出社し、着ている物が一週間同じだったこともある。衣裳《いしよう》ダンスを開けるのさえ、おっくうだった。
ただ言いつけられた仕事を黙々とこなしただけだ。能率はあがらなかったかもしれないが、上司は大目にみてくれた。魂の抜けた操り人形を前にしては、そうするより他はなかったに違いない。
涙混じりのユゲットの回想を、ジルヴィーは時々|頷《うなず》きながら聞いた。浜辺の乾いた砂に、寄せる波がしみ込むように、ユゲットが口にした悲しみはジルヴィーの耳に無限にはいっていく。
ジルヴィーに会う前、誰にもそんな話をしたことはなかった。モレの町の教会堂でも、キリスト像に向かって〈助けて下さい〉と祈っただけだ。
苦しみと悲しみは、身体《からだ》の隅々までいきわたり、爪《つめ》を切っても、指先をひっかいても、苦悩と悲嘆がほとばしり出るような気がしていた。百時間、千時間話をしたところで、その悲哀は到底尽きることがないと思われたのだ。
ところが、ジルヴィーと四回、五回と会ううちに、身体が軽くなっていった。同時に、あれほど身体の中に詰まっていたはずの悲しみも、ドロドロしたものから、澄んだものに変化し始めた。
そんなときだ。それまで頷くことしかしなかったジルヴィーが初めて言葉を発した。
「よくここまで耐えてきました。本当にあなたは強い人です」
そう言って肩に手を置き、抱擁してくれた。
新たな涙が溢れてきて、ユゲットはジルヴィーの肩に顔を押し当てて泣いた。
「これからは、その悲しみが喜びに変わるのです。耐えてきた分だけ、幸せが戻ってきます」
そんなジルヴィーの言葉が、天の啓示のように耳にはいってきた。冷えきっていた胸の中に温《ぬく》もりを感じたのも、その時だ。
「あなたとアランの思い出の地、モレの教会で、彼に会ったでしょう」
静かな声が響いていた。ユゲットは頷く。
「彼は死んでなんかいませんよ。生きているのです。その証拠に、あなたは彼を見、感じることができた──」
ユゲットはまた頷く。「わたしも、彼を見ることができます」
ジルヴィーは重々しく言い添えた。
耳に波音が届き、頭上には星がまたたいている。アランが生きていると思うと、身体のなかに力が湧《わ》いてくる。確かに、モレの教会堂でアランと会い、彼に触れて言葉も交わした。あれは夢でも幻覚でもなかったのだ。
「彼もここに来ています。会う機会もずっと増えます」
ジルヴィーが言った。「そして、あなたが望んだように、彼の子を妊《みごも》ることができます。あなたたちの愛の結実が、あなたの胎内に宿るのです」
彼女の声は、波音とともに静かに耳にはいってきた。涙が頬をつたう。苦しみ、悲しみ続けた甲斐《かい》があったのだ。やっと暗いトンネルから抜け出せたのだ。ジルヴィーが、何か訊きたいことはないかと尋ねる。何もなかった。頭の中も胸の内も嬉《うれ》しさで一杯だった。
「それでは案内しましょう。アランが待っています」
ジルヴィーはユゲットを部屋の外に導いた。
廊下は薄暗く、大理石の彫像だけが白く浮かび上がっていた。母子像ばかりで、ユゲットは思わず立ち止まる。母親と女の子が花摘みをしていた。ルノワールの絵をそのまま大理石に刻み込んだような像だった。
うっとりとするユゲットを、ジルヴィーはかたわらで微笑しながら眺めた。
「ここにあるのは、すべてわたしのコレクション。えりすぐったものばかり。あなたが見ているのは、ローマの遺跡から出てきたものだわ。傷ひとつないでしょう」
そのときだけ、ジルヴィーは得意そうに顔を上に向けた。
奥の部屋は、モレの教会堂にあった部屋と瓜《うり》二つだった。
手前にある前室で、ヴェルナー神父と会った。神父から長旅の疲れを訊かれた。もうそれもとれたと答えると、神父は微笑し、次の間へ行きなさいと促した。神父は本当にそこにいるのではなく、ホログラムで目の前に投射されているのに違いなかった。
次の部屋に移る前に、双眼鏡のような装置を覗《のぞ》き込む。それもモレの教会と同じで、奥の方に赤い鉤十字《かぎじゆうじ》が光っている。クリック音のあと、顔を離すと扉が開いた。
暗い部屋に、透明な床と、曲面で仕切られた迷路だけが白く浮き出ていた。天井はどこまで高いのか判らず、やはりプラネタリウムのように、高い位置に星座が散らばっている。
ユゲットはゆっくり迷路の中を歩み、中央にある寝台に横たわった。目を閉じると、まず身体が沈んでいき、ついで水の底を流れるような流動感に襲われた。モレの川底だとユゲットは思った。水の匂《にお》いすら、記憶にあるものと重なった。アランはそこにいたのだ。いつの間にか、二人で魚のように川底を泳ぎ始めていた。水中なのに息継ぎの必要がないのが不思議だった。
「会えたね」
アランが言い、笑った。元気そうに陽焼けした顔だ。ユゲットは、これがジルヴィーの言ったことなのだと思った。嬉しさがこみ上げてきた。アランさえ傍にいてくれれば、何もいらないのだ。
「もう絶対に離れないから」
ユゲットはアランの手を強く握りしめる。太くて頑丈な指が握り返してきた。
「ここいらで上がろうか」
アランがユゲットを導くようにして、身体の向きを変える。水の流れが消えて、ひなげしの咲く川岸に二人は立っていた。何度も散歩した場所だった。
アランは革のジャンパーを脱いで、坐る場所をつくってくれた。
そこで長い間抱き合ったのだ。アランの胸に耳を当て、心臓の鼓動を聞いた。視野は赤いひなげしの花で埋められた。
そのまま眠り、目を開けたとき、再びガラスの寝台に横たわっている自分に気がついた。身体には不思議な活力が漲《みなぎ》っていた。迷路の床を踏みしめて部屋を出ると、祭壇にひざまずいていた神父が振り返り、一緒に祈りませんかと勧めた。ロウソクの火が十数本、ゆらめいているのが見えた。
ユゲットは感謝の言葉を唱えた。アランと共に生きていける自分を、この上ない幸せ者だと思ったのだ。
神父の笑顔に送られて廊下に出た。大理石の母子像が目にはいる。ひなげしを摘む母親と娘の像を、もう一度眺める。この像は単なる作り物ではなく、自分の未来をも描いているような気がする。
ジルヴィーが傍に立っていた。
「よかったわね」
彼女から言われて、ユゲットは素直に頷く。「ここで体験したことは、口外無用よ。いつか人に言える日が必ず来るから、それまでは辛抱」
その瞬間だけ、ジルヴィーは厳しい表情になった。言われたことは守ろうと、ユゲットは心に誓った。
そのときから、あの場所に行くのが楽しみになった。迷路の部屋で必ずアランに会えるからだ。そして普通の場所でもアランが現れるようになった。病院の中庭、海岸、森の中、沼のほとり、というように、いろんな場所で彼が待ち受けていてくれる。
「あなたの望み通り、二人の愛の結晶が宿ったそうよ」
妊娠の第一報を告げてくれたのもジルヴィーだった。ユゲットの目から涙がこぼれ落ちるのを、ジルヴィーは優しく眺め、ハンカチで涙をふいてくれた。
主治医のツムラ医師が妊娠の成功を告げたのは翌日だ。ユゲットはもう泣くこともなく、穏やかな気持で礼を言った。
妊娠して以後、ジルヴィーの面接は少しずつ短くなった。あの部屋の入りがけに、挨拶《あいさつ》程度に顔を合わせるだけの日もあったくらいだ。
「退院はいつですか」
ユゲットはクラウスに訊《き》いた。
「三、四日後らしい。痛みがなければ一日くらい早まるかもしれない。退院までは、スケッチでもして過ごすつもりだ」
「わたしも習ってみたい。絵は好きなんです」
「絵は習うものじゃない。あんたが見たままを描けばいいのだ。こんなに楽なことはない」
クラウスは真顔で言う。「その代わり、よく見ないといけない。穴のあくほど見るんだよ。見つめ方がしっかりしていると、手も自然に動く。感情も、おのずから湧き出てくる。見るのが先決」
クラウスはギョロリと目をむき、ひまわりの花に視線を転じた。
「では、また来ます」
ユゲットは言う。
「花をありがとう。あとの二人にもよろしく。えーと、スラリとしたほうがカンスンで、丸顔のかわいらしいのがマイコ。またいつか、あのレストランで食事をしたいな」
「ええ、快気祝いを」
ユゲットは手を振りながらドアを閉めた。
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29
サルヴァドールから四時間のフライトでサンパウロに着く。帰るたびに、ツムラは異国から戻ったような感慨をもつ。海に面したサルヴァドールと違って、サンパウロは二百メートルの高さに開けたテーブル状の台地の上にある。どこかヨーロッパの清淡な気候を思わせる。街で見かける黒人の数もぐっと少なく、代わりに東洋人が目立つ。
ベラビスタ地区のホテルにチェックインしたあと、タクシーでサカガミ弁護士の事務所があるパウリスタ通りまで急いだ。
サルヴァドールで舞子から焼き付けしてきてもらった写真は、鞄《かばん》の中にある。土曜の夕方、舞子はわざわざ宿舎まで訪ねてきてくれた。プリントの出来上がりを急いでいると知っていたのだろう。
「先生、この写真を三人で見たのです。ごめんなさい」
領収証とおつりを添えながら、舞子は頭を下げた。
「先生はこの写真をどこで撮ったのですか」
訊かれても、本当のことを言えるはずはなく、ツムラは返事に窮した。
「大きな実験室かなと三人で言い合っていたのですが、このパネルとコンピューターの写真から、ユゲットが考えたのです。当ててみましょうか」
舞子が無邪気に言う。ツムラも頷《うなず》くしかなかった。
「世界地図のパネルにある赤い点は、保険会社の本社所在地です」
舞子の発言に、こちらの顔色が変わったのだろう、彼女は幾分得意気に続けた。「どうして判ったかというと、この画面にある文字です」
舞子は二枚の写真を示す。そこには姓名、性別、年齢、診断名などが表示されていた。
「この二つとも保険会社の名前です。そうすると、見えにくいのですが、パネルの赤い点の下にある文字も想像がつきます。一部は読めます」
今度はパネルの写った写真を指さした。「東京にも赤い点が三つあって、よく見ると文字が判読できます。全部実在する生命保険会社です。韓国のソウルにも点が二つあるでしょう。見えにくいですけど、寛順によると〈韓進《ハンジン》〉〈亜州《アジユ》〉〈天馬《チヨンマ》〉と読めて、いずれも韓国を代表する生命保険会社だといいます」
「ありがとう。そこまで気にしてくれて」
ツムラは平静さを装って言った。
「約束を破ってすみません」
もう一度頭を下げ早々に帰りかけた彼女をツムラは呼びとめた。
「サルヴァドールは面白かったですか」
「ええ、旧市街が特に。あそこから眺める海はまた格別です」
笑って答え、軽快な足取りで帰って行った。舞子とは逆に、ツムラは暗然と立ちつくしていた。
遺伝疾患の診断装置と血液標本の保存庫、そして生命保険会社という三つの項目から考えつくのは、ただひとつしかなかった。そしてそれこそが、あの区画の存在理由だったのだ。
総ガラス張りのビルの前でタクシーを降りる。十八階に、アントニオ・シゲル・サカガミの事務所はあった。ツムラと同じ日系三世で、高校までは同窓だった。サンパウロ大学の法科を出たあと、わずか三十歳過ぎで、一等地にあるビルにはいることができたのも、手広く肥料会社を経営している彼の父親のおかげだ。しかしそれが信用となって顧客は増え、父親の紹介もあって、日系企業数社の顧問弁護士も務めるようになっていた。
秘書はツムラの顔を見ると、そのままサカガミの部屋に案内した。
「サルヴァドールから直行か」
サカガミは丸太のような腕を伸ばしてツムラを迎え入れる。中学から大学まで柔道でならした体格は、今もって衰えを見せていない。
「一面ガラス張りというのはいいね」
ツムラは窓際に寄って、市街地を見下ろす。
「世間では、総ガラスの建物は、地震がくると地面に割れたガラスが落下すると思っている。これは建築家に確かめたのだが、一番安全なのは総ガラスのビルさ。万が一、地震でもあったら、ガラスの建物の下に避難すべきだよ。他のビルのほうが、頭上から窓枠ごとガラスが降り注ぐ」
ツムラと並んで立ちながらサカガミは言った。背丈はさして変わらないが、ダブルのスーツに身を固めた肩幅はツムラの倍はあった。
サカガミの祖父は移民としてブラジルのコーヒー農園や砂糖きび農園で働き、最後には自作農となって野菜づくりに励んだ。その子、つまりサカガミの父は高校を出て肥料の販売店を始め、後にはサンパウロ郊外に肥料工場を作った。そして息子を大学にやって、弁護士に仕立て上げたのだ。
三代にわたって、内陸部の農園から少しずつサンパウロに近づき、ついに市内の一等地に事務所を持つに至った一族の歴史が、この場所に立つと実感できる。サカガミはそういう気持で毎日窓の外を眺め、日々の仕事の糧にしているのだろう。
日系ブラジル人の若い世代は、誰もが父や祖父、あるいは曾祖父《そうそふ》を意識している。もちろん思春期には、日本語を習うことに反発を覚え、両親にも反抗し、完全なブラジル人になろうと努力する。一方で、日本的な残渣《ざんさ》をひきずっている旧世代を軽蔑《けいべつ》するのが普通だ。ところが、二十代後半あるいは三十歳を過ぎ、実業家や弁護士、医師などの道を歩み出すと、決まって回帰現象がおこる。父や祖父の辿《たど》ってきた道を、自分もまた辿り始めるのだ。
サカガミの事務所の壁にも、日本から取り寄せた書の扁額《へんがく》が掛けてある。ツムラの十分の一も日本語は読み書きできないくせにだ。〈観天下理〉、天を観て理を下す。あらゆる欲を払い、物の道理のみに従って決断せよ、の意味だとサカガミ自身は大威張りでツムラに説明した。
「きみから連絡を受けて、ある程度は調べたんだ」
サカガミはツムラにソファーを勧めた。「もともとこの種の問題には興味をもってはいた。いちおう医事紛争に関連することだからな」
サカガミの得意とする分野は二つあって、ひとつが企業がかかえるさまざまな特許問題、もうひとつが医療問題だった。二つとも、その分野に日系人が進出している結果から生じた戦略とも言える。とくに、医療事故にあった日系人患者や、医療過誤の疑いで訴訟を起こされた日系人医師は、サカガミの事務所に相談を持ち込むことが多かった。
「きみが言う遺伝子診断は大きな問題をはらんでいる。純粋に医学の問題にとどまらず、社会的な問題がそれに付随してくるからな」
クーラーは程良く効いているのに、サカガミはネクタイをゆるめる。ツムラは先を促した。
「合衆国でも、実際に法廷論争があったばかりだよ。話はそう単純ではない。三十二歳の女性が、乳房|卵巣癌《らんそうがん》症候群を将来発生する可能性があると遺伝子診断されて、予防的に外科手術を受けたんだ。乳房切除と卵巣摘出術──」
「ま、理には適っている」
「ところが、保険会社がその手術に対して支払いを拒否した」
「ほう」
ツムラは首を捻《ひね》る。
「保険会社の言い分は、遺伝子診断で将来のある時期に癌を発症するといっても、現時点では病気ではない。病気でもないのに支払いはありえない、というのだ」
「なるほど」
ツムラは唸《うな》る。法律問題ともなると、言葉の端々にまでこだわるのだと感心する。
「保険の誓約書を見ると、保険の支払いが可能なのは、〈病気《イルネス》〉か〈身体的障害《ボデイリイ・デイスオーダー》〉と明記されている。そうすると、将来、高い確率で癌になるといっても、現在は〈病気〉でも〈身体的障害〉でもない」
サカガミは教え諭すように言う。
「それはそうだな。現時点では健常人だ」
「そこで、このままでは不利だと見てとった患者側の弁護士は、医学的に必要な治療かどうかに、論点をずらした。医学的に必要な外科手術に対して、保険会社が支払いを拒否するのは法律違反になるからな」
「しかし、医学的に必要な処置かどうかは、微妙な決定だよ。例えば遺伝子診断で、高頻度にいずれ癌が出現するとなっても、それが十パーセントの確率であれば、医学的に必要な処置とは言えないだろうし、九十パーセントなら、予防的外科手術も医学的に必要と言える──」
「じゃ、三十パーセントならどうなる?」
間髪を入れずにサカガミが訊く。ツムラは返答に窮した。
「それとも四十パーセントなら?」
「難しいな」
ツムラは考え込む。「医師と患者で、または医師によっても考え方は異なるだろうな」
「一審での判決は、原告は現時点で病気ではないので、予防的手術に対して保険金を支払う必要はないというものだった。二審では、それが逆転した」
気をもたせるようにサカガミは言いさす。秘書が運んできたコーヒーカップを手にとる。小さなカップがサカガミの巨体には不釣合だ。
「病気を将来発症する危険性を遺伝的に持つというのは、保険機構の目的からして、病気を有しているのと等価だというのだ」
「しかし、危険性というのは曖昧《あいまい》な概念だよ。一方で、保険の目的と医学とは無関係だ」
医学上での討論と違って、サカガミと議論するときには、いちいち前提を吟味しがちになる。
「そうだな。最終的な裁判官の判定はこうだ。保険というのはあくまで、人の健康に寄与するのが目的だから、健康維持に向かって本人が行う努力には積極的に援助を与えるべきだと結論づけた。つまり、危険性《アツト・リスク》を排除、あるいは減じるべく医師が勧めた手術というのは、通常の手術と同じであり、保険適用という論法だ」
「しかし、そのときの危険性が何かという問題は依然として残る。十パーセントや二十パーセントが、果たして危険性と言えるか」
今度はツムラがコーヒーを口に含む番だ。慣れてくると、法律談議もチェスのようにゲームとして楽しめる。
「そこさ。その〈危険性〉というのが、保険業界に衝撃を与えたんだ。それが拡大解釈されれば、予防的治療や手術が格段に増加する。もともと保険というのはそういう事態を想定していない。すべての予防的処置に支払うとなれば、財政上|破綻《はたん》するのは目に見えている」
サカガミは言葉を探すようにゆっくりした口調で続けた。「要するに〈病気《イルネス》〉とは何か、というのが法律で問われているのさ。遺伝的な危険性を有している状態が、果たして病気と言えるか。病気であるとすれば、それに対する処置は、保険で面倒をみなければならない──」
「しかし、物事はそう単純じゃないよ。遺伝的な危険性というのは、高血圧や糖尿病だってある。そういう遺伝素質をもっている人間は、発病する前から、食事に気をつけたり、運動に励んだりしている。それも医療の管理下でやるとすれば、費用は保険会社に請求できることになる」
ツムラの反論をサカガミはやんわりと制した。
「いや、極論はいかん。法律というのは、あくまでも常識の延長になければ成立しないものなんだ。法廷では、ウェブスターの辞書やドーランドの医学辞典に定義されている〈病気《イルネス》〉の意味も引用して、それを健常状態から逸脱した身体《からだ》の状態と解釈したんだよ。そして遺伝的に発症する危険性をもっている者は、その健常性からはずれているので〈病気《イルネス》〉に値するとみた」
「ちょっと待ってくれ」
今度はツムラがサカガミを制した。「それは医学の実情を知らない素人の判断だよ」
「だから、言ったろう。法律家はあくまで素人を出発点にして、ものを考える」
「健常状態の定義など、医学的にはますます難しくなってきている。例えば、きみが例に出した乳房卵巣癌症候群の女性だって、ひと昔前までは検査法もないので、発症するまで完全に健常状態であったわけだ。逆に、将来診断技術が進めば、どんな小さな遺伝的危険性も前以《まえもつ》て判るようになる。そうすれば人間である限り、誰しも何らかの遺伝子的な障害をもっているわけだから、健常状態にある人間なんてひとりもいなくなる」
ツムラはにわかに雄弁になる。「それにもうひとつ、発症する危険性を取り除くための予防的治療にしたって、果たして有効かどうかだよ」
「確かにそれは裁判でも問題になったようだ」
サカガミは頷《うなず》く。「予防的に乳房切除手術を行ったのに乳癌を発症した例が、いくつか報告されているらしい」
「医療技術に完全と言えるものはないよ。その症例の場合、一度目の手術に対する保険会社の支払いは無駄になっている。再手術に対して、保険会杜は費用を支払ったのか」
「それは知らない」
サカガミは首を振る。「〈病気〉の定義については、もうひとつ、やはり合衆国で問題になった例がある。ある夫婦で、妻のほうが卵管閉鎖のため妊娠ができず、試験管受精をしたんだ。その費用の支払いを保険会社は拒絶した。十年ばかり前のことだ。これは今では古典的になった法廷論争だがね。保険会社の言い分は、不妊の原因が卵管閉鎖であり、その卵管閉鎖がたとえ病気であるとしても、体外受精がすぐさま医学的に必要な治療とは言えない。何故なら妊娠しないのは病気ではないから、というのだ。仮にその卵管閉鎖を取り除く治療であれば支払う用意もあるが、一足跳びの体外受精には支払えない、ともつけ加えた。判決はどうだったと思う」
「裁判官はどうしても患者側に立つだろうな」
ツムラは迷わず答えた。それまでのサカガミの話から、合衆国の裁判の底流にあるものが掴《つか》めたような気がした。
「体外受精によって、結果的には卵管閉鎖を治療したことになるので、費用は保険から支払うべしという判断がなされた。要するに、最初に話した例もこの例も、二つの面で同質なんだ。
乳房卵巣癌症候群の女性の場合は、遺伝子の欠陥によって発癌の危険性の高い状態に置かれており、その治療として予防的に乳房も卵巣も摘出した。さっきの例では、卵管がつまっているため妊娠できないので、体外受精をした。どちらも正当な医学的処置であり、保険会社が費用を支払うべきだという論理だよ」
サカガミが議論を切り上げるように締めくくる。ツムラはまだ完全には納得がいかず、どこかはぐらかされたような気がした。
「昼飯は?」
サカガミが訊《き》く。
「まだ食べていない」
機内でスナックが出ただけだった。
「ぼくもだ」
サカガミが飾り棚の上の時計を見る。「酒でも飲みながら話を続けよう。今日の泊まりは?」
「ブラジルトン・ホテルに宿をとっている」
「兄さんの家には行かなくていいのか」
サカガミは立ち上がりながら言った。
「サンパウロには出て来ていないことになっている」
「日頃、電話ぐらいはしているのだろうな」
ツムラがサルヴァドールに去った理由もサカガミは知っていた。
「兄のほうからしてくる。まだこちらからはする気にならないがね」
「相変わらず強情だな」
サカガミは秘書に行先を告げて部屋を出た。態度のはしばしに貫禄《かんろく》が感じられる。家庭でも小学生の男の子を二人もつ父親であり、妻は医学部の講師をしていた。どこから見ても順風満帆の人生だ。それに比べて、自分の人生はまだ不完全でいびつだとツムラは思う。
「しかし、兄さんとの問題は時間を置くしかないだろうな」
舗道を歩きながら、サカガミがポツリと言った。
「分かっている」
サカガミが兄との確執を心配してくれるのは嬉《うれ》しかった。
「サルヴァドールもいい所だよ。一度来てみるといい。病院はそこから車で二時間足らずの所だ。海の傍でね、景色と人情は申し分ない」
「サルヴァドールは二回行ったかな。ここ七、八年は行っていない」
「家族連れで来てもいい。病院の近くにはバンガロー形式の高級ホテルもある」
「そのうち行くよ」
大通りから右に折れ、さらに小路にはいった。ビルの一階に中華料理店があった。
「ひと月前に開店したばかりで、味もまずまず。コックは香港から招いたそうだ」
サカガミが勝手知ったように入口の扉を押し開ける。
昼食には少し遅く、席は空いていた。サカガミは奥の席を選んだ。
「まさか食前酒までも、中国の酒ではないだろうな」
「いや、アルコールだけは何でもある。ワインにビールにウィスキー」
「カイピリーニャでいい」
「そうだな」
ウェイターも中国系のブラジル人だ。サカガミは任せてくれというように、てきぱきと注文する。
「さっきの話の続きだけどな」
カイピリーニャのグラスを手にしてツムラは切り出した。「遺伝子的に将来発症する危険性が〈病気〉とみなされるなら、十パーセントの危険性でも、やはり病気なのか」
「これじゃ主客転倒だな」
サカガミは笑った。「医者であるきみが、弁護士のぼくに病気かどうかを訊くのだからな。危険性といっても、医学的には二つあるそうだな」
「いや知らん」
ツムラは首を振る。
「聞きかじりだけどな。まず〈生涯危険率《ライフ・リスク》〉。人の平均寿命を七十八歳として、その生涯のうちで個人がその病気を発症する確率。もうひとつは、〈現危険率《カレント・リスク》〉。ある年齢において、その後発病する確率」
「なるほど」
「もし生涯危険率が五十パーセントであれば、もうその人間は、はじめから病気であったともみなせる。いや例えばの話だ」
ツムラが反論する素振りを見せたので、サカガミは手で制した。「しかし、こうなると、保険会社のほうはそれを楯《たて》にとって、今後そういう人間とは契約を結ばなくなる。この理屈は分かるだろう」
「当然の論理だね。生まれたときから病気の人間を保険に入れるとなると、よほど高額の保険料を取らない限り、割が合わない」
「それで、個人救済の保険の目的としては、現危険率のほうが望ましいということになったんだ」
「すっきりしないね。用語の使い分けで、事実を隠しているようなものだ」
「まあな」
サカガミは運ばれてきた料理をツムラに勧めた。べーコンに似た薄片が皿に盛られている。口にすると、微妙な歯ごたえがあった。
「うまいだろう。カイピリーニャに合うのを発見したのはぼくだ。もうひとつの料理もよく合う」
サカガミは上機嫌だった。スポーツマンのくせに議論好きで、酒の席でも理屈っぽい話を続ける。友人たちからはあきれられていた。
「その現危険率を採用しても、線引きの問題は依然として残るんだ」
「当たり前だよ。四十七パーセントの危険率は病気じゃなく、五十パーセントは病気だ、というのはお笑い草だ」
ツムラは言下に言った。
二つ目の皿には脂っ気たっぷりのものがのっている。口に入れたが、肉とも魚ともつかない味だ。ねっとりとしてこくがあり、確かにさっぱりとしたカイピリーニャ向きだ。
「もちろん線引きに科学的な根拠なんかない。恣意《しい》的になってしまう」
サカガミもうまそうに皿の上のものを箸《はし》でつまみ上げた。「しかし、ほんの少しの危険率しかない個人にまで、予防的な外科手術を認めるとなれば、保険会社は破産する。線引きを五十パーセントにするか五十五パーセントにするかで、国家規模での医療費支出は十億ドルくらい違うと算定されている。もちろん合衆国での話だ。リカルド、その肉、気に入ったらしいな。全部食べていい」
二皿目の料理をツムラが次々に口に入れるのを見て、サカガミが言う。
「食べ出すとやめられなくなる」
ツムラはいったん箸を置いて、二杯目のカイピリーニャを注文した。「それで、合衆国での線引きは確定したのか」
「いや論争中だ」
「ブラジルでは?」
「ブラジルどころか、合衆国以外で、この問題に注目している国はない。つまり世界中が無法状態ということだ。百年前のブラジルの土地獲得と同じで、密林を焼き払って、ここが俺《おれ》の土地だと宣言すればそうなってしまう。ま、これがぼくの結論だね。いま、きみがたいらげてしまった料理は何だと思う?」
いたずらっぽい眼でサカガミから訊かれ、ツムラは首を捻《ひね》る。
「ハムにしては硬過ぎるしな」
「豚の耳だ。原物からは想像できない味だろう。そこが料理人の腕の見せ所」
ツムラは驚き、食べたものを確かめようとするが、もう皿には何も残っていない。「ついでに言うと、この皿はサメの浮き袋とガチョウの水かきだ」
ツムラは改めて皿の上に眼をやる。なるほど言われてみれば、水かきのほうはどうにか原形を保っている。しかし浮き袋となると、どんな具合に調理されているのか、想像を超えた。
サカガミはウェイターを呼び、新たに料理を注文した。奇妙な料理を口にしたうえに、久しぶりのカイピリーニャが胃袋にしみて、ツムラはもう酔いを感じていた。
「さて前置きはこのくらいにして、本題にはいる。きみから相談をもち込まれたとき、ぼくは自分の目を疑った」
サカガミは真顔に戻った。「きみの言ったような遺伝子診断のチップが、もう実用化されているとは知らなかった。それは正確なんだな。つまり、誤診はないのだな」
「誤診の確率は極めて小さいはずだ。すべての情報をチップの中に組み入れている」
ツムラは頷く。「きみがさっき例にとったような五十パーセントとか四十パーセントというあやふやさでなく、百パーセント発症するというやつだよ。ただ、その発症年齢までは予言できないがね。それでも、病気によっては好発年代が決まっているから、おおよその察しはつく」
「例えば」
サカガミから言われて、ツムラは書類入れから、写真を取り出す。コンピューターの画面が写っている。
「手紙でも説明した通り、ここにあるハンチントン舞踏病は三十歳前には全くといっていいほど発症しない。大体、四十歳を過ぎて少しずつ症状を呈し始める。それから、こっちのほうは、ま、十二、三歳というところかな」
二枚目の写真には、筋ジストロフィーの診断を示した画面が撮られている。
「そうなると法律的に言えば、生涯危険率は百パーセント、現危険率も百パーセント近くになるな。合衆国でもこれが問題にされたんだ。さっき言った乳房|卵巣癌《らんそうがん》の例と違って、事態は一層深刻になる。言い換えると、これはもう、どの時点でも病気であるのと同じだ。保険会社は契約に慎重になる。病気が既に存在しているのに保険に加入するなど、とんでもないと言うだろう」
「その理屈は分かる」
ツムラは頷く。いったん酔いかけていた頭が妙に澄み始めていた。
「しかもだ。保険加入の問題は単に保険だけにとどまらないのだ」
サカガミが口元を引き締める。「大多数の人間は、勤めている会社を通じて健康保険にはいっている。つまり企業が従業員の保険料をまかなっている例が大部分なのだ。合衆国もそうだしブラジルだって同じ。たいていの国がそういう具合になっている。病気の従業員をかかえれば、労働力の低下と医療費の支出という二つの面で、会社は被害を被るわけだ。そうすると、遺伝子診断で危険率百パーセントの結果が出ている人間など、雇わないにこしたことはない。そうだろう? 小学生だって分かる道理だ」
「その論法でいけば、就職だけでなく、結婚でも問題になるだろうな」
ツムラは暗然とする。
「当然。遺伝子診断は医学の領域を容易に超えてしまう。さらに言えば、人間の生き方までもひん曲げる恐れがある。〈あなたは十代でカクカクシカジカの病気になる〉と診断された子供が、これまでの子供と同じように育つと思うか。親だってそれを知っていれば、育て方がギクシャクしてくるさ」
サカガミは新たに運ばれた皿に箸をのばした。もう店内のテーブルに残っているのは二人だけだ。
「雇用に関して言えば、将来従業員を雇うときに、遺伝子診断の結果を求めることもありうるな」
ツムラが訊《き》く。
「しかし、そんなことは許されない」
サカガミが語気を強めた。「それは人種差別よりも人道に反するものだよ。いわば遺伝子差別だからな。人種差別より徹底している。逃げ道がない。それが許されれば、社会はまた百年二百年前に逆戻りしたのと同じになる」
「しかし、そうなるのをどうやって防ぐのだ」
ツムラは思わず訊いてしまう。「現実に医療の現場では、遺伝子診断が進んでいる。もうこの流れは止められないよ」
「合衆国では去年、法律が発効した。遺伝子診断をした医療機関は、その結果を保険会社に知らせてはいけないとね」
「雇い入れる企業側はどうなんだ」
「もちろん、従業員に遺伝子診断を強要してはならない」
サカガミは飲み物をビールに変えていた。牛肉にタレをからめた料理が出ていた。
「他の写真を見せてくれ」
サカガミから言われて、ツムラは写真をテーブルに並べる。
「これが血液標本の保存庫で、こちらが診断チップの操作室。こちらのほうはコンピューター室で、パネル上に散らばっている赤い点はどうやら保険会社の所在地らしい」
ツムラの説明を聞きながら、サカガミは八枚の写真を興味深く見比べた。
「リカルド、これはさっききみに言った情報センターだ。病院の中にあるのか、この部屋は?」
「そう。しかし同じ建物の中でも、他の部門とは完全に切り離されている」
「なるほど、医療とは異質な場所だからな。スタッフも技術者と事務員がいればいい。五、六人で充分やっていけるだろう。そして収入は医療部門の数倍は期待できる」
「どういうことだ?」
ツムラは酔いが醒《さ》めていくのを感じた。
「たぶん、この二つの部屋はそれぞれ別の機能をもっているのじゃないか。パネルの上の世界地図は同じだが、保険会社は違うだろう。写真を撮ったのはきみか?」
「もちろん。夜中に忍び込んでだ」
「どうしてこういう場所があると判った?」
「メモが郵便受に入れられていた」
口の中が渇き始めていた。カイピリーニャを思い切って飲み干す。
「誰の仕業なんだい」
「分からん。落とし穴かとも思ったが、メモにあった通りに行ってみたんだ」
ツムラはありのままをサカガミに言っておく必要を感じた。「実はな、受け持ちの患者が妙な死に方をして、その調査をしているところだったのだ。コンピューターに入れていたその患者のデータもそっくり消えていたので、おかしいと直感した」
「おかしいというのは病院がか?」
「まあ、そうだ。コンピューターを管理しているのは病院だしな。そんな矢先に、メモが放り込まれた。どうするか迷ったよ」
「内部告発かな」
サカガミも首を捻る。「表立っては動けないので、さりげなく情報を第三者に与えて、全体を明るみに出してもらおうとするやり方かもしれん。それにはきみが適任者と見たのだろう」
「しかし何を告発する?」
「まだ察しがつかんか」
サカガミが逆に問い返す。「ぼくが考えるに、さっき言った法律はブラジルには存在しない。そこをついて、新たな事業をきみの病院は手広くやっている。それも二方向《バイラテラル》でね」
「二方向《バイラテラル》?」
ツムラはサカガミが使った英語を復唱する。
「患者は自分が遺伝子疾患にかかっているかどうか、前以《まえもつ》て知りたい。それでフォルテ・ビーチ病院に血液を送り、診断してもらう。陽性だと判明すれば、その結果を隠して保険に加入する。それもなるべく手厚い保険にね。
逆に保険会社のほうは、加入者の事前チェックのために、血液標本を送る。陽性の場合、何か別の理由をつけて断るか、契約事項の内容に留保をうまく盛り込むだろうね。いずれにしても、病院は保険会社と患者の双方から高額の診断料をせしめることができる。いい事業だよ」
「知らなかった」
ツムラは憮然《ぶぜん》とする。「ぼくはあの病院の医療水準に惚《ほ》れ込んで就職したのだ」
「確かにな。他のスタッフもそうだろう」
サカガミは同情するように言った。テーブルの上に新たな皿が置かれたが、食欲はもう萎《な》えていた。
「これは犯罪ではないのか」
ツムラは思い切って訊く。
「保険会社への情報提供については、ブラジルに取り締まる法律はない。しかし、合衆国の保険会社がこのパネルには相当数掲示されているだろう。合衆国の法律には違反しているので、FBIの調査対象にはなるはずだ。
それに、おそらくこの事業に関して、脱税をしているのは間違いないだろう。となると、ブラジルの警察も当然関心をもつ。きみがその気になれば、ぼくが動いてもいい。合衆国の弁護士を通じてFBIに連絡をとることも可能だ。あいつら、すぐにでも腰を上げるよ。何しろ、この分野では最初の犯罪だろうからな。
明るみに出れば、スキャンダルになること間違いない。合衆国の保険会社は相当ダメージを受けるはずだ。その他の国の保険会社は法的規制はないので、何とか言い逃れはできる。とはいえ、各国とも法律づくりに対する世論は高まる。要するに、ひとり合衆国とブラジルのみならず、世界中の耳目を集めるのは必至だね」
アルコールがはいっているにもかかわらず、サカガミの顔は蒼《あお》ざめていた。
店内に客は二人だけで、遠くにウェイターがひとり所在なげに立っている。
「大事件だな。患者の不審な死も、この件と関係あるだろうな」
「手紙に書いていたやつだな。どんな患者なんだ」
「二十四歳のドイツ人女性で、人工受精のために入院していた」
「ドイツでは何をしていたんだ」
「コンピューター会社に勤めていたはずだ」
「FBIの内偵員とかではないだろうな」
サカガミが真顔で言った。
「まさか。何度も診察して、ちゃんと受精にも成功し、妊娠二十五週だった。そんな大それた女性には思えん。ごく普通の女だ。金髪|碧眼《へきがん》でドイツ美人の典型ではあった」
ツムラはバーバラの陰毛までが美しい金色をしていたのを思い出す。
「彼女の死とこれが関連しているとすれば、コンピューターかもしれない。遺伝子診断の結果も、病院内のコンピューターに入れられているのだろう?」
「それはそうだ。すべてコンピューター化されている」
「彼女がコンピューターを操作していて、そういうからくりに気づいた可能性はある」
「秘密をかぎつけたから消されたというわけか──」
ツムラは思わず背筋を伸ばしていた。病院の裏側を知ったという点では、自分もバーバラと同じ立場ではないか。
「ひとつ分からんのが、きみに渡されたメモだよ。内部告発か、おびき寄せか。きみがそのドイツ女性の死に疑問をいだいていることは、かなり知られているのか」
サカガミが険しい表情で訊く。ツムラが置かれている状態の厳しさに改めて気づいたようだった。
「ある程度はな。あちこちで尋ねまわった」
「それを承知で、きみに同情的な奴《やつ》が、それとなく知らせたのかもしれない。仮におびき寄せるとなると、今頃こうしてのうのうとサンパウロあたりまで来られないだろうからな」
サカガミは自らの結論に安心したように、再び料理に手を伸ばした。「ワニのスープが冷えてしまうぞ」
ツムラはサカガミにならって、碗《わん》にスープをつぐ。ほのかにしょうがの味がした。
「しかし問題はこれからだ。本当に感づかれたら、ドイツ女性の二の舞になる」
サカガミはツムラの顔に眼を据えた。徹底的に探ってみるのか、それともこのままうやむやにするか、お前の決定に従うという目つきだ。
「覚悟はしている。引き下がるわけにはいかんだろう。その過程でバーバラの死因がはっきりすれば、彼女に対しての供養になる。主治医として、頬《ほお》かむりしたまま逃げることは許されん」
「じゃ、決まりだ。こっちでもサンパウロ警察の検事に連絡をとる。合衆国の友人にも電話して、FBIに接触してもらう。その二つが動き出すとしても、最初は内偵だ。きみには迷惑がかからんように動いてくれるはずだ。きみのほうでは、しばらく、立ち入った行動は控えたほうがいいだろうな。写真と資料は預っておく」
「分かった」
ツムラはカバンに入れていた病院案内のパンフレットをテーブルの上に置いた。
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30
クラウス・ハースが一週間ぶりに酒場に行ったとき、常連の客たちは一斉に手を叩《たた》いた。
「生きていたのか」
店主のアルティーノが言った。「どこかで血でも吐いて死んでいるのじゃないかと心配していた。警察を呼んで、あんたのアパートを開けてみようかという話まで進んでいたのだ。スケッチ旅行か。それとも遺産相続でドイツに戻っていたのか。黙って行くとすれば、そっちのほうだな。たんまり懐にはいったろう」
「いや、遺産はまだすんなり手にはいっていない。ゴタゴタが続いているさ。その証拠に、痩《や》せて帰ってきた」
常連客のヴィルジリオが、値踏みをするようにクラウスの顔を見る。
「田舎の方にある病院に入院だ。腹の中にたまっていた石を取った」
胆のうと言っても理解してくれるはずもないので、クラウスは単純に腹の中だと説明する。
「お前、石を食べたのか」
陽の高いうちから酒を飲んでいるヴィルジリオが訊《き》き返す。
「まさか、腹の中に石ができる病気だ」
「それで腹を切った?」
ヴィルジリオは立ち上がる。
「おいみんな。クラウスが腹を切ったそうだ。どこをどう切ったか、今夜はクラウスにたっぷり話をきかせてもらおう」
大声で言うと、周囲の連中がまた手を叩く。常連客のほとんどが小話《ピアーダ》の名手ばかりだ。当意即妙に笑い話を次から次に仕掛けてきて、大受けすると、店主のアルティーノが一杯分のカイピリーニャをサーヴィスしてくれる。
クラウスだけはもっぱら聞き役で、ほうびのカイピリーニャなど貰《もら》ったことがない。
苦笑していると、椅子《いす》の上に立たされた。
「さあ、外科医からどう腹を切られたのか、実演の始まり」
ヴィルジリオがクラウスのシャツのボタンをはずしにかかる。客の視線が腹に集まった。
「なーんだ、切られたというのは嘘《うそ》か」
近くにいた男が落胆する。
「切られたのは、この腹の中にある胆のうという袋だ。その中に石がはいっていたので、袋ごと切って、この穴から取り出した」
クラウスはムッとして答える。
「おいみんな、聞いたか。腹に穴を開けて、袋を取り出すのだと」
ヴィルジリオがまた笑う。「こりゃ、まるで金庫破りじゃないか。壁に穴開けて、中の金塊を袋ごとごっそり」
「嘘じゃない。本当の話だ。腹には空気を入れて、膨らまし、この穴から管を入れて中を見るのだ」
クラウスが言うと、周囲の連中は口を開けて笑う。
「腹の中には電灯でもついているのかな」と誰かが言った。
「いや、たぶんランプだよ。アルコールランプ」
ひとりが応じて、どっと笑いがおこる。
「光はこっちの穴から入れて、中を照らす」
クラウスは大真面目で下の方の傷跡を示した。
「で、金庫破りが取り出したという石入りの袋は?」
アルティーノが訊いた。クラウスの話を半ば信用している顔だ。
「主治医から持って帰ってもいいと言われたが、置いてきた」
「それは残念だ。もしそれがあれば、カイピリーニャを毎日一杯、一ヵ月間ただにしてもよかった」
アルティーノが言う。「石のはいった袋のほうは、ここにあるワニの下にでもぶら下げておけた」
カウンターの後ろの壁には、ワニの剥製《はくせい》が飾ってある。体長は人間の背丈ほどもあり、店の名の〈クロコジーロ〉もそこに由来していた。
「何はともあれ、金庫破りの医者に石をつかませたクラウスに、乾杯」
ヴィルジリオがグラスを突き出し、他の客もそれに応じた。
クラウスは椅子から降りるのを許されてテーブルに戻る。手術が成功した喜びが、ようやく実感として湧《わ》いてくる。
「しかし、何も田舎の病院まで行かなくても、市内にいい病院はいくつもあろうに」
ヴィルジリオが真顔で言う。
「事情があってな。まあ、スケッチ旅行も兼ねていた」
「そうか。あんたは行く先々で、商売の仕込みができるんだ。俺たちが景色を眺めたところで、一文の足しにもならんが、あんたは眺めたものを絵に描いて、金がしこたま稼げる。畑がいるわけでもなし、肥料もいらぬ。いい商売だ」
「そんなにボロい商売ではないさ」
クラウスはアルティーノに目配せをして、ヴィルジリオに新たな一杯を持って来させる。
「いや、ありがとう」
またグラスを二人で突き合わせる。
「ところで、あんたは、あの向かい側のビルに時々出入りすると言っていたな」
他の連中の関心が他にそれたのを確かめて、ヴィルジリオに訊いた。
「向かい側というと?」
「細長い汚れたビルで、屋上にアンテナのある──」
クラウスは窓から外を指さす。他の建物の窓には明かりがついているのに、そこだけはどの階も暗いままになっている。
「時々といっても、年に一、二回かな。あのビルは出来の悪い造りで、昔から水回りの設備が良くないんだ。本当は水道管も下水管も全部取り替えたほうがいいのだろうが」
ヴィルジリオは自分の仕事の話に蘊蓄《うんちく》を傾けそうな気配だ。若い頃から小さな水道屋に勤めていて、その筋の腕は相当なものらしかった。本来なら、とっくの昔に独立して店を構えてもよいのに、いまだに雇われ人にとどまっているのは酒好きのせいだ。
「じゃ、部屋の中を見たことはあるな。どんなになっている」
「ま、博物館かな。いろんなガラクタが集めてある。古い旗や勲章やビラ、そうかと思うと拳銃《けんじゆう》や機関銃もある。すべて年代物だよ」
ヴィルジリオは思い起こすように顔を上げた。「上の方の部屋には映写機とスクリーンがある。もちろんビデオ装置もある。いうなれば小さな映画館だな」
「客席もついているのか」
クラウスは首をかしげながら訊く。
「いや椅子が並んでいるだけだ。そんなに広くはないので、せいぜい坐《すわ》れるのは十四、五人だろう。まあ、ポルノ映画でも見るのには丁度よい広さだね」
ヴィルジリオは赤い顔をギラつかせて、カイピリーニャを飲んだ。
「その他に何か変わった物は目につかなかったか」
クラウスは畳み込む。
「ヒトラーの写真があった。鼻髭《はなひげ》を生やして、ひさしのついた帽子をかぶったやつだ。幅一メートル、縦は一メートル半くらいはあったかな」
「ヒトラー?」
「その写真の前で、レオは直立不動の姿勢をとった」
「レオというのは?」
「あのビルの管理人だよ。水漏りがしたりすると俺の親方のところに連絡してくる。あんたと同じドイツ系のブラジル人だ。歳はあんたよりずっと若いがね。三十半ばだろう」
「ひとつ訊くが、さっき古い旗が陳列されていると言ったね。こんなやつはなかったか」
クラウスは紙ナプキンを広げ、どくろの絵と鉤十字《かぎじゆうじ》の模様を描いた。
「見たような気がする」
ヴィルジリオは唸《うな》る。
「勲章には、こんな形のはなかったか」
クラウスは紙の余白に別な模様を描き入れる。
「それは確かにあった。それもひとつではなく四個か五個、並べられていた」
「鉄十字章だ」
クラウスは思わず叫んだ。
「どういう勲章なんだ、それは」
「いや、昔は誰もが欲しがった勲章だ。ドイツではね」
クラウスははやる気持を抑えてカイピリーニャに口をつけた。
外はすっかり暗くなっている。
「その管理人のレオという男には会えないかね」
「男の連絡先なら、仕事先の名簿を調べてみれば判る。会ってどうするつもりだ」
「話したいことが山ほどある。俺を紹介するときに、珍しい物を持っていると言ってくれ。例えば党員証など──」
「党員証? 分かった」
「値段次第では売る用意もあると、ほのめかしてもいい」
クラウスはつけ加える。
「また金もうけの算段か。石のはいった袋を医者につかませたあとは、また誰かにニセの骨董品《こつとうひん》でも売りつけるつもりだ」
ヴィルジリオは笑った。クラウスのお先棒を担ぐのを却って面白がっているふうに見えた。
フォルテ・ビーチ病院ではたいした手掛りは掴《つか》めなかった。バーバラの元の主治医もどこかに出かけていて、会えずに終わっていた。その埋め合わせが間もなくできそうな気がする。
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31
レストラン内の舞台では、いつもの楽団がボサノバを演奏していた。初老の男性歌手は声量があるわけでもなく、囁《ささや》くように歌うのだが、ポルトガル語が分からない舞子でさえも、歌詞を理解した気分になる。
「何時に約束したの?」
寛順《カンスン》が腕時計を見た。
「八時半」
舞子が答える。ダミアンと村の中で会ったのは昼少し前だった。〈今夜八時半、この教会の前に来れば、海亀の産卵が見られる〉〈ぼくが案内する〉という話の内容を理解するまで、五分くらいかかった。ダミアンは地面に海亀の絵を描いたり、舞子の腕時計を指さしたりして、根気よく説明した。
「本当なんでしょうね。海亀の産卵はみんな見たがっている。その時期がくれば、病院内に掲示が出されるはずなのに、そんな気配もないわ」
ユゲットが言った。
「多分ダミアンだけが知っている場所があるのよ」
寛順は答える。「産卵て、神秘なものでしょう。大勢で見るのはよくない。ダミアンもそのあたりのことは心得ているのだと思う」
「カメラは?」
「持ってきている」
寛順がバッグを示した。「曲が終わったら出かけよう」
演奏は佳境にはいりつつあった。男性歌手と女性歌手が交互に唱い合っている。親子ほどの年齢の開きはあるが、男性の落ち着いた声と、女性のかん高い声が見事に調和している。食事を終わった客も席を立たずに耳を傾けていた。
曲のあい間で、舞子たちはレストランを出た。
水銀灯に照らし出された芝生の間の小径《こみち》を辿《たど》って、浜の方に向かった。背後で、新たなボサノバの演奏が始まっていた。
暗闇《くらやみ》の中に沈んでいた海と砂浜が、目が慣れるにつれて微妙に見分けられるようになる。
「ちょっと待って」
ユゲットが立ち止まり、サンダルを足からはずした。
「気持いい。昼間と違って、砂も熱くない」
舞子も寛順もユゲットにならう。三人ともスパッツとパンツなので、波の中にははいれない。せいぜいくるぶしまでの波を味わうだけだ。
「やっぱり満月かしら」
寛順が海の上の月を見やる。
「満月の一日前か一日あと」
舞子が答える。正確な円にはどこか欠けている気がした。
「わたしには見分けがつかない。丸く光って見えるだけ」
少し近視のユゲットが首を振った。
レストランの音楽に代わって、波の音が耳を占め始めていた。
暗い海の上に光の帯が走り、また消える。灯台の明かりだ。
ヤシの木陰から小さな人影が砂浜にころがり出て、止まった。
「彼じゃないの」
寛順が言い、試すように手を上げる。小さな人影も頭上で両手を振った。
「ダミアンよ」
舞子は嬉《うれ》しくなる。両親にはどんな言い訳をして出てきたのか。一時間くらいヤシの木の下で待機していたのかもしれない。
「ボーア・ノイチ」
まだはっきりと顔が見分けられないうちに、人影のほうが呼びかける。ダミアンの声だった。
「ずい分待ったのじゃないの」
ユゲットが英語で訊《き》いたが、ダミアンは白い歯を見せて笑うだけだ。
こっちだ、と言うようにダミアンは歩き出す。裸足《はだし》だった。暗さも気にならない様子だ。
「遠いの?」
ユゲットが英語で訊き、「ロージン?」とポルトガル語で言い直す。
ダミアンは五本の指を広げる。「五《スインコ》」という言葉だけ、舞子は理解できた。
昼間はパラソルと一緒に砂浜に並べられている椅子《いす》とテーブルも、うずたかく小屋の前に積み上げられている。だだっ広い浜辺だ。
礼拝堂の脇《わき》にある外灯で広場の様子がぼんやりと見分けられた。ベンチに老人が二人坐り、ダミアンの姿を見ると声をかけた。ダミアンは面倒臭そうに短く答えたきりだ。
そこから灯台の先端が見上げられた。強い光ではないが、暗闇の中に光の線がくっきり浮かび上がる。昼間は見捨てられたように立っていた塔が、今は生き物じみて見える。
「このあたりにも船が通るのかしら」
暗い海を見やって寛順が訊く。「小さな漁船以外、見たことがない」
「ひと月前に、沖を客船が通ったわ。思い切り陸地寄りを航行したのかもしれない。大きな船だった。その一回だけ」
ユゲットが答える。
灯台の下の入江には、七、八隻の小舟が浮かんでいる。桟橋があるわけではなく、錨《いかり》や、岸につないだ長いロープが船の動きを制御しているだけだ。しかも夜中に操業する様子は全くなく、船の大きさからして遠い沖合いに出ていくことも無理だ。
ダミアンが舞子に何か話しかける。足は痛くないかと気にしている様子だった。貝殻の破片が多くなっていた。三人ともサンダルやズックを足にはき直す。ダミアンはその間三人から眼をはずして海の方を眺める。小さいながらも、いっぱしの青年気取りでいるのが見てとれた。
砂の上は歩きにくい。急ごうとすると足が砂に食い込む。体重を横滑りさせるようにして、小さく歩くのがコツだ。
ダミアンが嬉しそうに、舞子に話しかけてくるが、さっぱり理解できない。分からないと言えば、以前と同じように執拗《しつよう》に絵で説明するに違いない。分かったような顔をして頷《うなず》いているのが一番よかった。レストランでボサノバの音楽を聴いているのと大差はない。曲の感情だけは伝わってくる。ダミアンの言っていることは、たぶん海亀|讃歌《さんか》だろう。毎年忘れずにこの浜にやってくる海亀の偉大さを語っているのだ。
「一回に百個近い卵を産むのだって」
ダミアンの話をじっと聞いていたユゲットが言った。百という数字を耳がとらえたのだ。
「一回産んでしまうと、もう帰ってしまうの?」
寛順が英語で訊くが、ダミアンには通じない。
ユゲットがポルトガル語を並べたてて、ようやく分かったようだ。指をたてながら答える。
「産卵のシーズンは三ヵ月。その間に三回くらいは上陸するらしいわ。つまりひと月に一回ここにやって来て、あとは帰っていく」
ユゲットが何とか通訳してくれる。
「産んで帰ったあとはどうするの?」
寛順がまた訊き、ユゲットが必死で通訳する。ダミアンが短く答える。
「海をぐるぐる回るのだって」
「海と言ってもいろいろあるわ」
「大西洋いっぱいじゃないかしら」
舞子は、海亀博物館の中にあった地図を思い出して言う。大西洋を一年かけて回遊する様子が矢印で描かれていたのだ。
「そう。そしていつも産卵場所は同じなのね」
寛順が感激した面持で頷く。
ダミアンが立ち止まる。砂浜の先に何か見つけたようだ。舞子には単なる薄闇《うすやみ》にしか見えない。バッグから小さな懐中電灯を取り出す。ダミアンが、照らしてもいいだろうという表情で応じ、ゆっくり歩き出す。
二十メートルほど進んだところで、ダミアンが低く叫んだ。しかし何も見えない。舞子の手を取るようにして、ダミアンが懐中電灯の光を前に向ける。
海亀の甲羅と頭部が見えた。直径が七十センチはあろうか。甲羅の後ろ半分は砂の中に埋まりかけている。前足を折り、太い首を思い切って前に伸ばしていた。光に照らされても微動だにしない。
三人とも息を呑《の》んで腰をかがめる。ダミアンだけが海亀の傍にしゃがみ込み、優しく声をかける。その仕草は、まるで出産の介助をする助産婦だ。
そのあと後ろに回り、舞子の懐中電灯を取って光を海亀の尻《しり》に当てる。
甲羅の下の隙間《すきま》に、白いピンポン玉のような卵が見えた。神々しく光っている。
「産まれる」
ユゲットが声を上げた。
甲羅の下の肉が開き、白い卵が顔を出す。粘液に包まれた表面が青白く光る。凝視している間に、卵全体が外に出て、ポトリと穴の中に産み落とされた。
誰もが声を失っていた。
海亀は四人が見守るなかでも、動こうとしない。しっかり目を見開き、ちょうどガマ蛙のように大地に踏んばっている。
またピンク色の肉が開き、新たな卵が顔を出す。石像のように不動の海亀の身体《からだ》のなかで、そこだけが別世界だ。刻々と白い玉が大きくなり、膨らんだかと思うと急にしぼみ、尾を引く粘液とともに砂の穴に落下する。
「すごいわ」
寛順が潤んだ目を上げる。「感激しちゃった」
舞子も同じ気持だ。
圧倒される思いで懐中電灯のスイッチを切る。海亀の身体は薄闇に包まれたが、月の光が甲羅と首筋をほのかに浮かび上がらせている。
波の音がした。
「こんなところで、たったひとりで産むのね」
ユゲットが坐《すわ》ったまま周囲を見渡す。暗い海と砂の盛り上がりの他は、何もない海岸だ。
砂の上に、海から上がって来た跡が帯状についている。
「見ているのは月と星だけ」
舞子は空を見上げる。星がまんべんなく空にはめこまれている。
ダミアンは砂の上に腰をおろし、海亀よりも、舞子たちの驚きぶりを満足気に眺めている。
三人が見ている間に、二十個ほどの卵が産み落とされただろうか。海亀の甲羅が初めて動いた。前足を立てて少し前進し、後足で穴に砂をかけ始める。
闇の中でも勝手知ったような動作だ。穴の中に露出していた無数の卵が、みるみるうちに砂に隠され、遂に見えなくなる。海亀はその上をさらに平らに踏み固めた。
ひと息つくまでもなく、海亀はゆっくりと前進し、海に向かってUターンする。力を使い果たしたのか、四本の足は重い甲羅を持ち上げるので精一杯だ。ひたすら波の方向に身体をひきずっていく。
四人とも立ち上がって、その姿を見送っていた。
海から出て来たときの跡と、帰っていく道筋が途中で重なる。ようやく波打ち際までたどりつくと、最初の波にぷかりと身を浮かべた。引く波と一緒に向こう側に吸い込まれ、見えなくなった。
「よかった」
ユゲットが小さく拍手をする。「ショーを見ているようだった」
舞子も同感だ。「オブリガーダ」とダミアンに言った。
ダミアンも白い歯を見せて笑い、何か問いかける。どうやら、もっと見たいかと訊いているようだ。
「まだ何匹もいるの?」
寛順が手真似で質問すると、ダミアンは頷く。
波音だけしかしない海辺で、何十匹もの海亀がそれぞれ一生懸命に卵を産みつけているのだろうか。
ダミアンが舞子の懐中電灯を手にして歩き出す。産卵の場面を目撃したあとでは、砂の上を歩くのにも用心深くなる。
「そうか、海からの足跡で海亀の居場所が判るのよ」
ダミアンのすぐ後を歩いていたユゲットが言う。なるほどダミアンは、懐中電灯の光を時々|渚《なぎさ》の方に向けた。
しばらくしてダミアンが足を止める。用心深く光を移動させる。黒い塊が七、八個、砂の中に浮かび上がった。
「みんな産卵中なのね」
寛順が感激したように言う。
舞子は砂の上を静かに歩き、一番手前にいた海亀に近づく。そっと腰をかがめて、海亀の顔を眺めた。人の気配にも驚いた様子はない。最大限に首を伸ばし、目を見開いている。大きな前足が、ちょうどクレーン車の重みを支えている支柱のようだ。砂地の中に食い込み、動かない。
卵は規則的にひとつずつ産み落とされていた。月明かりに光る粘液がそのまま産みの苦しみを表わしているように思える。声は出さないが、海亀の鳴き声が聞こえてきそうだ。
卵がまるで巨大なオパールのように青白く光る。
ユゲットも寛順も海亀の傍にしゃがんで見入っている。
舞子は涙がこみあげてくるのを覚える。何の涙だろう。悲しみではない。嬉《うれ》しさだ。ちょうど感動的な音楽を耳にし、芝居を見たときと同じだ。
ダミアンがすぐ横で、海亀の首筋を撫《な》でる。海亀は嫌がる様子もない。舞子もおずおずと真似た。
石のように硬い皮膚だ。こんな身体の内部に、あんな美しい卵が宿っているなんて信じられない。
海亀の口からよだれが垂れていた。
舞子はティッシュを出して口の周囲を拭《ふ》いてやる。その瞬間だけ、海亀は気持よさそうに瞼《まぶた》を閉じた。
寛順が立ち上がる。眺めていた海亀が産卵を終わって砂をかけている。卵は百個以上はある。
寛順はその光景をカメラにおさめる。続いて、海亀が渚まで歩く姿、波に乗ろうする姿にもシャッターを押した。
「産卵の場面のアップは撮らなくていいの」
舞子が訊《き》くと寛順はかぶりを振る。
「何か申し訳ない気がするのよ」
代わりに寛順はユゲットの方にカメラを向けた。
舞子の前の海亀が前足をおこす。身体を移動させ、後足で砂を押しやる。
「二人ともしゃがんで」
寛順が言った。海亀を真中にしてダミアンと舞子が腰をおろす。海亀はフラッシュにも我関せずで砂かけを終わり、そそくさと歩み出す。
ユゲットが見ていた海亀も動き出していた。
寛順がカメラの操作をダミアンに教えている。ダミアンはカメラを手にするのは初めてらしく、持ち方もぎこちない。ファインダーを恐る恐る覗《のぞ》いている。
舞子と寛順がユゲットの傍に行き、腰をかがめる。
ダミアンがカメラを向ける。しかしいつまでたってもフラッシュが立たない。シャッターを半分くらい押して作動を確かめ、さらにもうひと押しする要領が難しいのだろう。
待っている間も、海亀はせっせと砂かけを続けている。
「チーズ」
寛順が言う。フラッシュが光る。ダミアンが嬉しそうに笑う。もう一枚、と寛順が指示を出す。海亀が移動を始めていた。帰路を遮るようにして三人はしゃがみ込む。そこをまたダミアンが写真にとる。
「さあ、今度はダミアンが真中」
寛順がダミアンと入れ替わる。
ダミアンは舞子とユゲットの間で、ひょいと腰をかがめ、海亀を抱きかかえた。海亀は首を伸ばしたまま動かない。寛順がシャッターを押した。
「わたしにも抱かせて」
寛順がダミアンから海亀を受けとる。
「重たい」
寛順が声を上げるところを、舞子がカメラにおさめてやる。
「赤ちゃんよりもずっと重い」
寛順と代わって海亀を抱えたユゲットが驚く。舞子も抱いてみる。冷たいと思っていた甲羅にはかすかに温《ぬく》もりがあった。
ダミアンに海亀を託したあとも、そのずっしりとした重みと温もりが腕のなかに残った。
ダミアンは海の中にはいり、海亀を波に浮かべ、まるで模型の舟を進水させるように沖へ押してやる。しばらく海亀は浮かんでいたが、次の波が来たときには姿を消していた。
浦島太郎のようだと舞子は思う。ダミアンはそうやって物心ついたときから、海亀をいたわり、海に戻るのを見送ってきたのに違いない。
「いいものを見せてもらったわ。オブリガーダ」
ユゲットがダミアンに言う。
「卵が全部|孵化《ふか》するといいわね」
「孵化したら、小さな海亀がぞろぞろ海に向かって歩いて行くのね」
舞子は英語でダミアンに話しかける。仕草でようやくダミアンは理解したらしく、両手の指を広げる。孵化するのは十週後ということらしい。ダミアンは、無数の子亀が一斉に海に向かって走る様子を腰を振って真似した。
舞子の持つ小さな懐中電灯を水先案内にして、灯台の方に引き返す。潮がいくらかひいていた。
灯台の明かりが、夜空に細長い光のくさびを打ち込んでいる。静まりかえった村やヤシの樹木、人影のない海辺で、機械的に動く光の筋だけが直線的だ。
「海があれば、夜中でも漁船が魚をとっているのに、ここはそんな気配もない」
寛順が暗い海を見やる。
「多分、それほどまでして魚をとる必要がないのよ。お百姓さんと同じ。夜中まで畑に出ている人なんていないでしょう。それくらい豊かということなのかもしれない」
ユゲットが言う。「自分たちが食べるだけで充分。それ以上はいらない」
それは舞子も村の中を散歩したときに感じたことだ。土壁やレンガでできた家はおしなべて小さく、入口を仕切る布の間から薄暗い内部が見えていた。きらびやかな家具がある様子はなく、ぼろ布をまとった裸足《はだし》の子供が出たりはいったりしていた。
しかし子供たちの目はダミアンと同じように、輝きを宿していた。舞子の顔を見ると無邪気に笑いかけるのだ。白い歯が美しかった。
村の様子はダミアンを見れば分かる。ダミアンが村そのものなのだ。
色褪《いろあ》せた黄色いTシャツは、脇腹《わきばら》のところに鉤裂《かぎざ》きができている。グレーの半ズボンは大人のおさがりだろう。だぶだぶの腰回りを古びた革バンドで絞め上げている。そして裸足──。
病院に出入りしている子供たちと比べると服装には天と地の開きがある。しかし舞子との約束を守り、海亀見物を請け負ってくれた彼の行為のどこに、貧しさがあるのだろうか。
「何だか、病院よりも村の中で生活したほうがよさそう」
舞子は思わず口に出してしまう。
「わたしも。どこか雇ってくれるところないかしら」
ユゲットがおどけたように言った。「会社勤め以外にわたしができることと言えば、料理づくりと洗濯、掃除。ペンションで雇ってくれるかもしれない」
「わたしは何もできない。でも、畑仕事は覚えられる」
寛順が自信あり気に言う。
「そうね、寛順は畑仕事ができる」
舞子は言う。それに比べて自分は駄目だ。日本にいた頃は、たいていの仕事はこなせると思っていたが、こんな村を前にすると無力なのを感じる。
灯台の光がゆっくりと回転し、光の軸が時折頭上をかすめた。
礼拝堂前の広場には誰もいなかった。裸電球の下に、半壊した舟が横倒しになっている。
「ダミアン、ありがとう。ここでいいわ」
ユゲットの言葉に、ダミアンは笑顔を返すのみだ。まだ大丈夫とでも言うように歩き続ける。
「ありがとう。心強いわ」
ヤシ林の向こうに、ところどころ明かりが残る病院の建物が見えていた。
舞子は海亀の産卵光景を思い起こす。海亀が大海原を横切ってこの浜に辿《たど》り着き、必死で産卵するのと、日本から地球を半周してこの病院に来ている自分とは、どこか境遇が似ている気がする。
海亀の上陸する浜がすぐ傍にあると、辺留無戸《ヘルムート》からも聞かされていた。見てみたいという思いが、やっとかなえられていた。それもダミアンによってだ。
二、三歩先を歩いていたダミアンが足をとめた。十数メートル先の波打ち際に、黒い漂流物のようなものが横たわっていた。
ダミアンが舞子の懐中電灯を取り上げて、急ぎ足で近づく。
漂流物は人の形をしていた。
ダミアンが懐中電灯で照らす。
ユゲットが小さな悲鳴を上げた。
舞子はそれ以上近づく勇気はなかった。全身の濡《ぬ》れ具合からみて、生きている人間とはもはや思えない。
ダミアンだけが近づいてしゃがみ込む。うつ伏せになった顔に光をあてる。
「ロベリオだわ。死んでいる」
ダミアンの肩越しに寛順が言った。
舞子はユゲットの手を握りながらおずおず近寄って、横顔を確かめる。どこにも傷跡はない。ろう人形のように血の気のない顔があるだけだ。
「ロベリオよ」
「間違いない」
ユゲットの声が震えていた。「病院に知らせないと。わたしが行ってくる。あなたたちはここにいるのよ」
ユゲットが歩き出す。ダミアンも一緒に行かせたかったが、寛順と二人で死人の傍に居残る自信はない。
「水死かしら」
舞子の日本語に寛順は首を振った。
「こんな時間に水死などおかしい」
寛順はダミアンを無視して早口の日本語で答える。
「口封じかもしれない」
寛順が言う。
ダミアンがもう一度、懐中電灯を死体に向けた。
足には、破れ目のあるズック靴がはいたままになっている。乗馬のレッスンの時も、その靴だったような気がする。小豆色のコットンパンツに白いシャツ。どこにも血はにじんでいない。
「水の中に顔をつけられたのだわ、きっと」
ロベリオの頭部が照らし出されたとき、寛順が言った。陽焼けしていた首筋が、今は見違えるように白く、力強さを失っていた。鼻腔《びこう》に粘液のようなものがにじみ出ている。半開きの唇の間から白い歯がのぞいていた。
「わたしたちがここを通ったときは、何もなかったから、一時間かそこらしかたっていないはず」
寛順が周囲の砂浜を見回す。四人がつけた足跡以外、何も見えない。
「死体をここに運んできた可能性はないかしら」
舞子は低い声で訊く。誰かがこちらを見張っているような気がした。ダミアンが心配気な眼を向ける。
「運んで来たとすれば舟でよ。舟なら足跡もつかない。首筋にも締められた跡はなさそう。強制的な水死──」
寛順はダミアンの方を見て両手を広げる。もはやどうにもならないといった顔つきだ。
ダミアンは気丈な顔で、歯をくいしばっていた。
病院の庭の方角で人声がしていた。ユゲットの通報で男たちがこちらに向かっているのだろう。やがて数人の人影が浜の先に現れた。
「わたしたちもこんなにならないように気をつけるべきよ」
寛順の日本語が耳に届く。「ロベリオもどうせ病院に運ばれて、ただの水死にさせられるのよ、きっと」
舞子は慄然《りつぜん》として、近づいて来る男たちのシルエットを眺めやった。
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32
「あんたが珍しいものを持っていると聞いたんだが、本当か」
レオが小声で訊いた。吐く息がピンガ臭い。クラウスがその店にはいったときには、もうだいぶアルコールを胃袋に垂らし込んでいる様子だった。Tシャツの腕をまくり上げ、これ見よがしにどくろの入墨を露出させていた。右手の甲に鳥の爪《つめ》のような入墨もある。
「ああ、叔父《おじ》が貰《もら》った勲章だ」
「どういう絵柄がはいっている?」
「十字のマーク入りだ」
クラウスは故意に〈鉄十字〉という言い方を避けた。
「それに党員証もある」
「本当だな」
レオの目が光る。「もしそれが偽物でなければ大変な貴重品だ。なかなか残っていないのだ。敗戦国に成り下がった時点で、みんな処分してしまったからな。あんたの叔父というのはよほど気骨があったのだろう」
「いや、そうじゃない」
クラウスはおもむろに首を振る。カウンターの奥から女主人が注文を訊《き》く。レオと同じピンガを頼んだ。
路地の奥にあるこの酒場には年に一、二度、人から誘われたときだけ足を運んだ。馴染《なじ》みではない。女主人は四十歳を少し過ぎたくらいだろうか。二十代半ばまでは男だったという噂《うわさ》はどうやら本当らしい。中学校時代の友人がたまたま客として来ていたとき、そんなやりとりを耳にした。性転換手術はブエノスアイレスの名医のところでやったことは、別の常連客から聞いた。
「勲章とか党員証には、俺《おれ》のほうが興味があったんだ。ガキの頃からね。俺が叔父の家に行って見つけて、ねだったんだよ。すぐくれた。俺の母親に見せると、ひどく怒られてね。それから先は、親兄弟にも見せずにしまい込んでいた。しかし、サルヴァドールにそういう品物を集めている所があるなんて知らなかった。懐かしいね」
クラウスはピンガを勢いよく口に入れる。アルコール分が喉《のど》を刺す。
「あんたも、俺と同じ類《たぐい》の人間らしいな。党員証や勲章だけでないんだ。制服や銃器、ロケット砲の設計図まで揃《そろ》えている」
「ロケット砲?」
「そう。もうひと息で大量生産にはいるところだった」
「よくそんな代物《しろもの》が残っていたな」
クラウスは本気でびっくりする。
「俺はその辺のことは素人だが、眺めているだけで胸が熱くなってくる。みんな二十代の男たちが考え出したと思うと、その愛国心には頭が下がるね。大ドイツを救うために、ありったけの知恵を絞ったんだな」
「見てみたいな」
クラウスが言うと、レオは一瞬考える顔つきをした。
「今のドイツに欠けているものが、そこに詰まっているのだろうな。年代物のワインと同じだ」
クラウスは黙り込んだレオを無視して、女主人を見やる。五、六年前と比べて少し太ってはいるが、胸のふくらみや声色、仕草のどれをとっても、女性以上に女らしい。ブエノスアイレスの外科医は、ペニスと睾丸《こうがん》を包む皮膚を利用して、膣《ちつ》と大陰唇までもつくってくれたらしい。女主人と恋仲になった男がクロコジーロの常連であるので、直接耳にした話だ。
「あんたに、勲章と党員証を寄贈してくれる気があるなら、見せてやってもいい」
レオが言った。
「それは構わん。あんたらがきちんと保管しておいてくれるなら、俺が持っているよりましだ」
クラウスは手を上げて女主人の注意をひき、レオにもう一杯ピンガを持って来るよう目配せする。
「ドイツは今のままではいかん」
レオに向き直り、クラウスはドイツ語を口にする。
「ヨーロッパは欧州連合とかなんとか騒いでいるが、あんなのは六十年も前にヒトラー総統が考えたことだ。あのとき、事がうまく運んでいれば、欧州の統合など立派にできあがっていた」
「あんたの言う通りだ」
レオの赤い顔が嬉《うれ》しそうに輝く。「ドイツは欧州連合の一員などという、ちっぽけな地位に満足してはならん」
レオもドイツ語で言ったが、どこかポルトガル語の訛《なま》りがあった。
女主人は、持ってきたピンガをレオの前に置く。
「プロースト」
クラウスはドイツ語で乾杯を促す。
「プロースト。あんたのような同志がこんな近くにいるとは思わなかった。嬉しい」
レオが応じた。
「嬉しいのはこちらのほうだ。もっと早く知っておけばよかった」
もうひと押しすれば、レオの態度も軟化しそうな気配だ。「考えてみれば、外地にいるドイツ人のほうが、本当のドイツだな。本国ではドイツ精神はさびれてしまっている」
「あんたもそう思うか」
レオは満足気に頷《うなず》く。「ドイツに新しい力を吹き込むのは、俺たち外地にいる人間だ」
レオの誘いで、もう一度グラスを突き合わせる。
狭い店内は混み始めていた。旧式の柱時計が九時をさしている。クラウスは、レオが酔いつぶれるまで待つつもりでいた。
「あんたに見せたいものがある。時間はあるか」
新たな客がはいってくるのを見て、レオが訊いた。
「まだ宵の口じゃないか。もう少し飲める」
クラウスはわざと悠長に構えた。
「ちょっと来てみないか。あんたなら喜んでくれそうだ」
レオはヨロヨロと立ち上がる。足取りが危なっかしい。クラウスはレオに肩を貸し、店の出口で二人分の勘定を払った。
「すまんな」
「いや、いい話が聞けた。こういう話はブラジル人には分かってもらえないからな。ドイツ人の血が流れていないとな」
「それも、真正のドイツ人の血──」
レオはよろけそうになり、クラウスの肩に寄りかかる。
「足元には気をつけろ」
レオは、スキンヘッドの頭、Tシャツにジーンズという軽装のくせに、靴は軍隊風のブーツだ。わきがの臭いが鼻をついた。
「大丈夫、大丈夫。歩こうと思えば歩けるが、同志の肩を借りるのも、気分がいいもんだ」
酔っていても、曲がり角になるとちゃんとクラウスを誘導して、広場まで来た。
「あそこだ。あんたに見せたいものがあるのは」
レオは石畳の上で足を踏んばり、顎《あご》をしゃくり上げた。
「あの建物に住んでいるのか」
クラウスはさり気なく訊く。
「住んでいるのは別の所。俺はあそこの管理人。すべてを任せられている」
レオはクラウスの肩から腕をほどき、ひとりで歩き出す。よろつきながらも建物の入口まで行きつき、ポケットから鍵束《かぎたば》を取り出した。
「さあ、はいってくれ」
扉を開け、内側のスイッチを押した。照明は暗く、うっすらと中の様子が判る程度だ。小部屋があり、その向かいに木製の階段が上に延びている。エレベーターはなく、廊下の奥にガラスケースが置かれていた。近寄って見ると、竿《さお》に総《ふさ》だけがついた旗の残骸《ざんがい》だった。
「連隊旗だ」
レオが低く唸《うな》った。「生き残った隊員が竿を分解して、周囲の総を細かく切って持ち帰った。連合軍の没収から免れるために、靴底に入れたり、軍服に縫い込んだり、石けんをくりぬいて隠したりしたんだ。竿は、骨折の添え木に代用したり、リュックの底に収めたりしてね」
「何人が持ち帰ったんだい」
「百三十五名。四千三百人いた連隊のうち生き残ったのは四十分の一。しかし生き残った者でも、途中で荷物を取り上げられたりして、総をなくしたのもいる。だから、寸法が少し短くはなっているがね。隊員の結束のシンボルだよ」
「よく手にはいったな」
「隊員のひとりが戦後ブラジルに移住してね。生き残りの連中の承諾をとって、ここに保管している。本国ではこんなものどこにも飾れない。旗にとってはここが聖地みたいなものだ。生き残り百三十五名も、今では大半が死んでしまって、消息が判るのは二十名もいない。しかし年に一回、ドイツからこの連隊旗に対面しに来る隊員もいる」
レオは胸に手をあてながら言う。「八十歳を越えた老人がこの前で涙を流しているのを見ると、こっちも胸が熱くなる。死んだ戦友のことを思い出しているのだろうな」
連隊旗の竿は一メートル半くらいの長さだが、四つか五つかの継ぎ目がある。塗料も剥《は》げ、先端の金属部分にも錆《さび》が出ていた。総は全体として黄色を保っているが、断片毎に褪色《たいしよく》の度合が異なっている。
「四十人にひとりの生存者か」
クラウスは呟《つぶや》く。
「俺たちは、死んだ人間の志を無駄にしてはいけないのだ。それを分かっている者がどれだけいる? 死んだ連中は全体主義の可哀相な犠牲者くらいにしか思われていない。そうではないのだ」
レオは総だけの連隊旗を何百、何千回と眺めたに違いない。それでもまだ見足りないというように、しばし視線を釘付《くぎづ》けにしたあと、階段の方に足を向けた。
階段の壁には、目の高さに手紙類が掲げられていた。茶色に変色した便箋《びんせん》やノートの切れ端が、簡素な額に収められている。
──大ドイツ永遠なれ
──ヒトラー総統万歳
最初の二つの手紙の末尾はそう締めくくられている。
クラウスは眼をそむけ、階段を上がった。
二階はフロアー全体が展示室になっていた。むき出しのままの兵器もあれば、陳列ケースにはいっている品物もある。
「サルヴァドールでこういう物を見ようとは思わなかった」
「ようく見てくれ、ここには本当のドイツの魂がある」
満足気に頷き、壁際の兵器の前に立つ。「これがMG42機関銃」
知っているかというようにレオが顔を向けた。クラウスは当然という表情を返したが、こういう代物については現物を見たのはおろか、書物からの知識さえなかった。
「こちらが弾薬庫で、七・九二ミリ弾が三百発はいる。しかし、十五秒で全部射ち尽くす」
「というと、一分間に千二百発──」
クラウスは口ごもりながら、銃把の部分に刻印された文字を眺める。MG42、一九四二という数字が読みとれた。
「毎分千二百発の弾丸を前にしては、連合軍兵士も身動きひとつできなかった」
レオは胸を張った。「材料は、ほとんどが鉄板のプレス加工、全体の重さはどのくらいだと思う?」
訊《き》かれてクラウスは首を振る。
「十一・六キロ。この性能でその重さだから、山岳兵にとっては移動も楽。しかもマイナス二十度でも作動する」
レオは今にも自分で扱いかねない手つきをして、身をかがめる。「サイトスコープの取りつけも簡単。プラスチック製の銃床は取りはずせて、全長を短くもできる」
「この缶詰の大きいやつは?」
クラウスは三脚の横にある小さな容器を指さす。
「ドラム弾倉。五十発入りだ。射ち放しにはせず、五発ずつ点射をした」
レオは横にあった展示物の方に移動する。酔いは完全に醒《さ》めたような、しっかりした足取りだ。
高さ一メートル、缶詰ほどの太さの砲身は、根元のところで角度が調整できるようになっていた。
「重迫撃砲三四型。口径八センチで、最大射程二千五百メートル。曲射弾を入れれば、遮蔽物《しやへいぶつ》を飛び越えて敵の陣地を直撃できる」
レオは、部屋に並べられているすべての銃器の性能を頭の中に入れているようだ。黙って聞いていれば、一時間でも二時間でも案内人としてしゃべり続けるだろう。
陳列ケースには、使い込まれた雑のうや水筒、短剣などの小物がおさまっている。
「この二つのベルトの違いは判るか」
レオが訊く。どちらも似たような品物で、クラウスの目に区別はつかない。
「こちらのバックルはアルミ製。横にある鉄製よりは前の時代の物だ。バックルの文字の意味はもちろん読めるね」
「ゴット・ミット・ウンス。神は我らと共に、だな」
バックルの中央には、鷲《わし》が鉤十字《かぎじゆうじ》を足でつかんだ模様がレリーフにされ、その上にドイツ語が彫られていた。
「誰が作ったかは知らんが、良い文句だと思うよ。勇気が出てくる」
レオは自分で頷く。「俺がいつも感心するのは、こっちの野戦用食器」
隣のケースの中には、何種類かのスプーンやフォーク、缶切りがあった。ナイフ、フォーク、スプーンの三本が缶切りの胴にすっぽりはいるようになっている。見事な工夫だ。
「こんなところにも、ドイツらしさが現れているんだ」
レオはクラウスが感心したのを見てとり、しばらくそこに留まったあと、部屋の奥に足を向けた。
奇妙な物体だった。四角い鉄製の箱の両側に、車輪がついている。箱の中央付近から円筒型のものが五十センチの長さで垂直に突き出てはいるが、砲身にしては口径が大き過ぎる。
「これも本国にはひとつも残っていないはずだ。戦後すぐアルゼンチンに移住したドイツ人から買いあげた」
「妙な大砲だな」
クラウスは首をかしげる。
「俺も最初はそう思った」
レオは小さく笑う。「野戦炊事馬車だよ。真中の丸い蓋《ふた》の下がシチュー鍋《なべ》で、圧力鍋になっている。時間の短縮ができるし、燃料も節約できる。煙突の左にある四角い蓋はコーヒー鍋。二頭立ての馬に引かせ、これで百二十名分の調理能力がある。ドイツ軍は兵器と同じように、こういう日常用具にまで頭を働かせた」
戦争は人間の知恵のありったけを絞らせるというが、その見本だろう。
二階から三階に上がる階段の壁にも額縁が掛けられ、中にはさまざまな模様をもつワッペンが二十個ばかり集められている。
「専門職|徽章《きしよう》だ。下士官以下の専門職に対して与えられた」
足をとめたクラウスにレオが言った。
「なるほど。これは多分、馬蹄《ばてい》係のものだろうな」
馬蹄形をしたワッペンを指さす。
「そう。こっちは通信手」
レオが示したのは稲妻形の模様だ。他の徽章もすべて暗記しているらしく、築城技術曹長、通信技術下士官など、次々と説明を加えた。
陳列の仕方が通常の博物館と違っていた。物品をそのまま展示するだけで、一切の説明が添えられていないのだ。レオのような案内役がいなければさっぱり理解できない。逆に体験者にとっては、その物体を目にしただけで、思い出は湧《わ》き上がってくるはずだ。
階段の壁には、世界地図も貼《は》られていた。年代毎に色分けされ、敗戦前にドイツがどこまで版図を拡げたのかが一目|瞭然《りようぜん》だ。イギリスを除く欧州の大部分、北アフリカまでが黄金色になっている。
クラウスは、地図の左下にある南アメリカ大陸に眼を注ぐ。アルゼンチンとブラジルが黄色になっている。黄金色と区別されているのは、ドイツが直接の管轄下においたのではなく、親ドイツ政権だったことを意味しているのだろう。もはや現代の世界地図には、その痕跡《こんせき》さえない時代錯誤の色分けだ。
過去の亡霊がここには生きている──。そんな驚きは、三階に足を踏み込んで増加された。
陳列ケースの中には何種類もの勲章が並べられている。ひとつか二つくらいは、どこかで見た覚えがあるが、多くは初めて目にする代物だ。
「これが柏葉付騎士十字章」
おごそかな声でレオが言う。クラウスは頷《うなず》いたが、名称はおろか、価値も知らなかった。
十字形の中央に鉤《かぎ》マークがあり、上の方に小さな柏《かしわ》の葉があしらわれている。
「この勲章の持主は、十年前までアルゼンチンに生きていた。授与されたのは一九四二年、コーカサス地方での功績に対してだったらしい。百五十五人目の授賞だ。戦後も生き永らえたのは、戦闘で負傷し、いったん後方に送られたからだ。敗戦時は国防軍総司令部付の大佐だった」
「そのあとは?」
「連合軍の捕虜となって釈放されたあと、アルゼンチンに移住、鉄鋼会社の重役で現役を退いた。子供がなかったので、遺産はすべて我々の組織に寄贈された」
「組織?」
「そう。国際的な組織で、各国にまたがっている」
レオは頷く。「その点では、さっきあんたが眺めていた世界地図の黄金色と黄色の部分よりは広い」
クラウスは、隣の陳列ケースに眼を移す。手帳や書類が保管されている。読もうとしたが、頭のなかでは、レオが口にした組織という言葉が反響していた。
「あんたが所有している党員証は、ここにもひとつしかない」
レオが指さす。ガラスの下に茶色に変色した手帳があった。クラウス自身も、党員証を見るのは初めてだ。
「よくは覚えていないが、少し違うような気もする」
クラウスはわざと首をかしげる。
「じゃ、あんたの持っているのは初期のやつかもしれん。年代によって紙質や文字の配置が違っているのだ。これは一九四一年の発行だから、大量に出回った頃のもの」
レオは陳列ケースの前をゆっくり移動する。
「こっちは軍歴手帳。あまり汚れていないのは、所属部隊毎に一轄して保管されていたからだ。こっちの給与支給帳のほうは──」
レオは、手垢《てあか》がつき表紙の四隅がすり切れて丸くなった冊子を示す。「兵士が常時上衣のポケットに入れておいた。そしてその横が認識票」
楕円《だえん》形の金属板を目にするのもクラウスは初めてだ。紐《ひも》を通すためのものか、上部に二個、下部に一個小さな穴があけられている。
「この認識票も、常に首に吊《つ》り下げておかねばならなかった。真中にある三つのスリットは何のためか知っているか」
レオが視線を向ける。表情から、もう酔いの気配は消え去っていた。
「いや知らん」
「戦死したとき、半分に折り畳むためだ。楕円の半分になった認識票は部隊本部に送られた。いわば、これが兵士の命と同じ」
折り畳まれた認識票が山積みにされている光景が思い浮かぶ。実際の屍《しかばね》の山よりは清潔で処理しやすい。手のひらにのる程に小さいこの金属片こそ、軍隊を象徴するのかもしれなかった。
「あんたに話していた設計図というのが、これだ」
壁際に、ひときわ立派なケースがあった。照明も特殊らしく、青白い光が細密画のような図面を照らしている。
「五十年も前のものとは思えん」
クラウスはシミひとつない図に眼を注ぐ。
「紙もインクも加工がしてある。百年はおろか、二百年、三百年後を見越して製作したらしい。俺《おれ》は素人だから分からないが、物理化学の専門家がみると、この図をもとにすれば高校生でも原爆が製造できるらしい。あと半年かそこら敗戦を遅らせておれば、原爆製造に行きついていた。そうなれば、イギリスもソ連も叩《たた》けるし、いずれアメリカ本土へも攻撃をしかけることができた」
レオが唇をかむ。
設計図は十数枚が重ねられていた。本来なら一種の文化財として、政府機関によって手厚く保管されるべき貴重品であるのは確かだ。
「こんな大切な物、どういういきさつでここに保管されているのだ?」
クラウスはレオに訊く。
「詳しく語れば、一冊の冒険小説かスパイ小説になるさ。あんたはヒトラー総統の最後のベルリン攻防については知っているね」
反問されてクラウスは首を振る。「ま、知らんのが当たり前かもしれん。おしなべて、あんたたちの世代は歴史を知らん。いや知らんといっても、あんたらの責任ではない。知る機会を奪われたのだ。あの時代の出来事はすべて悪夢として片付けられてしまっている」
初対面のとき感じたレオの印象が、クラウスのなかで変化し始めていた。粗野で中味のない男だと思っていたのだが、スキンヘッドのなかには、洗脳風に叩き込まれたとはいえ、少なからぬ知識と理論が詰まっているようだ。
「総統は自ら死を覚悟されてはいたが、ドイツの巻き返しは考えておられた。そのためには、これらの設計図を持ち出す必要があった」
「ベルリン陥落直前に、ベルリンから運び出したというわけか」
「そう。南の方へだ。アルプス山中に地下研究所があって、そこで新型爆弾は完成されるはずだった」
レオは目を見開きながら息を継ぐ。「しかし、連合軍はスパイを使ってそこにも包囲網を敷いていた。結局、研究所は最重要な物だけを残して爆破され、アルプス越えで、イタリアのジェノバに集められた。あの港からは南米行きの船が、戦中戦後とも絶えず出ていたからな。生き残りの連中と品物はアルゼンチンに着いた。しかし、設計図はあっても材料がなければ何もならない」
「どこか他の国と提携する方法もあったのではないか」
「そういうことも論議されたらしい。しかしそれでは技術を吸いとられるだけで、ドイツの再興には結びつかないという意見に落ちついたらしいんだ。だからここに残った。タイムカプセルだな」
クラウスは図面に見入る。まさしくヒトラーの意志がそこにあった。新型爆弾が完成していたとして、彼は一体どこで使おうとしたのか。ロンドン、パリ、モスクワ、ワシントンなど、連合国の首都それぞれに決死の飛行隊を送り込み、投下させるつもりだったのだろうか。そしてすべてを焦土にした挙句に勝利を手中にし、築き上げる彼の帝国──。
果たしてそんなものがドイツといえるのか。
クラウスは沈痛な顔でケースの中を覗《のぞ》き込む。
「まあ、総統の計画というのはこれだけではなかったのだがね」
レオが言い、クラウスを促した。「時間はまだいいのか」
「ここにいると時間のことなど忘れる」
クラウスは微笑してみせる。
「そうだな。どうせバーにいても、明け方まで飲んでいるだけだろう。それよりは、ここで過ごしたほうが、何十倍かましだ」
「いや本当に満足している。感謝する」
クラウスから言われ、レオは得意気に腕組みをする。
「やっぱり、俺たちにはドイツ人という共通の血が流れているな」
四階に上がる階段の壁には、横長の額が掛かっていた。
「あんた、これは読めるだろう」
レオが額縁の前で足をとめる。ノートの一頁をひきちぎったような紙に、勢いのよいペン書きの筆跡が残っている。
「ナッハ・オステン、ウント・イムマー・ナッハ・ヌーア・オステン。東方へ、そして常に東方へのみ──」
「誰が書いたか判るか?」
「いや。シラーの詩、ゲーテの散文とも思えんが」
「総統の手書き原稿だ。専門家による筆跡鑑定で、本物だとお墨付きをもらっている。総統は五十歳を過ぎて、手にかすかな震えが出るようになった。その特徴もこの文章にはうかがえる」
なるほど縦の線が真直ぐではなく、カーブする箇所で乱調をきたしているのが判る。
「よく残っていたものだ」
クラウスは改めて感心する。
「見学の締めくくりに、あんたが喜びそうなものを見せるよ」
レオと一緒に上がった四階は、それまでの階とは様相を異にしていた。博物館のような暗さとは反対の、透明な明るさが支配している。床はぶ厚いガラス板が敷かれ、壁も白く塗られて、並べられた椅子《いす》もガラスの材質でできている。しかも背もたれの部分が頭の高さまであった。
「前の方の椅子に坐《すわ》ってくれ」
二十脚ほどの椅子は、全部同じ方向、白い壁に向かって並べられていた。
クラウスは中ほどの椅子に腰かける。映画のセットの中にいるような感じがした。
レオが照明のスイッチを操作すると、室内の印象が一変する。天井が暗くなり、高いところに人工の星が見えるのはプラネタリウムそっくりだ。床が白くほのかに浮かび上がり、壁は暗闇《くらやみ》に消え、どこか野外に坐らされている錯覚がする。
「そのまま前方を見ていてくれ」
レオの声が後ろから届いた。
正面が明るくなる。大きな広場が目の前に現れる。ずっと遠くに演台があり、その両脇《りようわき》からサーチライトが四本、夜空に向かって上げられている。こちらに背を向けて整列している兵士たち。自分もそのなかの一員になっている。不思議なまでの臨場感だ。
周囲から拍手が起こっていた。遠くの壇上で、ひとりの男がマイクに近づき、演説を始める。黄色い軍服を着た彼がヒトラーであることは、スピーカーから流れてくる声で判った。現実さながらに作られたホログラムだ。
──ドイツ真正国民たる党員諸君。
ヒトラーが呼びかけると、臨席していた全員が〈ヤー〉と声を張り上げ、右手を突き出す。声が鎮まり、右手がおりるのを待って、ヒトラーはおもむろに言葉を続ける。
──ドイツ国民は世界に冠たる民族である。これまでに我々が達成してきた事業がそれを証明している。そうではないか。
短い問いかけに、再び〈ヤー〉という大合唱が広場の上空まで響き上がる。
ヒトラーのこの演説がどこで行われたのか、クラウスは知らない。おそらく残されたフィルムを下敷にして、色をつけ、立体的なホログラムに仕立てあげたのだろう。音響までが実況風の現実味をもっている。
画面は次々と変わる。しかしいずれも三分か四分のヒトラーの演説のみだ。広場であったり、どこかの講堂であったり、戦場の幕舎の中であったりするが、観客席がそのまま聴衆のなかに組み入れられるつくり方になっている。
いま、ホログラムの画面はどこかの中庭だ。少年たちを前にしてヒトラーが演説している。黒っぽい外套《がいとう》の上に、青白いヒトラーの顔がのっている。心なしか表情は、最初のときのような緊張感がない。
──君たちとはここで別れる。しかしドイツはこれから始まるのだ。その任務は君たちの肩にかかっている──。
ひとつひとつの発言が短いのは以前と変わらないが、鼻にかかった声が小さい。
少年たちは十四、五歳だろう。着用している制服の寸法が合っていない。袖《そで》が短く、手首が丸見えのもあれば、逆にズボンの裾《すそ》を折り込んでいる少年もいる。演説を終わったヒトラーは彼らのひとりひとりと握手をし始める。
少年たちは一様に涙をこらえている。唇をかみしめ、必死でヒトラーの手を握りしめる。そのあと、そっと手の甲で涙をぬぐう。
遠くで雷のように響いているのは砲撃音だろうか。少年たちは次々に移動し、動かないヒトラーの前に立つ。小さな手をさし伸べる彼らに、ヒトラーが何か言いかける。その言葉は聞きとれない。
百人近い少年たち全員が握手を終えると、ヒトラーは再び低い演台に立った。
──私は必ず復活する。そして君たちと手をとり合って再び戦う。大ドイツは永遠だ。君たちはそうは思わないか。
〈ヤー〉という少年たちの声がし、細い右腕が斜め前に突き上げられる。
〈ヒトラー万歳。神は我々と共に〉少年たちの大合唱が砲撃の音をかき消してしまう。
いつの間にか横の席にレオが坐っていた。
「これを見るのが日課なんだ」
薄暗がりのなかでレオが言う。
「見事なつくりだね」
「何度見てもいい。月に一回の集まりのとき、みんなと見るのだが、毎回、全員が涙を流す。最後の別れの場面があったろう。会員の中には、あのときのヒトラー・ユーゲントの一員だった者もいる。総統の手の感触、目の色、かけられた声を、まだくっきりと覚えているらしい」
「じゃ相当の齢だな」
「六十七歳。あのとき十四歳だったらしい。場所は地下司令|壕《ごう》のあったところだ。集められたヒトラー・ユーゲントの少年たちは、それこそ全ドイツから選び抜かれた優秀者ばかりだった。SS将校や国防軍の将校たちは、優秀であればあるほど捕虜となり、帰って来ない確率が高かった。ユーゲントの連中は、それを免れた。ドイツの最良の部分は、だからあのときの少年たちによって受け継がれたのだ」
レオはまだ照明をつけない。ホログラムの余韻に浸るかのように、暗がりに坐り続ける。
「さっきあんたが言った組織というのは、そんなかつてのユーゲント団員によって動かされているのか」
クラウスの質問に、レオは頷《うなず》く。
「運動はこれからが大切なんだ。総統の遺言で、五十年間は表だった活動が禁じられていた。いわば冬眠」
「その間、団員たちはどうしていたのだ」
クラウスは自分の声が震えているのに気がつく。酔いは完全に消えていた。
「それぞれの任務を果たしていた。今になって五十年間の冬眠の理由が分かる。何だと思う?」
「さあ」
クラウスは唸《うな》る。
「ひとつにはカムフラージュ。五十年間もじっとしていれば、敵も油断してしまう。あんたはロスアンジェルスのヴィーゼンタール・センターと言うのは知っているな」
「ナチス戦犯狩りの本拠地だろう」
「ホロコースト研究所という、表面は大人しい仮面をかぶっているが、懸賞金を出してナチスの戦犯を探し出している。時にはあざとく殺し屋を雇うことだってある。あいつら資金にはこと欠かない。そんな猟犬たちの鼻をあかすには、眠っているのが一番なんだ。動けば臭いをかぎつけられる」
「なるほど」
「もうひとつ、五十年間の沈黙は、仲間割れを防ぐ。有名なCIAやFBI、KGBでも仲間割れから内部告発が出て、組織は弱体化した。五十年も眠っていると、本物だけが残り、偽者は我慢ができなくなって脱会していく」
ホログラムを見た興奮のせいか、レオは得意気にしゃべる。
「組織には名前があるのか」
クラウスは声を鎮めて訊《き》いた。
「LB、ドイツ語のレーベンスボルヌの略だ。あんたなら意味も分かるだろう」
「生命の泉──」
「真正ドイツの生命を限りなく増やしていこうという意味が込められている。昔からあった運動なのだが、いずれ分かる時が来る。今夜はこのくらいでいいだろう」
レオは立ち上がり、照明スイッチの方へ行きかける。「あんたの持っている党員証と勲章、いつ持って来てくれる?」
「見つかり次第、連絡するよ」
室内が明るくなる前にクラウスは答えた。
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33
ジルヴィーから部屋にはいるように言われたとき、舞子は急に動悸《どうき》を覚えた。
ソファーに腰をおろすと、ほんのわずかずつ照明がおちていく。初めてのときはそれに気づかなかった。話しているうちに、目の前にいるジルヴィーの顔がぼんやりとしか見えなくなり、やっと仕掛けが分かったのだ。夕陽の沈むのに立ち会うときの感覚とどこか似ている。
「昨夜は大変だったそうね」
ジルヴィーが訊いた。ロベリオの死体を見つけたことはもう伝わっているのだ。
「びっくりしました。恐くて眠れませんでした」
ユゲットが連れてきた警備員が、二人がかりでロベリオの死体をかかえ上げた。だらりと垂れたロベリオの腕がまだ目の底に残っている。
「人の死というのは、落とし穴を見せつけられるようなものだわ。本当はそんな死の穴があちこちに口を開けているのに、普段は気がつかない」
ジルヴィーの大きな目がじっとこちらに向けられる。
「ロベリオには乗馬のレッスンを受けました。いい人でした」
馬の背に乗り、木笛を吹かせてもらったときのことが蘇《よみがえ》る。
「病理解剖の結果が出たの」
ジルヴィーが重々しく言った。部屋の照明はもう夕方なみになっている。赤く染まった壁に、ヤシの木のシルエットが浮かび上がる。
「心臓の伝導異常による心停止。心臓の大きさが子供なみで、先天的な奇形の一種だと報告書には書かれていたわ。波にたわむれているうちに発作が襲ったのよ」
舞子は返事をしない。そんなはずはないと思いながら、平静を装った。
「今は大事な時期」
ジルヴィーがじっと顔を覗《のぞ》き込む。「もうすぐあなたの望みがかなえられる。お腹の中に生命が宿るのよ」
言い終えたあと、ジルヴィーは人差指を目の前に立てた。爪《つめ》に塗ったマニキュアが赤い。
「じゃ、その嫌な場面をしっかり頭に浮かべて。ロベリオの死体が海岸に打ち上げられている場面──」
舞子は指示に従う。これまでも何度かジルヴィーから受けた治療だ。もう要領は分かっている。
ジルヴィーの人差指が目の前で水平に動く。それを眼で追いながら、あの場面を克明に思い出す。
「はい瞼《まぶた》を閉じて深呼吸」
ジルヴィーが言う。視野の端から端まで素早く動く彼女の人差指は、消しゴムのようなものだ。三十秒間それをやられると、記憶の鮮明度が確実に落ちている。
「はい目を開けて。またあの場面を一生懸命思い浮かべるのよ」
舞子は心のなかで頷く。渚《なぎさ》に黒い物体が横たわっている。ロベリオの死体だ。しかし最初の時のように胸に衝撃は受けない。冷静にそれが眺められる。
ジルヴィーの指が一秒間に一往復、水平に動く。神経が二つに裂かれるような気がする。指を必死で追う神経と、頭のなかであの場面を思い浮かべようとする神経──。
「はい瞼を閉じて」
まるで五十メートルのプールを泳ぎ切ったときのような疲労が頭に残る。息は苦しくないが、神経が喘《あえ》いでいる感じだ。
「また思い出して。一生懸命によ」
ジルヴィーが命令する。波打ち際に黒い物が見える。もう驚かない。丸太がころがっているのと同じだ。ジルヴィーの指を見つめる神経と思い出す神経が、反対方向にひっぱられていく。強いのは目の前の動きに集中しようとする神経だ。集中しようとすればするほど、頭に浮かべた記憶のほうは鮮度を失っていく。
眼球を動かしては目を閉じる操作を七度か八度繰り返しているうちに、海辺の光景が薄れていく。思い出そうとしても、暗い渚が広がるだけだ。
「ミズ・キタゾノ」
ジルヴィーの声が遠くから響く。「そのまま瞼を閉じていていいの。じきに眠くなる──」
瞼が重くなり、開けようとしても力がはいらない。全身の力が抜けていく。椅子《いす》の背がゆっくり傾き始める。頭と背中の重みをそこにあずける。身体《からだ》が水平になるのを感じる。何という気持良さだろう。涼しい木陰でハンモックに横たわっているようだ。
物音が消える。横になった身体が流れるように動いていくのが分かる。
流れが停止する。自分の身体がどんな恰好《かつこう》になっているのか判然としない。しかし足はつけそうだ。
確かに身体が大地に対して垂直に立っている。
見渡す限りの果樹園だ。どこか茶畑に似ているが、木の高さは人の背丈を優に越えている。しかも木の列と列の間にあるのは、小石混じりのいかにも荒々しい大地だ。
木の枝には、黒い実がびっしりついている。しかし何の実かは判らない。
舞子は高台まで歩いてみる。ひとりなのに、恐怖感がないのが不思議だ。
腕時計を見る。十一時だ。約束は十一時だったような気がする。一番見晴らしのよい高台が待ち合わせの場所だ。
胸が高鳴る。明生ともうすぐ会える。足が軽くなる。鼻唄《はなうた》でも出そうな気分になる。
高台にある岩が見える。明生は石に寄りかかりながらこちらを眺めている。ジーンズに黄色い半袖《はんそで》シャツ。シャツの色が、ブラジルの国旗の中の黄色に似ている。明生にしては珍しい色の選び方だ。しかし笑顔によく似合う。
「何の木か判ったかい」
明生が訊いた。
「お茶の木かと思った。でも実が少し違うみたい」
舞子の返事に明生は笑う。
「コーヒーの木。初めてだろうね」
明生は黒い実をちぎって口でかんでみせる。舞子も真似をするが、苦いだけで、どこにもコーヒーらしい風味はしない。
「昔は、一本一本、人の手で実を落としていた。木の下にシートみたいなのを敷いて、落とした実と葉をふるいにかけて選別した。みんな奴隷の仕事さ。奴隷がいなくなって、移民が代わりにはいってきた。日本人の移民もみんな、手でコーヒーを採取していた。見渡す限りのコーヒーの木だから、気の遠くなるような単純な作業」
「本当に」
舞子までも溜息《ためいき》が出そうになる。
「仕事が終わるのは六時。鐘の音が合図だったんだ。それでもすぐやめる者は少ない。なにせ、何袋でいくらという賃金だから、ひと袋でも多く収穫しようとする。暗くなってコーヒーの実も見えにくくなる頃、やっと作業をやめて家に向かう。ところが農園はとてつもなく広いので、自分の家に帰りつくまでが一時間以上かかる。疲れた身体に農具をかついでいるから足取りも重い。
家に帰りつくと、女性は夕食の仕度、男は翌日のための水汲《みずく》みや薪割《まきわ》りの仕事が待っている。風呂《ふろ》やシャワーなんかないので、洗面器に水を汲んで、汚れた身体を拭《ふ》きあげる。それからいよいよカンテラの下で夕飯。豆をドロドロに煮たのが主食。あとは寝るだけ」
明生の顔がどこか悲しげだ。
「まるで奴隷のよう」
「移民は奴隷の代わりだから」
明生は弱々しく笑う。「名前が変わっただけで、生活の中味は同じ。眠ったと思ったら、四時半にまた鐘。ごそごそ起きて顔を洗い、朝食をとり、農器具の準備をする。六時にまた鐘。薄暗いなかを、前の日やり終えたコーヒーの木のある場所まで歩いて、仕事開始。木の下に布を敷き、低いところのコーヒー豆をしごき終わったら、今度は三本足の梯子《はしご》に登って、上の方の実を採る。一本の木を終えるのに最低三十分はかかる。そのあと、ふるいで実と葉を選り分けて、袋に詰める」
それらの仕事がいかに大変なのかは、この見渡す限りのコーヒーの木の列を眺めただけでも理解できる。一本の木のみの仕事ならそう面倒ではない。しかし、地平線まで続くコーヒーの木の並木を、一本一本仕上げていくのは──。
「そうやって日本人移民はブラジルでの生活を始めた。まだそれから九十年しかたっていない。その頃と比べると、コーヒー園の仕事ぶりも変わった」
舞子は明生が陽焼けしているのに気がつく。もともと色の白いほうだった肌が、コーヒー色に近くなっている。その分、逞《たくま》しさが増していた。
明生のあとについて歩き出す。両側のコーヒーの木が、巨大な垣根のようにそびえている。均一に刈り込まれているところは、茶畑そっくりだが、規模が違う。地平線までうねりながら高い壁が続く。
刈り取られたあとなのか、付近の木に実はついていない。木と木の間の畦《あぜ》は葉っぱで敷きつめられている。視界がきくのは前と後ろだけなので、不思議な気持になる。いつの間にか明生の腕にすがりついていた。
「気をつけて登りなさいよ」
スチールの梯子のようなものがコーヒーの木にさしかけてあった。明生がすぐあとから登ってくるので恐くはない。
まるでコーヒーの木の上に作った櫓《やぐら》だ。コーヒー園全体を視野に入れることができる。反対側の丘の上に館が見えた。屋根瓦《やねがわら》は橙色《だいだいいろ》で、白い漆喰《しつくい》の壁が美しい。
「いい眺めだろう」
明生が隣に坐《すわ》り、レバーを引く。座席が動き出す。椅子の下でバサバサと音がし、曲がって下を向いている煙突の先から勢いよく葉っぱが飛び出し、地面に落ちる。十メートルほど進むと、反対側に大きな袋が投げ出された。
「これなら一時間で端から端までのコーヒーの木をひとりで収穫できる。機械採りだから、何パーセントかはとり残しが出るけどね」
「気持がいい」
舞子は馬の背に乗ったときの気分を思い出す。視点がぐんと高くなり、車と違って、生き物らしい速度で動いていく。
「こんな所でずっと働くのもいいと思っているんだ。住む家もちゃんとある」
明生は顎《あご》をしゃくる。橙色の屋根をもつ家は二階建だ。白壁に黒枠の窓がはめこまれている。
「日本にいた頃を思い出す。宅地造成のたびに、何か出てきたと報告が来る。人間が住む所など大昔からたいして変わっていないので、掘れば必ず昔の物が出てくる。急いで現地調査をして報告書を作る。工事は急いでいるので、こちらも徹夜の仕事になる。重要な遺跡だと分かっても、工事さし止めは大問題になる。いきおい、物をかき集めて、手抜きの評価で終了。何もしないよりはましなのだと、いつも自分に言いきかせてきた──」
明生はしゃべりながら左右に眼を配る。時々レバーも動かす。なかなか堂に入った手つきだ。
「しないよりはましという考え方ばかりで人生を生きていると、気持が萎《しぼ》んでくる。こうするのだという方向で生きたほうが、気持が膨らむ」
レバー操作をする明生には、どこか仕事を楽しんでいる様子が見てとれる。
「本当にブラジルの大地ね。四方全部が地平線まで見渡せる」
「ほらあそこに家があるだろう」
明生が指さす。白壁の手前に紫色の木が見えていたが、イペーがちょうど花盛りなのに違いない。
「あの家の後ろに面白い物を見つけたんだ。長細い石が放射状に並べてある。ちょっと見た目には何なのか分からない。農場の主人に訊《き》いたんだけど、石があることは以前から知っていたが深く考えたこともなかったらしい。調べる価値はある。ストーンヘンジの変形とすれば、南米の原住民にもそういう信仰みたいなものが存在したことになる。面白い。あそこ以外からも見つかる可能性だってある。日本では刷毛《はけ》で土を払うような細かい仕事だったけど、ここはさすがにブラジル。規模が違う。地面に這《は》いつくばるより、できるだけ高い位置に目を置いたほうがいい。いわば蟻の目ではなく、鳥の目」
機械の上に坐っていると、明生の言うことが何となく理解できる。
「見てみたい」
「あの端まで行ったら、連れて行ってやる。石に囲まれたサークルの中央に二人で立ったらいい気持だろうな。たぶん何か儀式をやっていたのだと思うよ。四角い平たい石があって、横棒が三本刻んである」
「文字は彫られていないの?」
「そこまでは調べていないけどね。あるかもしれない。まだ解読もされていない文字」
明生は弾んだ声になる。
「普段はコーヒー園で働いて、休みの日は遺跡の調査。明生の大好きな生活パターンね。ないのはプールくらいなものだわ」
「あるんだ、それが」
明生は膝《ひざ》を打つ。「母屋の中庭に二十五メートル、五コースの大きなのがつくられている。防火用水代わりらしいけど、水はきれいだよ。いつだって使っていいと言われた」
コーヒーの木の列が傾く。上り坂なのだろう。後ろを振り返ってみて舞子は声を上げそうになる。大地はゆるやかにいったん凹《へこ》み、さらにもっと優しいなだらかさで、地平線の果てまで広がっている。しかも見渡す限りの大地全部がコーヒーの木で覆われているのだ。明生と二人で乗っている採取機は、大地の中のほんの一点に過ぎない。明生と自分は点の上の点だ。
何という平穏さなのだろう。大地全体に穏やかさが漂っているだけでなく、自分の気持のなかまで静謐《せいひつ》な気分にさせられる。点である人間が果てしない大地に呑《の》み込まれるのではなく、大地になくてはならない点として存在している。それも決して大地の営みを邪魔しない謙虚さで。
「着いたよ。ストーンヘンジのある場所まで歩いてみようか」
明生が先に降り、舞子を下から支えてくれる。登るときには気づかなかったが、車輪だけでも直径が人の背丈より大きい。
コーヒーの木の間にはいると風がなくなる。生い茂った葉の匂《にお》いがする。
「森の中にいるのと同じだろう。でもね、いつもこの地面に這いつくばっての仕事だと、気が滅入《めい》ってくる。あの採取機に乗って、農園全体を見渡せるから、心が晴れるんだ。あの採取機の上から朝日が出るのを眺めたこともある。もちろん夕陽もね。本当にきれいだよ。黒々としたコーヒーの木が、日の出とともに黄金色に染まって、少しずつ緑色になっていく。夕陽は逆でね。緑が消えていき、橙から赤くなり、そのあとが黒。今日も一日が終わったという思いにかられる。こんな朝日と夕陽を眺めていると、一日が本当に恵みの時間だと思う。ありがたいと感謝したくなる。年寄りくさいと笑われるかもしれないけど、これだけは経験した者でないと分からない」
「本当にそう。毎日毎日、陽が昇って沈むのを、わたしたちは忘れている。いつまでも毎日がひと続きになって未来に延びていると思っているけど、そうじゃないのよね」
舞子は頷《うなず》き、言葉を継ぐ。「明日あるかないかはサイコロを振っているようなもの。そのたびにハラハラしていなければならないのに、鈍感になっている」
「いちいちそんなことを考えると、わずらわしいからね」
明生は足をとめ、周囲を見回す。
「ここなの?」
五、六メートル先に白い石が見えていた。
「古代人のほうが、毎日の大切さ、一日一日が巡ってくることの不思議さを知っていたんだ。この石の集まりも、そんな不思議さに対する感謝だと思う。まだ誰もそんなことを言った考古学者はいないけどね」
雑草を踏みしめて歩く。石は大人の身体《からだ》ほどの大きさで、外側に向いた方が少し細くなっている。
「ほらここに刻み込みがある」
石の中央に、斜めの線が三本、平行に刻まれていた。雨風にも風化しなかったのは、よほど石質が硬かったからだろう。
「おまじないか、それとも何かの計算のあとかしら」
舞子は首をかしげる。
「たいていのストーンヘンジは近代化された場所にあって、いろんな学者がそこを訪れて、遺跡の意味を考える。図面や写真にとって、書斎にもって帰って考え続ける。しかしそれでは古代人の心は読めない。現場でずっと生活していてこそ理解できる。このコーヒー園ができる前、ここは深い森だったはず。その森の中に、ぽつんとこの聖域がつくられていた──」
明生は雑草を踏み分け、石をひとつずつ点検していく。どの石も似通った形をしているが、中央にある刻印が異なっていた。縦に同じ長さの二本の線が刻まれているのもあれば、十字の印、あるいは×印のもある。
「石は全部で三十六個。ちょうど十度ずつの角度で置かれている。円の直径は百二十メートルくらいある」
明生はその中心に向かった。
三十六個の石に囲まれているのだと思うと、奇妙な気分になる。しかもそこは確かに古代人が何人も立った場所なのだ。
中心には、畳一枚ほどの四角な石が置かれていた。
「この石の向きも、意味があるのかしら」
「磁石で測ったけど、きっちり南北に向いていた。つまり、この二つの線は南北に走っているというわけ」
石の長軸に沿って、太い二本の線が刻まれている。
「供え物をしたのかしら」
「分からない。しかし供え物の台なら、もう少し高くてもよさそうだと思う。周囲から見えなくてはいけないからね。おそらくここは、婚礼の場所だ。満天の星を眺めながら、婚礼をすませた二人がここに横たわる」
明生は石の線に沿って身体を横たえる。舞子も、その横の線の上に仰向けになった。石はほのかに温《ぬく》みをもっていた。真青な空に、ところどころ薄い雲がたなびいている。日射しはさして強くなく、草の間を通り抜けてくる風が快い。
「星月夜だったら、また雰囲気が違うだろうね」
仰臥《ぎようが》位のままで明生が言う。
「目を閉じればいいわ。星だって見えてくる」
「そうだね」
古代人が何のためにこんな石の舞台を作ったのか、分かるような気がする。周囲にある三十六個の石は、災いを円の中にはいらせないためのまじないではないのか。石が人の形に似ているのは、番人に見立てているのかもしれない。
それとも、三十六個は一年間の日々を表わしているのだろうか。明生は角度の十度ごとに石が置かれていると言ったが、どこか間隔の広い所があるのかもしれない。もしそうなら、石と石の間は十日間を意味しているのだ。その十日間が無事であるように、石が二人を守り続けているのだとも考えられる。
それにしても、これは何という安堵《あんど》感だろうか。
「舞子はここで暮らしてもいいかい」
明生が訊いた。
「いいわ」
舞子は即座に答える。
「仕事は農園。来る日も来る日も同じ仕事。それでもいいかい」
何かを測るように明生がまた訊く。
「仕事って、表面は同じだけど、中味は少しずつ違いがある。コーヒー豆の出来具合が毎年違うように」
「そうだね。コーヒーの他に野菜も作らなくちゃいけない」
「それもやってみる。明生と一緒なら何でもやれるわ」
「子供はたくさん欲しいね」
「そう何人でも」
舞子は涙がにじんでくるのを感じる。自分が赤ん坊に授乳している姿が浮かぶ。周囲も子供たちの声で騒がしい。三歳の子もいれば五歳の子もいる。みんな元気にはねまわっている。
遊び場はこのストーンヘンジだ。真中の石の上に子供たちを立たせて、ここがお母さんとお父さんの出発点だったんだと言ってきかせる。もちろん分かるはずはないのだが──。
ちょうど九十年前に初めてブラジルに移住してきた日本人と同じく、明生と自分が子供たちの出発点になるのだ。
目を閉じたままで明生の手をまさぐり、しっかり握りしめる。
透明な迷路の中央にある寝台にどこか似ているが、今は明生と二人で横たわっている。
「どんなことでもするわ。明生と子供たちが喜ぶことなら」
身体だけは誰にも負けないくらい丈夫だ。朝は誰よりも早く起きて、夜は子供が寝ついてから床につくくらいの生活は苦にならない。コーヒー園での仕事や菜園づくりも、そのうち慣れるはずだ。会社での使い走りや事務の仕事より、いつも明生や子供と一緒にいられる分、底力が湧《わ》いてきそうだ。
そう、これから自分の生きる場所はブラジルの大地なのだ。明生がそう決心した以上、自分も喜んでついて行こう。
「目を閉じていると満天の星。この石には不思議な力がこもっている。周囲にある三十六個の石は、天体の力を受けとめ、パラボラアンテナのように、真中に集めるためのものかもしれない」
明生が言い、ぐっと手を握りしめる。
顔を微風が撫《な》でていく。樹木の匂いを含んだ風だ。
「しばらく眠るよ」
明生が言う。舞子も目を閉じる。
明生と二人で横たわっている石がゆっくりもち上がっていく。星に吸い寄せられていくようだ。しかも周りにある三十六個の石は、円陣の形を乱さずにそのままついてくる。
「舞子の中にはいるよ」
明生の身体が浮き上がって、すぐ目の前に明生の顔がある。瞼《まぶた》を通してそれが見える。明生の身体と自分の身体が重なり、ひとつになってしまう。
奇妙な感触だ。明生はもう自分の外側にいるのではなく、身体の中に溶け込んでしまっている。
もうどんなことがあっても、この身体から明生が遊離することはないような気がする。二人が共に住んでいるのが、この自分の身体なのだ。
満ち足りた気持で眠りに落ちていく。
星空のなかで目が覚めていた。身体を横たえていた石がぐんぐん下降していく。周囲にあった三十六個の石が、それに遅れまいとして猛スピードで追ってくる。
石が視野から見えなくなったとき、動きが止まった。雑草の代わりに、透明な壁が周りを取り囲んでいた。平たい石もいつの間にかガラスの寝台に変わっている。頬《ほお》を掠《かす》める風の動きもない。
舞子はゆっくりと身体を起こす。二本の足で立って出口の方に向かった。曲面の壁が両側にあるのに、野原を歩いている感じがする。明生の姿は見えないが、この身体の中にぴったりと彼がおさまっているような気がしてならない。これまでは彼の姿が見えなくなると不安にかられた。どこかにいるのだと分かっていても、時々寂しさが胸の内に宿った。
今は違う。明生はずっと自分の中にいる。
迷路を出て扉を開ける。まだ明け方に薄暗さが残っていた、奥の方だけが明るい。読経の声がしていた。
不動明王の前で辺留無戸《ヘルムート》が護摩焚《ごまだ》きをしている。炎が時折、坐《すわ》っている彼の頭の上まで立ちのぼる。火が僧衣に燃え移りかねないほどの近さだ。
初めてこの護摩焚きに出会った日のことが思い出された。雪の日の境内は静まりかえり、凍った気持を抱きかかえるようにして御堂の中に足を踏み入れたのだ。力強い読経の声に心ひかれたのかもしれない。
堂内で目にした不動明王の顔に、思わず涙が溢《あふ》れ出た。あの怒りのたけをこめた表情こそ、自分の気持にぴったりだったのだ。
燃え上がる炎も怒りをたきつけるのに充分だった。唇をかみしめながら、心の内で悲しみを咀嚼《そしやく》した。
読経の僧のいることも忘れ、十分も二十分もその場に立ち尽くしていた気がする。涙が出てしまうと、不動明王の表情が変わった。すさまじい怒りのなかに憐憫《れんびん》の情が読みとれたのだ。あれだけ燃えさかっていた炎も、色を赤から黄色に変え、優しく揺れ出していた。
あのとき自分の心のなかで、何かが燃え切ったのかもしれない。涙で汚れた顔のまま呆然《ぼうぜん》としているとき、読経の僧が振り向いた。外国|訛《なま》りのある言葉も、西洋人が墨染めの衣に身を包んでいるという異様さも、そのときはすんなりと受け入れられた。不動明王のあの形相にはぴったりだった。
「マイコさん、やっと終わりましたね」
辺留無戸が振り向いた。炎で顔が不動明王のように赤い。笑いかける目が鋭く光っていた。
「これで私の役目も終わった。帰国したら、また会いましょう」
舞子に背を向けて経文も唱え始める。その姿と声が少しずつ遠ざかっていく。その周囲が暗くなり、明るさは一点だけに収束し、やがて全体が闇《やみ》と化した。
「ミズ・キタゾノ、こちら」
戸が開かれ、ジルヴィーが声をかけた。彼女にこんな優しげな声が出せるとは思ってもみなかった。
見慣れたはずの廊下が、今は妙にピンクがかって見える。大理石像の肌も桃色に染まって、はっとする美しさだ。
赤ん坊を膝《ひざ》の上に抱き乳房を与える母親の像の前で、舞子は立ち止まる。赤ん坊のふくよかな顔。母親の満ち足りた表情──。
コーヒー園が思い浮かんだ。風がそよぎ、石の上に腰をおろして赤ん坊に授乳する自分の姿が目に見えるようだ。
「行きましょう。これがあなたの将来の姿」
ジルヴィーから促されて、舞子はまた彼女の部屋にはいる。「下であなたの主治医が待っているわ」
「ドクター・ツムラ?」
「そう。今日が待ちに待った|〈受精〉(コンセプシヨン)の日なの」
奥の部屋まで行き、ジルヴィーが壁のボタンを押すと、壁が横に開いた。この部屋にはいるのも、こんなこぢんまりしたエレベーターに乗るのも初めてだ。ベッドがそのままはいってもいいような縦長のエレベーターだった。
一階に着いて、細長い通路を十メートルほど歩く。誰にも会わない。
ドアの前でジルヴィーがノックする。中から返事があってドアがあく。緑色の手術衣を着て、キャップとマスクをつけたツムラ医師が立っていた。
「じゃ、お願い」
ジルヴィーの声に頷《うなず》き、ツムラ医師は彼女を追い出すようにしてドアを閉めた。
「舞子さん、ここに坐って。簡単に問診をしたあとで、麻酔にはいります」
ツムラ医師の声が不自然に大きくなる。舞子は黙って指示に従った。
ツムラ医師は机の上に白い紙を置き、鉛筆を走らせた。
〈これからは、ぼくのいうことよりも、ここにかくことをまもってください〉
舞子はじっとツムラ医師の顔を見つめる。
「じゃ、この病衣に着替えて」
〈きがえのひつようはありません。そのままじっとしていて〉
「着替えたら横になるのです」
「はい」
舞子は紙の上を眺める。
〈いいですか、きょう、にげなければなりません〉
「はい」
舞子は慌てて返事をする。もっと質問をしたいのだが、ツムラ医師の真剣な眼がそれを許さない。
「それでは全身麻酔にはいります」
ゆっくり英語を口にしながら、ツムラ医師の手は紙の上に何かを書きつけた。
〈にげなければ、あなたたちさんにんとも、どこかにうつされます〉
三人という言葉が舞子の頭のなかで反芻《はんすう》される。寛順《カンスン》とユゲットをさしているのは間違いない。しかし何のために逃げなければいけないのか。やはりバーバラ・ハースの死を目撃したことと、ロベリオの死体を見つけたのが災いしているのだろうか。
〈よそにうつされれば、もうぼくとれんらくがとれなくなります。そのまえに、にげだすのです〉
舞子は紙の上の文字に見入る。逃げるのは分かった。しかしどうやって逃げろと言うのか。
「静脈に注射針を射します。眠っている時間は長くても二十分です。その間にすべての処置が済みます。痛みは全くありません」
ツムラ医師は注射器を手にし、アンプルの中の液体を吸い上げた。それをトレイの上に置き、また机につく。素早く、紙に平仮名を書き連ねる。
〈こんや、ゆうしょくをおえたら、さんにんでさんぽにでてください。そして、九じちょうどに、びょういんのちゅうしゃじょうにいくのです〉
九時に駐車場というのは分かった。ただ駐車場といっても百台は収容できるくらいに広い場所ではないか。
舞子の疑問を覚ったようにツムラ医師は口を開く。
「眠くなりますよ。数字を数えて下さい。日本語でいいです」
これまで麻酔などかけられたことはなかったが、テレビで見知ってはいた。たいてい十まで数え終わらないうちに眠ってしまうもののようだ。ひとつ、ふたつ、みっつ──。舞子は数え出す。十から先を間遠にし、十四で言い止んだ。ツムラ医師が黙って紙片を見せる。
〈ちゅうしゃじょうのひがしがわに、めるせですをとめておきます。いろは、ぎんいろです。なかに、わたしのともだちがいます。さかがみといいます〉
サカガミ、舞子は頭のなかで復唱する、やはりツムラ医師と同じ日系二世か三世だろうか。
しかし逃げ出す際、寛順やユゲットをどうやって説得したらいいのか。もし納得しない場合は、自分ひとりででも逃げるべきなのか。
舞子は黙ったままツムラ医師を見つめる。何故か涙が目にたまってきた。やがて目の前が見えなくなり、涙が頬をつたう。
舞子の涙に狼狽《ろうばい》したのはツムラ医師だ。机の上にあったティッシュに手を伸ばして、舞子に渡した。
〈ほんとうにたいへんです。でもこれがいちばんよいほうほうなのです〉
もう少し理由を訊《き》きたいのだが、できそうもない。さっきの涙には口惜し涙も混じっているような気がする。その他の部分は多分、自分の身の上に関する情けなさだ。せっかく明生の子供を胎内に宿すつもりで地球の反対側まで来たのに、それもかなわずどこかに逃げ出さねばならないのだ。
〈ほかになにかしつもんは?〉
ツムラ医師は唇に人差指を当て、紙と鉛筆を差し出した。
〈こんやでないといけないのですか〉
そうだと言うようにツムラ医師は頷く。
〈もしほかのふたりがこないときは?〉
ツムラ医師は首を左右に振る。絶対に来なければならないという意志表示だ。
〈もうここにはもどってこないのですね〉
読んでしまうなりツムラ医師は頷く。
〈にもつはのこしたまま?〉
またツムラ医師が頷く。
もう質問することもなかった。ツムラ医師に従うだけだ。
ツムラ医師は銀色に光る器具をとり出して、柄を動かす。産婦人科で使う器具に違いない。鋏《はさみ》と中空の筒が一緒になった奇妙な形をしていた。
「はい終わりました」
改まった口調でツムラ医師が言う。「もう目を覚ましてもいいですよ」
ツムラ医師は目配せをして、舞子に演技をするように促した。
「舞子さん、分かりますか」
「はい」
小さな声で舞子は答える。
「気分悪くはありませんか」
「ありません」
「それではもう五分もすれば、自分の力でこの部屋を出ていけます。今夜はシャワーもフロもだめですよ」
「はい」
舞子が答えると、ツムラ医師は上出来というように微笑した。
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隣の部屋の寛順はまだ戻っていないようだ。
舞子はベランダの椅子《いす》に坐《すわ》ったまま、欄干にかかるヤシの葉を眺めていた。考えがまとまらない。一時間がそうやって過ぎていた。
ツムラ医師はいつものように舞子を診察室から送り出した。受付にいた看護婦と言葉を交わしたあと、病院のロビーを通り抜けた。
ツムラ医師とのやりとりが思い出され、あれは現実だったのか、それとも夢だったのか、首をかしげた。いや夢でないのは確かだ。その証拠に、手の中に小さな紙片が残されていた。〈九じに、ちゅうしゃじょう。めるせです。さかがみ〉と書かれている。英語ではなくわざわざ平仮名でツムラ医師が記したのは、万が一のとき誰にも読まれたくないからだろう。
試しに駐車場の方に行きかけ、玄関先まで来て思い留まった。雑然とした頭で、大理石像を眺めた。真白い肌に緑の衣裳《いしよう》をまとっている。緑の大理石には微妙な濃淡の模様があって、それがそのまま衣服の柄になっていた。見事なまでに美しい婦人像だ。
眺めているうちに、その婦人の顔に死んだバーバラの顔が二重映しになってきた。バーバラも彫りの深い顔立ちで、死に顔さえも美しかった。生きていて、瞼《まぶた》が開き、瞳《ひとみ》に光が宿り、赤い唇の間から白い歯がこぼれていれば、美しさはその何倍にもなっただろう。
彼女は緑色ではなく、白いローブを身につけており、それが血で真赤に染められていたのだ。
舞子は大理石像から眼をそむけ、レストランの方に足を向けた。渡り廊下に並ぶ彫像のうち、一番好きだったのはヴェールをかぶせられた女奴隷の像だ。助けを求めるように、舞子は彼女の方に視線を送る。見るたびに受けていた感動が裏切られはしないかと、気持の隅に恐れがあった。
しかし杞憂《きゆう》だった。可憐《かれん》な姿勢も、ヴェールの下の表情からにじみ出る若々しさも以前のままだった。
──あなたは逃げるのよ。わたしのようにならないために。
ヴェールに覆われた唇が動いて、そう言っているような気がした。〈分かった〉舞子は口の中で呟《つぶや》く。もう一度彼女を見てその場を離れた。
部屋に戻って寛順の帰りを待ち続けた。しかしたとえ寛順と会ったとしても、どうやってツムラ医師の言葉を伝えるべきなのか。電話のやりとりも、室内の会話も盗聴されている可能性があった。
もうだいぶ陽が傾いている。東の空が普通以上に暗いのは、あるいはスコールがやってくる前触れなのかもしれない。
舞子は何を持ち出すべきかを考える。まさか旅行ケースを手にするわけにはいかない。必要不可欠なのはパスポートだけだ。それがなければ、少なくとも国外への移動はできない。
それを寛順とユゲットにどうやって伝達すべきか。
舞子は籐椅子《とういす》に身を沈めたまま考え続ける。
ベランダの隅に置いたベゴニアが赤い花をつけている。その横にある食虫植物も元気だ。しばらく水をやるのさえ忘れていたのだが、スコールのたびに、雨脚がプランターの中の土を適当に湿らせているようだった。
壺《つぼ》状の仕掛けをもつ葉は以前よりも肉厚になり、緑色が濃くなっている。ベランダのほうが小さい虫を捕獲する機会があるのかもしれない。
突然バリバリという音がし始める。大きな水滴が蘇鉄《そてつ》の葉の上に降りかかる。ベランダにも雨しぶきがはいり込んできて、舞子は慌てて部屋に戻った。
白い受話器、真鍮《しんちゆう》に貝細工の電気スタンド、壁にかかった大胆な構図の絵に視線を走らせる。盗聴器がどこに仕込まれているか見当はつかない。しかし、こちらが沈黙していれば恐いものはない。
舞子は金庫に入れていたパスポートを取り出す。中には、日本円やクレジットカードを入れた財布がひとつ残っているだけだ。手に取ってみる。この病院では、鍵《かぎ》の番号を示すだけですべてが済み、現金もクレジットカードも要らなかった。サルヴァドールへ外出する際はトラベラーズチェックを現金に換えればよかった。
財布の中から一枚の写真を取り出す。日本にいるときから入れていたものだ。海の見える公園の坂道で、明生と舞子が寄り添って写っている。インスタントカメラにしては良く撮れている。通りがかりの男子高校生に明生がシャッター押しを頼んだのだ。髪の毛を茶色に染めた男の子だったが、嫌な顔もせずに鞄《かばん》を放り出し、何も言われないのに三枚も撮ってくれた。背景も考慮し、日光の当たり具合はもちろん、もっと寄り添ってくれと本職のカメラマン並に乗り気になったところからすると、学校で写真のサークルに所属していたのかもしれない。出来上がった写真はなかなかの構図で、二人の表情も明るく、いい雰囲気に仕上がっていた。一番良いのを焼き増しして、お互いの財布の中に収めていたのだ。
最初の頃はよく取り出して眺めていたが、ブラジルに来てからは一度も手にしたことがない。いや、眉山寺《びざんじ》で辺留無戸和尚と会った頃から、写真は取り出す回数が減っていた。
あれからもう一年が過ぎている。今の自分の顔と比べて、写真のなかの自分は、どこかまだ幼い。この一年が、顔を大人びたものに変えていた。
明生のほうは変わらない。写真の中の彼と瓜《うり》二つだ。自分だけが年を重ねているのが不公平に思えてくる。
舞子はパスポートと財布だけをポシェットに入れた。
できることならカメラも持って行きたかった。三十六枚撮りのフィルムはまだ使い切っておらず、あと十枚ほど残っている。舞子は思い切ってフィルムを終了させ、中味を取り出してポシェットに入れる。
旅行ケースや化粧道具、衣服などはそのまま置いていくしかない。
──今夜逃げなければ、どこかに連れ去られて監禁される。
診察室でのツムラ医師の顔が思い浮かぶ。電話、あるいはお互いが訪問し合うのはもう不可能だと、彼の真剣な表情は訴えていた。
多分それは根拠のない推量ではあるまい。寛順と自分が殺人の現場に駆けつけたのは紛れのない事実だ。そしてその場に居あわせて、自分たちに他言を禁じたロベリオも死んだ。ジルヴィーが言ったような突然死ではなく、殺されたのだろう。ツムラ医師は別の秘密をも、つきとめているのかもしれない。そして最終的に、危険がもう間近に迫っていることを察知したのだ。
ガラス戸に雨しぶきがぶち当たる。雨音はさして大きく響いてはこないが、ヤシの葉は相変わらず狂おしく揺れている。
寛順の部屋で物音がする。帰って来たようだ。一瞬迷ったあと、舞子は電話をとった。
「ボーア・ノイチ。舞子です」
できるだけ明るい口調で呼びかける。盗聴されていると思うと、声がどこか芝居がかってくる。しかし盗聴の相手には気づかれないはずだ。
「今晩は。スコールね」
寛順の声はどこか元気がない。
「夕食は何時頃に行く?」
寛順の部屋まで行って筆談でもしてみようかと思ったが、沈黙のなかでそれをすれば怪しまれるに違いない。別の会話をしながら筆談を行うのは至難の技だ。
「今日は少し疲れちゃった。あと少し休んでからにする。七時半頃どうかしら」
「いいわ。じゃあとで」
部屋の出がけにパスポートを持ってくるように言うべきかとも感じたが、思いとどまった。寛順も不思議がるだろうし、盗聴の主も当然怪しむはずだ。舞子は受話器を置く。
盗聴している人間がいるとすれば、日本語も少しは理解できるのだろうか。まさか日本人ではないだろう。仮に日本語があまりできないとすれば、寛順との日本語でのやりとりは、即時どこかに転送して翻訳して返すという手段がとられているはずだ。
シャワー室に行く。もうこの部屋に戻って来ないと思うと、一番気に入った服を着ておきたかった。
裸になってシャワーを浴びる。背中にまでは手が届かず、洗い残しがあるような気がして、タオルに石けんをつけ、その間にも考え続けた。ゴシゴシこすった。
バスタオルとフェイスタオルは、部屋係の黒人女性が毎日新しいものと取り替えてくれた。石けんだってそうだ。小さくなる前に、必ずもう一個つぎ足されていた。
鏡の前に裸で立つ。毎日おいしいものを食べられるので太るのを恐れていたが、ウェストの大きさも変わらない。太腿《ふともも》にも肉がついている様子はない。乳房のふくらみだけが、以前よりは心もち大きくなったような気がする。ピンと上向き加減の乳首は、自分でも気に入っていた。容姿には大して自信はないが、バストの形だけは好きだった。
洗いたての下着をつけ、白いパンツをはく。逃げるのであれば、黒のパンツのほうがいいような気がしたが、むしろ普通にしておくべきだと思い直す。何も知らない寛順やユゲットと同じにしておけばいいのだ。パンツの上には黄色いブラウスを着、白いシューズをはいた。
鏡に向かって薄化粧をする。化粧だけはいつも簡単だった。化粧水と乳液のみで、べース・クリームもファンデーションも使わない。もちろんアイラインもブラッシュも不要で、ルージュを引けば終わりだ。
ポシェットの中には、コンパクトとルージュだけを入れた。化粧道具や衣類を残して部屋を去るのは、大事な忘れ物をしたようで胸が痛む。
ガラス戸の外はかなり暗くなっている。雨脚は弱まり、あと十分もすればすっかりあがってしまうはずだ。鎧戸《よろいど》は閉めないでいたほうがいいだろう。
用意はできた。もう一度室内を見渡したとき、ドアにノックがあり、寛順の声がした。ポシェットを肩にかけて部屋を出た。
「疲れはとれた?」
「少しは」
目を覚ましてすぐなのか、寛順の瞼は腫《は》れぼったかった。
「食事のあとチェックがあって、そのときパスポートがいるらしいわ」
咄嗟《とつさ》の思いつきで言った。
「パスポート? そうなの」
寛順は驚いた顔をしたが、自室に戻った。開いたドアから、散らかったままの室内が見えた。
「お待ちどお」
寛順の持ち物も小さなバッグひとつだ。柄の部分が竹、本体は厚手の布でできていて、リゾート気分にはよく似合う。赤いキュロットに黄緑色のTシャツという組み合わせも、普通なら派手すぎるが、顔立ちのはっきりした寛順には却って魅力的に映る。
「ユゲットのところにも寄ってみようかしら」
階段を降りながら舞子は言った。
雨は止んでいた。排水溝を流れる水の音だけがする。
ユゲットはドアを開けて、二人を招き入れた。中にはいるのは初めてだ。毎日のように顔を合わせていても、互いの部屋までおしかけていくことはしなかった。部屋が離れていたせいもあるが、自分の部屋は神聖な領域だとそれぞれ思い定めていたのかもしれない。
机の上に書きかけのノートがあった。
「こっちに来てから、日記のようなものをつける癖がついたの」
舞子の視線を感じてユゲットが言った。「将来読み返すとき、いい思い出になると思うし」
ユゲットはノートを閉じる。
当然フランス語で書かれているだろうが、逃げたあと、詳細に点検されるに違いない。いやそうではない、と舞子は身震いした。ユゲットの日記が毎日誰かに読まれていた可能性だってあるのだ。三人の会話やサルヴァドールでの体験をユゲットが書いていれば、相手に筒抜けではないか。
「今夜はパスポートがいるんだって」
寛順が気を利かせて言った。「食事後チェックがあるらしい」
ユゲットはさして不審な顔も見せず、金庫からそれを取り出し、腰のポシェットに入れた。部屋の中をもう一度見渡し、スイッチを消して外に出る。
「今日の午後、海亀の浜まで出かけてみたの」
ユゲットが言った。
「海亀はいた?」
寛順が訊《き》く。
「昼間は来ないの。ダミアンが砂浜を見張っていたわ。わたしのポルトガル語、少しは通じた。観光客のなかには、卵を盗んでいく者もいるって」
「盗んでどうするの」
「知らない。親亀が産卵しているところを見ていれば、盗む気持になんかならないと思うわ。しばらくダミアンと海岸に腰をおろして波を眺めていた。あんなにゆったりとした気分になれたのも初めて。ダミアンはマイコとカンスンのことを心配していた。ショックで寝込んでいないかって」
「死体を見たことで?」
寛順が問いただす。「ショックだったのはダミアンのほうではないの? そりゃ、わたしたちだって動揺したけど」
舞子も寛順も相槌《あいづち》を求められて頷《うなず》く。
「ダミアンは平気だったって。これまでおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなったのや、舟が沈んで村人が死んだのをたくさん見てきたと言っていた。たぶん、わたしたちと違って、死が身の回りに溢《あふ》れているのだわ、きっと」
ユゲットが言う。「だからダミアン、まだ少年だと思っていると、変に大人びて感じるときもある。あんな子供、フランスにはいない」
「日本でもお目にかかれない」
舞子はダミアンと初めて会ったスコールの日を思い起こす。ダミアンは、この辺で見かけない東洋人が珍しくて話しかけて来たのだろう。ブラジルに来て、病院以外のところで知り合った唯一の人間がダミアンだった。
その彼にも別れを告げられずに、ここを去らねばならない。
「夕食後、ドクター・ツムラが面白い場所に連れて行ってくれるって」
舞子は思いきって告げた。
「わたしたちも行っていいの?」
素早く反応したのは寛順だ。
「もちろん、三人一緒に来なさいって言われたから」
「ふーん。近くでお祭りかなんかあるのかしら」
ユゲットも乗り気になっている。
レストランの入口には、いつものようにジョアナがいて、両手を胸の前で合わせながら「コンバンワ」と頭を下げた。
席は大方すいている。舞台を眺めやすいテーブルに席をとった。
食欲がなかった。昼にはサンドイッチを食べたきりなのに、胃にまだ何か詰まっているような気がする。テーブルには所狭しと肉や野菜、何種類ものパン、ジュース類が並んでいたが、唯一食べられそうなのが米の料理だった。白米ではなく油|炒《いた》めのごはんだ。
日頃は避けていたものを、その夜にかぎって皿につぎ分ける。いつかツムラ医師から教えてもらったのだが、研いだ米を豚の脂とともに炒めたあと、塩味をつけ、さらにお湯を入れて炊いたものだという。ここに来た当初一度だけ口にして、白いごはんとも焼飯とも違うので、それっきりにしていたのだ。
米料理の横には、揚げたバナナを一枚のせた。
ユゲットは相変わらず肉好きで、三、四種類のシュラスコの肉片を食べている。寛順は野菜中心だ。ネギやパセリ、キャベツ、アスパラガス、トマトを刻んだサラダが山盛りになっている。
「クラウス・ハースから電話があった」
ユゲットが言った。
「サルヴァドールから?」
寛順に訊かれてユゲットは頷き、声を低めた。
「部屋の電話だとまずいから、外からかけ直してくれないかと言うのよ。それで村まで出向いて、広場にある公衆電話を使ったの。海辺に行ったのはその帰り」
「部屋の電話だと盗聴されていると、あの人思ったのかしら」
舞子が言う。
「そうでしょう。そんなことないと思うけど、彼はもうこの病院を信用していないから」
「どんな話だった」
寛順が真剣な顔をユゲットに向けた。
「わたしたちが一緒に食事したレストランの真向かいに建物があったでしょう。ほらジルヴィーがはいっていった建物」
「知っている」
「あの中を見たって」
ユゲットは二人の顔を交互に眺める。「ドイツの亡霊の館だって言うの」
「ドイツの亡霊?」
寛順が訊き返す。
「そう、古いドイツ。ヒトラー時代の」
ユゲットが大きな息をつく。「まるで博物館だって。でも死んだ博物館ではなくて、生きている博物館。現実に人間が出入りしているのだから」
「すると、ジルヴィーも亡霊のひとり?」
寛順が顔を上げる、
「クラウスの言うのが正しいなら、彼女も生きている亡霊のはず」
ユゲットが肉片を器用に切り分けて口に運ぶのを眺めながら、舞子は辺留無戸の顔を思い浮かべる。彼もドイツ人ではなかったか。
「だってジルヴィーはまだ四十歳を過ぎたばかりでしょう」
寛順が言う。
「若い世代にも亡霊はいるわ」
「この病院とその博物館はつながりがあるのかしら」
舞子は素朴な疑問を口にする。
「同じ人間が二つの場所に出入りしているのだから、無関係ではありえない」
答えたのは寛順だ。
「でもどうして」
舞子はまだすんなりとのみこめない。このリゾートホテルのような病院と、サルヴァドールで見た薄汚れた建物とは、外見からしておよそ正反対だ。
いつの間にか舞台に楽団が上がっていた。いつもとメンバーが違うが、マンドリンの老人だけは同じだ。ボーカルは中年の太った女性で、胸元のあらわな赤いドレスを着ている。褐色の肌のせいか、女性らしさよりも健康美を感じさせた。
曲はテンポの速いサンバだ。ゆるやかに上体を揺すりながら、声を自由に操る。高音も低音も自在で、まるで身体《からだ》全体が楽器だ。
「舞子、パパイアは?」
空になった皿を見て寛順が言う。ユゲットを残して一緒に席を立った。
「舞子、今日ドクター・ツムラの診察があったのでしょう」
メロンやスイカ、パパイア、マンゴー、レモンなどが色美しく並んでいる前で、寛順が訊いた。「何か言われた?」
「診察のあとで、今夜の誘いを受けただけ」
「死んだロベリオのことは言わなかったの? 舞子のほうから」
「――――」
「どうしたの?」
「すっかり忘れていた」
舞子は呆然《ぼうぜん》とする。診察の前にジルヴィーの面接があって、ロベリオの死体を目撃したことは繰り返し想起させられたのにだ。寛順が怪訝《けげん》そうに舞子の顔を見つめる。
「わたしね。ここの病院に長くいてはいけないような気がするの」
ぽつりと寛順が言った。いつもなら何種類もの果物を皿に盛るのに、今夜はメロンひと切れでいいらしい。
「どうして」
舞子はパパイアを二切れ皿に取った。それくらいは何とか食べられそうだ。
「自分が変わっていくようなの」
小さな声で答え、不安気な視線を舞台の方に向けた。「自分が自分でなくなるような。舞子はそんな気持にならない?」
再び視線を舞子に戻した。
「わたしも。何だかこれから先、いろんなことが起こりそうな感じがする」
「そうでしょう。それが他人ごとという感じではないのよ。分かるかしら」
寛順は声を潜めた。「バーバラやロベリオに起こったことが、自分にも起こるのではないかと思うの」
「恐いわ、そんな話」
舞子は身体を硬くする。寛順と自分は一心同体だ。寛順に起こる事件が自分にも起こる。舞子は棒立ちになる。
そのときだ。舞子の前で、男が肉料理に手を伸ばした。「失礼」と言った英語がきれいだったので我に返ったのだが、白いシャツにズボンをはいた三十代半ばの白人だった。通路をあけようとして身体をずらしたとき、舞子の眼が男の右手に釘付《くぎづ》けになる。
甲に鳥の爪《つめ》の入墨が見えていた。四人目だった。サンパウロ空港で出迎えてくれた長身の黒人ジョアン、日本語で挨拶《あいさつ》するジョアナ、そしてロベリオがやはり同じ鳥の爪の入墨ではなかったか。但し、男の入墨では鳥の爪が逆マンジを掴《つか》んでいる。
舞子はさらに見定めようとしたが、男は移動し、肉と野菜の煮込みを皿にとると、舞台近くのテーブルに坐《すわ》った。若い白人女性ともうひとり、中年の男性が一緒だ。
「舞子、どうかしたの」
寛順が近寄ってきて訊いた。
「何でもない」
舞子は首を振る。
張りのある女性ボーカルの声が響き渡る。歌の意味は分からないが、陽気さだけは伝わってくる。
「何もかもドクター・ツムラに打ち明けるべきかもしれない」
自分自身に言いきかせる寛順の口調だ。「彼とはあとで会えるのね」
「そう」
舞子の返事に、寛順はほっとした表情をした。テーブルに戻り、入れ違いにユゲットが席を離れた。
「わたしがあんな風に考えるのも、主治医を好きになれないからかもしれない。これからもずっとあのドクターが主治医だと思うと、気が重くなる。その点、舞子はいいわ」
ヴァイガント医師とは直接口をきいたことがない。金髪で長身、映画の主人公のような顔立ちだが、気さくに話せる雰囲気はない。とくに下手な英語しか使えないので、なおさら気おくれがする。
「次の日曜日にサルヴァドールに行ってみない?」
小さな皿にアイスクリームを三種類とって戻ってくるなり、ユゲットが言った。「行ってクラウス・ハースに会い、直接話をきくのよ」
「行くわ」
寛順がきっぱりと言う。「舞子は?」
「どちらでもいい」
どっちつかずの返事になってしまう。実際のところ、今夜九時以降の行動は一切が闇の中なのだ。
三人とも別なことを考えているのか、黙々と口を動かす。浮きたつようなサンバのリズムがレストラン内を満たしている。
ウェイトレスがコーヒーを運んでくる。黒い肌に白いバイーア衣裳《いしよう》が美しい。
「夕食後のコーヒーはだめじゃなかったの?」
舞子がコーヒーを頼んだのを寛順が見逃さない。
「今夜はいいの。あとでお祭り見物があるかもしれないし。目を大きくしておかなくちゃ」
「マイコ、今夜はどこか変」
横あいからユゲットが言った。
自分では平静を装っているつもりなのだが、動揺は所作に出てしまうのだろう。弁解するのも不自然な気がして、舞子は黙ってコーヒーを飲んだ。
「午後スコールがあったでしょう。ベランダの内側から外を眺めていたら、フランスの田舎を思い出したの。きっと雨の音が水を連想させたのだわ」
「ユゲットの好きな町はモレなんとかと言ったわね」
寛順が思い出す顔つきになる。
「モレ・スュル・ロワン。ロワン川に跨《また》がるモレという意味。豊かな川で、中洲《なかす》には大きな水車があり、岸辺に教会が建っている。不思議な教会よ。ステンドグラスは、川面に反射される光をとり入れている。中にいると、川面の揺らぎがそのまま伝わってくる。カンスンもマイコも一度来て欲しいわ。きっと気に入ってくれる」
「もちろん行きたい」
寛順は答える。「ユゲットはあとどのくらい病院にいるつもり?」
「出産まではと思うの。それから先のことは考えていない。考える気にならないのよ。不思議ね。考えようとすると、いつも思考が停まってしまう。まるでそこに時間の壁があるみたいで、どんなにこじ開けようとしてもびくともしない」
「わたしはそう長居はしない」
寛順はぽつりと言った。「目的の半分は達したから」
「赤ん坊ができたの?」
ユゲットが小さな声で訊《き》いた。
「そう。今日が受精の日だった」
寛順が答え、何かを思い起こそうとするように視線を宙に浮かす。
「おめでとう」
ユゲットが笑顔で言い、「マイコは?」と訊く。
「知らない」
一瞬悲しみにとらわれる。自分だけが取り残されたような気持だ。
「そうだわね。ドクター・ツムラはそれについては言わない。わたしのときも、確かに妊娠していると判ってから告げられた」
ユゲットは慰める口調になっていた。
三人が妊娠や赤ん坊について口にするのは初めてだ。お互いそのために病院に来ているというのに、それを話題にするのにはためらいがあった。病人たちが自分の病気についていちいち報告し合わないのと同じかもしれないが、それ以上にジルヴィーの言葉が口に栓をしていたのだ。診察や面接の内容についても全く同様、口にすればすべての治療が水の泡になると厳しい表情で言われた。ツムラ医師の態度もそうした原則に見合うものだった。担当が同じでも、ユゲットについては一切教えてくれなかった。こんなものだと舞子は何の疑問も抱かなかった。ユゲットも寛順も同じだろう。
しかし今日を限りにこの病院を立ち去るとすれば、一体何のためにブラジルまで来たのだろうか。
ツムラ医師に相談してみよう。専門医として、彼なら何とかしてくれるはずだ。
「今夜は賑《にぎ》やか」
ユゲットが舞台に眼をやった。サンバに合わせて中年の女性がステップを踏んでいる。ウェストは決して細くはないが、均整のとれた身体つきだ。近くのテーブルで眺めていた若い男性が立ち上がる。髪をリーゼントに固めた美男子だが、右足が短く、リズムを踏むたびに身体が傾く。しかし臆《おく》した様子はなく、女性のほうも何の戸惑いもみせずに手をさし出し、身を寄せ合って踊り出す。
眺めているうちに、男性の身体の傾きも踊りの一部分のようになる。普通のダンスにはない個性的なステップだ。
曲が終わり、二人は互いに頭を下げる。観客もボーカルの女性も、二人を称えて拍手をしている。
次の曲が始まると、舞台の前に三組の踊り手が現れた。その場で組んだカップルらしく、うまい下手はまちまちだ。それでも楽しそうな様子だけは変わりがない。
「こんな踊りを見ていると、エアロビクスなんか、いかにもつまらない」
寛順が言う。
「あれは軍隊の行進と同じ。ワンツースリーフォー、ワンツースリーフォー」
ユゲットが腕を振ってみせる。
曲が終わってボーカルが黒人男性に替わる。後ろでタンバリンを振っていたニコニコ顔の男性だ。
「ドウゾ・ヨロシク、マイコ、踊りませんか」
いつの間にかジョアナが後ろに来ていた。初めの頃はオハヨウゴザイマスしか言えなかったのを、舞子から習ってコンニチワ、コンバンワ、ドウゾヨロシクまで使い分けるようになっていた。
「彼に頼んで、わたしたちが練習した曲を唄ってくれるようにした」
ジョアナのサンバのレッスンに最も熱心に出たのは舞子だろう。ユゲットは途中で止めたし、寛順は舞子が誘ったときだけ参加した。
「みんなで踊りましょう」
ジョアナが立ち上がらせるのを、ユゲットだけがかぶりを振る。お腹が心配というように腹部を指さした。
「舞子、行ってみようよ」
日本語で言って席を立ったのは寛順だ。バッグをテーブルの上に置く。湿った気分を少しでも晴らしたいのだろう。
「いいわ」
最後の夜なのだと舞子は思った。踊っていれば却って怪しまれないはずだ。
ジョアナについて舞台に近づく。向き合ってステップを踏む。東洋人が珍しいのか、いくつかのテーブルから拍手が送られた。
ステップは全くジョアナの真似だ。レッスンのときと同じように、彼女は時々後ろ向きになって振りを教える。ようやく要領を覚えたところで、知っている歌に変わった。レッスンのテーマ曲と言っていいランバーダだ。これならもう身体《からだ》がステップを覚えていた。向かい合ったジョアナがOKと言うように親指を突き出す。練習不足の割には、寛順も軽快にステップを踏んでいる。
三人で向き合い、位置を変えているうちに、飛び入り女性が二人加わった。いずれも四十歳くらいで、標準体重の二倍以上はある見事な体格だ。寛順と舞子のさして上手でもない踊りに勇気づけられたのだろう、笑いながらジョアナの物真似をする。しかし思い通りに足腰は動かず、観客がやんやの喝采《かつさい》を送った。
「一度踊ってみたかったの」
女性のひとりが息を切らしながら舞子に言う。流暢《りゆうちよう》な英語なのでブラジル人ではないようだ。
「明日からジョアナのレッスンに出るといいです」
舞子はジョアナの方を顎《あご》でしゃくった。
視線は、手の甲に入墨をした男のテーブルを一瞥《いちべつ》していた。ひとつだけ空いていた椅子《いす》に、白髪の小柄な老紳士が坐《すわ》っていた。踊りなどには興味がないらしく、他の三人と真剣に話し込んでいる。
少なくともこれまで、あの老人をこのレストラン内で見たことはない。
中年男も入墨の男もこの病院の幹部なのだろうか。
四人の会話が中断し、老紳士がこちらを見やった。舞子はさり気なく身体を捻《ひね》る。二人の中年女性は、もう顔に玉の汗が噴き出している。
寛順もステップを完全に覚えたようだ。ジョアナの足元を見ないで、思い切り手足を動かしている。
曲が終わり、小休止で汗をぬぐう。新たに白人男性二人が加わる。寛順と席に戻ろうとするのをジョアナが引きとめた。腹の突き出た男性二人も、一緒に踊ってくれないと出て来た甲斐《かい》がないと哀願する顔つきだ。寛順と顔を見合わせて、あと一曲踊ろうと決める。
次の曲も軽快だ。ジョアナがステップを変える。習った動きだった。男性組の踊りは全く様になっていない。ジョアナが二人を前にして腰を振ってみせる。そのうち交互に手を取って、二人の間で舞い始めた。
男二人の動きはぎこちないが、ジョアナの踊りが見事なので、花と花の間を行きかう蝶のようだ。舞子たちはその周りを囲んでステップを踏む。肥った女性二人は疲れたのか、両脚はほとんど動いていない。それでも嬉《うれ》しそうだ。
舞子はさり気なくジョアナの手の甲を眺めやる。確かに鳥の爪《つめ》の入墨がある。
曲が終わる。シャワーを浴びたばかりの身体が汗びっしょりになっていた。二人の肥った女性はかわるがわる礼を言った。舞子と寛順もジョアナに手を振って舞台の傍を離れる。労をねぎらう拍手は、ボーカルの男性もしてくれた。
「二人とも上手だった」
席に戻るとユゲットまでが小さく手を叩《たた》く。
喉《のど》が渇いていた。寛順に何が飲みたいか聞き、舞子が取りに行く。
舞台では踊りがまだ続いていた。メロンジュースとココナッツジュースをコップにつぐ。後ろを振り返って、老紳士たちのテーブルを見る。黒人の若い男が立ったまま四人に何か告げている。老紳士は真剣な顔で頷《うなず》き、席を立つ。あとの三人もその後に続いた。
もうすぐ九時だった。胸が高鳴るのを抑え、二つのコップをテーブルまで運んだ。
「まだ行かなくていいの?」
寛順が訊《き》いた。
「これを飲み終わったら」
舞子はさり気なく答える。ココナッツの淡い味が喉に快い。
レストランを出たのは九時を五分過ぎていた。庭園の中で、黒白のチェス板が照明に浮かび上がっている。駒《こま》の散らばり具合が抽象彫刻のようだ。
海岸寄りの通路を抜けて、外来の駐車場の方へ迂回《うかい》する。ところどころに外灯があり、駐車場はまんべんなく照らされている。七、八台の車がまだ残っていた。銀色のワゴンタイプの車がこちら向きに停車している。中には運転手がひとりいるだけだ。気がついたのか、大きな上体が動き、エンジンがかかった。
運転席にいる男は東洋人だった。舞子たちが近づくと、運転席の窓ガラスをわずかにおろした。
「サカガミさんですか」
舞子は日本語で訊く。
「そうです。乗って下さい」
返ってきたのは流暢な英語だった。サカガミは寛順とユゲットにも「今晩は」を告げたが、愛想笑いは顔に現れなかった。
舞子を真中にして、三人とも後部座席に坐った。
車がゆっくり発進する。ヘッドライトが、駐車場の周囲の樹木をなめるように照らし出す。
「どこに行くのですか」
ユゲットがいくらか不安気に訊いた。
「まだ言えません」
サカガミがかぶりを振る。ユゲットは不審げな眼を舞子に向けた。
「あとで分かるわ」
気持を鎮めながら答える。寛順はじっと車の外を見ている。
門は開いたままで、黒人の守衛がひとり立っていた。車内を一瞬見ただけで何も言わない。
「明日の朝、病院に査察がはいるのです」
T字路を右折したあとで、サカガミがおもむろに言った。「その前にあなたたちを連れ出す必要がありました」
「査察? 警察のですか」
寛順が訊く。
「サルヴァドールの検察局が直接乗り出します」
「それがわたしたちと何か関係が?」
ユゲットが問い直す。
「大いに関係があります。もし相手に気づかれた場合、あなたたちの身の上が危なくなるのです」
サカガミは前を見つめたまま答えた。
「マイコ、知っていたのね」
ユゲットが舞子に顔を向ける。
「全部は知らない。今日、ドクター・ツムラに言われただけ。寛順とユゲットも一緒に連れ出してくれということだったの」
「それでパスポートがいるのね」
寛順が頷く。
「まだ必要なものがあったでしょうけど、まさか旅行ケースを持ち出すわけにはいかないし。せめてパスポートだけはと思ったの」
「いずれ戻れますよ」
サカガミが言う。「ただ、病院側があなたたちの部屋を調べ尽くす可能性はあります」
「嫌だ」
ユゲットが言う。
車は海亀のいる村にはいっていた。
「ここで待機するのですか」
舞子が訊く。
「全員がこの村のホテルやペンションに泊まっています。総勢で二十名。みんな明日に備えているはずです。ぼくたちは、村はずれのホテルに宿をとっています。ホテルといっても、ペンションじみていますが」
バス停のある広場から、車は未舗装の路地にはいっていく。村全体が暗く、両端の家の窓からわずかに光が漏れてくるだけだ。
家並が途切れると道は上り坂になる。ヤシの林が右手に見えていた。左側は畑だ。
民家風の二階建ホテルはヤシ林のはずれにあった。駐車場の大きさからみても部屋数は十数室だろう。車が二台停まっているだけだ。
「ぼくは、サルヴァドールで開業している弁護士のアントニオ・シゲル・サカガミです」
車から出たときサカガミは自己紹介をした。車内では気づかなかったが、日本人にしては巨漢だ。丸太のような腕で握手をされた。
「こちらがユゲットと寛順、わたしは舞子です」
舞子もそそくさと言う。
ホテルの受付には誰もおらず、カウンターの上の呼び鈴を押して女主人が出てきた。
「一泊だけですから、家族用の大きな部屋をとってあります。いいですね」
サカガミが舞子たちに言った。
女主人は白いものの混じった髪を後ろで束ね、年齢の割には動作がきびきびしている。言葉少なに四人を二階に案内した。
通された部屋は二部屋が中仕切りでつながり、ダブルベッドが三つ、補助ベッドがひとつ備わっていた。バス、トイレもそれぞれについている。簡素な調度品だが、色だけはブルーに統一されていた。
「海が見える」
女主人がカーテンをわずかに開けたとき、寛順が言った。「海亀の上がる浜じゃなかったかしら」
寛順の英語を聞きつけて、サカガミが女主人にポルトガル語で確かめる。そうだという返事だった。
「ぼくの部屋は廊下の突き当たりですが、十二時頃、ドクター・ツムラも来ます」
女主人が出て行くの待って、サカガミが言った。舞子たちに椅子《いす》を勧め、自分も部屋の隅から椅子をもってくる。
「病院にどういう疑惑があるのですか」
訊いたのはユゲットだ。
「今は話せません。明日になれば言えますが。とにかく、あなたたちを保護しておくのが先決だったのです。重要な証人ですから」
「証人?」
ユゲットが舞子と寛順の顔を見る。「一体何の?」
「多分、バーバラやロベリオのことよ」
冷静な寛順が答える。
「査察がはいれば、病院の内部事情が明らかになります」
「病院が何か犯罪をおかしているということですか」
ユゲットから食い下がられ、サカガミは重々しく顎《あご》を引く。
「ブラジルの国内法では犯罪になりませんが、合衆国の法律を犯しているのです。捜査官の中には合衆国の専門家も三人含まれています。おそらく、この法律に違反した最初の例になるはずです。各国もこの種の法制定を考慮している段階ですから、事件の詳細が分かれば、ニュースは数時間のうちに世界を駆け巡る結果になると思います」
サカガミは腕時計を見て立ち上がる。「事件とあなたたちがどうつながっているか、ぼく自身は知りません。ただ、ドクター・ツムラの強い意向があって、あなたたち三人には前以《まえもつ》てあの病院を出ていただいた。一晩だけでもここに待機していて欲しいのです」
サカガミは確認をとるように、三人の顔を交互に眺めた。「連絡しなければいけないところもあるので、ぼくはこれで失礼します。部屋は廊下に出て右奥の左、十七号室。電話は〇一七で通じます。明朝六時には起きていて下さい。朝食は一緒に階下でとりましょう」
サカガミは他に何か質問はないかというように口をつぐんだ。
「ドクター・ツムラは病院に居残っているのですか」
舞子が訊いた。
「十二時前には病院を脱け出すはずです。正門や裏門からだと怪しまれるので、彼なりに考えているでしょう。車はどこか病院外に停めておいて、最終的にはこのホテルに辿《たど》りつく手はずになっています。ま、彼のことですから心配する必要はありません」
サカガミは微笑を混じえて答え、部屋を出ていった。
舞子はどっと疲れを感じた。椅子から動きたくない。寛順が立って、ドアにロックをかけた。
「ごめんなさい。こんな所に連れ出してみんなには申し訳ない」
舞子は涙声になる。
「何を言うの。何も知らないであの病院に残っていたほうがどれだけ恐いか分からない」
寛順が慰める。
「いいの。こうするのが一番だったはず」
そう言うユゲットも、椅子にどっかり身体《からだ》を休めたままだ。
「でも、お化粧を落とすのに何も持って来ていない」
寛順が部屋の中を見回し、首を振る。
「寝るのもこのままね。いいわ。火事で焼け出されたと思えば。恐い目にあわなかった分だけ幸せ」
思い直したようにユゲットが応じる。
寛順が冷蔵庫を開けた。レストランの出がけにジュースを飲んだはずなのに、もう喉《のど》が渇いていた。
「ユゲットにはまだ話していないことがあったの」
グァラナの瓶二本とコップ三つをテーブルに置いて寛順が言った。
「何なの?」
ユゲットが改まった顔になる。
「もう話してもいいと思うけど」
寛順が椅子に坐《すわ》る。「わたしたち、バーバラが殺されるところを見たの。悲鳴を聞いて駆けつけたときは、もう犯人の姿はなくて、彼女の身体だけが横たわっていた」
助け舟を求めるように、寛順は舞子の方に首を捩《ねじ》る。
「このことは絶対言うな。言うと命がないと口止めされたの」
舞子が補う。声が震えた。
「誰に?」
「ロベリオよ」
寛順が答えた。「舞子と一緒に、ロベリオに乗馬を習っていたの。病院の近くにある沼地まで来たとき、森の方で悲鳴が上がった」
「そうなの」
ユゲットの顔から血の気がひく。「じゃロベリオが死んだのも、何かそれと関係があるのね」
「無関係ではないわ」
鋭く寛順が言った。「ロベリオの存在も、最後には邪魔になってきたのよ」
「そしてわたしたちも」
舞子は恐る恐る言い添える。
「でも、バーバラが何で殺されたのか、問題はそこよ」
ユゲットが舞子と寛順の顔を見据える。
「病院が隠していること。つまり、明日の朝、一斉捜査が行われる内容がそれ」
「だから、それが何なの?」
ユゲットが問いかける。必死で頭のなかを整理しようとする表情だ。
「ユゲットには言わなかったけれど、バーバラが残したメモがあった」
「どこに?」
「レストランの前の庭にチェス盤があったでしょう。その黒いキングの中」
「どうして分かったの」
ユゲットが身を乗り出す。
「いつかユゲットがバーバラのこと話してくれたわね。彼女はよくチェス盤の付近にいたと。わたしもバーバラが何を考えていたのか知りたくなって、チェスを動かしてみたの。ひとつひとつが重いのね。黒のキングが倒れて、中の空洞が見え、その中に紙片が押し込んであった」
「それがどうしてバーバラのものと判る?」
ユゲットが畳みこむようにして訊く。
「署名などなかった。でも確かに女文字だし、ところどころにドイツ語が混じっていたの」
「どうしてそんなところにメモを隠していたのかしら」
「誰かに渡すつもりじゃなかったのかしら。相手はクラウス・ハースだった可能性が高い。直接会わなくても、万が一に備えて場所だけを電話で教えればいいのだし。でもそうする前に不幸が訪れた──」
寛順は唇をかむ。
「大変な内容だったのね、そのメモ」
舞子は横あいから質問する。
「病院内の地図と、扉の暗証番号が記入されていた」
「病院のどのあたりの地図?」
「普段はわたしたちが気にもかけていない所。本館西側の最上階」
「カンスンは行ってみたの?」
ユゲットは驚きを隠さない。
「自分で確かめなくてはと思ったの。今から考えると、よくそんな勇気が出せたと恐くなる」
「何があったの?」
「巨大な冷凍庫とコンピューター室」
寛順は自分の衝撃を思い起こすように息を呑《の》む。「コンピューター室に世界地図のパネルがあった。大きな冷凍庫の外側には検査室もついていた。何を調べるのかまでは判らなかったけど」
「もしかしたら、その冷凍庫のありかをドクター・ツムラに知らせたのはカンスンじゃない?」
舞子の問いかけに寛順は黙って頷《うなず》く。
「自分ではもうこれ以上調べられないと思った。それで、メモの写しをこっそりドクター・ツムラの郵便受に入れたの」
「わたしたちがサルヴァドールに行ったとき、彼からフィルムのプリントを頼まれたでしょう。あれは、寛順のメモに従ってドクター・ツムラがそこに忍び込んだのね」
「そう」
「あの変な写真だわね。世界地図があったり、コンピューターの画面だったり」
ユゲットが思い出す。「確か、保険会社の名前や病名が画面に映っていた──」
「それが病院の闇《やみ》の仕事だったのかもしれない。合衆国の捜査員が派遣されたくらいだから、大がかりな犯罪なんでしょう」
寛順がふっと溜息《ためいき》をつく。
「でもバーバラは、どうやってそんな事実をかぎつけることができたのかしら」
「コンピューターよ」
舞子の疑問に答えたのはユゲットだった。「あの人、仕事がプログラマーだったし、暇があるといつも、外来の二階にあるコンピューターの部屋にいた。インターネットでいろんなところのホームページを眺めたり、医学関係の資料を集めるのが好きだったみたい。そのうち、この病院の内部のコンピューターにはいり込んだのじゃないかしら。一種のハッカーよ」
「可哀相」
舞子はつい日本語で言う。
「知り過ぎた者が次々と殺されたわけね」
ユゲットが怯《おび》えた目をする。「バーバラとロベリオ──」
まるでその次が自分たちだと言わんばかりに、ユゲットの表情が凍りつく。
「気を確かにもたないと。ドクター・ツムラと舞子のおかげで、ここまで逃げて来られたのだから」
寛順が気丈に言った。
「少し横になりたい」
ユゲットが手近にあるベッドにころがり込む。靴をはいたままだ。
「わたしは化粧を落とすわ。石けんくらい洗面台にあるでしょう」
寛順が立ち上がった。
舞子はユゲットにならって、壁際の補助ベッドに身を横たえる。もともと薄化粧なので、そのままでもいい気がした。
あと一日だ。明日になれば何もかも大きく変わっているに違いない。
ツムラ医師がどうしているかも気になった。逃げそこなえば、知り過ぎた人間としてバーバラやロベリオと同じ運命を辿らないとも限らない。
ユゲットが起きて靴を脱ぎ始める。
「眠くなった。先に寝るわ」
そう舞子に言い、薄い毛布の下に身体を入れた。
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ツムラは十一時半に明かりを消した。
Tシャツに半ズボン、ソックスにキャラバンシューズといった服装だった。荷物はリュックひとつで、その中には着替えと水筒、携帯電話を入れている。しかし何といっても一番重いのは小型の冷凍庫だ。四重底になっており、マイナス四十度を四十八時間は維持できる。リュックの中味を怪しまれた際、冷凍食品の容器だと言い逃れするつもりでいた。
暗い中でじっと待った。万が一監視されていた場合、相手が何かの動きに出るとしても、消灯後しばらくしてからだろう。そのときはベランダから縄《なわ》梯子《ばしご》を降ろして、速やかに脱出するつもりでいた。
十分経過する。変わった物音はしない。もうしばらく待つことにした。
サカガミからの連絡は、十一時少し前にはいった。三人を無事アストリア・ホテルまで連れ出し、部屋で休んでもらっているという知らせに安堵《あんど》した。
三人に動揺はないかと訊《き》くと、最初は不安がっていたが、今のところおさまったようだと、サカガミは答えた。こちらの指示通り、舞子が骨折ってくれたことに、ツムラは感謝したかった。あとは自分が脱け出し、明朝、検察の手入れがあるのを待つだけなのだ。
十二時過ぎにはアストリア・ホテルに到着するとサカガミに告げて、ツムラは携帯電話を切った。
今のところ、すべてがうまく運んでいた。
サルヴァドールの検事と刑事たちも、二、三十人、病院周辺のホテルやペンションに分宿しており、今頃は持ち場での予定行動の詰めを急いでいるはずだ。
室内を暗くしてから既に二十分以上経過していた。車を停めているのは、幹線道路の手前の小径《こみち》で、宿舎からはゆっくり歩いて三十分はかかる。駐車場所はサカガミにも説明しておいた。
立ち上がり、暗がりの中を廊下に出た。静かに戸を閉め、鍵《かぎ》をかけた。途中で同僚に会えば、これから登山に行くと言えばいい。夜通し車を飛ばしてアラゴイニァスまで行き、三時間かけて頂上を目ざし、午後に下山、明日の晩までにはここに戻って来られる。どの同僚も不審には思うまい。
階段を降りきるまで誰にも会わなかった。
バラ園の方に行きかけたとき、向こうから男が二人近づいて来るのが見えた。
警備員だった。ツムラはさり気なく向きを変え、夾竹桃《きようちくとう》の樹木の陰にはいる。迷ったあと、宿舎の壁沿いに川の方に向かった。
その瞬間だ。背後で笛が鳴った。初めは何の合図かと訝《いぶか》ったが、警備員のいた方向で人の叫ぶ声がした。もうひとつ続いて同じ笛が鳴る。
ツムラは走り出す。どうして追われるはめになったのか分からぬままに、必死で足をたぐる。後ろを見る余裕などない。リュックを背負っている分、警備員たちよりは不利だった。
建物の陰を出、細長い庭を横切ろうとしたとき、海辺の方角で、また笛が鳴った。包囲されているのだろうか。猟犬の群と同じく、何組かの警備員が駆け寄って来る光景が頭をよぎった。
川岸の竹藪《たけやぶ》に逃げ込む。そのまま川の中に降りた。幅は十メートルもなく、対岸には砂洲《さす》もできている。腰まで水につかりながら渡り切り、砂洲を避けて水の中から直接岸によじ登った。
海とは逆の方角に走った。真直ぐ行けばリゾート・ホテルにぶつかるが、そこも避けた。真夜中の客を受け入れてくれるはずはなく、物陰に隠れても犬に吠《ほ》えられるだけだ。
走りながら耳を澄ます。もう笛の音はしない。警備員たちはトランシーバーで連絡し合っているのだろうか。
停めている車までは、走れば十分足らずだ。しかし国道|脇《わき》を歩くのは人目をひく。うまく行き着いたところで、自分の車を運転するのは危険だ。警備員のうち何人かは、もう車で国道沿いを見張っている可能性があった。
雑木林の中に身を潜めた。どちらに逃げるべきか考えた。時間が経てば経つほど不利になるのは確かだ。サカガミや刑事たちが泊まっている村まで行けば安全だが、病院の正面の道を通らねばならない。海沿いの道は既に見張られているはずだ。陸地寄りを行くには池を迂回《うかい》する必要があった。一時間以上はかかり、しかも途中で国道に出る。
最も確実なのは、サカガミに来てもらうことだ。そう決心して、ツムラは雑木林の縁からもう一度川岸の方の様子をうかがう。人影はなく、音もしない。警備員たちは病院の敷地内を探しているのかもしれなかった。
下草をかき分けて雑木林の中を進んだ。半ズボンの足に、棘《とげ》のある葉が当たる。歩きにくいうえに音が気になった。
十分ほどして雑木林の端に出た。目の前に国道があった。車の往来はなく、道は右も左も暗闇《くらやみ》の中に溶け込んでいる。
道の向こう側に隠れる場所がないか、目をこらした。
右側の闇に明かりがさす。ヘッドライトが見えた。光の束をわずかに上下させながら、車はぐんぐん近づいて来る。乗用車ではなくトラックのようだ。
ライトに道の両側が浮かび上がる。左前方に、制限速度を示す標識が立っていた。そのすぐ傍に灌木《かんぼく》の茂みがあり、人ひとりくらいは姿を隠せそうだ。
車が行き過ぎたあとの暗がりに紛れて、ツムラは雑木林から飛び出す。道を斜めに横断して、灌木の陰にしゃがみ込む。呼吸を整え、背中からリュックをおろした。
携帯電話を取り出し、ボタンを押す。応答を待つ間に、右側の暗闇にまたヘッドライトが現れる。道の輪郭を露《あらわ》にしながら、乗用車が近づいてくる。
そのまましゃがんでいれば、自分の姿が露見しそうに思われ、ツムラは草の上に仰向けになった。
「サカガミです」
相手が出た。
「ぼくだ。さっき宿舎を出たばかりだ」
車の音と共に、ヘッドライトの明かりが頭上を通り過ぎ、周囲はまた元の暗がりに戻った。
「どこにいる?」
サカガミから訊かれたとき、ツムラは人声を耳にしたような気がした。
上体を起こして、道の向こう側の暗がりを凝視する。二人の男の姿が見えた。ひとりはトランシーバーを口に近づけ、何かしゃべっている。
「まずい、あとでな」
ツムラは短く伝え、スイッチを切った。
灌木の陰に身を隠し、二人の様子をうかがう。
恐らく、宿舎を出たときに出くわした警備員だろう。敷地内を探し回ったあと、砂浜沿いに川を渡ったのに違いない。
ひとりが懐中電灯をつけた。彼らとの距離は、道を挟んで、対角線上に三十メートルほどだろうか。二人が向こう側にいる限り、懐中電灯の光は灌木までは届かない。しかしこちらに渡って来れば、どう巧妙に隠れたところで、光から逃れられそうにはなかった。
ツムラは静止したまま、待った。いよいよのときは、リュックを置いて逃げるつもりでいた。
またヘッドライトの光が左の闇の奥に立ち現れる。上り車線のヘッドライトは、灌木をそのまま照らし出す。正面の雑木林から見たときは、姿を隠すのに充分だと思ったのだが、斜めからだと死角の幅が減った。微妙に移動して死角の中にはいらねばならない。
二人はまだ立ったままだ。トランシーバーを耳に当てている男は、周囲を警戒しながら指示を待っている。
左側のヘッドライトが接近してきて、路肩を照らし出す。男二人はまだこちらに気づかない。
暗がりを移動して後方に下がるべきか、迷った。もはや雑木林の方には戻れない。逃げるとすれば、草むらのなかを這《は》って後退するしかない。比較的灌木が厚い場所までは二、三十メートルだろうか。リュックを引きずっての移動は骨が折れそうだ。
再び左側にヘッドライトが現れていた。懐中電灯を持った男が、ヘッドライトに向かって腕を大きく旋回させた。白っぽい乗用車はツムラの前でUターンする。乗っているのは運転手だけだ。向こう側で停車し、助手席にトランシーバーの男、後部座席に懐中電灯の男が乗り込む。そのまま病院の方角に走り去った。
ツムラはリュックを肩にかけ、暗がりの中を後方に移動する。灌木の茂みまでは車のライトは届かない。捜査用の犬でも使わない限り、この位置を発見される心配はないだろう。
携帯電話のボタンを押してサカガミを呼び出した。
「心配した。大丈夫か」
くぐもった声でサカガミが答える。
「危ないところだった。今何時だ」
「十二時半」
「もうそんな時間か」
「どこにいる」
「国道沿いの林の中だ。警備員たちに感づかれ、このままだと動けない。自分の車のところにも行き着けそうにない」
「迎えに行く。正確な場所を言ってくれ」
「車を停めていた所は知っているね」
「あのあたりか」
「いや、そこまで行かない。四、五百メートル手前だ。速度制限の標識が立っている。その前で車を停めてくれ。もちろん明かりを消してだ」
「分かった」
「但し、他にも車が走っていたり、付近に人がいる場合はそのまま通過していい。しばらく行ったところで電話を入れてくれ」
「すぐ行く」
電話が切れる。
暗がりの中で待った。
星が出ている。今まで気がつかなかったが、月は見えず、満天の星だ。
このまま何事も起こらずに時間が過ぎてくれればと思う。
この位置から、速度制限の標識と灌木は見ることができる。しかし道路の向こう側の様子は、立ち上がらなければ見えない。
ツムラはもう一度路肩の灌木のところまで戻ることにした。
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階下の騒がしい音で目が覚めたとき、舞子は自分がどこにいるのか咄嗟《とつさ》には判らなかった。
「舞子、ユゲット」
寛順が暗がりの中で低く叫んでいた。「明かりはつけないで。下で何か起こっているわ」
二、三人の男の声がし、それに女の声が答えている。女主人の声に間違いない。
「サカガミ弁護士の部屋に連絡したら」
ユゲットの声がした。
「もう遅いわ。わたしたちだけでも姿を隠しておいたほうがいい。入口のドアは閉めてあるわね」
寛順《カンスン》がベランダに続くガラス戸に手をかけるのと、階下で女主人の悲鳴がしたのは同時だった。
「逃げよう」
ユゲットが落ち着いた声で言う。靴をはくのがやっとだった。三人|揃《そろ》ったのを確認し合う。
わずかに開けたガラス戸をすり抜けてベランダに出た。目が慣れたのか、それとも外のほうがわずかに明るいのか、駐車場に停められている車の輪郭が見分けられた。サカガミの車はなく、別なワゴン車が玄関に近いところに横づけにされていた。
廊下を走る音、続いてドアを激しく叩《たた》く音が響いた。
「わたしが先に降りてみる」
寛順がベランダから身を乗り出す。雨樋《あまどい》にしがみつきながら、壁づたいに地面までずり下がる。
ユゲットに促されて舞子も続く。どこにも足をかける場所がなく、必死で雨樋を掴《つか》んだが、身体の重みでそのままずり落ちた。右手に鋭い痛みがあった。何かの突起物で皮膚を破ったのだろう。
足が地につくと、すぐ上にユゲットの身体《からだ》が降りて来ていた。抱きかかえるようにした瞬間、頭上でドアに体当たりする音が響いた。
「逃げるのは海と反対側」
寛順が日本語、ついで英語で言った。彼女の後ろから、走り出す。ユゲットの方を振り返ったとき、、ベランダの上に二人の男の姿が見えた。そのうちのひとりはもう雨樋に手をかけている。
畑の野菜を踏みひしゃぎながら走った。
自分の白いパンツとシューズが闇の中で浮かび上がっているような気がした。最初の民家に辿《たど》りつき、路地を駆け抜け、また野菜畑にはいる。どのくらい走り続けたろうか。すべて寛順の動きに従っただけだった。
「ユゲットは?」
里芋のような葉陰にしゃがみ込んだとき、寛順が訊《き》いた。後ろにユゲットの姿がなかった。路地を曲がったところではぐれたのだろうか。
「大丈夫、逃げてくれたと思う」
寛順が自分に言いきかせるように呟《つぶや》く。胸騒ぎがした。息を潜めようとするが、荒い呼吸はおさまらない。暗闇の沈黙を破ってユゲットの悲鳴が聞こえて来そうな気がした。
四、五軒向こうの家で犬が吠《ほ》え出す。
「わたしたちではないよね」
寛順が肩で息をしながら訊いた。舞子は首を振る。
別な家の犬も吠え始めた。明らかに不審者に対して鳴く声だ。
「動かないほうがいい」
寛順が言う。
里芋は胸の高さまで伸びていて、腰をかがめている限り闇に紛れることができる。
まだ息が弾んでいた。胸の鼓動を聞かれそうな気がした。別の犬が新たに吠え始め、またそれが遠くの犬の鳴き声を誘った。もはや一寸たりとも動けない。動けば、近くの犬が吠え、追手に気づかれるだろう。
一分、二分と息を潜めていたとき、海の方向で女の悲鳴がした。ほんの一瞬の出来事で、舞子は空耳かと思った。
「聞いた?」
寛順から顔を向けられ、舞子は顎《あご》をひく。
「ユゲットかしら」
寛順の声が震えている。舞子は沼地で耳にしたバーバラの悲鳴を思い出す。同じような鋭い声だった。ただ夜と昼の違いだけだ。
犬の鳴き声が止んでいた。動くのは一層危険だろう。かといってこのままでいられるはずがない。逃げた方向は判っているので、追手の二人は必ずやってくる。早いうちに場所だけは移動したほうがいい。
「どうする?」
寛順に訊いた瞬間、背中を叩かれた。心臓が凍りつく。
男が立っていた。ポルトガル語で何か言うのだが理解できない。
「ナン・エンテンド」
寛順が答える。村人だろう。下の前歯が二本ほど欠けている。肌が黒いので口の中がよく見える。
男はついて来いという仕草をした。立ち上がる。おとなしく従ったほうが安全のような気がした。
畑の傍に小さな家があった。裏口なのだろう、鍬《くわ》や竹籠《たけかご》が土間の上に放置され、垂れ下がった布の奥から光が漏れていた。
椅子《いす》に中年の女性が坐《すわ》っている。それまで編み物をしていたのか、白いレースが膝《ひざ》に置いてある。
「ボーア・ノイチ」
彼女は言いながら笑顔をつくった。舞子も寛順も表情を強《こわ》ばらせたままだ。
男から何か命じられて、彼女は舞子と寛順にソファーを勧め、奥に消えた。
まだ身体が震えていた。いま追手の男たちが家の中にはいってくれば、この中年夫婦とも助けにはならないだろう。寛順がしきりに入口を気にしているのを見て、男はドアの方に行き、外を眺め、また戻ってきた。右足を引きずるような歩き方だ。
男は静かな口調で舞子に話しかけ、時々寛順の反応も確かめる。二人ともさっばり内容がつかめない。
「ダミアン?」
寛順が男の言葉尻《ことばじり》をとらえていた。男はスィン、スィンと嬉《うれ》しそうに頷《うなず》く。
「舞子、ダミアンのことを言っているのじゃない?」
「ダミアン?」
舞子も、少年のことかと仕草で訊く。男はこのくらいの背丈だというように、胸の高さに手をやった。
「ダミアンは近くに住んでいるのですか」
舞子は日本語で尋ねていた。精一杯のジェスチャーを盛り込み、同じことを二度訊く。
男の顔に微笑が浮かび、何度も頷く。飲み物を運んできた妻に早口で何か言うと、舞子たちには待っていろよという表情を残して外に出て行った。
粗末なカップに入れられたコーヒーだったが、温みと甘い味が舌に沁《し》みた。
女性は夫よりは大分若く、三十代半ばかもしれない。胸と尻が極端に大きかった。
「サボローゾ。オブリガーダ」
寛順が言うと、もう一杯どうだというように勧める。
並べたてる言葉のなかにもダミアンの名が何度も出てきた。
「わたしの勘だけど、ダミアンは自分の甥《おい》だと言っているような気がする」
寛順が首をかしげながら言う。
ダミアンの母親とは、海辺の小屋で一度会っている。顔が似ているのかどうか、思い出せない。
戸口の方に足音がした。舞子と寛順は身構え、土間の奥に目をこらす。
家の中に飛び込んで来たのはダミアンだった。両手を広げて舞子にしがみつき、しばらくして寛順も抱きすくめる。涙が出てきた。
「どうしてこんな所にいるのか」
ダミアンが手真似で訊く。
病院から逃げて来て、近くのホテルに泊まっていたら、強盗に襲われてまたここまで逃げてきた。舞子は日本語を混じえて説明する。傍から家の主人が助け舟を入れた。彼女たちは裏の畑に隠れていたのだと言っているに違いない。
わたしたちは三人だった、三人で逃げたのだと、寛順が指を三本立てた。
「三人? 分かった。あの人だね。その人はどうしたの?」
ダミアンの質問は不思議に頭の中にはいってきた。
「途中ではぐれた。どこに逃げたか知らない」
舞子は自分の目にまた涙が溢《あふ》れてくるのを感じる。闇《やみ》の中で聞いた悲鳴がユゲットのものであって欲しくなかった。
「はぐれたのはどこ? いやそれよりも、マイコたちがいたホテルはどこ?」
ダミアンが訊く。叔母《おば》に言いつけて書くものを持って来させる。
舞子は木の台の上に紙の切れ端を載せ、インクの出の悪いボールペンで絵を画く。まず海岸、海亀の産卵をダミアンと眺めた砂浜のある場所だ。そこを見おろすようにして二階建のホテルはあった。駐車場は海側に設けられていた。
「アストリアだ」
ダミアンが叔父《おじ》と顔を見合わせる。
「確かそんな名前だったと思う」
寛順も言った。いつの間にホテルの名前を頭に入れていたのだろう。
「ぼく、見て来る」
ダミアンが考える顔つきになる。この家の位置とホテルの建つ場所を頭のなかで描き、ユゲットがどの辺にいるのか推測したのに違いない。舞子と寛順にここに残るように言い、出て行った。
ダミアンの叔母が、プラスチックのたらいに水を張って持ってくる。タオルをつけて絞り、さし出す。寛順の手と顔に泥がついていた。寛順の右足のストッキングも破れている。雨樋を降りるとき、ひっかけたのだろう。
「舞子、怪我《けが》しているわ」
寛順から言われて、自分の左手を見る。手のひらの内側が一文字に切れ、流れ出した血が凝固していた。押さえると新たな血が噴き出しそうだ。
ダミアンの叔母が台所まで連れて行き、蛇口の水で傷口を洗う。傷口に血がにじみ、水をピンク色に染める。彼女は夫を呼んだ。
ダミアンの叔父は瓶の口を開き、中の液体を傷口にたらす、強い痛みが走った。さらにザラザラした軟膏《なんこう》を塗って、その上から茶色の布で固く包み込んだ。
コーヒーを勧められ、黙って飲む。寛順も無言だ。最悪の事態を待ち受けるように、身動きしない。
犬が吠《ほ》えなかったら、あなたたちのいることには気がつかなかった。よかった、見つけられて。家の外に誰かいるようなので見に行けと言ったのは、妻だ。叔父は身振りを混じえてしゃべる。舞子と寛順の怯《おび》えを解きほぐそうとしているかのようだ。途中で何度か、戸口の外を見に行く。
戻って来たダミアンは白人の男と一緒だった。三十歳くらいで、よく分かる英語を話した。
「一緒に来てくれませんか」
男が言う。傍でダミアンが表情を強ばらせている。
「舞子、叔父さんにも来てもらったほうがいいわ」
寛順が日本語でささやく。白人男を警戒しているような口ぶりだ。
舞子はダミアンの叔父を促して外に出た。
「どこに行くのですか」
寛順が訊いた。
「アストリア・ホテル」
暗がりの中で男が答える。四人をダミアンが先導するかたちになっていた。
何時頃だろうか。まだ夜が明ける気配は全くない。路地の両側にある家の中も真暗だ。犬が吠えないのが不思議だった。
家並が切れて薄闇《うすやみ》の向こうが均一になる。海だろう。小高い場所に外灯がぽつんと一本立ち、その先にホテルの輪郭が浮かび上がっていた。
未舗装の道は、サカガミの車で通ったところだ。あのホテルからダミアンの叔父の家まで近かったような気がしたが、実際は一キロ近くは離れているのかもしれない。一回も休まずによく走り続けられたと思う。
寛順はぴたりと舞子に寄り添い、決して白人男の前を歩こうとしない。ダミアンの叔父が最後尾についていた。
外気温が下がっていた。先刻温いコーヒーを飲んだのにもかかわらず、身体《からだ》が冷えている。かすかに吹いている風が肌寒い。
ダミアンは時々後ろを振り向き、舞子と寛順の方を見た。ダミアンが白人男を気にしている様子はない。
「怪しい人ではないかもしれない」
寛順は舞子に日本語で言った。
ホテルの駐車場は車が増えている。玄関前に横づけになっている乗用車はそのままだ。サカガミのメルセデスはない。
玄関口にいた二人の男が、五人を迎え入れた。
階段の前に毛布が広げられていた。いや毛布の下に、人が横たわっているのは明らかだった。
白人男の指示で、灰色のシャツの男が毛布の端をめくった。
血の海の上に青白い女の顔があった。首筋が、真一文字にぱっくり口をあけている。
舞子は思わず両手を顔にもっていく。苦い胃液がこみあげる。
「この女主人は見覚えがありますね」
白人男が寛順に訊いた。しゃがんでいた男の腰で、携帯電話が鳴る。男は立ち上がり、早口で応答している。
「このホテルに来たとき、案内してもらいました」
寛順が気丈に答える。
「最後に会ったのは?」
「会ってはいません。寝入ってから、下で言い争う声がして、そのあと悲鳴を聞きました。彼女の声だったと思います」
寛順は女主人の顔に見入ったままだ。白人男が気を利かせ、毛布をかぶせた。
「二階へ」
ダミアンと叔父だけは、係官のひとりと一緒にその場に残された。
舞子たちのいた部屋のドアは蹴破《けやぶ》られていた。男がスイッチを入れる。ベッドもベランダに出る窓やカーテンも、逃げたときのままだ。三人のハンドバッグとポシェットも盗られてはいない。
「わたしたち三人はここから下に降りたのです」
ベランダに出て寛順が説明する。「そのとき、あの車はもうありました。男二人の姿を見たのは、わたしたちが降りきって畑の中を逃げ始めたときです」
「男は二人?」
「そうです」
「どんな恰好《かつこう》をしていた」
「判りません」
寛順の返事に、白人男は舞子の方を見た。舞子も首を振る。
「白人か黒人かは?」
「白人ではありません」
舞子は答える。なぜかそんな印象があった。
「白人なら、あんなに機敏にここから降りられません。階段の方に戻って、わたしたちを追いかけたはずです」
たどたどしい言い方だったが、白人男は頷いた。
「で、途中でもうひとりの友達とははぐれたのですね」
「そうです」
舞子は答える。ユゲットの悲鳴を耳にしたことは口にしなかった。
「そしてミスター・サカガミは向こうの部屋にいたのですね」
部屋から廊下に出て、男がまた訊《き》いた。
「連絡しようと思ったのですが、間に合わず先に逃げました」
寛順が答える。
「何時頃ですか」
「今から二時間くらい前ですから、午前二時頃ではないですか」
「連絡しても、ミスター・サカガミは部屋にいなかった。ドクター・ツムラからの連絡でホテルを出たのが午前一時です。あなたたちがベランダから直接逃げたのは、適確な判断でした」
男はそこで初めて自分の名を口にした。「私はデ・アルメイダ。サンパウロ地検の検事です」
「病院が気がついたのですね、わたしたちが逃げたのを」
舞子が訊く。「あとをつけられた覚えはないのですが」
「レストランから戻っていないのに気づかれたのでしょう。車で出て行くところを誰かに見られませんでしたか」
「会ったのは守衛だけです」
舞子は答える。守衛は車内に眼をやったとき、女性が三人乗っているのは確認したはずだ。しかも、その気になれば、車が幹線道路に向かったか、村の方に曲がったかは確かめられる場所に立っていた。
「その守衛が報告したのでしょう。村の中や周辺のホテルを片端から調べて、アストリアを探し出したのだと思います」
デ・アルメイダはベランダから外を見やった。畑の方向に一ヵ所、照明がつき、三、四人の人影が動いていた。
階下に戻りかけたとき、下から制服の男が上がって来て検事に耳うちをする。検事の顔色が変わった。
「あなたたちの友達が見つかった」
デ・アルメイダが言った。
一階にはダミアンも叔父もおらず、制服の男二人が玄関口を見張っていた。死体にかぶせられた毛布を見ただけで、舞子は眼をそむけた。
寛順と二人で、検事と男の後に続いた。ホテルの裏手からも、畑の中の照明は見える。男は懐中電灯で畦道《あぜみち》を探し、ジグザグに明かりの方を目ざした。
不吉な予感がした。前方の明かりが動かないのが悪い予兆ではないのか。
寛順もまっすぐ明かりの方角を見据えている。
明かりの周辺に小さな人影が立っていた。ダミアンのような気がした。その人影は動かない。
「大丈夫ですね。気を確かにもって」
検事が後ろを振り向いて言った。
ダミアンが泣いている。手で涙をふいて、舞子と寛順を見やった。
地面の上にユゲットが倒れていた。下腹が真赤に染まっている。膨らんでいるはずの腹部がぺしゃんこになっているのは、内部がえぐられているからだ。舞子は声をあげそうになる。寛順が顔に手を当てたまま、ユゲット、ユゲットと呼ぶ。ダミアンが舞子の手を握りしめた。
もういいと言うように検事が指示を出す。制服の男が茶色の毛布を遺体の上にかけた。首筋にある切り傷は、バーバラのものと同じだった。
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デ・アルメイダ検事の滞在するペンションは、海辺に面していた。アストリア・ホテルよりも質素で、部屋にはクーラーさえもついていない。寛順が調書を取られている間、舞子はユゲットに詫《わ》び続けていた。
自分が誘い出していなければ、こんな結末にはならなかったのだ。いくら悔やんでも悔やみきれない。
寛順は検事の質問に、はっきりした口調で答えている。わたしが畑の方に逃げずに、一番近くの家に飛び込めばよかったのです、と言ったとき、検事は激しく首を振った。
「家まで行きつくうちに追いつかれていた。ミズ・マゾーが遅れたのは、身重《みおも》だったからです。あなたの責任ではない」
「では、ユゲットを最初にベランダから逃げ出させて、わたしが最後でもよかったのです」
寛順は唇をかみしめた。
「身重な者が最初に降りられるはずはありません。あなたたち二人が手本を示したからこそ、彼女も無事に地上に逃れられた」
デ・アルメイダは重々しく言う。横でパソコンを叩《たた》いていた制服の警官も、顔を上げて頷《うなず》く。検事との問答は、そのままキイボードに打ち込まれていた。
問答の途中で、検事の携帯電話に何度も連絡がはいり、そのたびに彼はポルトガル語で応対した。
「九時の捜査開始を早めることになりそうです」
壁にかかった時計が六時をさしている。海の方角が少し明るくなりかけていた。
「ひと休みしなくていいですか」
デ・アルメイダが二人に訊く。
身体を横にしたところで、頭は却って冴《さ》えわたりそうだった。こうやって受身で何かをやらされているほうが、気が紛れる。寛順も同じ気持なのだろう。休む必要なんかない、ただコーヒーを貰《もら》えませんか、と訊いた。
パソコンを叩いていた警官が部屋を出ていく。
デ・アルメイダは窓際に立ち、外を見やった。さっきよりも、空が青味を増していた。
「こんな静かな場所で、あんな事件が起こるなんて」
彼は舌打ちする。「人が殺されたのは、未だかつてこの村ではなかったそうです」
舞子はまたユゲットの死体を思い出す。不自然に捻《ねじ》れた彼女の首、そしてパックリと口を開けた腹部。何年、何十年あとになっても、忘れそうにない光景だ。
「ミズ・キタゾノ。あなたが記憶しているバーバラ・ハースの死体と、さっきのミズ・マゾーの死体の共通点は、何かありますか」
デ・アルメイダが椅子《いす》に戻って訊いた。手帳の頁を開いたまま、舞子に顔を向ける。
「首の切られ方がそっくりです」
鋭利なナイフによる切創《きりきず》は、真一文字に深々と首をえぐっていた。頸動脈《けいどうみやく》からほとばしり出た血が、べっとりと髪を赤く染めている。その赤さが目の底に焼きついて消えない。
「バーバラ・ハースの死体も腹部を切られていましたか」
検事の問いかけに、舞子はかぶりを振る。彼女の腹部は、ふくよかな線を描いて美しく膨らんでいた。それに比べて、ユゲットの無惨な殺され方──。舞子は嗚咽《おえつ》が起こってくるのを必死でこらえた。
「単に殺すだけなら、首に切りつけるだけでよかった。何故あんなむごいことをするのか」
デ・アルメイダが顔をしかめた。
警官はペンションの娘と一緒に戻って来る。四人分のコーヒーが用意されている。デ・アルメイダは、それまでの舞子の発言を手短に説明し、パソコンに記録させた。
「バーバラ・ハースが殺された場所は、さっきミズ・リーからも聞きましたが、もう現場は残っていないのですね」
舞子にもよく分かるゆっくりした英語を、横にいる警官がパソコンにおさめていく。
「ブルドーザーがはいって、道が造られました。どのあたりかさえも、今では判りません」
舞子の返答を、キイボードの音が忠実になぞる。
「ドクター・ツムラも言っていたのですが、コンピューターの記録も全部抹消されているそうです。そうすると、バーバラ・ハースに関して残っている物は、ミズ・リーがさっき言ったチェスの中のメモだけですね。それ以外はあなたたちの記憶のみ──。他に何か思い当たることは?」
「特にありません」
舞子は首を振る。
「チェスの中のメモについては、すぐ調べさせます」
「バーバラはサルヴァドールにいる叔父《おじ》さんを訪ねたことはあるそうです。それ以外にも手紙を書いているかもしれません」
「クラウス・ハースですね。今日サルヴァドールの地検まで来てもらって、事情聴取する予定になっています」
デ・アルメイダは手帳の頁をめくる。「ロベリオの死について、先程ミズ・リーは他殺に違いないと言いましたが、あなたはどう思います?」
「殺されたのだと思います。わたしのカウンセラーのドクター・ライヒェルは、解剖の結果、事故死だと言いましたが信じられません」
「ジルヴィー・ライヒェルですね。確かにそう言いましたか」
「ええ、心臓に欠陥があったと──」
舞子は海辺で見たロベリオの死体を思い起こそうとするが、暗い波打ち際だけが記憶に立ちのぼってくるだけだ。まるでそこだけ焦点がぼやけたように像を結ばない。
「では、あなたが単なる事故死ではないと考える理由を言って下さい。ミズ・リーは、あんな時間に海で泳ぐはずがない。争ったような足跡もなかったので、どこかで殺されて、舟で運ばれて海岸に打ち捨てられたという意見です。自殺は考えられませんか」
デ・アルメイダはあくまで丁重な訊き方を崩さない。
「自殺でないのは確かです」
舞子はきっぱりと言う。「あの人はいつか、自分の夢を話してくれたことがあります。お金を貯めて、バンガロー形式のホテルを建てたいと言っていました。そこに自分の故郷の村の人たちを、代わる代わる招待するのだと──」
言いかけて、舞子は胸が一杯になる。もしかしたら、ロベリオは悪い人間ではなかったのではないか。悪人が、両親だけでなく村人にまでホテル生活を味わわせようとするだろうか。
「ほう、それで」
デ・アルメイダが先を促す。
「確かにあの人は、バーバラの死体を目撃したことを他人にしゃべるなと脅迫はしました。しかし今から考えると、それは本当にわたしたちのためを思ってではないかという気がするのです」
舞子の頭には、ロベリオが馬を先導して山道を登る光景が蘇《よみがえ》る。舞子たちに木笛を吹かせて、いかにも楽しそうだった。森の中に分け入り、パパイアまでも採って来てくれたではないか。
「とすると、ロベリオは裏切り行為か何かで殺されたと?」
鋭い視線が舞子を捉《とら》える。
「バーバラと同じように、何かいけないことに感づいたのではないでしょうか。ロベリオのあとが、わたしたちの番だったような気がします」
「なるほど」
デ・アルメイダはやっと頷く。「彼について、何かもっと思い出しませんか。どんな小さなことでもいいのです」
舞子の返事を催促するように、キイボードを打つ音が止む。
「ロベリオの右手に入墨がありました」
入墨という単語が英語で言えず、舞子は寛順に訳してもらった。
「ミズ・リーも気がついていましたか」
デ・アルメイダが寛順に訊《き》き直す。そう言えば確かに、と寛順も記憶を新たにする。
「小さな入墨です。ワシの爪《つめ》みたいな模様でした。右手の甲です」
舞子は補足する。
「奥地の村や漁村では、男たちがよく入墨をしますが、上腕にするのが普通です。手の甲というのは珍しい。それもワシの爪──」
「同じ入墨は他でも見たことがあります。わたしたちを、サンパウロの空港で迎えてくれた黒人もしていました。それから、病院でダンスを教えてくれたジョアナもです」
「ジョアナ? 女性ですか」
検事は驚いて問い返す。どんな女なのかを舞子と寛順に確かめ、携帯電話のボタンを押した。早口のポルトガル語で何かを命令し、また舞子に向き直る。
「もうひとり、入墨をしている男性を見ました。病院を逃げ出す直前、レストランで偶然会った白人です。その入墨も手の甲でしたが、模様が少し違っていました」
「どんな具合に?」
「ワシの爪がマンジを掴《つか》んでいるのです」
舞子は〈マンジ〉という英語が分からず、検事の万年筆を借りて紙の上に卍の模様を描いた。
「鉤十字《ハーケン・クロイツ》?」
検事が驚いて顔を上げる。「その男、レストランの客で、やはり患者ですか」
「患者ではありません。病院の職員だと思います」
舞子は、その男が話をしていた白髪の老人についても口にしようかと思ったが、今は無関係のような気がして黙った。
「その男の名前などは判りませんね」
デ・アルメイダから問われて、舞子は首を振る。
「会ったのはその時だけですから」
「バーバラの遺体を運んだ男たちにも、その入墨はありましたか」
「見ていません」
検事は舞子の返事を聞いて、寛順の方にも眼をやった。寛順も同じ答だ。
「入墨には二つの種類があることになりますね。ワシの爪だけのものと、それが鉤十字をしっかり掴んでいるものと──」
デ・アルメイダが口ごもるのを眺めていたとき、舞子はマンジについて辺留無戸《ヘルムート》が語った言葉を思い出す。〈マンジ〉というのは功徳の意味で、右マンジと左マンジがある──。
その辺留無戸が好んだのは左に旋回する左マンジで、普通の寺で見かける右マンジとは違っていた。しかし、その左マンジと、あの入墨は同じものだろうか。デ・アルメイダは左マンジの模様を見てすぐ理解してくれたが、ハーケン・クロイツとは一体何なのだろう。
検事に問い直そうとしたとき、廊下に足音がした。
ノックのあと、男に案内されてはいってきたのはツムラ医師とサカガミだった。舞子は思わず立ち上がる。
デ・アルメイダが、調書を取るのは中止だというように警官に目配せする。
「すまないことをしました」
ツムラ医師が舞子と寛順に頭を下げる。サカガミもその横で沈痛な表情を崩さない。
「ぼくが病院から逃げるように言っておかなければ、こんなことにならなかった」
「悪いのはこっちだ」
サカガミが言う。「あなたたちだけ残して出たのが失敗だった」
「いやサカガミに電話をして呼び出したのもぼくだ」
ツムラ医師は唇をかむ。
「わたしがすぐ近くの民家に助けを求めればよかったのです」
寛順までが肩を落とした。
「ドクター・ツムラ、彼女の遺体は見ましたか」
デ・アルメイダが訊いた。
「見ました」
ツムラ医師は眉《まゆ》をひそめた。
「どうして腹部まで切りつける必要があったのですか」
「切り裂かれているのは子宮です。胎児が取り出されていました」
絞りだすような声で、ツムラ医師が答える。
「何のために」
「分かりません」
「単なる変質者とも考えられません」
傍にいたサカガミが口を添えた。
「手慣れた者の仕業ですか。つまりメスを握る職業の──」
デ・アルメイダが訊く。
「いえ、素人です」
ツムラ医師がかぶりを振る。「遺体はすぐサルヴァドールに運び、医学部で司法解剖するように手配しました」
ツムラ医師とサカガミに付き添ってきた男は刑事らしかった。デ・アルメイダは彼に耳打ちされて頷《うなず》く。
「ミズ・リーとミズ・キタゾノ、これから病院の方に同行していただくのですが、構いませんか。疲れているとは思いますが」
舞子は寛順と顔を見合わせる。じっとしているよりも、動いていたほうが楽なような気がする。
「大丈夫です」
寛順が答えた。
ペンションから少し離れた道端に、サカガミ弁護土は車を停めていた。
「宿舎からは無事逃げられたのですか」
歩きながら舞子はツムラ医師に訊いた。
「部屋を出たのは零時を回ってからです。いろいろ準備がありましたからね。荷物は大きなリュックひとつにしました。正門や裏門を使わずに、川を横切ることにしました。服装も登山の恰好です。怪しまれても、そう答えればいいですからね」
サカガミが開けてくれた車に乗り込む。デ・アルメイダたち三人が乗った車は、前方で待ってくれている。
「バラ園を横切るとき、向こうから警備員二人が来るのが見えたのです。何か訊かれても、堂々と答えればいいはずなのですが、そのとき妙な予感がしたのです。普通なら、警備員はひとりで巡回します。それも、ゆっくりとした歩調でです。それとは違って、二人、しかも早足で近づいてくる。ひょっとしたらという直感でしょうね。ぼくはさり気なく通路を曲がり、建物の陰に隠れ、走りました。一目散です。警備員の声が後ろでしたような気がしました。後ろは振り返りません。こっちはリュックを背負っていますから、不利です。それでも、川岸まで行きつけば逃げられる自信はありました」
「そのとき捕まっていれば、すべてが水の泡だろうな」
車を発進させながらサカガミが日本語で言う。
「いや、あいつらはその時点で、ミズ・キタゾノたちの不在に気がついたのだろう。ぼくを探し出すより、あなたたちの行方をつきとめる方針に切り換えたのだと思う」
「つきとめて殺すのですか」
寛順が冷静な声で確かめる。
「そうでしょう。あなたたちが証人ですから」
ツムラ医師が重々しく答えた。「国道沿いの茂みに隠れていたとき、追手の警備員二人が、迎えに来た車に乗って病院の方に戻って行ったのです。それが方針の転換だったのかもしれません。もちろん計画自体は前から進行していた可能性は充分あります」
「検察や警察の動きが、ある程度彼らに読まれていたわけです。ブラジルではよくあることです」
サカガミがつけ加える。
車は、デ・アルメイダたちの乗る車のあとについて進んだ。
「ツムラ先生の郵便受に、あのメモを入れたのはわたしです」
寛順が言った。
「そうでしたか。ぼくは誰か病院内部の者かと思っていました。あなたでしたか」
「中庭の野外チェスの中に、バーバラの書いた物が残されていたのです。警察が調べていると思います」
「ミズ・リーは実際にあの部屋に行ってみたのですか」
「はい」
「危なかった。もし見つかっていれば、バーバラと同じ目にあっていた──」
ツムラ医師は嘆息する。
「あそこが、フォルテ・ビーチ病院の中枢部門と言っていい所です」
サカガミが言った。「他の臨床部門はつけ足し、あるいは隠れ蓑《みの》でしょう」
「あれは何のための冷凍庫ですか」
寛順が訊く。
「遺伝子診断用の血液標本を保存する場所です。壁の大きなパネルも見ましたね」
「見ました」
寛順と一緒に舞子も頷く。実物の大きさは判らないが、写真で見知ってはいた。
「あれがネットワークです。拠点づくりのパイロット・スタディとして、まずフォルテ・ビーチ病院で始めたのでしょう。うまく行けば、もっと大がかりな施設をブラジル奥地に建設するつもりだったのかもしれません」
「実際に合衆国から、あの病院に遺伝子診断を依頼してみたのです」
サカガミが運転席から口をはさむ。「いわゆるオトリ捜査というやつです。FBIが保険会社を装って、十人分の遺伝子診断を注文しました。最低百人分なら応じるという返事に、FBIも慌ててそれでいいと答えました。一人分の診断費用はいくらだと思いますか」
問われて舞子も寛順も首を捻《ひね》る。
「ひとり千ドル、百人で十万ドルです。もちろんサンプルの輸送費は依頼主負担です」
デ・アルメイダの車が裏門で停止する。守衛の代わりに、制服の警官が二人立っていた。
国旗掲揚台はそのままだ。明るくなりかけた空を背景に、二十本近い旗が垂れている。日の丸もあれば、韓国の旗もある。ユゲットのフランス国旗も、手前から三番目にあった。
「一万人で一千万ドルですからね。大変な利益です」
「あの冷凍庫には少なくとも十万人分の血液ははいるでしょうね。しかも常時入れ替えていたはずですから、それは莫大な収入です」
ツムラ医師がつけ加える。
舞子は十万人で百億円だと漠然と考えてみる。ブラジルでなら、実質的な価値はその三倍にはなるはずだ。
「ミズ・ハースはその秘密を知ったのですよ。コンピューターを操作してです」
ゆっくり走り出した車がまた停まる。デ・アルメイダの車が警笛を鳴らした。
「彼女はコンピューターを使って、その事実をどこかに知らせようとしたのではないかと思います」
ツムラ医師の言葉をサカガミが継いだ。「その過程で、病院に知れたのです。彼女のほうでもそれに気がつき逃げ出した──」
前の車から刑事が外に出て、鳥を追いたてている。黒白まだらでトサカのないスーだ。刑事の剣幕を尻目《しりめ》に、仕方がないという横柄な態度で通路の脇《わき》に身を退けた。
「ミズ・リーが見つけたメモは、念のため彼女が手書きしたものなのでしょう。コンピューターで発信するよりは安全だった」
ツムラ医師が言った。
入院受付前の車寄せに、古びたワゴン車が二台停まっていた。捜査員たちが乗ってきたものに違いない。
受付にいる女性が舞子と寛順《カンスン》を見て、形だけの笑顔をつくった。もう事情は職員に知れ渡っているのだろう。
「ミズ・リー、あなたが言っていたチェスの中のメモはこれですか」
刑事からビニール袋にはいった紙片を手渡され、デ・アルメイダが訊いた。寛順がひと目見て頷く。
「確かに彼女の筆跡かどうか、サルヴァドールのハース氏に確認させます」
検事は紙片のはいった袋を刑事に返す。「まず、あなたたちの部屋に案内させてもらいましょう」
部屋番号はあらかじめ知らせていたためか、別の刑事が先に立って歩く。すれ違う患者が不思議そうに舞子たちの一団を眺めやった。
寛順の部屋の前に立っていた刑事がドアを開ける。
「どうぞ」
デ・アルメイダが寛順を中に促す。「何か紛失したものはないか、点検して下さい」
舞子も寛順の後ろについて部屋の中にはいる。昨夜部屋を出たときと変わらず、荒らされたような形跡はなかった。
寛順はベッドの下に入れていた旅行ケースを取り出す。ポーチから鍵《かぎ》を出して開ける。
「あった」
寛順がほっとしたように言う。「わたしが心配していたのはこれだけ」
衣裳《いしよう》をベッドの上に並べる。鮮やかなピンクの上衣に、草色と赤が縞《しま》になった幅広の民族衣裳だ。
「わたしの結婚衣裳なの」
見とれている舞子に寛順が言った。
「もとのままでしたら、ミズ・キタゾノの部屋もお願いします」
入口で呼ばれ、舞子は寛順を残して部屋を出た。
そこも荒らされている様子はない。ベランダに出るガラス戸と鎧戸《よろいど》を開けるとき、石の風鈴が小さく音をたてた。軒下の釘《くぎ》に吊《つ》るしていたのだが、いつの間にかテグスの糸がからまり、音を出しにくくなっていた。
ベランダの隅に置いたプランターに朝日が当たっている。
舞子は、入口で待機していたツムラ医師を呼んだ。
「何か盗られた物がありますか」
ツムラ医師が尋ねる。二人だけになると日本語がしゃべられるので気が楽だ。
「この植物は沼から採ってきて植えたものです。ちょうどバーバラが横たわっていた場所に生えていました」
ツムラ医師は腰をかがめ、プランターの植物に見入る。
「採取したのはいつです」
「バーバラが殺された翌日です。今から考えると、よく勇気があったと思うのですが、白昼夢なのか現実なのか自分でも分からなくなって現場に行ってみました。血の跡くらいはあるかと思ったのですが、全く何の変化もなく、警察が調べた形跡さえないのです。それで、彼女が倒れていた場所にあった植物を一本、指で掘って持ち帰りました」
舞子の言葉に深々と頷き、ツムラ医師は食虫植物の壺《つぼ》になった部分を調べる。
「これは大きな手がかりです」
ツムラ医師は外にいたデ・アルメイダを呼んだ。早口のポルトガル語で話し合う。今度はデ・アルメイダが部下を呼び入れた。指示を出された刑事が部屋を飛び出して行く。
「ミズ・キタゾノ。いま、バーバラ・ハースが滞在していた部屋の残留物を残らず調べさせるようにしました。ベッドの下やシャワー室の体毛もです。指紋は取らせて、あの紙片と照合するようにしていましたが、体毛までは考え至りませんでした」
「髪の毛の一本でも残っていれば、DNA鑑定で同一人物かどうか判定できます」
ツムラ医師が日本語で補足する。「この食虫植物も、おそらくバーバラの血液を吸っているはずです。分析すれば茎や葉に残留した血液のDNAを調べることが可能です。法植物学の分野です」
別の刑事がプランターの植物をシャベルで掘り出し、ビニールの袋に入れた。
部屋の外に寛順が待っていた。
「ユゲット・マゾーの部屋も荒らされていないか、一応調べています。来てみますか」
デ・アルメイダが言った。
一階に降りる。ユゲットの部屋は、前の晩初めて中にはいっていた。小机の上に、小さな本が置かれたままだ。いつかプールサイドでユゲットが読んでいた本だった。どんな内容か舞子が訊《き》いたとき、サングラスをずらして明るく答えた。〈少年がピラミッドまで宝を探しに行く話、でも宝は、自分の心の中にあったのよ〉
その彼女が首を切られ、腹部をえぐられたのだ。舞子はこみ上げてくる涙を必死でこらえた。
「荒らされていませんね」
デ・アルメイダが訊く。
「昨日見ただけですけど、そのままです」
寛順が目を潤ませていた。
「ユゲットは日記をつけていたはずです。ノートはその机の上にありました」
舞子が言うと、デ・アルメイダは刑事を呼ぶ。
「ノートの類はなかったそうです。持ち去られたのかもしれません」
デ・アルメイダが言った。
「この写真はどうしましょうか」
プラスチックで挟んだ写真を刑事が示した。二枚の写真が背中合わせになっていた。
「ユゲットとその恋人です」
寛順が写真を眺めて言う。ユゲットの横で青年が笑顔を見せている。ユゲットの背丈は恋人の胸元までしかない。
「名前はアランと言っていたはずです」
舞子の返事にデ・アルメイダは頷き、写真入れをひっくり返す。川と橋が写り、左側の中洲には水車小屋、奥の城壁の向こうに教会の塔が見えていた。
「二人の思い出の場所です。パリの郊外にあって、モレとかいう名前だったと思います。美しい町だから、いつか遊びに来るように彼女は言っていました」
舞子は答えながら、また胸が詰まってくる。ユゲットから話を聞いた通りの町のたたずまいが写真に表われていた。ユゲットがいなくなった今、もうそこを訪れる機会も永遠に消えてしまった。
「次は本館の五階です」
デ・アルメイダが言った。
「ジルヴィー・ライヒェルと会えるのですか」
寛順が訊く。
「あなたたちに接触のあった病院のスタッフは、全員逃げています。ミズ・リーの主治医のドクター・ヴァイガント、ミズ・キタゾノが目撃した白髪の老人、職員のジョアナ、産婦人科の看護婦の一部などです。院長に職員名簿を出させて追及しているところです。もちろん、病院の周辺の道路には検問を敷いています」
デ・アルメイダが答え、あたりに鋭い視線を送った。通路脇の土産物店はまだ閉まっていたが、レストランではもう客が朝食をとり始めていた。
「これだけの病院はブラジルのどこを探してもないでしょう。一流のリゾートホテルと最先端の病院をひとつに合わせたようなものです」
芝生の上に置かれたパパイアに猿が群がっている。群からはずれた所に痩《や》せた子猿がいて、仲間たちの動きをオドオドしながら眺めている。
「生きていたわ。あの猿」
舞子が寛順に知らせる。しばらく姿を見せないので、餌《えさ》にありつけずに餓死したかと思っていたのだ。まだ他の子猿よりは小さいが、少し大きくなっているようにも見える。食べ残しのパパイアで飢えをしのいできたのだろう。
朝日が緑の芝生を照らしている。暗かった海面も白く光り始めていた。
「あのチェス盤でしたか」
デ・アルメイダが寛順を振り返る。「コンピューターのネットワークではなくて、手書きのメモが役に立ったとは皮肉なものです。でもミズ・リーが気づかなかったら、彼女のメッセージは生かされないままでした」
「冷凍庫の中の血液標本は無事だったのですか」
「そのまま残されているようです」
寛順の問いに答えたのはツムラ医師だ。
「名簿のディスクは持ち去られていますが、血液標本があれば病院側を追及できます」
デ・アルメイダが言った。
身体の大きなサカガミが、物珍しげに回廊の大理石像を眺めている。
舞子はヴェールをかぶった石像に眼をやる。同じ姿勢で同じ表情をしているはずなのに、見るたびに様子が変わった。今はヴェールの下の顔が泣いている。
石像から眼を離したとき、ツムラ医師と視線が合った。充分泣いたはずなのに、また胸が熱くなる。ツムラ医師は唇をひき結び、黙って頷《うなず》いた。
外来の待合ロビーに患者が集まり始めていた。
エレベーターには舞子と寛順、ツムラ医師とサカガミ、デ・アルメイダの他には、中年の刑事がひとり乗り込んだだけだった。
「五階ですね」
刑事が寛順と舞子に確かめる。
「ぼくたちは五階には上がったことがないのです」
ツムラ医師が言う。
「五階は奇妙な造りです」
刑事は病院の図面のようなものを広げてみせる。「四ヵ所からエレベーターで上がれるようになっていますが、あとの三つは専用エレベーターです」
舞子は意外な気持がする。特別な場所に行くつもりでこのエレベーターを利用したことはない。一階でのツムラ医師の診察、五階でのジルヴィーとの面接、そして辺留無戸に会うことは、何の変哲もないひと続きの流れだった。
エレベーターの扉が開く。
驚いた顔をしたのは舞子だけではなかった。寛順もその場に立ちつくす。ガラスの仕切り戸の奥には廊下があり、母子像が並んでいたが、薄暗い照明のためか廃墟《はいきよ》のように見えた。緑色の絨毯《じゆうたん》でさえも色褪《いろあ》せていた。
「ここですね。あなたたちが面接を受けたのは」
デ・アルメイダから訊かれて、二人とも頷く。あのきらびやかな光はどこに消えたのか。光があってこそ、大理石の母子像は、まるでたった今刻まれたように白く輝いていたのだ。
「ここがジルヴィー・ライヒェルの部屋でした」
仕切りガラスの中にはいって、寛順が左側の部屋を指さす。刑事がドアを開ける。
部屋の隅に観葉植物の鉢が二つ、中央に机と椅子《いす》が一個ずつ置かれている。舞子はいずれにも見覚えがあった。しかし、ジルヴィーがそこに坐《すわ》っていた時の雰囲気とは、全く違う。
「調度品など、元のままですか?」
デ・アルメイダが舞子に確かめる。
「同じですけど、こんな部屋ではありませんでした」
舞子は寛順の方を見やった。彼女も大きく首を振る。
「わたしが面接を受けたのは向こうの部屋です」
寛順が奥の小部屋を示す。舞子も同じだ。アコーデオンカーテンで仕切られたその部屋は、まるでカプセルのように周囲から遊離したような空間だった。ジルヴィーと向かい合いながら、質問に答え、あるいは眼球運動の操作を受けた。頭に浮かぶ光景を独り言のようにして報告した日もあった。
しかしその部屋も、がらんどうになっている。
肘《ひじ》かけ椅子が二脚向かい合っている。ジルヴィーとそこに坐ったのだが、耳には波の音や風の音、蝉《せみ》の鳴き声が届いていた。夕陽の沈む海岸やヤシ林が周囲に広がっていた。
「衝立《ついたて》の向こうにエレベーターがあります」
既に内部を調べ終わっているらしく、刑事が言った。
「一階の産婦人科外来に通じているエレベーターでしょう」
ツムラ医師が補足する。「ジルヴィーが直接外来に来るとき使っていたエレベーターです。ミズ・キタゾノも、ミズ・リーもこれで運ばれてきたのです。覚えていますか」
舞子もかすかに記憶があった。ジルヴィーの面接を受けている間に意識が遠くなり、気がつくとツムラ医師の診察室に横たわっていたのだ。
「彼女を見つけ出せば、すべてが明らかになる」
デ・アルメイダが刑事を睨《にら》みつけた。
「リストアップされた職員たちはすべて手配済みです。検問の網にかかるのも時間の問題です」
「病院長はもう検束しているのだろうな」
「はい。病院長他の幹部は、今取り調べ中で、理事たちにも出頭するよう命令を出しています」
刑事が澱《よど》みなく答える。
また廊下に出ていた。
「病院らしくない所ですな」
サカガミが言い、赤ん坊に乳を与える大理石に手を触れる。「しかも全部、母親と子供の像ではないですか」
舞子の記憶にある母子像は、赤ん坊が今にも動き出し、泣き声が聞こえてきそうなくらいに生き生きとしていた。しかし目の前に並ぶ石像は、埃《ほこり》をかぶって博物館の隅に置かれている物と大差ない。
寛順が刑事の後ろについて廊下の奥の方に進んでいる。
「部屋にはいる前に、ここから中を覗《のぞ》いたのです」
扉の脇《わき》に取りつけられた双眼鏡のような装置を指さして、寛順が言った。「舞子も同じだった?」
「同じ」
舞子は答える。「覗き込むと扉が開きました。自動的にです」
ツムラ医師がわずかに背をかがめて、装置に両眼を当てる。
「何か見えるのか」
サカガミがツムラ医師と交代する。「真暗じゃないか」
舞子もいつものように目を当てる。暗闇《くらやみ》のままだ。
「何が見えていたのですか、以前は?」
「左マンジの印です」
舞子は指で宙に形を描く。
「ミズ・リーも?」
デ・アルメイダが訊《き》く。
「同じ印です。赤い模様でした」
「ハーケン・クロイツ」
デ・アルメイダが厳しい顔つきになる。「ミズ・キタゾノがレストランで見た男の入墨にも、それがあったのですね」
言われてみればそうだ。
「ハーケン・クロイツがこの中に見えたのですか」
口ごもりながらサカガミがもう一度、装置に目を当てた。
「カチカチと音がして、それから扉が開くのです」
寛順が呆然《ぼうぜん》として言う。舞子も同じ体験をしていた。しかしもうずっと遠い日々の出来事のような気がしてくる。
「網膜を指紋代わりにしたのですかね」
デ・アルメイダがツムラ医師の方を向く。「血管の走行の具合で、その個人を同定するやり方です」
「いや、それだけではないかもしれません。その左マンジを見たことは、ここ以外ではありませんか」
ツムラ医師が舞子に顔を向ける。
「ありました」
舞子の頭の中で遠い記憶が蘇《よみがえ》る。
「どこでです?」
「日本にいるときです。寺に通っていたのですが、そこでやはり暗い中を覗き込み、この模様を見ました」
「何回くらい?」
「全部で十回くらいです」
ツムラ医師は考える表情になり、今度は寛順に眼を向ける。
「ミズ・リーも同じですか」
「見ました」
寛順が頷く。
「韓国でですか」
「はい、松湖寺《ソノサ》という寺でです」
「何回くらい?」
「七、八回でしょうか」
「やはり、そこを覗き込むと扉が開くのですか」
デ・アルメイダが訊く。
「いえ、そんなことはありません」
寛順の返答は、舞子にしても同じだった。部屋にはいる前の儀式、そうでなくても精神統一のような意味合いしかもたなかった。ちょうど神社の境内で口を漱《すす》ぎ、手を洗うのと同じだと思っていた。
「あとで、あなたたちがそれぞれ通った寺を詳しくうかがいます。国際警察機構を使って調べるのは簡単です」
デ・アルメイダは部下に目配せをして扉を開かせる。
ほの暗い空間を前にして舞子は立ち尽くす。
天井の低い倉庫のような場所だ。もちろん何ひとつ調度もなく、窓もない。
「こんな所ではありません」
寛順が呟《つぶや》く。「もっといろんなものがありました」
「ここにですか」
デ・アルメイダが質問する。
「あそこに石像があって、その前で老師が静かに読経していました」
「石像?」
ツムラ医師が訝《いぶか》る。
「はい、お釈噛《しやか》様の坐像《ざぞう》です。その周囲は、極彩色に塗られた木の壁で包まれていました」
「ミズ・キタゾノも?」
「いいえ」
舞子は首を振る。「わたしのときは、木の彫刻で不動明王の仏像でした。後ろに真赤な炎を背負っていました。その前で、僧が呪文《じゆもん》を唱えるのです」
「僧というのは?」
「辺留無戸という名の坊さんです」
「ここに住んでいるのですか」
ツムラ医師が驚き顔で訊く。
「いえ、日本のお寺で会った僧です」
「ミズ・リーの会った老師というのも、その何とかという韓国の寺の僧ですか?」
「はい」
寛順が頷く。
「ホログラムでしょう」
ツムラ医師がデ・アルメイダに告げる。
「その僧侶《そうりよ》とはここで話ができたのですか」
サカガミが尋ねた。
「できました」
答えたのは寛順だ。舞子も頷く。
「とすると、あなたたちの姿もカメラに撮られて、向こうに送られていたのです。通信衛星を使っているのでしょうね」
「僧たちと話をしたあとで、どうしたのですか」
待ち切れない様子でデ・アルメイダが問いかけた。
「もうひとつの扉があって、近づくと左右に開きました。そこは透明な壁でできた迷路になっていました」
「透明な壁?」
「はい、ガラスのような曲面の壁です。床も透明で、天井はどこまでも高く、暗闇の中に溶け込んでいました」
「その迷路の中でどうしたのです?」
デ・アルメイダが部屋の中に歩を進めた。
「迷路の壁と壁の間をぐるぐる回って行くと、真中に出るのです。そこにガラスのベッドがありました」
寛順が静かに答える。頭の中でその迷路をなぞっているかのようだ。
「ベッド?」
ツムラ医師が目をむく。
「その上に横たわりました。すると頭のところにフードのようなものがかぶさってくるのです」
「ミズ・キタゾノも?」
ツムラ医師が舞子の方に顔を向ける。
「はい」
「それで」
「明生に会うことができました」
舞子はきっぱりと言う。他人の前で明生の名を口にしたのは初めてだ。涙が溢《あふ》れてきた。
「ご主人ですね」
絞り出すようにツムラ医師が言った。
夫ではなかった。しかし夫になるべき男性だったのだ。──舞子は胸の内でそう叫ぶ。
「そのご主人が、眠らされている間に夢に出てくるのですね」
ツムラ医師が畳み込む。
「夢ではありません。実際に会えるのです」
「でも、ご主人は亡くなったのでしょう?」
ツムラ医師の顔がこわばる。
「いえ、あの人は生きています。ここだけではなく、海岸でも森の中でも会うことができました。死んではいません」
舞子は叫ぶ。あの人が死んでしまうなんて、そんなむごいことがあるはずがない。明生は生きているのだ。直接話しかけなくても、じっと遠くからこちらを見つめてくれていた。そしてこのフォルテ・ビーチ病院では、毎日のように会えたのだ。中庭を散歩している明生、プールサイドに立っている明生、猿に餌《えさ》をやっている明生、アーチェリー場で弓を射ている明生。潮の花で覆われた海辺を、手をつないで歩いた日もあった。誰もいない入江で泳いだ午後もあった。明生はいつも一緒だった。そして最後には、コーヒー園で暮らす将来設計もしたではないか。考古学の夢を捨てきれない明生は、コーヒー園の中にある巨石の意味を解き明かすのだと言っていた──。
「わたしはあの人の赤ん坊を生むためにここに来たのです」
舞子は高らかに言う。
寛順が蒼白《そうはく》な顔で舞子を眺めている。
「ミズ・リーの恋人も亡くなっているのでしょう?」
ツムラ医師が厳しい表情を寛順に向けた。「どうなのですか」
「生きています」
ロボットのような口調で答える。サカガミが心配そうに寛順の傍に寄った。
「やっぱり、ここに来ているのですか」
「来ています」
寛順は能面のような表情で頷《うなず》く。
「どこにいるのです、今?」
ツムラ医師がさらに訊く。
「ここに──」
「この部屋のどこに?」
問われて寛順は、周囲の暗がりを見回す。
「金東振《キムドンジン》」
寛順が叫んだ。「金東振、どこにいるの。姿を見せて」
叫ぶ寛順の腕をサカガミが支える。
寛順が泣いている。初めて見せる涙だ。端整な顔を涙がつたう。
「寛順、泣いては駄目よ」
そう言いながら舞子も涙がこみ上げてくる。
「分かった。リカルド、もういい」
サカガミがツムラ医師を制し、デ・アルメイダに目配せする。
「さあ、ここを出よう」
デ・アルメイダが言った。
ツムラ医師から手を伸ばされたとき、舞子は気が遠くなっていくのを感じ、その場に倒れ込んだ。
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クラウス・ハースが呼び鈴で起こされたのは九時少し前だった。カーテンの間から射し込む光で、部屋の中はもう昼間なみに明るい。イーゼルに掛けた油絵の中で、白と緑、そして鮮やかな赤が躍動している。
「警察の者です」
ドアの向こうで男が言った。
「何の用だ」
問いつつ、覗《のぞ》き穴から外を見た。確かに制服を着た男が二人いる。
「バーバラ・ハースのことでうかがいたいことがあるのです」
クラウスはチェーンをつけたままドアを薄く開ける。
「あんたの名前は?」
「オルランド・マットス」
「証明書を見せてくれ」
男はズボンのポケットから手帳を出し、クラウスの目の前に突き立てた。
「セーントロの署まで来てもらうと、助かります。確認したいものがあります」
「分かった。待っていてくれ。用意する」
髭《ひげ》も剃《そ》っていないし、歯も磨いていなかった。ボサボサ髪に指を入れただけで、パジャマをズボンとシャツに着替え、サンダルをはいて外に出た。
「あんたたち、バーバラのことどうやって調べた?」
階段を降りながら男に訊《き》いた。警官と連れ立っているところを見られると、どういう噂《うわさ》をされるか分かったものではない。少なくとも気さくな調子で言葉を交わしておけば、誤解は少ないはずだ。
「今朝、出勤すると同時に電話がはいったのです。デ・アルメイダ検事から。あなたの住所もそのとき聞きました」
「その検事、何者だ? いや、何を調べているのだ?」
「私もよくは知りませんが、フォルテ・ビーチ病院の脱税容疑を調査中とは聞いています」
中年の警官はスラスラと口にする。
「フォルテ・ビーチ病院?」
クラウスは若いほうの巡査が開けてくれたドアから車に乗り込む。案の定、通りの奥から顔見知りの男がじっと見ていた。車で行き過ぎるとき、クラウスはわざと車の中で手を上げてみせた。
「あの病院が脱税とはね。警察もよく調べたものだ」
「かなり内偵をしていたようです」
警官が丁重な口調を崩さないのに、クラウスは好感をもった。
「その脱税を調べる途中でバーバラのことが出てきたのだな」
「そんなところです」
「彼女も可哀相なことをした。ひと言、俺《おれ》に言っておけば、あんな目にはあわさなかったのに」
クラウスは唇をかみしめる。
カフェやバルの中で朝食をとっている客がいて、クラウスは空腹を覚えた。
「腹が減った。ちょっと車を停めてくれないか。何か買ってくる。警察署の中で食べてもいいだろう」
オルランドが若い警官に命じて停車させる。
クラウスはバルの中に飛び込み、カウンターにいた男にサンドイッチを注文した。椅子《いす》に腰かけてコーヒーを飲んでいた客たちまでが、道に停まったパトカーを眺めやる。
警官の制服が功を奏したのか、バーテンはパンの間に厚めのチーズとソーセージをはさみ、油紙に包んでくれた。クラウスは代金を置いて車に戻る。
「署に着いたら、コーヒーでもカフェ・コン・レイチでも出せます」
オルランドが言った。
サンフランシスコ教会から一本道を下ってアルベルス広場に出た。警察署は大通りに面していたが、車は小さい通りにはいり、裏から駐車場に進入した。
「警察署というのは、いつ来ても気持のいいものじゃないね」
クラウスは苦笑いする。もちろん何回も来たわけではなく、泥酔して喧嘩《けんか》をしたとき、相手の黒人と一緒に警察に引っ張られ、留置場に一泊した。七、八年前のことだ。あの頃は絵も売れなくて、気持もささくれだっていた。いや、それだけ若かったのかもしれない。
二階の小さな部屋に通された。冷房が効いていて、窓際に観葉植物の鉢もある。ちょっとした応接室で、地下室にあった前回の取調べ室とは大違いだ。
「この筆跡に見覚えがありますか」
テーブルにつくと、オルランドが薄っぺらなファックス用紙を目の前にさし出した。
クラウスはサンドイッチを頬《ほお》ばりながら用紙に見入る。設計図のような図面が主で、その横に数字や文章が書かれている。文字はポルトガル語ではなく英語だ。
「バーバラ・ハースの筆跡ではありませんか」
オルランドが訊く。
そう言われてみると、似ている。バーバラの筆跡の特徴は、丸い輪をころがしたような形にあった。aもbもcもdも、曲線はすべて輪になる。彼女の母親が同じような字を書いていて、いつの間にかそれを手本にしたのだろう。
若い警官がカフェ・コン・レイチを運んできて、自分は窓際の小机に着席した。タイプライターに向かって指を構えた。
「確かにバーバラの筆跡だ。彼女から貰《もら》った絵葉書が家にあるので、見比べればはっきりする」
クラウスはサンドイッチを手にしたまま、ファックス用紙に見入る。「これはどこで見つかったんだ?」
「フォルテ・ビーチ病院の中庭です。野外チェスの中に隠されていたと言います。今朝、送られてきました」
まず朝食をすませてくれというように、オルランドは腕を組む。
「この図面は?」
「病院内部のようです。バーバラ・ハースが誰かに連絡するつもりで、この図を隠していたのでしょう」
「しかし誰に?」
「分かりません。誰もあてがなかったのかもしれませんし、あとで知らせるつもりだったのかもしれません。偶然、彼女を知っていた入院患者が見つけたのです」
「あのフランス娘か。ユゲットとか言っていた」
クラウスはこころもち腹の大きかった彼女を思い出す。
「違います。そのユゲットとかいう女性は殺されました。電話連絡があったばかりで、今頃、遺体は医学部で解剖されているはずです」
「何てこった」
クラウスは髪の毛をかきむしる。もう食欲も萎《な》えていた。食べかけのサンドイッチを放り出し、カフェ・コン・レイチだけを飲んだ。
「バーバラを殺した男が、彼女も殺したのか」
「それを捜査中です」
オルランドが冷静に答える。
「あの娘と一緒に、まだ二人若い女がいた。韓国人と日本人だ。彼女たちは大丈夫なのか」
名前を思い出そうとするが、出てこない。いったん覚えたはずなのに、東洋人の名前は記憶に残らない。
「二人は大丈夫です。向こうで捜査が終わり次第、こちらにやって来ます。精神的に相当疲労していて、休養か治療が必要だと聞いています」
「何てこった。二人も殺されたうえに」
クラウスは顔を上げる。若い警官がキイの上に手を休めてこちらを睨《にら》んでいる。ひとことも漏らさずにタイプするつもりだ。
「バーバラが死んだことを知らせてくれたのは、彼女らなんだ。初めは自殺だと言っていたが俺は信じなかった。電話でも元気に話していた彼女が自分から死ぬなんて、ありえない。俺も入院して調べてみた。そのうち殺されたのだと確信した。あの病院が脱税していたのなら、バーバラもそのあたりを何か感づいたのかもしれない」
「殺された原因も、どうやらそんなところのようです。しかし、いまひとつはっきりしない点があります」
オルランドが言った。
「何だい、それは」
「彼女は何のためにフォルテ・ビーチ病院に来たのですか」
「子供を生むためだと言っていた。不妊手術だったかもしれん。まあ、産婦人科なので大体の察しはつく。しばらくすると、無事妊娠したと報告してきた」
「彼女はひとりで病院に来ていましたか」
オルランドが訊く。
「それが妙なんだ。好きな男と一緒のようでもあるので一度連れてくるように言ったが、それっきりになってしまった。そのうち、相手の話はしなくなった」
クラウスの返事に、オルランドは何か合点がいったような顔をする。
「あなたがサルヴァドール市内で、病院に勤めている男を見たというのは本当ですね」
「あの年寄りのことかい」
クラウスは頷《うなず》く。「病院の中で会ったとき、びっくりした。街で何回か見かけたことがあったからさ。あとで、あの三人娘たちから、病院の女の職員も、サルヴァドールで見たと聞いたのでまた驚いたんだ。しかも、二人が出入りした建物は一風変わっている。そこも調べてみた」
「ペルリーニョ広場近くの?」
「そう。そこにはいるのにも工夫がいった。レオという頭のとろい男が建物の管理をしている」
「建物の中に実際はいってみたのですね」
「はいった」
クラウスが答えると、オルランドは若い警官に手で合図をし、間違いなくタイプするように促した。
「どんなでしたか」
「亡霊の巣窟《そうくつ》だ。ナチス・ドイツの──。思い出すだけで胸くそが悪くなる」
クラウスは顔をしかめる。
「例えば?」
「俺が口で説明するより、行ってみれば分かる。それよりも、あの建物に出入りしていた老人はもう捕えたのか」
「病院の周辺に検問を設けて捜査中です」
「病院のまわりじゃ駄目だろう」
クラウスはあきれたというように首を振る。「探すなら、このサルヴァドールを忘れてはいけない。それも、まずあの建物だろうな」
クラウスの指摘がオルランドを動揺させた。椅子から立って若い警官に命令する。
「これまでの分、デ・アルメイダ検事にファックスで送ってくれ。事情聴取はあと回しだ。すぐ現場に行く準備をする」
オルランドはクラウスに向き直った。「ペルリーニョ広場にあるその建物に案内して下さい。十分後に出発します。それまでは、サンドイッチの残り、ゆっくり食べていて結構です。カフェ・コン・レイチのお代わりは?」
「ありがたい」
「すぐ持って来させます」
二人とも出て行ったあと、クラウスはひとり残される。手もちぶさたを補うようにカフェを飲み、サンドイッチをかみ切った。
「何てこった」
また呟《つぶや》きが漏れる。バーバラだけでなく、あのフランス娘も殺されるなんて尋常な事件ではない。これが単なる脱税がらみだけだとすればお笑い草だ。もっと何かが奥深い所に横たわっている──。
ドアにノックがあって、制服の女性がカフェを運んできた。
「これはありがたい。あんた警官にはもったいないよ」
引き締まった腰のあたりを眺めながら、クラウスは言った。女性警官は笑っただけで出て行く。
「あいつらの仕業だ」
クラウスはまた呟く。あの白髪の老人なら、何かどえらいことを考えつきそうな気もする。要するに、建物の管理人のレオを問い詰めれば、ゲロを吐くように汚いものが明るみに出るはずだ。クラウスは一気にカフェを飲み下して立ち上がった。
一刻も早くペルリーニョ広場に向かったほうがいいような気がする。〈警察はやることがひとつひとつ手ぬるい〉、そう思いながら観葉植物の枯れかかった葉を一枚引きちぎる。
「行きましょう」
ドアが開き、オルランドが言った。
駐車場にあるバンに、作業服を着た男が既に二人乗り込んでおり、クラウスたちの車の後から発進した。
「その建物に住んでいる男は何と言いましたか」
オルランドが訊《き》いた。
「レオ」
「いくつくらいですか」
「さあ、三十少し前かな。このクソ暑い最中にブーツをはいて、頭は剃《そ》り上げている」
「職業は?」
「何をやっているかは聞いていない。入りびたりの酒場はあるがね。まあ、そんなに金に不自由している様子はない。あの建物に居候して金を貰《もら》っているのではないかな」
「この時間、まだいますか?」
オルランドが腕時計を見た。
「それは分からん。いずれにしても早く行くにこしたことはない」
車は石畳の坂道をゆっくり下り始める。教会の鐘楼にはめ込まれた時計が十時四十分を指している。
助手席に設置してある電話が鳴り、オルランドが座席越しに受話器を取った。
「マットスです。今、現場に向かっています。ええ、万が一を考えて、サルヴァドール市内にも捜査網を張ったほうがいいと思います。あの建物の管理人を追及すれば、かなりのことが判明するはずです。分かり次第、また連絡します」
電話はそこで切れた。
「病院の連中はまだ捕まらんのか」
「今のところは」
「最初から網の張り方が小さかったのじゃないか。これは脱税とかいうようなケチな事件ではないよ」
クラウスは暗に警察のやり方を責めた。
「どうも軽く見すぎたようです」
オルランドも素直に非を認める。
ペルリーニョ広場に面した建物の前で車を停めた。
オルランドが木扉の横にあるボタンを押す。応答もなく、建物の中で音がした気配もなかった。作業服の二人が、離れた場所から建物の上部を眺めた。
「呼び鈴を押しても駄目だろう。突き破るしかない」
クラウスが言う。オルランドが作業服の男に目配せした。男二人はバンに戻り、黒いアタッシェケースを持ってくる。中からドライバーのような器具を取り出し、鍵穴《かぎあな》に入れた。くぐもった音がする。扉を押すと内側に開いた。
オルランドと一緒に中にはいり、明かりのスイッチをいれた。
クラウスは通路の中央に立ち尽くす。突き当たりにガラスケースは置かれていたが、中に飾ってあった連隊旗がない。
「逃げられた」
クラウスが言うのと、オルランドたちが二階に駆け上がるのは同時だった。
オルランドが指図をする声が階上で響く。部下たちがさらに三階、四階へと上がっていく足音がした。
階段横の壁に掛けてあった額縁もなくなっていた。
「遅かった」
二階に上がり、オルランドと眼が合う。「あいつら感づいて引越したのだ」
二階にあった陳列棚はそのままになっている。しかし中味がない。
「本署に連絡してみます」
オルランドが慌てた様子で階下に降りて行く。
三階に上がってみる。若い警官が拍子抜けしたような顔で突っ立っていた。
「逃げたあとだよ。ここを探すより、街の中か、郊外に向かう道路に検問を設けたほうが早い」
クラウスは周囲を見回しながら言う。壁際にあった調理用レンジも姿を消している。相当の重量だったはずで、レオひとりでは絶対動かせない。移動には数人の仲間が加担したはずだ。
警官と一緒に四階に上がる。ぶ厚いガラス板でできた床はそのままだが、スクリーンは取りはずされ、ガラス製の椅子《いす》もなくなっていた。
作業服を着た二人は、五階の戸を開けて中にはいっていた。狭い雑然とした部屋は、いかにも男世帯という感じがする。ベッドの上に薄い毛布が丸められていた。
「洋服ダンスの中はからっぽですが、冷蔵庫はそのままです」
男が言った。冷蔵庫の上にある電子レンジは蓋《ふた》が開いている。逃げ出すときの慌てぶりが手に取るように分かる。
「しかし、ここに置いていたと思われる物は持ち去っています」
作業服の男が、広いテーブルを示して言った。四角い物品を置いていたらしく、そこだけ埃《ほこり》がたまっている。
「あんたたち屋上は調べたか。大きなアンテナがあったろう?」
クラウスが言うと、作業服の二人がまた階段のところに戻り、扉の錠を器具で壊し始めた。
「慌てふためいて出て行ったのが分かりますね。多分、捜査の網にかかると思います」
若い警官が言う。
「ま、それはあんたらの腕次第だ。ここからは大型トラックで逃げても、どこかで小さなバンに移し替えて逃走する場合もあろうし、別な隠れ家に一時隠すという手もある。網にかかるのを待つだけではすまんだろう」
クラウスは皮肉をこめて言った。
屋上に行っていた作業服の男たちが降りて来て、また部屋の中を調べ始める。
「どうやら、ここには無線機かなにかを置いていたようです。かなり大がかりな機械でしょう。屋上のアンテナも普通のものではありません」
「あのフォルテ・ビーチ病院のほうも調べなくていいのか。似たような無線機やアンテナがあるのかもしれん」
クラウスが言う。
「すぐ調べさせます」
若い警官が答えた。駆け足で階段を下りる。
玄関先にオルランドがいた。
「荷物を運び出したのは、夜が明ける直前、五時頃のようです。アパートの窓から見た住民がいました。大きなトラックが横づけになっていて、十人ばかりの男たちが荷物を運んでいたと言います」
オルランドが告げる。「レンタカーと運送会社を調べるように手配はしました」
「トラックをよそから借りるようなヘマはしないだろう」
クラウスが口元を歪《ゆが》める。「俺から事情を聞く前にここに踏み込めばよかった」
「あなたがここで会ったレオという男、もう少し詳しく人相なりを聞かせてくれませんか」
オルランドは冷静な口調を崩さず、クラウスに言う。
「俺よりも、あいつが入りびたっていた酒場の女主人、いや実は男だがな。その主人のほうが知っているはずだ。案内するよ。まだ寝ているかもしれんが、叩《たた》き起こせばいい」
クラウスはもう歩きかける。若い警官は車にとりつけた電話で何か連絡している。作業服の男たちは、玄関の扉に粉のようなものをふりかけて、指紋を取り始めていた。
「そのレオという男、右手の甲に入墨はありませんでしたか」
角を曲がるとき、オルランドが訊いた。
「あった」
「どんな模様でしたか」
「ワシの爪《つめ》のような形だ。素人が彫ったような図柄で、まあ安物の入墨だな」
「やっぱり」
オルランドが深々と頷《うなず》いた。
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窓からの眺めだけが、唯一の慰めだった。
寛順《カンスン》と一緒に当分この家に滞在するように言われたとき、偶然の一致に舞子は驚いた。ユゲットと三人で訪れたあの急階段の傍にある建物だったからだ。デ・アルメイダ検事の縁戚《えんせき》にあたるという中年女性が、二人を三階の部屋に案内し、それぞれが過ごすことになる客室の窓を開けてくれた。
午後の日射しがはいり込み、眼下に長い石段が見え、その先に街並、そして遠くに大海原が広がっていたのだ。
ここなら生きていけそうだ──。舞子は一瞬そう思い、寛順の方を振り返った。呆然《ぼうぜん》としていた寛順だったが、舞子を見てかすかに頷く。思いは同じだったようだ。
家の持主はマリア・アリセ・デ・アルメイダと言い、年齢は五十歳くらいだろう。二十室はある建物に黒人の女中と二人で住んでいた。亡くなった夫が銀行家だったことだけは聞かされたが、夫人がどんな仕事をしているのかは分からず仕舞いだ。ここに来て一週間になるが、夫人がいつも家にいるわけではない。むしろいないときのほうが多く、昼間は一階の大きな食堂で寛順と向かい合い、女中のヴィオレッタの作ってくれる食事を口にする。朝食は七時半に、カフェ・コン・レイチとチーズパン、ハムエッグをヴィオレッタが三階の部屋まで運んでくれる。寛順の部屋に行ったり、寛順がトレイをこちらに運んで来たりで、テーブルでやはり二人一緒に食べた。夕食時だけが夫人と同席になる。
夫人は英語が上手で、どうやら若い頃合衆国で暮らしたことがあるようだ。舞子たちが理解しようとしまいとお構いなしにしゃべり、最後に自分で笑う。寛順も小さく笑い、舞子だけが分からずに取り残される。そんなときは寛順が日本語に直してくれる。その間夫人はじっとこちらの反応を見つめていて、舞子の顔がゆるむと、大きな目でウィンクし、満足したように頷くのだ。
食卓でのそんな笑い話をピアーダということも知らされた。
「食後のピアーダを出せるかどうかで、出世も決まるのよ」
夫人は片目をつぶる。「だから有能な人ほど何百何千というピアーダを頭の中に詰め込んでいる。ブラジル人が深刻な顔をして道を歩いていたら、まずピアーダを考えていると思っていい。食べて踊って寝て、起きたらピアーダを考える。──これがブラジル人の生活。あとは何にもなし」
そう言って、また笑う。
夫人は、舞子が日本人で寛順が韓国人であることなど頭にないようだ。国のことも訊《き》かないし、母国で何をしていたのかも質問してこない。まるで昔からブラジルに住んでいたかのような口のきき方をする。
「わたしの男友達に内科医がいるの」
あっけらかんとした口調で夫人が言ったのは昨日の夕食時だ。「最近亡くなった患者の話をしてくれた」
料理は、肉の腸詰めに豆料理が添えてあった。舞子も寛順もフォークを動かしながら、耳を澄ます。また笑い話かと思ったが、夫人は神妙な顔つきになっていた。
「黒人の年寄りの患者で、娘二人が連れて来たらしいの。腎臓《じんぞう》が悪くて血圧も高く、手の施しようがない状態だったらしい。娘の頼みで、それでも入院させてやった。入院はぜいたくだ、とその患者は最初ぶつぶつ言っていて、主治医や看護婦の質問にも、あまり答えなかった。あるとき、わたしの男友達が世間話をして、その老人がサクソホーンを吹いていたことが分かったの。どうやらバンドのサックス奏者で、元気な頃はサルヴァドールでも一流の店に出ていたらしい。実際いろんな店を知っていたと言うわ。わたしの男友達もマンドリンをやっていて、ダンス音楽には詳しいの。老人はそれ以来、彼が病室に行って気分を訊くと、ブッブッブーとハミングで答え出した。気分が悪いときは低音の悲しいメロディー、少し状態が良いときは軽快なハミングという具合にね」
夫人の話は早口の英語にもかかわらず、舞子の耳にすんなりはいってきた。夫人が適当な仕草に、自分流のハミングを加えたからだろう。
「そのうち脳梗塞《のうこうそく》が起こり、老人の容態が悪化して口がきけなくなった。もう危篤だというときに娘たちも病室に呼んで別れをさせたの。すると、患者がわたしの男友達に向かって、かすかに手を動かした。口はきけないけれども字は書けるかもしれないと思って、彼は鉛筆と紙を持ってこさせた──」
そこで夫人は言い澱《よど》む。ピアーダを話すいつもの様子とは正反対に、目が潤んでいた。
舞子も寛順もフォークを置いて耳を傾ける。夫人は続けた。
「老人は看護婦が支えるノートに、文字ではなく、五本の線を引いたの。そして震える手で、ゆっくり音符を書き入れた──。二十分以上かかって四小節を記入し終え、主治医に渡した。彼はその音符を見てピーンときた。古いショーロの曲の一節だったのよ。ショーロはサンバやボサノバより前のダンス音楽。〈これが最後の踊り〉という曲の最後の部分で、〈ありがとう、みんな、楽しかったよ〉という歌詞がついていたというの。もちろん、老人の娘たちは知らない曲よ」
夫人はまばたいて、少しばかり鼻を鳴らし、微笑した。「それから、わたしの男友達は急いで部屋に戻り、マンドリンを持ってきた。うろ覚えではあったけど、その曲を弾き始めた。老人は何度も何度も頷いたのですって。口がきけなくなっても、音楽は分かるのね」
その後、老人が息を引き取ったかどうかは寛順も舞子も訊かなかった。ただ、この夫人もその男友達もいい人だという思いが胸に残った。
この家に着いた翌日、日本に電話をした。ほぼ一ヵ月ぶりに舞子の声を聞いた母親は、大声をあげた。朝の十時にかけた電話だったから、日本は夜の十時だ。
「舞子、元気なんだね。どこも悪くないね。病気じゃないんだね」
母親は畳みかけるようにして訊いてきた。
「元気にしている」
それだけ答えると、自然に涙が出てきた。舞子が黙り込んだのに気がついて、母親も涙声になった。
「そっちは、いいところなんだね。こっちは暑いけど、ブラジルはもっと暑いのだろうね。食べ物で苦労はしていないかい」
「暑いけど、家の中は涼しい。食事もおいしい」
さり気なく答えた。
「なにしろ、地球の裏側なんだからね」
母親が溜息《ためいき》をつく。
「こっちを表にすれば、日本のほうが裏側よ」
「それはそう」
母親が笑った。もっと話したかったが、話せば話すほど涙が出てきそうだった。
寛順も電話をかけた。出たのは父親で、娘の声を聞いたなり、しばらく絶句していたらしい。
ツムラ医師は午後、毎日のように顔を見せた。サカガミを伴っていることもあれば、デ・アルメイダが一緒のときもあった。
この家に来て四日目、ツムラ医師は舞子を前にして静かな口調で切り出した。日本語だった。
「舞子さんはうすうす気がついていると思いますが、もうはっきりさせる時のようです」
舞子の顔を凝視しながらツムラ医師が言った。「実を言えば、ぼくは全く別なことを信じ込まされていたのです」
沈うつなツムラ医師の顔を眺め、舞子はどんなことでもこの耳で聞き届けてやろうと思った。息を整え、まっすぐツムラ医師を見つめる。
「ぼくがジルヴィーから言い渡された任務は、あなたに受精を行わせることだったのです」
「受精?」
「そうコンセプション」
ツムラ医師は英語を口にした。「いわゆる人工受精でした。そしてぼくが受け取った精子は、亡くなったあなたのご主人のものだと説明を受けたのです。もちろん冷凍精子です」
ツムラ医師の視線がじっとこちらに注がれる。
亡くなった夫、冷凍精子。──そんなものは知らない。明生は夫ではない。将来、夫になる男性だった。明生の冷凍精子があるはずはなかった。
「そしてジルヴィーからは、亡くなったあなたの夫について、一切本人に質問してはならない。心理的な傷口が大きくなるばかりで、取り返しがつかなくなると、念をおされていたのです」
ツムラ医師の日本語が途切れ途切れになる。日本語が拙《つたな》いのではない。言いにくいのだ。日本語の発音だけに限れば、ひと月前に初めて会ったときより何倍もうまくなっている。
「大切なのは、排卵日に合わせて、舞子さんの精神を最も良い状態にもっていき、確実に精子を送り込むことだと、言われました」
ツムラ医師はそこで言い澱む。
「ユゲットもそうやって妊娠したのですか」
舞子は訊いた。抑揚がなく、自分の声のような気がしない。
「全く同じです」
「その前のバーバラも?」
「同じです」
重々しくツムラ医師は顎《あご》をひく。「全く同じやり方でした。亡くなった夫、生前の冷凍精子、心身ともに最良の状態での受精、そして過去の不幸な出来事について一切口にしないこと──」
そんなものではなかった、と舞子は口ごもる。明生は生きていて、一緒になり、二人の愛の結晶をこの体内に宿すことができると信じていたのだ。舞子は目を見開き、唇をかみしめる。
フォルテ・ビーチ病院で気を失ってから、飛行機でサルヴァドールの大学病院に運ばれたのは、かすかに記憶に残っている。付き添っていたのは女性の医師で、舞子の意識がはっきりしそうになると、眠くなる注射をうたれた。大学病院でも、五日間強制的に眠らされた。あとでそれがインスリンの注射による持続睡眠だったのだと説明を受けた。血糖値を最低限にまで下げ、臨死体験をさせて、マインド・コントロールを解くのだという。実際、舞子は自分が透明な迷路の中で、ガラスの台の上に横たわっているのを目撃した。辺留無戸《ヘルムート》の背後で読経を聞いている自分の姿も見た。そして次の二日間で、中年の女性精神科医から、フォルテ・ビーチ病院五階のがらんどうになった部屋や廊下の写真を見せられた。すべてが幻影に過ぎないと分かったとき、舞子の頬《ほお》を冷たい涙が流れ落ちた。
「舞子さんや、ユゲット、バーバラの生き生きとした様子を見て、この受精は意義あることだと意を強くしました」
ツムラ医師が言う。「若くして夫を亡くした場合、立ち直れないほどの痛手を負うのが普通なのに、舞子さんたちは輝いている。やはり愛する人の子供を宿すという希望が、その痛手から立ち直らせ、勇気づけているのだと思いました」
「ユゲットもバーバラも、そうやって実際に妊娠したのですね」
「そうです。舞子さんも、その直前の状態にありました。ジルヴィーが命令したその日に逃げ出しましたから」
「寛順は?」
「ハンス・ヴァイガントが、最後の日に人工受精させているはずです」
「寛順も確かに妊娠しているのですね、ユゲットと同じように?」
「間違いなく」
ツムラ医師は暗然とし、「最も確実な方法を使いますから」とつけ加えた。
寛順は直接舞子には言わなかったが、目的の第一段階は果たしたような話しぶりだったのを舞子は思い出す。
「でも、誰の精子だったのですか」
質問が自然に口をついて出た。
「分かりません」
ゆっくりとツムラ医師は首を振る。「ただ冷凍精子そのものは、ぼくが病院から持ち出して、今サルヴァドールの大学病院に保管してもらっています。舞子さんの体内に注入予定だった分です。フォルテ・ビーチ病院を逃げ出したあと、精子さえあれば他の場所で人工受精してあげられると思っていました。あんなドサクサのときに受精を行って、もしうまくいかなければ、舞子さんの恨みを買うと考え、すべてが落ちついてから再度試みるつもりだったのです」
「寛順にはもう知らせたのでしょうか」
「まだです。これから大学病院に連れて行き、検査をします」
「妊娠の?」
舞子の問いにツムラ医師は頷《うなず》く。
「そのうえで、彼女には本当のところを告げます」
ツムラ医師の最後の声は震えていた。何という重い仕事だろうと舞子は思った。寛順も辛《つら》いだろうが、真実を告げなければならないツムラ医師も、鉛のような気持でいるはずだ。
「舞子さん」
ドアに手をかけて、ツムラ医師は振り返る。「ミズ・リーが病院から戻って来たら、しばらく一緒にいてやって下さい」
舞子は頷き、ドアを閉めた。やがてツムラ医師と寛順が部屋を出、階段を降りて行く音がした。
戻って来たのは五時少し前で、ツムラ医師にはサカガミも同行していた。寛順の目は泣き腫《は》らしたように赤くなり、付き添ってきた二人も肩を落としていた。
「舞子さん、頼みます」
小声でツムラ医師が言った。
「検査結果は?」
「プラスです」
口の中から石を吐き出すように答え、ツムラ医師はサカガミと連れ立って帰って行った。階段を降りる足取りさえも、力がなかった。
十分ほどして、舞子は寛順の部屋のドアを叩《たた》いた。弱々しい返事があった。
ベッドに横になっていると思った舞子の予想ははずれた。
寛順は、開け放った窓際に立ち、海を眺めていた。舞子が近づくと、寛順は背を向けたままで言った。
「舞子、大丈夫よ。わたし、死んだりはしない」
そこまで言うと急に涙声になった。「わたしが死んでしまうと、あの人も死んでしまう。わたしが生きている限り、あの人も生きている」
後ろを振り返り、舞子の肩に顔を押しつけて泣く。
「本当にそう。寛順の言う通り──」
舞子は答える。自分が生きている間、明生だって生きているのだ。脳裡《のうり》のうちで微笑し、声にならない言葉で話しかけてくれる。
海と反対側で陽が沈み、長い石段と家並が白さを失い、海が青黒くなっていく。肩を並べ、黙って外を眺めていた。
夕食の時間だとヴィオレッタが告げに来たのは、部屋の中が暗くなってからだった。
夫人はいなかった。寛順と二人だけで、野菜料理を食べた。食欲がなかった。皿の物が半分しか食べられていないのを見て、ヴィオレッタが悲しげな顔をした。
「おいしかった。でも全部はとても」
寛順が釈明して、ヴィオレッタはようやく表情をゆるめた。
この家に来てからは、エスプレッソ流の濃いコーヒーよりも、カフェ・コン・レイチが多くなっていた。夫人の好みでもあるのだろう。黙っていると、ヴィオレッタもそちらのほうを運んでくる。
夫人がいないので一緒に飲んだらどうかと寛順が勧めても、ヴィオレッタは首を振り、台所に引っ込む。
「オプリガーダ、ボーア・ノイチ」
彼女に言い置いて三階に上がる。
「舞子、わたし大丈夫よ」
ひとりになりたいのだというように、寛順が言った、舞子は頷き、ドアの前で別れた。
窓の外はもう真暗で、階段だけがイリュミネーションで金色に浮き上がっていた。船の上から眺めると、階段がまるで光の塔のように見えるのだと、夫人が言っていた。そうなると、さしずめ自分のいる部屋は、塔の上に立つ燭台《しよくだい》のようなものだ。
石段の下の方から、黒い犬が登って来るのが見えた。一段一段上がり、十段ぐらい毎に後ろを振り返る。あの時、老婆と一緒だった犬に違いなかった。今夜も、黒服を着た老婆に付き添っているのだろうか。犬が石段の中ほどまで来ても、下の方に老婆の姿は現れない。黒い犬は登りつめてしまうまで、律義に何回か後ろを振り返り、そのまま横の路地に消えた。
いつか、あの石段を下ってみようと思う。寛順と連れ立って、階段の下に広がる街を歩いてみるのだ。一日中歩き回り、夕陽に海が染まる頃、ゆっくり階段を登って帰路につく。一気に登るのではなく、黒犬のように、後ろを振り返り、景色を確かめつつ上がっていくのだ。
翌日の朝は、寛順からドアを叩かれて、目が覚めた。
寛順はもう腫《は》れぼったい顔はしていなかった。
「舞子の部屋で朝食を一緒にとっていい?」
ドアの間から覗くようにして訊《き》く。
「どうぞ、どうぞ」
中に招き入れて、舞子はそそくさと洗顔をすませた。
「ここの朝日は大好き」
寛順は窓を開け、新鮮な空気を入れる。ちょうど真正面の水平線上に太陽があった。海面が黄金色に光っている。
「生まれた村を思い出すの。朝日を眺めていると」
「大きなブランコのある村?」
「そう。田んぼの向こうから朝日が出るときも、緑の田がこんな色に染まる」
「いつか行ってみたい」
「どうぞ、どうぞ。一週間でも一ヵ月でも、好きなだけ、泊まっていい」
ヴィオレッタが運んで来たトーストとハムエッグ、パパイアにカフェ・コン・レイチを、一緒に食べる間、寛順は故郷の村の話をした。
ツムラ医師とデ・アルメイダが訪れたのは、朝食後一時間もしないうちだった。
「ミズ・キタゾノ。あなたのおかげで、バーバラ・ハースの件、立証できそうです」
デ・アルメイダが言った。
「あの食虫植物ですよ」
ツムラ医師が言い添える。「植物の体内で、血液成分のDNAが検出されたのです」
「彼女が滞在していた部屋から体毛を集め、やはりDNA鑑定をしたところ、ほぼ百パーセントの確率で一致しました。こうなれば、いくら病院の理事長が屋上からの飛び降り自殺だと主張しても、却って足元に火をつける結果になります」
デ・アルメイダは自信たっぷりに言う。「バーバラの死体を運んだ黒人の男たち三人、顔を見れば見分けがつきますか」
「ぼくが墜落現場に駆けつけたとき、ハンスと他に職員が三人いて、彼らがバーバラの死体を運んだ男かどうか判るとしめたものなのです」
舞子は寛順と顔を見合わせる。男たちの顔を眺めるよりも、血に染まったバーバラの遺体に視線を吸いつけられていたのだ。そのうえ、ブラジルに着いてすぐの頃だったので、黒人の容貌《ようぼう》に区別はつけにくかった。
「自信はありません」
寛順の返答に舞子も同調する。
「そうですか。ま、一段落すれば、念のため彼らの首実検をしてもらうことになります」
デ・アルメイダは、それでも落胆した様子は見せない。「もうひとつ、あなたたちが通っていたお寺は、現地の警察に依頼して捜査してもらっています。ミズ・リーのソノサ、ミズ・キタゾノのビザンジ、それから可哀相なことをしたミズ・マゾーの──」
「モレです」
舞子が言う。
「そうモレという村の教会」
「何か分かったのですか」
寛順が訊く。
「分かりつつあります。全体像は数日中に報告できると思います。それに──」
デ・アルメイダはツムラ医師の方を見やった。
「ジルヴィー・ライヒェルが逮捕されました」
ツムラ医師が代わりに告げる。
「あの人が」
寛順が小さく叫んだ。
「彼女、自分の家から逃げ出していなかったのです。あの朝、自宅に捜査員が行ったのですが、蛻《もぬけ》の殻と判断していました。そのあとずっと張り込んでいた刑事が、家から出て来た彼女を捕えたというわけです。地下室で生活していたようです。優に半年くらいはそこに潜伏できるくらいの準備をしていました。ドイツ人らしいやり方です。他に逃げている連中も、あるいはそういう潜伏の仕方をしている可能性があります。サルヴァドールから出て行かないで、市内のどこかに半年、一年とシェルター生活する方法です。いま彼女を追及しています」
デ・アルメイダの口ぶりは、これから越えねばならない困難を反映しているのか、重かった。「しかし──」
と彼は言葉を継いだ。
「この事件は、ブラジルが戦後遭遇した犯罪でも最大のものになるような気がします。戦後の警察組織が全力を挙げて取り組んだのが、ナチス・ドイツの残党狩りでした。彼らの相当数が南米に逃げて来ましたからね。もちろん手ぶらではありません。みあっただけの財貨と共にです。
戦争前の一九四〇年の時点で、ブラジルにはドイツ系住民が九十万人いました。もちろん南米では最大です。アルゼンチンのドイツ系住民でも二十万くらいだったのですから。ドイツ人学校にしても、ブラジル国内に千以上、千五百近くあったと聞いています。ナチス・ドイツにとっては、第二の祖国だったのです。戦争終結後、訴追を恐れて南米に渡ったナチス高官は五千人と言われています。しかしこの数字はたぶん過小評価されています。そのナチス残党狩りも、最後のナチと言われたメンゲレがアルゼンチンで逮捕されて幕が下りたのです。メンゲレは知っていますね」
舞子は首を振ったが、寛順が頷いた。
「ユダヤ人の双生児を使って残酷な実験を繰り返した医師でしょう。ヨーゼフ・メンゲレ」
「そうです」
「今度のことも、そのナチス・ドイツと関係があるのですか」
寛順の問いにデ・アルメイダは顎《あご》をひき、舞子の表情をうかがう。
「ミズ・キタゾノ。あなたが見たという入墨がありましたね。死んだロベリオ、そして病院職員のジョアナ、サンパウロの空港であなたたちを出迎えた男。もうひとり、最後の夜にレストランで見かけた白人男の入墨は、ワシの爪《つめ》がハーケン・クロイツを掴《つか》んでいた──。ナチス・ドイツの象徴です」
「あなたたちが例の奇妙な部屋にはいるとき、双眼鏡のようなものを覗き込んだと言ったでしょう」
ツムラ医師がデ・アルメイダの言葉を継いだ。「舞子さんが左マンジだと言っていたあの印です。あれはハーケン・クロイツそのもの。ナチス・ドイツの旗印です」
「あなたたちをブラジルに送った人物を思い出して下さい。何という名前でした?」
デ・アルメイダが訊く。
「辺留無戸。日本語の上手なドイツ人でした」
「ミズ・リーは?」
「ドイツ国籍の老師《ロサ》でした」
「年齢は?」
「七十歳そこそこ」
「辺留無戸もです」
舞子が答える。
「あなたたちが病院で見かけた白髪の老人も、同じ年配でしょう。ミズ・マゾーが通っていた教会の神父もドイツ人です」
ツムラ医師が言った。「フォルテ・ビーチ病院の理事長もドイツ系ブラジル人でやはり七十歳。彼と話したことがありますが、ヒトラーと会ったと言っていました。ベルリンが陥落する直前です。ヒトラー・ユーゲントの一員だったのです。あなたたちが会った僧や白髪の老人も、多分ユーゲントの一員なのでしょう。自殺直前のヒトラーと謁見できたのですから、エリート中のエリートです。当時、十五、六歳のはずですから、計算も合います」
「数年前まで世界中の警察が探し続けてきたのは、ナチス・ドイツの重要人物たちばかりで、ユーゲントの連中は全く眼中になかったのです。ロスアンジェルスのヴィーゼンタール・センターというのは知っていますか」
デ・アルメイダの問いに舞子も寛順もかぶりを振る。
「ナチスの戦犯を追及するためにユダヤ人が作ったホロコースト研究所です。そこに問い合わせても、戦犯リストにはユーゲント所属の人物はひとりも載っていない。当然です。彼らは全員若く、実際の戦闘やホロコーストには部分的にしか関与していないのですから。
要するに、ヒトラーはユーゲント団員たちにナチス・ドイツの将来を託したことになります。つまり、若い芽を温存し、そのための物質的な援助も当然考慮していたはずです」
「あと少し待って下さい。時間とともに、すべてがはっきりしてくるはずです」
ツムラ医師が言った。
そういうナチス・ドイツの残党と自分たちがどんなふうに関係しているのか、舞子は理解できない。
デ・アルメイダもツムラ医師も、まだ真相の一部だけしか判明していないのだと言うが、本当はもっと知っているのかもしれない。寛順と自分に衝撃を与えないために、事実を小出しにしているのだ──。
二人を見送りながら、舞子はそんなふうに思った。
その日は昼の間中ベッドに横になり、天井ばかり眺めていた。食堂で寛順と昼食をとったときも、あまり口はきかず、黙々と食べ、カフェ・コン・レイチを飲んだ。
「わたし、舞子が一緒にいなかったら、とっくの昔に気がおかしくなっていた」
部屋の前で別れるとき、寛順が唐突に言った。どう答えていいかも分からず、舞子は微笑を返したのみだ。
考えれば考えるほど、深い泥沼の底に引き込まれていきそうだ。何故ナチス・ドイツと自分がつながりを持たなければいけないのだろう。自分が一体何をしでかしたというのだ。寛順と同じように、つきつめて考えると、精神の均衡が揺らいでくる。
「クラウス・ハースとおっしゃる方が玄関にお見えです。ミズ・リーとミズ・キタゾノに会いたいと言っています」
ヴィオレッタが告げたのは、夕食を終えかけたときだった。
「ここへお通し」
デ・アルメイダ夫人が言った。ヴィオレッタはすぐ戻って来た。
「お客様はお邪魔する訳にはいかない、ほんのちょっとだけ玄関口で会えればいいとおっしゃっています」
「わたしたち行ってみます。知り合いですからご心配なく」
寛順が夫人に言った。
玄関の外にクラウスが待っていた。
「あんたたちがここにいると聞いてやって来た。礼を言いたかったんだ」
クラウスは神妙な顔をした。
「少し外に出てみない?」
舞子は寛順を誘ってみる。クラウスがいれば、夕方の街も大丈夫だろう。イリュミネーションに照らされる石段まで行ってみたかった。
寛順が夫人に三十分くらいで戻って来ると伝えに行く。
「もっと早く来ても良かったのだが、こんな邸宅にはおいそれとは来れない」
クラウスは建物を見上げて言った。「しかし、あんたたちに礼を言わなきゃと思ってね。バーバラのことだよ」
日頃のぞんざいな口のきき方がしんみりとした口調に変わっている。
「本当にあの人、可哀相だった」
そんな感慨が舞子の口をついて出る。「生きているうちに知り合えておけば、いい友達になれたような気がします」
「あんたが、バーバラの血を吸った植物を守っていたんだね」
「はい」
クラウスの言い方はどぎつかったが、真実には変わりがない。
「そしてあんたは、バーバラが書いたメモを見つけてくれた」
クラウスは寛順に顔を向ける。
「偶然ユゲットがバーバラのことを話してくれたからです」
「ユゲット。──彼女のことも聞いた。バーバラと同じになってしまって。奴《やつ》ら、何てことをするのだ。悪魔と同じだ」
クラウスが吐き出すように言う。「あんたたちも大変だったな」
三人とも黙って歩いた。
石段が金色に光っている。街灯で上から照らすのではなく、低い位置に照明を置き、石段そのものを浮かび上がらせるようになっている。
「ユゲットと三人でここに来たことがあるのです」
寛順が口を開く。
「石段に腰かけて、ずっと海を眺めていました」
舞子も言う。あのときは昼間だったが、いま海は見えない。しかし黄金色に輝く石段は舞台装置のようで、また違った趣きがある。
「あんたたち、ここを気に入ってくれたんだな。俺《おれ》もサルヴァドールに来た当初、このあたりはよく絵に描いたよ。この石段もね。下から眺め上げたり、上から海と街を眺め下ろしたり。あんたらが今住んでいる館も描いた」
クラウスは後ろを振り返る。
「わたしたち、あの三階の部屋にいるのです」
寛順が指さす。
「ああ、あの部屋の窓、覚えている。鎧戸《よろいど》が閉められていてね、ドーンピンクの色が美しかった」
「ドーンピンク?」
「夜明けの空の色さ。あんたら、中に住んでいるから外側の色は知らんだろうけど」
「外に出るのは今が初めてです」
寛順が答える。
クラウスを真中にして石段に腰をおろした。
「ユゲットと、こうしてしゃがんでいたとき、下の方から黒い犬と黒い服を着たおばあちゃんが上がって来ました」
舞子が言う。「つい三日前も、黒い犬が上がって来るのを窓から見ました」
「あの婆さん、亡くなった。十日ばかり前に。ひとり暮らしだった。犬も野良犬で、婆さんが可愛がっていた。犬のほうでは婆さんに飼われていたと思っていたのかもしれん」
「黒犬は石段を十段上がる毎に下の方を振り返っていました」
「婆さんを待っていたんだろう。いや、婆さんの姿が見えていたのかもしれん」
クラウスがしんみりと言う。
階段の下の街には、星を寄せ集めたように灯がともっていた。その向こうに暗い海が黒い帯になり、街の灯と夜空の星を分断している。
街中にいるのに音がしなかった。
「そろそろ帰らないと、女主人に心配をかける。今度は昼前に来るよ。例のレストランであんたらにごちそうする。あのフランス娘が一緒でないのが本当に残念だがね」
クラウスはこみ上げてくる激情を抑えるように歯をくいしばった。
翌日の午後、ツムラ医師とデ・アルメイダ、サカガミの三人が連れ立ってやって来た。
「ミズ・リーもここに来てもらっていいですね」
ツムラ医師が言い、サカガミが彼女を舞子の部屋に連れて来る。椅子《いす》も寛順の部屋から二脚運び入れた。
「ジルヴィーが自供を始めました」
真向いに坐《すわ》ったデ・アルメイダが重々しく口を開いた。「あなた方に直接関係する事柄です」
その先は任せたというように、デ・アルメイダはツムラ医師に視線を送る。
「彼女が自白し出したのも、こちらがある程度、事実を掴《つか》んだからです」
ツムラ医師が、舞子と寛順の反応をうかがうように言った。「ぼくが持ち出した冷凍精子があったでしょう。そのDNA解析をしたのです。一方で、国際警察機構を通じて、モスクワの戦勝記念公文書館に連絡をとりました。そこには、ヒトラーの頭蓋骨《ずがいこつ》をはじめとして、彼が地下|壕《ごう》で自殺した際についたソファーの血痕《けつこん》、その他の遺品が残されています」
「ヒトラーは青酸カリ自殺したと噂《うわさ》されていますが、真相は銃口を口に含み、引き金を引いた自殺です。当然頭蓋骨に穴があき、坐っていたソファーは血で染められました。遺体は部下によって一部焼かれましたが、あとになってソ連軍がすべてモスクワに持ち帰っていたのです。ソ連邦が崩壊するまで、その事実は隠され、やっと事実が公にされたのは六年前です」
サカガミが言い添え、真剣な眼を寛順と舞子に向けた。
「冷凍精子と頭蓋骨に付着していた成分のDNAは同じものでした」
ツムラ医師がおごそかに言う。
沈黙が来た。
舞子はツムラ医師の言葉の意味を、頭の中で反芻《はんすう》する。
デ・アルメイダの厳しい眼が寛順に注がれる。サカガミは顔を紅潮させ、ツムラ医師の顔は蒼白《そうはく》になっていた。
「ということは、わたしも、ユゲットもバーバラも、彼の精子で受精させられたのですか」
寛順が一語一語かみしめるように言った。
「そうです」
答えたのはツムラ医師だ。「ぼくがその精子でバーバラとユゲットを受精させ、ミズ・リーはヴァイガントが受精させた。ぼくは知らなかったが、ヴァイガントは知っていた。ジルヴィーが白状したことです」
「でも何故」
寛順がわなわなと唇を震わす。
「ヒトラーの血のはいった優秀な子孫をつくるためです」
デ・アルメイダが口を開く。「ジルヴィー・ライヒェルはそう言っていました。そのために、最良の女性を選び出したのだと」
「受精する母体も、最良の状態にしておく必要があったのです。ですから、あなたたちはそれぞれ最愛の人の子供を生むのだと信じ込まされた。ヒトラーの代わりを、あなたたちの最愛の人が務めたわけです。その心理状態を創り出すために、ジルヴィーがいたし、あの奇妙な仕掛けの部屋があった」
ツムラ医師の澄んだ目が寛順と舞子を睨《にら》みつける。
「人種の交配による優秀な子孫を残すことが、彼の遺言の中に書かれていたと言います。ヒトラー・ユーゲントの男たちはそれを忠実に守った」
デ・アルメイダが言い添える。「ジルヴィーはまだ吐きませんが、いずれ明らかになるはずです」
「ヒトラーの冷凍精子が残っていて、彼らがこういうことをしているところから判断すると、彼らはその精子を増殖させる技術も開発していると見ていいでしょう。一ミリリットルの精液の中に約一億の精子が含まれていますから、増殖技術さえ確立すればその容量を百万倍にすることも可能です。
ぼくが受け取った精液量は、ひとつのサンプルで十分の一ミリリットルでした。これが増殖技術で作られたものか、原液そのものか調べているところです」
「ユゲットの身体《からだ》があんなふうに傷つけられていたのは、そのためですね」
寛順の声が掠《かす》れている。自分の両手を下腹の上に重ねた。
「彼らは事実をあばかれたくなかったのでしょう。子宮の中の胎児を調べれば、遺伝子の半分ははっきりします」
ツムラ医師が答える。
「わたしが今、身体の中に宿しているのも、ユゲットと同じものですね」
抑揚のない声で寛順が訊く。サカガミが立ち上がり、彼女の傍に行く。寛順が気を失うのを恐れるように肩に手を置いた。
「半分は同じものです」
「ヒトラーの?」
ツムラ医師とデ・アルメイダが同時に頷《うなず》く。
「そんな」
寛順の目から涙がこぼれおちる。「どうしてわたしたちだけが──。何にも悪いことはしていないのに」
そうだ、その通りだ。舞子も思う。自分たちがどんなことをしたと言うのだ。一生懸命生きてきて、明生とめぐりあい、明生を一生懸命愛した。寛順も同じだろう。いやユゲットもバーバラもそうだ。それなのに。
舞子の目にも涙が溢《あふ》れる。冷たい凍りつくような涙が頬《ほお》をつたう。サカガミが寛順と舞子の間に立って、両手をそれぞれの肩にのせた。
「あなたたちにはもうひとつ知らせておくことがあります」
デ・アルメイダの表情がさらに険しくなっている。その傍でツムラ医師が口を一文字に結び、目を見開いた。寛順と舞子が耐えている苦しみを、自分が少しでも負ってやろうという気概に満ちた顔だ。
「ミズ・リーの通っていた寺に、あなたの言っていたドイツ人の僧はもういません。ミズ・キタゾノが通っていたのもお寺でしたね」
「眉山寺《びざんじ》です」
「そしてあなたが会った僧が──」
「辺留無戸」
口の中が渇き、舌がもつれた。
「そう、そのドイツ人も姿を消していた。現地の警察からの報告です」
デ・アルメイダが言い置いて、舞子と寛順の顔を見据えた。「そしてあなたたちがそれぞれ暝想《めいそう》した場所があったでしょう。透明な壁でできた迷路。それもなく、広いがらんとした部屋があるだけだそうです」
「二人とも、どこに行ってしまったのですか」
寛順が冷ややかな声で訊《き》く。
「寺の主には急用ができたので帰国すると告げてはいます。ドイツでの行く先を書き残していますが、実在の地名ではありません。五、六年その寺で修行を積み、自分の資金で庵《いおり》を造りたいというので、許可してやったのだと言います。寺主の話は事実でしょう」
「老師のハングルはほぼ完璧《かんぺき》でした」
それは辺留無戸の日本語にしても同じだ。五、六年日本にいたくらいでは、あそこまで上手にはなるまい。
「彼らが仏門にはいったのは三十年前、修行をして一時国外へ出、また戻ってきたそうですから、語学歴は修行歴と同じくらい長いようです」
「ユゲットの場合も同じですか」
寛順が毅然《きぜん》としてデ・アルメイダに問いかける。
「彼女がいたモレの町の教会も調べてもらいました。結果は同じです」
デ・アルメイダはアタッシェケースから書類を取り出して、内容を確かめる。「ヴェルナー神父というやはりドイツ人ですが、行方をくらましています」
デ・アルメイダはさらに書類を繰った。サカガミが自分の椅子に戻り、真剣な眼をその書類の方に向ける。
「そこで意外な事実が分かったのです。彼女の恋人はアラン・ポアンソーと言って、トレーラーの運転手でしたが、事故死しています。反対車線のトラックが中央線を越えてきたのを避けようとして、急ブレーキをかけ路肩から転落、病院に運び込まれたのですが、翌日、死亡しています」
デ・アルメイダが言い澱《よど》み、重苦しい沈黙が部屋の中を支配した。「加害者も独身の青年でしたが、その事故の二ヵ月後に自宅で急死しているのです」
デ・アルメイダは舞子の顔を見つめ、そのあとツムラ医師に視線を転じた。
「舞子さんの恋人も交通事故の被害者ですね」
ツムラ医師から訊かれ、舞子は明生の死を告げられたときの衝撃をまざまざと思い出す。〈昨日までの幸せはもう今日で終わったのだ〉と思った。病院に駆けつけたとき、明生の身体は霊安室に置かれていた。事故の様子は、彼の両親から聞かされた。白線だけで区切られた歩道を歩いていたとき、後ろから猛スピードで走ってきた乗用車にはね飛ばされ、ほとんど即死だったのだ。
「加害者は知っていますか」
「いいえ」
免許を取ったばかりの少年だったとは聞いたが、詳しいことは知らない。
「まだ二十歳前の工員ですが、今年になって死んでいます。ひとり暮らしのアパートでです。警察は突然死で処理しています。争ったあともないし、布団で寝ていてそのまま、息が絶えていたらしいのです。もちろん司法解剖されていますが、肺のうっ血と心臓が少し小さかったというだけで、死因ははっきりしていません。だから突然死です」
ツムラ医師はまだ何か言いたそうだったが、デ・アルメイダが言葉を継いだ。
「ミズ・リーの恋人を死なせた加害者は、不明のままですね」
「自転車に乗っているところを無灯火のトラックがはねました。ひき逃げでした」
静かに寛順が答える。
「現地の警察でも、まだ加害者は判っていないようです。しかし、私の判断からすれば、その加害者もどこかで死んでいるでしょう」
「加害者も殺されたということです」
それまで口をつぐんでいたサカガミが寛順に言った。
「どうして分かりますか」
寛順が問い返すのを、舞子はじっと眺める。舞子も同じ気持だ。何故加害者までが殺されなければならないのか。
「これは我々の推論ですが、ほぼ確実でしょう。いずれ調べていけば明白になります」
サカガミが低い声で言う。結論は任せたというように、ツムラ医師もデ・アルメイダも黙ったままだ。
「つまり、あなたたちの最愛の人は、交通事故死を装って殺されたということです」
「まさか」
寛順が小さな声をあげる。
舞子も信じられない。どうして明生が殺されなければならないのか。明生が何をしたというのか。そして自分たちが何をしでかしたというのか。
「あなたたち二人、そしてミズ・マゾーもミズ・ハースも、前以《まえもつ》て彼らに目をつけられていたのです。この計画を理想的に運ぶには、その最愛の人を消す必要があった。悲しみに包まれたあなたたちの気持は、錨《いかり》を失った小舟に等しくなります。どこにそれを引っ張っていこうが、彼らの意のままです。いやこれは、あなたがたが弱かったということではなく、誰でもそんな気持になるはずです」
自分も悲しみを抑えきれないという様子で、サカガミは顔を歪《ゆが》める。
寛順が泣いていた。舞子も涙がこみ上げてくる。サカガミが立ち上がり、後ろから二人の肩に手を置く。
「できれば恋人の死は嘘《うそ》であって欲しい。生きていて欲しいという思いを、彼らは利用したのです。そのくらいの心理操作は、脳生理学を使えば簡単でしょう」
ツムラ医師の声には憎しみがこもっている。「例のホログラムの部屋にはいる際、双眼鏡のような穴を覗《のぞ》き込んだと言ったでしょう。赤いハーケン・クロイツが何秒間か見えたと。あれが条件づけの信号だった可能性があります。見ることによって、脳機構にスイッチがはいるのです」
「そのあたりのことも、逮捕したジルヴィー・ライヒェルを問い詰めればはっきりすると思います」
デ・アルメイダが窓の方を見やって言った。「それまではここにいて、ゆっくり休養して下さい。いいですね。思いつめたり、早まったことは禁物です」
デ・アルメイダの言葉に合わせて、サカガミが舞子と寛順の肩を軽く叩《たた》く。
「私たちがついていることを忘れずに」
サカガミの低い声が力強く耳に届く。
「また来ます」
ツムラ医師が言い、立とうとしたとき、デ・アルメイダの腰で携帯電話が鳴った。
「デ・アルメイダだ」
ボタンを押してから答える。
「えっ」
デ・アルメイダの彫りの深い顔が一瞬凍りつく。
「いつだ。分かった。すぐ行く」
電話をしまい、椅子《いす》を立った。「ジルヴィー・ライヒェルが自殺を図った」
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小さな丸テーブルを二つくっつけ、パラソルで日陰をつくってみたが、四人分の大きさはない。ツムラ医師とサカガミの坐《すわ》っている場所は強い日射しが降りそそぐ。それでも二人は心地良さそうに目を細めていた。
ツムラ医師は黄色いシャツに白いショートパンツ、サカガミは膝《ひざ》までのジーンズにTシャツを着ている。シャツの絵柄は十匹ほどの子亀で、彼の大きな身体《からだ》にはどこか不釣り合いだ。
テーブルにはヤシの実が四つ並び、それぞれ開けた穴に二本ずつストローがはいっている。一気に飲んでしまうのが惜しくて、舞子はまだふた口くらいしか吸っていない。
「やっぱり来てよかった」
寛順が砂浜を眺めながら言った。「あのままサルヴァドールからサンパウロに行き、帰国していたら、何か重大な落とし物をしたようで悔いが残った」
両手いっぱいに四個のヤシの実を抱えて来たダミアンは、気を利かしてか、小屋の方に下がって母親と何か話している。
村の中のペンションに着いたのは昼過ぎで、昼食は国道沿いのシュラスカリアでとっていた。部屋でひと休みしたあと着替えをして浜に出て来たのだ。
教会の前の広場を通って朽ちかけた木舟の傍まで来たとき、浜の方角から子供の声がした。〈マイコ〉とその声は確かに叫んでいた。
黒人の少年が砂を蹴散《けち》らしながら走って来るのが見えた。ダミアンだった。学校は午前の部だったのだろう。
「ボーア・タールヂ」
ダミアンは満面に笑みを浮かべて、四人に手をさし出す。舞子も寛順も彼の手を握りしめた。
ダミアンの目に涙が溢《あふ》れてくるのを見て、舞子も胸が熱くなる。なんとか涙をこらえた。
「ダミアンの店は赤いパラソルがある所。レイチ・デ・ココがおいしかった」
舞子は言った。足は自然に店の方に向いていた。
ダミアンは四人のためにテーブルを寄せ、やっぱりあれが飲みたいかと言うように、ヤシの木に連なっている実を指さした。
「スィン、レイチ・デ・ココ、クァートロ」
舞子は指を四本立てた。
「舞子さん、立派なポルトガル語」
ツムラ医師が冷やかした。
「数字だけはユゲットが教えてくれた。ウン、ドイス、トゥレース、クァトロ、シンコ──」
寛順も一緒になって十まで数えたあと、黙ってしまった。サルヴァドールに行くマイクロバスの中で騒いでいたユゲットの姿が頭に蘇《よみがえ》っていた。
「可哀相なユゲット」
寛順がぽつりと言い、四人とも黙り込んで海を見やった。
風はなく波も静かだ。湾内の漁船は全部出払って一艘《いつそう》も残っていない。渚《なぎさ》から百メートルほどの沖合いで、腰かけ筏《いかだ》に乗った男が釣糸を垂れていた。
この位置からはフォルテ・ビーチ病院は見えない。弓なりになった砂浜を灯台とは反対側に歩き、突き出した浜を越せば見えてくるはずだ。
病院は閉鎖にならず、理事長と院長が代わっただけで診療は続いている。
遺伝子診断の冷凍血バンクについては、新聞が大きく取り上げていた。ツムラ医師が持って来た新聞のなかに英字紙があり、そこでも事件はトップを飾っていた。寛順が解説してくれたが、記事に〈|未来の日記《フユーチヤー・ダイアリ》〉という言葉があった。血液中の遺伝子には、まだ未解読の情報が膨大な量含まれている。何百万人分の冷凍血液でDNAのデータバンクを作っておくのは、その人間の未来の情報まで保持するのと同じだという。〈未来の日記〉は、医学の進歩とともに次々と頁が開かれていく。しかもその内容は保険会社だけが知る場合もあるし、逆に特定の個人が誰よりも先に知りたい場合もある。いずれも、情報は金銭に結びつく。いわば頁をめくるたびに、札束が舞い込む。冷凍血のバンクはそのまま金庫と言い換えてもいいくらいだ、という記事だった。
フォルテ・ビーチ病院が糾弾されたのは、そうした先端医学とビジネスを結びつけた行為と、もうひとつ、脱税行為だった。個人の遺伝子情報を保険会社に売り込む行為は、ブラジルでは犯罪にならない。禁止する法律がないからだ。だからその行為は、法律のある合衆国の保険会社との取り引きのみ、有罪とみなされた。従ってブラジルの法律で罰されたのは、保険会社や個人との契約で得た年間一千万レアル、円にして十億円の収入を届けなかった行為だけだった。病院の創設が三年前であり、当初からそうしたビジネスは行われており、二十五億円近い収入を得ていた計算になる。課徴金も含めて脱税額は十億円になったが、病院側はそれを即金で支払い、理事長と病院長が責任をとって辞職していた。
しかし一連の新聞報道も、フォルテ・ビーチ病院が犯したもうひとつの犯罪については、まだ何もふれていない。検察と警察当局がまだ事実を一切公表していないからだ。全容が明らかになるまで、報道機関には情報を流さない方針をとったのだと、デ・アルメイダから説明を受けた。
白髪の紳士も、右手に入墨をしていたジョアナも、クラウスが内偵した建物の番人のレオも、まだ行方が分かっていない。建物からごっそり持ち出されたナチス・ドイツの遺物にしても、行方は杳《よう》として知れないのだ。
警察は辞職した理事長を訊問《じんもん》し続けているが、黙秘のまま捜査は進展していない。
ロベリオが殺された理由も明らかにされていない。ジルヴィー・ライヒェルの自殺はそれほどの傷手だったのだ。
各国の警察と連絡をとりながら、ブラジル警察は必死の捜査を続けている。
惜しみ惜しみ飲んだつもりのレイチ・デ・ココがなくなっていた。まだ飲み足りない気がした。
サカガミが小屋の方に向かって手を上げた。ダミアンを呼び何か注文する。
他の小屋のテーブルに客はひとりもいない。手持ちぶさたの店の主たちは笑顔で舞子たちの様子を眺めていた。
「カンスンというのは漢字でどう書くのですか」
サカガミが訊《き》いた。舞子はポシェットに入れていたボールペンとメモ帳を寛順に渡す。
「なつかしいボールペン」
ペリカンの形をしたボールペンを寛順が受け取り、メモ帳の頁に大きく自分の名前を書く。それにハングルも添える。
「両方とも読めない」
サカガミは頭をかく。
「漢字が読めないのは、ぼくも同じだ」
ツムラ医師が言う。「舞子さんとの筆談も、恥ずかしいけれど平仮名だった」
舞子の視線は、寛順が握りしめているボールペンに注がれていた。それだけが明生の思い出の品で、他には何ひとつない。自分の頭のなかにある思い出以外は──。
ダミアンがトレイに四個のグラスを載せて運んで来る。
「カイピリーニャ。ぼくが勝手に注文したのです」
サカガミが言う。「こんな野外で飲むのにはもってこいですよ」
四人でグラスを持ち上げる。
氷と一緒に青いレモンのぶつ切りがはいっていて、冷たさと酸っぱさが舌に快い。
「舞子さんが何を考えていたか分かります。考えないように言うほうが無茶ですよね」
ツムラ医師の問いかけに舞子は力のない微笑を返す。実際、何百、何千回そのことを考えたか分からない。
何故、自分と明生のカップルだけが彼らの標的にされなければならなかったのか。どうして明生が殺されなければいけなかったのか。しかも事の始まりは寺の境内で起こったのだ。それは寛順にしても同じだった。二人で遊びに来たところを彼らの組織が目をつけ、用意周到に恋人を交通事故に見せかけて死亡させる。残った片割れを誘って、脳の生理機構に操作をかけ、白昼夢の状態に置く。そのまま自分たちの本拠地に送り込んで、受精させる。女性たちは最愛の恋人が生きていると信じ切っているから、喜々として受精に応じる。そしてその歓喜のなかで、因縁の赤ん坊を出産するのだ。
そのあとどうするつもりだったのか、舞子と寛順はツムラ医師に問いただしたことがある。訊かずにはおれなかった。
「おそらく、そのまま最愛の人との間に生まれた子供として育てていくでしょう。もちろん、あなたたちはどこかに半監禁されたままでです。外部との接触は断たれていますから、白昼夢の状態は決して醒《さ》めない。その代わり、二、三日に一度のあのホログラムの中での体験は続行されているはずです。そこで、最愛の人との出会いと生活は続きます。そのうち夢が現実におき代わっていくかもしれません──」
「仮にわたしたちが白昼夢から醒めたとしたら?」
寛順が訊いた。
「そのときはもう不必要なものとして、処分されたと思います」
舞子も寛順も返す言葉が見つからなかった。
この怒りと悲しみをどこにぶつけたらいいのだろう。いや怒りなら、時の経過とともに薄れていきそうな気がする。しかし悲しみのほうは、時間とは全く関係がないのだ。十年たとうが五十年たとうが、悲しみは減らない。舞子と寛順は肩を寄せ合ってさめざめと泣いた。
しばらくしてツムラ医師が口を開いた。
「仏教の本で読んだのですが、人の知性というのは悲しみによって力をもつというのです。ぼくも初めは何のことかなと思っていたのですが、自分がいざその立場に追いやられて、何となく実感することができました」
ツムラ医師の目がそのとき、すっと赤味を帯びたのを舞子は覚えている。「知性は悲しみによって力をもつ──。どうしてそうなるのか考えてみました。悲しみによって人は自分自身、そして自分と他人の関係がよく見えてくるのです。つまり悲しみがなければ、自分の足元も、身の回りも、天上のことも見えてこないのです。その意味で悲しみは、人が生きていくうえでの大切な道しるべになるような気がします」
言い終わったツムラ医師は目をしばたく。
もしかしたらこのツムラ医師も、自分と同じような悲しみを体験したことがあるのかもしれない。舞子はそんな気がした。
「これからはあなたたちのことを、寛順、舞子と呼びます。ブラジルではみんな親しくなるとファーストネームで呼び合うのです」
サカガミが陽気な声で言う。「ですからぼくはアントニオでツムラはリカルド」
「アントニオとリカルド」
寛順がおずおずと口にする。
「そうそう、アントニオとリカルド。舞子も口で言ってみて」
「アントニオ。リカルド」
サカガミとツムラ医師を交互に見て言う。奇妙な感じだが、その瞬間年齢の差や職業の違いが消え去り、幼なじみのような雰囲気になる。
「ぼくたちが寛順と舞子を故郷まで送り届けます。まず寛順は韓国、そのあと舞子は日本」
サカガミが言った。
「わたしも寛順の住む村を一度見てみたい」
舞子の頭に村の光景が浮かび上がる。「寛順の村には大きなブランコがあるのです。何十メートルもある大木の枝からぶら下がったブランコ」
「それはすごい」
サカガミとツムラが声をあげる。「そんなブランコ、漕《こ》ぐと気持いいだろうな」
「駄目なんです。女性しか乗れません」
そっ気なく寛順が答える。
「どうして」
サカガミが不満気な顔をする。
「三百年前からそうなんです。どうしてかは知りません」
「じゃ、寛順の村にはいるときは、カツラをかぶり、スカートをはいていく。それなら誰も文句は言わないでしょう。カーニバルで何度も女装したことがある」
舞子と寛順はまじまじとサカガミの顔を眺める。長い髪のカツラをかぶせ、おしろいと口紅をつければ、目鼻立ちのはっきりした美人にはなる。しかし問題は仁王様のように大きな身体《からだ》だ。ブラジルでは中年女性として通用するかもしれないが、韓国では無理だろう。
「やっぱり駄目です」
「それなら寛順と舞子が乗るのを見させてもらう。どのくらい高いブランコだろうか」
サカガミが顔を巡らせてヤシの木を見やった。「あのくらい?」
「そうです」
寛順の返答に舞子もびっくりする。想像していたよりもずっと高いのだ。
「まるで天からぶらさがっている感じがするでしょうね」
ツムラ医師が言った。「旅行にはダミアンも連れて行こうか。喜ぶよきっと」
思いがけない提案だった。舞子と寛順は顔を見合わせる。
「賛成」
声をあげたのは寛順だ。自分の故郷にダミアンがいる光景を思い描いたのだろう。
「そのあとは日本にも連れて行く」
ツムラ医師が舞子に顔を向ける。
「わたしも賛成」
「よし決まった。ダミアン」
サカガミが手を上げてダミアンを呼ぶ。駆け寄った彼に、サカガミとツムラ医師がポルトガル語で話しかける。ダミアンの顔が当惑から喜びに変わり、舞子と寛順の顔を眺めた。
「でもいちおうお母さんの許しを貰《もら》わないとね」
寛順が英語で言ったのをサカガミがポルトガル語に直す。ダミアンはまた小屋の方に駆けて行く。
「驚くだろうな。彼はサルヴァドールにも行ったことがないと思うよ。それが飛行機に乗って、いっぺんに外国旅行」
サカガミが目を細め、小屋の様子をうかがう。ダミアンはしばらく母親とやりとりをしていたが、また走って来た。許可は出たというように早口で報告する。
「それは良かった。一週間くらいしたら出発だ」
サカガミのポルトガル語をツムラ医師が日本語に直す。にこにこしたダミアンの表情を見ていると、どんな旅なのか実感しているとは思えない。サルヴァドールあたりまで旅行するくらいに考えているのかもしれない。海亀博物館の中に地図があったのを舞子は思い出す。海亀がどのあたりまで回遊するかを示した図だ。あれを見ながら説明すれば、ダミアンも理解してくれるだろう。
「ムゼーウ」
舞子が言い、メモ帳にペリカンのボールペンで海亀の絵を描く。ちょうどスコールの日にダミアンが地面に描いてくれた絵だ。
「すぐそこに海亀博物館があるのです。そこに掛かっている地図を見せれば、ダミアンもどこに旅行するのか分かります」
「そうか」
サカガミがまたポルトガル語でしゃべり出す。ダミアンが白い歯を見せて舞子に笑いかける。博物館のことをよく覚えていてくれたという顔つきだ。
「行ってみようか」
サカガミが二十ヘアウ札を一枚取り出し、おつりはいらないと言うようにダミアンに握らせる。小屋まで持って行くと、母親がこちらに向かって手を振る。息子の旅行を実感していないのは彼女のほうかもしれなかった。
カイピリーニャのせいで、波の音が遠くなっている。聞こえるのは自分たちの会話の声だけだ。
「舞子さん、今夜海亀が上陸するそうです。ダミアンが案内すると言っています。みんなで行ってみますか」
ツムラ医師が誘った。
海亀の産卵なら何回見てもよかった。ユゲットと一緒のときは浜にたたずむ海亀ばかり見つめていた。今度は海亀と星空の両方を眺めてみよう。
明生と満天の星を見上げたとき、あのなかに自分たちだけの星座があるのだと言われた。それももう一度探してみるのだ。
「わたし、またブラジルに戻って来そうな気がする」
寛順がぽつりと言った。
「わたしも」
舞子が答える。日本に帰ったとしても、ずっとひとりで暮し続ける自信は、自分の気持のどこを探してもない。
明生がブラジルにやって来たはずはないのに、思い出は日本でよりもこのブラジルのほうが濃厚なのだ。寛順も同じ気持なのかもしれない。
ピュアな心を──。明生がいつも口にしていた言葉を思い出す。
ブラジルなら、ピュアな生活を送れそうな気がする。あの忙しく、あわただしい、誰もが目に見えないものに追い立てられている日本だと、ピュアな心などどこかに吹き飛ばされそうだ。ブラジルは、ヤシ林と海、ダミアンのいる村、不思議な魅力をもつサルヴァドールの街を頭に思い描くだけで、胸の内が澄んでくる。
ツムラ医師がポルトガル語で何かダミアンに言う。
ダミアンの目が輝く。舞子と寛順に話しかけるが、内容は分からない。
「韓国と日本に旅行したあと、また一緒にブラジルに戻って来るのだね、と尋ねている」
サカガミが日本語に通訳する。
「スィン」
舞子と寛順が同時に答える。
ダミアンがまた叫ぶ。
「ちょうど海亀がこの浜に戻ってくるように──」
今度はツムラ医師が通訳する。
その通りだ。舞子がダミアンに笑いかける。
「エウ・ゴスト・ド・ブラズィル」
舞子がポルトガル語の文章を口にする。辞書にあった文句の丸暗記だ。
ダミアンの顔がまた輝く。
「わたしはブラジルが好きです、という意味」
サカガミが寛順に説明する。
「エウ・ゴスト・ド・ブラズィル」
寛順までが舞子の真似をし、最後には全員が同じ文句を口にした。まるで語学のレッスンだ。
「ブラジレイラ、ブラジレイロ」
歌うようにダミアンがひとりずつ指さしていく。
「ダミアンによると、これからは五人ともみんなブラジル人だって」
ツムラ医師が言った。
角川文庫『受精』平成13年9月25日初版発行