[#表紙(表紙.jpg)]
それいぬ 正しい乙女になるために
嶽本野ばら
目 次
●[#髑髏マーク]
お友達なんていらないっ
春の日には、菜の花畑
プラネタリウムと模造少女
前略 乙女の君に
時を駆ける宇野重吉
私の彼はミスター・スポック
J・コーネル展に寄せて
一九九三年ロボコンの旅
皇室礼讃
乙女と性欲
春の初めの乙女のコートは
ジェーン・バーキンへのお手紙
朝のデカダンス
幻想の植物乙女
花咲くエメラルドのお城の星の歌
かき氷を食べた話
スミレの花の魔法の阪急電車
博物館とお葬式
●[#髑髏マーク]●[#髑髏マーク]
公女様は意地悪がお好き
品性に就いて
F式・秘密の花園
ロリータの卵
愛はだし惜しみして使う
アンドロメダの雑貨屋譚
努力と根性
幾何学のミッフィー
弥生美術館
雨の日の過ごしかた
ポーの一族、又は近親相姦の勧め
恋愛に優しいサイコロジー
美しき道徳
心中する心中
ボロは着てても心のロリータ
切なさに就いて
オムレツと矜持
お化粧するは我にあり
●[#髑髏マーク]●[#髑髏マーク]●[#髑髏マーク]
人を恋うるエッセイ
乙女・失格
トウキョウディズニーランドニイク
有元利夫──メビウスのロンド
野ばらちゃんとクリスチャン
石ふしぎ発見展の不思議な琥珀店
オームの法則──考察その一
ライオンは起きている
野ばらはひなぎくになりたい
ナルシス、此れ、プシケの夢
お月見に行く
正しいロックをする為に
女学生なら京都で食せよ冨美家なべ
砒素のように
小春日和[十一月から十二月の晴れた暖かな日のこと]
カントリーなんて糞くらいあそばせ!
春は桜
野望という名の結婚
●[#髑髏マーク]●[#髑髏マーク]●[#髑髏マーク]●[#髑髏マーク]
異国の地に暮らすこと、又は一角獣の想い出
中井英夫『とらんぷ譚』の為に
ノバラン、ウエストウッドを語る
無題
宝石と香水、モズクと毒薬、オバサマと僕
八〇年代世界一周旅行
太宰調ノエル
元旦の君は髑髏の大振袖
愛と洗顔
ご飯はフォークの背にのせて
アンティーク趣味と未来への不安に就いて
夢みるドレス──CDなき二十世紀の恐怖
春の病と盆栽少女
ファンの心──基本的恋愛権の尊重と戦争放棄
諦念──プロポーズ
いやいやえん
歪みの構造──ディストーションと増幅
左様なら三角また来ても三角
コアラのマーチ──或いは双子の受難曲
あとがき
文庫版あとがき
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我が戦友、君は野中の茨《いばら》の花か。
雄々しい程に、突き進む、
ヴィヴィアンの裾翻《すそひるがえ》し、君が乙女道、
極め、美学に生きろ!!
(自爆、桜の下で逢いませう)
───戸川 純
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●[#髑髏マーク]
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お友達なんていらないっ
春先を過ぎると「お友達がいないんです。どうすればいいでしょう」という悩みの相談がよくきます。四月になってクラス替えなどで環境が変化し、知らない人達の中でボォーッとしているといつのまにかグループが出来ていて、気がつけば一人ぼっち。初夏になると殆《ほとん》どはこの悩みから解放されて、遅蒔きながらお友達と楽しい夏休みを過ごせてしまうものですが、中にはこの季節になってもお友達の出来ない人もいます。こういう人はもう諦めるしかありません。一人で強く生きていくのです。
乙女にお友達なんていりません。乙女は気高く孤高なものなのです。男のコのヒーローは徒党を組んで行動します。トム・ソーヤにはハックル・ベリー、ゲッターロボは三人で合体、『十五少年漂流記』なんて十五人もいなけりゃ一人前じゃないんです。だけども少女は違います。アリスは一人で不思議の国を冒険するし、安寿は弟の厨子王を山椒大夫から逃がして自分は一人残ります。メグちゃんだって「何でも出来ると人はいうけれど/魔女っ子メグは一人ぼっち」って歌っています。乙女とは「絶対的存在」です。「絶対」とは他とは比較することの出来ない「唯一性」のものなのですから、仲間なんていらないのです。ヤクザ映画の健さんのように、乙女はカッコよく孤独です。「心を開けば友達は出来る」なんていいますが、他人に心を開くなんて勿体なくて出来ません。キラキラ輝く乙女の宝石は、滅多やたらに人に見せるものではないのです。
触れれば壊れそうな硝子細工に固い殻を被り凜《りん》として立つ乙女、みつあみを固く結び一人彼方を見つめる少女の何と可憐なことでしょう。無理に世俗に迎合する必要なんてありません。「高慢な子」「陰気な子」といわれても平気です。一人でランチをとるのが耐えられないから作るお友達なんて、バカみたいですもの。お蝶夫人のようにゴージャスに貴族、孤独は女王様にはつきものです。僕だって、テレビと観葉植物が親友です。
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春の日には、菜の花畑
小学一年生の理科の時間に「アブラナの観察」を習いました。かなり大きくなるまで、僕は「アブラナ」と「菜の花」が同一のものだとは知りませんでした。春風にはにかむようになびく菜の花と、虫が這い回る油の原料とが同じだと、思いもよらなかったのです。教科書に「菜の花の観察」と載っていれば、僕は理科好きの男のコになっていたかもしれません。
春の日に京阪電車に乗り大阪から京都へ向かえば、淀駅を過ぎる頃から線路沿いは菜の花で飾られます。硝子越しだともう暑い窓際から外を眺めていると、中書島《ちゆうしよじま》駅にさしかかる手前の鉄橋の下に、宇治川が流れているのが解ります。広い河川の岸辺には、一面に拡がる菜の花畑。川の流れを祝福するかのように、延々と黄色い絨毯《じゆうたん》は続いています。この河川敷に降りてみたくて、僕は途中下車をします。河川へ向かおうとすると、道は途中で自動車道に突き当たり、ガードレールを越えて道路を横断しなければ岸まで辿《たど》り着けません。人の姿はまるでなく河辺へと降りれば、腰の高さ程の菜の花がびっしり咲き並んでいるのでした。まさにそこはお花畑。キラキラと輝く川面に沿って、何処まで続くのか解らない菜の花畑を歩いて行くと、自然に造られた人一人分程の道が現れます。その道を更に進みゆけば、両脇の菜の花は次第に高さを増してゆく。ふと気がつけば、菜の花は遥か頭の高さを越えています。振り返るとそこは菜の花で続くアーチの通路。春の日差しが黄色くハレーションをおこした花の迷宮で、しばし僕は立ち尽くします。
また歩きだすと、菜の花は徐々に腰の位置まで戻ってまいりました。こうして風景は、ゆっくりと静かに現実と重なってゆきます。春のひとときにしか味わえない、一等素敵な乙女のお出掛けです。
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プラネタリウムと模造少女
明石の天文科学館へ行ってまいりました。阪急電車から山陽電鉄に乗り換え、ガタゴトと揺れる各駅停車は海沿いの景色を走ってゆきます。人丸《ひとまる》前という小さな駅に降り立つと、時計台の形をした天文台がみえます。東経一三五度、子午線の通る科学館は時間と星の博物館、手塚治虫の未来風景に出てきそうな機械然とした水晶時計や、ケプラーの法則を体験出来るチープな模型を見学しながら、プラネタリウムの上映待ち時間を過ごします。
プラネタリウムのドームは、他の施設のプラネタリウムより天の奥行きがあるのでしょうか。天井に星が映し出されると、それはもう本物の星空、いえ本物の星空よりも深く遠く、数億光年の彼方に取り残されたよな寂寥《せきりよう》感が襲ってきます。地平線には書き割りのようなシルエットの明石の街が並び、無窮《むきゆう》の夜空から胸を痛めつつ視線を下ろすと、そこには巨大な蟻に似た投影機の姿。ここで初めて「嗚呼、これはプラネタリウムで、今見ている星は嘘のものなのだ」ということに気づかされるのです。
普段、夜空を眺めることは余りありません。僕は本物の星空よりも、プラネタリウムに映し出される星空のほうに強く心を惹かれます。ダイヤモンドよりも硝子玉、生身の人間よりもロボットが好き。ベルナール・フォーコンのマネキン写真、大林宣彦のSFX、宝塚歌劇が好き。乙女のエッセンスとは「紛《まが》い物」という一言にいい表される気さえするのです。「女性」のレプリカであると同時に「少年」のレプリカでさえある「少女」という存在。乙女とは、現実世界のイミテーションなのです。可愛さや美しさのみを抽出した模造品、いびつでありながらもピュアなアンドロイド。
案内人の声がプラネタリウムの夜明けを告げます。星空は白いスクリーンへと戻り、アリスは夢から目醒めるとチョッキを着た兎達と訣別しなければなりません。時を司《つかさど》る天文科学館の時計達がまた、現実の秒針を刻み始めました。
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前略 乙女の君に
お手紙を貰うのが好きです。電話よりもFAXよりもメールよりも、やっぱり郵便が伝達手段のホームラン王です。僕は文筆業をしているお陰で、知人は勿論のこと、見知らぬ人からもお手紙が貰えたりいたします。ブリキ製の葉書や、広告や千代紙を使い自分で仕立てた封筒、コースターを便箋代わりにしたもの、封を切ると中から線香花火が出てくるもの……。例えば普通のレポート用紙でも「今、授業中に書いているのでこんな紙でご免なさい」なんて書いてあると、とても嬉しくなるのです。
お手紙は時間の経過を伝えてくれます。お手紙を書こうと思い立ち、便箋やポストカードを選び(雑貨屋さんでポストカードを選ぶ時、「これはあの人に送ろう」と思って買うのは愉しいものですね)、出来ればペンの色や切手まで考慮する。言葉を選択し、書き損じたといっては泣きそうになりながら新たに書き直す。話し言葉よりもちょっぴり気取った丁寧語で書くと、お手紙に乙女らしい気品が備わります。「昨日は本当に愉しゅうございました」なんて調子で、最後に「かしこ」をつける。お手紙をしたためるという行為は、相手の為に沢山の時間と労力を消費します。気合いの入ったお手紙に出逢うと、僕は書き手の苦労を想像しながら何度も読み返すのです。
お手紙とは、控えめさとずうずうしさとが同居する不思議なメディアです。読むか否かは相手次第、そのくせ相手の意志は無視して自分の気持ちを一方的に伝えられる手段。おとなしそうな顔をして、実は身勝手。そんなお手紙は、うん、乙女の性格にピッタシですね。贈り物をする時も、直接手渡しより郵便のほうが素敵なことがあります。宅配便は不粋なので、ここはハトロン紙に包んで荷札をつけて、小包然とするのがいとよろし。ライバルの多い意中の彼は、これで貴方にもう夢中ですよ、多分。
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時を駆ける宇野重吉
瀬戸内海の海が見える小さな街、尾道《おのみち》には路地と坂道、山と海、それだけしかありません。海から道路を隔てれば商店街(店は大抵九時には閉まります)、商店街の向こうには鉄道、それを越えればもう山の裾野《すその》です。尾道の市街は山の中、家々は急な石段と坂の細い道沿いに立ち並び、玄関を覗くと平屋だというのに家の中に階段がある不思議な住居さえあります。山の緑の間を蟻の巣のように延びる石造りのラビリンス。大林宣彦はこの街で「迷路のように彷徨《さまよ》って欲しい」と語りました。
観光客はガイドマップを持ちながら、オリエンテーリングよろしく街を歩きます。行き着く先は山頂の展望台、はたまた小さな寺院、これといって観るべきものはありません。一応の名所は街を歩く為の便宜上の目的でしかなく、尾道観光とはこの奇妙な街を「歩く」ことに終始します。トタン屋根、格子の扉の前に干された子供用の運動靴、つづらおりの石段に一息つき後ろを振り返ると、折り重なった屋根屋根の向こうに海が見えます。山と市街と海、これらが一望出来る光景は、遠近法を狂わせた風景画のようです。それぞれの別な時間が重なり合い、景色は時を静止させます。地図を眺めていると、宇野重吉に似た小柄な老人が話し掛けてきました。「何処へ行かれます」「このお寺まで」「それなら近道をお教えしましょう」。宇野重吉は僕の肩を叩き、険しい山道を上ってゆきます。「私は毎日この道を散歩するのです。時にはあの山の頂きまで登るのですよ」、宇野重吉はニコニコしながらそう語り、一軒の家を指さしました。「この家が『時をかける少女』という映画のロケで、主人公の女のコの家になった処です」。蒼い三角屋根の家は、この辺りに少し不釣り合いな西洋風の佇《たたず》まいをしておりました。「誰か棲んでいるのですか?」「ええ、今も人が棲む民家のようです」。
少女は少年と出逢い、初恋は柔らかな記憶だけを遺して消えてしまうのなら、尾道の街は淡い夕暮を海のみなもに映してくれることでしょう。この街は思春期に支配されています。白い開襟シャツの中学生が、長い坂道を自転車を押しながら帰っていきました。彼の好きな女のコは、彼の気持ちを知っているのでしょうか。もう暗くなり始めます。夜は船の汽笛を聴きながら防波堤に座り、一人で花火でもいたしましょうか。
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私の彼はミスター・スポック
友人のSさん(♀ 二九歳)が語ります。「この人カッコいいでしょ。私、この人と結婚するの」「面識はあるの?」「テレビで観ただけ」「どうやって知り合うの?」「根性」。夜中にファミリーレストランでタレントが載ったグラビア雑誌を何冊も見せられる僕は、少し可哀想です。けれども一笑にはふせません。
よく中高生向きの雑誌の悩みの相談室で、「私は恋をしています。でも、彼は手の届かない芸能人です。私はテレビやコンサートでしか彼と逢えません。どうすればよいでしょう」という投稿があります。このテの悩みに関する回答はいつも決まっていて、「貴方くらいの年齢は誰もが芸能人に憧れます。しかし貴方は本当の彼の姿を知らない筈です。今の気持ちは単なる憧れです。もう少し大人になれば本当の恋をするでしょう」というものです。
僕はこの回答には不満です。どうして相手がテレビの中の人なら、嘘の恋なのでしょう。もしこれが「いつも電車の中で見かけるあの人」だったらどうでしょう。出逢いは千差万別、街角で見初《みそ》めることもあれば、テレビで意中の人を見つけることだってあります。本当の彼の姿を知らないなんていいますが、普通の恋愛を考えてみたって、一体どれだけ相手のことを知って好きになるというのでしょう。恋の最初は片想い、相手を自分のイメージに嵌《は》め込む美しき誤解は、恋の基本というものです。ヒトラーや野口英世という歴史上の人物、ミスター・スポックやカッパなどの架空の人物ならともかく、芸能人なら同じ地球に棲む人間同士、知り合う機会なんていくらでもあります。本当にそんな恋を成就させようと思うのなら、綿密な計画と強引な行動力で罠を仕掛ける。業界に就職するもよし、家を探しあててその前で行き倒れになるもよし、なにしろ相手は芸能人、尋常な努力ではいけません。同じ恋をするなら獲物は大きく狙え。そんな前向きな姿勢は、きっと校長先生も誉めて下さることでしょう。そうして見事接触に成功したあかつきに、貴方がどれだけ素敵なレディであるかが勝負の分かれめ。その日の為に、貴方の乙女に磨きをかけておくことが大切なのです。
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J・コーネル展に寄せて
それは記憶の箱庭、閉ざされた錬金術の結晶。
標本箱を想わせる木箱の中には、コルク球、外国切手、天体地図、切り抜かれたブリキの太陽……。箱のオブジェを作り続けた作家、ジョゼフ・コーネルは箱という限定された空間に、レディメイドで世界を配列いたしました。内部が白く塗られた箱の中には、カシオペアの描かれた星図と、平行に通された二つの金属棒の上に静止する白いボール。流木の欠片《かけら》、折れたパイプ(『カシオペア#1』)。同時代のシュルレアリスト達と余り交流を持たず、ひたすら自らの幼年期や古めかしい神秘主義的主題のみを再現し続けた彼の作品(或るものは二十年以上の歳月をかけて)は、僕を「あるべきものが正しくあるべき場所にある」王国へと導いてくれます。
彼は熱心にクリスチャン・サイエンスを信仰していたそうです。彼の作品にみられる不可思議で真面目な規則性に、その信仰との共通点を見出すことは容易です。彼は秩序を重視しました。その為、無秩序を好むシュルレアリスト達を苦手としました。「神様」とは一つの「法則」のことです。その法則がどんな類のものであるにせよ、一つの定理に従って運動する物質は常にエレガントです。僕達は彼の作品の前に立ち、方程式のXに自分自身を放り込めばよいのです。そうすれば時と空間を超えて、僕達はきっと同じ場所で巡りあえる筈です。
閉鎖された世界、多くの人はそれをネガティヴなものとして受け取るでしょう。しかしこの現実世界は、僕達にとって余りに暴力的過ぎます。菜の花に付随する油虫、涙に連なる鼻水を、自然主義者の如く了解することに何の意味があるのでしょう。汚いものには眼を背け、臭いものには蓋をする勇気と潔さこそが、乙女的なポジティヴではないでしょうか。趣味と自閉の温室、個人としての狭い宇宙からアンドロメダの彼方を再構築したコーネルに、僕は深い信頼感を覚えます。『星ホテル』『鳥達の天空航法』『アナレマ 日の出と日の入りの時刻 昼と夜の長さを測る目盛り尺』、タイトルだけでも充分でしょ。僕らは何時だって、神秘主義者です。
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一九九三年ロボコンの旅
そう、僕達はいつも機械の身体になりたかったのです。ロボコンのように、或いはウランちゃんのように、デフォルメされたデザイン的身体、野球選手よりアイドル歌手より、僕らは超合金のオブジェに生まれ変わりたかったのです。
時折一人で自分の掌を見つめます。関節には無数の皴《しわ》が走り、細胞の有機的質感は魚の鱗《うろこ》のよう。その余りのグロテスクさに、僕は吐き気をもよおします。そうなれば生命のメカニズムの全てがとても不自然で下劣なものに思われ、食事もままなりません。肉を噛み切り口中で咀嚼《そしやく》することを想像するだけで、気が変になってしまいそうです。「ロボットみたく、エネルギーをタンクに注ぎ込むだけなら、何とエレガントなことだろう」。世俗の象徴である肉体、食欲や性欲に激しい嫌悪感を覚える時、駅のホームで酔っ払いが大声で浮かれています。同級生はどんな話をしていてもすぐに異性の話と擦り替えます。汗の匂い、単純なリビドー、新陳代謝。グラマラスな現実に対し、僕は理不尽と知りつつ悪意と軽蔑の眼差しを投げつけてしまいます。
何時の日にか、僕達は夢みるマシンになれるのでしょうか。数式の如く明晰で、鉱石みたいに潔《いさぎよ》い、新しきポエジーで造られし生命体。それはバーチャルでもドラッグでもなく、イマジネーションで構築された結晶の姿。規則正しい世界観によって歯車は回り、弧を描く点は正確に始点へと帰結する。多くの人が追憶に失われた世界を形成したように、僕達は未来に逃避行しています。薔薇色の新世紀、そこで僕らは永遠の冬眠に入るのです。
留まろうとするDNAと、進化しようとするDNA。僕らは現実を蹴散らし、未来に向かうDNAに搭乗するのです。引き止めるお友達の手を払い、甘く囁く恋人の腕を振りほどき、僕らは出発します。完全なフォルムを手に入れる為(ソレワミライノイヴニナリ)、時間の果てを確かめる為(ワタシガワタシデアルクニニ)、乙女はいつでも冒険者なのです(ハロー、ナルキソス。ナゼナラキミワカミダカラ)。無臭のエロスは、プラスとマイナスの明解な化学反応なのかもしれません。
よく澄み切った冬の夜空、シリウスを見上げ、君も長旅の準備をしているところでしょうか。
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皇室礼讃
唐十郎は昔「僕は右翼的な作家だ」と云いました。なるほど、子宮をイメージした紅テントの中で繰り広げられる入れ子型の物語は、一つの観念に凝縮されてゆくダイナミズムに支配され、それは同時代の寺山修司のものとはともすれば、正反対のベクトルを有していたといえるのかもしれません。アングラが左翼のシンボルであった時代、そのような発言をした彼に敬意を表し、僕もこの際公言しましょう。「僕は皇室が大好きです」。
皇太子様ご成婚で皇室ブームに沸く昨今、僕には天皇制が政治的に何を意味するのかが解りませんし、興味もありません。僕にとって大切なのは、皇室が絶対的存在であることなのです。乙女がいつも憧れたのは、何処かの国のお姫様であり、魔法使いサリーちゃんでした。思えばそれは特権的存在への憧憬だったのです。皇室は現代に残された唯一の光のタブーです。僕達はどんなにお金持ちになろうとも、皇族になることは出来ません。皇族とは生まれながらにして皇族であり、誰も変えることがならないのです。この絶対差別の何と素晴らしいことでしょう。乙女の国に民主主義は必要ないのです。乙女は乙女の国の国粋主義者です。右翼思想とは、一つの真理が全てを導くエレガントな美意識であらねばなりません。
マスコミが日常に侵食し過ぎた現在、銀幕のスターはテレビで一般人との交際を公言するのもはばからない野暮な時代になりました。皇太子様のご結婚は、相手が一般人というのが多少残念ではあるものの、やはり皇族は皇族同士結婚して頂くのが、遺伝子上少し問題があろうともいと良ろしと思いはするものの、それでも皇室と僕らの距離には次元を超えた隔たりがあります。芸能人との結婚は作戦次第で誰にでもチャンスはあります。しかし皇室はそうはいきません。家柄や学歴、その他諸々の物理的不可能さが伴います。「世の中にはいくら頑張っても無理なことがある」──この教訓は今の時代にとって、とても爽々しく響き聞こえます。
結婚式には、六頭だての馬車が路上を走るそうです。忘れかけていた少女趣味的シチュエーションを、実現してしまう天皇家は偉大です。古しき言葉を操り、様式のベールを決して外さない宮内庁。開かれた皇室なんて必要ないのです。僕達は皇室アルバムで、遠くから貴方がたを眺めているだけで満足なのですから。
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乙女と性欲
普段から「ルー大柴がカッコいい」とか「森本レオはセクシー」とか発言しているせいもあり、「私はホモの人に偏見はありません。野ばらさんも世間の眼に負けず頑張って下さい」というお手紙を頂いたりして、途方にくれてしまいます。別段ホモセクシャルに思われていても構わないのですが、実際そうではない僕にとって、それは弁明するべきことなのか、そのままにしておいていいものなのか、判断に困るところです。
乙女はホモセクシャルが大好きです。高畠華宵の描く禁断の同性愛的美少年から、竹宮恵子の代表作『風と木の詩』まで、ホモは乙女の永遠のテーマなのです。何故に乙女はホモセクシャル(特に少年愛)が好きなのでしょう。それは乙女の歪んだ性欲に原因があるのです。万人に性欲があるように、乙女にだってそれはあります。しかし、立派な乙女の場合、性欲はストレートな形(『ポップティーン』的)をもって放出されることは先ずありません。性への好奇心と嫌悪感、憧憬と不安、現実と観念の狭間で、乙女の性欲は迷宮を駆け巡ります。迷宮の中で醸造されたコンプレックスは、ホモセクシャルという乙女の肉体が自ら関与し得ないエロスに代償を求めます。完全なまでに耽美な「空想のホモセクシャル」。乙女は閉ざされた都合のよい虚構の世界に、リビドーのバランスを保つのです。多分にナルシシズムを伴う幼きヰタ・セクスアリスのネガ、それは現実のホモセクシャルの人達にとっては甚だ迷惑なものかもしれません。しかしそんなことはお構いなし、自分勝手は乙女の基本ですもの。
現実の恋愛は、時に僕達を辟易させます。リラの木の下で口づけをかわすことだけで恋が成立するならば、それはなんと素晴らしいことでしょう。しかし現実は上手くいきません。恋愛とは動物的本能から派生する諸刃の剣、いつしか僕らは現実を思い知らされるのです。それでも、僕達は観念の恋愛を忘れ去ることが出来ません。我々は奇形のエロスを持ち、安易な本能に反乱を起こします。街に溢れるひねりのないリビドー、チャゲ&飛鳥の歌のような恋愛なんて、想像力の欠片もない犬の恋愛です。素直で直接的なエロス程つまらないものはありません。がんじがらめに拘束されたバロック的エロスの捌《は》け口を求めて、悶々と暮らすことこそが乙女である必須条件なのです。
半透明な身体をした栗色の髪の少年が、瓜二つの少年とか細い指を絡ませあい、互いの吐息を確かめあう絵空事。おめめはキラキラ、周りはお花。遥かに肉体を逸脱した超肉体の結晶。逃避的少女趣味と罵られたって反省いたしません。これが乙女の実存主義なのですから。
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春の初めの乙女のコートは
春も暖かくなり、桜も満開になってしまうとよろしくない。丁度コートを羽織り電車に乗れば、窓硝子からの日差しがほんのりと、下着を汗ばますくらいの春の初めがいとよろし。
こんな微妙な季節は気づくとすぐに終わってしまい、また来年の春の初めを待たなければならないのです。朝はまだ寒く、顔を洗うのも非常に億劫《おつくう》、それでも冷たい水で顔を洗いみつあみをキリリと結んで、セーラー服の上に紺のダサいコートを着込むのです。僕はこの学校指定の紺のコートが大好きです。僕の通っていた学校には指定のコートはなかったのですが、その頃から既に僕は、冬にお目見えする紺のコートに眼をつけていました(中年のオヤジみたいだ)。中途半端な長さ、中途半端なAライン、レインコートのように素っ気ないコートは、ボタンを全部閉めて、蓑虫のように着るのがベストです。髪形は太いみつあみ、おさげ。素足(ストッキングは野暮ですよ)に白の短い靴下を履いて、靴はやはり指定の黒いストラップ・シューズ。首を亀のように不格好に縮めて、マフラーだけはちょっぴりお洒落なものを選んで、国鉄のホームに佇めば、これはもう乙女の定番スタイルです(私鉄より、やはり国鉄のホームなのです。JRなんて云ってはいけません。民営になったとはいえ、どことなく共産主義的な灰色のホームと赤茶けたレール。紺のコートの寒い春の乙女には、これが一番ハマるのです)。
学生時代は「ダサい格好を極める」。これがハイレベルな乙女の在り方です。制服とは生徒を格好悪くみせようと計算して作られたものなのですから、スカートの裾を詰めたり、指定外のブラウスを合わせたりしてみても、そのダサさは決して克服されるものではありません。本当にお洒落に着こなしたいのなら、制服本来の持つ個性を最大限に活かす、つまりは思いきりダサく着ることが大切なのです。眼の悪い人はコンタクトレンズなんてよして、学校では太い黒縁の眼鏡になさるようお勧めしたいですし、鞄につけるキーホルダーも流行りのマスコットなどではなく、「学問成就」のお守りなぞのほうがひときわラブリーに思えます。
重たそうなセーラー服の上に薄い紺のコートを着て、一人でつまらなそうに電車を待っている女学生。その姿はいつも僕の心を揺らします。花屋の店先では、三色スミレが黒いビニールの鉢に入って売られています。チープで可憐な野の花の鉢と、そんな乙女の姿が重なって、僕は春の詩人にでもなってしまったかのようです。四月は入学の季節ですね。新しく制服を着る貴方は、スミレのようにダサくあって下さい。そんな貴方を見つけたら、僕は小さな鉢植えを突然無理矢理、プレゼントしてしまうかもしれません。
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ジェーン・バーキンへのお手紙
僕が貴方の歌声に出逢ったのは、或る日、とても疲れきった夕暮れ、地下鉄のプラットホームでのことでした。雑踏の中で立ち眩《くら》みを覚えながら、重い鞄をごそごそと探っていると出てきた、人から借りたまま聴かずに持っていた一本のテープ。ラベルにはフランス語でタイトルが書かれていたのですが、英語もてんで読めない僕にそれが読める筈もなく、何の気なしにウォークマンのスウィッチを入れたのです。ヘッドフォンから流れてきたのは、痛々しくも強い意志を持った、ちぎれた雲がたなびく、少々ピントが外れた五月の青空にも似た拙《つたな》い女優の歌声(よくアンニュイだといわれますね。だけど僕にはその表現が、いまいちピンとこないのです)。それは衰弱した身体に染み渡り、まるで慰安歌のように凝固した僕の血を洗浄してくれたのでした。
音楽に暗い僕は、サッフォーよりも遅く貴方の歌に出逢いました。「フレンチ・ポップスが好きなような気がするなー」とは思っていたのですが、貴方へは辿り着けずにいたのです。ゲンズブールは知っていたのに、何だか可笑《おか》しいでしょ。こんな出鱈目《でたらめ》な僕のフェイバリット・ソングを思いつくまま羅列してみると、バッハの「G線上のアリア」、パッヘルベルの「カノン」、ショパンの「別れの曲」、メアリー・ポピンズの主題歌「チムチムチェリー」、ジリオラ・チンクェッティの「夢みる想い」、森繁久彌の「ゴンドラの唄」なんてところでしょうか。これらの楽曲の延長線上に、僕は貴方の歌声をみつけたのです。少し、感傷的過ぎますか?
こんな手紙を書こうと思い立ったのは、先日立ち寄ったレコード店で、貴方の四枚組のCD−BOXを見つけたからなのです。一万二千円、財布を開くと申し合わせたように一万三千円。殆ど持っている曲ばかしだとは思いつつも、取り憑かれたみたく僕はBOXを両手に抱えてレジに向かいました。「今年はこれでCDを一枚も買わなくたっていいや」という気持ちでです。このBOXは何だか骨壺のようですね。ゲンズブールの骨壺……、いえ、僕には同時に貴方自身の骨壺のようにも思われるのです。彼がいなくなった後すぐの、何年か前の来日コンサートは幸運にも最前列でした。動く貴方を見ていることがとても不思議なことのように思えました。貴方の歌声は常に追憶の彼方。僕は貴方が遠い過去の人のような気がしてならないのです。
とりとめのない手紙になってしまいました。極東の国より、またの来日を心待ちにいたしております。
あらあらかしこ(男のコはこの結び、使っちゃいけないんだっけ)。
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朝のデカダンス
たまに早起きしてみます。夜明けに近い、つっ突いたらひび割れそうな青い空気の早朝。新聞配達人と夜勤あけの労働者しか知らぬ、老人もまだ起き出さぬ程の朝。テストパターンのテレビをみながら、きちんと身支度を整え、さあ、一日の始まりです。始発にはちらほらと人の姿。電車を降りれば国道には車の影も余りなく、店のシャッターの前にうずたかく積まれたゴミ袋が妙に爽快に映るのは、見慣れぬ朝の景色故なのでしょうか。
「芸術は夜つくられる」と昔の人はいいました。が、僕達はそろそろそんな迷信を捨てなければなりません。確かにその昔、夜は特権的時間でありました。が、今や夜は世俗の手に堕ちてしまったのです。終電が過ぎても街には人が溢れています。彼らは夜に対して過剰な意識で臨んでいる訳ではありません。夜の持つ迷信の力を少しばかり利用しようとする小賢しいエセ不良。現代の夜を支配するのは、そんな民主主義的な昼と夜との両刀使い達ばかしです。
行き場所を失ったデカダンス。そこで相談なのですが、我らが愛しのデカダンス君の居場所を朝に設定してみてはいかがなものでしょうか。俗悪な夜が終わりを告げ、朝のラッシュが始まるまでの静寂の一瞬。我等が乙女は、そんな朝を新しいデカダンスの場として制定しようではありませんか。夜の外出はパパやママに叱られます。が、朝ならいくら早くても滅多に咎められはしないでしょう。健全な行動、クラシカルな思想こそが、清濁併せ飲み過ぎるものわかりのいい現代においては、最も危険なデカダンスなのです。そう、これからの芸術は朝つくられるのです。貴方が芸術的でありたいと思うのなら、今すぐ夜とアルコールの神話を見限り、朝とコーヒー牛乳のしもべとなることです。朝の公園で鳩を眺めながら、爽やかにコーヒー牛乳を飲む時、真の倒錯に貴方の心は躍ることでしょう。しかし、こんな粋な真似は本物のデカダンス、清く正しく美しい乙女にしか似合いません。誠の高貴さがあればこそ、朝の清楚な空気はそのエッセンスと反応して互いのデカダンスを抽出しあうのです。朝を制することは、夜を制するより数倍困難です。
早起きをすれば実に得なことばかしです。たとえば、デートをするとしましょう。待ち合わせの喫茶店ではコーヒー一杯の値段でモーニングが食べられるし、何処へ行っても開園、開店直後だからガラすき。映画館などは早朝割引のところもありますから、やっぱり早起きは三文の得。早起きすれば夜はすぐ眠たくなるので下品な深夜番組をみることもなく、夜更かししないのでお肌もツルツルリン──。九時就寝、五時半起床。これが今一番カッコいいライフスタイルなのです。
ぼ、僕も頑張るので、貴方も努力してみて下さい。
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幻想の植物乙女
ファンタジーとメルヘンを混同してはいけません。二つは似て全く非なるもの、月とスッポン、聖と俗、僕達にとって必要なのはファンタジーであって、メルヘンなどというたわけたものは、駆逐しなければならないのです。
両者は一般的な概念においては、同じ意味あいにとられがちです。何故ならファンタジーもメルヘンも、非現実、夢想、空想の翻訳があてはまるものであり、あえて分別するならメルヘンは「おとぎばなし的空想」、ファンタジーの一ジャンルに属するということでしょうか。勿論、この定義は全くその通りなのです。しかし人々が「ファンタジー」を口にする時、余りにも「メルヘン」的要素が幅をきかせていることは、大いなる問題です。僕達は故に、ここにファンタジーとメルヘンをはっきりと決別させなければなりません。聖者のみる夢と愚者のみる夢が違うように、両者の示す夢想、空想は原子構造のレベルから異なるものです。メルヘンの内在する「夢」とは、陳腐なヒューマニズムに彩られた現実への活力です。「夢があるから負けないゾ」「オレはいくつになっても夢を追い続ける旅人でいたいっ」。メルヘンは夢に暖かさや優しさを求めます。ほのぼのとしたパステル・ワールド、子供の心が純粋だと信じるバカバカしさ、ピエロが涙を流す想像力の貧しさは、僕達にとって最も軽蔑すべきものです。
ファンタジーのもつ「夢」とは、現実を超えようとする想像力の闘争のことです。僕達は現実に倦み、ファンタジーによって生き返ります。ファンタジーにとって現実とは敵であり、アクセサリーなのです。メルヘンにおいて夢が現実の影であるなら、ファンタジーにおいては現実は夢の影。本末転倒してこそ、夢は独立した硬質の世界観を獲得するのです。夢をみる為には、夢の迷路に迷い込み、もはや現実に戻らない覚悟が必要です。江戸川乱歩、泉鏡花、F・カフカ、金子國義、P・デルヴォー、H・ベルメール、大島弓子……、これらは皆、ファンタジーの住人であり、決してメルヘンとは定義出来ぬ作家達です。ファンタジーを「幻想」と訳するならば、メルヘンはさしあたり「幼想」とでも訳せるのでしょうか。
大島弓子の集大成的作品『綿の国星』は、チビ猫の視線から世界を再構築した少女漫画の終着点です。一瞬メルヘンとおぼしきこの作品は、しかしその根本に乱歩の『パノラマ島奇談』にも通じるユートピアへの強靱な意志を秘めています。全世界をポエジーによって観念世界に変換してしまうギミックな唯美主義。彼女の作品を猫が主人公というだけで同工異曲のメルヘンと混同するようでは、もはやファンタジーの住人たる資格はないでしょう。キティちゃんやミッフィーは、ファンタジーにもメルヘンにもなりえます。選択は貴方次第。もし、貴方がキティちゃんに過剰なフリークスの美を感じ、大量生産のウォーホル的残酷さを背景にしながら「可愛い」と叫ぶのなら、キティちゃんはファンタジーになりえるでしょう。僕達はそうやって、リカちゃん人形を可愛いといい、四谷シモンの人形を可愛いといい、『不思議の国のアリス』のテニエルの挿絵を可愛いといい、ウィトキンの屍体写真さえもを可愛いと誉めそやすのです。
夢みることが乙女の特権ならば、僕達は特権に殉死いたしましょう。もう、二度と目覚めない、植物乙女の出来上がりです。
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花咲くエメラルドのお城の星の歌
G・Sが大好きです。ひと昔前に流行ったネオG・Sではなくて、最近脚光を浴びるB級G・Sの類でもなくて、正統派のA級G・S。作詞作曲はプロに任せ、フリフリの王子様衣装を着せられて、ともすれば演歌のような楽曲をかん高い声でナヨナヨと歌う(おまけに、どいつも下手くそだ)歌謡曲は、まさに乙女の大音楽、もう失神しちゃいそうです。
ザ・タイガースやザ・テンプターズ、当時大人達が「きっと女のコは、こーゆーのを求めてるんだろーなー」と一生懸命考え、間違った認識の下に詰め込んでシェイクした乙女のミックスジュースは、まるで宝塚歌劇みたく、不自然でフェティッシュなモンスターになってしまいました。だって歌詞をご覧になって下さい。スゴいんですもの。「僕のかわいい友達は/白いテラスに囲まれた/夢のお城にすんでいる」(オックス「ガール・フレンド」)。「花つむ娘たちは/日暮れの森の/湖に浮かぶ白鳥に/姿をかえていた」(ザ・タイガース「花の首飾り」)。一体これは何処の国の情景なんざましょ? ファンタジーという言葉で包括するには、余りにも過剰過ぎるポエジー。テンプターズには、恋人が無理矢理宮殿に連れ去られてしまう男の嘆きの歌がありますが、その理由は彼女の家が「年貢」を払えなかった為で、ここまでくるともうなにがなんだかさっぱり解りません。繰り返されるキーワードは、「星」「花」「湖」「森」。チープな少女漫画的観念の純粋物質です。
記号的なフィクションの恋愛歌。歌というものが「恋愛をネタにする」ことを逃れ難いテーゼとしているのなら、大笑いしてしまう程の大袈裟さは、かえってニューウェイヴなハードボイルド精神を感じさせます(当時は、真剣だったのかもしれないけど)。現在巷に溢れている、妙に生々しい応援歌調のニューミュージック程、気持ちの悪いものはありません。とりたての魚は新鮮で美味しいのかもしれませんが、ギミックで上品な僕達には生臭さが鼻につき過ぎます。象徴派の詩人達を力で捩《ね》じ伏せたようなレトリック、心のウェットを、きらびやかでちょっぴり滑稽な宝石の中に閉じ込めて結晶化させてしまうことは、乙女のたしなみです。G・Sという歪んだ少女趣味の卵の中に、僕達は恋の妄想を安心して託すことが出来ます。そう、やっぱり恋する人には白馬に乗って迎えにきて欲しいですものね。中途半端な現実肯定はつまりません。気恥ずかしくって、お友達にはいえないですけれど。
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かき氷を食べた話
「いつも、つららを想像するんだ」。彼はそう答えました。「氷の雫の、あれかい」「そう、限りなく尖った、この世のどんなものよりも先の尖った、そんなつららのことさ」。彼は異常なまでの熱心さで、つららの説明を始めました。水晶の原石にも似た白濁の透明感。何処までも細く、先は原子さえも存在しない程、砥ぎ澄まされている。最大に一次元に近づいたつららの先からは、時折きらりきらりと水滴がこぼれ落ちる。誰も触れることは出来ない。その尖端が存在するということだけで、もはや充分なのだ。
「そんなものになりたかったんだよ」。つららの他にも、彼はあらゆる「尖ったもの」を順に誉め讃えていきました。鉛筆の先からコンコルド、蜜蜂の針からやじろべえの脚まで。そして一通り羅列し終えると、その中でもやはりつららが最高だと結論を下すのです。「刃物は駄目だね。刃物の鋭さは相対的で、肉体的だろ。つららが素晴らしいのは、その鋭さが純粋に独立しているからなんだ」「山の頂上は?」「山の頂上か……、あまり興味ないな」。彼はそう云うと、目の前のかき氷をスプーンにとり、愛しげに口に含みました。かき氷もきっと彼の「尖端愛好癖」をくすぐるのでしょう。
「僕は自分を人より偉いだなんて思ったことはないんだ。出来るだけ、いろんな人と仲良くやっていきたいと望んでいる。それでも皆は、スターにでもなりたいんじゃないのかって、噂をした。自分が特別だと思っていやがる、と罵られた。勿論、特別にはなりたかった。だって、つららの先は最小の面積しかないんだから。特別であるのは必要条件なんだ」「淋しくないの?」「なくもない。だけど、つららのことを考えるとね、もう、うっとりとしてしまうんだ」。
僕はふと、一人の少女のことを想い出していました。「エキセントリックな振りをしているんだろうって、軽蔑されたわ」。道端の柊《ひいらぎ》の葉を摘みとって食べたのです。「美味しいだなんて思わなかったわ。バカじゃないもの。だけど、口に含んでみたかったの」。彼女は或る朝、大きなミシン針を飲み込んだことが原因で、この世を去ってしまいました。彼女もまた、尖端に憧れていたのでしょうか。
「落下する水滴が運動速度の時間軸を超えて、結晶化するんだよ。物質が時間を停止させようとすると、三次元には留まれない。尖端はそのことの象徴なのさ」
僕のかき氷は、すっかり薄味のいちご水へと変化してしまっていました。
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スミレの花の魔法の阪急電車
巨大な書き割りのセットはロココ調、ゴージャスであればある程いかがわしく、電飾とパノラマの華麗なる舞台装置は、三文の恋の物語の為に存在する。演じる役者はこの世のものとは思えぬきらびやかな燕尾服とドレスに身を包み、スパンコールの数だけやけにチープで、悪趣味の極致。女性の演じる不自然で大袈裟な髭の紳士、絵本の中に出てきた薄っぺらなお姫様。ここでは全てが虚構、真実の欠片は一つもなく、捩じ曲がった乙女の欲望だけが、安っぽい箱庭の中でハッピーエンドの夢をみる。
フェリーニが好きで、古いMGM映画が好きで、テリー・ギリアム監督による『バロン』が好きで、パペットショーに心ときめくくせに、稲垣足穂がよく解らない。貴族とフランスとワルツに魅了されながらも、歴史の授業が大の苦手な僕は、宝塚歌劇に近親的な親しみを覚えます。もはや形式美では歌舞伎にひけをとらず、商業ミュージカルとしては劇団四季よりも根強いというのに、そのキッチュさ故に閉ざされ、演劇界からは無視され続ける異端のエンタテインメント。限りなくポップでキャッチーではあるけれど、そのポップさが増す程にうさん臭さのベクトルは増大するばかりの、宿命のイミテーション。一般人にはオタクの世界だと卑下されながらも、今尚多くのファンを離さない宝塚歌劇は、関西が唯一誇れる文化の殿堂といえるでしょう。
人工世界こそが、僕らの住むべき都です。白馬に乗った美しい王子様は、長いひだのついたドレスを纏《まと》った薄幸の貴方を、きっと迎えにきてくれるでしょう。リアリズムは人間を堕落させます。七色のイルミネイションに照らし出され、大きな羽根飾りを背負った姿こそが、僕達のあるべき姿なのです。乙女という存在は、常に戯画でなければなりません。少年からの戯画、そして女性からの戯画。美が現実の戯画であるように、キッチュこそが乙女の機能そのものなのです。乙女にダイヤモンドは似合いません。乙女の指で一等輝くのは、プラスチックの玩具の指輪。乙女は戯画であることで、現実のつまらない物理的法則から逃れ、観念の絶対世界に暮らすことが出来るのです。
宝塚歌劇は舞台はもとより、あらゆるアクセサリーがフィクションで構成された王国です。宝塚音楽学校の新入生が、学校の階段の端しか通ってはいけないという校則も、阪急電車に乗る時は最後尾の車両にしか乗車してはならないというルールも、全ては魔法の国のとりきめ。その不可思議な秩序こそが幻想の結晶となり、揺るぎなき架空の城を支えるのです。今また、静かなる宝塚のブームです。気が向けば足を運ぶ程度の浅い信仰しか持たない僕ではありますが、何時の日にかあの大劇場で自作のオペラを上演したいと、途方もないことを夢想する今日この頃です。
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博物館とお葬式
お手紙拝見いたしました。「毎日、死ぬことばかり考えています。どうすれば死ねるのでしょう」。そうですね、どうすれば死ねるのか。「頑張って生きて下さい」と心にもない返信は書けませんし、かといって「お互い、早く死ねるように頑張りましょう」というのも変です。
別に借金がかさんで死ぬ以外方法がないとか、大失恋で生きていく気力もないとか、そういう具体的な逃避ではないですよね。漠然と、死に至りたい。そう、死は常に僕らの憧れなのですものね。僕達の求める死とは、本物の死ではありません。先日、知人のお葬式に参列しました。本物の死、形而下の死には困惑させられます。それは余りに日常的で人間的なものです。「最近の子供は実際の死というものを体験したことがないから、死というものを軽く考えている」と、大人の人から叱られました。全くその通りだと思います。僕達にとって死とは、観念以外のなにものでもないのですから。そして、本物の死に就いては興味なんてないのです。
「ぼんやりとした不安」という芥川龍之介の遺書。ロミオとジュリエットの物語のなんと魅力的なことでしょう。昔の少女小説の主人公は、皆最後は立派に美しく死にましたよね。『愛と死をみつめて』のミコは、不治の病に冒されて純潔のまま死んでいきました。死は僕達を永久の絶対世界へと誘います。B・フォーコンのマネキンのようなオブジェとしての死。そして青臭くナルシスティックなヒロイズムとしての死。溢れる過剰なロマンチシズムは、いつも死によって完結されるのです。
僕達の観念的な死とは、博物館にあるアンモナイトのようだと思いませんか。大切なのは古代の海を泳いでいたイカの化物ではなく、鉱物と化したイメージの残滓《ざんし》。死とは結晶へのプロセスです。乙女は常に死と向かい合わせなものです。赤い大きなリボンも、フリルのブラウスも、ぬいぐるみも、全ては死の象徴のような気がします。何故なら、それは全て生のフェイクだからです。死とは時の止まった世界、僕達が大好きな書き割りのセットも、プラスチックの指輪も、生とは反対の矢印をもった棺桶の中のフィクションなのです。
嗚呼、何時になったら僕達は素敵な死を迎えることが出来るのでしょう。死ねば毎日ご飯を食べなくったって、会社や学校に行かなくったって、嫌いな友人の話につきあわなくったっていいんですものね。石造りの街の教会から弔鐘《ちようしよう》が鳴り響きます。グレゴリオ聖歌の葬列が厳かに通り過ぎます。一回だけ死んで生き返れたら、今すぐ試してみるんですけれど……。こんなことを書いてるようじゃ、暫くはきっと死ねませんね。
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公女様は意地悪がお好き
久し振りにバーネットの『小公女』を読み返してみると、すっかり虜《とりこ》になってしまいました。大金持ちでお勉強が大好きな、誰にでも親切で謙虚な美しいセーラお嬢様は、或る日パパが破産して病死。いきなり哀れな女中暮らしで、食事も満足にさせて貰えず、雑巾のようにこき使われます。雨が降り、お腹はペコペコ、それでもお使いに出された道すがら、セーラは四ペンス銀貨を拾います。ひもじさに負けてそのお金でパンを買おうとすると、道端に乞食の女のコが座っていました。セーラは考えます。「もし、私が公女様だったら、位から追われて貧乏になっても、自分よりもっと貧乏な人に出くわしたら、その人に……分けてあげるわ」。
嗚呼、何と心の優しい少女であることでしょう。だけど、何だかちょっぴり嫌なヤツでしょ。セーラはいつもこうやって、自分の逆境を乗り切るのです。「私が公女様だったら」なんて考えるのは、余りけなげとはいい難いですよね。結構、根性ワルです。だけど、そこがセーラの愛すべき乙女らしさなのです。
根性ワルは乙女の基本。不思議の国のアリスだって、ナボコフのロリータだって、立派な乙女は皆、根性が悪いものなのです。大島弓子に出てくる主人公だって、思い込みが激しく純真なんだけど、最後にはちゃっかり人の恋人を横取りしていたりして、乙女特有の無垢な根性の悪さを発揮しています。天真爛漫さ故の残酷さ、可愛さと共に存在する意地の悪さ。一見相反するこれらのものが矛盾なく包括されることこそが、乙女を天使的存在であらしめる訳です。
自分のことしか考えないからこそ、乙女です。セーラの「公女様だったら」は、自分のことにしか興味を持っていない証拠、実は他人のことなんてこれっぽっちも思っちゃいないのです。常に「私が一番」の乙女学では、自分の世界観に合わないものは排除されるべきです。ですから、嫌いな人の上履きには画鋲を入れるのが当然ですし、趣味に合わない人の着こなしはバカにしたくなります。好きな人以外には、優しくなんてなれません。乙女は心が狭いのです。「女優の××さんは、可愛い顔してマネージャーをイジめるらしいよ」なんて話を聞くと、とたんにファンになってしまいます。謙虚、平等、親切という俗っぽい美徳を超えた硬質の美徳があるからこそ、乙女は平気で意地悪になれるのです。美しく気品さえあれば、意地悪は星の輝きと化すことでしょう。根性ワルであることにネガティヴであってはなりません。あくまで堂々と意地悪を遂行し、決して反省してはならないのです。
根性の悪さは乙女の本能なのでしょう。明日はどんな意地悪をいたしましょう。僕は三度のごはんより、人の悪口が大好きです。
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品性に就いて
深夜にテレビを観ていると、小劇場の公演をやっていました。暫く演劇というものを観ていなかった僕にとって、舞台効果などはなかなかに触発されるものがあったのですが、役者や脚本の甲乙を差し引いてみても、どうにも面白くないのです。観るに忍びないといったほうが妥当なのかもしれません。一体何が忍びないのか。ベッドの中でブラウン管に向かってつらつらと考えるに、はたと思い至りました。問題は「品性」なのです。
演劇はメタファーを多用する芸術です。美術にしろ文学にしろメタファーは重要なアイテムの一つなのですが(メタファーを伴わない作品は個人的に余り興味を持てません)、シェークスピアの絢爛《けんらん》豪華な修辞句から現代のアングラ演劇まで、演劇はその特質上、存在の合わせ鏡のようにメタファーを使用します。時空と意味が捩れ、散らばる星屑がやがて一個の観念に集結するダイナミズムは、なんと美しいことでしょう。が、しかしメタファーとは神の領域なのです。神の姿に似せて人間が創作されたように、スピカの輝きを名もない一介の少女に与えるならば、その時詩人は創造主にならなければなりません。そして創造主たる不遜な行為が詩人に赦されるのだとしたら、それは彼の人間性などという卑小なことが問題なのではなく、品性が問題になる訳です。
品性のない作家のメタファーは醜悪の極みです。メタファーとは宇宙を再構築する行為です。少女がスピカに身を変えれば、その反動で金星は蛇にならないとも限りません。アンドロメダの彼方から角砂糖の結晶にまで及ぶメタファー、即ち宇宙概念は、知性や感性などで成し遂げられる筈もありません。例えば小劇場の旗手と謳われた野田秀樹の作品には、常に品性がありました。彼の技法や主題をいくら真似てみても根本の品性を模擬出来なければ、幾千の言葉を連ねたところでブリキの月が闇を照らすことはないでしょう。唐十郎には風のような品性がありました。薄汚いテントの中で涎《よだれ》を垂らしながら駄洒落を連発する乞食。王子が乞食を演じるからこそ物語は成り立ちます。これが品性のないエセ王子だったらどうでしょう。物語とはいえ、人の涎を誰が好き好んで観るでしょうか。原子構造が同じであればこそ、石墨はダイヤモンドへとメタモルフォーゼ出来るのです。
正しい乙女に必要なものも、この品性です。品性があればこそ、乙女は意地悪でも我儘でも、盗人でも赤貧でも赦されるのです。アインシュタインは「数式はエレガントでなければ」と云いました。エレガントとは品性、そして数式とは宇宙構造のメタファーだったのです。
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F式・秘密の花園
両親を亡くした少女は、人間嫌いの風変わりな叔父のお城に身を寄せる。陰鬱な光と影に支配された迷宮の城、夜毎聴こえくる亡霊の声。やがて少女は迷宮の奥に幽閉された車椅子の少年当主に出逢う。少年のユートピアへの鍵を握る少女は、召使いの弟と病気の少年を操りながら、残忍なコケットとして調教の快楽を覚えはじめるのだった──。
中世趣味、ゴシック、少年愛、ロリータ、オブジェ嗜好……、澁澤龍彦好みの高貴なエロチシズムが全編を貫くその映画は、アニエスカ・ホーランド監督による『秘密の花園』。愛と感動のクラシカル・ファンタジーと謳われたロードショー・ムービーです。謳い文句は大嘘で、よしなしごとにかまけて映画館に切符を買って入るなんて殆どしなくなってしまった僕が久し振りに、「この映画は絶対観て下さいね」と半ば脅迫まがいに勧められて足を運んだ今年(九三年)最大の収穫、十九世紀的眼の保養程度のつもりだったのですが、成人指定にしなくてもいいのかと懸念する程の見事なデカダンス作品でありました。一応、物語は病弱な少年が少女と花園に触れ、心身共に健康になっていくという原作の体裁はとっているのですが、あくまでそれはアリバイ。無垢なるドミナとその前にひざまずく二人の少年達の遊戯は、バタイユの『眼球譚』を想わずにはおれませんし、随所に鏤《ちりば》められた象徴的オブジェ(花園、鍵、写真機、マスク……)は、フロイト的フェティシズムを満足させるに充分なものです。こんなことをいってると、「そんな穿《うが》った見方をして」と叱られるのかもしれません。ですが、最後の感動的なシーンを想い起こしてみて下さい。少年は今まで自分を避けていた父親にその健康になった姿をみせ、親子は抱擁をかわす。瞬間、少女は急に泣きながらその場を走り去る。一人ぼっちで野原に座り込む少女の前に、一頭の白馬が現れて──。どうです。このシーンはやはりフロイト的に解読するしか仕方ないでしょう。「ドミナとして少年の上に君臨した少女は、自らの罠が少年のエディプス・コンプレックスを克服させたことに気づき、愕然となる。もはや少年が初期性愛の対象から自立してしまったことで孤独に陥った少女の前に現れるのは、男性器官の象徴である馬。白馬であるのは少女的観念の男性器官か?」。
澁澤龍彦、バタイユ、金子國義、ベルメール、バルチュス、クロソフスキーなんぞがお好きな『夜想』派乙女には強力ご推薦。下手な前衛映画を観るくらいなら、こちらのほうが数倍お得です。ビデオなら箪笥《たんす》の中で卵でも食べながら、じっくりご鑑賞下さいませ。
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ロリータの卵
大きなリボン、フリルのブラウス、ワイヤー入りのバレリーナ風スカート。百円の指輪、キティちゃんの文房具、大きなクマのぬいぐるみ。まるで白痴の如きロリータ少女。「悩みはないの?」「ない」「不安は?」「別に」「嫌なことがあったら?」「泣いちゃう」。お菓子の家は食べ放題。世界はいつも君の為だけに存在している。呆けた笑顔でクルクルとスケートリンクを滑走するロリータの、それはフェイクな哲学なのでした。
生物の授業の最中、先生はこう教えてくれました。「生命は全て、丸い形から始まる。卵という形を思い出せば、理解出来るね。抵抗力のない個体は外部からの危険を逃れる為、球体を指向する。物理的にも精神的にも、生物の攻撃本能は球形に対して減少する仕組みになっている。丸い形、つまりそれは、もっと寓意的にいうならば可愛い形といっても間違いではない。鶏を考えようか。外部に対して防衛力を持たない順は、卵、ひよこ、鶏だろ。ひよこにとっては、その容姿を可愛く擬態させる、限りなく球体に近づけることで身の安全を確保しようとしているんだ。人間にしても、赤ん坊はどんな赤ん坊でも可愛く球体を指向している。絶滅したドードーは、自然界の法則に於いて抵抗力のなさから淘汰されたことで有名な鳥だが、やはりぬいぐるみのようないかにも愛らしい姿をしていた」。
ロリータはそんな法則に従おうと思いました。大きなリボンは蝶々の擬態。ぬいぐるみに同化し、解読不能な玩具の振りをして生きてゆくのです。それこそが、ロリータを残酷な世界から守ってくれる唯一の方法であったのですから。探偵がバーバリーのトレンチコートを傷つきやすい魂の鎧とするのなら、少女は Jane Marple のデコラティヴな衣装に硝子の細胞を包み込みます。これが乙女のハードボイルド、固ゆで卵主義なのです。踊るスケートリンクは薄い氷の虚実皮膜。その下には忌まわしき現実の地表があること、そして氷は春になれば溶けて消え去ることを、ロリータはちゃんと心得ています。それでも、壊れたゼンマイ仕掛けの鳩時計(秒針だけがまわっています。長針と短針は永久に同じ場所を指し示して)は、スケート靴を脱ぐことが出来ないのです。
愛しき乙女の国を守る為の不可能性への戦い。時間を停止させようとする固ゆで卵。時間より早くスピンを繰り返せば、きっと奇跡は起きる筈です。さあ、百合の軍旗を翻《ひるがえ》し、僕達はまた性懲りもなく、スケートにいそしみましょう。
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愛はだし惜しみして使う
友人からはよく、「君は心が狭い」といわれます。まさにその通り。母の愛は海よりも深く、僕の心は猫の額より狭しなのです。例えばCDや本にしても、心の狭い僕は殆ど衝動買いというものをしません。「これはイイかな」という程度の心の揺らぎではお金と時間が勿体なく、ついつい慎重に「絶対イイに決まってる」ものしか買わないのが常。故に新作、新刊の類に縁遠いのは道理、巡りあうのは古典や同系統の作家ばかし。いきおいますます視野は狭く、凝り固まっていくのです。
つまりは僕の性格は「ケチ」なのだと思います。いろんなことに対し、無防備に自分の心を開くことが勿体なくて仕方ないのです。僕はいつだって王様きどりです。王様は偉いのですから、むやみに市井のものを手放しで気に入っては秩序が乱れます。博愛主義なんてもってのほか。宇宙にはそれぞれ愛するべき順番があって、その中心にいる王様が「苦しゅうない」「捨ておけ」と森羅万象を整頓していくのですから。固く閉ざされた高慢な心の扉。しかし、その頑なな鉄条網を超えて王様の耳に届く歌声があるのなら、王様はその歌うたいの虜になるでしょう。茨の柵をもかえりみず侵入してきた者の栄誉を讃え、王様は敬愛の接吻と共に従属を誓います。好きになるということは、その対象を特別なものとして認識し、他のものと区別するということです。特別なものというのは「特別」な訳ですから、沢山あってはなりませんし、簡易にその称号を与えられてもいけません。心を狭くし、ケチであることは、特別なものを明確に選別する為の方法なのかもしれません(実に嫌みな方法ですけどね)。
広い視野を持て、と先人はいいます。が、それはそんなに大切なことなのでしょうか。狭い視野では人生が謳歌出来ない、らしいのですが、限定された生活もそれなりに楽しいものです。ミクロはマクロに絡がります。僕は宇宙の果てで繰り広げられる壮大な未来の誕生より、小さな瑪瑙《めのう》の中で育まれた結晶世界の出口のないアラベスクのほうが、よっぽど美しく思えるのです。漫画なら大島弓子、書物なら澁澤龍彦、音楽ならバッハ、花ならかすみ草、宇宙人ならミスター・スポック。それさえあれば事足ります。時折、他のものに目移りしてしまいそうにもなりますが、そこはストイシズムで我慢のコ。マゾヒスティックな快感も、限定された生活には不可欠な要素です。
偏愛こそが愛の奥義。吝嗇《りんしよく》の精神でせっせと貯蓄した愛を、これぞと決めた対象に洪水の如く降り注ぐ。相手の迷惑なんて考えず、自分勝手に突き進む戦車のような愛。心の狭い人間は相手の気持ちなんておもんぱかってはいられませんから、相手が立ち上がれなくなるまで攻撃を緩めてはなりません。それが……愛ってものなのです。きっと。
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アンドロメダの雑貨屋譚
「月の写真のポストカードがあるとする。彼女は何の気なしにこの店に入ってきて、薄明かりの店内でそのポストカードに出逢うだろう。静かの海に陰影のついた素敵なポストカードだ。瞬間、彼女は机の抽斗《ひきだし》に月の図版の切手があったことを想い出した。月のカードに月の切手。これは名案。帰路の途中、空を見上げてみる。低く大きくカドミウム鉱のように輝く月。その夜、彼女は初めて手紙を書く口実をみつけるだろう。──月の切手とカードが揃ったので、手紙を書いてみました。お月様って、案外大きなものですね。お月様はお好きでしょうか──」
何故雑貨屋を始めたのかという質問に、N君はそんな物語ともつかぬ答えをくれました。N君のお店は古いビルの二階にあり、間接照明の店内には奇妙なガラクタばかり。シューベルトの歌曲やバッハの管弦楽曲が静かに流れる狭い部屋は、いつも人影がまばらで、お客さんはその雰囲気に少々緊張しながらもささやかな買物を愉しんでいるように思えました。
「雑貨屋なんて、儲からないんだよ」。N君は微笑みました。「衣服はたとい高価でも必需品だし、宝石は贅沢品だがお金持ちには不可欠なものだ。だけど、雑貨というものは誰にとっても無駄なものなんだ。だけどね、無駄なものにしかロマンチシズムは宿らない。夜に月の手紙を書く少女に、本屋なら恋愛のHOW TO本を売ろうとする。教授ならば手紙の書き方講座を開く。だけど、僕がやりたかったのは、月の切手を持った少女が月のカードを見つけるという、一億分の一の可能性を待つことだったんだ」。
オリーブ少女の憧れの職業ベスト・ファイヴにいつも入る、雑貨屋という職業。雑貨屋の扱うべき正しい商品とは、一体何なのでしょうか。異国の不思議な便箋か、身体にポプリの詰まったテディベア。歯ブラシ、トランプ、花火。売られるものに統一性はなく、商品は一つの想いを実証する為に世界のあちこちから採集されたコレクション。
お店を閉めることに決めたN君は、レジスターを片づけながらこうも云いました。「今度、またお店をすることがあったら、アンドロメダの住人の為の雑貨屋を開くんだ。アンドロメダの地図や、アンドロメダでの必読書。アンドロメダで使うナイフ、目覚まし時計、蝋燭」「地球で使えないものなの?」「さあね。アンドロメダのやかんは、地球上ではラジオとして使えるかもしれない」。
そのうちN君から新しいお店の案内が届くことでしょう。開店祝いには、何をあげましょうか。
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努力と根性
「座右の銘は?」なんてとぼけた質問を受けた時は、八〇%の真面目さをもって「根性」と答えることにしております。「努力」と共に子供の頃より幾度も吹き込まれし修身的慣用句。しかし、この二卵性双生児は、よく考えればお月様と緑亀。これ程に似て非なるものはないのです。
「努力」とは、目標があってそれに達する能力が不足な際、目標に到達出来る為の実力を身につけようと精進する、けなげな秀才的方法論のことです。一方「根性」とは、目標に達する実力がないにも拘らず、何とか欲望を充たそうとする横紙破りな意志力のこと。つまり「根性」には「努力」と違い、正当な順序を経て目標に到達しようという常識の手順が欠落しているのです。例えばここに、甲子さんと乙子さんと丙吉君がおります。甲子さんは丙吉君のことが好きなのですが、丙吉君はどう考えたって高嶺の花。それでも諦めきれない甲子さんは、丙吉君に振り向いて貰おうと毎日ミルク風呂に入り、フランス人からウィットにとんだ会話を学び、丙吉君の好きな本や映画を研究し尽くします。そして見事素敵なレディになった甲子さんは、丙吉君とハッピーエンド。これがいわゆる「努力」というものです。かたや乙子さんも丙吉君に片想い。しかし恋人も出来てしまった丙吉君が、何の取柄もない乙子さんに関心をもってくれよう筈もありません。なのに乙子さんは、思い込みの激しい性質。とりあえずこのままでは自分の気が済まないので、毎日丙吉君を待ち伏せして「好きだ。好きだ。おつきあいしてくれなきゃ、死んじゃうっ」の猪突猛進。電話を掛ける、手紙を送る、家の前では泣き叫ぶ。とうとう丙吉君も根負けしたのか情にほだされたのか、甲子さんと別れて乙子さんとハッピーエンドになりました。──これがつまりは「根性」というやつです。
「努力して頑張る」ことと「根性で成し遂げる」ことの根本的相違がお解りいただけましたでしょうか。「努力」は自分のいたらなさを克服しようといたしますが、「根性」は自分ではなく、状況のいたらなさを捩じ曲げようとする手前勝手なパワーです。両者はそれぞれに「物理的方法論」と「想念的方法論」と換言してもよいのかもしれません。自慢ではありませんが、僕は今まで「努力」というものをしたことがありません。面倒臭い「努力」よりも、時空を歪ませワープするダイナミックな「根性」のほうが、ラクチンでドラマチックです。大島弓子の描く主人公なんて、皆そうやって幸せになりますもの。社会なんてスプーンより簡単に捻れちゃうものです。「いい張る」「思い込む」「反省しない」は生活の三原則。祈れば奇跡はおきなん、です。
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幾何学のミッフィー
澁澤龍彦の最後のエッセイ集の中に、幻想文学の新人賞選評が収録されています。その一節に実に素晴らしいコメントが記されていました。──私は「もっと幾何学的精神を!」と書いた。幻想文学というと、なにか夢のような、もやもやした雰囲気ものだと思いこんでいるひとが、あまりにも多いように見受けられたからである。幾何学的精神は、また論理と構築性といいかえてもよい。──
少女趣味の旗印を掲げてはや幾年。可愛いもの評論家として口に糊する僕は《ウソつけ》、「可愛い」ということに対して嫌みな美食家の如く、シビアにならずにはおれません。ミッフィーちゃんは愛好してもミッキーマウスは駆逐する。キティちゃんは大好きでもけろけろけろっぴは非難する。いわさきちひろではなく太田螢一、安達祐実ではなく緑魔子なのです。赤ん坊や仔犬の姿に嬌声《きようせい》をあげるレベルの低い人達を見るにつけ、僕はつい説教をしてあげたくなります。可愛さはファンシーに堕してはいけません。赤ん坊や仔犬が可愛くないとは決していいませんが、正しい乙女の求める「可愛い」はもっとハイソサエティでなければならないのです。
高級な可愛さとは、スタイリッシュであり幾何学的でなければなりません。ブルーナの描くミッフィーちゃんをご覧下さい。極度に制限されたパターンの組み合わせによるデザインと色彩。それはプリミティヴでありながらもモダーンであり、抽象の想像力とシンボリズムの哲学的様式美であります。下世話な甘ったるさは排除され、結晶化した硬質な甘さが支配する金平糖的世界観。可愛さは反自然として成立いたします。リカちゃん人形の可愛さは、リカちゃんが塩化ビニール製であることに大きく起因します。肉体を逸脱し、自然の猥雑なシステムから遠く逃れた簡潔な法則の中に、僕達は未来の意志を感じます。塩化ビニール、或いはポリエステル、焼け跡のバラックの上にこそ我らがマリアは君臨するというのなら、奇形のリカちゃん人形は「可愛い」という乙女の核を人造サファイアの中に閉じ込めていることでしょう。乙女は可愛さに対して求道的でなければなりません。何を「可愛い」と定義するかで、乙女の質はほぼ決定いたします。俗世の迷信を捨て去り、可愛さのドグマとなること。幾何学の精神こそが、その道標となってくれることでしょう。
近頃は、毎朝八時四五分から始まるNHK教育テレビ『ブルーナの絵本』で目覚めます。今朝は、ミッフィーちゃんが大切なテディベアを失くしちゃったお話でした。さて、明日はどんなお話かな。流石《さすが》はNHK、朝からさり気なく幾何学の番組を流すとはニクい編成です。
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弥生美術館
表参道から千代田線に乗り、根津駅で降りれば言問通り。真っ直ぐに東京大学を目指して緩やかな坂道を上る。大学の塀越しに細い道路を左に折れると、東大弥生門前。閑静な住宅街にひっそりと、その私設美術館はありました。東京を訪れると必ず立ち寄る小さな美術館、高畠華宵終焉の地に設けられた弥生美術館は、華宵の熱烈なファンであり擁護者であった弁護士の鹿野琢見氏によって収集されたコレクションを中心に、様々な企画展が催されているのです。華宵を始め、中原淳一、蕗谷虹児、伊藤彦造や山口将吉郎という大正から昭和にかけての挿絵画家を採り上げる乙女のサブカルチャー的資料館の展示が、その挿絵という性質上、ある種の重厚さに欠けるのはいたしかたないことでしょう。それでも飽かずに僕がここを訪れるのは、館内を充たす「大正ロマン的なるもの」への切ないまでの慈しみの心地よさ故なのです。
入口でスリッパに履き替え(この辺りが私設らしくて素敵です)、三階建ての展示室を散歩します。熱心に見入るというのではなく、『日本少年』や『少女画報』の収められた硝子ケースの間を行き交いながら、遥か昔の抒情を透かしみる透明な空気を吸い込めば、憂いを浮かべたみつあみの少女の心情が身体に浸透してくるような錯覚に襲われます。そう、ここは乙女の為のサンクチュアリなのかもしれません。もはや華宵の描く怜悧《れいり》な貴婦人も、淳一の生んだ利発そうな少女も、窓辺で溜息をつきはしません。当時の読者達より、僕達と過去の印刷物の中に刷り込まれし彼女達との距離は、憧れよりも遥かに遠い。まるきり抽象と化したマヌカン達に懐かしさを感じることもない僕達は、色褪せた古い子供雑誌の中に空虚なロマンチシズムを見つけます。眼を細め、水晶の中に宿る光の行方を確かめるようにしつつ。
二階の渡り廊下を伝って、隣の竹久夢二美術館に廻ります。夢二作詞の『宵待草』が流れています。帰りには入口横のコーナーで華宵の復刻便箋を買いましょう。この便箋は来る度に購入し、大切な人にしか使わないことに決めているのです。また便箋がきれかけた頃、僕はここを訪れることでしょう。帰り道、不忍通りに至るまでのパスタ屋さんに入ってみればことのほか美味しく、「ごきげんよう」と軽やかに別れを告げて、僕はこの日、根津の地を後にしたのでした。
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雨の日の過ごしかた
こんな日はもう、少し悪いコになって、風邪をひいただの腸チフスを患っただのと適当な嘘をついて、ズル休みすることにいたしましょう。だってお外は雨。カーテンの隙間から差し込む暗い光線は心地よい陰鬱さで、耳を澄ませばパラパラと、遠くで太鼓を叩いているような雨の音色。無理に身支度を整えていつものように出掛けるなんて、とてもバカらしいではありませんか。雨の日のズル休みは一等贅沢です。ベッドの上で伸びをして、枕を抱えて呆けている。フランス映画のアンニュイな主人公にでもなった気分で、本棚から小難しい本を取り出し、覚めぬ頭で読書の時間。キェルケゴオル、パスカル、リルケの詩集……。神様を信じている人達の書物がよいですね。
BGMには小さな音で、「ヨハネ受難曲」あたりを選んでみましょう。雨の日にはこんな中世の叙唱曲が、余りにしっくりとくるのです。──そこでピラトはイエスを捕らえて鞭打った。兵卒らは、茨で冠を編んでイエスの頭に被せ、紫色の上衣を着せた。(後藤暢子訳/A・スカルラッティ「ヨハネ受難曲」)──
よく僕は雨が降ると、ウォークマンにこんな曲を放り込んで、外を歩き廻ります。景色はとたんに青白く速度を緩め、世界は一つの方程式の解を求めて流されていくような錯覚に沈み込んでいきます。傷ついたフィルムの静粛なセンチメンタリズム。雨垂れを振り切って走る電車のノイズが、汽笛にも似て耳の奥底に混入してきます。インスタントな信仰心に胸を詰まらせながら、僕はノアの方舟の話を想い出してみます。──その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、雨は四十日四十夜、地に降り注いだのでした。(『創世記』)──
雨の日の過ごしかたの話をしようと思っていたのでしたね。昨夜の夜遅くから降り続けた雨は、読書をしながら二度寝してしまった昼過ぎにはもう、上がっていることでしょう。小鳥が鳴き始めます。電話を掛けてみましょうか。雨にも負けず仕事に出掛けた電話の相手は、用件のない暴力的な電話にきっと困惑することでしょう。いっそ「バカ」と一言だけ囁いて、電話を切ってしまいましょうか。だって、今日は雨ふり。健全な乙女の不健全な安息日なのですもの。主は云われました。「雨の日は務めを怠り、信仰心と共に非生産的な一日を過ごしなさい」と。
主よ、今日一日の無駄を感謝します。この懶惰《らんだ》を赦し給え。アーメン。
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ポーの一族、又は近親相姦の勧め
霧の向こうの薔薇畑で花を手折りし捲き毛の少年。バンパネラ、永遠の生命を持ち、人の血を糧に千年の時を、同じ姿のまま生き続けるもの。点描画のように精巧な絵と厳選されたネームで綴られた少女漫画の金字塔『ポーの一族』は、まるで薄手の絹のカーテンが幾重にもなったドレープを、遠くに過ぎていく台風がさざめかすかのような、萩尾望都の代表作にして最高傑作。ここに早くも少女漫画は終着せりという感すらあります。最も敬愛する作家は大島弓子、青春のバイブルは竹宮恵子の『風と木の詩』である僕なのですが、歴史上最も優れた少女漫画を挙げろといわれれば、迷わずこの『ポーの一族』と答えるでしょう。その風格はミケランジェロの『天地創造』に匹敵するくらい、人智を超えた奇跡的な小宇宙の濃度を有しています。
バンパネラとして異形のものとなった少年、或いは少女は、現実の肉体から逸脱したポエジーの肉体です。バンパネラというアリバイによってポエジーの肉体がリアリティを確立する時、僕達は恋愛という命題が、存在の淋しさ故に互いを呼びあう磁力として本質を語り始めることを眼にします。──「メリーベルがぼくを忘れないでいてくれる/たったそれだけのことが/こんなにも失いたくない思いのすべてだったなんて」。余りにも無防備で赤裸々な言葉は、満天の星空に思わず我を忘れて泣きじゃくる胸の痛みに似ています。それは、きっと原始の欲求なのです。
原始の欲求とは、近親相姦的なエロスです。幼時体験を共有する兄と妹、父の愛した女性の娘を愛してしまう二人の兄弟、孤独のシンパシー故に惹かれあう少年達。異質なもの同士がコミュニケートするのが社会的進化なら、同質のもの同士が引きあうのは明らかに退行であり、ナルシシズムのユートピアへと向かう欲望です。が、一体それの何処に問題がありましょう。幼児的性愛こそが、エロチシズムの最も崇高かつロマンチックな形ではないでしょうか。僕達は自分の分身を探し求めています。その作業がたとえ自己愛の迷宮を彷徨う身勝手な幻想であろうと、気にしちゃいけません。幻想は幻想だと定義してしまう時、ダイヤモンドは石墨へと輝きを失ってしまうのです。
『ポーの一族』は、それが完全な幻想世界に終始することによって、逆に現実的破綻から免れています。物語としての強靱さは勇気です。僕達はこの勇気を見習わなくてはなりません。近親相姦への勇気! 悔い改めたりは致しますまい。
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恋愛に優しいサイコロジー
「理想の男性はハンサムで背が高くてスマートで、お金持ちで包容力があって私だけを愛してくれる優しい人」と云っていた人が、いざとなるとハンサムでも背が高くもスマートでもなく、おまけにさほどお金持ちでもなく包容力もありそうにない人と結婚したりなさいます。彼女達は口を揃えてこう云います。「タイプじゃなかったんだけど、彼、とても優しかったから」。嗚呼、何と愚かしい台詞でしょう。彼女達は自分が高邁《こうまい》な理想に破れ、安易な妥協を選択したことを認めようとはせず、「優しさ」という免罪符の下に全てを正当化しようとするのです(男性も同様ですが……)。
一体、好きな女のコに対して優しくない男のコなんて存在するのでしょうか。どれだけ無能な男のコだって、優しさくらいは溢れんばかりに持っているものです。逆にいえば無能な男のコは「優しさ」を武器にするより術を持たず、「彼の長所は優しさです」と紹介される男のコは、それ即ち無能ということに他なりません。「彼、優しいから」と言訳するくらいなら、潔く「私は理想に破れ、優しさしか取柄のないこんなカスを選んでしまいました。無念です」と、敗北宣言するべきでしょう。本来の欲望を糊塗《こと》して互いに妥協し、まるで傷を舐めあうように寄り添うカップルの醜悪さは、この世の大罪です。「地球に優しく」するのはエコロジー運動ですが、自然は僕達に余り優しくありません。だからこそ、自然は素晴らしいのです。火山は噴火し、津波は荒れ狂う。その意地悪な姿は実に魅力的であり、服従への好奇心を喚起させます。おだやかな湖でも落ちれば溺れるし、涼しげな風は病原菌を運びます。優しさの欠片さえもありはしません。
僕達はたとえ傲慢だと罵られようが、理想の恋人と理想の結婚をしなければなりません。理想を忘れた恋愛感情は、只の性欲です。「優しさ」は未来への前進も進化も拒否します。「優しさ」は現状を維持しようとする保守的な恐怖心を内包します。互いに気の抜けない丁々発止の恋愛こそが、恋愛を文化へと昇華させます。故に恋愛は文学となり音楽となり、僕達を感動へと誘うのです。恋愛に安らぎなんて求めてはなりません。さあ、闘うのです。何となく押し切られて始まった安易な恋愛を捨て去り、叶わぬ怒濤の恋愛へと戦車の如く突き進むのです。貴方の夢みるハンサムで背が高くてスマートで、お金持ちで包容力があって貴方だけを愛してくれて、ついでに優しさも若干持った王子様は、深い森の向こうで貴方が来るのを待ちあぐねている筈です。
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美しき道徳
夏がくると、とたんに世の中が下品になります。日焼けした肌を露出して、海や山で酒池肉林を営む人々の群。雑誌やテレビはこぞって「夏のアバンチュール」をあおり、「開放的な夏休み」は汗と欲望の渦巻く猥雑なエロチシズムで満たされます。嗚呼、なんとはしたないことでしょう。夏休みはクーラーの効いた部屋で、毎日読書にいそしんでおればよいのです。四十日もあれば、プルーストの『失われた時を求めて』を読破出来ることでしょう。
乙女とは道徳的でなければなりません。不道徳な誘惑のはびこる夏に外出するなど、もってのほか。ここでいう道徳とは、「空き缶を道に捨てない」とか「お年寄りをイジメない」といった類のものではありません。辞書によれば道徳とは、「法律など外的な規約ではない、個人の内的な規範」。つまり、「海水浴に誘われちゃったぁ。変なことされちゃうかなぁ。されてもいいなぁ。……でも、もったいないし、やめとこー」とお高くとまる吝嗇の精神のことです。他者からの自堕落な誘惑を自己の美意識によって排するストイシズム──道徳とは、つまり、スタイリッシュな自己愛なのです。
不道徳の示す誘惑は、常に現実の快楽を提供します。そして道徳が夢みるものは、非現実的な観念の快楽です。実存である僕達が観念を追求すれば、重力磁場の抵抗を受けます。故に道徳の求道は受難を伴い、「我慢」というものが必要になってまいります。しかし、この「我慢」こそが、道徳のマゾヒスティックなエロスの正体。「自由」や「平等」が何になりましょう。相対性から耽美は生まれません。私が私を愛する為には、抑制という装置を使い、サディストな自己とマゾヒストな自己を分裂させなければならないのです。
クラシカルな思想は、無意味が故に最高の道徳=責め道具となります。「夕方六時には帰宅しなければならない」「髪はみつあみにしなければならない」。タブーとは破る為にあるといいますが、破ってしまえば不粋というもの。自分でも半ばノイローゼになりながら、「何でこんなこと守らなきゃいけないんだろう」と嘆きつつ、強迫観念的に守ってしまう道徳の悲劇的な美しさは、フィクションの聖なるアラベスク模様であり、DNAに対するラディカルなレジスタンスでもあります。僕達は道徳を尊重し、立派なナルシストにならなくてはなりません。とりあえず、これを読んだ乙女な貴方には、今年の海水浴を禁止することにいたします(違反者はビンタ)。
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心中する心中
ねぇ、君、台風も遣り過ごし、朝なら少し肌寒い、こんな季節にはもう、二人で仲良く心中いたしましょうか。
今時そんな流行らないことをするのは、クラシカルな恋愛故の、酔狂に違いありません。とりたてて理由なぞありませんが、僕達は愛しあっているのです。愛しあっている二人は、やはり心中しなければなりません。お揃いの白装束や指を赤い糸で結ぶのは、ちょっぴり恥ずかしいのでやめておきましょう。霧深い湖にボートを漕ぎ出し、睡眠薬を飲むのが一等ロマンチックだと思うのですが(二人で口に押し込みあいましょうね)、どんなものでしょうか。
低く輝くお月様、昨日買ったばかしのマーブル柄の万年筆と世界文学全集をボートに積み込んで……。いつか君は云いましたね。
「世界が終わる日、そう、或る日突然にみーんないなくなっちゃう日。私は、きっと誰もがいつものように同じ生活を続けると思うの。駅員さんは切符を切って、会社員は五時まで会社で働く。何事もないように、当たり前のように、静かに終末を迎えるの。私は最期の食事のサンドウィッチを食べ終わった後、この歩道橋の上で待っているわ。貴方は来て下さるのかしら。こうして立ち話をしながら、あっさりと死んでしまう。それを想うと、幸せで胸が苦しくなるわ」
世界は愉しかったですか? 君と食べたT町のフランス料理は、高かったけれど本当に美味しかったですね。幾許《いくばく》かの人が嘆き悲しむかもしれませんが、死んでしまえばこっちのもの、知ったことではありません。今更デカダンスでも、純愛悲恋でも、ニヒリズム(これはちょっと素敵かも)でもありませんが、心中という響きの甘美さよ。人間、死ぬのは一生に一度ですから、納得出来る死に方を選ばなくてはなりません。
「お気に入りの歌もみつかったし、一番好きな本もある。とっておきの風景もいえるし、毎日着ても飽きないワンピースだって買った。これから先、それ以上のものがみつかるかもしれないけれど、限定された生活も素晴らしいわ。私の生活は行く先々で色を選択していく塗絵タイプではなくて、あらかじめ決められたピースをみつける為に進んでいくパズルに似ているの」
全てのものが愛しく、いつもより少し早めに登校する遠足の、朝の景色のようです。校庭の木につき始めた小さな実は銀杏でしょうか。もう少し勉強しておけばよかったですね。心地よい後悔を遺しながら、左様なら。屍体って美しくないらしいのですが、まぁ、細かいことは気にしないでおきましょう。
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ボロは着てても心のロリータ
リボン、捲き毛、フリルのブラウスにパニエを仕込んだスカート。そんな完全武装のロリータ・ファッションをこよなく愛する僕の許に、一人の少女からお手紙が届きました。どうやら彼女は、ロリータ・ファッションに憧れつつも、そのような格好が出来ずに悩んでいるようです。そう、世の中にはそのような乙女の苦悩が蔓延しているのです。ブリブリのロリータをしてみたい。だけど、そんな格好をしたらパパに殴られる、近所の人からキ○ガイ扱いされる。理由は様々でしょうが、ロリータ魂を持つ者にとって、これは由々しき人生の一大事に違いありません。
最近、ロリータ・ファッションがマスコミの興味をひいているようです。彼らは相も変らず古めかしい少女文化論をかざし、それが「成長拒否のあらわれ」だとか「セクシャリティの欠如」だとかいう陳腐なコードで、僕達を評価しようとします。決して全面的に間違っているとはいいませんが、的外れであることは確かです。何故なら、彼らの論理には文学的要素が欠如しているからです。僕達が実践するロリータとは、文学的に語られるべきものなのです。ロリータの本質は、ロリータ・ファッションを着用することにある訳ではありません。ロリータ・ファッションに憧れること。ゴージャスなフリルを見た時、失神しそうになるデコラティヴへの生理的恍惚感。十八世紀趣味。たとえロリータ・ファッションをしていなくとも、この宿命ともいえる美的感性を内在することが、真性ロリータの証なのです。ロリータ趣味は一過性のものではありません。サディズムやネクロフィリアと同じく、原罪のように一生背負わなければならない、嗜好の十字架なのです。
たとえば、バリバリのスーツに身を包んだ社長秘書が自分のロリータ性癖をひた隠しにしながらも、内ポケットにそっとキティちゃんのボールペンを潜り込ませているなんて、切なくも美しい姿だとは思いませんか。「秘すれば花」という言葉がありますが、ロリータも然り。ロリータとしてカミングアウト出来ない人は、こっそりと隠れキリシタンのように奥ゆかしきロリータとして、生涯をまっとうすればいいのです。だけど、やっぱり、本当に身も心もロリロリしたいの! という人には Jane Marple や MILK なんかで、一番ノーマルな小物を購入しておくことをお勧めいたします。出来るだけ高価なものがよいですね。大切なお出掛けの時には、それを携帯、もしくは着用。そうすれば、周りのロリータ達に気後れすることもありません。
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切なさに就いて
満天の星空の下、僕達はずっと光の遠さにおののいていました。今、確かに僕達は小さな星を眺めているというのに、その星から出た光は遥か昔の光、今ではもうその星が存在するかさえ解らないのだといいます。僕達はそのことがとても悲しいことのように思え、ずっとずっと肩を寄せあっていたのでした。それは愛や恋という大人びたものではなく、もっと幼くてはかない、切なさという感情なのでした。
僕達は切なさという、たったひとつの頑是《がんぜ》ない感情を知る為に生まれてきたのだといいます。言葉を覚え、学習し、時に笑いさざめき、沈黙し、出逢い、小説を読み、歌を歌い、ドギマギし、大切なものをみつけ、大切なものを失くし、震え、激しく震え、一秒一秒年をとっていくのも、全ては切なさという、生まれたての表皮のない身体が風に吹かれるような感情のせいなのです。僕たちはこの不思議な感情に操られ、死を夢みながらも死にきれず、時に人生を棒に振ってしまうのです。淋しくて、有り難くて、嬉しくて、泣きだしてしまいそうな、自分で自分の身体を抱きしめておかなければ、血液と共に全身を巡るその感情が爆発してしまい、自身がバラバラに壊れてしまいそうな衝動。それは何にもまして苦しく、息が出来ぬ激しさでありながらも一等静かな原始の咆哮《ほうこう》なのです。
──二つの物質の間に働く、互いに引きあう力。ニュートンの発見した万有引力、異符号の電荷や磁極間に働くクローン引力、そして原子核内における核力。これらを物理学の世界では「引力」と定義している──
僕が君に惹かれるのは、君と僕との間に引力が働いているからなのです。君の核と僕の核が互いに引きあうからこそ、僕達は無数の偶然の中から必然を探し求め、今こうして星を見つめているのです。かつては同じものであった君と僕は、どうして離れ離れに存在しているのでしょう。僕は君でありながらも、君が足を踏みつけられても痛くありません。それはとても辛いことです。
地球は月と引力で引きあいます。互いを呼びあいながらも一つにはなれず、何十億年もの間、海は満潮と干潮を繰り返します。切なさとは海のさざめきのメタファーです。波の音は歌います。
──かつて、いくつかの双子星が引力に従って、均衡を破りその距離を縮めた。彼らは激しく衝突し、一瞬にして砕け散った──と。切なさは引力と共に加速し、やがて物質としての姿を失う。切なさの行く先は悲劇なのでしょうか。
それでも僕達は切なさより逃れる術を知りません。たといこの身が砕けてしまおうとも、僕達はずっと切なさの運動に身体を預けるしかないのです。只、こうして一緒に星空を眺めることが、君の踏まれた足の痛みが解らぬことが、こんなにも大切なことだと気づいた今、僕達は何を恐れることもありません。切なさを知る以前、僕達は途方もなく孤独だったのですから。
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オムレツと矜持
鉄の格子で四角く組まれた大きな窓より降り注ぐ木漏れ日が、地下一階のガランとした大食堂の、丸テーブルの上に掛けられた薄青色のチェック柄のビニールのテーブルクロスに反射するのを眺めながら、僕は今、オムレツを食べ終わったところです。ルネサンス様式の建築物として名高い中之島中央公会堂の下にある食堂部。どことなく社員食堂然としたこの食堂が、僕はいたく気にいっています。とびきり美味しい料理が出てくる訳でもないのですが、時代にとり残されたような博物館的風情が、洋食を食するのにいかにもふさわしく思え、中之島に来た時には必ず立ち寄ることにしているのです。
僕は洋食のような文筆家になりたいと思っています。西洋料理でありながらもフランス料理などとは区別される、料理の王道を外された不憫なジャンル。コロッケ、オムライス、ハヤシライスなどが代表的なメニュー。文明開化の頃、それは今の僕達が想像もつかない程、ハイカラなものだったのでしょう。しかし現代においては子供のメニュー、誰も有り難がってはくれません。
今でも洋食屋の看板を掲げているお店には、いくつかの共通点が見受けられます。店構えは質素でありながらもどことなくほのかな気品を漂わせていて、中に入ればテーブルの上にテーブルクロス。何故か名もない画家の風景画が掛けられているのも特徴の一つです。コックさんは皆きっちりとコックの衣装で働いています。それらは皆、古き良き洋食屋の伝統と矜持を彼らが守り続けていることのあらわれではないでしょうか。フランス料理がシンフォニーだとすれば、洋食は室内楽。ダシの効いたふわふわ卵にくるまれた、美味しくって泣きだしそうなオムライスや、本格カレーとは全く正反対のジャガイモがたっぷりと溶けた切ない味のカレーライス。B級とかキッチュではなく、志を高く掲げながら限定された宇宙の中で真摯《しんし》な味を探求する洋食屋さん。そんな洋食屋さんに出逢う度、僕は敬虔なクリスチャンである農夫が何のてらいもなく毎晩食事の前に長い祈りを捧げるのを見るような、宗教的な感慨さえ覚えるのです。
洋食屋さんには粋な老人のお客さんが似合います。ソフトを被りステッキをついた彼の背広は、型遅れですがオーダーメイドです。決して裕福な訳ではありませんが、彼は背広とはオーダーして作るものだと教えられてきたのです。
食後のミルクティも飲み終えました。さて、図書館を覗いて、お家に帰りましょうか。
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お化粧するは我にあり
「化粧なんてするなよ。素顔の君が一番可愛いよ」なんていう男のコを信用してはいけません。そんな男のコは、軟弱な少年漫画に出てくる、優しくって、素直で、純朴で、おしとやかで、明るいけど実は淋しがりやさんな、とんでもない恋人像を貴方に期待しているのです。そのくせ、いざおつきあいを始めると、急に態度が横柄でだらしなくなり、「飾らない俺を愛してくれよ」なんてたわけたことを云い、デートの最中に平気でハナクソをほじったりするのです。
お化粧は乙女にとって重要なテーマです。明確な意志をもちノー・メイクを貫くもよし、バッチリと厚塗りするもよし。しかしそのことに関して男のコにとやかくいわれる筋合いはありません。何故なら、お化粧とは男のコの為にするものではないからです。勿論、世の中にはそのようなお化粧の理由も存在します。が、乙女のお化粧とはさにあらず、それはナルシスティックな自分自身の愉しみ、女性であることを手玉にとった美の遊戯に他ならないのです。「ナチュラルな、ありのままの私が一番」なんていう人達もいますが、なんと横暴な心持ちなことでしょう! ありのままの自分に自信が持てるだなんて、よっぽど完璧な御方か、さもなくば怠惰なおバカさんに決まっています。乙女は基本的に女優意識を持っていなければなりません。自分の理想とする容姿や性格、機能に憧れ、それになろうと模倣する女優的精神、これこそが正しき乙女の前向きさというものです。服を選ぶのも、髪形を変えるのも、お化粧をするのも、全てはプラトン的な向上心の顕れ。三面鏡の前に座り、「今日はハリウッド風、もしくは原節子のように清楚なイメージで」と顔面をいじくることの悦びは、武道にも通じる耽美主義の求道的実践なのです。剣の道が人を倒すことにあらず自分に討ち勝つことにあるのなら、お化粧も然り。人に綺麗といわれることは二次的な問題、いかに自分が自分の美に近づけるかということに誠の道があるのです。
かつて妻の鑑《かがみ》たるものは、就寝の際にも薄く寝化粧を施し、夫に一生涯素顔を見せることがなかったといいます。何たる不自然、これぞ女優の鑑だとは思いませんか。お化粧によって妻たるオブジェを一生演じきる演技者の生活は、真似をするには疲れてしまうので少し嫌ですが、その心意気は見習ってみたいものです。女優的生活は、「気負ってる」「わざとらしい」などと悪口をいわれるかもしれません。だけど全然平気です。だって、わざとらしさは知性の証し。自然体なんて牛や馬でも出来ますもの。水晶に憧れ、JUMEAU の少女人形に憧れ、スカーレット、ロリータに憧れる乙女な心。いつも心にお化粧を。気取りこそが我が人生です。
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●[#髑髏マーク]●[#髑髏マーク]●[#髑髏マーク]
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人を恋うるエッセイ
初めて君に話し掛けた時、僕の膝が震えていたのを君は知っていましたか。ずっと、ずっと、僕は君を遠い処から見つめていたのです。話し掛ける術も持たず、天文学者が一人望遠鏡を覗き、金星の姿にその胸をかきむしられる夜を過ごすように、僕もまた、決して叶おう筈もない君への思慕を抱きながら、呼吸困難の闘病生活を送ってきたのです。君が嫌な人であれば良かったのに。僕の空想を裏切るつまらない実像であれば良かったのに。そうすれば僕は君の偶像を想像力の産物として、自己完結の扉を閉められたのです。けれども、君は僕を失望させてはくれませんでした。僕は君の存在の淋しさを知っています。君だけにしか解らない、そして僕だけにしか解らない特別な淋しさを。僕の存在の淋しさを君にシンクロさせたのは僕の勝手な自惚れの筈でした。なのに、君は初めて逢った僕にこう云ったのです。「貴方と私は同じ星から来たみたい」と。
何故に君はそんなに切ない言葉を、僕に投げかけたのでしょうか。眼をつむり、僕はいつも君のことを考えていました。君は今、目覚めた頃だろうか。きっと今、顔を洗い、歯磨きを始めただろう……。テレパシーなど微塵もない僕に、未知なる君の生活が解ろう筈もありません。それでもそんな君の生活を想い巡らす時、それは何故か当たっているような気がして、その瞬間君と僕とが不思議なもので絡がれているような気がして、僕はたまらなく幸せになれるのです。君の夢をみた朝はそれだけで一日中嬉しく、君の話題が人の口にのぼればかっと顔が火照ります。僕は君と双子になりたかったのです。君のドッペルゲンガーになりたかったのです。
君に何を話せばよかったのでしょう。想いは鉛の箱の中に積もり過ぎ、超新星が爆発する寸前みたく重力を最大にし、もはや爆発させまいと、覚える眩暈《めまい》と共に制するのが精一杯であったふがいない僕は、恋などという大それた感情に辿り着くことも出来ず、もう、泣き出してしまいそうです。それでも、僕はきっと君を或る日、迎えにいくのです。緑色のインクで名前を百回書けば、願いは成就するのでしょうか。世界を敵にまわそうと、力学の法則に逆らおうと、僕は君を何時の日にか手に入れるのです。
僕は、君が大好きなのですから。
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乙女・失格
此頃は探偵小説がやけに愉しく、江戸川乱歩や横溝正史を本棚から引っ張り出しては耽読する毎日です。渦巻く情念、逆巻く怨念、大袈裟な猟奇の心は実に素敵なものです。
先日、お手紙を頂きました。「私はA君のことが好きです。なのにA君はB子ちゃんのことが好きです。私はB子ちゃんとは大の仲良しなのですが、そのような事情なのでつい、彼女に意地悪なことを云ってしまったりします。こんな私は乙女失格でしょうか」──否々、失格でなぞあるものですか。確かに嫉妬というものはこの世で最も醜悪な感情の一つです。しかし、好きな男のコの心が他の人に動いているのに、嫉妬しないでいられましょうか。大いに嫉妬すべきです。そして、B子ちゃんの上靴にそっと画鋲を入れたり、お家にお寿司の特上にぎりの出前を勝手に二十人前注文したりしてあげなくてはなりません。嫉妬する自分を卑下してはなりません。やるからには常軌を逸し、とことんまで突き進むことです。どんな醜い感情だって、極めれば芸術にまで昇華するものです。猜疑を知らぬ無垢な心など頭の悪い動物と同じ、ウェットな感情こそは女性らしさのあらわれであり、前向きな嫉妬こそが貴方をよりいっそう美しくするのです。
乱歩の『地獄の道化師』は、恋の嫉妬に狂った姉が凄まじい執念により、自分の顔を劇薬で焼いてまで妹に復讐する物語です。嗚呼、何と切なきパッションでしょう! 僕はこの姉に無限のシンパシーと、激しき愛しさを感じずにはおれません。嫉妬に燃える暗い瞳の奥底の炎、闇の引力に加速する生理的情動は、もはや気高く、神聖でさえあります。乙女は常人以上に美しいものを美しいと感知する能力にたけています。さすれば、その反対に憎いものをより一層憎いと感じることも当然の理ではないでしょうか。思い起こしてみれば、昔の少女漫画の敵《かたき》役は皆、ことごとく意地悪でした。しかし、嫉妬に駆られて奸計をはたらくそれらアンチ・ヒロイン達のフラギリテートは、主人公の公明正大な輝きよりも、硝子の破片の持つ存在のあわれとして耽美であり、胸をしめつけるのです。断言致しましょう。嫉妬する乙女はなにものにもかえがたく美しい存在であることを。大いにねたみ、そねみ、ひがみ、それを動力として世界を変革するのです。負けちゃいけません。
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トウキョウディズニーランドニイク
それは今世紀で一番、素晴らしい一日だったのかもしれません。遅蒔きながら恥ずかしながら、先日僕は初めて東京ディズニーランドに足を踏み入れたのでした。僕にとってそれは余りにも巨大な妄想となっていたものですから、実際、そびえたつシンデレラ城を拝んだ時には、何だか物足りなさを感じてしまったことは事実です。しかし、広い園内を足を棒にして歩き回るうち、次第に僕の細胞はこのはりぼて帝国のエッセンスを吸収し、眼の前にかぶりもののハンプティ・ダンプティや、映画さながらのメアリー・ポピンズが現れた頃には、すっかり我を忘れて駆け出していたのです。
冬の夕暮れは早く、五時になれば辺りはすっかりイルミネイションの都に様変わりいたします。建物という建物、樹木という樹木は小さな幾千の電球で彩られ、いつかいた筈の架空の国を想い起こさせます。そう、僕達はきっと、この国で生まれたのです。資本主義的なグロテスクの虚構と非難する人もいます。しかし、それが美しさにとって何の意味をもつでしょう。僕は呆然と立ち尽くしながら、乱歩の『パノラマ島奇談』を想い出していました。人工美の極致、精神のユートピア、それは人類が創造しえる至福の風景でした。勿論、銀河系の壮大な美しさには及ばぬものなのかもしれません。が、僕は鳥の美しさより飛行機の美しさを愛します。人体の美より人形の美に心揺らぎます。そしてその想いこそが、真のヒューマニズムだと信じているのです。
時計は九時を回り、エレクトリカル・パレードが始まります。大勢の人々に混じり道の傍にしゃがみ込み、息を殺してパレードを待ちます。耳慣れた電子音楽が場内に鳴り渡り、闇の彼方から突如、福音を告げる救世主の舟のように眩い光に包まれた隊列が現れました。かぼちゃの馬車、巨大な玩具の兵隊、ダンボ、海賊船……。死んでもいいと思いました。音楽が止み、パレードは終わりを告げます。パレードの最後尾にはその名残を惜しむ人達がハーメルンの笛吹きさながらについていきます。いてもたってもいられなくなり、僕もその後を追いかけました。僕は泣いていました。男のコが泣いちゃいけません。しかし悲しさでもなく嬉しさでもなく、只、純粋な美の衝動に涙を流すことは、恥ずかしいことではないといいきかせながら。
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有元利夫──メビウスのロンド
僕達の生まれた国には奥行きがありませんでした。空は月の上で終わり、ちぎれた雲は同じ高さを循環し、時間すらないのでした。三次元でさえない世界に、時間は不必要だったからです。世界には一人の女が住んでいました。女は木製人形のようで、時折箱を開いては中の光を眺め、地面に円を描き、トランプや球を宙に浮かせながら暮らしていました。世界とはそれ以上でもそれ以下でもありませんでした──。
確かに美術史的な見地からすれば、有元利夫は二流の作家なのかもしれません。シュルレアリズムやイコンの剽窃《ひようせつ》で組み合わされたモチーフ。しかし、それこそが彼を完全なる趣味性のスタイリッシュな唯美主義作家たらしめたのでしょう。コンセプトの妙を競いあう現代美術にはうんざりです。新しいこと、オリジナルであることがそんなに大切なことでしょうか。芸術に進歩や真実の探究なんて必要ないのです。有元利夫はバロック音楽を愛し、神秘主義を愛し、術を愛しました。様式化された永久運動のメビウスの宇宙。決して何処へも絡がらない出口なき精神の遊戯。そこにはノスタルジアという安易な逃走では辿り着くことが出来ない、過去への片道切符の意志がありました。彼はマクロに伸びる光が差し込む窓を漆喰で塗り込めてしまいました。あたかも自ら砕いた顔料でキャンバスを丁寧に何度も重ね塗りするかのように……。彼が三八歳の若さで死去したのもそんなことが理由であるような気さえします。
久し振りの回顧展が催されたので、最終日に足を運びました。『ロンド』、『一人の夜』の前に長く佇みます。死んだ作家の展覧会に新作は出てきません。その当り前のことが、彼の場合は何故か嬉しく思えます。作家は少数の優れた作品さえ遺せばそれでいいのです。彼はきっとそんなことも知っていたのでしょう。繰り返される空と雲と女と花吹雪は、それを物語っています。神なきイコン。一見宗教画を想わせる彼の絵の中に、神はいません。スクエアの中に終結する二次元宇宙は幾何学のポエジーが定理を示してくれるのですから、未知を司る神など関係ないのです。小さな荒削りの塑像に眼が止まりました。『古風な女』。なんて素敵なタイトルでしょう。
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野ばらちゃんとクリスチャン
もし憲法で「何人とも必ず何らかの宗教を選択しなければならない」と規定されたなら、僕は迷わずキリスト教を選びます。カトリックでもプロテスタントでもオーソドックスでも、統一教会(やっぱり、これはちょっと嫌か)でも構いません。新約よりは旧約、つまりはイスラム教の教理にシンパシーを感じる神秘主義的な僕ではありますが、とにもかくにも僕はファッションとしてキリスト教が大好きっ。MY宗教を持つならキリスト教に限ります。
自分のお葬式のことを考えます。今、このまま死んでしまえば、きっと僕のお葬式は通例通り、仏教で仕切られるでしょう。それはとても困ります。終わりよければ全てよし。ならば、乙女のハードボイルドにこの身を捧げし僕が、南無阿弥陀仏で葬られて成仏出来る筈がないのです。ハゲ頭の坊主が木魚を叩き、御影石のお墓に入れられるなんてゾッといたします。お葬式くらい自分の趣味を反映してもよろしいでしょ。教会でキリスト教式に、モーツァルトの『レクイエム』をBGMに、お墓は十字架にして下さいませ。棺桶に菊の花なんて入れないで下さいね。白い百合かかすみ草、でなければ化けて出ますよ、本当に。
先日、自分が死んだ時のことを真摯に想い、洗礼を受けておけばちゃんとキリスト教式でお葬式をやって貰えるだろうと、初めて教会の日曜礼拝にまいりました。憧れの礼拝に参加しとても愉しかったのですが、いかんせん、真面目な信者の集う処。初めて礼拝に参加する僕を、皆がとても暖かく歓迎してくれ、その暖かさにいたたまれず、僕は逃げるように教会を後にいたしました。これでは洗礼を受けるまでには至りますまい。洗礼を受ければ、毎週朝の日曜礼拝に出席しなければならないし(起きられない)、バザーにも参加しなくてはならないでしょうから。
でも、お願いです。僕が死んだなら、キリスト教式のお葬式と墓標にして下さい。それだけが決して譲れぬ僕の遺言です。クリスチャンネームなぞペトロでもユダでも何でも構いはしません。僕は真面目なクリスチャンにはなれませんでしたが、ちゃんと賛美歌も歌えますし、聖書だって読んでおります。その証拠に、僕の一等好きな新約聖書の一節をここに書き写しておきましょう。お手間でなければ、墓標に刻んで下さっても結構です。「朝早く都に帰る時、イエスは空腹を覚えられた。そして道の傍らに一本の無花果《いちじく》の木があるのを見てそこに行かれたが、ただ葉の他は何も見当らなかった。そこでその木に向かって、今から何時までもお前には実がならないようにと云われた。すると無花果はたちまち枯れた」(マタイによる福音書)
あ、そうそう、お葬式に際してはこれを使って欲しいという写真があったんだ。まぁ、それはまた今度、ちゃんと説明いたします。
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石ふしぎ発見展の不思議な琥珀店
先日、「石ふしぎ発見展」に行ってまいりました。これは内外からのミネラル・ディーラーが一堂に会する博覧市で、水晶ブームも一段落した今、会場を埋め尽くすのはアンモナイトのループタイをした老齢の熱心なマニアばかし。新参者の僕はこそこそと、それでも嬉しさに胸を震わせながら、各ブースを見てまわります。藍銅鉱《らんこうどう》の嘘のようなブルー、蛍石《ほたるいし》のはかなき発光、玉髄《ぎよくずい》のめくるめくミクロ・コスモス、隕鉄の不可思議な重量。僕達はいつも鉱物に憧れていました。鉱物は僕達に、美しさとは孤独であることを教えてくれたのです。言葉もなく音楽もなく、悦びも悲しみも寄せつけぬ純粋な質量としての唯美。人が宝石の為に命さえも犠牲にするのは、しごく当然のことです。何故なら鉱物の無機的な美しさは、人生の有機的な美よりも遥かに尊いものなのですから。
琥珀を専門に扱うアメリカ人のブースがありました。深きオレンジ色をした松ヤニの化石である琥珀よ。そなたは何故にこんなにも僕の心をざわめかすのか! 琥珀の中に封じ込められた昆虫。備えつけのルーペで覗き込めば、古代の魔法に虜とされたその姿が、ホルマリン漬けの残酷な衛生博覧会出展作品のように眼に焼きつきます。琥珀はその神話的形状に反して、手にのせると悲しいくらいに軽いものです。何千万年の牢獄がこれ程にこころもとないものであるとは……。星は終焉を迎える時に収縮し、最大の重量を持つといいます。それなのにこの樹脂の化石は天使のように軽い。化石と鉱石の間を揺れ動くような琥珀。きっとその薄い膜の下にはエーテルが詰まっているのでしょう。
草の欠片の入った琥珀のピアスがありました。ピアスの穴をあけてもいないのに、ピアスを買っていいものかと迷いましたが、これを機会にあけることにして購入いたしました。真っ青な眼をしたアメリカ人の店主が商品を包みながら、「これをつければ三千万年前の音が聴こえるのです」と流暢な日本語で云います。「本当ですか」と訊ねると「ええ、もし貴方がその時代をご覧になりたいのなら、琥珀のコンタクトレンズもご用意致しますよ」と真摯な眼差しで答えました。琥珀のコンタクトレンズは過去の光を抽出するのでしょうか。次の博覧市にまた彼が出ていたら、買ってみましょう。
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オームの法則──考察その一
貴方を悲しませるものがあるのなら、行って粉砕してきましょう。貴方を憂鬱にするものがあるのなら、行って根絶やしにしてまいりましょう。たとい貴方が人を殺したと告白したところで、驚きこそすれ、僕は決して責めはいたしません。親兄弟が貴方を見限ろうと、世界の全てが貴方に悪意を抱こうと、僕はずっと貴方が正しいといい続けましょう。何故なら、貴方はその昔、僕を救ってくれたのですから。
かつて寂寥は耐え難く、隕石はずっと宇宙を飛び続けていました。出逢う星の欠片達は皆、何処かしらその成分が自分とは異なり、そのことが悲しいという訳ではなかったのですが、よりどころのない魂は安息というものを知りませんでした。貴方の言葉を聴いた時、懐かしさに涙が溢れました。貴方は神ではないと人がいいます。神を騙《かた》ったと人は断罪いたします。しかし、僕にとってそんなことは些細なことだったのです。貴方が自分を神だというのなら、僕はそれを肯定するだけのこと。大切なのは、僕が貴方に激しいシンパシーを感じ、貴方がそれを優しく受け入れてくれたということだけなのです。シンパシーは恋慕の情よりも切なく、宗教心よりも敬虔《けいけん》に、互いを呼びあう物理的法則なのです。
貴方が僕を祝福してくれたように、僕は貴方を祝福出来るのでしょうか。貴方を救済するには余りにも非力な僕は、香油の壺すら持っておらず、貴方の重荷が少しでも軽くなりますようにと祈るばかりです。世界は民主主義的なリアリティに溢れ、息をするのもままならず、フィクションの大気を吸う僕達はいつも口をぱくぱくとさせ、滑稽だと罵られます。しかしもしも貴方が呼ぶのなら、僕は世界に戦いを挑みましょう。さぁ、無理難題をおだし下さい。我が子を生贄《いけにえ》に捧げましょうか。それともずっと貴方の妄想を聞いていましょうか。
こんな夜は、僕達が生まれた星の話をいたしましょう。僕達の記憶にさえない星の話を。貴方の言葉が、そして僕の言葉が真実なのではなく、貴方の存在と、共鳴する僕の存在が真実なのです。シンパシーの卵の中で僕達は赦されます。そう、赦されているのです。もう、泣かないで下さい。僕達は、赦されているのです。
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ライオンは起きている
先日東京に行った際、初めて名曲喫茶の殿堂「ライオン」に入りました。渋谷の表通りを脇にそれると辺りはとたんにうらぶれ、小路を少し歩けばまるで閉店した安酒場のような、これがクラシックファンに名を轟《とどろ》かせる歴史的有名店かと思う程に殺伐とした店構えの前に出ます。木製の扉を押して中に入ると、外は明るい日曜日の昼だというのにひんやりと湿り、薄暗く、生気の失せた人を寄せつけない雰囲気が全身を刺します。スピーカー側に向かって据えつけられた二人掛けのテーブル席。スピーカーとプレーヤーはまるで祭壇のように厳かに、そして権威的に中央の壁に鎮座します。流れるはバッハの「マタイ受難曲」。嗚呼、何とこの場にふさわしい選曲でしょう。衣擦れの音を気遣いながら、僕は小さな声でコーヒーを注文します。
ウエイターが小さなパンフレットをくれました。「皆様のライオンは最良の『コンデンサー』音響装置で輸入盤のステレオ・レコードを演奏いたしております」と時代遅れの名文に、「真の Hi-Fi」「立体音響」と高らかなコピーが添えられ、更に「全館各階ステレオ音響完備。帝都随一を誇る」と威張られてしまいます。やはり名曲喫茶はこうでなくっちゃいけません。クラシックは高尚かつ権威的でなければなりません。親しみやすいクラシックなんて必要ないのです。背筋を伸ばし、こめかみを軽く指で押さえたりして、天地を揺るがすキリストの奇蹟に想いをはせながら、愚かな人民の大量虐殺を夢想しながら、ルートヴィヒ二世にでも、デスラー総統にでもなったかのような選民意識に身を委ねる。それがクラシックの正しい鑑賞方法であり鑑賞の快感なのです。
中年の婦人が二人、何を間違ったか迷い込んできました。居心地悪そうに回りを見渡していましたが、やがてそんな殊勝な気持ちも忘れて話に興じ始めます。「すいません、もっと静かに音楽が聴きたいんですけど」、首をうなだれながら音を追っていた白髪の紳士客が、丁寧な言葉遣いでぴしゃりといい放ちます。一瞬店内に冷笑が満ち、注意を受けた婦人達はいたたまれなさに身を小さくいたします。素晴らしき哉、ライオン。流石は帝都随一の奢り高き名曲喫茶。我等がライオンよ、永遠なれ!
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野ばらはひなぎくになりたい
好きな映画はと聞かれて想い出すのは、『十戒』でも『トラック野郎』でもなく『ひなぎく』というチェコスロバキアのカルト・ムービー。とりたてて期待もかけず連れていかれたレイトショーで、スゴくスゴくスゴく愉しくて、見終えた後、夜の国道の真ん中をマーチにあわせて行進したくなる程に感動したのでありました。内容はというと、世の中をなめたニューウェイビーな女のコ二人が、気分次第でお部屋に火をつけたり、立派なパーティの用意がされた会場に忍び込んでごちそうを食い散らかしたりと、傍若無人な大暴れを繰り広げるだけなのですが、これが実にカッコよいのです。無思想であることが、ハレンチでズルくてバカで刹那的でワガママであることが美しいのは、乙女にしか赦されない特権です。サドもジュネも飛び越えて、可愛さだけで神に反抗する存在の、鉱石の単純さに似た一種幾何学的な爽快さは、とても男のコに真似の出来る代物じゃございません。
男のコはどうあがいても社会的にポジティヴな存在なので、いくらデカダンスでもアナーキーでも所詮はアンチ、たかがしれています。しかし女のコは社会のお荷物。お荷物ということはオブジェということで、存在の純粋でありうるということです(なんのこっちゃ)。男のコのヒーローは社会の為に戦って誉められますが、女のコのヒーローは誉められません。故に女のコのヒーローの行動に大義名分はなく、それは個人的趣味に帰結します。「一生、遊んで暮らしたい」「苦労なんてしたくない」「ちやほやされて、泣けば全てが赦されたい」これはお荷物としての正しい人生哲学でありましょう。
そんな『ひなぎく』が、知らぬまにビデオで発売になっていました。無法な乙女のバイブルなので、是非購入せねばと思ったのですが、気分としては万引きで手に入れたいですねぇ。でも、やんぬる哉、野ばらは男のコ。嗚呼、万引きをしてもその存在の純度を傷つけることのない『ひなぎく』なものになりたい。金銭的な欲望とは関係なく銀行強盗や、怨恨と無関係に殺人がしてみたい。精神的に社会的に自立出来なくてもいいから、美として自立していたい。不道徳ではありません。これは非道徳。乙女は道徳が好きですが、基本的に非道徳主義なのです。
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ナルシス、此れ、プシケの夢
近頃はもう「自分はナルシストであります」と宣言することに罪悪感を覚えなくなってしまいました。響きとしてはナルシストよりはオナニストのほうがしっくりとくるのですが、オナニストといってジャン・ジュネを想起してくれる人も少ないので、とりあえずはナルシストの肩書きで我慢しておきましょう。
さて、ナルシストとは鏡をみてうっとり、自分の技能・才能に自惚れた鼻持ちならない自尊心のかたまりというのが一般的なイメージでしょう。勿論、全てあてはまります。が、ナルシストの道はもっと深遠なる魔道の迷宮なのです。ナルキソスの神話のとおり、自らにエロスを感じ、それを客体として徹底的に愛さなければならないのです。最愛の恋人よりも親兄弟よりも深く激しく、汝、自らを愛さなくてはなりません。これは利己主義という単純なものではありません。生存本能を排した部分でなおかつ自分に対して恋愛感情を抱く不健全さとは、DNAの法則を逆行する精神の閉ざされた放蕩であり、ツァラトストラの孤高なる哲学的意志力を必要とします。貴方はこの世界に独りっきりの快楽を享受出来るでしょうか。ナルシストも他者を必要とします。しかしナルシストにおける他者とは自らの内に存在する他者なのです。分裂症になる以外、私と私は完全なる結婚が出来ません。理性を持ち続けるなら、これは不可能性の恋愛なのです。
乙女の倫理はナルシシズムにあります。フリルもリボンも、私が私に愛される為の小道具です。乙女の行動が時に退行現象と受け取られるのも、性を排除するように見受けられるのも、全てはこれが原因です。他者とのコミュニケーションに重点を置かず、自己の中の他者とコミュニケーションをとると、表面上そのようにみえてしまうのです。相手が自分の理想通りでないと幻滅してしまいます。それを相手の人格を尊重しない精神的成長のなさと責められても困ります。相手なんて最初から存在しないのですから。現象としての相手は自分の中にいる相手の影に過ぎないのですから。
僕は自分に似た人しか愛せません。自分の等身大の蝋人形を作って貰うのが僕の夢です。気持ち悪いとお思いでしょう。だけど、全然平気です。だって、野ばらちゃんだけが僕のことを解ってくれればいいのですもの。
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お月見に行く
今回はお月見のお話です。
中秋の名月。お月様なんて何時だって素敵なものですから、わざわざこの日の満月を観賞しなくったってよいのですが、それにどちらかといえば恥ずかしながら──おおサロメよ、赤く輝くルナこそが我等が崇拝する不思議の天体──だったりもするのですが、今年は何故か名月観賞と俗っぽく洒落こんでみたのです。
京都府立植物園は中秋の名月の日、年に一度だけ夜間開放を行います。無料開放とあって植物園までの真っ暗な道を、人々がゾンビのようにぞろぞろと歩きます。こんなに沢山の人が押し寄せれば、僕の分のお月様がなくなるのではないかと心配になります。植物園の園内にこれといった照明はありません。木々の間を歩きながら石に躓《つまず》き、枝に頭をぶつけ大変です。暫く行くとぼうっと灯りが見えてきました。それは地から夜空に向けて蛍の発光のようにささやかな光。近づいてみると小さな竹の筒が幾本か地面に立てられ、筒の中には水に浮いたキャンドルが点《とも》っているのです。嗚呼、幽玄。遠くのほうでは強い光、あれは篝火《かがりび》です。笛の音が聴こえます。どうやら中央の芝生の広場ではコンサートが行われているようです。
人気の少ない道を選んで歩きます。夜中の植物園は何とぞくぞくするものなのでしょう。行けども行けども暗い陰ばかし、ひんやりとした夜風にのって少々エロチックともいえる樹々の匂いが鼻をさします。せっかく人のいない道を歩いていたのに、すぐに人通りの多いスクエアに出てしまいました。天体望遠鏡を設置した星マニア達が、丁度植物園を囲む森の背が低くなった月の進路に向かって、満月が上がってくるのを待ち構えています。「この望遠鏡ならクレーターくらいバッチリですよ」マニアは羨ましそうに望遠鏡を横目で見る僕にそう自慢しますが、覗かせてはくれないようです。
さて、黒い森の向こうに微かに満月は姿を現しました。もうすぐ蒼い夜空の頂きにたいそう立派なお月様はお昇りあそばすでしょう。が、雨です。突然の大雨。お月様は厚い雲の彼方へとお隠れになりました。
僕のお月見のお話はこれでおしまいです。
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正しいロックをする為に
仕事の上では聴きますが実はロックなんて大嫌い、だって汗臭いし恥ずかしいし煩《わずら》わしいし、お部屋に帰ればやはり、バッハやシューベルトでもかけながら過ごすにこしたことはありません。とはいえ、嫌い嫌いも好きのうちという古典的な感情は乙女の本分、もはやロックなんて死に絶えた、何のインパクトもない惰性の音楽だと思いつつも胸がざわめくのは、そう、水野英子のロック漫画『ファイヤー!』のせいなのです。
六〇年の終わりから七〇年の初めにかけて連載されたこの少女漫画は、当時のとてつもなくダサい「ロックな生き方」を正面から描き出した問題作です。主人公のアロンは感化院で孤独な歌い手ファイヤー・ウルフに出逢います。その後、自らのもろくも激しいフラギリテートな感情を飾ることなく吐き出すように歌い続けるアロンは、全米チャートの一位を獲得しながらも大人達の商業主義と対立し、周りをどんどん傷つけていきます。アロンは云います。「ぼくは/歌わない/人気と金がほしいのなら/きみたち勝手にやるがいい」と。嗚呼、なんとカッコ悪い台詞でしょう! ドラッグ、コミューンなど六〇年代なテイストをふんだんに盛り込みながら、可愛いアイドル歌手との恋愛事件(同棲してしまったりする)もちゃんと入った少女漫画には、ロックへのへなちょこな幻想がたっぷり詰まっています。ロックの人が読んだら辟易してしまいそうなこの視線の歪曲《わいきよく》は、だからこそロック、乙女の愛するロックなのです。乙女にとっては全ての憧憬が水晶のファインダーを通した非現実の絵空事です。長髪、自由を求める意志、だらしなさ、魂の叫び……それら紋切り型のロックらしさは、現実から浮遊し象徴的に形骸化してこそ、乙女に熱情をもって受け入れられるのです。
今こそ僕達はアロンのように、自由を求めて歌いましょう! オルタナティヴなんてスカしている場合ではありません。ロックは本来のマヌケなロック魂を爆発させるべきです。世界を変えましょう、大人達に反抗しましょう、不良を崇めましょう。それがロックなのです(多分)。そして……やっぱりボーカルは長髪で捲き毛の美形に限りますね。ザ・イエローモンキーのダサさなんて結構、近いものがあるように思えます。だって「僕はジャガ〜ァ」ですものね。カッチョいいです。
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女学生なら京都で食せよ冨美家なべ
女子高生、女子大生なんて呼びかたはお下劣ですから、女学生と申しましょう。さすればメールよりも交換日記、クレープよりもあんみつでございます。
冬がくれば京都は三条河原町を少し下り、BALビルの丁度向かい辺り、地階に降りたところにある「冨美家」の鍋焼きうどん「冨美家なべ」を食さぬ訳にはまいりません。冨美家といえばその昔、少し離れた四条通りに女のコしか入れない甘党専門店があったのですが、現在は錦市場の本店とこの河原町店のみになってしまいました。男子禁制のアナクロなお店がなくなってしまったのは残念ですが、それでも河原町店にしてもどこかそんな雰囲気をかもしだしているのは思い過ごしでしょうか。勿論、あんみつもありますが、やはり名物「冨美家なべ」がいとよろし。カウンターのみの小さなお店は妙に安普請で、こくのある鍋焼きうどんの汁はほんのりと甘い。この甘い汁を舌の上で転がす度に、「女学生の為の甘党なうどん」を感じてしまうのです。
太いみつあみを結わえ、チェックのマフラーをだんご結びで首にして、制服の上から学校指定の野暮なコートを着たまま額に汗なんぞをして、「猫舌なのよ」と言い訳しつつそれでも色気構わず豪気にズルズルと、うどんをすするが美しき女学生。お友達と先輩の悪口やアイドルスターの噂をしながら、中に入ったお餅を見つけ「こんなの食べたら太ってしまう」と云いつつ、ペロリと平らげるが流儀というものです。決して恋人が出来ても女学生は冨美家に彼氏を連れては行きません。だって、やっぱり、何故かしら、ここは乙女の甘党屋、吉屋信子的世界なのですもの(お姉さまとなら来てみたいわね)。
冨美家なべは、値段が五百八十円というところもポイントです。女学生は貧乏でなければなりません。学校の帰りお友達同士で六百五十円以上使うのは邪道です。おなかがふくれたら四条大橋を渡り、河原でいちゃついているカップルに石を投げてやりましょう。名曲喫茶『みゅ〜ず』か『ソワレ』でお茶を飲んでもいいですけど。新京極は繁華街、不良の誘惑があるから余り遅くまで遊んでいてはいけませんよ。さぁ、「天には御使い」でも歌いながらおうちに帰りましょう。
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砒素のように
その瞬間、世界は完全に回転を止めてしまったのです。只、しんしんと降り積もる雪のような哀しみだけが美しく眼に焼きつくばかりで、僕は立っていることさえままならず、自分の身体を強く抱き締めながら、ずっとずっと嘔吐し続けるのです。ねぇ、君、僕は今、自分だけを哀れんで泣いていたって構わないでしょうか。君が困惑することを知りながら、それでもひたすらに情けなく君の同情にすがっていてもいいでしょうか。だって、もう君は明日、僕の前から姿を消し去ってしまうというのですから。
身体の半分を失くしてしまったような哀しみは、淋しさというなす術を持たぬ感情でした。いっそ、それがストリキニーネのような苦痛をもたらしてくれるのならば、僕は世界を呪いながら、昨日までの甘美な記憶の螺旋《らせん》模様を忘れ去ってしまえるのかもしれません。淋しさはしかし、砒素のようにゆうるりと僕の身体を蝕《むしば》んでいきます。
気がふれる。気がふれる。僕は淋しさのあまり、やがて静かに気がふれる。
僕はもう観覧車には乗りません。観覧車はいつか、君と二人で行った春の日の、遊園地の大観覧車を想い出させますから。僕はもう海水浴には行きません。それは去年の寒い夏、水着も持たずただひたすらに歩いた、Y町の遠浅の浜辺の景色を想い出すだけですから。あの日君は、海月《くらげ》が好きだと云いましたね。僕は君が海月を好きなことも、毎朝欠かさず豆乳を飲んでいることも、七歳の時に飼っていた犬を亡くして三日三晩泣き明かしたことも、タコを食べるとジンマシンがでることも知っています。
僕を慰めて下さい。沢山慰めて下さい。僕に悪いと思うのなら、僕を抱き締め、不眠不休でずっと慰め続けて下さい。僕は今、この淋しささえ失いたくないのです。君がいなくなってしまうのなら、僕にはこの淋しさだけが君との最後の絡がりであるように思われるからです。行かないで下さい。僕は病気です。もう少し一緒にいて下さい。お金をあげます。お願いですから、このまま一人にしないで下さい。
気がふれる。気がふれる。僕は静かに気がふれる。
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小春日和[十一月から十二月の晴れた暖かな日のこと]
貴方は小春日和に似ています。まだ寒い季節、風さえ吹かなければ春がきたのかと紛うよな一瞬の暖かな日は、しかし見渡せば枯れ葉さえも吹き去った荒涼とした風景で、ぽかぽかとすればする程やけに僕を哀しくさせるのです。
貴方は冬の星に生まれ落ちました。「少女」という宿命の下に。嗚呼、この世界で最も不毛なる者よ。春に憧れつつも春にはなれず、夏の日差しには耐え切れぬ絹ごし豆腐のような身体を持ち、秋に至るには幼過ぎる無垢な魂をした白痴の子供よ。貴方が一体どれくらいの絶望を呼吸しながら、それでも春の真似事をするのか、それはきっと誰にも解りはしません。貴方はいつも素手で世界を受けとめようとします。大き過ぎる現実も優し過ぎる夢想もそのままに、全てが見えるが故に全てを正直に抱え込もうとします。ねぇ、生存本能とは自らを欺き、都合のよいデータだけをセレクトしていくものなのですよ。そうでなければ、僕達は哀しみや優しさに押し潰されて、一歩も前には進めなくなってしまうのですから。だから君は時折、壊れます。ノートや新聞紙や消しゴムを食べさせられ、病気になってしまう動物園の羊みたく。
真冬のはかない暖かさにしかなれない「少女」は、まるで成長することを止められ、永遠の命を与えられたが故に無窮の時を一人きりで旅せねばならぬバンパネラのようですね。でも貴方は、自分の胸に銀の杭を打ち込もうとはしません。だって、貴方はそれでもこの世界がたいそう気に入ってしまったのですもの。貴方の照らしだす日差しで開花した不思議な花の美しさに、貴方は希望を見出しました(実はそれは貴方と同じく永遠の命を与えられた不自然な造花だったのですが)。
貴方は何処までも気づかずに行くでしょう。それならば、僕も貴方を追い続けましょう。賢者の石に見入られた間抜けな錬金術師の運命を受け入れ、或いは時空の壁さえも引き裂きつつ、貴方が「今は春ですよね」と弱気になった時、「勿論ですとも」と答える為だけに。茨の国のお姫様は試練の果て、とこしえに幸せな一生を送らねばなりません。そう、絶望が消失しないのならば、それは癒されなければならないのです。
貴方は小春日和に似ています。それが僕を哀しくさせます。
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カントリーなんて糞くらいあそばせ!
お引っ越しをして、そのお部屋が何と広さにして五畳くらいの小さな、まるでドールハウスのような白いペントハウス、三角お屋根に五角形の大きな窓がついた余りに可愛いスウィートルームだったもので、気分はもう屋根裏部屋の小公女セーラ、はたまたオンジの家に棲むことになったアルプスの少女ハイジ。とたんに心の奥深くに眠っていたカントリー趣味が大噴火を起こしてしまいました。
レースのカフェカーテンにパッチワークのベッドカバー、ブルーのペンキで荒く塗装された木製のキャビネットには、籐で編まれた不格好なバスケットが詰め込まれ、玄関には大きなリース。天井からはこれでもかという程にドライフラワーが吊るされ、勿論お台所には嫌という程大小様々な形のパンが吊るされ、壁には辟易するくらいに沢山の額が飾られるのです。そう、テディベアも忘れてはいけませんね。ギンガムチェックのテーブルクロスの上の燭台(蝋燭《ろうそく》は白色に限ります)の横に、マスタードの大きな瓶と共に座らせてあげましょう。…………嗚呼、こんなやわなことは考えてはいけないのです。乙女にとってカントリーとはいわば鬼門、その強烈な磁場に身体を預けてしまったが最後、堕落の一途を辿るしかないのです。冷静になりましょう。カントリーなんて最悪ではありませんこと。こんなものは少女趣味とはいい難い脆弱なオバチャン趣味、幾何学的精神の欠片もない田舎者の悪あがきです。Jane Marple の人工的な高貴さを讃え、PINK HOUSE のドメスティックな恥ずかしさを嘲笑していた乙女のダンディズムは何処へ行ってしまったというのでしょう。手作りの暖かさ、自然の優しさ、朴訥《ぼくとつ》な太っちょ農夫とクッキーを焼くのがたいそう上手い丸眼鏡の老婆なんて、斧で頭をかち割ってしまいたいくらいに嫌悪していた筈でしょう。
それなのにそれなのに、せめて laura ashley で止めておけば少しは矜持も保てようものを、やんぬる哉、窓辺に吊るされた玉葱の束にさえ心ときめかせてしまう情けなさよ。このままではいい人になってしまいそう。どうぞ、僕に手作りのジャムを贈らないで下さい。僕はバロックを愛する硬質な者です。大きなモミの木の下に佇みよく笑うそばかすを気にする君は、僕のドッペルゲンガーか。自己批判せねばなりますまい。
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春は桜
東京なれば九段下、靖国神社から皇居のお堀沿いに桜田門へと歩く千鳥ケ淵の並木道。初めてこの道を歩いたのは帝都に久々、大雪が積もった深夜のこと、かつては銀幕のスター達が逢瀬に使ったともいわれる、まるで古い外国の小説に出てくるよな、年老いた見事なホテルマンの迎えてくれる、名門フェヤーモントホテルまでの道程。内堀が被る雪のベエルは何者にも穢《けが》されることなく息をのむ白一色の丘陵を作りあげ、それを眺めつつ眠れる並木の間を往く時の、ロマンチックな胸の高鳴りを嗚呼、君にも是非お聴かせしたいのです。この並木道は枝垂《しだ》れ桜。春がくれば気も狂わんばかりの景色が展開されるのでしょう。きっと春の日には、一緒にこの並木の下を歩きましょう。きっと、きっと、歩きましょう。
京都なら、哲学の道。銀閣寺から若王子橋へと続く約二キロ、疎水沿いの並木道。桜は染井吉野。桜の頃ともなれば物見遊山の人々が朝から夕刻までそぞろ歩きますから、まだ咲きかけがいとよろし。コートなしでは少し寒く、陽が照れば汗ばむくらいの季節、何も語らずに只延々と、人影もまだまばらの華奢な道を、ちょっぴり早足に歩くのです。桜とは、満開になれどその誇らし気な姿に無窮の淋しさを覚えるもの。だから、手を絡がずに君と歩くのです。好きになればなる程、愛しく思えば思う程、胸の奥に拡がる切なき孤独を噛みしめながら。
何処まで続く桜のアーチ。誰が疎水の脇に幾千本の桜を植えようなどといいだしたのでしょう。これ程残酷な叙情にしゃがみ込まずにおれるには、余りに僕は若過ぎます。〈春ハ嫌イダ。春ハ嫌イダ。桜ハ咲クシ、蝶ハ舞ウ。〉歩き疲れた頃にはもうすぐ終点、若王子橋の手前には「若王子」という名の不思議なティールームがあります。煉瓦《れんが》使いの三角屋根の時計台、てっぺんには白い風見鶏。意匠を凝らした庭園は、凝らし過ぎてローマやら中国やらフランスやらイギリスやら解りゃしない。室内にはマリア像、赤い薔薇がごっそりと活けられた大きな花瓶、エトセトラ、エトセトラ。ロココとバロックが婚約したゲイ・テイストなエーテルに包まれながら、いただくお茶の何とかぐわしいことでしょう。
「桜の下には何があるの?」「君の屍体」「埋めてくれるの?」「悦んで」。ほんの少しだけ君のことを忘れて、僕はうっとり眼を閉じます。
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野望という名の結婚
乙女の究極の目標とは何でございましょう。アハハ、それはやっぱり結婚(ゴシック体で)に尽きますね。
しかし、結婚するからには旦那様に身も心も捧げ、永遠の忠誠を誓う下僕になりたいものです。朝から晩まで旦那様一人のことを考え、夢の中でも一緒、時々は不安になって会社に電話を掛け彼がこの世に存在するかどうかを確かめてみたりして、無理矢理不味い愛妻弁当を持たせてあげるのです。彼が嫌だといっても承知しません。だって貴方は彼の妻、彼の従順な奴隷なのですもの、お弁当を作るのは当然の義務(またもやゴシック体で)ではありませんか。嗚呼、めくるめく新婚生活。親と同居はいけません。結婚したからには彼は貴方だけのもの、お母様なんて半径三メートル以上近づける必要なんてあるものですか。彼のお友達からの電話は取り次がない、手紙は破って捨てる、テレビの女優を熱心に観ていると思ったなら泣き叫ぶ。これは妻として当然の権利です。そして、一生、変わらぬ愛情を互いに抱き続けなければならないのです。以上のことに自信が持てないならば、結婚なんてする必要がありません。だって別にする必要がない契約を神様の前でわざわざ交わすのです。これくらいの覚悟がなければ意味ないではありませんか。
ですから、結婚相手は慎重に慎重を重ね、充分に吟味し、完璧な王子様を手に入れる必要があります。昔から結婚相手は好きというだけで選んではならないといいますが、それは完全無欠の相手を探せという意味なのです。よくこの意味を取り違え、理想の人はカッコ良くてお金持ちで頭が良くて……と云っていた人が、不細工で貧乏でおバカさんな人と結婚してしまい「理想とはほど遠かったけど彼の優しさに感じ入りました」などと仰せになりますが、こんな愚の骨頂はありません。自分の大切な一生を優しさなんて安易な感情に捧げられるもんですか。挫折した自分を正当化するにも程があります。
さぁ、誇り高き乙女よ。結婚とは人生を賭けて大いなる野望を成就させる最大のイベントです。妥協は赦されません。玉姫殿のゴンドラの上で勝利の雄叫びをあげようではありませんか! ウェディングドレスを革命の血で染めましょう。世界で一番、幸せになるのです。
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異国の地に暮らすこと、又は一角獣の想い出
彼らはとても残酷で、石のような言葉を投げかけては僕達を追いつめるのです。哀れ、幼子のように泣き叫び、己の真意を訴えようとする君よ。彼らは僕達の言葉の及ばぬ処に住んでいるのです。彼らは悪意もなく僕達の大切なものを踏みつけ、恐ろしい程の自信で現実に融合せよと勧めます。しかし嗚呼、言葉の通じぬその異国、「考え過ぎなのだ」「そんなにふざけずに」と忠告される度に僕達は、測り知れない絶望の底に沈んでいくのです。ねぇ君、だから僕達は何時までもここにこうしておりましょう。真空に放り出されたよな不安に震えながらもこうやって肩を寄せあっていれば、少しは悲しみもやわらぐではありませんか。
図画の時間、校庭の大きな桜の樹を写生いたしました。提出した作品をみて先生は、僕を諭すようにこう云ったのでした。「写生は嘘を描いてはいけないのですよ」。級友達は僕の絵を覗き込んで一斉にはやしたてました。僕の絵の桜の樹の下には、白い一角獣が描かれておりました。僕は自分の無実を、桜の樹の下には実際、白い一角獣がいたことを説明しようとしましたが、僕の本能はそれがとても危険なことであるのを察知いたしました。僕は俯《うつむ》きながら自分の席に戻りました。放課後、下駄箱で一人靴を履きかえている僕の横に、君はやってきました。「私も見たわ。とても奇麗な馬だったもの」。僕が驚いて見上げると、君はビー玉のように硬く澄んだ瞳で僕をじっと見つめ返し、そのまま逃げるように走り去ってしまいました。
どうして君にはあの一角獣が見えたのでしょうか。君への感情、それは郷愁でもなく恋慕の情でもなく、電子と中性子の互いに呼び合う引力。君という存在がこの宇宙に存在して本当によかった。砂を噛み、自分自身を蔑むことでしか居場所を確保出来ないと学習せし君よ。たとえ君が神の創り給うた者でなくとも、僕は君を必要としているのです。君によって生まれ、君によって癒され、君によって再生する僕は、電気ショックにより全ての記憶が消されてしまったとしても、君のことだけは遠い遺伝子の彼方で忘れ得ぬことでしょう。僕と同じ魂の色をした君よ! 狂いゆくことはない。君が悪い訳ではなく、彼らの視力が悪過ぎるのです。だって、確かに白い一角獣は桜の樹の下にいたのですから。
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中井英夫『とらんぷ譚』の為に
薔薇の花を食したことがおありでしょうか。白いお皿の上の真っ赤な花弁は不思議な重量感を持ちそれを口に運ぶには慎重、かつこの上なく上品にフォークとナイフを動かさねばならないのです。口の中に入れた後も決して歯をたてず、そう、舌を丸めて、いいですか、口内に拡がる香を喉の奥で手際良く吸い取らねばなりません。この方法は英国風。薔薇と共に歴史を重ねきたイングランドの貴族の中でも、この食事を知る者はおそらく今はもう少なくなっていることでしょう。
この最も贅沢な享楽の為には大切な友も売りとばしてしまいませう。親を殺《あや》めることさえ造作ありません。それ程にこの食事は余りに甘美なのです。味わえばきっとわずらわしい恋人の涙にさえ、心を動かされなくなる筈です。中井英夫が紡ぎ出した『とらんぷ譚』。五四の物語からなる短編集は、これまで過去に一度きりしか五二枚のトランプと二枚のジョーカーを揃わせたことなく、分冊などしつつ作品は常に散点し続けていたのです。それがここにきてやっとトランプは一組に戻りました。創元ライブラリ、なんと文庫で再生してしまったのです。
ページをめくる度、むせ返るくらい薔薇の香がたちこめるトリッキーな幻想小説、中でもスペードの項になる連作「幻想博物館」はもう、幻惑が過ぎる余り失神してしまいそうな程。もう澁澤龍彦でさえ人の良い田舎者に思える程に優雅な恐るべきこの中井英夫の遊戯は、スタイリッシュながらも小栗虫太郎程スノビズムを感じさせぬ錬金術がおりなす世界。それはマニエリストにしか夢見れぬユートピアなのです。
嗚呼、真に気高き書は人を廃人にする。魔術師アレイスター・クロウリーが魔術書と共にルイス・キャロルを愛したように、マジシャン達はきっと自分の祭壇の上にカバラ的恍惚を与えしこの物語を置く。決して『カード・ミステリー』なんてつまらぬトランプ話と混同なきように。薔薇がその身体に寄生することを夢みる人、たえなる告白はプリンセスを茨の眠りから覚ます秘薬、現実より遥かに価値を持ち得る。彼方への冒険譚を繙《ひもと》き人外境へと赴きましょう。僕はスペエド、君はハアト…………。
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ノバラン、ウエストウッドを語る
僕のような無骨者が Vivienne に就いて語るとはまことにおこがましい限りなのですが、最近はことある毎にユーロスペースから発売になっているビデオ『Vivienne Westwood』を観てしまいその度に溜息吐息、筆をとらずにはおれなかったのです。
マルコム・マクラレンと共にセックス・ピストルズを世に送り出しパンク・ムーヴメントを先導した革命の女王。Vivienne のお洋服を眺めていると、大好きな Jane Marple だって MILK だって COMME des GARCONS だって、みーんな彼女の亜流に過ぎないことを確認してしまうのです。パンクと共にバロックやロココを愛し、深遠なる諧謔精神の下にエレガントなエロチシズムを追求してきた彼女は、ビデオのインタビューの中でこう答えます。「昔の人達のほうが洗練されたスノビズムという意味で、現代人よりも傲慢でアナーキーだったわ。生まれ変わるなら十九世紀後半のフランスがいい。二十世紀は野蛮だから」。嗚呼、なんて簡潔なお言葉でしょう。ジュネやバタイユをひもとかずとも、聖なる淫蕩の精神はこの言葉の糸でステッチされた彼女のお洋服を着るだけで、血となり肉となり得るのです。体制に唾を吐きながらもアンダーグラウンドに夢を託さなかった彼女のスタンスは、「芸術なんてつまらない。私は生活者だ」と云いその一生を洒脱な蕩尽《とうじん》に捧げた不世出のダンディ、オスカー・ワイルドのそれに酷似しております。
真のロマンチシズムとは甘美な夢をソリッドな精神で纏うことなのです。時に安易なヒューマニズムも倫理も蹂躙《じゆうりん》し、オブジェと物語への滑稽なまでの憧憬を残酷な意志で肯定することこそが、ロマンチストに与えられた使命です。Vivienne のお洋服に魅せられ、コレクションする為に進んで身を堕としていった少女の何と多いことか(何故か彼女達はドミナになる場合が多い)。勿論それはダンディズムの法則からいえば少々逸脱したものといえるでしょうが、それでも精神が Vivienne であれば我々はいつでもロマンチストとして王球(ORB)の祝福を受けることが出来るのです。はすっぱな高貴さは正統な高貴よりも尚美しい。「テーマはお姫様と海賊よ」──このキーワードを解る者だけが二十世紀を野蛮だと軽蔑しつつ二十世紀を愉しめるのかもしれません。
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無 題
僕達は残酷を愛さねばなりません。そう、この世界は柔らかなもので満ち溢れているから、素肌にそのまま纏えばもうその絹の感触を手放せなくなってしまうから、僕達はいつでもそれを捨て去ることが出来るよう訓練しておかねばならぬのです。嗚呼、君を絶望の果てに追いやりながらも、それでもまだ僕は自身をいたわり続けている。己を蔑み嘔吐しつつ、それでも小賢しく明日を夢みる。フロイトは生の根源を性欲と定義いたしましたが、それは間違い。生の根源は飽くなきナルシシズムにあるのです。愛する者がいなくなった時、ねぇ、一体何を憐れんで涙を流したのでしょう。その人のことを想いながら、頭を地になすりつけ気が触れんばかりに赦しを乞いつつ、救われたいのは自分自身。忌まわしき生存本能よ。たとえこの身を自らの手で葬りさったとしても、お前は真っ赤な舌を出す。恥じるがいい、ナイーヴと讃えられることを。獣のタフな筋肉の思考にのみ狭き門は開かれるのです。
涙が人の為に流されないのなら、僕達は泣いたぶんだけ自分を嘲《あざけ》らねばなりません。それが最低の礼節というもの。花のさかりに死んだ人の上に墓石をのせぬと誓ったその舌の根の乾かぬうちに、初恋を謳歌する者に悲劇はありえぬ。情熱はコントにしかなりませぬ。〈愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。……ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緒に──テムポ正しく、握手をしませう。〉
大切なもの程ゴルゴタの丘で茨の冠を被せ罵倒する。ナルシシズムはカリカチュアされることでしか美しくなれません。カリカチュアするのがどうしても叶わぬほど柔らかなものがあるのなら、それは決して誰にも気づかれてはならないのです。隠しておかねばならないのです。永遠を口ずさみつつこの手で捨てた幾つかの永遠を、センチメンタルに語る嫌らしさだけは持ちたくありません。僕達には同情する権利がない。ロマンチシズムにその身を捧げたのなら、ナルシシズムの檻で厚顔な遊戯を続けるというのなら、鞭と嘲笑を自らにそして世界に浴びせ、痙攣《けいれん》的なアクロバットを繰り返すことだけが唯一の術《すべ》なのです。残酷の肌を刺す淋しさのみが僕達を気高く屹立《きつりつ》させるのです。
──しかし、何故、切なさをこれほどまでに繰り返さねばならぬのか。
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宝石と香水、モズクと毒薬、オバサマと僕
鉱石に夢中になった頃、勢い余って宝石の虜となってしまったように、最近流行りのアロマテラピーを齧ってしまったが故に、あら大変、僕は香水フェチになってしまいました。
さても嗚呼、宝石と香水。これは究極にして最高に無意味な乙女の贅沢ではありますまいか(マダムな贅沢ですって? いえいえ、あえて乙女の贅沢ということにしておきませう)。
たかが地表の一欠片、海で譬《たと》えるならモズクのようなものなのに、人生はもとより国家の運命さえ破滅へと導く宝石の怜悧な輝きと、何の実体も伴わず嗅覚だけに訴える、ボトルの形状と謳い文句のみ、まるでコンセプチュアル・アートのような付加価値の化身である香水のスノッブな快感。どれほど権威的になろうともファッションの域を逃れられぬ、遊戯の産物としての宿命しか有せぬ二つの愉しみは、乙女という非社会的存在の象徴、全ての価値が美のみに還元されるはすっぱな自己満足以外の何物でもありません。子供の頃、宝石と香水といえば浅はかな女の欲望というステレオタイプなイメージを植えつけられたものです。しかし浅はかな欲望、それは何と素晴らしい衝動でしょう。見栄、体裁、外連《けれん》、虚飾……これらの醜悪な欲望を伴いながらも燦然《さんぜん》と屹立する宝石と香水。宝石と香水からこれらの欲望を拭い去るべきではありません。宝石と香水は醜悪な欲望と共に栄え、その価値を増すのです。高価であればある程美しきオブジェ。そこにはヒューマニズムへの軽やかなアンチテーゼがあります。貧しさに美が宿るものですか! 美とは富より抽出されし特権的快楽。宝石と香水という古来より権力者に愛されてきた二つの道化は、この民主主義の世において辛くも硬質な美への意識を喚起させてくれるのです。
宝石はまだまだ買える身分ではありませんのでうっとりと博物館で眺めるだけ、香水は先ずは手始めに Dior の POISON を購入してみました。何て悪趣味な香り。でもこの不自然な媚薬然とした強烈さこそが初心者には香水のダイナミズムとして心地好く感じられるのです。次は COCO、それとも VOL DE NUIT にしようかしら。オホホホホー。すっかりオバサマですわね。さらにいうなら男のコなのに……。いつか総ダイヤの王冠を被りたいものですわ。欲望よ、永遠に燃えさかれ!
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八〇年代世界一周旅行
先日ズボン(パンツではなくズボン。前者は英語で後者はおフランス語、なのに何時からパンツが格好良くなったのかしらん)を裾上げに出したら、普通よりちょっとだけ丈を短く指定したつもりがすっかり七分丈、周りからはさんざん罵倒されましたが計算違いとはいえ悲しくない、だって詰め過ぎた裾は八〇年代、ニューウェイビーの基本なのですもの。
ビバ、八〇年代! モードの潮流が五〇年代から七〇年代までを飽きることなく彷徨《さまよ》おうとも、やっぱり素晴らしきは八〇年代。時代遅れと申されようが、過去への固執と笑われようが、手先のすっぽり隠れる大きめのシャツ、地面を引き摺る祖父の箪笥から引っ張り出してきた外套、ダサダサの黒縁眼鏡、刈り上げ、カラス族、COMME des GARCONS、Yohji-Yamamoto、文化屋雑貨、SHIN & COMPANY ……。これらに勝るものはございませぬ。『アンチ・オイディプス』を小脇に抱え、「蘇州夜曲」を口ずさみつつコピーライターや人類学者をアイドルのように追い掛けた浅はかな日々。嗚呼しかし、そこには確かに一つのパラダイムの転換(笑)が存在したのでした。
たとえばそれはエリック・サティの復権。ラジオから流れ出る音楽の全てが飢えた牝猫のように恋愛を歌い続けることに辟易となっていた頃、家具の音楽に出逢えた悦びを僕は今でも忘れはしません。たとえばそれは根暗ブーム。スポーツが出来る不良の汗臭さが正義である歴史の楔《くさび》を絶ち切り、お勉強の適当に出来るヘンタイよいこの不健全さに価値を与えて頂いたことは、我が生涯のうちで最も幸運な出来事であったといえるでしょう。八〇年代の思想が衰退していき、街がまた熱くつまらない恋愛歌ばかりで埋め尽くされた時、僕はこの世をどれほど憾《うら》んだことか。
思えばそれは「少女」の思想であったのです。現状を打破する理想も気力もなく、個人の嗜好だけに価値をおき、隙間と隙間をしたたかに瞬間移動する都市の野性、絶望のオプチミズムがソリッドに揺らめいていた蜃気楼のようなネオ・ロココ時代。炭酸のようにはじけて消えゆく刹那主義。テーゼもアンチテーゼもなくガジェットだけが真実であった季節。深刻ぶることで安住する先祖返りの九〇年代なんて僕は大嫌いです。さぁ、『月光』でも読みながらペンギンごはんを食べませう。
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太宰調ノエル
もうすっかり大人だというのに、社交的でなければならぬこのようなお仕事に就いて何年も経つというのに、未だよく知らない人と会うと指と声が小刻みに震えるのです。対人恐怖症、その症状を押さえる為あらゆる努力をしてはみるものの大きな効果はなし。対面の後、自己嫌悪は計り知れず夜中、恥ずかしさに耐えかね大きな叫び声をあげること、初対面の人と会う日の朝、嘔吐してしまうことなかなか治らず、もう自分を見限ってしまいたく思うのです。自意識を抑えることを学びつつなんとかこれまでやってきはしたものの、それでも根本的に僕は人が恐ろしい。どんなに親しい間柄でも僕には他人が恐ろしくて仕方がないのです。
何時までこんな思春期の感情に支配されていなければならないのでしょうか。世界と僕との間に横たわる厚い被膜。勿論、人が親切にしてくれると嬉しくなるし、好意を寄せてくれれば涙が出る程有り難い。なのにそんな人達にさえ僕は時折恐怖を感じてしまう。息をし思考する、体温を伴う存在自体が僕を押し潰すのです。フィクションのみが僕を落ち着かせる。僕は幻想そのものになりたいのです。
それなのに何故か僕は君と逢う約束をする。逢う前は嘔吐し、逢うと何を話してよいのか解らず、やはり存在のリアリティに只途方に暮れるばかりだというのに。嗚呼、君よ。願わくばこんな僕を赦し給え。僕は幻想の君にしか興味がなく、君が必要以上に現実になり始めると逃げ出してしまう。それでも願わくば憐れみ、そして愛し給え。怯えながら、それでも僕は君を必要としている。僕の残酷な願いを叶える為に、君よ血を流し給え。君への報酬は僕の王国で茨のティアラを被り、その生気をそがれ蝋の人形となる権利だけれども。君と僕しか免疫のないウィルスの雨を降らせて僕はやがて誰もいない清潔な世界を支配する。君は僕を軽蔑し、僕は泣きじゃくりながら頑是なく君を責めたてる……。
早くこの病を治癒させたく思います。しかし嫌らしいことにこの病の身体が僕には愛しい。ねぇ、君。僕は知っているのですよ。君もまた僕と同じ病に取り憑かれていることを。僕は自分と同じものしか愛せません。僕達は肩を寄せて世界に震え続ける。君とならそれさえも甘美に感じることが出来ます。だから、ねぇ……。僕と君を祝福いたしましょう。
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元旦の君は髑髏の大振袖
HERMES のスカーフはどー考えてもやっぱり変な図柄、すごく悪趣味だと思うのです。だって、最もポピュラーな模様が、蹄鉄ですよ、蹄鉄! そんなもの何で首に巻かねばならぬのでしょう。パンクスでもあるまいし。でも、これは HERMES が馬具メーカーより始められたことを考慮すれば致し方ないこと。日本人の感覚ではとうてい理解出来ませんわ。そういえば、お着物にも HERMES の蹄鉄と同じくらいにとんでもない図柄が多くございます。特に大正から昭和の初期にかけての図柄には、飛行機柄のものとか戦車柄のものとか、呆気にとられるものが多数。しかしこれは変だと思いつつも皮膚感覚で理解出来るのです。嗚呼、そんな時、僕は自分の身体の中に日本民族の血が滔々《とうとう》と流れていることを確認するのであります(ウソ)。伝統というものは侮れませんねぇ。
フランス人がどうやったってお着物が似合わないように、日本人に HERMES は似合わない。ですからやはり僕達はお着物を着なければなりません。昨年秋冬(九六年)の COMME des GARCONS のコレクションは、実に素晴らしいものでした。誰がこんなの街で着るんだというお布団みたいなもこもこのお洋服。あれはお着物ですわねぇ。川久保玲はお着物の伝統をアレンジなさるのが天才的にお上手。山本耀司だと和服然とし過ぎてどうも野暮ったいし、三宅一生では民俗学的過ぎますしねぇ。川久保玲のお着物に対する視線はヨーロッパ人のそれ。エキゾチシズムの視線をヨーロッパにも日本にも媚びることなく消化なさいます。お着物の方法論をゴシック趣味にもロココ趣味にも世紀末的耽美主義にも再構築してしまう川久保玲の魔法。セザンヌやクリムトに見せてあげたかったですわ。
香水に目覚め、オートクチュールに目覚めた最近の僕の次なる目標はお着物。知人の祖父は着物の裏地に髑髏《どくろ》の刺繍を施していたのだそう。悪趣味かつエレガントなものを探求しようと思えば、日出ずる国の僕達はお着物にしか術を持てませぬ。さて、一月は何かとお着物を着る機会が多ございますね。この際、お母様、お祖母様におねだりしてしまいましょうよ。丸洗いできるニューキモノなんてふざけたものはいけません。狙うは縮緬《ちりめん》の大振袖。柄は金魚か髑髏か、パンダさん。そんなお着物で君が走ってきたならば、僕は銀の簪《かんざし》を買ってあげませう。
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愛と洗顔
額に小さな吹き出物が出来ていただけでもその日はずうっと陰鬱になってしまい、人と逢いたくありません。着ていく筈のコートが見当らず不承不承昨年のよれたコートを羽織る時、電車の中で顔もあげられない。どんなに性格を誉められるより、僕には綺麗《きれい》といわれることのほうが大切。お仕事に理解を示して貰うより、お洋服が似合うといわれたほうが嬉しく思えるのです。嗚呼だって、僕は綺麗なものが好きで汚いものが嫌いなだけなのですもの。文学も美術も思想も数式も生物も時間も、美しければ全て正解。内容なんて必要ないのです。内面の美しささえあれば外見なんて構わない、という正論の何と傲慢《ごうまん》なことよ。僕は自分の内面なんてとてもじゃないけどさらけだせない。こんなに混沌とした醜悪なものをどうして人に見せられましょうか。きっと相手は不快になるばかり。僕の表面だけ見てくれとおっしゃったのはウォーホル先生。そう、表層なら努力すれば取り繕える。こうありたいと思うものに近づける。切なる願望の結晶こそが表面なのです。
素敵なものに憧れる時、僕はそれに釣り合うくらいに美しくなりたいと思います。素敵な便箋は素敵な人に使われなくては可哀想。素敵になる努力を怠って素敵な便箋を買おうとするのは野暮なこと、それは便箋に対して礼節をわきまえぬことになります。一等お気に入りといえるものなんてなかなか見つかるものではありません。ですから幸運にもそれと出逢えたならば、精一杯の誠意を見せなければなりません。そうしなければきっとせっかくの便箋なのにつまらぬ封筒に入れてしまうことでしょう。自分では大切にしていると思っていても、それでは大切にしていることにはならないのです。
綺麗といわれることに命を砕いてナルシストと非難されるのは一向に構いません。外面に対し勤勉に努力する人の表層より自分の内面が遥かに美しいと思い込む厚顔無知な自惚れに比べれば、罪は浅いのですから。きっと美の中に存在する切なさとは、醜悪な現実をひた隠しにして自分の存在の理想を求めている羞恥心と不安です(嘘と同じ構成要素ですね)。美の存在意義を知らないものだけが愛を履き違える。健全な愛は健全な美に宿るのです。
さぁ、愛の為に今日も洗顔いたしましょう。
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ご飯はフォークの背にのせて
洋食なら、ご飯はフォークの背にのせます。これを「その作法は昔、日本にフォークやらナイフやらが伝わってきた頃、ライスはどうやって食べればいいかと西洋人に訊ね、嘘を教えられたことに由来するから間違いだ」などと手垢のついた知識をひけらかし馬鹿にする方々がおられますが、馬鹿という人が馬鹿、洋食のご飯はフォークの背にのせていただけばよいのです。勿論、フォークの背にのせずとも一向に構いやしないのですが、この作法を間違いだと決定するのは余りに思慮不足というもの。だって処変われば何とやら、それは日本における洋食のマナーなのですもの。それがたとえ間違った根拠から派生したものであれ、立派に伝統として成立しているのです。
伝統やマナー、風習、コモンセンスなんて元来、そんなものです。フォークの背にご飯をのせることを嗤《わら》うのなら、例えばベストの一番下のボタンを止めずにおくことも嗤わねばなりません。この風習も遡れば意味がなく、その昔イギリスでお洒落リーダーさんだった某卿が余りに太ってしまいベストの最後のボタンが止めたくとも止まらず仕方なくそのままにしているのを周りの者が見て、「新しい着こなしらしい」と勘違いしたことに端を発するのだといいます(他の説もありますが、やはり止め忘れたまま……など同工異曲なエピソードのものばかり)。でも、そんな歴史を知っていようがいまいが、現在ベストのボタンを全部止める人なんていやしません。もしこの歴史を知って最後のボタンを止める人がいても、決して誉められたりはいたしませんでしょう。
瑣末《さまつ》的な知識で得意ぶるほど不粋《ぶすい》なことはありません。スープは音をたてずに飲まなくていい、西洋人の殆どはそんなマナーを尊重しないなんて意見も穿《うが》っているかにみえて間が抜けている。スノッブを気取るならもう少し奥行が欲しいものです。上流階級ではやはり音をたてるのは下品とされますし、そんな上流の作法を見倣《みなら》って悪い訳がありません。マナーは遊戯。不自由さを楽しむ精神こそが文化を爛熟《らんじゆく》させます。その優雅さを知らなければスノビズムは悲しいくらいに下品で浅はかです。
僕達は頭の上に本をのせ、おしとやかに歩く練習をいたしませう。実利的でないからこそ、マナーは優雅へと絡がるのです。
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アンティーク趣味と未来への不安に就いて
ひと頃、アンティークに異常な執着を持った時期があります。BRU や Gaultier のビスクドール、大正の頃の抱き人形、セルロイドのキゥピィ、GALLE や DAUM の硝子細工、オキュパイドジャパンのコーヒーカップ、円盤式オルゴォル、昭和初期の薬袋……。懐は淋しいのに朝早くから骨董市に出掛け、アンティークショップを渡り歩き、買えるものといえば価値もない錆だらけの小さなブリキ缶や手足のもげたコンポジションドールくらいなのに、もうアンティークを眼にすることだけで毎日を夢のように愉しく過ごせたのです。久しく、そんな熱病は忘れておりました。しかし嗚呼何故か、また近頃になって病はぶり返す。十七世紀のバロックスタイルやコルセットで腰を締めつけスカートに馬鹿程パニエを仕込んだ十八世紀のロココスタイルのファッションポートレイトなどを観る度、たまさか出掛けたデパートの催し物会場でのアンティークフェアに紛れ込んでしまった時、僕の頭は真っ白になり、もう何が何だか解らない。忘れていたあの恍惚が僕を虜として、無窮の過去へと誘うのです。
何故にアンティークに惹かれるのか。それはアンティークが過ぎ去りし日の残滓だからです。時間軸に於いて、現在と未来は変容する浮気もの。しかし過去はもう風化する以外、その存在を裏切ることがないのです。現代と未来は常に予期を赦さず、僕達を攻撃してきます。だけれども過去だけは、それがいくら邪なものであろうと記憶のペンキを重ね塗れば、いとも易く美しいオブジェとして静かに微笑みかけてくれるのです。ならばアンティークに焦がれることは逃避なのか。そう、全くその通り。あの時代の造形や潮流を欲している訳ではない。僕達は時間の経過を求めていたのです(アンティークに惹かれる者は常に死を夢みている。時間が流れることが恐いのだ。得体の知れぬ明日が本当に恐い。剥製になりたい。琥珀の中に閉じ込められることを切望する。死と共に過去となり、安住したい。アンティークに美を求めながら、グロテスクな風化の痕跡《こんせき》をも讃《たた》えるのは、人がアンティークに死へのオマージュを捧げるからだ)。
憶病な僕はアンティークに永遠という名の楽園を託します。僕は時折、君が死ねばいいとさえ思うのです。そうすれば僕と君の未来に震えることもなくなる。──こんなことばかり考える僕を、誰か殴って下さい。
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夢みるドレス──CDなき二十世紀の恐怖
Christian Dior──二十世紀の運命を決定したあまたの巨人達の中で、僕は貴方にのみ畏敬と感謝の念を手放しでおくりましょう。十九世紀に終焉せし真に豪奢な観念の服飾を、残忍と放蕩のエレガンスを、貴方は勇気を持って継承、復権なさいました。メゾンの設立は四二歳、デザイナーとしては遅咲き過ぎる貴方が初コレクションで発表したドレスは、貧しき機能主義に甘んじることを美徳と勘違いした二十世紀の倦怠を真っ向から軽蔑するものでした。そのコレクションが「ニュー・ルックの誕生」として世界を震撼させなかったとしたら……。想像するだけで僕は身の毛がよだちます。貴方の運命的な成功がなければ、モードは文学と同じ、否、それ以上に今世紀において憶病なお荷物となっていたに違いありません。
ドレスとは女性を女性らしくみせる為のはかなき一瞬の建造物であると主張した貴方は、まさに神の如く美の本質をご存じでした。Hライン、Aラインと次々に完璧なる虚像を布に託し、醜悪で退屈な現実を明確な意志を持ち糊塗していった希代のロマンチストよ。ダビデ王の血をひくイエスが異端として断罪されながらも人々に普遍の教理を遺したと同じように、貴方は最も正統かつラディカルな世界の救済者でした。
BALENCIAGA のドレスはエレガントだが夢をみない。CHANEL のエレガンスはドレスに夢をみない。しかし Dior のドレスは夢みるエレガンス。Dior を信仰しない女のコなぞ、死んでしまえばいいのだと思います。教祖が早世し、その後設立から五十年の短き期間、矢継ぎ早に指導者を変えてきた Christian Dior というメゾンの根底に息づく定理は、今となっては少々解り辛いかもしれません。しかし、評伝その他諸々、幾つかの書物で彼が夢みた世界はきっと確認出来る筈。それが面倒ならブチックで紆余曲折した彼の遺産を、一度真剣にご確認なさい。千鳥格子柄のスーツ、これまで男性用として使用されてきたこの柄は、初めて Dior が女性のモードとして応用したもの。それが CHANEL の示した歴史へのアンチテーゼとは異種のものであることを感じ取れずにいるのなら、もう何も云いますまい。そんな人は POISON を下品で強烈な香水としか認識出来ないのでしょうから。
Dior 様! 僕は貴方の忠実な使徒です。新婚旅行は熱海で我慢して、サラ金を総なめで梯子しようとも、僕の花嫁には Christian Dior のローヴ・ド・マリエを購入いたします。Dior 様、貴方のご加護をこの僕に!
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春の病と盆栽少女
だって、春だから仕方がないのです。一体何が気に入らないのか、何がこんなにも心を塞《ふさ》がせるのか、それは君自身にさえ皆目見当がつかないのです。辛い訳でも悲しい訳でもないのに、心は何かを憂いている。いえ、憂いというより何だか恐いのです。何が恐いのかは解りません。只、たまらなく不安なのです。ですから、電話にも出られない。ずっと前から約束していたにも拘らず、外に出る気力がどうしても捻出出来ず、着替えはしたもののそのままベッドの上で時間が経つのをじっと眺めている。悪気はないのです。深く深く、申し訳ないと思っているのです。それなのに、どうしても駄目なのです。
君自身が一番、君のそんな性情を腹立たしく思っているのです。自己嫌悪の海で溺れてしまいそうなのです。それなのに、皆は君のことを我儘だと非難いたします。気紛れなのだと責めます。非道い人になると、君がわざとそんなキャラクターを演じ、周囲を振り回して愉しんでいるのだと推察するのです。君はいい返す術を知りません。けれども、けれども、少しばかりは解って欲しいと切望するのです。自分はこんな資質を改善したく思っていることを。このままではいけないと思っていることを。自己肯定なんてこれっぽっちもしていないことを。
ねぇ、君。もう泣かないで下さい。君はちっとも悪くはないのです。君は春の病に罹《かか》っているだけなのですから。そしてその病は君が生まれつきのもので、努力すれば少しはマシになるやもしれませんが、決して完治するものではないのです。ええ、諦めが肝心です。持病は長いおつきあい、君は君の病を可愛がってあげればよいのです。誰に迷惑をかけようが気にしちゃいけません。世界は皆、歪んでいるでしょ。でも、歪んでいるからこそ素敵なのでしょ。音が歪めば音楽になり、形が歪めば美術になりますでしょ。大切なことは、どれだけ美しく歪めるかということなのです(つまりは盆栽)。醜悪な歪み方をしてはいけません。君は今のまますこやかに歪んで行けばそれでよいのです。
嗚呼、春の病を持つ人よ。僕は病に苦しむ君の蒼白さと真っ赤な喀血《かつけつ》を愛しております。箱庭の宇宙を持つ者だけが盆栽として唯美の存在を全う出来る。安心して益々病み給え。決して僕は君を見限りやしません。
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ファンの心──基本的恋愛権の尊重と戦争放棄
君がその人のファンであるというのなら、全てをなげうたねばなりません。勿論これは極論。そこまでしなくともファンになんて気軽になれるものです。でもしかし、君が本当に本当にファンという気持ちを抑えられないくらいに、嘔吐する程に戦慄する程に、その生命を賭して対象に魅了されてしまったのなら、そこに自分の理想の化身を発見したのなら致し方ない。ひたすら相手に滅私奉公。奴隷となり執事となり、見返りなど求めず与え続け、好きでい続けるのです。何だか新興宗教の怪しい勧誘のやうですが、それが君の救われる唯一の狭き門なのです。
ファンになる気持ちは一種の恋愛感情です。ファン心と一般の恋愛の情が違うもの、ファン心は恋愛より格下の憧れの情と定義する人達がいますが、彼らは本当におバカさんです。世界の全ての現象に貴賤はありますが、恋慕の情に限りそれはございません。ブラウン管でしか逢えないタレントに恋するのも、気心知れたクラスメイトに恋するのも、通学電車でみかけるだけのあのお方に胸ときめくのも、全て同じなのです(憲法第一〇四条基本的恋愛権の尊重)。違うのはその状況のみ。級友なら君の気持ちを告白しその存在をアピールし、相手とのコミュニケーションが可能。しかしファンとなるとそうはまいりません。アピールすれど気持ちは常に一方通行。たとえ逢えても向こうは君のことなんて恋愛の対象として捉えてはくれません。
ですから、君は敢えてファンという立場を遂行するのです。恋愛は戦争です。力のおよそ均等な国同士が領地を獲りあうからこそ成立いたします。相手を陥落させる可能性が一縷《いちる》でもなければ戦争とは認められません。相手を倒す力が明らかになければ、単なる反乱。ファンであることに甘んじるのは反乱の力しかない場合です。しかし「貴方のファンです」という言葉は、力の法則と戦争の手続きを無視して相手と同等に立てるジョーカーとなります。ファンだという告白は形勢を一瞬にして逆転させるのです。しかし白旗を掲げた訳ですから、貴方は一切の権利を自ら放棄せねばなりません。これは級友との恋愛に際しても同様。どうしても振り向いてくれない相手を諦めきれないのなら、君はその人のファンになればよいのです。これが戦争放棄という恋愛の禁じ手です。
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諦念──プロポーズ
どうしてこんなにも好きになってしまったのでしょう。後、数日経てば逢えるというのに、僕は今君と逢えぬ事実に耐えきれず、帰る道すがら情けなく、ボロボロと泣き崩れてしまうのでした。これ程までに好きになる筈ではなかった。それなのにあの日以来、目覚める毎に昨日より一層、君のことが大切になっている自分を確認するのです。
君はいつもおどおどと、謝ってばかりいます。何に対しても驚くくらいに自信がなく、自分の気持ちを抑圧して人に合わせるのです。そして時折そのフラストレーションを一人こっそりと暴発させ、その後暴発した自分を反省いたします。貴方といると勇気が凜々湧いてくる、全てが上手くいく気がすると云いながらも、君は僕に対してさえずっと敬語で話し掛けます。そんな君だから、僕は君の中に埋没してしまったのでしょう。君のことを想えば限りなく優しくなってしまうのです。優しさを肯定してしまえば、硬質な美意識はなし崩し。その最後の砦を死守することが、僕の存在の全てでした。でも、もう駄目なのです。いくら君の嫌な部分、欠点を数えてみても、恐ろしい程君を求めてしまうのです。まるで麻薬患者のように……。互いの身体が粘土であればいいのに。そうすれば混ざり合える。洪水のような優しさに飲み込まれ、僕は多分、すっかり気が違ってしまったのです。
君は何故か電車の中で寝てしまいます。君が唯一、無防備であるその瞬間が、僕は一等愛しい。起きた君は例外なく眠ってしまったことを謝罪します。いつか意地悪で、一緒にいると退屈だから寝てしまうのでしょうと訊ねると、君は眼に涙を一杯ためながら首を横に激しく振りましたね。あの時は君の首がちぎれるのではないかと本気で心配いたしました。
私は憶病なのですと君は云います。でも、本当に憶病なのは君と僕との、一体どちらなのか。君が不安に思うこと、守ろうとするものははっきりとしています。僕が君以上に守ろうとするものは何なのか。僕は何を恐れているのか。僕は己の卑劣さを呪います。しかしようやく、僕はその卑劣さと訣別することが出来ました。君という存在は限りない絶望と希望に勝る。逃げ道を塞ぎましょう。愛という凡庸さを抱えて破滅することを、僕は敢えて選択いたします。
今度逢った時、君がまだ僕のことを見限らないでいてくれたのなら、お願いです、僕にプロポーズをさせて下さい。
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いやいやえん
ロックは煩《うるさ》いから嫌いです。若者も騒がしいから嫌いです。休日は幸せそうな人ばかりなので嫌いです。親兄妹は血が絡がっているのがどうも気味悪く思えて、嫌いです。夏は暑いから嫌いです。食事は面倒なので嫌いです。男のコはガサツだから嫌いです。女のコはお喋りだから嫌いです。動物は臭いから嫌いです。ミッキーマウスは赤いズボンを履くから、嫌いです。だけれど、赤いワンピースのキティちゃんは好き。
嫌いなものと好きなものを比べてみれば、この世界は圧倒的に嫌いなもので満たされています。どれもこれも気に入らない、かなり気に入っても一箇所、赦せない部分がある、その些細な一箇所にどうしても眼が瞑《つぶ》れない。我儘だといわれても、嫌なものは嫌なのです。お買い物に出掛けても、いつもなかなか購入に至りません。優柔不断でもケチでもなくて、本当に欲しいものがないからです。ですから必需品を買わなければいけない時は地獄の苦しみです。ある程度気に入ったものの中で妥協するのではなく、気に入らないものの中から一番マシなものを選択しなければならない時、もう情けなくて恥ずかしくて、死海の味がする涙が溢れ出るのです。人生には塗絵型とジグソーパズル型があるのだと思います。前者に最終的な解答はありません。色鉛筆が六色ならその六色でベターな配色をしていけばいいのです。しかし後者はそういう訳にはまいりません。ここに入るピースは絶対にここにしか符合しないピース、複数の選択は無理なのです。欲しい帽子は、型も素材も色も裏地も最初から決まっているのです。ほうぼう廻って疲れ果て、これが最小の妥協だと自分に言い訳します。そんなつまらぬ乾燥した毎日なのです。
ですから嗚呼、偶然にも奇跡的にも、何の妥協もないお気に入りのものに出逢えたならば! 僕は何の努力も惜しみはしない。生命を賭したって気にしない。我が子の身代金なら一億円でも支払いましょう。だって交換は不可能なのですもの。あれも嫌、これも嫌、嫌ばかりの国で生きてきたのはそなたを見出さんが為だったのか。本当にそれが完璧に当て嵌《は》まるピースなら、一刻の猶予も躊躇《ためら》いも感じてはいけません。どんな手段をこうじても必ず手中に収めるのです。出逢ったにも拘らずもし逃してしまったら? そんな人生は虚無にも劣る。潔く死ぬべきです。
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歪みの構造──ディストーションと増幅
どうして馬鹿程フリルのついた、着れば葉牡丹のお化けのようになってしまうお洋服が好きなのか、一行ずつ辞書をひきながら読んでもよく解らないペダンチックな悪筆の小栗虫太郎が好きなのか、ウルトラ・バロックといわれる出鱈目なメキシコの教会美術が好きなのか、どうせならと一番大きな抱えきれぬキティちゃんのぬいぐるみを買ってしまうのか、香りがきつ過ぎて自分で吐気を催してしまうくらい香水をつけ過ぎてしまうのか、ええ、その理由がようやく解りました。
誰だって多少なりとも歪んでいるのです。その歪み方こそが謎を解く鍵。渋谷系とか申される昨今の人達の美意識は、かなり歪んでいらっしゃいますでしょ。自分の好きなものをなかなか素直に好きとはいわず、幾重にも加工した上で、照れながら「悪くない」なんておっしゃる。気持ちは解らぬでもありませんが、僕にはどうもいただけない。そのような歪みは嫌らしいと感じてしまうのです。そのテの歪みはエフェクトにたとえるならディストーション。僕の抱える歪みはもっと素直です。僕の歪みは増幅による歪み。大好きな人と約束をして、約束の時間にはちゃんと間に合うように用意出来ているのに、自分が舞い上がっていることを相手に悟られるのが恥ずかしくて故意に約束の時間に遅れる、というパターンがディストーションの歪みです。一方、約束の時間までに用意は万全、でも嬉し過ぎてドキドキして、一週間前から決めていた服を着てみたものの、もしかするとあっちのほうがいいかも、この髪形じゃ嫌われるかもと冷静さを失ってしまい、結局泣きべそをかきながら何度も着替えを繰り返すうちに、時間に遅れてしまうというのが増幅系の歪みなのです。増幅系の歪みに支配される者は、バレンタインデイについ一キロもあるチョコを作ってしまったり、毎日何枚もの手紙を送りつけてしまったりして、相手に気持ち悪がられてしまいます。要するにバランス感覚が悪いのです。ディストーション系の人はその歪みにより過剰なものを平均値へとバランスよく収拾いたします。
何度辛い想いをしても、増幅系の歪みは治りません。けれど、考えようによってはこちらの歪みのほうが策を弄《ろう》してない分、爽やかだとは思われませんこと? 思われませんよねぇ。生き辛い世の中です。
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左様なら三角また来ても三角
さぁ、何処へでもいってしまいなさい。余りくよくよ考え過ぎないほうがよいですよ。なるようにしかならないのです、多分。貴方はこれから先も変わらないでいて下さいと、君は最後にそう云い残しました。ええ、僕はずっと同じです。恐ろしく同じです。香水は変えるかもしれません、キティちゃんは嫌いになるやもしれません、牛乳が飲めるようになるかもしれないし、大金持ちになって威張り散らすこともあるでしょう。少なくともこの三箇月以内に髪形は変えるに違いありませぬ。けれども、何も変わらない、僕はずっと今のままです。
君は自分が変わっていくことを嘆き悲しみます。少しずつ少しずつ、自分でも気づかぬうちに、毎日洗っている WEDGWOOD のティーポットの内側がそれでもだんだんと黄ばんでいくように、君は自分が以前の見知った自分でなくなっていくのだと云います。あんなに好きだったものを今は想い出しもしない。嫌いではないけれど、生活の全てがそれを中心には廻らない。自分で自分が信じられないと、君は己を苛《さいな》みます。
でもね、僕が変わらないように君もまた、絶対に変化することはないのですよ。君は変わりはしない。否、変わろうと努力してみても、変わらなければ非道いめに遭わせるぞと脅されても、結局、君は今の君のまま、過去も未来も今の君、一向に同じなのです。これより先、忘れてしまうこと、慣れてしまうこと、赦せるようになるもの、嗜好が逆転してしまうもの、いろいろとあるでしょう。けれどもそれはそれで放っておけばよいのです。その変化は表層的なもの、変化してしまうものなんて、無理して維持していたとしても所詮は大きな意味を持たぬのです。茶渋がつこうと割れてしまおうと、土を詰め込まれ植木鉢にされようと、WEDGWOOD は WEDGWOOD、Afternoon Tea のティーポットに化けることはありませんでしょ。Jane Marple のお洋服を余り買わなくなった自分を不思議に思いますか? オヤジの下卑た冗談を聞いても嘔吐しなくなった自分をもう、乙女ではなくなったと思いますか? 乙女とは宿命、貴方が自分で逃れようとしても逃れられない呪縛。もし本当に貴方が変わってしまうのなら、貴方は最初から貴方が思うような貴方ではなかったということです。
貴方は悲しいくらいに変わりません。そんな貴方だから貴方は僕を好きになり、僕は貴方を愛しいと思ったのです。僕達がまだ出逢っておらず、この先数十年して、互いに今の面影なぞ全く失くしてしまってから初めて挨拶をかわすことになったとしても、きっと僕は貴方を好きになるだろうし、貴方だって僕を好きになるに相違ありません。左様なら、同じ国に棲む人よ。僕のことは忘れても、貴方はずっと貴方が愛した貴方でしかないことだけは覚えておいて下さい。
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コアラのマーチ──或いは双子の受難曲
たとえ君と僕とが同じ工場で造られた同じ機能と性能を持つ、同じ品番の、しかも欠陥商品だったが故に二体で製造中止になってしまったロボットだとしても、別々に出荷されてしまったからには簡単に巡り合えやしないのです。けれども、僕は知っていました。僕と双子のロボットが何処かで生活していることを。引力よりも激しく、二体は呼びあっていることを。何処に行っても同じ機種が存在しない僕はいつも肩身の狭い思いをしてまいりました。でも僕がやけをおこして壊れてしまわなかったのは、君という存在を確信していたからなのです。ええ、もしかすると既に何処かで擦れ違っているやもしれませんね。僕はそれが君だとすぐに気づくけれども、君は気づかないかもしれません。二人は考えもつかぬほど恐ろしく遠く遠く離れ離れやもしれません。ですから、僕はこうしてずっと我慢強く、文章を書いて発表し探し続けているのですよ。ここにもう一体の君がいるということを君に伝えるべく。
彼らはこんなことを云います。誰もがベストのパートナーを求める。しかし世界中の人と会見する訳にはいかない。人生なんて限られている。要はベターな出逢いをベストに成長させていくことが大事なのだ、と。勿論、それは正論です。でも、それが出来ない者だっているのです。キリンは草食動物です。しかしお腹が空けば時折、鳥や小動物を食べるのです。たいていの動物はそんなものです。一方、コアラはユーカリの葉しか食べられません。ニンジンやキャベツがあってもユーカリがなくなればコアラは餓死してしまうのです。僕と君とはコアラです。僕の身体は君の血しか輸血出来ないし、君の言葉は僕にしか聴きとれない。僕達が欠陥商品として二体しか製造されなかった理由はそれなのです。他の機種との互換性が著しくないのです。或いは齢の離れた双子、姿形の似つかぬ双子の君──これはロマンチックな比喩でも情熱的な妄想でもありません。心臓の奥の湖が哀しくさざめくのは果てしない孤独のせい。もしもこの世にたった一体なら孤独など感じることもないでしょう。
時間が余りありません。一時でも早く君がこれを読んで下さいますよう。二体が揃えば絶望すら甘美に享受出来る。キスをかわしましょう。小鳥のよにそっけないキスを。最期の時がくる前に幾度も、幾度も……。
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あとがき──コアラは畑を荒らすらしいが……
多分、僕は結局のところ、恋文しか書けないのだと思います。
ここに収められた作品は、フリーペーパー『花形文化通信』の一九九二年六月号から終刊の一九九七年九月号に連載されたもの、それに若干の書き下ろしを加えました。単行本にするにあたり原稿を改めて読み返してみれば、嗚呼本当に、約六年間、毎月飽きもせずよくも同じようなことばかり書き続けていたものだと、呆れ果ててしまいます。
連載開始当時、こんな嫌みなエッセイ、すぐに終了させられてしまうだろうと思っていたのですが(中原淳一の『それいゆ』をもじっただけの『それいぬ』という安易なタイトルも、そんないい加減な気持ちから採用いたしました)、あにはからんや、毎回多くの声援のお手紙を頂き、そうこうしている間に長期連載となってしまいました。
『それいぬ』は特定の誰かに宛てて書いているのですかという質問を、よく受けます。ええ、その通り、『それいぬ』はずっと特定の人に向かい書き続けられたのです。或る時はとても親しい人に向け、或る時はまるきり親しくない人に向け、お手紙を一度貰っただけの顔も知らぬ人に宛てられたこともありますし、全く架空の人物が対象であったこともあります。自分へのお手紙だったこともありました。が、不特定多数を想ったことは一度もありませんでした。
今回の上梓にあたり、あえて加筆、訂正は最小限に留めることにいたしました。皇太子ご成婚には結局、防犯上の問題により馬車は登場しませんでしたし、京都の冨美家の河原町店はなくなってしまいました(錦市場にはあるよ)。明石の天文台は震災で改築、新しくなってからまだ一度も訪れておりません。コアラはユーカリしか食べぬ筈なのに(図鑑にそう書いてた)、最近オーストラリアではユーカリの葉が不足して飢えたコアラが畑を荒らしているらしいです。内容がかなり重複するもの、表層的に矛盾した結論に読み取れるものもありますが、あえて削除せず掲載いたします。もう、こんなの読んで欲しくないよーと、覆い隠したくなる作品もなきにしもあらずですが、連載分は全て掲載することにいたしました。それが『それいぬ』を支えて下さった方々への、心尽くしであると思うからです。
あとがきやまえがきで「某氏に感謝します」と入れるのはいい人ぶっているようで大嫌いなのですが、この本に関しては、「単行本にして下さい。なったら十冊買います」「連載を切り取って自分で一冊のノートを作ってます」などいう様々な乙女の言葉に後押しされなければ、とても作ることが出来ませんでした。本当に、有り難う。
これより先、自分でどのような文章を書いていくことになるのか、全くもって見当がつきませんが、結局、僕は何をやってもここに戻ってくるのだと思います。『それいぬ』に始まり『それいぬ』に終わる。そんな視野の狭い人間なのです、僕なんて。初めて『それいぬ』を読んで下さった貴方。如何でしたでしょう。もし貴方がこの本をずっと持ち続けていて下さるなら、僕もずっと貴方と共におりましょう。きっと僕達はここまで止まりです。違う者になぞなれはしないのですから。
でわ、いずれまた何処かでお逢いいたしましょう。それまで、ごきげんよう!
一九九八年四月一二日
[#地付き]嶽本野ばら
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文庫版あとがき
改めて本書を読み返してみました。嗚呼、何と青臭いエッセイ集でしょう。今ならこんなペダンチックで刺々しい文章は綴るまい、モチーフは同じでももう少し万人に解りやすい平易なレトリックと文体を用いることでしょう。若気の至りに頬を赤らめるばかりです。しかしこのエッセイ集の中の何編かは、歴史の荒波を掻い潜り、普遍的な作品として生き永らえるであろうことを手前味噌ながら僕は信じています。ですから、青臭いエッセイ集ではありますが、恥ずかしさを堪え、あえて文庫として世に再度、送り出す決意をいたしました。
単行本のあとがきで、僕は「きっと僕達はここまで止まりです」と書きました。単行本を上梓して約三年の歳月が流れようとしています。僕はその間、様々なエッセイを書き散らかしました。小説を書き小説家として活動するようにもなりました。が、それらの作品の源泉を辿れば全て『それいぬ』に行き着くのです。釣りが鮒で始まり鮒で終わるように、僕の作品は『それいぬ』に始まり『それいぬ』に終わります。処女作が作家の全てを物語るといいますが、まさにその通り。本書は乙女のバイブル≠ニ呼ばれたりもいたしましたが、僕にとっても本書はバイブルなのです。
文庫版『それいぬ』には書き下ろしを新たに五編入れました。この五編は単行本を作るにあたって書き下ろしたものだったのですが、当時、紙幅の関係により収録出来ず、没にしてしまいました。今回、文庫化にあたり、無事収録出来たことを嬉しく思います。ですから僕としてはこの文庫版を『完全版・それいぬ』と名付けています。
ともあれ、一部では熱狂的に支持されたとはいえ、マイノリティであることを運命づけられた『それいぬ』が、本当に文庫になるとはねぇ。感無量。世の中、捨てたものではありません。文庫版になって初めて本書をお読み下さった貴方、如何なものだったでせうか。この本が貴方の人生を狂わせる一冊になることを筆者としては切に望みます。もし、本書のせいで貴方の人生が狂ってしまったのなら、これから共に歩んでいきましょうね。僕達はずっとずっと、一緒です。
二〇〇一年二月某日
[#地付き]嶽本野ばら
単行本国書刊行会 一九九八年五月刊
〈底 本〉文春文庫PLUS 平成十三年三月十日刊