[#表紙(表紙.jpg)]
おとこくらべ
嵐山光三郎
目 次
おとこくらべ
紫の一本
つばめ
葡萄
葬儀
りんごさくさく
文壇血風宴会録 あとがきにかえて
[#改ページ]
おとこくらべ[#「おとこくらべ」はゴシック体]
「ちょいと、邦《くに》さん、ごらんなね。中島《なかじま》の鬼婆ァがよこした月給はいくらだと思う。一と月働かせて、二円ですってよ、これっぽっちの金で人を使う料簡さ」
家へ入るなり、夏子《なつこ》はよれよれの一円札を二枚畳のヘリへ放《ほう》った。札は湿《しめ》り気《け》をおび、ひらりとも舞わずに赤茶けた畳へ落ちた。
「我慢おし/\。そのうち、みかえしてやればいいんだ。和歌を飯の種にしている鬼婆のことだもの、二円でも払うだけましってものさね」
そう言い返す邦子の腹が、空腹のためクーンと鳴った。二人とも朝に茶漬けを一膳《いちぜん》食べたきりである。腹が減っておなかの皮が内側にひきつってよじれていた。母の滝子は奥の四畳半でしんなりと縫物をしている。
「なにが中島|歌子《うたこ》さ。あそこは歌塾とは名ばかりの着物屋よ。歌もわからぬ娘どもが、嫁入り前の仕度でシャナリと通っていて、ようは着物|較《くら》べの塾ですよ」
「萩《はぎ》の舎《や》じゃなくて御着物舎《おきものや》か」
「そう/\。そんなものよ」
夏子は台所へ行って米櫃《こめびつ》に腕を入れた。
「やめにしておおき、一合ちょっとしかないもの。今夜の母さんのぶんだけさ」
「たまんないねえ。米の中へ腕を入れて、米がさくさくと音をたてて、肘《ひじ》の内側にひんやりとあるのが好きなのよ。ぞくっとするもの。ああ、お金が欲しい」
夏子は一年前は下谷《したや》龍泉寺町《りゆうせんじちよう》で駄菓子屋を開いていた。駄菓子のほか、紙、渋《しぶ》団扇《うちわ》、蝋燭《ろうそく》、石鹸《せつけん》、マッチを売る雑貨店で、一日五十銭ほどの売りあげがあった。家賃は月一円五十銭だから、ぎりぎりの生活だった。あとは母や妹の縫物代と夏子の原稿料でしのいでいるが、目につく知人へ片っぱしから金を借りた。三人が暮らすには月十円はかかる。
店のむかいに同じような店が出て、夏子の雑貨はからきし売れなくなり、腹をたてて本郷丸山福山町へ越してきた。鍛冶町《かじちよう》の金貸し遠銀《とおぎん》から十五円を借金して越してきたのだった。このあたりは、以前は田圃《たんぼ》だった新開地で、借家の家賃は三円だった。夏子が和歌を教えている中島塾の給料二円では支払うことができない。
この年、明治二十八年は、日本は日清《につしん》戦争で勝利をおさめ、町はお祭気分で浮かれていた。川上音二郎《かわかみおとじろう》一座は、戦勝劇を上演し、軍人と政治家は威勢がよく、商人は株の相場にうつつをぬかし、夏子の家の周囲の銘酒屋《めいしゆや》の女たちも大繁盛で、町じゅうが開化丼をひっくり返したようにどんちゃん騒ぎだが、夏子のところまでは褒美の余禄《よろく》はまわってこない。
「小説家ってのはさあ、結構いい生活をしているじゃないか。紅葉《こうよう》と露伴《ろはん》は、まだ二十九歳よ。姉さんより五つ上でしょう」
「やめにしておおき。いま、すごいのを書いてみせるわよ。そうして、美妙斎《びみようさい》みたいに自家用のキンピカ人力車に乗ってみせるさ。『文学界』の貧乏連をひきつれて、上野の豪勢な料亭でパーッとごちそうしてみせる」
「早く/\お願いね、姉さんが書く小説は紅葉露伴以上とは言わないが、世間の頓馬《とんま》が、もう少しわかったっていいじゃないか」
「しんからそう思うかい」
「はいはい、しんから」
「悔しい/\」
夏子は、指さきについた米つぶをじっとみつめて、
「あら、この米つぶ平田禿木《ひらたとくぼく》に似てるわ」
と眼を丸めた。
「こっちは上田敏《うえだびん》、へこめの学生」
「これはひょうたん顔の戸川秋骨《とがわしゆうこつ》」
二人はくっくっと笑ったが、笑った拍子に腹がひきつってちくりと痛んだ。この三人は、「文学界」の同人たちであった。畳の上に落ちた米は、もうひとつぶは馬場孤蝶《ばばこちよう》に似ていて、もうひとつぶの黒いのは「文学界」編集長の星野天知《ほしのてんち》に似ていた。
「文学界」は、明治女学校校長の巌本善治《いわもとよしはる》が創刊した「女学雑誌」の文学部門を独立させて、二年前に星野天知が創刊した雑誌だった。編集長星野天知は明治女学校の教頭であった。
このところ、「文学界」の同人は、なにかと理由をつけて夏子の家へ遊びにきた。最初にきたのは禿木で、夏子はすすめられるまま、これまで五編の小説を書いたが、部数が少ないためまるで評判にならなかった。
美妙斎が主宰する金港堂の「都の花」は二千五百部を刷っていた。原稿料は一枚二十五銭だから、四十枚書けば十円になった。「文学界」の原稿料は一枚五銭だから四十枚書いても二円で、生活費のたしにならない。
金貸しから金を借りまくっている夏子からみると、「文学界」同人は、どの作家も苦労を知らないお坊っちゃんで物足りないものの、「都の花」が廃刊になって、書く雑誌がなくなり、暇つぶしのつもりで書いていた。
「ねえ邦さん、男の器量ってなんだろう。『文学界』の同人は美男ぞろいだろう」
「一に家柄、二に経済力、三に学問、四に顔でしょう。お金がある美丈夫ですよ」
「いいえ、顔より色気さ。それに才能と将来性。あとはやっぱり性分よ。女ぐせが悪いのは駄目」
「半井桃水《なからいとうすい》は二股《ふたまた》野郎でしょう」
「そんなこと知るもんか」
桃水は東京朝日新聞の花形記者で、新聞に小説「くされ縁」を書いて人気を得ていた。夏子は桃水に恋心を抱いたが、三年前に別れている。
「桃水のこと、まだ未練があるの」
「大《たい》ていにおしよ、ふん、あんな痔《じ》もち男がなんだ。顔は色男でも猿股には痔の血痕《けつこん》が小豆《あずき》みたいについているよ。意地悪で、待てど暮らせど本音を言わないずるい男。あんなのどこがいいもんか」
「余りなお人よ。忍ぶ恋路がわからない」
「桃水はさ、対島《つしま》の藩医の息子だから、家柄は甲の下だもの。葉茶屋をやって金は儲《もう》けても借金だらけ。色気は桃色で濃いけれど、才能は並で、将来性はないよ。女ぐせは淫乱で、総合評価は、ひと言でいえば毒」
「あら、無理して言ってる。家柄で言えば、甲の上は孤蝶と敏ですよ。孤蝶は自由党代議士の弟で、敏は両親とも偉い学者」
「表を作りましょうか。おとこくらべ一覧。『文学界』の連中で」
夏子がしゃべって邦子が和紙に書きとめた。
(画像省略)
「孤蝶って被虐愛好男かい」
「そういう感じという直観さ。しっとりと愁いを含んだ色男は案外変態だよ。上田敏は自信過剰でしょう。このあいだ来たときは、鴎外《おうがい》の訳は誤訳だらけだと息巻いていたし、ああいう秀才は性的に異常なところがあってもおかしくないわ。副編の禿木は、マメで実直ですが、わたしの草履《ぞうり》見る目がじんわりと熱っぽかった。あれはどうみてもフェチよ。だって、みんな西洋法華《せいようほつけ》でしょう」
「あら、上田敏もそうかしら」
「アーメンて顔をしてるじゃないのさ。禿木は大学の試験で数学ができなかったのよ。フェチは数学が苦手ですって」
「ふーん、姉さんは勘が鋭いからねえ。でも桃水のことをどうして表に入れないのよ、ずるいわ。本当はまだ好きなくせに。私が表を作ってあげましょうか」
二人が表づくりに夢中になっていると、玄関の戸ががらりと開いて、秋骨と禿木が、
「夏子さん、いますか」
と入ってきた。
「ひとり、客人を連れてきました。あがっていいですか。どうしても会いたいっていうんで、野暮な男ですが連れてきました。自殺した北村透谷《きたむらとうこく》の親友ですから」
夏子は、あわてて書いたばかりの一覧表を奥の棚へしまって、
「どうぞおはいりになって……」
と客の顔を見やった。
禿木は土産《みやげ》の餅《もち》を差し出してから、「こいつは島崎春樹《しまざきはるき》と言います」と、連れてきた小男を紹介した。
「こちらがお蘭《らん》さまです。お隣りが妹の邦子さんだ」
夏子は「文学界」に書いた小説の主人公「お蘭」にちなんで、お蘭さまと呼ばれていた。
春樹は、ポマードを塗りたくった頭を下げ、部屋の中をもの珍し気にじろりと見廻した。固いごわごわの毛をポマードでなぜつけているが頭の後ろの毛ははねあがっている。薄い眉毛《まゆげ》の下に黒縁の眼鏡をつけ、鼻の横に皺《しわ》をよせていた。陰気な男だった。そのくせ燃えるような不安な目をくすぶらせている。
「こいつ、明治女学校の教師でね、歳はお蘭さまと同じ二十四歳。女子生徒の佐藤輔子《さとうすけこ》という娘と恋をしてふられたんです。それで、筆名は佐藤の藤をとって藤村《とうそん》」
「藤蔭《とういん》じゃなくて藤村ですか」
藤本藤蔭は、廃刊になった「都の花」主幹で『淫婆《いんば》』というエロ小説を書いて発禁になった男だった。小説の腕もないのに威張り散らす性格で、夏子は嫌いだった。藤村の号が藤蔭と重なって、夏子はそっぽをむいた。
「信州の庄屋の息子ですよ」
「じゃあ、お金持ちじゃありませんか」
邦子は藤村に興味を示した。
「月給十五円ですよ」
「ふーん。そんなものですか」
邦子の頭のなかには、いましがた書いていた一覧表がこびりついている。
「そのほかに稿料が入るでしょう」
「『文学界』は明治女学校の同人誌みたいなものですから、教師の稿料は安い。校長の巌本善治は、あれで、なかなかの商売人ですからね。クリスチャンと商売人の二つの顔を持っている」
巌本善治は六年前に夏子と親しい作家|若松賤子《わかまつしずこ》と結婚していた。賤子は翻案小説『小公子』を書き、夏子よりずっと売れている。夏子は、賤子がうらやましくてしかたがない。翻訳の才があれば、訳者として世に出ることができるのに、夏子は英語が苦手だった。
「『小公子』は巌本が下訳をして、賤子に書かせたんですよ。だからお蘭さまだって、明治女学校の教師と結婚すればいい」
「お願い、だれかいい人を紹介してちょうだいな。将来性のある人がいい」
藤村は、暗い目で、じっと夏子を見つめていた。夏子が、まるで自分に興味を示さないのが不満そうだった。
その日はいつもの文学談義に花が咲いた。
「文学界」の同人は青くさくてお坊っちゃん育ちばかりだが、真剣な求道精神に満ちている。金は貸してくれそうもない連中ばかりというものの、夏子は気分がすっきりとした。
同人が帰ったあと、夏子は邦子と一緒におとこくらべ一覧を書き足した。
(画像省略)
藤村の印象は、ボロ雑巾のようだった。
「姉さん、将来性はみんな悪くつけているわねえ。どうして。藤村はナシ、善治は破産、桃水は凶、ずいぶんじゃありませんか」
「だって、そうなんですもの。私が言う将来性は、書いた小説が後世に残るか、ってことですもの。天知は残りゃしないし、孤蝶は不安だし、上田敏は危く、秋骨は平凡で、禿木なんて終生の貧乏が目に見えている。さきのことはわかりゃしないさ」
夏子は、餅を焼いて、邦子と一緒に食べた。借家の前の沼に、三日月が反射し、風の波紋のなかで薄銀色に揺れている。
年の暮れになると夏子の周辺は俄然《がぜん》騒がしくなった。これは、博文館が創刊した小説雑誌「文芸倶楽部」の影響が大きかった。新興の博文館はそれまで刊行してきた雑誌や叢書《そうしよ》を統合して「少年世界」「太陽」「文芸倶楽部」の三つの雑誌を始めた。「太陽」編集主幹が論客|高山樗牛《たかやまちよぎゆう》で、「少年世界」編集主幹は巌谷小波《いわやさざなみ》であり、硯友社《けんゆうしや》系が仕切っていた。「太陽」創刊号は紅葉の小説を売り物にして十二万部も刷った。硯友社の一員であった渡辺乙羽《わたなべおとわ》は、尾崎紅葉の媒酌で博文館社長の娘時子と結婚し、大橋乙羽と名乗り、「文芸倶楽部」を仕切った。大橋乙羽は米沢の貧乏人の小せがれで小学校教育もうけず、紅葉門下となって、びっしりと鍛えられて、硯友社のなかで一番女にもてなかった。女にもてないぶん仕事に専念して腕をあげ、実直であったため、博文館社長に認められて養子となった。博文館は急成長の新興出版社で、大手の春陽堂に迫る勢いにあり、紅葉直系の乙羽を入れることによって、勢力増強をはかった。
夏子は、乙羽に頼まれて、妻時子の和歌個人教師となり、こちらのほうは授業料一回一円五十銭で、中島塾よりも実入りがいい。月に二回教えれば三円になり、夕食もついた。さらに時子の口ききで「文芸倶楽部」に小説を書くことができた。若社長とその夫人の口ききだから四十枚の原稿で、五十枚ぶんの稿料を手に入れた。
「文芸倶楽部」の人気作家は、『大さかずき』を書いた美男の川上眉山《かわかみびざん》であった。眉山は歌舞伎役者を思わせる色男で、孤蝶が憂愁がある女たらしなのに比べて、桜のような華やかさがあった。
夏子の盛名を聞きつけて、孤蝶も眉山も夏子の家へ足しげく通ってきた。夏子は母ゆずりの美貌《びぼう》で、色が白く眼もとがすずしく、一見|哀《かな》し気《げ》でありつつ気が強い。そのへんが男たちの気をそそった。女にもてる男にかぎって、「夏子をおとしてみたい」と思うのだ。
夏子が、その年の「文芸倶楽部」九月号に書いた銘酒屋小説はいたく評判がいい。十二月増刊号に書いた短編も好評だった。作者の夏子が、丸山福山町の貧乏借家の住人であることが世人の興味をそそった。
夏子は、紅葉に対してうしろめたさがあった。それは桃水の紹介で「紅葉にあわせる」と言われながら断ったからである。紅葉も会う気でいたが、夏子は硯友社の色がどうも好きでなかった。仲間に入りたいとは思うが、うっかり紅葉に会うと、素人娘は酒を飲まされて手ごめにされるのではないかというおそれもあった。それで、紅葉の敵の美妙斎主宰の雑誌「都の花」へ原稿を売った。その後美妙斎はおちぶれて、夏子の計算ちがいになった。
夏子はさらにおとこくらべを書いていた。
(画像省略)
「こんな表が出廻ったら、なにを言われるかわかったもんじゃないけれど、こう書きくらべてみるとやめられないねえ」
「だったら姉さん、『万朝報《よろずちようほう》』に匿名で売っちまおうかい。寸評の部分を私たちの座談にして、なぜこうなのかを詳しく説明すりゃあいいんだから」
黒岩涙香《くろいわるいこう》が社長の万朝報は、発刊部数五万部で、東京朝日新聞や読売新聞の倍以上を刷っている。赤色の紙に刷るからアカ新聞と呼ばれていた。涙香は、のち、デュマの『巌窟王《がんくつおう》』や、ユゴーの『噫《ああ》無情』を訳す人物だが、このころは「まむしの周六《しゆうろく》」とおそれられている嫌われ者だった。
「いまは小説を書いているんだからさ、これは二人だけのお遊びにしましょうよ」
と夏子は邦子をたしなめた。
それでも、この表を書いて壁に貼《は》ってながめると、夏子と邦子は気分がすっとした。小説の評判は高まっても金は入ってこない。一週間前に、朝日新聞に小説を書いている人気の村上浪六《むらかみなみろく》に借金を申しこんだが断られた。その前には、観相家と相場師をかねる久佐賀義孝《くさかよしたか》に借金を申し込み、その代償に妾《めかけ》になれと言われた。
夏子は金が欲しくて小説を書いている。評判になれば金が入っていいはずなのに、単行本がないので一銭たりと入ってこない。いくら売れても、版元が儲かるだけであった。
「私は、このあたりの銘酒屋の女たちと似たようなものさ。酒一杯と原稿一枚が似たような値段で、売ってしまえばそれっきり。ちやほやされたって、それが金になるわけでなし」
「それになにさ、秋骨って男は。あんな辛気くさいのは早いところ出入り禁止にしなさいな。めそめそして、みっともないったらありゃしない」
「『文学界』へは、書くのをやめようかしら。これからは『文芸倶楽部』よ。大橋乙羽っていう人は、きちんとお金を払うんだから」
「そう/\。私たちだって人間ですもの。ほめ言葉だけでは食べてけませんよ」
つい十日前、秋骨は孤蝶と一緒にやってきて、突然、「もう家へ帰りたくない」と泣き出して、「ぼくはお蘭さまと結婚したい」と言った。大学を卒業してから明治女学校の教師となって、夏子の面倒を一生見ると言うのだった。月給十五円でよくもそんなことを言えるものだと邦子は腹がたった。夏子は、邦子と母滝子を食わせている世帯主であった。夏子を嫁にとられれば、邦子は生活できない。
あんまり癪《しやく》にさわったので、邦子は前に書いた「おとこくらべ一覧」をとり出して、秋骨の女ぐせに「誠実」と書いてある部分を「幼児性」と書きなおした。寸評の「みがけばよし」の部分は「発情まる出し」と書きなおした。
いま作ったばかりの表で、美男の眉山に対して、将来性は「自殺」、性格は「破綻《はたん》」、女ぐせは「下品」と書きこんだのにもわけがある。
秋骨の翌日にやってきた眉山は、「夏子さんの写真を一枚くれ」と言った。「懐に入れて大切にしまっておきます」と。夏子は断ったが、あまりにしつこいので照れながらも五日間の期限つきで一枚を貸してやった。そのとき邦子は、眉山を蹴飛《けと》ばしてやろうと思った。
眉山は美貌を鼻にかけ容貌《かおつき》の皮《かわ》は平常《つね》ではない。邦子には眉山のうぬぼれた口説き方がひどく汚く感じられた。これならば、泣き出した秋骨のほうが、人品《ひとがら》がよい。眉山なんかに夏子をとられてたまるか、と邦子は思っている。眉山は邦子の予測通り、のちに自殺することになる。
硯友社は、紅葉は別格として、他の連中が気にくわない。気になるのは、紅葉の玄関番をやっている泉鏡太郎《いずみきようたろう》で、鏡太郎は、鏡花《きようか》という号で小説を書き始めていた。金沢の彫金師の息子で、上京して行き倒れになりそうなところを紅葉に拾われた。薄気味の悪い男だった。それで寸評の項に「腹に一物」と書きこんだ。秋声はカビのような男に見えた。
夏子は、あんなに恋《こ》いこがれた桃水と別れたものの、夏子の評判があがると、桃水がまた近寄ってきた。夏子は、口では悪く言っているが、桃水が忘れられない。邦子には女の勘でそれがわかるのだった。
桃水の家には、桃水の弟浩が同居している鶴田たみ子に産ませた千代という娘がいた。たみ子は、キツネ目をして全身が茱萸《ぐみ》の実のような女だった。弟の子だと桃水は言っているが、邦子は、桃水の子だと疑っていた。だとすれば、桃水は夏子と恋愛のさなかに、たみ子と関係を持ったことになる。邦子は、そのことを、それとなく夏子に伝えている。売れはじめた夏子をだれにも渡したくはなかった。
田山花袋《たやまかたい》は、硯友社に入れてもらおうとして、紅葉の気にいらず仲間はずれにされていた。そこのところは気の毒でも、西洋通を気取るところが田舎者だ。表には入れなかった男に国木田独歩《くにきだどつぽ》がいた。独歩は花袋と似たようなもので、田舎者でうどんばかり食うくせにクリスチャンであるのが気にくわない。
表を見ながら、邦子は、
「花袋は暗澹《あんたん》、美妙斎は絶望、眉山は自殺、秋声はカビ、鏡花は暗黒、紅葉の将来は若死か。みんな作品は残らないのね」
とため息をついた。
「前途洋々の小説家はいないのかしら。こうまで書くと、私たちがひがんでるみたいじゃないか」
「でも、こんなことお愛想で書けるものですか。この通りですよ、違う?」
「大物が少ない気がします」
「たとえば誰なのよ」
「鴎外、逍遥《しようよう》、露伴、とか……」
「そうねえ、それはまた、つぎにしましょうよ」
夏子が話をうち切ったのは、玄関に客が来たからである。玄関の色ガラスの奥に、すまなそうに立っているのは、近所の銘酒屋の女であった。銘酒屋の酌婦は、夏子に恋文の代筆を頼みに来ている。夏子は、一人五銭という格安の値で、それを書いている。
二十九年の一月は、夏子には嬉《うれ》しいことと、嫌なことが重なった。
嬉しいことは、前年の暮れに「文芸倶楽部」増刊号になつ子の名で書いた短編小説が、鴎外が主宰する「めさまし草」でほめられたことであった。創刊されたばかりの「めさまし草」は辛口批評が多く、評者は、鴎外のほか、幸田露伴と斎藤緑雨《さいとうりよくう》がいた。緑雨はもと東京朝日新聞系の記者で、だれに対しても牙《きば》をむく毒舌で知られていた。銘酒屋女の小説も評判は上々で、書くもの書くものがかたっぱしからほめられた。運がむいてきた。邦子は、なにか晃々《きらきら》した大波が丸山福山町の襤褸《ぼろ》家から発せられるのを感じていた。このまま一年間書きつづければ、夏子は、とてつもない大物小説家に化けるかもしれない。しかし、夏子の評判はここ一年間のことかもしれず、大波が去れば、夏子はまたもとのように忘れられてしまう。
夏子が疲れているのは邦子にもわかっていた。持病の肩こりと頭痛が、このところ、ひどくなっている。そんなときは、おとこくらべ一覧表を作って気をまぎらわすのだ。家へ訪れる職人や、銭湯主人、植木屋、近所の雑貨屋主人のおとこくらべ一覧表も作った。それでも、くらべる男が有名な人でないと、作ってみても張合《はりあ》いがなかった。
嫌な話は、訪問してきた読売新聞記者|関如来《せきによらい》から聞いた。如来は、いきなり、
「おめでとうございます」
と頭をさげた。夏子は、最初は、正月の挨拶《あいさつ》だと思って聞き流したが、つぎのひと言で顔色が変った。
「川上眉山と結婚するそうで。媒酌は紅葉山人とうかがっております」
「ちょいと、だれが言っているのさ」
「うちの社の新年会で、噂《うわさ》になりました。主筆の高田早苗《たかださなえ》が眉山の肩を叩《たた》いて、仲立ちは自分がすると言ってました。眉山は、自分は乗り気ではないが夏子さんのほうがしつこくて、写真まで渡された、と皆に見せていました。夏子さんは内気だから当人からは言えないんだと」
「なぜ、罪造《つみつく》りで、余りな人……」
夏子は足を縮《ちぢ》めた。
「高田主筆の仲介で、紅葉山人の媒酌とまで段取りができて、これを断ったら、あなたは消されますよ。文壇に入れませんやね。女の作家は、若松賤子にしろ田辺|花圃《かほ》にしろ、田沢|稲舟《いなふね》にしろ限度がありますぜ。眉山の妻になって、ゆっくりと腰をすえてお書きになるほうが女の幸せだ。察《さつ》しなされよ」
「憎らしいったらありゃしない。そんなの、すべて嘘《うそ》ですよ。嘘つきの眉山に、みなさん騙《だま》されてます」
「まあ、そう怒りなさんな。もう、段取りはきまってまさあ。じつのところ、私は高田主筆に言われて、夏子さんの気持をたしかめにきたんです。断られた、と言って社に帰るわけにはいきませんや」
邦子は拳《こぶし》を握りしめて、ぶるぶると震えた。邦子が怖れていたことが現実になった。
「あんまりだわ。眉山なんて生煮えの餅みたいな男と結婚するのなら、死んだほうがましです」
夏子が金切り声をあげると、
「ちょいと待ちやがれ」
と、嗄《しわが》れ声がした。いつのまにか、玄関に妖怪のような男が立っていた。額が異様に禿《は》げあがり、骨ばった顎《あご》の素浪人|風情《ふぜい》だった。眼元がくぼみ、喉仏《のどぼとけ》が突き出ている。殺気がよどんでいた。
「玄関まで来たら、読売のへぼ記者が講釈をたれているので、つい立ち聞きしてしまったぜ。ひでえ話じゃねえか、えーおい」
男は陰惨な目で、えぐるように関如来を睨《にら》みつけた。男を見ると、如来は、
「あわわ」
と、歯根《はぐき》を露《あら》わにして震え出した。
男は、どすのきいた声で、「斎藤緑雨こと正直《しようじき》正太夫《しようだゆう》」と名乗った。
「紅葉の媒酌を断れば出世させねえだと。この悪漢《ごろつき》め、よくも上等な口を叩《たた》きやがって。相手が役者風情の眉山小僧とは、ふざけるにもほどがあらあ。己《おれ》は喧嘩屋《けんかや》鴎外の用聞きできたんだ。とっととうせやがれ」
邦子は、ほれぼれと緑雨を見あげた。賊に襲われたところを助けられた気分だった。如来はすごすごと帰っていった。
緑雨は無理に笑顔を作った。
「ご盛名は以前から聞いております。『めさまし草』でほめていただき、ありがとうございます」
夏子は頭を下げた。
「用件はほかでもない。己《おれ》も、恋の使いでやってきたんだ。嫌なら嫌で無理じいはしませんが、たっての頼みでまいりました」
「あら、どうしよう、困ったわ」
夏子はふーっと溜《た》め息《いき》をついた。
「男はもうこりごりです。私はこれから小説を書こうとしている女ですもの。男と一緒に暮らす気はさらさらございません」
「そうか、そりゃ分解《わか》りやすが……」
緑雨は肩をゆすって目を閉じた。
「そうだろうねえ。でも、いちおう用件は申しあげて帰りやす。無理じいすれば眉山と同じだ。じつは、……鴎外があなたに惚《ほ》れちまって、お会いしたいと言っております」
そう言ってから、緑雨は「しーっ」と人差し指を唇にあてた。
鴎外は先妻の登志子《としこ》と離婚して五年余になっていた。登志子との間に生まれた長男|於菟《おと》は七歳になる。
「登志子は赤松男爵の娘で、小説というものが分解《わか》らない。鴎外より十一歳下ですよ。夏子さんは十歳下だ。鴎外は今年三十五歳の男盛り、夏子さんこそ理想の妻だと言っている」
「人をからかうもんじゃありませんよ。私は戸主ですからそんなことは無理です」
「こんなこと、冗談で言えることじゃありやせん。鴎外は、小説をあきらめて軍務に専念しようとしているが、御自分の理念をあなたに託したいと言っている。それで極秘で私が使いに参りやした。昨年の四月に陸軍軍医監に昇進なされて、月収百五十円」
百五十円ときいて、邦子はのけぞった。年収千八百円となり、それは、途方もない金額だ。夏子の昨年の年収は七十円であった。邦子は、夏子の顔をのぞきこんだ。
「雲の上の人のようなおかたです」
「その雲の上へ来てほしいと呼んでるんです。戸主のことはどうにかなる。家族ごと面倒をみる。了承なされば媒酌は帝大教授の小金井|良精《よしきよ》博士だ。式の司会は幸田露伴。これなら、さきほどの話より格が上でしょう」
これだけ言うと、緑雨は、
「すぐに、御返事をとは申しません。お考えいただければ幸いです」
と言って、席をたった。
緑雨が立ち去ってから、夏子は、畳の上に片手をついて、ぼーっと天井を見あげた。あんまり色々のことがおこるので、狐につままれた気分だ。
「なんだか悪夢のようだ」
「でも、鴎外からの話は眉山とはちょいとちがいますよ、姉さん。悪い話じゃない」
「邦さんは、百五十円につられたんじゃないのかい。だけどねえ、おいしい話には裏があります。前妻の登志子が別れたのは、からきし登志子の我儘《わがまま》ではなくて、鴎外の母親と折りあいがつかなかった、というじゃないか。鴎外は母親には頭があがらない。それに、鴎外は、家の手伝い女を隠し妻にしてるって噂もある。あの男、頭はいいが案外くわせものさ。ドイツからエリーゼって娘が追ってきたのに追い帰して、娘は狂ってしまったんだ」
夏子は喉が熱っぽくなり、咳《せき》こんだ。
鴎外が「めさまし草」で夏子をほめたのは、こういう下心があってのことだ、と夏子は思案《しあん》した。
「じゃあ、どうやって断るのさ。紅葉に睨まれ、鴎外を怒らせれば、もうお終《しま》いよ」
「死ぬしかないか」
「だめよ姉さん、そんな弱気は。ここは、ふんばって頂戴《ちようだい》、大橋乙羽がついてますよ。早く単行本を出して、売れればいいんだ」
邦子は、夏子が本当に死ぬような気がしてしかたがなかった。邦子は、自分に小説を書く腕があれば手伝えるのに、と、もどかしく思った。
「そんなに、裁縫の仕事みたいに、つぎからつぎとは書けませんよ」
「そうだ。『文学界』に書いた小説があるじゃないの。それをもう一度『文芸倶楽部』に売っちゃえばいいんだわ」
「そういう手があるわねえ」
「文学界」は一千部で、そのうち出廻っているのは七百部ぐらいであった。「文芸倶楽部」は三万部刷っていた。
この案を思いつくと、夏子は、少し気が楽になり、肩を右手でとんとんと叩き、
「おとこくらべを作ろうよ」
と邦子をうながした。
(画像省略)
鴎外の女ぐせの欄に関しては、迷ったあげく「妄想」と書き入れた。夏子のような貧乏人に恋心をよせるのは、妄想としか思えなかった。
邦子は、将来性の欄を見て、
「左遷、中絶、若死、大吐血、行者、浮雲、寂寥か。どれもこれも、愁嘆《しゆうたん》の種《たね》」
と首を捻《ひね》った。
梅の花が散りかけていた。銘酒屋の通りに植えられた桜の苗に、わずかに蕾《つぼみ》がふくらみはじめていた。
夏子は喉が腫《は》れて熱がさがらなかった。ここ一年間に、体力の限界を越えた仕事をしてきた。そのつけがまわってきた。仕事にとりかかろうとしても頭のなかが茹《ゆ》であがって、ぬるい蒸気があった。筆を持つ手に、以前のようなぴりっとした殺気が走らない。それでも夏子は、腹合せ帯をおとこ結びできつくしめ、文机にむかっていた。
ハンチング帽を被った客があった。見たことがない客で、紫色の風呂敷包みをかかえ、落ち着きがなかった。
「どなたかえ。いま仕事中なので用件は私がうかがいましょう」
邦子がつっけんどんに訊《き》くと、
「博文館の者です。原稿が遅いので催促に来やした。『日用百科全書』の『通俗書簡文』」
男は小声で言った。
「これは博文館さんですか。失礼いたしました。どうぞ上って下さい、ささ」
博文館と聞くと邦子の態度が変った。
男は、紅葉の玄関番をしていた泉鏡花であった。鏡花はこの年より博文館大橋乙羽の家に寄宿して、「日用百科全書」編集を手伝っていた。夏子の原稿が遅れているので様子を見に来たのだった。
「これは若社長からのことづてで……」
鏡花は、乙羽に託されたカステラの包みを差し出した。差し出しながら、夏子の顔をそっとうかがった。鏡花は「文芸倶楽部」に書いた小説『外科室』が田岡嶺雲《たおかれいうん》に絶賛され、新進作家として注目されはじめていた。
「泉さんですね」
夏子は、鏡花の前で血がぶつっと音をたてて逆流するように感じた。写真では顔を知っていたが、本物と会うのははじめてであった。
「徳田秋声《とくだしゆうせい》も博文館に入りやした」
鏡花は、夏子の家へ集まる「文学界」の青年たちとはいささか違っていた。鏡花には、銘酒屋通りの人影が弗《ふつ》と動き出す気配があった。指のさきまで闇《やみ》が沁《し》みていた。眼鏡の奥できょとんとした目玉が笑っているが、目玉の裏で遊園地の観覧車が廻っている。
夏子は、負けまいとして湯呑《ゆのみ》につがれた茶をくっと飲みほして、
「すぐ書きあげますから。あと七日待っておくれな」
と言った。鏡花は夏子のライバルであった。鏡花が書いた『義血侠血《ぎけつきようけつ》』は、川上音二郎一座によって「滝の白糸《しらいと》」として上演されて人気を得ていた。夏子も自分の小説をそんなふうに芝居に掛けてみたい。そんな鏡花でさえ、乙羽の家に居候して、「日用百科全書」の編集手伝いをしているのだった。
「七日後に、またうかがいます」
鏡花は、出された茶を飲まずに帰っていった。夏子の熱のある赤みをおびた顔と、ときおり発する咳の音で、鏡花は夏子が結核に冒されていることを見てとっていた。鏡花は極度の黴菌《ばいきん》恐怖症であった。
博文館が出した「日用百科全書」の『通俗書簡文』は、夏子にとっては、最初で、唯一の単行本であった。稿料を貰《もら》うためには、無理をしてでも書く必要があった。この仕事で夏子は病勢をつのらせた。
五月に入ると夏子の咳は一段と重くなった。高熱にうなされ、熱がさがると肩こりがひどくなった。「文芸倶楽部」に再録した小説『たけくらべ』には鴎外が「めさまし草」で、これ以上ないというほどの賛辞を呈した。それは恋文にも似たひいき評であった。鴎外は、
「この人の筆の下には、灰を撒《ま》きて花を開かする手段あるを知り得たり。われはたとい世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの詩人という称をおくることを惜まざるなり」
と書いた。
この評を目にした邦子は、
「いつまでも夏ちゃんと言ってはいけないのね。これからは樋口一葉《ひぐちいちよう》と言わなくては」
と、涙をうかべて夏子の肩をもんだ。
七月二十日、鴎外の弟|三木竹二《みきたけじ》と露伴が夏子を訪ねてきて、「めさまし草」に合作小説を書こうと申し込んだ。露伴は、夏子の容態の悪化を聞き及んでおり、見舞いがてら、合作小説を依頼することで、夏子を元気づけようとした。しかし、夏子には、それをなしとげる体力は残っていなかった。
八月の初め、駿河台《するがだい》の山竜堂病院へ出むいて診断をうけると、「助かる見込みはない」と言われた。鴎外の紹介で、日本一の名医とうたわれた帝大教授の青山胤通《あおやまたねみち》が診察したが、「いかんともすべからざる容態」になっていた。
いよいよ病勢悪化した夏子を秋骨が訪ねると、夏子は、「皆さまが野辺をそろぞ歩いておいでのときには、蝶《ちよう》にでもなって、お袖《そで》のあたりに戯《たわむ》れまつわりましょう」と言って淋《さび》しく笑った。いつもの、勝ち気な言葉はうすらいでいた。孤蝶が見舞ったとき、夏子は髪を乱して、頬《ほお》を赤くして東枕にして寝ていた。
「この暮れにまたお目にかかりましょう」
と孤蝶が声をかけると、夏子は、
「その時分には、私はなんになっていましょう。石にでもなっていましょうか」
と、とぎれとぎれに言った。
夏子が息をひきとったのは十一月二十三日であった。
葬儀の日は、からっ風がびゅうびゅうと吹いていた。丸山福山町の家に戻った夏子の遺体は、粗末な棺におさめられた。花は博文館から贈られた一対のみであった。
先導二人のあとを、花と棺と、位牌《いはい》を持った邦子がつづいていった。参列者は総勢九名であった。邦子が驚いたのは、鴎外から葬儀に参列したい、という申し出があったことだ。鴎外は騎馬で棺側に従いたいと言ったが、あまりに貧弱な葬儀のため、邦子はそれを断った。
邦子には葬儀を出す金もなかった。しかし邦子は、頬にあたる風をはねかえすように、「夏子には将来性がある」と確信していた。「おとこくらべ一覧表の将来性の欄に、夏子はみんな辛い点をつけたけれど、夏子にはある」と邦子は思った。
夏子と二人で、悔しまぎれで書きつけたおとこくらべ一覧表は、夏子の遺体の下に入れてある。火葬されれば、誰の目にもふれずに煙となって昇天するはずだ。どうせ、うさばらしの表だもの、燃やしてしまったほうがいい、と邦子は思っていた。緑雨から「遺稿を出版するから日記の類は燃やすな」と厳命されていたけれど、この表だけは別であった。
邦子は、おとこくらべ一覧を棺に入れる前に、「番外」として一葉の項を書き入れた。
家柄は丙、お金は×、学問は△、顔は◎、色気は〇、才能は◎、性格は強情、と書きこんでから、将来性の欄に、墨黒々と「前途洋々」と書き入れた。
築地本願寺の葬儀場へ向かう葬列を、銘酒屋の女たちが宿酔《ふつかよ》いの目で見送っている。邦子は、夏子の位牌を握りしめて、
「そうさ、前途洋々よ。夏姉さんは死んでしまっても、小説は、いつまでもいつまでも、人々《みんな》に読みつがれる。小説は、お姉ちゃん、前途洋々ですよ。前途洋々です」
そうつぶやいて、一歩一歩ゆっくりと歩いていった。
[#改ページ]
紫の一本[#「紫の一本」はゴシック体]
明治三十六年十月。
小泉節子《こいずみせつこ》は、
「ママさん、おきてください」
という夫の声で目をさました。
深夜二時である。
「私、紫の一本、見ました」
と夫は女のような声を出した。
節子の夫はギリシャ生まれのアイルランド人で、ラフカディオ・ハーンという。八年前に日本に帰化して小泉|八雲《やくも》という日本名になっていた。
「ママさんと話をしたいです。眠ろうとしても、紫の一本がちらつきます。私の寝室へ来て下さい」
ハーンは嘆願するように言った。
節子は、すぐ横で寝ている赤児を示して、
「貴方《あなた》、しずかになさいまし」
と首を振った。一カ月前に生まれた赤児で寿々子《すずこ》という。はじめて生まれた娘だった。この上に三歳になったばかりの三男|清《きよし》と、七歳の二男|巌《いわお》がいる。長男の一雄《かずお》は十歳になっている。
ハーンは、両手をあわせて、拝《おが》むように節子に頭を下げた。ハーンは五十四歳、節子は三十六歳だった。
「なんでございますか、こんな夜中に」
節子はしぶしぶと起きあがり、夫のあとについて庭沿いの廊下を歩いていった。竹藪《たけやぶ》で蟋蟀《こおろぎ》が鳴いている。
節子はハーンと結婚して十三年になるが、ハーンはまだカタコトの日本語でしか話せない。「紫の一本」とはハーンの造語で、男と女の直感的な恋情を言う。ハーンは、節子の躯《からだ》を求めるときにこの言葉を使った。
広い屋敷であった。七百坪の庭のなかに百坪の屋敷を増改築して一年半になる。もとは子爵が住んでいた家で、鬱蒼《うつそう》と樹木が繁り、広い竹藪があった。
「宜加減《いいかげん》にして下さいな……」
節子はハーンの部屋に入るなり声を荒だてた。
「寿々子が起きたらどうするんですか」
節子が言い終らないうちに、ハーンは寝着の上から節子の肩をひき寄せて、強く首筋を吸った。
「おやめになって。まだ産後四十日です。私、死んでしまいます」
節子はハーンの顔を手で叩《たた》いた。
節子が夫の顔を叩くのは、これがはじめてのことであった。ハーンは顔面が蒼白《そうはく》になり、目を丸くして節子を見つめた。ハーンは片目であった。十六歳のとき、遊んでいた縄のさきが左目にあたって失明した。ハーンは片目を見開いたまま、叩かれた耳を押さえた。
「耳の奥からお経《きよう》の声が聞こえます」
ハーンは、畳に跪《ひざまず》いて首を振り、
「ママさん、このごろ冷たくなった」
と小さく唸《うな》り声をあげた。
「昔と違う……」
十三年前、節子は松江に赴任したハーンの棲《す》み込み女中としてハーンの家へ入り、そのまま結婚するにいたった。没落した士族の娘で、気だてがよかった。ハーンは二十歳でアメリカへ渡り、新聞記者としていちおうの名をなしていた。ニューオルリンズで混血の黒人女性と同棲《どうせい》して、ひどい目にあってから女性恐怖症になった。その後、ニューヨーク、西インド諸島を廻って、四十一歳のときに来日したのだった。
そのころ、日本滞在中にコンテンポラリ・ワイフ(かりそめの妻)と同棲する西洋人が大勢いた。J・L・ロングが『蝶々夫人《マダム・バタフライ》』を書いたのは明治三十年である。ハーンの兄貴分であったピエール・ロティは長崎でのかりそめの結婚生活をもとに『|お菊さん《マダム・クリザンテム》』を書いていた。ハーンも日本人女性とのかりそめの結婚を夢みて来日し、松江中学の英語教師となった。
節子はもともと西洋人好きであったから、ハーンの棲み込み女中としてよく仕えた。気がきいて優しくハーンに接し、たちまちハーンの心をとらえた。
結婚したての頃は、節子は松江の人々から洋妾《ラシヤメン》と蔑視《べつし》された。松江中学の給料は月給百円(現在の約百万円)である。ハーンは、節子の絶対君主的な夫となり、節子もハーンをたてて、従順であった。
長男の一雄が生まれると、節子は気位《きぐらい》が高くなった。節子は、ハーンの名を、片仮名で、ラフカズオ・ヘルンと書いていた。一雄という名はハーンの名の一部からとった。
ハーンは四十七歳のとき、東京帝国大学から英語講師に乞《こ》われて上京し、月給四百円という高給とりになった。その他に本の印税が年間千三百円ある。日本名を小泉八雲としたため、ハーンは養子の立場になる。それまでは節子を庇護《ひご》する強者だったハーンは、節子によって庇護される身分になった。
「眠っていると、紫の一本が瞼《まぶた》の裏に走りました。ママさんを抱きたいです」
ハーンは蚊の鳴くような声を出した。
「貴方《あなた》、アニマルです。東京へ来ましてから、三人も子を産みました。そうそう躯《からだ》がもたぬのは貴方《あなた》も御存知のはずでしょう」
節子はハーンに吸われた首筋を指でぬぐった。上京して七年間に、三人の子が生まれた。節子は躯がやすむ間がなかった。ハーンは、性格が優しく、花や虫を愛した。そのぶん性欲が人一倍強い。ハーンに抱かれた翌朝は、全身が襤褸屑《ぼろくず》のようになって、午前中は立ちあがれないほどであった。いくら小男といっても日本人とは比べものにならない体力であった。
ここ二、三年は毎晩のように節子の躯を求めるのだった。三男の清が生まれたばかりなのに、おかまいなしであった。五十四歳の男のどこにそんな精力があるのか節子は不思議だった。
それは東京帝国大学でのもめごとも関係していた。この年の三月、ハーンは大学をやめた。やめた事情はいろいろあったが、ひとつはハーンの月給が高すぎることにあった。大学をやめるとき、ハーンの月給は四百五十円になっており、これは日本人教師を三人以上雇える額であった。ハーンの後任となった一人は、イギリス留学から帰ったばかりの漱石《そうせき》夏目金之助《なつめきんのすけ》であった。ハーンが大学をやめたのは、突然舞い込んだ「雇用契約を更新せず」という一枚の通知だった。ハーンは激昂し、学生の間からも留任運動がおこった。それも功を奏さずハーンは無念の思いを胸に秘めて大学を去ったのだった。ハーンに対する大学当局の遇し方は闇討《やみう》ちにちかく、ハーンは教師の間で孤立していた。ハーンに対する嫌がらせがあるたびに、ハーンは節子の胸にすがって、「淋《さび》しい。日本に裏切られた」と言って泣くのだ。
ハーンは、節子の躯を抱きしめて乳房に顔をうずめた。
「そんなことはしばらく廃《よ》しにして、仕事をなさいまし。いまは脈拍も速うございますし、熱もあります」
と節子は言いわけをした。
「もう四十日たちました。大丈夫だと思います」
ハーンは節子の胸をまさぐった。
「わたし、四歳のとき、母と別れました。だから、乳が恋《こ》いしい」
「おやめ下さいな……」
節子はまたハーンの耳を叩いた。
「音が聞こえます」
ハーンは、あたりを見廻し、
「だれかがお経を読んでいます」
と耳をすませた。
「なにも、聞こえやしませんよ」
「いや、聞こえます。なんのお経でしょうか。観音寺の大師堂から聞こえます」
上戸塚《かみとつか》の観音寺は、御府内八十八カ寺の第八十五番にあたる寺で、ハーンと節子の散歩道沿いにあった。大師堂の横に経文を彫刻した小石柱が建っていた。
ハーンは、枕元《まくらもと》にあるランプの芯《しん》を下げて灯《あか》りを暗くした。これは、ハーンが節子から怪談話を聞くときの習慣であった。夜が更けてくると、ハーンは、こうやって節子から日本の怪談を聞き、それを小説に書いた。同じ話を何度も何度もしてくれとせがんだ。ハーンが話を聞くときは、じっと息を殺して、幽鬼のように恐ろしい視線になる。いつもの柔和なハーンとは一変するのだった。節子は、それを、魔物が天から降りてくるようだと思っていた。
「ああ、お経の音が遠くなっていきます。お経の音も紫色の光を帯びています」
「耳鳴りではございませんこと」
「奥のほうから、経文が紫色の荒波となって押し寄せるのです。あ、消えていきます。ママさん、もう一度、私の耳を叩いて下さい」
「嫌ですったら。できません」
「お願いです」
「いたく身勝手なことをなさいますこと。空耳をたてると、閻魔《えんま》様がお参りにきますよ」
ハーンは、いきなり節子を抱きよせて寝着をはだけ、乳房に唇をよせて強く吸った。乳首のさきから生ぬるい乳が出てきた。
「嫌だと言ってるではありませんか」
節子はもがいてハーンを押しのけようとしたが、ハーンは節子を抱きしめたまま、そのまま座敷の上に押し倒した。
「おやめ下さい」
ハーンは、いやがる節子を離そうとしなかった。節子は、もがきながら両手でハーンの顔を打った。手がハーンの耳にあたった。
「聞こえます、般若心経《はんにやしんぎよう》です」
ハーンは節子の乳首を吸いながら耳をすました。
(摩訶般若波羅蜜多《まかはんにやはらみた》心経、……)
ハーンは打ち寄せる経文をたしかめるように乳首から唇を離し、低く、
「色即是空《しきそくぜくう》空即是色《くうそくぜしき》」
と塩辛い声を出した。
「馬鹿々々。縁起でもない」
節子は乳首を吸われ、
「ああ、いやだ、いやですよう」
と喘《あえ》ぎ声をあげた。
「エエ、憎らしい。大抵《たいてい》におしよ」
「無眼耳鼻舌身意《むげんにびぜつしんに》」
「ちっと離して下さいましな」
節子は、身をよじりながらも、気をそらそうとして、
「無眼耳鼻舌身意」
と小さく声をあわせた。
「それは、どういう意味ですか」
ハーンは節子に問いかけた。ハーンの唇から吸ったばかりの母乳がしたたり落ちた。
「眼がない、耳がない、鼻がない、舌がない、体がない、心がない……」
「There are no eyes, ears, nose, tongue, body, and mind」
ハーンは、節子の言葉を、ひと言ひと言英語で確認し、
「私と同じです」
とつぶやいた。
ハーンの顔は能面のように硬直していた。
「片目は少年のときに失いました。耳は東京帝国大学で失いました」
「貴方《あなた》が、教授とつきあわないせいですよ。パパさんのほうから耳をふさいだんです」
「だれも本当のことを言ってくれませんでした。日本は恐ろしい国です。私に不満があるのならば、はっきり言ってくれればいいのです」
ハーンは、大学での排斥《はいせき》運動を思い出していた。ハーンを馘《くび》にする動きはまるでハーンの耳に入ってこなかった。東京帝国大学で教鞭《きようべん》をとっていたときのハーンは、教授会から耳をもがれたのも同じであった。
「私は、耳なしハーンです。ハーンなのになにも聞こえない」
ハーンは淋しそうに首をうなだれた。
ハーンは、英語で hearn と書く。名のなかに hear(聞く)という単語が入っている。
「耳なしホーイチ、ですか」
節子ははだけた寝着の裾《すそ》をなおしながらハーンの前に坐《すわ》りなおした。
「そうです、盲目の芳一です。以前話してくれましたね。幽霊を泣かせた琵琶《びわ》法師の話です」
ハーンの眼は青白い炎となって揺れている。手も震えている。
「あれはたしか『臥遊奇談《がゆうきだん》』に出てまいりますお話でした」
この草子は節子が高田馬場の古書店|古今《こきん》堂からさがし出してきた一冊であった。
ハーンはランプの芯を低くして、日本の昔話を聞くのを長年の習慣としていた。最初のうちは祖母から聞かされた民話をカタコトで話した。話し出すとハーンの視線がゆらりと変った。それを見た節子は、ハーンが自分を愛するのではなく、物語を愛する性格なのではないかといぶかった。性愛の火花は一瞬で果てるのに、物語の余韻はずっとあとまでも糸をひくのであった。
節子は、聞き知っていた民話を小出しにしてハーンの気をひくようになった。なかでもハーンを喜ばせたのは「浦島太郎」の話であった。ハーンはおりにふれ、「自分はイギリスの浦島太郎だ」と言った。
節子が知っている話を出しきってしまうとハーンは生気を失ってしぼんだ花のようになるのだった。
東京には新刊本屋や古書店が多くあった。節子は片っぱしから本屋をまわっていろいろの本を集めた。まず、絵入りの『日本お伽噺《とぎばなし》』二十五冊を見つけた。つぎに講談本『百物語』。雑誌「文芸倶楽部」に載っている諸国奇談も役に立った。ハーンはそういった書物を自分で読むのではなく、節子の口から直接に聞きたがった。節子は手に入れた本の難しい部分は読みとばして、ところによっては自分勝手な創作を加えてハーンに話してきた。最初は節子は協力者だった。何回もつづけるうちに節子が主役になってきた。節子は自分の頭に魔物が落ちてくるように感じるのだ。そういうときは話しているうちに気がたかぶって自ら抱かれたいと思うようになった。ハーンは怖ろしい話を好んだ。円朝《えんちよう》の『牡丹燈籠《ぼたんどうろう》』、『十訓抄《じつきんしよう》』、『雨月《うげつ》物語』、『今昔《こんじやく》物語』、『宇治拾遺物語』、『新著聞集《しんちよもんじゆう》』、それに『仏教百科全集』。節子は手に入る本をつぎつぎに読んだ。
節子がかき集めた本を、そのまま読んできかせることをハーンは嫌った。必ず節子の頭を通過して、節子の口から語られるものでなくてはハーンは満足しない。節子が怖ろしい声を出して話すと、ハーンは異常に興奮して、「そこをもう一度」とせがんだ。子どものようなせがみかたであった。
ハーンは節子の話に身もだえした。ひどく身をよじったのは「文芸倶楽部」に載っていた『幽霊滝』であった。肝っ玉の太いお勝《かつ》さんが、背中にしょっていた子供の首をもぎとられて、「あっ、血だ!」というシーンは、十回以上もくりかえして聞いた。そこのシーンになると、ハーンは恍惚《こうこつ》の表情となり、ハアッと声をあげ、「紫の火花だ」と叫んだ。
『幽霊滝の伝説』は小説集『骨董《こつとう》』のなかに収められ、マックミラン社から刊行されたばかりだった。琵琶法師芳一の話は、以前も聞いていたのだが、ハーンはあまり興味を示さなかった。『臥遊奇談』は仏教の経文の功徳《くどく》を宣伝した話であった。
「芳一の話を、もう一度聞かせて下さい」
「くわしいことは、もう忘れてしまいましたよ」
「そのほうが、いいです」
ハーンは坐りなおした。
竹藪がざわざわと揺れた。
節子は、眠い目をこすって、ゆっくりと、話し出した。最初は、簡単にあら筋を話した。いつものことであった。あら筋を話し終ったところで、夜がしらじらとあけてきた。
ハーンの目は異様に光ってきた。
「また、紫の一本、走ったです」
ハーンは節子の手を握った。
「さっき、死ぬ夢を見ました。落合火葬場の煙の間を紫の光となって、ママさんや、子どもたちに別れる夢、見たです」
「なにをおっしゃいます。寿々子が生まれたばかりではありませんか、パパさんに死なれたら、困ります」
「もうすぐ、死ぬという気、します」
奥の間で赤児が泣く声がした。
節子は自分の手を握りながら膝《ひざ》に頭を押しつけようとしたハーンを無理やり押しやって、自分の部屋へ戻った。
その日の朝ハーンは寝室から起きてこなかった。いつものハーンは朝が早い。和食の朝食を食べてから、目白台や|雑司ヶ谷《ぞうしがや》のあたりを散歩するのだが、この日は眠っているようであった。
節子は寿々子を家の女中連に預け、三男の清を連れて上野の商品陳列所へ出かけた。寿々子の服を買うためであった。家には抱車夫《かかえしやふ》がいた。書生は節子の従姉《いとこ》の子光栄と士族の子資則の二人である。養母のトミもいる。松江から出てきて逗留《とうりゆう》する客二人もいた。
ハーンと結婚する前の節子の生活から比べると、考えられないほど贅沢《ぜいたく》な暮らしであった。節子はハーンの棲み込み女中になったとき、妾《めかけ》として扱われる覚悟ができていた。それほど小泉家は困窮《こんきゆう》していた。それが、抱車夫まで持つ暮らしになったのだ。これはすべてハーンの力なのであった。ハーンは打出の小槌《こづち》のような男だった。節子はハーンに恩を感じながらも、自分の力に自信を持ちはじめた。ハーンは小泉家の養子となり、立場は逆転していた。入ってくる稿料も、もとは節子がハーンに話した内容を英訳したものであった。東京帝国大学をやめたとき、アメリカのコーネル大学からは一期五千円の報酬で特別講義の依頼があった。
新聞店の土塀に対露同志会のポスターが貼《は》ってあった。上野の森では「ロシア討つべし」の幟《のぼり》をあげて演説する壮士がいた。大山|巌《いわお》大将の写真が呉服店の壁に飾られている。二男の巌という名は、「強くなれ」との願いをこめて、大山大将の名にあやかった。日本とロシアは朝鮮半島と満州の支配権を争って、対立を深めていた。日露戦争前夜であった。
節子は人力車に乗って出かけ、商品陳列所で長い煙管《キセル》を一本買った。ハーンが好きな浦島太郎の模様が入っていた。琵琶法師の博多人形も買った。そのあとは上野精養軒へ行って軽い昼食をとった。精養軒はハーンと一緒に食事をした思い出の食堂であった。帝大で教えていたころは、毎週木曜日に午前と午後の授業があり、そのあいまをぬって精養軒で節子と昼食をとった。
節子は精養軒の窓から不忍池《しのばずのいけ》の蓮《はす》を見つめていた。蓮の葉が風にあおられて折れ、突如、
(夫は死ぬかもしれない)
と直感した。
寿々子が生まれたとき、ハーンは、
「なんぼ、私の胸痛い」
と弱音を吐いた。それは、歳をとったため寿々子の行く先を見てやれない、というハーンの不安からきた言い方だった。
節子は、これまでの生活で、まだハーンを理解できない部分がいくつもあった。ハーンは思いこみが人一倍はげしく、「紫の一本」というわけのわからぬ言い方も理解しかねた。熱狂的な日本|贔屓《びいき》で、日本を理想の国と信じている。そのぶん、ハーンが信じようとする古い日本にそぐわないことに遭うと機嫌が悪くなった。東京がそのひとつで、ハーンは文明開化の町が嫌いだった。ロシアを相手に戦争をしかけようとする日本は、ハーンにはあわない。
ハーンが節子に過大に頼りすぎていることも、重荷であった。ハーンは、節子に会ったとき、「百姓の娘だ、手足が太い」と難癖《けち》をつけた。ハーンは、日本への思いこみで、士族の娘は手足が華奢《きやしや》である、と信じていた。手足が太いと言われたことは、いまも節子の記憶に青痣《あおあざ》となって残っている。
節子がほとほと参ったのは、ハーンの人並はずれた性欲の強さであった。ハーンに抱かれると骨も内臓も襤褸々々《ぼろぼろ》に崩れるようであった。それは快感にはほど遠く、しめつけられるような苦痛を伴った。躯を四つにも八つにも畳まれる気がした。玩具扱いされる躯を、他人のものと思うようにして耐えてみたものの、そのうち、長時間に及ぶときは、やんわりと断るようになった。節子が嫌がるとハーンはぷいとそっぽをむき、乳房を掴《つか》んで、
「ママさん、私を愛してないのですか」
と訴えるように言った。そのまま二、三分たつと、また、節子にすり寄ってきた。それなのに、昨夜のハーンは、すぐにひきさがった。経文が聞こえる、と言った。そのことが節子の心にひっかかるのであった。
節子が家に帰ったのは、午後五時であった。玄関の戸を開けると書生が飛び出してきて、
「先生がひどく苦しんでいます」
と報告した。
「奥様がいらっしゃらないので、淋しい/\とわめいて、それは大変でございました。事故に遭って死んだのではないか、と心配しています」
「赤ん坊じゃありますまいに」
節子は、ハーンの書斎に行き、
「パパさん、気を取り直して稼業《かぎよう》に精を出して下さいまし」
と言いながら障子を開けた。ハーンの書斎は西側に向いた窓に細長いテーブルと椅子《いす》が置かれている。ハーンは西日が好きなのだ。
「私、もうすぐ死にます」
とハーンは言った。
「私が死んだら、小さい瓶買いましょう。私の骨入れるために。そして田舎の小さい寺に埋めて下さい。あなた、子どもと、骨牌《カルタ》して遊んで下さい。私が死にましたの知らせ、いりません。もし人が尋ねましたら、はあ、あれは亡くなりました、と言って下さい」
ハーンは胸を押さえていた。
「まあ、そんなこと、言わないでおくれ。心配ないです」
節子は空返事《そらへんじ》をしてハーンの胸をさすった。ハーンは節子の手をとった。
「そうですね。私、最後の小説を書かなければ死ねません」
やわらかい夕焼けがハーンの書斎に差しこんだ。書斎の障子一面が紫色に染まる夕焼けであった。節子はハーンの手を握りしめながら、夕焼けを見つめた。ハーンの毛むくじゃらの指にも夕焼けが染っている。節子は、ハーンの指に頬《ほお》を押しあてた。ハーンは、かすかにほほえんで節子の肩を抱いた。
テーブルの上に、原稿用紙があり、
「Earless Hoichi」(耳なし芳一)
とブルーのインクで書かれていた。
しばらくすると、ハーンは万年筆を握りなおした。夕焼けは少しずつ消えていき、夜の闇が迫ってきた。虫が鳴き出した。節子は、洋燈《ランプ》に灯をともして、ハーンの書斎から立ち去った。ハーンは執筆に集中するとしゃべらなくなる。夕食をとろうともしない。このときは書生も女中も黙りこんでしまう。足音をたてずに歩き、襖《ふすま》の開け閉めの音にも気を遣った。百坪の邸宅は、幽霊屋敷のように静まりかえった。
節子は奥の間で、寿々子に乳を飲ませながら眠ってしまった。
目を覚ましたのは、深夜の二時であった。風が戸を叩いた音で起きてしまった。もう一度眠ろうとしたがどうしても寝つけない。ハーンの様子が気になった。節子は、ふいに紫の一本を感じた。ハーンから一本の糸が放たれ、それが節子をたぐり寄せているようなのだ。紫色の糸が節子の首にからみつき、ぐいぐいとひき寄せられていく。それはいままで節子が体験したことがない不思議な感触であった。
節子は立ちあがり、首を前に出しながら、引きたてられるように歩いた。
ハーンの書斎のランプは消えていた。
節子は襖を開けずに、次の間から、
「芳一、芳一」
と小さく呼んでみた。すると、
「はい、私は盲目の芳一です。あなたはどなたでございますか」
とささやくようにハーンの声が返ってきた。部屋は暗いのにハーンは眠っていない。しばらく沈黙がつづいたあとで、節子は低く強い声で、
「芳一!」
と高飛車に呼んだ。
「はい!」
とハーンはおびえた声で答えた。
「こわがることはない。私の主人は、大勢の家来を連れて、赤間《あかま》が関《せき》においでです。そなたの合戦の語りを是非聞きたいとおっしゃいます。さあ、琵琶を持って、せっしゃとすぐにお出《い》で下さい」
節子は襖をすっと開けた。
テーブルに頭をうつぶせにして、ハーンが坐っていた。ランプの火を消して、じっとうずくまっているのであった。
ハーンは、震える手を節子の前に差し出した。いつものハーンとはまるで違った形相だった。ハーンに芳一が乗り移っているのだった。
節子は一瞬、どうしようかととまどった。紫色の糸にひったてられるまま物語のなかに入りこみ、ハーンを芳一と呼んでしまった。ハーンとホーイチという語感は似た響きがあった。
ハーンは芳一になりきって手を差し出している。節子は腹をきめた。こうなったいきがかりで、武家の亡霊に化けて、ハーンを外へ連れ出すより手はなさそうだ。節子はハーンの手をとって廊下を歩き、裏木戸を開け、草履《ぞうり》をはかせ、足音を忍ばせて庭へ出た。それから広い邸内をあちらこちら歩き廻った。庭を手入れする刈り込み鋏《ばさみ》があったので、それをがちゃがちゃと鳴らせて、甲冑《かつちゆう》の音を出してみた。
庭を歩きながら、節子は自分にも幽霊の息が乗り移ってくることを感じた。門柱を虫が喰い、作り直す準備をしていた。門柱の前に来たとき、節子は、おごそかに、
「開門」
と言った。
「カイモン!」
とハーンは低い声をあげた。
「そうです。開門がいい。私、そこの表現をさがしていました。ママさん、ありがとうございます。カイモン!」
ハーンは我れにかえって、ぼうっと立ちすくんだ。それを見て節子はほっと胸をなぜおろした。
「早く部屋へ戻りましょう。いつまでも、お化けごっこにはつきあっていられませんよ」
今度はハーンが節子の手を握って家の中へ入った。書斎へ戻ると、ハーンは洋澄《ランプ》をつけ、原稿用紙の上に「カイモン」と書きつけた。ハーンは原稿用紙すれすれまで目を近づけて文字を書くのだった。
「門を開け! では強さがないです。私、そこのところで迷っていました。それを、ずっと一人で考えていました。今度も、ママさん、あなたが教えてくれた」
ハーンは机の上の硯《すずり》をすりはじめた。硯の向こうで一雄に買い与えた動物の玩具がかたかたと音をたてて揺れた。
水はハーンの片目からこぼれ落ちる涙であった。ハーンは、節子の胸に頭をつけて涙を硯に落とした。
「娘が、涙ですった墨で恋文を書くという話ありましたね。あの気持、わかります」
ハーンは硯をすり終ると上半身裸になった。
「私の躯に経文を書いて下さい。芳一の気持、私、知りたいです」
節子は、ハーンに命じられるまま、筆をとって、ハーンの胸や背中に般若心経の経文を書きつけた。
ハーンが物語のなかへ入りこめば、どこまでもつきあおうと腹にきめていた。顔や頭、頸《くび》や手にも書きつけた。ズボンと下着を脱がせて尻や太股《ふともも》や足の裏から、からだのすみずみにまで経文を書きつけた。
節子の額に冷や汗がじんわりと浮かんでいく。ハーンがそれからさきどのような話の筋を考えているのか、節子はまるでわからなかった。
節子がハーンに話したのは、幽霊を感動させた盲目の琵琶法師の話にすぎなかった。武士の亡霊に連れられて墓石の前で琵琶を弾く法師がおり、たまたまそこを通りかかった旅の名僧が、躯じゅうにまじないをかけてやったが、耳だけは忘れてしまった。するとつぎの晩、琵琶法師の耳だけがひきちぎられてしまった、という伝承だ。
「できました。私の耳なし芳一の話。できました。できました」
ハーンは全身に書かれた経文をうっとりと見つめた。
「私がこんな真似《まね》をしたこと、だれにも話してはいけませんよ」
「承知しております」
「こんな話が外へ漏《も》れたら、私のこと、変だとみんな言います」
「はい。もう、そんなことはやめにして、早く御膳《ごぜん》あがって下さい」
「二人だけの秘密です」
ハーンは経文が書かれた腕で節子の躯をひきよせて抱いた。
「やっと、一番好きな小説ができました」
「よございましたね」
ハーンは節子の寝着の帯をほどいて、節子を裸にした。
「ええ、こうなれば何《ど》うともなれという気持です」
「このことも二人だけの秘密です。私は北の国から来たユキオトコです」
それを聞くと節子は、ふふふ変なお方、と声を出して笑った。ハーンがもうひとつ気にいっている怪談は、「雪おんな」であった。幸せな家庭を作った木樵《きこり》が、雪おんなの秘密をしゃべったばかりに、雪おんなである妻に逃げられる、という話である。
節子は、ハーンから発せられる紫色の細い光に全身をぐるぐる巻きにされる思いがした。
「耳なし芳一」と「雪おんな」が収録されたハーンの小説『Kwaidan』は、翌三十七年、ホートン・ミフリン社から出版された。
しかし、ハーンはこの本を手にせずに死んだ。
明治三十七年九月二十六日、家族と夕食をとったあと、ハーンはいつものように書斎に通じる廊下を歩いていたが、節子のところへ戻ってきて、
「ママさん、先日の病気また参りました」
と言った。ハーンはしばらくのあいだ、胸に手をあてて部屋をうろうろと歩いた。
節子はハーンの手をとってそっと布団に寝かせた。布団に寝かされたハーンは、節子を口元へ呼びよせて、
「雲が、私を呼びにきました」
とささやいた。
「あなた、まだ、するだけの事はしなければ、死んでも死なれますまい」
あわてて節子が答えようとしたとき、雲にさらわれるように全身の力がぬけた。狭心症の発作であった。享年五十五歳であった。
紫の一本の記憶が、蜘蛛《くも》の糸のようになって細く光り、すっと消えていった。
節子は、『思い出の記』のなかで、
「少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑いを含んでおりました。天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、いよいよ駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だったと今も思われます」
とのみ書くにとどめた。
[#改ページ]
つばめ[#「つばめ」はゴシック体]
イギリス留学から帰った漱石《そうせき》夏目金之助《なつめきんのすけ》が東京帝国大学英文科講師に就任したのは、明治三十六年であった。漱石は三十七歳になっていた。
漱石は意気ごんで大学に乗りこんだものの、生徒の英語の程度《レベル》が低く、授業は思うようにはかどらなかった。漱石の不機嫌は、漱石の前任者に小泉八雲《こいずみやくも》ことラフカディオ・ハーンがいたことにもあった。ハーンは、学問的にはいささか難があったが、妙に愛嬌《あいきよう》がある「変なガイジン」であった。ハーンは、和服を着て、煙管《キセル》を持ち、俳句の宗匠のような恰好《なり》をして本郷|界隈《かいわい》を歩く風流人であった。芭蕉《ばしよう》の俳句を最初に英訳したのもハーンである。授業は一回も休まず熱心に生徒に接するため、学生には人望が高かった。そのかわり、月給は四百五十円と高かった。後任の漱石へ支払われる月給は六十七円であったが、学生はそんな事情は知るよしもない。ハーンがやめるという話をきくと、学生の有志たちはいきりたってハーン留任運動をやった。留任運動の中心的学生は、英文科一年の小山内薫《おさないかおる》であった。留任運動は功を奏さず、ハーンは無念の思いを抱いて大学を去ったのであった。
ハーンの後任として就任したのは、夏目漱石と上田敏《うえだびん》、あとロイドという外人教師であった。漱石と上田敏は、「ハーンを追いやった理不尽な教師」という印象で就任した。そのため、ハーンの人柄を慕う英文科の生徒たちは、漱石や上田敏の授業にそっぽをむいた。漱石は、癇癪《かんしやく》持ちだから、なんだかんだ不貞腐《ふてくさ》れる学徒にむかって、さらに臍曲《へそまが》りの態度で応じた。
学徒の英語の程度《レベル》が低いことを嘆いた漱石は、こってりと英文法中心のつまらぬ授業をした。漱石の授業に不貞腐れたひとりに、森田米松《もりたよねまつ》という図体の大きい学生がいた。米松は、威張りくさった漱石の授業には出席せず、もっぱら上田敏の授業に出席していた。上田敏が主宰していた雑誌「芸苑《げいえん》」を復刊したいと野心を抱いていた。
米松が下宿を捜して小石川柳町を歩いていると、シューンと弧を描いて一羽のつばめが飛んでいった。米松は、
「つばめが羨《うらや》ましい。何処《どこ》にでも勝手に飛んでいけるじゃねえか」
と、空を見あげた。米松の風体はつばめというよりも烏《からす》に近く、歩くときもばたばたと羽音がたつようだった。それは古着屋で買った黒マントのせいもあった。米松はつばめに嫉妬《しつと》した。
つばめは本郷|西片町《にしかたまち》の崖下《がけした》へむかって飛んでいった。
「どんな家の軒下に巣があるのだろうか」
とつばめを追っていくと、表通りから十二、三間ほど奥に家が見えた。溝川《どぶがわ》にかかる木橋を渡ると右側に共同井戸があり、そのさきに色《いろ》硝子《ガラス》がはまった小さな下宿家があった。
六畳二間と四畳半、台所だけの家で、六畳一間を月二円三十銭で貸すという。大家は五十歳すぎの品のいい寡婦であった。食事は出せないので大学構内の食堂でとってくれ、と言われた。米松は、その下宿に住むことにした。
小さな庭があり、庭に面して一尺ばかり高い閾《しきい》があり、その障子を開けると小さな池がみえ、池の縁には楓《かえで》の木があった。つばめは楓の枝に止まってちいちいと鳴き声をあげた。
手品師が住むような薄気味の悪いこの部屋を借りたのは、つばめが米松をここへ案内してくれたように思えたからであった。米松は学生ではあるけれども与謝野寛《よさのひろし》(鉄幹《てつかん》)・晶子《あきこ》夫妻が主宰する「明星」の末席に名をつらねており、雑誌「文芸倶楽部」へ小説『仮寝姿』を投稿して、一等入選の二十円の賞金を得ていた。ここに来る前の下宿には詩人志望の河井酔茗《かわいすいめい》という学生がいて、友人となっていた。そのほかに生田長江《いくたちようこう》と名のる調子のいい学生がいた。長江は世間のことをやたらと知っている頭がいい男だった。
米松が、長江に、新しい下宿の様子を説明すると、長江は、「そこは、樋口一葉《ひぐちいちよう》が住んでいた家だ」と言った。一葉が死んだのは明治二十九年十一月で、七年前のことになる。
さっそく、馬場孤蝶《ばばこちよう》がやってきた。「文学界」の同人であった孤蝶は、一葉のことを「お蘭さま」と呼んで恋《こ》い慕っていた。孤蝶は日本銀行文書課に勤めながらロシア文学を研究しており、米松は孤蝶よりツルゲーネフの英訳本を借りて読んでいた。孤蝶は三十五歳になっていた。米松の下宿を訪ねた孤蝶は、
「左様《さよう》、この部屋だ。しんみりさせやがる」
と、感慨深げに部屋の障子をさわって廻った。
「木の橋の右側にある家は『にごりえ』のモデルの女がいたところだ。女たちは、この一葉の家へ恋文の代筆を頼みにきたんだ。恋文代筆から暗示《ヒント》を得てあの小説ができた」
「だが、そこにある家はもうそんな稼業はしていねえや。いまは薪炭《しんたん》屋になってらあ」
「だんだんとすたれたんだ。八千代町のほうへ行けば、まだ娼妓《しようぎ》はいるぞ」
孤蝶ははーっと溜《た》め息《いき》をついて、
「おめえは女難の相がある。七年前にここに下宿すれば娼妓の餌食《えじき》だったろうよ」
と米松の顔をのぞきこんだ。
「めっそうもありません」
米松は頭をかいた。
じつのところ、米松は女郎屋通いの常連で、十五歳のころからその道にたけていた。米松は岐阜の地主の子で、親の金を持ち出しては遊女を買っていた。夏休みは女郎部屋に一週間滞在し、女と起請《きしよう》を取りかわしたこともある。血で書いた結婚の約束であった。女は本気になって米松を追ってきた。
十九歳のときは従姉《いとこ》の森田つねと同棲《どうせい》した。金沢四高に入学したとき、つねがあとを追ってきて同棲をつづけ、それがばれて退学となり、一高に入学したのであった。
「おめえが朝夕寝おきしている部屋は、一葉が二十五歳で息をひきとった部屋だ。『にごりえ』や『たけくらべ』はこの部屋で書かれた。ここは文学的な部屋ということさ」
そう言うと、孤蝶はふと言葉をとめて、
「まて、いま、お蘭さまの声がきこえた」
と耳をすませた。孤蝶の顔がひきつっていた。つばめが軒下からすーっと飛びたっていった。
「なにを言っているかわからんが、たしかにお蘭さまの声だった」
「一葉の霊がついているんでしょうか」
米松は目を丸くして訊《き》いた。
「漱石が住んでいる本郷|千駄木《せんだぎ》の家は、その前は森鴎外《もりおうがい》が住んでいた。類は友を呼ぶのだ。してみると、この下宿へきみが来たということは、一葉の霊がきみを呼んだのだ」
「ぼくには文学的才能があるってことですか。小説家として大成する、と」
「そう逆上《のぼ》せることはねえや、二十五歳の時分に、なにか大変な災難があるかもしれない。おめえはいくつになる」
「二十三歳です」
「二年後が危い」
孤蝶は顔を強張《こわば》らせた。赤みがかった唐桟《とうざん》の着流しに紺の角帯をきりっと締めた孤蝶は、じろりと米松を睨《にら》みつけた。
「七年前はこの池はもっと奥までつづいていた。一葉がいら/\して月夜に硯《すずり》を投げこんだというのはこの池さ」
孤蝶は米松が使っている硯を掴《つか》んで投げこむ真似《まね》をした。
「やめてください」
米松は孤蝶の手をとめた。
米松の下宿が一葉の旧宅だとわかると、同級生がつぎ/\に見物にきた。それもいつしかとだえると、米松は、下宿部屋に坐《すわ》って暫時《しばらく》つばめを観察した。つばめは喙《くちばし》は小さいが羽根は大きく、飛びながら虫を捕食した。体の上面が青黒く湿り、頭部から胸にかけては新入生の制服のようにぴかぴかに黒光りしていた。米松の実家の納屋には、毎年つばめが飛んできて家の中に巣を作った。巣で雛《ひな》をかえしたから、米松の母は「つばめは幸運の鳥だ。つばめが来る家は長者になる」と喜んだ。それが、ある年突然来なくなった。その年に父が死んだ。米松がつばめを追いかけてこの下宿に住んだのは、子どものころのそんな記憶があったからだ。
やがて、つばめは南の島へむかって飛び去り、軒下に、泥と藁《わら》が混ざった茶碗《ちやわん》形の巣が残った。巣のなかを覗《のぞ》くと、黒い羽毛が溜《たま》っていた。
翌年の四月になると、朝方、玄関の色《いろ》硝子《ガラス》ががたりと音をたてた。つばめが帰ってきたのであった。米松は「また幸運が舞いこむかもしれない」と嬉《うれ》しくなった。
丁度《ちようど》そんなころ、孤蝶が「一葉祭をやろう」と言ってきた。一葉の妹の邦子《くにこ》は吉江政次《よしえまさじ》と結婚して子を産み、その子が二歳になったので外へ連れ出せるようになった。
一葉祭の当日、米松は木炭画で一葉の似顔絵を描いて、
「からきし下手《へた》でもなかろうよ」
と邦子に見せた。
「なにやらぐったりとした顔ですよ。もっといい顔に描いておくれな」
邦子は子をあやしながら難癖《けち》をつけた。
米松は一葉の妹と、旧知のような会話ができることが嬉しかった。一葉祭の出席者は、上田敏、与謝野|晶子《あきこ》、寛、河井酔茗、蒲原有明《かんばらありあけ》、生田長江、小山内薫と妹の八千代《やちよ》、孤蝶ら十七名であった。丸山福山町の狭い六畳間は客でいっぱいになった。邦子は博文館から出た一葉全集一巻を似顔絵の下に供えた。一葉の思い出話を孤蝶が語り、学生たちは耳をそばだてて聞きいった。孤蝶は、
「もっと完璧《かんぺき》な一葉全集を出さなければいけませんや。日記や未発表小説を入れてね」
と言った。そこにあるのは斎藤緑雨《さいとうりよくう》と戸川秋骨《とがわしゆうこつ》の編集になるもので、孤蝶は面白くなかった。
「つぎの全集は私が編集《やる》ことにしました。つきましては、噂《うわさ》の〈おとこくらべ〉一覧を出してほしい。邦子さんと一葉さんが秘密で作った文士おとこくらべ一覧があるって聞いてますぜ。それが目玉となる」
「そんなもの、ありゃしませんよ」
と邦子が首を横に振った。
「一葉さんへは森鴎外がぞっこん惚《ほ》れてたんだが、邦子さんのことは幸田露伴《こうだろはん》が好きだったんですってねえ」
晶子が口をはさむと、邦子は、ぽっと顔を赤くした。丸髷《まるまげ》を結った邦子の顔には、一葉の面影が残っている。
「一葉は晃々《きらきら》した日本の最後の女でした。これからは晶子さんや八千代さんのような新しい女の時代でさあ」
したり顔で解説するのは第二詩集『独絃哀歌《どくげんあいか》』を出して人気の蒲原有明であった。すると上田敏が、
「蒲原君は、八千代さんに惚れてますな」
とひやかして、一座はやんや/\の喝采となった。米松は、
「新しい女って、どういう女ですか」
と上田敏に質問した。
「男に翻弄《ほんろう》されない女だ。きみは、そういう女にはまだ会ったことがないだろうがね」
上田敏は縁なし眼鏡を光らせてにやり、と笑った。つばめが軒下の巣から、番《つがい》で飛びたっていった。
米松が千駄木の漱石家へ出入りするようになったのは、明治三十八年の十二月であった。千駄木の家へは、独文科の小宮豊隆《こみやとよたか》がすでに出入りをしていた。この年の一月から漱石は「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を連載し、一躍人気作家になった。学生たちは「自分たちの身近にこんな凄腕《すごうで》の先生がいたのだ」と恐縮し、漱石に脱帽した。漱石は、鯰《なまず》のような髭《ひげ》をさらに大きくのばし、「エヘン」と胸を張った。世間がどうなろうと、漱石は以前と変りなく過ごしていた。漱石家へ通うようになった米松が驚いたのは、漱石夫人、鏡子の要領を得ない我儘《わがまま》ぶりであった。
鏡子夫人は、米松や小宮がいる前で、平気で漱石にあたり散らすのであった。漱石も癇癪持ちで、怒り出したら水道管のように破裂するけれども、鏡子夫人のヒステリーがはじまると、さしもの漱石も黙って耐えるばかりだった。米松と小宮は、敬愛する先生にあたり散らす鏡子夫人の凄《すさ》まじさに目を伏せるばかりだった。
米松が千駄木の家へ顔を出すと、漱石は「中央公論」の原稿を執筆中であった。鏡子夫人は女中を連れて病院へ出かけていた。小宮が先客で来ていて、縁側で黒猫とじゃれていた。
「おう、いいところへ来た。ちょうど退屈していたところだ。あとで寺田寅彦《てらだとらひこ》さんが来るそうだ。滝田《たきた》もくる」
滝田とは樗陰《ちよいん》滝田|哲太郎《てつたろう》である。帝大に在学中から、「中央公論」編集部に勤めていた。秋田弁でとつとつとしゃべる滝田哲太郎は漱石のお気に入りであった。
「滝田は猫みたいな野郎だな。先生に執筆依頼だと言ってすりよりやがって……」
「まあ、そうくやしがるな。いつか俺たちにだって仕事を注文してくれるかもしれないんだぜ。あやつは露伴や鏡花《きようか》にも顔を知られている。大編集者の相がある。今日は、先生の奥さんがいなくて、気が楽だよ」
小宮は黒猫の喉《のど》もとをなぜた。
「鏡子夫人が新しい女、なのですかね」
と米松は小宮に訊いてみた。
「先天的な性分でさあ。実家が没落して、しかもいつも妊娠しているので、ああなるんです」
「でも、先生にあたりちらすのはひどすぎる。自分のほうが変なのに」
二人は額をよせて、ひそひそ話しあった。
小宮は福岡県生まれで米松より三歳下であった。漱石を尊敬して、なにかと千駄木の家にやってくるのは米松と同じだった。小宮は、千駄木の家のなかを、台所でも書斎でも、自分の家のようにわがもの顔で歩きまわり、米松はそれが羨《うらや》ましかった。
「先生は奥さんとは性があわない。離婚を申し渡したこともある」
「だけど、奥さんの父親が許さない。なにしろ、先生は高給とりだからな」
「別れる/\と口にするわりには、しょっちゅう子が生まれるし」
「てへへへへ……、その通り」
明治三十八年の暮れ、鏡子夫人は四人目の娘愛子を産んでいた。子のことを言われると米松にも弱みがあった。米松には従姉森田つねとのあいだに亮一《りよういち》という息子がいた。そのことは友人には隠していた。米松が丸山福山町の下宿にいるとき、郷里から森田つねが娘を連れておしかけてきた。米松は学生の身でありながら二人の子がいるのであった。
米松の女は森田つねだけではなかった。丸山福山町の下宿さきの大家の娘とも出来ていた。その娘は出戻りで、神田明神下に別宅があり、踊りの師匠をしていた。娘が母親の家に出入りするうちに米松と関係ができた。
米松は、その娘が、離婚しながらも踊りの師匠として身をたてているのを見ると、
(これが新しい女かもしれない)
と思った。一葉祭で小山内薫の妹を見て以来、米松は、「新しい女」に興味を持った。岐阜生まれの米松は、それまで自分の言いなりになる女ばかり見てきた。なんでも言うことをきく従姉の森田つねがそうであったし、米松の母親もそうであった。米松の母は、秀才の米松が自慢で、米松の我儘《わがまま》をなんでも聞いた。
一葉祭で米松は三人の女に会った。ひとりは与謝野寛を召使いのように扱う晶子であった。ひとりは、露伴の求愛を見て見ぬふりをした樋口邦子であった。もうひとりは、勝ち気で美貌《びぼう》の八千代であった。米松は八千代に手を出したかったが、兄の小山内薫が怖いのでやめた。そんなところへ、大家の娘があらわれたのだった。
米松は、森田つねと大家の娘の二人と関係ができており、三角関係のなかにあった。
「鏡子夫人は先生と結婚二年めに、ヒステリーをおこして川に身を投げて自殺をはかったことがある。たまたま網打ちに来ていた人に見つけられて一命をとりとめたんだ」
と小宮が見てきたように説明した。
「それで、先生は、毎晩、鏡子夫人の帯と自分の帯をつないで寝なさったんだ。奥さんは夢遊病者の気がある」
「というと、奥さんは、いまふうの新しい女というわけではないな」
「ありゃ、我儘《わがまま》な女です。先生のことを理解しているように見えて、ほとんど理解していねえ」
小宮は立ちあがって台所へ行き、飯釜《めしがま》の蓋《ふた》を開けて飯をよそった。虚子《きよし》から届けられた鮎《あゆ》の佃煮《つくだに》をのせて、茶漬けとしてざぶざぶかきこみながら、
「先生が神経衰弱になるのは奥さんがああだからだよ。ロンドンから帰った先生が矢来町《やらいちよう》の奥さんの実家に帰ったとき、床の間にかけておいた短冊をいきなり、ひっちゃぶいたんだぜ。それはロンドンに出発する前に先生が書き残していった短冊なんだ」
といまいましそうに口を歪《ゆが》めた。
「ロンドンから、先生がいくら手紙を書いても奥さんはとんと返事を出さなかった。奥さんは先生のことを、邪険《じやけん》に扱っている」
「子の養育で忙しかったからでしょう」
「そんな言い草はないってものさ。夫なんざどうでもいいと思ってるから、打遣《うつちや》って置いただけだよ」
米松も小宮を真似して茶漬けをかきこんだ。
「しかしな。この世に、妻君に理解して貰《もら》おうという亭主がいるかね。苦沙弥《くしやみ》先生のよう|な飄飄《ひようひよう》とした人は、先生の真の姿ではない。あれは先生の理想像だよ」
苦沙弥先生というのは『吾輩は猫である』に登場する先生で、漱石が自分を仮託した姿であった。
「奥さんと性があわないのは、先生をして大成させる要因かもしれないぜ。ソクラテスの妻クサンティッペ、シェークスピアの妻アン・ハサウェイ、それに漱石の妻鏡子」
「喧嘩《けんか》しながらも、夫婦仲は円満なんだからな」
小宮は、台所の引き出しに、小さな紙切れが折り畳んで入っているのを見つけた。女中がつけている買物出納帳の間に、一覧表の紙が挟《はさ》まれていた。薄桃色の女性用|便箋《びんせん》の上に、「出入り客食事一覧」と書かれ、小さな女文字でいろ/\な書きこみがあった。
(画像省略)
[#ここから2字下げ]
他無視していい者
小宮豊隆[#「小宮豊隆」はゴシック体](スルメ)
森田米松[#「森田米松」はゴシック体](イモ)
安倍能成[#「安倍能成」はゴシック体](ナス)
野上豊一郎[#「野上豊一郎」はゴシック体](イワシ)
他ボンクラ学生[#「他ボンクラ学生」はゴシック体]
・右記の学生は猫の餌と同じ程度のものでよい。とくに森田は盗み食いをするので
・橋口五葉・中村不折画伯の場合は洋食弁当(上)を出前
[#ここで字下げ終わり]
「なんだ/\、やや! ここに、俺と君の名前もあるぞ」
「小宮(スルメ)、森田(イモ)とあるのは、どういう意味だ」
「顔の特徴だろう。寺田寅彦の項には八の字|眉毛《まゆげ》とあるものな」
「松岡譲《まつおかゆずる》に二重丸だ。あいつは、まだ若造だろう。しかも(大切にすべし)なんて書いてある」
「鏡子夫人のお気に入りなんだよ。長女の筆子さんを松岡と結婚させたいって腹がある」
「そういうことか……」
二人はその表を台所の流しの台にのせて、じっと見いった。
玄関の戸を叩《たた》く者があり、二人は、あわてて、一覧表を、もとあった場所に納《しま》った。米松が玄関さきに出ると、郵便であった。配達人が部厚い封筒を差し出した。広島市猿楽町の住所で、差出人は鈴木三重吉《すずきみえきち》と書いてあった。
「ほら、こいつだよ」
二人は目を見あわせた。
三重吉のことは漱石より話を聞かせられていた。帝大英文科の学生で、米松と同じクラスだというが、米松は見覚えがなかった。入学して漱石の授業を聴いたが、神経衰弱が高じて休学し、郷里へ帰っているという。三重吉は数カ月前に、漱石へ長文の手紙を出し、それを読んだ漱石はいたく感激して、激励の返事を出したという。
二人は三重吉の名に聞き覚えがあった。
ちょうどそのころ、漱石の家へ入った泥棒が、部厚い手紙の中身を現金と間違えて持ち出し、塀のところで手紙だと気づいて、糞をして、手紙のはしで尻をふいて逃げた事件があった。
「また、とんでもない弟子がきそうだな」
と、米松は舌打ちをした。
明治三十九年、漱石は「ホトトギス」に『坊っちゃん』を書き、またまた評判をよんだ。つづいて「新小説」に書いた『草枕』、「中央公論」に書いた『二百十日』により、流行作家になった。小説の注文が各社から殺到した。千駄木から本郷西片町へ移ったが、家主が漱石の人気を知って法外な家賃をふっかけたのに立腹して、牛込区早稲田南町へ越した。
明治四十年二月に朝日新聞社から招かれると、漱石はさっさと大学をやめてしまった。漱石は一高でも教えていたが、両校の給料をあわせると月給は百二十円であった。それに対し、朝日新聞は月給二百円を提示した。帝大は周章《あわ》てて漱石を教授に昇格させると申し出たものの、漱石は聞きいれなかった。
漱石のもとに出入りするようになった三重吉は、狐のような顔をした才気あふれる青年で、忽《たちま》ち他の弟子たちを圧倒した。三重吉が「ホトトギス」に発表した小説『千鳥』の評判がよかった。米松は孤蝶より借りたツルゲーネフを読破して、読書量では三重吉を上まわっていたが、この小説には「かなわない」と思った。
三重吉は、漱石山房の弟子としては新参者でありながら、態度は一番大きかった。漱石山房で話をするときも、三重吉はひとりでしゃべりまくった。躯《からだ》が大きい米松は漱石の前に出ると、肩をすぼめて小さくなってしまうのだった。三重吉は米松や小宮を見下ろすように大声で講釈した。
漱石が執筆で忙しくなると、三重吉の提案で、集まる日は毎週木曜日の午後三時以降と決まった。三重吉は小宮同様漱石山房をわが家のように動きまわり、弟子たちを仕切っていった。
米松と小宮は復刊なった「芸苑」に翻訳を載せ、ひそかに小説の試作をしていた。米松は上田敏より白楊《はくよう》という号を与えられ森田白楊を名乗っているが、米松を白楊と呼ぶ者はだれもいない。作家としては半人前であった。
勢いに乗った三重吉は第二作『山彦』を「ホトトギス」に発表し、前作『千鳥』とあわせた単行本を出し、さらに「中央公論」に『お三津さん』を書いて、ますます気勢があがっていた。
三重吉は酒ぐせが悪かった。
漱石山房では、最初、弟子たちに酒を出さなかった。しかし、三重吉が酒を強請《せが》むので出すようになり、酒を飲み出すと、三重吉は酔って虎《とら》になった。酔った勢いで小宮のことを「理窟《りくつ》だけ言う文学不能者」と罵《ののし》った。先輩格の東洋城《とうようじよう》のことを「頭がとろい豆腐男」と切り捨てた。虚子に対しては腰を低くするが、四方太《しほうだ》のことは「破落戸《ごろつき》野郎」、寅彦のことは「理科の凡人」と言いだす始末だった。米松のことは頭から馬鹿にして相手にもしなかった。
泥酔のあげくからみ、だれかに言い返されると声をあげて、おいおいと泣いた。三重吉は十歳のときに母を亡くしたためか、空威張《からいば》りと泣き虫小僧の血が奇妙な形で同居していた。
そのため、漱石に叱《しか》られるのは、いつも三重吉であった。弟子仲間の悪口をめんめんと手紙に書いて漱石に送りつけた。三重吉は、だれに対しても罵言《ばげん》をはばからず、帝大教師たちのことも糞野郎と罵るのだった。そのくせ、鏡子夫人に対しては、母親のように甘えた。
米松は三重吉に圧倒されて、木曜会に出席するのが辛《つら》くなり、「自分だけ、別の面会日を作ってほしい」と漱石に頼んだ。
漱石は米松を呼びつけて、
「かような弱音を吐いてはいかんよ」
と諭《さと》した。
「おまえはいつも黙っている。黙っているのはなにか深い考えがあるようみせかけて黙っているだけで、じつは臆病《おくびよう》なのだ。三重吉はちと猛烈だが、おまえだって話をすれば三重吉以上のものがある。負けずに、どんどんしゃべりゃいい」
米松は漱石にそう言われて、涙が出てとまらなかった。漱石は、周囲に集まる青年たちに公平に接していた。
米松は大学を卒業すると、博文館に就職しようとしてあっさり断られた。明治四十年の春、漱石の紹介で天台宗中学の英語教師に就職した。月給は二十円であった。これだけでは生活できないので京華中学の英語教師をしてさらに月三十円稼いだ。しかし本来が無精《ずぼら》な性格のため、天台宗中学の試験を忘れてしまって、たちまち馘《くび》になった。
しかたなく、郷里の田畑を売り払った金六百円が母親の手許《てもと》に残してあったので、その金を五十円、百円と母親の手許からとりよせて生活した。そのうち、馬場孤蝶と生田長江から、金葉会へ誘われた。
金葉会というのは、女子大の卒業生や生徒、その他女学校の生徒を集めて文学の講義をする集まりだった。飯田橋《いいだばし》の教会に附属した女学校の教室を借りて、土曜の午後に開講していた。最初は鉄幹、晶子も授業をした。訳詩集『海潮音』を刊行して人気絶頂の上田敏も授業をした。孤蝶の友人の平田禿木《ひらたとくぼく》も応援に来ていた。毎回二十銭の聴講料をとって百名ちかくの生徒が集まったが、講師はだんだん無報酬の授業にあきて、やって来なくなった。そんな矢先、米松に声がかかった。
米松は話すことが苦手だったので、(人前で話すのを練習するのにいい機会だ)と思った。
中学での授業は英語だけで、米松は、内心、(自分はこんな中学で教える人間ではない)と考えていた。ここで練習すれば、三重吉にも対抗できる、と思えたのだった。漱石に励まされた言葉が米松のなかでくすぶっていた。自分も話をすれば三重吉以上のものがあるはずだと思った。
米松も酒の味を覚えた。三重吉の酒が乗りうつった。酒を飲むのには、もうひとつ理由があった。郷里から、森田つねが、娘を連れて上京し、丸山福山町の下宿に同棲したためである。下宿の大家からは「うちの娘はどうするのだ」とねじこまれた。米松は二人の女から責められて、どこか地方に逃げたいと思った。しかし、東京を離れれば、小説家の道を捨てることになる。
米松は追いこまれ、苦しんだあげく酒に走った。そのうち、つねが連れてきた娘が疫痢《えきり》にかかった。心配した漱石が医者を手配してくれたが、娘はあっけなく死んだ。
三重吉に、
「おめえ、わざと殺したんじゃねえのか」
とからまれても、米松は言い返すことができなかった。米松は、つねに、死んだ子の埋骨をするよう言い渡して故郷へ帰した。そんな矢先、米松は金葉会へ誘われたのであった。金葉会で講義をするのは、孤蝶と生田だけになっていたから、生徒は六、七名に減っていた。米松は、悶々《もんもん》とする心をまぎらわす気で授業をひきうけたのであった。
米松は、ギリシャ悲劇について講義をした。目を伏せて、ぼそぼそとしゃべったが、やっているうちに馴《な》れてきた。生田は、ゲーテの「ヴェルテルの悲哀」を論じており、生徒の反応は、米松のほうがよかった。米松は気をよくして、女性詩人サフォーのことを話した。このあたりは米松の得意とするところであった。授業をすると、それまで漫然と考えていたことが整理できた。(なるほど、これが三重吉の手口か)と米松は気がついた。
サフォーはギリシャのレスボス島の出身で、同性愛のために死んだ。ここからレスビアンという言葉が誕生した。女子生徒たちは米松の話を熱心に聞いた。ぞくりとする快感があった。米松は二十七歳になっていた。それまで米松がつきあった女たちは、米松のそういう文学的な話には興味を示さなかった。
孤蝶は三十九歳で、この年、日本銀行文書課をやめて慶應義塾の講師となっていた。授業のあとは、聴講料の金で、孤蝶を中心に酒を飲んだ。
話し方に自信がついてくると、木曜会の集まりで、三重吉に言い返すことができるようになった。木曜会が終ったあと、三重吉に誘われて、おでん屋へ行った。野上豊一郎《のがみとよいちろう》と小宮豊隆が一緒だった。おでん屋で飲みはじめると、三重吉が小宮にからんだ。
「おめえはロジカルだが不逞《ふてい》の輩《やから》だ」
小宮が黙っていると、三重吉は、かさにかかって、
「人間にゃ理窟では癒《いや》しきれねえ淋《さび》しさがあるんだ。それがわからねえから、おまえは馬鹿なんだよ」
と罵《ののし》った。三重吉の悪罵がやまないので、米松は三重吉の胸倉を掴《つか》み、投げとばそうとした。大男の米松に掴まれた三重吉は蒼《あお》くなり、恐怖の色を浮かべた。いままで米松にそのようなことをされたことはなかった。米松は三重吉の首をしめあげて、
「おまえが一番下劣なんだよ。田舎者のくせに通《つう》ぶりやがって」
と凄《すご》んだ。三重吉は震え出して、
「そ、そうなんだよお、おれは下劣だ」
と、へなへなと崩れ落ちて泣き出した。小宮は苦笑して、野上は見て見ぬふりをした。この夜、米松は初めて三重吉に勝ったと思った。しかし、地面で泣き伏している三重吉を見ると、米松に、(小説でこいつに勝たなければ……)という気がおこった。酔って他人にからんで泣き出す三重吉は、その無残な自分を小説の原動力にしているようにみえた。ならば、郷里の女と下宿の娘の板ばさみで悶々としている日々は、米松にとって小説家の出発ではないか、と思えるのだった。
翌週漱石宅を訪れた米松は、
「森田白楊という号を捨てたい。ついては、新しい号をつけて下さい」
と頼んだ。漱石は、
「面倒臭いな。名前などどうでもいいじゃないか」
と鼻糞をほじくっていたが、それでも『書家必携』という和綴《わと》じの書物を取り出し、そのなかから、「緑苹破処池光浄」の句を見つけ、
「これはどうだ、緑苹《りよくへい》はどうか」
と差し示した。
「緑苹だと、斎藤緑雨に似ているから、ちと嫌です」
「ならば、自分で考えろ」
「苹の字を二つにわけて草平《そうへい》というのはどうでしょうか。森田草平、これにします」
米松は満足そうにうなずいた。漱石は、
「わたしの漱をとって漱平なんてするなよ。まぎらわしいからな」
と念を押した。
「金葉会」の講習会は正式には閨秀《けいしゆう》文学講座というものだった。そのなかに生意気そうな娘がいた。下ぶくれの顔で、いつも物思いにふけり、名前を平塚明子《ひらつかはるこ》と言った。
明子はお白粉気《しろいけ》のない娘であった。縮れた髪、色のあさぐろい面長な顔、くすんだ色あいの服装をしていた。普通の女学生と違って、緑色の袴《はかま》をぐっと下目にはいているところが、草平の目にとまった。草平は一目見て、
(これが新しい女だ)
と思った。
明子は日本女子大学を卒業していた。女子大のなかで、明子は「海賊組」というグループを組織して、修身の授業をずる休みする活発な娘だった。顔の輪郭がはっきりして、秋茄子《あきなす》のような顔は見るからに賢そうで、黙っていると底知れぬ神秘があった。草平は忽《たちま》ち明子に恋をしてしまった。
明子には、好んで男を誘惑しようという素ぶりはないものの、逆にそこに異性の注意をひこうという気配があるようで、草平は、明子のことを、
「漱石が好むタイプかもしれない」
と思った。自由奔放で進取の気性がありながら動作は淑《しと》やかであった。
「閨秀文学講座」が回覧雑誌を作り、そのなかに明子は『愛の末日』という小説を書いた。それを読んだ草平は長い感想文を書いて明子に送った。それは作品評にことよせた恋文であった。
それ以来、草平は明子と二人で逢《あ》い、愛と人生について語りあった。草平は会うたびに明子に夢中になった。明子は禅を修行しており、また多くの文学書を読んでいた。草平が話す文学の専門的な話を、明子は目を輝かせて聞きいった。草平は生まれて初めて、高い次元の女と出会ったと思った。
何回かの逢瀬《おうせ》ののち、草平は明子と九段《くだん》の洋食屋に入った。草平はウィスキーを飲み、明子はキュラソーを飲んだ。給仕が去って客がいなくなったとき、明子が唇を近づけてきた。草平はたまらずに長い接吻《せつぷん》をした。
店を出ると、草平は三崎町《みさきちよう》から水道橋のほうへ抜けていった。その界隈《あたり》は旅館街で、草平は、明子をどこかの旅館へ連れこんでしまおうか、と思案した。それまでの女は、みなその手口ですましてきた。
しかし、明子に関しては、そうすることが気がひけるのであった。それまで話してきたことが文学論なので、いきなり誘惑することが低次元になるように感じられた。明子は、
「このまま帰りたくありません」
と言った。
草平は、旅館へ行きたいので、
「リョ」
と言い出したが、明子が、
「え?」
と訊きかえしたので、
「リョウゴクへ」
と苦しまぎれに言いなおした。駅に行くと上野公園行きが来た。行くさきはどこでもよかったから上野へ行き、不忍池《しのばずのいけ》の周囲を歩いた。高い木の梢《こずえ》が風でざわめき、夜の湿った匂いが二人を包んだ。公園の暗がりで、明子は草平の胸に抱きつき、
「どうかして、もっとどうにかして」
と身を悶《もだ》えさせた。
「旅館へ泊りましょう」
と草平が小声で囁《ささや》くと、明子は、やるせない声を出して、
「性の欲求から泣いているんじゃない。私は心の平静がほしいと言ってるのに根っから気にとめてくれないのね」
と、草平を睨《にら》みつけた。
草平は、(言わなければよかった)と後悔しながらも、
「この女の正体をさぐりたい」
とじりじりした。
この年から、草平の下宿につばめは飛んで来なくなった。草平は不吉な兆候を感じた。しかし、草平は、つばめのことはすっかり忘れてしまった。朝から晩まで、明子のことばかり考えていた。せっぱつまった思いの逢瀬が何度もつづいた。逢うたびに明子は草平にしがみついて泣き、草平が草むらに押し倒すと激しく抵抗するのであった。草平はすぐに反省して明子に謝った。するとまた明子は草平の胸にすがって泣いた。明子の接し方は、鼠《ねずみ》をもてあそぶ猫のようであった。
草平は「結婚してくれ」と明子に迫った。明子は「私を甘くみないでよ。結婚を餌《えさ》にして私をつるつもりなの」と言い返した。「私は愛されたいなんてこれっぽちも思わない。ただ理解してほしいだけよ」
草平は思いあまって手紙で、「苦しくてたまらない。かくなるうえはきみを殺したくなった」と白状した。二人のつながりは、もともと、草平が明子に貸したダヌンチオの小説『死の勝利』であった。すると明子は「殺すほどわたしを理解するのなら一緒に死にましょう」と草平に返事をよこした。
草平は、明子が参禅している海禅寺まで出かけ、明子を連れ出して蔵前《くらまえ》の銃砲店へ連れて行きピストルを売ってくれと言った。
「免許証のないものに銃は売れない」と店に断られた。草平はこのときになっても本気で明子を殺す気でいるのか、自分がわからなかった。ただそうでもしないことには気がすまなかった。明子は草平が挑発すると負けずに歯むかってきた。心と心がパチパチと音をたて、ショートするように青白い火花をあげるのだった。草平は「ひきさがれない」と決意した。
明子は、「わたしは一日一日が冒険でございます」とくぐもった声で言った。
「わたしは本当《しん》の自分をさがしつづける愛の修行僧ですよ。それで出口を失ってますの。ただ肉欲に負けたくない。それで救われるなら、死を選びます」
「本気だろうな。俺をみくびるなよ」
「あなたこそどういうお考え。いまだって愛人が二人いるっていうではありませんか。生田から聞いたわ」
草平は絶句した。額の静脈をぴりぴりと震わせ、
「心中する気があるのなら、今夜出発しよう」
と、明子を睨《にら》みつけ一度家へ戻った。
二人とも、すでにとりかえしのつかないところへ来ていた。草平は丸山福山町の下宿へ帰り、郷里の母からとりよせた金で、下宿代滞納金残額として百円を支払った。
下宿の女主人は、金を受けとると、
「下宿人はつばめと同じ渡り鳥よ。つばめとともにあんたが来ましたが、つばめが来なくなると去っていくんですね」
と、しみじみと言った。
明子は父のピストルを盗み出そうとしたが、それはやめて、母の箪笥《たんす》から、銀の飾りがある懐剣を持ち出した。それから友人の|木村政子≪きむらまさ子≫へ遺書を書き送った。もう一つの遺書へは、
「我が生涯の体系《システム》を貫徹す。われは我が Cause に因って斃《たお》れしなり。他人の犯すところに非ず/三月二十一日夜/平塚明」
と書き残した。
その夜、田端《たばた》駅前の休憩所で待ちあわせた二人は、夜行列車に乗り、塩原温泉へ向かった。そこから塩原温泉までは二日かかった。そのあいだ、草平は、
「死ぬ前に一度でいいからきみを抱いてみたい」
と頼んだ。
「なんで、いまさらそんな低レベルのことをおっしゃるんですか」
と、明子は草平の胸にとりすがって泣いた。
温泉宿で明子はひとりで湯につかった。浴衣に包まれた湯あがりの明子の膚《はだ》は、ぽっと赤味がさしていた。草平は、明子の浴衣をはぎとって畳の上に押し倒した。明子は短刀をさっと草平の手に渡して、
「さあ殺して、早く、早く殺してごらんなさい」
と迫った。
「きみは私を愛しているはずだ。ひとことそう言ってくれ」
「刺し殺してくれたら言う気はありますが、死ぬ寸前までわからない」
「ああ……」
と草平はうめいた。
「男と女が死ぬときは、互いに手をとりあって溶けるように死ぬのだ。なんで素直に愛していると言えないのだ。この期に及んで俺を試しているのか。デカダンの文士がどこまで本気なのかを見さだめようとしているのか」
「なぜですか」
明子は浴衣をはおって坐りなおした。そして、いつもと同じ話し合いが始まった。二人は朝まで〈愛と死〉について話し、明け方になると、明子は、
「わたしはどこまでもあなたについていきます。ですからこんな旅館のなかではなく、雪山のなかで死にましょう。ね、逃げやしませんから」
と草平の手を握った。
旅館を出てから、二人は会津《あいづ》へぬける尾花峠へ向かって歩き出した。峠の下の村まで三里の道を歩き、村の家で水を飲み、また雪道を進んだ。二人とも物語のなかを歩くようにふらふらと歩きつづけた。炭焼小屋を通りすぎ、坂を登りきると、あたりの道は雪に埋もれていた。死に場所を捜して雪山を進むのは、ぞくっとする快感があった。崖の下で、草平は明子を雪の上に押し倒して長い接吻をした。明子の唇はがちがちと音をたてた。
二人は持ってきたこれまでの恋文の束を雪の中で焼いた。恋文の燃えかすは、吹雪にまみれて暮れなずむ雪原に飛んでいった。草平は持参したウィスキーを飲み、明子にすすめた。明子は、草平にむかって、
「死んだ姿を見れば、世間はなんて言うでしょうか」
と訊きながら、挑発するように短刀を握らせた。
「そんなこと知るか」
草平は急に腹がたって、明子の短刀を遠くへ投げ捨てた。
「いつまでも甘えるんじゃねえや。愛してもくれない女をどうして殺せるんだ。俺はもう、くたくただ」
夜になり、あたりは暗くなった。疲れきった草平は、ウィスキーをたてつづけにあおり、どっと眠ってしまった。明子も雪山の中を歩きつづけて、倒れるように眠ってしまった。
夜が明けると、明子はまっさおな顔をして雪の上に坐っていた。
やがて猟師風の男が二人きて、そのあとから巡査がやってきた。明子には自殺未遂の過去があることを、草平は巡査から聞かされた。明子の家族が遺書を見つけ、宇都宮の警察に捜索願いを出していたのであった。
東京に連れ戻された草平は、戻る家がないので、早稲田南町の漱石宅へ身をよせた。漱石は、このとき四十二歳であった。漱石は、別段驚いたふうもなく草平を家に泊め、最初の夜はなにも訊くことはなかった。
翌朝の朝日新聞は、ほとんど三面を埋めて草平と明子の事件を報じていた。
「会計検査院第四課長平塚定二郎氏二女明子(二十三)は、去る二十一日夜九時半頃、突然平素着のままにて家出し、行方知れずとなりしより、家族の心配|一方《ひとかた》ならず、東京市内は勿論《もちろん》、鎌倉、箱根、銚子等の心当り箇所へ早速|夫々《それぞれ》人を走らせ、警察署に保護願いを出しおき、又平塚氏自身は自《みずか》ら静岡地方まで捜索に赴き、百方心当りを探ね廻りしが、少しの手懸《てがか》りもなくして引返し来《きた》れり。……昨朝に至り明子は塩原の山奥なる尾花峠にて、その情人文学士森田米松(号草平)と手を携《たずさ》え徘徊《はいかい》し居る処を、塩原村巡査の手に取押さえられたる旨《むね》の通報ありたり」
草平は、自分がひきおこした事件がこんなに大ごとになったのに驚いたが、漱石は、
「おまえが主役ではない。相手方がお嬢だから、かような騒動になった」
と顔を顰《しか》めるばかりであった。
草平は、豆腐の味噌汁をかきこみながら、
「新しい女はわけがわかりません」
と漱石に愚痴をこぼした。
新聞報道によって、草平は、(自分は社会的に葬られた)と痛感した。
こんな事件をひきおこした以上、英語教師として雇ってくれる学校があるはずはなかった。翻訳をしても、入ってくる金は微々たるものであった。草平は郷里の母から三百円を送ってもらった。これが母が持っている最後の金であった。
草平は漱石宅に四十五日間泊めてもらってから、その金で新しい下宿へ移った。漱石は、
「おまえがやったことは遊びだ。あんなものは恋愛ではない」
と叱った。草平は、そういわれると口惜《くや》しくなり、
「ぼくらは精神の結合をめざしたのです。恋愛以上のものを求めて破滅したのです」
と説明したが、漱石はふふふと鼻で笑うばかりだった。
「おまえはそろそろ小説の峠道にさしかかった。このままでは色道の悪漢《ごろつき》だぞ。おまえが生きる道は、この度《たび》の詫《わ》びを小説に書き、ひらきなおるしかなかろうよ」
漱石の顔はいつもの先生の顔ではなくなっていた。首領の顔であった。
草平は、ぞっと身震いしながらも、漱石の恩情に頭が下がった。そして漱石に負けず悪党《ごろつき》の顔をして笑った。すぐさま下宿に籠《こも》った草平は、以後は木曜会にも出席せず、心中未遂に至るまでの記録を克明にノートに書きつづった。ノートは十三冊になったが小説は一行も書けなかった。
草平が小説を書き始めたという噂がひろがると、明子の母|光澤《つや》が訪ねてきて「失礼ですが、どうかあの事件のことは書かれませぬように、御忠告申しあげます」と強く申し入れた。明子からも手紙がきた。「私を思い切り冷笑し、罵倒すればよい。私を史上最悪の女と斬《き》り捨ててくれれば自殺のふんぎりがつく」と書いてあった。明子はまたしても草平に挑戦してきた。草平は仕事が手につかなくなった。草平は、明子を憎みつつも忘れられないのだった。草平は心がかき乱され、いつでも自殺できるようにピストルを持ち歩いた。
明子からの手紙は、友人の生田長江経由で、それがますます草平を苛立《いらだ》たせた。明子は草平の心を遠隔操作するように、二十枚以上の手紙を書いてよこすのだった。思いあまった草平は明子の家へ出むいた。部屋に入るなり明子が抱きついてきて二人は長い接吻をした。明子は、
「今度こそ一緒に死んで下さいまし。今度は未遂しないように、きっぱりとしようじゃありませんか」
と耳元で囁《ささや》いた。草平は、
「ああ死んでやるとも。だが、このことを小説として書き残さなくては死んでも死にきれん」
と答えて、懐に入れているピストルの銃口を明子の胸にあてた。
明子は、
「きっとですよ、きっと。小説では私のことを思い切り罵《ののし》っていいですから……」
と草平を蒼白い目で見すえた。
そう言われると、草平はまた躓《つまず》いてしまった。明子のことは、自分中心の誇大妄想の娘として書いている最中であった。草平の書きかけの原稿では、明子はサフォーにあこがれるレスビアン嗜好《しこう》となっていた。そうとでも考えなければ、明子のことが理解できなかった。ぎりぎりのところまで草平を誘惑して、最後の一線で逃げるのは、明子の無意識のなかにレスビアンへの指向があると草平は分析していた。そう考えれば、それまでのことが理解されるのであった。
それなのに、明子の唇に吸われると、そういった書きかけの原稿が、ただの幻想になって、無意味に思えてきた。書きかけの小説では、明子の名は真鍋朋子とした。自分の名は要吉とした。要吉は二人の愛人をかかえる自堕落者《じだらくもの》だが、朋子に対して、霊と霊の結合を求めているのであった。草平は、世間を騒がせて顰蹙《ひんしゆく》をかった心中未遂事件を、さまよう男と女のいきちがいの恋愛話にしたてようとしていた。それが、再会したときの接吻でまた崩れてしまった。草平は、明子のなかに、「悪魔のように心をまどわす娘」を見ているのだが、そうとわかりながら、どうしようもなく、胸が痛み、書きかけの原稿を捨ててしまった。
書きあぐんでいる草平を見て、漱石が、
「ならば私が書いてみせようか」
とからかった。
「明子に会ったことはないが、おまえの話を聞いているうちに、明子の正体がちとわかりかけたよ」
「そんなことは、あり得ないです」
と草平は言い返した。
「いや、当事者よりも、はたで見ている者のほうがかえって真相がわかるものだ。明子というのは無意識の偽善者だ」
漱石は朝日新聞に『三四郎』を書き始めるところであった。『三四郎』に登場する女主人公|美禰子《みねこ》は、黒い瞳の「何とも云えぬ或物」と書かれていた。『三四郎』の連載がはじまると、草平は、くいいるように美禰子の描写を読んだ。『三四郎』では、九州から上京した主人公の三四郎が東京市中をやみくもに歩きまわる。美禰子はそんな三四郎を「迷羊《ストレイシープ》」とからかうのだ。美禰子の言動は、草平が漱石に話した明子と似ているようでもあり、草平が感じている明子とはかなり違っていた。
思いあまった草平は、
「美禰子は明子と違います」
と漱石に言った。
「それがどうした。明子とは違う。美禰子は美禰子だ。三四郎は美禰子に魅惑されるが、美禰子は結局は三四郎を見捨てて別の男と結婚するようになるはずだ。まだ、そうときめたわけではないが。美禰子という女は、どんな男でも一度は体験する幻影の女なのだよ。おまえにとっては、たまたま明子がそうであったのだ」
「ならば、三四郎はぼくがモデルですか」
「おまえは、さほど上等ではない」
「明子は、美禰子のように、男へ、|迷える子羊《ストレイシープ》なんて言いません」
「馬鹿たれめ。おまえ、小説のなんたるかがわかっていない」
漱石は草平を怒鳴りつけた。
草平は、すごすごと帰宅したが、腹がたってしかたがなかった。
(先生は盗んだのだ。ぼくの話をきいて、それを小説のヒントにして、面白おかしく書いているだけだ。結局、自分は先生の肥料にしかすぎないのだ)
その夜から草平は小説を最初から書きなおした。漱石が書いた美禰子ではない、真の明子像を書こうとした。それでも、『三四郎』を真似て、主人公要吉が東京の山の手を徘徊する筋だてになった。ただし、こちらは恋人と連れ立って歩くところが違っている。
漱石からは、一週間ほど連絡はなかった。その間も『三四郎』は朝日新聞に連載されていた。
しばらくすると、草平の下宿に漱石が訪ねてきた。下宿の部屋に上りこむと、
「部屋が臭いな。少しは片づけろ」
と漱石は叱言《こごと》を言った。それから、
「おまえの小説が朝日の連載にきまった」
と言った。
「え、なんだってまた。まさか、信じられない……」
と草平はうわずった声を出した。
「私の『三四郎』は今年の十二月二十九日をもって終る。『三四郎』のあとは、おまえの小説にする。本日の編集会議で本決まりとなったんだ。おまえは、私が書いた美禰子に不満があると言ったな。ならば、おまえの明子を書いてみたまえ」
草平を睨みつけた。
草平は、
「本当ですか。嘘《うそ》じゃないですよね、本当に書かせてもらえるんですか」
と畳にへなへなと坐って、畳に頭をすりつけて、漱石を見あげた。
「私を相手に小説を書くのではない。相手はまだ見ぬ世間だ。世間は、おまえと明子は死ぬべきだったと思っている。おまえたちが死んで帰れば問題はなかった。それがむざむざと引き返してきた。それをどう説明するか」
「はい、死にもの狂いでこの汚辱をそそぎます。ありがとうございます」
「できるな」
漱石は、うなずくと、足早に帰っていった。草平は、漱石の限りない恩情が嬉しく、漱石が帰ったあとも畳に頭をすりつけていた。
東京朝日新聞に小説『煤煙《ばいえん》』が連載されたのは、明治四十二年の元旦からであった。まだ小説家としての実績がない草平が起用された裏には、漱石の強力なあと押しがあった。他の編集委員はこぞって草平の起用に反対した。最も強く反対したのは村山龍平《むらやまりゆうへい》社主であった。
ことが心中未遂事件だけに、品位を第一とする朝日新聞社の方針には向かない内容であった。だが、連載がはじまると、読者のあいだでは概して好評であった。賛否両論がありつつも、『煤煙』は百二十四回にわたって連載され、森田草平は小説家としてはなばなしい第一歩を踏みだしたのであった。
この年、朝日新聞文芸欄が創設されると、漱石は主筆となり、森田草平、小宮豊隆を編集助手として朝日へ迎え入れた。草平は、心中事件をおこしていたため、村山社主より社員としては雇用しないと申しわたされ、臨時社員の名目であった。このころ校正係正社員であった石川啄木《いしかわたくぼく》の月給が三十円であったのに対し、草平は月額六十円であった。
草平は漱石の代理として、永井荷風《ながいかふう》の帰朝後初の小説『冷笑』の担当となった。その後、谷崎潤一郎《たにざきじゆんいちろう》ら有力新人作家の担当として、文壇にますます顔が売れた。小宮は海外文壇通信を担当した。
明治四十四年には、二作めの連載小説『自叙伝』を東京朝日新聞に連載した。連載が始まると明子の母がまた訪ねてきて、「小説を撤回しろ」と草平に迫った。
今回の小説は『煤煙』では、明子に遠慮して書ききれなかったことを書こうとした。草平と明子のあいだに立ってひっかきまわす生田を「神戸《かんべ》」という名で登場させ、小宮は「小早川」という名で登場させた。
このころになると、草平の明子への愛情はさめかけていた。草平は、小説を書くことによって自分が明子に仮託していた理想像がいかにもろいものであったかがわかってきた。「いままで、悪い夢を見ていたのだ」と気がついた。小説家としての草平がめざす地平は、もっと別の大きい虚空のような存在であったことに気がついた。
(自分が求めていたのは、漱石先生だったのだ)
と草平は考えた。それは、思いもよらぬ発見であった。草平は、明子のなかに、漱石を幻視していたのであった。あたかも漱石にむかって恋心を語りかけるように、自分の気持ちを明子に語りかけてきた。明子も漱石と同じように禅を学んでいた。
漱石と明子に共通する性格は、襲いかかる運命を甘受するところであった。漱石も明子も猛烈ではあるがひやりとする冷たい気配があった。明子は、
「一本の線香を前に立てて、一室に静坐《せいざ》していると、精神が統一され、線香の灰が折れて落ちる音が百雷のように耳朶《じだ》に響く」
とよく言っていた。
こういう発想は明子が禅寺で聞いてきた話の受け売りだったのだが、草平は圧倒され、意地になって「それは分裂症の症状だ」とからんだりした。草平は、明子を自分勝手に、「偉大な人格だ」と思い「とても及ばない」と尊敬してしまった。明子は明子で、漱石の弟子である草平のなかに漱石の幻影をかいまみて、漱石への尊敬を草平にむけていた。
(なんのことはない。自分も明子も、漱石の幻影を恋していたのだ)
と草平は気がついた。
そう気がつくと楽になった。
草平は、明子を、
「暗黒の運命をもって生まれた女である。この女の行く手には、これから、もっと恐ろしい事件が待ちうけているであろう」
と書くにいたった。
明子は、草平と別れてからも浅草海禅寺に参禅して修行していた。
夜遅くまで坐禅《ざぜん》して帰るとき、若い和尚が手燭《てしよく》をつけて、くぐり戸を開けてくれた。明子は、純真なこの青年に、不意になんのためらいもなく接吻してしまった。数日後、寺へ行くと、この若い和尚に、
「老師と相談してあなたと結婚することにした」
と切り出された。
明子は、自分の性向が世間の常識とあわないことを感じていた。草平に関しては、「自分が退治制圧した屑《くず》男」と認じていたのに、いつのまにか人気作家になっているのが気にくわない。
それは草平の旧友であった生田長江も同じだった。明子は生田のすすめもあって、女性だけの雑誌を発刊することとした。雑誌名は『青鞜《せいとう》』として、筆名は平塚明子を平塚|雷鳥《らいちよう》と改めた。
明治四十四年九月十日に発刊された創刊号に、雷鳥は「元始、女性は太陽であった」と書き、女性の自由解放をうたいあげた。雷鳥に賛同する有力女性筆者が集まってきた。大貫かの子(のち岡本かの子)、青山菊栄《あおやまきくえ》(のち山川菊栄)、田村俊子《たむらとしこ》、野上弥生子《のがみやえこ》、国木田治子《くにきだはるこ》(独歩《どつぽ》未亡人)、岡田八千代《おかだやちよ》(小山内薫の妹)ら十七名のほか義理で与謝野晶子も加わった。創刊号の表紙は日本女子大の一年後輩の長沼智恵子《ながぬまちえこ》(のち高村光太郎夫人)が描いた。
雷鳥が、心のモヤモヤから始めた『青鞜』は予想以上の反響をよび、雷鳥は一葉以来の注目される女性となった。雷鳥は「新しい女」を看板《かんばん》にした。かつて草平が雷鳥をたたえた言葉を、そのまま使うことにした。
発刊して一年目には伊藤野枝《いとうのえ》も参加した。神近市子《かみちかいちこ》も入ってきた。雷鳥は二十七歳にして、「一葉の再来」とまでほめたたえられるようになった。日本各地から雷鳥を慕って多くの女性たちが集まってきた。雷鳥は大島紬《おおしまつむぎ》にセルの袴をはいて悠然とふるまっていた。
集まってくるなかに尾竹紅吉《おたけこうきち》という男名前を使う女性がいた。紅吉は大女で、男物の鼠色の縞《しま》セルの袴をつけていた。話の内容が無教養で粗暴な性格であった。他の同人は、一目見てレスビアンの男役だとわかり、紅吉を嫌ったが、雷鳥は生一本のところが気にいって参加させた。雷鳥は、紅吉が自分に恋をしていることをみてとった。
レスビアンの話は、雷鳥は草平からたびたび聞かされていた。草平は、雷鳥がどたん場になると性行為を拒否するのは、雷鳥にレスビアンの気があるからだ、と疑っている。雷鳥のほうも、自分の性向がそういうものかもしれない、と考えるときがあった。
紅吉は雷鳥を連れて飲み歩き、町の暗闇《くらやみ》で雷鳥を抱きはげしい接吻をした。紅吉の求愛は草平のように理窟っぽいものではなかった。雷鳥を抱きすくめながら、紅吉の手は、震えながら雷鳥の乳房をまさぐった。雷鳥は紅吉にかかえられるようにして紅吉の下宿に泊り、一夜をともにした。紅吉は、社会見学と称して吉原遊廓へもくりだした。娼妓は、当世の人気者の雷鳥が来たことを喜び、寿司をとり、酒をふるまって一夜歓待した。
紅吉は雑誌『青鞜』の広告ページを担当していた。そのため広告をよこす酒場へ雷鳥を連れ歩いた。雷鳥が小説『煤煙』のモデルであることはよく知られており、雷鳥はどこへ行っても人目を集めた。
そういった雷鳥の行状が草平の耳に入ってきた。かつての恋人が、多くの女性崇拝者を集めて注目されていることは嫌なことではなかった。
朝日新聞社の文芸欄会議のあと、
「明子はたいした女に化けましたな」
と草平は漱石に自慢した。
「どこまで馬鹿野郎なのだ。おまえを捨てた女だろう。もともとあの女が自殺することなんかあり得ない。私が予言した通りだ」
「たしかにそうですが、レスビアンだという私の予測はあたっていた」
「どうかな。それもわからんぞ。あの女は自分を神とあがめる相手が必要だったのだ。そのうち若い男がよってくる」
漱石は渋茶を飲みながら、届けられたばかりの東京日日新聞を開き、
「ほら、雷鳥女史の記事が大きく載っておるぞ」
と声を出した。
見出しには、「雷鳥女史、連夜の放蕩《ほうとう》」と書かれていた。記事には、
「『新しい女』たちの集まりである『青鞜』主宰者平塚雷鳥は、吉原遊廓や紅灯の巷《ちまた》で酔態をくりかえし、女だてらに酒を飲む乱行ぶり」と、雷鳥の行状がこと細かに書かれていた。
これは、雷鳥を連れ歩く紅吉という名の男装の大女が、記者に吹聴した内容を記事にしたものであった。
「とうとう、尻尾《しつぽ》をつかまれたな」
と漱石は失笑した。
草平は、顔が青ざめ、(雷鳥は自殺するかもしれない)と不安になった。
東京日日新聞の記事により、雷鳥はごうごうの批難にさらされた。雷鳥の家へは脅迫状が送られ、青鞜社の建物には石が投げつけられた。雷鳥が窮地にたたされると、紅吉は短刀で自分の手首を切り、自殺をはかったが一命をとりとめた。紅吉が使った短刀は、かつて雷鳥が草平に手渡して「殺してくれ」と嘆願したものであった。
このころ、雷鳥のもとへ若い画学生が訪ねてきた。奥村博史という男で、雷鳥より六歳下であった。奥村は雷鳥へ、「太陽のような人だ」とおどおどしながら求愛した。雷鳥は、奥村を一目みて、「言うことをなんでも聞きそうな男だ」と思った。それで『青鞜』の表紙絵を奥村に依頼した。表紙絵は、H・Oの署名で雑誌に掲載された。雷鳥は、弟のような奥村とたちまち恋におちいり、奥村を自分の家へ泊めて一夜をともにした。奥村は、雷鳥が肉体関係を持った初めての男であった。紅吉は嫉妬《しつと》に狂って奥村に脅迫状を送った。
『青鞜』は、東京日日新聞の記事によって、売れ行きが落ち、経営が苦しくなったが、そのぶん戦闘的になった。
漱石は、朝日新聞社の会議室で、出たばかりの『青鞜』を読み、
「まるで、情痴雑誌だ」
と草平に手渡した。
「『青鞜』は、みんなで雷鳥女史のとりあいだ。同人仲間がみんな雷鳥に恋をしている。雷鳥は雷鳥でそれを楽しんでいる。私のみるところ、表紙を描いているH・Oというのが本命だな」
「紅吉とはまだ切れてないんでしょう」
「いや、いずれ切れるだろうよ。これからいろいろと騒動があるだろうが、雷鳥は、私が『三四郎』に書いた美禰子に似てきた。なんだかんだと騒ぎながらも、最後は落ちつくところへ落ちつくのだ」
「H・Oというのは奥村という若い画学生で、まるで売れていませんぜ。絵は下手だし才能もない」
「さあ、そこだ」
と漱石は腕組みをした。
「無能だからいいのだ。無能だから雷鳥は救われるのだよ。雷鳥は、この無能な画家を生涯養う気でいる」
漱石は一枚の写真を草平にさし示した。そこには貧相な男の油絵が写っていた。
「これがH・Oの自画像だ。写真部の者が駒込曙町の雷鳥の家にかかっているのを撮影してきたものだ。雷鳥の写真を撮ったときに書棚の上にかかっていた。油絵の部分を拡大したから、多少ぼやけているがね」
草平は、その写真を食いいるように見つめた。奥村は目の周囲《まわり》が紅色に滲《にじ》んでおり、鳥のような目玉をしていた。鳥がフロックコートを着てかしこまっているようであった。
「つばめみたいな顔の男ですね」
「その通りだ。H・O自身もつばめと名乗っている。雷鳥を慕う同人のひとりが、H・Oに忠告をしたそうだ。池のなかで鳥たちが仲よく遊んでいるところへ、若いつばめが飛んできて騒ぎをおこすのはよせ、と」
「鳥とは『青鞜』の同人ですか。奥村が若いつばめ」
「お察しの通り。『青鞜』の連中は、年上の女性に言いよる能なし男を、つばめという蔑称《べつしよう》でよんでいる。この呼びかたは、これよりはやり言葉になるかもしれないぜ」
「つばめ、か。つばめ、つばめ……」
草平は、つばめ呼ばわりされる奥村の自画像を見て、口惜しそうに唇を噛《か》んだ。
「H・Oもひらきなおって、つばめに似せた自分の肖像画を雷鳥に贈り、つばめはまた季節がくれば、雷鳥の家へ飛んで来る、と言ったそうだよ。おまえは、つばめにはなれんだろう」
「からすでしょうか」
「いや、草平だから、草原の上を飛ぶ鷲《わし》だよ。草平、大きな鷲になれ。鷲になって悠然と草原の広さを見さだめよ。中止になった朝日文芸欄は、再生のめどはなくなった。これよりは一人で飛びたまえ。軒さきを借りずに、一人できみの空を飛べ」
漱石はそう言うと咳《せき》こんで胸をおさえた。草平は新聞社の窓の外を見あげた。薄紅色に暮れていく西の空を、つばめが群をなして飛んでいった。草平は、丸山福山町の下宿を捜して歩いていたときの夕暮れを思い出しながら、咳こむ漱石の背中を一心にさすりつづけた。
[#改ページ]
葡萄[#「葡萄」はゴシック体]
大正十二年六月四日。
アキコは、水色の花柄|蒲団《ぶとん》におおわれたタケオのふぐりへ手をのばして、
「葡萄《ぶどう》さ」
とすすけた声を出した。
タケオのふぐりは冷たい手に触れてびくりとうごめいた。
「生きてる葡萄さ。ごつんと固い躯《からだ》の棚から熟してぶらさがってる臆病《おくびよう》な葡萄」
アキコは、タケオを呼び捨てにしていた。タケオは、アキコより十四歳上の小説家だが、アキコは、もう半年前からそう呼んでいる。アキコは「婦人公論」編集者で、タケオのもとへ出入りして、一年半になる。
アキコは掛け蒲団をはがして、タケオの股《また》に顔をうずめた。黒みを帯びたふぐりの肉膜が、呼吸をするように伸び縮みしていた。筋層の皺《しわ》が薄暗い部屋のなかで萎縮《いしゆく》している。
タケオは、いつかこういう夜が来ることを予感していた。それは遠くの雨がざーっと音をたてて近づいてくる恐怖に似ていた。アキコの唇は濃い湿り気を帯び、ねっとりと染《し》みこむように寄り添っている。
タケオは一年ほど前に「婦人公論」に『火事とポチ』という創作童話を書いた。自信作ではなかった。アキコの執拗《しつよう》な注文によって無理やり書かされた童話だ。タケオは一般雑誌には寄稿しないことを宣言していた。たまに書く小説は個人雑誌「泉」にのみ発表すると声明した手前、アキコの注文に応じたことは漠然と課した戦略に反したが、まあ童話だからいいだろうと自分なりに納得していた。
「三年前に『赤い鳥』に書きなさった葡萄のお話は、もう、教科書に載っているんですって。『火事とポチ』も載るかしら」
「どうでもいいことだ。ぼくは童話作家ではない」
タケオには、ふぐりをつかむアキコの手が、畳の下から伸びる魔手のように感じられた。この女から逃げるならばいまこの一瞬だ。妻ヤス子と死別して以来、七年がたっている。その間、多くの女たちと疑似恋愛をくりかえし、どの女たちともぎりぎりのところで別れてきた。女とは友人以上の関係を結ばない、というのがタケオの信条であった。
アキコの歯がタケオのふぐりを噛《か》んだ。
「やめたまえ」
と、タケオは小さく声をあげた。
弱々しい声はアキコをいっそう刺激して、アキコの熱い唾液《だえき》がふぐりからしたたった。ドカーンと血が立ちあがり、タケオは、薄目をあけてアキコの首筋をみつめ、
(それほどならば、きちんと姦夫《かんぷ》になってやる)
と、ひらきなおった。そう決めてしまうと、アキコのなすがままに身をまかせた。タケオが女と情を交わすときは、いつも受け身であった。芸者衆がそうで、タケオにその気がなくても、女のほうが積極的になった。
(この女は、危ないほど切れる小刀《ナイフ》のような舌を持っている)
と感じてタケオは目を閉じた。タケオは、二十歳のとき、札幌農学校の同級生モリモトに挑まれて、同性愛を経験した。モリモトとの関係は、キリスト教信仰と真理を求めてのものだったが、自責の念にかりたてられた。モリモトとの関係は四年つづいた。二十歳の冬、モリモトに挑まれたときもこのような感じだった。タケオは、
「よせよせ」
と身をよじらせた。アキコは、
「どうにも、下品に育ちました身ですもの」
と低くくぐもった声を出した。
タケオは、股間《こかん》に顔をうずめたアキコをおこして蒲団の上へひきずりあげた。タケオは、女が献身的になるのを好まない。躯を投げ出してしまった女に対すると、いたたまれない嫌悪感におそわれる。アキコには暗い闇《やみ》ではじける花火のような吐息があった。性技はぎこちないが、乾いた冷たい膚《はだ》に、ぱちぱちとはぜる一途《いちず》に思いつめた息がある。
「与謝野晶子《よさのあきこ》とは何回寝たのさ」
とアキコが訊《き》いた。
「鉄幹《てつかん》という男は、晶子をタケオから遠ざけるために『明星』を出してる。あんな女とつづけたら、精を全部吸いとられちまうよ」
タケオは答えなかった。
「神近市子《かみちかいちこ》とは何回寝たの。嘘をつかずにおっしゃいませ。市子が保釈中に二人で会ったことは、知っております。どうでも宜《よ》ござりますが。今度はあなたが刺される番だと御思い下さいませ」
アキコはたてつづけに訊いた。
「佐藤繁井《さとうしげい》はどうなの、富沢美穂子《とみざわみほこ》は、水野仙子《みずのせんこ》は、それから、望月百合子《もちづきゆりこ》は……」
「いい加減に、よせ」
タケオは、アキコの唇をふさいで、抱きよせた。だるい倦怠《けんたい》感があった。タケオが、いつかこうなると恐れていた通りになった。このさきになにがあるか、重くのしかかる不安がある。
「あああ……、勿体《もつたい》ない。私なんかとよろしいんですか」
とアキコが喘《あえ》ぎ声を出した。アキコの痩《や》せて片えくぼのある頬《ほお》に幾筋もの黒髪がかかった。唇が震えていた。アキコの額にはかちんと固い聡明《そうめい》な意志がある。遅筆の芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》に注文して三日で小説を書かせたという実績がある。芥川とも関係があったのだろうか。また、「雑誌記者には当方一切御用なし」と貼《は》り紙を出した荷風《かふう》が、その意志を破ってアンケートを書かざるを得なくなった手練《てだれ》の女性編集者である。アキコは美人編集者として業界に名を馳《は》せていた。しかし、その気品において、タケオが死別した妻ヤス子よりもはるかに劣った。
タケオは歌舞伎役者以上の美丈夫である。そのことはタケオ自身が誰よりも知っている。妖《あや》しい女たちが崩れんばかりにタケオに言い寄ってきた。妻ヤス子が死んでからは、新橋芸者や新富座《しんとみざ》の女優が熱いまなざしで近づいてきた。それでもタケオは深入りしなかった。アキコもそのうちのひとりで、そのしつこさには手を焼いていたが、
(この女の手くだには落ちぬ)
と、タケオは自分でたかをくくっていた。それがこんなはめになった。タケオは、髪を乱して喘ぐアキコの姿にいらだっていた。いらだちながら、アキコの一途さに、自分に似た空漠の闇を見ている。アキコは、タケオの家へ来るときは針と糸を持参して、三人の子どもたちの洋服のボタンのほころびを縫った。
「ねえ、死んでおくれよ」
とアキコはタケオを見すかすように言った。タケオの生活が、荒れた世間で揺れていることに気づいている。
「こんな、船橋《ふなばし》の安旅館で死ぬのか」
「外へ出て崖《がけ》から身投げしてもいいです」
アキコの三日月形の目が青白く濡《ぬ》れていた。
「わたしの子どもたちはどうなる」
「タケオは、子ども国有論者でございましょう。御自分の子らを手放すことが、より大きな愛だ、と書いていらっしゃる」
タケオはおし黙った。
アキコは油断していると挑みかかる女だ。それに、タケオが書いた論文をくまなく読んでいる。最初に会ったときからそうだった。
「『惜しみなく愛は奪ふ』と書いているじゃございませんか。愛は奪う才能だ、と。ならば、わたしのすべてを奪って。殺してみてごらんなさい」
タケオは、
(はめられていく……)
と不安になった。アキコは、タケオの頭のなかに棲《す》む女だった。タケオが書き散らす女性自立論を実践して生きている。その女と情を結んでしまった。
「人間には未練はない」
とタケオは言った。
「しかし、大自然には未練はある」
「逃げてらっしゃる、卑怯《ひきよう》な方。ここで死ねないのならば、さあわたしと暮らして下さいな」
「しかしきみには良人《おつと》がいるだろう」
タケオのふぐりはくるみの実のように萎《な》えて固くなった。アキコの乳房の汗が冷えかけている。タケオは後悔しながらも、アキコが死のうと挑みかかった誘いに乗ってみるのも悪くない、とうっすら感じた。ひきずられて死ぬ愉《たの》しみがあった。
「死ぬことはこわくない。臆病ではない。弱虫ではない」
「あら嘘ばっかり。葡萄少年みたいにおっしゃって」
アキコは曇り硝子《ガラス》色の瞳《ひとみ》で見つめた。
「あの一房の葡萄少年の童話は敗北宣言ですよ」
タケオは、どきりとして、しかしまぶしそうな眼でアキコを見つめた。アキコが、タケオの作品に批判めいたことを言ったのははじめてのことだった。作品の細部へ立ち入られるのは、神経を爪で弾かれる痛みがあった。
「あの葡萄少年はむかし戻りさ。いまの自分をこわそうとしてらっしゃる。西洋学校の自慢話じゃありませんか」
アキコは、細い指で、タケオのふぐりをまさぐりつづけている。アキコの指も震えている。
「アメリカ原産のキャンベル・アーリーという葡萄だ。おまえは食べたことがあるか、味はおいしくはない。果実が小さくて青いときは、渋くて食べられず、熟しても、さして甘くならない種類だ」
「わたし、葡萄は、まだ食べたことがございません」
ふぐりをつかむアキコの指の爪が、睾丸《こうがん》にちくりと立てられた。
その二日後、六月六日。
タケオはアキコの夫|波多野春房《はたのはるふさ》より、東京海上ビル内にある波多野事務所へ呼びつけられた。
波多野は、タケオとは直接視線をあわさずに、
「まえまえからあやしいと睨《にら》んでいたが案の定やってくれた。おまえさん、男振りはいいが偽善の泥棒猿だな」
と唸《うな》るように言った。
「アキコは、二日前鎌倉の石本静枝を訪ねると書き置きして家を出ていきやがった。石本の家に電話をかけて、静枝夫人でなく夫のほうを呼んで訊くと家へは来ていないというじゃあねえか。中公へ電話をするとあちらへも出社していねえ。それで、俺はおまえさんの家へ電話をかけた、国民新聞社の文芸部記者だといつわってな。すると、おまえも家を出ているという」
波多野はねちっこい性格だ。
「それでアキコを責めあげたら、一切を白状した。相違ねえな」
タケオは、一呼吸おいてから、観念して、
「お察しの通り」
と頭を下げた。
「おめえは有名な吝嗇《ケチンボ》だというじゃねえか、芸者を囲やあいいものを、金のかからぬ人妻に手を出すという汚ねえ根性だ。アキコは職業婦人だから安心したって料簡《りようけん》かい。坊ちゃま育ちで、いっぱしの小説家の顔《つら》さらした道楽者で、半端《はんぱ》なものしか書けないくせによ、女遊びだけは一人前っていうわけか」
波多野はアキコより十歳年上であった。アメリカ帰りで英語が達者なのはタケオと同じだ。波多野の経営する私塾に通ってきたアキコと同棲《どうせい》し、先妻を追い払って結婚して、十二年になる。
「アキコは私生児だ。さる実業家が芸者に生ませた子を哀れだと感じて、ひきとり、青山学院へ入れ、高島米峰《たかしまべいほう》先生の口ききで中央公論社へ押しこんだのだ。俺の愛《いと》しい/\宝物だぜ。命より大事な妻を手ごめにするとは、どう、おとしまえをつけてくれる。指の二、三本でも切って詫《わ》びを入れるかい」
波多野は冷静を装っているが、手がぶるぶると震えている。タケオは申しひらきができなかった。姦通がばれたのだからなんと罵《ののし》られてもしかたがなかった。波多野に脅迫され、アキコと夜逃げをし、愛欲の日々にはまる自分を夢想した。
「それほどアキコが気にいったのならば、よござんしょう。恥をしのんでくれてやるぜ。しかし俺は商売人だ。ただでは渡せない。代金をよこせ」
タケオは、波多野が金のことを言うので、
(安くみつもられた)
と憤慨した。と同時に、いささか安心した。金をせびられることには馴《な》れていた。アナーキストと称する連中が、なにかと金をせびりにきていた。
「傷心の身を抱いて旅に出ることにしたが、借金があるんでな。しばらく外遊するので銭がいる。こんな恥さらしをうけて会社にはいられない。この通り辞表を書いた」
波多野は英文と日本語で書かれた二通りの辞表をタケオに見せた。
「おめえは金があるくせに銭に汚いという評判だ。そういうおめえを苦しめるのには、銭を取るのが一番だ。これだけこけにされて、こっちがどんなにつらいか、考えたことがあるのかい。ただし、一度支払えばそれでいいと思うな。終生おめえを苦しめてやる」
タケオは、波多野を睨みかえして、
「こちらも命がけでやっているが、女を金に換算する屈辱は忍び得ない」
と言い返した。言いながら、そんなことを言う自分が不思議だった。タケオはアキコに言い寄られて、その執拗さにほだされただけだ。波多野に脅迫されなければ、このまま忘れ去ってもいい相手だった。波多野の脅迫をうけるうちに、胸の奥でゴトンと音がして、アキコをいとおしく思いはじめた。ゴトンという響きの奥に薄紫色の死界が滲《にじ》んでみえた。
波多野は舌うちをして、
「銭を出せないのならば警視庁へ行くしかねえな。姦通罪で告訴してやる」
と凄《すご》んだ。
「そう思うのなら同行いたしましょう」
タケオはひらきなおった。入獄するのは考えただけでおぞましいがなりゆきの沼へはまりこむ気になった。タケオはふと北原白秋《きたはらはくしゆう》の事件が頭に浮かんだ。白秋は人妻との姦通罪で入獄したが、その経験を下地にして詩作の新境地を開いた。
「おめえ、警視庁へ出頭したら、アキコを裏切ってつつもたせ[#「つつもたせ」に傍点]だと弁明する気だろうが、そうは問屋がおろさねえぜ」
と波多野はせせら笑った。
「おめえは博愛主義者の顔《つら》でえらそうな文を売ってるらしいが、監獄に入ってみろ、そんな安物の仮面はひっぱがされる。それに三人の子はどうなる。おめえの母親はどうなるんだ。かっこうをつけずに、銭を払っちまいなよ」
タケオはいつもこの手の男にいじめられてきた。そう思うと、かえって強気になった。
「女は金に換算できない」
タケオは、アキコが哀れに思えてきて、次第に波多野を憎くなった。アキコから、波多野がどれほどアキコに執着しているかは、すでに聞き知っている。にもかかわらず、アキコがこの男を愛せないという事情がわかりかけた。
「おめえが愚図愚図しているのなら、ひとりひとりおまえの弟を呼びつけてでも銭はとってやる」
波多野は、いらだって席を立ち、
「いいか二日後までに答えろよ」
と凄んだ。
タケオはすでに四十六歳になっている。前年に北海道に所有している狩太《かりぶと》農場を小作人に解放した。父親がタケオのために買い与えた農場である。三十七歳のときに隣接地を買収して、農場はさらに広くなっていた。狩太農場はすでに十五年の歴史を持ち、小作人の数は六十人に及んでいる。農場解放は私有財産否定の理念にもとづいていた。と同時にタケオが小説家として自立し、もう一度、自分を建てなおすための試みであった。
東京|麹町《こうじまち》のタケオの家は、無政府主義者が金をせびりにくる。タケオは私有財産を否定する立場だから、無政府主義者にとっては恰好《かつこう》のカモであった。タケオは、そういう連中に嫌悪と不快を感じ、自分の理想が現実社会のなかでぼろぼろと崩れていくやるせなさのなかにいた。童話『一房の葡萄』は、そういった不安のなかで狩太農場解放の準備をしながら書いたものだった。小説よりも童話のほうが評判になった。
『一房の葡萄』は、タケオが横浜英和学校にいた七歳のころの記憶にもとづいている。西洋人の先生と西洋人の生徒がいる上流階級の学校であった。タケオの立場からすれば、否定すべきブルジョアの学校であった。しかし、そこでの西洋人教師の記憶は、アナーキスト連中にはない真実味があった。
受けもちの西洋人の女先生が、二階の窓まで這《は》いあがった葡萄蔓からもぎとった葡萄の重さを、指が覚えていた。絵の具を盗んだのがばれ、しくしくと泣いているタケオの手のひらに、しなびた葡萄がふわりと載った。粉をふいた紫色の葡萄の粒の感触は、タケオの指が覚えている。果皮は厚いが、果肉はやわらかく種がはなれにくい葡萄であった。狐臭の獣のにおいがあった。
タケオは『一房の葡萄』の最後にこう書いた。
――秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。
大理石のような白い美しい手……。
タケオは、アキコの白い手を思いうかべて、
(アキコは、それを意識したのだろうか)
といぶかった。
波多野に脅迫された日の午後、アキコは泣きながらタケオの家へ訪ねてきた。
「ええ憎らしい。昨夜は、夜通し責められ、はじめのうちは否認したけれど恨《うら》まれるの覚悟のうえ、鬼だと邪《じや》だと思うがようござりますと、話してしまいました」
タケオは、
「外で食事をしまするか」
とアキコを誘った。
「波多野は一度言い出したら、あとにはひかない男、ここは波多野の要求を入れて、のんで、くやしいでしょうが一万円払って下さいまし」
「本当に一万円と言ったのか」
「波多野はこう言った。あなたが商人ならば監獄に叩《たた》きこむが、文士というものは、監獄に行くと、それを本に書いていっそう名を売る下卑《げす》連中だから告訴はしないで片づける、って」
「とすると、おまえを一万円で買うことになる」
「それで、いいの」
「いやだ。女を金に換算することはぼくの思想を否定することだ」
「わたしがいい、と言ってるじゃありませんか」
「いやだ」
「タケオの気持はわかりますが、一万円でことが解決するんだから、払って下さいな」
アキコはタケオにしがみつき、泣きじゃくった。
「一万円払っても、波多野は、また金を要求してくる。そう言っている」
タケオは、意地っぱりの自分を感じていた。タケオは、意地だけで生きてきた。狩太農場を開放したことも、持ちこまれる再婚話を断るのも、一途な意地だった。
しかし、意地を通して波多野の要求を断れば、アキコまで監獄に入ることになる。今度はタケオがアキコをひきずりこむ番なのだ。
「いっそ死にましょうか」
とタケオはアキコの顔を覗《のぞ》きこんだ。
アキコは、躯《からだ》を硬直させて、
「本気で?」
と聞きかえした。
「いや、二人で監獄へ入って、刑期を終えてから新しい生活をする手もある。いずれにしても、金を払うのはいやだ。金を払うことは、波多野の脅迫に屈することになる」
「波多野なんて、こうなったら、どうでもいい。金ほしさで言う男だから、言う通りにしたほうがいい。一万円を払うのは流儀に反するかもしれませんが、それでわたしが自由になる。ねえ、お願いよ、私のように運の悪い女は呪《のろ》いもなにもききはしない。ここは我慢して一万円払って下さい」
「いやだ」
タケオは、船橋の旅館で、アキコが情死を迫ったことを忘れてはいない。二日前のことであった。そのときは死ぬ気にはなれなかった。タケオは、雑誌「白樺《しらかば》」へ『生への肯定』を書いていた。
「絶望は死の三十秒前でも遅くはない」と書いたのは、ほかならぬタケオであった。情死することもまた、タケオの流儀に反する。タケオは、アキコがどこまで本気で死を口にしたのかを、おしはかろうとした。
「足助《あすけ》君のところへ行く」
と言った。
足助素一はタケオの著作集を出版する叢文閣《そうぶんかく》社長で、脊椎《せきつい》カリエスで帝大病院に入院していた。
「どうしたらいいか、ぼくはわからない。足助君は一番の友人だ」
「自分たちの運命をなぜ他人にきめてもらうのさ。一万円払わないのならば、監獄に入るか、死ぬか、どちらかよ。それをきめて下さいまし」
タケオは黙ってアキコをみつめた。
「葡萄になる」
「どういう意味ですか」
「二人で首を吊《つ》って、梁《はり》から葡萄のようにぶらさがるということさ」
タケオは静かな笑みを浮かべた。
「わかりました」
アキコは蒼《あお》ざめた顔でごくりと唾《つば》を呑《の》みこんだ。タケオの目も、アキコの目も葡萄色に充血している。
二人の訪問をうけた足助は、タケオがことの次第をぽつりぽつりと告白するのを聞き、
「つまらぬ意地を通すな」
とタケオの胸倉をつかんだ。あまりに突然のことなので、どう対応したらいいか足助にもわからない。
「ぼくは葡萄のような存在だ。貧乏人になりきれない葡萄だ。葡萄が犬ふぐりになるには、生まれ変るしかない。熟して腐って、地に落ちる。ぼくにできることは、時代が壊れるのを内側から助長する力だけさ」
「情死を世間さまにさらすのか」
「そうとられてもしかたがない。ぼくは四方八方に行きづまりだ」
「死んだら、三人のお子はどうなる」
足助はアキコへむきなおった。
「奥さん、あなたに頼み申します。こいつを殺さないでおくんなさい。こいつが死ねば三人の子は孤児になるんですぜ」
アキコはタケオの顔を上目づかいに見て、
「びっくりなさりましょうが、これは二人でとりきめたこと」
とつぶやいた。
「奥さん。おまえさんは愛する人の死を願うんですかい」
「これは二人できめたことです」
アキコは自分に言いきかせるように、くりかえした。
「奥さん、おまえさんがタケオをひきずりこんだのだろう。言うことが、さすが商売人の妻じゃねえか」
足助はいきりたった。
「かりに死なずに生きのびても、こいつは、おまえさんみたいな自分勝手の三十女にはすぐあきるはずだ。だから早く死にねえってことかい」
「アキコにそんなことは言わないでくれ」
タケオは激昂する足助をさえぎった。
「アキコを許してやってくれ。この女は言い出したらあとにひかないんだ」
「いつから、おまえはそんなに変ったんだ。あれほど子煩悩だったおまえが、悪い夢を見てるとしか思えない」
足助は絶句した。
「この女は残忍そのものだ。おまえは気がついていない。いまは夢うつつのなかにいる。目をさませ。死を夢みて、自分が死にてえという道連れにしようとしている。芝居気たっぷりで、危険な爆弾だ。自分で悲劇の女を演じようとしてやがる。自分を悲劇の主人公にしようとしている」
足助は混乱した。アキコが自信たっぷりに足助を睨みつけたので、足助はたじろいだ。
「待ってくれ。波多野には、わたしが話をつける。そうだ、神戸の原久米三郎《はらくめさぶろう》に頼もう。原なら私よりおだやかに事をすすめるだろう。原に仲裁してもらって、一万円はわたしが出す。タケオの金ではなくて、わたしが出すんだからな。それで波多野から、一万円で決着させるという念書をとる。波多野だって社会的メンツがあるから、金を受けとった以上、きみたちを告訴することはないだろう」
足助はタケオの目の前で、
〈キユウヨウアリスグコイ〉
と電文を書き、看護婦を呼んで原のもとへ打つように依頼した。
「仲がおよろしいのね」
とアキコが冷ややかに言った。アキコは、足助をさげすんだ目で見た。
「波多野が告訴しなければ、わたしは自首するつもりでした。そのために、寝袋を用意しました」
「では、死ぬつもりはないんだな」
「いくつかのケースを想定している」
「とにかく、情死だけはやめたまえ。奥さん、タケオは、あなた一人のものではない。子が三人いる。母もいる。読者もいる。いまここでタケオが情死すれば、いままでタケオが書いてきたものがすべて否定される。波多野とはわたしが話をつける。だから、はやまったことだけはしてくれるな。ここで死ねばタケオは波多野に負けたことになる」
タケオは両手を顔にあてて咽《むせ》び泣くばかりだった。
「きみの気持はありがたい。波多野にこうまで侮辱されてみると、これは、なかなか死ねないと思っている。くやしいからねえ」
「そうさ。ここは冷静になってくれ。おまえは考えすぎだ。考えすぎの葡萄なのだ」
足助はカリエスで痛む背をおこして語りかけた。
「奥さんのことを悪く言ってすまなかった。とにかくわたしは動顛《どうてん》しているので許してくれたまえ。これは試練だ。自首するというのならば、そのことをとりこんで小説を書けば一大壮挙だ。志賀《しが》君や武者《むしや》さん以上のものが書ける。漱石《そうせき》や鴎外《おうがい》以上のものが書ける。荷風|山人《さんじん》をこえられる。ここで死んだら、あまりに情けない。いまがこらえどきだ」
足助は、タケオがそれまでのタケオではないことに気がついていた。タケオがアキコに妖術をかけられているとしか思えない。
「きみの好意に感謝する。もっと早く相談すればよかったが、もう遅すぎた。波多野はぼくを苦しめようとしているんだから、他人が金を持っていったんでは、うけつけない。それに波多野はアキコにこう言ったそうだ。アキコはぼくにだまされているのだから、しばらくたてば自分のふところに戻ってくるって。アキコさん、そうだったね」
「ええ、そうよ」
とアキコはうなずいた。
「きみが言うように、ぼくは考えすぎる葡萄だよ。最後に会っておけてよかった」
足助は、こういったときのタケオが意地っぱりであることを知っていた。
「情死だけはよしたまえ。子どもたちを考えろ。母上を考えてくれ。奥さんと一緒にいるのが幸せなら、血みどろになって生を享楽しろ」
「ありがとう。きみの友情に感謝するよ」
タケオは足助の手をとって、やわらかい手で力強く握りしめた。
「とにかく一万円は早く渡してしまえ」
足助の忠告にうながされるように、タケオはアキコをふりかえって、
「それじゃアキコさん、波多野にそう告げて下さい。一万円は渡す、と」
と言った。
そのひとことを聞いた足助は、安心してベッドの上にどたっと倒れこんだ。足助はタケオへ。
「死ぬな」
とくり返した。
「金は渡すから……」
タケオは透明な瞳で足助を見つめて、帝大病院の病室を去った。
タケオは、その翌日の六月八日夕方にアキコと姿を消し、軽井沢別荘浄月庵で首つり自殺をとげた。神戸から駆けつけた原と東京駅でおちあった足助は、タケオの家へ行き、タケオが出奔したことを知ったが、「弟の有島生馬《ありしまいくま》や里見ク《さとみとん》のところへ行ったのだろう」と考えていた。タケオの家へ葉書がつき、「二、三日旅行をする」と書いてある、という知らせが入った。
「婦人公論」編集部のアキコの机の上には、六月九、十、十一日の欠勤届けのほかに、「六月二十五日小山内氏原稿出来の約束」と「三十日永井荷風氏約」のメモが残されていた。
アキコは六月八日の午後三時に中央公論社へ顔を出し、「婦人公論」を校正中の主幹|嶋中雄作《しまなかゆうさく》に、「校正を手伝いましょうか」と言い、嶋中は「いや、よござんす。私がやりますから」と断った。アキコは校正が終った嶋中にむかって「二、三日休ませていただきます」と申し出た。アキコは部屋を出るときに同僚の諏訪三郎《すわさぶろう》にむかって、「御機嫌よう」と声をかけた。
アキコはその前日は中野の自宅へは戻っていなかった。六月八日は、朝から雨が降り、波多野はアキコのぶんの雨合羽《あまがつぱ》を持って事務所へ来た。波多野も、アキコが旅へ出るとは考えていなかった。
六月八日の午後、タケオが自宅に残した紙片が足助のもとへ届けられた。紙片には「では左様なら」と書かれていた。足助は、その紙片を見て、タケオが死出の旅に出たことを知り、両家では大騒ぎになった。それでも足助は、死ぬつもりで出たには相違ないが、まだ死んでいない、と確信していた。それまでのタケオのいきあたりばったりの性格から推理して、死に場所を探して、どこかの温泉へでも行っているのだろうと予想していた。
二人の首つり死体が発見されたのは、一カ月後の七月六日であった。
別荘浄月庵へ掃除をしに行った管理人が、異様な臭気に気づき、ドアを開けてみると、腐爛《ふらん》した死体が、葡萄状に梁からぶらさがっているのを発見した。全身が腐爛して、男も女も顔がよくわからない状態で、二人の遺体は行路死者として東長倉村の役場に引き渡された。腐爛した死体の懐中に遺書が入っており、二人は有島武郎と波多野秋子であることが判明した。
心中事件は新聞に報道された。東京朝日新聞は、
「軽井沢の別荘で有島武郎氏心中――愛人たる若い女性と/別荘階下の応接室で縊死《いし》」と見出しをつけ、つぎのように書いた。
――現代文壇の一明星たる小説家有島武郎氏は過日来|其《そ》の愛人たる若き女性と共に、軽井沢の別荘に人目を避けて滞在中であったが、七日払暁両人が別荘階下の応接室で卓子の上に椅子《いす》を積重ねて縊死していたのを別荘番が発見し、直ちに軽井沢署に届出でると共に麹町下三番町九の有島邸へ急電を発したので、母堂はじめ家族の驚愕《きようがく》一方ならず……
足助への遺書は便箋《びんせん》に鉛筆書きされていた。
――素一兄 永い永い暖い思い出のみ残る。今朝は有難う。兄の熱烈なる諫止《かんし》にもかかわらず私達は行く。僕はこの挙を少しも悔いず只《ただ》十全の満足の中にある。秋子も亦《また》同様だ。私達を悲しまないでくれ給え。原、吹田、秋田、藤森其他の諸兄にも手紙を書くべきだけれども、この際だから略す。兄より宜敷《よろしく》。山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降っている。私達は長い路を歩いたので、濡れそぼちながら最後のいとなみをしている、森厳だとか悲壮だとかいえばいえる光景だが、実際私達は戯れつつある二人の小児に等しい。愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思わなかった。恐らく私達の死骸《しがい》は腐爛して発見されるだろう。
遺書にも腐爛した肉の臭いがしみつき、足助は読みながら、泣き、嘔吐《おうと》した。遺体は七月七日、軽井沢共同火葬場で荼毘《だび》に付され、二人の葬儀は別々に行われた。
与謝野晶子は「悲しみて」と題して、
山荘《さんさう》の終焉《しゆうえん》の室|何故《なにゆゑ》に一目《ひとめ》見にけんそのむかしの日
君亡《きみな》くて悲しと云ふを少し越《こ》え苦しと云はば人怪しまん
ほか十四首の挽歌を詠《よ》んだ。
生田長江は、
「それほどの人とも思えない波多野夫人くらいにぶつかって、有島氏ほどの大丈夫らしい人があんなにもろくも落城してしまったのは成程これは運命だなと長嘆息をもらさないではおかない」
と唇をかみしめて追悼した。
松下八重《まつしたやえ》は、
「お慕いしていたあの先生を波多野さんお一人が永久に私達から奪ってしまったかと思いますと、死んだ方にすまないんですけれど、ついお恨みしたくなります」
と泣くばかりだった。
武郎の死の三カ月後に関東大震災がおこり、東京は文字通り廃墟《はいきよ》と化した。死者行方不明者十三万人余である。
武郎の死後、書斎で絶筆の十首が発見された。
そこにはこう書かれていた。
[#ここから2字下げ]
世の常のわが恋ならばかくばかりおぞましき火に身はや焼くべき
幾年の命を人は遂げんとや思ひ入りたるよろこびも見|伝《で》
修禅する人の如くに世にそむき静かに恋の門にのぞまむ
道はなし世に道は無し心して荒野の土に汝が足を置け
さかしらに世に立てりける我かこれ神に似るまで愚かしき今
生れ来る人は持たすなわがうけし悲しき性とうれはしき道
雲に入るみさごの如き一筋の恋とし知れば心は足りぬ
蝉《せみ》一つ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな
明日知らぬ命の際に思ふこと色に出づらむあぢさゐの花
命絶つ笞《しもと》しあらば手に取りて世の見る前に我を打たまし
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
葬儀[#「葬儀」はゴシック体]
[#ここから2字下げ]
――すると、伯母さんがなにか紙に包んだものを手にせられて「これは昨夜|龍之介《りゆうのすけ》から、明朝になったら先生に渡してくれと頼まれました」こう云いながら手渡された。早速上包みを開いて見ると、短冊に、
自嘲 水洟《みずばな》や鼻の先だけ暮れ残る
の一句が達筆に書いてあるではないか。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](下島勲《しもじまいさお》「芥川《あくたがわ》龍之介|終焉《しゆうえん》の前後」)
芥川龍之介が自殺したのは、昭和二年七月二十四日未明のことであった。下島勲は龍之介の主治医として、龍之介の最期をみとった。ときに龍之介三十六歳、死因は大量の睡眠薬ベロナアルとジャールを服用したためと発表されたが、下島医師は二階の書斎机上に別の毒薬をみつけた。「その毒薬はおそらく青酸カリであったろう」とのちに宇野浩二《うのこうじ》は推測している。
喉《のど》の奥までしめつけてくるほど蒸し暑い夜の出来事であった。
未明から雨が降り出した。文は庭のアジサイの葉に打ちつける雨音で目をさました。夜は明けようとしているがまだ薄暗く、寝室の蚊帳《かや》のなかでは三歳になったばかりの三男|也寸志《やすし》が眠っていた。文は也寸志の額の汗を素手でぬぐいとり、夫の寝顔をのぞきこんだ。
と同時に、あっ、と声にならぬ声を出した。夫の膚《はだ》は灰色に変色して死相があらわれていた。
浴衣をつかんで強くゆすってみると、反応はなく、首が枕《まくら》のむこう側にがくんと倒れた。躯《からだ》はまだあたたかい。文は夫の胸に耳を押しつけて鼓動を聞きとろうとした。心臓の音は聞こえず、無音となった肉体がゴロンと横たわっているばかりだった。脈も止まっていた。半開きになった龍之介の口もとから唾液《だえき》が流れ落ちてきた。
夫が眠りについたのは四時間前の深夜二時であった。文は也寸志を寝かしつけて蚊帳のなかでうとうととしていた。文は夫が伯母のふきと話をしているのをうっすらと憶《おぼ》えている。それから夫はいつものように睡眠薬を飲んで眠った。
文ははっきりと(いよいよ、このときがきた)と観念した。夫は前々より死にたい死にたいとくり返しており、三カ月前には文の友人平松|麻素子《ますこ》と心中しようとして未遂に終っていた。
文は蚊帳から這《は》い出て伯母ふきをおこしにいった。
ふきは龍之介にしがみついて、頬《ほお》を何度も叩《たた》いた。その音で也寸志が目を覚まして泣き出した。ふきは二階へ上って書生の葛巻義敏《くずまきよしとし》をおこしてから、外へ飛び出して下島医院へ走った。下島医師はふきに叩きおこされると、口をすすいでからただちに手術衣をひっかけ、注射の準備をして、鞄《かばん》と傘をひったくって龍之介の家へむかった。田端《たばた》の龍之介宅は小高い坂の上にあって、雨のため道がぬかるんで、何度も転びそうになった。家へ上がりこむと、蒲団《ふとん》の上に鶴のような、龍之介が横たわっていた。顔面|蒼白《そくはく》で、漂流物のようにもみえた。下島医師はかねてより死にたいと漏《も》らす龍之介をおしとどめてきた。それを無視して龍之介は自殺してしまった。下島医師は、素早くカンフル二筒を心臓部に注射して、聴診器を胸にあてたが音は聴こえなかった。もう一筒を注射してから、瞳孔《どうこう》を検《けみ》した。
すると浴衣の襟から、西洋封筒入りの手紙が落ちた。文は、「はっ」と叫んでその手紙をとった。
遺書であった。
下島医師は龍之介の命の回復が絶望であることを、そこにいる家族につげた。死の告知がすむと、下島医師は書生の葛巻に、「早く小穴隆一《おあなりゆういち》さんへ知らせたほうがいい」と言った。その前に文藝春秋へ電話をかけて菊池寛《きくちかん》に連絡をとった。菊池は雑誌「婦女界」の講演で水戸《みと》へ行っていた。
下島医師は医者の職務上、正確な死因を調べなければならない。睡眠薬のベロナアルとジャールは斎藤茂吉《さいとうもきち》が院長をつとめる斎藤医院の薬袋に入れられていた。それらの薬袋に記されている日数を計算してみても、とうてい致死量には達しない。下島医師は文夫人にそのことを伝えた。文夫人が「二階の机にいろいろな薬があります」と言うので上ってみると、そこに劇薬の袋が残されていた。まもなく警察官がきて龍之介の検死をはじめたが、下島医師は劇薬を隠し、警察官も見て見ぬふりをした。
小穴がよろよろと杖《つえ》をついてかけつけてきた。
小穴は龍之介が一番信頼していた画家である。小穴は、
「ついにやってしまいましたか」
とうわごとのように言いながら、F10号の画布を広げて龍之介の死顔を描きはじめた。これは生前の龍之介から依頼されていたことであった。長男の比呂志《ひろし》が近づいてきて「絵の具をつけるの、つけないの」と小穴に聞いた。比呂志は龍之介の顔を不思議そうにのぞきこんだ。八歳の比呂志はまだ父の死をよくのみこめないようであった。小穴は、つい二日前に龍之介から「自殺するから子どもを頼むよ」と言われていた。「自分が死んだら妻の文と結婚してくれ」とも言われていた。ここ二年間は、龍之介は会えば自殺の話ばかりするので、そういう言い方はいつものことだと思って軽くうけとめていた。
文は小穴の横に坐《すわ》って、じっと龍之介の顔をのぞきこんでいた。動転しているのだが、(いつかこの日が来る)と覚悟をしていたので、いま、おこっていることが仕組まれた筋書きのようにも思えた。絵筆を持つ小穴の指さきは小きざみに震え、涙がぼたぼたと畳の上に落ちた。
龍之介は中国浴衣を着ていた。六年前|上海《シヤンハイ》を旅行したときに買ってきた服で藍色《あいいろ》の龍紋が染めぬかれている。小穴は龍頭がついたステッキを龍之介の枕元に置いた。全身が龍となって天上へ飛びたつようにみえる。
裏門から伯父の道章《どうしよう》が駆けつけて、庭の敷石にけつまずいて倒れた。道章は龍之介の養父で、牛乳屋を営業している。道章は倒れたひょうしに下駄の鼻緒を切り、泥まみれの足で廊下に上がり、龍之介の躯を抱きしめておいおいと泣き出した。その横に伯母が放心したまま坐りこんで虚空をみつめていた。
久保田万太郎《くぼたまんたろう》が巨体をゆすって玄関へ入ってきた。色浅黒い万太郎は紬《つむぎ》の角通《かくどお》しの懐を鷹揚《おうよう》にふくらませて、手くびに菩提樹《ぼだいじゆ》の数珠《じゆず》をしている。万太郎はひとしきり龍之介の遺骸《いがい》に手をあわせていたが、下島医師がさしだす、「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」の句を見せられると、「うーん」と唸《うな》って目をつむり、「これは大正九年くらいの句ですな」と言った。
「ずっと昔に詠《よ》んだ句ですよ。詠んだときは句会で最高点の天をとった。剽軽《ひようきん》な句で芥川さんにしては肩に力が入っていないので評判がよかった。しかし、句の上に、自嘲とつけられると、俄然《がぜん》意味が重くなってきますな」
万太郎は「強情なお人でした」とつぶやいた。万太郎は龍之介より三歳上で、龍之介と同じく東京の下町育ちだ。ひかえめで折り目正しく、そのくせ強情な性格は二人とも似ている。
龍之介の姉のひさがよろけながら家へあがってきた。
ひさは獣医|葛巻義定《くずまきよしさだ》に嫁して義敏を生んだが離婚し、西川豊《にしかわゆたか》と再婚した。その西川が放火の嫌疑をかけられて鉄道自殺したのがこの年の一月六日であった。龍之介は義兄西川が残した多額の借金を返済するために奔走し、神経衰弱がいっそう悪化した。そのため自殺する昭和二年にはいつにもまして多くの原稿を書いた。
ひとえに西川の借金を返すためであった。
一月十九日に『玄鶴山房《げんかくさんぼう》』(「中央公論」二月号)脱稿、二月四日には『蜃気楼《しんきろう》』(「婦人公論」三月号)、二月十三日には『河童《かつぱ》』(「改造」三月号)を脱稿。
二月二十五日には新潮社『世界文学全集』刊行記念講座、二十八日には改造社『円本全集』(「現代日本文学全集」)の記念講演があり、講演会で得た千円(現在のおよそ二百万円)を姉のひさに渡している。それでも西川の借金には追いつかない。龍之介の原稿料は一枚五円(現在の一万円)であったから、千円は二百枚ぶんの原稿枚数となる。
三月に入ると『三つのなぜ』(「サンデー毎日」四月一日号)、シナリオ『誘惑』(「改造」四月号)、シナリオ『浅草公園』(「文藝春秋」四月号)、『歯車』第一章(「大調和」)、『たね子の憂鬱』(「新潮」五月号)を書きあげて疲れはて、精神科医の斎藤茂吉に、「右の目玉で透明な歯車が廻っている」と発狂の恐怖を訴えた。このへんから死を見つめていた。
そんななかで谷崎潤一郎と「改造」誌上で〈小説の筋《プロツト》論争〉を展開し、芥川は「文芸的な、余りに文芸的な」で反論するが、谷崎のほうが有利であった。四月四日に久保田万太郎句集『道芝』の序文を書き、その三日後に妻|文《ふみ》の友人平松|麻素子《ますこ》と心中をはかり、未遂に終った。四月十六日には菊池寛あての遺書を書いた。
五月六日からは、東京日日新聞で「大東京繁昌記・本所両国」の連載を開始し、「サンデー毎日」に『古千屋』を書いた。五月十三日からは改造社版『現代日本文学全集』の宣伝のため東北・北海道を廻った。芥川の頭のなかには、西川の借金返済のことしかない。
六月七日に『冬と手紙と』(「中央公論」七月号)を脱稿、六月十日には『三つの窓』(「改造」七月号)脱稿、六月二十日には遺書ともいうべき『或《ある》阿呆《あほう》の一生』を脱稿。六月には生前最後の創作集『湖南の扇』(文藝春秋社)が刊行された。
めちゃくちゃにいそがしい。七カ月のあいだ、執筆、講演旅行、座談会とスケジュールがめじろおしだった。
こんなことはいままでなかった。
遅筆の龍之介がよくもこれだけの量をこなしたものだと文もあきれるほどだった。そのあいだに義兄の鉄道自殺と自分の心中未遂が入りこんだ。五月の小樽《おたる》での講演には二十三歳の伊藤整《いとうせい》が聴きにきた。青森での講演には高校生の太宰治《だざいおさむ》が聴きにきた。会う人ごとに「死ぬ、死ぬ、いそがしすぎるので死んでしまう」と愚痴を言うので、心配した友人がたずねてきた。五月末には宇野浩二《うのこうじ》がひとあしさきに精神に異常をきたした。
「わたしが殺したようなものです。お金のことばかり頼んだから」
と姉のひさが、泣きながら、文夫人の膝《ひざ》に顔をうずめた。
「そんなことはありませんよ」
と文夫人はひさの肩を抱いた。
鎌倉から久米正雄《くめまさお》と佐佐木茂索《ささきもさく》が駆けつけた。久米は龍之介の遺体の前に坐って言葉もなく、ただうなだれるばかりであった。ややあって、久米は長男の比呂志にむかっておごそかに、
「きみの父は闘いに勝ったのです」
と言った。久米が、
「小説家は死して自分に勝つのです。きみが大人になればわかる」
とつづけると、万太郎は、そっぽをむいて(なにを気取ってやがる……)という顔をした。
万太郎は、子を残して死んだ芥川に腹をたてていた。それを下島医師はじっとみている。久米は芥川、菊池とともに帝大文科の同級で「新思潮」でデビューをしたはなやかな作家であった。久米は自他ともに芥川の代理人であることを自負している。久米の父は、久米が八歳のときに割腹自殺をとげた。久米はそれを小説『父の死』に仕上げて文壇にデビューした。久米の頭には、龍之介と自分の父の死が重なっていた。長男の比呂志の名は、菊池寛の寛《ひろし》からとったもので、比呂志も八歳だ。久米は比呂志に昔の自分の姿をみつめていた。
万太郎は、「三田文学」の出身で、久米とは大正八年の国民文芸会で知りあった。小説を書いているがどうもうまくいかない。龍之介とは大正十四年刊行の『鏡花《きようか》全集』で親しくなった。『鏡花全集』の編集委員は、芥川、万太郎、谷崎潤一郎、小山内薫《おさないかおる》、里見ク《さとみとん》、水上滝太郎《みなかみたきたろう》の六人であった。
万太郎は龍之介に嫉妬《しつと》心を抱いていた。
それはあまりに龍之介ばかりが世間でもてはやされるからであった。龍之介は銀幕俳優のような人気があり、鋭い物言わぬ一瞥《いちべつ》はたちまち女性ファンをとりこにした。喫茶店で龍之介をみた宇野千代《うのちよ》が、感激のあまり腰を抜かしてしまったという話が伝わっていた。芥川龍之介という名は、小説を読まぬ女性でも知っており、文名が霞《かすみ》のようにゆらりと立ち昇っていた。
それに比して万太郎は狸《たぬき》のような醜い肉体をさらして生きていた。酒におぼれて、放漫なでたらめな、しめくくりのない日々を過ごしている万太郎は、到底、龍之介にはかなわない。俳句では勝てると自負しながらも、「龍之介はかっこうのつけすぎだ」と思っていた。いの一番に芥川邸へかけつけたのは、家が近いということもあったが、(芥川の死顔を一番早くみたい)という興味もあった。風貌《ふうぼう》でも人格でも生活でも作品でも自分をしのぐ龍之介が壊れてしまった姿を見届けたいのだった。それなのに、龍之介の遺骸を前にすると、底意地の悪い興味はたちまち消えてしまって、昇華した魂ばかりが目に入るのであった。
龍之介は死んで、生前の輝きをいっそう高めている。
(まるでかなわない)と万太郎は溜《た》め息《いき》をつき、(つまりこの人は敗北するのがいやで死んだのだ。東京っ子の見栄《みえ》っぱりさ)と考えつつ、ぼたりと熱い涙を畳の上に落とした。万太郎は、龍之介の句では「木がらしや東京の日のありどころ」が一番すぐれていると思っている。「水洟や……」は軽妙な句だがゆったりとした風格がなかった。しかし、「自嘲」として発表されると、稲妻のように斬《き》りつけてくる殺気があった。
(これが龍之介の力なのだ。自分など勝てるはずがない……)
万太郎はくりかえしそう思った。
葛巻が、
「こんなものが机の中にありました」
と、一通の手紙と原稿の入った封書を久米にさし出した。その手紙は、龍之介の遺書『或旧友へ送る手記』で、原稿は『或阿呆の一生』であった。
[#ここから2字下げ]
僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思っている。君はこの原稿の中に出て来る大抵《たいてい》の人物を知っているだろう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰いたいと思っている。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしている。しかし不思議にも後悔していない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持ったものたちを如何にも気の毒に感じている。ではさようなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的[#「意識的」に傍点]には自己弁護をしなかったつもりだ。
最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知っていると思うからだ。(都会人と云う僕の皮を剥《は》ぎさえすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑ってくれ給え。
昭和二年六月二十日 [#地付き]芥川龍之介
久米正雄君
[#地付き](『或阿呆の一生』巻頭)
[#ここで字下げ終わり]
久米はこの原稿を一読してから佐佐木茂索に渡した。久米あての遺書は、かなり長いもので、
「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであろう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思っている」
とはじまっていた。龍之介はここ二年間死のことばかり考えつづけ、「僕の今住んでいるのは氷のように透《す》み渡った、病的な神経の世界である」と告白していた。自殺の動機は「唯《ただ》ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と記されていた。
久米は一読してから、こちらのほうは自分の懐へしまった。
丸眼鏡の奥で、久米のどんぐり眼《まなこ》が虚空をみつめて震えている。久米は、(この人は、最後まで死と遊んでいた。死は龍之介の拳玉《けんだま》みたいなものだった。やっと玉がすぽっと収まったのだ)と考えていた。久米が大きな溜め息をつくと、
「ここのところ、芥川さんはずっと死にたがっていましたからな、……」
と下島医師がうなずき、小穴は、
「覚悟していても、死なれて、こんな悲しみのなかで絵筆をとるとは思わなかった」
と絶句した。小穴は龍之介の死顔を描き終ると、憔悴《しようすい》しきって柱にもたれかかった。
雨はいっこうに止む気配はない。
庭の楓《かえで》にうちつける雨が、風に舞って縁側に吹きつけてきた。庭石にも雨がたまり、庭土は泥のぬかるみになっている。夏の朝に、なまぬるい雨が降りつける。龍之介の枕元に置かれた線香が一本の線となってまっすぐに立ちのぼっていた。
文夫人は、龍之介が横たわる床のなかに手を入れてみた。龍之介が失禁しているかどうかが気になったのだ。幸い、龍之介の股下《またした》は湿っていなかった。
玄関に三人の客があった。
水上滝太郎が小村雪岱《こむらせつたい》、泉鏡花《いずみきようか》と連れだって上ってきた。水上はただ頭を下げて唇を噛《か》みしめている。遺骸は一階の奥の間に安置されていた。龍之介の顔にはうす痘痕《いも》が並んでおり、長いあごに針先のような鬚《ひげ》が生えていた。蝋《ろう》のように閉じた瞼《まぶた》ははるかな闇《やみ》のなかを浮遊している。それはやがて赴くべき寂光土《じやつこうど》をじっと夢みているように思われた。
鏡花は黒の憲法小紋《けんぽうこもん》の肩をそばだてて、せっかちに焼香をすますとすぐに玄関に戻った。このとき鏡花は五十五歳だった、死人がなにより嫌いで、黴菌《ばいきん》恐怖症である。鏡花は、咳《せき》こんで、
「わたしはこれにて失礼いたします」
と言い残すと待たしてあった人力車に乗り込もうとした。そのあいだ、
「これはきっと夢じゃないかね、悪夢です。どうぞ夢であってくれればいい」
とつぶやいて、手で額を打ちつけている。額を打てば夢がさめると信じているのだった。久米は鏡花に対して深々と礼をした。葬儀で先輩総代として弔辞を読むのは鏡花をおいてほかにない。久米と目があった鏡花は、「これは夢ではないか」と、また言った。
「夢であればまことに嬉《うれ》しいのですが龍之介は自害しました。夢でなければ葬儀のお言葉を賜わりたく存じます」
久米が遠慮がちに言うと、鏡花は、
「宿題ですな、弔辞の」
と念を押した。
「芥川君は並いる小説家に宿題を残したのです。自分をどう惜しんでくれるか、ためしています。わがままな人ですな」
そう言い残すと鏡花はそそくさと立ち去った。
鏡花と入れかわりに黒塗りの人力車が到着して、改造社社長の山本|実彦《さねひこ》が邸へ入った。野上豊一郎《のがみとよいちろう》、弥生子《やえこ》夫妻もかけつけた。
小島政二郎《こじままさじろう》は泣きながら玄関へたどりつき、座敷の隅にうずくまって、ぴたりと畳にひれ伏したまま慟哭《どうこく》している。小島は、龍之介より二歳下で、なにからなにまで龍之介に従っていた。鈴木三重吉《すずきみえきち》の妹みつ子と結婚するときは龍之介に仲人をしてもらった。関東大震災のときは妻ともども龍之介の家に厄介になった。
小島は二階の書斎へ上った。
そこは昨夜まで龍之介が執筆していた部屋で、机の上には読みかけの本や読み捨てた手紙が雑然とちらばっていた。インキの瓶にはペンがささったままであった。その横に斎藤病院の薬袋がおかれていた。小島は万太郎と目をあわせてからぷいと横をむいた。小島もまた東京っ子で、下谷《したや》の呉服店の倅《せがれ》で道楽者だが、どうも万太郎とは反《そ》りがあわない。小島も俳句を詠む。小島も「三田文学」の出身で、万太郎は五年ほど先輩にあたる。小島は、万太郎が先輩風をふかすのが気にくわなかった。なにかにつけて荷風《かふう》先生を持ち出すのも気にさわるのだ。
万太郎は万太郎で、小島が自分を嫌っていることに気がついている。小島が、あからさまに嫌な顔をしたのを野上弥生子が見ていた。弥生子は、場をとりつくろうように、小島へむけて、「先生の死顔は荘厳ですね。安心と満足が安らかなお顔に浮かんでいますわ」と語りかけた。小島は黙ってうなずいた。
万太郎は、「まったく」と感に堪《た》えられぬ声を出して、
「首つりじゃなくてよかったですな。芥川さんは美しく死ななければならない」と言った。
「明晰《めいせき》な頭脳に恵まれた方は虚弱な肉体しか与えられないのでしょうか」
弥生子は万太郎に語りかけた。万太郎が急に黙りこんだので、弥生子は(しまった、言わなければよかった)と口をおさえこみ、それを見ていた小島が唇をゆがめて笑った。
弥生子は、三カ月前に龍之介から「自殺すれば本が売れるかね」と相談された。そのとき「そりゃあ売れますよ。でも、自殺に関する小説を書いてから死なないとね」と答えた。すると、「やっぱりそうか」と龍之介はうなずいて愉快そうな笑顔を浮かべた。まさか本当に自殺するとは思わず、そう答えたのだが、こうなってみると弥生子は、龍之介の死顔に、計画通り成就した者のやすらぎを見るのだった。
ようやく菊池寛が到着した。
菊池は転がるように家へ入りこむと、文夫人の肩を抱き、長い間、芥川の遺骸の前に坐っていた。丸々と太った菊池はひたすら泣き声をあげて躯をふるわすばかりであった。龍之介の顔は頬骨《ほおぼね》ばかりが目立ち、やせ細って皺《しわ》に囲まれた唇にも血の気はなくなっていた。瞼の下の窪《くぼ》みは波に洗われて海岸に落ちている貝殻を思わせた。それがうすぼんやりとした色を浮かべながら、いたずらに遠い所を見やっている。この年の二月、菊池はアルス社と裁判ざたをおこし、龍之介はその両者に関係していたため、泥仕合にまきこまれた。アルス社は北原白秋《きたはらはくしゆう》の弟鉄雄が経営していた。菊池は龍之介を裁判ざたにまきこんだことを申し訳なく思っていた。
久米は、龍之介から渡された自分への遺書を菊池にみせた。菊池は黙って読みはじめ、途中でううっと呻《うめ》き声をあげた。そこには、
「僕の家族たちは僕の死後には僕の遺産に手《た》よらなければならぬ。僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。僕は僕の自殺したために僕の家の売れないことを苦にした」
と書かれていた。
(龍之介の自殺を防ぐことができたのは金だ。薬でも女でもない)
と菊池は気がついた。アルス社との広告合戦で、菊池は五十万円の広告費を投じると豪語していた。
(せめてその百分の一でも龍之介へ支払ってやればよかったのだ……)
龍之介との長いつきあいで菊池はそのことを確信していた。久米への遺書の後半にはこう書かれていた。
「僕はゆうべ或売笑婦と一しょに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ『生きるために生きている』我々人間の哀れさを感じた。若《も》しみずから甘んじて永久の眠りにはいることが出来れば、我々自身のために幸福でないまでも平和であるには違いない」
(それほどに困っていたのか……)
菊池は拳《こぶし》を握りしめて慟哭した。
龍之介の義兄西川豊の負債は予想以上に多額であった。西川は弁護士を業としており、時価七千円の家屋に三万円の保険をかけていた。家が焼けたとき、放火嫌疑をかけられたのは二階押入の二カ所からアルコール瓶が発見されたためであった。西川は取調べに対して放火を否認し、「身の潔白をたてるため」と遺書を残して自殺した。龍之介はその経緯を小説『歯車』に書いている。菊池はこのところ一カ月以上、芥川に会っていなかった。「文藝春秋」の座談会で会ったときはアルス社との裁判で龍之介に迷惑をかけていたため、気がひけていた。いつもならば芥川と食事に出かけていたはずだ。
「これはきみ宛の遺書だ」と言って、久米はブルーの封筒を菊池へ渡した。菊池は、それをすぐ開いてみる気にはなれなかった。日附は四月十六日になっていた。平松麻素子と心中する日に書いたものであった。万世《まんせい》橋の瓢亭《ひようてい》で座談会があったとき、菊池が自動車に乗ろうとすると龍之介がチラリと菊池のほうを見た。その眼には異様な光があった。菊池は(ああ、僕と話がしたいのだな)と気づいたが、自動車が動き出したのでそのままになった。七月の初旬に龍之介は、二度も文藝春秋社へ訪ねてきた。二度とも菊池はいなかった。龍之介はただぼんやりと応接間に腰かけていたと聞かされた。そういった記憶が駆けめぐった。
(龍之介は、私に頼みたかったのだ。なぜ、それに気がつかなかったのか……)
菊池は黒紋付の襦袢《じゆばん》の袖《そで》で水洟をぬぐった。「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」と書かれた短冊が、遺骸の前に置かれている。龍之介のやせ細った遺骸は、鼻の先だけが、なにか最後の叫びをあげているように見えた。龍之介とはあまりに親しすぎたため、かえって邪険《じやけん》にしたいと思うときがあった。龍之介は菊池に会うたびに、「小説を書け」とすすめた。菊池は「いや商売が優先だ」と言い返すのだが、そういった龍之介の一本気な純情にいらだつこともあった。
芥川邸は庭ごと雨に閉じこめられている。
菊池の眼には、木の葉や庭石に打ちつける雨が、ここに集まる人々の悲しみを洗い流すように思われた。霊魂が昇天するときは、雨が死者の無念を洗うという。庭に水たまりができ、そこにわずかに光が宿っていた。
菊池が焼香していると、玄関から室生犀星《むろうさいせい》が駆けあがってきた。
「軽井沢からいま来ました」
犀星の着物は雨でびしょぬれだった。犀星はひどくつかれており、文夫人に目礼してから、芥川の遺骸の前に坐り、
「美しい死体です」
とだけつぶやいた。犀星は無愛想な顔を崩さず誰の顔も見ないように上眼ばかりをつかい、樋《とい》から落ちてくる雨垂れをみつめている。芥川の遺骸は、犀星に無言の問いかけをしている。龍之介の霊魂は水洟をたらしたまま、雨の天空を漂っているのかもしれず、犀星はどう問いかけていいのかわからない。目前に流木のように屍体《したい》が横たわり、それは生きているときは、ぴかぴかに輝いていた。死ねばただの物体である。犀星はそこに自分の行くすえを見ていた。
里見クが到着した。里見は、外に自動車を待たせており、すたすたと玄関から上ると、久米や万太郎と視線をあわさず、ぼうっと虚空をながめて、
「死にゃいいってもんではありませんや」
と捨《す》て台詞《ぜりふ》のように言った。
「残されたほうがずっとつらい」
里見は有島武郎《ありしまたけお》の弟である。有島武郎が情死したのは四年前の六月九日であった。有島の遺骸がみつかったのは七月に入ってからで葬儀は七月九日であった。有島に死なれた里見は、遺族のつらさを知っている。
斎藤茂吉がぬっと入ってきて、下島医師に話しかけた。下島医師は、果たして自分は医師として万全をつくしたろうかという反省と不安があり、茂吉に臨終の様子を報告しながら、自らを励まそうとした。茂吉は慈愛あふれる目で下島医師を見つめ、肩を叩いた。いままで泣くことをひかえていた下島医師の目に、たちまち涙があふれた。茂吉はかがみこんで龍之介の頬をさすり、胸に手を入れて何度もさすり、ゆっくりと焼香した。茂吉には、何人もの患者の死を見とってきた諦観《ていかん》があった。
小穴は自分に渡された遺書を読んでいた。そこには、
「私の死後、どうか妻の文と再婚してくれ給え。三人の子の父となっていただきたい。妻文への遺書は二つ書いた。二つめの遺書では、文へも君との再婚をすすめている。子らへの遺書へも、きみを父と思え、と書きおいたので」
とあった。
(……勝手な男だ)
と小穴は髪の毛をかきむしった。
龍之介の遺骸の前に、茂吉が短冊をさし出した。そこには、
悼芥川氏一首
[#この行2字下げ]むしあつくふけわたりたるさ夜なかのねむりにつぎし死《シニ》をおもはむ
と記されていた。万太郎が、かがみこむようにして、その歌を読んでいた。
新聞記者がかけつけてきた。取材を求める声が多く、広くない龍之介の家へは入りきれなかった。菊池の配慮で、芥川邸近くにある貸席「竹むら」で、夜の九時から会見をすることにした。
久米に託された遺書『或旧友へ送る手記』を発表するかどうかで意見がわかれた。伯母芥川ふきや伯父道章、小穴は発表に反対した。龍之介が「この手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措《お》いてくれ給え」と書いているからであった。しかし久米は、「事件が事件だけに、女性問題や西川の借金の件で妙な憶測をされるおそれがあるから、むしろ発表したほうがよい」と主張した。久米は、龍之介の真意をぼんやりとよみとっていた。
(龍之介は文学的行きづまりを自殺のアリバイにしようとしている。この遺書を発表すれば、本が売れる。遺書は、公表するなと言いつつ、龍之介は読ませたくてしかたがないのだ。あいつの最後の大芝居だ。遺族には龍之介の真意がわからない)
と久米は確信した。激論になったが最後は文夫人が「久米さんにおまかせします」と言って、発表することになった。
夜九時に、貸席「竹むら」には、菊池寛、佐佐木茂索、久保田万太郎、南部修太郎、小穴隆一、下島勲、改造社の山本実彦、新潮社の中根駒十郎らが立ち会い、久米正雄が各新聞社の記者へ『或旧友へ送る手記』を発表した。久米は、くぐもった低い声で、一語一語を区切るように朗読した。記者はペンを走らせて、久米が読みあげる遺書を書きとった。
それが終ると、カメラマンが「原稿を撮影させてくれ」と注文した。立会人は迷ったが、久米が、「どうせ発表してしまったものだから、かまわぬだろう」と許可した。各社のカメラマンが順番に半ペラ原稿用紙十八枚を撮影し、ひきあげていった。終ってみると、十四枚目と十五枚目の二枚が紛失していた。
撮影のときどこかの社のカメラマンが盗んだのであった。久米はさっと蒼《あお》ざめた。原稿を盗まれたことを知った伯母の芥川ふきは、
「ですから発表をやめろといったのです。どうする気ですか」
と久米につめよった。
困りはてた久米は、各新聞社あてに「盗んだ人はどんな方法でもよいから返却してほしい」と切々たる回状を出した。
龍之介の葬儀は、七月二十七日、午後三時から谷中《やなか》斎場で行われた。この日は朝から晴れわたっていた。谷中斎場には文壇関係者七百数十名をふくめ総計千五百人が参列した。新聞に掲載された龍之介の遺書は各方面へ衝撃を与えていた。
死んですぐ葬儀とならなかったのは、二十五日、二十六日と二日の通夜があったためであった。酷暑のなか、ドライアイスもない時代なので、花や香水で異臭を消すのに苦労をした。芥川家、貸席「竹むら」のほか香取、関根両邸を借りた。
葬儀仕切りは久米と佐佐木茂索がつとめた。斎場入口左手前に改造社社長の山本実彦、左奥に中央公論社主筆の嶋中雄作《しまなかゆうさく》、右手前に新潮社の中根駒十郎が自社の編集部員をひきつれて客の応対をしていた。
久米は葬儀準備をしながらも、やりきれぬ思いでいっぱいだった。龍之介の遺影に手をあわせて、(遺書が戻りますように)と祈るばかりであった。
斎場へははやばやと漱石《そうせき》夫人がきた。堀辰雄《ほりたつお》、窪川鶴次郎《くぼかわつるじろう》と連れだってきた化粧の濃い女は、二十四歳の佐多稲子《さたいねこ》だった。このとき佐多は浅草のカフェで女給をしていた。それ以前は池之端《いけのはた》の料理屋清凌亭で座敷女中をしており、十七歳のときに客としてやってきた龍之介に会った。佐多はそのとき龍之介の顔を知っていて、それをおもしろがられた。それ以後、龍之介は、菊池、久米、宇野浩二、小島政二郎らと連れだって清凌亭へ来ていた。佐多は、(まさか、ねえ)と窪川に言った。龍之介が自殺する三日前の七月二十一日、佐多は、堀、窪川とともに龍之介の家を訪ねた。佐多は二年前に自殺未遂をおこしていた。それを知っている龍之介は、佐多にサイダーをつぎながら、
「死に損なうのは恥ずかしいだろう」
と話しかけてきた。龍之介も心中未遂をおこしたばかりだ。しかし龍之介の心中未遂はすぐ発覚して、現場へかけつけた妻文の手当てですぐに生き返ってしまった。そのとき、佐多は、龍之介のひどい変りように衝撃をうけた。酒を飲んでいないのに酔っているように言葉が乱れる龍之介は刃こぼれした刀のように見えた。サイダーをつぐ手が神経質に慄《ふる》えており、つぎながら、
「あなた、自殺をし損じた人の顔ですねえ」
と言われた。そう言われたとき、佐多は龍之介の冷笑を感じて背筋を寒くした。いま思いかえせば龍之介は(自殺する意志を確認しようとしていたのだ。あの冷笑は死へ片足をかけた人間の挨拶《あいさつ》のようなものだったろう。同病者の憐憫《れんびん》だ)と佐多は思うのだった。
化粧の濃い佐多を参列者の奥からじっとみすえる女がいた。色黒の肌で、目がすすきのように細い女だった。唇は湿って、周囲を挑発する気配がある。瞳《ひとみ》は乾き、目尻《めじり》の皺が深い。
秀しげ子であった。
龍之介が人妻の秀しげ子と恋におちいったのは八年前、二十八歳のときであった。岩野泡鳴《いわのほうめい》主宰の十日会にあらわれたしげ子を、龍之介は最初「愁人《しゆうじん》」と呼んだ。しげ子は次第に執念ぶかい本性をあらわし、龍之介を脅迫するようになった。しげ子は自分が生んだ子の父親が、夫ではなく龍之介だといいはっていた。龍之介は『歯車』のなかで、しげ子を「復讐《ふくしゆう》の神」と呼ぶようにまでなっていた。しげ子が斎場へ姿を現したのは、(龍之介に抱かれた女……)という自信があるからだった。しげ子がうつむいて目を伏せると男をひきよせる妖気《ようき》があった。しげ子は斎場に集った女たちを、(このなかで龍之介に抱かれた女は何人いるかしら)と見渡した。化粧の濃い佐多をみて、しげ子は一瞬(龍之介の女か)と疑った。
しげ子は、自分が嫌われていることを龍之介の著作で知っていた。それでも、しげ子は(これほど私が芥川を苦しめているとは知らなかった。それも愛のなせること)と自信をふかめている。龍之介はひどくしげ子を嫌ってしまったけれども、しげ子にとっては龍之介ひとりがいとおしい男であった。しげ子は龍之介に抱かれたときの煙草くさい体臭を思い出していた。
三人の老女が受付で参列者に挨拶をしていた。
龍之介には四人の母がおり、実母の新原《にいはら》ふくは死んで、あとの三人の母であった。ふくの亡きあと実父の後妻となった義母の新原ふゆ、養母の芥川とも、実母ふくの姉で、一生独身を通して、事実上龍之介の母代りをつとめた芥川ふき。実母のふくは、龍之介の生後数カ月目に発狂し、龍之介は子のなかった芥川家へひきとられたのだった。
龍之介は伯母のふきを愛していた。ふきは、全身の力が抜け、一気にふけこんで幽鬼のようにゆらりと立つのが精いっぱいだ。ふきの目に一瞬憎しみが走った。
しげ子の姿をみつけたからである。
ふきは歩きながら、
「あんたなんか、ここへ来られる資格がないんだ。とっととお帰りよ。龍之介に代って追い返してやる」
といきまいた。早口で呂律《ろれつ》がまわらないため、なにを言っているのかよくわからない。ふきは塩が入った小袋を持って、よろけながらしげ子の前にまきにいった。塩をまかれたしげ子は、
「あら、伯母さま」
とふり返ってから、
「うちの長男も比呂志さんと同じ小学校なんですのよ。顔がそっくりなの」
と言った。それから(なによこの女)と思いつつ目をそらした。
そらした視線のさきに松村みね子がいた。佐佐木信綱《ささきのぶつな》門下の歌人で、アイルランド文学翻訳家であった。みね子は、(これが噂《うわさ》の女《おんな》河童《かつぱ》か)という視線でしげ子を見下ろした。みね子は龍之介の新しい恋人で龍之介は「才力の上にも格闘ができる女がいた」と胸をときめかしていた。
みね子は黒髷《くろまげ》を固く後方に束ねて、涼しく理智的な瞳でうす笑いを浮かべた。額が青白く光り、磁器のような肌だ。首が細く、手首も細い。一見したところ男を誘う女といった気配はみられない。色気を封印しようとしているが、一度その仮面をはがしてしまえば激しく波うつ女の肉体がある。瞳の奥で青白い炎がちろちろと燃え、それをかたくなな意志でかくしているようだった。
「あなたがあの秀しげ子さんですか」
みね子は頬をひきつらせ小さく言った。
「あなたのような方がきたのでは芥川さんの霊は浮かばれませんわ。早くお帰りになればいいのに」
「なにをおっしゃるのよ。あなたは片山貞次郎の未亡人でしょう。何回龍さんに抱かれてたのよ」
しげ子もせいいっぱい毒づいた。
堀辰雄が近づいてきて、みね子に会釈をした。辰雄は三年後にみね子をモデルにした小説『聖家族』を書くことになる。芥川ふきは、みね子のこともうさんくさそうに睨《にら》んでいたが、龍之介はすでに死んでいるので毒づくことはやめた。
斎場に柳原白蓮《やなぎはらびやくれん》があらわれたとき、参列者の男たちはいっせいにふりむいた。白蓮はすでに四十三歳になっているが、喪服に身を包んだ容姿は錦絵《にしきえ》のように美しい。鼻筋がすっと通り、一輪の蓮の花が咲いているようであった。白蓮は柳原伯爵家の令嬢として生まれ、九州炭鉱王伊藤伝右衛門に嫁して「筑紫《つくし》の女王」と呼ばれたが、大正十年、社会運動家|宮崎龍介《みやざきりゆうすけ》とかけ落ちしていた。
白蓮の横に平松麻素子が申しわけなさそうに立っていた。麻素子は小柄な躯をすくめて白蓮の後ろに隠れた。麻素子は三カ月前に龍之介と自殺未遂をしたばかりだった。眉《まゆ》が薄く、ビーダマのような瞳をしている。夢みる娘がそのまま成長した気配があり、か弱い躯の芯に無鉄砲な一途《いちず》さを秘めていた。
「みんながあなたを見てるけど気にしなくていいのよ」
と白蓮は麻素子に言った。
「悪いのはあなたじゃないんだから。すべて芥川さんが仕かけてきたことだもの」
この年の四月七日、龍之介は、二重廻《にじゆうまわ》しをつけて家を出るとき、妻の文に「さようなら」と言った。この日、龍之介は麻素子と、帝国ホテルで心中する約束をしていたのだった。麻素子はもともと文夫人の同級生で、文夫人が龍之介に紹介したのが交際のはじまりだ。帝国ホテルは、麻素子の父の友人が支配人をしていた。芥川はその縁で帝国ホテルを仕事場に使っていた。芥川の挙動に不審なものを感じた文夫人は、小穴と甥をつれて帝国ホテルへ出かけ、龍之介の部屋をノックした。なかから「お入り」という声がして入ると、龍之介はびっくりして三人をみつめた。龍之介はこの日、心中をする約束で麻素子を待っていたのだった。龍之介はあとで文夫人にこっぴどく叱《しか》られた。
白蓮は麻素子を妹のようにかわいがっていた。麻素子が龍之介に心中を迫られていると聞くと、帝国ホテルへ出かけて「心中をとどまるよう」説得したのだった。そのとき、龍之介は「どうしても死ぬ」といってきかなかった。激しい言いあいになり、そのあげく白蓮は「死ぬなら一人で死になさい」と言って泣き出してしまった。すると、それまで深刻だった龍之介は急に上機嫌になって、「あなたのように正直な人はみたことがない」と言い翌日三人で星ヶ岡茶寮へ食事に行った。
麻素子は「私、文さんに謝りたいの」と言った。「私にだって言い分はあるんです。それを文さんに言いにきたのよ」
麻素子は涙を流していた。泣いている麻素子の横を、黒服に身を包んだ谷崎潤一郎が通りすぎていった。徳田秋声《とくだしゆうせい》と佐藤春夫《さとうはるお》がひそひそ話をしている。|内田百閨n《うちだひやつけん》が巨体をちぢこまらせて並んでいた。背をすっくとのばして剣豪のような殺気を秘めているのは志賀直哉《しがなおや》だった。一高時代の親友|恒藤恭《つねとうきよう》が憮然《ぶぜん》として立ちつくしていた。葬式とはいえ、壮大な園遊会を思わせた。北村透谷《きたむらとうこく》のときも、有島武郎のときもこれほど多くの小説家、出版関係者が一堂に会したことはなかった。
葬儀導師は慈眼寺の篠原智光導師であった。所化《しよけ》の叩く銅鑼《どら》の音が響き、導師の誦経《じゆきよう》が終ってから弔辞となった。弔辞はまず先輩総代として泉鏡花が読んだ。小柄な鏡花は、マイクロフォンの前に立ち、遺影に礼をしてから、懐に入れていた弔辞をとり出した。
久米は黒紋付に仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》をはいた鏡花の背中をじっとみつめていた。弔辞のことを鏡花は「宿題を出されたようだ」と言っていた。鏡花はかん高い声で弔辞を読みあげた。
玲瓏《れいろう》、明透《めいてつ》、その文《ぶん》、その質《しつ》、名玉山海《めいぎよくさんかい》を照らせる君よ。溽暑蒸濁《じよくしよじようだく》の夏を背《そむ》きて、冷々然《れいれいぜん》として独《ひと》り涼《すず》しく逝《ゆ》きたまいぬ。倏忽《たちまち》にして巨星天《きよせいてん》に在《あ》り。光を翰林《かんりん》に曳《ひ》きて永久《とこしなえ》に消えず。然《しか》りとは雖《いえど》も、生前《せいぜん》手をとりて親しかりし時だに、その容《かたち》を見るに飽《あ》かず、その声を聞くをたらずとせし、われら、君なき今を奈何《いかん》せん。おもい秋深く、露は涙の如《ごと》し。月を見て、面影《おもかげ》に代《か》ゆべくは、誰《たれ》かまた哀別離苦《あいべつりく》を言《い》うものぞ。高き霊《れい》よ、須臾《しばらく》の間《あいだ》も還《かえ》れ、地に。君にあこがるるもの、愛らしく賢《かしこ》き遺児《いじ》たちと、温優貞淑《おんゆうていしゆく》なる令夫人《れいふじん》とのみにあらざるなり。
辞《ことば》つたなきを羞《は》じつつ、謹《つつしん》で微衷《びちゆう》をのぶ。
鏡花は一語一語をかみしめるように読みあげ、弔辞の紙を祭壇の前にうやうやしく捧《ささ》げた。眼鏡がキラリと光った。居並ぶ客はしんとして、咳ひとつたてない。
つづいて菊池寛が「友人総代」として弔辞を読みあげた。菊池は、
「芥川龍之介君よ」
と呼びかけたところで涙があふれてつぎの言葉がでない。丸顔をくしゃくしゃにしたまま絶句した。弔文を持つ手がぶるぶると震えた。
「君が自ら択《えら》み自ら決したる死について我等何をかいわんや」
ここまで読みあげてまた言葉がつまった。久米正雄もたまらず泣いた。文夫人も泣いた。久保田万太郎も、小穴隆一も、ハンカチをぐじゃぐじゃにして泣いた。
「ただ、我等は君が死面《しにがお》に平和なる微光《びこう》の漂《ただよ》えるを見て甚《はなは》だ安心したり。友よ、安らかに眠れ! 君が夫人|賢《けん》なればよく遺児《いじ》を養《やしな》うに堪《た》うべく、我等|亦《また》微力を致して君が眠《ねむ》りのいやが上に安らかならん事を努むべし。ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみに粛條《しゆくじよう》たるを如何《いかん》せん」
菊池は一節読んでは咽《むせ》び、一節読んではつまり、ついに大声で号泣しつつ、ようやく弔辞を読み終えた。参会者の多くがもらい泣きをした。
菊池につづいて、文芸家協会を代表して里見クが、後輩を代表して小島政二郎が弔辞を読んだ。ひととおりの弔辞を聞き終ってから、窪川鶴次郎は、「私には、まるでわかりません。なんで芥川君が死んだのか、わけがわからない」と言った。
「ようするに見栄っぱりなんですよ」
と正宗白鳥《まさむねはくちよう》は答えた。白鳥は(龍之介のここ一年間の小説は衰頽《すいたい》していた。とくに「改造」で谷崎とやりあっている論争は龍之介が混乱している)と考えていた。
「見栄で自殺ができるのですか、あなた、本当に苦しんで死んだのではなく、見栄で死んだとは、これは、ますますわかりません」
「いや、それは私がそう思うだけでね」
「気どりすぎですよ。この人には悲しみがない。深い悲しみがない。ゆがんでいますよ。秀才の思いあがりです」
窪川がぶつぶつ言うのを聞きたくないので、白鳥はぷいと横をむいた。
(なにもそこまで言われる筋はない。むしろ、おまえはなに者なのだ。プロレタリア小僧が偉そうにぬかすな)と白鳥は思うのだ。
斎場には、長髪の芥川の遺影が飾られていた。
左手を顎《あご》にあてて三白眼が左を見ている。
鋭い眉、広い額、神経質な耳、理智的な鼻、意志の強い唇、それらひとつひとつが濃い陰影のなかでくっきりと浮かびあがっている。それは絵になる文士の顔であった。いまにも動き出しそうな写真であった。写真が呪文をとなえているようだった。
「芥川の小説は危うくつみあげた虚構のペシミズムです。作ったもののガラス細工で、がちゃんとわれればそれっきりです。ゆがんだ視線がある。それがこわれたのです」
窪川は呪《のろ》うように言った。
そう言いながらも窪川は(龍之介よなぜ死んだのだ。龍之介こそ史上有数の小説家であった。まことに貴重な才能であった)と悔んでいた。(自分は、自分のことを龍之介以上に嫌いなのだ。その人が死んでしまった)と悲しんでいるのだった。二十円の香典を包んできたのも、龍之介へのそういった思いがあったからだ。
窪川の三人前には谷崎潤一郎が並んでいた。
新聞記者が谷崎に質問をしていた。谷崎は新聞記者の視線をそらして、目を閉じて答えようとしない。斎場を包みこむように蝉《せみ》が鳴いている。祭壇にある龍之介の写真は、ほとんど面を背けずにはいられないほどの恥ずかしさを谷崎に抱かせた。新聞記者が聞きたいことはわかっている。谷崎は龍之介と論争をしていた。谷崎にしてみれば(いい喧嘩相手がみつかった)という思いで龍之介にいどみかかった。この年の三月、龍之介は大阪で谷崎の家に泊り、夜更けまで話しあった。もともと谷崎のほうが兄貴ぶんである。
(あのときの龍之介はひどく感傷的になっていた。家庭の内輪話までもちだしてきた。あげくのはて、自分は弱い人間だと言い、谷崎先輩のようなひとからうんと自分の悪いところをコキおろしてもらいたい、そう言って涙さえ流した。あのときはよっぽどどうかしていたんだ)と思い出した。しかし、そのときは、「改造」の『饒舌録』で龍之介に食ってかかっていたときであったから(そんな手にのるか)と谷崎はへそを曲げた。その翌日、ダンス場に行くためにタキシードに着換えるとき、龍之介はわざわざ立ってタキシードのワイシャツのボタンを嵌《は》めてくれた。(あのときの芥川はまるで色女のような親切さだった)と谷崎は思い出すのだ。谷崎は四十二歳である。
龍之介の遺影は白百合の花で囲まれていた。百合の香りが線香の煙にまぶされて息苦しいほどだ。汗がじっとりとシャツに沁《し》みこんできた。谷崎は三人後方に万太郎が並んでいることを知っていた。気にくわぬ相手だが目があったときは目礼をした。
谷崎のいらだちは新聞記者のしつこい質問にあった。しかたなく、
「いたましい人でした」
とだけ答えた。
「どこがですか」と訊《き》かれて、
「純粋の生一本のところがいたましい。もう少し図々しく生きて貰《もら》いたかった」
それだけ言うと、谷崎は手で、これ以上は話せないというしぐさをした。
新聞社のカメラマンがそこを撮影した。フラッシュがたかれると谷崎はソフト帽で自分の顔を隠そうとした。生の享楽家である谷崎にとって、龍之介の死はこのうえもなく呪うべき自然の威嚇《いかく》だという思いがある。自分を慕った龍之介を斬りすてた自責の念が谷崎の心をかすめたが、すぐにそれはいいようのない不快となった。谷崎はイコジな性格で、龍之介の親切には感謝しても、いやしくも論争の最中に泣きつかれるのが気に食わず、ツムジをまげて、『饒舌録』ではさらに食ってかかった。(死ぬとわかっていればもっと別の対応もあったが、まさかこうなるとは……)と谷崎は悔いていた。
その悔いている自分がいらだたしく、谷崎は口をへの字に曲げて、扇子《せんす》でパタパタと顔をあおいだ。
谷崎の前には佐藤春夫《さとうはるお》がいて、記者の質問に、
「あの人は失敗作が書けない人です。それが死に急いだ一因でしょう」
と答えていた。谷崎が千代子夫人譲渡問題がもつれて佐藤と義絶したのは六年前のことであった。まだ和解していない。谷崎は(佐藤がなにを偉そうなことを言いおって)とそっぽをむいた。
「芥川は私小説を嫌っていた人です。その人が、結局は私小説の軍門に下った」
佐藤がそう話をつづけると、佐藤の前にいた男が、ふりかえり、血走った目で、
「あんた。うるさいよ」
と言い返した。それはよれよれの背広を着た萩原朔太郎《はぎわらさくたろう》で、そう言ってからへへへと哄笑《こうしよう》をあげた。それは深い悲しみに包まれた慟哭であった。その顔はたちまち泣き顔となった。朔太郎は唇を噛んで低くうめいている。
「死者の前で死者を評するな」
と朔太郎は言った。
「そういう意味ではないよ。まあ、そう気を荒だてるな」
と佐藤は言いきかせた。
「われらは同じく売文の徒だ。霊魂を言葉に托し一枚いくらで売る身である。他人の定めはわが定めだろう。みな、月に吠えておるさ」
そう言われて、朔太郎ははじめて、その人が佐藤春夫であることに気がついたようだった。佐藤は三十六歳、朔太郎四十二歳である。朔太郎は龍之介に格別の思いがある。朔太郎の下宿が田端にあったころ、ある日突然長髪|痩躯《そうく》の龍之介が訪ねて、丁寧にお辞儀をしたものだ。また別の日の早朝、雑誌で朔太郎の「郷土望景詩」を読んだ龍之介が、寝巻のままおしかけてきた。龍之介は、やみがたい悲痛の感動が湧《わ》きあがり、興奮をおさえられず一直線に来たのだった。そのことを朔太郎は思い出していた。
「いや、佐藤先生とは気づかず失礼いたしました」
と朔太郎は頭をさげ、
「湯河原で静養中に芥川氏自殺の新聞記事を目にしていてもたってもいられなく、駆けつけたのです」
と言った。朔太郎は夢遊病者のようにうつろな目をしていた。後列にいた室生犀星が、朔太郎をみつけて、近寄ってきて肩を抱きよせた。犀星は後方にいる佐藤、谷崎に頭を下げ、
「こいつは私が保護しておきますから」
と言った。
この一言には佐藤も谷崎も、さらに後方にいる島崎藤村《しまざきとうそん》も微苦笑を浮かべた。龍之介の霊柩は祭壇に安置され、葬儀喪主の比呂志八歳が仏壇右側遺族座の右端に坐っていた。その横に黒紋付の文夫人がいた。友人席には泉鏡花、菊池寛、小島政二郎、里見クらが坐り、その横には徳富蘇峰《とくとみそほう》、徳田秋声、松岡譲《まつおかゆずる》、小穴隆一、日夏耿之介《ひなつこうのすけ》、夏目漱石夫人、小山内薫らが坐っていた。読経の声が低くくぐもり、参列客が万感の思いで焼香していった。
参列客はみな龍之介の自殺をうすうすと予感していた。四年前におきた関東大震災の被害は、まだ復旧されきっていない。だれもが、漠然とした不安をかかえて流されるまま生きているのであった。
文夫人は、焼香する客と目をあわせて、何度も礼をした。
龍之介の自殺を防ぐことができなかった悔恨で心を乱されるものの、それは遥《はる》か昔の記憶となって、あたかも前世の物語のように思われてきた。神田大明神へ願をたてて夫の安泰を祈ったこと、女学校時代の友人平松麻素子に頼んで疑似恋人としたのは、龍之介を他の恋人からひき離すための手だてであった。小穴に頼んで絵のうさばらし、あるいは菊池との旅での気ばらしと、一身を挙げて夫の介抱に没頭したという自覚はある。龍之介は、世間が思うほど女性にもてはしなかったことも、文夫人はよく解っていた。多感で、女に言いよられるとすぐ恋の罠《わな》に落ちた。しかし、龍之介の自殺は女が原因ではない、と、それだけは妻としての自信で言えるのだ。
会葬者のなかには、文夫人がはじめて会う著名な文士が多くいた。一人一人が、それぞれの思いで龍之介を悼んでいるのが、文夫人にはなにか他人事《ひとごと》のように思われた。下島医師に龍之介の死を告げられたとき、文夫人は「おとうさん、よかったね」とつぶやいた。そう言いながら、文夫人は(自分はなんと冷たい女だろう)と思ったものだ。文夫人は、龍之介が生きていく苦しみが、こういう形以外では解決し得ないことを知っていた。死ぬ前の一、二カ月は責め苦の連続であった。その苦痛が去り、安らかな眠りについた龍之介であった。
通夜と葬儀を通じて文夫人が気がついたことは、焼香する人々は龍之介の死を悼まずに、龍之介を失った自分を悼んでいるのであった。それは龍之介がどれだけ多くの友人のなかに棲《す》んでいたかということの証《あか》しであり、嘲《あざけ》ることではなく、むしろそういった世の実相を龍之介が教えてくれたように感じられる。
文夫人は、他のだれよりも龍之介を深く愛していたという自負があった。そのため、通夜や葬儀の席では失神してしまうのではないかという不安があった。龍之介の葬儀の様子は、死ぬ前から何度も夢にみて、うなされた。さしむけた平松麻素子とあわや本当に心中をおこされそうになったときは、危い一瞬だった。あそこで心中されたのでは文夫人の立つ瀬がなかった。同じ蚊帳のなかで、自分と息子の横で死んでくれたことに、文はほっとしている。ここで生きのびても、つぎは松村みね子と心中するかもしれず、そうなれば、さらにことは面倒になった。秀しげ子が、まことしやかに「龍之介は文夫人に毒殺された」という噂を流していることも聞いていた。「文夫人は龍之介を永遠に自分のものとするために、睡眠薬のなかに青酸カリを入れた」という作り話である。その話を小穴から知らされたときは、怒るというよりも、(なるほど、それはありうる話だ)と文夫人は納得したものだ。文夫人は、(どっちみち自殺する龍之介ならば、自宅でするよう手なずけた)という思いがあった。
秀しげ子、平松麻素子、松村みね子、といった女たちも、それぞれの思いで焼香していった。蝉があまりにうるさいので、ジーンと響く音が壮大な無音のようにも感じられた。
小穴が近づいてきて小声で、
「原稿が戻ってきました」
と言った。カメラマンによって盗まれた二枚の原稿が芥川宅へ郵送されてきた。その内容がまちがいなく盗まれたものであることを久米正雄が確認した。
(葬儀のとき自分はどうなるのだろう。そのときはさぞ悲しいはずだ)という予測は、こうして葬儀に出てみると、おどろくほど冷淡に澄みわたっているのだった。夫の遺書には「家族に気づかれないように巧みに自殺する」と書かれている。これを読めば秀しげ子が流した噂が根も葉もないことがわかる。しかし、それにしても、龍之介の自殺準備ぐらい家族にわかってしまう仕掛けはなく、それでもそう書く龍之介の幼児性がいとおしくてしかたがない。
文夫人は龍之介と、(どちらがさきに死んでもお互いの手紙は棺のなかに入れる)約束をしていた。それで龍之介の「へその緒」と一緒に、二人の手紙すべてを棺の中に入れた。葬儀が終ると、遺体は日暮里《につぽり》の火葬場で荼毘《だび》に付された。骨拾いの後、遺骨は染井|慈眼寺《じげんじ》に葬られた。墓石は、愛用の座ぶとんをかたどったもので、碑面には、龍之介の遺言により、小穴隆一の筆で「芥川龍之介墓」と刻印された。
[#改ページ]
りんごさくさく[#「りんごさくさく」はゴシック体]
しんしんと雪が降る。
庭さきの傾斜が雪の襞《ひだ》となり、その奥に見える林が白くけぶった。
詩人は、ラジオの音に耳を傾けながら、雪の匂いを嗅《か》いでいた。ラジオからはラッパの音が聞こえてくる。雪にまみれて冷えびえとした響きが電波にのって詩人の耳を刺激した。聞こえてくる歩兵第三連隊の歌は、詩人が作詞したものであった。詩人は白秋《はくしゆう》北原隆吉《きたはらりゆうきち》、という。
昭和十一年二月二十六日。
この日の早朝、皇道派青年将校が、首相官邸、内大臣私邸、東京朝日新聞を襲撃した。政府要人をつぎつぎと殺害し、永田町一帯を占拠して国家改造を要求している。
二・二六事件の発端であった。
雪ぐもりの障子が燃えつきて消えるようであった。
ときおり大陸軍の歌が響いてきた。これも白秋作の歌であった。白秋の歌詞が、吹雪にまぶされて、ラジオから流れてくる。
(燃えつきて消えるまぼろし……)
白秋は窓の外を見つめた。五日前には庭の白梅が咲いた。近くの雑木林の樹々も芽だち、庭の植木ごしに丘の斜面や盆地に青麦が縞目《しまめ》を作っていた。水田が青み、小川の音がのどかになった矢先の大雪であった。
机の上には、歌誌「多磨《たま》」の書きかけの原稿が置かれていた。
鈴木三重吉《すずきみえきち》を攻撃する雑稿である。
三重吉は、かつては盟友であった。酒を飲んだ三重吉にひどくからまれて大喧嘩《おおげんか》となり、それ以来会っていない。三重吉は漱石《そうせき》門下で、童話雑誌「赤い鳥」を主宰し、創刊当時は白秋も協力していた。
三重吉は「童話の王様」を自認し、白秋は「童謡の王様」を自認していた。王様どうしだから、喧嘩をすれば仲裁は難しい。
白秋は、反乱軍の将校を、
(自分とそっくりだ……)
と思った。
いままで、盟友や師と、いく度となく争いをくりかえしてきた。最初の反乱は父に対してであった。柳川《やながわ》で酒造業を営む父に反抗して家業をつがなかった。二番目は与謝野鉄幹《よさのてつかん》であった。鉄幹、晶子《あきこ》が主宰する「明星」に所属しながらも、鉄幹の自分本位の性格がしゃくにさわって反旗をひるがえし、脱退した。小田原へ越してきてからは、親しかった谷崎潤一郎《たにざきじゆんいちろう》と女がらみで衝突した。いずれも、白秋の激しい血のなせる結果であった。
鈴木三重吉の「赤い鳥」に参加したときはそのことが原因で木下杢太郎《きのしたもくたろう》と絶交した。杢太郎は「明星」の同人仲間で温厚な紳士であったが、白秋が童謡を書くことを「商業的だ」と注意したのが理由であった。杢太郎は白秋の詩を愛するあまり、白秋の力が童謡へ流れるのを惜しんだのであった。いかなる盟友であろうが、神経の癇にさわると一気に爆発してしまう。心臓の奥から怒涛《どとう》のように襲ってくる嵐であって、とめようとしてもとめられない白秋の血であった。
それが一年前からおさまりかけていた。一年前に鉄幹が死に、死ぬと、憎しみが逆流して哀惜の思いがつのった。愛《いと》おしいものを憎み、憎しみがまた愛に転化するのであった。
(反乱兵士も同じことだ)
白秋は瞑目《めいもく》した。
(激情は時間によって溶かされ、溶けたときはぬるい水だ。しかし、ここまで突っこんでしまえばひき返せない)
白秋の胸に死の思いがよどんでいる。
人の死は愛憎を水に流す。
白秋は鉄幹に育てられ、鉄幹の教師づらが嫌で反旗をひるがえした。白秋につづいて杢太郎も鉄幹から離れた。鉄幹に挑戦状を叩《たた》きつけたときは鉄幹のほうが権威であり、白秋は小僧ッ子だった。月日がたつと、鉄幹は力をおとし、白秋が権威になった。世間は口をきわめて鉄幹を短歌商売人と罵《ののし》った。白秋はそれが気にくわなかった。
一年前に歌誌「多磨」を創刊したのは、師鉄幹への追悼の思いがこめられていた。今度は白秋が教師づらをして受けて立つ番であった。「多磨」を創刊したとき、白秋は五十一歳であった。
白秋はかじかむ手で、反乱軍兵士の歌を書き始めた。
[#この行2字下げ]直《ただ》に射《う》つ銃をそろへてありしとき兵らいづくをかねらひさだめし
ペンを持つ指さきが寒さにこごえている。
(自分もいつか死ぬ)
という予感が、ラジオから流れてくる進軍ラッパの音に重なった。
書きかけの「多磨」編集雑記(雑纂《ざつさん》)にはつぎのような文章があった。
「私は『赤い鳥』と訣別《けつべつ》して約三年になるが、以来真正の私の児童自由詩の運動は、中絶した。その後の『赤い鳥』では散文家の鈴木三重吉君がその選に当っているが、ああも私の選とちがうものかと驚かれる。あれは謬《あやま》っているばかりでなくそれまでの自由詩を涜《けが》すものである。……」
白秋は、こごえる手をこすりながら、三重吉と口論した夜を思い出した。あの日も雪が降りつもっていた。三重吉の酒乱ぶりは漱石門下生のときからつとに有名で、酔うとだれかれなしにからんだ。相手の弱点をしつこく指摘する性格で、ついに門下生からも見放されていた。白秋は鷹揚《おうよう》に応対していたが、あまりの執念深さに堪忍袋の緒が切れて、原稿の束を投げつけて別れた。そのときの怒りは、いまだ記憶の底に焦げつき、くすぶっている。
その年の六月二十八日、「赤い鳥」編集部より「ミエキチシス」の電文が白秋のもとへ届いた。
二・二六事件反乱将校は投降し、民間関係者|北一輝《きたいつき》らも検挙された。戒厳令は解除されていない。陸軍軍法会議は反乱軍兵士裁判を審理中であった。
電文をうけとった白秋は、顔が蒼《あお》ざめ、悔恨がうねった。暗い光らぬ波涛《はとう》であった。
(また、友を失った……)
白秋は唇をふるわせた。敵対することが、三重吉との永遠の友情であった。つい先日、向かいに住む同郷の先輩杉森此馬が死に、通夜をすませたばかりだった。知人が一人死ぬたびに、(いつか自分の番がくる)という予感がよぎるのだった。
(死ぬ前になぜ和解しなかったのか)
という慚愧《ざんき》の念があった。
白秋はペンを執り、一気に追悼詩を書きつけた。
[#ここから2字下げ]
かぎりなき空の雲を
君飛ぶか天馳使《あまはせつかい》、
麗わしき星と闇《やみ》の
光・影、身に纏《まと》いて、
何瞻《なにまも》る手の燭《しよく》ぞ、眉《まゆ》も高く。
童《わらべ》らの夢なりしか、
騎士なりしか君。
風をいたみ、翼ある馬さばくと
駈《か》けぬくと、
ただありや天《あめ》の直路《ただじ》。
匂えよと
地《つち》の上に布《し》きためしもの
花・鳥・虫のかずかず
妖《あや》しきフェアリー、
あわれ未《まだ》し蹄《ひづめ》にはかぎろえども、君|翔《かけ》りて
しろがねの鞭《むち》・拍車《はくしや》、ああ幽《かす》かや、
早や虚《むな》し、杳《とお》く杳《とお》く響き消えぬ。
[#ここで字下げ終わり]
書き終えてから、「貴き騎士」と題をつけた。熱い涙がぼたぼたと原稿用紙の上に落ち、ブルーのインクが紫陽花《あじさい》のように染まった。
これでも物足りず「赤い鳥・小鳥」と題した追悼歌を書きはじめた。この童謡は成田為三《なりたためぞう》の作曲により広く歌われていた。その続編となるものであった。もとの歌は、
「赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実を食べた」
に始まっている。三重吉へは、
「赤い鳥、小鳥、どこ行《い》たお馬、月夜の雲に、とっとと消えた」
としたのだった。三重吉が馬を愛し、少年騎馬団を指導していたことを追憶した。白秋は言葉に霊が宿ると信じている。三重吉への思いが指さきに宿り、指がつぶやくように動き出すのであった。二つの詩を書いても、指は止まらなかった。白秋は、机にかがみこみ、
「鈴木君逝いてその分身赤い鳥も共に完成の円寂《えんじやく》を示した。痛惜の念に堪えない」
と書きすすめた。これは原稿用紙十七枚に及ぶ三重吉賞賛の辞で、最後に、
「鈴木君との訣別後はむしろ憎しみにさえ歯ぎしりを噛《か》んだ。三重吉亡き後私は、あらためて深甚の愛と感謝と痛惜とにさいなまれている。尊敬すべくして尊敬し合い、争うべくもなく争った。知る者は鈴木君、君と私だけであった」
と結んだ。
書き終ると、指さきに青インクが染《し》みていた。青インクのしみから、三重吉の記憶が閃光《せんこう》となって白秋の目を射た。白秋は眼に痛みを感じた。
玄関で、
「こら、白秋おやじ、出て来んかア」
と言う声がした。
秘書の宮柊二《みやしゆうじ》が、
「ガンジーです。酔っ払っています」
と報告した。
ガンジーとは、島田旭彦《しまだあきひこ》という白秋門下の歌人だった。色浅黒く、容貌《ようぼう》がガンジーに似ているので、この名がある。旭彦は白秋と同郷で、白秋と同じ五十二歳であった。いつもは内気でおとなしいのだが、酒が入ると人が変ったようによくしゃべるのだった。酔うと始末におえないが、古くよりの弟子だから、白秋門下生は一目おいていた。
「どうしたんだ」
と白秋は旭彦を睨《にら》みつけた。
「最近、あんたらはうちの店へなして来《こ》んとですか。歌人協会の後援会のあと来るというとったのに来んやった。『多磨』の懇談会のときも来んやった」
旭彦は一年前に千駄ヶ谷に「楽々」という広東《カントン》料理の店を出していた。長らくつとめていた深川区役所をやめ、その退職金をもとに店を開いたのだった。白秋は「そがん無謀なことばするな」と注意をしたが、旭彦はすでに店を借り、手付金をうち、中国人のコックも雇っていた。
「あんた、儲《もう》かれ楽々、永当永当富貴自在に冥加《みようが》あれ、と案内状に書いてくれたじゃなかですか。開店そうそうは来てくいたのに、なしてそんあと来んとですか。うちの料理がそがんまずかとですか」
白秋は、
(その通り、まずい)
と言おうとして、その言葉を呑《の》みこんだ。
「このままでは店ば閉めんといかんとよ」
旭彦は涙声になった。
「きみは客選びしすぎっとぞ。もっと愛想ようせんば客は来んぞ」
「あんたたち冷たかよ、よか客ばとれと言うたのは白秋おやじやろが」
「まあ、気をおちつかせて……」
と宮柊二が旭彦を坐《すわ》らせた。
「なんだ、おまえ。いつからおいにそがん口ばきけることになったとか、おめえいくつや」
旭彦は柊二にからみはじめた。柊二は二十五歳になったばかりだった。
「ガンジー、口ばつつしめ。いま戒厳令下ど。みんな、料理屋へ行く暇はなかとぞ。そいけん歌人協会の集まりもおいの自宅でやったとぞ」
「ちっ、謀反将校どものとばっちりばうけて商売あがったりたい。あいつらまとめて死刑たい」
旭彦はしどろもどろで言った。白秋の額に静脈がうきあがった。
白秋は立ちあがり、旭彦を叩こうとし、その手を必死でおさえた。全身がぶるぶると震えた。目を閉じて怒りをおさえると、瞼《まぶた》の裏に、旭彦との長い交友の記憶がよみがえり、怒りは少しずつおさまっていった。酔った相手を真にうけて憎み、絶交にいたったのは三重吉であった。旭彦は酒ぐせが悪い。酒がさめれば蚊のようにちぢこまって詫《わ》びにくるのがいつものことであった。白秋が怒らなくても、旭彦がそのことを一番わかっているのであった。
「ガンジー、金に困っとっとやろう」
白秋は妻の菊子を呼び、五十円を封筒に入れて旭彦に渡した。
「おやじは、あいかわらず金で解決しようとするとか……」
旭彦は封筒を胸にしまい、
「奥さんと柊二君はさがっとってくれ」
と真顔で言った。それから、懐から一冊の詩集を取り出した。
江口章子《えぐちあやこ》著『追分の心』であった。それを見ると、白秋の眼がうつろになった。章子は白秋が十六年前に捨てた妻であった。
「みんなさがっとってくれ。ガンジーと二人で話をするけん」
白秋はたてつづけに煙草の敷島《しきしま》を吸った。章子の名が出るたびに、白秋は呪《のろ》われたようにたちすくむのであった。別れて十六年たってもなお、章子は白秋につきまとった。(また、なにかしでかしたか?)という不安が白秋の胸をよぎった。
「章子は精神病院に入院したとやなかったとね」
「退院したらしかよ。蓼科《たてしな》の柳原白蓮《やなぎはらびやくれん》の別荘で静養してこがん本ば出した」
白秋は本を手にとって、ページを開いてみた。章子は二番目の妻で、葛飾真間院《かつしかままいん》に隠棲《いんせい》しているときに、献身的につくしてくれた。最初の妻|俊子《としこ》は派手好きで家事もせずに白秋を悩ませたが、章子は貧乏に耐え、白秋をささえてきた。それが、ささいなことがきっかけで別れることとなった。
白秋が小田原に「木菟《みみずく》の家」を建て、さらに隣りに洋館を建て、その地鎮祭を催したときであった。宴会があまりに盛大すぎ、会の途中から険悪な空気になった。あげくのはて白秋は弟の鉄雄や義弟の山本|鼎《かなえ》と大喧嘩になった。その原因が章子のせいだ、とされ章子は怒って姿を消した。
そのとき、章子は谷崎潤一郎のもとに身を隠した。谷崎と白秋の義絶はこのときから始まっている。
白秋と別れた章子は、池田林儀《いけだしげよし》と恋仲になって別れ、一休寺住職林山大空と結婚して別れ、大徳寺聚光院住職中村戒仙と結婚していた。章子は、白蛾が粉をまき散らすように浮名を流していた。
「表千家法要の席で、すっぱだかで庭ば走って坐禅《ざぜん》したとは、三年前のことやったな」
「それで、戒仙にきつく殴《なぐ》られて、そのあげく精神病院に入れられた。かわいそうにねえ。私は章子さんことば思うと涙がとまらんとです」
白秋が葛飾にいたとき、旭彦はよく遊びに来た。来るたびに酔い、帰りに田圃《たんぼ》へ落ちたことがあった。旭彦は泥だらけになり、章子に「洗え洗え」と言った。章子が井戸の水をかけ、着物を脱がして新しい浴衣を着せると「睾丸《こうがん》ば洗たとか」とわめいた。章子が恥ずかしがるので、白秋が旭彦のちぢこまった睾丸を洗い、丹念にふいてやった。旭彦は、酔うと、「章子さんばやさしい人じゃった」と口ぐせのように言うのだった。
「詩集の表紙は富本憲吉《とみもとけんきち》が描いてます。章子さんがいる聚光院へは白蓮のほか林芙美子《はやしふみこ》もやってきて、酒ば飲みよったそうです。序文は自殺した生田春月《いくたしゆんげつ》が書きんさった」
「とすると、春月は章子の恋人やったとか」
と白秋が訊《き》いた。
「章子さんがふったらしかですよ。おやじ、酒ばくんしゃい。酒を飲まねば、話しにくかとや」
白秋は立ちあがって台所へビールをとりに行き、旭彦のコップにつぎ、自分も飲みはじめた。章子が書いた「ひとり身」と題する詩が目に入った。
[#ここから2字下げ]
唐もろこしの
畑に寝て
み空の星を
数えれば
ひとり身故の
かなしみも
ことごと
空に消えゆくを
一つ二つの
流れ星
一つ二つの
ものおもい
抱くは山の
風ゆえに
さびしいとわな
一人身を
[#ここで字下げ終わり]
読み終ってから白秋は、
「ガンジー、なんば言いたかね」
と訊いた。
「私に章子のことば思い出させるな」
「章子さんは、どっかの山ん寺に追っ払われんさったとか、気の毒かことに。あんなにおやじさんにつくさったけ、小田原の家も章子さんの尽力で建てたやなかったですか。あのままいれば、章子さんは白秋夫人として幸せやったろう……」
旭彦は酒臭い息をしてぐだぐだとしゃべりつづけた。白秋は黙って聞いていた。うっかりビールを飲ませたのが失敗だった。
「『赤い鳥』の創刊号に槇田浜吉《まきたはまきち》の名で『かたぎの実』を書いたのは章子さんやった。『朱欒《ザンボア》』の発行名義人も章子さんやった。そんな章子さんが見捨てられて、山ん中の寺で、こがん詩を書いとんさっとよ。おやじさんは、それを放っとけるんですか」
旭彦は飲みかけのコップを机に叩きつけた。黙って聞いていた白秋の堪忍袋の緒が切れた。白秋はコップについだビールを旭彦の顔にあびせ、
「いいかげんにしろ!」
と声を荒らげた。
「二度とおいの家につらば見すんな」
「上等や、わかっとんよ」
と旭彦は立ちあがった。
「こがん家ば、こっちから願いさげたい」
旭彦がふらふらと帰る後ろ姿へむかって、
「今日限りで破門や」
と白秋は怒鳴った。
旭彦が急死したのは五カ月後の十一月二十二日であった。千駄ヶ谷の店を閉め、三河島《みかわしま》のガード下の貧乏長屋で倒れた。
その日は田中隆吉中佐が率いる関東軍が中国|綏遠《すいえん》省に攻めいった直後であった。日独防共協定が調印されようとしていた。戦雲急をつげるなかで、白秋は、咳《せき》こむように「初冬哀傷吟」を書きつけた。またしても友を失ってしまった。
[#ここから2字下げ]
身のまはりひとりひとりと死にゆきてわが五十二の冬近づきぬ
声|絶《た》えて今は死にたるふところをまだ温かくまさぐる妻なり
旭彦を我れはかなしとゐざり寄りその鼻の孔《あな》に綿を押し込む
生きてゐれば打《ぶ》ちたかりけるこの耳の耳たぶの渦《うず》の中が暗しも
酒飲めばおほよそごころ失ひてとざまかくざま歩《あり》きてをりぬ
この骨はどこのあたりの骨ならむ陰深くしておもて白かり
[#ここで字下げ終わり]
全六十二首の追悼歌は、白秋が絞り出した哀切な絶唱であった。この歌は「多磨」に掲載され、のち「貧窮哀傷」と改められ、四十八首に改作された。その巻頭に白秋はつぎのように書きとめた。
[#ここから2字下げ]
昭和十一年十一月二十二日島田旭彦、脳溢血《のういつけつ》にて三河島の陋居《ろうきよ》に仆《たお》る。旭彦は我が門の中最も古き人の一人にして、而《しか》も我と生国を同じくし、齢|亦《また》同じ。容貌ガンジーに似、風骨|飄飄《ひようひよう》、小柄なり、真純、世に処する寧《むし》ろ鈍、性愚直に近くして意志弱く、平生酒に溺《おぼ》る。而もいよいよに貧、ついに亦|起《た》つことなし。ただその道をふみて止みぬ。我|乃《すなわ》ち且《かつ》然り且|歎《なげ》きて歌える歌。
[#ここで字下げ終わり]
白秋は六十二首を詠《よ》み終るのに徹夜をした。熱中するとどこまでものめりこんでしまう。書き終えたとき、朝の光を浴びて、目眩《めまい》をおこした。眼が苺《いちご》のように充血していた。脳の芯《しん》が、紫紺の微熱を持って、ちりちりとはぜて火花をあげていた。
白秋が視力にはっきりとした異常を感じたのは翌十二年の九月である。
改造社版『新万葉集』の選歌で眼を酷使したためであった。眼の前の風景が二重になり、霞《かすみ》がかかり、ぐらぐらと揺れた。大きな天眼鏡を近づけて覗《のぞ》かなければ新聞を読めなくなった。衰弱して全身がだるく重くなった。
眼科医が診察すると右の眼底に幾つかの星が入り、その所だけが視力を失っていることがわかった。瞳《ひとみ》の中央に星が生ずれば失明になる。糖尿病と腎臓病を併発していた。
駿河台《するがだい》の杏雲堂病院に入院して眼底出血の危険があることが判明した。新聞に「白秋氏新万葉のため失明す」という記事が出て、白秋は、
(そう簡単に失明してたまるか。薄明|薇茫《びぼう》といってもらいたい)
とぶつぶつ言い、かすかに見える新聞の見出しを赤鉛筆で消した。
杏雲堂の病室は二階の八号室であった。南向きの白くくすんだ病室をカーテンで装飾し、鳩時計と朱色の童女像を掛け、ラジオを入れ、三段に変るスタンドや文鳥の籠もつけた。病室は見舞客が持ってきた花々や水菓子の籠でいっぱいになった。夕暮れになるとニコライ堂の鐘が響き、窓をあければ明大や日大の建築が逆光の黒影となってかすんで見えた。燈火管制の夜も、白秋の部屋は白々とした灯がともされていた。
医師に、糖尿性網膜炎とされた。左の眼底に蛋白性網膜炎の充血があり、腹部がふくれて水毒症をおこし、足は動脈硬化のきざしがあった。長年の仕事の疲れがまとめて一気に出た。
本を読むことはおろか、根をつめて思索に耽《ふけ》ることも眼に障るのであった。外の風景が光ってぼやけ、見舞客の首が透明に見えたりした。月が薄いガラスの円盤に見えるのだった。
白秋はこの年を病院で越すことになった。
いらだつ血を抑えて、なにも考えず無為の時間のなかに自分を投げ出すばかりであった。
元旦が過ぎ一月二日の夜になった。
病室にひとりでいると、淋《さび》しい時間がよみがえった。薄くらがりの奥から赤い寒牡丹《かんぼたん》が恋飛脚《こいびきやく》のように近づいてきた。見舞客が持ってきた花籠に盛られて香りたつ寒牡丹であった。そこには最初の妻俊子の記憶が重なった。寒牡丹の幻が白秋に話しかけた。
「私は自殺しようとして死に切れませんでした。いまこそ一緒に死んであげましょうか」
幻は紅い唇をふるわせて微笑していた。
「あなたが憎い。憎いけれどいとおしくて狂いそうです」
そのつぶやきは、白秋と別れた俊子が、かつて白秋によこした手紙の文面であった。白秋はベッドのシーツをつかんで幻のかすれ声に耳を傾けた。
二十七歳のとき、白秋は、人妻である俊子と恋に陥《お》ち、姦通罪《かんつうざい》で市ヶ谷未決監に拘留《こうりゆう》された。そのとき、白秋の名声は一気に失墜した。
「あなたは、私の前夫の罠《わな》にはまった、と弁明なさいましたね。でも、本当はお会いして七日目に私を抱いたではありませんか。会うたびにおもちゃのように私を抱いて、ついに私は妊娠しました。私のおなかが大きくなって、思いあまって私の夫はあなたを告訴したのです。前夫は気が小さくて、あなたが言うほどの悪者ではありません。妻の不倫を知られれば、私の夫も恥をかきます。私は、あなたの子を宿して妊娠六カ月で市ヶ谷未決監に入れられたのです」
「嘘だ、嘘だ、まっかな嘘だ。私の子か、きみの夫の子かわかるはずがない。淫《みだ》らな夏の旅に誘いだそうとしたのはきみだろう」
俊子の幻は暗がりのなかで、金線の輪郭にふちどられ、幽《かす》かな薄玻璃《うすはり》の光を帯びてたたずんでいる。
「純愛三年とはよくもおっしゃいました。会ってから三年間私に手をも触れたことがないなんて、言い訳にもほどがあります。私はあなたの子を産んだのです。その子を捨ててあなたに言われるままに結婚しました。私の躯《からだ》と心をもてあそびぼろぼろにして捨てたあなた……」
白秋は俊子の幻にうなされながら、ベッドのなかで、しなびた睾丸をつかんだ。市ヶ谷未決監の留置場で、睾丸をつかんで死のうとした記憶がよみがえった。留置場で握りしめたときは、もうひとつ力を加えれば、睾丸はザクロが割れるようにはぜて、床を鮮血で濡《ぬ》らしたかもしれない。激痛に耐えかねて、割れる寸前に手を放したのだった。しかし、睾丸にはかつての張りつめた弾力がなく、握る手にも昔の力はなくなっていた。
監獄の庭に小さな花壇があった。白秋がはじめて運動に出ると、赤いダリヤと鳳仙花《ほうせんか》とジギタリスと黄色いバラが咲いていた。運動場の壁に瀬戸物の便器が据えつけてあり、白秋はふるえながら小便をした。
そういった光景のひとつひとつが薄日を浴びた写真のようになって白秋の睫毛《まつげ》に触れてくるのであった。瞼をへだてて霧がたちこめた。眼の裏に収監所の汲水場の水のしぶきがはねかかり、白秋は病室に飾られた寒牡丹の匂いにむせた。
収監所から裁判所へむかう囚人馬車に乗るとき、中庭で土鳩が鳴いていた。白秋は俊子と並んで手錠をかけられ一列に並ばされた。十二人並んだ最後列が白秋と俊子であった。
「収監されたおかげで、あなた、ずいぶん沢山の歌をお作りになった。かえってよかったではありませんか。私は収監されたとき、これは私たちへの罰だと思いました。ああならなければ私は子の認知で、愛憎の泥沼のなかで溺れる気がしました。ですから、私は、収監所を出たら、お別れするつもりだったのです。あなたが牢獄で詠んだ歌で一番好きだったのは、林檎《りんご》の歌」
「……牢獄《ひとや》いでて顫《ふる》へつつしも噛む林檎林檎さくさく身《み》に沁《し》みわたる」
白秋は乾いた唇を動かした。暖房の後冷えがきびしい夜であった。唇からふいに出た歌は黒い焔《ほのお》の人魂《ひとだま》となって飛んだ。白秋は手をあげて虚空の焔を掴《つか》もうとした。
「別れようと決意したのに、あなたは追ってきました。あなたは、私に生みつけた子を、自分の子として認めようとはしませんでした。生まれたのは女でした。あの子は捨てました。生きていれば、いま二十六歳です。かわいそうな私生児……」
白秋は眼帯に手をあてた。眼帯が涙で湿り萎《しお》れかけた寒牡丹の匂いにまぶされていく。
そのときの記憶は、熱い瞼の裏にしっかりときざまれている。白秋が無罪免訴となったのは、無実が証明されたわけではなかった。白秋が保釈で仮出獄した翌日、明治天皇が崩御された。恩赦で無罪となった。明治天皇の崩御につづき、乃木《のぎ》大将夫妻の殉死があり、白秋の姦通は時間とともに忘れられていった。
放免後も白秋は俊子を忘れられなかった。思いあまった白秋は、死ぬつもりで三崎へ行った。波ばかりがうねっていた。山には赤い椿《つばき》が咲いていた。死のうとして死にきれなかった。そのときの心情を、白秋は、
[#ここから2字下げ]
死なんとすればいよいよに
いのち恋しくなりにけり
身を野晒《のざらし》になしはてて
まことの涙いまぞ知る
人妻ゆえにひとのみち
汚《けが》しはてたるわれならば
とめてとまらぬ煩悶《はんもん》の
罪のやみじにふみまよう
[#ここで字下げ終わり]
と書きつけたのであった。
「そうです、あなたが書いたその『三崎哀傷歌』を私は歌集『桐の花』で読みました。あなたの絵で飾られた函入りの詩集でした。あなたと別れた私は、子を捨てて晶子先生のところに匿《かくま》われていました。私に詩集を渡して、どうしても結婚してくれと通ったのは、あなたではありませんか」
白秋は眼帯の裏で眼を開いた。病室の電球が、涙で湿った眼帯を通して、冷えびえとかすんで見える。全身は泥水のように濁っていた。俊子の像は、濃くなったかと思うと透明になり、白秋の眼に沁みていくのだった。
「死のうとして三崎へ行った日を思いおこして下さい。それは一月二日です、二十五年まえの今日のことです」
白秋はベッドから起きあがった。御茶ノ水駅を通過する電車の音が低い轟音《ごうおん》となってベッドをゆすっていた。
(そうだ、二十五年前の今日のことだった)
白秋はベッドの上に坐って、髪を指でかきむしった。全身は汗でびっしょりと濡れている。夕方までは妻菊子と子が病室にいた。「多磨」の同人も来て病室はにぎやかであった。それだけに、ひと気のない病室は淋しいものであった。煙草を吸いたいが禁じられており、ましてウィスキーも飲めない。
白秋には、瞼の裏に立ち現れた俊子も幻とは思えない。だれが訪れても眼帯をはずせないため、幻と思えば見舞いに来た客もまた幻なのであった。
俊子との結婚生活は一年五カ月で終った。別離の原因は俊子の贅沢《ぜいたく》好みにあった。白秋は父母と俊子を同居させたものの、家は貧しく、俊子は耐えられなかった。
俊子が白秋の父母をそしるに至り、白秋は憤怒で燃えあがった。ひらひらとパラソルを開いて歩く姿をみたとき、白秋は俊子を張り倒したくなった。俊子を外面似菩薩内心如夜叉と憎んだのもそのときであった。
俊子にしてみれば、白秋の強引な求愛に迫られて結婚し、父母との不仲を理由に棄《す》てられた不満があった。離婚した直後は、俊子から心中をせまる脅迫めいた手紙が届いた。しかし、俊子が医師渡辺枡郎と結婚してからは、そういった手紙も届かなくなった。渡辺枡郎との結婚は長つづきせず、俊子が東京の音楽大学の舎監となったことを人づてに聞いていた。
俊子は白秋と別れたあと、歌を作るようになった。所属は、白秋に対立する斎藤茂吉《さいとうもきち》の「アララギ」であった。
白秋が俊子の幻に会うのは、この夜が最初ではない。入院して三日目に、俊子の幻に会った。目が見えなくなると俊子のことばかりが思い出されるのであった。
秘書の宮柊二に、「俊子に連絡をとれ」と伝えた。それも「妻の菊子がいない水曜日の午後に」と頼んだ。
しかし、幻の俊子はあらわれても、本物の俊子は病院にはやって来なかった。
眼の症状は一進一退をくりかえした。歌稿や「多磨」の添削は口述筆記になった。口述をはじめると、予想以上に困難な作業であることがわかってきた。眼をあけて書けば活字と活字が格闘して響きあい、あざやかな色と光が見え、音韻の匂いまで紙の上に漂った。それを闇のなかでしゃべるのがもどかしかった。
筆記する菊子も最初のうちは不馴《ふな》れであった。ひとつの漢字を言うたびに菊子は辞書をひいた。それがまどろっこしくてしかたがないのだった。菊子には家事があり、そのたびごとに白秋は眼をしばたいて、ぽつねんと待たされた。感興が雷雲のように湧《わ》いてきても、たえず中断された。なかでも困難をきわめたのは校正であった。校正は「多磨」の編集部があたるのだが細かいところで食い違った。白秋が意識的にひらがなに指定した文字を、校閲者が漢字になおしてしまうことがたびたびであった。
それでも、二年もつづけるうちに、要領が少しずつのみこめてきた。白秋はグランドチェアに寄りかかったまま腕を組んで口述し、横の卓子に坐った菊子が筆記した。
器量からいえば、菊子は俊子や章子より地味であった。俊子は牡丹のように紅く匂いたつ女だった。章子は蒼い光芒《こうぼう》を放つ女であった。ともに男の心をひきずりこむ妖しさがあった。菊子は野菊に似て、ひんやりとした清潔さがあり、自分の色を消して白秋をたてた。
口述筆記をはじめると、白秋は菊子と一体となった。本を読んで聞かせるのも菊子であった。ここ五年間というもの白秋は一度も菊子を抱いていない。そんなことができる躯ではなかった。白秋は菊子へ、
家妻は心おきなし読む書《ふみ》の声ねむたげに落ちゆく聴けば
と歌った。俊子へは直截《ちよくせつ》に歌うことは気がひけた。俊子は病室で牡丹の幻となって現れ、消えていく。
香《にお》ひたつ朱鷺《とき》いろ牡丹|籠《かご》にあふれ時計と置くにひと花しずか
と歌うとき、俊子の幻は鎮魂されて病室の奥に消え、消えたかと思うとまた浮かび、花うらの影が眼帯の近くでちらちらと揺れるのであった。花弁が崩れて散るかすかな音が聴こえた。俊子に仮託した牡丹の歌も、書き写すのは菊子であった。
昭和十四年、三度目の眼底出血がおこった。
口述筆記を終え、麦茶を飲もうとしたときであった。眼帯の裏の薄暮の闇がぼろっと崩れ、どす黒い霧が瞼一面を覆った。目玉に油をかけられたような衝撃があり、全身の力がぬけてグランドチェアに仰向けに倒れた。以前の出血に比して三倍の濁りがあった。
それまで秘書を務めていた宮柊二が出征し、この年から藪田義雄《やぶたよしお》が秘書になっていた。
白秋は、風鈴のガラスのような目玉をかかえる日々を過ごした。
昭和十五年になると衰弱はいっそう深まり、「多磨」の例会にも出席できなくなった。そんななかで阿佐ヶ谷へ転居することになった。家財はもとより、山ほどの書物を運ぶのが大変な作業であった。転居さきは、成城の旧居に比して風通しがよく、庭には苔がついた梅の古木と百日紅《さるすべり》の老樹があった。
引越しの騒動がおさまったころ、親戚の内田新が死んだ。菊子は白秋の代理で通夜に出た。その晩、巽聖歌《たつみせいか》が白秋宅を訪れ、
「こんな歌が『アララギ』にありました」
と白秋にささやいた。
俊子の歌であった。
まなこ病《や》み入院せしと告《つ》げきしをもだし居《お》れると人のとがめき
白秋の瞼に、香りたつ牡丹の像がぼうっとうかびあがった。
「先生に言われて俊子さんに見舞いにきてくれるように伝えたんですが、俊子さんは首をたてに振りませんでした。それを詫びている歌です」
白秋はだるそうに腕組みをして、
「他にはどう歌っているか」
と訊いた。
ゆくりなく電車の中にあひみつる人の面《おもて》はおもひでにみつ
くろきまゆかくるるばかり大きなる眼鏡かけゐし人に逢《あ》ひにき
ひとめみしたまゆら電車止りたる中野の駅に下りたちにけり
「……そうであったのか」
白秋はうなずいた。俊子は偶然に白秋を見つけてなつかしんだが、いたたまれずに中野の駅に降りたった、と告白しているのだった。
現《うつつ》にてふたたび逢《あ》はむ人ならず思ひさだめて遂《つひ》に久しき
これが俊子の回答であった。
俊子は白秋がのぞんだ再会を、やんわりと拒否しているのであった。
「まだ、あります。雑誌を早く持ってこようと思ったのですが、奥様がいらっしゃるので、なかなか来られませんでした」
「もういい」
と、白秋は手を振ってさえぎった。
白秋は病院でいくつも牡丹の歌を作った。牡丹の歌を口述するたびに、白秋はそれを筆記する菊子に対して申し訳ないと感じた。菊子は、牡丹の歌が意味することに気づかずに、たんたんと書き写していく。そのときのうしろめたさは、白秋の胸を痛めつけるものの、そうなればなるほど、牡丹の歌稿は鮮やかな色彩となって湧きあがるのであった。菊子を裏ぎることが俊子の生霊の鎮魂となった。しかしその思いは俊子には届くことはない。
年がおしせまり、白秋は前より依頼されていた大連《だいれん》第三中学校校歌の想をねっていた。秘書の藪田がグランドチェアに近づいて来て、眉をひそめながら、
「玄関に野口素峰《のぐちそほう》が来ています」
とささやいた。
素峰は白秋の古い門下生で、岐阜の恵那峡《えなきよう》で虚弱児童の養護施設を経営していた。
「なかへ通してやれ」
と白秋が答えると、
「それが、困った話でして……」
と藪田は低い声になった。
「素峰は、江口章子に頼まれてやってきたんです。章子さんが、もう一度先生に会ってお詫びをしたいと言っている。京都から出てきたそうです。近くの駅で章子さんを待たせているのでここへ連れてきていいか、と素峰が言っています。帰そうかと思ったのですが、ことがことですので先生の御判断をいただこうと思ってとりつぎました」
「………」
白秋は押し黙った。グランドチェアにかけた手が震えていた。躯をねじまげて白秋は唸《うな》った。
白秋は章子の評判にはほとほと手を焼いていた。俊子のほうは白秋について語ろうとしない。「アララギ」の歌は白秋の呼びかけに対する回答であった。しかし章子は、ことあるごとにスキャンダルをおこし、新聞記事に登場した。万朝報《よろずちようほう》は、章子の肩がきに必ず「白秋の前夫人」と入れて報道した。詩集『追分の心』の前には『女人山居』という本を出版し、こちらは武者小路実篤《むしやのこうじさねあつ》が序文を書いていた。婦人雑誌に頼まれて「白秋の思い出」というたぐいの原稿も書いていた。
なかでも白秋が気にしていたのは大正九年、「新潮」に書いた「妻のみたる北原白秋」という一文であった。萩原朔太郎《はぎわらさくたろう》や室生犀星《むろうさいせい》が「北原白秋氏の印象」という印象記を書いたあとに掲載されていた。
「北原は全くえたいのしれない魔法使いのような人です。いつも南国的な深刻味のある、赤い毒草のような魔気に満ちた人です。……その運命が絶えず極端から極端に恰度《ちようど》チブスの熱の上り下りのように動いて行くように思います。……北原が帝国軍人でしたら一番先に戦死するでしょう。……北原はほんとうに痛々しい大きな赤ん坊です。……地獄の裏門から浄土の門へ迎えられる人だと思われます」
白秋はその言葉の断片を忘れはしない。ジリッと音をさせて火傷《やけど》をさせるような言い方であった。
(会ってやるべきか……)
章子は、菊子と同じ大分県立第一高女の出身で、このときは四十二歳であった。剃髪《ていはつ》して妙章尼という名になっている。中村戒仙との結婚生活は同棲期間を入れて十一年間であったが、戒仙とも別れていた。
戒仙と別れた章子が破れ寺で一人暮らしているという噂《うわさ》は、白秋は歌人の水町京子《みずまちきようこ》より聞かされていた。水町は章子を哀れに思い、刊行されたばかりの豪華限定版『雀百首』を章子に送ってやったという。それは白秋と章子が葛飾で暮らしたときの歌で、章子は毎晩この本を枕元《まくらもと》に置いて眠っている、という話も聞かされていた。
(どうすればいいか。章子の命ももう長くはないだろう。章子は死ぬ気で来ている……)
瞼の裏を雲が薄い月光を帯びて渦巻くのであった。脳の襞に風が吹き、白秋は風の音を聴いた。とっさのことでどう判断したらいいかわからない。やがて、白秋は雲を払いのけるように手を左右に振り、藪田を呼んで、
「会わないほうがいい」
と吃《ども》りながら言った。
「お志はありがたいが、どうか忘れて下さるようにと、丁寧に断ってくれたまえ」
白秋は声を震わせてそう告げると、低く慟哭《どうこく》した。心臓が鉛のように固まったままだ。
昭和十六年十一月、白秋が飼っていた老犬が死んだ。黒という名がついていたが、白秋は「傑作」という名で呼んでいた。白秋が散歩に出ると、「傑作」はあとになり、さきになりしてついてきた。
のっそりと太り、腹をゆすって歩く様子が白秋に似ていた。早朝の露にまみれて、「傑作」は近くの煙草屋の裏の畑で死んでいた。「傑作」は|祖師ヶ谷《そしがや》以来、白秋の家族の一員であった。白秋は、死骸《しがい》を裏の栗の木の下に埋め、懸崖《けんがい》の白菊の花をその横に移し替え、木片に「黒の墓」と書いて立てかけた。
白秋は黒へむけて、
老いほくる穏《おだ》しき犬のありやうを目守りつぎ来し今死ぬる見る
と一首を捧《ささ》げた。
白秋は、黒の死に自分の死をあわせ見ていた。湿った泥が土饅頭《どまんじゆう》となって、懸崖の菊に覆いかぶさっていた。白秋の体調はいっそう悪化し、足がむくみ、少し歩いただけですぐ息切れした。黒のソフトをかぶり、黒眼鏡で杖《つえ》をつく白秋は、盲目の人となっていた。
白秋は、章子を追い返したことをすぐに後悔していた。「会いたい」と言って京都から病身を駆ってきた章子がいとおしかった。それだけではない。幻となって眼帯裏にあらわれる俊子への思いは、躯が弱まるにつれて強まるのであった。二人の女は、ともに白秋の詩魂をかきたてる夜叉であった。夜叉となる女だからこそ、セロハンに火をつけられたように詩を書きまくった。この女たちがいたから詩を書くことができたのだった。
ひとり菊子のみが良妻であった。二人の子を産み、白秋をよく世話した。子が生まれてから、白秋は童謡を書き、短歌に専心するようになった。すべて菊子の尽力によるものであった。白秋は、菊子を得て幸せな家庭を築いた。そのぶん菊子に詩魂をかきたててくれる力はなかった。
白秋が詩を書かなくなったことを惜しむ声は多かった。その一人は山田|耕筰《こうさく》であった。耕筰は「多磨」の短歌一筋に熱中する白秋を惜しんで、再三忠告をした。白秋はそれをやんわりとこばんだ。若き日の白秋ならば、そのことで耕筰とも喧嘩になったかもしれない。「パンの会」の杢太郎もその一人であった。杢太郎は、かつて白秋が書いた『邪宗門』のきらめく詩世界を待ちのぞんでいるのであった。なかでも、白秋の詩魂の復活を渇望していたのは萩原朔太郎であった。朔太郎は白秋が主宰する「朱欒《ザンボア》」へ寄稿し、若きころより白秋を崇拝していた。白秋は朔太郎のデビュー作『月に吠える』に、「何と云つても私は君を愛する」に始まる序文を書いていた。朔太郎の第一詩集へ白秋が序文を寄せたことは、朔太郎の評価を一段と高めたのであった。
白秋は、身は朽ちはてていきながらも、家族と弟子に見守られていた。それなのに、胸に雲母《うんも》の破片がチクリと突き刺さる一瞬があり、それは抜こうにも抜けきれない鮮紅色の棘《とげ》であった。
十一月二日、白秋は三崎へ行く決意をした。
白秋をつき動かすのは得体の知れぬ衝動である。三崎は白秋の詩「城ヶ島の雨」によって天下の名勝となり、白秋一家が東京から移り住んだ地という因縁があった。三崎町から詩碑建立の申し出が以前からあったが、「生前に詩碑を建てるのは成り上りのすることだ」と再三にわたり断りつづけてきた。それをこの年になって承諾してしまった。「城ヶ島の雨」だけではなく、三崎町|二町谷《ふたまちや》にある見桃寺《けんとうじ》に歌碑を建てることを条件とした。
三崎は俊子と過ごした思い出の地であった。出獄後に俊子と別れ、自殺を思いつめて訪れたとき、白秋は俊子恋しさのあまり、
夕されば火のつくごとく君恋し命いとほしあきらめられず
と絶唱した。三崎の向ヶ崎の家から父母と弟がひきあげたあとも、白秋は俊子と二人で見桃寺に仮寓した。「城ヶ島の雨」は、芸術座音楽会のため、見桃寺仮寓で書きあげた詩であった。見桃寺の生活は、俊子との思い出だけがあった。
除幕式には多くの弟子が参加した。本瑞寺で昼食をとり、船をつらねて城ヶ島へ渡り、午後三時から盛大な式典が行われた。司会は「多磨」の巽聖歌がつとめ、娘の篁子が白い布をひくと、横一|米《メートル》の秩父石に刻《ほ》られた歌があらわれた。
寂しさに秋成《あきなり》が書《ふみ》読みさして庭に出でたり白菊の花
上田秋成『雨月物語』の「菊花の約《ちぎり》」をもとにした歌であった。再会を約した武士が無念の死をとげ、亡霊となって約束の場所で再会する因縁に由来する歌である。歌のなかに妻菊子の菊の文字を入れた。秋成は盲目の人であった。藪田が『雨月物語』の「菊花の約」を朗読し、歌の解説をした。
町内有志の挨拶《あいさつ》、建碑委員の経過報告があり、来賓の祝辞が続くなかで、白秋は目を閉じて、俊子の幻を追っていた。
十一月二日。この日は、見桃寺で俊子と二人で詩歌結社「巡礼詩社」を創立した日であった。忘れもしない二十九年前の十一月二日である。見桃寺の庭に北風が吹きつけ、あかあかと寂しい夕焼けを浴びながら、俊子は黙って蘇鉄《そてつ》を見つめていた。空はみるまに曇って小雪となり、夜、僧坊の一室で白秋は俊子を抱いた。俊子のやわらかい肌を抱きしめ、永遠の巡礼を約束した唇の感触がよみがえった。白秋は唇を舌さきで濡らしてみた。
(約束どおり俊子に会いに来た……)
冬の匂いが白秋の唇をおおった。
幻を覚ますように万雷の拍手が湧きあがり、白秋は謝辞を求められた。白秋は、立ちあがり、
「十一月二日という日は、私の短歌史の上に意義ある日になるであろう」
と挨拶した。
岬陽館の大広間で盛大な宴会が催された。鉦《かね》や太鼓で娘たちの踊りが披露される席で、白秋はひとり海鳴りの音を聴いていた。
十二月八日、日本軍は真珠湾を空襲し、米英に対して宣戦を布告した。白秋の容態はさらに悪化していく。心臓が弱り、室内の歩行も息づかいが荒くなった。主治医より絶対安静を宣告され、翌年二月には呼吸困難の発作をおこして慶應病院に入院した。
慶應病院ではひどい扱いをうけた。看護婦が強心剤の注射をするとき、薬量をまちがえたのであった。意識|朦朧《もうろう》となり、宿直医を呼ぶが起きてこなかった。あやうく死にかけた白秋は、怒りのあまり「周辺無人」という歌を七首詠んだ。
[#ここから2字下げ]
仰ぎ臥《ね》に双手拱《もろてく》みつつおぎろなし早や正念《しやうねん》といふものならし
抑へあへぬ激し呻《うめき》や我と居る正念にしも肉《ししむら》われは
燈《ひ》の明く花塵《かぢん》とどまる夜《よ》のしじま愚かに我の死にか垂《なんな》ん
物の塵|燈《ひ》のみあかきに澄みゆくはげにすさまじな人ひとりゐず
息はげし、愛《かな》しひとつの臨終《いまは》にはかく憤るものならなくに
人|咳《せ》きて息尽きむとき幽《かす》けかり分秒の和《なぎ》無しといはなくに
聴くものにみ雪ふりつむ落葉松《からまつ》は二重の玻璃戸《はりど》うち隔てつつ
[#ここで字下げ終わり]
自宅療養に切りかえてからは、いっさいの薬を飲まなくなった。その代り怪しい霊能者を呼んで治療にあたった。ただ塩を飲むだけという治療であった。
霊能者は掌《てのひら》を患部にあて、その掌から放射される光で病気をなおす、と言った。あとは水を飲み、塩を摂り、五味《ごみ》を摂取するだけという療法である。弟子や家族は奇怪な療法に反対して、ひどく気味悪がった。しかし、白秋のこうと言い出したら聞かない性格は変らなかった。
「掌を差しむけられると、その掌から、ぽーっと青い光が射す」
と白秋は言った。
意識は混濁し、足はむくみ、下腹部から下肢にかけては、風船がふくらんだように丸くなった。すると霊能者は、むくみを絞るようにして足の甲に押し下げた。足元からむくみを抜きとるという荒療治であった。怪しい治療によって、白秋の躯はだらだらと崩れていった。
歌を作るのはもはや不可能であった。
そんななかで、「多磨」の巻末に寄せる「雑纂」だけは口述筆記によってつづけられていた。
昭和十七年二月一日号には、つぎのように近況を知らせた。
「私の健康は思わしくない。この国家の重大事に際し、まことに申訳のない日を過している。日支事変の当初以来、眼疾に祟《たた》られて立ち遅れに遅れた私であったが、今度もまたそうなりはしないかと歯ぎしりがされるのである。……三崎行以後、私は専ら籠居《ろうきよ》したきりになっている。机に向うこともない。あまりに疲れ易く、痺《しび》れ気味である。視力は幾分とりかえしたようであるが、心臓がよほど弱くなったらしい。室内の歩行にも呼吸が困難である。寧《むし》ろ精神力のみが強くて、或は却《かえ》ってそれが肉体の負担になりそうである。その為に強《し》いても忘れねばならぬ仕事の一切であるらしい。ただ来るべき日の為に私は独をつつしんでいる。この月に限って新らしい作品も無かった。
冬の日の光線はさみしいものだ」
五月十一日、萩原朔太郎が死んだ。
室生犀星より「ハギワラ ケサシス」の電報が入った。朔太郎は白秋より一歳下であった。追悼の歌を詠みたいと思うのだが、詠む力はすでになかった。とめどなく涙があふれるばかりであった。
その四日後、佐藤惣之助《さとうそうのすけ》が急死した。惣之助は、『西蔵《チベツト》美人』ほか多くの詩集を出し、朔太郎、犀星とあわせて三詩人と呼ばれ、朔太郎の妹を妻としていた。朔太郎の葬儀を葬儀委員長格としててきぱきとさばいた翌日の急死であった。
五月二十九日、与謝野晶子が死んだ。
白秋の師であり、姉と頼っていた晶子であった。健康な白秋であれば、烈々たる追悼歌を百首以上捧げる相手である。白秋は、歌を詠む力のない自分が情けなかった。白秋は「多磨」に、
「こうした衝撃は病体に応《こた》える。然し幾分の平静が、孰《いず》れは自分も同じ道だと云うことに就いて取り戻してくれる」とのみ書いた。
口述しながら白秋は声をあげて泣き、筆記する菊子も泣いていた。
九月一日号「多磨」にはつぎのような近況が掲載された。
「……視力を使うよりも瞑《つむ》っているほうが安静である。冥罰《みようばつ》が当るか知れぬが眼が開いてみれば薄明の中に心眼と感じたものより、外見は豊かであろうとは思えない。何かあわれである。もう少し強いても瞑っていたいのだ。
開眼といえば、門前の電柱に落雷して火の柱が立った。その頃よりであるが、つい先月の半ばに三十年来の大|霹靂《へきれき》が亦起って、つい近くに落雷四ヶ所に及んだ。その電光が眼に入り、爆々音が心頭をうちわななかす度毎《たびごと》に、私の眼には何か異常感が閃《ひらめ》き閃きした。すさまじい天の電気療法でもあったかと思われる。私にはよくわかっているが、他の一大事実にはまだ触れない。この天啓には、感謝しきっているというのみにとどめて置く。
ここで、この日は筆を擱《お》く。心神つかれ、ただに歓喜の絶頂にいる私である。ああ、いま母の笑に満ちた声音が離家からきこえている。泣けて泣けてしかたがない」
この稿が「多磨」の最後の稿となった。
門前の電柱に落雷した直後から、白秋の視力は奇蹟《きせき》的に回復し、拡大鏡を用いなくても文字が読めるようになった。木水彌三郎の協力で第八歌集『渓流唱』、第九歌集『橡《つるばみ》』の編集を完了し、詩文集『香ひの狩猟者』を刊行した。
白秋は命がけで仕事をこなしていった。
病室を二階に移して、客の面会を制限した。根をつめて躯を酷使することを気づかった主治医が、こっそりと睡眠薬を飲ませると、「一服盛られた」と文句を言った。それからは薬を飲まなくなった。眼を閉じると、俊子の像が現れ、「十一月二日に、私のところへ戻ってきてくれたのですね」とつぶやくのだった。それも一瞬のことで、呼吸が困難になり、強心剤を注射されてどうにか収まるのだった。ひといきついてから、「あと三十年四十年五十年と目安をたてて、はじめからやりなおす」と宣言し、直後に多量の吐血をした。目が見えるようになったのはほんの一時的のことで十月の末は呼吸困難の発作が激しく、絶対安静となった。
弟子たちは連日白秋の家に泊り、いざというときにそなえた。主治医は弟子の米川稔《よねかわみのる》で、米川は一晩中つきっきりで様子を見守った。発作がおこるたびに、玄関の土間に用意した酸素ボンベを二階へ運び、酸素を吸入させるのであった。全身が脈うつように上下した。菊子は白秋の胸をさすった。
「さすっているのはだれだ」
と白秋が訊いた。
「私がさすっています」
と菊子が答えた。
白秋は朦朧とする意識のなかで、さすっている冷たい女の手が、俊子のように思えるのだった。
「だれがさすっているのだ」
と白秋は重ねて訊いた。
「菊子です。菊子がさすっています」
菊子は泣きながら答えた。
「先生は、知っていながらわざと訊いているんですよ。さする手が奥様であることを確認したいのです」
と米川が言った。
発作は長くつづくときもあり、また痰《たん》が一つ切れただけで治まるときもあった。胸が波うつと、弟子の一人が頭を吊《つ》りあげるようにして後ろからかかえ、もう一人が背中を力いっぱい押し、前に洗面器を差し出した。白秋は脂汗を流して発作が通り過ぎるのに耐えた。
発作が終ると、
「胸に穴を開けて、ほんとうの空気を吸いたい」
と白秋は言った。
昭和十七年十一月二日。この日は、見桃寺の除幕式から、ちょうど一年目であった。白秋が(十一月二日という日は、私の短歌史の上に意義ある日になるであろう)と言ったその日である。
十一月二日午後四時、呼吸困難となった白秋に米川は強心剤の注射をした。それまでにない強い発作であった。発作の波がひいていくなかで、白秋の瞼の裏に俊子の幻が現れた。
(……さあ巡礼に行きましょう)
と俊子はほほえみ、林檎を差し出した。
(おぼえていらっしゃいますか。牢獄を出所したとき、あなた、林檎をお食べになりましたね。……牢獄《ひとや》いでて顫《ふる》へつつしも噛む林檎林檎さくさく身《み》に沁《し》みわたる)
白秋は俊子から林檎をうけとろうとして手を差し出し、むせて手をふるわせた。
「食べたい……」
と白秋は唸り声を出し、菊子が林檎のしぼり汁を差し出した。
「丸のまま持ってこい」
と白秋が言った。ここ三、四日は流動食でさえ咽喉《のど》につかえ、吐き出す症状がつづいていた。
白秋は、菊子が見守る前で、二片の林檎をさくさくと音をたてて食べた。
白秋の眼前に白い月光が射しこんだ。
冷たい風が流れてきた。
澄みきった中天から光がふりそそいでくる。そこにひとひらの林檎の花弁が舞っている。冷えた白い花弁であった。さわさわと起《た》つ風の音が耳に響いてきた。
息子の隆太郎が新鮮な空気を入れようとして窓を開いた。
「ああ、蘇《よみがえ》った、隆太郎、今日は何日か」
白秋が口を開いた。
「十一月二日か、新生だ、新生だ。この日をおまえたちよく覚えておおき。わたしのかがやかしい記念日だ……」
周囲にいる者は、白秋の一言一句をも聞きのがすまいと息をひそめた。
「新しい出発だ。窓をもう少しお開け。……ああ素晴らしい」
白秋の顔からは苦悶《くもん》の表情は消え、新生の花園へ飛ぶやすらぎがあふれていた。
享年五十八であった。
死後、枕もとに置かれたノートのなかから、柳川写真集「水の構図」の序文が発見された。ふるさとの水郷柳川をたたえる序文の前に「はしがき」があり、
「夜ふけ人定って、遺書にも似たこのはしがきを書く」
と記されていた。
白秋の死後、木下杢太郎は「白秋との交遊は大正五年以降絶えた」としながらも、「白秋、われわれのわかかった時も/やっぱり楽しかったな/そうだ、思い出すよ、白秋」と追悼した。
室生犀星は「白秋先生」と題してこう書いた。
[#ここから2字下げ]
………
あなたのまわりは
あなたを奉った人ばかりだった、
あれはいけない、
あれはあなたを軽く見せる、
あれはいけない、
そんなふうに私はあなたを考えていた。
あなたは派手でおしゃれで
奉られることを露骨に好いていた、
平気で少々おかしいくらい
まわりを畏まらせるところにあなたはいた、
僕や萩原が遠くにいたのもそんなせいです、
しかしそれすら
あなたをこわすことも
軽くさせることもなかった、
あれでよかったのだ、
……(中略)……
亡くなられたからこう言える、
こう言えるようになったことは嬉しい。………
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
文壇血風宴会録[#「文壇血風宴会録」はゴシック体] あとがきにかえて[#「あとがきにかえて」はゴシック体]
ここに書いた六篇の短編小説は、明治、大正、昭和にわたる、わが畏敬《いけい》する作家の死を書いたものである。
晩年の森田は共産党に入党して政治運動にかかわり、六十九歳で幸せな生涯をまっとうしている。だが他の五人は悲惨な死をとげている。若死であろうと、老年の死であろうと人間の死は格闘であり、いかに自分の死を受容し得るかが課題となる。
『おとこくらべ』に書いた樋口一葉《ひぐちいちよう》は、わずか二十五年間の生涯であった。『紫の一本』に書いた小泉八雲《こいずみやくも》は、最後は日本に絶望して五十五歳で客死した。『葡萄』に書いた有島武郎《ありしまたけお》は四十六歳で情死した。白秋《はくしゆう》は失明して五十八歳で死んだ。
白秋の死にさいして、白秋と義絶していた谷崎《たにざき》は「私は今、生前にもう一度会っておきたかった、などということは考えていない。ただ、もう十年、氏を盲目の生活に生かして置いたら、どんな境地にまで進展しえただろうかと思って、それを限りなく惜しむ」と言っている。
私は六十二歳となり、すでにこの五氏より長生きし、このような小説を書いているのだが、自分で思うほど評価されていない。これは私のふしだらな日常生活のためで、日々酒に溺れ、山の湯へ逃げ、友人との宴会をくりかえしている結果と思われる。ここに、反省の意味をこめて、わが先人たちの宴会録を小説風に記すことにした。さて、私は、宴会の果てに、いかなる死にかたをするのであろうか。
一八八五年のいわし鍋[#「一八八五年のいわし鍋」はゴシック体]
神田|猿楽町《さるがくちよう》の鍋《なべ》料理屋開化亭。外は木枯しが吹いている。三人の貧乏学生が集まっていわし鍋をつついていた。三人は学生のくせに老成した顔だちだ。明治に入って十八年たつが学生街の料理屋は江戸の風情《ふぜい》を残し、鍋の湯気が店の外へ舞っている。この年、伊藤博文《いとうひろぶみ》は清国の李鴻章《りこうしよう》と天津《テンシン》条約に調印した。清国の領土はロシア、フランス、イギリスによって豆腐がつつかれるように侵食されていた。日本もその侵食組に加わり、学生の大半には政治青年の殺気がみなぎっている。文学青年もいることはいるが、政治青年ほど威勢がよくない。頭がいい学生は政治を論じ、頭がよくないのがひねくれて文芸本を読んでいる。
ところが、鍋屋に集まった貧乏学生の一団はいささか様子が違っていた。鍋の前にデンと坐《すわ》って、いわしのつみいれをぽんぽんと鍋に放りこみ、煮えるそばから食っているボサボサ頭は徳ちゃんこと尾崎徳太郎《おざきとくたろう》である。徳ちゃんは一ツ橋の大学予備門へ入ったばかりで、にがみばしった顔で仲間を見渡した。徳ちゃんは薄っぺらい『一読三歎《いちどくさんたん》 当世書生《とうせいしよせい》気質《かたぎ》』三冊を手にしている。
「これは凄《すげ》え本だぞ。こんな愉快な本ははじめて読んだ。目がパカッと見開かれたっていうのは、こういうことだぜ。辛気《しんき》くさくなくていいやね。主人公の書生は、助《すけ》ボオとよく似てるぞ。学生のくせに芸妓に夢中になって勉強が手につかないんだからな」
助ボオと呼ばれたのは、徳ちゃんと同級生の石橋助三郎《いしばしすけさぶろう》だ。助ボオは五分刈りの頭に度の強い眼鏡を光らせて、額から汗をたらして、
「二読八歎はしたな、うむ」
とうなずいて、鍋の煮汁をどんぶり飯にぶっかけた。
「挿し絵も新しいが文章がグツグツ煮えてていい味だ。俺たち貧乏学生の気分をよくもここまで書けたものだ。読本《よみほん》ってのは面白ければいいんだ。暮らしの役に立たないほうがおもしろい」
「これよりは人情と風俗だ。三馬《さんば》や京伝《きようでん》や落合直文《おちあいなおぶみ》はもう古くさくて読みたくはない。こういう新人がでるのを待っていた。いまの時代はよオ、もうピッカピカに新しいんだ。古い義理人情なんか捨てちまえってんだ。戯作《げさく》を書いて、おとがめの手鎖《てぐさり》をされる時代は終ったんだ」
「戯作でなくて、小説」
「うむ、小説、小説、小説」
「大説でなくて小説ってところが粋《いき》だな」
小説を口にしたのは、徳ちゃんの幼なじみで一級下のたけコオこと山田武太郎《やまだたけたろう》である。たけコオはこの年、坪内逍遥《つぼうちしようよう》が松月堂から出した『小説神髄』のことを言っている。三人とも『小説神髄』の評判は聞いているが、中身はまだ読んでいない。刷り部数がたったの二百部だから、こちらのほうは、貧乏学生の手には入りにくいのだ。
三人とも、聞きなれない「小説」という言葉に、照れながらも、外国令嬢のふっくらとした手のような魅力を感じている。
たけコオは江戸の戯作に広く通じ、英文の原書を読みこなしている秀才だ。色白で細面《ほそおもて》のやさ男で、普段はあまりしゃべらないが、幼なじみの徳ちゃんがいると元気が出るのだ。
この日、三人は、たけコオの四つ年上の長谷川辰之助《はせがわたつのすけ》を待っていた。辰之助の父は、たけコオの父親の部下で、たけコオは十一歳のころから知っている。辰之助は軍人になろうとして陸軍士官学校を受験したが、三年連続して落ち、外国語学校の露語部に入った。
「本当に、『小説神髄』を貸してくれるんだろうな、その辰さんという人」
「軍人気質だからな、約束は守る人だよ」
三人は、辰之助が持っている『小説神髄』を借りるために開化亭へ集まっていた。この日、一ツ橋の大学予備門の前にある外国語学校の懇親会が開化亭でひらかれ、辰さんはそこへ出るときに、『小説神髄』を持参するという約束だった。
たけコオが異様に興奮しているのは、『小説神髄』を読めるという喜びだけではない。『一読三歎 当世書生気質』と『小説神髄』を書いた坪内逍遥という人物が、じつは東京帝国大学の先輩の坪内雄蔵らしいという噂《うわさ》をきいていたからだ。坪内雄蔵は二年前に大学を卒業した文学士であった。
「俺は本郷|壱岐殿坂《いきどのざか》の進文学舎で、坪内雄蔵先生に英語を習ったことがある。三年前のことで、目茶苦茶《めちやくちや》にわかりやすい授業だった。だけど、あの真面目《まじめ》な先生が、こんな戯作、じゃねえや、小説を書くとは、まったく、吃驚《びつくり》した」
「してみると、凄《すご》い人は、意外とすぐそばにいるんだな」
と徳ちゃんが腕をくんだ。
「坪内先生はまだ二十七歳だよ。パッと差しこむ光のような人だ。つぎの号が出るのが待ちどおしい」
六月に晩青堂から発行された『一読三歎 当世書生気質』は七月に第二巻、八月に第三巻が出た。月刊雑誌のペースで発売された。ろくでもない学生連中のどじな日常が細部にわたって描き出され、これまでになかった学生が主役の読本であった。
世間の話題を集めると、悪く言う批評も出て、福沢諭吉《ふくざわゆきち》は「文学士ともあろうものが、小説などという卑しいことに従事するのはけしからん」と苦言を呈した。それで、また売れた。
「遅れて、すまん」
徳ちゃんの同級生アキラこと川上亮《かわかみあきら》がやってきた。アキラは、役者のような美青年だった。隣りの女性客がアキラを振り返った。
「一番奥の部屋に塩原《しおばら》と正岡《まさおか》が来てるよ。こちらへ呼ぼうかと思ったが、あいつらは小鍋を前にして二人でねちっこく食っているからな」
「俺と同じ級《クラス》だ」
とたけコオがじろじろと見た。
「塩原金之助ってのは英語と漢文がよくできるが、教師の間違いを指摘して教師いじめをする嫌味な性格だ。器械体操と野球ばかりやってて、顔に痘痕《あばた》があるから、級《クラス》ではアバタと呼んでいる。正岡|常規《つねのり》は四国の山猿で威張っていて、自分が一番偉いと思ってやがる田舎者だ」
アバタとよばれた学生は、のちの夏目漱石《なつめそうせき》である。四国の山猿は正岡|子規《しき》である。
「こっちへ呼ばなくっていいぜ、田舎者は嫌いだ。鍋の食いかたも知らねえ」
と徳ちゃんが骨太い手でたけコオの肩をつかんだ。徳ちゃんこと尾崎徳太郎は、のちの尾崎|紅葉《こうよう》である。アバタと山猿はともに一八六七年生まれで、たけコオと同級である。徳ちゃんは、この年の二月に硯友社《けんゆうしや》を結成、五月に手書きの回覧雑誌「我楽多文庫《がらくたぶんこ》」を発行した。川柳、俳句、小説、戯文、漢詩、都々逸《どどいつ》ありの娯楽回覧本だ。集まった原稿を徳ちゃんとたけコオが筆記して回覧した。世話役は、助ボオこと石橋助三郎で、のちの石橋|思案《しあん》だ。すでに五号が出ている。
「さあて、と。六号めの原稿を持ってきたかい」
徳ちゃんが見廻すと、
「はい、これ」
とたけコオが原稿を差し出した。「竪琴草紙《たてごとぞうし》」の題がついている。
「おいおい、たけコオ、自分の筆名を山田|美妙《びみよう》とは、よくもつけたな」
とアキラが笑うと、たけコオは、
「おめえだって川上|眉山《びざん》が筆名か。自殺しそうな号だなあ」
とからかった。
「よしよし。これだけそろえば充分だ。なあ、さまざまに移ればかわる浮世かな、ってわけさ。幕府さかえし時勢《ころおい》には、武士のみ時に大江戸の、都もいつか東京と、名もあらたまの年毎《としごと》に、ひらけゆく世のかげなれや、だ」
徳ちゃんは『一読三歎 当世書生気質』第一巻の冒頭を口ずさんだ。
「あ、辰さんがきた」
大柄の長谷川辰之助が入ってきた。のちの二葉亭四迷《ふたばていしめい》である。辰さんは大男で、すたすたとたけコオの前にやってきて、紫色の風呂敷に包んだ『小説神髄』を手渡した。
「俺はもう読んだから、返さんでもいい。おまえにやるよ。中身はもう頭にいれちまった。これを読めば、仮名垣魯文《かながきろぶん》も東海散士《とうかいさんし》もつまらないな。とにかく、ここからすべてが始まる。おい、たけコオ、ちょっと声を出して読んでみろ」
たけコオは朗読して聞かせた。
「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。宜《よろ》しく心理学の道理に基づき、其《その》人物をば仮作《つく》るべきなり」
徳ちゃんは腕を組んでうなずいている。
「小説をもってユースフル・アートとするは実用専門家の妄言《もうげん》なり」
一同、黙って、その一言一句にききいっている。いわし鍋に入れられた大根が、ちょうどいい具合に煮え、汁のなかで揺れている。
[#ここから2字下げ]
この年、二人の詩人が生まれた。
ひとりは北原白秋《きたはらはくしゆう》である。
ひとりは若山牧水《わかやまぼくすい》である。
二人とも赤ん坊だから、自分たちが詩人になるとはオギャアとも思っていない。
[#ここで字下げ終わり]
一八九二年の焼き芋[#「一八九二年の焼き芋」はゴシック体]
いわし鍋屋の七年後、徳ちゃんこと紅葉は硯友社のボスになり連日|牛鍋《ぎゆうなべ》を食っていた。「我楽多文庫」を市販本にするとき、美妙、眉山、巌谷小波《いわやさざなみ》ら社員は八十五名に達し、一大結社となった。二号では喧嘩《けんか》の強い江見水蔭《えみすいいん》ら二十名がさらに加わった。最初に売れたのはたけコオこと山田美妙だが、美妙はあんまり人気が出すぎて有頂天になり仲間から出て金港堂の「都の花」へ移った。その一年前、金沢の彫金師の息子が訪ねてきた。十九歳の若衆でどうしても社員にしてくれという。暗い顔をした鮴《ごり》のような男だった。浅草、神田、湯島を転々と野宿して、住む家もないと泣きつかれた。編集能力があるわけでもなく、硯友社には無理だと判断して紅葉は自宅の玄関番にしてやった。名を泉鏡太郎《いずみきようたろう》という。鏡太郎は、読み書きは未熟だが小説家志望で、ひそかに小説らしきものを書いている。原稿は誤字だらけで、紅葉は朱筆で添削指導した。
紅葉はこの年に、読売新聞に小説『三人妻』を書き、以来、書く小説は飛ぶように売れた。硯友社で社員百人余をひきつれつつも、読売新聞社社員となった。余裕綽綽《よゆうしやくしやく》である。暇つぶしに鏡太郎を連れて凧《たこ》あげをすることもあった。紅葉は二十六歳にして文豪になった。
このころ、めちゃくちゃに喧嘩っぱやい男がドイツから帰ってきた。森鴎外《もりおうがい》こと軍医の森|林太郎《りんたろう》である。齢《とし》は紅葉より五歳上の三十一歳だ。医者のくせに文学方面に口を出す。そのドイツ帰りが、とにかく一番偉そうな相手と喧嘩をやりたくて、坪内逍遥に目をつけた。一番強いのに勝てば箔《はく》がつく。
鴎外はドイツから帰りたてで、やたらムシャクシャしていた。いちいち目につく日本の後進性にいらだったのである。帰国してすぐに「衛生新誌」を創刊し、とりあえず医学界の首領《ボス》に攻撃を加えた。最初に喧嘩を売ったのは「東京医事新誌」の主筆岡田和一郎で、歯に衣《きぬ》きせず、論陣を張った。医学界の長老が集まる日本医学会を反動者ときめつけ、かかってくる相手をコテンパンにやっつけた。
そのうち、目についたのが、読売新聞で文芸時評をする坪内逍遥という名である。逍遥は「早稲田文学」を主宰しており、文壇の神様みたいな存在だ。
鴎外は本郷の駒込《こまごめ》千駄木《せんだぎ》の家の縁側で、ホカホカの焼き芋をフーフー言って食っていた。焼き芋は鴎外の大好物で、専門の衛生医学上から見ても、これ以上理想的な食べ物はないと考えている。とにかく焼き芋が好きなのだ。
手さげかごいっぱいの焼き芋を買ってきたのは、鴎外の妹の喜美子であった。焼き芋を一緒に食べているのは、落合直文《おちあいなおぶみ》と、鴎外の弟の篤次郎である。
鴎外にはエリーゼ事件というスキャンダルがあった。ドイツから、恋愛相手のエリーゼが鴎外を追ってやってきたのである。
離婚した鴎外の妻|登志子《としこ》は焼き芋を好まなかった。というより、名門赤松家令嬢で榎本武揚《えのもとたけあき》の姪である登志子は、鴎外の母と険悪の仲で、それが家庭紛争のもとになった。
媒酌人は鴎外のそだての親|西周《にしあまね》夫妻であった。意にそまない新婚生活で、しかも、しょっちゅうだれかに喧嘩を売っていらだつ鴎外を嫌って、それが離婚の原因となった。
「逍遥はけしからん。あんなへなちょこのどこが偉いんだ。シェークスピヤの訳は誤訳だらけ。あいつは学校の学生試験でも落ちたんだ」
「フェノロサ教授の政治学でしょう」
妹の喜美子が相槌《あいづち》をうった。
逍遥は、鴎外より三歳上で、東京帝国大学の先輩であった。
「『小説神髄』なんてのは中味が薄すぎる。あの程度の小説理論で威張られちゃ、たまんないよ。それになんだ、硯友社の『我楽多文庫』は。あんなもの、ほんとのガラクタだ。いわし鍋ばかり食って小説の素養がない連中だから、脳に栄養がまわらず、逍遥にやたらペコペコして、『三人妻』なんて猥褻《わいせつ》小説で満足している。とくにどうしようもないのが石橋思案っていう阿呆鳥《あほたれ》だ。一人前のことをほざきやがって」
落合直文が、
「おっしゃる通り。モグモグ」
と焼き芋をほおばった。直文は東京帝国大学古典講習科を出た国文学者で、歌は詠《よ》むがあまりうまくない。鴎外より一つ年上だ。硯友社の不良っぽい社風になじめず、鴎外の「しからみ草紙」に加わっている。「しからみ草紙」は、鴎外が訳した『於母影《おもかげ》』の原稿料五十円を基金として発行した鴎外個人の文学批評誌である。この日は、その編集うちあわせ会であった。
「あいつも不逞《ふてい》の輩《やから》よ。お兄さまの『舞姫』を読んだら、気持が悪くてゲロを吐いたって書いた人、巌本善治《いわもとよしはる》、って批評家」
「気取半之丞《きどりはんのじよう》って筆名を使っているのは石橋忍月《いしばしにんげつ》で、あいつもしょっちゅう一緒に飲み食いをしている一味だよ」
落合直文は、焼き芋の皮をむきながら口惜《くや》しそうに唇を噛《か》んだ。
「硯友社は山賊みたいなゴロ集団ですよ、アチチチ。小説家も批評家も同じ社員で、江見なんて強いのから秋声《しゆうせい》みたいな理不尽の者まで、みーんな一味なんだぞ。ハフハフ。ぼくなんかちょっとでも悪く言ったら、消されちまうもん」
石橋忍月は、気取半之丞の名で、鴎外の『舞姫』を「支離滅裂」とけなした。『舞姫』は帰国そうそうの鴎外が、切々とした心情で雑誌「国民之友」に発表した自伝的短篇小説である。ドイツに留学した主人公が踊り子エリスと親しくなるが、日本の官庁にばれ、男はエリスを捨てて帰国する。一所懸命書いた処女作を忍月に、襤褸糞《ぼろくそ》にけなされた。忍月は、「鴎外は功名を捨てて恋愛をとれ」と書いたのだ。鴎外は「しからみ草紙」に猛烈な反駁《はんばく》文をのせて、忍月とやりあった。
「小説家は、医者よりしぶてえな。連中は、口が達者で、徒党でくる。俺なんかおかかえ批評家がいないから、自分で自分を誉《ほ》めるしかない。連中は身うちは誉めるが、優秀なよその新人は、よってたかってつぶすんだよ、うぐ」
弟の篤次郎は、興奮しすぎて、焼き芋を喉《のど》へつかえさせた。
「よーし、こうなったら坪内を文壇からひきずりおろしてやる」
鴎外の眼はギラギラと光った。
忍月との泥仕合は二年間にわたってつづき、忍月は鴎外の新作『文《ふみ》づかひ』にも難癖《なんくせ》をつけてきた。そんななかで、逍遥との応酬がすでにはじまっていた。逍遥には、鴎外という前頭《まえがしら》筆頭あたりの新人は、忍月あたりにまかせておけばことたりる、という気があった。一年前、鴎外は「早稲田文学」に逍遥が書いた「没理想論」に噛《か》みついたが、逍遥は「烏有《うゆう》先生に謝す」と書いて軽くかわしてきた。
「小説には理想がいらないってほざくのは、もう目茶苦茶だ。あいつはシェークスピヤがすぐれているのは没理想だっていうんだからな。勉強不足もはなはだしい」
「あいつは、フェノロサ先生の試験に落ちたんだ。ホートン先生の英語の授業だって落第すれすれで、モグモグモグ」
「まあ、その後、ちったあ勉強したんだろうけど、あの言い訳はゾラのまねだよ。そもそもゾラなんて、どうってことはない。ゾラごとまとめて、ケチョンケチョンに叩《たた》いてやる。こちらは小説はへたでも、理屈じゃ負けねエや」
「そうよ、お兄さま、がんがん行きなさいよ。ほら、もうひとつ焼き芋食べてよ」
妹の喜美子も「しからみ草紙」にレルモントフ『浴泉記』を訳している。
「文学には理想は必要よ。理想がなければ人の心はうてなひ、ひ、ひゃっくしょん」
喜美子はくしゃみをして、喉《のど》につかえた焼き芋を、勢いあまって鼻から出した。
「逍遥は、逃げに出ている。ほら、これを見てみろよ。どれをとっても用語が不備だ。哲学がない、美学体系がない。負けそうなので軍談まがいの戯文でおちゃらかしてきた」
直文は、「早稲田文学」の逍遥の文章に赤線を入れて、そこにじかに反論を書き加えていた。
「陣頭《じんとう》に馬《うま》を立《た》てて敵将軍《てきしようぐん》に物申《ものもう》す」「雅俗折衷之助《がぞくせつちゆうのすけ》が軍配《ぐんばい》」「入道常見《にゆうどうじようけん》が軍評議《ぐんひようぎ》」「文殊菩薩《もんじゆぼさつ》が剛意見《こわいけん》」「小羊子《こひつじし》が矢《や》ぶみ」と、逍遥の反論が並んでいた。
「この『小羊子が矢ぶみ』というのは、和解の申し入れでしょ。降参したいって言ってるだけで要領を得ない。ていよく逃げようとして、卑怯《ひきよう》なやつだ」
「早稲田文学」は月二回発行だから、やつぎばやの弁明になった。一号に二つ反論を載せる号もあった。
「逍遥は独学で勉強不足だ。神田の大学図書館にこもって訳してたって、そんなのはただの紙学問だ。したがって、ハルトマンを知らない」
鴎外は湯気が出ている大きい焼き芋をまっぷたつに折った。ハルトマンに関しては、そこにいあわせた三人は、だれも知らないが、みんな知っているふりをしてうなずいた。
「ようは没理想の歴史的意義なのだ。戯作の前提だけで考えとるからこうなる」
「やっぱり、外国《あちら》へ行かなきゃねえ」
と喜美子は、熱い焼き芋を手でさすった。焼き芋のことを鴎外の母は「書生の羊羹《ようかん》」といっている。
鴎外は、帝大教授の外山正一《とやままさかず》の論説「日本絵画の未来」にも再三|反駁《はんばく》して論戦をいどんでいた。医事評論家との論争も依然としてつづいている。このところ、かたっぱしから論戦、論戦で、喧嘩をすることが生きている証《あか》しなのだ。そのなかでも一番手ごわいのが逍遥だ。こういえばああいい、押せば下がり、つけばするりと身をかわす。逍遥は読売新聞の文芸時評を書いている。鴎外も、たまには読売新聞に書かせてもらうが、鴎外のほうが枚数も回数も少ない。自前の雑誌「しからみ草紙」に書くしかないのだ。
「息の根をとめてやる。和議を申し入れても、許しちゃおけない。『小説神髄』は害悪である。こちらに負けたとみると、戯文による奇策でおちゃらかせて、水に流そうとするその性根《しようね》が腐っておる。かくなるうえは、次号の『しからみ草紙』で、逍遥の矛盾をハラワタの裏まで暴き出して、グウの音も出ないように虚像をひっぺがし、ぐははと嘲笑《ちようしよう》してやるわ」
「やっちゃいましょう、お兄さま。ドカーンとぶっ倒して、また焼き芋で凱歌《がいか》をあげましょう」
喜美子は、焼き芋の皮を、庭の雀の群れにむかって力まかせに投げつけた。
この年、東京京橋区|入船《いりふね》町で芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》が生まれた。色黒で、眼が細くつりあがった剣客のような赤ん坊であった。
一九〇四年のうな丼[#「一九〇四年のうな丼」はゴシック体]
本郷の駒込千駄木の家で漱石は、正岡子規の弟子の高浜清《たかはまきよし》とうな丼を食べていた。清は俳号を虚子《きよし》と名乗っていた。漱石は一年前にロンドンから帰国したばかりで、帰国する寸前に親友の正岡子規を三十六歳で亡くした。それで子規の弟分の虚子の面倒を見るはめになった。虚子は七歳下で三十一歳になっている。
漱石はロンドン留学中、イギリスの飯があまりにまずいので、胃潰瘍《いかいよう》になり、発狂寸前になったが、帰国してうな丼を食べたら、けろりとなおった。その経験により、客が来ると、ごちそうするという口実で、出前のうな丼を注文した。妻の鏡子《きようこ》は一家をきりもりする主婦であるから、値の高いうな丼をとると不機嫌になる。漱石は東京帝国大学と一高で教えており、給料は東京帝国大学が年七百円、一高が八百円だった。まあ、いい給料のほうだが、親戚や知人が金を借りに来るうえ、養父の塩原昌之助までおちぶれて金をせびりにきた。妻鏡子の父も相場に手を出して借金にきた。
「ここは、以前、鴎外が住んでいた家でしょう。あらら、うまそうなうな丼だなア。ムシャムシャ」
と虚子が食べはじめた。
鴎外は、逍遥と硯友社をこっぱみじんにやっつけて、押しも押されもせぬ論客になっている。文壇のうるさい親分衆をひととおり攻撃して退散させて、いまや一番怖れられる存在だ。この年の日露戦争では第二軍軍医部長となり、立派な髭《ひげ》を生やして軍服に勲章を下げて歩いていた。
「この家は借家だよ。鴎外なんかどうでもいい。吾輩が留学中に日本の文壇はずいぶんさまがわりした。軍刀ぶらさげたのが文壇の親分か。うーむ、それにしても、うまいうな丼だ。宮川のうな丼はタレがいいんだ。ロンドンには、ビスケットしかないぜ。ムシャムシャムシャ」
「紅葉は一年前にあっけなく死んでしまいました。これで、硯友社も終りですよ。いまは鴎外の天下です」
「紅葉は三十七歳で死んだか。あの人は、私や子規の一年先輩だが、死んじまえば、それまでだ。紅葉は死ぬときに、弟子連中を一堂に集めて、これからはまずいものを食って文章を書け、って説教したらしいな」
「あの人らしいですな。まずいもの食ったって、いい小説が書けるわけがない」
「おっしゃる通り。きみ、その奈良漬けを残すの」
漱石は、虚子のうな丼についてきた小皿の奈良漬けをとってポリポリと噛《か》んだ。
「鴎外の博識にはみんなかなわなかったんですよ。本場仕込みだし、日本でしこしこやってたってついていけない。そこのところは漱石先生も同じだ。ねえ、おねがいですから、鴎外をやっつけて下さいな。軍刀さげた役人が文壇を牛耳《ぎゆうじ》るってのが、どうも気にくわない。小説ってのはやっぱり、文人が書かなけりゃいけないや。ぼくは、子規兄いがやろうとしてできなかったことを、夏目の兄さんにやっていただきたい。ね、夏目の兄さんは、本当は小説を書きたいんじゃないんですか。今度、『ホトトギス』の山会があります。そのときまでに、小説を書いて下さいな。集まるのは、四方太《しほうだ》、鼠骨《そこつ》、碧梧桐《へきごとう》、伊藤左千夫《いとうさちお》、長塚節《ながつかたかし》といった連中で」
漱石は、
「ならばこれを読んでみろよ」
と、三十枚ほどの原稿の束を渡した。
虚子は、うな丼を三分の一残したまま、その原稿を手にとり、読みはじめて、途中でケラケラと笑った。笑いながらも、眼が真剣になっている。
「おもしろいですね、これは」
「戯文だよ。学者の家庭生活ってのは、そんなものさ。シャルル・ペローの『長靴をはいた猫』の夏目版といったところだ」
虚子は夢中になって読みふけっている。漱石は、虚子が食べ残したうな丼が気になってしかたがないが、こんなうまいうな丼を食べ忘れるほど虚子が読みふけっているので、いささか自信がわいた。
「ドイツの作家エルンネスト・テオドール・アマデウス・ホフマンが『牡猫ムルの人生観ならびに楽長ヨハンネス・クライスラーの断片的な伝記』というじつに長い題の、猫を主人公にした小説を書いておってな、とあるロンドンの古書店でその本を見つけた余はなに気なく、手にして、きみ、うな丼を残すのかい」
「いや、食べます、食べます」
虚子は、あわてて、うな丼の飯をかきこみ、また読みつづけた。虚子の手もとから、うなぎ飯がぽろりとこぼれた。
にゃあ、とねばりのある鳴き声がして、うす汚れた野良猫が、こぼれたうなぎ飯を食べにきた。
「この猫がモデルですかい」
「そうだよ。妻の鏡子が猫嫌いなんで、つまみ出して棄《す》てたが、何度棄てても戻ってきてとうとう居ついてしまった」
爪のさきまでが黒い猫だった。
全部読み終った虚子は、ほーっと溜《た》め息《いき》をつき、
「すこぶるつきの大傑作だ。まるごと凄《すげ》えや。こういうのは鴎外には書けません。鴎外は、理屈ばかりで、小説はへたですよ。だから、鴎外の本は売れないんです」
気をよくした漱石は、
「ならば秋声《しゆうせい》はどうかね」
と訊《き》いてみた。
徳田《とくだ》秋声は、漱石のことを悪く言っている。逍遥は、はなから漱石を無視して、ロンドン帰りの学者先生と小馬鹿にしていた。留学帰りの漱石に対しては、文壇も論壇も冷ややかであった。
「だれも、こんなのは書けませんや。これが出れば大評判になりますよ」
漱石は虚子にすすめられて、前号の「ホトトギス」に戯文「自転車日記」を書いていたが、少しも話題にならなかった。
「じゃ、新潮社に売りこもうかね」
「ま、待って下さいよ。『ホトトギス』にいただきます。そうじゃなければ子規先生に叱《しか》られる」
これまで雑誌「新声」を発行していた新声社は、この年五月から新潮社となり、投書雑誌的な「新潮」を創刊して、文芸路線を開拓しはじめていた。二年前に新声社〈アカツキ叢誌《そうし》〉で出た田山花袋《たやまかたい》『重右衛門の最後』は、漱石も読んでみたが、さほど面白いとは思えなかった。漱石が帰国して最初に読んだ本が、このアカツキ叢誌であった。
「題はどうしようかね。『猫伝』というのを考えたが」
「いや、それよりも、冒頭の一句『吾輩は猫である』がいいですよ。これは評判になる。ところどころ書きなおしていただいて、『ホトトギス』の来年一月号に載せましょう」
虚子は、うな丼の丼の下についたごはんつぶを指でつまんで、口へ放り入れた。
この年、東京|麹町《こうじまち》では目もとの涼しい赤ん坊が生まれた。堀辰雄《ほりたつお》という。また前年の十二月三十一日、下関のブリキ屋の二階で、ひっそりと女の私生児が生まれた。林芙美子《はやしふみこ》という。
一九〇九年のポテトスープ[#「一九〇九年のポテトスープ」はゴシック体]
この年、二葉亭四迷はインド洋上で謎の死をとげた。そうとは知らずに、本郷団子坂の観潮楼は多くの客で賑《にぎ》わっていた。観潮楼は鴎外が新築した豪邸である。鴎外は陸軍軍医総監として、軍服に身を包んでにこやかに客を迎えている。
観潮楼は谷中《やなか》を見晴らす高台にあり、門を入ると石畳がつづき、二十歩進むとさらに屋根つきの門があり、この扉を押し開くと石畳は右へ曲がって玄関につきあたる。玄関の側はヤツデの植込み、その奥に石灯籠《いしどうろう》という武家屋敷の造りだ。その重々しい屋敷からぷーんとおいしい匂いが漂ってくる。鴎外が再婚した妻|志《し》げは料理が得意で、女中連を手ぎわよく指示して、見よう見まねでドイツ料理を作っている。肉を揚げる香り、温野菜にかけるドレッシングの香り、玉葱《たまねぎ》をいためる香りが、床の間にデンと飾られた岡田三郎助《おかださぶろうすけ》の巴里《パリ》郊外図にまでたちのぼってくる。
ドイツ料理の匂いに包まれて、客間へ通じる廊下の暗がりにドイツ語辞典や洋書、『古事類苑』『群書類従』『江戸名所図会』『里見八犬伝』といった和書がつんである。その古書のつーんとすえた臭いが、ドイツ料理のやわらかい匂いと一体となり、学術|晩餐会《ばんさんかい》の趣きがあった。
客席を見渡せば、佐佐木信綱《ささきのぶつな》、与謝野鉄幹《よさのてつかん》・晶子《あきこ》、北原白秋《きたはらはくしゆう》、斉藤茂吉《さいとうもきち》、吉井勇《よしいいさむ》がいた。暗がりで恥ずかしそうにうつむいているのは鉄幹が連れてきた新人の石川啄木《いしかわたくぼく》だ。蓬髪《ほうはつ》の斎藤緑雨《さいとうりよくう》が青白い目を光らせている。木下杢太郎《きのしたもくたろう》、平野万里《ひらのばんり》、古泉千樫《こいずみちかし》、伊藤左千夫、平出修《ひらいでしゆう》、とそうそうたる歌人ばかりである。
居並ぶ客の前に、ポテトスープがしずしずと運ばれてきた。
「どうぞ、お召しあがり下さい」
鴎外は愉快そうに肩を揺すった。
「ワインは山県有朋《やまがたありとも》公より賜《たま》わったものです。御遠慮なく飲んで下さい」
鴎外はここ数年軍務に専念し、文学方面からは遠ざかっている。かつて逍遥に噛みついたころの殺気が、温厚に笑う顔の底に沈んでいる。
「本日のお題は三つです。それぞれ、各先生から御提示いただきましょう」
鴎外の声にうながされて、佐佐木信綱が、「月光」と書いた紙を床の間に貼《は》った。信綱は長身に紋付の羽織袴《はおりはかま》をつけて、公卿《くぎよう》のような面長な顔でゆったりと客を見渡した。
つづいて立ちあがったのは、丸顔で、でっぷりと太った伊藤左千夫である。左千夫は牛乳屋の主人だが、この場ではふてぶてしくふるまっている。死んだ子規の一番弟子だという自負がある。左千夫は「川」と書いた紙を貼り出した。
最後に立ったのは与謝野鉄幹で、愛想よく笑みを浮かべながら「林檎《りんご》」と書いた紙を貼り出した。鉄幹は、晶子はじめ白秋や吉井勇、啄木という「スバル」同人を多く引きつれており、座もちをよくする世話役だ。「スバル」はこの年の一月に創刊されて、鴎外も寄稿していた。
鴎外は自分の雑誌「めさまし草」をすでにやめている。日露戦争に従軍して、雑誌どころではなくなったためだ。世間は、鴎外を軍医でありながら文芸に理解ある人物として扱っていた。鴎外は文壇からは遠ざかったが、そのかわり軍医総監となった。
「まずは、召しあがっていただき、そのあとで披講いたしましょう。これは、ほんの遊びの会ですから」
と鴎外は言った。
この三人を呼んだのには鴎外の意図があった。三人は仲が悪い。旧派の信綱は伝統を重んずる流麗典雅な歌風で、「心の花」を主宰して、上流階級の弟子が多い。牛乳屋の左千夫は、子規の死後「アララギ」を主宰している。左千夫の師子規は、かつて「鉄幹是ならば子規非なり」とまで言って鉄幹を罵《ののし》った張本人であり、左千夫は信綱主宰の「心の花」に鉄幹攻撃の論文を書いた。性格が激しく、他をうけいれない性格は鉄幹も同じである。
本来なら、たちまち喧嘩《けんか》になる三派である。その三派を呼びつけるところに鴎外の力があった。怒らせれば、なんにでも噛みつく素性はみんな知っている。現在《いまのところ》は沈黙しているが、喧嘩っぱやいのは鴎外がぬきんでている。その鴎外が礼をつくして、自宅の宴会に呼ぶのを一同は断るわけにはいかない。
なかでも、一番うきうきしているのは鉄幹であった。天敵の子規は死んでおり、「スバル」を創刊し、人気スターの晶子をかかえている。この会の威力により、左千夫からの攻撃は収まりそうだ。
ビーフカツレツが運ばれてきた。デミグラスソースがたっぷりとかかっている。鉄幹は客にフォークとナイフを配るのを手伝った。
左千夫は、
「ふん」
と顔をそむけたが、そむけたところを鴎外に睨《にら》みつけられて、あわてて腕を組み、歌想をねるふりをした。鴎外の目は鋭い。
鴎外は文学を捨てたものの、日露戦争に出征中、陣中で『うた日記』を書き残した。出征中は長い読書をする時間はなく、短歌ばかり読みあさった。鉄幹、晶子、藤村《とうそん》、蒲原有明《かんばらありあけ》、啄木、万里、金子薫園《かねこくんえん》の歌集であった。これらの歌人が大同団結して歌の王道をすすむのが、鴎外が抱いた構想であった。そのために、自宅に歌人をよんで観潮楼歌会を催した。会はすでに三年目になり、盛況をきたしていた。
しかし鴎外には、口にこそ出さないが、ひとりだけ気になる男がいた。
漱石である。
漱石は自分より後発の官費留学生となり、『吾輩は猫である』を発表し、一躍文壇の寵児《ちようじ》となった。つづいて出した『坊っちゃん』も人気の的である。この手の風俗小説は鴎外には到底書けそうもない。あらをさがして難癖をつけてやろうという気もあるが、ロンドン仕込みだから、かつて逍遥を手玉にとって嘲笑したように簡単にはいかない。手ごわい相手であった。
鴎外から見ると、人気の『猫』も『坊っちゃん』も没理想であるところは、逍遥と大差がない。ただし、漱石のものは、『当世書生気質』より数段面白い。それに、聞くところによると、漱石は木曜会と称して、森田草平《もりたそうへい》、鈴木三重吉《すずきみえきち》、小宮豊隆《こみやとよたか》、といった若手を集めて、うな丼を食わしているという。髭は自分より立派なものを生やし手品師のような風貌だ。『坊っちゃん』のあと、朝日新聞に『虞美人草《ぐびじんそう》』『夢十夜』『三四郎』をたてつづけに書いた。鴎外がやりたくてもやれなかったことをどんどんやっている。鴎外が留学から帰ったときに書いた『舞姫』は、「ゲロが出そうだ」とけちょんけちょんにけなされたのに。
鴎外は、漱石がうらやましくてしかたがない。それに、鴎外がカチンときたのは、総理大臣|西園寺公望《さいおんじきんもち》が主催した文士招待の雨声会へ招かれながら、漱石が断ったことである。
これも、鴎外は、やってみたいができることではなかった。鴎外も上司にはしょっちゅうはむかったが、西園寺首相が主催する雨声会に出席して礼をつくし、その後ろだてもあって陸軍軍医総監になれたのである。
本が売れたので、漱石邸で注文するうな丼は特上二段がさね重になっているという。それなら、こちらはドイツ料理のフルコースでいくぞ、と鴎外は決意したのだった。
「なにか、考えごとをなさっていらっしゃるんですか、総監」
と鉄幹が声をかけた。鴎外が黙りこんだので、鉄幹はご機嫌をとった。
「啄木に歌でも歌わせましょうか」
鉄幹は、啄木を呼びつけて、グラスに赤ワインをついだ。白秋がニヤニヤと笑っている。この前年、啄木は北海道の流浪から帰京したばかりだった。
「啄木、歌え」
と鉄幹は命令した。
啄木は、鴎外の横に直立不動で立ち、甲高い声を張りあげて東北の民謡を歌った。あまりに調子っぱずれなので、客はあきれかえった。それでも啄木は歌をやめず、キンキン声を一段と張りあげた。
鴎外もたまらず大声をあげて笑った。
この年、青森県|金木村《かなぎむら》の大地主津島家に六男|修治《しゆうじ》が生まれた。やたらと泣き叫ぶ赤ん坊であった。太宰治《だざいおさむ》こと津島修治である。
一九一六年の海苔巻[#「一九一六年の海苔巻」はゴシック体]
青山斎場で葬儀が行われていた。この年の暮れ、漱石は胃潰瘍で喀血《かつけつ》して五十歳の生涯を閉じた。葬儀をとりしきっているのは俳人の松根東洋城《まつねとうようじよう》、森田草平、和辻哲郎《わつじてつろう》、江口渙《えぐちかん》、松岡譲《まつおかゆずる》、鈴木三重吉、それに息子の伸六《しんろく》といった面々であった。若手の久米正雄《くめまさお》と芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》は雑用係だ。
漱石は砂糖をまぶした南京豆が好きで、鏡子夫人にかくれて、これをコリコリと食べた。それが胃潰瘍をいっそう悪化させた。
葬儀にあたっては弔辞をどうするか、で門弟のあいだでもめた。漱石は門弟知人が多すぎて代表をだれにするかが難しい。朝日新聞村山社長の奉呈する弔辞を無視するのは非礼であるという者と、形式的弔辞は受けつけないとする長老松根東洋城との間で応酬があったが、安倍能成《あべよししげ》の助言で、「門弟有志」の名でやることとなった。
前日の新聞記事に出た葬儀の時間が間違っていたため、会葬者の数は少ないと予想されたが、予想をうわまわる人々が集まった。芥川は祭壇の前に置かれた漱石の遺骸《いがい》をみてオイオイと泣いた。細くきざんだ「南無阿弥陀仏」と書かれた紙が雪のように振りまかれていた。芥川が泣きじゃくっていると、松根東洋城が、
「おまえは早く受付へ行け」
と命令し、芥川は心残りのまま受付へ行った。木枯しがびゅうびゅうと吹きつけてきた。会葬者の列は長く続き、斎場では読経《どきよう》がはじまっていた。芥川は、漱石門下の新入りだから焼香したいのだが、斎場へはなかなか入れない。芥川は朝から何も食べていなかった。
「おい、これを食え」
と久米正雄がきょうぎ箱につめた海苔巻《のりまき》を芥川に差し出した。久米正雄も受付へ廻されてきた。
「なにか食っとかないと躯《からだ》に悪い。おまえはもともと虚弱体質なんだから」
と久米は芥川の目の前へ差し出した。
芥川は、差し出されたかんぴょうの海苔巻を口に入れた。ひんやりとした感触が喉を通りぬけていった。芥川も久米も、気持のなかに穴があいたようになっている。会葬者が署名をすませてつぎつぎに斎場へ入っていき、斎場からの焼香の煙が風に乗って受付まで漂ってきた。
「なんで俺たちだけが受付なんだ。俺は斎場へ入るぞ」
しばらくすると、久米が受付を立った。そのとき黒いフロックコートを着た男が受付へ来て、名刺を差し出した。名刺には、
「森林太郎」
と印刷してあった。芥川は、
「あっ」
と声を出して、その男の顔を見上げたが、フロックコートの男は風のように斎場へ姿を消していた。芥川はしばらく名刺をみつめて、それから木枯しに吹かれながら、冷えた海苔巻を口へ押しこんだ。
この年、満州大連で五味川純平《ごみかわじゆんぺい》が生まれた。「人間の条件」とはなにかを思いつめている哲学的な赤ん坊だった。
一九二五年の鳥鍋[#「一九二五年の鳥鍋」はゴシック体]
シャモ料理「はつね」で、谷崎潤一郎《たにざきじゆんいちろう》、水上滝太郎《みなかみたきたろう》、久保田万太郎《くぼたまんたろう》、里見ク《さとみとん》がシャモ鍋をつついていた。
この日は四度目の鴎外忌が向島弘福寺でひらかれ、その帰りに、春陽堂が一同を誘ったのである。鴎外は晩年になるとまた小説を書きはじめ、「中央公論」に『阿部一族』『山椒《さんしよう》大夫《だゆう》』『高瀬舟』をたてつづけに書いたが、三年前に六十一歳であっさり死んだ。死ぬときは、帝国美術院院長と国語調査会会長のほかいくつかの官職にあったが、遺言に「それらの官職はすべてはずして石見《いわみ》人森林太郎として死ぬ」とあった。
「クさんの兄さんが亡くなって何年になりますか」
と谷崎が訊いた。
「二年です。ちょうど関東大震災があった年ですから」
「つい、このあいだの気がしますねえ」
里見クの兄とは有島武郎《ありしまたけお》のことである。情死であった。
「相手は『婦人公論』の女でしょう。ちかごろは女編集者でも色っぽいのが多いからねえ。武郎さんはひでえ女にひっかかっちまった。クさんは、兄さんのぶん長生きして下さい」
と久保田万太郎が言った。
そこへ、丸眼鏡をかけた妖怪のような小男がせわしなく入ってきた。やせ細った躯に和服を着て、カンカン帽をかぶっている。尾崎紅葉の玄関番をしていた泉鏡太郎である。
「これはこれは、鏡花《きようか》先生じゃありませんか。おめずらしい」
と水上滝太郎が太った躯をゆすって立ちあがった。
鏡花に会うと滝太郎以外の者は、身をカチンと固めてかしこまった。鏡花は人間嫌いの奇人で知られている。師紅葉との確執を書いた『婦系図《おんなけいず》』で人気作家になっていた。
「先生、御一緒にどうぞ」
と滝太郎は鏡花の席をあけた。
「谷崎君は神戸でしょ」
鏡花は蚊の鳴くような声を出した。
「関東大震災で家を焼かれてしまい、六甲の近くに疎開しております。今日は、ひさしぶりに上京いたしましたよ。町はかなり復興しましたな」
と谷崎は答えた。
鏡花が「はつね」へ来たのは、この日、春陽堂から、ここへこのメンバーを呼ぶことを聞き知っていたからである。この前年、春陽堂より『鏡花全集』全十五巻が刊行されはじめていた。谷崎、里見、久保田、水上のほか、小山内薫《おさないかおる》と芥川龍之介が『全集』の編集委員になっている。
鏡花は座ぶとんの上にちょこんと坐って、
「熱燗《あつかん》ね」
と言った。すかさず水上が、
「チンチンにわかして」
とつけ足した。
「ぐらぐら煮て、徳利が指で持てないくらいですよ。唇が焼けるくらいの熱燗」
と里見がつけくわえた。
鏡花は携帯用アルコール綿入れから綿をとり出して手をふいた。極度の黴菌《ばいきん》恐怖症なのである。
「『痴人の愛』読みましたよ。で、谷崎君はおいくつ。芥川君より上ね」
「四十歳です。芥川より六つ上」
「帝大の先輩ね」
「はい」
「帝大はみんな死ぬね。紅葉先生、鴎外先生、漱石先生、子規先生、みーんなお若いのに死んじまった。黴菌にやられたんですよ」
鏡花は、そう言うと、運ばれてきた熱燗を手にとってお猪口《ちよこ》へつぎ、ちゅうちゅうと音をたてて飲んだ。
シャモ鍋の横に大根おろしが伊万里《いまり》染付碗《そめつけわん》に盛られていた。煮えたシャモを大根おろしにつけて食べるのである。仲居が、鏡花のとり皿に大根おろしを入れると、
「やめなさい」
と、鏡花は大根おろしを伊万里染付碗へ戻した。
「大根おろしは、煮なきゃ食べません」
鏡花はアルコール綿で、とり皿についた大根おろしをふいた。
「そう言えば滝田樗陰《たきたちよいん》も、もうだめだって話です。あと一、二カ月の命ですってねえ。名編集長も死んで代がわりですよ」
と春陽堂の編集者が言った。
「『文藝春秋』はどれくらい出てるの。二年前に菊池寛《きくちかん》君が出したときは三千部だった」
「それがいまは十万部をこえてます。それより売れてるのは今年の一月に出た『キング』、百万部ですってよ」
春陽堂が説明するのを聞きながら、谷崎は、シャモを片っ端から食べていた。
「神戸には、こんな鍋はありませんから、東京へ出てきたときに食べておかないと」
と谷崎は言った。
谷崎は、シャモ肉が半生ぐらいのところを好み、入れるそばから食べていた。鏡花の前のシャモ肉まで手を出した。
「ちょいと谷崎君。そのシャモは私のだ」
「でも、先生なかなか食べないから煮えすぎですよ。それで気になって、つい手が出てしまう」
「それじゃ、こうしましょう」
鏡花は五分に切った葱《ねぎ》を鍋に並べて、
「ここからこっちは手を出さないようにしていただきたい。こっちは私の領分、そっちが谷崎君の領分」
そういって、猪口に酒をつぎ、ちゅうと音をたてて飲んだ。
谷崎が春菊を鍋に入れようとすると、
「おやめなさい」
と鏡花が注意した。
「春菊の茎の穴には、はんみょうという毒虫がたまごを産みつけます。春菊なんか食べるから胃が腐って死ぬのです。谷崎君は、長生きして、いいものをお書きにならなきゃいけません。小説家は、みんな春菊で死ぬんです。谷崎君が春菊を入れるのなら、私は、この鍋を食べません」
「はあ、そうですか」
と谷崎は春菊をもどした。
鏡花は、酒好きだが、飲んでも二合までだ。すぐ酔っ払った。酔うと饒舌《じようぜつ》になった。
「チョコレートなんてものは蛇の味がします。私は食べません。シャコ、エビも嫌だ。あれは食人虫です。あんなものを食べるから、口からほおずきが出るんです」
「口からほおずき」というのは吐血のことで鏡花特有の言いまわしだ。
谷崎は、あきれ顔で鏡花を見た。里見はにやにや笑っている。水上は汗をかき、久保田は、毒気にあてられたように呆然《ぼうぜん》としている。
「芥川君はどうした。なんで芥川君はここにいないの」
顔を赤くした鏡花が、煮えすぎのシャモ肉をほおばりながら周囲を見まわした。
「芥川君が書いた『大導寺信輔の半生』はつまらんね。あんな思いつめたものを書いていると死にますよ。帝大出はとくに危ない。芥川君は自殺するんじゃないかね」
鏡花が、そんなことを言ったので、谷崎は言葉をつまらせた。谷崎は、芥川攻撃の批評を雑誌に書いたところだった。芥川がいきづまっていることは、谷崎はよく知っていた。鏡花は、谷崎と芥川がやりあっていることを雑誌で読んでいたので、それをつい口にしたのである。
一同が蒼《あお》ざめて鏡花を見ると、鏡花は甲高く、
「ケケケケケ」
と笑い声をあげた。
この年に、東京四谷で農林省水産局長、平岡|梓《あずさ》に長男が生まれた。目がくりくりっとした赤ん坊は、三島由紀夫《みしまゆきお》こと平岡|公威《きみたけ》である。
一九四二年のスイトン[#「一九四二年のスイトン」はゴシック体]
暮れがおしつまるころ、世田谷区新町の志賀直哉《しがなおや》宅で、武者小路実篤《むしやのこうじさねあつ》がモクモクと、スイトンを食べている。志賀は五年前に長編小説『暗夜行路』を書き終えどっと疲れて、六十歳になっていた。実篤は五十八歳で、「名作を書かない大作家」としての地位を築きつつ、この年の五月に日本文学報国会劇文学部長に就任していた。
一年前の十二月八日、日本海軍は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入していた。開戦とともに小説家や文化人の徴用が始まった。兵隊の「赤紙」に対して「白紙」と言われ、マレー方面へは井伏鱒二《いぶせますじ》、海音寺潮五郎《かいおんじちようごろう》、中島健蔵《なかじまけんぞう》、ビルマ方面へは清水幾太郎《しみずいくたろう》、高見順《たかみじゆん》、ジャワ・ボルネオ方面へは阿部知二《あべともじ》、大宅壮一《おおやそういち》、北原武夫《きたはらたけお》、武田麟太郎《たけだりんたろう》、フィリピン方面へは、石坂洋次郎《いしざかようじろう》、火野葦平《ひのあしへい》、尾崎士郎《おざきしろう》、今日出海《こんひでみ》、三木清《みききよし》、中国方面へは三文編集者|裕乗坊宣明《ゆうじようぼうのぶあき》らが二等兵として送られた。
五十歳をすぎた志賀や実篤らは、兵隊としてはロートルのため徴用をまぬがれた。
レンタンのコンロに載せたアルミ鍋のなかにはスイトンの玉がゆらゆらとゆれている。志賀は、配給のコンブを敷き、醤油《しようゆ》をさしてもう一度、味見をしてから、
「ま、こんなものだが、もっと食え」
と実篤にすすめた。鳥肉と思われる肉が入り、汁にうっすらと脂が浮いている。これはガマガエルの肉だが、志賀はそれを黙っていた。志賀は若いころガマの味噌汁を作って食べ、滋養強壮の薬としていた。
そこへ突然の客が来た。「志賀直哉論」を書いた四十一歳の小林秀雄《こばやしひでお》であった。小林は明治大学教授で気鋭の文芸批評家である。
「やや、いいところへきた。貴君が六月に書いた『無常といふ事』はなかなかの出来だ。近ごろ腕をあげたな」
と志賀は上機嫌で椀《わん》にガマ肉と汁をよそってすすめた。小林は一口すすると、汁が青臭いため吐きそうになったが、食わねば志賀のカンシャクが破裂するので、無理をして食べはじめた。
「私は味音痴だが、この汁はいける」
と実篤はおかわりをしてから、
「貴君は中世に隠遁《いんとん》しましたな。兼好《けんこう》や西行《さいぎよう》に逃げこむとは、いささか不謹慎……」
と小林を薄目で見やった。
この年の五月、日本文学報国会が結成され、常任理事は久米正雄、中村武羅夫《なかむらむらお》、理事は長与善郎《ながよよしろう》などで、小説の部は徳田秋声、劇の部は武者小路実篤、詩の部は高村光太郎《たかむらこうたろう》が部長となり、会長は徳富蘇峰《とくとみそほう》であった。小説家では中里介山《なかざとかいざん》と|内田百閨n《うちだひやつけん》あたりが参加しなかった。十一月にひらかれた第一回大東亜文学者大会では、横光利一《よこみつりいち》がぼそぼそと宣言文を朗読した。大東亜文学者会議により「愛国百人一首」や「詩集大東亜戦作品集」「大東亜戦争歌集」が編集されていた。
「まあ、いいじゃないか。小林君は海軍精神を高揚する『戦争と平和』を書いている」
と志賀がなだめた。小林は、
「武者さんは、かつて、乃木《のぎ》将軍にむかって、軍人は人間の価値を知らぬ、と批判したではありませんか。トルストイを奉じた反戦論者でしょう。そういう人が『大東亜戦争私観』で、文士は文筆によって国に御奉公するのが本分だと書いているのは、どういうことですか」
と迫った。小林は志賀の信奉者ではあるが、実篤を評価しているわけではなかった。
「それは、まあ、情況によって、考えはいろいろムニャムニャ、だムニャ」
と実篤はとぼけた。
小林は、「文学界」同人の中村光夫《なかむらみつお》、林房雄《はやしふさお》、三好達治《みよしたつじ》、亀井勝一郎《かめいかついちろう》、河上徹太郎《かわかみてつたろう》によびかけて、七月に目黒茶寮で「近代の超克」座談会を行った。西欧近代の知性に対して、日本的知性の新秩序を生み出そうとする意図があった。
「戦争は勝つと思うかね」
と武者が訊き、志賀は、無愛相に、
「早く終っちまえばいいんだ」
と答えた。その思いは三人とも同じであった。志賀は話題を変えて、
「帝大学友会主催の座談会へ行ったら、若い学生に阿川弘之《あがわひろゆき》というのがおりましてね、えらい質問攻めにあいましたよ」
と苦笑いした。学生の阿川は二十三歳であった。
「いまどき、三十歳代の連中はなにを考えとるのかわかりませんや」
と小林が言った。
「井伏君が面倒を見ているのに太宰治《だざいおさむ》というのがいますな」
「あいつは三十四歳で、昨年、徴用令状を受けたが、胸部疾患の理由で徴用免除ですよ。衆議院議員津島源右衛門の息子ですぜ。太宰の三歳上に坂口安吾《さかぐちあんご》ってのがいて、あいつは『日本文化私観』というのを書いて、人間のふるさとには救いがない、と言ってやがる。とんでもない不良野郎で、いずれ退治しようと思ってまさあ」
「ほう、威勢がいい」
と志賀はうなずいて、とっておきの酒を出して小林に飲ませた。コップで酒をすーっと飲みほすと、小林はますますべらんめえ調になり、
「太宰と同い年に大岡昇平《おおおかしようへい》ってのがいる。帝国酸素に勤めてますが、ティボーデの『スタンダール伝』の翻訳を青木書店から出して、まあ、こいつはいいほうでさあ」
と言った。
「大岡君は、きみにフランス語の個人教授をうけたんでしょう。帝国酸素へは翻訳係として入ったときいとるがね。河上徹太郎君が、そう言ってたな」
実篤は、とぼけながらも、けっこう事情通であった。
「芥川君の弟子の堀辰雄はどうしとる」
「あいつは軽井沢で療養中です。私より二つ下だから三十九歳だが、病人のくせに図々しい。『菜穂子《なほこ》』なんて小説は、感傷的で娘を喜ばせるだけですよ」
この年、堀辰雄は『菜穂子』により、第一回中央公論社文芸賞を受賞した。文藝春秋社で「文学界」を編集している小林は、中央公論社を敵視していた。
「あの方は肺病やみですから、そこをあたたかく見守ってあげましょうや。本当は、みんないい人なんですよ」
実篤がゆったりと小林をさとした。胃潰瘍の小林は気がたっていた。
この年の五月に、萩原朔太郎《はぎわらさくたろう》は五十七歳で死に、つづいて与謝野晶子が六十五歳で死に、盲目となった北原白秋は持病の糖尿病と腎臓病が悪化し、十一月二日に没した。
物資は極度に不足し、情報局は小説家の動向を油断なくさぐっていた。小林と同じく四十一歳の中野重治《なかのしげはる》は『斎藤茂吉ノオト』を書いて偽装するが、警視庁の取調べを受けつづけ、四十四歳の石川淳《いしかわじゆん》は、「江戸へ留学」すると嘯いて、天明期の戯作者|大田南畝《おおたなんぽ》の世界に遊んだ。
「ひでえ時代になったもんだ」と小林は口をゆがめて、コップ酒をもう一杯あおった。志賀の顔は青ざめ、実篤は、文学報国会に入らざるを得なかった無念で胸が痛い。自ら志願したわけではなく、情報局の指名でひきうけざるを得なかった。日本軍は、ガダルカナル島攻撃に失敗し、みな、日本の敗戦をうすうすと予感していた。
この年、三文編集者裕乗坊宣明は、中国で地雷を踏み、ふっとばされて重傷を負った。その宣明のもとへ、妻美子から、長男英昭が生まれたとの葉書が届いた。栄養失調でひどくやせた性格の悪そうな赤子は、のちの嵐山光三郎である。
嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)
一九四二年東京に生まれる。作家。雑誌編集者を経て独立、執筆活動に専念する。一九八八年、『素人庖丁記』により講談社エッセイ賞受賞。二〇〇〇年『芭蕉の誘惑』によりJTB紀行文学大賞受賞。近著に『文人悪食』『温泉旅行記』『日本詣で』『日本一周ローカル線温泉旅』『ローカル線温泉旅』『死ぬための教養』『東京旅行記』。旅が好きで、一年の半分は国内外を旅行中。
本作品は二〇〇一年七月二十日恒文社21より刊行され、二〇〇四年九月、ちくま文庫の一冊として刊行された。