夢野久作
明治期右翼組織の中心、玄洋社の巨頭杉山茂丸の長男として、明治二二年、福岡市に生まれた。幼名を直樹といい、幼少より、謡曲、能に親しみ、九州日報辞職後は喜多流謡曲教授のかたわら、書きたいものを書く奔放な作家活動に入った。処女作としては、九州日報入社後、紙上に童話『白髭小僧』等発表したが、本格的な小説は大正一五年「新青年」に寄稿した『あやかしの鼓』といわれている。夢野の作品は、父の影響、ポー、ルヴェルの〈怪奇と恐怖〉への興昧もあって、冥界との交感、白己世界の開示が基軸となっており、大長篇『ドグラ・マグラ』は、赴く処の野心的作品となった。
[#地付き]装幀・田村文雄
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天才のゾンビーと道化師のエンジェル
[#地から2字上げ]中 田 耕 治
夢野久作について語ろうとするとき、きまって私の内面をかすめる一行の詩句がある。
Les uns disent genie et les autres bouffons.
(ある人は天才という、またある人は道化師と)
もとより、夢野久作には何のかかわりもない詩の一行に過ぎないが、私はこの詩の成立事情をふくめて、皮肉で単純化された表現が気に入っている。
ところで夢野久作が天才であるかどうか考える必要はない。ということは、彼が道化師であるかどうか、という命題も不必要なのだ。これは、彼の代表作といえる「ドグラ・マグラ」を推埋小説と考える必要はないし、また推理小説の枠に入れてもたいして意味がない、ということと同断なのだ。このあたりを解説してみたいと思う。
夢野久作は、天才的な芸術家、作家によくあることだが、制作のみごとさに対して逆比例的におのれの制作理論を語ることにおいて、つねに拙劣な一人であった。夢野久作の作品を愛することにおいては人後に落ちない私だが、たとえばつぎのような断言にぶつかると、ほとんど茫然とする。
「この故に探偵小説は現在の如く、ほかの芸術のアパートに間借りして、小さくなって生活すべきものでない。近い将来に於て、過去の一切の芸術を圧倒し、圧殺して、芸術の全アパートを占有し、奔放自在に荒れまわるであろうところの最も新しい芸術の萌芽でなければならぬ。」(甲賀三郎氏に答う)
私は夢野久作がこういう信念をもっていたことを否定的には考えない。この短い一節からも、不当に貶下されていた日本のミステリーの状況はうかがえるし、この気宇壮大な発言の背後には夢野の憤り、嘆きさえ響いている。たしかにミステリ─は「ほかの芸術のアパートに間借りして、小さくなって」いる必要はない。しかし、近い将来にも遠い将来にも「過去の一切の芸術を圧倒し、圧殺」するような破天荒な事態は起るはずがない。それは夢野自身も気がついたらしく、辛うじて「最も新しい芸術の萌芽」という表現で逃げている。したがって、この粗雑な希望的観測はまったく無意味で、まさに道化師の表現にほかならない。
だが、この論理の背後に隠されている「過去の一切の芸術を圧倒し、圧殺して」、「奔放自在に荒れまわるであろう」ところの夢野久作の溌剌たる夢が、その作品にいくぶんでも実現されていると見れば、これはまさに天才的な発言といえよう。また、たとえば、夢野久作が──ミステリーの使命はプリズムのようなものであって、古い芸術の焦点をなしている太陽の白光を「冒涜し、嘲笑し、分析して七色にして見せる尖端芸術」と規定しながら、
「従来の心理[#「心理」に傍点]描写は平凡な心裡[#「心裡」に傍点]描写に過ぎなかった。だから将米の心理[#「心理」に傍点]描写こそは真実な心理そのものの解析、綜合でなければならぬ。」(探偵小説の真使命)
という。ここでも、ミステリーをアパートやプリズムといった比喩で語る奇矯な発想(逆にいえば、彼の非論理性《イロジカリティー》、論理への嫌悪をしめす)に驚かされるし、ミステリーがはたして「尖端芸術」であり得るかどうかの妥当性も疑わしい。だが、将来の心理描写が心理そのものの解析、綜合でなければならぬという確信は、彼自身を心理主義から切り離し、内面的な真実の追求者としての姿をあらわすだろう。とくに「戦場」などの短篇において。彼がこの作品において企図したものは、たんなる戦場心理、ひそかな反戦思想を越えた、人間の恐怖と戦慄にほかならない。
処女作の「あやかしの鼓」は、殺人放火の疑いで追われなければならない青年の書き置きだった。「押絵の奇蹟」は病床についている少女の手紙だったし、「瓶詰地獄」は、時間の順序が逆になった三つの手紙だった。そこに語られているものは、恐怖と戦慄を基調にしたプリズムの七光といってよいが、私は、初期の夢野久作が、いずれも手紙とか書き置きといった設定を好んでいたことに注意したい。彼の同時代の作家たち、乱歩や、浜尾四郎、大下宇陀児から、渡辺啓助などにも、こういう形式は見られるのだから、一つの文学的技法と見てもいいのだが、それでも私は、夢野久作の場合、こういう形式(たとえば「少女地獄」で、書簡体の形式が小説の導入部になっている)は彼の制作の秘密を物語っているような気がする。技法がじつは思想にほかならないようなタイプの作家に属しているからだ。そして、これは彼の叙述《ナレーティヴ》の性質をしめしていて、「S岬西洋婦人絞殺事件」の冒頭の実話仕立て、「二重心臓」の新聞記事、「犬神博士」の天衣無縫なモノローグの導入部、「暗黒公使《ダーク・ミニスター》」の外交秘録、(この作品の「志村浩太郎」の手紙にも注意しよう)、「氷の涯」の遺書、「白くれない」の自伝といったふうに、夢野久作の小説世界では、かなり顕著な特質をなしている。もとよりこれは「枠のなかの小説」という形式にほかならないが、夢野久作には、こういう形式をとらなければならなかった必然的な理由があった、と想像できる。つまり、彼は自分の混沌たる内面の表現に訴及力をあたえる必要があった、と。そうしなければ、彼の奔放な筆致は、しばしば破綻に近いほど小説を歪めるだろう。彼の想像力はあまりに奔逸するために、同格、重文、複文といった構造をとることが多いし、会話はきわめて饒舌になる。こうした叙述の特質に均斉をあたえるために、彼の作品は手紙や書き置きといった枠を必要としている。
ことは文学的な技法の問題ではない。ここに彼の偏執的な内面と、そこに奔騰する想像力、これを統御しようとする苛烈な意志、さらにはそこに露呈する異常な神経が認められるだろう。彼の世界には、日常のなかにあらわれる異常な要素と、異常な状況のなかにあらわれるきわめて日常的な要素の二つのあらわれがある。これは、「戦場」では、平凡な軍医が見た凄惨な戦傷者たちの姿だったり、「いなか・の・じけん」の巡査が見た事件といったシチュエーションにあらわれるし、「少女地獄」の第五の手紙のような、奇怪な日常性や「死後の恋」のエンディングなどを思いうかべれば足りよう。そして、これはもう少し調べれば、夢野久作の内面の起伏をたしかめることができるように思われる。さらに、そこに見られるものは、表面は自我の曼陀羅でありながら、その背後に正気と狂気の背理と錯乱が透けてくるだろう。いってみれば、夢野久作の世界は、天才のゾンビーと道化師のエンジェルが共棲している異様な世界なのだ。
この「悪魔祈祷書」に収録された作品について、個々に解説する必要はない。ただ「巡査辞職」が昭和十年十一月、十二月に、「少女地獄」が昭和十一年三月、「悪魔祈祷書」が三月、同じく「戦場」が五月に発衣されていることだけは書いておかなければならない。つまり、夢野久作、最晩年の作品群である。彼の作家活動はほぼ十年であったことを考えると、これらの作品が実現し得たものは、それこそ、「最も新しい芸術萌芽」と見てよい。「氷の涯」から急速にジャーナリズムの注視を浴びた作家が、これほどのものを実現し得たことに私は感動する。と同時に、ほんらい彼が志向しながら、それが「萌芽」にとどまったことに痛恨さえおぼえる。
時代は急迫していた。そういう時代のなかで、小栗虫太郎、久生十蘭、国枝史郎、渡辺啓助といった作家たちが強いられた苦渋を知らずに夭折した作家といえるのだが、しかし、ひろく見れば、夢野久作は一種の颱風の目のような存在ではなかったか。
冒頭に引用した詩は、じつは詩とは呼べないもので、俳優のルイ・ジュヴェが、ヴィクトル・ユーゴーを嘲弄するために、ユーゴー自身の詩をパロディしたものである、(私は、夢野久作を貶めるために引用したわけではない。)そういえば、もう一つ思い出す。ユーゴーは自分をヴィクトル・ユーゴーだと思っている狂人だ、とコクトオはいった。こういういいかたを、さらにパロディすれば、夢野久作は自分を夢野久作だと思っていた天才だったし、また、自分を夢野久作だと思っていた道化師なのかも知れない。
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著者略歴
夢野久作(ゆめのきゅうさく)本名・杉山泰道
1889年 福岡市に生まる
1936年 逝去