ドグラ・マグラ
夢野久作
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目次
ドグラ・マグラ
|精神操作の《マインド・コントロール》恐怖と自由の問題(奈良宏志)
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ドグラ・マグラ
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巻頭歌
胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか
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…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
私がウスウスと眼を覚ました時、こうした蜜《みつ》蜂《ばち》の唸《うな》るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残していた。
それをジッと聞いているうちに……今は真夜中だな……と直覚した。そうしてどこか近くでボンボン時計が鳴っているんだな……と思い思い、またもウトウトしているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がヒッソリと静まり返ってしまった。
私はフッと眼を開いた。
かなり高い、白いペンキ塗の天井裏から、薄白い塵埃《ほこり》に蔽《おお》われた裸の電球がタッタ一つブラ下がっている。その赤黄色く光るガラス球の横腹に、大きな蠅《はえ》が一匹とまっていて、死んだように凝《じ》然《つ》としている。その真下の固い、冷たい人造石の床の上に、私は大の字型《なり》に長くなって寝ているようである。
……おかしいな……。
私は大の字型に凝然としたまま、瞼《まぶた》を一パイに見開いた。そうして眼の球だけをグルリグルリと上下左右に回転さしてみた。
青黒いコンクリートの壁で囲まれた二間四方ばかりの部屋である。
その三方の壁に、黒い鉄格子と、鉄《かな》網《あみ》で二重に張り詰めた、大きな縦長い磨《すり》ガラスの窓が一つずつ、都合三つ取り付けられている、トテモ要心堅固に構えた部屋の感じである。
窓のない側の壁の付け根には、やはり頑《がん》丈《じよう》な鉄の寝台が一個、入口の方向を枕《まくら》にして横たえてあるが、その上のまっ白な寝具が、キチンと敷き展《なら》べたままになっているところを見ると、まだ誰も寝たことがないらしい。
……おかしいぞ……。
私は少し頭を持ち上げて、自分の身体《からだ》を見廻してみた。
白い、新しいゴワゴワした木《も》綿《めん》の着物が二枚重ねて着せてあって、短いガーゼの帯が一本、胸高に結んである。そこから丸々と肥って突き出ている四本の手足は、全体にドス黒く、垢《あか》だらけになっている……そのキタナラシサ……。
……いよいよおかしい……。
こわごわ右《め》手《て》をあげて、自分の顔を撫《な》でまわしてみた。
……鼻が尖《と》んがって……眼が落ち窪《くぼ》んで……頭髪が蓬《ほう》々《ほう》と乱れて……顎《あご》鬚《ひげ》がモジャモジャと延びて……。
……私はガバと跳《は》ね起きた。
モウ一度、顔を撫でまわしてみた。
そこいらをキョロキョロと見まわした。
……誰だろう……おれはコンナ人間を知らない……。
胸の動《どう》悸《き》がみるみる高まった。早鐘を撞《つ》くように乱れ撃ち始めた……呼吸が、それにつれて荒くなった。やがて死ぬかと思うほど喘《あえ》ぎ出した。……かと思うとまた、ヒッソリと静まって来た。
……こんな不思議なことがあろうか……。
……自分で自分を忘れてしまっている……。
……いくら考えても、どこの何者だか思い出せない。……自分の過去の思い出としては、たった今聞いたブウ――ンンンというボンボン時計の音がタッタ一つ、記憶に残っている。……ソレッきりである……。
……それでいて気はたしかである。森閑とした暗黒が、部屋の外を取巻いて、どこまでもどこまでも続き広がっていることがハッキリと感じられる……。
……夢ではない……たしかに夢では……。
私は飛び上った。
……窓の前に駈《か》け寄って、磨ガラスの平面を覗《のぞ》いた。そこに映った自分の容《かお》貌《かたち》を見て、何かの記憶を喚《よ》び起そうとした。……しかし、それは何にもならなかった。磨ガラスの表面には、髪の毛のモジャモジャした悪鬼のような、私自身の影法師しか映らなかった。
私は身を翻して寝台の枕元にある入口の扉《ドア》に駈け寄った。鍵《かぎ》穴《あな》だけがポツンと開いている真《しん》鍮《ちゆう》の金具に顔を近付けた。けれどもその金具の表面は、私の顔を写さなかった。ただ、黄色い薄暗い光を反射するばかりであった。
……寝台の脚を探しまわった。寝具を引っくり返してみた。着ている着物までも帯を解いて裏返して見たけれども、私の名前はおろか、頭文字らしいものすら発見し得なかった。
私は呆《ぼう》然《ぜん》となった。私は依然として未知の世界にいる未知の私であった。私自身にも誰だかわからない私であった。
こう考えているうちに、私は、帯を引きずったまま、無限の空間を、スーッと垂直に、どこへか落ちて行くような気がしはじめた。臓《はら》腑《わた》の底から湧《わ》き出して来る戦《せん》慄《りつ》と共に、我を忘れて大声をあげた。
それは金属性を帯びた、突拍子もない甲高い声であった……が……その声は私に、過去の何事かを思い出させる間もないうちに、四方のコンクリート壁に吸い込まれて、消え失せてしまった。
また叫んだ。……けれどもやはり無駄であった。その声がひとしきり烈しく波動して、渦巻いて、消え去ったあとには、四つの壁と、三つの窓と、一つの扉が、いよいよ厳粛に静まり返っているばかりである。
また叫ぼうとした。……けれどもその声は、まだ声にならないうちに、咽《の》喉《ど》の奥の方へ引返してしまった。叫ぶたびに深まって行く静寂の恐ろしさ……。
奥歯がガチガチと音を立てはじめた。膝《ひざ》頭《がしら》が自然とガクガクしだした。それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦しさ。
私は、いつのまにか喘ぎ始めていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の中《まん》央《なか》に棒立ちになったまま喘いでいた。
……ここは監獄か……精神病院か……。
そう思えば思うほど高まる呼吸の音が、凩《こがらし》のように深夜の四壁に反響するのを聞いていた。
そのうちに私は気が遠くなって来た。眼の前がズウーとまっ暗くなって来た。そうして棒のように強直した全身に、生汗をビッショリと流したまま仰向けざまにストーンと、倒れそうになったので、われ知らず観念の眼《まなこ》を閉じた……と思ったが……また、ハッと機械のように足を踏み直した。両眼をカッと見開いて、寝台の向う側のコンクリート壁を凝視した。
そのコンクリート壁の向う側から、奇妙な声が聞こえて来たからであった。
……それは確かに若い女の声と思われた。けれども、その音調はトテも人間の肉声とは思えないほど嗄《か》れてしまって、ただ、底悲しい、痛々しい響きばかりが、コンクリートの壁を透《とお》して来るのであった。
「……お兄さま。お兄さま。お兄さま、お兄さま、お兄さま、お兄さま、お兄さま。……モウ一度……今のお声を……聞かしてエーッ……」
私は愕《がく》然《ぜん》として縮み上った。思わずモウ一度、背後《うしろ》を振り返った。この部屋の中に、私以外の人間が一人もいないことを承知し抜いていながら……それからまたも、その女の声を滲《し》み透して来る、コンクリート壁の一部分を、穴のあくほど、凝視した。
「……お兄さま、お兄さま、お兄さま、お兄さま、お兄さま……お隣りのお部屋にいらっしゃるお兄様……あたしです。あたしです。お兄様の許嫁《いいなずけ》だった……あなたの未来の妻でしたあたし……あたしです。あたしです。どうぞ……どうぞ今のお声をモウ一度聞かして頂戴……聞かして……聞かしてエーッ……お兄様、お兄様、お兄様、お兄様……おにいさまアーッ……」
私は眼瞼《まぶた》が痛くなるほど両眼を見開いた。唇《くちびる》をアングリと開いた。その声に吸い付けられるようにヒョロヒョロと二、三歩前に出た。そうして両手で下腹をシッカリと押え付けた。そのまま一心にコンクリートの壁を白眼《にら》み付けた。
それは聞いている者の心臓を虚《こ》空《くう》に吊《つる》し上げるほどのモノスゴイ純情の叫びであった。臓腑をドン底まで凍らせずにはおかないくらいタマラナイ絶体絶命の声であった。……いつから私を呼び始めたかわからぬ……そうしてこれから先、何千年、何万年、呼び続けるかわからない、真剣な深い怨《うら》みの声であった。それが深夜のコンクリート壁の向うから私? を呼びかけているのであった。
「……お兄さま……お兄さま、お兄さま、お兄さま。なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。あたしです、あたしです、あたしです、あたしです。お兄さまはお忘れになったのですか。あたしですよ。あたしですよ。お兄様の許嫁だった……あたし……あたしをお忘れになったのですか。……あたしはお兄様と御一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。……それがチャント生き返って……お墓の中から生き返ってここにいるのですよ。幽霊でも何でもありませんよ……お兄さま、お兄さま、お兄さま、お兄さま。……ナゼ返事をして下さらないのですか……お兄様はあの時のことをお忘れになったのですか……」
私はヨロヨロと背後《うしろ》によろめいた。モウ一度眼を皿のようにしてその声の聞こえて来る方向を凝視した。
……何という奇怪な言葉だ。
……壁の向うの少女は私を知っている。私の許嫁だと言っている。……しかも私と結婚式を挙げる前の晩に、私の手にかかって殺された……そうしてまた、生き返った女だと自分自身で言っている。そうして私と壁一重を隔てた向うの部屋に閉じ籠《こ》められたまま、ああして、夜となく昼となく、私を呼びかけているらしい。想像もおよばない怪奇な事実を叫び続けながら、私の過去の記憶を喚び起すべく、死物狂いに努力し続けているらしい。
……キチガイだろうか。
……本気だろうか。
いやいや。キチガイだ、キチガイだ……そんなばかな……不思議なことが……アハハハ……。
私は思わず笑いかけたが、その笑いは私の顔面筋肉に凍り付いたまま動かなくなった。……またも一層悲痛な、深刻な声が、コンクリートの壁を貫いて来たのだ。笑うにも笑えない……たしかに私を私と知っている確信にみちみちた……真剣な……悽《せい》愴《そう》とした……。
「……お兄さま、お兄さま、お兄さま。なぜ、御返事をなさらないのですか。あたしがこんなに苦しんでいるのに……タッタ一言、タッタ一言……御返事を……」
「…………」
「……タッタ一言……タッタ一言……御返事をして下されば……いいのです……そうすればこの病院のお医者様に、あたしがキチガイでないことが……わかるのです。そうして……お兄様もあたしの声が、おわかりになるようになったことが、院長さんにわかって……御一緒に退院できるのに……お兄様、お兄様、お兄様、お兄様……なぜ……御返事をして下さらないのですか……」
「…………」
「……あたしの苦しみが、おわかりにならないのですか……毎日毎日……毎夜毎夜、こうしてお呼びしている声が、お兄様の耳に入らないのですか……ああ……お兄様、お兄様、お兄様、お兄様、……あんまりです、あんまりです、あんまりです……あ……あ……あたしは……声がもう……」
そう言ううちに壁の向う側から、モウ一つ別の新しい物音が聞こえ始めた。それは平手か、コブシかわからないが、とにかく生身の柔らかい手で、コンクリートの壁をポトポトとたたく音であった。皮膚が破れ肉が裂けてもかまわない意気組で叩《たた》き続ける弱々しい女の手の音であった。私はその壁の向うに飛び散り粘り付いているであろう血の痕《あ》跡《と》を想像しながらなおも一心に眼をみはり奥歯をかみ締めていた。
「……お兄様、お兄様、お兄様、お兄様……お兄様のお手にかかって死んだあたしです。そうして生き返っているあたしです。お兄様よりほかにお頼りする方は一人もない可哀そうな妹です。一人ポッチでここにいる……お兄様はあたしをお忘れになったのですか……」
「…………」
「お兄様もおんなじです。世界中にタッタ二人のあたしたちがここにいるのです。そうして他《ひ》人《と》からキチガイと思われて、この病院に離れ離れになって閉じ籠められているのです」
「…………」
「お兄様が返事をして下されば……あたしの言うことがホントのことになるのです。あたしを思い出して下されば、あたしも……お兄様も、精神病患者でないことがわかるのです……タッタ一言……タッタ一コト……御返事をして下されば……モヨコと……あたしの名前を呼んで下されば……ああ……お兄様、お兄様、お兄様、お兄様、お兄様……ああ……あたしは、もう声が……眼が……暗くなって……」
私は思わず寝台の上に飛乗った。その声のあたりと思われる青黒いコンクリート壁にすがりついた。すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを助けてやりたい……そうして私自身がどこの何者かという事実を一刻も早く確かめたいという、タマラない衝動に駆られてそうしたのであった。……が……またグット唾《つ》液《ば》をのんで思い止まった。
ソロソロと寝台の上から辷《すべ》り降りた。その壁の一点を凝視したまま、できるだけその声から遠ざかるべく、正反対の位置にある窓のところまでジリジリと後《あと》退《しざ》りをしてきた。
……私は返事ができなかったのだ。否……返事をしてはいけなかったのだ。
……私は彼女が私の妻なのかどうか、全然知らない人間ではないか。あれほどに深刻な、痛々しい彼女の純情の叫び声を聞きながら、その顔すらも思い出し得ない私ではないか。自分の過去の真実の記憶として喚び起し得るものはタッタ今聞いた……ブウウン――ンンン……という時計の音一つしかないという世にも不可思議な痴《ち》呆《ほう》患者の私ではないか。
その私が、どうして彼女の夫として返事してやることができよう。たとい返事をしてやったお陰で、私の自由が得られるようなことがあったとしても、その時の私のホントウの氏《うじ》素《す》性《じよう》や、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。……彼女がはたして正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たない私ではないか……。
そればかりじゃない。万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものにほかならないとしたら、どうであろう。私がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの原《も》因《と》にならないとは限らないではないか。……まして彼女が呼びかけている人間が、たしかにこの世に現存している人間で、しかも、それが私以外の人間であったとしたらどうであろう。私は自分の軽率《かるはずみ》から、他人の妻を横《よこ》奪《ど》りしたことになるのではないか。他人の恋人を冒《ぼう》涜《とく》したことになるではないか……と言ったような不安と恐怖に、次から次に襲われながら、繰り返し繰り返し、唾液をのみ込んで、両手をシッカリと握り締めているうちにも、彼女の叫び声は引っ切りなしに壁を貫いて、私の真正面から襲いかかって来るのであった。
「お兄様、お兄様、お兄様、お兄様、お兄様。あんまりです、あんまりです、あんまりです、あんまりです、あんまりです……」
そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。
私は頭《か》髪《み》を両手で引っつかんだ。長く伸びた十本の爪《つめ》で、血の出るほど掻《か》きまわした。
「お兄様、お兄様、お兄様。あたしはあなたのものです。あなたのものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」
私は掌《てのひら》で顔を烈しくコスリまわした。
……違う、違う……違います、違います。あなたは思い違いをしているのです。僕はあなたを知らないのです……とモウすこしで叫びかけるところであったが、またハッと口をつぐんだ。そうした事実すらハッキリと断言できない今の私……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生まれ故郷はもちろんのこと……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた私……。
私は拳《げん》骨《こつ》を固めて、耳の後部《うしろ》の骨をコツンコツンと叩いた。けれどもそこからは何の記憶も浮かび出て来なかった。
それでも彼女の声は絶えなかった。息も切れ切れに……ほとんど聞き取ることができないくらい、悲痛に深刻に高潮して行った。
「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」
私はその声に追い立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、扉《ドア》を見まわした。駈け出しかけてまた、立止まった。
……何も聞こえないところへ逃げて行きたい……
と思ううちに、全身がゾーッと粟《あわ》立《だ》って来た。
入口の扉に走り寄って、鉄かと思われるほど頑丈な、青塗の板の平面に、全力を挙げてぶつかってみた。暗い鍵穴を覗いてみた。……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、たえだえになりかけている叫び声に、痺《しび》れ上るほど脅やかされながら……窓の格子を両手でつかんで力一パイゆすぶってみた。やっと下の方の片隅だけ引《ひき》歪《ゆが》めることができたが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。
私はガッカリして部屋のまん中に引返して来た。ガタガタ慄《ふる》えながら、モウ一度部屋の隅々を見まわした。
私はイッタイ人間世界にいるのであろうか……それとも私はツイ今しがたから幽冥《あのよ》の世界に来て、何かの責苦を受けているのではあるまいか。
この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の無《む》間《げん》地獄……何の反響もない……聞こゆるものは時計の音ばかり……。
……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに呵責《さいな》まれ始めた絶体絶命の活《いき》地獄……この世のこととも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げることもできない永《えい》劫《ごう》の呵《か》責《しやく》……。
私は踵《かかと》が痛くなるほど強く地団駄を踏んだ……ペタリと坐り込んだ……仰向けに寝た……また起上って部屋の中を見まわした。……聞こえるか聞こえぬかわからぬくらい弱って来た隣室《となり》の物音と、きれぎれに起る咽《むせ》び泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうしてできるだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。
こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。けれども私の頭の中は依然として空虚《からつぽ》であった。彼女に関係した記憶はもちろんのこと、私自身についても何一つとして思い出したことも、発見したこともなかった。カラッポの記憶の中に、空っぽの私が生きている。それがアラレもない女の叫び声に逐《お》いまわされながら、ヤミクモにもがきまわっているばかりの私であった。
そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。しだいしだいに糸のように甲走って来て、しまいには息もたえだえの泣き声ばかりになって、とうとう以《も》前《と》の通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。
同時に私も疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。扉の外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、坐っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン陥《お》ち帰って行った……。
……コトリ……と音がした。
気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に身体を寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸のところまで項《うな》垂《だ》れたまま、鼻の先にある人造石の床の上の一点を凝視していた。
見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。
……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……
という静かな雀《すずめ》の声……遠くに辷って行く電車の音……天井裏の電燈はいつの間にか消えている。
……夜が明けたのだ……。
私はボンヤリとこう思って、両手で眼の球をグイグイとコスリ上げた。グッスリと睡《ねむ》ったせいであったろう。今朝、暗いうちに起った不可思議な、恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていた私は、そこいら中が変に剛《こわ》ばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして、力一パイの大きな欠伸《あくび》をしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。
向うの入口の扉《ドア》の横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と銀色の皿を載せた白木の膳《ぜん》が入って来るようである。
それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し始めたのであろう。……われを忘れて立上った。爪先走りに切戸の傍に駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕を狙いすまして無《む》手《ず》と引っつかんだ。……と……お膳とトーストパンと、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶《びん》とがガラガラと床の上に落ち転がった。
私はシャ嗄《が》れた声を振り絞った。
「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。僕は……僕の名前は、何と言うのですか」
「…………」
相手は身動き一つしなかった。白い袖口から出ている冷たい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。
「……僕は……僕の名前は……何と言うのですか。僕は狂人《きちがい》でも……何でもない……」
「……アレエーッ……」
という若い女の悲鳴が切戸の外で起った。私につかまれた紫色の腕が、力なくもがき始めた。
「……誰か……誰か来て下さい。七号の患者さんが……アレッ。誰か来てエーッ……」
「……シッシッ。静かに静かに……黙って下さい。僕は誰ですか。ここは……今はいつ……ドコなんですか……どうぞ……ここは……そうすれば離します……」
……ワーアッ……という泣き声が起った。その瞬間に私の両手の力が弛《ゆる》んだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へ脱け出したと思うと、同時に泣き声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞こえた。
一所懸命にすがりついていた腕を引き抜かれて、ハズミを喰った私は、固い人造石の床の上にドタリと尻《しり》餅《もち》を突いた。あぶなく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。
すると……また、不思議なことが起った。
今まで一所懸命に張り詰めていた気持ちが、尻餅を突くと同時にみるみる弛んで来るに連れて、何とも知れないおかしさが、腹の底からムクムクと湧き起り始めるのを、どうすることもできなくなった。それはとてもタマラナイほど、変テコにおかしい……頭の毛が一本ごとにザワザワとふるえ出すほどのおかしさであった。魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとから止め度もなく湧き起って、骨も肉もバラバラになるまで笑わなければ、笑い切れないおかしさであった。
……アッハッハッハッハッ。ナアーンだばかばかしい。名前なんてどうでもいいじゃないか。忘れたってチットモ不自由はしない。おれはおれに間違いないじゃないか。アハアハアハアハアハ……。
こう気が付くと、私はいよいよたまらなくなって、床の上に引っくり返った。頭をかかえて、胸をたたいて、足をバタバタさせて笑った。笑った……笑った……笑った……笑った。涙をのんでは咽《む》せかえって、身体を捩《よ》じらせ、捻《ね》じりまわしつつ、ノタ打ちまわりつつ笑いころげた。
……アハハハハ。こんなばかなことがまたとあろうか。
……天から降ったか、地から湧いたか。エタイのわからない人間がここに一人いる。おれはこんな人間を知らない。アハハハハハハハ……。
……今までどこで何をしていた人間だろう。そうしてこれから先何をするつもりなんだろう。何が何だか一つも見当が付かない。おれはタッタ今、生まれて初めてこんな人間と知り合いになったのだ。アハハハハハハ……。
……これはどうしたことなのだ。何という不思議な、何というばかげたことだろう。アハ……アハ……おかしいおかしい……アハアハアハアハアハ……。
……ああ苦しい。やりきれない、おれはどうしてコンナにおかしいのだろう。アッハッハッハッハッハッハッ……。
私はこうして止め度もなく笑いながら、人造石の床の上を転がりまわっていたが、そのうちに私の笑い力が尽きたかして、やがてプッツリおかしくなくなったので、そのままムックリと起き上った。そうして眼の球をコスリまわしながらよく見ると、すぐ足の爪先のところに、今の騒動のお名《な》残《ご》りの三切れのパンと、野菜の皿と、一本のフォークと栓《せん》をしたままの牛乳の瓶とが転がっている。
私はそんな物が眼に付くと、なぜということなしにタッタ一人で赤面させられた。同時に堪え難い空腹に襲われかけていることに気が付いたので、傍に落ちていた帯を締め直すや否や、右手を伸ばして、生温い牛乳の瓶を握りつつ、左手《ゆんで》でバタを塗りたくったトーストパンをつかんでガツガツと喰いはじめた。それから野菜サラダをフォークに突っかけて、そのトテモたまらないお美《い》味《し》さをグルグルと頬張って、グシャグシャとかんで、牛乳と一緒にゴクゴクとのみ込んだ。そうしてスッカリ満腹してしまうと、背後《うしろ》に横たわっている寝台の上にはい上って、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って、長々と伸びをしながら眼を閉じた。
それから私は約十五分か、二十分の間ウトウトしていたように思う。満腹したせいか、全身の力がグッタリと脱け落ちて、掌と、足の裏がポカポカと温くなって、頭の中がだんだんと薄暗いガラン洞になって行く……その中の遠く近くを、いろんな朝の物音が行きかい、飛び違っては消え失せて行く……そのカッタルサ……やるせなさ……。
……往来のざわめき。急ぐ靴の音。ゆっくりと下駄を引きずる音。自転車のベル……どこか遠くの家で、ハタキをかける音……。
……遠い、高いところで鴉《からす》がカアカア啼《な》いている……近くの台所らしいところで、コップがガチャガチャと壊れた……と思うと、すぐ近くの窓の外で、不意に甲走った女の声。
「……イヤラッサナア……マアホンニ……タマガッタガ……トッケムナカア……ザウタンノゴト……イヒヒヒヒヒ……」
……そのあとから追いかけるように、私の腹の中でグーグーと胃袋が、よろこびまわる音……。そんなものが一つ一つ溶け合って、しだいしだいに遥《はる》かな世界へ遠ざかって、ウットリした夢心地になって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……。
……すると、そのうちに、たった一つハッキリした奇妙な物音が、非常に遠いところから聞こえ始めた。それはたしかに自動車の警《サイ》笛《レン》で、大きな呼子の笛みたように……ピョッ……ピョッ……ピョッピョッピョッピョッ……と響く一種特別の高い音であるが、何だか恐ろしく急な用事があって、私のところへ馳《か》け付けて来るように思えてしようがなかった。それが朝の静寂《しじま》を作るいろんな物音をピョッピョッピョッピョッと超越し威《い》嚇《かく》しつつ、市街らしい辻々を彼方《あつち》へ曲り、此方《こつち》に折れつつ、驚くべき快速力で私の寝ている頭の方向へ駈け寄って来るのであったが、やがて、それがみるみる私に迫り近付いて来て、今にも私の頭のモシャモシャした髪《か》毛《み》の中に走り込みそうになったところで、急に横に外《そ》れて、大まわりをした。高い高い唸り声をあげて徐行しながら、一町ばかり遠ざかったようであったが、やがてまた方向を換えて、私の耳の穴に沁《し》み入るほどの高い悲鳴を揚げつつ、急速度で迫り近付いて来たと思うと、間もなくピッタリと停車したらしい。何の物音も聞こえなくなった。……同時に世界中がシンカンとなって、私の睡眠がシックリと濃《こま》やかになって行く……。
……と思い思い、ものの五分間もいい心地になっていると、今度は私の枕元の扉の鍵穴が、突然にピシンと音を立てた。続いて扉が重々しくギイイーッと開いて、何やらガサガサと音を立てて入って来た気はいがしたので、私は反射的に跳ね起きて振り返った。……が……眼を定めてよく見るとギョッとした。
私の眼の前で、緩やかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な籘《とう》椅《い》子《す》が一個据えられている。そうしてその前に、一個の驚くべき異様な人物が、私を眼下に見下しながら、雲を衝《つ》くばかりに突立っているのであった。
それは身長六尺を超えるかと思われる巨《おお》人《おとこ》であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、鯨のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、または瀕《ひん》死《し》の病人みたような、青白い瞳《ひとみ》が、力なくドンヨリと曇っていた。鼻は外国人のように隆々と聳《そび》えていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そこいらの皮膚の色と一と続きに生白く見えるのは、何か悪い病気に罹《かか》っているせいではあるまいか。殊にその寺院の屋根に似たダダッ広い額の斜面と、軍艦の舳《へ》先《さき》を見るような巨大な顎の恰《かつ》好《こう》の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない。それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅《ぜい》沢《たく》なものらしい黒茶色の毛皮の外《がい》套《とう》を着て、その間から揺らめく白《プラ》金《チナ》色《いろ》の逞《たくま》しい時計の鎖の前に、細長い、蒼《あお》白《じろ》い、毛ムクジャラの指を揉《も》み合わせつつ、婦人用かと思われる華《きや》奢《しや》な籘椅子の前に突立っている姿は、さながら魔法か何かを使って現われた西洋の妖《よう》怪《かい》のように見える。
私は、そうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。初めて卵から孵《か》化《え》った生物のように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中でオズオズと舌を動かしていた。けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、われ知らずその方向に向き直って坐り直した。
すると間もなく、その巨大な紳士の小さな、ドンヨリと曇った瞳の底から、一種の威厳を含んだ、冷やかな光があらわれて来た。そうして、あべこべに私の姿をジリジリと見下し始めたので、私はなぜとなく身体が縮むような気がして、おのずと項垂れさせられてしまった。
しかし巨大な紳士は、そんなことをすこしも気にかけていないらしかった。極めて冷静な態度で、一とわたり私の全身を検分し終ると、今度は眼をあげて、部屋の中の様子をソロソロと見まわし始めた。その青白く曇った視線が、部屋の中を隅から隅まで横切って行く時、私はなぜということなしに、今朝眼を醒《さ》ましてからの浅ましい所業を、一つ残らず看《み》破《やぶ》られているような気がして、一層身体を縮み込ませた。……この気味の悪い紳士は一体、何の用事があって私のところへ来たのであろう……と、心の底で恐れ惑いながら……。
するとその時であった。巨大な紳士は突然、何かに脅やかされたように身体を縮めて前《まえ》屈《こご》みになった。慌てて外套のポケットに手を突込んで、白いハンカチをつかみ出して、大急ぎで顔に当てた。……と思う間もなく私の方に身体を反《そ》背《む》けつつ、全身をゆすり上げて、姿に似合わない小さな、弱々しい咳《せ》嗽《き》を続けた。そうしてややしばらくしてから、やっと呼《い》吸《き》が落ち着くと、またおもむろに私の方へ向き直って一礼した。
「……ドウモ……身体が弱うございますので……外套のまま失礼を……」
それはやはり身体に釣り合わない、女みたような声であった。しかし私は、その声を聞くと同時に、何かしら安心した気持ちになった。この巨大な紳士が見かけに似合わない柔和な、親切な人間らしく思われて来たので、ホッと溜《ため》息《いき》をしいしい顔を上げると、その私の鼻の先へ、恭しく一葉の名刺を差出しながら、紳士はまたも咳《せ》き入った。
「……私はコ……ホンホン……御免……ごめん下さい……」
私はその名刺を両手で受け取りながらチョットお辞儀の真似型をした。
この名刺を二、三度繰り返して読み直した私は、またも唖《あ》然《ぜん》となった。眼の前に咳嗽を抑えて突立っている巨大な紳士の姿をモウ一度、見上げ、見下ろさずにはいられなかった。そうして、
「……ここは……九州大学……」
と独言のようにつぶやきつつ、キョロキョロと左右を見まわさずにはいられなくなった。
その時に、巨人若林博士の左の眼の下の筋肉が、微《かす》かにビクリビクリと震えた。あるいはこれが、この人物独特の微笑ではなかったかと思われる一種異様な表情であった。続いてその白い唇が、ゆるやかに動き出した。
「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室でございます。どうもお寝《やす》みのところをお妨げ致しまして恐縮にたえませんが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは他《ほ》事《か》でもございません。……早速ですがあなたは先《さき》刻《ほど》、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第でございますが、いかがでございましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」
私は返事ができなかった。やはりポカンと口を開いたまま、白痴のように眼を白黒さして、鼻の先の巨大な顎を見上げていた……ように思う。
……これが驚かずにいられようか。私は今朝から、まるで自分の名前の幽霊に付きまとわれているようなものではないか。
私が看護婦に自分の名前を訊《たず》ねてから今までの間は、まだどんなに長くとも一時間と経っていない。その僅《わず》かな間に病気を押して、これだけの身支度をして、私が自分の名前を思い出したかどうかを問い訊《ただ》すべく駈け付けて来る……その薄気味のわるいスバシコサと不可解な熱心さ……。
私が、私自身の名前を思い出すという、タッタそれだけのことが、この博士に取って何故に、それほどの重大事件なのであろう……。
私は二重三重に面喰わせられたまま、掌の上の名刺と、若林博士の顔を見比べるばかりであった。
ところが不思議なことに若林博士も、私のそうした顔を、瞬《またた》き一つしないで見下しているのであった。私の返事を待つつもりらしく、口をピッタリと閉じて、穴のあくほど私の顔を凝視しているのであったが、その緊張した表情には、何かしら私の返事に対して、重大な期待を持っている心構えが、アリアリと現われているのであった。私が自分自身の名前を、過去の経歴と一緒に思い出すか出さないかということが、若林博士自身と何かしら、深い関係を持っているに違いないことが、いよいよたしかにその表情から読み取られたので、私は一層固くなってしまったのであった。
二人はこうして、ちょっとの間、睨《にら》み合いの姿になった……が……そのうちに若林博士は、私が何の返事もし得ないことを察したかして、いかにも失望したらしくソット眼を閉じた。けれども、その瞼が再び、ショボショボと開かれた時には、前よりも一層深い微笑が、左の頬から唇へかけて現われたようであった。同時に、私が呆然となっているのを、何か他の意味で面喰っているものと感違いしたらしく、微かに二、三度うなずきながら唇を動かした。
「……ごもっともです。不思議に思われるのはごもっとも千万です。元来、法医学の立場を厳守していなければなりませぬ私が、かように精神病科の仕事に立入りますのは、全然、筋違いに相違ないのでございますが、しかしこれにつきましては万止むを得ませぬ深い事情が……」
と言いさした若林博士は、またも、咳嗽が出そうな身構えをしたが、今度は無事に落ち着いたらしい。ハンカチの陰で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けた。
「……と申しますのは、ほかでもございません。……実を申しますと、この精神病科教室には、ついこの頃まで正木敬之という名高いお方が、主任教授として在任しておられたのでございます」
「……マサキ……ケイシ……」
「……さようで……この正木敬之というお方は、独り吾《わが》国《くに》のみならず、世界の学界に重きをなしたお方で、従来から行詰まったままになっております精神病の研究に対して根本的の革命を起すべき『精神科学』に対する新学説を、敢然として樹立されました、偉大な学者でございます……と申しましても、それはむろん、今日まで行なわれて参りましたような心霊学とか、降神術とか申しますように非科学的な研究ではございません。純然たる科学の基礎に立脚して編み出されました、画時代的の新学理に相違ありませぬことは、正木先生がこの教室内に、世界に類例のない精神病の治療場を創設されまして、その学説の真理であることを、着々として立証して来られました一事を見ましても、たやすく首《しゆ》肯《こう》できるのでございます。……申すまでもなくあなたも、その新式の治療を受けておいでになりました、お一人なのですが……」
「僕が……精神病の治療……」
「さようで……ですから、その正木先生が、責任をもって治療しておられましたあなたに対して、法医学専門の私が、かように御容態をお尋ねするというのは、取りも直さず、甚《はなはだ》しい筋違いに相違ないので、ただ今のようにあなたから御不審を受けますのも、重々ごもっとも千万と存じているのでございますが……しかし……ここに遺憾千万なことには、その正木先生が、この一か月以前に、突然、私に後事を託されたまま永眠されたのでございます。……しかも、その後任教授がまだ決定致しておりませず、適当な助教授も以前からいないままになっておりました結果、総長の命を受けまして、当分の間、私がこの教室の仕事を兼任致しているような次第でございますが……その中でも特に大切に、全力を尽して御介抱申上げるように、正木先生から御委託を受けまして、お引受け致しましたのが、ほかならぬあなたでございました。言葉を換えて申しますれば、当精神病科の面目、否、九大医学部全体の名誉は目下のところただ一つ……あなたが過去の御記憶を回復されるか否か……御自身のお名前を思い出されるか、否かに懸っていると申しましても、よろしい理由があるのでございます」
若林博士がこう言い切った時、私はそこいら中が急に眩《まぶ》しくなったように思って、眼をパチパチさした。私の名前の幽霊が、後光を輝かしながら、どこかそこいらから現われて来そうな気がしたので……。
……けれども……その次の瞬間に私は、顔を上げることもできないほど情ない気持ちに迫られて、われ知らず項垂れてしまったのであった。
……ここはたしかに九州帝国大学の中の精神病科の病室に違いない。そうして私は一個の精神病患者として、この七号室? に収容されている人間に相違ないのだ。
……私の頭が今朝、眼を醒ました時から、どことなく変調子なように思われて来たのは、何かの精神病に罹っていた……否。現在も罹っている証拠なのだ。……そうだ。私はキチガイなのだ。
……ああ。私が浅ましい狂《きち》人《がい》……
……というような、あらゆるタマラナイ恥かしさが、丁寧過ぎるくらい丁寧な若林博士の説明によって、初めて、ハッキリと意識されて来たのであった。それにつれて胸が息苦しいほどドキドキして来た。恥かしいのか、怖ろしいのか、または悲しいのか、自分でもわからない感情のために、全身をチクチクと刺されるような気がして、耳から首筋のあたりがまたもカッカと火《ほ》熱《て》って来た。……眼の中が自然《おのず》と熱くなって、そのままベッドの上に突伏したいほどの思いに充たされつつ、かなしく両《りよう》掌《て》を顔に当てて、眼がしらをソッと押え付けたのであった。
若林博士は、そうした私の態度を見下しつつ、二度ばかりゴクリゴクリと音を立てて、唾《つ》液《ば》をのみ込んだようであった。それから、あたかも、貴い身分の人に対するように、両手を前に束《たば》ねて、今までよりも一層親切な響きをこめながら、ほとんど猫《ねこ》撫《な》で声かと思われる口調で私を慰めた。
「ごもっともです。重々、ごもっともです。どなたでもこの病室に御自分自身を発見されます時には、一種の絶望に近い、打撃的な感じをお受けになりますからね。……しかし御心配には及びません。あなたはこの病棟に入っている他の患者とは、全く違った意味で入院しておいでになるのですから……」
「……ボ……僕が……ほかの患者とは違う……」
「……さようで……あなたはただ今申しました正木先生が、この精神病科教室で創設されました『狂人の解放治療』と名付くる画時代的な精神病治療に関する実験の中でも、最貴重な研究材料として、御一身を提供されたお方でございますから……」
「……僕が……私が……狂人の解放治療の実験材料……狂人を解放して治療する……」
若林博士は心持ち上体を前に傾けつつうなずいた。「狂人解放治療」という名前に敬意を表するかのように……。
「さようさよう。その通りでございます。その『狂人の解放治療』の実験を創始されました正木先生の御人格と、その編み出されました学説が、いかに画時代的なものであったかということは、もう間もなくおわかりになることと思いますが、しかも……あなたは既に、あなた御自身の脳髄の正確な作用によって、その正木博士の新しい精神科学の実験を、驚くべき好成績の裡《うち》に御完成になりまして、当大学の名前を全世界の学界に印象させておいでになったのでございます。……のみならずあなたは、その実験の結果として現われました強烈な精神的の衝《シヨ》動《ツク》のために御自身の意識を全く喪失しておられましたのを、現在、ただ今、あざやかに回復なされようとしておいでになるのでございます。……でございますから、申さばあなたは、その解放治療場内で行なわれました、ある驚異すべき実験の中心的な代表者でおいでになりますと同時に、当九大の名誉の守り神とも申すべきお方に相違ないのでございます」
「……そ……そんな恐ろしい実験の中心に……どうして僕が……」
と私は思わず急《せ》き込んで、寝台の端にニジリ出した。あまりにも怪奇を極めた話の中心にグングン巻き込まれて行く私自身が恐ろしくなったので……。その私の顔を見下しながら、若林博士は今までよりも一層、冷静な態度でうなずいた。
「それはまことにごもっとも千万な御不審です。……が……しかしそのことにつきましては遺憾ながら、ただ今ハッキリと御説明申上げるわけにまいりません。いずれ遠からず、あなた御自身に、その経過を思い出されますまでは……」
「……僕自身に思い出す。……そ……それはドウして思い出すので……」
と私は一層急き込みながら口ごもった。若林博士のそうした口ぶりによって、またもハッキリと精神病患者の情なさを思い出させられたように感じたので……。
しかし若林博士は騒がなかった。静かに手を挙げて私を制した。
「……ま……ま……お待ち下さい。それはかような仔《わ》細《け》でございます。……実を申しますとあなたが、この解放治療場にお入りになりました経過につきましては、実に、一朝一夕に尽されぬ深刻複雑な、不可思議を極めた因《いん》縁《ねん》が伏在しておるのでございます。しかもその因縁のお話と申しますのは、私一個の考えで前後の筋を纏《まと》めようと致しますと、全部が虚《う》構《そ》になってしまうおそれがありますので……詰まるところそのお話の筋道に、直接の体験を持っておいでになるあなたが、その深刻不可思議な体験を御自身に思い出されたものでなければ、誰しも真実のお話として信用することができないという……それほどさように、幻怪驚異を極めた因縁のお話があなたの過去の御記憶の中に含まれているのでございます……がしかし……当座の御安心のために、これだけのことは御説明申上げてもさしつかえあるまいと思われます。……すなわち……その『狂人の解放治療』と申しますのは、本年の二月に、正木先生が当大学に赴任されましてから間もなく、その治療場の設計に着手されましたもので、同じく七月に完成致して、僅々四か月間の実験を行なわれました後、今からちょうど一か月前の十月二十日に、正木先生が亡くなられますと同時に、閉鎖されることになりましたものですが、しかも、その僅かの間に正木先生が行なわれました実験と申しますのは、取りも直さず、あなたの過去の御記憶を回復させることを中心と致しましたものでございました。そうしてその結果、正木先生は、ズット以前から一種の特異な精神状態に陥っておられましたあなたが、遠からず今日の御容態に回復されるに相違ないことを、明白に予言しておられたのでございます」
「……亡くなられた正木先生が……僕の今日のことを予言……」
「さようさよう。あなたを当大学の至宝として、大切に御介抱申上げているうちには、キット元の通りの精神意識に立ち帰られるであろう。その正木先生の偉大な学説の原理を、その原理から生まれて来た実験の効果を、御自身に証明されるであろうことを、正木先生は断《だん》々《だん》乎《こ》として言明しておられたのでございます。……のみならず、はたしてあなたが、正木先生のお言葉の通りに、過去の御記憶の全部を回復されることに相成りますれば、その必然的な結果として、あなたがかつて御関係になりました、ほとんど空前とも申すべき怪奇、悽《せい》愴《そう》を極めた犯罪の真相をも、同時に思い出されるであろうことを、かく申す私までも、信じて疑わなかったのでございます。むろん、ただ今も同様に、そのことを固く信じているのでございますが……」
「……空前の……空前の犯罪事件……僕が関係した……」
「さよう。とりあえず空前とは申しましたものの、あるいは絶後になるかも知れぬと考えられておりますほどの異常な事件でございます」
「……そ……それは……ドンナ事件……」
と、私は息を吐《つ》く間もなく、寝台の端に乗り出した。
しかし若林博士は、どこまでも落着いていた。端然として佇《ちよ》立《りつ》したままスラスラと言葉を続けていった。その青白い瞳で、静かに私を見下しながら……。
「……その事件と申しますのは、ほかでもございません。……何をお隠し申しましょう。ただ今申しました正木先生の精神科学に関する御研究につきましては、かく申す私も、久しい以前から御指導を仰いでおりましたので、現にただ今でも引続いて『精神科学応用の犯罪』について、研究を重ねている次第でございますが……」
「……精神科学……応用の犯罪……」
「さようで……しかし単にそれだけでは、余りに眼新しい主題《テーマ》でございますから、内容がおわかりにならぬかも知れませんが、かよう申上げましたならば大よそ、御諒解ができましょう。……すなわち私が、かような主題について研究を始めましたそもそもの動機と申しますのは、正木先生の唱え出された『精神科学』そのものの内容が、あまりに恐怖的な原理、原則にみちみちていることを察知致しましたからでございます。たとえば、その精神科学の一部門となっております『精神病理学』の中には、一種の暗示作用によって、人間の精神状態を突然、別人のように急変化させ得る……その人間の現在の精神生活を一瞬間に打ち消して、その精神の奥底の深いところに潜在している、何代か前の祖先の性格と入れ換えさせうる……といったような戦慄すべき理論と実例が、数限りなく含まれておりますので……しかもその理論と申しますのは、その応用、実験の効果が、あくまでも科学的に的確、深刻なものがありますにもかかわらず、その作用の説明とか、実行の方法とかいうものは従来の科学と違いまして極めて平々凡々な……説明のしようによっては女子供にでも面白おかしく首肯できる程度のものでありますからして、考えようによりましては、これほどの危険な研究、実験はないのでございます。……もちろんその詳細な内容は遠からずあなたの眼の前に、ありありと展開致して来ることと存じますから、ここには説明致しませんが……」
「……エッ……エッ……そんな恐ろしい研突の内容が……僕の眼の前に……」
若林博士は、いとも荘重にうなずいた。
「さようさよう。あなたは、その学説の真理であることを、身をもって証明されたお方ですから、そうした原理が描き現わす恐怖、戦慄に対しては一種の免疫になっておいでになりますばかりでなく、近い将来において、御自分の過去に関する御記憶を回復されました暁には、必然的に、この新学理の研究に参加される権利と、資格を持っておいでになることを自覚されるわけでございますが、しかし、それ以外の人々に、万一、この秘密の研究の内容が洩れましたならば、どのような事変が発生するか、全然、予想ができないのでございます。……たとえばある人間の心理の奥底に潜在している一つの恐ろしい遺伝心理を発見して、これに適応した一つの暗示を与える時は、一瞬間にその人間を発狂させることができる。同時にその人間を発狂させた犯人に対する、その人間の記憶力までも消滅させ得るような時代が来たとしたならば、どうでしょうか。その害毒というものはとうてい、ノーベル氏が発明しました綿火薬の製造法が、世界の戦争を激化した比ではございますまい。
……でございますからして私は、本職の法医学の立場から考えまして、将来、このような精神科学の理論が、現代における唯物科学の理論と同様に一般社会の常識として普及されるようなことになっては大変である。その時には、現代において唯物科学応用の犯罪が横行しているのと同様に、精神科学応用の犯罪が流行するであろうことを、当然の帰結として覚悟しなければならないわけであるが、しかしそうなったらもはや、取返しのつけようがないであろう。この精神科学応用の犯罪が実現されるとなれば、昨今の唯物科学応用の犯罪とは違って、ほとんど絶対に検察、調査の不可能な犯罪が、世界中の到るところに出現するに相違ないことが、前もって、わかりきっているのでありますからして、とりあえず正木先生の新学説は、絶対に外部に公表されないように注意して頂かねばならぬ……と同時に、はなはだ得手勝手な申し分のようではございますが、万一の場合を予想しまして、この種の犯罪の予防方法と、犯罪の検出探索方法とを、できる限り周到に研究しておかねばならぬ……と考えましたので、久しい以前から正木先生の御指導の下に『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまするテーマの下に、極度の秘密を厳守しつつ、あらゆる方面から調査を進めておったところでございます。つまるところ正木先生と私と二人の共同の事業といったような恰好で……。
……ところが、その正木先生と、私と二人の間にいかなる油断があったのでございましょうか……それほどに用心致しておりましたにもかかわらず、いつ、いかなる方法で盗み出したものか、その精神科学のうちでも最も強烈、深刻な効果を現わす理論を、いとも鮮やかに実地に応用致しました、一つの不可思議な犯罪事件が、当大学からほど遠からぬところで、突然に発生したのでございます。……すなわちその犯罪の外《アウト》観《ライン》と申しますのは、ある富裕な一家の血統に属する数名の男女を、何らの理由もないままお互い同士に殺し合わせ、または発狂させ合ってしまったという、残忍冷血、この上もない兇行を中心として構成されているのでございます。……しかも、その兇行の手段が、私どもの研究致しております精神科学と関係を保っております事実が確認されるようになりました端緒と申しますのは、やはりその富裕な一家の最後の血統に属する一人の温柔《おとな》しい、頭脳の明《めい》晰《せき》な青年の身の上に起った事件でございます。……つまりその青年が、滅びかかっている自分の一家の血統を繋ぎ止めるべく、自分を恋い慕っている美しい従妹と結婚式を挙げることになりました、その前の晩の夜半過ぎに、その青年が、思いもかけぬ夢中遊行を起しまして、その少女を絞殺してしまいました。そうしてその少女の屍体を眼の前に横たえながら、冷静な態度で紙を拡げて写生をしていた……という、非常に特異な、不可思議な事実が暴露されまして、大評判になってからのことでございます……が……同時に、その青年の属する一家の血統を、そんなにまで悲惨な状態に陥れてしまったのが、何の目的であったかという事実とその犯人が何《なに》人《びと》であるかという、この二つの根本問題だけは、今日までも依然として不明のままになっているという……どこまで奇怪、深刻を極めているかわからない事件でございます。……九州の警視庁と呼ばれております福岡県の司法当局も、この事件に限っては徹頭徹尾、無能と同じ道を選んだ形になっておりますので、同時に、正木先生の御援助の下に、全力を挙げて該事件の調査に着手致しました私も、今日に致るまで、事件の真相に対して何らの手掛りもつかみ得ないまま、五里霧中に彷《ほう》徨《こう》させられているような状態でございます。
……で……そのような次第でございますからして、現在、私の手に残っておりまする該事件探究の方法は、ただ一つ……すなわち、その事件の中心人物となって生き残っておいでになるあなた御自身が、正木先生の御遺徳によって過去の御記憶を回復されました時に、直接御自身に、その事件の真相を判断して頂くこと……その犯行の目的と、その犯人の正体を指示して頂くこと……この一途よりほかに方法はないことに相成りました。それほどさように神変自在な手段をもって、その事件の犯人たる怪魔人は、踪《そう》跡《せき》を晦《くら》ましているのでございます。……こう申しましたならば、もはやおわかりでございましょう。その事件について、私自身の口から具体的の説明を申上げかねる理由と申しますのは、私自身が、その事件の真相を確かめておりませぬからでございます。また……かように私が、専門外の精神病科の仕事に立ち入って、自身にあなたの御介抱を申上げておりますのも、そうした重大な秘密の漏《ろう》洩《えい》を警戒致したいからで、同時に、万一、あなたの御記憶が回復いたしました節には、時を移さず馳け付けまして、誰よりも先に、その真相を聞かして頂かねばならぬ……その事件の真相を蔽い晦ましている怪魔人の正体を暴露して頂かねばならぬ……という考えからでございます。……しかも万一、あなたが過去の御記憶を回復されましたお陰で、この事件の真相が判明致すことに相成りますれば、その必然の結果として、実に、二重、三重の深長な意味を持つ研究発表が、現代の科学界と、一般社会との双方に投げかけられまして、世界的のセンセーションを巻き起すことに相成りましょう。すなわち正木先生が表面上、仮に『狂人の解放治療』と名付けておられました御研究……実は、現代の物質文化を一撃の下に、精神文化に転化し得るほどの大実験の、最後的な結論とするべきある重大な事実が、科学的に立証されるばかりでなく、同時に、同先生の御指導の下に、私が研究を続けております『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と名付くる論文のうちの最も重要な例証の一つをも、遺憾なく完備させて頂けることになるのでございます。そうして正木先生と私とが、この二十年の間、心血を傾注して参りました精神科学に関する研究が、同時に公表され得る機会を与えて頂けることに相成るのでございます。……でございますからして、あなたがはたして御自身のお名前を思い出されるかどうか、過去の御記憶を回復されて、その事件の真相を明らかにされるかどうか……ということにつきましては、そのような二重、三重の意味から、当大学の内部、もしくは福岡県の司法当局のみならず、満天下の視聴が集中致しております次第でございます。……しかるに……」
ここまで一気に説明して来た若林博士は、フト奇妙な青白い一《いち》瞥《べつ》を私に与えた。……と思うと、またもやクルリと横を向いて、ハンカチを顔に押し当てながら、一所懸命に咳入り始めたのであった。
その皺《しわ》だらけに痙《ひき》攣《つ》った横顔を眺めながら、私は煙に巻かれたように茫然となっていた。今朝から私の周囲にゴチャゴチャと起って来る出来事が、何一つとして私に新しい不安と、驚きとを与えないものはない……しかも、それに対する若林博士の説明がまた、みるみる大げさに、超自然的に拡大して行くばかりで、とても事実とは思えない……私の身の上に関係したことばかりのように聞こえながら、実際は私と全く無関係な、夢物語みたような感じに変って行くように感じつつ……。
すると、そのうちに咳嗽《せき》を収めた若林博士は、また一つジロリと青白い目礼をした。
「御免下さい。疲れますので……」
と言ううちに、やおら背後《うしろ》の華奢な籘椅子を振り返って、ソロソロと腰を卸したのであったが、その風付きを見ると私はまた、眼を反らさずにはいられなかった。
初め、その籘椅子が、若林博士の背後に据えてあるのを見た時には、すこし大きな人が腰をかけたら、すぐにも潰《つぶ》れそうに見えたので、まだほかに誰か女の人でも来るのかしらん……くらいに考えていた。ところが今見ていると、若林博士の長大な胴体は、その椅子の狭い肘《ひじ》掛《か》けの間に、何の苦もなくスッポリと入った。そうして、胸と腹とを二重に折り畳んで、ハンカチから眼ばかり出した顔を、膝小僧に乗っかるくらい低くして来ると、さながらに……私が、その怪事件の裏面に潜む怪魔人でございます……と言うかのように、グズグズと縮こまって、チョコナンと椅子の中に納まってしまった。その全体の大きさは、どう見ても今までの半分ぐらいしかないので、どんなにやせこけているにしても……その外套の毛皮がいかに薄いものであるにしても、とても尋常な人間のできる芸当とは思えない。しかも、その中から声ばかりが元の通りに……否……腰を落ち着けたせいか一層冷静に……何もかも私が存じております……という風に響いて来るのであった。
「……どうも失礼を……しかるに私が、ただ今お伺い致しまして、あなたの御様子を拝見してみますと、正木先生の予言が神のごとく的中してまいりますことが、専門外の私にもよくわかるのでございます。あなたは現在、御自分の過去に関する御記憶を回復しよう回復しようと、お勉《つと》めになりながら、何一つ思い出すことができないので、お困りになっていられるでございましょう。それはあなたが、この実験におかかりになる以前の健康な精神意識に立ち帰られる途中の、一つの過程に過ぎないのでございます。……すなわち正木先生の御研究によりますと、あなたの脳髄の中で、過去の御記憶を反射、交感致しております部分の中でも、一番古い記憶に属する潜在意識を支配しておりますところのある一か所に、遺伝的の弱点、すなわち非常な敏感さを持ったある一点が存在しておったのでございます。
……ところがまた一方に、そうした事実を以前からよく知っている、不可思議な人物が、どこかにおったのでございましょう。ちょうどその最も敏感な弱点をドン底まで刺激する、極めて強烈な精神科学的の暗示材料を用いまして、その一点を極度の緊張に陥れました結果、そこに遺伝、潜在しておりましたあなたの古い古い一千年前の御先祖の、怪奇、深刻を極めたローマンスに関する記憶が、スッカリ遊離してしまいまして、あなたの意識の表面に浮かみ現われながら、あなたを深い深い夢中遊行状態に陥れることに相成りました。……そうして今日に立ち到りますと、その潜在意識の中から遊離し現われました夢中遊行心理が残らず発揮しつくされまして、空無の状態に立ち帰りましたために、ただ今のようにその夢遊状態から離脱されることになったわけでございますが、しかしその異常な活躍を続けて参りました潜在意識の部分と、その付近にある過去の御記憶を反射交感する脳髄の一部分は、長い間の緊張から来た、深刻な疲労が残っておりますために、ただ今のところでは全く自由が利かなくなっております。つまり古い記憶であればあるほど、思い出せない状態に陥っておられるのでございます。……そこで、今までさほどに疲れていなかった、極めて印象の新しい、最近の出来事を反射交感する部分だけが、今朝ほどから取りあえず覚醒致しまして、もっと以前の記憶を回復しよう回復しようと焦《あ》燥《せ》りながら、何一つ思い出せないでいる……というのが現在のあなたの精神意識の状態であると考えられます。正木先生はそのような状態を仮に『自我忘失症』と名付けておられましたが……」
「……自我……忘失症……」
「さようで……あなたはその怪事件の裏面に隠れている怪犯人の精神科学的な犯罪手段にかかられました結果、その以後、数か月の間というもの、現在のあなたとは全く違った別個の人間として、ある異常な夢中遊行状態を続けておられたのでございます。……もちろんこのような深い夢中遊行状態、もしくは極端な二重人格の実例は、普通人によく現われる軽度の二重人格的夢遊……すなわち『ネゴト』とか『ネトボケ』とかいう程度のものとは違いまして、極めて稀《け》有《う》のものではありますが、それでも昔からの記録文献には、明瞭に残っている事実が発見されます。たとえば『五十年目に故郷を思い出した老人』とかまたは『証拠を突き付けられてから初めて、自分が殺人犯人であったことを自覚した紳士の感想録』とか『生んだ記憶《おぼえ》のない実子に会った孤独の老嬢の告白』『列車の衝突で気絶したと思っている間に、禿《とく》頭《とう》の大富豪になっていた貧青年の手記』『たった一晩一緒に睡ったはずの若い夫人が、翌朝になると白髪《しらが》の老婆に変っていた話』『夢と現実とを反対に考えたために、大罪を犯すに到った聖僧の懺《ざん》悔《げ》譚《ものがたり》』なぞいう奇怪な実例が、いろいろな文献に残存しておりまして、世人を半信半疑の境界《さかい》に迷わせておりますが、そのような実例を、ただ今申しました正木先生独創の学理に照してみますと、もはや何人も疑う余地がなくなるのでございます。そのような現象の実在が、科学的に可能であることが、明白、切実に証拠立てられますばかりでなく、そんな人々が、以前《もと》の精神意識に立ち返ります際には、キットある長さの『自我忘失症』を経過することまでも、学理と、実際の両方から立証されて来るのでございます。……すなわち厳密な意味で申しますと、われわれの日常生活の中で、われわれの心理状態が見るもの聞くものによって刺激されつつ、引っ切りなしに変化して行く。そうしてタッタ一人で腹を立てたり、悲しんだり、ニコニコしたりするのは、やはり一種の夢中遊行でありまして、その心理が変化して行く刹那刹那の到るところには、こうした『夢中遊行』『自我忘失』『自我覚醒』という経過が、極度の短さで繰り返されている。……一般の人々は、それを意識しないでいるだけだ……という事実をも、正木先生は併せて立証しておられるのでございます。……ですから、申すまでもなく、貴下もその経過をとられまして、遠からず、今日ただ今の御容態を回復されるであろうことを、正木先生は明らかに予知しておられましたので、残るところはただ、時日の問題となっていたのでございます」
若林博士はここでまた、ちょっと息を切って、唇をなめたようであった。
しかし私がこの時に、どんな顔をしていたか私は知らない。ただ、何が何やらわからないまま一句一句に学術的な権威をもって、急角度に緊張しつつ迫って来る、若林博士の説明に脅やかされて、高圧電気にかけられたように、全身を固《こわ》ばらせていた。……さてはいまの話の怪事件というのは、やはり自分のことであったのか……そうして今にも、その恐ろしい過去の事件を、自分の名前と一緒に思い出さなければならぬ立場に自分が立っているのか……といったような、言い知れぬ恐怖から滴り落つる冷汗を、左右の腋《わき》の下ににじませつつ、眼の前の蒼白長大な顔面に全神経を集中していた……ように思う。
その時に若林博士は、その仄《ほの》青《あお》い瞳を少しばかり伏せて、今までよりも一層低い調子になった。
「……繰り返して申しますが、そのような正木先生の予言は、今日まで一つ一つに寸分の狂いもなく的中して参りましたのでございます。あなたはもはや、今朝から、完全に、今までの夢中遊行的精神状態を離脱しておられまして、今にも昔の御記憶を回復されるであろう間際に立っておられるのでございます。……でございますから、私はとりあえず、先刻、看護婦にお尋ねになりました、貴下御自身のお名前を思い出させて差上げるために、かようにお伺いした次第でございます」
「……ボ……僕の名前を思い出させる……」
こう叫んだ私は、突然、息詰るほどドキッとさせられた。……もしかしたら……その怪事件の真犯人というのが私自身ではあるまいか。……若林博士が特に、私の名前について緊張した注意を払っているらしいのは、その証拠ではあるまいか……というような刹那的な頭のヒラメキに打たれたので……。しかし若林博士はさり気なく静かに答えた。
「……さよう。あなたのお名前が、御自身に思い出されますれば、それにつれて、ほかの一切の御記憶も貴下の御意識の表面に浮かみ現われて来るはずでございます。その怪事件の前後を一貫して支配している精神科学の原理が、いかに恐るべきものであるか、いかなる理由で、いかなる動機の下にそのような怪犯罪が遂行されたか、その事件の中心となっている怪魔人が何者であるかという真相の底の底までも同時に思い出されるはずでございます。……ですから、それを思い出して頂くように、お力添えを致しますのが、正木先生からあなたをお引受け致しました私の、責任の第一でございまして……」
私はまたも、何かしら形容のできない、もの怖ろしい予感に対して戦慄させられた。思わず坐り直して頓狂な声を出した。
「……何と言うんですか……僕の名前は……」
私が、こう尋ねた瞬間に、若林博士はあたかも器械か何ぞのようにピッタリと口をつぐんだ。私の心の中から何ものかを探し求めるかのように……または、何かしら重大なことを暗示するかのように、ドンヨリと光る眼で、私の眼の底をジーッと凝視した。
後から考えると私はこの時、若林博士の測り知れない策略に乗せられていたに違いないと思う。若林博士がここまで続けて来た科学的な、同時に、極度に煽情的な話の筋道は、けっして無意味な筋道ではなかったのだ。皆「私の名前」に対する「私の注意力」を極点にまで緊張させて、是非ともソレを思い出さずにはいられないように仕向けるための一つの精神的な刺激方法に相違なかったのだ。……だから私が夢中になって、自分の名前を問うと同時に、ピッタリと口をつぐんで、無言のうちに、私の焦燥をイヨイヨの最高潮にまで導こうと試みたのであろう。私の脳髄の中に凝固している過去の記憶の再現作用を、私自身に鋭く刺激させようとしたのであろう。
しかし、その時の私は、そんなデリケートな計略にミジンも気付き得なかった。ただ若林博士が、すぐにも私の名前を教えてくれるものとばかり思い込んで、その生白い唇を一心に凝視しているばかりであった。
すると、そうした私の態度を見守っていた若林博士は、またも何やら失望させられたらしく、ヒッソリと眼を閉じた。頭をゆるゆると左右に振りながら軽い溜息を一つしたが、やがてまた、静かに眼を開きながら、今までよりも一層つめたい、繊《か》細《ぼそ》い声を出した。
「……いけません……。私が、お教え致しましたのでは何にもなりません。そんな名前は記憶せぬとおっしゃれば、それまでです。やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」
私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。
「……思い出すことができましょうか」
若林博士はキッパリと答えた。
「おできになります。きっとおできになります。しかもその時には、ただ今まで私が申し述べましたことが、けっして架空なお話でないことが、おわかりになりますばかりでなく、それと同時に、あなたはこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわちりっぱな御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているのでございます。つまり、それらのものの一切を相違なくあなたへお引渡し致しますのがまた、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」
若林博士はこう言い切ると、確信あるもののごとくモウ一度、その青冷たい瞳で私を見据えた。私はその瞳の力に圧されて、余儀なく項《うな》垂《だ》れさせられた……またも何となく自分のことではないような……妙なヤヤコシイ話ばかり聞かされて、訳がわからないままに疲れてしまったような気持ちになりながら……。
しかし若林博士は、私のそうした気持ちに頓着なく、軽い咳払いを一つして、話の調子を改めた。
「……では……ただ今から、あなたのお名前を思い出して頂く実験にとりかかりたいと存じますが……私どもが……正木先生も同様でございましたが……あなたの過去の御経歴に最も深い関係を持っているに相違ないと信じておりますいろいろなものを、順々にお眼にかけまして、それによってあなたの過去の御記憶が喚び起されたか否かを実験させて頂きたいのでございますが、いかがでございましょうか」
と言ううちに籐椅子の両肱に手をかけて、姿勢をグッと引伸ばした。
私はその顔を見守りながら、すこしばかり頭を下げた。……ちっともかまいません。どうなりとも御随意に……という風に……。
しかし心のうちではすくなからず躊《ちゆう》躇《ちよ》していた。否、むしろ一種のばかばかしさをさえ感じていた。
……今朝から私を呼びかけたあの六号室の少女も、現在眼の前にいる若林博士も同様に、人違いをしているのではあるまいか。
……私を誰か他の人間と間違えて、こんなに熱心に呼びかけたり、責め付けたりしているのではあるまいか……だから、いつまで経っても、いくら責められてもこの通り、何一つとして思い出し得ないのではあるまいか。
……これから見せ付けられるであろう私の過去の記念物というのも、実を言うと、私とは縁もゆかりもない赤の他人の記念物ばかりではあるまいか。……どこかに潜み隠れている、正体のわからない、冷血兇悪な精神病患者……そいつが描き現わした、怪奇残虐を極めた犯罪の記念品……そんなものを次から次に見せ付けられて、思い出せ思い出せと責め立てられるのではあるまいか。
……といったような、あられもない想像を逞しくしながら、思わず首を縮めて、小さくなっていたのであった。
その時に若林博士は、あくまでもその学者らしい上品さと、謙遜さとを保って、静かに私に一礼しつつ、籘椅子から立ち上った。おもむろに背後の扉を開くと、待ち構えていたように一人の小男がツカツカと大《おお》股《また》に入って来た。
その小男は頭をクルクル坊主の五分刈にして、黒い八の字髭《ひげ》をピンと生やして、白い詰襟の上衣に黒ズボン、古靴で作ったスリッパという見慣れない扮《いで》装《たち》をしていた。四角い黒革の手《て》提《さげ》鞄《かばん》と、薄汚ない畳椅子を左右の手に提《ひつさ》げていたが、あとから入って来た看護婦が、部屋の中《まん》央《なか》に湯気の立つボール鉢《ばち》を置くと、その横に活溌な態度で畳椅子を拡げた。それから黒い手提鞄を椅子の横に置いて、パッと拡げると、その中にゴチャゴチャに投げ込んであった理髪用の鋏《はさみ》や、ブラシを蓋の上につまみ出しながら、私を見てヒョッコリとお辞儀をした。「ササ、どうぞ」という風に……。すると若林博士も籘椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、私に向って「サア、どうぞ」というような眼くばせをした。
……さてはここで頭を刈らせられるのだな……と私は思った。だから素《す》跣足《はだし》のまま寝台を降りて畳椅子の上に乗っかると、ほとんど同時に八字髭の小男が、白い布《き》片《れ》をパッと私の周囲《まわり》に引っかけた。それから熱湯で絞ったタオルを私の頭にグルグルと巻付けてシッカリと押し付けながら、若林博士を振返った。
「このまえの通りの刈り方で、およろしいので……」
この質問を聞くと若林博士は、何やらハッとしたらしかった。チラリと私の顔を盗み見たようであったが、間もなくさり気ない口調で答えた。
「あ。このまえの時も君にお願いしたんでしたっけね。記憶しておりますか、あの時の刈り方を……」
「ヘイ。ちょうど丸一か月前のことで、特別の御註文でしたから、まだよく存じております。まん中を高く致しまして、お顔全体が温柔《おとな》しい卵型に見えますように……まわりはごく短く、東京の学生さん風に……」
「そうそう。その通りに今度も願います」
「かしこまりました」
そう言ううちにモウ私の頭の上で鋏が鳴り出した。若林博士はまたも寝台の枕元の籘椅子に埋まり込んで、何やら赤い表紙の洋書を外套のポケットから引っぱり出している様子である。
私は眼を閉じて考え始めた。
私の過去はこうしてとにもかくにもイクラカずつ明るくなって来る。若林博士から聞かされた途方もない因縁話や何かは、全然別問題としても、私が自分で事実と信じてさしつかえないらしい事実だけは、こうしてすこしずつ推定されて来るようだ。
私は大正十五年(それはいつのことだかわからないが)以来、この九州帝国大学、精神病科の入院患者になっていたもので、昨日が昨日まで夢中遊行状態の無我夢中で過して来たものらしい。そうしてその途中か、または、その前かわからないが、一か月ぐらい以前《まえ》に頭をハイカラの学生風に刈っていたことがあるらしい。その時の姿に私は今、復旧しつつあるのだ……なぞと……。
……けれども……そうは思われるものの、それは一人の人間の過去の記憶としては何という貧弱なものであろう。しかもそれとて赤の他人の医学博士と、理髪師から聞いたことに過ぎないので、真《ほん》実《とう》に、自分の過去として記憶しているのは今朝、あの……ブーンンン……という時計の音を聞いてから今までの、数時間の間に起った事柄だけである。その……ブーン……以前のことは、私にとっては全くの虚無で、自分が生きていたか、死んでいたかすらはっきりしない。
私はいったいどこで生まれて、どうしてコンナに成長《おおき》くなったか。あれは何、これは何と、一々見分け得る判断力だの……知識だの……または、若林博士の説明を震え上るほど深刻に理解して行く学力だの……そんなものはどこで自分の物になって来たのか。そんなにおびただしい、限りもないであろう過去の記憶を、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまったのか……。
……そんなことを考えまわしながら眼を閉じて、自分の頭の中の空《がらん》洞《どう》をジッと凝視していると、私の霊《たま》魂《しい》は、いつの間にか小さく小さく縮こまって来て、無限の空虚の中を、当てもなくさまよいまわる微《ア》生《ト》物《ム》のように思われて来る。淋しい……つまらない……悲しい気持ちになって……眼の中が何となく熱くなって……。
……ヒヤリ……としたものが、私の首筋に触れた。それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、私の襟筋を剃《そ》るべくシャボンの泡を塗《なす》り付けたのであった。
私はガックリと項垂れた。
……けれども……また考えてみると私は、その一か月以前にも今一度、若林博士からこの頭を復旧されたことがあるわけである。それならば私は、その一か月以前にも、今朝みたような恐ろしい経験をしたことがあるのかも知れない。しかも博士の口ぶりによると、博士が私の頭の復旧を命じたのは、この理髪師ばかりではないように思える。もしそうとすれば私は、その前にも、そのまた以前にも……何遍も何遍もこんなことを繰り返したことがあるのかも知れないので、とどの詰まり私は、そんなことばかりを繰り返し繰り返し演《や》っている、つまらない夢遊病患者みたような者ではあるまいか……と考えられる。
若林博士はまた、そんな試験ばかりをやっている冷酷無情な科学者なのではあるまいか?……否。今朝から今まで引き続いて私の周囲《まわり》に起って来た事柄も、みんな私という夢遊病患者の幻覚に過ぎないのではあるまいか?……私は現在、ここで、こうして、頭をハイカラに刈られて、モミアゲから眉の上下を手入れしてもらっているような夢を見ているので、ホントウの私は……私の肉体はここにいるのではない。どこか非常に違った、飛んでもないところで、飛んでもない夢中遊行を……。
……私はそう考えるうちにハッとして椅子から飛び上った。……白いキレを頸《くび》に巻き付けたまま、一直線に駈け出した……と思ったが、それは違っていた。……不意に大変な騒ぎが頭の上で始まって、眼も口も開けられなくなったので、思わず浮かしかけた尻を椅子の中に落ち着けて、首をギュッと縮めてしまったのであった。
それは二個《ふたつ》の丸い櫛《くし》が、私の頭の上に並んで、息も吐《つ》かれぬほどメチャクチャに駈けまわり始めたからであった……が……その気持ちのよかったこと……自分がキチガイだか、誰がキチガイだか、ちょっとの間にわからなくなってしまった。……嬉しいも、悲しいも、恐ろしいも、口惜しいも、過去も、現在も、宇宙万象も何もかもから切り離された亡者みたようになって、グッタリと椅子にもたれ込んで底も涯《はて》しもないムズ痒《がゆ》さを、ドン底まで掻き廻される快感を、全身の毛穴の一ツ一ツから、骨の髄まで滲み透るほど感銘させられた。……もうこうなっては仕方がない。何だかわからないが、これから若林博士の命令に絶対服従をしよう。前途《さき》はどうなってもかまわない……というような、一切合財をスッカリ諦め切ったような、ガッカリした気持ちになってしまった。
「コチラへおいでなさい」
という若い女の声が、すぐ耳の傍でしたので、ビックリして眼を開くと、いつの間にか二人の看護婦が入って来て、私の両手を左右から、罪人か何ぞのようにシッカリと捉えていた。首の周囲の白い布切は、私の気づかぬうちに理髪師が取外して、扉の外で威勢よくハタイていた。
その時に何やら赤い表紙の洋書に読み耽《ふけ》っていた若林博士は、バッタリとページを伏せて立ち上った。長大な顔を一層長くして「ゴホンゴホン」と咳をしつつ「どうぞあちらへ」という風に扉の方へ両手を動かした。
顔一面の髪の毛とフケの中から、辛うじて眼を開いた私は、看護婦に両手を引かれたまま、冷めたい敷石を素足で踏みつつ、生まれて初めて……?……扉の外へ出た。
若林博士は扉の外まで見送って来たが、途中でどこかへ行ってしまったようであった。
扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つずつ、向い合って並んでいる。その廊下の突当りの薄暗い壁の凹《へこ》みの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と鉄《かな》網《あみ》で厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが今朝早くの真夜中に……ブウンンンと唸って、私の眼を醒ました時計であろう。どこから手を入れて螺《ね》旋《じ》をかけるのかわからないが、旧式な唐《から》草《くさ》模様の付いた、物々しい恰好の長針が、六時四分を指し示しつつ、カックカックと巨大な真《しん》鍮《ちゆう》の振子球を揺り動かしているのが、何だか、そんな刑罰を受けて、そんなことを繰り返させられている人間のように見えた。その時計に向って左側が私の部屋になっていて、扉の横に打ち付けられた、長さ一尺ばかりの白ペンキ塗の標札には、ゴジック式の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく、「第七号室」とその下に大きく書いてある。患者の名札はない。
私は二人の看護婦に手を引かれるまにまに、その時計に背中を向けて歩き出した。そうして間もなく明るい外廊下に出ると、正面に青ペンキ塗、二階建の木造西洋館が現われた。その廊下の左右は赤い血のような豆菊や、白い夢のようなコスモスや、紅と黄色の奇妙な内臓の形をした鶏頭が咲き乱れているまっ白い砂地で、そのまた向うは左右とも、深緑色の松林になっている。その松林の上を行く薄雲に、朝日の光がホンノリと照りかかって、どこからともない遠い浪《なみ》の音が、静かに静かに漂って来る気持ちのよさ……。
「……ああ……今は秋だな」
と私は思った。冷ややかに流るる新鮮な空気を、腹一パイに吸い込んでホッとしたが、そんな景色を見まわして、立ち止まる間もなく二人の看護婦は、グングン私の両手を引っぱって、向うの青い洋館の中の、暗い廊下に連れ込んだ。そうして右手の取っ付きの部屋の前まで来ると、そこに今一人待っていた看護婦が扉を開いて、私たちと一緒に内《な》部《か》に入った。
その部屋はかなり大きい、明るい浴室であった。向うの窓際にある石造の浴槽《ゆぶね》から湧き出す水蒸気が三方のガラス窓一面にキラキラと滴り流れていた。その中で三人の頬ぺたの赤い看護婦たちが、三人とも揃《そろ》いのマン丸い赤い腕と、赤い脚を高々とマクリ出すと、イキナリ私を引っ捉えてクルクルと丸《まる》裸体《はだか》にして、浴槽のなかに追い込んだ。そうして良い加減暖まったところで立ち上がるとすぐに、私を流し場の板片の上に引っぱり出して、前後左右から、冷めたい石《しや》鹸《ぼん》とスポンジを押し付けながら、遠慮会釈もなくゴシゴシとコスリ廻した。それからダシヌケに、私の頭を押え付けると、ハダカの石鹸をコスリ付けて泡沫を山のように盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで無茶苦茶に引っ掻きまわしたあとから、断りもなしにザブザブと熱い湯を引っかけて、眼も口も開けられないようにしてしまうと、またも、有無を言わさず私の両手を引っ立てて、
「コチラですよ」
と金切声で命令しながら、モウ一度、浴槽の中へ追い込んだ。そのやり方の乱暴なこと……もしかしたら今朝ほど私に食事を持って来て、ひどい目に会わされた看護婦が、三人の中に交っていて、復讐《かたき》を取っているのではないかと思われるくらいであったが、なおよく気を付けてみると、それが、毎日毎日キ印を扱い慣れている扱いぶりのようにも思えるので、私はスッカリ悲観させられてしまった。
けれどもそのおしまいがけに、長く伸びた手足の爪を截《き》ってもらって、竹柄のブラシと塩で口の中を掃除《そうじ》して、モウ一度暖まってから、新しいタオルで身体中を拭い上げて、新しい黄色い櫛《くし》で頭をゴシゴシと掻き上げてもらうと、さすがに生まれ変ったような気持ちになってしまった。こんなにサッパリした確かな気持ちになっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと思うと、不思議でしようがないくらい、いい気持ちになってしまった。
「これとお着換えなさい」
と一人の看護婦が言ったので、ふり返ってみると、板張りの上に脱いで置いた、今までの患者服は、どこへか消え失せてしまって、代りに浅黄色の大きな風呂敷包みが置いてある。結び目を解くと、白いボール箱に入れた大学生の制服と、制帽、霜降りのオーバーと、メリヤスのシャツ、ズボン、茶色の半靴下、新聞紙に包んだ編上靴なぞ……そうしてその一番上に置いてある小さな革のサックを開くと銀色に光る小さな腕時計まで出て来た。
私はそんなものを怪しむ間もなく、一つ一つを看護婦から受取って身につけたが、そのついでに気をつけてみると、そんな品物のどれにも、私の所持品であることをあらわす頭文字のようなものは見当らなかった。しかし、そのどれもこれも、ほとんど仕立卸しと同様にチャンとした折目が付いている上に、身体をゆすぶってみると、さながらに昔《むかし》馴《な》染《じみ》でもあるかのようにシックリと着心地がいい。ただ上着の詰襟の新しいカラーが心持ち詰まっているように思われるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までも、ピッタリと合っているのには驚いた。あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙、左手にいくら入っているかわからないが、滑らかに膨んだ小さな蟇《がま》口《ぐち》が触った。
私はまたも狐《きつね》に抓《つま》まれたようになった。どこかに鏡はないかしらんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、あいにく、破片《かけら》らしいものすら見当らぬ。その私の顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り、三人の看護婦が扉を開けて出て行った。
するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨《かも》居《い》よりも高い頭を下げながら、ノッソリと入って来た。私の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見下すと、黙って私を部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗い晒《ざら》しの浴衣《ゆかた》を取り除《の》けた。その下から現われたものは、思いがけない、一面の巨大な姿見鏡であった。
私は思わず背後《うしろ》によろめいた。……その中に映っている私自身の年恰好が、あんまり若いのに驚いたからであった。
今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の鬚《ひげ》武《む》者《しや》で、人相の悪いスゴイ風《ふう》采《さい》だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、掌で撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。
眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと二《は》十《た》歳《ち》かそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、腮《あご》の薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、または、何とも言えない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。
その時に背後から若林博士が、催促をするように声をかけた。
「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」
私は冠りかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい唾《つ》液《ば》をグッとのみ込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、いろいろな不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっとわかった。若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してから、突然に私の眼の前に突付けて、昔のことを思い出させようとしているのに違いなかった。……なるほどこれなら間違いはない。たしかに私の過去の記念物に相違ない。……ほかのことは全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。
しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながら酬《むく》いられなかった。初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにもかかわらず、私は元の通り何一つ思い出すことができなかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような……ばかにされたような……空恐ろしいような……何とも言えない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。
その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしくうなずいた。
「……ごもっともです。以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられたようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れません……では、こちらへおいでなさい。次の方法を試みてみますから……今度は、きっと思い出されるでしょう……」
私は新しい編上靴をはいた足首と、膝頭を固《こわ》ばらせつつ、若林博士の背後にくっついて、鶏頭の咲いた廊下を引返して行った。そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。それから大きな真鍮の把手《ノツブ》を引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十くらいの付添人らしい婆さんが出て来て、丁寧に一礼した。その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、
「ただ今、よくお寝《やす》みになっております」
と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。
若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして内部《なか》に入った。片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の根方に横たえてある、鉄の寝台に近付いた。そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。
私は両手で帽子の庇《ひさし》をシッカリと握り締めた。自分の眼を疑って、二、三度パチパチと瞬きをした。
……それほどに美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。
その少女は艶々したおびただしい髪毛を、黒い、大きな花弁のような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に蓬《ほう》々《ほう》と乱していた。肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい繃帯で包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄《せい》惨《さん》な、血のにじんだ痕跡を一つも発見することができなかったが、それにしても、あれほどの物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三《み》日《か》月《づき》眉《まゆ》、長い濃い睫《まつ》毛《げ》、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった二重顎まで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。……否。その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。
すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容のできない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り始めたのであった。
新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、生ぶ毛で包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の輪郭のすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となく淋しい薔《ば》薇《ら》色《いろ》に移り変って行くだけであったが、それだけのことでありながら、たった今まで十七、八に見えていたあどけない寝顔が、いつの間にか二十二、三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の神々しいこと……。
私はまたも、自分の眼を疑いはじめた。けれども、眼をこすることはおろか、呼《い》吸《き》もできないような気持ちになって、なおも瞬き一つせずに、見《み》惚《と》れていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。それがみるみるうちに大きい露の珠になって、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、微かにふるえながら動きだして、夢のように淡い言葉が、きれぎれに洩れ出した。
「……お姉さま……お姉さま……すみません、すみません。……あたしは……あたしは心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。お姉様の大事な大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんなことに……ああ……すみません、すみません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」
それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察ができたかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。けれども、その涙は、あとからあとから新しく湧き出して、長い睫毛の間を左右の眥《めじり》へ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした両《りよう》鬢《びん》の、すきとおるような生え際へ消え込んで行くのであった。
しかし、その涙はやがて止まった。そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、健《すこ》康《やか》な、十七、八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。……僅かな夢の間に五、六年も年を取って悲しんだ。そうしてまた、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがて和やかな微笑さえ浮かみ出たのであった。
私はまたも心の底から、ホーッと長い溜息をさせられた。そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと背後《うしろ》をふり返った。
私の背後に突っ立った若林博士は、最前《さつき》からの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。しかし内心は非常に緊張しているらしいことが、その蝋《ろう》石《せき》のように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッとなめて、今までとはまるで違った響きのない声を出した。
「……この方の……お名前を……御存じですか」
私は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりをはばかるように、ヒッソリと頭を振った。
……イイエ……チットモ……
という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声でささやいた。
「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」
私はそう言う若林博士の顔を振り仰いで、二、三度大きく瞬きをして見せた。
……とんでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう……
と言わんばかりに……。
すると、私がそうした瞬間に、またも言い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、しばらくの間、私を凝視していたが、やがてまた、いつとなく元の淋しい表情に返って、二、三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、あたかも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合わせつつ私を見下した。暗示的なゆるやかな口調で言った。
「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお従妹さんで、あなたと許嫁《いいなずけ》の間柄になっておられる方ですよ」
「……アッ……」
と私は驚きの声をのんだ。額を押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。
「……そ……そんなことが……コ……こんなに美しい……」
「……さよう。世にも稀《まれ》な美しいお方です。しかし間違いございません。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六か月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりましたあなたのたった一人のお従妹さんです。その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日までかようにお気の毒な生活をしておられますので……」
「…………」
「……ですから……このお方とあなたのお二人を無事に退院されますように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委託を受けました私の、最後の重大な責任となっているのでございます」
若林博士の口調は、私を威圧するかのように緩やかに、かつ荘重であった。
しかし私はもとの通り、狐に抓まれたように眼をみはりつつ、寝台の上を振り返るばかりであった。……見たこともない天女のような少女を、だしぬけに、お前のものだと言って指さされたその気味の悪さ……疑わしさ……そうして、その何とも知れないばからしさ……。
「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと言ったのは……」
「あれは夢を見ていられるのです。今申します通りこの令嬢には最初から御《ご》同胞《きようだい》がおいでにならない。タッタ一人のお嬢さんなのですが……しかし、この令嬢の一千年前の祖先に当る婦人には、一人のお姉さんがおられたという事実が記録に残っております。それを直接のお姉さんとしてただ今、夢に見ておられますので……」
「……どうして……そんなことが……おわかりに……なるのですか……」
といううちに私は声を震わした。若林博士の顔を見上げながら、ジリジリと後退《じさ》りせずにはおられなかった。若林博士の頭脳が急に疑わしくなって来たので……他人の見ている夢の内容を外から見て言い当てるなぞいうことは、魔法使いよりほかにできるはずがない……まして推理も想像も超越した……人間の力ではとうてい、測り知ることのできない一千年も前の奇怪な事実を、平気で、スラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は最初から当り前の人間ではない。ことによると私と同様に、この精神病院に収容されている一種特別の患者の一人ではないかもしらんと疑われ出したので……。
けれども若林博士は、ちっとも不思議な顔をしていなかった。依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。依然として響きのない、きれぎれの声で……。
「それは……この令嬢が、眼を醒しておられる間にも、そんなことを言ったり、したりしておられるからわかるのです。この髪の奇妙な結い方を御覧なさい。この結髪のし方は、この令嬢の一千年前の御先祖がおられた時代の、夫を持った婦人の髪の恰好で、時々御自身で結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、ただ今でも、清浄無《む》垢《く》の処女でおられるのですが、しかし、御自身でかような髪の形に結い変えておられる間は、この令嬢の精神生活の全体が、一千年前の御先祖であったある既婚婦人の習慣とか、記憶とか、性格とかいうものに立ち返っておられる証拠と認められますので、むろんその時には、眼付から、身体のこなしまでも、処女らしいところが全然見当らなくなります。年《と》齢《し》ごろまでも見違えるくらい成熟された、優雅《みやび》やかな若夫人の姿に見えて来るのです。……もっとも、そのような夢を忘れておいでになる間は、付添人の結うがまにまに、一般の患者と同様のグルグル巻にしておられるのですが……」
私は開いた口が閉《ふさ》がらなかった。その神秘的な髪の恰好と、若林博士の荘重な顔つきとを惘《ぼう》々《ぼう》然《ぜん》と見比べない訳にいかなかった。
「……では……では……兄さんと言ったのは……」
「それはやはりあなたの、一千年前の御先祖に当るお方のことなのです。その時のお姉様の御主人となっておられたあなたの御先祖……すなわち、この令嬢の一千年前の義理の兄さんであったあなたと、同棲しておられる情《あり》景《さま》を、現在夢に見ておられるのです」
「……そ……そんな浅ましい……不倫な……」
と叫びかけて、私はハッと息を詰めた。若林博士がゆるやかに動かした青白い手に制せられつつ……。
「シッ……静かに……あなたが今にも御自分のお名前を思い出されますれば、何もかも……」
と言いさして若林博士もピッタリと口をつぐんだ。二人とも同時に寝台の上の少女をかえりみた。けれどももう、遅かった。
私たちの声が少女の耳に入ったらしい。その小さい、紅《あか》い唇をムズムズと動かしながら、ソッと眼を見開いてちょうどその真横に立っている私の顔を見ると、パチリパチリと大きく二、三度瞬きをした。そうしてその二重瞼の眼を一瞬キラキラと光らしたと思うと、何かしら非常に驚いたと見えて、その頬の色が見る見るまっ白になって来た。その潤んだ黒い瞳が、大きく大きく、ほとんどこの世のものとは思われぬほどの美しさにまで輝き現われて来た。それにつれて頬の色がにわかに、耳元までもパッと燃え立ったと思ううちに、
「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」
と魂《たま》切《ぎ》るように叫びつつ身を起した。素跣足のまま寝台から飛び降りて、裾《すそ》もあらわに私にすがりつこうとした。
私は仰天した。無意識のうちにその手を払い除けた。思わず二、三歩飛び退いて睨み付けた……スッカリ面喰ってしまいながら……。
……すると、その瞬間に少女も立ち止まった。両手をさし伸べたまま電気に打たれたように固くなった。顔色がまっ青《さお》になって、唇の色までなくなった……と見るうちに、眼を一パイに見開いて、私の顔を凝《み》視《つ》めながら、よろよろとうしろに退って寝台の上に両手を支《つ》いた。唇をワナワナと震わせて、なおも一心に私の顔を見た。
それから少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見まわしていた……が、そのうちに、その両方の眼にキラキラと光る涙を一パイに溜めた。グッタリとうなだれて、石の床の上に崩折れ坐りつつ、白い患者服の袖を顔に当てたと思うと、ワッと声を立てながら、寝台の上に泣き伏してしまった。
私はいよいよ面喰った。顔中一パイに湧き出した汗を拭いつつ、シャ嗄《が》れた声でシャクリ上げ上げ泣く少女の背中と、若林博士の顔とを見比べた。
若林博士は……しかし顔の筋《す》肉《じ》一つ動かさなかった。呆然となっている私の顔を、冷ややかに見返しながら、悠々と少女に近付いて腰を屈めた。耳に口を当てるようにして問うた。
「思い出されましたか。この方のお名前を……そうしてあなたのお名前も……」
この言葉を聞いた時、少女よりも私の方が驚かされた。……さてはこの少女も私と同様に、夢中遊行状態から醒めかけた「自我忘失状態」に陥っているのか……そうして若林博士は、現在、私にかけているのと同じ実験を、この少女にも試みているのか……と思いつつ、耳の穴がシイーンと鳴るほど緊張して少女の返事を期待した。
けれども少女は返事をしなかった。ただ、ちょっとの間、泣き止んで、寝台に顔を一層深く埋めながら、頭を左右に振っただけであった。
「……それではこの方が、あなたとお許嫁になっておられた、あのお兄さまということだけは記《お》憶《ぼ》えておいでになるのですね」
少女はうなずいた。そうして前よりも一層烈しい、高い声で泣き出した。
それは、何も知らずに聞いていても、真《まこと》に悲痛を極めた、腸《はらわた》を絞るような声であった。自分の恋人の名前を思い出すことができないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうしてせっかくその相手にめぐり合ってすがりつこうとしても、素気なく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し始めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。
男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、同じ苦しみを体験させられている私は、心の底までその嗄《か》れ果てた泣声に惹《ひ》き付けられてしまった。今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは全然《まるで》違った……否、あの時よりも数層倍した息苦しい立場に陥れられてしまったのであった。この少女の顔も名前も依然として思い出すことができないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければたまらないほど、痛々しい少女の泣声とそのいじらしい背面《うしろ》姿《すがた》が、白い寝床の上に泣き伏して、わななき狂うのを、どうすることもできないのが、全く私一人の責任であるかのような心苦しさに呵責《さいな》まれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになったくらいであった。
けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。
「……さ……さ……落ち着いて……おちついて……もうじきに思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたらすぐにあなたにお教えになるでしょう。そうして御一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かにおやすみなさい。時期の来るのをお待ちなさい。それは、けっして遠いことではありませんから……」
こう言い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。……驚いて、弱って、暗涙を拭い立ちすくんでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。廊下の向うの方で、鶏頭の花をいじっている付添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。
耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。そのすすり上げる呼吸の切れ目切れ目に、付添の婆さんが何か言い聞かせている気はいである。
人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッと吐《つ》きながら気を落ち着けた。とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。
……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、おそらく世間の人々も人形以外には見たことのないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、私と壁一重を隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。
……しかもその美少女は、私のタッタ一人の従妹で、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお婿さんであった私」というような奇怪極まる私と同棲している夢を見ている。
……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。
……それを私から払い除けられたために、床の上へ崩折れて、腸《はらわた》を絞るほど歎き悲しんでいる……
というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。
けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急に唖にでもなったかのように、ピッタリと口をつぐんでしまった。そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手《ゆんで》で胴《チヨ》衣《ツキ》のポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、掌の上に載せた。それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計り始めたのであった。
身体の悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれほどに緊張していた気持ちが、あとかたも残っていなかった。その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが現われていた。小さな眼を幽霊のように伏せて、白い唇を横一文字に閉じて、左手の脈搏の上の中指を強く押えたり、弛めたりしている姿を見ると、あたかもタッタ今、隣りの部屋で見せつけられた、不可思議な出来事に対する私の昂《こう》奮《ふん》を、そうした態度で押え付けようとしているかのように見えた。……こともあろうに過去と現在と未来と……夢と現実とをゴッチャにした、変妙奇怪な世界で、二重三重の恋に悶《もだ》えている少女……想像のできないほど不義不倫な……この上もなく清浄純真な……同時に処女とも人妻ともつかず、正気ともキチガイとも区別されない……実在不可能とも形容すべき絶世の美少女を「お前の従妹で、同時に許嫁だ」と言って紹介するばかりでなく、その証拠を現在、眼の前に見せつけておきながら、そうした途方もない事実に対する私の質問を、故意に避けようとしているかのように見えたのであった。
だから私は、どうしていいかわからない不満さを感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのであった。
……しかも私が、何だかこの博士から小ばかまわしにされているような気持ちを感じたのは、実に、そのうつむいた瞬間であった。
なぜということはわからないけれども、若林博士は私の頭がどうかなっているのに付け込んで、人がビックリするような作り話を持ちかけて、根も葉もないことを信じさせようと試みているのじゃないかしらん。そうして何かしら学問上の実験に使おうとしているのではあるまいか……というような疑いが、チラリと頭の中に湧き起ると、みるみるその疑いが真実でなければならないように感じられて、頭の中一パイに拡がって来たのであった。
何も知らない私を捉まえて、思いもかけぬ大学生に扮装させたり、美しい少女を許嫁だなぞと言って紹《ひき》介《あわ》せたり、いろいろ苦心しているところを見ると、ドウモおかしいようである。この服や帽子は、私が夢うつつになっているうちに、私の身体に合わせて仕立てたものではないかしらん。また、かの少女というのも、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰を見てもあんな変テコな素振りをするのじゃないかしらん。この病院も、九州帝国大学ではないのかもしれぬ。ことによると、眼の前に突立っている若林博士も、何かしらエタイのわからないつかませもので、何かの理由で脳味噌を蒸発させるかどうかしている私を、どこからか引っぱって来て、ある一つの勿《もつ》体《たい》らしい錯覚に陥れて、何かの役に立てようとしているのではないかしらん。そうでもなければ、私自身の許嫁だという、あんな美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔のことを思い出さないはずはない。なつかしいとか、嬉しいとか……何とかいう気持ちを、感じないはずはない。
……そうだ、私はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。
……こう気が付いて来るにつれて、今まで私の頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚きだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。そうして私の頭の中は、いつの間にかまた、もとの木《もく》阿《あ》弥《み》のガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。何らの責任も、心配もない……。
けれども、それにつれて、私自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、私は今一度、細い溜息をしいしい顔を上げた。すると若林博士も、ちょうど脈搏の診察を終ったところらしく、左《ひだり》掌《て》の上の懐中時計を、やおら旧《もと》のポケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの丁寧な態度に返った。
「いかがです。お疲れになりませんか」
私はまたも少々面喰らわせられた。あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよばかにされている気持ちを感じながらも、つとめて何でもなさそうにうなずいた。
「いいえ。ちっとも……」
「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」
私は今一度、何でもなくうなずいた。どうでもなれ……という気持ちで……。それを見ると若林博士も調子を合わせてうなずいた。
「それではただ今から、この九大精神病科本館の教授室……先ほど申しました正木敬之先生が、御臨終の当日までおられました部屋に御案内いたしましょう。そこに陳列してありますあなたの過去の記念物を御覧になっておいでになるうちには、必ずやあなたの御一身に関する奇怪な謎が順々に解けて行きまして、最後にはりっぱに、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。そうしてあなたと、あの令嬢に絡まる怪奇を極めた事件の真相をも、一時に氷解させて下さることと思いますから……」
若林博士のこうした言葉には、鉄よりも固い確信と共に、何らかの意味深い暗示が含まれているかのように響いた。
しかし私は、そんなことには無頓着なまま、頭を今一つ下げた。……どこへでも連れて行くがいい。どうせ、なるようにしかならないのだから……というような投げやりな気持ちで……。同時に今度はドンナ不思議なものを持ち出して来るか……といったような、多少の好奇心にも駈られながら……。
すると若林博士も満足そうにうなずいた。
「……では……こちらへどうぞ……」
九州帝国大学、医学部、精神病科本館というのは、最前の浴場を含んだ青ペンキ塗、二階建の木造洋館であった。
その中《まん》央《なか》を貫く長い廊下を、今しがた来た花畑添いの外廊下づたいに、一直線に引返して、向う側に行抜けると、監獄の入口かと思われる物々しい、鉄張りの扉に行き当った……と思ううちにその扉は、どこからかこっちを覗《のぞ》いているらしい番人の手でゴロゴロと一方に引き開いて、二人は暗い、ガランとした玄関に出た。
その玄関の扉はピッタリと閉め切ってあったが、多分まだ朝が早いせいであったろう。その扉の上の明り窓から洩れ込んで来る仄《ほの》青《あお》い光線をたよりに、両側に二つ並んでいる急な階段の向って左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になって、右側に「実験室」とか「図書室」とかいう木札をかけたいくつもの室が並んでいる。その廊下の突当りに「出入厳禁……医学部長」と筆太に書いた白紙を貼《は》り付けた茶《ちや》褐《かつ》色《しよく》の扉が見えた。
先に立った若林博士は、内ポケットから大きな木札の付いた鍵を出してその扉を開いた。背後を振り返って私を招き入れると、謹み返った態度で外《がい》套《とう》を脱いで、扉のすぐ横の壁に取付けてある帽子掛にかけた。だから私もそれに倣《なら》って、霜降のオーバーと角帽をかけ並べた。私たちの靴の痕《あ》跡《と》が,、そのまま床に残ったところを見ると、部屋中が薄いホコリに蔽《おお》われているらしい。
それはステキに広い、明るい部屋であった。北と、西と、南の三方に、四ツずつ並んだ十二の窓の中で、北と西の八つの窓は、一面に濃緑色の松の枝で蔽われているが、南側に並んだ四ツの窓は、何も遮《さえぎ》るものがないので、青い青い朝の空の光が、ほど近い浪の音と一緒に、洪水のように眩《まぶ》しく流れ込んでいる。その中に並んで突き立っている若林博士の、非常に細長いモーニング姿と、チョコナンとした私の制服姿とは、そのまま一種の奇妙な対照をあらわして、何となく現実世界から離れた、遠いところに来ているような感じがした。
その時に若林博士は、その細長い右《め》手《て》をあげて、部屋の中をグルリと指さしまわした。同時に、高いところから出る弱々しい声が、部屋の隅々に、ゆるやかな余韻を作った。
「この部屋は元来、この精神病科教室の図書室と、標本室とを兼ねたものでしたが、その図書や標本と申しますのは、いずれもこの精神病科の前々主任教授をつとめていられました斎藤寿八先生が、苦心をして集められました精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、またはこの病院におりました患者の製作品、もしくは身の上に関係した物品書類なぞで、中には世界に誇るに足るものがすくなくありません。ところがその斎藤先生が他界されました後、本年の二月に、正木先生が主任教授となって着任されますと、この部屋の方が明るくて良いというので、こちらの東側の半分を埋めていた図書文献の類《たぐい》を全部、今までの教授室に移して、その跡を御覧の通り、御自分の居間に改造して、あのような美事な暖炉《ストーブ》まで取付けられたものです。しかも、それが総長の許可も受けず、正規の届けも出さないまま、自分勝手にされたものであることが判明しましたので、本部の塚江事務官が大きに狼《ろう》狽《ばい》しまして、大急ぎで届書を出して正規の手続きをしてもらうように、言葉を卑《ひく》うして頼みに来たものだそうですが、その時に正木先生は、用向きの返事は一つもしないまま、すましてこんなことを言われたそうです。
『……なあにそんなに心配するがものはないよ。ちょっと標本の位置を並べ換えたダケのことなんだからね。総長にそう言っといてくれ給え……というのはコンナ理由なんだ。聞き給え。……何を隠そう、かく言う吾《わが》輩《はい》自身のことなんだが、お陰でこうして大学校の先生に納まりは納まったものの、正直のところ、考えまわしてみると、吾輩は一種の研究狂兼誇大妄《もう》想《そう》狂《きよう》に相違ないんだからね。そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分にあるという事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。……しかしそうかといって今更、自分自身で名乗を上げて自分の受持の病室に入院するわけにもいかないからね。とりあえずこんな参考材料と一緒に、自分自身の脳髄を、生きた標本として陳列してみたくなったダケのことなんだ。……むろん内科や外科なぞいうところではコンナ必要がないかも知れないが、精神病科に限っては、その主任教授の脳髄も研究材料の一つとして取扱わなければならぬ……徹底的の研究を遂げておかねばならぬ……というのが吾輩一流の学術研究態度なんだから仕方がない。この標本室を作った斎藤先生も、むろん地下で双手を挙げて賛成してござると思うんだがね……』
と言って大笑されましたので、さすが老練の塚江事務官も煙に巻かれたまま引退ったものだそうです」
こうした若林博士の説明は極めて平調にスラスラと述べられたのであったが、しかしそれでも私の度胆を抜くのには充分であった。今までは形容詞ばかりで聞いていた正木博士の頭脳のホントウの素晴らしさが、こうした何でもない諧《かい》謔《ぎやく》の中からマザマザと輝き現われるのを感じた一刹那に、私は思わずゾッとさせられたのであった。世間一般が大切《だいじ》がる常識とか、規則とかいうものを遥かに超越しているばかりでなく、冗談半分とは言いながら、自分自身をキチガイの標本ぐらいにしか考えていない気持ちを通じて、大学全体、否、世界中の学者たちをばかにしきっている、そのアタマの透明さ……その皮肉の辛《しん》辣《らつ》、偉大さが、私にわかり過ぎるほどハッキリとわかったので、私はただ呆《ぼう》然《ぜん》として開いた口が塞《ふさ》がらなくなるばかりであった。
しかし若林博士は、例によって、そうした私の驚きとは無関係に言葉を続けていった。
「……ところで、あなたをこの部屋にお伴致しました目的と申しますのは他《ほ》事《か》でもございません。ただ今も階《し》下《た》の七号室で、ちょっとお話致しました通り、何よりもまず第一に、かように一パイに並んでおります標本や、参考品の中で、どの品が最も深くあなたの御注意を惹《ひ》くかということを、試験させて頂きたいのです。これは人間の潜在意識……すなわち普通の方法では思い出すことのできない深いところにある記憶を探り出す一つの方法でございますが、しかもその潜在意識というものは、いつも、本人に気付かれないままに常住不断の活躍をして、その人間を根強く支配している事実が、既に数限りなく証明されているのですから、あなたの潜在意識の中に封じ込められている、あなたの過去の御記憶も同様に、きっとこの部屋の中のどこかに陳列してある、あなたの過去の記念物のところへ、あなたを導き近づけて、それに関する御記憶を、鮮やかに喚《よ》び起すに違いないと考えられるのでございます。……正木先生はかつて、バルカン半島を御旅行中に、その地方特有のイスメラと称する女《おんな》祈《き》祷《とう》師《し》からこの方法を伝授されまして、度々の実験に成功されたそうですが……もちろん万が一にも、あなたが最前の令嬢と、何らの関係もない、赤の他人でおいでになると致しますれば、この実験は、絶対に成功しないはずでございます。なぜかと申しますと、あなたの過去の御記憶を喚び起すべき記念物は、この部屋の中に一つもない訳ですから……何でもかまいません、この部屋の中で、お眼に止まるものについて順々に御質問なすって御覧なさい。あなた御自身が、精神病に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればそのうちに、やがて何かしら一つの品物について、電光のように思い当られるところができて参りましょう。それがあなたの過去の御記憶を喚び起す最初のヒントになりますので、それから先はおそらく一《いつ》瀉《しや》千《せん》里《り》に、あなたの過去の御記憶の全部を思い出されることに相成りましょう」
若林博士のこうした言葉は、やはり極めて無造作に、スラスラと流れ出たのであった。
あたかも大人が小児《こども》に言って聞かせるような、手軽い、親切な気持ちをこめて……しかし、それを聞いているうちに私は、今朝からまだ一度も経験しなかった新しい戦《せん》慄《りつ》が、心の底から湧き起って来るのを、押え付けることができなくなった。
私が先刻《さつき》から感じていた……何もかもでたらめではないか……といったような、あらゆる疑いの気持ちは、若林博士の説明を聞いているうちに、ドン底から引っくり返されてしまったのであった。
若林博士はさすがに権威ある法医学者であった。私を真実に彼女の恋人と認めているにしても、けっして無理押し付けに、そう思わせようとしているのではなかった。最も公明正大な、かつ、最も遠まわしな、科学的の方法によって、一分一厘の隙《すき》間《ま》もなく私の心理を取り囲んで、私自身の手で直接に、私自身を彼女の恋人として指ささせようとしている。その確信の底深さ……その計画の冷静さ……周到さ……。
……それならば先刻《さつき》から見たり聞いたりしたいろいろな出来事は、やっぱり真実に、私の身の上に関係したことだったのかしらん。そうしてあの少女は、やはり私の正当な従妹で、同時に許嫁《いいなずけ》だったのかもしらん……。
……もしそうとすれば私は、否《いや》でも応でも彼女のために、私自身の過去の記念物を、この部屋の中から探し出してやらねばならぬ責任があることになる。そうして私は、それによって過去の記憶を喚び起して、彼女の狂乱を救うべく運命づけられつつ、今、ここに突っ立っていることになる。
……ああ。「自分の過去」を「狂人病院の標本室」の中から探し出さねばならぬとは……絶対に初対面としか思えない絶世の美少女が、自分の許嫁でなければならなかった証拠を「精神病研究用の参考品」の中から発見しなければならぬとは……何という奇妙な私の立場であろう。何という恥かしい……恐ろしい……そうして不可解な運命であろう。
こんな風に考えが変って来た私は、われ知らず額にニジミ出る汗を、ポケットの新しいハンカチで拭いながら、今一度部屋の内《な》部《か》を恐る恐る見まわしはじめた。思いもかけない過去の私が、ツイ鼻の先に隠れていはしまいかという、世にも気味の悪い想像を心の奥深くおののかせ縮み込ませつつ、今一度オズオズと部屋の中を見まわしたのであった。
部屋の中央から南北に区切った西側は、普通の板張りで、標本らしいものが一パイにならんだガラス戸《と》棚《だな》の行列が立塞がっているが、反対に東側の半分の床は、薄いホコリを冠った一面のリノリウム張りになっていて、その中央に幅四、五尺、長さ二間ぐらいに見える大《だい》卓《テー》子《ブル》が、中ほどを二つの肘《ひじ》掛《かけ》廻転椅子に挟まれながら横たわっている。その大卓子の表面に張詰めてある緑色の羅《ラ》紗《シヤ》は、やはり薄いホコリを被《かぶ》ったまま、南側の窓からさし込む光線を眩しく反射して、この部屋の厳粛味を、一層高潮させているかのようである。また、その緑色の反射の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の綴《とじ》込《こ》みらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが、勿《もつ》体《たい》らしくキチンと置き並べてあるが、その上から卓子の表面と同様の灰色のホコリが一面に蔽い被さっているのを見ると、何でもよほど以前から誰も手を触れないまま置き放しにしてあるものらしい。しかもその前には瀬戸物の赤い達磨《だるま》の灰落しが一個、やはり灰色のホコリを被ったまま置き放しにしてあるが、それが、その書類に背中を向けながら、毛だらけの腕を頭の上に組んで、大きな口を開きながら、永遠の欠伸《あくび》を続けているのが、何だか故《わ》意《ざ》とそうした位置に置いてあるかのようで、妙に私の気にかかるのであった。
その赤い達磨の真正面に衝《つ》き立っている東側の壁《か》面《べ》は一面に塗上げてから間もないらしい爽《さわ》やかな卵色で、中央に人間一人が楽にかがまれるくらいの大《だい》暖《スト》炉《ーブ》が取付けられて、黒塗の四角い蓋《ふた》がしてある。その真上には差渡し二尺以上もあろうかと思われる丸型の大時計が懸かっているが、セコンドの音も何も聞こえないままに今の時間……七時四十二分を示しているところを見ると、多分、電気仕掛か何かになっているのであろう。その向って右には大きな油絵の金縁額面、また、左側には黒い枠《わく》に囲まれた大きな引伸し写真の肖像と、カレンダーがかかっている。そのまた肖像写真の左側には今一つ、隣りの部屋に通ずるらしい扉が見えるが、それらのすべてが、清《すが》々《すが》しい朝の光の中に、あるいは眩しく、またはクッキリと照し出されて、大学教授の居室らしい、厳粛な静寂《しじま》を作っている光景を眺めまわしているうちに、私は自ずから襟を正したい気持ちになって来た。
事実……私はこの時に、ある崇高なインスピレーションに打たれた感じがした。最前から持っていたような一種の投げやりな気持ちや、彼女の運命に対する好奇心なぞいうものは、どこへか消え失せてしまって……何事も天命のまま……というような神聖な気分に充たされつつ、詰襟のカラーを両手で直した。それから、やはり神秘的な運命の手によって導かれる行者のような気持ちでソロソロと前に進み出て、参考品を陳列した戸棚の行列の中へ歩み入った。
私はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いていったが、その窓に面したガラス戸の中には、いろいろ奇妙な書類や、掛軸のようなものが一々簡単な説明を書いた紙を貼《はり》付《つ》けられて並んでいた。若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これくらいに治《な》癒《お》りましたから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛《あて》に提出されたものばかり……という話であった。
――歯《は》齦《ぐき》の血で描いたお雛様の掛軸――(女子大学卒業生作)
――火星征伐の建白書――(小学教員提出)
――唐詩選五言絶句『竹里館』隷書――(無学文盲の農夫が発病後、曾祖父に当る漢方医の潜在意識を隔世的に再現、揮《き》毫《ごう》せしもの)
――大英百科全書の数十ページを暗記筆記した西洋半紙数十枚――(高文試験に失格せし大学生提出)
――『カチューシャ可愛や別れの辛《つら》さ』という同一文句の繰り返しばかりで埋めた学生用ノート・ブック数十冊――(大芸術家をもって任ずる失職活動俳優の自称『創作』)
――紙で作った懐中日時計――(老理髪師製作)
――竹片で赤煉瓦に彫刻した聖母像――(天主教を信ずる小学校長製作)
――鼻糞で固めた観音像、ガラス箱入り――(曹洞宗布教師作)
私は、あんまりミジメな、痛々しいものばかりが次から次に出て来るので、その一列の全部を見てしまわないうちに、思わず顔を反《そ》向《む》けて通り抜けようとしたが、その時にフトその戸棚の一番おしまいの、ガラス戸の壊れている片隅に、ほかの陳列品から少し離れて、妙なものが置いてあるのを発見した。それは最初にはガラスが破れているお陰で、ヤット眼に止まった程度の眼に立たない品物であったが、しかしよく見れば見るほど、奇妙な陳列物であった。
それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の綴込みで、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れ穢《よご》れてボロボロになりかけている。ガラスの破れ目からけがをしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一ページごとに赤インキの一ページ大の亜《ア》剌《ラ》比《ビ》亜《ア》数字で、T、U、V、W、Vと番号が打ってある。その一番上の一冊の半分千切れた第一ページをめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。
巻頭歌
胎児よ胎児よ何故躍る 母親の
心がわかっておそろしいのか
その次のページに黒インキのゴジック体で『ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前はない。
一番最初の第一行が……ブウウ――ンンン――ンンンン……という片仮名の行列から始まっているようであるが、最終の一行が、やはり……ブウウ――ンンン――ンンンン……という同じ片仮名の行列で終っているところを見ると、全部一続きの小説みたような物ではないかと思われる。何となく人をばかにしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。
「……これは何ですか先生……このドグラ・マグラというのは……」
若林博士は今までになく気軽そうに、私の背後《うしろ》からうなずいた。
「ハイ。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを表現《あらわ》した珍奇な、面白い製作の一つです。当《こ》科《こ》の主任の正木先生が亡くなられますと間もなく、やはりこの付属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気呵《か》成《せい》に書き上げて、私の手許に提出したものですが……」
「若い大学生が……」
「そうです」
「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かなことを証明するために書いたものですか」
「イヤ。そこのところが、まだハッキリ致しませんので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とをモデルにして書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」
「……超常識的な科学物語……先生と正木博士をモデルにした……」
「さようで……」
「論文じゃないのですか……」
「……さようで……その辺が、やはり何とも申上げかねますので……一体に精神病者の文章は理屈ばったものが多いものだそうですが、この製作だけは一種特別でございます。つまり全部が一貫した学術論文のようにも見えまするし、今までに類例のない形式と内容の探偵小説といったような読後感も致します。そうかと思うと単に、正木先生と私どもの頭脳を嘲笑し、翻《ほん》弄《ろう》するために書いた無意味な漫文とも考えられるという、実に奇怪極まる文章で、しかも、その中に盛込まれている事実的な内容がまた非常に変っておりまして、科学趣味、猟奇趣味、色情表現《エロチシズム》、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞというものが、全篇の隅々まで百パーセントに重なり合っているという極めて眩《げん》惑《わく》的《てき》な構想で、落着いて読んでみますとさすがに、精神異常者でなければトテモ書けないと思われるような気味の悪い妖《よう》気《き》が全篇に横《おう》溢《いつ》しております。……もちろん火星征伐の建白なぞとは全然、性質を異にした、精神科学上研究価値の高いものと認められましたところから、とりあえずここに保管してもらっているのですが、おそらくこの部屋の中でも……否、世界中の精神病学界でも、一番珍奇な参考品ではないかと考えているのですが……」
若林博士は私にこの原稿を読ませたいらしく、しだいに能弁に説明し始めた。その熱心振りが異様だったので私は思わず眼をパチパチさせた。
「ヘエ。そんなに若いキチガイが、そんなに複雑な、むずかしい筋道を、どうして考え出したのでしょう」
「……それはかような訳です。その若い学生は尋常一年生から高等学校を卒業して、当大学に入学するまで、ズッと首席で一貫して来た秀才なのですが、非常な探偵小説好きで、将来の探偵小説は心理学と、精神分析と、精神科学方面にありと信じました結果、精神に異常を呈しましたものらしく、自分自身である幻覚錯覚に囚《とら》われた一つの驚くべき惨劇を演出しました。そうしてこの精神病科病室に収容されると間もなく、自分自身をモデルにした一つの戦慄的な物語を書いてみたくなったものらしいのです。……しかもその小説の構想は前に申しました通り、極めて複雑精密なものでありますにもかかわらず、大体の本筋というのは驚くべき簡単なものなのです。つまりその青年が、正木先生と私とのために、この病室に幽閉《とじこ》められて、想像もおよばない恐ろしい精神科学の実験を受けている苦しみを詳細に描写したものに過ぎないのですが」
「……ヘエ。先生にはソンナ記憶《おぼえ》が、おありになるのですか」
若林博士の眼の下に、最前の通りの皮肉な、淋しい微笑の皺《しわ》が寄った。それが窓から来る逆光線を受けて、白く、ピクピクと輝いた。
「そんなことは絶対にございません」
「それじゃ全部がでたらめなのですね」
「ところが書いてある事実を見ますと、トテモでたらめとは思えない記述ばかりが出て来るのです」
「ヘエ。妙ですね。そんなことがあり得るでしょうか」
「さあ……実はその点でも判断に迷っているのですが……読んで御覧になれば、おわかりになりますが……」
「イヤ。読まなくてもいいですが、内容は面白いですか」
「さあ……その点もチョット説明に苦しみますが、少くとも専門家にとっては面白いという形容では追い付かないくらい、深刻な興味を感ずる内容らしいですねえ。専門家でなくとも精神病とか脳髄とかいうものについて、多少ともに科学的な興味や神秘的な趣味を持っている人々に取っては、非常な魅力の対象になるらしいのです。現に当大学の専門家諸氏の中でも、これを読んだものは最小限、二、三回は読み直させられているようです。そうして、やっと全体の機構がわかると同時に、自分の脳髄が発狂しそうになっていることに気が付いたと言っております。甚しいのになるとこの原稿を読んでから、精神病の研究がイヤになって、私の受持っております法医学部へ転じて来た者が一人、それからモウ一人は、やはりこの原稿を読んでから、自分の脳髄の作用に信用がおけなくなったから自殺すると言って、鉄道往生をした者が一人いるくらいです」
「ヘエ。何だかモノスゴイ話ですね。正気の人間がキチガイに顔負けしたんですね。よっぽどキチガイじみたことが書いてあるんですね」
「……ところが、その内容の描写が極めて冷静で理路整然としていることは普通の論文や小説以上なのです。しかもその見たことや聞いたことに対する精神異常者特有の記憶力の素晴しさには、私も今更ながら感心させられておりますので、ただ今御覧になりました『大英百科全書の暗記筆記』なぞの遠くおよぶところではございません。……それから今一つ、今も申します通り、その構想の不可思議さがまた、普通人のいわゆる推理とか想像とかを超越しておりまして、読んでいるうちにこなたの頭が、いつの間にか一種異様、幻覚錯覚、倒錯観念に巻き込まれそうになるのです。その意味で、かような標題を付けたものであろうと考えられるのですが……」
「……じゃ……このドグラ・マグラという標題は本人が付けたのですね」
「さようで……まことに奇妙な標題ですが……」
「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」
「……さあ……それにつきましても私は迷わされましたもので、要するにこの一文は、標題から内容に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれているものとしか考えられません。……と申します理由はほかでもございません。この原稿を読み終りました私が、その内容の不思議さに眩惑されました結果、もしやこの標題の中に、この不思議な謎《な》語《ぞ》を解決する鍵《かぎ》が隠されているのではないか。このドグラ・マグラというのは、そうした意味の隠語ではあるまいかと考えましたからでございます。……ところが、これを書きました本人の青年患者は、この原稿を僅か一週間ばかりの間に、精神病者特有の精力を発揮しまして、不眠不休で書上げてしまいますと、さすがに疲れたと見えまして、夜も昼もなくグウグウと眠るようになりましたために、この標題の意味を尋ねることが、当分の間できなくなってしまいました。……といってかような不思議な言葉は、字典や何かには一つも発見できませんし、語源等もむろんハッキリ致しませんので、私は一時行き詰まってしまいましたが、そのうちにまた計らずも面白いことに気付きました。元来この九州地方には『ゲレン』とか『ハライソ』とか『バンコ』『ドンタク』『テレンパレン』なぞいうような旧ヨーロッパ系統の訛《なまり》言《こと》葉《ば》が、方言として多数に残っているようですから、あるいは、そんなものの一種ではあるまいかと考え付きましたので、そのような方言を専門に研究している篤志家の手で、いろいろと取調べてもらいますと、やっとわかりました。……このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは切《キリ》支《シ》丹《タン》伴《バ》天《テ》連《レン》の使う幻魔術のことを言った長崎地方の方言だそうで、ただ今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なんぞは、まだ判明致しませんが、強いて訳しますれば、今の幻魔術もしくは『堂《どう》廻《めぐり》目《め》眩《ぐらみ》』『戸《と》惑《まどい》面《めん》喰《くらい》』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部を引っくるめたような言葉には相違ございません。……つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説式な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために、かような名前を付けたものであろうと考えられます」
「……脳髄の地獄……ドグラ・マグラ……まだよくわかりませんが……つまりドンナことなのですか」
「……それはこの原稿の中に記述されている事柄をお話致しましたら、幾分、御想像がつきましょう……すなわちこのドグラ・マグラ物語の中に記《し》述《る》されております問題というものは皆、一つ残らず、常識で否定できない、わかり易い、興味の深い事柄でありますと同時に、常識以上の常識、科学以上の科学ともいうべき深遠な真理の現われを基礎とした事実ばかりでございます。たとえば、
……『精神病院はこの世の活《いき》地《じ》獄《ごく》』という事実を痛切に唄《うた》いあらわした阿《あ》呆《ほ》陀《だ》羅《ら》経《きよう》の文句……
……『世界の人間は一人残らず精神病者』という事実を立証する精神科学者の談話筆記……
……胎児を主人公とする万有進化の大悪夢に関する学術論文……
……『脳髄は一種の電話交換局に過ぎない』と喝《かつ》破《ぱ》した精神病患者の演説記録……
……冗談半分に書いたような遺言書……
……唐時代の名工が描いた死美人の腐敗画像……
……その腐敗美人の生前に生写しともいうべき現代の美少女に恋い慕われた一人の美青年が、無意識のうちに犯した残虐、不倫、見るに堪えない傷害、殺人事件の調査書類……
……そのようなものが、さまざまの不可解な出来事と一緒に、本筋と何の関係もないような姿で、百色眼鏡のように回転し現われて来るのですが、読んだ後で気が付いてみますと、それが皆、一言一句、極めて重要な本筋の記述そのものになっておりますので……のみならず、そうした幻魔作用《ドグラ・マグラ》の印象をその一番冒頭になっている真夜中の、タッタ一つの時計の音から始めまして、次から次へと逐《お》いかけて行きますと、いつの間にかまた、一番最初に聞いた真夜中のタッタ一つの時計の音の記憶に参りますので……それは、ちょうど真に迫った地獄のパノラマ絵を、一方から一方へ見まわして行くように、おんなじ恐ろしさや気味悪さを、同じ順序で思いだしつつ、いつまでもいつまでも繰り返して行くばかり……逃れ出す隙《すき》間《ま》がどこにも見当りません。……というのは、それらの出来事の一切合財が、とりも直さず、ただ一点の時計音を、ある真夜中に聞いた精神病者が、ハッとした一瞬間に見た夢に過ぎない。しかも、その一瞬間に見た夢の内容が、実際は二十何時間の長さに感じられたので、これを学理的に説明すると、最初と最終の二つの時計の音は、真実のところ、同じ時計の、同じただ一つの時鐘の音であり得る……ということが、そのドグラ・マグラの全体によって立証されている精神科学上の真理によって証明され得る……という……それほどさようにこのドグラ・マグラの内容は玄妙、不可思議に出来上っておるのでございます。……論より証拠……読んで御覧になれば、すぐにおわかりになることですが……」
といううちに若林博士は進み寄って一番上の一冊を取上げかけた。
しかし私は慌てて押し止めた。
「イヤ。モウ結構です」
といううちに両手を烈しく左右に振った。若林博士の説明を聞いただけで、もはや私のアタマが「ドグラ・マグラ」にかかってしまいそうな気がしたので……同時に……
……どうせキチガイの書いたものなら結局無意味なものにきまっている。「百科全書の丸暗記」と「カチューシャ可愛や」と「火星征伐」をゴッチャにした程度のシロモノに過ぎないのであろう。……現在の私が直面しているドグラ・マグラだけでもたくさんなのに、他人のドグラ・マグラまでも背負い込まされて、この上にヘンテコな気持ちにでもなっては大変だ。……こんな話はもう、これっきり忘れてしまうに限る……
……と思ったので、ポケットに両手を突込みながら頭を強く左右に振った。そうして戸棚の出外れの窓際に歩み寄ると、そこいらに貼り並べてある写真だの、一覧表みたようなものを見まわしながら、引続いて若林博士の説明を求めていった。それは……
――精神病者の発病前後における表情の比較写真――
――同じく発病前後における食物と排泄物の分析比較表――
といったような珍しい研究に属するものから……
――幻覚錯覚に基く絵画――
――ヒステリー婦人の痙《けい》攣《れん》、発作が現わす怪姿態、写真各種――
――各種の精神病における患者の扮装、仮装写真、種類別――
なぞいう、痛々しい種類のもの等々であったが、そんなものが三方の壁から戸棚の横腹まで一面に、ゴチャゴチャと貼り交ぜてある光景は、一種特別のグロテスクな展覧会を見るようであった。またその先に並んだ数層のガラス戸棚の中に陳列してあるものは……
――並外れて巨大な脳髄と、小さな脳髄と、普通の脳髄との比較(巨大な方は普通の分の二倍、小さい方の三倍ぐらいの容積。いずれもフォルマリン漬)――
――色情狂、殺人狂、中風患者、一寸法師等々々の精神異常者の脳髄のフォルマリン漬(いずれも肥大、萎縮、出血、または黴《ばい》毒《どく》に犯された個所の明《めい》瞭《りよう》なもの)――
――精神病で滅亡した家の宝物になっていた応挙筆の幽霊画像――
――磨《と》ぐとその家の主人が発狂するという村正の短刀――
――精神病者が人魚の骨と信じて売り歩いていた鯨骨の数片――
――同じく精神病者が一家を毒殺する目的の下に煎《せん》じていた金銀瞳《め》の黒猫の頭――
――同じく精神病者が自分で斬り棄てた五指と、それに使用した藁《わら》切《きり》庖《ぼう》丁《ちよう》――
――寝台から逆《さか》様《さま》に飛降りて自殺した患者の亀《き》裂《れつ》した頭《ず》蓋《がい》骨《こつ》――
――女房に擬して愛撫した枕と毛布製の人形――
――手品を使うと称して、嚥《えん》下《か》した真《しん》鍮《ちゆう》煙管《きせる》――
――素手で引裂いた錻《ぶ》力《りき》板《いた》――
――女患者が捻《ね》じ曲げた檻房の鉄柵――
……といったモノスゴイ品物が、やはり狂人の作った優美な、精巧な編物や、造花や、刺《し》繍《しゆう》なぞと一緒に押し合いへし合い並んでいるのであった。
私は、そんな物の中で、どれが自分に関係のあるものだろうとヒヤヒヤしながら、若林博士の説明を聞いていった。こんなとんでもないものの中の、どれか一つでも、私に関係のあるものだったらどうしようと、心配しいしい覗《のぞ》きまわって行ったが、幸か不幸か、それらしい感じを受けたものは一つもないようであった。かえって、そんなものの中に含まれている、精神病者特有のアカラサマな意志や感情が、一つ一つにヒシヒシと私の神経に迫って来て、一種、形容のできない痛々しい、心苦しい気持ちになっただけであった。
私はそうした気持ちを一所懸命に我慢しいしい一種の責任観念みたようなものに囚《とら》われながら戸棚の中を覗いて行ったが、そのうちにヤットの思いで一通り見てしまって、以前の大《だい》卓《テー》子《ブル》の片《かた》脇《わき》に出て来ると、思わずホッと安心の溜《ため》息《いき》をした。またもニジミ出して来る額の生汗をハンカチで拭いた。そうして急に靴の踵《かかと》で半回転をして西の方に背中を向けた。
……同時に部屋の中の品物が全部、右から左へグルリと半回転して、右手の入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大卓子越しに、私の真正面まで辷《すべ》って来て、ピッタリと停止した。さながらにその額面と向い合うべく、私が運命付けられていたかのように……。
私は前こごみになっていた身体をグッと引き伸ばした。そうして改めて、長い長い深呼吸をしいしい、その古ぼけた油絵具の、黄色と、茶色と、薄ぼやけた緑色の配合に見《み》惚《と》れた。
その図は、西洋の火《ひ》焙《あぶ》りか何かの光景らしかった。
三本並んだ太い生木の柱の中央に、白髪、白《はく》髯《ぜん》の神々しい老人が、高々とくくり付けられている。その右に、瘠《や》せこけた蒼《あお》白《じろ》い若者……また、老人の左側には、花輪を戴いた乱髪の女性が、それぞれに丸《まる》裸体《はだか》のまま縛り付けられて、足の下に積み上げられた薪《まき》から燃え上る焔《ほのお》と煙に、むせび狂っている。
その酷《むご》たらしい光景を額面の向って右の方から、黄金色の輿《こし》に乗った貴族らしい夫婦が、美々しく装うた眷《けん》属《ぞく》や、臣下らしいものに取巻かれつつも、いかにも興味深そうに悠《ゆう》然《ぜん》と眺《なが》めているのであるが、これに反して、その反対側の左の端には、焔と煙の中から顔を出している母親を慕う一人の小児が、両手を差し伸べて泣き狂うている。それを父親らしい壮漢と、祖父らしい老翁が抱きすくめて、大きな掌《てのひら》で小児の口を押えながら、貴人たちを恐るるかのように振り返っている表情が、それぞれに生き生きと描きあらわしてある。
また、その中央の広場のまん中には、赤い三角型の頭巾を冠《かむ》って、黒い長い外《がい》套《とう》を羽織った鼻の高い老婆がタッタ一人、撞《しゆ》木《もく》杖《づえ》をついて立ち佇《ど》まっているが、いかにも手柄顔に火刑《ひあぶり》柱《ばしら》の三人の苦《く》悶《もん》を、貴人に指し示しつつ、粗《まば》らな歯を一パイに剥《む》き出してニタニタと笑っている……という場面で、見ているうちにだんだんと真に迫って来る薄気味の悪い画面であった。
「これは何の絵ですか」
私はその画面を指さして振り返った。若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。
「それは欧州の中世期に行なわれました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。精神病者を魔者に憑《つ》かれたものとして、片端から焚《や》き殺している光景を描きあらわしたもので、中央におりまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃《ころ》の医師兼祈《き》祷《とう》師《し》兼卜《うら》筮《ない》者《しや》であった巫《み》女《こ》婆《ばばあ》です。昔は狂人をこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が柳《やな》河《がわ》の骨《こつ》董《とう》店《てん》から買って来られたというお話です。筆者はレンブラントだという人がこの頃、二、三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品としても容易ならぬ貴重品でありますが……」
「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」
「さようさよう。精神病という捉《とら》えどころのない病気には用いる薬がありませんので、むしろ徹底した治療法と言うべきでしょう」
私は笑いも泣きもできない気持ちになった。
そう言って私を見下した若林博士の青白い瞳《ひとみ》の中に、学術のためとあれば今にも私を引っ捉えて、黒焼きにしかねない冷酷さが籠《こも》っていたので……。私は平手で顔を撫でまわしながら、挨《あい》拶《さつ》みたように言った。
「今の世の中に生まれた狂人は幸福ですね」
するとまたも、若林博士の左の頬に、微笑みたようなものが現われて、すぐにまた消え失せていった。
「……いや……必ずしもそうでないのです。あるいはひと思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」
私はまたも余計なことを言ったことを後悔しいしい肩をすぼめた。そう言う若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔を拭いたが、その時に、ゆくりなくも正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。
それは額の禿《は》げ上った、胡《ご》麻《ま》塩《しお》髯《ひげ》を長々と垂らした、福々しい六十恰好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を満面に湛《たた》えている。私はその写真に気が付いた最初に、これが正木先生ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが、どうも違うような気がするので、またも若林博士を振り返った。
「この写真はどなたですか」
若林博士の顔は、私がこう尋ねると同時に、著しく柔らいだように見えた。なぜだかわからないけれども、今までにない満足らしい輝きを見せつつ、ゆっくりと頭を下げた。
「……ハイ……その写真ですか。ハイ……それは斎藤寿八先生です。最前も、ちょっとお話をしました通り、正木先生の前にこの精神病科の教室を受持っておられましたお方で、私どもの恩師です」
そういううちに若林博士は軽い、感傷的な歎《ため》息《いき》をしたが、やがてその長大な顔に深い感銘の色を現わしつつ、悠々と私の方に近付いて来た。
「……やっとお眼にとまりましたね」
「……エッ……」
と私は驚きながら若林博士の顔を見上げた。そういう若林博士の言葉の意味がわからなかったので……。しかし若林博士はかまわずに、なおも悠々と私に接近すると、上半身を心持ち前へ傾けながら、私の顔と写真を見比べて、一層真剣な丁寧な口調で言葉を続けた。
「この写真がやっとお眼に止まりましたことを申上げているのでございます。なぜかと申しますと、この写真こそは、あなたの過去の御生涯と、最も深い関係を結んでいるものに相違ないのでございますから……」
こう言われると同時に私はハッと気が付いた。この部屋に入って来た最初の目的を、いつの間にか忘れていたことを思い出したのであった。そうして、それと同時に何かしら軽い、けれども深い胸の動《どう》悸《き》を、心の奥底に感じさせられたのであった。
けれどもまた、それと同時に、まだ何一つ思い出したような気がしない、自分の頭の中の状態を考えまわすと、何となく安心したような、または失望したような気持ちになって、ほっと一つ肩をゆすり上げた。そうして心持ち項《うな》垂《だ》れながら、若林博士の言葉に耳を傾けた。
「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼ざめかけているように思われるのです。あなたがただ今、あのドグラ・マグラの原稿からこの狂人焚《ふん》殺《さつ》の絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ましたあなた御自身の潜在意識が、ただ今、あなたを導いて、この写真の前に連れて来たものとしか思われないのです。なぜかと申しますと、かの狂人焚殺の名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでもございません。あなたの精神意識の実験者、正木先生だからでございます。……正木先生はあの狂人焚殺の絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方が、二十世紀の今日においても、公然の秘密として、到るところに行なわれている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」
「狂人焚殺……狂人の虐殺が今でも行なわれているのですか」
と私は独言のようにつぶやいた。またも底知れぬ恐怖に囚われつつ……。しかし若林博士は平気でうなずいた。
「……行なわれております。遺憾なく昔の通りに行なわれております。否。焚き殺す以上の残虐が、世界中到るところの精神病院で堂々と行なわれているのでございます。今日ただ今でも……」
「……そ……それはあんまり……」
と言いさして私は言葉をのみ込んだ。あんまりひどい言い方だと思ったので……。しかし若林博士は動じなかった。私と肩を並べて、狂人焚殺の油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら、冷然とした口調で私に言い聞かせた。
「あんまりではありません。厳然たる事実に相違ないのです。その事実は追々と、おわかりになることと思いますが、正木先生は、そうした虐待を受けている憐《あわ》れな狂人の大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、ついに精神科学に関する空前の新学説を樹《た》てられることになったのです。その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑近な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人解放』の実験を始められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬあなた御自身の御提供によって、申分なく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのはただ一つ、あなたが昔の御記憶を回復されまして、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるのでございます」
私はまたも呆然となった。開いた口が塞がらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。そういう私が、何とも形容のできない厳粛な、恐ろしい因縁に囚われつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁に向い合わせられたまま、動くことができないように仕向けられているような気がしたので……。しかし若林博士は依然として、そうした私の気持ちに無関係のままスラスラと言葉を続けた。
「……でございますからして、斎藤先生と正木先生と、あの狂人焚殺の因果関係をお話致しますと、そのお話が一々、あなたの過去の御経歴に触れて来るのでございます。すなわち正木先生が、解放治療場において、あなたを精神科学の実験にかけるために、どれほどの周到な準備を整えて、この九大に来られたか……この実験に関する準備と研究のためにどのような恐ろしい苦心と努力を払って来られたか……」
「エッ。エッ。僕を実験するために、そんなに恐ろしい準備……」
「そうです、正木先生は実に二十余年の長い時日を、この実験の準備のために費されたのでございます」
「……二十年……」
こう叫びかけた私の声は、まだ声にならないうちに、一種の唸《うな》り声みたようなものになって、咽《の》喉《ど》の奥に引返した。その正木先生の二十年間の苦心が、そのまま私の頸《く》筋《び》に巻き付いて来るような気がしたので……。
すると今度は若林博士も、そうした私の気持ちを察したらしく、またもゆっくりとうなずいた。
「そうです。正木先生は、まだあなたが、お生まれにならない以前から、あなたのためにこの実験を準備して来られたのです」
「……まだ生まれない僕のために……」
「さよう。こう申しますと、わざわざ奇矯な言い廻しを致しているように思われるかも知れませんが、けっしてそのような訳ではございません。正木先生はたしかに、あなたがまだお生まれにならないズット以前から、あなたの今日あることを予期しておられたのです。あなたがただ今にも、過去の御記憶を回復されました後に……否……たとい過去の御記憶を思い出されませずとも、これから私が提供致します事実によって、単にあなた御自身のお名前を推定されただけでもよろしい。その上で前後の事実を照し合わされましたならば、私の申しますことが、けっして誇張でありませぬ事実を、御首肯できることと信じます。……また……そう致しますのが、あなた御自身のお名前をホントウに思い出して頂く、最上の、最後の手段ではないかと、私は信じている次第でございますが……」
若林博士は、こう説明しつつ大卓子の前に引返して、ストーブに面した小型な廻転椅子を指しつつ私を振り返った。私はその命令に従って手術を受ける患者のように、恐る恐るその椅子に近付くと、オズオズ腰を卸すには卸したが、しかし腰をかけているような気持ちはチットモしなかった。余りの気味悪さと不思議さに息苦しくなって胸を押えて、唾《つ》液《ば》をのみ込みのみ込みしているばかりであった。
その間に若林博士はグルリと大卓子をまわって、私の向う側の大きな廻転椅子の上に坐った。最前あの七号室で見た通りの恰好に、小さくなって曲り込んだのであったが、今度は外套を脱いでいるために、モーニング姿の両手と両脚が、露《あら》わに細長く折れ曲っている間へ、長い頸《く》部《び》と、細長い胴体とがグズグズと縮み込んで行くのがよく見えた。そうしてそのまん中に、顔だけが旧《もと》の通りの大きさで据わっているので、全体の感じが何となく妖怪じみてしまった。たとえば大きな、蒼白い人間の顔を持った大《おお》蜘《ぐ》蛛《も》が、その背後の大暖炉の中からタッタ今、私を餌《え》食《さ》にすべく、モーニングコートを着てはい出して来たような感じに変ってしまったのであった。
私はそれを見ると、自ずと廻転椅子の上に居ずまいを正した。するとその大蜘蛛の若林博士は、悠々と長い手をさし伸ばして、最前から大卓子のまん中に置いたままになっている書類の綴込みのようなものを引寄せて、膝の下でソッと塵《ちり》を払いながら、小さな咳払いを一つ二つした。
「……ところでその正木先生が、生涯を賭して完成されました、その実験の前後に関するお話を致しますについては、まことに恐縮でございますが、かく申す私のことを引合いに出させて頂かなければなりませんので……と申します理由は、ほかでもございません。正木先生と私とは元来、同郷の千葉県出身でございまして、この大学の前身でありました京都帝国大学、福岡医科大学と申しましたのが、明治三十六年に福岡の県立病院を改造して新設されました当初に、第一回の入学生として机を並べましたものです。そうして同じく明治四十年に、同時に卒業致しましたのですから、申さば同窓の同輩とも申すべき間柄だったのでございます。しかも、今日まで二人とも独身生活を続けまして、学術研究の一方に生涯を打ち込んでおりますところまでそっくりそのまま、似通っているのでございましたが……しかしその正木先生の頭脳の非凡さと、その資産の莫大さとの二つの点に到っては、トテモ私どもの思いおよぶところではございませんでした。とりあえず学問の方だけで申しましても、その頃の私どもの研究というものは、ただ今のように外国の書物が自由自在に得られませぬために、あらゆる苦心を致しましたものです。学校の図書館の本を借りて来て、昼夜兼行で筆写したりなぞしておりましたのに、正木先生だけはタッタ一人、すこぶる呑《のん》気《き》な状態で自費で外国から取寄せられた書物でも、一度眼を通したら、あとは惜し気もなく他《ひ》人《と》に貸してやったりしておられたものでした。そうして御自身は道楽半分ともいうべき古生物の化石を探しまわったり、医学とは何の関係もない、神社仏閣の縁《えん》起《ぎ》を調べてまわったりしておられたようなことでした。……もっともこうした正木先生の化石集めや、神社仏閣の縁起調べは、その当時から、けっして無意義な道楽ではありませんでした。……『狂人解放治療』の実験と重大な関係を持っている計画的な仕事であった……ということが、二十年後の今日に到って、やっと私にだけわかりかけて参りましたので、今更のように正木先生の頭脳の卓抜、深遠さに驚目駭《がい》心《しん》させられているような次第でございます。いずれに致しましても、そのような訳で、正木先生はその当時から、一風変った人物として、学生教授間の注目を惹いておられた次第ですが、しかも、そのように偉大な正木先生の頭脳をまっ先に認められましたのが、ここに掲げてありますこの写真の主、斎藤寿八先生と申しても過言ではございませんでした。
……と申しますのはかような次第でございます。元来この斎藤先生と申しますのは、この大学の創立当初から勤続しておられたお方で、現在、この部屋にあります標本の大部分を、独力で集められたほどの、非常に篤学な方でございましたが、殊に非常な熱弁家で、余談ではありますが、こんな逸話が残っているくらいであります。かつて、当大学創立の三周年記念祝賀会が、大講堂で行なわれました際に、学生を代表された正木先生が、こんな演説をされたことがあります。
『近頃、当大学の学生や諸先生が、よく花《か》柳《りゆう》の巷《ちまた》に出入りしたり賭《と》博《ばく》に耽《ふけ》ったりされる噂《うわさ》が、新聞でタタカレているようであるが、これはけっして問題にするには当らないと思う。そもそも学生、学者たるものの第一番の罪悪は、酒色に耽ることでもなければ、花札を弄《もてあそ》ぶことでもない。学士になるか博士になるかすると、それっきり忘れたように学術の研究をやめてしまうことである。これは日本の学界の一大弊害と思う』
と喝破された時には、満堂の学生教授の顔色が一変してしまったものでした。ところが、その中にタッタ一人斎藤先生が、自席から立上って熱狂的な拍手を送って、ブラボーを叫ばれました姿を、ただ今でも私はハッキリと印象しておりますので、この一事だけでもその性格の一端を窺《うかが》うのに十分でございましょう。
……しかし先生が当大学に奉職をされました当初のうちはまだ、九大に精神病科なぞいう分科もありませず、斎藤先生は学内で、ただ一人の精神病の専攻家として助教授格で、僅かな講座を受持っておられましたくらいのことでしたので、この点についてはだいぶ、御不平らしく見えておりました。いつもお気に入りの正木先生と、その頃から御指導を仰いでおりました私との二人を捉まえては、現代の唯物科学万能主義を罵《ば》倒《とう》したり、国体の将来を憂えたりしておられたものですが、そのような場合に私はどのような受け答えを致してよいのかわからなかったにもかかわらず、正木先生はいつも奇想天外式な逆襲をして、斎藤先生を閉口させておられたもので……その中でも特に私の記憶に残っておりますのはかような言葉でございました。
『……ソーラ、また、先生一流の愚痴の紋切型が始まった。安月給取りの蓄音器じゃあるまいし、もうソロソロ蝋《ろう》管《かん》を取り換えちゃどうです。今の人間はみんな西洋崇拝で、一人残らず唯物科学の中毒に罹《かか》っているのですから、先生の愚痴を注射したぐらいではナカナカ癒《なお》りませんよ。……まあまあ、そんなにヤキモキなさらずに、今から二十年ほど待っていらっしゃい。二十年経つうちには、もしかするとこの日本に一人のスバラシイ精神病患者が現われるかも知れないのです。……そうするとその患者は自分の発病の原因と、その精神異常が回復して来た経過とを、自分自身に詳細に記録発表して全世界の学者を驚倒させると同時に、今日まで人類が総がかりで作り上げて来た宗教、道徳、芸術、法律、科学なぞいうものはもちろんのこと、自然主義、虚無主義、無政府主義、その他のアラユル唯物的な文化思想を粉《こな》微《み》塵《じん》に踏み潰《つぶ》して、その代りに人間の魂をドン底まで赤裸々に解放した、痛快この上なしの精神文化をこの地上にタタキ出すべく、そのキチガイが騒ぎ始めるのです。……そのキチガイ先生の騒ぎが、マンマと首尾よく成功した暁には、先生のお望み通りに、精神科学がこの地上における最高の学問となって来るのです。同時にこの大学みたように精神病科を継《まま》子《こ》扱いにする学校は、全然無価値なものになってしまうのです。……ですから、それを楽しみにして精々長生きをして待っていらっしゃい。学者に定年はありませんからね』
といったようなことだったと記憶しておりますが、これにはさすがの斎藤先生も呆《あき》れておられましたようで……一緒に聞いておりました私も、少なからず驚かされたことでした。第一、こんな予言者めいたことを、正木先生がはたして本気で言っておられるのかどうかすら、判然と致しませんでしたので……正木先生がこの時、既に自分自身で、そのような精神病者を作り出して、学界を驚かそうと計画しておられた……なぞいうようなことが、その時代にどうして想像できましょう。……のみならず正木先生が、かような突拍子もないことを言って人を驚かされることは、その頃からけっして珍しいことではありませんでしたので、斎藤先生も私も、このことについては格別に不審を起したこともなく、深く突込んで質問したことなぞもありませんでした。
……ところが間もなく、かような斎藤先生の御不満が、正木先生の天才的頭脳と相まって、当時の大学部内に、異常な波《は》瀾《らん》を巻き起す機会が参りました。それは、ちょうど、私共が当大学を卒業致します時で、正木先生が卒業論文として『胎児の夢』と題する怪研究を発表されたのに端を発したのでございました」
「……胎児……胎児が夢を見るのですか」
と私は突然に頓狂な声を出した。それほどに胎児の夢という言葉が異様な響きを私の耳に与えたのであった……が……しかし若林博士はやはりチットモ驚かなかった。私が驚くのがいかにも当然という風にうなずいた。手にした書類を一枚一枚、念入りに繰り拡げては、青白い眼で覗き込みながら……。
「……さようで……その『胎児の夢』と申します論文の内容も、おっつけお眼に触れることと存じますが、単にその標題を見ましただけでも、尋常一様の論文でないことがわかります。普通人が見る、普通の夢でさえも、今日まで、その正体がわかっておりませんのに、まして今から二十年も昔に遡《さかのぼ》った……あなたがお生まれになるか、ならない頃に、学術研究の論文としてかような標題が選ばれたのですからね。……のみならず正木先生の頭脳が尋常でないことは、かねてから定評がありましたので、この論文の標題はたちまち、学内一般の評判になりまして、ドンナ内容だろうと眼をみはらぬ者はないくらいでございました。
……ところが、サテこの論文が、当時の規定に従って、学内全教授の審査を受ける段取りになりますと、その文体からして、全然従来の型を破ったもので、教授の諸先生を唖然たらしむるものがありました。……と申しますのは、元来、正木先生は語学の天分にも十二分に恵まれておられましたので、英独仏の三か国語で書かれたものは、専門外の難解な文学書類でも平気で読破していかれるというのが、学生仲間の評判になっていたほどです。……ですから卒業論文なぞもむろん、その頃まで学術用語と称せられていたドイツ語で書かれていることと期待されておりましたのに、案に相違して、その頃まではまだ普及されていなかった言文一致体の、しかも、俗語や方言混りで書いてあるのでした。その上にその主張してある主旨というものがまた、極端に常軌を逸しておりまして、その標題と同様に人を愚弄しているかのごとく見えましたので、さすがに当時の新知識を網羅した新大学の教授も、ことごとく面喰らわされてしまいました。その中でもやかまし屋をもって鳴る某教授のごときは、憤激の余りに……、
『……こんな不真面目な論文をわれわれに読ませる学長からして間違っている。正木の奴《やつ》は自分のアタマに慢心しておるから、こんなものを平気で提出するのだ。当大学第一回の卒業論文銓《せん》衡《こう》の神聖を穢《けが》す者は、この正木という青二才にほかならない。こんな学生は将来の見せしめのために放校してやるがいい』
といきまいているという風評が、学生仲間に伝わったくらいでありました。むろんこれは事実であったろうと思いますが……。
……かような事情で、卒業論文銓衡の教授会議に対しては、学内一般の緊張した耳目が集中していたのでありますが、サテいよいよ当日となりますとはたして各教授ともほぼ同意見で、放校はともかくもとして、この論文を卒業論文としてパスさせることだけは即決否決という形勢になりました。するとその時に、当時の最年少者として席末に控えておられました斎藤先生が、突然に立上られまして、今でも評判に残っておりますほどの有名な反対意見を吐かれました。
『……しばらく待って頂きたい。席末からはなはだ僭《せん》越《えつ》と思うけれども、学術のためにはやむをえないと思うからあえて発言するのであるが、私は諸君と全然正反対の意見を、この論文に対して持っている者である。その理由を次に述べる。
……第一にこの論文を非難する諸君は、文章が体を成しておらぬ、規定に合っていない……と主張されているようであるが、これはほとんど議論にならない議論で、特に弁護の必要はないと思う。ただ学術論文というものは「どうぞ卒業させて下さい」とか「博士にして下さい」とか言ってお役所に差出す願書なぞとは、全然性質の違ったものである。規定された書式とか、文体とかいうものはどこにもない……という一言を添えておけば十分であると思う。
……次にはこの論文の内容であるが、これもまた、諸君が攻撃されるような不真面目なものでは絶対にないのである。この論文の価値が認められないのは、現代の医学者が、余りに唯物的な肉体の研究にのみ囚われて、人間の精神というものを科学的に観察する学術……すなわち精神科学に対する知識が欠けているからである。この論文に発表されているような根本的な精神、もしくは生命、もしくは遺伝の研究方法を発見すべく、全世界の精神科学者が、いかに焦慮し、苦心しているかという事実を諸君が御存じない。そのためにこの論文の真価値が理解されないものであることを、私は専門の名誉にかけて主張する者である。
……すなわちこの論文は、人間が、母の胎内にいる十か月の間に一つの想像を超絶した夢を見ている。それは胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき数億年、ないし数十億年の長時間にわたる連続活動写真のようなもので、既に化石となっている有史以前の異様奇怪を極めた動植物や、または、そんな動植物を惨死滅亡させた天変地《ち》妖《よう》の、形容を絶する偉観、壮観までも、一分一厘違わぬ実感をもって、さながらに描き現わすのみならず、引続いては、その天変地妖の中から生み出された原始人類、すなわち胎児自身の遠い先祖たちから、現在の両親に到るまでの代々の人間が、その深刻な生存競争のためにどのような悪業を積み重ねて来たか。どんなに残忍非道な所業を繰返しつつ、他人の耳目を眩《くら》まして来たか……そうしてそのような因果に因果を重ねた心理状態を、ドンナ風にして胎児自身に遺伝して来たかというような事実を、胎児自身の主観として、詳細、明白に描き現わすところの、驚《きよう》駭《がい》と、戦慄とを極めた大悪夢であることが、人間の肉体、および精神の解剖的観察によって、直接、間接に推定され得る……と主張している。但し、それは胎児自身が記録した事実でもなければ、大人の記録に残っていることでもないので、いわば一つの推測に過ぎない。だから学術上の価値は認められない。卒業論文としての点数も零《ゼロ》である……ということに諸君の御意見は一致しているようである。
……これは一応、ごもっとも千万のように聞こえるが……しかし……私は失礼ながら、ここで一つ諸君にお尋ねしたいことがある。それは諸君が中学時代において、必ず一度は眼を通されたであろう「世界歴史」というものを諸君はドウ思って読んで来られたかということである。……そもそも世界歴史というものは、人類生活の過去に属する部分の記録で、これを個人に取ってみると、自分自身の過去の経歴に関する記憶と同様のものである……くらいのことは、今更、諸君の前で説明するさえ失礼なくらいに、わかりきったことであろう。いやしくも過去を持たない人間でない限り、否定し得ないところであろう。
……ところでもしそうとすれば、その歴史的の記録が残っていない、いわゆる、有史以前の人類が、その宗教に、その芸術に、その社会組織に、いかなる夢を描き現わしておったか。いかなる夢を見つつ自分たちの歴史を記録し得るまでに進化して来たかということを、現在の世界に残っている各種の遺跡に照し合わせて推測するところの学術……たとえば文化人類学、先史考古学、原始考古学なぞいう学問は学術上無価値のものと言えようか。科学的の研究でないと言えようか。……いわんや人類出現以前の地球の生活として記録されている地質の変遷や、古生物の盛衰興亡は、誰が見て来て、誰が記録しておいたものであろうか。現在の地球表面上に残る各種の遺跡によって、そんな事実を推定して行く地質学者や古生物学者は皆、想像のみをこととするお伽《とぎ》話《ばなし》の作者と言えようか。科学者でないと言えようか。
……すなわち、この論文「胎児の夢」の一篇は、われわれの頭脳の記録に残っていない、みごもり時代のわれわれの夢の内容を、われわれ成人の肉体、および精神の到るところに残存し、充満している無量無数の遺跡によって推定するという、最も斬新な学術の芽生えでなければならぬ。最《さい》尖《せん》鋭《えい》、徹底した空前の新研究でなければならぬ。……のみならずこの論文中に含まれている人間の精神の組み立てに関する解剖的な説明のごときは、実に破天荒なこころみで、全世界の精神科学者が絶対不可能事と認めながらも明け暮れ翹《ぎよう》望《ぼう》し、渇望して止まなかった精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞというものを包含していることが明らかに認められるので、本篇の主題たる「胎児の夢」の研究がモウ一歩進展して、この方面にまで分化して来たならば、おそらく将来の人類文化に大革命が与えられはしまいかと思われるくらいである。すくなくとも従来の精神科学が問題にして来た幽霊現象とか、メスメリズム、透視術、読心術なぞとは全く違った純科学的な研究態度をもって、精神科学の進む大道を切り開いているものであることを、私は特に、今一度、私の専門の立場から、強く裏書きしておく者である。
……私は確信する、この「胎児の夢」の一篇は元来、一学生の卒業論文として提出されているのであるが、実は、現在ありふれている、いわゆる、博士論文なぞとはとうてい、比較にならないほどの高級、かつ深遠な科学的価値を有する発表である。むろん、今期当大学第一回の卒業論文中の第一位に推して、当学部の誇りとすべきもので、これを無価値だなぞと批評する学者は、新しい学術がいかにして生まれて来たか……偉大な真理が、その発表の当初において、いかに空想の産物視せられて来たかという、歴史上の事実を知らない人々でなければならぬ』
……云《うん》々《ぬん》といったような主旨であったと、後に斎藤先生が私に話しておられました。
……ところで斎藤先生のかような主張が、ほかの諸教授たちの反感を買ったのはむろんのことでありました。斎藤先生はたちまちの中に満座の諸教授の論難攻撃の焦点に立たれたのでありますが、しかし先生は一歩も退かずに、該《がい》博《はく》深遠なる議論をもって、一々相手の攻撃を逆襲、粉砕して行かれましたので、午後の三時から始まった会議が、日が暮れても片付きません。何を言うにも新興医学部の最高の使命と名誉とを中心とする、必死の論争なのですから、まことに血湧き肉躍るものがありましたでしょう。やむをえず、他の論文の銓衡を全部翌日に廻して、ランプを点《つ》けて議論を続行しました結果、やっと午後九時に到って一同が完全に沈黙させられてしまいました。その時に、後に名総長と謳《うた》われました盛山学部長が裁決をしまして、この『胎児の夢』の一篇を、一個の学術研究論文と認める旨を宣言しまして、やっとこの日の会議を終ることになりました。そうしてその翌日とその翌々日と三日がかりで全部十六通の論文を銓衡致しました結果、正木先生の『胎児の夢』が斎藤先生の御主張通りに、卒業論文中の第一位に推さるることになったのであります。
……が……こうして評判に評判を重ねた、医学部の卒業式の当日になりますと、意外にも、恩賜の銀時計を拝受すべき当の本人の正木医学士が、いつの間にか行方不明になっていることが発見されまして、またも人々を驚かしました」
「ホウ。卒業式の当日に行方不明……どうしてでしょう」
私が思わずこう口走ると同時に、若林博士は、なぜかしらフッと口をつぐんだ。あたかも何かしら重大なことを言い出す前のように、私の顔を凝視していたが、やがて、また、今までよりも一層慎しやかに口をひらいた。
「正木先生が何故に、かかる光栄ある機会を前にして、行方不明になられたかという真個《ほんと》の原因については今日まで、何《なん》人《ぴと》も考えおよんだ者があるまいと思います。むろん、私にもその真相はわかっていないのでございますが、しかしその正木先生の行方不明事件と、今申上げました『胎児の夢』の論文との間に、何らかの因果関係が潜んでいるらしい推測が可能であることは疑いを容れないようであります。……換言致しますれば、正木先生は、御自分の書かれた卒業論文『胎児の夢』の主人公に脅やかされて行方をくらまされたものではないかと考えられるのでございます」
「……胎児の夢の主人公……胎児におびやかされて……何だか僕にはよくわかりませんが……」
「イヤ。今のうちは、ハッキリとおわかりにならぬ方が宜しいと思いますが」
と若林博士は私をなだめるように椅子の中から右《め》手《て》を上げた。そうして例の異様な微笑を左の眼の下に痙《ひき》攣《つ》らせながら依然として謹厳な口調で言葉を続けた。
「……今のうちは、おわかりにならぬ方が宜しいと思います。こう申上げては失礼ですが、いずれあなたが、御自身の過去の記憶を残りなく回復されました暁には、その『胎児の夢』と題する恐怖映画の主人公が何人であるかというような裏面の消息を、明らかにお察しになることと存じますから、その時の御参考のために、特にこの際御注意を促しておきます次第でございます。……ところで、さて、その当学部第一回の卒業式が、正木先生の御欠席のままで終了致しますと、その翌日になって盛山学部長の手許に、正木先生からの書信が参りましたが、その中にかような意味の抱負が述べてありましたそうです。
――自分は胎児の夢の一篇を理解してくれる人間が、現代の科学界に存在していようとは思わなかった。おそらく、そんな人間は一人もいないであろうことを確信しつつ、落第を覚悟して提出したものであったが、意外千万にも、それが学部長閣下と、斎藤先生に推薦されたということを聞いて、長嘆これを久しゅうした。あの論文の価値が、こんなに易々と看破されるようでは、まだまだ私の研究が浅薄であったに違いない。こんなことではわが福岡大学の名誉を不朽に伝えることはできないと思った。
――私は閣下と斎藤先生に合わせる面目がないから姿を隠す。恩賜の時計は御迷惑ながら、当分お手許に御保管願いたい。この次にはキット、何人にも理解されないほどの大研究を遂げて、この御恩報じをするつもりであるから――
云々というのでした。盛山学部長はこの手紙を斎藤先生に見せて『どこまでも人を喰った男』だと言って大笑いをされたということです。が……。
……ところで正木先生は、それから丸八年の間、欧州各地を巡遊して、墺、独、仏、三か国の名誉ある学位を取られたのですが、そのうちに大正四年になって、コッソリと帰朝されますと、今度は宿《や》所《ど》を定めずに漂浪生活を始められました。全国各地の精神病院を訪問したり、各地方の精神病者の血統に関する伝記、伝説、記録、系図等を探って、研究材料を集められる傍ら『キチガイ地獄外《げ》道《どう》祭《さい》文《もん》』と題する小冊子を、一般民衆に配布して廻られたのです」
「……キチガイ地獄……外道祭文……それはドンナことが書いてあるのですか」
「……その内容はただ今お眼にかけますが、やはり前の胎児の夢と同様、いまだかつて発表されたことのない恐ろしい事実が書いてあるのでございます。要《つ》約《づ》めて申しますと、その祭文の中には、前にもちょっと申しました現代社会における精神病者虐待の実情と、監獄以上に恐ろしい精神病院のインチキ治療の内幕が暴露してありますので……言葉を換えて申しますれば、現代文化の裏面に横たわる戦慄すべき『狂人の暗黒時代』の内容を俗謡化した一種の建白書、もしくは宣言書とでも申しましょうか。正木先生はこれを政府当局その他各官《かん》衙《が》や学校へあまねく配布されたばかりでなく、自分自身で木魚をたたいて、その祭文歌を唄いながら、その祭文歌を印刷したパンフレットを民衆に頒《はん》布《ぷ》して廻られたのです」
「……自分自身で……木魚をたたいて……」
「さようさよう……ずいぶん常軌を逸したお話ですが、しかし正木先生に取っては、それが極めて真剣なお仕事だったらしいのです……のみならず正木先生のそうした御事業については、恩師の斎藤先生も陰に陽《ひなた》に正木先生と連絡を取って御自分の地位と名誉を投げ出す覚悟で声援をしておられた形跡があります。しかし、遺憾ながらその祭文歌の内容が、あまりに露骨な事実の摘発で、考えようによっては非常識なものに見えましたためか、真剣になって共鳴する者がなかったらしく、とうとう世間から黙殺されてしまいましたのは返す返すもお気の毒な次第でございました。……もっとも、その祭文歌の中に摘発してあります精神病院の精神病者に対する虐待の事実なぞが、一般社会に重大視されることになりますと、現代の精神病院は一つ残らず破《は》毀《き》されて、世界中に精神異常者の氾濫が起るかも知れない事実が想像され得るのでありますが、しかし正木先生は、さような結果なぞは少しも問題にしておられなかったようで、ただ、将来御自分の手で開設されるであろう『狂人解放治療』の実験に対する準備事業の一つとして、かような宣伝をされたものと考えられるのでございます」
「それじゃやっぱり……」
と言いさした私は、思わずドキンとして坐り直さずにはいられなかった。そうして唾《つ》液《ば》をのみ込みのみ込みつぶやいた。
「それじゃ……やっぱり……僕を実験にかける準備……」
「さようさよう……」
と若林博士は猶予もなく引取ってうなずいた。
「前にも申しました通り、正木先生の頭脳は、われわれの測り知り得る範囲を遥《はる》かに超越しているのでありますが、しかし、正木先生のそうした突飛な、大げさな行動の中に、解放治療の開設に関する何らかの準備的な御苦心が含まれていることは、否まれない事実と考えられます。これからお話致します正木先生の変幻出没的な御行動の一つ一つにも皆、そうした意味が含まれておりますようで、言葉を換えて申しますと、正木先生の後半の御生涯は、その一挙手一投足までも、あなたを中心として動いておられたものとしか考えられないのでございます」
若林博士はコンナ風に言いまわしつつ、その青冷たい、力ない視線をフッと私の顔に向けた。そうして私がモウ一度坐り直さずにはおられなくなるまで、私の顔を凝視していたが、そのうちに私が身動きはおろか、返事の言葉すら出なくなっている様子を見ると、また、気をかえるようにハンカチを取出して、小さな咳払いをしつつ、スラスラと話を進めた。
「……しかるに去る大正十三年の三月の末のことでございます。忘れもしませぬ二十六日の午後一時頃のことでした。卒業されてから十八年の長い間、全く消息を絶っておられた正木先生が、思いがけなく当大学、法医学部の私の居《へ》室《や》をノックされましたのには、さすがの私もビックリ致しました。まるで幽霊にでも出会ったような気持ちで、何はともあれ無事を祝し合った訳でしたが、それにしても、どうしてコンナに突然に帰って来られたのかとお尋ねしますと、正木先生は昔にかわらぬ磊《らい》落《らく》な態度で、頭を掻《か》き掻きこんなお話をされました。
『いや、そのことだよ。実は面目ない話だがね。二、三週間前に門司駅の改札口で今まで持っていた金側時計を掏《す》摸《り》にしてやられてしまったのだ。モバド会社の特製で時価千円くらいのモノだったが惜しいことをしたよ。そこでヒョイッと思い出して、十八年前にお預けにしておいた銀時計がもしあるならばと思って貰《もら》いに来た訳だがね。……ところでそのついでに、何か一つ諸君をアッと言わせるような手《て》土産《みやげ》をと思ったが、格別芳《かんば》しいものも思い当らないので、そのまま門司の伊勢源旅館の二階に滞在して、つまらない論文みたようなものを全速力で書き上げて来た。そこでまずこれを新総長にお眼にかけようと思って、斎藤先生に紹介してもらいに行ったら、それは此方《こつち》から紹介してもいいが、役目柄、学部長の若林君の手を経て提出した方がよかろうと言われたから、こっちへ担ぎ込んで来た訳だ。めんどうだろうが、どうか一つ宜しく頼む』
というお話です。そこで……申すまでもなく保管してありました時計は、すぐに下付されることになりましたが、その時に正木博士が提出されました論文こそ、ダーウィンの『種の起源』や、アインスタインの『相対性原理』と同様……否、それ以上に世界の学界を震《しん》駭《がい》させるであろうと斎藤先生が予言されました『脳髄論』であったのです」
「……脳髄論……」
「さよう。脳髄論と名づくる三万字ばかりの論文でしたが、その内容は、最前お話致しました『胎児の夢』とは正反対に、厳粛、荘重を極めたもので、意味の取り違えを防ぐために、ドイツ語と、ラテン語の二種類で書かれておりますが、これを文献も何もない宿屋の二階で僅々二、三週間の間に書き上げられた正木先生の頭脳と精力からして、既に非凡以上と申さねばなりますまい。……しかも正木先生はこの論文によって、今日まで何人も説明し得ず、立証も実験もし得なかった脳髄の不可思議な機能を鏡にかけて見るように明白にされたのです。そうして同時に今日まで、精神病学界の疑問とされておった幾多の奇怪現象を、極めて簡明直截に説明してしまわれたのです。……ですから専門の関係上、この論文を一番最初に見られた斎藤先生は、むろん、非常に驚かれまして、それから約一年ばかりの間寝食を忘れてこの論文を研究されたのですが、やっと昨年……大正十四年の二月の末に、ひと通りの審査考究を終られますと、その翌日の早朝に、現松原総長を自宅に訪問されまして、
『……私は今日限り、九大精神病科の教授の椅子を引退しまして、後任に正木君を推薦致したいと思います。もし他の大学に同君を取られるようなことがありますと、この大学の恥辱になると思いますから……』
と暗涙を浮かめて懇願されました。しかし正木先生はそれっきり宿所も告げずに、またも行方を晦ましてしまわれた折柄ですし、殊に斎藤先生の御人格に今更に深く敬服しました現松原総長は、急き込んでおられる斎藤先生を押しなだめて留任を希望する一方に、この論文を学位論文として、正木先生に学位を授くることに内定した……ということが、やはり学界の美談として伝えられております。もっともこのことは、誰かの口から洩れたと見えまして、新聞に掲載されたそうですが……私はツイ、うっかりしてその記事を見ませんでしたけれども……」
若林博士はここまで物語って来ると、その時の思い出に打たれたらしく、いかにも感動したようにヒッソリと眼を閉じた。私も敬慕の念に満たされつつ斎藤博士の肖像を仰いだが、そう思って見たせいか、神様のような気高い姿に見えたので、思わず軽い溜息をさせられながらつぶやいた。
「それじゃこの斎藤先生は、正木先生に後を譲るために、お亡くなりになったようなものですね」
若林博士は、こう言った私の質問が耳に入ると一層深く感動したらしく、眼を閉じたままの眉の間の皺が一層深くなった。そうして今にも咳が飛出しそうな長い、太い溜息を吐《つ》いたが、やがて静かに眼を開くと、その青白い視線を、私の視線と意味あり気に合わせつつ、すこしばかり語気を強めた。
「その通りです。あの斎藤先生は、正木先生が学位を受けられてから間もない、昨年……大正十四年の十月十九日に、突然に亡くなられたのです。しかも変死をされたのです」
「……エ……変死……」
と私は空虚《うつろ》な声を出した。話の模様があんまり唐突《とつぴ》に変化したのに面喰いながら若林博士の蒼白い顔と、額縁の中の斎藤先生の微笑とを交る交る見比べた。そんなにまで人格の高いりっぱな人が、何で変死なんかしたんだろうと疑いながら……。
しかし若林博士は、そうした私の疑いを押し付けるかのように静かに私の顔を見据えた。またもすこしばかり語気を強めた。
「……そうです。斎藤先生は変死をされたのです。斎藤先生は、昨大正十四年の十月十八日……すなわち変死される前の日の午後五時頃に、平生《いつも》の通り仕事を片付けて、医局の連中に二、三の用務を頼んで、この部屋を出られたのですが、それっきり筥《はこ》崎《ざき》、網屋町の自宅には帰られませんでした。そうしてその翌《あく》る朝早く、筥崎水族館裏手の海岸に溺《でき》死《し》体《たい》となって浮き上っておられたのです。発見者は水族館の掃除女でしたが、急報によって、警察当局や私共が駈け付けまして調査致しました結果、多量に飲酒しておられたことが判明致しましたので、多分、自宅へお帰りになる途中で、誰か極めて懇意な人に出会って、久方振りに脱線された結果、帰り道を間違えて、彼処《あすこ》の石垣の上から落ちられたものであろう……ということになっております。……もっともあの辺は行って御覧になればわかりますが、街外れ特有の一面の塵《ご》芥《み》捨場と、草原と、畠続きの大学裏で、よほどの泥酔者でなければ迷い込む気づかいのないところです。ですから、むろん他殺の疑いも充分にかけて、所持品等も遺憾なく調査してみましたが、紛失したものは一つもありませんでした。……また、遺族の方々や、友人たちのお話を綜合してみますと、斎藤先生が外で酒《さか》杯《ずき》を手にされるのは、学内でも極めて懇意な気心のわかった連中から誘われた場合に限っているので、そうした相手の顔は一人残らず判明しているくらいである。それ以外にタッタ一人でお酒を飲まれるのは自宅の晩酌以外に絶対にないと言ってもいい。……のみならず、そんな風に外で深酔いをされた場合には、いつでも誰か、お相手の中の一人が、自宅まで送り付けて来るのが慣例のようになっているので、今度ばかりは全く不思議な例外としか考えられない……といったようなお話もありましたので、その意味でもいろいろな場合を想像して、充分に研究を遂げてみましたが、何しろ先生が海に落ちておられた付近は千代町方向から長く続いた防波堤になっておりますので、どこからどんな風に歩いて来られて、どこで踏外して海へ落ちられたものか、足跡一つ発見できません。同伴者のあるなしはもちろんのこと、かりに他殺としましても犯人の手がかりが全然つかめないのです……。
……一方に、ただ今お話し致しましたような斎藤先生の御人格から考えましても、他人の怨《うら》みを受けられるようなことは、まずないとしか考えられませんので、結局、やはり過失であろうということになってしまいました。斎藤先生はめったに酒を用いられぬ代りに、酔うと前後を忘れられるのがただ一つの欠点であったのですが、実に惜しい人を死なしたものです」
「……その一緒にお酒を飲んだ人は、まだわからないのですか」
「……さよう……いまだに判明致しませんが、これはよほどデリケートな良心を持った人でなければ、名乗って出られますまい」
「……でも……でも……名乗って出ないと一生涯、息苦しい思いをしなければならないでしょう」
「近頃の人たちの常識から申しますと、そんなにまで良心的に物事を考える必要がないらしいのです。……たとい名乗って出たにしたところが、斎藤先生が墓の下から蘇《そ》生《せい》して来られる訳ではなし、ただ、自分一人が不愉快な汚名の下に、何かの制裁を受けるだけのことに過ぎないのだから、結局、社会の損害を増す意味になる……といったような考え方をしているのじゃないのでしょうか……否。むしろ今頃はモウとっくの昔に忘れてしまっているかも知れないのですが……」
「……でも卑怯じゃないですか。それは……」
「……申すまでもないことです」
「……第一、忘れられることでしょうか……そんなことが……」
「……さあ……そのような問題は、故正木先生のいわゆる『記憶と良心』の関係に属する、面白い研究事項ではないかと考えられるのですが……」
「それでは斎藤先生の死は、それだけの意味で、おしまいになったのですね」
「さよう。それだけの意味で終ったのです。まことに呆気ないものであったのですが、しかし、その結果から申しますと、まことに大きな意味を含むことになったのです。すなわち斎藤先生の死は、やがて正木先生が、当九大精神病科の仕事を担任されて、この椅子に坐られる直接の因縁となり、更に、あなたと、あの六号室の令嬢とを、この教室に結び付ける間接の因縁ともなったのです。さよう……ここではかりに因縁と申しておきましょう。しかしこの因縁が、はたして人為のものか、それとも天意に出でたものであるかは、やはりあなたが御自身の過去の御記憶を回復されました後でないと、確定的な推測ができませんので……」
「アッ……そ……そんなことまで、僕の記憶の中に……」
「そうです。あなたの過去の御記憶の中には、そのような疑問の数々を解くのに必要な大切な鍵までも含まれているのです」
私は次から次に落ちかかって来る疑問の氷塊に、全身を埋め込まれるような気がした。思わず眼を閉じながら、頭を左右に振り動かしてみた。けれどもそこからは、何らの記憶も湧き出して来なかった。ただ、それにつれて眼の前に惨《む》酷《ご》たらしい「狂人焚殺」の絵額や、ニコニコしている斎藤博士の肖像や、蒼白い、真面目な若林博士や、緑色に光る大《だい》卓《テー》子《ブル》や、その中に欠伸《あくび》をし続けている赤い達磨《だるま》の灰落しまでもが、一つ一つに私の過去と深い関係を持っているものであるかのように思われて来た。同時に、それにつれて、そんな因縁深い品物ばかりに取巻かれていながら、何一つとして思い出すことのできない私の頭のカラッポさを自覚させられて、シミジミと物悲しくなって来るばかりであった。
私はちょっとの間、途方に暮れたような気持ちになって、眼ばかりパチパチさせていたようであったが、やがてまた、フト思い出したように問うた。
「ハア。ではその行方不明になられた正木先生は、どうしてこの大学に来られるようになったのですか」
「それはかような仔《し》細《さい》です」
と言ううちに若林博士は、出しかけていた時計をまたポケットの中に落し込んだ。弱々しい咳払いを一つして話を続けた。
「ちょうど斎藤先生の葬儀の式場に、正木先生がどこからともなく飄《ひよう》然《ぜん》と参列しに来られたのです。多分、新聞の広告を見られたものと思われますが……それを松原総長が、葬式の済んだ後で捉まえまして、その場で斎藤先生の後任を押付けてしまったものです。これは非常な異式だったのですが、あれほどに人格の高かった斎藤先生の遺志を、ほかならぬ総長が取次いだのですから、誰一人として総長のかようなやり方を、異様に思う者はありませんでした。かえって感激の拍手をもって迎えられたくらいです。……その当時の新聞を御覧になれば、この間の消息が詳しくすっぱ抜いてありますが、その時に正木先生は、見すぼらしい紋《もん》付《つき》袴《はかま》の姿で、教授連の拍手に取巻かれながら、頭を抱えてこんな不平を言われたものです。
『弱ったなあ。僕はあくまでも独力で研究したかったんだがなあ。大学の先生になると、好きな木魚が叩《たた》かれないし、チョンガレ節も唄えなくなるだろう。第一、持って生まれた漂浪性が発揮できないからナア……』
としょげ返って言われましたが、これを聞いた松原総長が……
『……今更、文句を言われても取返しが付きませんよ。これは斎藤先生の霊に招き寄せられたあなたの方が悪いのですからね……木魚ぐらいはイクラ叩かれても宜しいから、是非一つ成《じよう》仏《ぶつ》して頂きたい』
と言われましたので、皆、場所柄を忘れて腹を抱えたことでした。
……正木先生は、それから間もなく当大学に就任して来られますと、今までキチガイ地獄のチョンガレ祭文の中で唄っておられた『狂人の解放治療』という実験を、実際に着手されまして、またも異常な反響を一般社会に喚起されることになったのです。同時にその実験を始められたことが機縁となりまして、正木先生御自身と、あなたと、あの六号室の令嬢との、最近の運命的な御関係を結ばれることにもなりましたのです。これもやっぱり天意と申せば申されましょうが。……しかしいずれに致しましてもかように偉大な正木先生を当大学に迎えて思う存分に仕事をさせられたのは、やはり故斎藤先生の御遺徳に相違ございません。正木先生もそのような意味からして、この肖像をここに掲げられたものに相違ないと考えられるのですが……」
私はまたも深く歎息して斎藤博士の肖像を仰がずにはいられなかった。これほどの人格者斎藤博士と、これほどの偉人正木博士と、眼の前の若林博士と、あの六号室の美少女と、そうして白痴同様の私とを一つに繋ぎ合わせているという因縁の糸の不可思議さを考えずにはいられなかった。
ある感銘深い静寂が、少《しば》時《らく》の間、部屋の中を流れた。けれども、それは間もなく、私が何の気もなく発した質問で破られた。
「……あッ……大正十五年の十月十九日……あの斎藤先生の写真の下に懸かっているカレンダーの日付は、斎藤先生が亡くなられてから、ちょうど丸一年目の日付ですね」
私がこう言って振り返った……その瞬間に変化した若林博士の表情の恐ろしかったこと……それは、ほんの一瞬間ではあったが……大きな白い唇をピッタリと閉じて、顋《あご》をグッと突き出すと同時に、青白い瞳を一パイに剥《む》き出して私を睨《にら》み付けた。しかも、それが余りに突然であったために、私も思わず若林博士と同じ表情になって、睨み合ったような気がしたのであったが、そのうちに若林博士はしだいに落ち着いて来たらしく、今度はいかにも満足に堪えないという風に額を輝かして、幾度もうなずいた。
「……よくあれにお気が付かれましたね。あなたの過去の御記憶は、いよいよ鋭く眼ざめて参ります。もはや皮一重というところまで御回復になっておりますようで……。実はただ今の御質問が出ると同時に今度こそあなたの過去の御記憶が、一時に眼ざめて来はしまいか……そうしたらドンナ風に御介抱申上げようかと、ちょっと心配しました次第で……。何をお隠し申しましょう。あのカレンダーは、今から約一か月前の日付を示しているのでございます。今日は大正十五年の十一月二十日ですから……」
「それが……どうして、そのまんまになっているのですか」
若林博士は、この時に、またも荘重にうなずいた。最前、六号室の少女の前で示した神に祈るような態度で、屈《かが》んだ胸をグッと伸ばしつつ、両手をシッカリと握り合わした。
「その御不審がまた、あなたの過去に関する大きな謎《なぞ》を解く鍵の一つとなっているのでございます。つまり正木先生は、あのカレンダーを彼処《あそこ》まで破って来られますと、あとを破ることを止められたのです」
「……そ……それはまたなぜ……」
「正木先生は、あの翌日亡くなられたのです……しかも、ちょうど一年前に、斎藤先生が溺死を遂げられた、筥崎水族館裏の同じところで、投身自殺をされたのです」
……青天の霹《へき》靂《れき》……とでも形容しようか。何とも言いようのない奇妙な驚きに打たれた私は、この時、何かしら一種の叫び声をあげたように思う。そうして、やっと気を落ち着けた時には、譫《うわ》言《ごと》のように口を動かしていたように思う。
「……正木先生が……自殺……」
その声が自分の耳に入ると私はまた、自分の耳を疑った。正木先生のような偉大な、達人ともいうべき人が自殺する。……そんなことがはたしてあり得ようか。
そればかりでない。この精神病科教室の主任教授となった人が二人とも、ちょうど一年置きに、しかも場所まで同じ海岸の潮水に陥って変死する……そんな恐ろしい暗合が、はたしてあり得るものであろうか……と驚き迷い、呆れつつ若林博士の蒼白い顔を凝視した。
そうすると若林博士も今までになく、厳然と姿勢を正して私を凝視し返した。またも、神様に祈るような敬《けい》虔《けん》な声を出した。
「……繰り返して申します。……正木先生は自殺されたのです。ただ今お話致しましたような順序で、二十年の長い間、準備に準備を重ねて、前代未聞の解放治療の大実験を向うにまわして悪戦苦闘して来られた正木先生は、ついに、その刀を打ち折り、その箭《や》種《だね》を射尽くされたとでも申しましょうか……どうしても自殺されなければならぬはめに陥って来られたのです。……と申しましただけでは、まだおわかりになりますまいから、今すこし具体的に申しますと、正木先生の独創に係る曠《こう》古《こ》の精神科学の実験は、あなたとあの六号室の令嬢が、めいめいに御自分の過去の記憶を回復されまして、この病院を御退院になって、楽しい結婚生活に入られることになって完成される手《て》筈《はず》になっていたのでございますが、それがある思いもかけぬ悲劇的な出来事のために、途中で行き詰まりになりましたのです。……しかもその悲劇的な出来事が、はたして正木先生の過失に属するものであったかどうかというようなことは、誰一人、知っている者はいなかったのです。……けれどもその日が偶然にも、何かの天意であるかのように、斎藤先生の一周忌、正命日に当っておりましたために、一種の『無常』といったようなものを感じられたからでもございましょうか……正木先生は、その責任の全部を負われて、人間界を去られたのです。その実験の中心材料となられたあなたと、あの六号室の令嬢と、それらに関する書類、事務、その他の一切を私に委託されて……」
「……そ……それでは……」
と言いさして私は口ごもった。形容のできない昂奮に全身が青《あお》褪《ざ》めたように感じつつ辛うじて唇を動かした。
「……それじゃ……もしや僕が……正木先生の生命を呪《のろ》ったのでは……」
「……イヤ。違います。その正反対です」
と若林博士は儼《げん》乎《こ》たる口調で言い切った。依然として私を凝視しつつ、頭をゆるやかに左右に振った。
「その反対です。正木先生は、当然あなたから御自分の運命を詛《のろ》われるのを覚悟されて、この研究に着手されたのです。……否……今一歩、突込んで申しますと、正木先生は、そうした結果になるように二十年前から覚悟をきめて、順序正しく仕事を運んで来られたのです。御自身に発見された曠古の大学理の実験と、あなたの御運命とを完全に一致させるべく、動かすべからざる計画を立てて、その研究を進めて来られたのです」
それは私にとって一層の恐怖と戦慄に値する説明であった。われ知らず息苦しくなって来る胸を押えつつ、吐き出すように問うた。
「……それは……ドンナ手順……」
「それはここに在ります書類を御覧になれば、おわかりになります」
と言ううちに若林博士は、今まで話片手に眼を通していた書類の綴込みをパタンと閉じて恭しく私の前に押し進めた。
私も、それが何かしら重要な書類の集積に違いないことを察していたので、同じように鄭《てい》重《ちよう》な態度で受取った。そうして、とりあえずパラパラと繰って内容を検《あらた》めてみたが、それは赤い表紙のパンフレットみたようなものを一番上にして、西洋大判罫《けい》紙《し》や、新聞の切抜きを貼り付けた羅《ラ》紗《シヤ》紙の綴じたものと一緒に、カンバス張りのボール紙に挟んだもので、表紙には何も書いてない。けれどもかなり重たいものなので、私はモウ一度パタリと表紙を閉じて、卓《テー》子《ブル》の上に置き直した。
その向うから若林博士は、その青白い瞳をピッタリと私の瞳の上に据えた。
「……それは申さば正木先生の遺稿とも申すべき貴重な書類でございます。すなわち、ただ今までお話致しました正木先生の精神科学に関する御研究のうちでも、一番大切な精神解剖学、精神生理学、同病理学と、それからそのような御研究のエッセンスともいうべき心理遺伝学と、この四種類の原稿は、以前から手許に引取っておられました『脳髄論』の本文と一緒に自殺の直前に焼棄ててしまわれましたので、現在、正木先生の御研究の内容を覗《うかが》うのに必要な文献としましては、僅かにソレだけしか残っていないのです。それを正木先生は、やはりその自決さるる直前に、その通りの順序に重ね合わせて行かれましたので、その書類の発表された年代順にはなっていないようでありますが、しかもその順序通りに読んで行きますと、正木先生の御研究の内容が、その研究を進めて行かれた順序通りに、容易《たやす》く面白く理解されて行く仕掛になっているようでございます。
すなわち、その一番初めに綴込んであります赤い表紙のパンフレットは、正木先生が日本内地を遍歴される片手間に、到るところの大道で、人を集めて配布された『キチガイ地獄外道祭文』と題しまする阿呆陀羅経の歌で、現代における精神病者虐待の実情を見て、これを救済すべく、精神病の研究を始められた、そのそもそもの動機が謳《うた》ってあるのでございます。
……それから次に羅紗紙の台紙に貼付けてありますのは、当地の新聞に掲載されました正木先生の談話を、御自身に保存しておかれた切抜き記事でございますが、そのうちでも最初に『地球表面上は狂人の一大解放治療場』云々と題してありますのは、正木先生が、今申しました狂人救済の動機から精神病の研究に着手された、その最初の研究的立場を、辛《しん》辣《らつ》な諧《かい》謔《ぎやく》交りに、新聞記者へ説明されましたもので『この地球表面上に棲《せい》息《そく》している人間の一人として精神異常者でないものはない』という精神病理学の根本原理が、極めて痛快、率直に論証してあります。……また……その次に『脳髄は物を考えるところに非ず』云々と題してありますのは、そうした原理に立脚された正木先生が、今日まで研究不可能と目されていた『脳髄』の真実の機能をドン底まで明らかにされると同時に、従来の科学が絶対に解決できなかった精神病その他に関する心霊界の奇怪現象を一つ残らず、やすやすと解決していかれた大論文『脳髄論』の内容を、面白おかしく新聞記者に説明されたものでございます。
……それからその下のほうの日本罫紙の綴じたのに、毛筆で書いてありますのは、その『脳髄論』の逆定理とも見るべき『胎児の夢』の論文でございます。つまり自分を生んだ両親の心理生活を初めとして、先祖代々のさまざまの習慣とか、心理の集積とかいうものが、どうして胎児自身に伝わって来たかという『心理遺伝』の内容が明示してありますので、当大学第一回の卒業論文の銓《せん》衡《こう》に一大センセーションを巻き起したのは実に、この一篇にほかならないのでございます。……同時に正木先生が、あれほどの偉材を抱きながら、ついに自決さるるのやむなきに立到りました遠い原因もまた実にこの一篇の中に胚《はい》胎《たい》していると申しましょうか。……その次にあります西洋大判罫紙《フールスカツプ》の走り書きは、その正木先生がそれらの研究に、最後の結論を付けるべく書き残されました『解放治療の実験の結果報告』とも見るべき正木先生の遺言書です。……ですからあなたは、それらの書類をその順序に御覧になりさえすれば、正木先生が精神科学の大道を開拓すべく、生涯を賭して研究していかれた痛快な事蹟が、たやすく順序正しくおわかりになるでございましょう。同時に、あなた御自身の御経歴を、裏面から支配して、今日の御運命に立ち到らせた、曠古の大学理の流動、旋転が、一々大光明を発して、万華鏡のごとく華やかに、グルリグルリと廻転しつつ、あなたの眼の前に……」
私は若林博士の説明を、ここいらまでしか記憶していない。そんな説明を聞きながらも、何気なく一番初めの赤い表紙の小冊子を開いて、第一ページの標題から眼を通して行くうちに、いつの間にか本文に釣り込まれて、無我夢中に読み続けていたので……。
キチガイ地《じ》獄《ごく》外《げ》道《どう》祭《さい》文《もん》
――一名、狂人の暗黒時代――
▼ああア――ああ――アアア。右や左の御方様へ。旦那御新造、紳士や淑女、お年寄がた、お若いお方。お立合い衆の皆さん諸君。トントその後は御《ご》無《ぶ》沙《さ》汰《た》ばっかり。なぞと言うたらビックリなさる。なさるはずだよ三千世界が、できぬ前から御無沙汰続きじゃ。きょうが初めてこの道《みち》傍《ばた》に。まかり出でたるキチガイ坊主……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ、チャカポコ……。
……サアサ寄った寄った。寄ってみてくんなれ。聞いてもくんなれ。話の種だよ。お金は要らない。ホンマの無代償《ただ》だよ。此方《こつち》へ寄ったり。押してはいけない。チャカポコ、チャカポコ……。
……サッサ来た来た。来て見てビックリ……スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ……。
▼あ――ア――。まかり出でたるキチガイ坊主じゃ。背《せ》丈《い》が五尺と一寸そこらで。年の頃《ころ》なら三十五、六の。それが頭がクルクル坊主じゃ。眼玉落ち込み歯は総入歯で。痩《や》せた肋骨《あばら》が洗《せん》濯《たく》板《いた》なる。着ている布子が畑の案《か》山《か》子《し》よ。足に引きずる草履《ぞうり》と見たれば。泥で固めたカチカチ山だよ。まるで狸《たぬき》の泥舟まがいじゃ。乞《こ》食《じき》まがいのケッタイ坊主が。流れ渡って来た国々の。風に晒《さら》され天日に焼かれて。きょうもおんなじ青天井だよ。道のほとりに鞄《かばん》を拡げて。スカラカ、チャカポコ外聞晒す。曰《いわ》く因《いん》縁《ねん》、故事、来歴をば。たたく木魚に尋ねてみたら……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。曰く因縁、木魚に聞いたら。親子兄弟、親類眷《けん》属《ぞく》、嬶《かかあ》も妾《めかけ》ももちろん持たない。タッタ一人のスカラカチャンだよ。氏も素性もスカラカ、チャカポコ。鞄一つが身上一つじゃ。親は木の股《また》キラクな風の。吹くにまかせた暢《のん》気《き》な身の上。流れ渡った世界の旅《た》行《び》じゃ。北《ペ》京《キン》、ハルピン、ペテルスブルグじゃ。赤いモスコー、四角いベルリン、酔うがミュンヘン、歌うがウインナ、躍るパリーや居眠るロンドン、海を渡れば自由のアメリカ。女の市場がアノニューヨークじゃ。シスコの賭博よ。シカゴの酒よと。千鳥足までメリケン気取りの。阿呆つくした十年がかりじゃ。見たり聞いたりして来た中でも。タッタ一つの土産《みやげ》というのが。ナント恐ろし地獄の話じゃ……スカラカ、ポクポク。チャチャラカ、ポクポク……。
▼あ――ア。さても恐ろし地獄の話じゃ。しかも私の凹《へこ》んだこの眼で、チャンと見て来た事実の話じゃ。今日が封切り、お金は要らない。要らぬばかりかその聞き賃には、こんな書《かき》物《もの》を一冊上げます。私がただ今唄うております。歌の文句の活版刷りです。あとで何やらマヤカシ物をば。無理に買わせる手段《てだて》じゃないかと。疑うお方があるかも知れぬが。ソンナ心配一切御無用。これは私の道楽仕事じゃ。人類文化の宣伝事業じゃ。何も参考、話の種だよ。サアサ寄ったり、聞いたり見たり……外道――祭ア――エ――文。キチガ――ア――イ――地イ獄ウ――……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
一
▼あ――ア。外道祭文キチガイ地獄。さても地獄をどこぞと問えば、裟《しや》婆《ば》というのがここいらあたりじゃ。ここで作ったわが身の因果が。やがて迎えに来るクル、クルリと。眼玉まわして乗る火の車じゃ。めぐり廻《めぐ》って落ち行く先だよ。修《しゆ》羅《ら》や畜生、餓《が》饑《き》道《どう》越えて。ドンと落ちたが地獄の姿じゃ。針の山から血の池地獄。大寒地獄に焦熱地獄。剣樹地獄や石《いし》斫《きり》地獄。火《か》煩《ぼん》、熱湯、倒《さか》懸《づり》地獄と。数をつくした八万地獄じゃ。裟婆で作った因果の報いで。切られ、砕かれ、焙《あぶ》られ、煮られ。阿鼻や叫喚七転八倒。死ぬに死なれぬ無《む》間《げん》の責め苦じゃ。もしもその声、聞いたら最後じゃ。頭張り裂けクタバルなんぞと。高いところから和尚《おしよう》の談義じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。高いところから和尚のお談義。なれどコイツは当てにはならない。死なにゃ行かれぬ地獄の噂《うわさ》じゃ。生きた坊主の賽《さい》銭《せん》集めじゃ。釈迦《しやか》も知らない嘘《うそ》八百だよ。わしが見て来た地獄というのは。ソンナ地獄と品事かわって。鉦《かね》を叩かず、念仏唱えず。十万億土の汽車賃使わず。そんじょそこらに幾らもあります。生きたながらのこの世の地獄じゃ……チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。生きたながらのこの世の地獄じゃ。それも貧乏暇なし地獄や。浮いた浮いたの川竹地獄。義理と人情のカスガイ地獄。または犯した悪事のむくいで。御用、捕《と》ったぞ、キリキリ歩めと。タタキ込まれる有期や、無期の。地獄なんぞと大きな違いじゃ。そんな道理がミジンも通らぬ。息も吐《つ》かれず、日の目も見えぬ。広さ、深さもわからぬ地獄じゃ。そこの閻《えん》魔《ま》は医学の博士で。学士連中が牛《ご》頭《ず》馬《め》頭《ず》どころじゃ。但し地獄で名物道具の。昔の罪《つみ》科《とが》、見分けて嗅ぎ出す。見る眼、嗅ぐ鼻、閻魔の帳面。人の心を裏から裏まで。透かし見通す清浄玻《は》璃《り》の。鏡なんぞは影さえ見えない。罪があろうが、また、なかろうが。本気、狂気の見分けも付けずに。めったやたらに追い込み蹴込むと。聞いただけでも身の毛が逆立《よだ》つ。地獄というのがそこらにあります。見かけはりっぱな精神病院。嘘というなら入って見なされ。責め苦の数々お望み次第じゃ。ナント恐ろしキチガイ地獄……チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。ナント恐ろしキチガイ地獄じゃ。サテモ恐ろし精神病院。なぞと言うても皆様方には。まだまだ合点が行きかねましょうが。物は順序じゃお聞きなされよ。聞いているうちいかにも、もっとも、そんなこととは知らずにいたわい。なるほどそうかと合点が行きます。合点が行ったら八万四千の。身内の毛穴がゾクゾク粟《あわ》立《だ》つ。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ……チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ。さてもかような地獄の起りが。曰く因縁イロハのイの字の。そもや初めと尋ねるならば。文明開化のお陰とござる。そこで世界の文明開化の。日進月歩の由来を申せば。科学知識の尊《たつ》とい賜物。中に尊といお医者の仕事じゃ。人の病気を治《な》癒《お》すが役目じゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。人の病気を治癒すが役目じゃ。そこでお医者の仕事の中でも。人の身体《からだ》の狂いをなおす。外科や内科の治療の仕方と。人の心の狂いをなおす。精神病院の手当ての仕方と。違うところを比べてみます。アッとビックリ、シャックリが止まるよ。トテモ驚く進歩の違いじゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。トテモ驚く進歩の違いじゃ。違うはずだよ相手が違う。人の身体は形が見えます。手足胴体触ればわかるよ。五臓六腑も解《ひ》剖《ら》けば見えます。打診、聴診、X光線。ピッケ反応、血液検査と。数をつくした診察道具じゃ。たとい何やらわからぬ病気じゃ。薬ちがいや診察ちがいじゃ。または手当ての違いで死んでも。あとで屍体を解剖したなら。どこが悪いと、すぐさまわかるよ。そこで診察治療の仕方が。日進月歩で開けて行きます。これに引き換え神様とても。人の心は診察できない……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。人の心は診察できない。たといいかなる名医じゃとても。人の精神、心の狂いの。どこの脈見て、どの舌出させて。どこの苦労に注射をするやら。どこの心配切開するやら。癇《かん》の虫見る眼鏡もなければ。あなた恋しで上った熱度が。寒暖計にも上ったことかや。贋《にせ》のキチガイ真実《ほんと》のキチガイ。レントゲンでも透かして見えない。声も聞こえず姿も見えない。屁より不思議な心の正体。これがどうして診察されよか。ばかに付けよう薬はないと。昔の譬《たと》えは今でも真実《ほんま》じゃ。つまるところが精神病は、診察治療が絶対不可能、科学知識で研究できない。わけのわからぬ物じゃとわかる……スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコ……。
▼あ――ア。わけのわからぬ物じゃとわかると。ここでも一つ理屈のわからぬ。奇妙不思議な事実に気が付く。そもやソモソモ一体全体。人の精神、心の狂いは。診察、治療ができぬとなったら。現在世界のどこでもここでも。精神病院、神経治療じゃ。または瘋《ふう》癲《てん》、脳病院じゃと。四角四面の看板ひろげて。意匠凝らした玄関構えじゃ。高《た》価《か》い診察、治療の代《しろ》だよ。入院、看護の料金取り立て。肩で風切る精神病医は。どんな仕事をしているものかや。あれは詐《や》欺《ま》師《し》かつかませものかと。どなたも御不審なさるであろうか。チョット待ったり話は順序じゃ。世にもばかげた内幕話じゃ。診察治療ができないお陰で。お医者がステキに儲《もう》かる話じゃ。これがホンマの阿《あ》呆《ほ》陀《だ》羅《ら》経《きよう》だよ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
二
スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。ああア。さても昔のそのまた昔。むかし昔のその大昔。科学知識の進まぬ頃では。人の身体の病気と言うても。人の心の病気と同様。何が何やらわからぬために。診察治療が当てズッポーだよ。家相、方角、星占いだよ。なんぞかんぞの障《さわ》りと言うては。祈《き》祷《とう》、禁《まじ》厭《ない》、御《お》神《み》水《ず》じゃ、お守《ふ》札《だ》じゃ。御《ご》符《ふう》なんぞを頂戴させて。どうぞ、こうぞで済まして来たが。それじゃ治《な》療《お》らぬ病気の数々。そこで薬が発見されます。服《の》めば病気がケロリとよくなる。それをたよりに調べたあげくが。人の病気は身体の中の。ここがかように狂うが原《も》因《と》じゃと。わかった理屈が医学のはじまり。今では解剖生理に病理。医化学、細菌、薬物そのほか。外科じゃ内科じゃ、皮膚科じゃ、耳鼻科じゃ。眼科、整形、婦人や小児と。隅から隅まで手に品かえて。水も洩らさぬ器械やお薬。人の身体の狂いを治療す。科学知識の大光明が。日々に明るく輝き渡るよ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。日々に明るく輝き渡るが。これに引き換え精神病だよ。人の心の狂いを治《な》癒《お》す。医者の診察、手当ての仕方は。ドンナ進歩をしたかと見ますと。ズント昔は精神病者を。神の心が移ったものと。畏《おそ》れ敬い礼拝したり。または生き霊、死霊の所業《しわざ》と。物を供えて大切《だいじ》にかけたが。それはまだしもところによっては。こいつに悪魔が憑《つ》いたと言うので。その頃お医者と裁判官の。役目をしていた僧侶《ぼうず》や巫《み》女《こ》が。見付け次第の指さし次第に。槍《やり》や刀剣《かたな》や、投げ縄《なわ》、弓矢。棍棒担いだ役人共が。片っ端から頭を砕いて。手足胴体チリチリバラバラ。焼いて棄てたり樹の根に埋めたり。ちょうどこの節お上でなさる。狂犬退治とおんなじ仕置きじゃ。これが精神病者に対する。最初の診察最初の治療じゃ。キチガイ地獄のイロハのイの字じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。これがキチガイ地獄のはじまり。そこでかように精神病の。原《も》因《と》が何やらわからぬとこから。できた迷信邪法を使って。悪いことする奴らが出て来た。しかもよっぽど怜悧《りこう》な奴らじゃ。物の怨《うら》みや嫉妬《しつと》や毛《け》嫌《ぎら》い。または政敵、商売讐仇《がたき》と。道理外れた憎しみ猜《そね》みで。きゃつが邪魔じゃと思うたあげくが。何のおぼえもない人間をば。巫女や坊主や役人輩《ばら》に。賄賂使うて引っくくらせます。有無を言わさずキチガイ扱い。国の掟《おきて》の死刑にさせます。軽いところで牢《ろう》屋《や》の住居じゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。軽いところで牢屋の住居じゃ。世界の歴史を調べてみますと。高い身分や爵位や名誉じゃ。または財産、領地の引継ぎ。女出入りや跡取り世取りの。お家騒動、内輪の揉めから。邪魔な相手を片付けたさに。こうした手段を使った実例《ためし》が。チラリチラリと残っております。ならば今では、どうかと見ますと。おなじことじゃと言いたいなれども。言えぬどころか、もちっとひどいよ……スカラカ、チャカポコ。スチャラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ。
三
……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あアア――ああ……アアア。今は文明開化の御代だよ。科学知識の万能時代じゃ。そうしたサナカに精神病だけ。昔のまんまの暗黒時代で。診察治療ができないなんぞと。ウッカリ言うたら言い出し屁コキじゃ。そう言う奴こそキチガイだろうと。おっしゃるお方があるかも知れぬが。そう言うお方が私は好きだよ。理知と常識、科学の知識を。いつも忘れぬりっぱなお方じゃ。そんなお方にお頼みしまする。物は試しじゃお閑《ひ》暇《ま》の時分に。ちょっとそこらの精神病院。または学校、図書館あたりで。世界各地の博士や学士が。寄ってたかって研究し出した。キチガイ病気の書物を拡げて。ザット中味を調べて御覧よ。サテモ並んだ病気の名前じゃ。丸い洋文字、四角い漢字と。押し合いヘシ合い何百何千。指を折るさえ難儀なくらいじゃ。さては今では精神病者も。外科や内科の患者と同様。科学知識の光りに照らされ、底を見透す診察治療や。道理つくした介抱手当ての。数をつくしてもらっているかと。有難がるのは素《しろ》人《うと》ばかりじゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。有難がるのは素人ばっかり。憎まれ口をばたたくじゃないが。お魂《たま》消《げ》なさるな西洋日本で。天の際《は》涯《て》から地のドン底まで。調べ抜いたる科学者連中が。寄ってたかって研究しても。カンジンカナメの一番大切《だいじ》な。オレが頭蓋《あたま》の空洞《うつろ》の中に。トグロ巻いてる脳味噌ばかりは。ドンナ作用をしているものやら。真実《ほんと》のところが全くわからぬ。それを嘘《う》言《そ》じゃと思うたお方は。古今東西あらゆる学者が。人の脳髄調べた書物を。読んで御覧になったらわかるよ。これは物事聞いたり見たり。判断して行くところでござるの。知識、経験、昔の記憶を。保存しておく倉庫でござるの。何が何して何じゃらかじゃら。浪花《なにわ》節《ぶし》なら前置きばっかり。エライ議論が出ておりますけれど。確かな事実は一つもわからん……チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。確かな事実は一つもわからぬ。わからぬはずだよ不思議はござらぬ。およそ天下が広いと言うても。人の脳髄ホントに調べて。腹の立つほど簡単明瞭。奇妙キテレツ珍妙無類な。脳の作用を見《み》貫《ぬ》いた者なら。問わず語りでおこがましいが。ここにおります私ばっかり。……なぞと言うたら皆さん方は。そう言うお前の脳味噌だけが。毎日天日に焼かれたお蔭で。性が変って来たものダンベイ。なぞとお笑いなさるか知らぬが。真実《ほんと》にそうダンベイかも知れぬが。そこが私の道楽仕事じゃ。世界各地の博士や学者を。アッと言わせる研究仕遂げて。二十億万人類社会の。アタマの入れ換えするのが楽しみ。いずれそのうちその論文なら。ある大学から発表されます。それを御覧になったらわかるよ。ほかのあらゆる世界の学者は。脳の研究仕方を知らない。見当違いの思惑ずくめで。多分だろうと思ったくらいの。真実《まこと》めかした当ずっぽうだよ。一つの道理は説明できても。ほかの事実が解釈できない。あちらを立てればこちらが立たない。九尺二間に雨戸が二枚じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。九尺二間に雨戸が二枚じゃ。ましていわんや朝から晩まで。走馬《まわり》燈《どう》籠《ろ》か百色眼鏡か。猫の眼玉じゃ七面鳥じゃと。泣いて笑いつクルクルチラチラ。千変万化の秘術をつくす。人の心のその正体が。どんな姿の形のものやら。それがどうして狂うたものやら。酒屋の半七さんではないが。どこにどうしてござろうものやら。ただの一つもわかっていませぬ。それが証拠は何より眼の前。今の精神病科の書物に。並び並んだ病気の名前じゃ。そんな書物を作った学者が。何が何やらわからぬまんまに。ザッと患者の表《うわ》面《つら》眺めて。身振り素振りを引当て目当てに。つけもつけたり素人欺《だ》瞞《ま》しじゃ。色気狂いが色情狂だよ。人を殺せば殺人狂です。舞踏狂なら踊りを踊るの。放火狂なら放け火をするのと。何の科学で調べたことかや。わかりきったる名前の付け方。医者でなくとも誰でも付けます。怒り上戸やアノ泣き上戸。笑い上戸に後引き上戸。梯子《はしご》上戸と世間の人が。酔うた姿を見かけの通りに。名前つけるとおんなじ流儀じゃ。これで診察できるが奇妙じゃ……チャカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ。
▼あ――ア。これで診察できるが奇妙じゃ。サテモ精神病者を受け持つ。博士、学士の医者様たちは。人の心の狂うたところや。または狂わぬ確かな証拠を。どこで調べて見分けて行くかと。不思議がるのはまた素人だよ。そこは商売、心配無用じゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。そこは商売、心配御無用。すべて精神病者と名付けて。遠方はるばるお医者の玄関へ。連れて来られた人間ならば。誰が見たとて正気に見えない。かなり嵩《こう》じた連中ばかりじゃ。または見かけが普通と変らぬ。落着き払った病人とても。家族連中や掛りのお医者が。チャントお上へ手続き済まして。精神病者に相違がござらぬ。不法檻禁おかまいなしじゃと。法律ずくめの許可証そろえて。正々堂々連れて来るから。お医者側では手数がかからぬ。家族連中の話の模様や。または患者の態度《ようす》を眺めて。書物拡げて照し合わせて。似合相当の名前を付けたら。それで診察おわりというので。赤い煉瓦へ打ち込むだけだよ。中には診察違いの者なぞ。ポツリポツリといるかも知れぬが。これもやっぱり心配御無用。ほかの種類の病気と違うて。こいつばかりは誤診がわからぬ。一度「キの字」ときまるが最後じゃ。二度と出られぬ煉瓦の地獄じゃ。「違う違う」と言い訳したとて。それが、そのまま「キノ字」の証拠と。今も昔も変らぬ運命《さだめ》じゃ。放火狂じゃと診察《みこみ》をつけて。八百屋お七を解剖したらば。何ぞ計らん色情狂だよ。窃《どろ》盗《ぼう》狂者《マニア》の標本《みほん》と思って。石川五右衛門入院させたら。誇大妄想狂者とわかった。なぞとお尻がハジケル心配。けっしてないから気楽なものだよ。テンカラ診察できない患者じゃ。何が何やらわからぬ病気じゃ。サテモ気楽なキチガイ医者だよ……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ。チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。さても気楽な精神病《キチガイ》医師だよ。ならば治療の仕方はどうかと。心配するだけ野暮天、素人。これも、やっぱり診察同様。盲目探りの真っ暗《くら》闇《やみ》だよ。すぐに脳天砕かぬところが。開け行く世のお蔭か知らぬが。患者側から言わせてみたなら。どうかわからぬ証拠は眼の前。どこでもかまわぬソンジョのそこらの。精神病院覗いて御覧よ。鉄の格子の牢屋はもちろん。今の未《み》決《け》監《つ》や監獄なぞには。影も見せない道具の数々。鉄の鎖に袖なしシャツだよ。手《て》枷《かせ》、足枷。磔《はり》刑《つけ》寝台じゃ。小窓開いた石箱なんぞが。ズラリズラット並んだ光景。どんな極重悪人とても。五体震わす拷問道具じゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。五体震わす拷問道具じゃ。それに引換え入院患者の。心の狂いをホントに治《な》癒《お》す。薬器械のたぐいと言うたら。ただの一つも見当りませぬ。眠らぬ患者に麻酔の注射じゃ。騒ぐ者には鎮静剤だよ。物を喰わねば栄養物の。注射、浣腸ぐらいのものです。下《へ》手《た》な内科や外科にも劣る。あとは治癒ればお医者の手柄で。死ねば運じゃとすましたもんだよ。アハハのエヘヘの平気の平左じゃ。サテモ恐ろしキチガイ地獄じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。サテモ恐らしキチガイ地獄じゃ。なれどここらはまだ小手調べじゃ。キチガイ地獄の三《さん》途《ず》の川だよ。聞いたばかりで身の毛がザワつく。八方地獄は愚かなことだよ。阿呆メチャクチャでたらめほうだい。あらん限りの虐待続ける。この世からなる精神病者の。地獄ウ――めぐりイ――はア――サテこれエ――かア――ら――じゃア――い……スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコ。チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
四
▼スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ。あ――ア。なんと皆さん魂消《たまげ》なさるなよ。これは日本の話じゃござらぬ。唐《から》や天《てん》竺《じく》あちらの話じゃ。世界各地の精神病医が。こんな無慈悲な心で建てる。外観《みかけ》りっぱな病院地獄は。こんな愚かな亡者の患者で。一つ残らず満員している。それも道理かその第一には。そんな地獄の寝《ね》台《だい》の数をば。今の千倍、万倍したとて。人間世界のそこでもここでも。ヒョクリヒョクリと現われ飛び出す。精神病者の数には足りない。しかも一旦入院したなら。治《な》癒《お》る期間が長いはまだしも。一生出られぬ患者もあるので。否《いや》が応でも大入満員。そこでお医者が威張るわ威張るわ。どんなことでも患者に仕向けて。めんどくさいか納める金が。すこし渋るかするその時は。すぐにドシドシ退院させます。自宅治療のお許し付きで。無事に出て来る患者もあれば。ほかの病気の診断書《おみたて》付で。棺に入って出るのもあるが。後の代りはアトカラアトカラ。押すな押すなの改札口だよ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。押すな押すなの改札口だよ。なれどソイツは話がおかしい。奇妙、不思議じゃ一体全体。そんなところへお金を出して。何がためなら入院させるか。なぞと御不審なされるお方は。われと身内に精神病者が。できた経験持たない方だよ。まずはゆっくりお聞きなされませ。モット驚く話がこれから。チャカラカ、チャカポコ飛び出しまする。私ゃ知らんが木魚が知っとる……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。わたしゃ知らんが木魚が知っとる。もっと驚く事実があります。しかもどこでも共通平等。精神病院関係者ならば。言わず語りで誰でも知っとる。極秘親展正真正銘。ここを限りの話と言うたら。ちょっと辻《つじ》褄《つま》合わぬか知らぬが。チャント合うのが木魚の話じゃ。すべてキチガイ患者を連れて。赤い煉瓦のお玄関先へ。お辞儀しに来る連中の中でも。親や兄弟、妻子やなんぞは。どうか治《な》癒《お》して下さりませと。涙流して溜息ついて。頼み入るのが少くないが。そんな骨肉《みうち》の連中の中でも。ホンニ心《しん》から真《まご》情《ころ》こめて。治療すつもりで介抱するのは。実のところが母親ばっかり。それも真実わが腹痛めた。息子か娘が患者の場合じゃ。ほかの骨肉《みうち》の連中と来たなら。同じ血分けた父《おや》兄弟でも。実に冷淡無情なものだよ。殊にお若い妻君なんぞは。申訳だけ二、三日ぐらいは。側で溜息吐くかと思えば。里の方から迎えに来るのを。待っていたようにハイチャイ極め込む。それもまだまだ最極上だよ。医者に患者を渡すと間もなく。部《へ》室《や》がどこやら決《き》定《ま》りもせぬうち。電話かけにか便所に行くのか。帯の間の鏡を覗いて。鼻のアタマをパタパタやるうち。スラリと姿を消したが別れじゃ。二度と姿を見せないものだよ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。二度と姿を見せぬが普通じゃ。ドウセ治癒らぬ病気と決《き》定《ま》れば。医師に見せるは体裁だけだよ。棄てに来るのが本当の腹だよ。生きて生きがいないこの病気。どうぞよろしく頼みますると。頼む挨拶ウラから聞くと。もしも治癒れば迷惑千万。なろうことなら殺して欲しいと。言わぬ心がハッキリ見え透く。ここが患者の生死の境で。医者が大いに儲かるところじゃ。……オットそんなに眼の色かえて。そんなことが……とお白《に》眼《ら》みなさるな。現にこの眼で見て来たことです。但し日本のことではござらぬ。唐や天竺、西洋《あちら》のことだよ。耳もなければ眼玉も持たない。物も言わない木魚の話じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。物を言わない木魚の話じゃ。唐や天竺あちらの話じゃ。男、女の区別を問わない。一度発狂した人間なら。ドンナ平気な顔しておっても。思いがけなく乱暴したり。人を斬ったり放火《つけび》をしたり。嫌な気持ちやオカシナ所業《しわざ》を。あたり八方ひろげてサラゲル。人の姿の犬畜生だよ。人間扱いするにはおよばぬ。ドンナ手《て》酷《ひど》い仕置きをするとも。石や瓦の投げ撃ちしても。罪にゃならない相手も記《お》憶《ぼ》えぬ。たといりっぱに治癒ったようでも。いつが何《なん》時《どき》、再発するやら。油断がならぬと今の世までも。昔ながらに言うその上に。あれは血《ち》統《すじ》じゃさておそろしやの。何の祟りじゃ応酬《むくい》じゃなんどと。眼ざし指さしするのが世間じゃ。そんなサナカに自分の身内に。思いがけない精神病者が。ヒョイと出て来るサア一大事じゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。ヒョイと出て来るサア大変だよ。それも上流、金持ち社会で。ものに不自由せぬ家だったら。座敷牢でも作れば片付く。治癒る当てどもない病院へ。入れる必要あるまいなんぞと。アッサリ言うのは上流社会の。つらいところを知らない人だよ。すこし世間に知られた一家で。一度キの字を出したら最後じゃ。万《まん》劫《ごう》末代血《ち》統《すじ》に障る。早い話が倅《せがれ》や娘の。縁があぶなくなるその上に。近所隣りの目下の連中に。あれは非道なお金の祟りよ。無理な出世の報いよなんどと。白い眼をされ舌さし出され。うしろ指をばささるる辛さ。御門構えの沽《こ》券《けん》にかかわる。そこで情実、権柄ずくだの。縁故たどって手《て》数《かず》をつくして。赤い煉瓦へコッソリ入れます。もしも満員している時は。もっと届いた手数をつくして。無理な都合を院長に頼む。とかくこの世はお金の沙汰だよ。ましてキチガイ地獄の沙汰だよ。閻魔面した院長さんでも。すぐに地蔵の笑顔に変って。慈悲の御手で迎える代りに。ほかの患者を極楽まわしじゃ。金があってもまずこの通りじゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。金があってもまずこの通りじゃ。身分家柄、名誉や地位なぞ。あればあるほど精神病者の。自宅治療はいよいよ困難。赤い煉瓦へ人目を忍んで。封じて置かねば安心できない。ところが中流社会となったら。きまりきったる月給年俸。細い収入、生命《いのち》の綱ぞと頼む主人や家族の中で。だれか一人が発狂しますと。借家だったら追い立て喰います。座敷牢なぞ思いもよらない。すこし患者に手数がかかると。貯金、恩給、たちまち煙じゃ。しかもその上介抱人が。主人だったら出勤《でかた》が叶わず。奥さんだったら仕事ができない。または子供が学校に行けば。あれは「キの字」の卵よなんどと。寄って集《たか》って嘲弄されます。言うに言われぬ切なさ辛さが。たった一度に皆落ちかかるよ。残る一つの頼みの綱なら。赤い煉瓦の院長様よと。できぬ算段して来て見れば。どこへ行っても満員ばかりじゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。どこへ行っても満員ばっかり。しかもコイツが一段落ちて。その日暮しのシガナイ稼ぎじゃ。嬶《かか》は内職、娘は工場。なぞというような一家となったら。酷さ悲惨《みじめ》さ話にならない。介抱どころか、お薬どころか。すぐにそのまま一家がそろうて。顎を天井に吊るさにゃならぬ。いっそ狂うて死んでもくれたら。まだもましよと怨んでみても。当の本人キチガイ殿は。死ぬるどころか大飯喰ろうて。治癒る当てどもない顔つきだよ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。治癒る当てどもない顔付きだよ。こんな調子で人間世界に。麦の黒穂か菜種の馬か。花や野菜の狂いと同様。わけもわからず理屈も立てずに。ヒョクリヒョクリと現われ飛び出す。数え切れない精神病者を。無《た》料《だ》で引受け入院させるは。広い世間に大学ばっかり。それも寝台が何百あろうか。しかも慈善でするのじゃござらぬ。学生教授の研究材料。生きた標本講義の参考に。都合よいのを選り取り見取りで。アトは要らぬと玄関払いじゃ。ならば私立はどうかと見ますと。これは何しろ商売本位じゃ。みんな金ずく権柄ずくめの。オエライ患者で超満員だよ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。エライ患者の大入満員。さてもかように持て余されたる。数も知れない狂人たちは。どこでどうして片付けられるか。さても不思議と審《しら》べてみたれば。サアサこれからまた聞きごとだよ。耳も聞こえず眼玉も見えない。口も動かぬ片輪の木魚が。見たり聞いたりして来た話が。腹は空ッポ公平無私だよ。タタキ出します阿呆陀羅経だよ。地獄めぐりのチョンガレ文句が。ドンと一段、深みへ落ちます。……サアサ寄った寄った話の種だよ。お金は要らない。聞いたらビックリ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
五
▼スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ。あ――ア――あア――ア。エ――エ。さても皆さんかような次第で。一人のキチガイ患者が出ますと。ほかの病気と品事かわって。あとに残った正気の家族が。あるにあられぬ責め苦を受けます。トテモこうして自《う》宅《ち》へは置けない。どうかせねばと思案をしても。どうもしようが見当りませぬ。とかくするうち無理算段した。金はなくなる、仕事はできない。やがて一家が干乾しは眼の前。さても切なや、悲しや、辛や……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。さても切なや、悲しや、辛や。それもわが身は露いとわねど。お年寄られた親様はじめ。可愛い吾児の行末までも。生きてかいない一人のために。棄てて介抱するのが道理か。人に迷惑かけないうちに。患者もろとも首でも縊《くく》って。一家そろうて死ぬのが道かや。何の因果でかような憂き目と。泣いて怨めど肝腎カナメの。当の患者はアラレヌ眼付きで。キョロリキョロリとしているばっかり……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。キョロリキョロリとしているばかりじゃ。もとの姿は残っていても。元の心はもぬけの殻だよ。人の形をしているだけに。犬や猫より始末が悪いよ。情けないとも何ともかとも。なろうことなら代ろうものをと。歎き悶《もだ》えたあげくの果てが。切羽詰まった大罪犯す……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。切羽詰まった大罪犯す。どこか遠国《とおく》へ移転《ひつこ》すふりや。知らぬところの病院さして。入れに行く振り人には見せて。またと帰らぬ野山の涯《はて》へ。泣きの涙で患者を棄てます。なれどコイツは捨児と違うて。拾い育てる仏はいませぬ。おらぬどころか行く先々では。打たれたたかれ追いこくられます。飢えて凍えてたおれたところの。木の根、草の根、肥やすか知れない。それを承知で見棄てる鬼をば。キョロリキョロリと探して見まわす。憐れな患者の名残りの姿を。はるか離れた物蔭、木蔭で。両手合わせる千万無量……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。両手合わせる千万無量じゃ。古い伝えは延《えん》喜《ぎ》の昔に。あのや蝉《せみ》丸《まる》、逆《さか》髪《がみ》様が、何の因果か二人もそろうて。盲人と狂女のあられぬ姿じゃ。父の御門に棄てられ給い。花の都をあとはるばると。知らぬ憂目に逢《おう》坂《さか》山の。お物語りにもったいないが。かような浮世のせつない慣わし。切羽詰まった秘密の処分《さばき》は。古今東西いずくを問わない。金の有る無し身分の上下。是非と道理を問わないものだよ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。是非と道理が言えないものだよ。そんな事情で野山の涯に。迷う憐れな患者の中でも。すこし正気の残った者なら。他《よ》所《そ》の掃《はき》溜《だめ》あさってみたり。物を貰うてまた生き延びるよ。そのうち正気に帰るにしても。そこでこの世の悲しさ辛さが。やるせないほど身に沁み渡る。またはわが身の姿に恥じて。残る家族のためぞと思い。人を諦め世を諦めて。流す涙が乞食の姿じゃ。三日続けば止められないと。聞いた気楽な世界に落ち込む。それがそこらの名物乞食じゃ。または野《の》臥《ぶせ》り山《さん》窩《か》にまじって。寺の門前。鎮守の森蔭。橋の袂《たもと》の蒲《かま》鉾《ぼこ》小《ご》舎《や》で。虱《しらみ》取《と》り取り暮しているのを。一人二人と集めてみたなら。とても大した人数になります。しかもさようなミジメな姿は。みんなこうした地獄のあわれを。知らぬ顔する国家や社会が。いっそ死ねよと言わないばかりの。冷めたい仕打ちに消え行く数の。千か万かの一人か二人じゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。千か万かの一人か二人じゃ。なんと皆さんいかがでござる。これが普通の病気であったら。達者なものより大切《だいじ》にされて。医者よ薬よ看護婦さんだよ。柔い寝床じゃ、良い喰べ物じゃと。あるが上にもお見舞受けます。人間ばかりか犬畜生でも。小鳥、金魚も場合によっては。後生大事に介抱されます。それに引き換え精神病者は。病気の正体わからぬお陰で。赤い煉瓦か野山の涯か。いずれ免《のが》れぬ地獄の責め苦じゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。いずれのがれぬ地獄の責め苦じゃ。なれど皆さんお聞きなされませ。私が今まで木魚をチャカポコ。たたき出したる地獄のお話。病院地獄と野山の地獄は。正真正銘、金箔付きの。精神病者が落ち行く地獄じゃ。尋常普通のキチガイ地獄じゃ。さてもこれから今一と馬力と。親に不孝なばか声張り上げ。弁じ上げます地獄のお話は。それにも一つ 〓 《しんにゆう》かませた。スゴイ、ドエライ地獄の話じゃ。罪も報いも何にも知らない。正気狂わぬ普通の男女が。チャント物事弁《わきま》えながらに。不意に手足の自由を奪われ。声も出されぬ無理往生だよ。無理や無体に引《ひき》擦《ず》り込まれて。タタキ込まれるキチガイ地獄じゃ。しかもよくよく調べてみますと。唐や天竺、西洋あたりに。ズラリ並んだ大建築だよ。チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。とてもりっぱな大建築だよ。磨《みが》きたてたる金看板にも。新聞紙上の大広告にも。何々病院何々治療と。四角四面の能書ばっかり。別に地獄と書いてはないが。警察新聞探偵社なぞが。チャント中味を知り抜きながらに。知らぬ顔する不思議な商売。天下御免の扉の内側へ。ウカと片足入れたが最後じゃ。泣けど叫べど狂えどもがけど。二度と出られぬ暗黒世界じゃ。そんなところがあるとも知らずに。二十世紀の文化の世界じゃ。科学知識の万能時代じゃ。法律道徳礼儀の世界と。威張り腐って歩けたものだよ。明日は自分が落ちるか知れない。キチガイ地獄のドン底地獄じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
六
▼チャカポコ、チャカポコ。チャカラカ、チャカポコ。あ――ア。よもや日本にゃないとは思うが。人を殺すにゃ短刀ピストル。麻《ま》酔《や》薬《く》、毒薬、絹《きぬ》紐《ひも》、ハンカチ。数を尽したがらくた道具が。あるが中にも文明国では。一と呼ばれるホントウ国だよ。そこの首都《みやこ》のタマゲタ市《シチー》で。わしが見て来た新式手段が。意気で高尚でハイカラ道具は。昼の日中に公々然と。巡査お医者を立会いさせて。血潮残さず指紋も止めない。ドンナ検事や探偵連中が。不審抱いて調べて見たとて。指もさされぬステキナ手段じゃ。但しお金が少々かかるが。かかる代りに利益《もうけ》が大きい。とかくこの世はお金が讐敵《かたき》じゃ……チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。とかくこの世はお金が讐敵じゃ。まずは財産相続事件じゃ。政治、外交、軍機の秘密と。何かすてきな大金儲けで。あいつが邪魔じゃと思うた一念。狙う相手が一人で歩く。情婦《いろ》の棲《すみ》家《か》か賭博の打場か。または秘密の相談場所だの。ソッと入込む息抜き場所に。近いあたりの道筋突き止め。かねて雇うた精神病医の。欲の深いを同伴させて。ソンジョそこらの巡査に頼む。実は私の親友ですが。すこし精神異状を呈し。家に帰らず淋しいところを。ブラリブラリと歩くが病い。そこでお医者に見せたいなれど。おれは何ともないなぞ言うて。得物振り立て暴れまするで。やむをえませぬ非常の手段。いつもここらを通るとわかり。取って押えに張り込みまする。そこでお仲間両三人の。お手が拝借願えましょうか。なぞと言ううちお金をいくらか。医師の口添え右から左と。思う通りに手順を運んで。ドンと落せばドンデン返し。狙う相手は千《せん》仞《じん》奈《な》落《らく》。生きて出られぬキチガイ地獄じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。出るに出られぬキチガイ地獄じゃ。これがお家の騒動なんかで。狙う相手がまだウラ若い。息子か娘と来ているならば。もっと気取った手段があります。殊に近代思想にカブレた。頭の過敏の連中だったら。ズット手数が省ける訳だよ。すこし皮肉に取扱ったり。または立場をコミ入らせると。すぐに神経衰弱式だよ。頬が青褪め眼玉がキラキラ。挙動《そぶり》言語《ことば》が変って来まする。これをシコタマつかんだお医者に。診せてしまえばこっちのものだよ。静養させるは表面《うわべ》の口実。花の蕾《つぼみ》が開かぬまんまに。あわれ落ち行く無間の地獄じゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。あわれ落ち行く無間の地獄じゃ。こんな患者を専門にして。やって行くのがホントウ国でも。音に名高いマッタク博士や。それも初めは普通のお医者で。やっていたのがこの種の患者は。貰う謝礼がステキに大きい。そこでだんだんそちらの専門。今じゃ大入大繁昌だよ。ナントびっくりタマゲタ市《シチー》に。善美つくした病院構えて。中に並ぶが現代文化の。粋をそろえた拷問道具に。息も洩らさぬ殺人設備じゃ。一眼見たらば真夏の土用も。零下何度の大寒地獄じゃ。それに引換え表の通りは。光り輝く玄関構えに。並ぶ自動車その数知れない。しかも富豪や名士の家庭の。秘密握っているのが強味じゃ。強請《ゆすり》次第にお金が取れます。もしもその手が利かない時には。当の本人、秘密の正体。無理に作った正気の患者を。誤診だったと発表するぞよ。すぐに全快退院させるぞ。または患者の味方となって。そちらの秘密を世間へ発《あば》くぞ。なんぞかんぞと絞ったあげくに。ゆする相手が破産をしたり。こちらの不正が暴《ば》れると見込めば。当の秘密の入院患者に。注射一本、水薬ポッタリ。あとで解剖してみるとても。そんな薬を使わにゃならぬ。ほどに暴れた患者かどうだか。今の医学の力じゃわからぬ。そこがマッタク博士の付け目じゃ。精神病医の手品の種だよ……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。精神病医の手品の種だよ。しかもまだまだ不思議の数々。さすがキチガイ地獄の本場じゃ。ホントウ国でもタマゲタ市《シチー》で。マッタク博士が大胆不敵に。そんな商売しておりながら。同じ仲間の地道なお医者に。指を一本さされぬばかりか。文句言われず非難を受けない。政府、警察、新聞記者まで。鳴りを静めて見ているばっかり……スチャラカ、チャカポコ。チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。鳴りを静めて見ているばかりじゃ。続く不思議がホントウ国の。機密費用の大ドル箱だよ。そこを洩れ出す巨万のお金が。マッタク博士のポケットの中へ。ゾロリゾロリと音さえ立てない。それかばかりかマッタク博士の。広い肩幅大きな胸には。並ぶメタルや勲章の数々。それも国家に偉大な功労。捧げた文官武官の連中が。めったに貰えぬドエライやつだよ。ドイツ、フランス、イギリス、ロシア。日本なんぞはなかったようだが。それにつけてもマッタク博士が。そんな世界の強国相手に。ドンナ偉大な功労つくせば。コンナ勲章貰えたものかや。これはドウジャと魂消るばっかり……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ、チャカポコ……。
七
▼スカラカ、チャカポコ。チャカポコ、チャカポコ。あ――ア。さても皆さん退屈様とは。思いますれどここらで止めては。仏作って魂入れずじゃ。破れカブレの封切序《じゆん》に。並べ上げたる不思議の数々。眼にも止まらず耳にも聞こえぬ。科学文化の地獄の正体。底のドン底のドンドコドンまで。タタキ破って暴《さ》らけて拡げて。これはホントにタマゲタ話じゃ。マッタク凄いよなるほどそうかと。お立会い衆が合点の行くまで。ザット御機嫌伺いまする。またと聞かれぬ地獄のチョンガレ。世にも不思議な木魚の話じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。またと聞かれぬ地獄のチョンガレ。聾《ろう》唖《あ》の木魚の阿呆陀羅経だよ。さてもしかるにスカラカ、チャカポコ。そもやホントウ民衆国は。表向きでは世界の強国。世界一ならお国の自慢じゃ。自由正義の本場ときまった。民権本意の理想国じゃと。呼ばれまするが日本と違うて。国の元首に誰でもなれます。お金本位の勢力本位じゃ。忠義という字も言葉もないから。一から十までお金が物言う。正義、法律、お金で買えます。良心、貞操、むろんのことだよ。自由民権手段を選ばず。つかんで離さぬ熊《くま》鷹《たか》根《こん》性《じよう》の。億万長者の一流どころが。国の利益は自分の利益と。磐《ばん》石《じやく》動かぬ算《そろ》盤《ばん》ずくめで。政治の実権握っているから。いくら政府が交代したとて。億万長者の威光は変らぬ。上は大臣、議員をはじめて。下は巡査や兵隊たちまで。国の繁昌一手に握った。一流どころの億万長者の。お金儲けの番頭手先じゃ。法律正義の仮面を冠って。弱い正しい人間たちの。自由、道徳、義理人情をば。片っ端から踏み付けまわる。そこでかような富豪たちの。非道な栄華を心《しん》から憎しむ。正義の味方の学者や牧師が。言論自由の権利の下に。富豪いじめの演説はじめる。または書物に書いたりしますと。エライエライと皆賞め立てます。下層社会の人気が集まる。資本家倒せの世論が高まる……スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。富豪倒せの世論が高まる。そこで富豪がやっきとなります。そんな主張や世論を掲げた。雑誌新聞デスクに投げ出し。これをどうしてくれるかなんどと。葉巻片手に政府を責めます。そこで政府は大いに困る。困るはずだよ政府の連中は。そんな富豪の番頭さんなら。御機嫌取らなきゃ立場があぶない。次の選挙の費用が貰えぬ。なれど個人の自由は自由じゃ。国の掟にちっとも触れない。筋道通ったりっぱな人物。正義の味方の学者や牧師を。まさか追立て喰わせもならず。まして牢屋へ入れたりしたらば。エライ世論の反対受けます。そこで思案に詰まったあげくが。裏の裏行くキチガイ地獄じゃ。そんな学者や牧師の中でも。首領株だけ眼星をつけて。お手の物なら刑事を使って。狙うているとは夢露知らずに。タッタ一人で淋しいところを。歩く後から足音忍ばせ。アット言う間に引きずり倒して。精神病者を押えた形式《かたち》で。大きな手錠と足錠かけます。顔に当てがう麻《ま》酔《や》薬《く》のハンカチ。陰に待たせたマッタク博士の。病院自動車目がけて投げ込む。あとは皆まで言わずとわかる……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。あとは皆まで言わずとわかるよ。これを感付く文明諸国じゃ。国家個人の区別を問わない。わるい思案に詰まった連中が。こんな便利な手段はないぞと。われもわれもと秘《ない》密《しよ》の頼みじゃ。入る患者は政治家、学者。軍事探偵、大発明家。富豪、名家の跡取り世取り。または名優スターの類だよ。他人の野心や不正の利得や。または秘密の計画事業の。邪魔をするほど手腕があったか。エライ立場におったが因果じゃ。予審、公判、宣告なしの。無期や有期の徒刑はもちろん。電気椅子より手軽い死刑も。注文次第の何やら次第じゃ。ほんにこれこそ地獄の沙汰だよ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。ホンニこれこそ地獄の沙汰だよ。そこに落ち行く患者の中には。むろん、狂人、瘋《ふう》癲《てん》病者も。申訳だけいるにはいるが。中に交った優れた人物。英雄、豪傑、天才なんどを。白い服着たしかつめらしい。キチガイ地獄の牛《ご》頭《ず》馬《め》頭《ず》どもが。手取り足取りして行くあとから。金や勲章の山築《つ》く上から。ニヤリ見送るマッタク博士じゃ……チャチャラカ、チャカポコ、スチャラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
八
▼チャチャラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ。あ――ア。ナント皆さん紳士や淑女よ。お立ち会い衆の大勢さまよ。これが私の洋行土産じゃ。現代文化の影身に付添う。この世からなる地獄の話じゃ。鳥が囀《さえず》り木の葉が茂り。花に紅葉《もみじ》に極楽浄土の。中にさまよう精神病者じゃ。身寄りたよりに突きはなされて。罪も報いも泣こうに泣かれぬ。キチガイ乞食のあわれな姿じゃ。ここの村里、かしこの町で。夜ごと日ごとに追いまくられては。石や瓦の投げ打ちされては。雨にたたかれ風には晒され。雪や氷に消え入るばっかり。そんな地獄をこの世に作った。丸い明るい天道様まで。クルリクルリと顔をば背《そ》向《む》けて。おれは知らぬと言うたか言わぬか。ピカリピカリと笑ってござるよ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。ピカリピカリと笑ってござるが。それはまだしも気楽な地獄じゃ。昼夜不断の電燈ガス燈。唯物科学の文化の光が。明るく光れば光って来るだけ。暗くなるのが精神文化じゃ。金じゃ女じゃ。権利じゃ義務じゃと。手段選ばぬ悪知恵比べじゃ。道理外れた生存競争。電車自動車ソラ飛行機じゃと。縦横無尽に行き交い飛び交う。人の運命一寸先だよ。暗に隠るる秘密の扉じゃ。連れて来られた老若男女は。狂気本気の区別を問わない。ばかも怜悧《りこう》も一列平等。ドンと蹴込んでピタリと閉じたら。タッタ一呑み文句を言わせぬ。音も香もなく落ち行く先だよ。娑婆の道理や人情の光が。影も映《さ》さない暗黒世界じゃ。鉄筋煉瓦やセメント造りの。科学知識のこの世の地獄じゃ。中に重なるキチガイ地獄の。上にあるのが親切地獄で。次が軽蔑、冷笑地獄じゃ。下は虐待、暗殺地獄の。底は何やらわからぬ地獄じゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。あとは何やらわからぬ地獄の。次に並ぶはモ一つスゴイよ。これは何でもわかった地獄じゃ。おのれあいつが正気のおれをば。こんなところへ投げ込みおるかと。歯がみ、身もだえ、地団駄、踏んでも。踏めば踏むほど、親切地獄じゃ。それでも止めねば虐待地獄じゃ。あとは無念の白骨地獄で。化けて出られぬ奈落へ抜けます……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。化けて出られぬ奈落へ抜けるよ。そんな危い地獄の扉が。もしも本当にそこいら中に。あるとなったらさてどうなるか。お立会い衆はむろんのことだよ。政府当局、天下の学者。知識階級の誰かれ問わない。血あり涙のある方々が。知らぬ顔して捨ててはおけまい。古い川柳に座敷の牢屋で。薬飲むにも油断がされぬと。(註に曰く――座敷牢薬をのむに油断せず――柳樽――)ござりまするはお江戸の昔じゃ。ましていわんや近代文化の。科学知識の進歩の中でも。人の脳髄、心の正体。何が何やらわからぬために。精神病学研究仕方が。八方塞《ふさ》がり昔のままだよ。贋のキチガイ真実《ほんと》のキチガイ。ハッキリ区別もできない癖に。ほかの医学の体裁真似して。治療診察なんどと言うては。四角四面の病院作って。器械標本、薬に書物と。並べ飾って威張っているなら。こんな地獄ができるは当然。これを防ぐが目下の急務じゃ。そんな病院見当りしだいに。タタキ潰すが何より急務じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカラカ、チャカポコ。チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ……。
九
▼チャチャラカ、ポコポコ。スカラカ、ポコポコ……さてもさようなイカサマ病院。キチガイ地獄ができないように。防ぐ工夫があるかと言うたら。タッタ一つの手段があります。しかもなかなか大きな仕事じゃ。どこか気候と景色のよろしい。交通便利な離れた島へ。ザット一千万円かけて。かく言う私が新案工夫の。デッカイ精神病院建てます。そこへ研究試験所つけます。患者を無料で入院させます。地獄なんぞができないように。解放治療というのをやります。これも私の新案工夫じゃ。すなわち正しい精神科学の。正しいキチガイ病気の治療じゃ。薬使わず手術もしませぬ。鉄の鎖や、石箱、鉄箱。袖無しシャツなぞ一切使わず。ありとあらゆる精神病者を。広いところへ追い放しにして。一番自然な正しい治療を。しようというのが解放治療じゃ。いわば精神病者の牧場じゃ。キチガイ患者の極楽世界じゃ。奇妙キテレツ珍妙無類の。世界初めの精神病院。むろん誰でも参観随意じゃ。ドンナすてきな観《み》物《もの》になるかは。蓋を開けねば私もわからぬ。何から何まで新発明だよ。スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。何から何まで新発明だよ。いずれそのうち発表しますが、世界の学者が一人も知らない。キチガイ病気の出て来る原理じゃ。しかもすこぶる簡単明瞭。ステキめっぽう愉快な学理を。そこで実地の試験にかけます。診察予防が絶対不可能。薬もなければ手術もできない。キチガイ病気の正体調べて。診察治療ができるとなったら。トテモ評判大したものだよ。世界に人種が数ある中で。日本人種は見上げたものだよ。正義人道尊ぶ国だよ。精神科学の先進国だと。言わせたいのが私の願いじゃ……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。言わせたいのが私の願いじゃ。なれど何しろ一千万の。金と言うたら大したもんだよ。私が親から引譲られた。田地田畑、貯金や証文。古い褌《ふんどし》お金に換えても。やっと半分そこらのものだよ。あとは政府のお助け仰いで。それにも一つ皆様方の。清い尊いお志を。たよりすがりにやりたい考え。五厘一銭、藁《わら》一筋でも。多寡は厭《いと》わぬ願《がん》人《にん》坊《ぼう》主《ず》じゃ。頭たたいて頂きまする……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。アタマたたいて頂戴しまする。なれど、そう言う願人坊主が。やはり「キの字」の片割らしいぞ。眼付き風付き何やらおかしい。非人乞食に劣らぬ姿で。道のほとりに鞄を投げ出し。駄声はり上げ木魚をチャカポコ。昼の日中に外聞晒す。しかも文句が常識外れた。世界文化の千万円じゃの。耳に聞こえず眼にさえ見せない。人の心の狂いを直すの。古今独歩の研究なんどと。途方途《と》轍《てつ》もないこと並べて。寄付を集めるイカサマ坊主じゃ。そんな古手にかかると思うか。要らぬところで道草喰うたぞ。早く行こうとおっしゃるならば。これはいかさまもっとも千万。道理至極じゃスカラカ、チャカポコ。頭たたいてお詫びをしまする……チャカポコ、チャカポコ……。
▼あ――ア。頭たたいてお詫びをしまする。そもやそもそも一体全体。こんなスカラカ、チャカポコ頭が。身のほど知らない木魚をたたいて。頼み手もない金にもならない。要らぬ赤恥、天日にさらげる。ことの起りはキチガイ地獄じゃ。文明社会の裏面に拡がる。無茶と野蛮の底抜け地獄じゃ。筆も言葉も木魚もおよばぬ。むごさ、せつなさ、悲しさ、辛さを。底の底まで見て来たお陰で。こちらの頭が少々変テコ。これをこのまま棄ててはおけぬと。思い込んだが因果のはじまり。これを助ける方法手段を。あれよこれよと思案のあげくが。精神病者を無料で預る。デカイ病院建てるが第一。それを建てるにゃ皆様方の。世論のお力借りねばならぬ。または一厘一銭たりとも。無駄に使わぬ思案の果だよ。思い付いたる乞食の姿が。お眼に障ったお詫びの印じゃ。今のキチガイ地獄の歌をば。印《は》刷《ん》に起したかような書物を。お立ち会い衆へお頒《わか》ちしまする。お金は要らないお願いしまする。持って帰ってお読みなされて。これはどうやら真《ほん》実《とう》らしいぞ。寄付をしようかと思うたお方や。さては私の一生仕事の。狂人救済事業の中味を。もっと詳しく調べてみたい。または世界の漫遊みやげの。眼先変ったキチガイ話じゃ。家の祟りや血《ち》統《すじ》の障りや。生霊、死霊の怨みやなんぞが。人の心を狂わせ惑わす。スゴイ因果の因縁話を。聞いてみようかそれともまたは。何か大勢集まる場所で。そんな話をやらせて見たらば。奇抜な余興になるかも知れぬと。思召したらお手数ながら。ここに挟んだ葉書が一枚。これにお名前お所番地。それとこれなるページの終りに。止めましたる宛《あて》名《な》を書いて。ぽんとポストにお願いしまする。願うところはこの世の中に。こんな事実がありますことを。向う三軒両お隣りや。どなたこなたの噂の種に。語り伝えて下さりませよ。すれば今言うキチガイ地獄じゃ。人類文化の裏面の秘密が。否が応でも世間へ広まる。悪いことする精神病院。キチガイ地獄を片端なぐりに。タタキ潰せと世論が高まる……チャカポコ、チャカポコ……。
▼そこで政府も黙っておれない。棄てて置けない重大問題。社会事業の急務というので。私が投げ出す財産全部の。五百余万のお金を基本に。精神病者を無料で預かる。国立精神病院建てます。到るところの精神病者の。生産過剰の緩和を始める……チャカポコ、チャカポコ……。
▼人に忘られ世に忘られて。狂いもがいて生命《いのち》を終る。あわれな精神病者が助かる……ポコポコチャカチャカ……。
▼それかばかりかその病院で。研究しだしたキチガイ病気の。治療の仕方が世間に広まる。世界各地のキチガイ地獄が。一つ残らず引っくり返って。ありとあらゆる精神病者の。嬲《なぶ》り殺しが止みますならば。こんな本懐至極はござらぬ……ポコポコ、チャカチャカ……。
▼あ――ア。こんな本懐至極はござらぬ。そこでなるほど貴様の仕事は。実に道《もつ》理《とも》千万至極じゃ。奇特、感心、りっぱな了簡。おれが付いてる心配するなよ。ウント踏張り勉強やらかせ。狂人地獄をスカラカ、チャンまで。タタキ潰せよフレーやフレーと。お賞めなされて下さるならば。私の喜び天井知らずじゃ……チャカチャカ、ポコポコ、ポコポコ、チャカチャカ、ポコポコ……。
十
▼スチャラカ、チャカポコ、チャチャラカ、チャカポコ。あ――ア。さても皆さん相済みませぬ。御用、お急ぎ、散歩の足をば。変な姿や奇妙な文句で。お引止めして気の毒千万。なれどつらつらおもんみまするに。三千世界を流るる時間が。何万、何億、何兆年とも。知れぬ無限の時間の中なら。五十、七十、百まで生きても。アッと言う間の一生涯だよ。何が何やらわからぬまんまに。会うて別れて生まれて死に行く。数え切れない人数の中だよ。今日がただ今この道傍で。お眼にかかるも何かの御縁じゃ。お許しなされて下さりませよ。よしやこのままお別れしても。残る名残りがスカラカ、チャカポコ。もしもこの後世間の噂や。雑誌、新聞、小説なんぞで。キチガイ話を御覧になったり。またはホンマの精神病者を。通りすがりに御覧になったら。思い出しても下されませよ。月の光や太陽の輝き。星の光も掻き消すばかりに。眼《まなこ》眩《くる》めくモダーン文化じゃ。または博愛仁慈の光明。正義道理のサーチライトも。昔ながらに照らさぬ世界じゃ。地獄以上のキチガイ地獄に。音も香もなく消えゆく先だよ。広さ深さも無限の暗の。底に青ずみ漂う血の海。上にさまよう陰《おに》火《び》の焔は。罪も報いもないまま死に行く。精神病者の無念の思いじゃ。聞いて聞こえぬ怨みの数々。聞いた心がクドキの文句じゃ。念仏代りの阿呆陀羅経だよ。無調法なる木魚に合わせて。チョット御機嫌伺いまする。げどう――さア――えエ――もオ――んンン。キチガイ――イ――地獄ウ。
――ヘイ。御退屈様――
◆葉書は左記へお出し下さい
地球表面は
狂人の一大解放治療場
去る三月初旬以来、九州帝国大学精神病科本館裏手に起工されて、その付属病院の工事と共に着々進《しん》捗《ちよく》しつつある「狂人解放治療場」は、過般来その内容が厳秘中であったが、右は同科新任教授正木博士が私費を投じて開設したものであることが判明した。右につき正木博士は同教授室において、往訪の記者に対しかく語った。
世間では今度、吾《わが》輩《はい》が九大で開始した「解放治療」を吾輩の独創だとか、斬新奇抜だとか言って騒いでいるようであるが、正直のところを言うとけっして吾輩の独創でもなければ、斬新奇抜な療法でもないのだ。すなわちこの地球表面上は、昔々の大昔の、歴史にも伝説にも残っていない以前から、狂人の一大解放治療場になっているので、太陽はその院長、空気はその看護婦、土はその賄係に見立てられ得るのだ。
……と言っても吾輩は別に奇矯な言辞を弄しているのではない。そうした事実を断言し得る相当の理由があるから言うので、何を隠そう吾輩の「精神病研究」の第一歩はこの「地球表面上が狂人の一大解放治療場になっている」という事実に立脚していると言ってもいいのだ。
それはなぜかと言うと、元来この地上に生み付けられている人間は、身分の高下、老若男女の区別を問わず、指一本でも自分の自由にならぬか、またはどこか足りないか、多過ぎるかした人間を発見すると、すぐに「片輪」という名前を付けて軽《けい》蔑《べつ》したり、気の毒がったり、特別扱いにしたりすることにきめている。同様に、頭のハタラキが本人の自由にならぬか、または、頭の働きのどこか足りないか、多過ぎるかした人間を見付けると、早速、精神病患者、すなわちキチガイの烙《やき》印《いん》を押し付けて差別待遇を与えることにきめているようである。禽獣、虫ケラ以下の軽蔑、虐待を加えてもいいものと考えているらしく考えられる。……が……しからばその精神病者を侮蔑し、冷笑しているいわゆる、普通の人間様たちの精神は、はたして、何もかも満足に備わっているであろうか。すべての人々の脳髄は、隅々までも本人の意志の命令通りに、自由自在に動いているのであろうか。
吾輩はあえて言う。公平、かつ厳正な学問の眼から見ると、けっしてそうは思えない。それは手足の曲ったのや、眼鼻の欠け落ちたのと同様に、外から肉眼で見わけることができないだけで、実際のところを言うと、この地球表面に生きとし生ける人間は、一人残らず精神的の片輪者ばかりと断言してさしつかえないのである。曲ったり、くねったり、大き過ぎたり、小さ過ぎたり、または知恵や情欲が多過ぎたり、足りなかったりする、いわゆる、精神的の片輪者ばかりで、押すな押すなの満員状態を呈していると考えても、断然間違いはないのである。
早い話がなくて七癖、あって四十八癖というではないか。みっともない、下らない習慣が、いくら他人に笑われても止まない。または出世の妨げになったり、他人に迷惑をかけたりするので、是非とも止める決心をして、神や仏に願をかけたり、新聞に広告までして誓いを立てても、悪い癖が止められないのは、取りも直さず自分の頭が、自分の自由にならないことを実地に証明しているのではないか。自分の頭の間違っているところを、自分の意志で直すことのできない、精神病的発作の根強いあらわれを見せているのではないか。
または泣くまいと思ってもツイ涙が出る。憤る場合でないと思ってもついムカムカッと来て前後を忘却したりするのは、やはり一時的の精神の偏《かたよ》りを、自分で持ち直すことができないという、アタマの弱点を暴露しているのではないか。
そのほか凝り性、厭《あ》き性、ムラ気、お日《ひ》和《より》機嫌、胴忘れ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、変態心理なぞの数をつくして、出会う人ごとに、知るも知らぬも、多少のキチガイ的傾向を帯びていない者はない。頭の働きの不《ふ》叶《かな》いなところを持っていない者はない。すなわち精神病者と五十歩百歩の人間でない者はいないのだ。
その証拠には、そんな連中のそうした弱点……すなわち頭の不叶いなところを指摘してやると、誰でもヒヤリと赤面するか、青すじを立てて弁明するか、腕まくりをして喰ってかかるかする。これはキチガイが自分自身をキチガイでないと主張するのと同じ心理で、まことにばかばかしい極みであるが、また人情のやむをえないところであろう。……しかもその人情のやむをえないところを、そのままにして放ったらかしておくと、そんな精神病的傾向が当り前のことのように思えて来る。いわんや当世流行の紳士待遇でも与えようものなら、イヨイヨ病癖が増長して、イヨイヨやむをえなくなって来る。そうしてトウトウ絶対に取り止めが出来なくなったのが、家庭悲劇や、犯罪事件となって社会に暴露する。軽いので社会的制裁、重いのになると法律の手にかかる。それでも反省できない、ブレーキの利かなくなったガタガタ自動車みたいな奴が、何々狂と名付けられて、精神病院に担ぎ込まれることになるのだ。
誤解しては困るが、何もそれが悪いと言うのじゃない。万物の霊長諸氏を侮辱する意味で言ったのでは毛頭ないが、しかし、そんな風に生まれ付いたり、習慣付けられたりしているいわゆる、紳士淑女連中が、自分のアタマと五十歩百歩の精神病患者を見るとヤタラに軽蔑したり、恐れたりする。自分だけは誰が何と言っても精神病的傾向をミジンも持たない、完全無欠なアタマの持主だと自《うぬ》惚《ぼ》れ切っているから、ツイ吾輩も冷やかしてみたくなるのだ。……そんな紳士淑女連中からアラユル残酷な差別待遇を受けている、罪も報いもない精神病患者を弁護してみたくなるのだ。
すなわち、いずれにしてもかように観察して来ると、普通人と狂人の区別がつけられないのは、刑務所の中にいる人間と、外を歩いている者との区別が付けられないのと同じことになって来るであろう。平ったく言えば赤い煉瓦に入る程度にまで露骨でない悪党と、キチガイとを一緒にしたものが、いわゆる、普通人……もしくは紳士淑女ということになるであろう。
もちろんこれは一種の暴言である。実に失礼とも無作法とも、何ともカンとも申上げようのない遺憾千万な言い草ではあるが、事実はどこまでも事実に相違ないのだから仕方がない。こうした観察点に立脚しなければ、精神に関する真《ほん》個《とう》の科学的研究がやって行けないのは、あたかも人間が一個の動物に過ぎないという見地に立脚しなければ、すべての医学の研究が遂げられないのと同じことなんだからやむをえない。もしまた、万が一にも「おればかりはキチガイじゃないんだぞ。絶対に完全無欠な精神を持っている人間なんだぞ」という自信を持っているお方があったら、イツ何時でも吾輩のところへおいで下さいだ。そのお方は当大学の研究患者として、官費で入院さして上げる。ちょうどその式の患者が、学生の講義に必要なところだからね……。
太陽は、これら無限の精神病患者の大群を、地上一面に生み付けて、永久に無言の解放治療を続けている。そうするとその禽獣、虫ケラ以下の半狂人である人類たちは、永い年月のうちに自然と自分たちがキチガイの大群集であることを自覚し始めて、宗教とか、道徳とか、法律とか、または赤い主義とか青い主義とかいう御丁寧なものを作って「お互いに無茶を止しましょう……変な真似をやめましょう」をやっている。だから吾輩もその小さな模型を作って、僭越ながら太陽氏になり代って「無薬の解放治療」を試みている。「人類全部がキチガイ」という観察点に立脚した、ホントウの科学的な精神病の研究治療を試みているのだ。
……ナニ……その解放治療場にはドンナ種類の精神病患者を収容するのか……それはまだわからないよ。いずれ吾輩の学説……新しい精神科学の学理実験材料としてさしつかえない患者を選み出して収容する予定にはなっているんだがね……。
……その学説はドンナ学説……吾輩が唱え出した精神科学の内容かね。そりゃあトテモ大変な質問だ。なかなか一朝一夕に説明し切れる訳のものじゃないよ。しかし要するに今日までの精神病の研究法を根本から引っくり返した行き方だということは断言しておいてもいいね。まず人間の脳髄の作用から研究し直して「脳髄は物を考えるところ」という従来の迷信的な学説をドン底から訂正する。それからその新しい「脳髄の作用」に反映して行く精神の遺伝作用を明らかにする。そこででき上った精神解剖学、精神生理学、精神病理学から観察診断した、最もわかり易い最も興味深い、精神病患者の標本ばかりを集めて、吾輩独特の精神的な暗示と刺激を応用した治療法を試みてみたいと思っているんだがね。ドンナ標本が集まるか……ドンナ騒動が始まるか、吾輩自身にも予断できないんだよ。ハハハ……。
但し念のためにお断りしておくが、その実験をやっている吾輩ばかりが、精神に異常のない、太平無事のデクノ坊だと誤診されては迷惑だよ。
あの太陽が、一旦、ギラギラと光り出して、地獄と名づくる精神病者の一大解放治療場の全面を焙《あぶ》りまわし始めたらナカナカ止めない。いい加減なところで醤油でも付けたら……と思ってもソンナ余裕なんか持たないらしく、どこまでもどこまでもピカピカジリジリと焙り廻し続けている。それと同様に一度狂人の研究を始めた吾輩は、それ以外のことが考えられなくなった。往来で小便をし始めたのと同様に、殿様がお通りになろうが、巡査がお見えになろうが、お手討ちも罰金も覚悟の前で、根の切れるまでシャアシャアやり続けている。
だから地上のほかの狂人は治《な》療《お》るとも、吾輩の精神異常だけは永遠に全快しないだろうと思う。これだけはたしかに保証できる。云々。
絶対探偵小説
脳髄は物を
考えるところに非ず
正木博士の学位論文内容
一記者
ナニ。吾《わが》輩《はい》の学位論文「脳髄論」の内容がナゼ学界に発表されないかッテ……アハハ。ばかにするな。物議を起すのを怖がって発表を差控えるような吾輩じゃないよ。実はチョット書き添えたいことがあるから、手許に引取っているまでのことさ。
その内容を話せって言うのか。ウン。そりゃあ話せないことはないさ。……しかし話したらすぐに新聞に書くだろう。実はこの前に吾輩が話した「地球表面上は狂人の一大解放治療場」云々の記事を、君の新聞に書かれたんで、少々弱らされたよ。自家広告の宣伝記事だというので、ダイブ方々でやかましかったらしいんだ。
ナアニ。吾輩は平気さ。何と言われたってビクともするんじゃないが、吾輩がすこし大きなことを言うと、ことなかれ主義の総長や、臆病者の学部長が青くなって心配するのが気の毒でね。鶴川君の「万有還金」の研究や、赤井君の「若返り手術」以来、九大には山師ばかりいるように誤解されているからね。ましていわんや今度の「脳髄論」の内容と来たら、前の解放治療の話に何層倍輪をかけた物騒なテーマを吹き立てているんだから……。
フン。書かないから話せというのか。新聞記者の書かない口上も久しいもんだが大丈夫かい。ウン……そんなら話そう。ところでドウダイ……葉巻を一本……上等のハバナだ。吾輩の気《き》焔《えん》の聞き賃兼新聞記事の差止め料だ。チット安いかね。ハハハハハ。きょうは吾輩閑散《ひま》だからね。少々メートルを上げるかも知れないよ。
……時に君は探偵小説を読むかい。ナニ読まない。読まなくちゃいかんね。近代文学の神経中枢とも見るべき探偵小説を読まない奴はモダンたあ言えないぜ。ナニ……読み飽きたんだ……ウハハハ。コイツは失敬失敬。さもなくとも君の商売は新聞記者だったっけね。アハハハハ。イヤ失敬失敬。
それじゃここに吾輩が秘蔵している、もっとも斬新奇抜な探偵事実談があるが、一つ拝聴してみないか。実はどこかの科学雑誌にでも投稿してやろうかと思って、腹案していたものなんだが、小手調べに君の批評を聞いてみてもいい。筋の複雑、微妙さと、解決の痛快皮肉さはおそらく前代未聞だろうと思うがね。むろん他に類例があったら、二度とお眼にかからないという、すこぶる非常的プレミヤム付きの……。
ナアニ。ごまかすんじゃないよ。今言う吾輩の脳髄論と大関係があるんだ。探偵小説というものは要するに脳髄のスポーツだからね。犯人の脳髄と、探偵の脳髄とが、秘術をつくして鬼ゴッコや鼬《いたち》ゴッコをやる。その間に生まれるいろいろな錯覚や、幻覚、倒錯観念の魅力でもって、読者のアタマを引っぱって行くのが、探偵小説の身上じゃないか。ねッ。そうだろう。
ところがだ。吾輩の探偵小説というのはソンナ有りふれた種類の筋書とは断然ダンチガイのシロモノなんだ。すなわち「脳髄ソノモノ」が「脳髄ソノモノ」を追っかけまわすという……宇宙間最高の絶対的科学探偵小説なんだ。しかもその絶対的科学探偵小説のドンドンのドンガラガンの種明かしをして、人類二十億の脳髄をアッと言わせるトリックそのものが、ソックリそのまま吾輩の「脳髄論」のテーマになっているんだからスゴイだろう。
ナニ。わからない。ハハハハハ。わからないはずだ。まだ何も話していないんだからね。ハッハッ。
ああいいともいいとも。速記に取ったってかまわないよ。吾輩が「脳髄論」を学位論文として正式に発表する時まで、新聞に掲載するのを待っていてくれさえすればいいのだ。何ならアトで吾輩が筆を入れてやってもいい。談話として発表するよりも吾輩の創作として発表する方が都合はよくはないか……。
もっとも前もって断っておくが、この探偵事実談を聞いても、わかるかわからないかは保証の限りでないよ。何しろ脳髄が脳髄を追っかけまわすという、絶対、最高度の探偵小説なんだからね。解決が最初からりっぱについていながら、読者には絶対にわからない。ただむやみやたらに奇抜突飛な、幻覚、錯覚、倒錯観念の渦巻きの、ゴチャゴチャだけしか感じられない……かも知れないというのが、トップのトップを切った脳髄小説のミソなんだからね。ハハハハハハハ。
ところでだ……まず劈《へき》頭《とう》第一に一つの難解を極めた謎《なぞ》々《なぞ》をタタキ付けて、読者のアタマをガアンと一つ面喰らわせてしまうのが、探偵小説の紋切型だろう。しかもその「人間の脳髄」を極度に面喰らわせ得る謎というのは、取りも直さず「脳髄」そのものに関するソレでなくてはならぬことが必然的に考えられて来るだろう。
果然と!!……一つ脅かしておくかね。ハハハハハ。何を隠そうその「脳髄」こそは現代の科学界における最大、最高の残虐、横道を極めた「謎の御本尊」なんだ。人体の各器官の中でもタッタ一つ正体のわからない、巨大な蛋《たん》白《ぱく》質《しつ》製《せい》のスフィンクスなんだ。地上二十億の頭蓋骨を朝から晩までガンガン言わせ続けている怪物そのものにほかならないのだ。
人間の脳髄と称する怪物は、身体の中でも一番高いところに鎮座して、人間全身の各器官を奴《ぬ》僕《ぼく》のごとく追い使いつつ、最上等の血液と、最高等の栄養分をフンダンに搾取している。脳髄の命ずるところ行なわれざるなく、脳髄の欲するところ求められざるなし。何のことはない、脳髄のために人間が存在しているのか、人間のために脳髄が設けられているのか、イクラ考えても見当が付かないという……それほどさように徹底した専制ぶりを発揮している人体各器官の御本尊、人類文化の独裁君主がこの脳髄様々にほかならないのだ。
ところが、それはそれとしてここに一つ不思議なことがあるのだ。
それは他《ほ》事《か》でもない。その脳髄と自称する蛋白質の固形物《かたまり》自身が、古往今来、人体の中でドンナ役割をつとめているのか、何の役に立っているものか……という事実を、厳正なる科学的の研究にかけて調べてみると、トドのつまり「わからない」という一点に帰着することだ。逆に言うと、この脳髄と名付くる怪物は、古今東西の学者たちの脳髄自身に、脳髄ソレ自身のホントウの機能をミジンも感付かせていないことだ。……のみならず……その脳髄自身は、ソレ自身がトテモ一キロや二キロの物質の一塊とは思えないほどの超科学的な怪能力、神秘力、魔力を上下八方に放射して、そうした科学者たちの脳髄ソノモノに対する科学的の推理研究を、片端からメチャメチャに引《ひつ》掻《か》きまわしている。モット手短かに言うと「脳髄が、脳髄ソレ自身の機能を、脳髄ソレ自身にわからせないようにわからせないように努力している」とでも形容しようか。したがってその脳髄は、脳髄ソレ自身によって作り出された現代の人類文化の中心を、しだいしだいにノンセンス化させ、各方面にわたって末梢神経化させ、頽《たい》廃《はい》させ、堕落させ、迷乱化させ、悶《もん》絶《ぜつ》化《か》させつつ、何喰わぬ顔をして頭蓋骨の空洞の中にトグロを巻いているという、悪魔ソレ自身が脳髄ソレ自身になって来るという一事だ。
むろんこれは吾輩一流の法《ほ》螺《ら》やヨタじゃない。吾輩の専門の名誉にかけて断言するのだから……。
エッ……脳髄は物を考えるところだ……というのかい。
そうだよ。みんなそう思っているんだよ。現代一流の科学者はもちろんのこと、全世界のありとあらゆる種類、階級の人々は、プロとブルとを押しなべて皆、脳髄で物を考えているつもりで生きているんだ。ラジオも、飛行機も、相対性原理も、ジャズも、安全剃《かみ》刀《そり》も、赤い理論も、毒ガスも何もかも、この一二〇〇グラム以上、一九〇〇グラム以下の蛋白質のカタマリから生み出されたものと確信し切っているのだ。
なるほど、人間の屍体を解剖して、脳髄なるものを覗いてみると、そうした考え方は万々間違いないようにみえる。大脳、小脳、延髄、松果腺なんどと、無量無辺に重なり合っている。奇妙キテレツな恰好をした細胞が、やはり、奇想天外式に変形した神経細胞の突起によって、全身三十兆の細胞の隅から隅までつながり合っている。その連絡系統を研究して行くと結局、人体各部を綜合する細胞の全体が脳髄を中心にして周到、緻密、かつ整然たる糸を引合った形になっているのだ。だから人間一切の行動を支配する精神、もしくは生命意識なるものは、脳髄の中に立て籠《こ》もっているのじゃないかしらんと考えられる。少なくとも「脳髄は物を考えるところ」と考えてさしつかえないように考えられるのだ。
こうした考え方は現在ではもう人類全般の動かすべからざる信念……もしくは常識となってしまっているのだ。この「脳髄が物を考えるところ」という事実について今更めかしく疑いを起すものは、ドコを探しても一人もいないことになっているのだ。現代の燦《さん》然《ぜん》たる文化文物は針一本、紙一枚に到るまでも、一つ残らずこうした「物を考える脳髄」によって考え出されたものである……と演説しても「ノーノー」を叫ぶ者は一人もいないくらいにアタマ万能主義の世の中になってしまっているのだ。
……しかるにだ……ここで吾輩の脳髄探偵小説は、こうした世界的の大勢を横眼に白《に》眼《ら》んだ一人の青年名探偵兼古今未《み》曾《ぞ》有《う》式超特急の脳髄学大博士を飛び出させているのだ。脳髄に関する従来の汎世界的迷信を一挙に根底から覆滅させて、この大悪魔「脳髄」の怪作用……ノンセンスの行き止まり……アンポンタンの底抜けとも形容すべき簡単、明瞭な錯覚作用の真相を、煌《こう》々《こう》たる科学の光明下に曝《さら》け出し、読者の頭をグヮーンと一撃……ホームランにまでかっ飛ばさせている……という筋書なんだが、ドウダイ……読者に受けるか受けないか……。
ナニ。まだわからない……もうすこし聞いてみなければ……。
何だって……空想小説じゃないかって。……けしからん……。だから一番最初に「科学探偵事実小説」と断っているじゃないか。空想なんてものをコレンバカリも取入れたら、全篇の興味がゼロになってしまうじゃないか。むろんそうだとも……初めから一分一厘ノンセンスものじゃないんだから安心して聞き給え。そんな甘物じゃないことが、そのうちにわかって来るんだよ。いいかい……。
ところでその青年名探偵兼脳髄学の大博士は、吾輩が仮にアンポンタン・ポカン君と名付けている二十歳ばかりの美青年なんだ。いいかい……むろん実在の人物なんだよ。しかもその美青年は古今無双のいい頭を持っているにもかかわらず、非常に危険な遺伝的精神病の発作にかかったので、ここの大学に入学すると間もなく、この教室の付属病院に収容することになった。
……ナアニ……ヨタじゃないったら……恐ろしく疑い深い読者だね君は……虚《う》構《そ》だと思うならイツ何時でも本人に紹介してやるよ。スグこの向うの七号室にいるのだから訳はない。「オイ。ポカン君……」と呼ぶと、ビックリしたように振り返る横顔がタマラなく可愛いよ。
ところでこのシークボーイ……アンポンタン・ポカン君は、その遺伝発作を起して人事不省に陥ったあとで、ヤット正気を取返すと間もなく、自分の生まれ故郷や両親の名前はもちろんのこと、自分自身の名前までもキレイに忘れてしまっていることを、自分自身に気が付いた。そこで取りあえず吾輩からアンポンタン・ポカン博士の名誉ある称号を頂戴している訳だが、ポカン博士自身も元来のアタマが良いだけに、このことが非常に気になるらしく、毎日毎日夜も昼もブッ通しに、病室の中の人造石の床を歩き廻って、自分の脳髄のことばかり考えているらしいのだ。……「わからない、わからない。いったい僕の脳髄は今まで何をしていたのだろう……何を考えていたのだろう」とかまたは「僕の脳髄が僕の全身を支配しているのか……それとも僕の全身が僕の脳髄を支配しているのか……わからない、わからない」……といったようなことを口走っては、蓬《ほう》々《ほう》と伸びた自分の頭の毛を掻《か》きまわしたり、拳《げん》固《こ》でコツンコツンと後頭部をなぐりつけたりしいしい、一分間も休まずに、部屋の中をグルグルと歩きまわっているのだ。
ところが、そのうちにソンナ発作がダンダンと高潮して来るとポカン博士は、やがて部屋のマン中の人造石の床の上に立止まって、不思議そうにキョロキョロとそこいらを見まわし始める。そうして自分の蓬々たる頭の毛の中から、何かしら眼に見えないものをつかみ出して、床の上に力一パイ叩きつける真似をする。それからその床の上にタタキ付けたものを指して、脳髄に関する演説を滔《とう》々《とう》と、身振《ゼスチユア》まじりに始めるのであるが、そのうちに自分の演説に感激して、興奮の絶頂《クライマツクス》に達して来ると、ツイ今しがた自分の頭の中からつかみ出して床の上にタタキ付けた眼に見えないあるものを、片足を揚げて一気に踏みつぶす真似をすると同時に、ウーンと眼をまわして床の上に引っくり返ってしまう。そうして約三、四十時間も前後不覚の状態に陥って、昏《こん》々《こん》と眠り続けると、またもや、アンポンタン・ポカン然として眼《め》球《だま》をコスリコスリ起き上るのだ。そうして前の通りに「わからない、わからない」を繰り返しながら、部屋の中をグルグルと歩きまわる。そのうちにまたも、頭の中から眼に見えないものを取り出して足下の床の上にタタキつける。前後左右を見まわして、拳固を振り上げながら脳髄の演説を開始する。そうして何だかわからないものを床の上で踏みつぶしては、ウーンと言って引っくり返る……というのが、この青年名探偵アンポンタン氏の日課になっているのだ。
……ところで面白いのはこのポカン博士の演説なんだ。
ポカン博士が演説をする時は、何でもどこかの往来の烈しい、電車の交差点か何かで、繁華な人ゴミの中に立ち止まっているつもりらしい。交通巡査みたいに大手を拡げて、前後左右の群集を睨みまわす恰好をすると、イキナリ拳固を空中に舞わしながら、金切声を振り絞り始めるのだ。
「……止まれッ……。
……止まれッ……」
電車も、自動車も、オートバイも、バスも、トラックも、人力車も皆止まれッ……。紳士も、淑女も、モガも、モボも、サラリーマンも職業婦人も、ブルもプロも、掏《す》摸《り》も、巡査も動いてはいけない。
……諸君はタッタ今、非常な危険と直面しているのだ。
……諸君は現在タッタ今、脳髄で物を考えつつ歩いているだろう。……その脳髄の判断力でもって交通巡査のゴー・ストップを聞き分け、旗振りの青と赤を見分け、飾《シヨー》窓《ウインド》の最新流行を批判し、ポスターに新人の出現を知り、夕刊記事の貼《はり》出《だ》しに話《トピ》題《ツク》を発見し、掏摸を警戒し、債権者を避け、イットの芳香を追跡しつつ……イヤが上にもその脳髄の感触を高潮させつつ、文化人のプライドをステップしている……つもりでいるだろう。
……それが危険だというのだ。それが非常だと警告するのだ。……脳髄の非常時……。
……見よ。聞け。驚け。呆れよ……。
……現代二十億の人類はことごとく、諸君と同様の阿呆である。郵便局に自分の引越し先を尋ねに行く頓《とん》馬《ま》である。電話口でこちらの番号を怒鳴る慌て者である。「脳髄」を「物を考えるところ」と錯覚している低能児である。
そうして、そんなトンチンカンな幻覚錯覚を得意然と肩の上に乗っけて、その錯覚のタッタ一つを唯一無上のタヨリにしつつ「アタマは最上の、最後の資本」「現代はアタマのスピード時代」という倒錯観念の競争場裡に、かくもおびただしい電車、自動車、オートバイを飛ばせて、夜を日に継いで、人類文化をゴチャゴチャの悶絶界に追い込みつつある、諸君自身の脳髄である。
とてもケンノンで見ていられないではないか。
……見よ。聞け。驚け。呆れよ……。
アンポンタン・ポカンのスローガンだ。
人類文化の罵《ば》倒《とう》だ。
脳髄文明の覆滅だ。
唯物的科学思想の建てかえ建て直しだ。
ポカンは宣言する。
……「物を考える脳髄」はにんげんの最大の敵である。……宇宙間、最大最高級の悪魔中の悪魔である。……天地開《かい》闢《びやく》の初め、イーブに知恵の果《このみ》を喰わせたサタンの蛇が、更に、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた……それが「物を考える脳髄」の前身である……と……。
……眼を開け……。
……この戦慄すべき脳髄の悪魔振りを正視せよ。
……そうして脳髄に関する一切の迷信、妄《もう》信《しん》を清算せよ。
人間の脳髄は自ら誇称している。
「脳髄は物を考えるところである」
「脳髄は科学文明の造物主である」
「脳髄は現実世界における全知全能の神である」
……と……。
脳髄はこうして宇宙間最大最高級の権威を僭《せん》称《しよう》しつつ、人体の最高所に鎮座して、全身の各器官を奴僕のごとく駆使している。最上等の血液と、最高等の栄養物を全身から搾取しつつ王者の傲《おご》りを極めている。そうして脳髄自身の権威を、どこまでもどこまでも高めて行く一方に、その脳髄の権威を迷信している人類を、日に日に、一歩一歩と堕落の淵《ふち》に沈《ちん》淪《りん》させている。
その「脳髄の罪悪史」のモノスゴサを見よ。
吾輩……アンポンタン・ポカンは、アラユル方向から世界歴史を研究した結果、左のごとき断定を下すことを得た。
曰く……脳髄の罪悪史は左の五項に尽きている……と……。
「人間を神様以上のものと自惚れさせた」
これが脳髄の罪悪史の第一ページであった。
「人間を大自然に反抗させた」
これが、その第二ページであった。
「人類を禽獣の世界に逐《お》い返した」
というのがその第三ページであった。
「人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い廻らせた」
というのがその第四ページであった。
「人類を自滅の斜《スロ》面《ープ》へ逐い落した」
それでおしまいであった。
事実は何よりも雄弁である。
医学の歴史を繙《ひもと》けばわかる……。
人間の脳髄というものを、初めて人間の屍体の中に発見したのは西洋医学中興の祖と呼ばれている大科学者ヘポメニアス氏であった。
ところがその近代科学の泰《たい》斗《と》ヘポメニアス氏の偉大なる脳髄は、すこぶる大胆巧妙を極めたトリックを使って、自分が発見した死人の脳髄の機能を、絶対の秘密裡に封じてしまったものである。
すなわちヘポメニアス氏の脳髄は「おれの正体がわかるものか」と言わんばかりに、灰白色《はいいろ》の渦巻きをヌタクラせている「死人の脳髄」と、ヘポメニアス氏自身の毛髪蓬々たる頭蓋骨の中の「生きた脳髄」とを睨み合わせて、あらゆる推理の真剣勝負を開始させたのだ。
……ハテ。これは一体、何の役に立つものであろう。造化の神は何のために、コンナ灰白色の蛇のトグロ巻みたようなものを、頭蓋骨の屋根裏に納めてござるのだろう……
という難問に引っかけて、ヘポメニアス氏の頭を幾日幾夜となく悩まし苦しめたのだ。
……ハアテ……この蛋白質の団《かた》塊《まり》は、涙と鼻汁の製造場のようにも見えるし、いわゆる、章《た》魚《こ》の糞に類似した物のようにも思える。人間と名付くる建築物の屋根裏にあるところを見ると、貴重な滋養分の貯蔵タンクではないかとも思えるし、小腸とおんなじような曲線でヌタクッテいるところから想像すると、何かの消化器官のようにも考えられる。……ハテ。何だろう……わからないわからない……
といった風にさんざんに首をひねらせ、苦心惨憺させ、昏《こん》迷《めい》疲労させた。そうしてトウトウ何が何だかわからなくしてしまったあげく、ヘポメニアス氏の頭蓋骨の内側を、シンシンと痛み出させたのであった。
偉大なる天才科学者ヘポメニアス氏はここにおいて、トウトウ物の美事に、自分の脳髄のトリックに引っかかってしまったのであった。そうして机を叩いて躍り上がったのであった。
「……わかったッ……脳髄は物を考えるところだッ。その脳髄を使い過ぎたためにコンナに頭が痛み出して来たんだッ……」
……と……。
そこでその科学者は直ちにメスを執って、その脳髄を取り出した屍体の全部を十万分の一ミリメートルの薄さに切り刻んだ。そうして人体の各器官を形成する三十兆の細胞群が、隅から隅まで一粒残らず、脳髄を中心とした神経細胞の糸を引き合っている事実を確かめるや否や、死人の脳髄を両手に捧げて、一気に往来へ飛び出した。
「……わかったぞッ。わかったぞッ。何もかもわかったぞッ……」
生命の本源を神様の摂理だなぞというのは嘘だ。神様は人間の脳髄が考え出したものに過ぎないのだ。
……この脳髄を見よ……。
生命の本源はこの千二百グラム、ないし、千九百グラムの蛋白質の塊の中に宿っているのだ。われわれの精神意識というものは、この蛋白質の分解作用によって生み出された、一種の化学的エネルギーの刺激にほかならないのだ。
……すべては脳髄の思召しなのだ……。
科学の発見した脳髄こそ、現実世界における全知全能の神様なのだ。
……と……。
当時のキリスト教の迷信と僧《そう》侶《りよ》の堕落腐敗に飽き果てていた尖端人種は、これを聞くや否や大《だい》喝《かつ》采《さい》裡《り》に共鳴した。われもわれもと、ヘポメニアス氏の迷説を丸呑みにした。「脳髄は物を考えるところ」という錯覚を、プレミヤム付きで迷信してしまった。
「そうだそうだ。この世界には神様なんか存在しないんだ。すべては物質の作用にほかならないんだ。われわれはわれわれの頭蓋骨の中にある蛋白質の化学作用でもって、新しい唯物文化を創造していくんだぞッ……」
……と……。
かくして物の美事に人間世界から神様を抹《ノツク》消《アウト》した「物を考える脳髄」は、引続いて人間を大自然界に反逆させた。そうして人間のための唯物文化を創造し始めた。
脳髄はまず人間のためにアラユル武器を考え出して殺し合いを容易にしてやった。
あらゆる医術を開拓して自然の健康法に反逆させ、病人を殖やし、産児制限を自由自在にしてやった。
あらゆる器械を走らせて世界を狭くしてやった。
あらゆる光を工夫し出して、太陽と、月と、星を駆逐してやった。
そうして自然の児である人間を片っ端から、鉄と石の理詰めの家に潜り込ませた。ガスと電気の中に呼吸させて動脈を硬化させた。鉛と土で化粧させて器《ロ》械《ボ》人《ツ》形《ト》と遊戯させた。
そうしてアルコールと、ニコチンと、阿片と、消化剤と、強心剤と、催眠薬と、媚《び》薬《やく》と、貞操消毒剤と、毒薬の使い方を教えて、そんなもののゴチャゴチャが生み出す不自然の倒錯美をホントウの人類文化と思い込ませた。……不自然なしには一日も生存できないように、人類を習慣づけてしまった。
……そればかりでない……。
人間世界から「神様」をタタキ出し、次いで「自然」を駆逐し去った「物を考える脳髄」は、同時に人類の増殖と、進化向上と、慰安幸福とを約束する一切の自然な心理のあらわれを、人間世界から奪い去った。すなわち父母の愛、同胞の愛、恋愛、貞操、信義、羞恥、義理、人情、誠意、良心なぞの一切合財を「唯物科学的に見て不合理である。だから不自然である」という錯覚の下に否定させて、物質と野獣的本能ばかりの個人主義の世界を現出させた。そうして人類文化を日に日に無中心化させ自《じ》涜《とく》化《か》させ、神経衰弱化させ、精神異常化させて、ついに全人類を精神的に自滅、自殺化させた虚無世界の十字街頭に、赤い灯、青い灯を慕うノンセンスの幽霊ばかりを彷迷《さまよ》わせるようになってしまった。
「物を考える脳髄」は、かくして知らず識らずのうちに、人類を滅亡させようとしているのだ。
その脳髄文化の冷血、残酷さを見よ。
これが放任しておかれようか。
そればかりじゃない……。
「物を考える脳髄」は、かくして人間の一人一人を、錯覚の虚無世界に葬り去るべく害悪を逞《たくま》しくする一方に、人類全体のアタマを特別念入りの手品にかけて、木ッ葉ミジンに翻弄しつくしているのだ。
そうして同時に吾輩……アンポンタン・ポカンの探偵眼を徹底的に眩ますべく試みているのだ。
……見よ……。
……「脳髄のトリック」に翻弄されつつある「脳髄の悲喜劇」が、いかにおびただしく諸君の鼻の先に転がりまわっているかを見よ。「脳髄のノンセンス劇」がいかに真剣に、全世界を舞台として展開されつつあるかを看取せよ。
……看よ……。
「物を考える脳髄」はこの通り人類世界の文化に君臨している。……宇宙万有の秘奥に到るまで、考え得ざるものなし……と誇称しつつ、科学文化のドン底までも支配し指導しつつある。
……ところがドウダ……。
その「アラユル物を考え得る脳髄」が、自分自身に考え出した学理学説と、その学理学説によって生み出した唯物文化の産物を、地球表面上、眼も遥かに、気の遠くなるほどギラギラピカピカと積上げ、並べ立てているそのマッタダ中に、タッタ一ツ、カンジンカナメの「脳髄自身」に関する科学的の研究ばっかりを、疑問のまっ暗がりの中にホッタラかしているのはドウシタことか。宇宙万有の神秘をドン底までも考えつくして来ている脳髄が、脳髄自身のことだけをタッタ一つ考え残しているのはドウシタ訳か。……今日までの科学者の学説、論文の中に、脳髄の作用を的確に説明し得た文献がただの一篇もないのは何という不思議な現象であろう。
のみならず諸君……もしくは諸君の脳髄の代表者たる全世界の科学者たちの脳髄が、きょうが今日までこの矛盾、不可思議に気付かないでいたのは、何という迂《う》闊《かつ》さであろう。
……見よ……人間の脳髄は、人間の肉体に関する研究をドコドコまでも行き届かせている。解剖、生理、病理、遺伝と、あらゆる方面に手を分けて、微に入り、細にわたらせているではないか。病気の治療も同様に、内科、外科、耳鼻科、皮膚科、眼科、歯科と数を悉《つ》くして研究を競わせているではないか。
しかもそのマッタダ中に、そんな研究を編み出した脳髄と、その脳髄に関する病気の研究ばかりを大昔のマンマの「盲目探りの状態」に放置しているのは、何という間の抜けた片手落ちか……精神病の研究のために是非とも必要な精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞという研究科目を、世界中のドコの大学にも分科させないで、いわゆる、脳病とか、精神病とかの治療に、あらゆる医者の匙《さじ》を投げさせてしまっているのは、何という脳髄の不行届であろう。……「人間の生命、もしくは生命意識はドコにドウして宿っているのか」「幻覚はドウして見えるのか」「早発性痴呆とはドコがドウなったことを言うのか」……といったような、誰でも不思議がる「脳髄」関係の重要問題を、これほどに賢明な人間の脳髄が、片っ端から不得要領の大《おお》欠伸《あくび》の中に葬り去っているのはソモソモ何という大きな無調法であろう。
占《うら》筮《ない》者《しや》が自分の運命を占い得ないのと同様に、脳髄が脳髄のことを考え得ないのは、当り前のこととして誰も怪しまなくなってしまっている。
これが脳髄の悲喜劇でなくて何であろう。
脳髄に翻弄されつつある脳髄たちの大ノンセンス劇でなくて何であろう。
モット手近い、痛切なところでは俗にいわゆる「泣き中気」とか「笑い中気」とかいうのがある。これは腹が立とうが、ビックリしようが、何でもカンでも感情が動きさえすればおなじこと……泣くか、笑うかの一本槍で、ほかの感情の一切を外へあらわし得ない病気であるが、この病気の説明を脳髄はヤハリ「脳髄が物を考える」式で押し通して行くべく、全世界の科学者に厳命している。だからこの厳命を奉体した世界中の科学者たちは、こうした中風の症状を「これは脳髄の全体が、出血のために痺《しび》れてしまっているのだ。そうしてその中で『泣く』とか『笑う』とかいうタッタ一つの感情を動かす部分だけが生き残って活動しているのだ。だからその人間に起るすべての感情はその『泣く』か『笑う』かの一か所の神経細胞の活動によって、表現されるよりほかに行き道がなくなっているのだ。……脳髄は物を考えるところ……という前提を前提とする以上、ドウしてもそれ以外に説明のしようがないのだ」としか説明ができなくなっているではないか。
ところがあいにくなことに、そうした中風患者の脳髄を病理解剖に付した結果を見ると、いつもあに計らんやの正反対になっている。脳出血でやられているのは、脳髄の全体ではない。僅かに脳髄の中のある小さな、狭い、一か所だけに限られている場合が極めて多いのだから、皮肉ではないか。泣きも笑いもできない脳髄のイタズラ劇にしかなり得ないから悲惨ではないか。
モット皮肉で奇抜な例には夢中遊行というのがある。この病気はむろんアタマ万能宗の科学者たちには寄っても付けない不可解病として諦《あきら》められ、敬遠されているのであるが、しかもその上に、そのフラフラの夢中遊行患者は、そんな科学者たちのアタマをイヨイヨばかにすべく、いろいろな奇跡を演出することがあるのだ……たとえばこの種の患者は、その夢中遊行の発作に罹《かか》っていた最中に限って、トテモその人間のアタマとは思えない素晴らしい知恵や技巧を現わして、人間業ではできそうにないスゴイ仕事をやってのけたりする。……のみならずその人間が翌る朝眼を醒ますと、いつの間にやら元の木《もく》阿《あ》弥《み》のケロリン漢に立ち返って、そんなすてきな記憶の数々を、ミジンも脳髄に残していないというような摩《ま》訶《か》不思議をあらわす。そうして「脳髄は物を考えるところ」とか「感ずるところ」とか「記憶するところ」とかいう迷信を迷信しているその方面の専門家連中の脳髄の判断力を一つ残さず、絶対、永久のフン詰まり状態にフン詰まらせている。
「トテモ人間の脳髄では考えられない」
なぞと悲鳴を揚げさせているからモノスゴイではないか。
ヤリキレナイ脳髄の恐怖劇ではないか。
しかも唯物宗の牧師、科学万能教の宣教師をもって自ら任じている科学者のすべては、それでもまだ懲《こ》りないで、脳髄の絶対礼讃を高唱している。
「脳髄の大きさはその持ち主の進化程度をあらわし、その渦紋の多寡はその文化程度を示している。すなわち人類は、その大きな、発達した脳髄のために存在しているので、その脳髄はまた、物を考えるために存在しているのだ。だから脳髄は文化の神、科学世界の造物主、唯物宗の守り本尊である」
とか何とかいう迷説を聖書以上に尊重して、一所懸命に自己の脳髄の権威を擁護しているが、しかも、そんな科学者たちの顕微鏡の下で、脳髄どころか、頭も尻もない下等動物の連中が、暑い寒いを正確に判断したり、喰い物の選り好みをするのはまだしも、人間の脳髄なんぞが寄っても付けない鋭敏な天気予報までも、ハッキリと現わして見せるから痛快ではないか。おまけにソンナ下等動物は、口にこそ言わね、メイメイに身ぶり素振りで、
「脳髄はなくとも物は考えられますよ」
「私たちは全身が脳髄なのですよ」
「私たちは脳髄の全体をソックリそのまま変形して、手足にしたり、胴体にしたり、または耳、眼、口、鼻、消化排泄、生殖器官なんどのいろいろに使いわけているのですよ」
「あなた方は、そんな作用を分業にして、別々の器官に受持たせておられるだけのことですよ」
「あなた方の手足だってチャント物を考えているのですよ」
「お尻でも見たり聞いたりしているのですよ」
「股《もも》を抓《つね》れば股だけが痛いのですよ」
「蚤《のみ》が喰えばそこだけが痒《かゆ》いのですよ」
「脳髄は痛くも痒くも何ともないのですよ」
「まだおわかりになりませんか」
「アハハハハハハハハ」
「オホホホホホホホホホ」
「イヒヒヒヒヒヒヒ」
と笑い転げているからベラボーではないか。
これが脳髄の諷刺劇でなくて何であろう。
これが脳髄のトリック芝居でなくて何であろう。
それかあらぬか一方には、この唯物文化のまっただ中に、精神や霊魂関係の、怪奇劇や神秘劇が大昔のまんまに現われて来る。しかも、モウたくさんというくらいに、後から後から現われて来て、一々人間のアタマを冷笑して行くから愉快ではないか。
唯物資本主義の黄金時代、科学文化で打ち固めた大都会のマッタダ中で、死んだ人間が電話をかけたり、知らない人間が一緒に写真に映ったりする。または宝石が美人の寿命を吸い減らしたり、魔の踏切が汽車を脅やかしたりするはまだしも、大《だい》奈《な》翁《おう》の幽霊がアメロンゲン城の壁を撫でて、老カイゼルに嘆息して聞かせたり、ツタンカーメン王の木《ミ》乃《イ》伊《ラ》がエジプト探検家に祟ったりする。現に科学的推理の天才的巨人、指紋、足跡、煙草の灰式、唯物式探偵法の創始者シャーロック・ホルムズさえも、晩年に到ってはトウトウこの種の怪現象に引きずり込まれて、心霊学の研究に夢中になったまま息を引取った……のみならず、あの世からイーサーの波動を用いない音波をもって、生き残った妻子に話しかけた……というくらいである。みんな不思議だ不思議だと言うが、そんな事実があり得るとか、あり得ないとか断言し得る者は一人もいない。あっても終《しま》いには水掛論になってしまうので、結局、お互いの脳髄を怪しみ合いつつ物別れになることが、最初からわかりきっている。そうして、ああでもない、コウでもだめだと、あらゆる推理や想像をこねくりまわしたあげく、トウトウ悲鳴をあげ始めて「脳髄が、脳髄のことを考えるとはコレいかに」なぞと、場末の寄《よ》席《せ》みたようなコンニャク問答の鉢《はち》合《あわ》せを繰り返している現状ではないか。
ドウダ諸君……ザットしたところがコンナ調子である。
「人間の脳髄」が何よりも先に研究を遂げておかねばならぬ「人間の脳髄の病理」……精神病学の基礎、中心となるべき重要な諸問題は、御覧の通り「物を考える脳髄」のために、片っ端からフン詰まりの状態を現出させられているではないか。地上一切の精神病学者と、一切の精神病院の診断治療を、無能、無意義の嘲笑の中に立往生させているではないか。そうして、地上無数の精神病者を、永久、絶対に救われ得ない、侮蔑虐待の世界に物置させているではないか。この世からなるキチガイ地獄を、全地球表面上に現出させているではないか。
これが偉大なる「脳髄のイタズラ劇」でなくて何であろう。「物を考える脳髄」が「物を考える脳髄」に自作自演さした一大恐怖ノンセンス劇のドン詰めでなくて何であろう。
拍手するものは拍手せよ。
喝采するものは喝采せよ。
泣くものは泣け。笑う者は笑え。
吾輩……アンポンタン・ポカンはこの脳髄文化の現状に気が付くと同時に、歯の根が合わなくなったのだ。この恐怖戦慄に価する脳髄社会の光景を、人知れず嘲笑しているポカン自身の脳髄の冷たさを自覚すると同時に、左右の膝《ひざ》頭《がしら》の骨がガタガタと外れそうになったのだ。この脳髄のトリックをタタキ破って、脳髄に対する汎世界的の唯物科学的迷信をドン底から引っくり返してかくも残忍、悽《せい》愴《そう》を極めた大恐怖ノンセンス劇の興行を停止させずにはおられなくなったのだ。
吾輩……アンポンタン・ポカンはここにおいて立ち上った。奮然として腕によりをかけた。猛然、畢《ひつ》生《せい》の心血を傾注した最高等の探偵術を応用しつつ、無限の時空にわたって捜索の歩を進めた結果、ついにこの脳髄と称する大悪魔の正体……「呪われたる唯物文化の偶像」の正体を徹底的に看破することができたのだ。全人類の大悪夢……「物を考える脳髄」に関する迷信、妄《もう》執《しゆう》を喚び醒ますべく「絶対無上の大真理」に逢着することができたのだ。
……しかも……その大真理なるものは、それが余りに簡単で、平凡であり過ぎるために、かえって誰にも気付かれなかったほどの驚異的な大真理であった。初めて脳髄が発見されて以来、ベーコン、ロック、ダーウィン、スペンサー、ベルグソンなんどに到るまでのアラユル非凡な脳髄たちが、彼ら自身に認識し得なかったところの「脳髄の真活躍」そのものでなければならなかった。地上二十億の生霊を弄《ろう》殺《さつ》しつつある「脳髄の大悪呪文」を焼き棄てる一本のマッチ棒にほかならなかったのだ。
諸君よ。欣《きん》喜《き》雀《じやく》躍《やく》せよ。勇敢に飛び上り、逆立ち、宙返りせよ。フォックストロット、ジダンダ、ステップせよ。
交通巡査も安全地帯も蹴飛ばしてしまえ。
古来今にわたる脳髄の専制横暴……人類最後の迷信から解放された凱《がい》歌《か》を歌え。
吾輩……アンポンタン・ポカンはついにかくのごとくにして、地上の大悪魔を諸君の眼前にまで追究して来たのだ。神出鬼没、変幻自在の怪犯人、残忍非道のイタズラ者のトリックの真相をドン底まで突き止めて来たのだ。そうしてタッタ今、その大悪魔の正体……ポカン自身の脳髄を、諸君の眼の前にタタキつけて、絶叫する光栄を有するのだ。……曰く……
……脳髄は物を考えるところに非《あら》ず……
……と……。
*
アッハッハッハッハッハッ。どうだい。痛快だろう。超特急だろう。絶対的ブラボーだろう。全世界二十億の脳髄をダアとなすに足る、超特急探偵小説だろう。
……ナニイ。まだわからない……?……。
アハアハアハ。それは脳髄で考える癖がまだ抜け切れないからだよ。「精神は物質也」式の唯物科学的迷信が、まだ頭の隅のドコかにコビリついているせいだよ。
聞き給え。わが青年名探偵アンポンタン・ポカン博士は、タッタ今地上にタタキつけたばかりの泥ダラケの脳髄を指して、コンナ論証を続けているのだ。
*
「……見よ……聞け……驚け……呆れよ」
この脳髄のトリックの真相を……悪魔以上の悪魔の横道ぶりを……。
われわれ人類は、脳髄を発見した最初の科学者ヘポメニアス以来、この「物を考える脳髄」のために翻弄され続けて来たのだ。明けても暮れてもこの脳髄の前に、自分のアタマを拝《はい》跪《き》させられるべく……自分の肉体と精神の全部を挙げて奉仕させられるべく、錯覚させられ続けて来たのだ。そうしてかくいうアンポンタン・ポカン自身の頭も、そうした頭の中の一個であったのだ。
……しかし……いまやその錯覚は打ち破られなければならぬ時が来たのだ。脳髄を発見した最初の科学者ヘポメニアス氏の錯覚が清算されねばならぬ機会が来たのだ。ポカンの足下に横たわるポカンの脳髄と同様に、泥まみれになってしまわねばならぬ時期が来たのだ。
……ポカンはこの十字街頭において、地上最初の宣言を高唱する。すなわち最尖端の学術……最末期の科学的宗教……アンポンタン・ポカン式「脳髄論」を公表する光栄を有するのだ。
吾輩ポカンは断言する。「物を考える脳髄が、物を考える脳髄のことを考え得ない」ということは「二つの物体が、同時に、同所に存在し得ない」という物理学上の原則と同様に、万古不易の公理でなければならぬ。だから「物を考える脳髄」のことを考える「物を考える脳髄」は、一番最初に脳髄を発見した科学者ヘポメニアスが、自分の脳髄の作用を錯覚した「脳髄の幽霊」に悩まされ続けて来たのである。そうしていまやまさに、自分の脳髄の幽霊に取り殺されようとしている現状である。
だから吾輩……アンポンタン・ポカンはこれに対して堂々と挑戦したのである。
……物を考えるところは脳髄ではない……
……物を感ずるところも脳髄ではない……
……脳髄は、無神経、無感覚の蛋白質の固形体《かたまり》に過ぎない……
……と……。
……こりゃあけしからん。諸君は何がおかしくて、そんなに笑い転げるのだ。
……何でソンナに往来を転がりまわるのだ。
何だって交番にはい込むのだ。……電柱に抱き付くのだ……赤いポストに接《せつ》吻《ぷん》するのだ。……諸君は精神に異常を来たしたのではないか。
……ナニナニ……?????……。
……「脳髄で考えなくてドコで考える」というのか……。
……「脳髄で感じなくてどこで感ずるのだ」というのか……。
……「われわれの精神意識はどこにある」……「われわれはドウして生きている」というのか……。
……ナアンダ……。
チットモおかしい問題ではないではないか。不思議でもなければ、奇抜でもない。極めて平々凡々の問題ではないか。
……パンツの泥を払え。
……シャッポを冠り直せ。
クラバアツを正して聞け……。
われわれの精神……もしくは生命意識はドコにもない。われわれの全身の到るところにみちみちているのだ。脳髄を持たない下等動物とオンナジことなんだ。お尻を抓ればお尻が痛いのだ。お腹が空くとお腹が空くのだ。
すこぶる簡単明瞭なんだ。
しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭過ぎて、わかり難《にく》いかも知れないから、今すこし砕いて説明すると、われわれが常住不断に意識しているところのアラユル欲望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、われわれの全身三十兆の細胞の一粒一粒ごとに、絶対の平等さで、おんなじように籠もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒ごとに洩れなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一団に過ぎないのだ。
赤い主義者は、その党員の一人一人を細胞と呼んでいる。それと同様に細胞の一粒一粒を人間の一人一人と見て、人間の全身を一つの大都会になぞらえると、脳髄はその中心にある電話交換局に相当することになる。そうしてソレ以外の何物でもあり得ないことがわかるのだ。
……それでもまだ合点が行かなければ、吾輩ポカンと一緒にこっちへ来るがいい。時間と空間のあらん限りを馳《か》けめぐって、脳髄の正体を突止めて行ったポカンの苦心惨憺の蹤《あ》跡《と》をモウ一度繰り返してたどってみるがいい。
まず第一に脳髄がいかなるところから、いかなる理由の下に、いかにして生まれて来たかを探るべく、アタマ航空会社専用の超スピード機「推理号」の銀翼の間に、吾輩アンポンタン・ポカンと相並んで同乗するのだ。そうして爆音勇ましくアタマ飛行場を離陸すると、無限の時空を一気に翔《しよう》破《は》しつつ、諸君の眼下に横たわる、雄大荘厳を極めた万有進化の大長流を六億年ほど逆航するのだ。
見たまえ。……現在の人類全盛の世界は一瞬間に未来の夢となって、マンモス、エレファス、ステゴドンなぞいう巨獣が、時を得顔にノサバリ廻っている百万年前の象の世界が、脚下に展開して来るであろう。
それから更に、その百万年前の竜の世界、そのまた以前の鳥の世界、そのまたズット以前の魚の世界、貝類の世界、スポンジの世界と、しだいに進化の度の低い、小さな生物ばかりの世界へ超スピードで引返して、ついに六億年前の古世代までやって来ると……ドウダ……天地を覆《くつがえ》す大噴火、大雷雨、大《おお》海嘯《つなみ》、大地震の火煙、水煙、土煙が、あとからあとから日月を蔽《おお》いながら渦巻きのぼっているこの世界の若々しさはドウダ。地球の元気さはドウダ。
そこでこの地表に泡立ち漂っている塩分の薄い、摂氏四十度内外の温度を保っている海水の一滴を採取して、顕微鏡にかけて覗いてみたまえ。諸君は眼の前に、無量無数に浮遊している単細胞生物の拡大像を発見するであろう。将来一切の生命の共同の祖先となるべき元始細胞の大群集を、さながらに見渡し得るであろう。……しかもこの元始細胞こそは地球の表面が、御覧の通りの天変地妖を起しながら、少しずつ少しずつ冷却して来るうちに、あとからあとから作り出して来たいろいろな化合物の中でも、一番最後に出来た最高等複雑なものであった。諸原素の活力を最も円満、敏活に発揮し得るように化合させた微妙精英の有機体……あめ、の、みなかぬしの正統、エホバの愛《いと》し児、日の神の王子ホルスとも称《とな》うべき、地球最初の生命の群れにほかならなかったのだ。
だからこの元始細胞の一粒一粒は、その環境の変化に応じてアラユル意識だの、感情だの、判断力だのを現わし得る、無限の霊能を持っていたものである。自分以外の無機物、有機物を同化して、自己を増大し分裂すると同時に、その分裂した近所合壁の細胞同士に、お互いの感覚や意識を反射交感させ合う霊能までも一緒に持っていたのだ。
その証拠に見たまえ……諸君の眼の前で、今の元始細胞が盛んに自己を分裂増大して、その形態と能力をグングン進化させ始めたではないか。その霊能でもってみるみるうちに成長し、分裂し、結合し、反射交感して、一心同体となって共鳴、活躍しつつ、自分たちの共産的霊能をあくまでも地上に発揮すべく、しだいに高等複雑な姿に進化し始めたではないか。そうして……
「もう、ここまで進化したら天下無敵だろう。オレサマ以上に進化した奴は他にいないであろう」
と安心して、自惚れ切った奴が、そうした得意時代の姿をソックリそのまま、スポンジ、貝類、魚、鳥、獣という風に、それぞれの子孫に伝えて来るうちに……ドウダ……いつの間にか今日の通りの複雑多様、千変万化のありとあらゆる生物界を、諸君の眼の前に展開させて来たではないか。
……ところで見たまえ。
コンナにいろいろと千差万別している動物たちの中でも、進化の度合いの極めて低い海月《くらげ》以下の動物連中は、御覧の通り、脳髄とか神経粒とかいうハイカラなものを持っていないだろう。大昔の通りに全身の細胞同士の反射交感作用でもって、あらゆる感覚を全身同時に意識し合いつつ、考えて、動いて、喰って、寝て、生きているだろう。
ところがわれわれみたように高等複雑な進化を遂げた動物になって来ると、御承知の通り、意識の内容が非常に立て込んで来る。細胞同士の距《へ》離《だ》間《た》隔《り》もだんだんと遠くなって「あんなところまでおれの身体かしら」なぞと、湯《ゆ》槽《ぶね》の中で趾《あしゆび》を動かしてみるくらいにまで長大な姿になっている。だから、手足や、眼鼻が専門専門で分業になっているように、意識の方でも「脳髄」と名付くる自動式、複式、反射交感局を作って、全身三十兆の細胞同士の感覚や意識を縦横ムジンに反射交感させつつ、全身一斉に……おれはおれだぞ……おれはこうして生きているんだぞ……という気持ちになっているのだ。
われわれの全身三十兆の細胞は、かようにして、流れまわっている赤血球、白血球から、固い骨や毛髪の尖端に到るまでも、われわれが感じている意識の内容をソックリそのままの意識内容を、その一粒一粒ごとに、同時に感じ合って、意識し合っているのだ。
眼の球ばかりで物を見ることはできない。耳ばかりで音は聞こえない。その背後《うしろ》には必ずや、全身の細胞の判断感覚がなければならぬ。
同様に、脳髄が脳髄ばかりで物を考えたり、感じたりすることは不可能である。その背後《うしろ》には必ずや全身の細胞相互の主観、客観がなければならぬ。さもなければ人間の脳髄は、銀幕と観衆を喪《な》失《く》した活動写真機と同様の無意義なものになってしまうのだ。
しかも、その脳髄によって仲介された全身の意識の、反射交感作用の敏活なことというものは、まことに驚くばかりである。トテモ電信電話、ラジオぐらいで繋がり合っている人間の社会組織なぞの追付くところでない。……背筋がヒヤリとすると同時に、全身がゾーッと粟立つ……お尻がチクリとするかしないかに「アッ」と飛び上る……という。それほどさように迅速敏活を極めているのだ。
われわれの全身の各器官を形成する三十兆の細胞の一団は、こうしてメイメイに各自専門の仕事を分担しつつ、脳髄の反射交感機能を使って、一斉に、直接に物を見て、聞いて、嗅いで、味わっているのだ。脳髄を中心として一斉に意識し、感激し、闘い、歌い、舞い、喚き、叫んでいるのだ。
……嬉しいと食欲が進む。胃袋も一緒にハシャイでいるからだ。
……飯を喰うと、まだ消化もしないうちに元気が付く。全身の細胞が同時に満腹するからだ。
だからわれわれが自分の生命、もしくは精神として意識しているものの正体は、全身無数の細胞の一粒一粒が描きあらわすところの主観客観が、脳髄の反射交感作用仲介でタッタ一つにマン丸く重なり合ったのを、透かして覗いているだけのものだ……ということが、もはや文句なしにわかるだろう。同時にわれわれが今日まで迷信させられて来た脳髄の偉大な内容は、実は全身の細胞の一粒一粒に含まれている無限の霊知霊能が、そこで反射交感されているのを錯覚していたものだ……ちょうど電話交換局が、都会を支配していると考えるように……という事実が、何のタワイもなくうなずかれるだろう。
……ナント諸君……簡単明瞭ではないか。
……開いた口が閉《ふさ》がらぬではないか。
……現代の科学者たちが、最大、最高級の不可思議とし、驚異としている生命意識の根本問題は、こうして「脳髄が物を考える」という考えを引っくり返して考えると同時に、何の苦もなく氷解してしまうではないか。脳髄の受持っている役割が、手足のソレと同様にハッキリして来るではないか。
……それでも、まだわからなければ、モウ一度こちらへ来てみたまえ。ポカンの足の下に横たわっているこの脳髄と名づくるアンポンタン・ポカン式、自動式、反射交換局の内部を覗いてみたまえ。この交換局の中に詰めかけている親切明敏を極めた交換嬢……神経細胞たちの仕事振りを参観してみたまえ……。
彼女たち……神経細胞の大集団は、御覧の通り自分自身に電線となり、スイッチとなり、コードとなり、交換台、中継台となり、またはアンテナ、真空管、ダイヤル、コイル等に変形すると同時に、全身の細胞各個に含まれている意識感覚の各種類にそれぞれ相当する、泣き係、笑い係、見係、聞係、記憶係、惚れ係なぞいう、あらん限りの細かい専門に分れながら、アノ通り夜となく昼となく、浮世を離れた気持ちになって、全身三十兆の市民の気持ちを隅から隅まで、反射交感させられているのだ。
……諸君は彼女たちに話しかけてはいけない。
彼女たちは全身の細胞群の中から選み出された反射交感術の専門技手なのだ。だから彼女たちは、普通の交換局の彼女たちと同様に、自分がドンナことを反射交感しているか……なぞいうことは全然知らないまま、一分一秒の休みもなく呼び出され、呼び出し、切り換え、継ぎ直させられているのだ。……内閣が代ろうが戦争が始まろうが、大地震が始まろうが、大火事になろうが、または、暑かろうが寒かろうが、頭に蜂がさそうが、尻に火が付こうが、頓着している隙《ひま》はないのだ。彼女たちはタダそうした意識や、判断や、感覚を、全身に反射交感するアンポンタン・ポカン式電池、コード、交換台、コイル、ダイヤル、真空管、等々々に過ぎないのだから……。
だから諸君は彼女たちに話しかけてはいけないのだ。彼女たちに物を考えさせてはいけないのだ。彼女たちにソンナ受持以外の仕事をさせて、彼女たちを二重に疲れさしてはいけないのだ。
そうして彼女たちが、ほかのことを考えなければ考えないほど……単純な反射交感の仕事だけに一心不乱になればなるほど、全身の反射交感機能が敏活、迅速を極めて行く。アタマが疲れない。チラチラしなくなる。頭脳明《めい》晰《せき》……シゴク……ホガラカということになって行くのだ。
ナント簡単明瞭ではないか。アタマが、アンポンタン・ポカンとなるではないか。
吾輩……アンポンタン・ポカン局長はここにおいて明言することができる。
この簡単明瞭なる脳髄局のアンポンタン・ポカン式、反射交感組織にシャッポを脱いで、頭脳明晰……意識ホガラカとなったアンポンタン諸君のアタマならば、もはや、二度と再び脳髄のトリックに引っかからないであろう。脳髄で物を考えないであろう。……そうして最尖端式脳髄学のトップのトップを切った大博士となって、アラユル脳髄関係の不可思議現象を、一挙にアンポンタン・ポカン化し得ると同時に、この人類文化の死命を掌握する大怪魔「脳髄」の正体をここまで、的確に探偵し、暴露して来た吾輩……かく言うアンポンタン・ポカンの名脳髄振りに、今一度シャッポを脱がずにはいられなくなるであろう……と……。
しかしながら諸君の中には、まだシャッポを脱がない人がいるかも知れない。
これだけではまだ十分な説明ができないであろうところの精神病関係、もしくは心霊に関する各種の怪奇、不可思議現象について、首をひねっている篤学の士がいるかも知れない。
……よろしい……大いによろしい。
そういう人々こそ共に怪奇を語るに足る人々である。この地上、最大の怪奇的神秘の正体……一切のエロ、グロ、ノンセンスの主人公たる脳髄を、徹底的にアンポンタン・ポカン化しなければ止まない最新、最鋭、最高級の尖端人種でなければならぬ。
……よろしい……大いによろしい。
そのような人々は、すまないがモウ一度シャッポを冠り直して、脳髄局の大玄関に引返してくれ給え。そうしてここだここだ……ここに掲示してある「脳髄局、ポカン式反射交感事務、加入規約」なるものを読んでみたまえ。
ドウダイ諸君……この規約箇条はこの通り僅かに三か条しかない。普通の電話交換局加入規約の何十分の一にも足りない。すこぶるアッサリしたものである。しかもこの三か条の加入規約は、人間の全身三十兆の細胞が、祖先伝来の不文律として、非常識なほど極端に遵奉しているものであるが、しかもこの簡単な三か条が呑み込めさえすれば、諸君はモウりっぱな一人前の、押しも押されもせぬ脳髄学大博士になれるのだ。現在、地球の全表面にわたって演出されつつある脳髄関係のあらゆる不可解劇、皮肉劇、侮辱虐待劇、ノンセンス劇、恐怖劇、等々々の楽屋裏が、いかにタワイもないものであるかを、何のタワイもなく看破することができるのだ。
◇第一条 脳髄局ヨリ反射交感シ来タル諸般ノ報道ハ、タトエ、事実ニ非ズトモ、事実ト信ジテ記憶スベシ。
……泥棒が入った夢を見て、大声をあげて家中を呼び起す連中は、この第一箇条に支配されている連中にほかならないのだ。
◇第二条 脳髄局ヨリ反射交感シ来タラザルコトハ、タトエ自身ニ行ナイタルコトトイエドモ、事実ト認ムベカラズ。記憶ニモ止ムベカラズ。
……「昨夜《ゆうべ》、君の蒲《ふ》団《とん》を引ったくった覚えはない」なぞと頑張る連中は、この第二か条を厳守している正直者に相違ない。
ところで右の二か条は、現在の精神病学界で二重圏点付きの重大疑問となっている「ねぼけ状態」を引き起す規約である。むろん普通のアタマの人間にも、よくあることだし、文句も簡潔だから記憶し易いが、第三条となると御覧の通り、文句が少々ヤヤコシイようである。しかし意味は前の二か条と同様、すこぶる簡明である。すなわち……
「脳髄の反射交感機能に異常が起った場合には、脳髄のない下等動物と同様に、脳髄以外の全身の細胞の反射交感作用を脳髄の代りに活躍させよ」
という意味の規約で、いわば脳髄の非常時に対する応急手段とでも言おうか。……しかもかの「物を考える脳髄」が今日まで、幽霊、妖怪、幻覚錯覚、精神異常、泣き中気、笑い中気、夢中遊行、朦《もう》朧《ろう》状態なぞいうあらゆる超科学的、もしくは超説明的な怪現象を演出して、全世界の科学者の脳髄をドン底まで翻弄して来たモノスゴイ手品の種シカケは、実にこの簡単明瞭な第三条の規約の逆用そのものにほかならなかったのである。曰く、
◇第三条 脳髄局ノ反射交感機能ニ故障ヲ生ジタル場合、ソノ故障ヲ生ジタル一カ所ニオイテ反射交感サレツツアリシアル意識ハ、他ノ意識トノ連絡ヲ絶チ、全身ノ細胞各個ガ元始以来保有セル反射交感作用ヲ直接ニ元始下等動物ト同様ノ状態ニオイテ(脳髄ノ反射交感作用ト無関係ニ)使用シ、他ノ意識ニ先ンジテ感覚シ、判断シ、考慮シマタハ全身ヲ支配シテ運動活躍セシムルヲ得ベシ。
【付則】(イ)脳髄局ガ反射交感スル暇ナキ急迫ノ場合……例エバ無意識ニ眼ヲ閉ジマタハ飛ビ退ク場合等。(ロ)麻酔セル場合……例エバ麻酔剤ニテ脳髄ノ全体ガ反射交感機能ヲ停止シオル場合ニ、全身ノ細胞ノ感覚、意識記憶等ニヨリテ行ナウ無意識ノ挙動言語等。(ハ)脳髄ガ異常ノ深度ニ熟睡セル場合……例エバ夢中遊行、寝言、歯ギシリ等。以上ノ三種類ノ場合モコレニ準ズ。
忘れないうちにノートか何かに書き止めておき給え。学生諸君には特におすすめする。この第三条が脳髄衛生学の初め終りで、諸君の持病と言ってもいい神経衰弱は、要するにこの規約から生まれた病気にほかならない……否……人類の中でも、文化民族と自称する者の大部分は、現在この第三条の規約に引っかかって、精神的の破産、滅亡状態に陥りつつあるのだから……。
……というのは他の理由でもない。今まで説明して来たところでもアラカタ想像が付くであろう通りに脳髄局のポカン式反射交感機は、構造が非常にデリケートにできているのだから、いろんな故障を起し易いばかりでなく、その故障箇所の取換えが、なかなか急にいかない。だからやむをえずコンナ応急手段的な規約が設けられているのだ。
しかも、こうした脳髄局における反射交感の応急規約、第三条の存在を最も有力に、簡単明瞭に証拠立てて、脳髄が作り出した地上一切の怪奇現象のカラクリの種明しをするのに持って来いの第一例というのが、ツイ今しがた引合いに出した「泣き中気」「笑い中気」だから愉快ではないか。
すなわち脳髄の中のある一か所……たとえば「笑い係」の交感台が、脳出血のために麻痺して、反射交感が不能になると、そこで反射交感されていた「笑いの電流」だけが第三条の規約通り、ほかの意識との連絡を失って遊離してしまう。そうして脳髄以外の全身の細胞が元始以来遺伝して来ている反射交感の機能を先廻りに使用しながら、何でもカンでもむやみやたらに笑わせるのだ。ほかの「怒り」や「悲しみ」の電流が動きかけても、その電流が中央の反射交感台を遠まわりして来るうちに、遊離している「笑いの電流」の方が、直接に全身の細胞を馳けまわって、先へ先へと笑い散らかして行くのでほかの感情が外へ現われる隙がないのだ。これが俗に「笑い中気」というやつで「怒り中気」でも「泣き中気」でも、みんな、おなじ理屈で起るのだ。
言うまでもなく、これは脳出血から来た故障だから、病理解剖をして頭の蓋を取ってみればすぐにわかる。……「ハハア。ここが笑いの電流を交感するところだな」……という事実が一目瞭然する訳であるが、しかし、実を言うとコンナ風に、肉眼で見える脳髄の故障というものはドチラかといえば、例外に近い方で、まだこのほかに眼に見えない脳髄の故障が演出する怪奇現象の種類が、ドレくらいあるかわからない。いわゆるエロ、グロ、ノンセンスのモノスゴイところを取交ぜて科学文明の屋根裏から地下室……アタマ文化の電車通りから横露地に到るまで、昼夜不断にウヨウヨヒョロヒョロと、さまよい廻っているのだ。……のみならず、その怪奇現象ソレ自身の一つ一つがまた、ソックリそのままに、聴診器にも入らず、レントゲンにも感じないデリケートな脳髄の故障を、一つ一つにハッキリと証拠立てているから面白いではないか。
まず第一に、何より憤《ふん》懣《まん》に堪えないのは、現代のいわゆる「物を考える脳髄」諸君が、その脳髄ソレ自身と全身の細胞との間に、こうした第三条の応急規約が存在している事実を、夢にも気付かないでいることだ。……だから「脳髄なんかイクラ使ったって減るもんじゃない」とか何とか言って、ヤタラに頭を抱えたり、首をひねったりして、無理にも脳髄に物を考えさせようとする習慣を一人残らず持っていることだ。……脳髄が物を考えるところでない……単純な反射交感専門のアンポンタン・ポカン局……という事実にミジンも気付かないで、物を考える専門のお役所みたいに心得て何でもカンでも脳髄に考えさせようと努力していることだ。……電話交換局に市役所の仕事を押し付けて平気でいることだ。
そのために脳髄局の交換手たちが、ドレくらい事務の過重負担に悩まされているか……そのためにドレくらい思い切った反射交感事務の間違い……幻覚、錯覚、倒錯観念の渦巻きを渦巻かせているか、ほとんど想像もおよばないであろう。
論より証拠……事実は眼の前だ。
アンマリ脳髄で物を考え過ぎると、電流を通じ過ぎたコイルと同様に、脳髄の組織の全体が熱を持って来て、その反射交感の機能が弱り始める。そうすると全身の細胞に含まれているいろんな意識が、お互い同士に連絡を喪《うしな》って、めいめい勝手な自由行動をとりはじめることになる。ソイツが軽い、半自覚的な、意識の夢中遊行となって、全身の細胞が作り出している意識の空間を無辺際に馳けまわるのだ。……諸君が何かしら考え詰めてアタマの疲れた時分にウットリと凝視している、アノ取止めのない空想とか、妄想とかいうものがソレで、そのうちに脳髄がイヨイヨ疲れて眠り込んで来ると、そんな意識同士の連絡もイヨイヨたえだえになって来る。そうしてしだいしだいに辻《つじ》褄《つま》の合わない夢になって行く状態は、諸君が小説を読みさして眠りかける時だの、教室や電車の中で舟を漕いだりする際にマザマザと体験しているところであろう。
昔の人は迷信が深かったから、暗闇の中なぞを行く時には、恐怖のために脳髄を疲らして、いろいろな幻覚や倒錯観念に陥ったものだ。そんな幻視や幻感が、幽霊になったり、妖怪変化になったりして、物の話に伝わり残っているのであるが、しかも、そんな事実を笑う連中は、お気の毒ながら現代式のハイカラな神経の持主とは言えないのだ。神経衰弱とヒステリーと、制限剤と睡眠薬を持ちまわる紳士淑女の仲間に入れないのだ。
諸君みたような近代人の中でも、特に目まぐるしい都会生活をやっている人間たちは、真昼さ中でも脳髄の機能を疲らしているから、いろんな意識作用や判断感覚なぞいうものが遊離して、全身の神経末梢……細胞相互間の反射交感機能をはいまわりつつ、フラフラチラチラとした夢中遊行状態になりかけているのだ。……だから、大きな煙突の傍《そば》を通ると、今にも頭の上に倒れかかって来るような気がして、思わず急ぎ足になるのだ。……眠っている枕元に、往来の電車の音が走りかかって来るような気がして、ツイ電燈を灯《つ》けてみたくなるのだ。……そのほか、ストーブが欠伸をしたの、卵の黄味が皿の中から白《に》眼《ら》んだの、昨夜帰りがけに、向うの辻の赤いポストの位置が違っていたの、パン焼《やき》竈《がま》が深夜に溜息をしたの、画像が汗を流したの、机の抽《ひき》出《だ》しから白い手があらわれてオイデオイデをしたの、ピストルが自分の方を向いてズドンと言ったの……というような奇怪現象が、科学文化のマン中にひっきりなしに起って来るのは、みんな脳髄の疲労から起る、反射交感事務の間違い……すなわち意識の夢中遊行にほかならないのだ。
ところで前にも断った通り、この程度の精神異常だったら諸君の中にもザラにあるのだ。しかもこの程度の連中は、自分でもウスウス自分の精神異常を自覚しているので、ウッカリ気違い扱いにすると、ますます病状を昂《こう》進《しん》させるおそれがあるから、わざと精神病者の数に入れてないのであるが、コイツが今一歩進んで来ると、トテモ放ったらかしておけなくなる。金箔付の発狂となって、赤煉瓦のアパート生活に、護衛付の資格ができて来るのだ。
吾輩……アンポンタン・ポカンが今日まで御厄介になっている九州帝国大学の精神病科教室には、ソンナ連中がウジャウジャいたもんだ。しかも、ソンナ連中をかわるがわる教壇へ引っぱり出して、そこの主任の正木キチガイ博士が生徒に講義をするのを聞いてみると、チョウド、この吾輩アンポンタン・ポカンが考えている通りのことをしゃべっているから面白い。
「……エヘン……人間の脳髄というものは、今も説明した通り、全身の細胞の意識の内容を細大洩さず反射交感して、一つの焦点を作って行くところの複合式球体反射鏡みたようなものである。人間の脳髄が全身三十兆の細胞の一粒一粒の中を動きまわる意識感覚の森羅万象を同時に照しあらわしている有様は、蜻蛉《とんぼ》の眼玉が三千世界の上下八方を一眼で見渡しているのと同じことである。……ところでその人間の脳髄によって、時々刻々に反射交感されて、時々刻々に一つの焦点を作って行くところの精神……すなわちその人間の細胞の一粒一粒の中に平等に含まれている、その人間の個性とか、特徴とかいうものは、吾輩の実験によると一つ残らず、その人間が先祖代々から遺伝して来た、心理作用の集積にほかならないのだ……すなわち、その先祖代々が体験して来た、千万無量の心理的慣性のあらわれが、脳髄の反射交感作用によって統一されてお互いに調和を保ち合いつつ、焦点を作って行くのをいわゆる、普通人と名付けているのであるが、しかし……人間の心理作用というものは一人一人ごとに、それぞれ違った癖があるもので、その癖を先祖が矯正しないまま子孫に伝えて来ると、代を重ねるうちにダンダンひどくなることがある。たとえばある一つのことをどこまでも思い詰める癖を遺伝した女が、どうかした拍子にある一人の男を見《み》初《そ》めたとする……寝ても醒めても会いたい、見たい……一緒になりたいといったようなことばかりを繰り返し繰り返し考え続けて行くことになると、そうした『恋しい意識』を反射交感する脳髄の一部分がトウトウ動けなくなる。そこでその一部分で反射交感されていた恋しい意識が、しだいしだいに遊離して、空想、妄想と凝り固まったあげく、執念の蛇式の夢中遊行を始める。夜も昼もさまのお姿を空中に描きあらわして、そのことばかりを口走らせるようになる。そうなるとまた、その恋しい係の交換台の交換嬢がイヨイヨやりきれなくなってヘタバリ込む。恋しい意識がイヨイヨ完全に遊離して活躍空転する。ますます発狂の度合が深くなる。……往来へ馳け出す……取押えられる。鉄の格子をゆすぶって狂いまわる……または何々狂乱と名付けられて花四天の下に振付けられ、百載の後までも大衆の喝采を浴びる……という順序になる。
もっとも、これは普通の人間が普通に発狂して行く順序で、こうした傾向をチットばかり持っている人間が普通人で、多分に持っている人間をいわゆる、精神病《キチガイ》系《ス》統《ジ》の人間と呼んでいるに過ぎない。だから発明狂、研究狂、蒐《しゆう》集《しゆう》狂《きよう》、そのほか何々狂、何々キチガイと呼ばれている人間は程度の相違こそあれ、皆このお仲間に相違ない。手当が早ければ救われ得る場合がなきにしもあらずであるが、サテコイツがモウ一段開き直って、本格の夢中遊行病となるとガラリと趣が違って来る。……むろん、精神病の一種に相違ないし、その活躍ぶりも普通の狂人以上にモノスゴイものがあるのだが、しかしその当の本人は普通人とチットモ変らない。否、むしろ、鼻の病気か何かで少々ボンヤリしていたり、頭がすてきにデリケートで学問ができ過ぎたり、気が弱過ぎて虫も殺せなかったりするような、特別誂《あつら》えの善人の中に往々にして発見される珍病で、キチガイなぞいう名前はドウしてもつけられないのであるが、それでいてその人間が真夜中になると,ムクムクと起き上って、キチガイ以上の奇抜滑《こつ》稽《けい》や残忍無道をヤッツケルのだから、イヨイヨモノスゴくて面白いことになるのだ。
すなわちその人間が眼を醒ましている間の意識状態は普通の人間とチットモ変らない。その全身の細胞の意識は、脳髄の反射交感作用によって万遍なく統一、調和されて行くのであるが、サテ日が暮れて夜が更けて、その人間の脳髄が、全部休止の熟睡状態に陥ることになると、その熟睡状態なるものが普通人のソレと違って来る……つまり普通の熟睡の程度をズット通り越して、死の世界の方へ近付いて行くので、当り前のユスブリ方や怒鳴り声では絶対に眼を醒まさない、いわゆる死人同様の状態にまで落ち込んでしまう……というのがこの夢中遊行病患者の特徴になっているのだ。
ところでソンナ風に睡眠の度が深くなって来ると、その必然的な結果として、全身の細胞の意識の中に、そこまで深く睡り切れないやつが一つか二つできることになる。しかもその眠り遅れた意識は、背景が黒くなればなるほど、前景が光り出して来るように、睡眠が深くなればなるほどハッキリと眼を醒まして、いろいろな活躍を始めることになるのだ。
たとえばある人間が、ある感情とか、意志とかの一つだけを、極度に昂奮させたまま眠りに落ちたとする……『あのダイヤが欲しいナア』とか……『憎いアンチキショウを殺してやりたい』とか思って昂奮しいしい眼をつむっていると、やがて、その脳髄が熟睡のドン底に落ちた時に、その脳髄と一緒に睡っている細胞の中でも、その意識だけがタッタ一つ睡り遅れて眼を醒ましている。そうしてその意識は、良心とか、常識とか、理知とかいうものと連絡を失った、片チンバの姿のままで起き上って全身の細胞が持っている反射交感作用を脳髄の代りに使いながら動きだす。そうして全身の細胞の中から、必要に応じて勝手気《き》儘《まま》に呼び起した判断、感覚なぞいうものと連絡を取りつつ、見たり聞いたり、考えたりして、望み通りの仕事をする。欲しいダイヤを失敬したり、憎いアンチキショウを殺したりするのであるが、しかし、そんな仕事をしている途中の出来事は、脳髄を通過した印象でないから、チットモ記憶していない。あとで眼を醒ましてもケロリとして、平生とチットモ変らないアンポンタン・ポカン人種に立ち返っている。たとい盗んだダイヤモンドや殺した相手の死骸を突付けられても、知らないことは白状できないので、いよいよアンポンタン・ポカンとなるばかりだ。
その代り、そうした夢中遊行の最中は、全身の細胞が、脳髄の役目と、自分たちの専門専門の役目と両方を、同時に引受けて活躍している訳だから、眼が醒めたあとで一種異様な疲労を自覚するのが通例になっている。この道理は薬を使って、脳髄だけを麻酔させた場合と全然同一であるのを見ても、容易に首肯できるのであるが、しかしまた、この麻酔後の疲労と、夢中遊行後の疲労とは、そんな風に全然同じ性質の疲労でナカナカ鑑別ができにくいものだから、非常に面白い法医学上の研究問題となることがある。
その好適例としてもって来いの標本は、現在、ここに突立って、吾輩の講義を傾聴しているこの青年である。この青年は諸君の中に見知っている人がいるかも知れない。住所姓名は例によって公表を差控えるが、まだやっと二十歳になった今年の春に、この大学の入学試験を受けて、最高級の成績でパスすると間もなく、可哀そうに先祖から遺伝して来た夢中遊行病の発作にかかって、結婚式の前夜に、自分の花嫁を絞殺してしまった。しかもこの青年はそればかりでなく、その前に十六の年にも同じ発作にかかって、実の母親を絞め殺したという、この方面でも稀に見る英雄児であるが、しかもその後、この教室にやって来て、吾輩独特の解放治療にかかっているうちに、しだいに正気を回復して来たらしく、この頃は自分の頭髪《あたま》を掻きまわしたり、耳の上を拳固でコツンコツンとなぐったりして、ここがドウかなっているに違いない違いないと言い出しはじめた。そうして時々部屋の中で立止って、脳髄の演説を始めることがあるが、この演説がまた、一から十まで、この教室で聞いた吾輩の受け売りだから、痛快で吾輩も時々参考のために拝聴にゆくくらいだ。この種類の人間の記憶力のスバラシサというものは、トテモ想像を超越したモノスゴイものがあるのだからね……なぜかというとこの青年は強烈な夢遊病の発作に罹った結果、過去の記憶から完全に切離されているので、現在の出来事に対する記憶作用は、何ものにも邪魔されない絶対の自由世界に浮いて遊んでいる。だから一旦注意力を集中するとなると、ドンナ細かいことでも超人的の正確さをもって記憶することができるのだ。しかし平生はこの通り、初めて卵からはい出した生物のように、ビックリした表情を続けているから、とりあえずアンポンタン・ポカン博士という尊称を奉っている訳であるが……」
正木教授がここまで講義して来ると、学生連中が一度にこっちを見てゲラゲラ笑い出したものである。だから吾輩は、そのままポカンと精神病院を飛び出してしまった。そうして今日ただ今、この十字街頭に立って、諸君の脳髄の異常振りを観察しているうちに、断然、棄てておけなくなったから、こんな警告を発したのだ。時空を超越したポカン式脳髄論を、思い切って公表したのだ。
……ナント諸君感心したか。見たか。聞いたか。驚いたか。
吾輩アンポンタン・ポカンが一たび「脳髄は物を考えるところに非ず」と喝破するや、樹々はその緑を失い、花はその紅を消したではないか。一切の唯物文化は根底から覆えされ、アラユル精神病学はことごとく机上の空論となってしまったではないか。
……繰り返して言う。
人類は物を考える脳髄によって神を否定した。大自然に反逆して唯物文化を創造した。自然の心理から生まれた人情、道徳を排斥して個人主義の唯物宗を迷信した。そうしてその唯物文化を日に日に虚無化し、無中心化し、動物化し、自涜化し、神経衰弱化し、発狂化し、自殺化した。
これはことごとく「物を考える脳髄」のイタズラであった。「脳髄の幽霊」を迷信する唯物宗の害毒であった。
けれどもいまや、この迷信は清算されねばならぬ時が来た。神に対する迷信を否定した人類は、いまや「物を考える脳髄」を否定しなければならぬドタン場に追い詰められて来た。唯物科学の不自然から、唯心科学の自然に立ち返らなければならぬスバラシイ時節が到来したのだ。
だからそのスローガンの実行の皮切りに、吾輩アンポンタン・ポカンはこの通り、自分自身の「物を考える脳髄」を地上にタタキつけて見せたのだ。
そうしてこの通り踏みつぶしてしまうのだ。
……エイッ……ウーン……。
*
……と……。
アハハハハハ……ドウダイ驚いたか。……見たか。聞いたか。感心したか。
これが吾輩のいわゆる、絶対科学探偵の事実小説なんだ。超脳髄式の青年名探偵アンポンタン・ポカン博士が、博士自身の脳髄を追っかけまわして、物の見事に引っ捕えて、地ベタにタタキつけて、引導を渡すまでの経過報告だ。世界最高級の科学ロマンス「脳髄 ― 《マイナス》脳髄」の高次方程式の分解公式なんだ。
だからこの小説のトリックの面白さが、ホントウにわかる頭ならば……ホラ……この間君に貸してやったろう。あの「胎児の夢」と名付くる論文の正体の恐ろしさがわかる。その胎児が、母の胎内で見ているスバラシイ大悪夢を支配する原理原則がわかる。そのモノスゴイ原理原則を実験している解放治療の内容だの、そこに収容されているアンポンタン・ポカン博士の正体や、その戦慄すべき経歴なぞが、手に取るごとく理解されて来るのだ。
しかもその上に、モウ一つオマケのお慰みとしては……「脳髄が物を考える」という従来の考え方を、脳髄の中で突き詰めて来ると「脳髄は物を考えるところに非ず」という結論が生まれて来る……という事実はモウわかったとして、その「考えるところに非ず」をモう一つタタキ上げて行くと、トドの詰まりがまたもや最初の「物を考えるところ」に逆戻りして来るという奇々妙々、怪々不可思議を極めた吾輩独特の精神科学式ドウドウメグリの原則までおわかりになるという……この儀お眼止まりましたならば、よろしくお手拍子……。
……ナニイ。眼が眩《まわ》って来たア……。
アハハハハハ……そりゃあ眩るだろう。吾輩の気焔を聞かされたら、大ていの奴がフラフラフラと……。
……ナ……なんだ。そうじゃない。葉巻に酔ったんだと?……。
アッハッハッハッ……コイツは大笑いだ。
ワッハッハッハッハッハッハッ。
(文責在記者)
胎児の夢
――人間の胎児によって、他の動植物の胚《はい》胎《たい》の全部を代表させる。
――宗教、科学、芸術、その他、無限の広《こう》汎《はん》にわたるべき考証、引例、および文献に関する註記、説明は、省略、もしくは極めて大要に止める。
人間の胎児は、母の胎内にいる十か月の間に一つの夢を見ている。
その夢は、胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき、数億年、ないし、数百億年にわたるであろう恐るべき長尺の連続映画のようなものである。すなわちその映画は、胎児自身の最古の祖先となっている、元始の単細胞式微生物の生活状態から始まっていて、引き続いてその主人公たる単細胞が、しだいしだいに人間の姿……すなわち胎児自身の姿にまで進化して来る間の想像もおよばぬ長い長い年月にわたる間に、悩まされて来た驚心、駭《がい》目《もく》すべき天変地《ち》妖《よう》、または自然淘《とう》汰《た》、生存競争から受けて来た息も吐かれぬ災難、迫害、辛苦、艱難に関する体験を、胎児自身の直接、現在の主観として、さながらに描き現わして来るところの、一つの素晴しい、想像を超越した怪奇映画である。……その中には、既に化石となっている有史以前の怪動植物や、または、そんな動植物を惨死、絶滅せしめた天変地異の、形容を絶する偉観、壮観が、そのままの実感をもって映写し出されることは言うまでもない。引続いては、その天変地妖の中に、生き残って進化して来た元始人類から、現在の胎児の直接の両親に到るまでの代々の先祖たちが、その深刻、痛烈な生存競争や、種々雑多の欲望に馳《か》られつつ犯して来た、無量無辺の罪業の数々までも、一々、胎児自身の現実の所業として描き現わして来るところの、驚駭と戦《せん》慄《りつ》とを極めた大悪夢でなければならぬことが、次に述べる通りの「胎生学」と「夢」に関する二つの大きな不可思議現象を解決することによって、直接、間接に立証されて来るのである。
まず第一に、人間の胎児が母の胎内に宿った時、その一番最初にあらわしている形は、すべての生物の共同の祖先である元始動物と同様に、タッタ一つのマン丸い細胞である。
そのマン丸い細胞の一粒は、母胎に宿ると間もなく、左右の二粒に分裂増殖する。そうしてそのまま密着し合ってやはり一個の生物となっている。
その左右の二個はやがてまた、各々上下の二個ずつに分裂、増殖する。そうしてやはり、その四個とも一つに密着し合って、母胎から栄養を摂《と》りつつ、一個の生物の機能を営んでいる。
かようにして四個、八個、十六個、三十二個、六十四個……以上無数……という風に、倍数あてに分裂しては密着し合って、しだいしだいに大きくなりつつ、人類の最初の祖先である単細胞の微生物から、人間にまで進化して来た先祖代々の姿を、その進化して来た順序通りに、間違いなく母胎内で繰り返して来る。
まず魚の形になる。
次にはその魚の前後の鰭《ひれ》を四足に変化さしてはいまわる水陸両棲類の姿にかわる。
次には、その四足を強大にして駈けまわる獣の形態をあらわす。
そうしてついには、その尻尾を引っこめて、前足を持上げて手の形にして、後足で直立して歩きまわる人間の形……普通の胎児の姿にまで進化してからオギャアと生まれる……という段取りになるので、そうした順序から、これに要する時間までも、万人が万人、ほとんど大差ないのが通例になっている。
これは胎生学上、既にわかりきっている事実で、誰一人、否定し得ない現象であるが、さてそれならば、あらゆる胎児は何故に、そのような手数のかかる胎生の順序を母胎内で繰り返すのであろうか。何故に、すぐさま小さな人間の形になって、そのままに大きくなって、生まれて来ないのであろうか。または、最初のタッタ一粒の細胞が何故に、そんなに万人が万人申合わせたように、寸分違《たが》わぬ胎生の順序を繰り返して来るのであろうか。すなわち……
「何が胎児をそうさせたか」
という問題になると、誰一人として適当の解釈を下し得るものがいない。現代の科学書類の隅から隅まで探しまわってもこの解釈だけは発見されない。ただ不思議というよりほかに説明のしようがないことになっている。
次に、一切の胎児はかようにして、自分の先祖代々が進化して来た姿を、その順序通りに寸分の間違いもなく母の胎内で繰り返して来るのであるが、しかしその経過時間は非常に短《つづ》められているので、人間の先祖代々の動物が、何百万年かもしくは何千万年がかりで鰭《ひれ》を手足に、鱗《うろこ》を毛髪に……といった順序に、少しずつ少しずつ進化させて来た各時代時代の姿を、僅《わず》かに分とか、秒とかで数え得る短時間のうちに繰り返して、経過して来ることさえある。これは既に一つの説明のできない不思議として数えられ得るのであるが、更に今一歩進んだ不思議なことには、その縮められている時間と、実際の進化に要した時間の割合が、けっしてでたらめの割合になっていないらしいことである。
すなわち人間の胎児はおよそ十か月間で、元始以来の先祖代々の進化の道程を繰り返すことになっているのであるが、その他の動物は概して、進化の度合が低ければ低いだけ、その胎生に要する時間が短くなっているので、進化の度の最も低い……すなわち元始時代の姿のままの、細菌、その他の単細胞動物は大部分、胎生の時間を全然持たない。そのままの姿で分裂して二つの新しい生物になって行く……というのが事実上の事実になっているのであるが、これは一体、どうした理由であろうか。進化の度の最も高い人間の胎児は何故に、最も長い胎生時間を要するのであろうか。換言すれば、
「何が胎児をそうさせるか」
という問題について適当の解釈を加えようとすると、現代の科学知識では絶対に不可能であることが発見される。やはりただ、不思議というよりほかに説明のしようがないことになっているのである。
以上は胎児に関する不可思議現象の実例であるが、次に、こうしてでき上った人間の「肉体」を、解剖学方面から研究、観察してみると、また同じような不可思議現象が数限りなく現われて来る。
すなわち人間の肉体なるものを表面から観察してみると、その進化の度が高いだけに……換言すれば、その胎生に念が入っているだけに、他の動物よりも遥かに高尚優美にでき上っていることが、とりあえずうなずかれるであろう。その柔和な、威厳を含んだ眼鼻立から、綺麗な皮膚、美的に均整した骨格や肉付きまで、いかにも万物の霊長らしく見受けられるのであるが、しかし一《ひと》度《たび》その肉体の表皮を剥《め》くって、肉を引き離し、内臓を検査し、脳髄や五官の内容を解剖して細かに観察してみると、その各部分部分の構成は一つ一つに、下等動物から進化して来たわれわれの先祖代々、魚、爬《は》虫《ちゆう》、猿等の生活器官の「お譲り」であることが、判明して来る。すなわち一本の歯の形にも、一筋の毛髪の組織にまでも、それをそこまで洗練し、進化させて来た、驚くべき長年月にわたる自然淘汰の大迫害、もしくは生存競争の辛苦艱難の歴史がアリアリと記録されているので、そんな歴史を一々克明に記念して、その通りに胎児の姿を繰り返して進化させて、人間の姿にまで仕上げて来たあるものの偉大、深刻なる記憶作用が、完成した人間の細胞の隅々までも、明瞭に刻み付けられているのである。
いうまでもなくかような現象は、進化論、遺伝学、または解剖学等々で如実に証明されている事柄だから、ここには詳細な説明は加えないが、しかし、それは何者が記憶していて、そのような歴史を繰り返させたか。
「何が胎児をそうさせたか」
ということについては、まだ、何一つ説明が与えられていない。やはりただ、一つの不思議というよりほかに説明できないことになっている。
しかも、そればかりではない。
更に今一歩突込んで、人間の精神なるものの内容を観察すると、かような事実が、更に一層、深刻痛切に立証されて来る。
すなわち人間の精神もまた、これを表面から観察すると、他の動物とはトテモ比較できないほど、段違いの美しさを現わしている。「人間は万物の霊長である」という自覚、もしくは「文化的プライド」と名付くる、いわゆる「人間の皮」一枚をもって、自己の精神生活の内容を蔽い包んで、常識とか、人格とか名付くるお化粧を施して、超然と澄まし返っているのであるが、しかし、一旦その表皮、すなわち人間の皮なるものを一枚剥ぎ取ってみると、その下から現われて来るものは、やはりその人間の遠い遠い祖先である微生物が、現在の人間にまで鍛え上げられて来た、驚くべき長年月にわたる自然淘汰、生存競争の大迫害に対する警戒心理、もしくは生存競争心理が、その時代時代の動物心理の姿で、ソックリそのままに遺伝されたものばかりである事実が、余りにも露骨に発見されて来るのである。
まずいわゆる、文化人の表皮……博愛仁慈、正義人道、礼儀作法なぞで粉飾してある人間の皮を一枚剥くると、その下からは野蛮人、もしくは原始人の生活心理が現われて来る。
この事実を最もよく立証している者は無邪気な小児である。まだ文化の皮の被《かぶ》り方を知らない小児は、同じように文化の皮の被り方を知らない古代民族の性格を到るところに発揮して行くので、棒切れを拾うと戦争ゴッコをしたくなるのは、部落と部落、種族と種族の間の戦争行為によって生存競争を続けて来た、いわゆる、好戦的な原始人の性質の遺伝、すなわち細胞の中に潜在して伝わって来た野蛮人時代の本能的な記憶が、棒切れという武器に似た恰《かつ》好《こう》のものの暗示によって刺激され、眼《め》醒《ざ》めさせられたものである。虫ケラを見付けると、何の意味もなしに追い廻してみるのは、動くものを見れば、何でも追いかけてみるという狩猟時代の心理の遺跡を、虫ケラの暗示によって刺激誘発されたもので、そうして捕え得た虫ケラの手足をもぎ取り、羽翼を奪い、腹を裂き、火に焙《あぶ》りなぞして、喜び戯れるのは、そうした方法によって、獲《え》物《もの》や俘《ふ》虜《りよ》を処分し、翻弄し、侮辱して、勝利感、優越感を徹底的に満足させようとした古代民族の残忍性の記憶を、そのままに再現しているものにほかならないのである。また、赤ん坊を暗いところに置くと泣き出すのは、やはり火を持たぬ時代の原始人が、猛獣毒蛇にみちみちた暗黒に対する恐怖の復活で、どこへでも大小便を洩らすのが大昔、樹の根や草の中に寝ていた時代の習慣の再現であることは、現代の進歩した心理学の研究によって説明されている通りである。
次にこの野蛮人もしくは、原始人の皮を今一度剥くってみると、その下には畜生……すなわち禽獣の性格が一パイに横《おう》溢《いつ》していることが発見される。
たとえば同性……すなわち知らない男同士か、女同士が初対面をすると、一応は人間らしい挨《あい》拶《さつ》をするが、腹の中では妙に眼の球を白くし合って、ウソウソと相手の周囲を嗅ぎまわる心理状態を現わす。油断をすると相手の尻のあたりまで気を廻して、微細なところから不愉快な点を発見して、お互いに鼻に皺《しわ》を寄せ合ったり、歯を剥《む》き出し合ったりする気持ちをほのめかす。ウッカリすると吠《ほ》え立てる。かみ付く……町の辻で出会った犬猫の心理と全然同一である。そのほか自分より弱いものを見付けると、ちょっと苛《いじ》めてみたくなる。すこし邪魔になる奴は殺してくれようかと思う。誰もいなければ盗んでやろうか。他人の小便を嗅いでおこうか。自分の遺物は埋めておこうか……なぞいった畜生のままの心理の表現を、吾人は日常生活の到るところに発揮しているので、誰でも口にする「コン畜生」とか「この獣《けだもの》め」とかいう罵倒詞に当てはまる心理のあらわれは、皆これにほかならぬのである。
次に、この禽獣性の下にある隔膜を今一つ切開くと、今度は、その下から虫の心理がウジャウジャと現われて来る。
たとえば、仲間を押し落しても高いところへはい上ろうとする。誰にも見えないところをはい廻ってうまいことをしようとする。うまいことをすると、すぐに安全第一の穴へ潜り込もうとする。栄養のいい奴を見付けると、コッソリ近付いて寄生しようと試みる。あたりかまわぬ不愉快な姿や動作をして一身を保護しようとする。固い殻に隠れて寄せつけまいとする。敵と見ると、ほかの者を犠牲にしても自分だけ助かろうとする。いよいよとなると毒針を振廻す。墨《す》汁《み》を吹く。小便を放射し、悪臭を放散する。またはそこいらの地物や、自分より強い者の姿に化ける……なぞ、低級、卑怯な人間のすることは皆、かような虫の本能の丸出しで、俗《ぞく》諺《げん》に言う弱虫、蛆《うじ》虫《むし》、米喰虫、泣虫、血吸虫、雪《せつ》隠《ちん》虫《むし》、屈《へつ》放《ぴり》虫《むし》、ゲジゲジ野郎、ボーフラ野郎なぞいう言葉は、こうした虫ケラ時代の心理の遺伝したもののあらわれを指した軽蔑詞にほかならない。
次に……最後に、この虫の心理の核心……すなわち人間の本能の最も奥深いところにある、一切の動物心理の核心を切開いてみると、黴《ばい》菌《きん》、その他の微生物と共通した原生動物の心理が現われて来る。それは無意味に生きて、無意味に動きまわっているとしか思えない動き方で、いわゆる群衆心理、流行心理もしくは、弥次馬心理というものによって、あらわされている場合が多い。その動きまわっている行動の一つ一つを引離してみると、全然無意味なもののように見えるが、それが多数に集まると、いろいろな黴菌と同様の恐るべき作用を起すことになる。すなわち光るもの、りっぱなもの、声の高いもの、理屈の簡単なもの、刺激のハッキリしているものなぞいう新しい、わかり易いものの方へ方へと群がり寄って行くのであるが、むろん判断力もなければ、理解力もない。顕微鏡下に置かれた微生物と同様の無自覚、無定見のまま恍《こう》惚《こつ》として、大勢に引かれながら大勢が行く。そこに無意味な感激があり、誇りと安心があるのであるが、しまいには何ということなしに感激のあまり夢中になって、惜し気もなく生命《いのち》を捨てて行く……暴動……革命等に陥って行く有様は、さながらに林《りん》檎《ご》酸の一滴に集中する精虫の観がある。
人間の心理はここに到って初めて、物理や化学式の運動変化の法則に近づいて来る。すなわち無生物と皮一重のところまで来るので、政治家、その他の人気取りを職業とするものが利用するのは、かような人間性の中心となっている黴菌性の流露にほかならないのである。
かような心理の中で、最単純、低級なものを中心にして、外へ外へと、高級複雑な動物心理で包み上げて、その上をいわゆる、人間の皮なるもので包装して、社交、体裁、身分家柄、面目人格なぞいうリボンやレッテルをもって飾り立て、お化粧を塗って、香水を振りかけて大道を闊《かつ》歩《ぽ》して行くのが、われわれ人類の精神生活であるが、その内容を解剖してみると、大部分は右の通りに、人体細胞の中に潜在している祖先代々の動物心理の記憶が、再現したものにほかならないことが発見されるのである。しかしこれとても、前に述べた肉体の解剖的観察と同様、胎児がいかにしてそんな千万無量の複雑多様の心理の記憶を、その細胞の潜在意識、もしくは本能の中に包み込んで来ているのか、
「何が胎児をそうさせたか」
というような事柄は全く説明されていない。否、一個の人間の精神の内容が、そんなような過去数億年間における、万有進化の遺跡そのものであるという事実すらも「人間は万物の霊長」とか「おれは人間様だぞ」とかいう浅《あさ》薄《はか》な自惚れに蔽い隠されて、全然、注意されていない状態である。
以上は胎児の胎生と、その胎生によって完成された成人の肉体と、精神上に現われている、万有進化の遺跡に関する不可思議現象を列挙したものであるが、次にはその人間が見る「夢」の不可思議現象について観察する。
夢というものは昔から不思議の代表と認められているので、少しでも意外なことに出会うと、すぐに「これは夢ではないか」と考えられるくらいである。実物とすこしも違わぬ森羅万象が見えるかと思うと、想像もおよばぬ、奇抜、不自然な風景や品物がゴチャゴチャと現われたり、その現われた風物に、現実世界における心理や物理の法則が、その通りに行なわれて行くかと思うと、神話、伝説にもないような突飛な法則によって、その風物が行きなりほうだいに千変万化したりするので、その夢の正体と、そうした夢の中の心理、景象の変化の法則については、古来幾多の学者が、頭を悩まして来たものであるが、ここにはそのような夢の特徴の中でも、夢の本質、正体を明らかにする手がかりとして、最も重要な左の三項を挙げる。
(一) 夢の中の出来事は、その進行して行く移り変りの間に、非常に突飛な辻褄の合わないところがしばしば出て来る。否。そのような場合の方がズッと多いので、そんな超自然な景象、物体の不合理極まる活躍、転変が、すなわち夢であると考えた方が早い。にもかかわらず、その夢を見ているうちには、そうした超自然、不合理を怪しむ気がほとんど起らないばかりでなく、その出来事から受ける感じが、いつでも真剣、真面目で、現実もしくは現実以上に深刻痛切なものがあること。
(二) いまだかつて、見たことも聞いたこともない風景や、ステキもない天変地妖が、実際と同様の感じをもって現われて来ること。
(三) 夢の中に現われて来る出来事は、それが何年、何十年の長い間に感じられる連続的な事件であっても、それを見ている時間は僅かに分、もしくは秒をもって数えうるほど短いものであることが、近代の科学によって証明されていること。
以上列挙して来たところの「胎児」と「夢」とに関する各種の不可思議現象は、何《なん》人《ぴと》も否定し得ない科学界の大疑問となっているのであるが、しかも、そうした不可思議現象が、何故に今日まで解決されていないか。これらの不思議を解決する鍵が、どうして今日まで、誰にも見当らなかったかという疑問について考えてみると、これには二つの原因がある。
その一つは人間を胎生させ、かつ、その胎生によって完成した成人に夢を見せるところの人体細胞に関する従来の学者の考え方が、全然間違っていること、それから今一つは、この宇宙を流れている「時間」というものに対する人類一般の観念が、根本的に間違っていること……とこの二つである。
言葉を換えて言えば、人体を組織している細胞の一粒一粒の内容は、その主人公である一個の人間の内容よりも偉大なものである。否。全宇宙と比較されるほどのスバラシク偉大複雑な内容、性能を持っているのである。だからその細胞の一粒の内容を外観から顕微鏡で覗《のぞ》き、その成分を化学的に分析し、その分裂、繁殖の状況をその形態や色彩の変化によって研究する従来の唯物科学式の行き方ではとうてい、細胞の内容、性能の偉大さはわかるものでない。それは英雄、偉人の生前の業績を無視して、たんにその屍体の外《がい》貌《ぼう》を観察し、内部を解剖することのみによって、その偉大な性格や性能を確かめようとするのと同様の無理な注文である。……また、時間というものについても同様のことが言える。……中央気象台や、われわれの持っている時計の針や、地球、太陽の自転、公転なぞによって示されていく時間というものは真実の時間ではない。唯物科学が勝手に製作し出した人工の時間である。錯覚の時間、インチキの時間である。……真実の時間というものは、そんな窮屈な、寸法で計られるような固苦しいものではない。モットモット変通自在な、玄怪不可思議なものである……という事実が実際に首肯できれば、同時に「胎児の夢」の実在が、首肯できるはずである。生命の神秘、宇宙の謎《なぞ》を解く鍵を握ったも同然である。
元来細胞なるものは、人間の身体の何十兆分の一という小さい粒々で、度の弱い顕微鏡にはかからないぐらいの微粒子である。だからその内容の複雑さや、その現わし得る能力の程度なぞも、やはり人間全体の能力の何十兆分の一ぐらいのものであろう……いずれにしても、極度に単純な無力なものであろう……というのが今日までの科学者の頭の大部分を支配して来た考えであった。だからその後その細胞の不可思議な生活、繁殖、遺伝等の能力が、次から次に発見されて科学者を驚異させて来たけれども、その研究は依然として顕微鏡で覗かれ、化学で分析され得る範囲……すなわち唯物科学で説明され得る範囲の研究に限られて来たもので、大体の考え方は、やはり人体の何十兆分の一という程度の単純な、無力なもの……という概念を一歩も踏出してはいない。そうしてソレ以上の研究をするのは唯物科学を冒《ぼう》涜《とく》するものである、学者として一つの罪悪を犯すものであるとさえ考えられて来た。
しかしこれは現代のいわゆる、唯物科学的な論法に囚《とら》われて来た学者連中が、細胞の内容や能力を、その形や大きさから考えて「多分これくらいのものだろう」という風に見当をつけた、極めて不合理な一つの当て推量が、先入主となったところから起った了簡違いである。生命の神秘、夢の不可思議なぞという科学界の大きな謎が、いつまで経っても不可解のままに取残されているのは、そうした「葭《よし》の髄から天井を覗く」式の囚われた、唯物論的に不自由、不合理な……モウ一つ換言すれば、科学に囚われ過ぎた非科学的な研究方法によって、広大無辺な生命の主体である細胞を研究するからであることが、ここにおいて首肯されなければならぬ。そんな旧式の学問常識や、囚われたコジツケ論に対する従来の迷信を一掃して、もっと自由な、囚われない態度で、宇宙万有を観察すると同時に、この問題を、もっと適切明瞭な、実際的な現象に照し合わせて考えてみると、その一粒の細胞の内容には、顕微鏡や化学実験室で観測、計量し得るよりも、遥かに偉大深刻な、実に宇宙全体と比較しても等差を認められないほどの内容が含まれている事実が、現代を超越した真実の科学知識によって気付かれなければならぬ。いわゆる、唯物科学的な研究、考察方法を、生命の綱と迷信している人々が、いかに否定しようとも否定できない事実に直面しなければならぬ。
その第一に挙げなければならぬのは、細胞が人間を造り上げる能力である。すなわち生命の種《た》子《ね》として母胎に宿った、ただ一粒の細胞は、前に述べた通りの順序で、分裂して生長しながら、先祖代々の進化の跡を次から次へと逐うて成長して来る。あそこはああであった、ここはこうであったと思い出し思い出し、魚、蜥蜴《とかげ》、猿、人間という順序に寸分間違いなく自分自身を造り上げて来る。しかも一概には言えないが、なるべく両親の美点や長所を綜合して、すこしでも進歩したものにしようとするので、耳、目、鼻、口の位置は万人が万人同様でありながら……これはあたしの児だ。誰にも似ている。彼にも肖《に》ている。癇《かん》癪《しやく》の起し具合はお父さんに生き写しだ。物覚えのいいところはあたしにソックリだ……なぞと極めて細かいところまで微妙に取合わせて行く。その細胞一粒一粒の記憶力の凄まじさ、相互間の共鳴力、判断力、推理力、向上心、良心、もしくは霊的芸術の批判力等の深刻さはどうであろう。更にその細胞の大集団である人間が、宇宙間の森羅万象に接してこれを理解し、またはこれに共鳴感激して、国家とか社会とかいう大集団を作って共同一致、人類文化を形成して行く。その創造力の深遠広大さはどうであろう。そのような、ほとんど全知全能とも言うべき大作用のすべては、帰納するところ、結局、最初のタッタ一粒の細胞の霊能の顕《あら》現《われ》でなければならぬ。換言すれば現代人類の、かくも広大無辺な文化といえども、その根元を考えてみると、こうした顕微鏡的な存在に過ぎない細胞の一粒の中に含まれている霊能が全地球表面上に反映したものにほかならぬのである。
◇備考 かように偉大な内容を持つ細胞の大集団が脳髄の仲介によって、その霊能をただ一つ、すなわち各細胞共通、共同の意識下に統一したものが人間である。だからその人間が現わす知識、感情、意志なぞいうものは、細胞一粒一粒のソレよりも遥かに素晴しいものでなければならないはずであるが、事実はその正反対になっているので、世界始まって以来、いかなる賢人、または偉人といえども、細胞の偉大な霊能の前には無力同然……太陽の前の星のごとく拝《はい》跪《き》しなければならない。すなわち人間の形に統一された細胞の大集団の能力は、その何十兆分の一に当る細胞の能力の、そのまた何十兆分の一にも相当しないという奇現象を呈している。これは人間の身体各部における細胞の霊能の統一機関……すなわち脳髄の作用が、まだ十分の進化を遂げていないために、細胞の霊能の全分的な活躍が妨げられているものと考えられる。同時に、地上最初に出現した生命《いのち》の種子である単細胞が、地上に最初に出現した時の初一念? とその無限の霊能が、その霊能を地上に具体的に反映さすべく種々の過程を経て、最有利、有能な人間にまで進化して来て、まだまだ有利、有能な生物に進化して行きつつある。その過渡期の未完成の生物が現在の人間であるがために、かような矛盾、不都合な奇現象が現われて来るものと考えられる次第である。しかしこのことは極めて重大な研究事項で、一朝一夕に説き尽し得べき限りでないから、ここにはただ参考として一言しておくに止める。
しかして人間の肉体、および精神と、細胞の霊能との関係が、かように明白となった以上「夢」なるものの本質に関する説明もまた、極めて容易となって来るのである。
すべての細胞はその一個一個が、われわれ一個人の生命と同等、もしくはそれ以上の意識内容と霊能を持っている一個の生命である。だから、すべての細胞は、それが何か仕事をしている限り、その労作に伴うて養分を吸収し、発育し、分裂増殖し、疲労し、老死し、分解消滅して行きつつあることは近代医学の証明しているところである。しかもその細胞の一粒一粒自身が、その労作し、発育し、分裂し、増殖し、疲労し、分解し、消滅して行く間に、その仕事に対する苦しみや、楽しみをわれわれ個人と同等に、否それ以上に意識している……と同時に、そうした楽しみや苦しみに対して、われわれ個人が感ずると同等もしくはそれ以上の連想、想像、空想等の奇怪、変幻を極めた感想を無辺際に逞しくして行くことは、あたかも一個の国家が興って亡びて行くまでの間に千万無量の芸術作品を残して行くのと同じことである。この事実を端的に立証しているものが、すなわちわれわれの見る夢である。
そもそも夢というものは、人間の全身が眠っている間に、その体内のある一部分の細胞の霊能が、何かの刺激で眼を覚まして活躍している。その眼覚めている細胞自身の意識状態が、脳髄に反映して、記憶に残っているものを、われわれは「夢」と名付けているのである。
たとえば人間が、不消化物をのみ込んだまま眠っていると、その間に、胃袋の細胞だけが眼を醒ましてウンウンと労働している。……ああ苦しい、やりきれない、これは一体どうなることか、どうしておれたちばっかりコンナにひどい目に逢わされるのか……などと不平満々でいると、その胃袋の細胞の涯しもない苦しい、不満な気持ちが、一つの連想となって脳髄に反映されて行く。すなわちその苦しい思いの主人公が、罪のないのに刑務所に入れられて、重たい鎖に繋がれて、自分の力以上の石を担がせられて、ウンウン唸りながら働いているところ……不可抗的な大きな地震で、家の下敷になって、もがきまわって、悲鳴を上げているところなぞ……そのうちにその苦しい消化の仕事が楽になって来るとヤレヤレという気持ちになる。……そうすると夢の中の気持ち……脳髄に反映されて行く連想や空想の内容も楽になって山の絶頂で日の出を拝んでいるところだの、スキーに乗って素晴らしいスロープを一気に辷《すべ》り下る気持ちだのに変る。
あるいはまた、寝がけに「彼女に会いたいな」と思って眼を閉じていると、その一念の官能的な刺激だけが眠り残っていて、彼女のところへ行きたくてたまらないのに、どうしても行けないじれったい気持ちを、夢として描き現わす。彼女の姿は美しい花とか、鳥とか、風景とかいうものによって象徴されつつ彼の前に笑み輝いているが、それを手に入れようとすると、いろいろな邪魔が出て来てなかなか近付けない。その細胞の記憶に残っている太古時代の天変地妖が、突然、眼の前に現われて来るかと思うと、祖先の原人が住んでいた地方の物凄い高山、断《だん》崖《がい》が見えて来る。その中を祖父が落ちぶれて乞食していた時の気持ちになったり、親父が泳ぎ渡った大川の光景を、同じ思いをして泳ぎ渡ったりする。または猿になって山を越えたり、魚になって海に潜ったりしつつ、千辛万苦してヤット彼女を……花、もしくは鳥を手に入れることができた……と思うと、最初のじれったい気持ちがなくなるために、その夢もお終《しま》いになって目を醒ます。
そのほか寝小便のお陰で、太古の大洪水の夢を見る。鼻が詰まったお陰で、溺《おぼ》れ死にかかった少年時代の苦しみを今一度、夢に描かせられるなぞ……かようにして手でも足でも、内臓でも、皮膚の一部でも、どこでもかまわない。全身が眠っている間に、何らかの刺激を受けて目を醒ましている細胞は、きっとその刺激にふさわしい対象を連想し、空想し、妄《もう》想《そう》している……何かの夢を見ている。すなわちその時その時の細胞の気持ちに相応した、または似通った場面や光景を、その細胞自身が先祖代々から稟《う》け伝えて来た記憶や、その細胞の主人公自身の過去の記憶の中から、手当りしだいに喚び起して、勝手気儘に重ね合わせたり、繋ぎ合わせたりしつつ、そうした気持ちを最も深刻、痛切に描き現わしている。もしそうした気分が非常識、もしくは変態的なもので、それに相応した感じを現わす連想の材料が見当らない場合には、すぐに想像の品物や、風景で間に合わせ、埋め合わせて行く。人体内における細胞独特の恐怖、不安を現わすために、蚯蚓《みみず》や蛇のようにのたくりまわる台所道具を連想したり、苦痛を現わすために、鮮血の滴る大木や、火焔の中に咲く花を描き現わしたりすることは、あたかも神秘の正体を知らない人間が、羽根の生えた天使を考えるのと同様である。
これはわれわれの眼が醒めている間の気分が、周囲の状況によって支配されつつ変化して行くのとは正反対で、夢の中では気分の方が先に立って移り変って行く。そうしてその気分にシックリする光景、風物、場面を、その気分の変って行く通りに、あとから追いかけ追いかけ千変万化させて行くのであるから、その千変万化がいかに突飛な、辻褄の合わないものであろうとも、その間に何らの矛盾も不自然も感じない。のみならず現実式の印象よりもかえって自然な、深刻、痛切な感じを受けるように思うのは当然のことである。
換言すれば、夢というものは、その夢の主人公になっている細胞自身にだけわかる気分や感じを象徴する形象、物体の記憶、幻覚、連想の群れを、理屈も筋もなしに組み合わせて、そうした気分の移り変りを極度にハッキリと描き現わすところの、細胞独特の芸術ということができるであろう。
◇備考 欧米各国における各種の芸術運動の近代的傾向は、無意味なもしくは断片的な色彩音響または突飛な景象、物体の組合わせ等によって、従来の写実的、もしくは常識的の表現法以上の痛切、深刻な気分を表現しようとすることによって、漸次、夢の表現法と接近しつつある。
夢の正体が、細胞の発育、分裂、増殖に伴う、細胞自身の意識内容の脳髄に対する反映であることは以上説明する通りであるが、次に夢の内容において感ずる時間と、実際の時間とが一致しない理由を明らかにする。すなわち一般の人々が、時計とか太陽とかによって示される時間を、真実の時間と信じているために、いかに大きな錯覚を起して、厳正な科学的の判断に錯覚を来たし、驚《きよう》愕《がく》し、面喰いつつあるかを説明すれば、この疑問はたちどころに氷解するはずである。
現代医学によると普通人の平静な呼吸の約十八、もしくは脈搏の七十幾つかを経過する時間を標準として一分間と定めている。その六十倍が一時間、その二十四倍が一日、そのまた三百六十幾倍が一年と規定してある。同時にその一年はまた、地球が太陽を一周する時間に相当することになっているので、信用ある会社でできる時計が示す時間は、万人一様に同じ一時間ということになっているのであるが、しかしこれは要するに人工の時間で、真実の時間の正体というものは、そんなものではない。その証拠には、その同じ長さの人工の時間を各個人が別々に使ってみると、そこに非常な相違が現われて来るから不思議である。
手近い例を挙ぐれば、同じ時計で計った一時間でも、面白い小説を読んでいる一時間と、停車場でボンヤリ汽車を待っている一時間との間には驚くべき長さの相違がある。尺竹で計った品物の一尺の長さが、万人一様に一尺に見えるようなわけにはいかないのである。または水に潜って息を詰めている一分間と、雑談をしている一分間とを比較しても思い半ばに過ぐることで、前者はたまらないほど長く感ずるのに反して、後者は一瞬間ほどにも感じない……というのが偽らざる事実でなければならぬ。
更に今一歩進んでここに死人があるとする。その死人はその死んだ後においても、その無感覚の感覚によって、時間の流れを感じているとすれば、一秒時間も、一億年も同じ長さに感じているはずである。またそう感ずるのが死後の真実の感覚でなければならぬので、すなわち一秒の中に一億年が含まれていると同時に、宇宙の寿命の長さといえども一秒のうちに感ずることができる訳である。この無限の宇宙を流れている無限の時間の正体は、そんなような極端な錯覚、すなわち無限の真実のうちに、矢のごとく静止し、石のごとく疾走しているものにほかならないのである。
真実の時間というものは、普通に考えられている人工の時間とは全く別物である。むしろ太陽、地球、その他の天体の運行、または時計の針の廻転なぞとは全然無関係のままに、ありとあらゆる無量無辺の生命の、個々別々の感覚に対して、同時に個々別々に、無限の伸縮自在さをもって静止し、同時に流れているもの……ということが、ここにおいて理解されるのである。
次に、地上に存在している生命の長さを比較してみると、何百年の間、茂り栄える植物や、百年以上生きる大動物から、何分、何秒の間に生まれかわり死にかわる微生物まであるが、大体において、形の小さい者ほど寿命が短いようである。細胞もまた同様で、人体各別の細胞の中で寿命の長いものと短いものとの平均を取って、人間全体の生命の長さに比較してみると、国家の生命と個人の生命ほどの相違があるものと考え得る。しかし、それらの長い、または短いいろいろの細胞の生命が、主観的に感ずる一生涯の長さは同じことで、その生まれて死ぬまでの間が、人工の時間で計って一分間であろうが、百年であろうが、そんなことには関係しない。生まれて、成長して、生殖し、老衰して、死滅して行きつつ感ずる実際の時間の長さは、どれもこれも同じ一生涯の長さに相違ないのである。この道理を知らないで、朝生まれて夕方死ぬ嬰《あか》児《んぼ》の哀れさを、同じく朝生まれて日暮れ方に老死する虫の生命と比較して諦めようとするのはばかばかしく不自然、かつ不合理な話で、畢《ひつ》竟《きよう》するところ、融通の利かない人工の時間と、無限に伸縮自在な天然の時間とを混同して考えるところから起る悲喜劇に過ぎない。
一切の自然……一切の生物は、かように無限に伸縮自在な天然の時間を、各自、勝手な長さに占領して、その長さを一生の長さとして呼吸し、成長し、繁殖し、老死している。同様に人体を作る細胞の寿命が、人工の時間で計っていかに短くとも、その領有している天然の時間は無限でなければならぬ。だからその細胞が、無限の記憶の内容と無限の時間とを使って、大車輪で「夢」を描くとすれば、五十年や百年の間の出来事を一瞬、一秒の間に描き出すのは何の造作もないことである。支那の古伝説として日本に伝わっている「邯《かん》鄲《たん》夢《ゆめ》枕《まくら》物語」に……盧《ろ》生《せい》が夢の五十年。実は粟《ぞく》飯《はん》一《いつ》炊《すい》の間……とあるのは事実、何の不思議もないことである。
以上述ぶるところによって、タッタ一粒の細胞の霊能が、いかに絶大無限なものであるか、その中でも特に、そのタッタ一粒の「細胞の記憶力」なるものが、いかに深刻、無量なものがあるかという事実の大要が理解されるであろう。人間の精神と肉体とを同時に胎生し、作り上げて行く「細胞の記憶力」の大作用を如実に首肯されると同時に……何が胎児をそうさせたか……という「胎児の夢」の存在に関する疑問の数々も、大部分氷解されたであろうと信ずる。
胎児は母の胎内にあって、外界に対する感覚から完全に絶縁されているために、深い深い睡眠と同様の状態にある。その間において、胎児の全身の細胞は盛んに分裂し、繁殖し、進化して、一斉に「人間へ人間へ」と志しつつ……先祖代々が進化して来た当時の記憶を繰り返しつつ、その当時の情景を次から次へと胎児の意識に反映させつつある。しかもその胎児は、前述の通り、母胎によって完全に外界の刺激から遮《しや》断《だん》されていると同時に、極めて平静、順調に保育されて行くために、ほかのことは全く考えなくてよろしい。ただ一心に「人間へ人間へ」という夢一つを守って行けばよろしいので、その夢の内容もまた、極めて順調、正確に、精細をきわめつつ移りかわって行く。この点が、勝手気儘な、奔放自在な成人の夢と違っているところである。
これを逆に説明すれば、胎児を創造するものは、胎児の夢である。そうして胎児の夢を支配するものは「細胞の記憶力」ということになる。すべての胎児が母胎内で繰り返す進化の道程と、これに要する時間が共通一定しているのはこのためで、現在の人類が、ある共同の祖先から進化して来たために、細胞の記憶、すなわち「胎児の夢」の長さが共通一定しているからである。またその無慮数億、もしくは数十億年にわたるべき「胎児の夢」が、僅かに十か月の間に見てしまわれるのも、前述の細胞の霊能を参考すれば、けっして怪しむべきことではないので、進化の程度の低い動物の胎生の時間が、割合に短いのは、そんな動物の進化の思い出が比較的簡単だからである。……だから元始以来、何らの進化も遂げていない下等微生物になると全然「胎児の夢」をもたない。祖先そのままの姿で一瞬の間に分裂、繁殖して行くという理由も、ここにおいてたやすく首肯されるはずである。
◇備考 如上の事実、すなわち「細胞の記憶力」その他の細胞の霊能が、いかに深刻、微妙なものがあるか、そうしてそれが一切の生物の子々孫々の輪《りん》廻《ね》転《てん》生《しよう》に、いかに深遠微妙な影響をおよぼしつつ万有の運命を支配して行くものであるかということについては、既に数千年以前から、エジプトの一神教を本源とする、各種の経典に説かれているので、現在、世界各地に余《よ》喘《ぜん》を保っているいわゆる、宗教なるものは、こうした科学的の考察を粉飾して、未開の人民に教示した儀礼、方便等の迷信化された残《ざん》骸《がい》である。だからこの胎児の夢の存在も、けっして新しい学説でないことを特にここに付記しておく。
しからば、そのわれわれの記憶に残っていない「胎児の夢」の内容を、具体的に説明すると、大要どのようなものであろうか。
これはここまで述べてきた各項に照し合せて考えれば、もはや、充分に推測され得ることと思うが、なお参考のために、筆者自身の推測を説明してみると大要、次のようなものでなければならぬと思う。
人間の胎児が、母の胎内で見て来る先祖代々の進化の夢の中で、一番よけいに見るのは悪夢でなければならぬ。
なぜかというと、人間という動物は、今日の程度まで進化して来る間に、牛のような頭角も持たず、虎《とら》のような爪《そう》牙《が》もなく、鳥の翼、魚の保護色、虫の毒、貝の殻なぞいう天然の護身、攻撃の道具を一つも自身に備え付けなかった。ほかの動物と比較して、はるかに弱々しい、無害、無毒、無特徴の肉体でありながら、それをそのまま、あらゆる激烈な生存競争場裡に暴露して、あらゆる恐ろしい天変地妖と闘いつつ、ついに今日のごとき最高等の動物にまで進化し、成上って来た。その間には、ほとんど他の動物と比較にならないほどの生存競争の苦痛や、自然淘汰の迫害等を体験して来たはずで、その艱《かん》難《なん》辛苦の思い出は実に無量無辺、息も吐《つ》かれぬくらいであったろうと思われる。その中でも自分の過去に属する、自分と同姓の先祖代々の、何億、何千万年にわたる深刻な思い出を、一々ハッキリと夢に見つつ……それを事実と同じ長さに感じつつ……ジリジリと大きくなって行く、胎児の苦労というものは、とてもその親たちがこの世で受けている、短い、あさはかな苦労なぞのおよぶところではないであろう。
まず人間のタネである一粒の細胞が、すべての生物の共同の祖先である微生物の姿となって、子宮の内壁のある一点に付着すると間もなく、自分がそうした姿をしていた何億年前の無生代に、同じ仲間の無数の微生物と一緒に、生暖かい水の中を浮遊している夢を見始める。その無数とも無限とも数え切れない微生物の大群の一粒一粒には、その透明な身体に、大空の激しい光を吸収したり反射したりして、あるいは七色の虹を放ち、または金銀色の光《こう》芒《ぼう》を散らしつつ、地上最初の生命の自由を享楽しつつ、どこを当てともなく浮遊し、旋回し、揺《よう》曳《えい》しつつ、その瞬間瞬間に分裂し、生滅して行く、そのはかなさ、その楽しさ、その美しさ……と思う間もなく自分たちの住む水に起った僅かな変化が、形容に絶した大苦痛になって襲いかかって来る。仲間の大群がみるみる中に死滅して行く。自分もどこかへ逃げて行こうとするが、全身を包む苦痛に縛られて動くことができない。その苦しさ、たまらなさ……こうした呵《か》責《しやく》が、やっと通り過ぎたと思うと、たちまち元始の太陽が烈火のごとく追い迫り、蒼《あお》白《じろ》い月の光が氷のごとく透過する。あるいは風のために無辺際の虚《こ》空《くう》に吹き散らされ、または雨のために無間の奈落に打落される。こうして想像もおよばぬ恐怖と苦悩の世界に生死も知らず翻弄されながら……ああどうかしてモット頑丈な姿になりたい。寒さにも熱さにも堪えられる身体になりたい……と身も世もあられず悶《もだ》え戦《おのの》いているうちに、その細胞はしだいに分裂増大して、やがてその次の人間の先祖である魚の形になる。すなわち暑さ寒さを凌《しの》ぎ得る皮肌、鱗、泳ぎ廻る鰭や尻尾、口や眼の玉、物を判断する神経なぞが残らず備わった、驚くべき進歩した姿になる。……ああ有難い、これなら申分はない。おれみたような気の利いた生物はいまい……と大得意になって波打際を散歩していると、コワいかに、自分の身体の何千倍もある章《た》魚《こ》入道が、天を蔽うばかりの巨大な手を拡げて追い迫って来る。……ワーッ助けてくれ……と海藻の森に逃込んで、息を殺しているうちにヤット助かる。そこでホッと安心してソロソロ頭を持上げようとすると、今度は、思いもかけぬ鼻の先に、前の章魚よりも何十層倍大きな海《うみ》蠍《さそり》の鋏《はさみ》が詰め寄って来る。スワまた一大事と身を翻して逃げようとすると、背中から雲かと思われる三葉虫が蔽いかかる。横の方からイソギンチャクが毒《どく》槍《そう》を閃《ひらめ》かす。その間を生命からがら逃出して、小石の下に潜り込むと……ブルブル、ああ驚いた。情ないことだ。コンナ調子ではまだ安心して生きておられない。一緒に進化して来た生物仲間は物騒だというので、自分の身体を固い殻で包んだり、岩の間から手足だけ出しているが、自分はあんなことまでして、この暗い重苦しい水の中に辛抱しているのは厭《いや》だ。それよりも早く陸《おか》に上りたい。あの軽い、明るい空気の中で自由に、伸び伸びと跳《とび》廻《まわ》れる身体になりたい……と一所懸命に祈っていると、そのお陰で、小さな三つ眼の蜥蜴みたようなものになってチョロチョロと陸の上にはい上ることができた。
……ヤレ嬉しや。ありがたや……とキョロキョロと駈けまわる間もなく、今度は世界が消え失せるばかりの大地震、大噴火、大《おお》海嘯《つなみ》が四方八方から渦巻き起る。海は湯のように沸《わ》き返って逃込むところもない。焼けた砂の上で息もたえだえに跳ねまわっているその息苦しさ、セツナサ……その苦しみをヤッと通り越したと思うと今度は、山のような歩《イグア》竜《ナドン》の趾《あし》の下になる。飛《プテラ》竜《ノドン》の翼に跳ね飛ばされる、始《アルケ》祖《オフエ》鳥《リクス》の妖怪然たる嘴《くちばし》にかけられそうになる。……アアたまらない。やりきれない。一緒に進化して来た連中は、身体中に刺を生やしたり、近まわりの者に色や形を似通わせたり、甲羅を被ったり毒を吹いたりしているが、あんな片輪じみた、卑怯な、意気地のない真似をしなくとも、もっと正しい、囚われない、温柔《おとな》しい姿のまんまで、この地獄の中に落ち着いていられる工夫はないかしらんと……石の間に潜んで、息を殺して念じ詰めていると、頭の上の顱頂孔《ヒクメキ》のところにある眼玉が一つ消え失せて、二つ眼の猿の形に出世して、樹から樹へ飛び渡れるようになった。
……サアしめたぞ。モウ大丈夫だぞ。おれぐらい自由自在な、進歩した姿の生物はいまいと、木の空から小手を翳《かざ》していると、思いもかけぬ背後から蟒《うわ》蛇《ばみ》が呑みに来ている。ビックリ仰天して逃出すと、頭の上から大《おお》鷲《わし》が蹴落しに来る。枝の間を伝わって逃げおおせたと思うと、今度は身体中に蝨《だに》がウジャウジャとタカリ始める、山《やま》蛭《ひる》が吸付きに来る。寝ても醒めても油断ができないうちに、やがて天地も覆る大雷雨、大《だい》颶《ぐ》風《ふう》、大氷雪が落ちかかって、樹も草もメチャメチャになった地上を、死ぬほど、狂いまわらせられる。……ああ……セツナイ。たまらない。自分は何も悪いことはしないのに、どうしてコンナにひどい目にばかり遭うのであろう。どうかしてモット豪い者になって、コンナ災難を平気で見ておられる身体になりますように……と木の空洞《うつろ》に頭を突込んで、胸をドキドキさせながら祈っていると、ようようのことで尻尾が落ちて、人間の姿になることができた。
……ヤレ嬉しや。有難や。これからいよいよ極楽生活ができるのかと思っていると、どうしてどうして、夢はまだお終いになっていない。人間の姿になるとすぐにまた、人間としての悪夢を見始めるのである。
胎児の先祖代々に当る人間たちは、お互い同士の生存競争や、原人以来遺伝して来た残忍卑怯な獣畜心理、そのほかいろいろ勝手な私利私欲を遂げたいために、直接、間接に他人を苦しめる大小様々の罪業を無量無辺に重ねて来ている。そんな血みどろの息苦しい記憶が一つ一つ胎児の現在の主観となって眼の前に再現されて来るのである。……主君を殺して城を乗っ取るところ……忠臣に詰腹を切らして酒の肴《さかな》に眺めているところ……奥方や若君を毒害して、自分の孫に跡目を取らせるところ……病気の夫を乾し殺して、仇《あだ》し男と戯れるところ……生んだばかりの私生児を圧殺するたまらなさ……嫁女に濡《ぬれ》衣《ぎぬ》を着せて、首を縊《くく》らせる気持ちよさ……憎い継《まま》子《こ》を井戸に突落す痛快さなぞ……そのほか大勢で生娘を苛《いじ》める、その面白さ……妻子ある男を失恋自殺させる、その誇らしさ……美少年、美少女を集めて虐待する、その気味のよさ……大事な金を遣い棄てる、その愉快さ……同性愛の深刻さ……人肉の美味《おいし》さ……毒薬実験……裏切行為……試し斬り……弱い者苛め……なぞ種々様々のタマラナイ光景が、眼の前の夢となって、クラリクラリと移り変って行く。または自分の先祖たち……過去の胎児自身が、隠しおおせた犯罪や、人に言い得ずに死んだ秘密の数々が、血《ち》塗《まみ》れの顔や、首なしの胴体や、井戸の中の髪毛、天井裏の短刀、沼の底の白骨なぞいうものになって、次から次に夢の中へ現われて来るので、そのたんびに胎児は驚いて、おびえて、苦しがって、母の胎内でビクリビクリと手足を動かしている。
こうして胎児は自分の親の代までの夢を見て来て、いよいよ見るべき夢がなくなると、やがて静かな眠りに落ちる。そのうちに母体に陣痛が始まって子宮の外へ押し出される。胎児の肺臓の中にサッと空気が入る。その拍子に今までの夢は、胎児の潜在意識のドン底に逃げ込んで、今までとまるで違った表面的な、強烈、痛切な現実の意識が全身に滲み渡る。ビックリして、おびえて、メチャクチャに泣き出す。かようにしてその胎児……赤ん坊はヤットのこと限りない父母の慈愛に接して、人間らしい平和な夢を結び始める。そうしてやがて「胎児の夢」の続きを自分自身に創作すべく現実に眼醒め始めるのである。
何の記憶もないはずの赤ん坊が、眠っているうちに突然におびえて泣き出したり、または何か思い出したようにニッコリ笑ったりするのは、母胎内で見残した「胎児の夢」の名残りを見ているのである。生まれながらの片輪であったり、精神の欠陥があったりするのに対しても、それぞれに相当の原因を説明する夢が、その胎生の時代にあったはずである。または胎児の骨ばかりが母胎内に残っていたり、あるいは固まり合った毛髪と歯だけしか残っていないようないわゆる、鬼胎なるものが、時々発見されるのは、その胎児の夢が、何かの原因で停頓するか、または急激に発展したために、やりきれなくなって断絶した残骸でなければならぬ。
以上
空前絶後の遺言書
――大正十五年十月十九日夜
――キチガイ博士手記
ヤアヤア。遠からん者は望遠鏡にて見当をつけい。近くんば寄って顕微鏡を覗《のぞ》いて見よ。われこそは九州帝国大学精神病科教室に、キチガイ博士としてその名を得たる正木敬之とはわがこと也。今日しも満天下の常識屋どもの胆っ玉をデングリ返してくれんがために、突然の自殺を思い立ったるそのついでに、古今無類の遺言書を発表して、これを読む奴と、書いた奴のドチラがばかか、気違いか、真剣の勝負を決すべく、一筆見参仕るもの……われと思わん常識屋は、眉《まゆ》に唾《つば》して出で会い候え候え……
……と書き出すには書き出してみたが、サテ一向に張合いがない。
……ないはずだ。吾輩は今、九大精神病学教室、本館階上の教授室の、自分の卓《テー》子《ブル》の前の、自分の廻転椅子に腰をかけて、ウイスキーの角《かく》瓶《びん》を手近に侍《はべ》らして、万年筆を斜めに構えながら西洋大判罫紙《フールスカツプ》の数帖と睨《にら》めっくらをしている。頭の上の電気時計はタッタ今午後十時をまわったばかり……横《よこ》啣《くわ》えをした葉巻からは、紫色の煙がユラリユラリ……何のことはない、糞《くそ》勉強のヘッポコ教授が、居残りで研究をしている恰好だ。トテモ明日の今頃には、お陀《だ》仏《ぶつ》になっている人間とは思えないだろう。……アハハハ……。
吾輩は、いつもコンナ風に、常識を超越していないと虫が納まらない性分でね。とにもかくにも吾輩を一種の狂人と認めている満天下の常識屋諸君に同情するよ。
そこでだ……そこで何から書き始めていいかトント見当が付かないが……何しろ遺言書なぞを書くのは後にも先にも今度が初めてだからね。
しかし、ここいらでチョイト普通人の真似をして、常識的の順序を立てて書くことにすると……まず第一に明らかにしなければならぬのは吾輩の自殺の動機であろう。
ソモソモ吾輩の自殺の動機というものは一人の可憐な少女に関連している……ということが断言できる……エヘン。笑っちゃいけない。
そもそもその少女の美しいことといったら、とてもとても、とても、とてもと二、三十行書いて止めておいた方が早わかりするくらいだ。世界中のハンカチの上箱、化粧品のレッテル、婦人雑誌の表紙、衣裳屋の広告人形、ビール店、百貨店のポスターなんどのあらん限りを引っぱり出して来ても……欧米のキネマ撮影所を全部引っくり返して来ても、こんなに勿《もつ》体《たい》ないほど清らかな、痛々しいほど匂《にお》やかな、気味の悪いほどウイウイしい……アハハハハハ。これくらいにしておこう。年がいもなくソンナ別《べつ》嬪《ぴん》に肱《ひじ》鉄《てつ》砲《ぽう》を喰って、この世をダアと観じたな……なぞと感違いされては困るから……。そんな御心配はコッチから願い下げでござる。何を隠そう、その少女は今から半年ばかり前に、人間の戸籍から削られているのだから……。
そんならその少女が死んだためにこの世をはかなんで……なぞとまた、早飲込みをする常識屋が出て来るかも知れないが、ちょっと待ったり……慌ててはいけない。現在、死人の戸籍に入っているその少女は、近いうちに自分のシャン振りと負けず劣らずの、ステキ滅法界もない玉のごとき美少年と、偕《かい》老《ろう》同穴の契を結ぶことになっているのだ。そこで吾輩のこの世における用事もハイチャイを告げることになるのだ……と言ったらまた、頭のいい痴呆患者が出て来て……そんならイヨイヨ発狂自殺だ。おおかた死んだ美少女と、生きた美少年のラブシーンを夢に見るか何かして、気が変になったのだろう……何かと考えるかも知れない。
……どうも驚いたな。遺言書なんてものはコンナに書きにくい、じれったいものとは知らなかった。しかしそれでもせっかく自殺するのだから、何とか書いておかないと、アトで張り合いがないだろうと思って、お負けのつもりで書く訳だが、何を隠そう、その鬼籍に入った美少女とピンピン生きている美少年とが、現実に接吻、抱擁することによって、吾輩が畢《ひつ》生《せい》の研究事業である精神科学の根本原理……すなわち心理遺伝と名づくる研究発表の結論となるべき実験が、めでたしめでたしになる手筈になっているのだ。
どうだい。コンナ面白い、痛快な学術実験が、またとほかにありますかい。アハハハ……。
イヤ。おそらくないはずだ。……というのは第一に、この実験の基礎となっている精神科学という学問が、吾輩独特の新規新発明に属するものなんだから……のみならずその中でもまた、吾輩専売の精神病学の実験というのが、普通の医学や何かのソレと違って、鳥や獣や人間の屍体なぞを相手に研究はできない。なぜかと言うと、鳥や獣はある種の精神病患者と同様、最初から動物性の丸出しで研究材料に不適当だし、死んだ人間には肝《かん》腎《じん》の実験材料になる魂がない。必ずやピンピン溌《はつ》溂《らつ》たる人間の、正しい、健康な精神を材料に使わねばならぬ。そんなりっぱな精神が、突然に発狂して、やがてまた、しだいしだいに回復して行く……その前後の移り変りをコクメイに研究して、記録して行かなければならないのだから大変である。ことに吾輩が研究の主題《テーマ》として選んだ材料を、今の学者の流儀で名付けると、遺伝性殺人妄想狂、早発性痴呆、兼変態性欲とも名付くべき、世にもややこしい代《しろ》物《もの》と来ているんだから、厄介このうえもない。
そんな実験の材料として選まれる人物はトテモ生やさしいお方ではない。ウッカリするとこっちがギューとやられるかも知れないのだから、吾輩は冒頭《のつけ》から生命がけで、この実験に取りかかったものだが、とうとうその実験の煽《あお》りを喰って、自分自身が自殺にまで追い詰められることになって……イヤ。まだ自殺までには大分時間があるから、充分、十二分に落ち着いて、紫の煙と琥《こ》珀《はく》色《いろ》の液体を相手に悠々と万年筆を揮《ふる》うことにする。
諸君もユックリ読んでくれ給え。遺言とか何とか言ったって気楽なもんだ。ナマンダ式やアーメン式、または無念残念式とはネタが違う。キチガイ博士のキチガイ実験の余興みたいなもんだ。残る煙がお笑いの種明しだ。……吾輩の研究の中心となっている稀《き》代《たい》の美少年と、絶世の美少女との変態性欲に関する破天荒の怪実験が、ドンナ学理の原則に支配されて、ドンナ風に緊張し、白熱化しつつ、実験者たる吾輩の全生涯を粉砕すべく爆発しかけて来たかという、その自然発火の裏面のカラクリが、しだいしだいに手に取るごとく判明して来るんだから……。
話はすこし以《ま》前《え》にさかのぼる。
今年の十月の何日であったかに、福岡の某新聞の学術欄で、吾輩の「脳髄は物を考えるところに非ず」という意味の談話が連載された時の、世論の反響のドエラサには正直のところタジタジと来たね。「人間という動物は自《うぬ》惚《ぼ》れと迷信で固まっているものだ」ぐらいのことはウスウス知っていないではなかったが、それにしてもコンナにまで篦《べら》棒《ぼう》なものであろうとは、この時がこの時まで気が付かなかった。彼ら、すなわち常識屋は、新聞に、雑誌に、念入りなのは書信に、もっと御念入りなのは吾輩に直接面会などいう、ありとあらゆる手段をもって、吾輩の放言をタタキつぶすべく試みた。殊に肝をつぶすべきは、研究の自由をモットーとしているこの大学の中で、お上品な顔をして、アゴを撫でたり、ヒゲを捻《ひね》ったりしている教授連中までが、一斉に奮起して、「あの非常識にして暴慢、不謹慎な、狂人学者《ヒポマニー》をタタキ出せ。しからずんば赤煉瓦の中へタタキ込んでしまえ」というので、机を叩いて総長に迫ったという。
これを聞いた時にはさすがに海千山千の吾輩も、尻に帆を上げかけたね。大学の中だけは学術研究の安全地帯だと思っていたのが、あに計らんやのビックリ箱と来たもんだからね。幸いにして総長が、行政官じみた事なかれ主義の男で、体よくマアマア式に切り抜けたお陰で、吾輩も今日までマアマアに有り付いて来た訳だが、それにしても考えてみれば阿《あ》呆《ほ》らしい話じゃないか。ドウセ、博士とか大学教授とかになる人物なら、一番上等のところで名誉狂か、研究狂程度の連中にきまっている。それを恥かしいとも思わないで、今一枚上手の名誉狂兼研究狂である吾輩を捉まえて、キチガイ呼ばわりをするんだから、片腹痛からざるを得ないではないか。この時に吾輩が、いかに片腹痛かったかは、吾輩の親友若林学部長が知っている。
「コンナ塩《あん》梅《ばい》式《しき》では吾輩の精神解剖学や精神生理、精神病理、心理遺伝なぞいうものは、とても剣《けん》呑《のん》で発表できないね。普通の人間よりも、精神病者の方が、気がたしかだという学説なんだからね。ハハハハ……」
「そうですねえ。科学ぐらい人類を侮辱しているものはないということを大ていの人間は知らずにいるのですからね」
「そうだとも。しかし『人間は猿の子孫也』と聞いて、ソレ見ろと得意になっている連中が……お前たちはみんなキチガイだと言われると、慌てて憤《おこ》り出すところは奇観じゃないか。猿の進化したものが人間で、人間の進化したものがキチガイだという事実を知らないばかりじゃない。全然反対の順序に考えているらしいんだからね。ワッハッハッハッハ……」
なぞと笑い合ったくらいだから……。
だから吾輩は訂正追加のために、手許に取り寄せていた「脳髄論」の公表までも差し控えてしまった。そうして約半年後の今日ただ今、そんな著述の原稿を一緒に、みんな引っくるめて焼き棄ててしまった。
ナニ。別に理由はない。つまらないからサ。
人類の文化は、吾輩の研究を受け入れるべく、余りにアホラシク幼稚だからサ。……しかも、そんな大きな事実に二十年もの永い間、気付かないで、コンナ桁《けた》外《はず》れの研究に黒煙を立て続けてきた吾輩のアホラシサが、今更にシミジミとわかって来たからサ。あるいは吾輩の精神異常が、こうして静まりかけているのかも知れないが……呵《か》々《か》……。
……但し……そんな著述の中でも一番美《お》味《い》しいロースのクラシタどころだけは、この遺言書の中に留めておいて、適当の時代に、こうした研究を想い立つであろうキチガイ学者の参考に供することにした。その中でも吾輩の「脳髄論」の内容は、ここに挟んだ切抜きの通り、既に新聞にすッぱ抜かれているので、これ以上の内容がある訳でもないから、惜しいことはちっともない。また、精神解剖学以下、精神病理学に到る研究のヒレどころも、既に、二十年前に吾輩が卒業論文として九大に提出したこの「胎児の夢」の論文の中に含まれているのだから大略するとして、ここにはただ、吾輩大得意の「狂人の解放治療」と「心理遺伝」の関係について略記しておきたいと思う。
これを前の新聞記事や、胎児の夢の論文と一緒に読めば、前述の美少年と美少女を材料とする怪実験が、大正十五年の十月十九日……すなわち今日の正午を期して、空前の成功を告げると同時に、絶後の失敗に終ったという、奇々怪々な精神科学の学理原則の活躍が、明々、歴々と判明して来る。同時に現代文化の粋を極めた常識とか、学識とかいうものが、一挙に木ッ葉微《み》塵《じん》となって、あとには空《から》っぽの頭《ず》蓋《がい》骨《こつ》だけが、累々として残ることになる……という訳なんだが……。
……ところで……エート。ここいらでチョット失敬して、消えた葉巻に火をつけるかな。……実は大好物でね。どんなに貧乏生活をしている時でも、コイツとアルコール分だけは座右に欠かさなかったものだが……もはや死ぬまでに何本というところまで漕ぎ付けたんだから、一つ勘弁して頂きたい。ハハハハ……。
お待ち遠さま……サテしかるにだ……吾輩の極楽行きの直接原因を生んだかの「狂人解放治療場」を見た人々は、誰でも狂人の散歩場ぐらいにしか思っていないようである。中には新聞の記事などを読んで「ハハアなるほど」なぞとうなずく者がいたかと思うと、すぐにあとから「いかにもねえ。こうしておけば狂人も昂奮しませんね」とか「ハハア。一種の光線治療ですね」などと、知ったか振りを言うくらいのことで、誰一人としてこの実験の正体を看破した者はいないから面白い。否。この実験の秘密はこの教室で仕事をしている副手や助手にさえも洩したことはないのだから、彼らはただ、何か非常に高遠な実験らしい……ぐらいにしか心得ていないのであるが、実は他愛ない……しかもステキに面白い実験なのだ。「解放治療」などいうしかつめらしい名前は、世を忍ぶ仮の名に過ぎないのだ。
何を隠そうこの「解放治療」の実験は吾輩がかつて、当大学の前身であった福岡医科大学を卒業する時に書いた「胎児の夢」と名付くる一篇の論文の実地試験にほかならないのだ。
但し吾輩が「胎児の夢」の中に並べ立てた引例は皆、人類各個お互い同士に共通した、喰いたい、寝たい、遊びたい、喧嘩したい、勝ちたいといった程度の心理の遺伝で、ごくごく有り触れた種類のものばかりであるが、ここで研究しているのは、それよりもモットモット突込んだ、個人個人特有の極端、奇抜な心理遺伝の発作なんだ。近頃流行の猟奇趣味とか、探偵趣味なぞいうものが、足元にも寄り付けないくらい神秘的な、尖《せん》端《たん》的《てき》な、グロテスクな、怪奇、毒悪を極めた……ナニ、まだ見たことがないから見せてくれ。お安い御用だ。タッタ今お眼にかけよう……。
……サアサアいらっしゃい、いらっしゃい。世界中、どこを探しても見られぬ生きた魂の因果者の標本、日中の幽霊、真昼の化け物、ヒュードロドロの科学実験はこれじゃこれじや……見料は大人が十銭、子供なら半額、盲人は無《た》料《だ》……アッ……そんなに押してはいけない。狂《きち》人《がい》連中に笑われますぞ。お静かにお静かに……。
……エヘン……。
ここに御紹介致しまするは、九州帝国大学、医学部、精神病科本館の裏手に当って、同科教授、正木先生が開設されましたる、狂人解放治療場の「天然色、浮出し、発声映画」とございます。映写致しまする機械は、最近、九大医学部におきまして、眼科の田西博士と、耳鼻科の金壺教授とが、正木博士と協力致しまして、医学研究上の目的に使用すべく製作されましたもので、実に精巧無比……目下米国で研究中の発声映画なぞはトーキーおよばない……画面と実物とに寸分の相違もないところにお眼止めあらんことを希望致します。
まず……開巻第一に九州帝国大学医学部の全景をスクリーンに現わして御覧に入れます。
御覧の通り九大の構内と構外とは一面に、一と続きの松原の緑に埋められておりますが、その西端に二本並んだ大煙突の下に見えますみすぼらしい青ペンキ塗り、二階建の西洋館が、天下に有名なるキチガイ博士、正木先生のおられる精神病学教室の本館で、そのすぐ南側に見えます二百坪ほどの四角い平地が、これから御紹介申上げます「狂人の解放治療場」でございます。……撮影機と技師とを搭載致しました飛行機はだんだんと下降致しまして、精神病科本館階上、教授室の南側の窓の縁に着陸致します。……まるで蜻蛉《とんぼ》か蠅《はえ》なんぞのようで……時に大正十五年十月十九日……の午前正九時と致しておきましょうか。
この解放治療場を取巻いておりまする赤煉瓦の塀《へい》は、高さが一丈五尺。これに囲まれました四角い平地は全部この地方特有のまっ白い石英質の砂でございますから、清浄この上もありません。まん中に桐の木が五本ほど、黄色い枯れ葉を一パイにつけて立っております。この桐の木はズット以前からここに立っておりまして、本館の中庭の風《ふ》情《ぜい》となっておったものでございますが、この解放治療場開設のため周囲を地《じ》均《なら》し致しまして以来、かように著しい衰弱の色を見せて参りましたのは、何かの凶《わる》い前兆と申せば申されぬこともないようであります。あるいはこの桐の木が、かような思いがけないところに封じ込められたために精神に異常を呈したものではないかとも考えられるのでありますが、しかしその辺の診断は、当教室でもまだ気が付きかねております。……無駄を申上げまして恐れ入りました。
治療場の入口は、東側の病室に近いところにただ一つ開いておりまして、便所への通路を兼ねておりますが、その入口板戸の横に切り開けられた小さな横長い穴から、黒い制服制帽の人相の悪い巨漢が、御覧の通り朝から晩まで、冷たい眼付で場内を覗いているところを御覧になりますると、この四角い解放治療場の全体が、さながらに緑の波の中に据えられた巨大な魔術の箱みたように感じられましょう。
この魔術の箱の底に敷かれました白い砂が、一面にまっ青《さお》な空の光を受けて、キラキラと輝いております上を、黒い人影が、立ったり、坐ったりして動いております。一人……二人……三人……四人……五人……六人……都合十人おります。
これが正木博士のいわゆる「脳髄論」から割出された「胎児の夢」の続きである「心理遺伝」の原則に支配されて動いている狂人たちであります。……しかも、これから三時間後……大正十五年十月十九日の正午となりまして、海向うのお台場から、轟《ごう》然《ぜん》たる一発の午《ド》砲《ン》が響き渡りますと、それを合図にこの十人の狂人たちの中から、思いもかけぬスバラシイ心理遺伝の大惨劇が爆発致しまして、天下の耳目を衝動させると同時に、正木先生を自殺の決心にまで逐い詰めることに相成るのでありますが、その大惨劇の前兆とも申すべき現象は、既にただ今から、この解放治療場内にアリアリと顕《あら》われているのでございますから、よくお眼を止められまして、狂人たちの一挙一動を精細に御観察あらんことを希望致します。
そこでその精細な御観察の便宜と致しまして、この十人の狂人たちの一人一人の姿を大写しにして御覧に入れます。
まず、最初に現わしまするは、西側の煉瓦塀の横で、双《もろ》肌《はだ》脱《ぬ》ぎになって、セッセと働いている白髪の老人でございます。この老人は御覧の通り、両手に一梃の鍬《くわ》をつかんで打振りながら、煉瓦塀に平行した長い畑を二畝半ほど耕しておりますが、しかしその体躯《からだ》を見ますと御覧の通り、腕も脛《すね》も生白くて、ホッソリ致しておりまするのみならず、老齢の労働者に特有の、首筋をめぐる深い皺《しわ》も見えませんので、いずれに致しましても、こんな百姓の仕事に経験のある者とは思われません。ことにミジメなのはその掌で、鍬を握っておりますから、よくは見えませんが、その鍬の柄のところどころに、黒い汚《し》染《み》がボツボツとコビリ付いて見えましょう。あれは、その掌の破れたところからニジミ出している血の痕《あ》跡《と》でございます。しかも……老人は、それでも屈せず、撓《たゆ》まず、セッセと鍬を打ち振って行くところを見ますと、正木博士の発見にかかる、心理遺伝の実験が、いかに残忍、冷厳なものであるかということが、あらかた、おわかりになるでございましょう。
次にあらわしまするはその横に突っ立って、老人の畠打ちを見物致しております一人の青年でございます。お見かけの通り黒っぽい木《も》綿《めん》着物に白木綿の古《ふる》兵《へ》児《こ》帯《おび》を締めて、頭髪を蓬《ほう》々《ほう》とさしておりますから、多少老けて見えるかも知れませんが、よく御覧になりましたならば、二十歳前後のういういしい若者であることが、おわかりになりましょう。久し振りに日《ひ》陽《なた》に出て来ましたせいか、肌が女のように白く、ホンノリした紅《あか》い頬《ほお》に、何かしらニコニコと微笑を含みながら、鍬を振り廻す白髪の老人の手許を一心に見守っております。その表情だけを見ますと、ちょっと普通人かと思われますが、なおよくお眼を止めて御覧下さい。その眼《まな》眸《ざし》と、瞳《ひとみ》の光の清らかなこと……まるで深窓に育った姫君のように静かに澄み切って見えましょう。これはある種類の精神病者が、正気に返る前か、または発作を起す少し前に、現わしまする特徴で、正木博士が始終手にかけておられました、真狂と偽狂の鑑定の中でも特に鑑別し難い眼付きなのでございます。
次には今の老人と青年の、遥《はる》か背後《うしろ》の方にかがまっている一人の少女にレンズを近付けてみます。お見かけの通り、幽霊みたように青白く瘠《や》せこけたソバカスだらけの顔で、赤茶気た髪をくくり下げに致しておりますが、老人が作りました畠の縁《へり》にかがみまして、繊《か》細《ぼそ》い手でいろんなものを植え付けております。桐の落葉、松の枯枝、竹片、瓦《かわら》の破片なぞ……中にはどこで見付けたものか、青い草などもあります。しかし何しろ相手の畠が、サラサラした白砂の畝《うね》でございますから、竹の棒なぞはウッカリすると倒れそうになるのを、御覧の通りいろいろと世話を焼いてまっすぐに立てております。あんなめんどうくさいことをせずとも、グッと砂の中に突込んだら良さそうなもの……と思われる方があるかも知れませんが、それは失礼ながら素《しろ》人《うと》考えで……この少女は瓦片や竹の棒なぞを、やはり普通の草花か何かの苗だと信じ切っておりますので、けっしてそんな乱暴な扱いを致しません。さも大切そうに根方に砂を被せておりまするところがねうちで……しかし、それでもせっかく、世話してやった竹の棒が二、三度も倒れますと……アレ、あの通り癇癪を起しまして、柔かい草の苗と同じように、竹の棒を何の苦もなく引き千切って棄ててしまいます。あの繊細《かよわ》い、細い腕から、どうしてあんな恐ろしい、男もおよばぬ力量《ちから》が出るかと、怪しまるるばかりでございますが、実は人間というものは、どんな優しい御婦人でも、大ていあれくらいの力は持っておられますので……ただ……人間は、ほかの動物に比べて上品な、弱いもの……殊に女は……といったような暗示が、先祖代々から積み重なって来た結果、それだけの力を出し得ずにおりますので、それが精神に異常を来たすか、地震、火事といったような、一大事にぶつかるか致しますと、その暗示が一時的に破れまするために、本来の腕力に立ち返りますることが、現在、ただ今、この少女によって証拠立てられておるのでございます。毎度説明が脱線致しまして申訳ありませんが、これは正木博士の「心理遺伝」を逆に証明する実例でございますから、特に申添えました次第でございます。
その次にあらわしまするは、破れたモーニング・コートを着た毬《いが》栗《ぐり》頭《あたま》の小男で、今の老人と、青年と、少女の一群がいるところとは正反対側の、東側の赤煉瓦塀に向って演説をしているところでございます。
「……達磨は面壁九年にして、少《しよう》林《りん》の熊《ゆう》耳《じ》と言われました。故に吾人は九年間面壁して弁論を練り、糊《こ》塗《と》縦横の政界を打破りまして、あらゆる不平等を平面にすべく……来たるべき普選の時代において……すなわち、その……吾人が……」
と大声をあげるかと思うと、思い出したように右《め》手《て》を高くあげて左右に動かしております。
その背後を一人の奇妙な姿をした女が通って行きます。御覧の通り、まことに下品な、シャクレた顔をした中《ちゆう》年《どし》増《ま》で、顔一面に塗り付けております泥は、厚化粧のつもりだそうでございます。着物の裾《すそ》も露《あら》わな素《す》跣《あ》足《し》で、ボロボロの丸帯を長々と引きずっておりますが、誰がこしらえてやりましたものか、ボール紙に赤インキを塗った王冠の形の物を、ザンバラの頭の上に載せて、落ちないようにあおのきつつジロリジロリと左右を睨《ね》めまわしながら女王気取りで、行きつ戻りつ致しておりますところはナカナカの奇観でございます。
その女が前を横切るたびごとに、桐の木の根方に土下座をして、あまたたび礼拝を捧げておりまする髯《ひげ》だらけの大男は、長崎の某小学校の校長でございます。親代々の耶《や》蘇《そ》教《きよう》信心が、この男に到って最高潮に達しました結果、この病院へ収容されますと、煉瓦や屋根瓦の破片に聖像を彫って、同室の患者たちに拝ませたり致しておりましたが、ただ今はまた、かの女王気取りの狂女を、マリヤ様の再来と信じまして、随喜、渇仰の涙を流しているところでございます。
それからまた、あの土下座している髯男の周囲《まわり》を跳ね廻っておりますお垂《さ》髪《げ》の少女は、高等女学校の二年生で、元来、内気な、憂《ゆう》鬱《うつ》な性格でございましたが、芸術方面に非常な才能をあらわしておりまするうちに、いわゆる、早発性痴呆となったものでございます。……ところが、その発病と同時に、今までの性格がガラリと一変致しましたもので、ここへ入院致しました当時、正木院長から名前を尋ねられた時にも「あたしは舞踏狂よ……アンナ・パブロワよ」と答えたという病院きっての愛嬌者で、いつも御覧の通り、自作の歌を唄いながら、踊りまわっているのでございます。
青《あ》アオい空《そ》オラを見イたら
白《し》イロい雲《く》ウモが高《た》アカく
黒《く》ウロい雲ウモが低《ひ》イクく
仲《な》アカア良オくウ並《な》アらんで
フウラリフウラリ飛んで行《く》よ
フウララフウララフゥ――ララ……
あたいも一緒に並《な》アラんでエ
フウラリフウラリ歩いたらア
赤《あ》アカい壁《か》アベにぶつかったア
フウララフウララフゥ――ララ……
フウララフウララフゥ――ララ……
また、こちらの方では四十ぐらいの職人風の男が二人、親密そうに肩を組んで、最前の年増女と直角の方向に、行きつ戻りつしております。もっとも右側の男は東京見物、左側の一人は南極探検の意味で、かように意気が投合して、大旅行を続けているのだそうですから、まことに世話が焼けません。それからこちらの入口のところに坐っております肥ったお婆さんは、相当な身分の人らしいことが、その上品な着物の柄で推量できますが、しかし御本人は、そんなつもりではないらしく、いつもあのように貧民窟に住んでいるような恰好で、おりもせぬ虱《しらみ》を一所懸命に取っては潰《つぶ》し、抓《つま》んでは棄てております……かと思うとアレ……あの通り帯を解いて丸《まる》裸体《はだか》になりまして、大きな音を立てながら着物をハタキ始めますので、そのたんびに演説屋も、二人の職人も、女学生も、心理遺伝の発作を中止して、指さし、眼さし、腹を抱えております。
さて……以上、映写致しましたところの狂人たちの一挙一動を御覧になりました方々の中には、必ずや意外に思われた方が、おありになるに相違ないと存じます。
「……ナアンダイ……こりゃあ。当り前の狂人じゃないか。何もこの解放治療場に限ったことはない。どこの精神病院の散歩場に行っても、こんな光景が見られるじゃないか。狂人の解放治療場と言うくらいだから、眼もはるかな広っ場《ぱ》に、何百か何千かわからぬ狂人の群れが、ウジャウジャして、あらん限りの狂態を演じている光景が見られるのかと思っていたが、これじゃチットモ張合がない。第一心理遺伝なんて、どこが心理遺伝なのかサッパリわからないじゃないか」
……と……失望、落胆、軽《けい》蔑《べつ》、冷笑される方がキットおありになることと存じますが、まあ、そう急がずにお待ち下さい。実を申しますと正木先生の御研究に係る、心理遺伝の実験に使う人物はこれだけでたくさんなので、この中の二、三人の狂態が、いかなる心理遺伝によって演出されつつあるものであるかを、映画について簡単に説明致しましただけでも、世界中のありとあらゆる精神異常の原因は残らずおわかりになろうという……申さばこの十人の精神病患者は地上千万無数の狂人の中から選み出された精神異常の代表的チャンピオン……もしくは正木博士の過去二十年間の御研究に係る心理遺伝の原理を、身をもって直接に証明すべく現われた、世界的の標本とも見られるのでございます。
その先頭第一に御紹介致しまするは、最前から赤煉瓦塀の横で畠を打っております、あの白髪頭の老人でございます。
この老人は、名前を鉢《はち》巻《まき》儀作と申しますが、その五代前の祖先、すなわちこの儀作の曾々祖父に当ります者は、福岡の御城下、鳥飼村におりました名高い豪農で、同名儀十と申す者でございました。その儀十という男は、生まれ付き左利きでございましたが、なかなかの体力と精力の持主で、自分一代のうちに鍬一本で、大身代を作り上げて、御領主黒田の殿様から鉢巻という苗《みよう》字《じ》と帯刀を許されたという立志伝中の人物だそうでございます。
ところでまた、何が故にそのような奇妙な苗字を頂戴におよんだかと尋ねますると、この鉢巻と申しまするのは、元来この男の若い時分の綽《あだ》名《な》でございました。つまり汗を拭う時間が惜しいというので、田畠の仕事を致します時には、いつも眉の上のところに、手拭で後ろ鉢巻を致しておりましたところから来た綽名だというのでございますから、いかにその働き振りが猛烈であったかが、おわかりになるでしょう。夜が明けてから暮れるまでの間に休むのはタッタ一度だけ……福岡、舞鶴城の天守の櫓《やぐら》で、午《うま》の刻……ただ今の正午のお太鼓がドーンと聞こえますと、すぐに鍬を放り出して、近くの堤《どて》か草原の木陰か軒下に行って弁当を使う。それから約半刻《とき》……と申しますとただ今の一時間でございますな。その間、午睡《ひるね》をしてから、ムックリ眼を醒ましますと、また日が落ちて、手元が見えなくなるまで休まないというのですから、豪気なもので……多分この男も一種の偏執性性格といったような素質を持った人間でございましたろうか。その赤黒い額に残った白い、横一文字の鉢巻の痕《あ》跡《と》が、息を引き取った後までも消えなかった。殿様の前に出た時も同様でございましたので、お側におった慌て者が「コレコレ鉢巻を取れ」と申しましたところから、殿様が大層、興がらせられて、かような苗字を賜わったという、世にも名誉ある鉢巻でございました。
ところが、それから物変り星移りまして、その鉢巻儀十から五代目に当るこの儀作爺さんになりますと、その名誉ある鉢巻も左利きも、それから惜しいことにその大身代も、どこかへなくしてしまいまして、博多名物の筆屋の職人に成り下りました。そうしてかように老年におよびまして、眼が霞んで細かい筆毛が扱えないようになりましたために、余儀なく失職することに相成りますと、それを苦に致しました結果、精神に異常を来たしまして、一週間ばかり前に、当大学に連れ込まれるという、憐れな身の上と相成ったのでございます。
ところが不思議でございます。正木先生がこの爺さんの発狂の動機、すなわち心理遺伝の内容を探るべく、解放治療場に解放されましてから間もなくのことでございました。場内の片隅に、小使が蛇を殺したまま置き忘れて行った鍬を見付けますと、早速先祖の真似を始めました。もっとも鉢巻は致しませんが、御覧の通り最前から一度も汗を拭いません。また、鍬を持っている手付きも、発狂前と正反対の左利きになっておりまして、十二時の午《ド》砲《ン》を聞きますと同時に、鍬を投げ出して病室に帰って、サッサと食事を済まして、ゴロリと寝台の上に横になるところまで、五代前の儀十の生まれ代りとしか思えません。但し一度寝てしまいますと、疲労が甚だしいせいか、あくる朝までブッ通しに白河夜舟で、晩飯も何も喰いません。おおかた夢の中で、曾々祖父の儀十になって、大身代でも作っているのでございましょう。
……これが心理遺伝の第一例……御質問がありましたら御遠慮なくお手をお上げ下さい。
次に御紹介致しまするは最前から、赤煉瓦の壁に向って演説を致しております破れモーニングの小男でございます。これは、あの空中で振り動かしております右の手付と、物を支え持ったような恰好にしている左の手と、それからあの演説の中に使っている言葉が、有力な参考になるのでございます。
「……これは帝国の前途に横たわる一大障壁であります。今日のごとく上塗りの思想が横行し、糊塗縦横の政治が永続しているならば、われわれ日本民族の団結は、あの切《す》藁《さ》を交えぬ土塀のごとく、外来思想の風雨のために、遠からず土崩瓦《が》解《かい》の運命に……」
いかがです。最前からお聞きの通り、この毬栗のフロック先生の演説の中には、壁という文句や、または壁に関係した言葉が、度々出て参ります。すなわちこの小男の母方の祖父は、黒田藩御用の左官職であった……お笑いになっては困ります。落語ではございません……でありまして、その祖父の左官職人が、ある時、福岡城の天守櫓の上で仕事を致しておりますうちに、過って足を辷らして墜落惨死を致したのでございますが、しかも、その祖父というのは元来、何事につけても身の軽いのが自慢だったそうで……天守台の屋根に漆《しつ》喰《くい》のかけ直しをする時なぞは、殿様が遠眼鏡で、その離れ業を御上覧になったくらいだそうでございます。そのほか平生の時にも足場を極めて簡略にして仕事をする癖がありましたために、出来上りは早うございましたが、何度も足がかりを誤ったり、途中に引っかかったりして生命《いのち》を喪《うしな》いかけましたのを、いつも奇跡的に助かって来たのでございました。
しかるに、それが幾歳の時でございましたか、やはり天守のお屋根の絶頂に登って、殿様の遠眼鏡の中で働いておりまするうちに、ウッカリ殿様の方へお尻を向けました。すると、それを下から見上げておりました係の役人が、よせばいいのに大音をあげまして「心せいやーい。御本丸から御上覧ぞーう」と余計な注意を致しましたために、思わず固くなったものでございましょう。たちまち足を踏み辷らしまして、数丈の石垣から転がり落ちつつ、粉微塵となって相果てました。それ以来、その家の左官の職は絶えたのでございますが、サテその祖父の血が、その娘を通じて、このモーニングの小男に伝わりますと、恐ろしいものでございます。この男は中学時代までも、時々夜中に寝《ね》呆《ぼ》けて跳ね起きまして「助けてくれ」とか何とか言って叫び出す癖がありました。そのつどに家族の者が驚かされて「どうしたのか」と落ち着かせて聞いてみますと「何だか高い屋根か、雲の上みたようなところから、まっ逆様に落ちて行くような気がした」と申しましたそうですが……ナント奇妙ではございませんか。かように普通人の眼から見れば何でもない、軽い夢中遊行の発作にまでも、何代か前の先祖が幾度となく「ハッ」とした刹《せつ》那《な》の、徹底した恐怖の記憶が再現しているところなぞは、なんという不思議な心理遺伝の実例でございましょう。……否、あに、独りこの演説男のみに限らんやであります。一般にわれわれが睡眠中に、どこか高いところから落ちたような気がして、ハッと眼を醒ますことがありますのも、この例に照してみますと、格別、不思議でございません。われわれの両親でも祖父母でも、誰でも一度や二度は経験しているであろう「シマッタ」とか「おれは死ぬんだッ」とか思う瞬間の、悽《せい》愴《そう》、悲痛を極めた観念の記憶が、一つの心理遺伝となって、われわれ子孫に伝わったものの再現であろうことは、誰しも疑い得なくなるでございましょう。
御質問はございませんか……。
ついでに今一つ御紹介致しますると、あのボール紙の王冠を頭に戴いて、行きつ戻りつしている年増女でございます。これはあの衣紋のクリコミ加減でもおわかりになります通り、ある町家の娘で、芸妓に売られておった者でございますが、なかなかの手取りと見えて、間もなくある若い銀行家に落《ひ》籍《か》されることになりました。ところがその銀行家の両親が昔《むかし》気質《かたぎ》の頑《がん》固《こ》者《もの》揃《ぞろ》いで「身分違い」という理由の下に、彼女を正妻に迎えることを許しませんでしたので、彼女はそればかりを無念がりました結果、ある宴会の席上で、初めてのお客に向って「アンタが何ナ……わたしに盃指すなんて生意気バイ」と啖《たん》呵《か》を切りますと、イキナリその盃を相手にタタキつけて、三味線を踏み折ってしまった……そのまま当《こ》病《ち》室《ら》へ連れて来られたという痛快なローマンスの持ち主でございます。しかし、思案の外《ほか》とは申しながら、昔と違いました新思想の今日で、ことに浮気稼業の身の上でございますから、それくらいのことで取り乱すのはチト気が狭過ぎるように思われるかも知れませんが、そこが「心理遺伝」の恐ろしいところで、「身分違い」という言葉が、彼女のプライドを傷つける以上に深い打撃を与えたであろうことが、彼女の発病後の態度を御覧になるとわかります。あの通りトテモ見識ばったお上品ずくめで、腰付きから眼づかい、足どりまでも上つ方のお上《じよう》臈《ろう》ソックリでございます。すなわち彼女の家筋が、御維新前までは京都の鍋《なべ》取《とり》公《く》卿《げ》……貧乏華族の成り損ねであったことを、彼女はその精神異常によって証明致しておりますので、本籍の名前も町人らしくない清河原という苗字でございます。つまり彼女は、発病致しませぬ前までは、環境《まわり》の風俗にカブレて町家の娘らしく振舞っていたでございましょうが、一旦、精神に異常を呈してしまいますと、最近、一、二代の間にできた町家風の習性をケロリと忘れて、先祖代々の堂上方の気風を、そのままにあらわしているのでございます。
……ハイ……御質問ですか。サアどうぞ……。
……ナナ……ナル……ナルホド……いかにもごもっとも千万よくわかりました。つまり「心理遺伝」というものはタッタそれだけのものか……タッタそれんばかりの研究のために、正木博士は生命がけの騒ぎをやっているのか……とおっしゃるのですね。
……恐れ入りました。多分その御質問が出る頃と存じましたから、このフィルムの編集者の方でも気を利かしまして、次には心理遺伝の発見者である当の正木博士を、正面のスクリーンに映写致しますと同時に、ただ今の御質問について一場の講演をさせる順序に取計らっております。……九大の狂人博士として、アインスタイン、スタインナハ以上に有名な正木博士がスクリーンに現われましたならばなにとぞ、割れんばかりの拍手をもって、お迎えあらんことを希望致します。なぜかと申しますと当の御本人が非常な拍手好きで、講義中でも学生に拍手させるのを何よりの楽しみに致しておったぐらいでございますから……ナニ……何ですか……スクリーンの中からじゃ、手を叩いても聞こえまい……?……。アハハ。これはごもっとも千万……ところが聞こえるから不思議でございます。論より証拠……たたいて御覧になればわかることで……どこに種仕掛けがあるかは、眉に唾をつけて御覧になれば、すぐにおわかりになることと存じますが……エヘンエヘン…………。
……エエ……これが天下に有名な九州帝国大学医学部、精神病科教授、医学博士、正木敬之氏でございます。背景は九州帝国大学、精神病科本館、講堂のボールドで、白い診察服を着ておりますのは、平生の講義姿をそのままに画面にあらわしたものでございます。
お眼に止まりました通り、身長は五尺一寸キッカリしかない、色の浅黒い小男でございますが、丸い胡麻塩頭を光るほど短く刈込んだところから、高い鼻の左右にピカピカ光る大きな鼻眼鏡と、その下に深く落凹んだ鋭い眼付き、横一文字にピッタリと結んだ大きな口元、または鼻眼鏡をかけた骸《がい》骨《こつ》ソックリの表情で、テーブルの前に立ちはだかって、諸君を一渡り見まわしてから、総入れ歯をクワッと剥《む》き出して笑うところまで、満身これ精力、全身これ胆、渾《こん》身《しん》これ知……。
……どうも……そうお笑いになっては困ります。……ナニ。質問……ハイハイ何ですか。ハハア。説明している私と、画面の中の正木博士と同一人か別人か……。
アハハハハハ。これは失敗……早速退散致しまして画面の中の私……否。正木博士に説明させることに致します。【説明者消失】
【映写幕上の正木博士、身振りに従って発声】
……エヘン……オホン……。
……吾輩は満天下の新人諸君と、この銀幕上において相《あい》見《まみ》ゆることを生涯の光栄とし、かつ無上の満足とする者である。
諸君は常識の世界に住んでいながら、非常識の世界に憧憬《あこが》れている人々である。現在、地上の到るところ……汽車、汽船の行き尽すきわみ、自動車、飛行機の飛びつくす隈《くま》々《ぐま》に厳然とコビリつき、冷え固まっている社交上の因襲、科学に対する迷信、外国の模倣、死んだ道徳観念……なぞいう現代社会のいわゆる常識なるものに飽き果て、変化溌剌、奔放自在なる生命の真実性そのものの表現を渇望する心……すなわち溢《あふ》るるばかりの好奇心に輝く眼をもって、吾輩の畢生の研究事業たる「心理遺伝」の実験を見られると、たちどころにこれを理解された。一般の精神病者なるものが、いかなる力に支配されて、何事を行なっている者であるかという事実を何の苦もなく首肯された。……のみならず諸君の好奇心は、それだけに満足しないで、更に、百尺竿《かん》頭《とう》一歩を進めた質問を発せしめた。曰く……「心理遺伝はタッタそれだけのものか」……と……。すなわち諸君の頭脳は、吾輩の二十年分の研究と相伯仲する……否……正木キチガイ博士の頭のスピード以上の明快なるスピードをもって……イヤ……有難う。まだ拍手するには早いよ……この点について吾輩は特に、満腔の敬意と感謝とを表明する次第である。
……何を隠そう。吾輩のいわゆる「極端な心理遺伝」が、ただ、そんな風にして精神病者にだけ現われるものならば、大して驚くことも、心配することもないのだ。もっとも今まで説明して来た程度の研究でも、そこいらにウジャウジャしているオタマジャクシ学者なんかにとっては眼の玉がデングリ返るほどの大発見かも知れないが、しかし、かく申す吾輩、キチガイ博士にとっては、躄《いざり》の乞食が駈け出したくらいにしか感じない程度の新発見に過ぎないのだ。
吾輩が「心理遺伝」の恐しいことを、大声疾呼して主唱する所以《ゆえん》の第一は、それがかようにして精神病者に現われるばかりでない。普通人……すなわち諸君や吾輩にも精神病者と同様に、フンダンに現われていることが、明らかに証明できるからなのだ。
……ナニ。質問……イヤ。ちょっと待ってくれ給え。質問の意味はアラカタわかっている……それでは精神病者と普通人との区別が、わからなくなるではないか。そんな篦《べら》棒《ぼう》な話があるものか……と言うんだろう。
……ところが純正な科学者の立場から言うと、そんなベラボーな話が「ある」と言う以外に返事のしようがないから困るのだ。しかも精神病者とおんなし程度どころの騒ぎではない。われわれ……むろん諸君も含んでいるんだよ……の精神生活の中には、精神病者と寸分違わない……もしくはソレ以上のモノスゴイ「心理遺伝」が、朝から晩まで、一分、一秒の隙《すき》間《ま》もなく活躍している……眠っている間も夢となって立ち現われて、執念深くわれわれの心理を支配しているから困るのだ。そのために自分の心が、自分で自由にならない場合が非常に多いから困るのだ。おかげで新聞、雑誌の社会記事が、無限に提供されて行くことになるのだから、問題にしないわけにいかなくなって来るのだ。
……これはズット以前、新聞記者にチョット話したことがある。心理遺伝の中でもごくごく手軽い実例ではあるが、なくて七癖、あって四十八癖というやつは、精神病者と同様に、自分の気持ちが自分で自由にならない好適例である。しかも、それを他人からドンナに笑われても、または自分自身で是非とも改めなければならぬ必要を感じていても、どうしても止めることができないのは、ソレが今言う心理遺伝のあらわれだからである。……泣くまいと思ってもツイ涙が出る。憤る場合でないと思っても、思わずムラムラッと来て、前後を忘却してしまうのも、やはり一時的の精神の偏《かたよ》りを、自分で持ち直すことができない……という性格を、先祖の誰からか遺伝して来ているので、とりも直さず心理遺伝のあらわれにほかならないから困るのだ。
そのほか、凝り性、厭《あ》き性、ムラ気、お日和機嫌、胴忘れ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、男あさり、女たらし、変態心理などの数を尽して百人が百人、千人が千人とも多少の精神異常的傾向を持たない者はない。心理遺伝に支配されていない者はないから大変なのだ。
この道理は吾輩がズット前に書いた「胎児の夢」という論文を読めば一層よくわかるが、人間の精神とか霊魂とかいうヤツは要するに、その先祖代々の動物や人間から遺伝して来た、いろいろな動物心理や民衆心理などの無量無辺の集まりに過ぎないのだ。その表面を「コンナことをしたら笑われる」とか「もし見付かったら大変だ」とかいういわゆる人間の皮一枚で包んで、その上からまた、倫理、道徳、法律、習慣なぞいうテープで縛って、社交、礼節、身分、人格なぞいうさまざまなリボンやレッテルで飾り立てて更にその上からもう一つ、お化粧や油で塗りこくって、パラソルやステッキを振り廻しながら「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンでござる」「あなたがレデーならわたしも淑女だわ」「ウヌが人間ならおれ様も人間だ」といった風に、肩で風を切って白昼の大道を闊歩するのがいわゆる普通人……もしくは文化人にほかならないのだ。
ところが、こうしたアイタイずくめの文化人の包装は、その低級深刻にして、奔放無頼なる心理遺伝の内容を洩らすまいとして、いつも一パイに緊張している。その苦し紛れに、ソッと少しずつ息を抜きながら、人前だけを繕って知らぬ顔をしているのが普通人であるが、それがトテモ我慢し切れなくなって、どうかした拍子に大きく破れることがある。それが個人では癇《かん》癪《しやく》、脱線、喧嘩、殺傷、詐欺、泥棒、姦《かん》通《つう》その他の背徳行為となり、破れて復旧しないものは精神異常者となり、大勢の間では暴動となり、戦争となり、悪思想となり、頽《たい》廃《はい》的《てき》風潮となる。こうした心理遺伝の暴露の実例は、毎日の新聞でウンザリするほど見せ付けられているであろう。
吾輩はあえて断言する……諸君も吾輩も共々に、精神病者と五十歩百歩の心理状態で生きているのだ。普通人と精神病者との区別が付けられないのは、刑務所の中にいる人間と、外を歩いている人間との善悪の区別が付けられないのと同じことである。すなわち地球表面上は古往今来ソックリそのまま「狂人の一大解放治療場」となっているので、九大の解放治療場は、その小さな模型に過ぎないのだ。その証拠には、その中にいる患者たちも、やはり諸君やわれわれと同様に「おれはキチガイではないぞ」と確信しつつ、盛んに心理遺伝を発揮しているではないか……と……。
ハハハハハ……どうだい諸君。少々腹が立ちはしないか。ナニ。……立たない……エライエライ。なるほど諸君はりっぱな常識屋だ。現代文化を代表するに足る紳士淑女たちだ……エッ。何だって……? そうじゃない。相手がキチガイ博士だから、初めから本当にして聞いていない。……?……ウハッ。こいつは恐れ入った。そこまで常識が発達していちゃかなわない。
よろしい。その儀ならばこっちにも覚悟がある。由来、科学の研究は厚顔無恥、無礼無作法をもって本領とする。御免をこうむりついでにモット手近いところで人間諸君の赤恥を突つき出して、是非とも一つ腹を立てさせて進ぜることにしよう。
これはドナタでも御経験のことと思うが、すこし頭がボンヤリして来ると、いろいろな空想や幻覚が、次から次に浮き出して来るものである。
ところがこの空想とか幻覚とかいうやつが、とりも直さず心理遺伝の幽霊にほかならないので、学問的に説明すると、脳髄の反射交感機能が疲労、凝滞したために、理知や、常識との連絡を失ったいろいろな心理遺伝のアラレもない連中が、全身の反射交感機能の中で我勝ちに、勝手気儘な夢中遊行を始めたものに相違ないのである。……とりあえず女ならば、障子の陰で、洗濯物か何かをツヅクリ廻しながら、来し方、行く末のことを考えまわしているうちに、いつの間にか取止めもないことを考え始める……あのデパートのあの指輪を万引して、もし見付からないものだったらナアとか……今の亭主が今のうちに財産を残して死んだら、あんな好い人とコンナ面白い生活ができるんだけどナアとか……憎いアン畜生を、こんな風に嬲《なぶ》り殺しにしたらナアとか……お義《つ》母《か》さんに猫イラズを服《の》ませたら、ドンナにか清々するだろうにナアとか……あんな役者と心中したらとか……いっそのことバンパイヤになってやろうかしらん……なぞと……。また、男は男で、電車の窓から外を見て、長々と欠伸《あくび》でもしながら……あの紳士の横ッ面を引っ叩《ぱた》いたらドンナ顔をするだろう……この町に風上から火を放《つ》けて、火の海にしてしまったらドンナに綺麗だろう。あの群集を撫で斬りにしたらドンナに痛快だろう。あの瀬戸物屋にダイナマイトをブチ込んだら……あの巡査の向う脛をタタキ折ったら……あの金魚屋の金魚を電車通りにブチまけたら……あんなお嬢さんを妾《めかけ》にしたら……あの銀行の金庫をポケットに入れたら……なぞいう、飛んでもない光景を、その人間の鼻の先で描いている。そうしてハッと気が付いては、独りで赤面したりしている。
これはみんな、自分の先祖代々の連中が、やってみたくてたまらないままに、ジッと我慢してきた残忍性、争闘性、野獣性、または変態心理なんどの面々が、入れ代り立ち代り現代式の姿で、われわれの意識の中に立ち現われているので、そんなことはないなぞ言うのは、内省力のない石頭か、あっても忘れている低能連中に過ぎない。その証拠には、そんな夢遊心理のドレカ一つが昂進し過ぎて、精神異常にまで出世したのを見るとわかる。ちょうど小説の濃厚な場面に読み入って、そうした光景を意識のうちに描きながら、思わず涎《よだれ》を垂らす時のように、精神病者の病み疲れた反射交感機能の中では、そんな遺伝心理が、現実の気持ちや感じ以上に強烈、深刻に夢遊しあらわれている……と同時に、それ以外の意識はほとんど打ち消されてしまっているから、本人はシラ真剣になってその夢遊意識をその通りに実行する。だからそのすること、なすことが、一々先祖から伝わって来た気持ちの通りになって行くのだ。ソックリそのまま吾輩の学説とピッタリ一致して来ることになるのだ。
今を去ること三千余年。ここを距《さ》ること三千里。
天《てん》竺《じく》は仏《ぶつ》陀《だ》迦《が》耶《や》なる菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》下《か》において、過去、現在、未来、三《さん》世《ぜ》の実相を明らめられて、無上正等正覚に入らせられた大聖釈《しや》迦《か》牟《む》尼《に》仏《ぶつ》様が「因果応報」と宣《のたも》うたのはここのことじゃ。親の因果が子に報いじゃア……エエカナア……。アハハハハハハハ。白骨の御文章ではない。投げ銭も放り銭も要らぬ。現代科学の中でも最新、最鋭の精神科学の講義だ。諸君が日常フンダンに経験している恐ろしい精神生活の説明だ。
しかし諸君。まだ驚いては早過ぎるよ。精神科学の原理原則は、もっともっと恐ろしい、驚目、駭《がい》心《しん》に価する事実を提供しているんだよ。
今まで説明して来たところによって、既にアラカタ理解されているであろう。人間の代が変るのは、われわれが眠って、また醒めるようなものである。一夜眠ったら昨日のことなぞ、キレイに忘れていそうなものだが、サテ起き上ってみると、ほとんど無意識に、大工は昨日建てかけた家の続きを建てに行き、左官も同様に昨日の壁の続きを塗りに行く。そうするとまた、昨日のことを思い出して……ハテ昨日、ここで十銭玉をオッコトシタが……とか、きのうのちょうど今時分に、向うを別嬪が通ったっけが……とかいうので、昨日のその時分に、そこでそうした通りに、キョロキョロしたり、ポカンとなったりする。
精神の遺伝もその通り……親は昨日の自分で、子は明日の自分じゃ。夜は昨日の自分から、今日の自分が生まれて来る、暗い、無自覚のみごもりの姿になる時間じゃ。
されば男女を問わず、人間は自分の先祖がかつて、そんな気分、精神状態になった場面、品物、時候、天候なぞいう、いわゆる、暗示にブツカルと、今の大工や左官と同様に、ありし昔の心理状態に立ち返る……しかもそんな風にして先祖代々から遺伝して来た心理は、一つや二つじゃないぞよ。また、そうした心理の暗示となるべき場面、品物、天候なぞいうもの、そこいら中にベタ一面に充満していて、夜となく、昼となくわれわれの心理遺伝を刺激し続けていて、眼の見える限り、耳の聞こえる限り、一刻一刹那も休んでいないのだから恐ろしいぞよ。われわれの一生を支配している「艮《うしとら》の金神」というのは、実にこの「心理遺伝」の原則であるぞよ。今にエライ証拠を出すぞよ……。
アハハハハハ。大本教のお筆先と間違えてはいけない。われわれが日常に経験している極めて平凡な事実だ。われわれの気持ちが朝から晩までフンダンにクラリクラリと変化し、入れ換って行く……活動見に出かけるつもりが、途中でフイッと縁日の夜店に引っかかったり……旅支度で家を飛び出した奴が、図書館にモグリ込んだり……好いた同士が結婚間際でイヤになったり……鉄《かね》の草鞋《わらじ》で探し当てたタッタ一つの就職口をハガキ一本で断ったりするような、重大な心理の変化が引っきりなしに起るのは、そうした種々雑多な、無量無辺の暗示が、引っきりなしにわれわれの心理遺伝を支配しているからで、それを自分自身に気付かないでいるのは、そうした暗示と心理遺伝の関係の千変万化が、あまりに刹那的で、微妙、深刻を極めているからだ。
……ところで……どうだい諸君。こうした暗示と心理遺伝の関係をモット深く、学理的に研突したら、イロンナ面白いイタズラができそうには思えないかね。ちょうど物理や化学の実験を見るように、他人の精神に対して思い通りの変化が与えられそうには思わないかね。
手近い例を挙げると、人間の犯罪心理というものは、実につまらない……または全然、何の関係もないと思われる暗示のお陰で、意想外に大きな刺激を与えられている場合が、非常に多いものである。……たとえば赤インキを付けたペン先をジッと見詰めているうちに、なぜともなく横にある女優の写真の眼玉に突き刺してみたくなったり……青い空や白い壁を見つめているうちに、フイッと残忍な気持ちになったり……窓の外の霧を見ると、ピストルの手入れをしてみたくなったり……大風の音を聞いているうちに、短刀を懐にして歩いてみたくなったり……よく切れる剃《かみ》刀《そり》を見ると、鏡の中の自分の顔と見比べてニヤニヤと笑ってみたり……寝床の中で女が冗談に「殺してもいいわよ」と言った笑顔を見てホントウに殺す気になったり……応接間に聞こえて来る小鳥の啼《な》き声が、今の今まで真面目であった男女の間に、不倫な情緒を起させるキッカケになったり……なぞする。そんな気持ちの変化を見ると、別段に、なぜという理屈の付けようのないところが、心理遺伝のあらわれに相違ないので、しかもそのいずれもが、スバラシク大きな犯罪心理の最初の芽生えであることは言うまでもない。
または、古い講談、随筆、伝説、記録なぞいうものを読んでいると、先祖が見てはいけないと言い残した幽霊の掛軸を見てから、妙なことを口走るようになったの、抜いてはならぬと禁《いまし》められている伝家の宝刀を抜いて見ているうちに、血相が変って来たの……というような話が、いくらでも出て来るのは、そうした恐ろしい心理遺伝の暗示の力を、誰にでもよくわかる品物であらわしてあるので、吾輩が調査記録した書類の中にも、そんな例が山を積むほどある。
ところで、こんな暗示の怖るべき作用を、学理的に研究して、ドシドシ実際に応用することができるとなったら、ドンナことになるだろう。犬山道節、石川五右衛門、天竺徳兵衛、児来也以上の幻魔術が現代に行なわれ得ることになりはしまいか。
それほどでなくとも、この種類の暗示を巧みに利用すると、出会い頭に他人を発狂させることができる。無調法な現代の科学応用の兇器みたように、音を立てたり血を流したりしないから、白昼の往来で傍を通っている者でも怪しまない。当代のいかなる名探偵が駈け付けて来ても全然目星の付けようのない犯罪が行なえる……否、現在そこいらでドシドシ行なわれているとしたらどうだね。
フフフフ……そんなに固くなって坐り直さなくともいい。イクラ吾輩が精神科学の大家でも、このスクリーンの中から暗示を与えて、満場の諸君を一斉に発狂させる術は、まだ発見していないからね。もっとも、そんなことができたら面白いだろう……とは思っているんだが……ハッハッハッ……。
イヤ、これは冗談だが、こうした犯罪手段は既に、空想や、推測の範囲を通り越して、眼の前の問題となって来ている。事実は常に研究に先立って存在するものである……と言ったらチョット眉に唾《つば》液《き》を付けてみたくなるであろう。
ところが驚くなかれだ。現に吾輩の畏友、九州帝国大学医学部長、若林鏡太郎君の名著『精神科学応用の犯罪とその証跡』と題する草稿の中に、緒論として、コンナ愚痴が並べてある。ちょうどその緒論だけが、吾輩のところへ校閲を頼んで来ているから、ちょいと失敬して抜き読みをしてみると、コンナあんばいだ。……曰く……
――余ノ調査研究セルトコロニヨレバ、既ニ往昔ヨリコノ種ノ犯罪ガ行ナワレツツアリシ事実ヲ認ムルヲ得ベシ。例エバ役《エンノ》行《ギヨウ》者《ジヤ》、阿《ア》倍《ベノ》晴《セイ》明《メイ》、弘法大師ラノ密教、陰《オン》陽《ヨウ》術《ジユツ》ノ流レヲ伝ウル者、真言秘密ノ行者、修《ヨ》験《ゲン》者《ジヤ》、祈祷師、代人、巫《ミ》女《コ》、ソノ他、何々教、何々様ト称スル神仏類似ノモノニ奉仕スル輩《ヤカラ》ノ中ニハ、積年ノ経験ヨリ得タル一種ノ精神科学的ノ暗示法ヲ口《ク》伝《デン》心伝シオリ、コレヲ理知、理性ノ発達不充分ナル女子、小児、モシクハ無知、蒙《モウ》昧《マイ》ナル男子ラニ応用シテ、ソノ精神作用ニ何ラカノ変化、傷害ヲ与エツツ、利得ヲ恣《ホシイママ》ニセシ形跡アリ。スナワチ、古来伝ウルトコロノ「狐ヲ使ウ」「真言秘密ノ咒《ジユ》法《ホウ》ニカケル」マタハ「生霊、死霊ヲ憑《ツ》ケル」「神罰、仏罰ヲ当テル」等ノ霊験、神業、行力等ニ類似シタル所業ハ、精神科学ノ立場ヨリ見ルモ絶対不可能ノコトニ非ザレバナリ。ソノ高等ナルモノニ至リテハ、催眠術、心霊術、降神術等ノ技術者ガ、文明社会ノ裏面ニオイテ異常ナル勢力ヲ保有シオリ、玄怪ニシテ捕捉シ難キ犯罪事件ノ裏面ニ往々ニシテコノ種ノ技術ノ活躍セル証拠ヲ見ルトキハ、ソノ全部ガ理知的詐術ナリトハ断ジ難キモノアリ――
――現今、我国内ニオイテモ、到ルトコロノ精神病院、行路病者収容所、マタハ街頭ヲ彷《ホウ》徨《コウ》スル精神異常者ノ中ニ、カカル犯罪行為ノ犠牲者ガ存在シオラズトハ断言シ難シ、タダ、コレヲ合理的ニ探査追求シテ、犯人ヲ検挙スルコトガ、目下ノトコロ、ホトンド不可能ナルガタメニ、実例トシテ列挙シ難キノミ。何トナレバ、カクノゴトキ手段ヲ用イテ、精神的ニ人ヲ殺傷スル場合ニハ、他ノ犯罪手段ニオケルガゴトキ物的証拠ヲ厘《リン》毫《ゴウ》モ留メズ、一滴ノ血、一刹那ノ音響、一片ノ煙ダモ認ムルアタワザルノミナラズ、当該被害者モマタ、直チニ一切ノ証言ヲ為《ナ》シ得ベキ資格ヲ喪失スルト同時ニ、ソノ精神ノ異常ヲ回復センガタメニハカナリノ長日月ヲ要シ、マタハ永久ニ回復セズ、万一コレヲ回復スルモ、ソノ被害当時ノ回想、マタハ犯罪手段ニ対スル記憶ノ残留セルモノアリヤ否ヤ、甚ダ疑問トスベキモノアリ、調査上甚シキ困難ニ遭遇スベキコト、予想ニ難カラザレバナリ――
――思ウニ現代ノ文化ハイワユル、唯物科学ノ文化ナリ。故ニ、随ッテソノ間ニ行ナワルル犯罪ノ種類モマタ、唯物科学ノ原理ヲ応用セルモノ多カルベキハ自然ノ理ナリ。シカレバ将来、精神科学ノ諸般ノ学理ガ、一般ノ常識トシテ普及スルニ到ランカ、同様ニコレヲ応用セル犯罪ガ、旺盛ナル流行ヲ示スベキハ論ヲマタザルベク、シカシテソノ犯行ノ恐怖、戦慄ニ値スベキコト、現代ノイワユル、唯物科学応用ノ犯罪ノ比ニ非ザルベキモマタ自明ノ理ナルベシ。シカシテカクノゴトキ犯罪ニ対シテ、吾人法医学者ハ、イカニシテ犯罪ヲ調査シ、兇器ヲ研究スベキヤ。イカナル基礎知識ニ照シテ、犯行ノ径路、手段ノ内容ヲ明ラカニスベキヤ――云々――
……どうです諸君。わが畏敬すべき法医学者、若林鏡太郎君は、遠からず全世界に大流行を来たすべき「精神科学応用の犯罪」を研究して、その流行を未然に喰い止めるべく、その実例を蚤《のみ》取《とり》眼《まなこ》で探している。その犯罪の被害者らしい精神病者や自殺者が、地上到るところにウヨウヨしているにかかわらず、その犯行の手がかりとなるべき暗示材料、その他の証拠が見当らないために、本当の研究が発表できないという悲惨事に直面して、あらゆる苦心惨憺を続けている。そうして、あらゆる人間の身振り、素振り、眼付き、手付き、口つき、言葉つきの端々に到るまでも、精神科学応用の犯罪ではないかと疑い続けているのだ。
……しかるにだ……。
……諸君どうです……。
ここに一つドエライ研究材料が、吾輩のところへ転がり込んで来たものだ。……もっともコイツを最初に発見したのは、今の若林鏡太郎君で、同君はこれを空前の「精神科学応用の犯罪」に相違ないと睨んで、調査を遂げて来たものなんだが、一方に、吾輩のいわゆる「心理遺伝」の参考材料としても、その価値は形容のできないほどに素晴らしいものがある。しかも、そいつに釣り込まれて、ウッカリ手を出したのが運の尽きで、さすがの吾輩も十万億土行きの片道切符を買って、裸一貫で逃げ出さなければならないはめに立到ったほど、それほどさように恐ろしい研究材料だったのだ。……その発狂の動機となっているモノスゴイ暗示材料の正体はもちろんのこと、その心理遺伝に支配された夢中遊行開始前後の怪奇、悽愴を極めた状況。もしくは心臓がトロトロと溶解して、流れて行くくらい気持ちのいい、心理遺伝の内容の詳細まで、何一つ遺憾なく完備した、途方もない調査記録が手に入ったのだ。実に、国宝とも世界宝とも何とも言いようのない……極度に科学的で、徹底的にローマンチックな、エロ、グロ、ノンセンス共に百二十パーセント以上の含有量をもった……空前絶後の超々特作的スケールの雄大さと、ストーリーの深刻さをあらわした……実にソノ何ともかんとも……。
アハアハアハ。イヤ失敬失敬。わかったわかった……拍手は止してくれ給え。形容詞ばかり並べて済まなかった。どうもアルコールが欠乏して来ると、アタマの反射交感機能が遅鈍になるのでね。チョット失敬してキング・オブ・キングスの喇《らつ》叭《ぱ》を吹かしてもらおう。ついでにハバナの方も一つ輪に吹かして……オットット……これはしたり。吾輩はまだ教壇の前にいるんだっけね。早速スクリーンの中から引退して、代りに今言った怪事件の内容を映写しながら弁士の役を引受けることにする。そうして諸君の常識を一撃の下にコッパ・ミジンに……。
……ナニ……吾輩がスクリーンの外へ出たって、おんなじことじゃないかって……?……。ウワア。コイツはまた一本参られた。ソウ頭がよくちゃ始末が悪いね。……実はモウしばらくすると、今一人別の吾輩が銀幕の中に現われて、その怪奇を極めた心理遺伝事件の内容を「解放治療」の実験にかけて行く実況を演出することになるのだ。だからその時にそのモウ一人の吾輩である吾輩は、是非とも映写幕の外に出て、説明役にまわらないとドウモ具合が悪いのだ。未来派の芝居とは違うからね……。
……勿体なくもK《ケー》・C《シー》・MASARKEY《マサーキー》会社の超々特作と題しまして「狂人の解放治療」という、もちろん今回が封切の天然色、浮出し、発声映画でございまして、出演俳優は皆、関係者本人の実演に係る実物応用ばかり……稀代の美少年と、絶世の美少女を中心として、渦巻き起る不可解に続く不可思議、戦慄に続く驚異の裡《うち》に、二十余名の男女の血と、肉と、霊魂とがいつからともなく、どこからともなく卍《まんじ》巴《ともえ》と入り乱れて参りまして、ついにはこの「狂人解放治療場」において、悽惨、無残、眼も当られぬ結末を告げるか、告げぬかの際どいクライマックスに到達しようという……よろしく満腔の御期待をもって……【溶暗】……
【字幕】 実母と許嫁と、二人の婦人を絞殺した怪事件の嫌疑者、呉一郎(明治四十年十一月二十日生)大正十五年十月十九日、九州帝国大学、精神病科教室付属、狂人解放治療場において撮影――
【説明】 まず最初に御紹介致しまする、この事件の若い主人公……すなわち最前、小手調べとしてお眼にかけました十名の狂人の中でも、老人の畠打ちを見物致しておりました青年の、正面向きの大写しでございます。字幕にあらわしました通り、名前を呉一郎と申しまして、当年とって二十歳でございますが、御覧の通り、男が見ましても吸付いてみたいほどのういういしい美少年でございます。
ところでこの事件の内容に立入りまするに先立って、何故に事件の主人公の顔を、かように大写しにして御覧に入れたかと申しますと、ほかの理由でもございません。この少年の骨相が、この事件の根本を支配致しております心理遺伝と、重大な関係を持っているからでございます。
御承知の通り骨相学と申しますのは、目下のところ、まだ純正な科学とは申しかねるのでありますが、しかし、その中のある部分部分は、確かに実際と一致することが判明致しておりますので、正木先生はかようにして、新しい精神病患者の顔を見るたびに、その骨相を詳細にわたって研究されまして、その血液の中にいかなる人種の特徴が混入しているかを、怠らず調査しておられるのでございます。換言致しますれば、一切の人間の心理遺伝は、その近い先祖たちの各個人個人の特徴を現わすと同時に、ずっと大昔の野蛮未開時代に、各方面から入れ混って来た、各人種の心理的特徴をも、併せて現わしておりますので、一口に日本と申しましても、その骨相と性格の中には、蒙《もう》古《こ》、インド、マレイ、ユダヤ、ラテン、アイヌ、スラブ等の各民族の風《ふう》采《さい》と性格が、切っても切れない因果関係をもって結ばれ合いつつ、その人間の特徴を作り出しているのでございます。……すなわち人間の骨相というものは、その先祖代々の血統の縮図……また、ある一人の性格というものは、その人間の先祖代々の精神生活の凝り固まりとも考えらるべきものでございますから、そのような点を考慮致しまして、その人間の表面的の性格はもちろんのこと、本人自身にも気付かれずにいる、隠れた性格を探し出して、その人間の発狂の状態と照し合わせるということは、研究上、まことに必要なことでございます。……かの愛犬家や愛馬家が、市場に並んでいる動物の顔付き、毛並み、骨格なぞを、ただ一眼見まわしただけで、その血統や性質、習慣、または隠れたる性癖までも、星を指すごとく言い当てるのは、この原理を動物に応用したものに過ぎませんので、将来の探偵術や法医学者の研究は、是非ともここまで突込んで来なければ嘘であるという確信を、正木先生はズット以前から持っておられるのでございます。
そこでその正木先生の診断メモによって、この少年の骨相を解剖的に説明致しまして、引続き暴露致して参ります。物凄い事件の特徴と対照して頂くことに致しますと、どなたでも、第一に気付かれますことは、この少年の血色が、日本人としては白すぎることでございます。御覧の通り、頬にポーッと紅《あか》味《み》がさしておりますのは、まだ童貞でいる証拠でございますから、除外するとしましても、その皮膚にあらわれた日本人独特の健康色の下を流るる透明な乳白色は、明らかに白《はく》皙《せき》人種の血が、この少年の血統に交っていることを推定させますので……しかも……そうとしますればよほど以前に、少なくとも一千数百年以前に、天《テン》山《シヤン》山脈を越えて支那地方に入り込んで来たもので、いわゆる、胡《こ》人《じん》と称せられているものの血が加わっていたものが、現代においてこの少年の骨相上に復活したものではあるまいか……ということが、後に出て参りますこの少年の祖先に関する記録によって推測されるのでございます。
次に、この少年の骨相のうちで、純粋に蒙古人種系統を代表致しておりますのは、素直な、黒い髪毛の生え際と、鼻の中の内部の形だけであります。この少年の鼻の穴は、曲りが少のうございますので、器械で覗きますと一直線に奥までわかる……お笑いになってはいけません。これは遺伝学上から申しましても大切な調査なので、もし白人の系統を引いた鼻の穴だと、恐ろしく曲りくねっているのでございます。
さて……以上の蒙古人系統の特徴を除外した、この少年の骨相をよくよく観察致しますと、そこにあらゆる異人種系統の寄り合世帯が発見されるのでございます。
まず……大体の顔の形はラテン系統のふくらみを持った卵型でありますが、眉と睫《まつ》毛《げ》が、絵筆で描いたように濃く長くて、眼の縁の隈《くま》がドコとなく青ずんで見えまするところは、何といってもアイヌ式であります。また、鼻の外見的な恰好は純然たるギリシャ型で、頬から腮《あご》へかけての抛物線《パラボラ》と、小さな薄い唇が、ハッキリと波打っている恰好を見ますると、わが国の古い仏像などに残っているアリアン系統の手法を連想させますが……よく御覧下さい。こころもち薄い腮の中《まん》央《なか》に、北欧人種式の凹みがありますから……「頬の笑《え》凹《くぼ》がルビーなら腮の笑凹はダイヤモンド」と申しますアレで、男にはあまり必要のない美的要素でございますが……御覧の通り微笑を含みますと一層よくわかるのでございますが……。
ところでかように、一人一人の人間の骨相を調べましてから、その人間の特徴と照し合わせてみますと、まことによく一致いたします。その中でも一番よく一致いたしますのは、性癖、その次は趣味、その次が才能という順序になっておりますようで……すなわちこの少年は、日本人式の順良さと、アイヌ式の尊崇心と、ラテン人種式の頭の良さとを同時に持っているのでございますが、それがまた……あの通りウットリとした瞬《まばた》きの仕方でもお察しできます通りに、どことなく北欧人種式の隠《いん》遁《とん》的な、高雅な気風によって包まれておりますために、表面にパッと現われていないのであります。……つまり一口に申しますと、この少年はどちらかと言えば年齢の割合に落ち着いた、物静かな性格と見るべきでございましょう。
しかるに、そのような表面的に冷静な性格が、一朝にして心理遺伝の暗示によって、撃破、転覆されてしまいますと、今まで内部に潜み流れておりました大陸民族式の、想像もおよばない執《しつ》拗《よう》深刻、かつ兇暴残忍な血が、驀然《まつしぐら》に表面へ躍り出して、摩《ま》訶《か》不思議な大活躍を演ずることに相成りましたので、つまりただ今から御紹介致します空前絶後的な怪事件の真相と申しますのは、要するにこの少年の鼻の穴の中に隠れておりました蒙古人種《モンゴリア》系統の心理遺伝が、一時に暴れ出したものと、お考え下されば宜しいのでございます。
なおまた、このほかに、この少年の骨相の中には、見逃してはならぬ大切なものが残っております。それは一面に極めて楽天的な、呑気なところがありながら、チョットした刺激や、僅かな環境の変化にもすぐに感激昂奮して、あたりかまわず笑ったり、泣いたり、怒ったりする……一口に申せば、極めて気の変り易い、フランス人みたいな性格を象徴している、純ラテン型の薄い腮を持っていることでありますが、しかし、この特徴も、この少年の平生の性格には、あまり現われていないようであります。やはり前に述べました極めて明晰な頭脳と、厭人的にハニカミがちな性格に押え付けられているらしく思われるのであります。……とは申せ、随分と著しい特徴でありますから、この少年が解放治療場に参りましてから後の、長い長い心理遺伝の発作の途中、もしくはその回復期において、いつかはそうしたこの少年の腮の性格……感傷的な、もしくは激情的な気質が、現われるに違いないであろうことを、正木博士は楽しみにして待っておられた次第でございます。
……以上述べましたところで、この呉一郎と申す少年の骨相は、あらかた、おわかりになったことと存じます。かように色々な人種系統の特徴を、造化の神はいかにして、これほどまで端麗明朗に、かつ、純真美妙に取り合わせたかということを考えますと、まことに気味が悪くなりますくらいで……科学の権威とか、人知の進歩とかを一枚看板にしてオマンマを頂いております私共も、こうした生きた芸術の傑作に接しましては、ただ、気を呑み、声を呑んで、頭を下げるよりほかに致し方がないのであります。
次にはこの少年の心理遺伝を中心とする事件の推移が、いかに奇々怪々なるプロットをもって正木博士の眼界に……オット違った、同博士が自分の頭蓋骨と名付くる「天然色、浮出し、発声映画撮影機の暗箱」に取付けている二つの眼球のレンズと、左右の耳《じ》朶《だ》のマイクロフォンに、いかなる順序で、そうした事件の推移が印画されて来たかということを、その順序通りに廻転して行くフィルムについて、説明して参ります。……【溶暗】
【字幕】 九州帝国大学、法医学教室、屍体解剖室内の奇怪事……大正十五年四月二十六日夜撮影――
【説明】 あらわれましたる映画は御覧の通り隅から隅まで、どこがドコやら、何が何やらわかりません。漆《うるし》のような闇黒な場面でございます。したがって説明の致しようもないわけでございますが、しかしよく御覧下さい。繻《しゆ》子《す》か天鵞絨《ビロード》か、暗夜の鴉《からす》模様かと思われるほど、まっ黒いスクリーンの左上の隅に、ほとんど見えるか見えないくらいの仄《ほの》青《あお》い、蛍のような光の群れが、不規則な環の形になって漂うているのが、お眼に止まりましょう。……あれは最近大流行を致しております猫イラズで自殺を遂げた芸妓の胃袋の中のものが、ガラスの皿の中から燐光を放っているのでございます。
あれをお認めになりましたならば、賢明なる諸君は、もはやこの闇黒が、尋常一様の闇黒でないことを充分に御推察になったことと信じます。……すなわちこの闇黒は九州帝国大学、法医学教室の一隅に在る、屍体解剖室内の暗夜の状態を、すぐ横の階段下の物置から、天井裏へ潜り込んだところに在る、板の隙間から窺《のぞ》いている光景でございます。
この天井裏の覗き穴は、よく出歯亀心理に囚われた小使や、または好奇心に駆られた新聞記者なぞがコッソリと屍体解剖を覗くところでございますが、よほど古くからあるものと見えまして、穴の内側のところが、爪やナイフでY字形に削り拡げられておりまして、すこし顔の向きを変えさえすれば、部屋の下半部の隅々までも手に取るごとく見まわされます……。のみならず、少々窮屈ではございますが、物置の棚の上に足を伸ばしますると、三等列車に乗ったのよりもズット楽な気分で寝ていることができますからまことに重宝で……件《くだん》の燐光を放っておる不浄な血は、実は向う側の隅の机の上に置いてあるのでございますが、真上から見下して撮影致しておりますために、あのようにフィルムの上方に見えておるのでございます。
なおこの室内にありますものが、あの皿一つでないことは申すまでもありません。しかも両側の窓の鎧《よろい》戸《ど》や、入口の扉が、固く鎖《とざ》されておりまするために、この部屋の闇黒の度合は極めて深くなっておりますので、あの汚物の燐光が辛うじて認められます以外には、何一つ発見できません。どこかでシイーインと湯が湧いているような、死んだような静寂のうちに、正木博士撮影の「天然色、浮出し、発声映画」のフィルムはただ、漆のように黒く、時の流れのように秘《ひめ》やかに流れて行くばかり……五十尺……百尺……二百尺……三百尺……。
……そもそも正木博士は、何の必要があってか、御苦労千万にも、その双耳、双眼式、天然色、浮出し、発声映画の撮影暗箱《カメラ》を、この解剖室の天井裏まで担ぎ上げたものであろう……いかなる目的の下に、かようなつまらない闇黒の場面を、いつまでもいつまでも辛抱強く凝視した……否、撮影し続けたものであろう……堂々たる大学教授の身分でありながら、かような鼠《ねずみ》と同様の所業に憂《うき》身《み》をやつすとは、何という醜態であろう……と諸君は定めし不審に思われるでございましょうが、この説明は後になってから、自然とおわかりになることと存じますから、ここには略さして頂きます。
……時は大正十五年四月二十六日の午後十時前後……呉一郎の心理遺伝を中心とする怪事件が勃《ぼつ》発《ぱつ》致しましてから約二十時間後の光景……フィルムは依然としてまっ黒なまま、秘やかに辷っております。五百尺……八百尺……一千尺……一千五百尺……画面の静けさと闇黒さとは以前の通りで、ただあの汚物の燐光が、しだいに青白く、明瞭の度を加えて来るばかりであります。おりしもあれ、この教室を包む一棟のうちの、遥かに遠くの小使室で打ち出す時計の音が、陰に籠《こも》って……一ツ……二ツ……三ツ……ボーン……ボーン……ボーン……ボーン……ボーン……ボーン……ボーン……ボーン……ボオ――オオ――ン、……。
……十一時を打ち終りますと同時に、眼の前の闇黒の中で、何かしら分厚い、大きな木の箱を閉したような音がバッタリと致しますと、間もなくパアッと大光明がさして、眼も眩《くら》むほどギラギラと輝くものが、そこいら中一面にユラメキ現われました。それは御覧の通り、部屋の中央に近く、四ツほど吊されております二百燭光の電球のスイッチが、最前からこの部屋の中に息を殺していたらしい人間の手で、次から次に捻《ひね》られたからでございます……が、よく眼を止めて見ますと……。
……おお……その室内の光景のいかに物々しいことよ……。
まず第一に視神経を吸い寄せられまするのは、部屋の中央を楕円形に区切って、気味の悪い野白色の光を放っている解剖台でございます。この解剖台は元来、美事な白大理石でできているのでございますが、今日までにこの上で数知れず処分されました死人の血とか、脂肪とか、垢《あか》とかいうものが少しずつ少しずつ大理石の肌《き》目《め》に浸み込んで、かような陰気な色に変化してしまったものでございます。
その解剖台上に投げ出された、黒い、凹《おう》字《じ》型《がた》の木枕に近く、映画面の左手に当ってギラギラと眼も眩むほど輝いておりますのは、背《せい》の高い円筒形、ニッケル鍍金《めつき》の湯沸器《シンメルプツシユ》でございます。これは特別注文の品でもございましょうか、欧州中世紀の巨大な寺院、もしくは牢《ろう》獄《ごく》の模型とも見える円筒型の塔の無数の窓から、糸のような水蒸気がシミジミと洩れ出している光景は、何かしらこの世ならぬ場面を連想させるに充分でございます。それから今一つ……初めのうちはチョットお気が付きかねるかも知れませんが、やがて何となく異様に眼に映って来るであろうと思われまする品物は、右手の窓の下に、壁に接して横たえられております長方形の大きな箱でございます。その上に白い布が蔽われているところを見ますと、いかさまこれは死人を納めた寝棺に相違ございますまい。……もっとも死体解剖室に寝棺といえば、必然過ぎるくらい必然的な取り合わせではございますが、それが何となく異様に眼を惹《ひ》きますのは、その上に掛かっております白い蔽いが、高価な絹地らしい、上品な光を放っているせいでもございましょうか……。これは余談かも知れませんが、このようなりっぱな寝棺が、法医の解剖室に運び込まれるようなことは、まずないと申しても宜しいくらいで、大ていの場合、松か何かの薄い荒板製に、白《チヨ》墨《ーク》で番号を書き放した程度のものが多いのですが……。
そうした解剖台と、湯沸器と、白い寝棺と、三通りの異様な物体の光の反射を、四方八方から取り巻く試験管、レトルト、ビーカー、フラスコ、大瓶、小瓶、刃物等のおびただしい陰影の行列……その間に散在する金色、銀色、白、黒の機械、器具のとりどりさまざまの恰好や身構え……床の上から机の端、棚の上までひしめき並んでいる、紫、茶、乳白、無色のガラス鉢、または暗《あん》褐《かつ》色《しよく》の陶器の壺《つぼ》、その中に盛られている人肉の灰色、骨のコバルト色、血のセピア色……それらのすべてが放つ眩しい……冷たい……刺すような、斬るような、抉《えぐ》るような光《こう》芒《ぼう》と、その異形な投影の交響楽が作る、身に滲み渡るような静寂さ……。
しかも……見よ……その光景の中心に近く、白絹に包まれた寝棺と、白大理石の解剖台の間から、スックリと突立ち上ったまっ黒な怪人物の姿……頭も、顔も、胴体もことごとく灰黒色のゴム布で包んで、手にはやはりゴムと、絹の二重の黒手袋を、また、両脚にも寒海の漁夫がはくような巨大なゴムの長靴を穿《うが》っておりますが、その中に、ただ眼のところだけが黄色く縁取られた、透明なセルロイドになっております姿は、さながらに死人の心臓を取って喰うという魔性の者のような物々しさ……または藪《やぶ》の中に潜んでいる黒《こく》蝶《ちよう》の仔虫《さなぎ》を何万倍かに拡大したような無気味さ……のみならず、あんなに高いところに在る電球のスイッチを、楽々と手を伸して捻って行った、その素晴しい背《せ》丈《い》の高さ……。こう申しましたならば諸君はお察しになりましたでしょう。この怪人物こそは、かの有名な「血液に依る親子の鑑別法」の世界最初の発見者であると同時に、現在『精神科学応用の犯罪とその証跡』と題しまする、空前の名著を起草しつつある現代法医学界の第一人者、若林鏡太郎氏その人であります。
その名法医学者、若林鏡太郎氏は、ただ今申しました呉一郎少年の心理遺伝を中心とする精神科学界空前の大犯罪事件が勃発後、約二十時間を経過致しましたこの深更になりますと、何らかの仕事をすべく、コッソリとこの解剖室に入りまして、かように物々しい準備を整えたまま、時計の針が十一時……宿直の医員や当番の小使が寝静まる時刻を指すのを、いまや遅しと待っていたものであることが、現在の状況によって、お察しできることと思いますが……サテかように電燈を点《つ》けてみますと……ナント諸君。ここにまた一つ奇妙な事実が現われているのに、お気付きになりませんか。
この部屋の内部の状況は、御覧になりまする通り初めてのお方にとっては、何一つとして奇怪でないものはない。無気味でないものはない……と思われるのでございますが、それでも今まで御覧になりましたところによって、若林博士は、何かしら解剖台に向って仕事を始めようとしているのだナ、とか「その仕事の材料になる屍体は、多分あの寝棺の中に納まっているのだナ」というぐらいのことは、もはや十分に御推察になっていることと思います。
しかし……もしさようと致しますれば、その若林博士の助手となるべき人間が、この部屋の中に一人も見当らないのは、どうしたことでございましょうか。かような屍体の解剖には、大ていの場合何らかの意味で、一人か二人の人間が立会っていることは、ほとんど原則とも言うべき通例となっているのでありますが……にもかかわらず、御覧の通り若林博士は、そのような人間を一人も室内に近づけていないところを見ますると、なぜかわかりませんが、若林博士は今夜に限ってタッタ一人で、ある重大な、極めて秘密の仕事を決行せねばならぬ必要に迫られているのではありますまいか……否……解剖台の前後にある二つの扉の双方ともに、鍵を挿《さ》し放しにしている事実に照しますと、むろんそうでなければならぬ。普通の事件で持ち込まれた屍体の解剖や検案なぞとは違った、非常的な秘密事項が今夜の仕事に含まれているに相違ない……ということが、明らかに推測されるでございましょう。
……と思ううちに、部屋の隅の洗面器のところへ行って、手袋をはめたままの両手を念入りに洗って参りました若林博士は、やおら身を屈《かが》めまして、寝棺の白い覆布《おおい》を取り除《の》けて、これとてもこのような室には見受けられぬ、分厚い白木の棺の蓋を開きますと、中から一個の盛装した少女の屍体を取り出しました。
前からの説明を御記憶の諸君には、もう、この少女が何者であるかという、あらかたの御推察が付いていることと存じます。
この少女こそは、前回に御紹介致しました本事件の主人公、呉一郎の花嫁となって、華《か》燭《しよく》の典を挙げるばかりに相成っておりましたその少女で、名前は呉モヨ子と申します。当年取って十七歳に相成りまする絶世の美少女でございます。その許嫁《いいなずけ》になっておりまする呉一郎……K・C・MASARKEY会社の超特作は、超時代的、超常識的、精神科学映画『狂人解放治療』の主人公たる無双の美少年俳優の相手役となりまして、互いに、あらゆる精神科学的の妖美と戦《せん》慄《りつ》とを描き出すべきそのエース花形女優は、かくして取りあえず、寝棺の中の屍体の姿となって、諸君にお目見得をする次第でございます。
当年流行の新月色に、眼も眩《まば》ゆい春《はる》霞《がすみ》と、五葉の松の刺《し》繍《しゆう》を浮き出させた裲《うち》襠《かけ》、紫地、羽二重の千羽鶴、裾模様の振袖三枚襲《がさ》ねの、まだシツケの掛かっているのを逆さに着せて、金銀の地紙を織出した糸錦の、これも仕立卸しと見える丸帯でグルグルグルと棒巻にしたまま、白木の寝棺に納めてある……その異様な美しさ、痛々しさ。この事件の並々ならぬ内容が窺《うかが》われますばかりでなく、そうした死骸《がい》を、こうして棺に納めた人々の思いまでも察せられまして、そぞろに胸が塞《ふさ》がるばかりでございます。
しかしもうすでに、学術の権化ともいうべき心理状態になっているらしい若林博士は、そんなことを気にかけるような態度を微塵も見せませぬ。衣裳なんぞには用はないという風に、極めて無造作に、裲襠と、帯と、振袖の三枚襲ねをつかみのけて、棺の傍に押し込みますと、その下から現われましたのは、素《しら》絹《きぬ》に蔽われました顔、合掌した手首を白木綿で縛られている清らかな二の腕、紅友禅の長《なが》襦《じゆ》袢《ばん》、緋《ひ》鹿子《がのこ》絞《しぼ》りの扱帯《しごき》、燃え立つような緋《ひ》縮《ぢり》緬《めん》の湯もじ、白《しろ》足《た》袋《び》をはかされた白い足首……そのようなものがこうした屍体解剖室の冷酷、残忍の表現そのものというべき機械、器具類の物々しい排列と相対照して、一種形容のできないムゴタラシサとなまめかしさとを引きはえつつ、黒装束の腕に抱えられて、煌《こう》々《こう》たる電燈の下に引き出されて参ります。中にもひときわもの凄くもまた、憐れに見えますのは、丈なす黒髪を水々しく引きはえて、グッタリと瞑《めい》目《もく》している少女の顔に乱れ残った、厚化粧と口紅でございます。そうして……おお……あれを御覧なさい。
あの襟化粧をした頸《く》部《び》の周囲《まわり》に、生々しい斑点となって群がり残っている絞殺の痕跡……紫や赤のダンダラを畳んでいる索溝《ストラングマルク》を……。
……それを静かに、大理石の解剖台上に横たえました黒怪人物の若林博士は、やはり何の容赦もなく、合掌した手首の白木綿の緊縛を引きほどき、緋鹿子絞りの扱帯を解き放って、長襦袢の胸をグイグイと引きはだけました。そうしてさすがは斯《し》界《かい》の権威とうなずかれる手練さと周到さをもって、一点の曇りもない、玲《れい》瓏《ろう》玉のような少女の全身を、残る隈なく検査してしまいましたが、やがてホッとしたように肩で息をつきますと、両腕を高やかに組んで、少女の屍体をジッと見下したまま、まっ黒い鉄像のように動かなくなりました。
……この深夜に、かような場所において、世にも稀な美少女の屍体と、こうしてタッタ一人で向い合っている黒装束の若林博士は、はたして何事を考えているのでございましょうか……この少女の死に絡まる残酷と奇怪を極めた事情を、屍体を前にしつつ今一度考え直して、そこに博士独特の透徹、鋭利なる観察の焦点を発見すべく、苦心惨憺しているのでございましょうか……それともこの屍体が、この教室においていまだかつて発見されたことのないほどに、無残な美しさと深刻なあでやかさとを現わしておりますために、生涯を学術のために捧げている独身の同博士も、思わず凝然、恍《こう》惚《こつ》として、なんらかの感慨無量におよんでいるのでございましょうか……否々。そのような想像は、厳正周密なる同博士の平生の人格に対して、敬意を失する所以でございますから、これ以上に深く立入らぬことに致します。
……と……やがて突然、われに帰ったようにハッとして、誰もいないはずの部屋の中をグルリと見まわしました若林博士は、黒装束の右のポケットに手を突込んで、何やら探し索《もと》めているようでございましたが、そのうちにフトまた、思い出したように寝棺の箱に近付いて、美しく堆積した着物の下から、子供の玩具ほどの大きさをした黒い、喇《らつ》叭《ぱ》型《がた》の筒を一本取り出しました。これはこの節の医者は余り用いませぬ旧式の聴診器で、人体内のごく微細な音響まで聴き取ろうと致します場合には、現今のゴム管式のものよりもこちらの方が有利なのでございます。若林博士は、その喇叭型の小さい方の一端を、少女の屍体の左の乳房の下に当てがいまして、他の一端を覆面の下から、自分の耳に押当てて、一心に聴神経を集中しているようでございます。
屍体の心音を聴く。……おお……何という奇怪な若林博士の所業でございましょう。見ている者の胸の方が、かえってオドロオドロしくなりますくらいで……。
……けれども御覧なさい。若林博士は依然として旧式聴診器《ステトスコープ》に耳《じ》朶《だ》を押当てたまま、片手で解剖着の下から、銀色の大きな懐中時計を取り出して、一心に凝視しております……確かに心臓の鼓動音が聞こえているのでございます。すなわち、この解剖台上の少女の肉体は、まだ生きているに違いないのであります。……そういえば最前、若林博士がこの少女の全身を検査した時に、死後相当の時間を経過した屍体の特徴として、どこかに、是非とも現われていなければならぬ薄青い死《し》斑《はん》が、どこにも影を見せなかった……また、強直した模様もなかったところを見ますると、多分、この少女はあの寝棺に納まっているうちから……否。あの棺箱に納められる以前から、死んではいなかったに違いないということが考えられるのであります。頸部の周囲には歴然たる索溝――絞殺の痕《あと》を止めたまま……。
……何という不可思議な出来事でございましょうか……。
しかし若林博士は格別、驚いた様子も見せません。間もなくステトスコープを耳から離して、時計と一緒にチョッキのポケットに突込みましたが、いかにも満足そうに二ツ三ツ大きくうなずきながら、改めて少女の姿を見下しているのでございます。
こうした態度から察しますると若林博士は、一番最初に、この少女の屍体を検案致しました時から、この少女が医学上、稀《け》有《う》とされている仮死状態に陥ったものであることを、早くも看破していたものと見えます。もちろんそれは、その以前に馳け付けたであろう付近の医師や警察医が、充分に診察を遂げた後のことでなければなりませんが、それにもかかわらず、仮死であることを確認致しましたのは、いかなる点に着眼したものでございましょうか。しかもその上に、その仮死体を、いかなる名目の下にかような棺桶に詰めて、この部屋へ運び込ませたものか……のみならず、その奇怪な少女の仮死体を、こうしてタッタ一人で極秘密裡にいじくりまわしているというのは、いかなる理由と目的があってのことでございましょうか。尋ねるよすがもありませんが、何にいたせ一代の名法医学者、若林鏡太郎氏のことでございますから、古今東西における仮死の例証を、既に充分に研究し尽しているのでございましょう。そうしてこの少女の屍体が仮死体であるという事実を、単に自分一個限りの絶対秘密にしておくということが、この空前の怪事件の解決のために必要やむをえないであろう何らかの重大な理由を、彼自身に確認しているからのことでございましょう。
そればかりではございません……その若林博士が扮装しました、この黒怪人物は、先刻から闇《くら》黒《やみ》の中に潜んでおりました際に、かの寝棺の蓋をソッと開きまして、この少女を仮死状態から覚《かく》醒《せい》せしむべく、同博士独特の何らかの刺激手段を施しつつ、時々ステトスコープでもって少女の心音を窺っていたことが、疑いなく察せられるのであります。……というのはツイ今しがた、その若林博士の黒怪人物が、十一時の時計の音を聞いて電燈を点けます前に、何やらパタリと音を立てましたのは、同博士が棺の蓋を閉じた音に違いございませんので、ステトスコープもその時に、着物の下へ置き忘れて来たものと考えられるからであります。……が、それと同時に、極めて些《さ》細《さい》なことではありますけれども、かような大切な商売道具を置き忘れるということは、平生の同博士の極度に冷静周密な性格から推して考えますと、まことに意外と思われる出来事で、今夜の若林博士は、確かに平常と違った心理状態にある。少なくとも同博士がいかに夢中になって、この少女をこの世に呼び活かすべく闇黒の中で苦心、熱中していたかということは、この一事をもってしても、十二分に察せられる訳ではございますまいか。
しかし若林博士の手腕が、いかに卓抜恐るべきものであるかということは、まだまだこれから追々とおわかりになりますので、今までのところはホンの皮切りに過ぎないのでございます。
若林博士は、解剖台上の少女が、その仮死状態から時々刻々に眼ざめつつあることを知りますと、御覧の通り極めて緊張した態度で、左右の手袋を脱ぎました。解剖着の下にまん丸く膨れておりますズボンのポケットにその手を突込んで、色々な品物を取出しながら、一つ一つ傍の木机の上に並べました。白髪《しらが》染《ぞめ》の薬瓶と竹の歯ブラシ、三、四本の新しい筆、小さな墨汁の鑵《かん》、頬紅と口紅を容れたコンパクト、化粧水、香油、クリーム、練《ねり》白《おし》粉《ろい》のいろいろ……等々々。いずれも、かような部屋に似合わしからぬ品物ばかりで……。それから入口に近い棚の奥に隠してありました茶色の紙包みを開きますと、中から白木綿と白ネルの筒袖の着物、安っぽい博多織の腰帯、都腰巻、白い看護婦服と帽子、バンドの一揃い、スリッパ、看護婦帽、ヘヤピンなぞの、いずれも新しいものばかりを取出しまして、やはり傍の木机の上に置き並べました。かような品物は皆、昼間から準備していたもので、多分、解剖台上の少女に着せるつもりではないかとも思われますけれども、何のためにそんなことをするのかということはまだ判明致しません。
次に若林博士は、今一度ステトスコープを取り出して、少女の心音を念入りに聴き直した上で、向うの薬棚から小さな茶色の瓶を取って参りまして、その中の無色透明な液体を、心持ち顔を反けながら、脱脂綿の一片の上にポトポトと滴《たら》しました。それをまだ白粉の残っている少女の鼻のところへ、ソロソロと近付けつつ、左手で静かに脈を取っているのでございます。申すまでもなく、これは麻酔剤を嗅《か》がしているので……あまり早く少女が覚醒しては困ることがあると見えます。しかしこの少女を麻酔さしておいて、どうするつもりなのか……というようなことは、やはりただ今のところでは判明致しませんので、そうした若林博士の行動ばかりが、いよいよ出でて、いよいよ奇怪に見えて来るばかり……
……と思ううちに、麻酔剤を嗅がせ終りました若林博士は、はだけたままの少女の胸を掻き合わせますと、今度はツカツカと正面の薬棚に近づいてその片隅に突込んである美《み》濃《の》型《がた》、日本綴《とじ》の帳面を一冊取り出しました。その表紙には『屍体台帳……九大医学部』と大字で楷書してありまして、その表紙を開くと、各ページごとに「屍体番号」「受取年月日」「引取人住所氏名」「引渡年月日」なぞいうものが、一面に行列を立てて書込んである上と下に、一々若林という検印が捺《お》してあります。……ところでその帳面の半分に近い、書込みの残っているページまで、バラバラと繰って参りました若林博士は、やがて最終から二番目の屍体番号「四一四」容器番号「七」と書いたのを指で押えますと、そのまま帳面を傍の机の上に投げ出して、長々とした手をさし伸しながら、頭の上の二百燭光のスイッチを四個とも切ってしまいました。
室内は元の通りの闇黒状態に立ち返ったのでございます。
しかも、このフィルムの闇黒状態は、ソックリこのまま、他の部屋の闇黒状態に入れ変って行くのでございますが、はたして、どのような意味の闇黒がフィルムの前途に待ち構えているのでございましょうか……。【暗転】
……闇黒のフィルムが依然として諸君の眼の前に連続して行きます……十尺……十五尺……三十尺……五十尺……諸君の眼の前に凝り固まって行く闇黒の核心に、やがて黄色い、小さい、薄汚れた電球が灯《とも》りました。御覧の通り、どこかの鍵穴から覗いた陰気な室内の光景が現われました。
……ナント諸君……このような部屋を御覧になったことがありますか。
右手に見えておりますコンクリートの暗い階段は、この部屋が地下室であることを示しておりますので、正面に並んだ白ペンキ塗の十数個の大きな抽《ひき》斗《だし》は、皆、屍体の容器なのでございます。すなわちこの部屋は、九大医学部長の責任管理の下にある屍体冷蔵室で、真夏の日中といえども、肌《はだ》膚《え》が粟立つばかりの低温を保っているのでありますが、殊にただ今は深夜のこととて、その気味の悪い静けさは、死人の呼吸も聞こえるかと疑われるくらい……。
ここに姿を現わしました当の責任者、医学部長、若林博士が扮しました黒怪人物は、室内の冷気に打たれたものと見えまして、しばらくの間、絶え入るばかりに苦しい咳を続けておりますが、そのうちにようようのことで、それを押し鎮めますと、ポケットから合鍵を取出して「七」と番号を打った屍体容器に取付けてある堅固な南《ナン》京《キン》錠《ジヨウ》を取り除きました。それから車仕掛けになった頑丈な容器をゴロゴロと、有り合う台の上に引出しましたが、一息吐く間もなく、やおら上半身を傾けまして、全身を繃帯で棒のように巻き立てられた少女の強直屍体を、ズルズルと床の上に抱え下しました。見るとその強直屍体は、最前の仮死体の少女とは似ても似つかぬ色の黒い、醜い顔立ちではありますけれども、年恰好や背丈、肉付き、または生え際の具合などは、どうやら似通っているようでございます。
若林博士は前からこの屍体に眼星をつけていたものらしく、よく検《あらた》めもせず、または、少しの躊《ちゆう》躇《ちよ》も見せずに、容器をピッタリと元に復《かえ》して、南京錠を引っかけますと、その屍体を材木か何ぞのように担ぎ上げて、一歩一歩とコンクリートの階段を昇り詰めながら、片手で壁際のスイッチを切って、地下室の電燈を消してしまいました。【暗転】
ここでまた、しばらくの間、闇黒の場面が続くのでございますが、しかし……お聞き下さい。あのおびただしい犬の吠《ほ》え声を……。
あれは今の屍《し》体《たい》冷蔵室と法医学教室の裏手に連なる松原の闇《くら》黒《やみ》伝いに、人眼を避けつつ屍体を担いで行く、若林博士の異様な姿を、その松原の付近に設けられている実験用の動物の檻《おり》の中から、野犬の群が発見して、吠え立てているところであります。それにおびえて狂いまわる猿《さる》輩《ども》の裂《れつ》帛《ぱく》の叫び……呑《のん》気《き》な羊や鶏《とり》の類《たぐい》までも眼を醒《さ》まして、声を限りに啼《な》き立て、喚《わめ》き立てている。その闇黒の騒がしさ……モノスゴサ……。けれどもかような動物どもが騒ぎまわることは、ほとんど毎晩と言ってもよろしいので、誰一人として怪しむ者はありません。まして堂々たる大学の医学部長が、自分の責任管理に属する屍体をコッソリ盗んで行く……という前代未《み》聞《もん》の怪事実を吠え立てていようなぞと、誰が思いおよびましょう。九州帝国大学構内を包む春の夜の闇は、すさまじい動物どもの絶叫、悲鳴のうちに、いよいよ闃《げき》寂《じやく》として更け渡って行くばかりでございます。
やがてその声がしだいに遠ざかって、ピッタリと静まったと思う間もなく、またもパッパッと四個の二百燭光の電燈が点《つ》きますと、場面は以前の法医学の解剖台のところに立ち帰ります。
みると四百十四号の少女の強直屍体は、もうコンクリートの床の上に横たわっておりますが、一方に入口の扉《とびら》を以《も》前《と》の通りに厳重に鎖《とざ》し終った若林博士は、解剖台の前に突立ったまま、黒い覆面の上から汗を押え押え息を切らしております。
大正十五年四月二十七日夜の、九大法医学部、解剖室には、かくして二個の少女の肉体が並べられたことになります。美しく蘇《よみがえ》りかけている少女と、醜く強直している少女と……中にも解剖台上に紅《べに》友《ゆう》禅《ぜん》を引きはえました少女の肉体は、ほんのしばらくの間に著しく血色を回復しておりまして、麻酔をかけられたままに細々と呼吸しはじめている、そのふくよかな胸の高低が見えるくらいになっております。その異常な平和さ、なまめかしさ……台の下の醜い少女の顔と相対照しておりますせいか、その美しさは一層美しく、ほとんど気味の悪いくらい、あでやかに感じられるようであります。
その脈搏を取り上げた若林博士は、時計のセコンドと睨《にら》み合わせつつ、麻酔の効果を検診し始めました。そのまっ黒い博士の姿が、心持ち頭を傾けたまま、石像のように動かなくなりますと、それにつれてこの室内の空虚が、ソックリこのまま、地下千尺のところにある墓穴のような、言い知れぬ静寂に満たされてまいります。
そのうちに脈を取っていた少女の手を投げ出して、時計をポケットに納めました若林博士は、その少女の身体をそっと抱えあげて、部屋の隅に横たえてある寝棺の蓋《ふた》の上に寝かしました。そうしてその代りに四百十四号の少女の強直屍体を解剖台の上に抱え上げて凹《おう》字《じ》型《がた》の古びた木《き》枕《まくら》を頭部に当てがいますと、大きな銀色の鋏《はさみ》を取上げて、全身を巻立てている繃《ほう》帯《たい》をブツブツと截《き》り開く片端から、取除いて行きましたが……御覧なさい……その蒼《あお》黒《ぐろ》い少女の皮膚の背中から胸へ、胸から股《また》へと、縦横にタタキつけられている大小長短色々の疵《きず》痕《あと》を……殴打、烙《らく》傷《しよう》、擦傷の痕跡を……それらの褐《かつ》色《しよく》、黒色、暗紫色の直線、曲線は腰部にあらわれている著明な死《し》斑《はん》と共に、煌《こう》々《こう》たる白光下に照し出されると同時に、そのままの色と形の蛇や、蜥《と》蜴《かげ》や、蟇《がま》となって、今にも彼女の皮《は》肌《だ》の上をはいまわり始めるかと疑われるくらい……。
御承知のお方もございましょうが、全国の各大学や専門学校の研究用の解剖屍体には、こうした種類の屍体がよく持込まれるのでございます。殊に、この九大に収容されるのは、同地方に多い炭鉱や紡績、その他の工場、または魔窟なぞへ誘拐虐待されたもの、または自殺者、行路病者なぞの各種類にわたっておりまして、中には引取人のないのも珍しくありませんが、九大側では、そんなのを片っ端から研究材料にして切り散らしたあげく、大学付属の火葬場で焼いて骨にして、五円の香典を添えて遺族に引渡す。また、引取人のないものは共同墓地へ埋めて、年に一度の供《く》養《よう》法《ほう》会《え》を執《とり》行《おこ》なうことになっておりますので、この屍体も、そうした種類の一つと考えられるのであります。
こう申しますうちに、屍体の全身を手早く検査し終りました若林博士は、今一度ホーッとばかり、喘《あえ》ぐように溜《ため》息《いき》しつつ、覆面ごしに顔の汗を押えておりましたが、やがて部屋の隅の洗面器のところに近付いて、水道栓から直接にゴクゴクと水を飲んではむせかえり、呼吸を落ち着けては水を飲んで、しばらくの間は息もたえだえに咳《せき》入《い》っております。永年の肺病に囚《とら》われて、衰弱に衰弱を重ねております同博士にとりまして、これだけの労《はた》作《らき》はいかばかりか辛く、骨身にこたえたことでしょう。
けれども同博士の怪より出でて怪に入る仕事は、まだ半分も進行していないのでございます。
ほどもなく洗面器のところから引返しました若林博士は、まず屍体の足のところにボール鉢《ばち》を置いて、そこに取付けてあります水道栓のホースを突込んで、屍体の脚部から背中へかけた解剖台面に水を放流し始めました。次いで今一つのボール鉢に湯を取りまして、スポンジと石《せつ》鹸《けん》を使いながら、解剖台上の少女の虐待屍体を、隅から隅まで丁寧に洗い浄《きよ》めましたが、次いでその皮膚の全面を、ガーゼと脱脂綿とでスッカリ拭い乾かしますと、その貧しい赤茶色の髪の毛をまっ二つに引分けて、傍に光り並んでいるメスの一つを取上げると見る間に、屍体の眉《み》間《けん》のところをブスリと一突き…それからしだいに後頭部に到る頭の皮を、一直線にキリキリと截り開いて行きました。
ところで多少ともにこの方面に関する知識を持っておられる方は、さだめしここで「オヤ」と思われることと存じます。若林博士のこうしたやり方は、普通の場合における屍体解剖の手順になっております、胸部、腹部から頭部、次に背部という順序を無視して、頭部から始めていることになりますから……。
そもそも古今の名法医学者若林博士は、何の目的の下《もと》に、このような勝手気《き》儘《まま》な順序をもってメスを揮《ふる》いはじめたのか……と疑う間もなく四一四号の少女の頭の皮は巧みにクルリと裏返しにされまして、髪毛と一緒に靴下を脱ぐように両眼の下まで引卸されました。次に、その下から現われました白い坊主頭を、鋸《のこぎり》で鉢巻形に引切りました若林博士は、その下から現われた脳髄を、器用な手付きで鋏を使いながらガラスの皿の上に取出しますと、そこで同博士一流の念入りな調査をこころみるか、それとも標本にして取って置くのか……と思われましたが、これがまた案に相違して、まるでビフテキかオムレツでも取扱うような無関心さで、皿の中の脳髄をクルリと宙返りさせますと、そのまま旧《もと》の空洞に納めまして、頭《ず》蓋《がい》骨《こつ》を冠《かぶ》せて、皮と髪毛をクルリと蔽《おお》うて、針と糸を迅速にさばき働かせつつ、粗《あら》っぽく縫い合わせてしまいました。
……これは意外である。一種の狼《ろう》藉《ぜき》とも見るべき所業である。厳格方正をもって聞えた若林博士は、何故に今夜に限って、かような不誠意を極めた屍体解剖を試みるのであろうか……と疑いの眼《まなこ》を瞠《みは》っているうちに、屍体は間もなく……ゴロリと俯向けに引っくり返されました……とみると、疵《きず》だらけの背筋の中央、脊《せき》椎《つい》の左右の筋肉が円刃刀《メス》でもってゴリゴリと切り開かれました。それから二股の鋸《のこぎり》を突込んで、左右の肋《ろつ》骨《こつ》を切り除《の》けた若林博士は、取出した背骨を縦にまっ二つに切り開いただけで、ロクに検査もせずに、もとのところに当てがいまして、太い針でブスブスと縫い合せてしまいました。その一《いつ》気《き》呵《か》成《せい》的《てき》なゾンザイサというものは、やはり前とおんなじことなので……。
次に若林博士は今一度、屍体をあお向けにして、汚れたところをザッと洗い浄《きよ》めてから、腹部の皮の厚さを押えこころみている……と思ううちに、新しいメスをキラリと取上げて、咽《いん》頭《とう》のところをブスリと一突き……乳の間から鳩《みぞ》尾《おち》腹部へと截り進んで、臍《へそ》のところを左へ半廻転……恥《ち》骨《こつ》のところまで一息に截り下げて参りますと、まず胸の軟骨を離して胸骨を取除け、両手を敏活に働かせつつ、胸壁から下へ腹壁まで開いて参りましたが、ただ一刀で腹壁、腹膜が同時に、切り開かれておりまして、内臓には一点の疵も付いていない。……五臓六腑の配置が歴々整然として、蒼白い光に輝き濡《ぬ》れている光景は、気味悪いと申しましょうか、物《もの》凄《すご》いと形容致しましょうか。……その肺臓の一面にあらわれている黒い汚《し》染《み》は、この少女が炭坑労働に従事しておったことをあらわし、その致死の直接原因と見られる肝臓の破裂と内出血は、この少女に加えられた虐待、もしくは迫害が、いかに激烈であったかを証明しているのでありますが、しかし若林博士は相も変らず、そんなことには眼もくれません。ただ、それらの内臓の一つ一つを手当りしだいに廻転さしたり、掻《か》き乱したりしただけで、その最後に胃袋と、大小腸と、膀《ぼう》胱《こう》とを、ほんの形式だけ截り破るなぞ、あらゆる検査の真《ま》似《ね》型《がた》だけを終りますと、普通の解剖のように、各臓器の一部ずつを標本に取るようなこともせずに、また、太い針と麻糸を取り上げまして、下腹部から順次に咽頭部まで縫い上げて行きました……が……その間における刀《メス》の揮い方の思い切って残忍痛烈なこと……その針と、糸の使い方の驚くべく巧妙迅速を極めていること……そうしてその手付きや態度にあらわれて来る、たまらないほど辛《しん》辣《らつ》な満足のわななき……これはこうした仕事によって、ある深刻痛烈な欲望を満足させつつある、精神異常者そのままの表現ではないかと疑われるくらい……。
先刻から、かような一挙一動を、詳しく見ておいでになりました諸君は、もはやハッキリとお気付きになっているでございましょう。いまや若林博士の態度は、その平生の冷静、荘重な物腰を全然喪《うしな》ってしまって、ほとんど別人かと思われる残忍、酷烈な、かつ一種異様な興味に駆られた、元気溌《はつ》溂《らつ》たる人間に変って来ておりますことを……。
しかし、これはけっして怪しむべき現象ではありません。昔からある仕事の大家とか、またはある技術の名人とか天才とか呼ばれる人間が、自分の仕事に熱中して参りますと、その疲労から来る異常な興奮と、超自然的な神経の冴《さ》えが生み出す妄《もう》覚《かく》等によって、平生とはまるで違った心理状態になって、一見極めて非常識に見えることに深刻な興味を持ったり、または変態怪奇を極めた所《し》業《わざ》を平気で演じて行く。例は、随分たくさんに伝わっておりますので……いわんや若林博士のような特殊な体質と頭脳を持った人間が、かような古今に類のないであろう事業……闇黒の中に絶世の美少女の仮死体を蘇《そ》生《せい》させるという、玄怪微妙な仕事が済むと間もなく、今度は世にも珍しく、酷《むご》たらしい少女の虐殺屍体を、無二無三に斬りさいなむという、異常を超越した異常な作業にかかっているのですから、その神経が、どんな程度にまで昂《こう》進《しん》して、その心理がいかなる方向に変形して来ているかはとうてい常人の想像し得るところではありますまい。
そうした不可解な心理を包んだ黒怪人物……若林博士は、かくして間もなく、少女の胸腹部を、咽頭のところまで縫合わせ終りますと、最後にひときわ鋭い小型のメスを取上げて、四一四号の少女の顔面に立向いました。
まず、右の眼の縁へズクリとメスを突立てますと、あたかも同博士独特の毒物の反応検査を試みるかのように、両眼をグルリグルリと抉り出してしまいましたが、例によって、別に眼底を検《あらた》めるでもなく、そのまますぐに元の眼《がん》窩《か》に押込んでしまいました。次には、その中間の鼻《び》梁《りよう》を、奥の方の粘膜が見えるところまでガリガリと截《た》ち割りました。それから唇《くちびる》の両端を耳の近くまで切り裂いて、咽喉が露われるまでガックリと下《した》顎《あご》を引卸しました。
屍体の顔はかようにしてトテモ人間とは思われぬまでに変形してしまいましたが、これをまたもとの通りに一か所ごとに縫い合わせました黒衣の巨人は、ホッと一息する間もなく、ガーゼと海綿を取上げてアルコールをタップリと含ませながら、汚れたところを一々丁寧に拭き上げますと、やがて今までとはまるで相好の変った、誰が誰やらわからぬ奇妙な恰《かつ》好《こう》の屍体が一個出来上ってしまいました。
黒衣の博士はここでヤット一息入れますと、解剖台の上と下とに横たわる二人の少女の肉体を繰返し繰返し見較べておりましたが、そのうちに、二重の手袋を左右とも脱ぎ棄てまして、傍の机の上に在る固《かた》練《ねり》白《おし》粉《ろい》を掌で溶きながら、一滴もこぼさないように注意しいしい、四一四号の少女の顔、両肩、両腕と、腰から下の全部にお化粧を施し始めました。
……ところでその手付きを御覧下さい。いかがです。粗い縫目や、また毛髪の生え際なぞに白粉が停滞しないように注意しつつ、デリケートに指を働かせて行くところは、いかにもかような化粧品を扱い慣れている手付きではございませんか。
これはおそらくこの博士が、自身に何回となく変相をした経験があるせいではございますまいか。それともこの博士の裏面的性格から来た、飽くことを知らぬ変態的趣味と、法医学的研究趣味とがあいまって、伝え聞く数千年前の「木《ミ》乃《イ》伊《ラ》の化粧」式な怪奇趣味にまで、ズット以《ま》前《え》から高潮しておりましたのが、かような機会に暴露したものでございましょうか。いずれに致しましてもあのように青黒い、または茶色に変色した虐待致死の瘢《はん》痕《こん》を砥《といし》の粉で蔽うて、皮膚の皺《しわ》や繃帯の痕《あと》を押し伸ばし押し伸ばし白粉を施して行く手際なぞは、実に驚くべきもので、多分遊廓の遣《やり》手《て》婆《ばばあ》が、娼《しよう》妓《ぎ》の病毒を隠蔽する手段なぞから学んだものでございましょうか……とうとう色の黒い、傷だらけの少女の肌を、色の白い少女の皮膚の色と変らない程度にまで綺麗に塗上げてしまいました。それから口紅、頬紅、黛《まゆずみ》、粉白粉なぞを代る代る取上げて、身体各部のごく細かい色の変化に似せて、大小の黒子《ほくろ》までを一つ残らずモデルの通りに染め付けた上に、全身の局部局部の毛を床の上の少女と比較しつつ、理髪師もおよばぬくらい巧みに染め上げて、一々香油を施しました。
……と思うと今度は、手近い机の抽《ひき》出《だ》しを開いて赤、青、紫、その他の検鏡用のアニリン染料を、梅鉢型のパレットに取って、新しい筆でチョイチョイと配合しながら、首のまわりの絞殺の斑《はん》痕《こん》を、実物と対照して寸分違《たが》わぬ色と形に染付け始めましたが、これとても実に巧妙、精緻を極めたもので、浮上ったような蚯蚓腫《みみずば》れや、蜥蜴のような血斑が、見ているうちに頸のまわりを取巻いてしまいました。
しかし黒怪人物の黒怪事業はまだまだ進行する模様でございます。
黒怪人物は、それから大急ぎで二重の手袋をはめ直しまして机の下から一包みの繃帯を取出しました。その繃帯でもって化粧済みの屍体の顔から頭へかけてまっ白に巻きつぶしてしまいましたが、続いて頸、肩、上膊部、胸、腹部、両脚という順序に、全身をグルグルグルグルグルと巻上げますと、御覧の通り木乃伊の出来損ねか、または子供の作るテルテル坊主の裸体《はだか》ん坊を見るような姿にしてしまいました。それから今度は、寝棺の蓋の上に寝ている美少女のはでな下着を剥ぎ取って、白坊主に着せまして、その上から緋《ひ》鹿《が》の子《こ》絞りの扱帯《しごき》をキリキリと巻付けてやりましたが、その姿の奇妙さ、滑《こつ》稽《けい》さ……そうして、それと向い合って見下している黒怪人物の、今更に眼に立つ物々しい妖《よう》異《い》さ……。
しかしまだテルテル坊主の屍体には、節の高いカサカサに荒れた両手が、ニューと突き出されたまま残っております。これをどうしてごまかすかと見ておりますと、さすがは絶代の怪人物黒衣博士です。何の造作もないこと……その両腕の肘《ひじ》の関節をポキンポキンと押し曲げてチャンと合掌させて、白木綿でシッカリと縛り包んでしまいました。なるほど、これなら大丈夫と思ううちに、これも同じく隠しようのないままに残されていた皹《ひび》だらけの足の踵も、美少女の小さな足《た》袋《び》の中に無理やりに押込んでヒシヒシとコハゼをかけてしまいました。そうしていよいよ強直してしまった、艶《なま》めかしい姿の白坊主をヤットコサと抱き上げて、寝棺の中にソット落し込んで、三枚襲《がさ》ねの振袖と裲《うち》襠《かけ》を逆に着せて、糸錦の帯で巻立ててやりますと、今度は多量のスポンジと湯と、水と、石鹸と、アルコールとで解剖台面を残る隈《くま》なく洗い浄めました。その上に意識を回復しかけている美少女の裸身をソロッと抱え上げまして、その下敷になっていた分厚い棺の蓋を、テルテル坊主の上からシックリと当てがって、その上を白絹の蔽いでスッポリと蔽い包んでしまいました。
しかし黒怪人物の怪事業は、まだ残っておりました。しかも今度こそは、黒怪手腕中の黒怪手腕を現わすホントの怪事業とでも申しましょうか。
ここで寝棺と解剖台との間に突立って、またもホッとばかり肩を戦《おのの》かして一息しました黒衣の巨人はやがてまた大急ぎで手袋を脱ぎ棄てますと、まず鋏を取上げて、解剖台上の少女の長やかに房々とした頭髪を掻き分けながら、まん中あたりの髪毛を一《ひと》抓《つま》みほどプッツリと切取りました。それを机の抽出しから取出した半紙でクルクルと包みまして、同じ抽出しから出した屍体検案書の刷物や二、三の文房具と一緒に先刻の屍体台帳の横に置並べましたが、やがて鉄製の円型腰掛けを引寄せながら、新しい筆を取上げて墨汁を含ませますと、今の半紙の包みの上に恭しく「遺髪」「呉モヨ子殿」と書きました。それから、ちょっと時計を出して見ながら、ジッと考えている様子でしたが、屍体検案書の書込みの方は後廻しにする決心をしたらしくソット横の方へ押しやって、屍体台帳の方を操拡げますと、その中央に近いところにある「四百十四号……七」と書いた一枚のほかの書込みの行列と一緒に丁寧に破って、抜取ってしまいました。
それから別の皿へ墨汁を溶かして、色々の墨色を作りながら、破ったページの文字とソックリの筆跡で十数個の屍体に関する名前、年月日、番号等を書き入れて参りました……が……その中でも今の「四百十四号……七」に関する書込みは全部飛ばして、次の「四百二十三号……四」の分を記入して、一々「若林」という認印を捺《お》してしまいました。……すなわち、今しがた寝棺の中に納められたばかりの少女の変装屍体に関する記入は、かくしてこの屍体台帳から完全に追出されてしまったわけでございます。
……諸君はここにおいてか、今までの若林博士の苦心惨憺の怪所業の一々が、何を意味しておったか……ということを、ことごとく明白に理解されたでございましょう。
美少女、呉モヨ子の身代りとなって、棺の中に納められておりますのは、もともと身よりたよりのない、行方《ゆくえ》も知らぬ少女の虐殺屍体で、こちらから通知を出さない限り、遺骨を受取りに来る気づかいのない種類のものであることが、容易に察せられるのであります。
一方に当大学内において、屍体解剖を行われました人間の身寄りの者は、大てい、その翌日のうちに遺骨を受取りに来るように通知が出されるのでありますが、実は、解剖が済みますとすぐに、裏手の松原にある当大学専用の火葬場の人夫が受取って行って、立会人も何もないままに荼《だ》毘《び》に付して、灰のようになった骨と、保存してあった遺髪だけを受取りにきた者に引渡す……という、一般の火葬の場合とは全然違った、信用一点張りの制度になっておりますので、屍体の替玉に気付かれる心配は万に一つもないと言ってよろしい。もっとも、その火葬以前にやって来て、今一度、死人の顔を見せてくれと要求するような、取乱した親たちがないという断言はできないのでありますが、たといそのような場合があるにしても、かのメチャクチャに縫いつぶした顔を見せたら、二タ目と見得る肉親の者はまずありますまい。
但し、ただ一つここに懸《け》念《ねん》されるのは、その筋の係官や関係医師なぞが、今一度、念のために検分に来る場合でありますが、これほどに二重三重の念を入れて、巧妙、精緻な手を入れた替玉であることを、どうして見破り得ましょう。いずれに致しましても、その人格において、またはその名声において、天下に嘖《さく》々《さく》たる若林博士が、九大医学部長の職権を利用しつつ、念を入れ過ぎるくらいに念を入れて仕上げた仕事ですから、誰が疑点を挿《はさ》み得ましょう。どこに手ぬかりがありましょう……九大、屍体冷蔵室の屍体紛失事件が、若林博士以外にはタッタ一人しかいない係の医員に、不審の頭《こうべ》を傾けさしたまま、永久の闇から闇に葬られて行く時分には、行方不明になった少女の虐殺屍体は既に、一片の白骨となって、りっぱな墓の下に葬られて、香《こう》華《げ》を手《た》向《む》けられているわけであります。
同時に現在、気息を回復しつつある解剖台上の少女……呉モヨ子と名付くる美少女は、戸籍面から抹《まつ》殺《さつ》された、生きた亡者となって、あの蒼《そう》白《はく》長大な若林博士の手中に握り込まれつつ、呼吸することになるのでございますが、しかし、それが後になって何の役に立つのか、若林博士は何の目的でこの少女を、生きた亡者にしてしまったのか。……その説明は後のお楽しみ……と申上げたいのですが、実はこの時までは天井裏から覗いておりました正木博士にもサッパリ見当が付いておりませんでしたので……おそらく諸君とても御同様であろうと思います……が……。
しかし同時に、新聞紙上で、迷宮破りとまで称讃されている絶代のモノスゴイ頭脳の持主、若林鏡太郎博士が、かほどの惨憺たる苦心と、超常識的なトリックを用いて挑戦しつつある事件の内容……もしくはその犯人の頭脳が、いかに怪奇と不可解を極めた、凄《せい》絶《ぜつ》なものであろうか……という事実については、もはや十分十二分の御期待ができていることと存じます。しかも、この御期待に背《そむ》かない事件の驚くべき内容と、その過程の具体的なものが、順序を逐《お》うて諸君の眼前に展開して参りますのは、もう、ほどもないことと思われますので……。
すなわち御覧の通り、事件はもはや、既に、九大法医学部、解剖室内の黒怪人物、若林博士の手に落ちているのでございます。そうして同博士はいまや、一代の知脳と精力を傾注しつつ、その怪事件を巻起した裏面の怪人物に対する、戦闘準備を整えているところですから……。
却《さ》説《て》……かようにして屍体台帳の書換えを終りました若林博士は、その台帳を無記入《ブランク》の屍体検案書と一緒に、無造作に机の上に投げ出しました。疲れ切った体を起して室内に散らばっているガーゼ、スポンジ、脱脂綿なぞを一つ残らず拾い集めて、文房具、化粧品等と一緒に新しい晒布《さらし》に包み込んで、繃帯で厳重にくくり上げてしまいました。多分、どこかへ人知れず投棄して、できる限り今夜の仕事を秘密にする計画でございましょう。四一四号の屍体の各局部の標本を取らなかったのも、そうした考えからではなかったかと考えられます。
こうした仕事を終りまして今一度そこいらを念入りに見廻しました若林博士は、やがて傍の机の上に置いた新しい看護婦服と白木綿の着物を取上げて、まだ麻酔から醒めずにいる少女に着せるべく、解剖台に近づきました……が……若林博士は思わず立止まりました。手に持っている物を取落して背後《うしろ》によろめきそうになりました。
今更に眼をみはらせる少女の全身の美しさ……否、最前の仮死体でいた時とは全然《まるで》違った清らかな生命《いのち》の光が、その一呼吸ごとに全身に輝き満ちて来るかと思われるくらい……その頬は……唇は……かぐわしい花《はな》弁《びら》のごとく……または甘やかなジェリーのように、あたたかい血の色に蘇っております。中にもその愛《め》ずらかな恰好の乳房は、神秘の国に生まれた大きな貝の剥《む》き肉《み》かなんぞのように活《い》き活《い》きとした薔《ば》薇《ら》色《いろ》に盛り上って、煌々たる光明の下《もと》に、夢うつつの心を仄《ほの》めかしております。
……冷たい……物々しい、九大法医学部屍体解剖室の大理石盤の上に、またと再び見出されないであろう絶世の美少女の麻酔姿……地上の何者をも平伏《ひれふ》さしてしまうであろう、その清らかな胸に波打つふくよかな呼吸……。
その呼吸の香に酔わされたかのように若林博士はヒョロヒョロと立直りました。そうして少女の呼吸に共鳴するような弱々しい喘ぎを、黒い肩の上で波打たせ始めたと思うと、上半身をソロソロと前に傾けつつ、力なくわななく指先で、その顔の黒い蔽いを額の上にマクリ上げました。
……おお……その表情の物凄さ……。
白熱光下に現われたその長大な顔面は、解剖台上の少女とは正反対に、死人のように疲れ弛《ゆる》んだまま青白い汗に濡れクタレております。その眼には極度の衰弱と、極度の興奮とが、熱病患者のソレのごとく血走り輝いております。その唇には普通人に見ることのできない緋《ひ》色《いろ》が、病的に干《ひ》乾《から》び付いております。そうした表情が黒い髪毛を額に粘り付かせたまま、コメカミをヒクヒクと波打たせつつ、黒装束の中から見下している……。
彼はこうしてしばらくの間、動きませんでした。何を考えているのか……何をしようとしているのかわからないまま……。
……と見るうちに突然に、彼の右の眼の下が、深い皺を刻んで痙攣《ひきつ》り始めました……と思う間もなく顔面全体に、その痙《けい》攣《れん》の波動がヒクヒクと拡大して行きました。泣いているのか、笑っているのかわからないまま……洋紙のように蒼《あお》褪《ざ》めた顔色の中で、左右の赤い眼がかわるがわる開いたり閉じたりし始めました。何事かを喜ぶように……緋色に乾いた唇が狼《おおかみ》のようにガックリと開いて、白茶気た舌がその中からグラリと垂れました。何者かを嘲《あざ》けるように……それは平生の謹厳な、紳士的な若林博士を知っている者が、夢だに想像し得ないであろう別人の顔……否……彼がタッタ一人でいる時に限って現われる悪魔の形相……。
けれどもそのうちに彼はソロソロと顔を上げて参りました。いつの間にか乾いている額の乱髪を、両手で押上げつつ、青白い瞳《ひとみ》をあげて、頭の上に輝く四個の電球を睨みつめました。
その呼吸がまたもしだいしだいに高く喘ぎ始めました。その頬に一種異様の赤味がホノボノとさし始めました。空中のある者と物語っているかのように眼を細くして、腹の底から低い気味の悪い音を立てつつ、切れ切れに、
「……アハ……アハ……アハアハ……」
と笑っておりましたが、やがてその唇をじっとかんで、美少女の寝顔を見下しますと、ワナワナと震える指をさし上げて、頭の上の電燈のスイッチを一ツ……二ツ……三ツ……と切って、最後に四ツ目をパッと消してしまいました。
しかし室内はモトの闇黒には帰りませんでした。閉じられた窓の鎧扉《ブラインド》の僅《わず》かの隙《すき》間《ま》から暁の色が白々と流れ込んで、室の中のすべての物を、海底のように青々と透きとおらせております。
……茫《ぼう》然《ぜん》と、その光を見つめておりました彼は、やがてその両手の指をわななかせつつ、ピッタリと顔に押当てました。ヨロヨロと背後《うしろ》によろめいて、壁に行き当りました。そのままズルズルと床の上に坐り込みますと、失神したように両手を床の上に落して、両脚を投出して、グッタリと項垂《うなだ》れてしまいました。
その時に解剖台上の少女の唇が、微かにムズムズと動き出しました。ほのかな……夢のような声を洩らしました。
「……お兄さま……どこに……」――【溶暗】――
【字幕】 正木、若林両博士の会見。
【説明】 次に映写し出されましたるは、九州帝国大学精神病学教室本館階上、教授室における正木博士の居眠り姿でございます。時は大正十五年の五月二日……すなわち前回の映画にあらわしました若林博士の屍体スリ換えの場面が、正木博士の天然色浮出発声映画カメラのフィルムに収められましてからちょうど一週間目の、お天気のいい午後のことでございます。教授室の三方の窓には強い日光を受けた松の緑が眩《まぶ》しく波打っておりまして、早くも暑苦しい松《まつ》蝉《ぜみ》の声さえ聞えて来るのでありますが、南側に並んだ窓の一つ一つには、胡《ご》粉《ふん》絵《え》の色をした五月《さつき》晴《ば》れの空が横たわって、その下を吹く明るい風が、目下工事中の解放治療場の作業の音を、次から次に吹込んで参ります。
正面の大《だい》卓子《テーブル》と、大暖炉との中間にある、巨大《おおき》な肘掛廻転椅子に乗っかった正木博士は、白い診察服の右手の指に葉巻の消えたのを挟み、左には当日の新聞をつかみながら鼻《はな》眼鏡《めがね》をかけたままコクリコクリと居睡りをしております。トント外国の漫画に出てまいります屁《へ》っぽこドクトルそのままで……読みさしの新聞の裏面に「花嫁殺し迷宮に入る」という標題が、初号三段抜きで掲げてありますところを特に大うつしにして御覧に入れておきます。そのうちに大暖炉の上の電気時計の針が、カチリと音を立てて三時三分を指しますと、大学のお仕着せを着た四十恰好の頭を分けた小使が、一葉の名刺を持って入って来て、恭しく正木博士の前に捧げました。
扉の閉まった音で眼を醒ました正木博士は、その名刺を受取ってチョット見ますと、いかにも不機嫌らしく両眼を凹《へこ》ませました。
「ナアーンだ。何遍言って聞かせてもわからない唐変木だ。馬鹿丁寧にもほどがある。これから、こんなものを一々持って来なくとも、黙って勝手に入って来いと、そう言え」
と言いながら、その名刺を大卓子の上に投げ出しました。ナカナカ威張ったもので……そのまま眼を閉じて、またもウトウトと睡りこけております。
ところへ、青いメリンスの風《ふ》呂《ろ》敷《しき》を、一個、大切そうに抱えた若林博士が、長大なフロック姿を音もなく運んで入って来まして、正木博士と向い合った小さな廻転椅子に腰をかけました。矮《わい》小《しよう》な正木博士が、大きな椅子の中一パイにハダカッているのに対して、巨大な若林博士が、小さな椅子の中に恭しく畏っている光景は、いよいよ絶好の漫画材料でございます。……と、やがて若林博士は例によって持病の咳に引っかかりまして、白いハンカチを口に当てたまま、ゴホンゴホンと苦しみ始めました。
正木博士はその騒ぎでやっと眼を醒ましたものと見えまして、新聞と葉巻を空中にヤーッとさし上げて、眼の前の若林博士はもちろんのこと、この室も、九州大学も、しまいには自分自身までも一呑みにしてしまいそうな、すてきもない大《おお》欠伸《あくび》を一つしました。
かくして事件勃《ぼつ》発《ぱつ》以後における二人の博士の最初の会見は、この大欠伸によって皮切られたのでありますが、続いて始まる二人の会話が、表面から見ますと何らの隔意もないように思われまするにもかかわらず、その裏面には何かしら互いに痛烈な皮肉を含ませて、できるだけ深刻に相手を脅威すべく火花を散らしている……らしいことにお気が付かれましたならば、この事件の裡《り》面《めん》に横たわっている暗流がいかに大きく、且つ、深いものがあるかを御推察になるのに充分であろうと信じまする次第で……。
「アーッ……アーッと。イヤア。とうとうやって来たね。ハハハハハハ。多分もうやって来る時分だと思っていたが」
「ハア……ではもう、事件の内容は御存じなので……」
「知っているぐらいじゃない……これだろう……花嫁殺し迷宮に入る……という……むろん記事の内容にはヨタが多いだろうが……」
「さようで……しかし私がこの事件に関係いたしておりますことは、どうして御存じで……」
「……ナアニ……この間ちょっと用事があって君に電話をかけたら、午後の講義をブッつぶして、自動車でどこかへフッ飛んで行ったというから、さては何か始まったナ……と思っていると、その日の夕刊に……結婚式の前夜に花嫁を絞殺す……とか何とかいう特号四段抜きか何かの記事がでたから、さてはこの事件に引っかかったナ……と察していた訳なんだがね」
「ナルホド。しかし今日私がこちらに伺いますことは、どうして御存じで……」
「ウン……そりゃあ今日かいつか知らないが、キッと来るには間違いないと思っていた。……というのはこの事件は……ホラ……例の心理遺伝に違いないと最初から睨んでいたからね。君が調べ上げて吾《わが》輩《はい》のところへ持込んで来るのを実は待っていた訳だ。ハハハハハ」
「恐れ入ります。お察しのとおりで……実は私は二年前からこの事件に関係致しておりましたので……」
「エッ。二年以前から……」
「さようで……」
「……フーン。二年前にも、こんな事件があったんかい」
「ハイ、それも同じ少年が、実母を絞殺致しました事件で……」
「ウーム。おんなじ奴《やつ》が、おんなじ手段で……しかも実母を……ウーム……」
「実はその時に、こちらから進んで事件に関係致しました私は……この事件の犯人は別にいる。この少年が殺したのではない……と主張致しておったのでございますが、その犯人がその後どうしても見つかりません」
「君の炯《けい》眼《がん》をもってしてかい」
「……お恥かしい次第ですが、このような難解な事件に接しましたことは、私も生まれて初めてで……何と説明致したらよろしゅうございましょうか……犯跡が歴然と致しておりながら、犯人がいた形跡がないとでも……」
「……フーン。面白いナ……」
「……でございますから、その少年が前回の実母絞殺事件で無罪と相成りました後も私はけっして安心致しませんで、何とかして犯人の目星をつけたいと考えました結果、被害者の実の姉で、少年の伯《お》母《ば》に当る八《や》代《よ》子《こ》という者や、警察方面とも連絡を取りまして、もしこの後に、少年の起居動作、または一身上の出来事なぞにすこしでも変ったことがあったら、すぐに知らせてくれるように頼んだりなぞ致して、絶えず注意を払っていたのでございますが、とかくするうちに二年後の今日と相成りますと、はたしてまたも同じ少年が、今度は自分の伯母に当る八代子の娘で、しかも自分の花嫁となるべき呉モヨ子という少女をその結婚式の前夜に絞殺致しましたので、二年前の実母殺しも、やはりこの少年が、同じような精神病的発作に駆られてやったものに違いない……というようなことになりました。お陰で二年前に……この少年の母を殺した犯人は別にいる……と申しました私の言葉は、目下のところスッカリ信用を失っておりますような訳で……」
「アハハハハハ痛快痛快……。そう来なくっちゃ面白くない。きみの腕試しには持って来いの事件らしいね」
「イヤどうも……腕試しどころではございませんので……。実は私もこの事件を、かねてから御指導によって研究致しております精神科学的犯罪の好研究材料と信じまして、一ツのことを三ツも四ツもの各方面から調査致しまして、スッカリ書類にしておいたのでございますが。……この風呂敷包みの中のがそれで……」
「……ウワッ……オッソロシイ大部なモンじゃないか、そりゃあ……事件が始まってから、まだ一週間しか経たないのに、よくそれだけの書類が……」
「イヤ、この中には、二年前の事件に関する調査書類も一緒になっておりますので……また今度の事件の分も、いつ何《なん》時《どき》私が重態に陥りましてもさしつかえないように、調べる片端から不眠不休でノートに致して参りましたのですが……おかげで持病の喘《ぜん》息《そく》が急に悪化しまして、幾《いく》何《ばく》もない私の余命が、一層たよりなくなったような気が致します」
「ウーム。そう言えば近来急に影が薄くなったようだ。気をつけなくちゃいけないぜ。木乃伊とりが木乃伊式に、自分自身が精神科学の幽霊になったんじゃ鳧《けり》のつけようがないからね。アハハハハ、イヤ御苦労御苦労……ところで、その包みの上にツン張り返っている四角い箱は何だいソリャァ……」
「ハイ。これが今回の心理遺伝事件の暗示に使われました一巻の絵巻物で、箱は私が指物屋に命じて作らせたものでございます。……その呉一郎と申す青年は、誰かにこの絵巻物を見せられた結果、精神異常を来たしたものに相違ないと考えられるのでございますが、今も申します通り、当局者と私の見込みが全く違ってしまいまして、呉一郎の精神異常は自然的の発病か、もしくは精神病者を装っているものと認められておりますために、この絵巻物を当局者に参考材料として見せましても、頭から一笑に付しているのでございます。しかしまた、一方から申しますと、そのお陰で、かような貴重な参考材料が、都合よくこちらの手に入りましたような訳で……」
「アハハハハ。そいつはよかったね。君がその風《ふう》采《さい》で、警察や裁判所の奴らの前にそんな巻物を持出して、ソモソモこれが恐れ多くも勿《もつ》体《たい》なくも正木博士独特の御研究にかかる前代未聞の新学理、心理遺伝の暗示材料でござる……なぞ言い出したら、大てい面喰ってしまったろう。よく香具師《やし》と間違えられなかったね。アハハハハハハハ」
「ハハハハハ。イヤ実は例の隠蔽になりませぬように形式だけ見せたのでございますが、実はこちらの物にしたくてたまりませんでしたので……」
「いかにも……そこに抜かりはない男だからね……」
「イヤ……どうも……」
「……ところで今日の用事というのは、その書類と事件とを吾輩に押しつけに来たんかい」
「ハイ。それもございますが、今一つ……現在、花嫁殺しの犯人と目されて、福岡土手町の未決監に入れられております少年呉一郎の精神鑑定がお願い致したいので……」
「ウン。あの少年かい。あの少年の精神状態なら新聞記事だけで大てい様子はわかっているよ。いわゆる発作後の健忘状態というやつだ。つまりその絵巻物の暗示か何かで精神異常を来たした結果、ある夢中遊行を起して、花嫁を殺したりしている奴を、無理やりに取押えて夢中遊行を中絶させようとしたために大暴れに暴れ出した。そうして、そんな興奮から来た神経細胞の極度の疲労のために、発作以前にもさかのぼったアラユル過去の記憶がタタキつけられて活躍不能になってしまった。すなわち『逆行性健忘症』に陥った……というぐらいのことは、新聞記事を読んだだけでチャント見当がついている。そこいらによくあるやつで、何も別に吾輩を呼出さなくとも君が説明してやれば、それでたくさんだと思うがね」
「ハイ。それがその……今度の事件では私の信用が覆りまして、私の鑑定だけでは当てにならなくなりましたために、裁判所の方でも弱っておりますようで……ことによると呉一郎少年は殺人狂ではないか……なぞと申しておるようでございますが……」
「フーム。そいつはけしからんナ。素《しろ》人《うと》とは言い条、司法官のくせに無知にもほどがある。第一殺人狂なぞいう精神病がこの世の中に存在すると思っているからして人をばかにしているじゃないか。人を殺したからといって、すぐに殺人狂だなぞ言うのは故殺と謀殺とを一緒にするよりもひどい間違いだぜ」
「それはそうで……」
「そうだとも……君なぞはとっくに気が付いているだろうが、精神病鑑定の参考材料としてその発病前後の言動がいかに有力なものであるかということは、ちょうど犯罪検挙における嫌疑者の犯行前後における言動と同様だということを、今の学者は一人も知らんから困るのだ。精神病者というものは、いくらキチガイだからといって、けっしてむちゃくちゃな乱暴の仕方をするものでない。その発病のキッカケとなった刺激、心理遺伝の内容、精神異常状態の深さ等によって、キッチリとした筋道を立てて、いろんな脱線をして行くもので、その間にすこしのごまかしもないから、普通人の犯罪人の跡なぞよりもずっと合理的で順序が立っている。ことに人でも殺したとなると、その兇行の前後の様子は、普通の犯罪以上に有力な参考として見なければならぬ」
「ごもっともで……初めて伺いました」
「この理屈を知らないもんだから、人を殺すと、イキナリ殺人狂なぞいう名前をつける。二人も殺すとなおさら間違いないことになるんだ。……なるほど人を殺したという結果から考えると、殺人狂とでも言えるかも知れないが、その殺人狂が寒暖計の代りに人間の頭をタタキ割ったものとしたらどうだい。ハハハハハハ。それでも殺人狂と名づけ得る学者があったらお眼にかかるよ。……精神病者から見ると、自分以外の存在は、人間でも、動物でも、風景でも、天地万象の一切合財がみんな影法師か、または動く絵ぐらいにしか見えない場合がある。たとえば赤い絵具が欲しいという欲望が起れば、その精神病者は他人の頭をタタキ割るのも、赤いアルコール入りの寒暖計をブチ壊すのも、同じことに心得ているのだからね。その真実の目的が、赤い液体を手に入れて赤い絵を描きたいためであったとわかれば、けっして殺人狂なぞいう名前はつけられないであろう。だから吾輩の眼で見ればこの少年の兇行も、目的はほかにあると思う。換言すれば、この少年を支配している心理遺伝の内容次第だ」
「ごもっともで……実は私も、そんなことではないかと思いましたので、これは全然私の畠ではない、先生の御領分と存じまして、かように御参考用として、関係書類を全部持参致しました訳でございますが……それになお、今一つ……この事件に関する疑問の最後の一点だけが、当然私の受持ちになっておりますので、その点について特に御援助を仰ぎたいために、今日実はお伺い致しました次第で……」
「フーム。何だか話が恐しく緊張して来たね。何だいその最後の一点というのは……」
「ハイ……それはこの絵巻物を使って呉一郎に暗示を与えた人間……」
「アッ……ナルホドね。そんな人間がもしいるとすれば、そいつはトテモ素晴しい新式の犯罪者だよ。たしかに君の受持ちだね。そいつを探り出すのは……」
「さようで……けれども、この一点が今のところではカイモクわかりませぬために、事件の全体が隅から隅まで、神秘の雲に奥深く包み込まれた形になっておりますので……」
「そりゃあそうだろうさ。心理遺伝に支配された事件は大てい神秘の雲に包まれたっきり、わからずじまいになるのが、昔からの吉例になっているんだからね。新聞に出たやつだけでも、どれくらいあるかわからん」
「しかし……私が考えますと、今度の事件に限っては、その神秘の雲を破り得る可能性がありますようで……と申しますのはほかでもございません。その最後の疑問の一点というのは、必ずやその少年の記憶の底に……」
「ヤッ……わかったわかった。重々あいわかった……つまりその少年の精神状態を回復さしたら、その絵巻物を見せてくれた人の顔や姿を思い出すだろう……だからその記憶を探し出す目的で、とりあえず精神鑑定をやってくれというのだろう」
「さようで……まことに恐れ入りますが、こればかりは、どうしても私の力には及びませぬので……」
「イヤ。わかったわかった。重々あいわかった。さすがは一代の名法医学者だ。よいところへお気が付かれました……かね。ハハハハ。イヤ引受けた。たしかに引受けた」
「ドウモ……まことに……」
「ウンウン。心得た心得た。万事心得た。もうこの事件をスッカリ頭から取り去って悠々自適のうちにビタミンを摂取したまえ……イヤ、ビタミンといえば、どうだい一ツ今から吉塚へ鰻《うなぎ》を喰いに行かないか。久振りに一杯……と言っても、飲むのは吾輩だけだが……まあいいや。この事件に対する君の慰労の意味で……」
「ハイ、それはどうも……しかし、その少年の精神鑑定にはいつ頃御出張願えましょうか。私から裁判所へ通告致しておきますが……」
「ウン。そりゃあいつでもいいよ。何もめんどうなことじゃない。その少年の面《つら》をたった一目見ただけで、コレは殺人狂でも偽狂でもござらぬ。しかし、なお細かい鑑定のために入院させる必要がござるというので、この精神科へ連れてくる手《て》筈《はず》が、今からチャンときまっているから他愛ないね。若林博士の評判地に落ちるに反して、正木の名声隆々たりかネ……ハハハハハハ」
「恐れ入ります……ではこの書類はどう致しましょうか」
「……ア……そいつは吾輩が預かるんだっけね。ハテ、どうしようか……ウン。いいことがある。こちらへよこし給え……このストーブの中へ投《ほう》り込んで、こうして蓋をしておこう。今年の冬までは火を焚《た》く気遣いないからね。お釈《しや》迦《か》ア様でも気が付くめえ……と来やがった……」
「ハア……それは何の声《こわ》色《いろ》ですか」
「声色じゃない。謡曲勧進帳の一節だ。法医学者のくせに何も知らないんだナア、君は。アハハハ」――【溶暗】――
オーヤオーヤ……ナアーンのコッタイ……。天然色浮出発声活動写真がとうとう会話ばかりになってしまった。これじゃ下《へ》手《た》なラジオか蓄音機と一緒だ。活弁もやってみるとナカナカ楽じゃないね。一々「ございます」とくっ付けるだけでも大変なお手数だ。ツイめんどうくさくなって「ございます」を抜きにしようとするもんだから、こんなことになるんだが……。おかげで少々くたびれたから今度は一ツ「ございます」抜きの「説明要らず」という映画を御覧に入れる。否……「説明要らず」どころではない。「スクリーン要らず」の「映写機要らず」の「フィルム要らず」の……これを要するに「何もかも要らずの映画」と言ってもさしつかえないという……とてもドイツ製の無字幕映画なぞいう時代遅れな代物が追いつく話ではない。……というのはどんなシロモノかというと、種を明かせば何でもない。すなわち今の若林君が、吾輩に引渡して、吾輩が空ストーブの中に抛《ほう》り込んでおいた一件の調査書を、吾輩が後から読んで要点だけを抜書きにして、自分一個の意見を書き加えたいわゆる抜《ばつ》萃《すい》の各ページを、一枚ごとに順序を逐うて、映画として御覧に入れるのだ……というとまた、ドエライ手数がかかるようだが、実は何でもない。ただ、その抜萃の原本を、この遺言書のココントコへ挿《そう》入《にゆう》しておくだけの手数で……エヘン……諸君もただ、それを読むだけで訳がわかるという……吾輩最近の発明にかかるトリック映画だ。今にこの式の映画が大流行を来たすと思うから、何ならパテントをお譲りしてもよろしい。御賛成の諸君がありましたら……ハイただ今……ちょっとお待ちください。
実はこの抜萃記録は吾輩の「心理遺伝論」の中に挿入しようと思っていたものであるが、そんな論文の原稿は最前すっかり焼棄てたけれども、特にこの一部だけは残しておいたものだ。諸君は今まで吾輩が説明したところによって、現在天晴《あつぱ》れの精神科学者を兼ねた名探偵となってござるわけだから、その力でこの記録を読んで行かれたならば、徹底的にこの事件の真相を看破して、ギャフンとまいるくらいのことは、何の造作もあるまいと思う。
……この事件はいかなる心理遺伝の爆発によって生じたものか? その心理遺伝を故意に爆発させた者がいるかいないか。また、いるとすればどこにいるか。そうしてこの事件に対する若林と吾輩の態度はこの事件の解決に対して、いかなる暗示を投げかけているか……という風にね。しかし、よっぽど緊《しつか》りと褌《ふんどし》を締めてかからないと駄目だよ……なぞと脅かしておいて、その間に吾輩は悠々とスコッチをあおり、ハバナを燻《くゆら》そうという寸法だ……ハハン…………。
◆心理遺伝論付録◆……各種実例
その一 呉一郎の発作顛末
――W氏の手記に拠る――
第一回の発作
◆第一参考 呉一郎の談話
▼聴取日時 大正十三年四月二日午後零時半頃。同人母にして、左記女塾の主人たる被害者千《ち》世《せ》子《こ》(三十六歳)の初七日仏事終了後――
▼聴取場所 福岡県鞍《くら》手《て》郡直《のう》方《がた》町日吉町二〇番地ノ二、つくし女塾の二階八畳、呉一郎の自習室兼寝室において――
▼同席者 呉一郎(十八歳)被害者千世子の実子、伯《お》母《ば》八《や》代《よ》子《こ》(三十七歳)福岡県早良《さわら》郡姪《めい》の浜町一五八六番地居住、農業――余(W氏)――以上三人――
――ありがとうございました。先生(W氏)があの時「どんな夢を見ていた?」と尋ねて下さるまでは、僕はどうしてもあの夢のことを思い出さなかったのです。先生のおかげで、僕は親殺しにならずにすみました。
――母を殺した者が僕でないことが皆さんにわかれば、僕はもうそれでたくさんです。何も言うことはありません。けれども、その犯人をお探しになる参考になりますのなら、何でも尋ねて下さい。ずっと昔のことは母が話さずに死にましたから、僕が大きくなって後のことしか知らないんですけど、お話して悪いようなことは一つもないと思います。
――僕は明治四十年の末に、東京の近くの駒沢村で生まれたのだそうです。父のことは何も知りません。(註に曰く……呉一郎の生所は事実と相違せる疑いあり。しかれども研究上には別にさしつかえなきをもってここに訂正せず)
――母は生まれた時からこの伯母と二人で姪の浜に住んでいたそうですが、十七の年に、絵と刺《し》繍《しゆう》を勉強すると言ってこの伯母の家を出たのだそうで、その後、僕の父を尋ねながら東京へ行って、方々を探しているうちに僕が生まれたのだそうです。「男ってものは、偉ければ偉いほど嘘を吐《つ》く」って母はよくそう言っておりましたが、大方、父のことを怨《うら》んでそう言ったのでしょう(赤面)。ですけど父のことを尋ねますと母はすぐに泣きそうな顔になりますので、大きくなってからは、あまり尋ねませんでした。
――けれども母が一所懸命で、父の行方《ゆくえ》を探しているらしいことは、僕にもよくわかりました。僕が四ツか五ツの時だったと思いますが、母と一緒に東京のどこかの大きな停車場から汽車に乗って長いこと行くと、今度は馬車に乗って、田圃《たんぼ》の中や山の間の広い道を、どこまでもどこまでも行ったことがありました。一度眠ってから眼を醒《さ》ましたら、まだ馬車に乗っていたことを記《お》憶《ぼ》えています。そうして夕方、まっ暗になってからある町の宿屋に着きました。それから母は僕を背負って、毎日毎日方々の家を訪ねていたようですが、どっちを向いても山ばかりだったので、毎日毎日帰ろう帰ろうと言って泣いては叱られていたようです。それからまた、馬車と汽車に乗って東京へ帰りましてから、山の中で馬車屋が吹いていたのとおんなじ音のする喇叭《らつぱ》を買ってもらったことを記憶しています。
――それから、ずっと後になって、これは母が、父の故郷を尋ねて行ったものに違いないと気が付きましたから「あの時汽車に乗った停車場《ステーシヨン》はどこだったの」と尋ねましたら母はまた、涙を流しまして「そんなことを聞いたって何にもならない。お母さんは、あの時までに三度も、あそこへ行ったんだけど、今ではスッカリ諦《あきら》めているから、お前も諦めておしまい。お前が大学を出る時まで、お母さんが無事に生きていたら、お前のお父さんのことをみんな話してあげる」と言いましたから、それっきり尋ねませんでした。もうその時に見た山の形や町の様子なぞもボンヤリしてしまって、ただ、ガタ馬車の喇叭の音が耳に残っているきりです。しかし、それから後、いろんな地図を買って来まして、あの時に乗った汽車や、馬車の走った時間の長さを計ったりして調べてみますと、どうしても千葉県か栃木県の山の中に違いないと思うんです。エエ。線路の近くには海は見えなかったようです。けども汽車の窓の反対側ばかり見ていたかも知れませんから、ホントのことはわかりません。
――東京で住んでいたところですか。それは方々におりましたようです。僕が記憶えているだけでも駒沢や、金杉や、小梅や、三本木という順に引越して行きまして、一番おしまいにいた麻布《あざぶ》の笄《こうがい》町からこっちへ来たのです。いつでも二階だの、土《く》蔵《ら》の中だの、離《は》座《な》敷《れ》みたようなところだのを二人で間借りをして、そこで母はいろんな刺繍をした細工物を作るのでしたが、それが幾つかでき上りますと、僕を背《お》負《ぶ》って、日本橋伝《てん》馬《ま》町《ちよう》の近江《おうみ》屋《や》という家に持って行きました。そうするとその家の綺麗にお化粧をしたお神さんが、キッと僕にお菓子をくれました。今でもその家と、お神さんの顔をおぼえております。
――母がその時作っていた細工物の種類ですか? サアそれはハッキリおぼえませんけども、神様の垂れ幕だの、半《はん》襟《えり》だの、袱《ふく》紗《さ》だの、着物の裾《すそ》模様だの、羽織の縫紋だのいろんなものがあったように思います。それをどんなにして縫っていましたか……どれくらいのお金で売れていたか、その時はまだチッチャかったものですから、一つもわかりませんでしたけれども……たった一つ、今でもハッキリ記憶えておりますのは、東京から直方《こちら》へ来る時に、母が近江屋のお神さんにやりました小さな袱紗の模様です。それは薄い薄い、向うが透かして見えるような絹一面に、いろんな色と形の菊の花を刺繍した、とてもとても綺麗なもので、毎日指の頭ぐらいずつしかできませんでしたが、それができ上ったのを持って行って僕の手からお神さんにやりますと、お神さんはビックリして、大きな声で家中の人を呼びましたが、みんな眼を丸くして感心しながら見ておりました。あとから聞きましたら、それは真《ほん》物《もの》の「縫い潰《つぶ》し」と言って、今の人が誰も作り方を知らない昔の刺繍だったのだそうです。それからそのお神さんの御主人が母にお金をくれたようでしたが、お辞儀をして返して、お菓子だけもらって帰りました。母とお神さんがいつまでも門口に立って泣いているので、僕は困ってしまいました。
――東京から直方《こちら》へ来たわけは、母が卜《うら》筮《ない》を立てたんだそうです。「狸《まみ》穴《あな》の先生はよく適《あ》中《た》る」って言っていましたから大方、その先生が言ったのでしょう。「お前たち親子は東京にいるといつまでも不運だ。きっと何かに呪《のろ》われているのだから、その厄を落すためには故郷へ帰ったがいい。今年の旅立ちは西の方がいいと、この通り易のオモテに出ている。お前は三碧木星で、菅原道《みち》真《ざね》や市川左団次なぞと同じ星廻りだから、三十四から四十までの間、一番災難の多い大切な時だ。尋ね人は七赤金星で、三碧木星とは相《そう》剋《こく》だから早く諦めないと大変なことになる。双方の所持品《もちもの》同士でも近くに置くとお互いに傷つけ合おうとするくらいで、相剋の中でも一番恐ろしい相剋なのだから、忘れても相手の遺品《かたみ》なぞを傍《そば》近くに置いてはいけない。そうして四十を越せば平運になって、四十五を越せば人並はずれたいい運が開けて来る」と言ったんだそうです。それで僕が八ツの年に、こっちへ来たのだそうですが「ホントにその通りだ。私は天神様や何かとおんなじ星廻りだから、文学や芸術事が好きなのだろう」って母は何遍も塾生に話して笑っていましたので、僕はそんな言い草をスッカリ空でおぼえてしまったのです。……でも七赤金星の話は僕ばかりにしかしなかったそうで、誰にも話してはいけないと口止めされていたのですけども……。
――母は直方《こちら》へ来ると間もなく、この家を借りて塾を開きました。生徒はいつも二十人くらいなのを、夜と昼の二組にわけて下の表の八畳で教えていましたが、大変にいいところのお嬢さん方が見えると言って母は喜んでいました。けれども母は気が短いので、よく生徒を叱りました。またよく無頼漢《ならずもの》や不良少年みたような者が生徒をからかいに来たり、母を脅迫《おどか》してお金を強《ゆ》請《す》ったりしましたが、そんな時も母は一人で叱り付けて追い払いました。……ですから、この家の中に入って来た男の人は家主のお爺さんと、中学時代の僕の受持の鴨打《かまち》先生と、電燈工夫ぐらいしかありません。そのほかには、母へ手紙が来たこともなければ、こっちから出した模様もありません。あんなに懇意だった近江屋のお神さんにも便りをしなかったようで、何でもかんでも自分の居所を人に知られるのを怖がっていたようです。その理《わ》由《け》はなぜだか、僕にも話しませんでしたけれども、大方狸穴の占《せん》者《せい》の言ったことを本当にし過ぎて誰かが自分を狙《ねら》っているように思ったのじゃないかと思います。母は迷信家ではありませんでしたが、狸穴の先生だけは真剣に信じていたようですから……。
――けれども僕は本当のことを言いますと、この直方を好きませんでした、それは東京からこっちへ来ます途中で、身体の具合がわるかったせいか、汽車にヒドク酔いまして、あの石炭の煙のにおいが大嫌いになってしまいましたのに、こっちへ来ますと、そこら中が炭坑だらけで、朝から晩までそんな臭いばかりするからだろうと思います、けれども、母がせっかくいいところだと言って喜んでおりましたから、仕方なしに我慢しておりました。そうするとそのうちに慣れてしまって、汽車には酔わなくなりましたけれども、空気の悪いのと石炭の臭いだけはシンから嫌《いや》でした。それから学校に入りますと、生徒の言葉が色々になっていて乱暴でわからないので困りました。日本中から集まった人の子供がいるんですから……。
――それにまた、僕は小さい時から方々を引越していたせいか、友達がすくないのです。こっちへ来ましても学校友達はあまりできませんでしたが、そのうちに中学の四年になりますと、すぐに一所懸命の思いをして、福岡の六本松の高等学校に入りましたら、空気がトテモ綺麗で見晴しがすてきなので嬉しくて嬉しくてたまりませんでした……エエ……そんなに早く試験を受けましたのは直方が嫌いだったからでもありますけど、ホントのことを言いますと、早く大学が卒業したかったんです。そうして母と約束していた父の話をできるだけ早く聞いてみたいような気持ちがしてしようがなかったのです。……母にはそんなことは言いませんでしたけれども……中学へ入る時もそうだったのです。なぜっていうわけはありませんでしたけれども……そうしてやっと文科の二年になったばかしのところです(赤面、暗涙)。
――ですけど不思議なことに、母は試験ができても、あまり嬉しそうな顔をしませんでした。これはずっと前からそうでしたけど、母は僕が勉強をして成績がよくなるのは何とも言いませんでしたが、成績が貼《はり》出《だ》されたり、僕の名前が新聞や雑誌に載ったりするのは心から嫌いだったらしいのです。僕もそんなことは好きませんでしたので、学校の規則で成績品を出さなければならない時には、母がわざわざ僕を連れて「なるたけ隅っこの人眼につかないところへ出して下さい」と先生のところへ頼みに行ったこともあるくらいです。先生の方では「なかなか奥床しい方だ」なぞ言って母を賞めていましたけれども、母の方は奥床しいどころでなく、真剣に嫌がっていたようでした。高等学校へ入る時も、僕の名前が福岡の新聞に出るのをむやみに心配しているようでしたので「そんなら東北かどこか遠方のつまらない私立の専門学校か何かを受けることにして、そこへ僕と一緒に、引越したらどうです。そうすれば福岡の新聞には出ないかも知れませんよ」と言いましたら、しばらく考えてから「お前はどうしても大学へ入れなければならないし、これだけの塾生を見捨てるのも惜しいから」と言って、とうとう福岡を受けることに決めました。けれど、それでも「福岡には不良少年や不良少女がタントいるから、むやみに寄宿舎から出てはいけない」とか「途中で知らない人から話しかけられてもむやみに口を利いてはいけない」なぞと言って聞かせておりましたが、今から考えますと、やはりあの狸穴の先生が言ったことは適《あ》中《た》っていたので、母は何か、人につけ狙われるような憶えがありましたために、自分たちの居所をできるだけ隠そうとして、いろいろと気を揉んでいたのだろうと思います。
――学校にいる間は寄宿舎に入っていましたが、土曜の晩から日曜へかけてはキッと直方へ帰って来ました。休暇の間もずっと家にいて毎朝すこし早く起きて母の手伝いをしたり何かしましたが、その代り夜は九時か十時頃に寝るのでした。母はずいぶん気の強い女で、人気の悪い直方に住んでいながら、僕のいない時はたった一人でこの室に寝るのでしたが、「朝は八時半頃からボツボツ生徒が来るし、夜は十一時頃まで休む間もないから、ちっとも淋しいとは思わない。勉強の忙《せわ》しい時なぞは無理に帰って来なくてもいいよ」なぞとよく言っておりました。
――ついこの頃になっても別に変ったことはありませんでした。ただ、去年の夏でしたか、母が刺繍材料の包み紙になって来たアメリカの新聞を持って来て「これは何と言う人か」と尋ねますので、そこのところの記事を読んで見ましたら、ロンチェニーという活動俳優が扮した道《ピ》化《エ》役《ロ》だとわかりましたので、母はつまらなそうに「フン。そうかい」と言って降りて行きました。その時に、僕の父はあんな顔をした人間で外国にいるのだなと思いましたから、その写真は細かいところまでよく記憶えています。チョット見ると大きなお蚕様みたような顔でしたから、私はソッと下へ降りて、六畳に置いてある母の鏡台の前に行って、自分の顔を覗《のぞ》いて見ましたが、ちっとも似ていませんでした(赤面)。
――あの晩も別に変ったことはありませんでした。僕はいつもの通り九時頃に寝てしまいましたが、母がやすんだのは何時頃だったかおぼえていません。いつもの通りなら十一時頃に寝たのでしょう。
――それから、これは警察では言いませんでしたが、あの晩僕は夜中に目を醒ましました。こんなことは今までめったになかったのですから、話して疑われるとつまらないと思いましたから……何だかわかりませんけれども、ゴトーンと大きな音がしたように思いましたから、フイと目を醒ましましたが、まっ暗でわかりませんので、寝しなに枕許に近づけておきましたこの電気を捻《ひね》って、読みさしたままの書物の下になっている腕時計を見ますと、一時に五分過ぎていました。……それからお小用に行こうと思って起上りがけに、こっちを向いてスヤスヤ眠っている母の顔を何の気もなく見ますと、口を少し開いて、頬がまっ赤で、額が瀬戸物のようにまっ白く透きとおっていて、不思議なくらい若く見えました。ちょうど、家に来る大きい生徒くらいにしか見えませんでした。それから下に降りて用を足して、六畳と八畳の電燈をつけて見ましたが、何も変ったことはありません。最前《さつき》、ゴトーンと言ったのは何だったのかしらんと考えてみましたが、もしかしたら僕の思い違いかも知れないと思いましたから、また二階に上って来て母の顔を見ますと、もう向うを向いて布団に潜っていて、櫛《くし》巻《ま》きの頭だけしか見えませんでした。僕はそれから、すぐに電燈を消して寝ましたが、母の顔はそれっきり見ません。
――それから警察署で先生(W氏)にお話しましたように変な夢ばかり見ていたのです。僕は夢なんかめったに見たことはないのに、あの晩はホントに不思議でした。イイエ。人を殺すような夢は見なかったようですけど、汽車が線路から外《そ》れてウンウン唸りながら僕を追っかけて来たり、巨大《おおき》な黒い牛が紫色の長い長い舌を出してギョロギョロと僕を睨《にら》んだり、青い青い空のまん中で太陽がまっ黒な煤《す》煙《す》をドンドン噴き出して転げまわったり、富士山の絶頂が二つに裂けて、まっ赤な血が洪水のように流れ出して、僕の方へ大《おお》浪《なみ》を打って来たりして、とても恐ろしくて恐ろしくてたまりませんけど、なぜだか足が動かなくなって、いくら逃げようとしても逃げられないのです。そのうちに家主《おおや》さんの養鶏所から鶏の啼《な》き声が二、三度きこえたように思いましたが、それでも、そんな恐ろしい夢が、あとからあとからハッキリと見えて来ますので、どうしても醒めることができません。ですから一所懸命になって苦しがってもがいておりますと、そのうちにやっとの思いで眼を開けることができました。
――その時にはもう、この窓の格子が明るくなっておりましたから、僕はホッと安心しまして、起上ろうとしますと、頭が急にズキンズキンと痛みました。それと一緒に口の中が変に臭いようで、胸がムカムカして来ましたので、これはきっと病気になったんだと思ってまた寝てしまいました。その時はちょっとのつもりでしたが、今度は夢も何も見ずに、汗をビッショリ掻いて、グーグー睡っていたようでした。
――するとまたそのうちに、誰だかわかりませんが、不意に僕を引きずり起して、右の手をシッカリと押えつけて、どこかへ連れて行こうとする者がいます。僕は寝ぼけたまま、やはり夢を見ているのかと思って、振り放して逃げようとしますと、また一人誰か来て、僕の左手を押えてズンズン梯《はし》子《ご》段《だん》の方へ引っぱって行きました。その時にやっと気がついて振り返って見ますと、背広を着た人とサアベルを引きずった巡査とが母の枕元に跼《かが》まって、何か調べているようでした。
――それを見ると僕は、キット母がコレラか何かに罹《かか》ったのに違いない。そうして僕も同じ病気になっているから、こんなに身体の具合が変なのだろうと半分夢うつつのように思い思い、二人の男に引っぱられて行きましたが、その時の苦しかったことはいまだに忘れません。何だか身体中が溶けるように倦《だる》くって、骨がみんな抜け落ちそうで、段々を一つ降りるごとに眼の前がまっ暗になって、頭の中が水か何ぞのようにユラユラして痛みます。それを立止まって我慢しようとしますと、下から急に片手を引っぱられましたので、思い切って転がるように段々を降りて行ったのですが、その途中でヒョイと顔を上げますと、梯子段に向い合った頭の上の手《て》摺《す》りから、私の母の色の褪《さ》めた扱帯《しごき》が輪の形になってブラ下がっているのが眼に入りました。
――けれどもその時は、それがなぜそうしてあるのか考える力もありませんでしたし、そのうちにまた付いている男からヒドク小突かれて眼が眩《くら》みそうになりましたので、そのまま勝手口に来て、母が平生《ふだん》穿《ば》きにしておりました赤い鼻緒の下駄を穿いて横露地に出ました。その時に、もしや母はもう死んでいるのじゃないか知らんと思いましたから、ハッとして立止って左右を見ましたら、両手を押えている男というのは、顔だけよく知っている直方署の刑事と巡査で、怖い顔をして僕を睨みつけながら、グングン両手を引張って行きましたから、何も尋ねることはできませんでした。
――往来は眩しいほど日が照っていましたが、家の前には大勢の人が集《たか》っていて、僕が出て行きますと一斉にこっちを見ました。近くにいる人は逃げ退《の》いたりしましたが、僕はそんな人たちの黄色く光っている顔を見ますと、また、眼がまわって倒れそうになりました。それと一緒に、頭の中がシインと痛くなって嘔《は》きそうになりましたので、額を押えようとしましたが、両手を押えられているので、何もできません。その時に母は病気じゃない。殺されるかどうかしていて、自分に疑いがかけられているのだなと思いましたから、そのまま温柔《おとな》しく引かれて行きました。
――僕はその時にキット頭がどうかなっていたのでしょう。ちっとも悲しくも恐ろしくもありませんでした。けれども身体中が汗だらけで、背中や腰のまわりがビショビショになった白い浴衣《ゆかた》の寝巻き一枚しか着ていませんでしたので、たまらないほどゾクゾクしました。その上に、頭の上から照りかかる太陽の光が、変に黄《きな》臭《くさ》いような、息苦しいような感じがして、気が遠くなりかけたり、口の中が腥《なまぐさ》くて嘔きそうになったりしましたので、時々眼をあけて、キラキラ光る地面《じべた》を見ながら、唾を吐き吐き歩きました。そうしたら、やっぱりお医者のところへ行くのじゃなくて警察の方へ曲って行きましたので、急に胸がドキドキしましたが、警察の入口の段々を上ると、またスッカリ落ち着いてしまいました。そうして何だか自分のことを書いた探偵小説を読んでいるような、夢見ているような気持ちになって、汚ならしい床板を見つめておりますと、不意に僕の背後《うしろ》で大きな声が聞えましたから、ビックリして振向きますと、それは僕を連れて来た刑事が怒鳴ったので、あとからついて来た大勢の人が警察の中へ入ろうとするのを叱っているのでした。その中には知っている顔もあったように思いますが、誰だったかはっきり記憶えてません。
――僕はそれから、奥の方にある狭い室で木製のバンコ(九州地方の方言。腰掛のこと)に腰かけさせられて、巡査部長や刑事からいろいろなことを訊《き》かれました。けれども、頭が割れるように痛んでいましたので、どんな返事をしたかスッカリ忘れてしまいました。「嘘だろう、嘘だろう」って何遍も言われましたから「嘘じゃない、嘘じゃない」と言い張ったことだけは記憶えてますけれど……。
――そうすると間もなく、この直方の町中で知らない人はない「鰐《わに》警部」と綽《あだ》名《な》のついている谷警部が入って来まして、ダシヌケに「お前の母《おふ》親《くろ》は殺されたんだぞ」と言いました。その時に僕は急に胸が一パイになって、どんなに我慢しても、声を立てて泣かずにはいられないような気持ちになりましたのを、一所懸命に我慢をして涙を拭いておりますと、しばらく黙っていた谷警部は「お前が知らないはずはない」と言って、僕の前にある汚い木机の上に何か投げ出しました。それは母がいつも寝床の上に置いて寝る平生《ふだん》着《ぎ》の帯締めで、紫色の打《うち》紐《ひも》に、鉄の茄《な》子《す》が付いているのでした。何でもよっぽど古いもので、母が故郷を出る時から締めていたのだそうですが、しかし、それがどうしたのかよくわかりませんでしたから俯《うつ》向《む》いていますと、「お前はこれで母親を締め殺したんだろう」と谷警部が雷のような声で怒鳴りました。アンマリひどいので僕はカッとなって、思わず立上って谷警部を睨みつけましたが、その時にまた、頭が割れるように痛んで嘔き気がつきましたので、机の上に両手をついて、身体をブルブル震わして我慢していました。けれども口惜しくて口惜しくて涙がポロポロ出て来るのを、どうしても止めることができませんでした。
――谷警部はそれからまたいろんなことを言って僕を責めました。この警部はここいらの炭坑中の悪党が「鬼」とか「鰐」とか言って怖がっているのだそうですが、僕は何ともありませんでしたから、黙って聞いておりますと……今朝八時半頃、いつもの通り塾生が二、三人お稽《けい》古《こ》に来たが、いつになく裏表の戸が閉まっているのを見て、裏の家主《おおや》さんに知らせた。それで家主のお爺さんが勝手口の戸の隙《すき》間《ま》から大きな声で呼んでみたが、どうしても起きない。そのうちに勝手口の方へ降りて来る階段の昇り口のところに、白い足が二本、ブラ下がっているのが薄《ほの》明《あか》るく見えたので、お爺さんはまっ青になって警察へ駆込んで来た。……それから警察の人が行って見ると、勝手口の突っかい棒が落ちているのが一番先にわかった。それから二階に上ろうとすると、母が寝巻一つのまま階段の上の手《て》摺《すり》に細帯を結んで、それに首を引っかけて手足を垂らしているのが発見されたが、お前はそんなことは知らないような風に、床から半分脱け出して大の字になったままグーグー寝ていた。しかし母親の屍体を調べてみると、首の周囲《まわり》の疵《きず》痕《あと》は細帯と一致しないし、寝床も取り乱してあるしするのだから、たしかに絞殺した後で、首を縊《くく》ったように見せかけたものに違いない。また家の中には何も盗まれたような跡がないようだし、外から人が入って来た様子もないから、お前よりほかに怪しい者はいないことになる……。
――それからまだある。お前の母は寝床の中で絞《しめ》殺《ころ》されがけに随分苦しんでいるらしく、その絞めた疵痕が二重にも三重にもなっているくらいだから、横に寝てるお前が眼を醒まさないはずはない。第一お前は平常《いつも》と違って三時間以上余計に朝寝をしていたのはどういう訳か。絞め殺しておいてごまかすつもりで寝ていたのが、つい寝過したのじゃないか。お前はほかに、お前を好いている女がいるのじゃないか。それとも塾生の中にお前が好いている娘がいて、そのことについて母親と喧嘩したのじゃないか。母親にお金を強《せ》請《び》ったのじゃないか。毎月小遣を幾らもらっているか。一体あれはお前の本当の母親なのかどうか。情婦を親に見せかけていたのじゃないか。スッカリ白状し給え……なんてとんでもないことをいろいろと言いかけるのです。……ですけれども、僕はそんなことを聞いているうちに、頭が痺《しび》れたようになりまして、それじゃ人間てものは自分でも知らない間に、人を殺すようなことがホントウにあるのかしらん。僕は夢うつつのうちに母親を殺して忘れているのじゃないかしら……なぞとボンヤリ考えたりしながら、俯向いておりますと、「そんならここで考えていろ」と留置場に入れられました。
――それからその日とその晩の一夜は何も喰べずに、眠ったり醒めたりして、あくる朝の御飯も頭が痛むのでそのままにしていましたが、あんまりお腹が空いて来ましたので、お昼のを頂きますと大変にお美《い》味《し》くて頭の痛いのがすっかり癒《なお》りました。それから夕方になりますと、僕の母ソックリの女の人が面会に来ましたのでビックリしましたが、それはこの伯母でしたので、僕は生まれて初めて会った訳なのです。その時にこの伯母も先生(W氏)と同じことを言いました。「何か夢を見ていやしなかったか」って……けれどもその時はどうしても思い出せなかったものですから、何も知らないと答えました。……でも麻酔剤を嗅がされていたことなんか、ちっとも知らなかったものですから……。
――あくる日になると先生(W氏)がおいでになるし、中学にいた時の僕の受持ちの鴨打先生も会いに来て下さいました。そのまたあくる日になったら裁判所からも人が来て親切にいろんなことを聞いたりして、なんだか赦《ゆる》されそうなので、僕は母がどんなになっているか、見に行きたくてたまりませんでしたが、一昨日帰ってみますと、母の遺骸《からだ》はもう火葬にしてありましたのでガッカリしました。僕の家には写真が一枚もないので、母の顔はもう見られないのです。けれども明日はこの伯母が、僕を姪の浜の自《う》宅《ち》に連れて行ってくれると言いますし、モヨ子っていう従妹もいるそうですから、そんなに淋しくはないだろうと思います。
――僕が一番好きなのは語学ですが、そのうちでも一番面白いのは外国の小説を読むことで、特にそのうちでもポーと、スチブンソンと、ホーソンが好きです。みんな古いって言いますけど……今に大学に入ったら精神病を研究してみようかとも思っているくらいです。ホントウは文科に入って各国の言葉を研究して、母と一緒に父の行方を探しに行きたいと考えていましたが、父のことについては母がごく少しばかりしか話さずに死んでしまいましたのでガッカリしています。そのほかに、今のところでは、どんな者になろうとも思っておりません。国語や漢文も嫌いではありませんが、中学を出た後にはわざわざ勉強しようとは思いませんでした。その次に好きなのは歴史と博物で、つまらないと思ったのは地理と物理と数学でした。一番できないのは唱歌ですが、それでも聴くのは大好きです。いい西洋音楽のレコードを聴いたりしますと、名画を見ているような気持ちになります。民謡なぞも母が機嫌がいいと「よく塾生と一緒に謡《うた》いましたから、好いなあと思って聞いていました(赤面)。
――僕は今までに病気したことは一度もありません。母も寝たことはないようです。
――僕はこれから、警察へ訪ねて来て下すった鴨打先生のところへお礼に行きます。
◆第二参考 呉一郎伯母八代子の談話
▼同所同時刻において、呉一郎が外出後――
――まったく何もかも夢のようでございます。一《あ》郎《れ》は私の妹の子に相違ございません。眼鼻立ちが母親に生きうつしで、声までが私共の父親にそっくりでございます。
――ずっと古い昔のことは存じませんが、私の家は代々姪の浜で農業を致しておりました。私共姉妹は母に早く別れましたが、父も私が十九の年の正月に亡くなりましたので、家の血統は私とこの妹(位牌をかえり見て)千世子と二人切りになってしまいました。それで、その年の暮に私は、亡くなりました夫の源吉を迎えますと間もなく妹は、「東京へ行って絵と刺《ぬい》繍《とり》の稽古をして、生涯独身で暮すからかまわないでくれ」という置手紙をして家を出ました。それが明治四十年の新の正月頃のことでございましたが、その後、福岡で妹を見かけたという人もありましたけれども、ハッキリしたことはわかりません。やはり全く絵と刺繍が好きなためでございましたろうと思います。一郎が申しますように、人並はずれて勝気な娘で、十七の年に県立の女学校を一番で出たくらいでございますが、何か始めますと夢中になる性《た》質《ち》で、夜通し寝ないで小説を読んだり、絵を描いたりすることがよくございました。ことに刺繍は小学校にいました時から好きで、夕方暗くなりましても縁側に出て、図画用紙にお寺の襖の絵を写して来たのを木綿の糸《いと》屑《くず》で縫っているくらいでございましたから、私が夫を迎えたのを見澄ましてその方の稽古を念がけて行ったものと存じます。今から思いますと、その時が今生のお別れでございました。もっとも、田圃《たんぼ》や畑の荒仕事を嫌いますので、よく留《る》守《す》番《ばん》をさせましたが、私の家は門のところが町並ではございますし、出入りもかなりに多い方でございましたから、別におかし気なことを仕出かして出て行ったものとも思われません。
――それから後の妹のたよりは、明治四十年の暮に、東京の近くの駒沢村というところで、一郎という男の子が生まれましたといって、村役場から知らせて参りましただけでございます。その時もすぐに警察にお頼みして捜して頂きましたが、届け出てあった所番地の家は、ずっと前から貸家になっておりましたものだそうで、なお、念のために私が出しておりました手紙も戻って参りましたので、力を落しました。一郎が小学校へ入学致しました時の戸籍の書《かき》類《つけ》なぞはどうして取りましたものかわからないままに、全くの音《おと》沙《さ》汰《た》なしになっておりました。そうして私が二十三になりました年の正月に夫と別れますと間もなく、今おりますモヨ子と申します娘を一人生みましたから、それから後は娘と二人きりで暮しておりました。
――今度のことを新聞で見ました時は夢心地で馳《かけ》付《つ》けて参りました。いろいろお調べを受けましたが、ただ今の通りお答を申上げておきました。
――初めて一郎を見ました時は思わず涙が出ました。その時に夢のことを尋ねましたのは、私のところにおります若い者が読んでおりました活動の話に、夢遊病のことが書いてございましたからです。何か西洋《あちら》のことで、私共にはよくわかりませんけれども、夢遊病に罹ってしたことなら罪にならぬから、これから夢遊病の真似をして悪いことをしようか……なぞ若い者が申して笑っておりましたから、そのことを思い出しまして、もしやと思って尋ねてみたのでございますが、女のくせに差出がましいとは存じましたけれども、助けたいが一心でございましたから(赤面)。おかげ様で一郎が元の潔白な身体になりますばかりでなく、妹にも久しく不品行《ふしだら》なことがございませんことが、亡《なき》骸《がら》をお調べ下さいましてから、おわかりになりましたとのことで、これがせめてもの心やりでございます。……でございますから、私はここでりっぱに法事を営みましてから、お世話になりました皆様へも、世間並みの御《ご》挨《あい》拶《さつ》をして立ちたいと思います。
――昨日、東京の近江屋の御主人からお香《こう》奠《でん》に添えてこのようなお手紙(略)が参りました。「宮内省のお役人から、お装束の修《つく》繕《ろい》がさせたいからと頼まれて、妹の行方を探しているところへ、警察から人が来られたので、初めて知ってビックリした」と申して参りましたが、その手紙の様子で見ますと、妹がいろいろと身の上話をお聞かせしたその奥様は、もう亡くなっておられるようでございます。妹もせめて今少し生きておりましたならば、よい目に逢ったかも知れませんが……何の怨みか存じませんが、このような酷《ひど》いことを致しました者が捕えられましたならば、八ツ裂にしてやりたいくらいに思います(落涙)。
――私の家はただ今のところでは遠い親類しかおりませんので、ただ今では親身の者と申しましては、娘と私と二人きりでございます。一郎はこれから私の子供分に致しまして、私の力一パイ、りっぱな人間に育て上げて行きたいと存じますが……父《てて》無《なし》子《ご》と位《い》牌《はい》子《ご》をたよりに、暮すことを思いますと……(涕《すすり》泣《なき》)。
◆第三参考 松村マツ子女史(福岡市外水茶屋、翠糸女塾主)談
▼同年同月四日 玄洋新報社朝刊切抜抜萃再録
――その刺繍の上手なお嬢さんが、この翠《すい》糸《し》女《じよ》塾《じゆく》に通っていたのは、もう二昔前の日露戦争頃のことで、私が三十代の時ですから、詳しいことはわかりませんねえ。エエ、通っていたことはたしかですよ。その頃が十七か八くらいでしたろうかねえ。ちょっと眼立たぬ風をしておられましたが、小柄なキリリとした別嬪さんで、名前は虹野ミギワさんと言いました。イイエ、間違いはありません。珍しい名前ですからよく憶えております。また今お話になりました「縫い潰し」などいう刺繍のできる人は虹野さんよりほかに見たことがありません。
――虹野さんの作品は私のところには一つも残っておりません。その頃はまだ、そんな贅《ぜい》沢《たく》なものの値打ちがわかりませんでしたので手間損だったのです。たった一度、二月ばかりかかってこしらえた五寸四方ばかりの小袱紗を、私の塾の展覧会に出したことがありましたが、二十円という値段付けだったので売れ残ってしまいました。今あったら大変なものでしょう。私も習っておけば良かったと思います。虹野さんはそんな風に技術《しごと》が良かった上に、小野鵞《が》堂《どう》さんの字をお手本よりもズッと綺麗に書きましたので、私の弟《で》子《し》の刺繍に使う字をよく書いてもらいました。絵もなかなか上手で、私のところにある下絵の中でも良いのは大てい写して行かれました。けれども、かれこれ半年余りかよって来たと思うとバッタリ見えなくなりました。エ……その時妊娠の模様は見えなかったかって……いいえ、小柄な方でしたからすぐにわかるはずですが……その色男が虹野さんを棄てて逃げたのですって? ヘエーさようですか。ヘエー……。
――その頃住んでいた家ですか。サア、それは存じておればですが……その頃いた生徒はみんなもう四十近くのお婆さんになっているんですからネエ。ヘヘヘヘヘ。マア、その男が虹野さんを殺したらしいんですって。……おお怖《こ》わ! あんな別嬪さんを、まあ惜しいこと……そう言えば思い当ることがあります。誰にもおっしゃっては困りますがね。虹野さんは大変な男喰いで、大学生の中でも失恋させられた人が二、三人あったそうですよ。もっともこれは噂《うわさ》だけですがね。その頃の虹野さんの家もどこかわからず、東から来たり西から来たり、帰りがけもその通りで、誰も本当の家を知っているものはありませんでしたよ。私の塾には品行の悪い人は一切入れませんでしたが、そんな風でどこが悪いと言って取り止めたことは一つもなかった上に、本人がシッカリした風で仕事が上手だったもんですからね。いいえ写真なぞもありません。けれどもその頃の怨みにしちゃ、チット古過ぎますわねえ。ホホ……。
――ヘエッ、それがあの有名な迷宮事件の呉さんですって?……マアどうしましょう。どうして虹野さんが、呉さんということがわかったんですか。ヘエ、東京の袋物屋のお神さんに身の上を話していた。ただ、男の名前だけがわからない……ヘエ、そうですか。どうぞこのことは内証にしてください。云々。
▼付記 呉一郎の第一回の発作に関する事件記録の要点は前掲三項の断片に残らず包含されおるをもって詳細は省略す。但し、第三参考「松村女史の断片」は、余のいわゆる「呉一郎の第一回発作」の参考としては全然不必要の範囲に属するも、この記録を作製したるW氏の主張を尊重する意味において、かつまた、該事件に関する司法当局の探査方針、及び当時の各新聞の記事が暗黙のうちにW氏の意見に影響されつつありし証左としてここに掲ぐるもの也。
◆右に関するW氏の意見摘要
余(W氏)は初め、この事件に関する報道を新聞紙上に発見するや、極めて稀《まれ》に存在する夢遊病の適例に非ずやと思惟して出張したるところ、この直方地方は元来筑豊炭田の中心地に位置し、日本屈指の殺傷事件の本場たり。したがって警察方面の捜索方針も単純かつ粗放にして、現場の証拠等は事件発生の翌日において、完膚なきまでに攪《かく》乱《らん》蹂《じゆう》躙《りん》されおり、充分なる調査を遂ぐるを得ず。しかれどもなお、現場の形況および前記各項の談話、警察当事者の記憶、近隣の噂等を綜合したる結果、この事件の特徴として左の諸項を認め得たり。
(甲) 犯行の現場たる女塾内には、呉一郎母《おや》子《こ》と塾生に関する事跡および勝手口の唯一の締まりとされおりたる径約一寸、長さ四尺一寸余りの竹の支《つつかえ》棒《ぼう》が、不明の原因にて土間に脱落しおりたる以外に、犯人の指紋、足跡等の一切を認めいず、拭い消したるものなるや否やも不明なり。なお、右支棒は外より板戸を強く押せば、指をさし入れて外し得る位置にありたるものなることを推定し得たり。しかして右板戸の縁辺の支棒に接触する部分は、磨滅を防ぐためと支棒の作用の堅確を期するため、新しく亜鉛板をもって蔽いありたるも、こはかえって軽微の力をもって、支棒を脱落せしめ得る原因となりたるもののごとし。
(乙) 被害者千世子は同夜午前二時――三時の間に、背面より絹製の帯締めをもって絞殺され、寝具を蹴散らし、畳の上を輾《てん》転《てん》してもがき苦しむなど、はなはだしき苦《く》悶《もん》の跡を残したるまま絶命せるものを、更に階段のところに持行きて手摺より細帯にて吊し下げ、階段の降り口に正面させて縊《い》死《し》と見せかけたること明らかなり。しかも、その絞首の跡を示す斑痕が、二重もしくは三重となりおる状況は、犯行当時においても明瞭に認められしことを察し得るにかかわらず、更にこれに縊死を装わしめたるは、一見、浅薄なる犯行隠蔽の手段なるがごときも、実は左に非ず、他の指紋等を消し去りたる犯人の行動と比較考慮する時は、その矛盾せる行為の相互間に生ずる一種の錯覚をもって、犯人に対する目星を誤らしめんがために執りたる極めて巧妙なる手段なりと思惟し得べし。
なお、被害者の手中その他には何物も止めず。あるいは軽き麻酔を施されたるものに非ずやとも疑わる。
なおまた、当時犯行用と認められし帯締めは、その後、数名の警官の手に転々したる後なりしをもって、何ら犯人に関する証跡を検出するを得ず。
(丙) 呉一郎は、麻酔を施されたるものなることを、同人の談話に現われたる予後の諸徴候に依りて推測し得べし。
(丁) 屍体は死後約四十時間目に、同女塾の裏庭において、舟木医学士立会い、余(W氏)執刀の下に解剖の結果、最近における性交の形跡なく、子宮には、かつて一児を孕《はら》みたる痕跡を止むるのみなることを確かめ得たり。
如《じよ》上《じよう》の事実により犯行の目的等に関する推定はほとんど困難なり。しかれども、犯人は相当の学識あり、麻酔剤の使用に慣れ、思慮深く、かつ腕力逞《たくま》しからざる者なること、および犯行が呉一郎に及ぶことを好まざりし者なることを推測し得べし。(中略)その筋の捜索方針は、初め如上の推定に基きて進行し、呉一郎を釈放したるも結局、再びこの方針を放棄し、純然たる見込捜索に移りたるため、ついに何ら得るところなく、事件はいわゆる迷宮裡に遺棄さるるに到りたり。(下略)
◆右に関する精神科学的観察
この事件は著者(正木)自身が直接に調査したるものに非ざるをもって、専門の精神科学的の考察と説明には多少の不便を感ずるもの也。しかれども、W氏が同氏独特の法医学的の見地に立ちて調査記録したる、この事件の各種の特徴によりて観察する時は、この事件の真相が、現代のいわゆる科学知識および、これに伴ういわゆる常識の発達範囲においては、とうてい判断し、かつ説明し得べからざる「心理遺伝の発作」にあること疑いを容れず。筆者のいわゆる「犯人なき犯罪」の最も顕著なる好適例なり。すなわちW氏の最初の直覚が適中しおりたることを、一切の事象が指しいることを一々摘出、明示し得べし。W氏が事件後もなお、この点に関する疑念を捨てず、前掲のごとき貴重なる談話を記録せる、その用意の周到なるに、劈《へき》頭《とう》の敬意を表せざるを得ざるもの也。
すなわち、前記W氏の観察と三項の談話とを通じて、この事件の真相を究むべき、観察要項を列挙すれば左のごとし。
【一】 呉一郎の性格と性的生活
呉一郎は当時満十六年四か月の少年なるが、かくのごとき母性愛を主とせる家庭に人となり、かつ平生若き女性に接する機会を有する文弱明敏、かつ発育円満なる少年にありがちの特徴として、事件発生前より、既に十分の性的充実を来たしおりたるも、その母性愛の純美さと、自己の頭脳の明《めい》晰《せき》さとに品性を浄化されて、これを肉体的に発露し得るがごとき心理の欠陥を有せず、無《む》垢《く》の童貞を保ちおりたるものと認めらる。異性の唱歌を傾聴したる旨を告白しかつ赤面せるがごときは、かかる性格を有するかかる時代の少年の特徴と認むるを得べく、また、談話中の到るところに発見さるる可憐なる率直さ、および自身が犯人として眼指さるるべき理由の動かすべからざるものあるを自覚しつつも、自己の立場に対する何らの恐怖を感ぜざりし事実等より推して、その心理に微小の暗影をも止めざる、清浄純真の童貞生活を送り来たりし者なることを察知し得べし。しかして右年齢と性的生活の推定は、この事件に関する精神科学的観察の全部に影響する、重要なる断定の基礎となるべきものをもって、特に冒頭に掲げて、注意を促す所以《ゆえん》也。
【二】 夢遊状態を誘発せし暗示
事件発生の当夜、午前一時前後に覚醒して、母の寝顔を見たる時、異常の美しさを感じたりと言う呉一郎の告白は、前記の観察の妥当なることを裏書せると同時に、同夜における呉一郎の心理遺伝の発作、すなわち夢遊状態発生の暗示がいかなる性質のものなりしかを説明しおるものと認め得べし。すなわち、夜半の覚醒が、性的の衝動の高潮と切実なる関係を有せる事実に徴する時は、当時の呉一郎の精神状態は、ある危機の最高潮に瀕《ひん》しおりたるものなること、前記の告白によって明らかなるべし。しかしてその危機は、同人が一度階下に降りて用便し、再び二階に昇り来たりたる間に著しく緩和されたるはずなり。かつ、その刺激の対象たる母親千世子が、後向きになりたる姿を見たるがために、すくなからず幻滅されて、平生の理知に帰りて就寝したるものなることもまた察するに難からず。しかれどもかくのごとくにして一時抑圧されたる性的の衝動は、呉一郎が熟睡に陥るや、その無意識界に潜在する、ある恐るべき心理遺伝を刺激して、夢中遊行状態を誘発し(後出第二回の発作の項参照)、ついにかかる兇行を演ぜしめたるものなることを、以下縷《る》述《じゆつ》するところの各項の理由に照して、逐次了解するを得べし。
【三】 呉一郎の第一回覚醒と夢中遊行との関係
呉一郎が、同夜に限りて夜半の覚醒を見たるは、同人が従来あまり経験したることなき異常なる出来事なる旨陳述せるが、右はまた、たまたまもって、その後の睡眠間における夢遊状態の存在を指示しおれる一徴候と認め得べき理由あり。しかれども、この理由を明らかにする以前において、必然的に考慮せられざるべからざる一事は、勝手口の支《つつかえ》棒《ぼう》の落ちたる音が、呉一郎の第一回の覚醒の原因となりおれるごとく思惟されおること也。右は呉一郎本人も、しかく信じおれるがごとくなるも、こは睡眠中の感覚作用と、覚醒時の知覚作用とを同一視せるより出でたる誤解にして、はなはだ軽率なる判断なりと認むるに躊《ちゆう》躇《ちよ》せず。何となれば睡眠中にある音響を耳にして、直ちに覚醒したりと信じたるものが、覚醒後の正確なる判断力によってこれを検する時は、その間に数分、甚だしきに到っては一、二時間の睡眠を経過せることを発見する例、すくなからず。その最極端なる一例は、いわゆる、朝寝坊が起さるる時にして、数回にわたる呼び声に応答しつつ、またも熟睡に陥り、日三竿《かん》に及びて蹶《けつ》起《き》して、今日はただ一回の呼び声にて覚醒したりなぞ主張すること珍しからざるは、世人の周知せる事例なり。睡眠中に感じたる音響と、これによって刺激されたる覚醒との間における、経過時間に対する錯誤のいかに甚だしきかは、この一事をもってしても充分に立証し得べし。いわんや、夢中において、明らかに物音を知覚して覚醒したるにもかかわらず、その後の冷静なる検査によりて何事もなかりしを知る場合極めて多きにおいてをや。これによってこれを観れば、支棒の落ちたる音と、呉一郎の覚醒との間に必然の因果関係を認むるは、正確なる推理の進行上すこぶる危険なる所業にして、むしろ、右二ツの現象を全然無関係のものとして、この事件を観察する方、自然に近きものと言うを得べし。いわんや更に、これを呉一郎の覚醒後の異常なる気持ちと直接に結び付けて、外より何者かが入り来たりて、麻酔剤を施しつつ、この兇行を演じたりと速断するがごときは、非常なる冒険、かつ、不合理と評するもあえて過言に非ざるべし。
しかして、右の支棒の脱落と思い誤られたる夢中の音響の正体については、別に発表し得べき重要なる研究資料を有すれども、右はすこぶる広汎なる実例と極めて精密詳細なる心理学的の説明を要するをもって、ここには大略し、ただ「夢中において実在せざる音響を感ずる場合」のうち睡眠自体を破るほどに著しき実例を二、三を挙げて参考とするに止むべし。
(a) 夢中に感ぜられつつある幻像の進行が、急にある行詰まりを生じたる場合……たとえば、ある一種の感情(喜怒哀楽等)が急速に高潮して極点に達すると同時に、何物かの爆発、散乱、または落下の光景を幻視せし瞬間……等……
(b) 夢の進行が突然、ある無限の深さを有する空虚に陥りたる場合……たとえば、世界の涯《はて》より踏み外し、または、闇黒の谷に墜落したる刹《せつ》那《な》……等……
(c) 夢中に進行しつつありしある二つの心理現象が、突然に交叉し、または衝突したる場合……たとえば、ある者を恐れつつ行いおりし秘密の仕事が、その恐れおりしある者に発見されし刹那、または、衝突を憂慮しつつありし汽船、または自動車等が、はたして急激に進路を曲げ来たりて、眼前に衝突したる瞬間……等……
(d) 夢の中に進行しつつありし事象が、全然予期せざる、正反対の心理の対象たるべく急変したる場合……たとえば、親友が兇漢なることを発見し、または、同伴者が急に恐ろしき者に変じ、あるいはまた、快適なる室内の諸器物、楽しき花園の花等が、自己の最も恐怖嫌忌する形象物体等に変化したる刹那……等……
右によって(※編集者注:上記をさす)観察する時は、夢の中に感ぜられる、非実際的の音響の正体なるものは他に非ず。すなわち夢の進行中において、突然、不可抗的に受けたる驚愕、恐怖、歓喜、その他の心境の急変化と、覚醒時において不意に大音響に打たれたる心理の急変化とが酷似せるがために、逆に錯覚されて一ツの音響と感ぜられたるものなることを知るを得べし。
更に右の事例(※編集者注:上記をさす)に照して、この事件を考察する時は、呉一郎の第一回の覚醒なるものは、その直前において、同人の心理に高潮充満しおりたる、性的の衝動によって描かれつつありしある種の夢の進行が、これによって刺激喚起されたる良心的の衝動を象徴するある幻像の出現と不可抗的に交叉衝突したる刹那の恐怖的心理状態が、音響的の錯覚を与えたものに非ずやとも考えらる。しかして、この仮定を認むる時は、その性的衝動の危機のうちに眼覚めたる呉一郎が、その母の寝顔を見て、異常の美を感じたりという事実は、極めて自然なる心理の帰《き》趨《すう》にして、特に、春季における年少の童貞にありがちの秘密的、心的経験に関する、純潔、偽らざる告白と言うを得べく、同時にその後の熟睡において、同じ衝動によって刺激誘発されたる夢中遊行の存在し得べき可能性は、一層底強く裏書きせられ得るものと言うべし。
なおまた、支棒が落ちたる事実は、本人が夢中遊行中の無意識的理知の発動によって行いたる犯罪の隠蔽手段に非ざるなきか。兇行その他の不正行為をあえてすること多き夢中遊行者が、かかる行為を併せ行う例は、甚だ珍しからず。しかも、その大部分は、この事例におけるがごとく、常に笑うべき浅薄なる手段なるに照しても、這《しや》般《はん》の疑問が不自然に非ざるを知り得べし。また、あるいは、外より何物かが入り来たらんとしたる際、誤って支棒を落し、様子を覗《うかが》いおるうち、呉一郎が降り来たりたるをもって逃亡したる等の、偶然の事跡の暗合せるものに非ずやとも考え得べし。しかれども這般の疑点については調査が欠如しおるがごとくなるをもってしばらく疑問として保留して置くべし。
【四】 夢遊状態発作当初の行動……絞殺……
この事件の根本的説明となるべき兇行の目的が、今日に到るまで茫《ぼう》乎《こ》として推理の範囲外にある事実と同時に「つくし女塾内には呉一郎母子と、女塾生に関する以外の事跡を認めず」云々というW氏の調査事項を併せ考うる時に、この事件の真相が呉一郎のその母に対する夢中遊行の発作なることを、最も簡単、かつ適切に首肯し得ると同時に、その他の犯人に関する推断が、強いて第三者を仮想せんと試みたる一種の錯覚なることをも、遺憾なく説明し得べし。すなわち呉一郎は前記の性的衝動を心理に包みて熟睡後、これによりて刺激誘発されたる心理遺伝の発作のために夢中遊行状態となりて起き上り、その意識裡に現われたる夢幻(その内容はこの時まで不明)の欲求に従って、眼に当りたる被害者の帯締めを拾い取りて、その夢幻の対象たる一女性……実は母親……に対する兇行を遂げ、なお後に述ぶるがごとく学術上の珍とすべき奇怪なる夢中遊行の若干を続行したる後、就寝したるものと推測さる。しかして右の兇行は、同人の脳髄の作用、すなわち意識的精神作用が熟睡によって休止しおる間において、全身の細胞相互間の反射交感作用が、脳髄の代用となりて(主として交感、迷走神経と連絡せる内臓の諸機関がこの役をつとめ、筋肉、結締組織、脂肪、血液等もこれに参加して、事後における異常の疲労状態を呈す――拙著『精神病理学』参照)五官と直接に連絡し、見、聞き、判断し、かつ実行せるものなるをもって、覚醒後の有我的意識には、ほとんど何らの記憶の痕跡を留めず、この点を混同して、一切の判断力を要する行動を、有我的意識(脳髄の覚醒時における意識作用)によってのみ行われ得るものと妄《もう》信《しん》せられたるがために、前記のごとく、仮想の犯人を拈《ねん》出《しゆつ》するがごとき、推断上の錯誤を生じたるものにして、現代における科学知識の発達程度においては、まことにやむを得ざるに出でたる帰結と言うを得べし。
ちなみに、この事件によって研究さるべき呉一郎の夢中遊行状態中、第二回の発作(後段参照)によって演出さるべき、この事件の眼目たる心理遺伝の内容と直接の連絡関係を有せる発作は、この……絞首……の一事のみにして、爾《じ》後《ご》の夢中遊行はむしろ脱線的のものと言うを得べし。しかれども、その爾後の脱線的夢中遊行なるものの正体は、実に学界の珍とも称すべきものにして、精神科学上の研究価値はなはだ高く、かつかくのごとく親近なる参考事例を他に発見し得ざるをもって、いささか脱線を共にするのきらいあれども特にここに記述し、併せてこの事件の真相が、呉一郎の夢中遊行発作によって一貫せられおる事実を、徹底的に明白ならしめんと欲する所以なり。
【五】 絞首に引続く第二段の夢中遊行……屍体翻弄……
被害者が、床上その他を輾転して苦悶したる痕跡および絞殺の跡、顕著なるにもかかわらず、更にこれを縊死と見せかけたるは浅薄なる犯罪隠蔽行為なるがごとくにして実はしからず……云々として、犯人たる仮想の第三者の知力の尋常ならざるを疑われたるは、一面の理由ある判断なるがごとくなるも、これまた、余りにうがち過ぎたる不自然の観察なりと信ずるに躊躇せず。何となれば右の事象はまた、たまたまもって夢中遊行状態特有の怪異なる行動が当夜、同所において行われたる事跡を物語るものにして、著者のいわゆる……屍体翻弄……が当夜の呉一郎によって演ぜられたるものと認めていささかの不自然を感ぜざるのみならず、かえって右の事象に対する説明の簡単適切、疑うべからざるものあるをもって也。
ただし夢中遊行中の屍体翻弄なる現象に関しては、古来明確なる記録の憑《ひよう》拠《きよ》するに足るべきものほとんど存在せず。ただ、かかる超唯物科学的なる現象に対して深き興味を有するラテン人種間に伝われる記録および迷信深き東洋諸民族間に残存せる伝説等に散見するあるのみ。しかしてその記録なるものもいわゆる、実見記等の類に非ず。ある特異の頭脳を有する僧《そう》侶《りよ》、医師らが他人より聞知し、または探聞し得たることを記載せる随筆程度のものに過ぎざるのみならず、その記事の十中八、九は屍体を使用して人を脅威し、電力を与えて死者を動かし試み、死人を装うて悪事を働く等、その他、迷信的の薬物たる臓器の獲得、埋葬品の掠《りやく》奪《だつ》、屍《し》姦《かん》等の事跡の誤認、誤伝せられたるものなるをもって、容易に真相を捕捉し難き憾《うら》みあり。
しかれどもかかる屍体翻弄の事実の古来より存在せることは疑いを容れず。すなわち支那、印度、日本等において屍神、屍鬼、もしくは火車等と称する妖《よう》異《い》譚《ものがたり》の内容を検《けみ》する時は、この種の夢遊行為……すなわち屍体翻弄が誤伝せられたるものなることを、自然科学、精神科学等の各方面より推知するを得べし。
しかしてかかる事実の詳細に関しては他日「妖怪篇」なる一篇に集積して研究論証すべく、目下材料の整理中に属すれども、その一斑を摘要すれば、元来この屍神、屍鬼、もしくは火車等と称する妖異現象は、狐《こ》猫《びよう》の類族、または鴉《からす》、梟《ふくろう》などの怪禽妖獣の族《うから》の所業なるがごとく信ぜられおる傾向あり。しかれども事実はさにあらず。すなわちそれらの伝説記録等によって、屍体翻弄の状況を按見するに、まず劈《へき》頭《とう》に、棺《かん》柩《きゆう》中、もしくは床上に静臥安居しおりたる屍体が忽《こつ》然《ぜん》として立上り、虚《こ》空《くう》を走るという形容あり。続いて眼を閉じ、毛髪と両手とを力なく垂下したる亡者が、あるいは逆立し、あるいはとんぼ返りし、斜立したるまま静止し、または行歩し、丸太転び、尺《しやく》蠖《とり》歩み、宙釣り、逆釣り、錐《きり》揉《も》み、文廻し廻転、逆反り、仏倒し、うしろ返り、または跳ね上り、翻落するなぞ、あたかも何者かが手を加えて操縦せるがごとくなる、あらゆる奇抜なる形状と運動とを描き現わすものとなせるが、なおよく冷静、仔《し》細《さい》にこの形容を観察する時は、かくのごとき形状と運動とは、あたかもかの無邪気なる小児が、人形、生物体、もしくは人像に類せる物体を翻弄して、あらゆる残忍なる姿勢動作を演ぜしめつつ、嬉戯満悦せる状態に酷似せるを看取し得べし。しかも当該小児はかくのごとき遊戯に際し、自ら手を加えて翻弄しつつある事実をほとんど忘れおり、さながらに人形が自己の意志を直感して、好むがままに変化躍動しつつあるかのごとく錯覚しつつ、一種の残忍性を満足せしめおる心理は、吾人の日常随所に発見し得るところなり。しかしてかくのごとき生物、もしくは擬生物体翻弄の心理は、われわれ人類の祖先が、その野蛮蒙《もう》昧《まい》時代において獲《え》物《もの》、もしくは敵手を征服捕獲し、または斃《たお》し得たる際の満悦と勝利感の高潮によって、あたかも現在の食肉禽獣、虫類間に遺伝残存しおるがごとき獲物翻弄の高等なるものを行いたる習性が変形遺伝せしもの(敵手の首級を投げ上げ投げ上げ歓喜したる史実厳存す。かつ、かかる擬生物体翻弄の習性が主として男児に現われ易き事実に注意すべし――拙著、心理遺伝本論中、変型遺伝の部参照)なる事実と照合する時は、かかる心理遺伝が、かくのごとき屍体翻弄の夢中遊行を誘起し得べきこと、疑いを容れざるべし。
次に、如上の考察を事実と照合して具体的に説明すれば、まず、ある瀕死の病人に最後まで付添いおりたる者、または、屍体の始末をなしたる人間が睡眠後……特に介抱その他による心身の疲労または一種の安心等のために平常よりも深き熟睡に陥りたる場合において、その屍体より受けたる深刻なる暗示のために、前記のごとき残忍性を帯びたる夢遊心理を誘起され、未葬もしくは即葬の屍体を取り出して翻弄したりとせんか。自身はほとんどその自ら手を下したる事実を記憶せざるべきは当然と見るを得べし。あるいは、半ば朦《もう》朧《ろう》状態において意識せるものとするも、かの小児の人形翻弄のごとく、自己が手を下したものとは思惟せずして、屍体そのものの活躍なりと錯覚し、一種の悪夢のごときものと信じつつ屍体を翻弄して、どこへか遺棄し去り、または棺桶等に投入返還したるまま、床に帰りて就寝したる者が、翌朝に到りて屍体の変位、紛失等を発見するや大いに驚き、妖異の所《し》業《わざ》と解釈して、かかる伝説の由縁を作るべきことは疑いを容れず。すなわちかかる伝説、口碑のほとんど全部が、屍体に側侍する者の些《さ》なき貧家の不幸事、もしくは屍体一個、側侍者一個を題材として伝えられおるを見ても、その妖異の主人公が屍体そのもの、もしくは他の獣鬼等に非ず。傍に眠りおりたる者の夢中遊行によるものなることを察するに足るべく、現今、行われおる多人数の通夜の習慣は、この種の妖異の防《ぼう》遏《あつ》に最も有効なることが古来幾多の人々の経験によって、知、不知の間に確認せられおりしことを今日に立証しおるものと見るを得べし。また、死者の枕《ちん》頭《とう》に刃物を置く習慣は、その刃物の光《こう》鋩《ぼう》、もしくは、その形状の凄味より来る視覚上の刺激暗示をもって、この種の夢遊病者の幻覚を破るに有効なるものありしより起りし習慣に非ざるなきか。いずれにしてもかくのごとく観察し来たる時は、この屍体翻弄なる夢遊状態の存在は疑う余地なきところにして、特に通夜の習慣および火葬の流行以前には、屍体の側近者によりてかなり多数にこの種の夢遊状態が実現されおりしことは自明の理なるべし。
次に如上の研究考察をこの事件と照合するに、当夜における呉一郎の女性絞殺行為後の夢中遊行症は、ほとんど右と同様のものなるべけれども、更に、ここに変態性欲的内容を有する夢中遊行を添加したる形跡の明らかなるものあるは特に珍重玩《がん》味《み》すべきところ也。すなわち呉一郎は、自己の血統に伝われる、独特固有の、変態性欲的「心理遺伝」の夢中遊行発作(後段第二回の発作参照)によって、まずその夢幻の相手たる異性を絞殺して第一段の満足を得、しかる後、その屍体の暗示により、前述のごとき一般的なる夢遊状態……屍体翻弄に移りたるものなることを、察するに難からざるべく……屍体の甚だしく煩《はん》悶《もん》輾転せる痕跡、云々と認められしは、その翻弄の痕跡と混同しおる疑いあり、あるいは被害者の苦悶に属するものは、その中の極めて小なる一部分なりしやも計り難し、同時に、その屍体翻弄が一種の変態性欲的の快適を求むる特殊の深刻味を含めるものなりしことは、その翻弄が転々飽くところを知らず、窮極するところついに、変態性欲中においても最高度の変態(次項参照)に到達したるを見て察知すべし。
【六】 屍体翻弄に引続く第三段の夢中遊行……
自己虐殺の幻覚と自己の屍体幻視……
「自己虐殺の幻覚」および「自己の屍体幻視」と称する変態心理は、夢中遊行に非ざる一般の場合においても、特異中の特異例に属すべきものなるをもって、そのかくのごとき変態にまで陥り来たりたる心理経過を一々説述し来たるは容易の業に非ず。しかれども当座の参考のためにこれを要約して説明すれば、元来性欲もしくは恋愛なるものは、自己以外の異性に恋着する心理を指すものなれども、これをその本源に溯《さかのぼ》りて考察する時は、いかに没我的なる恋愛、もしくは性欲の発露なりといえども、畢《ひつ》竟《きよう》するところ、自己の生ける霊肉の要求を愛惜し尊重する本能主義的、もしくは利己的心理の表現に外ならず、故に、その性欲もしくは恋愛が、体質、性格および境遇等に影響されて常住不断に飽くあたわず……または飽く方法を知らず……または飽くことを知らざる(これと正反対なる性欲老衰の場合にもほぼ同一の結果に達すれどもここには省略す)場合は、その欲求が極度に高潮尖鋭化し、深刻痛烈化し来たる結果、ついに尋常の手段にては満足を得るあたわず、究極するところついに変態性欲の境界に脱線し去りてなお飽き足らず、更に究極の極、その心理の本源に逆転し来たりて、自己を恋着、愛惜する心理に陥り来たるべきは必然の帰結也。
すなわちまず、これを積極方面より例示せんか。飽くことなき異性の愛撫欲が高潮辛《しん》辣《らつ》化《か》すれば平凡なる性交の満足に倦みて、異性の虐待、ないし、虐殺の快適味愛好(サジスムス)または屍好(ネクロヒリ)となり、更に進んで異性の肉体覗見、異性の形状愛好(ビクマリオニスムス)、異性の付属物歎美(フェチシスムス)等の順序をもって漸次、異性より直接に受くる刺激、もしくは感覚より背《そむ》き遠ざかりつつ、かえって深刻味ある快美感を受け得るに到るべく、しかもなお、それ以上の異端、もしくは猟奇的深刻味を求めて止まざる結果は、ついに人間本来の自己愛惜の本能に吸引せられて自己恋着に陥り来たるに到るべし。
また、これを消極方面より観察する時は、被愛撫的満足の飽くことなき願望が超自然的に高潮すれば、被虐待の要望(マゾヒスムス)となり、一転して異性の汚物愛好(コプロラグニー)に進み、異性よりの侮蔑冷視、嘲笑嫌忌の甘受欲(エキシビステンその他)等の経過を見て結局、前者と同様の結末に陥り来たるべきは自然の帰《き》趨《すう》なり。いわゆるNA《ナ》R《ル》ZI《ジ》S《ス》MU《ム》S《ス》(自己恋着)はこれにして、筆者のいわゆる積極消極両様の変態恋愛の交叉帰一点そのものの発露と見るを得べし。
しかもこの「自己恋着」と名づくるものの中にもまた、積極消極、両極端の合一せる変態あり。すなわち自己に対する極度の愛撫、粉飾等は進んで自己の虐待、自己の一部露出もしくは覗見等の変態趣味に移り、一転して自己の軽視、冷遇、嘲笑、嫌忌もしくは自己恐怖等の心理を感ずるに到り、更に進んで自己虐殺の快適、もしくは自己の屍体幻視の快美感耽溺者となり来たるものなり。事実、この種の心理の実例は極めて広汎多端、かつ普遍的の性質を有しおるものにして、往昔の切腹、義死、憤死等の心理または、普通の自殺者の遺書等の中に発見さるる夢のごとき「自己歎美」または甘美なる涙を含む「自己陶酔」の心理の裏面にはこの種の変態心理の多数を認め得ざることなく、殊に失恋自殺者の心理にして、この種の変態的欲求に最後の、かつ、唯一最高の満足を求めおらざるもの一人もなしと断言するもあえて過言に非ず。その他、この種の心理の発露の特異なるものに到っては、自己の名前、肖像等の抹殺破棄……鏡面の理由なき破壊……模擬戦、または劇等における傷者、死者等の役廻り志願……各種の芸術作品中、自己に擬せる人物に対する作者の残忍なる描写……等の軽度なるものより、遺書なき自殺……他人もしくは公衆の面前における自殺……自己および環境を美化粉飾したる自殺……同情の情死……同性同胞の情死……自殺倶楽部の存在……等、その欲求の変幻、その発露の怪奇、ほとんど端《たん》倪《げい》すべからざるものあり。その他、人類、人類生活の日常到るところの起臥談笑の間においても、本来自然の自己愛着心と不即不離の関係を保ちつつ、知不知、不言不語のうちにこの種の変態心理が流露反映しつつあるものなるをもって一々枚挙にいとまあらず、故に、ここにはただ、かくのごとき極端なる変態心理がその研究価値のすこぶる高度、非常なるものあるにもかかわらず、その発露する事例はけっして稀《け》有《う》珍奇なるものに非ず。他の中間的なる変態性欲よりもかえって普遍的なる傾向を有しおるものにして、相当の自省力を有する人士は常に、自己の心理生活の到るところにこの種の変態心理を発見し得べきことを証するに止むべし。
以上述ぶるところによって、この事件の示す特徴を研究考察するに、呉一郎は、その夢中遊行の第一段たる絞首行為の前後において、その被害者の風《ふう》貌《ぼう》が自己に酷似せることを認めたるべきは推測に難からざるべし。しかして同時にその夢中遊行の本源たる深刻痛切なる性欲の衝動が、その夢遊行動によって解除さるるを得ざるがために、飽くことなき翻弄を続行中にも、幾回となく、その屍体の風貌の自己に彷《ほう》彿《ふつ》たるものあるを認めしに相違なかるべく、その結果、おのずから自己虐殺の錯覚、幻覚に誘致され、屍体を自己に擬し、数回にわたりてこれを絞首したるものと認むるは、けっして不自然なる推測に非ざるべし。かくして最後に、自己の屍体幻視の夢遊に移り、自己に擬したる被害者の屍体を階上の手摺より吊り下し、相対する階段付近よりこれを正視して歓興したるものと察するを得べく、かくのごとく観察し来たる時は、被害者が二重三重に絞首されし後、縊死に擬せられたる等の、本事件の最重要なる各種の特徴は極めて自然に、かつ明白に説明され得るを見るべし。本事件の検案調査が、かかる諸点に留意されず、尋常一般の犯罪と同一視されたる結果、この方面に関する指紋、足跡等の事跡の大略看過されたる傾向あり。ために、かかる珍奇なる夢中遊行特有の怪奇なる行動の詳細にわたりて推測するあたわざるものあるはまたやむを得ざる遺憾事というべし。
ちなみに、呉一郎の夢中遊行の発作をここまで支持し来たりし性欲衝動の最高潮状態は、この自己の屍体幻視を終極的として、解除されたるものと推測し得べき理由あり。爾後の呉一郎の行動は、この夢中遊行症の余波とも言うべき夢中遊行にして、筆者のいわゆる、蹌踉状態に陥りたるものと認むるを得べし。しかれども、その蹌《そう》踉《ろう》状態の下に行われたる夢遊行動中にもまた、本事件の表面上に現われたる、重要なる疑問的特徴を作りしものあるを推測され得るをもって、特に項を改めて記述すべし。
【七】 呉一郎の悪夢、口臭、その他が表わす夢中遊行症の特徴
呉一郎が悪夢を見たりという事実と、覚醒後の頭痛、眩暈、悪寒、口臭、嘔気等を感じたる事実等を綜合して、麻酔剤の使用を疑われたることは一面の理由あるもののごとし。しかれども、これを精神科学的の見地より観察する時は、これまた、現代の科学知識の発達程度に照して、まことにやむを得ざるに出でたる錯誤と評するを得べし。すなわち、畢竟するところ右は、夢、および、夢中遊行なるものの真相の学理的に闡《せん》明《めい》され、かつ、常識的に理解されおる程度が、はなはだ浅薄低級なる結果にして、下記二段の説明をもってこれを判断する時は、右の諸現象が麻酔剤の使用によって起りしものに非ず。かえって夢遊病の併発症状とも言うべき諸特徴を最も顕著に示しおることを認め得べし。
(イ) 口臭、その他と轆轤首の怪談 呉一郎が覚醒後に感じたりという頭痛、嘔気、疲労等は前述のごとく、皆夢遊病の特徴として起り易き併発症状なれども、なかんずく、特に興味ある観察材料としてここに掲げんと欲するものは……口中に不快なる臭気を感じたり……という当該本人の陳述也。しかしてかくのごとき夢遊病者の口臭その他に関しては他日稿を改めて「妖怪論」中に詳論すべきも、その腹案の一部をここに披瀝すれば、一般にある夢遊病者が、ある発作を遂行し終るまでは、その夢中遊行の本源たる各種の内的衝動に駆られて、何らの疲労をも自覚せざるのみならず、普通人の想像を超越したる精力と忍耐力を続行し得たる事例、またすくなしとせず、しかれども、その発作の最高潮時、もしくは発作の主要部分を経過したる後は、精神の弛緩と共に異常なる疲労を感じ、かつ、甚しき渇を覚ゆるは生理上当然の帰結也。(苦悶、呻《しん》吟《ぎん》等の軽き夢中遊行を伴いたる悪夢等の覚醒後においてもまたしかり)しかしてこの道理を根拠としてこの事件と比較研究さるべき絶好の参考材料は、日本の巷《こう》間《かん》に伝うる轆轤首(ロクロクビ)もしくは抜け首と称せらるる怪談也。
ロクロ首の怪談、または絵画が、人間の夢、または夢中遊行の心理を象徴せるものなることは、ここに更《あらた》めて呶《ど》々《ど》するを要せざるべし。しかして同時に、このロクロ首が、油、または下水その他の不浄の水をなめる習癖あるがため、翌朝に到りて口中に悪臭を感ずるものなることは、この種の怪談、または絵画等によって説明され来たりたるところにして、一見荒唐無稽の空説なるがごとく見ゆるもけっして左に非ず。すなわち、この怪談において、単にその首だけが脱出蜿《えん》蜒《えん》して、何ものかをなめたるがごとく推断されたるは、夢、もしくは、夢中遊行の真相を識らざるがために付会したる一個の想像にして、実は本人が夢中遊行中、生理上当然の欲求に駆られて、何らかの液体を渇望しつつ探し廻り、かつ、これを口にしたる結果にほかならず。しかも右は、必ずや、発作の最高潮を経過したる後に起るべき欲求にして、単に甚しき渇の刺激によって、辛うじて夢中遊行を続行しおるがごとき状態なるべきをもって、意識の明瞭度は著しく減退しおり、かつ捜索探求の能力等も著しく薄弱となりおれるはず也。したがってその液体の何たるかを問わず、単に水に似たるもの、もしくは、それが何らかの液体なることを認めたるのみにて直ちにこれをのみ下すことは、あり得べき道理也。夢中遊行中に、油、または下水溝の汚水のごときものを口にして自らこれを知らず、翌朝に到りて異常の口臭を感じ、または嚥《えん》下《か》物《ぶつ》の不消化等による頭痛、嘔気等を訴えて家人に怪しまれ、仏壇、または行《あん》燈《どん》の油の減少せるなどの事実と、想像とが結び付けられたる結果、当該本人の首のみが脱出したるがごとき疑いを受くることは、人知未開の往昔において、当然あり得べきことなりと考えらる。なお、このロクロ首、すなわち夢中遊行の主人公が、平生あらゆる本能的自我的心理の発動を抑圧し、または抑圧されがちなる妙齢の美人と人間の祖先たる下等動物中STEGOCEPHALIAを象徴したる三ツ眼の怪物との二種類によって代表されおり、かつ、長き舌を出して液体をなむるという動物的の挙動が、これに結び付けられおる諸点は心理遺伝学中、動物心理の遺伝発露について研究すべき好参考材料なれども、ここには煩を避けて冗説せざるべし。以上述ぶるところによって見る時は、呉一郎の覚醒後の口臭は、吸入、または注射に用いられたる麻酔薬の影響によって起りたる嗅神経の異常、または、使用せられたる薬剤の口中粘膜よりの再分泌等によって来たれるものに非ず。同夜、何らかの水に非ざる液体(例えば香水、化粧水、またクリーニング用の揮発油のごときもの)等を口にしたる証左にして、その他の病的現象の大部分も、該液体の作用と認むるを自然に近きものと思惟さる。しかれども、この点に関する諸般の調査が、全然閑却されあるは、やむを得ざることとはいえ、千秋の遺憾と言うべし。
(ロ) 悪夢 また呉一郎が、事件当夜一時五分前後に覚醒し、次いで就寝したる以後に連続して見たりと信じおれる悪夢は、実は第二回の覚醒以前の僅少時間に見たるものが記憶に止まりたるものなること、普通の夢と同様にして、夢中遊行の内容とは直接の関係を有せず。かえって夢中遊行中に口にせし、何者かの影響なるべきことは前後の説明によって明らかなるべし。
【八】 夢中遊行の行われたる時間、その他
如上述べ来たれる理由により、この事件を考察する時は、呉一郎の当夜の発作は、第一回と、第二回の覚醒の間において行われたるものと推定するを得べく、被害者の絶命時間が、二時――三時の間とすれば、呉一郎は第二次の就寝後三十分ないし一時間の後に、かかる夢中遊行状態の起り得べき、最深度の熟睡に陥りたるものなることを察し得べし。しかして、第二回の払暁時の覚醒は、平生の覚醒時における習慣的の潜在意識の発露と見るを得べく、その後の睡眠において、呉一郎は初めて夢中遊行の余波、もしくは夢中遊行の嚥下物によって刺激せられたる悪夢より離脱し、真の熟睡、休養に入りたることを、その発汗現象によりても察知するを得べし。
【九】 夢中遊行に関する覚醒後の自覚、および二重人格に関する考察
次に呉一郎が覚醒後、警察において、母殺しの嫌疑の下に訊《じん》問《もん》を受けし際、茫然自失しながらも「そんなら、自分が殺しておいて忘れているのじゃないかしら」と言うがごとき、極めて軽微なる疑問が動きおりしことを告白せるは、一見、同人が自己の夢中遊行の幾分を記憶に止めおれる重大なる証左なるがごとく思惟さるべし。すなわち第四項に略説せし通り、同人の当夜における夢中遊行の事実は、同人の有意識的の記憶には存在せざるはずなれども、脳髄以外の細胞が作りし無意識的記憶のうちのあるもの……たとえば当時の甚しき疲労感等が、警部の訊問の暗示力によって意識裡に浮かみ出でしものに非ざるなきやも疑い得べし。しかれども、これを他の一面より見る時は、気質の純真と、良心の澄明とが反映したる、極めて明敏なる頭脳の所有者にしてかつ、小説類の愛好者たる呉一郎が、かかる局面に立ちたる結果起したる、この種の頭脳特有の錯覚に非ざるなきやを保し難し。したがって、這般の疑問は、呉一郎の夢中遊行の存在を的確に立証し得るものに非ず。ただ、一個の補遺的参考としてここに掲ぐるを得るのみ。
なお、以上述ぶるところによって、古来、夢中遊行病者が一種の二重人格の所有者なるがごとく思惟せられおることが、真に近き理由をも理解するを得べし。すなわち、祖先代々より遺伝し来たりたる無量の記憶と、その血統中に包含されたる各人種、各家系、各個性等の無数の性能の統一体たる一個の人間の性格のうち、その一部が覚醒中に分離してあらわれたるものがいわゆる二重人格にして、同じく睡眠中に発露されたるものが夢中遊行症なり。しかしてかかる夢遊病者の素質が、遺伝性を帯びおるものなるはむろんなるをもって、夢遊病者が夢中遊行中に行いし犯罪に対する責任は、夢遊病者本人が負うべき場合はなはだすくなく、これを遺伝せしめたる祖先およびその時代の社会等が、負うべき場合多きことを、この事件に対する法律的考察の参考として付記しおくべし。
【十】 呉家の血統に関する謎語
劈頭に掲げし四項の談話中、右に摘出したる以外にもまた、呉一郎の心理に、かかる夢中遊行を発作し得べき遺伝的のあるものが存在せることを暗示せる個所すくなからざるがごとし。すなわち左のごとし。
=呉一郎の談話中= 同人母千世子は、女性にしては珍しき明《めい》晰《せき》なる頭脳を有し、かつ、気強き性格の持ち主なることが説明されおり、かつ、迷信家に非ざる旨を弁護しあるにもかかわらず、母子二人の宿命、もしくは運命に関しては、極めて平凡、かつ愚《ぐ》昧《まい》に属する迷信を極度に固執しおれる事実より推して、同女の心理に何らかの不可抗的の憂《ゆう》悶《もん》不安の、不断に存在せるに非ざるなきやを疑い得ること。
=同= 狸穴の先生と呼ばるる占《うら》断《ない》者《しや》の言に「お前たちは、何者かに呪われている」とあるは、同占断者が、同女との対話中に、同女の言葉の中に含まれたるある事実を推測して、かく言いたるに非ずやと疑わるる。
=八代子の談話中= 直方署の留置場において、初めて呉一郎に面会したる際「お前は何か夢を見ていやしなかったか」と尋ねしは「かつて夢遊病のことを耳にせしためなり」云々と弁明せるが、一婦人、特に農家の一主婦としての教養以外に、何らの高等なる学識を有せざるべきはずの八代子が、かくのごとき非常事件に際し、かかる超常識的に高等なる、精神科学的現象の存在の、可能なることを考え得るさえも、不可思議というべきに、更にこれを実地に当てはめて、直ちに事件の裡《り》面《めん》の真相をうがたんと試みたるがごときは、真に驚くべき事実にして、たとい同婦人がいかに慧《けい》敏《びん》、かつ果敢なる判断力を有するものと見るも、なおかつ、不自然の感を免れず。但し、同婦人が常に、何らかの痛切なる事情に迫られて、かかる問題を念頭にかけおり、かくのごとき事実に関する風説または説明等について、鋭い注意を傾注しおりたるものとすれば、かかる際、かかる質問を発するはあながちに不自然と言い得べからざること。
=同= 同婦人は、姪の浜なる実家に、近き親戚のすくなき旨を洩らせるが、田舎の富家には往々にしてかくのごとく血縁的に孤立せる家系あり。しかして、その孤立の原因は多くの場合、その家柄もしくはその血統に絡まる伝統的に悪風評もしくは、ある忌むべき遺伝的の素質あるがために、付近の者が姻《いん》戚《せき》関係を結ぶを好まざる結果なるをもって、呉家も、あるいはその種の家柄に非ずやと疑わるること。
=同= 妹千世子が家出の原因は刺繍と絵画の修業を目的とせるものにほかならざる旨、繰返して弁明せるも、前項の疑点と照合する時は、なお、別の意味をも含まれいるもののごとし。すなわち千世子は、姉と共に同家におりては、とうてい結婚の不可能なるべきを予感し、または他国において、呉家の血統を繋ぎ残すべく、姉との黙契の下に家出したるものにして、これあるがために、その行方捜索に対する姉の態度は、やや不熱心のきらいなきに非ざりしやの疑いを存する余地あり。かつ、同姉妹が二人共、女性としては珍しき気《き》嵩《がさ》なる性格の所有者なる事実よりこれを推せば、両人の間にかかる黙契の成立し得べきことは想像に難からざること。
=松村マツ子女史の談話中=「千世子が有名なる男喰いなりとの噂」云々の事実と、前記の疑問とを綜合する時は、かくのごとき事情を負うて家出せる同女の、その後の行動の一斑を窺《うかが》うに足るべきこと。
如上の各項の疑点を通じて、姪の浜の呉家に伝統的の、しかも、極めて恐怖すべきあるものが存在せること、および同家の最後の血統を有せる八代子と千世子の姉妹が、このことを熟知しおるらしきことは、この事件の当初より既に、充分に暗示しありたるものと見るを得べし。
【十一】 残るところは、この事件における呉一郎の夢中遊行の発作が「いかなる種類の心理遺伝の、いかなる程度の発露によりて行われたるものなりや」という問題なり。
すなわち這《しや》般《はん》の第一回発作は、その夢中遊行の直接誘因とも見るべき有形的の暗示が「一女性の寝顔の美」という簡単なるものに過ぎず、かつその刺激が、異性的魅惑力の最も薄弱なる母親によって与えられたるものなりしため、呉家の固有に属する驚異的の心理遺伝に対する暗示の度もまた、はなはだ浅かりしものと察せらる。したがって、その夢中遊行の内容も、同家固有の心理遺伝の内容(後段参照)と合致せるはただ「絞首」の一事あるのみ。爾余はその屍体、およびその容貌の暗示より来たれる脱線的の夢中遊行に移りて、それ以上の心理遺伝の内容を示さざりしものと思惟し得べし。
しかして、前記諸項に関する一切の根本的の疑問に対する解決と説明は、この直方事件の発生後、約二か年目に現われたる左記、第二回の発作に現われたる諸般の事情によって、徹底的に明らかにするを得べし。
第二回の発作
◆第一参考 戸倉仙五郎の談話
▼聴取日時 大正十五年四月二十六日(いわゆる、姪の浜の花嫁殺し事件発生当日)午後一時頃――
▼聴取場所 福岡県早良郡姪の浜町二四二七番地、同人自宅において――
▼同席者 戸倉仙五郎(呉八代子方常《じよう》雇《やとい》農夫、当時五十五歳)――同人妻子数名――余(W氏)――以上――
【注意】 甚しき方言なるをもって標準語に近づけて記載す。
――ええもう、このような恐ろしいことはございませなんだ。その時に梯《はし》子《ご》のテッペンから落ちて打ちました腰が、この通り痛みまして、小用にもはうて参りますくらいで、すんでのことに生《いの》命《ちう》喪《しな》いをするところでございました。しかし、今朝ほどから茄子《なすび》の黒焼きで酒を飲みまして、御覧の通り、妙薬の鮒《ふな》を潰《つぶ》して貼っておりますけに、おかげでよほど痛みが寛《くつろ》いだようでございます。
――呉様のお家は、千俵余米と申しまして、この界《かい》隈《わい》でも一と言われる名うての大百姓でございます。そのほか、養蚕《かいこ》から、養《にわ》鶏《とり》から何から何まで、今の後家さんのお八代さんが、たった一人で算《そろ》盤《ばん》を弾《はじ》かっしゃるので、身代は太るばかり……何十万か、何百万かわからぬと申しますが、豪《えら》いものでございます。学校も自分で建てた学校なら、お寺も御先祖が建てさっしゃったお寺で、跡目相続人《あととり》の若旦那(呉一郎)は大《おお》幸《しあ》福《わせ》者《もの》でございますのに、思いがけないことができましたもので……。
――若旦那様は、温柔《おとな》しい、口数のすくない御《お》仁《ひと》でございました。直方からこちらへござって後というもの、いつも奥座敷で勉強ばっかりしてござったようですが、雇人や近所の者にも権式を取らしゃらず、まことに評判がよろしゅうございました。それに今までは呉家の人と申しましても後家のお八代さんと十七になる娘のオモヨさんと二人きりで、家の中が何となく陰気でございましたが、一昨年《おととし》の春から若旦那がござらっしゃるようになると、妙なもので、家《いえ》内《じゆう》がどことなく陽気になりまして、私共も働きがいがあるような気持ちが致して参りましたような訳で……ヘイ……。そのうちに、今年の春になりましてからはまた、若旦那様が福岡の高等学校を一番の成績で卒業して、福岡の大学にまたやはり一番で入らっしゃると、そのお祝を兼ねて、若旦那とオモヨさんの祝《おめ》言《でた》があるというようなことで、呉さんのお家はもう、何とのう浮き上るようなあんばいで……ヘイ……。
――ところがちょうど昨日(四月二十五日)のことでございます。福岡因幡《いなば》町《ちよう》の記念館という大きな西洋館の中で、高等学校の生徒さんの英語の演説会がありましたそうですが、若旦那様はその時に、卒業生の総代になって、一番初めの演説を受持ってござるとかで、高等学校の服を着て行こうとなさるのをお八代さんが引止めて、大学校生徒の新しい服を着せてやろうとしました。その時に若旦那は苦笑いをしながら、どうしても着て行かぬ、まだ早いと言うて逃げようとされますのを、お八代さんが無理やりに着せて、あとを見送りながら、さも嬉しそうにして涙を拭いておりました態度《ようす》が、今でも眼にすがっております。今から思えばあの時が、若旦那の大学服の着納めでございましたろう。
――ところでまた、そのあくる日のきょうは今も申します通り、若旦那様とオモヨさんの、おめでたい日取りになっておりましたので、私共も一昨日から泊り込みで手伝いに参っておりました。オモヨさんも高島田に結うて、草色の振《ふり》袖《そで》に赤《あか》襷《だすき》がけで働いておりましたが、何に致せ容《きり》色《よう》はあの通り、御先祖の六美様の画像も及ばぬという、もっぱらの評判でございますし、それに気質《きだて》がまことに柔和《すなお》で、「綺《きり》倆《よう》千両、気質が千両、あとの千両は婿次第」と子守女が唄《うと》うているくらいでございました。また、若旦那様はと申しますと、年は二《は》十《た》歳《ち》ということでございますが、分別といい、物ごしといい、三十近い者でも追い付かぬくらいシッカリしてござって、ことに男ぶりがまた御覧でもございましたろうが、お公《く》卿《げ》様《さま》にもなかろうと思われるくらい、品行がよろしゅうございましたので、これくらいの夫婦は博多にもあるまいという噂でございました。……それにお支度がまた金に飽かしたもので、若旦那の方から婿入りの形にするために、地境の畠を潰しまして、見事な離家《はなれ》が一軒建ちましたくらいで、そのほか着物は、福岡一の京屋呉服店から仕立てて来る。お料理の方も昨日から、やはり福岡一の魚吉という仕出し屋が持ち込んで騒いでいるという勢いで、後家さんの気張りようというたなら大したものでございました。
――ところが昨日の演説会での若旦那様のお役目というのはホンのチョットで、どんなに遅うなっても二時までには間違わずに帰ると言い置いて行かれたのでございますが、とやかく致しておりますうちに三時が過ぎましても、お帰りの姿が見えませぬ。若旦那はこのようなことはけっしてお間違いにならぬ性分でございましたので、私は年寄役に、チョットこのことの不審を打ちますと、皆の者は「おおかた演説の始まりが遅うなったとじゃろう」なんぞと申しまして格別気にかけませなんだ。しかし今までにこのようなことは一度もないので、折柄が折柄ではございますし、私も心配せぬではございませんでしたが、ツイ忙しいのに紛れておりますと、そのうちに日和癖で、空が一面に曇って参りまして、長い春の日がにわかに夕方のように暗くなりました。すると、それで気がついたものと見えまして、明日からは母親のお八代さんが、濡れ手を拭き拭き私を物陰に呼びまして、「二十歳にもなっとるけん間違いはなかろうが、まだ帰らぬごとあるけん、そこいらまで見に行ってくれまいか」という頼みでございます。私もちょうどそう思うているところでございましたけに、やりかけておりました蒸籠《せいろ》の修《つく》繕《ろい》を片づけまして煙草を一服吸うてから草鞋《わらじ》ばきのまま出かけましたのが、かれこれ四時頃でございましっろうか。軽《け》便《い》鉄《べ》道《ん》で西新町まで行きまして、今川橋の電車の行き詰りのところに、煮売屋を開いております私の弟のところへ立ち寄りまして「うちの若旦那を見かけなんだか」と問《たず》ねますと「おお……その若旦那なら、今から二時間ばかり前にここを通って、軌道には乗らずに歩いて西の方へ行かっしゃった。初めて大学の服をば着てござるのを見たけん、二人が表に出て、しばアらく見送っておった。良《え》え婿どんじゃなア」と夫婦で申します。
――若旦那は平生《ふだん》からこの軌道の煙のにおいがお嫌いだそうで高等学校に行かっしゃる時も運動になるからちゅうて、毎日毎日姪の浜から田圃伝いに歩かっしゃったくらいでございます。しかし、それにしても今川橋から姪の浜までは一里そこらでございますから、二時間もかかるはずはないが……と心配しいしい帰りかけましたのが四時半頃でございましっろうか。国道沿いの軌道伝いに帰って参りましたところ、ちょうど姪の浜《こ こ》からほど近い道《みち》傍《ばた》の海岸側にある山の裾に石切場がございます。切っております石は姪の浜石と申しまして黒い柔かい石で、お帰りに御覧になればおわかりになりますが、福岡の方から参りますにも、また、こっちから福岡の方角に出ますにも、ぜひとも通らなければならぬところでございます。……あの石切場の石が屏《びよ》風《うぶ》のように突立って、西日を赤々と受けております奥の方の薄暗いところへ、四角い帽子を冠った洋服の姿がチラリと動いて見えたように思いました。
――私は眼が悪うございますが、これこそと思って近寄って見ますと、案の定若旦那様で、高岩の陰に腰をかけて、何か巻物のようなものを見ておいでになります。私は、そこいらに積み重ねてある切石の上を伝うて、ちょうど若旦那の頭の上に出ましたので、ソローッと首を伸ばして覗いて見ますと、それは長い長い巻物の途中と思われるところでございましたが、不思議なことには、それはただの白い紙ばかりで、何一つ書いてないもののように見えました。しかし若旦那の眼には、何か見えておりましたらしく、その白いところを一心になって見てござる様子でございます。
――私は呉様のお家に祟る絵巻物があるということをかねてから噂には聞いておりました。けれどもそれはもうよほど大昔のことで、今の世の中に、そのようなことがあろうはずはない。あっても話ばかりと思うておりましたけに、まさかその巻物がソレであろうとは夢にも思いつきません。やはり眼が悪いのだろうと思いまして、若旦那に気取られぬように、できるだけ顔を近付けて見ましたけれども、白い紙はやはり白い紙で、いくら眼をこすりましても、物が書いてある模様は見えません。
――サア私は不思議でならなくなりました。若旦那が何を見てござるのか、一つ聞いてみようと思いますと、急いで岩角を降りました。そうしてワザと遠廻りをして、若旦那の前に出てヒョッコリ顔を合わせますと、若旦那は私が近寄りましたのに気もつかれぬ様子で、半開きの巻物を両手に持ったまま、西の方のまっ赤になった空を見て何かボンヤリと考えてござるようでございます。そこで私が咳払いを一つ致しまして「モシ若旦那」と声をかけますと、ビックリさっしゃった様子で、私の顔をツクヅク見ておいでになりましたが「おお、仙五郎か。どうしてここへ来た」と初めて気がついたようにニッコリ笑われますと、裏向きにして持ってござった巻物を巻き納めながら、グルグルと紐で巻いてしまわれました。私はその時若旦那が、何かよほど大切なことを考えござったものとばかり思っておりましたから、何の気もつかずに、お八代さんが心配してござることを話しまして「一体それは何の巻物でございますか」と手に持ってござるのを指して尋ねました。そうすると、またいつの間にか背振山の方をふり返って、何か考えてござった若旦那様は、また、ハッとしたように私の顔と巻物とを見比べておられましたが、「これかね。これは僕がこれから仕上げねばならぬ巻物で、でき上ったら天子様に差し上げねばならぬ大切な品物だ。誰にも見せる訳にいかん」と言い言い外《がい》套《とう》の下の洋服のポケットにお入れになりました。
――私はいよいよ訳がわからぬようになりましたが、「しかしその中には何が書いてございますので……」と申しますと、若旦那は心持ち赤くなられまして、苦笑いをしながら「それは今にわかる。とても面白いお話と、恐ろしい絵が描いてある。僕たちが式を挙げる前に是非とも見ておかねばならぬものだとその人が言われた……今にわかる……今にわかる……」と言われました。私は何だか訳がわかったような、わからぬような妙な気持ちになりましたが、しかし、その若旦那のもののおっしゃりようが、何とのう上の空で、平生《いつも》とはよほど違うてござることに気が付いて参りましたので、執拗《しつこ》いようではございましたが、今一度念のために「ヘエー。そのようなものを誰が差し上げました」と尋ねますと、またも穴のあくほど、私の顔を凝《み》視《つ》めておられました若旦那様は、やがてまた、ハッと正気づかれたように眼を丸くして、二、三度パチパチと瞬《まばた》きをされました。そうして何を考えられましたものか、すこし涙ぐんで口ごもりながら、「これを僕にくれた人かね。……それは死んだお母さんの知り合いの人で、お母さんから秘密に預かった巻物を私に返しに来たのだ。その人はまたそのうちにキット私にめぐり会おう、名前はその時に言って聞かせよう……と言ったきりで、どこかへ消え失せてしまったが、私はその人が誰だかチャンと知っている。しかし……まだ何も言われん、言われん。お前もこのことを他人に言うことはならん。よいか……サア行こう行こう」と言われるうちに若旦那はにわかにソワソワとなされて、石の上を飛び飛びに往来に出て、私の先に立ってズンズンお歩きになりましたが、そのおみ足の早かったこと……まるで物に取り憑《つ》かれたようで、平生《いつも》とまるで違うておりました。今から思いますと、あの時からもう、いくらか妙な萌《きざ》しがありましたようで……。
――若旦那が家へお着きになりますと、すぐにお八代さんに「ただ今……遅うなりました」と言われましたが、お八代さんが「仙五郎に会いなすったか」と尋ねますと「ハイ。石切場のところで会いました。今そこに帰って来ております」と言うと、うしろから入って来た私を指《ゆび》示《さ》されまして、サッサと離家《はなれ》の方へ行かれました。お八代さんは、それで安心したらしく、私には別に何にも尋ねずに、ただ「御苦労」を言うただけで、横の板張に親《おや》椀《わん》を並べて拭いていたオモヨさんに眼顔で、差図しますと、オモヨさんは大勢に見られながら、恥かしそうに立上って、若旦那の後から鉄瓶を提《さ》げて、離家の方へ行きました。
――それからもう一つ、これは後から訳がわかったように思うのでございますが、日が暮れるまえにチョット妙なことがございました。……私はそれから裏口の梔《くち》子《なし》の陰に筵《むしろ》を敷きまして、煙管《きせる》をくわえながら先《さい》刻《ぜん》の蒸籠の繕い残りを綴《つづ》くっておりましたが、そこから梔子の枝越しに、離家の座敷の内部《ようす》が真《ま》正《む》面《き》に見えますので、見るともなく見ておりますと、若旦那は離家のお座敷の机の前で着物を着換えさっしゃってから、オモヨさんが入れたお茶を飲みながら、何かしらオモヨさんに言い聞かせてござるようで……ガラス雨戸の中ですから声はわかりませんが、お顔の色が平生《いつも》になく青ざめて、眉《まゆ》がヒクヒクと動いているあんばいは、まるで何か叱ってござるようにも見えましたが、しかしよく気をつけて見ますと、そうでもございません。当の相手のオモヨさんはその前で洋服を畳みながら、赤い顔をして笑い笑い「イヤイヤ」と頭を横に振っているようで、まことに変なアンバイでございました。
――ところがそれを見ると若旦那はいよいよ青い顔になられまして、オモヨさんにピッタリとニジリ寄って行かれました。そうしてここから見えます、あの三ツ並んだ土蔵《おくら》の方角を指さして見せながら、片手をオモヨさんの肩にかけて、二、三度ゆすぶられますと、最前から火のように赤うなって身体をすぼめていたオモヨさんが、やっとのこと顔をあげて、若旦那と一緒に土蔵の方を見ましたが、やがて嬉しいのか悲しいのかわからぬような風付きで、水々しい島田の頭をチョットばかり縦に振ったと思うと、首のつけ根まで紅《あか》くなりながら、ガックリとうなだれてしまいました……まるで新派の芝居でも見ておりますようなアンバイで……ヘイ……。
――するとその態度《ようす》をジット見てござった若旦那は、オモヨさんの肩に手をかけたまま中腰になってガラス雨戸越しにそこいらをジロジロと見まわしてござるようでしたが、やがて軒先の夕空を見上げながら、思い出したように白い歯を出して、ニッタリと笑われました。そうして赤い舌を出してペロペロと舌なめずりをさっしゃったようでしたが、その笑顔の青白くて気味の悪うございましたことというものは、思わずゾッと致しましたくらいで……ヘイ……けれどもまさか、それがあのようなことの起る前《まえ》兆《おき》とは夢にも思いませなんだ。ただ学問のある人はあのような奇妙な素振りをするものか……と思い思い忙しさに紛れて忘れておりましたようなことで……ヘイ……。
――それから昨晩、家中の者が一人残らず寝静まってしまいましたのが午前の一時頃のことでございましたろうか。花嫁御のオモヨさんと、母親のお八代さんとは母屋の奥座敷に……それから花婿どんの若旦那と、親代りの付添役になりました私は、離家《はなれ》に床を取って寝《やす》みました。もっとも私は若旦那よりもズット遅れまして、十二時過ぎに湯に入りまして、離家の戸締りを致しますと、若旦那のお次の間の、茶の間になっているところへ床を取って寝みましたが、年寄りの癖で、今朝ほど、まだ薄暗いうちに眼が醒めましたので、便所へ行こうと思いまして、二方ガラス雨戸の薄ら明りを便りに若旦那のお室の前の縁側まで来ますと、そこの新しい障子が一枚開いて、その前のガラス雨戸がまた一枚開いてあります。それからお室の中を覗きますと、寝床の中に若旦那のお姿が見えません。……ハテ妙なこと……と思いますと、チョット胸騒ぎが致しましたが、外は小雨が降っておりましたので、新しい台所の上り口から自分の下駄を持って参りまして、飛び石伝いに母屋の方へ参りますと、奥座敷の戸袋のところが一枚開いて、そこにすこしばかり砂のついた下駄の跡が薄明りなりに見えるようでございます。私はそこでまたチョット考えましたが、間もなく思い切って下駄を脱いで、抜き足さし足で廊下を伝って行って、奥座敷のガラス障子を覗き込みますと、暗い電燈の下に、お八代さんは片手を投げ出して寝ておりますが、その横に敷いてあるオモヨさんの寝床はもぬけの殻で、夜具が裾の方に畳み寄せてありまして、緋ぐくしの高枕が床のまん中に置いてあるきりでございます。
――私はその時にようやっと最前日暮れ方に見たことを思い出しまして……ナアンダ、そんなことだったか、それなら別段心配せんでもよかったに……と、どうやら胸を撫でおろしました。……が……しかしまた考えてみますと、この道ばかりは別とはいえ、あの若旦那のなさることにしてはチョット様子がおかしいと気がつきましたので、また、何とのう胸騒ぎがし始めました。やっぱり虫が知らせるというものでございましっろうか……とにかく自分の手落ちになってはならぬ。皆が起きぬうちに……と思いましたから、お八代さんを起したのでございますが、私がオモヨさんの寝床を指さしまして、コレコレと申しますと、眼をこすっておりましたお八代さんはハッとした様子で……「この頃一郎が、何か巻物のようなものをば持っとるのを見かけはせんじゃったか」……と不意に妙なことを尋ねながら、寝床の上にピタリと坐り直しました。私は、しかし、その時までは何も心付きませんので「ヘエ……昨日、石切場で会いました時に、何か存じませんが白い紙ばかりの、長い巻物を読んでござったようで……」と申しましたが、その時のお八代さんの血相の変りようばっかりは今でも忘れません……「また出て来たかーッ」とカスレたような声で申しますと、唇をギリギリとかんで、両手を握り固めてブルブルと慄《ふる》わして、眼を逆様に釣り上げて、チョット取り詰めた(逆上喪神の意)ようになりました。私は何事かわからぬままに胆を潰しまして、尻《しり》餠《もち》をついたまま見ておりますと、やがてお八代さんは気を取り直した様子で、涙をハラハラと流したのを袂《たもと》で拭い上げまして、泣き笑いのような顔をしながら、「イヤイヤ。私の思い違いかも知らぬ。お前の見違いかも知れぬ。とにかくどこにいるか探しておくれ」と言うて立上りました。その時はもう平生《いつも》とかわらぬ風付きで、先に立って縁側から降りて行きましたが、実はよほどうろたえてござったと見えまして、跣足《はだし》で表口の方へ行かっしゃる後から、私が下駄をはいてついて行きました。
――小雨はもうその時には降りやんでおりましたようですが、まもなく離家《はなれ》の前の……ここから見えますあの一番右側の三番土蔵の前まで来ました時に、私は土蔵の北向きになっている銅《あかがね》張《ば》りの扉《と》が、開いたままになっているのに気が付きまして、先へ行くお八代さんを引止めて指をさして見せました。あとから考えますとこの三番土蔵は、麦《む》秋《ぎ》頃《ごろ》まで空倉で、色々な農具が投げ込んでありまして出入りが烈しゅうございますので、若い者がウッカリして窓を開け放しにしておくことがチョイチョィございました。この時なぞもそうだったかも知れませんので、別に不思議がることはなかったはずでございますが、昼間のことを思い出しましたせいか、思わずハッとして立ち止りましたので……するとお八代さんもうなずきまして、土蔵の戸前のところへまわって行きましたが、内側からどうかしてあると見えまして、土戸は微《み》塵《じん》も動きません。すると、お八代さんはまたうなずいて、すぐ横の母屋の腰板に引っかけてある一間半の梯子を自分で持って来て、土蔵の窓の下にソッと立てかけて、私に登ってみよと手真似で言いつけましたが、その顔付きがまた、尋常でございません。その上に、その窓を仰いで見ておりますと、何かチラチラ灯火《あかり》がさしている模様でございます。
――私は御承知の通り大の臆病者でございますから、どうも快《よ》い心地が致しませんでしたが、お八代さんの顔付きが、生やさしい顔付きではございませんので、余儀なく下駄を脱ぎまして、尻を端《か》折《ら》げまして、梯子を登り詰めますと、その窓の縁に両手をかけながら、ソロッと中の様子を覗いたのでございますが……覗いているうちに足の力が抜けてしもうて、梯子が降りられぬようになりました。それと一緒に窓のところにかけておりました両手の力がなくなりましたようで、スッテンコロリと転げ落ちますと、腰をしたたかに打ちまして、立ち上ることも逃げ出すこともできなくなりました。
――ヘイ。その時に見ました窓の中の光《あり》景《さま》は、一生涯忘れようとして忘れられません。そのもようを申しますと、土蔵の二階の片隅に積んでありました空《あき》叺《がます》で、板張りのまん中に四角い寝床のようなものが作ってありまして、その上にオモヨさんの派手な寝巻きや、赤いゆもじが一パイに拡げて引っかぶせてあります。その上に、水の滴るような高島田に結うたオモヨさんの死《し》骸《がい》が、丸《まる》裸体《はだか》にして仰向けに寝かしてありまして、その前に、母屋の座敷に据えてありました古い経机が置いてあります。その左側には、お持仏様の真《しん》鍮《ちゆう》の燭《しよく》台《だい》が立って百《ひやく》匁《め》蝋《ろう》燭《そく》が一本ともれておりまして、右手には学校道具の絵の具や、筆みたようなものが並んでいるように思いましたが、細かいことはよく記《お》憶《ぼ》えません。そうしてそのまん中の若旦那様の前には、昨日石切場で見ました巻物が行儀よく長々と拡げてありました……ヘイ……それは間違いございません。たしかに昨日見ました巻物で、端の金《きん》襴《らん》の模様や心棒(軸)の色に見覚えがございます。何も書いてない、まっ白い紙ばかりでございましたようで……ヘイ……若旦那様はその巻物の前に向うむきにまっすぐに坐って、白《しろ》絣《がすり》の寝巻をキチンと着ておられたようでございますが、私が覗きますと、どうして気どられたものか、静かにこちらをふり向いて、ニッコリと笑いながら、「見てはいかん」と言う風に手を左右に振られました。もっとも、かようにお話は致しますものの、みんな後から思い出したことなので、その時は電気にかかったように鯱《しや》張《ちば》ってしまって、どんな声を出しましたやら、一切夢中でございました。
――お八代さんはその時に私を抱え起しながら何か尋ねたようでございますが、返事を致しましたかどうか、よく覚えません。土《く》蔵《ら》の窓を指して何か言うておったようにも思いますが……そうするとお八代さんは何か合点をしたようで、倒れかかった梯子を掛け直して自分で登って行きました。私は止めようとしましたが、腰が立たぬ上に歯の根が合わず、声も出ませんので、冷たい土の上にうしろ手を突いたまま見上げておりますと、お八代さんは前《まえ》褄《づま》をからげたままサッサと梯子を登って、窓のふちに手をかけながら、やっぱり私と同じようにソロット覗き込みました。……が……その時のお八代さんの胆玉の据わりようばっかりは、今思い出しても身の毛がよだちます。
――お八代さんは窓から、中の様子をジット見まわしておりましたが、「お前はそこで何事しおるとな」と落ち着いた声で尋ねました。そうすると中から若旦那様が、いつもの通りの平気な声で「お母さん……ちょっと待って下さい。もうすこしすると腐り始めますから……」と返事なさるのがよく聞えます。四囲《あたり》がシンとしておりますけに……そうするとお八代さんは、チョット考えておるようでございましたが「まあだナカナカ腐るもんじゃない。それよりももう、夜が明けとるけん、御飯をば喰べに降りて来なさい」と言いますと、中から「ハイ」と言う返事がきこえまして、若旦那が立上られた様子で、窓際に映っている火《ほ》影《かげ》がフッと暗くなりました……が……これが現在の娘の死骸を眼の前に置いた母親の言えたことでございましょうか……それから、お八代さんは急いで梯子から降りて来て、私に「お医者お医者」と言いながら、土《く》蔵《ら》の戸前のところに走って行きましたが……お恥かしいことながら、その時は何のことやらわかりませんでしたので、また、わかったにしたところが、腰が抜けておりますから行かれもしません。ただ、恐ろしさの余り、立ってもいてもいられずに慄えておりましたようでございます。
――土蔵の戸前が開きますと、中から若旦那が片手に鍵を持って庭下駄をはいて出て来られて、私共を見てニッコリ笑われましたが、その眼付きはもう、平常《いつも》と全く違うておりました。待ちかねていたお八代さんは、その手からソッと鍵を取り上げて、何か欺しすかすような風付きで、耳に口を当てて二言三言いいながら、サッサと若旦那の手を引いて、離家《はなれ》に連れ込んで寝かしてござるのが、私のところからよく見えました。
――それからお八代さんは引返して、土蔵の二階へ上って何かコソコソやっているようでございましたが、私はその間、たった一人になりますと、生きた空もないくらい恐ろしゅうなりましたので、はうようにして土蔵のうしろの裏木戸まで来まして、そこに立っている朱《じや》欒《がたら》の樹にすがり付いて、やっとこさと抜けた腰を伸ばして立ち上りました。すると頭の上の葉の陰で、土蔵の窓の銅《あかがね》張《ば》りの扉がパタンと閉まる音が致しましたから、またギックリして振り返りますと、今度は土蔵の戸前にガッキリと鍵をかけた音が致しまして、間もなく左手に、巻物をシッカリとつかんだお八代さんが裸足のまま髪を振り乱して離家の方へ走って行きました。そうして泥足のまま縁側から馳け上りまして、たった今寝たばかりの若旦那を引き起して巻物をさしつけながら恐ろしい顔になって、何か二言三言責め問うているのが、もう明るくなったガラス戸越しによく見えました。
――若旦那はその時に、昨日の石切場の方を指して、頭を振ったり、奇妙な手真似や身ぶりを交ぜたりして、何かしら一所懸命に話してござるように見えました。そのお話はよく聞いてもおりませんでしたし、むずかしい言葉ばかりで、私共にはよくわかりませんでしたが「天子様のため」とか「人民のため」とかいう言葉が何遍も何遍も出て来たようでございました。お八代さんも眼をまん丸くしてうなずきながら聞いているようでございましたが、そのうちに若旦那はフイと口をつぐんで、お八代さんが突きつけている巻物をジイッと見ていられたと思うと、イキナリそれを引ったくって、懐《ふと》中《ころ》へ深く押込んでしまわれました。するとそれをまたお八代さんは無理やりに引ったくり返したのでございましたが、あとから考えますと、これがまたよくなかったようで……若旦那様は巻物を奪《と》られると気抜けしたようになって、パックリと口を開いたまま、お八代さんの顔をギョロギョロと見ておられましたが、その顔付きの気味わるかったこと……さすがのお八代さんも怖ろしさに、身を退いて、ソロソロと立ち上って出て行こうとしました。するとその袂《たもと》を素早くつかんだ若旦那様は、お八代さんをまた、ドッカリと畳の上に引据えまして、やはりギョロギョロと顔を見ておられたと思うと、さも嬉しそうに眼を細くしてニタニタと笑われました。
――その顔を見ますと、私は思わず水を浴びせられたようにゾッとしました。お八代さんも慄え上ったらしく、無理に振り切って行こうとしますと、若旦那はスックリと立ち上って、縁側を降りかけていたお八代さんの襟髪を、うしろから引っ捉えましたが、そのまま仰向けに曳き倒して、お縁側から庭の上にズルズルと曳きずり卸すと、やはりニコニコと笑いながら、有り合う下駄を取り上げて、お八代さんの頭をサモ気持快さそうに打って打って打ち据えられました。お八代さんは見る見る土のように血の気がなくなって、頭髪がザンバラになって、顔中にダラダラと血を流して土の上にはいまわりながら死に声をあげましたが……それを見ますと私は生きた心がなくなって、ガクガクする膝《ひざ》頭《がしら》を踏み締め踏み締め腰を抱えて此《こ》家《こ》へ帰りまして「お医者お医者」と妻《かない》に言いながら夜具を冠って慄えておりました。そうしたらそのお医者の宗近どんが、戸惑いをして私の家へ参りましたので「呉さんのところだ、呉さんのところだ」と追いやりました。
――私が見ましたことはこれだけでございます……ヘイ……皆正真正銘で、掛け値なしのところでございます。あとから聞きますと、お八代さんの叫び声を聞きつけた若い者が二、三人起きて参りまして、若旦那を押えつけて、細引で縛ったそうでございますが、その時の若旦那の暴れ力というものは、とても三人力や五人力ではなかったそうで、細引が二度も引っ切れたくらいだそうでございます。それをやっとのことで動けないようにして、離家《はなれ》の床柱の根方へくくり付けますと、若旦那は疲れが出たらしく、そのままグウグウ眠ってござったそうですが、やがてそのうちにまた眼が醒めますと不思議にも、若旦那の様子がガラリと違いまして、警察の人が物を尋ねられてもただ何ということなしにキョロキョロしてござるばかり、返事も何もなさらなかったそうでございます。……この前、直方でも、あの病気が出たそうでございますが、その時はやはり大学の先生のお調べで、麻《ま》痺《や》薬《く》をかけられていたことがわかりましたそうで、その後も何ともございませんので連れて来たと、お八代さんは言うておりましたが、血《ち》統《すじ》と言うものは恐ろしいもので、今度の模様を見て見ますと、やはりあの巻物の祟りに違いないようでございます。
――もっともこの巻物の祟りと申しますのも久しいこと出ませんので、私共も、どんなことか存じませんくらいでございますが……何でもあの巻物は、向うに屋根だけ見えております……あの如《によ》月《げつ》寺《じ》というお寺様の、御本尊の腹の中に納まっておりましたものだそうで、それを見ますと、呉家の血統の男に生まれたものならば、きっと正気を取り失いまして、親でも姉妹でも、または赤の他人でも、女でさえあれば殺すようなことを致しますのだそうで、その由《こと》来《わけ》を書いたものが、あのお寺にあるとか……ないとか言うておるようでございますが……その巻物が、どうして若旦那のお手に入りましたものか、不思議と申すほかございません。……ヘイ……あの如月寺のただ今の御住持様は、法倫様と申しまして、博多の聖福寺様と並んだ名高いお方だそうでございますから、こんな因縁事なら何でもおわかりのことと思いますが……ヘイ……もうよほどのお年寄りで、鶴のように瘠《や》せたお身体に、眉と髯《ひげ》が、雪のように白く垂れ下がった、それはそれは、有り難いお姿の和尚様でございます。何ならお会いになりまして、お話をお聞きになって御覧なされませ。嬶《かかあ》に御案内を致させますから……。
――ヘイ……お八代さんは今では半《はん》狂《きち》乱《がい》のようになったまま足を挫《くじ》いて床についているそうでございます。頭のけがは大したことはないとのことでございますが、言うことは辻褄が合わなんだりするそうで、道《もつ》理《とも》とも何とも申しようがございません。腰が抜けておりますので、お見舞いにも行かれませんで……。
――私が宗近(医師の姓)へ走らなかったので、万事が手遅れになったように申した者もあったそうでございますが、これは無理でございます。オモヨさんが絞め殺されたのは今朝の三時から四時の間だと、宗近さんが私の腰を診に来た時に言うておりました。蝋燭の減り加減がやっぱりそれくらいの見当でございましたそうで……ヘエ……。あとはただ今お話申し上げた通りでございます。お八代さんがたしかにしておれば、何もかもわかるはずでございますが、今も申上げました通り、若旦那を怨んだようなことを言うかと思えば……早う気を取り直してくれよ。お前一人が杖柱……などと夢うつつに申しておりますそうで、トント当てになりません。
――まだ警察の方は一人も私のところへ尋ねておいでになりません。……と申しますのは、この騒動に一番先に気がつきました者は、お八代さんの金切声をきいて馳けつけた、泊り込みの若い者しかおりません。警察の方はそれから後の話を詳しく調べてお帰りになりましたそうで……私はもうその前から用心を致しまして、もし自分が疑われてはならぬと思いましたから、宗近先生に口止めを頼みましたが、僥《しあ》倖《わせ》と大騒動に紛れて、誰が宗近先生を呼びに行ったやら、わからずにおりましたところへ、思いがけない先生のお尋ねでもうもう恐れ入りました。ヘイ。何一つ隠し立ては致しません。なろうことなら先生のお力でこの上警察に呼ばれぬようにお願いできますまいか。この通り腰が抜けておりますし、警察と聞いただけでも私は身ぶるいが出る性分でございますから……ヘイ……。
◆第二参考 青《せい》黛《たい》山《ざん》如《によ》月《げつ》寺《じ》縁《えん》起《ぎ》
(開山一行上人手記)
――註――同寺は姪の浜町二十四番地に在り。
呉家四十九代の祖、虹汀氏の建立に係る――
晨《あした》に金光を鏤《ちりば》めし満目の雪、夕には濁《じよく》水《すい》と化して河海に落滅す。今宵銀《ぎん》燭《しよく》を列ねし栄《えい》耀《えう》の花、暁には塵《ぢん》芥《かい》となって泥土に委《ゐ》す。三界は波上の紋、一生は空裡の虹とかや。況《いは》んや一旦の悪因縁を結んで念々に解きやらず。生きては地獄の転変に堕在し、叫喚鬼畜の相を現し、死しては悪果を子孫に伝へて業《ごふ》報《ほう》永《えい》劫《ごふ》の苛《かし》責《やく》に狂はしむ。その懼《く》怖《ふ》、その苦《く》患《げん》、何にたとへ、何にたくらべむ。
こゝに此因果を観じて如是本来の理《こと》趣《わり》を究《くぎ》竟《やう》し、根元を断証して菩《ぼ》提《だい》心《しん》に転じ、一宇の伽《が》藍《らん》を起して仏《ぶつ》智《ち》慧《え》を荘《しやう》厳《ごん》し奉り、一念称《しよう》名《みやう》、人《にん》天《てん》咸《げん》供《くぎ》敬《やう》の浄道場となせる事あり。その縁起を源《たづ》ぬるに、慶安の頃ほひ、山城国、京洛、祇《ぎ》園《をん》の精《しやう》舎《じや》に近く、貴賤群集の巷《ちまた》に年経て住める茶《ちや》舗《ほ》美《み》登《ど》利《り》屋《や》といふがあり。毎年宇治の銘を選んで雲上に献《たてまつ》り、「玉露」と名付けて芳を全国に伝ふ。当主を坪右衛門と言ひ一男三女を持つ。男を坪太郎と名づけ、鍾《しよう》愛《あい》此上無かりしが、此男子、生得商《あき》売《なひ》の道を好まず、稚《いとけな》き時より宇治黄《わう》檗《ばく》の道人、隠元禅師に参じて学才人に超えたり。かたはら柳生《やぎふ》の剣法に達し、また画流を土佐派に酌《く》み、俳体を蕉風に受けて別に一風格を成す。長じて空《くう》坪《へい》と号し、ひたすら山水を慕ひて復《また》、家を嗣ぐの志無し。然《しか》れども年長ずるに随ひ他に男子なき故を以《もつ》て妻帯を強ひらるゝ事一次ならず、学業未到の故を以て固辞すと雖《いへども》、間《かん》葛《かつ》藤《とう》を避くるに遑《いとま》あらず。遂に、父坪右衛門の請《こひ》により隠元老師の諭《ゆ》示《し》を受くるに到るや、心機一転する処あり
「二十五の今日まで聞かず不如帰《ほとゝぎす》」
といふ一句を吾家の門《もん》扉《び》に付して家を出て法《ほつ》体《たい》となりて一笠一杖に身を托し、名勝旧跡を探りつゝ西を志す事一年に近く、長崎路より肥前唐津に入り来る。時に延宝二年春四月の末つかた、空坪年二十六歳なり。
空坪此地の景勝を巡りて賞《しやう》翫《ぐわん》する事一方ならず。虹の松原に因《ちな》んで名を虹《こう》汀《てい》と改め、八景を選んで筆紙を展《の》べ、自ら版に起し洽《あま》ねく江湖に頒《わか》たん事を念《おも》へり。かくて滞留すること半載あまり、折ふし晩秋の月《ま》円《ど》かなるに誘はれて旅宿を出て、虹の松原に上る。銀波、銀砂に列《つら》なる千古の名松は、清光の裡《うち》に風姿を悉《つ》くして、宛《ゑん》然《ぜん》、名工の墨技の天《てん》籟《らい》を帯びたるが如し。行く事一里、漁村浜崎を過ぎて興尚《なほ》尽きず。更に流霜を逐《お》ふ事半里にして夷《えびす》の岬《はな》に到り、巌角に寄って遥《はる》かに湾内の風光を望み、雁《がん》影《えい》を数へつゝ半宵に到りぬ。
折しもあれ一人の女性あり。年の頃十八には過ぎじと思はるゝが、華やかなる袖を翻し、白く小さき足もと痛ましげに、荒《あり》磯《そ》の岩畳を渡りて虹汀の傍に近づき来り、見る人ありとも知らず西方に向ひて手を合はせ、良久《しばし》祈念を凝らすよと見えしが、涙を払ひて両袖をかき抱き、あはや海中に身を投ぜむ気色なり。虹汀駭《おどろ》き馳《は》せ寄りて抱き止め、程近き松原の砂清らかなる処に伴ひ、事の仔細を問ひ訊《ただ》すに、かの乙女、はじめはひたぶるに打ち泣くのみなりしが、やうやうにして語り出づるやう。妾《わらは》はこの浜崎といふ処に、呉《くれ》の某《なにがし》といふ家の一人娘にて六《むつ》美《み》女《ぢよ》と申す者に侍《はべ》り。吾家、代々此《こ》処《こ》の長《をさ》をつとめて富み栄え候ひしが、満つれば欠くる世の習ひとかや。さるにても又、世にも恐ろしき因縁とこそ申しつれ。昔より吾家に乱心の血脈尽きず。只今に及び候ひては、妾唯《たゞ》一人、悲しくも生きて残り居る有様にてさむらふ。
その最初《はじめ》を如《い》何《か》にと申すに、吾家に祖先より伝はれる一軸の絵巻物のはべり。中に美婦人の裸像を描き止めたり。承り及びたる処によれば、呉家の祖先なにがしと申せし人、最愛の夫人に死別せしを悲しみ、その屍《しかばね》の姿を丹精に写し止め、電光朝露の世の形見にせむと、心を尽して描き初《そ》めしが、如何なる故にかありけむ、その亡《なき》骸《がら》みるみるうちに壊《ゑ》乱《らん》して、いまだその絵の半《なかば》にも及ばざるに、早くも一片の白骨と成り果て候ひぬ。あるじの歎き一方ならず、遂に狂ほしき心地と相成り候ひしを、亡き夫人の妹くれがし氏、いろいろに介抱し侍りしが力及ばず、遂に夫人と同じ道に入り候ひぬ。その時妹のくれがし氏は、その狂へる人の胤《たね》を宿し、既に生み月に近き身に候ひしが、同じ歎きを悲しびて、やがて又、命を終らむばかりなりしを、やうやうに取り止め候ひしとか承り及びて候。
去る程にその折ふし、筑前太宰府、観世音寺の仏体奉修の為め、京《けい》師《し》より罷《まかり》下り候ひし、勝《しよう》空《くう》となん呼ばるゝ客僧あり。奉修の事終へて帰るさ、行《あん》脚《ぎや》の次《ついで》に此のあたりに立ちまはり給ひしが、此の仔細を聞き及ばれて不《ふ》憫《びん》の事とや思《おぽ》されけむ。吾家に錫《しやく》を止め給ひてその巻物を披見せられ、仏前に引《いん》摂《ぜふ》結《けち》縁《えん》し給ひて懇《ねんごろ》に読《ど》経《きやう》供《く》養《やう》を賜はりし後、裏庭に在りし大《だい》栴《せん》檀《だん》樹《じゆ》を伐《き》ってその赤肉を選み、手づから弥《み》勒《ろく》菩《ぼ》薩《さつ》の座像を刻みてその胎内に彼の絵巻物を納め、吾家の仏壇の本尊に安置し、向後この仏壇の奉仕と、この巻物の披見は、この家の女人のみを以て仕る可し。そのほか一切の男子の者を構へて近づくる事勿《なか》れと固く禁《いまし》めて立ち去り給ひね。
その後、かの狂へる人の胤、玉の如き男子なりしが、事無く此世に生まれ出で、長じて妻を迎へ、吾家の名跡を継ぎ候ひしが、勝空上《しやう》人《にん》の戒めに依り、仏壇には余人を近づけしめず。閼《あ》伽《か》、香《かう》華《げ》の供養をば、その妻女一人に司《つかさど》らしめつゝ、ひたすらに現世の安穏、後生の善所を祈願し侍り。されども狂人の血を稟《う》け侍りし故にかありけむ。この男子壮年に及びて子宝幾《いく》人《たり》を設けし後、又も妻女の早世に遭ふとひとしく乱心仕りて相果て候。その後代々の男子の中に、折にふれ、事に障《さは》りて狂気仕るもの、一人二人と有《これ》之《あり》。その病《さ》態《ま》世の常ならず。或《ある》は女人を殺《あや》めむと致し、又は女人の新《にい》墓《はか》に鋤《すき》鍬《くは》を当つるなぞ、安からぬ事のみ致し、人々之を止むる時は、その人をも撃ち殺し、傷つけ候のみならず、吾身も或は舌を噛み、又は縊《くび》れて死するなぞ、代々かはる事なく、誠に恐ろしき極みに侍り。
かやうの仕儀に候へば、見る人、聞く人、などかは恐れ、危ぶまざらむ。あるひは男子の身にて彼の絵巻物を窺《うかが》ひたる祟りと申し聞え、又は不浄の女人の、彼の仏像に近づける障りかと怪しむなぞ、遠きも近きも相伝へて血縁を結ぶことを忌み嫌ひ候為め、吾家の血統の絶えなむとする事度々に及び候。さ候へば、あるひは金銀に明かし、又は人を遠き国国に求めて辛くも名《みやう》跡《せき》を相立て候ひしが、近年に及び候ひては下賤乞食に到るまでも、吾家の縁辺と申せば舌をふるはし身をわなゝかす様に侍り。只今にては血縁の者残らず絶え果て、妾、唯一人と相成りて候。わけても妾の兄御前二人は、此程引続きて悩乱の態となり、長兄は界《かい》隈《わい》の墓所を発《あば》き、次兄は妾を石にて打たむと仕るなぞ、恐ろしき事のみ致したる果、相次ぎて生命を早め侍りしばかりにて、さる噂《うはさ》、一《ひと》際《きは》高まりたる折節に候へば大抵《およそ》の家の者は暇《いとま》を請ひ去り、永年召し使ひたる者も、妾を見候ひてため息を仕るのみ。はかばかしく物言ふ者すらなく、わびしくも情なき極みと相成り果て候。
さる程に、かゝる折柄、此の唐津藩の御家老職、雲井なにがしと申す人、此事を聞き及ばれ候ひて、御三男の喜三郎となん言へる御仁をば、妾が婿がねに賜はり、名跡を嗣《つ》がせらる可き御《ご》沙《さ》汰《た》あり。召し使ひたる男女共、あたゞに立ち騒ぎ打ち喜びて、かほどの首《しあ》尾《はせ》はよもあらじと、今までに引き換へてさゞめき合ひ候ひしが、そが中に唯一人、妾を守り育て候乳母《めのと》の者、さまで嬉しからぬ面もちにて打ち沈み居り候故、その仔細を尋ね候ひしに、ため息して申し侍るやう。這《こ》はゆめゆめ喜ばしき御沙汰には候はず。妾の夫にて御屋敷奉公致せる者より卒《そ》度《と》洩らし参りしやうには、彼の喜三郎と言へる御仁は、雲井様の妾腹の御子にて剣術の達者、藩内随一の聞え高き御方なるが、若き時より御行跡穏やかならず、長崎御番の御伴して彼の地に行かれしより丸山の遊び女に浮かれ、遂にはよからぬ輩《ともがら》と交りを結びて彼処《かしこ》此《こ》処《ゝ》の道場を破りまはり、茶屋小屋の押し借りするなぞ、狼《らう》藉《ぜき》の限りを尽して身の置き処なきまゝに、この程窃《ひそ》かに御帰国ありし趣に候。さりながら御家中の誰あつて、嫁婿の御望みを承るものなきのみならず、蛇、毛虫の如く忌み恐れ居り候ひし処、当家の事を聞き及ばれ、かく御沙汰ありしものに侍り。のみならず、其のまことの下心は、御事済みの後、御家老の御威光をもちて、呉家の物なりを家倉ともに押領せられむ結構とこそ承り候へ。御運とは申せ、力無き事とは申せ、御行末の痛はしさを思へば、眼も眩《く》れ、心も消えなむ計《ばか》りと、涙を流して申し候。妾もいかゞはせむと打ち惑ひ侍りしが、かよわき身の詮《せん》方《かた》もなく、案じ侘《わ》び候ひし折柄、此程の秋の取り入れごと相済み候ひて、稍《やゝ》落ち着き侍りし今宵の事、彼の雲井喜三郎といふ御仁、御供人も召し連れ給はず、御羽織袴《はかま》も召されぬ儘、唯お一人にて、思ひもかけず吾家へお見えなされ候。
這《こ》は如何にとて皆々走《は》せまどひ、御《ご》酒《しゆ》肴《かう》取りあへず奥座敷に請じ参らするうち、妾も化粧をあらためて御席にまかり出で侍りしが、彼の御仁体を見奉るに、半面は焼け爛《たゞ》れて偏《ひと》へに土くれの如く、又残る片《かた》側《つら》は、眉千切れ絶え、眥《まなじり》白く出で、唇斜めに偏《かたよ》りて、まことに鬼の形《すがた》とや言はむ。剰《あまつさ》へ何《いづ》方《かた》にて召されしものか、御酒気あたりを薫じ払ひて、そのおそろしさ、身うちわなゝくばかりに侍り。そをやうやうに堪へ忍びて、心も危ふく御酌に立ち候ひしに、御盃の数いく程も無きうちに、無《む》手《ず》と妾の手を執り給ひつ。その時、妾、思はず手を引き候ひしに、御盃の中のもの、御膝に打ちこぼれしより、忽《たちま》ち御酒乱の体とならせ給ひ、押し止むる乳母を抜く手を見せず討ち放され候。妾は其の間に逃れ出で、やうやうに此処まで参り侍りしが、かばかり打ち続く吾家の不祥、又は、此身の不《ふ》倖《しあはせ》のがれ方なく、たゞ死なむとのみ思ひ入り侍りしを、かく止められまゐらせ候。この上は唯尼とやならむ。巡礼とやならむ。何国《いづく》の御方か存じ参らせねど、此の上の御《おん》慈悲《なさけ》に、そのすべ教へて賜はれかしと、砂にひれ伏して声を忍ぶ体なり。
虹汀聞き果てゝ打ち案ずる事稍《やゝ》久《しばし》、やがて乙女を扶《たす》け起して言ひけるやう。よしよし吾に為《せ》ん術《すべ》あり。今はさばかり歎かせ給ふな。先づ其の絵巻物を披見して、御身の因果を明らめ参らせむと、六美女の手を曳きて立ち去らむとする折しもあれ、松の陰より現はれ出でし半面鬼相の荒くれ武士、物をも言はず虹汀に斬りかゝる。虹汀、修禅の機《き》鋒《ほう》を以て、身を転じて虚《くう》を斬らせ、咄《とつ》嗟《さ》に大喝一下するに、彼の武士白刃と共に空を泳いで走る事数歩、懸《けん》崖《がい》の突端より踏み外し、月光漫々たる海中に陥って、水《すい》烟《えん》と共に消え失せぬ。
かくて虹汀は六美女を伴ひて呉家に到り、家人と共に彼の乳母の亡《なき》骸《がら》を取り収め、自ら法事読経して固く他言を戒めつ。さて仏間に入りて人を遠ざけ、本尊弥勒仏の体中より彼の絵巻物を取り出し、畏敬礼拝を遂げつゝ披見するに、美人の五体の壊乱、膿《のう》滌《でき》せる様、只《ひた》管《すら》に寒毛樹立するばかりなり。すなはち仏前に座《ざ》定《ぢやう》して精魂を鎮め、三《さん》昧《まい》に入る事十日余り、延宝二年十一月晦日の暁の一点といふに、忽《こつ》然《ぜん》として眼《まなこ》を開きて曰く、
凡夫の妄《まう》執《しふ》を晴らすは念仏に若《し》くは無し南《な》無《む》阿《あ》弥《み》陀《だ》仏《ぶつ》 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
と声高らかに詠《えい》誦《じゆ》する事三遍にして、件《くだん》の絵巻物を傍の火炉中に投じ、一片の煙と化し了《をは》んぬ。
かくて虹汀は心静かに座定を出で、家人を招き集めて演《の》べけるやうは「吾、法力によつて、呉家の悪因縁を断つ事を得たり。すなはち此灰を仏像に納めて三界の万霊と共に供養し、自身は俗体となつて、此家に婿となり、勝果を万代に胎《のこ》さむと欲す。家人の思はるゝ処あらば差し置かず承らまほし」とありけるが、一人も所存を申し出づるもの無く、ひたぶるに国老雲井家の咎めを懼《おそ》るゝ体《てい》也《なり》。虹汀其心を察し、その日の裡に厚く労《ねぎら》ひて家人に暇を与へ、家屋倉《さう》廩《りん》を封じて「公儀に返還す。呉坪太」と大書したる木札を打ち、唯、金銀、書画の類のみ四駄に負はせて高荷に作り、屈竟の壮《わか》夫《もの》に口を取らせ、其身は弥勒の仏像を負ひて呉家の系図を懐にし、六美女の手を引きて、あくる日の昧爽《まだき》に浜崎を立ち出で、東《あづま》の方を志す。折ふし延宝二年臘《らふ》月《げつ》朔《つい》日《たち》の雪、繽《ひん》紛《ぷん》として六美女の名に因むが如く、長汀曲浦五里に亙《わた》る行路の絶勝は、須《たち》臾《まち》にして長連の銀《ぎん》屏《ぺい》と化して、虹汀が彩管に擬《まが》ふかと疑はる。
かくて稍《やゝ》一里を出でし頃ほひ、東天漸《やうや》く紅ならむとする折しもあれ後の方に当って人音夥しく近づき来るものあり。虹汀、何事ぞと振り返るに、その数二三十と思しき捕《とり》吏《て》の面々、手に手に獲《え》物《もの》を携へたる中に、彼の海中に陥りし半面鬼相の雲井喜三郎、如何にしてか蘇《よみがへ》りけむ、白鉢巻、小具足、陣羽織、野《の》袴《ばかま》の扮《いで》装《たち》物々しく、長刀を横たへて目前に追ひ迫り来り、大音揚げて罵《のゝし》るやう、やをれ悪僧其処動くな。此間は汝を大公儀の隠目付と思ひあやまり、一旦の遠慮に惜しき刃を収めしが、その後藩命を蒙《かうむ》りて、あまねく汝の素性行跡を探りしに、画工と佯《いつは》つて城下の地《ちぎ》形《やう》を窺ふのみならず、法体を装ひて諸国を渡り、有《う》徳《とく》の家を騙《たばか》つて金品を掠《かす》め、児女を誘《さら》ひて行方を晦《くら》ます、不敵無頼の白《しれ》徒《もの》なる事、天地に照して明らかなり。汝空を翹《かけ》り土に潜むとも今は遁《のが》るゝに道あるまじ、いでや者輩《ども》、当藩の物を奪ひ去る無法狼藉の坪太はそれよ。女人を誘《かど》拐《はか》す卑怯未練の賊僧はそれよ。容赦なく踏み込んで召捕れやつ、と大喝すれば、声を合せて配下の同心、雪を蹴立てゝ勢《きほ》ひかゝる。一方は峨《が》々《ゞ》たる絶壁半天に懸れり。一面は断崖海に臨みて足もたまらず。背後には繊《か》弱《よわ》き女人と人馬を控へたり。遁れつべうもこそあらじと見えつるが、虹汀少しも騒ぐ気色なく、負ひ奉りし仏像を馬《ま》士《ご》に渡し、網《あ》代《じろ》笠《がさ》の雪を払ひて六美女に持たせつ、手に慣れし竹杖を突き、衣紋を繕ひ数《じゆ》珠《ず》を爪《つま》繰《ぐ》りつゝ、しづしづと引返し進み出でければ、案に違《たが》ひし捕手の面々、気先を呑まれてぞ見えたりける。
その時虹汀、大勢に打ち向ひて慇《いん》懃《ぎん》に一礼を施しつゝ、咳一咳して陳《の》べけるやう、這《こ》は御遠路のところ、まことに御苦労千万也。かゝる不届の狼藉者を、かほどの大勢にて御見送り賜はる、貴藩の御政道の明らかなる事、まことに感服に堪へたりと言ふ可し。さは言へ折角の御芳志ならば、今些《すこ》しばかり彼方《かなた》の筑前領まで御見送り賜はりてむや。さすれば御役目滞り無く相済みて、無《む》益《やく》の殺生も御座なかる可く、御藩の恥辱とも相成るまじ。此儀如何《いかが》や。御返答承り度しと言葉爽《さは》やかに笑《ゑみ》を含めば、一同呆るゝ事稍《やや》久焉《しばし》。忽ちにして雲井喜三郎は満面に朱を注ぎつ。おのれ口の横さまに裂けたる雑言哉《かな》。此間こそ酔《ゑ》ひ痴《し》れて不覚をも取りたれ、今日は吾が刀の錆《さび》までもあるまじ。かゝれや物共、相手は一人ぞ。女のほかは斬り棄つるとも苦しからず。かゝれかゝれと刀《つ》柄《か》をたゝけば、応と意気込む覚えの面々、人甲斐も無き旅僧一人、何程の事やあらむと侮りつゝ、雪影うつらふ氷の刃《やいば》を、抜き連れ抜き連れ競ひかゝる。虹汀さらば詮方なしと、竹の杖を左《ゆん》手《で》に取り、空拳を舞はして真先かけし一人の刃を奪ひ、続いてかゝる白刃を払ひ落し、群がり落つる毬《いが》棒《ぼう》、刺《さす》又《また》を戛《かつ》矢《し》戛矢と斬落して、道幅一杯に立働きつゝ人馬の傍に寄せ付けず、其のほか峯打ち当て身の数々に、或は気絶し又は悶《もん》絶《ぜつ》して、雪中を転び、海中に陥るなど早くも十数人に及びける。
思ひもかけぬ旅僧の手《て》練《なみ》に、さしもの大勢あしらひ兼ね、白み渡って見えたりければ、雲井喜三郎今は得堪へず、小《こ》癪《しやく》なる坊主の腕立て哉、いでや新身の切れ味見せて、逆縁の引導渡し呉れむと陣太刀長やかに抜き放ち、青眼に構へて足法乱さず、切《きつ》尖《さき》するどく詰め寄り来る。虹汀何とか思ひけむ。奪ひ持ちたる刀を投げ棄て、竹杖軽げに右《め》手《て》に取り直し、血に渇したる喜三郎の兇刃に接して一糸一髪を緩めず放たず、冷々水の如く機先を制し去り、切々氷霜の如く機後を圧し来るに、音に聞えし喜三郎の業《わざ》物《もの》も、大《だい》磐《ばん》石《じやく》に挟まれたるが如く、ひたすらに気息を張って暗《あん》唖《あ》切歯するのみ。虹汀之を見て莞《につ》爾《こり》と打ち笑みつ。如何に喜三郎ぬし。早や悟り給ひしか。弥陀の利剣とは此の竹杖の心ぞ。不動の繋《け》縛《ばく》とは此の親切の呼吸ぞや。たとひ百練千練の精妙なりとも、虚実生死の境を出でざる剣は悟道一片の竹杖にも劣る。眼前の不可思議此の如し、疑はしくば其刀を棄て、悪心を翻して仏道に入り、念々に疑はず、刻々に迷はざる闊《くわつ》達《たつ》自在の境界に入り給へ。然らずは一殺多生の理に任せ、御身を斬つて両段となし、唐津藩当面の不祥を除かむ。されば今こそ生死断末魔の境ぞ。地獄天上の分るゝ刹那ぞ。如何に如何にと詰め寄れば、さしもに剛気無敵の喜三郎も、顔色青《あを》褪《ざ》め眼血走り、白汗を流して喘《あへ》ぐばかりなりしが、流石《さすが》に積年の業《ごふ》力《りき》尽きずやありけむ。又は一点の機微に転身をやしたりけむ、忽然衝天の勇を奮ひ起して大刀を上段真向に振り冠り、精鋭一呵、電光の如く斬り込み来るを翻《ひら》りと避けつゝ礑《はた》と打つ。竹杖の冴え過《あや》またず。喜三郎の眉《み》間《けん》に当れば、眼くるめき飛び退き様、横に払ひし虚につけ入りたる虹汀、喜三郎の腰に帯びたる小刀の柄に手をかくるとひとしく、さらば望みに任するぞと、言ひも終らず一間余り走り退くよと見えけるが、再び大刀を振り上げし喜三郎は、そのまま虚空にのけぞりて、仏だふれに仰のきたふれつ。大《おほ》袈《け》裟《さ》がけに斬り放されし右の肩より湧き出づる血に、雪を染めつゝ息絶へける。
此の勢ひに怖れをなしけむ。残りし者は遠く逃れて、逐はむとする者も見えざりければ、虹汀今は心安しと、奪ひし小刀を亡骸に返し、掌《たなごゝろ》を合はせ数珠を揉みつゝ、念仏両三遍唱へけるが、やがて黒衣の雪を打ち払ひて、いざやとばかり仏像を負ひ取り、人心も無き六美女をいたはり慰めつ。笠を傾け、人馬を急がして行く程もなく筑前領に入り、深江といふに一泊し、翌暁まだ熄《や》まぬ雪を履《ふ》んで東する事又五里、此の姪の浜に来りて足をとゞめぬ。
虹汀此の所の形相を見て思ふやう。此地、北に愛《あた》宕《ご》の霊山半空に聳《そび》えつゝ、南方背《せ》振《ぶり》、雷《らい》山《さん》、浮《うき》岳《だけ》の諸名山と雲烟を連ねたり。万《ばん》頃《けい》の豊田、眼路はるかにして児孫万代を養ふに足る可く、室《むろ》見《み》川《がは》の清流、又杯を泛《うか》ぶるに堪へたり。袒《あこめ》浜《はま》、小《を》戸《ど》の旧蹟、芥《け》屋《や》、生《いく》の松原の名勝を按配して、しかも黒田五十五万石の城下に遠からず。正に山海地形の粋を集めたるものと。すなはち従ひ来れる馬《ま》士《ご》を養ひて家人となし、田野を求めて家屋倉廩を建て、故郷京師に音《いん》信《しん》を開きて万代の謀《はかりごと》をなす傍、一地を相して雷山背振の巨木を集め、自ら縄《じよう》墨《ぼく》を司って一宇の大伽藍を建《こん》立《りふ》し、負ひ来りたる弥勒菩薩の座像を本尊として、末代迄《まで》の菩提寺、永世の祈願所たらしめむと欲す。山門高く聳えては真如実相の月を迎へ、殿堂甍《いらか》を連ねては仏土金色の日《じつ》相《さう》観《くわん》を送る。林泉奥深うして水碧《あを》く砂白きほとり、鳥啼き、魚躍って、念仏、念法、念僧するありさま、真《まこと》に末世の奇特、稀《き》代《たい》の浄地とおぼえたり。
かくて
人皇百十一代霊元天皇の延宝五年丁《ひのと》巳《み》霜《しも》月《つき》初旬に及んで其業了るや、京師の本山より貧道を招き開山住持の事を付属せむとす。貧道、寡聞浅学の故を以て固辞再三に及べども不《ゆる》聴《さず》。遂に其の奇特に感じ、荷《か》笈《きふ》下向して住職となり、寺号を青黛山如月寺と名付く。すなはち翌延宝六年戊《つちのえ》午《うま》二月二十一日の吉《きつ》辰《しん》を卜して往生講式七門の説法を講じ、浄土三部経を読《どく》誦《じゆ》して七日に亙る大供養大施餓鬼を執行す。当日虹汀は自ら座に上り、略して上来の因縁を述べて聴衆に懺《ざん》悔《げ》し、二首の和歌を口《くち》吟《ずさ》む。
唱 六つの道今は迷はじ六つの文字
み仏の世にくれ竹の杖 坪 太 郎
和 くれ竹のよゝを重ねてみほとけの
すぐに空しき道に帰らむ 六 美 女
続いて貧道座に上り、委《くは》しく縁起の因果を弁証し、六《りく》道《だう》の流《る》転《てん》、輪廻転生《りんねてんしやう》の理《ことわり》を明らめて、一念弥陀仏、即滅無量罪障の真《しん》諦《たい》を授け、終つて一句の偈《げ》を連らぬ。
一念《ねん》称《しよう》名《みやう》声《のこゑ》
功《く》徳《どく》万《ばん》世《せいに》伝《つたふ》
青《せい》黛《たい》山《さん》寺《じの》鐘《かね》
迎《むかへ》得《えたり》真《しん》如《によの》月《つき》
なほ六美女は当時十八歳なりしが、かねてより六字の名号を紙に写すこと三万葉に及びしを、当来の参集に頒ちしに、三日に足らずして悉《つ》くせりといふ。
かくの如きの物語、六道の巷を裟《しや》婆《ば》にあらはし、業《ごつ》報《ほう》の理《こと》趣《わり》を眼前に転ず。聞く煩《ぼん》悩《なう》即菩提、六《ろく》塵《ぢん》即浄土と、呉家祖先の冥《めい》福《ふく》、末代正 等 正 覚《しやうとうしやうかく》の結《けち》縁《えん》まことに涯《かぎり》あるべからず。呉家の後に生るゝ男女にしてこの鴻《こう》恩《おん》を報ぜむと欲せば、深く此旨を心に収め、法事念仏を怠る事なかれ。事他《た》聞《もん》を許さず、過つて洩るゝ時は、或は他藩の怨《うらみ》を求めむ事を恐る。当寺当時の住職、及、呉家の当主夫妻にのみ止む可し。穴《あな》賢《かしこ》。
延宝七年七月七日
一行しるす
◆第三参考 野見山法倫氏談話
▼聴取日時 前同日午後三時頃
▼聴取場所 如月寺方丈において
▼同席者 野見山法倫氏(同寺の住職にして当時七十七歳。同年八月没)余(W氏)=以上二人=
――その御不審はまことにごもっともでございます。この縁起の本文にも書いてございます通り、今より百余年の昔に、呉家の中興の祖とも申すべき虹汀様が、残らず焼いて灰にして、弥勒の世までもと封じて置かれました絵巻物が、いかようなる仔細で旧《もと》の絵巻物の形に立ち帰って、今の世に現われまして、呉一郎殿のお手に渡って、あられもない御乱心の種と相成りましたか……ということにつきましては、実は、お尋ねがなくとも申し上げてあなた様(W氏)の分別を仰ぎたいと思うておったところでございました。
――元来この縁起の書付と申しますのは、呉家の名跡を嗣がるる御主人夫婦が始めての御墓参の時に人を払って御覧に入れることに相成っております。そのほか呉家の御血統に関係致しましたことは、尋常あり来りのことのほか、一切他人に洩らしませんのが、開山一行上人以《この》来《かた》、当時の住職たるものの本分の秘密と定められておるのでございますが、余儀ないお方のお尋ねでございますし、ことさらには、呉一郎殿が真の狂気か佯《いつわ》りかが相わかりますることが、罪人となられるか、なられぬかの境目と承りますれば、何をお隠し申しましょう……。
――と申しまする仔細はほかでもございません。この寺の御本尊様の御胎内に、灰となって納まっているはずのあの絵巻物が、実は、旧の形のままでおりますことを、ずっと以前から探り出しておった人があったのでございます。のみならず、その絵巻物を御本尊の胎内から取り出して、呉一郎殿の御病気を誘い出す原《も》因《と》を作られたのも、やはり、そのお方に違いないと思われる人物を、私はよう存じているのでございます。それは申すまでもなく私の心当りだけで申上げるのでございますから、どなたでも意外に思召すか存じませんが、ほかならぬ呉一郎殿の実の母御で、先年直方で不思議の横死を遂げられた千世子殿のことでございます……さよう……これはまことにけしからぬお話で、何よりも第一に、そんな恐ろしい申伝えのある品物を、かけ換えのない吾児に渡すような無慈悲な母親が、この世にあろうとは思われぬのでございますが、これには何か深い仔細がありそうに思われますので、いずれに致しましても、これから申述べまするお話をお聴き取り下されますれば、やがて何事もおわかりになるであろうと存じます。
――思いますればもう二た昔……イヤ……もう三十年ほどにもなりましょうか。まことに古いことでございます。もはや御承知か存じませぬが、かの千世子という御婦人は、幼い時から何事によらず怜《り》悧《こう》発明な上に、手先の仕事に冴えたお方で、中にも絵を描くことと、刺《ぬい》繍《とり》をすることが取分けてお上手だったそうで、まだお合《かつ》羽《ぱ》さんに振袖のイタイケ盛りの頃から、この寺の本堂の片隅なぞにタッタ一人でチョコナンと坐って、襖《ふすま》に描いてある四季の花模様や、欄間の天人の彫《ほり》刻《もの》などを写してござる姿を、よく見受けたものでございます。その頃からもうそれはそれは可愛らしい、人形のような眼鼻立ちでございましてナ……。
――ところがやがて十四か十五になられた頃であったかと思います。学校の帰りと見えまして、海《え》老《び》茶《ちや》の袴をはかれた千世子殿が、風呂敷包みを抱えたままこの方丈に入って来られまして、ただ一人で茶を飲んでおりました私に向って……和尚様……あの御本尊のまっ黒い仏様の中には美しい絵巻物が入っておるとのことじゃげなが、ソッと私に見せて下さらぬか……というお話でございます。この絵巻物のことはこの寺の開山当時の大法要以来、この界隈の名高い話と相成っておりまして、この村でも心得ている者がいくらもいるはずでございますから、そんな者からでも聞かれたのでございましょうか……その時に私は笑いまして……それはもうズットの昔に灰にしてしまってある故、今は見せとうても見せられぬ……と申しますと……それでも、たった今、あの仏様を私がゆすぶってみたら腹の中でコトコトと音がした。何かキット入っているに違いない……とお千世殿が言われます。私はビックリ致しまして……そんなことをするものでない。仏罰が当りますぞ……と叱って返しました……が……お千世殿が帰られてからタッタ一人になりますと、さて、何とのう心配になって参りましたので、コッソリと本堂に参りまして、もったいのうはございましたが、御本尊の弥勒様をゆすぶり立てて見ますると、なるほどコトコトと音が致します。ちょうど巻物のような形のものが、内《な》部《か》に納まっているに違いない、と思われる手応えで……。
――私は余りの不思議に胸が轟《とどろ》くほど驚き入りました。御本尊様の胎内は、この縁起の本文に書いてありまする通りに、絵巻物を焼いた灰ばかりと思い入っておりましたので……なれども、その時に私はまた思案を致しまして、これは昔虹汀様が、その絵巻物を焼いたと佯《いつわ》って実は、旧の形のままにして仏像へ納めておかれたものではあるまいか。その周囲《まわり》の詰め物が、年代につれて乾き寛《ゆる》んで、このように音を立てるのではあるまいか。絵の好きな人にありそうなことで、絵巻物を惜しむの余りにそんなことにして、年月を重ねて供養していたならば、しだいしだいに因縁も薄らぎ、祟《たた》りも熄《や》むであろうと思うて、一存で計らわれたことではあるまいか。それならば改めて取り出して焼き棄てるべきものであろうか。どうしたものであろうか……なぞと、さまざまに思わぬではございませんでしたが、それにしても、ちっと腑に落ちかねるところもあるようで、空恐ろしい気持ちも致しましたので、まさかに御本尊の仏体を破って内部を見るような者もあるまいと思い思い、そのままに致しておりました。
――ところがそのうちに、月日の経つのはお早いことで、昨年の秋に相成りますと、ちょうどお彼岸の前の日の夕方のこと、お八代殿と、一郎殿と、オモヨさんの三人が連れ立ってお墓掃除に見えました。その時にお八代さんはただ一人でお霊《たま》屋《や》の掃除をされるついでに、この方丈に立ち寄られて、茶を飲まれましたが、よもやまのお話のついでに……まだちっと早いようじゃけれど、来年の春、一郎が六本松の学校(福岡高等学校)を卒業したならば、すぐに、モヨ子と祝《しゆう》言《げん》をさせようと思うが、どうであろうか……という相談でございました。お八代さんは、いつもこんなことを披露される前には、必ず私に話をされましたので、私は、まことに結構なことと御返事を致したことでございましたが、それから二人で立って本堂の縁側へ出てみますと、かの山門の横の墓所の前に、お掃除を仕舞われた学校服姿の一郎殿と赤い帯を締めたオモヨさんとが、仲よさそうに並んでかがみながら、両手を合わせてござるところが見えました。それを見るとお八代さんは何やら胸が塞《ふさ》がりましたらしく、急いで顔を押えながらお霊屋の方へ行かれましたが、私はあとに残りまして、まことにお似つかわしいお二人の姿を見守りながら、呉様のお家の行く末のことなぞを考えるともなく考えておりますと、そのうちに、ゆくりなくも二た昔以前のお千世殿のお話を思い出しましたので、思わずハッと致したことでございました。……もっともその折に、これは年寄の要らざる気苦労ではないかと考えぬでもございませなんだが、それでも気に懸《かか》っておりましたものと見えて、その夜になりますとどうしても寝つかれなくなったのでございます。
――そこで私はソロソロと起き上りましてナ……窓からさし込む月のあかりと、お燈明の光を便りに、ただ一人で本堂に参りまして、御本尊様を、もったいのうはございましたが、両手をかけて、ゆすぶり動かしてみますと、この前の時にはたしかに聞えておりました物音が、すこしも致しません。……のみならず何とのう中味が空《か》虚《ら》になっているような手応えではございませんか。
――その時にも虫が知らせたとでも申しましょうか、私は何やら空恐ろしい気持ちが致したことでございました。なれども思い切って御本尊様を厨《ず》子《し》の中から抱えおろして、この方丈に持って参りまして、眼鏡をかけてよくよく検《あらた》めて見ますと、一面の塵《ちり》埃《ほこり》でチョットわかり難《にく》うはございますが、お像の首が襟のところで切りはめになっておりまして、力を入れて揺すぶりますと抜けるようになっております。私はその時になるほどと思いました。そうして轟く胸を押し鎮めながら、廊下伝いに土間に持ち出して音を立てぬように塵を払うて参りまして、この電燈《あかり》の下に毛《もう》氈《せん》を敷いて、その切りはめのところから御像の首を抜いて見ますと、ちょうどお経筒の形にくり抜いてあります底の方に、古い唐紙に包んだ灰があるにはありますが、その灰包みのまん中は、チャント巻物の軸の形に凹んでおります。それを見ますと虹汀様は絵巻物を焼いたと言うてはおかれましたが、別に何か深いお考えがあったことでございましょう。真実は、焼かずに旧の形のままにして納めて置かれましたもので、それをまた、誰かが盗んで行ったもの……ということは、もはや疑いもないことと相成りました。ハイ……そのほかには、周囲《まわり》に詰めてありましたらしい古綿のほか、紙屑一つ見当りません……こちらへお出で下さい。御本尊をお眼にかけましょうから。=後段備考参照=
――御覧の通りでございます……これは私の不《ぶ》念《ねん》と申しましょうか、何と申しましょうか……ああ……何か事が起らねばよいがと、胸を痛めましたことは一通りではございませなんだ。しかしまた、一方から考えますと、もしお千世殿が持って行かれたものとすれば、何の必要があってのことであろうか。また、直方であのような最後を遂げられた後、今日までの間、誰が隠し持っていたものであろうか。お千世殿の亡き跡を片付けられたお八代さんが、見付け出しておらるれば一言なりとも私に話されぬはずはないが……なぞと、とつおいつ思案に暮れておりましたところへ、この度のことが起りましたので、もう心も言葉もおよばぬ不思議と申すよりほかに致し方がございません。……承りますればその絵巻物は、一郎殿の御乱心の後、行方が知れませんとのことで、これもまた、不思議の一つでございます。村の者の中には、一郎殿の乱心の前と後とに、絵巻物が蛇のように波を打って虚空を渡るのを見た……なぞと申している者があるそうでございますが、いかがなものでございましょうか。これと申すも私の不念より起りましたことで、亡くなられましたオモヨ殿と、狂気された一郎殿のお痛わしさ。老い先の短い生命《いのち》に代えられるものならばと思うて、涙にかき暮れまするばかり……云々。
◆第四参考 呉八代子の談話概要
▼聴取時刻 前同日午後五時頃
▼聴取場所 同人宅奥座敷において
▼同席者 呉八代子、余(W氏)――以上二人――
――ああ先生……ようお出で下さいました。どのように待っておりましたことか……イエイエ。私の傷はかまいません。生命《いのち》も何も要りません。どうぞどうぞお願いでございますからこの絵巻物を(……と固く秘めたる懐中より取り出して渡しつつ)お寺から盗み出して、あの石切場で待ち伏せして一郎に渡して、この家中の者を取り殺そうとたくらんだ奴を、ゼヒゼヒ探し出して下さいませ。そうしてそやつが見付かりましたならば、タッタ一言でよろしゅうございますから、何の怨みでこのようなムゴイことをしたかと(涕《すすり》泣《なき》)タッタ一言でよろしゅうございますからキットお尋ね下さいませ(涕泣)……一郎が正気でおりますうちにその人間のことを尋ね出し得ませなんだのが残念で残念で……わかったら骨をかみ砕いても飽き足らぬと(涕泣)……イエイエ。直方を引き上げる時には、そんな物はございませなんだ。一郎の身のまわりは、私が残らず調べております。……警察の奴が何がわかりましょう。一郎をあんなひどい眼に会わせたりして……私は尋ねられても返事もしてやりませなんだ。……私はもう諦めました。一郎が正気になろうがなるまいが、娘が生き返ろうがかえるまいが、私の生命がどうなろうが、知りません。ただ妹の千世と、一郎と、娘の讐敵《かたき》は同じ奴……この絵巻物の事《わ》情《け》を知りながら、あの一郎に見せた奴が……(昂《こう》奮《ふん》、錯乱して問答を継続し得ず。爾《やや》後《のち》、約一週間の後に到り、漸次平静に帰すると共に、放神状態になり行く傾向を認められつつあり)
◆備考 (イ) 事件発生当日午前十時半、出入を禁じありたる呉家の土《く》蔵《ら》(三番倉と呼ばれおるものの)内部を検するに、階下の板の間の入口に敷かれたる古新聞の上に、呉一郎の朴《ほう》歯《ば》の下駄の跡と、モヨ子の外出ばきの赤きコルク草履が正しく並びおり、その傍より蝋燭の滴《した》下《たり》起り、急なる階段の上まで点々として連なれり。
階上の状況、及び、被害者の屍体には格闘、抵抗、苦悶等の形跡を認めず。
屍体頸部には絞縛したる褶《しゆう》痕《こん》と鬱《うつ》血《けつ》、その他の索《さつ》溝《こう》相交って纏《てん》繞《じよう》せり、しかれども気管喉《いん》頭《とう》部《ぶ》、及び、頸動脈等も外部より損傷を認むるあたわず。なお脂粉の香《におい》ある新しき西洋手拭《タオル》一本、屍体の前に置かれたる机の下に落在せるが、右は加害者の所持品にして、右兇行に使用したるものと認めらる。
机上中央には鼻紙と覚しく、婦人の体臭ある四ツ折の半紙十数枚を重ねて拡げあり。その向って左端に同家の仏具の一たる真《しん》鍮《ちゆう》の燭台を置き、百匁蝋燭一本を立てて点火したる跡あるが、後日検査の結果、点火後約二時間四十分を経て、消されたるものと推定されたり。
なお、この他に新しき三本の百匁蝋燭がマッチの箱と共に机の下に置きありたるが、以上四本の蝋燭の上部、及び中央部付近に印せられおる多数の指紋は、ことごとく、被害者モヨ子の左右手各指の指紋のみにして、加害者呉一郎のものは一個も存在せず。かつ、マッチの箱よりも被害者の指紋のみが検出されたる事実より見れば、前記四本の蝋燭は、被害者自身が持ち来りたるものにして、手ずからマッチを擦《す》りてその中の一本に点火し、机の左端に置きたること疑う余地なし。(その他八代子の足跡等に関する記述略)
(ロ) 同夜九時、被害者の屍体、九州帝国大学医学部法医学教室に到着、直ちに余(W氏)執刀、舟木医学士立会の下に解剖、同十一時終了の結果、死因は頸部の圧迫、絞《こう》扼《やく》死《し》と判明す。かつ、被害者が何らかの原因にて意識喪失後、絞首したるものと推定さる。なお処女膜には異常を認めず。(その他略)
◆備考 (A) 如月寺の本尊弥勒菩薩の坐像を調査するに、頭大にして身小さく、形相怪異にして、後光もなく偏《へん》袒《たん》もせず。普通の法衣のごとく輪《わ》袈《げ》裟《さ》をかけ、結《けつ》跏《か》趺《ふ》坐《ざ》して弥勒の印を結びたるが、作者の自像かと思わるる節あり。全体の刀法すこぶる簡《かん》逕《けい》、雄《ゆう》渾《こん》にして、鋸《きよ》歯《し》状《じよう》、波状の鑿《さく》痕《こん》到るところに存す。底面中央に、極めて謹厳なる刀法をもって「勝空」の二字を一寸角大に陰刻しあり。
(B) 中央の空虚は縦深一尺、横径三寸三分余の円筒型にして、上部、及び底部に詰めたる綿と、灰の厚さを差引く時は、高さ一尺六分強となり。絵巻物(別参考品)の体積と相違なく適合せり。なお、その蓋に当る首の根の方形部には糊付けの痕《あと》残存せるを見る。
(C) 灰を包みたる唐紙、及び上下左右に詰めたるものと思しき綿を検するに、古色等、記録の時代とやや相当するを認む。灰は検鏡分析の結果、普通の和紙と絹布とを焼きたる形跡を認むるのみ。表装用の金糸、または軸に用いられたるべき木材、その他の痕跡絶無なり。(その他略)
◆備考 (一) 姪の浜入口の国道沿い、海岸側に在る山《やま》裾《すそ》の石切場付近の調査の結果、前日呉一郎が絵巻物を披見しつつ腰かけいたりという石は、切り残されたる粗《あら》石《いし》の陰に位置しおりて、街道を通過する者の注意を惹《ひ》き難き個所に在り。
(二) 石切場内には大小無数の石片石塊と、石《いし》工《く》の作業の跡、及び街道より散入したる藁《わら》、紙、草鞋《わらじ》、蹄《てい》鉄《てつ》片、その他凡百の塵芥類似の物のほか、特に注意すべき遺物を認めず。なお、小雨に洗われたるがためか、呉一郎その他一切の人物の足跡類似のものを認むるあたわず。
(三) 平生、同所にて作業せる石工にして、姪の浜町七五番地ノ一に居住せる脇野軍平は、前々日来、その妻女ミツ、及び、養子格市と共に腹痛下痢を発し、流行病の疑いを受けて交通を遮断されおりしが、日ならずして本服後、二人に問い試みしところを綜合するに、頃《けい》日《じつ》来《らい》、作業中、疑わしき人物の石切場に立ち入り、または付近を徘徊せしようの記憶なし。また同人らの疫病に関しては同所の魚類等は常に新鮮なるをもって、食物中毒等の原因は考慮し得ず。結局病原不明に帰せりと。
―――――――――――
◇ 絵巻物写真版挿入の事
◇ 右絵巻物由来記記入の事
◇ 右第二回の発作全般にわたる、観察研究事項記入の事
*
ハッハッハッハッ……。
……どうです諸君。面喰いましたかね。
これが吾輩の遺言書の中の最重要なる一部分なぞいうことは、もういい加減忘れて読んでいたでしょう。悲劇あり。喜劇あり。チャンバラあり。デカモノあり。これに加うるに有難屋の宣伝もありというあんばいで、ずいぶん共にオカカの感心、オビビのビックリに価する、奇妙きてれつな記録の内容でげしょう。殊にその心理遺伝のあらわれ方の奇抜なことは、真に、お負けなしの古今無類で、現代のいわゆる常識や科学知識のいかなる虎の巻を引っくり返して来てもとうてい歯が立ちそうにない。さすがの名法医学者若林鏡太郎博士も、この事件には少々てこずったと見えて、その調査書類の中に、こんな歎息を洩《もら》している。曰《いわ》く……。
余はこの事件の犯人をあえて仮想の犯人と呼ばんと欲す。何となれば、当該事件の犯人は、現代における一切の学術はもちろん、あらゆる道徳、習慣、義理、人情を超越せる、恐るべき神変不可思議なる性格の所有者と想像する以外に、想像の余地なければなり。すなわち、かくのごとく、僅々二か年の間に、三名の婦人と一人の青年とをあるいは殺し、あるいは発狂せしめて、その一家の血統を再び起《た》つあたわざるまでに破滅せしむるがごとき残虐をあえてせるにもかからず、その残虐の遂行手段は、いずれも偶然の出来事か、もしくは、ある超科学的なる神秘作用を装いて、それ以外の推測を許さず。犯人の存在はもとより、かくのごとき犯行を一貫したる目的の存在さえも疑わしきものあり……云々。
……と……。ところでどうです。前に御覧に入れた記録と、この文句を照し合わせて御覧になった諸君は、もうとっくにお気付きになっているであろう。法医学専門の立場にいる若林君の主張と、精神病学者としての吾輩の、該事件に対する主張の中心は、事件の勃《ぼつ》発《ぱつ》当初からハッキリと正反対になっていて、今日に到るまでも一致せずにいることを……。すなわち若林君はその法医学者特有の眼光に照して、この事件には是非とも別に、隠れたる犯人がいるに相違ない。その犯人がどこからか糸を操って、この事件に関するあらゆる不思議な現象を自由自在に弄《もてあそ》びつつ衆目を晦《くら》ましているに違いない……と初めからきめてかかっているのに対して、吾輩の方はドッコイそうは行かぬ。精神科学の立場から見ると、これはいわゆる「犯人なき犯罪事件」だ。外形内容共に奇抜な精神病の発作のあらわれに過ぎないので、被害者も犯人も共に、ある錯覚の下に同一の人間となって行なった兇行にほかならぬのだ。それでも是非に犯人が必要だと言うのなら、呉一郎にこんな心理を遺伝せしめた先祖を捕えて牢《ろう》屋《や》へブチ込めと主張している。ここにこの事件の中心的興味が繋《つな》がっている訳だが……。
エッ……ナナ何だって……ブルブル……もうこの事件の真犯人がわかったと言うのかね……。
……イヤ……こりゃあドウモ驚いた。いくら名探偵だってそう敏活に頭が働いちゃ困る。第一吾輩と若林が飯の喰い上げになる。
まあまあ急き込まずと待ってくれ給え。たとい諸君の目指す人間が、正真正銘間違いなしのこの事件のまっ黒星で、若林君のいわゆる仮想の怪魔人であるにしても、要するにそれは一つの推測で、確《かつ》乎《こ》たる証跡があるわけではなかろう。また、たとい確乎動かすべからざる証跡があって、犯人は現在どこにおって、どんなことをしているということまで、諸君の方で知ってござるにしても、その犯人を取って押えてタタキ上げて御覧になったあげくに、アッとビックリ二の句が告げない新事実を、事件の裏面に発見されたならば、いかが遊ばすおつもりかね。フフフフフ……。
だから言わないことじゃない。こんな深刻不可思議な事件を、ちょっとした証拠や、概念的な推理で判断するのは絶対危険の大禁物である。すくなくともこの事件が、前記の通りの状態で勃発して後、いかなる径路を履《ふ》んで吾輩の手にズルズルベッタリに辷《すべ》り込んで来たか。それに対して吾輩がいかなる観察を下し、いかなる方法によって研究の歩武を進めて来たか、かつまた、その研究によって摘発されたる第二回の発作の内容の説明が、いかに凄《せい》惨《さん》、痛烈、絢《けん》爛《らん》、奇怪にして、かつ、ノンセンスを極めたものがあるか。しかも、そうした研究の道程が、何故に吾輩の自殺の原因にまで急変し、進展して来たか……というようなことを徹底的に観察した後でなければ、犯人の有無は決定されぬはずだ。「サテはそんなことだったか……ウーン」と眼を眩《まわ》されるはずだ……とまず一本凹《へこ》ましておいて……サテ、この事件に対する吾輩の研究が、その後どんな風に進展して行ったかという実況を、引き続き天然色浮出し映画について「ございます」抜きで説明する段取りとなる。
ところで吾輩みたいな田舎《いなか》活弁の、しかも新米映画説明の口上から「ございます」を抜いてしまったら、何のことはない、素《しろ》人《うと》の書いたシナリオの朗読みたいなものになるだろう。吾輩不幸にしてシナリオだの支那料理だのというものを製造したことがないから様子がよくわからないが、まだ夜が明けるまでにはだいぶ時間が余っているから、今《こん》生《じよう》のふざけついでにそのシナリオなるものを一つやっつけてみよう。但し、ここで改めて断っておくが、こんな風に事件の核心である心理遺伝の内容を一番あとまわしにして、外側の事実から順々に中味へ中味へと支那料理……オット、シナリオにして行くのは筋がチャンポンという洒《しや》落《れ》ではない。この事件に関する吾輩の記録は、ことごとく、事件そのものが、吾輩の眼界に入って来た当時のプロットによって並列されているので、この順序を研究しただけでもこの事件の真相はあらかたわかるという……この点についてははばかりながら、極めて科学的な、絶対にごまかしのない俯仰天地に恥じざる真実の記録と信ずる次第で……ございます……かね……ヤレヤレ。
【字幕】 呉一郎の精神鑑定=大正十五年五月三日午前九時、福岡地方裁判所応接室における。
【映画】 正木博士は羊《よう》羹《かん》色の紋付羽織、セルの単《ひと》衣《え》にセル袴《ばかま》、洗い晒《ざら》しの白《しろ》足《た》袋《び》という村長然たる扮《いで》装《たち》で、入口と正反対の窓に近い椅子の上に、悠《ゆう》然《ぜん》と葉巻を吹かしつつ踏ん反りかえっている。
中央の丸《まる》卓《テー》子《ブル》の上には正木博士所持のものらしい古《ふる》洋《こう》傘《もり》と古山高が投《ほう》り出してある。その傍に、フロック姿の若林博士が突立っていて、厳めしい制服姿の警部と、セルずくめの優《やさ》形《がた》の紳士を、正木博士に紹介している。
「大塚警部……鈴木予審判事……いずれもこの事件に最初から関係しておられる方々で……」
正木博士は立ち上って二人の名刺を受取ると、いかにも気軽そうにペコペコと頭を下げた。
「私が、お召しによって罷《まかり》出《い》でました正木で……あいにく名刺を持ちませんが……」
警部と予審判事は一層威儀を正して礼を返した。
ところへ紺《こん》飛白《がすり》の袷《あわせ》一枚を素肌に纏《まと》うた呉一郎が、二人の廷丁に腰《こし》縄《なわ》を引かれて入って来ると、三人の紳士は左右に道を開いて正木博士に侍立した形になった。
呉一郎はその前に立ち止まったまま、黒澄んだ憂《ゆう》鬱《うつ》な眼付きで室の中をマジリマジリと見まわした。その白い腕や首の周囲《まわり》には大暴れに暴れながら無理に取押えられた時の擦《す》り傷や痣《あざ》が幾個《いくつ》となく残っていて、世にも稀な端麗な姿を一際異様に引っ立てているかのように見える。その背後《うしろ》から二人の廷丁が揃《そろ》って挙手の礼をした。
正木博士は目礼を返しつつ、葉巻の煙を長々と吹かし終ると、手錠のかかった呉一郎の両手を無雑作に取って引き寄せながら、顔と顔を一尺ぐらいに近寄せて瞳《ひとみ》と瞳とをピッタリと合わせた。その瞳の底を覗《のぞ》き込みつつ何事かを暗示するかのように……または呉一郎の眼の光を、自分の眼の光で押し返して、その瞳《どう》孔《こう》の底に押し込むかのように……。こうして二人は眼と眼を合わせたまましばらくの間動かなかった。
そのうち正木博士の表情が、どことなく緊張して来た。……立ち会っている紳士たちの表情も、それにつれて緊張して来た。
しかしその中で若林博士だけは眉一つ動かさずに、青白い瞳を冷やかに伏せて、正木博士の横顔を凝視していた。正木博士の表情の中から、人知れず何ものかを探し求めるかのように……。
けれども呉一郎は平気であった。正気を失った人間特有の澄み切った眼付きで、何の苦労もなげに正木博士の顔から視線を外《そ》らすと、すぐ横に突立っている若林博士の長大なフロック姿を下から上の方へソロソロと見上げて行った。
正木博士の表情が、みるみる柔らいで行った。呉一郎の横《よこ》頬《ほお》を見ながらニッコリとして、消えかかった葉巻を吸立てつつ、気軽い調子で口を開いた。
「そのオジサンを知っているかね、君は……」
呉一郎は、若林博士の蒼《あお》い、長い顔を見上げたまま、こころもちうなずいた。夢を見るような眼つきになりつつ……。それを見ると正木博士の微笑が一層深くなった。その時に呉一郎の唇《くちびる》がムズムズと動いた。
「……知っています。僕のお父さんです」
……と……。けれどもこの言葉が終るか終らぬかに変った若林博士の表情の物《もの》凄《すご》さ……たださえ青い顔が見る間に血の気を喪《うしな》って白《はく》堊《あ》のように光を失った額のまん中に青筋が二本モリモリとはい出した。憤《ふん》怒《ぬ》とも驚《きよう》愕《がく》とも形容のできない形相になったと思うと、ヒクヒクと顳《こめ》〓《かみ》を震わしつつ正木博士を振り返った。今にもかみ付きそうな凄《すさ》まじい眼色をして……。
しかし正木博士はそんなことには気がつかぬように、四方《あたり》かまわぬ大声をあげて笑い出した。
「ハッハッハッハツ。お父さんはよかったね。……それじゃこのオジサンは誰だか知っているかね」
と言い言い自分の鼻を指した。
呉一郎はそのまま、やはりマジマジとした眼付きで正木博士の顔を見ていたが、間もなく唇をムズムズと動かした。
「……お父さん……です……」
「アッハッハッハッハッハッハッハッ」
と正木博士は一層愉快そうに……しまいには呉一郎の手を離してトテモたまらなそうに笑いこけた。
「アーッハッハッハッハッ。どうも驚いたな。それじゃ君のお父さんは二人いる訳だね」
呉一郎は考えるともなく躊《ちゆう》躇《ちよ》したが、間もなく黙ってうなずいた。正木博士はいよいよ腹を抱えた。
「ワッハッハッハッ。トテもすてきだ。珍無類だ。……それじゃ君はその二人のお父さんの名前を記《お》憶《ぼ》えているかね」
正木博士が冗談半分みたようにこう言い出すと、今まで煙に巻かれて面喰い気味の一座の人々の顔が一時にサッと緊張味を示した。
しかし、呉一郎はこう尋ねられるとフッと暗い顔になった。静かに眼を外《そ》らして、窓の外一パイに輝いている五《さ》月《つき》晴れの空を飽かず飽かず眺めているようであったが、やがて何事かを思い出したらしく、その大きな眼に涙を一パイに浮き出させた。その様子を見ていた正木博士はまたも呉一郎の手を執りながら、葉巻の煙を一服ユッタリと吐き出した。
「イヤ。もういいもういい。無理に君のお父さんの名前を思い出さなくともいいよ。どちらを先に思い出しても、エライ不公平なことになるわけだからね。ハハハハハハ」
今まで異様な緊張味に囚《とら》われていた人々が一時に笑い出した。やっとのことで、もとの表情を回復していた若林博士も、変に泣きそうな、剛《こわ》ばった笑い方をした。
その笑い顔の一つ一つを、いかにも注意深い眼付きで見まわしていた呉一郎は、やがて何やら失望したように、溜め息をしたまま伏し目になると、涙をハラハラと落した。その涙の珠《たま》は、手《て》錠《じよう》の上から、汚れた床の上に落ち散って行った。
その手を取ったまま正木博士は、無雑作に人々の顔を見まわした。
「とにかくこの患者は私がお預りしたいと思いますがいかがでしょうか。この患者の頭の中には、事件の真相に関する何らかの記憶がキット残っていると思います。ただ今御聞きの通り、誰の顔でも父の顔に見えるということは、あるいはこの事件の裏面の真相を暗示している、ある重要な心理のあらわれかも知れませんからね……できれば私の力で、この少年の頭を回復させて、事件の真相に関する記憶を取り出してみたいと思うのですが、いかがでしょうか……」
【字幕】 解放治療場に呉一郎が現われた最初の日(大正十五年七月七日撮影)
【映画】 解放治療場のまん中に立った五、六本の桐《きり》の木のまっ青な葉が、真夏の光にヒラヒラと輝いている。
その東側の入口から八名の狂人が行列を立てて順々に入って来る。中には不思議そうに、そこいらを見まわしている者もあるが、やがてめいめいにとりどり様々の狂態を始める。
その一番最後に呉一郎が入って来る。
いかにも憂鬱な淋しい顔で、しばらくの間呆《ぼう》然《ぜん》と、四方の煉《れん》瓦《が》塀《べい》や足元の砂を見まわしていたが、そのうちにフト自分の足の下の砂の中から何やら発見したらしく、急に眼をキラキラと光らして拾い上げると、両手の間に挟んでクルクルと揉んでから、眩しい太陽に透かしてみた。
それは青い、美しいラムネの玉であった。
呉一郎は真《ま》正《と》面《も》に太陽に向けた顔をニッコリとさせながら、その玉を黒い兵《へ》児《こ》帯《おび》の中にクルクルと巻き込んだが、大急ぎで裾《すそ》をからげて前に屈みながら、両手でザクザクと焼けた砂を掘り返し始めた。
最前から入口のところに突立って、その様子を見ていた正木博士は、小使に命じて鍬《くわ》一梃持って来さして呉一郎に与えた。
呉一郎はさも嬉しそうにお辞儀しいしい鍬を受け取って、前よりも数倍の熱心さでギラギラ光る砂を掘り返し始めた。それにつれて濡《ぬ》れた砂が日光に曝《さら》されると片端から白く乾いて行った。
その態度を熱心に見守っていた正木博士は、やがてニヤリと笑ってうなずきつつ、サッサと入口の方へ立ち去った。
【字幕】 それから約二か月後の解放治療場における呉一郎(同年九月十日撮影)
【映画】 解放治療場中央の桐の葉にチョイチョイ枯れたところが見える。その周囲の場内の平地のところどころにまっ黒く、墓穴のように砂を掘り返したところが、重なり合って散在している。
その穴と穴の間の砂の平地の一角に突立った呉一郎は、鍬を杖にしつつ腰を伸ばして、苦しそうにホッと一息した。その顔はまっ黒く秋日に焦《や》けている上に、連日の労働に疲れ切っているらしく、見違えるほどやつれてしまって、眼ばかりギョロギョロと光っている。流るる汗は止め度もなく、喘《あえ》ぐ呼吸は火《か》焔《えん》のよう……殊に、その手に杖ついている鍬の刃先が、この数十日の砂掘り作業のいかに熱狂的に猛烈であったかを物語るべく、波形に薄く磨《す》り減って、銀のようにギラギラと輝いている物凄さ……生きながらの焦熱地獄に堕《お》ちた亡者の姿とは、このことであろう。
その呉一郎はやがてまた、何者かに追いかけられるように、まっ黒な腕で鍬を取り直した。新しい石英質の砂の平地にザックとばかり打ち込んで別の穴を掘り始めたが、そのうちに大きな魚の脊《せき》椎《つい》骨《こつ》を一《ひと》個《つ》掘り出すと、また急に元気付いて、前に倍した勢いで鍬を揮《ふる》い続けるのであった。
舞踏狂の女学生が、呉一郎の背後にある大きな穴の一つに落ち込んで、両足を空中に振りまわしながら悲鳴をあげた。ほかの患者たちが手を拍《う》って喝《かつ》采《さい》した。
しかし呉一郎は、ふり向きもせずに、なおも一心不乱に掘って掘って掘り続けて行くと、やがて今度は何か眼に見えぬものを掘り出したらしく、両手の指でしきりに捻《ひ》ねくっていたが、すぐに鍬を取り直して、眼を火のように光らし、白い歯を砕けるほどかみ締めつつ、死に物狂いの体で足の下を掘り返しはじめた。
そのうしろから正木博士が悠々と入って来た。鼻眼鏡をキラキラと光らせつつ、しばらく呉一郎の作業振りを見守っていた。がやがて傍近く歩み寄って来て、鍬を振り上げた右の肩をポンとたたいた。
呉一郎は驚いて鍬を下し、呆然となって正木博士を振り返りつつ、流るる汗を拭い上げた。
その隙《すき》を見た正木博士は、眼にも止らぬ早さで、片手を呉一郎の懐に突込んで、汚いハンカチで包んだ丸いものと最前掘り出した魚の脊椎骨をつかみ出すと、素早く背後《うしろ》に隠してしまった。しかし呉一郎はチットモ気付かぬらしく、なおも流るる汗を拭い上げ拭い上げして眼をしばたたきつつ、穴の中から見上げた。その顔を穴のふちから見下して正木博士はニッコリした。
「今掘り出したのは何だね」
呉一郎は気まり悪気に顔を赤くしつつ、左手の食指を博士の鼻の先に突き出して見せた。博士が鼻眼鏡を近づけてみると、その指の頭には、女の髪の毛が一本グルグルと巻きつけてあった。
正木博士は、それが何を意味するかを知っているらしく、真《ま》面《じ》目《め》な顔でうなずいたが、今度はうしろ手に隠していた汚れたハンカチの包みを解いて、中味を左の掌に取ると、呉一郎の鼻の先に突き出した。その掌の中には、二か月前にこの解放治療場に入るとすぐに拾ったラムネの玉ときょう掘り出した魚の骨とのほかに、赤いゴム櫛《ぐし》の破片と、小指ほどのガラス管の折れたのが光っていた。
「これは、お前が土の中から掘り出したのだろう」
呉一郎はあえぎあえぎうなずいた。博士の顔と四ツの品物とを見比べつつ……。
「ウム……ところでこれは何だね。何の役に立つのかね、これは……」
「それは青《せい》琅《ろう》〓《かん》の玉と、水晶の管と、人間の骨と、珊《さん》瑚《ご》の櫛です」
呉一郎は別段考えるでもなく、無造作にそう答えると間もなく、博士の手から四個のガラクタとハンカチを受け取って、石のように固く結び固めると、いかにも大《だい》切《じ》そうに懐《ふと》中《ころ》の奥深く押し込んだ。
「フーム。……ではお前は何のためにそんなに一所懸命になって、土を掘り返しているのだね」
呉一郎はまたも土に打ち込みかけた鍬を左手に杖ついて、右手で足の下を指した。
「ここいらに女の屍体が埋まっているのです」
「ウーム。ナルホド。ウーム」
と正木博士は唸《うな》った。そのまま鼻眼鏡ごしに呉一郎の両眼を穴のあくほど深く覗《のぞ》き込みつつ、厳格なハッキリした言葉つきで、一句一句、相手の耳に押し込むように問うた。
「……フーム……ナルホド……。しかし……その女の屍《し》骸《がい》が、土の下に埋められたのは……イッタイいつのことだね……」
呉一郎は両手に鍬を支えたまま、ビックリしたように博士の顔を見上げた。その頬の赤い色がスーと消え失せて、唇をムズムズと動かした。
「……イツ……イツ……イツ……いつのこと……」
とおびえたような口調で繰り返し始めた。そうしてややしばらくの間、茫《ぼう》然《ぜん》として、そこいらを見まわしていたが、やがて何とも言えない淋し気な、途方に暮れた表情にかわった。……パタリと鍬を取り落して、力なく眼を伏せると、ガックリとうなだれて穴をはい上りながら、ソロソロと入口の方へ歩み去った。
そのあとを見送った正木博士は、腕を組んで会心の笑《えみ》を洩らした。
「果せるかなだ。心理遺伝が寸分の狂いもなく現われて来るわい。……しかし、もう一辛抱しなくちゃなるまい。これからが本当の見物だからな……」
【字幕】 再び同年十月十九日(前の場面から約一か月後)の解放治療場内の光景。
【映画】 一番最初に映写した通りの、平らな砂地になった場内の煉瓦塀の前に、畠を打っている老人の鉢巻儀作があらわれる。但し、儀作は、最初の場面に現われた時よりも一《ひと》畝《うね》ほど余計に畠を作っているが、傍にいる瘠せた少女も、その半分のところまで、枯れ枝や瓦の破片《かけら》を植えつけている。
その前に突立っている呉一郎も、最初の場面の通りに微笑を含んで、両手をうしろに廻したまま、老人の打ち振る鍬の上げ下しを一心に見守っているが、僅か一か月ほど経過した間にスッカリ色が白くなって、肉が丸々とついているのは、その間じゅう穴掘りの労働を中止して、自分の室……第七号室に閉じ籠《こも》っていたからであろう。
その背後《うしろ》から正木博士がニコニコしながら近付いて来て、やおら肩の上に手を置くと、呉一郎はハッとしたように振り返った。
「……どうだい……久し振りに出て来たじゃないか。スッカリ色が白くなって……おまけに肥って」
「……ハイ……」
と呉一郎も相変らずニコニコしながら、またも鍬の上り下りを見守り始める。
「何をしているんだね。ここで……」
と正木博士はその顔を覗き込むようにして尋ねた。……と、呉一郎は鍬に眼を注いだまま静かに答えた。
「……あの人の畠打ちを見ているのです」
「フーム。だいぶ意識がハッキリして来たな」
と正木博士は独《ひとり》言《ごと》のように言いつつ、その横顔を見上げ見下していたが、やがて心持ち語勢を強めて言った。
「……そうじゃあるまい。あの鍬が借りたいのだろう」
この言葉が終らぬうちに一郎の頬がサッと白くなった。眼を丸くして正木博士の顔を見たが、間もなくまた、鍬の方を振り返りつつ独言のようにつぶやいた。
「……そうです……あれは僕の鍬なのです」
「ウン。それはわかっているよ」
と正木博士はうなずいて見せた。
「……あの鍬は君のものなんだ。しかしせっかくああやって熱心に稼《かせ》いでいるんだから、もうすこし待っていてくれないか。そのうちに十二時のドンが鳴れば、あの爺さんはキットあの鍬を放り出して、飯を喰いに行くにきまっているんだから……そうして午後はもう日が暮れるまでけっして出て来ないのだから」
「キットですか」
こう言って正木博士をふり返った呉一郎の眼は何となく不安そうに光った。正木博士は安心せよという風に深くうなずいて見せた。
「キットだよ。……そのうちに今一梃、新しいのを買ってやるよ」
呉一郎は、それでも何かしら不安そうに鍬の上げ下げを凝視していたが、間もなく独言のように口ごもりつつつぶやいた。
「僕は今欲しいんです……」
「フーム。なぜだね……それは……」
しかし呉一郎は答えなかった。ピッタリと口を閉じて、またも、鍬の上下を見守り始めた。
正木博士はその横顔を、緊張した表情でジット睨《にら》みつけた。その表情の中から、何かを探り出そうと思っているらしい。
大きな鳶《とび》の影が、二人の前の砂地をスーッと、辷《すべ》って行く。
―――――――――――
エート……ここまで御覧に入れましたところによって、呉一郎の心理遺伝のソモソモが青琅〓《かん》の玉、水晶の管、珊瑚の櫛なぞいうものを身に着ける、古代の高貴な婦人と関係があるらしいことと、その婦人をモデルと致しましたある絵巻物を完成さすべく、呉一郎がかように熱心に、女の死骸を求めているらしいことが、やっと判明して来たようであります。
しかしその死骸が土中に埋められたのはいつかという正木博士の質問に対して呉一郎が茫然、答うるところを知らず、そのまま自分の室に帰って考え込んでしまったのはなぜか……。
それがまた、一か月のきょう……大正十五年の十月十九日に到って、フラリとこの解放治療場に出て参りまして、老人の鍬が空くのを一心に待ち構えているのはなぜか……。
……こう言う間にもこの狂人解放治療場の危機は、現在いかなるところから、いかにして迫りつつあるのか……。
この疑問を明らかにし得るものは、ただ今のところ、この事件を調査した若林博士と、その相談相手となっている私だけ、……否、スクリーンの中の正木博士……ではない……イヤそうでもない……エエめんどうくさい、吾輩にしちまえ……ついでに活動写真も止めちまえ。もう一つついでに九大精神病科の教授室の深夜に、たった一人でこの遺言書を書いている、正木キチガイ博士に帰っちまえだ。
少々ヨタが強過ぎるかも知れないが、どうせ死ぬ前の暇潰しに書く遺言書だ。ウイスキーがいくら利いたってかまうこたあない。あとは野となれ山となれだ……ここいらでまた、一服さしてもらうかね。
……ああ愉快だ。こうやって自殺の前夜に、宇宙万有をオヒァラかした気持ちで遺言書を書いて行く。書きくたびれるとスリッパのまま、廻転椅子の上に坐り込んで、膝を抱えながらプカリプカリと、ウルトラマリンやガムボージ色の煙を吐き出す。……そうするとその煙が、朝雲、夕雲の棚《たな》引《び》くように、ユラリユラリと高く高く天井を眼がけて渦巻き昇って、やがて一定の高さまで来ると、水面に浮く油のようにユルリユルリと散り拡がって、霊あるもののごとく結ばれつ解けつ、悲しそうに、または嬉しそうに、とりどりさまざまの非幾何学的な曲線を描きあらわしつつ薄れ薄れて消えて行く。それを大きな廻転椅子の中からボンヤリと見上げている、小さな骸《がい》骨《こつ》みたような吾輩の姿は、さながらアラビアンナイトに出て来る魔法使いをそのままだろう…………ああ眠い。ウイスキーが利いたそうな。ムニャムニャムニャ……窓の外は星だらけだ。……エート……何だったけな……ウンウン。星一つか……「星一つ、見付けて博士世を終り」か……ハハン……あまり有り難くないナ……ムニャムニャムニャ…………ムニャムニャムニャムニャムニャ……………………ムニャムニャムニャ…………………………………………。
*
「どうだ……読んでしまったか」
という声が、不意に私の耳元で起った……と思ううちに室の中を……アーン……と反響して消え失せた。
その瞬間に私は、若林博士の声かと思ったが、すぐにまるで違った口調で、快活な、若々しい余韻を持っていることに気が付いたので、ビックリして背後《うしろ》を振り向いた。けれども室の中は隅々までガランとして、鼠一匹見えなかった。
……不思議だ……。
明るい秋の朝の光線が、三方の窓から洪水のように流れ込んで、数行に並んだ標本棚のガラスや、塗料のニスや、リノリウムの床に眩しく反射しつつ静まり返っている。
……チチチチチチチ……クリクリクリクリクリクリ……チチ……
という小鳥の群が、松の間を渡る声が聞えるばかり……。
……おかしいな……と思って、読んでしまった遺言書をパタリと伏せながら、自分の眼の前を見るともなしに見ると……ギョッとして立ち上りそうになった。
私のツイ鼻の先に奇妙な人間がいる……最前から、若林博士が腰かけているものとばかり思い込んでいた、大《だい》卓《テー》子《ブル》の向うの肘《ひじ》掛《かけ》廻転椅子の上に、若林博士の姿は影も形もなく消え失せてしまって、その代りに、白い診察服を着た、小さな骸骨じみた男が、私と向い合いになって、チョコナンと坐っている。
それは頭をクルクル坊主に刈った……眉毛をツルツルに剃《そ》り落した……全体に赤黒く日に焦けた五十恰《かつ》好《こう》の紳士であるが、本当はモット若いようにも思える……高い鼻の上に大きな縁なしの鼻眼鏡をかけて……大きなへの字型の唇に、火を点《つ》けたばかりの葉巻をギュッとくわえ込んで、両腕を高々と胸の上に組んで反りかえっている……骸骨ソックリの小男……それが私と視線を合わせると、悠々と葉巻を右《め》手《て》に取りながら、まっ白な歯を一パイに剥《む》き出してクワッと笑った。
私は飛び上った。
「ワッ……正木先生……」
「アハハハハハ……驚いたか……ハハハハハハハ。イヤ豪《えら》い豪い。吾輩の名前をチャンと記憶していたのは豪い。おまけに幽霊と間違えて逃げ出さないところはイヨイヨ感心だ。ハッハッハッハッハッ。アッハッハッハッ」
私はその笑い声の反響に取り巻かれているうちに、全身がおのずと痺《しび》れて行くように感じた。右手につかんでいた正木博士の遺言書をパタリと大卓子の上に取り落した……と同時に、それを書いた正木博士の出現によって、今朝からの出来事の一切合財がキレイに否定されてしまったような気がして、急に全身の力が抜けて来て、またも、元の廻転椅子の中へ、ドタンと尻餠を突いてしまった。幾度もいくども唾《つ》液《ば》を呑みながら……。
そうした私の態度を見ると、正木博士はいよいよ愉快そうに、椅子の上に反りかえって哄笑した。
「アッハッハッハッハッ。ヒドクびっくりしているじゃないか。アハハハハハ。何もそう魂《たま》消《げ》ることはないんだよ。君は今、とんでもない錯覚に陥っているんだよ」
「……とんでもない……錯覚……」
「……まだわからないかね。フフフフフ。それじゃ考えて見たまえ。君は先ほど……八時前だったと思うが……若林に連れられてこの室に来てから色んな話を聞かされたろう。吾輩が死んでから一か月目だとか何とか……ウンウン……あのカレンダーの日付けがドウとかコウとか……ハハハハハ驚いたか、何でも知っているんだからな……吾輩は……。それから君がその『キチガイ地獄の祭文』だの『胎児の夢』だの、新聞記事だの、遺言書だのを読まされているうちに、吾輩はもうとっくの昔の一か月前に死んでいるものと、本当に思い込んでしまったろう。……そうだろう」
「…………」
「アハハハハハ。ところがソイツはせっかくだが若林のヨタなんだ。君は若林のペテンにマンマと首尾よく引っかかってしまっているんだ。その証拠に見たまえ。その遺言書の一番おしまいのところを見ればわかる。ちょうどそこのところが開いているだろう。……どうだい……昨夜から吾輩が夜通しがかりで書いていた証拠に、まだ青々としたインキの匂《にお》いがしているだろう。ハハハハハ。どんなもんだい。遺言書というものは、是非とも本人が死んだ後から現われて来なければならぬものと、きまってやしないぜ。吾輩がまだ生きていたって、何も不思議はなかろうじゃないか。アッハッハッハッハッ」
「…………」
私は開いた口が閉《ふさ》がらなかった。正木、若林の両博士が、何のためにコンナ奇妙なイタズラをするのかと思い迷った。悪《いた》戯《ずら》にしても余りに奇妙な、不合理なことばかり……一体今朝から見た色んな出来事や、さまざまの書類の内容は、みんな真剣な事実なのかしらん。それとも二人の博士が馴れ合いで、私を戯弄《からか》うために仕組んだ、芝居に過ぎないのじゃないかしらん……と……そんな風に考えまわして来るうちに、今の今まで私の頭の中に一パイになっていた感激や、驚きや、好奇心なぞの山積が、同時にユラユラグラグラと崩れ始めて、自分の身体と一緒にスウーとどこかへ消え失せて行くように感じたのであった。
それをジッと踏みこたえて、大卓子の端に両手をシッカリと突いた私は、鼻の先にニヤニヤしている正木博士の顔を、夢のようにボンヤリと眺めていた。
「ウッフッフッフッフッ」
と正木博士はふきだした。その拍子にのみ込みかけていた葉巻の煙に咽《む》せて、苦しさとおかしさをゴッチャにした表情をしながら、慌てて鼻眼鏡を押えつけた。
「アッハッハッハッハッ……ゴホンゴホン……妙な顔をしているじゃないか……ウフフフフフフ。是非とも吾輩が死んでいないと具合がわるいと……ゲッヘンゲッヘン……言うのかね。ゲヘゲヘ。弱ったなドウモ……こうなんだよ。いいかい。君は今朝早く……多分午前一時頃だったと思うが、あの七号室のまん中に大の字形《なり》に寝ていた。そうして眼を醒《さ》ますと、イキナリ自分の名前を忘れているのに驚いて、タッタ一人で騒ぎ廻ったろう」
「……エッ……どうしてそれを御存じ……」
「御存じにも何も大きな声を出して怒鳴り散らしたじゃないか。他の奴はみんな寝ていたが、この室でこの遺言書を書いていた吾輩が聞きつけて行ってみると、君はあの七号室で、一所懸命に自分の名前を探しまわっている様子だ。……さてはヤット今までの夢遊状態から醒めかけているんだナ……と思って、なおも大急ぎで遺言書を書き上げるべく、二階へ引っ返して来た訳だが、そのうちに夜が明けてから、やっと居睡りから眼を醒ました吾輩が、少々気抜けの体でボンヤリしていると、間もなく若林が例の新式サイレンの自動車で馳けつけて来る様子だ。……こいつは面黒い。君が夢中遊行の状態から醒めかけていることを、早くも誰かが発見して若林に報告したと見える。ナカナカ機敏なものだが、さて馳けつけて来てドウするつもりか……となおも物陰から様子を見ていると、若林は君を散髪さして湯に入れて、堂々たる大学生の姿に仕立ててから、君の室と隣り合わせの六号室に入院している一人の美少女に引き会わせたろう。……しかも、それは君の許《いい》嫁《なずけ》だというのでスッカリ君を面喰らわせたろう」
「エッ……それじゃあの娘は、やっぱり精神病患者……」
「そうさ。しかも学界の珍とするに足る精神異常さ。大事の大事の結婚式の前の晩にカンジンカナメの花婿さんから、思いもかけぬ『変態性欲の心理遺伝』なぞいう途方トテツもない夢遊発作を見せられたために、吾知らずその夢遊発作の暗示作用に引っかけられて、その花婿さんと同じ系統の心理遺伝の発作を起して、とりあえず仮死の状態に陥ってしまった。ところが、若林の怪手腕によって、そこから息を吹き返して来ると、今度は千年も前に死んだ玄宗皇帝や楊貴妃を慕ったり、いもしない姉さんにすまないと言い出したり、または赤ん坊を抱く真似をして、お前は日本人になるんだよと言ったりしていた……もっとも今では、よほど正気付いてはいるがね……」
「……ソ……それじゃ……ア……あの娘の……名前は……何というので……」
「ナニ。名前……聞かなくたってわかっているだろう。音に聞えた姪の浜小町さ……呉モヨ子さ……」
「……エッ……ソ……それじゃ……僕は呉一郎……」
私がこう言いかけた時、正木博士はその大きなへの字口をピッタリとつぐんだ。葉巻の煙に顔をしかめたまま、黒い瞳の焦点をピッタリと私の顔に静止さした。
私は全身の血が見る見る心臓へ集中して、消え込んで行くように感じた。額から生汗がポタポタと滴り落ちて、唇がわなわなとふるえ出して、またもフラフラとなりかけたように思った。大卓子に両手を支えて立っている自分の身体が空気と一緒に散り薄れて、あとにはただ眼の球だけが消え残ってシッカリと正木博士を凝視しているような……そんな気持ちの中に私の魂は、無限の時間と空間の中を、死ぬほどの高速度で馳けめぐっていた……呉一郎としての自分の過去を、もしや思い出しはしまいかと恐れ戦《おのの》きつつ……自分の肺臓と心臓が、どこかわからぬ遠いところから、大浪を打たせて責めかかって来る音に耳を澄ましつつ……ワナワナブルブルと戦きふるえていた。
けれども……その心臓と肺臓がイクラ騒ぎ立てて、喘ぎまわっても、私の魂はどうしても、呉一郎としての過去の思い出を喚び起し得なかった。そのあいだに何遍頭の中で繰り返したか知れない「呉一郎」という名前に対して、「これが自分の名前だ」というような懐かし味や親しみが微《み》塵《じん》ほども感ぜられなかった。私の過去の記憶はイクラ考え直しても、今朝暗いうちに聞いた「ブーン」という音のところまで溯《さかのぼ》って来ると、ソレッキリ行き詰まりになってしまうのであった。……私は他人が何と思おうとも……どんな証拠を見せつけられようとも、自分自身を呉一郎と認めることができないのであった。
……私はホーッと深いため息を一つした。それと一緒に全身の意識がしだいしだいに私のまわりに立ち帰って来た。心臓と肺臓の波動が静まり始めた。やがてドタリと椅子の上に腰をかけるトタンに、両方の腋《わき》の下からタラタラと冷汗が滴った。
すると、それと同時に私の鼻の先で、澄まし返った顔をしていた正木博士はプーッと一服、紫の煙を吹き出した。
「どうだい。自分の過去を思い出したかい」
私は無言のまま頭を左右に振った。そうしてポケットから新しいハンカチを引き出して顔の汗を拭いているうちに、よほど気が落ち着いて来たように思った。……しかし、それにしても訳のわからないことがあんまり多過ぎるようで、身動きするのさえ恐ろしくなりつつ、椅子の中へヒッソリとうずくまった。……と……間もなく正木博士が大きな咳《せき》払《ばら》いを一つしたので私はまたビックリして飛び上りそうになった。
「……エヘン……思い出さなければモウ一度言って聞かせるが、いいかい……気を落ち着けてよく聞きたまえよ。君は現在、一つのトリックに引っかけられているのだよ。つまり……吾輩の同輩若林鏡太郎博士は、君自身を呉一郎と認めさせて、十分に間違いのないことを確信させた上で、吾輩に面会させようとしているのだ。そうして吾輩をこの世に二人といない、極悪無道の人非人として君に指摘させようとしているのだよ」
「エッ。あなたを……」
「ウン。まあ聞け。君がよく気を落ちつけて、今朝から起った出来事を今一度ハッキリと頭の中で考え合わせて来さえすれば、万事が何の苦もなく解決するのだ。……いいかい」
正木博士は改めて真面目に帰ったように、落ち着いた調子で咳一咳した。椅子の上に反り返って濃い煙をあとからあとから吹き上げると、悠然として大暖炉の横にかかったカレンダーを振り返った。
「いいかい。改めて言っておくが、今日は大正十五年の十月二十日だよ。いいかい。もう一度、繰り返して言っておく。きょうは大正十五年の十月二十日……この遺言書に書いてある通り、呉一郎が一か月振りでこの解放治療場にヒョックリと出て来て、鉢巻儀作爺の畠打ちを見物していた、十月十九日のその翌日なんだよ。……その証拠にあのカレンダーを見たまえ。……OCTOBER……19……すなわち昨日の日付になっている。これは吾輩が昨日からあまり忙しかったので、あの一枚を破るのを忘れていたからで、同時に吾輩が昨日から徹夜してここにいたことを証明しているのだ。……いいかい。わかったね。……それから、ついでに吾輩の頭の上の電気時計を見たまえ。今は十時十三分だろう。ウン。吾輩のとピッタリ合っている。つまり吾輩が今朝になって、その遺言書を書きさしたまま、居睡りを始めてから、まだ五時間しか経過していない理屈になるんだ。……こうした事実と、その遺言書のおしまいのところのインキがまだ青々としている事実とを綜合したら、吾輩がこうしてケロリとしていたって別に不思議がることはなかろうじゃないか。いいかい、……この点をまずシッカリ頭に入れとかないと、あとでまた大変な錯覚に陥るかも知れないおそれがあるんだよ」
「……しかし……若林先生が先刻《さつき》……」
「いけない……」
と一際大きな声で言ううちに、正木博士の右手の拳骨が高く揚がると、私の頭の中の迷いを一気にたたき除けるように空間を躍った。……活溌な……万事を打ち消すような元気を横《おう》溢《いつ》さして……。
「いけない。吾輩の言うことを信じ給え。若林の言うことを本当にしてはいけない。若林はサッキからこの一点でタッタ一つの大失敗を演じているんだ。きゃつは先刻《さつき》、この室に入ると間もなく、吾輩がこの大暖炉の中で焼き棄てた著述の原稿の、焦げ臭いにおいを嗅ぎ付けたに違いないのだ。それからこの遺言書をこの卓《テー》子《ブル》の上で見つけるとすぐに一つのトリックを思いついて、その通りに君へ説明をしたんだ」
「……でも……けれども……今日は先生がお亡くなりになってから一か月後の十一月二十日だと……」
「チェッ……しようがないな。ドウモそういう風にどこまでも先入主になって来られちゃかなわない……いいかい。聞き給え……こうなんだよ」
とかんで含めるように言いつつ正木博士はさもいまいまし気に、舌に粘り付いた葉巻の屑を床の上に吐き棄てた。それから机の上にのしかかって両肱を立てると、呆然となっている私の鼻の先に、煙草の脂《やに》で黄色くなった右手の指を突きつけて一句一句私の頭の中へ押し込むようにして説明した。
「いいかね。よく聞き給えよ。間違わないようにね……今日は吾輩の死後一か月目だなんて、あられもないヨタを若林が飛ばしたのは、君を騒がせないための小細工に過ぎないんだよ。いいかね……もし吾輩がこの遺言書をこんな風に書きさしたまま、どこかへ消え失せてから、まだ幾時間も経っていないということが君にわかれば、君はキッと吾輩が自殺に出かけたものと思ってハラハラするだろう。また実際そうとなったらきゃつだってジットしておられまい。友人の義務としても、または、学部長の責任としても否応なしに万事を打ち棄てて、吾輩の行方を突き止めて、自殺を喰い止めなくちゃならないことになるだろう。……ところでまたそうなると若林は、自分の手一つで君の過去の記憶を呼び返させ得る唯一無二の機会を失うことになるかも知れないだろう……ね……そうだろう……君が過去の記憶を思い出すか出さないかは、若林の身に取ってみると生涯の一大事になる訳があるんだからね。しかも今朝が絶好の機会と来ているんだから……」
「…………」
「……だから若林は、吾輩がどこからか耳を澄ましているのをチャント知り抜いていながら、今日はこの遺言書が書かれてから一か月後の十一月二十日だなぞと、法医学者にも似合わない尻の割れたでたらめを言って、とにもかくにも君を落ち着かせようとしたんだ。そうしてゆっくりとこの実験を遂げて、呉一郎として君の記憶を回復させさえすれば、モウ何もかもこっちのものだと考えついたんだ。……君が若林の見込み通りに、呉一郎として過去の記憶を回復しさえすれば、その次に、かく言う吾輩を君の不倶戴天の親の仇兼女房の仇と認めさせるくらいのことは、説明のしようで何の造作もないことになるんだからね。……また、実際吾輩は有難いことに精神科学者なんだから、何も知らない呉一郎に催眠術でもかけて、親や女房を絞め殺させて、これだけの実験材料を拵《こしら》え上げるくらいの仕事はいつでもできる自信があるんだからね。この事件の嫌疑者には持って来いの人物なんだ。ね。そうだろう」
「…………」
「そうして、もしまた、万が一にもその実験がうまく行かなかったらだね……つまりそんな書類を君に読ませても、君自身が何にも思い出さなかったら、最後の手段を用いてくれよう……今度は君に気付かれないようにソット姿を隠して、あとからキッとここに出てくるに違いないであろう吾輩と君を突き合わせて、吾輩の顔を君が思い出すか出さないか……そうして思い出したら、その印象によって君自身の過去の記憶が回復されるかどうかを試験してやろう……そうして万が一にもその試験がうまく行ったら、窮極するところ、吾輩の力で吾輩を恐れ入らしてやろうという、実に巧妙辛辣を極めた計略を謀《たく》らんだ訳だ。その辺の呼吸の鋭いことというものは、実はきゃつ一流の専売特許なんだよ。いいかい」
「…………」
「元来きゃつはコンナ策略にかけては独特のスゴ腕を持っているんだ。ドンナに身に覚えのない嫌疑者でも、きゃつの手に引っかかって責め立てられて来ると、頭が、ゴチャゴチャになって、考え切れないような心理状態に陥ってしまうんだ。とうとうしまいには何が何だかわからなくなったり、とうてい逃れられぬと観念したり、そうかと思うと慌てた奴は、なるほどごもっとも千万と感心してしまったりして、知りもしない罪を引き受けたりするくらいだからね。近頃アメリカでやかましい第三等の訊問法なんかは屁《へ》の河童《かつぱ》だ。きゃつの使う手は第一等から第百等まで、ありとあらゆる裏表を使い分けて来るんだからたまらない。……現に今だってそうだ。仮に吾輩がきゃつの見込み通りに斎藤先生を殺して、その後《あと》釜《がま》に坐って、コンナ実験をこころみて失敗をして自殺を思い立った人間とするかね。その吾輩がどこからか耳を澄ましている前で、だんだんと吾輩がそんな大悪人と認められて来るように……そうして君自身が、その吾輩が当の怨《おん》敵《てき》である呉一郎自身と認められて来るように、合理的に話が進められて行く。同時に、その吾輩の生涯を賭した事業の功績が、スウーッと奪い去られて行くのを、手も足も出ないまま見たり聞いたりしていなければならない状態に陥って行くとしたら、吾輩に取ってコレ以上の拷問があり得るかドウか考えてみるがいい。そのまま黙って自殺するか、飛び出して来て白状するか、二つに一つの道しかないだろうじゃないか。……きゃつ、若林のやり口は早い話がザットこんなあんばい式だからたまらないのだ。ドンナ難事件でも一旦きゃつの手にかかるとなると、キットどこからか犯人をヒネリ出して来る。そのためにきゃつが『迷宮破り』なぞと新聞に謳《うた》われている事実の裏面には、こうした消息が潜んでいるんだよ」
「…………」
「ところがだ。ところが今度という今度ばかりはそう行かないらしいんだ。今朝から連続的にこころみて来たきゃつの実験が、一々見込み外れになってしまって、君自身に何らの反応を現わさなかったばかりでなく、きゃつお得意の訊問法のトリックが、コンナ風にテッペンから尻を割っているところを見ると、そんなに恐《おつ》怖《かな》がるほどのこともないようだね。……さすがの古今無双の法医学者先生も、相手が吾輩というので緊張し過ぎたせいか、今朝から少々慌ててござるようだ。あるいはこれこそ先生の『空前絶後の失敗』かも知れないがね。ハッハッ……」
「でも……でも……でも……」
「まだ『でも』が残っているのかい……何だい……その『でも』は……」
「……でも……その実験は先生がなさるのが当り前……」
「そうさ。むろん、君の過去を思い出させる実験は吾輩がやるのが当然さ。だからきゃつはこんなトリックを用いて、この実験の結果を独り占めにしようとしたんだ……きゃつはできる限り吾輩を見殺しにしようとしたんだよ」
「エッ……ソ……そんな無茶なことが……」
「チャント実行されているから面白いだろう。第一吾輩が、その手を喰わずに、こうやって生き長らえて、ここへ出て来てしゃべっているのが何よりの証拠じゃないか」
こう言い終ると正木博士は、いかにも憎々しい、皮肉を極めた冷笑を浮かめた。廻転椅子の上に反りかえって傲《ごう》然《ぜん》と腕を組んだ。葉巻の煙を高々と吹き上げつつ嘯《うそぶ》いた。あたかも若林博士が、どこからか耳を澄まして聞いているのをチャント予期しているかのように……。
それを見ると私の心臓はまたも、新しい恐怖に打たれて、一たまりもなく縮み上がってしまったのであった。……何という物凄い両博士の闘いであろう。何という深刻執《しつ》拗《よう》な知恵比べであろう。今の今まで、そんな恐ろしい闘争の間に自分自身が挟まれていることを夢にも知らなかった私は……今の今まで見て来た苦しさや、せつなさ、恐ろしさや物狂おしさなぞが、みんなこの二人の博士の悪魔のようなトリックの引っかけ合いに引っかけられて、引きずりまわされて来たせいであることを、初めて気がついた私は……もう悲鳴をあげて逃げ出したいような衝動に満ち充たされてしまったのであった。今にも立ち上りそうに腰を浮かしかけたのであった。……が……。
……しかしこの時の私は、どうしたわけか一寸も椅子から離れることができなかった。額にニジミ出る汗をハンカチで拭いつつ、またも腰を落ちつけて溜息した。そうして、正木博士の顔を一心に凝視しつつ、その黒ずんだ、気味のわるい唇が動き出すのを、生命《いのち》がけの気持ちで待っていなければならぬような心理状態に陥ってしまったのであった。……それはおそらく、この二人の博士が、全力というよりもむしろ死力を竭《つく》して奪い合っているほどの怪奇を極めた精神科学の実験そのものの魅力のために私の魂がもう、スッカリ吸い付けられてしまっていたせいかも知れない……その話の底を流るる形容のできない不可思議な真実性が、グッと私の心臓を引っつかんで、言い知れぬ好奇心の血を波打たせているせいかも知れない。……なぞと……そんなことを考えつつ茫然として、眼の前の空間を凝視している私の耳元に、またも咳一咳した正木博士の声が、新しく、活き活きと響いて来た。
「ハハハハハハ……どうだい。もうわかったかい、錯覚の原因が……ウン。わかった。……しかしまだ少々わからないところがあるだろう。ウン。ある……なかなか頭がいいね。……第一そこにいる君自身が、どこの何という青年で、いかなる因果因縁でもってこの事件に捲き込まれるに到ったか……ということが君にはテンキリわかっていないはずだからね。ハッハッハッ……しかし心配し給うな。吾輩がこれから話すことを聞いておれば、一切の疑問が櫛《くし》の歯で梳《す》くようにパラリと解けて来る。その話というのは、少々重複するかも知れないが、その吾輩の遺言書の続きになる話で、この実験に関する吾輩と若林の過去の秘密から、だんだんと呉一郎の心理遺伝の内容に立ち入って行って、一番おしまいに君自身が何者であるかということが、やっとわかる段取りになるのだ。もっともその途中で君自身が自分の身の上を感付くとすればやむをえない。話はそれきりのめでたしめでたしになる訳だが、その時はその時として、まずそれまでのお楽しみとして聞いていたまえ。……しかし、もう一度念を押しておくが、もうこの上になお、錯覚を起したりしちゃいけないよ。吾輩が幽霊だとか、吾輩が死んでから一か月目だとかいうようなとんでもない気持ちになってくれちゃ困るよ。ハッハッハッ、いいかい。これから先の話を聞いてそんな錯覚や妄想に陥ると、もう永久に取り返しが付かなくなるかも知れないからね。いいかい……ほんとうに大丈夫かい。……ウンよしよし。それじゃ安心して話を進めるが……」
と言い言い正木博士は消えかけた葉巻に火をつけた。それからポケットに両手を突込んでサモ美《う》味《ま》そうにスパスパと吸立てたが、やがてくわえ直すと、濛《もう》々《もう》たる煙の中にヤッコラサと坐り直した。
「……ところでだ。……ところで、こいつはいずれ社会に暴露されることと思うから、その時に新聞で見ればわかるが……否《いや》。もう昨日の夕刊か、今朝あたりの新聞に出ているかも知れないが……実は、昨日、あの狂人の解放治療場に一大事変が勃発したのだ。つまり吾輩がこの事件を中心とする心理遺伝の実験の結論をつけるために、あの解放治療場の精神病者の群れの中に仕掛けて置いた精神科学応用の爆弾の導火線が、この間からジリジリと燃え詰って来たのが、昨日の正午――すなわち大正十五年の十月の十九日の午《ド》砲《ン》が鳴るとほとんど同時に物の美事に爆発したのだ……ナアニ。種を明かせば何でもない。その導火線というのは一梃の鍬に仕かけてあったに過ぎないのだが、何と言っても精神科学を応用した導火線で煙も立たず、火も見えないのだから普通人の眼には、そんな種仕掛けがあるものとは思えない。どこまでも普通の鍬としか見えていなかったのだ。……しかも、その結果は、正直のところ爆発し過ぎたと言ってもいいくらいで、吾輩も一時面喰ったくらいの意外な惨劇になってしまったので、その責任を負うた吾輩は、即刻、総長室に出頭して辞職を申し出たんだが……なおよく考えてみると……何でもここいらが吾輩の実験の切り上げ時らしい。吾輩の今日までの研究に関する一切の発表はあとに若林が控えているから……実は吾輩もその時までは若林を、それほど腹の黒い奴と思っていなかったもんだからね……若林が、どうにかしてくれるだろう。ついでにめんどうくさいから人間の方も辞職しちまえ……というので吾輩は一旦、下宿へ帰って、あとを片付けて、それから東中洲の賑《にぎや》やかなところで一杯引っかけてスッカリいい心持ちになりながら、書類を整理すべくここへ引返して見ると……また驚いたね。つい今先刻《さつき》、吾輩がここを出かける時まで空《あき》室《べや》であった、あの六号の病室にアカアカと電燈が灯《つ》いている。おかしいなと思って帰りかけている小使に様子を聞いてみると、若林先生がどこからか一人のお嬢さんをつれて来て、当直の医員に頼んで、たった今入院おさせになったところだと言う。おまけにそのお嬢さんというのは、今までに見たこともない、何ともかんとも言えない美しい綺《き》倆《りよう》だと言うんだ。
……その時にはさすがの吾輩も、思わずアッと感嘆の膝を打ったね。コイツは面黒いことになった。この様子でみるときゃつ、若林鏡太郎はどうして一《ひと》筋《すじ》縄《なわ》にも二筋縄にもかかる奴じゃない。きゃつの法医学者としての価値に相当する……否、それ以上かも知れない大悪党だ。第一、吾輩の前ではスッカリ猫を冠っているが、ウッカリすると吾輩に敗けないくらいの精神病学者で、おまけに人情の弱点を利用することにすこぶる妙を得ているということが一ペンにわかってしまったのだ。……というのはほかでもない。この遺言書にも書いておいた通り、かれ若林鏡太郎が、この事件の勃発当時に、学部長の権威を利用してかの少女を生きた亡者にしてしまって自分の手中に握り込んだ目的がどこにあるのかということは、その当時から今日までどうしてもわからなかったのであるが、今となってみると何のことはない。きゃつは、君がある程度まで本性を回復した時を見すまして、コッソリとあの娘に引き会わせて、色と、欲と、理詰めの三方から、君自身に君自身を無理にも呉一郎と認めさせよう。そうして今も言ったように吾輩を君の不倶戴天の仇敵《かたき》と思い込ませて、その事実を公式に言明させよう……彼の思い通りに引き歪めた事件の真相を社会に暴露させてやろう。……のみならず、その君の言明を、自分の畢《ひつ》生《せい》の事業としている『精神科学的犯罪とその証跡』の第一例として掲げようと巧らんでいるスジミチが手に取るごとくわかって来たのだ。
……そこで吾輩も考えた。……よろしい。そっちがそんな考えなら、こっちにも了簡がある。もともと若林の精神科学的犯罪の研究は、吾輩独創の心理遺伝の学理原則を土台にして組み立てられているんだから、まぜっ返しをしようと思えば訳はない。ここで思い切って吾輩の精神科学の研究発表の原稿を全部焼き棄ててしまって、あとにその内容の概略を書いたヒヤカシ半分の遺言書を残して置けば、きゃつ、若林は嫌《いや》でも応でもその著述の中に、この遺言書を組み込まなければ研突発表の筋が立たなくなる訳だ。しかし、はたしてきゃつが吾輩の遺言書を公表し得るかどうか……公表するとすれば、どんな風に手品を使って公表するかは、ずいぶん面白い見物だぞ……ことによると吾輩の遺言書はおそらく空前絶後のタチのわるい置き土産《みやげ》になるかも知れないぞ……。
……と……こう考えると吾輩、急に嬉しくなったね。大急ぎでこの室へ来て書類をスッカリ焼き棄てて、この遺言書を書き始めたんだが、そのうちに夜が明けてみると、君が覚醒しかけたというのでかねてから待ちかねて準備していた若林が時を移さず馳けつけて、早速かの美少女に引き合わせた。……が……こいつはまんまと首尾よく失敗した。もっとも先方は君を恋しい恋しい兄さんと認めてくれたので、まず半分は成功した訳だが、御本尊の君自身が、あの美少女にズドンと肘鉄砲を喰わせた……自分の従妹とも許嫁とも、何とも認めなかったので、今度は手段をかえて、君をこの室に連れて来る様子だ。
……ところで、実を言うとこの時には吾輩もいささか狼《ろう》狽《ばい》したね。恐るべきはきゃつ、若林鏡太郎だ。きゃつは吾輩のこうした心事を、もうとっくに見抜いていたんだ。きゃつは吾輩が遅かれ早かれこの危険千万な放れ業式の解放治療の実験を切り上げて、その内容を学界に発表すると同時に、行方を晦《くら》ますであろうことを、ずっと前から察していたんだね。しかも、それと同時に、この姪の浜の花嫁殺し事件も、吾輩一人の実験材料に使い棄てて、あとから誰が見ても犯罪事件と見えないようにして、学界に報告するであろうことまでもチャンと看破していたんだね。そこできゃつは全力を挙げて電光石火式にことを運んだ。そうして吾輩がまだ行方を晦まさないうちに吾輩を押え付けてギャフンと参らせようと、たくらんだ訳だ。
……きゃつは吾輩が昨夜からここに居据わりいることを、今朝本館の玄関を入ると同時に見抜いていたに違いない。そうして何らかの策略で吾輩を凹ませるために、君をここへつれて来るんだな……と気がついたから、ドッコイその手は桑名の何とかだ。一つ驚かしてやれと思って、その遺言書や焼き残りの書類をそこに置きっ放しにしたまま、ウイスキーの瓶と一緒に姿を消してしまったのだ。むろん窓から飛び出したのでもなければ、向うの扉から抜け出した訳でもない。一歩もこの室から出ないまま誰にも気付かれないように消え失せた……というと何だかまた精神科学応用の手品じみて来るが、そんなことじゃない。種というのはこの大《おお》暖《スト》炉《ーブ》だ。
この大暖炉は、万一この実験が失敗するか、または吾輩の研究の内容を他人に盗まれそうになった時に、そんな著述の原稿を全部、この中で焼き棄ててくれよう。ことによったら吾輩自身もこの大暖炉を利用して天下を煙に巻きながら、ヒュードロドロドロと行方を晦ましてくれようと思って、最初からガスと電気併用の自動点火式に設計したものだが……見給え………この鉄の蓋を取ると、内《な》部《か》はこんなに広々して、底一面の電熱装置の間からガスが噴き出すようになっている。何のことはない、ブンゼンランプの大きなヤツを二百ばかり併列した形だ。この上に生きた物でも載せて、ガスのコックを開いて電気のスイッチをねじると、取りあえずガスが飛び出して窒息させてしまう。そのうちに電熱器が熱してきて、ドカンとガスに点火したら一時間経たぬうちに、骨までボロボロになってしまうだろう。その上に石でも瓦《かわら》でも積み重ねておくと全部白熱して強烈な輻《ふく》射《しや》熱《ねつ》を出すのだからね。見給え、肉よりも焼け難いという西洋紙の原稿ばかり、本箱に四杯近くもあったのだが、どうだい。たったこれんばかりの白い灰になってしまっているだろう。これで吾輩がまた煙になれば、せっかくの大学理が、また、もとの空中に還元されてしまうわけだ。ハッハッハッ。……吾輩は、君と若林が、あの階段を上って来る音を耳にすると同時に、ウイスキーの瓶と一緒にこの中に逃げ込んで、この灰の上にこうして新聞紙を敷いて楽々と胡座《あぐら》をかいたまま、いつ何《なん》時《どき》でも煙になる覚悟で、葉巻を吹かし吹かし耳を澄ましていた訳だ。
……ところがさすがはきゃつだ。天下の名法医学者だ。吾輩の姿が見えなくても平気の平左でいるばかりか、すぐにその機会を利用して君を錯覚に陥れ始めた。……きゃつのアタマは聖徳太子と同様二重三重に働くんだからね。だから吾輩や斎藤先生のことをいろいろと君に話して行く片手間に、この遺言書の内容を大急ぎで検査してみると、少々都合のわるいところもあるが、結論まで書いてないのだからまず安全である。のみならず、こいつを君に読ませれば、自分で説明するよりも遥かに都合よく、君自身を呉一郎と思い込ませ得るという見込みがついたので、わざと君に押し付けて置いて、君が夢中になって読んでいるうちに、コッソリ姿を消してしまったのだ。そうしてこれに対して吾輩がドンナ処置を執るかを試験しているらしい様子だ。
……そこで吾輩いよいよ面白くなったね。……よし……その儀ならばこっちも一つその計略の裏を行って、あべこべにきゃつの挑戦に逆襲してやれと思って、暖《スト》炉《ーブ》の中からソーッとここへ出て来て、この椅子に腰をおろしながら、君がその遺言書を読み終るのを待っていた訳なんだが……。ハッハッ……どうだい。今君と吾輩とは天下の名法医学者、若林鏡太郎氏の計画の下に対決しているんだよ。そうして君がどこの何という名前の青年であるか。……この事件といかなる因果関係によって結び付けられて、現在その椅子に坐らせられているのかということは、まだ学理上にも実際上にも明白に決定されていないのだよ。
……だからきゃつ、若林の予想通りに、君がその自我忘失症から、姪の浜の一青年呉一郎として覚醒して、吾輩をその事件の裏面に活躍している怪魔人……血も涙もない極悪非道の精神科学の手品使いとして指摘すれば、この対決は吾輩の負けになる。しかし、これに反して、君がドウシテモ呉一郎としての過去の記憶を思い出さなければ、早い話が吾輩の勝になる……君は『自我忘失症』と名づくる一種の自家意識障害を起して、九大の精神科に収容されている第三者の立場から、若林の手にかかって突然にこの事件に捲き込まれて来た無名の一青年という事実が公表され得ることになって、若林の計画がオジャンになるという、その際どい土俵際に立っているんだよ、君は……。ドウダイ面白いだろう。古今無双の名法医学者と、空前絶後の精神科学者の、痛快深刻を極めた知恵比べだ。しかも、その勝負を決すべき呉一郎が君自身だかどうかは、今も言う通りまだ決定しないでいる。ハッケヨイヤ残った残ったというところだね。ハッハッハッ……」
正木博士の高笑いは、室の中のいろいろなものにケタタマシク反響しつつ、私の耳に飛び込んで来た。そうして二人の博士の言うことの、どちらが本当か嘘かわからないままボンヤリとなっている私の頭の中を、メチャメチャに引っかき廻すとそのまま、どこかへシインと消え失せて行った。
しかし正木博士は私のそうした気持ちに頓《とん》着《じやく》なく、またも片眼をシッカリとつぶってさも美《う》味《ま》そうに葉巻の煙を吸い込んだ。それから廻転椅子の肘掛けに両手を突張って、ソロソロと立ち上りかけた。
「……や……ドッコイショ……と……そこでいよいよ本勝負に取りかからなければならないのだ。まず是非とも吾輩の手で君の過去の記憶を回復さして、君が誰であるかを君自身に確かめさせなくちゃ、若林の手前、卑怯に当るからね。……とりあえずこっちに来てみたまえ。今度は吾輩自身が、君の過去を思い出させる第一回の実験をやってみるんだから……」
私はもう半分夢遊病にかかっている気持ちでフワフワと椅子から離れた。どこからか若林博士の青白い眼が覗いているような気味わるさの中を、正木博士に導かれるままに南側の窓に近づいた……が……正木博士の白い診察服の肩ごしに窓の外を一眼見ると、私はハッとして立ち止まった。
眼の下に狂人解放治療場の全景が展開されているのであった。……そうしてその一隅に紛れもない呉一郎が突立っているのであった。……老人の畠打ちを見守りながら、背中をこっちに向けている……髪毛を蓬《ほう》々《ほう》とさした……色の白い……頬ぺたの赤い……着物をダラシなく纏《まと》うた青年の姿……。
その凄惨《みじめ》な姿をアリアリと現実に見た一瞬間、私は思わず眼を閉じた。その上から両手でピッタリと顔を蔽《おお》うた。……とても正視できないほどの驚きと……恐れと……言い知れぬ神経の緊張に打たれて……。
……呉一郎はあすこにいるじゃないか。あれはかの遺言書の中に書いてあった呉一郎の姿に違いないじゃないか。そうしてあれが呉一郎に間違いないとすれば……ここに立っている私は一体、何者であろう……。
……たった今窓の外を覗いた一瞬間に、私自身が、私自身から脱け出して行って、姿をかえてかしこに突立っているような……それを、あとに残った魂《たま》魄《しい》だけが眺めているような……そんなような陰惨な、悽惨とした感じ……。
……もしや今見たのは私の幻覚ではなかったろうか。白昼の夢というものではなかったろうか……。
頭の中で電光のように、こう考えまわしつつ……何とも言えず息苦しい、不可思議な昂奮に囚《とら》われつつ、私はまたも、徐《しず》かに眼を開いてみた。
しかし解放治療場内の光景は、どう見直しても夢とは思えなかった。……青い青い空……赤い煉瓦塀……白く眩しく光る砂……その上を逍遥《さまよ》う人影……。
その時に、私の前に立って、何かしら考え込んでいた正木博士は、やおら私をふり返って、何気なく窓の外を指《ゆびさ》した。
「……どうだい……ここがどこだか知っているかね、君は……」
けれども私は返事ができなかった。ただ微かにうなずいて見せたばかりであった。それほどさように私は眼を開いた次の瞬間から、何とも言えぬ異様な場内の光景に魅せられてしまったのであった。
青空の光と照し合っている場内一面の白砂の上を、ウロウロと動きまわっている患者たちの黒い影は、ほとんど全部が、最前の遺言書に描きあらわしてあった通りの仕事を、そのままに繰返していた。あたかも、その一人一人の一挙一動が、正木博士の心理遺伝の原則を実地に証明する芝居ででもあるかのように……儀作老人は依然として鍬を揮いつつ、今一本の新しい砂の畝《うね》を作り……青年呉一郎はやはり、こっちに背中を向けながら、老人の前に突立って、鍬を動かす手許を一心に見守っている。……年《とし》増《ま》女《おんな》は、ボール紙の王冠を落したのを気付かぬまま、威張ってあるきまわり……それを拝んでいた髯《ひげ》面《づら》の大男は、拝みくたびれたかして、砂の中に額を突込んで眠り……小男の演説家は煉瓦塀に拳固を押し当てて祈り……痩せた青黒い少女は、老人の作った新しい畝に植えるものを探すらしく、キョロキョロと場内を物色してまわっている。そのほかの連中も、その位置が違っているように思えるだけで、やっている仕事の意味は、最前読んだ遺言書の説明とすこしも違わない。ただ……最前から歌を唄って踊りまわっていたはずの、舞踏狂らしいお垂《さ》髪《げ》の女学生が、私たちの立っている窓のすぐ下に、肩まで手が入るような砂の穴を掘って、ボール紙の王冠と松の枯れ枝を利用しながら、小さな陥《おとし》穽《あな》を作りかけているのが、少々脱線しているように思われるだけである。しかし、いずれにしても正木博士がたった今話した、昨日の正午の大惨事というのは、いつ、どこで、どの狂人が起したものか、そんな形跡さえ見えないのが、私には不思議に思われてしようがなかった。舞踏狂の少女が歌をやめたせいか、それともガラス窓越しに眺めているせいか、すべてが影のようにヒッソリと静まり返っている。その薄気味わるさ……こころみに人数を数えてみると、やはり遺言書に書いてある通りの十人で、殖えても減ってもいないのはどうしたことであろう。
しかも、更に不思議なことには、その何も変ったことのない、静かにハツキリした光景を見下しているうちに、この十人の狂人の心理遺伝を利用して、正木博士が仕掛けておいたという精神科学的の大爆発……正木博士の辞職の原因となった大惨事が、もうじき始まろうとしている……それは昨日のことでもなければ一昨日《おととい》のことでもない。たった今、眼の前に起りかけている事実なのだ……という予感がして、しようがないのであった。否……場内にいる狂人ばかりではない。向うの屋根の上に二本並んで、藍色の大空を支えている赤煉瓦の大煙突……その上から、たった今吐き出され始めた黒い黒い煤《ばい》煙《えん》のうねり……その上にまん丸くピカピカ光っている太陽までもが、何らかの神秘的な精神科学の原則に支配されつつ、時々刻々に空前絶後の大事変の方へ切迫して行きつつあるのではないか……というような底知れぬ冷やかな、厳粛な感じが、しきりに首すじのところへ襲いかかって、全身がゾクゾクして来るのを我慢することができなかった。そんなばかなことが……と思えば思うほどそう思えてしようがなくなって来るのであった。私はそうした神秘的な……息苦しい気持ちを押え付けよう押え付けようと焦《あ》燥《せ》りつつ、なおも、解放治療場内の光景に眼を注いだ。老人の畠打ちを見ている呉一郎のうしろ姿を、異様な胸の轟《とどろ》きのうちに凝視した……。
その時であった。私の耳の傍《そば》で突然に、低い、ささやくような声がしたのは……。
「何を見ているのだね……君は……」
その声の調子は、今までの正木博士のソレとはまるで違っていたので、私はまたもドキンとして振り返った。
見ると正木博士は、いつの間にか私のすぐ傍に来て、細い煙の立つ葉巻を手にして突立っていたが、その顔からは今までの微笑があとかたもなく消え失せていて、鼻眼鏡の下にまっ黒い瞳を据えたまま穴のあくほど私の横顔を睨みつけているのであった。
……私は深い溜息を一つした。そうしてできるだけ気を落ち着けて返事をした。
「解放治療場を見ているのです」
「フーウーム」
と腹の底で唸《うな》った正木博士は、やはり瞬《まばた》き一つせずに私の瞳を見据えた。
「フーム。……そうして何か見えているかね……解放治療場の中に……」
私は正木博士の尋ね方が何となく異様なので、静かにその瞳を見返した。
「ハイ……狂人が十人いるようです」
「……ナニ……狂人が十人……」
と慌てた声で言いさした正木博士は、何かしらよほど驚いたらしく、今一度グッと私を睨みつけた。
その視線を横頬に感じながら、私はまたも解放治療場内をふり返って呉一郎のうしろ姿を凝視しはじめた。……今にもこっちを振り向いて、私と顔を合わせそうな気がして……そうしたら、何かしら大変なことが起りそうに思えて……身体じゅうが自然《おのず》と固くなるように感じつつ……。
「ウーム……」
と正木博士は私の横で気味のわるいほどハッキリと唸った。
「あの中で狂人が遊んでいるのが、アリアリと見えるかね、君には……」
私は無言のままうなずいた。いよいよ奇妙な質問の仕方だとは思いながら、別段気にも止めないで……。
「フーム。そうして人数はやっぱり十人いるというのかね」
私はまた、うなずきつつ振り返った。
「ハイ。キッチリ十人おります」
「……ウーム……」
と正木博士は唸った。まっ黒い眼の球を奥の方へ凹ませながら……。
「フーム。こいつは妙だ。……トテモ面白い現象だぞ、これは……」
と独《ひとり》言《ごと》のように言いつつ、おもむろに私の顔から視線を外《そ》らして窓の外を見た。そうして心持ち青白い顔になって、ジット考え込んでいるようであった。が、やがて以前の通りに元気のいい顔色に返ると、ニッコリと白い歯を見せつつ私を振り返った。窓の外を指しつつ快活な口調で問うた。
「それじゃモウ一つ尋ねるが、あの畠の一角に立って、老人の鍬の動きを見ている青年がいるだろう」
「はい。おります」
「……ウム……いる……ところでその青年は今、ドッチを向いて突立っているかね」
私は正木博士の質問が、いよいよ出でてイヨイヨ変テコになって来るので、妙な気持ちになりながら答えた。
「こちらに背中を向けて突立っております。ですから顔はわかりません」
「ウン……多分そうだろうと思った。……しかし見ていたまえ。今にこちらを向くかも知れないから……。その時にあの青年が、どんな顔をしているかを君は……」
正木博士がこう言いさした時、私の全身はなぜか知らずビクリとして強直した。心臓の鼓動と呼吸とが、同時に止まったように思った。
その時に正木博士に指されていた青年……呉一郎のうしろ姿は、あたかも、何らかの暗示を受けたかのように、フッとこちらを振りかえった。私たちの覗いているガラス窓越しに、私とピッタリ視線を合わした……と……その顔に、今まで含まれていたらしい微笑がスーと消え失せて……今朝ほど、あの湯殿の鏡の中で見た私の顔と寸分違わない、ビックリしたような表情にかわった。……顔の丸い、眼の大きい、腮《あご》の薄い……と思う間もなく、またも、ニコニコと微笑を含みながら、しずかに老人の畠打ちの方に向き直ってしまった。……ように思う……。
……私はいつの間にか両手で顔を蔽っていた。
「……呉一郎は……私だ……私は……」
と叫びつつヨロヨロとうしろに、よろめいた……ように思う……。
それを正木博士が抱き止めてくれた。そうして噎《む》せかえるほど芳烈な、火のように舌を刺す液体をドクドクと口の中へ注ぎ込んでくれた……ように思うが、何が何であったかハッキリと記憶しない。ただ、その時に正木博士が、私の耳の傍で怒鳴っていた言葉だけが、きれぎれに記憶に残っているだけであった。
「……しっかりしろ。しっかりしろ。そうして今一度よく、あの青年の顔を見直すのだ。……サアサア……そんなに震えてはいけない。そんなに驚くんじゃない。ちっとも不思議なことはないんだ。……しっかりしろシッカリ……あの青年が君にソックリなのは当り前のことなんだ。学理上にも理屈上にもあり得ることなんだ。……気を落ちつけて気を、サアサア……」
私はこの時、よく気絶してしまわなかったものと思う。おおかたこの時までに、いろんな不思議な出来事に慣らされていたせいかも知れないが、それでも、どこか遠いところへ散り薄れかけている自分の魂を、一所懸命の思いで、少しずつ少しずつ呼び返して、もとのガラス窓の前にシッカリと立たせるまでには何遍眼を閉じたり開いたりして、ハンカチで顔をコスリまわしたか知れない。しかも、それでも私には今一度窓の外を見直す勇気がどうしても出なかった。頭《こうべ》を低《た》れて床のリノリウムを凝視《みつめ》たまま、何回も何回もふるえた溜息をして、舌一面に燃え上る強烈なウイスキーの芳香《におい》を吹き散らし吹き散らししていたのであった。
正木博士は、その間に手に持っていたウイスキーの平べったい瓶を診察着のポケットに落し込んだ。そうして自分自身もやっと落ち着いたように咳払いをした。
「イヤ。驚くのも無理はない。あの青年は君と同年の、しかも同月同日の同時刻に、同じ女の腹から生まれたのだからね」
「……エッ……」
と叫んで私は正木博士の顔を睨んだ。同時に一切がわかりかけたような気がして、やっと窓の外の呉一郎をふり返るだけの勇気が出た。
「……ソ……それじゃ僕と、あの呉一郎とは双《ふ》生《た》児《ご》……」
「イイヤ違う……」
と正木博士は厳格な態度で首を振った。
「双生児よりもモット密接な関係を持っているのだ。……むろん他人の空似でもない」
「……ソ……そんなことが……」
と言い終らぬうちに私の頭はまた、何が何やらわからなくなってしまった。一種の皮肉な微笑を含みかけた正木博士の顔の、鼻眼鏡の下の、黒い瞳を凝視した。冷やかしているのか、それとも真面目なのか……と疑いつつ……。
正木博士の顔には見る見る私を憫《あわ》れむような微笑が浮かみあらわれた。幾度も幾度もうなずきつつ、葉巻の煙を吸い込んでは、また吐き出した。
「ウンウン。迷うはずだよ。……君は昔から物の本に載っている、有名な離魂病というのに罹っているのだからね……」
「……エ……離魂病……」
「……そうだよ。離魂病というのは、今一人別の自分があらわれて、自分と違ったことをするので、昔からいろんな書物に怪談として記録されているが、精神科学専門の吾輩に言わせると、学理上実際にあり得ることなんだ。しかし、そいつを現実に眼の前に見ると、何とも言えない不思議な気持ちがするだろう」
私は慌てて、今一度眼をコスリ直した。恐る恐る窓の外を見たが……青年はもとのまま、もとの位置に突立っている。今度はすこしばかり横顔を見せて……。
「……あれが僕……呉一郎と……僕と……どっちが呉一郎……」
「ハハハハハハハ、どうしても思い出さないと見えるね。まだ夢から醒め得ないのだね」
「エッ夢……僕が夢……」
私は眼をまン丸にして振り返った。得意そうに反り身になっている正木博士を見上げ見下した。
「そうだよ。君は今夢を見ているんだよ。夢の証拠には、吾輩の眼で見ると、あの解放治療場内には先刻《さつき》から、人ッ子一人いないんだよ。ただ、枯れ葉をつけた桐の木が五、六本立っているきりだ……解放治療場は、昨日の大事変勃発以来、厳重に閉鎖されているんだからね……」
「…………」
「……こうなんだ……いいかい。これはすこし専門的な説明だがね。君の意識の中で、現在眼を醒まして活躍しているのは現実に対する感覚機能が大部分なんだ。すなわち現在の事実を見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、そいつを考える、記憶する……といったような作用だけで、過去に関する記憶を、ああだった、こうだったと呼び返す部分は、まだ夢を見得る程度にしか眼を醒ましていないのだ。……そこで君がこの窓からあの場内の光景を覗くと、その一《いつ》刹《せつ》那《な》に、昨日まであそこに、あんな風をして突立っていた君の記憶が、夢の程度にまで甦って、今見ている通りのハッキリした幻影となって君の意識に浮き出している。そうしてそこに突立っている君自身の現在の意識と重なり合って見えているのだ。つまり、窓の外に立っている君は、きみの記憶の中から夢となって現われて来た、君自身の過去の客観的映像で、ガラス窓の中にいる君は現在の君の主観的意識なのだ。夢と現実とを一緒に見ているのだよ、君は……今……」
私はもう一度シッカリと眼をこすった。大きく瞬きをしいしい正木博士の妙な笑い顔を睨んだ。
「……そんなら……僕は……やはり呉一郎……」
「……そうだよ。理論上から言っても、実際上から見ても、君はどうしても呉一郎と名乗る青年でなくてはならなくなるんだよ。不思議に思うのは無理もないが仕方がない。それで……その上に君が君自身の過去の記憶を、今見ているような夢の程度でない、ハッキリした現実にまでスッカリ回復してしまったとなれば、残念ながらこの実験は若林の大勝利で吾輩の敗北だ……かどうだかは、まだ結果を見ないとわからないがね。フフフフ」
「…………」
「……とにかく奇妙奇態だろう。変妙不可思議だろう。しかし、これを学理的に説明すると、何でもないことなんだよ。普通人でも頭が疲れている時とか、神経衰弱にかかっている時なぞには、よくこんなことがあるんだよ。もっとも程度は浅いがね……白《ま》昼《ひる》の往来を歩きながら、昨夜《ゆうべ》自分が女にチヤホヤされて、大持てに持てていた光景を眼の前に思い浮かめてニヤリニヤリと笑ったり、淋しい通りをたどってゆくうちにこの間、電車に轢《ひ》かれ損った刹那の光景を幻視して、ハッと立ち止まったりする。女はまた女で、古くなった嫁入道具の鏡の中に自分の花嫁姿を再現してポーッとなったり、女学生時代の自分の思い出の後影を逐うて、ウッカリ用もない学校の門の前まで来たり……まだいろいろとあるだろう。ちょうど夢の中で、自分の未来の姿である葬式の光景を描いているのと同じ心理で、自分の過去に対する客観的の記憶が生んだ虚像と、現在の主観的意識に映ずる実像とを、二枚重ねて覗いているのだ。しかも君のは、その夢を見ている部分の脳髄の昏《こん》睡《すい》が、普通の睡眠よりもズット程度が深いのだから、その解放治療場内の幻覚も、今、君が見ている通り、極めてハッキリとしている。熟睡している時の夢と同様に、現実とかわらないほどの……否、それ以上の深い魅力をもって君に迫っているので、現実の意識との区別がなかなかつけにくいのだ」
「…………」
「……おまけに今も言う通り、君の頭の中で永い間昏睡状態に陥っている脳髄の機能のある一部分が、ごく最近のことに関する記憶から始めて、少しずつ少しずつ甦らせながら見せている夢だと思われるから、ことによると、まだなかなか醒めないかも知れない。……醒める時はいずれ、窓の外の君と、現在そこにいる君とが、互いにこれは自分だなと気がついて来た時に、ハッと驚くか、または気絶するかして覚醒するだろうと思うが、しかし、その時にはこの室も、吾輩も、現在の君自身も一ペンにどこかへ消え去って、とんでもないところで、とんでもない姿の君自身を発見するかも知れない……実は今しがた君が失神しかけた時に、サテはもう覚醒するのかと思っていたわけだがね……ハハハハハハ」
「…………」
いつの間にかまた眼を閉じていた私は、ただ、正木博士の声ばかりを聞いていた。その言葉が含む二重三重の不可思議な意味に、あとからあとから昏迷させられつつ、一所懸命に両足を踏み締めて立っていた。今にも眼を開いたら、何もかも消えてなくなりはしないかとビクビクしながら、口の中でソロソロと舌を動かしていた。
その時であった。ほとんど無意識に頭を押えていた私の右手が、やはり無意識のまま前額部の生え際のところまで撫でおろして来ると、突然、背骨に滲み渡るほどの痛みを感じたのは……。
私は思わず「アッ」と声を立てた。閉じていた眼を一層強く閉じて、歯を喰い締めた。そうして、なおも念入りにそこを撫でまわしてみると、気のせいか少し膨んでいるようであるが、しかし腫《は》れ物ではないようである。たしかに何かと強くぶつかるか、または打たれるかした痕《あ》跡《と》である……今の今まで、こんな痛みは感じなかったが……そうしてまた、今朝から今までの間に、そんなにひどく頭を打ったおぼえは一つもないのだが……。
夢に夢見る心地とは、こんな場合を言うのであろう。私はその痛みの上にソット手を当てて、シッカリと眼を閉じたまま頭を強く左右に振った。……絶壁から飛び降りるような気持ちで、思い切って眼をパッチリと大きく見開いて、自分の上下左右を念入りに見まわしてみたが……眼を閉じた前と何一つ変ったところはなかった。ただ最前から解放治療場の付近を舞いまわっているらしい、一匹の大きな鳶《とび》の投影が、またも場内の砂地の上を、スーッと横切っただけであった。
それを見た時に私は、どうしても一切が現実としか思えないことを自覚せずにはおられなかった。たといそれがドンナに不思議な、または、恐ろしい精神科学的現象の重なり合いであるにせよ、私自身に取ってはけっして、夢でもなければうつつでもない。たしかに実在の姿をこの眼で見、実在の音をこの耳で聴いていることを確信しないわけにいかなかった。……その確信を爪《つめ》の垢《あか》ほども疑う気になれなかった。私は、今一人の自分自身としか思えないほど私によく肖《に》通《かよ》っている窓の外の青年、呉一郎の立っている姿を、何らの恐怖も感じないままに、今一度冷然と睨みつけることができた。それからおもむろに正木博士をふり返ると、博士はたちまち眼を細くして、義《いれ》歯《ば》を奥の方までアングリと露わした。
「ハッハッハッハッ。これだけの暗示を与えてもわからないかい。君自身を呉一郎とは思えないかい」
私は無言のまま、キッパリとうなずいた。
「ハッハッハッ。イヤ豪い豪い。実は今言ったのは……みんな嘘だよ……」
「エッ……嘘……」
と言いさして私は思わず頭を押えていた手を離した。その手を二本ともダラリとブラ下げたまま……口をポカンと開いたまま正木博士と向き合って大きな眼を剥き出していたように思う。おそらく「呆《あつ》」という文字をそのままの恰好で……。
その私の眼の前で正木博士は、さもたまらなさそうに腹を抱えた。小さな身体から、あらん限りの大きな声をゆすり出して笑い痴《こ》け始めた。葉巻の煙にむせて、ネクタイを引き弛めて、チョッキのボタンを外して、鼻眼鏡をかけ直して、その一声ごとに、室中の空気が消えたり現われたりするかと思うほど徹底的に仰ぎつ伏しつ笑い続けた。
「ワッハッハッハッ。トテモ痛快だ。君は徹底的に正直だから面白いよ。アッハッハッハツハッハッ。ああおかし……ああたまらない……憤《おこ》ってはいけないよ君……今まで言ったのは嘘にも何にも、まっ赤なまっ赤な金箔付のヨタなんだよ……アハ……アハ……しかしけっして悪気で言ったんじゃないんだよ。本当はあの青年……呉一郎と君とが、瓜二つに肖通っているのを利用してチョット君の頭を試験してみたんだよ」
「……ボ……僕の頭を試験……」
「そうだよ。実をいうと吾輩はこれから、あの呉一郎の心理遺伝のドン詰まりの正体を君に話して聞かせようと思っているんだが、それにはもっともっとわからないことが、ブッ続けに出て来るんだからね。よほど頭をシッカリしていないととんでもない感違いに陥るおそれがあるんだ。現に今でも君の方から先にあの青年を『自分と双生児に違いない』なぞと信じて来られると、吾輩の話の筋道がスッカリこんがらがってめちゃになってしまうからちょっと予防注射をこころみた訳さ。アハハハハ」
私は本当に夢から醒めたように深呼吸をした。今更に正木博士の弁力に身ぶるいさせられつつ、今一度、頭の痛いところに手をやった。
「……しかし、僕のここんところが、今急に……疼《うず》き出したのは……」
と言いさして私は口をつぐんだ。また笑われはしまいかと思って、恐る恐る眼をパチつかせた。
しかし正木博士は笑わなかった。あたかもそうした痛いところが私の頭の上にあるのを、ズット以《ま》前《え》からチャンと知っていたかのように、こともなげな口調で、
「ウン……その痛みかい」
と言ってのけたので、笑われるよりも一層気味がわるくなった。
「それはね……それは今急に痛み出したのではない。今朝、君が眼を醒ました前からあったのを、今まで気がつかずにいたんだよ」
「……でも……でも……」
と私はまだふるえている指を一本ずつ正木博士の前で折り屈《かが》めた。
「……今朝から理《と》髪《こ》師《や》が一ペン……と、看護婦が一度と……その前に自分で何遍も何遍も……すくなくとも十遍以上ここんところを掻きまわしているんですけど……ちっとも痛くはなかったんですが……」
「何遍引っ掻きまわしていたって、おんなじことだよ。自分が呉一郎と全然無関係な、赤の他人だと思っている間は、その痛みを感じないが、一度、呉一郎の姿と自分の姿が生き写しだということがわかると、その痛みを突然に思い出す。……そこに精神科学の不可思議な合理作用が現われて来る……宇宙万有はことごとく『精神』を対照とする精神科学的の存在に過ぎないので、いわゆる唯物科学では、絶対、永久に説明できない現象が存在することを如実に証拠立て得ることになるという、トテモやかましい瘤《こぶ》なんだよ、それは……すなわち君の頭の痛みは、あの呉一郎の心理遺伝の終極の発作と密接な関係があるのだ。というのは呉一郎は昨夜《ゆうべ》、その心理遺伝の終極点まで発揮しつくして、壁に頭を打ちつけて自殺を企てたのだからね。その痛みが現在、君の頭に残っているのだ」
「……エッ……エッ……それじゃ……僕は……やはり呉一郎……」
「ママ……まあソンナに慌てるなってこと……虻《あぶ》の心は蜂《はち》知らず。豚の心は犬知らず。張三が頭を打たれても李四は痛くも何ともない、というのが普通の道理だ。すなわち唯物科学式の考え方なんだが」
正木博士は突然に、こんな謎《なぞ》のような言葉を、葉巻の煙と一緒にパクパク吐き出した。そうして私がその意味を飲み込めずに面喰っているうちに、片眼をつぶってしかめながらニヤニヤと笑い出した。
「しかるにだ……現在、君自身には赤の他人としか思えない呉一郎の頭の痛みが、いかなる精神科学の作用で、君自身の顱《ろ》頂《ちよう》骨《こつ》の上に残っているか……」
私は今一度窓の外を振り向いて、解放治療場の一隅にニコニコ笑いながら突立っている呉一郎の姿を凝視しないわけにはいかなかった。しかも、それと同時に私の頭の痛みが、何となく神秘的な脈動をこめて、新たに活き活き疼き出したように思えてならなかった。
その眼の前に正木博士は、またも一ぷく巨大な咽《けむり》の一団を吹き出した。
「……どうだい。この疑問が君自身で解決できそうかい」
「できません」
と私はキッパリ返事をした。頭を押えたまま……今朝眼が醒めた時と同じような情ない気持ちになって……。
「できなければ仕方がない。君はいつまでも、どこの誰やらわからない、風来坊でいるまでのことさ」
私は急に胸が一パイになって来た。それは親に手を引かれて知らないところを歩いていた小児が、急に親から手を放されて、逃げられてしまったような悲しさであった。思わず頭から手を放して両手を握り合わせた。拝むように言った。
「教えて下さい……先生。どうぞ、お願いですから……僕はもう、これ以上不思議なことに出《でつ》会《くわ》したら死んでしまいます」
「意気地のないことを言うな。ハハハハハ。そんなに眼の色を変えないでも教えてやるよ」
「どうぞ……誰ですか……僕は……」
「まあ待て……それをわからせる前に一ツ約束しておかなくちゃならんことがある」
「……ど……どんな約束でも守ります」
正木博士の顔から微笑が消え失せた。吐き出しかけた煙を口の中へ引っこめて、私の顔をピッタリと見据えた。
「……キット守るか……」
「キット守ります……どんな約束です……」
正木博士の顔にはまた、博士独特の皮肉な冷笑が浮かんだ。
「ナニ。君が今の通りのたしかな気持ちで『おれはどんなに間違っても呉一郎じゃないぞ』という確信をもって聞けば、別に大した骨の折れる約束ではないと思うが……つまり吾輩はこれから呉一郎の心理遺伝事件について、ドンドコドンのドン詰まで突込んだ、ステキな話を進めるつもりだが、その話の内容が、どんなに怖ろしい……または……あり得べからざることであろうとも我慢してお終《しま》いまで聞くか」
「聞きます」
「ウン……そうしてその吾輩の話がすんでから、その話の全部が一点の虚偽を交えない事実であることを君が認め得ると同時に、その事実を記録して、あの吾輩の遺言書と一緒に社会に公表するのが君の一生涯の義務である……人類に対する君の大責任である……ということがわかったならば、たとい、それがいかに君自身に取って迷惑な、かつ、戦《せん》慄《りつ》に価する仕事であろうとも必ずその通りに実行するか」
「誓って致します」
「ウム……それから今一つ……もしそうなった暁には、君は当然、あの六号室の少女と結婚して、あの少女の現在の精神異常の原因を取り除いてやる責任があることも同時に判明するだろうと思うが、そうした責任も君はその通りに果せるか」
「……そんな責任が本当に……僕にあるんでしょうか」
「それはその場になって、君自身が考えてみればいい……とにかく、そんな責任があるかないか……言葉を換えて言えば、呉一郎の頭の痛みが、どうして君のオデコの上に引っ越したかという理由を明らかにする方法は、すこぶる簡単明瞭なんだからね。物の五分間とかからないだろう」
「……そんな……そんな容《や》易《さ》しい方法なんですか」
「ああ、造作ないことなんだ。しかも理屈は小学生にでもわかるくらいで、吾輩の説明なぞ一言も加えないでいい。ただ、君があるところへ行って、ある人間とピッタリ握手するだけでいいのだ。そうするとそこに吾輩が予期している、ある素晴しい精神科学の作用が電光のごとく閃《きらめ》き起って……オヤッ……そうだったかッ……おれはこんな人間だったのかッ……と思うと同時に、今度こそホントウに気絶するかも知れぬ。もしかすると、まだ握手しないうちに、その作用が起るかも知れないがね」
「……それを今やってはいけないんですか……」
「いけない。断じていけない。今君が誰だということがわかると、今言った通りとんでもない錯覚に陥って、吾輩の実験をメチャメチャに打ち壊すおそれがあるんだ。だから君がスッカリ前後の事実を飲み込んで、それを一つの記録にして社会に公表すべく、吾輩の指図通りの手段を取るのをチャント吾輩の眼で見届けた上でなくちゃ、その実験をやるわけにいかないと言うのだ。……どうだ。できるかい……その約束が……」
「……でき……ます……」
「よろしい……それじゃ話そう……イヤ。話がべらぼうに固苦しくなった。こっちへ来たまえ……」
と言ううちに正木博士は、私の手をグングンと引っぱって、大卓子のところへ連れて来て坐らせた。自分も旧《もと》の肘掛廻転椅子に私と差し向いに坐ると、白い服のポケットからマッチを出して新しい葉巻に火をつけた。吸い残りの短いのは達《だる》磨《ま》の灰落しの口へタタキ込んだ。
私は窓の外が見えなくなったので、ホット重荷を卸したような気持ちになった。どうしても解けそうにない疑問の数々が、ますます深刻に交錯して来るのを、頭の中心にハッキリと感じながら……。
「イヤ。ばかに話が固苦しくなった」
と今一度わざとらしく繰り返した正木博士は、今までよりもずっと砕けた態度になって机の上に両肱をついた。その上に顎を載せて、長い葉巻を横ぐわえにしながら、ニヤニヤと私の顔をのぞき込んだ。
「ところでどうだい。君自身が何者かというような問題はとりあえず別にしておくとして、君は今朝見たあの少女をどう思うね」
私は質問の意味がわかりかねて眼をパチパチさせた。
「どう思う……とは……」
「美しいとは思わなかったかね」
不意打ちにこうした方角違いの質問を浴びせられた私は狼狽せずにはおられなかった。頭の中を羽虫のように飛びめぐっていた大小無数の「?《イントロゲーシヨンマーク》」が一時に消えうせて、その代りに黒く潤んだ眼……小さな紅い唇……青い長い三日月眉……ポーッと薄毛に包まれた耳……なぞがかわるがわる眼の前に浮かんで来たと思うと、私の首すじのあたりがポカポカと暖かくなるのを感じた。それにつれて、今しがた気絶しかけた時に飲まされたウイスキーの酔いが、グングンと身体中をめぐり始めたように思って、われ知らずハンカチで顔を拭いた。顔中から一面に湯気が湧き出すような気がして……。
正木博士はニヤニヤしたままで顎でうなずいた。
「フーム……そうだろう……そうだろう。あの少女が美しいかどうか訊かれて平気で返事のできる青年は、恋愛遊戯に疲れた不良連中か、または八犬伝や水《すい》滸《こ》伝《でん》に出て来る性的不能患者の後《こう》裔《えい》だからね……しかし君はあの少女を、それっきり何とも思わなかったかね」
私は本当を言うと、この時の私の心持ちをここに記録したくない。……がしかし、事実を偽ることはできない。私は正木博士からこう尋ねられたお陰で、あの少女に対する私の気持ちが、今朝初めて会った時以上に一歩も進み出ていないことを、この時初めて気が付いたのであった。ただ、その気味のわるいほどの初《うい》々《うい》しさと、眼も当てられぬイジラシイ美しさに打たれただけであった。どうかして正気に返してやりたい……この病院から救い出してやりたい……そうして思っている青年に会わしてやりたいと思い思いして来ただけであった。そうしてそれがはたして彼女に対する私の「恋の表現」の「変形」であったかどうか……なぞいうことを考えてみる暇《いとま》がなかったのであった。否……それ以上に深く自分の心を解剖するのを彼女に対する冒涜とさえ考えて、心の奥の奥で警戒していた……その図星を正木博士に指されたような気がしたので、私は何のタワイもなく赤面させられてしまったのであった。石のように固くなって、切口上で返事をしたのであった。
「え……可哀そうとは……思いました」
正木博士はこう聞くとサモ満足気に幾《いく》度《たび》も幾度もうなずいた。その態度を見ると正木博士はこの時に私があの少女を恋しているものと思い込んでしまったらしかったが、それを打ち消すだけの心の余裕も私は持たなかった。何とかして誤解をさせぬようにヤキモキ考えているうちに正木博士は、なおも悠々と念入りにうなずき直してしまった。
「そうだろうとも、そうだろうとも。美しいと思ったのは、すなわち恋したことだからね。そうでないという奴は似《え》非《せ》道徳屋……」
「……ソ……そんな乱暴に……セ……先生……誤解です……」
と私はあわててハンケチを持った手をあげつつ叫んだ。
……異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情欲とはみんな別物です。そんなのをゴッチャにした恋は錯覚の恋です……異性に対する冒涜です……精神科学者にも似合わない乱暴な言い草です……無茶苦茶です。それは……
というような反《はん》駁《ばく》の言葉を一時に頭の中で閃かしながら……。しかし正木博士はビクともしないでニヤニヤを続けた。
「わかってる、わかってる。弁解しなくともいい。君の方ではあの少女に恋なぞされるのは迷惑かも知れないが、まあ任せ給え。君があの少女を恋しているいないにかかわらず運命に任せ給え。そうしてその運命の結論をつけるべく、あらわれて来た君の頭の痛みとあの少女とがドンナ関係において結ばれているかという話を聞き給え……少々取り合わせが変テコだが。……そいつを聞いて行くうちには、法律と道徳のドッチから見ても、君とあの少女とは、ある運命の一直線上に向い合って立っていることがわかるからね。この病院を出ると同時に結婚しなければならぬことが、一切の矛盾や不可思議が解けるにつれて、逐一判明して来るからね」
こうした正木博士の言葉を聞いているうちに、私はまたも、ガックリとうなだれさせられてしまった。……しかし、それは赤面してうつむいたのではなかった。その時の私の気持ちは赤面どころではなかった。正木博士の言葉の中に含まれている、あらゆる不可思議な事実の中から、私の現在の立場を解決すべき焦点を、どうして発見しようかと、またも一所懸命に眼を閉じ、唇をかみ締めたのであった。今朝からの出来事を順々に、思い浮かめては考え合わせ、考え合わせては分解してみたのであった。
……正木、若林の両博士は、表面上無二の親友のように見せかけているが、内実は互いに深刻な敵意を抱き合っている仇讐《かたき》同士である。
……その仲《なか》違《たが》いの原因は、私と呉一郎を実験材料とした精神科学に関する研究から端を発しているらしく、今はその闘いが、白昼公々然とこの教室で行われるくらいにまで高潮して来ている。
……しかし、私とあの六号室の少女とを無理にも結婚させようとする意志だけは二人とも奇妙に一致しているようである。
……しかも、万に一つ私が、あの呉一郎と同一人か、もしくは呉一郎と同名、同年の、同じ姿の青年であって、あの少女がまた、呉モヨ子に相違ないとすれば、実に変テコなことになるのだ。すなわち私たち二人をその結婚の前夜に、ある精神科学的の犯罪手段に引っかけて、このような浅ましい運命に陥れたものは、この二人の博士以外にあり得ないように思われるではないか。……コンナ矛盾したことがまたとほかにあり得ようか。
……もっとも強いて解釈をつけようとすればつかぬこともない。二人の博士は何らかの学理研究の目的で一人の少女と、双《ふ》生《た》児《ご》の片ッ方か何かとを、見ず知らずの赤の他人同士のまま、わざわざ精神病患者にして、ある念の入った錯覚に陥れて、二人が本気でクッつき合うように仕向けている……と考えられぬこともないが、しかし、いくら何でもソンナ残忍不倫を極めた、奇怪千万な学理実験が、人間の心と人間の手で行われ得るとは考えられない。
……そもそもこうした矛盾と不可解は、どこの行き違いから来たものであろう。
……二人の博士はドウシテこんなに私を中心にして騒ぎまわるのであろう……。
……と……。
けれども、それは詰るところ無用の努力であった。そんな風に考えれば考えるほど一切がこんがらがって来て、推測すればするほど不可解にもつれ乱れて来るばかりであった。しまいには考えることも推測することもできなくなって、ただ、眉をしかめて、唇をかんでいる石像のような自分の姿を頭の中で想像しつつ、凝然と眼を閉じているばかりとなった……。
……コツコツ……コツコツ……扉をたたく音……。
私はギクンとして眼を見開いた。おびえたようになって入口の扉を見た。もしや若林博士ではないかと思って……けれども正木博士は見向きもしないで頬杖を突いたまま、ビックリするほど大きな声を出した。
「オーイ……入れエーッ……」
その声が室中に響き渡ると間もなく鍵穴をガチャガチャ言わせて、扉を半分ばかり開きながら入って来た者を見ると、それは九州帝国大学の紺のお仕着せを着たテカテカ頭の小使であった。もうよほどの老人らしく、腰をまっ二つに折り屈めていたが、右《め》手《て》に支えた塗盆の上に煤《すす》けた土瓶と粗末な茶碗二《ふた》個《つ》とを載せて、左《ゆん》手《で》にはカステラを山盛りにした菓子器を捧げながら、ヨチヨチと大卓子に近づいて、不思議そうな顔をして見ている正木博士の前においた。そうして何かにおびえているかのようにオドオドと禿《はげ》頭《あたま》を下げたが、揉み手をしいしい首をもたげて、正木博士と私の顔を霞んだ眼で等分にキョロキョロと見比べると、また一つ、床に手が届くくらいばか丁寧なお辞儀をした。
「ヘイヘイ、今日はまことによいお天気様で……ヘイヘイ……これはあの、学部長様からのお使いで、お二方様のお茶受けに差し上げてくれいとの、お申し付けでございましたが……ヘヘイ……」
「アハハハハハハ。そうかい。若林がよこしたのかい。フーム……イヤ御苦労御苦労。若林が自分で持って来たんかい」
「イエ……あの、学部長様から先《さき》刻《ほど》お電話がございまして、正木先生がまだおいでになるかとお尋ねでございましたから、私はビックリ致しまして、いかがか存じませぬがチョット見て参りましょうと申しまして、お室の外まで参りますと、お二人様のお声が聞えました。それで学部長様にさよう申し上げましたれば、それならば後から物を持たしてやるから、お茶受けに差し上げてくれいとのことで……ヘイ」
「ウン。そうかそうか。たしかに受け取った。暇なら話しに来いと電話で言っとけ。イヤ御苦労御苦労……入口の鍵は掛けなくともいいぞ」
「ヘヘヘイ。先生方がおいでになりますことはチョットも存じませんで……きょうは私一人でございますもんじゃけん、まだお掃除も致しませんで……まことに不行届きで……申訳ございません……ヘイヘイ……」
小使の爺は二人の前に、危っかしい手つきで茶を注《つ》いで出すと、何遍もお辞儀しいしい禿頭を光らせて出て行った。
そのあとを見送って、扉の閉まるのを見届けた正木博士は、イキナリ前屈みになってカステラの一片を手づかみにすると、たった一口に頬張り込んで熱い茶をグイグイと呑んだ。そうして私にも喰えという風に眼くばせをした。
しかし私は動かなかった。両手を膝の上に束ねて眼をみはったまま、正木博士のすることを見ていた。何かは知らず私にはわからない別の意味で、互いに火花を散らしているらしい二人の博士の緊張ぶりに心を惹《ひ》かれながら……。
「アハハハハハ。何もそんなに気味わるがることはないよ。これだから吾輩は悪党が好きなんだ。きゃつめ、吾輩が昨夜から徹夜をして、何も喰っていないことを知っていやがるんだ。そこで吾輩の大好物の長崎のカステラをよこして上杉謙信を気取りやがったんだ。病院の前で患者の見舞用に売っているシロモノだから何も心配することはない。猫イラズも何も入ってやしないよ。ハハハハハハハ」
と言ううちにまた二片《きれ》三片口の中へ押し込んで茶を立て続けに飲んだ。
「ああ美《う》味《ま》い。時にどうだい。これからもっと話を進めるんだが、その前に、今さっき読んだ呉一郎の前後二回の発作については、もう何も疑問の点は残っていないかい」
「あります」
と私は鸚《おう》鵡《む》返《がえ》しに返事をした。ところがその返事は、私の思いもかけないハッキリした声で飛び出して室中に大きな反響を起したので、私はわれながらハッとした。思わず坐り直して下腹へ力を入れた。
それはたった今眼の前で起った小さな波瀾……カステラ事件のために、今まで行き詰まっていた私の気持ちがクルリと転換させられたのかも知れない。それともツイ今しがた失神しかけた時に飲まされたウイスキーが、この時やっと、本当の利き目を現わして来たのであったかも知れないが、いずれにしてもこの時に、私の返事が室の中で「ウワーン」と反響して消え失せたのを耳にすると急に勇気付けられたような気持ちになりつつ、熱い茶を一杯グッと飲み込んだ……が、そのまたお茶の美味しかったこと……舌から食道へと煮え伝わって行く芳ばしい薫《かお》りを、クリ返しクリ返し味わって行くうちに、全身の関節がフンワリと弛んで、血の循環がズンズンとよくなって来るのがわかった。気持ちがユッタリとなって、頭がポッカリと軽くなって、われにもあらず濡れた唇をなめまわしながら、正木博士の顔を見据えたのであった。ウイスキー臭い、熱い鼻息をフーッと吹きながら……。
「……たとい理屈がどうなっていようとも自分自身を呉一郎と思うことは絶対にできない……」
と大きな声で宣言したいような気持ちになりつつ……。するとまた、不思議にも、それにつれて今の今まで私の身の上に起って来たいろいろの出来事が、まるで赤の他人のことのように考えられて何とも言えず面白くなって来たのであった。今朝から見たり聞いたりしたいろいろさまざまなことが、さながら百色眼鏡でも覗いているかのように、言い知れぬ興味と色彩とを帯びつつ、クルリクルリと眼の前で回転し始めると同時に、たった今まで、とてもオッカナイ、物騒な相手に見えていた二人の博士が、チットモ怖くなくなったばかりでなく、ステキに面白いオモチャ見たような存在に見えて来たのであった。
……二人の博士はキット何かしらとんでもない大きな感違いをしているのだ。
……ことによるとこの事件の真相は、思いもかけぬ阿呆らしい喜劇かも知れないぞ。
……私と瓜《うり》二つの青年がいて、二人共奇想天外式の精神病に罹っている。そのためにその二人が混線してしまって、ドッチがドッチだかわからなくなったのを、二人の博士が競争で見分けようとしてウンウン言っているが、どうしてもわからない。とうとう苦し紛れに、そのドッチかの許嫁であった少女をそのドッチかにくっつけて結論にして、その手柄を自分のものにすべく、あらゆるペテンを尽して鎬《しのぎ》を削っている……というような、途方もなく愉快奇抜な筋書とも見れば見られるではないか。……面白いな……いよいよソンナことに違いないと決《き》定《ま》れば二人の博士が私の敵だろうが味方だろうが、その二人が私にかけているダマシの手段が、いかに巧妙な恐ろしいものであろうが、チットモびくびくすることはない。是非とも私自身にこの事件の正体がわかるところまで突込んで行かなければ嘘だ。そうして事件の真相をトコトンまでえぐり付けて、あの少女をこのキチガイ地獄から救い出して、二人の博士の鼻を明かしたら、どんなにか痛快至極だろう……
……というような、むやみに大胆な、浮き浮きした気分にかわってしまったのであった。……室の中の爽《そう》快《かい》な明るさ……窓一パイの松の青さ……その中に満ち満ちている白昼の静けさなぞが、今更に気持ちよく、身に沁みて来たのであった。
しかし、こんな風に私の頭の中が変化してしまったのはほんの数秒の間のことであったように思う。間もなくわれに帰ってみると、正木博士は、そうした私の顔を鼻眼鏡越しにニヤリと眺めながら頭のうしろに両手をまわして反りかえっていた。私の質問を待っているかのように……
私はちょっとまごついた。どっちにしても質問したいことがあんまり多過ぎるので……しかし、どこからでもかまわない気で、眼の前の遺言書を取り上げてバラバラと繰って行くうちに、やがて事件記録抜萃の一番おしまいのところまで来ると、そこを指して正木博士に見せた。
「この……絵巻物の写真版と、その由来記を挿《そう》入《にゆう》のこと……と書いてあります。その本物はどうなっているのですか」
「アッ。そいつは……」
と言い終らぬうちに正木博士は両手を卸して、大卓子の端をドシンと叩いた。
「……そいつはうっかりしていたよ。ハッハッハッ。君の記憶を回復させようというので夢中になっていたもんだから、カンジンカナメのものを見せるのを忘れていた。そいつを見なくっちゃ呉一郎の心理遺伝の正体はわからない。吾輩の遺言書も、仏作って魂入れずだ。ハハハハハハ……イヤ失敗失敗。睡眠不足で頭が少々ござったかナ……イヤ。早速お眼にかけよう。コレ……ここにあるがね」
正木博士はこう言って頭を掻きつつ、片手を伸ばして横にあるメリンスの風呂敷包みを引き寄せた。手早く結び目を解いて、中から長方形の新聞包みと、厚さ二寸くらいの西洋大判罫紙《フールスカツプ》の綴《とじ》込《こ》みを抱え出すと、わざわざ北側の窓のところまで持って行って風呂敷をハタイた。
「……プッ……プップッ……どうもヒドイホコリだ。長いことストーブの穴に放り込みっ放しだったもんだからね。……ところで見給え。この綴込みが姪の浜事件に関する若林の調査書で君が読んだ、その抜萃の原本だ。あの肺病患者特有の冴《さ》え返った神経で、二重にも三重にも、透きとおるほど綿密に調べ抜いてあるんだから、トテモやりきれたものじゃない。だから読むにしてもいずれ後からユックリのことにしてもらって、今日はとりあえずこの絵巻物と、その由来記を見てもらうことにしよう……ところでまず由来記の方から読んでもらうかナ。そのあとで絵巻物を見た方が面白いだろうからナ……」
こうした言葉のうちに新聞の包みが開かれると、その中の白木の箱の上に置いてある日本紙一帖くらいの綴込みが、無造作に私の前に投げ出された。
「それはこの絵巻物の奥付になっている由来記の写しだ。つまりこの如月寺の縁《えん》起《ぎ》譚《ものがたり》の前に起った出来事で、今からおよそ一千百年前の大昔から始まった呉一郎の心理遺伝のソモソモが書いてあるんだが、君がそれを読んでいるうちに……ハテナ……これはズット以前にコンナところでこうして読んだことがあるぞ……という事実をハッキリと思い出すか出さないかが、やはり若林と吾輩の生死の別れ目になるんだ。ね。そうだろう。それを読んだ記憶が一分一厘でも君のアタマに残っておれば、君は呉一郎に相違ないのだからね……ハハハハ……とにかく読んでみたまえ。遠慮することはない。すてきに面白い話だから……」
私はそれがいかに貴重な内容の書類であるかを百も承知していながら……しかもその書類によって正木博士が、私に試みつつある精神科学の実験が、いかに重大深刻な意味を持っているかを、察し過ぎるくらい察していながら、すこしもそんな緊張した気持ちになれなかったのは不思議であった。あるいは飲んだばかりのウイスキーが、いくらか利いていたせいでもあったろうが、かえって正木博士の真似でもするかのように無造作に、その綴込みを取り上げて、やはり無造作にその第一ページを翻したが、見ると中には四角い漢字がまっ黒に押し固まって、隙《すき》間《ま》もなく並んでいるのであった。
「ワー。こりゃあ漢文……しかも白文じゃありませんか。句読《くぎり》も送り仮名も何も付いてない……トテモ僕には読めません、これは……」
「フーン。そうかい。フーン、それじゃ仕方がないから、とりあえずその内容の概《あら》要《まし》を、吾輩が記憶している範囲で話しておくかね」
「ドウカそうして下さい」
「……ウーイ……」
と正木博士は〓《おく》気《び》をしながら反り返った。スリッパをはいたまま椅子の上に乗って、両膝を抱えるとクルリと南側を向いて、頭の中を整理するように眼を半開にして窓の光を透かしながら、ホッカリと青い煙を吐いた。
私もウイスキーがまわったせいか、何となく倦《だる》いような、睡たいような気持ちになりつつ、机の上に両肱を立てて顎を載せた。
「……ゲップ……ウーイイ……と、そこでだ。そこで大唐の玄宗皇帝というと今からちょうど一千一百年ばかり前の話だがね。その玄宗皇帝の御代も終りに近い、天宝十四年に、安《あん》禄《ろく》山《ざん》という奴が謀《む》反《ほん》を起したんだが、その翌年の正月に安禄山は僭《せん》号《ごう》をして、六月、賊、関に入る。帝《みかど》出奔して馬《ば》嵬《かい》に薨《こう》ず。楊国忠、楊貴妃、誅に伏す……と年代記にある」
「……ハア……よく記《お》憶《ぼ》えておられるんですねえ、先生は……」
「歴史の面白くないところは、暗記しとくもんだよ。……ところでその玄宗皇帝が薨じたのは年代記の示す通り天宝十五年に相違ないらしいが、それより七年以《ま》前《え》の天宝八年に、范《はん》陽《よう》の進《しん》士《し》で呉《ご》青《せい》秀《しゆう》という十七、八歳の青年が、玄宗皇帝の命を奉じ、彩管を笈《お》うて蜀《しよく》の国に入り、嘉《か》陵《りよう》江《こう》水《すい》を写し、転じて巫《ふ》山《ざん》巫《ふ》峡《きよう》を越え、揚子江を逆航して奇勝名勝を探り得て帰り、蒐《あつ》むるところの山水百余景を五巻に表装して献上した。帝これを嘉賞し、故翰《かん》林《りん》学《がく》士《し》、芳九連の遺子黛《たい》女《じよ》を賜う。黛はすなわち芬《ふん》の姉にして互いに双《ふ》生《た》児《ご》たり。相並んで貴妃の侍女となる。時人これを呼んで花《か》清《せい》宮《きゆう》裡《り》の双《そう》〓《きょう》と称す。時に天宝十四年三月。呉青秀二十有五歳。芳黛十有七歳とある」
「こりゃあ驚いた。トテモ記《お》憶《ぼ》えきれない。それもヤッパリ年代記ですか」
「イヤ。これは違う。『黛女を賜う』という一件の前後までは『牡《ぼ》丹《たん》亭《てい》秘《ひ》史《し》』という小説に出ている。その小説には玄宗皇帝と楊貴妃が、牡丹亭で喋《ちよう》々《ちよう》喃《なん》々《なん》の光景を、詩人の李太白が涎《よだれ》を垂らして牡丹の葉陰から見ている絵なぞがあって、支那一流の大甘物だが、その中でも、呉青秀に関する記述の冒頭だけは、この由来記の内容と一字一句違わないから面白いよ。そのうち文科の奴に研究させてやろうと思うが、第一非常な名文で、思わず識らず暗記させられるくらいだ」
「そうですかねえ。でも何だか、漢文口調のお話は、耳で聞いただけではわからないようですね。その使ってある字を一々見て行かないと……」
「ウン。それじゃモット柔かく行くかナ」
「ドウゾ……助かります」
「ハハハハハハ。要するにこの玄宗皇帝というおやじは、楊貴妃と一緒にお祭りの行《あん》燈《どん》絵《え》に描かれるくらいで、古今のデレリック大帝だ。四《し》夷《い》を平らげ、天下を治め、兵農を分ち、悪銭を禁じ……と来たまではよかったが、楊貴妃に鼻毛を読まれて何でもオーライで、兄貴の楊国忠を初め、その一味の碌でなし連中をドンドン要職に引き上げた。つまり忠臣を逐《お》い出して奸《かん》臣《しん》を取り巻きにして、太平楽を歌ったわけだね。あげくの果ては驪《り》山《ざん》宮《きゆう》という宏《こう》大《だい》もない宮殿の中に、金銀珠玉を鏤《ちりば》めた浴《バ》場《ス》を作って、玉のような温泉を引いて、貴妃ヤンと一緒に飛び込んで……お前とオーナラバ、ドコマデモオ……と来たね」
「ウワア。やわらか過ぎます。……それじゃア」
「イヤ。真面目に聞いてくれなくちゃ困る。チャン公一流のヨタなんかコレンバカリも混っていないんだぜ。これが、あの四、五年前に流行した『ドコマデモ』という俗謡の本家本元なんだ。チャント記録に残っているんだ」
「……ヘエ。そんなもんですかね」
「そうだとも。第一お前さんと一緒ならサハラだのナイヤガラ見たような野《や》暮《ぼ》なところへは行かない。一緒に天に昇って並んだ星になって、下界の人間をトコトンまで羨《うらや》ましがらせましょうというんだからやりきれないよ。覗いて聞いていた奴もタイシタ奴に違いないが……」
「しかし、それが絵巻物とドンナ関係があるんですか」
「大ありだ。まあ急《せ》かないで聞き給え。大陸の話だからナカナカ焦点が纏《まと》まらないんだよ。いいかい……こんな文化式の天子だから玄宗皇帝は芸術ごとが大好きで、李太白なぞいう、呑んだくれの禿《とく》頭《とう》詩人を贔《ひい》屓《き》にして可愛がる一方に、当時、十九か十八ぐらいの青年進士呉青秀に命じて、遍《あま》ねく天下の名勝をスケッチして廻らせた。すなわちいながらにして天下を巡《じゆん》狩《しゆ》しようと言う、有難い思召だ……ドウヤラ貴妃様の御注文らしいがね」
「絵の天才だったのですね、その青年は……」
「むろんさ。十八、九の青年のくせに、古今に名高い禿頭の大詩人、李太白の詩と並ぶ絵を描く奴だから、生優しい腕前じゃないよ。もっとも運が悪く夭《わか》死《じ》にしたために、名前も描いたものも余り残っていない。前にも言った通り、その頃の記録にはもちろんのこと、近頃の年代記類にも記載してあるにはあるが、書物によって年代や名前が少しずつ違っていて、確実なところはわからないようになっている。しかし、何しろここに詳しいことを記載した実物の証拠があるんだから、将来の史学家はイヤでもこの方を本当にしなければなるまいて」
「そうするとその絵巻物はトテモ貴重な参考史料なんですね」
「貴重などころの騒ぎじゃない……ところで話はすこし前に帰るが、その青年進士呉青秀は、天子の命を奉じてスケッチ旅行を続けている間がチョウド六年で、久し振りの天宝十四年に長安の都に帰って来ると、そのお土産《みやげ》の風景絵巻がすこぶる天子の御意に召して、御機嫌斜めならず、芸術家としての無上の面目を施した上に、黛子さんという別《べつ》嬪《ぴん》の妻君をもらった。おまけにチョウド水入らずで暮せるような、美しいお庭付きの小ヂンマリした邸宅を拝領したりして、トテモ有り難いことずくめだったので、しばらくは夢うつつのように暮していたわけだね。ところがそのうちに、だんだんと落ち着いて来ると、時あたかも大唐朝没落の前奏曲時代で、兇徴、妖《よう》〓《げつ》、頻《ひん》々《ぴん》として起り、天下大乱の兆が到るところに横溢しているのに気が付いた。しかも天子様はイクラお側の者が諫《いさ》めても糠《ぬか》に釘《くぎ》どころか、ウッカリ御機嫌に触れたために、冤《えん》罪《ざい》で殺される忠臣が続々という有様だ。……これを見た呉青秀は喟《い》然《ぜん》として決するところあり、一番、自分の彩筆の力で天子の迷夢を醒まして、国家を泰山の安きに置いてやろうというので、新婚匆《そう》々《そう》の黛夫人に心底を打ち明けて、ここで一つ天下のために、お前の生命《いのち》を棄ててくれないか。いずれ自分も、あとから死んで行くつもりだが……と言ったところが……あなたのおためなら……という嬉しそうな返事だ……」
「トテモすてきですね」
「純然たる支那式だよ。それから呉青秀は大秘密で大工や左官を雇って、帝都の長安を距《さ》る数十里の山中に一ツの画房を建てた。つまりアトリエだね。しかしその構造は大分風変りで、窓を高く取って外から覗かれないようにして、まン中に白布を蔽うた寝台を据え、薪《しん》炭《たん》菜肉、防寒防《ぼう》蠅《よう》の用意残るところなく、籠《ろう》城《じよう》の準備が完全に整うと、黛夫人と一緒にコッソリ引き移った。そうしてその年の十一月の何日であったかに、夫婦は更に幽界でめぐり会う約束を固め、別離の盃、哀傷の涙よろしくあって、やがて斎《さい》戒《かい》沐《もく》浴《よく》して新たに化粧を凝らした黛夫人が、香煙縷《る》々《る》たる裡《うち》に、白衣を纏うて寝台の上に横たわったのを、呉青秀が乗りかかって絞め殺す。それからその死骸を丸《まる》裸体《はだか》にして、肢体を整え、香《こう》華《げ》を撒《さん》じ神符を焼き、屍《し》鬼《き》を祓《はら》い去った呉青秀は、やがて紙を展《の》べ、丹青を按配しつつ、畢《ひつ》生《せい》の心血を注いで極彩色の写生を始めた」
「……ワア……凄《すご》いことになったんですね。さっきの縁起書とは大違いだ」
「……呉青秀は、こうして十日目ごとにかわって行く夫人の姿を、白骨になるまで約二十枚ほどこの絵巻物に写し止めて、玄宗皇帝に献上し、その真に迫った筆の力で、人間の肉体のはかなさ、人生の無常さを眼の前に見せてゾッとさせる計画であったという。ところが何しろ防腐剤などというものがない頃なので、冬分ではあったが、腐るのがだんだん早くなって、一つの絵の写し初めと写し終りとはまるで姿が違うようになった。とうとう予定の半分も描き上げないうちに屍体は白骨と毛髪ばかりになってしまった……というのだ。……あるいは科学的の知識が幼稚なために、土葬した屍体の腐り加減を標準にして計画したのかも知れないが……何にしても恐ろしい忍耐力だね」
「あんまり寒いから火を焚《た》いて室を暖めたせいじゃないでしょうか」
「……ア……ナルホド。暖房装置か、そいつはウッカリして気が付かずにいた。零下何度じゃ絵筆が凍るからね……とにかく忠義一遍に凝り固まって、そんな誤算があることを全く予期していなかった呉青秀の狼狽と驚《きよう》愕《がく》は察するに余りありだね。新品卸し立ての妻君を犠牲にして計画した必死の事業が、ミスミス駄目になって行くのだから……号《ごう》哭《こく》起《た》つ能《あた》わずとあるが道《もつ》理《とも》千万……ついに思えらく、われ、一《ひと》度《たび》天下のために倫《りん》常《じよう》を超ゆ。復《また》、何をか顧んという、破れかぶれの死に物狂いだ。そこいら界《かい》隈《わい》の村里へ出て、美しい女を探し出すと、馴れ馴れしく側へ寄って、あなたの絵姿を描いて差上げるからと佯《いつわ》って、山の中へ連れ込んで、打ち殺してモデルにしようと企てたが……」
「ウワア……トテモ物騒な忠君愛国ですね」
「ウン。こんな執念深さは日本人にはないよ。けれども何をいうにも、ソウいう呉青秀の風《ふう》采《さい》が大変だ。頬が落ちこけて、鼻が突《と》んがって、眼光竜鬼のごとしとある。おまけに蓬《ほう》髪《はつ》垢《こう》衣《い》、骨《こつ》立《りゆう》悽《せい》愴《そう》と来ていたんだからたまらない。袖を引かれた女はみんな仰天して逃げ散ってしまう。これを繰り返すこと累《るい》月《げつ》。足跡遠近におよんだので、評判がしだいに高くなって、どの村でもこの村でも見付けしだいに追い散らしたが、幸いにして山の中の隠れ家を誰も知らなかったので、生命《いのち》だけは辛うじて助かっていた。しかれども呉青秀の忠志はついに退かず、至難に触れてますます凝る。ついに淫《いん》仙《せん》の名を得たりとある。淫仙というのはつまり西洋の青髯《ブルーベヤード》という意味らしいね」
「ヘエ……しかし淫仙は可哀そうですね」
「ところがこの淫仙先生はチットモ驚かない。今度は方針を変えて婦女子の新葬を求め、夜陰に乗じて墓を発《あば》き、屍体を引きずり出して山の中に持って行こうとした。ところが俗にも死人担ぎは三人力というくらいで、強直の取れたグタグタの屍体は、重量の中心がないから、ナカナカ担ぎ上げ難《にく》いものだそうな。それを一所懸命とはいいながら、絵筆しか持ったことのない柔弱な腕力で、できるだけ傷をつけないように、山の中まで担いで行こうというのだから、並大ていの苦労ではない。彼方《あつち》に取り落し、此方《こつち》へ担ぎ直して、喘ぎ喘ぎ抱きかかえて行くうちに、早くも夜が明けて百姓たちの眼に触れた。かねてから淫仙先生の噂《うわさ》を耳にしていた百姓たちは、これを見て驚くまいことか、テッキリ屍《し》姦《かん》だ、極重悪人だというので、ワイワイ追いかけて来たから、淫仙先生もやむをえず屍体を抛棄して、山の中に姿を隠したが、もう時候は春先になっていたのに、二、三日は、その背中に担いだ屍体の冷たさが忘れられなくて、いくら火を焚いても歯の根が合わなかったという」
「よく病気にならなかったものですね」
「ウン。風《か》邪《ぜ》ぐらい引いていたかも知れないがね。思い詰めている人間の体力は超自然の抵抗力をあらわすもんだよ。いわんや呉青秀の忠志は氷雪よりも励《はげ》しとある。四、五日も画房の中にジッとして、気分を取り直した呉青秀は、またも第二回の冒険をこころみるべく、コッソリと山を降って、前とは全然方角を違えた村里に下り、一梃の鍬を盗み、とある森陰の墓所に忍び寄ると、意外にも一人の女性が新月の光に照らされた一基の土饅頭の前に、花を手向けているのが見える。この夜更けに不思議なことと思って、ひそかに近づいてみると、件《くだん》の女性は、遠いところの妓楼から脱け出して来た妓女《おんな》らしく、春装を取り乱したまま土盛りの上にヒレ伏して『あなたは何故に私を振り棄てて死んだのですか』と掻《か》き口《く》説《ど》く様子を見ると、いかさま、相思の男の死を怨む風《ふ》情《ぜい》である。忠義に凝った呉青秀は、この切々の情を見聞してさすがに惻《そく》隠《いん》の情に動かされたが、強いて心を鬼にして、その女の背後《うしろ》に忍び寄り、持っていた鍬で、一撃の下に少女の頭骨を砕き、用意して来た縄《なわ》で手足を縛って背中に背負い上げ、鍬を棄てて逃げ去ろうとした。するとたちまち背後の森の中に人音が聞えて、女の追手と覚しき荒くれ男の数名が口々に『すわこそ淫仙よ』『殺人鬼よ」『奪屍鬼よ』と罵《ののし》りつつ立ち現われ、前後左右を取り巻いて、取り押えようとした。呉青秀は、これを見て怒心頭に発し、屍体を投げ棄てて大喝一番『わが天業を妨ぐるかッ』と叫ぶなり、百倍の狂暴力をあらわし、組み付いて来た男を二、三人、墓原にタタキ付け、鍬を拾い上げて残る人数をタタキ伏せ追い散らしてしまった。その隙《ひま》に、またも妓女の屍体を肩にかけてドンドン山の方へ逃げ出したが、エライもので、とうとう山伝いに画房まで逃げて来ると担いで来た屍体を浄《きよ》めて黛夫人の残骸の代りに床上に安置し、香華を供え、屍鬼を祓いつつ、悠々と火を焚いて腐爛するのを待つことになった。ところがそのうちにまた、二、三日経つと、思いもかけぬ画房の八方から火《ひ》烟《けむり》が迫って来て、鯨《ときの》波《こえ》がドッと湧き起ったので、何事かと驚いて窓から首をさし出してみると、画房の周囲は薪《まき》が山のごとく、その外を百姓や役人たちが雲《うん》霞《か》のごとく取り巻いて気勢を揚げている様子だ。つまり何者かが、コッソリ呉青秀の跡をつけて来て、画房を発見した結果、こんなに人数を馳《か》り催して、火攻めにして追い出しにかかったわけだね。その時に呉青秀は、この未完成の絵巻物の一巻と、黛夫人の髪毛の中から出て来た貴妃の賜物の夜光珠……ダイヤだね……それから青琅〓の玉、水晶の管なぞの数点を身に付けて、生命《いのち》からがら山林に紛れ込んだが、それから追捕を避けつつ千辛万苦すること数か月、やっと一か年振りの十一月の何日かに都に着くと蹌《そう》踉《ろう》としてわが家の門を潜った。既に死生を超越した夢心地で、恍《こう》惚《こつ》求むるところなし。何のために帰って来たのか、自分でもわからなかったという」
「……ハア。ホントに可哀そうですね、そこいらは……」
「ウム。ちょうど生きた人魂だね。さて門を入って見ると北風枯《こ》梢《しよう》を悲断して寒庭に抛《なげう》ち、柱傾き瓦《かわら》落ちて流《りゆう》〓《けい》を傷《いた》むという、さんざんな有様だ。呉青秀はその中を踏みわけて、自分の室に来て見るには見たものの、サテどうしていいかわからない。妻の姿は愚か烏《からす》の影さえ動かず。錦《きん》繍《しゆう》帳《ちよう》裡《り》に枯葉を撒ず。珊《さん》瑚《ご》枕《ちん》頭《とう》呼べども応えずだ。涙滂《ぼう》沱《だ》として万感初めて到った呉青秀は、長恨悲泣ついにおよばず。几《き》帳《ちよう》の紐《ひも》を取って欄間にかけ、妻の遺物を懐にしたまま首を引っかけようとしたが、その時遅くかの時早く、思いもかけぬ次の室から、まっ赤な服を着けた綽《しやく》灼《やく》たる別嬪さんが馳け出して来て……マア……アナタッと叫ぶなり抱き付いた」
「ヘエー。それは誰なんですか一体……」
「よく見ると、それは、自分が手ずから絞め殺して白骨にして除《の》けたはずの黛夫人で、しかも新婚匆々時代の濃艶を極めた装いだ」
「……オヤオヤ……黛夫人を殺したんじゃなかったんですか」
「まあ黙って聞け。ここいらが一番面白いところだから……そこで呉青秀はスッカリ面喰ったね。ウーンというなり眼を眩《まわ》してしまったが、その黛夫人の幽霊に介抱をされてヤット息を吹き返したので、今一度、気を落ち着けてよく見ると、また驚いた。タッタ今まで新婚匆々時代の紅い服を着ていた黛子さんが、今度は今一つ昔の、可憐な宮女時代の姿に若返って、白い裳《もすそ》を長々と引きはえている。鬢《びん》鬟《かん》雲のごとく、清《せい》楚《そ》新花に似たり。年の頃もやっと十六か七くらいの、無《む》垢《く》の少女としか見えないのだ」
「……不思議ですね。そんなことがあり得るものでしょうか」
「ウン。呉青秀も君と同感だったらしいんだ。危くまた引っくり返るところであったが、そのうちに、ようようの思いで気を取り直して、どうしてここに……と抱き上げながら、その少女の頭のテッペンから爪の先まで、ヨクヨク見上げ見下してみると、何のことだ……それは黛夫人の妹で、双《ふ》生《た》児《ご》の片われの芬《ふん》子《こ》嬢であった」
「ナアンダ。やっぱりそうか。しかし面白いですね。芝居のようで……」
「どこまでも支那式だよ。そこでヤット仔《わ》細《け》がわかりかけた呉青秀は、芬子さんを取り落したまま、開いた口が閉がらずにいると、その膝に両手を支えた芬子さん、まっ赤になっての物語に曰く……ほんとにすまないことを致しました。さぞかしビックリなすったことでござんしょう。何をお隠し申しましょう。あたしはズット前からタッタ一人でこの家に住んでいて、姉さんが置いて行った着物を身に着けて、スッカリ姉さんに化け込みながら、毎日毎日お義《に》兄《い》さまに仕える真似事をしていたんです。……あたしの主人の呉青秀はこの頃毎日室に閉じ籠って、大作を描いておりますと言い触らして、食料も毎日二人前ずつ見計らって買い入れるし、時折りは顔料《えのぐ》や筆なぞを仕入れに行ったりしてごまかしていましたので、近所の人々は皆《みんな》……この天下大乱のサナカにそんなに落ち着いて絵を描くとは、何という豪い人だろうと……眼を丸くして感心していたくらいです。……あたしはそんなにまでして苦心しいしい、お二人のお留守番をして、お帰りになるのを今か今かと待ちながら、この一年を過したのですが、今日も今日とてツイ今しがた、買物に行って帰って来ますと、この室に物音がします。その上に誰か大きな声でオイオイ泣いているようなので、怪しんで覗いて見たら、お義兄さまが死のうとしていらっしゃるのでビックリして、そのままの姿で抱き止めたのです。それから気絶なすったあなたを介抱しておりますと、弛んだあなたの懐《ふと》中《ころ》から、固く封じた巻物らしい包みと、姉さんが大切にしていた宝石や髪飾りが転がり出して来ました。それと一緒にあなたが夢うつつのまま、どこかを拝む真似をしながら……黛よ。許してくれ、お前一人は殺さない……と泣きながら譫《うわ》言《ごと》をおっしゃったので、サテは姉さんはモウお義兄さまの手にかかって、お亡くなりになったのだ……そうしてお義兄様はあたしを姉さんの幽霊と間違えていらっしゃるのだ……ということがヤットわかりましたから、お義兄さまの惑いを晴らすために、急いで自分の一帳羅服に着かえてしまったのです。……ですが一体お義兄さまは、どうして黛子姉さんをお殺しになったのですか。そうして今日が日まで一年もの長い間、どこで何をしていらっしたんですか……と涙ながらに詰め寄った」
「ハア……しかし何ですね。……その前にその芬子という妹は、何だってソンナ奇怪《おかし》な真似をしたんでしょうか。姉さんの着物を着て、その夫に仕える真似事をしたりなんか」
「ウンウン……その疑問ももっともだ。呉青秀もやっぱり同感だったろうと思われるね。それともまだ開いた口が塞《ふさ》がらずにいたのかも知れないが、何の答えもあらばこそだ。依然として芬子嬢の顔を見下したまま唖然放心の体でいると、やがて涙を拭いた芬子嬢は、幾度もうなずきながら、また曰く……ごもっともでございます。これだけ申上げたばかりではまだご不審が晴れますまいから、順序を立ててお話しましょう……お話はずっと前にさかのぼってちょうど去年の暮のことです。……姉さんが宮中を去ってからというものは、ほかに身寄り頼りのないあたしの淋しさ心細さが、日に増し募って行くばかりでした。そのうちにまた、ちょうど去年の今月の、しかも今日のこと……大切な大切なお義兄さまたちご夫婦が、ほかならぬあたしにまでも音《おと》沙《さ》汰《た》なしで、不意に行方を晦ましておしまいになったと聞いた時のあたしの驚きと悲しみはどんなでしたろう。一晩中寝ずに考えては泣き、泣いては考え明かしましたが、思いに余ったその翌《あく》る日のこと、楊貴妃様から暫時《しばし》のお暇を頂いたあたしは、お二人の行方を探し出すつもりで、とりあえずこの家に来て見ました。そうしてあたしを見送って来た二人の宦《かん》官《がん》と、家の番をしていた掃除人を還《かえ》してから、ただ一人で家内の様子を隈《くま》なく調べてみますと、姉さんは死ぬ覚悟をして家を出られたらしく、結婚式の時に使った大切な飾り櫛《ぐし》をまっ二つに折って白紙に包んだまま、化粧台の奥にしまってあります。けれども義兄さんの方は、そんな模様がないばかりか、絵を描く道具をスッカリ持ち出していらっしゃる様子……これには何か深い仔《わ》細《け》があることと思いながら、そのままこの家に落ち着くことにきめましたが、それからというものは今も申しました通り、スッカリ姉さんに化けてしまって、義兄さんと一緒に帰って来ているような風にできるだけ見せかけておりました。仕合せと義兄さんは子供の時から絵を描き始められると、何日も何日も室に閉じ籠って、けっして人にお会いにならない。ご飯もろくに召し上らないことが多かったと聞いていましたから、近所の人やお客様を欺すのには、ホントに都合がよかったのです。……しかしなぜあたしがこんな奇怪《おかし》なことをしていたのかと申しますと、これはジットしていながら、お二人の行方を探すのに一番都合の良い工夫だと思ったからです。つまりこうしておりますと、お二人とも世にも名高い御夫婦ですから、万一ほかでお姿を見た者があるとしたら、すぐにあたしが怪しまれます。そうしたらそれと一緒に、お二人の行方もわかることになるのですから、その時にあとを追うて行けばよい。女の一人身で知らぬ他国を当てどもなく探しまわったとて、なかなか見つかるものではない……と思いついたからのことです」
「……ヘエ……その妹はなかなかの名探偵ですね」
「ウン……この妹の方は姉と違ってチョットお侠《きやん》なところがあるようだが、なおも言葉を続けて曰くだ……しかしあたしのこうした計画は余り利き目がありませんでした。……というのはあたしがこの家に来てから十日も経たぬうちに天下はたちまち麻と乱れて兵馬都《と》巷《こう》に満ち、迂《う》闊《かつ》に外へも出られないようになった。……のみならず、お金はなくなる。家は荒廃する。仕方なしにあたしは此《こ》家《こ》の台所に寝起きをして、自分の身に付いたものはもちろんのこと、義兄さん夫婦の家具家財や衣類なんぞを売り喰いにしていましたが、その中でも一番最後に残しておいたのが姉の新婚匆々時代の紅い服一着と、自分が着ていた宮女の服一着でした。その中でもまた、この紅い服は、あくまでもあたしを姉さんと認めさせるために外出着としていたものです。また、宮女の服というのは、あたしの忘れられない思い出と一緒に取っといたのですが、楊貴妃時代のスタイルで、ウッカリ持ち出すと反逆者の下役人に見《み》咎《とが》められるおそれもありますので、ソックリそのまま寝間着に使っていたのでした。あたしはこの一年の長い間、こんなにまで苦心してお帰りを待っていたのです。……それだのに、あなたはイッタイ何のために、姉さんを殺しておしまいになったんですか。そうしてここへ何しに帰って見えたんですか。そのお姿はどうなすったんです。姉さんを殺されたくらいなら、あたしもついでに殺してちょうだい……と言ううちに、ワッとばかりに泣き出した」
「ずいぶん姉思いの妹ですね」
「ナアニ。前から呉青秀にモーションをかけていたんだよ」
「……ヘエ……どうしてわかります」
「……どうしてって素振りが第一訝《おか》しいじゃないか。生娘のくせに、亭主持ちの真似をして、一年近くも物凄い廃《あばら》屋《や》に納まっているなんて、ナカナカ義理や物好きではできるものじゃないよ。その間に人知れぬ希望と楽しみがなくちゃ……しかも姉の新婚匆々時代の紅い服を着て歩きまわるところなんぞは、ドウ見ても支那一流の、思い切った変態性欲じゃないか。あるいは玄宗皇帝時代に、空《くう》閨《けい》に泣いていたおびただしい宮女たちから受けた感化かも知れないが」
「……ですけども、自分はそう思っていないじゃないですか」
「むろん、そんな自省力を持ち得る年頃じゃないさ。殊に女だから、どんなデリケートな理屈でも自由自在に作り上げて、勝手気《き》儘《まま》な自己陶酔に陥って行ける訳さ。気持ちの純な、頭のいい人間の変態心理は、ナカナカ見分けがつきにくいんだよ。……その代りこっちの眼さえ利いてくれば、そこいらの無邪気な赤ん坊や、釈迦、孔子、キリストにでもいろんな変態心理を見出すことができる」
「……驚いたなあ。……そんなもんですかナア……」
「まだまだ驚く話が、今までの話の裏面に隠れているんだが、それはあとから説明するとして、サテ、少々話が長くなったから端折って話すと、その時に呉青秀に迫って、根掘り葉掘り、これまでの事情を聞いた上に、現実の証拠として、自分とソックリの姉の死像を描いた絵巻物を開いて見せられた芬子嬢は、実に断腸、股《こ》栗《りつ》、驚《きよう》駭《がい》これを久しゅうした。けれども結局、義兄夫婦の忠勇義烈ぶりにスッカリ感激して号泣慟《どう》哭《こく》して言うには、蒼天蒼天、何ぞかのごとく無情なる。あなたは御存知あるまいが、あなたが姉さんの亡《なき》骸《がら》を写生し始めた昨年の十一月というのが安禄山が謀反を起した月で、天宝の年号は去年限り、今は安禄山の世の至徳元年だ。天子様も楊貴妃様も、この六月に馬《ば》嵬《かい》で殺されておしまいになった。せっかくの忠義も水の泡です。それよりもあたしと一緒に、どこかへ逃げて下さらない……とキワドイところで口説き立てた」
「無鉄砲な女ですね。また殺されようと思って……」
「イヤ。今度は大丈夫なんだ。……というのは呉青秀先生、自分の全部を投げ出してかかった仕事がテンからペケだったことが、芬子の説明で初めてわかったのだ。そこでアメリカをなくしたコロンブスみたいにドッカリとそこへ坐ると、茫然自失のアンポンタン状態に陥ったまま、永久に口が利けなくなってしまったのだ。旧式の術語で言うと、心理の急変から来る自家障害というやつだね。……そいつを見ると芬子さんイヨイヨ気の毒になって、天を白《に》眼《ら》んで安禄山の奸を悪《にく》んだね。同時にこの忠臣のお守りをして、玄宗皇帝や楊貴妃の冥《めい》福《ふく》を祈りつつ一生を終ろうという清《せい》冽《れつ》晶玉のごとき決心を固めた……と告白しているが、実は大馬力をかけたお惚《のろ》気《け》だね」
「……まさか……」
「イヤ。それに違いないんだ。後で説明するがね……そこで呉青秀が懐にしていた姉の遺品《かたみ》の宝玉類を売り払って、画像だけを懐に入れて、妖《ばけ》怪《もの》然《ぜん》たる呉青秀の手を引きながら、方々を流《る》浪《ろう》したあげく、その年の暮つかた、どこへ行くつもりであったか忘れたが、舟に乗って江を下り、海に浮かんだ。すると暴風雨数日の後、たった二人だけ生き残って絶海に漂流することまた十数日、ついにある天気晴朗な払《あけ》暁《がた》に到って、遥《はる》か東の方の水平線上に美々しく艤《ぎ》装《そう》した大船が旗差物を旭に輝かしつつ南下して行くのを発見した。そこで息もたえだえのまま、手招きをして救われると、その美しい船の中で、手厚い介抱を受けることになったが、この船こそは日本の唐《から》津《つ》を経て、難《なに》波《わ》の津に向う渤《ぼつ》海《かい》使《し》の乗船であった。渤海国というのはその時分、今の満州の吉《キー》林《リン》辺にあった独立国で、時々こうして日本に貢《みつぎ》物《もの》を持って来たことが正史にも載っているがね」
「何だかお伽《とぎ》話《ばなし》みたいになりましたね」
「ウム。何となく夢幻的なところがやはり支那式だよ。それから芬子さんの涙ながらの物語りで詳しい事情を聞いた船中の者は、渤海使を初め皆、満腔の同情を寄せた。いちように呉氏の生きがいのない姿を憐れみ、かつ芬夫人の身の上に同情して、手厚い世話をしながら日本に連れて行くことになったが、その途中のこと、船中が皆眠って、月が氷のように冴え返った真夜半に、呉青秀は海に落ちたか、天に昇ったか、二十八歳を一《いち》期《ご》として船の中から消え失せてしまった。……芬夫人は時に十九歳、共に後を逐おうとして狂い悶《もだ》えたが、この時、既に呉青秀の胤《たね》を宿してもはや臨月になっていたので、人々に押し止められながら辛うじて思い止まると、やがて船の中で玉のような男の児を生んだ」
「やっとめでたくなって来たようですね」
「ウン、船中でも死人ができて気を悪くしているところへ、お産があったと聞いたので喜ぶまいことか、手ん手にいろいろなお祝いの物をくれて盛んにめでたがった上に、渤海使の何とかいう学者が名付け親となって、呉忠雄と命名し、大げさな命名式を挙げて前途を祝福しつつ、唐津に上陸させて、土地の豪族、松浦某に托した。そこで芬夫人はその由来をこの絵巻物に手記して子孫に伝えた……めでたしめでたしというわけだ」
「じゃその名文は芬夫人が書いたんですね」
「イヤ。文字はたしかに女の筆付きだが、文章の方はとてもシッカリしたもので、どうしても女とは思えない。ところどころに韻を践《ふ》んであったり、熟字の使い方や何かが日本人離れをしているところなぞを見ると、やっぱりその名付親の渤海使が芬夫人の譚《ものがたり》に感激して、船中の徒《つれ》然《づれ》に文案を作ってやったのを、芬夫人が浄書したものではあるまいかと思う。若林はその字体が、弥勒像の底に刻んである字と似ているから勝空という坊主が自分で聴いた話と、昔の文書とを照し合わせて文を舞わしたのじゃないかと言っているが、しかし肉筆と彫刻とは非常に字体が違うことがあるから当てにはならない」
「何にしても唐津の港では大評判だったでしょうね。……芬夫人の身の上が……」
「むろん、大いに一般の同情を惹いたろうと思われる。何しろ日本人の大好きな忠勇義烈譚と来ているからね」
「そうですねえ。……それから今ヒョット思い出したんですが、その勝空という坊さんは、その絵巻物を弥勒像に納めてから、男は一切近づいてはいけないと言ったそうですが、それはどうした理由でしょう」
「……ソ……そこだて……そこがトテモ面白いこの話の眼目になるところで、ひいては大正の今日における姪の浜事件の根本問題にまで触れて来るところなんだ。手っ取り早く言えば、その勝空というお坊様は、今から一千年近くもの大昔に、心理遺伝チュウものがあることをチャンと知ってござったのだ」
「ヘエーッ……そんなに大昔から心理遺伝の学問が……」
「あったどころの騒ぎじゃない。ありすぎて困るくらいあった。……すなわち宇宙間一切のガラクタは皆、めいめい勝手な心理遺伝と戦いつつ、植物・動物・人間と進化して来たもので、コイツに囚われている奴ほど自由の利かない下等な存在ということになる。だから思い切って今のうちにキレイサッパリと心理遺伝から超越しちまえ。ホントウに解放された青天井の人間になれ……という宣《プロパ》言《ガンダ》を、新《あら》生《き》のまま民衆にタタキつけたのがキリストで、オブラートに包んで投《ほう》り出したのが孔子で、おいしいお菓子に仕込んで、デコデコと飾り立てて、虫下しみたように鐘や太鼓で囃《はや》し立てて売り出したのがお釈迦様ということになるんだ。そこで、そんな連中の専売特許のウマイところだけを失敬して『心理遺伝』なぞいう当世向きの名前で大々的に売り出して百パーセントの剰余価値を貪《むさぼ》ろうと企てているのが、ここいる吾輩ということになるがね……ハッハッハッ……まあ、そんなことはドウでもいいとして、勝空という坊さんの名前はどうやら天台宗らしいから、多分法華経あたりを読んでこの理屈を悟ったんだろう……。
この絵巻物を見るとタッタ一眼で過去、現在、未来の三世の因果因縁がナアールほどとわかった。呉青秀の子孫がこれを見ると同時に遺伝心理を刺激されて、先祖の真似を始めるのは無理もない。ケンノンケンノン……不《ふ》憫《びん》至極なことと思ったのであろう。世界の一番おしまいに出て来るという弥《み》勒《ろく》菩《ぼ》薩《さつ》の像を刻んで、その中に封じ込めて『男見るべからず』と固く禁制しておいた。……ところが見てはいけないと言われるとイヨイヨ見たくてたまらなくなるのが『安《あ》達《だち》ケ原《はら》』以来の人情だもんだから、呉青秀の子孫の中にコッソリと、弥勒様の首を引き抜いて、絵巻物を取り出して見る奴が出て来た。そいつがみんなキチガイになって暴れ出した訳なんだが、そこへやって来たのが呉《くれ》虹《こう》汀《てい》の美登利屋坪太郎だ……こいつがまた、禅学か何かの力で、この心理遺伝の作用を看破して、一思いに絵巻物を焼いてしまおうとした。……か、どうか知らないが、おおかた惜しかったんだろう……表面は焼いたふりをして、実は焼かずに元の穴へ納めて、巻物の供養を大々的にやったりしてお茶を濁しておいた。その絵巻物がまた、現代の物質万能の世界に大見得を切って出現して、恐るべき悲劇を捲き起した……というのが大体の筋道だがね……」
「ハア……やっとわかったようですが……しかしその絵巻物を見てキチガイになるのが男に限っているのは何故でしょうか」
「ウムッ……豪い。豪いぞ君は……ステキな質問だぞ、それは……」
と言ううちに正木博士は突然にテーブルを平手でタタイたので、私はビックリして坐り直した。何だかわからないままに胸をドキンとさせながら……。しかし正木博士は委細かまわずに言葉を続けた。
「イヤ感心感心。この事件の興味のクライマックスは実にそこにあるんだ。スッカリ心理遺伝学の大家になっちゃったナ、君は……」
「……ドウしてですか……」
「ドウシテじゃない。まあこの絵巻物を開いて見給え。今の疑問は一ペンに解けてしまうから……もっとも、それと同時に君がホントウの呉一郎ならば、呉青秀の子孫として心理遺伝的夢遊をフラフラと始めるか始めないか……または自分はどこそこの何の某《それがし》という者で、ドンナ来歴でこの事件に関係して来たかという過去の記憶を一ペンにズラリと回復するかしないか……それともまた『この絵巻物はこの前に、いつどこで、どんな奴から見せられたことがある』という、この事件の黒星のまん中をピカリと思い出すか出さないか……若林と吾輩のドッチが勝つか負けるか……そうして最後に君の将来はいかなる因果因縁の下に、イヤでもあの美しい令嬢とスイートホームを作らなければならぬのか……というようなアラユル息苦しい重大問題がこの絵巻物を見ると同時に、一ペンに解決されることになるかも知れないのだからね。ハッハッハッハツ」
正木博士は一息にこう言ってしまうと口一パイの白い義歯を露《あら》わしつつ高らかに笑って見せた。その片手に眼の前の新聞の包みを引き寄せて、無造作にガサガサ引き披《ひら》くと、中から長方形の白木の箱が出た。その蓋を今度は丁寧な手付きで開いて、直径三寸、長さ六寸ぐらいの鬱《う》紺《こん》木《も》綿《めん》の包みを取り出すと箱のふちに一端を載せて、その上からソッと蓋を置きながら、私の前に押し進めた。
今まで弛み加減になっていた私の全神経は、正木博士の高やかな笑いの波動のうちに、みるみる一パイに緊張して来たのであった。
……冷やかしているのか……威《い》嚇《かく》しているのか……または何らかの暗示を与えているのか、それともまた……心安だてに冗談を言っているのか……全く見当のつかないその笑い顔を見ているうちに、私はまたもその笑い顔の持ち主が、世にも恐るべく、戦慄すべき魔法使いその者のように見えて来てしようがなかった。しかしまたそれと同時に……
……何を糞ッ……高の知れた絵巻物の一巻に、男一匹が発狂するまで翻《ほん》弄《ろう》されるようなことが、あり得ようはずはない……ドンナ名人の手に成ったいかにモノスゴイ絵であるにしろ、要するに色と線との配合以外の何者でもないだろう。いわんやこっちで覚悟をしている以上、何の恐ろしいことがあろう……ヨシッ……。
というような反抗心がみるみる高まって来るのを押え付けることができなかった。
……だから私はできるだけ冷静な態度で箱を引き寄せた。そうして木の蓋と鬱紺木綿を開くと、またも、どことなく緊張しかけて来た感情を押え付けようと力《つと》めつつ、まず絵巻物の外側から見まわした。
巻物の軸は美しい緑色の石で八角形に磨いてあるが、あまり美しいので思わず指を触れて撫で廻してみたくらいであった。表装の布《き》地《れ》はチョット見たところ織物のようであるが、眼を近づけて見るとそれは見えるか見えぬくらいの細かい彩《いろ》糸《いと》や金銀の糸で、ごく薄い絹地の目を拾いつつ、一寸大の唐《から》獅《じ》子《し》の群れを一匹ごとに色を変えて隙《すき》間《ま》なく刺した物で貴いものであることがシミジミとわかって来る。千年も昔のものだというのにピカピカと新しく見えるのは、丁寧に蔵《しま》ってあったせいであろう。その一隅に小さな短《たん》冊《ざく》型《がた》の金紙が貼りつけてあるが、何も書いた痕《あと》はない。
「それが問題の縫い潰《つぶ》しという刺《し》繍《しゆう》なんだよ。呉一郎の母の千世子は、それを手本にして勉強したに違いないのだ」
と正木博士は投げやるように説明しつつ、クルリと横を向いて葉巻を吹かし始めた。しかし私もちょうどそんなような連想を頭に浮かめていたところだったので、格別驚きもせずにうなずいた。
象牙の篦《へら》を結びつけた暗《あん》褐《かつ》色《しよく》の紐を解いて巻物をすこしばかり開くと、紫黒色の紙に金絵具で、右上から左下へ波紋を作って流れて行く水が描いてあるが、非常に優雅な筆《ふで》致《つき》に見えた。私はその青暗い平面に浮き出している夢のような、または細い煙のような柔らかい金線の美しい渦巻きに魅せられながら、何の気もなくズルズルと右から左へ巻物を拡げて行ったのであったが……やがて眼の前に白い紙が五寸ばかりズイとあらわれると、私は思わず……
「……アッ……」
と叫びかけた。けれどもその声は、まだ声にならない次の瞬間に咽《の》喉《ど》の奥へ引返してしまった。……巻物を両手に引き拡げたまま動けなくなってしまった。息苦しいほど胸の動《どう》悸《き》が高まって……。
そこに横たわっている裸体婦人の寝顔……細い眉……長い睫《まつ》毛《げ》……品のいい白い鼻……小さな朱《しゆ》唇《しん》……清らかな腮《あご》……それはあの六号室の狂美少女の寝顔に生き写しではないか……黒い、大きな花《はな》弁《びら》の形に結い上げられたおびただしい髪毛が、雲のように濛《もう》々《もう》と重なり合っている……その鬢《びん》の恰好から、生え際のホツレ具合までも、ソックリそのままあの六号室の少女の寝姿を写生したものとしか思われないではないか……。
しかしこの時の私には「なぜ」というような疑問を起す余裕がなかった。その寝顔……否、眠っているかのように見える表情の下から、微妙な彩色や線の働きによって見え透いて来る死人の相好の美しさ……一種譬《たと》えようのない魅力の深さに、全霊を吸い寄せられ吸い奪われてしまって、今にもその眼がパッチリと開きはしまいか、そうして最前のように「アッ……お兄様ッ……」と叫んで飛び付いて来はしまいか……というような、あり得べからざる予感に全神経を襲われつづけていたのであった。瞬き一つできず、唾《つ》液《ば》一つ呑《の》み込み得ないままに、その臙《えん》脂《じ》色《いろ》の薄ぼけた頬から、青光りする珊瑚色の唇のあたりを凝視していたのであった。
「ハッハッハッ。ばかに固くなっているじゃないか。エー……オイ。どうだい。大したものだろう、呉青秀の筆力は……」
絵巻物の向うから正木博士がこんな風に気軽く声をかけた。しかし私は依然として身動きができなかった。ただやっときれぎれに口を利くことができただけであった。今までとまるで違った妙なカスレた声で……。
「……この顔は……さっきの……呉モヨ子と……」
「生き写しだろう……」
と正木博士はすぐに引き取って言った。その途端に私は、やっと絵巻物から眼を外らして、正木博士のこっちに振り向いた顔を見ることができたが、その顔には一種の同情とも、誇りとも、皮肉とも何ともつかぬ笑いが一面に浮き出していた。
「……どうだい面白いだろう。心理遺伝が恐ろしいように、肉体の遺伝も恐ろしいものなんだ。姪の浜の一農家の娘、呉モヨ子の眼鼻立ちが、今から一千百余年前、唐の玄宗皇帝の御代に大評判であった花清宮裡の双《そう》〓《きよう》姉妹に生き写しなんていうことは、造化の神でも忘れているだろうじゃないか」
「…………」
「歴史は繰り返すと言うが、人間の肉体や精神もこうして繰り返しつつ進歩して行くものなんだよ。もっともコンナのはその中でも特別誂《あつら》えの一例だがね……呉モヨ子は、芬夫人の心理を夢中遊行で繰り返すと同時に、その姉の黛夫人が喜んで夫の呉青秀に絞め殺された心理も一緒に繰り返しているらしい形跡があるのを見ると、二人の先祖にソンナ徹底したマゾヒスムスの女がいて、その血脈を二人が表面に顕《あら》わしたものかも知れぬ。または呉青秀を慕う芬女の熱情が、思う男の手にかかって死んだ姉の身の上を羨ましがるぐらいにまで高潮していたと認められる節もある。しかしそこまで突込んで行かずとも、その絵巻物の一巻が、呉青秀と黛芬姉妹の夫婦愛の極致を顕わしていることはたやすくわかるだろう……とにかくズット先まで開いて見たまえ。呉一郎の心理遺伝の正体が、ドン底まで暴露して来るから……」
私はこの言葉に追い立てられるように、半ば無意識に絵巻物を左の方へ開いて行った。
それから順々に白紙の上に現われて来た極彩色の密画を、ただ、真に迫っているという以外に何らの誇張も加えないで説明すると、それは右を頭にして、両手を左右に伏せて並べて、斜にこっち向きに寝かされた死美人の全長一尺二、三寸と思われる裸体像で、周囲が白紙になっているために空間に浮いているように見える。それが間隔三、四寸を隔てて次から次へと合わせて六体あるのであるが、皆ほとんど同じ姿勢の寝姿で、ただ違うのは、初めから終りへかけて姿が変って行っていることである。
すなわち巻頭の第一番に現われて私を驚かした絵は、死んでから間もないらしい雪白の肌で、頬や耳には臙脂の色がなまめかしく浮かんでいる。その切れ目の長い眼と濃い睫毛を伏せて、口紅で青光りする唇を軽く閉じた、温柔《おとな》しそうなみめかたちを凝視していると、夫のために死んだ神々しい喜びの色が、一パイにかがやき出しているかのように見えて来る。
しかるに第二番目の絵になると、皮《は》膚《だ》の色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にいくらか腫《は》れぼったく見える上に、眼のふちのまわりに暗い色が泛《うか》み漂い、唇もやや黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。
その次の第三番目の像では、もう顔面の中で、額と、耳の背後《うしろ》と、腹部の皮膚のところどころが赤く、または白く爛《ただ》れはじめて、眼はウッスリと輝き開き、白い歯がすこし見え出し、全体がものものしい暗紫色にかわって、腹が太鼓のように膨らんで光っている。
第四の絵は総身が青黒とも形容すべき深刻な色に沈みかわり、爛れたところは茶褐色、または卵白色が入れ交り、乳が辷《すべ》り流れて肋《ろつ》骨《こつ》が青白く露われ、腹は下側の腰骨の近くから破れ綻《ほころ》びて、臓腑の一部がコバルト色に重なり合って見え、顔は眼球が全部露出している上に、唇が流れて白い歯をかみ出しているために鬼のような表情に見えるばかりでなく、ベトベトに濡《ぬ》れて脱け落ちた髪毛の中からは、美しい櫛や珠玉の類《たぐい》がバラバラと落ち散っている。
第五になると、今一歩進んで、眼球が潰《つい》え縮み、歯の全部が耳のつけ根まで露われて冷笑したような表情をしている。一方に臓腑は腹の皮と一緒に襤《ぼ》褸《ろ》切《き》れを見るように黒ずみ縮んでピシャンコになってしまい、肋《あばら》骨《ぼね》や手足の骨が白々と露われて、陰毛の粘りついた恥《ち》骨《こつ》のみが高やかに、男女の区別さえできなくなっている。
最終の第六図になると、ただ、青茶色の骨格に、黒い肉が海藻のように固まりついた、難破船みたようなガランドウになって、猿とも人ともつかぬ頭が、全然こっち向きに傾き落ちているのに、歯だけが白く、ガックリと開いたままくっ付いている。
……私は嘘を記録することはできない。あとから考えても恥かしい限りであるが、私はおしまいの方ほど急いで見た。
もちろん、この絵巻物を開いた最初のうちこそ、一種の反抗心と共に落ち着いた態度を保っていたが、死美人の絵が出て来ると間もなく、そんな気持ちはどこへやら消えうせて、巻物を開き進める手がだんだんと早くなるのを自覚しながら、どうしてもそれを押し止《とど》めることができなくなった。それでも眼の前の正木博士に笑われてはいけないと思って一所懸命に息を詰めて、できるだけ念を入れて見たつもりであったが、それでもとうとうしまいには我慢できなくなって、第六番目の絵なぞはほとんど眼の前を通過させただけと言ってよかった。画面から湧き出して来る底知れぬ鬼気と、神経から匂って来る堪え難い悪臭に包まれて、ほとんど窒息しそうな思いをしながら、やっと、おしまいの由来記の頭が見えるところまで来ると、思わずホッとしてわれに返った。それから四、五尺の長さにメッキリと書き詰めた漢文の上を形式ばかり眼を通して、その結末にある、
大《やま》倭《と》朝《ちよう》天《てん》平《ぴよう》宝《ほう》字《じ》三年己《き》亥《がい》五月於《おいて》二西《さい》海《かい》火《ひの》国《くに》末《まつ》羅《ら》潟《がた》法《は》麻《ま》殺《さ》几《き》駅《えきに》一大唐翰《かん》林《りん》学《がく》士《し》芳九連二女芬《ふん》 識《しるす》
という文字を二、三度繰り返して読んで、いくらか気を落ち着けてから、もとの通りに巻き返して箱の横に置いた。それから神経を鎮めるべく椅子に背をもたせて、両手でピッタリと顔を押えながら眼を閉じた。
「……どうだ。驚いたろう。ハハハハハ。これだけ描いてもまだ足りないと思った、呉青秀の心理がわかるかね」
「…………」
「常識から考えれば天子を驚かすには、そこに描いてある六ツの死美人像だけでたくさんなんだ。大ていの奴はその半分を見ただけでも参ってしまうんだ。それに呉青秀が、なおも新しい女の屍体を求めたというのは、彼が病的の心理に堕落していた証拠だ。自分の描いた死美人の腐敗像に詛《のろ》われて精神に異常を来たしたんだ。その心理がわかるかね、君には……」
こうした言葉を鼓膜にピンピンと受けつけながら、眼をシッカリと閉じて、両手でグッと押え付けている、瞼の内側の薄赤い暗《やみ》の中に、たった今見たばかりの死美人の第一番目の絵像が、白い光を帯びてウッスリと現われた。……と思う間もなく第二図、第三図と左から右へ順々に辷り始めたが、ちょうど第五番目の死後五十日目をあらわしている、白茶気た笑い顔のところまで来ると、ピタリと眼の前に静止してしまった。
私は思わず身ぶるいをした。ハッと眼を開くと、いつの間にか椅子を廻転さして、こっちを正面に腕を組んでいる正木博士と視線がカチ合った……途端に博士は黒ずんだ唇の間から義《いれ》歯《ば》を光らしてニッと笑いつつ、その顔の両脇にある赤い薄っペラな耳《じ》朶《だ》をズッと上の方へ動かしたので、私はまた、思わずゾッとして眼を伏せた。
「ウフフフフフフ。ぞっとしたろう。ウフフフフフフ……ゾッとするはずだ。……あの呉一郎も初めてこれを見た時には、君と同じように慄《ふる》え上がったに違いないのだ。……あたかも太古の生物の遺骸が、石油となって地層の底に残っているように、あの呉一郎の底に隠れ伝わっていた祖先の一念は、この絵巻物を見てゾッとすると同時に点火されたんだ。……そうして、みるみるうちに一切の現実の意識を打ち消すほどの大光明となって燃え上って来た。過去も、現在も、未来も、日《じつ》月《げつ》星《せい》辰《しん》の光もことごとくその大光明に掻き消されてしまって、自分自身が呉青秀と同じ心理……すなわち呉青秀自身になりきってしまうまでゾッとし続けたのだ……姪の浜の石切場の赤い夕日の中に立ち上って、この絵巻物を巻き納めながら、ホッと溜息をして西の空を凝視していた呉一郎は、もはや、今までの呉一郎ではなかったのだ。呉青秀の熱烈な欲求そのものを全身の細胞に喚び起した、ある青年の記憶力、判断力、習慣性なぞの残骸に過ぎなかったのだ……呉一郎が発狂以後今日まで、呉青秀と同じ心理で暮して来たことは、この由来記に現われている呉青秀の心理の推移と、呉一郎の今日までにおける精神病状態の経過が、全然同一であるところを見ても遺憾なく推察される。否、二人の行動に現われた心理の推移を精神病理的に観察してみると、呉一郎は、一千年後の呉青秀に相違ないのだ」
私はまた、別の気持ちでゾッとして腰をかけ直した。
「この驚くべき奇怪な現象を理解するには、まず、呉一郎と呉青秀とがどんな順序で入れかわって行ったかという、その精神病理的の階《かい》梯《てい》から明らかにして行かねばならぬ。平たく言えば、いかに秀才とはいえ、中学卒業以来漢文を勉強しなかったという呉一郎が、純粋の漢文の白文で、四、五尺近くも細かに書き続けてあるこの由来記を、発狂するほど深刻な程度にまでドウして読みこなし得たか……ということから疑ってかからねばならぬ。……どうだ……わかるかね、その理由が」
私は正木博士の底光りする眼を凝《み》視《つ》めたまま、乾燥した咽喉に唾液を押しやった。どうしてこれが気付かなかったろうと驚きつつ……。
「……わかるまいナ……わからないはずだ。呉一郎が自分の学力でこの由来記を読んだと思うと誰でも理屈がわからなくなる」
「……じゃ誰か……読んで聞かせた……」
と言いも終らぬうちに私は愕《がく》然《ぜん》として慄え上がった。
……誰か……何者かが傍についていたんだ……今しがた私が聞いたような説明をして聞かせた奴がいたんだ……いたんだ……そいつが……そいつが……そいつは……そいつは……
こう思ううちにひとしきり高まっていた心臓の鼓動がまたピッタリと静まった。そうして、それと同時に正木博士の厳粛な眼の光がしだいしだいに柔らいで行くのを見た。一文字に結ばれた唇がみるみる弛んで、私を憫れむような微《ほほ》笑《えみ》にかわって行くのを見た……と思うと、無造作に投げ出すような言葉が葉巻の煙と一緒に飛び出した。
「……『狐《きつね》憑《つ》き、落つればもとの無筆なり』……という川《せん》柳《りゆう》を知っているかね、君は……」
私は面喰った。不意に横頬に何か見えないものをタタキつけられたような気持ちがして、しばらく眼をパチパチさせていた。
「……そ……そんな川柳は知りません」
「……フーン……この句を知らなきゃ川柳を知っているたあ言えないぜ。柳《やなぎ》樽《だる》の中でもパリパリの名吟なんだ」
こう言うと正木博士は得意の色を鼻の先にほのめかしながら、片膝をぐっと椅子の上に抱え上げた。
「……ソ……それが……どうしたんです」
「ドウしたんじゃない。この川柳があらわしている心理遺伝の原則を呑み込んでいない以上、シャイロック・ホルムスとアルセーヌ・ルパンのエキスみたいな名探偵が出て来ても、この疑問は解けっこない」
冷やかにこう言い放った正木博士の口から、小さな煙の輪が一つクルクルと湧き出して、私の頭の上の方へ消えて行った。私はまた、眼をパチパチさした。
……狐憑き……落つれば……落つれば……もとの無筆……もとの無筆………
と心の中で繰り返したが、わからないものはいくら考えてもわからなかった。
「若林先生は知っているんですか……その理屈を……」
「吾輩が説明してやった。感謝していたよ」
「……ヘエ……どういう訳なんで……」
「どういう訳ったって……こうだ。いいかい……」
正木博士はユッタリと椅子の背に身をもたせて足を長々と踏み伸ばした。
「……この川柳は、狐憑きが心理遺伝の発作であることを遺憾なく説明しているのだ……すなわち狐憑きはその発作の最中に妙な獣じみた身振りをしたり、飯《めし》櫃《ぴつ》に面を突込んだり、床下にはいり込んで寝たがったりして、眼の玉を釣り上がらせつつ、遠い遠い大昔の先祖の動物心理を発揮するから、狐憑きという名前を頂戴しているんだが、同時にこの狐憑きはソンナ性質と一緒に、何代か前の祖先の人間の記憶や学力なぞいうものまでも発揮する場合が多いのだ。一字も知らなかった奴が狐憑きになるとスラスラと読んだり書いたり、祖先のいろんな才能や知識を発揮したりして人を驚かす例がイクラでもあるから、こんな川柳にまで読まれているんだ」
「ヘエー。そんなに細かいところまで先祖の記録が……」
「……出て来るから心理遺伝と名付けるんだ。無学文盲の土百姓が狐に憑かれると、歌を詠んだり、詩を作ったり、医者の真似をして不治の難病を治したりする。ちょっと不思議に思えるが心理遺伝の原則に照せば何でもない。当り前のことなんだ……殊にこの絵巻物は、絵の方が先になっているんだから、それを見ているうちに呉一郎はスッカリ昂奮して、あらかた呉青秀の気持ちになってしまっている。そうしているうちに自分の先祖代々が、何度も何度も発狂するほど深く読んで来た由来記の内容に対する記憶までも一緒に呼び起しているんだから訳はない。范陽の進士呉青秀の学力が、自分の経歴を暗記したやつを、また読み返すようなもんだ。白紙を突きつけても間違わずに読める訳だ」
「……驚いた……なるほど……」
「こいつが第一段の暗示になった訳だが、次に、第二段の暗示となって呉一郎を昏《こん》迷《めい》させたものは、その六個の死美人像の中に盛り込まれている思想である」
「思想というと……やはり呉青秀の……」
「そうだ。この心理遺伝のそもそもというものは、呉青秀の忠君愛国から始まって、その自殺に終ることになっているが、それはその由来記の表面だけの事実で、その事実の裡面に今一歩深く首を突込んでみるとあにはからんや、呉青秀の忠勇義烈がいつの間にか変化して、純然たる変態性欲ばかりになって行く過程が遺憾なく窺《うかが》われるのだ。ちょうど木材が乾溜されて、アルコールに変って行くようにね」
「…………」
「……ところでこの経過を説明すると、とても一年や二年ぐらいの講座では片付かないのだが、吾輩が昨夜《ゆんべ》焼いてしまった心理遺伝論のおしまいに、付録にして載せようと思っていた腹案の骨組みだけを掻《か》い抓《つま》んで話すと、こうだ。……呉青秀がこの仕事を思い立ったソモソモの動機というのは今も言った通り、天下万生のためという神聖無比な、純誠純忠なもののように思えるが、これは皮相の観察で、その後の経過から推測して研究すると、その神聖無比、純誠純忠の裏面に、芸術家らしい変態心理の深刻なもののいろいろが異分子として含まれているのを、御本人の呉青秀も気付かずにいた。……と考えなければ、その絵巻物の存在の意義について、いろんな不合理があるのを、どうしても説明できなくなって来るのだ」
「この絵巻物の存在の意義……」
「そうだよ。その絵巻物の絵と、由来記に書いてある事実とを、よくよく比較研究してみると、この絵巻物はその根本義において、存在の意義が怪しくなって来るのだ。……すなわち……この絵巻物は、この六体の画像を描《か》き並べただけで、天子を諫めるだけの目的は充分に達し得るのだ。女の肉体美がいかにはかないものか……無常迅速なものかということを悟らせるには、この六個の腐敗美人像だけでたくさんなのだ。……論より証拠だ。現在、たった今、君が一わたり眼を通しただけでもゾッとさせられたくらいだからね……」
「……それは……そう……ですねえ……」
「そうだろう。その第六番目の乾物みたような姿のあとに、今一つ白骨の絵か何かを描き添えたら、それでモウ充分にその絵巻物は完成していると言っていい。そうして残った白いところへ諫《かん》言《げん》の文だの、苦心談だのを書いて献上しておいて、自分はあとで自殺でもすれば、気の弱い文化天子の胆っ玉をデングリ返らせる効果は十分、十二分であったろうものを、そうしないで、なおも飽くことを知らずに、必要もない新しい犠牲を求めて歩いたのはなぜか……黛夫人の遺骸が白骨になり終るのを温《おと》和《なし》しく待っておりさえすれば、何の苦もなく完成するであろうその絵巻物を、未完成のままに後代に伝えて、呉家を呪いつくすほどの恐ろしい心理遺伝の暗示材料としたのはなぜか……一千百年後の今日、われわれの学術研究の材料として珍重さるべき因果因縁を作ったのはなぜか……」
私は思わず溜息をさせられた。正木博士の話から湧出して来る一種の異《い》妖《よう》な気分に魅せられて、何となく狂人じみた不可思議な疑いが、だんだん嵩《こう》じて来るのを感じながら……。
「どうだ……不思議だろう。小さな問題のようでなかなか重大な問題だろう。しかもこの問題は、考えれば考えるほど、わからなくなって来るはずだからね。ハハハハハ。だから吾輩は言うのだ。この問題を解くには、やはり呉青秀のこの絵巻物の作製を思い立った最初の心理的要素にまで立返って観察して見なければならぬ。その時の呉青秀の心理状態を解剖して、こうした矛盾の因《よ》って起ったそのそもそもを探って見なければならぬ……しかもそれはけっして難しい問題ではないのだ」
「…………」
「すなわち、まずその時の呉青秀の心理的要素を包んでいる『忠君愛国の観念』という、表面的な意識を一枚引っ剥いで見ると、その下から第一番に現われて来るのは燃え立つような名誉欲だ。その次には焦げ付くような芸術欲……そのまたドン底には沸騰点を突破した愛欲、兼、性欲と、この四つの欲望の徹底したものが一つに固まり合って、超人間的な高熱を発していた。つまるところ、呉青秀のスバラシイ忠君愛国精神の正体は、やはりスバラシク下等深刻な、変態性欲の固まりに過ぎなかったことが、ザラリと判明して来るのだ」
私は思わずハンカチで鼻を撫でた。自分の心理を解剖されているような気がしたので……。
「こいつを具体的に説明するとこうであったろうと思う。すなわち……李太白が玄宗皇帝の淫《いん》蕩《とう》と栄《え》耀《よう》栄《えい》華《が》に媚《こ》び諛《へつら》った詩を作って、御《ご》寵《ちよう》愛《あい》をこうむったお陰で、天下の大詩人となったのを見た呉青秀は、よろしい、それならばおれは一つその正反対の行き方でもって名を丹《たん》青《せい》、竹《ちく》帛《はく》に垂れてやろう。自分の筆力で前代未聞の怪画を描いて、天下後世を震《しん》駭《がい》させてくれようと思った……これがこうした若い、天才肌な芸術家にありがちの、最も高潮した名誉欲だ。また、呉青秀自身の男ぶりと、天才に相応した名声に惚《ほ》れ込んで、ゾッコン首ッ丈となっている新夫人から、身も心も捧げられた、新婚早々の幸福さに有頂天になった呉青秀は、僅《わず》か数か月の間にあらゆる愛し方と愛され方を味わいつくしてしまった。この上はその美しい愛人を、極度に残忍な方法で虐待するかどうかしなければ、この上の感激は求められられられられないといった程度にまで高潮した欲求を、夜ごと日ごとに感じ始めて来た。これがやはり天才肌の青年……殊に頭の優れた芸術家などにありがちの超自然的な愛欲、兼、性欲だ。……それから今一つ……嘆美の極はこれを破壊するにあり。そうしてその醜怪な内容をドン底まで暴露さして冷やかに観察するにあり……という芸術欲のドン詰まりと、この四ツの欲望が白熱的の焦点を作ってこの計画の中に集中されていた。しかもその強烈な欲求を呉青秀はやはり純忠純誠の欲求として錯覚していたものと考えられるのだが、そうした呉青秀の心理状態の裏面を端的にわかり易く説明しているものは、やはりこの絵巻物の絵だ。腐敗して行く美人の姿だ」
私の眼の前にまたしても最前の死美人の幻覚が現われ出て来そうになった。思わず両手で眼をこすると、鼻の先の絵巻物に視線を落して、表装の中に光っている黄金色の唐獅子の一匹を睨み付けた。出て来ることはならぬ……と言うように……。
「……その死美人の腐敗して行く姿を、次から次へと丹念に写して行くうちに呉青秀は、何とも言えない快感を受け始めたのだ。画像の初めから終りへかけて、次から次へと細かく冴えて行っているその筆《ふで》致《つき》を見てもわかる。人体という最高の自然美……色と形との、透きとおるほどに洗練された純美な調和を表現している美人の剥《む》き身が、少しずつ少しずつ明るみを失って、仄《ほの》暗《ぐら》く、気味わるく変化して、ついには浅ましく爛れ破れて、みるみる乱脈な悽《む》惨《ご》たらしい姿に陥って行く、その間に表《あら》現《わ》れて来る色と形との無量無辺の変化と推移は、ほとんど形容に絶した驚異的な観《み》物《もの》であったろうと思われる。その間に千万無量に味わわれる『美の滅亡』の交響楽を眼の前に眺めつつ、静かに紙の上に写して行く心持ちは、とても一国の衰亡史を記録する歴史家の感想なぞとは比較にならなかったろうと思われる。呉青秀はかの忠義も、この名誉も、愛欲も、性欲も、その芸術欲も、何もかも打ち込んだ無我夢中の気持ちの中に、この快感と美感とを、どこまでも細かく筆にかけつつ、飽くところを知らず惜しみ味わったに違いない。そうしてその残骸が、もはやこの上には白骨になるよりほかに変化のしようがないところまで腐ってしまったのを見ると、決然筆を擲《なげう》って起《た》った。今一度、この快美感を味わいたい白熱的な願望に、全霊をわななかしつつさ迷い出た。しかも……呉青秀のこうした心理の裡面には、その永い間の禁欲生活によって鬱《うつ》積《せき》、圧搾された性欲が、疼《う》痛《ず》くほどの強烈な刺激を続けていたに違いないのだ。その刺激が疲労し切った、冴え切った神経によって盛んに屈折分析され、変形、遊離させられつつ、辛《しん》辣《らつ》、鋭敏を極めた変態的の興奮を、呉青秀の全身に渦巻かせていたに相違ないのだ。そうしてそのよじれ狂うた性欲の変態的習性と、その形容を絶した痛烈な記憶とを、その全身の細胞の一粒一粒ごとに、張り裂けるほど充実感銘させていたことと思う」
寂び沈んだ、一種の凄味を帯びた正木博士の声は、ここでちょっと中絶した。
私は眼の前にある獅子の刺繍が、視力の疲労のためにボーッとなるのを、なおも飽かず飽かず見詰めていた。そのボーッとした色の中に、たった一つ浮き出している草色の一つになぜともなく心を惹かれながら耳を傾けていた。
「……こうして忠君も、愛国も、名誉も、芸術も、夫婦愛も、何もかも超越してしまって、ただ極度に異常な変態性欲の刺激だけで、生きて、さ迷うていた呉青秀は、一年振りに帰って来た我家の中で、これも同じく一種の変態性欲に囚《とら》われている処女……義《いも》妹《うと》の芬氏に引っかけられて美事な背負い投げを一本喰わされると、その強烈深刻な刺激から一ペンに切り離されてしまった。最後の最後まで自分の意識を突張り支えていた烈火のような変態性欲が、その燃料と共に消え失せて、伽《が》藍《らん》洞《どう》の痴《ち》呆《ほう》状態に成り果てた。そうしてその変態的によじれ曲るべく長い間、習慣づけられて来た性欲と、これに絡《から》み付いている、あらゆるモノスゴイ記憶の数々を一パイに含んだ自分の胤《たね》を後世に残して死んだ……するとこの胤がまた、生き代り死に代り明かし暮して来て、呉一郎に到ってまたも、愕《がく》然《ぜん》として覚醒する機会をつかんだ。呉一郎の全身の細胞の意識のドン底に潜み伝わっていた心理遺伝……先祖の呉青秀以下の代々によって繰り返し繰り返し味わい直されて来た変態性欲と、これに関する記憶とは、その六個の死美人像によって鮮やかに眼ざめさせられた……すなわち、この絵巻物を見た後の呉一郎は、呉一郎の形をした呉青秀であった。一千年前の呉青秀の欲求と記憶が、現在の呉一郎の現実の意識と重なり合って活躍する……それが夢中遊行以後の呉一郎の存在であった。『取憑く』とか『乗移る』とかいう精神病理的な事実を、科学的に説明し得る状態はこの以外にないのだ」
「…………」
「……この深刻、痛烈を極めた変態性欲の刺激の前には、呉一郎自身に属する一切の記憶や意識が、何の価値もない影法師同然なものになってしまった。今まで呉一郎を支配して来た現代的な理知や良心の代りに、一千年月の天才青年の超無軌道的な、強烈奔放な欲求が入れ代ったのだ。そうしてその記憶の中にタッタ一つ美しいモヨ子……一千年前の犠牲であった黛夫人に生写しの姿がアリアリと浮き出した」
「…………」
「……一千年後に現われた呉青秀の変態性欲の幽霊は、かくして現代青年の判断力や、記憶や、習慣を使って無軌道的な活躍を始めた。姪の浜の石切場を出ると飛ぶように急いで家に帰って、モヨ子と何かしら打合わせた。多分、母《おも》屋《や》の雨戸の掛金を内側から外しておくことや、土《く》蔵《ら》の鍵だの、蝋《ろう》燭《そく》だのいうものを用意しておくことであったろうと思われるが……それから呉一郎は家中が寝静まるのを待って母屋へ忍び込んで、そっとモヨ子を呼び起した。ところでむろんモヨ子はこの時まで、こうした新郎の要求の真《ほん》実《とう》の意味を知らなかったようである。言うまでもなく呉一郎も、イザというドタン場までは故《わ》意《ざ》と真実のことを話さずに、高圧的な命令の形で、熱心に迫ったものらしいので、モヨ子もまさかにそれほどの恐ろしい計画とは知らずに、ただ当り前の意味に解釈して、非常に恥かしいことに思い思い躊《ちゆう》躇《ちよ》していたらしいことが、戸倉仙五郎の話に出ている前後の状況で察せられる。……けれどもモヨ子は気《き》質《だて》が温柔しいままに結局、唯《い》々《い》として新郎の命令に従うことになった。そいつを呉一郎の呉青秀は蝋燭の光を便りにして土蔵の二階に誘い上げた……という順序になるんだ。そこでその現場に関する調査記録を開いてみたまえ」
「…………」
「……それそれ。そこんところだ。階下より蝋燭の滴下起り……云々と書いてあるだろう。その百匁蝋燭の光の前で、新郎と差向いになったモヨ子は、初めてその絵巻物を突き付けられながら……この絵巻物を完成するために死んでくれ……という意味の熱烈な要求を受けたに相違ない。しかもその絵を見ると、眼鼻立から年頃まで自分に生写しの裸体少女の腐敗像の、真に迫った名画と来ているのだからタマラない。腸《はらわた》のドン底まで震え上がると同時に卒倒して、そのまま仮死の状態に陥ってしまったものと考えられる……という事実を、その調査記録は『抵抗、苦《く》悶《もん》の形跡なし』とか『意識喪失後において絞首』云々の文句で明らかに想像させているではないか。
……のみならずモヨ子がその後において、程度は余り深くないながらに自分と同姓の祖先に当る花清宮裡の双《そう》〓《きょう》姉妹の心理遺伝を、あの六号室で描《か》き現わしている事実に照してみると、その仮死に陥った瞬間というのは、かの土蔵の二階で、呉一郎がサナガラに描き現わした一千年前の呉青秀の心理遺伝の身ぶり素ぶりによって、モヨ子が先祖の黛、芬姉妹から受け伝えていたマゾヒスムス的変態心理の欲望と記憶とを、ソックリそのままに喚《よび》起《おこ》された刹那であったろうということも、併せて想像されて来るではないか」
「…………」
「……ただし、こう言うと不思議に思うかも知れないが、心理遺伝の発作と消滅の前後に、仮死状態や無意識、昏睡状態なぞいうものが伴う例は古来、幾多の記録や伝説に残されているので、この方面の専門的研究眼から見ると、少しも不思議なことではないのだ。……すなわち昔はこれを『神《かみ》憑《うつ》り』とか『神《かみ》気《げ》』とか『神《かみ》上《あが》り』とか称していたもので、甚しいのになるとその期間が余り長いために、真実に死んだものと思って土葬した奴が、墓の下で蘇った……なぞいう記録さえ珍しくない。能楽『歌《うた》占《うら》』の曲の主人公になっている伊《い》勢《せ》の神官、渡《わた》会《らえ》の某は三日も土の中で苦しんだために白髪となってはい出して来た……なぞというのは、そんな伝説の中でも最も有名な一つで、これを精神科学的に説明すると、電気のスイッチを一方から一方へ切り換える刹那に生ずる暗黒状態みたようなものだ。もちろんその気持ちの変化の強弱、またはその人間の体質、性格等によって時間の長短の差はあるが、普通の場合、突然の驚きに似た卒倒と、それに引続く身心の全機能の停止があって後に、やがて息を吹き返すと、挙動が全く別人のようになる……すなわち心理遺伝の夢遊発作を始める……またはそうした発作を続けて来た人間が同じ暗黒状態の経過の後に、正気に立ち帰ったりするので、前に述べた狐憑きなどの場合は、夢中遊行発作の程度が割合に浅いだけに、無意識状態に陥る時間も短いのが通例になっているのだ。……なおこの仮死の間における栄養作用や新陳代謝の具合なぞの研究は、この呉モヨ子のモデルによって、若林が充分な研究を遂げていることと思うし、吾輩も他人の受売りなら多少できるが、この話には直接の必要がないから略する。いずれにしても呉モヨ子が仮死状態に陥った直接の原因が、呉一郎の夢中遊行から来た暗示であったろうということは、この若林の手に成った調査書類の文句が言わず語らずの中に表明している推論で、吾輩も双手を挙げて賛成せざるを得ないところだ」
「…………」
「なおまた、これは吾輩一個人としての想像であるが、従来の呉家にはモヨ子のように、女性としての祖先である黛、芬、両夫人から来た心理遺伝をあらわした婦人の話が一つも残っていないようである。また、この絵巻物を警戒して、人に見せないようにした勝空という坊さんも、呉家の中興の祖である虹汀も、この点には全然注意を払っていないようであるが、しかしこれは絵巻物が現わしている変態心理の暗示が、男性にだけ有効なことがわかりきっていると同時に、これに刺激された男性たちの心理遺伝の発作が、相手の女性の心理遺伝に影響するような場合が全く想像され得なかったからだ。……ところが今度は場合が全く違う。違うにも何にもお互に他人同士ではない。千載の一遇と言おうか、奇蹟中の奇蹟とでも考えられようか、相手のモヨ子の姿が、その絵巻物の主人公と寸分違わなかったために、呉一郎の心理遺伝も、今までに類例のない、ほとんど完全に近い暗示に支配されることになった。したがってその一言一句、一挙一動のごく細かいところまでも、その当時の呉青秀の動作と寸分違わぬ感じを現わし続けたために、ゆくりなくもモヨ子の心理遺伝を誘発することになったのではあるまいかと考えられる。これは余りにも怪奇に過ぎる事実の暗合を想像したものだが、しかしまんざらの想像ばかりではない。相当の根拠を持って言うことなのだ。……というのは外でもない。すなわちその調査書が証明している通り、呉一郎が死人同様になって倒れているモヨ子の頸《く》部《び》を、わざわざ西洋手拭で絞め上げたものとすると、この変態性欲は女を殺すばかりが目的でなかったことがわかる。死んでいてもかまわないから、女の首を絞め付けるという特異な快感を味わいたい……という願望のために、コンナ余計なことをしたものと考えることができる。……どうだい。一千年前にいたある一人の男の変態性欲の心理遺伝が、こんなに細かいところまでも正確に伝わっているとしたら実に面白い研究材料ではないか」
「…………」
「……ところでサテ。こうしてこの発作がすむと、呉一郎は、その屍体をモデルにするつもりで腐るのを待った。それを土蔵の窓から伯母の八代子が覗いた時に、呉一郎は平気で振り返って『もうじぎ腐ります』云々と言った。この言葉にはわれわれが聞くと実に一千年間……一千里にわたる時間と空間の矛盾が含まれているんだが、彼、呉一郎自身にとっては、どちらも現在の、眼の前のことであった。彼がモヨ子を絞殺した目的が、そうした大昔の遠方の先祖である呉青秀の、超自然的な心理の満足以外になかったことは、モヨ子の屍体解剖の結果が、情交の形跡なしとあるのを見てもわかる……」
一気に続いて来たモノスゴイ説明が、やっとここで中絶すると、私は長い、ふるえた深呼吸をしいしい顔を上げた。正木博士はやはり偉大な精神科学者であった……というような最初の尊敬を取返すと同時に、何となく安心したような気持ちになって……それにつれて全身がどことなくひえびえと汗を掻いているのに気が付いた。
私はそのまま今一度ホッとして問うた。
「しかし……あの呉一郎の頭は……治りましょうか」
「呉一郎の頭かね。そりゃあ回復するとも……吾輩には自信がある」
こう言い放った正木博士は、皮肉な表情でニヤニヤと笑って見せた。私の顔を透かして見るような暗い眼付を真正面から浴びせかけた。
「あの呉一郎の頭が回復するのは、ちょうど君の頭が回復するのと同時だろうと思うがね」
私はまたしても呉一郎と同一人という暗示を与えられたような気がしてドキンとした。……のみならず二人の頭の病気が、全然おなじ経過をとって回復して行きつつあるような正木博士の口《くち》吻《ぶり》に、言い知れぬ気味わるさを感じたのであった。……が……しかし、さりげなくハンカチで顔を拭いてまた問うた。
「ハア……でもなかなか困難でしょうね」
「ナニわけはない。発病の原因と経過とが、今まで述べて来たように、精神病理学的にはっきりしておれば治《な》療《お》す方法もチャントわかって来る。殊にこの呉一郎みたように、原因のハッキリした精神異常が治療らなければ、吾輩の精神病理学は机上の空論だ」
「……ヘエ。それで……ドンナ方法で治療するんですか」
「ウン。適当な暗示という薬を臨機応変に用いて治療するのだ。それも禁《まじ》厭《ない》とか御《ご》祈《き》祷《とう》とかいうような非科学的なものじゃない。……つまり今まで話して来たように呉一郎は、黴《ばい》毒《どく》とか、結核とかいう肉体的の疾患に影響されて神経を狂わしたのじゃない。純粋な精神的な暗示だけで発狂したんだ。すなわちこの絵巻物を見た後の呉一郎は、時間も、空間も、呉一郎も、呉青秀も、支那も、日本もわからなくなって、ただ濃厚、深刻を極めた支那一流の変態性欲の刺激と、これを渦巻きめぐる錯覚、幻覚倒錯観念ばかりで生きることになったんだ。そうしてその変態性欲もまた、呉青秀が一千年前に経過して来た通りの順序で変化して来て、ついにはただ『女の屍体が見たい』というような単純な、且つ、率直な欲望だけになっていることが、その解放治療場内における夢中遊行の状態で察せられるようになった。……呉一郎の遺伝性、殺人妄《もう》想《そう》狂《きよう》、早発性痴呆、兼、変態性欲……すなわち一千年前の呉青秀の怨《おん》霊《りよう》の眼で見ると、世界中、いたるところの土の下には、女の死体が、ベタ一面に匿《かく》されているように思われて来たのだ。だから土さえ見れば鍬《くわ》が欲しくなったのだ。そうして鍬を貰うと毎日毎日死物狂いに土を掘返すことになったのだ。
……こうしてその、時間も空間も超越した変態性欲の幽霊が、先刻も話した通り毎日毎日、当てなしの労働を続けて行くうちに、おいおいとへこたれて来た。人間の性欲の刺激を高める燃料ホルモン……俗に精力と称する内分泌の刺激液は、激しい労働を続行すると、その方の精力に消耗されてしまうのだからね。そんな性欲の刺激をダンダン感じなくなって、ただ、疲れ切った神経の端々に、一種の惰力みたように浮き出して来る女の屍体の幻覚に釣られながら、あえぎあえぎ鍬を動かすというミジメな状態に陥っている。今まで一切の精神作用を圧倒していた変態性欲の怨霊が、消え消えになって来たお陰で、その下から……ああ苦しい。やりきれない。いったいおれは、どうしてコンナにひどい労働を続けなければならないのだろう……といったような、正気に近い意識がしだいしだいに浮上りはじめた。時々鍬を休めてボンヤリそこいらを見まわしてはまた、思い出したように仕事にかかるらしい気ぶりが見えて来たその潮合いを見て、吾輩が出て行って、その眼の底にある疲れ切った意識の力と、吾輩の眼の底にある理知的の意識力とをピッタリと合わせながら『その女の屍体が、土の底に埋まったのはいつのことだ』と問いかけたものだから、サアわからなくなった。つまり今まで、全く忘れていた『時間』という観念が『いつ』という言葉の暗示力で反射的に復活しかけて来たのだ。それにつれて『ハテ。ここは一体、どこなんだろう』といったような空間的の観念も動き出して来たので、不思議そうにそこいらを見まわし始めた。同時に『ハテ。おかしいぞ。自分は今まで何をしていたのだろう』といったような自己意識も、それにつれて頭を擡《もた》げて来たので、何となく不可思議な淋《さび》しい気持ちになった。悲し気にうなだれると、今まで大切に抱えていた鍬を力なく取落して、自分の部屋へ引っ込んで行った……というのが、この遺言書に出ている呉一郎の治療順序の説明だ。狂人の解放治療というのは、そういう風に患者の自由行動にあらわれた心理状態を観察して、病気の経過を察しながら、適当な暗示を与えつつ治療して行く意味から付けた名前にほかならないのだ。
……もちろんこうした治療法をこころみるには、相当の頭が要る。すくなくとも今までのように当てズッポーの病名を付けて、浅薄な外科や内科の療法を応用したり、そいつが巧《うま》く当らなかった時には縛り上げたり、檻禁したりなぞ、原始時代をそのままの手当を試みたりするような低級な頭では駄目の皮だ。今後の世界において行わるべき、正しい精神病の治療法というものは、そんな曖《あや》昧《ふや》なもんじゃない。すなわち精神というものの解剖、生理、病理の原則を、心理遺伝に照してドン底まで理解すると同時に、解放されている患者の自由奔放な一挙一動によって、その心理遺伝の夢中遊行発作が、いかに推移し変化しつつあるかを隅から隅まで看破しつつ、適当な時機に、適当な暗示を与えて、一歩一歩と正しい時間と空間の観念……正気に導いて行くだけの鋭敏さを持った頭でなくちゃならぬ。アハハハハ。思わず手前味噌に脱線してしまったが……ところでだ……。
……ところで、話を前に戻すと、それから後一か月の間、呉一郎が一回も解放治療場に出て来ないで、例の七号室に閉じ籠もってばかりいたのは、その間にいろんな意識を回復していたものと考えられるのだ。すなわち時間の意識、空間の意識、自己の存在を認める意識なぞが、吾輩の暗示をキッカケにしてしだいしだいに夜が明けるように蘇りはじめた。『ハテナ……ここはどこで、今は何時で、おれは何という名前の人間なんだろう』とか『おれは一体、何のためにこんなところに閉じ籠められているんだろう』といった風にネ……それにつれてまた、それに伴ういろんな疑問や不可解が、雲のごとく渦巻き起って、迷っては考え、考えては迷いしていたものだ。これは呉一郎の毎日の言動を、特に医員に命じて、細大洩らさず病床日誌に記録させてあるから、それについて観察してみれば、その迷い具合が手に取るごとくわかる。君が最前若林博士に読まされたアンポンタン・ポカン博士の街頭演説なぞも、その時分の出来事を吾輩が実例に取って、新聞記者に説明しただけのものなんだが、それでも最近になったら、そんなような観念が呉一郎の頭の中で、しだいに一つの焦点に統一されて、よほど、正気に近付いて来たらしい。つまり『考えてもわからないが、いずれその中にわかるだろう』というような、一種の諦《あきら》めに似た安心が付いて来たらしく見える。……というのは一か月前に鍬を棄てて、自分の部屋に引込んだ当時は、かなりひどい憂鬱状態に陥っていた。食欲が非常に減退して排泄の具合が悪くなり、体量なぞもかなり減少していたが、その後だんだんと回復して来て、今では涼しくなったせいでもあろうが、旧《も》来《と》以上になっていることが、病床日誌にチャンと出ている。だから目下はあの通り、ステキに良い栄養状態で、精神状態もすこぶる明朗になったらしく、アンナにニコニコしている訳なのだ。
……そうして昨日まで部屋に閉じ籠もっていた奴が、思い出したようにヒョッコリとあそこへ出て来たのは、そうした意識の秩序の回復が、一段落のところまで落着いたか、それとも栄養が良くなったために再び頭を擡げて来た性欲の刺激が、以前の変態にまで高潮して来たので、またもあの鍬を振廻しに出て来たのか……ということは、もうしばらく模様を見ていないと、わからないがね……いずれにしても呉一郎の精神状態の回復はここいらで、また、一転機を描くらしい予感が、先刻からシキリに吾輩の頭を襲って来るようだがね。ハッハッハッ」
私はこんな言葉や笑い声を、耳にはたしかに聞いていた。……窓の下でまたも、何やら唄い出している舞踊狂の少女の声と一緒に……けれども眼は一心に大《だい》卓《テー》子《ブル》の燃え上るような緑色を見詰めていた。
……いかなる名探偵が出て来ても探り得ない精神科学応用の犯罪……お前自身に名探偵となって、この事件の真相を探ってみよ……
と言った正木博士の言葉を頭の中で繰り返しつつ……。その時正木博士の言葉が途絶えて、何やらカチッという音がした。ビクリとして頭を上げてみると、それは正木博士の頭の上に掛っている電気時計の針が、十時五十六分から七分へ移った音であった。
「……どうだ。愉快な話だろう。この一例を見ても、今までの精神病学者の治療法が、全然、見当違いをやっていたことがわかるだろう。同時に、吾輩のこの解放治療の実験が、いかに素晴しい、学界空前の……」
「ちょっと待って下さい」
私は右手を揚げて、滝のように迸《ほとばし》り出て来る正木博士の言葉を遮《さえぎ》り止めた。得意に輝く骸《がい》骨《こつ》ソックリの顔を仰ぎつつ、廻転椅子の上に坐り直して問うた。
「……ちょっと……待って下さい。……しかし……先生の、そうした治療の実験は、純粋な学術研究の目的でなさるのですか、それとも……」
「……むろん……むろん純粋の学術研究を目的としているんだよ。精神病の治療というものはこうするものだ……ということを、あまねく全世界のヘゲタレ学者たちに……」
「マ……待って下さい。そうじゃありません。僕がお尋ねしているのは……」
「……何だ……」
正木博士は不満そうに眼の球を凹ました。肩を一つ揺り上げて椅子の背に反り返った。
「僕がお尋ねしようと思っていることは、こうなんです。呉一郎を発狂さした暗示が、この絵巻物だってことは、まだ誰も知らないでいるんですね」
「……ア。その話はまだ、しなかったっけね。むろん、誰も知ってやしないよ。司法当局の奴らだって知らないも同然だよ。テンデ問題にしていないんだからね」
正木博士はまた、ツルリと顔を撫でまわして、鼻眼鏡をかけ直した。
「最前からも話した通り、この絵巻物は、呉一郎の伯母の八代子が、土蔵の二階から取って来て隠していたのを、若林が睨《にら》んで捲上げて、そのまんま吾輩に引渡したものだから、若林と吾輩以外にこの絵を見た者は君だけだ。裁判所や警察の連中は、八代子が現場の机の上の、この絵巻物がおいてあったところに、自分の鼻紙を拡げておいたので、見事に一パイ喰わされている上に『迷宮破りの若林博士が、事件の真相の説明に窮して迷信を担ぎ出した』と言って笑っているそうだ。たしかにその当時の新聞の編集余録といったような欄の中に、素っ破抜いてあったと思うが……かえって仙五郎爺から巻物の話を聞いた村の者が、いろんなことを言っているそうだ。一郎が夢のお告を受けて石切場に行ったら、巻物が高岩の陰においてあったんだとか、その時ちょうど日《ひ》暮《ぐれ》狭《さ》暗《ぐれ》の逢《おう》魔《ま》が時だったとか言ってね……また、そんな迷信を担がない連中は、誰かモヨ子に惚れ込んでいた奴が、かなわぬ恋の意趣晴らしに、古い言い伝えから思い付いて、一郎にコンナ悪《いた》戯《ずら》をしかけたのが、マンマと首尾よく図に当ったんだとか何とか……」
「アッ……」
と私は突然に叫んで立上りかけた。大卓子の端に両手を突っ張って、穴の明くほど正木博士の顔を見た。正木博士も私の叫び声に驚いたらしく、吐きかけた煙を頬張ったまま、眼を丸くした。
私の呼吸と胸の動悸が、みるみる息苦しく高まって来た。
……わかった、わかった……正木博士が、何気もなく言ったらしい一言が、事件の真相らしいものをチラリと私の頭に閃かしてくれた……。
……私という人間は、一件記録の上には出ていないけれども、やはり呉青秀の血を引いた、呉一郎と瓜二つの青年に違いないのだ。
……二人の博士は、千世子が一人しか子を生んでいないという屍体解剖の結果によって、そんな事実の存在を否認しているようだけれども、ことによると、それは私をこの実験にかけるための一つのトリックに過ぎないかも知れない。真実の私の過去は、やはり呉一郎と双生児で、幼い時に何かの理由で別れ別れになっていたその片割かも知れないのだ。
……それが人知れず故郷に帰って来て、人知れずモヨ子を恋していた。あるいは呉一郎と瓜二つなのを利用して、真《ほん》物《もの》の呉一郎に覚られないように絡み合って、奇抜巧妙な二人一役を演じながら所在《ありか》を晦ましていたものかも知れない。そうしてその中に、呉家に絡《まつ》わる不思議な因縁話を聞き知って、呉一郎の結婚式の前日に、こんな残虐を試みた。
……それがこの私であったのだ。
……けれども、そうした私自身も、呉青秀の心理遺伝を受け継いでいたために呉一郎と同時にか、または相前後して、同じような発狂をしたために、真物の呉一郎と入れ違ってしまったのだ。ドッチがドウなのか本人同士にもわからなくなってしまったのだ。
……正木、若林の両博士は、それを見別けようとしているのだ。被害者と加害者を鑑別しようとして苦心しているのだ。
……そうだ。そう考えれば疑問の根本がりっぱに解ける。そうだ、それに違いない。それに違いない。それ以外に一切の不思議の解決方法がないではないか。
……ああ。私はやはりこの事件の神秘の正体であったか。
……ああこの私が……。
一瞬間にコンナことを考え廻らしつつおびえ、わなないている私の顔を、椅子の上に反り返った正木博士は依然として微笑を含みつつ眺めていた。そうして私の呼吸が鎮まりかけると間もなく、わざとらしい驚いた顔付きで問うた。
「……どうしたんだい。急に立上ったりして」
私は喘ぎながら答えた。
「……もし僕が……呉一郎に……この絵巻物を……見せた本人……」
「アッハッハッハッハッ……ワッハッハッハッハッ……」
正木博士は、私の言うことを半分聞かぬうちに大げさに吹き出して反りかえった。
「ハッハッハッハッ。君が加害者で、呉一郎が被害者か。こりゃあいい。探偵小説なら古今の名トリックだが、多分そんなことになるだろうと思っていた。アッハッハッハッハッ。しかしだね。事実はその正反対だったら、どうなるかね、この事件は……」
「……エッ……正反対?……」
「ハッハッハッハッ。何も君が、そんなに遠慮して、加害者の憎まれ役を引受けなくとも、いいじゃないか。どうせ君と呉一郎とは瓜二つなんだから、御都合によって吾輩の小手先一つで、加害者側へでも、被害者側へでも、どちらへでも廻せるんだがどうだい。どうせ同じことなら、被害者側へまわった方が、この事件では得になるんだがドウダイ。アハアハアハアハ……」
私はドシンと椅子に腰をおろした。またしても何が何やらわからなくなったまま……。
「……どうも、そう一々泡を喰っちゃ困るぜ。……だから最初っから注意しておいたじゃないか。この事件は、よほど頭をしっかりさせて研究しないと、途中でとんでもない錯覚に陥るおそれがあると言って警告しといたじゃないか……吾輩は姪の浜、浦山の祭神、鶉《うずら》の尾《お》権現の御前にかけて誓う。君はそんな浅薄な意味で、この事件に関係しているのじゃない。もっと重大深刻な意味で……」
「……でも……でも……それ以上に重大深刻な意味で関係が……」
「……できないと言うんだろう。ところができるから奇妙なんだ。クドイようだがモウ一度断っておく。われわれが住んでいるこの世界は、現代のいわゆる。唯物科学の原則ばかりで支配されているんじゃないんだよ。同時に唯心科学……すなわち精神科学の原則によって何から何まで支配されていることを肝に銘じて記憶していないと、この事件の真相はわからないよ。……早い話が純客観式唯物科学の眼で見ると、この世界は長さと、幅と、高さの三つを掛け合わせた三次元の世界に過ぎないんだが、純主観式精神科学の感ずる世界は、その上に更に『認識』もしくは『時間』を掛け合わせた四次元もしくは五次元の世界が現在われわれの住んでいる世界なんだ。その高次元の精神科学の世界で行われている法則は、唯物世界の法則とは全然正反対と言ってもいいくらい違うのだ。その不可思議な法則の活躍状態は、既に今まで君がこの部屋で見たり聞いたりして来た話だけで、十分に察しられるだろう。……その中からこの事件の解決の鍵を探し出せばいいのだ。…………否……この事件の鍵は、もうトックの昔に、君のポケットに落ち込んでいるはずだがね。ツイ今しがたたしかにその鍵を君の手に渡したことを、吾輩はハッキリと記憶しているのだがね」
「……そ……それはドンナ鍵……」
「離魂病の話さ」
「離魂病……離魂病がどうしたんですか」
「ハハハハ。まだわからないとみえるね」
「……わ……わかりません」
「……いいかい……この事件で差当り一番不思議に思えるところは、君とソックリの人間がモウ一人いることであろう。そのモウ一人の君自身のお陰で、スッカリ事件がコグラカッてしまっている訳だろう。しかも、それは君の離魂病のせいだっていうことをツイ今しがた、説明して聞かせたばかりのところじゃないか」
「だって……だって……そんな不思議な……ばかばかしいことが……」
「ハッハッハッ。まだ離魂病が信じられないと見えるね。まあまあ無理もないさ。誰でも自分の頭が一番、確実《たしか》だと信じているんだからね。その方が結局、無事でいいし、お陰で話の筋道もステキに面白くなって来る訳だから、そう慌てて結論をつける必要もないだろうよ。呉一郎を発狂さした犯人はあらゆる人間の中の一人か、または呉一郎自身か、それともまた、絵巻物が独り手に弥勒様のお像から脱け出して活躍したものか……というこの三つを前提にしてユックリと考えた方がいい。そうして冷静な気持ちで君の過去を思い出した方が早道だ」
「……しかし……そんな神秘的な……不思議な事実が……」
ここまで言いかけると私は、自分自身の考えに堪えられなくなって言葉を切った。
「だから慌てるなと言うんだよ。今に神秘でも何でもなくなるから……」
「……でも……今っていつです」
「いつだかわからないが、きょうは駄目だよ。吾輩は君の記憶力を回復すべく、先刻《さつき》からの話の中に、かなり強烈な精神科学の実験を、君に対してかけ通しにして来たんだけれども、君はどうしても過去の記憶を思い出さないのだから仕方がない。きょうの実験はこれで中止だ。つまり君の頭が、そこまで回復していないのだから、この上、実験を続けても無駄だと吾輩は……」
「しかし……それじゃ最前のお約束に……」
「約束はしたが仕方がない。お互いに無駄骨を折るよりも、今すこし君に休養してもらってから、今一度実験をやり直すことに……」
「待って下さい……チョット……それじゃ先生は、その神秘の正体をスッカリ御存じなんですね」
「そうさ。知っているからこそ、君と関係があると言うんじゃないか」
「……じゃ……それをスッカリ僕に話して下さい」
「……イケナイ……」
正木博士は、こうキッパリと言い切ると、葉巻を横ッチョにくわえ直した。腕を組んで反り返りつつ冷やかに笑った。すこしムッとしている私の顔を見ながら……。
「……なぜって考えてみたまえ。この事件の神秘の正体を明らかにするためには、是非とも呉一郎を発狂させた狂人の名前を明らかにする必要があるだろう。ところがその犯人の名前は、君自身か、呉一郎か、どちらかが過去の記憶を回復すると同時に思い出したのでなければ、真実とは言えないだろう。たとい法医学者の若林博士が、いかに動かすべからざる確証をつかんでいるにしても、または吾輩自身がその犯人と、犯行の現状を確認しているにしても、君か、もしくは呉一郎が万一過去の記憶を回復した際に、その犯人を否定してしまえば何にもならないじゃないか。姪の浜の石切場で、私に絵巻物を見せてくれた人はこの人じゃありませんと言い張れば、それっきりの千秋楽じゃないか。そこがこの事件の普通の犯罪事件と違うところだからね。……だから吾輩は、そんな無価値なことをしゃべるのは御免だ」
私は、われ知らず長大息させられた。自分の判断力がみるみる迷妄に陥って行くのを自覚しながら……。
「……まだわからないかい。それじゃ、もう一つ深刻な事実を説明してやろう。いいかね。……この事件で、是非とも不可思議な犯人の正体を突止めなくちゃならぬ当面の責任者は、誰が何と言っても法医学者たる若林だろう。たとい、警察当局の方では、単なる呉一郎の発狂から起った事件として放棄しているにしても、精神科学応用の犯罪を研究する学者として、ここまで深入りして来た以上カンジンカナメの点を放ったらかしたまま、後へ退くことは、学者としての良心が第一、許さないだろう。つまり若林の立場としては、否《いや》でも応でも、この事件の真犯人をうやむやに葬り去ることが、どうしてもできない立場におるのだ。……しかるにだ。……一方に吾輩の立場はどうかと言うと、必ずしもそうでない。そうした若林の探偵的な努力、苦心に対しては助手ほどの責任もない。単なる私的の相談役の仕事をして来たに過ぎないのだ。……いいかい……それよりも吾輩の専門上、当然の責任として、全力を挙げて来たのは君自身、もしくは呉一郎の『頭の回復』であったんだが、しかしそれにしても、その犯人の名前とか顔とかを、是非とも思い出させなければならぬ責任とか必要とかいうものは、全然こっちにはないのだ。……というのは精神病学者としての吾輩の立場から見ると、発病の原因と経過さえ判明すれば、発狂さした犯人の名前は、目下不明と書いておいても、研究発表上、何らのさしつかえがないのだからね。……呉一郎の発病の状態と、この絵巻物との関係は、心理遺伝学的な立場からりっぱに説明が付くことだし、学術上の発表としての価値は、もう十分、十二分に備わっているわけだからね。それを若林が躍《やつ》気《き》になって、是非とも犯人を探してもらいたいと言ってヤイヤイ騒ぎ立てるために、ツイこんなことになってしまったんだが……とにかく吾輩は、そんな訳で、犯人なぞに用はないんだ……ハハン……」
こう言い放った正木博士は、悠然と椅子の上に両肱を張った。呆れている私を眼下に見下しながら葉巻の煙を輪に吹いた。
私は、そのいかにも学者然たる冷やかな風付きに、言い知れぬ反感を唆《そそ》られないわけにいかなかった。そればかりでなく、その人を愚弄しておいて突放すような態度に対して、たまらない不愉快を感じ始めたので、私は思わず坐り直して咳払いをした。
「……そ……そりゃあけしからんじゃないですか、先生。……いくら学者だってアンマリ冷淡過ぎはしませんか」
「冷淡過ぎたって仕方がない。よしんば吾輩が大負けに負けて、若林の加勢をして、その犯人を探し出したにしたところが、そいつをフン縛る法律があるか無いか……」
私は眼の中が何となく熱くなって来るのを感じた。言いたいことを一ペンに言ってしまおうとして、言えなくなったような気がして……。
「……法律……法律なんてものは、どうでもいいんです。……その犯人を突止めて八裂にでもしなければ、浮かばれない人間がイクラでもいるじゃないですか。八代子だって、モヨ子だって、またあの呉一郎だって……僕も連《まき》累《ぞえ》を喰っているんなら僕もです。……何の罪も科《とが》もないのに、殺される以上の残虐を受けているじゃないですか」
「……フン……それで……」
と色も味もなく言い棄てたまま正木博士は、自分の吹いた煙の行方をウットリと見送った。私は自分の魂を吐き出すような気持ちで言った。
「……それで、僕の魂がもし、この身体《からだ》を脱け出せるものなら、僕は今でも、ある一人に乗り移ってその人間の記憶に残っている犯人の名前を怒鳴ってやります。白昼の大道で、公表してやります。死ぬが死ぬまでその犯人に跟《くつ》随《つ》いて行って、殺す以上の復《ふく》讐《しゆう》をしてやります」
「……フーン。さよう願えたら面白いがね。しかし誰に乗り移ろうと言うんだい」
「誰って……わかりきってるじゃありませんか。犯人の顔を直接に見知っている呉一郎がいるじゃありませんか」
「ハッハッハッ。こいつは面白いな、遠慮なく乗り移るがいい。しかしマンマと首尾よく乗り移れたらお手拍子喝采どころじゃない。吾輩の精神科学の研究は全部やり直しだよ。魂が『乗り移る』とか『取り憑く』とか『生まれ変る』とかいう事実は、その本人の『心理遺伝』の作用以外の何ものでもないというのが、吾輩の学説の中でも、最重要な一か条になっているんだからね。……フン……」
「それはわかっています。しかしたとい、先生の方が犯人に用がなくとも、若林先生の方では用があるでしょう。若林先生があなたにこの調査書類を引渡されたのは、その最後の一点を、呉一郎の過去の記憶中から取出して頂きたいばっかりが目的じゃなかったですか」
「それはそうだ。百も承知だ。今朝から吾輩と若林が、君をこの部屋に引っ張り込んで、いろいろと試みた実験も、帰するところ、同じ目的一つのためにほかならなかったんだが……しかし吾輩はもう、これ以上にこの事件の真相を突っ込んで行きたくないのだ。その理由は、犯人の名前がわかると同時にわかるんだがね」
正木博士はまたも長々と煙を吹き上げて空《そら》嘯《うそぶ》いた。私はその顎を睨みつつ腕を組んだ。
「それじゃ、僕が勝手にこの犯人を探し出すのは、おさしつかえありませんね」
「それはむろん、君の自由だ。御随意に遊ばせだが……」
「ありがとうございます。それじゃすみませんが、僕を此病院《ここ》から解放して下さい。ちょっと出かけて来たいのですから……」
と言ううちに私は立上って、卓子の端に両手をついてお辞儀をした。しかし正木博士は平気でいた。お辞儀を返そうともしないまま悠々と椅子に踏ん反り返って、葉巻の煙を思い切り高々と吹上げた。
「出かけるって、どこへ出かけるんだい」
「どこだか、まだ考えていませんけど……帰って来るまでには事件の真相を根こそげえぐり付けてお眼にかけます」
「フフン。えぐり付けて胆を潰すなよ」
「……エッ……」
「この絵巻物の神秘は、お互いに破らない方がよかろうぜ」
「…………」
私は思わず立《たち》竦《すく》んだ。そう言う正木博士の態度の中には、私を押え付けて動かさないある力がみちみちていた。……曠《こう》古《こ》の大事業……空前の強敵……絶後の怪事件……そんなものに取巻かれて、嘘か本当か自殺の決心までさせられながら、それを片ッ端から茶化してしまっている。その物凄い度胸の力……その力に押え付けられるように私はまた、ソロソロと椅子に腰をかけた。そうして改めてその力に反抗するように居ずまいを正した。
「……よござんす……それじゃ僕は出かけますまい。その代りこの犯人を発見するまで、僕はここを動きません。僕の頭が回復して、この絵巻物の神秘を見破り得るまで、この椅子を離れませんが……いいですか、先生……」
正木博士は返事をしなかった。そうして何と思ったか、急に腰を落《おろ》して、グズグズと椅子の中に屈《かが》まり込み始めた。短くなった葉巻を灰落しの達磨の口へ突込んで、背中を丸めて、卓子に頬杖を突いたが、その時にジロリと私を見た狡《ず》猾《る》そうな眼付と、鼻の横に浮かんだ小さな冷笑と、一文字に結んだ唇の奥に、何かしら重大な秘密を隠しているらしい気振を見せた。
私は思わず身体《からだ》を乗り出した。身体中の皮膚が火《ほ》照《て》るほどの異常な昂《こう》奮《ふん》に包まれてしまった。
「いいですか、先生……その代りに、万一、僕がこの犯人を発見し得たら、僕が勝手な時に、勝手なところでその名前を発表しますよ。そうして呉一郎を初め、モヨ子、八代子、千世子の仇敵《かたき》を取りますよ。そのためには、僕がドンな眼に会おうとも、また、犯人がいかなる人間であろうとも驚きませんが……いいですか、先生……。その残忍非道な人間のために、こんな狂人地獄に陥れられて、一生涯、飼い殺しされているなんて……僕にはトテモ我慢ができないのですから……」
「ウン……まあやってみるさ」
正木博士はいかにも気のなさそうにこう言った。そうしてアヤツリ人形のようにピッタリと眼を閉じた。一種異様な冷笑を鼻の横に残して……。
私は今一度坐り直した。自分の無力を眼の前に自覚させられたような気がして、思わずカーッとなった。
「……いいですか、先生。僕が自分で考えてみますよ。……まず仮にこの犯人が僕でないとすればですね。まさか村の者の言うように、この絵巻物がひとり手に弥勒様の仏像から抜け出して、呉一郎の手に落ちるようなことは、有り得るはずがないでしょう」
「……ウフン……」
「……また……伯母の八代子と、母の千世子も、呉一郎をこの上もなく愛して、頼りすがりにしている女ですから、こんな恐ろしい言い伝えのある絵巻物を呉一郎に見せるはずはありますまい。雇人の仙五郎という爺《じじい》も、そんなことをする人間ではないようです。……お寺の坊さんはまた、呉家の幸福を祈るために呉家に仕えているようなものですから、巻物があるとわかったらかえって隠すくらいでしょう。そうとすれば、他にまだ誰にも気付かれていない、意外な人間の中に、嫌疑者があるはずです」
「……ウフン。自然、そういうことになる訳だね」
正木博士は変な粘っこい口調で、不承不承にこう言った。それからチョット眼を開いて私を見た。その眼の色は、鼻の横の微笑とは無関係に、いかにも青白く残忍であった……と思う間もなくまた、もとの通りにピッタリと閉じた。私は一層急《せ》き込んだ。
「若林博士のその調査書類の中には、そんな嫌疑者についていろいろと心当りが調べてあるんですね」
「……ないようだ」
「……エッ……一つも……」
「……ウ……ウン……」
「……じゃ……その他のことは、みんな念入りに調べてあるんですか」
「……ウ……ウン……」
「……なぜですか……それは……」
「……ウ……ウン……」
正木博士は微笑を含んだまま、ウトウトと眠りかけているようである。その顔を見詰めたまま私は唖然となった。
「……そ……そ……それはおかしいじゃないですか、先生……犯人のことをお留守にして、他のことばかりに念を入れるなんて……仏作って魂入れずじゃないですか。ねえ先生……」
「…………」
「……ねえ先生……たとい悪《いた》戯《ずら》にしろ何にしろ、これほどに残忍な……そうしてコンナにまで非人道的に巧妙な犯罪が、ほかにあり得ましょうか。……本人が発狂しなければむろん、罪にはならないし、万一発狂すれば何もかもわからなくなる。また、万が一犯人として捕まったとしても、法律はもとより、道徳上の罪までもごまかせるかも知れないというのですから、これくらいアクドイ、残酷な悪戯はまたとあるまいと思われるじゃないですか、先生……」
「……ウ……フン……」
「その根本問題にちっとも触れないで調査した書類を、先生に引渡すのは、どう考えてもおかしいじゃないですか」
「……ウ……フン。……おかしいね……」
「……この事件の真犯人を明らかにするには、是非とも呉一郎か、僕かの頭を回復さして、犯人を指《ゆび》示《さ》させるより他に方法はないのでしょうか……先生みたような偉い方が二人も掛り切っておられながら……」
「……ないよ……」
正木博士は乞食を断るように、めんどうくさそうな口ぶりで答えた。サモサモ眠たそうに眼を閉じたまま……。私はグイと唾《つ》液《ば》をのみ込んだ。
「……一体、この絵巻物を呉一郎に見せた目的というのは何でしょうか」
「……ウ……ウン……」
「ほんとうの心から出た親切か……または悪戯か……恋の遺恨か……何かの詛いか……それとも……それとも……」
私はギョッとした。呼吸が絞め上げられるように苦しくなった。胸を波打たせつつ正木博士の顔を凝視した。
博士の鼻の横の微笑がスーッと消えた。……と同時に、眼をパッチリと開いて私を見た。心持ち蒼《あお》い顔に、黒い瞳をじっと据えたまま静かに部屋の入口を振返った……が、やがてまたおもむろに私の方へ向き直ると、やおら椅子の上に居ずまいを正した。
その黒い瞳《め》は博士独特の鋭い光を失って、何とも言えない柔らかい静けさを帯びていた。その態度にも今までの横着な、ずうずうしい感じが全くなくなっていた。みるみる一種の神々しい気品を帯びて来ると同時に、何とも言えず淋しい、悲しい心持ちを肩のあたりに見せている。その態度を見ているうちに私の呼吸がだんだんと静まって来た。そうしてわれにもあらず眼を伏せて、頭を低《た》れてしまったのであった。
「……犯人はおれだよ……」
と博士は空《ほら》洞《あな》の中でつぶやくような声で言った。
私は思わずビクリとして顔を上げた。弱々しい、物悲しい微笑を漾《ただよ》わしている博士の顔を仰いだがまた、ハッと眼を伏せた。
……私の眼の前が灰色に暗くなって来た。全身の皮膚がゾワゾワと毛穴を閉じ始めたような……。
私はヒッソリと眼を閉じた。わななく指を額に当てた。心臓がドキンドキンと空に躍りまわっているのに、額は冷めたく濡《ぬ》れている。その耳元に正木博士の悄《しよう》然《ぜん》たる声が響く。
「……君がそこまで判断力を回復しているならばやむをえない。一切を打明けよう」
「…………」
「何を隠そう。吾輩はとうから覚悟を決めていたのだ。この調査書類の内容の全部が、吾輩をこの事件の犯人として指していることを、最初から明らかに認めていながら、知らぬ顔をし通して来たのだ」
「…………」
「この調査書類の内容は一字一句、吾輩を指して『お前だお前だ。お前以外にこの犯人はない』と主張しているのだ。……すなわち……第一回に直方で起った惨劇は、高等な常識を持っている思慮周密な人間が、あらゆる犯跡を掻き消しつつ、事件が迷宮に入るように、故意に呉一郎が帰省した時を選んで、巧みに麻酔剤を使用して行った犯罪である。呉一郎の夢中遊行では断じてない……と……」
正木博士はここで一つ、静かな咳払いをした。私はまたもビクリとさせられたが、それでも顔を上げることができなかった。正木博士が吐き出す一句一句の重大さに、圧しかかられたようになって……。
「……その犯行の目的というのはほかでもない。呉一郎を母親の千世子から切離して、モヨ子と接近させるべく、伯母の手によって姪の浜へ連れて来させるにある……モヨ子は姪の浜小町と唄われているほどの美人だから、とやかく思っている者が、その界《かい》隈《わい》に多いにきまっているし、同時に、絵巻物の本来の所在地で、大部分の住民は多少にかかわらず、それに関する伝説を知っている。一方に呉一郎とモヨ子の縁組は、九十九パーセントまで外れる気遣いがないのだから、この実験を試みるにも、または、その跡を晦《くら》ますにも、この姪の浜以上に適当なところはない訳である」
「…………」
「……だから第二回の姪の浜事件というのも、けっして神秘的な出来事ではない。直方事件以来の計画通り、ある人間が、石切場付近で呉一郎の帰りを侍伏せて、絵巻物を渡したにきまっている……すなわちこの直方と姪の浜の二つの事件は、ある一つの目的のために、同一の人間の頭脳によって計画されたものである。その人間は、この絵巻物に関する伝説に対して、非常に高等な理解と興味とを併せ持っている者で、これを実地に試験すべく最適当した時機……すなわち被害者、呉一郎がある大きな幸福に対する期待に充たされている最高潮のところを狙って、その完全な発狂を予期しつつ、この曠古の学術実験を行った……と言えば、吾輩より以《ほ》外《か》に誰があるか……」
「ありますッ……」
私は突然に椅子を蹴って立上った。顔が火のようにカーッと充血した。全身の骨と筋肉が、力にみちみちて戦《おのの》いた。愕然としている正木博士の鼻眼鏡を睨み付けた。
「……ワ……ワ……若林……」
「ばかッ……」
という大喝が木《こ》魂《だま》返《がえ》しに正木博士の口から迸《ほとばし》り出た。同時に黒い、凹んだ眼でジリジリと私を睨み据えた。……がそのまっ黒い眼の光の強烈さ……罪人を見下す神様のような厳粛さ……怒った猛獣かと思われる凄じさ……。怒髪天を衝《つ》くばかりの勢であった私は一たまりもなく慄え上った。ヨロヨロと背後《うしろ》によろめく間もなくドタリと椅子に尻餠を突いた。
その恐ろしい瞳に、自分の眼を吸い付けられたまま……。
「……ばかッ……」
私は左右の耳《みみ》朶《たぼ》に火が付いたように感じつつ、ガックリとうなだれた。
「……無考えにもほどがある……」
その声は私の頭の上から大磐石のように圧しかかって来た。しかも今までのタヨリない、淋しい態度とは打って変って、父親の言葉かと思われるほどの威厳と慈悲とが、その底に籠っていた。
私はまた、なぜともなく胸が一パイになりかけて来た。正木博士の筋ばった両手の指が机の端を押え付けて、一句一句に力を入れて行くのを見詰めながら……。
「……これほどの恐ろしい実験を、ここまで突込んで行《や》り得る者が、吾輩でなければ、外には今一人しかいないであろうということは誰でも考え得ることじゃないか。またそれがわかればその人間の名前が、ウッカリ歯から外へ出されないことも、すぐに考え付くはずじゃないか。……何という軽率さだ」
「…………」
「いわんや本人は既に……一切を自白している」
「……エッ……エッ……」
私は愕然として顔を上げた。
見ると正木博士は、青いメリンスの風呂敷に包まれた調査書類を、右手でシッカリと押え付けながら、冷然として唇をかんでいた。それは何の意味か知らず、ある神聖な言葉を発する前提と思われる。その緊張した態度に打たれて、私はまたも頭を垂れてしまった。
「その自白の記録が、この調査書類である。これは本人が、自分で犯した罪跡を、自分で調査して吾輩に報告したものだ」
……スラリ……と冷めたいものが一筋、私の背中を走り降りて行った。
「……君はまだ犯罪の隠蔽心理とか、自白心理とかいうものが、ドンナものだか詳しくは知るまいが……よく聞いておき給え。人間の知恵が進むにつれて……または社会機構が複雑過敏になって来るにつれて、こんな恐ろしい犯罪心理が、ありふれたものと成って来るにきまっているんだから……よろしいか……」
「…………」
「……この調査書がいかに恐るべきものであるか……この調査書類の中に含まれている犯罪の隠蔽心理と自白心理の二つが、いかに深刻な、眩《げん》惑《わく》的《てき》な、水も洩らさぬ魔力をもって吾輩にこの罪を引受けるべく迫って来たか……という理由を、これから説明するから……」
私は、私の全身の筋肉が、みるみる冷え固まって行くのを感じた。両眼の視線はまたも、眼の前に横たわる緑色の羅《ラ》紗《シヤ》に吸い寄せられて、動かすことができなくなった。
その時に正木博士は軽い咳払いを一つした。
「……仮にある人間が、一つの罪を犯したとすると、その罪は、いかに完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の『記憶の鏡』の中に残っている、罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い消すことができないものである。これは人間に記憶力というものがある以上、やむをえないので、誰でも軽蔑するくらいよく知っている事実ではあるが……サテ実際の例に照してみると、なかなか軽蔑なぞしておられない。この記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿なるものは、常に、五分も隙のない名探偵の威嚇力と、絶対に逃れ途《みち》のない共犯者の脅迫力とを同時にあらわしつつ、あらゆる犯罪に共通した唯一、絶対の弱点となって、最後の息を引取る間際まで、人知れず犯人に付《つき》纏《まと》って来るものなのだ。……しかもこの名探偵と共犯者の追求から救われ得る道はただ二つ『自殺』と『発狂』以外にないと言ってもいいくらい、その恐ろしさが徹底している。世俗にいわゆる『良心の呵《か》責《しやく》』なるものは、畢《ひつ》竟《きよう》するところこうした自分の記憶から受ける脅迫観念にほかならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺してしまうよりほかに方法はない……ということになるのだ。
……だから、あらゆる犯罪者はその頭が良ければいいほど、この弱点を隠蔽して警戒しようと努力するのだが、その隠蔽の手段がまた、十人が十人、百人が百人共通的に、最後の唯一絶対式の方法に帰着している。すなわち自分の心の奥の、奥のドン底に一つの秘密室を作って、その暗黒の中に、自分の『罪の姿』を『記憶の鏡』と一緒に密閉して、自分自身にも見えないようにしようと試みるのであるが、あいにくなことに、この『記憶の鏡』という代《しろ》物《もの》は、周囲を暗くすればするほど、アリアリと輝き出して来るもので、見まいとすればするほど、見たくてたまらないという奇怪極まる反逆的な作用と、これに伴う底知れぬ魅力とを持っているものなのだ。しかしそれをそうと知れば知るほど、その魅力がたまらないものとなって来るので、死物狂いに我慢をしたあげく、やりきれなくなってチラリとその記憶の鏡を振返る。そうすると、その鏡に映っている自分の罪の姿も、やはり自分を振り返っているので、双方の視線が必然的にピッタリと行き合う。思わずゾッとしながら自分の罪の姿の前にうなだれることになる……こんなことが度重なるうちに、とうとうやりきれなくなって、この秘密室をタタキ破って、人の前にサラケ出す。記憶の鏡に映る自分の罪の姿を公衆に指さして見せる。『犯人はおれだ。この罪の姿を見ろ』……と白日の下に告白する。そうするとその自分の罪の姿が、鏡の反逆作用でスッと消える……初めて自分一人になってホッとするのだ。
……または、自分の罪悪に関する記憶を、一つの記録にして、自分の死後に発表されるようにしておくのも、この呵責を免れる一つの方法だ。そうしておいて記憶の鏡を振返ると、鏡の中の『自分の罪の姿』も、その記録を押え付けつつ自分を見ている。それでイクラか安心して淋しく笑うと『自分の罪の姿』も自分を見て、憫れむように微苦笑している。それを見るとまた、いくらか気が落ち着いて来る……これが吾輩のいわゆる自白心理だ……いいかい……。
……それから今一つ、やはりごく頭のいい……地位とか信用とかを持っている人間が、自分の犯罪を絶対安全の秘密地帯におきたいと考えたとする。その方法の中でも最も理想的なものの一つとして、今言った自白心理を応用したものがある。すなわち、自分の犯罪の痕跡という痕跡、証拠という証拠をことごとく自分の手で調べ上げて、どうしても自分が犯人でなければならぬことが、言わず語らずの中にわかる……という紙一枚のところまで切詰める。そうしてその調査の結果を、自分の最も恐るる相手……すなわち自分の罪跡を最も早く看破し得る可能性を持った人間の前に提出する。そうするとその相手の心理に、人情の自然と論理の焦点の見損いから生ずる極めて微細な……実は『無限大』と『零』ほどの相違を持つ眩惑的な錯覚を生じて、どうしても眼の前の人間が罪人と思えなくなる。その瞬間にその犯罪者は、今までの危険な立場を一転して、ほとんど絶対の安全地帯に立つことができる。そうなったらもう、しめたものである。一旦、この錯覚が成立すると、容易に旧《も》態《と》に戻すことができない。事実を明らかにすればするほど、相手の錯覚を深めるばかりで、自分が犯人であることを主張すればするほど、その犯人が立つ安全地帯の絶対価値が高まって行くばかりである。しかもこの錯覚に引っかかる度合いは、相手の頭が明《めい》晰《せき》であればあるほど、深いのだ……いいかい……。
……この『犯罪自白心理』の最も深刻なものと『犯罪隠蔽心理』の最も高等なものとが、一緒になって現出したのが、この調査書類なのだ。まさに、これこそ、吾輩の遺言以上の、前代未聞の犯罪学研究資料であろうと思われるのだ……いいかい……そうして更に……」
ここまで言って言葉を切ったと思うと、正木博士は不意に身軽く、いかにも自由そうに廻転椅子から飛降りた。自分の考えを踏み締めるように両手を背後に組んで、一足一足に力を入れて、大卓子と大《だい》暖《スト》炉《ーブ》の間の狭いリノリウムの上を往復し始めた。
私はやっぱり旧《もと》の通りに、廻転椅子の中に小さくなって、眼の前の緑色の羅紗の平面を凝視していた。その眩しい緑色の中に、ツイ今しがた発見した黒い、留《ピ》針《ン》の頭ほどの焼け焦げが、だんだんと小さな黒ん坊の顔に見えて来る……大きな口を開いてゲラゲラ笑っているような……それを一心に凝視していた。
「そうして更に恐るべきことには、この書類に現われている自白と、犯罪の隠蔽手段は、一分一厘の隙間もなく吾輩をシッカリと押え付けておるのだ。……すなわち、もしもこの書類が公表されるか、または司直の手に渡るかした暁には、いかに凡クラな司法官でも、すぐに吾輩を嫌疑者として挙げずにはおられないようにできているのだ。……のみならず……万一そうして吾輩が法廷に立つようなことがあった場合には、たとい、文殊の知恵、富《ふ》楼《る》那《な》の弁が吾輩にありといえども、一言も弁解ができないように、この調査書は仕掛けてあるのだ。そのカラクリ仕掛の恐ろしい内容を今から説明する……いいかい……吾輩がこの戦慄すべき学術実験の張本人として名乗りを上げずにおられなくなった、その理由を説明するんだよ」
こう言ううちに正木博士は大卓子の北の端にピタリと立止った。両腕を縛られているかのようにシッカリと背後に組んだまま、私の方を振返ってニヤニヤと冷笑した。その瞬間に、その鼻眼鏡の二つのガラス玉が、南側の窓から射込む青空の光線をマトモに受けて、まっ白く剥《む》き出された義《いれ》歯《ば》と共に、気味悪くギラギラピカピカと光った。それを見ると私は思わず視線を外《そ》らして、眼の前の小さな焼焦げを見たが、その中から覗いていた黒ん坊の顔はもうアトカタもなく消え失せていた……と同時に私の頬や、首筋や、横腹あたりが、ザワザワザワと粟立って来るのを感じた。
正木博士はそのまま、黙って北側の窓のところまで歩いて行った。そこでチョイト外を覗くとすぐに大卓子の前の方へ引返して来たが、その態度は、今までよりもまたズット砕けた調子になっていた。これほどの大事件を依然としてばかにしきって、弄《もてあそ》んでいるような、滑らかな、若々しい声で言葉を続けた。
「……そこでだ。いいかい。まず君が裁判長の頭になって、この前代未聞の精神科学応用の犯罪事件を、厳正、公平に審理してみたまえ。吾輩が検事兼被告人という一人二役を兼ねた立場になって、この事件の最後の嫌疑者、すなわち『W』と『M』の行動に関する一切の秘密を、知っている限り摘発すると同時に、告白するから……君は結局、双方の弁護士であると同時に裁判長だ。同時に精神科学の原理原則に精通した名探偵の立場に立ってもいい……いいかい……」
私のすぐ傍に立《たち》佇《ど》まった正木博士は、リノリウムの床の上を、北側から南側へコツリコツリと往復しながら咳一咳した。
「……まず……呉一郎が、その絵巻物を見せられて、精神病的の発作に陥れられた当時のことから話すと……その大正十五年の四月の二十五日……呉一郎とモヨ子との結婚式の前日には『W』も『M』も姪の浜からほど遠からぬこの福岡市内に確かにいた。……Mはまだ九州大学に着任匆《そう》々《そう》で、下宿が見付からなかったために、博多駅前の蓬《ほう》莱《らい》館《かん》という汽車待合兼業の旅《はた》宿《ご》に泊っていたが、この蓬莱館というのはかなりの大きな家で、部屋の数が多い上に、客の出入りがナカナカ烈しい。おまけに博多一流で客《きやく》待《あし》遇《らい》が乱暴と来ているから、金払いをキチンキチンとして飯をチャンチャンと喰ってさえおれば、半日や一晩いなくたって、気にも止めてくれないという、現場不在証明《アリバイ》のごまかしには持って来いの場所だ。……ところでこれに対するWはと見ると、いつも九大医学部の法医学教授室に立て籠もって勉強ばかりしている。仕事の忙しい時は内側から鍵をかけていて、一切の用事は電話で弁ずる。鍵穴が塞がっている時は、けっして外からノックしないのが、法医学部関係者の規則みたような習慣になっている。こうしたWの神経質は、小使や友人はもちろんのこと、新聞記者仲間でも評判になっているくらいだから、これも現場不在証明《アリバイ》の製造には最も便利な習慣だ。
……サテまた、一方に……呉一郎が、結婚式の前日に出席するはずになっていたという、福岡高等学校の英語演説会の日取や時刻は、新聞を気を付けておればキットわかる。呉一郎が軌道に乗らずに歩いて帰るという習慣も、著しい習慣だから、前もって調査しておればすぐに気が付く……そこで石切場に働いている石《い》切《し》男《や》の一家族に、何かしら検出の困難な毒物を喰わせて、その日を中心にした二、三日か一週間も休ませて、その隙に仕事をするという段取りになるのだ。もっともこの姪の浜というところは半漁村で、鮮魚を福岡市に供給している関係から、よくコレラとか赤痢とかいう流行病の病源地と認められることがあるので、その手の病源菌を使うと手軽でいいのだが、しかしこの種のバクテリヤは、その人間の体質や、その時の健康の状態によって利かないことがあるから困る。いずれにしても九大の法医学教室は衛生、細菌の教室と共同長屋で、細菌や毒物の研究が盛んだから、その方の手《て》筈《はず》にはすこぶる便利な訳だと思う。とにかく微塵も狂いのないようにして取りかかったところに、この事件の特徴があるのだからね。
……次に当日、呉一郎が福岡市の出外れの今川橋から姪の浜まで、約一里の間を歩いて帰るとすれば、是非ともあの石切場の横の、山と田《た》圃《んぼ》に挟まれた国道を通らなければならぬことは、戸倉仙五郎の話にも出ていたが、これは実地を見てもすぐにうなずける。麦はもう大分伸びている頃だが、深い帽子に色眼鏡、薄い襟巻とマスク、夏マントなぞいうものを取合わせて、往来に近い石の間か何かに腰をかけて、動かないことにしておれば、顔形や背《せ》恰《かつ》好《こう》までもかなり違った人間に見せかけることができたであろう。……そこで帰って来る呉一郎を呼び止めて、言葉巧みに誘惑するんだね。たとえば……実はあなたの亡くなられたお母様を存じている者ですが、まだあなたがお幼《ちい》少《さ》いうちに、あなたのことについてごく秘密のお頼みを受けていることがありました。そのお約束を果すために、かようなところでお待ち受けしていたのです……テナことを言えばイクラ呉一郎が人見知り屋のお坊ちゃんでも引付けられずにはいられないだろう。そこでその絵巻物をもったいらしく出して見せて……これは呉家の宝物で、お母様が家《う》中《ち》に置いておくと教育上悪いからというので、私に預けておかれたものですが、もう、明日からはあなたが一軒の御家庭の主人公になられると承りましたから、御《お》返《か》却《え》しに参りました。つまりあなたが、モヨ子さんと式をお挙げになる前に、是非とも見ておかなければならぬ品物で、あなたの遠い御先祖に当るある御夫婦があらわされた、この上もない忠義心と愛情との極致を、この中に描きあらわしてあるのです。これについてはいろいろな恐ろしい噂や伝説が絡《まつ》わり付いているほどの御宝物なのですが、それはウッカリした者が見ないように言い触らしたのが一種の迷信みたようになってしまったので、実はトテモ素晴らしい名画と名文章なのです。嘘だと思われるならば今、ここで御覧になってもよろしい。その上で御不用だったら今一度、私がお預りしてもかまいません。あすこの高い岩の陰なら、誰も来はしないでしょう。……と言ったかどうか知らないが、吾輩だったら、そんな風に言いまわして好奇心を唆《そそ》るのが一番だと思うね。はたせるかな、呉一郎は美事に係《わ》蹄《な》に引っかかった。岩の陰で夢中になって絵巻物を繰り展《ひろ》げているうちに、スラリと姿を消してしまうくらい何でもない芸当であったろう……いいかね……。
……それから次にその二年前のこと……すなわち大正十三年の三月二十六日に起った直方事件に移ると、あの当夜もWとMは、たしかに福岡市にいたことになっている。……というのはその三月二十六日の前日の二十五日には、Mは、久方振りでこの大学の門を潜って、当時、精神病学教授として存命中であった斎藤博士初め、同窓や旧知の先輩、後輩に面会した後、総長に会って論文を提出して、卒業以来預けておいた銀時計を受取っている。宿はやはり蓬莱館に泊ることにした。またWもその当時から今の春吉六番町の広い家に、飯《めし》爨《たき》婆《ばあ》さん一人を相手の独身生活をやっているんだから、日が暮れてからソット脱け出して、朝方帰って来るくらい、何でもない仕事だ。つまり二人とも現場不在証明《アリバイ》をごまかすには持って来いのところにいた訳だ。……それかあらぬかその晩の九時頃に一台の新しい箱自動車《セダン》が、曇り空の暗黒を東に衝《つ》いて福岡を出た。乗っている人物は炭坑成金らしい風《ふう》采《さい》で『ちょうど直方へ連絡する汽車がなくなったところへ、急用ができたものだからやむをえない。一つ全力で直方までやってくれ』と言って……」
「……エッ……そ……それじゃ呉一郎の夢遊病は……」
正木博士は私の前を通り抜けつつ振り返って冷笑した。
「……ウソさ……まっ赤な嘘だよ」
「…………」
私の脳髄の全部がたちまち扇風機のような廻転を始めた。身体が自然《おのず》と傾いて一方に倒れそうになったのを、辛うじて椅子の肘掛けで支え止めた。
「……あんな夢中遊行があったら二度とお眼にかからないよ。……第一、台所の入口の竹の心張棒が落ちた説明からしてはなはだ明瞭を欠いているじゃないか。いずれ手袋をはめた手を、戸の間から差し入れて指の股でつかもうと試みたのだろうが、その時に誤って取落した……とでも考えれば説明が付くが……または難なく無事に外しておいて、あとで自然に落ちたように見せかけておいた……と考えることもできるが……しかし、まあいい。イクラ際どいところが抜きにしてあっても、吾輩の説明を聞いておれば一ペンにわかるから……。それを吾輩が何故に夢中遊行病と断定してしまったかという理由も、同時に判明するんだから……」
私の脳味噌の中の廻転がしだいに静まって、やがてヒッソリと停止した。同時に頭の毛がザワザワザワとし始めたのを奥歯でギュッとかみ締めながら眼を閉じた。
「……裁判長……シッカリしないと駄目だぞ。これから先がいよいよわからない、恐ろしいことずくめになって来るんだから……ハハ……」
「…………」
「……そこでだ……次にこの調査書類を、よくよく読み味わってみると、異様に感ぜられる点が二つある。その一ツはツイ今しがた君が疑ったところで、犯人捜索方法を、ただ呉一郎の記憶回復後の陳述のみに期待して、その他の捜索方法を全然放棄していることである。……それから今一つは呉一郎の生年月日について特別の注意が払ってある点と……この二つだ。いいかい。
……ところでその呉一郎の年齢について、この調査書には一つの新聞記事の切り抜きを参考として挿入してあるのであるが、その記事によると、呉一郎の母親の千世子は、明治三十八年頃に家出をしてから一年ばかりの間、福岡市外水茶屋の何とかいう、気取った名前の裁縫女塾に通っていたが、その間には子供は生まなかったように見える。……で……もしその頃に生まなかったものとすれば呉一郎が生まれたのは、明治三十九年の後半から、四十年一パイぐらいの間だ……という推測ができる。……但し、こんな年齢の推定材料の切り抜き記事は、常識的に考えると、呉一郎が私生児だから、特に念のために挿入したものと考えられるかも知れぬ。またはその当時の話題になっていたこの『美人後家殺しの迷宮事件』の真相を、古い色情関係と睨んでいた新聞記者が、そんなネタを探し出した。ところがまたその記事の中に、虹野ミギワなぞいう呉虹汀に因んだ名前が出て来たりしたので、かたがたもってこの調査書の中に取入れたものとも考えられるようでもある。……が……しかし吾輩の眼から見るとそこにモットモット意味深長な、別個の暗示が含まれているように思える。……というのはほかでもない。その呉一郎が生まれた年らしく推定される明治四十年の十二月は、この九州帝大の前身たる福岡医科大学が、第一回の卒業生……すなわちわれわれを生んだ年に当るのだ。……いいかい……」
「…………」
「ところでこれがまた、局外者の眼から見るとチョット根拠の薄弱な、余計な疑いのように見えるかも知れないが実はそうでない。当時の大学生の中に怪しい奴がいた。そいつがこの事件のソモソモの発頭人で、直方事件の下手人もそやつに相違ないということを、この調査書は言いたくて言い得ずにおるように見える。……これが吾輩のいわゆる、自白心理だ。問うに落ちずして語るに落ちるという千古不磨の格言のあらわれだ。呉一郎が生まれた真実の時日と場所を知っているのは、母親の千世子を除いてはWとMの二人きりだからね」
私は強く肩をユスリ上げた、自分でも意味がわからないままに……。正木博士もその時にチョット沈黙したが、その沈黙は私を無限の谷底に陥れるように深く、私の胸を打った……と思うと正木博士はまた、言葉を続けた。
「……そうと気が付いた時に吾輩はゾッとしたよ。おのれと思ったが、弁解の余地がない。しかも呉一郎の血液を検査して誰の子かを決定する法医学鑑定法の世界的権威はWの手中にある」
正木博士は南側の窓のところで向うむきにハタと立止まった。悄然とうつむいて唾《つ》液《ば》をのみ込んでいるように見えた。
私はまたもわななき出した片手を額に当てた。湧き起り湧き起りして来る胴ぶるえを押え付け押え付けしながら片手でシッカリと膝《ひざ》頭《がしら》をつかんでいた。
正木博士はやがて太い溜息を一つした。あたかも窓の外を見るのを恐れるかのようにクルリとこっちを向いた。……黙って……うつむいて……心の動揺を落ち着けるかのように、大卓子を隔ててコトリコトリと私の前を横切って行った。そうして北側の窓のところで今度は直角に向きを換えて、窓側とスレスレに往復し始めたのであったが、その心持ちうつむいた姿は、眩しい窓の前を通り過ぎる度ごとに、チラリチラリとした投影を、私の眼の前の大卓子の縁に閃かすのであった。
正木博士はまたも念入りに咳一咳した。
「……今から二十余年前……福岡の県立病院が医科大学に改造されてこの松原に建て直された当時のこと、その大学の第一回の入学生として入って来た青年の中に、WとMという二人がいた。その中でもWは法医学、Mは精神病学という……いずれもその当時の医学界で発達の十分でない方向を志しつつ、互いに首席を争い続けていたが、Wは元来の結核系統の家に生まれたせいか、その当時の学生の中でも一、二を争う好男子の偉丈夫で、性質は念に念を入れる神経質の実際家……またMはその頃から矮《ち》躯《び》の醜《ぶお》男《とこ》で、空想家の早飲込みのドチラかと言えば天才肌という風に、各自正反対の特徴を持っていた……それが互いに鎬《しのぎ》を削って学業の覇《は》を争っていたのであった。
……しかるに今も言う通りWは法医学、Mは精神病学と、その志す最後の目標は違っていたが、唯一、その頃はまだソンナ名前すら人が知らなかった精神科学方面の研究に対する二人の興味は、一種の宿命であるかのように一致していた。あるいは二人の頭脳の正反対の特徴の極端と極端とが偶然に一致していたせいかも知れないが……とにかくそのために、特に当時のその方面の権威者、斎藤博士について指導を仰ぐことになった訳であるが、その中でもまた、特に専門の医学と縁の薄い、迷信とか、暗示とかいう問題に対する二人の研究熱は、ほとんど沸騰点を突破しているかの観があった。もっともこれは東洋哲学に造詣の深い斎藤先生の指導に影響されたせいでもあるが、その結果、福岡からほど遠からぬところにあるこの有名な、恐ろしい伝説に二人とも相前後して惹《ひき》付《つ》けられて行くようになったのは、むしろ当然の帰結と言うべきであったろう。
……今まで一種の敵《てき》愾《がい》心《しん》をもって、どことなく折合いかねていた二人は、この伝説に着眼すると同時に、何もかも忘れて握手してしまった。そうして互いに意見を交換して、この問題に対する研究手段の一般方略をきめた結果、Wは『迷信、伝説の起源と精神異常』といったような比較的質《じ》実《み》な方面から……また、これに対するMの方は『Wの研究の結果から見た、仏教の因果応報論』もしくは『印《イン》度《ド》、及び、エジプトの各宗教に含まれたる輪《りん》廻《ね》転生説の科学的研究』といったような途方もないはでな題目で……いずれにしても相関連した裏と表の二方面から狙《ねら》いを付けて、どこまでも突貫してみようということになった……が……何しろまだその伝説の正体も突止めない中から、こんな恐ろしい研究主題《テーマ》を決めて掛ったくらいだから、その当時の二人の意気組みがいかに素晴らしいものであったかが想像できるであろう。事実二人とも、この研究を完成するためには、あらゆる人情も良心も、神も仏も踏み潰《つぶ》し蹴散らして行く決心であった。毛唐人の中でも科学の新境地を開拓した連中の中には、随分思い切った研究手段を執った者がある。特に医学方面の大家の中には学術のために良心を殺して極度に残忍な犠牲を取った例が無数にあって、社会の非難を受けた連中も相当あるが皆、学術のためとか人類文化のためとかいう名の下に敢然として非人道的な研究を断行して来たものらしい。その通りにWもMも、あらゆる犠牲を顧みずに、この実験を徹底して行こうではないか……と固く約束したことであった。
……二人はコンナ訳で、互いに首席を争う以上の熱度を上げて、協力一致、この伝説の調査を開始したものであったが、ちょうど都合のいいことに、呉家の長女でY子というのがもう、妙齢になっていて、婿を探しているところであったけれども、田舎の癖として呉家の精神病系統《きちがいすじ》の噂がどこまでも付き纏《まと》って行くので、婿に来てくれる者がない。そこでいろいろと手を尽して探しているうちにヤットのことで、当時、福岡の簀《すの》子《こ》町というところに京《きよう》染《ぞめ》悉《しつ》皆《かい》屋《や》の小店を開いていた渡り者のGという三十男を引っ張って来て間に合わせることになったが、そんな経《いき》緯《さつ》のために、一時絶えかけていた呉家の血統に絡まる伝説が、やかましく復活していたところだったので研究上、非常に便宜であった。
……WとMは、そこでそのような噂や伝説にグングンと突っ込んで行った。古蹟調査に名を藉《か》りたWが如月寺の和尚に取り入って縁起文を盗み写している間に、同じように和尚の信用を得たMは、問題の御本尊の弥勒様の首を引抜いてみるといった調子で、グングンと求心的に肉迫して行くと実に意外千万な事実を発見した。すなわち如月寺の縁起文の中では、呉虹汀の手で焼棄てられたことになっている絵巻物が、実は焼棄てられていなかった……ツイこの間まで御本尊の胴体の中に厳存していたのみならず、それを最近になって何者かが発見して、どこかへスッパ抜きに持って行ってしまっているに相違ない事実が発見されたのだ。
……これは呉家の系図と、これに絡まる伝説の史実的調査だけで満足するつもりであった二人にとって実に思い設けぬ発見であると同時に、非常な失望をもたらしたものであった。けれども、その失望は一時のことであった。若い二人は間もなく前に倍した勇気を盛り返しつつ、今までよりも一層、申合わせを厳重にして、あらゆる方面から手を廻して絵巻物の行方を探索した。そうしてその結果を綜合してみると、その泥《すつ》亀《ぽん》抜《ぬ》きの犯人というのはまた、意外千万にもY子の妹のT子という美しい女学生に違いないという目星が付いたので、サアことがややこしくなった。少々あてられるかも知れないが、裁判長だから仕方があるまい……ハハハ……」
「…………」
「……ところでWとMの二人の提携はここまで来るとまた、キレイに断絶することになった。……アノT子に絵巻物を握られていてはことがめんどうだ。お寺の御本尊の中にあるのと違って、生きた人間が保管しているのだから盗み出すにしても容易なことではない。ここいらでこの研究は一時中止しようじゃないか。ウン。そうしよう。いずれまた……とか何とか言うので最初の意気組にも似合わない、恐ろしくアッサリとした別れ方であったが……しかし内実はけっしてアッサリでないことを、お互いにチャンと見透かし合っていた。アッサリどころか、前に何層倍した熱烈な決心をもってこの実験を突き貫いてくれよう。どうするか見ろ……と思っていることを、互いに感付き過ぎるほど、感付いていた。もっとも二人のそうした決心にはT子の美《び》貌《ぼう》が反映していたことを否定できない。……がしかしながら、呉青秀の忠志と違ってこの実験に対するWとMの誠意ばかりは、今日までも断々乎として一貫しているはずだ。むろん二人ともだよ。いいかい……」
「…………」
「……ところでその頃の福岡付近はいわゆる、角帽の草分け時代で『末は博士か院長さんか』と芸者達が唄うくらい大学生大持ての時代であった。一般家庭でも『学士様なら娘をやるか』といった調子で、紅葉山人の金色夜叉や、小杉天外の魔風恋風が到るところにウロウロしていた。WもMもこれに紛れてT子嬢を張合った訳だが、その結果がどうなったかというと、やはり遺憾なく二人の特徴を発揮している。
……まず最初のうちはWが勝利を占めた。何しろWはその当時の角帽連の中でも、特別誂えの好男子兼秀才で、おまけに物腰が鷹《おう》揚《よう》で、丁寧で、透きとおるほど親切……だという、この方面に対する絶好の条件ばかり倶有していたんだからかなわない。手もなくタタキ付けられたあげく、とうてい二人の仲には歯が立たぬものと諦めさせられたMは、学業も何も放り出して、野山を馳けめぐって、化石なぞを探しながら、辛うじてある気持ちを慰めていた。
……しかも一方にWは、けっして成功の美酒に酔い痴《し》れるような単純な男ではなかった。T子を手《て》馴《な》付《づ》けてしまうと間もなく、かねて計画どおりに『あなたの家《いえ》系《すじ》に絡《まつ》わる、悪い因縁の絵巻物があるそうですが、それは今のうちに、よく調査してみようではありませんか。そうして、一番新しい科学の知識で研究して、その悪因縁を断ち切っておこうではありませんか。そうしないと、もし二人の間に男の児が生まれるようなことがあった時に、剣《けん》呑《のん》な思いをしなければなりませんから』といったような塩《あん》梅《ばい》式《しき》に、言葉を巧みにして絵巻物を手に入れようとした。……けれどもさすがのT子さんも、こればかりは手離しかねたと見えて『そんなものは知りません』というのでナカナカ出さない。第一その絵巻物を隠している場所がわからないので、今度は手段を変えてT子を福岡へ連れ出しにかかった。連れ出しさえすればキット、その絵巻物も持って来るに違いない……というのがWの見込みであったろうことは言うまでもない。
……するとまた都合のいいことには、T子の姉婿のGという京染悉皆屋が、しようのないニヤケ男の好《すけ》色《べい》野郎で、婿入りをすると間もなく、義《いも》妹《うと》のT子に言い寄りはじめて、恐ろしく執《しつ》拗《こ》いので困っている矢先だったから、Wに誘いをかけられたT子は二つ返事で家を飛出して、福岡でWとコッソリ同棲することになった。一方に姉のY子もハッキリかウスウスかそんな事情を心得ていたらしく、あまり追求しなかったのでイヨイヨ好都合であったが、しかし肝腎カナメの絵巻物の所在は依然として不明であった。彼Wの眼力をもってしても、はたしてT子が絵巻物を持っているかいないかすら看破し得ない有様であったらしい。
……しかしWは失望しなかった。なおもT子の身のまわりを探ると同時に、時折は学校の仕事を放ったらかしてまでもT子の行動をつけまわしていたのであったが、これはWとしては無理もないことであった。T子が、如月寺の和尚様と自分の姉のY子以外には誰も気付くまいと思っていた『虹野ミギワ』の変名や、品評会に出した支那古代の刺《し》繍《しゆう》なぞが、絵巻物の故事来歴を知り抜いている彼Wの眼を逃れ得ようはずはないので、どうしてもT子がどこかに隠し持っているに違いないという推測は、当然過ぎるくらい当然な推測であった。
……しかし一方に、怜悧そのもののようなT子自身も、そうしたWの態度の中から、ひそかにあることを察していた。
……つまりハッキリとはわからないが、Wが自分に近付いて来た目的が単純ではないらしい。ことによるとその目的は絵巻物かも知れない。そうしてその絵巻物を欲しがる目的は……といったような漠然たる疑いを抱くようになったものらしいが、しかし、そんな疑いを抱いている気ぶりも見せないように気を付けていたので、さすがのWも歯が立たなくなった。全く立往生の姿にされてしまったらしい。……のみならずそのうちにWはまた、それ以上の手厳しい打撃を受けて、涙を呑んで退却しなければならぬはめに陥った。すなわち絵巻物探索の唯一無上の手がかりとして、手を換え、品を変えて機嫌を取っていたT子から、抵抗不可能とも言うべき自分の急所に、思いもかけぬ肘鉄砲を一発ズドンと喰わされたのであった。
……というのは別のことでもない。T子が相手の恋を敵本主義の裏打ちのものとウスウス感付いていたことは、今話した通りであるが、今一つにはそのWが、甚しい肺病の家筋で、本人の体質がその事実を遺憾なく証明していることを、その頃になって初めて聞き知ったからで、この点についてWはT子に対して全然、事実を偽っていたことが、同時に判明したからであった。……しかも、これは余談ではあるが、こうした事実に照してみると、T子のこうしたふしだらが、けっして尋常一様の浮気から出たものでないことがわかると同時に、その薄情な態度もあながちに咎められなくなる。その浮気の裡面には呉家の血統の継続という痛々しい、悲しい観念が有力に動いていた。それが魔風恋風以来の自由恋愛の風潮に乗って具体化されたものにほかならない。かよわい女の判断ながら、できるだけ人格の正しい、健康な血《ち》統《すじ》の子孫を設けたいものと、一心に憧憬《あこが》れ願っていた心情がハッキリとうなずかれる訳で、T子が家出をした当時に、その界《かい》隈《わい》の人々が『どうせい自《う》宅《ち》にいて婿どんを探しても、旅《たび》烏《がらす》のGぐらいの男が関の山じゃろうけに』というような冷評的な噂をしていた事実も、やはり、こうしたT子の心情を裏書きしていたと言うべきであろう。同時にT子がいかに純情と理知とを兼ね備えた、怜悧そのものとも言うべき性格の持主であったかという事実もうなずかれる訳で、かような点から見るとT子は生まれながらにして不幸薄命な女性であったとも考えられるようである。
……それから、なおここに今一つ、是非とも告白しておかなければならぬことがある。と言うのはほかでもない。もはや察しているかも知れないが、Wの血《ち》統《すじ》と現在の健康状態に関する秘密を、手紙でT子に密告したのはほかならぬ恋敵のMであった……ということである。これは依然としてT子に対する愛着と、この研究に関する未練を棄て得なかったMが、Wと別行動をとって、T子以外に絵巻物を隠している者がいはしまいかと、いろいろと探索しているうちに、今言ったような村人の噂からT子の心中を推測して、もしやと思って試みた、反間苦肉の密告が図星に当ったものであるが、むろん、これは卑怯とも何とも言いようのない所《し》業《わざ》で、Wに対して弁解の余地は毛頭ない。いわんやその手紙をチャンスとしてまたもT子に接近し始めたにおいてをやである。……が……しかし……この時Mの所業の卑怯さが、それから後、今日までのMの生涯に、どれほどの恐ろしい代償を要求しつつ祟《たた》り続けて来たか……という事実を回顧すると、実に身の毛も竦《よ》立《だ》つばかりである。『因果応報』の研究に志して来た者が、その因果応報の実物に悩まされて、自殺まで決心させられている。その運命の皮肉さ……笑う力もないことを併せてここに告白しておく。
……とは言うものの……その時のMが、どうしてそんな将来を予知し得よう。この伝説が含んでいる精神科学的の魅力と、T子の美貌に引かされつつ、学術のためならば後《あ》事《と》はドウなってもかまわないという、最初の意気組をそのままに盲進した。そうして半年足らずの間T子と同棲していると、そのうちにT子の妊娠の徴候がだんだんと著しくなって来た。そうしてその年の暑中休暇に入ると間もなく、明らかに胎動が感じられるようになったのであるが……しかも……この胎動こそは、それから後二十年の長日月にわたって、WとMの二人の運命を徹底的に掌握しようともがいているあるもの……運命の魔神とでも形容すべきものの胎動であった。WとMの二人の心臓をガッシリとつかんで手玉に取ろうと焦《あ》燥《せ》っている胎児のワインド・アップであった。……精神科学の研究を中心とする血も涙も、義理も人情も超越した邪妖劇……長い長い息苦しい、毒悪不倫劇の中心的な主役を引受けて、登場俳優を片端から生死のドタン場にまで翻弄しようとしている運命の魔神の、お目見得の所作にほかならなかったのだ。……ところでその無言の所作が、開幕の皮切りに、大衆に投げかけた疑問というのは『私は誰の児か』という質問であった。……しかもその当時から今日までの間に、この質問に対して与えられた回答は、有形的にも無形的にも絶《ノ》無《ン》ということになっているのである。
……むろん、この質問に対する回答はWもMも持合わせているはずである。しかしその回答が、はたして、確実動かすべからざる事実に立脚したものかどうかということは、それから後に『血液型による親子の鑑別法』の大家となったWも、調査ができないでいるはずだ。自分の血液もMの血液もウッカリ取るわけにいかないからね……のみならず一方には、この事実を何人よりも明白に証言し得るであろう胎児の母親のT子も、そんな調査ができないでいるうちにいわゆる『死人に口なし』となってしまって、あとには何らの証拠も残っていない。せめてT子が生前に、その児の父親と認めた人間の苗《みよう》字《じ》をその児に付けて、何かに書き残してでもいるならば文句もなくめんどうもないはずであるが、遺憾ながらソンナものが一つも残っていない。戸籍面にも簡単に『父不詳――呉一郎』としか書いてない今日となっては、WとMとが、そのT子との関係を、肯定するのも否定するのも自由自在の勝手次第となっている。いわんやT子が、WとM以外の男には一人も関係していなかったかどうかということは、死んだT子の良心以外に何者が記憶していよう。これを要するにT子の腹に宿った胎児の父親は、T子がこの世に蘇《そ》生《せい》して来て、明白に証言するか、または何かに動かすべからざる記録として書き止めていない限り、永久に、絶対にわからずじまいになるほかはないのだ。
……その運命の魔神……胎児が出生してみると、それこそ文字通りに玉のような男の児であった。明治四十年十一月の二十二日に、それまで二人が隠れ住んでいた福岡市外の松園というところの皮《か》革《わ》商《や》の離《は》座《な》敷《れ》で生まれたのであったが、その生《うぶ》声《ごえ》を聞くと間もなく、今まで隠忍自重していたMは、初めてT子に謎をかけてみた。『呉家の男の児を呪う絵巻物があるそうだが』と持ちかけてみたが、ここのところはチョットWがMにお株を取られた形であった。するとさすがのT子も初めて知った母親の情でたまらなくなったと見えてスッカリ白状することになった。その告白に曰く……
……私は小さい時から本を読んだり、絵を描いたりすることが三度の御飯よりも好きでしたので、物心が付く頃からショッチュウ、たった一人でお寺へ行って、虹《こう》汀《てい》様が自分でお描きになったという襖《ふすま》の絵や、自分でお彫りになった欄間の天人なぞを眺めたり、写したりしていたのですが、そのうちに参詣しに来た村の人や何かが私のいることを知らないで、お寺の縁起についていろいろとお話をしているのを聞いて、子供心に非常に感動しました。そうしてソンナお話の中に、このお寺の縁起のことを詳しく書いたものが残っているゲナ。和尚さんが大切に蔵《しま》ってござるゲナ。……というような話を聞きますと、それが見たくて見たくてたまらなくなりましたので、人のいない頃を見計らって、絵や何かを見まわる振りをしながら方々を探しておりますと、案の定和尚様のお部屋の本箱の抽《ひき》出《だ》しから縁起の書付けを見付け出しました。
……それを見るとまた、その焼棄てられたという絵巻物が惜しくて惜しくてたまらないような気がしましたので、何心なく本堂に来て、御本尊様をゆすぶってみますと、どうでしょう。確かに巻物らしいものが入っているのがコトコトと手に応《こた》えて来ましたので、余りのことにビックリして胸がドキドキしました。
……けれどもこのことを和尚様に話したら一ペンに叱られてしまいましたので、それから一週間ばかり経って後に、学校の帰りがけにお線香を上げに行く振りをして、御本尊様の首を抜いて、絵巻物を取出して来ました。
……ところがその絵巻物を持って帰って、人のいない倉庫《おくら》の二階で開いてみますと、思いもかけない怖ろしい、胸がムカムカするような絵ばかりでしたので、私は二度ビックリしまして、すぐにもお寺に返しに行こうと思いましたが、その時にフト気が付いて絵巻物の表装を見ますと、何とも言えない見事なものなので、返すのが惜しくなりました。そうして、それから後は一人で留守番をするたんびに、少しずつ裏《う》面《ら》の紙を引き剥いで壊れた幻燈の眼鏡で糸の配りを覗いては、紅《も》絹《み》の布《き》片《れ》に写しておりましたが、見付かると大変ですから、作ったものはみんな焼き棄てたり、室見川へ流したりしてしまいました。
……そうしてイヨイヨその刺繍の作り方を自分の手に覚え込んでしまいますと、引《ひき》剥《はが》した紙を旧の通りに修《つく》繕《ろ》って、絵巻物を御本尊様の胎内に返してしまいましたが、盗む時よりも返す時の方が、よっぽど怖うございました……そうして、それから間もなく福岡へ出て来たのですから、絵巻物はやっぱり、あの如月寺の弥勒様の胎内にあるはずです。
……けれどもこうしてわが児というものができてみますと、つくづくあの絵巻物の恐ろしさがわかって来ました。姉のY子でも私のように男の児を生んで、あの絵巻物のあることを知っているとしましたならば、同じ思いをするにきまっております。虹汀様があの絵巻物を焼かれなかった未練なお心を、怨むにきまっております。
……とはいえあの絵巻物があるということを知っている者は誰もいないのです。たった私一人だけなのです。ですから私の一存で、あの絵巻物をあなたのお学問の研究材料に差上げますから、私の家の血《ち》統《すじ》を引いた男の児にだけ崇るという、その恐ろしい、不思議な絵巻物の力を、科学の力で打ち破って、その呪詛《のろい》がこの児にかからないようにして下さい。ぜひぜひお頼みしますから……。
……という涙ながらの話だ。
……Mは呆《あき》れた。且つ喜んだ。なるほどそれではイクラ探してもわからないはずだ。われわれの捜索方針と絵巻物の隠れどころが、ちょうど鼬《いたち》ゴッコ式に入り違いになって行ったので、二人とも絵巻物のない方へない方へと捜索して行った訳だ。偶然の作用を推理の力で追っかけたんだから見つからないのも無理はない。……なぞと独りでほくそ笑みながら、T子にも内証でコッソリ姪の浜へ来て、如月寺の本堂へ忍び込んで、御本尊の首を抜いてみると……。
……あとは説明しない……しても説明にならないから……」
「…………」
「裁判長の判断に任せる」
「…………」
「……WとMのその後の行動によって……否、今日ただ今、この仮法廷において……吾輩という検事の論告と、Mという被告の陳述を憑《ひよう》拠《きよ》として、絵巻物の行方を推断してもらうよりほかに方法はない」
「…………」
「……Mは黙々として寒風に吹かれながら姪の浜から帰って来た。いつかはその絵巻物の魔力……六体の腐敗美人像に呪《の》詛《ろ》われて……学術の名においてする実験の十字架に架けられて、うつつない姿に成果てるであろう、その可愛らしい男の児の顔を眼の前に彷彿させつつ……同時にその母子の将来に、必然的に落ちかかって来るであろう大悲劇に直面した場合に、ビクともしない覚悟と方針とを考えまわしつつ……」
「…………」
「……彼は松園の隠れ家に何喰わぬ顔をして帰って来ると、何も知らずに添《そえ》乳《ぢ》をしているT子に向って誠しやかなでたらめを並べた。……絵巻物は和尚か誰かが、取出してどこかに隠したものと見えて、弥勒様の胎内にはモウ見当らなかった。しかしこっちから請求してもらって来るわけにもいかない品物なので、そのまま諦めて帰って来た。いずれ自分が学士になって大学に奉職することにでもなったならば、その時に大学の権威で、学術研究の材料として提供させても遅くはないであろう。ところで絵巻物の問題はそれでいいとして、実は自分の故郷の財産の整理がこの歳暮に押し迫っているので、困っている。とにもかくにも大急ぎで帰って来なければならないのだ。そのついでに、お前たちの戸籍のことも都合よく片付けて来たいと思うから、用事ができたらコレコレかようかようのところへ通信をするがいい……といったようなことで話の辻《つじ》褄《つま》を合わせて、渋々ながら納得をさせると、その翌々日の福岡の大学最初の卒業式をスッポカシて上京してしまった。しかもそのまま故郷へは帰らずに東京へ転籍の手続をして、全速力で旅行免状を手に入れて海外に飛び出した。これがこの時、既にMの心中にでき上っていた、来たるべき悲劇に対する戦闘準備の第一着手であった。Wにだけわかる宣戦の布告であったのだ」
「…………」
「しかるに、これに対するWの応戦態度はというと、すこぶる落着き払ったものであった。殊勝気に白い服を着込んで、母校の研究室に居据ってしまった。そうして一切を洞察していながら、何喰わね顔で顕微鏡を覗いていたのであった」
「…………」
「WとMの性格の相違は、その後も引続いて発揮された。すなわちMは、欧米各地の大学校を流れ渡って、心理学や遺伝学、またはその頃から勃興しかけていた精神分析学なぞを研究しつつ、一方に内地の官報や新聞を通じて、Wの動静に注意を払いつつ時季を待っていた。これはその男の児に、Mの苗字を冠せるのを嫌ったのと、モウ一つは、T子の追求を避けるためであった。……というのは、女としては珍しい冴《さ》えた頭脳《あたま》を持っているT子が、もしMの行方不明と、如月寺の絵巻物の紛失事件を綜合して考えた場合には、遅かれ早かれある恐ろしい、一つの疑いに直面《ぶつか》るにきまっている。WとMが何故にあの絵巻物を欲しがったかという理由をいろいろと考えまわすにきまっている。そうして万に一つも女の頭の敏感さと、母性愛の一所懸命さとで、二人が絵巻物を欲しがっている、そのホントウの下心を想像し得るようなことがあったならば、何はともあれMに疑いをかけて、眼の色を変えて追いかけて来るであろう。場合によっては国境だろうが何だろうが乗越えて追求しかねない女であることが、Mにはわかり過ぎるくらいわかっていたからである。
……しかるにこれに対するWは、それと知ってか知らずにか、相も変らず悠々と落着き払っていた。自分の名前や行動を公々然と暴露していたのはむろんのこと『犯罪心理』だの『二重人格』だの『心理的証跡と物的証跡』なぞいう有名な研究を次から次に発表して、これ見よがしに海外にまで名を揚げていた……が……これがまた、Wの最も得意とする常《じよう》套《とう》手段で、こうしてこの方面に大家の名を売り広めておけば、将来この恐るべき精神科学の実験が行われた暁でも、かえって世間から疑われない、一種の『精神的現場不在証明』になるばかりでなく、事件が発生した時にすかさず飛び込んで行ける口実ができるという、W一流の両天秤をかけた思い付きであったろうと考えられる。いずれにしてもその思い切って大胆な、同時に透き通るほど細心な行き方は、後《の》年《ち》になって、その恐るべき実験の経過報告を、当の相手の面前に投出した手口によっても察しられるではないか。
……こうして十年の歳月が飛んで大正の六年になると、その二、三年前から英国に留学していたWが帰朝する。それと知ったMもまた、すぐにも後を追うて帰って来たのであるが、このWの留学と帰朝の時季というのが、Mにとってはなかなかの重大問題であった。なぜかと言うとほかでもない。T子母子はMに振棄てられた後の十中八、九は松園の隠れ家を引払って、どこかへ姿を隠しているはずであるが、たとい天に隠れ、地に潜んでも、その行方を見逃すようなWでは絶対にないはずである。……と同時に、もしそのWが、海外に留学するようなことがあれば、それは取りも直さずWが、T子母子を確実に掌握し得た証拠になる。換言すればT子母子がどこかに定住して、当分、動く気遣いはないという見込みがハッキリと付けばこそ、安心して留学できる訳で、そうすればまた、そのWが帰朝するということは疑いの眼をもって見れば何かしら、その点に関するWのある種類の心配か、またはある種の計画を発動させる時季が来たことを意味していないとは断言できないであろう。今一つ言葉を換えて言えば、MはWのそうした行動によって、T子母子の行方を割合に楽に探り出すことができる訳で、海外留学中のMが絶えず内地の新聞の官報に気を付けていたというのは、そうした注意が必要だからであった。
……が……しかし、Wがそんな気振りでも見せるような男でないことはむろんであった。帰朝後はチョットした出張以外には福岡を離れる模様もなく、毎日毎日大学に腰弁をきめ込んでいるうちに、間もなく助教授から教授に進む。引続いていろいろな難事件を解決する。名声はいよいよ揚がる。その合間合間には喘《ぜん》息《そく》が起る……といった調子でなかなか忙しかったのであるが、しかしその態度は依然として悠々たるもので、あれもこれ一と昔の夢という風に、明暮れ試験管と血液に親しんでいた。
……が……しかしまた一方にMも困らなかった。そうしたWの帰朝後の態度から、T子母子が福岡市を中心とする一日旅程以内のところに住んでいるに違いないことをアラカタ読んでしまっていた。……のみならずT子はまだ三十になるかならずで、相変らず美しいとすれば、どこにいるにしたところが、多少の噂の種にはなっているに相違ない。またその子のIも、父親は誰だかわからないまま無事に母親の膝《しつ》下《か》で育っているとすれば、格別の事情がない限り、Mの計画通りに母方の姓を名乗っているはずである。年齢は私生児のことだから届出が後れているかも知れないが、多分、尋常校の三、四年程度であろうということが帰朝当時から見当が付いていた。あとは足まかせの根気任せというので、福岡を中心としたWの出張先を第一の目標として、虱《しらみ》殺《つぶ》しに調べて行くと、はたせるかな、帰朝後半年も経たぬうちに、直方小学校の七《たな》夕《ばた》会《かい》の陳列室で、五年生の成績品のうちにIの名前を発見した。もっともその時まではMはウッカリしていて、Iの成績が抜群の結果、年《と》齢《し》はまだ十一歳のままに、一級飛んだ五年生になっていることに気付かずにいたので、もしかすると別人ではないかと疑ってみたことであった。
……が……そこにいかなる天意が動いたのであろう。間もなくその陳列室へ入って来た一人の生徒の、偶然にも背後《うしろ》を振り返った視線がピッタリとMの視線と行き合ったのであったが、その時にMは、われともなく視線を背《そ》向《む》けずにはおられなかった。逃げるようにして校門を出ると、思わず眼を蔽《おお》うて、科学者としての自分の生涯を呪わずにはおられなかった。その生徒が全くの母親似で、眼鼻立ちから風付きのどこにも、Wの子らしい面影がないと同時に、Mに似たところさえもなかったことを思い確かめて、ホウと安心の溜息を吐《つ》きながらも、すぐに後から、その溜息を呪《の》詛《ろ》わずにはおられなかった。……遠からず学術実験の十字架に架けられて、無残な姿に変るであろうその児の顔立ちの、抜けるほど可愛らしくて綺麗であったこと……その発育の円満であったこと……そうしてその風付きのタマラないほど温《おと》柔《な》しくて、無邪気であったこと……菩《ぼ》提《だい》心《しん》とはこれを言うのであろうか……その児の清らかな澄み切った眼付きが、自分の眼の前にチラ付くのを、払っても払っても払い切れなくなったMは、その児が将来、間違いなく投込まれるであろう『キチガイ地獄』の歌を唄って、われとわが恥を大道に晒《さら》しつつ、罪亡ぼしをしてまわった。木魚をたたきたたきその児の後生を弔ってまわった。……それほどにその児は美しく清らかに育っていたのである。
……Wは、こうしたMの行動を、九州帝国大学、法医学教室のガラス窓越しに見透かして、あの蒼《そう》白《はく》な顔に人知れず、彼一流の冷笑を浮かめていたことと思う。彼はMが海外に逃げ出した心理を通じて、Mは遅かれ早かれ、必ず日本に帰って来る。Iが思春期に達する以前に、しかもこの九州に帰ってくるであろうことを確信していたに違いないのだ。そうしてこの実験に関連するあらゆる研究を遂げ、一切の準備を整えつつ待っていたに違いないのだ。
……というのはMも実際のところ、頭から爪の先まで学術の奴隷であった。Mがその生涯の研究目標としている『因果応報』もしくは『輪廻転生』の科学的原理……すなわち『心理遺伝』の結論として、是非ともこの実験の成績を取入れねばならぬと、あくがれ望んでいるその熱度は、当の相手のWが心血を傾注している名著『精神科学応用の犯罪とその証跡』の実例として、この絵巻物の魔力を取入れたがっているその熱度に、優るとも劣る気遣いはなかった。それほどの研究価値と魅力とをこの絵巻物が持っていることを、Wはどこまでも信じて疑わなかったのだ。
……けれども……けれども……Mはそれでもなお、どれくらい深刻な煩《はん》悶《もん》をその以後に重ねたことか。学術のために良心を犠牲にして、罪も報いもない可憐の一少年が、生きながら魂を引き抜かれて行くのを正視する……その生きた死骸を自分の手にかけて検査する……そうしてその結果を手柄顔に公表する……という決心がドレくらいつき難《にく》いことを思い知ったか。彼が大学卒業後の十数年間における死物狂いの研究は、こうした良心の呵責を忘れたいという一念からではなかったか……自分が死刑立会人である苦痛を忘れるために、一心不乱に断頭刃《ギロチン》を磨くのと同じ悲惨な心理のあらわれではなかったか。そうしてかの学術研究……断頭刃《ギロチン》磨きを断然打切るべく、彼が母校に提出した学位論文の根本主張は、何であったか……曰《いわ》く……『脳髄は物を考えるところに非ず……』」
「…………」
「……かくしてMの個人としての煩悶はついに、学術の研究欲に負けた。全世界にわたる『狂人の暗黒時代』と、そのうちに蔓《まん》延《えん》する『キチガイ地獄』を、自分の学説の力で打ち破るべく、何もかも打ち忘れて盲進する当初の意気組を回復した。おそらくWに負けないであろうほどの冷静、残忍さをもってIの年齢を指折り数えるようになった」
「T子の運命は風前の灯《とも》火《しび》である。……T子はもうその頃までには、かつて自分を中心として描かれたWとMとの恋のローマンスが何を意味しておったかを、底の底まで考え抜いているはずであった。その頃の二人の自分に対する情熱が、揃いも揃って絵巻物の魔力と、自分の肉体の魅力との両道かけたもので、しかも、それ以外の何ものでもなかったことを露ほども疑わなくなっている頃であった。そうして絵巻物を奪い去ったものは、自分から絵巻物の所在を聞いたMか、もしくは失恋の怨みを呑んでいるであろうWのどちらか一人に相違ないことを、余りにも深く確信していた。……同時にその二人が揃いも揃って、繊《か》弱《よわ》い女の手で刃向うべく、余りに恐ろしい相手であることを知って知り抜きながらも、必死とわが児を抱き締めつつ、慄《ふる》え戦《おのの》いていたはずである。
……だから彼女、T子の想像の奥の奥に、よもやと思いつつ戦き描かれていたであろう絵巻物の魔力の実地試験が、万に一つもIに対して行われたとなれば、T子はすぐに二ツの名前を思い出すにきまっている。WかMか……。
……だから……T子の死は、この空前の学術実験の準備として是非とも必要な第一条件……」
「……あアッ……先生ッ……待って下さいッ……もう止して下さい……ソ……そんな恐ろしい……ことが……」
私は思わず悲鳴をあげた。ピッタリと大《だい》卓《テー》子《ブル》の上に突伏した。頭の中は煮えるように……額は氷のように……掌は火のように感じつつ、喘《あえ》ぎに喘ぎかかる息を殺した。
「……何だ……何を言うのだ……そっちから突込んで質問して来たから説明しているのじゃないか」
こうした正木博士の、不可抗的な弾力を含んだ声が、私の頭の上から落ちかかって来た。……が、すぐに調子を変えて、諭すような口ぶりになった。
「そんな気の弱いことでどうする。他人の生涯の浮沈に関する重大な秘密を、一旦、聞くと約束して話させておきながら、途中で理由もなしに、モウいいと言う奴があるか。実際にこの事件と闘っているおれの立場にもなってみろ……あらゆる不利な立場を切抜けて来た、おれの苦しみを察してみろ……まだまだ恐ろしいことが出て来るんだぞ……これから……」
「…………」
「……いいか……T子もこの事件の第一条件の存在をある程度までは察していたに違いないのだ。その子のIに『お前が大学校を卒業するまで、私が無事でいたら、何もかも話して上げる』と言ったのは、T子がわが子可愛さの余りに、いろいろと考えまわしたあげくに、とうとうそこまで気をまわしていた何よりの証拠だ。つまるところその間のT子の生活というのは全く生命がけであったに違いないので、一方には、この呪いから極力Iを遠ざけて、I自身がこの呪いの正体を理解し、且つ警戒し得る頭ができるまで、何事も話さずに……そんな絵巻物や物語から来る誘惑を感じさせないようにしてジッと待っていなくてはならないし、一方には、人知れずMの行方を探し求めて、絵巻物の有無を突止めなければならなかった。さもなければ自分の力と工夫で、WとMを突合わせて、何もかも泥を吐かせてしまいたい。この恐ろしい学術の研究欲と愛欲の葛《かつ》藤《とう》を解消さしてしまいたい。そうしてできることならば絵巻物を、自分の手で消滅させておきたい……なぞいうアラユル惨憺たる母性愛を、頭の中に渦巻かせていたに違いないのだ。
……しかし、そのT子の昔の情人は、二人とも二十年来の……否、宿命的仇讐《かたき》同士であった。人情世界の怨《おん》敵《てき》、学界の怨敵同士であった。そうしてT子母子を中に挟んで、お互いにお互いを呪《の》詛《ろ》い合って来た結果、その時はもう二人とも救うべからざる学術の鬼となってしまっていた。……お互いに精神的にかみ殺し合うよりほかに、生きる道をなくしてしまっている二人であった。……しかもその怨敵を呪詛い合う心の、積極と消極の力の限りを合わせて、二人の中のドチラかの子供であるべきIに、絵巻物の魔力を試みるべく……そうしてその結果を学界に公表する名誉を自分のものにすると同時に、そうした非人道に関する罪責の一切合財を、相手の頸《く》部《び》に巻き付けるべく、一心不乱に爪《つ》牙《め》を磨ぎ澄ましている二人であったのだ。その犠牲が誰の児か……なぞいうことは、モウとっくの昔に問題でなくなっていたのだ。ただその児が、確実に呉家の血統を引いた男の児でさえあれば、学術研究上、申分ないと思っていただけなのだ」
今度こそはもはや、とても我慢できない戦《せん》慄《りつ》が、私の全身に湧き起った。頭をシッカリと抱えて、緑色の羅《ラ》紗《シヤ》の上に突伏した。悽《せい》愴《そう》たる正木博士の声……解剖刀《メス》のように鋭い言葉の一句一句に全神経を脅やかされつつ……。
「……結果はついに来た。二十年前にMが予想していたところに落ちて来た。Mが恐れ、戦き、もがき狂いつつ、逃げよう逃げようとしていたその恐ろしいスタートの決勝点に、悪魔的な不可抗力をもって立《たち》還《かえ》るべく余儀なくされて来た。二十年前にかの……Mを逐《お》い走らしたかの卒業論文『胎児の夢』が、眼に見えぬ宿命の力をもって確実に彼をモトのところへグングンと引戻して来たのだ」
私は椅子から飛上って部屋の外へ逃出したかった。けれども私の身体は不思議な力で椅子に密着して、ひたすらに戦慄を続けているばかりであった。耳を塞《ふさ》ぐことすらできなかった。その私の耳の穴へ正木博士のカスレた声が、一句一句明瞭に飛込んで来た。
「……かくしてこの実験の進行に関する第一の障害……T子の生命は、完全に取除かれた。WとMとIとの過去を結び付け得るただ一人の証人……Iが誰の児かということを的確に証言し得ると同時に、この恐ろしい科学実験の遂行者を一言の下に立証し得るであろう『生き証拠』のT子は、予定通り完全な迷宮の中に葬り去られた。続いて起る問題は、この実験に必要な第二の条件……すなわち……Mがこの九州帝国大学、医学部、精神病科教室の教授の椅子に坐ることであった。これは換言すればこの実験の結果として、万一追求されるかも知れないであろうその事件の下手人の所在を晦ますためにも……お互いの秘密を完全に保護して、絶対の安全を保つためにも……または、そうして適当な時機を見計らってその犯行を相手にナスリ付けるためにも、極めて完全無欠な、用心に用心を重ねた必要欠くべからざる条件であった」
今までコツコツと床の上を歩きまわっていた正木博士は、こう言い切ると同時に、ピタリと立止まった。そこはちょうど東側の壁にかかっている斎藤博士の肖像と「大正十五年十月十九日」の日付を表わしているカレンダーの前であることが、突伏している私によくわかった。そこで正木博士の足音が急に止まると同時に言葉もプッツリと絶えて、部屋の中が思いがけない静寂に鎖《とざ》されたために、その足音と声ばかりに耳を澄ましていた私は、正木博士が突然にどこかへ消え失せたように感じられた。
……が……そう思ったままジッと耳を澄ましていたのは、ほんの二、三秒の間であったろう。間もなくヒシヒシとわかり始めたその静寂の意味の恐ろしかったこと……。
……さては……さては……と気付く間もなく、私の頭の中にまたも、今朝からのアラユル疑問が一時に新しく閃《ひらめ》き出て来た。思わず両手で頭の毛をつかみ締めつつ、次に出て来る正木博士の言葉を、針の尖端のようにおびえつつ待っていた。
……十月十九日の秘密……。
……その日に発見された斎藤博士の変死体の秘密……。
……その斎藤博士の変死に因果された正木博士の精神科教授就任に関する裏面のカラクリの秘密……。
……それから一周年目の同月同日に当る昨日という日に、正木博士を自殺にまで追い詰めた運命の魔手の秘密……。
……その正木博士を奇怪にも、既に一か月前に自殺していると明言した若林博士の意識溷《こん》濁《だく》的《てき》、心理状態の秘密……。
……そうして……それらの秘密の裏面に隠れて、それらの秘密の全部を支配しているに違いないであろうモウ一つの大きな秘密……。
……すべてはただ一人の所業……。
……Wか……Mか……。
……それが次に発せられるであろう正木博士のタッタ一言によって、電光のごとく閃《せん》明《めい》されはしまいかと思われる……その言い知れぬ恐怖の前の暗黒的な沈黙……静寂……。
……けれども正木博士は間もなく、そこから何気もない足取りでコトリコトリと歩き出した。そうして僅《わず》かの沈黙の間に、私の恐れていた説明の個所を飛越して説明を続けた。
「……かくしてMが、この斎藤博士の後任となった九大に着任すると間もなく、この学界空前の実験は決行された。そうしてその結果の全部が、この通り吾輩の前に投出された」
「…………」
「……だから……目下のところWとMの二人は同罪である。同罪でないと言っても、言い免れるだけの証拠がない」
「…………」
「……だから吾輩は覚悟を決めた。そうして君が先刻《さつき》から読んだその心理遺伝の付録の草案によって、直方事件の真相までも、すっかり蔽い隠してしまった。ロクロ首や屍《しび》体《とつ》鬼《かみ》までも引合いに出して、苦心惨憺を重ねた結果、学術研究の参考材料として公表しても、無罪と言える程度にまで辻褄を合わせておいた」
「…………」
「……そんな裏面の消息を、ただ二人の間の絶対の秘密として葬るべく……怨《うら》みも、猜《そね》みも忘れて……学術のために……人類のために……」
「…………」
「……これもやはり菩提心と言えば言えるであろう。……あの呉一郎の狂うた姿を見てたまらなくなったからであろう……」
正木博士の声は、ここまで来ると急に涙に曇りつつ、机の上に突伏したままの私の真正面に近付いて来た。……ドッカリと廻転椅子に腰をおろす音がした。……と……間もなくカラリと鼻眼鏡を大卓子の縁において、ポケットからハンカチを取出して、涙を拭う気はいである。
……けれどもこの時……なぜだかわからないけれども、私の全身を伝わっていた戦慄が、一時にピッタリと止まってしまった。その代りに、今までとはまるで違った、何とも言えない不愉快な感情が、正木博士の涙声に唆《そそ》られて、腸《はらわた》のドン底からムラムラと湧き起って来るのを、どうすることもできなかった。そうしてただ、今までの通りの姿勢で、ほとんど形式的に机の上に突伏しているような……正木博士に対して「何とでもしゃべるなり、泣くなり勝手になさい。私とは全然無関係のことですけれども、聞くだけはイクラでも聞いて上げますよ」と言ってやりたいような、どこまでも冷淡な、赤の他人じみた気持ちになってしまった。これは後から考えても不思議千万な心理状態の変化であった。自分自身にも、どうしてソンな気持ちに変ったかわからなかったが、しかし私はそのまんま、身動き一つしないで突伏していたので、自分の話に夢中になっている正木博士には、私のそんな気持ちの変化を気取られようはずがなかった。
正木博士は、そうしている私の前で、軽い咳払いみたようなものを一つして声を繕った……と思うと今度は調子を改めて、極めて荘重な語気になった。私の頭の上から圧《おさえ》付《つ》けるように、一句一句を切って言った。
「……ただ……ここに一人……君という人間がいる……」
「…………」
「君は吾輩と若林とに選まれた、この事業の後継者である。……否……吾輩や若林は実を言うと、この事業の最後の成績を社会に公表し得べき資格を持った人間でない。ただそこにいる君だけが、その神聖なる使命を担うべく選まれて、われわれの前に差遣わされた唯一、無上の天使である。自分でその天命の何たるかを知らない……徹底的に何も知らない……ホントウの意味の純真無《む》垢《く》の青年である」
「…………」
「……と言うのは、ほかでもない。吾輩も若林も、正真正銘のところを告白すると、この事件の真相をコンナ風に偽った形にして、自分たちの手で発表したくない。できうべくは自分たちの死後に、しかるべき第三者の手で、真実の形に直して発表してもらいたい……というのがわれわれ二人の畢《ひつ》生《せい》の願いである。純誠無二の学者としての良心から出た二人の希望である。……だから吾輩と若林とは、言わず語らずのうちに協力一致して、この事件に重大な関係を持っている君の頭脳《あたま》を回復すべく、全力を挙げているのだ。……今にも君が君自身の過去の記憶を回復して、以前の意識状態に立帰り得たならば、必ずやこの仕事の後継者が、君以外に一人もいないことを、明白に自覚してくれるであろう。そうして君が死ぬほどの驚《きよう》愕《がく》と感激の裡《うち》に、この空前絶後の大研究の発表を引受けて、全人類を驚倒、震《しん》駭《がい》させてくれるであろう……その発表によって太古以来の狂人の闇《あん》黒《こく》時代を一時に照し破り、全世界のキチガイ地獄をドン底から顛《てん》覆《ぷく》、絶滅させて、この唯物科学万能の闇黒世界を、一斉に、精神文化の光明世界にまで引っくり返してくれるであろう。……と同時に、それに引続いて来るべき精神科学応用の犯罪の横行時代を未然に喰い止めて、かの可憐の一少年呉一郎その他の犠牲を、無用の犠牲として葬り去らないのみならず、全人類の感謝と弔慰とを彼らに捧げさしてくれるであろう。……そうして最後に……永《えい》劫《ごう》消ゆることのない極地の氷のような『冷笑』を、われわれ二人の死後の唇に含ませてくれるであろうことを確信しつつ、幾《いく》何《ばく》もない余命を一《いつ》刹《せつ》那《な》に縮めつつ、努力しているのだ」
「…………」
「……とはいえ……これは現在の君の頭から考えると、実に不可解と不合理とを極めた注文と思われるかも知れない。吾輩と若林とが、あの呉一郎と瓜二つによく似ている君を換え玉か何かに使って、虚偽の学術研究を完成して、それをまた、虚偽の方法で発表しようと試みているかのように誤解されるかも知れない。しかし……しかし……吾輩は天地の霊に誓って言う。それはわれわれ二人の間の私的の駆引にこそ凡《あら》百《ゆる》虚偽が含まれておれ、その行っている学術の実験と、それによって証明さるべき学理、原則の中には、一点、微《み》塵《じん》の虚偽も含まれていないのだ。ただ、その内容とは全然無関係な発表の形式方法にだけ、やむをえない虚偽が混っていた訳であるが、それもタッタ今、真実の形に訂正して、君に報告してしまったばかりのところである。
……だから……これだけは、どこまでもわれわれを信じてもらいたい。……君は疑いもなくこの実験の経過を、真実の経過を、真実の形に直して発表すべき、唯一の責任者なのだ。すなわち若林の調査書類と吾輩の遺言書とを、一まとめにしてこれに一つの結論をつけて、学界に発表すべく、神様の思召によって選まれた無二の資格者であることが、君の過去の記憶の回復と共に判明するであろうことを、吾輩も若林も信じて疑わないのだ……否、吾輩と若林ばかりでない。一般社会の人々とても、万一君の姓名を知り得るようなことがあったならば……君の名前は既に、今までの話の中に幾度となく出て来た名前で、世間にも相当記憶されているはずであるが……単にその名前を聞いただけでも、すぐに君より以外にこの仕事の適任者が絶対にいなことを確認するであろうことが、火を賭《み》るよりも明らかにわかりきっているのだ。……だから吾輩は、君が精神状態を回復しかけていることがわかると同時に、いよいよ安心してこの遺言書を書くことができたのだ。
……しかし吾輩が自殺の決心をしたのは全く別の理由からである。それは昨日の正午を期して、あの解放治療場内に勃発した大悲惨事が、吾輩の責任感を刺激したからでもなければ、または、この日が偶然に、斎藤先生の祥《しよう》月《つき》命日に当っていたために、一種の天意とか、無常とかを観じたからでもない。正直なところを言うと吾輩は人間がイヤになったのだ。こんな研究でもしていなければ、ほかに頭の使い道のない人間世界の浅薄、低級さに、たまらないほどうんざりさせられてしまったのだ。
……それも、この出来損いの世界を、新発明の火薬で爆発させるとか、蛙の卵から人間を孵化させるといったような、いっぱし、気の利いた研究ならまだしものこと、心理遺伝なんていう三つ児にでもわかるくらい、簡単明瞭な原則をタッタ一つ証明するために、足が棒になって、脳味噌が石になるほどの苦労を重ねなければならぬ。あらゆるタチの悪い因果因縁に、執念深く付き纏われて、それこそ地獄の苦しみに堕《お》ちながら、やっと真理の証明ができたにしても、その報酬として何が残るか。妻子眷《けん》属《ぞく》に取巻かれてシンミリした余生を送るどころか、その研究が世に出る時は、自分の一生涯の破滅の時だ。とんでもない野郎だというので、踏んで蹴られて、唾液を吐きかけられる時だ。……ザマア見やがれとはこのことだ」
「…………」
「……こんな見っともない、ダラシのない結論になって来ることを、今日がきょうまで気付かずに来た吾輩は、つくづく自分のばかさ加減に愛想が尽きたのだ。人間も学者も同時に御免こうむって、モトのアトムに帰りたくなったのだ。当の相手の前に一切をタタキ付けて……」
「…………」
「……こうした吾輩の現在の気持ちは、むろん、若林の目下のソレとは全然正反対でなければならぬ。若林はあくまでもこの実験を固執して徹底的に吾輩と闘うべく腰を据えているのに違いないのだ。……殊に若林は自分自身が結核に取付かれて、余命幾《いく》何《ばく》もないことを知っている。……だからこの事件の最後の結論の発表を引受けるべき君の精神状態が、今朝から回復しかけていることを見て取るや否や、頭を刈ってやったり、大学生の服を着せたり、彼女に引会わせたりなぞ、いろんなことをして、できるだけ早く君自身を呉一郎と認めさして、自分の味方に取付けて、都合のいい発表をしてもらおうと焦《あ》燥《せ》っていたのだ。……否……現在でも君と吾輩の上下左右に、眼に見えぬ網を張詰めて、グングンと自分の方へ手《た》繰《ぐ》り寄せつつあるのだ」
「…………」
「……しかし吾輩は元来そんなめんどうな闘いにお相手になる必要はなかったのだ。どうせ自分自身は電子か何かになって、箒《ほうき》星《ぼし》のお先走りでも承るつもりでいたし、一切の財産は軽少ながら、この真相の発表に対するお礼の印として、書類と一緒に一旦若林に預けて君の頭が回復した後に改めて引渡してもらう考えでいたし、また、発表の内容だって同様に、心理遺伝そのものの大体の要領さえ得ておれば、付録の実例に出て来る事件の犯人の名前なんぞは、どうでもいい……勝手にしやがれという了簡で、つい今さっきまでいたんだが……。
……しかし、これが前世の業《ごう》とでも言うんだろう……先刻《さつき》から若林が、きゃつ一流の御丁寧なやり口で、そろりそろり催眠術みたような暗示を君に与えながら、自分の勝手のいい方向に、君の頭を引っぱり込もうとしている態度を見ているうちに、吾輩の持って生まれた癇《かん》の虫がジリジリして来た。その若林の見え透いた手のうちがゾクゾクするほどイヤ味になって来たので、一つ逆襲してやれという気になって、ここへ出て来た訳なんだが……。
……ところがまた……こうやって君と話しているうちに……つい今しがたから、何だかまた気が変って来たようだ。理屈はともかくとして、何もかもがヤタラにめんどうくさくなって来たようだ。どうせ破れカブレの罰《ばち》当《あた》り仕事だ。後は野となれ山となれだ。何もかも一思いにブチ毀《こわ》してやれという気になって来たようだ……。
……こうなりゃ訳はない……。
……吾輩は今日ただ今即刻に、君とあのモヨ子とを、この病室から解放してやろう。そうしてコンナ書類を残らず焼棄て、玉なしにしてくれよう。
……吾輩は断言しておく……。
……あの六号室の少女モヨ子は、あの解放治療場の一角に突立っている美青年の、妻となるべき少女では断然ないのだ。法律上から言っても道徳上から見ても確かに、そこにいる君の未来の妻たるべく運命付けられている女性なんだ。君のベターハーフたるべく、明《あけ》暮《くれ》、身を悶《もだ》えて、恋い焦れている可憐の少女に相違ないことが、科学的立場から見ても寸分間違いのないことを、若林と吾輩の専門の名誉にかけて誓言しておく。
……同時に吾輩は、吾輩の専門の立場から今一つ、断言しておく……。
……君はそうしない限り……君自身が進んでモヨ子さんとの結婚生活に入ってみない限り、若林と吾輩がイクラ他《は》所《た》から苦心努力しても、現在の自己障害……『自我忘失症』から離脱できないであろうことが、やっと今になってわかったのだ。それがモヨ子さんと君自身とを救い得るタッタ一つの最後の手段であることが、最前からのいろいろな実験の結果やっと判明して来たのだ。……むろん、これはけっして君を無理に押付けるために言うのではない。君自身の堅固な童貞生活から来ている現在の自家障害――『自我忘失症』を回復させるためには、これが最有効な、最後の最後の取っときの精神科学的療法である。この療法の原理原則に関しては、精神分析屋のフロイトでも、性科学専門のスタイナハでも全然吾輩と説を同じくしているのだから……。
……こうした最後的な治療手段の効果が、二と二を加えて四になる以上に的確なことは、すぐにわかる。論より証拠だ。吾輩の言葉の全部が虚構でない証拠は、彼女と君とが幸福な結婚生活に入ると同時に回復して来る君の記憶力の中に、無量無辺に思い出されて来るであろう、今までの神秘と怪奇とを極めた出来事の数々が、けっしてかの解放治療場の片隅で微笑している、君とソックリの美少年に関係したことでないことが、君自身にはっきりと自覚されることによって証明されるであろう。それらの驚くべき出来事のすべてが、直接に君自身と関係を持った話であることが、ほとんど電燈のスイッチをひねると同様な鮮やかさで、一時に判明して来るであろう。……なぜかと言うと、君はかの令嬢との新婚生活に入ると同時に、現在、君の頭の中に鬱《うつ》積《せき》、緊張して、そうした自家障害を与えているその生理的の原因から解放されることになるのだから……今まで、どうしても思い出し得なかった過去の記憶の全部を、一時にズラリと思い出すにきまっているのだから。同時に現在、君が疑い、迷い、苦しんでいる事件の真相を裏の裏まで看破し、思い出して……なるほど……そうであったかと長大息するに違いないのだから……そうして物質的にも精神的にも恵まれた、真実に幸福な家庭生活に入ると同時に、他人に頼まれるまでもなく、君自身の理知に立脚した公平な立場から観察した、この事件の真実の記録を学界に発表して、吾輩と若林の苦心努力の実情を正義の審判にかけると同時に、その発表によって、現代の脱線的な邪悪文化に一大転期を画さずにはおられないであろうことを、吾輩は今一度、吾輩の専門の名にかけて……君とモヨ子さんとの名誉と幸福のために……」
「……いけませんッ……」
私は突然に非常な力で跳《は》ね起きた。火のような憤激に全身をわななかせつつ廻転椅子から立上った。正木博士の口をアングリと開いて、呆《あつ》気《け》にとられている顔を見下しつつ、ギリギリと歯ぎしりをして、唇を震わした。
「……イ……イ……嫌《いや》です。……ま……真平御免です。……ゼゼ……絶対にお断りします」
「…………」
私は先刻《さつき》から一所懸命に我慢していた、あらゆる不愉快な思いが、口を衝《つ》いて迸《ほとばし》り出るのを止めることができなくなった。
「……ボ……僕は精《き》神《ち》病《が》者《い》かも知れません。……痴《ば》呆《か》かも知れません。けれども自尊心だけは持っています。良心だけは持っているつもりです。……たとい、それが、どんなに美しい人でありましょうとも、僕自身にまだ、誰の恋人だか認めることができないような女と、たかが治療のために一緒になるようなことは断じてできません。法律上、道徳上、学術上、間違いないことがわかっていても、僕の良心が承知しません。……たといその女の人が、僕を正当の夫と認めて、恋い焦れているにしてもです。僕自身に、そんな記憶がない限り……そんな記憶を回復しない限り、どうしてそんな浅ましい、恥知らずなことができましょう。……まして……まして……こんな穢《けが》らわしい研究の発表なんぞ……ダ……誰が……エエッ……」
「……マ……待て……」
正木博士が坐ったまま、まっ青になって両手を上げた。
「……が……学術のために……」
「……ダ……駄目です……駄目です……絶対に駄目です」
私の眼から、涙が止め度もなく溢《あふ》れ流れはじめた。そのために正木博士の顔も、部屋の中の光景もボンヤリして見えなくなったが、それを拭いもあえずに私は叫び続けた。
「学術が何です。……研究が何です。毛唐の科学者がどうしたんです。……僕はキチガイかも知れませんが日本人です。日本民族の血を稟《う》けているという自覚だけは持っています。そんな残忍な……恥知らずな……毛唐式の学術の研究や実験の御厄介になるのは死んでも嫌です。……学術の研究というものが、どうしてもコンナ穢らわしい、恥知らずなことをしなければならないものならば……そうして僕が是非ともコンナ研究に関係しなければならない人間ならば、僕はそんな過去の記憶と一緒に、この頭を、ブッ潰してしまいます……今……すぐに……」
「……ソ……ソ……そんな訳じゃない……実はお前は……君は呉一郎の……呉一郎が……」
こう言ううちに正木博士の態度が、シドロモドロに崩れて来た。天地が引っくり返っても平気の平左と思われたその大胆不敵な、浅黒い顔色が、みるみるまっ赤になり、またたちまちまっ青に変化した。中腰になって両手を伸ばしつつ、私の言葉を遮り止めようとして狼狽している態度が、新しく新しく湧き出る私の涙越しにユラユラと揺らめき泳いだ。しかし私は皆まで聞かなかった。
「嫌です嫌です。僕が呉一郎の何に当ろうが……どんな身の上だろうが同じことです。誰が聞いたって罪悪は罪悪です」
「…………」
「先生方は、そんな学術研究でも何でも好き勝手な真似をして、御随意に死んだり生きたりなすったらいいでしょう。……しかし先生方が、その学術研究のオモチャにしておしまいになった呉家の人たちはドウなるのですか……呉家の人たちは先生方に対して何一つわるいことをしなかったじゃありませんか。そればかりじゃありません。先生方を信じて、尊敬して、慕ったり、頼りすがったりしているうちに、その先生方に欺《だ》瞞《ま》されたり、キチガイにされたりしているじゃないですか。この世にまたとないくらい恐ろしい学術実験用の子供を生まされたりしているじゃないですか。そんな人々の、数えても数え切れない怨みの数々を、先生方は一体どうして下さるのですか。……死ぬほど、愛し合っている親子同士や恋人同士が、先生方の手で無理やりに引離されて、地獄よりもひどい責苦を見せられているのを、先生方はどうして旧《も》態《と》に返して下さるのです。ただ、学術の研究さえできれば、ほかのことはドウなってもかまわないとおっしゃるのですか」
「…………」
「御自分で手を下しておいでにならなくとも、おんなじことですよ。その罪の告白を他人に発表させておけば、それで何もかも帳消しになると思っておいでになるのですか……良心に責められているだけで、罪は浄められると思っておいでになるのですか」
「…………」
「……あんまり……あんまり……ひどいじゃありませんか」
「…………」
「……セ……先生ッ……」
と叫ぶと眼が眩みそうになった私は、思わず大卓子の上に両手を支《つか》えた。新しく湧き出す熱い涙で何もかも見えなくなったまま、呼《い》吸《き》を喘《はず》ませた。
「……後生ですから……後生ですから……その罰を受けて下さいませんか……そうして……そんな気の毒な人たちの犠牲を無駄にしないようにして下さいませんか……喜んで……心から感謝してその研究の発表を、僕に引受けさして下さいませんか」
「…………」
「その罰の手初めには、若林博士を僕が引っ張って来て、先生の前で謝罪させます。恋の怨みだったかドウカ……どうしてコンナ恐ろしい……ひどいことをしたか……白状させます……」
「…………」
「……それから先生と若林博士とお二人で、被害者の人たちに謝罪して下さい。その斎藤先生の肖像と、直方で殺された千世子の墓と、それからあの狂人の呉一郎と、モヨ子と、お八代さんの前に行って、一人一人になすったことを懺《ざん》悔《げ》して下さい。学術研究のためだった……と言って、心から二人であやまって下さい……」
「…………」
「お願いというのはそれだけです。……ドウゾ……ドウゾ……後生ですから……僕が……こうして……お願いしますから……」
「…………」
「……ソ……そうすれば……僕はドウなってもかまいません。手でも足でも、生命でも何でも差上げます。……この研究を引継げとおっしゃれば……一生涯かかっても……一切の罪を引き受けても……」
私はタマラなくなって両手で顔を蔽うた。その指の間を涙が迸り流れた。
「……コ……コンナひどい……冷血な罪悪……ああ……ああ……僕はモウ頭が……」
私は大卓子の上に崩折れ伏した。声を立てまいとしても押え切れない声が両手の下から咽《むせ》び出た。
「……ス……すみませんが……僕に……みんなの……か……讐《かたき》を取らして下さい……」
「…………」
「……この研究を……シ……神聖にして下さい……」
「…………」
「…………」
……コツコツ……コツコツ……と入口の扉をたたく音……。
……私はハッと気が付いた。慌ててポケットからハンカチを取り出して、涙に濡れた顔を拭いまわしながら、正木博士の顔を見上げると……ギョッとして息が詰った……。
それは昂奮の絶頂まで昇り詰めていた私の感情を、一時に縮み込ませてしまったほど恐ろしい、鬼のような形相であった。……瀬戸物のように血の気を喪《うしな》った顔《か》面《お》一パイに、蒼《あお》白《じろ》い汗が輝き流れて……額の皺《しわ》を逆さに釣りあげて……乱脈な青筋をウネウネと走らせて……眼をシッカリと閉じて……義《いれ》歯《ば》をガッチリと喰い締めて……両手でシッカリと椅子の肱《ひじ》につかまりながら、首と、肱と、膝を、それぞれ別々の方向にワナワナとわななかせて……。
……コトコトコトコトコトコトと扉《ドア》をたたく音……。
……私はドタリと廻転椅子に落ち込んだ。
何かの宣告のような……地獄のおとずれのような……この世のおわりのような……自分の心臓に直接に触れるようなそのノックの音を睨み詰めて聾唖者《おし》のようにもがき戦いた。……扉の向うに突っ立っている者の姿を透視しようとして透視できないまま……救援を叫ぼうとも叫びようがないまま……。
コツコツコツコツコツ……。
……と……やがて正木博士が、全身の戦慄を押し鎮めるべく、一層烈しく戦慄しながら、物凄い努力を始めた。……すこしばかり身体をゆるぎ起して、桃色に充血した眼を力なく見開いた。灰色の唇をふるわして返事をすべく振り返ったが、その声は、痰《たん》に絡まれたようになって二、三度上ったり下ったりしたまま、咽《の》喉《ど》の奥の方へ落ち込んで行った。……と思ううちにみるみる椅子の中に跼《かが》まり込んで死人のようにグッタリと首を垂れてしまった。
コツコツコツ……コトコトコトコト……コツンコツンコツンコツン……。
私はこの時、自分で返事をしたような気がしない。何だか鳥ともつかず獣ともつかぬ奇妙な声が、どこからか飛び出して、室中に響き渡ったように思った。それと同時に頭の毛が一本一本にザワザワと走り出したように感じたが、そのザワザワが消えないうちに、入口の扉が半分ばかり開かれると、ガタガタと動く真《しん》鍮《ちゆう》のノッブの横合いから、赤茶色のマン丸いものがテカテカと光って現われた。それは最前カステラを持って来た老小使の禿《はげ》頭《あたま》であった。
「……ヘイヘイ御免なさいまっせい。お茶が冷えまっしろう。遅うなりまして……ヘイヘイ……ヘイ……」
と言い言いまだ湯気を吹いている新しい土瓶を大卓子の上においた。そうしてたださえ弓なりに曲った腰を一層低くして、白く霞んだ眼をショボショボとしばたたきながら、皺だらけの首をさし伸べて恐る恐る正木博士の顔を覗き込んだ。
「……ヘヘ……ヘイヘイ。ちっと遅うなりまして……ヘイ……。昨晩《ゆうべ》からほかの小使がみんな休みまして、今朝から私一人でございますもんじゃけん。ヘイ。まことに……」
老小使の言葉がまだ終らないうちに、正木博士は最後の努力かと思われる弱々しい力で、椅子からヒョロヒョロと立ち上った。死人のように力ない表情で私を振り返って、何か言いたそうに唇を引き釣らせつつ、微かに頭を左右に振ったようであったが、たちまち涙をハラハラと両頬に流すと、私に目礼をするように眼を伏せて、またも頭をグッタリとうなだれた。そうして小使が開け放しておいた扉《ドア》の縁に捉《つか》まりながらフラフラと室を出て行ったが、今にも倒れそうによろめきつつ、入口の柱に手をかけて、ようやっと、廊下の板張りの上に立ち止まった。するとその後から追いかけるようにギイギイと閉まって行った扉《ドア》が、たちまちバラバラに壊れたかと思うほど烈しい音を立てると、室中のガラス窓が向うの隅まで一斉に共鳴して、ドット大笑いをするかのように震動し、鳴動し、戦慄した。
そのあとを振り返って見送っていた小使は、やがてオズオズとこちらに向き直りながら、呆れたように私を見上げた。
「……先生は……どこか、お加減が、お悪いので……」
私も最後の努力とも言うべき勇気を振い起して、無理に、泣くような笑い声を絞り出した。
「ハハハハハ。何でもないんだよ。今チョット喧嘩をしたんだ。……ツイ先生を憤《おこ》らしちゃったんだ。心配しなくともいいよ。じきに仲直りができるんだから……」
と言ううちに両方の腋《わき》の下から、冷たい水滴が、バラバラと落ちた。嘘を言うのがこんなにタマラないものとは知らなかった。
「……ヘエイ……さようでございましたか。それならば安《あん》堵《ど》致しました。はじめてあのようなお顔をばお見上げ申しましたもんじゃけん……ヘイヘイどうぞごゆるりと、なさいまっせえ。私一人でまことに行き届きまっせんで……ヘイ。先生はホンニよいお方でございます。ようお叱りになりますが、まことににご親切なお方で……それに昨日からはまた、あの解放治療場で大層もない御心配ごとができまして、そのために今一人しかおりませぬ小使が、足を踏み挫きまして休んでおりますようなことで……先生様もお気の毒でございます……ヘイヘイ……ヘイ……どうぞごゆるりと……」
禿頭の小使は冷めた方の茶瓶を提げて、曲った腰を一つヤットコサと伸ばしつつ、ヨチヨチと出て行った。私は、私の魂を喰いに来た鬼が出て行くかのように、その後姿を見送った。
小使が出て行ったあとの扉《ドア》がガチャガチャと閉まると、私はまた、思い出したようにグッタリとなった。長い長いふるえた呼吸を腹の底から吐き出しながら、大卓子に両肱を突いた。両《りよ》掌《うて》でシッカリと顔を蔽うて、指先で強く二ツの眼の球を押えた。頭の芯《しん》が乾燥《ひから》びたような、一種名状のできない疲労を覚えると共に、強く押えた眼の球の前にいろいろな幻像があらわれるのを見た。その中を縦横無尽に、電光のように馳けめぐる……?《インタロゲーシヨンマーク》……を見た。そうしてその……?……を頭の中で押え付けよう押え付けようと焦《あ》燥《せ》った。
……解放治療場の白い砂の光……?……
……そのまん中の枯れ葉を一パイに付けた桐の木……?……
……その向うに突立っている呉一郎の姿……?……
……その向うの煉瓦塀の上の、屋根の上の、巨大な二本の煙突……?……
……その上から吐き出されて行く黒い煤《ばい》烟《えん》のうねりと、青い青い空の色……?……
……白いベッドの上に泣き伏した、白い患者服の少女の姿……?……
……緑の平面の上に開いたままおき忘れられている若林博士の調査書類……?……
……紫色に渦巻く葉巻の煙……?……
……若林博士の奇妙な微笑……?……
……正木博士の鼻眼鏡の反射……?……
……?……?……?……?……?……???????…
……………
……?……
私は頭を一つ強く振った。……そんなものをつなぎ合わせて、あくまでも私を学術の餌食にしようとしている、眼にも見えず、手にも取られぬ因果の網を掻き払うかのように、眼を閉じたまま両手を動かした。
……狂人の暗黒時代を背景にして、私を捉えるべく糸を操っているその網の主というのは、学術界に棲息している二匹の大きな毒《どく》蜘《ぐ》蛛《も》である。曠古の精神科学者Mと、無双の名法医学者Wである。……その中でもMが私に投げかけた網の恐ろしかったこと……私は今の今まで全力を挙げて抵抗して来た。全身の血を逆行させて、冷たい汗と熱い涙のあらん限りを絞って闘って来た。そうして何かしらその相手に非常な打撃を与えて追い払ったようであるが、しかし、それと同時に私も力が尽きた。自分の行為の善悪を判断する力は愚か、この大テーブルから離れる元気さえなくなった。精神的にも肉体的にも、再び起つ勇気があるかないかすらわからないくらい疲れてしまっている。
……けれども……けれども私の背後には今一つの強敵が控えている。その強敵Wは、あるいはこの場の光景までも見透かして、冷笑しているかも知れぬ。それほどに抜け目のない、堅実な網を張って、私が落ち込んで来るのを待ち構えているに違いない。私自身はもちろんのこと、あの正木博士すら気付かぬくらい巧妙な、行き届いた、偉大な知恵の力でシッカリと私を押え付けて、血も涙も骨も抜き取って、虚偽と穢れによって作り上げられた学術の犠牲に供すべく、刻一刻に私の背後から迫りつつあることがヒシヒシと全神経に感じられる。
……あの蒼白い、大きな、毛ムクジャラな手につかまれるくらいなら、私は正木博士に反抗するのじゃなかった。私はなぜかわからぬけれども、若林博士よりも正木博士の方が好きだ。二人とも私を餌食にしようとしている学界の毒蜘妹であるにしても、私は正木博士の方が何となく懐かしくて親しみ易い気がする。今でも正木博士が引返して来てただ一言……
「吾輩が悪かった」
と言ってくれさえすれば、私は一も二もなく喜んで、何もかも忘れて正木博士の奴隷になるかも知れぬ。若林博士の卑怯さを発《あば》いて、正木博士に同情した記録を発表するかも知れぬ。……若林博士のあの蒼白い手で、私の心臓を握られたくないために……。
しかし……四囲《あたり》はシンとしている。正木博士が引返して来るような音も聞えぬ。……運命を待つよりほかはない。その運命と闘う力をなくしたまま……。
ああ……どうしよう……。
私の呼吸がまた一しきり胸を圧迫して来た。
そうして、やがてまた、ふるえ、わななきつつ、力なく静まって来た。……身体中が空虚になったような……耳の穴の奥だけがシイーンと鳴るような……。
「……………………
……………………
黒ウろい黒ウろいまっ黒い
トットの眼玉を喰べたらば
白イろい白イろいまっ白い
ホントの眼玉が飛び出した
ポンチキポンチキポンチキチ……
白イろい眼玉は可愛いよ
お口の中から飛び出して
お箸《はし》の先から逃げ出して
コロコロ コロコロ転がって
どこかへ見えなくなっちゃったア
ラアラアラアラアポンチキチ……
白イろい眼玉は可愛いよ
トットの眼玉は可愛いよ
ホントの眼玉は可愛いよ
可愛い可愛い可愛いよオ――
ラアラアラアラアポンチキチ……
ポンチキポンチキポンチキチ……
可愛いヨオ――可愛いヨオ
……………………」
という最前の舞踏狂の少女の澄み切った声が、南側のガラス窓越しに洩れて来る……。
……突然……一つの素晴らしい考えが頭の中に閃いた。私の頭の中心にコビリ付いていた千万無数の……?《インタロゲーシヨンマーク》……が一時にパッと光って消え失せたような気がした。機械人形のように顔から手を離して、廻転椅子の上に腰かけ直した。正木博士が出て行った入口の扉《ドア》を見た。正面の壁にかかった黄金と黒の二つの額ぶちを見た。眼の前に散らばっているさまざまの書類を見まわした。秋の正午に近い光が、室中一パイに籠った葉巻の煙を青白く透かして、いろいろな品物の一つ一つにハッキリした反射を作っているのを見た。
「ナアーンダ……ナアーンのコッタイ。……こりゃあ……アッハッハッハッハッハッハッハッハッ……」
私は両方の横腹から、たまらないおかしさがコミ上げて来るのを両手で押えつけ押えつけして笑い続けた。
……馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿……大馬鹿の大馬鹿の三太郎だったんだぞおれ……アッハッハッハッハッ……。
……若林博士も正木博士もそうなんだ。イヤ、おれよりもモットモット念入の大馬鹿なんだ。おれたちは三人共、とんでもない誤解をし合っているのだ。何というばかばかしい間違いだ、……これは……。
……誰が千世子を殺したか。誰が呉一郎に絵巻物を渡したか。……誰が呉一郎の本当の親なのか。WかMか……それともほかにモウ一人チャンと控えているのか……そんな謎はまだ、まるっきり一つも解かれていないのだ。みんないい加減な第三者の仕事かも知れないのだ……。
……否々、この事件には初めっから一人も犯人がいないのに違いない。この事件の内容というのは偶然にはなればなれに起った原因不明の出来事のいろいろを、一つに重ね合わせで覗いたものに過ぎないのだ。千世子の縊《い》死《し》だって……斎藤博士の溺《でき》死《し》だって……呉一郎の発狂だって……みんな自分勝手にし出かしたことかも知れないのだ……でなければ、こんな神秘的な、不可解な、底の知れない事件があり得るはずはないじゃないか。
……それを二人の博士が感違いをして、無理に一枚に重ね合わせて、一つの焦点を作ろうとしているのだ。お互いに相手を恐れて……自分の大切な研究材料を相手に取られまいとして、色眼鏡をかけて睨み合ったために、何もかも相手がタッタ一人でして来たことのように見えたに過ぎないのだ。
……可愛そうに……めいめい自分で覚えがあり過ぎるために……否……否……今まで手応えのある相手を発見し得なかった古今無双の二つの脳髄同士が、ここで互いに好敵手を発見し合って、本能的に戦闘欲を発揮し始めたんだ。力一パイ四ツに取組んで、動くことができなくなっているのだ。
……アハ……アハ……こんなばかばかしい……間の抜けた……トンチンカンな争いがまたとこの世にあり得ようか。事件そのものの内容よりも、二人の博士の研究と争闘の方が、ズット真剣で、深刻で、恐ろしいのだもの。もしかすると学者なんてものは皆、こんなつまらないことばかりを本気になって争い合っているものじゃないかしら……。
……しかし考えてみれば無理もないだろう。あの呉一郎とこのおれとはドウしても双生児としか思えないくらい肖《に》通《かよ》っているんだもの。おまけにあの呉モヨ子と、この絵巻物の死美人像とが、瓜二つどころじゃない、ソックリそのままなんだもの……こんなにありそうもない二重の偶然同士がこの地方で、しかも同じ血《ち》統《すじ》の中に固まり合っているのを発見したら、誰だってビックリするに違いないだろう。そうしてこれには何か深い原《わ》因《け》があるに違いないと思って、最初から色眼鏡をかけて研究を始めるだろう。……本人はそんなつもりでなくとも、研究を始める気持ちが既に色眼鏡をかけたのと同じ気持ちだから仕方がない。その証拠には、この事件を組み立てているいろいろな出来事を一つ一つに離してみると、別に二人の博士が手伝わなくても、それぞれ勝手次第に、自由自在に起り得る事件ばかりではないか。それを二人の博士がお互いに相手の所《し》業《わざ》と思って疑い合っているお陰で、一つに重なり合って見えているだけのことで二人の博士のやかましい説明が付いていなければ、単純な二つの変死事件と、一つの発狂事件の寄り集まりに過ぎないじゃないか……。
……そうだそうだ。それに違いない。ソレに違いない。みんな根のない事件のブツカリ合いに過ぎないのだ。それをおれが気付かずにいたんだ。そうしてウンウン言って苛《いじ》め付けられていたんだ……馬鹿馬鹿馬鹿。馬鹿の、馬鹿の、大馬鹿揃いだったんだ……三人が三人とも……。
……ウッカリするとこの事件の犯人は、ヤッパリおれになるかも知れないぞ……。
「……アハハハハハハハハ……」
私は室じゅうに反響する自分の笑い声を聞くと、フイと口をつぐんだ。そうしていつの間にか頬杖を突いていた私の眼は、鼻の先の緑色の平面に転がっている絵巻物に、ピッタリと吸い寄せられているのに気が付いた。
……これが霊感というものであろうか……。
……私は不意にドキンとして、今一度廻転椅子の上に坐り直した。今までにない……何とも言えない神聖な気持ちに満たされつつ、恭しく絵巻物を取り上げると、ジット見詰めて考えた。
……最後に残るものはこの絵巻物の魔力である。……すべては否定できる。……しかしこの絵巻物の魔力ばかりは最後の最後まで否定できない……と……。
……この事件は表面から見ると、すべてがノンセンスにでき上っていると言える。実につまらない小事件の寄せ集めに過ぎないと考えられるので、ただ、その間に正木、若林の両博士が引っかかり合ってこの絵巻物の魔力を中心にしてある怪事業を成し遂げようと試みているために、全体が非常に有意義な、戦慄すべき緊張味を示しているかのように見えるのであるが、しかし一歩退いて、この事件を裏から覗いてみると、実は二人の博士が二人とも、この絵巻物にコキ使われているのだ。自分たちが持っているだけの知恵も、度胸も、学問も、地位も、名誉も、生命までも投げ出して、この絵巻物の魔力の前に三拝九拝しているのだ。それ以外の人間の生死も、流《る》転《てん》も、煩《はん》悶《もん》も、万《も》一《し》正木博士の話が真実とすれば、やはりこの絵巻物から引き起された事件に相違ないので、結局するところ、一切の魔訶不思議を支配する中心的の魔力は、この絵巻物一つから現われていることになる。すべての現実的事実と一切の科学的説明はノンセンス化し得るとも、この絵巻物の魔力ばかりは絶対に、何人もノンセンス化することができないことになるであろう。
……だから……この絵巻物にしてもし霊があるならば、すべてを知っているに違いない。同時に自分自身の経歴を、何者よりもよく知っているはずである。……この事件にドンナ風に関係して来たか、どんな手順で呉一郎の手に落ち込んで来たかを一分一厘、間違いなく知っているはずである。そうしてまた、いかにして両博士を悩まし、且つ、私までも苦しめているかという、その裏面の消息をも残らず心得ているはずである。
……この絵巻物の一巻は、今までの間に多くの人々を狂乱させ、迷動させ、互いに相殺傷させ合いつつ知らん顔をして来た。同様に現在の今日ただ今も、何一つ知らぬかのごとく装うて、私の掌に乗っかっている……が……しかし……。
……今から一千百余年前、大唐の玄宗皇帝の淫《いん》蕩《とう》は、青年紳士、呉青秀の忠志に反映して、六体の美人の腐敗像をこの一巻の中に顕《あ》現《ら》わした。……しかるにその怪画像に籠った、怪芸術家の一念は、はるばる日本に渡って来て後までも、呉家の血統に絡み付いて、恐るべき因果の姿を現実に描きあらわすこと幾十代。しかも十数世紀を隔てた今日に到って、何らの血縁もない正木、若林両博士の手に移って、科学知識の無上の大光明に照らされる時節に遭うても、ついにその魔力を喪わないどころか、かえってその怪作用を数層倍してその両博士の全生涯をアラユル方向に蹂《じゆう》躙《りん》し嘲《ちよう》弄《ろう》している。のみならず今日ただ今、ところもあろうに現代文化の淵《えん》叢《そう》であり権威である九州帝国大学のまん中の、まひるのまっただ中に、ほとんどかりそめに私の指先に触れたと思う間もなく、早くもその眼に見えぬ魔手をさし伸ばして、私の心臓をギューギューと握り締めて、生血と生汗を絞りつくすほどの苦しみを投げかけている……不可解の因縁をもって私に絡み付いて、不可思議の運命の渦に私を吸い込みつつある。……事実の真相に白い曇りを吹きかけつつ、その白い曇りの魅力にかけて私をさんざんに弄んでいるではないか……思い出されないことを思い出させ、考えられないことを考えさせ、見えないものを見させようとしているではないか……消え失せた過去の記憶を求めさせ、自分でない自分の身の上を考えさせ、ありもしない事件の真相を無理やりに探させつつ、迷わせ、狂わせ、泣かせ、笑わせているではないか……。キチガイ地獄以上のキチガイ地獄の中にノタ打ち廻らせているではないか……。
……おお……何という恐ろしい魔力……。
……眼の前の空間を凝視して、ここまで考えて来た私の大きく見開いた眼の底の大《だい》虚《こ》空《くう》に、あの死後五十日目の黛《たい》夫人の冷笑のまぼろしが、またもアリアリと現われて来た。
それを私は消え失せるまで白《に》眼《ら》み付けた。
……畜生……どうするかみろ……。
こう思うと私は、何かしらこの絵巻物の中から、一切の神秘と不可解とを、一挙に打ち破るに足るある恐るべき秘密の鍵を発見しそうな予感に打たれつつ、唇を強くかみ締めた。二人の博士と私を苦しめている魔力の正体を一撃の下に暴露するに足るあるもの……まだ何にも気付かれずに残っている意外千万なあるものがこの絵巻物のどこかに潜んでいそうな一種の霊感に満たされつつ、手早く絵巻物の紐を解いた。そのついでに腕時計を見ると、ちょうど十二時に十分前である。正面の電気時計は十一分前であるが、これはもう長い針がXの字のところへ飛ぼうとしている間際かも知れない。
絵巻物の軸になっている緑色の石のところに息を吐きかけてみると、誰のともわからぬ指紋が重なり合って見えるようであるが、これは先刻《さつき》私がイジクリまわした跡だと気が付いたので苦笑しいしい巻物を取り直した。こんな迂《う》闊《かつ》なことでは駄目だぞ……と自分で自分を冷《れい》罵《ば》しながら……。
表装の刺繍と内部の紺色の紙の上に、細く光る繊維みたようなものが、数限りなく粘り付いているが、これはかつてこの絵巻物を真綿か何かで包んでいた遺跡であろう。鼻に当てて嗅いでみると、黴《かび》臭《くさ》いにおいと、軽い樟《しよう》脳《のう》みたような香気が一緒になった中から、どこともなく奥床しい別の匂《にお》いがして来るようであるが、なおよく気を落ち着けて嗅ぎ直してみると、それは私が初めて嗅ぎ出したものではないかと思われるほどの淡い、上品な香水の匂いに違いないことがわかった。
……面白いナ。この調子で行くと、まだいろんな物が発見できそうだぞ。この黴臭い匂いと樟脳に似た木の香が弥《み》勒《ろく》様の木像の中で滲み込んだものであることは、誰でも考え付くことであろうが、しかし、この香水の匂いにはチョット気の付く者がいなかったであろう。そうしてこの床しい芳香は、この絵巻物の前の持主を暗示するものでなくて何であろう。
……しめた。もしもこの上に、まだ誰にも気付かれていない何物かがあったら最後……それは一本の髪の毛でも煙草《たばこ》の屑《くず》でもいい……犯人を決定する有力な材料になるのだぞ……
……と、さながらに自分自身が名探偵にでもなったように考えつつ、一層勢付いて来た私は、絵巻物を頭の方から、逆に巻き込みながら、絵のところから由来記の文章の終っているところまで、裏表とも丁寧に見て行ったが、先刻《さつき》は意地にも我慢にも正視できなかった死美人の腐敗像が、今度はあいそもこそもないただの顔料の配列としか見えなくなっているのにはすくなからず驚かされた。しかも、それはけっして光線の具合でも何でもなかった。黛夫人の腐れ破れた唇から見え透く歯並の美しいところ、臓腑がガスを包んで滑らかに膨れ光っているところまで、細かに注意して見たが、何ともないものは、いくら見ても何ともない。私は人間の神経作用のばかばかしさにスッカリ張り合いが抜けてしまった。
……しかし……と思ってなおよく注意してみると、初めの方は紙の地が幾分ボヤケているが、由来記のおしまいの方に近づけば近づくほど、紙の表面がスベスベして上光がしている。これは無理もない話で、最初に筆を執った呉青秀からして、初めの方ほど余計に開いたり巻いたりしたに決っている。また、その後この絵巻物を開いて見た呉家の先祖代々の者も同様で、最初私がした通りに、初めの完全な姿に近いところほど念を入れて見たわけで、これは人情から言ってもやむを得ないであろう……巻物の裏一面に何かキラキラ光る淡《たん》褐《かつ》色《しよく》の液体を塗ってある上に指の跡みたような白い丸いものがところどころ付いているようであるが、あまり滑らかでない紙の下から、粗い布目が不規則に浮き出しているのだから、何の痕《あ》跡《と》だかハッキリと見分け難い。……結局、私がこの絵巻物から発見したものは、今の上品な香水の匂いだけであった。
私は今一度、絵巻物に顔を近付けて、ほのかにほのかに何事かを私に話しかけるような香気を繰り返し繰り返し、腹の底まで吸い込んでみた……が……それは何という香水か知らないが、ホントウに上品な、清浄そのもののような香気と思えるばかりでなく、私の記憶の底から何かしらなつかしいようなまたはやるせのない夢のような……正直に言えば吸い付きたいような思い出を喚び起すらしい気持ちのする匂いであった。言うまでもなくそれは女性のソレらしく思われるが、しかしそれが私の昔の恋人か、それとも母か姉か……というような見当がつくほどまざまざとした感じではない。……私は念のために立ち上って、入口の扉《ドア》の横から自分の角帽を取って来て、その内側の香いと、絵巻物の香気とを嗅ぎ較べて見た。けれども私の帽子の内側は、いくら嗅いでも新しい羅紗と、エナメル皮と、薄い黴の匂いしかしなかった。私が絵巻物のソレと同じ香水を使っていたという証拠にも参考にもならなかった。
私は帽子を横に置きながら軽い嘆息をして、絵巻物を巻き返そうとしたが、また……ビクリ……とすると手を止めた。思わず空間を凝視しながら……。
……実に意外千万な暗示が頭の中に閃き込んで来たからであった……。
……姪の浜の石切場で、呉家の常雇いの老農夫戸倉仙五郎が呉一郎を発見した時には、絵巻物の白いところばかりを呉一郎が凝視していたという……その不可思議な事実のホントの意味が、チラリとわかりかけて来たからであった……。
……というのはほかでもない……。
この絵巻物の中でも、おしまいの漢文の由来記が書いてあるところまでは、たびたび人間の手によって拡げられたり、巻かれたりしたものに違いないことがわかりきっている。したがって、その一丈近い長さの間には、何かしらこの絵巻物を覗いた人間の身に付いたものが落ち込んでいるべき可能性のあるところである……がしかし、それと同時に、万人の中に一人でも、これから先の白い紙ばかりのところを、ズット先の方まで開いて見る人間があったとすれば、その人間の頭は、よほど普通と違った頭でなければならぬ訳で、どちらかと言えば、そんな人間は絶無に近いことが、常識で考えてもすぐにわかるであろう。……とはいえまた、万一にもソンナ常識で想像できないある場合とか、またはそのよほどアタマの構造の違った人間とかが実際に出現して、由来記の後の白紙ばかりのところをズット先の方まで開いて見たことがあったとしたらどうであろうか。早い話が、この絵巻物の筆者呉青秀は、黛夫人の白骨になった姿だけを、悠々と落ち着いて、一番おしまいのところに描いているようなことがありはしまいか。……それを黛夫人の妹の芬《ふん》女《じよ》を初め、呉家の代々の人々から正木博士に到るまで、ただ、常識で考えて、この中に描いてある死像を六体限りとアッサリきめているようなことがありはしまいか。……そうして更に、その中でも、この絵巻物が人を発狂させるほどの魔力を持っていることを看破するような頭を持った人間だけが、そこまで気を廻して開いて見ているとしたら、どんなものであろう……もしそんなことがあり得るとしたら、そこに何かしら落ち込んでいないとはドウして言えよう。……しかもその落ち込んでいる何かしらは、たといそれがドンナに微細なものであろうとも、スバラシク重大な意味をあらわすことになるではないか。この絵巻物を使って、この事件を巻き起した犯人の正体をズバリと指すことになるかも知れないではないか。否。もしかするとこの絵巻物の神秘力を一挙に打ち破って、一切の迷いを真実に還すほどの力を持った者であるかも知れない。……少なくともそこまで調べて見た上でなければ、この絵巻物の中から何も発見できなかったとはどうして言えよう。
……呉一郎は姪の浜の石切場でこの絵巻物の白いところを一心に凝視していたという。しかもその時は既に半分呉青秀、半分は呉一郎の気持ちでいたものと推定されているから、はたしてどちらの気持ちでそうしたものか判然しないのであるが、しかしいずれにしても、この絵巻物の白いところをズットおしまいのところまで見て行った……そうしてそこに落ち込んでいる何ものかを発見したに違いないことは容易に推定できると思う。
……その証拠に呉一郎は「この絵巻物の預り主の正体を知っている」と仙五郎爺さんに話しているではないか……。
……どうして……どうして私は今の今までこの事実に気付かなかったのだろう……。
こうした考えを一瞬間のうちに頭に閃かした私は、またも、何者かに追駈けられているような予感がして、チョット腕時計と電気時計を見較べた。どちらも十二時に四分前である。
私の手は再び反射的に絵巻物を持ち直して白いところを巻き拡げ始めた。そうして最初の一分間かそこいらは、できるだけ冷静に調べて行くつもりであったが、どこまで行ってもただまっ白いばかりの唐紙の上を一心に見つめて行かなければならぬことが、わかりきっているように思えるので、私は間もなく、涯《はて》しもない白い砂漠を、当もないのにタッタ一人で旅行させられているような苛《いら》立《だ》たしさと、ばからしさを感じ始めた。自分一人で名探偵を気取っているような自分の心が見え透いて、何だか急に気がさして来た。やっとの思いで三尺ばかり行くともうウンザリしてしまった。
それにつれて……かどうか知らないが、呉青秀が一番おしまいに白骨の絵を書いているかも知れない……という推量も怪しくなって来た。
呉青秀が痴呆状態に陥ったものとすれば、自分が古今無類の馬鹿者であった、当もない忠義立てのために最愛の妻を犬死にさせた……ということを、義妹の芬女の説明でハッキリ思い当った刹那に、茫然自失してからのことであろう。そうすればその数分間前、もしくはその数秒前までは正気でいたはずだから、もし言い忘れたのでなければ、一番おしまいに白骨の絵を描いたかどうかを説明していないはずはない。また、芬女にしてからが同じことで、自分の恋い慕っている男が、大事な大事な姉を犠牲にして企てた事業の成績品を披《ひら》いて見ながら、千年も経った今日になって赤の他人の私が思い付くくらいのことを気付かずにいるようなことは万に一つもありそうにない……こう思うと私は一遍に気が抜けてゲンナリとしてしまった。
……しかし……それでも私は、つまらない一種の惰力みたような、気の抜けた義務心に義務付けられたような気持ちと、今までの気疲れが一時に出始めてウトウト睡《ねむ》くなって行くような気持ちとを一緒に感じながら、あと一丈ばかりもあろうかと思われる白いところを両手で一気に繰り拡げながら、ほんの申訳同様に追いかけ追いかけ見て行った。そうしてやっと二丈か三丈ぐらいありそうに思われる長い巻物の白いところを、最終のところまで追い詰めて来ると意外にも、黒い汚《し》染《み》のようなものがチラリと見えたので、思わずドキンとして眼をみはった。
よく見ると、それは一番お終いの紺色の紙に、金絵具で波紋を描いたところから一寸ばかり離れた個所に、五行に書かれた肉細い、品のいい女文字であった。これが小野鵞《が》堂《どう》流というのであろうか……。
子を思ふ心の暗《やみ》も照しませ
ひらけ行く世の智《ち》慧《ゑ》のみ光り
明治四十年十一月二十六日
福岡にて 正木一郎母 千 世 子
正木敬之様 みもとに
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……私の頭髪は皆、逆立った。
……慌てて絵巻物を巻き返そうとしたが……
……手がふるえて取り落した……。
……と、その絵巻物がさながら生きている、もののように、ひとりでに巻き拡がって、大卓子の上から床の上にはい落ちて、リノリウムの上をクルクルクルと伸びて行くのを見ているうちに、ゾーッとして来て夢中になった私は、どうして扉《ドア》を開いたか、いつ廊下を走ったかわからぬまま階段を一散に駆け降りて、玄関から外へ飛び出した。
トタンに非常な大音響が、私を追い散らすかのように、九大構内の松原に轟き渡った。
それは午《ド》砲《ン》であった。
それは一つの奇蹟であったとしか思えない……ある目に見えぬ偉大な力が、空中から手を差し伸ばして、私を自由自在に引きずり廻していたとしか思えない。それほどに、不思議な出来事であった。
私は九大医学部の正門を飛び出して後、どこをどう歩き廻ったかまるっきり記憶しない。そうして何を目標にして、またもとの九大精神病科の教授室に帰って来たものか全くわからない。
……背後から絶叫して来る自動車の警笛を聞いた。眼の前に急停車する電車の唸《うな》りに脅かされた。自転車のベルに追い散らされた。叱《しつ》咤《た》する人の声や吠えつく犬の声をきいた。グルグル廻る太陽と、前後左右に吹きめぐる風と、戦争のように追いつ追われつする砂ぼこりを見た。雲の中からブラ下っている電柱を見た。軒の下まで鮮血を滴らしている絵看板を見た。地平線の向うが透明な山に続く広い広い平野を眺めた。何千、何万、何億あるかわからぬおびただしい赤煉瓦の堆《たい》積《せき》の中へ迷い込んだ。その紫色の陰影の中に、手足を蠢《うごめ》かしてもがいている孩《あか》児《んぼ》の幻影を見た。青澄んだ空のただ中を黄色く光って行く飛行機を仰いだ………そのあとから白い輪郭ばかりの死美人の裸体像が六《むつ》個《つ》ほど、行儀よく並んで辷《すべ》って行くのを見た。
人の頭のように……または眼の形……鼻の恰好……唇の姿なぞとりどりさまざまの形に尾を引いて流るる白い雲……黒い雲……黄色い雲……その切れ目切れ目に薬液のように苦々しく澄み渡っている青い青い空……そんなものの下に冴えに冴え返る神経と、入り乱れて火花を散らす感情を包んだ頭の毛を、掻きむしり、掻き乱しつつ……時々飛び上るほどの痛みを前額部に感じつつ……眩《まぶ》しさと砂ぼこりとでチクチク痛み出した眼をコスリコスリ、どこへ行くのか自分でもわからないまま、無茶苦茶によろめいて行った。
……川……橋……鉄道……赤い鳥居……その赤い鳥居の左右に、青白い顔をして立っている正木博士と若林博士の姿……ついには駆け出したくなるのを押え付け押え付けして歩いて行った。
…………何もかも真実であった……虚偽の学術研究でも、捏《ねつ》造《ぞう》の告白でもなかった。しかも、それは初めから終りまで正木博士がタッタ一人で計画して、実行して来たことばかりであった。
……若林博士は何でもなかったのだ……。
……若林博士は初めから何も知らずに、正木博士の研究の手先に使われていたのだ。
……正木博士が行った巧妙奇怪を極めた犯罪に魅惑されて、自分から進んで調査をしているうちにいつの間にか正木博士の研究発表の材料を集める役廻りを引受けさせられていたのだ。正木博士が仕掛けておいた係《わ》蹄《な》に美事に引っかかって、スッカリ馬鹿廻しにされていたのだ……。
……けれども若林博士はその結論として、あの絵巻物の最終に残されている千世子の筆蹟を発見した。あらゆる疑問を重ね合わせた最後の疑問の焦点となるべき、唯一点を発見して私と同じようにビックリしたに違いない。そうして私と同じように一瞬間の裡《うち》に一切を解決したに違いない。すべてが正木博士の所《し》業《わざ》であることを発見したに違いないのだ。
……しかしそこで若林博士が執った態度のいかにりっぱであったことよ……若林博士は、かくして事件の真相を奥の奥の核心まで看破すると同時に、その同窓同郷の友人として、または学者としての有らん限りの同情と敬意とを正木博士に払うべく決心をしたのであった。そうしてその事件の内容の要点だけをわからなくした、正しい調査記録を当の本人の正木博士に引き渡して焼くも棄てるも、その自由に委した。……またはわざわざ茶菓子を持たしてよこして「私は遠くに離れ退いておりますから、どうか御心配なく御自由にお話し下さい」という心持ちを、言わず語らずの中に知らせたりした。……「正木博士は一か月前に自殺した」なぞいうような口から出任せな嘘を吐いたのも、やっぱりそんな意味の親切気から、立聞きをしている正木博士が、あの場面に出て来ないように……そうしてアンナ苦しいはめに陥らないように……もしくは回復しかけている私の頭を、またも取り返しのつかぬ混乱に陥らせないように警戒するつもりで言ったことであろう……あとで嘘だとわかってもいいつもりで……。
……実に男らしい尊い、申分のない紳士的態度を、若林博士は執って来たのであった。
……しかるにこれに反して正木博士は、この実験のために、その全生涯と全霊魂とを犠牲に供して来たのであった。最初から自分一人でこの伝説に興味を持って、千世子を欺して、子供を生まして、絵巻物を提供させたのであった。そうして一切を顧みずにこの計画を遂行したのであった。
……けれども千世子が、あの絵巻物を提供する時に、あの和歌と、年月日と、子供の名前と生まれたところとを、その父親の名前と一緒に奥付のところに書込んで、意味深長な釘を刺していることを正木博士は夢にも気付かずにいたのだ。世にもミジメに深刻な母性愛と、ステキな才知の結晶とも見るべき彼女の悲しい頭の働きが、そこまで行き届いていようとは露ほども想像し得なかったのだ。大胆な、眩惑的な、そうしてあくまでも天才的なその事業計画の中心に、ただ一点、致命的な疎漏があることを考え得なかったのだ。……そうして学術のため、人類のためと思って、神も仏も、血も涙も冷笑し蹂み躙《にじ》って行きながらも、なおも、あとから追いかけて来る良心の呵責と人情の切なさに、寝ても醒めても悩まされ抜いて来たのだ……死人に心臓をつかまれたまま、跳ね廻って来たのだ。……これが正木博士の全生涯なのだ。極度に穢されると同時に、極度に浄められている……あくまでも悲しく、あくまでも痛快な……。
……しかもその正木博士はその呪《のろ》われた研究がいよいよ最後の場面に入ると同時に、若林博士から投げ与えられたかの調査書類を見るとさすがに胆を冷やしてしまった。その相手の恐るべき透徹した脳髄が、極めて遠廻しに……一分一厘の隙間もなく自分を取り囲んでいることを知った。そうしてその恐るべき明察の重囲に陥った苦しさに堪え得ないままに、極めて卑怯な、且つ徹底的に皮肉巧妙な手段をもって逆襲を試みようとした。お手のものの患者の中から選み出した第三者の私を使って極めて冒険的な発表を決行させるべく、一切を私の前に告白した。
……が……その告白は初めから終りまで自分一人で計画して、タッタ一人で実行したことを二人に分割したものであった。その独特の機知をもって、相手の性質や行動を巧みに描写しつつ取り入れた、空前の巧妙精緻を極めた……そうして、それと同じ程度に浅薄幼稚を極めた思い付きであった。……その自《じ》縄《じよう》自縛を切り抜けている一人二役式の思い付きの非凡さ……MとWの使い分けの大胆さ、巧妙さ……そうして、やはり旧《もと》の自縄自縛に陥ってしまっているそのミジメさ……愚昧《おろか》さ……。
「……アブナイッ……」
「ばかッ……」
「アターッ……」
という怒号と悲鳴が、私のすぐ背後から重なり合って飛びかかって来た。と同時に、
……ガラガラガラガラ……ガチャンガチャン……
……パーン……パチーン……
という激しい物音が、引き続いて私の足の下に起った。……ハッとして振り返ると、そこいらに立っている人が皆、私の顔を睨みつけている。……私のすぐ背後には青塗の巨大《おおき》な貨物自動車が向うむきに停車している……くの字形になった自転車と、無残に壊れた空瓶の群が私の足下に散らばって、茶褐色の醤油がダラダラと漂うている。……浅黄色の作業服を着た大男が自動車の上から飛び降りて、タイヤの陰に手を突込みながら、紙のように血の気を失くした印《しるし》袢《ばん》纏《てん》の小僧を、眩しい日《ひ》陽《なた》に引きずり出している……人々がその方へ駆け寄って行く……。
私はスタスタと歩き出しながらまたも考え続けた。
……トテモ恐ろしい……考え切れないくらい恐ろしい秘密だ。一千年前に死んだ呉青秀の悪霊と、現代に生きている正木博士の科学知識との闘《たた》争《かい》は今酣《たけなわ》なんだ。
……しかも正木博士は、この研究に志した当初の一瞬間から、その良心の急所を呉青秀の悪霊につかまれてしまっている。人間愛の中でも最大最高の親子の情と夫婦の愛とを握り殺されてしまっている。そうして自分自身にはそれを気付かないで、どんなことがあっても自分だけはけっして呉青秀の悪霊に呪われまいと頑張り通して来ている……その呪われた心理状態を、いろいろな論文や談話やチョンガレ歌なぞの形に現わして、次から次に公表して来ている……その一方には千世子を初めとして呉一郎、モヨ子、八代子と次から次に痛ましい犠牲を作り出しつつ、勇敢にもそれを踏み越え踏み越えして、科学の勝利を確信しつつ……呉青秀の悪霊を向うに廻しつつ、一心不乱に斬って斬って切り結んでいる。……ああ何という凄惨な、冷血な、あくどい執念深い闘《たた》争《かい》であろう。
……魂から滴り落ちる血と汗の臭気《におい》がわかるような……。
……けれども……。
……けれども……。
ここまで考えて来ると、私はパッタリと立ち止った。……賑やかな往来を見た。……不思議そうな目付きや顔付きで私を振り返って行く人々を見まわした。高い高い広告塔の絶頂でグルグルグルグルまわり出した光の渦巻を見上げた。その上に横たわる鮮肉のような夕映の雲を凝視した。
……けれども……。
……けれども……。
……よく考えてみると、私はまだその中から、私の過去の記憶の一片だも、思い出していないのであった――私は何者――という解答を自分自身に与えることができない。憐れな健忘症の状態に止まっているのであった。私は今朝あの七号室で眼を開いた時と少しも変らない……依然としてタッタ一人で宇宙間を浮遊する、悲しい、淋しい、無名の一《いち》微《み》塵《じん》に過ぎないのであった。
……私は何者?……。
……ああ……これを思い出したら私はすぐにも呉青秀の呪いから醒めそうに思われるのに……あの絵巻物の魔力から切離されてしまいそうに思われるのに……どうしてもそれが思い出せない。いくら考えてもコレダケが最後の、唯一の疑問として残って行く……。
……私は誰だろう……誰だろう……私の過去とこの事件の間にはドンナ因果関係が結ばれているのだろう……。
……とこう考えては今日の記憶を繰り返し、繰り返してはまた考え直しつつ、やみくもに足を早めたり、緩めたりして歩いて行った。……遠く近くで打出す半鐘の音……自動車ポンプの唸《うな》り……子供の泣き声……機《はた》を織る響……どこかの工場で吹出す汽笛の音……と次から次へ無意識の裡に耳にしながら、右に曲り、左に折れしていたが、そのうちに私はまた、突然に土を蹴って立ち止った。気絶するほどドキンとして首を縮めながら立ち竦《すく》んだ。
……大変だ。あの絵巻物を、あのままにして来た。
……あの絵巻物のお終いのところにある千世子の筆蹟は誰にも見せてはならぬ……。
……正木博士が見たら発狂するか……本当に自殺するかも知れぬ。
……タタ大変だッ……。
私は思わず飛び上った。そうしてその次の瞬間にはクルリとうしろを向いて、どこかわからぬまっ暗になった田舎《いなか》道《みち》を一直線に駆け出していた。
やがて明るい美しい街筋に走り込んだ……。
間もなく暗いゴミゴミした横町を突き抜けた……。
三味線や太鼓の音の聞える眩しい通りを飛んで行った……。
電燈の並んだ防波堤を三方海原の行き止まりまで来てビックリして引き返した……。
いろんな店の品物や、電車や、自動車や人ゴミが走馬燈のように後へ後へと辷った……。
汗と涙で見えなくなる眼をコスリコスリ元来た方へ元来た方へと急いだ……。
……眼が眩んで、息が切れて、そこいらが明るくなったり暗くなったりしたように思う。
……眼の前に灰色の鳥が無数に乱れ飛んでは消えて行ったように思う。
……いつの間にか往来に倒れているのを誰か扶《たす》け起してくれたように思う。そうしてそれを振り離して、また駆け出したようにも思う。
そんなことを繰り返して行くうちに私はとうとう何もかもわからなくなってしまった。何のために走って行くのか。どっちの方向へ行こうとしているのか考えようともしないようになった。時々見えたり聞えたりするものを夢うつつのように感じたが、終いにはその夢うつつさえ感じられなくなるまで恍《こう》惚《こつ》として蹌踉《よろめ》いて行った……ように思う。
それから何時間経ったか、何日経ったかわからない……。
フト身体中がゾクゾクと寒気立って来たようなので気がついて見ると、私はいつの間にか最前《さつき》の九州帝国大学精神病科の教授室に帰っていて、最前腰をかけていた廻転椅子に、最前のように腰をかけて、大卓子の緑色の羅紗の上に両手を投げ出したまま突伏しているのであった。
私はチョットの間、夢を見ているのではないかと疑った。先刻《さつき》……正午頃にこの室を飛び出してから、方々を歩きまわって、見たり聞いたりしたいろいろの出来事や、考えまわしたいろんな不思議なこと……またはその間に感じたタマラナイ恐ろしさや息苦しさは、みんなここにこうして気絶している間に見た夢ではなかったかと疑ってみた。そうして気味わる気味わると自分の身のまわりを見まわして見たのであった。
私の服もシャツも、はいている靴も、汗と塵埃《ほこり》にまみれてまっ白になっている。両方の肱や膝は大きく破れたり泥まみれになったりして、ボタンが二つほどちぎれて、カラーが右の肩にブラ下っている姿はちょうど、酔《よい》漢《どれ》と乞食との混血児《あいのこ》を見るようである。左の手の甲にまっ黒く血が固まり付いているのはどこを怪我したのであろう。別段に痛いところも痒《かゆ》いところもないが…………しかし眼と口の中が砂ボコリで一パイになっているらしく、瞼《まぶた》がヒリヒリして歯の間がガリガリするその不愉快さ……。
私はその眼と口を今一度、机の上に突伏せながら、ジット後先を考えてみたが、一体何しにここへ帰って来たのか、どうしても思い出せなかった。机の端におき忘れて行った新しい角帽を凝視《みつめ》ながらその時の気持ちを思い出そう思い出そうと努力したが、この時に限って不思議なほど、私の連想力が弱っていた……何かしら非常に重大な品物か何かをこの室に忘れて、それを取りに帰って来たようにも思うのだが……と思い思いソロソロと頭を上げて前後左右を見まわして見ると、私の頭の上には大きな白熱電球が煌《こう》々《こう》と輝いている。
入口の扉《ドア》は半分開いたままになっている。
しかし、大卓子の上の書類は誰が片付けたものか、旧の通りにキチンと置き並べてあった。今朝若林博士と一緒に入って来て、初めて見た時の並び具合と一分一厘違わず……いじり散らした形跡なぞは微塵もないように見えた。その横に坐っている赤い達《だる》磨《ま》の灰落しも、今朝最初に見た時の通りの方向を向いて、永遠の欠伸《あくび》を続けているのであった。
もっともその中でもカンバス張りの厚紙に挟まった「狂人の暗黒時代」のチョンガレ歌や「胎児の夢」の論文なぞいう書類の綴《とじ》込《こ》みだけは、よく見ると確かに誰かが、ツイこの頃手を触れているらしく、少し横すじかいのX形に重なり合ったまま、投げ出されているようであるが、もう一つの方の、今日の午前中に正木博士が私の眼の前で塵を払ったに相違ない、青いメリンスの風呂敷包みの上には、やはり初めて見た時の通りに、灰色の細かい埃《ほこり》が一面に被《かぶ》さっていて、久しく人間の手が触れていないことを証拠立てている。そのほか大卓子の上には、茶を飲んだ形《あ》跡《と》もなければ、物を喰べた痕跡《なごり》もない。念のために、赤い達磨の灰落しを覗いてみると、中には葉巻の灰の一片すらなく、相も変らぬ大欠伸を続けたまま、黄金色と黒の瞳でグリグリと私を睨み上げている。
……不思議だ……きょうの午前中の出来事の大部分は夢だったのかしら。……私は確かにあの風呂敷包みの内容《なかみ》を見たのだが……僅かの間に、あんなに埃がたかるはずはないわけだが……。
私はやおら立上った。膝頭が気味悪く、ブラブラして脱け落ちそうになるのを、大卓子の縁に突いた両手で辛うじて支えながら、綿のような身体を無理やりに引立てた。ヒクヒクと戦《わなな》く指でメリンスの風呂敷包みをつかんで引寄せると、あとに四角い埃のアトカタがクッキリと残った。その結び目に落込んでいる埃の縞を今一度よく見たが、どう考えても最近に人の手が触れた形跡はない。そうして、その結び目を解いている中に、白い埃の縞《しま》は跡型もなく消え飛んでしまったのであった。
私は唖然となった。
眼の前の空《あき》間《ま》を凝視《みつめ》たまま、今朝からの記憶を今一度頭の中で繰り返して見た。けれども、この風呂敷の中のものを正木博士から見せられて、あの恐ろしい説明を聞いた記憶と、この結び目の白い埃は永久に両立しない二つの事実に相違なかった。正確に矛盾した二つの出来事であった。
私は全身に伝わる悪感を奥歯でかみ締めながら、なおもワイワイと痙《けい》攣《れん》する両手の指で、青い風呂敷包みを引き拡げた。するとその中から最前見た通りの新聞紙包みと、若林博士の調査書類の原本とがやはり最近見た通りの形にキチンと重なり合って出て来た。そればかりでなく、メリンスの目から洩れ込んだ細かい埃は、調査書類の原本の表紙になっている黒いボール紙の上にもウッスリと被さっていて、絵巻物の新聞包みを取除けると、またも長方型のアトカタがクッキリと残った。
私はまたも唖然となった。余りの不思議さに狐《きつね》に抓《つま》まれたようになりつつ、自分が正気でいるかどうかを確かめるような気持ちで、まず絵巻物の新聞包みをソロソロと開いた。その新聞紙の折れ具合、箱の蓋の合い加減、巻物の巻きよう、紐の止め方まで細かに調べてみたが、よほど几帳面な人間の手で蔵《しま》い込んであったものらしく、どこもここもキチンとしていて、二重に折れ曲ったところや、折目の歪んだところは一か所もないのみならず、巻物を繰り拡げて見ると、防虫剤らしい、強い香気を放つ白い粉が、サラサラと光って机の上に散り落ちた。次に開いた調査書類も同様で、防虫剤こそ施してないが、パラパラとページを繰って行くうちに、埃臭い香がウッスリと鼻に迫って来る。いずれにしても最近に人の手が触れなかったことは確かである。
私はそれからなお念のために、フールスカップを綴じ合わせた正木博士の遺言書を開いて見た。そうして最後の二、三ページを繰り返して見たが、今朝まではインキが乾いて間もない、青々としたペンの痕《あ》跡《と》に見えたのが、今はスッカリまっ黒くなって、行と行との間には黄色い黴さえ付いているようである。どう見ても二日や三日前に書いたものとは思えないのであった。
私は不思議から不思議へ釣り込まれつつ、最前正木博士がした通りにその調査書類を風呂敷の外へ抱え出してみた。すると意外にもその下に、一枚の古ぼけた新聞の号外が下敷になっているのを発見した。これは最前、正木博士がこの風呂敷をハタイタ時には、確かに存在していなかったのであった。
私はキョロキョロとそこいらを見廻した。
私はこの室の中のどこかに、眼に見えぬ奇術師がいて、手品を使っているとしか思えなかった。それとも私の精神がまたも変調を起して、何かの幻覚に陥っているのではないかしらんと思い思い、こわごわその号外を取上げて見たが、八ツに折られた新聞紙一ページ大の右肩にトテツもない大きな活字で印刷してある標題を読むと思わず「アッ」と叫び声を挙げた。背後の廻転椅子に引っかかってヨロメキ倒れそうになった。
それは大正十五年の十月二十日……正面の壁のカレンダーが示す斎藤博士の命日の翌日……正木博士が自殺したと若林博士が言ったその日に、福岡市の西海新聞から発行されたもので、ページの左肩には鼻眼鏡を光らして、義歯をクワッと剥《むき》出《だ》した正木博士の笑い顔が、五寸四方ぐらいの大きさに目の粗《あら》い写真版で刷り出してあった。
九大精神病学教授
正木博士投身自殺す
同時に狂人の解放治療場内に勃発せし稀有の惨殺事件暴露す
今二十日午後五時頃、九州帝国大学精神病学教授、従六位医学博士正木敬之氏が溺死体となって、同大学医学部裏手、馬《まえ》出《だし》浜《はま》、水族館付近の海岸に漂着していることが発見されたので、同大学部内は目下非常な混雑を極めている。しかるにその混雑によって、その以前の昨十九日正午頃、同精神病学教室における同博士独特の創設に係る「狂人の解放治療場」内において、一狂少年が一狂少女を惨殺し、引続いて場内にありし数名の狂人に即死、もしくは瀕死の重傷または軽傷を負わしめ、これを制止せんとした看視人までも重傷せしめた事件が端なくも暴露したので、大学当局はもちろん、司法当事者においても狼狽措くところを識らず、目下極秘密裡に厳重なる調査を進めている。
狂少年鍬を揮って
五名の男女を殺傷
治療場内一面の流血!!!
昨十九日(火曜日)正午頃、事件勃発当時、同科担任教授正木博士は同科教室において午睡しおり、同解放治療場内には平常の通り十名の患者が散在して各自思い思いの狂態を演じつつあったが、その時一隅に畠を耕していた足立儀作(仮名六〇)が午砲と同時に看護婦が昼食を報ずる声を聞いて、使用していた鍬《くわ》を投げ棄てて病室に去るや、以前から儀作の動静《ようす》を覗《うかが》っていたらしい狂少年、福岡県早良郡姪の浜一五八六番地農業、呉八代の養子にして同女の甥《おい》に当る一郎(二十)は突然、その鍬を拾い上げて、傍に草を植えていた狂少女、浅田シノ(仮名一七)の後頭部を乱打し、血《ち》飛沫《しぶき》の中に声も立て得ず絶息せしめた。かくと見た同治療場の監視人で柔道四段の力量を有する甘粕藤太氏は、直ちに急を呼びつつ場内に駆け入ったが、時既に遅く、場内におった政治狂の某、及び、敬神狂の某の二名は、少女シノを救うべく呉一郎に肉迫すると見る間に、前者は横頬を、後者は前額部を呉一郎の鍬の刃先にかけられ、朱《あけ》に染まって砂の上に昏《こん》倒《とう》した。この時、隙《す》間《き》を発見した甘粕氏は一郎の背後から組み付いて、一気に締め落そうと試みたが、一郎の抵抗力意想外に強く、鍬を投げ棄てて甘粕氏の両腕をつかみ体重二十貫の同氏の全身を縦横上下に水車のごとく振り廻しつつ引き離そうとするので、さすがの甘粕氏も必死となり、振り離されまいとのみ努力するうち、呉一郎が過って狂女の作った落し穴に片足を踏み込んだ拍子に肩をすかされて同体に倒れると、身を替す暇もなく本館軒下の敷石に肋《ろつ》骨《こつ》を打ち付けて人事不省に陥った。この時同治療場の入口には甘粕氏の声を聞きつけた数名の男看護人、および小使、医員らが駆け付けおり、中には柔道の心得のある者もあったが、再び治療場の中央に進み出で、落した鍬を拾い上げた呉一郎が、返り血を浴びたまま顔色蒼白となって四辺《あたり》を睥《へい》睨《げい》しつつ「おれの事業《しごと》を邪魔するかッ」と叫んだ剣幕に呑まれて一人も入場し得なくなった。その間に場内の一隅に眼を転じた一郎は顔色たちまち旧に帰り、ニコニコ然と微笑し始め、血に染まった鍬を取り直しつつそこに佇《ちよ》立《りつ》していた二名の女に迫り、まず舞踏狂の少女某を畑の隅に追い詰めて眉間を打ち砕き、続いて最前から女王の姿に扮装しつつ平然として場内を逍遥し続けていた年増女に近づいて行ったが、同女が励声一番、「無礼者。妾《わらわ》を知らぬか」と一《いち》睨《げい》すると、呉一郎は愕《がく》然《ぜん》たる面もちで鍬を控えて立止ったが「アッ。あなたは楊貴妃様」と叫びつつ砂の上に跪《き》座《ざ》した。その時に辛じて意識を回復した甘粕氏は苦痛を忍びつつ起き上り、場の入口を開いて逃げ迷うていた狂人たちを外へ出すと、またも安心のためか気が遠くなって打ち倒れた。そのあとから呉一郎も鍬を片手に、片脇には最初の犠牲、浅田シノの死骸を軽々と引き抱えつつ、女王姿の狂女に一礼して流血淋《りん》漓《り》たる場内を出で、悠々と自分の病室、七号室に帰って行ったが、皆手を束ねて戦慄しつつ遠くから傍観するばかりであったという。
狂少年の自殺
平然たる正木博士
この時急を聞いて駆け付けた正木博士は、極めて平然たる態度で医員を指揮しつつ暴れ狂う一郎の手からシノの死骸と鍬を奪い取り、一郎に狂人制御用袖無しシャツを着せ、足《あし》伽《かせ》を加えて七号室に檻禁する一方、被害者シノ以下四名の男女患者に応急の手当を施したが、その中二名の男子患者はいずれも致命傷ではないが生死のほどはまだ見込み立たず、また、二名の少女は共に頭蓋骨を粉砕されているので手の下しようなく、この旨それぞれの近親に急報した。同時に正木博士は単身七号室に引返し、前に檻禁した一郎の様子を見に行ったところ、同人は病室の壁に頭を打ち付けて絶息しているのを発見し、急《きゆう》遽《きよ》医員を呼んだのでまたも大騒ぎとなった。しかしてその騒ぎがひとまず落着し、それぞれの処置を終ると間もなく、正木博士は同教室を出たものらしく、午後二時半頃、医員山田学生が「呉一郎は回復の見込あり」という報告をなすべく、同教授を探しまわった時には、もはや、同教室及び病院内のどこにも正木博士の姿を発見し得なかったという。
解放治療は
予想通りの大成功
と正木博士放言す!
しかるにその間において正木博士は同大学本部に到り、松原総長に面会して声高に議論していた事実がある。その議論の内容の詳細は判明しないが「狂人の解放治療の実験は今回の出来事によって予想通りの大成功に終りました」と繰り返して放言し「同解放治療場は今日限り閉鎖を命じておきました。永々御厄介をかけましたがお陰で都合よく実験を終りまして感謝に堪えませぬ。(註=同治療場は正木博士が総長の許可を得て、私費をもって開設していたもので、これに付属する雇員らも同博士から直接に給与されていたものである)なお私の辞表は明日提出致します。後のことは若林学部長に委託してありますから」云々と言い棄てて、呵然大笑しつつ扉を押し開き、何処《いずこ》へか立ち去ったとのことで、総長室の隣室で聞いていた事務員連は皆、同教授の発狂を疑いつつ顔を見合わせつつ震え上ったという。
鼾声雷のごとく
酔臥して後行方を晦ます
正木博士は総長室を出ると無責任にも死傷せる患者を医員連の看護に一任したまま帰途についた模様であるが、その途中どこかで飲酒泥酔したらしく、その夕方、福岡市湊《みなと》町《まち》の下宿に帰って二、三時間のあいだ雷のごとき鼾《かん》声《せい》を放って熟睡していた。それから同夜九時頃になると「飯喰いに行って来る」と称して飄《ひよう》然《ぜん》として下宿を出でそのまま行方を晦ましたとのことであるが、仄《そく》聞《ぶん》するところによればひそかに九大精神病科の自室に引返して徹宵書類を整理していたともいう。
狂人を模倣した
気味悪い屍体
しかるに本日午後五時頃、大学裏海岸を通りかかった沙《は》魚《ぜ》釣《つ》り帰りの二名の男が、海岸に漂着している一個の奇妙な溺死体を発見し、この旨箱崎署に届出たので万田部長、光川巡査が出張して取調べたところ、懐中の名刺により正木博士であることが判明したのでまたまた大騒ぎとなり、福岡地方裁判所から熱海判事、松岡書記、福岡警察署より津川警部、長谷川警察医ほか一名、また、大学側からは若林学部長を初め川路、安楽、太田、西久保の諸教授、田中書記らが現場に駆け付けたが、検案の結果同博士は、同海岸水族館裏手の石垣の上に帽子と葉巻きの吸いさしをおき、診察服を着けたまま手足を狂人用鉄製の手枷足枷をもって緊縛し、折柄の満潮に身を投じたものらしく、死後約三時間を経過しているので救急の法も施しようがなかった。しかして右については若林学部長その他関係者一同口を緘《かん》して一語をも洩らさず。前記の大惨事と共に極力秘密裡に葬り去ろうとした模様であるが、本社の機敏なる調査によって、かく真相が暴露したものである。ちなみに正木博士の自殺原因については遺書等も見当らぬらしく、下宿の書庫机上等も平生の通りに整頓してあって何らの異状をも認めなかったそうである。また飲酒泥酔して下宿に帰り、あるいは散歩と称して外出して帰宅しないことも、従来毎月一、二回ずつあったこととて下宿の者も何ら怪しまなかったという。
奇怪な謎
狂少年の一語
右について同解放治療場の監視人であった甘粕藤太氏は、負傷した胸部に繃帯を施したまま市内鳥飼村自宅においてかく語った。
全く不意の出来事で、こんなことなら初めからあのような役目を引き受けなければよかったと後悔しています。しかし責任はむろん私にあるでしょうし、殊に狂人の解放治療場は昨日限り閉鎖されているそうですから、とりあえず正木先生の手許へ辞表を出して謹んでおります。あれが気違い力というものでしょうか、意想外の強力で力を入れ切っておりますところへ不意に肩をすかされましたために思わぬ不覚を取りまして二度も気絶して面目次第もございません。しかし二度目の気絶からはすぐに覚醒しましたので、私は三名の医員と共に七号病室に駆け付けまして、一郎を取り押えようとしましたが、血に狂った一郎は手にせる鍬を竹《たけ》片《ぎれ》のごとくブンブンと振りまわして「見に来てはいけない、見に来てはいけない」と叫びますので、非常に危険で近寄れません。そこへあとから駆け付けられた正木先生の顔を見ると、呉一郎はたちまち鎮静しまして、嬉し気に一礼しつつ血に塗《まみ》れて床の上に横たわっている少女シノの半裸体の屍体を指して「お父さん、この間あの石切場で、僕に貸して下すった絵巻物を、も一ペン貸して下さいませんか。こんないいモデルが見つかりましたから……」という奇怪な一語を発しました。これを聞かれた正木先生はなぜか非常に昂奮された模様で、今思い出しても物凄いほどまっ青な顔になって私たちを見まわされましたが、そのまま「何をタワケたことを言うかッ」と大喝されますと、単身呉一郎に組み付いて取押えられたのであります。それからしばらくはお顔の色が悪いようでしたが、呉一郎が壁に頭を打ち付けて絶息しました後は気力を回復されたらしく、あれほどの大事件のさなかにもかかわらず、快活にキビキビと種々の指図をしておられました。(記者が一郎の蘇生せる旨を告ぐれば)ヘエ。それは本当ですか。私が見ました時は顔中血だらけになっておりましたし、正木先生も急激な脳《のう》震《しん》盪《とう》で呼吸も止まっているからとても助からぬと言うておられましたが、やはり、手足が不自由なまま、壁に頭を打ち付けたのですから、そう強くなかったのでしょう。(次いで正木博士の自殺を告げ死因についての心当りを問えば、甘粕氏は愕然蒼白となり流《りゆう》涕《てい》して唇を震わしつつ)それは本当ですか。本当ならば私はこうしておられません。正木先生には大恩があります。私が先年アメリカで流浪しておりますうちにシカゴ付近で肺炎にかかり誰もかまってくれ手がなくなりましたところを正木先生に拾われまして入院さして頂きました。その時に正木先生はもしこの恩が報じたければ福岡へ住んでおれが帰るのを待っておれと言われましてたくさんの旅費まで頂きましたので、帰国匆《そう》々《そう》当地の英和学院の柔道師範を奉職していたのですが、正木先生が大学に来られるとすぐに辞職して治療場の監視をお引き受けしたくらいです。正木先生は何でも楽観される方で私も私淑しておりましたが人格の高い方でしたから責任観念も強かったのでしょう。云々。
姪の浜の大火
名刹如月寺に延焼
放火女無残の焼死を遂ぐ
本日午後六時頃福岡県早良郡姪の浜一五八六呉ヤヨ方母《おも》屋《や》奥座敷より発火し、人々驚きて駆け付ける間もなく打ち続く晴天と折柄の烈風に煽られて火勢たちまち猛烈となり、数棟の借家を含みたる同家はみるみる一団の大火焔に包まれると見るうちにほど近き如月寺本堂裏手に飛火し目下盛んに延焼中であるが、遠距離のこととて市中の消防は間に合わず、付近の消防のみにては手に余る模様である。しかして右放火者と認めらるる呉ヤヨ(前記呉一郎伯母四〇)は寺院本堂の猛火に飛び入り衆人環視の裡に無残の焼死を遂げたが、同女は今春、ただ一人の娘を喪いたる際より多少精神に異常を呈しおりたるところ、本日また最愛の甥一郎が変死した噂《うわさ》が同地方に伝わっていたのを耳にしたために一層錯乱昂奮してこの始末に及んだものであろう。
――――――――――――――――――――
この号外から顔を上げた私は、頭を押え付けられたようになったまま、オズオズとそこいらを見まわした。
すると間もなく、すぐ鼻の先に拡げられた青い風呂敷のまん中に、今まで号外の下になっていたらしい一枚のカードみたようなものが見つかった。……オヤ……まだこんなものが残っていたのか……と思い思い立ち上って覗き込んでみると、それは一枚の官製端書の裏面で見覚えのある右肩上りのペン字が、五、六行ほど書きなぐってあった。
私の手から号外が力なくヒラヒラと辷り落ちた。それと同時に室全体が、私の身体と一緒にだんだんと地の底へ沈んで行くように感じた。
私はヨロヨロとよろめきながら立ち上った。われともなくヨチヨチと南側の窓に近付いた。
向うの屋根から突き出た二本の大煙突の上に満月がギラギラと冴え返っている。その下に照し出された狂人の解放治療場は闃《げき》寂《せき》として人影もなく、今朝までは一面の白砂ばかりの平地に見えていたのが、今はところどころに高く低く、枯れ草を生やした空地となって、そのまん中に、いつの間にか一枚も残らず葉を振い落した五、六本の桐の木が、星の光を仰ぎつつ妙な枝ぶりを躍らしている。
「……不思議だ……」
と独《ひとり》語《ごと》を洩らしつつ頭に手をやってみると……またも不思議……今朝から私が感じていた奇怪な頭の痛みは、どこを探しても撫でまわしてもない。拭いて取ったように消え失せていた。
私はその痛みの行方を探すかのように、片手で頭を押えたまま、黄色い光線と、黒い陰《か》影《げ》の沈黙《しじま》を作っている部屋の中を見まわした。そうしてまた、白金色《プラチナ》に冴え返っている窓の外の月光を見た………………………………………。
……その時であった……。
……一切の真相が、氷のように透きとおって、私の前に立ち並んで見えて来たのは………………………………………………………………………………………………………。
……不思議ではない。
……チットモ不思議ではない
……私は今朝から二重の幻覚に陥っていたのだ。正木博士のいわゆる離魂病にかかっていたのだ。
……私は今から一か月前の十月二十日にも、やはり、きょうとソックリの夢遊を行ったに違いないのであった。
……その一か月前の十月二十日の早朝の、やはりまだまっ暗いうちのこと……私はかの七号室のタタキの上に、今朝の通りの姿で寝ていて、今朝の通りの状態で眼を見開いたのであった。
自分の名前を探すべくウロタエまわったのであった。
それから……若林博士に会って、私の過去の記憶を回復すべく、今朝の通りの実験をいろいろと受けたあげくに、この室に連れ込まれて、やはり今朝と同じ順序で、いろんな物を見たり聞いたりしたのであった。
……それから遺言書を読み終った私は間もなく、その遺言書を書いた当の本人の正木博士に会って、きょうの通りに肝を潰《つぶ》した。そうしてその正木博士の案内で、南側の窓の外を覗くと、その前日限りに閉鎖されたまんまの解放治療場内の光景を見ると同時に私は、自分の過去の記憶の中でも、一番最近の記憶に支配された夢中遊行に陥って、やはりその前日のちょうど、その時刻に、そこで、そうしていた通りに、爺さんの畠打ちを見物している自分の姿を窓の外に幻覚した。そうして、それと同時に、やはり、その前の晩に、頭を壁に打ち付けた際にできた頭の痛みを、無意識に手に触れて飛び上ったのであった。……その時に正木博士は、やはり、今日と同じように離魂病の説明を聴かしてくれたのであるが、その説明はやはり真実であったのだ。
……とはいえ……その時に、あまりに深い幻覚に囚われていたために、それを信ずることができなかった私は、それから正木博士と対座して、あの通りの議論をしたあげくに、正木博士をメチャクチャにやっつけてしまった。トウトウ本当に自殺の決心をさせてしまったのであった。
……けれども私は、そんなこととは気付かないままこの室に居残って、この絵巻物の一番おしまいに書いてある千世子の和歌を発見した。そうして今日の通りに驚いて外に飛び出して、福岡の町々を歩きまわっているうちにこの室に拡げたままにして来た絵巻物ことを思い出して、またも、きょうの通りに無我夢中で飛んで帰ったのであった。……もしかすると正木博士は、後で今一度この室に引返して来て、拡げたままの絵巻物のおしまいに書いてある千世子の和歌を発見したのかも知れない。そうして、そこでイヨイヨの覚悟を決めたのかも知れないけれども……。
……そうした出来事を一か月後の今日になって、私はまた、その通りの暗示の下に、寸分違《たが》わず正確に繰り返しつつ夢遊して来たに過ぎないのだ。……否……ことによると、今朝あんなに早く、時計の音に眼を醒ましたことからして一種の暗示に支配されていたのかも知れない……若林博士がホンノ思い付きで言った「一か月後」という言葉をその通りに記憶していた私の潜在意識が、その一か月後の今朝になってキッカリと私を呼び醒ましてくれたのかも知れない……が……いずれにしても今日の午前中、私がいろんな書類を夢中になって読んでいるうちに、若林博士がコッソリと立ち去った後にはこの室の中に誰もいなかったのだ。正木博士も、禿頭の小使も、カステラも、お茶も、絵巻物も、調査書類も、葉巻の煙も何もかも、みんな私の一か月前の記憶の再現に過ぎないのだ。たった一人で夢遊中の夢遊を繰り返していたに過ぎなかったのだ。
……私の頭は、そこまで回復して来たまま、同じところばかりをグルグルまわっているのだ。そうでないと思おうとしても、そうした不思議な事実の証拠の数々が、現在、いきいきと私の眼の前に展開して、私に迫って来るのをどうしよう。ほかに解決の仕方がないのをどうしよう……。
……若林博士は、そうした私の頭を実験するために、一か月前と同じ手順を繰り返しつつ、私をこの室に連れ込んだものに違いない。そうして多分一か月前もそうしたであろう通りに、どこからか私を監視していて、私の夢遊状態の一挙一動を細大洩らさず記録しているに違いない……否々……否々……きょうは、大正十五年の十一月二十日、と言った若林博士の言葉までも嘘だとすれば、私はもっともっと前から……ホントウの「大正十五年の十月二十日」以来、何度も何度も数限りなく、同じ夢遊状態を繰り返させられていることになるのではないか……そうしてその一挙一動を記録に残されていることになるのではないか………………………………………………………………………………………………………………………………………。
……オオ……若林博士こそ世にも恐ろしい学術の権《ごん》化《げ》なのだ。……精神科学の実験と、法医学の研究とを同時に行っている……。
……極悪人と名探偵とを兼ねている……。
……正木博士と、呉家の運命と、福岡県司法当局と、九大の名誉と……この事件に関する出来事の一切合財をタッタ一人で人知れず支配し、翻弄している……。
……そうして知らん顔をしている怪魔人…………。
私は言い知れぬ戦慄が、全身の皮膚を暴風のようにはいまわり、駆けめぐるのを感じ始めた。歯の一枚一枚がカチカチと打ち合うのを止めることができなくなった。……部屋の中の全体がどことなく、大きく開いた若林博士の口腔の恰好に似て来たように思いつつ……そのまん中に突っ立って、扇風機のように廻転する自分の頭の中を、眼の奥底に凝視しつつ…………。
……けれども……。
……けれども、もしそうだとすれば、私は是非とも呉一郎でなければならぬ…………。
……お……オオ……私が……アノ呉一郎…………。
……あの正木博士が私の父親……。
……あの千世子が私の母親……。
……そうしてアノ狂える美少女……モヨ子…………モヨ子は…………。
……おお……おお…………。
……私は親を呪い、恋人を呪い、最後に見ず識らずの男女数名の生命までも奪うべく運命づけられた、稀《け》有《う》の狂青年であったのか…………。
……死んだ父親の罪悪を、白昼公然と発《あば》き立てている、冷酷無残な精神病者であったのか…………。
「アアッ……お父オさアーン……お母アさーン……」
と叫んだが、その声は自分の耳には入らなかった。ただ嘲《あざ》るような反響を室の隅々に聞いただけであった。
私はそのまま下顎を固《こわ》張《ば》らせつつ、森閑とゆらめく電燈の光を振り返った。大きな歎《ため》息《いき》をした後のように静まり返っている室の中を見まわした。
……意識の力はどこまでもハッキリしたまま……うつつともなく、夢ともなく、私の眼の前の床が向うの方に傾くにつれて、半分《なかば》開いた入口の方向を眼指しつつ蹌《ひよろ》踉《ひよろ》と歩み出した。
「出入厳禁」と書かれた白紙を扉《ドア》の外から振り返った。
……しっかりせねばならぬ……どこまでも理性を働かせねばならぬ……と思いつつ白い月の光がさし込んでいる窓付きの廊下を、右に左に傾き歩いた。
玄関の左右に並んだまっ暗な階段の左側を、棒のように強直しつつ……ゴトーン……ゴトーン……という自分の足音を聞きつつ……一段一段と降りて行った。そのおしまいがけに、もう床に行き着いたと思うと、私の足は空を踏んで、全身が軽々とモンドリを打った……ように思う。
それから私はどうして起き上ったか、どこをどう歩いて行ったかわからない。いつの間にか自然と七号室の扉《ドア》の前に来て、石像のように突っ立っている私自身を発見した。
私は何かしら思い出せないことを、一所懸命に考え詰めたあげくに、思い切ってその扉を開いて中に入った。今朝のままになっている寝台の上に、靴ばきのままはい上って、仰向けにドタリと寝た。その頭のところで、扉《とびら》がひとりでに閉まって来て重々しい陰鬱な反響を部屋の内外に轟かした。
……すると、それとほとんど同時に、コンクリートの厚い壁を隔てた隣りの六号室から、魂《たま》切《ぎ》るような甲高い女の声が起った。
「兄さん兄さん……兄さんに会わして下さい。今お帰りになったようです。あの扉《ドア》の音がそうです。兄さんに会わして下さい……イイエイイエ……あたしは狂《きち》女《がい》じゃありません……兄さんの妹です。妹です妹です……兄さん兄さん。返事して頂戴……あたしです、あたしです、あたしです、あたしです」
………………………………………………………………………………………
……これが胎児の夢なのだ……………………。
……と私は眼を一パイに見開いたまま寝台の上に仰臥して考えた。
……何もかもが胎児の夢なんだ……あの少女の叫び声も……この暗い天井も……あの窓の日の光も……否々……今日中の出来事はみんなそうなんだ……。
……おれはまだ母親の胎内にいるのだ。こんな恐ろしい「胎児の夢」を見てもがき苦しんでいるのだ……。
……そうしてこれから生まれ出ると同時に大勢の人を片ッ端から呪い殺そうとしているのだ……。
……しかしまだ誰も、そんなことは知らないのだ……ただおれのモノスゴイ胎動を、母親が感じているだけなのだ。
私の寝ている横のコンクリートの壁を向う側からたたく音がし始めた。
「……兄さん兄さん。一郎兄さん。あなたはまだあたしを思い出さないのですか。あたしです、あたしです……モヨ子ですよ……モヨ子ですよ。返事して下さい……返事して……」
と二、三度連続して叩いたと思うと、痛々しい泣き声にかわって、何かの上にひれ伏した気はいである。
私は寝台の上に長々と仰臥したまま、死人のように息を詰めていた。眼ばかりを大きく見開いて………………………。
……ブ――ンンンン……
という時計の音が、廊下の行き当りから聞えて来た。
隣室《となり》の泣き声がピッタリと止んだ。それにつれてまた一つ……
……ブ――――ン……
という音が聞えて来た。前よりもこころもち長いような……私は一層大きく眼を見開いた。
……ブ――――ン……
……という音につれて私の眼の前に、正木博士の骸《がい》骨《こつ》みたような顔が、生汗をポタポタと滴らしながら鼻眼鏡をかけて出て来た……と思うと、黙礼をするように眼を伏せて、力なくニッと笑いつつ消え失せた。
……ブ――――ン……
おびただしい髪毛を振り乱しつつ、下唇を血だらけにした千世子の苦《く》悶《もん》の表情が、ツイ鼻の先に現われたが、細紐で首を締め上げられたまま、血走った眼を一パイに見開いて、私の顔をよくよく見定めると、一所懸命で何か言おうとして唇をわななかす間もなく、悲し気に眼を閉じて涙をハラハラと流した。下唇をギリギリとかんだままみるみるうちに青ざめて行くうちに、白い眼をすこしばかり見開いたと思うと、ガックリとあおむいた。
……ブ――――ン……。
少女浅田シノのグザグザになった後頭部が、黒い液体をドクドクと吐き出しながらうつむいて……。
……ブ――――ン……。
八代子の血まみれになった顔が、眼を引き釣らして……。
……ブ――ンブ――ンブ――ンブ――ンブ――ン……。
額を破られたイガ栗頭が……眉間を砕かれたお垂《さ》髪《げ》の娘が……前額部の皮を引き剥がれた鬚《ひげ》だらけの顔が……。
私は両手で顔を蔽うた。そのまま寝台から飛び降りた。……一直線に駆け出した。
すると私の前額部が、何かしら固いものに衝《ぶつ》突《つか》って眼の前がパッと明るくなった。……と思うとたちまちまっ暗になった。
その瞬間に私とソックリの顔が、頭《かみ》髪《のけ》と鬚を蓬《ほう》々《ほう》とさして凹んだ瞳《め》をギラギラと輝しながら眼の前の暗《やみ》の中に浮き出した。そうして私と顔を合わせると、たちまち朱《あか》い大きな口を開いて、カラカラと笑った……が……。
「……アッ……呉青秀……」
と私が叫ぶ間もなく、掻き消すように見えなくなってしまった。
……ブウウウ――ンン――ンンン…………。
[#改ページ]
|精神操作の《マインド・コントロール》恐怖と自由の問題
[#地付き]奈 良 宏 志
まず「ドグラ・マグラ」という書名が何を意味するかについては、本文九一頁をご覧いただきたい。「心理的迷宮遊び」といった意味の久作による新造語であろう、
これまでの日本の文学作品のうちでも、「ドグラ・マグラ」ほどに多種多様な評価を受けたものは他にないのではないかと思われる。参考までにその一郡を挙げておこう。「狂人自身が書いた狂気の世界」(江戸川乱歩)、「思想の容器として独自の位置を占めている」(鶴見俊輔)、「弁証法の傑作」(森秀人)、「ありうべからざる幻想世界を通じて、ありうべき社会を予言した、狂気のアポカリプス」(塚本邦雄)、「家父長への怨念小説」(水沢|周《おさむ》)自由の問題を描いた作品で、日本の推理小説史上の傑作」(権田満治)、「寡頭支配による人民を黙殺した専制政治の象徴」(仁賀克雄)、「真の民主主義を説く社会派の先達」(須永誠一)、「奇蹟の小説」(平岡正明)、「奔放な空想の極致を示す狂気の文学」(荒正人)、「鬼胎なるものへの怖ろしい程の愛着を秘めた作品」(清水邦夫)、「人間実存の境位を生という名の尨大な胎内のなかに求めた小説」(由良君美)、「無意識を切除する実験」(脇明子)「無時間性と無限循環の文学」(松田修)、「人工の狂気によって人間を問い直した作品」(中井英夫)。
これらの評価からもわかるように、夢野久作(一八八九─一九三六)の「ドグラ・マグラ」(一九三五年発表)は単なる探偵小説ではない。この超文学とでもいうべき作品を充分に理解するためには、まず作者がどんな人であったのかを知っておくことが必要であろう。
久作は本名を杉山直樹といい、明治二十二年一月四目に福岡市小姓町で杉山茂丸の長男として生まれた。茂丸は青年時代に伊藤博文を暗殺しようとして失敗し、福岡に戻った人である。彼は頭山満と共に右翼結社であった玄洋社を扶けてその機関誌「福陵新報」を創め、上海に東亜同文書院を設けたり、築豊の石炭を香港に輸出したり、右手でアメリカのユダヤ財閥と組んでロシヤやイギリスの帝国主義に対抗しようと考えているかと思うと、左手ではロシアの革命家をたすけてロシア革命を行おうとしたり、といった具合で、右翼、左翼を超越したようなところのある人物であった。
直樹がこの父や義母、妹弟、祖母などと一緒に暮したのは二十一歳から二年間だけであり、その他の時期は複雑な人間関係の葛藤の中で家庭の団欒というものを知らないままに福岡ですごしたのである。
直樹は三歳まで生母に育てられたが、家風に合わぬとしてこの母親は離婚させられ、直樹は黒田藩の諸藩応接役(外務大臣)をつとめた厳格な祖父、三郎兵衛とその妻である頑固でわからずやのジャンコ・バーサンといわれる人のもとに預けられて、継母幾茂に養育されることとなった。
直樹は生来ひよわで病気がちであり、何回も死にかけたが幾茂の看病によって命拾いをしたらしい。三郎兵衛は直樹に三歳頃から大学や論語の素読を教え、喜多流の謡曲を教えた。福岡県立中学・修猷館《しゅうゆうかん》では図画や音楽に才能を発揮したが芸術家の道にすすむことは父に反対されたためにあきらめなければならなかった。中学卒業後に彼は自ら志願して陸軍に入り二年後に予備役見習士官として除隊した。二十一歳で慶応義塾文科に入学した。成績は首席か次席だったというのに、体が弱いからという理由で二年の時退学させられているあたりは、二年間の軍隊生活を考え併せると何かが隠されていると思わざるをえない。その後、直樹は放浪生活に入り、東京の貧民街に行って当時の中卒者としては珍らしく工員や日雇[#漢字?]労務者になって働いた。大正四(一九一五)年には鎌倉の禅寺で得度出家し、名を泰道《やすみち》と改めて一年間修業したのちに奈良や吉野を托鉢に歩いた。家を継ぐことになっていた弟が急死したために、一旦は世を捨てた泰道も福岡に戻り、慶応中退の時に父が福岡市の郊外に設けた香椎の農園で暮らすことになった、一九一八年に結婚したが、農園の経営が巧くいかず、一九二一年には父が作った「福陵新報」の後身であった九州日報新聞社へ勤めることになった。しかし新聞社では無給で僅かの手当を貰ったにすぎず、父からの仕送りと妻による養蚕の内職とによって生計をたてていた。
大正一五年に「あやかしの鼓」を『新青年』に発表することになってペンネームをつけねばならず、父親が原稿を読んだあげくに、「ふーん、夢野久作が書いたごたある小説じゃねー」と言ったのでそれをペンネームにすることになった。夢野久作というのは博多地方で、ぼんやりして、夢ばかり追う間抜け人間を指す代名詞であった。一九二九年に「押絵の奇蹟」で彼は本格的に世に出たのち、一九三三年に「氷の涯」を発表するとその地位はゆるぎないものとなった、一九三五年一月には、約十年間の執筆活動の期間全体を通じて想を練り、書きなおしてきた「ドグラ・マグラ」を東京の松柏館から自費山版した。この年七月に父が亡くなり、その後始末に奔走した末に疲れたためであろうか、持病の高血圧による脳出血で翌一九三六年三月一一日面談中に急逝した。四十七歳であった。ペンネームとしては、杉山萌圓、海若藍平、香倶土三鳥、土原耕作なども使った。
この一巻に記されているできごとはすべて十月二十日におきたことのようでもあるし、十一月二十日におきたようでもある。あるいはすべてが幻であって七号室の患者が時計の鐘の音の余韻が響いているほんの一瞬の間にみた夢であったかもしれない。時間は逆転し、時には濃縮されて物理的な時間を超越しており、一二〇〇年は十ヵ月に凝縮され、中国と日本の距離は短縮されて、時空の相対的歪曲が読者を不気味な不安の底へおとしいれている。
「ドグラ・マグラ」に何を見るかは、ロールシャハ・テストさながらで各自各様にさまざまな投影を求めるであろう。「脳髄は物を考えるところにあらず」という点にいたく感心して自由民権の拡大とか地方民主主義を読みとった人もいるし、全体としては物質万能・頭脳偏重への風刺、あまりにもばかばかしい現実からの逃避、悪魔主義による美と夢の追究、えたいの知れない世界の不安、平凡な市民が事件に巻きこまれていく不気味さ、一八世紀唯物論のパロディー、理性の暴虐、時代の狂気、などを感じる人もあろう。
しかし、私としては、しっかりした構築美のうちにそれとはまるで逆にたよりない自分というものを確認する無限円環動作を見るような気がする。自分が本当に自分である時にひとは初めて自由になるのであるから、「ドグラ・マグラ」は自由を追究する小説ともいえるであろう。フロイトのいう無意識や、ユンクのいう集合無意識は本書の主題の一つにもなっているが、そうした無意識と自由との関連なども呉一郎のみならず現代人にとっての大きな課題であるに違いない。久作の略歴を知る人は、彼が「自分とは一体何なのか」、「自由とは何なのか」、を追究することに対して奇異の感を抱くことはあるまい。
また、鶴見俊輔は、現代に住む私たちが「国家の支配するコミュニケイションの網目にとらえられて、しらずしらずのうちに、自分の見知らぬもう一人の人間を殺すべく自分の生れる前から数十年にわたって準備されている自分。殺人の罪を犯してしまってしかもそれに気がつかないでいる自分」を見るとき、「ドグラ・マグラ」の主人公がおかれている状況そのままであると鋭く指摘した。
こう指摘されたからといっても、何も軍隊に召集されて中国侵略に狩り出されるシーンを想い浮かべる必要はない。チッソでひたすら増産に励んだあげくに水銀をたれ流して水俣病を発生させるとか、ごく身近なことでは宣伝につられてつい買ってしまった車で鉛や窒素化合物の排気ガスをまきちらして光化学スモッグをつくり、森を枯らして、しかもその罪を意識しない、といった形でこれは私たち自身の問題である。そうした意味では日本列島全体が七号室であり、日本人一人一人がポカン君であって、私たちめいめいが自分の名は何であり、過去に何をやってきたのであろうかと反省することを促されているようにも思えるのである。
また、考えかたによっては「キチガイ地獄外道祭文」は特高警察による思想犯検挙と拷問による苛酷な取調べに対する抗義と見られなくもない。夢野久作自身がそこまで進歩的であったかどうかは疑問であるが、祭文の七にはそうした片鱗がうかがわれる。「氷の涯」がもし反戦小説であるというならば、一九二八年の三・一五事件や翌年の四・一六事件、一九三三年の佐野・鍋山転向声明といった時代にあって、共産党員が「お前は赤であり、悪いことをしたのだ」と信じこまされていく洗脳の過程が「ドグラ・マグラ」に描れていると読みとることもできよう。
本書に提起されている問題を精神医学の立場からみるならば、第一には「祭文」にうたい上げられているような精神障害者の人権が損われていることに対する鋭い告発、第二には思うままに他人の心理を操ろうとする精神操作の問題、第三には目的の為には手段を選ばぬ人体実験とアカデミズム独善主義の問題であろう。
作品中の「キチガイ地獄|外道祭文《げ どうさいもん》」にうたわれている内容は、現代風にいえば精神医療に対する告発文であって、スカラカ、チャカポコとふざけた口調ではあるが現代でもそのまま通用する非常に鋭い精神医学批判である。「色気狂いが色情狂だよ。人を殺せば殺人狂です。……」といった診断のつけかたも、本質的にはこの作品が書かれた昭和ひとけたの頃と変ってはいない。精神分裂病とかうつ病とか、多少とも学問的な外観をまとっただけで、憂うつだから「うつ病」といった点は全く昔のままなのである。
脳の生理学や生化学は格段の進歩をしたので脳自体についてはかなりのことがわかるようになったけれども、精神異常が脳のどんな仕組みによっておきるのかはまだ謎に包まれたままである。治療については、その後に電気ンヨック療法やインシュリン・ショック療法が考案され、ロボトミーも現われた。しかしこれらはほとんど姿を消して、現在では楽物療法が主流を占めている。「眠らぬ患者に麻酔の注射じゃ。騒ぐ者には鎮静剤だよ。」という二行だけが多少進歩したわけである。しかしながら、精神衛生法第二九条によって自傷他害の恐れがあると指定されれば本人はもとより、たとえ家族の反対があっても精神病院に強制的に入院させられ、簡単には退院できない点や、悪徳病院が患者を暴力的に拘束したり、誤診をそのままに放置したり、「人間扱いするには及ばぬ」といった態度は今なお根強く精神病院にも社会にも残っている。「一人のキチガイ患者が出ますと、ほかの病気と品事かわって。あとに残った正気の家族が。あるにあられぬ責め苦を受けます。」といった点も一向に改善されず、入院費用や、周囲の偏見、失業、離婚など悲惨な運命が一家を襲うことになる。夢野の祭文とほば同じ内容の告発が日本精神神経学会内部で行われて、精神医療の改革に火がついたのはやっと一九六九年のことで、夢野久作は四〇年以上も先駆していたのであった。
精神障害者の解放治療が世界的に実現し始めたのも、精神治療薬が出現した五年ほどのちの一九五七年頃のことであるから、この点でも夢野は卓見を示したというべきであろう。
しかし、もっとも現代的な課題としては精神操作《マインドコントロール》が注目されるべきであろう。暗示、薬物、マスコミ、洗脳、ロボトミー、無線操縦その他あらゆる方法で個人ないしは集団の心理を思う方向へ操ることが考えられており、精神操作を制する者は世界を制するとさえ言われている。「ドグラ・マグラ」の主人公ポカン君は記憶喪失の弱味につけ込まれて精神操作の実験材料にされている。私たちでも、こんな立場におかれれば「自分は呉一郎だ」と思いこまされてしまうのではなかろうか。
「ドグラ・マグラ」の底がないような不気味さは、まさにこうした精神操作をされる可能性を私たち自身が否定できない社会に居るところからきているのである。
自分の学説を証明するためにはこのように冷酷な人体実験を憶面もなく行う医学部教授の体質に対しても、私たちは背筋に冷寒を覚えざるをえない。遠藤周作「海と毒薬」に描かれた生体解剖事件の舞台ははからずも九州大学医学部であったが、新潟大学医学部では精神障害者にツツガ虫病をわざと感染させて薬効の人体実験を行って八名を死亡させたし、岩手県立南光病院はてんかん患者二八人に対して主治医に無断で新薬を実験のためにのませて三名を死亡させた。東京医科歯科大学では健康乳児にわざわざ発熱物質を静脈内注射して四〇度近い発熱を二時間も出させて胃内温度と直腸温度を比べてみた。妊婦の腹を通して子宮内の胎児に白金線を刺して胎児の心電図を記録する実験では、誤って胎児の脳に針が刺さってしまったなどというスリラーよりもずっと寒くなるような話がいくらでもある。ナチスの大学教授たちがアウシュビッツ強制収容所で極悪非道の人体実験を大々的に行ったことや、関東軍秘密部隊七三一部隊が満洲人など三千人に人体実験を行ったことなどはあまり知られていないが、いずれも第二次世界大戦の頃の出米ごとであって、人体実験に対する抗議がニュールンベルグやヘルシンキの宣言となって現われたのが一九四七年以降のことであったのを思いあわせると、夢野久作による人体実験批判はずば抜けて早かったと言わねばならない。
久作は精神異常者にただならぬ関心をもっていたらしく、「ドグラ・マグラ」の他にも「あやかしの鼓」「死後の恋」「一足お先に」「怪夢」「狂人は笑う」「キチガイ地獄」などでそれを登場させている。精神異常者を描くことによって、正常な人間とは何なのかをクッキリと浮かび上がらせる意図があったのかもしれない。
久作は「ドグラ・マグラ」が出版された時に「十年考え、あとの十年で書き直し書き直し抜いてできたものです。五回読んだら五回共に読後の気持が変わることを請合います」と述べている。
けれども、この作品の発表当時には大下宇陀児がややまともな評価を下しただけで、正面から採りあげられないでしまった。探偵小説界の大御所だった江戸川乱歩でさえも夢野を「垣の外の作家」と呼び、「文章に味があり、ねばり気があり、ドッシリしている。人物としても、作品の上でも、どこか人を小馬鹿にしたような、実力の程の計り知られないような、妙な魅力を持っているが、この作品は僕にはわからない」と評していた。戦後になって、鶴見俊輔が一九六二年十月号の「思想の科学」で「ドグラ・マグラの世界」を書いて再評価をしてから初めて広く注目されるようになり、一九六九年には三一書房から夢野久作全集の一冊として複刻されるまでになった。この時代に先がけた作品はいまや文庫に入るほどに迎えられているが、それには四〇年以上の潜時が必要だったのである。