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夢枕 獏
陰陽師 鳳凰ノ巻
目 次
泰山府君祭
青鬼の背に乗りたる男の譚
月見草
漢神道士
手をひく人
髑髏譚
晴明、道満と覆物の中身を占うこと
あとがき
[#改ページ]
泰山府君祭《たいざんふくんさい》
一
安倍晴明《あべのせいめい》は、濡れ縁に腰を下ろし、その背を柱の一本にあずけている。
折った左膝を横に倒し、右膝を立てて、その右膝の上に、右肘をのせ、右手の上に右頬をのせている。
やや首《こうべ》が傾《かし》いでいるが、その頸《くび》や頭の傾《かたむ》きぐあいに、なんとも言えない色気が漂っているようであった。
細い左手の指に玉の盃《さかずき》を持ち、中に入った酒を、時おり口に含む。
酒を含む前も、含む時も、そして含んだ後も、赤い唇が常に微《かす》かな笑みを浮かべている。
晴明の前に座して、同様に酒を飲んでいるのは源博雅《みなもとのひろまさ》である。
長い脚のある灯明《とうみよう》皿に、灯火がひとつ点《とも》っている。
幼児の小指ほどの赤い炎が、息をするように、小さく揺れていた。
夜──
梅雨に入ったばかりであった。
昼に降っていた雨は止んだのであろうか。
今は、雨滴とも霧ともつかない水の微粒子が、大気の中に、浮くともなく沈むともなく漂っている。
月が、空のどこかにあるらしく、天が、闇の中にぼんやりと青い光を含んでいるようである。ほんのりと鈍い光を放つ青い墨《すみ》を、夜気がその懐に抱え込んでいるようであった。
晴明と博雅の横手に、夜の庭が広がっている。
野山か野原の一部を、そっくりそのまま切り取って、そこへ置いたような庭であった。
背の高い草が密に生えているようなところもあれば、ある場所では、白い百合が、ほの白く花びらを開いていたりもする。
夜気は、ひんやりとはしているが、寒さを覚えるほどではない。
晴明の着ている白い狩衣《かりぎぬ》が、しっとりと夜気を吸って重くなっている。
「そういうわけなのだがなあ、晴明よ」
博雅は、盃を置いて、溜め息にも似た口調でそう言った。
「なんとかならぬものなのか」
「ならぬものはならぬのさ、博雅よ」
「しかし、これは帝《みかど》の勅なのだぞ」
「勅であろうと、なかろうと、ならぬものはならぬようになっているのだ」
「うむ」
「これは、そういう理《ことわり》なのだよ」
「うむ」
「たとえば、帝が、明日、陽が昇らぬようにせよと命じたところで、それができぬのと同じさ。別に、おれが、できることをできぬと言っているのではないのだ」
「わかっているよ」
「人を、死なぬようにはできぬのだよ。白比丘尼《しらびくに》どののように、たとえ老いぬようになったとしても、それでも、いつかは必ず死ぬ。それがこの天地の理なのだよ──」
「しかし、泰山府君《たいざんふくん》の祭をせよとの、帝のお申し出でなあ。実は、このおれも、困っているのだよ、晴明よ──」
「泰山府君の祭など、そう簡単に誰にでもできるものではないぞ」
「誰でもない。主上《おかみ》は、晴明、おまえにせよと言っているのだよ」
博雅は言った。
「しかし、|あの男《ヽヽヽ》がどうして、泰山府君などという名を口にしたのだ。誰か入れ智恵でもした人間がいるのではないか」
「それが、いるらしいのさ」
「誰だ?」
「それが、どうやら道摩法師《どうまほうし》殿らしいのさ」
「蘆屋道満《あしやどうまん》!?」
「いつぞや、反魂《はんごん》の術を使ったあの恐い男が、晴明を呼んで、泰山府君にこの坊主の生命をもどさしめよと言ったそうな」
二
三井寺の、智興内供《ちこうないぐ》が倒れたのは、十日ほど前であった。
倒れた、というよりは、眠ったまま、眼を覚まさないのである。
いつもは、朝の勤行《ごんぎよう》の時には必ず起きているはずの智興内供がまだ姿を見せない。妙に思った若い僧が様子を見にゆくと、智興はまだ眠っている。声をかけたが、眼を覚ます様子がないので、今度は手を肩にあてて揺すってみた。それでも起きない。
よほど、疲れたことが昨日あったのだろうと、若い僧は、そのまま放っておいた。しかし、昼になっても、夜になっても、翌朝になってまる一日が経っても、智興内供は起きてくる気配がない。
さすがに、不審に思ったのが、三日目であった。
水を与えたり、頬を叩いてみたり、様々のことを試みたが、やはり、眼を覚ますことはなかった。
眠っている間中、智興は、苦しそうに呻いたり、喉を鳴らしたりする。
四日目には、いよいよ息も細くなり、五日目には頬肉も落ちて、このままでは生命も危ういのではないかと見えた。六日目には、それまで口に入れてやればどうにか飲んでいた水も飲まなくなり、ついに薬師《くすし》も匙《さじ》を投げてしまった。
何かが憑《のりうつ》ったかと、祈祷までやっていたのだが、効きめがない。
七日目に、弟子の恵珍《けいちん》という者が、ひとりの法師だという人物を連れてきた。
髯《ひげ》も髪もぼうぼうで、歯は黄色く、眼だけが炯々《けいけい》と光っている。
これが、道摩法師であった。
道摩法師は、眠っている智興の額に手をあてたり、頬を指で押さえたり、腹や背骨など、あちらこちらに何度も手を触れたあげくに、
「これはもう、駄目でござりまするな」
そう言った。
「わっ」
と、皆々が駆け寄った時には、もう、智興は息もしておらず、心の臓も止まってしまっていた。
「この上は、安倍晴明に頼んで、速やかに泰山府君の力を借りるしか、方法はあるまいよ」
道摩法師はそう言った。
泰山府君──もともとは、唐《から》の国の神である。中国の五岳のひとつである、東岳泰山の神であった。別名、東岳大帝とも言われている。
泰山は、古来より死者の霊魂が集まる山であった。そこで、死者の魂の善悪を裁く神として、存在していたのが、泰山府君である。仏教が入ってきてからは、泰山府君は、地獄の閻魔《えんま》大王と結びつき、人の寿命や生死をつかさどるようになったと言われている。
さらに記しておくなら、この泰山府君を祭神として、これを祭る泰山府君祭を能《よ》くするのが、土御門《つちみかど》系の陰陽師《おんみようじ》たちであり、その中でも安倍晴明の名は、特に有名であった。
さて──
道摩法師の言った言葉が、帝に伝わったのが、八日目である。
九日目には、内々で源博雅が帝に呼ばれ、安倍晴明に、泰山府君祭を速やかに行なうべしとの勅を伝える使者となったのであった。
そして、十日目の今夜、人眼を避けて、博雅が、晴明の屋敷を訪れたということなのであった。
三
「まあ、そういうわけなのだよ、晴明よ──」
博雅は言った。
「しかし、|あの男《ヽヽヽ》がなんで、三井寺の智興内供に、そんなに気を遣うのだ」
「それがなあ──」
博雅は、盃を置いて、庭を見やった。
晴明が、帝のことを|あの男《ヽヽヽ》と呼ぶと、必ずたしなめる博雅が、今夜はそれもしない。
「智興内供は、昔、帝がだいぶお世話になったお方なのだよ──」
「どのように?」
「これは内緒の話なのだがな。帝が昔、思われていたお女《かた》があってな。そのお女が亡くなられたおりに、三井寺に葬られたのだが、ある晩、帝がどうしてもそのお女に会いたくなられてなあ──」
「それで?」
「智興内供が、秘密にそのお女を、帝の前で掘りおこしてなあ、帝とそのお女を御対面させて下すったりしたこともあったのだよ」
「屍体《したい》とか」
「うむ。主上は、お女《かた》の屍体を松明《たいまつ》の灯りの中で見るなり、はらはらと落涙なされてなあ、死ぬとはこういうことなのだな、人は生きているうちに歓《かん》を尽くしてこその人なのだな、常にこの顔《かんばせ》を想いながら宴の席につくことにいたそうぞと──」
「───」
「いつであったか、帝がお若い頃に契《ちぎ》りを結ばれて、いつかむかえにゆくと約束されたお女がいたではないか。ほら、夜な夜な、牛が牽《ひ》かない牛車《ぎつしや》で内裏《だいり》に近づいてきたお女さ」
「龍胆《りんどう》、だったな」
「そのお女の菩提もまた、三井寺にあるのだぞ」
「なるほど、そういうことか」
「そういう寺の智興内供であったのさ。亡くなられたと耳にして、思わず、内供の生命をもどせと勅を出されたのも、故のないことではないのだ」
「うむ」
「しかし、それから一日半は経っているので、もしかしたら、今はもう少し違うこころもちでいてくれるかもしれぬ」
「だとよいがな」
「しかし、智興内供の御屍体が、生きている頃と同じく、腐ることもないとあっては、帝も思わず、智興を生き返らせよと我儘《わがまま》を言ってしまったのだろう。今頃は──」
そこまで言いかけた博雅を、
「待て」
と制して、
「今、何と言った、博雅」
「だから、内供の御屍体が、生きている頃と同じようだと言ったのさ。やはり、徳のあるお方の御屍体は、普通の方の屍体とは違うのだなあと……」
「おい、博雅、もしかしたら、智興内供はまだ死んではおらぬかもしれぬぞ」
「しかし、息も止まって、心の臓も動いてはいないのだぞ」
「それは、おれが行って確かめよう」
「ゆくのか」
「うむ」
「それはありがたい」
「もしも、智興内供が、そのように見える御病気であるのか、あるいはまた何かの憑《つ》きものに、憑かれているだけのことなら、まだまだ、この晴明の出番がなくなったわけではないということさ──」
「お、おう……」
「気になることが、ひとつ、ふたつあるが……」
「気になることとは?」
「蘆屋道満殿と、それから泰山府君の御名が出たこと……」
「む、むう」
「しかし、それは、今ここで思案しても始まるまいよ」
「で、では」
「ゆこう」
「う、むむ」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
四
晴明と博雅が、三井寺に着いたのは、翌日の昼であった。
案内してくれたのは、恵珍という若い僧であった。
床《とこ》に仰向けになっている智興内供の枕元に、晴明と博雅が座した。
「昨日と、一昨日も、叡山《えいざん》より来ていただいて祈祷などをしていただいたのですが……」
と恵珍が言った。
「何ごとも変らずといったところだったのでしょう」
晴明が涼しい顔で言ってのけると、
「はい」
と恵珍がうなずいた。
「しかし、何故叡山が?」
博雅が問うと、
「かつて、円仁|和尚《おしよう》が、唐より勧請《かんじよう》して比叡山山麓に祭った赤山明神は、あれは実は泰山府君のことぞ」
晴明が答えた。
「主上に言われて、かたちばかりの泰山府君祭をとりおこなっていったのであろうな」
「今日も、叡山からは、どなたか来られるのですか」
博雅が恵珍に問うた。
「すでに、晴明殿が来られる旨、使いをやって知らせてありますので、そのようなことはあるまいと──」
「それはありがたい」
そう言って、晴明は、仰向けになっている智興の顔を見やった。
人払いをしてあるので、そこには、智興の他には、晴明と博雅、そして恵珍以外、誰もいない。
智興の顔は痩《や》せ、頬肉は、刃物で削り落としたようになくなっていた。眼の玉の丸みが、はっきりそうとわかるほどに見てとれる。頭蓋に、人の皮を張りつけたようであった。
息もしておらず、脈をとってみても心の臓は動いていないが、しかし、肌には微かなうるおいが残っている。身体も柔らかい。
頬や、頸の肌に手を触れてみれば、冷たいというほどではない。わずかな温もりが残っているようである。
晴明は、右掌を智興内供の顔の上にかざし、続いてそれを、首、胸、腹と、ゆっくりと移動させてゆく。
ほどなく、その掌《てのひら》を晴明がもどし、
「何やらおりまするな」
そう言った。
「いる!?」
恵珍が訊いた。
「何がだ?」
と博雅も身を乗り出してきた。
「何やら憑いているのか、あるいは、また別のものがいるのか、実態はよくわからぬが、何やらいるのは確かだな」
「───」
「智興内供は、まだ生きておられますね」
「では──」
「お生命をお助けすることはできますが、しかし──」
「しかし?」
「気になるのは、泰山府君の御名が、道満の口から出ていることです」
「と言いますと?」
「このうちの、誰かの生命が危ういことになるやもしれませぬ」
「このうちというのは、晴明よ、誰のことだ──」
「おれかおまえ、あるいは恵珍殿のお生命がだよ」
晴明が言うと、
「わたしであれば、この生命なぞどうなってもかまいませぬ。この三井寺に入って二十有余年、これまで修行してまいりましたが、その成果いまだ芳《かんば》しからず。かような身なれば、内供様の御為《おんため》になって死ぬるのであれば本望でござります」
恵珍が答えた。
「さようの覚悟がおありであれば、こちらへ、紙と硯《すずり》と墨、そして筆を御用意いただけますか──」
晴明が言うと、さっそく、それだけのものが用意されてきた。
「これからすることは、我が祭神でもある泰山府君を騙すことです」
墨を磨《す》りながら晴明は言った。
「場合によっては、この晴明の生命も危うくなりましょうが、事がなるまでは、あなたの方に泰山府君の注意を向けておきましょう」
「どのようにすればよろしいのですか」
「お待ち下さい」
晴明は、磨りあがった墨を、たっぷりと筆につけて、紙を手に取って、それにさらさらと何ごとかを書き記し始めた。
「晴明よ、それは何だ」
「都状《とじよう》さ」
「都状?」
「唐語で記した、泰山府君の祭文《さいもん》だよ」
書き終えたその紙を恵珍に渡し、
「ここにあなたの名を手ずから書いていただけますか」
晴明は、恵珍に言った。
祭文の最後に、恵珍が渡された筆で、自分の名を記した。
「では、これを懐に入れて、あちらの縁に几帳《きちよう》でも出して、その陰で念仏していて下さい」
「念仏は何を?」
「『法華経』でも『般若心経』でも何でもかまいません。よしと言うまで続けて下さい。そうでなければ、あなたの生命も、わたしの生命も危うくなりますよ」
「わかりました」
恵珍が姿を消し、ほどなくすると、恵珍の読経する声が響いてきた。
「どういうことをしたのだ、晴明よ」
「恵珍殿が、智興内供殿の身代りとなって、生命を泰山府君に差し出しますという意味の書だな、あれは──」
「では、恵珍殿が──」
「いいや、読経している間はだいじょうぶだ。その間に、こちらの方のけりをつけてしまえばいいのだ」
「どうやって?」
「こうさ」
晴明は、まだ残っていた紙を左手に取り、懐から小さな小刀を取り出した。
その小刀で、紙を切りはじめた。
「何をするつもりだ」
「まあ、見ていろよ、博雅」
晴明は、その小刀で、ふたつのものを器用に紙から切り出した。
ひとつは、小さな人形《ひとがた》であった。
どうやら、甲冑《かつちゆう》を身につけ、太刀を腰に差し、弓矢を持った、戦装束《いくさしようぞく》に身を包んだ武士であるらしかった。
もうひとつは、豆粒ほどの犬であった。
「これをな──」
晴明は、左手の指で、仰向けになっている智興の唇を上下に開き、さらに歯をこじ開けて、その口の中に、人形を押し込んだ。
次は、豆粒ほどの紙の犬だ。
晴明は、智興の着ている衣の裾《すそ》を左手で持ちあげ、紙の犬をつまんだ右手を、その裾の中に差し込んだ。
「どうするのだ」
「尻のやんごとない穴の中へ、この犬をお入れするのだよ」
すぐにその作業は済んだらしく、晴明の右手が裾の中からもどってきた時には、もう、その指に紙の犬はつままれてはいなかった。
晴明が、口の中で、小さく呪《しゆ》を唱えはじめた。
と──
智興の下腹のあたりが、ぴくりと動いた。
「お、おい、晴明よ、今、腹のあたりが動いたぞ」
しかし、晴明は、答えずに呪を唱え続けている。
と──
また、腹のあたりがぴくりと動いた。
「また、動いた」
博雅が声をあげる。
ぴくり、
ぴくり、
と、智興内供の身体のあちこちが動き出して、それがだんだんと上体の方へ動いてゆく。
「どうなっているのだ」
「犬が、今、智興内供の身体の中にいるものを追っているのさ」
博雅に答えてから、また、晴明が呪を唱える。
ほどなく、智興の喉のあたりの肉が、中から押されるように、
ぼこり、
ぼこり、
と、外に向かって動き出した。
まるで、何かの小さな獣が、喉の中で暴れているように見える。
時おり、ぬうっと唇の間から牙が伸びてはまた引っ込む。
そして、額のあたりの肉が、まるでそこから角でも生えようとしているかのように、むくりと盛りあがっては、またひらたくなる。そこに肉が破れて血が滲《にじ》んでいる。
「お、おい、晴明。内供殿が鬼に……」
「いいのだ、博雅。しばらく放っておけばよい」
晴明の言葉通りに、牙の伸びも、角の伸びも、喉の肉が暴れるのも、だんだんと静かになっていった。
やがて、その動きがおさまった時、
「終ったようだな」
晴明は、左手で智興内供の唇を開き、歯をこじ開け、右手を口元に差し出した。
すると、智興内供の口の中から、犬を連れた武者が、歩み出てきた。
「晴明!」
その武者は、晴明の右手の上に、犬と共に乗った。
見れば、武者は、その両手に、白い、雀の卵ほどの大きさの丸い玉《たま》を抱えていた。
「すんだぞ」
晴明が言った途端に、武者も犬も、もとの白い紙の人形と犬形にもどっており、晴明の右掌の上には、その二枚の紙と、白い卵がのっているばかりである。
「それは何だ、晴明」
「智興内供殿の体内にいたものだ」
「いたもの?」
「蟲と呼んでもよい、病気と呼んでもよい、ま、智興内供の中に棲んでいた、悪《あ》しき気だな」
「それが何で、そのような卵のようなものなのだ」
「おれが変えたのさ。しばらく動けぬようにしておくためだ」
「動けぬように?」
「そうだ。もし動いて、おまえに憑いたら、今度は博雅よ、おまえが智興内供殿のようになってしまうぞ」
「それで、智興内供殿は?」
「もうだいじょうぶだ。息もしておられるだろう」
晴明に言われて、博雅が眼をやると、なるほど、微かながら、ゆるく智興内供の胸が上下している。
「いずれ、眼が覚める」
晴明は博雅を見やって、
「もうよいだろう。博雅よ、これへ恵珍殿を呼んできてはもらえぬか」
そう言った。
五
頬こそ、まだこけているが、智興内供の顔には、すでに血の気がもどっている。
しばらく前に、水を含ませた布を何度もしゃぶって、水もたっぷりと飲んでいる。
智興内供は、今は、静かな寝息をたてて眼を閉じていた。
その枕元に、晴明、博雅、そして恵珍が座している。
「さて──」
と、晴明は恵珍に向かって言った。
「あなたには、色々とお話ししていただかねばならないことがあります。わたしの言っていることの意味は、おわかりですね」
晴明の言葉に、すっかり覚悟ができているように、恵珍は顔をあげ、
「はい」
低い声でうなずいた。
「あなたたちは、あの道摩法師につけ入られるような、いったいどのようなことをなさったのですか」
晴明の言葉に、驚いたのは、恵珍よりも博雅の方であった。
「おい、晴明よ。何を急にそのようなことを──」
「蘆屋道満は、言うなれば人の心にたかる虫のようなものさ。人の心の方が、あの男を呼びよせるのだよ。しかも、あの男は、たいくつまぎれに、その人の心を啖《くら》ってゆく……」
「───」
「しかし、道満といえども、あなたがたが望まぬことまではできません。あなたたちは、いったい何を、あの男に望まれたのですか」
晴明に問われて、恵珍は下をむいた。
「にょ、女犯《によぼん》を……」
小さな掠《かす》れた声で言った。
女犯──すなわち、僧が、戒律に背いて、女性と肉体関係を持つことである。
「あなたたち──というよりは、智興内供が、どのような女犯を犯《おか》したのですか──」
「し、屍体《したい》です。智興様は、女の屍体を使って、女犯を犯したのでございます」
恵珍は、ひきつれたような声でそう言い、言葉を詰まらせた。
「どのようなことがあったのですか」
晴明が問うた。
恵珍が、嗄《しやが》れた、低い声で語りはじめた。
「わたくしは、稚児の頃より、智興様には可愛がっていただいておりました……」
六
稚児──寺などで行なわれる法事や祭礼のおりに、美しく着飾って行事に参加する子供のことである。七歳から十二歳くらいまでの子供がなり、時には神霊を降ろすおりの尸童《よりまし》ともなったりした。
戒律により女犯を禁じられている僧たちの、男色の相手も、この稚児が務めたりしていたのである。
恵珍は、稚児として、智興の男色の相手をしていたと自ら告白したのであった。
恵珍が一人前の僧になってからも、ふたりの関係は続いていた。
「このまま、わたしは女子《おなご》の肌も知らずに、死ぬることになるのか……」
そのような言葉を、智興がもらすようになったのは、三年ほど前からであったという。
今年、智興は六十二歳となった。
身体も衰《おとろ》え、体力もなくなってきた。
「死ぬまでに、一度でよいから、女子の身体というものを味わってみたいものだ」
しかし、女犯を犯すわけにはゆかない。
そこへ、姿を現わしたのが道摩法師であった。
夜──
智興の相手をして、恵珍がひきあげようとしているおりにも、溜め息混じりに智興内供はそうつぶやいた。
そこへ、声がかかったのである。
「どうせ、死ぬるまでの生命よ。そんなにしたくば何故やらぬのだ」
外へ眼を転ずれば、夜の庭に、月光を浴びて道摩法師が立っていたというのである。
「仏に仕えようが、鬼に仕えようが、一生は一生じゃ。女子の肌も知らぬ一生のなんとつまらぬことかよ」
道摩法師が、にんまりと笑って言った。
「なあ、湯づけを一杯喰わせてくれぬか。喰わせてくれたら、礼によいことを教えてやろう」
妙な男であった。
素足である。
汚いなりをしており、身につけているのは、下人が身につけるような、ぼろぼろの小袖袴《こそでばかま》のみであった。
いったい、どこからしのんできたのか。
しかし、不思議に人を惹きつける磁力のようなものがある。
思わず、恵珍が湯づけを用意した。
庭で、立ったまま、あっという間に道摩法師はそれを喰い終えた。
「我がことは、道摩法師と呼べい」
椀を濡れ縁に置きながら、そう言った。
剃髪《ていはつ》もしておらず、衣も着ておらず、どこが法師かわからぬが、
「法師殿、さきほどのよいこととは?」
魅入られたように、恵珍が問うた。
「知りたいか」
「はい」
「女犯を犯さずに、女を抱けるぞ」
ぞろりと、道摩法師が言ってのけた。
「まさか」
「今日の昼に、裏の山に女が埋められた。死んだばかりの、二十四の女ぞ。よいか、死んだ女は女ではないということだ。女の肌と女の陰《ほと》を持ったただのものぞ。一番ありがたいのは、口が堅いということじゃ。まだ、蛆も虫もたかってはおらん。しかし、今夜を逃《のが》したら、もう機会はなかろう。教えてやると言うたは、このことよ」
それだけを言って、
「ではな」
背を向けて、道摩法師は姿を消してしまった。
「まったく、なんということを……」
恵珍が、そう言って後ろを振り返った。
そこで、恵珍は言葉を呑んでしまった。
智興が、堅い光を眼の中に宿らせて、身体を小刻みに震わせていたのである。
それまで、恵珍が知っていた智興とは別の人間がそこにいた。
七
「で、結局、ゆかれたのですね」
晴明が訊いた。
「はい」
恵珍がうなずいた。
「わたしが鍬《くわ》を使って、土の臭いがぷんぷんする女の身体を掘り出したのです。そして、それを……」
「智興内供がなさったということですね」
「はい。三度も」
「三度?」
博雅が声をあげた。
「そして、三度目を終えた時に、後ろから声がかかったのです」
見たぞ
見たぞ
ぞっとするような声であった。
振り返ると、月光にぞっぷりと濡れそぼちながら、道摩法師が立っていたのだという。
やりおったわ、やりおったわ
からからと道摩法師は笑い、
おい、知っておるだろうな。その女、三月二十八日生まれの巳歳《みどし》の女ぞ
嬉々としてそう言った。
泰山府君と同じ日に生まれた女の屍体を犯した。これがどういう意味かわかってるだろうなあ……
舌なめずりするような口調であった。
泰山府君に捧げられるはずの供物《くもつ》を、ぬしは盗《と》ったのじゃ。さて、どうなるかのう
そう、言うだけ言って、月の中を小躍りするように、道摩法師は去っていってしまったのだという。
「それが、十日前の晩ですね」
晴明が訊いた。
「はい」
寺にもどってから、頭が痛い、気分が悪いと言い出して、そのまま智興は床に入り、
「かような仕儀《しぎ》とはあいなったのでございます」
恵珍は言った。
「途中、道摩法師をあなたが連れてきたというのは──」
「いえ、あれは、実は、どうだ智興は無事かと、道摩法師の方から寺へやってきたのです」
「そうでしょう」
「いったい、何のために?」
「この晴明の名を出して、わたしがこちらへやってくるよう、仕向けたのですよ」
「あの法師が──」
「そうです。これまでは、皆、あの男の手の中で踊らされていたのですよ。あなたも、わたしも……」
「───」
晴明の言葉に、恵珍は声もない。
「危ないところでしたが、しかし、もう、心配はいりません」
晴明は言った。
「本当ですか」
「さきほど、あなたに渡した、祭文をこちらへおもどしいただけますか」
恵珍が懐から取り出した祭文を書いた紙をくつろげ、まだ、そこに残っていた筆を取りあげて、晴明は恵珍の名を消し、その横に自分の名を書いた。
「あっ」
と、恵珍が声をあげた。
「それでは、晴明様、あなたが……」
「わたしのことなら、心配はいりませんよ」
言いながら、晴明は立ちあがった。
「おい、晴明、どうするのだ」
博雅が、慌てて立ちあがりながら訊いた。
「ここでのことは、全て終ったから帰るのさ。主上への報告は、全てすみましたと、この晴明が言っていたと、それでよろしいでしょう」
「お、おい」
歩き出した晴明に、博雅が声をかける。
「急ぐぞ。何しろ、今夜は、泰山府君をおむかえする準備をせねばならぬのだからな」
八
酒を飲んでいる。
晴明の屋敷の濡れ縁である。
昨夜と同様に、ぽつん、と灯りがひとつ。
晴明は、柱のひとつに背をあずけ、ほろほろと、盃を口に運んでいる。
博雅もまた、盃を口に運んではいるが、どうにも落ち着かない様子であった。
ふたりの間に、もうひとつ、三つめの、これは瑠璃《るり》の盃が置かれている。
その中に、小さな卵のかたちをしたものが、ひとつ、転がっている。
紙の武者が、智興内供の体内から持って出てきたものだ。
夜の庭は、昨夜と同様に、小さな雨滴とも霧ともつかない水の微粒子が浮いている。
天にかかっている青い光が、昨夜よりいくらか明るいのは、月が満月に近づいたからなのか、大気中にもやのようにかかっている水の粒子が昨夜より少ないのか──
しっとりとした植物の匂いが、ふたりが鼻から吸い込む夜気の中に濃く漂っている。
「しかし、いったいどうなっているのだ、晴明よ。おれはまだ、何がなんだかよくわかっていないのだよ」
博雅が、酒を口に運びながら言った。
「だから、言ったろう」
晴明が答える。
「何を言ったのだ」
「あの、道満殿のたいくつしのぎに、皆がつきあわされたのよ」
「たいくつしのぎだと?」
「そうさ。あの男が、最初に姿を現わして、何故、女犯を犯さぬのかと智興内供殿に声をかけたあの時、呪《しゆ》がかかったのよ」
「また、呪か」
「そうさ。それは、そのまま、智興内供殿が心の中で思っていることであった。それをそのまま言葉にして、智興内供殿の心をからめとったのよ」
「ふうん」
「今度《こたび》のことでは、その一番大きな呪が、泰山府君祭のことであったろうな」
「泰山府君か」
「それで、智興内供は、すっかり怯《おび》えて、自ら、自分の身体の中にこのようなものを作り出してしまったのさ」
晴明は、瑠璃の盃の中に入っているものを見やった。
「何なのだ、これは?」
「智興内供が、怯えのあまりに作り出してしまった、わかり易く言うならば鬼よ」
「わかり易くない。どうしてこれが鬼なのだ」
「結局、屍体とはいえ、女犯は女犯さ。その罪の意識と、泰山府君に対する怯え、その他、これまで、智興内供が、何十年の修行でも捨て切れなかった様々なものが、この中には入っている」
「ほほう?」
わかったような、わからないような返事を、博雅はしている。
「いずれ、孵《かえ》ったら、式として使おうかと思うているのさ」
「これをか」
「うむ」
「いったい、何が孵るのだ」
「さあ、そこがわからぬ。もともとは、かたちがないものであろうから、こちらから、こうなれと命ずれば、どのような虫のかたちにでも、鳥のかたちにでもなるだろうよ」
「そういうものなのか」
「そういうものなのだ。これは、たいへんな重宝《ちようほう》ぞ、博雅」
「どこが重宝なのだ」
「考えてもみよ。あの智興内供が、長い修行の果てに捨て切れなかったものぞ。たいへんに強力な式となるであろうな」
「晴明、もしかしたらおまえ、初めからこれが目的で、三井寺へ行ったのではあるまいな」
「まさかよ」
「信じられぬ」
「おれは、道満の名を聴いて、ああ、これはあの男がこのおれに出て来いと言うているのだなと思い、出かけて行ったのだ」
「おまえは、これはあの男のたいくつしのぎと言ったではないか」
「言った」
「それと承知で出かけたのか」
「おれも、たいくつしのぎをしたかったのでな。いったい、どのようなたいくつしのぎを道満殿が用意してくれたのかと興味を持ったのさ」
「しかし、誰かが死ぬるかもしれないことだろう」
「まあ、そうだ」
「しかも、おまえの話では、まだ、これは終っていないのだろう」
「うむ」
「泰山府君が、ここまで、おまえを連れに来るのか」
「まあ、来るであろうな」
「本当なのか」
「本当さ」
「晴明、おれには、どうもまだ信じられないのだが、泰山府君などという|もの《ヽヽ》が、本当にいるのか」
「いると言えばいる。いないと言えば、いない。今回は、道摩法師殿が、その名を呼んで呪をかけたので、いるということであろうな」
「わからん」
「博雅よ、この世は、幾つもの層《そう》と相《そう》とでできあがっている」
「───」
「その、層と相のひとつが、泰山府君なのだよ」
「しかし、おれには、どこかに地獄があって、そこで泰山府君というものが、気ままに人の寿命を決めたり、延ばしたりということをやっているとは、どうも思えないのだよ」
「博雅よ、いつかも話をしたが、泰山府君といえども、所詮《しよせん》は、ただの力なのだ。その眼に見えぬ力が、人の寿命や生命の長さを決めているということでは、泰山府君は、まさしくおられるのさ」
「───」
「その力を祭って、泰山府君と呼んだその時から、その力は泰山府君なのだ。この世に、泰山府君の名を知る者がひとりもいなくなった時に、泰山府君というものが消え、その力のみが残るのだ。また、同時に、この力は、呼び方──つまり呪を変えれば、泰山府君でありながら、また違うものとしてこの世に現われるということになる」
「なんだ、それでは、泰山府君を泰山府君たらしめているのは、結局のところ、人がかけた呪ということではないか」
「そうなのだ、博雅よ。この世のものの在り様は、全て呪によって決められているのだよ」
「わからん」
「そうか」
「わからんが、しかし、その泰山府君が、今夜、ここにおまえを連れに来るのだろう」
「あの紙の名を書き変えておいたからな」
「来ると、それは、見えるのか?」
「見ようと思えば、見える」
「どういうものなのだ、それは?」
「だから、おまえが、泰山府君としてそう見たいものとなって、それはそこに現われるのだ」
「むう」
「とてつもなく大きな力だ。しかし、ここにやってくるのは、その力の一部だ」
「それで、平気なのか、おまえ」
「まあ、なんとかはなろうよ」
晴明がそう言った時、庭に、ぼうっと立つ者があった。
「あれは!?」
博雅が腰を浮かせかけた時、
「おれさ」
その影が言った。
蘆屋道満──道摩法師が、庭の草の中に立っていた。
「ようこそ」
晴明が言った。
「見物に来た」
そう言いながら、道満はゆるゆるとふたりのいる濡れ縁に向かって草の中を歩いてきた。
「ぬしが、泰山府君とどう決まりをつけるかをなあ」
にんまりと笑い、濡れ縁の上にのっていた酒の入った瓶子《へいし》を掴《つか》みあげ、濡れ縁の端に胡座《あぐら》をかいた。
飲みはじめた。
言葉はない。
時間が、ただ過ぎてゆく。
気のせいか、月の色で、天が少し明るくなってきているようであった。
「博雅、笛を──」
晴明が言うと、博雅が、懐から葉双《はふたつ》を取り出して、それを唇にあてた。
夜気の中に、博雅の吹く笛の旋律が流れてゆく。
時間が経った。
と──
「来ておるぞ……」
ぼそりと、道満が言った。
博雅が、笛を唇から離そうとすると、それを、晴明が眼で制した。
博雅は、笛を吹きながら、庭の奥に眼をやった。
すると、大きな楓《かえで》の根元あたりの草の中に、ぼうっと立つ白いものがあった。
まるで、夜気の中の、月光を帯びた水滴の微粒子が、そこに凝《こ》っているようでもあり、白い水干《すいかん》を着た人の姿のようにも見えた。
博雅が、それを心の中で人と見た時から、白い影が、ゆっくりと人の姿となってゆくようであった。
それは、草の中にわだかまって、凝《じ》っと博雅の笛の音に耳を傾けているようにも見えた。
いつの間にか、それが、ゆっくりと近づいて来る。
歩いたと見えぬのに、その白い水干を着た人影が、知らぬ間に近い場所にいる。
涼しい眼つきをした、若者のようにも見え、女のようにも見えた。
表情のない顔が、何かしら不気味であった。
ふいに、赤い口をぱっくりと開いて尖った歯を見せても不思議ではない恐さがある。
見ていると、背に、ぞくぞくとささくれのように立ちあがってくるものがある。
ついに、それが、濡れ縁のすぐ先まで来た時に、晴明は、右手で、あの白い卵の入った瑠璃の盃を持ちあげた。
その盃の中で、卵が割れた。
割れた卵から、柔らかい光を放つ霧のようなものが零《こぼ》れ、盃の縁から溢《あふ》れ出しながら、それは、ゆっくりと大きさを増していった。
それは、一羽の、雀ほどの大きさの青い蝶となった。
晴明が、あの紙を、懐から左手で取り出した。
それを、蝶の前に差し出すと、蝶がふわりと宙に浮いて、その紙を脚《あし》に掴んでいた。
美しい青い蝶であった。
蝶のその頭部が、晴明の顔をしている。
その蝶が、紙を掴んだまま、ひらひらと宙に舞ってゆく。
すると──
ふいに、白い影が動いた。
ふわりと、どのような動作も見せずに、水干姿の影は宙に浮いて、その青い蝶を両手の中に包んでいた。
銀色の霧が、夜気の中を流れたと思ったら、もう、水干姿の影も、蝶の姿もどこにも見えなくなっていた。
それが、消えたあたりを晴明が見あげている。
博雅が、笛を唇から離し、
「すんだのか……」
掠《かす》れた声でつぶやいた。
「すんだ」
晴明が答えた。
「よかった。もし、笛を吹いていなかったら、おれは声をあげて逃げ出していたかもしれないよ」
博雅は、大きく息を吐き、
「あれが、泰山府君であったのか」
晴明に言った。
「そうだ」
「おれには、ちょっとおまえに似たような白い水干を着た、美しい若い男のように見えたが、おまえにはどう見えたのだ」
しかし、晴明は、博雅のその問いには答えなかった。
「みごとであった……」
道満が、そう言って瓶子を置き、立ちあがった。
「泰山府君殿は、おぬしの作った式をおぬしとして連れていったわ……」
「はい」
晴明は、静かにうなずいた。
「ふふん」
道満は小さく笑い、数歩、庭の中へ歩き出し、途中で立ち止まった。
「おい晴明──」
振り返った。
にんまりと笑った。
「また、つきあってくれ」
再び背を向けて道満が歩き出した。
「いつでも、よろしい時に──」
晴明は言った。
道満が草を分けて歩いてゆく。
その背に、ほろほろと月光がこぼれている。
ほどなく、道満の姿も、庭の闇の中に溶けて見えなくなった。
晴明が、小さく溜め息をついた。
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青鬼《あおおに》の背に乗りたる男の譚《はなし》
一
ほろほろと酒を飲んでいる。
秋の気配が夜気に満ちている。
盃に満たされた酒の面《おもて》に吹いてくる、その秋の気配を飲むように、晴明と博雅は盃を口に運んでいる。酒の面のその風を口に含めば、しんしんと大気のうちに満ちているものが、酒と一緒に腹の中まで染み渡ってくるようであった。
「よいこころもちだなあ、晴明よ」
博雅は、酒のためばかりではなく、うっとりと酔ったように溜め息をついた。
土御門《つちみかど》小路にある、安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷である。
庭に面した濡れ縁に座して、ふたりは向きあっている。
博雅は円座《わらざ》の上に座し、晴明は白い狩衣《かりぎぬ》を着て、柱の一本に背をあずけている。
晴明は、瑠璃《るり》の盃を右手の指先に持って、静かに見るともなく夜の庭に眼をやっている。
ぽつんと、灯火がひとつ──
さやさやと、しっとりとした風が庭の草の上に吹いている。
女郎花《おみなえし》。
龍胆《りんどう》。
花の終りかけた萩《はぎ》が、風に揺れている。
それらを、満月に近くなった月の青い光が、真上から照らしている。
叢《くさむら》の中で鳴いているのは、秋の虫である。
鈴虫や松虫、蟋蟀《こおろぎ》に混じって邯鄲《かんたん》の鳴く声がひときわ澄んだ音色を夜気の中に響かせている。
秋の野を、そのままここへ持ってきたような庭であった。
五日ばかり前に、嵐があった。
雨が降り、大風が吹き、まだ残っていた夏の残滓《ざんし》を、大気の中から、どこかへすっかり運び去ってしまった。
夜ともなれば、空気が澄んで冷たくなっている。
「こんな晩は、なんだか心までがしみじみとしてしまうではないか」
博雅の言葉に、
「そうだな」
と、短く晴明が答える。
ぽつり、ぽつりと言葉を交し、ほろほろと酒を飲む。
「いい晩だなあ……」
博雅は酒を口に含み、
「このような晩は、妖物であったとて、ものを想わずにはいられまいよ」
そう言った。
「妖物か」
「ああ」
「妖物とて、この天地の間に人と関わりをもって生じたものだ。人の心が動けば、妖物の心とて動こう」
「なんだかそれは、人の心が妖物を動かすのだと、そう言っているような気がするな」
「ような、ではない。そうだと言っているのさ」
「人の心が、妖物をか」
「うむ」
晴明がうなずき、唇を開こうとすると、
「ま、待て、晴明」
博雅は言った。
「何だ」
「おまえ、今、呪《しゆ》の話をしようと思ったのではないか?」
「そうだ、よくわかったな」
「待て、呪の話はいい」
「何故だ」
「おまえが呪の話をするとだ、おれの中のこのよいこころもちがどこかへ行ってしまいそうな気がするからだよ」
「そうか」
「だから晴明よ、もう少し、こうやって静かに酒を飲ませてくれ」
「うむ」
「おれは、こうやって、ほろほろととりとめなくおまえと酒を飲んでいるというのが心地良いのだ」
「ふうん」
苦笑とも微笑ともつかない微かな笑みを浮かべ、晴明は、片膝を立てながら楽しそうに博雅を眺めている。
「そう言えばなあ、今の話なのだが……」
と博雅が言う。
「今の話?」
「妖物もものを想うということだよ」
「それがどうしたのだ」
「五日前の嵐の晩に、橘基好《たちばなのもとよし》殿が見たらしいぞ」
「見た? 何をだ?」
「妖物をだ」
「ほう」
「一条大路の桟敷屋《さじきや》でな」
「桟敷屋? またどうして、あんな嵐の晩に基好どのはそんなところにおられたのだ」
「女だよ」
「女?」
「相手がどなたであったかは基好どのも言われなかったが、とにかく、その晩基好殿は、桟敷屋でその方と逢瀬《おうせ》の最中であったのだよ。その時に、妖物にあったというのさ」
博雅は、語りはじめた。
二
その晩──夕刻から降りはじめた雨と風が、夜になるに従って強くなった。
橘基好と女は、桟敷屋の中で心ここにない様子で、雨と風の音を聴いていた。
桟敷屋は、もともと、人が住むための家ではない。一条大路を通ってゆく賀茂祭を眺めるために建てられたものである。
お互いの供の者は、それぞれの屋敷に帰してしまっている。
明け方になったらむかえに来ることになっているのだが、こんなことならば帰すのではなかったと基好は考えている。
灯火が、ふたつ、点《とも》っている。
酒や肴の用意もしてきているのだが、蔀戸《しとみど》の透き間から風が入ってくるのか、しきりに灯りが揺れて、薄気味が悪い。蔀戸はがたがたと音をたて、とても酒を飲んでいるという雰囲気ではない。
夜が更けるに従って、いよいよ風雨が強さを増してきた。
風と雨が、激しく蔀を叩く。
蔀が軽く浮き、さあっと風が入り込んできて、灯火のひとつが消えてしまった。
深夜になって、さらに、雨も風も強くなってゆく。
とうとう、残った灯火もまた消えてしまった。
ごうごうと雨が屋根を叩き、おうおうと風が軒《のき》にからむ。
桟敷屋全体が、風で揺すられて、浮きあがるかと思われた。
大きな手が、天からか、地からか伸びてきて、桟敷屋を揺すりたてているようであった。
ふたりは、生きた心地もなく、念仏しながら抱きあっているうちに、いつしかうとうとと眠ってしまったようであった。
そして──
ふと気がつくと、あれほど激しかった雨と風の音が聴こえない。
屋根を強く叩いていた雨の音も、蔀戸をがたがたと揺すっていた風の音も、どこかへ行ってしまっていた。
このあまりの静けさに、ふたりは眼を覚ましたのであった。
と──
どこからか声が聴こえる。
低い、さびさびとした男の声である。
耳を澄ますと、その声は、何か偈《げ》(仏典の詩句)のごときものを唱えているようであった。
その声がだんだんと近づいてくる。
「諸行は無常なり。諸行は常ならず。諸々のものは移ろうてゆく……」
そのようなことをつぶやいているようでもある。そのつぶやきが終るとまた……
諸行無常《しよぎようむじよう》
是生滅法《ぜしようめつぽう》
生滅滅已《しようめつめつい》
寂滅為楽《じやくめついらく》
『涅槃経』の中の一節を、唄うように詠《よ》みあげてゆく。
はて──
と不思議に思って基好が蔀戸をあけると、いつの間にか、雨も風も止んで、雲が割れ、澄んだ夜空に月が出ている。
半月である。
疾《はや》い速度で天を流れてゆく雲の間から、青い月が一条大路を明るく照らしていた。
その大路の真ん中を、月明りに照らされながら歩いてゆく者がいる。
よくうかがってみれば、これが身の丈《たけ》が軒と同じくらいの、馬の頭をした鬼であった。
この鬼が、『涅槃経』を唱えているのである。
「諸行無常 是生滅法……」
朗《ろう》ろうとした声で唱えながら、一条大路を西から東へ、そぞろの足取りで歩いてゆく。
怖ろしくもあるかわりに、胸がしめつけられるような光景でもあった。
基好と女が、蔀の陰から眺めているうちに、馬の頭をした鬼は、桟敷屋の前を通り過ぎ、内裏《だいり》の方角へ消えていったという。
三
「まあ、そのようなことがあったというのだよ、晴明──」
博雅は、感《かん》にたえぬといった面持《おもも》ちでそう言った。
「なんともよい話ではないか。たとえ、鬼や妖物であろうとも、そのようなこころもちになってしまうということはあるのだなあ──」
博雅は、手に持った盃から、体内に染み込ませるように酒を飲んだ。
「雪山童子《せつせんどうじ》の捨身偈《しやしんげ》だな」
晴明が言った。
この雪山童子の捨身偈は、『涅槃経』の中にある説話である。
ある日、仏道を求めて雪山童子が山中を歩いていると、どこからか声が聴こえてくる。
「諸行無常、是生滅法……」
この世のものは、あらゆるものがみな移ろうてゆく、生じたものは、必ず滅《めつ》してゆくのがこの世の姿である──そのように声は歌っている。
その声の方に近づいてゆくと、なんと山中で鬼神がその詩句を唱えていたのである。
「お願いいたします。なにとぞその続きをお聴かせ下さい」
と雪山童子が言うと、
「腹がすいて、おれはこれ以上歌うことができぬ。温かな人の肉と血を啖《くら》うことができるのなら、後の句を歌うことができるだろう」
と鬼神は言った。
「では、このわたしの身体をお食べなさい」
童子が言うと、
「生滅滅已、寂滅為楽」
と、鬼神はその続きを歌った。
生じたものは必ず滅してゆくというこの無常の苦しみから離れ、それに迷う心を消し去ることができたのなら、安らかな心を得ることができる、これこそが真の安楽である──そのように鬼神は言った。
童子は悦び、あたりの木という木、石という石にその句を書きつけて、自ら鬼神の口の中へ身を投げ出した。
途端に鬼神は、帝釈天《たいしやくてん》へと姿を変じ、童子を抱きかかえながら天へ舞いあがり、寿《ことほ》ぎの詩句を唱えたという。
これが、雪山童子の捨身偈の説話である。
「そうさ。雪山童子にこの句を歌って聴かせたのも、鬼であったのだ」
「帝釈天が姿を変えていたのだろう?」
「ああ。だから、ことによったら基好どのが見たという鬼もまた、下賀茂かどこぞの神が姿を変えたものであったのかもしれぬぞ」
「ふむ」
「つまりは、鬼も神も、そういうことでは同じなのだなあ」
博雅の言葉に、
「ほう!?」
晴明が驚いたような声をあげた。
「どうした」
「いや、博雅よ。おまえがなかなか凄いことを言うからさ」
「何のことだ?」
「鬼も神も同じだと今言ったではないか」
「言ったがどうした」
「だから、それが凄いことだというのさ」
「どう凄いのだ」
「おまえの言う通りだからさ」
「───」
「鬼も神も、つまるところ、人との関わりなくしてはこの世にない」
「なに?」
「人の心が、神にしろ鬼にしろ、それをこの世に生じさせるのだ」
「まさか、呪《しゆ》によってなどと言うつもりではないだろうな」
「まさかではない。まさにその呪によって、神も鬼もこの世にあるのだ」
「───」
「この地上から、全ての人が消え去るならば、神々や鬼もまた、この地上から消え去るのだよ」
「ああ、晴明よ。なんだかおまえの言っていることは、凄すぎて、おれにはよくわからないよ」
「おれが言ったのではない。最初におまえが言ったのだぞ、博雅よ」
「言った覚えはない」
「覚えがないというところが、おまえの凄いところだ」
「馬鹿にするな」
「していない」
「本当か」
「おれは、誉《ほ》めているのさ、博雅」
「おまえ、そんな言葉でおれをごまかすなよ──」
「ごまかしたりするものか」
「本当に?」
「本当さ」
「ああ、なんだかまた、おれはおまえに騙されているような気がするぞ」
ちぇっ、
と、博雅は酒を口に運んで、
「なんだかよくわからないが、さっきまでおれの心の中にふくらんでいた、うっとりとするようなこころもちが、どこかへ行ってしまったような気がするよ」
「それはすまん」
晴明は、額のあたりを人差し指で掻きながら、
「ならば、かわりに、ちょっとおもしろいところへ連れてゆこうか」
「おもしろいところ?」
「明日の晩は空《あ》いているか」
「空いてはいるが、何なのだ、晴明──」
「さっきのおまえの言い方で言うのなら、人によって、この世に生じた鬼だ」
「鬼!?」
「そうだ」
「どういうことなのだ」
「その鬼を生じさせたのは、鴨直平《かものなおひら》という男さ──」
そうして、晴明はその話を語りはじめたのであった。
四
鴨直平という男がいた。
歳の頃、四十ばかりの、眼元に涼しさの残る男である。
直平には、萩《はぎ》という名の妻がいた。
仏を信心することあつく、『涅槃経』を、読めぬが唱えることができた。
十二年連れ添った妻であったが、一年ほど前に、直平に新しい女ができて、春にこの妻を離縁した。
離縁したまま放ったらかしにしておいたのだが、一カ月、二カ月、三カ月経つうちに、妙な噂が直平の耳に入ってきた。
女に新しい男ができたという噂ではない。
夜になると、この妻がおかしなことをするというのである。
日が暮れて、あたりが暗くなると、家の中から出てきて、あたりを飛ぶように走りながら、直平の名を呼んでいるというのであった。
「なおひらさま、なおひらさま……」
こちらの林、あちらの森と、素足で駆けながら、
「愛《いと》しやなおひらさま、いずくにおわしまするのか」
高い声で言いながら疾《はし》る。
その声が急に、
「おのれ、直平──」
恐い声になって、叫ぶ。
また、ある時は、夜になっても家を出ずに中にこもっている。
どうしたのかと、たまに誰かが家を覗いてみると、
「直平さま、直平さま」
つぶやきながら、柱に歯をあてて、かりかりとそこを噛んでいる。
その萩が、夏になってから、急にものを喰わなくなったという。
たまに、近くの者が萩を見ると、骨と皮ばかりになっており、見るたびに以前より痩《や》せ衰《おとろ》えてゆく。
そういう話が耳に入ってくるのが気になって、直平は、ある時、急に思いたって様子を見に行った。
しかし、行ってみれば、家は静かで、誰かがそこで生活をしているようには見えない。
おそるおそる中を覗いてみると、人が倒れている。
中へ入ってよくよく見れば、倒れているのは、離縁した妻の萩であった。しかもすでに事切れている。なお、怖ろしいことに、むき出した歯をがっちりと食い縛り、眼を開いたまま、萩は死んでいたのである。
思い死に──つまり、恨み死にであった。
「三日前には、もう声が聴こえなかったから、三日前に死んだのだろう」
と、近所の者たちは噂しあった。
この女、父母はすでに死んでおり、他に身寄りもない。
だから、亡骸《なきがら》を葬ることなど誰もせず、放ったらかしにされていたのである。
かといって、直平は、女をすでに離縁しているわけであり、今さら女が死んだからといって、何かしてやろうとも考えなかった。
女の亡骸をそのままにして、直平は帰ってしまった。
そのうちに、また、妙な噂が耳に入ってきた。
放ったらかしにされた萩の屍体が、何日経っても、腐る様子がないというのである。
髪も抜け落ちたりせず、骨もばらばらにならずに、しっかりまだくっついているらしい。
そればかりではなく、夜半になると、家の中に真《ま》っ青《さお》な光が点り、家鳴りがする。
そして──
「なおひら……」
「なおひら……」
女の声までが聴こえてくるというのである。
さすがに気になって、直平は様子を見に行った。
夜はやはり怖ろしいので、行ったのは昼間であった。
戸口の透き間などから中を覗くと、言われたように女が倒れている。
すでに、死んでから四十日余りも経とうというのに、なるほど、萩の屍体は腐ってはいない。
髪も抜けてはおらず、痩せ細って木乃伊《ミイラ》のごとき姿となり果てた萩の屍体は、戸口の方へ顔を向けている。
まだ、眼を開いていた。
身体全体も顔も干《ひ》からびているのに、その目玉だけがまだ濡れて光っている。
直平は、思わず、
「わっ」
と言って戸口の透き間から顔を離し、後ろへ跳びのいていた。
五
「それが、二日前のことなのさ」
と、晴明は博雅に言った。
「しかし、晴明よ。何故、おまえがそんなことを知っているのだ」
博雅が訊いた。
「鴨直平が、今日の昼に、ここにやってきたのだよ」
「そういうことか」
博雅はうなずいた。
晴明は、直平の話を聴いて、ひとつ、ふたつと指を折りながら日数をかぞえ、
「これは、なかなかにたいへんなことになっておいでですな」
そう言った。
「一日二日のうちになんとかせねば、あなたのお生命に関わりましょう」
言われた直平は、おおいに狼狽して、
「お助け下さい。このままではあの女に憑《と》り殺されてしまいます」
そう言った。
「色々と方法はありますが、今夜、いえ、明日の晩の方が確実でしょう」
「どうすればいいのですか」
「よい方法がありますが、それには、あなたがたいへんに恐い思いをせねばなりません。その覚悟がありますか」
「覚悟、ですか」
「もともとは、あなた自身が原因で起こったことです。恐い思いはしても、生命が助かる方がよろしいでしょう」
「は、はい」
うなずき、なにとぞよろしくお願いいたしますと言って、直平は帰っていったという。
「で、明日の晩、どうするというのだ」
博雅が訊いた。
「これさ」
晴明は、懐から、掌《てのひら》にのるくらいの大きさの、人形《ひとがた》の木片を取り出した。
「今日のうちに、作っておいた」
晴明は言った。
博雅が、その木片を受け取って、灯火にかざしてみると、
鴨直平
と、件《くだん》の男の名が書かれている。
「これは?」
「それで、直平は助かることになる。明日の晩、たいへんに恐い目にあうことにはなるだろうがな」
「なんだ、恐い目にあうと言ったのは本当のことだったのか」
「あたりまえではないか」
「おまえは時々、なんでもないことで人を脅して楽しんでいる時があるからなあ」
博雅の言葉に、そんなことはない──とは言わずに、
「そうだな」
と、晴明はうなずいた。
「しかし、今度は本当さ。言いつけを守らねば、直平は生命を落とすことにもなりかねない」
「いったいどうするのだ」
「明日の晩、来ればわかる」
「明日の晩か」
「直平が、夕刻までにこちらにやってくる。それから出かけることになる」
「どこへだ」
「下京。女の家があるところさ」
「下京か」
「どうだ来るか」
「むむ」
「ゆくか、博雅」
「むう」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
六
安倍晴明。
源博雅。
鴨直平。
この三名が、件の家の前に立った時には、すでに陽は沈んで、あたりには夕闇が迫っていた。
西の空はまだ明るいが、その家の周囲には、特に黒ぐろとした闇がからんでいるように見える。
家のまわりには、草がぼうぼうと生《お》い繁り、なかなかもの凄まじい光景であった。
「では──」
と、晴明がうながし、三人が家の中に入ってゆく。
「だいじょうぶでしょうか」
不安そうな声をあげた直平に、
「心を強く持っておられれば」
と、晴明は言った。
中へ入ってゆけば、ぼうっと、青い光が家全体に点っている。
はたして、家の中には、女の屍体が倒れ伏している。
聴いたように、その身体は腐ってはおらず、髪の毛も抜けてはいない。
直平は、身体を小刻みに震わせながら、晴明の陰から女の屍体を眺め、
「ど、どうするのですか」
掠《かす》れた声でそう言った。
「この屍体の背に跨《またが》って下さい」
晴明は言った。
「こ、この上にですか」
「そうです」
泣き出しそうな顔で、直平は晴明を見た。
「さ、早く」
晴明が言うと、直平は、救いを求めるような眼で博雅を見やり、観念した様子で、女の背に跨った。
「では、この女の髪を掴んで、何があろうと絶対に放してはいけませんよ」
直平が、震える両手の指で、女の髪を掴んだ。
「では、口を開いて──」
晴明が言うと、直平が口を開いた。
すると、晴明は、懐から、昨夜博雅に見せたあの木の人形《ひとがた》を取り出し、
「さあ、これを歯でしっかり噛んで──」
直平の口に咥《くわ》えさせた。
「よろしいですか、これから何が起ころうとも、決して声をあげてはいけません。その髪の毛を放してもいけません。どれかひとつでも約束をたがえると、たちどころにあなたは鬼に啖《くら》われて生命を落とすことになりますよ」
直平は、顎を震わせながらうなずいた。
もし、人形を噛んでいなければ、上下の歯がかちかちと鳴っているところである。
「よし、博雅。我々はこちらだ」
晴明は、博雅を家の隅へ連れてゆき、口の中で小さく呪を唱えた。
「ここに結界を作った。騒ぎたてなければ、鬼に見つかることはない」
晴明が言い終えぬうちに、
「お、おい……」
博雅が、言った。
「あれは何だ、晴明よ」
見やれば、直平が跨っている女の屍体が、青く光り出している。
「さ、いよいよだぞ」
「な、何がだ」
「鬼が生まれるのさ」
晴明が言った時、むくりと、女の屍体が動いた。
両手を突いて、屍体が上体を起こした。
ざんばらの髪が、ばさりと顔にかかった。
真っ青な眼が、周囲をひと睨み、ふた睨みして、女の屍体が立ちあがった。
見れば、全身が青い鬼である。
直平は、悲鳴をあげそうな顔で、必死で女の背にしがみつき、髪の毛を両手で握っている。
「ああ、重い。やけに身体が重い」
女の鬼は、もの怖ろしげな声でそうつぶやき、長い赤い舌を口の中で踊らせた。
「さあ、ようやく四十九日目ぞ。憎き直平めを捕えて、その肉を啖ってやる時が来たわい」
歩き出した。
ぼうぼうと草の繁る庭に降り立つと、
「直平、いずくぞ」
そう言って疾《はし》り出した。
七
疾る疾る。
風のように、女の鬼は夜の都を疾った。
ひゅうひゅうと、風が直平の耳元で鳴った。
「ここか」
まず、最初に行ったのは直平の屋敷である。
しかし、そこに直平はいない。
次に行ったのは、直平の女のところである。
「ここかあ」
しかし、そこにも直平はいない。
「ああ、あの男の匂いがする。あの男は、このすぐ近くにいるに違いない」
そう言いながら、また、鬼は都の大路、小路を駆けてゆく。
しかし、直平は見つからない。
「どこへ行った、直平め」
鬼が疾りながら声をあげる。
直平は生きた心地もしない。
「そうか、陰陽師の誰かが、どこぞに隠したな」
その通りなのだが、それがまさか自分の背であるとは鬼もわからない。
「ああ、それにしても重い」
言いながら、鬼はひと晩中直平を捜して、都を疾った。
やがて、東の空が白みはじめると、
「ようし、今夜はもどるとしようか。明日の晩こそは──」
そうつぶやいて、直平を背に乗せたまま、女の鬼は自分の家にもどってくると、また、もとの場所に倒れ伏した。
八
「さ、髪の毛を放して、立って下さい」
晴明は、直平に言った。
「もうだいじょうぶです」
そう言っても、直平は全身をがくがくと震わせるばかりで、女の髪の毛を放すこともできず、背から降りることもできないでいた。
晴明が、直平の手に自分の手をそえて、その指を一本ずつ広げてやると、ようやく直平は立ちあがることができた。
眼からは涙が流れ、鼻からは鼻水が流れ出している。
木の人形を噛んでいるため、口の両端からは涎《よだれ》が垂れている。
晴明が、人形を直平の口から取ってやると、
「ま、また明日もこのわたしを捜すと言っていました。もしかしたら、毎晩、このようなことをしなければいけないのですか」
歯を鳴らしながらそう言った。
「その必要はありませんよ」
晴明は、そう言いながら、手に持っていた人形を、伏した鬼の顔の前に置いた。
と──
いきなり、鬼がかっと眼を見開いて、
「ここにおったなあ、直平め」
叫んだかと思うと、人形に飛びつき、それを口に咥えて、ばりばりと噛み砕いて呑み込んでしまった。
呑み込み終えると、ばったりとまた鬼は倒れ伏した。
その途端に、ずるりと鬼の頭から髪が抜け落ち、じゅくじゅくと肉が腐りはじめて、たまらない腐臭があたりにたちこめた。
低い、嗚咽《おえつ》の声があがった。
見れば、直平が涙を流して泣いているではないか。
「どうしたのだ」
博雅が問うと、
「ああ、わたしは、なんということをしてしまったのでしょう」
直平は言った。
「今夜ひと晩、この女の背に乗って疾っている間、わたしは怖ろしくてなりませんでしたが、それとは別の心もまたわたしの中にはあったのです」
「別の心?」
「わたしのことを、必死になって捜しているこの女が哀れでならなかったのです。いっそ、咥えていた人形を放し、わたしはここにいるよと、萩に声をかけてやろうかと思ったくらいでした……」
直平が言うと、倒れていた女の唇が動いて、小さな声で、歌うように何かを唱えはじめた。
諸行無常《しよぎようむじよう》
是生滅法《ぜしようめつぽう》
生滅滅已《しようめつめつい》
寂滅為楽《じやくめついらく》
それを唱え終えると、女の唇は動くのをやめた。
腐りはてて、腐臭を放っている女の唇が、微かに笑っているように見えた。
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月見草
一
満月を一日ほど過ぎた月が、天にかかっている。
軒ごしに斜めに降りてきた月の光が、濡れ縁に注いでいる。
その月光の中で、源博雅《みなもとのひろまさ》は、安倍晴明《あべのせいめい》と杯を傾けている。
濡れ縁に向かいあった晴明と博雅の間に、酒の入った瓶子《へいし》が置かれ、自分の杯が空になると、どちらからともなく手が伸びて、杯に酒が注がれる。
手酌である。
庭は、みっしりと夏の草に覆《おお》われている。どの草や葉の上にも露がおりて、その露のひとつずつが月を宿してきらきらと光っている。
ひとつ、ふたつと、蛍が闇の中を舞う。
蛍が地上におりれば、どれが露の光だか蛍の光だかわからなくなってしまいそうであった。
晴明は、白い狩衣を涼しげに身に纏《まと》い、片膝を立てて、柱のひとつに背をあずけている。
左手に杯をつまみ、時おりそれを赤い唇に運んでいる。
博雅は、月光を眺めてはうっとりと溜め息をつき、酒を口に運んでは、これまたしみじみとした眼つきになって、
「よいこころもちだなあ、晴明よ」
などとつぶやいている。
晴明は、ぽつりぽつりと博雅の言葉に口をはさみながら、博雅のしゃべるにまかせている。
晴明の唇は、あるかなしかの微笑を常に含んでいるが、酒を唇に含むことで、その微笑を育てているようにも見える。
「ところで晴明よ、あの話を耳にしたか」
ふいに、何ごとか思い出したように博雅は言った。
「あの話?」
「帝と菅原文時《すがわらのふみとき》殿の話さ」
「何のことだ?」
「帝が、文時殿を召《め》されて、詩のお相手をさせた話さ」
「鶯《うぐいす》か」
「なんだ、知っていたか」
「宮鶯囀暁光」
晴明は、囁くような声でつぶやいた。
「それさ」
博雅は膝を叩いてうなずいた。
こういう話である。
しばらく前に、村上天皇が、菅原文時をお召しになって、詩を作らせたというのである。
村上天皇は、歴代の天皇の中でも、特に風雅の道を愛した人物であった。芸事にも興味があり、自らも、和琴、琵琶などの楽器を得意とした。
おりに触れて、歌や詩なども作っている。
一種の才人であった。
この時期、歌と言えばそれは和歌のことであり、詩と言えばそれは漢詩のことであった。
博雅が話題にしたそのおりも、村上天皇は詩を作っていた。
この時の詩の題が、
「宮鶯囀暁光(宮《みや》の鶯《うぐいす》暁光《あかつき》に囀《さえず》る)」
というものであった。
作った詩が、次のようなものである。
露濃緩語園花底《つゆこまやかにしてはかんごすえんかのそこ》
月落高歌御柳陰《つきおちてはこうかすぎょりゅうのかげ》
暁、露に濡れた庭の花に埋もれて、鶯がゆったりと鳴き、月が傾くと柳の陰で高い声で囀っている
それほどの意味である。
村上天皇、自ら作ったこの詩がたいへんに気に入った。
「これ、菅原文時を呼べ」
近くの者にそう告げた。
菅原文時は、当代きっての文章家であり、かの菅原道真《すがわらのみちざね》の孫である。
文章博士《もんじようはかせ》──
この人物を召して、
「どうじゃ」
と村上天皇は作ったばかりの詩を見せた。
「なかなかのお作《さく》かと思われます」
答えた文時に、
「そちも何か作ってみよ」
同じ題で文時に詩を作らせた。
この時、文時が作ったのが、
西楼月落花間曲《せいろうにつきおちてはなのあいだのきょく》
中殿灯残竹裏声《ちゅうでんにともしびのこってたけのうちのこえ》
というものであった。
暁に月が西に傾くと鶯が花の中で歌い、灯火が中殿に明け残れば、庭前の竹の中で鳴いている
そういった意味であろうか。
村上天皇、この詩を眼にして、
「我こそ此題《このだい》は作り抜きたりと思ふに、文時が作れる詩まためでたし」
自分の作った詩は、この題のもとではこれ以上はないという出来ばえであると思っていたのだが、文時が作った詩もまた極めて優れたものであると村上天皇は言った。
「どうじゃ、比べてみよ」
村上天皇は文時に言った。
「は?」
「文時、おまえの作った詩と朕《ちん》の作った詩と、どちらが優れているかを比べてみよ」
これには文時も困って、
「帝のお作りになられた詩はたいへんに素晴しいものでございます。特に下の七字などは、この文時の作よりも勝る出来かと──」
「世《よ》も不然《しからず》」
まさかそのようなことはあるまい──と村上天皇は納得しない。
「それはそなたの世辞であろう。正直に申せ。さもなくば、これより、そなたが申すことたとえ何ごとであろうと朕に奏上してはならぬぞ」
これには文時も困り果て、
「実《まこと》には御製《ぎよせい》は文時が詩と対《たい》に御座《おわします》」
帝の詩は自分の詩と対等であると、床に額を押しあてるようにして言った。
「ならば、それをここで誓言《せいごん》せよ」
なおも村上天皇が文時を問いつめれば、
「実には文時の詩は|今一膝居上 候《いまひとひざいあがりにてさぶら》ふ」
弱り果てた文時は、自分の詩の方が膝ひとつ分位が上であると言って、その場を、
逃去《にげてい》にけり
退出してしまったというのである。
「それがなあ、晴明よ。これを言われた帝の方が、逆に恐縮されたというのだよ」
いや、文時には申しわけないことをした──
「そうおっしゃられて、正直に自分の詩の方が優れていると言った文時殿のことを、讃《ほ》めちぎったというのさ」
「あの男らしい」
と、晴明は小さく笑ってみせた。
晴明があの男と言うのは、村上天皇のことである。
それをたしなめようと、博雅が口を開きかけたところへ、
「ならば博雅よ、昨夜の話は知っているか?」
晴明が言った。
「昨夜の? 何のことだ。おれは知らんぞ」
「博雅よ、今のおまえの話に、他にも心を動かされた者たちがいたということさ」
「心を動かされた?」
「大江朝綱《おおえのあさつな》殿のことは知っているか」
「おう、知っているとも。八年前、九年前であったか。天徳元年(九五七)に亡くなられた文章博士の大江朝綱殿のことであろう」
「うむ」
「それがどうしたのだ」
「こういうことさ」
そう言って、晴明は語りはじめた。
二
昨夜──
つまり八月の十五日の夜。
文章《もんじよう》好みの輩《ともがら》が、何人か集まって、某屋敷で酒を飲んでいた。
話題の中心は、しばらく前の、村上天皇と菅原文時の一件である。
「さすがは文時殿じゃ、よく申されたものよ──」
「たとえ相手が帝といえども、この道ばかりは官位は関係がないからな」
「ほう、ならばおまえだったら文時殿のように言うか」
「もちろん」
「どのようなお咎《とが》めが後からあるかもしれぬぞ」
「そうじゃ、なかなか文時殿のように言えるものではない」
本人の文時が居ない席での話であり、各々が勝手なことを言っている。
「いや、偉いのは、帝よ。文時殿を咎めるどころか、おおいに誉めたというではないか」
「うむ。帝も、文時の詩がよいと思ったからこそ、正直に申せと何度も言われたのであろうが」
話をしているうちに、では、文時に比べられる文章家が、これまで何人いたかという話になった。
「まず、古くは、高野山の空海和尚がいるな──」
と誰かが言えば、
「文時殿の祖父で、菅原道真公もなかなかの者であったというではないか」
と誰かが言う。
「それでいうなら、やはり文章博士であった大江朝綱殿もたいへんに優れた文章をお書きになる方であったというぞ」
「おう、朝綱か」
「亡くなられてからもうどのくらいになる?」
「八年か九年も経つか」
「確か、お屋敷は、二条大路と東京極大路の交わるあたりにあったはずだが」
「だが、今は、どなたもお住まいにはなられてないと聴くぞ」
「ならばちょうどよい。どうだ、これから、朝綱殿のお屋敷まで皆で出かけて、そこで酒《ささ》でも酌《く》み交しながら、文章の話でもいたそうではないか」
「おう。それはおもしろい。幸いにも今宵《こよい》は八月十五日、満月ぞ」
「なれば、月に興《きよう》じて、各々の好みの詩句を詠ずるのもよいではないか」
「おう」
「おう」
そういうことになって、酒の用意をし、皆で連れだって、朝綱の屋敷まで出かけていったというのである。
三
一同が、手にした灯りをたよりに門をくぐってみれば、庭は荒れ、すでに屋敷は倒れ傾き、家の中のそこここから草が溢れ出している。
着ているものが、青く染まるような月が、その光景を照らしている。
屋根にも草は繁り、かつてはここが文章博士の住んだ屋敷とも思えぬありさまである。
「いやいや、まことに……」
「人は生きているうちこそが花なのだな」
「いや、これはこれ。これも見ようによれば、なかなか趣《おもむき》深き光景ではないか」
「うむ」
着ているものの裾《すそ》を、草の露で濡らしながら歩いてみれば、ただ竈屋《かまどや》だけが、なんとか屋根も傾《かたぶ》かずに残っている。
「では、このあたりに落ちつこうか」
と決めたのが、その竈屋の縁《えん》であった。
ある者は縁に円座《わらざ》を置いて座し、ある者は庭に立ち、ほろほろと酒を酌み交しながら、思い思いに詩を詠じた。
そのうちのひとりが、次のような詩句を詠じた。
踏沙被練立清秋
月上長安百尺楼
沙《いさご》を踏《ふ》み、練《ねりぎぬ》を被《かつ》ぎて清秋《せいしゆう》に立つ
月は長安の百尺の楼《ろう》に上《のぼ》れり
河岸の白砂を踏み、練帛《ねりぎぬ》を肩に掛けて、清明の秋気の中に立てば、名月は中天高く長安城の高楼の上にかかっている──
このような意味の詩であるとその男は言い、
「どうだ、これは『白氏文集』の一節だが、今宵にふさわしい詩句であろう」
そう言った。
白氏──つまり、白楽天のことである。
「これは、その昔に、白居易が唐の都長安に在りしおり、八月十五日の月を愛《め》でて作りしものぞ」
「いや、なるほど、しみじみと心に響く詩であることよ」
「ううむ」
と一同が感心して、この詩句を皆で詠じていると、丑寅《うしとら》の方角から、濡れた草を分けて、月光の中をしずしずと歩いてくる者があった。
見やれば、尼《あま》姿の、ひとりの女であった。
一同の前までやって来ると、女は、
「此《こ》は誰人《たれひと》の来《き》たりて遊《あそ》び給《たま》ふぞ」
と問うた。
「今宵、月|極《いみじ》う明《あか》りければ、これを愛でて遊ばんと──」
月が明るく美しいので、これを眺めながら詩句を詠じて楽しもうと思ってここまでやってきたのだと、一同のうちのひとりが答えれば、
「ここが、誰のお屋敷かは御存知でいらしたのですか」
と女が問う。
「大江朝綱殿のお屋敷でしょう」
「月を愛でて詩句を詠ずるのであれば、ここほどそれにふさわしい場所もないと思ったのです」
「それよりも、こんな夜更けに、かような場所に来られるとは、あなたはどういう素姓の女《かた》なのですか」
男たちは、それぞれ女に答えながらそのように問うた。
「私は、亡くなられた朝綱さまにお仕えしておりました者のひとりでございます。かつて仕えていた多くの者たちも、今はあちらへ去りこちらへ去り、あるいは死に、行方もわからなくなって、ただいま残っておりますのはこの私ひとりでございます……」
女は、さびさびとした声で言った。
「私ひとりのみが、明日をも知れぬ生命を長らえて、ここで果つるつもりでいるのでございます」
それを聴いて、はらはらと眼から涙を落とす者もあった。
「ところで、さきほどより聴いておりましたれば、『文集』の詩をどなたか詠じておりましたが……」
女が言えば、
「それはわたしです」
白楽天の詩を詠じた者が言った。
「さきほどあなたは、月は長安の百尺の楼に上れり≠ニ詠じなさいましたが、昔、亡き朝綱さまは、そこはそうはおよみなされませんでしたよ」
女が言う。
「ほほう」
「ではどのように」
と、一同が興味深げに身を乗り出せば、
「私の記憶に間違いがなければ、それはこのようであったと思います」
そう言って、女は、男たちの前で次のようにこれを詠じてみせた。
月によりて長安の百尺の楼に上る……
澄んだ声で、女がそれを詠じ終えると、
「いやなるほど、聴いてみれば確かにそのようだ」
「月が百尺の楼に上るのではなく、人が月に誘われて、百尺の楼に上ってゆくと詠ずるのが正しいような気がする」
男たちは感心して言った。
「ところで──」
と女はあらたまった口調で男たちに言った。
「私、かつて、朝綱さまより次のような歌をたまわったことがございます」
「ほう、どのような」
男たちが興味深げに女を見やると──
かけたれば月こそおしめこの宮《みや》の
沙《いさご》踏みけるその足の下
女がそれを口にすると、
「はて」
「聴いたことがない。このような歌を朝綱さまがおつくりになっていたとは」
男たちが言うと、
「皆さまがたにお願いがあるのですが、ぜひその歌を判じていただきたいのです」
女が言う。
判ずる──つまりその歌の意味を考えよというのである。
「いや、わからぬなあ」
「どのような意があるのか」
男たちが首を傾《かし》げていると、女は哀しそうな眼で月を見やり、
「どうか、その歌を覚えていって、意味のわかる方がおいでになりましたら、ここまできて私に教えて下さりませ」
静かにつぶやいてから、女は、月光の中で深々と頭を下げた。
と──
月光に溶けたように女の姿は消えていた。
四
「ま、そのようなことがあったというのだな──」
晴明は言った。
「しかし、どうして、そのようなことをおまえが知っているのだ、晴明」
博雅が言う。
「女が消えてから、急に男たちは恐くなってきたのさ──」
晴明は笑みを浮かべながら言った。
いや、あの女この世のものではなかったのか──
妙な歌を聴かされ、謎をかけられたまま放っておくと、よからぬことがおこるのではないか
男たちは心配をして、晴明をたよったのである。
「今朝、そのうちのひとりが、おれのところにやってきたというわけなのだ」
「なるほど──」
博雅はうなずき、
「で、どうなったのだ。歌の謎は解けたのか?」
晴明に訊いた。
「いや、解けはせぬが、その女に会いに行ってみようとは思っている」
「会いに?」
「夜にゆけば会えるだろう。なんなら、今夜だってよいのだが……」
晴明は博雅を見やった。
「今夜?」
「うむ」
「ということは、おれも一緒にということか?」
「恐ければ、明日にでもおれひとりでゆく」
「恐くはないさ」
「ならゆくか」
「む」
「ゆくか」
「む」
「どうする」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
五
朝綱の屋敷に着いた時は、深夜であった。
晴明と博雅が、入ってゆくと、はたしてそこは、荒れ果てた庭であった。
「いるのか、ここに、女が……」
博雅が言う。
「いるだろうな」
晴明は、草を分けて歩いてゆく。
「どこへゆくのだ」
「丑寅の方角さ。そこに何かあるはずだ」
博雅が晴明の後からついてゆくと、屋敷の裏手にまわったあたりで、晴明は足を止めた。
草に埋もれて、小さな塚のようなものがある。
「おい、『文集』のあの詩を詠じてみてくれ」
言われて、博雅が、
踏沙被練立清秋……
と詠ずると、詩句の全てを詠じ終えぬうちに、草の中に人影が立った。
見れば、話にあった通りの尼姿の女であった。
「昨夜といい、今夜といい、ここにいらしたのはどなたですか」
女が細い声で言った。
「昨夜、あなたが口にされた歌の謎かけを解きに来た者ですよ」
晴明が言うと、女の顔が陽を受けたように明るくなった。
「あの歌の意味がわかったのですか」
「いいえ、まだわかったわけではありませんが、たぶんなんとかなるでしょう。しかし、そのためには、あなたに少しばかり説明してもらわねばならないことがあります」
「どのようなことを?」
「あなたは、あの歌を、朝綱さまからもらったと言っておられたと聴きましたが──」
「はい」
「いったい、どのようないきさつで、あの歌をいただいたのですか」
「はい」
深くうなずいてから、
「申しあげましょう。実は、私は、朝綱さまにお仕え申しあげていた者ではありますが、男と女の関係も朝綱さまとはあったのです。よく、朝綱さまからは、詩や歌の手ほどきを受けておりました」
「それで?」
「亡くなられる一年ほど前でしたか、朝綱さまから呼ばれまして、その時にあの歌をいただいたのです」
おまえには長い間たいへん世話になった。わたしの生命ももう長くはない。もしものことがわたしにある時には、おまえに充分なものを残しておいてあげるから、それで余生を生きなさい──
そのように、朝綱が言ったというのである。
ほら、いつか、おまえに詠み方を教えたあの『文集』の詩があったろう。あれに関係した歌がこれに書いてある。わたしにもしものことがあった時には、これを開けなさい
そう言って、ひとつの文を女に手渡した。
「いただいた文を、朝綱さまが亡くなられてから開いたら、あの歌が記されていたのです──」
女は哀しそうに眼を伏せて、
「しかし、私にはあの歌の意味がわからなかったのです」
かけたれば月こそおしめこの宮の
沙踏みけるその足の下
晴明が、その歌をつぶやいた。
「どうだ、博雅、わかるか」
晴明が訊く。
「どうにもよくわからん。このかけたればというのは、心にかけるというのと、月が欠けるというのを、まさしくかけたものだろうが、おれにわかるのはそのくらいだ」
「それだけわかればなんとかなろうよ」
「なんとかなると言ったって、晴明、おまえ、これがわかるのか」
「さて──」
晴明は、女に向きなおってから、
「白楽天の詩の月は、八月十五日、満月ですね。この月が欠けると、何になりますか?」
「三日月?」
女がつぶやく。
「いいえ、望月がかけたのであれば、これは半月ですね。半月を心にかけよ、半月を惜しめと朝綱殿は言っておられるのではありませんか」
「しかし、それがどうだというのだ、晴明。おれにはまだ何もわからぬぞ」
「もうひとつの詩句の、この宮というのは、まさしくこのお屋敷のことで、沙というのはこれは河原の砂のことだよ、博雅。白楽天で長安ということになれば、これは曲江の砂ということになる」
「ほう……」
「どうですか、朝綱さまのゆかりの所で、水かそれに関係した場所はありますか」
晴明が女に問うと、
「そう言えば──」
と女がうなずき、
「お庭に水を引かれ、池をお造りになって、ここは長安で言えば曲江だなと何度かおっしゃっていたことがあります」
「では、そこへ案内して下さい」
女がいそいそと草の中を歩き出した。
ほどなく、女が立ち止まる。
「ここです。今は水も涸《か》れてしまっておりますが、かつてはここに池が……」
「池を眺める時、朝綱さまが、よくお立ちになっていた場所はどこですか──」
「そこです、ちょうどあなたさまが今立っておられるあたりです」
「では、ここを少し掘ってみましょうか」
晴明は、廃屋から板切れを持ち出して、さきほど自分が立っていたあたりを、それで掘りはじめた。
一尺ほど掘った時、板の先が何かに触れた。
「どれどれ」
晴明がそれをつまみあげる。
「出てきましたよ、半月です」
晴明が月光の中にかざしたそれは、半月形をした象牙の櫛《くし》であった。
「まあ」
女が驚きの声をあげた。
「ここでやめてはいけません。歌には月に気をかけろ、月をおしめとありましたからね。おい、博雅、少しかわってくれぬか」
晴明にかわって、板切れを手にして博雅がそこをさらに掘ってゆくと、板先が固いものに触れた。
「何かあったぞ」
博雅が、さらに一尺ほど下の土の中から掘り出したのは、片方の手にのりそうな、小さな甕《かめ》であった。
木の蓋があり、紐《ひも》で括《くく》られている。
甕を草の上に置いて、紐を解いてゆく。
「さあ、開けるぞ……」
博雅が蓋を開けると、月光を浴びてきらきらと光るものがあった。
「黄金ではないか」
博雅は言った。
砂金である。
小さな甕とはいえ、中に入っているのは金《きん》である。
「これですよ、朝綱さまがあなたに残されたのは、これだったのです」
晴明が言うと、
「ありがとうございました」
女は頭を下げた。
「朝綱さま亡き後も、このことが気になって、私はこの屋敷から離れることができなかったのです。死して後も、このことが心に残って成仏できませんでしたが、今、ようやく心が晴れた思いがいたします」
女は晴明を見やり、
「どうか、その金は朝綱さまと私とに、どこぞの寺の僧に『観音経』を読んでいただくのに使って下さい。あまりました分は、あなたが自由にされてかまいません……」
言っている女の姿が、月光に溶けてゆくように薄れてゆく。
やがて、女の姿が消えた。
「こういうこともあるのだなあ、晴明よ」
まだ、板切れを手に持ったまま、しみじみと博雅が言った。
「これですんだ。どうだ博雅、続きをやるか?」
「続き?」
「もどって、月が隠れるまで飲みなおそうかと言ってるのさ」
「ああ、そうしよう」
「うむ」
「うむ」
晴明と博雅は、夜露を含んで月の雫《しずく》に濡れたようになっている草を踏みながら屋敷の外へ出た。
門の所で、持っていた板切れを、からんと博雅が地に落とした。
ゆっくりと、ふたりは月光の中を歩き出した。
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漢神道士《からかみどうし》
一
ほろほろと、桜が散っている。
闇の中で、音もなく、桜の花びらが舞い降りてゆく。
風はない。
花びらは、自らの重みで枝を離れ、地にこぼれてゆく。
満開の桜である。
こぼれ落ちてもこぼれ落ちても、頭上には同じ量の桜が満ちている。
その上に、青い月が出ている。
「不思議だなあ、晴明よ──」
そう言ったのは、源博雅《みなもとのひろまさ》である。
「何がだ」
晴明が、低い声で答える。
「この桜がだよ」
うっとりしたような声で言い、博雅は頭上の桜を見あげた。
晴明の屋敷の庭であった。
そこに大きな桜の古木が生えている。
まだ伸びきらぬ春の草があちらこちらの地面から顔を出しはじめているその上に毛氈《もうせん》を敷き、そこに、晴明と博雅はふたりで座しているのである。桜の古木の下であった。
濃い藍《あい》の地に、美しい唐花文様のある花氈《かせん》であった。
遠く、唐《から》の国から渡ってきたものである。
ふたりの間──桜の幹寄りの場所に、灯火台が立てられ、そこに灯りが点っている。
酒の入った瓶子《へいし》がひとつ、ふたりの間に置かれている。
杯がふたつ。
そのうちのひとつは、晴明の右手に握られ、もうひとつは博雅の左手に握られている。
他には、何もない。
ただ、桜の花びらが積もっているばかりであった。
藍の花氈の上にも、博雅の上にも、晴明の白い狩衣の上にも、桜の花びらは降り積もっていた。
博雅が手にした杯の中にも、二枚の桜の花びらが浮いている。
そうして、まだ、しきりに、音もなくしんしんと桜の花びらはふたりの上から舞い降りているのであった。
ふたりの姿も、ふたりの周囲も、雪が積もったように、桜の花びらで白く覆われていた。
「桜?」
晴明が訊いた。
「もうずっと前から、この桜の花びらは舞い落ちてきているというのに、頭の上の桜は、少しも減ったようには見えないではないか──」
「ふうん」
晴明の返事は素っ気ない。
「まるで、おまえのようではないか」
「おれの?」
「ああ──」
博雅は、左手に持った杯を口に運び、花びらごと飲んだ。
「人の才《さい》──安倍晴明《あべのせいめい》という男の才も、また、この桜のようだというのさ」
「どういうことなのだ」
「黙っていても、自然におまえのなかから才がこぼれ出てくるようなものだ」
「───」
「しかも、いくらこぼれ出てきてもおまえの才は、わずかながらも減ったようには見えないのさ」
「ほほう」
「まるで、おまえの内部《なか》で、大きな桜が枝を広げ、無尽蔵《むじんぞう》に花を咲かせながら、花びらを散らせているようだ」
咲き続け、散り続けながら、常に満開の桜が、晴明の内部にある。
その才を散らせば散らせるほど、晴明の内部の桜は、いよいよ花びらの数を増してゆくように見える……
そういうことを、博雅は短い言葉で語った。
「博雅よ、散らぬ花などはない」
晴明は、紅い唇に杯を運び、酒を静かに口に含んだ。
「散るからこその花ぞ」
「しかし、おまえという枝から、全ての花びらが散りきってしまうことなど、おれにはあるようには思われぬのだがなあ……」
しみじみと博雅は言った。
晴明は、博雅を困らせぬ程度に、微かな笑みをその唇に浮かべた。
夜の冷気が、ゆっくりと狩衣を通して染み込んでくるのを楽しんでいるようであった。
「ところで博雅よ。今夜は、何か用事があるのではなかったか」
「おう、晴明よ。実はそのことなのだが……」
博雅は杯を置き、
「藤原|為輔《ためすけ》殿のことは、おまえも知っているだろう」
「うむ。昨年、参議となられたはずであったな」
「そうだ」
藤原為輔は、先の右大臣定方の孫にあたる人物である。左兵衛督|朝頼《あさより》の息子で、蔵人《くろうど》、朱雀院判官代《すざくいんほうがんだい》、尾張守、山城守、右大弁を経て、天延三年(九七五)に参議となっている。
晴明や博雅と、あまり年齢はかわらない。
「この為輔殿のもとに、毎夜、訪ねてくる者がいるというのだよ」
博雅は語りはじめた。
二
深夜──
寝所で為輔が眠っていると、声がする。
「これ……」
男の声である。
「これ、為輔殿、起きられよ」
眼を覚ますと、枕元の暗がりに、ぼろぼろの、白い水干《すいかん》のようなものを着た老人が立っている。
白髪、白髯。
顔には、藁束《わらたば》を押しつけたような皺が寄っている。
風に乱れた蓬《よもぎ》のように、白い髪がぼうぼうと伸びている。
「お目覚めなれば、疾《と》く起きられよ」
何者か!?
誰何《すいか》する間もなく、上体を起こすと右手を握られた。
「ささ、立ちなされ」
不思議なことに、抵抗ができない。
言われるままに立ちあがると、老人は、為輔の手をひいて歩き出した。
「さて、まいりますかな」
どこかで、見たことのある老人であるような気もするし、初めて見る顔のような気もする。
片目である。
左の目がつぶれている。
濡れ縁へ出、素足のまま庭へ降りる。
門の外へ出て、さらに歩いてゆく。
西の方へ向かっているらしいということはわかるが。ではどこへ向かっているかということがはっきりしない。
最初、土の上に降りた時には素足が冷たく感じられたが、歩いているうちに、じきに何も感じなくなった。雲でも踏むように、ふわふわとして足がたよりない。
どれほど歩いたのか。
先の方に、ぼう、と赤く光を放つものがある。
「やあ、見えてきたぞ」
老人が言う。
為輔は、なんだかこの老人が恐くなった。
自分の右手を握っている老人の左手をふりほどき、わあっ、と叫んで逃げ出したいが逃げ出せない。握ってくる力は柔らかく弱いが、いざ、為輔がその手をふりほどこうとすると、握るその力が自然に強くなる。
「なにか、よからぬことを考えたりしてはおりませぬよなあ……」
ぬめりと笑うと、口の中に青い舌が見えた。
その舌の先が双つに割れている。
いよいよ怖ろしくなったが、心のうちを全て見透かされているようで、もし逃げようとしてそれが失敗すれば何をされるかわかったものではないと、おとなしく老人に手をひかれるままになっているのである。
赤く光るものが、だんだんと近づいてくる。
「さあ、ここだ」
そのそばまでやってくると、それは、真っ赤に焼けた、ひと抱えはありそうな二本の鉄の柱であった。
それが、地面に突き立てられている。
「為輔よ、これに抱きつくのだ」
その老人は言った。
「これに?」
為輔は声を震わせた。
何しろ、その鉄の柱は、今にもとろけそうに、真っ赤に焼けているのである。それに抱きつきでもしたら、皮膚はとろけ、肉はじゅうじゅうと音をたてて焼けてしまうであろう。
しかも、気がつけば、なんと自分は裸であった。一糸も身に纏《まと》ってはいない。はじめからそうであったのか、はじめは着ていたのが、どこかで脱がされたのか。
記憶をたどろうとしても、それがわからない。
「さあ、抱きつけ」
声に怖さが加わった。
抱きつけと言われても、鉄の柱は、そばにも寄れないほど赤く焼けている。
困ったまま立っていると、いきなり、どんと背を押された。
つんのめるように前に足を踏み出して、正面から焼けた鉄の柱に抱きついてしまった。
熱い。
声をあげて跳びのこうとしたのだが、身体が焼けた柱にくっついて離れない。
腹。
胸。
両脚の内側。
柱に巻きつけた腕。
柱に押しあてた右頬。
そのどれもが離れない。
全身が焼ける。
悲鳴をあげた。
なんでこんな目にあうのか。
涙が流れている。
泣きながら、柱に抱きついている。
自分の肉や血が、煮えてごとごとと音をたてているのがわかる。
やっと引きはがされた時には、柱に触れていた場所の皮が、べろりと剥《む》けていた。
「今夜は、これで終りだ」
老人は言った。
「明日もまたゆく」
明日?
「明日の晩は、あちらの柱だ」
そうして、また、老人に手をひかれてもどってきたというのであった。
三
「それが、三晩も続いたというのだよ」
博雅は言った。
「三晩?」
「最初は、為輔殿も、妙な夢を見たと思ったらしいのさ」
朝、為輔は、寝ながらうなされているのを家人に起こされた。
「熱や……」
「熱や……」
そう言いながら、為輔は床の中で唸っていたというのである。
起きてみれば、頬や腹のあたりが火照《ほて》ってひりひりしてはいるが、焼けて肉が煮えた様子もない。
さては夢であったかと思っていたら、
「次の晩もまた同じ夢を見たというのさ──」
深夜──
眠っているところを、
「これ、為輔殿──」
声で起こされた。
見れば、また、昨夜と同じ老人が立っている。
「さ、まいりますぞ」
手をひかれて、また、あの焼けた柱のところまで連れてゆかれ、今度は、二本目の柱に抱きつかされた。
そしてまた、うなされているところを家人に起こされたというのである。
老人は、三日目の晩もまた現われ、今度はまた、最初の柱に抱きつかされた。
たまらなくなって、為輔は博雅のところへやってきて、なんで、こう毎夜同じ夢を見るのか、
「晴明殿にうかごうてみてはくれぬか」
相談を持ちかけてきたというのである。
それが、この日の夕刻のことであった。
「ま、どうもそういうことなのだ、晴明よ」
博雅は言った。
「ふうむ」
晴明は、腕を組んで、
「ならば、明日の昼過ぎにでも、為輔殿のお屋敷にうかごうてみるか」
そう言った。
「行ってくれるか」
「うむ」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
四
人ばらいがしてあり、藤原為輔は、ただひとりで、晴明、博雅と対座している。
「まず、そのようなことがあったのでございますよ、晴明殿──」
為輔は、昨夜博雅がした話をあらためて繰り返し、そう言った。
「で、昨夜はいかがだったのですか」
晴明が訊いた。
「いや、晴明殿。実は、昨夜もまた同様のことがあったのでございます」
昨夜ということは、つまり、四夜続けて同じことがあったということである。
「これは、誰ぞが、魘魅《えんみ》か蠱毒《こどく》の法を使って、わたしに呪《まじ》でもかけているのでしょうか──」
為輔は、そう言いながら、濡れた布を頬に押しあてている。
見れば、為輔の頬は、赤く腫《は》れあがっていた。
「それはどうなされたのですか」
晴明が訊いた。
「いやもう、口で言うよりは、これを見ていただけませぬか」
為輔は立ちあがって、
「失礼いたしますぞ」
着ているものの前を開いて、身体の前面の素肌を、晴明と博雅の前にさらけ出した。
「おう」
「おう」
博雅と晴明は、小さく声をあげていた。
為輔の胸から腹にかけての肌が、赤く焼け爛《ただ》れて、ところどころに水ぶくれができ、一部はそこが破れて、血や膿《うみ》までが流れ出していた。
「本当は、こうやってお会いしているのもつらいのですが、おみえと聞いて、こうしてお待ちしていたのです」
為輔は、前を合わせて、またもとのようにそこに座した。
「晴明殿、実際に焼かれずとも、身体がこのようになってしまうことはあるのでございますか」
「はい。呪《しゆ》には、そのような力がございます──」
晴明は頭を下げて言った。
「ほれ、博雅──」
博雅に向かって、小さな赤いものを投げた。
何ごとかと思って、博雅が手を伸ばした時、
「それは焼けた石ぞ」
晴明が言った。
両手で、晴明が投げたものを受けた瞬間、
「熱っ」
博雅は声をあげて、両手で受けたものを放り出した。
それが、床を転がって、為輔の膝先で止まった。
よく見れば、それは焼けた石などではなく、ただの、小さな赤っぽい石であった。
「どうだ、博雅、今、熱さを感じたろう」
「う、うむ」
博雅はうなずいた。
「これも、呪でございます」
晴明は言った。
「なるほど、熱いと思わせれば、熱いものでなくとも、人は熱さを感じてしまうのだな」
「はい」
「ようは、人の心の問題ということか」
「その通りでございます」
晴明は頭を下げた。
博雅は、その横で、不満そうに唇を尖らせていた。
五
しんしんと夜が更けてゆく。
博雅は、まだ唇を尖らせて、晴明に恨みごとを口にしている。
「おい、晴明。やはり、さっきのあれはないと思うぞ」
囁くような小さな声ではあったが、博雅の不満な心の裡《うち》が、その声の中に混じっている。
「あの石のおかげで、おれは為輔殿の前で恥をかいてしまったではないか」
「すまん、博雅」
晴明が言う。
「それはいいが、笑いながら言わないでくれ」
「笑っているか、おれが」
「笑っている」
確かに、博雅の言うように、晴明の唇には、あるかなしかの微かな笑みが含まれているように見える。
「そんなことはない」
「ある」
博雅の唇がまた尖る。
藤原為輔の屋敷の、門の外である。
大きな松が近くに生えており、その陰に、晴明と博雅は潜《ひそ》んでいる。
「待て、博雅」
晴明が、博雅の唇を押さえた。
何か言いかけた博雅を、
「しっ」
晴明が制した。
「来た」
ほとんど唇の動きだけで、晴明は言った。
しかし、博雅の眼には何も見えない。
中天にかかった月が、濃い松の影を地に落としているだけである。
そのうちに、
きいっ、
と、軋《きし》み音をあげて、門が開いた。
口を塞《ふさ》がれたまま、博雅の目が大きく見開かれた。
晴明が手を離した時、
「おい、晴明、おれには何も通ったようには見えなかったが、今、門が開いたぞ」
博雅は言った。
「だから今、通っていったのさ」
「何がだ?」
「為輔殿を脅《おびや》かしているものがだ」
「なんと」
「今、この場所はおれの結界が張ってあるが、出てきたら、後を追うことになる」
「追うか」
「そうなれば、結界の外に出ることになる」
「う、うむ」
「博雅、これを懐に入れておけ」
晴明が、懐から何やら取り出した。
握れば、掌《たなごころ》からややはみ出るほどの大きさの、木の札であった。
月の光で見れば、何やら、文字が記されている。
「何と書いてあるのだ。おれにはとても読めぬぞ」
「百鬼夜行からおまえの身を見えなくしてくれるものだ──」
「お、おう」
「よいか、博雅、後をつけはじめたら、声を出すなよ。おれに話したい時には、息だけでしゃべることだ。わかったな」
「わ、わかった」
博雅がうなずいた時──
「来たぞ」
晴明が言った。
すると、ほどなく、門からふたりの人間が出てきた。
ひとりは、ぼろぼろの、白い水干に似たものを着た、白髪、白髯の老人であった。
そして、もうひとりは、その老人に手をひかれている、藤原為輔であった。
為輔は、全裸であった。
その身体の前面が、昼に見た時よりもずっと焼け爛れており、肉も、焼かれて白くなっている。
ゆるんで前にせり出した、しかも焼け爛れた腹の肉を見せながら、為輔が老人に手をひかれてゆく。
「よし、ゆくぞ」
晴明が足を前に踏み出した。
「うむ」
博雅が晴明に続いた。
六
西に向かって、老人と為輔が歩いてゆく。
すでに、城外へ出ている。
ふたりは、ゆっくりとしか歩いていないように見えるのに、その速度は、人が普通に歩くのよりもずっと速い。
博雅は、ほとんど小走りになっている。
ほんのしばらく前に渡った川は、天神川であった。
もう、人家はあたりに見えない。
野の道を、時おり、右に行ったり、あるいは左に行ったりしてはいるが、おおむねの方向は西であった。
ゆくうちに、ぼうっと赤い光が見えてきた。
近づいてゆけば、話に聴いたように、それは、真っ赤に焼けた、二本の鉄の柱であった。
老人は、為輔の手を放し、
「さあ、またこの柱に抱きつくのだ」
そう言った。
為輔は、泣きそうな顔で老人を眺めている。
「早くやらねば、一生毎夜通うてやるぞ」
老人が言った。
為輔は、いやいやをするように、首を左右に振った。
「それい」
老人が、どん、と背を押すと、たたらを踏んで為輔は柱に倒れかかり、倒れまいとするように、そこへしがみついた。
「熱や」
「熱や」
為輔が声をあげる。
と──
声をあげている為輔の身体のあちこちから、煙があがりはじめた。
そのうちに、
「ぎゃっ」
と叫んだかと思うと、為輔の身体が燃えはじめた。
めらめらと、大きな炎があがった。
ゆらりと、炎にまかれた為輔の身体が、宙に浮きあがった。
見れば、それは為輔ではなく、人の形に切り抜かれた紙であった。
その紙が、燃えながら、幾つかに分かれて天に登ってゆく。
「おのれ!」
老人が、叫んで、食い縛った歯を見せた。
「このわしを、誰ぞがたばかったなあっ」
周囲を睨《ねめ》まわした。
「あの為輔にこのような真似ができるわけはない。どこぞの坊主がやったか、陰陽師が出てきたか──」
「わかりましたか」
涼しい声で答えたのは晴明であった。
老人が振り向いた。
「なんとも、罪なことをいたしますね」
晴明が老人に向かって歩いてゆく。
「お、おい晴明……」
博雅が囁き声で言いながら、太刀に手をかけ、晴明を守るように、横へ並んだ。
「もう、声を出してもよいぞ、博雅」
「おう」
ほっとしたように博雅が息を吐いた。
すると──
老人は、片目でふたりを睨《にら》み、
「おのれらか、わしの邪魔をしたのは……」
そう言う唇から、先が双つに割れた青黒い舌が覗く。
「今度は、おのれらの家に通って、この柱を抱かせてやろうかよ」
その言葉に、ぞくりと博雅は肩をすくませて、
「い、いつでも来るがよい」
博雅は言った。
「いかん、博雅」
晴明が言った時──
「言うたなあ──」
にいっと、老人が笑った。
「わしが言葉に返答したが、ぬしの不運よ。明日の晩は、おまえの許《もと》にゆこうぞ」
双つに割れた舌先をひらひらと踊らせたかと思うと、老人の姿がふっと消えた。
博雅が気がついてみれば、そこは、春の野であり、一本の大きな桜が、ふたりの頭上に満開の花びらをつけた枝を広げていた。
その枝から、月光の中をほろほろと桜の花びらが散っている。
博雅と晴明は、その下に立っている。
もう、老人の姿も、焼けた鉄の柱もない。
「おれは、何か、まずいことを言ってしまったか」
博雅は言った。
「言った」
「そうか」
「これで、あいつは、おまえのところにやってくることになるぞ」
「本当か」
「おまえが、言葉を与えてしまったからだ。博雅──」
「言葉を?」
「呪《しゆ》がかかってしまった。こうなったら、急がねばならぬ。今夜のうちに、これをおさめてしまわねば──」
「どうするのだ」
「もどる」
「もどる?」
「藤原為輔殿の屋敷までな」
七
「すると、五日前に、天神川の向こうまで、お出かけになられたというわけですね」
晴明が問うた。
「はい」
うなずいたのは、藤原為輔である。
暗い部屋であった。
灯火をひとつ、点しただけである。
人ばらいをしてあるので、安倍晴明、源博雅、そして、藤原為輔の三人だけである。
蔀《しとみ》を下ろしているので、庭に注いだ月明りの照り返しも、そこまでは届いて来なかった。
あるのは、小さな灯火の明りのみであった。
「天神川を越えて、嵯峨野方面に少し行ったところにある桜が、みごとに花を咲かせているというので、それを見物に出かけたのです」
牛車《ぎつしや》が三台。
供の者を何人か連れて出かけた。
気の利いた酒を用意し、腹に溜るものもほどよく揃え、屋敷を出たのが昼前である。
その桜の下に、茣蓙《ござ》や毛氈を敷き、楽師に和琴を弾かせたり、笛を吹かせたりしながら時間を過ごしていたのだが、少し寒くなってきた。
その日は、ことのほか雲などが多く、陽が翳《かげ》ることが多かった。午後になって風が出てきたために、肌に感ぜられる温度が下がり、寒くなった。
湯を沸かすていどの薪は揃えてきたのだが、暖を取るための薪の用意まではなかった。
そこへ、やってきたのが薪売りであった。
小袖を袖襷《そでだすき》にして尻にからげ、編笠を被っている男であった。
嵯峨野の山の中で薪を取り、それを城内に売りにゆくところだというのである。
「それを、全部買おうではないか」
男が持ってきた薪を、全て買いつけてしまった。
その薪を桜の下で燃やし、暖を取りながら酒を飲んでいたのである。
そこへ、妙な老人がやってきた。
白い水干のようなものを着ていたが、それもぼろぼろで、あちらこちらがやぶけている。
「酒を一杯もらえませぬか」
と言う。
その顔はと見れば、頬がびくびくと震え、酒をもり飲んでいるかのように喉が上下に動いている。
酒を用意してきたとはいっても、たくさんあるわけではない。
「のう、一杯……」
その声までが、ひきつれたように震えている。
身なりも汚く、顔も、見えている肌の表面も垢じみていて、いやな臭いまでする。
「酒はやれぬ」
為輔はそれを断った。
「のう。そう言わずに、一杯だけ……」
しつこく迫り、断っても帰ろうとしない。
火をいじっていた供の者が、焚火の中から熾火《おきび》をつまみ出し、それを老人に向かって放り投げた。
それが、老人の懐に入った。
「熱っ!」
と叫んで老人は地面に転げ、ようやく熾を外へ出して、その場から去っていった。
また、しばらく酒を飲んでいると、焚火の炎で元気になったのか、穴から出てきたのか、いつの間にか一匹の蛇が毛氈の上を這っていた。
蛇は、毛氈の上に置かれていた杯に近づき、その中にある酒に向かって、ちろちろと舌を伸ばそうとしているところであった。
為輔はびっくりして、ちょうど、真っ赤に焼けていた火箸の先で、その蛇の頭のあたりを突いた。
その時、火箸の先が、蛇の左の眼に刺さった。
「わっ」
と声をあげて、火箸ごと蛇を放り投げると、蛇も火箸も近くの藪の中に落ちた。
老人といい、蛇といい、確かに花はみごとだが、おもしろくないことが起こるので、早々に為輔はそこをひきあげてきた。
「考えてみれば、そのことがあったその晩に、あの老人が枕元に立ったわけですな」
と為輔は言った。
「酒を求めにやってきた老人と、枕元にやってきた老人とは、同じだったのでしょう?」
「おっしゃる通りですよ、晴明殿。しかし、どうしてそのことに、今まで気づかなかったのでしょう」
「向こうが、気づかぬように呪《しゆ》をかけていたのでしょう」
「それが、今、気づいたのは?」
「向こうが、あなたから、とりあえず矛先《ほこさき》を別の人間に代えたからです」
「別の人間?」
「こちらにいる、源博雅ですよ」
「何ですって?」
為輔は、博雅を見やった。
「どうも、まあ、そういうことになってしまったらしいのだよ」
博雅は言った。
「だいじょうぶなのですか」
問うてきた為輔に、
「そこで、お願いがあるのですが」
晴明は言った。
「何でしょう」
「酒を、瓶子に二本ほどいただけますか」
「酒を? 何のためにですか」
「博雅と飲むためですよ」
晴明は言った。
八
ほろほろと、桜が散っている。
ほろほろと、酒を飲んでいる。
桜の樹の下に、毛氈を敷いて、灯火をひとつ。
博雅と晴明が、月光の中で酒を飲んでいる。
ほろほろと、桜が散る。
微風がある。
すでに、桜の盛りは過ぎて、風が吹くたびに、無数の花びらが枝から離れてゆく。
まるで、雪の中にいるようであった。
「これで、よいのか、晴明よ」
博雅が問う。
「よい」
晴明が答える。
「酒を飲むだけでか」
「ああ」
「何もせずに?」
「酒を飲んでいるではないか」
晴明が、空になった博雅の杯に、酒を注ぐ。
博雅がそれを受けて、杯を口に運ぶ。
「博雅よ。笛の用意はあるか」
「葉双《はふたつ》ならば、いつでも持っている」
葉双というのは、博雅が朱雀門の鬼から手に入れた笛である。
「何か、吹いてくれぬか」
「おう」
博雅は、杯を置き、懐から葉双を取り出した。
笛を唇にあて、吹き始めた。
なめらかな色を持った笛の音が滑り出てきた。
その笛の音が、落ちてくる花びらの中を青い鱗《うろこ》を持った龍のように昇ってゆく。
月光をからめとり、横に流れ、夜気の中に溶けてゆく。
吹いているうちに、博雅はうっとりとなって、眼を閉じていた。
「来たぞ……」
晴明が、囁いた。
博雅が眼を開くと、いつの間にか、灯火の向こうの月光の中に、あの、白髪の老人が立っていた。
「そのまま続けてくれ」
晴明が言う。
老人は、笛の音に耳を傾けるようにして、眼を細めて、ふたりを眺めている。
「さきほどのふたりじゃな……」
老人がつぶやいた。
数歩、晴明の方に足を運んで、
「何しにまいった?」
「酒を飲みに来た」
晴明は言った。
「酒を?」
「一緒に飲《や》らぬか」
晴明が言うと、老人は、ごくりと喉を鳴らし、先が双つに割れた舌を出して、自分の唇を舐《な》めた。
「どうだ」
晴明にもう一度うながされ、老人は歩み寄ってくると、毛氈の上に座した。
ほろほろと花びらが散る。
博雅の笛が、花びらとたわむれている。
月光と睦《むつ》みあっている。
「さあ──」
晴明が、自分の杯に酒を満たし、それを老人に差し出した。
「よいのか、飲んで……」
「飲んでもらいたいのさ」
晴明は言った。
「う、うむ」
ちろりと、また、舌が踊り出てくる。
老人は、震える両手で杯を受け取り、鼻を近づけてその匂いを嗅いだ。
「おう、甘露の香りじゃ……」
眼を閉じ、杯を口に運び、それを傾けてゆく。
老人は、眼を閉じ、恍惚として、酒を飲み干した。
「極楽……」
つぶやいて、老人は杯を置き、ほう……と大きく息を吐いた。
眼を開き、晴明を見やり、
「さて、何からお話しいたしましょうかな」
落ち着いた声で言った。
もう声は震えていない。
「何からでも……」
晴明は言った。
「酒の礼じゃ。何もかも話してしんぜよう」
老人は、眼を閉じ、そして、落ちる花びらの中で語り出した。
「わしは、姓《かばね》を史《ふひと》という……」
「では、唐《から》の国のお血筋ということですね」
「そうじゃ」
老人はつぶやいた。
「漢《あや》氏ということになる」
古代、倭国へ帰化した人間たちといえば、その双璧《そうへき》が、秦《はた》氏と漢氏であった。
秦氏が技術者集団ならば、漢氏は文筆をもって朝廷に仕えた人間たちである。
五世紀、朝廷より史の姓を与えられ、史部といった部民を設けられて発展していった。
「かつては、我が史も、この桜のごとくに栄えたこともありましたが、今は、衰え、血も混ざり、藤原の世となり、往時の栄華は見る影もありませぬ」
老人は、閉じていた右眼を開き、
「若い頃より酒が好きで、酒の上のいさかいで人を殺してしまったのは、まだ、三十歳になる前でござりました。流浪の身となって、道士のまねごとをしながら四十五年。ついに、この桜の下で果てたのが、百二十年前……」
つぶやいて、また眼を閉じた。
「死ぬ前に、せめてあと一杯の酒を飲みたしと思えど酒はなく、その想いが凝って成仏できませなんだ」
老人は、微かに顔を上に向けたまま、まだ眼を閉じている。
その瞼《まぶた》の上にも、白髪の上にも桜が散りかかる。
「そこへ、五日前の晩、百二十年ぶりに酒の匂いを嗅ぎました。もうたまらなくなって、せめてひと口の酒にあずかろうと──」
「出てまいられたのですね」
「さよう」
「ところが、酒を飲めなかったばかりか、火箸で眼を……」
「はい」
「眼を突かれた蛇は?」
「あの、桜の根元に近い草叢《くさむら》の中に、わたしのしゃれこうべが転がっております。六十年ほど前に、そのしゃれこうべの中に棲みついた蛇に、わたしの念が宿ったものでありますれば、我ら、一心同体……」
言った老人の唇の間から、ひゅう、と長い先が双つに割れた舌が出てきて、下に置かれていた杯の底を舐めた。
「良き酒をこのような桜の下で飲み、かような笛を聴くことができるとは──」
老人が言葉をつまらせた。
老人の眼から、涙がひと筋、ふた筋、流れている。
「冥利《みようり》……」
そのつぶやきを残し、ふっ、と老人の姿が消えた。
九
晴明と博雅が、老人の言った草叢に灯を掲げて見れば、そこに、ひとつのしゃれこうべが転がっていて、その中に、片目のつぶれたやまかがしが一匹死んでいた。
そのしゃれこうべの横の地面に、二本の火箸が突き立っていた。
晴明が、二本目の瓶子の口を開いて、中の酒を注いでやると、しゃれこうべが、ほんのりと赤く染まったように見えた。
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手をひく人
一
昼から酒を飲んでいる。
安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷の濡れ縁──簀《すのこ》の上に座し、源博雅《みなもとのひろまさ》は、酒の満たされた瑠璃《るり》の盃を右手に持って、晴明と向かいあっている。
晴明がやはり細い右手の指先で持っているのも、瑠璃の盃であった。
異国の盃──胡《こ》の国のものであった。
梅雨は十日ほど前に明けて、すでに夏に入っている。
文月の初め。
強い陽差しが、庭に照っている。
暑い。
動かずにいても、博雅の背には汗が滲《にじ》んでくる。
庭に生《お》い繁った夏草は、人の腰のあたりまで伸びている。
桔梗《ききよう》や、女郎花《おみなえし》も咲いているが、まだ夏草の勢いが強い。鬱蒼《うつそう》とした野山の一画を、そのままこの庭へ持ってきたようであった。
風が、草を揺らすたびに、むっとした草いきれが届いてくる。
陽は、ようやく中天から傾きかけてはいるが、山の端に届くまでにはまだ時間がある。
晴明は、ふうわりと白い狩衣を纏《まと》っている。
背を柱の一本にあずけ、右膝を立て、盃を持った右手の肘を、その膝の上にのせていた。
その額にも首筋にも、ひとつぶの汗も見えない。
晴明が細い指先に持った、瑠璃の盃の透明な緑の色が涼しげであった。
ふたりの間の濡れ縁の上に置かれているのは、瓶子《へいし》が一本。
そして、塩を振って焙《あぶ》った鮎ののった皿が一枚。
鮎を肴に飲んでいる。
「晴明よ、おまえ、暑くはないか」
博雅が訊いた。
「暑いさ」
赤い唇から盃を離して、
「あたりまえではないか」
晴明は言った。
「しかし、おまえ、少しも暑そうには見えぬ──」
「見えようが見えまいが、暑いものは暑いのさ」
すました顔で晴明が言う。
「そういう顔をしていられるおまえが、うらやましい」
博雅は、そう言って鮎をつまんで口に持ってゆく。
「よい鮎だ」
博雅は、骨からほっこりとれた身を齧《かじ》りながら言った。
「鴨川の鮎さ」
「ほう」
「鵜匠《うじよう》の賀茂忠輔《かものただすけ》が、しばらく前に持ってきてくれた鮎さ」
「おう、黒川主の一件の時の賀茂忠輔か」
「千手《せんじゆ》の忠輔よ」
「しかし、どうしてまた忠輔が──」
「いや、あれ以来、時期になると、こうして鮎を届けてくれるのだが、実はこのたびは別の用事もあってな」
「別の用事?」
「おれでなくては駄目な方面の用事さ」
「また、忠輔のところで妖異《ようい》でもあったのか?」
「ま、妖異には妖異だが、忠輔のところではない」
「どこだ?」
「忠輔とは知り合いの、竹取りの猿重《さるしげ》という男のところさ」
「竹取り?」
「山へ入って竹や蔓《つる》を取り、籠《かご》を編んだり箕《み》を造ったりして、それを売っている。もともとは重輔《しげすけ》という名前であったが、身の軽い男で、たやすく樹に登っては蔓などを手に入れてくる。で、いつの間にか猿重と呼ばれるようになり、当人も気に入ってその名を使っているのさ。ま、これは忠輔から聴いた話だがな」
「で、妖異というのは?」
「忠輔が言うには、まあ、このようなことらしいのさ」
晴明は語りはじめた。
二
猿重の住んでいるのは、法成寺に近い、鴨川のほとりである。
水の来ない土手の上に小屋掛けをして、妻とふたりで住んでいる。
竹を取り、蔓を取り、それを編んで都へ売りにゆき、なんとか日々の暮らしをたてていた。
賀茂忠輔のところにも、魚や鵜を入れる籠を編んでは持ってゆく。
最初に妖異があったのは、六日前の晩であったという。
用事があり、夫婦で大津まで出かけてゆき、帰ってきた晩のことである。
帰りの道中で、猿重は、つまらぬことから妻といさかいをした。
大津へは、魚を捕えるための籠を売りに行ってきたのである。
猿重の工夫した籠であった。
竹で筒状の籠を編み、胴にくびれを作って、入口を大きくする。そして、もうひとつ小さな竹の筒を作る。こちらは、籠ではなく、両方に口のある文字通りの筒である。ただし、この筒は、一方の口が大きく、一方の口が小さい。漏斗《じようご》の形をしている。
これを、先に作った籠のくびれのところに嵌《は》め込むのである。
小さな筒の、小さな口を奥に、大きな口を外に。
大きな口は、くびれと同じ太さであり、そこにぴったりと嵌《はま》り込む。
これで、籠の中に、ミミズだの、死んだ魚だのの餌《えさ》を入れて、川や池に沈めておく。
ひと晩これをそのままにしておき、翌朝水からあげると、中にたくさんの鮒《ふな》や鯉《こい》、鰻《うなぎ》や雑魚、カニが入っている。
似たような籠を使って漁をする者もいるが、猿重の工夫したものの方が、具合がいい。
その評判を耳にして、大津に住む琵琶湖の漁師から、籠の注文が来たのである。
もともとは、鴨川で魚を捕《と》り、自分たちの口を凌《しの》ぐためにそのような籠を考え、それを使って魚を捕っていたのだが、忠輔がそれをおもしろがって、自分でも使いはじめたのがきっかけであった。
「こいつはなかなか具合がいい」
忠輔から、猿重籠の評判を耳にして、大津の漁師仲間が、我も我もと、欲しがったのである。
それを、夫婦で大津に納めてきたのである。
帰りの喧嘩は、妻の方から始まった。
「何だって教えちまったのさ」
妻は言った。
籠を売るだけでなく、大津の漁師に、独自の工夫の籠の作り方まで、猿重は教えてきてしまったのである。
妻はそれをなじっているのである。
「しかし、おまえ。あんなのは隠そうったって、隠せるもんじゃあない。おれの籠を見ながら、多少手先の器用な人間がまねれば、幾らだってできちまうものだ」
「だからといって、編み方まで教えることはないじゃないの」
「そう言うな。あちらだって、たいへんに喜んでくれたんだし、おれの籠だって、いい値段で買いあげてくれたんだぞ」
「でも……」
とうとう、鴨川を渡る橋の上までそのいさかいは続き、その晩は、ふたりは離れて眠った。
その夜に、猿重の小屋を訪ねてきた者があったのである。
猿重が眠っていると、
「もし……」
声がする。
「もうし……」
小屋の外からである。
闇の中で眼を開けてみれば、小屋の入口に掛けた筵《むしろ》の透き間から、中に細く月光が入り込んでいる。
「もうし、猿重殿──」
その筵の向こうから声がする。
誰かが入口の前に立って、声をかけてくるのである。
眠い眼をこすりながら、猿重は立ちあがった。
まだ、半分寝ぼけているらしい。
頭がはっきりしない。
「じきに流されまするぞ」
声が言う。
男の声である。
「このままでは、じきに流されまするぞ」
聴いたことのない声であった。
筵をめくると、月光の中に、ひとりの男が立っていた。
マチを入れた小紋の袴《はかま》を穿《は》いている。
「ささ、お早く猿重殿──」
男は、入口に立った猿重の左の手を右手で握った。
「流されまするぞ、流されまするぞ」
そのまま、猿重の手をひいて歩き出した。
いったい何が流されるのか、それに自分がどういう関係があるのか。
それを訊ねたいのだが、どういうわけか言葉がうまく出てこない。喉のあたりに何か詰まっているような感じである。
土か、小石か、何かが喉に詰まっているように声が出てこない。
「流されまするぞ、流されまするぞ」
急《せ》いたように、男は猿重の手をひいてゆく。
鴨川に沿って、土手を川下の方に向かって歩いてゆく。
月明りの中であった。
川音が闇の奥から届いてくる。
やがて、橋が見えてきた。
昼間渡った鴨川にかかる橋であった。
こもんの橋と、このあたりの者たちが呼んでいる橋である。
「ささ、こちらへ──」
男が、猿重の手をひいて、月明りの中、橋を渡ってゆく。
猿重がその後に続く。
「流されまするぞ、じきに流されまするぞ」
男は口の中でつぶやいている。
橋の中央まで歩いてきた男は、そこで急に向きを変えた。
左──
上流側の高欄《こうらん》に向かって、猿重の手をひいて歩き、
「ささ、こちらでござりまするぞ」
高欄を越え、猿重の手を握ったまま、男は下の川に向かって飛び込んだ。
強い力で猿重の手がひかれた。
川に落ちるかと思われたその時、
「あなたっ」
高い女の声が聴こえた。
「危ない!」
猿重の身に、誰かがしがみついてきた。
はっと気がつけば、その女は妻であった。猿重は高欄に腹まで身を乗り出して、上から暗い水面を見降ろしていた。もう少しで川に落ちるところであった。
「死ぬつもりだったの、あなた」
妻が言った。
猿重は、額にびっしょり汗をかいている。
「い、いや、死ぬつもりなんかない。さっきおれを訪ねてくる者があって、その人にここまで手をひかれてやってきたのだ」
そう言ったが、顔は青ざめている。
「何を言ってるのよ、あなた。あなたはずっとひとりだったわよ。いったい、誰があなたの手をひいていたっていうの」
「だって、おまえ、つい今まで、おれと一緒に男が……」
「誰もいなかったわ」
妻は言った。
こういうことであった。
寝床で眠っていた妻は、向こうで、夫がごそごそと起き出す気配に気がついて、眼が覚めた。
「あなた……」
声をかけたが、夫は気のつく気配がない。
やがて、夫は入口の筵を開けて外へ出て行った。
初め、妻は、どこかに夫が女を作ったのかと思った。
女に会いにゆくために、夫はどこかへ行こうとしているのだと。
妻は、後をつけることにした。
つけてゆくと、夫は、たった独りで土手を川下の方へ歩いてゆき、やがて、昼間も大津からの帰りに渡った橋の袂《たもと》に出た。
夫はその橋を渡ってゆく。
橋の中ほどまできた時、夫は急に向きを変えて、橋の高欄を乗り越えようとした。
昼間のいさかいくらいのことで、まさか夫が死のうとしているはずもないのだが、高欄を越えて川に落ちれば、まず死んでしまうだろう。
それで、妻は、大声で夫に声をかけたのだという。
夫が我に返った。
妻から話を聴いて、男はぞっとした。
妖異は、その翌日も起こった。
夜──
猿重が眠っていると、妻の起きあがる気配があった。
厠《かわや》へでも立つのかと思っていたが、どうも様子がおかしい。
厠は外にあり、そのまま歩いて出てゆけばいいものを、入口の筵の前に立って、
「はい……」
誰やらにうなずいている気配がある。
このあたりまでは、猿重もまだ半分眠っていて、頭がはっきりしていないのだが、妻が外へ出て行ってから、はっと気がついた。
昨夜、自分がどういう目にあったのかを思い出したのである。
寝床の中から起き出して、妻の後を追って外に出た。
しかし、もう妻の姿はない。
妻は、土手の上を、もう、向こうの方へ向かって歩いている。
月明りに見てみれば、土手の上をゆくのは妻が独りだけである。
妻は、誰かにひかれているように左手を前に出し、ひたひたと歩いてゆく。
歩いてゆくとしか見えぬのに、その速度は小走りにゆくのと同じくらいに速い。
もしや──
と、猿重は思った。
昨夜、自分の身に起こったのと同じことが、今度は妻の身に起こっているのではないか。
昨夜、自分は確かに男の声を聴き、男の姿を見たと思ったのに、妻は誰の声も聴かず、誰の姿も見ていない。
今、自分が見ているのと同じである。
妻は今、誰かの声を聴き、誰かの姿を見ているのかもしれない。
そして、自分の手をひいている誰かの手の力もしっかりと感じているのかもしれない。
妻を追おうとしたが、足がすくんだ。
これが、何も知らない時であれば、妻の後を追いもしようし、声もかけよう。
しかし、自分は昨夜のことを妻から聴いてしまっている。
明らかに妻の様子はおかしい。
昨夜、自分の手をひいて、橋の下の川に引きずり込もうとしたのと同じ手が、今、妻の手をひいているのだろう。
おそろしい鬼か、もののけが、今、妻に取り憑いているのだろうと思うと、妻を追う気持が萎《な》えそうになる。
躊躇《ちゆうちよ》しているうちに、たちまち、妻の姿は向こうの方へ行ってしまった。
さすがに、このまま妻を放っておくわけにはいかないという気持になって、猿重はその後を追った。
妻の足は速い。
ようやく追いつこうとした時には、もう、妻はあの橋を渡ろうとしていた。
猿重は急いだ。
猿重が橋の上に足を踏み入れた時、妻はもう、橋の中ほどで、高欄を越えようとしていた。
「待てっ!」
猿重は大声で叫び、妻の名を呼んで走り出した。
猿重の声を聴いて、はっとなり、我に返った妻の身体は、しかしもう半分橋の高欄の上から出かかっていた。
その身体を、駆け寄った猿重が後ろから抱きとめた。
橋の上にもどされ、自分を助けたのが夫と知って、妻は猿重の身体にしがみついてきた。
その身体が小刻みに震えている。
自分に何が起こったのか、わかったらしい。
小屋にもどってから話を聴いてみれば、昨夜、猿重に対して起こったのとまったく同じことが、妻の身にも起こったのだということがわかった。
ただし、妻に声をかけてきたのは、男ではなく女であったという。
その夜、名を呼ばれ、筵を開けてみれば、そこに青い小袖を着た女が立っていた。
「急がねば、流されまするぞ」
その女は言った。
「ささ、早う、こちらへ──」
女は、妻の手を取って歩き出したのだという。
妻は、半分夢心地である。
「昨夜は、のんびり歩いてしくじりましたが、今夜は疾《と》くまいりますぞ」
そう言って、女は道を急いだというのである。
もしも、猿重が助けねば、昨夜猿重当人がそうであったように、妻は川に落ちて死んでいたろう。
翌日──
夜になって、猿重も妻も今度は眠らなかった。
竹を割る鉈《なた》をすぐ足元に置き、囲炉裏に火を燃やして、眠らぬようにふたりで話をした。
そして、真夜中頃──
「もうし」
「もうし」
男と女の声がした。
後で話をしてみてわかったのだが、猿重には男だけの声が聴こえ、妻には女の声だけが聴こえたのだという。
「おいでなされませ」
「おいでなされませ」
ふたりの声が、聴こえてくる。
「早うせねば、流されてしまいますぞ」
「流されてしまいますぞ」
「ささ、ここをお開け下され」
「お開け下され」
「ここを」
「ここを」
猿重と妻は、囲炉裏の横で、互いの身体の震えを止めようとするように抱き合った。
猿重は、鉈を右手に握って歯を噛みしめている。
その歯が、かちかちと鳴る。
「お開け下さらねば──」
「我らは入ることかないませぬ」
「入れと言うて下されい」
「言うて下さりませ」
「言うて下さらねば、入るところを捜しまするぞ」
「捜しまするぞ」
そういう声が聴こえ、相手の動く気配があった。
ふたりは、左右に別れたらしく、右と左に、足音らしきものが小屋のすぐ外側を回り込んでゆく。
足音が止まり、
「ここか」
「ここか」
声が聴こえるたびに、小屋の外に打ちつけてある板が、かたかたと動く。
「ここは少し狭いのう」
「この板は四日後の晩までじゃ」
「風で飛ぶな」
「うん、飛ぶ」
「飛べば入れるが、四日後ではのう」
「四日後では遅い」
「ううむ」
「ううむ」
また、ふたつの足音が入口にもどり、
「のう、猿重殿──」
「奥方殿──」
「開けて下され」
「開けて下され」
「入れと言うて下され」
「入れと言うて下され」
「さもないと、流されてしまいまする」
「さもないと、流されてしまいまする」
ふたりの恨みごとを言う声は、ひと晩中続いた。
その翌晩も、また翌晩も同じことがあり、とうとうふたりはたまらなくなって、知人の賀茂忠輔のところへ相談に行ったというわけなのであった。
三
「で、今日、忠輔が鮎を持って来がてら、おれにそのことを話していったというわけなのだ」
晴明は言った。
この話の間に、陽は大きく西に傾いている。
庭に差す陽が斜めになっていた。
速い速度で雲が動いているらしく、庭にもその影が落ちている。
「なるほどなあ──」
博雅はうなずき、
「しかし、どうして、男と女のふたりのあやかしは、小屋の中に入ることができぬのだ」
晴明に問うた。
「家の囲いというのは、一種の結界でな。その家に、縁もゆかりもない|もの《ヽヽ》にとっては、たやすくは入ることができぬのさ。もしも、猿重たち夫婦と、その男と女との間に強い関わりがあれば別だがな。そうでなければ、中にいる者が入れと言うか、入口でも窓でも、大きく開けておかねば、あやかしといえども、簡単には入ることはかなわぬのさ」
「ほほう」
「しかし、あやかしの方の思いがもっと強くなれば、いずれは中に入ってこよう」
「むう」
「話の様子からすれば、今夜あたりが危なかろう」
「四日後の晩とか言うていたな」
「あれが今晩さ」
「むむう」
「今夜あたり、何かおこるであろうよ」
晴明は言った。
「何が?」
「さあて──」
晴明が見あげた空に、いつの間にかたくさんの雲が動いており、西から東へと流れてゆく。
陽光が、雲に隠されて、外が暗くなっている。
風が出てきて、庭の草がざわめいている。
「で、晴明よ、おまえ、忠輔には何と返事をしたのだ」
「いつも、うまい鮎をもろうているのでな。なんとかできるかどうかはわからぬが、ゆかねばなるまいよ」
「ゆくのか」
「うむ」
「いつ?」
「今晩さ」
晴明は、さらに雲が隠してゆく天を見あげ、
「博雅よ、おまえはどうする」
そう言った。
「う、うむ」
「ゆくか」
「うむ」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
四
晴明と博雅が、忠輔の案内で猿重の小屋に着いた時には、河原中の草が左右に揺れて、あたりはすっかり暗くなりかけていた。
夕刻になったというだけではなく、雲が分厚く空一面を覆《おお》っていたのである。
「これは、嵐になるな」
博雅が言った時、小石のように太い雨滴がひとつ、晴明の頬を叩いた。
忠輔は、晴明と博雅を猿重に紹介すると、慌《あわただ》しく、自分の家に帰っていった。
驚いたのは、猿重であった。
晴明がこの小屋までやってくるというのでも、恐縮しているところへ、殿上人《てんじようびと》の源博雅までがやってきたからである。
しかも、ふたりとも、牛車も使わずに徒歩《かち》であった。
黒川主の一件で、晴明と博雅については忠輔から聴かされてはいたものの、ふたりを実際に眼の前にして、言葉もない。
晴明は、小屋に入るなり、囲炉裏の前に座して、懐からふたつの木で作った人形《ひとがた》を取り出した。
人形を左手に握り、囲炉裏の中から燃え残った炭を拾いあげて、そこに猿重の名を書いた。
もうひとつの人形には、妻の名を書き入れ、
「さて、おふたりの髪を何本かいただきましょうか」
猿重の髪と妻の髪を手に入れて、その髪を人形に結びつけた。
猿重の髪は、猿重の名を書いた人形へ。
妻の髪は、妻の名を書いた人形へ。
「では、着ているもののどこかを裂いてもらえますか」
猿重と妻が着ているものを裂き、その布切れを、人形へ着せるように巻きつけた。
猿重の小紋の袴から裂いた布を、猿重の人形に着せ、妻の小袖から裂いた布を、妻の人形に着せた。
「これで、用意が整いました」
晴明は言った。
「それで、だいじょうぶでしょうか」
不安そうに、猿重が訊いた。
「だいじょうぶでしょう。少し、思うところもありますしね」
晴明がそう言った時、低い、地鳴りのような音が、遠くから近づいてきた。
その音が大きくなり、いきなり、屋根を激しく雨が叩きはじめた。
近づいてきた地鳴りに似た低い音は、雨足の音だったのである。
小屋の周囲の草が、ざわざわと大きくうねりはじめた。
「嵐だ。ついに来たぞ、晴明」
博雅は言った。
「火を──」
晴明が言うと、猿重が、用意していた薪を囲炉裏の火にくべた。
最初は、青い煙をあげていた薪も、ほどなく音をたてて赤あかと燃えはじめた。
「こんな晩でも、来るのでしょうか」
おそるおそる、猿重が訊いた。
「来るさ」
自信ありげに晴明は答えた。
「さあ、博雅よ。用意していた酒を出してくれ。ふたりが来るまで、一杯やりながら待つとしようじゃないか」
五
酒を飲んでいる。
囲炉裏を囲んで、晴明と博雅、猿重とその妻の四人が、土器《かわらけ》の杯で酒を飲む。
外では、いよいよ激しく嵐が騒いでいる。
鴨川の瀬音が、今はごうごうという轟《とどろ》きとなって、闇の底から届いてくる。
大きな岩が、濁流に流され、水の中で岩と岩とがごつんごつんとぶつかり合う音までが聴こえてくる。
時おり、稲光が走ったかと思うと、続いて天地を揺るがすような雷鳴が轟く。
それまでは、炎の灯りだけで見えていた晴明や博雅の顔が、稲光で、一瞬、闇の中に浮かびあがる。
「凄いことになってきたなあ」
博雅が言った時、
「しっ」
と、晴明が声をひそめた。
猿重と妻との間に緊張が走った。
「来た」
晴明が言った。
その声に合わせるように、低い、不気味な声が聴こえてきた。
入口を、しっかりと塞《ふさ》いでいる筵のすぐ向こうに、何かが立っているらしい。
「もうし──」
「もうし──」
雨と風の音に混じって、細い人の声が聴こえてきた。
猿重と、その妻が、びくんと身体をすくめた。
「晴明、誰か来たぞ」
博雅が言った。
「ほう、おまえにも聴こえるか」
「うむ」
「この天地の騒ぎで、おまえの心が一緒にうきうきと騒いでいるからだろう」
「うきうきなどはしておらんぞ」
「言葉の綾《あや》さ。おまえは、笛や和琴などの微妙《みみよう》の音を聴きわけることのできる耳を持っているからな。そのおまえの耳とこの天地の騒ぎが呼応しあって、あの声を聴きわけているのさ」
晴明が言っている間にも、
「猿重殿──」
「奥方殿──」
外から、男と女のふたつの声が呼びかけてくる。
「急がねば、流されまするぞ」
「すぐにも、流されまするぞ」
「ささ、早う」
「ささ、早う」
その声に合わせるように、ひときわ強い風が小屋を揺すりあげたかと思うと、羽目板の一部が音をたてて引き剥がされ、そこから風と雨が勢いよく入り込んできた。
「おう、開いたぞ」
「先夜言うた通りの場所ぞ」
ふたりの嬉しそうな声が響いた。
「今出てゆくと、言うのだ」
晴明が、震えている猿重と妻に言った。
「は、はい……」
青ざめた顔で、猿重がうなずいた。
「い、いま、ただいま出てゆきまする」
猿重が、悲鳴に近い声で言った。
「出てゆきまするぞ」
猿重の妻が叫んだ。
「おう」
「おう」
「では、疾《と》くお出になられよ」
「なら、疾くお出になられよ」
その声を聴きながら、晴明は博雅に歩み寄り、
「これを、筵の間から外へ──」
しばらく前に用意しておいた、ふたつの人形《ひとがた》を博雅に渡した。
「お、おう……」
博雅が、それを受け取り、筵のところまで駆け寄った。
ふたつの人形を、筵の間から差し出しながら、その透き間から外を覗いた。
稲光が走り、外に立っているふたりの姿が闇の中に浮きあがった。
男と女が、激しく雨に全身を叩かれながら、にんまりと笑っている顔が博雅の眼に焼きついた。
その姿が、消え──
博雅の手から、ひったくられるように、ふたつの人形が消えていた。
「よう来やった」
「ようまいられた」
ふたりの声が聴こえた。
「急ぐぞ」
「急ぐぞ」
その声は、もう、だいぶ遠くなっている。
「追うぞ、博雅」
晴明が言った。
「この雨と風の中をか」
「この先のことを見届けておかねばならぬからな」
晴明が、笠も蓑《みの》もつけずに、筵をくぐって外へ飛び出した。
「ま、待て──」
遅れて、博雅が外へ飛び出した。
たちまち、雨に叩かれて、全身がずぶ濡れになってゆく。
「心配はいらぬ。いずれ、もどる」
晴明は、小屋の中へ声をかけてから、嵐の中を歩き出した。
その後を、濡れ鼠の博雅が追う。
漆黒《しつこく》の闇の中で、天地が鳴り響いていた。
雨。
風。
ごうごうとなる川音が闇の中から届いてくる。
闇の中で、どちらがどちらやら、博雅には何もわからない。
「晴明!」
博雅が叫ぶと、
「博雅、こっちだ」
晴明が答える。
その声のした方に博雅が歩いてゆくと、人の身体にぶつかった。
晴明であった。
「博雅よ、おれの狩衣の裾を掴《つか》んでついてこい」
博雅が裾を掴むと、晴明は歩き出した。
土手の上を、川下の方向へ向かっているはずだが、博雅には、それも定かではなかった。
「急ぐぞ」
晴明の足が速くなる。
痛いくらいの雨粒であった。
まるで、水の中にいるようである。
「じきに、こもんの橋だ」
晴明が言う。
晴明が立ち止まった。
「凄い水だぞ、博雅──」
おそらく、川の水のことであろうが、博雅にはそれは見えない。
「すぐそこが橋だ」
「橋!?」
何も見えない。
ただ、激しい雨と風が耳元でうなっている。
ごうごうという水の音。
「ふたりが、橋を渡ってゆく」
晴明が、博雅のために、見えているもののことを語っている。
「しかし、凄い水だ。このままではいくらも橋はもたぬだろう」
晴明が言う。
「しかし、この橋は、ここしばらく、どのような大水が出ても流されなかった橋だぞ」
博雅が叫ぶ。
「それも、今夜までだ」
そこまで言って、
「おう、橋が動く!?」
晴明が、低い声で叫んだ。
「博雅、橋が流されるぞ」
その声が終らぬうちに、みしみし、ばきばきという、橋の毀《こわ》れるような音が、博雅の耳に届いてきた。
その時──
かっ、
と稲光が天を走り抜けた。
それまで闇であった世界が、数瞬、明るく浮きあがった。
その時、自分の見た光景に、
「おう」
博雅は息を呑んでいた。
それは、異様の光景であった。
腰をぬかしそうな風景を、博雅はそこに見ていた。
これまで、博雅が知っていた鴨川が姿を消していた。
博雅の知っている鴨川は、広い河原の間を、幾筋もの流れとなって、下ってゆく美しい川であった。
その鴨川が、おそろしく大きな、真っ黒な一本の川と変じていた。
左右の土手の上近くまで水が溢《あふ》れ、人の背丈よりも高く波が盛りあがっている。家一軒分はありそうな、瘤《こぶ》のような波が、幾つも橋にぶつかっていた。
橋の上まで水が来ていた。
水の勢いに押され、橋は斜めに傾き、しかも中央でく≠フ字に折れていた。
そして、その中央近くの高欄の上から、飛び降りたのか、落ちたのか、男と、女、ふたつの人影が、すぐ下の濁流に向かって落ちてゆくところであった。
「あっ」
と博雅が叫んだ時には、もう、その光景は闇の中に消え、大石の落ちるような雷鳴が轟いてきた。
橋の毀れる音が、不気味に闇の中に響く。
雨と風の中に立っている博雅の耳からも、やがて、その音は消えた。
「晴明──」
博雅が声をかけると、
「終ったぞ、博雅──」
晴明が言った。
六
「あれはなあ、博雅」
晴明は、濡れ縁で、博雅相手に酒を飲みながら言った。
「こもんの橋という、あの橋の名前に、秘密を解く鍵があるのさ」
晴明の屋敷である。
すでに、あの嵐の晩から、三日が経っていた。
今は、雨も風も止み、夜の天には月が出ている。
「鍵とは何だ?」
博雅が問う。
「人柱さ」
「人柱?」
「うむ」
晴明はうなずいた。
晴明が語り始めた。
その昔、鴨川にかけられていたあの橋は、毎年、夏になって、水が出るたびに流されていた。
何度かけても同じで、流されるたびにまた作るが、それもすぐに流される。
「これは何かある」
帝が陰陽師を呼んで占わせてみれば、
「人柱を立てるのがよろしかろうと思います」
そう言った。
「それも、ただの人間ではございません。白いマチを入れた小紋の袴を穿いた男がよろしいでしょう」
普通、柱に人柱を立てる時には、女か子供を使うことになる。
女と子供は、五行説では土である。同じく五行説によれば、
土剋水《どこくすい》
となり、水を堰《せ》き止め、支配するのが、土ということになっている。
それをわざわざはずして、男の人柱を立てればいいのだと、その陰陽師は言った。
さっそく、帝から御触《おふれ》が出た。
もし、小紋の袴を穿いているような者を知っているなら、隠さず知らせるようにという御触であった。
知らせた者には、高い報奨金が出る。
当然ながら、たとえ身近に小紋の袴を穿くような人間がいても、死ぬとわかって、わざわざ知り合いを密告したりはしない。
しかし、ある女が、
「わが夫《つま》は、白いマチの入った小紋の袴を穿いて歩くのを好んでおります」
そう訴え出た。
この妻は、常々夫といさかいごとが多かった。
それをいいことに、夫を密告して、報奨金を手に入れようとしたのである。
「たとえ、十人の子供がいようと、女などは所詮《しよせん》こんなものだ」
男は泣いた。
そこへ、誰か口を挟む者がいた。
「しかし、人柱と言えば、通常は子供か女。男だけでは不安であるから、女も一緒に人柱を立てた方がよくはないか」
これを耳にした男は、
「なれば、その女は我が妻にして下され。我ら夫婦、この生命にかえて、橋を守ってみせましょう」
そう言った。
男の願いが聞きとどけられ、男と妻は、一緒にその橋の人柱となったのである。
それから三十年、どのような大水が出ても、この橋は流されることはなかった。
「それがとうとう、今年で流されたというわけなのだなあ」
博雅はしみじみと言った。
「あのふたりは、それを知っていたのさ。それで、流される前に、新しい人柱を捜そうとしていたのさ」
「それで、あの猿重とその妻が狙われたというわけだな」
「うむ」
「しかし、何故、あのふたりだったのだ」
「ちょうど、最初に妖異のあった日、猿重とその妻は、あの橋をいさかいをしながら渡ったということではないか。しかも、猿重の方は、小紋の袴を穿いていたというぞ。まさに、渡りに船というところであったのだろうさ」
「ふうん」
「どうした」
「妖物となったあのふたり、どちらも人柱になぞなりたくはなかったろうに。なってみたら、なかなか、実直な人間たちだったのだなあ」
博雅は、溜め息と共にそう言った。
七
嵐が去って、七日目に、ようやく水が退き、件《くだん》の橋に人々が行ってみれば、橋はすっかり流され、左右の岸に、一本ずつの柱が残るばかりであったという。
橋のかけかえのため、その柱の下を掘ってみれば、骨となった屍体が、それぞれひとつずつ現われた。
そのうちの一体は、まだ小紋の袴を穿いており、なんと、ふたりは、ひとつずつの人形《ひとがた》をその骨となった手に握っていたという。
晴明から、声がかかり、そのふたつの人形を人柱のかわりにして、新しい橋の柱の下に埋めたところ、この橋も、どのような大水が出ても流されることなく、四十年、もったという。
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髑髏譚《どくろたん》
一
冴《さ》えざえとした月が、庭を照らしていた。
秋も、終りに近い庭であった。
一面の枯れかけた草の上に、紅葉《もみじ》が散っている。
朝には、その上に霜が降りて、薄く雪が積もったような景色になるはずであった。季節は、秋から冬に入れ代わろうとしていた。あと十日もすれば、冬と呼んでもおかしくない風景になっていることであろう。
夜の大気は澄みわたり、天の冷気がそのまま地上にまで届いてくる。
「刻《とき》が移ろうというのは、なんとも疾《はや》いことだなあ」
源博雅《みなもとのひろまさ》は、しみじみとつぶやいた。
「この前、夏が終ったと思っていたのに、もう、季節は冬になろうとしているではないか……」
酒を飲んでいる。
安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷の濡れ縁──簀《すのこ》の上である。
晴明と博雅は、灯火をひとつだけ点《とも》して、ゆるゆると盃に酒を満たしては、それを口に運んでいる。
「人も、その時どれだけ盛んであろうとも、知らぬ間に肉は衰え、ある時、気がついてみたら骨だけとなって、野の草の中に転がっているやもしれぬのだなあ」
「うむ」
晴明は、うなずくともなくうなずいて、盃を口に運んでいる。
何か、心の中で考えていることがあるらしい。
「その昔、永興禅師《えいごうぜんじ》というお方が御覧になったという髑髏《どくろ》の如くに、俗世を捨てて、仏に縋《すが》ろうかと思いたくもなってしまうではないか」
博雅は言った。
その言葉に、何か思うところがあったのか、晴明の眸が、博雅に動いた。
「永興禅師の話を知っているのか」
晴明は、白い狩衣を着て、柱の一本に背をあずけている。
その眸の中に、博雅の話に興味を覚えたような光が宿っていた。
「南菩薩──奈良の京の頃、東大寺は良弁《ろうべん》僧正の門人だったお方ぞ」
博雅は、盃を口に運びながら言った。
永興禅師──
晴明、博雅の時代より遡《さかのぼ》ること、およそ二百年余り──女帝称徳天皇の御代、紀伊国《きのくに》牟婁郡熊野《むろのこおりくまの》の村に住《じゆう》していた僧である。
天皇の城《みやこ》より南にあったことから、南菩薩と呼ばれていた。
「しかし、実を言えば、この話、おれには少し怖いところがあるのだよ、晴明」
「うむ、あるな」
晴明がうなずいた。
こういう話である。
ある時、永興禅師のもとに、ひとりの僧がやってきた。
『法華経』一部、白銅の水瓶《みずがめ》ひとつ、縄床《じようしよう》一足を持っただけの僧である。
「南菩薩さまのもとで修行いたしたくやってまいりました。どうぞお傍《そば》に置いて下されませ」
そう言うので、傍に置くこととなった。
この僧の行《ぎよう》というのは、『法華経』を唱えることであった。朝に、昼に、晩に、ただひたすらに『法華経』を唱え続けるのである。わずかに食べ、わずかに眠ることの他は、もっぱらこの経を唱えた。
一年ほど過ぎたかと思える頃、
「今まで、たいへんお世話になりましたが、これよりこの地を去り、伊勢国《いせのくに》を越えて山に入って修行したいと思います」
僧はそう告げて、自分の縄床を永興に施《せ》し奉《まつ》り、その地を去ることとなった。
永興は、糯《もち》の干飯《ほしいい》を搗《つ》いて粉にしたものを二斗ほど僧に与え、ふたりの優婆塞《うばそく》を付き添わせて見送らせた。
一日ほど歩いたところで、
「ここまででけっこうでございます」
僧はそう言って、もらった二斗の干飯を粉にしたもの、『法華経』、それから鉢《はち》をふたりの優婆塞に与えて、これを帰してしまった。
自らは、持ってきていた二十|尋《ひろ》の長さの縄と、白銅の水瓶ひとつを手元に残しただけであった。
それから、二年ほど経ったある日、熊野の村の男数人が、熊野川上流の山の中に入って樹を伐《き》り、これを筏《いかだ》に組む仕事をしていた。
上流から木材を流して里へ運ぶためである。
この男たちが、山で樹を伐っていると、何やら声が聴こえてくる。誰かが、山中のどこかで経を唱えているらしい。耳を澄ませて聴けば、これが『法華経』である。
「これは、尊いお方が、山中にて修行をされているに違いない」
十日経っても、ひと月、三月《みつき》経っても、その声の絶えることがない。
男たちは信仰心を起こし、声の主《ぬし》に食べ物を与えようと捜したが見つからない。
半年ほどが経って、いよいよ筏を曳《ひ》き出すためにまた山へ入ったのだが、件《くだん》の声はまだ続いている。
不思議に思った村人が、これを永興禅師に申しあげた。
「これこれかようなことがございまして、『法華経』を誦《ず》す声が今も聴こえているのでございます」
永興が山の中に入ってゆくと、はたして『法華経』を誦す声が聴こえてくる。
それを捜して山中に分け入ってゆけば、森の中に、崖がそびえていて、その途中に人の屍骸がひっかかっている。麻の縄で両脚を縛っているのを見ると、覚悟を決めて、崖の上から身を投げたものらしい。その縄が、崖の岩のひとつにひっかかっているのである。
屍骸は白骨化していたが、崖下に見覚えのある白銅の水瓶が落ちていた。
「おう、これは二年半ほど前に、山で修行をすると言って出ていったあの僧ではないか」
その件の僧が、死して後もなお、『法華経』を唱えているのである。
熊野の山は、昔からの霊山であり、極楽に近いと考えられていたから、法のために捨身《しやしん》したものであろう。
とても登ることのできるような崖ではなく、永興は、泣く泣く、屍骸をそのままにして帰ってきた。
それから三年ほどして、また、熊野村の男たちが、永興のところまでやってきた。
「また、あの山に入りましたところ、経を誦す声がまだ聴こえております」
永興が、またあの場所までゆくと、今は縄も朽《く》ちて、僧の屍骸は崖下に落ちていた。
その髑髏を見ると、なんとその口の中で、まだ腐っていない生《なま》なましい色をした舌が、くねくねと動きながら『法華経』を唱え続けているではないか。
「『法華経』を唱《よ》み続け、功徳《くどく》を積んだからこそのことであろう。まことに、この方は凡人ではなく、尊者である」
永興は、そう言ってそこで手を合わせたという話である。
二
「これは、まことに『法華経』の霊験あらたかなる話だと思うところもあることはあるのだが……」
博雅は、自分の心の中のものを言いあらわしかねているように言葉を切った。
「どうしたのだ」
「なんだかな、晴明よ。熊野の山の中で、来る日も来る日も、秋の夜も冬の夜も、髑髏の中で舌が『法華経』を唱え続けているというのを考えると、なんとはなしに、尊いというよりは、おれは薄気味が悪いのだよ」
「それはそうさ」
「おまえもそう思うか」
「ああ」
晴明は、紅い唇に小さく醒めた微笑を点し、
「どこぞの君《きみ》に心を奪われて、恋しさのあまり、人は鬼になる時がある」
博雅を見た。
「うむ」
「執心が強ければ、人は鬼になったりもする」
「ああ──」
「『法華経』を誦して、極楽往生《ごくらくおうじよう》を願うというのも、執心ということでは同じさ」
「───」
「その僧も、よほど強い執心を抱いていたのであろうな」
「では、晴明よ。舌が『法華経』を誦していたというのは、『法華経』の霊験が強かったということではないのだな」
「そうだな。その僧の執心の強さがそうさせたのだろう。それも、鬼の一種ではあろうよ」
「鬼か」
「ああ」
うなずいた晴明は、博雅を見やり、
「しかし、博雅よ、舌とはなあ」
そうつぶやいた。
「舌?」
「うむ。おまえが、髑髏の舌のことを話してくれたので助かった……」
「何のことだ?」
「舌さ」
「舌?」
「髑髏だよ」
「髑髏?」
「今、ひとつ、どうしたものかと迷っていた一件があってな」
「ほう」
「これも実は、東大寺にゆかりある件でな。おまえのおかげで、どうすればよいか心あたりがついたということさ」
「どういうことなのだ」
「西の京に、最照寺という寺がある」
「それならば知っている」
「八十年ほど前に、東大寺で修行された常道《じようどう》上人が開かれた寺で、この御上人は、その昔、空海和尚から灌頂《かんじよう》を受けたこともあるお方だ──」
「うむ。空海和尚と東大寺は、御縁が深いからな」
「もう、七十五年も昔に、常道上人は亡くなられているが、この寺の座主《ざす》に、今、忍覚《にんがく》という和尚がおられる」
「名は、うかがったことがあるぞ。何度か宮中でお貌《かお》を見たこともある」
「今年で、御歳《おとし》は五十六歳になられるのだが、この忍覚和尚が奇妙なことになってしまったのだよ」
三
忍覚和尚がおかしくなってしまったことに、最初に気づいたのは、元心《げんしん》という弟子の僧であった。
朝の勤行《ごんぎよう》の時に、忍覚が姿を現わさないのをいぶかしく思い、様子を見に行ったところ、和尚はまだ夜具の中で眠っていたのである。
朝の勤行に遅れることなど、めったにというよりは、これまで一度もなかった忍覚であるが、たまにはこういうこともあるのかと、元心は少しほっとして、
「忍覚さま……」
声をかけた。
しかし、起きる気配はない。
「忍覚さま」
今度は少し大きな声で言ったが、やはり起きる気配はない。
もしや死んでいるのではと思い、近づいて肩に手を触れてみれば、温かい。しかも寝息をたてている。ただ、眠っていて、眼を覚まそうとしないだけである。
肩にあてた手で、声をかけながら軽く揺すってみたが、それでも起きない。
耳元に口を寄せ、その名を叫びながら強い力で揺さぶった。
どんなことがあろうと、これで起きないわけはないというやり方であったが、それでも忍覚は起きなかった。
「忍覚さまが起きていらっしゃいません」
報告を受けて、他の僧たちが集まってきた。
声をかけたり、口に水を含ませたり、皆で様々なことを試みたが、どうしても忍覚は眼を覚まさない。
おかしいのは、眠り続けているということだけであり、他にはどこがどう悪いというわけではない。
ともかく、しばらく眠らせたままにしておき、一日様子を見て、それでも起きぬようであれば、あらためてどうするかを考えようではないかということになった。
しかし、一日経ったが、まだ、忍覚は眼を覚まさない。
どうしようかと相談をしていると、皆の前で、急に忍覚が、
かあっ、
と口を大きく開いた。
一瞬、起きたのかと思ったがそうではなかった。忍覚は、眠ったまま口を開けていたのである。
その口から、
「ああ、ああ……」
という、不気味な呻き声が洩れてきた。
見れば、忍覚の顔は苦痛に歪んでおり、開いたままの口からは涎《よだれ》が出ている。
苦しそうに、忍覚は身体を右に左によじりながら、呻いている。
そのうちに、口、鼻、耳、尻の六つの穴から、肉の焦げたような臭いのする煙が出てきた。
これはいけない。
いったい何ごとが起こっているのかわからないまま、とにかく暴れている忍覚を皆で押さえつけようとすると、凄い力でそれを跳ねのけ、
「わあっ」
大きな悲鳴をあげ、忍覚は上体を起こして眼を覚ましたのであった。
全身、湯を浴びたように汗をかいていた。
ひとしきり暴れていた忍覚が、ほどなく静かになった。
正気にもどったらしい。
「元心……」
皆の顔が、まわりにあるのに気づき、忍覚は弟子の名を口にした。
「お眼覚めですか」
元心が問えば、
「夢か……」
忍覚がつぶやく。
「怖ろしい夢でも御覧になっていたのですか。たいへんなお苦しみようでございましたが……」
「いや、しかし……夢にしては、今の光景はあまりにも──」
忍覚は、何かを言いかけて言葉を切り、
「元心──」
弟子を見やった。
「ただちにこの屋の床下に入って、何かおかしなものがあったら、それをここまで持ってまいれ」
「おかしなもの?」
「何でもよい。ともかく、床下に潜《もぐ》ってみてくれぬか」
言われて、元心は外へ出、濡れ縁の下から床下に入っていった。
ほどなく、床下から、
「あなや!」
という元心の悲鳴が聴こえてきた。
やがて、元心がもどってきて言うには、
「なんとこの床下に、人の髑髏がひとつ転がっておりました」
とのことであった。
「持ってこいとの仰《おお》せでござりましたが、怖さのあまりに持ってくることできませなんだ──」
と言う。
「持ってきなさい。あれは、二年前にお亡くなりになられた、寿恵《じゆけい》さまの髑髏ぞ」
忍覚が言えば、
「しかし、寿恵さまは、この寺の裏手の土の中に葬られたのではござりませぬか」
元心が言う。
「では、その寿恵さまの墓を見てまいれ」
言われて、見に行った元心が青い顔をしてもどってきた。
「寿恵さまの御墓が、掘り起こされております」
「そうではない。それは、寿恵さまの髑髏が、土の中から出てきた跡だ」
「は?」
「とにかく、床下からこれへ、寿恵さまの髑髏を持ってくるのだ。怖がることはない。寿恵さまは、このわたしの生命を救ってくださったのだぞ」
床下より持ってこられた髑髏を眼の前に置いて、忍覚は、次のような奇怪な話を始めたのであった。
四
はじめは、夢だと思っていた──と、忍覚は言うのである。
夢で、山の中を歩いていたのだと。
しかし、夢にしては、樹々の葉の一枚一枚や、草の一本一本までが鮮明である。
下って渓《たに》を歩けば、せせらぎの音までが細やかで、手で触れれば水も冷たい。野鳥が啼き、風が吹けば頭上で木の葉が揺れる。
とても夢とは思えない。
これが夢であるものか。
しかし、夢でないのなら、いったい、いつ自分はここへやってきたのか。
渓を渡って、山を登り、さらに歩いてゆくと開けた場所に出た。
家が建っている。
唐風《からふう》の平らな瓦葺《かわらぶき》の屋根で、廊《ろう》のように建物は細長く、間に間仕切《まじき》りがあって、僧房《そうぼう》のようにも見える。
中に入ってゆくと、はたして僧の姿があり、しかも、それは顔見知りであった。
思わず声をかけようとして、忍覚はそれをやめた。それは、以前最照寺に住していた僧で、三年ほど前に死んでいたことを思い出したからである。
これは、あの僧が死して悪霊となり、こんな山中に住んでいるものであったか。
どうしようかと思っているうちに、向こうもこちらに気がついた。
その僧は、顔を青くして近づいてくると、
「どうしてこんなところへやってきたのだ。ここは、めったなことでは、人のやって来られる場所ではない。なんとも不思議なことだ──」
と真顔で言う。
別に悪霊となっている風には見えないが、しかし、忍覚には、その僧の言っている言葉の意味がわからない。
「ここはな、そなたは知らぬのだろうが、実はたいへんにおそろしいところなのだ」
身体を震わせながら、その僧は言った。
言われて、ますます忍覚はわけがわからなくなった。
そこへ──
「いや、忍覚はわたしがここへ呼んだのだ」
と声がする。
声の方を見やれば、なんと、そこには二年前に死んだ、忍覚の師にあたる寿恵上人が立っているではないか。
「寿恵さま、いったいどうしてここに?」
「いや、実はゆっくりと話をしている間はないのだ。いずれ、あの者たちがやってくるのでな」
「あの者たち?」
「怖ろしい者たちだ。我らは、ここで毎日たいへんな苦しみを受けている。そなたにはぜひ、ここで我らの受ける苦しみを見ていってもらいたい」
「苦しみ」
「ああ、そうだ。その通り、苦しみだ」
最初に会った僧が涙を流しながら言った。
「そなたも、あの寺で死ねば、いずれはここへやってくることになるのだぞ」
僧の身体は、まだ震えている。
「おまえには、ぜひ、ここでの我らの姿を見ていってもらいたくて、呼びに行ったのだ。転がって行ったのだが、とても上には上れず、床下に潜《ひそ》んで、おまえが眠るのを待って、ここまで連れてきたのだ」
寿恵上人はやつれた顔で言った。
「ああ、もう、あれがやってくる刻限だ」
最初に会った僧が、歯をかちかちと鳴らしながら言った。
「よいか、どこぞの陰に隠れて、我らがどのような苦しみを受けるか、しっかりと見届けてくれ。もとの世にもどりて後、なんとか我らをこの苦しみから救ってもらいたいのじゃ」
「いったいどういうことなのですか、御上人さま」
「そなたは、わが弟子の中でも、最も優れた者であった。そなたを見込んでの頼みじゃ。もはや、詳しい説明をしていられる時間はない。早う隠れよ。よいか、これより後、どのような光景を見ようと、決して声をたてるのではないぞ」
語り終えるなり、早く向こうへ行けと言わんばかりに、寿恵上人は、忍覚の背を押した。
忍覚が、慌てて、庭の大きな岩の陰に身を隠すと、あちらの方から空を飛んでくる者があった。
唐人《とうじん》のようななりをした者たちが、空から次々に庭に降り立った。
その数、およそ、四、五十人。
「さあ、今日もまた始めるぞ」
そのうちの主人らしき男が言うと、
「おう」
と答えて、唐人たちが庭で何やらの作業をしはじめた。
土を掘り、盗人を打つ機《はたもの》の如《ごと》きものを立て、どこからか薪を運んできて、盛んに火を焚《た》いた。その上に釜《かま》を据《す》え、銅《あかがね》を入れて、それを溶かし、赤い湯の如くにぐらぐらと煮えたたせた。
主人らしき男は、胡床《あぐら》の上に座り、これを眺めている。
その後ろには、赤い旗が何本も立てられている。
何やらの準備がすっかりととのったと見える頃、
「さあ、罪人たちをこれへ引き出せい」
主人らしき男が言った。
すると、唐人たちがわらわらと家の中に入ってゆき、そこから十人余りの僧たちを次々に引き出してきた。
その顔を見れば、何人かは、忍覚の見覚えのある僧たちであり、いずれも今は死んだ者たちであった。
ここで最初に出会った僧もいれば、寿恵上人の顔もある。いずれの顔も、恐怖のために歪んでおり、わあわあと泣き叫んでいる者もいた。
「さあ、ではおまえからだ」
主人らしき男が、ひとりの僧を指差すと、唐人たちが数人で泣き叫ぶ僧を囲み、これを捕えて機に縛りつけた。
「お助け下さいまし。お助け下さいまし」
その口の中に、唐人のひとりが太い大きな金箸《かなばし》を差し込んで、これをこじ開けた。あるかぎりまで口を開けられ、もはやその僧は言葉を発することができなくなってしまった。
赤児のような声の洩れる口の端から、涎ばかりがただだらだらと零《こぼ》れ出てくるばかりである。
「おまえは、これまでに、三度も飯《いい》のひと粒を落としたまま、それを喰わなかったことがあるではないか」
主人が言った。
「だから、おまえは三杯飲めい」
すると、別の唐人が、長い柄の付いた鉄《かね》の柄杓《ひしやく》を取り出して、どろどろの湯の如くに溶けた銅《あかがね》を釜から掬《すく》い、その僧の口の中に流し込んだ。
きっかりと三杯。
僧の、鼻からも、ふたつの耳の穴からも、そして尻の穴からも、湯気とも煙ともつかないものが出てきた。
そのうちに、尻の穴からは、血のからまった、どろどろの溶け爛《ただ》れた内臓の如きものをひり出した。
その間にも、次の僧が引き出されて、次の機に縛りつけられている。
「おまえは、最照寺で庭の清掃をしていたおり、気づかずに、七度も蟻を踏み殺したことがある。だからおまえは七杯じゃな」
この僧は、七杯の溶けた銅を飲まされた。
こうして、血を吸うた蚊を叩いて殺しただの、虱《しらみ》を潰《つぶ》しただのという罪を問われて、次々に僧たちが機に縛りつけられ、口をこじ開けられて、銅を飲まされてゆく。
やがて、寿恵上人の番となった。
「おまえは、十九の歳に、若い娘を見て、心の裡によからぬことを想うたことがあろう」
主人らしき男が言った。
「あれはまだ、出家する前のことでござりまする」
と言うその寿恵上人の口が金箸でこじ開けられ、その口の中に溶けた銅が注がれる。
耳からも、鼻からも、尻からも、焼けた臭いのする気味の悪いものをこぼしながら、上人は悶《もだ》えている。
あまりのことに、耐えられなくなり、思わず忍覚は、
「あれ──」
声をあげてしまった。
「おや、誰《たれ》ぞおるな」
たちまち、隠れていた岩を唐人たちに囲まれて、忍覚はその姿を見つけられ、捕えられて主人の前に引き出されてしまった。
「おや、おまえは、まだ生きておる者ではないか。いずれ、ここへやって来る者とはいえ、まだその時期ではないはずだぞ──」
そう言っている主人の唇がにんまりと笑った。
「ははあ、誰ぞ、ここの者がおまえを呼んだのだな。誰じゃ、それは──」
問われても言うことはできない。
口をつぐんでいると、
「では、おまえも飲むか」
主人が言った。
わっ、
と声をあげて逃げようとしたが、それもかなわず、他の僧と同様に、機《はたもの》に縛りつけられてしまった。
金箸で、口をこじ開けられ、
「さあ、うまいぞ、飲め」
焼けた銅を注がれた。
気が遠くなるほどに熱い。
もがいていると、寿恵上人の声が聴こえてきた。
「このわしじゃ、このわしが、この者をここへ連れてきた。さあ、忍覚よ、眼を覚ませ。眼を覚ませば、ここより逃れることができる」
その声が、遠くなってゆく。
あたりの風景が、薄く、かすれて見えなくなってゆく。
「無駄じゃ、無駄じゃ、逃げても必ず連れにゆくぞ。必ず必ず、連れにゆくぞ──」
そう言っている主人の声も遠くなり──
そして、忍覚は眼を覚ましたのであった。
五
「しかし、とんでもない話だな」
博雅は言った。
「人は、生きていれば、蟻を踏むこともあろう。飯粒を気づかずにこぼすこともあろう。美しい女房を見れば心を動かされもしよう。それを罪と言うなら──」
「この世の人全ては、罪人《つみびと》ということになろうな」
晴明は言った。
「で、どうなったのだ」
「忍覚殿のことか」
「そうだ」
「床下に見つけた髑髏が、寿恵上人のものだとはわかった。その寿恵上人たちが、死して後、どこかでおそろしい目におうている──そして、救ってくれと言うている、そこまではわかったのだが──」
では、どうすればよいのかということがわからない。
しかも、あの主人は、必ず連れにゆくぞと言っている。
もしも、また、眠ってしまったら連れてゆかれるのではないかと思うと、おそろしくて眠ることもできない。
あれは、みんな夢であったのだと思い込もうとしても、では、床下にどうして寿恵上人の髑髏があったのか。
あれから、寿恵上人がどうなったのか。
眠ってみれば、何やらわかるやもしれぬのだが、眠るのは恐い。
「そういうわけで、忍覚殿は、もう三日も眠ってはいないのだそうだ」
「なんと──」
「ついに思いあまって、しばらく前に、最照寺の元心という者が、おれのところにやってきたというわけなのだ」
「しかし、では、急がねば忍覚殿が眠ってしまわれるのではないか」
「常に、眠くなると『般若心経』を唱えて起きておられるのだそうだが──」
「ゆかなくてはいけないのではないか」
「ああ。しかし、行ってどうするかを決めかねていたのさ。幸いにも、今夜はおまえがやってくることになっていたのでな、来たら、おまえともどもうかがいますと、最照寺には言っておいたのだ」
「おれも、一緒にか」
「そうだ。おまえは、いつも思いがけぬことを言って、おれを助けてくれることがあるからな。今夜もそうだ」
「今夜? おれが何を言った?」
「永興禅師の出会った、髑髏の舌の話をしてくれたではないか」
「したことはしたが、それがどうだというのだ」
「まあ、博雅よ。その話は、最照寺へゆく道すがらにもしようではないか。おまえの言う通りに、そろそろ、腰をあげた方がよさそうだからな」
「うむ」
「ゆくか」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
六
「妙だな」
そう言ったのは晴明である。
最照寺の山門の前であった。
門が開いている。
ここから入って、石段を登ってゆくとまた門があって、その中に本堂がある。
「どうしたのだ、晴明」
博雅が訊いた。
黒ぐろと、杉の古木の間にそびえている山門を見あげ、
「おれのところにやってきた、元心という僧の話では、この山門の下にむかえの者が待っているはずなのだ」
つぶやいて、晴明は門をくぐって石段を登りはじめた。
その後を、博雅が追った。
左右から、老杉の枝が頭上に覆い被さっている。
ちょうど、石段の中央あたりに、ひと筋の道のごとくに、月が影を落としている。
上の門までたどりつくと、これも開いていた。
人影はない。
門をくぐっても、人の気配はなかった。
庭の方へ歩を進めていた晴明が、足を止めていた。
「どうしたのだ、晴明」
声をひそめて、博雅が訊いた。
「来るぞ」
囁くような声で晴明が言った。
と──
本堂の陰から、庭の方へ人影が姿を現わした。
ひとり、
ふたり、
さんにん……
全部で五人いた。
唐人のような形《なり》をした男が四人。
僧衣を着た男がひとり。
僧衣を着た男は、唐人らしい男のひとりに右手をひかれている。
先頭を歩いている主人らしい唐人と見える男が、こちらへ向かって歩いてくる。
「あれが、見えるか」
晴明が訊いた。
「それが、こちらへ向かってやってくる、五人の男のことだったらな」
博雅はうなずいた。
見れば、五人の男たちは、いずれも、月光の中でぼうっと青い光を放っている。先頭の男の身体を透かして、後ろの男の姿が微かに見えたりもするところを見ると、実体のあるものではないらしい。
「陰態《いんたい》の者たちだな……」
晴明が、低い声でつぶやいた。
唐人姿の男たちは近づいてくると、晴明の前で立ち止まった。
「おう、こんなところに、人がふたりもおるぞ」
唐人のひとりがそう言った。
「こやつらは、眠ってはおらぬぞ」
「起きている」
口々にそんなことを言っている。
「手をひかれているのは、忍覚殿ですね」
晴明は言った。
「この坊主の名を知るのか」
先頭の、主人らしき唐人が言った。
「やはりそうでしたか。その方の手をお放し下さりませぬか」
晴明が、静かな声で言った。
「そうはゆかぬのだ。この男には、これからたっぷりと溶けた銅を飲ませてやらねばならぬのでな」
「お放し下さりませ」
「邪魔をすると、おまえも連れていって、銅を飲ますぞ」
「やってごらんになりますか」
晴明は、少しも怯えた色を見せずに微笑した。
「ええい、面倒だ。この男たちも連れてゆけ──」
主人が言って、口の中で何やら唱えて晴明に向かって指を差した。
「おや、おまえ、眠らぬのか」
「わたしには、それは効きませんよ」
晴明が言うと、主人の顔に、怒りと驚きの色が浮かび、
「おまえ、陰陽師だな」
そう言った。
晴明は、答えずに、赤い唇に微笑を浮かべただけであった。
「ええい、今夜のところはひけい」
主人が言うと、
ふうっ、
とその姿が薄れて消えた。
続いて、残った三人の唐人たちの姿も、次々に、月光に溶けたように消えていった。
残ったのが、忍覚の姿であった。
「さて、御本体は、どちらでお眠りになっているのでしょう。御案内をしていただけますか」
晴明が言うと、ゆっくりと忍覚が歩き出した。
七
「さて、では始めましょうか」
晴明がそう言ったのは、本堂である。
大きな阿弥陀如来《あみだによらい》の前に、晴明、博雅、そして、忍覚、元心が座している。晴明と博雅が並び、同様に並んでいる忍覚と元心と向きあうかたちであった。
四本の燭台《しよくだい》に立てた灯火が、四つ、点っている。
四人の横手に、本尊の阿弥陀如来がある。晴明と博雅にとっては右側、忍覚と元心にとっては左側である。
向かいあった四人の間に、ひとつの髑髏が置かれていた。
床に置かれた髑髏の顔は、晴明の方に向いている。
半刻ほど前に、眠っていた元心と忍覚を起こしたのは、晴明と博雅であった。
他の僧たちも眠っていたが、起こしたのは一緒に眠っていたこのふたりだけであった。他の僧たちを起こさなかったのは、これが、唐人たちの術によるものなのか、自然の眠りであるのか、区別がつかなかったからである。いずれにしても、唐人たちが去った今、放っておいても問題はない。
ともあれ、晴明は、このふたりだけをまず起こして、一緒に本堂までやってきたのである。
忍覚は、夢の中で、自分が晴明に助けられたことをよく覚えていた。
元心と共に、『般若心経』を唱えていたのだが、眠くなり、どうしても我慢できなくなって、ついに眠ってしまったのだと忍覚は言った。
眠った途端に夢の中に唐人たちが現われ、連れ去られようとしていた時に、晴明たちがやってきたのだと。
「では──」
晴明は、座したまま、懐から、一枚の紙片を取り出した。
元心に頼んで、筆と硯《すずり》、墨を用意させ、筆をとると、手にした紙片に、筆で何やら文字を書き出した。
呪《しゆ》の言葉──
そうやって一枚の咒符《じゆふ》を作り、晴明は、その紙片を置いてあった寿恵上人の髑髏の中に入れた。
「ともあれ、どうすればよいのかを、寿恵上人にうかがってみましょう」
晴明は、そう言って、右手を握り、そこから、人差し指、中指の二本の指を立て、その指の先端を髑髏の額に当てた。
口の中で、二度、三度、小さく呪を唱えた。
と──
「う、動いているぞ……」
博雅が小さく声をあげた。
見れば、髑髏の内部で、微かにあの咒符が、動いているのである。
風はない。
それが証拠に、灯火の炎は、どれも揺れてはいない。
なのに、髑髏の内部で咒符が、動き出したのであった。
震えるように、小刻みに揺れながら、その咒符が、髑髏の内部で音をたてている。
「こ、これは──」
博雅が、声をあげて晴明を見た。
「寿恵殿が、咒符を舌がわりにして、何やらしゃべっているのではないか」
しかし、博雅には、まだそれが紙の震えにしか聴こえない。注意深く聴いていれば、確かにそれは人の言葉のようにも聴こえるのだが、では何を言っているのかということになると、そこまではわからない。
しかし、晴明には、それが、はっきりと人の言葉に聴こえているらしい。
咒符の震える音に合わせるように、
「それで──」
「なるほど」
「では──」
時おり声をあげているからである。
話がすすんで、
「それは、どこにあるのですか」
晴明が髑髏に向かって問うと、それに答えるように髑髏の舌がわりの咒符が震えた。
やがて──
咒符の震えが止み、晴明も、髑髏に対して問うたりうなずいたりするのをやめた。
髑髏の額から指先を離し、
「わかりましたよ」
晴明は言った。
「何がわかったのですか」
忍覚が問うた。
「たとえば、さきほど、忍覚殿がどこへ連れてゆかれようとしていたのかというようなことがです」
「どこなのですか」
「経蔵です」
「経蔵?」
「こちらの経蔵の隅に、これほどの大きさの、黄金の色をした壺がありませんか」
「ありますが、それが何か──」
そう言ったのは、元心であった。
「すみませんが、その壺をここまで持ってきていただけませんか」
晴明は元心に言った。
ほどなく、元心の手に抱えられて、壺が本堂まで運ばれてきた。
髑髏の横に、壺が置かれた。
綺麗な黄金色をしていた。
ひと抱えほどもある壺の表面に、金を塗ってまた焼いたものらしい。
「これは、いったい、どういう壺か御存知ですか」
晴明が訊くと、
「常道上人が、この寺を開いたおり、東大寺からいただいて持ってきたものとうかがっております──」
忍覚が答えた。
「その他には?」
「さあ──」
「これは、その昔の唐の国で使われていたものだそうです」
晴明が言った。
「ほう」
「それを、空海和尚が我が日本国に持ち帰り、東大寺に預けて、それがこの寺まで伝えられたということのようです」
「それを、この髑髏──寿恵上人がおっしゃったのですか」
「はい」
うなずいてから、晴明は、また、忍覚に問うた。
「では、この壺が、どこでどのように使われていたかは、御存知ですか」
「わかりません」
「長安の、さる道観《どうかん》で、懺悔《ざんげ》の壺として使用されていたものだそうです」
「懺悔の壺?」
「寺や道観に置かれていたもので、何か修行の妨げになるようなことを、その中へ吐き出すための壺です。思わず犯してしまった人に言えぬような罪や内緒のことを、この壺の口に唇をあて、囁けばそれですっきりとし、また修行にはげむことができるのだとか──」
「───」
「それが、東大寺、最照寺と渡ってゆくうちに、その本来の使用目的が忘れられてしまったものであろうと──」
「むうむ……」
「誰も、罪を懺悔してくれなくなったので、いつか、壺自らが罪を告白してくれる者を捜し出しては、この中へ呼び寄せていたということのようです」
「壺が、そのような力を持ってしまったと?」
「ええ。空海和尚が自ら手にした壺であり、唐の国で何年も道士たちの懺悔の言葉を吹き込まれ、この国に来てからは、毎日読経の言葉を聴いていた壺ですから、そのような力が宿ってしまったのでしょう」
晴明は、壺を抱きあげ、
「では、寿恵上人との約束ですので──」
そう言って、持っていた壺を、本堂の床の上に落とした。
壺は、音をたてて砕け、破片が床の上に散った。
「おう」
「おう」
忍覚と元心が声をあげた。
割れた壺から、大量の赤い血が零《こぼ》れ、床を濡らした。その内部には、水すら入っていなかったはずなのに、いったいどういうことか。割れた壺の破片自体から流れ出してきたものであるのか。
さらに奇妙であったのは、なんと、壺の破片の内側には、何やらの絵が描かれていた。
破片を、灯りをたよりに繋《つな》げてみれば、それは、山中に建てられた、一軒の唐風の家であった。
「こ、この家です。この家にわたしは──」
床に並べられた破片の絵を眺めながら、忍覚は言った。
よく見れば、その絵の中には、たくさんの唐風の姿をした男たちの姿も描かれている。
「これだ。こ、この者たちがわたしを──」
唐人たちの何人かは、手に、長い柄の付いた鉄《かね》の柄杓を持ち、罪人のように見える男を捕えて家の庭先に引き出している者もいた。
煮えて、赤く焼け溶けた銅が入っていると思われる釜も庭の隅に描かれていた。
「いやはや、なんとも……」
言う言葉もないといった体《てい》で、忍覚は声をあげた。
「全ては、このような絵の描かれていたこの壺がいけなかったのですね」
元心がつぶやいた。
「よろしかったら、これをいただけますか」
晴明が言った。
「この、割れた壺をですか?」
「はい」
晴明はうなずいた。
「空海和尚が、唐より持ち来たった壺です。割れたとはいえ、なかなかの品。いずれ、何か、別のことにでも使うこともあるでしょう──」
「もちろん、さしあげます。お持ち下さい」
忍覚が頭を下げた。
「喜んでいただきましょう」
晴明は礼を言って博雅を見やり、
「博雅よ、おまえのおかげで、今夜は助かった。今もどれば、夜明けの月を見ながら、まだ、二、三杯の酒くらいは飲めるだろう」
満足そうな声でそう言ったのであった。
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晴明、道満と覆物《おおいもの》の中身を占うこと
一
春は、もう来ている。
まだ桜こそ咲いていないが、身が震えるほどの寒さは、もうない。
簀《すのこ》の冷たい板の上に、晴明は寝そべっている。
身体の右側を下にし、右肘を立てて、右手の上に頭をのせて眼を閉じていた。
晴明の顔のすぐ先の板の上に、酒が半分ほど入った瑠璃《るり》の盃がひとつ置かれている。
その少し先に、もうひとつの盃が置かれていて、そのさらに先に、源博雅《みなもとのひろまさ》が座していた。
梅が終って、桃が終って──
今は桜の蕾《つぼみ》が綻《ほころ》びかけている。
気の早い枝には、ひとつふたつくらいの花が咲いているかもしれない。
晴明の屋敷の庭のあちこちに、藪萱草《やぶかんぞう》や繁縷《はこべら》が、緑色の葉を見せているが、いずれは、後から生えてくる野の草に埋もれて見えなくなってしまうであろう。
午後の陽差しが、柔らかく庭に注いでいる。
簀の上に置かれた瑠璃の盃の上にも陽光が当って、よく光る緑色の影を板の上に落としている。
博雅は、浮かぬ顔で、しばらく前から晴明を眺めている。それが、どこか、怒ったような表情にも見える。
「よいのか、晴明」
博雅は言った。
「何がだ?」
晴明は、眼を閉じたまま答えた。
「明日のことだ」
「明日?」
「蘆屋道満《あしやどうまん》殿と、方術を比べ合うのだろう?」
「そのことか」
「そのことか、ではない。おれが心配してやってきたというのに、おまえは寝そべってのんびりしているばかりではないか」
瑠璃の盃に当った陽光が、反射して晴明の眼のあたりに、ちらちらと踊っている。
眩《まぶ》しそうに晴明は眼を開き、
「しかし、起きあがったからといって、どうなるというものでもないだろう」
顔の位置をずらして、光を避けた。
「しかし、相手はあの道満ぞ」
「うむ」
うなずいて、晴明はようやく身を起こした。
簀の上に胡座《あぐら》をかき、柱の一本に背をあずけた。
纏《まと》っている白い狩衣の一部が、陽に当って眩しい。
「何故、このようなことを受けたのだ」
「何故と言うが、博雅、これはおまえがおれに持ってきた話ではないか」
「おれは、帝に頼まれて、仕方なくおまえにこの話を伝えただけだ。おれは、おまえが断ると思っていたのだ」
「あの男に頼まれて、断ってしまっていいのか」
晴明が、微笑しながら言った。
晴明が言うあの男≠ニいうのは、帝──村上天皇のことである。
「むむ──」
博雅は、言葉を飲み込んだ。
困り果てたような眼で、晴明を眺めている。
こういうことだ。
四日前、宮中で、晴明と道満の方術のことが話題となった。
場所は、紫宸殿《ししんでん》。
村上天皇をはじめ、何人もの殿上人《てんじようびと》がその場にはいたのだが、主に話をしたのは、左大臣藤原|実頼《さねより》と、右大臣藤原|師輔《もろすけ》であった。
「古今に、優れた陰陽師は何人もいるが、ただひとりをあげるとすれば、誰《たれ》か──」
まず、そう言い出したのは、村上天皇である。
最初は、芸の話であった。
琵琶の名人は誰かという話から始まって、では、絵では誰が一番巧みであるか、あるいは相撲人《すまいびと》では誰が一番強いのかという話をしているおりに、村上天皇が、何気なく口を開いたのであった。
何気なかろうが、たまたま口をついて出たものであろうが、天皇が口にした以上、これを無視するわけにはいかない。
「陰陽師と申せば、今は亡き賀茂忠行《かものただゆき》殿の名が高いが、当代一ということなれば、その子息の賀茂|保憲《やすのり》殿がおられまするが──」
と誰かが言えば、
「いや、当代一なれば、天文博士の安倍晴明《あべのせいめい》をおいて他にあるまい」
こう言ったのは、左大臣藤原実頼である。
これにうなずく者がいる。
「安倍晴明といえば、何人も式神を使い、寛朝僧正《かんちようそうじよう》のおられる遍昭寺では、柳の葉で蛙を押し潰したりしたという話ではないか」
「その話であれば耳にしたことがある」
「晴明殿なら、一条|戻《もど》り橋《ばし》の下に、鬼を飼っているとの噂も耳にしたぞ」
「なるほど、晴明殿か──」
このように話が進んだところへ、
「待たれい」
声をかけてきたのが、右大臣藤原師輔であった。
師輔は、実頼の弟であり、何かにつけて、兄実頼の言に反対の立場をとることが多い。
「いや、何も晴明殿に力がないと申すわけではありませんが、何も、陰陽寮の陰陽師ばかりが陰陽師ではございますまい」
「と、言われますると?」
実頼が問うた。
「野《や》には、これでなかなか優れた陰陽師がいるということですな」
「ほう」
「播磨《はりま》の法師陰陽師の中に、蘆屋道満という陰陽法師がいると聴き及んでおりまするが、これがなかなかの方術の使い手という話でございまするな」
「蘆屋道満?」
「銭をもろうて、魘魅《えんみ》や蠱毒《こどく》の術を使い、呪詛《ずそ》をしたりするとか──」
「それは剣呑《けんのん》」
「いや、剣呑と言うのなら、保憲殿、晴明殿、いずれもその気になれば、魘魅の法も蠱毒の法も道満同様に使うことができるのですからな」
「しかし、まさか、保憲殿や晴明殿が、そういった呪詛をなされるとは思えませぬが──」
「むろんのこと。しかし、それなら道満殿とて、自らの意志で他人《ひと》を呪詛するわけではありません。呪詛せよと銭を出す者こそが実は剣呑なのではありませぬかな」
師輔が言うと、それまで黙ってふたりのやりとりを聴いていた関白太政大臣藤原忠平が口を開き、
「その蘆屋道満、噂は聴くが、どれほどの験力《げんりき》があるのか」
このように問うてきた。
忠平は、実頼と師輔の父親である。つまらぬいさかいにならぬうち、ふたりの間に割って入ったかたちである。
「指差せば飛ぶ鳥が落ち、水の上も歩くと言われております」
師輔は答えた。
「それは、なかなかおもしろいではないか」
忠平は言った。
「おもしろい?」
「安倍晴明と蘆屋道満、ふたりを宮中に呼んで、方術比べをしてみてはどうかということだ」
「ほほう」
「それはなかなかおもしろうござりますな──」
実頼と師輔が興味を示した。
「主上《おかみ》はいかがでござりましょうか?」
忠平が帝に言った。
「方術比べか」
帝はうなずき、
「なかなかおもしろそうだが、しかし、晴明はともかく、道満の居場所はわかっておるのか?」
「西の京の破《や》れ寺に入り込み、そこで勝手に寝起きしているそうでござりますれば、そこへ人をやれば──」
師輔が言った。
「では、さっそくそこへ人をやって、晴明と方術比べをせぬかと、蘆屋道満に疾《と》く訊いてまいれ」
忠平が言えば、
「はは」
師輔がうなずいた。
「晴明殿の方は、どなたがゆかれればよろしかろうか」
また、忠平が問うた。
「ならば、源博雅殿はどうじゃ」
「なるほど、博雅殿なれば、日頃より晴明殿と親しくしておられる。博雅殿がよかろう」
「なるほど」
そういう声が何人かからあがって、博雅がその役目を仰《おお》せつかったのである。
その件で、博雅が、晴明の許《もと》にやってきたのが、三日前であった。
「方術比べなどやめさせたかったのだが、その日、おれは、その場にはいなかったのだよ、晴明──」
晴明の許にやってきた博雅は、申しわけなさそうに言った。
「帝からもじきじきに頼まれてしまい、こうしてやってきたのだが、気が乗らぬなら断ってしまえばいい」
博雅は、そう言って帰って行った。
それが三日前のことである。
そして、今日、博雅はまた晴明の許に足を運んできたのであった。
晴明が、道満との方術比べを承知したという話を耳にして、博雅は居ても立ってもいられなくなってしまい、ここまでやってきてしまったのである。
来てみれば、晴明は、簀の上に寝て酒を飲んでいる。
「博雅、飲んでゆかぬか」
晴明に言われて、博雅はそこに座し、今、共に酒を飲んでいるというわけなのであった。
その方術比べは、明日である。
「明日はな、晴明よ、おまえたちの術をそれぞれに見た後、覆物《おおいもの》の中に何が入っているかを、当てさせるということだが、それは耳にしているだろう?」
博雅は言った。
「ああ、聴いている」
あっさりと晴明はうなずいた。
少しも心配している様子がない。
「まあ、今日はゆるりとしてゆけ、博雅」
晴明は、春の庭を見やりながら言った。
二
清涼殿──
階《きざはし》の上の簀に、晴明は座している。
晴明のすぐ前に座しているのは、妙な老人であった。
髪は白く、ぼうぼうと蓬《よもぎ》のごとくに伸び、やはり白い髯を生やしている。
深い皺の刻まれた顔は、黒い。
陽に焼けたためであるのか、もともと肌が黒いのか、あるいは汚れであるのか。
薄い嗤《わら》いを浮かべている唇から覗いている歯は、黄色く、長い。
蘆屋道満──
いつもは、着ているものなどかまわぬこの男が、その日は、きちんと新しい衣冠を身につけている。
常は殿上に上ることのできる身分の者が身につけるべき袍《ほう》を纏っていた。
しかし、新しいのは外見だけで、中身はあの道満であった。
この日、初めてここで顔を合わせた時、道満は、右手の指先で頭の後ろを掻きながら、
「おう、晴明」
一瞬、照れたような笑みをその唇に浮かべた。
「どうも、これは窮屈でいかん」
普通であれば、殿上に上ることなどできぬ身分の道満なのだが、この日だけは、特別に帝から許可が下りている。
晴明と道満が向き合って座している簀に面した部屋には、すでに、この話に関わった人間たちが集まっていた。
奥の御簾《みす》の向こうには、帝が座している。
一段下がった左右には、左大臣藤原実頼、右大臣藤原師輔がいる。
関白太政大臣藤原忠平もおり、落ちつかない表情の源博雅の顔もそこにあった。
この日の方術比べについて、藤原恒清が長い口上をのべている間、道満は、軒の向こうに見える青い空や、流れてゆく雲を、見るともなく眺めていた。
晴明は晴明で、その赤い唇にあるかなしかの微笑を含んだまま、眠るかのごとくに眼を閉じて座していた。
庭では、四、五羽の雀が地面を突ついている。
口上が終り、
「さて、どのように始めるとしたものかな」
恒清が言った時、
「いや、よい空でござりまするな」
軒ごしに、空を見上げながら、道満がつぶやいた。
つられて、一同の眼が空へ動く。
実頼、師輔は、身を乗り出すようにして空を見やった。
奥にいる帝からは、空は見えない。
空は青く、そこに春の陽差しが満ちている。
流れてゆく雲が、一片、二片。
「雲が、流れてゆきまするな」
道満は、好々爺のごとくに、呑気《のんき》な声でつぶやいている。
「かような天気の日でも、龍神がその気になれば、たちまちに嵐となり、雨風が吹くことになりましょう」
「───」
一同は、道満が、何を言っているのかわからない。
どうやら、何かを始めようとしているらしいのだが、いったい何を始めようとしているのか。
「しかし、奥におわせられていては、雲も龍神の動くのも見えませぬなあ」
道満は、軽く右手を持ちあげて、空に向かっておいでおいでをした。
と──
空を流れていた雲の一片が、その方向を変え、ふわりふわりと、清涼殿に向かって高度を下げてきた。
見ているうちに、雲は庭のすぐ上まで降りてきて、なんと清涼殿の中まで入り込んできた。
「おう」
雲は、清涼殿の天井にわだかまり、見るまにその色を変じていった。
白から、黒へ。
一同の頭上で、黒雲が渦を巻き、その中で細い緑色の雷電が閃《ひらめ》きはじめた。
「おう、龍じゃ!」
誰かが声をあげた。
黒雲の中に、雷電をその身体にからみつかせるようにして、一匹の龍がその身を躍らせている。
黒雲の間に、青い鱗《うろこ》が見え隠れする。
「龍じゃ」
「龍がおる」
叫んでいると、大きな獣の咆吼《ほうこう》がとどろいた。
見れば、いつ現われたのか、簀の上に一頭の白虎が、黄色い眼をらんらんと光らせながら天井の黒雲を見あげているではないか。
「おう、虎ぞ」
「今度は白虎が現われた……」
叫び声があがっているうちに、白虎は簀を蹴って宙に跳びあがり、黒雲の中に躍り込んで、龍と激しく争い始めた。
そこへ──
ぽん、ぽん、と二度ほど手を叩く音が聴こえたかと思うと、嘘のように黒雲は消え、龍も虎も一緒に姿を消していた。
手を叩いたのは、晴明であった。
眼を開いた晴明が、微笑しながら一同を眺めていた。
「おう、これは!?」
声をあげたのは、大臣藤原忠平である。
忠平の視線の先を見やれば、床の上に、龍の形と虎の形に切り抜かれた二片の紙が落ちていた。
軒ごしに見あげる空は、さきほどと同様に晴れており、そこを、何ごともなかったかのように雲が悠々と動いている。
今、この場で、道満と晴明との間で、方術のやりとりがあったらしいことまではそれで理解できるが、具体的にいったいどのような力や術が、ここでかわされたのかということは誰もわからない。
わかっているのは、晴明と道満だけである。
三
「硯《すずり》と、墨《すみ》を──」
そう言ったのは、晴明であった。
「墨?」
実頼が訊いた。
「はい。ついでに少々の水と、几帳《きちよう》を──」
運ばれてきた墨を、晴明はていねいな仕草で磨りはじめた。
墨が磨りあがると、晴明は、懐から一本の筆を取り出した。
すでに、晴明の前には、絹を張った几帳が用意されている。
晴明は、その筆にたっぷりと墨を含ませると、几帳の前で片膝立ちになった。
几帳の左端に筆先をあて、晴明はそれを右へ滑らせた。
左から右へ──
几帳を上下に分かつように、一本の線が左から右へ引かれた。
筆を置き、晴明は、一同に見えるように、簀の上で、几帳の向きを変えた。
「これは?」
忠平が問う。
「海でござります」
晴明が言った。
なるほど、言われてみれば、几帳を上下に分かつ、水平に引かれたこの一本の線は、海と見えなくもない。
晴明は、右手を懐に入れて、一本の扇《おうぎ》を取り出し、それを半分ほど開き、横から静かに几帳を煽《あお》ぎはじめた。
「何じゃ」
また、忠平が問うた。
「風が出てまいりましたな」
晴明が、忠平の問いに答えるともなく、独り言のようにつぶやいた。
「波が……」
晴明が言うと、几帳に左右に引かれた線が、小さく上下しはじめた。
「風が強うなりましたなあ」
晴明が、扇を動かすのを速くする。
「波が高うなってまいりました」
波が、高くなっていた。
はじめはただの横の線と見えていたものが、今は海そのものとなって、几帳の中で大きくうねっているのである。
「さらに波が高うなってまいりましたぞ」
晴明が、扇で大きく煽げば、波はますます高くなり、互いにぶつかり、しぶきをあげはじめた。
そのしぶきが、几帳の外へ飛んだ。
「おうっ!」
「冷たい!」
几帳の近くにいた者が、頬を押さえて身を引いた。
大きな波が寄せて、
どう、
と几帳から波が清涼殿の中へと溢れ出してきた。
それがきっかけとなり、次々に打ち寄せてくる波が几帳から溢れ出し、ついには、滝のように海の水が几帳から零《こぼ》れ落ちた。
「おう」
「なんと」
左大臣実頼も、右大臣師輔も、忠平も立ちあがっていた。
「せ、晴明」
博雅も立ちあがった。
御簾の向こうでは、帝も立ちあがっている。
部屋に溢れた海水は、簀へ零れ、階から庭へ流れ落ちた。
座しているのは、晴明と道満ただふたりである。
道満は、懐に右手を差し入れ、土器《かわらけ》の杯を取り出し、それを、水の流れる簀の上に置いた。
杯は、水に流されもせず、簀の上に留まった。
と──
溢れていた海水が、道満が置いた杯を中心にして渦を巻きはじめた。
座している道満の膝より上にあった水が、杯に吸い込まれてゆく。
みるみるうちに、水嵩《みずかさ》が減って、気がついてみれば、清涼殿の中にも庭にも、どこにも水はなくなっている。
あれほど、水があったと見えたのに、床も、階も濡れてはおらず、身につけていた衣《きぬ》も濡れてはいない。
ただ、簀の上に、横に一本線の引かれた几帳が置かれており、その横に晴明が座して微笑しているばかりである。
道満の膝元に、杯がひとつ。
その杯に、水が満たされている。
それを、道満は手に取り、
「これを──」
うやうやしく、まだ立っている忠平に差し出した。
忠平がそれをおそるおそる受け取った。
「お飲み下され」
道満が言った。
「飲めと? これをか──」
「はい」
道満が頭を下げると、忠平は御簾の向こうを見やってから、覚悟を決めたように杯を唇に運び、それを口に含んだ。
含んだ途端に、忠平は妙な顔つきになり、それを吐き出そうかと、また御簾の方に眼をやってから、喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。
「塩辛い」
忠平は、声をあげた。
左の拳で口をぬぐい、
「これは、海の水じゃ」
忠平は言った。
四
道満が、晴明に向かって右手を差し出した。
その手が、拳に握られている。
指の間から、茶色の羽毛のようなものが見えている。
「これは、今しがたの水で溺れた、庭の雀じゃ」
道満は言った。
「さて、晴明殿、この雀、生きておりまするか、死んでおりまするか?」
「なんと、道満殿──」
晴明は唇の端に笑みを浮かべ、
「わたくしが、生きていると申せばその雀を手の中で握り殺し、死んでいると申せば、その雀を天へ放すおつもりではありませんか」
そう言った。
「ふふん」
道満は、照れたように苦笑して、右手を開いた。
すると、その雀が道満の掌から飛びたって、たちまち軒下をくぐって空へ逃げ去っていった。
「ちぇ」
道満はつぶやいて、右手で右耳の後ろをこりこりと音をたてて掻いた。
「晴明、道満」
そこへ、忠平から声がかかった。
「その方らの方術、よく見させてもろうた。次は、我らが用意したものを占うてもらいたい」
「ほう」
「占いですか」
道満と晴明が、小さくつぶやく。
「射覆《せきふう》じゃ」
忠平が言った。
射覆というのは、覆われたものや隠されたものを見破り、当てる術のことである。
晴明と道満の前に置かれたのは、その表面に亀と鶴が螺鈿《らでん》紋様で描かれた箱であった。
紫の絹の紐《ひも》でそれが括《くく》られている。
「ふたりには、この中に入っているものを当ててもらう」
忠平が言った。
「道満はその数を、晴明はその中のものが何であるかを当てよ」
「承知」
言われてふたりがうなずいた。
「ふうむ」
道満が箱を眺めやり、
「わしが先に答えてもよろしいかな?」
晴明に問うた。
「はい」
晴明がうなずくのを待って、
「鼠が十二匹」
ぼそりと道満が言った。
「な、なんと──」
声をあげたのは、右大臣藤原師輔であった。
声をあげた師輔を見やり、
「鼠が十二匹でござります」
道満が、にいっと笑った。
博雅は、向こうで、半分腰を浮かせかけていた。
一方が数を、一方が何であるかを答える勝負である。
道満が答えるとするなら、
「十二」
でなければならない。
それを、道満は、ふたつ一緒に答えてしまったのである。
これが当っているのなら、晴明がたとえ、数を言っても、入っているものについて答えても、道満の真似をしたと言われてしまう。
しかし、晴明は涼しい顔をしている。
「大柑子《だいこうじ》が四つ」
澄ました顔で言った。
大柑子──夏《なつ》蜜柑《みかん》のことである。
「お、おい」
博雅が声をあげた。
大柑子は、夏のものであり、まだ、木に実を結んでさえいないものだ。つまり、箱の中に入っているはずのないものである。
「なるほど、そうこられたか、晴明殿──」
道満はつぶやいて、
「鼠が十二匹」
もう一度言った。
「大柑子が四つ」
晴明がまた、同じことを言った。
するとまた、道満が、
「鼠が十二匹」
つぶやく。
すると今度はまた、
「大柑子が四つ」
晴明がつぶやいた。
「鼠が十二匹」
「大柑子が四つ」
ふたりが交互に言い合った。
「道満殿──」
晴明が言った。
「あなたが先に答え、次にわたしが答える、これでよろしいのではありませんか」
「なるほど、それもそうじゃ」
道満がうなずいた。
「よい。開けてみればわかることじゃ」
忠平がそう言った。
晴明と道満が沈黙した。
「では──」
箱が開けられると、はたして、晴明の言った通りに、中から出てきたのは四つの大柑子であった。
「な、なんと──」
師輔も、驚いた声をあげている。
「いやいや、さすがは晴明殿、とても我が方術の及ぶところではございませぬなあ──」
悪びれた風もなく、道満は声をあげてからからと笑った。
五
ほろほろと酒を飲んでいる。
夜──
晴明の庭の桜が、昼の暖かさで綻《ほころ》びはじめている。
簀の上から見やれば、闇の中に、白い花が点々と見えている。
晴明と博雅は、向き合って座しながら、酒を飲んでいた。
大ぶりの瓶子《へいし》が一本。
土器《かわらけ》の杯が三つ。
杯のうち、ふたつは酒が満たされている。
それを、時おり口に運んでは、ふたりは見るともなく夜の庭を眺めている。
その日の昼に、晴明と道満の方術比べがあったのだ。
「しかし、それにしても驚いたなあ、晴明よ──」
博雅は言った。
「あれは、おまえと道満殿が、鼠、大柑子と言いながら、呪《しゆ》をかけ合っていたのだろう?」
「まあ、そういうことだな」
「ふたりで互いに声をかけ合って、最後にその名を口にした者の呪が、箱の中のものにかかったということか」
「うむ」
「しかし、最初に道満殿が、数も中身も口にした時には、どうなるかと思ったよ。だが、逆に、最初に口にした道満殿がそれで不利になってしまったというわけだ」
「───」
「だがなあ、晴明よ。もっと驚いたのは、おまえと道満殿が帰ってからだ」
「ほう」
「おまえたちがいなくなってから、箱の前まで最初に飛んできたのは、右大臣藤原師輔殿でな。師輔殿は何やら得心がゆかぬ様子で、大柑子を持ちあげたり、箱の中を何度も眺めたりしていたのだがな……」
そのうちに、
「むむう」
と師輔が唸り、その手で大柑子の皮を剥《む》きはじめたのだという。
「どうか皆さま、この大柑子の皮を剥いて下され」
言われて、何人かで、四つの大柑子の皮を剥くと、なんと、その中から出てきたのは、萱鼠《かやねずみ》であった。
四つの大柑子の中に、それぞれ、三匹ずつ、小さな萱鼠が入っていて、それが、剥くそばから、中より這い出てきたのである。
「おまえも、道満殿も、箱の中身を当てていたということだったのだなあ」
博雅は言った。
「でな、這い出てきた萱鼠が、どれもひとつずつ、小さな金色に光るものを口に咥《くわ》えていたのさ。それが、何だったと思う?」
博雅が訊いた。
「金の十二神将の像だろう」
晴明が言った。
「驚いたな、晴明よ、その通りだよ。鼠が咥えていたのは、金に彫られた小指一本ほどの大きさの十二神将の像であったのさ」
博雅は言った。
十二神将──
薬師如来の眷属《けんぞく》である、十二人の守護神である。
子の宮毘羅《くびら》。
丑の伐折羅《ばさら》。
寅の迷企羅《めきら》。
卯の安底羅《あんちら》。
辰の|※[#「安+頁」、unicode981e]※[#「にんべん+爾」、unicode511e]羅《あにら》。
巳の珊底羅《さんちら》。
午の因達羅《いんだら》。
未の波夷羅《はいら》。
申の摩虎羅《まこら》。
酉の真達羅《しんだら》。
戌の招杜羅《しようとら》。
亥の毘羯羅《びから》。
「皆で慌てて、これを咥えた萱鼠を捕えたのだが、これにはわけがあってな」
「そもそも、はじめに箱の中に入っていたのは、その十二神将であったのだろう?」
「よく知っているな、晴明」
「藤原師輔殿の重宝であろう」
「うむ。何年も前に、東大寺の仏師に作らせたもので、たいそう素晴しいものだそうだ。今度《こたび》は師輔殿が自ら言い出して、それを箱の中に納めたのだそうだが、中に何が入っているのか、あの場で知っていたのは、当の師輔殿、実頼殿、忠平殿、このお三人だけであったそうだぞ」
「うむ」
「しかし、残念なことになあ、逃げ出した萱鼠の一匹がどうしても見つからずに、そいつが咥えていたらしい十二神将が一体、行方がわからなくなってしまったのだ」
「何がなくなった?」
「辰の|※[#「安+頁」、unicode981e]※[#「にんべん+爾」、unicode511e]羅《あにら》だな」
「ほう」
晴明が言った時、庭に何やら人の気配があった。
博雅が見やれば、庭の暗がりの中に、うっそりと人が立っていた。
襤褸《ぼろ》の衣を身に纏った老人であった。
白い蓬髪《ほうはつ》にも、白い顎鬚《あごひげ》にも、見覚えがあった。
「道満殿……」
博雅がつぶやいた。
蘆屋道満がそこに立っていた。
「晴明……」
道満がぼそりと言った。
「これはこれは道満殿、お待ち申しあげておりました」
晴明が言った。
「約束のものをもらいに来た……」
「承知しております。ひとまずこれへ。酒を飲んでゆきませぬか」
「おう」
と答えて道満は歩いてくると、階から簀の上にあがり、ふたりの間に座した。
「いや、どうも、あの|なり《ヽヽ》は疲れるわい」
道満は、頭を掻いて笑った。
晴明が、瓶子を手に取って、空であった三つめの杯に酒を満たしてやると、道満がそれをうまそうに飲んだ。
「よい酒ぞ」
唇に付いていた酒を、道満が舌でぬぐった。
晴明が、小さく三度指を鳴らすと、庭にかさこそと音がして、階の手すりを伝って、一匹の萱鼠が、簀の上にあがってきた。
萱鼠は、その口に、金色に光るものを咥えていた。
「よしよし」
と晴明は、萱鼠の口からその金色に光るものを右手に受け取った。
「それは!?」
博雅が言った。
「黄金《こがね》の十二神将──辰の※[#「安+頁」、unicode981e]※[#「にんべん+爾」、unicode511e]羅さ」
晴明は言った。
辰──すなわち龍である。
「なるほど、みごとなものだ」
手の中で、しばらくそれを見やってから、
「どうぞ」
晴明は、その像を道満に渡した。
「いただこう」
道満は、像を受け取り、それを、当然のごとくに懐に入れた。
「それは、師輔殿の……」
「そうさ」
博雅に、晴明は言った。
「いったい、どうして、それがここに。どうなっているのだ晴明。はじめから、まさか、それを道満殿に……」
「そうさ、それが約束だったからな」
「約束、どういうことだ」
博雅が言うと、
「あやつがたくらんだのよ」
道満が言った。
「あやつ?」
「藤原師輔よ」
「なに!?」
「師輔め、おれに恩を売りにきたのさ。晴明と方術比べを行なう時に、射覆をやるとな。その中身まで、おれに教えていきおったのさ──」
「なんと、師輔殿が」
「宮中でおれの名を出した手前、このおれに勝たせたかったのだと言っていたがな」
「───」
「で、二日前の晩、道満殿が、このわたしのところまでやって来られたのだよ」
晴明は言った。
二日後の勝負、おれが負けてやろうではないか、晴明──
道満はそう言って、
「そのかわりに、欲しいものがある」
晴明を見たのだという。
「何でしょう」
「射覆の箱の中に入っている十二神将のうち、どれかひとつをもらいたいのさ」
「それはまた何で?」
「おまえとの勝負に、つまらぬことを言ってきた罰だな。晴明よ、おまえを勝たせてやろう。おまえは名をとれ。おれは実《じつ》をとらせてもらう」
どうだ──
と道満は言った。
「それを承知したのさ」
晴明は言った。
「なんと……」
博雅は、それに続ける言葉もない。
「我らの術で楽しませてやったのだ。安い安い……」
道満は、そう言いながら、杯を口に運んだ。
「箱の中から大柑子が出てきたあの時、師輔殿が大きな声をあげたのはそういうことであったのか……」
博雅は、ようやく腑《ふ》に落ちたというようにつぶやいた。
「ま、飲め、博雅」
晴明が、博雅の杯に酒を注いでやる。
「う、うむ」
博雅が酒を飲む。
月が、西の山の端に沈む頃──
「おもしろかったなあ、晴明……」
ぽつりと道満が言って、腰をあげた。
「はい」
道満はゆるゆると簀を歩き、階を降り、庭へ出た。
「また会おう……」
振り返りもせずに、道満は言った。
そのまま、道満は姿を消した。
「おもしろかったろう、博雅……」
晴明が言うと、しばらく沈黙してから、
「ああ」
ぽつりと博雅がうなずいた。
[#改ページ]
あとがき
初夏である。
家のまわりは、すでに新緑の時期から本格的な緑の時期に移りかわろうとしている。
こういう時期に、『陰陽師』の短篇集第四巻目鳳凰ノ巻≠お届けすることができるのは嬉しい。
幾つかのアイデアで、短い話をひとつ書く作業というのは、おもしろい。
メインアイデアをひとつ。それに関連のあるアイデアをふたつかみっつほど考えたら、あとはもう、書き手の技術と資質の問題である。いや、単純に体力と書いてしまってもいいが、それではわかりやすすぎるだろう。
ただぼんやりと日常をすごしているうちに、ある時、いきなり、天から神憑《かみがか》り的なアイデアが落ちてくる──そういったことは、まずない。
絶対にないとは言わないが、そのような僥倖《ぎようこう》と巡りあうことは、一生のうちほとんどないと言っていいだろう。
あの星新一さんでさえ、苦労せずにアイデアが出てきたのは、最初の一作か二作だけであったと言っているのである。
あとはただひたすら、精神と意志の力でアイデアをひねり出さねばならない。
アイデアをひねり出す一番良い方法というのは、これはもう断言しておくが、
ただひたすら精神を集中してそのことについて考えること
であろうと思う。
脳がとろけて鼻の穴から流れ出てしまうくらい考える。ただそのことを考え続ける──他にも色々方法はあるかもしれないが、これが最良の、しかも、もっとも効率の良い方法であることは間違いがない。
どうも、ぼくは、そういう作業に耐えられる人間であったらしい。
月に、およそ十回あまり、そういう場所をくぐっているのだが、なかなか、その作業に慣れるということがない。
その作業がどれだけしんどいかよくわかっているので、ついつい、理由を見つけてはその作業を先のばしにしてしまうのである。これで、しめきりのほとんどの時間を使ってしまうのである。
この晴明と博雅のシリーズも例外ではないのだが、その作業中に、他の作品では味わえない楽しみが、この作品では味わえるのである。
自分で作り出しておきながら、こう書くのも妙なのだが、ぼくにとって、ふたりの新しい話を書くという行為は、このふたりに会いにゆくという行為とほとんど同じになってしまっているのである。
親しい知人に会いにゆく──原稿をしこしことつたない字で一文字ずつ原稿用紙に書いてゆくという行為も、これは彼等に会い、そこで会話を交わし、一緒にあの濡れ縁で酒を飲むための手つづきであると思えば、その苦が楽へと転じてゆくのである。
本書はおもしろい。
本書のために、ゲラを読みかえしていても、思わず身を乗り出して自分の書いたものを読んでしまうのである。
おもしろさのトーンダウンというのが、これだけ書いてきてもまだないというところが、この物語の人気の秘密のような気がする。
十年以上も前に出した第一巻の母版が、文庫も出たというのに、いまだに売れているというのも、なかなか凄いことなのではないか。
ここで、ひとつ、お知らせをしておきたい。
実は、インターネットで、ホームページを開設したのである。
そこでは、ぼくの日記や、新連載(なんと『陰陽師』の新作の、カラー絵物語)などがあり、『陰陽師』専門の書き込みページや、占いのページなどもある。
一部有料なのだが、ぼくの『陰陽師』の生原稿のプレゼントなども、定期的にやってゆくつもりなので、興味のある方は、ぜひ一度のぞいてみていただきたい。
『陰陽師』の映画化の話などもあり、もしこれが実現するようなら、その情報も、このホームページから発信してゆきたい。
二〇〇〇年五月十四日
[#地付き]小田原にて
[#地付き]夢枕 獏
〈底 本〉文春文庫 平成十四年十月十日刊単行本
二〇〇〇年六月 文藝春秋刊