[#表紙(表紙.jpg)]
夢枕 獏
陰陽師 飛天ノ巻
目 次
天邪鬼
下衆法師
陀羅尼仙
露と答へて
鬼小町
桃薗の柱の穴より児の手の人を招くこと
源博雅堀川橋にて妖しの女と出逢うこと
あとがき
[#改ページ]
天邪鬼《あまのじやく》
一
|源 博雅《みなもとのひろまさ》が、土御門《つちみかど》小路にある安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷を訪ねたのは、水無月《みなづき》の初めであった。
午後である。
雨が降っていた。
まだ梅雨があける前の、細い、冷たい雨であった。
開け放したままの門をくぐると、濡れた草の香りが、博雅を包んだ。
桜の葉や、梅の葉、そして燈台草や多羅樹、楓《かえで》の新緑が、濡れて鈍く光っている。
竜牙草、五鳳草、酸漿草《ほおずき》、銀銭花──それらの野草が、あちらにひと叢《むら》、こちらにひと叢と、庭中に生《お》い繁っている。山あいの野辺の草叢《くさむら》を、そのままここへ移したようであった。
繁るにまかせているようにも見えるが、よくよく眺めてみれば、薬草として利用できるものが多い。博雅自身にはわからないが、意味のないように見える他の草や花も、案外晴明にとっては意味のあるものなのかもしれない。
しかし、それとても、単に偶然にここに生えているだけのことかもしれなかった。
晴明という男を考えてみるに、そのどちらもありそうな気がする。
しかし、これはこれで、庭として気持ちがよい。
人が通る場所は、雨や夜露で着ているものの裾《すそ》が濡れぬように草を刈ってあるし、地面に石を敷《し》いたりしてある場所もあるのだ。
それらの草の上にも、針よりも細く、絹糸よりも柔らかな雨が、音もなく注いでいた。
ほとんど、霧と見まごうばかりの雨であった。
博雅の着ているものが、しっとりと雨滴《うてき》を含んで重くなっている。
雨具を持たずに、供の者も連れずに出てきたのだ。
晴明のもとを訪ねる時は、博雅は独りで出かけてくる。車にも乗らず、馬にも乗らず、徒歩《かち》である。
数瞬、そこで立ち止まって庭を眺めていた博雅が歩き出そうとした時、人の気配があった。
庭から視線を移すと、前方から、人が歩いてくるのが見えた。ふたりだ。
ひとりは、僧であった。剃髪《ていはつ》して、衣を着ている。
もうひとりは、女だった。
淡い藤色の唐衣裳《からごろも》を着ていた。
僧と女は、無言で歩いてくると、そのまま博雅の横を通り過ぎてゆく。その時、ふたりは、軽く博雅に会釈《えしやく》していった。
博雅は、あわてて会釈を返した。
その時、ほのかな藤の香りがした。
蜜虫《みつむし》──
そう言えば、昨年の今頃、琵琶《びわ》の玄象《げんじよう》が盗まれたおり、晴明と共に羅城門まで出かけているが、その時、一緒に行った女が、今の女ではなかったか。藤の精を、晴明が式神《しきがみ》として使っていたものだ。
式神──陰陽師が操る精霊や妖《あや》しの気や鬼などが、この名で呼ばれている。
しかし、その女は鬼に殺されているはずだ。いや、花の精の式神なれば、また次の花の時期には生き返るか、あらたな式神としてこの世界に現われることもできるのだろうか。
その新しい式神を果たして晴明が名づけているかは、むろん、博雅にはわからない。ふたりの背を眼で追っていた博雅が視線をもどすと、眼の前に女が立っていた。
藤色の唐衣裳を着た、今、僧と共に去っていったばかりの女だった。
思わず、ひと言声をかけそうになったが、女が落ち着いた素振りで静かに頭を下げ、
「これは博雅さま、ようこそのおはこび……」
囁《ささや》くように言った。
「晴明さま、すでに、あちらにてお待ちでござります」
式神か──
ならばこの女のふいの出現ぶりも、気配が雨に濡れた草か花のように幽《かす》かであるのもうなずける。
女が、軽く頭を下げて歩き出した。
博雅は、女の後に続いて歩き出した。
女に案内されたのは、庭がよく見える部屋であった。
すでに、酒と肴《さかな》が用意してあった。
酒がたっぷりと入った瓶子《へいし》が一本──干し魚を軽く火で焙《あぶ》ったものが皿に乗っている。
「来たな、博雅──」
「久しぶりだな、晴明よ」
博雅は、すでに、晴明の前に敷かれてあった円座《わらざ》の上に腰を下ろした。
「晴明よ、今、そこで僧に会ったぞ」
「あれか──」
「ここへ、人が訪ねて来たのを見たのは久しぶりだな」
「仏師さ──」
「ほう。どこの仏師だ?」
「教王護国寺のさ」
晴明は、ゆるりと片膝を立て、そこに片手を無造作に置きながら言った。
教王護国寺──すなわち東寺のことである。
延暦一五年、王城守護のため、朱雀大路《すざくおおじ》の南端、羅城門の東側に建てられた寺だ。その後、空海に与えられて真言宗の道場となっている。
「仏師の僧が、独りで陰陽師《おんみようじ》を訪ねてきたというのも妙だな。供の者も連れておらなんだぞ」
「ぬしも、ここへやって来る時はいつも独りではないか」
「まあ、そうだが……」
「何の用事だ。また何やら困ったことでもおこったか」
晴明、瓶子を持って、博雅の前に置いてあった杯に酒を満たし、自分の杯にも酒を注いだ。
「うむ。まあ、困ったことと言えば困ったことなのだが、それが、困っているのはおれではないのだよ──」
博雅は、言いながら酒の満たされた杯を持ちあげ、どちらからともなく、飲みはじめた。
「酒《ささ》を飲みながら話ができるというのは良いものだな」
と晴明。
「さっきの仏師とは、酒を飲まなんだか」
「まあ、僧だからな。それより、博雅よ、困っているというのは誰なのだ」
「それが、その、名前のことはなあ……」
博雅はひとしきりもじもじして、
「だから、つまり、その困ったことについて、頼みごとがあるのだよ、晴明──」
「頼みごとか──」
「そうなのだよ。ぬしでなければ駄目な方面のことでな」
「しかし、すぐにというわけにもゆかぬぞ──」
「何故だ?」
「さっきの仏師──玄徳どのに、明日ゆくと約束してしまったからな」
「ゆく?」
「教王護国寺へさ」
「しかし、晴明よ。こちらはこちらで、急いで手を打ってもらいたいのだよ。なにしろ、やんごとない筋の話でもあるのでなあ」
「どういう筋なのだ?」
問われて、博雅はううむと腕を組んで唸《うな》った。
「言えぬのか」
「いや。いやいや、言えぬということはない。もちろん、おぬしは知っていてよいことだ。それがな、|菅原 文時《すがわらのふみとき》殿のことなのだ」
「文時殿といえば、かの|菅原 道真《すがわらのみちざね》公の孫にあたられる方ではないか」
「そうなのだよ、晴明──」
「五年前であったか、帝の勅に応じて、三ヵ条の意見封事を上奏したのは──」
「うむ」
博雅はうなずいた。
菅原文時は、帝《みかど》の信任の厚い、当時のインテリのひとりである。
漢詩人であり、学者である。
内記、弁官、式部大輔《しきぶのたいふ》、文章博士《もんじようはかせ》などを歴任して、最終的には従三位《じゆさんみ》という地位に至っている。
「で、その菅原殿がどうしたというのだ──」
手酌で、ゆるゆると晴明は酒を飲んでいる。
「菅原公がな、ある時、さる白拍子《しらびようし》に懸想《けそう》してだな、ひとりの子をなしたと、そう思うてくれ──」
「これはお盛んなことだな。菅原公も、まだお若い──」
「いや、晴明よ。それが今から二十年ほど前のことなのだ。つまり、不惑の歳をふたつみっつ出たかどうかという──」
「それで?」
「でな、その元白拍子が、その子と一緒に、上賀茂のほどよき山中に、庵《いおり》を結んで住んでいるというわけだ」
「うむ」
「で、出るのだ」
「出る?」
「あやかしがだよ」
「ほう?」
「上賀茂神社の横を抜けてな、しばらく行ったところにその庵があるのだが、その径《こみち》の途中で、あやかしが出るのだ。どうだ、これはまさしく晴明の領分だろうが──」
二
最初に、そのあやかしが出たのは、ちょうど、ひと月前であったという。
夜──
菅原文時の従者がふたり、件《くだん》の径を歩いていた。
その晩に、元白拍子の家へ通う予定であった菅原公が、急の病でゆけなくなり、菅原公の歌をしたためた文を持って、ふたりはその径を急いでいたというのである。
鬱蒼《うつそう》とした齢《よわい》千年の杉林をぬけると、まばらな雑木林の中の径になる。途中、雑木林の中に低い丘があり、その丘の上──峠のあたりに、大きな檜《ひのき》の切り株がある。
「ちょうど、そこへふたりがさしかかった時に、出たのよ」
博雅はそう言って首をすくめた。
月夜である。
しかし、森の中の道だ。
ひとりが、右手に松明《たいまつ》の灯《あか》りを持っている。
武士ではないが、ふたりとも、腰に太刀を帯びている。
径の右側にあるその切り株が、ぼんやりと見えるあたりに来た時、先頭を歩いていた男が足を止めた。後方の男が、その男の背にぶつかりそうになった。
「どうした?」
「人がいる」
先頭の、松明を持った男がそう言った。
「こどもだ」
「こどもだと?」
後方の男が、前に出て眼を凝《こ》らすと、なるほど、前方の暗がりの中に、ぼうっと白いものが見えている。
ちょうど、そのあたりは、樹がまばらになっていて、天から青い月光がこぼれ落ちてきている。その月光に、ぞっぷりと濡れそぼつように、誰かが立っている。
よくよく見れば、なるほど、子供のようである。
しかも──
「おい。裸だ……」
前に出た男がつぶやいた。
おそるおそる近づいてみれば、なるほど裸の童子である。
しかし、全裸ではない。腰のあたりに布を巻いている。しかし、他にはどんなものも身につけてはいない。白い素足が見えている。
年の頃なら、九歳か十歳くらいであろうか。童子頭をしていて、その口もとが夜眼にも赤く、うっすらと笑みを含んでいる。
「いや、恐いではないか、晴明よ。おれだったら、わっと声をあげて逃げ出しているかもしれないよ」
さやさやと、頭の上で、雑木林の葉が風で触れあっている。
「どうしたの、ここを通りたいの?」
童子が言う。
「そうだ。ここを通りたい」
男が言うと、
「駄目だよ。通さないよ」
童子が言った。
「なに!?」
男たちが気色ばむ。
すでに、男たちも、この童子がただの童子ではないとわかっている。
太刀に手をかけ、じわじわとにじり寄りながら、童子の横を通り抜けようとした時、ふいに、むくむくと童子の姿が大きくなり始めた。男たちが驚く間もなく、童子は身の丈《たけ》が十尺余りとなった。
男たちが逃げ出そうとすると、童子が右足を持ちあげて、ふたりの男を一緒に踏みつけた。
「あなや」
凄い力と重さに、呼吸もままならない。
「苦しや」
「お助け」
ひと晩中|呻《うめ》きながら、気がついてみたら朝になっていた。
我に返ってみれば、童子はどこにもおらず、ふたりの背には、それぞれ一本ずつ、枯れ枝が乗っているだけであったという。
「それからな、毎晩──というよりも、夜に人が通ると、必ず、そのあたりにそのこどものあやかしが出るのだよ」
「おもしろいな」
「おもしろがるなよ、晴明。これまでに、もう何人もそこであやかしにあっているのだ」
どちらの方向から歩いてゆくにしろ、その峠の切り株のあたりにさしかかると、その童子が立っている。
そこにさしかかった人間に、童子が、通るのか通らないのかと問う。通りたいと言えば通さないと答え、無理にでもゆこうとすると、足に踏みつけられる。
「通りたくない」
そう答えると、
「では、通れ」
童子が言う。
びくびくしながら、切り株の横を通り過ぎ、ほうっと安堵《あんど》すると、また、向こうに切り株が見えてくる。どうしたことかとその峠を越え、しばらく歩くとまたあの切り株が見えてくる。
結局、朝まで、峠の切り株の周囲をぐるぐる回っていただけであったことに気づく。
「それでな、四日前には、ついに菅原公が、背を踏みつけられてしまったのだよ」
菅原文時を踏みつけながら、
どうだね、踏まれるのは痛いだろう、このまま、一生踏まれ続けるのはもっと痛いぞ、もっと怖いぞ……
童子は、大人びた声でそう言ったというのである。
それはおもしろい──
口にはしないが、晴明はそういう顔つきをした。
菅原公がやって来ないのを不審に思い、元白拍子の女が、翌朝早く出かけてゆくと、菅原公と従者が、小枝を背中に乗せて、峠でうんうん唸っていたというのである。
「晴明よ、どうだ」
「どうとは?」
「なんとかしてくれぬか。これは、あまり人に知られぬうちに、内々に解決したいのだよ──」
「檜と言ったな」
「何がだ?」
「その切り株がさ」
「ああ」
「何年前に切られたのだ」
「四年前とかいってたな。齢千数百年ほどの、みごとな大樹であったらしいぞ」
「何故、切られた?」
「五年前に、雷が落ちて、上の方が焼けて、そこから樹が腐りかけてきたのだそうだ。そこから折れて倒れた時に、危ないからというので、四年前に切られたらしい」
「ふうむ」
「なあ、頼まれてくれ。おれは、菅原公には書やら漢詩やらをいろいろと親身になって教えていただいたことがあるのだよ。菅原公は、これから、夜に女のもとへ通えなくなってしまう──」
「叡山《えいざん》の密教僧か誰かに頼めぬのか──」
「あそこの坊主どもは、存外に口が軽い者が多うてなあ。あそこの坊主に頼んだら、たちまち、菅原公が、小さな木の枝に押さえられて、朝まで唸っていたことが知られてしまう」
「おれも口は軽いぞ」
「いや、晴明よ。おれはおまえのことをよく知っている。おまえは、言わんでくれとおれが頼んだことを、みだりに他言したりはせぬ男だ」
晴明は苦笑いを浮かべ、空になっていた自分の杯に酒を満たした。その酒を、ひと息に飲み干して──
「よし、ではゆくか、博雅よ」
杯を置いた。
「どこへだ」
「上賀茂へさ」
「いつ?」
「今夜さ」
「今夜?」
「ゆくとしたら、今夜しかあるまい。明日は、教王護国寺へゆかねばならぬからな。もっとも、もしかしたら、今夜でそちらの方の用事もすんでしまうかもしれぬがな」
「それはありがたい」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
三
雨はやんでいた。
かわりに、霧となった。
細かい水の微粒子が、大気の中にみっしりと満ちている。
左手に賀茂川のせせらぎを聴きながら、晴明と博雅は、濡れた草の上を歩いている。
じきに、この流れを後にして、上賀茂神社へと登ってゆくことになる。
上賀茂神社──正式には|賀茂別雷《かもわけいかずち》神社である。祭られているのは|別雷 神《わけいかずちしん》であり、自然神であるため、御神体が置かれてない。
灯りの松明は、博雅が手にしている。
晴明は、うっとりと酔ったような表情で、霧の中を歩いている。
霧は、地上近くを這っているだけで、空は晴れているらしく、朧《おぼ》ろに鈍く光る青い月明りが、頭上に見えていた。
その、不思議な光の中を、ふたりは歩いている。
「なあ、晴明よ、怖くはないか──」
博雅が訊いた。
「怖いさ」
「しかし、おまえが言うと、まるで怖がってはいないように聴こえるぞ」
「ふうん」
「おれは怖い」
博雅は、口にしてから、なお怖くなったように背をすくませた。
「おれは、本当は臆病なのだよ、晴明……」
博雅は口の中に溜った唾液《だえき》を、音をたてて呑み込んだ。
道は、いつの間にか賀茂川を離れ、上賀茂神社に向かって登り始めていた。
「臆病なのだが、その臆病な自分を許したくない自分がいるのだよ。その自分が、いつもおれを、怖い方へ怖い方ヘと追いやってしまうような気がするのだよ。それは、うまく言えないのだが、自分が武士というものであるかららしいのだよ」
もってまわった言い方をした。
博雅は、この物語の設定では武士である。武士には武士だが、その血はやんごとない筋からもらっている。醍醐《だいご》天皇の第一皇子である克明《よしあきら》親王が、博雅の父であった。
「ところで、晴明よ、訊きたいことがある」
「なんだ」
「おまえ、昼間、妙なことを言ってたな」
「妙なこと?」
「もしかしたら、今夜で、護国寺の方の用事もすんでしまうかもしれないと言ってなかったか──」
「うん、言ったな」
「どういう意味なのだ。今度の件と、護国寺の方の件と関係があるのか?」
「たぶん、あるだろう」
「どんな関係なのだ」
「それなら、まあ、道々に話してやろう」
「頼む」
「おまえが、おれの屋敷で会った僧がいたな」
「うん」
「あの僧は、名を玄徳と言ってな。すでに言ったが、教王護国寺で、仏師をやっている……」
晴明は話し始めた。
道は、すでに、樹齢千年という杉林の中に入っていた。
四
玄徳が、四天王像を彫り始めたのは、二年前からである。
全部で四体。
須弥山《しゆみせん》の東西南北を、それぞれ守護する尊神である。
南の増長天。
東の持国天。
西の広目天。
北の多聞天。
彫るのは、四つに切られた檜の古木である。
護国寺が、樹齢千数百年を越えるその檜を手に入れたのである。
切り出されてから、二年の間陰干しにされ、ちょうど仕事を始めようとした玄徳の所へそれがまわってきた。
彫りはじめたのは、南の増長天からである。それに半年かかった。次が東の持国天。次が北の多聞天。それぞれ、一体を彫るのに半年ずつかかり、最後が西の広目天となった。
まず、ひと月前に、先に邪鬼が完成した。あとは、本体である広目天である。
その広目天が、ほとんど完成しようかという時に、変異がおこったというのである。
四人の尊神は、それぞれ、足下に一匹ずつの邪鬼を踏み締めている。
広目天の踏み締めている邪鬼が、あともう数日で像ができあがるという晩に、消えてしまったのだ。
「消えたのですか?」
晴明は訊いた。
「はい。消えてしまったのです」
台座から、邪鬼、尊神まで、どれも一本の樹から彫ってゆく。広目天で言えば、広目天の右足の裏と、それが踏んでいる邪鬼の背とは繋《つな》がっていることになる。
それが、消えた。
誰かが、鑿《のみ》で切り取っていったという風ではない。
その日の昼までは、邪鬼はきちんと広目天の足の下に踏み締められていた。それを玄徳は知っている。
夜、小便に起きたおり、急に広目天の像が見たくなった。なにしろ、この二年分の仕事が、ようやく完成しようとしているのである。
小便の後、灯りを点《とも》して仕事場に入っていった。
そこで、邪鬼のいないことに気がついたのである。
ところが──
翌日、朝に仕事場に入ってみると、広目天の足の下に、邪鬼がもどってきているではないか。
はて、昨夜見たものは夢であったかと思い、その日はいつも通りに仕事をした。
夕刻に、仕事を終えたのだが、妙に昨夜のことが気になっている。
「よし、今夜中に完成させてしまおう」
玄徳はつぶやいた。
どうせ、明日にはできあがるのだが、今夜、ひと踏んばりすれば、今夜中に像は完成するだろう。
そう決心した。
で、食事を済ませ、灯りの用意をして仕事場にもどってみると──
「また、邪鬼が消えていたのです」
今度は、翌日になっても、さらにまた翌日になっても、邪鬼はもどってはこなかった。
そして、四日目に、ついにたまらなくなって、玄徳は晴明のもとに忍んできた。
寺には内緒である。
寺に話をすれば、仏師の職を取りあげられることになるかもしれないと、玄徳は言うのである。
「というのも、邪鬼が消えたことについては、どうもわたしに責任があるかもしれないからです」
「ほう」
「晴明さま、別尊法というのを御存知でいらっしゃいますか」
別尊法──これは、仏や菩薩《ぼさつ》ではなく諸々の尊神を、個々に本尊として供養する修法のことである。
「たいへん種類が多く、口伝《くでん》や、代々の師匠によっても、修法が違うと聞いています。とてもその全ては知りませんが、まあ、いくらかは知っております」
つまり、四天王なら四天王を本尊として、供養する方法があるというのである。
「我々は、像を彫り出しますと、それが何の像であれ、もうその像のことだけで心がいっぱいになってしまいます。彫っている間は、つまり、その像が、我々仏師の本尊とも言える状態になってしまいます」
で、玄徳は、新しい像を彫り始める時には必ず水垢離《みずごり》をし、それが尊神であれば別尊法をもって供養してから仕事に取りかかるというのである。
それが──
「広目天の時に、わたしはその修法を怠ってしまったのです……」
五
「ならば、晴明よ、おまえ……」
博雅は、興奮のため、口ごもりながら言った。
「そういうことだ」
「しかし、まさか──」
「齢千数百年を越えた檜だ。その精気はなかなかのものがあるぞ。しかも、腕のたつ仏師が、邪鬼という念をこめて彫った。さらには、それを踏んでおく尊神よりも先に邪鬼が完成してしまったとあってはな。ともかく、いずれわかる。ほら、もうあのあたりが峠ではないのか──」
すでに、径は雑木林の中である。
草が左右から径にかぶさって、晴明と博雅の裾は、濡れそぼっている。
頭上で、葉がさわさわと鳴っている。
そのさらに上に、ぼんやりと暈《かさ》を被《かぶ》った朧《おぼ》ろの月明りがある。
「おう、あれではないか?」
晴明が、足を止めて言った。
晴明の横に並んで、博雅が前方をうかがうと、空の朧ろ月を背景に、ぼんやりと白いものが立っているのが見える。
「ゆくぞ」
晴明が、無造作に歩き出す。
唾を呑んで、博雅が覚悟を決めたように後に続いた。
晴明が、その場所にさしかかると、果たして、巨大な檜の切り株があり、その横に裸の童子が立っている。
童子が、晴明と博雅を見、薄赤い唇を左右に引いて笑った。しらと、赤い唇の間に白い歯が覗いた。
「通りたいの?」
よく通る細い声で童子は言った。
「さて、どうするか?」
晴明は涼しい声でそう言った。
「通りたいのか。通りたくないのか?」
童子がもう一度言った。
「さあて──」
晴明が言うと、
「どうなのだ」
ざわっ、と童子の髪が上に立ちあがり、ぎろりとその目だまが倍近い大きさになった。
唇だけが、もとのほんのりとした赤さを保っている。
「おまえはどうなのだ。通らせたいのか、通らせたくないのか?」
「なんとな!?」
童子の口調が、しわがれて大人のそれになっている。
「おまえの言う通りにしようではないか」
「いいや。おれは、おれの言う通りにするつもりはない」
「ほう。言う通りにするのか」
「しない」
「すると言うておるな」
「おらん!」
童子の口が、ぱっくりと大きく割れて、巨大な舌と、牙が覗いた。
「はてさて、これはどうしたものか」
「愚弄《ぐろう》しにまいったか」
童子は、もはや、子供の姿をしていなかった。
小さいなりに、鬼の姿をし、しゃべるたびにその口からは青い炎がめろめろと吐き出されてくる。
鬼は、切り株から離れて晴明に向かって襲いかかろうとした。
「晴明!」
博雅が、松明を捨て、腰の太刀を引き抜いたその時──
晴明は、自分に向かって来ようとした鬼に右手の人差し指と中指を向け、宙をその指で切りながら、
「オン・テイハ・ヤクシャ・バンダ・ハ・ハ・ハ・ソワカ」
真言を唱《とな》えた。
薬叉天に帰命す。縛《ばく》せ縛せ。ハハハ。あなかしこ
すると、ふいに、鬼が動きを止めた。
「そ、それは、おまえ……」
「庚申《こうしん》の真言さ」
晴明が言い終えぬうちに、くねくねと鬼の身体がたたまれて、ごろんと草の上に転がった。
「むう」
博雅が、太刀を手にして駆け寄ってみれば、それは木彫りの邪鬼であった。
ちょうど、広目天の足に踏まれているように、身体をふたつに折って、そこに俯《うつぶ》せになっていた。
「いや、もとはその切り株に繋がっていたものだからな。その切り株から離れてもらわねば、こちらも方法がないところだった……」
「つまり、これが、玄徳が彫っていた広目天の邪鬼なのだな」
「そういうことだ」
「今の呪《しゆ》は何だ?」
「大和《やまと》真言さ」
「大和真言?」
「真言はもともと天竺《てんじく》でできたものなのだが、この真言は、大和の国で造られたものなのだよ。真言宗の仏師が、四天王を彫る時には、この、庚申の真言を唱えるのだよ」
「そういうことか」
「そういうことだ」
そう言って、晴明は、ふと横の切り株に眼をやった。
「ふうむ」
その切り株に歩み寄り、晴明は、その端の木肌に触れた。
「どうした?」
「博雅よ。これはまだ生きているぞ」
「生きてる?」
「うむ。他の部分は、ほとんど腐れ果てて死んでいるが、この部分だけは、まだ、微《かす》かながら生きている。この下に、よほど強い根があると見える」
晴明は、あらためてそこに手をあてた。
晴明の口から、低く呪の言葉が響き始めた。
朧ろの月が傾くのがわかるくらい長く、晴明はそこに手を当てて、呪を唱えていた。
やがて──
呪がやんで、ゆっくりと晴明が手を切り株から離した。
「むう……」
思わず、博雅が声を上げていた。
晴明が手を当てていた切り株の端のところに、眼に見えぬほど小さな、緑色の粒が頭を持ちあげていたからである。
「いずれ、千年もすれば、ここにまた大きな檜がそびえてることだろうよ」
晴明は、そうつぶやいて、天を見上げた。
月を覆っていた霧が、その時割れて、天から、しずしずと、晴明の上に青い月光がこぼれ落ちてきた。
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下衆法師《げすほうし》
一
博雅《ひろまさ》が、思案気《しあんげ》な顔で、安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷を訪れたのは、秋の夕刻であった。
この漢《おとこ》が、晴明の許《もと》を訪れる時は、いつもひとりである。
源博雅──醍醐天皇の第一皇子|兵部卿 親王《ひようぶきようのみこ》の子であり、従三位《じゆさんみ》の殿上人《てんじようびと》ということになる。まさにやんごとない血を引いているわけで、本来なれば舎人《とねり》も連れず、こんな時刻に、牛車《ぎつしや》も使わず、ひとり徒歩《かち》で出歩くことなどなさそうな身分なのだが、この漢、時おり、かなり無鉄砲なことをする。
帝《みかど》の琵琶玄象《びわげんじよう》が紛失《ふんしつ》したおり、深更《しんこう》に、小舎人童《こどねりわらわ》ひとりを連れて、羅城門まで出かけたりしているのである。
博雅、この物語では、やんごとなき血筋の武士ということになっている。
さて──
いつものように晴明屋敷の門をくぐり、博雅は、
「ほう……」
と、溜《た》め息にも似た息を吐《つ》いた。
秋の野であった。
女郎花《おみなえし》、紫苑《しおん》、撫子《なでしこ》、草牡丹《くさぼたん》──その他、博雅には名も知らぬ草が、庭一面に茂っているのである。芒《すすき》が穂を微風に揺らしているかと思えば、野菊のひと叢《むら》が、撫子のひと叢と、混ざりあうようにして咲いている一画もある。
唐破風《からはふ》の塀のそばには、萩《はぎ》が、赤い花を重く咲かせた枝を垂らしている。
手入れなど、何もしていないようであった。
庭一面、草の生えるにまかせている──そんな感じに見える。
これではまるで──
荒れ野ではないか
博雅は、そう言いたげな表情をした。
しかし、妙に、この自由に草花が咲き乱れている晴明の庭を、博雅は嫌いではなかった。好ましい気持ちも、ある。
ただ生えるにまかせているだけでなく、どこかに晴明の意志が働いているからなのだろう。
この庭の風景は、ただの荒れ野ではない、不思議な秩序のようなものがあるのだ。
どこがどうとは、うまく言葉にはできないのだが、その不思議な秩序が、この庭を好もしいものにしているのだろう。
眼に見える印象でいうのなら、あるひとつの草だけが特別に多く生えているということがない。かといって、どの草も、同じ量だけ生えているというのでもない。ある種類は多く、ある種類は少なかったりもするが、その加減がいい塩梅《あんばい》になっているのである。
それが偶然か、晴明の意志によるものか、博雅にはわからない。
わからないが、晴明の意志が、なんらかのかたちで、この風景に関わっているだろうとは思っている。
「晴明、おるか」
博雅は屋敷の中へ声をかけた。
しかし、中から返ってくるものはない。
誰かが案内《あない》に出て来るにしても、それが、人の姿をしていようが獣の姿をしていようが、いずれは晴明が使っている式神《しきがみ》の類《たぐい》であろう。
いつであったか、人語を話す萱鼠《かやねずみ》に出迎えられたこともあるのだ。
だから、屋敷の内部のみではなく、足元にも注意を向けてみたのだが、何か現われてくるわけではない。
秋の野が、博雅の周囲に広がっているばかりである。
「留守か──」
小さく口に出してつぶやいた時、博雅は、風の中に、甘い匂《にお》いを嗅《か》いだ。
得も言われぬ良い匂いが、大気の中に溶けているのである。空気の層のどこかに、ひときわ強くその香《か》が溶けているらしく、首《こうべ》をめぐらせると、その動きに合わせて、匂いが強くなったり弱くなったりする。
はて──
博雅は、首を傾けた。
何の匂いか。
花の香りであることはわかる。
菊か。
いや、菊ではない。
菊よりも、もっと甘みのある、ふくよかで芳醇《ほうじゆん》な香りだ。頭の芯《しん》をとろけさせるような匂い。
その香に誘われるように、博雅は、草の中に足を踏み出していた。
草の中を、屋敷の横手に回り込んでゆく。
すでに、陽《ひ》は、山の端《は》に没している。
夕闇《ゆうやみ》が、屋敷の影や塀の影から少しずつ這《は》い出してきて、大気の中に忍び込もうとしていた。
と──
すぐ先の草の中から、人の丈《たけ》の三倍近い高さの樹が生えているのが見えた。
初めて見る樹ではない。
これまで、晴明の屋敷を訪ねたおりに、何度か眼にしている樹だ。しかし、いつもと違うのは、その樹の枝に、黄色っぽい、実のようにも花のようにも見えるものが、付いていることである。
甘い匂いは、どうやらその樹から流れ出しているらしかった。
近づいてゆくと、はっきりその匂いが濃くなってゆく。
博雅は樹のすぐ手前で立ち止まった。
その梢《こずえ》の中で何やら動くものがあったからである。
白っぽい人影であった。
何者かが、その樹に登って何かをしているのだ。
ぽとりと、博雅の足元に何か落ちてきた。
みれば、その樹に咲いている花か実のようなものが、びっしりと付いている小枝であった。これだけ匂うところを考えれば、これは、実ではなくて花なのであろうと博雅は思った。
と──またひとつ、その花が落ちてきた。
小さな、小枝の折れる音。
その人影は、さっきから、花の咲いた小枝を、細い指先で折っては、樹の下に投げているのである。
よく見てみると、樹の周囲はびっしりと、毛氈《もうせん》のように、その黄色い花でしきつめられている。
しかし、不思議なのは、あれだけ枝が密生している梢の間に居ながら、その人影は少しもその動きを、枝に邪魔されていないことである。
どうやら、その人影の身体は、空気のように、枝や葉をすり抜けてしまうらしい。
博雅は、その人影が誰であるかを知ろうとして、眼を凝《こ》らした。
だが、その顔に眼を凝らそうとすればするほど、その眼や鼻や口や顔の輪郭が朧《おぼ》ろに霞《かす》んでしまうようである。見えているのに、定かでない。
まるで、幻が、そこに人の型をとっているようである。
式神か!?
博雅が思った時、その朧ろであった人影の顔が、ふいにはっきりとしたものになった。
微笑した。
「晴明……」
博雅が、小さく声をあげた時、
「おい、博雅──」
斜め後方から声がかかった。
博雅が振り返ると、屋敷の濡《ぬ》れ縁《えん》に白い狩衣《かりぎぬ》姿の晴明が胡坐《あぐら》をかいて座していた。右|肘《ひじ》を右|膝《ひざ》の上に置き、右腕を立て、その手の中に顎《あご》を乗せ、晴明は笑いながら博雅を眺めていた。
「晴明、おまえ、今あの樹の上に……」
「いいや。おれならば、さっきからここに座っていたぞ」
「しかし、あの樹の上に……」
博雅は、樹の方を振り返った。
だが、その樹の上には、もはや人影はない。
「式神か──」
博雅は、晴明に向きなおって言った。
右手の中から顔を持ちあげ、
「まあ、そんなところだ」
晴明は言った。
「式神に、何をさせていた?」
「見ての通りさ」
「いや、自分が見たものはわかっている。人が、あの樹の上で、花の咲いた小枝を折って投げていた──」
「その通り」
「だから、それがどういうことかわからぬから、おれはおまえに訊《き》いてるのだよ」
「じきにわかる」
「じきに?」
「うむ」
「じきにじゃわからん」
実直そうな口ぶりで、博雅は言う。
「まあ、博雅よ、ここに酒《ささ》の用意がある。これでも酌《く》みかわしながら、ゆるゆると庭でも眺めているうちには、わかろうさ」
「む、むむう……」
「来い」
晴明の右横に、盆があり、その上に酒の入った瓶子《へいし》とふたつの盃《さかずき》が乗っている。
皿に盛られた干し魚もあった。
「まあ、とにかく、そこへはゆく」
博雅は、濡れ縁の上に庭からあがり、晴明の横に座した。
「手まわしのよいことだな。おれが来ることが、始めからわかっていたみたいではないか」
「博雅よ。知られたくなくば、一条戻り橋を渡る時に、独り言を言わぬことだ」
「また言うたか、あそこで──」
「おるかな、晴明と、そう言ったではないか──」
「さては、戻り橋のぬしの式神がまた知らせたかよ」
ふふん、
と晴明は、紅《あか》い口元に涼し気な微笑を浮かべた。
その時には、晴明は、瓶子を手にとって、ふたつの盃に酒を満たしている。
ただの盃ではない。
瑠璃《るり》の盃である。
「ほう……」
と、博雅は声をあげた。
「これは、瑠璃ではないか」
盃をとって、しみじみとそれを眺め、
「やや、中の酒も普通ではないな」
見れば、赤い液体が入っていて、香りも、酒とはわかるが、博雅の知っている酒のものとは違っている。
「飲んでみよ、博雅──」
晴明が言う。
「まさか、毒とか、そんなことはあるまいな──」
「心配はいらぬ」
晴明が先に、盃を唇に運んだ。
それを見て博雅も盃を口に運ぶ。
博雅は、その赤い液体を軽く口に含んでから、ゆっくりと飲み込んだ。
「いや、なかなか」
ほう、と息を吐き、
「胃の腑《ふ》に染みわたる」
そう言った。
「盃も酒も、唐土《もろこし》から渡ってきたものだ」
「ほう、唐土からか──」
「うむ」
「さすがに、唐土は、珍奇なる品が揃《そろ》うておるのだなあ」
「唐土から渡ってきたは、その二品だけではないぞ。仏の教えも、陰陽《おんよう》の元《もと》も、唐《から》、天竺《てんじく》から渡ってきたものだ。それから──」
晴明は視線を庭の樹に向け、
「あれもだ」
「あれもか」
「木犀《もくせい》の樹よ」
「ふうん」
「毎年、この時期になると、花が匂うのだ」
「なあ、晴明よ。こういう匂いを嗅ぐと、人は好もしい女のことを想い出してしまうものなのだなあ」
「ほう、いるのか、博雅?」
晴明が訊いた。
「いや、何がだ?」
「だから、好もしい女がだ。おまえ、今、あの花の香《か》を嗅ぐと、好もしい女のことを想い出すと言ったではないか」
「い、いや。それは、おれのことを言ったのではない。人というものの、心もちについて言っただけだ」
博雅は、とりつくろうように言った。
晴明は、ほんのりと紅《あか》い口元に微笑を含んで、楽しそうに博雅を見つめている。
その時、晴明の視線が動いた。
「おう、見よ……」
晴明の視線を追って、博雅が視線を動かした。
その視線の先に、あの木犀の樹があった。
その木犀の前の空中に、何か、靄《もや》のようなものがかかっていた。
すでに、闇が庭の大気の中に忍び込んでいる。
その薄闇の宙に、朧ろな、燐光《りんこう》を放つものが凝《こ》ろうとしていた。
「何なのだ、あれは?」
「だから、じきにわかると言ったろう」
「あの、花を折って捨てたことに関係があるのか──」
「そういうことだな」
「どういうことだ」
「静かに見ていろ」
晴明は言った。
短い会話をしている間にも、宙のそれは、ゆっくりと密度を増してゆき、何かの形をとりはじめている。
「人か……」
博雅は、小さくつぶやいた。
見ているうちに、それは、唐衣裳《からごろも》を纏《まと》った女の姿となった。
「薫《かおる》だ……」
晴明が言った。
「薫?」
「この時期に、いろいろとおれの身のまわりの世話をやいてもらう式神だよ」
「なに──」
「あの花が散るまでの、ほんの十日ほどの間のことだがな」
晴明は盃の葡萄酒《ぶどうしゆ》をまた口に含んだ。
「しかし、晴明よ、それと、花を折って地面に散らしていたのとはどういう関係があるのだ」
「博雅よ。式神を創《つく》るというても、これはこれで、なかなか難しいのだ。花を下に敷いたは、薫を呼び易《やす》くするためでな」
「それはどういうことなのだ」
「たとえば博雅よ、ぬしは、冷たい水の中にいきなり飛び込めと言われて、飛び込むことができるか──」
「それが帝の御命令とあればやるであろうな」
「しかし、それにも勇気が必要であろう」
「うむ」
「だが、その前に、ぬるい水にいったん入っておけば、次に冷たい水に入るのは楽になろうが」
「それはそうだ」
「あの、地に散らした花もそうよ。樹の精を式神として呼び出《いだ》すのに、いきなり樹の外というのであっては、それは冷たき水と同じよ。いったん、自分の香りに満ちた空気の中に出てくる方が、木の精も出易いというものではないか」
「そういうものなのか」
「そういうものなのだ」
晴明は、庭に眼をやり、
「薫」
薫に声をかけた。
「すまぬが、こちらへ来て、博雅殿に酌でもしてやってくれぬか」
あい──
と、唇の動きで短く答え、薫はしずしずと濡れ縁の方に歩いてきた。
ふわりと音もなく濡れ縁の上にあがり、薫は博雅の横に侍《はべ》った。
瓶子を手に取って、葡萄酒を、空になっていた博雅の盃に注いだ。
「これはすまぬ」
葡萄酒を受けて、博雅は、かしこまった様子で、それをひと息に飲み干した。
二
「それにしても晴明よ。ああやって逢坂山《おうさかやま》に庵《いおり》を結んでひきこもっておられるが、おれも、最近になって、蝉丸《せみまる》どのの心もちがわかるような気がしてきたよ」
葡萄酒をのみながら、溜め息とともに博雅が言った。
「どうしたのだ、急に──」
「いや、これでも、おれなりに思うところがあるのだ」
「何を思うている?」
「人の欲望というものは、なかなか哀《かな》しいものだなあ……」
しみじみとした口調であった。
その博雅の顔を見つめ、
「何やらあったか、博雅よ──」
「あったというほどのことではないがな、横川《よかわ》の僧都《そうず》が、先日病で亡くなられたのは知っているだろう」
「うむ」
晴明はうなずいた。
横川というのは、東塔、西塔と並ぶ、比叡山三塔のうちのひとつである。
「その僧都というのが、なかなかの人物でな。博識で、信心深く、病に伏しておられながら、毎日、念仏を唱えていたほどの御方《おかた》よ。だから、その僧都が亡くなられた時は、これはもう、極楽往生まちがいなしと、誰でも思うたのだが──」
「ちごうたか」
「うむ」
僧都の葬儀も終り、四十九日も過ぎて、弟子の僧のひとりが僧房を受け継いで住むことになった。
この僧が、あるおり、ふと棚の上を見上げると、小さな白い、素焼きの瓶《かめ》がそこに載っている。亡き僧都が、生前に酢《す》を入れておいた瓶である。
何気なくその瓶を手に取って中を見ると、
「なんと、晴明よ、その瓶の中には、一匹の黒い蛇が蜷局《とぐろ》を巻いて、赤い舌を、こう、ちろちろと揺らしていたというのだよ」
その晩、僧の夢の中に、亡き僧都が現われ、さめざめと涙を流しながら言うには、
我は、おまえたちが見たように、ひとえに極楽往生を願って念仏をとなえ、臨終にあっても余念を抱《いだ》かずに、まさに死なんとする時、ふと、棚の上の酢の入った瓶のことを考えてしまった。自分が死んだら、はたしてあの瓶は誰の手に渡ることになるのかと。ただ一度、死に際に頭に浮かんだその想念が、この世への執着となり、蛇のかたちとなって、あの瓶の中に蜷局を巻いたのである。ために、我、いまだ成仏《じようぶつ》できずにいる。どうか、あの瓶を誦経《ずきよう》料として、このわしのために、経文を供養してはもらえまいか
その通りにしてやると、瓶の中の蛇は消え、僧も、それきり僧都の夢を見なくなったという。
「叡山の僧都にしてからが、こうなのだよ。なかなか、凡夫《ぼんぷ》の身が、欲望を捨て去るというのはできぬものなのではないか──」
「ふうむ」
「しかしなあ、晴明よ。欲望を心に抱くというのは、それほどに成仏しがたいことなのだろうかな──」
博雅、今は、酒に頬《ほお》を赤くしている。
「欲望をかけらも持たぬ人は、もはや、人ではないような気がするよ。それなら──」
と、博雅は盃を干し、
「おれは、人でいいという気が最近はするのだよ、晴明──」
しみじみと言った。
空いた盃に、薫が葡萄酒を注ぐ。
すでに、庭には、夜が訪れていた。
知らぬ間に、屋敷のあちこちに、ゆらゆらといくつもの灯火が点《とも》っている。
晴明は、顔を赤くしている博雅を、優しい眼で眺め、
「人は、仏にはなれぬ……」
ほろりと言った。
「なれぬのか」
「ああ、なれぬ」
「えらい坊主でも無理なのか」
「うむ」
「どのように修行をつんだとしてもか」
「そうだ」
晴明の言葉を、腹深く呑み込むようにして沈黙してから、
「それはそれで、哀しい話ではないか、晴明よ」
「博雅よ、人は仏になるというのは、幻《まやかし》よ。仏教も、あれだけ、この天地の理《ことわり》について、理づめの考え方をもっていながら、その一点において何故《なぜ》と、おれは長い間不思議であった。しかし、この頃になってようやくわかってきたのだが、その幻によって、仏の教えは支えられており、その幻によって、人は救われるのさ」
「───」
「人の本性を仏と呼ぶは、あれは一種の呪《しゆ》よ。生きとし生けるもの皆仏とは、ひとつの呪なのだ。もし、人が仏になることがあるとするなら、その呪によって、人は仏になるのだ」
「ふうん」
「安心しろ、博雅よ。人は人でよいのだ。博雅は博雅でよい」
「呪の話は、おれにはよくわからぬが、おまえの話を聴いていると、なんだかほっとするな」
「ところで、何で急に、欲望だの何だのと言い出したのだ。何か、今日の用事に関係あるのではないか──」
「ああ。そうなのだ、晴明よ。薫のことで、つい言いそびれていたのだが、用事があって、おれはおまえに会いに来たのだ」
「どんな用事だ」
「それがなあ、これがなかなか、厄介なことなのだよ」
「ほほう」
「おれの知り合いにな、下京《しもぎよう》方面に住む寒水翁という名の絵師がいると思ってくれ」
「うむ」
「寒水翁というても、歳の頃は三十六歳くらいでな。仏画もやるし、頼まれれば、襖《ふすま》にも、扇子《おうぎ》にも、松や竹、鯉《こい》などの絵をさらさらと描く。その男が、今、たいへんな目に遭《お》うているのだよ。先日も、その男が訪ねてきたので、色々と話を訊いてみたのだが、どうもおれの手にはおえそうにない。これはどうも、晴明よ、おまえの領分の仕事らしい。それで、今日は、ここまでおまえに会いに来たのだよ──」
「おれの仕事かどうかはともかく、博雅よ、おまえ、その寒水翁について、おれに話をしてはくれまいか」
「うむ」
と、博雅うなずいて、
「実はな」
と、語りはじめたのであった。
三
しばらく前から、西ノ京あたりを中心にして、あちらこちらの辻《つじ》に立っては、外術《げじゆつ》を人に見せることを商売にしている青猿《せいえん》法師がいた。
見物人の足駄《あしだ》や、屐《しりきれ》、草履《ぞうり》などを犬の子に変えてそこらを走り回らせたり、懐《ふところ》から狐《きつね》を出して鳴かせたりする。
見物人が投げてくれた銭を拾って糧《かて》にしているのだが、これが、なかなかの評判である。
時おりは、馬や牛をどこからか曳《ひ》いてきて、その尻から入って口から出てくるという術も見せたりする。
たまたま通りかかって、これを見たのが寒水翁であった。
もともと奇怪《あやし》の外法《げほう》に興味のあった寒水翁、この術を見て、すっかり外術の虜《とりこ》となってしまった。
今日はどこの辻に立つか、明日はどこの辻に立つかと、この青猿を追っかけているうちに、自身もその術を修得したいと考えるようになってしまった。
この情|極《きわ》まって、ついに、寒水翁、青猿に声をかけた。
「いや、ぜひ、その術をば、私に教えてはいただけませんでしょうか」
すると、青猿が答えて言うには、
「この術、たやすく人に伝うべきものに非《あら》ず」
と、相手にしない。
しかし、寒水翁もそれで引き退《さ》がりはしなかった。
「そこをなんとか、ぜひ」
「しかたがありませんな。よし、あなたがもし本気でこの術を習いたいのなら、方法がないわけではない」
「では、教えていただけますか」
「まあ、お待ちなさい。教えるのはわたしではない。わたしがこれからあなたを、あるお方の元までお連れするから、そのお方に習うのだ。わたしにできるのは、おまえをそこへ連れてゆくことだけなのだ」
「ではぜひ」
「その前に、約束していただきたいことが幾つかあるが、それが守れますかな」
「なんなりと」
「まず、これから七日間、他人に知られぬように精進して身を清め、新しい桶《おけ》をひとつ用意して、それに、交飯《かちいい》を清く作って盛り、それを自分で荷《に》ない持って、もう一度わたしの所までやって来なさい」
「わかりました」
「それから、もうひとつ。おまえが、実《まこと》にこの秘術を習い取らんと思う志を持つならば、次のことを堅く守っていただきたい」
「何でしょう」
「それは、刀を、決して持ってきてはいけないということです」
「易《やす》きこと。刀を持たねばいいのでしょう。教えていただく身で、否《いや》も応もありません」
「では、くれぐれも、刀を持たずに──」
「はい」
ということで、寒水翁、さっそく身を清め、注連縄《しめなわ》を張って家に籠《こも》り、誰にも会わずに七日間の精進をした。
清き交飯を作り、それを清き桶に盛った。
いよいよ法師のもとへゆこうという時になって、気になってきたのは、刀のことである。
何故、刀を持っていってはいけないのか。
わざわざ、あの法師が刀のことなど言い出すのは、どうも怪しい。もし、刀を持たずに行って、何かあったのではたまらない。
寒水翁は、迷ったあげくに、ひそかに短い刀を隠し持ってゆくこととした。
その刃をよくよく念入りに研《と》ぎあげ、わからないように、懐にしのばせた。
法師のもとへゆき、
「約束通りにしてまいりました」
そう言った。
「ゆめゆめ、刀など持ってきてはおるまいな──」
法師が念を押す。
「もちろん」
冷や汗を掻《か》きながら、寒水翁はうなずいた。
「ではゆこうか」
寒水翁は、桶を肩に担ぎ、懐には刀をしのばせて、法師の後に続いた。
歩いてゆくと、法師は、どことも知れぬ山中に分け入ってゆく。
寒水翁は、気味が悪くなってきたが、それでも後をついてゆく。
そのうちに、
「腹が減ったな」
法師が立ち止まる。
寒水翁を振り返り、
「その交飯を喰《く》おう」
寒水翁が下ろした桶から、法師が飯を手掴《てづか》みし、それをがつがつと喰う。
「おまえも喰《た》べるか」
「いえ、わたしは結構です」
軽くなった桶を担ぎ、さらに深い山の中に入ってゆく。
知らぬ間に、夕刻になっている。
「さても、よくぞここまで、遥《はる》ばると来たものよ」
寒水翁がつぶやいた。
さらに歩いて、陽が落ちた頃、山中にこぎれいに造られた僧坊に着いた。
「これにて待たれよ」
寒水翁をそこに置いて、法師が中に入ってゆく。
見ていると、小柴垣《こしばがき》のあるあたりに立ち止まって、法師は、ひとつふたつ咳《せき》をした。
すると、奥から障紙《しようじ》を曳き開けて、ひとりの老僧が姿を現わした。
見れば、睫《まつげ》長く、服装は気品あり気であるが、やけに鼻が尖《とが》っているようであり、口元に長い歯が覗《のぞ》く。
何やら生臭き風が、その老僧の方から吹き寄せてくるようである。
「しばらく顔を見せなんだな」
老僧が、法師にむかってつぶやいた。
「長らくのご無沙汰《ぶさた》、申しわけございません。本日はここに、みやげを用意いたしました」
「みやげとな?」
「はい。こちらにお仕え申しあげたいという男がおりまして、それをここへお連れいたしました」
「また、いつものごとくにつまらぬことを口にして、たぶらかしたのであろうが。それはどこにいる」
「あちらに──」
と、法師が振り返る。
法師と老僧と、ふたりの視線と、寒水翁の視線が合った。
寒水翁は、軽く会釈をしながらも、もう、心臓を早鐘《はやがね》のように鳴らしている。
そこへ、灯《あか》りを手に持った小坊主が、ひとり、ふたり現われて、僧坊のあちこちに灯りを点してゆく。
「こちらへ」
法師が声をかけるので、寒水翁は、しかたなく門の中へ足を踏み入れた。
法師の横へ並ぶと、法師は、寒水翁の手から桶を取って、それを縁の上に置いた。
「交飯でござります」
「ほう。うまそうな……」
老僧が、赤い舌を覗かせた。
寒水翁は、もう、帰りたくて帰りたくてたまらない。
この法師も、老僧も怖い。
わっ、と声をあげて、走って逃げたいのだが、それをこらえている。
「で、どうだ。まさか、その男、刃物を懐に呑んでなどおるまいな」
老僧が、こわい眼を寒水翁に向けて言った。
「わが皮を刃物ではがれるのは、たまらぬからな……」
なんとも言い難く薄気味悪い。
「はい。充分に言い聴かせておきましたので──」
法師が言った。
「しかし、まあ、念には念を入れねばなるまいよ。おい──」
と、老僧が、小坊主に声をかけた。
「はい」
「そこにいる男の懐をさぐれ。刃物を持っているかどうかをみるのだ」
「それでは──」
と、小坊主が庭へ降りてやってくる。
ああ──
と、寒水翁は思う。
調べられれば、短刀を懐に呑んできたのがわかってしまう。
そうなったらまずいことになる。きっと自分は、ここで、この法師や老僧の手によって殺されてしまうだろう。
どうせ、死ぬのなら、懐の刀でこの老僧にひと太刀《たち》あびせてからだと寒水翁は考えた。
小坊主が寄ってくる。
近づいてきた小坊主が、寒水翁を見て、
「あら──」
声をあげた。
「どうした?」
老僧が訊いた。
「このお方、震えておいでです」
小坊主がそう言ったか言わないかの時、
「わあっ」
寒水翁は、声をあげて懐の刀を抜き取り、小坊主を突き飛ばして、縁に飛び乗った。
飛び乗りざまに、老僧目がけて襲いかかり、持った短刀で、
「えいやっ」
とばかりに切りかかった。
手応《てごた》えあったかと覚えた時、
「あなや」
老僧の口から叫び声が洩《も》れて、老僧の姿が掻き消えた。
同時に、小坊主も、僧坊も消えていた。
あたりを見回すと、どことも知れぬお堂の中である。
見れば、傍《かたわら》に、寒水翁をここまで案内してきた法師が立ち、がたがたと震えている。
「ああ、おまえはなんというとんでもないことをしてくれたのだ」
法師はそう言いながら、寒水翁を泣きののしった。
「おとなしう、喰われてしもうたらよかったのに。どのみち、おまえは助からぬし、こうなったら、おれも、おまえと同じ運命だ」
法師は天を仰いで、
おおん
おおん
と、哭《な》き出した。
吼《ほ》え叫ぶうちに、法師の姿がかわってゆく。
よくよく見れば、法師と見えたは、青い大猿であった。
おおん
おおん
と哭きながら大猿は堂の外へ出、山の中へ姿を消していった。
四
「とまあ、こういうことが、おれの知り合いの寒水翁の身におこったのだよ」
博雅は言った。
すでに、陽はとっぷりと暮れている。
「外術を覚えたいなどと、つまらぬ欲望を抱いたばかりに、寒水翁は怖い目に遭ってしまったのだよ」
「それで?」
「なんとか、寒水翁は家に帰りついたのだが、それから三日後の晩にな、たいへんなことがおこったのだ」
「どのような」
「うむ」
博雅はうなずいて語りだした。
寒水翁、家には帰ったものの、怖くて怖くてしかたがない。
どのみち、おれもおまえも死ぬのだ
という、大猿の言葉が耳にこびりついて離れない。
家に閉じこもって、誰にも会わずに三日を過ごしたその晩に、ほとほとと、家の戸を叩《たた》くものがあった。
怖いから黙っていると、
「おれだおれだ」
という声がする。
あの法師、大猿の声である。
「よい知らせがあるのだ。ここを開けてくれぬか」
明るい声である。
事態が好転したかと戸を開けると、外には誰もいない。
月光がほろほろと注いでいるだけである。
はて──
と、そう思った時、ふいに、天から重い音をたてて落ちてきたものがあった。
みれば、血まみれのあの大猿の首が、家の前の土の上に転がり、月光を浴びている。
息を呑んで、悲鳴をあげようとしたところへ、さらにばらばらと天から落ちてきたものがあった。
いずれも、大猿の手や足、胴、ひきずり出された臓物などであった。
「では、三日後の晩に、また来る」
地に転がった大猿の唇が動いて、あの老僧の声でそう言った。
見れば、大猿の口の中で動く舌が、糞《くそ》にまみれている。
「それで、寒水翁が、おれのところに、今日の昼に相談にやってきたと、こういうわけなのだよ」
「で、三日後の晩というのはいつだ。まさか今夜ではあるまいな」
「明日の晩だ」
「ふむ。それならば、助くる法がなくもない──」
「どんな法だ」
「説明はしておれぬ。これからできることはそういくらもない。相手はかなりたちの悪いやつだ」
「そんなにたいへんなのか」
「うむ。よいか博雅、これからおれが言うことをよく覚えておくのだぞ」
「ああ、何でも言ってくれ」
「明日の夕刻までに、その寒水翁のところへゆき、戸閉まりをし、ふたりして家にこもっているのだ」
「わかった」
「おれがこれから札《ふだ》を書く。その札を、家中の、子《ね》、丑《うし》、寅《とら》、卯《う》、辰《たつ》、巳《み》、午《うま》、未《ひつじ》、申《さる》、酉《とり》、戌《いぬ》、亥《い》、それからさらに、艮《うしとら》、巽《たつみ》、坤《ひつじさる》、乾《いぬい》、と、これだけの方角の場所に張りつけておくのだ──」
「それで──」
「これで、まず、妖物は中へは入って来れぬ──」
「おお、それはよい」
「いや。よくない。入れぬとわかった妖物は、あれこれ方法をつくして家の中へ入ろうとするだろう。よいか、家の中に居るものが、戸を開けてそれを中へ入れようとするなら、どんな札を張ってあっても効き目がないと思え──」
「う、うむ」
「とにかく、何があろうと、何ものも家の中には入れぬことだ」
「で、晴明よ。ぬしはどうするのだ」
「後からゆく」
「後から?」
「寒水翁を助くるのに必要なものがあるのだ。それを捜しにゆかねばならぬ。うまくすれば夕刻までには寒水翁の家までゆけるが、悪くすれば夜になるやもしれぬ」
「む、む」
「だから、おれがゆくまでは、誰が来ても、決して戸を開けてはならぬ」
「わかった」
「念のため、薫を連れてゆけ。もし、戸を開けてよいのか悪いのか迷うことがあったら薫に問えばよい。薫が首を横に振ったら、絶対に戸を開けぬことだ」
「よし」
「さらに念のため、これを預けておく」
晴明は懐に手を入れ、一本の短剣を取り出した。
「加茂忠行どのがお持ちであった芳月《ほうげつ》だ。おそらくな、何らかの方法で妖物が家の中に入ったとすると、次にすることは、寒水翁の身体の中に入ることだ。話の様子からして、たぶん、尻から入って口から出てゆく。よいか尻から入られるのはかまわんが、口から出てゆかれたら、そのおりに魂まで一緒に持ってゆかれてしまうぞ」
「魂を!?」
「つまり、死ぬということだ」
「それはいかん」
「だから、もし、妖物が寒水翁の中に入り込んだと思うたら、出る前に、これを寒水翁の口に咥《くわ》えさせるのだ。よいか、必ずこう、刃を内側に向けて咥えさせるのだぞ。刃物に弱い妖物のようだからな。どこかで、刃物でよほど怖い目に遭ったのだろう」
「よし、わかった」
博雅はうなずいた。
五
ほのかに、木犀の香りが漂っている。
その香りを、博雅は静かに呼吸している。
博雅の左横に座っているのが、寒水翁である。
そして、ふたりよりやや離れた場所に、薫が座していた。
木犀の香りは、その薫から漂ってくるのである。
灯火が、灯り皿にひとつだけ点っている。
夜──
そろそろ、子《ね》の刻に近い。
深夜だ。
晴明がやって来ないまま、この時間になってしまった。
まだ、何ごともおこってはいない。
「のう、博雅さま、もしかして、このまま何もおこらずに夜が明けるのでは?」
寒水翁が問うが、
「わからぬ」
博雅は首を左右に振るばかりである。
本当に、寒水翁の言うように、何ごともないかもしれない。
また、あるかもしれない。
それは、どちらとも言えない。
そのくらいは、寒水翁もわかっている。
ただ、不安から、そのようなことを口にしているだけなのだ。
博雅の膝先には、いつでも抜けるように、ひと振りの短剣が置かれている。
夕刻には、わずかの風もなかったのに、夜が更けるにしたがって、少しずつ、風が吹いてきたようであった。
風が、時おり、戸を小さく揺すって音をたてる。
そのたびに、寒水翁も博雅もびくりとしてその音の方に眼をやるが、やはり、風の音で何ごともない。
そして──
ようよう子の刻になったかと思われた時、がたがたと、入口の戸を揺する音がした。
何ものかが、戸を開けようとしているのである。
「むう」
博雅は、太刀を引き寄せて、片膝を立てた。
「あなくちおしや、ここに札のありつるよ」
低い、不気味な声が戸の向こうから響いてきた。
戸を揺する音がやみ、次は少し離れた場所の壁が、音をたてた。
鋭い爪《つめ》を立てて、かりかりと掻くような音だ。
「あなくちおしや、ここにも札のありつるよ」
くやしそうな、低い声が響いてきた。
寒水翁が、小さく叫び声をあげて、博雅の腰にしがみついてくる。
寒水翁の身体が、小刻みに震えている。
家の周囲をまわりながら、くちおしやという声は、十六度聴こえた。
その声がちょうど家を一周し、再び、静寂が訪れた。
また、風の音が響くばかりである。
「行ってしまったのでしょうか」
「わからん」
あまりに強く、太刀の鞘《さや》を握っていたので、白くなった指を開き、博雅は、また、太刀を床に置いた。
しばらくして──
ほとほとと、戸を叩くものがあった。
はっとして、博雅が顔をあげると、女の声で、
「寒水や、寒水や……」
寒水翁の名を呼ぶ声がする。
「起きているのかえ。あたしだよ──」
歳を取った女の声だ。
「母《はわ》さま」
寒水翁が声をあげる。
「なに!?」
博雅もまた、太刀に手をかけて、低く声をあげた。
「あれは播磨《はりま》の国にいるはずの、母の声でございます」
寒水翁が言った。
立ちあがり、
「母《はわ》さま。本当に母さまか?」
「何をおかしなことをお言いだい、この子は。久しぶりにおまえの顔が見たくてねえ、こうしてわざわざやってきたんじゃないか。開けておくれな。おまえは、おまえの母親を、いつまでこんなに寒い風の中に立たせておく気だい」
「母《はわ》さま」
戸口へ歩みかける寒水翁を制して、博雅は薫を見やった。
薫が、静かに首を左右に振った。
「妖物だ。開けてはならぬ」
博雅は、太刀をひき抜いた。
「あたしのことを、妖物だなどと言うのは誰だえ。そんなひどいことを言う人間と、おまえは一緒にいるのかえ、寒水や……」
寒水は黙っている。
「開けておくれな」
「母《はわ》さま、もし、本当に母さまなら、わたしの父の名を言うてくれますか」
「なんだい、それは、藤介《とうすけ》じゃないか──」
「備前に嫁いだ、わが妹の尻に黒子《ほくろ》がありますが、それは、右の尻でしたか、左の尻でしたか──」
「何をお言いだい。綾《あや》の尻にはどちらにも黒子なんてないよ」
女の声が言った。
「やはり、母《はわ》さま!?」
ゆこうとしかける寒水翁を、博雅が止める。
そこへ──
「あれえ」
女の悲鳴があがった。
「これはなんだい。怖い化物が、あたしを襲ってくるよ。これ、助けておくれ、寒水や──」
どっと、戸の向こうから、人が地に倒れる音が響いてきた。
続いて、こりこり、くちゃくちゃという、獣が肉を啖《くら》う音。
「痛や、痛や……」
女の声。
「こやつが、あたしの腸《はらわた》を食べてるよ。ああ、痛や、痛や……」
博雅が薫を見ると、薫が首を左右に振る。
博雅の額からも、寒水翁の額からも脂汗がしたたり落ちている。
ふいに、静かになった。
風の音。
大きく博雅が息を吐き出し、ひと呼吸、ふた呼吸したかどうかという時に、いきなり、大きな音がして、戸が、内側にたわんだ。
何ものかが、外から、強い力で戸を破ろうとしているのである。
博雅は太刀を上にかざして、戸の前に仁王立ちになった。
おもいきり歯を噛《か》んでいる。
博雅の身体が、ぶるぶると震えている。
しばらくその戸を破ろうとする音は続いたが、やがて、それもやんで静かになった。
「ふう──」
と、大きく博雅が息を吐き出した。
また、静かな刻《とき》が過ぎた。
そして、ほどなく丑《うし》の刻かと思える頃──
また、戸を叩くものがあった。
「博雅、遅れてすまぬ。無事か」
晴明の声であった。
「晴明──」
博雅は、喜びの声をあげて戸口に駆け寄った。
「博雅さま、それは──」
薫が立ちあがって首を左右に振ったが、その時、博雅は戸を大きく開け放っていた。
その途端──
ごう、
と、太い風が、正面から博雅を叩きつけてきた。
その風とともに、黒い霧のようなものが、戸口と博雅との間の透き間から家の中に入り込んできた。
それを防ぐように、薫が霧の前に立ったが、どっと、風と霧とに叩きつけられて、薫の姿は散りぢりになって、大気の中に霧散した。
木犀の強い香りが、部屋の黒々とした大気の中に満ちた。
黒い霧は、ひと筋の流れとなって、寒水翁の股間《こかん》のあたりに集まり、消えた。
「あなや」
寒水翁が、両手で尻を押さえて、そこに倒れ伏した。
倒れ、寒水翁は苦しげに悶《もだ》えている。
寒水翁の腹が、大きくぷっくりと膨らんでいる。
「寒水翁!」
博雅は駆け寄り、あわてて、懐から、晴明から預かった短剣を取り出し、それを引き抜いて、
「これを咥《くわ》えよ。咥えるのだ」
寒水翁の口に咥えさせた。
寒水翁が、歯で強くそれを噛むと、寒水翁の悶《もだ》えるのがおさまった。
刃を内側にむけてそれを横に咥えているため、寒水翁の口の両端に傷がつき、血が流れ出した。
「放すな。そのまま咥えているのだ」
博雅が強い声で叫ぶ。
「晴明!」
博雅は叫んだ。
どうしたらよいのか。
「晴明」
このあとどのようにしたらいいのか、博雅にはもうわからない。
怯《おび》えた眼で、寒水翁が博雅を見あげている。
「放すなよ。放すな」
博雅は、寒水翁にそういうだけだ。
きりきりと歯を噛んで顔をあげた時、博雅はそこに人の姿を見た。
戸口に、安倍晴明が立って、博雅を見ていた。
「晴明!?」
博雅は声をあげた。
「おぬし、本当に晴明か?」
「すまぬ、博雅。山深くに入っておったのでな、こんなに時間がかかってしまった」
晴明は、すみやかに、博雅の傍に寄って、懐から草の束を取り出した。
「夏の草でな。この時期には、もうほとんど見つからぬものなのだ」
晴明は、言いながら、ひとつかみ、ふたつかみ草の葉をむしり取って、それを自分の口の中に入れて噛んだ。
しばらくそれを噛んでから取り出し、それを指先につまんで、寒水翁が咥えた刃と歯の間から、寒水翁の口の中に押し込んだ。
「飲み込むんだ」
晴明が言うと、ようように、寒水翁はそれを胃の中に飲み込んだ。
それを、数度、繰り返した。
「だいじょうぶだ。刃を咥えたまま、一刻も辛抱すれば、助かる」
晴明が、優しい声で言った。
寒水翁が涙をこぼしながらうなずいた。
「晴明よ、何なのだ、今飲ませたそれは?」
「天人草《てんにんそう》さ」
「天人草?」
「これも唐から渡ってきたものでな。吉備真備《きびのまきび》どのが、持ってきたと言われている。長安から蜀《しよく》へゆく途中の山道に多く生えていて、この倭国にも、今は少しながら自生している」
「む、む、……」
「長安から蜀に至る途中の山道は、尻から入って、人に害をなす妖物が多くてな。道をゆく者は、皆、身を守るため、天人草で造った吐精丸《とせいがん》を飲んで歩く。安史《あんし》の乱のとき、長安から蜀へ落《お》ちた玄宗皇帝も、その山中を通るおりにはこの吐精丸を飲んだそうな」
「しかし、今飲ませたのは──」
「吐精丸を丹練している時間がなかったのでな、直接葉を飲ませた。たっぷり飲ませたので、これでも充分効き目があろうよ」
一刻ほど後、ごろごろと、寒水翁の腹が鳴り出した。
「もうじきだな」
晴明がつぶやいた。
「何がじきなのだ」
博雅が問うた。
晴明が答える間もなく、寒水翁が、苦し気に身を押し揉《も》み始めた。
歯と刃の間から、苦しげなしゅうしゅうという呼気が洩《も》れる。
「だいじょうぶなのか?」
「だいじょうぶ。天人草が効いているのだ」
そして──
ほどなくして、寒水翁は、尻から一頭の獣をひり出した。
猟師につかまって、皮をはがれかけたことがあるのか、獣の腹のあたりに大きな刃物傷《はものきず》がある。
それは、巨大な、黒い、歳経《としへ》た貉《むじな》の死骸であった。
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陀羅尼仙《だらにせん》
一
「いや、晴明よ──」
そう言う源博雅の口から、白い息がこぼれてくる。
何か想うところがあるらしく、博雅は、何度か自分でうなずいてみせ、
「なんとも、みごとに、きちんと移《うつ》ろうてゆくものだなあ……」
しみじみとした口調で言った。
「何がだ」
晴明が、ほんのりと、笑みを含んだような唇に盃を運びながら言った。
ふたりで酒を飲んでいる。
晴明の屋敷の、庭に面した濡《ぬ》れ縁《えん》である。
向かい合って、胡坐《あぐら》をかいているふたりの横手に、秋の野が広がっている。
正確には、野ではないのだが、ほとんど手入れをしていないような晴明の屋敷の庭は、そのまま、秋の原野をそこへ持ってきたように見える。
「だから、季節がよ」
午後の陽差しが、斜めに庭に差している。
すでに花を枯らした桔梗《ききよう》や女郎花《おみなえし》の群落が、あちらにひと叢《むら》、こちらにひと叢と残っている。
それらを眺めながら、博雅は、深く溜め込んでいた息を吐いた。その息が、ほのかに白い。
「おれは、おかしいのかなあ、晴明よ」
「博雅が?」
「うむ」
博雅は盃の酒を干し、晴明を見やった。
「おれはなあ、この庭のことはよく知っているよ。春にどのように草が伸び、それがどのような花を咲かせるかもな。それがなあ──」
「どうした」
「夏にはあれほど盛んだったものも、秋には枯れて霜をかぶる──」
「うむ」
「これはまるで……」
そう言ってから、次の言葉を呑み込み、博雅は庭へ視線を向けた。
どこか、怒ったような顔つきをしている。
「まるで、何なのだ」
「言わん。やめた」
博雅は言った。
「何故だ」
「言えば、おまえがからかうからだ」
「からかわないさ」
「いや、もう、おまえの口元が笑っている」
「笑ってはいない。いつもと同じだ」
「なら、いつもおまえは笑っている」
晴明の口元に、微笑が浮いた。
「笑った」
「これは違う」
「何が違うのだ」
「これは、博雅を褒《ほ》めたのだ」
「褒めた?」
「そうだ」
「それでは、わからん」
「いや、博雅はよい漢《おとこ》であると、しみじみそう思うたのだ」
「で、笑うたのか」
「褒めたのだ」
「しかしおれは、褒められたという気がしない」
「しなくとも褒めたのだ」
「む」
「言えよ」
「むむ」
博雅は、喉元で小さく唸《うな》ってから、うつむいて、
「人の世ではないか──そう言おうとしたのだ」
低い声で言った。
「なるほど」
存外に、真面目な顔でうなずいた晴明を見、博雅は顔をあげた。
「かつては、あれほど勢いのあった|平 将門《たいらのまさかど》どのも、今はこの世の方ではない」
晴明の表情に安心をしたのか、博雅はそう言った。
瓶子《へいし》を手に取り、自分の盃に酒を注いで、
「だからだな、このような風景を眺めていると、なんだか、哀しいような、しかし、それが案外にこの世の真実《まこと》の姿なのであろうかというような気にもなって、なんとも自分でもよくわからない不思議な心もちになってきてしまうのだよ」
「それが、おかしいというのか」
「うむ」
博雅は小さく顎を引いて、盃の酒を干した。
「おかしくないではないか、博雅よ」
「そう思うか」
「人なみになってきたのだ」
晴明が言うと、博雅は憮然《ぶぜん》として、盃を下ろそうとした手を止めた。
「どうした」
「まさか、その人なみというのも、おれを褒めたと言うつもりではあるまいな」
「これは、褒めたのでもけなしたのでもない──」
「では何なのだ」
「困ったな」
「困ってるのはおれだ」
「おまえ、怒っているのか」
「怒ってはおらん。おもしろくないだけだ」
博雅は拗《す》ねている。
そこへ──
「晴明さま」
声がかかった。
庭からである。
透きとおるような女の声であった。
枯れ野の中に、午後の陽を背に浴びて、唐衣裳《からごろも》を着た女が立っていた。
「ただいま、お客さま、お見えでございます」
「客?」
晴明が、女にむかって言った。
「叡山《えいざん》の明智《みようち》というお坊さまでござります」
「はて……」
「安倍晴明さま、御在宅なればお目通り願いたしとおっしゃっておりまするが」
「なれば、丁寧にこちらへ案内《あない》申しあげなさい」
「あい」
と答えて、女は、枯れ野の上をするすると表の方へ歩いてゆく。
まるで、そこに枯れ野などなきが如くに動きがなめらかである。女の裾が触れても、草が揺れもしない。
「よかったではないか」
博雅は晴明にむかって言った。
「何がだ」
「客が来て話の続きができなくなったからだ」
「ふふん」
うなずくでも否定するでもなく、博雅を見やって、晴明は微笑した。
ほどなく──
むこうから濡れ縁を歩いて、しずしずとさきほどの女房が歩いてくる。
その後ろにひとりの僧が続いている。
細身で、歳の頃なら六十歳くらいかと思われる。
「明智さまをお連れ申しあげました」
女房は頭を下げ、ゆるりと背をむけて歩き出した。
一歩、二歩──五歩もゆかぬうちに女房の姿が薄くなりはじめ、濡れ縁のむこうの角にたどりつくまでに、ふわりとその姿を消していた。
二
晴明と博雅が並んで座り、それに明智という僧が向き合うかたちになった。
明智は、晴明と向き合っても、まだ、腰の位置が定まらぬように、もじもじと上体を動かしていた。
「どのような御用件でしょう」
晴明が訊いても、すぐに口を開こうとしなかった。
「いや、それが、これは極めて内々のことでございまして──」
自分がこちらへ来たということも、くれぐれも内密に願いたいと、明智はそう言うのであった。
もちろん承知しておりますと、博雅と晴明が何度かくり返してから、ようやく明智は口を開いたのだった。
「いや、それが、夢を見るのでございます」
と、明智は言った。
「夢!?」
「はい。それも、不思議な夢でございまして──」
「ほう」
と、晴明が耳を傾けようとするところへ、
「ところで、晴明どのにおかれましては、尊勝陀羅尼《そんしようだらに》の名は御存知ですかな」
「仏頂尊勝陀羅尼──つまり、仏頂咒《ぶつちようじゆ》の真言《しんごん》ということですね」
「はい。いかにもその仏頂咒のことでございます」
釈尊《しやくそん》、つまり仏陀には常の人にない三十二の相がその身体にあると言われている。
その第一番目が、|頂 成肉髻相《ちようじようにくけいそう》である。
頭頂部に、髻《もとどり》に似た骨肉塊があり、これが仏の持つ相のうちの第一番目のものということになっている。この仏頂崇拝が進んで、肉髻そのものが神格化され、いつの間にか仏頂|如来《によらい》として信仰されるようになった。
仏頂髻を音写すると、烏瑟膩沙《ウシユニーシヤ》となり、これから放たれる光によって、全ての悪魔や外道《げどう》が調伏《ちようぶく》されることになっている。
この烏瑟膩沙《ウシユニーシヤ》の真言が、仏頂尊勝陀羅尼、つまり、晴明の言う、仏頂咒ということになる。
「かの、大納言《だいなごん》左大将の常行《つねゆき》どのが、この尊勝陀羅尼によって、百鬼夜行の害を逃《のが》れたことは、わたしも聴き及んでいますよ」
晴明は言った。
「おお。好色童《こうしよくわらわ》の常行どののこと、御存知か──」
「ええ」
この常行、若い頃から、かなりの年齢となるまで、童形《どうぎよう》をしていた。
其《そ》の人の形美麗《かたちびれい》にして、心に色を好みて、女を愛念すること並《ならび》なかりけり。然《しか》れば、夜になれば、家を出《いで》て東西に行くを以《もつ》て業《わざ》とす
と、『今昔物語』にはある。
ある晩、この常行、小舎人童《こどねりわらわ》と馬副《うまぞい》の舎人《とねり》だけを連れて、女のもとに通った。
大宮大路を北にゆき、それから東に折れて美福門のあたりにさしかかった時、前方の暗がりから、多くの人が松明《たいまつ》をかざして歩いてくるのを見た。
よくよく様子をうかがってみれば、人と見えたのは間違いで、どうも尋常ではない輩《やから》の集団である。
赤き髪をした、角《つの》ある狐顔の女。あるいは、武士の格好をして二本足で歩いてくる犬。首だけで、宙を飛んでくる女や、その他得体の知れない|もの《ヽヽ》たち。
「いや、かような晩は、人など出歩いておらぬものかなあ」
「うむ、腹が減る、腹が減る」
「先年、二条大路で、若い娘のめだまを啜《すす》ったが、あの味が忘れられぬ」
「生きた男のへのこもまた啖《くろ》うてみたいのう」
「おう」
「おう」
など、口々にさざめきあっているのが聴こえてくる。
「いや、これは鬼どものいずれかへ集団で渡るところではないか」
百鬼夜行に、常行は出会ってしまったのであった。
見る間にも鬼の集団は近づいてくる。
このままでは、骨まで鬼どもにしゃぶられてしまう。
どうしたものかというところへ、
「神泉苑の北の門が開いています」
と小舎人童が言う。
ではと、その門から神泉苑の中に入り、門を閉ざして、鬼どもをやりすごそうと震えていると、鬼たちは門のむこうで立ち止まった気配である。
「むう、人の臭いがするではないか」
「おう、確かにこれは人の臭いぞ」
と、門を押し開いて鬼どもが神泉苑の中に入ってきた。
「人なら、めだまを啜ってやろうではないか」
「男なら、へのこはわしぞ」
「舌は、このわしが生きたまま……」
常行は生きた心地もない。
しかし、鬼どもは、近づいてくるが、常行たちがどこにいるかわからない様子である。
頭《かしら》の毛太りて物覚《ものおぼ》えず
とある。
そのうちに、鬼どものひとりが常行に眼をやって、
「あれ、ここに尊勝真言のおわしつるよ」
と言う。
その声がしたかと思うと、わらわらと鬼どもは神泉苑の外へ出、やがていなくなった。
生命《いのち》からがら家に帰りついた常行が、乳母《めのと》にこのことを告げると、乳母が言う。
「実は、昨年、わたしの兄弟の阿闍梨《あじやり》に言って、尊勝陀羅尼を書いてもらい、それを、若君《あなた》様のお召しものの襟《えり》のところに入れておいたのでございます」
女の許に、夜に出歩いている常行が、いつか百鬼夜行にぶつかるかもしれぬと考えて、そのような手だてを講じていたのだという。
晴明と明智が話題にしたのは、このことである。
「その尊勝陀羅尼と陽勝僧都《ようじようそうず》のことは御存知ありましょうか」
「香《こう》の煙《けぶり》と共に、僧都が天へ帰られたという、あの話ですね」
「さすがに晴明どの、何でも御承知のようですね」
明智は、感心した口調で言った。
この陽勝僧都の話も、『今昔物語』にある。
それによれば、陽勝は能登の人である。
俗姓は紀氏《きのうじ》。十一歳のおりに比叡山に上り、西塔《せいとう》の勝蓮華院《しようれんげいん》の空日律師《くうにちりつし》を師とした。
この陽勝、幼き頃より聡明で、一度聞いたことは二度と問うことはなく、道心が強く、
余りの心無し
他のことにはほとんど興味を持たなかったという。
裸の人をみれば、自らの衣を脱いで与え、飢えた人を見れば、自らの食事を与えることを常としていた。
また、蚊《か》、|※[#「虫+幾」、unicode87e3]《きささ》の身を螫《さ》し|※[#「口+敢」、unicode5649]《は》むを不厭《いとわず》
と、『今昔物語』は記している。
この陽勝、叡山で暮らすうちに、いつの間にか道心を胸に抱くようになった。つまり、道教に関心を持つようになったのであった。簡単に言ってしまえば仙人になりたくてなってしまったのである。
そして、この陽勝、ついに叡山を出てしまう。
吉野の古京の牟田寺《むたでら》に籠《こも》って仙人の法を学んだ。
修行のはじめは穀断《こくだち》である。穀物《こくもつ》をいっさい口に入れず、山菜だけを食べる。次にはその菜食も断ち、木の実や草の実だけを口に入れる。
次の段階では、一日、粟《あわ》一粒だけにして、身には藤の衣を着けるだけとなり、それが次には草の露を吸うだけとなり、やがては花の香を吸うだけとなって、最後には、食そのものをいっさい必要としないようになってしまった。
その後、吉野山で苦行していた恩真《おんしん》という僧が、この陽勝を見たという。
陽勝はすでに仙人に成《な》りて、身に血、肉《しし》無くして、異《こと》なる骨、奇《あや》しき毛あり。身にふたつの翼生《つばさお》いて、空を飛ぶこと麒麟鳳凰《きりんほうおう》の如し
と、『今昔物語』は記している。
身には、血も肉もなくて、不思議な骨と毛だけの姿になってしまい、背にはふたつの翼があると、そう伝えている。
で、この陽勝仙人、毎月八日に必ず比叡山にやってきては不断念仏を聴聞して、慈覚大師の遺石を拝《おが》んでゆく。
『今昔物語』はさらにその先を伝えている。
この頃、比叡山西塔の千光院に浄観僧正《じようがんそうじよう》という僧がいた。この浄観、常の勤《つとめ》に、夜ごと尊勝陀羅尼を読誦している。
さて、陽勝仙人が不断念仏を聴聞しにやってきたおり、この浄観の僧房の上まで飛んでくると、僧正が尊勝陀羅尼を誦す声が聴こえてくる。
陽勝、思わず僧房の前の杉の樹の上に降りてこれを聴いていると、いよいよ尊くありがたく尊勝陀羅尼が聴こえてくる。ついに樹から降りて、僧房の高欄の上に乗ってそこに座った。
それを浄観僧正が見つけて訊ねた。
「あなたはどなたですか」
「わたしは、かつて、この叡山にいたことのある陽勝という者です。空を飛んでこの房の上にさしかかったおり、尊き声で尊勝陀羅尼を誦する声が聴こえてまいりましたので、思わずここへ降りて聴き入っていたのです」
「それはそれは」
と、僧正が妻戸を開けて呼び入れると、陽勝仙人は鳥のようにそこから入ってきて、浄観の前に座した。
それからひと晩、浄観僧正と陽勝仙人は語りあかした。
いよいよ暁《あかつき》となって、
「ではそろそろおいとまを」
と、陽勝仙人は立ちあがったのだが、空に飛び立つことができない。
「久しぶりに人間界の気に触れて、身体が重くなってしまったためでしょう」
陽勝仙人が浄観に言うには、
「どうか香を焚《た》いて、その煙をわたしの近くに寄せてくれませんか」
浄観がそのようにすると、陽勝仙人は、たちまちその煙に乗って空へ昇り、いずこかへ飛び去っていってしまったと『今昔物語』は伝えている。
その後、浄観自身も道心をおこし、
「我もまた仙人とならん」
と言い残して、叡山を下りたと言われている。
「それで、あなたが御覧になるという不思議な夢と、尊勝陀羅尼と、どういう関係があるのですか」
晴明が、明智に訊いた。
「それでござりまするがな、実は、わたくしも、叡山の自分の僧房で、毎夜、尊勝陀羅尼を唱えているのです」
「ほう」
「それが、四日前の晩に、夢を見たのでござりまするよ」
そう言って、明智は語り出した。
三
尊勝陀羅尼をひとしきり誦して、眠ると、声がする。
「明智《みようち》どの、明智どの──」
と、その声が言う。
ふと意識がもどってみると、声はどこからも聴こえてないようである。
気のせいかと思ってうとうととしかけるとまた、その声が聴こえてくる。
「明智どの、もうし、明智どの──」
ふっと眼を開くと、仰向けになった明智の顔の上に人の顔があって、明智を見降ろしている。
驚いて身を起こしてみれば、ひとりの僧形の男が明智の枕元に座している。
「明智どの──」
その僧形の男が口を開き、
「ようやく気づかれたか」
落ち着いた声とものごしである。
「あなたはどなたですか」
明智が訊くと、
「名のるほどの者ではない」
という。
「何か御用でしょうか」
「いや、たまたまここを通りかかったら尊勝陀羅尼を誦する声が聴こえてまいりましたのでなあ、思わずそれをここで聴いておりました」
しかし、明智が尊勝陀羅尼を誦していた時、房に誰もいなかったことは、明智自身がよく知っている。
「尊勝陀羅尼が終って、いざ帰らんと思うたのだが、人間界の気に触れすぎたためか、身体が重うなって、どうにも埒《らち》があきませぬ故、香を焚いてはくれますまいか──」
僧形の男はそのように言う。
「焚いたら、その香の煙を、こう、わたしの方へ寄せてくだされ」
明智は、むろん、陽勝仙人のことは伝え聴いているから、
「もしやあなたは陽勝さまでは?」
と問うた。
「いやいや、そのような者ではござりませぬ。ただの僧でござりますよ」
僧はそれを否定する。
まあ、ともかく言われた通りに明智が香を焚いて煙を寄せてやると、その煙に乗ってしきりと飛びあがりたい様子なのだが、その僧の身体はいっこうに飛ぶ気配がない。
「いや困った」
そうこうしているうちに暁近くになり、明智も眠くなってくる。
ついうとうととして、目覚めてみれば朝であり、きちんと夜具の中で仰向けに眠っている。
はて、では、昨夜のあれは夢であったかと思ってみるのだが、房の中には香の匂いが満ちていて、枕元には、夕《ゆうべ》焚いたらしい香炉がある。
そういえば、燭《しよく》も点《とも》さぬに、暗がりのあの僧の姿が見えたことも不思議である。
はてさて、やはり夢であったかと思いなおして、また夜になった。
いつものように尊勝陀羅尼を誦して、眠ると──
「明智どの──」
また声がする。
身を起こしてみると、枕元にまたあの僧が座っていて、
「すまぬが香を焚いてくれぬか」
香を焚き、煙を寄せてやると、しきりに飛ぼうとするのだが、やはり、飛びたつことができない様子である。
そうこうするうちにうとうととなって──
気がついてみると、朝、夜具の中で目覚めている。
「そういうことが、三晩続いたのでござりますよ」
明智は言った。
で、昨夜──
明智は、おもいきって、その僧に言った。
「叡山には、わたしよりもずっと法力に長じた僧もおります故、あなたのことを相談申しあげてみようと存じますが──」
「いやいや、それはいけませぬ。それはやめてくだされ」
そう言われても、こう毎晩とあっては、いつまでもこのままにしておけるものでもない。
「ともかく、誰か、この道に通じたお方の助けをいただかぬことには──」
明智が言うと、
「ならば、内裏の艮《うしとら》の方向、土御門《つちみかど》小路の安倍晴明どのにこのことお頼み申しあげてはもらえまいか」
そのようにその僧が言ったというのである。
「そういうわけで、本日、わたくし、ここへ参ったのでございます」
明智はすがるように晴明を見た。
四
「不思議な話があるものだなあ、晴明よ」
博雅は腕組みをして、しきりにうなずいている。
明智は、しばらく前に席を辞して、今はまた、濡れ縁に、晴明と博雅だけになっている。
夕刻──
酒も大気も、今は冷えびえと冷めている。
醒めてみれば、酒の温度も酔いも夢のようである。
博雅は、瞳を光らせて、うむうむと、顎を引き、
「決めたぞ、晴明」
「何をだ」
「おれもゆく」
今夜、晴明がゆくことになっている明智の僧房へ、自分も連れてゆけと言うのである。
「なあ、連れていってくれ、晴明よ。あのような話を耳にしておきながら、ここで仲間はずれにされたら、おれは気になって、今夜は眠れそうにないよ」
どうせ眠れぬのなら、
「おれもゆく」
というのである。
「それに、夜道は物騒《ぶつそう》だからな」
「物騒か」
「百鬼夜行だの妖怪だのと出会う分には、おまえはたよりになるが、いざ相手が生身の人間で、盗賊だったりしたら、これはおれの領分だからな」
すっかりゆくことを決めている。
「ではゆくか」
「おう」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
五
冴えざえと月が出ている。
その月の周囲を、いくつものちぎれた雲が東へ向かっていた。
それが、見あげれば、黒ぐろとした杉の梢《こずえ》の間から見えているのであった。
晴明と博雅は、明智の僧房の外に立っている。
「いつもと同じように──」
晴明は、明智にそのように言いふくめていた。
しばらく前まで聴こえていた、尊勝陀羅尼を誦する明智の声が、今はやんで、僧房の中は静まり返っている。
身体の芯まで、冷えびえと染み込んでくるような夜の大気の中に、晴明と博雅は包まれている。
さわさわと、杉の梢が鳴っている。
「いつまでこうしていればよいのだ、晴明よ──」
博雅が、囁《ささや》き声で言う。
「酒でも持ってくればよかったか」
晴明に言われて、
「酒などいらぬ」
博雅の声が少し大きくなった。
「寒くなったか?」
「寒くないとは言わんが、この程度の寒さが我慢できぬということではないぞ。裸になっても平気だ」
本当に裸になる覚悟のありそうな声で、博雅は言った。
「わかっている」
晴明がそう囁いた時──
「明智どの、明智どの……」
僧房の中から、声が聴こえてきた。
明智の声ではない。
「晴明──」
博雅が、声を低めて晴明を見た。
聴こえている──と、そういうように晴明はうなずいた。
呼ばれて、明智がぼそぼそと低い声で答えている。
「今夜は、安倍晴明どの、お呼びしてある」
明智のその声を耳にしながら、晴明が足を踏み出した。
「ゆくぞ、博雅」
「むう」
腰の太刀《たち》に左手をあてて、博雅が続いた。
戸を開けて、月光と共に、晴明が、僧房の中に静かに足を踏み入れた。
暗がりの中に敷かれた夜具の中で、仰向けになって明智が眠っており、その唇が動いている。
「今夜も香を焚くか?」
眼を閉じたまま、明智の頭が持ちあがりかける。
「いや、今夜は晴明どの参られた故、香は焚かぬでよい」
声が言うと、頭が落ちて、明智は静かに寝息をたてはじめた。
その明智の枕元の暗がりに、ぼんやりと僧形の男の姿がある。
その僧は、床の上に座して、晴明を見あげている。
「よく参られた、晴明どの」
歳の頃なら、八十歳くらいであろうか。
現身《うつしみ》の人間でないことはわかった。
妻戸からしのび入った月光がわずかに差して、その僧の体を透かして、その僧の後方にある文机《ふづくえ》が微かに見えているからである。
晴明、その僧の前に座して、
「さて、この晴明に何用でござりまするかな──」
問うた。
博雅は、晴明の後方に立ったままである。
「貧道《ひんどう》を、お助けいただきたい」
よく見れば、そう言う僧の顔が、やつれている。
「はて、どのようなことから、お助け申しあげればよろしいのですか」
「実は、帰れぬのだ」
「帰れぬ?」
「うむ」
うなずいて、僧は続けた。
「そもそも、わたしは、この叡山の僧であったのだが、仏の道よりは仙の道を選びましてな、一度はこの叡山を出た身──」
「ほう」
「熊野、吉野で修行するうち、仙道の真似ごと程度はできるようになり申したが、不老長生とまではゆきませなんだ」
「はい」
「所詮《しよせん》は、この世の諸々《もろもろ》のものはうつろうてゆくが理《ことわり》。仙の道に入ろうと、肉体の老いゆくを止めることかないませなんだ」
「なるほど」
「いずれは死ぬるというこの歳になって、昔のことどもがついなつかしく思い出されてまいりましてな、知らぬ間にこの叡山に足がむいてしまい申したのじゃ」
「───」
「来たとはいえ、まだ、貧道を知る者もこの寺におり申す故、のめのめと帰ってきたこの姿をさらすわけにもゆかず、山中にひっそりと隠れていたところ、聴こえてきたのがこの明智の誦する尊勝陀羅尼でござりまするよ」
微かに、僧は笑った。
「それで、ここへ入って夜毎《よごと》に尊勝陀羅尼を聴いていたのでござりまするが、いざ帰ろうとした時に、帰れませぬ。香の煙など、あれこれ試したのだが、ここから出ることかなわぬ身となり果てており申した。明智は、法力ある僧にこのこと申さんというのだが、この貧道を知る者の眼にこの姿をさらすは本意にあらず、ふと、安倍晴明さまのお名前を思い出し、ここまで来ていただいた次第──」
「で、あなたをここから帰れるようにしてさしあげればよろしいのですね」
「そういうことなのだが──」
「そのためには、全てお話しいただかねばなりませぬな」
「全て?」
「はい」
「何を申せと?」
「嗅げば、この匂い黒沈香《こくじんこう》でございますな」
「いかにも」
「その匂いあまねく三千世界に熏《くん》じと経典にもありますが、この煙に乗っても帰れぬとあらば、これはよほどのことでございます」
晴明、少しの間、何か考える風で──
「ここで、どなたかに懸想《けそう》いたしましたか」
「懸想とな」
「ここで、心を動かすような女子《おなご》に会われたか、それともそこの明智法師に──」
「まさかよ、そこの明智には懸想はせぬ」
「では、いずれかの女子に──」
「むう……」
と、僧が口ごもる。
「では、少々、無粋なことをさせていただきます」
晴明は、そう言って、懐から一輪の花を取り出した。
枯れてはいるが、まだその花びらにわずかに青を残した竜胆《りんどう》であった。
「わたしの庭で、一番最後まで咲き残っていたものです」
その花に軽く息を吹きかけ、
「さて、青虫よ、最後の仕事だよ」
そう言って、花を床の上に置いた。
ふうわりと、闇の中にその花がふくらんで、青い唐衣裳を着た女がそこに立った。
「晴明、これは──」
博雅が、思わず口に出した。
昼、明智が来たと言って、庭に立った女である。
「青虫よ、この方の想うお女《かた》をここへお連れ申しあげておくれ」
女──青虫が、静かに頭を下げ、顔をあげる。
顔をあげきる前に、青虫の姿は闇に溶けた。
ほどなく──
消えたその場所に、青虫の姿がほんのりと現われはじめた。
ひとりではなかった。
もうひとり、女の手を引いている。
美しい白拍子《しらびようし》であった。
姿を現わしてから、晴明にむかって小さく微笑してみせ、青虫の姿が消えた。
そこに、白拍子が残った。
「こちらのお方ですね」
晴明は、僧に向かって言った。
僧は、唖然として晴明を見ていたが、
「いやはや、これはもう──」
はにかんだように微笑した。
「晴明、この方はどなただ?」
博雅が訊く。
「こちらの方が、心に想われているお方だよ──」
晴明は言った。
「いやはや──」
僧はしきりと、その身をもじもじとさせている。
「さて、いっそいかがですか」
晴明が言う。
「いっそ?」
「もう、長くはないのでしょう」
晴明が、僧に、優しく言った。
「いかにも」
今は落ち着いた声で、僧がうなずいた。
「なれば、仙の道から俗の道にもどられて、こちらのお方と、想いをとげられるのがよろしいのではありませんか」
「───」
「尊勝陀羅尼がとりもった縁であれば、それもよいのではありませんか」
晴明は、横に手を伸ばし、その手を眠っている明智の額にあてた。
明智は眼を覚まし、そこに、白拍子の姿を見て驚いた。
「こ、これは──」
「さあ、しばらく我々は外に出ていましょうか──」
晴明は、驚いている明智と博雅をうながして外に出た。
「おい、晴明よ、どうなっているのだ。おれには何が何だかまるでわからないぞ」
「まあまて、月でも眺めて待っていようではないか。すぐにわかる」
「おい──」
晴明は、博雅の声が聴こえているのかどうか、月を見あげている。
「なあ、博雅よ。やはり酒を持ってくるべきであったな」
六
外で、月を見あげている三人の眼の前に、件の僧が姿を現わしたのは、半刻ほどたってからであった。
照れたような顔で、晴明を見、僧は月光の中で沈黙している。
「いかがでしたか?」
晴明が問うた。
「想いをとげ申したが、いやあ、晴明どの。人は、そう簡単には仏にも仙にもなれませぬものですなあ」
どこか、晴ればれとしたような口調で言った。
頭を掻《か》き、
「仏の道、仙の道、極めようとしたあげくになれたのは──」
「何ですか」
「人ですよ」
老僧は頭を下げ、
「すみませぬが、この西の山中へ少し入ったところに、わたしの屍体が見つかると思います。焼くなり埋めるなり、よろしくお願い申しあげます」
「はい」
と晴明が答えると、僧は頭を下げた。
何度も、くり返し頭を下げるうちに、僧の姿は薄くなり、闇に溶けて消えた。
あとは、月光の中で、杉の梢がさやさやと風に鳴るばかりである。
「さあ、もどりましょうか」
晴明にうながされ、明智の僧房に入ってみると、そこには、あの老僧の姿はもちろん、白拍子の姿もなかった。
「さて、お話ししていただけますね」
晴明が、これまで沈黙していた明智に言った。
「はい」
明智がうなずいた。
「すでに、晴明さま、全ておわかりと思われますが、わたしの口から申しあげておくべきでしょう」
明智は、しゃがんで、自分の夜具をめくりあげて、その下から一巻の軸を取り出した。
灯りを点《とも》し、その灯りの中で、明智は、その軸を広げて見せた。
絹地の上に、絵が描いてあった。
「これは──」
博雅が唸った。
さきほど、この部屋に姿を現わした白拍子の姿がそこに描かれてあった。
「恥ずかしながら申しあげます。わたくしは、僧の身でありながら、女性《によしよう》への思いいまだ断ちがたく、毎夜、尊勝陀羅尼を誦した後に、この絵を眺めては自らをなぐさめたりしていたのでございます。これが、先ほど姿を現わしたのには驚きましたが、きっと、夜毎に尊勝陀羅尼を聴くうちに、絵ながら魂が生《しよう》じたのであろうと思われます。先ほどの僧も、尊勝陀羅尼にひかれてここへやってきて、わたしが自らをなぐさめますおりに、この絵姿を見、それに懸想いたしたものでございましょう」
明智は、低い声でそう言った。
「しかし、別の場所にいる僧の魂が、独りでここまで来たとも思えぬな」
と晴明。
「というと?」
「何か、この数日、かわったことはありませんでしたか──」
言いながら、周囲を見回していた晴明が、床に、何かを見つけたらしく、それに手を伸ばした。
「ありましたよ」
晴明が床から拾いあげたのは、黒い蝶の屍《しかばね》であった。
「これですね。死におくれたこの蝶に自分の魂を運ばせたのでしょう」
「そう言えば、この数日、この蝶が僧房の中を力なく飛んでいたのを見た覚えがございます」
血なく、肉なく、毛におおわれ、奇妙な骨を持つ、ふたつの翼を持つもの──
「これか」
と、博雅がつぶやいた。
「さて、では、ゆこうか、博雅よ」
と、晴明が立ちあがった。
「どこへだ?」
「その僧房の西さ──」
出ようとする晴明に、
「ありがとうございました。何か御礼を──」
と、明智が声をかける。
「いえ」
と、言って、少し考える風に言葉を切った晴明が、
「では、よろしかったら、この絵をいただけますか。この冬、身のまわりのことをしてくれる式神《しきがみ》がひとり、必要になってしまいましたのでね」
晴明は、床から、竜胆の花を拾いあげ、優しくこれを懐におさめながら言った。
「ぜひ、受けとって下さい」
明智から渡された軸を懐に入れて、晴明は月光の中に出る。
ふわりと、その前に、あの白拍子が姿を現わした。
「では、ゆこう、博雅、この白拍子が案内してくれるそうだ」
晴明が言うと、白拍子が先になって歩き出した。
七
大きな老杉の樹の根元で、ひとりの老僧が仰向けになって死んでいた。
「この方か、晴明よ」
松明をかざしながら、博雅が言った。
その横に、ひっそりと白拍子が立っている。
「そうだ」
晴明が答える。
「いったい、どなたなのだ、この方は──」
「浄観どのであろうよ、おそらくな──」
晴明は言った。
「あの、陽勝仙のあとで、仙人になろうとした法師どのか──」
「そうだが、まあ、この方の名前が生前に何であったかは、もう、詮索《せんさく》せずともよかろうよ」
晴明が、老僧を見降ろしながら言った。
博雅が、炎を近づける。
その炎の灯りに、老僧の顔が、あかあかと照らし出された。
「おう……」
博雅が、低く声をあげた。
「晴明よ、法師どのの死に顔が、微かに笑っておられるぞ」
博雅の言うように、その法師の皺《しわ》の浮いた口元には、微かな笑みが浮いていた。
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露《つゆ》と答《こた》へて
一
月が、濃い影を縁に落としている。
軒《のき》から見あげれば、夜の空には数片の雲が動くばかりで、冴えざえとした青い満月が、天に露《あら》わである。澄んだ秋の大気が、夜の庭を満たしていた。
「なんとも言えぬ月だなあ、晴明よ──」
しみじみとつぶやいたのは、源博雅である。
安倍晴明とふたりで、縁に座して酒を飲んでいる。
晴明の屋敷の濡れ縁であった。ふたりの前には、夜の庭が広がっている。
灯火を点してはいないが、月明りで、さやさやと庭の萩が風に揺れるのまでがわかる。
女郎花や、竜胆、秋の草の上に夜露が降《お》りているらしく、それが月光を映して光っている。
肴は、焙《あぶ》った赤|占地《しめじ》であった。
夕刻に、博雅が晴明を訪《たず》ねてきた。その頃から、ふたりでほろほろと酒を飲んでいる。
「これを見ろよ、晴明──」
博雅が、すぐ眼の前の縁の上に眼をとめて言った。
その、木目の浮いた縁の板の上を、一尾の蟷螂《カマキリ》が歩いている。
「蟷螂か」
大きな蟷螂だった。それが、ゆっくりとした動作で、博雅の前を通り過ぎてゆく。その動きには、もはや夏の力強さはない。
「なんだか、おれには、この蟷螂が、死に場所を捜して歩いているように思えるな」
「どうしたのだ博雅。今夜はやけにしんみりしているではないか」
「なあ、晴明よ。こうしてみると、人も虫も寿命こそ違え、案外に同じようなものなのだなあ」
「ほほう、どのように?」
晴明は楽しそうな顔で、博雅を見やった。
「いつまでも夏の盛りだと思っているうちに、いつの間にかその時期は過ぎて、人も虫も老いてしまう……」
「───」
「それにだ、老いることさえできずに、ある日、ふいに流行病《はやりやまい》でころっと死んでしまったりするではないか」
「うむ」
「生きているうちに、いつ死んでも思い残すことのないように、せねばなあ──」
「たとえば?」
「たとえばだ。ひそかに胸に思うおなごがあるとするのなら、きちんと胸のうちを告げておくのがよいということだ」
「ほう、いるのか?」
「なに?」
「だから、博雅にはそのようなおなごがおるのか?」
「いや、おれにいるということではない。もし、いるのならということだ」
「いないのか?」
「いや、いないとは言うておらぬ」
「やはりいるのか?」
「晴明よ。たとえばと言ったはずだ。いるとか、いないとか、そういうことを言っているのではない」
博雅は、むっとした顔で、盃を口に運んだ。
「何かあったか。博雅──」
博雅が酒を飲み干すのを待って、晴明が訊いた。
「あった……」
「ほう、何が?」
「話を聴いたのだよ」
「話?」
「ああ。つい昨日、野暮用《やぼよう》があって、|藤原 兼家《ふじわらのかねいえ》殿の屋敷へ行ったのだがな、そこで超子《とおこ》殿に会《お》うた」
「兼家殿の娘ごか」
「うむ」
「今年、幾つになられた?」
「二十歳《はたち》ばかりになるが、これが、聡明《そうめい》で、匂いたつように美しい。花なら、盛りの芍薬《しやくやく》といった風情でなあ。殿中の話にはことの外《ほか》興味がある様子で、おれに色いろと問いかけてくる時は、童女のような表情になる」
「ははあ──」
晴明がにんまりとする。
「いや晴明よ。おれは超子殿に会いに行ったのではないぞ。兼家殿に会いに行ったのだが、兼家殿、しばらく手の放せぬ用事があり、その間、超子殿がおれの相手をしてくれたのだよ」
「それで?」
「そのおり、超子殿がなさった話があるのだが、その話に、おれはいたく胸を打たれたのだよ」
博雅さまは、このようなお話を耳になさったことはございますか?
超子が、博雅にそう言って、その話をはじめたというのである。
二
あるところに、ひとりの男がいた。
ほどよき身分の男で、かねてより、ある屋敷に住むやんごとなき筋の女に想いをかけていたのだが、なかなか思うにまかせない。わりない仲になりたいと思いつつも、色よい返事をもらえぬまま、年ばかりが何年か過ぎた。
「で、ある晩、この男は、その女を屋敷から盗み出してしまったのだ」
博雅は、ほんのりと酒に顔を赤くしながら晴明に言った。
女を背に負って、男は、暗い夜道を急いでいる。芥川という河を過ぎ、野原となった。おりしも月が出て、夜道の周囲の叢《くさむら》に、点々と光るものがある。
夜露が草の葉先に凝《こ》って、月光を受け、星のように一面にきらきらと光っているのだが、屋敷から、ほとんど外へ出たことのない女には、それが何だかわからない。
ただただ美しい。
「かれは何ぞ?」
あのきらきら光るものはなあに、と、男の背で女は問うたのだが、男は答える間もなく、道を急ぐことしか頭にない。
女のかぐわしい息が、自分の頸《くび》すじや耳にかかるたびに、男は血を熱くしている。自分の背は、苦しいほど女の温度を感じている。
そのうちに、鬼が出ると噂されるあたりにさしかかったのだが、男は、それに気づかない。いつの間にか、月は雲に隠れ、強い雨も降りはじめた。
「そこに、ちょうどよいあばら家があったでな」
男は、女と共にそこへ入ったのだが、どうもその家の雰囲気が尋常でない。
女を奥の間に押し込めて、用意していた|弓胡※[#「竹/録」、unicode7c59]《ゆみやなぐい》を身に帯びて、戸口で寝ずの番をした。
そうするうちに、ようやく東の空がしらしらとしはじめ、ほどなく夜も明けようかという頃──
「あなや」
という女の悲鳴がした。
奥の間へ入ってみれば、女の姿はなく、女の着ていたものの上に、美しいその首ばかりが血にまみれて転がっている。
ああ──
「女は鬼に喰われてしまったのだ……」
男は、さめざめと涙を流したのだが、女がかえってくるわけではない。
「よいか、晴明、ここで男が、ひとつ歌を詠《よ》んだというのだよ」
博雅は、そこで、声をあげて歌を詠《えい》じた。
白玉かなにぞと人の問ひし時
露と答へて消えなましものを
「なんともしみじみとした歌ではないか」
博雅は言った。
「ほう、おまえ、歌の意味がわかるのか」
晴明は、赤い唇に楽しそうな笑みを浮かべている。
「わかるさ」
怒ったように、博雅は唇を尖らせた。
「だからだな、晴明よ。あの時、女が、あのきらきら光るものはなあにと訊いた時、せめて、可愛いお方よ、あれは夜露というものであるのだよと、死ぬ前に答えてやっておけばよかったと、しみじみと男は嘆《なげ》いているということだよ。まことに、人の生命というものは、夜露のように、はかなく消えていってしまうものなのだなあ」
「ほう……」
「何も知らない女にとって、夜の野原を男に背負われてゆくなぞというのは、どのようなものであったろう。胸はどきどきと高鳴り、足元には、一面にきらきらと星のように光るものがある。女には、宇宙そのものの中にわが身のある心地がしたろうよ」
この時期、すでに宇宙という言葉は、時空を差すものとして成立している。
中国の古書『尸子《しし》』に、
上下四方を宇《う》といい、往古来今を宙という
との記述がある。
「それで」
晴明が訊いた。
「それで?」
「だから、その後はどうなったと訊いているのだ」
「どうもこうもない。この話はここまでだよ──」
「ははあ」
と、晴明は含み笑いをする。
「続きも何も、そこへ兼家殿がやってこられたのでな、話はそこで終りさ」
「それにしても、なぜ、兼家殿のところへなぞ出かけていったのだ?」
「ううむ」
「今日、ここへ来たは、兼家殿の一件か?」
「やはり、晴明の耳にも、その話、届いておったか」
「兼家殿、五日前の晩、二条大路で、百鬼夜行にあわれたそうだな」
「それなのだよ、晴明──」
と、博雅は身を乗り出した。
三
藤原兼家が、右京の辺《あた》りにある女の家に向かって、自分の屋敷を出たのは、五日前の晩のことである。
神泉苑の角を曲がり、二条大路に出て西へ向かった。
供の舎人《とねり》が二名。
牛車《ぎつしや》である。
神泉苑を左にしながらほとほとと進んでゆくうちに、ふいに牛車が停まった。
「何ぞあったか」
声をかけて外を見てみれば、供の舎人ふたりが、声を出すことも忘れて、がたがたとふるえて前を見つめている。
「どうした?」
牛車から顔を出して、舎人が眼を向けている前に眼をやってみれば、
あなや
声をあげそうになった。
身の丈十尺余りと見ゆる法師が、神泉苑の終るあたりから、こちらに向かって歩いてくるではないか。
めだまは大人の拳ほどもあって、黄色くぎらぎらと燠火《おきび》のように光っている。
我が白髪の三千丈
心の丈《たけ》は一万尺
因果宿業《いんがすくご》の六道《りくどう》も
百の輪廻《りんね》もまたにかけ
愛《かな》し愛《かな》しと花踏みしだき
おつる覚悟の畜生道《ちくしようどう》
ろうろうと、何やら詩のようなものを唄いながら歩いてくる。
見れば、頭のあたりには、めらめらと炎のようなものがあがり、法師が唄うたびに、その口からは青い炎がちろちろとこぼれ出てくる。
法師の周囲に、わらわらと群がりながら、一緒に近づいてくるものがある。
月明りに目を凝らしてみると、それは、馬の首をした小犬ほどの人、人の首に足だけ生やしたもの、二本足で歩いてくる猫。その他、何やら得体のしれないものたちの集団である。
これが噂に聴く百鬼夜行に違いない……
頭《かしら》の毛が太る思いで、兼家は、舎人ふたりを狭《せま》い牛車の中に引き入れ、こういう時のためにとかねてより用意していた尊勝陀羅尼《そんしようだらに》を記した紙片を、三人で握り締《し》め、息を殺して震えていた。
我が白髪の三千丈
心の丈は一万尺
法師の声が近づいてきて、牛車の前で止まった。
「はて、いぶかしや」
法師の声が聴こえてくる。
「ここに人のあるよと思いつるに、至りてみれば影もなし……」
三人は生きた心地もしない。
ふわりと牛車の御簾《みす》が上げられて、巨《おお》きなる法師の顔が、中を覗き込んできた。
「中にもおらぬ」
尊勝陀羅尼の霊験で、異類のものには、三人の姿が見えない。
ぎろぎろと黄色い眼が中をさぐって、
「あな、くちおしや。久かたぶりに、人の肉をば、啖《くろ》うてやろうと思うたに──」
御簾が下りて、また、外から声が響いてきた。
「かくなりし上は、この牛の肉をば啖うてゆこうぞ」
その声が終ると共に、わらわらと小さなものたちが跳びかかる気配があって、激しく牛が鳴きはじめた。
御簾の透き間から、兼家が外を見やれば、青い月光の中で、巨大な法師が牛の首にしがみつき、歯をあてて、ぞぶりぞぶりとその血を啜《すす》っているではないか。
牛の身体には、びっしりと小鬼がたかって、その肉を啖っている。
ほどなく、牛の声はやんで、ひしひしと牛の肉の、鬼たちに啖われる音ばかりが響く。
がつん、
こつん、
ごり、
ごり、
というのは、法師が、牛の骨を歯で噛み砕く音であろう。
しばらくして、その音がやんだ。
我が白髪の三千丈
心の丈は一万尺
また、あの、法師の唄う声が響いてきた。
因果宿業の六道も
百の輪廻もまたにかけ
愛し愛しと花踏みしだき
おつる覚悟の畜生道
ゆっくりと、やってきた方向に、その声が遠ざかってゆく。
やがて、声が消え、あたりがすっかり静まりかえっても、三人は声もたてられずに、動けなかった。
ようやくに、おそるおそる御簾をあげて、兼家が外をうかがってみれば、牛車に繋《つな》いでいた牛の姿もなく、法師や小鬼の姿もない。
青い月光が、しんしんとおりてくる地の上に、大きな血溜まりが残っているばかりであった。
夜が白むのをそこで待ち、兼家は牛車をふたりの舎人に引かせ、ようやく自身の屋敷へ帰りついた。
結局、兼家は女のもとへゆかなかった。
四
「とまあ、そういうことがあったのだよ」
博雅は晴明に言った。
酒を口に運びもせずに、ここまで、博雅はひと息にしゃべったのであった。
博雅は、しゃべり続けて乾いた舌を濡らすように、盃に入ったままになっている酒を飲み干した。
すでに、さきほどまでいた蟷螂の姿は見えなくなっている。
「で、博雅。おまえは、どうして、その話を知ったのだ」
「それがなあ、晴明よ。その兼家殿が通う予定であった女房殿からなのだよ」
「ほう……」
「その女房殿は、おれが、昔、ひとかたならぬ世話になった方《かた》に縁ある方でなあ。話があるからぜひともと呼ばれて、三日前に出かけて行って、この話を聴かされたのだ」
「何故、その女房殿は、博雅を呼んだのだ」
「おれが、おまえと仲がよいからだよ」
「ははあ」
「女房殿は、兼家殿の身を大変ご案じなされている。鬼の瘴気《しようき》にあてられて、しばらくは通えぬという歌を、兼家殿から送られてな……」
「うむ」
「で、おれに、兼家殿の様子を見に行ってはくれまいかというのさ。心配なようすであれば、陰陽師の安倍晴明さまに理由《わけ》をお話しして、兼家殿に憑《つ》いた瘴気を落としていただくわけにはゆかぬかと──」
「それで、昨日、兼家殿の屋敷に行って、超子殿に、露の話を聴かされたというわけだな」
「ま、そういうことだ」
「それで、どうだったのだ」
「どう?」
「兼家殿の様子だよ」
「おれは、女房殿に頼まれたと、兼家殿にざっくばらんに申しあげたよ。おれは、あまりうまく隠しごとができぬ人間だからな。率直に申しあげた方がよかろうと思うたのだ。兼家殿は、たいへん恐縮されていたよ」
「それで?」
「話をうかがってみたのだが、かなり怖い思いをされたそうで、気分はすぐれぬが、しかし、もうだいじょうぶであろうと、そう言っておられたな」
「なら、よいではないか」
「いや、よくはない。これでなかなか、百鬼夜行に出会った者が、何日かして、ぽっくりといくというのは、よくあることではないか。ある朝、家の者が起きてみたら、兼家殿が褥《しとね》の中で冷たくなっておられたというのであっては、おれも困る」
「しかし、なあ──」
「ともかく晴明よ。兼家殿に会うてみてくれ。その上で、おまえがだいじょうぶというのであれば、おれも得心《とくしん》する──」
「ふうむ」
晴明、腕を組んで考えている。
「そうだな。博雅、ではこうしようではないか」
「どうするのだ」
「おれが、これから文《ふみ》を書くから、明日、それを持って兼家殿の屋敷まで行って渡してきてはくれまいか」
「それで?」
「その場で、兼家殿に文を読んでいただき、その上で返事を聴いてきてくれ」
「返事とは?」
「安倍晴明が、そのように申しておりますが、晴明を呼びまするか、どういたしますかとな」
「おう」
「で、兼家殿が、参るにおよばぬと、そういう御返事であれば、おれはゆかぬでもよくなるということさ」
「ふうむ」
「よいか」
「あ、ああ──」
と、博雅がうなずくと、晴明が、ぽんぽんと、両手を二度叩いた。
「萩や、萩や──」
晴明が声をかけると、夜の庭に、すうっと人影が立った。
唐衣裳《からごろも》の表着の模様に、赤紫の萩の花を散らした女であった。
「あい……」
「すまぬが、ちょっと書きものをすることになったのでな、用意をしておくれ」
「どちらへ用意いたしましょう」
「ここでよい」
晴明が言うと、
「あい」
と答えて、女の姿が、ふうっと消えた。
「式か」
「うむ」
しばらく酒を飲んでいると、萩という女が、硯《すずり》と墨《すみ》、水と筆と紙を盆の上に載せて、屋敷の奥から姿を現わした。
「庭のあのあたりで消えたと思うたに、現われる時は、奥からやってくるとは、式とは、どうにも、いまだによくわからぬ……」
式、すなわち式神のことである。
不思議がる博雅を横にして、晴明は墨を摺《す》り、筆と紙をとった。
その紙に、さらさらと何やら書きつけて、それをていねいに巻くと、
「さて、博雅よ、これを兼家殿に渡して、返事をきいてきてくれ」
「おう」
博雅はそれを受け取って、懐に入れた。
「博雅よ、ともあれ、これだけ月が美しい夜は、そうもないだろう。笛はあるか──」
「うむ。笛ならいつも用意をしている──」
「久しぶりに、おぬしの笛を聴かせてくれ。蟷螂の行く末を案じつつ、もうしばらく酒を酌《く》み交《か》わすというのも、そう、悪い趣向《しゆこう》ではあるまいよ」
五
博雅が、赤い顔で晴明の屋敷へやってきたのは、翌日の夜になってからであった。
昨日と同じように、晴明と向きあい、縁に腰を下ろすと、
「いや、晴明よ、なんとも不思議なことだなあ──」
博雅はつぶやいた。
「来るにはおよばぬと、兼家殿は、そう申しておったろうが──」
「その通りだよ。文を読むと、兼家殿は、しきりと頭を掻いて、安倍晴明殿、何もかも御承知であるとは、いや、おそれ入り申した──そう言ってたぞ」
「そうであろうな」
「おまえにな、心|遣《づか》いを感謝していると、よく礼を言っておいてくれと、そうも言っていたな」
「なるほど──」
「なあ、晴明よ。おれには何が何だかさっぱりわからないのだが、この謎解きをしてもらわぬことには、どうにも今夜は眠れそうにない。それで、こうして押しかけてきたのだよ」
「兼家殿からは、何も聴かなかったのか」
「兼家殿は、何もかも晴明殿が御承知であろうから、委細《いさい》はおまえから聴けと、そう言うていたが」
「そうか、それなら、おれが話さねばなるまいな」
「教えてくれ、今度の件は、いったいどういうことであったのだ?」
「ま、全て兼家殿の狂言であったということだな」
「狂言?」
「嘘さ」
「嘘というと?」
「だから、百鬼夜行に会うたとか、大きな法師に牛を喰われたであるとか、そういうことの全部が嘘であったということだな」
「まさか。何で、そんな嘘を──」
「だから、兼家殿に、別に通う女房殿ができたと、そういうことだろう」
「女!?」
「そうさ。前々からくどいていた別の女が、急に、その晩になって色よい返事をしてきたのだろうよ。で、ぬしに縁がある女房殿には、会いにゆけなくなってしまった。それで、ゆけぬ言いわけに、あのような話を考えついたのだろうよ」
「ええ?」
「まあ、つれなくされた女の方も、その嘘を何もかも承知していたということだな」
「それなら何故、あの女房殿は、おれに、わざわざあのようなことを頼んだのだ」
博雅が言うと、晴明は、微笑した。
「ぬしが、よい漢《おとこ》だからよ」
「おれが?」
「うむ。おそらく、博雅に頼めば、ぬしが必ずおれをひっぱり出してくれると思うたからであろうよ」
「───」
「おれがゆけば、兼家殿の嘘はすぐに見破られてしまう。話を大きくして、兼家殿に恥をかかせてやろうとしたのだろう」
「しかし──」
「ま、兼家殿が来るに及ばずと申されたということは、おれの考えたことが、全てあたっていたということだ」
「文には何と書いたのだ?」
「だから、今、博雅に説明したようなことをさ──」
「だが、わからぬことがあるぞ。どうして、おまえにそのようなことがわかったのだ」
「わかるさ」
「何故だ」
「超子《とおこ》殿が教えてくれたではないか」
「超子殿が?」
「あの、在公《ありこう》の話さ」
「在公?」
「在原業平《ありわらのなりひら》殿の話さ」
「何のことだかわからん」
「あの、女を鬼に啖《く》われた男の話な、あれは在原業平殿の話ぞ」
「なに!?」
「近頃、宮中で流行《はや》っている物語を、おぬし、読んではおらぬか」
「何のことだ」
「『伊勢物語』というて、なかなかおもしろい。その話の中に、あの、女を鬼に啖われた話も出てくるのだ」
「しかし、それで、どうしてそれが、兼家殿の話が嘘であったのかがわかるのだ」
「わかるさ」
「何故だ」
「あの話にはまだ先がある。あれはな、業平公が、女を連れて逃げていく途中でな、堀河大臣《ほりかわのおとど》に見つかってしまったのよ」
「───」
「あの女とは、二条の后《ひめ》のことでな、それを連れて逃げようとした業平公を見とがめた后の兄の堀河大臣が、その場で、后をとりもどしてしまわれたのだよ。しかし、さすがに業平公だな。女を取りもどされたとは言わずに、鬼に啖われてしまったと、露の話までひきあいに出し、おまけに歌まで創って、美しい物語にしてしまった──」
「では──」
「超子殿は、何もかも承知であったのさ。それで、業平公の話をして父の兼家殿の話は嘘ですよと、恥をかかぬように、そっとおまえに教えてくれたのさ」
「あ──」
博雅は、魂が抜け出てしまいそうな声をあげた。
「なんということだ。そういうことであったのか──」
博雅の無骨な肩が、すっかりしおれている。
「気を落とすな、博雅──」
「なんだか、おれは、みんなに馬鹿にされたような気がするよ」
「そんなことはない。みんな、おまえのことが好きなのだ。兼家殿も、超子殿もな。そして、おれもだ。だから、おまえに気をつかったのだよ。あの、件《くだん》の女房殿も、おまえが好きだったのだ。好きだったから、おまえに甘えて、おまえを利用しようとしただけだ」
「晴明よ、おまえは、おれをなぐさめてくれているのだろうが、おれは嬉しくない」
「嬉しがることはないが、哀しくなることはない。おまえは、皆にとって、必要な人間なのだ。おれにとってもな──」
「うむ」
「おまえは、ほんとうに、よい漢《おとこ》だからな」
晴明は言った。
「やはり、嬉しくない」
博雅は複雑な表情でつぶやいた。
晴明は困ったように頭を掻いた。
「飲むか」
「飲む」
そうしてふたりは、またほろほろと酒を飲みはじめたのであった。
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鬼小町《おにこまち》
一
春の、野であった。
霞がかかったように、野も、山も、青く煙《けぶ》っている。
樹々の梢《こずえ》には、新緑が芽ぶいており、野は野で、萌《も》え出したばかりの草が、ため息の出そうな柔らかな緑を見せている。
道の両端には、野萱草《のかんぞう》が生え、イヌノフグリが、点々と小さな青い花を地にちらしている。
場所によっては、まだ咲き残っている梅もわずかにあるかわりに、桜の多くは八分咲きになっている。
「いい風景ではないか、晴明よ」
博雅は、うっとりとした声を放った。
「悪くはない」
言いながら、晴明は、博雅の横を、そぞろに歩いている。
ゆるい、山径《やまみち》であった。
頭の上に、櫟《くぬぎ》や欅《けやき》の枝が被さって、晴明の白い狩衣《かりぎぬ》の上に、陽光と共にきれいな模様を落としている。
八瀬《やせ》の地であった。
しばらく前に、牛車を降り、そこに、牛車《ぎつしや》も舎人《とねり》も、供の者たちも置いてきた。明日の同じ刻限に、また、そこまでむかえに来る約束ができている。
すでに、牛車が通る道ではなくなっている。
「こら、晴明。おぬし、素直でないな」
「何がだ」
「おれが、いい風景だなと言っているのに、おまえは、悪くはない、などとすました顔をしている」
「いつもの顔だ」
「なら、おまえはいつもすましている」
「うむ」
「よいものを見たらよいと、美しいものを見たら美しいと、そのまま心のうちを顔に表わす方が……」
そこまで言って、博雅は口をつぐんだ。
「表わす方が、何だ?」
「疲れぬぞ──」
ぽつり、と博雅は言った。
声にして、晴明は笑った。
「何故、笑う」
「おまえ、おれのことを心配してくれているのか」
「う、うむ……」
「素直に心のうちを表情に表わせと言われて笑ったら、何故笑うと言われてしまうのであっては、おれはどうしたらよいのだ、博雅よ──」
むろん、これは、喧嘩でもなく、言い合いでもない。
言葉をかけあいながら、じゃれあっているのである。
「それより、そろそろではないのか──」
晴明が問うと、
「もう少しだ」
博雅が言う。
ふたりが向かっているのは、紫光院という寺である。
木彫りの、三尺ほどの観音菩薩を本尊とした小さな寺で、如水《によすい》という老法師が独り住んでいる。
如水法師が、源博雅とともに晴明の屋敷を訪ねてきたのは、一昨日のことであった。
「こちらは、如水法師というお人で、その昔、この博雅がたいへんお世話になったお方なのだよ」
博雅は、晴明にそう言った。
「八瀬の山里の、紫光院という寺に、お独りで住んでおられるのだが、何だか非常に困っておられる御様子なのだ。話をうかがってみると、これはどうも、晴明よ、おまえの領分の話のようなのでな、今日、こうしてここまでお連れしたのだが、如水どのの話を聴いてやってはくれまいか」
そして、如水から聴かされたのが、次のような話であった。
如水が、紫光院に入ったのは、二年前である。
もともとは、真言宗の寺で、一時は、住職もいてそこそこには経などあげてやっていたのだが、その住職が死んでから入るものがなく、二年前までは破《や》れ寺同然であったところへ、如水法師が入ったということらしい。
如水法師、もともとは、宮中の楽士であり、笙《しよう》などを吹いていたのだが、ある時、やんごとない筋の女房とわりない仲となった。しかし、むこうには夫《つま》があり、それが他人《ひと》の知るところとなって、宮中を追われることとなった。
知り合いの真言宗の僧侶の寺に転がり込み、見よう見まねで経などを覚え、僧の真似ごとくらいはできるようになって、そこで、かたちばかりの灌頂《かんじよう》を受けた。
そのおりに、八瀬に、破れ寺のあるのを知って、そこに入る決心をした。
さて、本堂や、あちこちを修理し、毎朝経をあげるようになり、なんとか寺としての体裁もととのったかという頃、妙なことに気がついた、というのである。
毎日午後になると、どこからということもなく、品のよい老婆が現われて、本堂の前に、花や木の実や、木の枝などを置いては、去ってゆく。
老婆の姿を見かけることもあれば、見ないうちに、いつの間にかやってきたらしく、木の実や枝が、本堂の軒下に置かれていたりする。
それが、毎日のように続く。
顔を見かけて挨拶をすれば、向こうも挨拶を返してくるのだが、特別に話をするわけではない。
いったいどういう理由でこのようなことをするのか興味を持ったが、人に言えぬ深い子細でもあろうかと、あえて尋ねることもせず、いつの間にか二年が過ぎた。
さすがに、この頃には、如水もこの老婆のことが気になってたまらなくなっている。
いったい、どういう身分のお方かはわからないが、供の者も連れずにただひとり、このような小さな寺に、毎日毎日、雨の日も雪の日も、かかさずにやって来るというのはただごとではない。
あるいはまた、人ではなく、化生《けしよう》のものであるやもしれぬ。
いずれにしても、僧の身でありながら、その女《ひと》のことを思うと、血が熱くなるのを覚える。
ついに、ある時、がまんしきれずに、如水は老婆に声をかけた。
「もうし、そこなお方。毎日毎日、本堂に花や小枝を供《そな》えていただき、ありがたく思っているのですが、まことに失礼ながら、あなたさまは、いったいどういうお方でいらっしゃるのですか──」
すると、老婆は、うやうやしく頭を下げ、
「ようやく、お声をかけてくだされましたなあ──」
そう言った。
「わたくしは、この西の先の市原野《いちわらの》に住まいする女でござります。故《ゆえ》あって、このように毎日通わせていただいているのですが、あるいは御迷惑をおかけしているやもしれず、いつか声をかけて下さったおりにでも、そのことをうかがってみようかと思っていたところ、本日、お声をかけていただいたというわけなのでございます──」
声色《こわいろ》、その仕種《しぐさ》、どれをとっても物腰柔らかで、品がよい。
「迷惑だなどと、そんなことはございません。それよりも、何故、毎日、このように通われるのか、さしつかえなくば、それをわたしにお教えくださいませんか」
「よく訊いてくださりました。何もかも申しあげましょう。わたくしからも、御住職さまにお願い申しあげたきことのござりますれば、明日の今時分に、市原野のわが庵《いおり》におこしいただけますか」
老婆は、自分の家は、市原野の、これこれというところであると、その場所を如水に告げた。
「そこに、歳経た桜の大樹が二本ござります。その間に建つのが、わが家にてござりますれば──」
「必ず」
如水が約束をすると、
「必ずですよ」
老婆は念を押して、去っていった。
翌日──
如水は、言われた場所へ、言われた時刻に出かけていった。
すると、果たして、そこに大きなる桜の老樹が二本生えており、言ったように、その間に小さな庵が結んである。
五分咲きの桜が、その上に開いている。
「もうし」
如水が声をかけると、気配があって、庵の中からあの老婆が出てきた。
みれば、ほんのりと化粧《けわい》をしている。
「よくぞ来て下されました」
如水の手を取り、庵の中へ引き入れようとする。
その仕種は、しなしなと媚《こび》を含んで、とても老婆のものとは思われない。
息までがかぐわしいような気がする。
思わず中へ足を踏み入れると、庵の中は、小さいながら小ぎれいで、隅に床がのべられ、酒《ささ》の用意までしてある。
「ささ、こちらへ──」
うながして手を引くのを、如水はこらえ、
「なにをなさるおつもりか」
そう言った。
すると、老婆は、ぬめり、と笑い、
「まさか、ここまで来て、逃げるおつもりではござりませぬよなあ」
手を握ったまま、怖い眼で如水を睨んだ。
その手を、振りほどこうとするが、離れない。
「わたしが、このような歳寄りであるからお嫌なのであろうが。ほれ、では、これならばどうじゃ──」
言ううちに、如水を見あげる老婆の顔から、みるみるうちに皺が消えてゆき、若い、美しい女の顔に変じていった。
「これならばどうじゃえ」
女が、如水を見て微笑した。
やはり化生のものであったかと、如水は悟り、力を込めて女の手を振りほどこうとした。
すると、如水の手を握る相手の力がますます強まり、もはや、女の力とは思えぬほどになった。
女は、如水を睨み、
「嫌か」
ふいに、男の声で言った。
如水が、後方に、退がると、女がまた前に出てくる。
「嫌だとよう。嫌だとよう。この腐れ坊主もおまえが嫌だとよう。寺を訪ねるお前を見る時は、あれほど淫気《いんき》を発しておったに、こうなってみれば、その淫気もどこへやら──」
女の赤い唇から男の声が洩れている。
「何をいやるか」
今度は女の声であった。
「のう、のう。ゆきませぬよなあ、帰ったりはしませぬよなあ」
今度もまた女の声。
その声を馬鹿にするかのように、男の高い笑い声が、同じ赤い唇から洩れる。
「ふはははは──」
これはもう、化生のものに違いない。
如水は、おそろしくなって、
観自在菩薩
行般若波羅蜜多時
般若心経《はんにやしんぎよう》を口の中で唱えた。
すると、ふいに、女の顔色が険しくなり、
「あれ──」
如水の手を握っていた女の力がゆるんだ。
それで、あわててその手を振りほどき、逃げ出したというのである。
その晩──
如水が寝ている家の戸を、ほとほとと叩くものがあった。
眼覚めて、
「どなたかな」
如水が声をかけると、
「市原野の女でござります。お開け下されませ」
あの女の声がする。
あの、女の妖物《ようぶつ》が、自分を憑《と》り殺しに来た
如水は驚いて布団を被り、一心に経を唱えた。
「おう、嫌がっておるわ。ほれ、あのような爺いでもぬしを嫌がっておるわ」
今度は、外からあの男の声が響いてくる。
「如水どの、お開け下されませ」
「如水どの」
「如水どの」
「あれ」
「如水どの……」
如水を呼ぶ女と男の声がしばらく続き、やがて消えた。
如水は、生きた心地もせず、声が聴こえなくなってからも、朝まで経を唱えていたという。
それが、さらにふた晩続いた。
昼間、あの老婆こそたずねてこなくなったが、夜になると、女の声が戸を叩く。
それで、たまらずに、博雅のもとへ相談にやってきたということであった。
「あれだ、晴明よ」
博雅が立ち止まって、前方を指差した。
そこに、欅の木《こ》の間《ま》隠れに、寺の屋根が見えていた。
二
本堂の板の間に円座《わらざ》を敷いて、晴明、博雅、如水が向かい合っている。
奥の台に、菩薩《ぼさつ》像が安置されており、おだやかな表情で、晴明たちを見降ろしている。
「やはり、昨夜も来たのですね」
晴明が訊いた。
「はい」
如水がうなずいた。
いつもと同じように、女と男の声が交互に聴こえ、如水が経を読むと、いつの間にかいなくなっているのだという。
「女が持ってくる、木の実や小枝というのは、どうしているのですか──」
「何本か集まったところで、まとめて燃やしたりしているのですが、燃やし残したものとかは、まだ、とってありますが──」
「それを見せていただけますか」
「はい」
如水は、立ちあがって出てゆき、すぐに木の枝を抱えてもどってきた。
それを、床の上に置いた。
「ははあ──」
晴明は、一本の枝を手に取り、
「これは柿ですね」
つぶやいた。
「これは、椎《しい》の実」
晴明が、次々に、床に置かれたものを手にとってゆく。
笹栗《ささぐり》。
橘《たちばな》の枝。
「その橘の枝は、はじめは花がついておりましたもの──」
如水が言った。
「ふうむ」
晴明は、思案気に首をひねっている。
「これは、なかなかむずかしい判じものだな──」
「判じもの?」
「うむ。何か、わかりそうでわからぬ。もう少しでわかりそうなのだが」
「晴明よ。それはまるで、おれが、もらった歌を見て、それを判じかねているようなものだな」
博雅が言った時、晴明の眼に、光が点《とも》った。
「博雅よ。今、なんと言った」
「だから、おれが歌を判じかねているようだと言ったのだ」
「歌!?」
「そうだ。歌だ。それがどうした」
「凄いぞ、博雅!」
晴明は声をあげた。
「そうか、歌か──」
喉につかえていたものを、飲み込んだような表情で、晴明は言った。
「なに?」
「だから、これは歌なのだよ。なるほど──」
晴明はひとりでうなずいている。
「晴明よ、おれには何が何だかわからんぞ。わかり易く教えてくれ」
その声が聴こえているのか、それとも、聴こえていないのか、
「まあ、待て──」
と晴明は博雅を制して、如水に声をかけた。
「如水法師、紙と硯《すずり》と、墨と筆を用意していただけますか」
「はい」
如水も、何が何だかわからないのは博雅と同じである。
怪訝《けげん》そうな顔をしながら、晴明の目の前に、言われたものを用意した。
晴明は明るい顔で、墨を摺《す》っている。
「博雅よ、おぬしには妙な才能がある。おまえは、もしかしたら、おれなど及びもつかぬくらいのものを持って、この世に生まれてきたのかもしれぬ」
墨を摺りながら晴明が言う。
「才能──」
「そうさ。博雅という才能、あるいは呪《しゆ》は、この晴明という呪にとっては、対のようになっているものではないか。博雅という呪がなければ、晴明という呪などは、この世にないも同然かもしれぬぞ」
嬉々として晴明は言った。
「晴明よ。おまえがそう言ってくれるのは嬉しいが、やはり、おれには何のことかよくわからん」
「まあ、まて──」
晴明はそう言って墨を置き、傍に置かれた筆を右手にとった。
紙を左手にとり、さらさらとそこに筆を走らせてゆく。
如水と博雅が、興味深げに、それを眺めている。
「できたぞ」
晴明が、筆を置いて、その紙を床に置いた。
置いてから、博雅と如水に、そこに書かれたものが読めるように、天地を逆にした。
そこには、まだ濡れた墨で、黒々と次のように書かれていた。
歌詠《うたよ》みのこの身の上は四位《しい》なれば
|花 橘《はなたちばな》の香《か》ぞしのばるる
「まあ、そんなところであろうよ」
晴明が言った。
「おい。わからんぞ、晴明、これがいったい何だというのだ」
「わからぬか」
「わたしにも、わかりません」
如水が言った。
「わたしにしても、全部がわかったというわけではありません。しかし、これだけわかっていれば、次のことを知る手がかりとなるでしょう」
「ああ、晴明よ。おれにはさっぱりわからん。教えおしみをするのはおまえの悪い癖だ。もったいぶらないで教えてくれ──」
「だから博雅よ。おれも何もかもわかっているわけではないのだ。だから、待て──」
「待て?」
「まあ、今夜だな」
「今夜どうなのだ」
「また、来るだろう、件《くだん》の女がな。その時に、本人に訊けばいいだろう」
「おい、晴明──」
「まあ待て──」
博雅から、晴明は、視線を如水に向けた。
「如水法師、ところで、どこかに酒などを隠してはありませんか。件の女性が来るまで、この博雅と、酒でも、酌みかわそうかと考えているのですが──」
「ないことはございませんが──」
「よかった。今宵は、我らともども、酒の肴に花でも愛《め》でつつ、語り合おうではございませんか──」
「おい、晴明──」
「決まったぞ、博雅」
「おい」
「飲もう」
「しかし──」
「飲もう」
「う、うむ」
「飲もう」
「うむ」
そういうことになった。
三
酒を、博雅と酌みかわすうちに、夜になった。
さすがに、本堂では飲まなかった。
本堂の横手に建てられた、庵と見まごうばかりの小さな家で飲んでいる。
如水が寝所として使用しているものだ。
土間があり、竈《かまど》があり、そこで煮炊きができるようになっている。
三人が座しているのは、板の間である。
円座を並べ、そこに座して囲炉裏を囲んでいる。
その板の間から、戸を開ければ、すぐに本堂へと出ることができる。
「客人用の酒にてござりますれば──」
如水は、そう言って、酒を口にしなかった。
飲んでいるのは、晴明と博雅である。
博雅は、いくら飲んでも、晴明が、自分にあの歌の秘密を教えてくれないのをすねている。
博雅の酒の肴は、木の枝や木の実であった。
それ等の品を、手に取ったり床に置いたりしながら、晴明の歌の書かれた紙を睨み、杯を口に運ぶ。
「わからぬなあ──」
つぶやいては、飲む。
少し風が出てきたのか、外の闇の中で、ざわざわと風が鳴っている。
そのうちに、深夜となった。
床に置いてある灯明皿で、小さく炎が揺れている。
「そろそろかな……」
晴明が暗い天井を見あげながら言った。
その天井が、炎のゆらめきで、ゆらゆらと赤く揺れている。周囲の板壁に、三人の影が天井近くまで伸びあがっている。
「おれは、歌はわからぬがなあ、晴明よ──」
ふいに、博雅が言った。
「なんだ」
「深夜に訪ねてくるそのお方は、なんだかとても、哀しいお女《ひと》のような気がするよ」
「ほう……」
「あのお歳で、こんなに鄙《ひな》びた場所で、たったお独りで暮らしておられるのだろう?」
「うむ」
「いわくありげに、ともかく、毎日、この観音堂へ、木の実やら木の枝やらを供えていたのだろう?」
「うむ」
「そこへ、初めて、如水法師から声をかけられた。可愛いお方よ、そなたの名は何というのだね、そのお女《ひと》には、如水法師の声がそのように響いたのではないか──」
「うむ」
「だから、そのお女《ひと》は、自分のことを知ってもらおうと、如水どのを、御自分の庵にお迎えしようとしたのではないかな。それで、如水どのがお逃げになったので、それが哀しうて、毎夜、ここまでやってくるのではないだろうか──」
「ははあ──」
「夜しか来ないというのは、それはつまり、そのお方が、人ではなく妖物の類《たぐい》か何かであろうからだとは思うのだが、それにも増して、哀しいお方なのであろうと、おれは思ってるよ」
「ふうん」
「歌のことを理解しようと、この小枝や木の実をいろいろ眺めていたら、そんな気がしてきてしまったのだ──」
「博雅よ──」
晴明が言った。
「おまえ、もしかしたら、おれなぞよりずっと、この歌の心にさとい人間なのかもしれぬぞ──」
案外に、真面目な口調で、晴明は言った。
次第に強くなってくる風の音。
その時──
ほとほとと、戸を叩く者の気配があった。
「もし、法師さま、法師さま……」
女の声であった。
細く、今にも消え入りそうであったが、その声は、はっきりと届いてきた。
如水が、びくんと身体を堅くして、不安そうな顔で、晴明を見た。
「ここを、お開け下さいまし。市原野の女でござります……」
晴明は、心配するなというように、如水に眼で合図をしてから、立ちあがった。
土間に降り、戸口に歩み寄り、そこに立った。
「もし、法師さま」
声が放たれた時、晴明は、突っかい棒をはずして、戸を、横へ引き放った。
人影が、戸口に立っているのが見えた。
その背後から、ざあっ、と、風とともに無数の桜の花びらが小舎に入り込んできた。
晴明の髪が後方になびき、灯りが、今にも消えそうに揺れた。
美しい女だった。
晴明を見ると、その眼が、左右に大きく吊りあがった。
ぷつり、ぷつりと、左右の眼尻が切れ、そこから、血が、涙のように糸を引いて流れた。
額の両端から、もこり、もこりと、肉を突き破って角《つの》が生え出てきた。
「おのれ、如水。陰陽師《おんみようじ》に我を調伏《ちようぶく》させんと図ったか──」
女が叫んだ時、晴明が、すっと女の前に進み出て、
「これをお読みなさい」
あの歌を書いた紙片を手渡した。
女は、それを受け取り、その場でその歌に目をやった。
「おお──」
女は言った。
女の額から、みるみる角が縮んでゆき、吊りあがった眼がもとにもどってゆく。
「これは、おお、私の……おう、おれの、私の、おおう、おおう、何ということだ、あれをわかるお方が、おられましたぞ、おったとは……」
不気味なことに、女の紅い唇から、女と男の、ふたつの声が交互にこぼれ出てきた。
女は、紙を手にしたまま、おうおうと、花吹雪の中で狂おしく身をよじった。
そして──
ふっ、
と女の姿が消えた。
あとは、それまでふたりがいた場所に激しく風が吹き、そこから、花びらがごうごうと舞いながら小舎に入り込んでくるばかりであった。
四
「つまり、博雅よ」
晴明は、酒を飲みながら、博雅にせがまれて、歌の説明をしているところだった。
「柿とは、柿本人麻呂《かきのもとのひとまろ》殿のこと。笹栗とは、山部赤人《やまべのあかひと》殿のことであったのさ」
「なに!?」
「人麻呂殿の屋敷の門前には柿の木があったので、柿本というのを姓とした話は皆の知るところではないか。笹栗は赤人殿の墓のそばに生えていたというのも有名な話ぞ。このふたつの品物が、それぞれ、柿本人麻呂殿と、山部赤人殿を指す言葉であることがわかって、ようやく、あれが歌に関係したものであるとの感触を得たのだよ」
「あの椎の実は?」
「木《こ》の実《み》さ。この身の上は四位《しい》であると、あの椎の実が言っているではないか」
「ほう……」
「ここまでくれば、橘もまた歌に関係があるのではと考えるのが自然ではないか。橘の歌というと、すぐに頭に浮かんでくるものというのが──」
五月《さつき》待つ花橘の香をかげば
昔の人の袖の香ぞする
晴明は、その歌をよい声で吟じた。
「それを、さっき創った歌の最後の句に利用させてもろうたが、実際は、橘が使われている歌なら、どれでもよかったであろうな」
「むうう」
「柿本人麻呂殿、山部赤人殿、おふたりを合わせて、歌詠み≠ニ解釈して、あの歌を創ってみせたのだよ──」
「それで、あの歌の意味は?」
「そうだな」
つぶやいてから、晴明はその意味について語った。
「歌詠みというと、普通はひとりの人物を指すことに使うが、場合によっては歌を詠む人全てを指したりする。つまり、こういうことさ──」
私は、ふたりの人格を持ったひとりの歌詠みである──
「と、まず最初に自分という存在について明らかにしている。次には、四位の身分であったと、自分の身の上を語っている。これはまず、男の方の身分のことであろうな。そして、最後には、女自身が、橘の花に託してその心のうちを語っているのだ。昔が恋しいとな──」
「なんということだ。晴明よ、おまえ、たったあれだけの木の枝だの椎の実だので、そんなややこしいことまでわかったのか──」
讃嘆の、というよりは、もはや、あきれ果てたような声を、博雅はあげた。
「しかし、それもこれもみな、博雅よ、おまえが、歌という、非常に大事なとっかかりの言葉を教えてくれたからさ。おまえがいなかったら、とても、あの木の実や枝を、判じきれなかったろう──」
「晴明、おまえ、いつも何かを見るたびにそんなややこしいことを考えておるのか」
「ややこしくはない」
「疲れぬか」
「疲れるさ」
晴明は、笑いながら、うなずいた。
「博雅、明日、ゆこう」
「ゆく? どこへだ?」
「市原野の、女の庵までな」
「何故だ?」
「そこまでいって、色いろと女に訊かねばならぬ」
「何をだ?」
「だから、何故、あのように木の実や枝を、毎日、ここの本堂に運んでいたのか、女の名がなんというのか。どうして、あのように、ふたりの魂魄《こんぱく》が一緒になってしまっているのか、とか、そのようなことをね──」
「ほう」
「そういうことは、実はおれも、まだ何もわかってはいないのだからな」
「安心したよ。おまえにもわからぬことがあるんだなあ」
晴明は、如水に向きなおり、
「明日、御案内いただけますか──」
そう言った。
五
「あれでございます」
立ち止まって、向こうを指差した如水の横に、博雅は立って、
「おう──」
思わず声をあげた。
みごとな、老桜《ろうおう》の巨木であった。
見あげるばかりの二本の桜の老樹に、花が満開であった。
みっしりと咲いた桜の花の重さで、枝が下がっているように見えた。
風がないのに、ひらひらと、絶え間なく桜の花びらが、枝からこぼれてくる。
澄んだ空気が、桜の下のその場所だけ、しんと張りつめているようであった。
その二本の桜の下に、小さな庵があった。
三人が、ゆっくりと歩んでゆくと、庵の中から、独りの老婆が、ひっそりと歩み出てきた。
美しい、絹の唐衣裳の裾を、地にさらさらと引きずっている。
三人が、立ち止まった。
老婆が立ち止まる。
晴明が、二歩、前に出て立ち止まった。
それを受けるように、老婆が、地に正座をした。
化粧《けわい》をしている。
頬へ白粉《おしろい》を塗り、唇に紅をひいている。
桜の下で、晴明と老婆が向きあった。
「安倍晴明さまにて、ござりましたか……」
老婆が、静かに口を開いた。
「そなた、名はなんと?」
「百年以上も昔になりまするが、かの『古今和歌集』に、
花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに
という歌がございますが、その歌を創りましたのが、このわたくしでございます」
「と申されると、そなた、あの──」
「小野小町《おののこまち》という娘の、百年|歳経《としふ》りましたる姿が、このわたくしでござります」
「何故、小町どのが、このような場所に?」
「百年歳経りまして、小町が死んだ場所こそ、この二本の桜の下にてござりますれば──」
「いかようなる理由をもって、小町どのの魂魄、この世にとどまっておられるのですか──」
「我いまだ、成仏かなわぬ身であれば──」
「何故、成仏できぬと?」
「はい。女というものは、まことに業深いあさましきやからとお笑い下さい。──」
老婆小町は、ゆっくりと立ちあがった。
立ちあがりながら──
※[#歌記号、unicode303d]それ前仏《ぜんブツタ》はすでに去り、
後仏《ごブツタ》はいまだ世に出でず、
※[#歌記号、unicode303d]夢の中間《ちゆうげん》に生まれ来て、
何を現《うつつ》と思ふべき。
低い声で唄い出した。
自ら唄いながら、小手をあげゆっくりと舞い始めた。
その小手に、しずしずと花びらが舞い落ちる。
※[#歌記号、unicode303d]身は浮き草を誘ふ水、
身は浮き草を誘ふ、
なきこそ悲しかりけれ。
「この我が身は、水の上に漂う浮き草と同じでございます。ああ、昔は、|川蝉《かわせみ》の羽のように髪は艶《あで》やかで、柳の糸が風になびくようでございました。鶯《うぐいす》のさえずりのような我が声は──」
※[#歌記号、unicode303d]露を含める糸萩《いとはぎ》の、
託言《かごと》ばかりに散り初《そ》むる、
花よりもなほ珍しや。
「ああ。昔は、|※[#「りっしんべん+喬」、unicode618d]慢《きようまん》はなはだしく、だからこそなおいっそうに、わたくしの身は美しく、殿方の心を射たのでございました──」
老婆の小町が舞うに従い、その顔から皺が減ってゆき、美しい娘の貌《かお》にかわってゆく。
背が伸び──
腰が伸び──
その上に、桜の花びらが、しんしんとそそいでゆく。
「やんごとない高貴の人にもこの肌をまかせ、恋の歌を詠んでは、楽しく暮らしていたのですが、それも、一時のことでございました──」
小町の動きが止まった。
「ああ。雲は常にかたちをかえ、人の心さえも、風にひらひらと舞う蝶の羽のように、その時その時、次々に色を変えてゆくというのに、どうして、美しさのみがとどまることができるというのでしょう。歳を経《ふ》るのと同じくして、わたくしの容姿から美しさが消え、美しさが消えてゆくのと同時に、男の方もわたくしから去っていったのです。ああ、誰も誘ってくれる人のいないことほど、女にとって悲しいことはござりません……」
小町の顔が、ゆっくりともとの老婆にもどってゆく。
その顔の上に、白い髪の上に、あとからあとから花びらが舞い降りてゆく。
「長生きをすれば、いつの間にか、世間の賤《しず》の女《め》にさえ、汚らしいとさげすまれ、諸人《もろびと》に恥をさらし、あれがあの小町よと笑われて、月日を重ねるうちに歳をとり、百歳《ももとせ》の姥《ばば》あとなり果てて、ここに死したのが、わたくしでございます」
「───」
「いまいちど、いまいちど、人から美しいと囃《はや》され、さすが小町よとうたわれ、ひと夜の夢でよいから、またこの肌を男にまかせて狂うてみたいものと、その思いがわたくしを成仏させないのです」
そこまで言った時、小町の顔が、きっとなって天を仰いだ。
形相が変わっていた。
「くかかかかか」
男の声で笑った。
「おう、おう、おおおう。小町よ小町よ小町よ、愛しき女よ、小町よ、何を言うか。何を戯《ざ》れ言を言うておるか。このおれがいるではないか。このおれが誘うてやるわ。このおれが、そのしおれた乳房を吸うてやるわ」
小町が、首を左右に打ち振った。
ざん、
ざん、
と、その髪が左右にまわって、小町の頬を打つ。
「このおれが、おまえを誘うてやるわ。百年、いや、千年、いや、万年も、死してもまた生まれても、その後も、おれがおまえのその皺顔《しわがお》を、美しいと言うてやるわ。黄色い歯の三本しか見えぬその口を吸うてやるわ。放さぬぞ。放さぬぞ──」
男の声を出す小町が、少ない歯を、かちかちと噛み合わせた。
「おまえは?」
晴明が訊くと、小町は、なおも男の声で、
「おれを知らぬか。おれこそは、この小町がもとに、九十九夜、通い続けて、百夜《ももよ》目に焦がれ死にをした、深草の少将と呼ばれた男よ──」
「九十九夜とは?」
「知らぬか、そのことを」
「はて──」
「この小町に惚れて、文を出した。幾つも幾つもの文を出したがただの一度も、このおれは返事をもらえなかった。小町に想いをかけた男は多いが、この深草の四位の少将ほど深き想いを小町にかけた男はおらぬ」
「───」
「いや、ただ一度、たわむれにもろうた返事が百夜通《ももよがよ》いであった。毎夜毎夜、何があろうと小町がもとに通い続け、百夜目が来たら、その時に想いをとげさせてやろうと、これが百夜通いさ。しかし、その九十九夜を通い続け、百夜目に通えずに死んだのがこのおれよ。そのくやしさ、その怨念がおれを成仏させず、この小町に憑《とりつ》かせたのだ」
「この男がわたしに憑いたため、どこにも安住の地、これなく──」
「おう。ならば、我、煩悩の犬となってこの女に憑き、棒で打たれようと離れるものかと誓《ちこ》うたのさ」
「なんとあさましい姿」
ゆっくりと、男と女の声を、交互に口から発しながら、小町が舞い始めた。
※[#歌記号、unicode303d]さらば煩悩の犬となって、
打たるると離れじ。
※[#歌記号、unicode303d]おそろしの姿や。
狂った。
老婆、小町の眼に、もはや正気の色はない。
狂いながら舞っている。
ざわざわと、桜の巨木が揺れ、花びらが舞い落ちてくる。
その中で、小町が踊る。
「晴明──」
博雅が言うが、晴明は無言であった。
「このおれが、この女に憑いて憑《と》り殺したのよ。憑り殺した後も、まだ、離れてやるものか──」
「嘘つき」
「なんの」
「あの木の実と枝を、あの堂に供え続け、いつか、その意味を解く者あらわれし時こそ、離れてくれると約束したのは誰じゃ」
「おれよ」
「何故離れぬ」
「離れるものか。それはあの坊主に懸想《けそう》しておきながら。誰が、この下衆《げす》の女から離れてやるものかよ。おれは、おまえに惚れぬいてやるのだ。千年、万年、この時のいや果てまでも。小町よ、この天地が変わろうと、おまえの美しさが変わろうと、このわが想いのみは変わらぬぞ。ああ、根《こん》限り愛しいぞ。この下衆女──」
「畜生!」
「くかかかか」
「畜生!」
「くかかか、楽しいなあ、小町──」
老婆の眼から、涙がこぼれている。
どちらの涙かわからない。
桜が、ごうごうと頭上で鳴っている。
激しく渦を巻く桜吹雪の中で、小町が、舞っている。
舞いながら涙を流している。
小町の額から、めりめりと、音をたてて、ねじれた角が、肉を突き破って生えてきた。
「ほほほほほ──」
「くかかかか──」
ふたりの哄笑《こうしよう》が、桜吹雪の中にあがる。
ごうごうと、桜が鳴る。
「晴明!」
博雅が、叫んだ。
博雅の眼からも、涙がこぼれている。
「どうしたのだ。何故、何もしないのだ──」
晴明は黙っている。
桜吹雪の中で、鬼が、狂ったように笑いながら舞っている。
「晴明!」
悲鳴のように、博雅が叫んだ。
「どうした。おまえなら、なんとかしてやれるのではないのかっ」
晴明は、踊る鬼を見ながら、静かに首を左右に振った。
「どうにもできぬ……」
「できぬだと!?」
「救えぬ」
晴明は言った。
「この晴明だけではない。何人も、あのふたりを救うことはできないのだ」
「何故だ」
「救えぬのだ、博雅……」
深い、愛情さえ、晴明のその声にはこもっているようであった。
「晴明、おれは……」
「博雅よ、すまぬ、おれにもできぬことはあるのだ」
青い火を、その歯の間に噛むように、晴明は言った。
一面の桜吹雪の渦の中に、もう、何ものも見えない。
鬼の気配のみが、舞っている。
※[#歌記号、unicode303d]かやうに心を尽《つく》して、
※[#歌記号、unicode303d]かやうに心を、尽し尽して、榻《しぢ》の数々。
※[#歌記号、unicode303d]あら人恋しやあら人恋しや。
※[#歌記号、unicode303d]あら人恋しやあら人恋しや。
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桃薗《ももぞの》の柱《はしら》の穴《あな》より児《ちご》の手《て》の人《ひと》を招《まね》くこと
一
桜が終って、初夏の薫風が吹いている。
安倍晴明は、濡れ縁に横になって、右肘を縁に突き、右手の上に顎《あご》を乗せ、見るともなしに庭を眺めている。
五月の風が、晴明が着ている白い狩衣《かりぎぬ》まで、あおく新緑の色に染めてゆきそうであった。
晴明のすぐ前に、源博雅が座し、静かに杯を傾けている。
葉桜に、散り残った桜が、ひとつ、ふたつ、みっつ──
櫟《くぬぎ》。
欅《けやき》。
栗《くり》。
樹々の葉の色、草の色、新しい緑の色は、どれも溜《た》め息が出そうなほど淡く、みずみずしい。
樹々の梢《こずえ》の向こうに、青い空が覗《のぞ》き、そこに白い雲が動いている。
晴明は、横になったまま、時おり左手を伸ばしては、勝手に杯から酒を飲んでいる。
「なんだか、どきどきするな、晴明よ」
博雅は、うっとりと、風景に眼をやりながら言った。
「どうしたのだ」
「うむ。毎年、今時分の季節になるとな、おれは、なにやら心が騒ぐのだよ。嬉しい、とでも言うのかな。やるぞ、とでも言うのかな。自分の心が、あの風になって、一緒に天を疾《はし》り出したくなってしまうような心もち、とでも言うのかなあ──」
晴明は、その唇に、赤い椿《つばき》の花びらのような笑みを含んで、博雅の言葉を聴いている。
「人の心は、不思議で得体がしれぬものだなあ……」
ふふ、
と、晴明は声に出さずに笑い、ゆっくりと身を起こした。
濡れ縁の柱に背を預け、胡坐《あぐら》をかいてから左の片膝を立て、その膝の上に左肘を乗せた。
「不思議と言えば、な、晴明よ。いつもは何ともないものであっても、それが、場合によっては、なかなか怖《おそ》ろしいものにもなったりするということは、やはり、あるのだぞ」
「なんだ?」
「|源 高明《みなもとのたかあきら》どのがお住《すま》いになっている桃薗邸《ももぞのてい》の話は、耳にしたことがあるか──」
「うむ」
晴明がうなずいた。
その話というのは、次のようなものである。
桃薗邸の寝殿の東南、母屋の柱の木にひとつの節穴があいていた。
その節穴から、夜になると、一本の、小さな白い児《ちご》の右腕が這《は》い出てきて、ひらひらと人を招く。
誰にともなく、おいでおいでをするようにその手が動く。
最初にそれを見つけたのは、源高明が、身の回りの世話をするために雇い入れた、端女《はしため》の小萩《こはぎ》である。
「あなや──」
声をあげて、驚いた。
その児の手は、特別に、何か悪さをするわけではない。
知らぬ間に、夜になると、柱の節穴から出てきて、人を招く。
そして、いつの間にか、朝になるまでに消えている。
「鬼の一種でもあろうかよ」
害のないのならそれでよいと、高明は放《ほう》っておこうとしたのだが、さすがに、家人が気味悪がるので、経を書いた紙をその柱の節穴の上のあたりに巻きつけておいたのだが、やはり、出る。
仏の絵姿を描いた紙を柱に張りつけたのだが、やはり、出る。
「いと奇異《あさまし》」
高明は、つぶやいて、戦場で使う征矢《そや》を取り出し、その柱の節穴に突きたてた。
それきり、児の手は出なくなった……
「また、出るといけないので、矢尻《やじり》だけをその節穴の中に残してあるというのだがな。晴明よ、おれはこの話を耳にした時、ぞっとしたよ。なかなか怖い話だぞ──」
「うむ」
「鬼が人を喰《く》うだの喰わぬのという話よりも、考えようによっては、なんとも怖い話ではないか」
「そうだな」
「晴明よ、児の手だぞ児の──」
博雅は、杯を床に置き、
「このように、原因も理由も、何が何やらよくわからぬものというのも、どうして、なかなか気味が悪いものだなあ」
ひとり、腕を組んでうなずいた。
その博雅を楽しそうに見やり、
「その話、まだ、続きがあるのを知っているか──」
晴明が言った。
「続き?」
「うむ」
「何のことだ。この話はこれで終りではないのか。この続きの話なぞというのは、おれは知らんぞ──」
「知りたいか」
「知りたい」
「こういう話だ」
晴明が、語り出した。
二
児の手が出なくなって、しばらく経ったある日──
件《くだん》の部屋で、源高明は酒を飲んでいた。
夜──
酒が失《な》くなったので端女の小萩が、新しい酒を用意して持ってきた時、ふと足もとを見ると、何やら落ちている。
小さな、長いもの──
「あれ、ここに何やらありつるよ」
と思って拾いあげ、よく見れば、なんと、それは人の指であった。
「あれ!」
声をあげて、小萩はそこに座り込んでしまった。
誰か、家の者で、指を失くしたものはいないかと調べさせたが、誰も、指が失い者などいない。
では、誰かの悪戯《いたずら》かと思って、これも調べたのだが、そういう節《ふし》もない。
はて、どういうことか。
また、翌日の晩、高明が眠りにつこうと思っていると──
ぽとり、
と音がする。
何の音かと思って、消そうとしていた灯りを手に持って、音のした方へかざしてみると、
「また、そこに、指が一本落ちていたというのだよ」
おもしろそうな顔で、晴明は言った。
「指?」
「指だ」
毎晩のように、指が天井から落ちてくる。
そこに、指でも落ちてくるような穴が空いているのかと思ってみたが、穴なぞない。天井裏を調べさせても、異常はない。
ただ、指だけがひとつ、ぽとり、と落ちてくる。
右手の人差し指らしき時もあれば、左手の親指の時もあり、どの指かというのは、いつもまちまちである。右手の親指が、二夜にわたって、連続して落ちてきたこともある。
いったい、天井のどのあたりから、もしかしたら何もない空中から落ちてくるのかと、高明は、いつも指が落ちてくるあたりを座して眺めているのだが、そういつまでも、ひとつところを眺めていられるわけもない。
思わず気を抜いた時──
ぽとり、
と音がする。
そこへ眼をやると、もう、指が床に落ちている。
なんとか、指の落ち始める場所を見ようと、何度かがんばったが、同じであった。見ることができない。
気を抜く、あるいは眠くなる──気がつくと指が落ちている。
高明は、業を煮やして、また、征矢を、天井のここと思われる場所に打ち込んだ。
すると、指は落ちなくなった。
「よかったではないか」
博雅は言った。
「しかし、そうでもない」
「なに?」
「今度は、蛙《かえる》だ」
「蛙だと?」
「夜になると、件の部屋に、蛙が出るのだ。気がつくと、いつの間にか蛙が床を這《は》っている──」
これもまた、指と同じで、どこから這い出てくるのか、ということがわからない。
気がつけば床を這っている。
「おのれ」
高明は、こんどは部屋の四隅の床に、征矢を打ち込んだ。
すると、ようやく蛙は出なくなった。
「そのかわりに──」
「なんだ」
「こんどは、蛇が出るようになった」
青大将である。
件の部屋のみならず、屋敷中に出るようになった。
それも、一匹や二匹ではない。
夜と言わず、昼と言わず、屋敷を蛇が這う。
柱、天井の梁《はり》、床──
中には蝮《まむし》も混じっている。
そういう蛇を、屋敷の者に捕えさせ、祟《たた》りがあるといけないというので、他の場所へ捨てさせた。
「それが、三日で百匹を越えた」
「百匹もか、三日で──」
博雅も驚いている。
「たまらぬなあ。しかし、そんなことは、おれは何も知らなかったぞ。児《ちご》の手だけだと思っていた──」
「あまり聴こえのよい話ではないからな。高明どのも、内密にしていたのだ」
「しかし、何で、おまえがそんなことを知っているのだ」
「高明どのが、おれのところに相談に来られたからだよ」
「いつ?」
「今朝だ。ぜひ、屋敷に来てくれとな──」
「それで?」
「本日は、あいにくと、源博雅と酒を飲む約束をしていると言うたらな──」
「待て、晴明よ。おれは、おまえのところへゆくとは言ったが、酒を飲もうなどとは言うておらんぞ」
「飲んでいるではないか」
「いや、しかし、これは……」
「まあ、よいではないか。高明どのも、御自分のことで頭がいっぱいで、おれと博雅が昼から酒を飲もうが飲むまいが、気にしておらぬ」
「む、うむ──」
「でな、高明どの、こう言うた」
「なんと?」
「もし、博雅さまさえよろしければ、晴明どの共ども、ぜひ、当屋敷へおいでくだされまするか、とな。当屋敷にも酒の用意はござりますると──」
晴明は、その時の高明の仕種を真似《まね》るように、頭を下げた。
「高明どの、やはり酒のことを気にしておられるではないか──」
「気にしているのはおまえだ」
「気にしてない」
「ならよいではないか」
「む、むむむ……」
博雅が言葉につまったところへ、
「どうだ、ゆかぬか」
「む──」
「どうだ」
「わかった」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
三
ほどなく、淡い浅黄色の水干《すいかん》を、男のように着こなした十七、八ばかりの娘が、ふうわりと庭に姿を現わした。
「あを子や、どうだね」
「源高明さまからのおむかえ、ただいま、一条戻り橋をお渡りになられたよしにて──」
「おう、ちょうどよい頃あいだな」
晴明が言うと、あを子が、ゆっくり、深ぶかと頭を下げてゆく。下げ終ったところで、
ふ、
とその姿を消した。
「式か?」
「うむ」
式というのは、式神《しきがみ》のことである。
晴明が使っている、精霊のようなものだ。
「博雅よ。聴いての通りだ。残った酒を干しておこう──」
晴明が、空になっている博雅と自分の杯に、瓶子《へいし》から酒を注ぐと、ぴったり酒がなくなった。
「おむかえ、御到着──」
どこからか、なよやかな風のように、あを子の声が響く。
牛車であった。
博雅と晴明は、牛車の中で向かい合って座った。
ほとほとと牛車は進んでゆき、やがて、桃薗邸に着いた。
四
さて──
件の寝殿の一室で、晴明と博雅は源高明と座して向かいあっている。
「ま、そのような事情でありましてな。この家が、誰ぞに祟られてでもいるのかと思いまして、晴明どのに見たてていただこうと考えたわけでございます」
「ふむ」
と、晴明、天井やら床やらを見つめ、
「何やら、妙な感じはありそうですが──」
言ったおり、ぼたり、ぼたりと、天井のどこかから、床に、大きな二匹の青大将が落ちてきた。
「おう──」
と、博雅は片膝立ちになって、太刀に手をかけた。
「いや、心配はいりませぬ」
高明が、ぽんぽんと両手を打つと、舎人《とねり》がふたり、火ばさみににた二本の棒と袋を持ってきて、器用に、二匹の蛇を交互につまんで、袋の中に入れた。
「失礼つかまつりました」
頭を下げて、ふたりの舎人は、部屋から退出していった。
「ま、ごらんのようなありさまでござりましてな」
と、高明は言った。
「先ほど見回したおりには、どの柱にも梁にも、蛇の姿は見えませなんだが──」
博雅は、もとのように座して言った。
「どこからか、湧いてくるのでござりまするよ──」
あらためて見れば、天井の梁に一本の征矢が刺さっており、床の四隅にも一本ずつの征矢が刺さっている。
「で、それが件の柱というわけですね」
晴明が、高明の背後の柱を指差した。
「はい」
「拝見させていただいてよろしいですか──」
「どうぞ」
言われて、晴明は立ちあがり、
「この節穴ですね」
「ええ」
「中に何か入っておりますよ」
「そこへ刺した征矢の矢尻でございます」
「ははあ──」
晴明は、高明に向きなおり、
「お屋敷のあちらこちらを拝見したいのですが」
「かまいませんとも、どうぞ」
晴明は、屋敷全体をひとまわりし、
「ふむ」
何やら考える風で、濡れ縁から素足のまま庭へ出た。
「このあたりからですと、如意ケ岳が見えるかと思われますが、どちらに──」
「あちらです」
言われた方へ眼をやり、
「ははあ、あの軒下にちょっと見えているあれがそうですね」
晴明は、うなずいた。
「なるほど──」
軽く足をはらっただけで、晴明は濡れ縁にあがった。
また、もとのように、件の部屋で、三人は向かいあった。
この間にも、何匹かの蛇が屋敷のあちこちで発見され、舎人たちが、それを外へ捨てに出てゆく。
「何か、わかりましたか」
高明が、晴明に問うた。
「ええ、少しは──」
「どうなるのでしょう」
「まずは、如意ケ岳でござりまするな」
「如意ケ岳?」
「はい、この大地には、人の身体と同じく、さまざまな気脈が流れております──」
「え、ええ」
「ちょうど、如意ケ岳から出ている何本かの気脈の一本が、このお屋敷の下を、艮《うしとら》の方角から流れておりまするな」
「はあ?」
艮、即ち北東であり、鬼門の方角である。
「その気脈を、このお屋敷で、堰《せ》き止めているものがござりまするな」
「ほう?」
「小萩という端女が、こちらへ仕えるようになって、それからしばらくしてあの手が出たのでしたね」
「そうです」
「では、他の者はこの部屋に近づかぬようにして、この部屋へ、小萩だけを呼んでいただけますか」
晴明は言った。
五
小萩が入ってきて、三人から少し離れた場所に座した。
つ、
と立ちあがって、晴明は、小萩の前まで歩いてゆき、
「失礼しますよ」
小萩の頭部、背、胸、腹と、順番に手をあてていった。
「わかりました」
そう言って、晴明はもとの場所にもどって、そこに座した。
「ところで、高明どの、このお屋敷に井戸はございましたか?」
「ありますが、何か──」
「最近、何か、かわったことはございましたか……」
「そう言えば、水の量が最近は減ってきて、いつもの半分くらいになっているとか」
「そうですか」
あらためて、晴明は、一同を見回した。
「如意ケ岳からの気脈を止めているのは、こちらの小萩ですね」
「え!?」
と、高明は小萩へ眼をやった。
言われた当の小萩も、意味がわからず驚いている。
「どういうことでしょう」
高明が訊《き》いた。
「実を言えばこちらの京の都も、天地の大きな気脈が流れ込んでいるところでしてね。北の船岡山あたりの大きな地龍と、東の賀茂川の水龍が、この京の都に流れ込んでおりまして、その地龍がたとえば飲む水にあたるのが、神泉苑の池でござります」
「む、ううう……」
「しかし、流れ込んできた気脈の力を、そのままにしておけば、外へ流れ出て行ってしまいます。その力を止めているのが、東寺と西寺の、大きな高い仏塔ということになります……」
「───」
「しかし、止めるばかりではいけません。あふれたそれを、少しずつ、外の天地へ返してやらねばなりません。それが、東南にある鳥辺野《とりべの》でございます」
「なんと──」
鳥辺野──京で死んだ者たちを、葬《ほうむ》ったり、火葬にしたりする場所が、その鳥辺野である。
「高明どの、小萩は懐妊《かいにん》しております」
「なに!?」
高明は小萩を見た。
「本当か──」
「はい」
小萩が両手を突いて頭を下げた。
「小萩と、そのお腹《なか》の中の赤子が、言うなれば、このお屋敷を通る気脈を、ここに止めてしまっているのです。そのために、この屋敷の下に気脈を通ってきた力があふれ、外へ出ようとしているのでございます。あの児《ちご》の手も、蛙も、蛇も、その大地の水龍が、なんとか外へ出ようともがいてできたもの」
「そうであったか──」
「地の気脈が止まっているのであれば、井戸になにかあらわれているのではと思い、先ほどはお尋ねしたのですが、やはり思った通りでした──」
「では、どうしたらよい」
「柱の矢尻、天井の梁に刺した征矢、さらには床に刺してある征矢を抜かれることです。敷地の東南のどこかに、鳥辺野にあたる小さな塚をひとつお建てなさい。そうすれば、もとの通りです」
「もとの通りとは?」
「児《ちご》の手が出るくらいですむということです。あんまり、地の気脈をいじると、蛇が出るどころではなく、もっとたいへんなことになります──」
「たいへんなこととは?」
「その家《や》の主が、大病でなくなられたり……」
「わかり申した。さっそく──」
「こちらの小萩を、このお屋敷から外に出せば、このような奇異《あさましき》ことも消えまするが、お手元に置いておきたくば、今、言ったようなことをしていただかねばなりません」
「子供が生まれたら?」
「生まれれば、また、もと通りです。高明どのがいかがあそばされるかは、もはやこの晴明の分を超えたことでありますれば──」
晴明は深々と頭を下げた。
六
「晴明よ、結局、小萩の子は、高明どののお子ということか?」
帰りの牛車の中で、博雅は問うた。
「ま、そういうことであろうかな」
「ふうん。他人《ひと》をあの場に呼ばなんだはそのためか──」
博雅は、ひとりでうなずいた。
「さて、ここに高明どのからもろうてきた酒がある」
晴明は、博雅に、瓶子をぶらさげてみせた。
「帰ったら、これでまた飲もう」
「うむ」
博雅がうなずいた。
晴明の言う通りにすると、高明の屋敷の怪異は消え、しばらくは柱より児《ちご》の手が夜にひらひらするばかりであったが、やがて、小萩に子が生まれると、それも出なくなったという。
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|源 博雅《みなもとのひろまさ》堀川橋《ほりかわばし》にて妖《あや》しの女《おんな》と出逢《であ》うこと
一
源博雅という男がいる。
平安時代中期の官人で、雅楽家である。
父は、醍醐天皇の第一皇子|克明《よしあきら》親王。
母は、|藤原 時平《ふじわらのときひら》の女《むすめ》。
延喜《えんぎ》一八年(九一八)の生まれとも、延喜二二年(九二二)の生まれとも言われている。紫式部や清少納言よりも、ひとつ前の時代に、宮中の雅《みやび》を空気のように呼吸していた人物であり、天延《てんえん》二年(九七四)に、従三位《じゆさんみ》に叙《じよ》されているやんごとない殿上人《てんじようびと》である。
この源博雅という人物について、少し語りたい。
史料によれば、なかなかの才人であったらしい。
万《よろず》の事止事無《ことやむごとな》かりける中にも、管絃《かんげん》の道になむ極《きわめ》たりける
いずれのことにも優《すぐ》れていたが、特に管絃の道については、それを極めていたと『今昔物語』は記している。
琵琶を微妙《みみよう》に弾《ひ》き、笛もまた巧《たく》みに吹いたという。
この時期、時代は、すでにふたつの大きな鬼に出会っている。
京の都からすれば、いずれも方角は鬼門と呼ばれる北東である。
ひとつは、東北の鬼アテルイであり、これは、征夷大将軍|坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》によって滅ぼされた。
もうひとつは、関東の鬼、|平 将門《たいらのまさかど》である。将門が興《おこ》した乱もまた、やはり征夷大将軍である藤原忠文《ふじわらのただふみ》によって治められている。
朝廷の外にある勢力を夷狄《いてき》と呼び、これを鬼として滅ぼしてゆくたびに、都は、いよいよ深く、その内部に、闇や鬼を抱え込んでいったように見える。
京の都そのものが、中国から渡ってきた、陰陽《おんみよう》五行説や、風水の力学に基《もとづ》いて造られた、巨大な呪法空間である。
北方に玄武の船岡山、東に青龍の賀茂川、南に朱雀《すざく》の巨椋《おぐら》池、西に白虎として山陽、山陰の二道《にどう》を配した、四神相応《ししんそうおう》と呼ばれる理念によって、この都は造成された。四方の東西南北に四神獣を配し、鬼門の方角である東北に、比叡山|延暦寺《えんりやくじ》が置かれている。このこと、偶然ではない。
そもそも、この都は、藤原|種継《たねつぐ》の暗殺事件に関わったという罪で廃太子にされた、早良《さわら》親王の怨霊から、桓武《かんむ》天皇が自分の身を守るために造られたものなのである。
長岡京を、十年で捨て、平安京の建設を始めたのはそのためだ。
内部では、常に権力争いがあり、蠱毒《こどく》と呼ばれる呪法なども日常的に行われていた。
京の都は、深い闇と鬼とをその内部に育ててゆく、呪詛《すそ》の温室であった。
このような背景をふまえて、陰陽師と呼ばれる、呪詛の技術者たちが生まれていったのである。
雅と鬼とが、闇の中で、ある時は青白い燐光を放ち、またある時は、鈍い金色の光芒を発しながら、見分けがたくそこで溶け合っていた。
人々は、息をひそめて、この闇の中で、鬼やもののけたちと共存していたのである。
源博雅は、その、雅で、妖しい宮中の闇を呼吸しながら、その時代を、ひとりの文人、あるいは楽人として生きた。
源博雅に関する文献的な史料は、かなり、残っている。
管絃──つまり、琵琶や琴、笛にまつわる逸話が多い。実際に、琵琶や龍笛《りゆうてき》などを奏《そう》するだけでなく、作曲もした。源博雅が作曲した雅楽曲「長慶子《ちようけいし》」は、舞楽会の終りなどに必ず奏する退出楽であり、現在も盛んに奏されている。
どこか、南方系の調子がまぎれ込んでいるようでもあり、今聴いても、典雅で繊細な名曲である。
博雅《はくが》の三位《さんみ》は管絃の仙なり
と、『|續 教訓抄《しよくきようくんしよう》』にもある。
同じ『續教訓抄』によれば、博雅がこの世に生まれた時に瑞相《ずいそう》が現われたという。
東山に、聖心という上人《しようにん》が住んでいた。
この聖心上人が、ある時、天に得《え》も言われぬ楽《がく》の音《ね》を聴いた。
その楽の編成はと言えば──
笛二。
笙《しよう》二。
箏《そう》一。
琵琶《びわ》一。
鼓《つづみ》一。
それ等が、微妙《みみよう》の聲《ね》を奏《かな》でている。
地上の楽の音とも思われず、
「なんとも不思議なめでたきことよ」
と、上人は菴室《いおり》を出て、その音《ね》の聴こえてくる方へ歩いていった。
たどりついてみれば、そこは、さる方の屋敷であり、まさに、ひとりの赤ん坊が生まれようとしているところである。
ほどなくするうちに、赤ん坊が生まれ、それと共に楽の音も治《おさ》まった──
この時に生まれたのが、源博雅である。
これが事実であるのか、後の創作であるかはともかく、このような逸話が残るほど、源博雅という男の音楽の才が秀《ひい》でていたということなのであろう。
この音楽の才は、何度か、博雅自身の生命も救っている。
前述の『續教訓抄』によれば、|式部卿 宮《しきぶきようのみや》、つまり、敦実《あつみ》親王が、源博雅に対して、意趣《おもうところ》があったという。
敦実親王が、源博雅に恨《うら》みを持っていたということである。
何故、恨んでいたのか、その理由を『續教訓抄』は記していない。
ちなみに親王というのは、天皇の兄弟姉妹・子女のことで、女子の場合は内親王と呼ばれ、隋や唐の制度に従ったものだ。
互いに皇室の血を引く者同士の間で、何やら争うようなことがあったのであろうかと、色々想像できるが、それは、今も当時も闇の中の物語《はなし》である。
案外に、原因は、ふたりが得意とする、音楽に関わることであったのかもしれない。
ともあれ、この式部卿宮は、勇徒等数十人≠ノ命じて、博雅を亡きものにしようと謀《はか》った。
かくて、数十人の刺客等が、太刀を持って、ある夜、博雅を襲うために出かけてゆくのだが、当の博雅は、そんなことは露も知らない。
前書によれば、博雅、深夜もまわったというのに、眠らずに、寝殿の西の妻内|格子《こうし》一|間許《けんばかり》あけて=Aつまり、戸を大きく開いて、有明《ありあけ》の月が、西の山の端《は》にかかるのを眺めている。
「よい月だなあ……」
うっとりとして、このくらいの独り言は言ったと思われる。
普通であれば、誰かが自分を恨んでいればそれに気づくものである。
意趣《いしゆ》≠ニはっきり記してあるから、博雅自身にまったく関係のない政治的理由で、この暗殺が企てられたとも思えない。相手が、数十人の刺客を放つくらいであるから、この恨み、相当なものと思ってよい。
明け方も近い夜に、格子を一間ばかりも開け放して、ただ独り月を眺めていたということは、博雅自身は、自分が誰かの恨みを買っていることなど、何も気がついていないということである。
人と人との、どろどろとした関係に、はなはだ疎《うと》かった人物のように思われる。
しかし、そのことから、
苦労知らずのお坊っちゃん
博雅のことをそのように捉えてしまっては、はなはだ味けない。
むしろ、博雅という人物は、人並み以上に、宮中にあっては苦労をしたはずである。しかし、その苦労が、人を恨んだり、他人への悪意につながったりということが、彼の場合、なかったのではないか。
おそらく、信じられないほど、時に愚直なほど真《ま》っ直《すぐ》なものが、この男の内部にあったのではないか。このあたりにこそ、源博雅という人間の持っているおかしみがある。
想うに、どんなに哀しい時でも、この男は、のびやかに、真っ直に、正面から哀しんだことであろう。
誰の心にも時として宿る、悪意という負の感情を、この源博雅という男は、自分の内部に見ることのなかった希有《けう》な人間であったろうとするのは、小説的な個性を創造するにあたって、許されることだろう。
だから、他人が、自分に対して、刺客を放つほどの負の感情を抱くとは、想像もできなかったに違いない。案外、博雅のそういうところが原因して、式部卿宮にそのような感情を抱かせたのかもしれないが、そこまでを想像せずともよかろう。
ともあれ、博雅、月を眺めている。
あるいは、はらはらと涙くらいは、博雅の頬を伝ったことであろう。
博雅は、奥より大|篳篥《ひちりき》を取り出して、それを唇に挟んだ。
篳篥というのは、竹製の管楽器──縦笛である。
博雅の吹くその篳篥の音が、ひょうひょうと夜気の中に流れてゆく。
天下の笛の名手、源博雅が、自ら、感極まって吹き出した笛である。
驚いたのは、博雅を切りに来た勇徒等数十人≠ナあった。
博雅の屋敷へ来てみれば、届いてきたのは清らかなる笛の音である。しかも、吹いているのは当の博雅であり、本人が、戸を開け放ち、寝所の縁に座して、青い月光を浴びながら笛を吹いている。見れば、その頬には涙が流れている。
勇徒等、これを聴くに、不覚の涙下りけり
と、前出の書は記している。
博雅を殺しに来た男たちは、博雅の笛を聴いて、不覚にも涙を流してしまったというのである。
とても、博雅を斬ることなどできるものではない。
男たちは、博雅を斬ることができずに、そのまま式部卿宮のもとへ帰っていったのだが、むろん、博雅はそんなことを知るわけもない。
「何故、博雅を斬らなんだのか」
式部卿宮に問われて、
「いや、あれはとても斬れるものではござりませぬ」
勇徒たちが理由を語ると、今度は、式部卿宮が、はらはらと落涙した。
結局──
同じく涙をながして意趣を|思 止 給《おもいとどまりたまい》にけり
博雅を殺そうとするのを、思いとどまったということである。
さらに、『古今著聞集《ここんちよもんじゆう》』は、次のような話をのせている。
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博雅《はくが》の三位《さんみ》の家に盗人入りたりけり。
三品《さんぽん》(博雅のこと)、板敷《いたじき》の下に逃げ隠れにけり。盗人帰り、さて後、(博雅が)這ひ出《い》でて家中を見るに、残りたる物もなく、みな(盗人が)盗りてけり。
篳篥ひとつを置物厨子《おきものずし》にのこしたりけるを、三位とりて吹かりたりけるを、出でてさりぬる盗人、遥《はる》かにこれを聴きて、感情おさへがたくして、帰りきたりて云《い》ふやう、
「只今の御篳篥の音をうけたまはるに、あはれにたふとく候ひて、悪心みなあらたまりぬ。盗るところの物どもことごとく返したてまつるべし」
と云ひて、みな置きて出でにけり。むかしの盗人は、また、かく優《ゆう》なる心もありけり。
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盗人が博雅の屋敷に入って、物を盗んでいった。残っていたのは笛が一本である。床下に隠れていた博雅は、出てきて、その笛を吹いた。すると、その音に感激した盗人が、逃れてゆく途中でもどってきて、盗んだものを返していったという話である。
これもまた、博雅の笛が、博雅を救った話である。
博雅の笛に呼応するのは、人ばかりではない。天地の精霊や、鬼、時には意志や生命のないものまでもが、感応する。
博雅が笛を吹くと、宮中の屋根にある鬼瓦《おにがわら》までが落ちると『江談抄《ごうだんしよう》』は伝えている。
源博雅、天下に並びなき、横笛の名品を持っている。
名を、葉二《はふたつ》という。
葉二《はふたつ》は高名の横笛なり。朱雀門《すざくもん》の鬼の笛と号すは是《これ》なり
と『江談抄』にある。
この葉二は、源博雅が、朱雀門の鬼から手に入れた笛で、この逸話については『十訓抄《じつきんしよう》』に記されている。
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博雅《はくが》の三位《さんみ》、月の明《あか》かりける夜、直衣《のうし》にて朱雀門の前にあそびて、終夜笛を吹《ふか》れけるに、同様に直衣着たる人の笛吹ければ、誰人《たれびと》ならんと思ふほどに、其笛《そのふえ》の音此世《ねこのよ》にたぐひなくめでたく聞《きこ》えければ、あやしくて近よりて見ければ、いまだ見ぬ人なりけり。
我ももの云はず、かれも云ふ事なし。
かくのごとく、月の夜ごとに行《いき》あひて、吹事夜此《ふくことよごろ》に成《なり》ぬ。
彼人《かのひと》の笛の音ことにめでたかりければ、試《こころみ》にかれ(笛)をとりかへて吹ければ、世になき程の笛也《ふえなり》。
そのゝち猶々《なおなお》月の比《ころ》になれば、ゆきあひて吹けれども、本《もと》の笛をかへしとらん共云《ともい》はざりければ、永《なが》くかへて止《や》みにけり。
三位失《さんみなくなり》て後、帝此《みかどこの》笛を召《めし》て時の笛吹《ふえふき》どもにふかせらるれども、其音《そのおと》を吹《ふき》あらはす人なかりけり。
その後《のち》、浄蔵《じようぞう》といふめでたき笛吹|有《あり》けり。召《めし》て吹《ふか》せ給《たま》ふに、彼三位におとらざりければ、|帝御 感 有《みかどかんずるところあり》て、
「此笛主朱雀門の辺《あたり》にて得たるとこそきけ。浄蔵|此所《このところ》に行《ゆき》て吹け」
と仰《おおせ》られければ、月の夜、仰《おおせ》のごとくに、かしこに行《ゆき》て此笛《このふえ》を吹けるに、彼門《かのもん》の楼上《ろうじよう》に、高く大なる音《こえ》にて、
「(その笛)猶逸物成《なおいつぶつなる》かな」
とほめけるを、かく《このようなことがありました》と奏《そう》し(浄蔵が帝に申しあげ)ければ、はじめて鬼の笛としろしめけり。
葉二《はふたつ》と名付て天下第一の笛なり。
その後《のち》伝わりて御堂入道《みどうにゆうどう》殿の御物に成《なり》にけるを、宇治殿平等院を造らせ給《たまい》ける時、経蔵《きようぞう》に納られにけり。
此笛には葉二あり。
一つは赤く、一つは青くして、朝毎《あさごと》に露おくと云《いい》つたへたれば、京極殿(宇治殿御子師実)御覧《ごらん》じける時は、赤葉|落《おち》てつゆおかざりけると、富家《ふけ》入道殿かたらせ給《たまい》けるとぞ。
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源博雅が、自分の吹く笛と、朱雀門の鬼が吹く笛とを、取り替えたという話である。
これ等の逸話を振り返ってみるに、ひとつのことに気づく。
それは、博雅の無私≠ニいうことである。
この世に生まれた時、妙《たえ》なる楽の音が響いたというのも、博雅の意志によるものではない。
博雅を殺しに来た者たちが、それをやめたことについて言えば、博雅は、それをやめさせようと笛を吹いたのではない。
博雅に、盗んだものを返した盗人の話でも、博雅は、盗人に、盗んだものを返させようとして、笛を吹いたのではない。
鬼が葉二《はふたつ》を博雅の笛と交換したのも、博雅が謀《はか》ってのことではないのだ。
いずれの場合も、博雅は、ただ笛を吹いただけである。
その笛に、天地が感応するごとくに、人や、精霊や、鬼が感応した──そういうことではないか。
その自分の奏でる笛の感応力に、博雅自身が気づいてないという節があるようなのも、まことに好ましく、博雅の友人である安倍晴明が、おりに触れて言うごとくに、この人物が、
好い漢《おとこ》である
ことを示しているように、筆者には思えてしまうのである。
いや、博雅という漢《おとこ》は可愛い。
男が有する色気の中に、この博雅のような可愛気というものが入ってよいのではないか。
この漢《かん》の持っている好もしい特質の中に、真面目さというものが間違いなくあることは、ここに書いておいてよいだろう。
『今昔物語』の中に、源博雅が登場する話が、ふたつ、ある。
「|源 博雅 朝臣行会坂盲 許 語《みなもとのひろまさのあそんおうさかのめしいのもとにゆくこと》」
という話と、
「|玄象 琵琶為 鬼被取語《げんじようというびわおにのためとらるること》」
という話がそうである。
前者は、博雅が琵琶法師の蝉丸の許《もと》に通いつめて、琵琶の秘曲を習う話である。好漢博雅の初ういしさがよく現われている話であり、このエピソードが本篇の博雅像を決定したといってよい。
後者は、博雅が、鬼に盗まれた琵琶の玄象を、鬼の手より取りもどす話なのだが、ここでの博雅の役割も、なかなかおもしろい。
このふたつの話については、晴明と博雅が活躍する物語の中で、すでに書いてしまっているので、ここでは、あえて記さない。
ここで記しておくとすると、博雅自身が書いたものについてである。
源博雅は『長竹譜』等の、音楽に関係した著作も、何巻かあらわしており、帝からの勅命《ちよくめい》で、『新撰楽譜』などの撰進もしている。
そのような書の奥書《おくがき》に、博雅は次のように記す。
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「万秋楽《まんずらく》」を案《あん》ずるに、序より始めて六の帖《ちよう》に畢《は》つるまで落涙せざる無し。予、世々生々、在々所々、箏《そう》をもつて「万秋楽」を弾く身に生れむことを誓ふ。およそ調子の中には盤渉《ばんしき》調|殊《こと》に勝《すぐ》れ、楽《がく》の中には「万秋楽」殊に勝れたるなり。
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箏で「万秋楽」という曲を演奏していると六の帖までに、落涙しないものはないと、博雅は言うのである。
一般論のようでもあるが、他人はともかく、少なくとも、
「このおれは、必ず泣いてしまうのだよ」
と、そういう博雅の肉声が聴こえてきそうである。
おそらく──
五度|奏《かな》ずれば五度、十度奏ずれば十度、百度奏ずれば百度、この漢《おとこ》であれば間違いなく落涙するであろう。
源博雅とは、そのような人物であると、はなはだ小説的な個性《キヤラクター》が、筆者の中ではできあがっているのである。
二
梅雨《ばいう》は、どうやら明けたらしい。
何日か前までは、毎日、針よりも細い雨が降り続き、着ているものも、常に、どことなく湿り気を帯びていたが、昨夜あたりから雲が割れて、流れ始めた。
今夜などは、雲の切れ目から、驚くほど黒く澄んだ夜空が覗いている。半蔀《はじとみ》の下から見あげれば、そこに夏の星がきらめき、雲の間に青い月が見え隠れする。
清涼殿──
宿直《とのい》の者たちが、簀《す》の子──つまり濡れ縁に近い広廂《ひろびさし》に集まって、話をしている。
宿直、ようするに、夜間勤務なのだが、内裏《だいり》の清涼殿に詰めている者たちは、官位が上であるため、特別な勤務があるわけではない。
灯火を点《とも》し、宿直の者たちは、昼間はできぬようなよもやまの話や、宮中の噂話などをする。
誰それが、どこそこの女の許《もと》へ通って、子を為《な》したという話や、近ごろ何某は少しでしゃばりすぎるのではないか、先日も帝の御前でかようなことがあった、おう、それよそれ、ところでこれは内密に願いたいのだが、そもそもあの一件というのは……
などと、とりとめない話になるのだが、ここ数日来、宿直での話題は、もっぱら、三条東堀川橋でのことになっている。
「どうなのだ、今夜も出ているのではないか──」
と、何某が言う。
「出とるのではないか」
と、これもまた、別の何某が言う。
「いや、そもそも、人がいるから出るのであって、誰もゆかねば何も出てはおらんのではないか」
「しかし、ゆけば出る。これはつまり、いつもいるということではないのか」
「そうは限らぬぞ。ゆくから出るのだ。ゆかねば出ぬ。考えてもみよ。誰もゆかぬに、ただひとり、あの橋の許《もと》に、あやかしのみが立っておるというのは、なかなか恐い話ではないか──」
「むうむ……」
「むうむ……」
などと、三位《さんみ》や四位《しい》の、やんごとない男たちが話をしている。
「誰《たれ》かをまた見にやるか?」
「おう、それはよい」
「誰をやる?」
「わたしは御免こうむります」
「言い出したそなたがゆかれてはどうか」
「わたしは、どうかと訊いただけじゃ。それを言うなら、賛成されたそなたこそゆけばよいではないか」
「人に押しつけるおつもりか」
「なんのそなたこそ」
「いいやそなたこそ」
そういうやりとりをしているところへ、蛍が、ひとつ、ふたつ、夜の庭を飛んでゆく。
源博雅は、宿直たちの会話を、少し離れた場所で、聴くともなく聴きながら、庭の闇の中を、ふうわりと舞う蛍を眺めている。
今、聴こえて来るような類の話、博雅は嫌いではない。
会話に加わってもいいのだが、今の話の進み具合では、誰かがまた、あの三条堀川橋へゆくことになりそうである。こういう時に話に加わると、結局──
ゆくのはこの自分である
博雅はそう思っている。
昔から、そのような損な役回りが、自然に自分のところにやってくるのだ。
そもそも、今話題になっている話は、七日ばかり前の晩の、ふとした話がきっかけとなっている。
場所は、この清涼殿──
宿直《とのい》の人間の間で、この話が広まった。
「おい、出るそうだな」
そう言い出したのが誰《たれ》であったか。
「何がだ?」
そう訊いたのも、今となっては誰でもよいのだが、
「だから、三条の堀川橋のことさ」
最初に口を開いた男が言った。
その言葉を受けて、
「おう、あの、三条東堀川橋のあやかしのことなら、わたしも耳にしておる」
そう言ったのは、|藤原 景直《ふじわらのかげなお》であった。
「何のことだ?」
そう問うたのが、|源 忠正《みなもとのただまさ》である。
「いや、小野清麻呂《おののきよまろ》殿が出会うたという、女のことでござろうが」
|橘 友介《たちばなのともすけ》が、女と口にした途端に、そこに居合わせた殿上人たちのほとんどが、この話題の当事者となったのである。
「いや、何のことだ」
「わたしは知らぬぞ」
「わたしは聴いている」
「あれはなかなかに不思議な話ぞ」
そのように、宿直の者たちが、次々に口を開いたのである。
細い雨が音もなく降り、湿った夜気を避けるため、蔀《しとみ》はしっかりと下ろされている。
灯を、ゆらゆらとその眸《め》の表面に揺らしながら、
「まあ、お聴きあれ──」
そう言って、橘友介が、次のような話を始めたのであった。
三日ほど前のこと──
やはり、細い雨が霧のように降る晩に、小野清麻呂が、舎人《とねり》をふたりばかりつれて牛車で女のもとに出かけていったというのである。
女が、どこに住んでいるかは措《お》くとして、その屋敷へゆくには、途中、三条東堀川橋を、西から東へと渡ることになる。
橋そのものは、朽《く》ちかけて、もし大水でも出れば、流されてしまうやもしれぬと言われている。
梅雨明《つゆあ》け早々にも、工人《たくみ》をやって、架け替えようかと言われている橋である。
その堀川橋に牛車がさしかかった。
川幅が、およそ七間、十二メートル余り。
そこに架かっている橋は、十間近くある。
朽ちているため、ところどころの板が落ちて、川の面《おもて》を上から覗くことができる。
そこへ、牛車の車が乗るたびに、ごとり、ごとり、と、重い音が響く。
橋の半ばにさしかかったと思われる頃、ふいに、牛車が止まった。
「何ごとか?」
清麻呂が外の舎人に声をかけると、
「女がいるのでござります」
舎人が答えた。
「女とな?」
清麻呂が、網代車《あじろぐるま》の上簾《うわすだれ》を持ちあげて前を見やると、三間ほど向こうの、東の橋のたもとに、何やらぼうっと白いものが立っている。
舎人が、網代車の先でかざしている松明《たいまつ》の炎の灯りで、よくよく眼をこらしてみれば、はたして女であった。
小袿《こうちぎ》に張り袴《ばかま》という姿であったが、着ているものは、どれも皆、白一色である。その白に、炎の赤が映《は》えて、揺れているようにも見えた。
はて、何故このような場所に、女がひとりで──
うかがってみれば、歳の頃なら三十ばかりの、髪黒々とした、肌の白い女房である。
さては、魔性のものか──
女は、凝《じ》っと清麻呂を見つめ、薄い唇を開いた。
「橋が朽ちておりまする故、車が板の落ちた跡に当って、耳障《みみざわ》りでなりませぬ。車を捨てて、徒歩《かち》にてお行き下されませ」
「徒歩じゃと?」
「はい」
霧のような細い雨の中で、白ずくめの女が、うなずいた。
どう見ても、普通の女であり、夜更にこのような場所にたったひとりで立っていることをのぞけば、どこかに妖しい風があるようにも見えない。
いったんは、怯《おび》えて縮こまっていた清麻呂の気持ちも、少しは落ちついてきた。
強気になって、
「そうはいかぬ」
清麻呂は言った。
女が自分を待っているのである。
今は、この女よりも、ゆくと言って行かなかった場合の、通う相手の女の方が怖い。
「通るのであれば、お願い申しあげたき儀がひとつ──」
「何じゃと?」
「聴くところによりますれば、この堀川橋、梅雨明けと共に打ち壊され、新しいものに架け替えられるとか──」
「おう。いかにもそのように聴いておる」
「お願い申しあげたき儀というのは、そのことにて──」
「はて、いかようなことを?」
「この橋の取り壊し、梅雨が明けましても、すぐにお始めになりませぬよう。およそ、七日ほどは、待って下さりまするよう、帝に御奏上ねがえませぬか──」
「何故?」
「故あってのこと。理由《わけ》はお尋ね下さいますな」
「なに!?」
理由は言えない、しかし、この橋の架け直しを先に延ばすよう、帝に奏上せよと、女は言うのである。
おそれながら、女に頼まれ申した故──
そう言って、帝に、橋の工事を先に延ばすよう、奏上できるものではない。
「駄目だ駄目だ……」
そう言いながら、清麻呂は、舎人に眼で合図をした。
「かまわぬ。行ってしまえ」
ごとり、
と、輪がひとつ回るか回らないかの時、
「ならば、いたしかたござりませぬなあ──」
女が、白い右手を懐に入れて、それを外へ出すと、その|掌 《たなごころ》の上で、無数の赤いものが踊った。
蛇?
それは、どれも赤い色をした小蛇であった。
さっ、
と女がその右掌の上の蛇の群をまいた。
それが、橋の上に落ちたかと思うと、あちらこちらで、ぽつり、ぽつりと赤い小蛇が頭を持ちあげた──最初は、そう見えた。
しかし、そうではなかった。
赤い小蛇と見えたものは、ちろちろと身をくねらせながら立ち昇ってきた、炎であった。
その炎が、橋を舐《な》め、燃えあがりながら、清麻呂の車に近づいてくる。
「あなや」
と、清麻呂は声をあげ、
「もどせ。疾《と》くもどせ」
舎人たちに告げた。
舎人たちは、大慌てで、ようやく、橋の中央で車の向きをかえ、もとの西の岸まで逃げもどった。
そこから橋を見返れば、なんと──
燃えていたはずの炎はどこにもなく、橋はもとのままで、そこにはあの女の姿もなく、古びた橋が、舎人たちのかざす松明の灯りの向こうで、ぼうっと細い雨の中に見えるばかりであった。
「清麻呂殿、車の中で震えておったそうな」
橘友介がそう言った。
「女のもとにはゆかず、その晩は自らが屋敷に逃げ帰り、朝まで念仏されておられたとか聴いておるが──」
そう言ったのは、藤原景直である。
「いや、情なきことよ」
「おおかた、夢でも見られたのであろう」
「夢でなく、もののけであろうが、それしきのことで逃げてくるとは」
「歳経た狐狸《こり》の類《たぐい》に化かされたのであろうよ」
「いや、だらしがない」
皆々、口々に感想を言いあった。
「わたしなどは、もともと、もののけだの鬼だのということは、信じてはおらぬ。心の迷いや不安、怖いと思う気持ちが、そのようなものを人に見せるのだ。実際に、橋は燃えてはおらなんだのであろうが……」
源忠正は、語気を強くして言った。
「ではどうだ。今夜、誰か、件《くだん》の堀川の橋まで行ってみるというのはどうだ」
誰かが言い出した。
「おう、それはおもしろい」
宿直とは言っても、特別に何かやることがあるわけではない。
どうせ、夜は手持ちぶさたである。
誰からともなく、
やろう
そういう話になった。
しかし、誰がゆくか。
誰かを堀川橋へやるというのはおもしろいが、では自分がゆこうとは、誰も言わない。
そのうちに、
「源忠正殿はどうか」
そう言い出す者が現われた。
「うむ。それはよい。忠正殿、狐狸や妖怪変化の類は、信じておられぬという話。ならばゆかれてはどうか──」
「それは妙案」
一同の意見が、たちまちそろってしまった。
もともと、日々や月々の常の行事を、慣例に従ってとどこおりなくやることの他は、退屈をしのぐ遊びをいつも考えている連中である。
そのようなサロン的集まりの中で、これだけ盛りあがってしまった話から逃げるわけにはいかない。
逃げたら、風雅の道のわからぬ人物との噂をたてられ、宮廷というサロンの隅へやられてしまうことになる。
宮廷の中で、誰からも相手にされなくなることほど、宮廷人にとって哀しいことはない。
逃げるのなら、皆が驚くような気の利《き》いた理由を考えつき、ほどよい歌をひとつふたつさらさらと詠んで、上手に身を引かねばならない。
源忠正は、そこまで器用な才があるわけではない。
何とか、皆の鉾先《ほこさき》をかわそうとしたのだがかわしきれずに、
「なら、ゆこう」
そういうことになってしまった。
牛車で、内裏から出かけた。
網代車に、供の者として、舎人が三人ついた。
三人には太刀を持たせ、また、忠正自らも太刀を帯びた。
やはり、細い、雨の夜であった。
牛が歩めば、
ぎい、
と車軸が軋《きし》む。
ぎい。
ぎい。
朱雀門を抜けて内裏の外へ出、そのまま朱雀大路を下って、三条大路へ出て、左へ曲がる。三条大路をそうやって東へ進んでゆけば、ほどなく、堀川の流れている堀川小路に出る。道幅、およそ二十間余りで、その三分の一ほどの幅を、堀川の流れが占めている。
いくらもゆかないうちに、
「おい、だいじょうぶか」
車の中から、外の舎人に声がかかる。
「はい──」
舎人が答える。
しばらくするとまた──
「おい。なんぞ障《さわ》りはないか?」
忠正が声をかけてくるのである。
「ござりませぬが」
「ないのはそれでよいが、あってからでは逆に困る……」
口ほどにもなく、忠正の声は震えている。
ほどなく、三条大路に出、左へ曲がった。ほとほとと牛車が進んでゆくうちに、ついに堀川小路へ着いてしまった。
いったん、車が止まり、
「いかがいたしますか」
舎人が声をかけてきた。
忠正が上簾をあげて先をうかがうと、霧雨のむこうに、ぼうっと橋のたもとらしきものが見える。
「か、かまわぬ」
「よろしいのですか」
舎人にも、忠正の怯えが伝わっている。
「ゆ、ゆけい」
忠正が言うと、再び、
ぎい、
と、軸を軋ませて車が動き出す。
「じきに、堀川橋でござりますが──」
舎人が言ったが、忠正は、歯を喰い締《しば》って、
「う、うむ」
唸るようにうなずいただけであった。
それまで土を踏んでいた車の音が、やがて、ごとごとと、木を踏む音にかわった。
忠正は生きた心地もしない。
すでに、眼を堅く閉じ、車の中で念仏している。
歯を堅く噛んでいる。
浅く噛むと、歯と歯のぶつかる音が響きそうであった。
その忠正の耳に、
「お、おります」
舎人の声が響いた。
「な、なに!?」
車が止まった。
忠正の顔から血の気がひいている。
「おんな、女です」
「ひい」
と、忠正は、ひきつれた声をあげ、
「もどせ。もどすのじゃ。車をもどせい」
叫んでいた。
忠正が一度も外を見ぬうちに、車は橋の上で方向をかえて、引き返した。
忠正は、青い顔をして内裏へもどってきたが、自分は何も見てはいないから、
「どうであった?」
そう問われても、
「女が立っていたのだ」
忠正には、それしか言う言葉がない。
「何があった?」
「だから女が立っていたのだ」
「見たのか」
「う、うむ」
「で、どうであったのだ?」
問われて言葉に詰まる。
そのうちに、別の人間が、同行した舎人から話を聴いてくる。
橋のむこうのたもとに、女らしき白い影がぼうっと立っているのを見たのは、舎人であり、忠正は、そのことを知らされただけで、一度も外を見ることなく、車をもどさせたのだということが、それでわかってしまった。
「忠正殿、口ほどでもない」
そういう評判がたってしまった。
次に、三条東堀川橋へ出かけて行ったのは、梅津春信《うめづはるのぶ》という武士であった。
やはり宿直の晩に、藤原景直が、この梅津春信を連れてきた。
その名は、宮中では多くの者が知っている。
しばらく前に、都を騒がせていた盗人三人を、ただ独りで退治した人物である。
三人が押し入ると、密告のあった油屋に、店の人間のなりをして潜み、やってきたところを、ふたりを斬り殺し、ひとりを捕えた。
三人は、押し入った家の女を犯し、顔を見た者は、その場で殺してゆく。
その三人が、手下として使っていた男ふたりと、分けまえのことでもめ、ひとりが三人に殺された。ひとりがなんとか逃げのびて、三人の次の仕事について、衛門府に密告したのである。
三人が、油屋の中に忍んで来た時、闇の中に春信が立って、
「おい、盗っ人か?」
そう声をかけた。
盗人のひとりが、無言で腰の刀を抜き、
「やっ」
声をかけて斬りつけてきた。
それをかわしざまに踏み込んで、春信は、その男の首を、持っていた太刀で深ぶかと突いた。
次の男が斬りつけてくるのを、首から抜いた刀で跳ねあげ、次に、振り下ろしてゆくその刃で、その男の左の肩口から、下へ斬り下ろした。
逃げようとした三番目の男の背へ、
「逃げるな。逃げれば斬るぞ」
そう浴びせかけると、その男は、持っていた太刀を放り投げて、そこへ膝を突いて生命乞《いのちご》いをした。
外で待機していた検非違使《けびいし》の役人が入ってきた時には、盗人三人のうちふたりはすでに息絶え、生き残ったひとりは、縄で後ろ手に縛られていた。
その事件のあったのが、この春である。
大力無双。
その力は、馬の蹄《ひづめ》を指で掴んで、引きむしることもできるとも言われ、その大力を試さんとした帝が、あるとき、濡らした狩衣を三着まとめて折りたたみ、この春信に絞らせたところ、無造作にねじ切ってしまったこともあったという。
「どうじゃ。この春信に、あの橋までゆかせてみたらと思うのだが──」
春信を連れてきた藤原景直は、そう言った。
「おう、それはおもしろい」
「橋の女と春信の対決じゃ」
春信がゆくことになった。
供の者をつけるかと景直が問うたが、
「独りで──」
春信はそう言って、内裏を出た。
徒歩《かち》である。
「いや、さすが春信殿」
「武士《もののふ》の気質《こころばえ》、かくもあるかな」
宿直の人間たちはそう言っていたのだが、ところが、この春信が帰ってこない。
一刻──
二刻──
と、刻《とき》は過ぎ、とうとう明け方になってしまった。
しらしらと、夜が明け初《そ》めるころ、舎人三〜四人を件《くだん》の堀川橋へやったところ、東の橋のたもとあたりで、春信が、仰向けになって倒れ、悶絶していた。
内裏へ運ばれてきた春信、ようやく蘇生して、語るところによれば──
内裏を出た時には、霧のようであった雨が、橋に着く頃には止んで、霧になっていたという。
片手に炎をからませた松明を持ち、腰には、盗人ふたりを斬り殺した太刀を差している。
春信は、橋の中央を、板を踏みながら、歩いていった。
渡ってゆくと、はたして、橋の東のたもとに、白い小袿に張り袴姿の女が立っている。
春信が歩いてゆくと、
「もうし、春信さま」
女が、低い声で春信の名を呼んだ。
春信は、立ち止まった。
初めて会う女である。
細面で、色が、この世のものならず白い。
透けて、向こう側まで見えそうである。
たちこめている霧が、そのままそこに凝《こ》ったような女であった。
どうしてこの女が、自分の名を知っているのか。
まさしく妖しのものに違いない。
「何故、おれの名を知っている」
「春信さまの武勇は、都中の誰も知らぬ者などございませぬ……」
「はて、名はともかく、顔まで知っておるとは……」
ふふ、
と女は薄い唇に含み笑いをつくり、
「春信さま、何度かこの橋をお通りあそばされました故、そのおりにお顔を拝見いたしましてござります」
女の言う通り、確かに春信は、これまでにこの橋を何度となく渡っている。
しかし、それならば、春信だけではない。都に住む多くの人間が、この橋を渡っている。
それを問う前に、女が口を開いた。
「春信さまに、お助けいただきたきことのござりますれば、ぜひとも、それをお聞き届けいただけませぬでしょうか」
「申してみよ」
「はい」
女は頭を下げ、右手で、懐から何やら取り出した。
見れば、白い小石が、女の右の|掌 《たなごころ》の上に乗っている。
「何であるか」
「春信さまには、ぜひとも、これをお持ちいただきたく──」
「これを持てとな?」
「はい」
「持てばよいのか」
「はい」
と言って、女が差し出したその白い、丸い小石のようなものを、春信は、思わず左手で受けとった。
重い。
小石と見えたが、掌に余るくらいの大きさの石と同様の重量がある。
右手に松明を持っているが、思わずその右手を添えたくなってしまうほどだ。
「むむ」
持っていると、それは、手の中でゆっくりと重さを増してゆくようであった。それだけではない。重さを増すにつれて、その白い小石は手の中で大きくなり、大きくなると、またさらに重さも増してゆく。
「むう」
春信は声をあげた。
なんと、その白い小石は、温かみを持っていたのである。しかも、手の中で、脈打つように、膨らんだり、縮んだりを繰り返している。膨らむ時は、大きく、縮む時は、膨らんだ分よりはやや小さく──もとの大きさにもどるほどではない。
それは、その膨らんだり縮んだりを繰り返しながら、大きくなってゆくのである。
大きくなるにつれて、重くなり、重くなるにつれて大きくなる。
まるでこれは──
と、春信は思った。
生きているようではないか
とうとう、左手だけでは、持ちきれぬほどに大きくなり、重くなった。
「どうぞ、両手をお使い下されませ」
女が、春信の右手から、松明を取り去った。
「むむう」
春信は、両手で、その石を抱えた。
すでに、その大きさは、大人の頭ほどもあり、重さは、すでに大岩のごとく感ぜられた。
常人では、五人かかっても持てる重さではなくなっている。
「どうなされました。もう、持ってはいられませぬか」
「まだまだ──」
春信の額に、ふつふつと汗が噴き出し、それが、頬から太い首筋を伝って、襟から胸元へ這い込んでゆく。
「あれ、お汗がこのように──」
「なんの」
「まだまだ、重くなりまするが、大丈夫でござりまするか?」
「これしきのこと、どうでもないわ」
春信の顔は、真っ赤になっている。
白い小石であったものは、もう、ひと抱えもある大岩のようになっている。
地面の上であれば、重さのため、両足がくるぶしまで、ずぶりずぶりと地に埋まってしまいそうである。
みしり、
みしり、
と、春信の足の下で、橋の板が音をたてて軋みはじめている。
春信は、歯を喰い締っている。
首筋に、太く血管が浮き、噛んだ歯が折れそうになっている。
「お耐え下されませ、春信さま──」
「くむう」
眼を閉じて春信は唸った。
その時──
ふいに、両腕に抱えたものが、柔らかなものに変じていた。
柔らかで、温かいもの。
ぎょっとして、春信が眼を開くと、抱えていた白い石と見えたものは、白い、裸の赤ん坊であった。
赤ん坊は、眼をあけ、口を開いて、そこから、細い、赤い舌を、
ちろり、
と覗《のぞ》かせた。
「わっ」
と叫んで、春信は赤ん坊を放り出し、腰の大太刀を抜いて、
「やあっ」
とばかりに女に斬りつけた。
手応えはなく、
がつん、
と、橋の欄干《らんかん》を、刀の切先が削った。
女の姿も、赤ん坊も、掻き消すように、そこから消えていた。
さっきまで女が手にしていた松明が、くるくると炎をからませたまま暗い宙に舞って、橋の下の、黒ぐろとした堀川の流れの中に落ちて消えた。
途端に、真の闇となり、気が遠くなって、春信はそこに仰向けに倒れてしまった──
そういうことであったらしい。
それが、三日前のことであった。
三
博雅が、蛍を眺めている横で、話はまだ続いている。
藤原景直、橘友介が、話の中心となっている。
「なんとか、橋の女の正体を知りたいとは思わぬか」
「しかし、もう、誰《たれ》もゆくまい」
橘友介が言う。
「梅津春信殿ほどの豪の者が、何やら瘴気《しようき》にあてられた様子で、二日も家で寝込んでしまったというではないか」
これは、藤原景直である。
「もう、いいかげんに、帝のお耳にも届いていよう」
「これは、もともと、われらの仕事ではなく、僧侶か、陰陽師の分であろうよ」
「なれば、土御門《つちみかど》の、安倍晴明殿に御足労願うのが筋ではないか」
「晴明殿ならば、源博雅殿が懇意にしているという話ぞ」
「おう、博雅殿か」
「いかにも、博雅殿よ」
「博雅殿」
「博雅殿」
藤原景直や、橘友介をはじめとする男たちが、博雅に声をかけてきた。
こうなってしまっては、聴こえぬふりもしてはいられない。
蛍から視線をもどして、
「何か?」
博雅が言った。
「そこにおられたか。よかった。こちらへ参られて、我らの話に加わりませぬか」
橘友介が、にこやかな笑みを浮かべて博雅を見やった。
「おう、丁度よい。ささ、こちらへ──」
「はあ」
博雅、頭に手をやって、腰を浮かせてしまった。
四
博雅は、歩いている。
夜の道だ。
腰に太刀を帯びている。
雲が大きく割れ、ちぎれて動いており、夜空が見えている。もう、雲の間に夜空が見えているというよりは、夜空の下を、切れぎれになった雲が動いているというのに近い。
独りである。
何故、おれなのだ
と、博雅は思っている。
しかも、
何故、ひとりなのだ
そうも思っている。
何がいけなかったのかと言えば、自分がいけない。あそこで、腰を浮かせてしまったのが、そもそもの間違いであったのだ。
成りゆきと言えば成りゆき、人の頼みを断りきれないという自分の性格もある。
晴明殿に話をしてはもらえまいか、と言われて、
──よろしい。
とは返事ができない。
誰かが、殺されたというわけではない。
皆、勝手に、あそこへ出かけて行ったのだ。
それも、ゆかなくともよいのに、わざわざ出かけてゆき、女に会ったのだ。
女に会いたくなければ、行かねばいいわけであり、川の向こうに用事があるのなら、別の橋を利用すればいいだけのことだ。
放っておけば、何事もない。
それをわざわざ、晴明に、なんとかしてくれと自分が頼むわけにもゆかない。
「うーむ。むうむ……」
唸りながら、曖昧《あいまい》な返事をしているうちに、
「そうじゃ、なれば、博雅殿が、一度、自ら件《くだん》の女にお会いになり、御判断をなし、その上で晴明殿に声をかけられたらよいのではないか──」
誰《たれ》ぞがそう言い出した。
「妙案」
「博雅殿、かつては、晴明殿と共に、羅城門へゆき、鬼に盗まれた琵琶の玄象を、取りもどされたこともおありと聴いておるぞ」
「そうじゃ、まず博雅殿が参られて、様子を見るのが先。晴明殿に頼む、頼まぬは、博雅殿御自身の判断ということになされては」
「なるほど」
「いや、博雅殿、お頼みもうす」
藤原景直や、橘友介に頭を下げられてしまった。
そのうちに、いつの間にか、博雅がゆく、という雰囲気ができあがってしまったのである。
源博雅という漢《おとこ》、できあがってしまった雰囲気に、どうも、さからうことができない性格であるらしい。
何か、騙《だま》されたような気がする。
博雅はそう思っている。
しかし、誰に騙されたのかというと、よくわからない。
おそらく、あの場の雰囲気に騙されたのだ。
座の雰囲気というものは、どうやら、もののけよりも、始末に悪い。
「舎人をつけるか」
そう問われて、思わず、
「独りでゆく」
そう答えてしまったことも、後悔している。
しかし、ゆくと言ってしまった。
行かねばならない。
はっきりしていることは、それであった。
少し哀しく、いくらかはくやしく、そして、怖い。
大気は、すがすがしく熟しており、たっぷりと水を吸った、樹々や草々の匂いが満ちている。
空が晴れてみれば、大気に含まれた、豊饒《ほうじよう》な植物の香りや、水気が、かえって心地よい。
月も出ている。
明るい、大きな青い月だ。
美しい……。
懐に、葉二《はふたつ》があることを思い出し、博雅はそれを取り出して、唇にあてた。
歩きながら、それを吹き始めた。
よい音色の笛の音が、香りを含んだ見えぬ花びらが風に溶けてゆくように、湿った大気の中に滑り出てきた。
青山《せいざん》──
唐から伝えられた秘曲である。
ゆるゆると、その音に身体を乗せるようにして、博雅は歩いてゆく。
いつの間にか、自分の造り出す葉二の音に心をさらわれて、怖さも哀しみもくやしさも気にならなくなった。
博雅は、透明な、大気と化したごとくに、風の中を歩いてゆく。
いつの間にか、件の堀川橋にさしかかったが、博雅は足を止めない。
いよいよ広く透明になってゆく空から、しずしずと降りてくる月光を浴びながら、橋を渡ってゆく。
ふ、
と、博雅は気がついた。
おや──
と思う。
まだ、橋の上にいる。
橋ならば、今しがた、渡り終えたはずではないか。
なのに、まだ、橋の上を歩いている。
そう思いながら、歩いてゆく。
橋の西から、真ん中へ、そして東の向こう岸へ──
誰も、たもとに立つ者などいない。
さてはいずれも気のせいであったか、と思いながら、橋を渡り終え──
そう思った時、博雅は、まだ、橋の西の端に自分が立っていることに気がついた。
さすがに笛をやめて、博雅はそこに立ち止まった。
笛をやめて、今度は、ゆっくりと歩いてゆく。
月は明るく、橋の向こうにある大学寮の建物や、樹木の梢までが、黒ぐろと見えていた。
下を覗《のぞ》けば、たっぷりとした水が、月光をきらめかせながら、さらさらと音をたてて流れているのが見える。
東の橋のたもとに、誰か立っている気配もない。
歩いてゆく。
東の端へ来て、一歩を踏み出した途端に、もう、橋の西の端に立って、東を向き、さっきと同じ風景を眺めている。
何度もそれを繰り返したが、結果は同じであった。
晴明がやるような、妙な結界の中に、この橋があるらしい。
「むう……」
博雅は声をあげた。
狐狸の類にたぶらかされているのか。
逆に、西へもどろうとしても、今度は橋の東側に出る。
橋の上より他に、どこへもゆけなくなってしまったのである。
すぐ向こうに、風景が見えており、月も明るく照らしているというのに、そちらの風景の中へ入ってゆけないのである。
博雅は、橋の上に仁王立ちになって、腕を組んだ。
「困った──」
どうしたものかと、博雅は考えた。
さらに数度、時間を置いて試したが、結果は同じである。
どうする──
ふと思いついたことがあって、博雅は、橋の上から下の川面《かわも》と川原を見降ろした。
真っ直に行って駄目なら横に──つまり、ここから下に飛び降りれば、この橋から脱出できるのではないか。
もし、だめでも、また、この橋の上にもどってくるだけである。
橋の下が、全部川であるわけではない。
西か、東か、どちらかに寄れば、下は、水の流れてない川原である。
そこへ飛び降りればよい。
高さは、およそ二間──
飛び降りて、できない高さではない。
「よし」
博雅は、決心をし、葉二を懐に入れて、西寄りの欄干に手を掛けた。
数度、呼吸を整えて、
「やっ」
と声をかけて手摺《てすり》を乗り越えて、宙に身を躍らせていた。
五
衝撃はなかった。
ふわりと、一瞬、身体が宙に浮く感覚があって、気がついたら、そこへ立っていたのである。
草と石の川原ではなく、かといって、もとの橋の上でもない。
あの橋から逃げることはできたらしいが、では、どこに自分がいるのかということがわからない。
立っているのは、どうも、土の上であるらしい。
草はない。
ただ土である。
月はないが、そこそこには、周囲が見てとれる。
眼の前に、大きな屋敷があった。
大きいとは、わかるが、博雅が知っている屋敷の造りではない。
唐様《からよう》の屋敷というのは、このようなものなのであろうか。
高い塀に囲まれている。
屋敷の屋根の瓦《かわら》が青い。
と──
その屋敷の中から、ひとりの女が出てきた。白い小袿を着た女である。
──あの女か。
博雅が思っているうちに、するすると、滑るように女が近づいてきて、博雅の前に立った。
「お待ち申しあげておりました。博雅さま──」
頭を下げる。
「待っていたとは、つまり、おれがここへやってくるということがわかっていたということか」
「はい。橋に結界が張られておりまする故、よほどの方でなければ、あそこを出ること、かないませぬ」
「出られなければ、橋から下へ飛び降りると?」
「はい」
「何故──」
「そのように、申されておりました故──」
「申された? 誰だ。誰がそんなことを言ったのだ」
「橋へ、結界を張られたお方でござります」
「なに!?」
「まずは、こちらへ、博雅さま」
女が、腰をかがめて、博雅をうながした。
誘われるままに、博雅は、女についてゆく。
塀の中に入り、さらに奥へ。
屋敷へあがると、広い部屋に通された。
暗く、青い闇に満たされた部屋だ。
その部屋に、ひとりの男が座していた。
白い狩衣姿で、胡座《あぐら》をかき、その男は、涼し気な笑みを浮かべて博雅を見ていた。
「晴明!?」
博雅は、声をあげていた。
「どうしておまえがここに──」
「まあ、座れよ博雅」
晴明が、いつもの口調で言った。
「酒《ささ》の用意もある」
見れば、晴明の前に、酒の入った瓶子《へいし》と、杯が置かれている。
「何が何やらわからん」
博雅は、そう言いながら、晴明の前に座った。
小袿の女が、瓶子をとって、酌《しやく》をする。
博雅は、酒の注《つ》がれた杯を手に持ち、晴明と顔を見合わせた。
「まあ、飲め」
晴明が言った。
「う、うむ」
納得がいかない。
いかないが、しかし、晴明の顔を見て、ほっとしてもいる。
「さあ」
「うむ」
「うむ」
博雅は、晴明と一緒に、杯の中の酒を干した。
得《え》も言われぬよい香りと、甘やかなまろみが、喉から胃の腑《ふ》へ下りてゆく。
杯を置くと、すかさず、小袿の女が、それに酒を満たした。
また、それを飲む。
やっと、博雅の気持ちが落ち着いてきた。
「なあ、教えてくれ。晴明よ、何があったのだ──」
「あれさ」
と、晴明が、視線を奥に向かって放った。
奥に、上から簾《すだれ》のかかったひと隅があり、気がついてみれば、その簾のむこうから、
う、
う、
う、
という、低い呻《うめ》き声が聴こえてくる。
女の声のようであった。
「あれは?」
「いよいよ生まれるらしい」
晴明が言う。
「なに!?」
「この家の女主《おんなあるじ》が、今夜、子を産む」
「子だと?」
「そうだ」
「待ってくれ。待ってくれ晴明。いきなり言われてもわからない。その前に、おれの訊くことに答えてくれ。まず、何故、おまえがここにいるのだ。それを教えてくれ」
「頼まれたからさ」
「頼まれた? 誰にだ?」
「小野清麻呂殿にさ」
「なんと」
「昨日の昼に、清麻呂殿がわが家にやってこられてな、こんどの件を、なんとかしてくれと言ってきたのだ」
「何故だ?」
「あの晩に、通うつもりであった女の悋気《りんき》が怖かったのだろうよ。女は、清麻呂殿が嘘をついていると思っているらしい。他に、通う女ができて、それで、来なかったのであろうとな──」
「ははあ──」
「それで、この一件を、なんとかしてもらえぬかと言うのさ」
「しかし──」
「どうした」
「おまえ、おれが、ここへ来ると、何故わかった」
「わかるさ」
「だから、何故なんだ」
「おれが、おまえがここへ来るようにしむけたのだ」
「何!?」
「昨夜にな、藤原景直と、橘友介の屋敷へ式神《しきがみ》をやって、ひと晩中、博雅の名を囁かせた。誰《たれ》ぞを橋へやるなら、博雅にせよ博雅にせよとな」
「むう──」
「橋へ、結界を張ったのもおれよ。おぬし、橋の向こうへ出られねば、結局飛び降りて、ここへやってくるだろうと思うたからよ。来ねば、橋の上まで呼びにゆこうと思っていたが、ゆくまでもなかった」
「まだ、わからん」
「だからさ、あちらのお方が、これより、百年に一度の、お子をお産みになろうとしておられるのだよ。だから、夜分に、うるさく橋を鳴らして通ろうとする者があれば、静かにせよと、乳母《うば》殿が言いにもゆこうし、ちょうど、橋の下に棲まわれているので、この橋を架《か》け替えられてしまっては、良い子を産めぬのでな。だから、橋の架け替えを延ばしてくれるよう、帝に伝えてくれと、乳母殿が言いもしようさ」
「───」
「梅津春信殿は、可哀そうなことであった。春信殿が来られた時は、お産が一番重い時であった。そのお産の重さを、春信殿が、しばらく支えてくれたので、なんとか、今夜、無事に出産がかなう見込みがついた」
「むうう?」
まだ、博雅にはわからない。
「清麻呂殿が帰られたあと、橋までやってきて、下を覗いたら、すぐにこの家のあることがわかった。訪ねて、色々訊いてみたら、女主殿が、出産の近いことを教えてくれたのよ」
「しかし、おれをここへ呼んだのは何故だ?」
「ここで、何があったか、きちんと理解をして、宮中の人間に、色々、わかりやすく説明してやる人物が必要であったのだ」
「それがおれか」
「まあ、そうだ」
「何故、おまえがやらぬ」
「面倒なのだ」
あっさりと晴明が言った。
「むむう」
博雅の顔は複雑であった。
「しかし、おぬしの笛は、不思議な力がある」
「ほう?」
「女主殿、まだお産が重そうで、不安があったのだがな。さきほど、おぬしの笛が聴こえてきた途端に、女主殿の容態が、ふいにようなられた」
「なんと──」
「ぬしの笛が、女主殿のお産の苦痛を和《やわ》らげるのだ。もしも、手に余るようなお産になったらどうしようかと思っていたのだが、おぬしが来てくれてよかった」
「───」
「さて博雅よ。さきほどの続きだ」
「え?」
「笛を吹いてくれぬか」
晴明が言った。
「わたくしからも、お願い申しあげます」
女が頭を下げた時、簾の向こうの呻き声が、急に苦しそうになった。
「さあ、博雅、ここはおれの呪《しゆ》などよりは、おぬしの笛の方がよい」
「お、おう」
うながされて、博雅は、懐から葉二を取り出し、唇にあてた。
吹き始めた。
すると──
苦しげな呻き声がやんで、それが、やや早いほどの息遣いになった。
「効いているぞ、博雅」
晴明が言った。
博雅が、葉二を吹くと、女主の呼吸が、どんどん、安らかになってゆくようであった。
ほどなく──
「あれ──」
簾の向こうから、初めて、女主の声が響いてきた。
ふいに、濃い血の香りが、簾の向こうから漂ってきた。
「生まれましてござります」
乳母が、歓喜の声をあげた。
「おう。それはよかった」
晴明が言った。
「ささ、お祝いでござります。酒《ささ》をめしあがって下され、博雅さま。あなたの笛で、ほんに、助かりました」
女が注ぐ酒を、博雅は、晴明と一緒に、二杯、三杯と干した。
飲むうちに、酔いがまわってきたのか、ゆっくりと、周囲の風景が、ぼんやりとなってきた。
世界の境目があやうくなってゆく。
簾も、女の姿も、いつの間にか見えなくなってきた。
「じきに夜明けだ」
晴明が言って、立ちあがった。
「博雅よ、杯を置いて、立ちあがるんだ」
「う、うむ」
言われるままに、博雅は立ちあがった。
「眼を閉じよ」
晴明が言った。
博雅は、わけがわからぬままに眼を閉じた。
「よいか。これから、おれの言う通りに歩くのだぞ」
「わかった」
「前へ三歩」
言われるまま、博雅は前に三歩足を踏み出した。
「右へ五歩」
右へ、五歩歩く。
「また、右へ十歩」
十歩歩いた。
「こんどは左へ九歩」
「右へ二歩」
そのように、何度か歩を進めているうちに、
「よし」
晴明の声が響いた。
「眼を開けてもよいぞ」
言われて、博雅が眼を開くと、もとの、橋の上に、博雅は晴明と並んで立っていた。
東の空が、しらしらと明けようとしており、雲が動いている。
残っている星が、ひとつ、ふたつ、みっつ……。
「もどったのか、晴明よ」
「うむ」
「さっきのあれは何だったのだ?」
「百年ほど前に、唐からこの倭国に渡ってきた、蛟精《みずちせい》の白蛇《はくだ》よ」
晴明が言った。
「おまえは、その出産にたちおうただけでなく、それを、その笛で救うたのさ。誰にでもできることではない」
博雅は、嬉しいような、まだよくのみ込めぬような、表情である。
夏の風が、東から吹きよせてきた。
「おう」
博雅が、声をあげた。
「晴明よ、よい風だ」
博雅がいった。
「うむ、よい風だ」
「うむ」
博雅は、うなずいて、天を仰いだ。
六
八月になって、三条東堀川橋が架け替えられるおり、橋桁の下から、大きな、美しい白い蛇が二匹と、そして、小さな白い蛇とが現われて、堀川を、下へ流れ下っていった。
それを、三〜四人の工人《たくみ》が見たという。
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あとがき
一
ぼくの好きな、晴明と博雅の話の、二巻目である。
前巻を出してから、この二巻目まで、およそ七年の月日が過ぎ去った。第一作目を書いてから、およそ十年。この間、まるでこの話を忘れていたわけではなく、いつかは次の話を書き出そうと、日々、頭のなかでは考えていたのである。
ホームズとワトスンの話のように、この物語も評判がよく、自分は博雅のファンであるとか、晴明のファンであるとか、様々な手紙もいただいた。知らぬ間に、このふたりをモデルにしたような漫画もちらほらと出始めていて、この話が、ほどよく漫画業界に影響を与えているのだなと、ひそかに悦んだりもしていたのである。
一巻目とこの二巻目の間に、ひとつの事件があった。
岡野玲子さんが、この『陰陽師』を原作にして、漫画を描いて下さったのである。すでに二巻が出ており、この本が書店に並ぶ頃には、スコラから三巻目が出ているだろう。
陰陽道であるとか、鬼であるとか霊とかに対する、岡野さんの作家としてのスタンスが、この作品に合っていて、おもしろい内容になっている。
岡野さんは、ぼくよりも勉強家であり、平安時代の、おもしろい知識を仕込んできて下さっては、ぼくに教えてくれる。
平安時代のことで、わからないことがあっても、つまらないことを尋ねると、
「こんなのジョーシキよ、ジョーシキ」
と、おこられてしまうのである。
もう少し先で、と考えていたのだが、あっという間に、岡野さんの筆に追いつかれそうになってしまったので、あわてて、二年ほど前から、短編の注文があるたびに、あちこちの雑誌にちらほらと書いてきたものが、ようやく一冊分の量となった。
やはり、楽しい。
書けば書くほど、アイデアが増えてきて、博雅の悲恋物語であるとか、博雅の歌合わせの話であるとか、色々とネタのストックが溜ってきているのである。
二
実は今、広島でこのあとがきを書いている。
宮島の厳島神社御創建一四〇〇年 式年大祭記念≠ニいうことで、厳島神社の、海の上の能舞台で、坂東玉三郎舞踊公演≠ェ、五月の九日から十三日まで、五日間とりおこなわれているのである。
その中の出し物のひとつに、ぼくが作詞をした『楊貴妃』が入っていて、それを観るために、およそ一週間、広島のホテルに連泊をして、昼間はただひたすら仕事をして、夜は海を渡って、玉三郎さんの踊りを観るという日々をすごしているのである。
『楊貴妃』の坂東玉三郎は、最高である。
観ているうちに、思わず眼頭が熱くなってしまう。
なんという、素晴らしいものに、自分が関わることができたのかという、しみじみとした愉悦で、ぞくぞくしてきてしまう。
宮島の神域を、楊貴妃の魂の棲む蓬莱宮《ほうらいきゆう》と見たてれば、海を渡って観にいくという行為がもう、自分が方士の役を演じていることであり、夜に、月の光の中で、海を渡って帰ってくるという行為もまた、そのまま、
※[#歌記号、unicode303d]名残りはさらに月影も
傾《かたぶ》く西の空遠き
都をさして帰りける
という、方士の姿になぞらえることができるのだ。
何か、運命のように、こういうものを書いてしまうということになってしまったのだが、ぼくにとって、これは、一生ものの宝石である。
ビデオに撮るわけでもなく、毎日毎日の舞いが、その都度《つど》、一度こっきりの夢として、消え去ってしまうというのも、また、たまらなくよいのである。
素直に、この運命に感謝しておきたい。
平成七年五月十二日
[#地付き]広島にて
[#地付き]夢枕 獏
単行本 一九九五年六月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十年十一月十日刊