[#表紙(表紙.jpg)]
夢枕 獏
陰陽師 付喪神ノ巻
目 次
瓜仙人
鉄輪
這う鬼
迷神
ものや思ふと……
打臥の巫女
血吸い女房
あとがき
[#改ページ]
瓜仙人《うりせんにん》
大きな柿の樹の下で、十人余りの下衆《げす》が休んでいる。
七月《ふみづき》の三日──
昼である。
梅雨が明けたばかりで、晴れあがった空から、強い陽が差している。
下衆たちは、その陽差しを避けて、樹の下で休んでいるのである。
それにしても、大きな柿の樹であった。大人ふたりが、両腕を広げて抱えてもまだ余るほどである。枝が四方へ伸び、その下に影ができている。そこに、瓜を入れた籠を背に積んだ馬が何頭もいる。
このあたりは大和《やまと》の国から宇治《うじ》を通って京の都まで続く街道筋になる。
下衆たちは、どうやら、大和の国から京まで、馬で瓜を運んでゆこうとしているらしい。その途中、この柿の樹の下で、一時、暑さをしのいでいるのである。
馬の背に載せた瓜が、煮えてしまいそうな陽差しであった。
下衆たちは、それぞれ瓜を手にして、それをうまそうに齧《かじ》っている。瓜の甘い芳香が風に溶けて流れ出している。
同じ柿の樹の下で、源博雅《みなもとのひろまさ》は、床几《しようぎ》に腰を下ろし、彼等が瓜を喰《は》む様を、見るともなしに眺めていた。足元に、水の入った竹筒が置いてある。
長谷寺からの帰りであった。
帝《みかど》が写経した般若心経を届けにゆき、もどってくる途中、牛車《ぎつしや》を停め、陽差しを避けてこの木陰に涼をとることにしたのである。
下人《げにん》が三名。
随身《ずいじん》が二名。
博雅を入れて、六人の一行であった。
下人は徒歩《かち》で、随身は馬である。それぞれに足を止め、馬を下り、木陰で休んでいる。
「いや、まったく、帝のお届けものをするのも楽ではない」
「これで二度目じゃ」
ふたりの随身が、むこうで言葉をかわしているのが、博雅のところまで聴こえてくる。
このところ、帝は、興が乗ったのか、般若心経を書き記しては、それを、あちらの寺、こちらの寺へと奉納するということをしている。
いろいろな人間が、その役を仰せつかっているのだが、博雅自身は、随身の者が言ったようにこれで二度目になる。
一度目は、十日前で、そのおりは薬師寺であった。
「最近、都には怪異が多いが、帝の写経はそのためであろうかな」
「いや、帝の写経は怪異の前からぞ。写経と怪異とは別ものじゃ」
「しかし、怪異が多いというのは本当のところらしいぞ」
「うむ」
「民部の大夫《たいふ》、藤原頼清《ふじわらのよりきよ》さまの下女も、怪異にあったというではないか」
「それは、昨夜、長谷寺で、おれがおまえに話したことではないか」
「おう、そうであったな」
「つい最近は、西の京に住む、某《なにがし》という者が、三日前の晩、応天門のところで、青く光る玉を、弓で射たらしい」
「うむ」
そういう話をしている。
ふたりが話をしていることは、博雅も耳にしている。
民部省の藤原頼清の下女が出会った怪異というのは、こうである。
この藤原頼清、斎院《さいいん》の年預《ねんよ》であった。
長年、斎院に年預として仕え、雑務などをしていたのだが、ある時、斎院のお咎《とが》めを受けることがあって、自分の領地である木幡《こはた》へ帰って、そこで謹慎していた。
この木幡、京より宇治へゆく街道の途中にある。
さて、頼清には、下女として使っている女がいた。参川《みかわ》の御許《おもと》と呼ばれる女で、この女は京に実家があった。
主人である頼清が木幡に帰ってしまったので、暇ができ、女はその京の実家へもどっていたのだが、それが、七日ほど前に頼清の所から舎人男《とねりおとこ》が使いにやってきた。
「このところ、ずっと木幡におられた殿は、急用ができて、さるところへお移りになられた。ついては、人手が足りぬので、そこへ行って、あれこれと殿の身のまわりの世話をしてくれぬか」
と言う。
女には、五歳になる子供がいたのだが、それを抱えて、さっそく言われた場所へ出かけて行った。
行ってみると、件《くだん》の家には頼清の妻がいて、女を愛想よく出むかえた。
「よく来ておくれだねえ」
あいにくと、今、頼清は出かけていて、この家には自分しかいないのだが、やることはたくさんあるので、ぜひそれを手伝ってもらいたいという。
主人の妻と共に、女は、そこで掃除をしたり、染め物をしたり洗い張りをしたりして、たちまちに二日が過ぎた。
しかし、主人の頼清はもどってくる気配はない。
「殿は今、また木幡にもどっておいでなのだよ。しかし、もう、こちらの方の仕度はすっかりできたから、殿や皆に、この家に移るように伝えてきてくれぬかえ」
主人の妻が言うから、女は、子供をその家に残し、木幡までいそいそと出かけていった。
主人の家へ着くと、そこには、以前、一緒に仕えていた顔見知りの雑色《ぞうしき》や下女もおり、頼清もいる。
なつかしい顔見知りへの挨拶もそこそこに、女は、頼清に、その妻の言葉を伝えた。
すると、頼清、
「おまえは、何を言っているのだね」
怪訝《けげん》そうな顔をする。
「自分は、おまえの言うような家に移った覚えはないし、ゆくつもりもない。ようやく、謹慎が解けたので、もとの屋敷にもどることになったばかりだというのに──」
それで、昔の下女や雑色に声をかけ、今、木幡のこの家に一同が集まっているのだという。
「それよりも、おまえのところにも使いをやったのだが、もうすでに、おまえは、このわたしに呼ばれて出かけていると、家の者が言っていたぞ。さては誰かが気をきかせて、いち早くおまえに、謹慎が解けたという知らせを入れたかと思っていたのだが、二日待ってもおまえがやって来ないので心配していたのだよ。いったい、これまでどこへ行っていたのだね」
言われて、女はびっくりし、これこれしかじかのことがございまして──と、ことの次第を語った。
「おかしいな。わたしの妻ならば、ずっとこの木幡の家にいたし、今もいるよ」
頼清が奥へ声をかけると、むこうの家にいるはずの主人の妻が出てきて、
「あら、なつかしいわ。やっときてくれたのね」
と、女に声をかけてきた。
もう、女はしどろもどろである。
さては、鬼にたぶらかされたか。
かの家には、五歳になる子供を預けてきている。
鬼が主人の妻に化けていたのなら、もう、子供は啖《く》われてしまったのではないか。
さっそく、皆々で、おそるおそる女の言う場所まで出かけてゆくと、そこには、崩れかけた土塀に囲まれた、荒れ果てた屋敷があるばかりで、人は誰もいない。
草が思うさま生い茂った庭で、女の子供が、声をあげて泣いているだけであったという。
これが、五日前──
西の京の某が、応天門の上に光るものを見たのは、三日前である。
西の京の某──これは武士である。
その母親は、病を得て、かなり以前から寝込んでいた。
それが、三日前のその晩に、ふいに、弟の顔が見たいと言い出した。
弟というのは、母親の弟ではなく、武士の弟──つまり、母親にとっては二番目の息子のことである。
この二番目の息子、僧となって比叡山に入っている。しかし、今は、都に用事があって、三条京極あたりに住む、師僧の房《ぼう》に寝泊まりをしているはずであった。
「どうか、あの子を呼んできておくれ」
叡山ほどではないにしても、三条京極は、かなり遠い場所である。夜更けであり、すでに従者も帰ってしまっている。
ひとりでゆける場所ではない。
「明日の朝、呼びにやりましょう」
「わたしの生命《いのち》は、もう、ひと晩ももたないよ。今晩中に、どうしてもあの子の顔が見たいのだよ」
母親に、切ない声でそう頼まれてはたまらない。
「わかりました。そうであれば、たとえ夜半であろうと、何でもありません。生命にかえても弟を呼んでまいりましょう」
と、武士である兄は、矢を三筋ほど持ち、ただひとり、内野《うちの》を通って行った。
細い月が、どこかにかかっているはずなのだが、雲が重く垂れ込めていて、真の闇に近い。
この上なく恐ろしい。
ゆくうちに、応天門と会昌門の間にさしかかった。
そこを、身をすくませるようにして通り過ぎ、ようやく師僧の房に着いた。
師僧を起こして問えば、弟の僧は、今朝ほど、比叡山に帰ったという。
叡山までは、もう、とてもゆけるものではない。
老母の待つ家に引き返したが、その途中再び、応天門と会昌門の間にさしかかった。
一度目よりも二度目の方がさらに恐ろしい。
通りすぎるおりにふと、応天門の上の層《こし》を見あげれば、そこに、真っ青に光るものがある。
ちゅっ
ちゅっ
という|※[#「口+雀+戈」]《ねずなき》をする声が聴こえ、続いて嗤《わら》い声が頭から降ってきた。
声をあげたくなるのをこらえ、そこを通りすぎたが、後から、
ちゅっ
ちゅっ
鼠鳴《ねずな》きする声が追ってくる。
足を速くすれば、追ってくるその声も速くなる。
たまらずに疾《はし》り出した。
しかし、その鼠鳴きする声もぴったりとついてくるではないか。
どこをどう走ったか、気がつけば、五条堀川のあたりである。
ようやくあきらめたのか、後方に、もう、※[#「口+雀+戈」]の声は聴こえない。
ほっとして歩き出そうとすると、前方に、あの真っ青な光が浮かんで、
ちゅっ
ちゅっ
という鼠鳴きする声が聴こえる。
「わっ」
と声をあげ、鏑矢《かぶらや》をつがえて放てば、矢があやまたず、その真っ青な光に当ったと見えた時、ぱっと光は消えて、夜空いっぱいに何者かの哄笑する声が響きわたった。
明け方近く、ようやく自分の家に帰りつき、武士はそのまま熱を出し、母親の横に寝込んでしまった。
息子の異変に驚いて、母親の方が元気になり、どうにか動けるようになったのだが、逆に今度は息子の方が寝たきりになり、今は老母が自分の息子の看病をしているというのである。
そういう話を、随身はしているのであった。
ふたりが言うように、どうも、最近、都では妙なことばかりがおこっている。
「帰ったら、晴明《せいめい》を訪ねてみるか……」
と、博雅が声に出してつぶやいた時、横手の方から、
「だめだめ──」
という声が響いてきた。
見れば、どこから現われたのか、ひとりの極《いみじ》く歳老いた翁《おきな》が、瓜を喰べている男たちの前に立って、何やら言っている光景が目に入ってきた。
「のう、のう、その瓜をば、わしにもひとつくれぬかのう」
ひどく古びた帷《かたびら》を着、腰のあたりを紐でからげ、平足駄《ひらあしだ》を履《は》いて、左手に杖を突いている。
ぼうぼうとしたよもぎのごとき白髪で、帷の合わせを大きくくつろげ、右手に持ったぼろぼろの扇で、そこに風を送り込んでいる。
「いいや、これはやるわけにはいかないのだよ」
と、下衆どものひとりが、瓜を喰べながら言う。
「いや、この暑さで喉が渇いてなあ。ぜひともひとつ、それをわけてはもらえぬか」
「この瓜はな、わしらのものではないのだ。ひとつくらいはくれてやりたいが、これは、さる人が京へつかわすもので、誰かにやれるものではない」
「しかし、ぬしらは今、勝手に荷の瓜を喰うておるではないか」
「これは、我らが役得というもので、この瓜をつかわす方も、そのくらいは心得ておるというものさ」
と、相手にしない。
大和の国は、瓜の産地であり、時期になれば、都へ瓜を運ぶ下衆たちが、多くこの街道をゆきかう。
「そうか、それなら、その、瓜の種でよい。それをくれぬか」
翁が、下衆どもの足元を指差すのを見ると、そこには、彼らが吐き出した瓜の種が無数に落ちている。
「種ならやるぞ。みんな持ってゆけ──」
「いや、ひとつでよいのだ」
翁は、腰を曲げ、地面から種をひとつ拾いあげた。
一歩、二歩と歩き、立ち止まって、杖の先で地面を掘りはじめた。
何をするのかと博雅が見ていると、穿《ほじ》られて小さく開いた穴の中へ、その種を落とし、その上に掘りおこしたばかりの土を被せて、穴を塞いだ。
翁は、そこで博雅に向きなおり、
「すまぬが、その水を少しもらえぬか」
そう言った。
博雅は、自分の足元に置いてあった竹筒を手にとって、翁に手渡した。
「いや、すまぬのう」
翁は扇を懐にしまい、嬉しそうにつぶやいて、受けとったその竹筒の中の水を、数滴、被せた土の上にこぼした。
博雅の下人も下衆たちも、今は、翁が何をするのかと、すっかり興味をそそられて、その手元を眺めている。
翁は、博雅にその竹筒を返して、
「さて──」
笑みを浮かべて眼を閉じ、口の中で小さくなにやらの呪《しゆ》を唱えた。
唱え終えて眼を開き、扇を取り出して、それで、種を埋めた土の上を煽《あお》ぎはじめた。
「生命《いのち》あらば、出《いで》よ、心あらば、伸びよ……」
そう言った。
すると──
「ほれ、動いたぞ」
皆が見つめている土の表面が、もそっと動いたようであった。
「ほれ、出てきた」
翁が言うと、その土の中から、みずみずしい色をした、緑の瓜の芽が顔をのぞかせた。
あっ、
と一同が声をあげた時には、
「ほうれ、伸びよ伸びよ……」
どんどんとその芽が伸び、茎が地を這《は》い、葉を大きく繁らせてゆく。
「ほうれ、もっともっと。そうら、実が生《な》りはじめたぞ」
見ている間にも、茎に小さく実が生り、それが膨らんでゆく。
「さあ、もっと大きくなれ、甘くなれ……」
翁の言葉のままに、瓜は実をふくらませ、ついには熟した果実となり、甘い芳香を放ちはじめた。
「よい頃あいじゃ」
翁は、瓜のひとつを|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎとり、それをうまそうに喰べはじめた。
「そうれ、ぬしらも啖《く》わぬか。好きなだけ啖うてもよいぞ」
翁が言うと、博雅の下人たちも、手を伸ばして瓜を※[#「手へん+宛」、unicode6365]ぎ取り、それを喰べはじめた。
「水の礼じゃ、ぬしも喰わぬか」
翁は博雅にも声をかけたが、
「いえ、わたくしは、充分に水をいただきましたので」
博雅は丁寧に断った。
本当か?
博雅は、そういう思いで、瓜を喰べる下人や、随身、翁を眺めている。
こんなことがあるはずはない。
そう思っている。
あるはずがないことがおこっているということは、これは、幻力《まやかし》ではないか。
晴明がよくやるように、紙か何かを切り抜いた瓜を喰わされているのではないか。
しかし、下人たちは、口のまわりを汁でいっぱいに濡らしながら、瓜を頬ばっている。
とても幻力のようには見えない。
「どうじゃ、皆も喰うてゆかぬか」
見物人や、道ゆく人々にまで翁が声をかけると、たちまち、瓜はなくなった。
と──
「たいへんだ。馬に積んでおいた瓜がなくなった」
下衆の誰かが叫んだ。
博雅が、その声の方に眼をやると、たしかに、馬に積んでいたはずの籠の中から、瓜が全て消えていたのである。
「おい、あの爺いがいないぞ」
また、別の下衆が叫んだ。
博雅を含めて、そこにいた人間が翁を捜したのだが、もうどこにもその姿はなかったのである。
牛車が、陽差しの中を進んでゆく。
博雅は、地を踏んでゆく車の響きを腰で聴きながら、先ほどのことを考えている。
まったく、奇妙な老爺《ろうや》であった。
あれは、何かの外術《げじゆつ》に違いない。
帰ったら、さっそく晴明のもとへゆき、この話をしてやろう──
そう思っている。
その時、牛車が停まった。
「どうした?」
博雅が外へ声をかけると、
「さきほどの瓜の翁が、博雅さまにお話があると申されておりまするが──」
と、随身の声が聴こえる。
車の御簾《みす》をあげると、あの翁が、笑みを浮かべてそこに立っていた。
杖を右手に持ち、左手に瓜をひとつ持っている。
「源博雅殿でござりまするな」
と、翁は言った。
「ええ」
思わず、博雅がうなずくと、
「今夜、安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷へゆくつもりであろう」
そう言った。
何故、そんなことをこの翁が知っているのか。
たしかに、今、車の中でそのことを考えたが、それは、頭の中でのことだ。それとも、知らぬうちに、独り言で口にして、それを聴かれたか。
博雅の返事を待たずに、
「行ったらば晴明に伝えておけ。堀川の爺いが、今晩、会いにゆくとな」
「今晩?」
「檻の竹筒をふたつ持ってゆく故、よろしく頼むとな」
「檻?」
「言えばわかる」
博雅には何のことかわからない。
「これは、晴明へのみやげじゃ」
翁は、ひょいと、手に持った瓜を投げてきた。
博雅は、両手で、それを受けた。
ずっしりと重い。
とても、幻力とは思えない感触と重さである。
両手の中のその瓜を見つめ、顔をあげた時には、もう、その翁の姿はどこにもなく、七月《ふみづき》の陽光に、乾いた地面が、白く光っているばかりであった。
「まあ、ざっとそのようなことがあったのだよ、晴明よ──」
博雅は言った。
土《つち》御門《みかど》小路にある、安倍晴明の屋敷である。
梅雨期に、雨をいっぱいに吸い込んだ草木が、鬱蒼《うつそう》とその庭に繁っている。
一見は、手入れなど何もなされてないような庭に見える。
軒のすぐ近くには、橘《たちばな》の樹がある。
あちらの松の樹には、藤がからみつき、こちらの一画には木犀《もくせい》の樹を中心に、青い花を咲かせた露草、花を咲かせる前の女郎花《おみなえし》、すっかり花を落とし、大きく葉を伸ばした一人静《ひとりしずか》、胡蝶花《しやが》──それ等の草が、あちらにひとむら、こちらにひとむらと群れている。
夜の闇の中にあって、そうした草が、発酵したような匂いを、夜気の中に放っている。昼の熱気が夜になって柔らかくなると、そういう草の香りが悩ましいほどに届いてくる。
庭に面した縁に、博雅は、晴明と向き合って座している。
ふたりの間に、盆が置かれ、その上に、博雅が三輪《みわ》で手に入れてきた酒の入った瓶子《へいし》があり、酒の満たされた盃《さかずき》がふたつ、載っている。
その盆の横に、昼間、博雅が、あの奇妙な翁からもらった瓜が転がっている。
縁に置かれた灯明皿の上に、灯火がひとつ、点《とぼ》っていた。
その炎の灯りに、夏の虫が舞い、灯明皿に近い縁の上に、蛾《が》がひとつ、ふたつ、じっと動かずにとまっている。
「ふうむ……」
と、晴明は、盃に白く細い右手の指を伸ばし、それを持ちあげて、唇の近くに持ってゆき、小さく息を吐いた。
盃に満たされている酒の表面に吹く風を、その唇で吸い込むように、晴明は酒を口に含んだ。
安倍晴明──
陰陽師である。
「どうなのだ、晴明よ、その翁に覚えはあるのか?」
博雅が問う。
「堀川の爺いと名のったというのだな……」
晴明がつぶやいて、盃を盆の上にもどした。
「あるのか?」
「ある……」
「何者なのだ、その老人は?」
「まあ、急《せ》くなよ、博雅。おれも、いろいろと思い出さねばならぬことがあって、すぐには考えがまとまらぬ」
「そうか」
博雅は、自分の盃に手を伸ばし、それを口に運んだ。
「その老人だが──」
と、晴明が博雅に訊く。
「殖瓜《しよつか》の術を使ったのだったな」
「殖瓜の術?」
「種を植えて、瓜を増やした術のことさ」
「そんな名があるのか」
「唐《から》の道士がよくやる術《わざ》よ」
「しかし、みごとなものだったな」
博雅が言うと、
「ふふん」
と、晴明が赤い唇で小さく微笑してみせた。
「何を笑うのだ。晴明よ、おまえもその術ができるのか」
「まあ、できると言えばできる」
「本当か、どうやるのだ」
博雅が、強い好奇心に満ちた顔で、晴明の顔を覗き込んだ。
晴明は、苦笑しながら立ちあがり、縁の先まで歩いてゆくと、庭から縁の軒下まで届いている、橘の小枝を折り取ってもどってきた。
「その枝に、蜜柑でも生らせるのか」
「いいや」
と、座した晴明は首を左右に振って、その枝を博雅の眼の前に差し出し、
「見よ」
と言った。
「この枝をか」
「葉の上だ」
「葉の上?」
「青虫がいる」
なるほど、見れば、そこに、人の親指ほどの太さの青虫がいて、橘の葉を喰《は》んでいる。
「この青虫がどうした?」
「じきに、蛹《さなぎ》になる」
「蛹に?」
「ほうら、もう糸を吐き出したぞ」
いつの間にか、青虫は、葉の下の小枝へと移動して、そこで糸を吐き出し、丁寧に自分の身体をその枝に繋ぎとめて動かなくなった。
「すぐに蛹になる」
見ているうちに、青虫の姿が、少しずつ変化をして、あの蛹のかたちになった。
「いずれ、色が変わるぞ」
晴明が言い終えぬうちに、青い色が褪《さ》めて、蛹の色が褐色に変化してゆく。
「ほら、背が割れたぞ」
晴明が言った時、微かな音をたてて、蛹の背が割れ、そこに、黒いものが覗いた。ゆっくりと、それが、頭を持ちあげてくる。
「さあ、蝶になるぞ」
割れ目から、頭部が這い出し、尻が出、ねじれて畳まれていた羽根が伸びてきた。
蛹の脱殻《ぬけがら》の下に、肢《あし》で蝶がぶら下がる。その皺が伸び、花びらに似た、みずみずしい、濡れたように大きな黒い羽根が開いた。
「翔《と》ぶぞ」
晴明が言うと、蝶は、身をひとゆすりして羽根を震わせたかと思うと、ふわりと宙に舞った。
黒い揚羽蝶《あげはちよう》が、夜だというのにひらひらと宙に舞い、しばらく軒下に遊んで、ふいに夜の闇の中へと翔び去った。
博雅は、放心したように、口を開けたまま、蝶の翔び去った夜の宙空を見つめていたが、我に返って、晴明に向きなおった。
「いや、すごい。すごいぞ晴明」
博雅は、興奮した声で言った。
「こんなところでどうだ」
「晴明よ、今、おれが見たのは、夢なのか、それとも現《うつつ》なのか?」
「夢とも現とも、どちらとも言えるものさ」
「どうやったのだ」
「博雅の見た通りさ。おれがやったことは、おまえは全部見ていたし、聴いていたではないか」
晴明は、おもしろそうに、もう、盃を口に運んでいる。
博雅は、興奮が醒めぬ口調で、
「見ていたって、わからぬものはわからぬのだ」
晴明に問うた。
「わからないほうが、ありがたみがあるだろう」
「ありがたみよりは、おれは、どうやったのかを知りたいのだよ」
「だから、あれは、おまえの心の中に起こったことなのさ」
「心の中?」
「うむ」
「それは、つまり、実際には起こってないということか」
「博雅よ、あることが起こったのか、起こらなかったのか、それを決めるのは、おれがどういう説明をしようと、それはおまえの心なのだよ」
「う、うむ」
「おまえの心が、起こったことと考えるのなら、それはそれでいいではないか」
「よくない」
「よくないか」
「よくない──」
言ってから、
「ははあ、わかったぞ」
と博雅は言った。
「なにがわかったのだ」
「あれは、おまえがやったのだな」
「おれが?」
「そうさ。実際には、青虫が蝶になって飛んでいったりはしていないのに、おれがそう思うようにしむけたのだろう」
「ふふん」
晴明は答えて笑っているばかりである。
「どうせ、おまえが、何かの呪をかけたのだろうからな」
「うむ」
「それよりも、おれが会った翁のことだ」
「そうだな」
「あの翁は、今日の晩に来ると言っていたのだぞ」
「今晩か。それならば、明朝までということであろう。ならば、朝までにはまだ時間があるから、たぶん、大丈夫だろう」
「大丈夫と言ったって、晴明よ、あの翁は、何をしに来るのだ。何かよくないことでもしに来るのか」
「まあ、なんとかなろうさ。今夜のうちに出かければ、間に合うだろう」
「間に合うって、何に間に合うのだ」
「その翁が持ってくると言っていた、竹筒の檻に入るものがさ」
「待てよ。晴明よ、おれには何が何やらさっぱりわからんぞ」
「まあ、道々に、おいおい説明をするさ」
「何を?」
「今回の件の、いきさつなどをさ」
「どういういきさつがあると?」
「だから、いろいろさ。ひと口には言えぬ。おれも、今、都におこっている怪異騒ぎは気になっていたのだ。さる筋からも、なんとかせよと泣きつかれている」
「ほう!?」
「おれも、怪異の原因については、こうだろうと見当はつけていたのだが、堀川の翁が伝言をしてくれたので、よくわかった。ゆくか、博雅」
晴明が言った。
「ゆくって、どこへだ」
「五条堀川さ」
「堀川?」
「その昔、三善清行《みよしのきよつら》殿がお住まいになられていたお屋敷が、今もそこにある」
「それがどうしたのだ」
「あれが、取り壊されるという話を、おまえ、耳にしておらなんだか」
「堀川沿いの、あの化物屋敷のことか」
「うむ」
「ならば知っている。帝が手に入れられて、あそこへ、どこぞのやんごとなき姫を住まわせるおつもりなのだろう」
「その姫の父親が死んで、それで、しばらく前から、写経などをせっせと始めたのだ。女の気をひくために、あの男もなかなか熱心なことをする」
「あの男とは、晴明よ、まさか、帝のことか」
「そうさ」
「こら、晴明よ。前にも言ったが、帝のことを、あの男などと人前で言うものではない」
博雅の声が聴こえぬように、晴明が白い狩衣《かりぎぬ》をふわりと広げながら立ちあがった。
「ゆくぞ、博雅」
「ゆくって、五条堀川へか」
「そうだ」
「突然にまた……」
「ゆかぬのか」
「ゆ、ゆく……」
博雅も立ちあがる。
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
「あの屋敷はな、もともと妖物の棲み家であったのさ」
晴明が言ったのは、牛車の中である。
博雅は、晴明と向き合って、牛車の中で座している。
牛車を牽《ひ》いているのは黒い牛である。牛が黒いというだけなら、どうということはないのだが、不思議なのは、牛が目的地へ向かうよう、先導する者が誰もいないのに、牛が、きちんと目的の場所へ、あやまたずに向かっているということである。
しかし、この程度のことに、もう、博雅は慣れてしまっている。
当時、宰相であった三善清行が、その屋敷を買いとったのは、延喜十年(九一〇)のことであった。
晴明がそのことを告げると、
「まだ、我らが生まれる前ではないか」
博雅はそう言った。
言ってから──
「晴明、そうだろう。おまえだって、まだその時には生まれてなかったろう」
そう付け加えた。
ふふん──
と、晴明は、うなずくでも否定するでもなく笑ってみせ、
「とにかく、その当時から古い家であった……」
そう言った。
庭に、神霊さえ宿りそうな、歳経た大きな松や、楓《かえで》、桜、常磐木《ときわぎ》が生え、庭石を分厚い苔が包んでいる。
屋敷も、いつ建てられたのか、わからぬくらいに古い。襖《ふすま》は破れてぼろぼろで、床なども一部は抜け落ちている。ただ、屋敷の骨組である柱や梁《はり》には、大人ひとりが抱えて、まだ手が回りきらないほど太い材が惜し気もなく使われており、骨組をそのままにして手を加えれば、充分に住むことができる。
ただ、妖物が出る。
誰かが買い取るたびに、この妖物に脅されて屋敷を手放してきたため、もう、元の持ち主が誰であるかなど定かではない。
「その屋敷を、清行殿が買われたのさ」
晴明は言った。
「妖物は?」
「出たさ。出たが、この清行という人物が、なかなか腹の据わった人物でな、なんと、ひとりでその妖物を追い出してしまったのさ」
「どうやって?」
「妖物よ、正当な持ち主でないのに、ぬしらがこの屋敷にとどまるのは間違っている。速やかに出てゆくがよいと、理をもって説いたのさ」
「それで、妖物は出て行ったのか」
「行ったのだよ、おとなしくな」
それで、清行は、この屋敷に住み、死んでからは、息子の浄蔵大徳が屋敷を継いだ。
このことは、『今昔物語集』にも記されている。
その大徳も死んで、今は、清行の孫のものになっている。
その孫も、あの屋敷に住んではおらず、もう長いこと、放ったらかしになっていた家であるという。
その孫から、
「帝は、あの土地を買われたのさ」
晴明は言った。
「ところが、買ってから、それまでずっとなりを潜めていた妖物が、再び騒ぎ出してしまったというわけなのだ。それだけではなく、近頃都を騒がせている怪異も、多くはこの屋敷が関係しているようなのさ」
「あの、光るものを射て、熱を出して寝込んでしまった武士のこともそうか──」
「うむ」
「まさか、五歳の子供が、ひとりで、庭の草の中で泣いていたというのも……」
「その屋敷の庭さ」
「むむう……」
「屋敷の中にも、いろいろの怪異があるというのでな、なんとかならぬかと、その筋から頼まれたのが、おまえが出かけている間の昨日のことなのだよ」
「で、堀川の爺いというのは何だ」
「それなのだが……」
と、晴明が言いかけたところで、牛車が停まっていた。
「残念だが博雅よ、話は後だ。五条堀川に着いたようだ」
五条堀川──五条大路と堀川小路が交わる辻の角に、ちょうどその屋敷はあった。
鬱蒼とした、荒れ放題の庭を通り、晴明と博雅は、屋敷の中へ上った。
埃《ほこり》臭い屋敷の中を、晴明は、勝手がわかっているように歩いてゆく。
晴明が、巻いた薄縁《うすべり》を持ち、博雅が炎の点《つ》いた松明《たいまつ》を持っている。
博雅が手にしている松明の灯りがなければ、真の闇である。
ほどなく、寝殿らしき場所に着いた。
板敷きの間で、柱が六本。
その柱のうちの一本の下に、晴明は持ってきた薄縁──茣蓙《ござ》を敷いて、そこに座した。
松明の炎を、用意してきた灯明皿に移して、それを床に置いた。
くつろいだところで、晴明が、懐から小さな瓶子と盃ふたつを取り出して床へ置いた。
「そんなものを持ってきたのか」
博雅は言った。
「さっきの続きさ。これがなければ博雅が淋しかろうと思うてな」
「おれのせいにするなよ、晴明」
「なんだ、飲まぬのか」
「飲まぬとは言うてない」
「なら、飲め」
晴明が瓶子を向けると、
「う、うむ」
と、博雅が、ためらいがちに盃に手を伸ばした。
「飲もう」
「飲もう」
ゆるゆると、ふたりで、灯火の明かりの中で飲みはじめた。
一杯が二杯になり、二杯から三杯目を重ね……。
夜がしんしんと更けてゆく。
と──
「む!?」
博雅が聴き耳を立てた。
どこかから、声が聴こえたような気がしたのである。
人の声か。
誰かと誰かが闘っている。
いや、誰かと誰かではない。もっと多勢の人間が争っている。
戦場のような声。
「えい」
「やあ」
「たあ」
刀と刀がぶつかる音。
武具の触れ合う音。
「そうら、来たぞ」
嬉しそうに、晴明が盃の酒《ささ》を干して、闇の一角に眼をやった。
晴明が視線を向けた方を博雅が見やると、闇の中から、わらわらと、戦《いくさ》装束に身を包んだ一尺ばかりの武者たちが姿を現わして、切り合いをはじめた。
「でえいっ」
刀が閃《ひらめ》くと、切られた首が床に転がり、血が重吹《しぶ》いた。
しかし、首は床に転がったまま、まだ、やあ、とか、おう、とか声をあげ、首のない胴は胴で、刀を持ったまま、自分の首を切り落とした相手と切り結んでいる。
そのうちに、彼等は、切り結ぶのをやめ、晴明と博雅を囲んだ。
「おや」
「おやあ」
「こんなところに人間がおる」
「人間がおじゃる」
「おじゃるなあ」
「どうしてくれよう」
「どうしてくれようか」
「首を切ってくれようか」
「喉を裂いてくれようか」
首のある武者も、無い武者も、刀をきらめかせて迫ってくる。
「晴明!」
博雅が、腰の太刀に手をかけ、片膝を突いて立ちあがろうとするのを制して、
「まあ、待て、博雅」
晴明は、懐に手を入れ、小さな紙片を取り出し、さらに小刀を取り出して、その紙片を裂きはじめた。
「何だ」
「何をする」
武者たちが、いぶかしげな声をあげた時、晴明は、犬の型に切りあがったその紙片に、ふっ、と息を吹きかけた。
紙片は、地に落ちると同時に、犬そのものの姿となって、武者に向かって吠えはじめた。
「わあっ」
「犬だ」
「犬ぞ」
武者たちが、犬に追われて、わらわらと闇の中へ散ってゆく。
再び静かになった。
晴明が、膝元にもどってきた犬をつまみあげると、もう、それは紙片にもどっている。
「次が来たぞ」
晴明が言い終わらぬうちに、木の軋《きし》る音が聴こえてきた。
ふたりの正面の壁に、塗籠《ぬりごめ》の戸がある。その戸が、ごとごとと音をたてて三尺ほど開き、中から、檜皮色《ひわだいろ》の衣《きぬ》を着た女が、座したまま、膝で床をにじるようにして出てきた。
髪が肩にかかり、姿は、灯火の中で、天女とまごうほどに美しい。
艶《えもいわれ》ぬほど馥《こう》ばしい麝香《じやこう》の匂いが漂ってきた。
女は、扇で鼻から下を隠しているため、見えているのはその眼だけなのだが、その眼つきがぞくぞくするほど色っぽい。切れ長の流し眼で、晴明と博雅を見やりながら、膝でにじり寄ってくる。
晴明は楽しそうにそれを眺めている。
女が、充分に近づいたのを見はからって、
「そら、飲むか?」
晴明が、空になっている瓶子の首をつまんで、それを、女に向かってひょいと投げた。
思わず、女は扇を持っていた手をはなし、両手で宙を飛んできた瓶子を受けた。
扇が床に落ち、それまで隠されていた、女の眼から下の部分が見えた。
「むう」
博雅は、声をあげた。
女の鼻は、尖って犬のように大きく前に突き出ており、口からは牙が生えている。
女は、かっ、と口を開いて晴明に噛みつこうとした。
そこへ、晴明が、犬の型に切った紙片を右の掌に載せて、それを女の眼の前に突き出した。掌の上で、紙片が犬となって女に吠えかかる。
「あれ」
叫んだかと思うと、女は、たちまち四つん這いになって、もとの塗籠の戸の中へ姿を消した。
再び静かになった闇の中に、
「出て来なさい。出て来ねば、本物の犬をけしかけますよ」
晴明が声をかけた。
ほどなく、二頭の、掌にも載るほどの大きさの小さな狐が、闇の中から、おそるおそる歩み出て来た。
「晴明、これは?」
「管《くだ》だよ」
「くだ?」
「管狐《くだぎつね》さ」
くだぎつね──修験者《しゆげんしや》や、方士が操る、妖力を持った小さな狐である。竹の管に入れて持ち歩くことから、くだぎつねの名がある。
人に憑《つ》いて、病にかからせたり、時には死にいたらしめたりもする。
「いや、済まなんだのう、晴明──」
その時、声が響き、闇の中から、あの瓜の翁が姿を現わした。
無造作に着た帷に、紐を一本巻きつけただけの姿である。
竹の管を二本、両手にぶら下げている。
「さあ、こちらのお方は、とてもおまえたちの歯のたつ相手ではないよ。無事に帰りたくば、この中にもどりなさい」
翁が、そう言いながら竹筒を向けると、二頭のくだぎつねは、翁の足首に跳びつき、膝を駆けあがり、腕を伝って、その竹筒の中に姿を消した。
「いや、晴明よ、ぬしのおかげで、早くことが済んだわい。わしが来たらば、こやつらはたちまち逃げ出して、始末に終えぬところであったろうよ」
翁は、竹筒を懐にしまいながら、晴明と博雅の前に座した。
「お久しぶりです」
「賀茂忠行と共に会うていらいか」
「はい」
「二十年ぶりだな」
「博雅への伝言で、竹筒と言っておられましたので、これは二匹の管狐が相手であろうと見当がつきました。おかげで、仕事が楽でござりました」
その言葉に、
「おい、晴明よ、こちらのお方は?」
博雅が問うた。
「もと、このお屋敷に、棲まわれていたお方さ」
晴明が言った。
「その昔、勝手にここで、この|くだ《ヽヽ》と一緒に暮らしておったのさ。面倒なので、人が来れば、|くだ《ヽヽ》を使って追い返していたのだがな、ある時、三善清行殿がやってこられてなあ。いくら脅しても帰ろうとしない。逆に、理をもって諭されてしもうた。いや、あれは立派なお方であったぞ」
なつかしそうに言う翁について、
「わたしの師であった、賀茂忠行さまの御友人で、方士の丹蟲《たんちゆう》先生だよ。それで何度かお会いしたことがあるのだ──」
晴明が博雅に説明をする。
「このお屋敷を出られてから、大和の国の方で暮らしておいでだったのだよ」
晴明は、翁──丹蟲にむきなおり、
「それにしても、どうしてこのような……」
「なに、こやつらがな、こちらの博雅殿の随身が、この屋敷がいずれ壊されるという噂話をしているのを、薬師寺で耳にしてな、それで、博雅殿の牛車に憑いて、京へ入ってしまったのさ。それで、元いたこの屋敷に憑いて、昔ながらの悪さをしておったのよ。わしも、博雅殿の随身の噂話でな、わしの|くだ《ヽヽ》が、都で悪さをしてるのを知ったのさ。それで、わしもまた、博雅殿の牛車に憑いて、京まで入ってきたというわけなのだ──」
「なるほど……」
晴明はうなずき、
「では、取り壊される前の、なつかしいこのお屋敷で、朝まで飲みますか」
懐から新しい瓶子を取り出した。
「おう、これはよい」
丹蟲が、嬉しそうにつぶやいた。
晴明が、両手を持ち上げて、ぽんぽんと叩くと──
「はい──」
声をあげて、十二|単衣《ひとえ》を着た、若い娘がいずくからともなく姿を現わした。
「こちらの蜜虫に酌をさせましょう」
晴明が言うと、蜜虫と呼ばれた女が、三人の傍らに膝をついて、瓶子を手にとり、
「おひとつ」
丹蟲に酒をすすめた。
「うむ」
とうなずいて、丹蟲が酒を受け、酒宴は始まったのであった。
「そうれ、来よ、来よ──」
丹蟲が手を叩いて言うと、鎧武者たちが姿を現わして、身振り手振りよろしく踊り始めた。
明け方近くまで飲んで、東の空が白みはじめる頃、
「では、そろそろ去《いぬ》るわい」
丹蟲が立ちあがった。
しののめの光が満ち始める頃であり、その時には、蜜虫の姿も、鎧武者たちの姿もない。
「また、いずれ」
と、晴明が言うと、
「おう。どこぞで酒でもまた酌《く》み交わそうぞ」
丹蟲は、背を向けて歩き出した。
途中で振り返り、
「ぬしへの礼は、すでに渡してある」
「あの瓜ですね」
「おう」
再び背を向け、片手をあげて振り、屋敷の外へ姿を消した。
晴明と博雅が、晴明の屋敷にもどってから瓜を割ると、中から、玉《ぎよく》でできた、美しい杯がふたつ、出てきた。
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鉄輪《かなわ》
※[#歌記号、unicode303d]日も数添《かずそ》ひて恋衣《こいごろも》
日も数添ひて恋衣
女が歩いている。
白装束である。
ただ独りである。
ただ独りで、白装束の女が歩いている。
素足であった。
夜更けの森の中である。
桂《かつら》や栃《とち》、杉や檜《ひのき》の古木が互いに身をよじりあわせるようにして、生《は》えている。その下には、鬱蒼《うつそう》と草が繁り、歯朶《しだ》や苔が、岩の上を覆っている。
その苔や、草や、岩や、樹の根や土の上を、女の柔らかな白い素足が踏んでゆく。その素足や、長い腕や、頸《くび》、顔が、纏《まと》っている装束よりも白く、闇の中に浮かんでいる。
頭上に被さっている梢の間からこぼれてくる月光が、青い鬼火のように、女の髪や、肩や、背に映って揺れている。
※[#歌記号、unicode303d]実《げ》にや蜘蛛《くも》の家《い》に
暴《あ》れたる駒《こま》は繋ぐとも
二道《ふたみち》かくるあだ人を
頼まじとこそ思ひしに
人の偽《いつわ》り末《すえ》知らで
契《ちぎ》り初《そ》めにし悔しさも
ただ我からの心なり
あまり思ふも苦しさに
貴船《きぶね》の宮に詣《もう》でつゝ
住むかひもなき同じ世の
中《うち》に報《むく》いを見せ給へと
頼みを懸けてきぶねがは
早く歩みを運ばん
女の髪は、おどろにほどけ、頬や、鼻、頸にかかっている。
何かを思いつめているのか、女の双眸《そうぼう》は、遠くを見つめている。
素足の爪は割れ、そこから血が滲《にじ》んでいた。
夜道をゆく心細さも、その足の痛みも、女は感じていないようであった。
心細さを感じさせないようにできるのは、より大きな心細さである。痛みを感じさせないようにできるのは、より大きな痛みである。
※[#歌記号、unicode303d]通ひなれたる道の末
通ひなれたる道の末
夜も糺《ただす》のかはらぬは
思ひに沈む御菩薩《みぞろ》ケ池
女は、貴船神社に向かっているのである。
京の北、鞍馬山から西に下ったところにある古い神社がこの貴船神社であった。
祭神は、|高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《たかおかみのかみ》と|闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《くらおかみのかみ》である。
水神《すいじん》である。
祈れば雨を降らせ、また願えば雨を止《や》ますことができると言われている。
伊弉諾命《いざなぎのみこと》が、十拳剣《とつかのつるぎ》で迦具土神《かぐつちのかみ》の首を斬り落とした時、剣頭より滴る血が手の俣《また》より漏《も》れ出でて、この二神が誕生したと言われている。
社伝によれば、祭神はこの二神の他に、罔象女神《みずほのめのかみ》、国常立神《くにのとこたちのかみ》、玉依姫《たまよりひめ》、あるいは天神七代地神五代、地主神とも伝えられている。
高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神と闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神の|※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]《おかみ》≠ニは、すなわち龍神《りゆうじん》のことである。
高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神の高《たか》≠ニは、つまり山の嶺《みね》のことであり、闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神の闇《くら》≠ニはつまり谷のことである。
そこの社記に、
「国家安穏、万民守護のため、太古丑《うし》の年の丑の月の丑の日の丑の刻《こく》≠ノ、天上より貴船山中腹、鏡岩に天降《あまくだ》れり」
とある。
女が歩いているのは、暗い谷の道であった。
ほどなく、丑の刻になろうとしていた。
※[#歌記号、unicode303d]生けるかひなきうき身の
消えんほどとや草深き
市原野辺《いちわらのべ》の露分《つゆわ》けて
月遅き夜のくらまがは
橋を過ぐればほどもなく
貴船の宮に着きにけり
貴船の宮に着きにけり
女は、その赤い唇に、釘を一本|咥《くわ》えていた。
左手には、墨で誰やらの名の書かれた木の人形《ひとがた》を握っており、右手には、鉄《かね》の鎚《つち》を握っていた。
社《やしろ》の入口に来て、女は立ち止まっていた。
そこに、ひとりの男が立っていたからである。
その装束からすると、貴船の宮に仕える男であるらしい。
「もうし……」
と、男が女に声をかけてきた。
ふっ、と女は、口に咥えていた釘を、人形を握っている手の中に吐き出した。
「何か──」
細い声で言いながら、女は、人形を握った手と、鎚を握った手を袖の中に隠した。
「いや、今晩不思議なる夢を見もうしてな」
「夢?」
「夢の中に二匹の大きなる龍神が出てまいりましてな。その龍神が申すには、今夜、これより丑の刻に近き頃、白装束の女が下からあがってくる。その女に、次のように申せと──」
「どのように?」
「今夜を最後に、汝が願い、聞きとどけたり──と」
「おう……」
女の唇が、微かに吊りあがった。
「身には赤き衣《きぬ》を裁《た》ち着、顔には丹《に》を塗り、髪には鉄輪《かなわ》を戴《いただ》き、三つの脚に火を灯《とも》し、怒る心を持つならば、すなわち鬼神となるべし」
男が言い終らぬうちに、女の唇の両端が、つうっと吊りあがってゆき、白い歯が覗いた。
「あな嬉しや」
にんまりと笑った。
※[#歌記号、unicode303d]いふより早く色変はり
いふより早く色変はり
気色変じて今までは
美女の形と見えつる
緑の髪は空さまに
立つや黒雲の
雨降り風となるかみも
思ふ仲をば裂けられし
恨みの鬼となつて
人に思ひ知らせん
憂《う》き人に思ひ知らせん
女の双つの眸《め》は、ぎらぎらと光り、おどろの黒髪は空に向かって立ちあがり、鬼になったように見えた。
「というわけなのだ、晴明《せいめい》よ」
源博雅《みなもとのひろまさ》は、安倍《あべの》晴明に向かって言った。
土《つち》御門《みかど》小路にある、晴明の屋敷の濡れ縁である。
博雅は、縁の床の上に胡座《あぐら》をかき、晴明は、片膝を立て、柱に背を預けて博雅と向かいあっている。
ふたりの間には、酒の入った瓶子《へいし》がひとつ、玉の盃がふたつ置かれている。
午後──
夕刻までには、まだ間がある。
庭に、斜めに陽が差し込み、一面に繁った夏草の群落にあたっている。
下野草《しもつけそう》の赤い花が風に揺れ、その横には気の早い女郎花《おみなえし》が、もう黄色い花を咲かせようとしている。
無数の小さな羽虫や虻《あぶ》が、その草の上の陽光の中を飛んでいる。
山にある野原の一画を、そのままこの庭に持ち込んできたようであった。手入れなどまるでされてないように見えるが、それでも、あちらにひとむら、こちらにひとむらと生い繁る草には、晴明なりの意志が働いているようにも思える。
「それが、昨夜のことだと言ったな」
晴明は、縁の上の盃に、左手を伸ばしながら言った。
「うむ」
博雅はうなずき、何か言いたそうな顔で晴明を見た。
「それで何か困ったことでもおきたのか、博雅」
「そうなのだ、晴明よ」
「言ってみろよ」
「その、貴船の宮に仕えている男、名は清介《きよすけ》というのだが、薄気味が悪いものだから、女に用件だけ告げると、すぐにもどって寝床に入ってしまったのだよ」
しかし、眠ろうとすればするほど眼は冴《さ》えざえと光って、眠ろうという気分になれない。
気になるのは、女のことである。
あの女、どういう素性の人間か。あれから女はどうしたろうか。そもそも、こんな夜更けにいったいどうしてこんな場所までやってきたのか。
丑の刻──現代で言うなら、午前二時頃である。
そのような時間に、毎夜、都から通っていた女の執念を思うと、背に冷水《ひやみず》を浴びせられたような気になってくる。
「ははあ──」
晴明が、おもしろそうに唇に笑みを浮かべた。
「清介といったか。その男、嘘をついたな」
「驚いたな、晴明。その通りだよ」
「で──」
「つまり、毎夜丑の刻参りをする女がいることを、清介は知っていたのだよ。女があまりにしつこく通ってくるものだから、仲間と相談をして、二神が夢に現われたとの嘘をでっちあげた」
女には、恨みに想う人間がいて、その人間を取り殺そうとしている。そのために、女は鬼神に変じようとして、毎夜、貴船の社に通っているのである。
そのくらいはわかる。
しかし、毎夜通われては、気味が悪いし、もしも本当に鬼に変じでもして、貴船の神がそれをなしたなどという噂が広まったら、そうやって夜ごとに丑の刻参りする人間が増えてしまい、よからぬ力を持った神社であるとの評判が高くなってしまう。
貴船の社にとっては望ましくない。
「で、鉄輪《かなわ》か」
「そうだ」
鉄輪というのは、鍋や釜《かま》を火にかける時に乗せる、鉄製の台のようなものだ。
五徳《ごとく》のことである。
脚が三本付いている。
それを逆さに被り、脚が上に向くようにすれば、その三本の脚がそのまま三本の角《つの》に見たてられる。
その脚に灯りを点《とぼ》し、顔を赤く塗り、赤い衣《きぬ》を着たら、まさに鬼の様相を帯びてくるが、しかしそれは本当に鬼に変じたらのことで、生身の人間がそれをやったら、ただただ滑稽なだけである。
「皆で、その女を笑いものにしてやろうと考えたわけだな」
「その通りだよ、晴明」
「しかし、女にそう言ってみたら、後になって、かえって怖くなってきたわけだ──」
「そういうことだ」
博雅は、顎をひいてうなずいた。
清介、寝床に入ってからも、嬉しそうに笑った女の顔が、頭から離れない。
なんと凄まじい、こわい笑みであったことか。
ことによると、本当にあの女、鬼神に変じてしまうかもしれない。
さらに考えてみれば、どうも妙である。
何で、わざわざあんな嘘をつくために、あのような夜更けに女を待ったりしたのか。もしかしたら、自分たちが考えついたように思っていたことは、みんな、本当は貴船の祭神である|高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《たかおかみのかみ》と|闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《くらおかみのかみ》の二神が、言わせるようにしむけたのかもしれない。
でなければ、どうして、鉄輪を頭に被る──などということを思いつくことができたのか。
気になりはじめたら、眠れない。
明るくなるのを待って、清介は、社の裏手の杉林の中に入って行った。
奥まったところに、歳経た杉の古木があり、その幹の胸の高さのところに、昨夜、女が手にしていた人形《ひとがた》が、五寸ほどの釘で打ちつけられていた。ちょうど、その釘は、人形の頭部を深ぶかと貫き、杉の幹に潜り込んでいた。
その人形の胸のあたりに、人の名が墨で書き記されていた。
藤原為良《ふじわらのためよし》
覚えがある。
二条大路の東、神泉苑に近い場所に住んでいる公卿《くぎよう》のひとりであったはずだ。
何かのかげんで、あの女が本当に鬼になってしまったら──
もしかしたらそういうこともあるかもしれない。いや、あの女であったらきっと鬼になったとしても不思議はない。
何があったかは知らないが、あの女が勝手に藤原為良を恨んで、かってに取り殺すのであれば、こちらに関係はない。しかし、自分が言ったことが原因で女が鬼になったとしたら──いや、鬼にならずともなったつもりで男を殺しにでも行ってしまったら……。
「でな、晴明よ。清介は、二条大路にある藤原為良の屋敷まで出かけて行ったというのだよ。行ってみたら驚いた。なんと、藤原為良、頭が痛いと言って、昨夜から寝こんでいるというではないか──」
あの、釘が深ぶかと打ち込まれていた箇所は、人形の頭であったことを、清介思い出して、いよいよ怖くなった。
清介、藤原為良に会って、昨夜の一部始終を語った。
「この藤原為良という男が、その話を聴いて、すっかり恐ろしくなってしまったのだよ」
覚えは、ある、というのである。
藤原為良、女がいた。
徳子という女で、三年ほどこの女のもとへ通っていたのだが、一年ほども前、他に新しい女ができて通わなくなったのだという。
その徳子が、自分を呪うているのであろうと為良は考えた。
徳子を捜そうとしたのだが、今はどこに住んでいるかわからない。
それで──
「藤原為良は、おれに泣きついてきたのだよ」
博雅は言った。
「博雅にではなく、このおれにだろう」
晴明は言った。
「そういうことだ。晴明殿のお力をもって、なんとかならぬものかとな」
「気が進まぬなあ」
「何故だ」
「これが男と女のことだからよ。他の女に通うのも、女に殺されるも、それは、他人が入るべき筋合のものではないのではないか」
「いつであったか、為良殿には唐《から》より伝来した笛をおかりして、吹かせてもろうたことがあるのだ──」
「ほう」
「為良殿のお屋敷で吹かせていただき、あまりによい笛であったので、七日七晩ほどおかりして、夜になると、堀川あたりを独りでそぞろ歩いては吹いたものだ」
「うむ」
「ある晩などは、お忍びで笛を聴きに来た美しい婦人にも会うた」
「婦人?」
「おう。堀川に一台の女車《めぐるま》が停まっていてな。吹き終ると、侍従の者がおれを呼びに来た」
博雅がゆくと、車の中から声がかかったという。
夜な夜な聴こえて来る笛の音に誘われて、いったいどういうお方が吹いておられるのかと、ここまでやってまいりました。わたしの名は申しあげられませぬが、あなたのお名前もうかがいますまい。ただ、この晩の笛の音は、一生忘れませぬ
と、そういう話をして、女車は去って行ったという。
「で、その方の顔は見なかったのか」
「いや、あちらは車の中で、御簾《みす》ごしに話をしていたのでな」
「見なかったのだな」
「うん」
「博雅、おまえ、今、美しい婦人と言ったではないか」
「いや、きっと美しい婦人に違いないと、そう思うたということさ」
「なんだ」
「ともかく、為良殿の笛のおかげで、そのようなこともあったのだよ」
「しかしなあ」
「以前、同じような境遇にいらした帝《みかど》をお助け申しあげたこともあったではないか」
「あの男は特別よ。死ねばもっとややこしい儀式だの何だので忙しくなるからな」
「こら、晴明。帝をあの男などと呼ぶものではないと、以前にも言ったぞ」
「怒るな、博雅よ。それにな、あのおりは、帝のお相手は、すでに死者であったからなあ」
「今回は、死者ではないと──」
「そうだ。為良殿のお生命《いのち》を守れば、今度は女の方の生命が危うくなろう」
「何故だ」
「女の方は、鬼にもなろうかというお方だ。現身《うつしみ》で願いが成就できぬとあらば、死してもと思うであろう。そうなれば、もっとたいへんなことになる。おれにとっては、為良殿の生命も、徳子殿の生命も同じものさ」
「一度離れた人の心は、もどっては来ぬ。哀しいことだが、徳子殿にはそこのところをわかってもらうというわけには──」
「ゆかぬだろうよ」
「ゆかぬか」
「そのくらいは、本人もわかっていようさ。何日も何十日も幾月も、毎日毎晩、そのお方は、そのような理《ことわり》をもって自分を納得させようとしたに違いない。しかし、納得できなかった。できなかったからこその鬼ぞ」
「ううむ」
「これがなあ博雅、誤解のうえでのことなら、その誤解を解けばよい。しかし、そうではないのだ」
「どうなのだ」
「救えぬ。当人の心に鬼が棲んでいるのだからなあ。いくら鬼を消しても、最後には当人そのものを消さねばならなくなるであろうよ。おれには、できぬ」
「できぬか」
「これが損得の話であれば、理をもって説けばよいのだがな。妄執あらば、その妄執を叶えてやればすむのだが、それが為良殿の死とあってはなあ」
「そうか──」
「そんなに哀しそうな顔をするな」
「うん」
「ともかく、ゆこうよ。とりあえず、今晩くらいはしのいでやることはできよう」
「行ってくれるか」
「うむ」
「しかし、今晩とは……」
「茅《ち》を大量に用意するように、為良殿のお屋敷へ、使いを走らせておこう」
「茅?」
茅、つまり藁《わら》のことである。
「人形《ひとがた》には人形さ。茅で為良殿の人形を作り、それを本物の為良殿と、徳子殿には思わせる。それで、全て済んでしまえばよいのだがな、博雅よ」
「う、うむ」
「ゆくぞ」
「うん」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
博雅は、闇の中で息をひそめている。
闇をそろそろと肺の中に吸い込み、そろそろと吐き出す。
それを繰り返していると、呼吸が苦しくなるのか、時おり、大きく息を吸い込む。
藤原為良の屋敷の、為良の部屋である。
奥の壁に背を預けるようにして、人尺《にんしやく》に作られた茅でできた人形《ひとがた》が座っている。
その腹のところに、白い紙片が張りつけられ、
藤原為良
と墨で書かれている。
この、ちょうど反対側──人形の為良が背を預けている壁のむこう側の部屋に、為良本人がいる。
為良は、晴明が呪《しゆ》を書き込んだ白装束に身を包んで、低く呪を唱えているのである。
「謹上再拝それ天開き地固まつしより此方 |伊弉諾伊弉冉《いざなぎいざなみ》の尊《みこと》 天の磐座《いわくら》にして みとのまぐはひ有りしより 男女《なんによ》の夫婦のかたらひをなし 陰陽の道長く伝はる それに何ぞ魍魎《もうりよう》鬼神《きじん》妨げをなし 非業《ひごう》の命《めい》を取らんとや 大小の神祇《じんぎ》 諸仏菩薩 明王部天童部 九曜七星《くようしちしよう》 二十八宿《にじゆうはつしゆく》を驚かし奉つり──」
その声が、低く、静かに隣りの部屋から響いてくる。
茅の人形の前には、三重の高棚があり、その上に、青、黄、赤、白、黒、五色に染めた幣《へい》が立ててあった。
灯火を、ただひとつだけ、床に置いた灯明皿に点《とぼ》してある。
部屋の隅に几帳《きちよう》を立て、博雅と晴明はその陰に身をひそめているのである。
「本当に来るのかな、晴明よ」
博雅が、声を小さくして囁いた。
「丑の刻になればわかるさ」
「あとどのくらいだ」
「もう半刻もないだろうよ」
「だが、あの茅の人形で、女を騙《だま》すことができるのか」
「為良殿の髪と、爪、そして為良殿の血で濡らした布を中に入れてある」
「それでいいのか」
「隣りの部屋には為良殿本人がいて、屋敷の使用人たちは、人払いをしてある。徳子殿は、あやまたずにここまでやって来るだろうよ」
「おれたちはどうなのだ?」
「徳子殿には見えぬ。几帳の周囲に結界を張ってあるからな」
「そうか」
「しかし、徳子殿が来たら、おれがよしというまで声をたてるなよ」
「わかった」
うなずいて、博雅はまた、闇を呼吸しはじめた。
やがて、半刻ほども過ぎたかと思える頃、音がした。
みしり、
という音だ。
重いものが、廊下に乗って、板が沈み、板と板とが触れあって軋《きし》む音だ。
猫のはずはない。
犬や鼠のはずもない。
人の重さがあってはじめて、板が軋むのである。
みしり、
みしり、
と、その音が近づいてくる。
ゆらりと、廊下の方に灯りがゆらめいた。
その人影は、ゆっくりと部屋に入ってきた。
女──
ぼうぼうと、長い黒髪を逆立てた女であった。
顔に赤く丹《に》を塗り、赤い衣《きぬ》を身に纏っている。
鉄輪を頭に被り、上にむいた三本の脚に、それぞれ蝋燭《ろうそく》を縛りつけて、火を点している。
その炎が、女の顔を闇の中に浮かびあがらせている。
凄まじい顔であった。
入ってきて、女は立ち止まり、その唇に喜悦の笑みを浮かべた。
白い歯を見せて、唇をにいっと左右に吊りあげたため、唇の表面がぷつぷつと切れて、血の玉がそこに滲んだ。
茅の人形を見、
「あな嬉しや、そこにおじゃりましたか」
すうっと、前に出てきた。
博雅は、ごくりと唾を呑み込んだ。
女の左手には、五寸の釘、右手には鎚が握られている。
「あら、恋しや憎らしや。久かたぶりに見るその姿……」
女の髪の毛が、ざわざわと心の高ぶりを示すようにさらに立ちあがる。立ちあがった髪の毛が、鉄輪の脚に縛りつけた炎に触れて、ちりちりと焦げ、ちろちろと小さな青い炎をあげる。
髪の毛の焦げる臭いが部屋に満ちた。
ふいに、女は、茅の人形にしがみついた。
「もう、この唇は、わたしの唇を吸うてはくれませぬのか」
女は、人形の顔の、ちょうど口のあるあたりに自分の唇をあて、吸い、そして、白い歯できりきりとそこを噛んだ。
離れ、衣の前をはだけ、白い両脚を開いて、
「おう、もう、ここも可愛がってはもらえませぬのか」
しゃがみ、両手を床につき、犬のように這って人形に近づいて、その股間のあたりの茅を、歯で、さりさりと噛んだ。
再び立ちあがり、踊るように身悶えした。
※[#歌記号、unicode303d]沈みしは水の青き鬼
我は貴船《きぶね》の川瀬の蛍火《ほたるび》
頭《こうべ》に戴く鉄輪《かなわ》の足の
焔の赤き鬼となつて
臥《ふ》したる男の枕に寄り添ひ
如何《いか》に殿御《とのご》よ珍しや
歯を、かちかちと噛みならすたびに、髪の毛は揺れて、ちりちりと燃えた。
※[#歌記号、unicode303d]恨めしや御身と契《ちぎ》りしその時は
玉椿《たまつばき》の八千代|二葉《ふたば》の松の末《すえ》かけて
変はらじとこそ思ひしに
などしも捨ては果て給ふらん
あら恨めしや
「あなたをお慕い申しあげたのは、わたしです。誰から命じられたわけでもありませぬ。あなたが心がわりをされたとて、気持がさめてしまうものでもないのです──」
涙を流しながら、女は言った。
「あなたにふたつ心のあることもわからず、契りをかわしてしまったこの悔しさも、みんな、この自分のせいとはわかってはいるものの……」
※[#歌記号、unicode303d]捨てられて
捨てられて
「つい思うてしまう。思えば苦しい。思えば苦しい──」
※[#歌記号、unicode303d]思ふ思ひの涙に沈み
思ひに沈む恨みの数
「積もって執心の鬼となるも理《ことわり》や──」
※[#歌記号、unicode303d]いでいで命をとらん
「いでいで命をとらん」
※[#歌記号、unicode303d]笞《しもと》を振り上げ後妻《うわなり》の
髪を手に絡《から》まいて
打つや宇津の山の
夢現《ゆめうつつ》とも分かざるうき世に
因果は廻《めぐ》り合ひたり
今更さこそ悔しかるらめ
さて懲《こ》りや思ひ知れ
「思い知れい!」
叫んだかと思うと、女は、茅の人形に、蜘蛛のように飛びつき、額に釘をあてると、それを右手に握った鎚で、おもいきり叩いた。
ずぶり、
と、釘が、人形の額に深く潜り込んだ。
「思い知れい!」
「思い知れい!」
叫びながら、狂ったように、何度も何度も叩いた。
髪が揺れ、鉄輪の炎に、触れて、ぽっ、ぽっ、と青白く炎があがる。
「むむう」
博雅が、低く声をあげていた。
女の動きが止まった。
「誰ぞいやるか」
人の声であった。
女の声から凄みが消えていた。
女は、周囲に視線を這《は》わせ、その眼が人形の上で止まった。
「おう……」
声をあげた。
「これは、為良さまではない。藁の人形ではないか」
女は、首を左右に浅く振った。
博雅と晴明は、几帳の陰から姿を現わした。
「おう、ぬしらは……」
ふたりと、それから三重の高棚と五色の幣《へい》を見、
「陰陽師か」
「そうだ」
晴明がうなずいた。
その後ろの博雅を見、
「博雅殿──」
声をはなった。
「見たのか」
女は言った。
「今のわらわの姿を見やったか。あのあさましき姿を見やったか……」
女は、気がついたように自分の姿を見た。
赤い衣の裾が乱れ、脚の付け根近くまでが見えている。
丹を塗った顔。
頭に被った鉄輪──
「むう、恥ずかしや、あさましのわが姿や──」
女は、鎚を放り投げ、鉄輪を頭からはずして投げた。
鉄輪が、重い音をたてて床に落ちた。
ふたつ、炎が消えたが、まだ一本の蝋燭に炎が点っている。
「おうおう、なんと、なんと……」
顔を両手で覆い、首を左右に打ち振った。
長い髪が、女の首にからみついてはほどけ、ほどけてはからみつく。
その髪の中に、何かが見えていた。
ふたつの、瘤《こぶ》のようなもの。
角だ。
鹿の角が生える時、生え始めはまだ柔らかく袋のような皮に包まれている。
その袋角《ふくろづの》が二本、女の頭部から生えだしていた。
頭の肉を割り、袋角が大きくなってゆく。
めりめりと、音がしそうなほど、その成長は速い。
血が流れ、髪の中から額まで伝った。
「おう、くちおしや……」
顔を覆っていた両手をはずした。
その顔──
眼が、裂けていた。
眼尻が裂けて、そこから血が流れ、眼球が前にせり出していた。
鼻がひしゃげ、唇を突き破って、牙が伸びていた。破けた唇から血がこぼれ顎を伝った。
「生成《なまなり》だ、博雅」
晴明が言った。
生成──嫉妬に狂った女が鬼に変じたのが般若である。生成というのは、女が鬼に変じきるその手前の段階の存在を指す言葉である。
人であって人でないもの。
鬼であって鬼でないもの。
その生成に、女は変じていたのである。
「くちおしや、くちおしや!!」
叫んで、ざあっと音をたてて生成となった女は外へ走り出していた。
「晴明!」
叫んで、博雅は女の後を追おうとしたが、もう、女の姿はなかった。
「あの女人、おれの名を知っていた……」
ふいに、気がついたように博雅は声をあげた。
「おう、どこかで聴いたことがあると思うていたが、あの声こそ、堀川で出会うた女車の方の声ぞ。さては、徳子殿があの方であったのか──」
博雅は、呆然となって、そこに立ち尽くしていた。
助けを求めるような眼で、晴明を見た。
「ああ、晴明よ、おれはなんということをしてしまったのだ。おまえになんということをさせてしまったのだ。あのお方を辱め、本物の鬼にしてしまった……」
ほとほとと牛車《ぎつしや》が進んでゆく。
車が石を踏むたびに、ごつんごつんという音が、中まで響いてくる。
東の空が、白みはじめるまでには、まだいくらかの時間がある。
牛車を牽《ひ》いているのは、黒い大きな牛である。その牛の前の宙空を、白いものがひらひらと舞っている。蝶のようであった。しかし、蝶にしては、少し奇妙であった。片羽《かたはね》しかないのである。
左側の二枚だけ──
右側の二枚の羽がない。
それでも、どういうわけか、その蝶は、ひらひらと宙を飛んでいるのである。
揚羽《あげは》のようであった。
何故、揚羽が夜に飛ぶのか。
夜に飛ぶのなら、蛾であるはずなのに、牛の前を飛んでゆくのは、陽光の中を飛ぶはずの揚羽蝶である。
その揚羽の後を、牛が尾《つ》いてゆく。
この揚羽、どうやら晴明が放った式神《しきがみ》のようであった。
牛車の中で、博雅は、ずっと黙り続けている。ほとんど口をきかない。時おり、晴明が声をかけても、短く返事をするだけだ。
晴明も、今は声をかけずに、博雅の無言にまかせている。
「なあ、晴明よ、おまえの言う通りだったなあ……」
ふいに、博雅が言った。
しみじみとした声だった。
「何がだ」
「徳子殿のことだよ。一方を守るということは、一方を見捨てるということになってしまうのだな。つくづく、そのことがよくわかったよ」
博雅の声には元気がない。
「たとえばだ、晴明よ。ここに狐がいて兎をねらっているとするだろう」
「うむ」
「それを人が、兎が可哀そうだからといってそれを助けていたら、狐が喰うものがなくて飢え死にをしてしまう……」
「うむ」
晴明は、短くうなずいているだけだ。
これまで、博雅の無言にまかせていたように、今は、博雅のしゃべるにまかせているらしい。
「やはり、これは、放っておくべきことであったのかもしれぬと、今は思っているよ。あのような姿を他人に見られたら、もしおれだったら……」
「おまえだったら?」
「生きてはおれないかもしれぬ」
「───」
「貴船明神のお告げというのは、あれは本当のことだったのかもしれぬな」
「ああ」
「結局、徳子殿は、生成とはいえ、鬼になってしまったわけだからな」
「本人が、そう望んだのだ」
「いいや。いくら望んだとしても、心の底の本当のところは、できれば徳子殿は、鬼になぞなりたくなかったはずだ」
「博雅よ、徳子殿だけではない。人は、誰でも、鬼になりたいと願うことがあるのだよ。誰でも、皆、人はあのような鬼を心の中に棲まわせているのだ」
「おれの心の中にもいるのか」
「うむ」
「おまえの心の中にもいるのか」
「いる」
言われて、博雅は沈黙し、やがて、
「哀しいものだなあ」
溜め息をついた。
「しかし、晴明よ。なんだって、貴船の神が、人を、悪しき技をもってあのような鬼にするのだ」
「いいや、違うぞ博雅。人は、自ら鬼になるのだ。鬼にならんと願うたは人よ。|高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《たかおかみのかみ》も|闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《くらおかみのかみ》も、その人にわずかの力を貸したにすぎぬ」
「だが……」
「よいか、博雅、神とは何だ」
「神?」
「神とはな、煎《せん》じつめれば、結局、力なのだ」
「力?」
「その力に、高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神とか闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神という名を、つまり呪をかけたものが神なのだよ」
「───」
「貴船神社は、水神だそうな」
「うむ」
「その水は善か、悪か」
「うむむ」
「田に雨をもたらす時、水は善だ」
「む」
「しかし、その雨が降り続いて水害となれば、水は悪だろう」
「むむ」
「しかし、本来、水はただ水であるばかりであり、それを善であるとか、悪であるとか言うのは、人の側に、その善も悪もあるからなのだよ」
「むむむ」
「貴船の神が、祈雨と止雨、そのふたつを司《つかさど》っているのは、そのためよ」
「むう」
「鬼もまた同じぞ」
「鬼は人が生んだというのだな」
「うむ」
「おまえの言うことは、よくわかるよ、晴明──」
「博雅よ。おそらくな、この鬼あるからこその人よ」
「───」
「鬼が人の心に棲むからこそ、人は歌を詠《よ》み、琵琶も弾き、笛も吹く。鬼がいなくなったら、およそ人の世は味けないものになってしまうだろうな。それにだ──」
「何だ」
「それに、鬼がいなくなったら、この安倍晴明もいなくなるということだ」
「おまえが?」
「仕事がなくなる」
「しかし、人と鬼とは、切っても切りはなせぬものなのだろう」
「そうだ」
「ならば、人ある限り、おまえの仕事はなくならぬということではないか、晴明よ」
「ま、そういうことだな」
晴明はつぶやき、前の御簾《みす》を軽く持ちあげて外を見た。
「あの飛び方では、じきに着くぞ」
「飛び方?」
「蝶のだよ。あの蝶のかたわれを、あの徳子殿の肩に留まらせておいた。そのかたわれをかたわれが追っているのさ」
晴明は御簾を下ろして、博雅を見やった。
「すまぬな、晴明──」
「何がだ」
「いろいろ、なぐさめられた」
「急に何を言う」
「晴明よ、おまえはよい漢《おとこ》だ」
いつも晴明から言われていることを、博雅は言った。
「ばか」
晴明が苦笑してからほどなくして、牛車が停まった。
西の京──
雑木林の中に建てられたあばら屋であった。
四隅に柱を立て、板を打ちつけただけの壁。
屋根には草を載せただけの家である。
屋根の草や、家のまわりに生えた草に、夜露が宿って、そのひとつずつに、青く小さな月光が点っている。
その家の入口あたりに、白い、片羽の揚羽が、ひらひらと踊っている。
牛車を降り、
「ここだな」
晴明が言った。
「なんと、このような破《や》れ屋《や》に……」
それきり、博雅は、言葉もない。
博雅は、右手に、炎の点いた松明《たいまつ》を握っている。
「もし……」
晴明が声をかける。
「どなたかおられまするか」
返事はない。
未明──
人々が、一番深い眠りについている時間帯である。
さすがに、月も西に傾いており、もう、半刻もせぬうちに、しらじらと、東の空が白みかけるであろう。
と──
闇の中に漂って来たのは、血の匂いであった。
「晴明」
「うむ」
晴明が、顎を引いてうなずいた。
博雅の手から松明を受け取って、
「ゆくぞ」
先頭に晴明が立ち、ゆっくりと入口をくぐった。
土間と、かたちばかりの板の間があり、土間には水瓶と、それから竈《かまど》があった。
鍋がひとつ、土間の上に転がっていた。
板の間に、女が仰向けに倒れていた。
丹《に》を落とし、白い装束に着替えてはいるが、まだ、生成の姿のままだ。
その喉に、懐剣が刺さっていた。
そこから、血が板の間に流れ出ている。
女は、自らの手で、自分の喉を突いたらしかった。
「徳子殿──」
博雅が、板の間に駆けあがり、女を抱き起こそうとした。
その時、ふいに、女がかっと眼を見開いて身を起こし、博雅の喉に、歯で啖《くら》いつこうとした。
「博雅!」
晴明が、手にしていた炎の点《つ》いた松明を、女と博雅の間に突き出した。
女は、炎の点いた松明に噛みついた。
火の粉が、ぱあっと舞いあがって、ぱちぱちと音をたてる。
晴明が、松明をはずそうとしても、女は、それを咥《くわ》えたまま離そうとしない。
女の髪の毛が、ちりちりと焦げてゆく。
ほどなく、女は、松明から口を離し、力尽きたように仰向けになった。
「徳子殿──」
博雅が女を抱えあげる。
「取りて喰おうと思うたに……」
女は、口から血をこぼしながら、ひゅうひゅうと喉を鳴らして囁いた。
「喰え」
博雅は、女の耳に口を寄せて言った。
「取りておれを喰え。わが肉を啖え」
囁いた。
「すまぬ。すまぬ。晴明におまえの邪魔をさせたのはこの博雅ぞ。この博雅が、晴明に、無理に頼んで来てもろうた。このおれが、ぬしの邪魔をしたのだ。されば、わが肉を啖い、心の臓に歯をたてよ!」
生成姿の女が、首を左右に振った。
「これは、わたしが望んだことなのです」
言うその唇から、青白い炎が、めろめろと言葉と共に燃えあがる。
「生きたまま、鬼とならんと思うたのですが、それもかなわず、かえって、あのようなあさましき姿を見られてしまいました。この上は、もはや生きてはおれませぬ。自らの手で、懐剣を喉に突きたて──」
生成の鬼女が息を微かにしながら言った。
「かような姿になってもまだ消えませぬ。まだ、恨みが消えぬのです。この上は、死して、真《まこと》の鬼神となって、為良に祟《たた》りをなさんと……」
泣きながら、女は言った。
「わたしとて、あの男の肉など、啖いとうはないのです。しかし、そうせねば、この、胸の中に荒れ狂う気持が晴れぬのです」
「おれのところへ来い。死してなお、晴れねば、おれのところへ出て、おれを啖え」
「なんと、博雅さま……」
「わが名を知るか?」
「今、博雅さま御自身が、御自分の名を口にされたばかりではありませぬか。でも、博雅さまのお名は、以前より聴いております。それから、笛も──」
「あの、堀川での晩、女車の中で──」
「御存知でしたか」
「そなたの声を聴いて、思い出したのだ」
「あれは、まだ為良さまと仲睦《なかむつま》じかった頃でございます。為良さまが、博雅さまに笛をおかしあそばされたことがございました」
「あったよ、たしかに……」
「為良さま申すには、徳子よ、よき笛を聴きたくば、夜、堀川へゆけと──」
「───」
「博雅さまが、そこで夜な夜な笛をお吹きあそばされていること、為良さま御存知でおられました」
「うん、うん」
と博雅はうなずいている。
「あの頃は、楽しゅうござりました。また、あの頃にもどって、博雅さまの笛を──」
女の眸から涙が溢れている。
「よいとも!」
博雅は言った。
「よいとも。いつでもこの博雅が、そなたに笛を聴かせよう」
博雅は、女の耳元に口を近づけて言った。
「博雅さま、あまりにお顔をお近づけになると、また喉に……」
女が、歯を鳴らした。
ふっ、
と、女の様子がまたもとに戻る。
「徳子殿。あるのだよ。泣こうが、苦しもうが、どんなに焦がれようが、どれほど想いをかけようが、戻らぬ人の心はあるのだよ……」
「───」
「徳子殿。わたしはそなたに何もしてやれぬ。何もしてやることができぬのだ。ああ、なんという、なんという、力のない愚かな男なのだ、このわたしは……」
博雅は涙を流していた。
「いいえ、いいえ」
と、徳子は首を左右に振った。
「わかっております。みんなわかっております。わかっていても人は鬼になるのでございますよ。憎しみや哀しみを癒《いや》すどのような法も、この人の世にない時、もはや、人は鬼になるしか術《すべ》がないのでございます」
「徳子殿──」
「お願いがございます。死して後、鬼となってあの為良を啖いたくなったおりは、博雅さまのところへ参ります。その時、笛を、吹いてはくださりませぬか」
「おう。いつでも、いつでも!」
博雅が言った時、女が、がっくりと首を落とした。
博雅の腕の中で、女の身体が急に重くなった。
約束した通りに、年に何度か、生成姿の女が、夜になると博雅の傍に現われるようになった。
すると、博雅は、笛を吹いた。
また、生成の鬼は、博雅が、夜、独りで笛を吹いている時にも現われた。
女の鬼は、ひと言も口を利かなかった。
ひっそりと部屋の片隅に、あるいは、外であれば物陰に姿を現わし、凝《じ》っと笛の音に耳を傾け、博雅が笛を吹き終る頃には、いつの間にか姿を消していた。
※[#歌記号、unicode303d]言ふ声ばかりは定かに聞こえて
言ふ声ばかり
聞こえて姿は
目に見えぬ鬼とぞなりにける
目に見えぬ鬼となりにけり
[#改ページ]
這《は》う鬼《おに》
秋である。
神無月《かんなづき》の頃──
冷やひやとした涼しい風が吹く縁に座して、源博雅《みなもとのひろまさ》は酒を飲んでいる。
その前に、白い狩衣《かりぎぬ》を着た安倍晴明《あべのせいめい》が座して、博雅と同様に、盃《さかずき》を、時おりその唇に運んでいる。
ほんのりと紅い晴明の唇は、常に微笑をその口に含んでいるように見える。甘い芳香を放つ蜜を、舌先にいつも載せていれば、そのような笑みが浮かぶのかもしれない。
夜であった。
傍の縁の上に灯明皿が置かれ、そこに灯が点《とぼ》っている。それを、風よけのためであろう、竹の骨組に、和紙を張りつけて造った筒を上から被せて囲っている。
酒の肴《さかな》は、焼いた茸《きのこ》と干し魚である。
月が、天から青い光を庭に注いでいる。
闇の中で、芒《すすき》や女郎花《おみなえし》、桔梗《ききよう》が静かに風に揺れている気配がある。
夏の、むっとするような草の香気は今はなく、ただうるおいはあるものの、どこか乾いたような香りが、風に溶けているばかりであった。
秋の虫がひとつ、ふたつ、叢《くさむら》のどこかで鳴いている。
満月──
「なあ、晴明よ」
博雅が、杯を置いて、晴明に声をかける。
「なんだ」
口元へ運んでゆく途中で杯を止め、晴明が答える。
「本当に、知らぬ間に移ろうてゆくものなのだなあ……」
「何がだ」
「だから、季節がだよ。ついこの間までは、毎日暑い暑いと言いながら、こんな夜は蚊などを追っていたような気がするが、今は蚊など一匹もおらぬ。あんなにうるさかった蝉《せみ》の声も、もうどこにもない……」
「うむ」
「鳴いているのは秋の虫ばかりで、その声も、もう、ひと頃よりはずっと少なくなった……」
「そうだな」
「人の心も、まあ、このようなものなのだろうなあ、晴明よ」
「このようなとは?」
「だから、人の心もまた季節のように移ろうてゆくものなのだなと、おれは言っているのだよ」
晴明は、小さく含み笑いをして、
「どうした、博雅?」
声をかけた。
「今日は、なかなか神妙ではないか」
「季節の境目には誰でもこのような心もちになるのだ」
「そうだろう。おまえがそうなるくらいだからな」
「こら、晴明。おれを茶化さないでくれ。今日は、いろいろと想うところがあるのだからな」
「ほう」
「おまえ、聞いているか」
「何をだ」
「高野の寿海僧都《じゆかいそうず》が出家されたわけをだよ」
「はて──」
「おれは、昨夜、宿直《とのい》のおりに藤原景正殿より聴かされたよ。なかなか、胸に応《こた》える話であったぞ」
「どのような話だ?」
「寿海僧都は、もともとは、石見国《いわみのくに》の国司をされておられた」
「うむ」
「もともとは、京に住まわれていたお方なのだが、石見国の国司を命じられて、あちらへお移りになられたのだ。そのおりに、寿海殿の母君や妻女も連れてゆかれ、あちらでは一緒に住まわれることになった──」
「うむ──」
「母君も妻女も、寿海殿の眼には実に仲ようやっておられるように見えた……」
「ほう」
「それが、ある晩のことだそうな」
と、博雅は声を低くした。
「ある一室で、母君と妻女が仲睦《なかむつま》じく碁を打っておられた。寿海殿はたまたま通りかかって、その姿を見られたのだが──」
「どうした」
「ちょうど、障子が立ててあり、その向こうに灯火があり、母君と妻女、おふたりの碁を打つ姿が、影となってその障子に映っていた……」
「ほほう」
「その影を見て、寿海殿、驚いた……」
「どうした?」
「障子に映っていたふたりの髪が逆立ち、蛇となって、互いに啖《くら》いあっていたというのだよ」
「ははあ」
「怖ろしいものだなあ。一見は、仲よう碁などを打っているように見えたおふたりが、実は心の中では相手を憎みあっていて、その想いが障子に映った髪の影を蛇に変えて、あい争うていたわけだからな」
いとあさまし──
「寿海殿、持っているもの全てを母君や妻女に分け与え、自らは衣ひとつの身になって出家し、高野に入ってしまわれたのだよ」
「なるほど、そういうことであったか」
「晴明よ。人も、今が盛りと思うていても、何かしら、どこかで次のことの準備が始まっているものなのだろうよ。ならばいっそ、盛りの時に自らそれに背を向けて、寿海殿のように出家してしまうということもあるのだろうな」
「うむ」
「それにしても、障子に映った髪が、蛇の姿に見えるなどということも、あるのだなあ」
「博雅よ。たしかに人の髪には大きな呪《しゆ》の力があることはあるが、寿海殿の場合は、何も母君と妻女のふたりばかりに責《せき》があるとは限らぬぞ」
「ほほう」
「人は、ついつい、自分の心の中で呪をかけてものを見ることがあるからな」
「どういうことだ、晴明」
「つまり、寿海殿は、前々から出家したがっていて、そのきっかけが欲しかったのではないか。それで、想わず御自分の心のうちを、障子の影に映して見てしまったのかもしれぬ」
「どちらなのだ」
「だから、それはわからぬということさ。寿海殿に訊ねたところで、御本人にすらわからぬ心の綾《あや》であろうからな」
「ふうん」
博雅は、それで納得したようなしないような顔でうなずき、杯をまた口に運んだ。
「ところで、博雅、今夜、ひとつつきあわぬか」
「つきあうって、今、こうしておまえと一緒にいるではないか」
「そうではない。今夜、これからゆくところがあるのだ。そこへ一緒につきあわぬかということさ」
「どこへゆくのだ?」
「女のところさ」
「女だと?」
「四条の堀川に近いさるお屋敷に、貴子《たかこ》というおひとが住んでおられる」
「そこへゆくのか」
「うむ」
「こら、晴明よ。女のもとへ通うのに、男を連れてゆくなどという無粋なことがあるか。ゆくのならひとりでゆけ」
「待て、博雅、そうではないのだ」
「何がだ、晴明」
「だから、今夜、女のもとへゆくというのは、おれの仕事の方のことさ」
「仕事?」
「まあ、聴けよ博雅。ゆくには、まだしばらく時間があるのでな。これからおれが話すことを耳にしてから、ゆくかゆかぬかを決めても遅くはあるまいよ」
「聴くことは聴くが──」
「どうしたのだ」
「おれは、おまえが女のところにゆくなどというから、なるほど、おまえにも人なみなところがあったのか、安倍晴明も女のもとへ通うというようなことがあるのだなあと思っていたのだ」
「そうでなくて残念だったか」
「いや、残念ということではない」
「では、そうでなくてよかったということか──」
「そういうことをおれに訊くな」
博雅は、怒ったように唇を閉じ、眼をそらせた。
晴明は、小さく含み笑いをしてから、
「まあ、聴け、博雅よ」
そう言って、杯をまた紅い唇に運んだ。
紀《き》ノ遠助《とおすけ》という男がいた。
美濃国の男で、四条堀川のさる屋敷で、長《なが》宿直《とのい》をしている。
召《め》されて京へ上る時に、妻の細女《ささめ》と共に都までやってきた。
この遠助、普段は、四条堀川のその屋敷にいるのだが、折を見ては、まめに、西の京にある自分の家に帰って、細女と一緒にすごすことが多かった。
屋敷の主人は、さるやんごとない筋の女で、名を貴子といった。
ある時、女主人である貴子から、用事を仰せつかり、遠助は、大津まで出かけてゆくことになった。
三日ほどの時間をもらったが、用事そのものは、そんなに時間のかかるものではない。
二日目の朝には、言われた用事は済んでしまった。
もうひと晩大津で泊まり、翌日に屋敷にもどればいいのだが、それよりも道を急いでその日のうちに都へ入ってしまえば、ひと晩自分の家で細女と共に休むことができる。ならば、そうしようかと考えて、遠助は都へもどることにした。
もう、都まであといくらもない鴨川の橋にさしかかるあたりで日が暮れた。
黄昏《たそがれ》時の鴨川の橋を渡り終えたところで、遠助は声をかけられた。
「もうし……」
女の声であった。
振り返れば、橋のたもとに、被衣《かつぎ》姿の女がひとり立っている。
はて──
今しがた通ったおりには、誰もいなかったように思うのだが、しかし、今そこにひとりの女がいるということは、どうやら道を急ぐあまり、自分は立っている女に気づかなかったらしい。
陽も沈んで、あたりはもう薄暗くなっている。
「何か──」
と、遠助は女に向かって言った。
「はい」
と女はうなずき、
「わたくしは、昔、あなたの御主人である貴子さまと、ささやかな縁があった者でございます」
そう言った。
はて?
と、また遠助は思った。
この女が、昔、自分の主人である貴子と知り合いであったというのはいい。それはわかるが、しかし、何故、この自分が貴子の屋敷の者であると、この女にわかったのか。
遠助は、それを女に訊いた。
女が答えるには、
「何度かお屋敷の前を通ったことがありましたが、そのおりにあなたさまの姿をお見かけしたことがございます」
なるほど。
「二日前に、あなたさまがこの橋を渡って東の方へお出かけになるのをたまたまお見かけしまして、大仰な旅姿でもないので、いずれまた二、三日でおもどりになられるのだなと考えて、こうしてここでお待ち申しあげておりました──」
ははあ、そういうことか。
「で、何故、わたしを待っていたのですか」
「はい」
被衣をかぶっているため、女の顔の全ては見えない。白い顎と、赤い口元が遠助からは見えているばかりである。
その赤い唇が、にんまりと笑った。
「実は、貴子さまにお届けするものがございまして……」
女は、被衣から手を離して、懐に手を入れて、美しい絹に包んだ文箱《ふばこ》のようなものを取り出した。
「おもどりになられましたら、これを貴子さまにお渡ししていただきたいのです」
「何故、御自分でお持ちになられないのですか」
この女は、どうやら二日もここで自分を待っていたらしいが、それならその間に自分で貴子の屋敷まで行ってもどってくることもできるではないか──遠助はそう思った。
「故あって、わたくしはお屋敷に顔を出すことができないのです。何とぞお願い申しあげます」
と、無理に遠助の手にそれを押しつけてくる。
思わず、遠助はその箱を受け取ってしまった。
「お願いいたします」
女が、深ぶかと頭を下げる。
「お名前は?」
遠助が問うと、
「今は申しあげられませんが、貴子さまがその箱をお開けになられれば、その時にわかります」
と言う。
「ひとつだけ申しあげておきますが、貴子さまにお渡しする前に、くれぐれもその箱を途中でお開けになりませぬように。お開けになりますと、あなたさまのためになりませぬ……」
どうにも気味のよくないことを言う。
こんな箱を預っては何があるかわからない。
返してしまおうと口を開きかけたが、遠助が言葉を舌に載せるより早く、
「では、よろしゅうに……」
女が、深く頭を下げて先に背を向けてしまった。
遠助、しかたなく足を二、三歩踏み出したが、どうも女のことが気にかかる。やはりことわろうかと後ろを振り返ったが、その時にはもう女の姿はどこにもない。
夕刻と呼ばれる時間は終り、闇がいっそう濃くなっている。
しかたがない。
遠助はあきらめて、箱を抱えて歩き出した。
幸いにも、満月に近い月が東の空に昇りかけており、その月明かりをたよりに歩き通して、真夜中になる前には自分の家に着いた。
妻の細女は、遠助を見て喜んだが、夫が持っていた絹の包みを見つけ、
「あら、それはなあに?」
そう訊いた。
遠助はあわてて、
「いや、これはどうというものではない。気にするな」
そう言って、壺屋《つぼや》の棚にそれを置いた。
さて、遠助の妻は、夫が旅の疲れから、すっかり寝静まってしまっても、あの箱のことが気になって眠れない。
もともと嫉妬心の強い女であったから、てっきりあの箱は、夫がどこかの女のために旅先から買い込んできたものに違いないと思い込んでいた。
あんなに綺麗な絹に包んだりして、いったいどんな箱なのかしら──
考えれば考えるほど、気になり、くやしくなって眠れない。
細女はついに意を決して起きあがり、灯りを点《とぼ》して壺屋に入った。
空いている棚に灯りを置いて、あの箱を手に取った。
絹をはずしてみれば、みごとな螺鈿《らでん》紋様の入った漆塗《うるしぬ》りの箱である。
かっ、と頭に血が上り、細女がその蓋を開けると──
ざわっ、
と箱の中で何かが動いて、黒い気味の悪いものがそこから外に飛び出した。
「あなや!」
思わず大きな声で叫べば、さすがにその声は遠助の耳にも届いて、夫が起き出してきた。
遠助、壺屋までやってくると、妻の細女がそこで腰を抜かして座り込み、がたがたと震えている。
「どうした!?」
声をかけても、妻は口を鯉のようにぱくぱくと動かして、床の一点を指差すばかりである。
灯火の明りで床のその場所を見れば、ぞっとするような、何かが這ったか、何かを引きずったかのような赤い血の筋が付いている。
遠助が追ってみるとその跡は、壺屋を出て、廊下へと出、さらに板戸の隙間から外へ抜け出ている。
もう、その先へ追う勇気もない。
壺屋にもどってみると、細女はようやく口がきけるようになっていて、
「箱を、あの箱を開けたら中から気味の悪いものが飛び出してきて……」
「何が出てきたのだ」
「わからないのよ。気が動転していて、よく見ていられなかったわ」
息も絶えだえである。
遠助が棚の上を見ると、蓋が開いたまままだ箱がそこに置かれている。件《くだん》の箱を手にとって、遠助は中を覗き込んだ。
その途端、
「わっ」
と声をあげて、遠助は箱を放り出した。
灯火で箱の中をよく見れば、そこに入っていたのは、なんと、瞼《まぶた》ごと抉《くじ》り取った目玉がふたつと、陰毛を付けたままえぐり取られた男根であった。
「くむう……」
話を聴いていた博雅が、思わず喉の奥で声をあげていた。
「それが昨夜のことさ」
晴明が言った。
「昨夜?」
「うむ。それで、朝になるとすぐ、遠助はあわてて屋敷にもどって貴子殿に一部始終を話し、件の箱を手渡したのさ」
「で?」
「で、貴子殿がこのおれを呼びに来たと、そういうわけなのだ」
「では、今夜、会いにゆくという女は──」
「件《くだん》の、貴子殿だよ」
「そういうことか」
ようやく腑に落ちたような顔で、博雅はうなずいた。
「しかし、それならば何故、昼のうちにゆかぬのだ」
「貴子殿が声をかけてきたのが、夕刻よ。おまえの来る少し前だ」
「う、うむ」
「これから、知り合いが来るので、食事を済ませたらその男と共に参りますからと、使いの者には言っておいた」
「共に参りますって、晴明、その共にゆく男というのは──」
「おまえのことさ、博雅」
「このおれか」
「そうだ」
「む、むう」
「ゆかぬのか」
「いや、ゆかぬとは言っておらぬ」
「ならばよいではないか。いろいろと手伝ってもらうことになるやもしれぬのでな」
「手伝う? このおれが必要になりそうなのか──」
「まあ、なるやもしれぬ」
「そうか」
「ゆかぬか」
「う、うむ」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
牛車《ぎつしや》で、四条堀川にあるその屋敷に向かった。
舎人《とねり》も誰も付かず、ただ黒い大きな牛が、月光の中を、晴明と博雅の乗った車をほとほとと牽《ひ》いてゆく。
「なあ、晴明よ」
牛車に揺られながら、博雅が言う。
「何だ」
「あの、鴨川の橋のたもとにいたという女だがな、いったい何者なのだろう」
「さあて」
「もとより人としても、尋常の人ではないのであろうが……」
「まあ、そうであろうな」
「鬼か」
「急《せ》くことはない」
晴明の口調は、あくまでも静かである。
「しかし、箱から飛び出したという黒いものとは、いったい何であったのだろうなあ。その話を聴いた時には、おれは、背筋が寒くなったよ」
「いずれ、わかるだろうよ。今晩、これから貴子殿に会って、いろいろと話を聴いてみればな──」
「うむ」
博雅はうなずき、簾《すだれ》を持ちあげて外を見やった。
車は、道の小石や窪みを踏みながら、小さく音をたてて進んでいる。
青い月明かりが、車の影を濃く地面に落としていた。
屋敷に着いた。
すぐに、晴明と博雅は貴子の寝所に案内されたが、屋敷の中には、あわただしい気配が満ちていた。
あちらこちらの部屋で侍女たちが息をひそめ、闇の中で眼を開き、緊張した呼吸を繰り返しているのがわかる。
庭にも、幾つかの篝火《かがりび》が焚かれ、廊下のあちこちにも灯火が点っている。
警固の者と思える武士がひとり、ふたり、庭の篝火の周囲に立っているのも見える。
案内をされたその部屋で、晴明は、博雅と並んで座し、貴子と向き合った。
貴子は、歳の頃なら二十四、五ばかりの、切れ長の眼をした肌の白い女であった。
貴子の横には、何もかも心得ているような老女がひとり、表情の無い顔で座していた。しかし、その眼には、時おり不安と怯《おび》えの色が浮かぶ。
晴明と博雅を迎え入れ、人払いをした後にもまだこの部屋に残っているところを見ると、この老女はよほど貴子に信頼されているのだろう。
晴明は、丁寧に貴子に挨拶をし、博雅を紹介した。
「いろいろと、手伝ってもらうこともあろうかと思い、共にまいりました。わたしに話をしてよいことは、みな、この博雅に聴かれてもよいことです」
晴明が言うと、
「わかりました」
貴子が頭を下げた。
「こちらは──」
と、貴子が傍の老女を見やると、
「浮舟でござります。まだお小さい頃、貴子さまをわたくしの乳でお育て申しあげました」
老女が頭を下げた。
なるほど、それで貴子の傍にいるのかと納得がゆく。
「それにしても、お屋敷がずいぶんと騒がしいようですね」
晴明は、あたりを見回すようにして言った。
「半刻《はんとき》ほど前、侍女のひとりにおかしなことが──」
と貴子は声をひそめた。
怯えの色が表情に出ている。
灯火の炎を、頬のあたりに揺らしているのに、貴子の肌の色は青白く見える。
それだけ血の色が失せているらしい。
「何かあったのですか」
「はい。廊下を歩いている時、足に、何かべったりとしたものがからみついてきたというのです」
「ほう」
侍女は、悲鳴をあげて転倒した。
その声を聴きつけて、他の者が駆けつけた時には、もう、侍女の足にからみついたものは姿を消していた。しかし、その侍女の素足に、べっとりと血の跡がこびりついていたのだという。
「それはちょうどよいところに来ました。わたしが考えていたよりも、ずっとことは先に進んでいるようですね」
できるだけ感情は殺しているが、楽しんでいるのかと思えるほどの声音で晴明は言った。敏感な耳ならば、晴明の声の裡《うち》にこもる、隠しきれない嬉々とした響きを聴きとっていたろう。
しかし、貴子は、むろん晴明のそのような声の艶《つや》には気づいていない。
「もしや、遠助の家で箱を開けたおり、その中より逃げ出した黒いものがここまで来たと──」
「もちろん考えられますが、そう決める前にお話をまずうかがわせてください」
「はい」
「あなたは、あの箱の中身をごらんになられましたか」
「───」
「どうなのですか」
「見ました」
細い声で、貴子は言った。
「その箱は、今もこちらに?」
「はい」
「見せていただけますか」
「はい」
とうなずいて、貴子は、老女を見やった。
老女は、うなずき、黙ったまま立ちあがり、姿を消した。
ほどなく、老女は、絹に包んだ四角いものを手に持って、もどってきた。
「これを──」
そう言って、晴明の前にそれを置いた。
「拝見しましょう」
晴明は、絹を開いて、箱を取り出し、蓋を開けた。
貴子は、顔を伏せ、持ちあげた右手の袖で、自分の視界を塞《ふさ》いだ。
晴明は、表情を変えずに箱の中をしばらく覗いてから、
「博雅、見るか」
そう問うた。
「う、うむ……」
博雅はうなずき、膝でにじり寄って、箱の中を覗いた。
博雅は、すぐに視線をそらせて、もとの位置にもどった。
博雅の額に、小さな汗がふつふつと浮いていた。
「この箱の中身に心あたりは?」
晴明は訊いた。
「ございます……」
貴子は、堅い声でいった。
「どなたのものでしょう」
問われて、貴子は顔を伏せ、何度か唇を開きかけては、それを閉じた。
やがて、覚悟を決めたように顔をあげ、晴明を見た。
凜《りん》とした顔であった。
挑むような目で晴明を睨み、
「藤原康範《ふじわらのやすのり》さまのおもちものでございます」
ひと息にそう言った。
「眼の方は?」
「目玉の方はわかりませんが、これもおそらくは康範さまのものと──」
気丈に貴子は言った。
「二条大路にお屋敷のある藤原康範さま──」
「はい」
「この三、四日、行方がしれぬとうかがっておりましたが、このようなことになっているとは──」
「───」
「藤原康範殿、こちらに通われていらっしゃったのですね」
「ええ」
「どうして、このようなことになったか、何か思いあたることはありませんか」
晴明が問うた時、貴子のちょうど膝先に、ぽたり、と音をたてて落ちてきたものがあった。
赤い、血の滴《しずく》だった。
あっ、
と、思わず見あげた貴子の顔の上に、ばさりと上から落ちてきたものがあった。
長い、大量の黒髪であった。
貴子は、声もあげずに、仰向けになって倒れた。
苦しそうに身をよじってもがいた。
掻きむしるように、自分の手で黒髪をひき剥《は》がそうとするが、剥がせない。
「貴子さま!」
老女が駆け寄って、黒髪を掴んでそれを貴子の顔から剥がそうとしたが、やはり剥がれない。黒髪を掴んでぐいと引けば、上に貴子の首も持ちあがってしまうからである。貴子の胸に足を乗せ、おもいきり引けば、いよいよ苦しげに貴子はのたうつばかりであった。
「無理だ。顔に張りついている」
晴明が言った。
「力まかせに引けば、貴子殿の顔の皮が、肉ごとむけてしまうぞ」
「し、しかし──」
「皮だ。これは髪だけではない。皮ごと人の頭から引きむしられた髪だ。その皮の部分が、貴子殿の顔に張りついているのだ」
「で、では、どうすればよろしいのですか、晴明さま──」
老女が、おろおろとして、晴明を見あげた。
もう、眼も鼻も口も塞がれて、貴子は息ができない。その苦しさから床の上でもがき、自分で髪の毛をつかんでひき剥がそうとするのだが、むろん、それで、剥がせるものではなかった。
「博雅!」
晴明は、立ちあがり、貴子を見下ろしながら叫んだ。
「貴子殿が動かぬように上から押さえつけ、素手で髪を引いてみてくれぬか」
「おう」
答えて博雅は、もがく貴子を上から押さえるようにして、右手を髪の毛に伸ばした。
ざわっ、
と、髪の毛が動いて、博雅の右手をからめ取り、右手首、腕、二の腕とからみついてゆく。
「ど、どうする!?」
博雅が、助けを求めるように晴明を見る。
「貴子殿が動かぬようにしてくれ」
晴明は、言いながら、貴子の頭の方へとまわり、その頭部を両手で抱えるようにした。
「晴明、貴子殿は息ができぬ。このままでは死んでしまうぞ!」
博雅が叫ぶ。
「晴明!」
博雅の声は、もう、悲鳴のようであった。
晴明は、貴子の頭部を抱え、
「むう……」
歯を噛み、その間から声を絞り出す。
そのうちに、ふいに、貴子がぐったりとなって動かなくなった。
「晴明!」
「むう!?」
「どうした!?」
「いかん、貴子殿が──」
「どうしたのだ」
「亡くなられた」
晴明が、喉から苦汁を絞り出すような声で言った。
「なに!?」
「すまぬ。おれの失態だ──」
「なんと……」
博雅が言った時、
ぬちゃり……
という音がして、貴子の顔に張りついていた黒髪がはずれた。
博雅が、呆然として立ちあがる。
晴明が、その膝に頭を載せて、両手で抱え込んでいる貴子の顔を見やった。
血にまみれてはいるが、その血は、むろん貴子の血ではない。
立った博雅の右腕から、長い黒髪がぶら下がっていた。
その、博雅の腕から床に近い場所に垂れているのは、肉ごと人の頭蓋骨からめくりとられた、頭の皮であった。
ぼたりと、音をたてて頭髪が床に落ちた。
するすると、博雅の右腕にからみついていた髪がほどけてゆく。
それが、全て床の上に落ちた。
晴明は、床に落ちた女の髪を左手でつかみ、立ちあがった。
右手に、立ててあったまだ火の点っている燭台をつかみ、歩き出した。
「どこへゆくのだ、晴明」
「来い、博雅」
「何をする気だ、晴明。もう、何をやろうと無駄だ。貴子殿は死んでしまわれたのだぞ」
かまわず晴明は縁まで歩いてゆき、右手に持った燭台の炎を、左手に持った女の髪の毛に近づけた。
炎が髪に燃え移ると、晴明は、火の点《つ》いた髪を庭へ投げ捨てた。
庭の土の上で、炎をあげて、女の髪が燃えてゆく。
まるで、生あるもののように、女の髪が立ちあがり、炎をゆらめかせて、身をよじる。よじるそばから、その髪を炎がからめとってゆく。肉と髪の焼けるいやな臭いが、夜気に広がってゆく。
やがて、髪が燃え尽き、炎も消えた。
「さあ、もどるぞ、博雅」
「もどる、どこへだ?」
「貴子殿のもとへだ」
「貴子殿の?」
「うむ」
晴明は、また、先に立って歩き出している。
先ほどの部屋では、繧繝縁《うんげんべり》の上に仰向けになった貴子の胸にすがりついて、老女が泣いていた。
「泣かれることはない、乳母殿」
そう言って、晴明は老女の横にしゃがみ、老女を脇へのけて、貴子の身体を抱え起こし、膝でその背を軽く押した。
すると──
ほう……
と、唇から息を吐いて、貴子が閉じていた眼を開いた。
「わ、わたくしは……」
何があったのかと、貴子は不安げに周囲を見回し、自分を抱えている男の顔を見やり、
「晴明さま──」
声を出した。
「貴子さま!」
「晴明!」
老女と博雅が、一緒に声をあげた。
「もう、心配はいりません。皆すみました。何があったかは、後日、ゆるりとお話し申しあげます故、今は、ゆっくりとお休みください……」
晴明はそう言って、老女を見やった。
「さ、温かい湯を椀に一杯と、それから貴子殿の床の用意を──」
「は、はい」
何が何やらわからぬものの、ともかく返事をして老女は立ちあがった。
「おい、いったい何がどうなっておるのだ、晴明」
博雅がそう言ったのは、牛車の中であった。
「だから、なるようになったのさ、博雅」
晴明は、博雅を見ながら楽しそうに微笑している。
「おれには、まださっぱりわからんぞ。晴明、おまえ、おれにさっきのことをきちんと説明してくれ」
「わかった、わかった」
晴明は、笑いながら片手をあげ、
「あの時、おれはな、貴子殿が死んだとおまえに言ったが、あれは嘘だったのだ」
「うそ?」
「うむ」
「おまえ、おれを騙《だま》したのか晴明──」
「いや、すまぬ。しかし、おまえを騙したのではないぞ。おれが騙したのはあの髪の毛よ」
「なに?」
「貴子殿が死んだと思ったからこそ、あの髪の毛は、貴子殿の顔から離れたのだ」
「───」
「おれは、あの時、貴子殿の頭を抱えていたが、実は、両手の指で首にある血の脈を押さえていたのだよ」
「血の脈?」
「うむ。血の脈をしばらく押さえられると、人は、しばらく気をどこかへやってしまうのさ」
「───」
「それでも、心の臓は動いているのでな。それでいったん、髪をおまえの腕にからみつかせておく必要があったのだ。そうすれば、髪はおまえの心の臓の鼓動を数えることになるだろうからな。貴子殿の心の臓が動いていることがわかりにくくなる」
「死んだと、おまえは言ったぞ、晴明──」
「そう言わねば、髪は貴子殿を放さなかった。おまえが、おれの言った言葉を信じたからこそ、髪もまた騙されたのだ。おまえのおかげだ、博雅」
「そう言われても、素直に喜べぬ」
「一刻の猶予をあらそう時であったのだ。あそこで、呪だの、呪符などを用意して、そんなのを唱えていたら、貴子殿は本当に死ぬところであったのだ。火で焼けば、貴子殿の髪にも燃え移ろう──」
「む」
「おまえのおかげだ、博雅」
「む、む」
「おまえがいて、助かった」
「まさか、晴明よ、貴子殿の屋敷へゆく時におれが必要だと言っていたあれは、始めからそういうつもりで──」
「まさかよ。あの時、そこまで考えているわけもあるまい。髪の毛のことまで、おれは知らなかったのだからな」
「それはそうだが──」
博雅は、まだどこか不満そうである。
拗《す》ねたように唇を尖らせている。
「それはそうと、晴明よ、おまえ、これからどこへゆこうとしている?」
「わからん」
「わからぬ?」
「ああ」
「何故だ」
「こいつに訊いてくれ」
晴明は、右手を博雅の方に向かって差し出した。
「何だ?」
「見えぬか、これだ」
晴明は、右手を、さらに博雅の方へ向かって突き出した。
ちょうど、人差し指と親指を合わせて、何かをつまむようにして、そのつまんだ指先を上へ向けている。
博雅は、簾をあげて、月光を車の中へ導き入れた。
その月光の中に、晴明が右手を差し入れた。
晴明の右手の人差し指と親指の間にはさまれているもの──
「これは!?」
博雅が声をあげた。
それは、細い、一本の髪の毛であった。
その髪の毛の先が、ちょうど、車の進行方向にむかってなびいていた。まるで、その先に、髪の毛を引き寄せる磁力のようなものがあるとでもいうように──
「火を点ける前に、一本だけくすねておいたのだ。この髪の毛が、案内してくれるはずだ──」
「どこへ?」
「この髪の毛の主《ぬし》──呪をかけた髪で貴子殿を亡《な》きものにしようとした|もの《ヽヽ》のところへな」
晴明は言った。
月が、大きく西へ傾く頃、牛車が停まった。
川の瀬音が聴こえている。
晴明と博雅は、牛車を降りた。
都の東──鴨川にかかった橋のたもとであった。
見あげれば、満月は西に傾いて、山の端《は》に近づこうとしている。
橋を見やると、橋のたもとに、ぼうっと、青い光をまとわりつかせた人影が立っていた。
晴明は、ゆっくりとその人影に歩み寄った。
被衣を被り、口元しか見せない女──
「貴子殿は、亡くなられましたよ。あなたの髪に絞められてね」
静かな声で、晴明は言った。
それだけ見えている、赤い女の唇が、すうっと左右に吊りあがって、白い歯が覗いた。
「嬉しや……」
微笑した唇で、女は言った。
「こうなったわけを話していただけますか」
晴明が問うと、ゆっくりと女は語りはじめた。
「わたくしは、四年前まで、藤原康範さまが受領《ずりよう》をしておられた遠江国《とおとうみのくに》で、康範さまの女であったものでございます。ところが、四年前、康範さまは都へ帰られてしまいました──」
顔を伏せ、淡々と女は語った。
「都へ着いたら、必ず呼びよせるからと堅い約束をかわしたのでございますが、帰られてから、一年がたち、二年がたち、三年がたっても、お声はかかりません。そうこうするうちに、四年がたち、風の便りに、康範さまはあたらしき女ができて、そこへ通われている由──」
話しているうちに、怒りのためか、哀しみのためか、女の上下の歯が触れ合って、小さくかちかちと鳴りはじめた。
「おのれ、康範」
ぬうっと、女の唇の間から、牙が伸びかけ、また、それがもとにもどる。
「康範さまの真意を確かめんと、独り国を出たのが、四年目の今年の春でございました。ところが、途中、病を患い、乏しい路銀も使い果たし、旅の宿より文《ふみ》を出しましたのが十日前でございます」
康範はやってきた。
どういうわけか、供の者さえ連れず、ただ独りであった。
康範は、女に会うなり、
おういたわしや
手を握ってはらはらと涙を流した。
共に都へゆこうと言われてみれば、きゅうに病も癒《い》えたようであり、なんとか歩いて、ようやく鴨川にさしかかった時は夜であった。
一刻も早く都へ──
その思いが夜も足を急がせたものとばかり思っていたところ、先に鴨川を渡った女の背へ、いきなり、康範が斬りつけてきた。
斬られて、はじめて、女にも康範の真意が見えた。
邪魔な自分を、人気のないのを幸いにここで亡きものにし、鴨川へ屍体を捨てて逃げる……。
そのための、独りであったのか。
ちょうど夜になってこの場所にさしかかったのも、はじめから考えあってのこと──
最初のひと太刀で女が絶命したと思い、橋に背をあずけ、康範はしばし、呼吸を整えようと喘《あえ》いでいる。
そこへ、蘇生した女は、康範から太刀を奪いざまに、その胸を突いて殺してしまった。
康範は死んだが、女は自らも傷を負っており、あと幾許《いくばく》の生命もない。
「そこで想うたのが、自らが生《い》き霊《りよう》となって、まだ生きている康範の女を憑《と》り殺すこと──」
女の歯が、また、かちかちと鳴っている。
「康範の|※[#「門<牛」]《まら》を切り落とし、目玉をえぐり、自らはほれ、このように頭の皮を……」
女は、はらりと被衣を脱いだ。
「むう」
と、声をあげたのは博雅であった。
女の、眉から上の皮が、きれいに剥ぎとられて、そこに、血にまみれた頭蓋骨が覗いていた。
「わが一念凝りかためたこの黒髪で、ついに女も憑り殺してくれたわ」
女の眼が吊りあがり、口からは牙がぬうっと生え出てきた。
「ああ……」
女は、天の月に向かって声をあげた。
「嬉しやのう……」
「哀しやのう……」
「嬉しやのう……」
「哀しやのう……」
言いながら、女のその身体が薄くなってゆく。
それが、さらに薄くなって、
「嬉しやのう……、哀しやのう……」
消えた。
長い沈黙の後、やがて──
「済んだよ、博雅──」
晴明が、ぽつりとつぶやいた。
博雅は、
「うん……」
そううなずきながら、まだ、女の消えたあたりを見つめたまま、動こうとしなかった。
冷やひやとした秋の風が、ふたりに吹いていた。
後日、鴨川にかかった橋の下をさぐってみると、川底から、藤原康範の屍体と、頭の皮のない女の屍体が出てきたという。
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迷神《まどわしがみ》
桜が満開である。
枝が、重く下に垂れるほど、みっしりと桜の花が咲いている。
風はない。
桜の花びら一枚を動かすほども、風は吹こうとしなかった。
その桜に、青い天から陽光が差している。
安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷──
その庭にある桜を、源博雅《みなもとのひろまさ》は、濡れ縁に座して、晴明と共に眺めている。
ふたりの前には、酒《ささ》の入った瓶子《へいし》と、杯がひとつずつ。杯は、黒い玉《ぎよく》でできた脚のあるものだ。
夜光杯《やこうはい》──
葡萄の美酒
夜光の杯
飲まんと欲すれば
琵琶馬上に催す
と、王翰が詩《うた》った、唐《から》から渡ってきた杯である。
桜を眺めながら、含むともなく酒を口に運び、杯を置き、また桜を眺めていると、ふいに、
ひら
と、桜の花びらが落ちる。
ただひとひらだけ──
まるで、注いでくる陽光が、花びらに染《し》み込んでゆき、その重さに耐えかねたように、落ちる。
「晴明よ──」
博雅が、自分の吐く息で桜の花びらが落ちるのを恐れるように、声をひそめて言った。
「何だ」
晴明が、素っ気ないほどの声で答える。
「今、凄いものを見たぞ」
「何を見たのだ」
「桜の花びらが、ただひとつ、風もないのにはらりと落つるのを見たのだよ」
「ほう」
「おまえは見なかったのか」
「見たよ」
「見て、おまえ、何も感じなかったのか」
「何のことだ」
「だからだな、晴明よ。あそこにあれほどの桜が咲いているのだぞ」
「うむ」
「とても数えられるものではない数の桜の花びらのうち、風もないというのにただ一枚だけ、あの花びらが落ちたのだ」
「うむ」
「それをおれは見たのだよ。もう数日もすれば、桜の花びらは次から次と散りはじめ、どの花びらのどの一枚が落ちたかなどは何もわからなくなってしまうだろう。ところが、今落ちたあのひとひらの花びらは、もしかするとあの桜の樹が落とす、この春最初の花びらかもしれないではないか──」
「うむ」
「とにかくおれは、その一枚が落ちるのを見てしまったのだよ。これは凄いことではないか」
博雅の声が、少し大きくなっている。
「それで?」
晴明の口調は、あいかわらず素っ気ない。
「おまえ、今のを見て何も心に想うことはないのか」
「ないことはない」
「あるのだな」
「ある」
「何がある」
「たとえば、そうだな、あの花びらが落ちることによって、博雅、おまえに呪《しゆ》がかかったのだろうというようなことかな」
博雅は、晴明の言ったことがよくわからなかったらしく、
「何だって?」
そう問うていた。
「あの花びらが落ちることと、呪と、どういう関係があるのだ」
「まあ、あるとも、ないとも言えるだろうな」
「なに!?」
「おまえの場合には、あったということだな、博雅よ」
「おい、待てよ晴明。おれには何のことやらさっぱりわからんぞ。おれの場合にはあったというなら、他の誰かの場合にはないということもあるのか」
「そういうことだよ」
「わからん」
「よいか、博雅」
「うむ」
「花びらが枝から離れて落つるというのは、ただそれだけのことよ」
「うむ」
「しかし、いったんそれを人が見るならば、そこに呪が生まれることになる」
「また呪か。おまえが呪の話をすると、ただ話がややこしくなるだけのような気がするぞ」
「まあ、聴け、博雅」
「聴いている」
「たとえば、美ということがある」
「美?」
「美しいとか、心地よいとか、そういうようなことだな」
「それがどうしたのだ」
「博雅よ、おぬしは笛を吹くであろう」
「ああ」
「誰かの吹く笛の音《ね》を聴いて、それを美しいと想うたりもするであろうが」
「まあ、そうだ」
「しかし、同じ笛の音を耳にしても、それを美しいと想う人間も、想わぬ人間もいる」
「あたりまえではないか」
「だから、そこなのだよ博雅」
「何がだ」
「つまりよ、笛の音そのものは、美ではないということだ。そこらにある石とも、樹とも、在り様としては同じものさ。美というものは、笛の音を耳にした人の心の中《うち》に生ずるものなのだよ」
「ううむ」
「だから、笛の音は笛の音であるだけなのに、それを聴く者の心に、美を生じさせたり、させなかったりする」
「うむむ」
「美とは呪よ」
「むむむ」
「おまえが、あの桜の花びらが落つるのを見て、美しいと想ったり、心を動かされたりしたら、それはおまえの心の中《うち》に、美という呪が生じたということなのだ」
「むむう」
「だからよ、博雅、仏の教えに言う空《くう》というのは、まさにこのことなのだよ」
「なんだって?」
「仏の教えによればだな、この世に在るもの全ては、その本然《ほんねん》に空《くう》なるものを持っているらしい」
「色即是空《しきそくぜくう》というあれか」
「あるものがそこに在るということは、そのものと、それを眺める人の心があって初めて生ずることなのだよ」
「───」
「桜がそこに咲いているだけでは、だめなのだよ。それを源博雅が見て、はじめて美というものが生ずるのさ。しかし、源博雅がそこにいるだけではだめなのだ。桜があり、源博雅という人間がいて、その博雅が桜を見て心を動かされた時、はじめてそこに美というものが生まれてくるのだ」
「───」
「つまりは、まあ、この世のあらゆるものは、呪という心の働きによって、存在しているということだな」
晴明は言った。
「晴明よ、おまえ、いつも桜を見ながらそんなややこしいことを考えているのか」
博雅はあきれたように言った。
「ややこしくはない」
「晴明よ、もっと素直になれ。桜の花の落つるを見て、美しいと想うたのならそのまま美しいと想えばよいではないか。不思議と想うたのなら、そのまま不思議と想うたらよいではないか」
「そうか、不思議か……」
つぶやいて、晴明は、何か考えることでもあるように、唇を閉じた。
「おい、晴明、どうしたのだ」
黙ってしまった晴明に、博雅が声をかける。
しかし、晴明は答えない。
おい……
と、もう一度博雅が声をかけようとしたその時、
「そうか」
と、晴明は声をあげた。
「何が、そうかなのだ」
「桜さ」
「桜?」
「桜は桜であるということだよ。今、話をしていたではないか」
言われても、博雅にはわけがわからない。
「博雅、おまえのおかげだぞ」
「何がおれのおかげなのだ」
「おまえが桜の話をしてくれたからさ」
「───」
「自分で桜は桜であるだけだと言っておきながら、おれの方こそ、そのことによく気づいていなかったのだよ」
何がなんだかわからないが、
「そうか」
と博雅がうなずけば、
「実は、昨日から気にかかることがあってな。どうしたものかといろいろ迷っていたのだが、ようやくどうすればよいかがわかったのだ」
「晴明よ、それは何のことだ」
「おいおいに説明をするよ。その前にひとつ頼まれてくれぬか」
「何をだ?」
「三条大路の東に、智徳という法師が住んでいる。そこまで行ってもらいたいのだ」
「それはかまわぬが、その智徳という法師のところへ、何をしにゆけばいいのだ」
「法師とは言っても、実は播磨国《はりまのくに》からやってきた陰陽師だよ。三年ほど前から都に住んでいる。これからそこへ行って、次のようなことを訊ねてくれ」
「何をだ?」
「鼠牛《そぎゆう》法師殿は、今、どちらにお住まいですかとな」
「それで」
「おそらく知らぬと言うだろうよ。しかし、それであきらめてはいけない。これから、おれが文《ふみ》を書くから、断られたらその文を智徳法師に渡して、その場で読んでもらってくれ」
「それで、どうなる?」
「たぶん教えてもらえるだろう。そうしたら、すぐにもどってきてくれ。それまでに、おれは仕度をすませておく」
「仕度?」
「一緒に出かける仕度さ」
「どこへだ」
「これから、おまえが智徳法師殿から教えてもらう場所だよ」
「よくわからんぞ、晴明──」
「じきにわかるさ。それよりもな、博雅、言い忘れていたが、智徳法師殿には、おれの使いだと言わぬことだ」
「何故だ」
「言わぬでも、文を見せればそれでわかるだろうからだ。よいか、むこうへ行ってもおれの名は出すなよ」
わからぬけれども、とにかく、
「わかった」
博雅はそううなずいて、牛車《ぎつしや》で出かけて行ったのであった。
しばらくして、博雅がもどってきた。
「驚いたな、晴明よ、おまえの言っていた通りだったよ」
博雅は言った。
場所は、先ほどと同じ濡れ縁である。
晴明は、そこに座したまま、ゆるりゆるりと、唇に杯を運んでいる。
「智徳法師殿はお元気であったか?」
「元気も何も、おまえの書いた文を見せたら青くなっていたぞ」
「それはそうだろう」
「それまで、鼠牛法師のことなど知らぬと言っていたのが、急におとなしくなってな、すんなりと教えてくれた」
「場所は?」
「西の京だ」
「そうか」
「なあ、晴明よ。あの文には何が書いてあったのだ。智徳法師殿は、怯えた顔で、あなたはこの中をごらんになりましたかと問うてきたぞ。おれが読んでいないと言ったら、ほっとしたり、本当でしょうなと念を押してきたり、見ていて気の毒のようであったぞ」
「おぬしが、桜だからだよ、博雅──」
「おれが桜?」
「そうさ。博雅はただ博雅としてそこにいるだけで、むこうが勝手に不安という呪にかかってしまったのさ。おまえが、文を読んでいないと正直に言えば言うほど、むこうは怯えたろう」
「その通りだよ」
「それで、よかったのさ」
「なあ、晴明、いったいあの文には何が書かれていたのだ」
「名だよ」
「名?」
「智徳法師殿の本当の名さ」
「それがどうしたのだ」
「よいか、博雅、我々のような仕事をしている人間は、必ず本当の名と、そうでない名とを使い分けているのだ」
「何故だ」
「本当の名を、誰かに知られてしまうと、その者が陰陽師であれば、たやすく呪にかけられてしまうからだよ」
「では、おまえにも、晴明とは別に本当の名があるのか」
「あるさ」
「何だ、それは?」
言ってから、
「いや、言わなくていい。言いたくないのなら、問われても言えぬであろうし、言わぬことで余計な心遣いをおまえにさせたくない」
博雅はあわててそう言った。
「それよりも、おまえ、智徳法師殿と、昔、何かあったのか」
「あったと言えばあったな」
「何があった?」
「三年ほど前にな、智徳法師殿が、おれを試しにやってきたのだよ。それで、智徳法師殿が使っている式神《しきがみ》を、おれが隠してしまったのだ。返してくれというので式神を返してやったら、智徳法師殿、自分の本当の名を、札に書いておれに渡していったのさ──」
「しかし、そんなに大事な名を、おまえに……」
そこまで言いかけて、
「晴明よ、おまえ、その時智徳法師殿に自分の名を書くように何かしたろう」
「さあて──」
「自分から進んで書いたのなら、おれが行ってもあんなに慌てたりはしないはずだ」
「まあ、よいではないか」
「よくはない。それにだ、晴明、おまえ、おれを使いに行かせておいて、自分はここでずっと花を見ながら飲んでいたのか」
「うむ」
「おれは、おまえが、いろいろと仕度があるというから行ったのだぞ。それを──」
「まあ、待てよ。この使いは、おれであってはならぬのさ。だからおまえに行ってもらったのだ」
「どうして、おまえではいけない」
「おれの考え通りなら、鼠牛法師は、智徳法師の師筋にあたるお方だからだよ。この晴明に訊かれたからと、あっさり居場所を教えては、あとでおこられるであろうからな」
「何故、おこられるのだ。おまえ、鼠牛法師と、いさかいを起こしている最中なのか──」
「いさかいというほどのものではないがな。だから、おまえが訊きにゆくということが必要であったのだよ」
「しかし、あの文を見せれば、相手が晴明よ、おまえであることくらいはわかるだろう」
「わかってもらわなくては困る。わかったからこそ教えようという気になったのだからな」
「ならば同じではないか」
「同じではない。文のどこにも晴明の名はない。智徳殿の名が書かれてあるきりだ。だから、智徳殿は、自分にも鼠牛殿にも、この晴明に脅されてのことではないと言いわけができる。このあたりが、肝心なところなのだ」
「ううむ」
「とにかく、鼠牛殿のおられる場所がわかったわけだから、出かけようではないか」
「う、うむ」
博雅は、まだ何か言いたそうであったのだが、その言葉を呑み込んでうなずいた。
「ゆくか」
「うむ」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
ほとほとと、牛車は進んでゆく。
大きな黒い牛が、晴明と博雅を乗せた牛車を、ゆるゆると牽《ひ》いてゆくのである。
牛飼い童《わらわ》が付いているわけでも、牛の轡《くつわ》を取る従者がいるわけでもない。牛だけが勝手に前へ進んでゆくのである。
「さあ、晴明よ、何がどうなっているのか、おれに教えてくれ」
博雅は、牛車の中で、晴明に問うた。
「さて、では何から話そうか」
すでに、晴明は覚悟を決めている様子であった。
「そもそもの始めからだ」
「ならば、菅原伊通《すがわらのこれみち》殿の話から始めるのがよかろう」
「いったい誰なのだ?」
「西京極に住んでおられたお方で、昨年の秋に亡くなられた」
「それで?」
「妻女殿は、名を藤子といい、こちらはまだ生きておられる……」
晴明は、話しはじめた。
菅原伊通は、河内国《かわちのくに》の生まれである。
若くして京へ上り、それなりの才覚もあったので宮仕えをしていた。
特別に師を持ったわけではないが、笛を能《よ》く吹いた。
この伊通が妻としたのが藤子である。
藤子は、大和国《やまとのくに》の生まれで、これもまた宮仕えのため京へ上った父親と共に、京へ出てきていた。
父親と伊通とが、顔見知りであり、それが縁となって、伊通と藤子は出会い、互いに文や歌を贈ったり贈られたりする仲となって、父親が流行病《はやりやまい》で死んだ年に、ふたりは夫婦《みようと》となった。
仲がよかった。
月の明らかな晩には、よく伊通が藤子のために笛を吹いたりした。
ところが、藤子が伊通の妻となってから三年目、父親と同様に、やはり流行病で、伊通が亡くなってしまった。
「それが、昨年の秋のことさ」
と、晴明は言った。
藤子は、毎夜、泣き暮らした。
夜になれば、伊通の優しかった言葉や抱きしめてくる腕の力を思い出し、月が出れば出たで、伊通の吹いた笛の音を思い出した。
もう、二度と伊通と会えることもなく、あの腕に抱かれることもなく、あの笛の音を聴くこともない──そう思うと、また涙は溢れ、身を焼き焦がす思いはつのるばかりであった。
ついには、たとえ死した夫《つま》でもよいから会いたいと思うようになり、
「それで、出かけて行ったのが智徳法師のところであったのだよ」
ぜひとも夫に会いたい。なんとかならぬものかと、藤子は智徳に泣きついた。
「残念ながら──」
と、智徳は首を左右に振った。
「自分には、死者をこの世に蘇らせることはできませぬ」
「では、できる方に心あたりはありませぬか。もし、それが叶《かな》うのであれば──」
幾らでも金を払うからと藤子は言った。
父親と夫が残していったものが、多少はある。
場合によったら家屋敷を売り払ってもよいと藤子は言った。
「よろしい──」
と、智徳法師はうなずいた。
「それで、智徳法師がどこからか連れてきたのが、鼠牛《そぎゆう》法師殿であったのさ」
晴明は言った。
「なるほど──」
博雅はうなずいた。
鼠牛法師、歳のころならば、五十歳を幾つか、越えたかどうかというところ。
さっそく、金をもらって秘術を施した。
「すぐには現われぬ。五日から七日、場合によっては、現われるまで十日はかかるやもしれぬ。あの世からこの世までの道のりは長いからな」
そう言って、鼠牛法師は去っていった。
今夜は来るか、明日は来るかと待つうちに、十日目──
月の美しい晩であった。
夜具の中で眠られずにいる藤子の耳に、どこからともなく笛の音が聴こえてきた。耳を澄ませてみれば、あのなつかしい伊通の吹いた曲である。
その笛の音が、だんだんと近づいてくる。
喜んで、藤子はとび起き、その笛の音が近づいてくるのを待った。
笛の音は、さらに近づいてくる。
その笛の音が近づいてくるに従って、喜びとは別に、だんだんと不安が藤子の心の中に芽ばえてきた。
いったい、どのような姿でもどって来たのか。
幽鬼となり、鬼のような形相となっているのか、はたまた空気のように実体のない霊《りよう》となってやってきたのか。
死者である伊通と会って、それで自分はどうしようというのか。
しかし、たとえ死者であろうとも、伊通に会いたい。
怖い。
怖いが会いたい。
そのふたつの心に苛《さいな》まれているうちに、笛の音は家の前で止まった。
「藤子や、藤や……」
細い声が聴こえてきた。
「ここを開けておくれ……」
まぎれもない、愛しい伊通の声である。
そっと蔀《しとみ》の隙間から覗いてみると、上から照らす月明りの中に、伊通が立っていた。
やや顔色が青白いかと思えるほかは、生前とどこもかわってはおらず、それがまた愛しくもあり、妙に恐ろしくもある。
袴《はかま》の紐《ひも》を解いており、それを見るとなつかしさが身の裡《うち》から湧いてくるが、声をかけることができない。
戸を開けようか、開けまいか。
そこへ──
死出の山越えぬる人のわびしきは
恋しきひとに会はぬなりけり
伊通が、歌を口にした。
死出の山を越えて、今|冥途《めいど》にいるわたしがこうも哀しいのは、恋しいそなたに会えぬからなのだ……。
そういう歌である。
しかし、藤子は戸を開けることができなかった。
「そなたが、あまりにわたしを想うものだから、その想いが炎となって、夜ごとに、わたしは炎でこの身を焼かれているのだよ」
蔀の隙間からよく眺めてみれば、伊通の身体のあちこちからは、ぶすぶすと煙があがっている。
「そなたが怖がるのも無理はない。そなたがそんなにもわたしを恋い慕っているのが哀れで、理無《わりな》き暇《いとま》を申して、こうしてやってきたのだが、そのように怖がっているのであれば、今夜のところは帰るとしようよ……」
そう言って、伊通は、また、笛を吹きながら去って行った。
そういうことが、三夜も続いたが、いずれの時にも、
「藤子殿は、戸を開けることはできなかったのだよ」
晴明は言った。
「ふうむ」
こういうことが、これから毎夜続くのかと思うと、さすがに藤子も恐ろしくなった。
それで、藤子殿は、また智徳のところへ泣きつかれたのだよ。
もう、夫に会えぬでもよいから、なんとか|あれ《ヽヽ》が来ぬようにしてはもらえまいか──
「あれは、反魂《はんごん》の術といって、とてもわたしのような人間の手におえるものではありません」
と、智徳は言った。
「では、あの鼠牛さんに、また来ていただくというわけにはゆきませんか」
「鼠牛は、ただいまどちらにいるのかわからないのです。わかったとしても、なんとかしてくれるかどうか。やってくれるにしても、またお金がかかることになるでしょう」
突き放されてしまった。
「で、泣きついてきたのが、この晴明のところというわけなのだよ」
「そういうことであったか」
「しかし、反魂の術、誰にでもできるというものではないぞ。都では、この晴明を除けば、ふたりか、ひとり──」
「心あたりがあるのか」
「あるというのなら、あるがな」
「誰なのだ」
博雅が訊いた時、晴明は、ふと、簾《すだれ》の外を見やるようにして、
「どうやら来たらしいな」
そうつぶやいて、簾を持ちあげて外を眺めた。
「やはり来ているぞ」
「何がだ」
「鼠牛殿からのお迎えがだよ」
「迎え?」
「そうさ。鼠牛殿は、我々がこれからそちらへ向かおうとしていること、ちゃんと御存知なのだ」
「何故?」
「智徳法師殿が話したからであろうな」
「晴明に教えてしまったとか?」
「いいや、言ったのはこれこれのことがあったということだけだろう。おれの名は出さずとも、鼠牛法師くらいの術者となれば、この安倍晴明がことであろうと見抜くであろうさ。こうして迎えが来たということは、やはりそうであったということなのだろうよ」
晴明は、言いながら、大きく簾を上げてみせた。
博雅が、そこから覗いてみると、宙に一匹の鼠が浮いて、凝《じつ》と牛車の方を眺めていた。
翼があり、その翼をはたはたと振っている。
鳥のような翼ではない。蝙蝠《こうもり》の翼である。しかし、それは蝙蝠ではなく、まぎれもない、小さな萱鼠《かやねずみ》であった。翼のある萱鼠が、小さく羽を打ち振りながら、牛車の前を飛んでいるのであった。
牛車が停まった。
外へ出てみれば、そこは荒れ果てた野であった。
陽は、西の山端へ傾きかけており、赤あかとした光が、春の野に横から当っている。
牛車の前に、荒屋《あばらや》が一軒、赤い陽を浴びて建っている。荒屋の横手に、高く伸びた大きな楠が一本──
「ふうん」
と、荒屋を見つめる晴明の前を、あの、蝙蝠の翼を持った萱鼠がはたはたと飛んでいる。
晴明が左手を差し出すと、萱鼠が、その掌の上に舞い降りて、翼をたたんだ。
「おまえのお役目は、もう終ったよ」
そう言って晴明が左手を閉じ、再び開くと、もう、そこに萱鼠の姿はなかった。
「何だったのだ」
博雅が問う。
「式《しき》さ」
晴明は、そう言って、荒屋に向かって歩き出した。
「どうするのだ、晴明」
「挨拶にゆく、鼠牛法師どのにな」
博雅が後に続く。
「それにしても、人を喰った名だな。鼠と牛、干支の一番目と二番目をつなげただけの、味も素っ気もない名ではないか」
言いながら、荒屋の入口をくぐった。
暗い、部屋であった。
半分が土間である。
竈《かまど》がひとつ。
奥の半分が板の間であった。
窓から、赤い陽光が差し込んで、反対側の壁に、窓と同じかたちの赤い布を下げてあるように見える。陽光は、板壁の隙間からも、幾筋もの光の細い糸となって、荒屋の中に差し込んでいた。
微かに、血の臭いがする。
板の間に、法師姿の男が、寝そべっていた。
右肘を板の間につき、右掌に頭を乗せて寝そべったまま、身体の正面を晴明と博雅に向けていた。
髪は、ぼうぼうと伸びたままの蓬髪《ほうはつ》であり、顔中に不精髭が伸びている。
男の前に、酒の入っているらしい瓶子《へいし》と、欠けた陶碗《とうわん》が置かれていた。
酒の匂いも、その部屋にはこもっていた。
「来たか、晴明よ」
寝そべったまま、男が言った。
年齢をいうなら、五十代の半ばといったところであろうか。
「お久しぶりですね、道満《どうまん》殿……」
晴明は、赤い唇に、ほんのりと微笑を溜めたまま言った。
「何だと、晴明、今、何と言った──」
博雅が、晴明に声をかけた。
「博雅、これにおられるのが、鼠牛法師──蘆屋《あしや》道満殿だよ──」
晴明は言った。
「なんと──」
晴明と並んで、都では人に知られた陰陽師である。
加茂家、安倍家とはまた別系統の陰陽師集団が播磨国にはあるが、その播磨国から現われた陰陽師としては最も広くその名は知られている。
昔から播磨国は、陰陽師や方士を産出する国である。
「どうだ、晴明、酒でも飲んでゆかぬか」
道満が笑いながら声をかける。
「その酒、口に合いませぬ」
そう言って、晴明は、ちらりと上に視線を走らせた。
見れば、天上から、二本の糸が下がっており、その先に、一匹の鼠と、一羽の蝙蝠が逆さにぶら下げられていた。その口から、それぞれ血がしたたっており、それが、瓶子と碗の中へ、ぽたり、ぽたりとさっきから落ちているのである。
「晴明、あ、あれは──」
「博雅、おまえも見たろう。さっきまで空を飛んでいた鼠を。あの式は、こうやって、ここで道満殿が造ったものなのだよ」
博雅に言っている晴明に向かって、
「何しに来た、晴明──」
道満が言った。
「罪なことをなさいましたね」
「あの女の男に、反魂の術を施してやったことか」
「そうです」
「おれは、望まれたことをしてやっただけよ──」
「放っておけば、男は、毎夜、女のもとに通い続け、女も、いずれは気がふれるか死ぬかすることになりましょう」
「そうなるであろうな」
「死人とまだ生きている者とが出会うのはよくありませぬ」
「よく言うわ、晴明。反魂の術、ぬしもやったことないわけではあるまいに──」
道満は、むくりと身体を起こし、そこに胡座《あぐら》をかいた。
「道満殿、あなたは、銭のためにあのようなことをされたのですか」
晴明の横に並んで、博雅が言った。
「わしが、銭のためにあれをやったと言うか──」
道満はからからと笑った。
「おい、晴明、そこの男に言うておけ。陰陽師も、ぬしやわしらくらいになれば、あのくらいの銭などどうにでもなるということをな。智徳などの小者はともかく、我等は銭では動かぬ」
「なに!?」
「我等が動くのは、呪よ」
「呪!?」
「呪のために動く」
「それは、つ、つまり……」
博雅は言いよどみ、
「人の心ということか」
そう言った。
「ほう。多少は呪のことがわかるか。そうよ、人の心によって我等は動く。よいか、反魂の術というても、誰かがそれを強く願わねば我等は何もしようがないのだ。あの女が望むから、男はあの女のもとにやってくる。それを誰が止められる?」
言われた博雅は、むう、と声を押し殺して救いを求めるように晴明を見た。
「道満殿が言われるのは、本当のことだ……」
「晴明、人の世に関わるのもほどほどにせい。我等が人の世に関わるは、所詮《しよせん》座興よ。どうだ、晴明、ぬしもそうであろうが」
また、道満はからからと笑った。
「座興で、箱の中身をあてたりもする。はずしたりもする。死ぬるまでの時間を、どうおもしろく過ごすか、それだけのことさ。いや、近ごろは、それすらも、もうどうでもよいことのような気がする。おもしろかろうが、つまらなかろうが、どうせ、同じ時間を生きて死んでゆくだけのことよ。晴明よ、そのあたりのところは、わしよりもぬしの方がずっとわかっているのではないか──」
壁に差している夕陽の赤い色が、ゆっくりと褪《さ》めつつあった。
「道満殿、他人が施した反魂の術を、別の人間が解くのは危ないことです。うっかりすれば、女の方が死にかねません」
「放っておけ、晴明。女の気が狂うのを眺めているのも、またおもしろいであろうよ」
「ところが、最近は、多少は散る花を見るのもおもしろいと思うたりもするのです」
「ならば、散るのを見ておればよい」
「それが、もともとの自然《じねん》の意志で散るのならそれも一興でしょうが、道満殿がすでに関わられました──」
「散る花を止めにゆくと言うか」
道満がまた笑った。
「いいえ。自然《じねん》のままに散らせようというのですよ」
「おもしろいことを言うようになったではないか、晴明──」
道満が、黄色い歯を見せて笑った。
「ならば、好きにやってみるがよい。この道満が施した術を、ぬしがどう解くか見せてもらうわ」
「では、わたしが自由にしてよろしいのですね」
「おう。わしは何も教えぬかわりに、何もせぬ」
「そのお言葉、忘れませぬよう」
「おう」
道満が答えた時には、もう、陽の光は消えて、どこにもなかった。
「では、急ぎまする故、これにて──」
晴明は、軽く頭を下げ、
「ゆこう」
博雅をうながして外へ出た。
「よいのか、晴明──」
「あの男が、このおれに向かって、このことについては何もせぬと言うたのだ。それで充分……」
晴明は、いそいそと牛車に向かって歩いてゆく。
すでに暗くなりかけた空には星が点々と光りはじめ、迫ってくる夕闇の中に、静かに道満の笑い声が響いていた。
「おもしろい。これは久しぶりにおもしろいぞ、晴明……」
西京極にある女の屋敷に着いた時には、陽がとっぷりと暮れていた。
灯火の明かりの中で、晴明と博雅は、女と対座していた。
「ところで──」
と、晴明は、藤子に訊いた。
「鼠牛法師に、伊通殿の持ちものか、身体の一部をお渡ししたりなさいましたか」
「遺髪を持っておりましたので、その遺髪を──」
「髪を」
「はい」
「鼠牛法師は、あなた御自身の髪も所望いたしませんでしたか」
「されました」
「で、お渡しになった?」
「はい」
「では、伊通殿の遺髪の残りは?」
「ございません。全て鼠牛法師に渡してしまいましたので」
「そうですか──」
「それで、何かまずいことが──」
「いえ、まずいということはありません。それでは、別の方法を講じましょう。そのためには、あなたに、きちんと伊通殿に会っていただく必要があります」
「と言いますと?」
「戸を開けて、伊通殿を迎え入れるか、あなた御自身に外へ出ていただくことになりますが、それができますか」
「はい。できると思います──」
藤子は、覚悟を決めたようにうなずいた。
「では、わたしとこちらの男とで準備をいたします」
「準備?」
「塩を少しと、それからあなたの髪を少々いただけますか。それから、ここにある灯火をひとつ、お借りできれば……」
灯火を持つ博雅の横で、晴明が歩いている。
まず、左足を踏み出し、次に右足を前に出し、左足を右足にそろえて立つ。次には右足を先に出し、左足を踏み出し、右足を左足にそろえる。そしてまた、次には左足から先に踏み出してゆくという、同じ歩き方を繰り返している。
禹歩《うほ》、と呼ばれる、悪霊や邪気を祓《はら》う方術である。
歩きながら、口の中で小さく呪を唱えている。
泰山府君──冥府の王の祭文《さいもん》である。
晴明がやったのは、まず、もらった藤子の髪を、炎で焼くことであった。その灰を、藤子の家の周囲に少しずつ撒《ま》いて、今は、ちょうどその灰の上をなぞるようにして歩いているのである。
青い月光の中である。
ようやく、晴明が歩みを終えた。
「これで、伊通殿がこの結界の中《うち》に入ってくれば、泰山府君との縁は切れる」
「ははあ?」
「泰山府君は、わが神でもあるからな、あまり手荒な真似はできぬから、このくらいがよかろう」
「へえ?」
博雅は、何が何やらよくわからぬ顔をしている。
「伊通殿がやってくる丑《うし》の刻までは、まだ時間がある。それまでの間に、何かおれに訊きたいことはあるか。博雅?」
「いろいろあるぞ、晴明よ」
「何だ?」
「さっき髪の話をしていたが、あれはどういうことなのだ」
「あれは、もっとも手っとり早い方法で、ことを解決してしまおうとおれが思うただけのことよ」
「手っとり早い方法?」
「うむ。反魂の術にも幾つか方法があってな。鼠牛殿に髪を所望されたということを耳にしたのでな、おそらく道満が髪を利用した、反魂の法を行ったと、おれには思われたのさ」
「───」
「道満は、おそらく、藤子殿と伊通殿の髪を焼き、その灰を使って、修法を為《な》したのであろうよ」
「どのような修法だ?」
「伊通殿の遺体が埋められている墓の上に、ふたりの髪を焼いた灰を撒いて、一日か二日、泰山府君の祭文をそこで読んだりもしたのだろう。他にもいろいろとな。ふたりの髪が残っているのなら、それを細かく切って、墓の上に撒き、おれが、道満のかわりに、泰山府君に、反魂の法を解くように願えばよいのだ。このおりに、もし、道満がおれの邪魔をしたくば、反魂の法を解かぬよう、逆に祈ればよいのだ」
「そういうことか」
「相手が道満ほどの者でなければ、いかようにもなるが、この場合は、先に反魂の術を施した道満の呪《しゆ》の方が強いだろう」
「で、今やったのは?」
「桜の花びらだよ、博雅」
「花びら?」
「おまえが、おれに桜の花びらのことを教えてくれたのだぞ」
「何のことか、よくわからんぞ」
「おまえに言われて気がついたのさ。いざとなったら、桜の花びらをそのまま見せればいいのだとな──」
「道満も言っていたではないか。反魂の法に限らず、呪は、己れ自身の心なのだと──」
「───」
「呪は、この世の何ものよりも、ある意味では強いかもしれぬぞ。おれよりも、おまえよりも──泰山府君さえも動かす力を、呪は持っているのだからな」
「やはり、わからん」
「いいや。おまえは、実はこのおれなどよりずっと呪について深くわかっているのかもしれぬぞ、博雅──」
「まさか」
「ところで博雅、葉双《はふたつ》は持ってきているか」
「ああ、おれの懐に入っている」
「伊通殿は、おそらく、また笛を吹きながらやって来るであろう。結界近くまでやってきて、ことによったら何やら気づいて足を止めるやもしれぬ。そうなったら博雅よ、おまえ、葉双を吹いてくれぬか──」
葉双──これは、博雅が、鬼から手に入れたと言われている笛である。
「わかった。何でもやろう」
灯火の明りの中で、晴明と博雅は、藤子を前にして待っている。
少し風が出て来たのか、戸が、時おり微かに音をたてる。
「だいじょうぶでございますか」
藤子が、座したまま、小さな声で言った。
その声が、掠《かす》れたようになっているのは、緊張して口の中や喉が乾いているためである。
「あなたさえ、心をしっかりもっていれば、あとは、わたくしと博雅がなんとかいたしますよ」
晴明が、いつにない優しい声で言った。
また、沈黙があって、三人で風の音に耳を傾けている。
と──
「来たぞ、晴明……」
低い声で、博雅が囁いた。
ほどなく、どこからか、笛の音が聴こえてきた。はじめは小さく……しかし、それがだんだんと大きくなって、近づいてくる。
「さあ──」
晴明がうながすと、藤子が立ちあがった。
その手を取るようにして、晴明は藤子と共に蔀《しとみ》のそばまで歩いてゆく。
博雅が、その後に続いた。
三人が、蔀のそばで待っていると、だんだんと笛の音が大きくなってくる。
博雅は、すでに葉双を手に握り、静かに呼吸を整えている。
近づいてくる。
晴明が、蔀を小さく上げた。
隙間から覗くと、月光に濡れたように光っている外の風景が見えた。
小さな垣があり、そのむこうに人影が見えた。
男だ。
水干《すいかん》姿で、烏帽子《えぼし》を被っている。
その男が、笛を吹きながら近づいてくるのである。
垣の手前で、ふっ、と男が足を止めた。
「博雅」
晴明が言うと、博雅が、葉双を唇にあて、静かに吹きはじめた。
博雅が唇をあてた葉双から、何とも言われぬ音が、するすると夜気の中に伸びてゆく。魂のみならず身体までが透明に澄みわたってゆくような音であった。
博雅の笛の音が届いた途端に、また、男は歩を進めて、垣を越えて家の前に立った。
男も博雅も、一心不乱に笛を吹いている。博雅が男に合わせ、男が博雅に合わせる。
やがて──
どちらからともなく、和していた笛の音が、春の大気に溶けるように消えた。
「藤子や、藤子や……」
外から声が聴こえてきた。
蜘蛛《くも》の糸が戸口の隙間から入り込んでくるような、細い、消え入るような声であった。
「ここを開けておくれ……」
晴明が、眼でうながすと、藤子は、震える手で戸を開いた。
開けた途端に、春の野の匂いに混じって、濃い土の匂いがぷうんと漂ってきた。
「やっと開けてくれたのだね……」
伊通が言った。
その、吐く息から、顔をそむけたくなるような腐臭が届いてくる。
青白い顔であった。
着ている水干のあちこちから、ぶすぶすと煙があがっている。
真上から降りてくる月光に、伊通の身体が、濡れたように青く光っている。
伊通は、藤子の横にいる晴明も、博雅も、まるで見えてないもののように注意をはらっていない。
「さあ、おまえの心がそんなに苦しいのなら、わたしはおまえのそばにいてあげるよ」
優しい声で、伊通は言った。
藤子の眼に、涙があふれた。
「いられないわ……」
消え入るような声で、藤子が言った。
「もう充分よ。もういいのよ。あなた、呼んだりしてごめんなさい。あなたはもう楽になっていいのよ」
泣きながら言った。
「わたしが、もう、必要ないのかい?」
哀しそうな声で、伊通は言った。
違う、
違う、
そう言うように、藤子は首を左右に振り、次に、そうだと言うようにうなずいて、
「もう、あなたはお帰りになって──」
そう言った。
伊通は、泣きそうな顔になって、藤子を見、救いを求めるように晴明を見、博雅を見た。
博雅が持っている笛に眼をとめ、
「あなたでしたか……」
伊通はそう言った。
博雅は、声を喉に詰まらせながらうなずいた。
「よい笛でした……」
そう言った伊通の顔が、ゆっくりと崩れ出した。
肌の色が変化をし、溶け、眼の玉が剥き出しになり、白い頬骨と歯が覗いた。
ああ──
と、声をあげるように伊通は口を開いたが声は洩れてはこなかった。
そのまま、伊通はそこへくずおれた。
そこには、半年間土の中に埋められていたらそうであるような、人間の腐乱した屍体が、月光の中に転がっているばかりであった。
その骨になった手に、笛がしっかりと握られていた。
呪が解けた桜の花びらが、そこに落ちていた。
女が、静かに静かに、啜《すす》りあげ、やがてそれは、低い押し殺した慟哭《どうこく》の声にかわった。
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ものや思ふと……
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『今昔物語集』巻第二十七
「於京極殿《きようごくどのにて》 有詠古歌音語《こかをながむるこえあること》第二十八」
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今昔《いまはむかし》、上東門院の京極殿に住ませ給《たま》いける時、三月《やよい》の二十日《はつか》余の比《ころおい》、花の盛にて、南面《みなみおもて》の桜|艶《えもいわ》ず栄《さき》乱れたりけるに、院寝殿にて聞かせ給いければ、南面の日隠しの間《ま》の程に、極《いみ》じく気高く神□たる音を以って、
こぼれてにおう花ざくらかな
と長《なが》めければ、其《そ》の音《こえ》を院|聞《きこしめ》させ給いて、「此《こ》は何《いか》なる人の有るぞ」と思《おぼ》し食《めし》て、御障子の被上《あげられ》たりければ、御簾《みす》の内より御覧じけるに、何《いずこ》にも人の気色《けしき》も無かりければ、「此は何《い》かに。誰が云《いい》つる事ぞ」とて、数《あまた》の人を召《めし》て見せさせ給いけるに、「近くも遠くも人|不候《さぶらわ》ず」と申しければ、其の時に驚かせ給いて、「此《こ》は何《い》かに。鬼神などの云ける事か」と恐《お》じ怖れさせ給いて、関白殿は□□殿に御《おわし》ましけるに、|※[#「公/心」、unicode5fe9]《いそぎ》て、「此《かか》る事こそ候《さぶら》いつれ」と申させ給いたりければ、殿の御返事《おおむかえりごと》に「其《そ》れは其《そこ》の□□にて常に然様《さよう》に長《なが》め候う也《なり》」とぞ御返事|有《あり》ける。
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初めに、まず、唐《から》という国について、想いを馳せてみたい。
この王朝は、七世紀初めから十世紀初めにかけて、およそ三百年近く続いた。
その三百年近い王朝の歴史の中で、最も唐らしい時代、あるいは最も唐が盛んであった時代がいつであったかを問われたならば、迷わずに、西暦七一二年から七五六年までの四十五年間を挙げねばならない。
一般的に、盛唐と呼ばれている時期である。
どういう時期か。
楊貴妃との悲恋物語で知られる玄宗皇帝が、唐の国を統治していたのがこの時期であり、李白や杜甫をはじめとする絢爛《けんらん》たる才をもつ詩人たちが、宝石や黄金を撒《ま》き散らすように、惜しげもなく詩句を産み出していったのがこの時期である。
この時期の長安の都は、落ちる寸前の爛熟期の果実といってもいい。
これを象徴するかのような宴が催されたのが、天宝二年(七四三)の春である。
場所は長安の興慶宮。牡丹の花が満開の時期。この宴の最中に、玄宗は李白を呼び出して、詩を作ることを命ずるのである。
酔ったまま玄宗の前に現われた李白は、溢るる才を筆先からこぼつがごとくに、たちまちさらさらと一編の詩を書いてのける。
雲には衣裳を想い 花には容《かんばせ》を想う
春風 欄《おばしま》を払って 露華《ろか》 濃《こ》まやかなり
若《も》し 群玉山頭《ぐんぎよくさんとう》にて見《あ》うに非《あら》ざれば
会《かな》らず 瑤台月下に向いて逢わん
即興のこの詞を、当代きっての歌手である李亀年《りきねん》が唄い、宮廷の楽師たちが奏でる管絃の音に合わせて、楊貴妃が舞う。
これを見物している人間たちの中には、倭国からやってきて、唐の国の朝廷に仕えている安倍仲麻呂《あべのなかまろ》もいる。さらには、後に、安禄山《あんろくざん》の乱のおり、楊貴妃の首を絹の布で絞めることになる宦官《かんがん》の高力士《こうりきし》もいる。
この時期の長安は、枝になったまま、腐臭の一歩手前の甘やかな香りを放っている、果肉のとろけそうな果実であった。興慶宮の宴は、その長安を象徴するような宴であったといっていい。
さて、では、本朝ではどうであったか。
李白が詞《うた》い、楊貴妃が舞った、唐の国の宴に並ぶほどの宴が、平安京の歴史の中にあったのだろうか。
それは、あった。
村上天皇の時──
天徳四年(九六〇)の春に催された、内裏《だいり》歌合《うたあわせ》がそうである。
歌合とは何か。
歌合というのは、宮廷人たちが、左右に分かれて、それぞれ、左方《ひだりかた》、右方《みぎかた》の用意してきた和歌のうち、どちらが優れているかを競い合う催しである。
様々な方法ややり方があるが、競技性のみではなく、娯楽、宴としての要素も強い。
管絃あり、唄あり、酒宴ありの催しである。
仁和元年(八八五)から、文治(一一八五〜一一九〇)年間に至る三百余年の間に、歌合は知られている限りで四百七十二度、類似行為では三十度も開催されている。これらの合わせて五百回を越える同種の催しの中でも、この天徳四年に、村上天皇によって催された内裏歌合が、その規模、品格、歴史的意義、そのどれにおいても、他から抜きん出ていたといっていいだろう。
神事にあらず、祭にあらず、儀式にあらず──本質はただの遊びである。しかし、それは、およそ四百年近くも続いた平安京の歴史の中で、最も豪華な、絢爛たる宴であった。
重たく花を咲かせた艶《あで》やかな大輪の牡丹──
李白が詞《うた》い、楊貴妃が舞った興慶宮の宴が、唐というひとつの王朝の最も盛んな時期を象徴しているように、この天徳四年の内裏歌合は、古代王朝文化を象徴するひとつの事件であったと考えていいだろう。
それは、どのようなものであったか。
まず、これを主宰したのは、時の帝《みかど》──つまり村上天皇である。
時は天徳四年の三月三十日──太陽暦の四月二十八日である。
場所は、大内《おおうち》清涼殿。
そもそものきっかけとなったのは、この前年、天徳三年八月十六日に行われた詩合《しあわせ》である。左右に分かれた男たちが、それぞれ詩や文章を用意して、どちらの詩、どちらの文章が優れているかを競ったのである。
これに、内裏の女房たちが刺激され、
男すでに文章を闘わせり。女よろしく和歌を合わすべし
ということになった。
「男の方たちばかりお楽しみになって。わたしたちも何かやりましょうよ」
「ならば、わたしたち女は、和歌を合わせましょう」
このような会話が女房たちの間であったものと想像できる。
これを、村上天皇が、自らの趣味に合わせ、心のおもむくままに演出をした。
村上天皇は、歴代の天皇の中でも、特にこのような催しを愛した人物であった。自らも歌を詠《よ》み、楽については、箏《そう》、笙《しよう》、横笛、篳篥《ひちりき》などが極めて堪能であった。それぞれの道の秘曲相伝者であり、管絃の道における天皇の逸話は、『江談抄』や『禁秘抄』をはじめ、『古事談』、『文机談』、『教訓抄』等、枚挙に遑《いとま》がない。
それだけの人間が、朝廷の最大権力者である自らの力を利用して、己れの理想とする風雅の極みを春の京に演出しようとしたのである。
村上天皇が、左右の方人を定めたのは、その年の、二月二十九日である。
方人というのは、かたうどと読む。
ここでは、歌合をする主体である女房たちのことだ。
方人は、歌を詠んだりはしない。
歌を詠む人間に歌の作成を依頼し、それを歌合の場で講師に詠ませる。自分たちは、その見物をしながら、自分の側の歌が勝ったり負けたりするのを楽しむのである。
今回の方人は、内裏の女房たちである。更衣を頭《かしら》にして、典侍《ないしのすけ》、掌侍《ないしのじよう》、内侍《ないし》、命婦《みようぶ》、女蔵人《によくろうど》の女房たちを左右に分けて、それぞれ十四名ずつ──合わせて二十八名が選ばれた。
これが、頭である左右の更衣に伝えられたのが、三月の二日。
歌題が決められて、それを女房たちが賜わったのが三月の三日であった。
この題に応じて、歌が創られ、題ごとに左右が用意した歌が対決することになる。
ちなみに、これは二十番勝負であり、あらかじめ、題ごとに詠む歌の数が決められている。題によって一首の場合もあれば、二首の場合も、三首の場合も、五首の場合もある。
勝負の順に題と詠まれる歌の数を記すと、次のようになる。
霞《かすみ》が、一首。
鶯《うぐいす》が、二首。
柳が、一首。
桜が、三首。
山吹が、一首。
藤花が、一首。
暮春が、一首。
初夏が、一首。
郭公《かつこう》が、二首。
卯花が、一首。
夏草が、一首。
恋が、五首。
春の歌が十首、夏の歌が五首、恋の歌が五首──合わせて二十首。
左右が二十首ずつの歌を用意して競うことになるから、全部で四十首の歌が創られることになる。
女房たちは、嬉々として、それぞれの題について、誰に歌を詠ませるかを相談しあったことであろう。
「わたくしの歌を──」
「わたくしが恋の歌を詠めば天地も動きましょう」
歌人たちが、女房たちに自分を売り込んだり、
「どこぞに、歌の達者な者はないか」
あちらこちらの知人に、女房たちやその関係者が声をかけたりもしたであろう。
その経緯はともかく、結局、選ばれたのは次のような歌人であった。
左が──
朝忠卿(六首)。
橘好古(一首)。
少弍命婦《しようにのみようぶ》(一首)。
源順《みなもとのしたごう》(二首)。
坂上|望城《もちき》(二首)。
大中臣能宣《おおなかとみのよしのぶ》(三首)。
壬生忠見《みぶのただみ》(四首)。
本院侍従(一首)。
右が──
中務《なかつかさ》(五首)。
藤原元真(三首)。
藤原博古(一首)。
平兼盛(十一首)。
左が八名、右が四名である。
このうち、朝忠、順、元真、能宣、忠見、兼盛、中務の七名は、三十六歌仙にも入っている。
勝負の数より歌人の数が少なく、左と右とで歌人の人数が違うのは、ひとりが一首と決められているわけではなく、一名の歌人が何首も詠んでよいからである。
現場に臨んでそこで初めて題が知らされ、即興で詠むのではなく、題にあわせてあらかじめ歌を創っておくというのが、歌合の一般的なやり方である。
左方の方人頭が、宰相更衣の源|計子《けいし》。
右方の方人頭が、按察《あぜちの》更衣の藤原正妃。
判者は、左方の上達部《かんだちめ》である左大臣の藤原|実頼《さねより》が務めている。
本来は中立であるべき判者に左方の人間をもってくるというのは公平ではないが、やはり帝につぐ権力者が判者となるのは、人事としては妥当なところであろう。
さて、左方、右方それぞれに、講師という歌を声に出して詠みあげる立場の人間がいる。
左の講師が源|延光《のぶみつ》。
そして、右の講師が源博雅《みなもとのひろまさ》であった。
三月十九日には、公卿たちも左方右方に分けられ、念人《おもいびと》などもこの時に決められた。
念人というのは、方人のように勝負を争う人々のことではなく、左方なり右方なりを応援する役割を荷《にな》っている人間たちのことである。
当時の平安京を代表する貴族、教養人、楽人、芸術家──彼等を一堂に集めての催しだったのである。
そうして、天徳四年三月三十日、午後四時──件《くだん》の歌合は、始められたのであった。
博雅は、酒を飲んでいる。
安倍晴明《あべのせいめい》の屋敷の、庭に面した濡れ縁である。
胡座《あぐら》をかき、円座に尻を乗せて、瑠璃《るり》の盃に満たした酒を、口に運んでいる。
異国の酒だ。
葡萄《ぶどう》から醸造《つく》られた、胡《こ》の国の酒である。
晴明は、白い狩衣《かりぎぬ》をふわりと身に纏《まと》い、片膝を立てて、柱の一本に背を預けている。
晴明の膝先にも、瑠璃の盃が置かれ、異国の酒が満たされている。
春はすでに終りかけ、初夏を迎えようとしていた。
夜──
晴明と博雅の間に、灯火がひとつ置かれ、その火の周囲に小さな虫が、ひとつ、ふたつ、舞っている。
庭中に、草が繁っている。
後から生えてきた夏の草が、繁縷《はこべら》や野萱草《のかんぞう》などの春の草の丈を追い越して繁り、春の草は夏の草の間に埋もれ、わからなくなっている。
まるで、庭というよりは、野であった。
草や樹が、思うさま、自由に晴明の庭で伸びている。
そういった若い草や、青葉の香りが、闇の中に溶けて漂っている。
胡の酒の香りと、その香りとが混じった大気を、博雅はしみじみと呼吸しながら酒を飲んでいる。
庭の奥に、桜の樹がある。
八重桜である。
葉の間に、薄桃色の花がみっしりと咲いて、その重さで枝先を下にさげている。
他に、山吹の花が向こうにあり、あちらには、老松にからみついた藤が、幾房もの花を下に垂らしている。
もとより、八重桜も、山吹も、藤も、夜の闇の中で咲いているため、その色やかたちがはっきりと見てとれるわけではない。
しかし、眼で見える以上に、花や葉の匂いが、濃く自身の存在を主張しているのである。
「なあ、晴明よ……」
庭の闇に眼をやりながら、博雅が言った。
「なんだ、博雅よ……」
微かに笑みを含んだような紅い唇で、晴明が答えた。
「眼に見えるものばかりが、この世に在るというものでもないのだなあ」
「何のことだ」
「たとえば藤だよ」
「藤?」
「庭のどこに咲いているのかは見えないが、こうして、うっとりするような匂いが漂ってくるではないか」
「うむ」
晴明が、静かにうなずく。
「おまえとおれだって、そうだぞ、晴明──」
「ほう」
「今日、おぬしと会うまで、おれたちは別々の場所にいたではないか。互いに相手の見えぬところにいたのだが、こうして会ってみれば、おれもおまえもちゃんとここにこうしている。見えずともおれたちはきちんとこの世に在ったということではないか」
「うむ」
「藤の話をしたが、その匂いもそうだ。眼には見えぬが、匂いというものは間違いなくあるのだ」
「何が言いたいのだ、博雅」
「だからよ、晴明。おれは、生命《いのち》というのも、そういったものではないかという風に考えているのだよ」
「生命?」
「そうだ。たとえば、この庭に草が生えているではないか」
「うむ」
「しかし、野萱草なら野萱草の生命を、おれたちは見ているわけではない」
「ほう──」
「おれたちが見ているのは、草の色をした、野萱草という草のかたちを見ているだけだ。野萱草の生命を見ているわけではない」
「うむ」
「おれとおまえだってそうだぞ。おれは、今、人のかたちをしていて、晴明というおれのよく知っている男の顔を見ているだけで、晴明という生命そのものを見ているわけではない。おまえにしたって、見ているのはこの博雅という男のかたちや色だけなのだ。生命そのものを見ているわけではない」
「なるほど」
「わかるか」
「それで?」
「それでだと?」
「そうだ。それでどうだとおまえは言うのだ、博雅よ」
「どうもこうもない。それだけのことではないか。眼に見えずとも生命は在るのだという、それをおまえに言いたかっただけなのだよ」
「博雅よ。おまえが今言うたことは、なかなか凄いことだぞ。そこらの陰陽師や坊主でも、めったなことでわかるようなことではない」
「そういうものか」
「そういうものなのさ。よいか博雅、おまえの言ったことは、呪《しゆ》の根本に関わることなのだ」
「また呪か」
博雅が眉をひそめた。
「呪だ」
「ちょっと待て、晴明。おれは今、せっかく何やらわかった気になって、よい気持で酒を飲んでいるのだ。おまえに呪の話をされると、今のこのよい心もちが、どこかへ行ってしまいそうな気がする」
「案ずるな、博雅。わかるように話をするから──」
「本当か」
不安気な顔で、博雅は酒を口に運び、瑠璃の盃を下に置いた。
「うむ」
「覚悟をしたよ、晴明。黙って聴いているから、できるだけ短く頼むぞ」
「そうだな。では、まず宇宙の話からしようか──」
「宇宙だと?」
宇《う》、即ち天地、左右、前後──つまり空間のことである。
宙《ちゆう》、即ち過去、現在、未来──つまり時間のことである。
これを合わせて、宇宙とする世界を認識するための言語を、この時すでに中華文明は有していた。
「人はな、この天地の間に在るものを理解してゆくのに、呪をもってするということだ」
「は!?」
「人は、呪という手段で、この宇宙のことを理解してゆくということだな」
「な、なに……?」
「人が、視ることによって初めてこの宇宙は存在すると言いかえてもよい」
「わからん。わからんぞ晴明。おまえ、わかるように言うと言ったではないか」
「では、石の話をしよう」
「う、うむ、石だな」
「石だ」
「石がどうした?」
「たとえば、ある場所に石が転がっている」
「うむ、転がっている」
「まだ、それには、石という名がつけられていない。つまりそれは、まだ、硬くて丸いだけの名のないものだ」
「しかし、石は石ではないか」
「いや、まだ、それは石ではないのだ」
「なに!?」
「人が、それを見、それを石と名づけて──つまり、石という呪をかけて初めて石というものがこの宇宙の中に現われるのだ」
「わからん。たとえ、名をつけようとつけまいと、それは昔からそこにあり、その後もそこにあるのだろう」
「うん」
「ならば、それが、そこにあるかないかということと呪とは関係がないのではないか」
「だが、|それ《ヽヽ》ではなく、石というものならば関係がないわけではないのだ」
「わからん」
「では、その石は何だ?」
「なに!?」
「石はまず石だ」
「う、うむ」
「その石を、誰かが握って、誰かを叩いて殺したとする」
「うむ」
「石は、その時、武器になる」
「なんだと」
「それは、ただの石であったのだが、誰かがそれを握って誰かを殴るという行為によって、その石に武器という呪《しゆ》がかかったことになる。以前にも、この石のたとえはしたことがあるが、どうだ。これならわかるか」
「わ、わかる……」
博雅はうなずいた。
「それと同じだ」
「何が同じなのだ」
「だから、そこにあるだけの、丸くて硬いものが、ただそれだけのもので、最初は何ものでもなかった。しかし、それを、人が見、石という名をつけた。つまり、それに石という呪をかけて初めて、この世に石が生じたのだということでよいではないか」
「よくない」
「何がだ」
「おい晴明、おまえ、おれを騙《だま》そうとしてないか」
「騙そうとなんかしてない」
「いいや、している」
「では、歌も呪であると、そういう話をしようか」
「歌?」
「ああ。心の中がもやもやとする。それが何だかわからない。それを歌にして言葉の中にからめとって、ようやくそれがわかる」
「何がわかるのだ?」
「どなたかを愛しいと想う気持のことだ。その気持に歌という呪をかけて言葉にした時、初めてわかってくる心のありかたもあるということだ──」
「呪とは、言葉か」
「まあ、そうだな。かなり近いだろう」
「近い?」
「近いが、言葉そのものが呪であるというわけではないのだ」
「ほほう、何故だ」
「言葉は、呪を盛るための器なのだよ」
「なに!?」
「呪というのは、とりあえず神とでも呼んでおこうか。神へ捧げられる神のための供物《くもつ》なのだ。言葉というのは、その供物を盛るための器なのだよ」
「わからんぞ、晴明」
「哀しみという言葉があって、初めて人は、心の中のそういう感情を、その哀しみという言葉の中に盛ることができるのだ。哀しみという言葉それだけでは、呪ではない。そこに、心の中にあるそういう感情が盛られて、初めて哀しみという呪が、この世に生まれるのだ。呪は、単独ではこの世に存在できぬ。言葉であるとか、行為であるとか、儀式であるとか、音楽であるとか、歌であるとか、そういう器に盛られて初めて呪というものはこの世に生ずることができるのだよ」
「む、むう……」
「愛しいお方よ、わたしはそなたに逢えなくて、毎日がとても哀しいのだよと言う時、その哀しいという言葉から、哀しみだけを取り出して、博雅よ、誰かに見せてやることはできるか」
「───」
「また逆に、言葉も使わず、絵も描かず、どのような行為もせず、呼吸もせず、息を荒くもせず、何もせずに、哀しみというものを誰かに伝えることができようか」
「───」
「言葉と呪とは、まあ、そのような関係にある」
「───」
「つまり、生命《いのち》そのものを、おれやおまえの中から取り出して、誰かに見せてやるということは、できぬということと同じなのだ」
「───」
「生命というものは、おれや、博雅や、あそこの草や、花や、虫や、生き物の中にあって初めて見ることができるのだ。この宇宙の中に現われることができるのだ。そういう器なしに、生命だけを盛ったり、人に見せたりすることはできぬのだよ」
晴明は、微笑しながら言った。
博雅は不満そうな顔をしている。
「見ろ、やっぱり、おれが言った通りだったではないか」
「何がだ?」
「おまえが呪の話をしたら、おれは、おれが想ったとおりに何が何やらわからなくなってきてしまったぞ」
「いや、おまえはよくわかっているさ」
「しかし、さっきのよい心もちはどこかへ行ってしまったようだぞ」
「それはすまぬ」
「あやまることはない」
「しかし、博雅よ。さっきはどきりとしたぞ。おまえは、余計な理屈や、考えを必要とせずに、ものの本然《ほんねん》を、いきなり捕えてしまう。そういうことができる人間というのは、めったにいるものではないぞ──」
「それは褒《ほ》めているのか、晴明よ」
「あたりまえではないか」
ふうん──
と晴明の顔を見つめてから、
「安心した」
博雅はつぶやいた。
「わけはわからぬが、おまえがおれを本当に褒めているようだからだ」
「陰陽師のつまらぬ戯言《たわごと》に耳をかすよりは、おまえの笛を聴いている方が、よほど心地よい──」
「だがなあ、晴明よ。昨年もそうだったが、今時分の季節になると、すぐに思い出してしまうことがあるのだよ」
「何だ?」
「一昨年《おととし》にやった、歌合のことだよ」
「ああ、あれも今時分のことだったな」
「三月三十日──あの時も、桜が咲き、藤も山吹も咲いていた……」
「そう言えば、琵琶の玄象が盗まれた年だな」
「あの時は、異国《とつくに》の鬼に盗まれた玄象を取りもどすために、おれとおまえとで羅城門まで出かけて行ったではないか」
「うむ」
「さっき、おまえが歌の話などをするものだから、おれは、また壬生忠見どののことを思い出してしまったよ」
「恋すちょう、の忠見どのか……」
「さっき、おまえが言っていたことは、忠見どののことを思えば、さもあらんという気もしてきたよ」
「おれが言っていたこと?」
「歌は、呪だと言っていたではないか」
「あのことか──」
「まったく、あの歌合の時は、おれもさんざんであったよ……」
博雅が頭を掻くと、晴明が、
く、
く、
く、
と、笑い声を押し殺した。
「博雅よ、おまえ、あの時に歌を詠みそこねたんだったな」
「それを言わないでくれ」
「言い出したのはおまえだ」
「なんでおれからあの時のことを言い出さなくちゃいけないんだ」
「おれに訊くなよ、博雅……」
博雅は、何か思い出したように顔をあげ、暗い庭の彼方を見やった。
「あの、きらきらした晩のことが、もうずっと昔の夢のできごとのような気がするよ──」
「宴というのは、過ぎてみれば、たとえそれが昨夜のことであっても、もうずっと昔のできごとのような気がするものなのだ」
「うん」
と、博雅は、ひどく素直にうなずき、
「本当におまえの言う通りだなあ、晴明よ」
独り言のようにつぶやいたのであった。
天徳四年三月三十日──
内裏歌合が始まったのは申《さる》の刻──午後の四時頃である。
場所は、清涼殿──
その日の早朝から、蔵人所の雑色《ぞうしき》が参上して、会場の設備にかかっている。
清涼殿の西廂《にしびさし》──つまり、鬼間、台盤所、朝餉間の七間に渡って新しい簾をかけ、中央を帝の御座として、そこに御椅子を置いた。御椅子の左側には几帳《きちよう》を立て、置物の机を置いた。
御椅子の左右を女房たちの座として、さらに清涼殿と後涼殿とを繋ぐ中渡殿《なかのわたどの》に、左大臣藤原実頼や大納言源高明をはじめとする、左右上達部の公家たちの席を設けた。
帝が姿を現わし、御椅子に着いたのは、申の刻であったと、公式記録である『御記《ぎよき》』は記している。
まず最初に左方、右方が、和歌の洲浜《すはま》を天皇に献じた。
洲浜というのは、水の湾入した渚を模した箱庭のようなものである。
洲浜には二種類ある。
文台の洲浜と、員指《かずさし》の洲浜である。
左方、右方、共に文台の洲浜と員指の洲浜をひとつずつ用意しているため、全部で四つの洲浜が用意されたことになる。
天皇のすぐ傍に置かれたのが、文台の洲浜で、左方、右方、それぞれの歌がその上に載っている。
員指の洲浜は、読んだ歌を置いて数えるためのもので、これは天徳四年の歌合では、それぞれ、左方、右方のそばに置かれた。
もうひとつ特筆すべきは、歌合の場合左右で着ているものの色分けがなされているということだ。
左方が、赤。
右方が、青。
さらには、香などの薫物《たきもの》の種類まで、右と左で分けている。
この日の歌合については、多くの人間が記録に残したり、日記に書いたりしている。
左大臣の書いた歌合の判定記録。
天皇が書かせた公式記録である『御記』。
蔵人が、私人としての天皇の動静を書いた『殿上日記』。
さらには、仮名で書かれた、『仮名日記』が、いくつか。
実際には、もっと多くのこの歌合について書かれた個人的な日記があったはずであり、この数の多さは、そのまま、この催しに対する人々の関心の深さを物語っているといっていい。
皆、それぞれに、見る人間の視点によって書いていることが少しずつ違っていたり、あるいは、ある書き手が触れていることを別の人間はまるで触れていなかったりするといった具合で、その日書かれた日記の数だけ歌合があるといってもいい。
ある仮名日記の作者は、この日の様子を、次のように記している。
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左の方は、典侍、赤色に桜襲《さくらがさね》の唐衣《からぎぬ》・羅《うすもの》の摺裳《すりも》、命婦・蔵人は赤色に桜襲・紫の裾濃《すそご》の裳《も》みな着たり。薫物は崑崙方《くろばう》を|※[#「火+主」]《た》く。右は、青色の青き、裳はおなじ紫の裾濃なり。薫物は侍従を※[#「火+主」]く。かくて、日の気色晴れて見ゆるほどに、歌ども遅しと召す。左のは遅ければ、まづ右のを奉る。洲浜は、沈《ぢむ》を山に作りて、鏡を水にして、沈の船浮けたり。銀の河亀二つ、甲の裏に色紙に歌は書きて入れたり。花足には沈を作りて金《こがね》の筋やれり。浅香《せんかう》の足結《あしゆひ》の組、裾濃の総《ふさ》したり。あをくちば薄物の覆ひに、柳・鳥の形を繍《ぬ》ひたり。台には柳の枝に造れり。浅縹《あさはなだ》の打敷したり。髫《うなゐ》四人、青色に柳襲にて、北の方より舁《か》き立つ。同じ方の殿上人|副《そ》ひて、出だし立つ。員刺《かずさし》の洲浜は北の際に置く。員刺は殿上童《うへのわらは》。左の歌、黄昏時《たそがれどき》に奉る。その洲浜は、沈の山、鏡を水にして、洲にも銀《しろがね》の鶴二つ立てて金《こがね》の山吹に銀の葉に、歌は鶴にくはせたり。花足は紫檀を造りて銀の筋やりて、下机は蘇芳《すはう》にして金《かね》の筋やれり。足結の組、覆ひは藤の裾濃、葦手を繍文《ぬひもの》にしたり。覆ひの台は、銀を竹の形に造りて、打敷には葡萄染《えびぞめ》の。うなゐ六人、赤色に桜襲着て、南の方より御前に舁き立つ。員刺の洲浜、南の際に置く。
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匂いたつような艶《あで》やかなその光景が、眼に浮かんでくる。
左の方の典侍は、赤色に桜襲の唐衣に羅の摺裳を着、命婦と蔵人は、赤色に桜襲の唐衣、紫の裾濃の裳を皆着ていたという。右の方は右の方で、青い衣裳で身を包んでいる。
右の洲浜台は、浅香材の下机に、沈木で作った花足の机を載せ、ひとつとして同じ材料を使用してない。
左方が、材質の木肌やその色を重んじたのに対して、右は香木の珍しさを主にしていた。
しかも、その材質の色は、右の色である青が基調となっている。
左の洲浜の覆は、下机と同じ蘇芳の村濃《むらご》の花文綾で、藤の折枝と葦手散し書きの古歌五首を刺繍したものである。
右は下机と同系統の青裾濃の花文綾に、柳の折枝を刺繍したもので、やはりここにも文様色調の統一と対照が守られており、藤と柳、左右どちらも、今回の歌合の題と関係した刺繍であるというのが、気遣いに溢れている。
これ等の洲浜台の地敷は、左は紫の綺《あやぎぬ》、右は浅縹の綺であるが、ここでも、左が赤系統、右が青系統という色分けが保たれている。
左右、いずれの洲浜も沈で山を造り、鏡を水に見立てているところまでが同じだが、左は洲浜の中に銀の鶴を立て、右は洲浜の中に銀の河亀を置くといった趣向になっている。
左の洲浜の趣向は、立てた鶴に、黄金でできた花を咲かせた山吹の枝を咥《くわ》えさせるといったもので、右は、銀の河亀甲の裏に歌を書いた色紙を入れるといった趣向でこれに対応した。
左右とも、それぞれ題の趣向に従って、花の歌は洲浜中の花の木に、鳥の歌はその鳥の嘴《くちばし》に咥えさせ、恋の歌は鵜舟の篝火《かがりび》に載せるといった趣向であった。
金、銀、紫檀、当時手に入る最高の材料に、工芸の粋を尽くし、さらにそれに細やかな趣向を取り入れて洲浜は創られているのである。
こうして、日暮を迎え、篝火を焚いて、酒や食事を口に運びながら、歌合の宴は続けられていったのである。
この最中に、ふたつの事件がおこっている。
そのうちのひとつには、源博雅が関係している。
博雅は、右方の講師──つまり、選ばれた歌を詠む役である。
この時に、博雅は、詠む歌を間違えているのである。
鶯の題で、二首詠唱せねばならぬところ、博雅は、歌をひとつ飛ばして、次の題である柳の歌を詠んでしまったのである。
やりなおしは許されなかった。
次いでを失うによって負となす
順が狂ってしまうことを恐れ、誤って詠んだ歌も、詠まなかった歌も、合わせて負けとなってしまったのである。
白玉の欠くるは、なお磨くべしと。これ今日の言い。
と、殿上日記にある。
白玉が欠けてもなんとか磨いてなおせるが、言葉の誤りは取り返しがつかない=Aというのは『詩経』の中に書かれている言葉だが、これなどは、まさに今日のためにあるような言葉であると、博雅はこのように評されてしまった。
博雅、この時、かなり狼狽し、冷汗をたっぷりとかいたことであろう。
もうひとつの事件は、歌合の最後の対決時におこった。
左方の壬生忠見の歌と、右方の平兼盛の歌の実力が拮抗して、判者の藤原実頼にも、その優劣がつけられなかったのである。
忠見の作った左方の歌が──
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
兼盛の作った右方の歌が──
忍ぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで
題は恋。
最後の二十番目の勝負である。
藤原実頼が、腕を組んで唸っていると、左の詠み手である源延光が、声を大きくしてまた同じ歌を詠んでくる。
「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか──」
すると、今度は、右の詠み手である源博雅が、延光の声にかぶせるようにして、
「忍ぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで──」
やはり、自分の側の歌を詠んでくるのである。
しかし、何と言われようと、わからないものはわからない。
困った実頼は、帝に奏して言った。
「いや、この歌、両方共にもってたいへん優れたものでございます。とてもわたくしには、一方を勝ちとし、どちらか一方を負けとすることなどできません」
しかし、帝は帝で、ならば引き分けにせよとは言わない。
「実頼よ。おまえの言うこともわかる。この歌はどちらもたいへんに優れている。しかし、それでもあえて、勝ち負けを定めなければならぬぞ──」
各々はなはだ嘆美すべし。ただしなお、これを定め申すべし
どちらかに決めよ、と帝は言うのである。
判者である左大臣実頼、おおいに困ったあげくに、
「高明殿、そなたはどう思われる?」
右側の大納言源高明に判定の役を譲ろうとしたが、高明は腰を低くしたまま、慇懃《いんぎん》な微笑を浮かべるばかりで答えようとしない。
この間にも、左右の者たちの間から、次々と自分たちの側の歌を詠唱する声があがってくる。
実頼は、しきりに帝の意向がどちらにあるのかをうかがおうとするのだが、それがわからない。もし、自分が帝の意志とは別の選択をしてしまったらと思うと、どちらにも決められない。
しかし、この時帝は、何やら小さな声でつぶやいている。耳をすませてみれば、どうやら歌を口にしているらしい。
密かに右方の歌を詠ぜしむ
と、実頼自身の書いた判定記録にはある。
帝は平兼盛の忍ぶれど≠つぶやいていたのである。
それを、源高明も耳にして、
「天気もしくは右にあるよ」
どうやらお上の御意向は右方にあるようだぞと、実頼に囁いた。
これでようやく実頼の決心がついて、右方の勝ちとなったのであった。
結局──
左の勝ちが十二首。
右の勝ちが三首。
引き分けが五首。
源博雅が、詠む順序を間違えたために負けになってしまった二首が、仮に右方の勝ちであったとしても、大差で左の勝ちということになる。
勝負が終って、いよいよ本格的な宴となった。
飲み、食べ、歌を唄い、楽器に覚えのある者は楽器を奏した。
ある仮名日記の作者は、それを次のように書いている。
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夜更けて、勝負《かちまけ》さだまりて、御遊びいと面白く、我御方/″\、呂律《りよりつ》の物、風俗など聞こしめしける。
左は、左大臣箏の琴、朝成の宰相笙吹く。重信の主《ぬし》あづま、蔵人|重輔《しげすけ》笛吹く。次に実利朝臣歌うたふ。修琵琶つかうまつる。
右には、源大納言琵琶、雅信の宰相あづま、大蔵卿拍子、博雅の主大篳篥、次に繁平箏つかうまつる。公正《きむまさ》歌うたふ。きむゆき笛つかうまつる。
かかるほどに夜明けぬるを、その人々飽かず思ひける。
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博雅はこの時、和琴も弾いている。
博雅の音楽の才はずば抜けており、「長慶子」という曲まで作曲しているから、かなり女房たちの評判を呼んだことであろう。
宴は、必ず終りの時がやってくる。
その光景を──
東方やうやく明けて、尊儀入りおはしぬ。大臣以下、歌舞して退去せり。
と、『殿上日記』は記している。
夜明けまで宴は続き、帝は奥へおひきとりになり、やがて、大臣以下の皆々も、唄い、舞いながら退出していったというのである。
こうして、平安京の歴史に残る歌合は終ったのだが、この後に、ひとつの事件がおこった。
この事件によって、この天徳四年三月の歌合は、さらに深く歴史に刻まれることとなったのである。
最後の、つまり二十番目の勝負を、右の平兼盛と争った左の壬生忠見が死んだのである。
忠見の、
恋すてふ──
の歌が、兼盛の、
忍ぶれど──
の歌に接戦の末に負けて、そのくやしさから食わずの病≠ノなって痩せ衰え、壬生忠見は死んだということになっている。
その壬生忠見が、鬼となって、夜な夜な内裏に現われるようになった。
「だからなあ、晴明よ……」
と、博雅は、盃を口に運びながら言った。
「この時期になると、あの宴のことや、忠見殿のことがしみじみと思い出されてならないのだよ」
すでに、二年という月日が過ぎているのだが、博雅は、まだ、その過ぎた歳月の距離が実感できないようであった。
わずかに風が出てきたようであった。
闇の中で、庭の花や草が、静かに揺れはじめている。
うっとりと、濃い植物の香気を含んだ大気を呼吸しながら、博雅はほろほろと酒を飲んでいる。
「あのような鬼も、あったのだなあ……」
博雅は言った。
「鬼?」
「あの、忠見殿のことだよ」
「忠見殿か──」
「帝が、忠見殿が鬼になったことを知られたのは、いつであったかな。一年後であったか……」
「あの男のような立場にいる者は、つまらぬことでも、鬼が内裏に出るというようなことは気にするのさ」
「あの男とは?」
「帝さ」
「こら、晴明。帝のことをあの男などと言うなと以前も言ったではないか──」
「そうだったか」
晴明は、少しも悪びれた風もなく微笑した。
その、壬生忠見の鬼のことで、最初に騒ぎ出したのは、工《たくみ》たちであった。
壬生忠見の鬼のことで、晴明のもとへ源博雅が訪ねてきたのは応和元年(九六一)の春のことであった。
つまり、天徳四年の内裏歌合から、およそ一年後のことである。
いつものように、庭に面した濡れ縁に座して、博雅は晴明と向きあった。
八重桜には、まだ早い時期である。
かわりに、庭の奥にある山桜の古木に、枝が下がるほどの桜の花が咲いている。
淡い桃色の桜の花びらが、風もないのに、ひとつ、またひとつと舞い落ちている。
一枚の花が落ち、地に落ちきるまでに、また次の花びらが枝から離れてゆく。
突然の来訪であった。
供の者を誰も連れずに、博雅はただ独り、徒歩《かち》でここまでやってきた。この男、殿上人のくせに、時おりこのようなことをする。
まだ、昼前であった。
庭の草に凝った露が、まだ乾ききらない時刻である。
「かまわなかったのか」
と、博雅は晴明に訊いた。
「昼頃に、客人がひとり来ることになっているが、それまでは時間がある」
晴明は、博雅を見やりながら、
「用件があるならば聴こう」
柱の一本に背をあずけた。
「忠見殿の怨霊が、内裏に出ることは知っているだろう?」
博雅が訊いた。
「壬生忠見殿の鬼のことか」
晴明がうなずく。
「そうだ」
壬生忠見は、『古今和歌集』の編纂者のひとりとしても知られる、壬生|忠岑《ただみね》の息子で、死後、三十六歌仙のひとりとしてかぞえられるようにもなった歌人である。
天暦七年(九五三)──天徳四年の歌合から、七年前に催された歌合のおりにも、忠見は多々の名で歌を出しており、それから天徳四年までの間に何度か催された他の歌合でも歌が詠まれている。
歌合ゴロと呼ぶのは品が悪すぎるが、このような歌合の人材としては、そこそこは名を知られていたのであろう。
三十代の初め──
摂津《せつつ》の大目《だいさかん》という地方職にあったが、卑官であった。
官位で言えば、従八位の上である。
金はなく、歌合のため都へ上ってきた時は、朱雀門の曲殿《まがりや》に寝泊まりをしていた。曲殿とは、門を警護するための役人が寝泊まりするためのもので、わかりやすく言うなら、門番の宿直室のようなものだ。
そこに、間借りするようなかたちで、寝泊まりをしていたのである。
このことは、つまり、壬生忠見が、都に知り合いもおらず、ほどよい宿泊先を世話してくれる伝手《つて》もなかったことを物語っている。
よほど金がなかったに違いない。
歌合のことを摂津で耳にして、喰うや喰わずで都にやってきて、自分の歌を売り込んだのに違いない。
歌合は、忠見のような官位の低い人間が殿上人たちに自分を認めてもらい、余禄を稼ぐめったにない機会であったろう。
壬生忠見の怨霊が、内裏に出るようになったのは、昨年の春に内裏で催された歌合が終って、しばらくたってからであった。
忠見は、歌合が終ったその翌日から、病を患って寝込んだ。
喰わずの病──
ものが喰えなくなり、日に日に痩せ衰えていった。
無理に食べものを口に入れれば、吐く。
やっと、粥《かゆ》を腹に流し込んでも、すぐにもどした。眼ばかりを異様にぎらぎらと光らせていた。
自分の恋すてふ≠フ歌が、兼盛の忍ぶれど≠フ歌に負けたくやしさからであろうと、人々は噂しあった。
兼盛も壬生も、年齢はいくらも変わらない。
共に三十代の初めである。
わざわざ兼盛は、この時の忠見に会いに行っている。
忠見の様子は、骨に人の皮を被せたばかりに見えた。
兼盛が訪ねてゆくと、忠見は、床に藁《わら》を敷いて、その上に寝ただけの状態であったのだが、ゆっくりと身を起こし、
「こひ、すてふ……」
小さな、細い声で自分の歌を囁いた。
「わが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか……」
兼盛の方を向いているのに、眼は兼盛を見ていない。
着るものも替えてなく、水浴もしておらぬらしく、身体からは獣のような臭いがする。
「これはまさしく鬼になりつるよ」
兼盛は、忠見のもとから帰ってきて、そう言ったという。
歌合から半月後に、忠見は死んだ。
幽鬼のように痩せ衰え、身体の重さは、その屍体を抱えあげた時には半分以下になっていたという。
この忠見の怨霊が、鬼となって内裏に出るようになったのは、ほどなくであった。
深更に、歌合のあった清涼殿のあたりに現われ、
「恋すてふ……」
さびさびとした哀しげなる声で、自分の歌を詠む。
歌を詠みながら仙華門を通り、南庭へ抜け、紫宸殿《ししんでん》の前あたりで、消える。
特に、これといった悪さをするわけではない。姿を現わし、歌を詠みながらそぞろに歩き、そして、消える。
それだけのことだ。
見た者も、それほど多くいるわけではない。
宿直《とのい》の者が、たまに見るだけだ。
怖いことは怖いが、出なければ出ないで、
「今宵は忠見殿はいかがされているのであろう」
「新しい歌でも考えて苦吟しておられるのであろうよ」
そのくらいの冗談の種にされるほどにはなっていた。
帝の耳にさえ入らねばそれでよかろうと、知っている者たちの間では、忠見の怨霊は、暗黙のうちの了解事項になっていたのである。
「これがなあ、とうとう帝の耳にも入ってしまったのだよ」
と、博雅は言った。
「らしいな」
晴明は、顎に右手をあてて、うなずいた。
「なんだ、知っていたのか」
「工《たくみ》たちが見たのだろう?」
「そうなのだよ、晴明──」
知っての通り、今、清涼殿にはたくさんの工が入って仕事をしている。
博雅はうなずいた。
落雷による出火で、清涼殿が焼けたのは、昨年の秋であった。
それを建てなおす作業が、昨年からずっと内裏では行われているのである。
朝から夕刻まで──
「しかし、帝がそれを急がれてなあ──」
十日ほど前から、何人かの工が、夜も遅くまで居残って、できる仕事をやることになった。
現場に篝火《かがりび》を焚き、時にはその作業が深夜近くにまで及ぶこともあった。
そういうおり──六日前の晩に、たまたま残っていた三人の工が、忠見を見てしまったというのである。
どこぞで、声がする。
はて、空耳かと耳を澄ましてみれば、たしかにその声は聴こえている。男の、さびさびとした声で、
恋すてふ……
と、歌を詠じている。
するうちに、まだ半分ほどしかできあがってない清涼殿の暗がりの奥から、青白い燐光を帯びた人影が姿を現わした。
その人影が、歌を吟じながら、ゆっくりと闇の中をそぞろに歩いてゆくのである。
その人影は、三人の男たちがそこにいることにまるで気づかないように、そこを通り過ぎてゆく。
わが名はまだき立ちにけり……
詠《うた》いながら左手へ折れ、
人知れずこそ思ひそめしか……
紫宸殿の方角にまがって、消えた。
あとには、ただ濃い闇が残っているばかりである。
それが、二晩、続けてあった。
壬生忠見の怨霊が鬼となって現われ、夜な夜な、自分の歌を詠じながら紫宸殿の方角に姿を消す……
そういう話が帝にとどいたというのである。
「それで?」
晴明が訊く。
「帝が、これをたいへん気にされてなあ。なんとかせよと──」
博雅が、上目遣いに晴明を見た。
「おれにか」
「そうだ」
「おれもな、忠見殿の怨霊は、何度か見たが、あれは害のないものだ。他へ気が向かわず、皆自分の方にまわってしまっている。あれはあれで、今となれば、場合によったら必要なものと言える」
「どういうことだ」
「つまり、内裏全体の気脈が、あの忠見殿を含めて落ちついてしまっているからだよ。害のないものをのぞいて、その安定が崩れれば、かえっておかしいことがおこるかもしれぬし、もっとたちの良くないものが憑《つ》くことだってあろうよ」
「晴明よ、おまえがそう言うのなら、それは本当のことだろう。だが、問題は主上がそう思うてはおらぬということなのだよ──」
「あの男……」
「こら、それはやめろと言うたではないか」
「式を毎晩あの男のところへやって、耳もとで、忠見殿はそのままに捨ておくように囁かせるか」
「そんなことをしたのがわかったら、晴明よ、おまえの生命が危なくなるぞ」
博雅がそう言っているところへ、唐衣《からごろも》に身を包んだ女が、楚々《そそ》とした風情《ふぜい》で、向こうから濡れ縁を歩いてきた。
晴明の前までやって来ると、
「お約束のお客様がおみえになりました」
そう言って、浅く頭《かしら》を下げた。
「ここへお通ししなさい」
晴明が言うと、女は、また頭を下げて来たのと同じ方向へ去っていった。
「ならば、ひとまずおれははずそうか──」
博雅が、腰を浮かせようとする。
「いいや、博雅、そこにいてくれ。このお客人の用事というのは、今のおまえの話と無関係ではないからな」
「どういうことだ?」
「その客人というのが、壬生忠見殿の父上、壬生忠岑殿だからだよ」
晴明は言った。
壬生忠岑は、古びて色褪せた小袖を着て、ちんまりと晴明と博雅の前に座している。
老人であった。
八十代の半ばくらいにはなるであろうか。
耳のすぐ上に覗いている髪は、白い。
猿のように見える。
晴明が、博雅を紹介すると、
「歌合のおり、右方の講師をされておられましたな」
低い声でそう言った。
壬生忠岑は、泉大将藤原定国の随身《ずいじん》でもあったことのある人物で、是貞親王歌合、寛平御時后宮歌合、亭子院歌合などに歌を出詠し、歌人としての力量が認められて、『古今集』の選者のひとりに任ぜられている。
延喜五年(九〇五)の平貞文歌合の一番左の歌、
春立つといふばかりにやみ吉野の
山もかすみて今朝は見ゆらむ
は、『拾遺』の巻頭歌となっている。
同じ年、泉大将藤原定国四十賀の屏風歌を献じ、さらにその二年後、宇多法皇の大井川行幸に供奉《ぐぶ》して和歌を詠じ、紀貫之とは別に「仮名序《かなのじよ》」を遺している。
『古今』以前の歌合には、紀友則などと並ぶ歌数を遺しているが、延喜七年の大井川行幸の詠進以後は、残るような作品を出していない。
当然ながら、博雅もこの歌人の名は知っている。
「ええ、講師を務めておりました」
博雅がこたえた。
博雅の官位が三位、忠岑の官位が六位──互いに濡れ縁に座して、正面から対座することなど普通はないのだが、晴明の屋敷ではこれがごくあたりまえのように向き合っている。
むしろ、歳上で、しかも歌人として名を成した忠岑を、博雅の方が立てているように見える。
「忠岑殿──」
と、晴明は壬生忠岑に視線を送った。
「こちらの博雅殿もまた、同じ用件で来られたのですよ」
「では、忠見のことで?」
「はい」
うなずいたのは晴明である。
「では、博雅殿も、帝から忠見の霊を鎮めよとの命が下されたのは御承知?」
「わたしが、その命を晴明のところに持ってきたのです」
博雅が言うと、
「なんと──」
忠岑は、声をあげて溜め息をついた。
「どうかなされましたか」
博雅が訊いた。
「博雅よ。忠岑殿は、あの二十番目の歌の勝負を、もう一度、あらためて別の歌でやってはもらえまいかと言っておられるのだよ。それが、忠見殿の怨霊を鎮めるのに一番よいのではないかと、言われるのだ」
「もう一度?」
博雅が訊いた。
「もちろん、内々のことでよろしいのです。兼盛殿さえ御承知いただけるのなら、我等と兼盛殿と四人でよいのです。判者は晴明殿にしていただき、講師はあの晩と同じ博雅さま──」
「しかし、何故ですか」
博雅が問うと、
「はい──」
忠岑は、深々と頭を下げ、
「本当のことを申しあげますと、実は、あの恋すてふ≠フ歌は、忠見が創った歌ではないのです」
「代作ですか」
「ええ」
忠岑はうなずいた。
「しかし、代作というのは、特に珍しいことではありません。これまで、多くの方々が、歌合の歌を代作ですませてきました。新しく勝負をやりなおす理由になるとは思えませんが──」
晴明が言った。
晴明の言う通りに、この時期に歌合に出された歌は、必ずしも作者本人が作ったものばかりではない。
多くの歌人が、別の人間が詠んだ歌を、自分のものとして出しており、そういう行為は一般的であり、認知されてもいた。
「しかし、代作とは申しましたが、恥を忍んで申しあげますが、あの歌を作ったのは、実は、鬼なのです」
忠岑は言った。
「鬼!?」
博雅が、声を鋭くした。
「鬼です。それも、あの歌ばかりではありません。あの晩の、忠見の歌の全て──いいえ、これまで、わたしや忠見が歌合で詠んできた歌の全ては、実は鬼が詠んだものであったのです」
覚悟を決めていたらしく、忠岑はひと息にそう言って、言葉を止めた。
「鬼が、全部……」
博雅が言った。
「はい」
「また、何でそういうことに?」
「話せば長くなりますが申しあげましょう。わたしが、初めてその鬼に出会ったのは、寛平三年の春のことでございました──」
「といいますと」
「今より、七十年前、わたしが十八歳の時のことでございます」
喉にからむ痰《たん》を、声にからませながら忠岑は言った。
わたしは、貧しい地方官の家に生まれました──
と、壬生忠岑は語りはじめた。
幼き頃より家の貧しさをいやというほど味わったため、なんとか都へ上り、上の官位につかねばならないと、もの心つく頃には思うようになっていた。
「卑官はだめだな。官位が上でなければ、まともな暮らしはできぬよ」
というのが父親の口癖であった。
忠岑は、歌を作るのが好きであった。
上手というのではないが、子供の頃よりそこそこは歌を詠む。
なんとか、この歌で身を立てたいと思い、歌合などの機会があれば、蜘蛛《くも》の糸よりも細い伝手を頼って自分の歌を売り込もうとしたが、ことごとくそれに失敗をした。
金さえあれば、もっと強い伝手を得ることもでき、歌を売り込むこともできるのだが、その金もなければ、伝手や知り合いもいない。
まったくなんという家に生まれたのだ──と父の腑甲斐なさを呪ったりもしたが、そのうちに、自分には歌の才能もないのだということがわかってきた。
そこそこは詠む──しかしそれはそこそこであり、とても歌合の場に出せるようなものではない。
しかし、自分には、良い歌がわかる。
耳にしただけで、その歌がどのくらいのものかはわかるようになっていた。良い歌と悪い歌の見分けがつく。
そのことに気がついた。
それだけに、自分の歌の才がどれほどのものかという見当もついた。
「歌の良し悪しを見る眼を持つということと、それを作ることができるということとは、どうも別のようでございますな」
と忠岑は言った。
その年、忠岑は、都に自分の歌を売り込みに来ていたのだが、それもかなわず、つくづく自分に歌を作る才のないことを思い知らされていた。
金を使い果たし、郷里に帰ることもかなわず、忠岑は叡山《えいざん》に上った。
もう歌はやめよう。郷里に帰ることができたら、もう二度と都には来ないだろう。
歌も二度と作らない。
そう思って山を登ってゆくと、はらはらと涙がこぼれ落ちてきた。
春──
山桜が満開の頃。
山道の行手に、桜が咲いている。
花びらの重さで、枝先が下へ垂れ下がり、風もないのに桜の花びらを散らしている。
山の新緑の中にあって、その山桜の咲いているあたりだけ、ふわりと白い光が包んでいる。
なんと美しい──
自分には、歌の他にどういう才能もない。しかも、ただひとつしかないその才能が、他の者より劣るのだ。
若くして、忠岑は自分の才に気づいてしまったのである。
白い桜は、忠岑には、哀しみの色に見えた。
その時──
どこからともなく、神さびた声が聴こえてきたのである。
あさ緑野辺の霞はつつめども
こぼれて匂ふ花ざくらかな
良い歌であった。
しかも、どこかで聴いたことがある。
はて、どこで耳にしたか。
と思っているところへ、また同じ歌を詠む声が聴こえてきた。
はて──
それにしても誰がこの歌を詠んでいるのか。
その声は、眼の前の、満開の桜の中から聴こえてくるようにも思えた。また、桜の樹のすぐ上から聴こえてくるようにも思えた。
しかし、桜の枝に人が登っている様子はないし、近くに人のいる気配もない。
そうか、『万葉集』か──
『万葉集』の詠み人知らずの中に、この歌があったはずだ。
忠岑は、また聴こえてきたその声に和するように、自らもその歌を口にした。
あさ緑野辺の霞はつつめども──
と声が言った時に、
こぼれて匂ふ花ざくらかな
忠岑がそう重ねると、桜の幹の上の方から、からからと気持よさそうに笑う声が降ってきた。
しかし、どこを眺めてみても、どこにも人の姿はない。
さては、歌の好きな眼に見えぬ鬼であったか、と忠岑は思った。
鬼が、この山中に咲く、みごとな桜の美しさを見そめて、思わず知っている歌を口ずさんでしまったものに違いない。
たとえ、鬼であるにしても、不思議に怖いという気持はなかった。
その時は、それきりのことであった。
摂津国に帰って、何日か過ぎたある夜、忠岑は、独り、苦吟していた。
歌を作ろうとしていたのである。
深更である。
しかし、考えれば考えるほど、言葉は出て来ない。
自分には才能がない──そう見極めた途端に、前よりも言葉が出なくなってしまったようである。
「春立つと──」
最初の句を口に出してみる。
これは悪い感じではない。
この後に想ふこころに≠ニ続けるか、それとも他の言葉にしたらよいか、それを迷っているのである。
「春立つと──」
また同じ言葉を口した時、
「いふばかりにやみ吉野の──」
どこかから、誰かの声が響いてきた。
「み吉野の?」
忠岑が口にしたすぐ後に、
「山もかすみて今朝は見ゆらむ」
何者かの声が句を結んだ。
春立つといふばかりにやみ吉野の山もかすみて今朝は見ゆらむ
みごとに一首できている。
「誰だ!?」
忠岑が声をかけると、
「おれだおれだ──」
そういう声がする。
「おれ?」
「おれだよ。ついこの前、叡山で会ったではないか」
声は言った。
「あの時の……?」
その問には答えず、
「どうだ、おれが歌を作ってやろうか」
声はそう言った。
「歌だって?」
「そうだ。おまえ、あの時、自分には歌作りの才がないと、そんなことを考えていたろう」
「そう言うあなたこそ、鬼ではありませんか」
「そうさ。おれはおまえたちが鬼と呼んでいるものさ。しかし、はじめから鬼だったわけではないぞ」
「ほう──」
「『万葉集』に、あさ緑野辺の霞はつつめどもこぼれて匂ふ花ざくらかな、という歌のあるのは知っているか」
「知っているとも。あの日、叡山の桜の下でその歌をおまえが口にしていたではないか」
「詠み人知らずのその歌こそこのおれが詠んだ歌なのだ」
鬼の声が高くなる。
「なんと──」
「わが作りし歌で、世に残るは今はその歌と、あとはひとつ、ふたつ。しかもどれも詠み人知らず。なんと哀しいことであろうか。なんとくやしいことであろうか」
言っているうちに、鬼の声がたかぶってくる。
「こんなことがあってよいのか」
おん
おん
と、声をあげて鬼は泣き出した。
「死して後、この歌への執着のため、成仏できずに鬼となったのがこのおれだよ」
鬼となった後も、美しい桜を見ると自然に自分の作ったその歌を声に出して詠んでしまうのだよ──と、その声、鬼は言った。
「おまえ、歌合に出たくはないのか」
「出たいことは出たい」
「ならば、おれに歌を作らせろ。おれが、おまえのかわりに歌を作ってやる。その歌で、歌合に出ればよい」
「できるのか、そんなことが」
「できるさ。おれが作るのだからな」
鬼は言った。
おまえ、どうやら、歌を作るのをやめようと思っていたのではないか。それならどうだ。おれに歌を作らせてみよ。おまえは、歌合に出るのを悦びとし、このおれは、自分の作った歌が歌合で詠まれるのを悦びとする。そういうことでいいではないか。
迷ったあげくに、忠岑はその鬼の言葉に従った。
以来、歌合の話が舞い込むたびに、鬼がやってきて、
「来たぞ」
声をかけてくる。
「今度はどういう歌がよいかなあ。そうだ、こんな歌はどうだ」
嬉々として、鬼は歌を作りだすのだった。
それが、一年続き、三年続き──
「結局、息子の忠見にも鬼は憑いて、今日まで過ぎたのでございます」
忠岑は、晴明と博雅にそう言った。
「なるほど、だいたいのところは理解できましたが、鬼の方は、今はどうしているのです?」
忠岑の話を聴き終えてから、晴明は言った。
「忠見と一緒に都へ出てから今日まで、どこで何をしているやら、この一年近く声を聴いておりません」
忠岑が答える。
「そういうわけですか」
「ええ。ですが、話はまだこれで終りではないのです」
「何でしょう」
「これを見ていただけますか」
忠岑は、懐から一枚の紙片を取り出し、それを晴明に渡した。
晴明は、渡された紙片を開き、中を覗き込んだ。
そこに、何か文字が書いてある。
歌のようであった。
それを眺めた晴明が、
「むうう」
声をあげた。
「いったい何が──」
晴明の横から、その紙片を覗き込んだ博雅もまた、
「むむう」
声をあげていた。
そこに書かれていたのは、次のような歌であった。
恋しきをさらぬ顔して忍ぶれば
物や思ふと見る人ぞ問ふ
「晴明よ、これは──」
博雅が言った。
「兼盛殿の歌とそっくりではないか」
「たしかにそっくりだが──」
「どうなっているのだ」
「忠岑殿、これはいったいどういうものなのですか」
晴明が訊いた。
「はい。それは、わたくしが、『古今集』を編纂する時に、集に入れなかった多くの歌のうちのひとつでございます」
「それが、どうして、兼盛殿の歌とそっくりなのですか」
「これが兼盛殿の歌にそっくりなのではなく、兼盛殿の歌がこの歌にそっくりなのです」
「つまり、兼盛殿は、この歌を元歌にして、忍ぶれどの歌をお作りになったということですね」
「はい」
「判者の実頼殿や帝は、このことを知っておられたのですか」
「おそらく、知らなかったのではと思われます──」
ある歌を本歌として、本歌に似た別の歌を作る──本歌取りと呼ばれるこの方法は、当時としては、一般的に知られている手法のひとつであった。
しかし、歌合の時にこういう歌が出てくれば、どんなによい歌でも、それは評価が低くなる。
特に、対戦相手の歌と評価が拮抗しており、相手の歌が元歌のないまったくの新作ならば、当然、新作の歌の方が勝つことになる。
つまり、この考え方からゆけば、兼盛の歌は、忠見の恋すてふ≠フ歌に負けていることになる。
それが、兼盛の勝ちとなった。
「しかし、このこと、兼盛殿に責任はございませぬ」
忠岑は言った。
もし、このことで批判されねばならない人間がいるとすれば、それは兼盛ではなく、判者の藤原実頼か、兼盛の歌を推した帝である。彼等が、歌についての教養を問われる事件ではあるが、かといって、この判定の元となったのが天皇の意志である以上、天皇に、あなたは間違ってましたと言うわけにはいかない。
「こういうことであったかよ」
晴明は、腕を組み、しばらくの間、凝《じ》っと眼を閉じていた。
やがて、眼を開き、
「ともかく、一度、我々三人で、忠見殿に会いにゆくというのは、悪いことではないでしょう」
そう言った。
「では、なんとかしていただけると──」
「なるかどうかはわかりませんけどね」
「では、どういたしましょう」
「いずれにしても、今夜です。忠岑殿は、これから都の桜見物でもしていただいて、夜には再びこちらへいらしてください」
「うかがいます」
「博雅、おまえも大丈夫なんだろう」
「むろん」
博雅は答えた。
「では、忠岑殿、ゆく前にひとつ身に付けておいていただきたいものがあります」
晴明は言った。
「何でしょう」
「まあ、御札《おふだ》のようなものなんですが、これさえあれば、安心して都の大路小路を歩くことができるというものです」
晴明は、顔をあげて、手をぽんぽんと二度叩き、
「青虫や、青虫や、書き物の仕度を頼むよ」
そう言った。
ほどなく、先ほど忠岑の訪れを告げた女が、唐衣の裾を引きながら姿を現わした。
両手に、硯箱《すずりばこ》と、紙を用意している。
墨を自ら磨《す》ると、紙と筆を手に取って、博雅にも忠岑にも見えぬように和紙を持ちあげて、そこへ、何やらの文字をさらさらと書いた。
墨が乾くのを待って、それを何度か折り畳み、
「さ、これを懐に入れて桜見物を──」
晴明は言った。
それを受け取りながら、
「桜見物、せねばなりませぬか」
忠岑が訊く。
「今夜のことと、まるで無関係でもありませんので、ぜひ──」
「わかりました」
忠岑は、その畳んだ和紙を懐に入れた。
「さて、博雅よ。夕刻までにはまだ時間があるから、青虫に、今のうちにうまい酒でも買いにやらせておこうよ」
「酒を?」
「うむ。忠見殿を待つ間、身体が冷えるであろうからな」
晴明は、涼しい声でそう言ったのだった。
紫宸殿の前──
闇があたりを包んでいる。
月が宙天にあって、青い光を地に落としているが、門や建物の陰は、そこだけ闇が濃くなっている。
地面に敷き物を敷いて、晴明、博雅、忠岑がその上に座している。
皆それぞれが、手に盃を持ち、酒を飲んでいる。
酌をしているのは、青虫である。
「どうだ、博雅、やはり酒を用意してきてよかったろう」
「うむ、む──」
博雅は、しぶしぶといった顔でうなずいている。
かなり夜も更けている。
今夜は、工たちも誰ひとり清涼殿の方には残っていない。
忠見の亡霊が出るというので、皆が暗くなる前に引きあげるようになってしまったからである。
「今夜は出るかなあ、忠見殿……」
博雅が言えば、
「いずれな」
と、晴明が、紅い唇に酒を運ぶ。
そのうちに、
恋すてふ……
と、高い声が、清涼殿の方角からあがった。
「来た……」
低い声で、晴明が囁いた。
わが名はまだき立ちにけり……
ゆっくりとその声が近づいてくる。
声だけではない。何かの気配もまた、声と共に、この紫宸殿に向かって動いてくるのである。
「忠見殿だ、晴明──」
博雅がひそめた声で言った。
清涼殿の方向から、こちらへ向かって、ぼうっと青く光る燐光を帯びた人影が、月光の中に姿を現わした。
一歩──
二歩──
ゆっくりと左右の足を前に踏み出しながら、ゆるゆると壬生忠見が歩いてくる。
人知れずこそ……
細い声が、糸のように伸びる。
「忠見──」
忠岑が息子に声をかけるが、しかし、忠見はそこに誰もいないかのように視線を動かそうともしない。
自分しか見ていない──
ただ歩いてゆく。
その眼は虚無《うつろ》を見つめている。
思いそめしか……
その最後の声が、月光の中で、淡く光る蜘蛛の糸のように細く長く伸び、そして消えてゆく。
その声の失せるのと同時に、忠見の姿もまた消えていた。
茫然と、博雅はそこに立ち尽くしている。
「あのような鬼もあるのだなあ、晴明よ……」
博雅がつぶやいた。
その時──
紫宸殿の前の、忠見が消えたあたりに突っ立って顔を伏せていた忠岑が、
「忠見……」
細い声でその名を呼んだ。
「忠見、忠見よう……」
妙な声だった。
さっきまでの忠岑の声ではなかった。
「忠見、忠見、おまえ、あんなになってしまったか、忠見よう……」
顔をあげた。
その瞳が、月光を受けてきらきらと光っている。
涙だった。
忠岑は泣いていた。
「忠岑殿──」
博雅が歩み寄ろうとすると、
「待て、博雅。そのお方は忠岑殿ではないぞ」
「なんだって!?」
動きを止めて、博雅は、忠岑であると考えていた男の顔を見やった。
その男は、口を歪《ゆが》め、歯を見せて、声をあげて泣いていた。
「何だ晴明。いったいどうしたのだ。これはいったい誰なのだ」
「壬生忠岑殿、忠見殿、親子二代にわたってふたりに憑いていた鬼さ。今、忠岑殿の身体を憑代《よりしろ》にして、忠岑殿に憑いているのだ」
「晴明、これは、おまえがやったのか」
「そうだ。この鬼の詠んだあさ緑≠フ歌を紙に書いて、これを呪として使い、忠岑殿に持たせて呼び寄せたのだ。鬼は、忠岑殿に憑き、ここまでやってきたのだ」
晴明は、忠岑の前まで歩み寄り、忠岑に憑いている鬼に向かって訊いた。
「歌合のおり、何があったのですか」
しかし、鬼は答えない。
頭を抱え、
「ああ、忠見よ、すまぬ。このおれが、ぬしをあのような鬼にしてしまったのだ。このおれと同じものにしてしまったのだ」
鬼が言った。
「何があったのですか?」
晴明がまた訊いた。
「あの男、忠見のやつは、最後に一首だけ、このおれに作らせなかったのだ。やつは、自分で歌を作ると言い張り、そして、作ったのだ──」
「それが、恋すてふの歌なのですね」
「そうだ。忠見は、初めて自分で作った歌を歌合に出し、そして敗れたのだ」
「それならばわかりますよ」
「何がわかるのだ、晴明。陰陽師に何がわかるというのだ。陰陽師は、我らをこのように捕えたり、放したりができるだけなのだ。しかし、それがどうしたというのだ」
「忠見親子が、好きだったのでしょう?」
「おう、好きだったとも。好きだったさ。彼等は、歌を愛し、歌がわかり、しかし、歌を作る才能がなかった。それで彼等はこのおれを必要としていたのだ」
「───」
「彼等と、歌合の歌を作るのは楽しかったぞ。今度のは特に楽しかった。こんなに豪華な宴は、これまでになかった。おれも嬉々として、彼等と共に歌を作ったのだ。さあ、今度はどういう歌にする?」
「ところが、忠見殿が、自分で歌を作りたいと?」
「そうだ。どうしても作りたいと言った。今度だけはと。だからおれは、作れと言ったのだ。作ってみろ。どんな歌だろうと、おれが細工をして勝たせてやると──」
「それを、忠見は断った?」
「そうだ。余計なことをするなと忠見は言ったのだ。自分は自分の歌の実力で勝負をするからと──」
「そして、その歌が、兼盛殿の歌と二十番を争うことになったのですね」
「そうだ。おれは、いつでもおまえの歌を勝たせてやることができるんだぞと、忠見に言ったよ。歌合の晩も、おれはあそこにいたのだ。おれはいるから、必ずいるから、もし、いつでもおれの力を借りてでも勝ちたくなったら、すぐに立ちあがって勝ちたいと言えばいいのだと。まだいるぞ。おれは現場に残っているぞ、忠見よ、それをおまえに教えてやるために、講師のやつの耳元で囁いて、歌を読む順番を間違えさせてやったのだ。あれを、変に思わなかったか。あれで、おれが現場にいることがわかったろう」
「あれは、おまえがやったのか!?」
博雅が声を荒くした。
「そうよ。このおれがやったのさあ──」
「何故、すまぬと?」
晴明が、なおも問う。
「おれは、忠見が望もうと望むまいと、忠見の歌を勝たせるつもりでいたのだ。そうしたら──」
「そうしたら?」
「兼盛の出してきた歌が、おれの歌だったのだよ」
「おれの?」
「恋しきをさらぬ顔して忍ぶれば物や思ふと見る人ぞ問ふ」
「それは、兼盛殿の歌の元歌ではないか」
「だからそれを、兼盛がかえて詠んだのよ。しかも、おう、なんと兼盛の歌の方が、おれが詠んだものより、よくなっていたではないか──」
鬼は、声を震わせて、忠岑の首を左右に打ち振った。
「おれの心は、千々に乱れた。どちらを勝たそうかと、迷った。迷ったあげくに、放り出したのだ。おれは、逃げたのだ。勝負を天にまかせた。そしたら──」
「忍ぶれどが勝った……」
「そうだ」
「───」
「そして、やつは、死んであのようになってしまったのだ。あのように情の強《こわ》い男であることを、おれは見ぬけなんだ」
「そうでしたか」
「晴明、おれをどうする気だ。おれを消すか?」
「いいえ」
晴明は、忠岑の懐へ手を入れて、歌を書いた紙を抜き取った。
忠岑が、哀しそうな顔で、晴明を見た。
「消してもよかったによ……」
小さな声でつぶやいた。
鬼は、しばらく闇の彼方を見つめ、そして、哀しげな顔で小さく笑った。
ふっ、
と、何ものかが抜け出たように、忠岑の表情がもとにもどった。
「晴明殿、どうしたのですか。何があったのです。わたしはどうしていたのですか?」
「鬼が憑いていたのですよ」
「鬼が?」
「あとで、ゆっくりお話し申しあげますが、全て解決がつきました」
「忠見は!?」
「忠見殿は、どうにもなりませぬ。この晴明の手におえるものではありません。放っておくのが一番よいでしょう。帝には、わたしからそのように申しあげておきましょう」
「晴明、鬼は?」
「行ってしまったよ」
「どこへ?」
「さあ、どこへだろうかな」
晴明は、低い声でつぶやいた。
「そのようなことがあったのだなあ」
博雅は、濡れ縁で、しみじみと酒を飲んでいる。
もう、あれから一年が過ぎ、また春が巡ってきているのである。
「なあ、晴明よ。今夜も忠見殿は、出るのだろうか」
「出るであろうよ」
晴明が、ひっそりとした声で答えた。
「なんだか、急に、忠見殿に会いたくなってきたな」
「そうだな」
晴明がうなずく。
「ゆくか」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
そのまま、酒の入った瓶子《へいし》をぶら下げて、晴明と博雅は、夜風の中に出、内裏に向かって歩き出した。
「忠見殿も、酒を飲むかなあ」
「さあ、どうだかな」
たあいのない会話をしながら、ふたりは歩いてゆく。
「よい月夜だな晴明……」
博雅が、ぽつりとつぶやいた。
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打臥《うちふし》の巫女《みこ》
この世をば我が世とぞ思ふ
望月《もちづき》の欠けたることもなしと思へば
藤原道長が、自分の女《むすめ》である威子《いし》を、立后させたおり、夜の宴席において歌ったものであると言われている。
藤原道長は、平安時代の中期に、宮廷内でのサバイバルに勝ち残り、権力を恣《ほしいまま》にした人物である。
法号は行覚《ぎようかく》。
従一位。
藤原兼家の五男。
『源氏物語』の紫式部を可愛がり、宮廷内のサロンで、紫式部の評判が高まってゆくのに、大きく貢献した。
自分の身内から、三人もの后を出し、
一家に三后《さんごう》
と周囲の者たちから言われたこともある。
しかし、それにしても──
この世は自分のものである
歌の始めに言いきるというのもすごいし、自分自身の在り様を月にたとえ、
満月が一度も欠けたことがない
のと同じであると言っているのもまたすごい。
たいへんな自信であり、酔った勢いとはいえ、これを実際に、歌にしてしまうというのがすごい。
本人はシャレのつもりでも、道長が詠《よ》んだとなると、シャレにならない。
部長とはいえ、社長の存在を無視して、
この会社はおれのものだ
おれがここまでにしてやった
などと言った日には、たちまち揚げ足を取られ、足を引っ張られて権力の座から引き摺り落とされてしまうのが世の中である。
しかも、どこかの飲み屋で、これは内緒だけどなどと、ひそかに自分の周囲の者だけに言ったというような可愛気のあるものではない。
確信犯である。
言うなれば、部長、専務、社長、その関係者も多数集まっている、社長の孫の結婚式のスピーチで、
この会社はおれのものだ
と発言してしまったようなものである。
いくら、社長の孫の結婚相手が自分の娘や孫であったとしても、これはなかなか言えない台詞《せりふ》である。
それほど自分のポジションに自信があり、このくらいの台詞で自分の存在が脅かされるとも考えていなかったのであろう。
源博雅《みなもとのひろまさ》という好漢とは、対極にあるような人間と言ってもいいのではないか。
といっても、これは道長という人物が魅力的でないという意味では、むろん、ない。
小説的なキャラクターを立ててゆく上では、たいへんに興味深い人物と言える。
しかし、今回は、この道長の話ではない。かといって、まるで道長に関係のない話であるというわけでもない。
道長の父親である、藤原兼家の話である。
この時、道長は生まれたばかりで、まだ二歳である。
安和元年(九六八)、夏。
もちろん、安倍晴明《あべのせいめい》、源博雅、存命の頃である。
午後の陽差しが、眩《まぶ》しく庭に注いでいる。
ここ数日、午後になれば夕立ちがあり、庭の草や樹は、たっぷり水を含んで、暑い陽の中にあって、いよいよ勢いがいい。
地面が煮えてしまうような暑さだが、濡れ縁のあたりは、庇《ひさし》の陰になっていて、いくらか風も吹いている。
その濡れ縁に、晴明と博雅は向かいあって座している。
瓜を喰べている。
みごとな大きさの瓜が、盆の上に載っていて、すでに包丁が入っている。
割られた瓜を両手に持って、たっぷりとした果汁を滴らせながら、博雅も晴明もそれを喰べているのであった。
甘い、みずみずしい瓜の匂いが、涼やかに風に溶けている。
晴明は、白い狩衣《かりぎぬ》を着ている。
無造作に喰べているように見えるが、そのふうわりと身にまとった狩衣には、瓜の汁は一滴も飛んではいない。
「みごとな瓜だ」
と晴明は言った。
「ああ、うまい」
博雅は、うなずきながら、口唇に付いた汁を、指先でぬぐった。
皮を盆の上に置き、
「しかし、晴明よ。おまえ、そんなに瓜が喰いたかったのか」
博雅が訊いた。
今朝、博雅のもとへ、文《ふみ》を口に咥《くわ》えた白鷺が一羽、飛んできた。
その文に、
昼頃、瓜をひとつふたつみやげに持って遊びに来ぬか
という晴明の伝言が書かれていたのである。
ゆく
と博雅がその文に返事を書きそえると、白鷺はまたその文を咥えてもどっていった。
その約束通りに、博雅は、瓜をふたつほど持って、晴明の屋敷を訪ねたのである。
晴明は、博雅が持ってきた瓜を、しばらく両手で撫でまわしてから、
「では、これを喰おうか」
そう言って、瓜に包丁を入れ、濡れ縁で喰べはじめたのであった。
「いや、喰べたかったからではないのだ」
晴明は、やはり、皮になった瓜を盆の上に置きながら言った。
晴明の赤い唇が、濡れて光っている。
「ならばおまえ、おれに、喰いたくもない瓜をわざわざ運ばせたのか」
「いや、喰いたくないと言ったのではない。喰べたいという理由で持ってきてもらったのではないというだけのことだ」
「ならば、どういう理由なのだ」
「まあ、仕事、ということになるか」
「仕事?」
「いや、瓜のことで、頼まれたことがあってな。しばらくして、出かけてゆかねばならぬのさ。だから、その前に、瓜の本当のところをたしかめておきたくてな」
「おい、晴明よ。おれには、おまえが何のことを言っているのかよくわからないよ」
「いや、この瓜のことで、頼まれたことがあるのだ」
「誰にだ?」
「藤原兼家殿からさ」
「藤原兼家殿と言えば、しばらく前に、従三位になられた方ではないか」
「うむ」
「これで、兄上の兼通《かねみち》殿を追い越して、従三位になられたわけで、宮中では、なかなかのやり手であると評判だぞ」
「噂は耳にしている」
「二年前には、五人目の男の子もお生まれになっているはずだ」
そこまで言って、博雅は、首をひねった。
「どうして、その兼家殿が瓜なのだ。瓜とおまえと、どういうかかわりがあるというのだ」
「まあ、聴けよ、博雅。順をおって話をしてやるから──」
「うむ」
「兼家殿の話をする前に、おまえ、打臥《うちふし》の巫女《みこ》と呼ばれる方の話を耳にしたことはないか──」
「打臥の巫女?」
「うむ」
「ああ、聴いたことがある。何やらの占いをする、たいへん美しい女子がいるそうだが、その女のことではないか」
「おそらく、そうだろう」
「ここ二年ほど、よく、その名を耳にすることがある。そう言えば、今、話に出ている藤原兼家殿も、そこへ通われているらしいぞ。このたびの出世も、その女の占いによるところが、たいへんに大きいというではないか」
「らしいな」
「なんでも、兼家殿は、その女の占いを聴くおりは、衣冠束帯《いかんそくたい》を身につけ、膝に巫女の頭を載せているという話ではないか」
畢《はて》には法然院も常に召して問せ給《たま》いけるに、此《か》く正《まさし》く艶《えもいわ》ず物を申しければ、深く信ぜさせ給いて、常に召しつ、御冠《おおむこうぶり》を奉《たてまつ》り紐を差《ささ》せ給いて、御膝の上に枕をせさせ給いて問せ給いけるに、思《おぼ》し食《めし》ける事に叶《かない》けるにこそ、常に召して問せ給いける也《なり》。
『今昔物語集』にもこのように記されている。法然院≠ニはつまり、藤原兼家のことである。
「ま、それほど、その巫女を大事にされているということだな」
「それがどうしたのだ」
「そこなのだがな、博雅──」
そう言って、晴明はその話を始めたのであった。
西の京の、小さな庵《いおり》に住む女の占いがよく当ると言われはじめたのは、三年ほど前からである。
もともとは、安い銭で、男に身を売っていた女らしい。その女が、男が帰る時に、妙なことを言うようになった。
「近いうちに、いいことがあるかもしれませぬ」
「女ではございません。男の子でしょう」
「出かけるのはやめた方がよろしいでしょう」
いいことがあると言われた男は、数日しないうちに、都大路で銭を拾った。
男の子でしょうと言われた男の妻はその時、妊娠していたのだが、生まれたのは女の言葉通りに男の子であった。
出かけるのはやめた方がいいと言われた男は、次の日に狩りに出かけ、馬から落ちて、脚の骨を折った。
占い──というよりは、予言である。
この予言が、よく当った。
そのうちに、女を買いに来るというよりは、予言を聴きに来る客の方が多くなった。
この女が、予言をする時の方法というのが、少しかわっている。
まず、床に座して眼を閉じる。次には、手を合わせて何か呪《まじな》いのごときものを、口の中で数度唱える。そのうちに、合わせた両手がぶるぶる震え出し、次には身体全体が震えはじめて、ついには前のめりに倒れ込んでしまう。
そして、動かなくなる。
ほどなく起きあがり、そして、倒れ臥している間に見たものについて語ると、それが予言であり、占いになっている。
予言は、ある時もあり、ない時もある。ない時は、金をとらない。また、ある特定のことを知りたくて、そのことについて聞こうとしても、うまくゆかないことがほとんどである。
たとえば、明日の天気はどうだと訊ねても、答は天気のことではなかったりする。
たまに、
「晴れでしょう」
と言われたからといって、それが、明日の天気であるのか、十日後の天気であるのか、はっきりとはわからないといったぐあいなのである。
だから、当るか当らないかという確率だけのことで言えば、当るのは十のうち、五つから六つである。
それでも、十のうち六つ当れば、これはたいへんなことである。
この女が、打ち臥して予言をすることから、いつとはなしに打臥《うちふし》の巫女《みこ》と呼ばれるようになった。
藤原兼家が、この女のことを知って、そのもとへ通うようになったのは、二年ほど前からである。
最初は、子供であった。
その頃、兼家の妻が、妊娠しており、お産が重そうであった。
それで、兼家は、その女のところまで出かけて行ったのである。
「欠けることのない望月をお産みなされましょう」
そう言われた。
産むであろうということは、産むということだ。産むということはつまり、子供が無事に生まれてくるということである。
言われて数日後に、男の子が生まれた。これが、道長である。
この時以来、おりを見ては、兼家は、巫女のもとへ足を運ぶようになった。
よほどいい予言の結果を、この巫女から得ていたのであろう。
一年ほど前からは、衣冠束帯を身に着けてこの女のもとへ通い、女が打ち臥す時には、自分の膝を、貸すようになった。
そして、今年になり、兼家は、兄兼通を追い抜いて、異例の出世をしたのである。
「で、ここからが瓜の話になるのだがな」
と、晴明は博雅に言った。
十日ほど前──
巫女のもとを訪れた兼家は、妙な予言をもらった。
「瓜でございます」
巫女は、そう言った。
「瓜? 瓜がどうしたというのだ」
「瓜です」
「だから、その瓜は良い徴《しるし》か、悪い徴か」
「わかりません。ただ、瓜が見えております──」
と言う。
瓜は、自分の好物で機会があれば、手に入れて喰べている。その瓜がどうだというのか。
考えてもわからず、そのまま、その予言については放っておいた。
ところが、二日前、兼家の屋敷の前を、瓜売りが通りかかった。
その声を聴きつけて、兼家は、家来の者に、それをふたつ、買い求めさせた。
さっそく、瓜を割って喰べようとしたのだが、そこで、兼家は、巫女の言葉を思い出していた。
良い徴《しるし》か悪い徴かわかりませぬ
良い徴であれば、喰べても問題はないが、悪い徴であれば、喰べたらたいへんなことになるであろう。
結局、兼家は、その日は瓜を喰わなかった。その翌日──つまり昨日、兼家はまた巫女のもとまで出かけて行った。
「こちらへおいでになったのは、賢明な御判断でした」
と女は言った。
「悪い知らせか」
「いいえ」
吉か凶かがわからない。
「もし、こういうことがわかるとすれば、都では、安倍晴明さまただおひとり──」
巫女はそう言った。
「それで、つまり、このおれが、兼家殿の屋敷へ呼ばれたのだよ」
晴明が、博雅に言う。
「瓜を食してよいか、食さぬ方がよいか、それを判定しにゆくのさ」
「そういうことか」
と、博雅がうなずく。
「だから、判定の前に、実際の瓜を喰べ、この手に握り、触れておきたかったのさ」
「なるほどなあ……」
博雅は、感心したように声をあげた。
「どうだ、博雅もゆかぬか?」
「おれも?」
「うむ」
「兼家殿の屋敷までか」
「ああ」
「いいのか?」
「場合によっては、源博雅も共にゆくことになるかもしれませぬがよろしいですかと、あちらには話を通してある」
「むう」
「ゆくか」
「むむ」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
盆の上に載って、黄色く色づいたみごとな瓜が、晴明と博雅の前にある。
包丁を入れて割らぬうちから中の果汁が滴り落ちているように、甘い匂いが風に溶けている。
「みごとな瓜です」
晴明が言う。
瓜の載った盆を挟んで、向こう側に座しているのは兼家である。
「これをどうしたものか、ぜひとも晴明殿に診《み》ていただきたくてな」
「手に取ってみてよろしいですか」
「いかようにも」
晴明は、手を伸ばして、その瓜を手に持った。
ずっしりと重い。
しばらくその瓜を撫でていた晴明は、
「ははあ」
にんまりと微笑した。
「何か?」
「いけませんね」
「は」
「これは、たいへんに危険なものですね」
「と申しますと?」
「蠱毒《こどく》に近いやり方で、呪《しゆ》がかけられております」
「呪?」
「お待ちください」
晴明は言って、
「墨と筆を──」
兼家に言って、墨と筆を用意させた。
さらに紙も用意させて、晴明は筆を手に取った。小刀で、その紙を小さく切る。
筆で、三分の一ほどの大きさになった紙に、晴明はさらさらと何かを描き出した。
呪文のようでもあり、何かの模様のようでもある。
それを、瓜の上に載せた。
さらに右掌をその紙の上にあてて、口の中で小さな声で呪を唱えた。
やがて、手を離し、
「では、この瓜を割ってみます」
さっくりと小刀の刃を潜り込ませて、晴明は、瓜を割った。
と──
「おう!?」
「これは!?」
兼家と博雅が、同時に声をあげていた。
瓜の中から、真っ黒な蛇が、身をくねらせながら這《は》い出てきた。
「どういうことなのだ、これは?」
兼家が声を高くした。
「何者かが、悪しき呪を、この瓜にかけていたということです」
「それが、蛇か!?」
「蛇が入れられていたわけではありません。かけられている呪を、わかりやすいように蛇のかたちに変えただけです」
蛇は、今、盆の外に這い出し、畳の上を兼家の方に向かって動いている。
兼家が、怯えて後方へ退《さ》がりながら立ちあがる。
「何とかしてくれ、晴明──」
「はい」
晴明は、笑いながら、無造作に蛇を掴み、ぐねぐねと動いているそれを袂の中に入れた。
「あれを、喰うていたらどうなった?」
額の汗を、右手でぬぐいながら、兼家が言った。
「あの蛇が、体内で、兼家殿を臓腑《はらわた》から啖《くろ》うてゆくでしょう」
「それは、つまり──」
「非常に重い御病気になるか、場合によっては死んでいたやもしれませぬ」
「むむ、むう……」
兼家は、言葉もない。
「いったい、誰がこのようなことをしたのだ?」
「誰から、この瓜を買われたのですか」
「女だ。女が、この瓜を売りに来て、うまそうであったので、それを買ったのだ」
「まだ、日が暮れるには間がありまする故、わかるかどうかはわかりませんが、調べてまいりましょう」
「た、たのむ」
「博雅よ。もし、少しばかり歩くのがいやでなければ、つきあうか」
「も、もちろんだとも」
博雅は膝立ちになってそう言った。
屋敷を出た。
出て、門のところで晴明は立ち止まった。
晴明は袂から、あの蛇を取り出した。
晴明の、細い白い指に、黒い蛇がからんで動いている。
「さあ、おまえ、もとの主人のところへ帰りなさい」
そう言って、晴明は、その蛇を地に落とした。
蛇が、地を這って動き出した。
「さあ、博雅、この蛇の後をついてゆこうか──」
晴明が歩き出すと、博雅がその後に続いた。
都の、東のはずれに出た。
蛇は、なお、人の歩く速度で地を這ってゆく。
山に入り、いつの間にか、周囲は杉の森になっていた。大人が、ひと抱え、ふた抱えしても届かぬような杉の古木が、天に向かって伸びている。
空気は、ひんやりと、冷たくなっていた。
まだ夕刻には間があるが、あたりは薄暗い。
頭上に、杉の梢が被さっているため、陽光が森の底まで届いてこないのだ。
かろうじて、人の踏み跡らしきものや、石を組んで石段にしたと思われるものがまだ残っている。
その、森の底の小径が、ゆるく上に登りながら続いている。
蛇は、石の間や、木の根の上を、這いながら、その径を登ってゆく。
「見えたぞ、博雅」
晴明が、径の先を見あげながら言った。
見れば、建物らしきものの屋根が、木立ちの間にある。
「あれだ」
蛇と共に、その建物の前に出た。
破《や》れ寺であった。
屋根が腐り、壁の一部も剥《は》げ落ちている。
もう、人が住まなくなって、十年以上はたっているのだろう。
蛇が、ゆっくりとその中に入ってゆく。
晴明と博雅も、続いて中へ入ってゆこうとすると、ふいに、人影が中から現われた。
女であった。
歳の頃なら、四十ばかりの、眼の細い女であった。
「安倍晴明さまですね」
と、低い、囁くような声で、女は言った。
この女が、瓜を売りに来た女らしい。
「ええ」
晴明がうなずくと、
「主《あるじ》がお待ち申しあげております」
女はそう言って、晴明と博雅をうながした。
「わかっていたのですか」
晴明が言うと、女は、
「はい」
とうなずいた。
「我が主が、あの瓜にかけられた呪をなんとかできるのは、晴明殿くらいであろうと言っておりました。自分の呪が返されて、それと共にやって来る者があれば、それが安倍晴明であろうと──」
頭を下げ、奥へ入ってくるようにと、女は晴明をうながした。
「やめよ、入れるでない」
寺の奥から声が響く。
切羽詰《せつぱつ》まったような男の声であった。
かまわずに、女にうながされるまま、晴明は博雅と共に入ってゆく。
小さな寺で、入るとすぐに本堂で、しかし、そこに本尊の姿はない。
ふたりの男がいた。
ひとりの男は、そこそこに身分のある者らしく、身につけているものが、破れ寺にふさわしくなく、小綺麗である。
その男は、奥に立って、こちらに背を向けている。
もうひとりの男は、老人であった。
ぼうぼうと伸びた白髪。
どれだけ洗濯をしていないのかわからぬほど垢じみて、汚れた水干《すいかん》を着ていた。
顔の色が陽焼けと汚れとで赤黒く、無数の皺《しわ》が、深く顔中に刻まれていた。
獅子鼻。
そして、ぎょろりとした、猛禽《もうきん》のような、黄色く光る眼をしていた。
晴明はむろんのこと、博雅にしても、初めてみる顔ではない。
その老人の足元に、あの黒い蛇がからんでいる。
老人は、うるさそうにその蛇を右手で拾いあげ、掌《たなごころ》の上に載せて、顔の高さまでもってくると、唇をすぼめて蛇の頭を咥え、つるりとそれを呑み込んでしまった。
「来たか、晴明──」
老人は言った。
「やはりあなたでしたか」
晴明は、赤い唇に、小さく微笑を浮かべて言った。
「あれだけのことができる方が、そう何人もいるとは思えませぬ故、あなただとは思っておりました」
「晴明、この老人は、あの……」
と、博雅が言う。
「蘆屋道満《あしやどうまん》殿──」
晴明がその名をつぶやいた。
「久しぶりじゃ、晴明……」
「また、いつぞやと同じようなことになりました」
「うむ」
「何故、このような真似を?」
「頼まれたからな」
「頼まれた?」
「わしが、今さら、わざわざこのようなことを自分の考えでやるわけもなかろう」
「はい」
「退屈しのぎじゃ」
「退屈しのぎと申されましたか」
「そうよ。晴明、ぬしのこのいらぬおせっかいもまた、退屈しのぎであろうがよ」
「わたしも、頼まれました故」
「ふふん」
蘆屋道満が、ちらりと奥へ視線をやり、
「加茂忠憲、加茂保憲、誰が出てきてもよいが、晴明が出てきたら、この件《こと》から降りると、あそこの男にも言うてある」
「藤原兼通殿……」
晴明はその名を言った。
藤原兼家の兄の名であった。
名を言われた途端、背を向けた男の肩が、びくりと震えた。
「こちらを振り返るには及びませぬ。お顔をお見せにならずとも結構です。さすれば、今の名は、わたしが勝手に口にしただけで、本当にあなたであるかどうかは、誰も知らぬこと。これですむのなら、この晴明も博雅も、このこと、兼家殿に言うつもりはございませぬ」
「聡《さと》い男よ、晴明──」
道満が、からからと笑った。
「このこと、これにてすんだと考えてよろしゅうございますな」
晴明が言った。「おう」と道満が答えて、
「晴明、こたびのこと、兼家には、この道満の座興であったと言っておけ。心配をかけた詫びに、晴明にはできぬ仕事があれば、この道満がいつでも相談にのるからとな。わしを呼びたくば、西風の強い晩に、わが名を記した札を百枚、空に投げあげれば、三日もしないうちに屋敷に顔を出すからと──」
「伝えておきましょう」
「用事は済んだ」
「はい」
「ゆけ、晴明──」
「わかりました」
と、頭を下げかけた晴明に、
「待て、晴明」
道満が声をかけた。
「何か」
「あの女のもとへは行ってやるのだろう」
「そのつもりです」
「ならばよい」
「では」
「おう」
晴明は、
「ゆくぞ、博雅」
博雅をうながし、背を向けて歩き出した。
「驚いたな。しかし──」
博雅がそう言ったのは、杉の森を出たところであった。
すでに、陽は、西の山の端《は》に近づいている。
「あの兼通殿が、この一件を企てたとはなあ──」
「うむ」
「やはり、弟に、官位で上にゆかれては、そうとうに腹に据えかねるものもあったのであろうなあ。兼家殿も、兼通殿をだし抜くには、いろいろと宮中で動いていたらしいからな」
「うむ」
「やはり、このことは、兼家殿には言わぬのだろう?」
「その方が、よいであろうな」
「おれも、その方がよいと思うよ」
博雅は言った。
「その方が、後あとやりやすかろう」
「やりやすい?」
「もしも、この先、宮中で何かあっておれやおまえの身が危うくなった時には、あの男が味方をしてくれるだろう」
「あの男というのは、つまり──」
「藤原兼通殿さ」
「───」
「あそこで、もしも顔を見たり、兼家殿に全てを話してしまっては、あの男に怨《うら》まれるだけだ。場合によっては、人を使って我々の生命《いのち》を亡きものにしようとするかもしれぬ。あの場では、あのように納めるのが一番よかったということさ」
「道満殿が、聡いとおまえのことを言っていたのはそういうことか」
「鬼や怨みの筋に関わる仕事をしているとな、このように味方をあちこちに作っておくということが必要になってくるのさ」
「しかし、それにしても──」
「人の世で生きてゆくというのも、これでなかなか気苦労が多いということさ」
「仕事と言えば、さっき道満殿が、晴明にはできぬ仕事と言っていたが、あれはどういう意味なのだ」
「だから、おれにはできぬ仕事ということよ──」
「それは──」
「たとえば人を呪で殺すようなことさ」
晴明が答えると、博雅は、立ち止まって晴明の顔を見やった。
「どうした?」
「ほっとしたよ、晴明」
博雅の顔に、安堵の色がある。
「ま、いろいろ、この世で生きてゆくために、心ならずもやらねばならぬことはある。しかし、呪をもって人を殺すというようなことを、もしおまえができるのだったら……」
「できるのだったらどうなのだ」
「それは、その……」
「どうした」
「うまく言えないのだが、つまり、おれは、この世に生きているということがいやになってしまうだろうよ」
「ふふん」
「おれはな、晴明、おまえがいるから、この世はそんなに悪いものでもないと、そんなふうに思っているのだ」
「───」
「おまえが、どんなに世間に対して冷たくふるまってもだ、おまえのことがおれには時々わからなくなることもあるにしてもだ、おれは、おまえの、本当に本当のところはわかっているよ」
「何がだ」
「おまえが、本当は、自分のことを独りだと思っていることがだよ。正直に言えよ晴明。おまえ、本当は、淋しいのだろう。この世に、自分しかいないと思っているのだろう。おれは、おまえのことが、時々、痛々しく見える時があるのだよ」
「そんなことはないさ」
「本当か」
「おまえがいるではないか、博雅」
ぽつりと晴明が言った。
博雅は、とっさのことに、次の言葉を口にできずに、
「ばか」
そう言って、怒ったような顔をして歩き出した。
その後方から、晴明が微笑を浮かべながら歩いてゆく。
「しかし、よかった」
後ろの晴明に、博雅が声をかける。
「何がだ?」
「おまえにも、他《よそ》に女がいることがわかったからな」
「女?」
「会いにゆくのではないのか。道満殿が言っていたではないか」
「そのことか」
「晴明、どういう女なんだ」
「打臥の姫さ」
晴明は、あっさりと言ってのけた。
陽が山の端に沈み、夕刻になった頃、晴明と博雅は、西の京のその庵《いおり》に着いていた。
立派ではないが、屋根も壁もしっかりとしており、雨や風はきちんとしのぐことができる庵であった。
垣に周囲を囲まれ、小さいながら、垣には扉もあり、ささやかな庭もある。
その庭で、まだ、花をつける前の萩が、青く葉を繁らせているのが、夕刻の薄明りに見てとれる。
庵の中には、すでに灯りが点っており、その赤いちろちろとした炎の色が、外から見てとれる。
垣の扉をくぐると、庵の中から、美しい、尼僧姿の女が出てきた。
「お待ち申しあげておりました」
と、その女は言った。
「晴明、このお方は、いつぞやの……」
「ああ。おまえも会ったことがあるだろう。八百比丘尼《やおびくに》殿だ」
庵から現われたのは、数年前の冬の晩に、晴明の屋敷に現われ、雪の中でその白い裸身を見せた女であった。
人魚の肉を喰べ、数百年を生きているという白比丘尼《しらびくに》であった。
雪の庭で、晴明と博雅が、その体内から苦蛇《くだ》を落としてやった女である。
「いつぞやは、たいへんにお世話になりました」
八百比丘尼が、丁寧に頭を下げた。
「では、あなたが、打臥の巫女だったのですか──」
博雅が訊くと、
「はい」
と答えて、
「こちらへ」
ふたりを庵の中へとうながした。
囲炉裏《いろり》があり、そこで火が燃え、その上に掛けられた鍋の中で、湯が煮えていた。
見れば、囲炉裏の縁に、山菜を盛りつけた皿が載っており、酒《ささ》の用意までしてあった。
晴明と博雅は、囲炉裏のまわりに置かれていた円座《わらざ》の上に座した。
ささやかな酒宴が始まった。
「あなたは、全て知っておられたのでしょう」
盃《さかずき》の酒を口に運び、盃を盆の上にもどしながら、晴明が訊いた。
「はい」
八百比丘尼がうなずいた。
「すぐにはわかりませんでしたが、兼家さまがもって来られた瓜を見た時に、これは兼通さまであろうと想像いたしました」
「あの男が、あれをやったのだということも?」
「これだけのことができるのは、晴明さま、保憲さま、いくらもございません。おふたりが、かような真似はすまいと思いましたから、残るは、あの方と──」
「蘆屋道満──」
と、博雅がその名を口にした。
「はい」
と、八百比丘尼はうなずき、
「相手が、あの道満なれば、とてもわたくしごときの手におえるものではございませぬ。それで──」
「わたしの名を出したのですね」
「そうです」
八百比丘尼が、白い瞼《まぶた》を伏せた。
「こうして、晴明さま、博雅さまにまたお会いできて、嬉しゅうございます」
八百比丘尼の細い指が、瓶子《へいし》を握り、空になったふたつの盃に酒《ささ》を注いでゆく。
「このように長く生きておりますると、不思議な力をさずかることもあるのでございますね」
八百比丘尼が言った。
「占いのことですか」
博雅が言った。
「はい。何げなく口にしたことがよく当るようになって、乞われるままに占いの真似事などしていたのですが、先のことがわかるというのも、よいことばかりではありません」
「ええ」
話をするうちに、しんしんと夜は更けてゆく。
「あの方も、本当は、お淋しいのでございましょうなあ」
八百比丘尼が言った。
「あの方?」
博雅が問う。
「蘆屋道満殿……」
「あの男がなあ」
「はい。わたくしも同じでございますから」
「同じ?」
「人とは違います。人とは違って生まれついてしまった者は、人の世には馴染めませぬ。かといって、死ぬるわけにもゆきませぬ故、何かで、死ぬまでの時間を埋めねばなりませぬ」
「退屈しのぎと、あの男は言っておりましたよ」
「あの方らしい……」
「───」
「人と、何かが違うというのも、何かが人より優れてしまうのも同じです。そういうことでは、お淋しいのは、晴明さま、あなたも同じでございましょう」
八百比丘尼が声をかけると、晴明は苦笑した。
「はは──」
と博雅が笑うと、
「博雅さま、あなたも同じでございますよ」
八百比丘尼がそろりと囁いた。
笑うのをやめた博雅に、
「博雅」
晴明が声をかけた。
「何だ」
「おまえ、葉双《はふたつ》は持ってきているか」
「持ってきている」
「ちょうどよい。博雅の笛が聴きたくなった。吹いてはくれぬか」
「ああ」
答えて、博雅は、葉双を懐から取り出した。
博雅が、朱雀門の鬼から手に入れた笛である。
博雅は、笛に唇をあて、静かにそれを吹きはじめた。
人はもとより、天地、精霊もその笛の音に感応し、地からはしんしんとひそかな気配がこの小さな庵を中心に集まってきて、天からはしずしずと優しい力が、この庵の上に舞い降りてきた。
博雅は、静かに笛を吹き続けている。
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血吸《ちす》い女房《にようぼう》
暑い。
庭一面に、真上から陽光が注いでいる。
庭には、鬱蒼《うつそう》と夏の草が繁っている。
藪枯《やぶがらし》。
紫苑《しおん》。
露草。
足を踏み入れる隙もないくらいである。
それ等の草が、煮えて、陽射しの中で湯気をあげているように見える。
庭に落ちた陽射しの照り返しが、濡れ縁に座している晴明と博雅のところまで届いている。
清明は、片膝を立て、その膝の上に片腕を乗せて、見るともなく庭へ視線を放っている。
風はない。
庭の草々の葉先は、そよとも動く気配がなかった。
白い狩衣《かりぎぬ》を、ふうわりと身に纏《まと》った晴明は、額にわずかの汗もかいていない。
「暑いなあ、晴明よ」
博雅はつぶやいた。
ふたりの間に、小さな盥《たらい》が置かれ、その中に澄んだ水が溜められている。
涼し気なものと言えば、晴明の白い狩衣と、その盥の澄んだ水だけである。
梅雨が終った途端に、晴れの日が続き、雨が一滴も降らない日が、もう三十日以上も続いているのである。
「この暑さの中で、どうして、草や樹はあんなに繁っていられるのだろうかなあ」
「夜があるからな」
晴明が言う。
「夜?」
「夜になれば、露が降りる」
「ああ、なるほど」
博雅はうなずく。
夜のうちに露が降りて、まるで雨でも降ったかのように、朝には庭の草が濡れているのを、博雅も知っている。
早朝に庭を歩けば、着ているものの袖や裾が、水の中に入ったように濡れる。その露が地に落ちて、土を濡らして草がそれを吸い上げる。
「しかし、それにしても、こう雨が降らぬではなあ」
博雅は、盥の水に手を浸し、冷たくなった手で額を撫でながら晴明を見やった。
「晴明よ、おまえの力で雨でも降らすことはできぬのか」
博雅に問われて、晴明は、口元に軽く微笑を含み、額に手をあてて、小さく首を振った。
「できぬのか」
「さあて──」
「貴船神社の祭神は、水神だというではないか。あそこでも、毎日のように雨を乞うておるらしいが、雨の降る様子はない」
「うむ」
「その昔、空海和尚は、神泉苑で雨乞《あまご》いをし、雨を降らせたというぞ」
「らしいな」
「そう言えば、十年ほど前にも雨の降らぬことがあって、東寺の妙月和尚が、神泉苑で雨乞いをし、みごとに雨を降らせたことがあったが……」
「神泉苑の池は、風水で言うなら、船岡山の地龍が、地下の地脈を通って頭を伸ばし、水を飲《いん》するところなのだ。雨乞いの場所としてはふさわしかろう」
「あの時は、何やらの経を書いて、それを池に投げ込んだのではなかったか──」
「経か」
「つい十日ほど前にも、中納言|藤原師尹《ふじわらのもろただ》公が、女房を何人か連れて、神泉苑で雨乞いと称して宴を催したではないか」
「女房を池に飛び込ませたというあれか」
「うむ。諸龍を思いのままにする真言《ダラニ》だとかを唱《とな》えさせて、女を池で遊ばせたらしい」
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・メイギャシニェイ・ソワカ」
「なんだ、それは──」
「諸龍の真言さ。空海和尚が雨乞いに使ったのも、妙月和尚が使ったのも、この真言だろう」
「晴明よ、おまえ、呪《しゆ》だけでなく、真言《そちら》の方も詳しいのか」
「呪いも真言《ダラニ》も、同じようなものだからな」
「ならば晴明よ、おまえのその呪いと真言《ダラニ》で、なんとかならぬのか」
「雨を降らせよというのか」
「そうだ」
「博雅よ。どのような呪いであろうが、真言であろうが、この天地の運行を左右することはかなわぬのだ」
「なんだって?」
「東海龍王を召喚しようが、仏を呼び出そうが、星の動きを止めたり、日が昇るのを止めたりすることはできぬということさ。雨を降らせることも、それと同じだ」
「しかし──」
「人の心に関わることなら、なんとかすることもできようがな」
「人の?」
「そうだ。たとえば博雅よ。雨など降らぬに、降ったとおまえに思い込ませることはできようさ。だが、実際に雨を降らせることと、それとは別だ」
「しかし、空海和尚は──」
「あれは、頭のよいお方であったからな」
「頭が? 頭がよいと、雨が降るのか?」
「いいや」
晴明は、首を左右に振った。
「雨が降る時期を見はからって、雨乞いをすれば雨は降るさ」
「なに!?」
「雨を降らせることはできずとも、いつ雨が降るかを知ることくらいは、できるということだな」
「それだけ言うなら、晴明よ、おまえにはわかるのか」
「何がだ」
「だから、いつ雨が降るのかわかるのかと、おれは訊いているのだよ」
「さあて」
「いつなんだ」
「いつだろうかな」
晴明は、博雅を見ながら楽しそうに笑っている。
「半分遊びとは言え、師尹公の雨乞いの宴では、件の女房が溺れかけておるのだぞ」
「ふふん」
「池に入って真言《ダラニ》を唱えていた女房が、深みにはまって死ぬところだったのだ。危《あや》ういところで助けられたからよかったものの、そうでなければ死んでいたところだ」
「ふうん」
晴明は、顔をあげて、庇《ひさし》のむこうに見える青い天を見あげた。
あきれるほどに空は青く晴れて、一片の雲もない。
「どうした。晴明。おれの話を、おまえ、聴いているのか」
「聴いている」
うなずきながら、晴明は、まだ空を見あげている。
「空がどうかしたか」
「いや、じきに出かけることになるから、なんとか涼しくならぬものかと思ってなあ」
「涼しく?」
「牛車がむかえに来ると思うのだが、こう暑くては、牛車に乗っているのも楽ではなかろうと思うてな」
「おまえでも、この暑さはこたえるのか」
「ふたりで牛車の中で揺られているのは、なかなかたいへんなのではないか、博雅──」
「ふたり?」
「おれとおまえだ」
「おれがか。何故おれが、おまえと一緒に車に乗るのだ。どういうことなのだ、晴明」
「いや、今、おまえが話をしていた、中納言藤原師尹殿から、お呼び出しがあってな。相談したいことがあるから、本日、来てはもらえまいかとお使いのものが今朝やってきたのだ」
「今朝?」
「今日は、博雅と会う約束があると言ったら、博雅も一緒でよいというのでな。どうだ、一緒にゆくか」
「おれも?」
「何やら困ったことがあるらしい御様子でな。暑さしのぎにはちょうどよい。話がつけば、帰りには、涼しくなって帰ることができるだろう」
「しかし、突然の話だ」
「おれは、ああいう人物が苦手なのだ」
「苦手?」
「おまえも言っていたではないか。神泉苑での雨乞いの宴のことをさ」
「うむ」
「あのように奇を衒《てら》ったやり方で、人に自分のことを声高《こわだか》に喧伝するような人物がおれは苦手なのだ」
大袈裟なパフォーマンスで、自分のことを大声でアピールするような人物は、自分は苦手なのだと晴明は言っているのである。
「自分のことを喧伝するのなら、本人がするのではなく、他人がする方がよほど効果があるのだ」
「そういうものか」
「呼ばれてゆくのはよいが、つい、あちらの気に障《さわ》るようなことを言ってしまいそうでな。そういう時に、おまえが横でほどほどに取りなしてくれれば、ありがたい」
「おれがゆくとありがたいのか」
「うむ。それにな。こういうことの現場には、誰か他人がいてくれた方がよいのだ」
「おれのことか」
「何がおこるにしろ、最初から博雅が見ていてくれれば、師尹殿も、めったなことは言わぬだろうからな」
「めったなこととは何だ」
「たとえば、おれが相談に乗ってやった挙げ句に、何かあれば、晴明もたいしたことはないと、陰で触れまわるだろう。首尾よくいっても、晴明がやったのではなく自分がやったのだとな」
「たしかにあの方はそういうところがあるな」
「ある」
「神泉苑の雨乞いの宴と言っても、あれは、あてつけのようなものだったからなあ。実は、さっきは言わなかったのだが、坊主も陰陽師もこういう時に何もできぬのではどうしようもありませんなと、清涼殿に参拝されたおり、帝に言っておられたという話だからな──」
「放っておいてもらうのが一番ありがたいのだがな」
「ならば、ゆくと言わねばよかったろうに──」
「ゆかねばゆかぬで、わずらわしそうだからな、ともかく、ゆくことにはしたのさ」
「いったい、どういうことなのだ」
「血を吸われるのだそうな」
「え!?」
「血を吸われるのだよ」
「血を?」
「師尹公のお屋敷にお仕えしている女房たちの血を、夜になると吸いに来るものがいるのだそうな」
こういうことであった。
最初は、八日ほど前であったという。
師尹《もろただ》の屋敷にいる女房のひとりに、小蝶という女がいた。
その女が、朝になってもなかなか起きて来ない。病でも患ったかと、別の女房が様子を見がてら起こしに行った。
「これ、どうなされました」
声をかけると、寝床から顔をあげ、
「身体がだるうて、手足に思うように力が入りませぬ」
という。
見れば、顔色は、血の気を失って青白い。
しかも、頬の肉が大きくそげて、老女のように見える。
手を取れば、指先が冷たくなっている。
「すみませぬ、ただいま──」
と小蝶が起きあがろうとするのを、
「起きるには及ばぬ。元気が出るまで寝ておるがよい」
と、寝床へ寝かせようとすると、着ているものの襟元が開いて、首筋が眼に入った。
なんと、右の首筋に、赤ん坊の握り拳ほどの大きな痣《あざ》がある。不気味な青紫色の痣であった。
「はて、おまえにそのような痣があったかえ?」
問われて、小蝶本人もやっとその痣の存在に気づくが、いつ、そのような痣がついたのか、何が原因であるのかわからない。
ともかく、この日は小蝶を休ませて、その翌日──
今度は水穂という女房が、朝になっても起きてこない。
別の女房が様子を見にゆくと、前日の小蝶の時とまったく同じで、顔色が青白くなっていて、元気がない。頬の肉がこけている。
ともかく、水穂を寝かせて、念のためにと襟元をはだけてみると、
「あれ」
またもや、首筋に紫色の痣ができている。
そういうことが、さらに四日もたて続けにあって、六人の女房が同様の目にあってしまったのだという。
皆が皆、同じように朝になると、痩せ細って、顔色を青白くし、首筋に痣をつくっている。
師尹の屋敷には、全部で十四人の女房がいる。そのうちの半数近くが、痣をつくってしまったことになる。
夜──
眠るまではいつもとかわりはないのに、朝になるとおかしくなっている。
これは、夜の間に何かあるに違いないと、師尹が、従者に言いつけて、寝ずの番をすることになった。
この頃、女房たちの寝所は、基本的に大部屋である。
広い部屋に、女房たちがそれぞれに眠る。
小さな部屋があるわけではなく、必要に応じて、几帳などの衝立を間に立てて、部屋の仕切りの代わりとしている──というよりも、几帳で隔てられていれば、それはもう独立したひとつの部屋と同じく、プライベートな空間ということになってしまう。
深夜。
灯火を消して、暗くなった部屋の周囲に、言いつけられた従者ふたりが、座して番をした。
ところが、この晩も、女房のひとりがまた同じ痣を首筋につくった。
寝ずの番をしていた男たちが眠ってしまい、翌朝に目覚めてみれば、同じことになっていたというのである。
次の夜は、男を四人にした。
しかし、それでも同じであった。
深夜になると、どうしようもない眠気が襲ってきて、四人の男たちは次々に眠ってしまった。
そして、朝になってみれば、また女房たちのひとりの首に痣がある。
薬師《くすし》を呼んで、診てもらったら、
「どうやら、血を吸われているようでございますな」
と言う。
なにものかが、夜になると、どこからか女房たちの血を吸いに来る。その血を吸った跡が痣になって残っているのだと。
血を吸われた女房たちは、日が経つにつれて、少しずつ顔色がよくなってくる。食事を摂っていれば、身体の中にまた血がもどってくる。死ぬようなことはないが、しかし、気味が悪い。
怖い。
夜になるのがおそろしくて、女房たちの中には、親元へ帰らせて欲しいと言う者まで出てきた。
「それで、師尹殿が、おれに泣きついてきたというわけなのだよ」
と、晴明は言った。
「どうだ、ゆくか」
「おれもか」
「うむ」
「しかし──」
「女房たちの寝所で、おおっぴらに夜を明かすことができるぞ」
「別に、それがどうこうということではない──」
「ならばよいではないか」
「う、うむ」
「ゆくか」
「うむ」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
「とまあ、いうわけでしてな。安倍晴明殿にお頼みするしかないということで──」
藤原師尹は言った。
口髭の下の唇の端が、落ち着きなく上がったり下がったりしている。
正面にいる晴明の横に、博雅が座しているので、師尹はどうもやりにくいらしい。
師尹は官位は従三位であり、晴明より位は上なのだが、その横には博雅がいる。博雅は、三位であり当然のことながら、師尹よりは官位は上である。
「では、さっそくに、今夜、様子をうかがうことにいたしましょうか」
「それは、つまり──」
「何か?」
「女房たちの寝所で、ということですか」
「はい」
「では、その、それは、源博雅殿もご一緒ということで──」
晴明が、ちらりと博雅に視線をやると、
「そういうことになります」
博雅がうなずいた。
「よろしいのでしょうか」
「何がですか」
博雅が訊く。
「いや、その、博雅殿に、わざわざ女房の寝所の前で、寝ずの番をしていただくなどということは──」
たいへんやりにくい。
困る。
しかし、そこまでは言わない。
官位が上の者に自分の家のことで、そこまでさせておいて、自分が眠っているというわけにはいかない。
博雅が、晴明と一緒にやってくるというのは、承知したが、まさか、博雅がそこまでやるとは、師尹も考えていなかった。
晴明と博雅が、互いにつきあいのあることは知っているが、ここまでの仲であるとは師尹も知らなかった。
「かまいません。お気になさらずに──」
博雅が言っても、師尹は、困り切った表情で、口の中で次の言葉を捜している。
「では、わたくしも一緒に──」
やっとそう言った。
「それには及びません。気にかかるようでしたら、御自身の寝所にて、起きてお待ちになっていていただけませぬか。念のために、腕に覚えのある者を、ひとり、ふたり、声をかけたらすぐに駆けつけることができるよう、どこかに待たせておいて下さい」
晴明が言うと、師尹は、ほっとした表情になって、
「では、申しわけありませんが、そのように──」
額に汗を浮かべてそう言った。
闇夜である。
灯火を消して、板の間に、晴明と博雅は並んで座している。
ふたりの背後が、女房たちの寝所であり、簾《みす》が下がっている。
女房たちの寝息が聴こえている。
しかし、寝息の多くは、大きくなったり、細くなったりして、時おり、寝苦し気な溜め息になる。寝返りを打つ時の衣擦《きぬず》れの音や、身体のどこかを指で掻く音も混じる。
女たちのほとんどが、まだ眠らずにいるか、浅い眠りの中にいるのである。
目の前は庭である。
猫の爪のような細い月が、西の空にひっかかっていて、その明りで、微《かす》かに庭の様子が見てとれる。
この方がよいと、自分たちが居る場所だけ、晴明がわざわざ蔀《しとみ》を下ろさなかったのである。
木立ちが何本か──
楓に松、そして、杉。
灌木が下に生え、小さな池がある。
その池に、細い月の影が映っている。
「来るかな、晴明よ……」
博雅が声をひそめて言った。
「来るさ」
晴明が、あっさりと答える。
「怖くはないか」
「怖くはない」
「何ものかはわからぬが、そやつは血を吸うのだぞ」
「おれの血を吸いに来るわけではないからな──」
「これまでは女房たちだったが、こんどは、おれたちが血を吸われることになるかもしれないではないか」
「それもそうだ」
「怖いだろう」
「博雅よ、怖いのはおれではなく、おまえではないのか」
「そうだ。おれは怖い」
素直に博雅はうなずいた。
「まったく、おまえとつきあっていると、こういう目にいつも合う」
「ふふん」
「来たらどうするつもりだ」
「来たら?」
「だから、女房たちの血を吸う|もの《ヽヽ》がだよ。来るとすれば、この蔀の開いているここからではないか。真っ先におれたちがねらわれるのではないか」
「さあて──」
「たよりのないことを言うなよ、晴明」
「たよりなくはない。来れば、その前にわかるから、その間にどうすればよいかを考えればよい」
「そんなことでいいのか」
「ああ」
「しかし、来る時は、眠くなってみんな寝てしまうというではないか。眠ってしまったら、来たかどうか、わからんのではないか──」
「そこよ」
「何がそこなのだ」
「おれは眠らない」
「───」
「眠るのは、おまえだ、博雅」
「おれが?」
「そうだ。おまえが、眠る。そうすれば、そいつが来たことがわかるではないか──」
「それはいいが、眠っているおれはどうなるのだ」
「血でも吸うてもらうか」
「こら、晴明、まさかおまえ、いつぞやの黒川主の時のように、おれを囮《おとり》に、なにかたくらんでいるのではないだろうな」
「たくらんではいない。あの時とこの時ではちがうからな」
「その顔は、何かたくらんでいる顔だ」
「何もたくらんではおらぬ」
「しかし、晴明──」
「何だ」
「おまえは、いつも……」
「いつも、どうした?」
「いつも、こういう時は……」
「どうした?」
「何だったかな、おまえは、いつも……」
博雅の声が、だんだんとつぶやくようになり、ことりと、博雅は首を前に倒して眠りに落ちていた。
眠った博雅の額に、晴明は、闇の中で右手の人差し指と中指をあてている。
あてながら、博雅の右の耳もとで、小さく唄を唱えている。
唱え終え、晴明は、紅い唇を尖らせて、
ふっ、
と博雅の耳の穴に、小さく息を吹き込んだ。
博雅が、眼を開いた。
「気づいたか、博雅」
「晴明、どうしたのだ、おれは。そうか、眠っていたのか」
博雅は、眼をこすって、顔をあげた。
「静かにしろ、来ているぞ」
晴明が、博雅の耳元で囁いた。
「え!?」
「頭を低くして、そっと簾の間から中を覗いてみろ」
晴明に言われて、博雅は、膝でにじり寄り、簾に顔を押しつけた。
闇の中で、何か、ぼうっと淡く緑色に光るものが立っている。
ごく微かな、蛍の光よりもずっとわずかな光。
人影──
女だ。
女が、女房たちの寝所の中央に立って、大きく、かあっと口を開いて、
ふう、
はあ、
と呼吸をしている。
呼吸をするたびに、その口から何かが出ているのか、女たちの寝息がますます深くなってゆくようであった。
「あれか?」
博雅が訊いた。
「そうだ」
「どうするのだ」
「少し待て、血を吸い始めるまでだ。そうでなくては、師尹殿も信用すまいからな」
晴明が言っている間に、女は、しずしずと歩きながら、足元を見下ろしている。
立ち止まり、
「あら、この女は、三日前に吸うてやったわいな……」
また歩き出す。
また立ち止まって、
「この女は、痩せていて、血が少ないわ……」
また歩き出す。
「おう……」
喜びの声があがる。
女が、闇の中で笑ったようであった。
「この女は、ふっくらとして、見るからにうまそうじゃわいなあ」
立ち止まった女の身体が、沈むように小さくなって、眠っている女房のひとりの上に覆い被さった。
「よし、いいぞ、博雅。灯りを点けるんだ」
言われて、博雅が、灯明皿に灯りを点けると、晴明がそれを持って立ちあがった。
「ゆくぞ」
灯りを左手に持ち、簾を右手で押しあげて、晴明はそれをくぐった。
博雅が続く。
晴明と博雅が中に入っていっても、女は、女房のひとりに覆い被さったまま動かない。
赤ん坊が乳をすする時のような、ぞっとする音が響いている。
晴明は、かまわずに、女の傍まで歩いてゆき、女房の着ているものの襟を握っている女の右手の上に、左手に持った灯りの炎を押しあてた。
「あれ!」
女が、声をあげて横に転がった。
「何をするのじゃ。わらわの食事の邪魔をするつもりかえ」
女が、立ちあがった。
その口の周囲が、血で赤く濡れている。
しゅう、
しゅう、
と、女の呼吸する音が響く。
しかし──
博雅は、声もない。
これほど騒ぎが大きくなっているというのに、女たちは、誰も眼を覚まそうとしない。
「博雅、ここはおれにまかせて、師尹殿をこれへ呼んできてはくれぬか──」
「わ、わかった」
博雅は、うなずき、後ずさりしながら縁まで出ると、小走りに師尹の寝所へと急いだ。
「これは、葵《あおい》ではないか」
そう言ったのは、藤原師尹である。
濡れ縁に立って、庭を見下ろしている。
その庭──庭の手前には、ふたりの従者と、その従者たちに左右から取り押さえられている女がひとりいる。
その女を見やって、師尹がそう言ったのである。
左右に篝火が焚かれ、赤あかとした炎を、夜空に向かってあげている。
師尹の右側に、晴明、博雅が立っている。
「では、この葵が、夜な夜な、女房たちの血を吸うていたということか──」
師尹が言う。
「そういうことになりましょう」
晴明がうなずく。
「他の女房たちは?」
師尹が問うた。
「皆無事です。血を吸われた女も、他の皆も、朝まで眼を覚まさぬでしょう。今のうちに、この件の始末をつけておけば、誰が血を吸うていたのか、女房たちに知られぬまま、この話はかたづくことになります」
「しかし、どうすればよいのじゃ、晴明殿──」
師尹が言い終らぬうちに、
「これ、わらわに血を飲ませてたも。血を飲ませてたも……」
女──葵が言う。
その口の周囲には、まだ血がこびりついている。
「そこの女──葵には、何やら|もの《ヽヽ》が憑《とりつ》いているようでございます。それを落とせば全ておさまりがつくでしょう」
「どうやって落とす?」
「この晴明が、話をいたしましょう」
晴明は、博雅と師尹をそこに残し、庭へ下り立った。
数歩あゆんで、両側から取り押さえられている女の前に立つと、
「かあっ」
と、葵が口を開き、晴明の顔に向かって、
べっ、
と、何かを吐きつけた。
左袖で、晴明がそれを受けた。
どす黒い血が、白い袖に付着した。
「おやおや」
晴明は涼しい顔で、汚れた袖を見やってから、女の額に右手の人差し指を伸ばした。
「しゃーっ」
女がその手に噛みつこうとしたが、晴明の指先がその額に触れると、急に静かになった。
「さあ、言いなさい。あなたは何者ですか?」
晴明が問うと、女は、口を開いた。
「わたくしは、神泉苑の池に棲む、百五十年の生を経た蛭《ひる》でございます」
「その蛭が、何故に、この女に憑いたのですか」
「はい。その昔に、空海和尚が神泉苑にて雨乞いいたせしおり、池の中に、諸龍真言を書いた紙を投げ入れました。その紙を、池の中でたまたま食べたのがわたくしです。そのために、かような長命を得、通力《つうりき》を得たのでしょう」
「それで?」
「その味が忘れられずに、いつかまた、真言を書いた紙が降ってくるかと心待ちにしていたところ、十年ほど前に、今度は、妙月和尚の書いた諸龍真言が降ってまいりました──」
「それもおまえが食べたのか」
「はい。二度食べてみれば、さらにまた欲しくなり、今年はどうか、来年はどうかと、毎年心待ちにしているうちに、十日ほど前、池の中に入って、諸龍真言を唱えている女がいるではありませんか。さっそく血を吸って憑いたのが、この女でございます」
「なるほど」
「人に憑いてはみたものの、水の中ではなく、夜になれば喉が渇き、ひもじゅうてなりませぬ。それで──」
「女房たちの血を吸うたというわけか」
「はい」
「しかし、こうなってみれば、ぬしもおとなしゅう帰ることだな」
言って、晴明は、指先を女の額にあてたまま、口の中で小さく呪を唱え、女の鼻を口に含んで、
ふっ、
と息を吹き入れた。
すると──
女が、かっ、と口を開いた。
「なんと!?」
縁の上で、師尹が声をあげた。
開いた女の口から、何かが這《は》い出てきた。
黒い、ぬれぬれと肌を光らせたもの。
それは、子供の腕一本分ほどはあろうかという蛭であった。
蛭は、女の口から這い出てくると、ずるずると、池に向かって動いてゆく。
「さては、雨乞いの真言欲しさに、この陽照りの原因を造ったのはぬしであろう」
晴明が、もったいぶった口調で言った。
「その池の水は、鴨《かも》川より引き込んだもの。それを伝わって鴨川へ出で、海へ下って東海龍王のもとに参って、すみやかに雨を降らせよと、この晴明の言葉を伝えてくるがよい──」
晴明の言葉が聴こえたのかどうか。
池の縁から、ずるりと蛭が水の中に入ると、黒い水の中に消えて、蛭の姿はもうどこにも見えなかった。
師尹に、酒を馳走になり、夜明け前に、牛車で師尹の屋敷を出た。
晴明と博雅が牛車に乗ろうとした時、暗い夜空に、俄《にわか》に雷がなって、簫然《しようぜん》として、雨が降りはじめた。
「おい、晴明よ」
と、帰りの牛車の中で、博雅が声をかけた。
牛車と、地を、激しく雨が叩いている。
「この雨は、おまえが降らせたのだろう?」
問うたが、
「ふふん」
と、晴明は曖昧な微笑を浮かべるばかりで答えない。
「なあ、晴明よ。この雨はおまえが降らせたのではないのか」
「昼間も言ったはずだぞ、博雅」
「何をだ」
「どのような呪を唱えようが、東海龍王を召喚しようが、天地に関わるものは、動かしようがないと──」
「しかし、雨が降ったではないか」
問いかける博雅に、
「ふふん……」
晴明は微笑を浮かべるばかりである。
「おい、晴明──」
「何だ」
「雨が降ってよかった」
「そうだな」
「ついでに言っておけば、おまえが雨を降らせたのかどうかは置くとしても、あの藤原師尹殿は、おまえが降らせたと思い込んでおるぞ」
「思わせておくさ」
「しばらく、宮中で、おまえが雨を降らせたという評判を耳にすることになるだろうよ」
「そうなるか」
「なる」
「ならば、わざわざ師尹の屋敷に行って、憑きもの落としをした甲斐もあるというものさ──」
晴明は、微笑を溜めた唇でそう言って、地を叩く雨の音に耳を傾けた。
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あとがき
ぼくの好きな、博雅、晴明もののお話『陰陽師』の第三弾、三冊目である。
二冊目を出してから二年目。一冊目から二冊目までが七年かかったことを考えると、これはかなりいいペースではないか。漫画版『陰陽師』の岡野玲子さんに追いつかれそうになってしまったので、今、三カ月に一作のペースで新作を書いているのである。
ここで、はっきり書いておきたいのだが、岡野玲子の画力とセンスは、当代随一である。
このセンスというのは、絵のセンスや物語創りのセンスも含まれるのだが、岡野玲子が持っているセンスの最大のものは、名づけられない部分に関わるものである。
ここで、いっきにほめちぎりたいのだが、残念ながら、そのセンスについて、ぼくは言葉が用意できないのである。言葉が用意できない、名づけられないというのはたいへんにくやしい。
しかし、それは間違いなく存在しており、それが漫画版『陰陽師』を、無数の平安時代ものの漫画の中で、特異なものにしているのである。
名づけられないということは、ようするに、誰もこれを真似できないということだ。
それ故に、それこそが、平安時代もののみならず、凡百の漫画群の中で、この漫画を際立たせているのである。
このセンス──もしくは感性と呼んでしまおうか。
岡野玲子の漫画には、不可思議な間《ま》と、奇妙な時間と、そして空間があるのである。それは、単に絵における構図上のものだけではない。コマ割り上のものだけでもない。
人間の情や、感性や、物語《ドラマ》、映像《シーン》に関わる部分まで、この不可思議なる間や、時間、おかしみが存在するのである。さらに書いておくなら岡野玲子は勉強家であり、ぼくなどは、平安時代について教えられることばかりである。
小説版『陰陽師』が、漫画版『陰陽師』、つまり岡野玲子という才能と出会えたのは、たいへんに幸福なことといっていい。『コミックバーガー』(スコラ)に連載中であり、同書に連載中のぼくの『餓狼伝』もまた、幸福な描き手を得た例である。
『餓狼伝』の板垣恵介も、『陰陽師』の岡野玲子も、原作の核を中心に持ちながら、後は自由に原作から離れてゆくベクトルを有しているところがいいのである。
描き手が才能ある作家であれば、原作から離れてゆけばゆくほどおもしろくなる。
描き手の資質にもよるが、原作からどれだけ飛べるかが、原作つき漫画がおもしろくなるかならないかの、ひとつのポイントとなる。
ともあれ、『陰陽師』は、三巻目となった。
まだまだ続く予定である。
次回をお楽しみに、お待ちいただきたい。
平成九年十月二十一日
[#地付き]小田原にて
[#地付き]夢枕 獏
単行本 一九九七年十一月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十二年十一月十日刊