神々の山嶺《いただき》 下
夢枕獏
目次
十三章 グルカ
十四章 シェルパの里
十五章 母の首飾り
十六章 山の狼
十七章 氷河へ
十八章 アイスフォール
十九章 灰色のツルム
二十章 真相
二十二章 頂へ
二十二章 神々の座
二十三章 山根伝
終章 未登録
あとがき
十三章 グルカ
現在、ネパールは、多くの問題を抱えている。
貧困。
人口増加。
森林破壊。
これらの問題は、つきつめてゆくと、結局、経済というひとつのものに突きあたる。
一九八八年の夏──
バングラデシュのデルタ地帯は、大きな洪水にみまわれた。
もともと、この地域は、大きな洪水──河川の増水による氾濫《はんらん》で運ばれてきた土が造りあげた土地である。
ユーラシア大陸を流れ下ってきた大河、ガンジス河、ブラマプトラ河、メグナ河がこのデルタ地帯に集中し、雨期には氾濫をくり返してきた。基本的に、七月から九月にかけてモンスーンの時期の洪水は例年のことであり、珍らしいことではない。しかし、その年、一九八八年のそれは、いつもと違っていた。
河の水位が上がりはじめたのは、七月からである。八月に入ってからは、連日のように豪雨があり、さらに水位を上げた。
バングラデシュ政府が、異常を知ったのは、八月の後半である。首都ダッカの北一八〇キロの地点にある、歩兵駐屯地から緊急の連絡が入ったのである。
ガータイール郡の農民三万人が、その駐屯地まで避難してきたというのである。山羊や驢馬《ロバ》、およそ一万二千頭の家畜に、家財道具を積んで、土地を捨ててきたのである。
軍のヘリが飛んで、状況を視察に行った。
「どこにも陸地が見当たりません」
ヘリのパイロットは、そう報告をした。
その地域一帯が水没し、住民三十八万人が家を捨てた。
これほど冠水地域の拡大が速いのは、異例のことであった。
九月──
浸水は、全土に広がった。
三大河川のみならず、それに交差する大小二五〇の河川があわせて氾濫し、国土の六二パーセントが水没してしまったのである。
流された橋、一五〇〇ヵ所。
水没した道路、三五〇〇キロ。
一億一千万人の国民のうち、浸水で家を捨てたのは三千万人。
この洪水の一因となっているのが、ヒマラヤ山岳部における、森林破壊である。
ネパールでは、毎年、およそ四十三万人の割合で人口が増え続けている。
人口が増えれば増えるだけ、国民ひとりあたりの使用するエネルギー量が増加する。ネパールの場合、そのエネルギーの多くは、石油ではなく、薪《まき》である。
ネパールでは、二千万人を越えた人口の多くが、山岳部に住む農民である。この人間が、朝、昼、晩の食事の準備をするだけでも、多くの薪、つまり、森林が失なわれてゆく。
電気が来るのは、都市部と、わずかな村に限られており、灯りも、この炎にたよることになる。年間、およそ、ひとり一トンの木が必要となる。
家畜の糞のほとんどは、燃料として使用されてしまうため、畑の肥料にまわされる量が減り、土地は痩《や》せてゆく。
木を切るため、山岳部から森林が消え、モンスーンで雨が降るたびに、表土が流出してゆく。この表土の流出で、ネパールの農業生産が、毎年、一パーセント落ちている。
その表土は、ヒマラヤの麓を下り、ガンジスに流れ込み下渡部のバングラデシュに集まって、河川の河床をあげる。かつてよりも、バングラデシュの河床は、二メートルもあがっている。
この河床の上昇が、洪水の規模を大きくしているのである。
しかし、その原因のひとつとなっている、ネパールのヒマラヤ山岳部における森林の伐採《ばっさい》は減らない。増え続けている。
一部の日本人が、ナムチェバザールあたりで、植林を始めているが、まだ規模は小さなものである。
一九九〇年には、耕地一ヘクタールあたり、九人も養なわねばならないところまできている。
人ロの増加が、それに拍車《はくしゃ》をかけ、八九年三月の、二国間通商・通過協定をインドが拒否したため、灯油などが入らなくなり、さらに、エネルギーを木に頼る事態になっているのである。
経済的に貧しいこの国の、外貨獲得の大きな柱は、観光である。
エヴェレスト、マナスル、チョ・オユー、世界の最高峰を含む、八○○○メートル峰が、地球のこの地域に密集している。
ヒマラヤを中心とした観光──トレッキング客、外国人登山隊が落としてゆく金や入山科が、大きな収入源になっている。
さらに、もうひとつ、この国が外貨を得るのに大きな柱としているのが、グルカと呼ばれる、史上最強とも言われている兵士たちである。
その建物の、二階の部屋で、深町と、羽生、そして、アン・ツェリンは、ナラダール・ラゼンドラと向き合っていた。
数日前に、深町がナラダール・ラゼンドラと会った同じ部屋だ。
小さな木のテーブルの上に、四つのカップが出され、そこから、湯気と共に、ダージリン・ティーの芳香があがっている。
もうひとり、山刀《ククリ》を腰に差した男が、ラゼンドラの後方に立って、三人を睨んでいる。
スワヤンプナート寺院に近い、このナラダール・ラゼンドラの住む家にやってきた時、深町らは、五人の男に囲まれた。
「ナラダール・ラゼンドラに会いたい」
羽生がそう告げると、
「何の用か」
男たちに問われた。
「ラゼンドラに、直接言うよ。いるのか、いないのか?」
羽生が、声を低めて言った。
「なんだと!」
男たちが気色ばみ、いるのかいないのかと言っているところへ、建物から、ナラダール・ラゼンドラが出てきたのである。
ナラダール・ラゼンドラは、すぐに深町と気づき、
「あがってもらいなさい」
男たちにそう言って、三人を建物の二階へあげたのであった。
茶《チャイ》の用意をさせると、部屋に残ろうとする男たちを退出させ、ひとりだけを残した。
そして今、深町は、羽生と、アン・ツェリンと共に、ナラダール・ラゼンドラと向き合っているのである。
「タイガーの、アン・ツェリンが、わざわざここまでお越し下さるとは、光栄ですな」
低い、落ちついた声で、ナラダール・ラゼンドラは言った。
羽生も、アン・ツェリンも、無言であった。
深町も、無言である。
「ところで、御用件は?」
ナラダール・ラゼンドラは訊いた。
「ブータンの方でね、過激派をやってる連中が、時々、ここに出入りしてるって聴いたんだけどね」
羽生が、正面からそう言った。
「そういう入間が、立ち寄りそうなところを、おれに教えてもらいたいんだよ」
「何故かね」
ナラダール・ラゼンドラが、羽生に問い返した。
「知りたいからだよ」
「だから、何故知りたいのかね」
「ならば、もう少し、具体的に訊くよ。マガールのモハンか、タマンのムガルか、どちらかの居場所を教えてくれないか」
「何故?」
羽生は、ナラダール・ラゼンドラの言葉を無視した。
「モハンが、ここに出入りしてることはわかってるんだ。奴は今、どこにいる?」
ナラダール・ラゼンドラは、肩をすくめて笑ってみせた。
「何か、よほど、言いたくない理由でもあるのですかな」
落ち着いた口調で言った。
羽生は、唇を閉じて、ナラダール・ラゼンドラを睨んだ。ふた呼吸ほどの間、互いに息を止めて、ふたりは顔を見つめあった。
「知っているな……」
羽生が言った。
「あんた、知っているんだろう。モハンとムガルがやったことを?」
「あなたの言うことが、ふたりがコータムと組んで、日本人の女性を誘拐したということならね──」
「あんたがやらせたのか?」
「まさか。やる前からわかっていれば、止めているよ」
「マニ・クマールも、そう言ってたよ。事前に知っていれば、あんたはそれを止めたろうってね」
「それはそれは」
「で、どこにいるんだ?」
「心あたりをね、捜させているところだよ。いずれ、わかる」
「捜させている?」
「こちらもね、多少は責任を感じているということさ。三人とも、わたしのところに出入りしていた人間であるということでもあるしね」
「────」
「わたしのところへ売り込みには来ないで、マニ・クマールのところへ、彼等がこれを売り込みに行ったというのはよくわかる。よくわかるが、しかし──」
「マニ・クマールも馬鹿じゃない……」
「善人とは言わないが、馬鹿ではないよ。少なくとも商売に関してはね。あのやり方では、カメラを金に換えることができないことくらいは、すぐにわかる。しかし、わからなかった人間たちがいた……」
「コータムと、モハンと、ムガル──」
「そうだよ」
ナラダール・ラゼンドラがうなずいた時、ドアに、ノックがあった。
「入りなさい」
ナラダール・ラゼンドラが言うと、ひとりの男が、部屋に入ってきて、そこにいる男たちを見回し、問うような眼でナラダール・ラゼンドラを見た。
ナラダール・ラゼンドラが、眼でうなずくと、男は、ナラダール・ラゼンドラの傍まで歩いてきて、その耳元に口を寄せた。
しばらく、男の話に耳を傾けていたナラダール・ラゼンドラは、うなずいて立ちあがった。
「今、コータムが見つかった。下の部屋にいる──」
「何だって」
羽生が立ちあがった。
「一緒に来るかね」
「いいのか」
「かまわんよ。コータムに訊けば、彼等と、涼子の居場所はわかるだろう。だが、問題は、居場所がわかるかどうかじゃない。いずれ、カトマンドウにいる限りは、遅かれ早かれ、彼等の居場所はわかると思っていた。問題は、居場所よりは、涼子の安全だからね」
「何故、おれたちに協力してくれるんだ」
「協力?」
「ああ」
「違うね。これは、あなたたちに協力してるんじゃない。自分たちのためにやってるんだよ。出所がわからない盗品かもしれないものを売るくらいならともかく、外国人の誘拐事件に関わるわけにはいかないということさ。この件が騒ぎになれば、わたしたちも困る。騒がれたくない」
ナラダール・ラゼンドラは、もう、歩き出している。
「どうだね。来るのかね。来ないのかね」
立ち止まって、振り返った。
「ゆく」
羽生は、堅い口調で言った。
深町もまた、すでに椅子から立ちあがっていた。
三人の男たちに囲まれて、コータムは、おどおどとした怯《おび》えた表情で、部屋の隅に立っていた。
床は、湿った土であり、壁は、レンガである。小さな窓が、左右にふたつあるが、木製の扉で閉められている。
明りは、その板の透き間から洩れてくる外の陽光だけである。刃物に似た細い光の筋が、コータムの頬に当たっている。
テーブルがひとつ──
椅子はなく、土間には、空き缶や空き瓶が転がっている。
深町にも見覚えのある顔が、恐怖で歪んでいる。
ナラダール・ラゼンドラが、小さな木製のテーブルを挟んで、コータムと向き合って立った。
「インドラチョークで、縄を待ってうろついているところを見つけて、こちらへ連れて来ました。逃げようとしたんですが、こっちは三人でしたので──」
さっきの男が、今度は、誰にでも聴こえる声で説明した。
「わかった……」
ナラダール・ラゼンドラは、男のしゃべるのを、片手をあげて止めると、
「とんでもないことをしたな」
コータムに向かって言った。
コータムは、限を伏せた。
「モハンとムガル、それから、連れていった娘はどこにいる?」
コータムは、答えない。
「山刀を──」
ナラダール・ラゼンドラが右手を差し出すと、その手の先にいた男が、腰に下げていた山刀を鞘《さや》から引き抜いて、それをナラダール・ラゼンドラに渡した。
よく磨かれた、重い、鉄製の刃物だ。
「コータムを押さえなさい」
ナラダール・ラゼンドラに言われ、三人の男が、両脇と背後から、コータムが動かないようにそこに捕えた。
「手を──」
ナラダール・ラゼンドラが言うと、男たちが、コータムの右手首を押さえながら、その掌をテーブルの上に乗せさせて、五本の指を聞かせた。
「や、やめろ。やめてくれ!」
コータムが、眼を剥《む》き出し、高い声をあげた。
かまわず、ナラダール・ラゼンドラが、無造作に、山刀を打ち降ろした。
コータムが、悲鳴をあげた。
ナラダール・ラゼンドラが打ち降ろした、重い、鉈《なた》のような山刀が、コータムの右手の親指を叩いたのである。刃の部分ではなかった。叩くのに利用したのは、分厚い、峰の部分である。
骨と、肉が潰れるいやな音が響いた。
「言いたくなったら、言いなさい」
また、打ち降ろした。
次は、人差し指だった。
その指も潰れた。
肉がえぐれ、血がこぼれ、白い骨が覗《のぞ》いた。
次の指にゆく前に、コータムは叫んでいた。
「言う。言うよ。みんな言うから──」
指を潰さないでくれと哀願した。
その時──
これまで、黙ってなりゆきを見守っていたアン・ツェリンが、
「そうか、やっとわかった……」
低い声でつぶやいた。
「ナラダール・ラゼンドラ、どこかで見た顔だと思っていたら、あんた、グルカか」
バグマティ川を左に見ながら、車は走っている。
ひどい悪路だった。
路面は凹凸《おうとつ》が多く、石がいたるところに転がっている。前を走る車が、大量の土埃《つちぼこり》を巻きあげるため、後方の車は、窓をきっちりと閉めておかねばならない。
雨が降れば、どれほどこの道がぬかるむか、想像したくもない。
深町は、後部座席で、強い異国人の体臭を嗅いでいた。
カトマンドゥ市内を流れ下ったバグマティ川は、北から流れてきたヴィシュヌマティ川と合流し、そこで、流れを南に変える。車は、カトマンドゥを出て、そのバグマティ川に沿って、南へ向かっている。
この道は、カトマンドゥから一七キロほど南下して、ダクシンカリまで続いている。ダクシンカリは、シヴァ神の妃神であるカーリー神を祭った寺院である。女神カーリーは血を好む暗黒神で、毎週、火曜と土曜に、この妃神に対して、山羊やニワトリの血が、生贅《いけにえ》として捧げられている。
女神カーリーを信仰するヒンドゥー教徒が、次々と、山羊やニワトリの首を切り落とす光景を、深町は、前回のエヴェレスト遠征のおりに、そこで見ている。
カーリーに捧げられた動物たちは、来世において高い位の動物として生まれてくると考えられているが、深町にとっては、ただただ、血腥《ちなまぐさ》い光景であった。
道は、ダクシンカリで終わり、車は、そこから先へはゆくことができない。
そのダクシンカリヘ着く手前、バグマティ川沿いの家に、モハンとムガルが、岸涼子と一緒にいるはずだと、コータムが言ったのである。
涼子を縛っておく縄が古くて切れそうだというので、コータムが新しい縄と食料を買いにカトマンドゥまで出た。そこを見つけられ、ナラダール・ラゼンドラのところまで連れて来られたのである。
運転手は、コータムを捕えたと、ナラダール・ラゼンドラに告げた男だった。
助手席に、ナラダール・ラゼンドラが座り、後部座席に、深町、羽生、アン・ツェリンが座っている。
そして、五人の乗った車の後方に、もう一台車が続いている。そちらの方には、コータム本人と共に、四人の男が乗っていた。
「モハンの奴、どこで何を聴かされたのか、あのカメラのことについて、だいぶ興味をもっていたんです。奴にカメラのことを訊かれて、わたしが、あのカメラはだいぶ値うちものらしいと、言ったんです。それで、モハンがムガルに話を持ちかけて──」
今回の誘拐を計画したのだという。
始めは、ナラダール・ラゼンドラに売り込もうかとも思ったのだが、ナラダール・ラゼンドラが反対するかもしれないと怖れ、マニ・クマールのところへ話を持ち込んだのだと、コータムは言った。
ところが、マニ・クマールにも相手にされなかったため、どうしようもなくなり、とにかく、少額でもいいから金を手に入れ、インドあたりに逃げようと相談をしていたのだという。
場合によったら、顔を見られている女を殺して屍体はどこかの山の中に埋め、金も手にせずに逃げてしまおうかという話にもなっていたらしい。
何故、女を攫《さら》ったのかと問われ、
「金が、欲しくて……」
消えそうな声で、コータムは言った。
車は、たえまなく揺れていた。
日本のように舗装《ほそう》された道なら、二十分もかからずにたどりつくのだが、この道では、一時間近くかかる。
「ラゼンドラさん……」
ふいに、沈黙を破って、アン・ツェリンが、ナラダール・ラゼンドラに声をかけた。
「ひとつ訊いてもいいかね」
「何を?」
ナラダール二フゼンドラは、前を見ながら、言った。
「何故、あんたのような人間が、汚れた場所に足を突っ込んでまでも、ブータン難民の過激派連中の面倒をみようとしてるのだね」
問われたナラダール・ラゼンドラは、長い時間沈黙し、
「貧困からだよ……」
ふいに、つぶやいた。
「この国が、貧しかったからさ。貧しかったから、わたしは、グルカになり、この国が貧しかったから、たくさんのネパール人がブータンヘ出稼ぎにゆき、同じことが原因で、今またネパールヘ帰って来なければならなくなった。彼女を、モハンたちが誘拐したのも、つきつめれば同じことさ……」
「しかし、金ならば、今のあんたは……」
「そこそこはあったさ。グルカだったからな……」
「英国《イギリス》から、ヴィクトリア十字│勲章《くんしょう》までもらった」
アン・ツェリンが言うと、ナラダール・ラゼンドラは、小さく笑ったようであった。
「それを言うなら、あんただってそうだろう、アン・ツェリン。あんたも、イギリスから、タイガー・バッジをもらった──」
今度は、アン・ツェリンが沈黙する番だった。
「どうだい、タイガー・バッジは、あんたの人生に何をもたらした?」
アン・ツェリンは、答えなかった。
再び、沈黙がおとずれた。
「グルカか……」
それまで、黙っていた羽生がぼそりとつぶやいた。
「おれには、勲章も、タイガー・バッジも縁のない世界だな」
低い、感情を殺した声だった。
通称グルカ──これは、俗にいうグルカ兵のことである。
グルカ兵とは、イギリス陸軍に設けられた、ネパール人兵士の外国人部隊のことである。白兵戦において無敵、地上最強の部隊と言われている。
その主体となっているのは、ネパールの首都カトマンドゥの西方や、ネパール東部のヒマラヤ山岳部やポカラ周辺に住む、グルン族やマガール族をはじめとする五部族である。グルンや、タパ族などの部族を総称して、グルカ族と呼び、彼等はインド側のダージリンやカリンポン周辺までの地域にも居住する。現在のネパール王国を創った“ゴルカ公国”を生んだのがグルカである。
一八一五年──当時、インドを支配していた、英国東インド会社と“ゴルカ公国”の利害が対立し、グルカは英国と戦った。このおり、英国側が、グルカの勇猛さに驚き、植民地軍の一員として、彼等を迎え入れたのが、英国陸軍グルカ兵部隊の始まりとなった。
もともと、山岳部に住む民族であり、その肉体の頑強《がんきょう》さ、肺活量、忍耐力等の基礎体力は、他の民族より遥かに優れたものがある。
走っている状態から、地に伏せて、銃を構えて撃つまでの時間が、約〇・五秒。
イギリスの歴史において、彼等グルカ兵は、常に最前線の一番苛酷《かこく》な場所で戦ってきた。
一八五七年、セポイの反乱において、インド兵を鎮《しず》めるため、真っ先に投入されたのはグルカ兵である。
第一次世界大戦のおりには、二十万人がグルカ兵として戦場へ駆り出され、四万人が死んでいる。第二次大戦のおりには、およそ三十五万人のグルカ兵が、イギリスのために戦った。この時、ネパールの人口は、約九百万人。
第二次大戦において、サハラ砂漠で、ロンメル将軍率いるドイツ機甲師団《きこうしだん》を撃破したのもグルカ兵であり、日本軍のインパール作戦を粉砕したのもグルカ兵である。
戦後は、マレー半島やボルネオのジャングルで、共産ゲリラとも戦っている。
一九八二年のフォークランド紛争のおり、やはり最前線に送られたのは、このグルカ兵であった。
一九一五年以来、イギリスが戦ったあらゆる戦場に、グルカ兵がいたといっていい。
グルカ兵は、その歴史において、祖国ネパールのためではなく、常々、他国であるイギリスのために、生命を賭《と》して戦ってきたのである。
一九九二年で、その数、およそ、五大隊で七千三百人。この人員が、一九九七年度の香港の中国返還までに、二大隊二千五百人に減少されることになっている。
この、グルカ兵となるためには、苛酷なテストにパスしなければならない。もし、試験にパスすれば、それだけで、地元では大きな尊敬の対象となる。
高額の外貨収入があり、退役後も年金が保証され、英語を学んで国外へ出ること許されるのである。
グルカ兵が、一年間にネパールに送金する外貨は、トータルでおよそ一七〇〇万ドルにもおよぶ。
ネパールという国が外貨を獲得する手段として、グルカというのは、ヒマラヤという観光資源と並ぶ、大きな財源なのである。
ナラダール・ラゼンドラは、その、元グルカ兵であったということになる。
「人を……」
深町は、そこまで言いかけて、声を飲み込んだ。
“人を殺したことがおありですか”
ナラダール・ラゼンドラにそう問おうとして、深町はそれをやめたのであった。
眼の前の、ナラダール・ラゼンドラの背を見ていると、思いつきで訊けるような事柄ではなかった。
“それは、茶屋《パッティ》に入って、茶《チャイ》はあるかと訊くようなものですな”
そのような答えが返ってくるかもしれず、どういう返事も返って来ないような気もする。
ヴィクトリア十字勲章をもらうほどの人物なのだ。
イギリスでは、最も権威ある勲章である。
外国人でそれを手にした人間は、それほど多くはない。
「あそこですね」
運転していた男が、ふいに言った。
男たちの眼が前方に向けられた。
いったん、川から離れた道が、再び川に近くなっているあたり、道の左側に、一軒のレンガ造りの建物がある。運転手が、その建物のことを言っているのだということはすぐにわかった。その前に、古い、塗装が剥《は》げてぼろぼろになった車が一台、停まっている。
「人がいます」
言われるまでもなかった。
深町も、その光景を見ていた。
ふたりの男と、ひとりの女。
ひとりの男が運転席に乗り込もうとし、もうひとりの男が、女と一緒に後部座席に乗り込もうとしているところであった。
女は、後ろ手に、手首を縛られているらしい。
女と一緒にいる男に、見覚えがあった。
「モハンです」
運転手が言った。
女は、誰だか、むろんわかっている。
岸涼子だった。
岸涼子を先に後部座席に乗せ、車に乗り込もうとしたモハンが、こちらへ眼をやった。すぐに、この車が誰の車であるかわかったらしい。運転席の男に向かって、モハンが何ごとか叫んだ。
モハンが、乗りきる前に、車が発進した。
ぐん、と、深町の乗った車が加速した。
しかし──
深町たちが、その家の前にたどりつく前に、岸涼子の乗せられた車は、道に出てきて、ダクシンカリの方角に向かって走り出した。
猛烈な土埃があがった。
その土埃の中を追う。
おそらく──
コータムの帰りが遅いので、不安になり、潜む場所をかえようとしていたところだったのだろう。
彼等は、慌《あわ》てていた。
馬に曳《ひ》かせた荷車を追い越しながら、スピードをあげる。
広い道ではない。
彼等が、追い越されまいとすれば、充分にそれは可能だ。
土埃を通して、リアウィンドウ越しに、時おりモハンが振り返るのがわかる。
「だいじょうぶです。この道は、行き止まりですから──」
運転手が言った。
それは、深町もわかっている。
問題は、行き止まりになって、車が動けなくなったその後だ。彼等は、涼子の生命を楯《たて》にして、逃げようとするだろう。追いつめられた彼等の手から、涼子を、どうやって無事に救出するのか。
先を走る涼子を乗せた車が、右に曲がった。
登り坂だ。
山の道であった。
さらに悪路になり、道は挟くなった。
一台の車を、二台の車が追う。
道は、山の尾根襞に沿って、左右に曲がりくねっている。
路肩には、ガードレールも何もない。
「この道も、あといくらも行かないうちに、車が走れなくなります」
もう、とっくに、車がまともに走れる道ではなくなっていた。
左側の崖から、石や岩が落ちてきていて、絶え間なく、タイヤがその石や岩の上に乗りあげ、車の腹がそれに当たる。
たまらない。
前のシートをつかまなければいられない。
と──
ふいに、前方から、激しいブレーキ音と、タイヤが土を削って滑る音が響いた。
土埃が、土とほとんど同じ色になり、いきなり、視界が開けた。土埃を抜けていた。前に、車はない。
深町の乗っていた車は、岸涼子の乗った車を追い越してしまったのだ。
岸涼子の乗った車は?
「落ちた!」
運転手が、車を停めて叫んだ。
その時には、もう、ドアを開いて、羽生は外に飛び出していた。
まだ収まってない土埃を吸いながら、深町は、羽生と並んで、崖の縁に立った。
下を見下ろした。
高い崖だった。
下方は、細い渓《たに》だ。
高さ、およそ、六〇メートル。崖の縁から、六〇度近くの斜面が始まり、一〇メートル下で、えぐれるように、下に向かって切れ込んでいる。
その切れ込みの手前、そこに、二本の尼拘陀樹《パンヤンジュ》が生えている。
落ちた車は、その二本の樹の間に、斜めにひっかかっていた。その車の上に、小石や砂が、音をたてて、まだ降り注いでいる。
深町や羽生が、崖の縁に立った足元から、もう、小石や砂が車に向かって落ちてゆく。
おそろしくもろい崖であった。
運転席のドアが開いていて、自分で跳び降りたのか、投げ出されたのか、少し離れた灌木の茂みに、ムガルと思われる男がしがみついて、上を見上げている。額から、血が流れ出している。
おそらく、この男が、ホテルに電話をよこしたのだろう。
後部座席のドアは、まだ閉まったままであった。中に、まだ、モハンと涼子がいるのだろう。
「涼子!」
羽生が声をかけたが、返事はない。
この斜面は、降りるには危険であった。
降リれば、足元から石や砂が崩れ落ちてゆく。それでも、六〇度ほどでこの斜面が下まで続いているならなんとかなるが、途中からふいに落ち込んでいるため、ずるずるとそこまでは下ることができても、そこから、いっきに下に落ちてしまう。
車か、樹のところまで下り、そこで体重をあずければいいのだが、あずけた体重で、負荷がさらにかかり、樹がその重量を支え切れずに、車ごと落ちてしまう可能性がある。なまじ、垂直な岩盤より始末が悪いと言えた。
六〇度と言えば、上から見降ろす時は、ほぼ垂直の崖と同じだ。
「縄だ」
羽生が、低い声でアン・ツェリンに告げた。
アン・ツェリンが、車にもどってゆく。
そうか。
後部座席に、繩があったはずだと、深町は思う。コータムが、捕えられた時に持っていた縄だ。
後ろの車の連中が、来て並んだ。
何人かが、崖の斜面を降りようとしたが、たちまち、足元から上が崩れはじめ、あわてて崖上にもどった。
みしり、
と、樹が音をたてて下方に傾き、車が、動いた。
石と砂が、大量に下方に落ちてゆく。
そのまま、二本の樹ごと車が落ちてゆくかと思われたが、傾いただけで、車は落ちなかった。もう一本の樹が、車の重さをかろうじて支えているらしい。
アン・ツェリンが縄を用意してもどってきた。
「きみは、山の専門家だったな」
ナラダール・ラゼンドラが言った。
「ああ」
答えながら、羽生は、肩から背に縄を巻きつけ、股の間からそれをくぐらせる。
懸垂《けんすい》下降の準備である。
「まかせていいかね」
「そのつもりだよ」
アン・ツェリンが、崖上で確保にまわり、深町は、そのアン・ツェリンのさらに後方にまわって確保をした。
麻の縄だ。
細いが、岩の角などで擦れたりしない限り、すぐに切れたりはしないだろう。人間ふたりの重量を、宙ぶらりんの状態で、上へ引きあげようというのではない。斜面を自力で登ってくる人間の補助的な役割で使うのなら、充分に役にたつ。
準備ができた時には、もう、羽生は後ろ向きに、足を崖の斜面に踏み出していた。
さらさらと、羽生の足元から、砂と石が落ちてゆくが、その量は少ない。
鳥のような軽い足どりで、たちまち、羽生は、車にたどりついた。
車に、自分の体重をかけぬように、ドアを開いた。
中から、まず、ひとりの男を、羽生はひき摺《ず》り出した。
モハンである。
モハンは、生きていた。
鼻から、血を流しており、その動きからすると、左肩をやられているらしい。左腕を、ほとんど動かすことができないらしかった。
モハンに、近くの灌木にしがみつかせておいてから、羽生は、再び、後部座席の中に、上半身を入れた。どうやら、ドアの手前にモハンがいて、奥に岸涼子がいたらしい。
その時、また、あのいやな音が響いた。
みき、
めき、
という、樹が折れてゆく音と、大量の砂や小石が、こぼれ落ちてゆく音。
深町の背に、ぞくりと太い冷たい蛇が疾《はし》り抜ける。
羽生が、車の中から、まだ、両手首を後ろ手に縛られている涼子を助け出した途端、大きな音をたてて、一本の樹が傾き、続いて二本目の樹が根元から地を離れ、夥《おびただ》しい土砂とともに落下した。
羽生の足元が、大きく抉《えぐ》れ、深町の手元に、ぐんと強い衝撃が来た。細い、麻の繩が伸びきった。
恐怖が、深町の背を疾った。
羽生は、軽く腰のベルトに縄をくぐらせはしたが、きちんと縛ったわけではない。さらに、縛ってあったらあったで、人間の体重が落下する衝撃に、この細い縄が耐えられるとも思えなかった。もっと言うなら、岸涼子を支えている分、縄にかかる負荷が大きくなる。落下というよりは、厳密には、滑り落ちるのに近いが、それでも、かなりの重量が、この繩にかかることになる。
大きな音をたてて、樹と共に、車が渓に落下していった。
まだ、深町の手にある重量が、少なくとも羽生の体重がその縄にかかっていることを教えていた。
しかし──
みりみりという、縄の繊維が、次々に切れてゆく感触が、手に伝わってきた。
切れる。
もう、数秒ももつまい。
そう思った時、ふいに深町の手から、重さが消失していた。
「羽生さん!」
深町は、立ちあがっていた。
崖の縁に立って、下を覗き込んだ。
「生きてるぞ」
ナラダール・ラゼンドラが、声をあげた。
薄くなってゆく土埃の中に、深町もその光景を見ていた。
土が崩れ落ちたあとに、それまでその下に隠れていたらしい岩盤の一部が露出し、その岩盤に、一本の樹の、一番太い根がまだしがみついていたのである。葉や技の部分を、渓の方に垂らしてはいたが、樹は、落ちてはいなかった。落ちたのは、もう一本の樹と車であった。
その太い根に、右手をかけ、両足を岩盤の上に乗せて、羽生はその左腕に岸涼子を抱えていたのである。
なんという腕力であろうか。
幸運?
深町の頭に、その言葉が浮かんだが、そうではないとその言葉を否定した。
羽生が、助かったのなら、それは幸運などではない。羽生は、強引に、自分の腕力で、運命から自分の生命をもぎとったのである。
縄を、もう一度、羽生のいる場所まで垂らした。
両足に、ふたり分の体重を預け、根を掴んでいた右手をはなし、羽生が、右手でその縄を掴む。
ゆっくりと、その縄を、アン・ツェリンと深町は引きあげた。
右手で縄を掴み、ゆっくりと、崩れる斜面を、両足で羽生が登ってくる。
少しも疲れたようには見えない。力強く、リズムにも乱れがない。軽々と、その身体が動いている。
たどりついた。
岸涼子の手首を縛っていた縄を、アン・ツェリンがナイフで切る。
「羽生さん」
岸涼子が、羽生の前に立って言った。
「涼子……」
羽生は、初《うぶ》な中学生のように、おずおずと岸涼子の肩に手を伸ばした。
「やっと会えたのね」
岸涼子が、羽生にしがみついた。
その光景を眺めていた深町の胸に、鈍い痛みに似たものが、熱い温度と共に生まれていた。
ナラダール・ラゼンドラの部屋で、深町は、ポットから注がれたばかりの、熱いコーヒーを飲んでいた。
夕刻──
たった今、医者が岸涼子の診断を終えて、帰ったばかりだった。
幾つかの擦り傷と打撲傷、痣ができてはいたが、骨にも内臓にも異常はないと医者は言った。
ナラダール・ラゼンドラが懇意《こんい》にしている医者だ。
医者は、幾つかの傷薬と湿布《しっぷ》薬を置いて、その部屋を辞した。
残っているのは、ナラダール・ラゼンドラと車の運転手、そして、羽生丈二とアン・ツェリン、岸涼子、深町の六人である。六人に椅子が用意され、それぞれに、その椅子に腰を下ろしている。
灯りが点《とも》っている。
蛍光灯の灯りだ。
モハンも、ムガルも、かろうじて渓に落ちることなく救助され、今は、この建物の一階に、大人しく押し込まれている。
「無事でよかった──」
ナラダール・ラゼンドラが、よく通る声で言った。
「世話になったのか、そうじゃないのか、よくわからないが、あんたには、とりあえず礼を言っとくよ。あんたのおかげで助かった……」
羽生は表情を変化させずに言った。
「礼にはおよばないよ。わたしには、わたしの立場があってね、できることなら、大きな騒ぎにせずにことを収めたかったのでね、彼女が無事であったことを感謝してるんだよ」
「おれも、同じだよ。騒ぎを大きくしたくない」
「というと?」
「警察│沙汰《ざた》にはしたくないってことだよ。もっとも、彼女が、それでは納得がいかないっていうんなら、話は別だけどね」
羽生は、岸涼子を見やった。
「わたしは、かまわないわ。今晩ゆっくりベッドで眠らせていただけるなら……」
「じゃ、決まった」
羽生は、ナラダール・ラゼンドラに視線をもどした。
「彼ら三人の処分は、わたしに任せてもらっていいということだね」
「好きにしてもらっていいよ。また、同じようなことをされるんじゃ、たまらないけどね──」
「その心配はいらない。二〜三年カトマンドゥを離れてもらうからね。もし、勝手にもどってきたら、彼等はそれを後悔することになるだろう」
「ならば、もう、帰らせてもらおうか」
羽生が、立ちあがりかけると、ナラダール・ラゼンドラは、
「帰る前に、ひとつ、訊きたいことがある──」
「何だい?」
「もちろん、訊かれたからといって、あんたは答える必要はない。答えたかったらということでね」
「気遣いは無用だ。どっちにしろ、おれは、何を訊かれようと、答えたくない時には答えないようにしてる」
ナラダール・ラゼンドラは微笑し、
「カメラのことだよ。今さら、あのカメラを手に入れようとは、もうわたしは考えちゃいないんだけどね、あんたが、あのカメラをどこで手に入れたのか、それだけを教えてもらえないだろうか」
そう言って、羽生を見つめた。
羽生は、沈黙して、唇を閉じている。
「どうだね」
「八○○○メートルより上だよ。これで、答えになってるかい」
「充分なってるよ。ありがとう。八○○○メートルより上──なかなか刺激的な答えじゃないか」
ナラダール・ラゼンドラは、満足そうにうなずき、
「今日のきみは、凄かったよ。惚れぽれするような動きだった。グルカにも、あれだけの冷静な動きができる人間は、そうはいなかったよ。戦士で言うなら、きみは、まだ完全に現役だな」
「グルカの、元中尉に、そう言われるのは光栄だね」
「きみが、何をこれから手に入れようとしているのか、朧《おぼろ》げには見当がつくよ」
「へえ──」
「きみがね、捨てたもの、捨てようとしているものの大きさを見れば、きみが手に入れようとしているものの大きさがわかる……」
そう言いながら、ナラダール・ラゼンドラは、岸涼子を見やった。
「人間は、両手に荷物を抱えていたら、もうそれ以上の荷物は持てない。いったん、両手の荷物を捨てなければ、次の荷物は抱えられないからね」
ナラダール・ラゼンドラは、饒舌《じょうぜつ》であった。
「戦場へゆく前の兵士は、みんなきみのような顔をしている。グッド・ラックと言ってあげたいが、きみは、幸運も拒否するだろうね。いや、拒否はしないだろうが、あてにはしない。最後に、ひとつだけアドバイスさせてもらうなら、休息は必要だよ」
「休息?」
「戦場でさえ、わずかながら休息の時間はあるということさ」
「あんたが、そう言ったことは、覚えておくよ」
羽生は、そう言って、ゆっくりと立ちあがった。
深町が立ちあがり、アン・ツェリンが立ちあがり、岸涼子が立ちあがった。
「送るよ」
羽生が、岸涼子に向かって言った。
「わたしの車で、送らせるよ。それから、わたしの名前で、ふたり分、余計に同じホテルに部屋をとっておいた。ビカール・サンと、タイガー・ツェリンに、ぜひ利用してもらおうと思ってね」
羽生は、立ち止まって、ナラダール・ラゼンドラを見つめた。
「気にいらないことをしたかな」
「そんなことはない」
答えたのは、アン・ツェリンであった。
「わたしは、もどらねばならないところがあるが、ビカール・サンは、今夜は自由だ。喜んで利用させてもらうよ」
アン・ツェリンは、羽生の肩を、ぽん、と叩いた。
羽生が、無言でうなずいた。
冴えざえと、闇の中で眼を開けている。
眠れない。
ベッドの上で、何度も寝返りを打ち、溜め息をついてしまう。高山で、テントの中に潜り込んでいる時のように、つい、酸素が足りずに、大きく息を吸い、それを吐き出す。
疲れきっているはずなのに、意識は明瞭《めいりょう》である。
深町は、仰向けになって、天井を睨んでいる。
ホテルの自室だ。
涼子は今、どうしているのか。
自分の部屋にいるのか、それとも、羽生の部屋にいるのか。わかっているのは、どちらの部屋にいるにしろ、涼子がひとりでいることはないということだ。自分の部屋にいるのなら、そこには羽生がいるはずであり、羽生の部屋にいるのなら、やはり、そこには羽生がいるはずであった。
ふたりとは、ロビーで別れた。
ふたりが、それぞれ自室で眠っているとは思えない。一緒にいるはずであった。一緒にいて、話をしているのか。話は、むろん、するであろう。話すことなら、ふたりとも、山ほどある。ひと晩、ふた晩、一緒にいたところで、それを話し尽くせるものではない。
そして、男と女にとっては、どういう会話よりも雄弁な会話の方法がある──
瀬川加代子がいなくなってから、毎日のように、加代子のことは思い出していた。考えない日はなかったといっていい。
ネパールヘやってきてからもそうだった。
しかし、岸涼子が、カトマンドゥに来てからは、加代子とのことが、意識の中で、少し遠のいたような気がする。岸涼子が傍にいるおかげで、その引力に引かれるように、瀬川加代子の引力圏から、わずかずつ距離をとれるようになっていった。
羽生を捜しに来ているにもかかわらず、羽生がこのまま見つからねばいいと、そういう考えも、自分の内部に生じかけていた。
だが、今、羽生は見つかり、今、涼子と共にいる。
それが事実だ。
明日になったら──
羽生と話をせねばならない。
あのカメラを、どこで見つけたのか、カメラの中に入っていたフィルムはどうなったのか。そして、今、羽生丈二が、ビカール・サンという名で、いったい何をしようとしているのか。一九九〇年、このカトマンドゥで、羽生と長谷と、ふたりの天才クライマーが、いったいどういう話をしたのか。
それを訊ねなければならない。
今回、自分がネパールまでやってきた目的はそれなのだ。それを忘れてはならない。他のことは、岸涼子と羽生丈二のことは、自分とは関係のないことなのだ。
羽生丈二──
これまで、チベットに行っていたという。
陽焼けした顔。
どす黒いほどの皮膚。
強い紫外線に、長時間さらされると、人の顔はあのようになる。
黒い、死んだ皮膚が、顔のいたるところから剥離《はくり》しかけている。唇の皮までが、黒く死んで、剥《む》け落ちている。
いったい、どういうところへ行けば、人の顔がそのようになるかを、深町は知っている。
ヒマラヤの高峰──
空気の遷さが、地上の三分の一。
希薄な大気を通過してきた紫外線が、無防備の皮膚を焼き、壊死《えし》させるのだ。
何故、チベットのそのような場所ヘ──
様々な想いが、深町の胸に去来する。
疲労が濃いはずなのに、なかなか、それが肉体を眠りの淵へ引きずり込んでいってくれない。
深町が、浅い眠りに入ったのは、明け方近くになってからであった。
山の夢を見ていた。
寒い雪の中で、テントに閉じ込められている。
寝袋の中で、吹雪の音を聴いている。テントにぶつかってくる風と、小石のような雪の音。
そこで、手紙を読もうとしている。
瀬川加代子からの手紙だ。
その手紙を、自分は持っているはずであった。それが、見つからないのだ。ポケッ卜や、ザックの中に手を突っ込んで捜しても、見つからない。
もらって、自分はそれを読んだはずであった。
しかし、内容を思い出せない。思い出せないから、もう一度、それを読もうと思ったのだ。いやしかし、もしかしたら、自分は、その手紙をもらってないのかもしれない。読んだ気になっているだけで、そんな手紙はもらってない。だから内容を思い出せないのだ。
落ち着いたら、手紙を書くと言っていたその手紙だ。
ああ、待てよ、そんな手紙だったら、何が書いてあったか、必ず覚えているはずじゃないか。それを覚えてないのだから、やはりもらってなんかいないのだ。だが、どうして、その手紙をもらったと思い込んでしまったのか。
よくわからない。
本格的に、寝袋から足を出して、テントの中を捜せばいいのだが、寒いから、寝袋の中から手だけ伸ばして、手紙を捜している。こんなやり方じゃ、見つかるわけはない。
ああ──
それにしても、寒い。
テントの内側が、ばりばりに凍りついている。
何か温かいものでもあればいいのに。
女の肉体、あれはいったい、どんな温度だったかな。
それが、どうにもよく思い出せない。
自分の身体の温度と、理屈の上では同じはずなのだが、あれは、かなり温かいものだったような気がする。
しかし、何を考えていても寒い。
寝袋のどこかに、穴が空いていて、そこから、外の空気が入り込んできているようだ。
起きて、なんとかしよう。
起きて、穴があるのなら、その穴をふさがねばならない。
起きるのだ。
起きねばならない。
さあ、起きて──
眼が、覚めた。
ノックの音が聴こえていた。
誰かが、部屋のドアをノックしているのだ。
上半身を起こす。
サイドテーブルの上の時計を見る。
午前八時を、少しまわった時間だ。
短パンをはき、Tシャツを着ているだけだ。
起き抜けのひどい顔をしているに違いない。
「どなたですか」
ベッドから降りながら、日本語で言った。
「岸です」
岸涼子の声だった。
何があったのか。
深町はTシャツの裾を短パンの中に押し込み、ドアに向かって歩きながら、両手の指を髪の中に差し込んで、掻きあげた。これくらいで寝癖がとれたとも思えなかったが、気分の問題だ。
だが、涼子が何故?
電話をよこさずに、直接部屋までやってくるというのは、普通でない事情が生じたのか。
ドアまで歩く前に、カーテンを引き開ける。
朝の光が、部屋を満たした。
もう、街は動き出している。
車の音や、人声が届いてくる。
ドアを開いた。
ジーンズに、Tシャツ姿の岸涼子が、そこに立っていた。
「すみません。起こしてしまいました?」
「いえ、もう起きようと、ベッドの上でぼんやりしてたところです」
嘘をついた。
「どうぞ」
涼子を、部屋へ招き入れた。
散らかったままだ。
昨日、羽生とふたりで、この部屋で過ごした時と同じである。
深町は、ドアを閉めた。
部屋の中央に立って、涼子が深町を見つめていた。
深町は、その眼を見た時、一瞬、涼子が泣き出すのかと思った。しかし、涼子は泣き出しはしなかった。
何か、言い出したいのだが、自分の内部に、適当な言葉が見つからない──そんな風に見えた。
「どうしたんですか」
深町は訊いた。
「あの人が……」
そこまで言って、涼子は唇を閉じ、また唇を開いて、
「羽生さんが、いなくなってしまったの」
そう言った。
「いなくなった?」
「今朝、気がついたら、羽生さんがいなくなって、これが……」
涼子が、ジーンズのポケットから、たたんだ紙片を取り出した。
ホテルの部屋にある便箋《びんせん》だった。
深町は、涼子からそれを受け取り、開いた。
そこに、鉛筆で文字が書かれていた。
深町も知っている、あの、針金を、無造作に手で折り曲げて造ったような文字。羽生丈二の字だった。
ありがとうございました。
書かれていたのは、ただそれだけだった。
宛名も、書いた本人の署名もない手紙。
ただ、礼の言葉だけを書いて、何も告げず、羽生丈二がいなくなった。
「あのひとの部屋で、わたし、眠ったの──」
涼子はそう言った。
「わたしがベッドに入っても、あのひとはベッドに入って来ようとしなかったわ」
おれは、ここでいい──
羽生は、そう言って、ベッドの枕元に椅子を引いてきて、そこに腰を下ろしたのだという。
きみの寝顔を見ていたいんだ──
涼子が、手を伸ばすと、羽生がその手を握ってきた。
そのかたちで、話をしたのだという。
「何故、このネパールにいるの?」
そのおり、涼子にそう問われて、山に登るためだと羽生は答えた。
「山?」
山に──
羽生は言った。
「まだ……」
と、涼子は言い、口をつぐんでから、羽生を見、もう一度言った。
「まだ、楽にならないの?」
答えはなかった。
答えるかわりに、羽生は、涼子の手を握っている指に力を込めた。
その力が、まだだと、そう言っていた。
まだ、収まっていない。
登っても登っても、まだ、猛《たけ》るものが心の裡《うち》にある。
獣が、心を離れない。
鬼が、心に棲んでいる。
その鬼が、まだだと言っている。
もう、四十九歳になっているはずであった。
普通であれば、そろそろ、自分の仕事の定年や、老後のことを考える時期だ。しかし、まだ羽生は、何ものかに対して、現役であった。現役であろうとしていた。
まだ、楽になっていない。
だから、登り続ける。
ぽつり、ぽつりと、涼子は羽生に、これまでのことを語った。
長い時間、羽生を待ったこと。
もう、そろそろ気持の整理をつけようとしていた時、深町から連絡をもらったこと。
やがて、深町が、ネパールヘ出かけてゆき、自分自身も、その後を追って、カトマンドゥまでやってきてしまったこと。
いくら話しても、話し足りなかった。
話しているうちに、眠くなる。
うとうととして、眼をつむる。
眠りに引き摺り込まれてゆく。
ふっ、と眼を覚ますと、まだ優しい力が自分の手を握っていて、羽生の眼が自分を見降ろしている。
また、話をする。
また、眼をつむる。
眼を開く。
羽生がいる。
また、話をする。
そのうちにまた眠くなる……
そういうことを繰り返しているうちに、いつの間にか、涼子は眠ってしまった。
そして──
朝、気がついたら羽生がいなくなっていて、手紙がテーブルの上に載っていたのだという。
羽生は、どうしたのか。
慌てて、ジーンズに着換え、ホテルのロビーまで降りた。あるいは、もしかすると、そこに羽生の姿があるかとも思ったのだが、羽生の姿はそこになかった。
部屋にもどってから、深町に電話を入れようと思ったのだが、気持が急《せ》いだ。場合によったら、深町の部屋に羽生がいるかもしれない。ともかく、一刻も早く深町に羽生がいなくなったことを告げようとして、深町の部屋のドアをノックしたのだという。
「そうか──」
深町はうなずいた。
「そうか、羽生がいなくなったか」
きっぱりと、羽生が姿を消した。
何故、姿を消したのか。
何故、涼子に、いなくなる理由を告げなかったのか。いなくなるのならいなくなるでいい。何故、涼子に何も言わずに去ったのか。
深町の胸に湧いたのは、強い怒りであった。
おれならば、いい。
羽生にとって、おれは他人だ。
勝手に、羽生の人生に割り込んできた人間だ。おれに、何も言わないのはわかる。言わなくていい。しかし、涼子はそうではない。涼子は、羽生が、自らの意志で関わった人間だ。
羽生は、涼子を抱こうとしなかった。
ただ、涼子が眠るまでそばにいて、涼子の寝顔を朝まで見続けて、そして、去った。
礼の言葉をひとつだけ──
ありがとうございました。
あの、かつて見た、羽生の手記のようなあの文字。十年以上も前の羽生にもどってしまったような、短いが、たどたどしい文字。
その言葉が、別れを告げる挨拶《あいさつ》よりも強く、ひとつのことを告げているように、深町は思った。
そのひとつのことというのは、別れ、のことである。羽生は、別れの挨拶として、その言葉を残したのだ。
涼子もそれを、はっきりと感じとっている。
感じとっているから、電話をするより先に、おれの部屋にやってきたのだ。
“戦場でさえ、わずかながら休息の時間はあるということさ”
ナラダール・ラゼンドラの言葉が、深町の脳裏に蘇った。
羽生は、束の間の休息を終えて、戦場へ帰っていったのだ。
深町はそう思った。
おそらくは、もう、二度と会うつもりのない意志と覚悟が、その言葉に込められているような気がした。
「馬鹿野郎!」
強い怒りが、深町に叫びの声をあげさせた。
熱い感情が、湧きあがった。
「打くぞ」
深町は、涼子の手を引いて、言った。
「行く!?」
「羽生丈二のところだ」
「でも──」
「きみには、権利がある。きみは、羽生が、何故きみを避けようとしたか、今また、どうして、黙ったまま姿を消してしまったのか、それを知る権利がある」
「────」
「それを言わずに姿を消させるもんか。おれは許さない」
激しい言葉で言った。
「でも、羽生さんがどこにいるか──」
「ナラダール・ラゼンドラのところだ」
「彼のところに羽生さんがいるの?」
「いいや。彼なら、羽生丈二の居場所を知っているだろうということだ。そのくらいの調べはつけているだろう」
深町は言った。
10
「そうですか、羽生丈二が、姿を消しましたか」
ナラダール・ラゼンドラは、静かな声でそう言った。
昨夜、皆で一緒にいたあの部屋であった。
今は、ナラダール・ラゼンドラと、深町、岸涼子の三人がいるだけだ。テーブルを挟んで、深町と涼子は、ナラダール・ラゼンドラと向きあっている。
「わかっていたのか、羽生が姿を消すことを──」
「そうだろうと、思ってはいましたがね」
「ならば、羽生が、何故、姿を消さねばならなかったか、その見当もついているんだな?」
「彼に訊いたわけじゃない。想像でいいならね」
「何なんだ」
「それは、わたしのロからは言えません。彼が言わなかったことを、どうして、わたしが言えますか」
「教えてくれ」
「言えません。知りたければ、あなたがたが、直接、彼に訊くべきです」
「おれたちだってそうしたい。しかし、羽生がどこにいるのかがわからない」
深町は、正直に言った。
「居場所はわかりますよ」
「どこだ?」
「パタン」
「やはり……」
「やはりとは、パタンであるとは、見当をつけていたということですか」
「ああ」
深町は、うなずいた。
岸涼子に届いた郵便物の消印に、パタンのものがあったからだ。
しかし、いったん、パタンと聴かされてみれば、チェトラパティ広場に近い場所で、アン・ツェリンを見失ったことがあるが、あれも、あそこから西のパタンの方角に向かったのだと考えれば、よく理解できる。
「場所を、教えてもらえるかい」
「御案内しましょう」
ナラダール・ラゼンドラが立ちあがった。
11
昨日と、同じ車だった。
運転手も同じだ。
助手席に、ナラダール・ラゼンドラが座り、後部座席に、深町と岸涼子が腰を下ろしている。
岸涼子は、黙ったままだ。
車が発進して、しばらくして、
「わたしはね、あの男が羨《うらや》ましい……」
ふいに、ナラダール・ラゼンドラがつぶやいた。
「あの男?」
深町が訊ねた。
「羽生丈二ですよ」
「何故ですか」
「わたしと、あの男と、生き方がほとんど正反対だからですよ」
「というと?」
「わたしは、グルカです。グルカがどういうものか、多少は御存知でしょう」
「少しは──」
「グルカ兵は、ネパール人によって構成された軍隊なのに、これまで、わたしたちは、ただの一度も、自らの祖国のために闘ったことはないのです」
「────」
「羽生丈二は、わたしとは逆です。彼はいつも、自分自身のために、闘ってきた人間ではないかと思うのです」
しみじみと、ナラダール・ラゼンドラは言った。
「二十八年……」
ナラダール・ラゼンドラは、眼を閉じてつぶやいた。
「一九五五年に、十七歳でグルカ兵に志願してから、一九八三年に四十五歳でやめるまで、二十八年も、わたしはグルカにいたのです。中尉にまでなり、勲章までイギリスからもらいました……」
ナラダール・ラゼンドラは、眼を開いた。
眼の前に、カトマンドゥ市街がある。人や、車や、リキシャや、牛や、犬の群の間を、のろのろと車は、それらを掻き分けるようにして移動してゆく。
「ボルネオのジャングルにもゆきました。スカルノをバック・アップする連中とも闘いました。一九八二年のフォークランド紛争のおりにも、最前線にいました。多くの戦友や、部下が死に、わたしは生き残ったのです。バッキンガム宮殿の衛兵《えいへい》もやりました。グルカとしては、わたしは昇《のぼ》りつめたのです。わたしが、四十三歳のおり、妻が死にました。わたしは、その時、イギリスで、女王│陛下《へいか》の衛兵をしており、妻もイギリスにいたのです。三十九歳で、妻は、癌《がん》で死んだのです。ネパールヘ帰りたい、ネパールヘ帰りたいと、何度も何度も、妻は、死ぬ前にそのことを繰り返し言っていました。故郷へ帰ることなく、妻は、イギリスで死にました。わたしは、その時、初めて、自分の一生を振り返ったのです。これまでの自分の人生が何であったのかと──」
人混みを抜け、ゆっくりと、車が速度をあげはじめていた。
「わたしは、ネパールヘ帰ろうと思いました。本当に、この、貧しい、ネパールの山河が、わたしはたまらなく恋しかったのです。なつかしい、この貧困の中へ帰ろうと──」
車のエンジン音が高くなり、速度をあげてゆく。
「わたしは、上官に、グルカをやめると言いにゆこうと決心しました。わたしは、上官に会いました。その時、上官は、わたしがそれを言うのよりも先に、喜べ、とわたしに言いました。女王陛下が、おまえにヴィクトリア十字勲章を下さるそうだ、と──」
そこまで言って、ナラダール・ラゼンドラは、唇を閉じた。
カトマンドゥの風景が、後方へ流れてゆく。
十字勲章──
それは、グルカ兵にとって、最も権威のある勲章である。それが、グルカ兵に与えられるのは十三人目であり、戦後、初めてであった。そして、おそらくは最後になるはずの勲章であった。
「わたしは、軍隊をやめそびれ、結局、退役したのは、それから二年後の四十五歳の時でした。ユニオンジャックの下に、二十八年。妻を亡くし、子供もなく、結局、わたしの手元に残ったのは、ヴィクトリア十字勲章がひとつ──」
深町から見えるバックミラーの中で、ナラダール・ラゼンドラは、前方を睨むように眺めていた。
「ボルネオでの戦いは、まだ覚えていますよ。あれは、一九六五年だった。我々の小隊は、ジャングルの中で、敵の部隊と出会い、戦いになった。わたしの周囲で、撃たれて、部下が次々と死んでいきました。わたしの相棒は、わたしのすぐ横で、銃に弾を込めていました。その時、相棒の頭が、ちょっと上にあがり、その瞬間に、弾丸が彼の頭を貫いたのです。彼は、ぶるっ、と身体を震わせただけで、声も出さずに倒れて死にました。わたしは、相棒の銃を取って撃ちまくり、手榴弾《しゅりゅうだん》のピンを抜いて、敵の塹壕《ざんごう》に投げ込みました。銃を撃ち込み、敵を全員、殺しました。わたしの隊で、生き残ったのは、わたしを含めてただふたりだけでした……」
すでに、車は、パタンにさしかかっていた。
ナラダール・ラゼンドラは続けた。
言い終えぬうちは、しゃべるのをやめないつもりらしかった。
「軍をやめて、その後、わたしは、何をしていいか、わかりませんでした。妻はおらず、子供もいない。そして、ようやく、わたしは自分が何をなすべきかわかったのです。わたしは、ユニオンジャックではなく、わたしと、わたしの同胞《どうほう》、このネパールの人々のために闘うべきだとね……」
車が、停まった。
煉瓦《れんが》の建物に囲まれた、路地の入口だった。
一頭の犬と、二頭の山羊が、すぐ横の建物の陰で寝そべっている。
「退屈な話をしてしまいましたね。着きましたよ──」
ナラダール・ラゼンドラは言った。
深町たちは、運転手と車をそこに残し、外へ出た。
「こっちです」
ナラダール・ラゼンドラが、路地の中に向かって、歩き出した。
住宅街──
人が、建物の入口から、珍しげに深町たち三人に視線を送ってくる。
そのひとつの建物の前で、ナラダール・ラゼンドラは立ち止まった。
「ここです」
深町にそう言ってから、ナラダール・ラゼンドラは、涼子に視線を送った。
「ここに?」
涼子が、掠《かす》れた声で言った。
「そうです。このカトマンドゥ盆地にいる時、羽生が住んでいるのがここです………」
言ってから、ナラダール・ラゼンドラは、後方に退がった。
「わたしができるのは、ここまでです。あとは、あなたたちの問題です」
ドアの前に、深町と涼子が取り残された。
ナラダール・ラゼンドラに、もう、することはない。
深町と涼子の前に、ドアがあった。
木のドアだ。
一枚板ではない。
何枚かの板を組み合わせ、打ち付けてドアのかたちにしたものだ。青いペンキを塗ってあるのだが、その半分以上が剥《は》げ落ちている。
この扉を開くのは、深町の仕事ではない。涼子自身の仕事だ。
歩み寄って、押し開くか、それともこのまま帰るか──
決心は、涼子自身がしなくてはならない。
そのことは、涼子本人が一番よくわかっているはずであった。
涼子は、決心がついたように、ドアに向かって歩み寄り、その正面に立った。真鍮《しんちゅう》製のドアのノブに手をかけた。
その時──
涼子が、いくらも力をかけたと思えないのに、ドアが、内側に向かって開かれた。
そこに、ひとりの男が姿を現わした。
陽に、皮膚をぼろぼろに焼かれた男──濃く、髯《ひげ》を生やした人物──羽生丈二がそこに立っていた。
「羽生さん」
「涼子」
ふたりは、互いに相手の名を呼んだ。
涼子が、ドアを開いたのではなかった。
ドアを開けたのは、羽生自身である。しかし、羽生も、ドアを開いたら、その正面に涼子がいることなど、まるで考えていなかったようであった。
ふたりは、数秒、無言で見つめあった。
「何故、ここに──」
明らかな、動揺《どうよう》の色が、羽生の表情に浮かんでいた。
後方にいるナラダール・ラゼンドラに羽生は気づき──
「そうか、あんたが……」
そう言った。
「何事かな」
奥から、声がかかった。
アン・ツェリンの声だった。
羽生の背後に、アン・ツェリンが立った。
「あんたたちか」
アン・ツェリンは言った。
最初に覚悟を決めたのは、アン・ツェリンであった。
「入っていただきますか」
アン・ツェリンの言葉で、羽生も、覚悟を決めたようであった。
「入ってくれ」
羽生は、そう言って、一歩、退いた。
岸涼子、深町、ナラダール・ラゼンドラの順で、扉をくぐっていった。
暗い、部屋であった。
細長い部屋が、一室だけ。
窓がひとつ。
壁は煉瓦で、天井から、裸電球がひとつ、ぶらさがっている。
床は土──土間になっている。
部屋の壁に寄せて、椅子を兼ねているらしい、寝台らしきものが三つ。
竃《かまど》がひとつ。
壁から、アルミ製と、銅製の鍋がいくつかぶら下がっている。
そこが、台所らしき一画《いっかく》になっている。
大きな甕《かめ》がひとつあって、その上に木の蓋《ふた》が乗っており、そのさらに上に、柄が木製の柄杓《ひしゃく》がひとつ。どうやら、その甕の中に水が入っているらしい。
歪《いびつ》な形状の、テーブルがひとつ。
竃の近くの壁に棚があり、そこに食器が幾つか並んでいる。棚の余ったスペースに、塩、胡淑《こしょう》をはじめとする、調味料やらスパイスやらが並べられ、野菜の入ったダンボールが、床に置かれている。
銅のツァンパ入れ。
奥に、仏壇《ぶつだん》があり、棚の上に小さな仏の像らしきものが置かれ、その前に、灯明皿がふたつ。灯明皿には、灯りが点いていた。
チベッタン系の人間が住む内装であった。
日本でいう、マンションかアパートのようなものであった。
仏壇の下に、プラパールのダンボール箱が十箱ほど。ひとつが開いていて、アイゼンの爪先が見えている。
どうやら、そのダンボール箱の中には、登山用具が入っているらしい。
壁にかけられた、古いザイル。
ピッケル。
床に置かれた、酸素ボンベが十本。
深町にはお馴染みのものばかりだった。
そして──
部屋にいたのは、羽生丈二とアン・ツェリンだけではなかった。
女がひとり──正確には、女がひとりと赤ん坊がひとり、その部屋の暗がりの中にいたのである。
チベッタン──シェルパ族の女性だった。
年齢は、二十五、六歳だろうか。その女性は、一歳くらいの赤ん坊を胸に抱き、その唇に自分の乳首を含ませていた。
その女性は、赤ん坊を胸に抱きながら、深町と、涼子を、強い光を放つ眼で見つめていた。
まさか──
いやな予感が、深町の脳裏に湧いた。
深町は、何か問おうとでもするように、口を開き、羽生を見た。言葉が出て来ない。その時になって、ようやく、深町は、羽生が、ザックを背負っているのに気がついた。
そのザックにすがるように、深町は羽生に問うた。
「山へでも、行こうとしてたのか……」
「そうだ」
羽生はうなずいた。
「このまま、おれだけ先に出発して、もう、ここにはもどらないつもりでいた。こんなことになりそうだったんでな」
「出発? どこへ?」
“こんなこと”を、ことさら無視するように、深町は話題を山に向けた。
深町は、羽生に対する口調が、これまでと変化していることに気づいていない。
深町の質問に、羽生は答えなかった。
「チョモランマ──エヴェレストか!?」
もう一度、訊いた。
羽生は、無言で、肯定の意味として、顎を引いた。
「単独で……?」
深町は、掠れた声で訊いた。
また、無言で、羽生がうなずく。
「無酸素か……?」
羽生が、静かにうなずく。
深町は、自分の心臓の音が速く、大きくなるのに気がついていた。呼吸までもが、速くなったような気がする。
なんということだ。
何か、とんでもないことの現場に、今、自分は立ち合おうとしているのだ。
「ノーマルルートで……?」
羽生は、静かに首を左右に振った。
まさか。
まさか。
「じゃ、どこだ。どこをやろうとしてるんだ!?」
深町は訊いた。
羽生は、ゆっくりと、大きく息を吸い込み、そして言った。
「南西壁」
きっぱりと言いきった。
“エヴェレスト南西壁冬期無酸素単独登頂──”
自らの胸に湧いたその言葉が、深町の全身を打った。
まさか!?
本気なのか、この男!?
深町の胸に湧いたその言葉をなぞるように、羽生は、それを口にした。
「エヴェレスト南西壁冬期無酸素単独登頂、おれがねらっているのはそれだ」
頬に、強烈な平手打ちをくらったようであった。いや、頬ではない。羽生のその言葉は、深町の全身を、いや、魂そのものを、激しく打ったのであった。
あの羽生丈二が、目の前にいた。
冬期の鬼スラを、初登頂した男。
常に、新しい、困難な岩壁のみに挑戦し続けた男。
もう、神話か、伝説のようになってしまったかに思えた男。
神話でも、伝説でもなかった。
羽生丈二は、羽生丈二として、現役でいたのだ。
この十年近い間、このネパールの地で、羽生は、たった独りで、この前人未到の夢を、ねらい続けていたのだ。
夢!?
そうだ。
まさしく、これは夢だ。
エヴェレスト南西壁冬期無酸素単独登頂──
その言葉を、深町は、もう一度胸の中で転がした。
おそらく、それは、ヒマラヤのジャイアンツに残された、最後の夢だ。
もし、それが実現したら──
最初の八○○○メートル峰登頂、最初の世界最高峰の登頂──ヒマラヤの登山史に刻まれたその様な事件と対等に並べられるべき事件である。ヒマラヤ登攀《とうはん》史の、おそらくは最後のページに記されるべき、夢だ。たぶん、永遠に記されることのないはずの──
ブルース。
G・マロリー。
E・ヒラリー。
テンジン。
ラインホルト・メスナー。
そういった輝かしい名前の横に、それを為しとげた者の名は並ぶのだ。
それによって、ヒマラヤ──いや、地球という星の登山史の、ひとつの幕が降ろされる。
それは、そういう登山なのだ。
これだけ、登山が、技術的にも、装備的にも高度に発達していながら、まだ、誰も、挑戦すらしたことがない登攀。
途方もない夢だ。
酸素を用意した団体《チーム》ですら、まだ、それに成功していないのだ。
それを、この羽生はねらっているのだ。
極度の興奮と、感動のため、深町は、あやうく涙をこぼしそうになった。
自分には、その意味がわかる。
それが、どれだけ困難で、どれだけたいへんなことか。
無骨な、髭面の、ぼろぼろに陽焼けした男。
その瞬間に、おそらく、深町は、羽生丈二という男の抱いている夢に、というよりは、羽生丈二そのものに魂を吸いとられていた。
惚れる──そういう言葉があたっているかもしれない。
深町は、自分の身体が、震えるのがわかった。
言葉が、出て来ない。
次に、この男に、何を言うのか。
何を問えばいいのか。
その時、自分の横に、後ろから歩み出てきて並んだ者がいた。
岸涼子だった。
「羽生さん……」
と、岸涼子は言った。
羽生が、ゆっくりと、岸涼子に視線を移した。
羽生と、岸涼子の眼が、互いに見つめあった。
「どうして、あなたは、今朝、黙って帰ってしまったのですか」
堅い声だった。
羽生は、すぐにはその質問に答えなかった。
視線を、赤ん坊に乳首を含ませている女に向け、それから、その視線をまた、岸涼子にもどした。
羽生丈二は、深く息を吸い込み、それから、意を決したように言った。
「おれの、妻とおれの子だ……」
涼子が、喉の奥で、掠れた、小さな声をあげた。
十四章 シェルパの里
清麗な早朝の大気を呼吸しながら、深町誠は、ゆるい斜面を登っていた。
空気が薄く、切るように冷たい。
カトマンドゥの、排気ガスが濃く溶けた、人や獣の体液が染み込んだような臭いがする空気に比べると、ここの大気は、ガラス質で透明感がある。
右に、ドゥード・コシの流れを見下ろしながら歩いている。
この河の源は、天上に属する場所にあるクンブ山群の氷河である。
標高二六二〇メートル。
カトマンドゥに比べ、空気はだいぶ薄くなっている。
両肩に、ずっしりとザックの重さがかかっている。
左右の山肌には、ところどころ、まだ紅葉の残った樹々があるが、気温は冬である。
十一月十一日。
朝の七時三十分。
パグディンを出発して、三十分。
昨日のリズムが、ようやく足にもどってきたところだ。
ヤクとポーターは、先行しているから、三十分は先に行っているだろう。
カトマンドゥを出たのが、昨日、つまり十一月の十日だ。
飛行機で、ルクラヘ飛んだ。
ルクラは、エヴェレスト登山の玄関口といっていい村だ。標高二九〇〇メートル。そこから、数時間歩いて、昨日のうちにパグディンヘ着いた。
ルクラからパグディンまで徒歩で二時間余り、標高差およそ三〇〇メートルの下りである。
いったん、谷の底まで下り、ドゥード・コシの激流にかかった吊り橋を渡って、そこでキャンプをした。
ルクラで、ポーター一名と、ヤク一頭を雇った。
今朝、六時に起き、暗いうちに食事の仕度をして、それを腹に収めた。
砂糖をたっぷり入れたミルクティー。林檎《りんご》をひとつ。それから、パン。チーズ。苑で卵をひとつ。
前回の遠征では、キャラバンの間は、シェルパが食事の準備をしてくれた。
朝、テントまで、ミルクのたっぶり入った茶《チャイ》と、湯を張った洗面器を持ってきてくれる。湯で、手や顔を洗い、茶を飲んでいると、食事の仕度ができる。
今回は、それ等を全て自分でやる。
独リてやる。
そう決めたのだ。
深町は、地面に落ちた、枯れ葉や石を、重い登山靴で踏み締めながら、歩いてゆく。
落ち葉や枯れ葉の上には、白く霜が降り、水溜まりには薄く氷が張っている。
前方の、高い山の頂あたりに、陽光は眩《まぶ》しく当たっているが、まだ、深町が歩いている谷の底までは届いてこない。
見上げる空は青い。
白い雲が動いている。
ゆっくり──
そう思っているのに、自然に、足を踏み出すリズムが速くなってくる。深町の内部にある、熱のようなものが、足を速めているらしい。熱というよりは、それは、たぶん、怒りだ。
得体の知れない、強い怒り。
その怒りが、深町を突き動かしている。
すでに、エヴェレストに挑んだおり、二度、この道は歩いている。
あの時、行きは、気力に満ちていた。
エヴェレストの頂上に、隊として立つ──そういう夢もあった。望みもあった。
帰りは、このコースを、深町は、重い足と心をひきずって、うなだれながら下った。
滑落事故で、井岡と船島が死んだのだ。
斜面を、次々に滑り落ちてゆくふたつの黒い点。井岡と船島。そのふたつの点が、宙に放り出され──
それを深町は写真に撮ったのだ。
糞!
こんなに、美しい大気の中を歩いていても、頭の中は、雑多な、重い思考で埋め尽くされている。
色々なことが、頭をよぎる。
本来であれば、自分は、ここまで来るつもりではなかった。岸涼子と共に、日本へ帰るつもりだったのだ。
何故、帰国する決心をしたのか。
それは、気が萎《な》えたからであった。
羽生に、すでに妻と呼ぶ女がいて、その女との間に子供までいることがわかった時、気持の中で張りつめていたものが消失したのである。
「すまなかった。きみには、早く言うべきだった……」
あの時、羽生は、涼子に向かってそう言った。
女の名は、ドゥマ。
アン・ツェリンの娘だという。
三十二歳──
羽生との間に、ふたりの子供がいる。
深町と涼子がパタンで見た、ドゥマが抱いていた子供は、ふたり目の子供で、半年前に生まれた。ひとり目が生まれたのが三年前。
ちょうど、羽生からの連絡が途絶えた時期と重なっている。
ドゥマは、その場の気配を察したのか、もうひとりの子供の手を引いて、外へ姿を消した。
ネパールヘやってきたのは、初めからエヴェレストの、冬期無酸素単独登頂をねらうためだったのだと、羽生は言った。
その計画を、羽生は、アン・ツェリンに打ちあけた。
自然に、クンブ地方のパンボチエにあるアン・ツェリンの家に、居候のようなかたちで住み込むようになり、エヴェレストに入る外国隊に、シェルパとして参加するようになった。
体力も、岩の技術もある。
様々な隊で、エヴェレストに入り、八○○○メートルを越える高度まで、何度もあがった。
そういう日々の中で、自然にアン・ツェリンの娘と結ばれたということらしい。
そのことについての詳しい説明はなかった。
その細かい事情を、涼子に語ったところで、どうなるというものではない。
それを聴かねばならない涼子が辛くなるだけだ。
アン・ツェリンが入れた茶をふたりの前に置いて、ナラダール・ラゼンドラと深町は、アン・ツェリンと共に外へ出た。
三十分ほどして、涼子が外へ出て来た。
「話は済んだわ」
涼子は深町に言った。
アン・ツェリンに、丁寧に挨拶をし、
「行きましょう」
ナラダール・ラゼンドラと、深町をうながし、車に向かって、ゆっくりと歩き出した。
路地の横で寝ていた犬が二頭、むくりと起きあがって、深町たちを見た。
破れたズボンから、むき出しの尻を見せた子供が、向こうへ走ってゆく。
子供を叱る女の声が、横手の家の中から届いてくる。
竃《かまど》で何かを煮ているのか、食物の匂いと共に、煙が窓から出てくる。
そういう風景の中を、深町たち三人は無言で歩いた。
羽生の子供は、ここにいる子供たちのひとりなのだ。
日本の感覚からいえば、遥かに貧しい生活。
めったに風呂に入ることもなく、子供が履いているズックの靴はぼろぼろで、半分以上の指が出ている。着ているシャツやズボンも、擦り切れて、肌があちこちで露出している。
そういう子供たちのひとりに、羽生の子供もいる。
羽生も、男であれば、女の肉への欲望はある。ない方がおかしい。身近な女と触れあうのは、自然のなりゆきだ。
籍は入れたのか──
深町は、さっき、羽生に、それを問おうとしてやめた。
もし、愛情はなく、単に欲望のみで、羽生がドゥマと関係を持ち、子供ができたのだとしたら──
さらに、羽生は、ドゥマと子供をどうするつもりなのか。日本へ連れて帰るのか。それとも、自分がネパールに残るのか。
これまで、ネパール人と日本人が、何組となく結婚をしてきたが、ほとんど、例外なく、夫婦の国籍は日本になっている。経済的な事情を考えれば、当然の現象のようにも思える。
羽生は、何を考えているのか。      、
それを問おうとして、やめた。
問おうとした自分を、深町は恥じた。
どういう答えがもどってきたとしても、それはどういう解決ももたらさないだろう。
あの羽生が、涼子に、ひとりの女を妻であると紹介し、子供までいた。それで充分ではないか。
羽生が選んだ生き方だ。
羽生は、自分の選択を貫くだろう。
羽生らしいと言えば、まことに羽生らしい。
前の晩、ひと晩、岸涼子の手を握ってすごしたという、もう、五十歳になる男。
それが、羽生なりの衿持《きょうじ》であったのだろう。
他人が、ロを狭める問題ではない。
車が走り出した。
深町の左側に、涼子が座っている。
涼子の右肩が、深町の左肩に触れている。
無言だった。
しばらくして、深町は、自分に触れている涼子の右肩が、小刻みに震えていることに気がついた。
涼子が、静かに、声をひそめて、歯の間から嗚咽《おえつ》していた。こらえようとしても、こらえようとしても、その鳴咽は、歯の間から洩れ続けていた。
その時の震えを、まだ覚えている。
あの時、涼子を抱き締めてやりたかった。
かけてやる言葉はなかった。そのかわりに、肩へ手を伸ばし、肩を抱いてやりたかった。
それが、自分の正直な欲望だった。
しかし、それができなかった。
深町は、歯を噛んで、こみあげてくる何ものかに耐えていた。
涼子は、ホテルヘもどってからも、ほとんど、羽生のことを話題にしなかった。
深町と、たあいのない話をし、昼はみやげもの屋を漁《あさ》り、夜になれば一緒に食事をした。
最後の三十分間で、羽生とどういう話をしたのか、涼子はそれも言わなかった。
帰る準備をして、三日後に、深町は、涼子とカトマンドゥ空港にいた。
空港へ向かう車の中から、深町は無言になった。
空港に着いてからも、深町は、ほとんどしゃべらなかった。
何か、自分を無口にさせているのか、深町にはわからなかった。何が燻《くすぶ》っているのか。いや、わかっているのだが、自分は、それに気がつかないふりをしようとしていたのだ。
チェック・インの手続きをする寸前──
「いいんですか」
涼子に問われた。
「何かですか?」
深町は涼子に問うた。
「帰ってしまっていいんですか?」
涼子は言った。
「わたしの用件は終わりました。でも、深町さんの用件は、まだ終わってないんじゃありませんか──」
涼子のその言葉が、深町の脳を叩いた。
「帰ってしまって、後悔しませんか?」
その言葉を聴いた時に、深町は、はっきり気がついたのであった。
自分のことは、何ひとつ、まだこのネパールでは済んでいないのだということを。
自分は、何をしに来たのか!?
マロリーのカメラを、羽生がどこで手に入れたのか。その中に入っていたはずのフィルムは、今、どうなっているのか。
それを調べに来たのだ。
羽生が、いったい、このネバールで何をやろうとしているのか──確かに今はそれはわかっていた。
エヴェレスト南西壁の、冬期無酸素単独登頂──
しかし、それは夢物語だ。
羽生は、その夢物語をどういう風にして可能にしようとしているのか。しかも、羽生は、それをこの冬にやろうとしているのだ。
それを知っていながら、山岳雑誌に関わるものとして、こんなに、またとない機会を逃《の》がしていいのか。
いや。
もはや、雑誌であるとか、自分がマスコミの側にいる人間だということを離れて、これは、ヒマラヤの歴史に残る大きな事件なのだ。それに立ち会うことのできる幸運を、自ら捨て去る気なのか。
ああ──
自分は、逃げようとしていたのだ。
また、逃げようとしていた。
楽な方へ。
楽なことをやろうとしていた。
しかし、それは、本当に楽なことじゃない。
もし、ここで帰ってしまったら、自分は一生後侮するだろうと思った。
それでいいのか。
いいわけはない。
行かねばならない。
もう一度、羽生に会う。
ひとりのカメラマンとして、羽生が、これからやろうとしている歴史的事件に立ち会いたい。
何ひとつとして、うまくいかなかった。
クライマーとして、トップにもなれず、カメラマンとしても、一流になりそこねた。女ともうまくゆかなかった。
ここで、帰ってしまったら、もう、自分には何もない。
自分は何ものでもなくなってしまう。
「すみません」
深町は、涼子に頭を下げた。
「わたしは、残ります」
「よかった」
涼子は、小さく微笑した。
「羽生さんに、もう一度、会うことになるんでしょう?」
「はい。そうなると思います」
「じゃ、頼まれてもらえるかしら」
「何をですか?」
深町が問うと、涼子は、自分の首の後ろに両手を持ってゆき、トルコ石のネックレスをはずした。
「これ」
そのネックレスを、右手に乗せて、深町に向かって差し出した。
「これが、何か?」
「羽生さんに返しておいて下さい。きっと、これは大事なものだわ。アン・ツェリンが、このトルコ石を見てわたしが誰だかわかったみたいだったから。アン・ツェリンが見覚えあるということは、もしかしたら、彼の身内のひとが身につけていたものかもしれないわ」
「いいんですか?」
「ええ」
「わかりました──」
深町は、涼子から、そのネックレスを受け取った。
そして──
そして、涼子は、飛行機に乗って帰っていったのだった。
その足で、深町は、もう一度、ホテルに入った。
日本にいる宮川に電話を入れた。
「羽生に会ったよ」
と、深町は、宮川に言った。
ややこしい話はしなかった。
宮川にとって、わかり易い話にした。
「羽生丈二は、とんでもないことをこの冬にやろうとしているぜ」
「何だ」
「エヴェレスト南西壁冬期無酸素単独登頂」
宮川の反応を、充分予想しながら、深町は言った。
「何!?」
「羽生は、冬期のエヴェレスト南西壁を、無酸素、単独で落とそうとしてるんだよ」
「なんだと!?」
宮川が、声を大きくした。
むろん、宮川にも、その言葉の意味は理解できる。
「まさか」
否定をした。
自分で否定をしておきながら、
「やっぱりそうか」
声を荒くした。
「そうなんだ」
深町は言った。
「金を送ってくれないか──」
「幾らだ?」
「一五〇万」
「何故?」
「どこまでゆけるかわからないが、カメラを持って、羽生にできるだけ食い下がってみるつもりだ」
「うむ……」
「テント、食料、フィルム。場合によったら、ポーターや、シェルパの手配までしなきゃならない」
金は、いくらでもかかる。
まさか、羽生と一緒に、八○○○メートルを越えてしまうということはないだろうが、アイゼンやピッケル、下着に至るまで、充分な装備に身を固めたい。
食料も買い込む必要がある。
「どうやって、エヴェレストに入山するんだ──」
宮川が訊いてきた。
「トレッキングのパーミッションで入る。あとはなりゆきさ」
「一五〇万か」
「成功報酬でいい。とりあえず借用書を書くよ。失敗だったらおれもちだ。うまくいったら、それをもらう」
ギャラにならなくともよかった。
とにかく、今自分に必要なのは金だった。
どこにも売り込めなくともよかった。これは、自分の問題なのだ。
「わかった。とにかく金は送る。好きなように使ってくれ」
宮川は言った。
知り合いの旅行代理店の人間が、ネパールに、ツアー客を連れてやってくるというので、その人間に一五〇万、ドルに替えて預けることとなった。
その人間から、カトマンドゥで、一五〇万円分のドルをもらうことになった。
深町は、ドルを手に入れ、ガネーシャや、タメルの登山用具店から、必要なものを買い揃えていった。
シュラフ、下着、テント、高所服、アイゼン、ザイル──
さらには、コッフェルから靴下、ヘッドランプ、食料、非常食に至るまで、カトマンドゥで買い込んだのである。
西遊トラベルで、カトマンドゥからルクラまでのフライトのチケットを手に入れてもらい、酸素ボンベも、三本用意した。
それだけの準備をして、カトマンドゥを出発したのである。
ただひとりの出発であった。
そして、今──
ただひとりで、歩いている。
首に、ターコイスのペンダントを下げている。
暗い谷の底を、一歩ずつ、ナムチェバザールに向かって登ってゆく。
間に合うであろうか、と深町は考える。
すでに、羽生から、半月余りも出遅れてしまっている。
羽生は、もう、ベースキャンプまでゆき、そこから出発してしまっているのではないか。自分の行為は徒労《とろう》に終わるのではないか。
そんなことはない──
と、深町は、自分で自分の考えを打ち消した。
羽生が、冬期の単独登頂であると言っていたからである。
記録としては、冬期の登頂として認められるためには、ルールがある。
法律として明文化されているわけではむろんない。登山界における暗黙のルールだ。暗黙ではあるが、それは、かなり厳格なものである。
つまり、エヴェレストにおける冬期登頂が、正式に認められるには、その登山行為が十二月以降に行なわれたものでなければならないということだ。ここでいう登山行為というのは、ペースキャンプより上へゆくことである。
ベースキャンプの標高が、約五三〇〇メートル余り。登山者は、十二月に入る前に、その高度を越えてはいけないのだ。十二月前、つまり十一月中にベースキャンプより上へ行ってしまったら、それは、冬期の登頂とは認められない。秋と冬に、期間をまたがって行なわれた登山行為ということになる。
基準となるのは、ベースキャンプである。
ベースキャンプより上に行きさえしなければ、事前にどのような準備をそこでやってもいいことになっている。
羽生が、まだ登山を始めてないだろうと深町が考えるのは、そういう理由による。
では、何をしているか──
おそらくは、高所用のトレーニングであろう。
体力を消耗しないように、手近の、六〇〇〇メートル蜂や、七〇〇〇メートル峰に、高度順応のトレーニングのため、登っているに違いない。
もし、自分も羽生のゆこうとしている場所にゆこうとするなら、高度順応は必ずやっておかねばならない。
三〇〇〇メートルを越えた、ナムチェバザールあたりから、高山病の症状が出るだろう。前回の時もそうであった。
今回は、三〇〇〇メートルまでは、日本の木曾駒で、高度順応をしてきている。
しかし、すでに、息が切れ、軽い頭痛がある。もしかしたら、前回よりも、具合はよくないのかもしれない。
坂が、だんだんと急になっていた。
もう、昨日のルクラの高度には達しているはずだった。
高度を増すにつれて、不安が、深町の内部にこみあげてくる。
自分の肉体は、高度にどこまで順応できるのか。
ヒマラヤの登山で、必ず直面するのが、高山病である。
酸素が薄くなるために起こる病気だ。
普通、富士山の高度、三〇〇〇メートルを越える高さになると、酸素量は、だいたい地上の三分の二ほどになる。五〇〇〇メートルでおよそ半分。八○○○メートルを越えた、エヴェレストの頂上のような場所では、地上の三分の一になる。
高度をあげてゆき、だんだんと酸素の量が減ってゆくと、人の肉体にどういうことがおこるか。
まず、おこるのが、疲労である。すぐに疲れる。次に頭痛だ。頭がずきずきと痛み、吐き気がする。時には吐く。食欲が無くなり、肉体が食べものを受けつけなくなる。したがって、ますます、疲労が強くなり、体力が衰える。
次の段階では、症状はさらに進む。
眼底出血がおこり、眼が見えなくなる。
肺水腫──つまり、肺に水泡ができて、水が溜まり、呼吸をするたびに、ごろごろという音が聴こえるようになる。こうなったら、一刻も早く、酸素の濃い場所へ下ろさないと、死ぬことになる。
脳にも、同様のことがおこる。
脳浮腫──
幻覚を見、幻聴を聴くようになり、現実と幻覚との区別がつかなくなる。
前回、深町自身も、まともな思考ができない状態になって、撮影が済んだばかりの交換レンズを、谷底に放り投げてしまったことがあった。
フィルム一本を撮り終え、レンズを交換し、ボディからはずしたレンズを捨ててしまったのだ。撮影は終わった。もうこのレンズはいらない。レンズさえなければ、もう、辛いこの仕事をしなくて済む──
そう思ったら、もう一刻も、そのレンズを持っているのがいやになったのだ。
地上の半分以下の酸素の中にいると、レンズのフォーカスを合わせ、シャッターを押すだけで、息が切れる。シャッターを押す時は、一瞬、呼吸を止める。その、ほんの一瞬呼吸を止める状態が、ほんの二秒も長くなっただけで、シャッターを押し終えた後で、喘《あえ》いでしまうのだ。
シャッターを押し終え、ごうごうと音をたてて呼吸をする。
苦痛で眼がくらみそうになる。
もとの呼吸を取りもどすまで、二〜三分は、ただただ、速い呼吸を、苦痛の中で繰り返すことになる。
テントの中で、眠っているときもそうだ。
眼が覚めている時は、意識的に呼吸を速くしているため、酸素の摂取量も多い。
血液中のヘモグロビンが、酸素を捕え、なんとか体調を維持してくれるのだが、眠ると、呼吸の速度がもとにもどってしまう。すると、ヘモグロビンが摂取できる酸素の量が限られ、苦しくなって、夜中に何度も眼を覚ますことになる。
苦痛で、顔の上の空間を、両手で掻き毟《むし》るようにして、声をあげ、眼を開く。荒い呼吸を繰り返す。まるで、悪夢の中で、首を絞められながら眠っているような気分になる。
その不安と苦痛に、誰もが、暗いテントの中で耐えている。
うっかり弱音を吐けば、頂上アタック隊のメンバーからはずされることになる。
耐える。精神の強靭さが要求される。
人によって、高山病の症状が出る高度はまちまちである。同じ人間でも、その時その時で、高山病が出る高度が違い、体調も左右される。
体力のある人間が、高山病にも強いということにはならない。
日本の山の高度では、ばりばりの行動力を持つスタミナを誇っていた人間が、五〇〇〇メートルをわずかに越えたベースキャンプにもたどりつけずに、涙を呑んで敗退してゆくケースは、よくある。
四〇〇〇メートルを越えた場所で、高山病のため、あっさり人が死ぬのも、珍しいことではない。
昨日まで、元気だった人間が、翌朝、テントから起きて来ない。声をかけても返事がない。どうしたのかと、テントの中を覗いてみると、寝袋の中で冷たくなって死んでいた──こういうことが、日常的なレベルでおこるのだ。
だから、高山病にならないために、工夫をする。
一日に、高度をあげるのは、五〇〇メートル以内にする。
それも、いったん、七〇〇メートルか八○○メートル上までゆき、その高度にしばらく滞在してから、最終的には、五〇〇メートルだけ高度をあげた地点まで下り、そこにキャンプを張る。
次にまた同様のことをしながら、アップダウンを繰り返しつつ、徐々に高度に自分の身体を慣らしてゆくのである。このやり方がヒマラヤ登山の基本である。
七〇〇〇メートルを越えたあたりからは、酸素を使う。
酸素ボンベを背負い、マスクをつけて、濃い酸素を呼吸する。
それでも、効果はまちまちだ。
重い酸素ボンベを背負うために使わねばならない体力と、酸素ボンベによってもたらされる濃い酸素が呼吸を楽にしてくれる分とが相殺されて、結局、同じだと考えている人間もいる。
体力維持のため、夜、眠る時だけ酸素を利用する、あるいは、高山病にかかった人間の治療のために酸素を利用する──そういう隊もある。
どれが正解であるかはわからない。
どんなに、うまく高度に順応しようと、地上と同じコンディンョンで動けるという意味ではない。
八○○○メートルを越えると、一歩足を踏み出しては、一分近くも喘ぎ、次にまた一歩踏み出す、その無限の繰り返しになる。
人間が、順応できる高度は、人によって色々だが、六〇〇〇メートルをいくらか越えたあたりであろうと言われている。
つまり、どれはどうまく高度に順応できたとしても、その高度を越えると、ただ何もせずに眠っているだけで、どんどん体力を消耗してゆくことになる。
六〇〇〇メートルを越えた高度に長く滞在すると、大量の脳細胞が死んでゆく。
ヒマラヤ登山というのは、生物にとっての極限状況を、日常的に体験することだ。
ジェット気流。
マイナス四〇度にもなる大気。
風が吹けば、体感温度はさらに下がる。
雪。
雪崩。
これほど苛酷な場所は、地球上にそう幾つもない。
そういうことに、自分の肉体と精神は耐えられるだろうかと、深町は思っている。
思いながら登っている。
何としても、羽生にもう一度会う。
会って、ぎりぎりまで、羽生にくらいついて写真を撮る。
それが、今の自分の矜持だ。
許さない。
その想いがある。
何を許さないのか。
誰を許さないのか。
わからない。
許さない相手が、羽生なのか、自分なのか、それもわからない。
ただ、許さないぞと思っている。
負けてたまるか。
得体の知れない怒り。
強い温度。
肉の内部のそういうものに、深町は突き動かされていた。
ようやく、陽のあたる場所に出た。
尾根に、やっと這いあがったのだ。
顔をあげた。
右手の山の斜面のむこうに、白い岩峰が、陽光をきらきらと浴びて、遥か遠く見えていた。
見覚えのある、白いピラミッド。
この地上で唯一の場所。
エヴェレストの頂が、そこに見えていた。
胸を締めつけられるような、切ない、強い感情が、深町を襲った。
ナムチェバザール──
標高三四四〇メートル。
東のドゥード・コシ、西のボーテ・コシ、二本の河川によって造られたふたつのV字谷が合流するところが、ナムチェバザールである。エヴェレスト山群のあるクンブ地方の経済的な中心であり、聖山クンビラの山裾にあって、シェルパ族の村として知られている。
家の数は、およそ百戸余り。石造り、白壁の家が、馬蹄形の山腹に長屋のように密集している。
シェルパというと、ポーターなどのように、一般的には役職名として理解されているが、これは、ネパールのソロ・クンブ地方に住むシェルパ族のことであり、“東の人”という意味の種族名である。チベット系山岳民族で、高地に住んでいるため、高度に強い。
イギリスは、一九〇〇年代の初めに、ヒマラヤのジャイアンツを攻略しようとして、何度も遠征隊を送っているが、この時に、その頑健な肉体と高地に順応したその心肺機能に着目し、ガイドやサポーターとして雇ったのが、シェルパ族であった。
イギリス人は、シェルパ族に、積極的に英語や、登山技術を教え、登山用具も与えた。それが伝統となって、後の各国のヒマラヤ遠征隊も、シェルパ族を、雇うようになっていったのである。ヒマラヤのジャイアンツの登頂は、シェルパ族なくしてはあり得なかったといっていい。
このシェルパと呼ばれる山岳ガイドが成立してゆく過程は、グルカという兵士集団が成立してゆく過程と通ずるものがある。シェルパもグルカも、ネパール人でありながら、外国人のために生まれた職能集団であるからだ。
チベットとの国境に近いこともあり、もともと、流通の拠点となる村ではあったのだが、当初、ナムチェバザールは、シェルパ族のひとつの村にすぎなかった。それが、エヴェレストを目指す登山隊やトレッカーが増えてゆくに従って、クンブ地方の経済的中心地となっていったのである。
メインストリートと言うほどではないが、街道の道の両側には、何軒もの土産品屋が軒を連ねている。
チベット絨毯《じゅうたん》。
カラフルな織物。
民芸品。
それらのものが、店内から溢れ、通りまで、品物が並べられている。
そこを、何人もの外国人トレッカーが行き来しながら、店内を覗いている。アメリカやヨーロッパから来た白人が多く、日本人も一割もいるだろうか。
深町誠は、その雑踏の中を歩いている。
ナムチェバザール上部を囲む農道《タニ・ミン》まで、これから登ってゆくところだった。農道に近い山腹にあるダワ・ザンブーの家に寄るつもりであった。
ダワ・ザンブーは、アン・ツェリンと同時代を生きた、やはり伝説的なシェルパである。
エヴェレストの頂上に立つこと、三度。そのうちの一度は、ノーマルルートながら冬期の登頂である。
他に、チョ・オユー、マナスル、ダウラギリと、合計して、ヒマラヤの八○○○メートル蜂四座の頂に立っている。
そのダワ・ザンブーに会いに行って、深町は、アン・ツェリンとビカール・サンについて問うつもりであった。
彼等は今、どこにいるのかと──
ナムチェバザールに着いて、すでに四日が過ぎていた。
村の中心近くに、湧き水があり、それは細い流れとなって下り、ボーテ・コシヘと注いでいる。
その湧き水に近い畑の中に、深町は、テントを張っている。
この時期、まだ麦を蒔《ま》くにも、ジャガイモを植えるにも早い。そのため、畑があいているのである。畑の持ち主に声をかけ、礼としていくらかの金を出せば、畑に自由にテントを張ることができるのである。
この四日間、深町は、精力的に動いていた。
着いた日から、近くの丘や山に登って、またナムチェまで日帰りで下ってくるということを繰り返している。
ここから、さらに標高の高い場所へ移動してゆくため、肉体の準備をしているのである。
ここの高度に完全に順応するためだ。
そうしておけば、ナムチェより上部で、高山病による事故がおこっても、ここまで下ってくればなんとかなるからだ。すぐ上のシャンボチェには、セスナが発着できる飛行場があり、カトマンドゥまで届く無線もある。いよいよとなったら、無線で、セスナかヘリを呼んで、カトマンドゥまでいっきに下ることができる。
息が切れはするが、順応は、まずまずといってよかった。
軽い頭痛はあるが、この春に来た時よりは、調子がいい。肉体が、この高度を記憶していて、順応が、前回よりは速く進んでいるらしい。
日本でも、木曾駒で、この高度には順応してきている。
いい感じだ。
肉体の底に、黒々としたパワーが、獣のように眠っているのを感じとれる。いずれ、さらに高度をあげて、体力をふりしぼってゆけば、その眠っているパワーを使うことになる。
これから直面してゆかねばならない高度を思うと、不安が頭を持ちあげてくるが、それ以上に、精神のテンションが、今はあがっているらしい。それが、不安をねじ伏せて、熱い温度を持ったものを、肉の内側でかきたてているようであった。
ナムチェでの滞在を長くしているのには、もうひとつ、理由がある。
順応の合い間に、アン・ツェリンとビカール・サンがどこにいるかを、ここで調べるためである。
クンブ地方の、あらゆる情報は、このナムチェバザールに集まってくる。タイガーのアン・ツェリンと、日本人のビカール・サン──このふたりがどこにいるかは、このナムチエで訊きまわれば、必ずわかるに違いないと、深町は考えていたのである。
しかし、これまで、誰に訊ねても、曖昧な返事しか返って来ない。
アン・ッェリンが、八年前まで、このナムチェバザールに住んでいたのはわかっている。
しかし、現在、ナムチェにアン・ッェリンはいない。
八年前、住んでいた家を売り払い、どこかへ行ってしまって行方がわからない──たまに答えてくれる者がいても、そういう返事が返ってくるだけだ。
八年前に、アン・ッェリンの妻が死んでいる。
それが、家を売り払うきっかけになったのだろうと、深町が訊ねた人間たちは言った。
では、家を売り払って、どこへ行ったのか。
誰も、それには答えない。
どうも、妙であった。
挟い村だ。
ナムチエの人間のほとんどが、互いに互いの顔を知っている。どの顔が、どの家に住んでいるか、その家で子供が何人生まれたか、そういうことが互いにわかっている。
そういう風土の中に、アン・ッェリンは暮らしていたのだ。
アン・ツェリンが、自分がどこへゆくか、誰にも何も言わずにたち去ったとは思えない。たとえ、誰にも言わなかったにしても、そのうちに、どこに住んでいるかくらいは、伝わってくる。アン・ツェリンほどの人間であれば、必ず人々の噂にのぼる。
現に、アン・ツェリンは、カトマンドゥの、シェルパ族の人間が経営している“ガネーシャ”という店に出入りしているのだ。ナムチエで、現役のシェルパ何人かに訊けば、必ず、その消息について、何らかの情報が得られるはずであった。
そう思っていた。
その情報が、ない。
奇妙であった。
誰も何も知らないということが、かえっておかしかった。
もしかしたら、誰か──たとえば、アン・ツェリン本人か、羽生丈二が、口止めしているのではないかとさえ思えてくる。
相手が日本人であれば、嘘をついているかどうかは、言葉の変化やその態度から、なんとなく推《お》し測ることもできる。しかし、言語の違う異国人が相手となると、その微妙なニュアンスがわからない。ましてや、深町にとっても、ネパール人にとっても異国語である英語が会話のベースであるから、相手の意図的な嘘を見破るのはより困難になる。
ギリギリの日常会話くらいなら、深町もネパール語で話すことはできるが、そうなると、相手が何を言おうとしているのかを理解することに気をとられ、言葉の裏まではさぐりきれない。
しかし、それでも、訊ねる相手が、一様に同じ答えを返してくると、深町も、それがおかしいとわかる。
結局、かつての、アン・ツェリンと並ぶ伝説のシェルパの生き残りであるダワ・ザンブーを訪ねることにしたのである。
ダワ・ザンブーの家は、ナムチェバザールのほぼ全体を上から見わたせる、山の斜面にあった。
すぐ近くに、ナムチェの寺《ゴンパ》がある。
その東側に、ダワ・ザンブーの家は建てられていた。
レンガを積みあげた外壁を白く塗り、その上に屋根を乗せた、このナムチエでは一般的な家であった。家の前が庭になっていて、その庭に、古い木材を組んで造ったベンチ風の長椅子がある。雨ざらしになっているらしく、その椅子は、木目が浮き出て、木というよりは、生気が全て抜け出たあとの骨でできているように見えた。
その椅子に、老人がひとり腰を下ろして、ナムチェの村を見降ろしていた。
昼──
陽が差してはいるか、風が吹けば、肌に冷気が強く感じられる。
老人の足元に、鶏が三羽ほどうろうろしながら地面を啄《ついば》んでいる。
庭に足を踏み入れてきた深町の気配に気づいたのか、その老人が、深町に顔を向けた。
深町は、老人に向かって会釈《えしゃく》し、
「私は、フカマチといいますが、こちらは、ダワ・ザンブー氏のお宅ですか?」
そう訊いた。
英語である。
「そうだよ」
短い答えが、英語で返ってきた。
「日本人かね?」
「そうです」
うなずいて、深町は、老人に歩み寄った。
「何か、御用ですか?」
老人が言う。
「ダワ・ザンブー氏にお会いしたいのですが……」
深町が言うと、老人は、驚いたように微笑した。
「これはこれは、わたしのような人間の名を、日本の方が覚えていて、わざわざ会いに来られるとは……」
「あなたが?」
「わたしが、ダワ・ザンブーです」
老人はうなずき、深町を見つめた。
深町は、老人の斜め前に足を止め、そこに立った。
老人──ダワ・ザンブーの腰の左側に、一本の木の杖がたてかけてあった。
「御用件は?」
ダワ・ザンブーは言った。
すでに、七十歳になったかどうかという年齢のはずであったが、日本人の感覚から見ると、八十歳以上に見える。
「アン・ツェリン氏が、今、どこに住んでいるかを御存知ならば、教えていただきたいと思って来たんですが」
深町は、そのままを伝えた。
「ほう──」
ダワ・ザンブーは、眼を細くして、深町を見つめ、
「最近、アン・ツェリンのことを調べてまわっている日本人がいるという噂を耳にしていましたが、あなたでしたか」
「たぶん、そうだと思います」
「何故、アン・ツェリンを?」
ダワ・ザンブーは理由を訊ねてきた。
「理由によっては、教えていただけるんですか?」
「というと?」
「これまで、あちこちで、アン・ツェリンのことを訊ねたのですが、誰も、教えてくれません。もしかしたら、皆でそれを隠しているのかと思っています」
「アン・ソェリンの居場所を知っていて、教えないと?」
「そうです」
深町が答えると、ダワ・ザンブーは微笑した。その微笑を、そのまま、ダワ・ザンブーはナムチェの風景に向けた。
「どうですか?」
風景に眼をやったまま、ダワ・ザンブーは言った。
「どう?」
「外国人であるあなたから見て、このナムチェは、どう見えますか」
深町は、ダワ・ザンブーの問いの真意がつかめないまま、口ごもった。
「ここは、たいへんに貧しい村です。一見、賑やかには見えますが、貧しい。この村だけじゃありません。ネパール全体が、貧しいのです。もっとも、このナムチェは、他の村よりはいくらかましなのでしょうが、それにしても、見かけほどではありません」
ダワ・ザンブーは、視線を、高い山に向けた。
「ごらんなさい──」
深町は、ダワ・ザンブーの視線を追って、眼を周辺の山肌に向けた。
「樹が、ほとんどないでしょう?」
「え、ええ」
深町はうなずいた。
言われたように、周辺の山々に樹はなく、茶褐色の山肌に、短い草が、あちらにひと叢《むら》、こちらにひと叢と、かろうじて生えているのが見える。
冬という条件下とはいえ、やはり少ない。
「自分が子供の頃は、まだ、それでも樹はあったのです。もっといっぱいね。森と、そう呼べるくらいの場所もあったのです。しかし、今は、ごらんの通り、裸同然です」
深町は、黙って、ダワ・ザンブーの言うことに耳を傾けている。
「我々自身が、樹を切ってしまったのですよ。多くは、自分たちの生活燃料のために。一部は、外国人登山隊や、トレッカーたちの生活燃料のために。ミスタ・フカマチ、ひとつの登山隊がエヴェレストに入るのに、いったいどれだけの荷物と人間が要るかわかりますか」
「ええ」
深町はうなずいた。
しばらく前に、それを経験したばかりだったからだ。
気の遠くなるような、日本での梱包《こんぽう》作業や、キャラバンの中の荷物のチェック。
総重量、およそ三〇トン。
それを運ぶポーターののべ人員は、二千人に近くなる。荷物の全部を、飛行機で運ぶわけではないからだ。
半月から一ヵ月もかけて、カトマンドゥのはずれから、ここまでポーターたちが担ぎ、あるいはヤクの背に負わせてここまで運んでくるのである。
その最中に、ポーターも食事を摂《と》る。
隊員も摂る。
その食事の準備をするおり、燃料として使用されるのは、薪《まき》──つまり木である。
外国人が、大量にヒマラヤに入るようになり、その登山コースにあたる山域から、たちまち、樹木が激減していった。地元住民の生活燃料までが、それによっておびやかされるようになっていったのである。
「最近は、地元の人間でも、樹を燃料として使用しにくくなりました。かといって牛の糞だけでは、充分ではありません。ならばどうするかというと、ガスや、石油を使う。しかし、ガスや石油は金がかかる。それを外国から買う金がネパールにはないのです。その金を得るために、観光客をこの国へ呼ばねばならない。この国の観光は、ヒマラヤと森林、つまり、この自然です。その自然が、観光客が来れば来るほどなくなってゆく……この悪循環を誰も止められません。薪のことだけではありません。ネパールが抱えている多くの問題について考えてゆくと、結局は、どれもこの国の貧しさにつきあたることになるのです」
いったん言葉を切ったが、ダワ・ザンブーは、まだ、ナムチエの風景を眺めている。
深町も、ダワ・ザンブーの言うことは、知識としては理解していた。
今は、外国人トレッカーは、規制により、木製燃料を使用することができなくなっている。ガスか、石油燃料を使用することが義務づけられているのである。
「外国人のトレッカーや、登山隊を責めているわけではないのです。彼等は、この国に多くの外貨を落とし、わたしもその恩恵に与《あずか》った人間です。それなりの栄誉も受け、現在、こうして、ここでそこそこ暮らしてゆけるのも、そのおかげです──」
ダワ・ザンブーは、今度は、視線を背後の山の斜面に向けた。
「あそこをごらんなさい」
深町は、そこに眼をやった。
山肌の一画に、四角く囲われた緑の斜面があった。
春に来た時には気づかなかったが、そこに、針葉樹の苗木が植えられているらしい。
「日本人の協力により、あのように、樹が植えられました。しかし、あれは、見た通り、ほんの一部です。まだまだ、樹を植えねばならないのですか、我々の多くは、三十年後、四十年後のことを考えて、樹を植えるだけの経済的なゆとりも、精神的なゆとりもないのです。その日、その日のことを考えるので、せいいっぱいなのです」
ダワ・ザンブーがそこまで言った時、背後に人の気配があって、見ると、ひとりの老女が、アルミの盆に、バター茶の入ったティーカップをふたつ乗せて、立っていた。小粒の、茹《ゆ》でたらしいジャガイモが五つほど、その盆の隅にもられていた。
「ナマステ」
老女は、皺の浮いた顔に、さらに笑い皺を浮かべ、盆をベンチの上に置いて、また、建物の中にもどっていった。
「家内です」
と、ダワ・ザンブーは言った。
「今、わたしは、家内とふたり暮らしなのです」
「お子さんは?」
「息子がふたりおりますが、ナムチェにはおりません。カトマンドゥヘ出て、あちらで働いています。イギリス人がやっている観光会社に勤めて、通訳とガイドをやっています。ふたりとも、もう、結婚して子供もいますよ──」
「こちらへは、もどって来ないのですか?」
「こっちで、仕事がある時には、ついでに顔を出しますが、めったにやってきません。この家だけではありません。たくさんのナムチェの若者が、都会へ出ていってしまいます。若者がいないと、昔のように、牛を放牧しながら、あちこちの山へ移動してゆくというわけにはいきません。多くの人が、外国人相手のガイドか、土産品屋か、それに関係した仕事についています──」
ダワ・ザンブーは、杖を握って右へ腰を引き、次に、盆に指をひっかけて動かし、もうひとり座れるだけの空間を椅子に作った。
その、盆をひいた指先を見て、深町は驚いた。
左手の人差し指を使って、ダワ・ザンブーはそれをしたのだが、その指が、指先から第二関節まで失《な》くなっていたのである。よく見れば、左手の指でまともなのは親指だけで、小指から中指までは、完全に根元から失くなっていた。
「ここへ、掛けませんか」
ダワ・ザンブーは言った。
「はい」
うなずいて、深町は、ダワ・ザンブーの左横に腰を下ろした。
深町の視線に気づいたらしく、ダワ・ザンブーは、左手をかざし、
「凍傷ですよ」
そう言った。
「この左手の指は、一九七二年の、ダウラギリの時に失くしました。両手両足含めて、まともな指は、八本しかありません」
ダワ・ザンブーは、微笑した。
「────」
「登山隊についたシェルパ──特に昔のシェルパほど、まともな指を全部持ち合わせている者は少ないのです。昔は、今ほどよい装備がありませんでしたからね」
ダワ・ザンブーは、両手で、ティーカップを包むように持ち上げ、ひと口、ふたロ、バター茶を啜《すす》った。
その指の少ない手に、誇りを感じているかのように、ダワ・ザンブーは、その失った指を隠そうとしなかった。
無骨な、骨の太い指であった。
深町も、ティーカップを手に取り、バター茶を啜った。
横を見やると、ダワ・ザンブーは、ティーカップを置いて、ジャガイモを手に取って、器用な手つきでその皮を剥《む》いている。
剥いて、口の中に入れた。
深町も、ジャガイモを手に取り、皮を剥かずに、それを齧《かじ》った。
中身の黄色い、栗のようにほくほくとしたジャガイモだった。
砕いた岩塩が振りかけてあり、その岩塩が、ごりごりと歯と歯の間で潰れ、ジャガイモと混じりあっていい味になる。
うまい。
この、標高三〇〇〇メートルを超える、痩せた土地という条件下にあって、小粒ながら、これほどいい味のものができるのかとあらためて深町は思った。それとも、このような条件下であるからこそ、こういう、濃い味のジャガイモができるのか。
「このジャガイモは、もともと、このネパールにあったものではありません。別の国から入ってきたものです……」
ふいに、ダワ・ザンブーが言った。
「ええ、そうですね」
深町は、うなずいていた。
ジャガイモは、もともと南米産である。
それが、ヨーロッパに渡り、ヨーロッパからこのネパールに入ってきたものだ。
また、沈黙があった。
沈黙の中で、ダワ・ザンブーは、眼をナムチェの風景に向けている。
冷たい微風と共に、街の喧噪が、下からあがってくる。
ダワ・ザンブーは、その音に耳を傾けているようであった。
「あなたは、この国で暮らすことができますか?」
ふいの質問であった。
「この国で?」
深町はとまどった。
いったい、どういう意味の質問であるのか。
「あなたは、この国の女と結婚をして、子をつくり、この国に住むことができますか?」
グワ・ザンブーは、まだ、ナムチェを眺めている。
風が、ダワ・ザンブーの、白い髪の先をゆすっている。
そして、ふいにわかった。
ダワ・ザンブーの言っていることの意味がである。
この国の貧しさや、都会に出ていった息子たち、そして、ジャガイモ……
それらのことが、ふいに、深町の中で意味を持った。
意識的であったのか、無意識であったのか、ともかく、これまで、この老シェルパ、ダワ・ザンブーの言っていたことの意味がわかったのだ。
この老シェルパは、羽生丈二のことについて言っているのだ。
「もしかして、それは、ビカール・サンのことについて、言っているのですか?」
深町は訊いた。
しかし、ダワ・ザンブーは、その問いに答えなかった。
「できますか?」
もう一度、訊いてきた。
深町は、言いかけた言葉を呑み込み、沈黙し、そして口を開いた。
「できません」
「できない?」
「はい」
「好きな女ができても?」
「はい。たぶん、わたしは、そういう女性ができたら、一緒に日本へ連れてゆくことを考えるでしょう」
「その女性が、いやだと言ったら?」
「わかりません──」
深町は、混乱した。
「このナムチェではどうですか。あなたは、シェルパの女性と結婚をして、このナムチェに一生住むことができますか?」
「まだ、わたしは、そういうことに直面していないので……しかし、でも、たぶん、わたしはできないでしょう……」
深町は、このネパールという国も、ヒマラヤという土地も、ナムチェバザールという村も、嫌いではない。
どちらかといえば、明らかに好きだ。
しかし、それは、外国人として、ここを通り過ぎてゆく人間としてのスタンスからの気持である。実際に、この国の人間となり、ここで結婚をし、ここで暮らし、この土地に骨を埋められるかどうかということとは、別の話だ。
「おそらく、できないと思います……」
正直に、深町は言った。
ふっ、
と、ダワ・ザンブーが微笑し、
「正直な方ですね」
そう言った。
「わたしも、正直に、あなたに答えましょう。わたしと、アン・ツェリンとは、友人です。彼が、このナムチェを引き払って、どこへ行ったかを、わたしは知っていますし、その理由も知っています。それから今、あなたが口にした、ビカール・サンという日本人のことも知っています。しかし、わたしが知っているそのことを、あなたにお話しするかどうかは、別の問題です」
「と言いますと?」
「この問題については、とてもひと口には言えない部分があるのです」
「それは、もしかしたら、エヴェレスト南西壁の、冬期無酸素単独登頂のことですか──」
深町が言うと、
「ああ、もう、それは御存知だったのですか──」
ダワ・ザンブーは、少し驚いたような表情になった。
「ビカール・サン本人から、聞きました」
「なるほど。しかし、これは──つまり、これから世界で最も偉大な登頂への試みがなされようとしていることを、実現まで、人に知られたくないという、それだけのことではないのです」
「では、どういう……」
「その前に、何故、あなたが、アン・ツェリンとビカール・サンのことを知りたがっているのか、その理由を教えてくれませんか」
「わかりました」
深町は、覚悟を決めた。
「長くなりますが、かまいませんか──」
「いいですよ。わたしには、たっぷり時間があります。よかったら、家の中へあがって、そこで話を聴かせてもらえますか──」
ダワ・ザンブーは、そう言って、杖を手に取り、立ちあがった。
ダワ・ザンブーの家の二階で、深町は、彼と向きあっていた。
窓を背にして、ダワ・ザンブーは、窓際にある寝台に腰を下ろしていた。
小さな卓《テーブル》を挟んで、深町は、ダワ・ザンブーの背後に窓を見るかたちで、小さな木製の椅子に腰を下ろしている。
深町から向かって左──ダワ・ザンブーにとっては右側に、竃《かまど》があり、そこで薪が燃えていた。竃の横に、薪が積みあげてあるが、そのほとんどは、歪《いびつ》にねじくれた灌木の枯れた根であった。
そして、乾いた牛糞も、床に置かれたバケツの中に積みあげてある。
竃には、薬罐《やかん》が掛けられていて、湯の滾《たぎ》る音が、そこから聴こえていた。
その香りを嗅いでいる時、ダワ・ザンブーの眼が、自分の首のあたりに注がれていることに、深町は気がついた。
「それは?」
と、ダワ・ザンブーが訊いてきた。
「これですか」
深町がそれに右手の指をあてると、
「それは、アン・ツェリンの妻がしていたものです」
ダワ・ザンブーはそう言った。
落ち着いた部屋であった。
深町の背後は、壁一面が棚になっていて、そこに、大小無数の銅の釜や鍋、そして食器の類が置いてある。
暗い部屋の中で、窓からの灯りを受け、銅製の鍋や食器が、鈍い、赤みがかった光を放っていた。それらの鍋や釜には、中国でいう雷文に似た、チベット独特の模様が刻まれている。
そして、主食のツァンパ入れ。
他に、ポリタンク、ポリバケツ、ランプやランプの火屋《ほや》までが置かれている。日常のこまごまとした雑貨もまた、その棚に置かれていた。
炎と煙の臭いが、濃く部屋の空気の中に溶けている。
いやな匂いではなかった。
「はい」
と深町はうなずいた。
「どういう経過があったのかわかりませんが、あなたがそれを持っているのなら、これは心して、あなたの話を聴かねばなりませんね。どうぞお話しして下さい」
「わかりました」
深町はうなずいた。
「マロリーのことは、御存知ですね」
深町は、ダワ・ザンブーに訊いた。
「もちろん。サガルマータで行方がわからなくなったイギリスの登山家のことは知っています」
「そのマロリーが持っていたはずのカメラを、ビカール・サンが持っていたことも御存知でしょう?」
「ええ。知っていますよ」
深町は、ダワ・ザンブーの返事に、自分でうなずき、
「実は、わたしは、この春のプレ・モンスーン期に、日本からエヴェレスト登頂をねらってやってきた登山隊のメンバーでした」
「あの、ふたりが事故で亡くなられた隊でしたか?」
「ええ」
深町は、上の前歯で、下唇を浅く噛んだ。
「その帰りに、わたしは、カトマンドゥで、マロリーのカメラと出会ったのです」
ああ、そうだ。
思えば、あの時に、この長い旅が始まったのだ──と、深町は想った。
あの時、あのカメラに出会い、自分は何ものかに巻き込まれ、羽生丈二と出会い、そして今、この老シェルパと向きあっているのだ。
このために、これまで自分は、どれだけの時間とエネルギーを使い、どれだけの距離を移動したのか。
「場所は、“サガルマータ”という店でした……」
深町は、ゆっくりと、順を追って語リはじめた。
これまでのことを、自分で確認するように、丁寧に語っていった。
マロリーのカメラの価値についても、それがホテルから盗まれ、羽生が現われてそれを取りもどしたことについても語った。マニ・クマールのこと。ナラダール・ラゼンドラのこと。
日本で、羽生について調べたことも語った。
自分と加代子のことについては語らなかったが、羽生のグランドジョラスでのことや、長谷常雄のことについても語った。
再び、ネパールにやってきた経緯も、岸涼子のことについても、深町は、老シェルパに語った。
ダワ・ザンブーは、英語については、英国人なみに会話ができ、深町がネパール語をしゃべる以上に、日本語についても理解をしていた。
仕事がら、多くの外国の登山隊に接してきたキャリアが、ダワ・ザンブーにはある。
カトマンドゥで、岸涼子が拉致《らち》され、それを羽生と共に救い出した話もした。
そして、岸涼子が日本へ、独りで帰って行ったことも。
自分が、カトマンドゥ空港から飛び立つ寸前に、残る決心をしたことについても語った。
ひと通りを語り終えるまでに、一時間余りの時間が過ぎていた。
少し離れた場所で、椅子に座り、ダワ・ザンブーの妻も凝《じ》っと、無言で話を聞いていた。
語り終え、
「これが、今、わたしがお話しできることの全部です……」
深町は言った。
ダワ・ザンブーは、時おり、短い質問をしたり、わかり難《にく》かった箇所に口を挟みはしたが、深町がしゃべっている間中、自分の意見はほとんど言わずに、耳を傾けていた。
深町が、言い終えてロをつぐむと、
「なるほど、ビカール・サンの写真が撮りたいと、そういうことですか……」
ダワ・ザンブーは、そうつぶやいた。
「そうですが、それだけでもありません」
「というと?」
「ビカール・サン──羽生丈二という男そのものに、興味があるのです。たとえ、写真が撮れなくとも、あの男が、冬の南西墾を、たった独りで、どう登るのか、それを見てみたいのです。マロリーのカメラを、彼が発見した経緯についても、知りたいと思っています。写真を撮るということだけではありません。自分のために──」
深町は、下を向いて、そう言ってから、顔をあげ、ダワ・ザンブーを見、そしてまた言った。
「──自分のために、羽生丈二と会い、彼がやろうとしていることを見届けたいのです」
「自分のためにですか──」
ダワ・ザンブーは、つぶやいた。
「はい」
「しかし、彼は、それをいやがるかもしれません」
「たぶん、いやがるでしょう」
「それでも?」
「はい」
「────」
「彼のやろうとしていることを、邪魔するつもりはありません。彼を助けようとも、彼に助けられたいとも思っていないのです。ただ、自分の体力と技術の許す限り、羽生にくっついてゆき、あの男のやることを、この眼で見てみたいのです」
はっきりと、深町は言った。
「わかりました」
ダワ・ザンブーは、うなずいた。
「あなたは、すでに、色々なことについて知っておいでだ。ビカール・サンとも、何度か会っておられる。よろしいでしょう。わたしがお話しできることについては、お話ししましょう。どうせ、あなたは、ベースキャンプにゆけば、ビカール・サンに会ってしまうでしょうしね。しかし──」
「しかし?」
「わたしが、これからお話しすることについて、特に、冬期のサガルマータ登頂については、他言せぬようにしていただきたいのです」
「もちろんです。しかし、何故ですか?」
「ビカール・サンと、アン・ツェリンがこれからやろうとしていることは、このネパールの法に触れることなのです」
「────」
「知っての通り、ネパールでは、今年から、サガルマータの登頂料として、ひとり、一万ドルを取ることになりました。登頂できるかどうかという結果についてではなく、何人登頂させる予定か、その予定の人数について、あらかじめ、料金を取るようになったのです。たとえ、登頂に失敗しても、そのお金はもどってはきません──」
十五章 母の首飾り
噛みしめながら、登っている。
歯を噛みながら、登ってゆく。
歯の間に噛んでいるのは、意志である。濃い意志を噛みながら、登っている。
前に踏み出す足の、一歩ずつに、高度があがってゆく。しばらく前に渡ったドゥード・コシの流れが、もう、遥《はる》か下方になっている。ドゥードは、ネパール語でミルクのことだ。コシが川のことであるから、つまり、ドゥード・コシとはミルクのような川ということになる。これは、氷河から溶けてきた水が、乳白色をしているから、そのような名がつけられたのだろう。
今朝、ナムチェバザールを発った。
十分ほど登り、鞍部にあがり、小さな小学校の前に出た。そこから、山腹をうねうねと続く道を歩いた。右側に、深く切れ込んだ谷の底を、ドゥード・コシが流れている。
谷の向かいの尾根の上に、これまで頂しか見せていなかった、タムセルクの全貌が見えている。突兀《とつこつ》とした岩の先鋒に、雪がからんでいる。
六六〇八メートル。
その左側が、六七七九メートルのカンテガである。
正面に見えているのが、アマ・ダブラムだ。ネパールの言葉で、母の首飾りの意味を持つこの山は、エヴェレストの山域に入ってゆく、その入口に建てられた門柱のようだ。
六八五六メートル。
成層圏に向かって、岩壁が四方から波のようにめくれあがり、その頂部に、美しい、女の肉のような丸みを帯びた、雪の岩峰が乗っている。
あの山の麓をすりぬけ、エヴェレストの結界の中へ入ってゆくことになる。
道は、いったん、二五〇メートル下って、谷底へ降りる。そこで、ドゥード・コシの流れを渡って、また登りになる。六〇〇メートルをいっきに直登して、登りきったところが、タンボチェである。
その急坂を、今、深町誠は登っているのである。
肩に、ザックの重量がかかっている。
針葉樹の多い森の中だ。
前回は、この登りで、高山病が出た。
今回は、ナムチェバザールで、たっぷりと時間をとっているため、順応が順調に進んでいる。
体調はいい。
空気が、希薄になっているのは実感できるが、それが、苦にならない。それ以上に、体内から、滾々《こんこん》と溢れ出てくるものがあるのだ。足を踏み出すたびに、細胞の中から、筋肉の中に、力が滲《し》み出てくる。あがりぎみになりそうなペースを、意識的に抑えている。
これは何だろうと、深町は思う。
疲労よりもなお強く、濃いもの。筋肉の持久力がアップしているのが実感できる──が、しかし、それだけではないもの。
筋力とはまた別の、粘度を持った感情──いや、感情よりは、もっと原初的なもの。
何か、得体の知れないもの。
強いていうなら、飢えのようなものだ。
餓《かつ》えたように歩く。
どんなに水を飲んでも癒されぬ渇望《かつぼう》。
満たされない飢え。
そのような飢えが、肉の奥にある。
肉の底に、見えている。
どうやっても、それを、癒しようがない。その飢えに、衝《つ》き動かされるように、自分の体重を、上へと運んでいる。自分の肉体を、疲労させることが目的になってしまいそうだ。ペースがあがりそうになる。
それを仰えて、登る。
獣を、なだめながら登る。
間違えるな。
調子がいいことに騙《だま》されて、うっかり、ハイペースになると、その反動が必ずくる。それで、ペースを崩し、高山病にやられていった登山家を、自分は何人も知っている。
深町は、登りながら、自分の肉体を見つめている。
浮いてくる汗を、オーロンの下着がきれいに吸って、外にガスとして放出する。
オーロンの下着、その上に、ウールのシャツを着て歩いている。上着はいらない。身体を動かしている時は、それで、充分に温かい。直射日光の中を歩くのなら、暑いくらいだ。木洩れ陽がある森の中は、これで丁度よい。
時おり、展望が開けると、雪を被ったタムセルクやカンテガが見える。
この森より、さらに上部の世界に属する岩峰だ。そして、それよりさらに上の天上に、エヴェレストの岩峰は所属しているのである。
エヴェレストの頂よりさらに上は、もう、何ものもない。そこから上はただ、天が存在するだけだ。
気圏《きけん》と呼ばれる世界の最上層部。
地が、天に向かって果つるところ──その上は、宇宙である。
「人は、何故、山に登るのだろうかねえ……」
ふいに、深町の脳裏に、ひとつの言葉が蘇った。
昨日、別れ際に、ダワ・ザンブーがぽつりとつぶやいた言葉だ。
ああ、あれは昨日だったのか。
もう、何日も過ぎてしまったような気がする。
上へゆくということは、下でのことを、次々と時の彼方に忘れてゆく作業なのかもしれないと、深町は思う。
いや、そうではない。
遠ざかれば遠ざかるほど忘れてゆくものもあるかわりに、逆に、見えてくるものもある。色々なものが遠くなり、疲労の中で消え去ってゆくかわりに、それでも消えないもの、残っているものが、いっそうはっきり見えてくるということだってある。
それは──
加代子のことか。
それとも、涼子のことか。
左肩に触れていた、涼子の右肩の震え、温もり。
ナラダール・ラゼンドラの車の中で、声を押し殺して嗚咽《おえつ》していた涼子の肉体。
何故、肩を抱いてやらなかったのか。
そういう思いが、深町の脳裏をよぎる。
あの涼子を日本に残し、何故、羽生はネパールに来たのか。
「あれは、一九八六年の九月でしたかねえ──」
昨日、ビカール・サンについて話す決心のついたダワ・ザンブーは、そう、深町に切り出した。
一九八六年、九月の半ば近く、アン・ツェリンが、ひとりの日本人を連れて、ダワ・ザンブーの家にやって来たのだという。
一九八六年といえば、その前年の一九八五年十二月に、日本隊がエヴェレストの南西壁に挑んでいる。
羽生丈二と、長谷常雄がその遠征に参加している。羽生が、問題の事件をおこしたあの遠征だ。南西壁を攻めている途中で、羽生は、自ら降りてしまった。
南西壁の登攀《とうはん》はならなかったが、ノーマルルートをねらった長谷は、頂上に立っている。
一九八六年の一月に、羽生は日本に帰ってきたが、それからわずか半年後に、日本から姿を消した。
この間に、羽生がネパールにいることを知っていたのは、岸涼子だけである。羽生からの仕送りが、毎月ネパールから届くようになったことから、羽生の居場所がわかったのである。
わかったといっても、仕送りは一方的であり、では、羽生がネパールのどこにいるかということについては、涼子もわからなかった。
もう、仕送りはいいと、涼子は機会があるごとに、羽生に伝えていたのだが、羽生は、それを、ネパールに行ってからもやめなかったのである。
涼子の兄である岸を、山で死なせた──それが、羽生の内部で、ずっと、消えぬ傷となって残り、それが、涼子への仕送りというかたちになったのであろうと、深町は理解していた。
仕送りは、一ヵ月に一度とはいっても、ある月は届かず、その翌月に二カ月分が届くというようなことがよくあった。
その仕送りも、一九九〇年まで続き、その年に終わった。一九九〇年から、羽生の消息は、涼子にもわからなくなっていたのである。
「羽生丈二といいます」
日本人の男は、自分で名を告げた。
「ああ、あの──」
ダワ・ザンブーは、うなずいた。
ダワ・ザンブーにも、その名は記憶にあった。
前の年の十二月に、日本の登山隊がエヴェレストに入り、アン・ツェリンがシェルパ頭として、参加をしている。登攀中に、アン・ツェリンは事故をおこし、羽生に助けられている。
そのことは、ダワ・ザンブーも知っているし、アン・ツェリンを助けた日本人の名前も、耳にしている。知っているも何も、アン・ツェリン本人から、ダワ・ザンブーはそのことを聴かされているのである。
「彼を、自分の家に、置くことにした──」
と、アン・ツェリンは、ダワ・ザンブーに言った。
「表向きは、自分の身内のシェルパということで、登山隊の仕事をやらせたいのだが……」
と。
故あって、この男の本名を隠したい。だから、日本の登山隊につく仕事はできないが、他の国の登山隊であれば、シェルパということで、仕事ができる。できるだけ、エヴェレストに入る登山隊のシェルパとして入れさせたい。
アン・ツェリンはそう言った。
言葉についていうなら、羽生は英語は充分にできる。登山隊とシェルパの会話は、基本的には英語であり、この点については問題がない。日常会話程度のネパール語を話し、片言ならシェルパ語もできる。
シェルパと日本人は、人種的に近い。同じモンゴロイドである。外見はそっくりであり、まず、区別はつかない。
だから、羽生が、シェルパを装うということは、不自然なことではない。
チェックポストの出入りは、シェルパならば、ノーチェックである。トラブルがおこりそうなら、チェックポストの役人に金を握らせれば、どうにでもなる。
シェルパということでなくともよい。ただ、エヴェレストに入る登山隊について、シェルパのやっている仕事ができれば、それでいいのだ。
「どうか?」
と、アン・ツェリンは問うた。
ダワ・ザンブーと、アン・ツェリンは、この地方のシェルパたちにとって、高くそびえるふたつの巨峰である。
ダワ・ザンブーは現役を退いてはいるが、シェルパ族内部での人望も厚く、影響力は強い。ダワ・ザンブーと、アン・ツェリンがその気になれば、今の話は充分に可能だ。
日本人が、シェルパと一緒に仕事をするということについては、給料がシェルパと同じでよいということなら何の問題もない。
問題は、日本人であることを、隠すということにある。
登山隊に隠すだけなら、これも問題はない。
トラブルがあり得るとすれば、政府に対して、それを隠すということである。もっと具体的に言うなら、チェックポストの通過をどうするかということである。
ルクラからエヴェレストまでの、俗にエヴェレスト街道と呼ばれる道筋には、何ヵ所かのチェックポストがある。
いくら、登山隊に、日本人であることを隠しておくといっても、チェックポスト通過時に、羽生がそこでチェックを受ければ、ネパール人でないことがわかってしまう。
ダワ・ザンブーと、アン・ツェリンとは友人である。
アン・ツェリンが、羽生に生命を助けられ、この日本人のために役に立とうとするのは、よく理解できる。
しかし──
「何故か?」
と、ダワ・ザンブーは、アン・ツェリンに問うた。
何故、この日本人は、このクンブでシェルパの仕事をしたがるのか。
何故、それを秘密にせねばならないのか。
それが、ダワ・ザンブーには理解できない。
「その理由を聴かせてくれ」
と、ダワ・ザンブーは言った。
その時、姿勢を正すようにして、羽生丈二は立ちあがり、ダワ・ザンブーを見た。
「冬期のエヴェレスト南西壁に、単独、無酸素で登りたいのです」
訥々《とつとつ》とした声で、羽生は言ったという。
「そのため、エヴェレストという山に、慣れておきたいのです。隅から隅まで、知らない場所がないようにしておきたいのです。シェルパということでなら、各国の登山隊にくっついて、エヴェレストに何度も入ることができます」
最初、ダワ・ザンブーは、その言葉の意味がすぐに呑みこめなかったかのように、何か問おうとして、唇を開きかけた。しかし、後から滲《し》み込むように、その言葉の意味するところが届いてきた。
なんと──
それを理解した時、ダワ・ザンブーは、しばらく声を出せなかった。
ダワ・ザンブーも、シェルパとして、何度もエヴェレストヘ出かけている。その頂を踏んだこともあるし、南西壁に取りついたこともある。冬期のエヴェレストも体験している。
羽生が言ったことが、どれほどの重さを持っているか、それは、理解できる。
だが──
なんと、無謀《むぼう》な。
しかし、その途方もない言葉には、そのことの意味を知る者の魂を、揺さぶりあげるようなものがあった。
それは、人類という種に属する人間が、おそらくは、単独でできるぎりぎりの行為である。
そういう場所まで、人類という種は到達できるのか。
オリンピック競技の世界記録も、人類という種のひとつの到達点である。長距離走、あるいは短距離走で、世界記録を塗りかえるような走者は、まさしく、人類という種の頂点に立つ人間である。
しかし、エヴェレストの、冬期における南西壁無酸素単独登頂というのは、どれだけの努力と才能があっても、それだけでは実現が不可能であると、ダワ・ザンブーは思っている。
それをなし遂げるには、その行為者が神に愛されねばならない。
天候が、その行為の成功、不成功を左右する大きなポイントとなる。
文字通り、それは、神の領域に入ってゆくことであり、神の意志に自らを委ねることになる。
この日本人は、神に愛される男か?
そういう眼で、ダワ・ザンブーは、羽生を見た。
この男に、それができるかどうか、それはわからない。
しかし、資格なら──
この男の足跡については、知っている。
実績、体力、技術、精神カ──そういうものについては、この男には、それに挑戦する資格はあるだろう。
一見、気が弱そうにさえ見える、低い、ぼそぼそとしたしゃべり方はするが、顔の表情のすぐ裏側に、ふてぶてしいまでの、芯の通ったものがある。
何ごとかを、すでに決めている男の顔であった。
曲がりくねりはしたが、結局、これと決めたもの、自分が、何のために生命をかけるべきかを知っている──そういう覚悟を持った顔だ。
「何故、それを秘密に?」
「煩《わずら》わしいからです」
羽生は答えた。
「何が煩わしいと?」
「うまく言えません」
羽生は、歯を噛んだ。
日本人が、シェルパとして登山隊にくっついて、山に入る。
「何故か?」
多くの者が、現場でそう問うであろう。
それは、羽生と出会う全ての人間が、問うであろうことだ。
彼等に、いちいち、説明をしていられない。
冬期における、エヴェレストの南西壁、無酸素単独登頂をねらっていることを。
話せば、それは、必ず、登山界で話題になる。
話題になれば、自分も前からそれをねらっていたのだと言い出す人間が現われ、実際にそれを試みようとする人間も出現するだろう。
「他の人間に、先を越されたくないのです」
自分は、それをやる、最初の人間になりたいのだと、羽生は言った。
心の中で、それを考えたことがあるかないかということであるなら、登山家であれば、一度は、それを想ったことがあるはずである。しかし、想うことと、それを持続し、実際に行動することとはまったく別ものである。
あるいは、そういう人間たちの中には、羽生のように、それを試みようとする人間たちも出てくるかもしれない。
技術や体力で、それらの人間が、羽生よりも勝っているのなら、それはそれでいい。しかし、羽生より、金を集めることのうまい人間もいるだろう。羽生には金がない。その金で、この世界で最初の試みをなし遂げる人間が誰になるかを左右されたくない。
羽生は、世界でも知られているクライマーのひとりである。
その羽生が、エヴェレストで、ただひとり、山から下りてきてしまった話も、一時は話題になった。ダワ・ザンブーも、それは、知っている。
ヒマラヤのみならず、世界のどの山であれ、おそらく、もう二度と、どのような遠征にも、羽生は隊員として加えられることはないであろう。
深町は思う。
あるとするなら、ふたつ。
ひとつは、羽生自身が金を出し、ヒマラヤ遠征のスポンサーとなって、自ら隊員となることである。
羽生のわがままを聴いてくれる人間と、ふたりか三人で、小規模の頂《ピーク》をねらうという手はあるが、それを、羽生はやらないであろう。いや、やれない。たとえ、ひとりやふたりでさえ、羽生とザイルパートナーになろうと考える人間はいない。いても、羽生と同レベルの技術と体力がなければ、これは無理だ。そういう人間がいても、羽生というキャラクターが、それを拒否してしまうことも充分にある。もしかしたら、岸という男が、唯一、そういうパートナーになる可能性を有していたのだろうが、岸は死んだ。
もうひとつは、単独行だ。
ただひとりで、何もかもやる。ただひとりで、予定をたて、ただひとりで頂上を踏むためのあれこれをする。
羽生には、それが合っている。
しかし、それにしたって、ある程度のサポート態勢は必要になる。
多くの困難があろう。
しかし、その、単独行を羽生は選んだのだ。
羽生のアイデアが登山界で知られれば、日本の山岳関係者にも、それは届く。
届けば──
“あの男もそれを知ることになるだろう”
と、深町は思った。
あの男、長谷常雄である。
長谷がそれを知れば、羽生よりも先にそれをやってのける可能性はある。
長谷ならば、多くの企業がスポンサーにつく。
深町には、わかっている。
“他の人間”と羽生が言ったのは、どこかの誰という、不特定の人間ではない。
長谷常雄というただひとりの男の顔が、その時の羽生の脳裏にあったに違いない。
「わたしには、わかりましたよ」
と、ダワ・ザンブーは、深町に言った。
「この日本人は、たったひとつのことのために、全てを捨てて、ここにやってきたのだということがね」
その全ての中には、岸涼子も入っていたのだろうか。
岸を山で死なせた責任感というよりは、まるで、涼子への未練のように、毎月、羽生は、彼女に金を送り続けてきた。
結局、羽生という日本人の面倒を、アン・ツェリンがみるということを、黙認というよりは、もう少し積極的なかたちで、ダワ・ザンブーは認めることとなった。
チェックポストの関係者には、内々で、アン・ツェリンと、ダワ・ザンブーが話をし、羽生をひきあわせた。
ナムチェバザールにもチェックポストはあり、そこの人間は、ダワ・ザンブーはもとより、アン・ツェリンとも交流がある。知人である。やはり、内緒というわけにはいかない。
パスポートに問題がない限り、という条件がついた。
異国人が、長期間、観光ビザでネパールに滞在することはできない。
四ヵ月に一度、いったん国外へ出なければならない。だから、羽生は、四ヵ月に一度、ネパールからインドに出る。といっても、インドとの国境までゆき、そこで、一度に、出国と再入国の手続きをしてしまうだけのことだ。
何がしかの金を係官につかませれば、誰でもやれる。羽生の、ネパールでの滞在が違法でない限り、チェックポストの通過は、シェルパと同様でいいということになった。
もともと、チェックポストの通過は、この国ではアバウトである。
特別に、厳しく見張られているわけではない。いくらでも、チェックを受けずに、外国人でもそこを通過することができる。
このことを利用して、一九七四年に、フランス隊が、トレッキングを装って、クンブ地域の未踏峰であったタウツェの六五四二メートルの頂を踏んだ。
これが、後で当局の知るところとなり、六〇〇〇ルピーの罰金を科され、リーダーは入国を五年間拒否され、登山・トレッキングについては七年間禁止された。他のメンバーは四年間の入国拒否、五年間の登山・トレッキングの禁止が申し渡されたのである。
そういう事件があったからといって、チェックポストでのチェックが、前以上に厳しくなったかというと、そうではなく、以前と同じであるというのが、この国のおもしろいところでもあった。
ともあれ、法を犯さずに、羽生は、アン・ツェリンの家に住むことができるようになった。
羽生が、日本人であるということを知っているのは、チェックポストの人間と、シェルパたちである。
羽生のねらいが、エヴェレスト南西壁の、冬期、単独、無酸素の初登頂であることを知っているのは、アン・ツェリンと、ダワ・ザンブーのみであった。
この、冬期エヴェレスト南西壁無酸素単独初登頂については、正式には、政府の許可が必要になる。二年以上も前から申し込みをし、許可をもらって初めてエヴェレストに挑むことになるのだ。
一年から二年、準備をして、三年目に決行──一九八九年の十二月に、その羽生の登山は行なわれるはずであった。
「彼は、カトマンドゥで、一九八七年にその登山の申請をしました。しかし、その登山は、許可されなかったのです」
ダワ・ザンブーは言った。
「何故ですか?」
「その登山が、あまりにも危険だという理由からです」
色々なやりとりが、当局とあったという。
事故がおこったら、これは、国と国との問題でもあるのです──と、役人は言った。
あなたは、日本山岳会に所属しているのかとも問われた。そちらに連絡をとって、この許可の問題について話し合いたいと──
それ以上の話は、できなかった。
日本の山岳会を巻き込めば、羽生のもくろみは、結局潰されることになるだろう。
ならば──
羽生が次に考えたのは、すでに、許可を得ている登山隊に連絡をとり、合同登山というかたちにすることであった。
それは、実際には、よくあるケースであった。
ある年の冬に、ヒマラヤのあるジャイアンツに登山隊を送り込みたい。しかし、すでに、その年のその時期には、何隊かの登山隊の予約が入っている。同時期に、何隊までと、ヒマラヤの場合は隊数が決められている。それ以上の隊は、同じ山に入ることはできない。
それで、後から申し込んだ者は、すでに許可を得ている隊に連絡をとり、そちらの隊と自分たちの隊との、合同登山というかたちにしてもらえないだろうかと申し出て、それが実現することが少なくない。
それは、どちらにもメリットのあることだからである。
最初に申し込んだ隊は、別の一隊が加わることによって、入山料が半額になる。場合によっては、全額、後から申し込んだ隊に払わせるという条件を持ち出してくるケースもあるのである。
後から申し込んだ方にしてみれば、たとえ金は高くつくことになっても、予定した時期に入山して、アタックをかけた方がいい。
こうして、ふたつの隊がドッキングをし、それぞれ、自分の目的に合ったコースで登山を開始することになる。
しかし、羽生の場合は、単独である。
単独行者に入山料を半額払ってもらっても、そのあとがよくない。
同じコースをとった場合、単独行者が、パーティーより少し遅れてゆけば、全て、ルート工作が済んでいる中をゆくことになる。
パーティーとしては、その単独行者のためにルート工作をしてやったようなものだ。
しかも、登頂すれば、おいしいところは、全てその単独行者が持っていってしまうことになる。
単独行者は、相手としてありがたがられないのだ。
羽生にしてみても、そのパーティーに対して、自分の“冬期単独無酸素”というアイデアについて語らねばならなくなる。
それも、決行直前ではなく、二年も前に──
このアイデアと自分の名が出れば、あっという間に、それが日本に知れ渡ることになるだろう。
「結局、ビカール・サンは、それをやめたんですよ」
ダワ・ザンブーは言った。
「あきらめたと?」
「まさか」
ダワ・ザンブーは、首を左右に振った。
「ビカール・サンは、予定通りに決行しましたよ」
「したのですか」
「内緒でね」
「いつですか?」
「一九八九年の十二月にね」
「許可は?」
「許可はとりませんでした。ビカール・サンは、無許可でアン・ツェリンと、たったふたりで出発し、ベースキャンプから上は、ビカール・サンがただひとりで登りました──」
「成功したのですか?」
「いいや」
「失敗したんですか?」
「八○○○メートルまで登って、そこから、ビカール・サンは、もどってきました。アイスフォールで時間と体力を使いすぎたんです。その年のアイスフォールは、特に不安定でしたからね。八○○○メートルで、天候が急変し、そこで、二日ビヴァークして、もどってきたんです──」
ベースキャンプに着くなり、倒れ込んだ羽生を、アン・ツェリンは、様子を見にやってきた娘のドゥマと、交代で担ぎ、下におろしたのだという。
それを知っているのは、アン・ツェリン父娘と、自分だけだと、ダワ・ザンブーは言った。
羽生は、一九九〇年に、もう一度、計画を練りなおした。
その年に、羽生は、カトマンドゥで、長谷常雄に会っている。
しかし、ダワ・ザンブーは、羽生が、長谷常雄と会ったことについては知らない様子であった。
一九九一年に、何度か、ナンパ・峠《ラ》を抜けて、チベットに入り、チベット側からのエヴェレスト──チョモランマを偵察している。
ナンパ・ラは、チベットとネパール国境にあるヒマラヤの峠である。
シェルパたちは、その峠を越えて、チベットまで、カトマンドゥで買った仏具を売りにゆき、その金で、絨毯《じゅうたん》を買って帰ってくる。その絨毯を、カトマンドゥで売ると、いい金になるのだ。
途中に、簡単なチェックポストがひとつあるだけで、国境の峠は誰もいない荒涼たる雪と氷河の世界である。
チェックポストは、シェルパなら、ほとんどフリーパスだ。
標高六〇〇〇メートルに近いこの峠を越えて、羽生は、チベットとネパールを行き来した。
一九九二年の夏に、チベット側から、羽生はエヴェレストに入り、無酸素で、頂上を踏んだ。
単独ではない。この時には、五七〇〇メートルの高さまで、アン・ツェリンが同行している。
羽生の目標はあくまでも、冬期のエヴェレスト南西壁を、無酸素、単独でやることにある。
そのおりのエヴェレスト行は、エヴェレストの高さにおいて、無酸素で行動した時、自分の精神や肉体がどうなるかということを確認するためのものだ。
「その時に、ビカール・サンは、例のカメラを手に入れたんです」
「カメラ──マロリーのですか?」
「ええ」
「どういう状況だったんですか?」
「八一○○メートルあたりだったらしい。そこで、白人の屍体《したい》を見つけたと、ビカール・サンは言っていましたよ」
「八一〇〇」
それは、長谷川良典によれば、王洪宝《おうこうほう》が、白人の屍体を見たと報告した高度である。
大きな岩の陰に、隠れるようにその白人は寝ており、服に触れると、服はぼろぼろと崩れたという。
詳しい位置を言う前に、王洪宝は、雪崩《なだれ》に巻き込まれて死に、その件については、そのままになっている。
王洪宝が見、長谷川良典に語ったその白人の屍体が、マロリーの屍体だったのではないかと言われている。
その現場へ、羽生もたどりついたというのか。
「その屍体のザックの中から、ビカール・サンは、カメラを持ってきたんですよ」
と、ダワ・ザンブーは言った。
「彼は、何故、そのことをどこにも報告しなかったのですか──」
「無許可で、チベットに入っていましたからね。何故、そのカメラを手に入れたのかを語れば、彼は、強制的に日本に送り返されてしまう。それがいやだったのでしょう」
「フィルムは──カメラの中に入っていたフィルムは、どうしたんですか?」
「それは、彼から聴かされていないのですか?」
「はい」
「なら、わたしから言うのは、ここではひかえておきましょう。彼に会ったら、詳しく、本人から聴くといい」
ダワ・ザンブーは、多くを語らなかったが、これで、あのカメラのことを、羽生が秘密にしたがったことの意味がわかった。
あのカメラが、世間の中に出され、マスコミが騒げば、いやでも羽生の名が出ることになる。
そうなれば、羽生が、非合法にチベットヘ入国し、エヴェレストに登ったことが知られてしまう。そうなったら、羽生の、本来の目的である、冬の南西壁無酸素単独登頂をあきらめねばならなくなる。
「今年の、五月だったかな。あなたがたの隊と同じ時期に、イギリス隊がサガルマータに入っていましたが、あの隊に、実はビカール・サンもいたんですよ」
その時、ポーターのひとりが、具合が悪くなって、途中から下山することになった。
そのポーターは、下るおり、デボチェにあるアン・ツェリンの家の庭に宿泊した。その時に、アン・ツェリンの家から、マロリーのカメラや、仏具などを盗んでいったのだという。
それを知って、アン・ツェリンとビカール・サンは、カトマンドゥまで、カメラとそのポーターを捜しに下りたのだ。そのポーターが、コータムで、ナラダール・ラゼンドラのつてで、マニ・クマールの店にカメラを売ったのであった。
「では、今、カメラは、ビカール・サンのところにもどったのですね?」
「ええ。アン・ツェリンの家に置いてあるはずです」
「家の場所は、デボチェと言ってましたね?」
デボチェは、タンボチェから、二十分ほど下った場所にある、小さなシェルパ族の集落である。
「そうです。あのカメラは、もしかしたら、ドゥマが持って、カトマンドゥまで下りているかもしれない」
「パタンにある、あの家ですか?」
「そうそう・パタンに、アン・ツェリンとビカール・サンは、部屋を借りています。そこに、ドゥマと子供はいるかもしれません」
「ドゥマと、ビカール・サンは、結婚を?」
深町は訊いた。
「いいや。わたしの知る限りでは、してはいないようです」
「本当に?」
「夫婦同然に暮らしてはいますがね」
「子供たちというのは、ドゥマと、ビカール・サンの?」
「ええ。もう、二歳になりますかね──」
「どうして、ふたりは、そのような関係になったのですか?」
「一九八九年の十二月に、ビカール・サンが、エヴェレストで失敗した時ですよ。ドゥマが、ずっとビカール・サンにつき添って面倒を看ていましたからね。自然にそういう関係になったのでしょうね」
「ビカール・サンがつきあっていた女性が日本にいたことは、御存知でしたか?」
「聞いてはいましたよ。時々、金を送っていたらしい。日本円にしたら、五〇〇円にもならない額の金だった時もあるでしょう──」
そうか。
それなら、岸涼子への仕送りが途絶えた時期と重なっている。
アン・ツェリンの娘と、そういう関係になって、羽生は、岸涼子への未練を断ち切ろうとしたのだろうか。
同時に、ふたつのことはできない──
潔すぎるくらいであった。
「ビカール・サンは、もう、日本には帰らないと?」
「さあ。そこまではわかりません。ひとつだけわかっているのは、どちらにしろ、サガルマータの南西壁に決着をつけるまでは、彼はこちらにいるだろうということだけです」
「そうですか」
「今年の冬に、いよいよ、ビカール・サンはやるつもりですよ」
「南西壁を?」
「そうです。そのために、ビカール・サンは、この秋に、チベットまで行ってたんですよ」
「チベット?」
そういえば、そういうことをナラダール・ラゼンドラも言っていたのではなかったか。
「何のために?」
「高度順応のためですよ。八○○○メートルの高度に順応しておくために、ビカール・サンは、チベット側から、チョ・オユーに、単独で、無酸素で行っていたんです」
こともなげに、ダワ・ザンブーは言った。
なんということか。
強い昂揚《こうよう》を、深町は味わっていた。
まったく、なんということか。
エヴェレストを無酸素でやるための高度順応のため、チョ・オユーに無酸素、単独で登ってきたんだと!?
それだけでも、超人的な登山であることにかわりはない。
たしかに、チョ・オユーは、八○○○メートル峰としては、高い方ではない。標高八二〇一メートル。その頂は、八○○○メートルを二〇〇メートルほど出ているだけだ。
しかも、ネパール側から、ナンパ・ラを通って、いったんチベッ卜側へ抜けて、北側からのアプローチとなれば、比較的、楽である。しかし、楽といっても、八○○○メートル峰だ。エヴェレストや他の八○○○メートル峰に比べたら楽というだけの話である。
そのチョ・オユーの頂に、高度順応のためだけに、立ってきたというのか。
それを十月にやってきたのなら、今、羽生の肉体も精神も、完璧に近いかたちでしあがっていることになる。
チョ・オユーからもどって、高度順応が抜けきる直前の一ヵ月近くを、カトマンドゥで休息に当て、肉体をオーバーホールする。
その後に、いよいよ、クンブに入って、十一月の中ごろまでに、楽な六〇〇〇メートルから七〇〇〇メートルにかけての山へじっくり登っておく。
そして、十一月の後半に、エヴェレストのベースキャンプに入っておけば、これ以上のことは、もう、望めない。
それが、全て実行されたなら、羽生は、やってしまうのではないか。
あの、夢のような登頂を、羽生丈二という男は、なし遂げてしまうのではないか。
そういう、強い興奮に煽《あお》られるようにして、深町は、ダワ・ザンブーの家を出たのであった。
そして、今、深町は、タンボチェにたどりつこうとしていた。
長い、登りの道を登りきり、深町は、タンボチェに立った。
立ったその時、見えた。
エヴェレストが。
ネパール名、サガルマータ。
チベット名、チョモランマ。
その頂が、正面に見えていた。
直線距離にして、およそ、二三キロメートル。
右手に、アマ・ダブラムを配し、ヌプツェの七八六一メートル蜂と、ローツェの八五一六メートル峰を繋ぐ、巨大な岩稜《がんりょう》の向こうに、エヴェレストの、岩蜂が、碧《あお》い天に刺さっていた。
挟い、木目の浮き出た、木の階段だった。
深町が、足を乗せるたびに、軋み音があがる。
二階へあがると、ひとりの若い僧侶が立っていた。
「ナマステ」
深町が会釈をすると、
「ナマステ」
低い声で、挨拶を返してきた。
広い部屋ではない。
日本で言うなら、八畳間くらいだろうか。その部屋に、テーブルやら、竃やらがあり、壁には棚があって、そこに、皿や、鍋、日常の道具が乗っている。
小さなテーブルがあって、その上に置かれたティーカップから、湯気があがっていた。バター茶の匂いが、部屋の空気に溶けている。そして、それより、もっと濃い、香《こう》の匂い。
用件は、もう、わかっているらしく、僧侶は、右手を持ちあげて、奥の方を示した。
そこに、扉があり、その扉は開け放たれていた。
小さな扉であった。
開け放たれた扉の前まで来ると、深町はそこに立ち止まった。扉の中に眼をやる。
そこは、小さな部屋だった。
三畳もないであろう。
窓がひとつ。
寝台がひとつ。
その寝台の上に、ちんまりと、老人の僧侶が座していた。
眼は閉じられている。
それは、遺体であった。
死んでから、すでに、五日がたっている。
タンボチェにある僧院《ゴンパ》の高憎が、数日前に死んだというのを知ったのは、ついさきほどである。
タンボチェに着き、深町は、先行していたポーターから荷を受け取り、テントを張った。
ナムチェバザールで、食料を色々と買い込んでいるから、荷が増え、ヤクをもう一頭借りている。二頭のヤクに荷を積んで、先にタンボチェに着いていたポーターが、テントを張っている深町に、
「五日前に、このゴンパの、偉い坊さんが、亡くなったらしいですね」
そう言ったのである。
春に、エヴェレストをねらった時にも、このタンボチェに宿泊をしている。そのおりに、皆で僧院にゆき、小額の金を寄進《きしん》して、老いた僧侶から、厄《やく》を払ってもらっている。
座している僧侶の前に立ち、合掌して頭を下げると、五鈷杵《ごこしょ》を持った手で軽く額に触れてくれる。按法器礼《あんほうきれい》と言われるチベット風の儀式であり、これを“チャクワンを受ける”とシェルパは呼んでいた。
しかし、深町はこれを、日本風に、厄を払ってもらったというように理解をしていた。
皺の多い、やけに小さい顔の僧であったと深町は記憶をしている。
あの時の僧であろうかと、深町は思った。
縁というほどの縁ではないが、しばらく前まではまだ生きていた人間が、半年ほどたってまたやって来たら、すでにこの世のものではないということに、奇妙な感慨《かんがい》を覚えた。哀しみというほど強い感情ではない。
感慨と、そう呼ぶのが一番当たっているように思う。
「あちこちから、大勢、参拝に来たみたいですよ」
と、ポーターは言った。
ポーターとの会話は、たどたどしいネパール語である。
「参拝?」
と、深町は訊いた。
「ええ。尊いラーマが死ぬと、皆が、拝みに来るんです」
ポーターは、そう言った。
「日本人でも拝むことができるのかい?」
「できますよ」
そう言われて、深町は、その僧の遺体と対面してみることにしたのである。
半分は好奇心であった。
僧院にゆき、
「死んだラーマの部屋はどこですか?」
会った僧に訊いた。
その憎が、今、深町がいる二階のこの部屋を教えてくれたのである。
遺体を見て、ああ、やはりあの僧であったと、深町は胸の中でうなずいた。
ちんまりとした、顔の小ささに見覚えがあった。
あの時よりも、さらに、頭部が縮んだように見えた。頭部ばかりでなく、身体全体もしぽんだように思えた。顔さえ見なければ、子供の屍体のような感じだった。
頬の皮膚は、かさかさに乾いた木肌のようであった。頭に、短く毛が生えており、眼は閉じられ、首が微かに曲がっている。
誰かに、何かを問われ、さあてと首をひねった形のまま、死んだように見える。
肩や首や身体に、力夕と呼ばれる白い布が何枚も掛けてあった。
僧は、寝台の上に座し、半分、壁に寄りかかるようにして死んでおり、膝先に盆が置いてあった。その盆の上に、数個の蜜柑《みかん》と、それから紙幣《しへい》や小銭が乗っていた。小銭は盆の上だけでなく、僧の身体や、その身体に巻きつけられたカタの上にも乗っており、寝台の上や床の上にも散らばっていた。
いったい、何歳くらいであったのだろうか。
八十歳にはなっているだろうと思えるが、日本人の感覚より、ネパール人は老《ふ》けて見えるから、案外に七十歳代であるのかもしれない。
深町は、ポケットの中から、何枚かのドル紙幣を取り出して、ぞれを、老僧の遺体の上に置いた。
眼を閉じ、手を合わせる。
気の利いた経も知らないし、こういう時の作法も知らない。日本での時と同様にした。
無言で、祈った。
閉じた瞼《まぶた》の裏に、加代子の顔が浮かんだ。
なつかしい顔だった。
今、どこで、どうしているのか。
共通の友人の何人かには、ネパールヘゆくと言っておいたから、あるいは、加代子の耳にも、自分がどこにいるかは届いているかもしれなかった。
次には、涼子の顔が浮かんだ。
カトマンドゥの空港で別れたままの、あの顔──
眼を開く。
また、老僧の姿が眼に入った。
窓から、タ刻に近い、赤みを帯びた陽が差し込んで、老僧の膝の上に溜まっていた。
おそらく、これまで、ほとんどここから外へ出たことなどなかったてあろう。この里に生まれ、この寺に入れられ、この寺で修行をし、そのままこの寺の僧となった。
使い走りから、毎日の読経《どきょう》まで──その繰り返しの日々。
カトマンドゥくらいであれば、行ったことはあろうが、多くは、この寺で、自分の一生の時間を消費してきたのであろう。
そして、ここで、その生涯を終えた。
ヒマラヤの雪峰を望む地。
荒涼とした風景。
薄い空気。
雪と氷。
天。
深町の知っている、都会の喧噪、猥雑《わいざつ》。
そういうものがない。
映画や、雑誌も、居酒屋もない。
では、ここには何があるのか。
何が……
こういう人生もあるのだ──
自分の一生はどうなのか。
そう思いながら、深町は、後方をふりかえった。
若い憎が、自分を見ている。
「亡くなられた時は、どんな様子だったのですか」
深町は、ネパール語で訊いた。
「いつもと同じでした」
若い憎は答えた。
「同じ?」
「いつもと同じように、朝の瞑想をして、そのまま──」
「そのままって、瞑想中に?」
「ええ。いつもより瞑想の時間が長いので、声をかけたのですが、返事がありませんでした。触ってみたら、もう──」
「亡くなっていたのですか」
「はい」
「場所は?」
「そこです」
「そこ?」
「あなたが今見ている場所で、今見ているような姿で亡くなられたのです」
その憎は言った。
深町は、また、あらためて、憎の遺体に眼をやった。
表情は、穏やかだった。
本当に、瞑想中に死んだとしか言いようがない。
何年も前に、この寺が火事になった時の話を、深町は、前回、シェルパから耳にしている。
その時、たくさんの寺宝やタンカが寺から持ち出され、その多くは、カトマンドゥで売られて、寺にはもどってこなかったというのである。火事で消失してしまったことにして、憎自身がそれを売って金にしてしまったのだと──
もとより、噂である。
しかし、そういう噂が、真実味をもって聴こえ、そういうものであろうとも思った。
この憎も、そういうことをしたのだろうか。
したとしても、この国であれば、少しも不自然な気がしない。憎が、仏の絵や像を売って金に換えてしまう──そういう行為について聞かされても、悪という響きを持って聴こえてはこない。
「今でも、毎日、何人もの人が参拝に来ます──」
と、若い憎は言った。
その時──
階段の軋む音がして、ひとりのシェルパ族の女が、二歳か三歳くらいの子供の手を引いて、部屋に入ってきた。
手に白い布──カタを持っているところを見ると、憎の遺体に参拝をするためにやってきたらしい。
深町にはわからないシェルパ語で、短く憎と話をし、小部屋の戸口の前に立った。
深町と同様に、小部屋の中には入らない。
その小部屋は、もう、祭壇そのもの──神聖な空間として作用し始めているらしかった。
深町は、女と擦れ違い、いったんは階段へ向かって足を踏み出しかけだのだが、途中でその足を止めていた。
その女の顔に、見覚えがあったのである。
僧院の外で、深町は、山を眺めていた。
エヴェレスト、ローツェ、ヌプツェ──三つの岩峰が、北に見えている。ヒマラヤの八○○○メートル峰を、二座、間近く、同時にひとつの視界に収めることができる場所は、世界にそう幾つもない。
陽は、すでに西に傾いている。
いずれ、陽は、西の山の端に没することになる。
あと、二時間ほどは、陽光の中にいられるだろうか。
深町は、陽光の温度を全身に受けるように、時おり、身体を回して、逆の側を陽光にあてた。
ほどなく、さきほどのシェルパの女が、子供の手を引いて出てきた。
ひとつ、深く息を吸い込んで、深町は女に向かって足を踏み出した。
女の横に立って、
「ナマステ」
声をかけた。
それが聴こえなかったように、女は歩いてゆこうとする。
「ナマステ、ドゥマ」
おもいきって、深町は、女の名を呼んだ。
女は、あきらめたように足を停めた。
深町を、黒い眼で見つめた。
怒りと、不安と、怯《おび》えとが、交互にその瞳の中で揺れている。
「わかってしまったと思ってました」
と、女は言った。
「あなたも、最初から?」
深町は訊いた。
「ええ、ラーマのお部屋であなたを見た時、すぐに誰だかわかりました」
「では、何故、今、黙ってゆこうとしたのですか?」
「もう、あなたたちと、関わりになりたくなかったからです」
「でも、もう、関わっています」
「あなたの方から、一方的にです。あなたは、日本から女の人まで呼んで、わたしたちの生活に割り込んできました──」
ドゥマは、子供の手を、強く握り締めて、自分に引き寄せた。
ドゥマの言う通りであった。
深町が、思わずたじろぐほど、強い口調であった。
ふと、深町は気づいた。
ドゥマの視線が、自分の首のあたりに注がれていることに──
深町は、自分の首に右手を持ってゆき、それを指先でつまんだ。
涼子が置いていった、トルコ石のネックレスだ。
「これですか?」
深町は、それを握ったまま言った。
「それは?」
「パタンで会った、あの日本人の女性から預かったものです。ビカール・サンからもらったものだが、これを彼に返しておいてくれと──」
「返す?」
「これは、きっと、大事なものだろうからと……」
「母の形見《かたみ》です」
「母?」
「わたしの母です。母が死んだ時に、それを、父が、彼にあげたものです……」
ドゥマの声が、当初よりも柔らかいものになっていた。
「彼は、もらったそれを、日本にいる知り合いに送ってもいいかと、父に尋ねました」
女か?
と、アン・ツェリンは、その時、羽生に訊いたという。
そうです──
羽生はそう答えた。
──好きな女か。
──ええ。
──送ってやれ。
そういう会話があったという。
「まだ、あの人とわたしが、こうなる前のことです」
「そうでしたか」
「あの女の人が、ビカール・サンを追って、ネパールにやってきたのを知った時、わたしは、動揺しました。彼が、その女の人と一緒に、日本にもどってしまうんじゃないかと思って──」
「────」
「わたしは、それが、恐かったのです」
「でも、ビカール・サンは、こちらに残った……」
ドゥマは、視線を足元に落とし、首を左右に小さく振った。
「でも、わかりません……」
ふいに、日本語で言った。
「日本語が……」
深町も、思わず日本語で言っていた。
「ええ。あの人と、ずっと長くいましたから。あの人の国のこと、もっと知りたかった、思いましたから……」
羽生から、日本語を学んでいたのだという。
あるいは、もしかしたら、日本へ、羽生とともにゆくこともあるかもしれないと、そういうことまで考えていたのか。
そう思った時、深町は、何故、彼女が急に日本語になったのかを理解していた。
もう、いくらか言葉がわかりかけている子供に、話の内容を聴かせたくないと思ったからではないか。
子供は、敏感に、自分の親がどういう話をしているかを理解する。
「あの人は?」
「あの人?」
「あなたと、一緒に来た女性です」
「彼女は、しばらく前に、カトマンドゥから、飛行機で日本に帰りました」
「そうですか」
ドゥマは、うなずいた。
会話をして、初めて、深町は、このドゥマという娘の一端《いったん》に触れたと思った。
文化や風俗こそ違うが、基本的な心の構造は、あたりまえのごとく、日本人と同じだということを、深町は思い知らされていた。いや、日本人とかチベット人とかいう次元ではない。人のこころは、何人《なんびと》であろうが、同様の反応をする。
深町には、ドゥマの不安や、心の動揺がよく理解できた。
ドゥマは、黒っぽい、チュバと呼ばれる、日本で言えば着物にあたるものを着ていた。右を下にして前を合わせ、物入れにするため、懐をゆるめて帯でウェストを締めている。その上から、横縞《よこじま》の、バンデンと呼ばれる、エプロンか、前掛《まえかけ》に近いものをしている。
着ているものは、泥と埃《ほこり》で汚れているが、顔は、他の村の娘ほど垢《あか》じみてはいない。髪の毛も、こざっぱりとしている。
「カトマンドゥにいるのかと思っていました……」
深町は言った。
「ハブさん、だいじな時。一緒にいるつもりで、来ましたです」
「サガルマータを、やるんですね?」
深町は訊いた。
ドゥマは、その問いには答えなかった。
「あの人が、こちらに残ったの、山登るためだこと、わたし、知ってます。わたしがいるからでない……」
哀しい顔で、ドゥマは言った。
そのことについて、どういう言葉も、深町は、ドゥマにかけてやることができなかった。
別のことを訊いた。
「ビカール・サンは、今、家にいるのですか?」
「家のことを……?」
「知ってます。ナムチェで、ダワ・ザンブーから聴きました」
「あの人が……」
「ビカール・サンに、羽生に会いたいのです──」
「あの人、今、家にいません」
「どこにいるのですか──」
「────」
ドゥマは、また、口をつぐんだ。
深町は、ドゥマの手を握り締めている子供を見やって、
「名前は?」
ネパール語で訊いた。
「ニマ」
答えたのは、ドゥマである。
「男の子?」
「そうです」
ドゥマの顔に、はじめて笑みが浮かんだ。
笑うと、年齢が、ふいに若くなったように見える。
年齢は、三十歳くらいだろうか。
顔だちは、整っている方だ。
外見についてだけ言えば、日本人と違っているのは、服装と髪型くらいである。
「わたしの方から、訊いていいですか」
ドゥマが言った。
再びネパール語の会話になる。
「何でも──」
と、深町は微笑した。
向こうから訊きたいことがあれば、何でも答えるつもりだった。
「あの人、日本では、どういう人だったんですか──」
一瞬、深町は、“あの人”が涼子のことかと思ったが、すぐに、そうではなく、羽生のことであるとわかった。
「どうと言われても──」
深町は、口ごもった。
日本では、一度も、直接に話をしたことはない。深町が羽生について知っているのは、色々な人間の噂と、それが活字になったもの、そして、記録である。
鬼スラの記録の話をしても、彼女はそれを、どこまで理解できるだろうか。
「どうですか?」
ドゥマは、はじめよりは、ずっと柔らかな表情になって、言った。
何か、思いついたように、
「食事の用意をまだしていないのなら、今夜、わたしの家で、何か食べてゆきませんか」
ドゥマは言った。
「いいんですか」
「ジャガイモと、バターと、お茶ならば充分あります」
「お邪魔します」
「喰べながら、あの人の日本でのこと、話してくれますか」
「もちろん」
深町は、声を少し大きくして、うなずいていた。
さほど、大きいとは言えない、家であった。
タンボチエの僧院から、二十五分ほども下った場所が、平地になっている。川に沿って、この平地が広がっていて、森になっている。平地とは言っても、起伏は幾つもあり、その起伏を縫うように道は続いていた。
左側が、イムジャ・コーラという川である。道からは、川を見ることができないが、時おり、水音が耳に届いてくるくらいには近い。
その、道と川との間の、森が切り聞かれた平地に、アン・ツェリンの家はあった。
道からそれて、樹の間を歩いてゆくと、思いがけなく、そこに家が姿を見せる。
壁は、石を積み重ね、漆喰《しっくい》を塗ったものだ。漆喰が、三分の一以上剥がれ落ち、中の石が見えていた。
陽光は、もう、この谷の底までは届いてきていないが、あたりはまだ明るい。
ポーターには、場合によったら、今夜は帰らないかもしれないと言って、ここまで降りてきたのである。
現金と、カメラ、パスポート、それから水筒と寝袋、簡単な洗面用具、非常用の喰べ物などをサブザックに詰め、背に負った。
歩きながら、ドゥマは、ぽつり、ぽつりと、子供のことや、父親のアン・ツェリンについて語った。
羽生のことは、あまり口にしなかった。
いずれ、子供を学校にやって、きちんとした教育を受けさせたいと、そういうことも、ドゥマは言っていた。
日本語を学ばせて、日本の学校へ入れることは可能だろうかとも、ドゥマは深町に訊いた。
様々な質問に、深町は、丁寧に答えた。
会った時に比べれば、ずっと、ドゥマは深町に心を開いている。
きっかけは、この、首に下げている、もとはアン・ツェリンの妻がしていたという、ターコイスの首飾りだ。ドゥマにとっては母親の形見だ。
これをドゥマが見たことがきっかけとなって、深町は、彼女とこのような話をすることができたのだ。
ダワ・ザンブーもそうだった。
あの老シェルパも、この首飾りを見、それから心を開いてくれたのだ。
考えようによっては、これは、幸運の石なのかもしれない。
家の前に、深町は、ドゥマ母子と共に立った。
ドゥマが、一階部分の扉を開き、
「どうぞ」
と、深町を招き入れた。
中の暗がりで、もぞりと、大きな影が動いた。
牛、ヤクであった。
それから、山羊が二頭。
このあたりでは、一般的なシェルパの家の造りであった。一階部分が家畜小舎、二階部分が人間の住居。
「この家を空ける時は、家畜はどうしてるんですか?」
「近くの親戚に預けるか、この家に誰か来てもらっているんです」
ドゥマは、子供を抱え、先になって二階に上っていった。
深町が、その後に続く。
二階──
ダワ・ザンブーの家を、ふたまわりほど小さくしたくらいの部屋だった。
窓。
竃がひとつ。
寝台がふたつ。
テーブルがひとつ。
そして、壁に設けられた棚。その棚に、銅の鍋や、ポリタンク、ランプの火屋《ほや》、ビスケットの箱、ツァンパ入れ──様々なものが並べられている。
日本語の本が、数冊──
日本人が、ここに住んでいたことを思わせるものといえば、その本だけだ。
ここか──
と、深町は思った。
ここで、暮らしていたのか、羽生丈二は。
なつかしいような、ようやくたどりついた安堵《あんど》感のような、不思議な気持が、深町の胸に満ちた。
ほの暗い部屋であった。
一瞬、深町は、羽生に対して、申しわけないという気持に襲われた。
自分が暮らしたこの場所を、自分の留守中に、他人の日本人に見られることを、羽生は好まないだろう。はっきり、それを嫌うに違いないと思った。
自分は今、羽生に内緒で、羽生の秘密を見てしまったことになる。
深町が、そういう感傷を胸に抱いている時、
「おかしいです……」
ふいに、小さな声でドゥマが言った。
「おかしい?」
深町は訊いた。
「ええ」
ドゥマは、周囲を不安そうな顔で見回しながら、
「寝台《ベッド》の位置が、動いています。棚の上に乗せてあったものも、場所が変わっているし、テーブルも、少し場所が違っているようです」
子供の悲鳴が響いたのは、その時であった。
深町とドゥマは、同時に、その悲鳴の聴こえてきた方角に顔を向けた。
二階の奥──そこに、ネパール風のチェストが置いてあった。
その陰から、ひとりの男が出てきた。
その男が、左腕の中に、ドゥマと羽生の息子、ニマを抱えていた。その男は、右手にナイフを持ち、その切っ先を、ニマの喉元にあてている。男の腕の中で、激しい声をあげて、ニマが泣き出した。
「ガルノス、旦那《サーブ》……」
その男は言った。
その男に、そうやって声をかけられるのは、深町はこれで二度目だった。前の時は、カトマンドゥの、チェトラパティ広場に続く道の途中でのことだ。
モハンが、そこに立っていた。
「モハン、おまえ……」
深町は、声をつまらせた。
「何で、おれがここにいるのかってことかい?」
モハンは、唇をいやな形に歪め、ひきつった笑みを浮かべた。
「インドヘ行って、二〜三年時間を潰《つぶ》して来いだって?」
モハンは、自分で自分に問うように言った。
「やなこった。おれはやだね。行くもんか。碌《ろく》な仕事はないよ。乞食《こじき》をやることになるだけだからな……」
「ニマを放して!」
モハンの言葉を遮《さえき》って、ドゥマが言った。
「放してやってもいいよ。おれの言う通りにしてくれたらね」
「言う通りだって?」
と、深町は言った。
「欲しいんだよ。あのカメラがね」
「カメラ──」
「とぼけないでくれよ。あんたが二度、マニ・クマールの店で買ったあのカメラだよ」
コダック社の、
“べストポケット・オートグラフィック・コダック・スペシャル”
今回のこの件の、そもそもの発端となったカメラであった。
「パタンの、あっちの部屋の方は、家捜《やさが》しをして、出てこなかったからな。ならば、絶対に、こっちの方だろうと考えて、やってきたんだよ。ちょうど、留守だったんでね、時間をかけて捜すつもりだったんだが、途中で帰って来るとは思わなかったよ。おまけに、旦那まで一緒だったとはね──」
しゃべっているうちに、唇が乾いてきたのか、モハンは、唇を舌で湿した。
「どこなんだ」
「カメラを手に入れて、どうする?」
「売るんだよ。インドに出て、外国人にね。イギリス人だな。なんなら、日本人だっていいよ。高く買ってくれるんなら、旦那だってね。その金で、インドでしばらくのんびり過ごすって手はどうだい」
「悪くはないよ。それが自分の金ならね」
「けっ」
と、モハンは、床に唾を吐いた。
「さあ、カメラを出しな。こうなってみると、逆にあんたたちがもどってきて、カメラを捜し易くなったと考えるべきかな」
「おい。ここが、どういう場所かわかってるんだろうな」
「場所?」
「奥へ詰《つ》めても、その先はエヴェレストで行き止まりだよ。カメラを手に入れたって、どこへ逃げる?
逃げ道だって一本だ。あんたが逃げた後、無線でルクラまで連絡すれば、途中で必ず捕まることになる」
「馬鹿だな……」
く、
く、
く、
と、モハンは笑った。
「そのために、この子供をつかまえたんじゃないか」
「なに!?」
「そんなことをしたら、この子供の生命が先になくなるぜ」
「きさま……」
「まず、カメラを出せよ。出さないと、今、子供が死ぬことになるぜ」
ナイフを、さらに強く、子供の喉に押しつけた。
「あるんだろう?」
「あります」
答えたのは、ドゥマであった。
「あります。あのカメラは、間違いなく、ここにあります」
「出しな」
「し、下に……」
「下たと?」
「一階の方に──」
「家畜小舎の方か」
さぐるような眼で、モハンはドゥマを見た。
「は、はい」
「よし、じゃ、下へ降りるんだ。いいか、おれが先だぞ。おれが先に降りてから、次におまえたちが降りてくるんだ。手ぶらでだ。手には何も持つなよ」
モハン、が、部屋の隅から、ニマを抱えたまま近づいてきた。
「もっと端へ寄るんだ」
深町とドゥマが、窓のある壁際、ぎりぎりに寄った。
モハンは、反対側の壁──棚を背にしながら、深町とドゥマに向き合うように擦れ違った。階段を降りてゆく。
「女が先だ」
下から声が響く。
ドゥマ、それから深町の順で、下に降りた。
「さあ、どこだ」
言われて、ドゥマは、四方を見渡し、外への扉を押し開けた。
「シッ!?」
と、ロの中で、強い擦過《さっか》音をたて、
「ザウ、ザウ」
家畜たちに向かって声をあげた。
ヤクが、のっそりと起きあがり、外へ出てゆく。それに、二頭の山羊と鶏が続いた。
ドゥマは、さっきまでヤクが寝そべっていた場所まで、歩み寄った。そこの壁に、スコップがたてかけてある。
それを手に取った。
「何だ、それは?」
「埋めてあるのを、掘り出すんです」
ドゥマが言った。
「ならば、おれが代わろう」
深町が、ドゥマに歩み寄り、スコップを受け取ろうと、右手を差し出した。
「いかん。女がやるんだ」
モハンが言った。
用心深い男だった。
たとえ、カメラを掘り出す作業が少し遅くなろうとも、武器か、それに準ずるものを、男の手に握らせるのは、気が進まないのだろう。
スコップは、充分な武器になる。
ドゥマは、スコップを握り、奥まったひと隅に行って、藁屑《わらくず》をどけ、そこの土を掘り始めた。
ほどなく、そこから、二重にビニール袋に入れられたものが出てきた。ブリキの箱だった。ドゥマは、スコップを地に置いて、その箱を両手で持ちあげ、ビニール袋を取り去り、ブリキの箱を地に置いた。蓋《ふた》を開ける。中に手を入れ、ドゥマはそこから一台の古いカメラを取り出した。
薄暗がりの中ではあったが、深町もはっきり覚えていた。
一度は自分も手にしたことのある、あのカメラだった。
「それか!?」
モハンが、眼を光らせた。
「持って来い」
ドゥマが、カメラを持って、ゆっくりとモハンに向かって歩いてゆく。
「そのカメラを手に入れたって、どうやって金に換えるんだ。ナラダール・ラゼンドラの話を聴いていなかったのか。犯罪をおかして手に入れたカメラは、表の世界に出せないんだぞ」
深町は言った。
「馬鹿。このカメラを手に入れる時に、犯罪行為があったかどうかなんて、買い手が気がつくもんか。売っちまったらこっちのもんさ。その後、どうなろうとな」
モハンは、眼の前に出されたカメラを見やり、
「これか、これがそうなんだな」
興奮した声でつぶやき、身体を動かして、ナイフを持ちかえながら、背に負っていた、ふた昔は前のナップ・ザックを地に下ろした。
「その中に、カメラを入れるんだ」
ドゥマがカメラを入れたナップ・ザックを、モハンは、器用にまた背に負った。
隙《すき》があれば、飛びかかるつもりだったが、モハンの握ったナイフの先が、ニマの首から離れることはなかった。もし、離れたとしても、いざとなったら、その勇気があったかどうか。
再び、ナップ・ザックが、モハンの背に負われることとなった。
「子供を放して──」
ドゥマが言った。
「安全な場所まで行ったら、どこかの家の前に捨てていってやるよ」
言いながら、モハンが、後ろ向きに、出口に向かって、じわじわと退がってゆく。
後ろ向きのまま、外へ出た。
その時──
モハンの後ろから声がかかった。
「モハン、動くなよ」
その声が響いた時、モハンの背が、びくんとすくみあがった。
モハンが、後方を振り返った。
そこに、ナラダール・ラゼンドラが、右手に拳銃を握り、左手を右手首に添え、銃口をモハンに向けて、立っていた。
モハンが、高い、獣に似た唸り声をあげるのと、銃声が響くのと、同時であった。
モハンが、声をあげてのけぞった時、深町は、夢中でモハンに飛びつき、その左腕の中から、ニマを奪い去っていた。
モハンは、戸口の外の地面に仰向けに倒れ、声をあげながらもがいていた。
左肩の肉がはじけ、そこから、大量の血が流れ出していた。
その傍に、あの、カトマンドゥにいるはずの、ナラダール・ラゼンドラが立ち、
「すみませんでした。わたしの失態です。モハンを取り逃がしてしまったのです。まさか、こういうことまでするとは思っていませんでしたので──」
そう言った。
十六章 山の狼
山が、ある。
山が、ある。
深町の前に、山がある。
深町の後に、山がある。
深町の右に、山がある。
深町の左に、山がある。
泣きたくなるような山がある。
清い山がある。
哀しい山がある。
いや、清いだとか、汚ないだとか、哀しいだとか、一切の人間の心から孤高して、山がある。
山だらけの山のそのまた山のまっただ中に山があり山が山に重なり山が山に連なり山は山を生み山は山を超えてなお山の彼方に山がありその山襞のまたその襞の……
ぽつんと、深町がいる。
ぽつんと、深町がある。
成層圏の風を、岩が呼吸している。
雪が、凍てついた大気の中で時間を噛む。
ヌプツェの巨大な岩峰が深町の前にある。
その手前のすぐそこが、アイスフォールだ。
エヴェレスト山群から集まってきた雪が、氷河となって、そこでなだれ落ちている。なんという大きな氷爆《ひょうばく》。
氷河の源は、山頂に降り積もった雪である。
その雪の源は、さらなる高みにある青い天である。
その雪が、自らの重みで、山を滑り、山を下る。
それが、エヴェレスト、ローツェ、ヌプツェの、八○○○メートル峰、七〇〇〇メートル峰に囲まれた、幅四キロの、巨大な谷に集まってくる。
あるものは、雪崩となってひと息に、あるものは、カタツムリよりももっとゆっくりした速度で──そのそれぞれの速度と重みが、雪を圧し、凍りつかせ、下界へ向かってその谷から這い出てゆこうとする。
これが、氷河である。
氷の河だ。
この河は、流れている。
一日に数センチ──一年に数メートルの速度で。
それが、谷の出口で、いっきに下降する。淵に青く溜まった水が、溢れ、そこから滝となってこぼれ出すように。
これがアイスフォールである。
エヴェレストの頂に降り積もった雪が、氷となって、ここまでたどりつくのに、およそ千五百年。下流の、氷河の末端であるロブチェまで、さらに二千年の歳月がかかる。
その旅程、約二〇キロメートル──三千五百年の旅だ。
その時間、その歳月の中に、深町はいる。
アイスフォールの下、氷河の脇にテントを張って、ただ独り、深町はそこで天を呼吸している。
氷河を挟んで、向こうにヌプツェがあり、ふりかえれば、ロー・峠《ラ》の雪の斜面が眩しい。
かつて、一九二一年、エヴェレストをねらったマロリーが、エヴェレスト側からこの巨大な谷を見下ろし、アイスフォールを眺めて、ネパール側からの登頂をあきらめたのが、このロー・ラである。
そして、イギリス隊は、北東稜という、より困難な尾根からの登頂を選んだのだ。一九二一年と一九二二年に第一次、第二次と、遠征隊を送り込み、敗退。そして、一九二四年、第三次の遠征で、マロリーとアーヴィンの悲劇がおこるのである。
結局、エヴェレストの頂に初めて人が立ったのは、一九五三年の第八次遠征のおりだった。
そのおりのルートは、北東稜ではなく、マロリーが不可能と判断したアイスフォールを通る、ネパール側からのものであり、登頂者は、ニュージーランド人ヒラリーと、ネパール人であるシェルパのテンジンであった。
どれもこれも、かつて、深町がいやになるほど読んだ彼等の登攀《とうはん》記録や、彼等が著わした山の本に書かれていることばかりである。
そういうことが、深町の脳裏に甦《よみがえ》ってくる。
すでに、この場所に入って、四日目になる。
ネパール側からエヴェレストをねらう遠征隊が、必ず、ベースキャンプを設ける場所である。
エヴェレストのベースキャンプと言えば、登山隊が入っていようといまいと、自然に、この辺りの場所を指すようになっている。
ポーターは、ヤクと一緒にここまで荷を上げ、その日のうちに、ヤクと共に下った。
この場所には、ヤクが喰べるような草がない。ヤクに、ヤク自身の食用の草を積むと、他の荷が積めなくなる。だから、ヤクが喰べるものがベースキャンプには何もないのだ。その日のうちに下らねば、ヤクが弱ってしまう。
深町は、すでに、この場所で、三泊している。
四日目だ。
標高五四〇〇メートル。
ただひとりで、この高度の清冽《せいれつ》な大気を呼吸していると、自然に、感情が希薄《きはく》になってゆくような気がする。心の中の猥雑《わいざつ》物が、ひとつずつひとつずつ、日を重ねるにつれて消えてゆき、心のみならず、肉体までが透明になってゆくようであった。
日中は、陽が出ると、三十分に一度は、低い地鳴りと共に、ヌプツェの岩壁にしがみついている雪の端が崩れ、雪崩が起きる。時には、その雪煙がベースキャンプ近くまで届いてくることもある。このベースキャンプといえど、雪崩に対して、絶対に安全な場所ではない。
一回ずつの雪崩で、崩落《ほうらく》する雪の量は、たいへんなものだ。
雪崩は、いつも同じ場所で起こる。そこだけ、雪が大きくえぐれて、雪がはがれ易くなっているのである。
しかし、いくら崩れても、どれだけ崩れても、少しも、岩壁の雪の量は減ったようには見えない。
山の内部から、無尽蔵に雪がそこに湧き出てくるようだった。
いったい、どれほどの量の雪が、そこにあるのか。
食事は、自分で用意する。
カトマンドゥで買ったEPIのガスボンベに、パワーブースターを忖けて、雪を入れたコッフェルを乗せ、火を点ける。
雪は、解けると、あっけないほど少ない量の水になる。何度も雪を足しながら、湯を沸かし、砂糖のたっぷり入った熱い紅茶を入れ、それを飲む。
一日に、三リットル余りの水分を、それで摂《と》る。
ビスケットを五枚。
茹《ゆ》でたジャガイモを幾つか。
チーズをひときれ。
一日に、林檎《りんご》を一個齧《かじ》る。
リンゴは、皮ごと齧り、芯まで噛む。
味がなくなるまで、何度も噛んで、エキスを吸い、ロの中に残った芯の滓《かす》と、種を吐き出す。
リンゴ一個の中に含まれる栄養分や、ビタミンのひと滴《しずく》まで、胃や腸の粘膜から吸収してやるつもりだった。
午前中に一度、入念にストレッチをやり、身体中の筋肉を指で揉《も》む。午後、軽く周囲を歩き、もどってから、テントの中で、またストレッチをやる。腿《もも》やふくらはぎの筋肉に、いい弾力がある。肉が、充実しているのがわかる。五月の時よりも、調子はよかった。
これほどの充実感を、自分の肉体に持つことができるとは、考えてもいなかった。
タンボチエから、じっくりと、入念に高度を上げてきたのが効《き》いているのだろう。
アン・ツェリンの家に一泊し、翌日出発をした。
いっきにペリチェまで行ってもよかったのだが、アン・ツェリンの家で、じっくりと睡眠をとり、出発を昼過ぎにしたのである。
二時間歩いて、パンボチェに一泊。
翌日は、三時間歩いて、ペリチエに一泊。
標高四二四〇メートルのペリチエから、標高四八八七メートルのロブチェまで、ゆっくりと歩いて五時間。そこで二泊した。
トレッカーのテントが、二十ほどあり、そのテント場近くの丘に登って、またもどってくるという
作業を、深町は二度やった。
ロブチェから標高五一〇〇メートルのゴラクシェプまで、高度差二一三メートル──これを、氷河を右に見ながら二時間で歩く。
ゴラクシェプで一泊。
翌日、昼に出発。
サイドモレーンを越え、氷河の上を歩いて、ベースキャンプヘ向かう。
氷河──といっても、このあたりの氷河の表面は、ほとんど、山から崩れてきた土砂《どしゃ》や砂や、土や岩に覆《おお》われている。
クレバスや、断層のある箇所に、白い氷や、青氷が見えている。
そして、幾つもの氷柱が、氷河の表面に立っている。
高さ三メートルを超える一本の氷柱の上に、巨大な岩が乗っていたり、ビルひとつ分はありそうな氷の塊りが、土砂に覆われた氷河の表面に露出して転がっていたりする。
いったい、どのような力と、動きが、このような造形をするのか──
人の生活高度を超えた場所を、天に向かって移動しながら、深町は、何度か、神という言葉を胸に去来させた。
ベースキャンプに着いたのは、三日前──十一月二十三日になっていた。
それから三日が過ぎ、十一月二十六日になっている。
アン・ツェリンの家を出てから、九日が経っていた。
あの日──
銃で左肩を撃ち抜かれたモハンの傷口を消毒し、応急の手当てをして、ナラダール・ラゼンドラと一緒にやってきた男ふたりに付き添わせて、彼を先に下らせた。
深町は、ナラダール・ラゼンドラと共にそこに残り、アン・ツェリンの家に泊まった。
その晩──
自分は、ナラダール・ラゼンドラや、ドゥマと、どんな話をしたろうか。
人界を超え、山の時間の中に身を置いた今となっては、あれは、もう遥か彼方のできごとのような気がしている。
「できれば、穏便《おんびん》に済ませていただけませんか──」
茶《チャイ》を飲みながら、自分はそう言ったはずだった。
事を荒だてたくないと。
この時期に、警察や、役人たちが介入してくるのは、自分も好まないし、おそらく、羽生も好まないであろう。
「ビカール・サンも、それを望むでしょう」
「そう言っていただければ、わたしも助かります。自分たちのことは、できるだけ内部で解決したいのでね」
ナラダール・ラゼンドラは、そう言った。
ドゥマも、モハンが起こした事件について、騒ぎを大きくするのを好まなかった。
この事件については、内部で処理をする──
話は、そういうところに落ち着いたはずだ。
羽生の話もした。
羽生は、どこにいるのか、という問いに、ドゥマは答えてくれた。
「ポカルデ……」
ドゥマは、低い声で言った。
「ポカルデ・ピークヘ?」
深町は訊いた。
ドゥマはうなずき、
「高度順応のためです」
そう言った。
ポカルデ・ピークは、ロブチェの南東にそびえる、標高五八〇六メートルの山である。
羽生は、今、アン・ソェリンと共に、そこへ出かけているのだという。
頂上を踏んでから、頂上直下の標高五七七〇メートル地点にテントを張って二泊──
チョ・オユーで、基本的な順応を済ませている身体を、それで、ほぼ完全に高度になじませるつもりなのだと。
それをすませ、家にもどってから一泊し、いよいよ、エヴェレストのベースキャンプヘ入るつもりなのであると。
いいアイデアだった。
話を聴いているうちに、もしかしたら、という気持が芽生えてくる。
もしかしたら、羽生は、これをやりとげてしまうのではないか。
そう考えた時、背に奔《はし》り抜けた震えを、深町は思い出そうとした。
翌朝──
ナラダール・ラゼンドラとは、アン・ツェリンの家の前で別れた。
深町は、より高い場所へ向かうために。
ナラダール・ラゼンドラは、カトマンドゥにもどるために。
別れ際に、ナラダール・ラゼンドラが、深町の手を握って、何かを言ったはずだ。
何と言ったか?
国のことであったか、個人のことであったか?
いや、その両方だ。
「何であれ、待っていても、誰かがそれを与えてくれはしないのです。深町さん。国家も、個人も、その意味では同じなのです……」
ナラダール・ラゼンドラは、そう言った。
「欲しいものがあれば、自らの手でそれを掴《つか》み取るしかないのですよ」
と。
グッド・ラック……
それが、ナラダール・ラゼンドラの最後の言葉であった。
ドゥマが、残った。
「ベースキャンプで待っていると、羽生にそう伝えて下さい」
深町は、ドゥマにそう言い残して、アン・ツェリンの家を出た。
一瞬、あの家で羽生を待つべきかとも考えたのだが、深町は、それをやめた。
もし、エヴェレストに入る前に、家で一泊してゆくのなら、それは、貴重な一泊に違いない。
家族のみで、その時間を過ごさせてやるべきであろう。
そう思い、深町は、単独で、このベースキャンプに入ったのである。
どうせ、羽生は、どこにも行きゃしないのだ。
どこにいようと、いずれは、羽生は、エヴェレストの、このベースキャンプまでやってくることになる。
生きている限り……
それは確かだ。
深町は、すでに覚悟を決めている。
いつでも来い。
羽生丈二……
十一月二十七日──
深町は、羽生を待っている。
もう、羽生は、あの家を出たはずだ。
ここへ向かって、羽生は歩いているに違いない。
羽生の足音が、ゆっくりと近づいてくる──そんな気がした。
あの、モレーンを越え、あの氷河の上を渡り、あの氷柱をまわって、こちらへ近づいてくる。
その足音が、もう、そこに──
何度そう思っても、そのたびに、羽生はやって来なかった。
だが、もう、不安はない。
羽生が来る場所が、ここしかないことがわかっているからだ。
これまで、一日に、ひと組かふた組──二人から三人くらいの人間が、このベースキャンプまでやってきた。
いずれも、トレッカーたちだ。
トレッカーの多くは、このベースキャンプまで足を伸ばさずに、ゴラクシェプから、横手にある、カラ・パタールという丘のピークに登る。
そこは、ベースキャンプより、やや、標高が高く、しかも、そこからの眺望がたいへんに素晴らしい。
だから、皆、そこへ向かうのである。
深町自身は、春の遠征のおりに、そこへ登っている。
エヴェレスト、ローツェ、ヌプツェが一望のもとに見渡せる。
谷から這い出てきた氷河が、プモリの岩稜にぶつかって大きく南へ方向をかえ、カラ・パタールの下を通って流れてゆくのが、よく見える。
そこで、トレッカーの多くは、充足する。
あるいは、体力を使いきり、ベースキャンプまでは、足を運べなくなる。高山病で、下山を余儀《よぎ》なくされた者もいたことであろう。
だから、限られた、わずかの人間しか、ベースキャンプまではやって来ない。やってきても、ごく少数である。
登山隊も、ベースキャンプには一組も入ってはいない。
深町が、独り。
本来であれば、ここには、イギリス隊が入っているはずだったのだ。
しかし、イギリス隊は、十月に、ネパール政府と問題を起こしている。
どういうトラブルか。
それは、この一九九三年の秋から、ネパール政府が、登山科の値上げに踏みきったことに端《たん》を発している。
これまで、一隊三万ドルであったエヴェレストの登山料が、一隊、五万ドルになったのである。
隊員の人数も、五人までと制限されるようになった。
場合によっては、途中で、隊員数を、二名まで増やすことができるが、その場合には、さらに二万ドルを支払わねばならない。
五人で五万ドル。
七人で七万ドル。
一人あたり、一万ドルということになる。
一ドル一○○円とするなら、一万ドルは一〇〇万円である。
これまでは、一隊三〇万円出せば、何人でもエヴェレストの頂に立つことができたのだが、これからは、七人で七〇〇万──ひとりにつき一○○万円、自己負担金が多くなったことになる。
秋に入ったイギリス隊は、五人で申請をした。
それが、七人の人間が、エヴェレストの頂に立ってしまったのである。二名が増えたことになる。
しかし、イギリス隊は、それを報告せず、金も払わなかった。
それで、ネパール政府が、イギリス隊を国に帰さなかった事件があったのである。
その後、イギリスは、ネパール政府に対し、ヒマラヤ登山ボイコット運動を展開し、ネパール政府はネパール政府で、他のイギリス隊に対して、一度は許可した登山を取り消すということになり、それが、まだ続いているのである。
この年の冬に、エヴェレストにアタックする予定であったイギリス隊が、ベースキャンプに入っていないのは、そういう理由による。
羽生にとっては、まさに、都合のよい状況と言えた。
しかし──
ひとつの山の頂に登るのに、ひとり一〇〇万円という金を要求するのは、共産国以外では、ネパールのみである。
これは、結果に対する金額ではない。
許可に対して支払われる金である。
つまり、登頂できてもできなくても、その金額は支払うこととなるのである。
日本で言えば、富士山に登るのに、許可を出したり、そのことについて、外国人から登山料をとったりはしない。富士山に登ろうと思えば、日本人であろうが外国人であろうが、自由に登ることができる。
ガイドを雇ったら、ガイド料をガイドに払うことになるが、それは、ひとつの実体のある支出である。ある労働に対して支払われる金であり、外国人だからといって、その値段が高くなることはない。
アメリカだろうが、イギリスだろうが、ニュージーランドだろうが、それは同じだ。
だが、他に、外貨を稼ぐ手段を多く持たない貧しい国が、その国に唯一存在する観光資源である登山を許可制にして金を取るということに、文句はない。
それは、やってよいことだ。
しかし、ひとり一〇〇万円という金額は、高すぎるのではないかと深町は思う。
場合によったら、自分は、これから、エヴェレストの頂を、無許可で目指すことになるかもしれないのだ。
羽生もそうである。
羽生も、無許可での入山になる。
だからこそ、羽生は、自分が関わる事件が広がることを恐れ、騒ぎをできるだけ小さい範囲にとどめようとしたのである。
その羽生を、深町は、待っている。
氷河の上の、石になったように、待っている。
日光と、薄い大気にさらされ、風に吹かれながら、ただ、待っている。
山の一部になったように待っている。
テントの前の、岩の上に腰を下ろし、岩と、雨と、青い天を見あげながら待っている。
その場所からは、手前の岩稜に隠されて、エヴェレストの頂は見えない。
その、見えない頂が、その向こうに見えるかのように、あるいは、その頂が、自分の内部にそびえているかのように、青い天に視線を向け、深町は羽生を待っている。
風に漂白《ひょうはく》され、その天の風によって、内臓までが、青い天の色に染めあげられてゆくような気がした。
地上の、何もかもが遠くなり、多くのものが、もう、どうでもいいものになっている。
余計なものが失くなっている。
いっさいの不純物が、消え去って、そこに残ったもの。
シンプルな、もの。
何かの、核のようなもの。
幾つかの石。
そういった石が、ころんと腹の中に転がっている。
瀬川加代子──
岸涼子──
そういう名前の石だ。
そして、カメラ。
ああ──
思い出したぞ。
おれは、訊ねるのを忘れていた。
そのカメラのことをだ。
あのカメラを、羽生が、どこで手に入れたのかを知っているかと、ドゥマに訊くのを忘れていた。
いや、一度は訊いたのだ。
これは、羽生が、どうやって手に入れたのかと。
「山で──」
そう、ドゥマは答えた。
それ以上は言わなかった。
山というのは、エヴェレストのことだ。
しかし、エヴェレストのどこかは、言わなかった。
いや、言えないのだ。
仮に、羽生が、ドゥマに語っていたにしろ、どこで見つけたのかなぞ、口で説明できるものではない。
「マロリーの屍体を、彼は見つけたんでしょう?」
そう訊いた。
ドゥマは、首を振った。
知らないという意味なのか、知っているが言えないという意味なのか、深町にはわからなかった。
「あの人に、直接、訊いて下さい……」
ドゥマはそう言った。
それで、追及するのをやめたのだ。
そうだ。
ドゥマの言う通りだ。
羽生に、訊けばよいのだ。
これは、羽生に訊くべきことなのだ。
羽生よ、どこにいる。
もう、こちらへ向かって歩き出しているのだろう?
もう、すぐ近くに来ているのだろう?
深町は、自問するように、腹の中で、何度もそう問うた。
十一月二十八日──
そして、ついに、深町が待ち続けたその男は、やって来たのであった。
よく晴れた日だった。
正午──
ヌプツェの雪稜に、中天を過ぎようとしている陽光が当たっている。
雪がくっついていられぬほど急な岩壁やオーバーハングに、岩の地肌が見えている。
そのヌプツェの足もとに、巨大な氷河が流れている。
深町誠は、岩の上に腰を下ろして、山と氷河を眺めていた。
深町は、氷河の中流にいて、上流から流れ下ってきた氷河が目の前を過ぎ、下流へと流れ下ってゆくのを眼に納めている。
氷河の下流方向に、深町は、それを発見した。
氷河のすぐ横を、ふたつの点が動いていた。そのふたつの点は、ゆっくりと、ベースキャンプに向かって近づいてくる。
またトレッカーかと思って眺めていると、なかなか、動きにリズムがある。
違う。
トレッカーではない。
トレッカーの多くは、息を切らせて歩いている。地を這うように、一歩、一歩、喘《あえ》ぎながら歩く。エヴェレストの頂をねらうような連中は、標高八○○○メートルを超えたら、そのような歩き方になるかもしれないが、この高度ではそんな歩き方をしない。トレッカーにとっての頂上は、このベースキャンプの、標高五四〇〇メートル地点である。しかし、エヴェレストの頂をねらう人間にとって、このベースキャンプは、ただの出発点である。出発点へたどりつくのに、息を切らせて喘いでいたら、もう、ここから先へは進めない。
近づいてくるふたつの影は、氷河の中に入ったり、サイドモレーンの上に出たりしながら、岩や氷の間を、見え隠れに近づいてくる。
急いではいない。
ていねいに、ていねいに大地を踏みながら、しかし、地上を歩くような足取りで──
あの呼吸、あのリズム。
深町は、よく知っている。
肉体が充実しきった登山家の歩き方であった。
自分の体重を、自らの脚の筋力で、一歩ずつ天へ向かって運んでゆく──そういう志を持った肉体。
そういう肉体が近づいてくる。
そして、二頭のヤクが、ふたつの人影に混じっている。
荷を、いっぱいに積んだヤクであった。
深町の心臓のあたりで、何ものかが身じろぎしたように、期待感が疾り抜けた。
やつか──
心臓が鳴った。
深町は、立ちあがっていた。
羽生丈二!?
ゆっくりと近づいてくるふたつの人影を、深町はそこに立って見つめていた。
近づいてくる。
間違いない。
羽生丈二であった。
羽生が先で、その後方がアン・ツェリンである。
深町は、動かなかった。
そこにつっ立ったまま、ふたりが近づいて来るのを待った。
深町と、羽生との間にあった距離が、埋まってゆく。
時おり、ロー・ラから吹き下ろしてきた冷たい風が、深町と羽生の間を通り抜け、氷河の上に疾り去ってゆく。
そして、羽生は、伝言で深町の前に立ったのであった。
すでに、羽生は、深町がここに居ることを知っていたのだろう。
深町を見ても、驚きも慌てもしなかった。
羽生は、下着の上に、ウールのシャツを一枚着ているだけであった。シャツの第二ポタンまで外している。標高五〇〇〇メートルを超える高地でも、昼の行動中は、下着とシャツ一枚で済む。
サングラスをしている。
顔も、唇も、陽に焼けて同じ色をしていた。
黒。
襟《えり》の奥、首の付け根までが黒かった。
「ドゥマが、世話になった……」
短く、羽生が言った。
その言葉が、羽生の挨拶となった。
羽生の、黒い、ぼろぼろの唇が開き、白い歯が覗いた。その歯の内側で動く舌が、鮮やかなピンク色をしている。
肌の他の部分の黒さが、歯の白さや、口の中の粘膜の色を際立たせているのである。
「礼を言っとく。あんたがいて、助かった」
背負ってきたザックを下ろしながら、羽生は言った。
すぐ向こうでは、もう、アン・ツェリンが、ヤクの荷を解《ほど》き始めている。
「助けたのは、おれじゃない。ナラダール・ラゼンドラだ」
深町は言った。
羽生は、黙ったまま、深町を見つめている。
サングラスの、濃いガラスの奥で、羽生がどういう眼つきをしているのか、深町にはわからない。そのガラスの表面に、自分の姿が映っているのが見える。
羽生の頬にも顎にも、不精髯《ぶしょうひげ》がびっしりと浮いていた。
「いい面構えになったな」
羽生は言った。
それが、自分の顔のことを言っているのだとわかるのに、深町は、数瞬かかった。
わかった時には、羽生はしゃがんで、ザックの上部にあるポケットのジッパーを開いていた。
ポケットの中から、羽生は、新聞紙にくるんだものを取り出した。
「あんたにやる」
羽生は立ちあがり、深町に向かって、その包みを差し出した。
深町は、それを受け取り、
「これを?」
怪訝《けげん》そうな顔で訊いた。
「そうだ」
深町は、包みを開いた。
中から出てきたのは、一台の古いカメラであった。
見覚えのあるカメラだった。
その大きさ、手に持った時の重さ、どれも覚えがある。
“ベストポケット・オートグラフィック・コダック・スペシャル”
今回の、そもそもの発端となったカメラであった。
深町が、カトマンドゥの、マニ・クマールの店で、このカメラを見かけたのが、最初であった。
あの、マロリーのカメラである。
「いいのか?」
思いがけない展開に、深町は、羽生に向かって言った。
「いい」
羽生は、短く言った。
言われて、はいそうですかと、もらっていいのかどうか。
確かに、自分は、このカメラを捜していたのである。手に入れたいとも考えていた。このカメラと、このカメラを羽生が手に入れることとなったいきさつを記事にすれば……
そこまで考えて、深町は、自分の内部で、記事のことが、すっかり風化していることに気がついた。
カメラについては、興味がある。
どうして、羽生が、このカメラを手に入れたかについても興味がある。しかし、それを記事にしようという考えが、すとんと自分の内部から抜け落ちてしまっているのである。
「このことが済んだら、あんたの好きにするんだな」
「済んだら?」
「山《・》が、だ」
“山が”と、羽生は確かな口調で言った。
その、羽生の言った“山”というのは、冬期における、エヴェレスト南西壁の無酸素単独初登頂のことだと、深町はわかった。それを、羽生は、“山”と短く表現したのである。
「記事にするなり、写真を発表するなり、あんたの自由だってことだ」
「しかし──」
深町が何かを言いかけると、
「話は後だ。アン・ツェリンは、すぐにここからもどらなけりゃいけない。ヤクに喰わせる草が、どこにもないからな」
羽生は、アン・ツェリンの傍に並んで、ヤクから下ろしたばかりの荷を解き始めた。
この日のうちに、テントを張り、荷を整理して、ベースキャンプを設営せねばならないのだ。
「おれも手伝う」
深町は、羽生の横に並んで、荷を解き始めた。
ベースキャンプ──といっても、普通の登山隊のそれに比べて、ずっとシンプルなものであった。
テントは、全部で三張り。
八人用の大型テントがひとつ。
あとは、羽生と、アン・ツェリンが使用する個人用のドーム型テントがふたつ。個人用といっても、一般的には、二人〜三人用として売られているものだ。
大型テントの方に、当座の食料や、鍋やコンロなどの、日常的に必要となるものが入れられ、内部には、簡単な竃も設置された。
残りの荷物は、外に積まれ、シートが被せられた。
その三張りのテントから少し離れて、深町のテントがぽつんとある。
夕刻になる前に、アン・ツェリンが、ヤクを曳《ひ》いて下りていった。
ゴラクシェプまで下り、そこでヤクを返し、また、明朝の昼にここまで上ってくるのだという。
酸素ボンベや、日本のインスタントラーメン、圧力鍋、米までがそろっている。そして、肉。トマトや胡瓜《きゅうり》などの野菜。果実のリンゴ、バナナ。チョコレートやスナック菓子まで、少数ながら、あった。
十二月一日になったからといって、すぐに出発するわけではない。
天候が悪ければ、ここで何日間も、場合によったら半月以上も、天候待ちをしなければならない。そのために、充分な食料を、このベースキャンプには用意しておかねばならないのだ。
ことによったら、一度、上にあがり、天候が悪くてもどって来て、疲れをとったらまたアタックを開始することだって充分にあり得るのである。
無酸素登頂といっても、事故がおこれば、酸素は必要になる。上へは持ってゆかぬにしても、ベースキャンプには置いておくべきものだ。
いつであったか、深町は、カトマンドゥの“ガネーシャ”から、アン・ツェリンが酸素ボンベを負って出てくるのを見た。あの時のボンベが、今、ここにあるものなのであろう。
羽生の生活や財力から考えて、一度に買い揃えたものではないはずであった。
この日のために、少しずつ、少しずつ、何年もかけて買い集めた備品なのであろう。
「では、明日──」
アン・ツェリンは、下ってゆく時、短くそう言い残していった。
アン・ツェリンの姿が見えなくなると、深町は、羽生と、ただふたりでそこに取り残された。
羽生は、もう、どこへもゆかない。
どこへも逃げない。
ここは、そういう場所であった。
すでに、ヌプツェの向こうに、陽が隠れている。
じきに夕刻になる。
ベースキャンプの、大型テントの中で、深町は、羽生と夕食を料理《つくり》始めた。
圧力鍋で、米を炊《た》き、インスタントのカレーを温める。
深町のコンロで湯を沸かし、紅茶を入れた。
マグカップの底に、たっぷり蜂蜜を溜めて、そこに、熱い紅茶を注ぎ込む。熱いといっても、この標高では、水は八○度で沸騰《ふっとう》するから、それ以上には温度は上がらない。
紅茶と蜂蜜のよい匂いが、テントの中に広がった。
あらためて、深町は、羽生と向きあって竃の前に座した。
胡座《あぐら》をかく。
羽生は、先ほどの服装の上に、赤いウィンドヤッケを着ただけであった。
深町は、紅茶の入ったマグカップを、両手で包むように持っていた。紅茶の温度を、少しも外へ逃がさずに、両手から、全部自分の内部に吸収してやろうと、無意識のうちにそうしているのかもしれないと、深町は、自分のその行為について思った。
羽生は、右手で、マグカップの取手を持ち、まだ熱い温度を持ったものを、時おり口に運んでいる。
訊くのなら、今しかなかった。
「さっきのことなんだが……」
深町は、おそるおそる、切り出した。
「カメラのことを訊いていいか」
「いいよ」
羽生は、深町を見ずにうなずいた。
羽生の視線は、手の中の、マグカップからあがる湯気に向けられていた。
「あれを、どこで見つけたんだ?」
訊いてから、深町は、自分の口調が変化していることに気づいた。
おいおい、深町、おまえ、羽生と対等に口を利いているじゃないか。いつから、そういう口が利けるようになったんだ。
そんなこと、どうしてだか、わかるものか。
たぶん、これがもう、仕事だと自分で思わなくなったからだろう。そうだ。これは、もう仕事じゃない。
仕事にならないことが、はっきりわかっていたって、おれは、今、この場所にいるだろう。
「エヴェレストの、八一○○メートル地点だよ」
「ネパール側か、チベット側か?」
「チベット側だ」
「場所は?」
「北東稜」
はっきりと、羽生は言った。
予期していた答えであった。
しかし、予期していたとはいえ、実際に羽生のロからそのことを聴かされると、身体が芯から震えるような、強い感情が動いた。
マロリーだ。
マロリーが、一九二四年に、エヴェレストの頂上アタックに利用したのがこの北東陵である。
「昨年だよ。おれは、チベット側から、エヴェレストの、冬期無酸素単独登頂の練習をやろうとしたことがあった……」
羽生は語り出した。
チベット──つまり中国側へは、この時、羽生は密入国をした。
ナムチェバザールから北へ向かい、ナンパ・ラからチベットヘ抜け、検問を通らずに、そこからエヴェレストに入った。この時、アン・ツェリンのみが、五七〇〇メートル地点まで同行している。
その時、羽生は、エヴェレストの頂上を踏んでいる。
このおり、下降中に、天候の急変に遭《あ》い、八一○○メートル地点の岩陰でビヴァークをした。
この時、その同じ岩陰に、座したまま眠るように死んでいる白人の屍体を、羽生は発見した。
その屍体に並ぶようにして、羽生は岩陰に腰を下ろし、ビヴァークをした。
「その屍体が、マロリーかアーヴィンである可能性については考えなかったのか?」
「考えたさ。もちろんね」
北東稜。
標高八○○○メートル以上。
白人の屍体。
これを満たすものは、マロリーかアーヴィンの屍体以外にはあり得ない。
「当然、カメラのことも考えたよ」
それで、羽生は、屍体の横のザックを開いた。そして、そこにあったカメラを持ち帰ったのだという。
「フィルムは、中に入っていたフィルムはどうしたんだ?」
深町に問われて、羽生は苦笑した。
右手にマグカップを持ったまま、両手を軽く広げてから、肩をすくめてみせた。
「なかった……」
「なかった!?」
「ああ、フィルムは、カメラの中に入っていなかったんだよ」
あっさりと、羽生は言った。
「なんだって──」
「あれが、マロリーにしろアーヴィンにしろ、おそらく、写真を撮り終えて、カメラの中からフィルムを抜き取り、同じザックの中の別の場所にしまったんだろうとおれは考えているのさ」
そうか──
深町は、ふいに、肩から力が抜けたような気がした。
そうだったのか。
もともと、フィルムはカメラの中に入っていなかった──それは充分に考えられることであった。
しかし、このカメラを発見しただけでも、山岳史に大きな足跡を残すことになる。やり方によっては、相応の金を、このカメラは生み出すことができる。何故、羽生はそうしなかったのか。
「どうして、このカメラのことを、秘密にしていたんだ。今回の単独行の資金集めになるじゃないか」
「どう説明する?」
「どう?」
「パスポートもなしに、日本人が、国境を越えてチベットに入り、入山許可もなしに、チョモランマの八六〇〇メートルまであがって、その帰りにこれを見つけましたと言うのか──」
「────」
言ったら、おれは、日本に強制送還だ。海外にしばらく出られなくなるだけではない。ヒマラヤの入山許可も下りなくなる」
「────」
「これが終わるまでは、だめだ。これが済むまでは──」
「いいのか」
「何かだ」
「このあとで、このカメラのことを、おれがどこかの雑誌で記事にしてしまってもだ」
「好きにするさ」
「羽生丈二の名前も出ることになる」
「どちらでもいいんだよ、もう、そんなことはね」
「今回、失敗しても、カメラの件さえ伏せておけば、また、チャンスがある」
「ないよ」
羽生は言った。
「どうしてそんなことがわかる?」
「おれはね、一九八六年から、足かけ八年間も、ここで、エヴェレストをねらってたんだ。ほんとうに、独りでね。スポンサーもなしにだ。チベット側からもそうだったが、何度も失敗したよ。スポンサーがついたって、酸素をどれだけ使ったって、何人の人間と一緒にやろうが、そう簡単に、落とせるもんじゃないんだ。エヴェレストの、真冬の南西壁はね──」
「────」
「それを、無酸素で単独でやる──それができるチャンスは、一生に一度か二度さ──」
そのうちの一度を、羽生は、すでに使ってしまっている。
一九八九年の十二月──
この時、羽生は、単独で真冬の南西壁に挑み、敗退している。
「ダワ・ザンブーから聴いたよ。一九八九年に、失敗してるんだろう」
「ああ──」
あらゆる可能性、あらゆる準備、自分の人生の目標をそれのみに定め、他の全てを犠牲《ぎせい》にして、そのことだけに生きる数年間なしには、それは、成しとげることはできないだろう。
技術、体力、山での経験は言うまでもない。高度順応が完全にうまくいっていること、体調が万全であること、エヴェレスト付近の地理、天候、全てに熟知していること──そして、最後には、人間の手から離れた力が、その人間に味方をしてくれるかどうかだ。
具体的に言うのなら、その時、天候が、どれだけ、彼の味方をしてくれるのか──
それ等の要素が、全て、ひとつも欠けることなしにあって初めて、冬期のエヴェレスト南西壁無酸素単独登頂が、成功する可能性の中に入ってくるのである。
これを逃がしたら、おそらく、もう、二度とチャンスは巡って来ない──羽生がそう考えているというのはよくわかる。
「マロリーは、頂上を踏んだと思うか?」
話題をかえて、深町は、羽生に訊いた。
「知らんね、おれは」
「オデルが、マロリーとアーヴィンを最後に見た時、ふたりは、第二ステップの八六〇〇メートル地点にいたんだろう?」
「────」
「マロリーの屍体があったのが八一○○メートル地点だ。つまり、マロリーは、そこまで下ってきたことになる。第二ステップさえ越えてしまえば、頂上はすぐだ。特別に難しいところはない。マロリーとアーヴィンが頂上を踏んで、その帰りにアーヴィンが八三八〇メートル地点で事故に遭い、そこにピッケルが残された。マロリーが、その後、単独で第六キャンプまで下ろうとして、途中で力尽きた──そう考えられるんじゃないのか」
「────」
「その時の第六キャンプの標高が、八一五六メートル。マロリーの屍体があったのが、八一○○メートル──マロリーは、第六キャンプより下りすぎているが、これは、道に迷うことは充分に考えられるし、五六メートルというのは、充分に高度計の誤差の範囲内だ」
「────」
「もし、マロリーとアーヴィンが、第二ステップから引き返していたら、充分に第六キャンプまでもどってくることができたんじゃないかと思う。もどって来られなかったということは、つまり、頂上へ向かったからだ。八六〇〇メートル地点から、頂上へ向かった人間の屍体が、八一○○メートル地点に、ビヴァーク状態であったというんなら、それは、頂上を踏んでからの帰りじゃないのか──」
「おれは知らんね」
強いロ調で、羽生は言った。
「帰って来なかった奴が、頂上を踏んだかどうかなんて、それは、どうでもいいことだ。考えたって、どうせわかることじゃない。頂上を踏んだという説を百《ひゃく》思いつけるんなら、踏まなかったという説だって、百思いつけるってことさ」
激しい口調であった。
「死んだら、ゴミだ」
強い語調で、羽生は、言った。
羽生の声が、途中でふいに止まっていた。
どうしたのか。
深町は、羽生を見やった。
羽生の身体が、震えていた。
強い力で、その身体を揺さぶられているように、羽生の全身が震えている。
深町は、はじめ、羽生の興奮が、その震えを起こさせているのかと思った。
そうではなかった。
羽生の歯が、触れ合ってかちかちと音をたてて鳴っていた。羽生の顔色が青白い。そこから、血の気が引き、眼を大きく見開いている。
羽生は、恐怖で震えていたのである。
羽生は、歯の鳴る音を消そうとして、歯を喰い縛っているように見えた。しかし、喰い縛っても喰い縛っても、歯はがちがちと鳴り続けていた。
強い、意志の力で、強引にその震えを押し殺すように、羽生は歯を噛み続けた。
「くそ」
「くそ」
羽生は、噛んだ歯の間から、呻き声にも似た声を洩らしていた。
凄絶な光景であった。
「畜生」
羽生は、冷めた紅茶の入ったマグカップを下に置き、両方の拳で、自分の膝を叩いた。
ようやく震えが収まっても、深町は、羽生に声をかけられなかった。
羽生は、しばらく荒い呼吸を繰り返してから、深町を見た。
「みっともないところを見せたな」
羽生は言った。
そんなことはないと、深町は言おうとしたのだが、しかし、その言葉を口にできなかった。
「あの羽生が、怖くて震えていたと、日本で言っていいぜ」
深町は、言う言葉を持っていなかった。
ただ、沈黙をした。
長い沈黙の後、
「長谷常雄に、カトマンドゥで会ったと言ってたな──」
深町は羽生に訊いた。
「会ったよ」
「一九九〇年?」
「そうだったかもしれない」
「彼は、羽生丈二がネパールにいることを知っていたのか?」
「いいや。会ったのは偶然だよ」
「その時、どういう話を」
「あいつは、おれをひと目見て、まだ、おれが現役だってことを見抜いたよ」
羽生は、赤い眼をして言った。
それは、本当に偶然であったという。
カトマンドゥのニューロードを歩いている時に、長谷から声をかけられた。
「羽生さんじゃありませんか?」
羽生は、すぐに、その声が誰であるかを理解した。
しかし、聴こえぬふりをして、そのまま行ってしまおうとした。だが、長谷はそれを許さなかった。
長谷は、無視してゆこうとする羽生に追いついてきた。
「羽生さん、長谷ですよ」
声をかけてくる。
羽生は、仕方なく、近くのレストランに入った。
CMの撮影の仕事で、ネパールに来たのだという長谷は、いつになく饒舌《じょうぜつ》であった。
「ネパールにいたんですか。このことを知ったら、みんな驚きますよ」
「言うな」
羽生は、そう言った。
何故かと問われた。
「何故でも──」
そういう話をしているうちに、
「羽生さん、まだ、現役ですね」
ふいに、そう言われた。
「何かやろうとしているんでしょう」
ひと目で、羽生は、長谷に見抜かれていた。
羽生は、答えなかった。
答えなかったそのことで、長谷は、みごとに、結論にたどりついた。
「羽生さんが、ネパールで何かをねらっていて、しかも、誰にもそのことを知られたくないということは、エヴェレストですね──」
長谷が登頂し、羽生が敗退したあの日本隊の話を、長谷はした。
「今さら、ノーマルルートってことはないんでしょう。羽生さんが、この国に残ってやろうとしているっていうんなら、それはエヴェレストで、まだ誰もやったことがないようなバリエーションルートってことですね。そうすると……」
冬期の南西壁ですね──
と、長谷は言った。
それも、単独で、無酸素──
そこまでを言いあてた。
言いあててから、長谷は唸った。
まさか──
自分で言いあてておいて、そうも言った。
この間、羽生は、何も口にしていなかった。
全て、長谷が、自分の頭の内部で思いついたものだ。
常人と長谷が違っていたのは、思いついたそれを、実現してしまったことだ。
長谷は、その翌年にK2を攻め、そして死んだのである。
だが、何故、長谷は、羽生に会ったことを、これまで黙ってきたのか。
「結局、長谷が死んで、このおれがまだ生きている──」
風が出てきていた。
いつの間にか、テントを、風がしきりに揺すっている。
遥か天空を、風が笛に似た音をたてて吹き過ぎてゆくのが聴こえる。
夕刻が追っていた。
テントの中は、すっかり薄暗くなっている。
しんしんと、天から宇宙の冷気が下りてきて、テントを包んでいる。
マグカップは、今、すっかり冷えきっていた。
薄暗い中で、羽生の眼だけが光っている。
「モーリス・ウィルソンを知っているか?」
羽生が、低い声で、問うてきだ。
深町が、それが誰の名であるかを思い出すのに、二秒とはかからなかった。
モーリス・ウィルソン──
その名は、エヴェレスト登攀《とうはん》史に、マロリーと同様に、輝かしく刻みつけられている。しかし、その光芒には、どこか歪んだ、凶《まが》まがしさがある。
その名が、エヴェレストの登攀史に登場するのは、マロリーの事件があってから、十年後の、一九三四年である。
元英国陸軍大尉──
この男が、おそらく、エヴェレストの頂上へ、単独登頂を試みた、人類最初の人間といっていいだろう。
彼は、エヴェレストの頂は、国家の事業として、金にまみれた遠征隊の隊員によって踏まれるべきではないと考えた。エヴェレストという頂の神聖さは、同じ神聖さを胸に抱く、個人の足によって最初に踏まれるべきであると、彼は考えたのである。
彼が、エヴェレスト登頂のためにやったトレーニングというのは、インドのヨーガであった。ヨーガの呼吸法によって、高山病という最大の難関を超えようとしたのである。
具体的に、モーリス・ウィルソンがやろうとしたのは、次のような登山であった。
彼は、イギリスから、自家用軽飛行機でインドまでやってきていた。
ダージリンからその軽飛行機で飛んで、エヴェレスト山麓のできるだけ高い地点に着陸し、そこから、徒歩で、エヴェレストの頂にむかおうと考えたのである。
しかし、それは、未遂に終わった。
モーリス・ウィルソンの計画を知った当局から、中止命令が出され、援助も全て断わられてしまったのである。
チベット、あるいはネパールの国境を、飛行機で越えてはならないと警告も受けた。
だが、モーリス・ウィルソンは、あきらめなかった。エヴェレストの頂を踏むぺく、次の計画をたてたのである。
彼は、軽飛行機を売り払い、その金で一九三三年から一九三四年の三月まで、ダージリンでエヴェレスト遠征のための準備をした。
モーリス・ウィルソンがダージリンを出発したのは、一九三四年の三月下旬である。
三人のシェルパと、一頭のポニーを連れての出発であった。自らは、シェルパに変装した。
ベースキャンプであるロンブク僧院に到着したのが、四月十八日。
それから、モーリス・ウィルソンは、標高六四〇〇メートル地点の、第三キャンプまでたどりついている。
しかし、そこからノースコルヘの登山を、シェルパや、ポーターたちが拒否した。誰もが、モーリス・ウィルソンの行為を無謀と考えていたのである。
シェルパやポーターたちが帰り、ウィルソンは、ただ独り、六四○○メートル地点から、何度かエヴェレストヘの登頂を試みるが、いずれも失敗に終わっている。
この、ただ独りの挑戦については、彼自身が残した日記に記されている。
モーリス・ウィルソンは、過労と寒さのため、結局、そこで死んだ。
発見された時、毛皮のコートらしいものに、その身体はくるまっていたが、四つん這いのような姿勢で、雪に埋もれていた。
心もら、尻を待ちあげ、雪の中から、エヴェレストの方向を睨むように、半分顔を出していたという。
その顔に、凍てついた地吹雪があたる。
髪も、眉も、雪の白い粉で凍りつき、表情も、眼を開いているかどうかさえもわからない屍体であった。
ウィルソンが、何度めかのアタックで登った最高地点は、どれだけ行ったにしても七〇〇〇メートルは超えていないだろうと言われている。
屍体は、第三キャンプよりやや上のあたりで、一九三五年に発見された。
その墓は、今でも、第三キャンプ近くの雪の中にある。
風が強ければ、雪が飛ばされて、姿を現わし、弱ければ、また雪の中に埋もれて見えなくなる──
そういう死に方、そういう墓である。
「おれは、ウィルソンの墓を見たよ……」
低い、乾いた声で、羽生は言った。
昨年、チベット側からエヴェレストに入った時のことだという。
吹きさらしの、雪の中であったという。
しかし──
「あいつは、まだ、墓の中からエヴェレストを睨んでいた……」
そのように羽生には思えたというのである。
互いの顔が、もう、見えなくなるくらい、テントの内部は暗くなっていた。
その中で、ぼそぼそいう羽生の声のみが、錆びた刃物のように、深町に届いてくる。
風が、激しくテントを揺すっていた。
頭上のどこかで、天が、山ごとうねっているような気配かある。
高い笑い声が、その風に乗って、天の端から端まで駆け抜けてゆく。
これほどの高みに登ってきて、なお、地上にしがみついている人間を、何者かが嘲笑しているような気がした。
モーリス・ウィルソン──
妄想《もうそう》家であったのか。
あるいは、机上の夢想家であったのか。
それはわからない。
わかっているのは、ただひとつだ。
彼は、夢を見、その夢に殉《じゅん》じたということである。
「やつは、おれだ」
羽生は言った。
羽生の眼が、もう、顔の輪郭《りんかく》さえ定かではないテントの闇の中で、光った。
灯りを点《つ》けた。
百目蝋燭《ろうそく》を一本、コンビーフの缶詰の上に立てた。
そこで、太い炎がひとつ、微かに揺れながら光を放っている。その蝋燭の炎を挟んで、深町は、羽生と向きあっている。
プラスチックの皿に、硬めの飯を盛り、その上から、インスタントのカレーを掛けた。日本製の、真空パックの漬け物。トマトがひとつ。リンゴがひとつ。
深町と羽生は、声もたてずに、黙々とそれを食べている。
時おり、スプーンが皿に当たる音と、口の中に入ったものを咀嚼《そしゃく》する音だけが、テントの内部に響く。
深町は、ウレタンのマットをテントの床に敷いて、その上に胡座をかいている。
羽生も同様だ。
深町が二杯。
羽生が三杯。
それだけの量を食べて、さらにトマトとリンゴを齧《かじ》る。羽生は、リンゴの皮も芯も食べた。喰わなかったのは、種と、リンゴに付いている枝の先だけであった。
歯で、何度も何度も皮を噛み、呑み込む。
分厚い靴下をはいた爪先に、冷えびえとした冷気が触れてくる。
風は、さらに強くなり、大気が、荒い呼吸を繰り返している。時おり、外から殴られたように、テントの一方の布地が、大きく内側にへこむ。外のフライシートが風に押されて、内側にあるテント本体の布地まで押してくるのである。
その時、蝋燭の炎が、ゆらりと大きく揺らめく。
食事が済み、熱い紅茶をまた淹《い》れた。
水分は、どんなにとっても摂《と》りすぎるということはない。大気が薄いため、体内の水分が、どんどん大気に奪われてゆくからだ。
一日に摂取すべき水の量は、基本的に、ひとりあたり四リットルをベースとする。血液中の水分濃度を、標準値に近く保つためには、それだけの量の水を飲まねばならない。
温度八○度の紅茶に、蜂蜜をたっぷりと入れる。
紅茶の入ったコッフェルを、両手で包んで持ち、ゆっくりとそれを飲む。
天を、何頭もの巨獣が駆けまわっているように、テントの遥か上方で、風がうねっているのがわかる。
この山城で、風が生まれ、その風はどこへ吹いてゆくのか。
ロー・ラを越えて、チベットの原野まで渡ってゆくのか、インドの平原まで吹き降りてゆき、湿気を含んだ大気となって、牛や水牛が、あるいはそれを呼吸することもあるのか。
それとも、このまま、天の虚空に消えてゆくのか。
今、この瞬間にも、青い微光を放つ、巨大なヒンドゥーの神々が、しずしずと天より舞い降りてきて、エヴェレスト──チョモランマの頂に、シヴァ神が降り立ち、ローツェの頂に梵天《ブラフマン》が降り立ち、プモリの頂にヴィシュヌ神が降り立ち、このマイナス六〇度の成層圏の気流を呼吸しながら、身の丈数千尺のその身体で舞っているのかもしれない。
その、舞う時に動く、手や足が、風をおこし、その風が今、天空で騒いでいるのかもしれない。
そういう幻想が、深町の脳裏に湧いた。
来いと、彼等は、羽生を呼んでいるのだろうか。
来い。
おいで──
おそらく、羽生丈二が、これからやろうとしていることは、彼等神々の棲む、天の領域に属することなのだ。地上から、彼等の世界へ足を踏み入れてゆくことなのだ。
深町には、眼の前で紅茶を啜《すす》っている羽生が、何を考えているのかわからなかった。
深町と同様に、山鳴りのような風の音に耳を澄ませているようてもあり、そんな音など気づかぬように、その暗い眼で、自分の内部の深みを、じっと見降ろしているようにも見えた。
深町は、沈黙の中で、風の音を聴きながら、今、ようやくその時が来たのかもしれない、と思った。
羽生に、訊ねなければならない。
この自分が、カメラを持って、同行することを許してくれと。
“おい。おれがやろうとしていることが何だろうと、それは、あんたには関係がないことなんだ。少しもね。人がやろうとしていることに横から関わるな。いいかい、あんた。てめえは、てめえのことをやってりゃあ、他人のことなんかに関われねえんだぜ……”
カトマンドゥで、羽生に言われた言葉を、深町は思い出していた。
羽生の言う通りであった。
羽生丈二という男が、十代の頃に山と出会い、そして、山にのめり込んだ。世間的な見方から言えば、山で身を持ち崩したと、そういうことになるのかもしれない。山に道を踏みはずしたと。
社会と、関わりを持つことのできなかった人間が、山によって、社会と接点を持つようになったのだ。
羽生は、世間の価値観から言えば、山に道を踏みはずしたのかもしれないが、その山によって間違いなく救われてきたのだ。
その山でも、羽生は孤立してゆく。道を踏みはずした山で、羽生はまた、さらに道を踏みはずしてゆく。しかし、何があろうと、どういう辛さをその山で味わおうと、その辛さを解消してゆくためにすがるのも、またその山しかなかったのである。
羽生には、山しかなかった。
羽生のことを調べた深町には、それがわかる。
山しかない。
ああ──
おれにはわかる。
深町はそう思った。
おれにも、そういう時期は、間違いなくあったのだ。
山にのめり込み、それしかないと思い込んだ時期が。
きりきりと山に登った。すがるものが山しかなかった。噛みつくようにして山に登った。
学生のうちは、それでいい。しかし、卒業をして社会に出れば、いつまで山に登ってるんだという声が、周囲からおこる。山と仕事とどっちが大切なんだ。いいかげんに大人になれ。山にゆくのなら、仕事を持って、休みの日にゆけばいいではないか──と。
そうではない。
そうではない。
仕事をして、金をもらって、休みの日に山へゆく。
おれがやりたい山はそういう山ではなかった。そういう山ではないのだ。おれがやりたいのは、うまく言えないが、とにかくそういう山ではないのだ。おれがやりたかったのは、ひりひりするような山だ。
魂がすりきれるような、登って、下りてきたら、もう、体力も何もかもひとかけらも残らないような、自分の全身全霊をありったけ注ぎ込むような、たとえば、絵描きが、渾身《こんしん》の力を込めて、キャンバスに絵の具を塗りあげてゆくような、そういうことと対等の、それ以上のもの……
それは何か?
わからない。
結局、自分は、それが何であるかわからなかった。
そういう生活をできなかった。
わかっているのは、自分は、その途中で挫折《ざせつ》したということだ。
しかし、ここに、羽生丈二がいる。
未だに、あの、心がひりひりするようなあの場所に、この男はいるのだ。岩壁で、死と向き合わせになった瞬間にしか出会えない、自分の内部に存在する感情。世界との一体感。いや、それは、ただ、言葉でそう思っているだけだ。実際のあの感覚は、どういう言葉にもできない。岩壁をよじのぽっている時には、それを言葉にしようなんてことは、これっぼっちも思わない。しかし、間違いなく、それは、その時あったのであり、自分はそれを体験したのだ。しかし、それは後で言葉にならない。言葉にはならないが、間違いなく、その神聖な体験を登攀者の魂はしたのである。
あの時、自分は何を目指したのか。
岩壁から見あげると、山の頂上なんて見えない。ただ、青い空だけが見える。あの青い空を自分は目指そうとしたのか。頂よりも、さらに高い場所。
天──
たぶん、おれたちはきっと、あの時、この地上のどこにもない場所を目指そうとしていたのだろう。
しかし──
多くの山屋が、そういうことから脱落してゆく。
家庭を持ち、歳をとり、体力が落ちたといっては、そういう場所へゆくための切符をポケットから出して、リタイアしてゆく。むろん彼等が間違っているとは思えない。彼等は正しい。
先鋭的な山をやっていれば、いつかは死ぬことになる。
しかし──
“おまえ、何のために生きてるんだ”
鬼スラをやろうとした時、羽生が井上に言ったという言葉を、深町は思い出した。
“人が生きるのは、長く生きるためではないぞ”
その、火を吐くような羽生の言葉が、深町の胸に刺さっている。
“じゃ、おまえは何のために生きてるのか”
井上は問うた。
“山だ”
“山って何だ”
“山は山だ。山なんだ”
“だから、その山ってのは何なんだ”
“山に登ることだ”
“だったら安全に登ればいい”
“安全のために山に登るんじゃない”
“安全は必要だ”
言われた羽生は、もどかしげに身をよじり、泣きそうな顔になった。
“いいか、井上。死は結果だ。生きた時間が長いか短いか、それはただの結果だ。死ぬだとか、生きるだとか、それが長かったとか、短かったとか、そういう結果のために山に行くんじゃない”
“おまえの言うことはわからん”
“わかれ”
“わからん”
“ばか”
“おまえこそばかだ。山で死んで、それでおまえは幸福か”
“いいか、その人間が、不幸か幸福だったかなども、ただの結果だ。生きたあげくの結果だ。幸福も不幸も関係ない。そういう結果を求めて、おれは山に登ってるんじゃない。井上、おれはゴミだよ。ゴミ以下の人間だ。山をやっていなけりゃな。おれは、おれがどう生きたらいいのかなんて、まるでわからないがな、山屋である羽生丈二のことならわかる”
“何がわかる”
“いいか、山屋は、山に登るから山屋なんだ。だから、山屋の羽生丈二は山に登るんだ。何があったっていい。幸福な時にも山に登る。不幸な時にだって山に登る。女がいたって、女が逃げたって、山に登っていれば、おれは山屋の羽生丈二だ。山に登らない羽生丈二はただのゴミだ”
そういう、わけのわからない会話をしたあげくに、羽生の熱気のようなものに押されて、井上は、鬼スラをやる決心をしたのである。
あの時、井上をくどいたのと同じ炎が、羽生の内部にまだあるのだ。それが、ぶすぶすと燠《おき》のように燻《くすぶ》っているのか、赤あかと点っているのかはわからないが、それが、あるのだ。
それを抱えて、羽生は、今、ここにいる。
長い、時間と距離の果てに、羽生は、今、ようやくこの場所にたどりついたのだ。
その間には、様々なことがあった。
深町はそれを知っている。
グランドジョラスでの、遭難。
初めてのヒマラヤで、エヴェレストの南西壁に挑み、途中でリタイア。
ひとりの女とも別れた。
おそらくは、女としては、羽生の、ただひとりの理解者であった女と。
ネパールヘやってきて、シェルパと同様の生活をし、その娘と子供も作った。
それ以外にも、深町の知らないことがあったろう。いや、そちらの数の方が圧倒的に多いはずだ。
そして、その果てに、今、羽生はここにいる。
その羽生が、いよいよ、自分の山屋としての最後の、とでもいうべき総決算の時になって、いきなり他人がそれに関わってしまっていいのか──
自分の内部に用意してきた言葉──それを、深町は言い出せなかった。
だが──
羽生が、今ここにいるなら、自分だって、今、ここにいるのだ。
羽生に、様々な事情があるなら、自分にだって、事情はあるのだ。
このまま、黙って帰るわけにはいかないのだ。
帰ったら、自分は、一生、そのことを後悔するだろう。何ひとつ変わることもできずに、また、あの都会で苦いものを噛みながら生きてゆかねばならない。
写真を、カメラであんたの写真を撮らせてくれと言うのだ。
あんたの邪魔はしない。おれは、おれの器量で、あんたについてゆけるところまでついてゆく。ついていって写真を撮る。それをさせてくれと──
しかし、本当にそうなのか、と、深町は自問した。
本当にそうなのか。
写真を撮るために、自分は今、ここにこうしているのか。
違う、
と、深町は思う。
それは違う。
たぶん、違う。
心の底の、その根っこのところでは、写真などどうでもいいと考えている自分がいる。
自分は、ただ、この羽生丈二という男が、このエヴェレストで、何をやるのか、どこまでやれるのか、それを見とどけたいのだ。見とどけたいだけなのだ。
写真を撮りたいというのは、それを見とどけるためのただの手段なのだ。
羽生が、写真がいやだというのなら、カメラもレンズも、何も持たずについていったっていいのだ。
頼み込んで、もし、羽生がいやだと言っても、ついてゆくつもりだった。
自分は自分で、勝手にアイスフォールに入ってゆくだけだ。
そこまで、覚悟をしている。
まさか、それを止める権利までは、羽生にはない。
ついてゆく。
しかし、邪魔はしない。
こちらが事故に遭っても、助けてもらう必要はないし、こっちはこっちで、羽生に何かあったとしても、勝手に手を貸したりはしない。
それでいいのではないか。
だが、挟いテントの中で向きあっていると、深町は、それを口にできなかった。
手に包んだコッフェルの中の紅茶が、半分ほどになった時、
「おい……」
羽生が、低く、声をかけてきた。
「おまえ、何しに来たんだ」
強い口調ではなかった。
静かな、優しいとさえ思えるような言い方だった。
「それは……」
「写真を撮りに来たのか」
問われて、深町は、うなずきかけた。
しかし──
そうじゃない。
写真は、もちろん撮りたい。
だが、それだけじゃない。
けれど、それだけじゃないそれを、どう羽生に語ったらいいのか。
「あのカメラに入っていたと思い込んでいたフィルムが、気になっていたのか」
そうだ。
それが気になっていたのだ。
しかし、気になってはいたが、それだけではないのだ。
今、思えば、あのカメラの件は、きっかけだったのだ。カメラをきっかけにして、羽生丈二という男に出会い、この眼の前にいる男の過去を追っかけていろうちに、カメラよりもこの男自身に自分は魅かれていったのだ。
この、羽生丈二という男──鬼スラを、厳冬期に、一度目はふたりで、二度目は単独でやってのけた山屋が、このヒマラヤを相手に何をしようとしているのか、その現場に、このおれは立ち合いたいのだ。
色々なことがあった。
マニ・クマールとの出会いもそうだ。
アン・ツェリンとの出会いも、ナラダール・ラゼンドラとの出会いも、ダワ・ザンブーとの出会いも、ドゥマとの出会いもそうだ。岸涼子との出会いも、そして、加代子との別れもそうだ。
そのどれも、あったことだ。
消し去ることのできないことだ。
多くのことがあり、これだけの数の人間たちに関わりあったそのあげくの果てに、この羽生丈二という男が、エヴェレストの厳冬期の南西壁に、無酸素、単独で挑もうとしている。
これを、自分は見とどけねばならない。
それを言おうとした。
しかし、言葉が口から出ないうちに、
「いいぜ……」
と、羽生が言った。
「あんたの勝手にするがいい。写真を撮りたければ、勝手に撮ればいい」
まさか、と思うような返事であった。
「い、いいのか……」
低い声で、深町は、やっと、それだけを言った。
「いいさ」
「本当に?」
「あんたが、おれを止めに来たんじゃないんならね」
「────」
「おれは、おれで自由にやる。それを、カメラで勝手に撮りたいっていうんなら、それはその人間の自由ってもんだろう。かわりに、このベースキャンプを出たら、一切関わりなしだ。あんたが死にそうになったって、おれが氷の壁の途中からザイルでぶら下がることになったって、お互いに干渉しない。それが約束できるんなら、ここで何をしようが、誰も、何も言わないよ」
深町は、自分の心を見透かされたような気がした。
沈黙があった。
深町は、羽生に見つめられた。
「深町さん……」
ふいに、羽生が深町の名を呼んだ。
「あんたも、山をやってるんだろう」
低い、ドスの利いた声だった。
やっているというほどでは……
思わず深町はそう言おうとした。あの羽生の前で、自分も山をやっているとは、なかなか言えるものではない。しかし、そういう曖昧な返事で逃げることを許さない問い方だった。
羽生は、そういう世間的な体裁の返事を望んでいるのではなかった。
「やっている」
正直に笞えた。
少なくとも、自分なりのレベルではやっている。山と関わっている。
「山は好きか……」
羽生がまた訊いた。
深町は、また、返事に詰まった。
単に山が好きなのかと問われたのか、山に登るという行為が好きなのかと問われたのか、そのどちらであるのかを考えようとした。どちらの意味で問われたにしろ、自分は、その“山”が本当に好きなのかどうか。
「あんたは?」
かわりに深町は訊いた。
「おれか」
「どうなんだ?」
「わからないね」
羽生は答えた。
「わからないよ、それはね。この歳になっても、まだわからない。本当のところはな」
胃の中に溜めていたものを、喉から絞《しぼ》り出そうとするような声だった。
「何故、山に登る?」
羽生が、また訊いてきた。
「わからない……」
深町は、静かに首を左右に振った。
「あのマロリーは、そこに山があるからだと、そう言ったらしいけどね」
「違うね」
羽生は言った。
「違う?」
「違うさ。少なくとも、おれは違うよ」
「どう違う」
「そこに山があるからじゃない。ここに、おれがいるからだ。ここにおれがいるから、山に登るんだよ」
「────」
「これしかなかった。他の奴等みたいに、あれもできて、これもできて、そういうことの中から山を選んだんじゃない。これしかないから、山をやってるんだ。他にやり方を知らないから、これをやってるんだ。いいかい、これが気持がいいだなんて、一番最初の時以外、おれは一度だって思ったことなんかないね」
羽生の一番最初の山──それは、彼が六歳の時の山であったはずだ。家族で行った山だ。場所は、信州の上高地。その帰りに、バスが事故をおこし、羽生は妹と両親を一度になくした……。
「あんた、どうだ。山に、なんかいいもんでも落ちてると思ったか。自分の生き甲斐《がい》だとか、女だとか、そういうもんか山に落っこちてると思ったか」
いきなり、羽生から頬を叩かれたような思いを、深町は味わっていた。
何かをしていないと、自分が壊れてしまいそうな時期が、深町にもあった。自分が壊れてしまいそうだから、山で、無茶苦茶に体力をふリ絞った。肉体を苛《いじ》めることによってしか、支えられないものが、あったのだ。
それは、何だったのか?
あの頃、あれほど、苦しいほどに自分の内部をせっついていたもの、焦りのようなもの、触れればはっきりとした手触りさえありそうであったそれが何であったのか、今、深町は答えられない。
もしかしたら、それはまだ、自分の内部にあるのかもしれない。
「あれは、麻薬だな……」
羽生は、つぶやいた。
「麻薬?」
「そうだ。一度、山で岩の壁に張りついたら、そこで、あれを味わったら、日常なんてぬるま湯みたいなもんだ……」
それは、深町にもわかる。
生と死が、リアルな存在として自分の背に張りついてくるあの山での濃い時間を体験してしまったら、下界ですごす日常の時間は希薄すぎるかもしれない。
ふいに、深町は、ひとりの男のことを思い出した。
岸涼子の兄、岸文太郎──
羽生丈二が、三十二歳の時、一緒に山に行った男だ。
岸文太郎は、その時、二十歳だった。
場所は、北アルプスの屏風岩。
そこで、岸が宙吊りになり、羽生がなんとかそれを助けようとしている最中に、岩角でこすれてザイルが切れた……
そして、岸は落ちて死んだのだと羽生は報告をしている。
“おれだったら切るね”
羽生が言ったという言葉が、深町の脳裏に蘇った。
「岸文太郎を覚えてますか」
深町が言った時、羽生の顔が強《こわ》ばった。
一瞬、眼が吊りあがったようにも、羽生の内部に潜んでいた鬼の顔が、そこに覗いたようにも見えた。
しかし、その表情は、短い風が通り過ぎたように、すぐに羽生の顔から消え去っていた。
もとの、羽生の堅い顔が、深町の前にあった。
深町は、岸の名を出したことを後悔した。
話題を変えようと思った。
しかし、どういう話題がいいのか。
それを頭の中で捜している時、
「知ってるのか、岸のことを──」
羽生が言った。
「ええ」
羽生が、岸のことをずっと忘れたことがないのは、深町にもわかっていた。
羽生の書いた手記を、岸涼子から見せてもらったが、グランドジョラスで死にそうになった時にも、羽生は、岸の幻覚を見ているのである。
「噂も聴いたか?」
羽生が訊いた。
「噂?」
深町は、とぽけて訊ね返した。
深町は、その噂を知っている。
“羽生が、岸と自分を繋《つな》いでいるザイルをナイフで切ったのではないか”
それは、そういうものだ。
しかし、それを、ここでは言えない。
「おれが、ザイルを切ったんだとさ」
羽生は言って、また押し黙った。
羽生が、鈍く光る眼で、深町を見つめていた。その眼の奥から、何か、温度を待った、ぎらぎらとふきこぼれるようなものが、溢れてこようとしていた。それがわかった。羽生は、自分の内部から溢れようとしているそれに、耐えようとしていた。
それに、ほとんど耐えられなくなりそうだと思えたその時──
「おれを、撮れ……」
羽生は、喉に何か詰まったような、掠れた声で言った。
底にこもった低い声だった。
「おれが、逃げ出さないようにな」
胸の裡に隠し待っていた、刃物の腹を傾けて、ぎらりと光らせてみせたような言葉だった。
十七章 氷河ヘ
十一月二十九日──
八人用テントの中で、羽生が、ザックの中から中身を取り出して、そこに並べている。
強い陽差しが照りつけているため、内部には充分な明るさがあった。テントの布地の薄いブルーを通過して、内部にはブルーの光がこもっていた。
昨夜の風は止んでいた。
時おり、雪崩《なだれ》の、こもった低い響きが、氷河の向こうから聴こえている。
羽生丈二は、テントの奥に胡座をかいて、黙々とその作業をしていた。
深町が、持っているカメラを向けても、そのレンズを、羽生はもう気にしているようには見えなかった。
乾いた顔で、山の道具を並べてゆく。
南西壁に、単独で挑むための装備を、点検しているのである。
最後の点検だ。
これは、どれだけやっても、やりすぎるということはない。
ひとつ取り出しては、リストの紙に、鉛筆でチェックを入れてゆく。
小さな鉛筆だった。
万年筆やボールペンにしないのは、それらの用具が、寒さと高度に弱いからである。八○○○メートルを超える高山では、インクが凍ることもあるし、弱い気圧でインクが外に出てしまうケースもある。
そして、手帳ほどの小さなノート。
それが、深町の眼に止まった。
そのノートと鉛筆が、羽生の足元に置かれていた。そのノートが、見かけよりも薄い。
「それも、持っていくのか?」
深町は訊いた。
「ああ」
羽生が答えた。
羽生が、その小さなノートを手に取った。
見覚えのあるノート。
グランドジョラスの時に、羽生が、岩棚で書き記し、岸涼子に渡したものと同タイプのものだ。
「持ってみろ」
羽生が、深町にそのノートを手渡した。
深町が持ってみると、軽い。ベージを捲《めく》ってみると、理由がわかった。中のページが半分くらい、切り取られて失くなっていたのである。
「これは?」
持っていくものは、できるだけ軽い方がいいからな」
いらないと思われるページを、切り取って捨てたのだという。
「これもだ」
羽生は、持っていた小さな鉛筆を見せた。
鉛筆の尻の部分が、切り落とされていた。
「一センチ五ミリほどだが、短くした」
羽生は言った。
羽生は、深町からノートを受け取り、その灰色の表紙を、その場で破り取った。表紙と裏表紙を破り取られて、ノートの白い中身がむき出しになった。
「考えてみれば、これもいらない重さだ」
羽生は、破り取った表紙を、脇へのけ、ノートを、装備の並んでいる端に置いた。
羽生と深町の眼の前に並んでいる細《こま》ごまとしたもの、それが、今回の羽生の装備の全てであった。
深町は、その装備全体を広角レンズで、羽生と共にファインダーに収め、シャッターを切った。
「見せてもらえるか」
羽生が、装備のチェックに使用した紙片を、深町は手に取り、中を覗いた。
ボールペンで、細かく装備の品が書かれていた。
重さまでが記してある。
ミレーのザック30L
8ミリナイロンザイル40m
替えの靴下五足
テルモス1L
かもしかの一人用テント1.2s(エクスペディション仕様)
高度計・スイス・レヴュー・トウメン
ヘルメット1
無線機1
ヘッドランプ1
単3電池8
蝋燭1
ガスライター
EPIガスコンロ3(ヘッド1)
コッフェル1
スイス・アーミーナイフ小1
プラスチックのスプーン1
プラスチックのフォーク1(どちらも枝を切り落として短くしたもの)
芯を抜いたトイレットペーパー1
全身用羽毛シュラフ(メイドイン・チャイナ・テンシャン。シュラフカバー無)
シュリンゲ、40センチ15本
カラビナ10
アイスハーケン4本
ハーケン5本
ガムテープ(短くしたもの)
ノート(表紙無)
鉛筆(一部切り落としたもの)
陽焼止めクリーム
カルシウム入ビタミン剤5錠
パウダースープ12袋
ベビーフード
蜂蜜
干し葡萄《ぶどう》
コンデンスミルクのチューブ入り
チョコレート
飴《あめ》
携帯《けいたい》用無線機
これが、出発時に、羽生の肩にかかる重量である。
全部合わせて、一四、五キログラム。
次が身に付けるものだ。
ピッケル
アイスバイル
12本爪アイゼン(フロントポインティング)
腕時計
ゼロポイント下着(上・下)
ダウン下着(上・下)
厚手のフリース上着、下着
三重構造ゴアテックス製ウインド・プルーフ・ジャケット(上・下)
インナー手袋(左・右)
オーバー手袋(左・右)
ウール靴下(左・右)
インナーブーツ入り二重靴・プラスチック製(左・右)
ロングスパッツ(左・右)
ウールの帽子
ゴーグル
以上のものを、羽生は身につけてゆくことになる。
ピッケルとアイスバイルは、それぞれを左右の手に握って、氷壁に打ち込みながら、靴の上から取り付けたアイゼンの前爪を氷に蹴り込んで引っかけ、それで登ってゆくものである。
下着は、こういう冬山では、生死を分ける重要なポイントとなるものだ。
たとえば、冬山の場合、綿の下着を肌に付けるのは、最悪である。綿は、水分を吸い易いが、濡れると保温力が急速に落ちる。さらには、吸湿性はあるが、それを水分のまま繊維の中にとどめてしまう性質がある。濡れた綿のシャツは、肌にべたべたとまとわりつく。
仮に、下着をウールにすると、ウールは汗を吸い、それを人の体温で気化させて、外へ放出する性質を持っている。
ウールの下着と、綿の下着は、同じ厚みであれば、乾いているおりの保温力はどちらもあまり違わないが、濡れた時に大きな差が出ることになる。
冬山で遭難した者のうち、この、ウールの下着を着ていた者だけが助かった例は幾つもある。
ゼロポイントは、化学繊維であり、ウールの持っているこの性質をさらに高めたものだ。
食料のほとんどが、液状にして口にするか、菓子状のものであるのには理由がある。
八○○○メートルを超えると、人間は、固形物をほとんど喰えなくなる。
それで、蜂蜜やスープが食料のベースになる。
パウダースープというのは、軽いからだ。粉状の軽い状態で上へ運び、食べる時に、水で溶かして熱する。水は、周囲に雪としていくらでもあるから、持ってゆかなくてもよい。
しかし、どんなに荷を軽くしても、最終的に、裸の状態よりは、二五キロ近く重い荷物を待って、羽生は動くことになる。
それで、無酸素、単独でエヴェレストの頂上を目指すなど、果たして、本当に人間にできることなのであろうか。
深町は、リストを見ながら、今さらながら身の裡が震える思いを味わった。
「おい、震えてるぜ」
座っている羽生が、深町に声をかけてきた。
視線を落とし、深町は、自分の両脚が、小刻みに震えているのに、はじめて気がついた。
替えの靴下というのは、夜、眠る前にテントの中で、その日一日使用したものと取り替えるためのものだという。
「かえって、荷物になるんじゃないのか」
と、深町は羽生に訊いた。
「いいや」
羽生は首を左右に振った。
一日行動すれば、足はかなりの汗を掻《か》く。それを、靴下が吸うことになる。それは、靴下が汗で濡れることを意味する。
その濡れが、
「凍傷の原因になるからな」
と羽生は言った。
八○○○メートルに上れば、体力が低下をする。自分の血流で、自分の足を温めることが困難になって、温度が下がり、その濡れた場所が凍りつく。それで凍傷になれば、斜度が五〇度もある氷壁で、微妙なバランスがとれなくなる。
滑落すれば、死だ。
ちなみに、羽生は、持ってゆくトイレットペーパーの芯を抜いている。鉛筆も、手帳用の小さいものを、途中から切り落として短くしている。ノートの表紙でさえ、いらぬものとして破いて捨てている。
これは、少しでも自分の足が運ぶ荷を軽くしようと羽生が考えているからである。
プラスチックのスプーンとフォークの柄の一部までが、余分な重量として、切り落とされているのである。
切り捨てた柄と、トイレットペーパーの芯、鉛筆の一部、これ等を合わせても、ほんの数グラム──もう少しあったところで一〇グラムはあるまい。
それでもいいから荷を軽くしたい──
それが、深町にはわかる。
七〇〇〇メートルを超える高度を、深町も歩いたことがあるからだ。
その高度だと、少し動いても息が切れる。そういう時、心に迷いが生ずるのだ。
自分は、やれるだけのことをやったのか。
もっと荷を軽くできたのではないか。
そういう不安を抱えていても登攀《とうはん》の邪魔になるだけだ。低酸素と疲労で、ただでさえ思考が鈍る。そこへ、さらにわずらわしい考えがちらつけば、それが事故につながる。
もし、きちんとその作業が済んでいるのなら、
「やるだけはやった」
余計な思考をせずにすむ。
そのため、徹底的に荷を軽くしているのである。
つまり、そこまで軽さ《・・》ということにこだわっておきながら、替えの靴下という余分な重量を何故持っていかねばならないのか。
深町は、それが気になったのである。
「多少重くとも、足のためには替えの靴下を持っていった方がいい」
これが、羽生の結論であった。
「重量が問題になるのは、八○○○メートルよりも上だ。あの靴下の替えは、その時はもう持ってはいない」
替える度に、古い方は捨ててゆくから、最後のアタックの時は、その時穿《は》いている以外の靴下を持ってゆくわけではないのだと。
そういうことか。
深町はうなずいた。
しかし、気になることは、まだ、あった。
それは、羽生が、エヴェレスト登頂をねらうための日程である。いったいどういう日程で、羽生は、エヴェレストの南西壁を落とそうとしているのか。
「訊きたいことがある」
深町は言った。
「なんだ」
「日程だ。どういうやり方でエヴェレストをやるのかを知りたい」
深町が言うと、羽生は、テントの天井に眼をやり、それから深町に視線をもどした。
「三泊四日──」
ぼそりと、羽生が言った。
エヴェレストの南西壁は、長い間、人間の登攀を拒み続けてきた。
そこには、長い歴史がある。
最初が、一九六九年の、日本山岳会による偵察であった。それを含め、一九九二年のウクライナ国際隊まで、二十三隊の偵察、アタックを南西壁は受けている。このうち、登頂に成功したのは三隊のみであり、それぞれポスト・モンスーン期の登頂である。この三隊のうち一隊は、隊員一名がどうにか頂上を踏んだものの、その後、他のアタック隊員と合流した後、行方がわからなくなっている。登頂隊員四名全員か未帰還──つまり死亡している。
登頂した後、きちんと登頂隊員が生還したのは、一九七五年のイギリス隊のみであった。
一九六九年・プレ・モンスーン期 日本山岳会(偵察)
一九六九年・ポスト・モンスーン期 日本山岳会(偵察)南西壁試登 八○五〇mまで
一九七〇年・プレ・モンスーン期 日本山岳会 南西壁 八○五〇mで断念 南東陵から登頂
一九七一年・プレ・モンスーン期 国際登山隊 南西壁八三五〇mで断念
一九七二年・プレ・モンスーン期 全欧国際隊 南西壁八三五〇mで断念
一九七二年・ポスト・モンスーン期 イギリス隊 南西壁八三二〇mで断念
一九七三年・ポスト・モンスーン期 日本第2次RCC 南西壁八三八〇mで断念 南東稜から登頂
一九七五年・ポスト・モンスーン期 イギリス隊 南西壁初登頂 BC(ベースキャンプ)から三十三日間
一九八二年・プレ・モンスーン期 ソ連隊 南西壁左岩稜から西稜を経て登頂
一九八四年・ポスト・モンスーン期 チェコスロバキア隊 南西壁断念 南稜第2登
一九八五年・ポスト・モンスーン期 インド隊 南西壁七〇〇〇mで断念
一九八五年・冬期 日本東京山岳協会 南西壁八三八〇mで断念 南東稜から登頂
一九八五──八六年・冬期 韓国隊 南西壁七七〇〇mで断念
一九八六──八七年・冬期 韓国隊 南西壁八三五〇mで断念
一九八七年・プレ・モンスーン期 チェコスロバキア隊 南西壁八二五〇mで断念
一九八八年・ポスト・モンスーン期 チェコスロバキア隊 南西壁から登頂するも、アタック隊員全員還らず
一九八八──八九年・冬期 韓国隊 南西壁七八〇〇mで断念
一九八九年・プレ・モンスーン期 フランス隊 南西壁七八〇〇mで断念
一九九〇年・ポスト・モンスーン期 スペイン(バスク)隊 南西壁八三二〇mで断念
一九九〇年・ポスト・モンスーン期 韓国隊 南西壁七七〇〇mで断念
一九九一年・プレ・モンスーン期 韓国隊 南西壁八三〇〇mで断念
一九九一──九二年・冬期 群馬県山岳連盟 南西壁八三五〇mで断念
一九九二年・ポスト・モンスーン期 ウクライナ国際隊 南西壁八七〇〇mで断念
一九九二年までに、偵察の二隊を別にすれば、二十一隊が南西壁に挑戦をし、イギリスの一隊をのぞいて、そのことごとくが敗退しているといっていい。
一九八八年のチェコスロバキア隊は、一名が登頂はしたものの、登頂者一名を含む全員が頂上からもどってこれずに死亡しているから、ニュアンスとしては敗退である。
このうち、冬期は、羽生自身が参加をした一九八五年の東京山岳協会の遠征を含めて五隊が挑み、そのことごとくが敗退をしている。
近年、登山用具は次々に改良され、技術もノウハウも進歩してきているというのに、ここまで頑《かたく》なに登頂を拒み続けている壁は、他にない。
これを、羽生は、冬期に、しかも単独無酸素で、どうやって登ろうというのか。
五四〇〇メートルのベースキャンプから、八八四八メートルの頂上まで、概念上、登攀コースは五つのブロックに分けられる。
まず、第一に、クンブ氷河が氷瀑となってなだれ落ちるアイスフォール帯がある。通常は、このアイスフォールを越えたすぐその上部に第一キャンプを設営することになる。
ベースキャンプから第一キャンプまでの地図上の直線距離は、約三キロメートルだが、実際に人が歩く距離は、倍では利かない。幅一〇〇〇メートル、落差七〇〇メートルになる氷河の滝である。新宿の高層ビルをおよそ四つも重ね合わせた高さから、家ほどもある氷塊がなだれ落ちている斜面でもる。氷塊、クレバス、スノーブリッジ──しかも、それは、人がそこを通過している最中も動き続け、崩れ続けているのである。
アイスフォール上部から、ウェスタンクーム──つまり、西の谷と呼ばれるおそろしく巨大な氷河の斜面がある。斜度こそ強くはないが、このアプローチが長い。
標高六七〇〇メートルあたりに、氷河とエヴェレスト岩壁との間に生じた巨大な裂け目、“ベルグシュルント”がある。ここまでが第二。
第三が、このベルグシュルントから標高六九〇〇メートルの“軍艦岩《ぐんかんいわ》”を経て、標高七六〇〇メートルの“灰色の岩峰《ツルム》”までの、標高差九〇〇メートル、大中央ガリーを通る斜度四〇度から四五度の、岩と雪の斜面である。
ここからが、いわゆる、本格的な南西壁の核心部となる。
“ロックバンド”と呼ばれる、南西壁最大の難所である。
岩壁は、ほぼ垂直。
左と右にある岩の溝──クーロワールのどちらかを抜けてゆかねばならない。
これが、第四である。
ロックバンドのクーロワールを抜けきると、標高が八三五〇メートルとなる。
この地点から、イエローバンド下部の岩壁を、右に向かってトラバースしてゆくことになる。そして、南東稜の上部に出る。エヴェレストの本陣と、サウスピークとの間の鞍部《コル》で、標高は八七〇〇メートル余り。この南東稜が、いわゆるノーマルルートである。南東稜に出さえすればあとは頂上まで、技術的に難しいものはない。
エヴェレストの最上郡の、ピラミッド部分の登りである。これが、第五。
この間、テントは、どこにでも張ることができるわけではない。雪か岩かの差はあれ、どこも斜面であり、常に雪崩、落石の危険にさらされる。疲れたからといって、どこにテントを張ってもいいというわけではないのだ。
たとえば、四〇度の斜面にある軍艦岩の真下の、ほんの六〇センチほどの空間が、わずかに安全な地帯である。
広大な斜面を落ちてきた落石は、軍艦岩の上部から宙に飛んで、頭上を越えてゆくからだ。しかし、ここでも、真に安全な場所とは言えない。
もし、拳大の落石の直撃を受ければ、それはヘルメットを破壊し、頭蓋《ずがい》骨を割り、たやすく人の脳の中に潜り込む。その落石も、たまにあるのではない。常にある。
当るか当らぬかは、単に運といってもいいのだ。
さらに、エヴェレストの岩壁に吹きつけるジェットストリームがある。その風速、時に六〇メートルにもなる。ヒマラヤのジャイアンツの頂は、常にこの風にさらされているのである。
無酸素。
単独行。
雪崩。
落石。
難度の高い岩壁。
氷点下二十度から四〇度の大気。
高度障害。
長いアプローチ。
悪天候。
そして、強風。
この苛酷《かこく》な条件下で、どうやって、三泊四日でエヴェレストの頂上を落とすというのか。
「できるのか、三泊四日で」
「三泊四日だからできるのさ」
「まさか」
深町が言うと、羽生は、挑むような眼で、深町を見た。
「できるんだよ」
羽生は言った。
「おれは、死ぬほど考えたよ。この南西壁のことをね。一九八五年に失敗してから、毎日毎日、南西壁のことばかり、考え続けてきたんだ。一日だって、南西壁のことを忘れたことはなかったよ」
そうだろうと、深町は思った。
羽生が、一度失敗した壁を、あきらめるはずがないと。特に、それが、まだ登られていない岩壁ならば絶対に忘れるはすがない。羽生にとって、忘れないということは、それを登ろうと意志することだ。意志するだけではない、実際にそこへ登ってゆくということだ。
口にした通り、この八年間、一日だって忘れたことはなかったろう。
「南西壁のことなら、どんなに小さな壁だってわかる。どこに、どういう風に壁があって、どうハングしているか、みんな、わかっている。眼をつぶったって、アイスフォールの中を歩けるよ。どのクレバスを、どうかわせばいいか、ダブルアックスで、どの氷にどう、ピッケルを打ち込めばいいか、みんなわかっている。どの足で、アイスフォールの中に入り込んで、どの足で出てくるか。アイスフォールを越えたら、ウェスタンクームの中で、中央にルートをとって、次にヌプツェ寄りにルートを変える。ベルグシュルントの幅も、頭の中にある。そこから、斜度が四〇度の氷の斜面になる。その斜面を軍艦岩に着いてから、左へ、氷の斜面を二五メートルのトラバースだ。ここから、斜度が四五度になる。それをダブルアックスでゆく……」
羽生の眼に、ぎらぎらと粘るような光が宿っていた。
自分の言葉通りの映像の中を、自分自身が歩いてゆく光景が、はっきり羽生の脳裏に浮かんでいるに違いない。
「おれは、もう、誰ともパートナーを組まない。単独でやる。失敗しようが、うまくゆこうが、全部おれの責任だ。頂上に立つのも独りだ。断念するのも、敗退するのも、おれひとりだ」
羽生は、硬い声でつぶやいた。
「死ぬ時も、独りさ」
乾いた声で、そう付け加えた。
「誰かのための荷上げもしない。してもらわない。他の隊員のためのラッセルもしない。してもらわない」
羽生は、苦しげに、身をよじるようにして言った。
「今、三泊四日だからできるんだと言ったな?」
「言ったよ」
「どういう意味なんだ」
「一九七五年のイギリス隊は、三十三日、ポスト・モンスーンの南西壁にかかっている」
「しかし、三十三日というのは、これまでの最短時間だろう」
「それでも長すぎるよ。いいか、冬の南西壁は、もっと短い時間でいいんだ。単独行ならばな」
「────」
「イギリス隊が、何故、あんなに時間がかかったかわかるか」
「何故?」
「安全だよ。奴ら、安全のために、それだけの時間をかけるんだ」
「────」
「フィックスローブを、八キロメートル。ガスボンベを八○○本。酸素ボンベを七〇本。食料を一トン。その他諸々のものをベースキャンプまで運び、そこからさらに上のキャンプまであげる。梯子《ラダー》を二〇脚、テントを三〇。ハーケンだの、ザイルだの、スノーバイルだの、考えられない量を上にあげてゆく。二十三人の隊員と、シェルパが、安全に行動し、食事ができるようにな」
羽生の言っていることは、深町にも理解できる。
アイスフォールで言えば、そこにも、ルート工作をする。迷路のようなその内部に、固定ロープが張リめぐらされる。氷塔に囲まれたその内部で、迷わぬためであり、安全に効率よくそこを通り抜けるためである。中に存在する、大小無数のクレバスには、その幅に応じたアルミの梯子が掛けられ、固定される。
危険な岩場についても、同様である。
岩にハーケンが打ち込まれ、カラビナが取りつけられ、そこにザイルが張られて、ユマールを使用してそこを攀《のぼ》る。
雪の上では、いったん霧などで視界が悪くなると、方角がわからなくなる。そこで、そこにも旗が立てられ、ロープが張られることになる。
イギリス隊で言えば、三十三日間のうちのほとんどの時間が、そういうことの為に費やされているのである。荷をあげ、ザイルを張り、キャンプ1、キャンプ2と、頂上にむかってキャンプをあげてゆく。
それもこれも皆、数人、時にはひとりの隊員が、安全に頂を踏むためのものである。
しかし──
それをしているのは、イギリス隊だけではない。
多くの隊が、それと同様の方式でヒマラヤに登る。
それだけのことをしなければ登れないのがヒマラヤのジャイアンツであり、それだけのことをやっても、遭難をし、人が死ぬのがヒマラヤである。
ヒマラヤの八○○○メートル峰で、無酸素、単独登頂を何人かの登山家がやってのけているが、そういう単独登頂者の多くは、同じ時期に入った別の隊が設置した、そういうルートを利用しているのである。
「独りならば、三十三日はいらない」
「しかし、三泊四日というのは──」
「この八年、おれが考えぬいた結論さ。考えただけじゃない。実際に、何度も南西壁に取りついて出した結論だ。南西壁を単独でやるんなら速攻しかない」
「────」
「いいか。仮にだ、頂上まで、全てルート工作ができているとするな」
「仮定の話か」
「そうだ。天候もいい。高度順応もできている。体力も技術も一流。調子もいい。充分な休養もとっている。エヴェレストの山域を誰よりも熟知していて、南西壁に取りついたことも何度かあり、もちろん、ヒマラヤの八○○○メートルを何度も経験している。そういう人間が、酸素を使って、そのルートができているコースを行くとしたらどうだ」
「────」
「三泊四日は、不可能じゃない」
自分の言った言葉を確認するように、また、それを自分に言い聞かせるように、羽生は言った。
「ベースキャンプから、キャンプ2まで、実際に六時間半でゆけるんだ。キャンプ2からキャンブ3までだって六時間半で行っている。キャンプ3からキャンプ4まで八時間。キャンプ4から、頂上までが八時間。頂上からキャンプ4まで下るのが、三時間十分。これらは、みんな、イギリス隊が出した記録だ。一日の行動時間が、六時間半から八時間半。これをトータルすれば、三泊四日になる」
「しかし、それは、何人もの隊員がそれぞれ、天候のいい日に別々に出した記録だろう。独りの隊員が、連続して、三泊四日でその距離を移動したわけじゃない」
「少なくとも、まったくの絵空事じゃない」
「────」
「聴け、深町」
羽生の声が大きくなった。
「いいか。朝、ベースキャンプを出て、二時間半でアイスフォールをダブルアックスで抜け、ウェスタンクームの六五〇〇メートル地点まで、四時間でゆく。そこで一泊」
「────」
「次の日に、ベルグシュルントを渡り、軍艦岩を抜けて、七六〇〇メートルの灰色のツルムまで。これに八時間──」
「────」
「二泊目を、この灰色のツルムの下ですごし、翌日早朝に出発をする。八時間で、クーロワールを通り、ロックバンドを越え、そこで一泊。そこが、おれの最終キャンプになる。翌日の朝、そこに、テントを置きっぱなしにしたまま、八時間で頂上に着き、三時間でテントまでもどってくる──それで、三泊四日だ」
「しかし──」
「いいか。最初の日に、軍艦岩までだって、いけるんだ。少しペースを早くして、一時間半余計に歩くつもりならな。しかし、おれは行かない。何故だかわかるか?」
羽生の眼が、ぎらぎらと、ぬめった光沢を帯びていた。
「どういう意味だ」
深町は訊いた。
深町が問うたことで、羽生は、満足したように唇を歪めた。笑ったように見えた。しかし、実際には、唇の右端がひきつれたように吊りあがり、白い歯がそこに覗いただけだった。
眼は笑っていない。
「標高の高い場所での滞在を、できるだけ短くするためだ」
「────」
「その日に、軍艦岩まで行って泊まっても、二泊目は、どうせ、灰色のツルムですることになる。日程に変化はない。それなら、軍艦岩の六九〇〇メートルよりウェスタンクームの六五〇〇メートルの一泊の方がいい」
「────」
「知ってるか。人間が、どんなにがんばっても高度順応しきれない高さがある。人によって、多少違うが、それが丁度、六五〇〇メートルあたりにあるんだ。いいか、その高度を越えちまうと、どれだけ高度順応がうまくいっていようと、何もしないで眠っているだけで疲労してゆくんだよ。だから、六五〇〇だ。そこで一泊すれば、ほとんど疲労なしで、二日目に入ることができるんだ。どっちみち、この六五〇〇までは、酸素ボンベはいらないんだよ。高度順応がうまくいってればな。つまり、酸素ボンベ無しで登るのは、二日目からの二泊三日だけということになるわけだ」
羽生は深町を睨みながら言った。
だが──
深町は口ごもった。
いくら、理屈の上では大丈夫そうであっても、現場に出たら、理屈どおりにゆくわけではない──しかし、そんなことは、深町が指摘するまでもなく、羽生自身が充分に承知しているであろう。
「それは、天候を考えに入れてない。好天が連続して四日続いたとしたらのことだろう。場合によったら登攀中に天候待ちをすることになるんじゃないのか」
「四日分の食料を、余計に持ってゆく」
「しかし、天候が……」
「知ってるよ。あんたの言うとおり、ポイントは天候だよ。もっと具体的に言うなら、風だ。エヴェレスト一帯は、十二月のクリスマスの時期になると、それまで以上に強い風にさらされる。この時期は、もう、登山どころではない。途中、風が止むにしても、せいぜいが一日か二日だ。三日目には、もう強風がもどり、それが春まで続く。エヴェレストの稜線を歩いている時にこの風にやられたら、たちまちふっ飛ばされる。だから、この風が吹く前に、アタックを終えなければならない。しかし、その風にしたって、いつも十二月の後半から始まるわけじゃない。年によっては早い時もある。だから、十二月十五日が、ひとつの目安だ。その日までに登山を終えなければならないということだ」
「登攀中に天候待ちをすることを考えると、十二月十日までに、ベースキャンプを出発しなければならないということだな……」
「そうだ」
羽生はうなずいた。
羽生は、ゆくだろうと、深町は思った。
羽生はゆくだろう。
鬼スラを井上とやり、後に単独で鬼スラをやった羽生ならば、ゆくであろう。
自分は、それにどこまでついてゆけるだろうか。
頂上までは無理だ。
ならば、どこまで──
アイスフォールは、大丈夫だ。
ロープなど張られてはいないが、充分に高度に順応した人間であれば、ダブルアックスで、ロープが張ってあるのと同じ速度で、通り抜けることができるだろう。
他の場所でも、同じはずだ。
羽生ほどの技術と体力、そして精神力があれば……
だが、おれは──
深町は唇を噛んだ。
十一月三十日──
昼に、アン・ツェリンが下から上がってきた。
アン・ツェリンは、ザックを下ろすと、深町に手を差し出してきた。
「ビカール・サンの写真を撮ることになった」
深町は、アン・ツェリンの手を握りながら言った。
「単独行の邪魔はしない」
「わかってるよ」
空いている方の手で、握り合った手の上を軽く叩きながら、アン・ツェリンは言った。
「誰であろうと、自分の人生を生きる権利がある」
その短い会話が、挨拶となった。
食事を済ませてから、プジャを行った。深町も、この五月に体験している、登山の安全を願うシェルパの儀式である。
二人で、石を積み重ねて、人の胸ほどの高さの祭壇《チョルテン》立てた。祭壇の上にさらに棒を立て、その棒の先から四方の地面まで幾つもの祈祷旗《タルチョ》が付いた繩を張った。
赤。
青。
縁。
黄。
白。
五色の旗が、風に揺れた。
祭壇の前に、三人で座した。
香が焚かれ、清涼な冷たい大気の中に、杜松《ねず》の匂いが流れた。
アン・ツェリンが、静かに読経を始めた。
読経が終わった。
アン・ツェリンが立ちあがり、
「これを」
白い粉の入った鍋を差し出してきた。
ツァンパ──チベット人やシェルパが主食にしている麦こがしである。
三人で、それをひとつかみずつ握る。
アン・ツェリンの合図で、その粉を、天に向かって投げあげた。白い粉が、青い空に敗り、風に流されてたちまち散りぢりになって、すぐに、そこに、もとの碧空《へきくう》が残った。
十二月一日──
十二月に入った。
この日から、いよいよ、冬間の登山を開始してよいことになっている。
朝、気温マイナス一七度。
気温が上がっている。
昨日よりも、三度、高い。
空は晴れているが、ヌプツェ上空の、遥か高い場所に、細い筆を幾つも重ねて掃《は》いたような絹雲《けんうん》が出ていた。
羽生は、岩の上に腰を下ろし、その絹雲を見つめていた。
標高七八六一メートルのヌプツェの岩峰から、青い天に、美しい、白い雪煙が跳ねあがっている。
上空で、強い風が動いているのである。
この日、羽生に登る気がないのは明らかだった。
「どうなんだ?」
深町は訊いた。
「駄目だ」
短く羽生は言った。
羽生が答えたのは、それだけだった。
十二月に入った途端に、羽生の饒舌が止んでいた。
もともと寡黙な男だったが、何かの拍子に羽生は饒舌になる。
これほどしゃべる男だったか──
深町がそう想うほど、しゃべる時もあった。
たが、それが失くなっていた。
羽生は、堅い岩になった。
黙って、天を睨んでいる。
エヴェレストの西稜の陰に隠れ、見えないエヴェレストの頂を見ようとするように、その上空の青を睨んでいる。
「三日は駄目だな……」
深町の後方から、アン・ツェリンが声をかけてきた。
「温度が上がって、ああいう雲が上に出てくると、天気が崩れる。あと三日は、動けない」
羽生の心を通訳するように、アン・ツェリンは言った。
羽生は、黙ったまま、虚空を睨んでいた。
十二月二日──
マイナス二○度。
天気は崩れた。
ヌプツエの頂に雲がかかっていて、七六〇〇メートルあたりから上は、見えなかった。
頭の上では、激しい勢いで、雲がチベット側へ流れてゆく。
時おり、雲が割れて、驚くほど清浄な青い空が覗く。その割れ目から太い光線が降りてきて、灰色の氷河の上を、光の輪が疾ってゆくのが見える。
その光の輪が、氷河を抜け、エヴェレストの西稜の岩壁を駆け登って、尾根から天へ消えてゆく。実際には、尾根のむこうへ消えたその光はチベット側の斜面をロンブク氷河に向かって舞い降りてゆくのだが、地上から見ていると、天へ疾り抜けたように見えてしまう。
雄大な動き。
圧倒的な量感を持った光景であった。
その光景の動きの中に、ぽつんと、羽生が岩に腰を下ろしている。
深町は、離れた場所から、カメラを持って、あたりの風景と羽生を撮っている。
羽生は、前以上に寡黙になった。
ほとんど、必要以上の言葉を交わそうとしない。
試合を直前に控えたボクサーが、あるいはこの時の羽生のようになるのかもしれない。
羽生は自分の内部に深く沈んでいるようであった。
十二月三日。
気温、マイナス二二度。
曇り。
風強し。
十二月匹日。
気温、マイナスニ○度。
午前中晴れるも、午後にまた曇り。
風強し。
10
十二月五日。
気温、マイナス二一度。
曇り。
風強し。
11
十二月六日。
気温、マイナス二一度。
雪。
朝、雪の音で、深町は眼を覚ました。
サラサラと、乾いた音がテントに触れているのである。
それが、何の音であるのか、深町にはわかっていた。
雪だ。
雪が降っているのである。
雪が、天から降りてきて、テントのフライシートに触れてゆく音だ。
この時期、空気は乾燥しており、雪は、そういつも降るものではない。
小刻みに、フライシートが揺れているのがわかる。
風は、ふいに強くなったり、弱くなったりする。その度に、テントに触れてゆく雪の音も、強くなったり弱くなったりする。一定のリズムがない。
しばらく、温かな寝袋の中で、深町はその音を聴いていた。
ゴアテックスのシュラフだ。
シュラフカバーはしていない。
シュラフカバーをすると、外からの湿気を防ぐにはいいが、内側からの湿気がうまく逃げてゆかない。
たとえ、五〇〇〇メートルを超えた標高にあっても、人間の身体は汗をかく。その汗が、体温で気化されて、羽毛に吸われ、さらにそれをゴアテックスが、外へ出す。
ゴアテックスの布地の隙間は、水の粒子よりは小さく、空気の粒子よりは大きい。つまり、空気などの気体は透すが、汗などの水分は透さないという性質を持っている。
体温でいったん気化された汗の水蒸気が、ゴアテックスの外へ出てゆく時に、そこにシュラフカバーがあると、そこで冷やされてその内側に凍りついてしまうのである。
その氷が、体温で温められ、溶けてシュラフを濡らしたり、あるいはシュラフを凍らせたりするのである。
羽生の装備にも、シュラフカバーはない。
シュラフのファスナーを下ろし、上半身を起こして、深町はカメラを点検した。
レンズのフォーカスの動きを確かめ、浅くシャッターボタンを押す。
動く。
カメラを置き、シュラフから這い出して、テントの中に入れておいた氷のような靴を履く。
次に羽毛服を着る。
テントの中の温度が、マイナス一五度。
外はもっと寒いはずだ。
テントの内側が凍っている。
入口のファスナーを下ろし、深町は寒気の中に出た。
一面の雪だった。
視界は、一〇〇メートルもないであろう。
ヌプツェの岩肌も、氷河も見えない。
ただ、巨大な空間を、降ってくる灰色の雪が埋めていた。
足元の岩の上にも、雪は三センチ近く積もっていた。
すぐ横に、ベースのテントがあり、風に小さく身を揺すっている。
そのむこうに、羽生のテントと、アン・ツェリンのテントがひと張りずつ。
羽毛服のフードを、風が絶え間なく小刻みに揺らしていた。
深町は、羽生のテントの方を見やった。
入口あたりの雪の上に、足跡があった。
テントから、羽生が出て行った足跡であり、もどってきた足跡ではなかった。
羽生が、どこかへ出かけたらしい。
深町は、その足跡を追ってみることにした。
一〇メートルほど歩くと、むこうの方に人影が見えた。
いつもの場所、いつもの岩の上に、羽生が座していた。
座したまま、羽生は、雪が降りてくる天を睨んでいた。
12
この時期に、雪が降るのか。
深町は、そう思った。
空気は乾燥している・空気中の湿り気は、この高度に風がたどりつくまでに、途中で絞《しぼ》りとられ、めったなことでは雪は降らない。
しかし──
絶対に降らないというわけではない。十二月の前半、基本的に雪は降らないが、それは、あくまでも基本的にはということだ。何日かは、降る。その降ろ何日かのうちの一日が、この日てあったということだ。それが、一九九三年十二月の六日──羽生が、エヴェレストのベースキャンプで、焦燥《しょうそう》にかられている日であっただけのことだ。
ベースキャンブから、ほんの数百メートル上空、標高六〇〇〇メートルを超えたあたりには、かなり強い風が吹き荒れているらしかった。
唸るようにして、風が天を疾《はし》り抜けてゆく。
すぐ頭の上の、灰色の空中を、無数の獣の群が走りまわっているようであった。
いやな考えが、深町の脳裏に浮かんだ。
もしかしたら、十二月の後半にやって来るはずのブリザードが、十二月前半のこの時期に来てしまったのだろうか。
もし、そうなら、羽生は登頂を断念せねばならない。
が、そうではなく、この雪と風が一時《いっとき》のものであるなら、まだ望みはある。
13
十二月七日。
朝、七時。
マイナス一九度。
雪。
風強し。
羽生は、口を利かない。
14
十二月八日。
朝、七時。
マイナス十九度。
雪。
風強し。
羽生、無言。
15
十二月九日。
朝、六時三十分。
マイ十ス二○度。
雪。
風強し。
16
十二月十日。
朝、六時三十分。
マイナス二二度。
雪。
午後、雲が割れて青空がのぞく。
風強し。
17
十二月十一日。
マイナス二二度。
晴。
深町は、寝袋の中で、眼を開いた。
いつもとは違う明るさが、テントの内部を満たしていた。この十日間ほど忘れていた明るさ。
風はない。
テントを絶え間なく揺らしていたあの風が失くなっていた。
上半身を起こす。
寝袋のファスナーを開ける。
寝袋の表面に凍りついていた水蒸気の結晶が、さらさらと下に落ちる。
靴を履《は》くより先に、テントのファスナーを上げて、外へ顔を出した。
晴れていた。
黒いほどに青い空が頭の上にあった。
靴を履いて外へ出る。
ヌプツェの岩峰が眼の前にあった。
その岩峰から、真っ白な雪煙が、高く、青い空に向かって吹きあげられていた。
地上に風はなくとも、あの高い岩の頂は、強い風の中にあるのだ。
まだ、陽光は、ベースキャンプ地まで降りてきていなかった。ウェスタンクームの左右の岩稜《がんりょう》も、アイスフォールも、まだ、ほの暗い、青い光の中に沈んでいる。
陽光が当たっているのは、まだ、ヌプツェと、それに続く岩稜の一部だけであった。
すぐ向こうの岩の横に、羽生丈二と、アン・ツェリンが立って空を見あげていた。
深町は、ふたりに歩み寄った。
「晴れたな」
声をかけた。
「ああ」
羽生が、ヌプツェの上の空を眺めながらうなずく。
顔は、むろん、笑ってはいない。
強く、その歯を噛みしめている。
晴れたというのに、羽生は、これまで以上に厳しい顔つきをしている。
「どうする?」
深町は訳いた。
「どうとは?」
「今日、出発するのか」
「いいや」
羽生は首を振って、
「今日一日、新雪が落ち着くのを待って、明日、出発する」
「明日の天気は?」
「晴れるさ」
羽生は言った。
「温度も下がっている。いい傾向だ」
深町は言った。
「温度よりも、気をつけねばならないことがある」
羽生は、天の一角を睨んだままそう言った。
「冬の南西壁の最大の敵は、寒さじゃない。風だ……」
「そうだったな」
「いいさ、一日で、あそこまでゆくわけじゃない。明日から数えて三泊四日後に、あの風がどうなってるかだからな」
羽生は、ヌプツェの頂から吹きあげる白い雪煙に眼をやった。
美しい。
しかし、遠目にはどのように見えようとも、実際にあの雪煙の中が、どれだけ凄まじい状態になっているか、深町にもよくわかっている。
風速、四〇メートルか、あるいは五〇メートルか。
ことによったら、瞬間的にはそれ以上の強風が、あそこには吹いている。エヴェレストの頂は、ここからは見えないが、同じような雪煙を、さらに高く吹きあげていることであろう。エヴェレストの頂の方が、ヌプツェよりさらに一〇〇〇メートルも高い。
あの雪煙の中をゆく、羽生のことを思った。
ゆくのか、この男は、あの風の中を。
おそらく、稜線に出たら、半歩も動くことはできないだろう。
あの稜線で移動せねばならなくなった時には、腹を、岩か雪の斜面にぴったりとあて、隙間をつくらないようにする。わずかでも隙間があけば、そこに風が入り込んで、身体が浮く。いったん浮いた身は、宙に飛ばされて、たちまち、チベット側の空間に放り出されてしまうだろう。
身体をきちんと固定しておき、風がおさまった隙に、移動をする。風には、リズムがある。常に同じ強さで吹き続けているわけではない。強弱がある。止《や》みはしないが、弱くなった時にだけ、行動することができる。
しかし、風の止む瞬間が、長くて、十秒ほどであるのか三十秒ほどであるのか、深町には見当もつかない。
自分であったら、たとえどのような理由があろうと、あの状態の稜線には出てゆきたくない。
あの風の中をゆくなど、自殺行為に等しいからである。それは、羽生であっても同じはずであった。
あれが、十二月後半にやって来るヒマラヤ特有の風でなければ、まだ、希望はある。最上郡のキャンプで、三日、風の止むのを待つ覚悟かあるのなら、おそらく、機会《チャンス》は必ずあるであろう。
「明日だな……」
ぼそりと、アン・ツェリンが言った。
「明日には、出発できる」
アン・ツェリンは、羽生の肩を叩いた。
「ビカール・サンよ。明日、おまえさんはここを出発して、そして、知ることになる──」
「何をだ?」
羽生が、白い雪煙を眩《まぶ》しそうに見あげながら訊いた。
「自分が、天から愛されている人間かどうかを……」
「天か……」
「おまえは、それを天に問うために、あそこへゆかねばならない」
あそこ──
あの、美しく激しい雪煙の中へ。
人間の領域を超えた、神々の領域の中へ。
「それを、天に問うことができる資格を持った人間は少ない。おまえさんには、その資格がある」
アン・ツェリンは、羽生の肩をまた叩いた。
羽生は、ただ黙って、青い天に斜めに吹きあげてゆく白い雪煙を、眼を細めて眺めていた。
18
一九九三年十二月十二日。
マイナス二二度。
決晴。
午前七時出発。
十八章 アイスフォール
アイゼンの、鋭い金属の爪が、堅い氷を小気味良い音をたて踏んでゆく。
アイスフォールの中である。
ここからは見えないが、エヴェレストの頂には、すでに、ねっとりとした絵の具のような赤い陽光がへばりついているだろう。その陽光が、たっぷりとキャンバスに塗られた絵の具が自重《じじゅう》で画布の表面を流れ落ちてゆくように、ゆっくりと、エヴェレストの岩峰から這い下りてきているはずであった。それが、ウェスタンクームを下り、このアイスフォールの氷の襞《ひだ》の間に届くまでには、まだしばらく時間がかかるだろう。
深町誠は、冷たい大気を呼吸しながら、氷柱の間を歩いている。
前も後ろも、右も左も、氷だ。
すぐ前方に、大きな三階建ての家一軒ほどの氷塊が、斜めに傾いで、上部のより大きな氷塊から剥《は》がれ落ちている。いや、それはまだ完全には剥がれ落ちていない。下部ではまだつながっているからだ。上部がV字型に大きく裂けてはいるが、これはまだ、裂けてゆく途中なのだ。
何故なら、氷河は動いているからであり、その氷河が、いっきに七〇〇メートルの落差で雪崩《なだ》れ落ちているこのアイスフォールは、その中でも一番激しく動いている場所だからである。ここは、いつ、どの氷塊が動き、崩れ落ちてきても不思議はない場所なのである。
アイスフォールの氷塊の上部と底には、降ったばかりの雪が、白く積もって凍りついている。氷河本体の氷が見えているのは、氷塊の垂直部分である。そこには、さすがに雪も凍りつきにくいからだ。
もっと下流の氷河は、砂や砂利を被って、表面を灰色で覆ったりしてしまっているが、ここの氷は、どれも純白である。
純白でありながら、その裂け目などは、深い色をした青氷《あおごおり》になっている。透き通った青い闇が、その氷の裂け目の奥に口を開いている。
この氷河の最深部にまで届いているかもしれない青い闇の裂け目。そこには、これまでに積み重ねられた山の時間が、幾層にも重なって眠っているのだろう。
およそ、一万年から六十万年。
かつては海の底であったこのヒマラヤが、宇宙に露出してからの時間──
ベースキャンプで出発する羽生の写真を撮った。
その後、羽生にわずかに遅れて、深町も歩き出した。
最初にアイゼンが踏んでいたのは、岩と、小石と、雪と、氷だった。
水溜まりが凍りついたように、表面が平らで、つるつるに光っている氷の上も歩く。
それから、アイスフォールに入った。
五月の時は、フィックスロープを張り、アルミの梯子《ラダー》をクレバスなどに渡して、ルート工作のできているアイスフォールに入ってゆくことが、登山の第一歩てあった。
しかし、今回は違う。
最初から、いきなり、ルート工作などされてないアイスフォールに入ってしまった。
結局、ルート工作をするにしても、そのおり、先頭に立ってゆく人間にとっては、そこは、どういうルート工作もされていない、真っさらな処女地なのである。
深町にとっては、今回のこのアイスフォールは、半分、ルート工作ができているのも同じであった。
先行者の羽生がいるからである。
羽生が歩いた跡を、そのまま追う。
ルートを、自分の眼で同じことを試みるより、三倍は速い。
羽生は、深町の先にある、あの傾いた氷塊の下部を、右に回り込んでゆくところであった。
装備は、羽生と同じだ。
足まわりは、登山靴の上にオーバーシューズを履き、フロントポインティングのアイゼンを装着している。
ザックをひとつ。
これは、自分の方が、羽生よりは少し重いはずであった。
装備の軽量化が、羽生の方かきちんとできていることに加え、自分の方が、用意してきたカメラの分だけ、重くなっているからである。おそらく、羽生が一五キロなら、自分は二〇キロほどは、背負っているはずであった。
まだ、六〇〇〇メートルに届かないうちは、羽生が、必要以上にペースをあげなければ、これでなんとか羽生についてゆくことはできるだろう。
羽生は、休まない。
一定のペースで、アイスフォールの内部を蟻のように進んでゆく。
このアイスフォールでは、これまで多くの事故がおきている。
アイスフォールで、どこが安全という場所は、基本的に、ない。いつ、どこが崩れても不思議はない場所なのだ。たまたま、その崩れる場所にいれば事故にあい、いなければ助かる。山のベテランであるから、初心者であるからという区別はない。前をゆく人間が無事に通過しても、その後に続く人間が、わずか、十数秒の差で、氷塊の崩落《ほうらく》に遭遇してしまうこともある。
登山者にできることは、ただひとつ、それは、できるだけアイスフォールの内部にいる時間を短くする、ということのみである。
家一軒ほどの氷塊を回り込むと、そこは、左右からの氷壁がせばまって、袋小路になっていた。
羽生の踏み跡が、左の氷壁に向かっており、そのままその壁を登っている。
すでに登りきっているのであろう、上部に羽生の姿はない。
深町は、氷壁にピッケルを打ち込み、氷の壁に取りついた。
右手にピッケル、左手にアイスバイル。それを交互に氷壁に打ち込みながら、アイゼンの前爪を、氷壁に突き立て、自分の体重を、少しずつ、少しずつ、上に押しあげてゆく。
連続した動きは、さすがにきつかった。
一歩ずつ、片足をあげるごとに、数度、荒い呼吸を繰り返す。
連続したこの運動を維持するだけの酸素量を、一度の呼吸では摂取できないのだ。
呼吸が、速くなっている。
絶え間なく、喉が鳴っている。
深町は、自分のせわしない呼吸音を、こめかみのあたりで聴きながら登っていった。
まだだ。
まだ、体力はある。
まだ、自分はがんばれる。
その想いを、奥歯で噛み殺しながら登ってゆく。
ロープも張ってなければ、梯子もない。
羽生が残した踏み跡だけが、標《しるべ》である。
もし、このアイスフォールの中で、霧にまかれ、さらに雪が降り出したら……
羽生の踏み跡がわからなくなり、自分は迷ってしまうだろう。アイスフォールの中で、たった独りで方向を見失ってしまう。
それは、ただ迷う、というだけのものではない。それは、そのまま、死に直結する。
その恐怖にかられて、思わずペースをあげそうになるのをこらえながら、深町は氷壁を登ってゆく。
すぐ、顔の前に、氷がある。
同じ氷の壁でも、一様ではなく、層によっては、アイゼンの歯が潜り込めず、跳ね返されてしまうほど堅くなっていたりする。
登りきって、氷壁の上部に出る。
しかし、その先は、巨大なバケツでぶちまけたような氷塊がごろごろと転がっている急な斜面であった。
その間に、羽生の踏み跡が続いている。
姿は見えない。
少しずつ、羽生との距離が開きはじめているらしい。
しかし、焦ってペースを速めるわけにはいかない。自滅をしてしまうからだ。
乾いた咳が出る。
大気が乾燥して、冷たい。
それを連続して呼吸していると、喉をやられてしまう。
腕時計を見ると、アイスフォールに入ってからすでに一時間半が過ぎていた。
八時四十五分。
羽生の予定では二時間半で、このアイスフォールを抜けることになっていた。予定通りなら、羽生は、あと一時間で、アイスフォールの上部に出るはずであった。
いったい、自分が羽生にどれだけ遅れているのか、深町にはわからなくなっていた。姿が見えず、羽生の踏み跡だけが残っている。
一分か。
三分か。
五分か。
あるいは十分以上も遅れているのか。
もし、この場所で、自分が事故でも起こしたら?
氷壁が崩落したら?
どんなに気をつけていても、アイスフォール内で、氷壁がいつ崩れてくるかは予測しようがない。見るからにあやうそうな壁が、登山開始から終了まで、何ごともなかったこともあるし、安全と見えていたどっしりとした氷塊が、二日後にはふたつに裂けて、ルート上に倒れかかっていたこともある。
ようするに、アイスフォールをゆくというのは、一種の賭《か》けである、賭けられているのは、自分の生命だ。
氷壁を攀《のぼ》っている最中に、ふいに、深町は不安に襲われた。
もし、今、アイスバイルを打ち込んでいる氷壁の内側に、深く切れ込みが入っていて、上部にたどりついた時、このセラックが剥がれ落ちるかもしれない。
そうなったら、高度差約三〇メートルを落下して、セラックの下敷になって、内臓を口から押し出されて死ぬことになる。セラックの下敷にならなくとも、三〇メートル落下すれば死ぬ。もし、生きていたとしても、この高度差を落下して、無事でいるとは思われない。生きていても動けない。やがて、落ちたその場所で死ぬ。
羽生は、助けには来ない。
そういう約束であった。
そうは言っても、現実的に、眼の前で誰かが死にそうな目にあえば、助けには来るかもしれない。しかし、羽生の姿は、もう、このアイスフォールの巨大な氷塊群のどこかに消えて、見えなくなっている。むこうからも、こちらが見えているとは思えない。
事故を起こしても、羽生は、それを知り得ない。
自分の姿が見えなくなったからといって、わざわざ羽生が様子を見ろために下がってくるとは思えなかった。羽生にしてみれば、あとからついて来るはずの、深町というカメラマンの姿が見えなければ、彼が途中で引き返したのではないかと思うだけだ。
三〇メートル。
あと、五メートルで氷壁を越えることができる。
技術的には特別に難しいことではない。気持が萎《な》えなければだ。
たとえば、幅三〇センチの板の上を歩くこと──これには、特別な技術はいらない。しかし、この幅三〇センチの板が、地上一〇〇メートルの高さのビルとビルとの間に渡されていたらどうか。地上であれば間違いなくできるその行為が、できなくなる。
それと同様の精神的なプレッシャーがかかる。
氷壁の技術としては、一般的なものだ。
深町自身も、そのくらいは充分に身につけている。だが、他にどういう確保もなしで、まったくフリーの状態で氷壁に張りつくのは初めてのことであった。これだけの場所で、アイスハーケンを使って、いちいち安全を確保していたら、とても、羽生の言うスピードは維持できない。
斜度、六〇度から七〇度の氷の壁──感覚的には、ほぼ垂直と言ってもよい。
落ちれば、必ず死ぬが、技術的には特殊なものではない。
アイゼンの前爪を、確実に氷壁に打ち込むことを忘れぬようにして、バランスを崩さぬように高度をあげてゆけばよい。
問題は、酸素が薄いことによる、体力の低下や、集中力が落ちることだ。しかし、これから八○○○メートルを超える登攀《とうはん》をしようというのに、六〇〇〇メートルにも達しない高度で、泣きごとは言えない。
しかし、一度、恐怖が身体に張りつくと、それはすぐには離れない。
下を見る。
自分の股の間に、下の風景が見える。アイスフォールの底の、氷塊の群。落ちれば、あれにぶつかって、背骨が双つに折れるか、落ち方によっては大腿骨《だいたいこつ》が、股間から潜り込んで、内臓を突き抜け、肩口から上へ突き抜けたりもする。
そのイメージが湧いた。
雪の上を滑り落ちてきて、宙に浮きあがり、それから落下してゆくファインダーの中のふたつの点。
井岡弘一──
船島隆──
そのふたりか落ちて死んだのは、ここからほんの二五〇〇メートル上のことだ。
それも今年だ。
今年の五月には、彼らもまだ生きていて、自分も一緒に、このアイスフォールを越えて、エヴェレストの山麓に入っていったのだ。
今、自分の体重を支えているのは、一センチか、それ以下か、氷壁に潜り込んだ何本かのアイゼンの爪と、ピッケルとアイスバイルの先だけだ。
今にも、足元から滑り落ちて、下の堅い氷の上に叩きつけられそうな気がする。
両足の膝が、細かく震えている。
なんてことだ。
こんな場所で、こんな反応を示すなんて。
おれのやってることは、単独行とさえ呼べない行為だ。それなのに、独りであることを意識した途端に、こうも簡単にびびってしまい、腰がひけてしまうのか。
羽生がやろうとしている単独行は、今、このおれが直面しているものよりも、遥かに次元が違う。
いったいどれだけの孤独感と恐怖を、羽生は自分の内部で飼い慣らしたのだろうか。
これから、羽生丈二が、ここよりさらに高い場所で味わおうとしているものは、こんなレベルのものではない。
震えるな──
自分の膝に言い聴かせようとした時、深町は、その音を耳にした。
どーん……
という、低い、地鳴りのような音だ。
それに、すぐ続いて、遠いところで聴く、ジェット機の爆音に似た、
ごう……
という音。
それが何の音だか、よくわかっている。
何度も耳にした音だ。
雪崩だ。
どこかで、雪崩が発生したのである。
しかも──
その音が大きくなってくる。
雪崩が、今、自分がいるこの場所に向かって、激しく近づいてきているのだ。
止まるか……
一瞬そう思った。
止まらない。
その音は、さらに近づいてくる。
ヌプツェだ。
ヌプツェか、ヌプツェに続く岩稜のどこかで、雪崩が発生したのだ。
それも、大きい。
これまでに降った新雪によって、重くなった氷塊が、岩稜にしがみつききれずに、ウェスタンクームか、あるいはこのアイスフォールに向かって落下してきたのだ。
それが、氷河に届く時の、ひと際重い、低い地鳴り。
止まらない。
それが、さらに移動してくる。
近づいてくる。
深町の肛門が、きゅっとすぼまり、背の筋肉が縮んだ。
どういう避難体勢をとることもできない。
音が大きくなった。
激しく歯を噛みしめて、深町は、天を睨んだ。
深い氷の裂け目の中途から見上げる空は、青かった。
黒いほどに青い。
自分が今取りついている氷壁の上郡が、白い水平線のように左右に伸びている。その向こうに、青い、落ちそうなほどに深い天がある。
氷壁の先端には、すでに陽光が当たっていて、それが、白く、眩しく光っていた。
その映像を、見上げた視界の中に捉えた時、青い天を、ふいに、ぱあっと白いものが覆った。白い粉のようなものが、青い空をふさいだ。
ざっ、と風が深町をたたいた。
次の瞬間に、さあっと、自分の上にその白いものが注いできた。
美しい、夢のようなシーンであった。
キラキラと光る、氷の結晶。
雪の細片。
ぱらぱらと、自分のウィンドジャケットの表面に氷のかけらが触れてきた。それにやや遅れて、深町の身体は、氷壁の中途で、ふわりと柔らかな白い光に包まれていた。
数瞬、呼吸をするのを忘れていたに違いない。
全てが収まった後、深町は、氷壁にしがみついたまま、激しい呼吸を繰り返していた。
ほんの、一度か二度、呼吸を止めるだけで、たちまち苦しくなり、喘いでしまう。強く、速い呼吸を繰り返していないと、血液中の酸素の量が、あっという間に減ってしまうのだ。
喘ぎながら見上げる天に、また、青い空がもどってきていた。
何が起ったのかを、深町は理解していた。
おそらくは、ヌプツェの岩稜から落下してきた氷塊が、ウェスタンクームの氷河にまで達したのだ。
それが、氷河のどこかで止まるか、氷河にぶつかって向きを変えたのだ。たぶん、アイスフォールの凹凸が、雪崩の本体を止めたのだろう。
しかし、雪崩の本体は止まっても、それによって巻き起こされた、圧縮された空気、爆風は止まらなかったのだ。爆風は、そのまま、氷河の上を疾り、ここまで届いたのだ。
爆風の中に混じっている雪煙──細かい氷のかけらや雪の細片が、このアイスフォールの上を疾り抜け、この雪の裂け目《クラック》に、雪煙の粒子を注いでいったのだ。
自分が助かったのを知った時、深町が次に思ったのは、羽生のことであった。
羽生丈二はどうしたのか。
もし、羽生のペースが早く、アイスフォールを抜けてウェスタンクームの取りつき地点に出ているか、たまたま、アイスフォールの上部に立っているかすれば、今の爆風の直撃を受けたろう。
それが、もし、あやういバランス状態の時であれば──
深町は、歯を噛んで、右手のピッケルを振り上げ、氷壁に打ち込んだ。
登攀を開始した。
足の震えは止まっていた。
アイスフォールを抜けて、ウェスタンクームの入口に出た時には、十時半に近い時間になっていた。
ここで、およそ、標高六〇〇〇メートル余り。
ベースキャンプを出てから、三時間半が過ぎていた。
五月のおりには、ここにキャンプ1を設営した。
初めての場所ではない。
そのおりには、ベースキャンブから三時間かかって、ここまでたどりついている。ルートもきちんとできており、ユマールや梯子《ラダー》を使用した。今回より、すっと短い距離を歩いての三時間であった。今回の三時間半を考えると、前回より体力的には今の方が上まわっている。アイスフォールの中で、梯子を使えばあっという間に越えられるクレバスを何度も迂回《うかい》したり、梯子無しで氷壁を攀ったりしているから、五月の時より、長い距離を動いている。
にもかかわらず、三十分オーバーしただけだ。
羽生の踏み跡がなかったら、もっと時間はかかっていたろうが、体力的にはまだゆとりがあった。
羽生の踏み跡が、ウェスタンクームの、雪原の上に続いている。
どうやら、羽生は、あの雪崩を無事に回避できたらしい。
羽生の姿は見えなかった。
アイスフォールに比べ、なだらかとはいっても、幾筋もの堀のような巨大なクレバスが左右に走っており、瘤《こぶ》状の小山が幾つもある。
羽生の姿が見えるわけもなかった。
いったい、羽生は、どれだけ先行しているのか。
予定通りならば、一時間ほど先へ行っているはずであった。
羽生が、この近くで休んだ形跡もない。おそらく、羽生は、ほとんど休むことなく、同じペースで、ここを通過していったに違いない。
どこかで、立ち止まり、腰に付けたテルモスから、水分は補給したはずだ。まだ充分に温かい、蜂蜜のたっぷり入った紅茶。それを三分の一ほどは飲んだろうか。
もし、ここから羽生の姿が見えれば、写真を撮ったのにと、深町は思った。
まだ、羽生の写真は、いくらも撮ってはいない。
出発時のものと、アイスフォールに入って、羽生が歩き出した時のもの──それくらいだ。
カメラは、ニコンF3を持ってきている。四〇ミリから八○ミリのズーム・レンズを一本。五〇〇ミりのレフレックスを一本。その二種類のレンズだけで撮ることに決めた。重量を減らすためである。三脚も持って来なかった。
本体もレンズも、メーカーに頼んで、寒冷地仕様にしてある。あまりに温度が下がると、メカに使用しているオイルが凍りついて、動かなくなることがあるからだ。
F4ではなくF3にしたのは、F3の方が、機構的に、電池に頼る部分が少ないからだ。温度が低いと、電池が正常に機能しないことがある。そのため、マニュアル仕様の融通が利く、F3にしたのである。
深町は、カメラで、雪の上に刻まれた羽生の足跡を撮ってから、テルモスから紅茶を飲んだ。これも、蜂蜜をたっぷり入れてある。
後方を見やると、すぐ足元から雪崩れ落ちてゆく氷河を堰《せき》きとめるようにして、向こうにプモリの岩峰がそびえている。ベースキャンプで見るよりも、その岩稜はさらに大きくなったように見える。
ウェスタンクームにも、プモリの赤茶けた岩肌にも、陽光が正面から当たっていた。
上方を見やれば、左右に、巨大な岩壁が聳《そび》え、ウェスタンクームの氷河を両側から挟んでいる。
エヴェレストの頂から降りてきているエヴェレストの西稜が左。
ローツェから、ヌプツェと続く稜線が右。
その奥に、ローツェの標高八五一六メートルの頂と岩稜が見えている。
その頂からも、ヌプツェの頂からも、白い雪煙が、青い天に吹きあがっていた。
深町のいる場所は、髪の毛を揺らす程度の風しかない。
広大な、雪原──
その雪原の下は氷河であった。
標高六〇〇〇メートルを超え、やがて、人の──いや、生物の領域を超えようという場所であった。
エヴェレストの頂こそ、西稜の陰に隠れて見えないが、その広大な雪原を囲んでいるのは、ヒマラヤのジャイアンツ──いずれも八〇〇○メートルを大きく超える岩峰と、それを繋ぐ岩と雪の稜線である。
その風景の中にあって、深町は、強く、自分の存在を意識した。自分の存在が、点として、意識のなかで鳥瞰《ちょうかん》された。
しかし、その点は、“小”ではあるが“卑小”とは感じなかった。小さいが、確かに、今、自分は、点としてまぎれもないその風景の中にいるのだと思った。
高度をあげてゆくにつれ、地上の意識が希薄になってゆくようであった。
およそ、十分、深町はその場にいて、再び雪原の上を歩き出した。
巨大なクレバスに出会うたびに、右か左に迂回してゆく。歩いていても、いつ、自分の足元が崩れ落ちるかもしれないという不安が、常につきまとっている。
クレバスの上に、雪が被さり、スノーブリッジとなってその裂け目を隠してしまう。一見、雪原に見えるが、その下には、深いクレバスがロを開けている──そういう場所を、気づかずに、何度か自分は通過しているのだろうと思った。
そのスノーブリッジが薄かったり脆《もろ》かったりすれば、人間の体重で崩れ落ちる。
二人で行動しているのなら、アンザイレンでゆくことができる。互いの身体をロープで結びあっていれば、一方がクレバスに落下した時には、確保ができる。
だが、独りの時は、落ちたらそれで終わりである。クレバスに落ちて、自力脱出ができるとは思えない。
その不安を抱えながら、深町は歩いた。
咳が出る。
絶え間ない。
呼吸が速くなり、足を踏み出す速度がさらにゆっくりとなる。
羽生の足跡は、右側──ヌプツェ寄りに続いていた。
およそ、一時間半、ヌプツェ寄りに動き、顔を上げた時、深町は、そこにこの地球上で、最も高い場所にある岩壁を見ていた。
エヴェレストの南西壁の全貌が、眼の前に見えていたのである。
圧倒的な光景であった。
宇宙に向かって、背を持ちあげかけた巨獣のように、その岩稜が見えている。
頂は、青い天に頭部を差し込んで、そこから、激しく雪煙を宇宙に向かって吹きあげていた。
深町は、そこで立ち止まり、身震いしていた。
十九章 灰色のツルム
テントの中で眠っている。
いや、限ってはいない。
寝袋《シェラフ》の中で、仰向けになって眼を閉じているだけだ。
眠れない。
瞼《まぶた》の内側で、眼を開いているようなものだ。眼を閉じながら開いている。炯々《けいけい》と光る視線を、自分の内部に放っている。
眠らなければ──
そう考えれば考えるほど、意識が冴え渡ってきてしまうのだ。昼間動かした肉の興奮が冷めていない。肉の昂《たかぶ》りが、意識まで興奮させているのである。
今、眠っておかなければ、明日の行動にさしつかえる。ただでさえ、羽生に追いつくことができないのに、眠らずに体力ばかりを消耗してしまったら、七〇〇〇メートルを越えることさえできなくなってしまうだろう。
すでに夜半をまわっているはずだ。
眠ろうと決心してから、もうどれだけの時間が経ったのだろうか。
呼吸も、苦しい。
六五〇〇メートル。
今回、初めて体験する高度である。
やはり、アン・ツェリンの言うように、酸素ボンベを持ってくるべきだったろうか。
もしもの時のために、ベースキャンプには、アン・ツェリンが用意した酸素ボンペが何本かあったのだ。それを担いでここまで来ていたら、今、その酸素を吸いながら眠ることができるのに──
しかし、酸素ボンペまで背負うとなると、担ぐ荷の重量は、三〇キロを超えてしまうたろう。そうなったら、ここまでたどりつけたかどうか。
おそらく、ここで、今、こうして寝袋の中で考えにふけることもできなかったろう。
考えまい。
自分は、酸素ボンベを持ってこなかった。
それが事実なのだ。その事実の中に今自分はいるのである。
風の音はない。
不思議なくらいに、静かな、おだやかな晩であった。
本来であれば、ここは、絶え間なく風が吹く。周囲に、風を遮るものがなにもない、吹きさらしの、ウェスタンクームのまん中にテントを張っているのである。
しかし、風がない。
大気が、しんしんと冷え込んてきているのがわかる。みりみりと、空気中で音がしそうなほどだ。大気が薄いので、地上の温度が、みんな、ここから宇宙にむかって放出されてしまうのだ。
寒い。
おそらく、マイナス二七〜八度にはなっているだろう。
呼吸する酸素の量が少ないため、もっと寒いように感じられる。寝袋の内部も、いくらも温まってはいないような気がする。
一〇メートルほど離れた場所に、羽生のテントがある。
羽生の寝息さえ聴こえてきそうなほど静かであった。
深町は、闇の中で耳を澄ませたが、むろん、羽生の寝息は聴こえては来なかった。
羽生は、もう、眠ってしまったろうか。
眠っているだろう。
おそらくは、地上で、自分のベッドで眠るように、深い眠りに落ちているだろう。それとも、このおれのように、闇の中で眼を開いているのだろうか。
ウェスタンクームの、ただ中だ。
ゆっくりと──
休んだ時間を入れて、ベースキャンプからここまで、九時間かかってあがってきた。
一日で、一一〇〇メートル、高度をあげてしまったことになる。
しかし、自分は、五八〇〇メートルくらいまでの順応は済ませてあるから、七〇〇メートル、自分が順応した高度よりも上へあがってしまったことになる。
初めての高さを体験する時は、一日に五〇〇メートル──それが、ヒマラヤで、あげてもいい高度である。ただ、高度をあげるだけなら、一〇〇〇メートルあげてもいいが、そこで宿泊するわけにはゆかない。一〇〇〇メートル上がって、その高度の大気を運動しながら呼吸し、眠る時は五〇〇メートル下った場所で眠る──これが、ヒマラヤ登山の基本的なセオリーである。
七〇〇メートル──
ぎりぎりのところだ。
軽い、高山病の兆候がある。
頭が痛く、食欲がない。                `
夕食は、一度炊いてから乾燥させた飯を、今度はここで茹《ゆ》でもどし、粥《かゆ》にして食べた。ウメボシ、海苔《のり》の佃煮《つくだに》。ビタミンCとビタミンBを錠剤で呑んだ。
チーズを少し齧《かじ》り、パウダーを湯でといたコーンスープを飲んでいる。
蜂蜜をたっぷり入れた紅茶を、一・五リットル、時間をかけて飲んだ。
朝、一・五リットル。行動中に、テルモスから一リットル、そして、今、一・五リットル。
トータルで四リットル。
予定通りの量である。
運動しているため、汗を掻《か》く。さらに、空気が薄いため、身体の表面からは、常に水分が大気中に奪われている。
水は、いくら補給しても、補給し過ぎということはない。
深町が、ここへ到着した時には、すでに、羽生のブルーのテントが張ってあった。
その写真を撮り、深町もまた、自分のテントを張った。
声はかけなかった。
話しかけても、羽生は返事をしないだろう。
起きているなら、自分が到着したことは、もう気づいているはずだ。それで、声をかけてこないのなら、こちらからも声をかけるなということだからだ。
深町が、定時の交信を聴いたのは、六時であった。
ベースキャンプのアン・ツェリンと、羽生は、朝の七時と、夕刻の六時に無線で交信をすることになっている。
深町は、自分の無線で、それを聴いたのである。
「どうだ?」
と、アン・ツェリンが問い、
「予定通りだ」
と羽生が答え、あとは、天候の話をしただけの短い交信であった。
深町自身は、その交信には参加しなかった。
無線は持ってはゆくが、ベースキャンプとの定時の交信は、たとえ、羽生と時間をずらせたかたちでも、深町はしない──そういう約束になっている。
仮に、定時の交信に、深町が何かのトラブルで遅れたり、無線が壊れたりして連絡ができない場合は、アン・ツェリンが、それを気にして、上まであがってくることにもなりかねない。そうしたら、充分な羽生のサポートができなくなる。
ベースキャンプの無線は、常にオープンになっている。深町がそこへ連絡するのは、自分の生命にかかわるトラブルが発生した時のみ──そういう約束を、出発時にしている。
寝袋の中で、深町は、その交信のおりの羽生の声を思い出していた。
短い、低い声。
呼吸も正常である。
かなり、調子はよさそうであった。
凄い男だ、そう思った時──
ふいに、深町は、尿意を催していた。
かなり強い尿意であった。しかし、どうしてこんな時に……
大量に、水分を摂取したからだ。
気づいた途端に、それは、だんだん強い尿意へと変化していった。
ごく普通の状況であったら、このまま眠ってしまえば、忘れてしまう尿意である。しかし、闇の中で、意識ばかりが、爛々《らんらん》と尖ってしまうような今の状況の中では、その尿意は消えなかった。
眠れない。
眠れないから尿意を意識する。尿意を意識するからさらに眼れなくなる。
しかし、この寝袋から這い出て、ウィンドジャケッ卜を着、登山靴を履いて外へ出ることの煩わしさを思うと、小便をしに外へ出るという気にはなれなかった。地上と違い、この高度にあっては、挟いテントの中で、身をかがめ、靴下を穿《は》き、靴を履くという行為に時間がかかるのだ。
分厚く着込んだ状態で、上体を前に曲げて靴を履こうとすれば、腹が圧迫され、何度か、数秒間呼吸を止める瞬間がある。その、わずかに呼吸を止めるだけのことで、血液中の酸素を消費して、次の酸素を求めて大きく喘いでしまうことになる。
三十分近く、その尿意とやりとりを繰り返したあげくに、深町は外へ出て小便をすることにした。
三十分我慢をし、さらにあと三十分、ことによったらもう三十分我慢はできるかもしれない。しかし、朝まで我慢できるものではない。結局、小便をすることになる。それなら、今のうちにしておこうという決心がついたのだ。
ヘッドランプを点《つ》ける。
テントの中の光景が浮かびあがり、テントの天井に凍りついた水蒸気が、きらきらと光った。
呼吸のリズムを測りながら、寝袋の中に入れておいた靴を履く。
テントの外に脱いだ靴を出しておくのは論外であり、テントの中に置いておいても、靴は凍る。
そうすると、足が凍傷になり易い。
寒い場所では、雪を丁寧に落としてから、靴を寝袋の中に入れて眠るのは、深町の昔からの習慣である。
外へ出た。
思わず、声の出そうな景観の中に、いきなり深町の身はさらされた。
地上ではなく、いきなり、宇宙のただ中へ放り出されたようであった。
頭上に、銀河がかぶさっている。
雲は、ひとつもない。
おそろしいほど透明な空に、夥《おびただ》しい数の星がきらめいていた。
南にヌプツェ、東にローツェ、北東にエヴェレスト、そして、北にはエヴェレストの西稜が星空を囲んでいる。ヒマラヤの、八○○○メートルを超える岩稜が囲んだ巨大な谷の底に、深町は立っていた。
西には、もう、いくらもかわらない高さに、プモリが見えていた。そのプモリの懐《ふところ》深く入り込んだ氷河が、プモリの胸にぷつかって、うねるように左へ大きく流れを変えているのも見える。
月もないのに、雪や、岩の、細かいディテールまでが見てとれる。
雪明りと、星灯りとで、ここまでの視界を得ることができるのかと思った。
ローツェの上に、オリオン座が出ていた。
オリオンの右肩にあたる、ベテルギウスの赤いきらめき。あの星が、こんなに赤かったのか。太陽の直径の七百倍から一千倍はあると言われている星だ。
左足のリゲル。
そして、オリオンのベルトから下がった剣を表わす三つ星の真ん中──もやのように星雲が見えている。
大犬座のシリウス。
こんなに、星の光は、ひとつずつ違う色をしていたのか。
初めてのように、深町は、その光景を見つめた。
風はない。
ふリ返れば、すぐ足元に、自分がそれまで入っていたテントがある。
あんな、小さな世界に、それまで自分はいたのか。
あのテントの中の暗がりで、いったい自分は何を考えていたのか。
圧倒的な光景を前にした途端に、それまで自分が何を考えていたのかを、深町は思い出せなくなった。
足元に輪を作っているヘッドランプの灯りが、ひどくみすぼらしい。
そして、すぐ向こうに、羽生のテントが見えている。
きりきりと、寒気が、深町の肉を絞めあげてくる。
深町の身体の熱が、どんどん、大気の中に逃げてゆく。
深町は、小便をした。
大量の尿と共に、深町の体温が外へ出ていった。
テントの中に、もどってゆく。
ファスナーを開き、入ってまた閉める。
登山靴の雪を、まめに落とす。
特に、靴内部の雪を念入りに取りのぞいた。
靴の内部に、小さな雪の片でも入っていると、そこから、足の肉や血が凍って、凍傷になってしまうからだ。
靴を寝袋の中に入れ、また寝袋に潜り込む。
再び、もとの状態にもどってみると、また、頭に浮かんでくるのは、自分の内部に棲む生物たちであった。
テントのファスナーを閉めると心の窓が開く。
この、暗いテントのすぐ上には、あの星空があるのだと考えても、先ほどの感動は、もう、胸にもどってきはしなかった。
人間の思考や、思い、あるいは感情は、なかなかひとつの場所にとどまろうとしない。
深町は、加代子のことを思った。
どうしているのか。
自分が今、ここで、こうやって寝袋の中に潜り込んで、何を考えているのか、彼女は想像すらすることはないであろう。
“もう、やめましょう、こういうこと”
“こういうことって?”
“だから、こうやって会ったり、こういうことをしたりするっていうことよ”
加代子と、やりなおすことを、自分は望んでいるのだろうか。
わからない。
わからないが、やりなおせないだろうということは、見当がついている。そのくらいはわかる。
何かが、もう、擦り切れている。
では、自分は、加代子とのことで何を望んでいるのか。
それは、結論だ。
もう、やりなおせないのだということを、おもい知ることだ。
しかし──
と、深町は自問する。
おまえは、もう、それを知らされたのではなかったか。加代子が、黙って姿を消した。それが、結論ではないのか。結論がもう出ていることについて、何故また考えたりしているのか。
やめよう。
考えるのは。
しかし、やめよう、考えまいということは、結局加代子のことを考えてしまうことではないのか。
やめようと思って、考えることを本当にやめられるのなら、こんなに楽なことはないのだ。
それは、そのおりおりに吹く風だ。
山でどういう風が吹くかわからないのに、コースを決めたらかえてはいけないというようなものだ。
人生にも、天候がある。
人は、生きている時に出会う様々なものに、全て、ひとつずつ結論を出して生きているわけではない。多くは、そのままひきずって生きてゆく。生きてゆくということは、何かしらをひきずってゆくことなのだ。わずらわしいあれやこれやから離れ、身をきれいにして、次のことに入ってゆくわけではないのだ。
何をこだわっているのだろう。
自分の仕事にしてもそうだ。
誰かが、一生、ひとつの仕事をやらねばいけないと命令したわけではない。
一生、カメラマンをやる必要もないし、一生、山をやる必要もない。それと同じで、一生ひとりの女のことを想い続けなくたっていいのだ。一生カメラマンをやりたければ、やればいいのだ。一生山をやりたければ、やればいいのだ。一生ひとりの女のことを考え続けたければ、考えればいいのだ。
どれかひとつに決めようとする、その考えこそがおかしいのではないか。
深町は、胸の中で、羽生に問いかけた。
羽生よ。
羽生よ。
おまえ、何故、こんな場所にいる。
何故、こんな場所で、たった独りに耐えているのだ。
何故、山に登る?
おまえの答えが、あの頂にあるのか。
南西壁を登りつめたその果てに、あそこでおまえを何かが待っているのか。
何も待ってはいないだろう。
何かの答えや、何かの決着が、そこに転がっていることもないだろう。
羽生よ、おまえ、この南西壁をやっつけてしまって、そして、そのあとはどうする。
この世で、一番高い場所に、最も困難な方法で立ってしまって、そのあとはどうするのだ。
その頂から、どこへゆく。
その頂より高い場所は、もうこの地上のどこにもないのだぞ。
登ってしまったそのあとは──
羽生よ。
おまえは、そのあとにくるはずの大きな空虚を考えたことがあるのか。
羽生よ……
深町は、羽生が、より大きな哀しみと出会うために、山に向かっているような気がした。
では、その羽生を追っているこの自分はどうなのだ。
羽生は、羽生の山をやっている。
その羽生を迫っているおれのこの行為は、何なのだ。これが、おれの山なのか。
深町よ。
おまえ──
ずい分と、色々なことを考えてるじゃないか。
空気が薄いと、こうなってしまうのか。
酒を飲んで、まぎらわせてしまえばすむようなことじゃないか。
ここには、酒がないからな。
誰もいない。
女もいない。
いや、いるか。
羽生のやつが、すぐ近くにいる。
しかし、羽生もおれも、独りだ。
独りぽっちだ。
温かいのは、自分の体温だけだ。
少しは、温まってきたのか。
星は、まだ見えるのか。
見えていても、いなくてもいい。
もう、寝ろ。
明日はまた、今日以上に辛い作業を無限に繰り返すことになる。
おまえが、羽生にどこまでついてゆけるのかは知らないが、やれるだけのことはやれ。
わかった。
わかったよ。
わかっている。
眠るから、もう眠るから、もう少し、何か考えて、考えておかねばならないことがあったような……
何だろう?
山か。
広い、白い尾根。
青い空。
雪の上を、頂上に向かって歩いている。
あれはおれか。
いや、おれじゃないのか。
おれは、頂上に向かってゆくそいつを見ているのだ。
どこへゆく。
そこに立ってしまったら、もう、その先なんてないんだぞ。
どうするんだ。
そんなに急ぐんじゃない。
おれも、おれもゆくから。
おれを置いてゆくな。
おれを置いてゆかないでくれ。
おい。
おれを……
深町は、眠りに落ちていた。
朝──
浅い眠りから、深町は眼を覚ました。
テントの内側が、ぱりぱりに凍りついている。全て、深町の体内から出た汗だ。汗が、深町の体温で気化し、着ているものの繊維や、寝袋の生地の隙間から外へ抜け出し、テントの内側に凝固《ぎょうこ》して、そこで凍りついたものだ。
出入口のファスナーを下ろし、外を覗く。
空には、まだ星が残っているが、黎明《れいめい》の光のため、もう、数えるほどしかない。
羽生のテントは、まだある。
七時半の出発予定時間まで、まだ、一時間半あった。
深町の食事は、昨夜のメニューと同じだ。
ご飯をゆでもどしたものを中心にチーズを、昨夜より多くして、ひときれ半。
干し葡萄《ぶどう》をひと握り。
増やしたのはそれくらいである。
蜂蜜を入れた紅茶を、たっぷり摂る。
食事を済ませ、六時の交信を聴いた。
これも、短いものであった。
「充分眠ったか?」
と、アン・ツェリンが問う。
「ああ」
と、羽生が答える。
「予定通り?」
「ああ。六時三十分に出発する」
「グッド・ラック」
それが、交信のほぼ全貌である。
すでに、深町の荷作りはすんでいた。
あとは、テントをたたんで、ザックの中に押し込むだけだ。
外へ出る。
雪の中から、凍りついたテントの支柱を抜き、布地を畳み、それをザックにパッキングする。
パッキングの済んだザックを雪の上に置き、カメラを持って、羽生が出てくるのを待った。
ほどなく──
まず、テントのファスナーが開いて、ザックが外に放り出された。続いて、羽生が、テントから出てきた。
羽生が、テントから這い出てきて、テントを畳むのを撮る。
羽生は、テントから出てきて、一度だけ深町を見やった。後は、黙々とパッキングをする。
その光景を、ていねいに撮った。
無風。
快晴。
無防備。
南西壁が、全てを羽生の前にさらしている。
風も、雪煙も、ない。
何も隠さない。
何も纒《まど》わない。
これがありのままの自分であると、南西壁が羽生にそう言っているような気がした。
南西壁最大の難関、八○○○メートルを超えた高さにある大岩壁ロックバンドも、その上のヒマラヤのジャイアンツの象徴であるイエローバンドも、その一郎が見えている。
そして、その上の南西壁頂上岩壁──ヘッド・ウォール。
ザックを背に負い、ゆっくりと羽生が歩き出した。
それを、斜め後方の低い位置から、ねらい、その後方に南西壁をファインダーに入れてシャッターを押した。
広角。
南西壁が、羽生の上にのしかかるように見えた。
二泊目予定地の灰色のツルムまで、標高差およそ一一〇〇メートル。
そこで、標高は七六〇〇メートルになる。そこまで、およそ八時間かけてゆくのが、羽生の予定であった。
登ってゆくにつれて、斜度が、ゆっくりと急になってゆく。
六六〇〇メートル地点で、ノーマルルートとの分岐点を越えた。エヴェレストをノーマルルートで攻める場合はウェスタンクームをさらに直登して、サウスコルにたどりつく。そこから、南東稜を登って頂上に向かうのが、ネパール側からのノーマルルートである。一九五三年に、ヒラリーとテンジンが頂上を踏んだおりのルートがこれだ。
南西壁は、ここから、ルートを左へとることになる。
この時、ウェスタンクームの氷河と、南西壁の岩壁との間に、ベルグシュルントと呼ばれる裂け目がある。氷と岩との間の隙間だ。これを超えれば、ようやく南西壁の最下部に取りついたことになる。
標高、六七〇〇メートル。
裂け目は、広い時も挟い時もある。また、広い場所も挟い場所もある。岩と氷河の雪かくっついている場所もあれば、陥没《かんぼつ》している場所もある。
一定ではない。
しかし、羽生は難なく、その場所を越えた。
凍った雪が崩落《ほうらく》している場所からその雪の上をたどっていったのだ。
深町は、羽生に十分ほど遅れて、ベルグシュルントを越えた。
深町にとっては、いよいよ初めての領域である。
ノーマルルートならば、サウスコルまで、今春に自分は登っている。
七九八六メートル。
八○○○メートルに、わずかに足らない。
今回は、どこまでゆけるか。
今の順応の状態では、八○○○メートルまでは、あきらかに無理であろう。
前回の時は、高度順応のための時間が充分にあり、しかも、酸素ボンベを使うことができた。
だが、今回はそのどちらもない。
おそらく、この地点から、八○○○メートルに届かないどこかの地点が、自分の限界点になるはずだった。そこから、引き返さねばならない。
それが、どこになるにしろ、体力を消耗し尽くしてから引き返すことは、まず、無理であろう。
体力を消耗し尽くすまで登り、そこで倒れてしまう……そのまま死んでしまっていいのなら、八○○○メートルまではゆけるかもしれない。
だが、生きて、帰らねばならない。
当然、ぎりぎりまで高度をあげて、ギブ・アップをするわけであるから、かなり重い高山病にかかっている。
幻聴を聴き、幻覚を見る。
足はふらふらで、急に立っていられなくなり、倒れるかもしれない。
その可能性は充分にある。
自分は、独りだ。
先行している羽生の気持になって考えてみれば、深町の姿が見えないからといって、引き返したのか、倒れたのかの判断を下しようがない。
キャンプ3、キャンプ2があり、そこに酸素ボンベがあって仲間がいる、そういう登山ではないのだ。
平均斜度が、四〇度の氷壁を、深町は登っていた。
ボブスレー競技のコースよりも、がちがちに凍りついた雪の斜面だ。
右手にピッケル、左手にアイスアックスを握り、ダブルアックスで登ってゆく。ベルグシュルントから、標高六九〇〇メートルの軍艦岩《ぐんかんいわ》まで、標高差二〇〇メートル。
急な斜面であった。
クランポン──アイゼンの前爪を、氷壁に喰い込ませ、一歩一歩、登ってゆく。すでに、歩く、という感覚はない。攀《よじ》る──という感覚だ。
右手に握ったピッケルの先を、氷壁に打ち込む。次に左足を持ちあげて、アイゼンを氷壁に喰い込ませる。次が、左手に握ったアイスアックスだ。その先を氷壁に打ち込んで、その次が右足──そうやって、じりじりと、自分の体重を、上へ持ち上げてゆく。
ひとつの動作から、次の動作に移るまでのインターバルが長くなる。
覿面《てきめん》に、酸素の薄さがこたえてきた。
見あげれば、羽生は、もうずっと上の方にいる。
深町が、半分も進んでいないのに、羽生の頭の上は、もう、軍艦岩だ。まるで、この急斜度の氷の壁を、歩くように羽生は登ってゆく。
深い絶望感に、深町は襲われた。
氷壁に取りついて、羽生と自分との差が、圧倒的なかたちで表われた。
氷壁の中途で、深町は動きを止め、荒い呼吸を繰り返した。
今が、引き返す時ではないのか。
今なら、間違いなく引き返すことができる。
この斜面は、技術だけじゃない。
落石の危険がある。
いきなり、上から落ちてきた拳大の岩に頭を直撃されれば、それで終わりだ。
頭でなくてもいい、足に当たっても、その瞬間に自分の身体はバランスを失って、この斜面を滑り落ちることになる。
一〇○メートル。
それを滑り落ちて、それで終わりだ。
ただ一度、ピッケルか、アイスアックスか、あるいは右足か、左足か、そのどれかが氷壁を噛みそこねたら、それでもおしまいである。普通の──もっと低い山でのことであれば、それでバランスが崩れても、残りの三点が確保されていれば、踏んばることができる。しかし、この高度で、自分にそれができるか?
まあ、できるかもしれない。
弱気はいけない。
弱気をおこすと、できることもできなくなってしまう。
三点さえ、しっかり支持しておけば、それでいい。
しかし──
反応速度が、鈍っている。
体力も落ちている。
たった一度の、ついうっかりが、人を死に追いやってしまう。
いや、誰かを、ではなくこのおれをだ。
考えるな、そんなことは。
見ろ。
足が震えだしてるぞ。
深町の膝が、小さく震えていた。
恐怖感のためか、疲労のためか、深町にもわからない。
とにかく、深町の両膝は、小刻みに震えている。
こんな場所で──
深町は思った。
歯を噛んだ。
これが、単独行のプレッシャーか。
こんな所で動けなくなってどうするんだ。
意識的に、大きく、速い呼吸を繰り返す。
何度も、何度も。
ゆけ。
ここで動きを止めていることが最悪だ。
氷壁に打ち込んでいるアイゼンの確保がゆるんでくるからだ。
糞。
上方を睨む。
蒼い空があった。
あの空へ。
加代子──
涼子──
こんな時に、女のことなど思い出してどうする。
死ぬぞ。
「死ぬぞ、ばかっ」
深町は、声に出した。
眼の前の氷壁を睨んだ。
ピッケルを氷壁からはずし、打ち込む。
左足。
次がアイスアックス。
右足。
考えるな。
考えるな。
機械のようになれ。
蟻にように攀れ。
深町は、歯を噛みながら攀りはじめた。
軍艦岩の下で、深町は、うずくまるようにして雪の上に腰を下ろし、岩を背にして喘いでいた。
標高六九〇〇メートル。
南西壁に取りついた人間が、最初に休むことができる場所が、ここであった。
高さ一〇メートル、厚み一五メートルの黒い岩が、斜度四〇度の氷壁の途中に、左右一〇〇メートルにわたって横たわっている。この岩の根元にあるわずかな空間に、深町は身を寄せて、荒い呼吸を繰り返していた。
ここに到着して、ザックも下ろさず、雪の上に崩れるように腰を下ろした。
それから、動いていない。放心したように眼下のウェスタンクームを見下ろしている。
冷たい風が、ウィンドジャケットのフードを揺する音を、ただ聴いている。
その時──
こつん、
と、頭上で音がした。
眼の前を、上から黒い物体が落下して軍艦岩の上部にあたったのだ。それから、それは、跳ねて足元から一メートルほど先の雪の上に落ち、回転しながら凄い疾さで氷壁を転がり落ちていった。
拳大の、黒い岩であった。
もし、あれが頭にあたっていたら──
ヘルメットを割られ、頭蓋骨を砕かれて即死であったろう。
これまでに、何度かTC──つまり、テンポラリー・キャンプが設営された場所である。仮のキャンプ、一時の緊急避難や、休むためのキャンプだ。C1、C2などのキャンプよりも、規模がやや小さくなる。
この南西壁において、危険度が他の斜面より低い数少ない場所なのである。
周囲のどの場所も、落石の危険がある。
南西壁は、エヴェレストの壁の中でも、特に岩がもろい。常に、大小の岩が、壁から剥がれて落ちてくる。
深町のいる所は、この斜面では唯一、落石の危険から確実に身を守ることができる場所であった。上から、雪の斜面を落下してきた石は、軍艦岩にあたり、宙を飛んで、その下にいる人間の頭上を跳び越えてゆく。
わずかに一メートルほどの差だが、それでも生と死を分ける。
頭に、痛みがある。
その痛みは、脳の内部に腐った果実がなっているように鈍く重い。そして、その果実の中心から、錐《きり》で剌すような痛みが、十秒おきに生まれてくるのである。
もう、動きたくなかった。
体力が尽きそうである。
まだ、体力の限界まではいっていない。わずかに余力が残っているのはわかっている。羽生ほどではないにしろ、自分の肉体を使うことについては、素人ではない。
だいじょうぶか。
まだ、やれるか。
不安と弱気にさいなまれながら、胸の中で、自分の肉体と無限とも思える対話を繰り返すそのやり方もわかっている。
限界が近い。
それはわかっている。
まだ、体力の限界まで余力があるからといって、その力を全て吐き出してしまったら……
もう、そこから帰ることができないのではないか。
帰れなければ、そこで死ぬ。
それとも、これは、自分の弱い心が、このような思考をさせているのか。
正確に自分の体力を計ってみることだ。
そうだ、脈の数を計ることだ。これは、数字だから、おれの感情には関係がない。数値という冷めた視点で自分の身体の状況を判断できる。
深町は、左手首を右手で握った。
が──
脈がない。
いや、脈がないんじゃない。
違うぞ。
おれが、どこかで何かを間違えてるんだ。
だから脈がないんだ。
しかし、何を間達えてるんだろう。たぶん基本的なことだ。だから脈があるのにないだなんておれは思っているのだ。
ああ、わかった。
眼に見えている。これた。これがいけないんだ。こんなによく眼に見えているじゃないか。今眼に見えているこれがいけない。これがいけないから脈がないというようなとんでもないことを考えてしまうんだ。しかし、今眼に見えているこれは何だったっけ。これだ。これは何だったっけ。どういう意味なんだったかな。
もどかしさが深町の胸に満ちてくる。
わかっているのに、見えているのに、それが言葉にならない。言葉にならないってのは、ほんとは、それが、わかってないってことじゃないのか。
くそ。
これは何だ。
おれの手に──右手と左手に嵌《は》めているもの。
そうだ、手袋じゃないか。
内側に、テビロンのインナー手袋。外側には、こんなに分厚い、グローブのような手袋を両手に嵌めて、それで手首を握ったって脈なんかわかるわけはない。
手袋をはずす。
素手になる。
右手で左手首を握る。
ひとつ──
ふたつ──
みっつ──
あ、ばか。
数だけ数えたってだめじゃないか。
時計を見なけりゃ、何の意味もない。
左手首の時計をはずして──ここに置いて、秒針を見ながら、二十秒計る。それでそれを三倍すればいい。
ひとつ……
ふたつ……
あれ? その前に、おれの正常値はいくつだったっけ。
六〇だっけ。
八○だっけ。
ひとつ……
ふた……
あれ、脈がない。
また脈がないぞ。
どうした。
いったいどうして脈が……
ああ。
ばか。
何をやってるんだ。
こんな場所で、素手を外気にさらすなんて。
手がこごえ、痛くなっている。
こんな手で脈なんか計れるもんか。
まったく何をやってるのか、このおれは。
手袋を嵌める。
深町は、ぞっとした。
もう、高山病の症状が、精神にも影響を与えているのだ。
幻覚までは見ないが、それに近いものが、今、自分の脳に起りつつあるのだ。
速い呼吸を、何度も何度も繰り返す。
酸素を、もっと酸素を。
思い出したように、テルモスを開けて、熱い、甘い紅茶を胃の中に流し込んだ。
さあ、立て。
立って出発するんだ。
何度も、立とうとした。
しかし、立って、歩き出そうとすると、いつの間にか、岩の隅《すみ》に小さく丸くなるようにして座ってしまっている。
腰が抜けてしまっているのだ。
深町、しっかりしろ。
おまえは、今年、もっと高い所まで行っているはずだ。
七九〇〇メートルの、サウスコル。
思い出せ、おまえは、この軍艦岩よりももっと高いエヴェレストを知っているんだぞ。
待てよ。
あれは、酸素を使ったからだ。
高度順応も、もっときちんとやり、半月くらいの時間をかけてあの高さまで行ったんだ。
CI、C2、C3、きちんとキャンプをあげてゆき、ゆけばそこにはテントが張ってあって、寝袋《シュラフ》やガスボンベや、食料もそこにはあったんだ。
それを今おれは、全部ひとりで背負っているんだぞ。
ルートには、きちんとザイルが渡してあったし、仲間もそこにはいたんだ。万が一の時には、仲間が助けに──
何を泣きごとを言っているんだ、深町。
たった独り──
単独行を承知でこの南西壁に取りついたんじゃないのか。
羽生は、もう、ずっと上まで行っているぞ。
この軍艦岩にたどりついた時、深町は、上方に羽生の姿を確認している。
羽生は、灰色のツルムまでのおよそ三分の一近くを、もう登ってしまっていた。
赤い羽生のジャケッ卜が、上部の氷壁を、黙々と、上に向かって動いているのが見えた。
今、何時だ。
十一時三十分か。
朝の六時三十分に出発をして、ここに着いたのが、確か十一時近くだった。
四時間三十分かかっている。
羽生が、予定通り、四時間でここまでたどりついたとすれば、自分は一時間遅れていることになる。
羽生は、休まずにここを通過し、自分は、もう、すでに三十分ここで休んでしまっている。
今追わねば、もう、羽生に追いつくことはできない。
羽生が、ここから四時間で灰色のツルムまでたどりつくとしたら、自分は五時間かかるだろう。
もう五時間だって?
なんてことだ。
すると、ヒマラヤのこの高度で、おれは、一日に十時間以上も行動しようっていうのか。
気違い沙汰《ざた》だ。
そんなことが、できるものか。
もうあきらめる。
ここからひき返す。
一泊するんなら、この軍艦岩の下しかない。テントを張る場所はここだけだ。軍艦岩の下の、今おれがうずくまっているこの場所に、テントを張って、明日、ここから下るのだ。そうすれば、おれは生きて帰ることができるだろう。
そうすれば、羽生にも、おれが帰ってゆく姿が見えるだろう。余計な邪魔者がいなくなって、羽生はほっとするに違いない。
しかし──
いいのか。
深町の内部で別の声がする。
帰ってしまっていいのか。
帰ってしまって、後悔しないのか。
おまえは、羽生が何をしようとしているのか、それをぎりぎりまで見届けるために、ここまで来たんじゃないのか。もっとはっきり言えば、おまえは、自分のためにここまでやってきたんじゃないのか。
そうさ。
そうだよ。
おれほ、羽生がやろうとしていることをぎりぎりまで見届けたくてここまでやってきた。
おまえが言うように、自分のためにだよ。
しかし、死ぬためにじゃない。
死ぬために、おれはここへ来たんじゃないぞ。
さあ、立て。
立ったら下るんだ。
下れば、酸素が濃くなる。
ここで一泊するよりは、下る方がいいかもしれない。
ここから帰って、もう忘れろ。
羽生のことも。
女のことも。
山のことも。
そうだ、いっそ、自分のことも忘れてしまえ。
忘れて、楽になってしまえ。
夢なんか、もう見るんじゃない。
生きている間に、何ごとかをやろうなどと考えるんじゃない。
そうだ。
よく立ったじゃないか。
尼だって、まだ動く。
立派なもんじゃないか。
少し休んで、蜂蜜のたっぷり入った紅茶を飲んで、多少は元気になったようだな。これから下りだ。
気をつけて下れ。
おい。
そっちじゃない。
下りは、そっちじゃない。
そっちの氷壁に出てどうするんだ。
おまえ、まだ上にゆくつもりか。
おい……。
軍艦岩を出たら、斜度が四〇度の氷壁を、左上方ヘ一五〇メートルほどトラバースをする。
そこから上へ。
今度は、ここから斜度が四五度になってゆく。
そして、南西壁に縦に走る巨大な溝、雪の詰まった中央ガリーに入って、そこを七〇〇メートルほど登る。そこに、今日の宿泊地である灰色のツルムがある。
すでに、深町は、その中央ガリーに入っていた。
同じ雪の凍りついた氷壁でも、様々な状態の場所がある。
石のように堅く凍りついて、表面がつるつるになっているところもあれば、それに薄く雪が張りついているだけのところもある。アイゼンでなくても充分攀《のぼ》れそうな、靴の爪先がほどよく潜り込みそうな場所もある。
それが、攀ってゆくにつれて、変化をする。どれかひとつに定まらない。
怖いのは、単に堅い石のような氷壁であるというわけではない。堅いなら堅いで、あらかじめわかっていればそれなりの対応はできるのだ。困るのは、氷壁の質を読み違えることだ。
柔らかいと思っていた氷壁に足を乗せた時、実はその氷壁が思った以上にずっと堅かったりしたらどうなるか。アイゼンの爪がはじかれ、バランスを崩して、落ちる。
たとえわずかの段差にしろ、それを知らずに足を踏み出した時、それが家の中であっても、誰でも転びそうになる。それと同じだ。
干し葡萄を、ジャケットのポケットからつまみ出し、それを口の中に放り込む。二つぶか三つぶ。それを噛んで、何度も噛んで、胃の中に落とす。行動中は、まめにエネルギーを補充しなければならない。
糞もでないくらい、きれいに消化してやる。
そう思いながら噛む。
噛みながら登っている。
何故、登るのかな。
深町は思っている。
何故、おれは上にゆこうとしているんだろう。
“山に、何かいいものでも落ちていると思ったか”
羽生が、そんなことを言っていたな。
“山へ行けば、いい女でも手に入ると思ったか”
“山に行けば、生き甲斐《がい》でも見つかると思ったか”
見つかりはしない。
山にはどういうものも落ちていない。
あるとするなら、それは、自分の内部にある。
無理に言うなら、山に登るというのは、あれは、自分の内部に眠っている鉱脈を捜しにゆく行為なのかもしれない。あれは、自分の内部への旅なのだ。
あれ?
今、おれは、あれ《・・》と言ったか。
あれじゃない。
これだ。
何故なら今、おれは登っている最中だからだ。
理屈を考えるな。
山には何も落ちていない──
そんなことはよくわかっている。
じゃ、何故山に登るんだ。どうして、こんな辛い目に自ら遭うようなことをするんだ。
一歩、足を踏み出すのに、三度は喘いで大きな呼吸を繰り返さなければならないこんな行為を、何故するんだ。
おれがいるからだ、と羽生は言った。
おれがいるから山に登るんだと。
答えのようであって、答えでない。
答えでないようであって、答えのようでもある。
羽生よ、何故登る。
おまえはわかっているのかもしれないが、おれは答えられない。
おれには答えがない。
答えがないから登るのか。
登れば、頂上にその答えが落ちているのか。
宝石のように光っているその答えが、山の頂のどこかの密室に、あるいは雪に埋もれた箱の中に、宝物のようにその答えが、ひっそりと入っているのか。
あるわけはない。
何の宝石も答えもない。
行為か。
ならば、その頂を目指すという行為が答えか。
今、おれがやっている、この、足を踏み出し、がちんがちんの氷壁にアイゼンの爪を蹴り込んで、一歩ずつ自分の体重を上にあげてゆくこの行為に意味があるのか。この行為そのものの中に答えがあるのか。
馬鹿だな。
つまらないことを考えている。
本当につまらないことを考えている。
どうでもいいようなことだ。
頂を踏むということに、価値があるのだ。
その過程で、何を考えたかなんて何の意味もないじゃないか。何を考えたっていい。考えなくたっていい。女の股のことを考えていたって、天上の神の国のことを考えていたって、要は頂上を踏んだか踏まなかったか。それだけじゃないか。
踏めば、英雄だ。
踏まねば、ただのゴミだ。
ゴミ以下の存在だ。
もし死ねば、何もいいことはない。
待てよ。
そもそもだ。
山じゃなくたっていい。
じゃ、人は、何のために生きているのだ。
何のために、毎日働いて、金を稼ぎ、生きている?
何故山へ登るのか、という問いは、考えてみたら、何故生きているのかと問う行為と同じじゃないか。
何故、人は生きている?
何を目的に生きている?
いいや。
いいや。
違うぞ、深町。
人は、じゃない。
他人のことじゃないんだ。
おまえのことだ。
人が、ではなく、おまえが何故、山に登るのかということだ。
何故、おまえは生きるのかということだ。
ああ──
馬鹿だな。
本当に馬鹿だ。
山の頂上にその答えなんか落ちていないと言ったのは誰だ。
誰でもいいが、その通りじゃないか。どういういいものも、山の頂上には何も落ちてはいない。
そうならば、生きていることだって同じだ。
どこかに、何のために生きているのかという答えが落ちているわけじゃない。
そうさ。
何のために山に登るのかなど、答えられなくたっていいんだ。
それに、答えろというんなら、そいつは、自分自身が、何のために生きているのかと、まず答えなけりゃいけない。
それができないのなら、他人に、そういう難しいことを問うもんじゃない。
待てよ。
問うているのは、他人じゃないか。
他人ではない。このおれが、このおれ自身に問いかけているのか。
けっ。
ああ──
また考えている。
考えなくてもいいことを考えている。
もうひとりのおれは、死にものぐるいで、自分の肉体を上へ攀《よ》じりあげようとしているのに、もうひとりのおれは、つまらないことを考えている。
今どきは、学生でも考えないような青いことを考えている。
もうやめろ。
今は、機械になるだけでいい。
一歩踏み出して、五度喘ぎ、次に左手のアイスパイルを打ち込んで、今度は三度喘ぐ。それから右手のピッケルを振り込み、打ち込んで。今度は別の足をまた一歩。
それを、正確に繰り返すことのできる機械《マシン》になればいいんだ。
それともなければ、虫だっていい。
何も考えずにすむ虫。
ただ、上に登ってゆく虫。
ああ、考えるなとおれは考えている。
考えなくてもいいとおれは考えている。
思考は意味がないとおれは考えている。
考えてみたら、おれは機械じゃない。虫でもない。
人間、深町誠という人格で、カメラマンで、女とはうまくゆかず、カメラマンという仕事にしたって、特別にだいそれたことをやったわけじゃない。
そういう人間が、機械になれと言われたって、機械になれるわけじゃない。虫になれと言われたって、虫になれるわけじゃない。
深町誠が、今、登っている。
この氷壁に取りついている。
あれやこれやを身体や心にまといつかせたまま、そのまんま、まるごとここにいる。それが深町誠だ。このおれだ。
それが現実だ。
ならばその現実が答えだ。
深町誠という人間が、今、山に登っている──それで充分じゃないか。
もう、どこまで登ったか。
ガリー──英語で、急峻な岩溝のことだ。フランス語ではクーロワール、ドイツ語ではルンゼ、リンネの名で呼ばれているものだ。この中央ガリーを抜けたところから、コースをまた別の岩溝にとって、そこを登ってゆくことになるのだが、そこは、フランス語でクーロワールと呼ばれている。
このように、ひとつの山で、様々な国の名称が使用されることが、ヒマラヤではよくある。これは、様々な隊がひとつの山に入り、それぞれ、新しいルートを発見する度に、自分たちの国の言葉で、そこに名前をつけてゆくからである。
この中央ガリーの、どこまで登ったのだろう。
中央ガリーの真ん中あたりか。
高度計を見ればいいのだが、そこまではしていられない。ポケッ卜からそれを出すのも億劫《おっくう》だ。ポケットから出すのは、干し葡萄か、チョコレートくらいでいい。チョコレートや干し葡萄は時おり口に入れなきゃ死んでしまうが、高度計なんて見なくたって死なないからだ。
おそらく、七〇〇〇メートルはもう超えているはずだ。七二〇〇から七三〇〇──そのあいだくらいではないか。
灰色のツルムの根元まで、あと、四〇〇メートルから三〇〇メートル。
新宿の高層ビルひとつ半からふたつ分の高さくらいだ。
ガリーの幅は、八○メートルから一〇〇メートルくらいはあるだろうか。それだけの幅を持った標高差およそ五〇〇メートルの溝──そこに、ぎっしりと堅く凍りついた雪が詰まっている。
中央部が危ない。
雪崩《なだれ》や、落石の通り道だ。
軸線よりも三〇メートル右にルートをとらねばならない。
七〇〇〇メートルを超えてから、動きを止めて、喘いでいる時間が長くなった。
さっきの倍近くになっているだろうか。
カメラが重い。
何だって、こんなに重いカメラを持ってきてしまったのかと思う。カメラを投げ捨てたくなる。
灰色のツルムが見えている。
ツルム──ドイツ語でタワーのことだ。
“灰色の塔”
灰色の岩でできた塔のように、南西の大ガリーの出口の斜面に、それが立っているのである。
高さ、およそ三〇メートル。
塔とはいっても、一本だけ岩壁から独立して立っているわけではない。
背後の岩壁の一部である。
そこから先が、難所である巨大な岩壁──ロックバンドになる。
ロックバンドは、その左側にある左クーロワールを登って乗り越えねばならない。
喘ぐついでに、肩越しに振り返りながら下方へ眼をやると、遥か下に、ウェスタンクームの大雪原が見える。
もう、向こうに見えるヌプツェの左右の稜線といくらも違わない高さに自分の肉体がいる。
風が出てきていた。
いつの間にか──本当に、そういう感じであった。
気がついたら、自分の肉体が風にさらされている。しかも、登るにつれて、次第に風は強くなってきているようであった。
それに、もうひとつ、咳が出る。
激しい呼吸を口で繰り返しているため、喉をやられたのだ。標高が高くなれば、空気の密度が薄くなるため、自然に大気中に含まれる水分の量が少なくなる。空気が乾燥する。
マイナス二○度以下の乾燥した空気を激しく呼吸し続けていれば自然にそうなる。
咳が止まらなくなってきた。
ほとんど絶え間なく、空咳《からぜき》をする。
咳をすればその間、呼吸が乱れるから、終わった後、さらに強く大きく遠く空気を呼吸することになる。
その中で、風は、ますます強くなってゆく。
左側を見やった。
エヴェレストの西稜が、ほぼ同じ高さであった。
稜線のある場所は、自分の高さよりも低く、ある場所は自分よりも高い。その稜線の向こうがチベットである。
その稜線から、激しく雪煙が天に舞いあがっているのが見えた。
風か。
いったい、いつからあのような風が吹き始めたのか。
雪煙を舞いあげてきたチベット側からの風が、今、この壁まで吹き寄せてきているのである。
西稜の稜線よりも高い場所に出たら、当然、西稜がこれまで遮っていた風に、身がさらされることになる。
ついに、そういう高度に達したのだ。
エヴェレストの西稜よりも高い場所を吹く風の中に──
風は、氷の壁に取りついているあらゆるものをこそぎ落とそうとでもするように、強くなっている。
氷壁の表面も、がちがちに堅く凍りついている。風に磨かれたアイスバーン……
そこが、陽光を受けて、ぎらぎらと光っている。
風が強くなってゆく。
さらに、雲まで出はじめた。
舞いあがっていたのは、雪煙ばかりではなかったのだ。
チベット高原を、這うように登ってきた風が、エヴェレストの西稜を越える時に、冷たい大気に触れてそこに雲を生じさせているのである。その雲が、エヴェレストの頂を覆いはじめている。
きゅうっと、心臓と背骨を同時に絞りあげられたような感覚が、深町の肉体に疾り抜けた。
上部が、たちまち、その雲のために見えなくなってゆく。
上方に、ぽつんと見えていた羽生の姿が見えなくなっていた。
あと、どのくらいだろうか、と深町は思った。
あとどれくらいか。
上部が見えなくなってから、一時間以上はもう、登り続けている。
強風の中だ。
身体が、それにさらされている。
体温が、その風でどんどん奪われていっている。
おそらくは、マイナス二五度はある空気だ。
それが、風となって人体にぶつかってくれば、体感温度はさらに低い数値となる。ウィンドジャケットの上下を着てはいるが、それでも、無風で、マイナス三〇度以下の寒さの中に立っている時と同程度の寒さを感じているだろう。
指先に、感覚が失くなりつつあった。
風に顔を向けずに、反対方向を向いて呼吸をする。後頭部で風を受け、風下側の口で、息を吸い、吐く。
それを繰り返しながら、一歩ずつ、一歩ずつ、上に登ってゆく。
息が乱れている。
疲労と、寒さで、足があがらなくなってきた。
あと、どのくらいだろうか。
どのくらいゆけば、灰色のツルムまでたどりつけるのだろうか。
動けない。
いよいよ、動けない。
今は、氷壁の途中で、落ちぬようにバランスをとっているだけで精一杯の状況になってしまった。
どうする!?
このまま動かずにいたって、いずれは、爪先の力が落ちて、結局は落下することになるだろう。
どうする!?
深町は自問した。
動くことができなかった。
エヴェレストの西稜を越えてきた風が、深町を氷壁から引きはがそうとする。わずかでも、自分の身体と氷壁との間に隙間をつくると、そこに風がこじるように入り込んで、氷壁から身体を浮きあがらせてしまう。
頭も、低酸素でもうろうとなっている。
いけない。
深町は思った。
風に飛ばされぬようにする……その行為も、どうでもいいことのような気になってくる。
こんなに疲れてるのに、おまえは何をそんなにがんばっているのか。楽になるために、休むために、手を放し、落ちる。重力に身をまかせる。
魅惑的な考えだと思う。
悪い考えじゃない。
その方が楽だからだ。
深町をその氷壁にしがみつかせているのは、死への恐怖である。
その恐怖が、薄れそうになる。
恐怖が消えたら、あと、残るのは、義務感である。
ここにしがみついていないといけないから──
そういう心が支えになる。
ここにしがみついていると決めた。だからしがみついている。決めたことを、守り通す、それだけのことだ。
だが、何故、そんなことを決めたのだ?
自問する。
死なないためにだ。
しがみついていないと、落ちる。
落ちたら死ぬ。
だから、死なないためにしがみついている。
何故、死なないためにそんなことをするのだ?
死ぬのがいやだからだ。
何故死ぬのがいやなのだ?
経験したこともないくせに。
怖いからだ。
怖い?
死ぬことがか。
そうだ。
嘘だ。
おまえは、今、死ぬことを怖がってなんかいないじゃないか。
死ぬことはいやかもしれないが、もっといやなのは、この寒い風の中で氷壁にしがみついていることだろう。
手も足も、棒のようになり、疲れきっている。
感覚もない。
この苦痛から逃れることができるのなら、死の怖さくらいなんだ。
その息はどうだ。
今吹きつけてくる風よりも、荒く、速い。
ごうごうと、獣のように喉を鳴らしているじゃないか。
動かないでいるのに、飢えた獣が、どこにもいない獲物を捜して全力疾走しているように喘いでいる。この呼吸で、心臓が磨り減って、口から息と一緒に外へ出ていってしまうぞ。
腕も、足も、限界だ。
セルフビレーをとらなければ、落ちる。
しかし、どこでセルフビレーをとる?
どこも、堅い、石のような氷ばかりだ。
この氷の中へ、アイスピトンを打ち込むことができるか。
できるだろう。
自分に、今、もっと体力があり、ここがせいぜい五〇〇〇メートルーいや六〇〇〇メートルの高度だっていい、そのくらいの標高で、それから風がなければ──
ああ──
そんな夢みたいなことは、後で考えよう。
帰ってから──
熱い風呂につかって、その中で考えたっていいし、日本の居酒屋で宮川と酒を飲みながら考えるのだっていい。そうだ。後で考えよう。日本で。ビールはやめとこう。冷たいビールなんて飲みたくない。熱くした酒でいい。その酒を飲みながらだ。なあ、そうだろう、宮川。何がいい。おまえ、郷里は新潟だったか。あそこは、うまい酒があるよな。ああ、おまえにまかせるよ。何でもいい。肴は、そうだな。イサキを焼いたやつか、ブリカマの焼いたやつ。いや、煮込んだやつでもいい。温かくて、湯気をあげていて……
さあ、早く注文しろよ。
おい……
身体が浮きかけた。
左手のアイスバイルが氷壁からはずれた。
ごう……
と、獣の吼《ほ》え声のような風の音が耳を打った。
氷壁にしがみついていた。
幻覚だ。
落ちるところだった。
ああ、たしかにおれは今、日本に自分がいるものだとばかり思っていた。居酒屋の、あの喧噪《けんそう》を、うっとりと耳に聴いていたし、魚を灸《あぶ》る煙の匂いも嗅いでいたし、醤油の焼ける匂いだってしていたのだ。
宮川のやつが、すぐ隣りに座っていて……
深町は、歯を噛んだ。
糞。
左手のアイスバイルを、もう一度、氷壁に打ち込む。
アイゼンの前爪を、もう一度、打ち込む。
今、脳を無駄に使ってしまった。
何ということだ。
考えるということは、脳を使うということだ。脳を使うということは、酸素を脳で消費したということだ。酸素の無駄づかい──
とにかく、ここでは、ビレーをとるには足場が悪すぎる。もう少し、足場のよいところへ移動しなければ。
堅い氷へ、どれだけアイスピトンを打ち込めるか、おれにはわからないが、今は、それしかない。ピトンを打ち込み、そこにセルフビレーをとって、休む。筋肉を休ませる。
その間に、風が止むかもしれないという奇跡を待つことだ。風が止まなければ、たぶん、自分はここで死ぬだろう。
あたりは、一面、真っ白だ。
耳もとで、ごうごうと風がうなっている。
せめて、どこかに、足場のいいところが。
おい……
声がする。
こっちだ……
見れば、横手の白い空間に、男がふたり浮かんでいる。
強い風の中にいるというのに、動かない。
“深町い……”
男のひとりが言った。
井岡弘一だった。
もうひとりは、船島隆たった。
登山用具に、身を包んでいる。
“手伝ってやろうか”
船島が言った。
“おれが、ピトンを叩いてやるよ”
“何しろ、アイスバイルは軽いからな。アイスバイルでいくら叩いたって、少しもピトンは潜り込まないぞ”
いいよ、井岡さん。
船島さん。
おれか、自分でやりますよ。
“そうか、自分でやるか、深町──”
“うん、自分でやるのがいい”
“できるのなら、自分のことは自分でやるのが、山屋だからな”
そうですよ。
自分でやらなきゃ。
“ならば、ほら、おれたちが立っているここに来い”
“ここに立って、ここからやれば、打ち込み易いぞ”
そうするか。
じゃ。
深町は、氷壁から左足をはずし、バランスを崩した。
必死で、左足のアイゼンの爪を、もう一度氷壁に蹴り込んだ。
井岡も、船島も、この五月に、このエヴェレストで死んでいる。
その死の瞬間を、自分は写真に撮ったのではなかったか。
井岡と船島は、にやにや笑いながら、宙から深町を見つめていた。
ふたりの身体の中を、石のような雪片と風が、激しく吹き抜けてゆく。
幻覚か。
それとも、ふたりの魂が、まだ、極寒のこの天空でさまよっているのか。
“残念だったな、深町──”
“うん、残念だった”
井岡と船島が言った。
ふたりは、膝と腰を曲げ、ダイビングするような格好をして、
“じゃゃあな”
“またな”
そう言って、飛んだ。
ふたりの身体は、白い空間の中へ飛び出し、落下して、たちまち見えなくなった。
「糞!」
深町は、唸った。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
叫んだ。
声にして叫んだのか、胸の裡《うち》で叫んだのかわからない。
口て叫んだにしても、唇から離れた途端に、声は風に吹きちぎられ、たちまち、地上八○○○メートルの天空に引きさらわれて散りぢりになってしまう。耳まで届く間もなく、この広大な空間の中に霧散《むさん》してしまうだろう。
かっ。
と、頭の中が、一瞬、鮮明になる。
五メートルほど下の、左寄りに、瘤《こぶ》状に氷壁が盛りあがっだ場所があったはずだ。
あそこなら、アイゼンの靴底の爪を、全部、斜めながら氷壁に噛ませることができる。
あそこまで──
あそこまで下ることができれば。
できるか、それが。
しかも今。
このおれに。
いや、できるかどうかではない。やらねばならない。やるのだ。試すしかない。どうせ、このままここにいるのなら、あと、五分ほども、この生命はもたないだろう。
一千数百メートルを、いっきに滑り落ちて、ウェスタンクームの端にぶつかって、そこで死ぬ。
死ねば、屍体はこの雪に埋もれ、氷河に運ばれ、一千年後には、氷河の末端で屍体が見つかるかもしれない。
そういう死に方もあるだろう。
しかし、自ら、そういう死に方を選んだりはしない。誰も選ばない。
できるだけのことを、ぎりぎりまでやりぬく。
それだけだ。
そのあげくの果てに、あの氷河の内部に屍体が閉じ込められるというのなら、もう、それは、おれの領分ではない。神の領分だ。おれは今、おれにできることをするだけだ。
氷壁との間に、空間をできるだけつくらないようにして、アイスバイルと、ピッケルを、少し下げた場所に打ち込む。続いて、右足。左足。アイゼンの前爪を氷にひっかけて。
二〇センチずつ。
二〇センチずつ、下へ。
見えるか。
もう少し下だ。
もう少し降りて、左側に──
見えない。
灰色の、横なぐりの斜線で、視界が塞《ふさ》がっている。雪の斜線は真っ白ではない。灰色だ。その灰色の中に、瘤のかたちが溶けて──
あった。
すぐ左だ。
その上へ。
立つ。
ようやく、爪先以外の場所を、氷の上に乗せることができた。
この、盛りあがった雪の下にあるのが、岩だろうが、他の何かであろうが、かまわない。足の裏と膝を休ませることができるのなら。
今動いただけで、この呼吸の乱れようはどうだ。
ピッケルを、ハーネスにはさむ。
氷が堅くて、とても、氷壁のどこかにピッケルを突きたてて、おいておくというわけにはいかないからだ。落としてしまえば、もう二度とこれを手に握ることができなくなる。動きにくいがこれでがまんしなければいけない。
いやな場所だ。
これが、普通の道や、山なら、ピッケルを落としたら拾えばいい。拾えなくとも、死ぬようなことはない。しかし、この、ヒマラヤのこの氷壁は、ピッケルを落としたら、それはあっという間にこの氷壁を滑り落ちて、もう、二度と拾うことはできない。拾えなければ、死だ。
上にゆくことも、下ることも、ピッケルなしにはできなくなる。
アイスピトンを、取り出す。
やっとだ。
こんなものを取り出すというそれだけのことで、何という時間がかかってしまうのか。
アイスバイルを右手に持ち替え、左手に持ったアイスピトンの先を氷壁の、かちんかちんの氷の表面にあて、叩く。
軽い音。
先が潜り込まない。
息を止めて、ひとつ、ふたつ……
だめだ。
二度叩く間も呼吸を止めていられない。
たった二度分の呼吸を止めただけで、苦しくなる。苦しくてたまらなくなる。肺が、酸素を求めて、激しい勢いで、膨《ふく》らんだり縮んだり。
でかい手で、肺をわし掴みにされて、握ったり開いたりを、凄い速さでされているみたいだ。
苦しい。
喉が痛い。
肺が痛い。
風にさらわれそうになる。
先は、少しも潜り込んでいない。
先端の尖った金属が砕いた細かい氷の欠片《かけら》がひとつ、ふたつ、できただけだ。
五分は、何もせすに、ただ、空気をぜいぜいと吸い続けたろうか。
呼吸をするたびに、喉がごろごろと鳴る。
肺水腫《はいすいしゅ》!?
いいや。
ちがう。
気にするな。
これは、いつものことじゃないか。
喉に痰《たん》がからんでいるだけだ。
咳をする。
激しく背を丸めて。
痰を吐き出す。
壁面にへばりつく。
痰の一部が、シャーペット状になっている。
まてよ、本当に、これは、痰がシャーベッ卜状になっているのか。それとも、氷の上に吐き出したので、そんな風に見えただけなのか。
たちまち、痰が目の前の壁面に凍りついてゆく。
ああ──
そうか。
これか。
これでいこう。
これならば、なんとかなるか。
また、ピトンをあて、今度は、呼吸を止めないで、叩く。
七分《しちぶ》の力で。
何度も、何度も……
もっと重いハンマーで、おもいきり叩けば、もっと早くピトンは潜り込むだろう。
しかし、そんなことが、この高度でできるやつはいない。
いいか。
バランスを崩すんじゃないぞ。
瘤の上といったって、わずかなものだ。
水平の所に立ってるわけじゃない。
足首は、奇妙な角度にねじ曲がっている。
それに挟い。
風に、宙にさらわれないように。
叩く。
ひとつ……
ふたつ……
みっつ……
無限の繰り返しだ。
ようやく、潜り込んだ。
でも、一センチか、二センチか。
こんな浅さじゃ、どうしようもない。
もっと、深く。
何度も、何度も、叩く。
とりあえず、やることがあるというのはいいな。
何もしないで、何もできずに氷壁にしがみついていて、力尽きて、落ちる。
それよりはずっといい。
やることがあるうちは、その行為に集中していればいい。
死ぬことを考えずにすむ。
叩く……
叩く……
叩く……
どのくらい潜り込んだのか。
もう、限界だな。
疲れた。
二度叩いて、一分か二分は、酸素を呼吸するために喘ぐ。
そんなことの繰り返し──
それも、もう、できなくなる。
また、井岡と船島が、空中から見ている。
“おい、深町い……”
“手伝ってやろうか……”
けっこうだよ。
自分でやる。
でも、もう、ここまでかな。
ここまでか。
おれはここまでか。
もう、とにかく、おれはここまでだ。
でも、やらなければ。
ここまでにしたって、ただ氷壁にしがみついてるだけじゃ芸がないからな。
やろう。
何をやるんだっけ?
さっき、思いついたことがあったはずだ。
何だったっけ。
シュリンゲを取り出し、アイスピトンに引っかける。
ああ、アイスピトンがぐらぐらしているぞ。
体重をかけたら、これは、すぐに氷壁からはずれてしまう。
このままじゃいけない。
どうするんだったっけ。
いつもやらないこと。
さっき思いついたこと。
何だったっけ。
いつだったっけ。
そうだ。
痰を吐き出した時に思いついたんだ。
何を。
痰が、氷壁に凍りつくのを見た時だ。
だから、それが、何たというんだよ。
糞。
こんなに、頭が悪かったかな。
こら、井岡、手を出して、そんなにアイスピトンを揺するんじゃない。
船島、おまえ、両手でアイスピトンを引き抜こうとしているのか。
ああ、そうだ。
これだ。
腰から、テルモスを取り出す。
まだ残っている。
二〇〇ミリリリトルくらい。
それを、飲む。
温かい。
熱い。
飲みすぎるな。
コップ一杯くらいにしておけ。
ああ、甘い。
濃い、紅茶の香り。
蜂蜜の味。
いけない。
飲むんじゃない。
これを、どうするんだったっけ。
思い出せ。
飲んだらどうするんだ。
小便が出るか。
糞か。
そう言えば、うるさいやつがいたな。
ヒマラヤが、塵芥《ごみ》で汚染されてるんだって?
自分の排泄《はいせつ》したものが、氷の中で、ずっと残り続けるんだって?
だから、それを、排泄したうんこをだ、ビニール袋に入れて持ち帰れだと?
こんな極限状況の中で、そんなことができるか。
やっていられるか。
そんなことをやっていたら、死んじまう。
どうせ、どこかでは出す糞だ。
水洗だろうが、野山で糞をひり出そうが、出したその場所は、汚染される。水洗ならば糞をきれいにするためのシステムがあり、そのシステムを作るためには、あるいは機能させるためにはエネルギーが必要になる。そのエネルギーは石油燃料で作られる。ビニール袋だって、もとは石油だ。作るためには石油を燃やしたエネルギーを便う。その時、石油を燃やせば、大気が汚れる。
人間ってのは、どうせ、そういうもんなんだ。
ヒマラヤの、こんな場所でした糞を待ち帰ればいいなどという、そんな単純なことじゃない。
あれ?
何だっけ。
何を考えてるんだっけ。
糞のことじゃない。
小便のことじゃない。
このアイスピトンのことだ。
どうやって、これをこの氷壁に固定するかってことだ。
そうだ。
これを──
こうやって、かけるんた。
テルモスを右手で握り、中の液体を、アススピトンの根元に、注ぐ。少し。少しだ。ほんの少し。
この熱い液体が、アイスピトンの金属を伝わって、根元に垂《た》れ、氷を溶かし、溶かした途端に、たちまち凍りつく。
いいぞ。
これだ。
横で、井岡と船島が拍手をしている。
これだったんだ。
なにしろ、マイナス三〇度にはなっているだろうからな。
うん。
堅くなった。
動かない。
ぐらぐらしない。
深町は、そこに、セルフビレーをとった。
ほんの少し、ほんの少しだけ、ほっとする。
仕事をし終えたからだ。
しかし、することがなくなった。
こんなセルフビレーで、だいじょうぶかという不安もある。
今は、ほんの少しだけしか自分の体重がかかってないが、本格的にかかったら、抜けてしまうのではないか。
抜けなくとも、このまま、夜まで、こんな吹きさらしの場所にいたら、死んでしまうのではないか。
体温を奪われて。
風が止むことを、今は、祈るしかない。
何を考えようか。
女のことがいいか。
加代子のことがいいか。
涼子のことがいいか。
急に、熱いものが、心の裡に点《とも》る。
ああ、今ならば、言えるだろうな。
今ならば言える。
あの時、実は、自分はあなたを、この腕の中に包みたかったのですと。
ああ、あの、女の身体の、肉体の、血の温もり──
深町は、それが、今、欲しかった。
あなたと、あんたとくっついていたい。
胸と胸を合わせ、頬と頬をくっつけ、手と足をからめ、腹と腹をひっつけあって、背中がふたつの獣みたいにくっついていたい。
あんたの乳房を、握りたい。
乳首と一緒に手に包んで、柔らかさを何度も何度も確かめるように……
おい。
涼子。
どこにいる。
飛行機の中で泣いたか。
今、日本で何をしている。
何を思っている。
帰ったら──
もし、生きて帰ることができたら、会いにゆく。
真っ先にゆくよ。
わき目もふらずに会いにゆく。
羽生だかなんだか知らないが、もう、あの男のことなど忘れてしまえ。
かわりにならないかもしれないが、おれは、羽生の役はできないかもしれないが、前の女のことも、ついくよくよ考えたり、がんばってしまったり、そういうことをそのまんま抱えたまま、おれは丸ごと、深町誠でいることしかできないかもしれないが、おれは、あんたに言うよ。
少なくとも、正直に言う。
正直に。
そのくらいならできる。
あんたが好きだと。
あんたを守らせてくれと。
あんたが好きなんだ。
今、あんたが、どれだけの哀しみの中にいるのか、おれにはわからないが、どれだけ激しい嵐の中にいるのかわからないが、その、あんたの心の中のブリザードが止むまで、おれは、あんたにくっついていると。一緒にいさせてくれと。
いいや。
違う。
もっと正直に言うんだ。
もしかしたら、おれの方があんたを必要としているのかもしれないと。
そうだな。
おれの方が、あんたが必要なんだ。
おれがあんたにしがみついていたいんだ。こんな氷壁なんかじゃなく。
おれは、あんたといる時は、本当に楽しかった。
ああ、今、そんなことに気がつくなんて。
今、気がつくなんて。
もう、上へ行かなくたっていい。
これから、もう、セルフビレーをはずして、歩いて日本まで帰ろうか。
ヒマラヤのことも、世界一の頂のことも、羽生のことも、みんなきれいに忘れてやる。
傷みすらも忘れてやる。
だから……
そこまで、考えた時、深町は、その耳に聴いた。
ブリザードの、激しい音の中に混じる、小さな、微かな音。
さ、
さ、
さ、
と、雪に、何かが触れる音だ。
それが、近ついてくる。
音が大きくなってくる。
さ、
さ、
さ、
さ、
近づいてくる。
音が大きくなってくる。
何の音か。
深町は、それが何であるかわかっていた。
石だ。
落石。
石が、氷壁の上を、凄い疾《はや》さで転がりながら落ちてくる音だ。
顔を、上にあげた。
石を、よけなければならない。
あげた視界の中で、左から右へ、激しい勢いで、雪の直線が流れている。
灰色の霧。
その中から、ふいに、黒い物体が出現した。
深町の顔を目がけて、それがぶつかってくる。
「くっ」
深町は、頭を伏せた。
その瞬間、ヘルメットに、強い衝撃《ショック》があった。
深町の肉体から、意識と体重が、同時に消え去っていた。
体重が消えた瞬間、すぐに、身体に衝撃があった。
ハーネスが引っ張られ、身体が斜めにぶら下がる感覚があった。アイスピトンでセルフビレーをとっていたため、それが落下を止めたのだ。しかし、危《あや》ういビレーだ。それがどこまで保つかわからない。
これで、死ぬな──
意識が消えるまでの、一秒にも満たないわずかの時間の中で、深町の脳裏にそれだけの思考がよぎった。
その断片的な思考を、意識の中で確認する間もなく、深町は暗黒の中に沈んでいたのである、
気がついたのは、自分の身体が、揺すられたからだ。
「大丈夫か、おい」
誰かが、身体を揺すっている。
「深町」
声がする。
低いが、力強い声だ。
熱気の塊りのようなものが、自分のすぐ近くにある。その熱気が、自分を抱えている。
「おい」
その声が、ようやく、深町の意識に届いてきた。
眼を開く。
顔があった。
顔といっても、肌はほとんど見えていない。
目出帽、ヘルメット、ゴーグルでほとんどの顔の皮膚は隠れてしまっている。
見えているのは、唇と、唇の周囲のわずかな肌。そして、白い歯。舌。ロの中の粘膜。
誰だっけ。
誰だ、この男は。
こんな高さの所に、いったい誰がいるのか。
「羽生か……」
深町はつぶやいた。
「生きてるな、深町」
羽生の手が、深町の頬を叩く。
羽生に抱えられているため、羽生の筋肉の動きが、分厚い服の厚みを通しても伝わってくる。強い動きだ。この高度で、こんなに凄い肉の動きができる人間がいるのか。
いる。
その男は眼の前にいる。
羽生丈二だ。
しかし、どうして、羽生がここにいるのか。
来るわけがない。
また、幻覚を見ているのか。
羽生が、深町のカラビナに、上から下がってきているザイルからプルージックでビレーをとっている。
何で、こんなところに、ザイルがあるのか。
ああ、羽生か。
羽生が、上からこのザイルで降りてきたのか。
羽生が、ザイルに深町用のビレーをとってから、アイスピトンからとっていたビレーをはずした。はずした、というよりは、アイスピトンを引っこ抜いた。
深町のカラビナから、シュリンゲとアイスピトンかぶら下がる。
「こんなビレーで、よく助かったもんだ」
羽生のつぶやきが聴こえる。
雪の下に、岩か何かがあるのかどうかわからないが、ここだけ、氷壁の斜面が瘤《こぶ》状になっている。そこに、身体の一部が触れているため、ビレーにかかる重さの何割かが減ったのだろう。
もし、何もない空間に落下していたら、アイスピトンは、雪面からはずれていたに違いない。
ハーネスに挟んであったピッケルもアイスバイルも、無事であった。
「ユマールは、ない。プルージックでビレーをとりながら、ダブルアックスで、登ることかできるか!」
風の中で、火のように羽生が叫んだ。
深町は、うなずいた。
「や、やれると思う……」
ピッケルを、右手にやっと握った。
左に、アイスバイル。
しかし、それを、持ってふるうことができない。アイゼンの爪をひっかけて、やっと瘤の上に立っていることができるだけだ。
「無理だな……」
羽宅が呻いた。
手が、というより、腕から先が冷えすぎたのだ。この風の中に、しばらく無防備にさらされていたのだ。そういう時、手足の末端から凍傷でやられてゆく。
小指に、力が入らない。
たぶん、指の一本か二本は、失くすことになるかもしれないと、深町は思った。
思ってから、なんという馬鹿なことを考えてるのかと思う。
今は、生きて帰ることができるかどうかという時なのに、指の一本や二本のことを心配している。
「おれを、置いていけ──」
深町は言った。
酸素不足で、度々幻覚を見るようになっている頭でもわかっている。エヴェレストで、しかも、冬の南西壁で、自力で動けなくなった人間を待っているのは、死だけだということを。そのくらいはわかる。
がちがちと歯が鳴っている。
強烈な寒さが、深町を襲っている。
こんな高度で、動くのをやめた肉体は、たちまち体温を奪われてゆく。しかし、寒いうちはまだいい。そのうちに、寒さを感じなくなったら終わりだ。
「ザックを下ろせ」
羽生は言った。
ザックを?
何を言っているのだ、この男は。
ザックを下ろす?
何のためにだ。
「いや、その前にザイルのプルージックに体重をかけて、それでバランスをとるんだ」
羽生が、ザイルのプルージックを調節して、うまく、深町が体重を乗せ易い位置にプルージックをずらせた。
ザイルが深町の体重で張る。
そのザイルが、ぐうっと、重い力で斜め右上方に引かれる。深町は、あやうくバランスを崩しそうになった。
もし、バランスを崩して滑落《かつらく》しても、プルージックがとってあるからいいが、それにしてもこの風は何だ。
「気をつけろ。風が強い」
そうか、風か。
と深町は思う。
強風が、左から吹いて、ザイルを右に流しているのである。
ところで、羽生は?
深町は、羽生を見やった。
何と、どこからもビレーをとっていない。
羽生は、どういうビレーもとらずに、この氷壁に張りついていたのである。
なんという男か。
羽生の肉体が、自分の横にいるだけで、火のように熱いものが、ここまで伝わってきそうであった。
羽生は、ピッケルを、自分のハーネスに差し込み、アイスピトンを出して、それを瘤の上部に、アイスバイルで打ち込みはじめた。
堅い。
ピトンは、なかなか潜り込まない。
羽毛の激しい喘ぎが、深町の耳に届いてくる。
それでも、羽生の打撃は力がこもっており、リズムがあった。少しずつ、少しずつ、アイスピトンが潜り込んでゆく。
一〇センチほど潜り込んだところで、羽生はその作業を止めた。
羽生は、次に深町の手から、ピッケルと、アイスバイルを奪い、自分のハーネスに差し込んだ。
深町の肩に手を掛けた。
「いいか、少し、左へ移動しろ」
羽生が、深町を、瘤の上から壁面へ押し出すようにした。
アイゼンの爪先を壁面に噛ませながら、深町が左へ移動する。ピッケルも、アイスバイルもないが、プルージックがとってあるので、なんとか移動できる。
「ザックを下ろせ」
羽生がまた言った。
「何をする気だ」
「いいから下ろせ」
「おれに構うな。おまえまで死ぬぞ」
深町は、せいいっぱいの声で叫んだ。
しかし、その声は、もう、弱々しい。
「さあ、ザックを肩から下ろすんだ」
羽生が、深町の両肩から、引き剥《は》がすようにザックを下ろさせた。
羽生は、両足のアイゼンで、瘤の上に立っているだけだ。瘤といっても、斜面であることにかわりはない。
一七キロのザックが、羽生の手に渡った。
羽生は、そのザックを、シュリンゲで、今打ち込んだばかりのアイスピトンに繋いで落下しないよう固定した。次に、自分のハーネスに差していた深町のピッケルとアイスバイルを、そのザックに固定する。
その作業を終えて、羽生は、深町を見た。
「いいか。気を抜くなよ、深町。高度が高くなったり、疲労が濃くなると、生きようという意志が、つい、粗雑《そざつ》になっちまう。そうなったらおしまいだぞ」
「何故、おれにかまう?」
深町は言った。
「おまえは、おれと関係なく登るんじゃなかったのか」
「黙れ」
羽生は、ダブルアックスで上に登り始めた。
「何をする気だ」
深町は言ったが、羽生は答えない。
深町にしても、大きな声を出すたびに、それで喘いでしまう。
羽生は、深町の上方、三メートルのあたりで、左に移動してザイルを跨いだ。そこで、ザイルから、プルージックで長いセルフビレーをとっているらしかった。
羽生が、ダブルアックスで、ザイルに沿って上から下りてきた。深町のすぐ頭の上で止まった。下を眺め、深町と自分との間の距離を目で計っているらしい。また、羽生は上へ登ってゆき、三メートルほどの長さのプルージックの位置を調整した。今度は、右に五〇センチほど移動し、また、上から降リてきた。
深町の左横に並んだ。
ぴったり、深町と同じ高さで横に並んだ場所で、羽生のプルージックが伸びきって、羽生の体重をそこで受けた。
羽生は、プルージックに体重をかけながら左へ移動し、深町に寄り添った。自分のピッケルとアイスバイルを、深町のハーネスに差し込んで、それが落ちないようにした。
次に、シュリンゲを取り出して、ふたつの長い輪を作り、それを自分の左肩に掛けた。
「いいか、深町、これからおれの言うことを聴け!」
強い口調で、羽生は言った。
「これから、おれが、おまえの下に潜り込むから、おまえは、アイゼンを壁から離してぶら下がり、おれの背中に回れ。おれにおぶさるようなかたちになればいい」
「何をする気だ」
「説明している時間はない」
羽生の身体が、深町の身体と氷壁の間に潜り込んできた。深町は、氷壁に噛ませていたアイゼンの前爪をはずし、プルージックでザイルにぶら下がるようにして、羽生の背に回った。
羽生は、深町の腹と、氷壁とに挟まれるかたちになった。
その位置で、羽生は、肩に掛けていたシュリンゲの輪をはずして、その輪をまず、宙に浮いている深町の左足にくぐらせた。次に、もうひとつの輪を右足に──
「どうするつもりだ、羽生」
静かにしろ。余計なことにエネルギーを使うな」
その時、深町には、ようやく、羽生が何をしようとしているのかわかった。
羽生は、なんと、深町をその背に背負って、この氷壁を攀《のぼ》ろうとしているのであった。
「やめろ、無理だ」
呻くように、深町は言った。
自分の体重は六七キロだ。それに、身に纏《まと》っているものや装備を加えれば、七五キロくらいにはなるだろう。
そんな重さを背に負って、この七〇〇〇メートルの高度で、いくらプルージックをとっているからといえ、登れるものではない。
自分の身体が、羽生の背に固定されてゆく。
「やめろ……」
深町は、泣くような声で言った。
「やめてくれ。無理だ。できるものか。あんた、おれと心中するつもりかよ」
羽生は、答えない。
自分の右手を、後万に──つまり、羽生自身の背と深町の腹との間に差し込んできた。
ぷつっ、
鋭い刃物で何かが切られるような感触があって、深町は、自分の全体重が、羽生の背にかかったことを知った。
深町のために、ザイルからプルージックをとっていたナイロン・ロープを、羽生が、右手に持ったナイフで、ザイルから切り離したのだ。
「羽生さん、やめてくれ……」
泣き声になっていた。
「もういい。もう充分だ。おれを、ここに放り出していってくれよ」
深町は言った。
ただ独りで、真冬のこの南西壁をやる──しかも無酸素で。
それが、どれほどのことか。
このために、これまで、羽生がどれほどのエネルギーと時間をかけてきたか。
そのために、何をしたのか。
何を捨てたのか。
それが、深町にはわかる。
あの涼子を日本に置いて──
カトマンドゥのホテルでは、涼子を抱こうとしなかった。
おそらく、これは、羽生という男の、全生涯をかけた仕事だ。このために、これまでの羽生の生涯はあったのだ。
それを、他人のために……
人類の歴史上、これまで誰も成し得なかったことを、初めて、この羽生丈二という男が成し遂げようというその瞬間になって、その至高の瞬間の手前で、おれはなんというとんでもない真似をこの男にさせようとしているのか。
できるわけはない。
死だ。
「やめてくれ、やめてくれよ、羽生さん」
深町は泣いていた。
おれに、羽生に助けられる資格はない。
自分と、羽生の背との間を、ずるずると何かが上に動いている。
ザイルだ。
羽生と深町との間に挟まれたかたちになっているザイルの下に垂れた分を、羽生が自分の肩口から抜いているのである。
抜いたザイルを、羽生は、自分の股の間に落とした。
強風のため、垂らしたザイルが、たちまち右に流されてゆく。
羽生は、ザイルに、もう一度、短めのビレーをとった。
そして、最初にとった三メートルのビレーをはずしてしまった。
続いて、手を後ろにまわし、深町のハーネスの背中側に差し込んでいたピッケルとアイスバイルを抜き取った。
上を見あげる。
張っているはずのザイルが、左からのブリザードで、大きく右側に曲線を描いてふくらんでいる。
「風が強いな……」
ぼそりと、羽生がつぶやいた。
そして、羽生は、深町を背負って攀り始めたのであった。
深町の腹の下で、羽生の筋肉が動くのがわかる。
力強いリズムだった。
羽生の背の筋肉が堅くなり、消え、次の瞬間にはまたそこに新しい筋肉の束が生じたりする。
背には、強烈な寒気の嵐が吹きつけてゆくが、腹には、羽生の肉の熱気が立ち昇ってくるのを感じている。
なんという男か。
羽生丈二──
この男は、今、七五キロを超える重さを背負って、標高七〇〇〇メートルを超える氷壁を、無酸素で攀っているのである。
これが、どれほどのエネルギーを必要とすることか。しかも、このブリザードの中で──
激しい、火球のような呼気を、羽生は吐いている。
一歩、攀って、数度喘ぎ、また一歩を攀って、またしばらく喘ぐ。喘いでいる間は動かない。
ここで、これだけ体力を使ってしまって、明日、この男は行動できるのか。
「もう、やめてくれ、羽生さん……」
深町が顔をあげた時、すぐ頭の上に、濃い灰色の塊りが見えた。その灰色の塊りの手前を、左から右へ、水平に白い雪が疾《はし》り抜けてゆく。
岩だ。
斜度が五〇度近い氷壁に、垂直に近い巨大な岩峰がそそり立っているのである。その上部は、白と灰色のブリザードの向こうに溶けている。
その根元のあたりに、黄色い人工の色が見えている。
羽生の、テントであった。
二十章 真相
テントの中で、うずくまっている。
膝を立て、それを両手で抱えるようにして、背を背後の壁に預けている。
そこだけ、軽く、壁がオーバーハングしているので、後方へ体重を預ければ、腰の上部まで、壁に触れるのである。触れる、といっても、テントの布地が間にある。
ほんのわずかの空間──
ちょうど、その小さなテントを張ることのできるだけのスペースがそこにあった。
岩の根元を、ピッケルでカッティングし、腰をやっと下ろせるだけの平らな場所をつくり、そこに腰を下ろしている。
深町の右側に、羽生が、やはり同じように腰を下ろしている。
ふたりとも、寝袋の中に入っている。
寝袋の中に入ったまま、身体を起こして、座っているのである。
ふたりの目の前、足の先には、それぞれのザックが転がっている。
背後の岩に、ハーケンを打ち、そこからビレーをとっている。
蝋燭が一本、点っている。
その炎と、ふたりの体温が、テント内部の温度を上げている。
コッフェルに、雪を入れて、それを溶かし、温めて飲んだ。
指がうまく動かない深町にかわって、羽生がその作業をした。
羽生は、自分の分については、きっちりと、自分のコッフェル、自分のコンロを使用し、自分で雪をとって温めた。蜂蜜と紅茶とレモンの絞り汁を温めたもの──これは、深町と同じだ。
羽生も深町も、それをたっぷりと飲み、食事を摂った。羽生は、ビタミンCを錠剤で、摂取した。
それて、ようやく、深町はまともに口が利けるようになった。
しかし、それでも、予定した量の半分も、固形物はロに入らなかった。いや、口には入るのだが、食欲がなく、吐き気がして飲み込めないのだ。
頭痛がある。
常に、後頭部に痛みがあり、時折り、心臓の鼓動に合わせて、鉈《なた》を打ち込まれるような痛みが襲ってくる。
挾いテントだった。
「いいか、ここで、テントを張ることができるのは唯一、この岩の下だけだ。しかも、ここの、狭いこの場所だけなんだ」
羽生はそう言った。
他の場所にテントを張れば、ひと晩に、ひとつふたつは、必ずテントを落石が襲う。
それが頭部に当たれば、死ぬ。
それに、もうひと張りのテントを張るだけの体力のロスがもったいなかった。
この強風の中で、雪をカッティングし岩からビレーをとり、深町のテントを張っていたら、三時間はかかってしまうだろう。
羽生のテントを、ふたりで使用する──それが最良の選択であったのだ。
テントの中に入り、今のポジションに落ち着いた時、
「いいか、その姿勢を崩すんじゃないぞ」
と、羽生は言った。
「眠る時もその姿勢でいることだ。もし、前のザックの上に上体を被せて寝込んでしまったら、落石が頭を直撃するぞ──」
背にした岩から、およそ六〇センチまでが安全な空間なのだという。
「おれが山だったら、そういうミスを犯す人間の頭には、遠慮なく石を落とす……」
大きな黒い玄武岩をこすり合わせるような、低い声で羽生は言った。
「ここでは、どんなに小さな幸運も期待するな」
深町の眼の前のザックの上には、深町のヘルメットが置かれていた。
その頭頂部が、罅《ひび》割れている。
落石が、そこを直撃したのだ。
高山病の頭痛とは別の痛みが、頭部にある。
頭に手をやれば、頭頂近くの髪の毛が血でかたまってごわごわになっており、そこの肉がふくらんでいる。
血が止まっているのでそのままにしてあるが、これが、明日になればどれだけ痛み出すかわからない。
強い風であった。
テントに入ってから、さらに風が強まったようであった。
時折り、岩の塊りのような強い風が、テントにぶつかってくる。テントをぺしゃんこにして、岩に押しつけようとしたかと思うと、それが次の瞬間には渦を巻いて、岩から引き剥がそうとする動きに変わる。
風が押しつけてくる時は、眼の前のテントの布地が、顔の前まで潰れてくる。
こういう時は、剛構造のテントよりは、今のテントのように、柔構造のテントの方が風に強い。どれだけ押しつけられても、蘆《あし》のように、風のリズムを掴んで、体勢を持ちなおす。
食事が済んで、羽生は、口を利かなくなった。
眠ったのかと、深町が横を見やると、羽生は、眠ってはおらず、光る眼で前方を睨んでいる。
強い熱気が、羽生の肉体から立ち昇っているようであった。
必要以上のコミュニケーションを、かたくなに避けているようにも見えた。
羽生の胸中には、これは、単独行との想いが、煥《おき》のように点っているのであろう。
羽生は、食事の時であれ、何であれ、深町のものには、一切、手をつけなかった。少なくとも、自分のためには手をつけなかった。深町のザックを持ち、テントの中に人れ、雪をはらってその雪を外へ出すのは、羽生がやった。このテントヘ着いた時には、深町が、そんなことをやれる状況になかったからだ。
深町を、テントの中へ投げ込むように入れてから、羽生は、もう一度下って、ブリザードの中で、深町のザックを回収してきたのである。
超人的な体力であった。
標高差、二〇メートルほどだ。
たった二○メートルとはいえ、常人にできる業《わざ》ではなかった。
深町のためには、する。
ザックをテントの中に入れたり、食事の用意をしてやったり──
しかし、自分のためには、深町の手は一切借りず、また、自分のために深町のものを利用することは、トイレットペーパーを一センチ使用することもしなかった。
羽生は、深町がそこにいないかのように、黙りこくって目を光らせている。
羽生の脳裏に浮かんでいるのは、この風のことであろう。
この風が、明日も続くのか。
もし、この風が、十二月の月末にやってくるあのジェットストリームが十日以上も早く来たものなら、ブリザードは、これから絶え間なく、ほぼひと冬続くことになる。
何日間かねばれば、たまに、一日か、二日、風が止《や》むこともあろうが、それだけの時間も、体力も、食料も、羽生にはない。
どうなのか。
激しい、焦燥の炎が、無言の羽生の胸中で燃えているようであった。
長い沈黙の中で、深町は、羽生と共に風の音を聞いていた。
そして、ついに──
耐えきれなくなったように、深町は、羽生に問うたのであった。
「羽生さん──」
と、深町は、しわがれた、掠《かす》れた声で言った。
もしかしたら、自分は、生きてここから帰れないかもしれない。
帰れないにしても、訊いておきたいことがあった。
「あんた、何故、おれを助けたんだ──」
羽生は、眼球のみを動かして、深町を見やっだ。
どういう表情も、その眼には表われていない。
その視線を受けて、深町は、言葉に詰まった。
思わず、深町の呼吸が数瞬止まる。
しかし、次の瞬間には、慌てて、喉を大きく開いて呼吸を再開する。早い呼吸だ。何度も何度も、息を吸って吐くことだけに集中する。わずかの時間、呼吸を止めただけで、体内に吸収する酸素の量が足りなくなってしまうのだ。
強いブリザードの音が、テントの外でうねっている。
ひときわ強い風に押されて、すぐ眼の前にテントの布地がかぶさってきて、鼻先に触れてゆく。
獣の冷たい舌が、鼻の頭を舐めていったようであった。
遠くから、犬の吠える声が聴こえる。
怒っているような声だ。
何か、闇の中を通り過ぎてゆく不吉な存在に向かって、懸命に怒りを露わにして吠えている──そんな風に聴こえる。その存在の移動に合わせて、あちらこちらの犬が次々に吠えはじめて、犬の群が集団で吠え、唸っている……
近づいてくる。
それが、このブリザードの吹き荒れる広大な空間を、風に乗って、チベット側からゆっくり宙を歩きながら近づいてくる。
「おい……」
深町は、羽生に言った。
羽生が、深町を見る。
「来るぞ」
怯《おび》えた声で言った。
猛っている。
犬が猛って吠えている。
いや、それともこれは、おれの内部の声か。
「聴こえるだろう」
「…………」
「犬の声だ」
「犬?」
「そうだ」
犬よりも、それはもう、獣の声に近い。
「聴こえないのか」
言った途端に、また、強風がぶつかってきて、テントの布地が顔に触れてゆく。
どうっと、獣の吠え声がテントに叩きつけてきた。
縮んだ一瞬の後、次にはテントが内側からふくらんで、獣の声が遠くなる。獣の声は、人の声にかわり、無数の人間のからからと笑う声が、風と共に天の彼方に向かって遠ざかってゆく。
足元に、人の顔があった。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
ぼこり、ぼこりとザックの表面や、テントの布地の上に人の顔が浮かぶ。このテントの中を覗きに来たようであった。
その顔たちが、会話をしている。
誰の顔かわからない。
加代子の顔もあるようであり、涼子の顔もあるようであり、ナラダール・ラゼンドラの顔もあるようであり、宮川の顔もあるようであり、井岡と船島の顔もあるようであり、それらの顔のどれもないようであった。
彼等が、ぶつぶつと会話をする。
しかし、何を話しているのかわからない。
自分のことを噂しているような気もする。
「こりゃあ、もうね」
「駄目だな」
「見ろよ、息があんなだ」
「喉が鳴ってる」
「ごろごろごろ……」
「ひゅうひゅう……」
「でも(ぶつぶつぶつ)かな。(ぶつぶつぶつぶつ)だろう……」
「だからさ(ぶつぶつぶつ)やっぱりね。(ぶつぶつぶつ)……」
「ふうん……」
「かかか……」
「ぶつぶつぶつ……」
「ぶつぶつぶつ……」
何と言ってるのか、こいつら。
何を──
おい、聴こえないぞ。
「おい」
声が聴こえた。
「おい、深町」
羽生の声だった。
羽生か、深町の頬を軽く叩く。
意識がもどった。
「おれは……」
「ひとり言を言ってたぞ」
「おれが?」
「ああ」
深町は、喘ぎながら歯を喰い縛る。
どうしていたのか。
あれは、おれ自身の声だったのか。
幻聴だったのか。
おれが、羽生とかわしたと思っていた会話のどこまでが本当で、どこからが幻聴だったんだ。
それとも、今の羽生の声も幻聴だったのか。
くそ。
どうなるのだ。
どうなってしまうのか。
このおれは。
もし、これが単独行で、羽生がそばにいなかったら、おれは、やってくる幻覚や幻聴の全てに答え、外から呼ばれれば、ファスナーを開け、靴も履かずに外へ出て、出た途端に風でバランスを失い、氷壁をいっきに滑り落ちて死んでしまったことだろう。
ああ、そういえば、羽生に訊いていたことがあったはずだ。
何だったっけ。
羽生に問いかけたあれも、幻覚であったのか。
あの答えを、まだ聴いていなかった。
何だったっけ……
その時だった。
いきなりだ。
いきなり、音をたてて眼の前のテントの布地が裂けて、爪先一〇センチのところに、厚さが三センチ、長さ一〇センチほどの、楕円《だえん》形の物体が落ちてきた。
黒い、石だ。
落石であった。石が、頭上のどこかの岩壁から離れ、落下してきたのである。それが、テントを直撃したのだ。もしも、もう一〇センチも足を前に出していたら、爪先を潰されて、もう、歩くことはできなくなっていたろう。
それが頭であれば、頭蓋《ずがい》骨を割られて重傷を負うか、死んでいたところだ。
「危なかったな」
羽生が、抑揚《よくよう》のない声で、ぼそりと言った。
ほんとうにそうだ。
危ないところで、助かったのだ。
運がよかった──そう言おうとして、深町は、その言葉を呑み込んだ。
いいや、違うぞ。
運ではない。
これは、羽生が山に勝利したものだ。たとえ、上から、どう石が落ちてこようと、絶対に当たらぬ場所に、自分たちはいるのである。南西壁のルートで、こういう場所は幾つもない。それを、羽生は発見し、利用しているのである。偶然が自分たちを救ったのではない。羽生の意志が救ったのだ。
空いた穴から、冷たい風が吹き込んでくる。テントが丸く膨らみ、裂け目の布地が小さく音をたてて揺れている。
羽生が、頭部を前に出さぬようにして、自分のザックの中から、短く巻いて持ってきたガムテープを取り出した。
それを、ちょうど、裂け目の長さほど切って取った。
しかし、羽生は、すぐに動こうとはしない。
空いた裂け目を、凝《じ》っと見つめている。
「どうした?」
どうしてそのガムテープで修繕《しゅうぜん》しないのかと、知らぬ間に身を乗り出しかけた深町に、
「待て──」
羽生が言った。
その時──
頭上で、石が岩に当たる音が響いた。
石が上から落ちてきて、岩にぶつかり、跳ねて宙に浮きあがった……そういう音だ。
その音が、ブリザードの音の中に混じって届いてきたのだ。ともすれば、風の音に消されてしまうかもしれない微かな音であったが、それは、間違えようがなかった。今、頭上から、石が落下してきているのである。
それは、長い思考ではなかった。音を聴いた瞬間に、その意味することが理解できたのだ。
深町が身を竦《すく》めたその瞬間に、さきほどの石が作った裂け目とほぼ同じ場所から、さっきより大きな石がテントの天井を突き破り、今度は深町の爪先七センチほどのところへ落ちて止まった。
裂け目から、さらさらと雪片が落ちてくる。
その雪片が落ちきる前に、細かい石の欠片《かけら》が、大粒の雨のようにテントにぶつかってきた。
「気をつけろ。ひとつ岩が落ちると、それが呼び水になって、また岩を落とす」
羽生は言った。
深町は、肩で呼吸しながら、うなずいた。
うなずくまでもない。
そのくらいはわかっている。ひとつ、岩が落ちれば、その岩が落下してゆくおりに、浮き石や、危ういバランスで岩壁にくっついている岩にあたって、それを落としたりする。さらには、あらたに落下しはじめた岩が、さらにまた別の岩を誘い、その岩がまたさらに別の岩を──といったかたちで、時には無数の岩を降らせたりする。
だが、ひとつの落石が、常に幾つもの落石の呼び水になるわけではない。
それに、今は、わずかながら、最初の落石と次の落石までの間には時間があった。普通であれば、もう、安全との判断を、無意識のうちに人は下してしまう。それを、羽生はしなかった。
このレベルまでの細かい精神の作業を、羽生は日常的に、己れに課しているのか。
ここまでくると、これはもう、この南西壁という岩壁の癖 あるいはエヴェレストという山との手の内の読み合いと言ってもいい。
“おれが山だったら、そういうやつの後頭部には遠慮なく岩を落としてやるだろう”
一種の人格を持った存在として、羽生はこの山と対峙《たいじ》し、その腹のうちをさぐりあっているのかもしれない。
さらに、数瞬の間を置いてから、羽生は、さっきより大きくなっていたテントの裂け目を、ガムテープで塞いだ。
山が、一種の獣であるなら、その獣は、今、深夜に目覚めており、猛って咆吼している。
その獣の懐に、今、羽生も自分もいるのだと深町は思った。
「長谷のやつは……」
羽生は、ふいにぽつりとつぶやいた。
「長谷?」
深町は訊いた。
「長谷は、山に気に入られてたんだろう。たぶん……」
「羽生さんは?」
「おれは、違うよ。おれは、山には徹底的に嫌われたよ」
「────」
「だから、長谷は……」
「油断したと?」
「さあな」
言った羽生の言葉に、知っているぞと叫ぶように、高い天からブリザードの塊りがテントにどっと叩きつけてきた。
油断はする。
深町は、そう思う。
危険で急な氷壁を降りてくる。
やっと、テントにたどリつく。
斜面に設営されたテント。もし、滑れば落ちて死ぬが、まずそういう失敗はしない斜面。
夜──
そのテントにようやくたどりついて、出迎えた仲間に、
“やあ”
と片手をあげて笑いかける。
仲間のヘッドランプの灯りの中にあったその笑顔が、ふいに闇の中に掻き消える。
仲間の視界の端、下方の闇の中で、
かちん、
という音と共に、赤い火花が鋭く飛ぶ。
滑落し、その時、アイゼンの刃先が、突き出た岩に当たって火花を飛ばしたのだ。
それだけだ。
たったそれだけで、声もあげずに死んでいった山男もいるのだ。
油断──
そう言ってしまえばそうだ。
危険な場所ほど注意をするから、危険な場所の方がむしろ安全なのだと、知ったふうなことを言う人間がいる。危ないのは、むしろ、安全なところまで下ってきた時なのだと。
また、山で遭難事故などが起こるたびに、山を甘く見たためであると、お決まりの原稿をアナウンサーが読む。
ばか。
誰が山を甘く見るものか。
誰も山を甘く見たりするやつはいない。
少なくとも、深町の知っている登山家の中にはいない。誰も、死にたくなんかない。死なないためには、何でもする。考えられる限りのことをする。それこそ、鉛筆を短くすることだって、錠剤のカバーを取り去って、あの薄い銀紙の分だけでも荷を軽くしようとしたりするのだ。あらゆる努力をしぬく。生きるためにだ。
ひとつの遠征で、頂上をねらう者は、何千回、何万回、何十万回──それ以上もの一歩を踏み出す。場合によっては、そこで踏み出す一歩ずつのことごとくが、己れの意志でコントロールされていなければならない場所もあるのだ。
しかし、二十四時間、それを何日も何十日も持続できるか。時には、ふっ、と気が抜ける時もある。ある一歩を、たったひとつのその一歩を、つい何げなく、連続した動作の続きとして、前に踏み出してしまうことだってあるのだ。その時に、たまたま、その一歩がその登山家の生命を奪うこともあるのだ。
その一歩は、仕方がない。
人間ならば、誰でも気を抜く瞬間がある。
たしかに、甘いと言われれば甘い一歩ではあるのかもしれない。しかし、仮に八○○○メートルを超えた場所で、脳を高山病でやられ、疲労の極に達している身体と精神を抱えて、どれだけ、自分の肉体の動きを自分の意志で支配できるのか。
どう考えても安全としか言いようのない場所で、雪崩も起きる。それを、斜面に雪が積もれば、それがどんなにゆるい斜面であっても雪崩は起き得るだなどと、平気でおれたちにレクチャーをする人間がいる。
知っている。
そんなことは知っているのだ。
そんなことを言うのならどこへも行けやしない。
死にたくないのなら、どういう山にもゆかないという以外に方法はない。
山へゆくなと言うのか。
人は、ただ、生命をながらえるためだけに家の中にとじこもっていろというのか。
ほんの一瞬、人は油断をする。
人間だからだ。
それはもはや、人間であるからとしか言いようがない。
それを、人は選べない。誰が、その一瞬が起こる瞬間を選ぶのか。
それは、もはや、神が選ぶのだとしか言いようがない。
そういう人間の一瞬が、神の一瞬と交差する。
人間の一瞬と、神が選んだ一瞬が触れ合い、人のある行為が、その時、神の領域に入ってしまう。
そして、人は死ぬ。
「おれがわかってるのは、ひとつだけだ」
羽生は、ぼそりと言った。
「それは、長谷は死んだがこのおれはまだ生きているってことだ」
生きているだけじゃない、と深町は思った。
まだ、現役で、しかも今エヴェレストの南西壁にいる。南西壁の岩の間に、ゴミのようにへばりついて、この男は、まだ、自分の内部の猛るものと向きあっている。心の中の鬼と向きあっている。
何故、山にゆくのか。
何故、山に登るのか。
それには、答えがない。
それは、何故、人は生きるのかという問いと同じであるからだ。
もし、それに答えられる人間がいるとするなら、それは、何故人は生きるのかという問いに答えられる人間である。
狂おしい。
自分の身体の中にある狂おしいもののために、人は、山に登るのである。
何故、山に登るのかという問いの答えを拒否するように、人は山に登る。
頂に、答えはない。
頂は、答えない。
頂を踏んだ瞬間に、天上に妙なる音楽が鳴り響き、しずしずと答えが天空よりもたらされるのではない。
たぶん、おそらく、そんなことのために人は、山に登るのではないだろう。
地上から、天上を仰ぎ見るような、切ない気持で雪の頂を見あげる……
あれは、頂が、まだ天上のものであるからだ。
踏んだ瞬間に、頂は地上のものだ。
人は、頂を踏んで、それからどちらの方向に向かって歩き出せばよいのか。
わかるわけはない。
わかるわけはない。
わかるわけがないから、また、次の山に登ろうとするのだ。
より困難で、危険な山に──
何故だろう。
何故かと、自分はこの男に問わねばならなかったはずだ。
荒い呼吸と共に、それを吐き出して忘れてしまったのか。
山のことだったか。
それとも──
ああ、おれのことだ。
思い出した。
何故、ここまで苛酷にリスクを最小限に抑えてきた羽生が、あのような危険を冒してまで、このおれを助けてくれたのかと、それをこの男に問うつもりだったのではないか。
「どうしてなんだ」
深町は、ふいにまた訊いた。
「どうしてなんだ」
「何かだ」
「何故、おれを助けたんだ」
一瞬、深町に向けていた視線を、羽生はまた逸らせた。
長い沈黙だった。
羽生と深町が口をつぐんでいる間、ただ、ブリザードの音だけがごうごうと騒ぎ続けていた。
「岸だよ……」
ふいに、羽生は言った。
あんたを助けたのは、おれじゃない。岸だ──」
「岸!?」
羽生は、無言で、うなずくともなく顎をひき、
「これで、チャラだ」
そう言った。
「チャラ?」
「おれが、これまで生きてきた分で、貸し借りはなしってことだよ」
羽生は言った。
「あの岸のことか」
「ああ──」
羽生はうなずいて沈黙した。
風だけがうねって、テントを揺すっている。
沈黙の後、
「ザイルは、確かに、ナイフで切られたんだよ……」
ぼそりと羽生が言った。
「しかし、切ったのは、おれじゃない」
「誰なんです?」
「岸だ。岸本人が、自分のナイフを出して、それでザイルを切ったんだよ──」
羽生は、声を石のようにして言った。
その時、ひときわ強い風が、テントを揺すった。
「それを、これまで、誰かに言ったのか?」
深町は訊いた。
「言わん。あんたがはじめてだ」
そうか──
と、深町は思った。
そうか、岸自身が、あの時、ザイルをナイフで切ったのか。
羽生を助けるために、岸が自ら死を選んだのだ。
「何故、これまで、それを黙ってた?」
深町は訊いたが、羽生は答えなかった。
宙を睨んでいた。
テント内部の空気が軋むような長い沈黙の中で、風だけが鳴っていた。
おうおう、と、山が吠えている。
羽生の視線が、いつの間にか、もどっていた。
しばらく、うとうとしたようだった。
その間中、ブリザードの音がうねっていた。
まるで、その音の中に浮遊しているような気分だった。
現実の風や雪がぶつかってくる音が、幻聴のもとになることもあれば、それらとはまったく関係なく、幻覚や幻聴が訪れたりもする。
夢であるのか、現実であるのか、深町にはその区別がつかなかった。
遥か下方の、ウェスタンクームの上を、提灯《ちょうちん》を持った女たちが、一列になって、ゆっくりと歩いているのを見た。それも、かなり鮮明に見える。
しかし、今自分がいるのはテントの中であり、夜であり、外は雪と風が荒れ狂っているのであり、そんな光景が見えるわけはないと思っている。見えるわけはないし、見えるも見えないも、ウェスタンクームのあんな場所を、普通の格好をした女がぞろぞろ歩くはずもない。
そうとわかっているのに、やはり見える。
“温かいスープができたわ”
ふいに、外から加代子の声が聴こえたこともある。
その時は、思わず腰をあげて、テントのファスナーを開けそうになった。
現実と幻覚とが、交互に入れ代わり、時には融合して、境界が曖昧《あいまい》になる。
今も、声がしている。
女の声だ。
“どこにいるの──”
涼子の声が聴こえる。
それが近づいてくる。
“助けに来たのよ。どこなの”
涼子の声と。緒に、宮川や船島の声もする。
“おーい……”
“おーい……”
深町は、かっと眼を開き、
「おい、来たぞ」
横の、羽生の肩を掴んだ。
「何がだ」
「助けがだ。あれが聴こえないのか」
そう言って耳を澄ませた途端に、
ごう……
と、嘲《あざ》けるように虚空から風がテントに叩きつけてくる。
人の声など、何も聴こえない。
聴こえるのは、風と、自分の忙《せわ》しい呼吸音と、絶え間なく揺れているテントの音だけだ。
羽生が、無言で、深町の肩を、ぽん、と叩いた。
力が抜ける。
もう、駄目だ。
これは、死ぬな。
おれは、もう、死ぬな。
そう思う。
ここで死ぬ。
こんなに挾いテントの中で、死ぬ……
恐怖感はない。
ただ、自分はもう死ぬだろうとの認識があるだけだ。
この風が、二日も続けば、おれは死ぬ。
しかし、おれが死んでも、羽生は生き残るだろう。
風が止めば、凍りついたおれの屍体をここに残して、羽生はまた頂上を目差してゆくことになるのだろう。
灰色のツルム──この先には、いよいよ、この南西壁の最大の難所が控えている。
そこへ向かって、この男は登ってゆくだろう。
どうやって、登るのか。
ほとんど不可能なこの挑戦を、どうやってこの男はするのか。
「どうするんだ……」
速い息の下で、深町は訊いた。
しゃべるたびに、白い呼吸が、もやもやと、蝋燭《ろうそく》の炎の灯りの中に浮きあがる。
「どうするって?」
「明日、晴れて、風が止んだら」
「登るさ」
「どういうコースで?」
しゃべっていよう。
しゃべっている間は、たぶん、死なないだろう。
しゃべれなくなったら、死ぬ時だ。
「ここから、左へ四〇メートル、トラバースだ」
羽生は言った。
羽生は、おれにつきあってくれるのか。
ならば、訊こう。
次の質問は?
「それから?」
いいぞ。
とにかく、訊けばいい。
それから?
それから?
それから?
どうだ。
おれの喉は、鳴っているか。
まだ、あの、ごろごろという痰《たん》をからませたような音は聴こえてないよな。
肺水腫《はいすいしゅ》。
あれになったら、もう、終わりだからな。
「それで?」
深町は訊いた。
「そこから、左クーロワールの人口まで直登する──」
羽生が言う。
羽生が、これからやることになる自分の作業を、ぼそぼそと低い声で語り始めた。
羽生は、この南西壁を知り尽くしている。
おそらく、誰よりもだ。それはつまり、世界中の誰よりもという意味であり、これまで地上に生まれた人間の誰よりもという意味である。
イメージの中で、この何年間、毎夜、夜毎、羽生はこの南西壁を登り続けたことであろう。
一〇メートル単位で、羽生はこの南西壁ルートの全てを、頭の中にインプットしているに違いない。場所や、壁によっては、一メートル単位、場合によっては数センチ単位でそれを頭の中に仕込んでいる。
その情報をたよりに、何度も何度も、あらゆる天候、あらゆる温度、あらゆる強さの風の場合を、頭の中で無限に組み合わせて、イメージトレーニングを積んできたはずだ。
今いる場所から、ザイルでワン・ピッチ──およそ四〇メートルほど氷壁を左ヘトラバースする。
そこが大中央ガリーだ。
そこから上にへ攀る。
幅二〇メートルの氷壁だ。
料度、およそ五〇度。
その氷壁が、左クーロワールの入口まで延びている。
約八〇メートル──ツー・ピッチで、左クーロワールの人ロにたどりつく。
そこが、高度七六八〇メートル。
その地点から、上にむかって約三〇〇メートルの高さの巨大な岩壁が聳《そび》えている。雪さえもしがみつけない、黒々とした垂直の岩壁である。
ロックバンドと呼はれる南西壁殼大の難所である。このロックバンドを越えれば、そこが標高八〇〇〇メートル地点である。
絶え間ない落石と、強い風に常にさらされている。
そのロックバンドの左側と右側、左右に一本ずつのクーロワールが上にむかって延びている。
クーロワール──岩壁に縦に伸びた、岩の溝である。
左のクーロワーールはエヴェレストの西稜へ延び、右のクーロワールはエヴェレストの南稜へと延びている。ロックバンドを越えるには、その左右にある岩溝《いわみぞ》のどちらかを利用するしか方法はない。
羽生がねらっているルートは、一九七五年に英国隊が利用した、左クーロワールであった。
クーロワールの入口から、ツー・ピッチで井戸の底のような場所にたどりつく。左右から、岩壁がせばまっていて、幅が三〜四メートルの岩溝になる。この岩溝に、ぎっしりと雪が張りついて凍っている。
その氷壁を攀ってゆく。
通常は、酸素なしでは攀ることはできない場所である。
斜度は、登るにしたがってきつくなり、五〇度から六〇度になる。
どんづまりに、高さ二五メートルの岩の垂壁がある。つるつるの硬い岩だ。これを登りきれば、ロックバンドの左端の上部に出ることができる。
そこから、右へ、傾斜路《ランベ》が延びている。細かいグズグズの岩屑がその傾斜路に積もっている。一歩の油断もできないルートだ。これを右斜め上方へ移動してゆくと、小さなひと部屋ほどの雪田に出る。
これを越えて、雪の詰まったガリーに入り、ワン・ピッチあがって標高八三五〇メートル地点に出る。
そこが、次のキャンプ地となる。
そこまで、連続した八時間の登攀を、羽生はすることになる。
今いる七六〇〇メートル地点から、ロックバンドの上部──八○○○メートルを超えて、その八三五〇メートル地点までたどりつけるかどうかが、この南西壁攻略の大きなポイントとなる。
そこから、南稜ヘルートをとる。
イエローバンドの直下を、右へ移動する。
イエローバンドは、エヴェレストの八○○○メートルを超えた高度に、横にはしっている巨大な黄色い地層である。
雪のしがみついた一枚岩《スラブ》帯を、スノーバンド伝いに移動してゆくと、南峰ルンゼ──南峰の急峻《きゅうしゅん》から押し出されてきた雪壁に出る。ここから、ルンゼに入って雪壁をつめてゆけば、南峰のコル──日本語で言うなら鞍部《あんぶ》に出る。
エヴェレストの南峰、八七六〇メートルの直下にある場所だ。
そこからが、いわゆるノーマルルートになる。
頂上までの標高座は、あと一〇〇メートルである。
右側──つまり、カンシュン氷河側に張り出した雪庇が続く、鎌のような稜線には、サウスコルからローツェの間を通り抜けてゆく、冬の烈風が疾っている。
気温は、おそらくマイナス三〇度以下にはなっているだろう。風による体感温度ということで考えれば、マイナス四〇度、五〇度にもなる。
そして、ヒラリー・ステップを越え、エヴェレストの頂上に到る。
これが、羽生の想定しているルー卜だ。
下りは、ノーマルルートを使う。
サウスコルで一泊し、そのあとはいっきにベースキャンプまて駆け降りる……
それを、羽生は、短く、石を千切《ちぎ》るような言葉で語った。
そんなことが可能だろうか。
理屈の上では可能だ。
天候が味方をし、落石も当たらず、風も吹かない、どんなに小さなミスも犯さず、体力もあって、高度順応も可能な限界までできている──
それでも──
しかし、それでも、まだ、それは人の理屈だ。まだ、現実には、誰もやったことがない。不可能であると思われているからだ。
しかし、羽生の傍にいると、もしや、この男なら──そういう気持になる。あるいはこの男になら、それが可能なのではないか。
羽生自身は、予定通りだ。
七六〇〇メートルの高度で、深町を背負って行動しながら、体力にはまだゆとりを残している。
この男なら──
しかし、何か、妙なものが、深町にはひっかかっていた。
低酸素で、脳をやられて頭がおかしくなっているのか。
それが思い出せない。
何だろう。
たしか、それは、この羽生にとって、重要な問題であるのではないか。
何だろう。
装備のことか。
それとも、ルートのことか──
ああ、そうだ。
ルートだ。
ルートのことだ。
深町は、それに気がついた。
気がついた時には、その言葉を口にしていた。
「ならば、結局、ノーマルルートで登頂をするということか……」
言ってから、その言葉の持つ重み、その言葉の持つ怖ろしさに、深町は気づいていた。
「なんだと──」
低い、重い声で、唸るように羽生が言った。
ゆっくりと、羽生が、顔ごと深町に視線を向けた。
その眼に、蝋燭の炎ではない、もっと強い光が点っていた。
「なんだと?」
もう一度、羽生は言った。
静かな、低い声であった。
恐怖で、深町の髪の毛が立ちあがりそうになった。
深町は、かちかちと、自分の歯が触れ合って鳴っていることに気づいていなかった。
二十一章 頂へ
氷壁の、別れであった。
羽生は、上へ。
深町は、下へ。
激しく、雲が動いている。
昨夜ほどではないが、まだ、風は強かった。
雪は止んでいるが、空が晴れたわけではない。
音をたてて雲が動いている。
時おり、流れる雲が割れて、火球のようなまばゆい太い光の柱が天から降りてくる。そこに、青い空が覗く。その時だけ、ほんの一瞬、氷壁で肉体は陽光にさらされるが、たちまち、その陽光はどこかに走り去ってしまう。
目出帽のさらに上に被ったフードを、風が激しく揺すっている。
深町は、氷壁で、セルフビレーを取って、カメラを手にしていた。
無言の別れであった。
元気でとも、がんばってくれとも、生きて帰って来いとも、死ぬなとも、どういう言葉も、そこでは交わされなかった。
羽生は、生命を晒《さら》しての登攀になる。
深町は、その登攀に、もう従《つ》いてゆけない。今いるその場所が限界であった。限界だからといって、この場所にいては、死ぬ。少なくとも、六〇〇〇メートル台までは、下らねばならない。
軍艦岩──
標高六九〇〇メートルのその場所まで下れば、幻覚もおさまるであろうし、幻聴もおさまるであろう。
下る深町の方にも、生命の保証があるわけではない。
ザイルを使用できるとはいっても、アイスハーケンを、そのつど、氷壁に打ち込んで、そこを支点にして下ってゆくことになる。それも、自由に使えるだけの量を持ってきているわけではない。要所要所、使うのはどうしてもそれが必要な場所だけだ。
基本的には、アイスバイルとピッケルを使い、ダブルアックスで下ってゆくことになる。ある意味では、登るより、この下る方が難度が高いといえる。
がんばれと、言われるまでもなく、言うまでもなく、羽生も、深町も、そのぎりぎりのところでやっているのだ。
言葉は、ない。
もう、どういう言葉でも励ましようがない。
手伝いようがない。
協力しようがない。
ただ独り。
己れ独りの力のみが、頼りになるだけだ。
どういう天運にしろ、それを期待すれば、心が弱くなる。どのような幸運も期待しない。
だから、言葉はない。
深町は、昨夜のことを問いたかった。
自分が思わず口にしてしまった言葉が、どのように羽生に影響を与えてしまったのか。
しかし、今は、もうそれを問うことは無意味であった。
深町は、それを言ってしまったのであり、羽生はそれを聴いてしまった。それによって、羽生の心の中に何らかの変化が生まれたにしろ、それを、深町がもうもとにもどすことができるわけではないのだ。
ゴーグルの漕いサングラスが、しばらく深町を見つめてから、ふっ、と向こうを向いた。
じゃあな、
と、片手もあげなかった。
眼の色さえ見せなかった。
羽生が、横から吹きつけてくる風の中を攀ってゆく。
力強い、確かなリズムだった。
遥か上方に、左クーロワールの、黒い岩壁に挾まれた岩と岩の間の通路が見えている。
南西壁の最大の難所、ロックバンドの巨大な岩壁を越え、この地上で唯一無二の、天に一番近い地の一点へ向かうためのただひとつの通路だ。
深町は、カメラを構え、遠ざかってゆく羽生の姿をファインダーに入れて、シャッターを押し続けた。
やがて──
深町は、カメラをザックに入れてしまった。
そのザックを、肩に背負う。
羽生の姿、が、ぽつん、と上方に見えている。
そのさらに上に、のしかかるようにロックバンドの、黒々とした巨大な岩壁が見えていた。
羽生の姿が見えなくなるまで、深町はそこでカメラを構えていたかったが、深町は深町で、早い時間に生還のための下降を始めなければならない。
ただひとりの、脱出行だ。
スタートの合図はない。
カメラをザックに入れ、そのザックを背負い、セルフビレーを解いた時が、自然にスタートになる。
深町は、下りはじめた。
途中、二度、アイスハーケンを使った。
残りは、三本になった。
下る途中に、見あげた時、羽生の姿が二度見えた。
一度目は、左クーロワールのまだ手前であった。
次の時には、左クーロワールの入口から、中に向かって入ってゆく姿が見えた。
その次は──
見えなかった。
濃い雲のような霧が、羽生と別れたあたりから上方を、すっかり覆い尽くしていたのである。
その霧──正確には細かい氷の粒は、激しく、左から右へと流れていた。
クーロワールの中に入ってしまえば、外でどんなに風が吹こうが、無風状態に近い。
だが、クーロワールの中には、テントを張る場所も、ビヴァークに適した場所もない。
もし、あの風がやまなければ、クーロワールの上部で、二五メートル垂壁に取りついた時に、その風に羽生の身体はさらされることになる。
ゆける時に、できるだけ上へゆく──
もし、晴れ間があり、チャンスがあればいっきに頂上をねらう。
それが、羽生の作戦であった。
しかし、上部を分厚く覆った雲の中で、羽生がどうしているのか、何を考えているのか、それは、もはや深町にはわからないことであった。
軍艦岩までたどりついた時には、すでに陽は沈んでいた。
ヘッドランプの灯りをたよりに、テントを設営し終えた時には、完全に夜になっていた。
ちょうど、エヴェレストの、ロックバンドの根元あたりから上は、厚い雲に覆われていて、何も見えない。
エヴェレストより低い場所──西のプモリの頂は見えていて、その上空の天には星も光っている。
しかし、エヴェレストの頂だけが、雲の中であった。
深町は、テントの中で、熱い湯を沸かし、たっぷりと砂糖を入れて、それを何杯も飲んだ。
風は強いが、昨夜と比べればそよ風のようなものであった。
乾燥野菜を茹でもどして、スープに混ぜて喰べる。
頭痛はあるが、幻覚はない。
幻聴も消えている。
七〇〇メートル下っただけなのだが、空気の濃さが実感できる。
疲れきっていた。
無事に、ここまで生還できたことが、奇跡のような気がした。
外に出て、小便をし、テントの中にもどって、寝袋《シュラフ》の中に潜り込んだ時には、もう、雪崩があっても動きたくなくなっていた。
明日は、ベースキャンプまでもどらねばならない。
眠らねばならない。
一日半かけて登ってきたコースを、一日で下らねばならない。
眠らねば、疲れがとれない。
しかし、それがわかっているのに眠れなかった。
眠ろうとすればするほど、眼が冴《さ》えて、焦燥が深町を襲ってくる。
このまま、ベースキャンプにもどって、あそこで、アン・ツェリンとともに羽生からの連絡を待つのか。
深町は、歯を噛みながら眠ろうとしていた。
眠れなかった。
寝袋の中で、何度も身じろぎする。
横になることはできるが、寝返りを打てるほどのスペースはない。寝袋の中で、身体をねじって、腹を上にしたり横にしたりするだけだ。
たまにうとうとすることはあるが、泥沼の中でのたうつような、浅い眠りだった。
眼を閉じてはいても、瞼の裏で、眼球が起きている。
風は、強い。
灰色のツルムの直下で眠った昨夜ほどではないが、風が、テントを岩に押しつけてくる。
この分では、エヴェレストの上部では、昨夜以上の風が荒れ狂っているかもしれない。
無線は、使えなかった。
夜、定時の交信で、アン・ツェリンと羽生が交わす会話を隙受しようとしたが、無線機が壊れて使いものにならなくなっていたのだ。
昨夜、上から落ちてきた岩が、ザックに当たった。その時に、ザックの中に入れておいた無線機が衝撃を受けたのである。
無線機を分解する道具もないし、その気力もなかった。もし、道具があっても、細かい作業をするだけの精神力が失せていた。
眼を閉じていても、不安が頭を持ちあげてくる。
あの時、羽生に言ってしまった言葉──
“結局、最後はノーマルルートを使って頂上に立つのか”
あの自分の言葉を羽生はどう受け止めたか。
それを耳にした時の羽生の怖い表情が、鮮明に脳裏に焼きついている。
“登れるのがはっきりわかっているルートなんか、地面を歩くのと同じじゃないか。それだったら、岩なんかやらずに、通常の登山道を歩いてればいい”
羽生が、井上真紀夫に言った言葉である。
楽なルートがあるのに、すぐそこにそのルートが見えているのに、困難な方へ、困難な方へ、羽生はルートをとってゆく。
グランドジョラスの時もそうだった。
一般に知られたルートがあった。そこへゆくはずだった羽生は、途中でそのコースを変えている、
“ルートが見えていた。難しいが、そこにルートはある。左にトラバースしてから上へゆくのが、楽な本来のルートだ。打ち込まれたハーケンが、そちらの方に見えていたから、それは確かたった。
しかし、そこから、直登してゆくルートが見えていた。
左へゆくのは、おれのルートじゃない、それは他人がやったルートをなそるだけの行為だ。まだ、誰もやってない直登のルートこそが、このおれのルートなのだ。この岩壁におれが刻みつけることのできるものなのだ”
そして、羽生は、そのルートを選び、落ちた。
“羽生さんのことは、レショ小屋で聴きました。攀っている時、羽生さんの落ちたところを通ったんですが、左の方に、もう少し安全なルートが見えているのに、羽生さんは、真っ直ぐそこから上《あが》っちゃったみたいですね。やってやれないコースではないと思いますが、どうして羽生さんはここで上に行くコースをとっちゃったのかなと、不思議な気がしました”
長谷常雄は、インタビューに答えて、そのように語っている。
それと同じことが、またおこるのだろうか。
おれのせいだ──と、深町は思う。
おれのせいだ。
エヴェレストの、頂上直下ウォールのことは、おれも知っている。
ずくずくの岩だ。
ハーケンが、役に立たない。
手をかければ、岩が剥がれ落ち、足を乗せればそこが崩れ落ちる。ぼろぼろと、表皮が剥《む》けるように、岩が落ちる。
細かい浮き石だらけの岩壁。
これまで、夏場に、エヴェレストの南西壁は、三度、登られている。その一九七五年のイギリス隊の時も、一九八二年のソ連隊の時も、一九八八年のチェコスロバキア隊の時も、頂上直下ウォールは避けて、そこからノーマルルートヘ出て登頂をしている。
それでいい。
それでいいのだ。
それが、登山界で認められている南西壁なのである。
最後の頂上直下ウォールは、登らなくともよいという認知が、あたりまえのようにされているのである。
そこが、あまりにも危険だからだ。
なのに──
何故、自分はあのようなことを言ってしまったのか。
羽生は、ロックバンドをクリアできたとして、最後のその壁を登るだろうか。
登るわけはない。
あたりまえだ。
やるわけはない。
八割──いや、九割九分九厘、やらない。
そんなことが、あるわけはないのだ。
“必ず死ぬとわからていることだけはしない──”
羽生は、最初のヒマラヤの時に、岸涼子にそう言っていたはずだ。
“わざと、おちる、それだけはできないんだ”
グランドジョラスの時、羽生は、手記にそうも書いている。
単独、無酸素で、エヴェレストの頂上直下ウォールを攀るというのは、“心ず死ぬとわかっていること”であり、“わざとおちる”ことと同じだ。
羽生が、それをやるわけはない。
いつの間にか、奥歯を噛みしめている。
眼を閉じていたつもりが、眼を見開いて、暗いテントの闇を睨んでいる。
深町は、音を立てて歯を噛んだ。
この風の中で、どこにいる、羽生よ。
まだ、生きているのだろう。
同じこのエヴェレストのどこかにしがみついて、この空気を吸っているのだろう。
クーロワールの中で、ビヴァークか。
それとも、ロックバンドの上部に出て、テントの中にいるのか。
羽生よ。
気がついたか。
と深町は思う。
おれは、羽生のザックの中に、自分の食料を入れた。
これは、おまえが、おれの救出のために使用したエネルギーの分だ。
ひと握りの干し葡萄と、一枚のチョコレート。
足らないかもしれないが、いざという時にそれを喰え。
それしかおいていけない。
深町は、寝袋の中で、無意識のうちに、自分の胸をまさぐっていた。
おれだって生き残らなくちゃいけないからな。
もし、気に入らないというのなら、それは捨ててしまっていい。
今、おれに残っている食料は──
その指先が、堅いものに触れた。
指で、それをつまむ。
すぐに、それが何であるかわかった。
ターコイス。
トルコ石だ。
このトルコ石のネックレスを、羽生に渡すつもりだったのだ。岸涼子に、羽生に返してくれと頼まれていたものだ。
これを羽生に渡すことを、すっかり忘れていた。
羽生よ。
おまえは、おれがこれを渡したら受け取ったろうか。
それとも、どういう重さにしろ、意味のない重量が自分にかかるのを拒否したろうか。
地上の、人間の汗臭い関係や、どういう事情からも、羽生は今、遠く離れている。遠く離れて、自由だ。自由で孤独だ。孤独だが孤高している。
羽生よ、生きているか。
生きて呼吸しているか。
何を考えている?
暗いテントの中で、叩きつけてくる風と雪の音を聴きながら、何を睨んでいる?
それとも、もう眠っているか。
眠っているのなら、何の夢を見ている?
羽生よ……
羽生よ……
十二月十五日。
軍艦岩。
強風。
マイナス二六度。
雪。
何も見えない。
十二月十六日。
軍艦岩。
強風。
マイナス二七度。
雪。
視界なし。
羽生のことを想う。
食料切りつめる。
朝、スープ。
昼、チーズひときれ。
ビスケット三枚。
夜、スープ。
チョコレート。
十二月十七日。
軍艦岩。
強風。
マイナス二五度。
雪。
わずかに、青空覗く。
羽生、生きているか。
食料、切りつめる。
朝と夜、スープ一杯ずつ。
ビスケット三枚ずつ。
チlズ、夜にひときれ。
湯だけはたっぷりと飲む。
風が、やんだらしい。
あれほど絶え間なくテントを揺すっていた風が、今はない。
風の音がない。
それで、眼が覚めたのだ。
うとうとしているうちに、風がやみ、しばらく深い眠りに落ちていたらしい。
音が消え、眠りの邪魔をするものがなくなって、眠りに引きずり込まれたのだ。
そして、今度は遂に、あまりの静けさに、眼が醒めてしまったのだ。
夜だ。
深町は、初め、この、自分を包んでいる静寂が信じられなかった。
何故、こんなに静かなのか。
音も、何も聴こえてこない。
聴こえてくるのは、無音の音だ。
これまで降り積もった雪が、みしみしと軋むような音をたてて締《し》まってゆく時の無音の音──気配のようなもの。
外から、テントの内部に染み込んでくる冷気の音。
本来、耳には届かない、聴こえてこないはずのそういう音が、聴こえてくるような気がする。
熱が出て、長い時間うなされ続け、ある夜、熱が下がって、深夜に、ふいにひとりだけ眼が醒めた時のようだ。
これまで、何度、外へ出て雪を取り、それを沸かして食事を作ったことであろう。日に何度もそれをやる。
いつ、吹雪がやむかどうかわからないから、食料には気を遣った。
ガスで雪を溶かし、スープを作ってそれを飲む。チョコレートを齧《かじ》る。
砂糖を入れて、甘みをつけた湯を何杯も飲んだ。
三日分の食料プラス、予備の食料を三日分持ってきていたが、すでに、四日半分を消費してしまったことになる。
残っている食料は、一日半分だ。
動かずに、ただ生きのびるためだけなら、四日くらいは食いつなげるだろう。しかし、行動するなら、二日が限度であろう。
明日中か、その翌日中には、ベースキャンプまでたどりつかねばならない。
今、風や雪もやんでいて、明日もそれが続くのなら、早朝には下りはじめねばならない。
外を──
空の具合を確認しておきたかった。
晴れているのか、曇っているのか。
昼間、水分を摂り過ぎたせいで、膀胱《ぼうこう》が張っている。強い尿意を覚えていた。
深町は、ファスナーをのろのろと引き下げ、寝袋の中から這い出した。
挟いテントの中で、羽毛服を着込み、寝袋の中に入れておいた登山靴を出して、それを履く。
外へ出た。
出た途端に、深町は強い衝撃を味わっていた。
冷気と、そして、風景とに、平手打ちをくらわされたような気がした。
星の海の中に、深町はいた。
これまでの、どの時よりも凄い星の数であった。
天に、これほどの数の星があったのか。
星のひとつずつの色が見てとれる。星の色は、どれも同じではない。裸に剥《む》かれて、宇宙空間に放り出されてしまったような気がした。
二十万光年?
これは、ある星雲までの距離であったか。
百億光年?
百八十億光年?
宇宙の半径であったか、直径であったか。
その距離の全てが、今、眼の前にさらされているような気がした。
頂までは見えないが、エヴェレストの南西壁が、その下にそびえている。
この、地上の、最も高い地域の雪の岩稜が、宇宙の底を丸く縁どるようにして並んでいる。
プモリ。
ヌプツェ。
ローツエ。
そして、エヴェレストのチョモランマ。
無数の無名峰。
その中で、ひとりだけ生きている。
ひとりだけ、自分だけが呼吸をしている。
ああ──
かなわない。
この巨大な空間。
圧倒的な距離感。
人間が、この自分が、この中でどのようにあがいてもかないっこない。
深町は、そう思った。
絶望感ではない。
もっと根源的な、肉体の深い部分での認識であるような気がした。
人の力が、この中で、いかほどのことができようか。
人が、何をしようが、何をやろうが、これは何ほどもゆるぎはしないだろう。
深町は、小さく身震いをした。
冷気と共に、自分の内部に、宇宙が染み込んでくるようであった。
しかし。
ああ──
羽生がいるのだ。
深町は、そう思った、
羽生がいる。
羽生丈二という男がいる。
羽生丈二は、生きてるだろう。
何故なら、この自分が生きているからだ。
この自分が生きているなら、羽生も生きている。
この、三日間を、羽生は必ず耐えきったであろう。
四日分、余計に待って行った食料で喰い繋ぎ、あの、天に近い岩稜のどこかで、凍った雪を噛むようにして、羽生はまだ闘っているのだろう。
羽生丈二という男が、全力を挙げて闘っているもの、その相手を、今、自分は目の前に見ている。
あの羽生丈二は、これほど巨大なものを相手にしていたのか。
羽生は、自分がどれほど巨大なものを相手にしているのか、知っているだろうかと深町は思った。
知らないであろうか。
知っているのであろうか。
いや、知っているか知らないか、それはどうでもいい。
この圧倒的な距離と冷気に、身体の芯まで凍りつきそうになった時、自分の肉体の内部で、燠《おき》のように点っているもののあることを、深町は知った。
それが、羽生であった。
あの男がいる。
あの男が、まだ生きていて、あの、星に近い天の一画で、今も、たった独りの闘いを闘っているのだ。
氷壁で動けなくなった自分に触れてきた、羽生のあの筋肉の温度を自分は知っている。
あの時知った温度が、今、自分の内部に点っているのだ。
涙が出た。
羽生は今、この瞬間、生存するどの人類よりも一番高い場所にいる。一番孤独な場所にいる。
そこで、歯を軋らせているのだろう。
画家や、芸術家が、その手で天に触れようとするように、物理学者や詩人が、その才能で天に触れようとするように、羽生もまた、その肉体をもって天に触れようとしているのだと深町は思った。
それなのに──
帰ることができるか。
深町は、エヴェレストの南。西壁を睨みながら思った。
帰ることができるか。
あの男の闘いを眼の前にしながら、帰ることができるのか、深町。
できない、そう思った。
帰るわけにはいかない。
それは、羽生丈二がまだ生きているからだ。
生きて、あの頂にたどりつこうとしているからだ。
食料が、まだ一日半分、残っているというのに、これで、帰ることができるのか。
帰らない。
帰らないぞ、と思った。
おれは、おれのぎりぎりまで、あの羽生丈二にくらいついてやるのだ。
どうする?
方法はひとつだ。
明日の早朝に、テントを畳《たた》んで、下る。
アイスフォールにではない。
ウェスタンクームを、エヴェレストの南稜側へ下ってゆく。
どこまで?
エヴェレストの頂が見える場所までだ。
そこに、テントを張って、カメラをエヴェレストの頂に向ける。
五〇〇ミリの反射式のレンズがある。
運がよければ、羽生の姿をそれでファインダーに捕えるチャンスがあるかもしれない。直線距離にして、どのくらいだろうか。
二キロ以上はある。
二・五キロか。
三キロか。
運がよければ、羽生の姿をファインダーに捕えられない距離ではない。
幸いにも、天候はいい。
下るから、ベースキャンプには近くなる。
ぎりぎりで、天気さえよければ、食料を切り詰めて一日半はそこでねばることができる。
やるぞ。
呼吸が、荒く、速くなっている。
高度のためばかりではなかった。
十二月十八日──
晴天。
いやになるほど、空が晴れている。
青い空。
しかし、ただの青ではない。
その向こうに、宇宙の黒か透けて見えている。黒いような青。
その空に、エヴェレストの、黒い岩峰か剌さっている。
深町は、岩の上で、その岩峰を睨み続けていた。
まだ、羽生は姿を現わさなかった。
深町がいるのは、エヴェレストの南稜に近い岩の上だ。
その岩の上に座って、エヴェレストの岩稜を見上げている。
その日、朝の五時に深町は出発をした。
下りながら、南稜側にトラバースしてゆき、この岩を見つけて、その上に登ったのだ。
雪の中から突き出ている、高さ八メートルから二〇メートルの岩、横の長さが五〇メートルほどだ。軍艦岩を、ふたまわりほど小さくした大きさだ。
標高は、ベルグシュルントと同じくらいだろうか。そうなら、六七〇〇メートルほどの高さだ。
ザックを岩の下の雪の上に置き、カメラを持ってこの岩の上にあがった時には、七時になっていた。
小さな軽量の三脚に、五〇〇ミリの反射式の望遠レンズをつけたカメラを取り付け、それを岩の上に設置した。
頂上をファインダーの中に入れ、ピントを合わせて三脚を固定した。
ファインダーいっぱいに、イエローバンドから上のエヴェレスト頂上岩壁の威容が入っている。
もし、羽生が姿を現わせば、なんとかその位置が確認できる程度には、倍率も解像力もある。
九時──
岩の上に立ってから、すでに二時間がたっていた。
頂上に、雪煙はあがっていない。
コンディションとしては絶好である。
降り続いた雪が、どこまで締まっているか、問題はそれくらいだ。この日に、羽生が行動しないはずがない。
もし、生きていればだ。
あるいは、動けるならば。
行動するなら、早朝からだ。
自分と同じように、五時か、あるいは六時には動き出しているはずだ。
ならば、もう、予定通りであればロックバンドを越えて、イエローバンドの下を、トラバースしているはずだ。南峰のコルに、とっくにたどりついていてもおかしくはない。
ほとんど五分おきに、ファインダーを覗くのだが、そこに羽生の姿は見つからない。
もし、予定通りに、ロックバンドを越えて、八三五〇メートル地点にキャンプしていたのなら、今頃は、すでに稜線に出ていてもいい。
それが見つからないということは、羽生か行動をしていないということか。
行動していないその理由は、遅れか。
事故か。
事故ならば、どういう事故か。
事故にあって、動けるのならば、下るはすだ。ロックバンドの左クーロワールの中を、今、下っているのか。それならば、辻褄《つじつま》は合う。
しかし、下れるぐらい動けるのなら、羽生の性格からは、当然のように上をねらうであろう。
問題は、これまで、強い風に閉じ込められている間、どこにキャンプをしていたかだ。
左クーロワールの中は、雪崩と落石の不安があり、上部には、キャンプに適した場所があるとは、どの登山隊の報告にもない。
上に、出れば、なくはない。
しかし、あの強風をやりすごせる場所が、あるのかどうか。
ない。
あるわけはない。
しかし、深町は、実際にそこまでは行っていない。
もしかしたら、ロックバントの上部で、キャンプに適した場所を、羽生は知っているのかもしれない。
思考はどうどう巡りであった。
壁といっても、そこには、大小無数の巨岩や岩がある。そういう岩の陰になってしまえば、すでに行動を始めている羽生の姿が見えないこともあり得るだろう。
だが、こんなに長時間姿を見ることがない、という状況があるだろうか。
事故!?
いやでも考えがそこに行ってしまう。
強い焦燥感にかられて、深町は、何度右ファインダーに目をやった。
そして──
十時三十六分。
「いた!?」
深町は、声をあげていた。
ファインダーの中に、羽生を見つけていたのである。
それは、イエローバンドの下をトラバース中でも、南蜂ルンゼにゆくための氷壁を移動中でもなかった。
小さな、ゴミのように小さな、赤の点。    それが、動いていた。
動きながら、それは向かっている。
上へ。
その赤い点は、イエローバンドのさらに上方を、上方へ向かってそれは動いていたのであった。
頂上直下ウォール。
そこに、羽生の姿があったのである。
「馬鹿な!?」
深町は、声に出して、そうつぶやいていた。
そんな馬鹿な。
こんなことがあっていいわけはない。
エヴェレスト南西壁でも、最大級の危険地帯を、羽生は、静かに上へ移動中であったのである。
やめてくれ。
引き返せ。
深町は歯を噛んだ。
10
十一時十三分。
あれから、赤い点は、わずかにも上に行ったようには見えなかった。
しかし、動いてはいる。
ゆっくりと、カタツムリが這うような速度で、上へ動いている。
ごく微かな、やっと、それとわかるくらいの小さな赤い点。少し視線をはずしていると、次にその赤を見つけるのにしばらくかかってしまう。
羽生は、しばらく前から、その岩壁に取りついていたのだ。
手と足のディティールまではわからない。
深町は、シャッターを押した。
一枚。
二枚。
三枚。
押しているうちに、強い恐怖が深町を襲った。
あの時も──
あの時もそうであった。
井岡弘一と船島隆が死んだあの時も、こうやって自分が写真を撮っていた時だった。
あの時?
そんな昔じゃない。
今年だ。
今年の五月だ。
写真を撮っているファインダーの中で、井岡と船島の身体が滑り出し、宙へ──
まだ、一年もたってはいない。
それも、この同じカメラ、この同じ五〇〇ミリのレフレックスで。
落ちる──
と、深町は思った。
羽生は落ちるだろう。
状況が似ているとか、同じカメラだとか、そんなことが理由じゃない。
あんなに難しい壁を、やれるものか。
固い岩なら、どんなにオーバーハングしていようが、羽生はやってのけるだろう。
あそこが、標高二〇〇〇メートルにも満たない夏のゲレンデなら、どんなに浮き石が多かろうが、羽生は攀りきってみせるだろう。
だが、そうではない。
あそこは、地上、八五〇〇メートルを超える、この地球上でもっとも高い場所に存在する壁なのだ。しかも、もろい。そこを、単独で、無酸素で、充分な量のハーケンもカラビナも持たすに、羽生は登ろうとしているのだ。
酸素は、地上の三分の一。
意識をしっかり保っておくことさえ困難な場所なのだ。何もせすに、眠っているだけで疲労してゆく場所だ。
しかも、羽生は、その標高八○○○メートルを超える場所で、二日間も停滞していたのである。
低酸素が、羽生の肉体と精神を蝕んでいるはずだ。
いったいどれだけの精神力が、あの登攀を支えているのか。
「やめろ、羽生!」
深町は叫んだ。
「やめてくれ、もう、やめてくれ!」
届くはずはない。
届きようがないが、しかし、深町は叫んでいた。
カメラを右手で掴み、岩の上に叩きつけようとした。
こんな登攀を見ていられるか。
冗談じゃない。
もうごめんだ。
つきあいきれない。
もう、おれの構えたカメラのファインダーの中で、人が落ちるのを見たくない。
しかも、羽生は、おれがあのひと言を言ったばっかりに、今、頂上直下のあの壁を攀っているのだ。
小さな三脚ごと岩に叩きつけようとしたそのカメラを、しかし、深町は叩きつけることができなかった。
その手が止まっていた。
“逃げるのか!?”
声が聴こえた。
“ここまで来て、逃げるのか、深町”
自分の声か、あるいは羽生の声か、深町にはわからない。
ここで逃げて、このまま日本へ帰って、あの街の中で暮らしてゆけるのか。
残りの一生、この時のことを悔やみながら生きてゆくのか。ゆけるのか。
“おれを、撮れ”
羽生の声だ。
喉に何か詰まったような、掠《かす》れた声。
そうだ。
あの時、羽生は撮れと言った。
出発前の、ベースキャンプのテントの中だ。
おれに、撮れと。
“おれが、逃げ出さないようにな”
確かにそう言ったはずだ。
逃げ出そうとしたのは、羽生じゃない。
このおれだ。
このおれが逃げ出そうとしたのだ。
いいだろう。
撮ってやるよ。
落ちるものなら落ちるがいい。
落ちるおまえの姿を、このおれが撮ってやる。
持っていたカメラと三脚を、また、岩の上に置いた。
頂上に、カメラを向け、ファインダーの中に頂上直下ウォールを入れる。
その時──
深町は、見ていた。
カメラのレンズを左から右へ振って、頂を入れようとしたその時、ファインダーの中に映ったものがあった。
ファインダーから眼を放し、深町は顔をあげた。
見えた。
チベット側の上空に浮かんだ、白いもの。
そして、その白いものは動いていた。
雲であった。
エヴェレストの西稜から、禍々《まがまが》しい生きものが姿を現わすように、雲が這い出てこようとしていた。
なんということだ。
ついさっきまで、雲など、どこにもなかったはずだ。
それが、何故!?
チベット側から、その雲は吐き出され、じわじわとエヴェレストの頂上岩壁に這い寄ろうとしていた。
「羽生!」
逃げろ。
逃げろ、羽生。
深町は、うなりながら、カメラをセットし、ファインダーを覗いた。
どこだ。
どこにいる、羽生。
いない。
羽生が見えない。
深町の背に、冷たいものが疾《はし》り抜けた。
ぞっとして、髪の毛が逆立ちそうになった。
落ちたのか!?
必死で、さっき、羽生がいたあたりの岩壁を眼で捜した。
いた。
羽生は、落ちてはいなかった。
難しいところをクリアしたのか、考えていたよりもずっと上方の岩壁に、羽生はいたのである。
いい動きだ。
頂上まで、もう、三〇〇メートルはない。
あと二五〇メートルか。
高層ビルひとつ分だ。
西稜から吐き出された雲が、いったん下に這い下りてから、上昇気流に乗って、次には岩壁を這い登ってゆく。
シャッターを押す。
押す。
押す。
羽生の下五〇メートルくらいのところにまで、雲が追っている。
糞!
このままでは、下から見あげるかたちになっている深町からは、雲が届く前に、羽生の姿は見えなくなるだろう。
羽生よ、逃げろ。
上へ。
あの雲に追いつかれたら、温度が下がる。
視界が悪くなって、ルートが読めなくなる。
風が強くなる。
いいことはひとつもない。
糞!
同じではないか。
深町はそう思った。
あの時と同じだ。
一九二四年の六月八日──
オデルが見あげる視界の中で、マロリーとアーヴィンが、エヴェレストの頂に向かって、北東稜を登ってゆく。
ふたりが、第二ステップをゆく。
そのふたりの姿が、オデルの見守る中で、濃い雲に包まれて消えてゆく。
そして──
そして、マロリーとアーヴィンは帰って来なかったのだ。
今、おれは、オデルの役をやっているのか、と深町は思った。
羽生がマロリーで、おれがオデル。
ならば、羽生は、もう帰ってこないのか。
「羽生!」
深町が、唸るようにその名を叫んでシャッターを押した時、羽生の姿は、這い登ってくる雲に包まれて消えていた。
いくらもしないうちに、エヴェレストの頂そのものが、全て雲に包まれて見えなくなっていた。
二十二章 神々の座
羽生丈二の手記
(消失)から、見えなくなっていた。
さいしょ、よるに、なって、なったのかと思った。なんできゅうにくらくなたのかわからなかた。
あれ、まだよるじゃない、夜よるなんかじゃないとおもてたのになんでしらないまにくらくなんかなた、なったのか。すぐにあとですぐにわかった。じかんがかかったがわかったことはやっとりかい、できた。あれだ。酸そ。さんそが薄いのでみえなくなる。まえにもいちどあった。そのときはもうとっくに夕がたになたものとばかりおもてた。
さんそもらってさんそすったすったら、きゅうにひるまになった。あかるくなった。おいまだひるだたのか、いったら、そうだまだひるまなんだといった。だれが言った、言ったのか。わからない。だからさんそがもんだいだったんだとおれは(以下消失)
……んだとゆってたやつも(判読不能)よばれたんだろう。
はせのやつも(判読不能)……
やあ、よくきたな……
きし。
いっぱいやるか。
おれたちは、やったよな。
もういいか。
もういいか。
まだか。
涼子。
りょうこ。
もういいか。
もういいか。
きし。
きしよう。
まだか……
そうだな。
立ちあがったらゆくのだものな。
ゆくのだもの。
だれもしらないけどな。やったよ。しんぱいするな。やったやたてことはおれのだものな。おれだけの。
さあ、たちあがれ。
たいりょくがひとしずくだってのこてるうちはねむるなんてゆるさないぞおれは……
いいか。
やすむな。
やすむなんておれはゆるさないぞ。
ゆるさない。
やすむときは死ぬときだ。
生きているあいだはやすまない。
やすまない。
おれが、おれにやくそくできるただひとつのこと。
やすまない。
あしが動かなければ手であるけ。
てがうごかなければゆびでゆけ。
ゆびがうごかなければ歯で雪をゆきをかみながらあるけ。
はもだめになったら、目であるけ。
目でゆけ。
目でゆくんだ。
めでにらみながらめであるけ。
めでもだめだったらそれでもなんでもかんでもどうしようもなくなったらほんとうにほんとうのほんとうにどうしようもなくなったらほんとうにほんとうにほんとうにほんとうのほんとうにどうしようもなくほんとうにだめだったらほんとうにだめだったらほんとうに、もう、こんかぎりあるこうとしてもうだめだったらほんとうにだめだったらだめだったらほんとうにもううごけなくなってうごけなくなったら──
思え。
ありったけのこころでおもえ。
10
想え──
二十三章 山狼伝
夢を見ている。
頂の夢だ。
何もない天の虚空に、頂がさらされている。
雪を冠った白い頂が、青い空の中で、風に吹かれている。
また、この夢か──
深町誠はそう思う。
以前に、よく見た夢だ。
いや、少し違う。
以前によく見た夢なら、頂を目指して攀《のぼ》ってゆく男がいるはずだ。その男の後ろ姿を、自分が見つめている夢だ。しかし、今見ている夢には、誰もいない。
ただ、頂だけがある。
純白の雪が頂に続く稜線を覆《おお》っている。
その雪の上に、足跡が残っている。
新雪をラッセルしながら、頂上へと向かっている足跡だ。
ナイフの刃のように鋭い稜線のすぐ脇を、頂に向かって、その跡が続いている。
そして──
その頂で足跡が途切れている。
下っていない。
頂から、自分のつけた足跡をなぞるように下ったのでもない。
ただひとりの足跡が、頂上まで行き、そこで消えている。まるで、その足跡をつけていった主が、頂上を踏んだ後に、そのまま、虚空の風の中に足を踏み出して、青い天を目指して登っていってしまったように見える。
ただ、白い頂だけが、風にさらされている。
ひどく哀しげで、ひどく淋しげな風景のような気もするし、どういう感情もそこに残りようのない、透明な風景のような気もする。
この足跡をつけていた人物は、どこへ行ってしまったのか。
どういう答えも、その風景の中には残されていない。
ただ、頂と足跡がそこにある。
そこにあって、ただ風に吹かれている。
長い間、深町はその光景を見つめていた。
その山の頂と青い空が、いつの間にか、いつもよく見た映像に変化していた。
木目の浮き出た、くすんだ色の天井の板──
いつ、眼を覚ましたのか。
いつから、眼を開いていたのか。
知らぬ間に、深町は眼を覚まし、自分の布団《ふとん》の中で仰向けになったまま、自分の部屋の天井を見あげていたのである。
六畳間──寝室として使っているアパートの部屋だ。
閉めたカーテンに、陽光が当っていて、暗いとも明るいともつかない色あいの光が、部屋を満たしていた。
そうか、今日だったか、と深町は思う。
今日の夜に、飲み会があるのだ。
昨年の五月に、エヴェレストをやった仲間が、久しぶりに新宿で会うことになっているのである。
カーテンの隙間から、ナイフのような五月の陽光が、畳から布団の上まで伸びてきている。
もう一年か──と、深町は胸の中でつぶやく。
早いものだ。
こんなにあっけなく、一年という時間が過ぎてしまうのか。
エヴェレスト登頂を断念したのが五月で、カトマンドゥで羽生丈二に会ったのが六月。
単独でエヴェレストに挑んだ羽生を追って、南西壁に取りついたのが十二月──その時からは、五ヵ月余りが過ぎている。もうじきに、半年だ。
結局──
羽生は、もどってこなかった。
帰ってこなかった。
ベースキャンプにもどり、深町は、そこで、アン・ツェリンと共に、羽生を待った。
一日待ち──
二日待ち──
三日待ち──
四日待ち──
五日待ち──
六日、待った。
どう考えても、もう、羽生の食料は尽きている。
ベースキャンプにもどって三日目からは、嘘のような晴天が続いた。
五日目には、もはやどういう状況を考えても、羽生が生きていることはあり得ないと、アン・ツェリンも深町も考えるようになった。
しかし、待つのをやめようとは、どちらも口にできなかった。
奇跡が、おこるような気がした。
羽生ならば──
あの羽生ならば、今すぐにでも、あるいは明日にでも、ひょっこりとアイスフォールからこのベースキャンプに降りてくるような気がしたからだ。
あの日──十二月十八日、吹雪の後で、羽生が頂上アタックにむかった日の朝、アン・ツェリンが羽生と交わした交信が、最後の会話となった。
「晴れたよ」
羽生は、無線でアン・ツェリンにそう伝えてきた。
疲労が濃く、呼吸が早かったが、弱よわしい声ではなかったと、アン・ツェリンは深町に言った。
八○○○メートルを超える場所で、ビヴァークに近い四泊を過ごした人間とは思えぬほど、まだ声には力がこもっていた。
アン・ツェリンは知っている。八○○○メートルを超えた場所で一泊した人間がどういう声になるか、どういう話し方をするか。人は、そこで、どんなに体力があろうと、呼吸は早くなり、咳もするようになる。
それに比べれば、羽生の声は、まだまだゆとりがあった。
「食料は?」
アン・ツェリンは訊いた。
「切りつめて、あと一泊半くらいはある」
羽生が答えた。
「だいじょうぶか?」
「頂上へ行って、もどってくる分くらいはぎりぎりありそうだ」
「無理はいけないぞ」
「わかってる」
「行くのか」
「ああ」
羽生はうなずき、
「頂上ヘ──」
それが、羽生の最後の言葉であった。
「イエローバンドから直登すると言ってましたか?」
深町はアン・ツェリンに訊いた。
「いいや、ただ、頂上へゆくと、それだけ──」
それきり、どういう無線の交信も、羽生とは交わしてないとアン・ツェリンは言った。
羽生が頂上直下ウォールを直登したことをアン・ツェリンが知ったのは、深町がベースキャンプにもどってきてからである。
「おれが、いけないんだ……」
アン・ツェリンに、深町はそう言った。
「おれが、羽生に、結局ノーマルルートでやるのかと訊いたんだ。あんなことさえ言わなければ──」
「そんなことはない」
深町の言葉に、アン・ツェリンは静かに首を左右に振った。
「たとえ、あんたが何を言おうと、また、言わなかろうと、羽生はあの壁を攀ったろう。それが、ビカール・サンだ」
七日間、深町とアン・ツェリンは羽生を待ち、そして八日目にベースキャンプを下る決心をしたのであった。
この間に、何人かのトレッカーがベースキャンプまでやってきて、そこに張られているテントを見て、帰って行った。深町とアン・ツェリンがロブチェにもどる頃には、誰かが無許可でエヴェレストをねらっているらしいということは、あちこちの噂になっていた。
それが、チェックポストの人間の耳にまで届くのに幾らも時間はかからなかった。
無許可登山の報告がある以上は、チェックポストの役人もそれは無視できない。カトマンドゥヘ帰りつく前に、役人から声をかけられた。
それからのことは、深町は思い出したくもなかった。
煩雑《はんざつ》なやりとり。
書類へのサイン。
言いわけ。
最終的には、ネパール政府に、登頂料の一〇〇万円を、深町は支払うこととなった。
むろん、宮川の名前も、出版社の名前も出せない。あくまで、個人で入山したということにした。
カトマンドゥで、偶然に羽生に会い、冬期のエヴェレストに無酸素で彼が挑むことを知って、写真を撮るために自分も加わったのだと──
深町は、これから十年間、ネパールヘは入国できないことになった。
それが、今回の無許可でやった登攀行為の代償であった。
帰る時に、カトマンドゥ空港まで、ナラダール・ラゼンドラと、アン・ツェリンが見送りに来た。
アン・ツェリン自身も、しばらくの営業停止となった。
外国人のガイドはできなくなった。
しかし、ポーターとしては働くことができるし、営業停止期間も二年である。停止期間中も、ポーターという名目で、これまでと同様の仕事を、その気になればできる。
「後悔してますか?」
空港で、アン・ツェリンが深町に訊いてきた。
「いいえ」
深町は、言った。
「行かなかったら、そのことをこそ後悔していたでしょう」
「わたしもです」
アン・ツェリンは言った。
「アン・ツェリンと、彼の娘さんが、カトマンドゥで仕事を捜す時には、いつでもわたしがそれを提供しますから──」
ナラダール・ラゼンドラは、最後に深町の手を握って言った。
別れ際に、深町は、アン・ツェリンに訊ねた。
「羽生は、あの岩壁を越えて、頂上に立つことができたと思いますか?」
それは、大事な質問だった。
たとえ、帰って来られなかったにしろ、羽生が、彼の生涯をかけた世界で最初の登攀を、きっちりやってのけたかどうかということは重要なことであり、それについて、アン・ツェリンがどういう意見を持っているかについては、大きな関心があったからだ。
客観的に見れば、あれは、不可能な登攀であった。
世界中の誰に訊いても、それはあり得ないという答えが返ってくるだろう。
しかし、あの羽生ならば──
深町は、あの氷壁で、羽生の力強い筋肉のうねりを体感している。氷壁での羽生の身のこなしを見ている。
あの肉体、あの意志──あの羽生が、頂上を踏まなかったとは思えないし、しかしまた、あの頂上直下ウォールや、その前に羽生がすごした八三五〇メートル地点での数日間のことを考えると、あの壁の途中で羽生が力尽きたのではないかという思いもまた浮かんでくるのである。
たとえ、力尽きなかったにしろ、あの壁が羽生を拒否し、羽生が掴んだ岩が崩れ落ちるということも充分にあったはずだろうと考えると、やはり無理であったかとも思えるのである。
アン・ツェリンは、肯定とも否定ともつかない微笑を浮かべ、
「わたしは、あの壁を直接この眼で見たこともあります。あれが、どれだけ危険な壁か、よく知っています。わたしの、これまでの山での経験にかけて言えば、あの壁を登れる人間がいるとは思えません──」
言ってから、深町を見つめ、
「しかし、あの羽生が、どういう壁を相手にしたにしろ、そこから落ちる姿も想像できないのです」
それが、アン・ツェリンの答えだった。
その答えを尊重しなければならない。
いよいよ時間がせまり、最後の別れをふたりに告げた時、
「これを──」
アン・ツェリンが、何かが入った手提げの紙袋を深町に手渡してきた。
「飛行機の中で開けてみて下さい。それは、あなたが持っていた方がよいと思いますので──」
アン・ツェリンが片手をあげて、それを振った。
「ナマステ」
「ナマステ」
アン・ツェリンと、ナラダール・ラゼンドラが言った。
「ナマステ」
深町も同じ挨拶を返し、ふたりに背を向けた。
窓から、次第に小さくなってゆくカトマンドゥの街並みを、深町は、それが見えなくなるまで見つめていた。
飛行機が水平飛行にうつった時、左手の窓の向こうに、白く、飛行機と同じ高さに、ヒマラヤの峰々が見えた。
マナスルが見える。
ダウラギリも見える。
そして、エヴェレストを含むクンブヒュールの山群もまたそこに見えた。
あの、この飛行機と同じ高さの雪の中に、しばらく前まで、この自分はいたのだと深町は思った。
そして、まだ、あの雪の中に羽生はいるのだろう。
あのウィルソンのように、雪の中から、エヴェレストの頂を見つめ続けているのだろう。
深町は、膝の上に置いていた手提げから、新聞紙でくるんだ包みを取り出し、それを開いた。
中から出てきたものを見た時、
「これは」
思わず声をあげていた。
ベストポケット・オートグラフィック・コダック・スペシャル──
深町の手の中に、あの、マロリーのカメラがあった。
深町は、陽光の中を走っている。
短パンに、スニーカー、そしてTシャツを着て、アスファルトの上を走っている。
街の中だ。
一日、八キロ走る。
これが、二月から深町の日課になっている。
特別の事情がなければ、毎日走る。
基本的には、走るのは夜である。しかし、今走っているのは昼間だ。
今夜は、エヴェレストの時の山仲間が集まって、新宿で飲むことになっている。
今夜のメンバーで飲んだらば、その後、もう走ることができないのはわかっている。だから、昼間のうちに走っておこうと、朝食を摂る前に走り出したのである。
夜とはいくらかコースが違う。
同じコースを走ると、深夜には動かなくなる信号が、昼間はまだ動いているため、走っている最中に何度となく足を止められるのだ。赤信号のたびに、リズムが狂わされてしまう。
朝の十時──
いや、もう朝とは言えない時間だ。
深町のように走っている人間などもうどこにもいない。
周囲の日常から、自分だけが浮いているような気がする。
深町の日常は、今は、穏やかになった。
淡々と日々が過ぎてゆく。しかし、その日常には、まだ、深町は馴染んでいない。心も身体も馴染み切れずにいる。
以前だって、馴染んでいると思ったことはなかった。
しかし、今のこの感覚は、前のものとは違う。
前は、その日常、あるいは世間と馴染みたいという欲望があったように思う。
自分の才能を認められたい。
カメラマンとして、作品で勝負してゆきたい。
そういう気持があった。
そのような気持が消え去ったわけではないが、何かが変化していた。しかし、何かどう変化したのか、深町はそれを言葉にできなかった。
だが、以前と自分が変わってしまったことだけはわかっている。
何かが足りないのだ。
仕事が増えて、作品が認められて、収入も増える、深町誠という存在が世間に認められてゆく──
そういうことに、以前ほどの興味が持てない。
欲望が持てない。
確かに、以前よりは仕事も増えた。
ギャラもあがった
しかし──
それだけでは、足りないのだ。
それだけでは満たされない飢えを持った獣が、自分の内部に潜んでいるのだ。
それを自分はわかっている。
では、何だろうか。
足りないそれを、何ならば満たすことができるのか。
それを、深町は考えないようにしている。
淡々と、過ぎてゆく日々に、身を埋めようとしている。
もう、四十一歳だ。
学生が住むようなアパートの部屋からは、もう、いい加減に出て、体《てい》のいいマンションに引っ越した方がいい。
もう、それをしてもいい頃だ。
あのカメラと羽生のことでは、充分に稼がせてもらったのだ。
最初は、黙っているつもりだった。
羽生のことも、マロリーのカメラのこともだ。
すまないと、宮川には頭を下げるつもりでいた。
羽生の写真を使う気はないと、そう言うつもりだった。
それが、できなくなっていたのだ。
成田空港には、宮川が迎えに来ていた。
帰りのフライトを宮川だけには連絡をしていたのである。
岸涼子へは、日本へ帰ってから、あらためて連絡をとるつもりでいた。羽生のことを、どう伝えていいのか、まだ心の準備ができていなかった。
成田空港で、宮川は、拉致《らち》同然に深町を車に押し込んだ。
宮川のいる出版社で用意した車だ。
「電話じゃ言わなかったけどな、日本じゃ、たいへんなことになってるぜ」
車が発進した途端に、宮川はそう言った。
羽生丈二が、ネパール政府が定めた規則を破って、エヴェレストの登頂を狙ったことが、大きな話題になっているのだという。
羽生丈二が生きていて、そういうことを企《くわだ》てたということで、まず山岳関係者が騒いだのだ。
エヴェレスト南西壁冬期無酸素単独登頂──
そのテーマそのものが、まず、話題性があった。
次には、それをやろうとしていた人間が、あの羽生丈二であったということが、話題を大きくした。
さらに決定的だったのは、政府の定めた規則を破り、山に入ったあげくに羽生が帰って来なかったこと──つまり、羽生が死亡したことが、それを業界だけの話題にとどめなかったのだ。
海外の山での、日本人の遭難事故──しかもそれが、ある程度の知名度を持った人間なら、当然一般紙の記事の対象となる。
その羽生の登攀に同行していたカメラマンの深町誠も、今、話題になっているのだと──
「あっちこっちの雑誌や写真週刊誌が、深町誠が持っているフィルムを欲しがってるんだ。このまま自宅に帰ってみろ、たいへんなことになるぜ」
ホテルがとってあるのだと、宮川は言った。
宮川が言っていたことは、冗談ではなかった。
羽生のことは、テレビのニュースでも流れ、一般の新聞記事になり、丁寧に山岳関係者のコメントまでついていた。
“羽生丈二が、エヴェレストを狙っていたというのもわかりますね”
ヒマラヤでの羽生のエピソードに加えて、そういうコメントが載っていた新聞もあれば、
“羽生は、もう、年齢的にもピークを過ぎたクライマーですからね”
“無謀ですよ。冬期に無酸素で単独だなんて、羽生は南西壁に死にに行ったようなもんです”
“山を甘く見たんでしょう”
そういう論調の記事やコメントが載っていた新聞がほとんどであった。
“売名ですよ。単独といったって、カメラマンが同行したんでしょう。羽生も、これでひと花咲かせて、復帰したかったんじゃないですか”
宮川が持ってきたTVニュースのビデオや新聞の切り抜きを、深町はホテルで見た。
山を甘く見た、売名ですよ、これでひと花咲かせて──
その記事を眼にした時には、かっ、と血が逆流して熱くなるのを深町は覚えた。
馬鹿!
怒りで、涙がこみあげた。
何を言うか。
何も知らない人間が、あの羽生に対して何を言えるのか。
何をコメントできるのか。
売名も、復帰も、そりゃあ、羽生の内部にはあったかもしれない。あるのが人間だ。
しかし、違うぞ。
それだけじゃない。
おれはそのことを知っている。
羽生は、もっと違うもののために、別のもののために、南西壁をやろうとしたんだ。
売名も、復帰も、それに比べたら、ゴミみたいなもんだ。
深町は、拳で、テーブルを叩いた。
「つまらんことを書きやがって──」
多少なりとも、羽生のことを取材で知っている宮川が、深町の前で吐き捨てた。
「いいか、まだ誰も、マロリーのカメラのことを知らん。うちの連中の何人かには、実はもう、マロリーのカメラのことを話したんだ。すごい乗り気だぜ。これをうちでやろう」
その気がないとは、深町は言い出せなくなった。
宮川には、前から話をしている。
取材にも協力してもらい、記事にする約束で金まで出してもらっている。
金を返せばすむ問題ではない。
宮川の顔を潰《つぶ》せない。
しかし──
「おい、迷っているのかよ──」
宮川は、深町に言った。
「やるよ……」
深町はつぶやいた。
やる。
その決心をした。
半分は、宮川への義理だ。そして残りの半分は、怒りであった。
深町は、覚悟を決めて、ザックの中から包みを取り出した。
ネパールの新聞紙にくるまれたもの──
「これを見てくれ……」
宮川にそれを渡した。
「何だ、これは?」
宮川は、包みを開き、そして、中から出てきたものを見て、声をあげた。
「おい、深町、まさか、これ……」
その声が震えた。
「マロリーのカメラさ」
深町は言った。
結局──
写真を、宮川のところの雑誌に載せて、そこに、原稿を書いた。
マロリーのカメラのことも、一緒に触れた。
岸涼子のことは触れずに、岸文太郎の死の真相については、きちんと書いた。
それが、話題になり、結果として、それが深町を救った。
あのまま、何も発表しなければ、深町は、ある意味では、法を破った犯罪者であった。
ネパール政府の定めた規則を破ったのだ。
そのまま、仕事の注文も減って、業界から消えていても不思議はなかったのだ。
だが、マロリーのことは、イギリス、アメリカを中心に世界的な話題となり、テレビにも取りあげられ、海外からも深町に取材が来た。
ネパールの規則を破ったという深町のマイナスイメージよりも、そちらの方の深町のイメージが勝ってしまったのである。
その波も、二月いっはいで、去った。
新聞やテレビが、もう、それを話題にすることもなくなり、二月に取材を受けて三月にそれが雑誌に出終えると、深町に、日常がもどってきた。
しかし、それは前とは違う日常だった。
深町は、淡々とその日常を受け止めた。
カメラは、マロリーの遺族に渡し、その間に得た収入で、ネパール政府に金を払い、残った金を、アン・ツェリンの元に送った。
それで、きれいさっぱり、収支はとんとんになった。
深町は、走っている。
何故走っているのかと考えながら走っている。
もう、四十一歳だ。
何を、自分は抵抗しているのか。
何に抵抗しているのか。
今の日常を、深町は、淡々と受け止めている。
時間が過ぎてゆく。
薄い時間だ。
濃い時間を、自分はもう知ってしまった。
あの、骨が軋《きし》むような時間。
ここには、吹雪も、血まで凍りつくような寒さもない。
あの、もう、二度と行きたくない極寒の極限の世界──
しかし、自分は今、あれを、なつかしがっているらしい。
あれを、恋しがっているらしい。
あの、テントをたたいていたブリザードの音。
薄い大気。
それを思い出すと、心が、ざわりと、ざわめきそうになる。
それを、無視するように、深町は走っている。
淡々と。
過ぎてみれば、何も、写真を発表せずとも、羽生のことを何も書かずとも、それはそれでよかったのではないかと、今は深町は思っている。
“山を甘く見た”
“売名だろう”
“もう、羽生のピークはとっくに過ぎてるよ”
“もともと、無理ですよ。人間にできることじゃない”
けっ。
と思う。
あのゴミのような、ひと山幾らの批判。
しかし、そのどれも、羽生には届かない。
たとえ、誰かが、羽生をどれだけ批判しようと、また逆に、羽生をどれだけ賞賛しようと、もう羽生にはそれは届かない。
それは、羽生が死んだからではない。
羽生は、もう、エヴェレストに入ったその時から、そういったことを皆、地上に置いてきたのだ。
羽生は、すでに、そういう言葉の届かない場所にいたのだ。
羽生は、賞賛のために、あれを企てたのではない。
では何のために、羽生はあの壁に挑んだのか、それをわかっているというつもりはない。
しかし、幾らかは、わかっていることがある。
それは、もし、あの壁を、誰かが、冬期に単独で、無酸素で攀っていたら、羽生はそれをしなかったろうということだ。
誰も攀った者がいなかったからこそ、羽生はあれをやろうとしたのだ。
まだ誰もやった者がいない──
それが、羽生の大きな動機になっていたことは間違いがない。
そして、それだけではないということも、深町はわかっている。
わかってはいるが、では、それが何かというと、答えられない。わからない。
たぶん──
と、深町は思う。
わからないから、自分は今走っているのかもしれない。
毎日、毎日、答えを捜すようにして、自分は走っている
自分の肉体を苛《いじ》めて、あの、濃い時間を忘れまいとするかのように走っている。
走っていることで、自分の肉体を苛めることで、自分はまだ、羽生と関わっているのだと思いたいのだろうか。
まだ、あのことを忘れてないと──
何かの未練のように、走っている。
何だかわからない。
わからないもののために走っている。
四十一歳だ。
残りの時間が気にかかる歳だ。
残りの時間で、自分に何ができて、何ができないか。
終わっていいのか。
これで。
四十一歳が、終わりなんかであるものか。
終わりじゃないぞと走っている。
何か終わりじゃないのか、何を終わらせたくないのか、わからないまま走っている。
わからない深町が走っている。
どこまで走るのか。
走っているうちは、終わらない。
これを続けているうちは終わらない。
何が終わらないのか。
何を終わらせたくないのか。
深町は、汗もかかずに、五月の陽光の中を淡々と走っている。
男たちは、元気だった。
元気に酒を飲み、元気に話をした。
メンバーは、五人。
工藤英二。
田村謙三。
増田明。
滝沢修平。
深町誠。
全員が、昨年よりはひとつずつ歳をとっている。
船島隆と、井岡弘一の姿がない。
ふたりは、エヴェレストて滑落して死んでしまったから、この飲み会には参加しようがない。
隊長であった工藤英二は、今は五十八歳になって、息子と一緒に医院をやっている。
田村謙三は、五十三歳。不動産屋として、現役だ。
「山に行って、ほんの少し清い気持になって帰ってきても、あっという間に現場復帰だよ。三日もたたないうちに、もとの汚れがまた張りついちゃった」
田村は、上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめ、シャツの袖をめくりあげて、歳不相応に筋肉質な腕を見せて、早いピッチでビールを飲んだ。
増田明は、四十九歳になっている。
エヴェレストヘゆく時、勤め先を辞めるつもりで辞表を出したが、部長にその辞表を破られた。
溜めていた有給を、まとめて使ってもいいと許しが出たのである。
だから、まだ職場は同じだ。
「おれはさ、理解ある部長を持ったおかげで、結局、損をしちゃったみたいだなあ。またヒマラヤに行かせてくれとは、もう言い出せないからな。たぶん、あれが、おれの最後のヒマラヤだろう」
しみじみと、言った。
しかし、ロ調は暗くない。
登頂ならずという不満は残るものの、山へのふんぎりがついて、仕事の方に専念する覚悟ができたようであった。
滝沢修平は、四十八歳。
ヒマラヤにゆく時に仕事を辞めて、いまだに定職がない。
だから、無職である。
「おれはもう、野垂れ死にの覚悟できちゃったんだ」
と、滝沢は、日本酒を口に運びながら言った。
「だからさ──」
また行こうよと滝沢は言った。
もう一度行こう、また行こう──
しかし、
“行きましょう”
と、言う者はいない。
言えない。
言えば嘘になるからだ。
時間のやりくりも、金のやりくりも、そう簡単にできるものではない。
一生に、ただ一度──エヴェレストは彼等にとってそういう山だったのだ。
ゆくと言った以上は必ずゆく──そうして、このメンバーは、あの山に挑んだのだ。
皆で行ったエヴェレスト登山を、神聖なものとして、共有した以上、行けないのにゆくと言ったら、それはその神聖を汚すことになる。
滝沢も、それはよくわかっている。
“行きたいなあ”
そう言う者はいる。
工藤もそう言った。
田村もそう言った。
増田もそう言った。
深町だけが言わなかった。
酒を飲みなから、答えを濁した。
答えれば、自分がどうにかなってしまいそうだった。
答えられない。
答えたところで、金を集めたところで、時間をやりくりしたところで、どんなに辛いトレーニングに耐えたところで、深町は、もう、エヴェレストにゆくことができない。
ネパールヘの入国ができないからだ。
死んだ井岡と船島のことも話題になった。
話の内容は、明るい馬鹿話だ。いつ、井岡がどんな冗談を言ったかとか、船島がどんなどじをしたとか、そういう話だ。船島のやつが、糞にゆくと言って、岩の陰であいつ糞しながらみんなに内緒で羊羹《ようかん》を喰ってたんだぜ。みんなにばれると、とられると思ってたんだってさ、あいつ。酒飲みで羊羹好きな奴みたの、あいつが最初だ。
山屋をやって、四十を過ぎれば、たいていは知人の誰かが山で死んでいる。しかし、死んだ友人の話は、他人が想像するよりはずっと明るい。
深町自身も、ぽつり、ぽつりと、羽生と途中まで登った南西壁の話をした。
「そうか、おまえがあの羽生の最後のザイルパートナーだったのかよ」
滝沢が言った。
「いえ。アンザイレンはしませんでしたし、羽生の登攀は単独行ですから──」
深町は言いわけをする。
「最近、走ってるんだって?」
工藤に訊かれた。
「ええ」
と深町は返事をした。
「どこか、ねらってるのかい。このメンバーじゃ、きみが一番若いんだ。まだ機会《チャンス》はあるだろう」
「そんなんじゃありません。一度走り出したら、癖になって、やめられなくなっちゃっただけですから」
深町は言った。
少し、酔いがまわっている。
いつもより、ピッチが早い。
新宿公園に近い、居酒屋の二階だ。
歩いて、三分のところに、新宿公園がある、
以前に、ヒマラヤ行きのことを決めたのもこの店だった。
あれからもう、二年以上が経っている。
時が過ぎてゆく。
こうして酒を飲んでる間にも、笑っている間にも、時が過ぎてゆく。
また、酒を口に運ぶ。
「そうだ、彼女はどうしたんだ。今夜は連れてくるって言ってたんじゃないのか」
工藤が言った。
岸涼子のことだ。
今、深町は岸涼子とつきあっている。
工藤がそのことを知っている。
ヒマラヤから帰ってきて、五日後、発熱した。
かなり高い熱で、向こうで、何か悪性のウイルスか何かに感染したのかと深町は思った。それで、工藤の医院に顔を出した。
三日入院をした。
診断は、ただの風邪であったが、精神的にも肉体的にも疲労しており、日本へ帰って緊張がとけ、ほっとしたところでインフルエンザのウイルスが暴れ出したのだろうと工藤は言った。
その時に、涼子が医院を訪れ、工藤と顔を合わせたのだ。それで、涼子を紹介した。
今夜、新宿で飲む件で工藤と電話で話をした。
その時に、
「彼女とはどうしてる?」
そう問われた。
つきあってますと、正直に深町は白状した。
よかったら、新宿で飲む時に連れて来ないか、山にも、ヒマラヤにも縁がないわけじゃない──そう工藤に言われ、声をかけてみますと、深町は答えたのだ。
自分の友人たちに、涼子を紹介するには、よい機会であろうと深町も思った。
「仕事がたて込んでるみたいで、遅れて来ることになってます。十時くらいには顔を出せると思うんですが──」
深町は言った。
いいなあ。
幾つなんだ、相手の娘《こ》は。
どうやって騙《だま》したんだ。
ひとしきり、皆にからかわれながら飲んだ。
涼子とは、うまくやっている。
このまま自然につきあい、いずれは一緒になることになるだろうと深町は思っている。
何かあるとするなら、涼子は気づいているということだ。
涼子は気づいている。
深町の胸に燻《くすぶ》る焦燥に。
おそらく、おれ自身よりも、涼子の方が気づいている。よくわかっている。
深町の内部に棲みついた、羽生丈二という男の存在に。
二ヵ月前──
「行くんでしょう?」
と、涼子に言われた。
「また、山に行こうとしてるんでしょう?」
涼子は、不安な顔で言った。
「いやよ」
はっきりとそう言われた。
「もう、わたしの知っている人に、山で死んで欲しくない」
涼子は、兄の岸文太郎と、羽生丈二を山で亡くしている。
ふたりもだ。
そして、今、涼子は深町の内部に棲みついた、羽生丈二の存在に気づいていた。
「行かないよ」
深町は言った。
行きたくてもゆけない。
自分はただ、走ってるだけなんだ。
走ってないと、落ちつかないんだと。
「じゃあ、なんであんな怖い顔で走ってるのよ」
涼子に言われた。
そのことが、話題になったのは、その時だけだった。会っても、互いにそのことは口にしない。口にするのが怖いからだ。涼子も、自分も。話題にすれば、おれも気づいてしまうだろう。涼子が先に気づいたことに。話題にしなければ、気づかなかったふりをしていられる。何もなかったことにして黙っていれば、そのうちに、走るのをやめるだろうと。深町の内部に棲んでいる羽生も、放っておけば、いずれ、静かになるだろうと。
そのことを考えながら、飲む。
ピッチがあがった。
おれに、おれの中に棲みついた羽生を飼い慣らすことができるか。
羽生丈二という獣を──
今は、わかる。
羽生丈二という獣が、どれだけ痛みに敏感で、どれだけ傷つきやすかったのかが。
我儘《わがまま》で純粋。
痛みを絶対に忘れない。
その痛みで生きている。
酔いがまわった。
吐き気がする。
このまま、このテーブルの上に吐いてしまおうか。
狂暴な気持がこみあげてくる。
胃の中にあるものを全部。
腹の中にあるものを全部。
羽生丈二のことも、山のことも、エヴェレストのことも。
抑えろ。
そんなもの、ここに吐き出したって、醜《みにく》くて汚ないだけだ。吐く必要なんてない。腹の中に溜めておかなきゃいけないことのひとつやふたつ、誰だって持っている。
涼子だって、あれから、エヴェレストのことは、口にしていない。口に出したいのを我慢している。それがわかる。よくわかっている。
いいか。
吐くんなら、ここじゃない。
誰も見ていないところでだ。
羽生ならばそうする。
深町誠もそうするんだ。羽生がそうするからじゃなくて、おれがおれの意志でそうするんだ。何故ならばおれは羽生丈二じゃないからだ。
おれはおれだ。
四十一歳。
この四十一歳は、酔って吐きたくなっている。
我儘で純粋?
気持を抑えるのが上手で不純だ。
何を考えているんだろう、このおれは。
このままじゃ、本当に吐きそうだ。
便所ヘ──
「ちょっと──」
トイレヘ行って来ますと言って立ちあがる。
足元がふらつく。
階段を降りて、トイレヘ。
トイレに入って、扉を閉めた途端に、いきなり激しい吐き気が襲ってきて、吐いた。
したたかに吐いた。
洋式の便器を抱えて、酸っぱい臭いのするものを、みんな吐いた。指をロの中に入れ、舌の付け根を押さえる。
吐く。
何度もえずいた。
吐くものがなくなったら、急に気分がすっきりした。
少し、休んだ方がいいか。
胃を落ち着かせなければ。
トイレの扉を開けると、工藤が立っていた。
「酔ったかい」
工藤が声をかけてきた。
「大丈夫です」
深町は言った。
「少し飲みすぎだな」
「ちょっと、酔い醒《ざ》ましに、公園まで行って来ます。十五分くらいでもどりますから、みんなには、今日のノルマで走りに行ったと言っといて下さい」
岸涼子が来たら、すぐもどってくるからと言っておいてくれませんか──工藤に涼子のことを頼んで、玄関に向かう。
店の玄関で、預けておいた上着をもらって、それを着る。
今日、久しぶりに出してきた上着だ。
カトマンドゥで着ていた上着。
袖を通す時に、微かな匂いが鼻孔に届いてきた。
カトマンドゥの、あの匂い。
あの臭気。
暗い、ラマ教寺院の燈火のバターが焼ける匂い。
ハシシの臭い。
牛の臭い。
糞の臭い。
人の臭い。
雪の臭い。
汗の臭い。
神々の臭い。
どんなにわずかでも、そのわずかの中にこれだけのものが溶けている。その匂いのもとが、どれだけ微細な粒子になろうと、これだけのものを嗅ぎ分けることができるのだ。
それは、おれがあの雑多な街を好きだからだ。
しかし、二度と行くことのできない街だ。
だが、夕方、新宿に向かう時に着た時には、この臭いがわからなかったのに、どうして、今、また。
それともこれは、酔った脳が嗅いでいる幻臭なのだろうか。
おれが、あの時のことばかり考えているから、前から届いていたこの臭いに、今気づいたのか。
薄汚れた、ダークグリーンの、綿のジャケットだ。
日本へ帰ってきてから、一度も着ることがなかったものだ。今日、久しぶりに、エヴェレストの時のメンバーに会うので、着てきてしまったジャケットだ。
深町は、外へ出た。
深町の頭の上で、桜が騒いでいる。
闇の中で、桜の枝が、しきりに動いている。
風が止まない。
桜の花は、全て散りきっている。
葉桜だ。
桜の青葉が、頭上でうねっている。
大気は、熱くもなく、寒くもない。
風が、深町の火照った肉体から、体温を奪ってゆく。
五月──
連休が明けたばかりの夜。
心に痛いほどの新緑が周囲に溢れている。
その、緑の匂いが風に溶けて流れてくる。
植物の、官能的な匂い。
それが、深町の頭上で騒いでいる。
ざわざわとうねっている。
深町の心のように、葉桜がうねっている。
騒いでいる。
肉体は醒めてゆこうとしているのに、心の燠火《おきび》をかきたてるように、桜がざわめいている。
何だろう──
と深町は想う。
なにがざわめいているのか。
何がこのおれをかきたてるのか。
桜の葉がざわざわと揺れる度に、深町の心は揺すりあげられ、騒いでいる。
心がうねっている。
葉桜が騒いでいる、
何がざわめくのか。
何がうねるのか。
深町は、歩いている。
どれだけ歩いても足りなかった。
ざわざわと、青葉がうねる。
狂おしい。
狂おしくて死にそうだ。
今、闇の中に、育ってゆく生命の気配が充満している。
むせかえるほどに、悩ましい。
知らないうちに、足が速くなってゆく。
青葉のざわめきにせきたてられるように、深町は走り出していた。
桜の下を。
何故、こんなに苦しいのか。
心が騒ぐのか。
四十一歳だ。
おれには、これから、何ができて何ができないのか。
どこまでゆけるのか。
わからない。
わからない深町が走っている。
わからない深町がざわめいている。
ざわめいている深町が走っている。
わからないからざわめき、ざわめくから走っている。
何分走ったのか。
どれだけ走ったのか。
わかるものか。
これまで、どれだけ走って、これからどれだけ走ることができるのか、そんなことがわかるものか。
公園の中を、何周したろうか。
酔いが、また、まわってきた。
苦しい。
吐くもんなら吐け。
吐いてしまえ。
走る。
深町が走る。
狂おしい。
狂おしい深町が走っている。
何だかわからないものが、つかえている。
どこにつかえているのか。
喉か。
胸か。
心か。
大きなものが、つかえている。
それが、肉体の奥からせりあがってくる。
得体の知れないもの。
それがつかえている。
大きい。
熱い。
強い温度を持ったもの。
肉体が、その得体の知れないものの大きさで張り裂けそうだ。
肉体が、その得体の知れないものの温度で焼け焦げそうだった。
狂おしい。
狂おしくて、ざわめいている。
耐えきれなくなった。
芝生の中に駆け込み、桜の幹にしがみついた。
しがみついて、その根元にまた吐いた。
吐け。
吐け。
何度も吐いた。
まだこれだけ吐くものが残っていたのかと思えるほど吐いた。
吐いても、吐いても、まだ吐き足りない。
酸っぱい臭い。
口の周囲が汚れていた。
ハンカチが、どこかに──
ポケットに手を入れる。
左手で、ジャケットの左のポケットを。
右手で、ジャケットの右のポケットを。
あった。
ハンカチではない。
右手の指先が、右のボケッ卜の中で、こつんと、何か堅いものに触れていた。
何だろう。
何か。
深町は、それを、右手の指先につまんで、ポケッ卜の中から取り出した。
外燈の明りの中で、それを見た。
美しい色をしたもの。
「ああ……」
深町は、声をあげた。
ああ──
堅いもの。
堅い、コバルトグリーンの石。
ターコイス。
初めて見た時、これは、岸涼子の首にかかっていた。
トルコ石。
羽生丈二が妻にしたシェルパ族の女──アン・ツェリンの娘ドゥマの母親が、もとは首に掛けていたものだ。
そうだ、これを、自分は、羽生に南西壁で渡しそこねていたのだ。
そして、そのまま、これをこのジャケットのポケットに入れて、たった今まで忘れていたのだ。
いいや、忘れていたのはターコイスだけじゃない。
圧倒的な、濃い時間。
この場所にはない時間が存在する場所。
その時間が、この肉体の中にぎっしり詰まっていたことがあったのだ。
それを、自分は、体験したことがあったのだ。
忘れてはいない。
おれは、ずっと、この濃い時間のことを考えていたのだ。
終わらない。
まだ、何も終わってはいない。
まだ自分は途上なのだ。
おい──
声がした。
やっと捜しあててもらえたな。
はっきりと、羽生丈二の肉声を聴いたような気がした。
おれは、ずっとここにいたのに。
ああ、そうだ。
そうなのだ。
人には権利がある。
何を奪われようが、何を失おうが、最後に唯一つ残された権利だ。
それは、自分の選んだ生き方に、生命をかけてもいいという権利である。
どうするの?
と、ターコイスが言った。
ああ──
それを、右手に握り締めて、深町は顔をあげた。
葉桜が、うねっている。
狂おしくうねっている。
もう、駄目だ。
身体が震えた。
深町の肉体の内部から、それが、堰《せき》を切ったように、溢れ出てきた。
それを、もう、深町は止められなかった。
足が、震えた。
膝が、震えた。
身体が、震えた。
火をこぼすように、眼から涙がこぼれていた。
下を向く。
靴と、地面に、涙がぽたぽたと染《し》みをつけた。
「深町さん……」
声がした。
女の声だ。
なつかしい、女の声。
横を向く。
岸涼子がそこに立っていた。
「お店に行ったら、工藤さんが、こっちにいるだろうって──」
涼子の言葉が、そこで止まっていた。
正面から、見つめあった。
深町は、すがるような眼で、女を見た。
葉桜がうねっている。
葉桜がざわめいている。
「いいのよ……」
涼子が言った。
「行ってもいいのよ」
その声が、深町の耳に届いてくる。
「この二ヵ月、わたしずっとそのことばかり考えていたのよ。それを、今日、言おうと思ってたの……」
涼子の眼からも、涙がこぼれていた。
「行ってもいいのよ」
深町は、涼子を見ながら、彼女の名前を呼ほうとした。
しかし、それは言葉にならなかった。
深町の唇から洩れたのは、低い、嗚咽《おえつ》の声であった。
終章 未登峰
一九九五年十一月九日十二時三十五分
標高八八四八・一三メートル
わたしは、独りだった。
ザイルで繋がれている仲間もいなければ、傍を、あるいは背後を、あるいは前を、一緒に歩いている仲間もいない。
雪の稜線の上を歩いている。
這うようにして歩いている。
風は、右手から吹いている。
強い風じゃない。
雪煙も飛ばない風。
エヴェレスト稜線の風としたら、無いも同然の風だ。
ロンブク氷河の末端あたりの青い空に、女の細い髪のような雲が幾筋《いくすじ》か浮かんでいる。
ネパール側では、あれが見えると、天候が変わる印だった。
こちら側では──
こちら側?
どちら側も糞もない。
おれが歩いているのは稜線だ。
ネパールにもチベットにも、人間の創った区域のどちらにも所属しない、天と地上との境目に続く、天の廊下だ。
チョモランマの──
サガルマータの──
マウントエヴェレストの頂へと向かう、一本の、雪の廊下。
なんという風景だろう。
わたしの左右に、一切の地上が広がっている。
東西のロンブク氷河。
数限りない岩蜂。
山群。
ローツェも見える、
ネパール側から仰ぎ見た、あの雪と岩の頂が見える。八五〇一メートルのその頂よりも、今、自分は高い場所を歩いている。信じられるか。自分は今、ローツェの頂を見下ろしているのだぞ。
信じられるか。
おい。
答えはない。
答えは激しい喘ぎだ。
一歩、一歩、わたしは近づいてゆく。
ローツェよりも、なお高みにある場所に向かって。
全ての山々の王。
この地上の王。
前を向けば、白い、まろやかな雪のふくらみと、そして、青い天だけがある。
あそこが、この地上でただひとつの場所だ。
エヴェレストの頂。
そこへ向かって、近づいてゆく。
一時間に、一〇〇メートル。
あと、どのくらいなのか。
膝で、雪を分けるようにして、足を前に出す。
一歩。
それから喘ぐ。
たった一歩のために、何度も何度も喘ぎ、そしてまた、次の一歩を踏み出す。
その無限の繰り返しだ。
この繰り返しの果てに、頂上があるのか。
これを繰り返せば、頂上にたどりつけるのか。
無酸素。
単独。
これで、エヴェレストをやろうなどと考えるのは、無謀なことだったのか。
羽生丈二のように、冬期にネパール側から南西壁をやろうなどというのではない。
プレ・モンスーン期に、チベット側から、ノーマルルートで。
ルートは、自分にはこれしかなかった。
ネパール側からの登山はできない。
入国を禁止されているからだ。
だから、チベット側からだ。
ルートとしては、ネパール側からよりも楽だ。
冬期の南西壁に比べたら、ハイキングのようなものだ。
しかし、高度については、ネパール側もチベット側も同じだ、どちらから登ろうが、同じ高度で、同じ薄さの酸素を呼吸することになる。
少し、風が出てきたようだった。
だんだん、風が強くなってきているようだ。
しかし、気にするな。
ここでは風はしょっちゅう吹いている。
風がないことの方が異常なのだ。
一九八〇年に、ラインホルト・メスナーが、無酸素単独でエヴェレストの頂上に到達した時と同じルートである。
一九二四年に、マロリーとアーヴィンがたどろうとしたルートだ。
六五〇〇メートルの前進ベースキャンプに、アン・ツェリンと、岸涼子がいる。
ふたりと別れたのが、五日前だ。
全てがうまくいったのなら、ちょうど今日、彼等とベースキャンプで再会するはずだったのだ。
七九〇〇メートル地点で吹雪に閉じ込められ、そこで一泊の予定が三泊になってしまったのだ。
ネパールのアン・ツェリンに手紙を書き送ったのは、昨年の五月である。
無酸素単独で、エヴェレストをチベット側から登りたい。使用するのはノーマルルート。時期はプレ・モンスーン期。
ぜひ協力をしてもらえまいかと書いた。
返事は、すぐにはこなかった。
六月になり、七月になり、八月になった。
わたしの計画では、信頼できるシェルパの存在が、どうしても不可欠であった。そして、信頼できるシェルパとは、わたしにとってアン・ツェリンのことであった。彼の協力なしでは、この登攀はあリ得ない。
返事が来だのは、九月になってからだった。
協力をする──と、そのようにアン・ツェリンからの手紙には書かれていた。
返事が遅れたのは、迷っていたからだとアン・ツェリンは書いてきた。
協力するとも、協力しないとも返事ができなかった。もう、親しい人間を山で亡くしたくない。しかし、協力をする決心をした。もし、まだ、パートナーが決まっていないなら、この自分がパートナーになりたい──手紙にはそう記されていた。
それから、体力作りと、情報集めの日々が続いた。
日程表を作り、必要な装備のリストを作った。
必要な装備の半分近くは、アン・ツェリンが、ナンパ・ラを越えて、ネパール側からこちらヘヤクで運んできた。
今年の九月に、チョ・オユーに登った。
これには、アン・ツェリンが、酸素を担いで同行した。
わたしは、酸素を使用しなかった。
食料も装備も、エヴェレストをやる時に自分が持つであろうものをそのまま持ち、肩に担いだ。
基本的には、羽生が用意したものと同様だ。
自分で、いざ、同様のものを揃えてゆくと、いかに羽生が自分の計画を練りに練っていたかがわかる。
羽生の時と違うのは、今回は、スキーのストックを一本、装備の中に入れたことくらいである。
南西壁のような壁をやるわけではないから、スキーのストックというのは、雪山の補助器具としてはかなり役にたつ。
同行者として、常にアン・ツェリンが近くにいたが、単独行のつもりで、必要なものは全て自分が待ち、必要なことは全て自分でやった。
チョ・オユーの八一五三メートル峰を、エヴェレストとほぼ同じ条件下で登る。高度順応を兼ねたこの登山で納得のゆく結果が出れば、十月に、エヴェレストをやる。
それが、アン・ツェリンが協力する時の条件だった。
九月に、わたしは、その条件をクリアしていた。
体調はよかった。
そして、十一月に、エヴェレストに挑んだのである。
チベットのティンリから、ロンブクまで入り、そこからさらに六五〇〇メートル地点までヤクで荷をあげ、前進ベースキャンプを設営した。
そこで、天候を待って、五日前に前進ベースキャンプを出発したのであった。
だが、エヴェレストは、チョ・オユーより、さらに、七〇〇メートル近くも高いのだ。ヒマラヤで、一日にあげてもいい高度が五〇〇メートルならば、二日分は、さらに上にエヴェレストの頂があることになる。
八六〇〇メートルは、もう、すでに越えている。
風が強くなっている。
天の風の中だ。
体力をしぼり出す。
あの時──
南西壁の途中は、もっと苦しかったぞ。
あの時は、もう、死を覚悟した。
しかし、今回は、あの時以上におれはトレーニングを積んできた。チョ・オユーにだって同じ条件で登ってきた。
だが、あの南西壁の時よりずっと高い所にいま、自分はいる。七〇〇メートルは上だ。酸素はさらに薄い。どれだけ呼吸しても、酸素はいくらも肺の中に入ってこないじゃないか。
何故、登るんだ。
何故、歩くんだ。
こんな苦しいことを繰り返すために、おまえはあの時、決心をしたのか。
いったい、いつまで、おまえはこんなことを繰り返すつもりなんだ。
登ったって、頂上を極めたって、これは世界で初めてじゃない。この時期に、無酸素でノーマルルートをやったやつなんて、何人もいる。
写真もある。
知られているルートだ。
こんなことをやったって、有名になれるわけじゃない。
スポンサーがつくわけでもない。
あり金はたいて、なけなしの貯金を全部使って、おまえはここまでやってきた。
帰って、この登山か日本で金になるか?
ならない。
金にはならない。
しかし、金のためにやってるんじゃないからな。
へえ、ならば、何のためにやっている。
何のために登るんだ。
知らないよ、訊かないてくれ。
おれは知っているぞ。
何をだ。
おまえは、繰り返すために登るんだ。
繰り返す?
そうさ、あの頂に立ったらどうする?
立ってどうする?
それで終わりか。
生きて、日本に帰って、もう二度とこんな苦しい場所になんてくるものかと思ってるのに、また、心が騒ぎだす。
また、うずいてくる。
山の本なんかを引っばり出すようになって、いつのまにか、また次の山の準備を始めてるんだ。
そうだろうよ。
たぶんそうだろう。
あの頂に立ったって、答えなんかない。
もうわかっている。
金も、女も落ちていないよ。
羽生だって、それは、よくわかっていたはずだ。
じゃ、あいつは何で登ったのかな。
何で登ったのかな。
知るもんか。
たぶん、そんなことはどうでもいいんだろう。
何故山に登るのかなんて、そんな答えを捜しちゃいなかったよ。
羽生は。
このおれもだ。
そんなこと、口にはしたかもしれないけどな、それは、おあいそってやつだ。
世間や、自分に対してのな。
本当に本当のところは、心の奥では、たぶん、何故山に登るかの答えを捜して山にゆくんじゃないってことくらいは、誰でもわかっているよ。
なら、何故、登るんだ。
何故、あそこへゆこうとする。
さあな。
少なくとも、これだけは言えるぞ。
誰が、何回、どういう方法であのてっぺんに立ったかは知らないけどな、このおれにとっては初めてだってことだ。
このおれにとっては、最初だってことだ。
知っているか。
何を?
神話をだ。
神話?
シーシュポスの神話。
ギリシャ神話だったっけな。
そうさ、よく知っているな。
あれも、山の話だったろう。
ああ。
シーシュポスが、大きな岩を転がしながら、山を登ってゆく。
そうだったな。
それが、神から与えられた彼の仕事だったからだ。
仕事?
いいや、罰だったかな。
運命さ。
そうだ、それがシーシュポスの運命なんだ。
転がして、山の頂上に、やっとその岩を置く。
すると、その岩が山を転げ落ちてゆくんだ。
転げ落ちた岩を、またシーシュポスは山の頂上まで運んでゆく。
するとまた、岩が転がり落ちる。
そしてまた、シーシュポスは岩を頂上まで運んでゆくんだろう?
そうさ、この無限の繰り返しだ。
おまえもそうだよ。
おれも?
ああ、おまえも、羽生もだ。
羽生もか。
そうだ。
しかし、おまえはどうなんだ。
おれはどうなんだ。
おまえやおれだけじゃない。
シーシュポスじゃない人間がこの世にいるのだろうか。
つまらんことを考えてるじゃないか、深町。
身体が苦しいもんだから、つい、どうてもいいことを考える。
考えてしまう。
しかし、考えながらでも足が前に出ているのはえらいじゃないか。
しかし、考えすぎると、脳がずくずくになって、鼻から垂れて流れ出してしまうぞ。
もう、あと、どのくらいだ。
上を──
そんなに上を見ても、ない。
もう少し下だ。
ああ、すぐそこだ。
もう、おれの頭と同じ高さにしか、地上がない。
眼の高さに、雪の頂上がある。
純白の頂上がすぐそこだ。
しかし、なんて遠いんだ。
最後のこの距離がどうしても縮まらない。
あと、一〇メートルか?
立ち止まるな。
歩け。
雪を。
しっかりと。
見える。
見えるぞ。
あれだ。
あそこに、三脚が見える。
一九七五年に、中国隊が、正確な測量を行なうために据えていったものだ。
ああ。
もう、おれの眼の方が頂より高い。
もう少しだ。
ああ──
なにか、おれの尻のあたりから、這いあがってくる。
背骨を。
血管を。
じわじわと、それが登ってくる。
何だ!?
何だ、これは!?
くそ。
あと少しじゃないか。
もう、あとわずかで。
見える。
ネパール側が見えている。
ウェスタンクームのあの雪のスロープも。
ローツェも。
ヌプツェも。
プモリも見える。
あらゆる風景が広がっている。
風の中だ。
ごうごうと、風がおれの身体を叩いている。
天が青い。
その青い天の中に、おれは頭を突き出してゆく。
頭が、天に所属される。
肩が天に所属する。
そして、胸が。
瞼が。
腰が。
膝が。
美しい。
何という風景だろう。
この風景に、おれは参加をする。
太いものが、背を突きぬけて、脳天に向かって疾《はし》り抜けた。
何故、山に登るのか。
何故、生きるのか。
そんな問いも、答えも、ゴミのように消えて、蒼天に身体と意識が突き抜ける。
膝が、がくがくと震えた。
なんだ、これは。
震えてるのか。
このおれが。
ああ──
なんという歓喜。
左足を雪に突いて、右足をあげ、その右足が降りてゆく。
そして──
おれは、地球を踏んだ。
一九九五年十一月十日十時二十八分
標高八一〇〇メートル。
どれだけ歩いたろうか。
もう、北東稜から、二〇〇メートルは下っているはずだ。
あたりが見えれば位置の見当がつくのに、それがわからない。視界が利くのは、二〇メートルから三〇メートルくらいだろう。
霧の中を、雪が疾っている。
斜面の下側を左手に見ながら、斜め下方に下ってゆく。そうすれば、北東稜から‘ノースコルヘ向かって下っている稜線に出るはずであった。
標高七〇六九メートルのノース・コルまで、今日中にたどりつくことができれば、なんとかなる。
もし、食料や燃料が尽きたとしても、下から、アン・ツェリンがあがってくることになっているからだ。
だが、もし、ルートを間違っていたら──
死だ。
間違いのない死が待っている。
あのすじ雲だ。
あの雲が、いけない。
頂上から下りはじめて、気がついたら、大量の雲がクンブの上空に湧いて、エヴェレスト目がけて近づいてくるところだったのだ。
風が強くなり、雲が頭のすぐ上を覆う頃には、雪が舞いはじめた。
風と雪の中を下った。
なんとか、八三五〇メートル地点に設営したテントまで帰りつかなければ、死んでしまうからだ。
その時、何とかテントまて帰りつくことができたのは、雪の上につけた踏み跡が、まだ消えていなかったからだ。
そこで、ひと晩中、寝袋《シュラフ》の中で、風の音を聴いていたのだ。様々な幻聴が、襲いはじめていた。
誰かに呼ばれたような気がしたり、誰かがたずねてきて、あるはずのないドアを叩いていったような気がした。話し声や笑い声も耳にした。
井岡や船島の姿も見え、おれはしばらく、自分でもよくわからない会話を、彼等としてしまったのだ。
「深町よう」
「深町よう」
行かないでくれよう。
帰らないでくれよう。
彼等は、寝袋の中にまで入ってきて、冷たい身体でおれに抱きついてきたりもした。
ひと晩、朦朧《もうろう》として、幻聴や幻視とおれは闘った。
ほとんど眠ることができなかった。夢と現実との境は曖昧で、いったい、井岡や船島が、どちらに所属するのか、それもわからなかった。
井岡や船島の姿は何度も見たのに、羽生の姿だけは、幻覚にしろ、見なかった。
「羽生よ、出て来いよ」
おれは、そう言う自分の声も耳にした。
「出て来ると、あんた、自分が死んで幽霊になったことがばれちまうんで、それで出て来ないんだろう」
羽生よ、来い。
おれは、やったよ。
おまえほどじゃないけどな。
エヴェレストをやったんだぞ。
単独でだ。
なあ、酒を飲みに来いよ。
おれは、ぶつぶつと何かをしゃべり、ひと晩中、凍った寝袋の中で、自分の内部の死者だちと話をした。
朝──
風も、雪も止まなかった。
ベースキャンプのアン・ツェリンと無線で連絡をとりあった。
疲労は、ピークに達している。
もうひと晩、この高度に滞在したら、もう、たとえ天候が回復しても、動けなくなるだろう。
今ならば、動くことができる。
風も雪も、南西壁の時ほどじゃない。
食料も、まともに喰えるのは、一回分きりだ。
結論は、すぐに出た。
喰える食料を、おもいきって摂る。
行動中に口にできる食料を残し、全部食べる。
一刻も早くだ。
八○○○メートルより上に、どんなにわずかにしろ、長く滞在しない。
歩き続けて、今日中に、ノースコルまでたどりつく。
標高差一三○○メートルの下降だ。
もう一泊をここですれば、死があるだけだ。
どんなにたいへんでも、この下りに賭けるしかない。
「わたしが、ノースコルまであがります」
アン・ツェリンはそう言った。
食料、酸素を持って、ノースコルにあがり、テントを設営して、そこで待つからと。
「だいじょうぶ。必ずできるわ。ベースキャンプでチャンを用意して待ってるから──」
涼子はそう言った。
六五〇〇。
涼子にとっては、初めての高度である。
トレーニングをし、チョ・オユーで五八○○メートルまで体験しているとはいえ、楽な高度ではない。
そこで、涼子が待っている。
「必ず帰る」
おれは、そう言って、下る準備を始めた。
できるだけ、荷の重量を減らさねばならない。
テントも、寝袋も、八三五〇メートル地点に、放置した。
持って帰ってもしょうがないからだ。
ノースコルまで下れば、テントも、寝袋も、食料もある。空気だって、一〇〇〇メートル分は濃くなる。
そうして、おれは下り始めたのだった。
コッヘルも、ガス・ボンベも、全て置いてきた。
ノースコルヘ、たどりつくしかない。
それが、おれの生き残るただひとつの方法であった。
どれだけ、下ったろう。
風は、下から雪と共に吹き上げてきて、時に、渦を巻いた。
斜面からふっ飛ばされるような風でこそないが、少しでも動きを止めると、風がたちまち、おれの体温を奪ってゆくのがわかる。
左手、小指の感覚がない。
手袋の上から右手で握っても、握られているという感覚が消えている。
ただの石だ。
凍った棒状の石が、小指のかわりにくっついているだけだ。
この左手の小指も、それから薬指も、もう、だめだろう。
生きて帰っても、切り落とすことになる。
それから、足の指の何本かもだ。
歩く。
ただ、歩く。
一歩足を踏み出し、十回はその格好で喘ぎ、また次の一歩を。
来る時につけてきた踏み跡は、もう、雪と風のために消えている。
チョコレートが、一枚。
ビスケットが五枚。
それを食べようと、岩陰で、ポケットからそれを取り出した。
手袋を着けたまま、それを持とうとした時、ひときわ強い風が、斜面の下方から吹きあげてきた。
その風が、チョコレートをおれの指から奪った。
ふわっ、
と宙に運ばれて、斜め下方に向かって、あっという間にチョコレートは落ちていった。
そのチョコレートに、身をかがめて右手を伸ばそうとした時、次の風が、ビスケットまで、おれの右手の指先から奪い去っていった。
次に、再び歩き出すまで、おれはたっぷり十分はそこで動けなかった。
絶望は、深くなった。
行動食がないのである。
歩き出した。
ほとんど絶望的な下降の一歩を、おれは踏み出した。
そして──
どれだけ、歩いたろうか。
もう、時間の感覚は失せていた。
何度か、転び、這った。
歩いているつもりで、這う。
歩いているつもりなのに、いつの間にか、雪の中や、岩の陰にうずくまっている。
うずくまって、ぶつぶつと独り言を言っている。
これではいけない──そう自分に言い聞かせ、腰をあげる。
歩く。
数歩でうずくまる。
腰が、萎《な》えているのだ。
さらに、気力までが萎えている。
時おり、火のように熱いものが燃えあがって、しばらく前進する時もある。
それても、十歩だ。
十一歩目で、うずくまり、つぶやいている。
「もう、やったよな……」
「充分にやったよな……」
下を向いて、ぶつぶつと言っている。
“そうだな。おまえは充分にやった……”
声が聴こえる。
井岡がいる。
船島がいる。
“もう休め……”
“こっちへ来い……”
「だめだ……」
と、おれはつぶやく。
のろのろと立ちあかり……
もう一歩、
あと一歩歩いてからだ。
それで動ければ、またもう一歩。
それで、本当に歩けなくなったら、その時は……
だから、立ちあがれ。
よろよろと立ちあがる。
一歩。
二歩。
三歩目で、倒れ、喘ぐ。
ほら、あそこに、岩がある。
あの岩まで──
岩までたどりつく。
今度はまた、次の岩まで。
あの岩までが、最後だ。
あそこまで行って休もう。
少し眠ればいい。
眠って、そのまんま眼が覚めなくったって、それはそれでいい。
腹が減っている。
動きながら、糖分を腹に入れなければならない。
しかし、喰いものはもうないのだ。
一〇メートル先の岩まで、十分かかった。
危うい斜面で、二度、転んだ。
そのまま、下に転がり落ちなかったのは奇跡のようなものだった。
岩にたどりつき、風と雪を避けて、その岩陰に回り込む。
ほんの少し。
ほんの少しだけ、眠ろう……
そして、おれは、その岩陰で見たのだった。
狭い、岩棚。
ほんのわずかの、空間。
そこにうずくまっているふたつの人影を──
それは、ふたつの屍体であった。
雪が、全身に付着して、白くなっている。
凍りついている。
ひとつは、古い屍体だ。
しかし、崩れて、背骨が析れたように前に小さく身体がたたまれたようになっていて、大きさが半分近くになっている。
何を着ているのか。
近代的な、防寒具ではない。
古い、ツイードの服らしきもの。その上に、大外套を着て、ウールのスカーフを首のあたりに巻いていた。
横の岩の下から見えているのは、ピッケルの先だ。
こんな格好て、山に登ったのは、一九二〇年代──それも英国人だろう。
その瞬間に、ひとりの男の名が、頭に浮かんだ。
G・マロリー。
マロリーか!?
一九二四年六月八日十二時五十分に、オデルが、この北東稜で目撃したのが最後であった男。
第一ステップから、第二ステップに向かう姿をオデルによって見られ、そのまま消息を絶っていた男。
いや、アーヴィンという可能性もある。
しかし、アーヴィンなら、ピッケルを持っていないはずだ。何故なら、アーヴィンのピッケルは、一九三三年に、イギリスの第四次エヴェレスト隊によって発見されているからだ。
マロリーか!?
そしてもうひとつの屍体。
それは、新しかった。
着ているのは、燃えるような、赤のウィンド・プルーフ・ジャケット。
そして、その色を、おれは知っていた。カメラのファインダーの中で、最後に見た色だ。
「羽生……!?」
思わず、声が出ていた。
羽生丈二であった。
三葉虫の化石のように、アンモナイトの化石のように、こんな高みに人の肉体がふたつ眠っている。
ネパール側から登った羽生が、どうしてチベット側のこんな場所にいるのか。
羽生は、風を防ぐように、自分のザックを腹に抱え、その上に顎をのせ、そして、顔をあげていた。
しかも、なんと、羽生は、眼を開いたまま死んでいたのである。
眼球が凍りつき、顔のあちこちに、堅く雪がへばりついていたが、羽生は、その眼を開き、前を睨むように見つめながら死んでいたのである。
死の、その瞬間まで、羽生は、自分の意志を保ち続けていたのだ。
しかし、どうして、羽生がこんな場所にいるのか。
あり得ない。
どうして、ルートを間違えたのか。
どちらにしろ、はっきりと言えることがあった。
何があろうと、これだけは確かなことだ。
羽生は、エヴェレストの頂に立ったのだ。
立ったからこそ、チベット側のこの場所に羽生がいるのである。
やったのだな。
と、おれは思った。
やったのだな、羽生よ。
あんたは、あの壁を越えて、あの、この地上で唯一無二の場所に立ったのだな。
“そうさ、立ったよ”
と、羽生が答えたような気がした。
“おれは羽生丈二だからな”
羽生が、おれに向かってそう言った。
いいものをやろう。
何をだ。
いいから持っていけ。
これは、おまえのものだ。
おれは、羽生のポケットをさぐった。
そして、ふたつのものを発見した。
一枚のチョコレートと、そして、ひと握りの干し葡萄だ。
これを、全部食べなかったということは、まだ、羽生が、この場所で絶望しなかったということだ。
生きることを考えていたということだ。
一枚のチョコレートと、干し葡萄。
おれが羽生に渡したものだ。
これで、羽生は、このエヴェレストを下りきるつもりだったのだ。
それとも羽生は、この状況に至っても、最後の最後のぎりぎりまで、単独行を貫こうとしてこれを喰わなかったのだろうか。
なんという男か。
そして、もうひとつ──
小さなノートだった。
開く。
風で、何枚かのページが、宙に舞って消えていった。
それを読んだ。
あの、羽生の字で、書かれていた。
そうか。
頂上で、酸素不足のため、視力が落ちて、それで、ルートを間違えたのか。
どこでルートの間違いに気づいたのかはわからない。
もしかしたら、気づかないまま、この場所までたどりついたのかもしれない。かつて、羽生が、マロリーのカメラを発見したこの場所まで、偶然にたどりついたか、あるいは、このあたりで唯一ビヴァークできそうなこの場所を記憶していて、それでここまてたどりついたのか。
“想え”
ノートの最後にそう記されていた。
涙が出た。
こんなに熱い涙が出てくるのかと思えるほどの温度を持っていた。
行かなくては、と、おれは思った。
行かなくては。
この羽生の最後の喰いものをもらってゆく。
もし、マロリーのザックを漁《あさ》れば、フィルムがあるかもしれない。
エウェレスト初登頂の謎がとけるフィルムがだ。
しかし、もういい。
そんなことはもういい。
それで、体力を使ってしまうわけにはいかない。
「羽生よ……」
おれは、ポケットから、苦労してひとつのものを取り出した。
二年前、羽生に渡すはずだったもの。
美しい緑色の石。
涼子が首にかけていたターコイス。
それを羽生の首にかけた。
行くよ……
おれは、羽生に向かって声をかけた。
おれは、必ず、生きて帰るだろう。
必ず、ノースコルまでたどりつくだろう。
いいか。
羽生よ。
羽生の魂よ。
おまえは成仏なんかしていないんだろう。
今でも歯軋りをしながら、この山巓《さんてん》のどこかで、眼を尖らせているんだろう。
羽生よ。
おれに憑《とりつ》け。
おれに憑いて、おれについてこい。
羽生よ。
おれは、おまえだ。
おまえのように、おれも休まない。
もしも、おれが疲れただのなんだのと言って休もうとしたら、おれを突き落とせ。
おれを殺せ。
おれの肉を啖《くら》え。
羽生よ。
約束するぞ。
おれは必ず生きて帰るだろう。
生きて帰り、そしてまた、山にもどってくるだろう。
それを繰り返し続けるだろう。
それが、おれにできることだ。
それのみが、おれにできることだ。
ゆくぞ、羽生よ。
おれは、羽生の顔を睨み、歯を噛んで、再び、雪と風の中に足を踏み出して行った。
ええ、それを払は一生考え続けてきました、そして、今私が想っているのは、人には誰でも役割があるのだということです。結局、歴史は、私を証言者として選んだということです。幸か不幸か、歴史は、私をエヴェレストの登頂者としてではなく、マロリーとアーヴィンの最後の目撃者、証言者として選びました。そして、これまでの生涯で、何度も何度も、好むと好まざるとにかかわらず、払は私の見たもののことを語ってきたのです。
今も、こうして、私はあなたにあの時のことを語っている。
ふたりのうち、どちらかが、エヴェレストの頂に立った可能性ですか?
可能性のことを言うなら、もちろんありますよ。そのかわりに、立たなかった可能性だってあるわけですからね。
よく考えてみれば、あれは、私の姿なのです。そして、あなたのね。
この世に生きる人は、全て、あのふたりの姿をしているのです。
マロリーとアーヴィンは、今も歩き続けているのです。
頂にたどりつこうとして、歩いている。
歩き続けている。
そして、いつも、死は、その途上でその人に訪れるのです。
軽々しく、人の人生に価値などつけられるものではありませんが、その人が死んだ時、いったい、何の途上であったのか、たぶんそのことこそが重要なのだと思います。
私にとっても、あなたにとっても。
何かの途上であること──
あの事件が、私に何らかの教訓をもたらしてくれたとすれば、たぶんそれでしょう。
N・E・オデルインタビュー
一九八七年一月 ロンドンにて──
『岳望』一九八七年三月号「ヒマラヤの証言者」
N・E・オデルは一九八七年二月、イギリスで死んだ。九十六歳であった。
『神々の山嶺《いただき》』完
あとがき
この話そのものを思いついたのは、もう、二十年以上も前のことである。
単純に、山の話を書きたかったのだ。世界一の山の頂に登ろうとする男の話。
昔から、ひとりの男か、切ないくらいに何ものかを求めてゆく話というのが、好きであった。だから、玄奘三蔵や空海という人間たちが好きで、宮本武蔵や河口慧海という男たちが好きなのである。
ぼくにとって、物語の王道というのは、
“西天取経”
という、これにつきるのかもしれない。
今いるここから、あちらまで、何かを取りにゆく話。
ぼくにとって、自分より強い男と闘う話も、山に登る話も、結局このバリエーションのひとつなのではないか。
しかし──
世界一の山であるエヴュレストは、もう登られてしまっている。では、現代においてどういう山の話が書き得るのか。
書くのならどうしてもエヴェレストがらみの話でなければならないと思い込んでいたので、いっときは、ルネ・ドーマルの『類推の山』のように、架空の山をでっちあげようかとさえ考えていたのである。
この架空の山のバリエーションが『幻獣変化』の巨大樹となったりしたのだが(実はあの本では樹に登ってからの話をねちねちと書きたかったのだが、当時はまだ力不足であった)、本編においては、どうあっても、ヒマラヤのエヴェレストを登る話を書きたかったのである。
そういう時に、出会ったのが、ヒマラヤ登山史上最大のミステリーとでもいう事件、マロリーの失踪と遭難である。しかも、このマロリーが、エヴェレストの頂に立った可能性があり、それを知る方法も残されているというのである。
マロリーが、エヴェレストの頂に、誰よりも最初に立ったのかどうか。それを知るには、マロリーの屍体と共にあるはずのカメラの中からフィルムを取り出し、それを現像すればよいのである。
これを知った時に、閃めいたのが、本書のアイデアである。
これはいける。
エヴェレストの八○○○メートル以上の場所にあるはずのカメラか、カトマンドゥの街て売られていたらどうなるか。売られる前、そのカメラを、持っていたのが日本人だとしたら……
たちまちストーリーの核はできあがったのだが、ただちに書けるものでもない。二十代の半ば──ぼくはまだ力不足であり、ヒマラヤでの体験が、当時はまだ一度しかなかったからである。書くのなら、せめて、エヴェレストのベースキャンプくらいまでは行っておきたい。
結局、思いついてから書きあがるまで、二十年以上もかかってしまった。
書き出してからは、なんと足かけ四年、千七百枚という枚数になった。
どうも、ぼくはどまん中の話を書いてしまうという癖があるらしい。
格闘の話を書けば、ただただ、『餓狼伝』のように男と男がひたすら闘う話を書いてしまう。空手の達人の刑事でもなければ、冒険小説の主人公が強いという話でもない。闘う小説の主人公が強い男たちと次々に闘うというだけの話を書いてしまうのである。自分より強いやつは許さないというシンプル極まりないテーマで、もう四千枚以上も書いてまだ終わってない。
仏教の話を書けば、シッダールタ(仏陀)を主人公にして、覚りの瞬間にいたるまでを(『涅槃の王』)十数年かかって書いてしまう。
山の話を書けば、それはそれで、世界一の山へ登る男というそれだけのシンプル極まりない話を、ただただひたすらに、心が擦《す》り切れて、何もなくなるまで書いてしまうのである。
この連載終了時に、『小説すばる』七月号(一九九七年)の「カーテンコール」に、ぽくは次のように書いた。
書き残したことはありません 夢枕摸
たった今、『神々の山嶺』を書き終えたばかりである。書き出してから、書き終えるまで、三年以上もかかった。
この話を書こうと思ってからは、およそ二十年近くが過ぎている。
原稿用紙およそ千七百枚。
連載中は、書いても書いてもまだ書きたいシーンや書きたいものが滅る気配を見せなかった。
どれだけ書いても、まだ残っているものがあるのである。ラストシーンは、早くから決まっているのに、そこにたどりつかない。体内にある器に、また大量に書ききっていないものが残っている。
この原稿を書くというのは、小さな柄杓で、それを掬《すく》っては原稿用紙の上にくりかえしこぽしてゆくという作業であったような気がする。
ようやく終わりが見えてからも、あと五十枚、あと五十枚と、書いても書いても書き足りないものが残って、もう終わるだろうと考えてから半年も連載がのびてしまった。
書き終わって、体内に残っているものは、もう、ない。
全部、書いた。
全部、吐き出した。
力およばずといったところも、ない。全てに力がおよんでいる。
十歳の時から、山に登って体内に溜め込んできたものが、全部出てしまった。
それも、正面から、たたきつけるようにまっとうな山の話を書いた。変化球の山の話ではない。
直球。力いっぱい根限りのストレート。
もう、山の話は、二度と書けないだろう。
これが、最初で最後だ。
それだけのものを書いてしまったのである。
これだけの山岳小説は、もう、おそらく出ないであろう。
それに、誰でも書けるというものではない。
どうだ、まいったか。
一九九七年四月某日 小田原にて
いやはや。
ぼくが、二十七歳の時に出した本『ねこひきのオルオラネ』の中に「山を生んだ男」というのがあって、これがきっかけになったらしく、
「山の話を書きませんか」
という依頼か、当時幾つか舞い込んできた。
そのうちのひとつは、『神獣変化』という巨大樹に登るシッダールタの話となり、そのうちのひとつが本書となった。
本書を書く約束ができあがったのは、今から十五年以上も前のことてある。いやいや、十六年か、もしかしたら十八年くらいは前になるかもしれない。
あるホテルのあるバーのカウンターで、集英社のある編集者と酒を飲んでいた。
そのおり、ふいに、その編集者が真顔でこう言ったのである。
「ところで獏さん。流行作家の椅子というのが幾つあるか御存知ですか」
突然の質問であった。
「わかりません、幾つあるのてすか」
「十五です」
「十五?」
「何故わかるのですか」
「かぞえたからです。わたしがかぞえたところ、流行作家という人たちが座っていろ椅子というのは、いつの時代も十五しかないのです。誰かが座れば、誰かが落ちる。誰かが落ちれば誰かが座る。流石作家になるというのは、結局、この椅子の取り合いのことなんです」
「本当ですか」
「本当です」
と、自信たっぷりに彼はうなずくのであった。
「ところで、獏さん、この十五ある椅子のうちのひとつに座ってみる気はありませんか」
と彼は言い、
「実は今、椅子がひとつ空いているのです」
とそうつけ加えた。
「どういう椅子なんですか」
「ついしばらく前まで、新田次郎という方が座っていた椅子です」
と彼は言った。
新田次郎先生が亡くなられてから、まだその椅予に座った方がいないのですと──
まことにうまいくどかれ方をしたものであり、ならば、おもしろいアイデアがあります──と、ぼくは本編の話をした。
「それはおもしろい。ではそれでいきましょう」
さっそく話はまとまったのだが、問題はいつ書くかである。
ほくの方は、取材が済んでおらず、書き出すのがいつになるかわからない。
ちょっと待って下さい、ちょっと待って下さいと、十八年以上も待たせ、その間に、彼とのコンビで、『猛き風に告げよ』、『仰天・プロレス和歌集』、『仕事師たちの哀歌《エレジー》』、『仰天・平成元年の空手チョップ』、『仰天・文壇和歌集』、『仰天文学大系』等々の本を書いた。
どれもこれも、基本的には、まだ本書を書き出せないでいるため、
「そんならこういうものはいかがでしょう」
という具合に書いていったものなのである。
結局、本編を書き出すことができたのは、一九九三年の秋から冬にかけて、エヴェレストのベースキャンプまで、行ってからである。それが六度目のヒマラヤであった。
かくして、一九九四年の春から、『小説すばる』で連載がスタートした。
同時期に、やはり、二十年以上もあたためていた『ダライ・ラマの密使』も、某誌でスタートしている。こちらも、チベットのカイラスに出かけたり、本を集めたりして、ようやく書き出せる状態になってのスタートであった(シャーロック・ホームズと河口慧海、モリアーティ教授が、ダライ・ラマの密命を受けて、カイラス山に登ってゆく話である。ライヘンバッハの滝に落ちたはずのホームズがチベットに行っていたという話は、『空屋事件』の知る人ぞ知るエピソートである)のだが、こちらは現在、残念ながら中断中である。
本書を書くにあたっては、実に様々な方がたにお世話になってしまった。
まず、マナスルに、ヒマラヤを越える鶴を見に行ったおり“マナスルスキー登山隊”の隊長をやっていた降旗義道さん。降旗さんには、一九九四年、冬の白馬で相談にのっていただいて以来、貴重な資料を四年もお借りしたままである。
東京書籍の山田和夫さんとは、天山、チョ・オユー、エヴェレスト、カイラスと、何度となく一緒にヒマラヤ及びその周辺に出かけている。文字通りの死ぬような目に、共にあってきた仲間である。
山渓の池田│常道《つねみち》さんには、エヴェレストの無酸素登頂者を謂べるおりにお世話になってしまった。山岳史の生き字引のような方で、調べていただいた登頂リストはたいへんにありがたい資料となった。
佐瀬稔《みのる》さんの『狼は帰らず』(森田勝)にもお世話になってしまった。羽生丈二という男のキャラクターについて、決めあぐねていた時、『狼は帰らず』を読み返して、やっと、羽生丈二というキャラクターができあがったのである。
ちなみに、もうひとつ書いておけば、“羽生丈二”の名前のモデルは、将棋の羽生善治さんである。
本編を書き出すおりに、羽生さんの追っかけをしていて(この時に羽生さんは名人になった)、その縁で羽生という名前を使わせていただくことになったのである。
一九九三年に、エヴェレストのベースキャンプまで行ったおり、南西壁をねらっていた群馬山岳連の八木原│圀明《くにあき》さんにもお世話になってしまった。死にそうになって、やっとたどりついたベースキャンプでごちそうになったヤキソバの昧は、一生忘れられない。高山病で、まともに食事を喰えなかったぼくが、久しぶりにまともに喰べた喰いものが、この時のヤキソバであった。
この時、群馬隊は、冬期南西壁の初登頂をはたしている。
そして、前記した山田さんを含め、第二次RCCの須田義信さんと、及川美奈子さんとは、この連載期間中、月に一度くらいずつのペースで会い、食事をして飲むことになった。
山のことでわからないことがあるたびに、この席で相談すれば、たいていのことはわかってしまうという、たいへんにめぐまれた飲み会であった。
須田さんは、一九九〇年に結成された、チョ・オユー中年登山隊のメンバーであり、この時、ぼくもチョ・オユーのベースキャンブまで行っている。
エヴェレストの南西壁について訊ねた時、この巨大な壁のことを、三〇メートル四〇度の氷壁を登ったら、そこから左へ二〇メートルトラバースしてそこから斜度四五度の氷壁をダプルアックスで登ってゆくといったぐあいに、二〇メートル単位で頂上まで手にとるように須田さんが話をしてくれたのだが、これには一種のカルチャーショックを昧わった。南西壁のことを、それだけ細かく語れる人は、この地球上にそう何人もいない。
他にもお世話になった方がたは無数におり、ぽくひとりではとても、この長編を書ききることはできなかっただろうと思う。
お世話になりました。そして、ありがとうこざいました。
言葉には尽くせないほどの、有形、無形の力を、多くの知人や友人からいただきました。
これが書きあがった時には、思わず落涙。感無量であり、考えていたこと、書きたかったことは、全て、吐き出してしまいました。
本書には、現在のぼくの等身大のものが詰め込まれています。
本書が、夢枕獏の、現在の等身大です。
力が足りなかったところ、力が及ばなかったところもありません。
このような思いをもって書きあげた本は他にありません。
この本が、はたして、どういう読まれ方をするのか、ほくには見当もつきません。
もちろん、山岳小説ではあるでしょうし、山岳ミステリー、冒険小説でもあるような気がします。
書く方としては、書き始めてからはもうどのような意識もなく、あったとすれば、ただただ、とてつもなく力強いパワフルな小説、自分にとって極めて貴重な物語を、今自分が書いているのだという自覚だけです。
全て書きました。
残ったものはありません。
平成九年七月四日海部川にゆく朝に、新宿にて──
夢枕 獏
主要参考文献
「生きぬくことは冒険だよ』長谷川恒男 長谷川昌美・小田豊二編 集英社
「長谷川恒男 虚空の登攀者」佐瀬稔 山と渓谷社
「エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリー伝」ホルツェル/サルケルド 田中昌太郎訳 中央公論社
「エベレスト初登頂」ハント 田中主計・望月達夫共訳 あかね書房
「はるかなるエベレスト」マーリ 山崎安治訳 あかね書房
「遥かなりエヴェレスト」島田巽 大修館書店
「世界登攀史」ニュービイ 近藤信行訳 草思社
「狼は帰らず」佐瀬稔 山と渓谷社
「エベレストの頂上は昔、海だった」小出良幸 PHP研究所
「エヴェレスト極点への遠征」メスナー 横川文雄訳 山と渓谷社
「ヒマラヤ登攀史」深田久弥 岩波書店
「ヒマラヤ──第三の極地」ディーレンフルト 福田宏年訳 白水社
「チョモランマに立つ」読売新聞社
「厳冬のサガルマータ 究極の挑戦南西壁」スポーツニッポン新聞東京本社編 毎日新聞社
「母なる大空・冬期サガルマータ南西壁」群馬県山岳連盟
「チョモランマ単独行」メスナー 横川文雄訳 山と渓谷社
初出誌「小説すばる」誌'94年7月号から'97年6月号まで連載された作品です。
神々《かみがみ》の山嶺《いただき》 下
一九九七年八月一〇日第一刷発行
著 者──夢枕《ゆめまくら》 獏《ばく》
発行者──小島民雄
発行所──株式会社集英社
東京都千代田区一ツ橋二─五─一〇 〒一〇一─五〇
〇三─三二三〇─六一〇〇[編集部]
電話 〇三─三二三〇─六三九三[販売部]
〇三─三二三〇─六〇八〇[製作部]
印刷所──凸版印刷株式会社
製本所──加藤製本株式会社
1997 Baku Yumemakura, Printed in Japan
ISBN4-08-774295-2 C0093