沙門空海唐の国にて鬼と宴す 巻ノ一
夢枕 獏
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(例)劉雲樵《りゅううんしょう》
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(例)唐の都|長安《ちょうあん》
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〈カバー〉
貞元二〇年(西暦八〇四年)。唐の都、長安では、妖異な事件が続いていた。役人・劉雲樵《りゅううんしょう》の屋敷に猫の妖物が憑依《ひょうい》し、徳宗《とくそう》皇帝の死を予言。また、驪山《りざん》の北にある綿畑では、徳宗の嫡男である皇太子・李誦《りしょう》が病に伏すことになるとの奇妙な囁き声が、聞こえてきたという。そしてこの二つの「予言」は、やがて真実であったことがわかる……。
同年、遣唐使として| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》らとともに入唐した、若き留学僧・空海。洛陽の街での謎の道士・丹翁《たんおう》との邂逅を経て、長安に入った彼らは、やがて劉家の妖物に接触することとなった。劉はすでに正気を失っていたが、空海は、青龍寺の僧・鳳鳴《ほうめい》とともに劉に憑いた悪い気を落とし、事の次第を聞くことになった……。
夢枕 獏(ゆめまくら・ばく)
1951年、神奈川県小田原市生まれ。東海大学文学部日本文学科卒業。77年、「カエルの死」で作家デビュー。『キマイラ』『闇狩り師』『サイコダイバー』『餓狼伝』『陰陽師』など、多くの人気シリーズを持つ。
89年、『上弦の月を喰べる獅子』で日本SF大賞受賞。
98年、『神々の山嶺』で柴田錬三郎賞を受賞。
密教法具提供/みのり工房
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【巻ノ一】
沙門空海唐の国にて鬼と宴す
夢枕 獏
徳間書店
沙門空海唐《しゃもんくうかいとう》の国《くに》にて鬼《おに》と宴《うたげ》す 巻ノ一
巻ノ一 目 次
序の巻 妖物祭
第一章 空海怪力乱神を語る
第二章 暗夜秘語
第三章 長安の春
第四章 胡玉楼
第五章 猫屋敷宇宙問答
第六章 祟り神
第七章 胡旋舞
第八章 孔雀明王
第九章 邪宗淫祠《じゃしゅういんし》
第十章 妙適菩薩
第十一章 猫道士
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●『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』主な登場人物
――――――徳宗〜順宗皇帝の時代――――――
空海《くうかい》 密を求め入唐した、若き修行僧。
|橘 逸勢《たちばなのはやなり》 遣唐使として長安にやってきた儒学生。空海の親友。
丹翁《たんおう》 道士。空海の周囲に出没し、助言を与える。
劉雲樵《りゅううんしょう》 長安の役人。屋敷が猫の妖物にとりつかれ、妻を寝取られてしまう。
徐文強《じょぶんきょう》 所有する綿畑から謎の囁き声が聞こえるという事件が起きる。
張彦高《ちょうげんこう》 長安の役人。徐文強の顔見知り。
大猴《たいこう》 天竺生まれの巨漢。
玉蓮《ぎょくれん》 胡玉楼の妓生。
麗香《れいか》 雅風楼の妓生。
マハメット 波斯《ペルシア》人の商人。トリスナイ、トゥルスングリ、グリテケンの三姉妹を娘に持つ。
恵果《けいか》 青龍寺和尚。
鳳鳴《ほうめい》 青龍寺の僧侶。西蔵《チベット》出身。
安薩宝《あんさつぽう》 |※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教(ゾロアスター教)の寺の主。
白楽天《はくらくてん》 後の大詩人。玄宗皇帝と楊貴妃の関係を題材に、詩作を練っている。
王叔文《おうしゅくぶん》 順宗皇帝の身辺に仕える宰相。
柳宗元《りゅうそうげん》 王叔文の側近。中唐を代表する文人。
韓愈《かんゆ》 柳宗元の同僚。同じく中唐を代表する文人。
子英《しえい》 柳宗元の部下。
赤《せき》 柳宗元の部下。
周明徳《しゅうめいとく》 方士。ドゥルジの手下。
ドゥルジ カラパン(波斯《ペルシア》における呪師)。
――――――玄宗皇帝の時代――――――
安倍仲麻呂《あべのなかまろ》 玄宗の時代に入唐し、生涯を唐で過ごす。中国名は晁衡。
李白《りはく》 唐を代表する詩人。玄宗の寵を得るが後に失脚する。
玄宗《げんそう》 皇帝。側室の楊貴妃を溺愛する。
楊貴妃《ようきひ》 玄宗の側室。玄宗の寵愛を一身に受けるが、安禄山の乱をきっかけに、非業の死を遂げる。
安禄山《あんろくざん》 将官。貴妃に可愛がられ養子となるが、後に反乱を起こし、玄宗らを長安から追う。
高力士《こうりきし》 玄宗に仕える宦官。
黄鶴《こうかく》 胡の道士。楊貴妃の処刑にあたり、ある提案をする。
丹龍《たんりゅう》 黄鶴の弟子。
白龍《はくりゅう》 黄鶴の弟子。
不空《ふくう》 密教僧。
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カバー装画/立原戌基
表紙写真/板彫胎蔵曼荼羅(高野山金剛峰寺)
装丁/岩郷重力+WONDER WORKZ。
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序の巻 妖物祭
劉雲樵《りゅううんしょう》の屋敷に妖物《ようぶつ》が出るようになったのは、八月の上旬からであった。
太陰暦の八月だ。
太陽暦でいえば、九月である。
その年――貞元《ていげん》二十年(八〇四)の七月六日に日本の久賀島を発《た》った遣唐使船の第一船が、途中、嵐に合い、海上を三十四日間漂流したあげくに、沙門《しゃもん》空海をのせて福州《ふくしゅう》の海岸に流れついたのが、やはり、その八月の同じ頃であった。
福州長渓県赤岸鎮|已南《いなん》ノ海口
|※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]《びん》の地であった。
空海は、この地において、まだ無名の留学僧《るがくそう》として、初めて唐土を踏んだのである。
しかし、その話は少しおく。
劉雲樵の屋敷に出た、妖物の話である。
その日の午後、雲樵の妻は、庭の夾竹桃《きょうちくとう》の見える部屋に座して、木皿に乗せた瓜《うり》を喰べていた。
下女に切らせた、哈密《ハミ》瓜である。
ひとつの哈密瓜を半分に切り、その半分をさらに三っつに割って、喰べているところだった。
そこへ、庭から、のっそりと黒い猫が入ってきたのである。
大きな、体毛の長い猫だった。
哈密瓜を乗せた木皿の前まで歩いてくると、その猫はそこに座り、緑色の瞳で雲樵の妻の顔を見上げた。
「おい、美味《うま》そうだな」
その猫が言った。
いきなり猫が口を利いたものだから、雲樵の妻はびっくりした。
口の中に残っていた瓜を呑《の》み込んで、周囲を見回した。
誰もいない。
また猫に視線をもどすと、
「おれがしゃべったのだ」
猫が言った。
間違えようがなかった。
やはり、猫がしゃべったのだ。
こんどこそしっかりと見た。
猫が、ぱっくりと赤い口を開けて、目の前で舌を踊らせたのである。
さすがに腰はぬかさなかったのだが、かわりに言葉を失ってしまった。
確かに、人語であった。
舌の長さや、顎《あご》のかたちが人とは違うためか、発音が人のそれとはやや異なるようである。
しかし、それは、まぎれもない人語だった。
「それをひとつ、もらおうか」
皿の中から、瓜のひときれを爪にひっかけてひょいとすくいあげ、それを床の上においてたちまちきれいに喰べてしまった。
「次は、魚がいいな」
雲樵の妻を、こわい瞳で見あげた。
「今日の昼に、隣りの張《ちょう》の所から鯉をもらったろう?」
猫の言う通り、確かに、今日の昼、隣りの張家から、丸まると太ったみごとな鯉を二尾もらっている。
まだ生きている鯉だ。
それを、水を張った盥《たらい》に入れて、まだ生かしておいてあるのだ。
「それがいいな。生かしたまま、ここへ持ってこい」
雲樵の妻に言った。
まるで、主が、使用人に向かって言うような言い方である。
これはただの猫ではない。
歳《とし》経た猫は、妖物となって人語を解すると昔から言われているから、おそらくはその類《たぐい》であろうと、雲樵の妻は思った。
こわくなって、下女に命じて、盥に入ったままの鯉をそこまで持って来させた。
「いい鯉だな」
言ったと思うと、猫は、ひょいとその鯉を爪でひっかけて水の中から引き出すと、尾で床を叩いているところを、頭からばりばりと喰べてしまった。
「一尾は、雲樵のために残しておいてやろう――」
と、猫は言った。
言うなり、いきなり飛びあがって、壁を駆け登り、天井を逆さに走ったかと思うと、煙のように消えてしまった。
「瓜と鯉が美味かったから、しばらくはここにいてやろう」
天井から猫の声が響いてきた。
「庭の夾竹桃の下を掘ってみるがいい」
それきり、猫の声は聴こえなくなった。
試しに、使用人に、そこを掘らせてみると、壺《つぼ》が出てきた。開けてみれば、その中にはぎっしりと小銭が入っていた。小銭とはいえ、数えてみれば、雲樵の半年分の給金と同じ額である。
夕刻、仕事から帰ってきた夫の雲樵に、雲樵の妻は、さっそくこのことを報告した。
妻の話を聴いて、最初はまさかと思ったのだが、壺と銭を見せられては納得するしかない。
「――しかし」
雲樵は腕を組んだ。
問題は、銭をどうするかである。
劉雲樵の勤め先は、金吾衛《きんごえい》である。
官職で、今日でいうなら、唐の都|長安《ちょうあん》の警察官といった役所《やくどころ》であった。
それなりに選ばれた人間がなる職業である。
長安には、皇城の北側中央にある朱雀門《すざくもん》から南の明徳門《めいとくもん》まで、南北に真っ直の大路《おおじ》が走っている。この大路は、朱雀|大街《たいがい》と呼ばれ、その大街を真ん中にして、西側が右街、東側が左街と呼ばれている。
雲樵は、その右街を警備する、右金吾衛の役人であった。
その自分が、いくら自分の屋敷の庭から出てきたとはいえ、誰かの銭を自分のものにしてしまっていいのかどうかと、迷っているのである。
この屋敷は、もともと、雲樵が住んでいたものではない。
建てられたのは、百年以上も昔のことだ。
最初は、洛陽《らくよう》から長安に出てきた油商人が建てたものであろうとの話は聴いているが、それから、この屋敷の主人は、何代か入れ替わってしまっている。
劉家がここに住むようになったのは祖父の代からで、祖父の劉仲虚《りゅうちゅうきょ》は、安史の乱のおり、玄宗皇帝と共に蜀《しょく》まで逃げている。
祖父が埋めたものなら死ぬ前に言い残すであろう。おそらく、この銭は、この屋敷に最初に住んでいたと思われるその油商人か、その後に住んだ誰かがそこへ埋めたものであろうと思われた。
しかし、今となっては、その持ち主が誰であるか、捜し出すてだてはない。ないことはないであろうが、それはたいへんな仕事になる。
それで、どうしたものかと、雲樵は腕組みをしているのである。
「いいじゃあありませんか」
雲樵の妻は言った。
「賄賂《わいろ》だって、これまで何度ももらってるでしょうに」
「しかし、そういう銭というものはつまり――」
つまり、正体がはっきりしている銭なのだと、雲樵は言うのである。
なにかを目こぼししてやったり、何かの便宜を計ってやったりした分の報酬の銭が賄賂だと思っている。
「この銭は正体がわからない」
妖物がくれた銭である。
だから、
「こわい」
と、雲樵は言うのである。
報酬でない銭を自分のものにしてしまうことをただ悩んでいるわけではないのだと、雲樵は妻に言った。
「ならば捨ててしまいますか」
「それもなあ」
と、雲樵は煮えきらない。
捨てるのは、惜しい気がするのである。
人にくれてやるのは、なお、惜しい。
とどければ、ややこしいことになり、結局は、役人の誰かの懐に入ってしまうか、そのまま誰かの銭になってしまうのである。
かといって、もとの場所に埋めるというのも、くやしい。
「報酬ならばいいんですか」
妻が言った。
「うむ。まあ……」
「これは、あの猫が、鯉をもらった分の礼として、あたしたちにくれたのだと思えばいいじゃありませんか」
妻が言った。
それでも、雲樵は決心がつかない。
「ううむ」
と、首を傾けたところへ、
「もらっておけ」
天井から声がした。
あの猫の声である。
結局、そうすることにした。
「あれは、いい猫なのよ」
雲樵の妻は、そう言って喜んだ。
猫は、雲樵の家で飼われることとなった。
飼う、といっても、それは、普通とは少し違う飼い方となった。
なにしろ、猫は、気がむいた時でないと、姿を現わさない。
だから、猫の食事は、生きた魚を一尾、生かしたまま盥に入れて、毎晩家の隅に置いておくことになった。翌朝になって、置いた場所へゆくと、盥の中から魚が消えているのである。
「おい、肉が喰いたいな」
何か別なものが喰べたい時には、猫の方から声をかけてくることもある。
猫は、時々、予言をした。
「夕方には雨だな」
ふいに、そんなことを言ったりする。
すると、朝はどんなに晴れていても、夕方にははたして雨になった。
「亭主の帰りは、今日は遅いぞ」
そう言うと、急な事件があって、雲樵の帰りが遅い。
初めは便利であったが、そのうちに、だんだん、猫のことがうとましくなってきた。
雲樵が、馴《な》じみの芸妓《げいぎ》と、楽しい時間をすごして帰ってくれば、
「おい、女と会っていたな」
そんな声が、遅れた言いわけをしている最中に、天井からふってくるのである。
「相手は雅風楼《がふうろう》の、麗香《れいか》だろう」
女の名まで言う。
「右の乳を吸うと、激しく取り乱す女だな、あれは」
妻と大|喧嘩《げんか》になったこともあった。
むこうの都合によって、猫は姿を現わしたり現わさなかったりする。
時おりは、これこれの刻にどこそこの辻《つじ》へゆくと、そこに銭が落ちているぞと、そういうことも教えてはくれるのだが、しかし、気味が悪いことこの上もない。
夜、雲樵が妻とことにおよんでいると、ふいに天井から雲樵の背に、
「腰が疲れぬか」
などという声が降ってくる。
雲樵の使用人たちが、主人について陰口を言ったり、仕事に手を抜いたりすると、いつの間にか、あの黒い猫が足元に立っていて、
「雲樵の檀那《だんな》の気の小さいのも困ったものだ」
と、今、雲樵の陰口を言ったばかりの男の声《こわ》いろを真似て、同じ言葉を口にしたりする。
「雲樵に言いつけて、給金を下げてもらおうか」
猫が言うのである。
主人と使用人――どちらも息抜きもできない。
「もう、出ていってくれ」
雲樵と妻が頼んでも、
「知らぬ知らぬ」
と、とりあわない。
それならばと、毎晩出していた喰い物を出すのをやめても、そういう時には、台所から、いつもと同じ量の喰い物が、朝になると消えている。時には、雲樵が、朝、ふと眼を覚ますと、喰べかけの大きな鯉が寝床の中に入っていることもあった。庭の池を泳いでいた鯉である。
しかたがないから、また、喰べ物を出すようになった。
そして、ある朝、ついにとんでもないことを言い出した。
「今晩、おまえの女房を抱かせろ」
朝、勤めに出かけようとした雲樵の前に猫が姿を現わして、そんなことを言うのである。
「なに!?」
「今晩、おまえの女房を抱く」
思わずかっとなった雲樵が、腰の剣を引き抜き、
「誰が、畜生風情に、おれの女を――」
おめいて猫に切りつけた。
刃が、猫に触れる寸前に、煙のようにその姿が消えた。
「いいな。今晩だぞ」
どこからか、猫の声が届いてきた。
そして、ついに、困り果てた雲樵は、知り合いの道士に相談をしたのである。
「なれば、さっそく今夜、わたしがお宅へうかがいましょう」
と、道士は言った。
「しかし、道士さまが来れば、むこうにはすぐにそれとわかってしまうでしょう。もしかすると、こうして道士さまと会っていることさえ、もう、むこうが知っているかと思うと、不安でなりません」
「いや、心配にはおよびませんよ。わたしの家には、特別な札が貼ってありますから、むこうがたとえ、何かをしていたとしても、あなたやわたしがどこにいるか、その姿を見ることはできないのです」
「けれど、道士さまがいらっしゃれば、いくらなんでも、むこうは気がつくでしょう」
「そういう心配もせずにすむよう、ちゃんと法を講じてゆきます。そうすれば、むこうはこちらが誰かはわかりません。ただの人間にしか見えないでしょう」
「そうなのですか」
「ええ。ですから、突然に訪ねてきた、洛陽あたりの親類ということにでもしておきましょう」
「ちょうど、洛陽には、わたしの叔父が住んでいます」
「では、そういうことに」
「はい」
話を聴き、ほっとして、雲樵はうなずいた。
「わたしがゆけば、だいじょうぶかと思いますが、念には念を入れておきましょう。今晩、その妖物には、喰べ物を出すのでしょう?」
「ええ、そのつもりですが」
「では、その喰べ物の中に、これを入れておいて下さい」
そう言って、道士は、懐から小さな紙包みを取り出した。
「これは?」
「毒です」
「毒!?」
「味も匂いもありません。これを喰べ物に混ぜておけば、わたしが出るまでもなく、妖物は簡単に退治できてしまうでしょう」
「それでは不安です。道士さまは、ぜひいらして下さい」
「もちろんうかがいますよ」
「たのみます」
「ああ、ひとつ、申しあげておくことを忘れてました」
「なんですか」
「あなたが家に帰られたら、もしかすると、その妖物がこう訊《き》いてくるかもしれません。今日の昼、これこれの時間に、おまえの姿が見えなかったようだが、どこへ出かけていたのかと――」
「そうしたら、どう答えればよろしいのですか」
雲樵の顔に不安が浮いた。
「幸い、この近くには、青龍寺《せいりゅうじ》があります。そこの坊主に世話になったことがあって、これまで礼も言わずに不義理をしていたから、礼を言いに行っていたのだと答えればよろしいでしょう」
「どのような世話で、誰に会ったのかと訊かれたらどうしますか」
「まさか、神仏の事《じ》について、そこまで訊いてくるとは思いませんが、何か考えておいた方がいいかもしれません」
「どうしましょう」
「たしか、この七月、徳宗《とくそう》皇帝は、未央宮《びおうきゅう》にて宴を催されたことがありましたな」
「たしかに」
「そのおり、左右の金吾衛からも警備の者が出て、あなたもその中に入っておられましたね」
「ええ、そうです」
「では、青龍寺の義操《ぎそう》という坊主に、その警備がうまくゆくよう、修法を頼んでおいたのだが、その礼をまだ言ってなかったので、出かけてきたのだと、そういうことにいたしましょう」
道士は言った。
「では、よろしくお願いします」
雲樵はそう言って、頭を下げたのだった。
家に帰ると、はたして、天井から、あの猫の声が響いてきた。
「おい、雲樵。今日の昼、未《ひつじ》の刻あたりに姿が見えなかったようだが、どこへ行っていた?」
そら来たぞと、雲樵はどきりとしたが、それは顔に出さずに、
「実は、青龍寺の坊主に世話になったことがあったのだが、これまでその礼も言わずに不義理をしていたので、今日はその礼に出かけたのだ」
言われた通りのことを言った。
「ふうん。神仏のことであれば、しかたあるまいよ」
声が言った。
「――しかし、誰にどういう世話になったのかな?」
いきなり訊いてきた。
雲樵は、道士ときちんと打ち合わせをしておいてよかったと思いながら、
「この七月に、徳宗皇帝が、未央宮で宴を……」
これもまた、打ち合わせ通りのことを言った。
「義操か」
声がつぶやいた。
「おれのことは言ったか?」
ふいに、声音を変えて、訊いてきた。
打ち合わせになかったことだ。
「い、いえ。あなたは、わたしが、芸妓と会ってくれば、その名前や癖まで見ぬいてしまわれる方です。いつもあなたがごらんになっていると思えば、とても、あなたのことなど坊主に話せるものではありませんよ」
雲樵は、額に汗をかきながら言った。
「ふむ」
「それとも、そういうことをお訊ねになるというのは、わたしが何をしているのかわからないことも、場合によってはあるということなのですか」
「いや、そんなことはない。おれはおまえが何をしていたか、ちゃんと知っているが、おまえを試すために、訊いただけだ」
声が言った。
――苦しい言いわけをしている。
雲樵は、心の中で笑いながら、いまに見ていろよと思った。
夜になった。
いつも、雲樵と妻が使っている寝室の敷きものの上に、床がのべられ、その横には、まるで、人が喰べでもするように、きれいに喰べ物が並べられていた。
酒までが用意されてあった。
雲樵の妻は、すでに白い夜着を身につけ、蒲団の横に座して、妖物がやってくるのを待っている。
部屋には灯りがともっている。
雲樵は、別室で、突然やってきた、叔父≠フ道士と顔を合わせて、あたりさわりのない話をしている。
雲樵の妻は、叔父がやってきた時に挨拶《あいさつ》に出、今日は気分が悪いから先に休みますと告げて、寝室に入ったのであった。
雲樵と向き合った道士の額には、何やら古《いにしえ》の文字が、小さく書かれている。
妖物にはこの文字は見えないのだと、道士は雲樵に説明している。この文字が書いてあれば、妖物には、道士もただの普通の人間としか見えない。
なにもかも、打ち合わせの通りである。
いまやくる
いまやくる
と、雲樵は、胸をどきどきとさせて、道士と話をしていた。しかし、その話はむろん上の空だ。待つうちに、
「あれ」
高い女の悲鳴があがった。
雲樵の妻の声であった。
寝室の方角である。
雲樵と道士は、寝室へ走った。
寝室の戸を開いて、中へ飛びこんだ。
異様な臭いが部屋に満ちていた。
「糞だ!?」
道士は言った。
便所からどうやって持ってきたのか、部屋中に、おびただしい量の糞がまかれていた。
雲樵の妻は、横に倒れたまま動かない。
毒を盛った喰べ物の上にも、倒れた雲樵の妻の上にも、糞がかけられている。
呵々《かか》、
と大笑する声が、その時部屋に響いた。
「おのれごとき小物道士に、このおれがどうにかできると思うたか」
大きな声が天井から落ちてきた。
道士は、懐から、何やら文字の書かれた呪符《じゅふ》を取り出して、それを部屋の柱に張りつけようとした。
その身体が、見えない何かに大きく跳ね飛ばされた。
道士は、糞の上に仰向けになった。
身体中の穴という穴――眼と、鼻と、口と、耳から出血している。
おそらく、肛門からも出血していると思われた。
道士は、半分気を失って、ううむ、と唸り声をあげている。
雲樵は、
「わあ」
と、最初に声をあげたきり、戸口のところにうずくまって、がたがたと震えている。
「おまえがこの道士のところへ出かけたのも、毒のことも、みんな知っておるわ。おまえに、おれの力がどれほどのものか見せるのに、ちょうどよい機会であるから、騙《だま》されたふりをしていただけよ」
見えない手が、道士の髪をつかんだように、道士の上半身が起きあがった。
道士の髪が、上にひっぱりあげられている。
道士の口がこじあけられ、その口の中に、上にふりかかった糞ごと、見えない手につかまれた毒の入った喰べものが押し込まれた。
すぐに、道士は、苦しそうに床の上でもがき始めた。
「うーん」
と、ひと声あげたきり、道士の身体は動かなくなった。
灯りが、その時、ふうっと消えた。
とたんに、家全体が、みしみしと音をたてて揺れ始めた。
そのうちに、天井の方から、ごしごしという音が聴こえ始めた。
のこぎりで、太い梁《はり》か柱を切っている音である。
「た、助けて下さい。わたしが悪うございました。どうか家を壊さないで下さい」
夢中で言った。
ごうごうと、家全体が鳴り出している。
「女房を抱かせるか」
声が言う。
「はい。そのかわりに、家は壊さないで下さい」
「ならば、外へ出ていろ。半刻ほど待ってもどってこい」
いやだと言っても、どうにもなるものではない。
「許せや」
倒れている妻にそう叫んで、雲樵は外に飛び出した。
外へ出てみると、あれほどごうごうと鳴っていたはずの屋敷は、少しも音をたてず、ぴくりとも動いてはいない。
「どうしたことか――」
妻の身が案じられたが、約束の半刻が経たぬうちにもどるのはこわかった。
他の使用人たちは、とっくに、家の外へ出、さらには庭から塀の外まで逃げ出していた。
半刻が過ぎた。
ようやく、雲樵は、家の中へ入る決心がついた。
家の中へ入った。
寝室の戸を開けた。
全裸の妻が、夜具の上に正座をしていた。
冷たい眼で、雲樵を見ているだけである。
「おまえ――」
雲樵が声をかけたが、妻は返事をしない。
糞にまみれて倒れている道士を抱き起こしてみれば、すでに、こと切れていた。
その夜から、妻は、雲樵に口をきかなくなった。
ただ、食事や、身の回りの世話はしてくれるのだが、それだけのことだ。
夜には、雲樵とは別の部屋に寝た。
その部屋からは、毎晩のように、妻の喘《あえ》ぐ声が聴こえてくる。
妖物と、雲樵の妻が交わっているのである。
激しい嫉妬の心がわいたが、どうにもなるものではない。
妻が、妖物とどのように交わっているのか、それが気になって、その部屋を覗《のぞ》きにゆこうかとも思うのだが、おそろしくてそれもできなかった。
道士の死体は、そのまま穴を掘って、庭に埋めた。
使用人が誰もいないのでちょうどよかった。
道士の死体をどうすればいいのか、教えてくれたのは、猫である。
「だいじょうぶだ」
と、猫は言った。
「おまえが、あの道士をたずねたことは、誰も知らん。使用人たちは、ここに来たのは、おまえの叔父だと思っている。身なりも、道服ではなく、普通の服を着てきたしな。今のうちに、道士の死体を埋めて、使用人たちが帰ってきたら、家が騒いで恐くなった叔父は、今夜は別の家へ泊まって、そのまま帰ることになったと言えばいいのだ。なにしろ、今日の今夜のことだから、道士も、まだ、おまえの家へゆくとは誰にも話をしていないだろう。もし、なにか、さしさわりのあるようなことがあっても、おまえは金吾衛だから、多少のことはどうにでもなるだろう」
その言葉に従ったのである。
家の使用人は、皆、やめさせて、新しい使用人を雇い入れた。
家が鳴っている時に、主をおいて逃げ出したからというのが表向きの理由だが、ほんとうの理由は、本物の叔父が洛陽からたずねてきた時に、前に家に訪ねてきたのが、偽の叔父であったと使用人にばれてしまうことをおそれたためである。
猫は、あいかわらず、家の中をうろついたりしては、よくあたる予言をした。
使用人たちも、その不思議な猫のことは気づいている。
「うちのご主人は、たいそうな猫をお飼いになっていらっしゃる」
気づいているとはいっても、その程度のことである。
そんなふうに日が過ぎてゆき、ある朝、まだ眠っていた雲樵は、ふいに、誰かに揺り動かされて眼が覚めた。
枕元を見れば、あの猫が、雲樵の額を前足で揺り動かしていたのである。
「目覚めたか」
猫は言った。
「わざわざおまえを起こしたのは、今朝がたおもしろいことがわかったので、それをおまえに教えてやろうと思ったからだ」
「何でしょう?」
雲樵が訊いた。
「死ぬな」
と、猫は言った。
「死ぬ?」
「ああ」
「誰か死ぬのですか?」
自分のことではあるまいかと、心臓をどきりとさせて、雲樵は訊いた。
「安心しろ、おまえのことではない」
「誰が死ぬのですか?」
ほっとして、雲樵は、また訊ねた。
「徳宗よ」
「え!?」
雲樵は声を高くした。
猫の言った人物の名が、信じられない人間の名であったからである。
「唐の徳宗皇帝が死ぬのさ」
声の調子を変えずに、妖物が言った。
「死ぬのは、ま、来年早々ということになろうか」
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第一章 空海怪力乱神を語る
(一)
洛陽《らくよう》は、長安に次ぐ唐の副帝都《ふくていと》である。
その街の中を、空海と、| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》は歩いている。
帝都である長安《ちょうあん》の食《しょく》をまかなっているのが、この洛陽であった。長安という巨大都市が必要としている米は、全て、いったんこの洛陽に集まってくる。
むろん、この洛陽を経て長安へ運ばれるものは、米ばかりではあり得ない。
国中から、米と共に、様々な物資、地方の工芸品に至るまでが、長安にたどりつくまでにこの洛陽を通過してゆく。
唐土における様々な運河は、ほとんど、黄河《こうが》と水でつながっている。その運河によって、水路をはるばると船で運ばれてきたものは、黄河を遡《さかのぼ》って、まずこの洛陽まで運ばれてくることになる。
それから、あるいはさらに船で、あるいは陸路を馬や牛に牽《ひ》かせた車で、長安まで運ばれてゆくことになるのである。
当時の中国にあって、地方から地方へ、荷物の運搬《うんぱん》に最も多く利用されていたのが、水路であった。船の方が、大量に、荷を運ぶことができるからだ。
そのために、長大な長さに及ぶ運河が、唐土には無数に掘られていた。
日本国からやってきた、藤原葛野麻呂《ふじわらのかどのまろ》率いる遣唐使の一行も、杭州《こうしゅう》から|※[#「さんずい+卞」、第3水準1-86-52]州《べんしゅう》まで、およそ一〇〇〇キロに及ぶ距離を、その運河でやってきたのである。
一行が、遣唐使船の流れついた福州を辞したのは、十一月の三日である。
そこから杭州まで陸路をゆき、杭州からが船であった。
運河である。
時には帆《ほ》を架《か》けて風を受け、時には櫓《ろ》を使い、時には岸づたいに牛に船を牽かせての水行《すいこう》であった。
中国の大河は、いずれも、西から東へ向かって流れている。その大河と大河とを、南北に水で繋《つな》いでいるのが運河である。
空海の乗った船は、杭州から運河に沿ってまず揚州――揚子江へ出、そこからさらに運河の水の上を、|※[#「さんずい+卞」、第3水準1-86-52]《べん》州までやってきたのであった。
唐土に渡ってから、最も長い距離を、その水路で移動したことになる。
|※[#「さんずい+卞」、第3水準1-86-52]《べん》州から、この洛陽までが陸路であった。
陸路をとらず、さらに運河を進んで、黄河に出、黄河を遡って水路でゆく方法もあったが、|※[#「さんずい+卞」、第3水準1-86-52]《べん》州から長安までは、洛陽を経て官道《かんどう》が通っている。その官道を馬車で移動する方が、早いからである。
藤原葛野麻呂は、何よりも急いでいた。
なんとか、年のうちに、長安までたどりつきたかったのである。
日本国の遣唐使団は、ようやく洛陽までたどりついていた。
空海と逸勢は、様々な物資と同様に、唐土のあらゆる地方からやってきた人間たちの造る人の渦の中を歩いている。
人馬が、かまびすしく行きかい、黄塵《こうじん》をあげながらふたりの横を通り過ぎてゆく。
逸勢は、激しい興奮を隠そうともせず、行きかう人間や、建物に眼を奪われていた。
その横を、讚岐《さぬき》生まれの留学僧《るがくそう》空海が、悠々と興奮を胸に溜めながら歩いている。
「おい、空海、あれが天津橋《てんしんきょう》だぞ」
洛陽の都を、南北に分けて流れる洛水《らくすい》にかかった大橋を見、逸勢が空海を肘で突いた。
――これがかの天津橋か。
逸勢の声も表情も、そういう感慨に満ちている。
逸勢だけでなく、遣唐使として、長安に向かう人間たちであれば、唐土に関するひと通りの教養は身につけている。
唐から日本に渡ってきた様々な書物にも眼を通している。
すでに、洛陽の地を踏む前から、洛水のことも、そこにかかっている天津橋のことも、知識として頭に入っている。その知識でしか知らなかった異国の都の光景を、今、現実に眼《ま》のあたりにしているという興奮が、この橘逸勢という男を、半分酔ったようにさせているのである。
――橘逸勢。
空海と同い歳の、儒学生である。
儒学をこの唐で学ぶのを目的としてやってきた人間ではあるが、唐に来たことを、これまであからさまに喜びとして表現したことがなかった。
運河の大きさや、その果てしない人工に驚きの声を、これまでに何度か洩らしはしたが、それは喜びの声とはまた違ったものであった。
逸勢は、めったなことでは己れの心の裡の感情を、声にも面《おもて》にも出さない。
その逸勢が、素直に喜んでいるのである。
「ふふん」
空海が、小さく含み笑いをした。
「なんだ、空海、何かおかしいのか?」
逸勢が訊く。
「いや、おまえが喜ぶ姿を初めて見たものだからな」
空海が言うと、逸勢が、ふいに真顔になる。
「悪いか」
「いや、悪くない」
それは良いことだ、そう言って、空海は歩いてゆく。
その空海を追うように、逸勢が声をかける。
「おれはな、空海、前にも船でおぬしに言うたが、喜んでこの唐土にやってきたわけではない」
「では、何故来た」
「まあ、はく[#「はく」に傍点]をつけるためであろうかな」
迷わずに逸勢が言う。
「はく[#「はく」に傍点]か」
「唐で儒学を学んだとなれば、おれのひと言にも重みがつく」
「うむ」
「たとえば、帝《みかど》にな、唐から帰ったおれが、ある時、ひと言申し上げるおりがあったとする――」
「どのようなおりだ?」
「まあ、その時の様子を説明しておくと、こうだな……」
逸勢は、その想像の状況を説明し始めた。
「それは、帝と、帝の心やすき者何人かが、つれづれによもやまの話などしておる時というのがよかろうな」
「ほう」
「その時の話が、たまたま信ということに及んでな、自分の臣が、どれほど信用がおけるものか試すにはどうすればよいかということになった」
「で?」
「まあ、色々な話が出るであろうな。そこに居る者の数だけ話が出る」
「うむ」
「しかし、このおれだけが黙っている。そのうちに、ひと通りの話が出たと思われる頃、おれがずっと黙ったままであることに、帝がお気づきになる。で、帝がおれに訊ねて言うであろうな。逸勢よ、おまえはさきほどから黙《もく》しておるが、自分の意見はないのか――」
「ほほう」
空海は、唇に笑みを溜めて、逸勢の言葉を聴いている。
「おそれながら、帝たるもの、臣を試すということなどなさらぬほうがよろしいかとわたくしは考えます――そうおれが言うと、それは何故かと、帝は訊くであろうな」
「うむ」
「そこでおれは言う。わたくしがかの地で聴き及んだことに、三狗《さんく》を試して三狗を失う≠ニいうことがございます、とな」
狗――つまり、犬のことである。
「三狗を試して三狗を失う?」
「おれが今造ったのだ」
「なるほど、そういうことか」
「聴けよ、空海――」
そう言って、逸勢は微笑した。
「場所はまあ、この洛陽でよかろうかよ――」
洛陽の都に、たいへん犬を可愛いがっている三人の男がいて、犬もよくこの男になついていた――
と、逸勢は語り出した。
ある時、この三人の男が集まって、それぞれ、自分たちの犬がどれほど自分になついているのかを自慢しあった。
最初の男は、
「たとえ、飲まず喰わずで自分と一緒にどこかに閉じ込められていたとしても、うちの犬は、飢えておれに襲いかかるようなことはない」
と。
二番目の男は、
「うちの犬だってそうだ。うちの犬は、自分が先に飢え死んで、主人のおれに自分の肉を喰わせようとするだろう」
と。
三番目の男は、
「うちの犬は、もし、おれが誰かに襲われたとすれば、自分の危険をかえりみず、おれを襲ってきた者に噛みついてゆくだろう」
と。
それでは、それが本当かどうか試してみようということになった。
最初の男と、二番目の男は、小さな小屋を造って、その小屋の中へ犬と共に入った。
最初の男も二番目の男も、自分が飢えるのはいやだから、犬をそのままに、日に一度、外に出て食事をとり、大小便をすませた。
七日目、最初の男の犬は、飢えて、自分の飼い主である男に牙をむいて襲いかかってきた。
身の危険を感じた男は、懐にしのばせていた短剣で、思わずその犬を刺し殺してしまった。
二番目の男の犬は、その男が言ったように、十一日目に、本当に飢えて死んでしまった。
三番目の男は、その犬の見ている前で、知人に自分を襲わせた。すると、はたして、三番目の男の犬は、男を襲ってきた知人にむかって牙をむいた。
知人は足を噛まれた。
男が犬を止めようとしても、犬は知人に噛みつくのはやめない。ついに男は、怒って、犬を持っていた棒で激しく叩いて、噛みつくのをやめさせた。
三番目の男が、夜道を歩いていて、本当に盗人に襲われたのは、それから三月後だった。連れていた犬は、その時、盗人に襲いかかりも吼《ほ》えもせず、結局、男は金を奪われたばかりではなく、刃物で胸を刺されて大|怪我《けが》を負った。
「こんなに役に立たぬ犬はない」
と言って、三番目の男は、その犬を家族の者に殺させてしまった。
「結局三人の男が、その三匹の犬を失ったことになります……」
逸勢は、自分が帝に言う時の声色を真似て、重々しく言った。
「ふうん」
「つまり、こういうでっちあげを言ったとしても、唐帰りの逸勢が言ったとあれば、それなりに言葉の響きに、重みもあろうというものではないか――」
「朝廷《あそこ》というところは、そういうところがあるのは認めるよ」
「あそこ?」
「朝廷さ」
空海は、さらりと言ってのけた。
「まあ、はく[#「はく」に傍点]はつくだろうがな。しかし――」
逸勢はつぶやいた。
「しかし?」
「しかし、二十年は長い」
逸勢は言った。
「長いな」
空海も言った。
空海にしろ、逸勢にしろ、留学期間は、二十年である。
唐で二十年を暮らさなければ、日本の土を踏むことはかなわないのだ。それよりも早く帰れば、悪くて死罪。逸勢ならば、左遷されて、一生地方勤めの官職にさせられてしまうというのならまだいい方である。
「だから、おれは、唐にゆくのが決まった時から、実は後悔していたのだよ。どうして二十年も、自分の生まれた土地を離れねばならぬのかとな――」
逸勢は告白した。
「しかし、今、ここで洛陽の都を歩き、むこうに天津橋を眺めたりしているうちに、うっかり、そのことを忘れていたのだ――」
「うむ」
「それを空海、おまえが余計なことを言うものだから、また思い出してしまったではないか――」
「後悔をか」
「そうだ」
「それは悪かった」
空海の言い方はそっけない。
そういう空海とのやりとりも、逸勢は慣れてしまっている。
ともすれば、その才が先に走り出してしまうような逸勢にとって、一番我慢のならないのが、愚鈍な男である。
「なあ空海――」
逸勢は、洛陽に来る途中、運河をゆきながら、船の上で空海に言ったことがある。
「おれは、何が一番我慢がならないと言って、馬鹿が一番我慢がならないのだよ」
逸勢の言い方は、素直である。
もちろん、皆のいる前で、それを口にしたのではない。
船の舷《ふなばた》近くに立って、一行の仲間が近くにいない時を見計らって、それを口にしたのである。
もし、この時の遣唐使の一行で、空海という男の才――その不可思議さに、最初に気づいた人間がいるとすれば、この橘逸勢であった。
空海の乗った遣唐使船は、洋上で嵐に遭っている。
船が、嵐と波にもまれ、ばらばらになるかと思われる状態にあってさえ、ひとり、超然としていたのが、この空海であった。
洋上を、何十日となく漂流している時にも、この空海だけは、一日ひと握りほどに支給を減らされた糒《ほしい》を、水でゆるめてそれを無言で噛んでいた。
卜部《うらべ》や陰陽師《おんみょうじ》が、船中でしきりと法を行ない、方位を見、船の進むべき方向をあれこれさぐろうとしている時も、空海のみは、ただ船上に座して、日がな海と天とを眺めていた。
昼には空と雲を、夜には星を、空海は呆《ほう》けたようにただ眺めていた。
嵐の時でさえ、空海は、何の法も行なわずに、ただ座して、波の上げ下げに身体を合わせていた。
「おまえ、坊主のくせに、こういう時に、経も唱《よ》まぬのか」
逸勢は空海に訊いた。
「そんなもので、この天地が動くものか――」
空海は、あっさりと答えた。
「卜部の法も、陰陽の法も、とてもこの天地を動かせるものではない」
「ならば、おまえの仏法ならば動くのか」
逸勢は訊いた。
空海は笑って、
「仏法とて例外ではない」
やはり、あっさりと答えてのけた。
「ならば、どうしようもないのか」
「そうだ」
と、空海は答え、
「どうしようもないから、ただ座っている」
逸勢に言った。
「おまえ、それで平気なのか」
「平気というのとは違う。天運にまかせる覚悟があるだけのことだ」
「天運?」
「運命だ。もし、おれが唐にゆくべき運命にあるのなら、この船は、間違いなく唐土に着く」
「もし、そういう運命になければ?」
「船は沈むだろうな」
「それでは何も変わらぬではないか」
「そんなことはない」
「何故だ」
「おれにはどうやら天運があるらしいからな」
「なに?」
「おれの天運を信ずればよい」
「天運だと?」
「そうだ。おれは、もともとは、この船に乗れぬ人間であった。それが乗れたのだ」
空海の言ったことは本当であった。
本来であれば、遣唐使船は、昨年の夏に出ているべきものであった。それが、船団が難波津《なにわづ》から出航して六日目に暴風雨に出会い、船が破損して、出発が一年先に延びたのである。
それで、この船に乗ることができたのだと空海は言うのである。
「だから、おまえは、自分が唐にゆくべき運命にあるというのか」
「まあ、そうだな」
無造作に空海は答えたのだった。
「しかし、おまえの天運を信じても信じなくても、船が唐に着くものであれば着くであろうし、着かぬものなら着かぬであろうが」
「うむ」
「信じても、信じなくても同じではないのか」
「そうだ」
言われて、逸勢は言葉を失った。
「それが運命というものなのだ。しかし、信ずれば、沈むにしても、唐へ着くにしても、その時までは心やすらかでいられる」
「なに!?」
「そのあたりが仏法よ」
空海に言われて、逸勢の内に張りつめていたものが萎《な》えた。
そんなやりとりも、海ではあったのだ。
空海という顎の張った奇怪な僧に、逸勢が、妙に魅《ひ》かれるものを感じたのはその時である。
ともかくも、その運命によって、日本を発った四隻の遣唐使船のうち、空海の乗った第一船と、最澄《さいちょう》の乗った第二船は、唐にたどりつくのである。もっとも、第一船の一行が、二船がすでに一船に先がけて唐にたどりついていたことを知るのは、しばらく後のことになる。付け加えておけば、第三船は最初に遭遇した嵐の中で沈没、第四船については、沈没したかどうかさえ、わからないままになった。
さて――
空海とは、いったい、どういう男であるのか。
それが、しかし、逸勢にはわからない。
|※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]《びん》の地に、船はいったんは流れついたのだが、漂流したあげくにたどりついた地である。
田舎であった。
日本からの遣唐使船であると告げても、その地の役人ではどう処置してよいかわからず、厄介払いをされるように、一行は|※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]《びん》の地を発って、再び船で福州へ向かったのである。
その時、一行が気の遠くなるような思いをしている時も、空海は、静かであった。
自分が間違いなく、長安にたどりつけるものだと、天運を信じて疑ってないようであった。
海岸沿いに南下し、|※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]江《びんこう》の河口に出、さらに|※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]《びん》江を櫓《ろ》で漕《こ》ぎながら船で三日ほど遡《さかのぼ》り、福州の港へ着いたのだが、そこでも、一行を待っていたのは、さらに気の遠くなるような、役人との交渉の日々であった。
|※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]《びん》の地――赤岸鎮に漂着したのが八月十日である。福州に到着したのが十月三日である。すでに、唐の地に漂着して二カ月も経つというのに、一行はまだ水の上であった。
しかもさらに、一行は、福州において上陸を許されなかった。
すでに、日本から持ってきた食料は尽きていた。
途中、赤岸鎮で、食料の補充はしたが、それとても充分ではない。
無数の病人が出ている。
痩せ衰え、歯茎から血ばかりを流し、ほとんど水だけで生命を繋《つな》いでいる者もいる。
生の野菜を充分な量手に入れられれば、歯茎からの出血は止まり、手足のむくみもおさまることはわかっているのだが、与えられる食料は充分ではない。
地獄図とまではゆくまいが、もう一歩か二歩で、そこまでいってしまう状態であった。
百二十人という船でここまでやってきた人間のうち、まともに動けるのは、三分の一に満たない。
全員が、身体や精神をおかしくしているなかで、痩せはしたが、空海のみが、色黒々として、炯《けい》とした光をその眼に溜めているばかりであった。
空海は、二十代の初めから、三十一歳のその歳までのおよそ十年近い歳月を、日本中をまわって過ごした。そのうちの半分以上の時間を、山岳修法に費している。
身体の丈夫さ、体力にかけては並はずれたものを有していた。
しかし、上陸の許可がおりなかった。
河口の湿沙の上には居たが、これはかたちのみのことで、上陸と呼べるものではない。
船は封じられ、濡れた沙州の上で、一行は寝起きをさせられたのである。
大使である藤原葛野麻呂が、福州の地方長官宛に、何度も歎願書を出すのだが、上陸の許可がおりないのだ。
その歎願書を、どうやら地方長官は、ろくに目を通しもせずに、読み捨ててしまっているらしい。
よほどの悪文であり、よほどの悪筆であったのであろう。
遣唐使の大使として、それなりの漢文に対する教養はあったのだろうが、とても実戦むき漢文を操れる人間ではなかったらしい。
一行にとって、不幸であったのは、自分たちが国使であることを証明する印符が、二船の判官菅原清公《ほうがんすがわらのきよきみ》にあずけてあったことである。
国書については、それを携行しないのが日本の遣唐使の通例となっている。しかし、その通例を、地方の役人に語ってわかるわけもなかった。
当時の中国――唐は、文《ふみ》の国である。文章をもって人を見る。
葛野麻呂は、もともと、その才によって官位についた人物ではない。門閥《もんばつ》によって、今の地位を得た人間である。
文章の才までは、門閥によっては得られない。
湿沙の上で、自分の船にも自由にもどれぬ状態のまま、二十日近くが過ぎた。
橘逸勢が、生い繁る蘆《あし》の陰に空海を呼び寄せ、
「なんとかならぬものか、空海よ」
そう言ったのは、その頃であった。
「なんとかとは?」
空海は、水を渡り、夏草を揺らしてきた風に頬をなぶらせながら言った。
「このままでは、埒《らち》があかぬ。おまえであれば、なんとかなるのではないか」
この時には、すでに、逸勢は、この無名の留学僧に普通でない関心を抱いている。
現に、唐土にかたちばかりにしろ降り立ったその日から、空海はなめらかな唐音をあやつり、通詞も通さずに、この国の人間と言葉をかわしているのである。
逸勢はそれを驚きの眼で見た。
空海は、日本にいる間に、雑密《ぞうみつ》を学んでいる。
唐から、切れ切れに伝わってきた密教を、ほとんど独学で学び、密一乗を求めての入唐《にっとう》であった。
すでに空海の脳裏には、宇宙の輪郭すら描かれている。感覚的には、密教の宇宙論を、その自分の肉体に重ね合わせて理解さえしていた。
そして、空海が日本で学んだのは、密教だけでなく、唐語もそのうちに含まれていた。
当時の日本に、無数にいた帰化人たちを訪ねては、唐語の学習もしていたのである。
そうは言っても、いきなり、初めて唐土の土を踏み、そこで会った唐の人間――しかも田舎であり、長安で使われていたような標準語ではなく、訛《なまり》のひどい唐語を話す人間と、なめらかに唐語を話すというのは、並の才能でできる芸当ではない。
日本という小島の文化が、世界史レベルの才能をこの世に最初におくり出したのが、空海である。
同じ船団で、やはり唐に渡った最澄も、日本では若くからその才能を認められていた人間である。その最澄が、唐にゆくにあたっては、自分専用の通詞を連れていたことから考え合わせれば、空海の特筆すべきその才能の片鱗《へんりん》を窺《うかが》い知ることができよう。
しかもなお、空海は、独学でそれを成《な》したのであり、ついでながら、唐へ渡る費用についても、自分でそれを捻出したのである。国からの金をもって日本を出た最澄とは、その点でも違っている。
逆の見方をもってすれば、当時、無名であった空海が唐にゆくということは、それほどのことであったということである。
しかし、それを成すだけの才を空海が持っていたのも、また事実であった。
ともかくも、逸勢は、空海を呼び寄せたのであった。
「うむ」
空海はうなずき、
「なんとかならぬものでもないが」
曖昧《あいまい》な言い方をした。
「おまえの筆のたつのは、おれも知っている。文章の方も、なかなかのものだ」
逸勢は言った。
船旅のつれづれに、空海と逸勢とは、唐の文人を真似て、興のおもむくままに、船上で漢詩や漢文による文章のやりとりをしたことが、何度かあった。
その時の文字と文章は、己れの才には自信過剰ぎみの逸勢でさえ、眼を見張らせるものがあった。
「あんな俗吏《ぞくり》の文章など、百や二百送ったところで、どうにもなるものではない」
逸勢は声をひそめて言った。
俗吏というのは、藤原葛野麻呂のことである。
才能もなく、門閥により官位を得た人間を、逸勢は好ましく思ってはいないらしい。
「歎願書はおまえが書いたらどうだ」
逸勢は言った。
「そうだな。実は、おれもそうは思っていたのだ」
空海は、風に吹かれながら言った。
「しかし、自分からそれを言うには、少し問題があってな」
「どんな問題だ」
「しかし、その問題も、たった今かたづいたようだ」
「何を言っているのだ、空海よ」
「いや、逸勢よ。おまえだから言うが、たしかにあの男よりは、おれの方が、字も文もうまかろうよ。しかし、それをおれが言い出すのでは、あの男の立場があるまい。あからさまに、おまえの文はだめだと、おれが言うようなものだからな」
「ならば、おれに、そう言ってくれれば、おれがなんとでもできたろうに――」
言ってから、逸勢は、気がついたように言葉を止めて空海を見た。
「そうか。おまえ、おれにも気を使《つこ》うていたかよ」
逸勢は言った。
葛野麻呂に、自分が歎願書を書くからとは空海が言えないのと同じ理由で、あの空海という男に、歎願書を書かせてはどうかと、逸勢が葛野麻呂に言うというのも、それをやはり空海が案として逸勢にもちかけたのであっては、逸勢の自尊心を傷つけることになる。
逸勢も、自分の筆については、それなりの自負を有しているからだ。
そこに、おまえは気を使っていたのだなと、逸勢は空海に言ったのである。
「なるほど、問題がかたづいたというのは、そのことであったか」
つまり、空海自身ではなく、他人――それも逸勢が、自分から、歎願書を書けと空海に言い出したからである。
逸勢が、空海にそう言い出した時、すでにその問題はかたづいていたことになる。
「いや、くやしいことだが、空海よ。文章はおまえにはかなわぬからな」
素直に、逸勢は言った。
三筆《さんぴつ》、という言い方がある。
日本の書道史上で、その書に秀でた才を持つ人間――空海、橘逸勢、嵯峨《さが》天皇、その三者を差して呼ぶ言葉であるが、その三人とも、平安初期に生きた同時代人である。
しかし、その三人のうちでは、筆の勢い、呼吸、品格、文章、そのどれをとっても空海のそれが、他のふたりをおいて抜きん出ている。
文章はともかく、書においても、空海の方が自分よりも優《まさ》っていたと、この才人である逸勢が実際に思っていたかどうか。少なくとも、逸勢のような性格の男が、たとえそれが書でなくて文章であるにしろ、自分よりもおまえの方が優れていると口にしたかどうか。
それを、逸勢は口にした。
「不思議な男だな、おまえ」
かなわないと言ってから、ふいに、逸勢は空海に向かってそうつぶやいた。
「なにが不思議だ」
「おれは、めったに、自分よりも、おまえの方がすぐれているなどと、他人には言わぬ男だ。特に、書や文章に関してはな」
「ほう」
「それを今、うっかり口にしてしまった。言ってからそのことに気がついた。その気がついたことまで、こうしておまえにしゃべっている。だから、不思議な男だというのだ」
「ふうん」
空海の返事は、空気のようであった。
「で空海よ、おまえが書くのだな」
逸勢が言った。
「書く」
「おれがあの男に言おう」
逸勢は、すでに藤原葛野麻呂を呼ぶ時には、あの男になっている。
「そうだな。こんな言い方がよかろうよ――」
言って、空海は微笑する。
「どのような言い方だ」
「わたくしが――このわたくしというのは、おまえのことぞ、逸勢――」
「うむ」
「わたくしが見ましたところ、我等の仲間の空海という坊主が、ほどほどに筆がたつように思えますが――」
「おう」
「見れば、通詞もなしに、この地の者とも話をしている様子で、そのことは閣下もごらんになっておられるでしょう。で、歎願文でございますが、そのようなものは、なにも閣下が御自分でお書きになることもないでしょう――」
「あの空海に命じて書かせればよいではありませんか」
空海の言葉をひきついで、逸勢が言った。
それをさらに空海が受けて続ける。
「なんなら、わたしが、閣下の命を空海に伝え、ここまで呼んできましょう。あの男に書かせればよいのです」
空海は、言い終え、逸勢と顔を見合わせて笑った。
その通りになった。
空海は、筆と、硯《すずり》と、墨と、板とを持って、湿沙の上に繁《しげ》った丈高い夏草の中へ、独り入って行った。
空海が、夏草の中から出てきたのは、ほどなくであった。
逸勢や、葛野麻呂が、そろそろ想が練れて、書き始めたかどうかと思った頃であった。
書き終えた歎願書を手にして、空海は、にこやかに笑って風の中に立っている。
「こんなものだろうよ」
空海は言った。
名文であった。
[#ここから2字下げ]
賀能《かどう》、啓《もう》す。高山、澹黙《たんもく》なれども、禽獣《きんじゅう》、労《ろう》を告げずして投帰《とうき》し、深水《しんすい》言わざれども、魚竜《ぎょりゅう》、倦《う》むことを憚《はば》からずして逐《お》い赴《おもむ》く。故《ゆえ》に|西 羌 険《せいきょうけわし》きに梯《かけはし》して垂衣《すいい》の君に貢《みつぎ》し、南裔《なんえい》深きに| 航 《ふなわたり》して刑暦《けいそ》の帝《てい》に献《けん》ず。
[#ここで字下げ終わり]
このような文章をもって始まる歎願書であった。
賀能《かどう》というのは、葛野麻呂のことである。
意訳する。
[#ここから2字下げ]
高山は、黙《もく》しているけれども、鳥や獣はその山の高きを慕って集まってくる。深い水は、何も言いはしないが、魚や竜が、その水の深きを慕って群れてゆく。それと同じように、西や南の蛮人でさえ、険しい山を越えて有徳《うとく》の天子《てんし》の元に集まり、あるいは船で水を渡って、刑法を用《もち》いずともよく治めることのできる名君《めいくん》の元へやってくるのである。
[#ここで字下げ終わり]
それほどの意味である。
大唐国文明が、それほどに優れているのだと、まず空海は書いておき、きらびやかで、しかも品位を持った文章で本題に入ってゆくのである。
その文章は、数ある空海の文章の中でも、特に格調が高く、すぐれたもののひとつになっている。
ほろほろと筆から言葉がこぼれ、その音が楽の音《ね》のごとくに響いてまだ残っていそうな文章であった。
先の文章から、次のように続く。
[#ここから2字下げ]
誠に是れ明らかに艱難《かんなん》の身を亡ぼすことを知れども、然《しか》れども猶命《なほめい》を徳化《とくくわ》の遠く及ぶに忘るるなり。
伏して惟《おもんみ》れば大唐《だいたう》の聖朝、霜露の均《ひと》しき攸《ところ》、皇王《くわうわう》宜しく宅《いへ》とすべし。明王|武《あと》を継ぎ、聖帝重ねて興《おこ》る。九野《きうや》を掩頓《えんとん》し八紘《はっくわう》を牢籠《らうろう》す。是《ここ》を以《もっ》て我が日本国、常に風雨の和順なるを見て定んで知んぬ、中国に聖|有《いま》すことを。巨棆《きょりん》を蒼嶺《さうれい》に刳《くぼ》めて、皇華《くわうくわ》を丹《たん》|※[#「土へん+犀」、57-1]《ち》に摘む。蓬莱《ほうらい》の|※[#「王+深のつくり」、第3水準1-88-4]《たから》を執《と》り、崑岳《こんがく》の玉を献ず。昔より起って今に迄《いた》るまで相《あひ》続いて絶えず。
| 故 《かるがゆゑ》に今、我が国主、先祖の貽謀《いぼう》を顧みて今帝《きんてい》の徳化を慕ふ。謹んで太政《だいじゃう》官|右大辨正三品兼行越前国《うだいべんじゃうさんぼんぎゃうゑちぜんのくに》の太守、藤原朝臣賀能等《ふぢはらのあそんかのうら》を差して使《つかひ》に充《あ》てて国信|別貢《べつこう》等の物を奉献す。賀能等、身を忘れて命《めい》を銜《ふく》み、死を冒《をか》して海に入る。既に本涯《ほんがい》を辞して中途に及ぶ比《ころ》に、暴雨帆を穿《うが》ち|※[#「爿+戈」、第4水準2-12-83]風柁《しゃうふうかぢ》を折る。高波|漢《かん》に沃《そそ》ぎ、短舟裔裔《たんしうえいえい》たり。凱風朝《がいふうあした》に扇《あお》げば肝《きも》を耽羅《たんら》の狼心《らうしん》に摧《くだ》き、北気夕《ほくきゆぶべ》に発《おこ》れば胆《たん》を留求《りうきう》の虎性《こせい》に失ふ。猛風に頻蹙《ひんしゅく》して葬を鼈口《べっこう》に待ち、驚汰《けいたい》に攅眉《さんび》して宅《いへ》を鯨腹《げいふく》に占む。浪に随《したが》って昇沈し、風に任せて南北す。但天水《ただてんすい》の碧色のみを見る。豈山谷《あにさんこく》の白霧《はくぶ》を視《み》んや。波上に掣掣《せいせい》たること二月有余、水尽き人疲れて、海長く陸《くが》遠し。虚《そら》を飛ぶに翼|脱《ぬ》け、水を泳ぐに鰭殺《ひれそ》がれたるも、何ぞ喩《たとへ》と為《す》るに足らん哉《や》。
僅かに八月の初日に、乍《たちま》ちに雲峯《うんぽう》を見て欣悦極罔《きんえつきはまりな》し。赤子《せきし》の母を得たるに過ぎ、旱苗《かんべう》の霖《あめ》に遇《あ》へるに越えたり。賀能等|万《よろづ》たび死波を冒《をか》して、再び生日《せいじつ》を見る。是れ則《すなは》ち聖徳の致す所にして、我が力の能《よ》くする所に非《あら》ず。
又大唐の日本に遇すること、八狄《はってき》雲のごとくに会うて高台に膝歩《しっぽ》し、七戎《しちじゅう》霧のごとくに合《こぞ》って魏闕《ぎけつ》に|稽※[#「桑+頁」、第3水準1-94-2]《けいさう》すと云ふと雖《いへど》も、而《しか》も我が国の使《つかひ》に於ては殊私《しゅし》曲げ成《な》して待するに上客を以てす。面《まのあた》り龍顔《りょうがん》に対して自《みづか》ら鸞綸《らんりん》を承る。佳問栄寵已《かぶんえいちょうすで》に望《のぞみ》の外《ほか》に過ぎたり。夫《か》の|※[#「王+樔のつくり」、第4水準2-80-89]《さ》|※[#「王+樔のつくり」、第4水準2-80-89]《さ》たる諸蕃《しょはん》と豈《あに》同日にして論ず可《べ》けんや。又|竹符《ちくふ》・銅契《とうけい》は本《もと》|※[#「(女/女)+干」、第4水準2-5-51]詐《かんそ》に備ふ。世|淳《あつ》く、人|質《すなほ》なるときは文契《ぶんけい》何ぞ用ゐん。是の故に我が国|淳樸《じゅんはく》より已降《このかた》、常に好隣《かうりん》を事とす。献ずる所の信物《しんぶつ》、印書《いんしょ》を用ゐず。遣《また》する所の使人《つかひびと》、|※[#「(女/女)+干」、第4水準2-5-51]偽《かんぎ》有ること無し。其の風を相襲《あひつ》いで今に尽くること無し。加以使乎《しかのみならずしこ》の人は必ず腹心《ふくしん》を択《えら》ぶ。任ずるに腹心を以てすれば、何ぞ更に契《けい》を用ゐん。載籍《さいせき》の伝ふる所、東方に国有り、其の人|懇直《こんちょく》にして礼義の郷《さと》、君子の国といふは蓋《けだ》し此《これ》が為か。
然《しか》るに今、州使《しうし》責むるに文書を以てし、彼《か》の腹心を疑ふ。船の上を|※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]括《けんくわつ》して公私を計《かぞ》へ数ふ。斯《こ》れ乃《すなは》ち、理、法令に合《かな》ひ、事、道理を得たり。官吏の道、実に是れ然る可《べ》し。然りと雖《いへど》も遠人乍《ゑんじんたちま》ちに到って途《みち》に触れて憂《うれひ》多し。海中の愁猶《うれひなほ》胸臆に委《つも》れり。徳酒《とくしゅ》の味未《あぢはひいま》だ心腹《しんふく》に飽かず。率然《しゅつぜん》たる禁制、手足《しゅそく》|※[#「厂+昔」、第3水準1-14-83]《お》きどころ無し。又|建中以往《けんちゅういわう》の入朝の使の船は、直ちに楊蘇《やうそ》に着いて漂蕩《へうたう》の苦しみ無し。州県の諸司、慰労すること慇懃《いんぎん》なり。左右、使に任せて船の物を|※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]《しら》べず。今は則《すなは》ち、事、昔と異なり、遇すること望と疎《おろ》そかなり。底下の愚人、竊《ひそか》に驚恨《けいこん》を懐く。
伏して願はくは遠きを柔《なつ》くるの恵《めぐみ》を垂れ、隣《となり》を好《よみ》するの義を顧みて、其の習俗を| 縦 《ほしいまま》にして常の風《ふう》を怪まざれ。然《しか》れば則ち涓涓《けんけん》たる百蛮《はくばん》、流水と与《とも》んじて舜海《しゅんかい》に朝宗《てうそう》し、|※[#「口+禺」、第3水準1-15-9]※[#「口+禺」、第3水準1-15-9]《ぎょうぎょう》たる万服《ばんぷく》、|葵※[#「くさかんむり/霍」、第3水準1-91-37]《きくわく》と将《とも》んじて以て堯日《げうじつ》に引領《いんりゃう》せん。風に順《したが》ふ人は甘心《かんしん》して逼湊《ふくそう》し、腥《なまぐさ》きを逐《お》ふ蟻は意《こころ》に悦んで駢羅《へんら》たらん。今、常習の小願に任《た》へず。奉啓不宣《ほうけいふせん》。謹んで言《まう》す。
[#ここで字下げ終わり]
「ううむ」
と唸ったのは、逸勢ばかりではない。
葛野麻呂も唸った。
名文家空海が遺《のこ》した文章の中でも、特別な光芒を放っている。
これほどの文章を書ける者が、唐でさえ何人いるか。溢《あふ》れるばかりの才であでやかに飾りたてられているが、論旨は明確であり、格調がある。これを書く時の空海の呼吸が、耳に聴こえてきそうな文章であった。
その空海が書いた歎願書が届けられた途端に、嘘のように、事がなめらかに進み始めたのである。
空海の文章によって、目の玉を叩かれたが如く、待遇が一変したのである。
「あれは、まるで、おまえが何かの術でも使ったように見えたよ」
運河をゆく船上で、逸勢は、そう空海に言った。
口を開いているのは逸勢で、空海はほとんど、黙ってうなずいている。
「何を見ているのだ」
逸勢が訊いた。
「運河だ」
短く空海が答える。
「見ていておもしろいか」
「おもしろいな」
「どうおもしろい?」
「凄い」
「凄い、だと?」
「なるほど、人は、ここまでできるのだなあ」
妙に感慨のこもった声で、空海が言った。
「この水路のことか」
「そうだ」
これほど長大な人工を眼にするのは、空海も逸勢も初めてであった。
この運河を造ったのは、隋《ずい》の煬帝《ようだい》である。
数百万人の農民を使い、水路を掘り、黄河と揚子江との間の、気の遠くなるような距離を水でつなげたのである。
この運河が完成すると、煬帝は、揚州と洛陽との間に竜船を浮かべ、その中で酒池肉林の宴《うたげ》を何度も催した。それがために隋は滅びたとも言われている。
運河の上で、空海は、様々に思いをめぐらせては、自分の脳裏に浮かんだその想《そう》に、讚嘆の声をあげたり、溜め息を洩らしたりしているのである。
さて――
話を洛陽の街にもどそう。
「唐土も悪くない」
逸勢は、洛陽の雑踏の中を歩いているうちに、そんな言葉さえ洩らすようになっていた。
おう――
逸勢は、自分が、すでに書物で知っている街並や、情景を眼にする度《たび》に、小さく声をあげ、あれは何々に書かれていたこれこれではないか――とつぶやく。
そういう知識については、驚くほどのものを逸勢は有しているようである。しかし、儒生《じゅせい》であるためなのかどうか、逸勢の知識や興味にはやや偏《かたよ》りがある。
哲学的な思考よりは、事実や現実に即した事象や知識の方に、逸勢の興味はあるらしかった。
もともと、儒学では、
怪力乱神を語らず
ということがある。
現代風に言えば、UFOだの幽霊だの超能力だのということについては語らない、ということである。
空海よりさらに千年以上も昔に、儒学の祖である孔子がそういうことを言っていたというのが支那という国の懐の深いところである。
『淮南子《えなんじ》』にこれこれとあるのは、このことであろうかな――などと、逸勢は空海の知識を試すような問いを放ってくることもあった。
そういう問いのほとんどに、空海はよどみなく答えている。
「おまえは、知らぬということがないのか」
逸勢は、空海との会話から、空海が、唐書に限らず、たとえば好色書の類《たぐい》である雑書まで読んでいるらしいことに気がついてそんなことを言ったりもした。
たまに、空海の知らぬことがあると、
「安心した、おまえでも知らぬことがあるのだな」
逸勢は嬉々として言った。
自分の専門である儒学のことまで、自分以上に深く、この沙門《しゃもん》が知識を持っているらしいことに、逸勢はすでに気づいている。
空海自身、もとはこの逸勢と同じように儒生であった。
十八歳の時に、大学に入り、そこで儒学を学んでいる。十五歳で、叔父である阿刀大足《あとのおおたり》に師事した時から数えれば、その時までに、儒生としては二年の時間を、空海の天才は儒教を吸収していたことになる。
そして、空海は二十代初めで、儒教と訣別《けつべつ》している。
その時に、二十四歳という若さで、当時は真魚《まお》の名であった空海は、『三教指帰《さんごうしいき》』という、全三巻の書をあらわしている。
『三教指帰』は、儒教、道教、仏教の三教を、比較思想論として、戯曲風に述べたものである。文体は、六朝《りくちょう》風の華麗な四六駢儷体《しろくべんれいたい》であった。
日本で最初の、比較思想小説である。
その『三教指帰』の中で、真魚――若き空海は、儒教、道教よりも、仏教を上位に置いた。
それは、言うなれば、儒教との訣別の書であった。
その著書の中で、空海は、すでに『文選《もんぜん》』・『礼記《らいき》』など多数の漢籍《かんせき》(漢書)を、縦横に引用してのけている。その頃より、空海の漢籍に対する知識は並々ならぬものがあったといっていい。
しかし、何故、空海が、儒教を捨てたのか。
それは、明解である。
さまざまな、思想的、現実的、感情的、肉体的なまがりくねりはあったにしろ、それは、つまるところ次のようなところに集約できるのではないか。
儒教には、宇宙や生命についての答えがない
というのが、その理由であったのではないか。
儒教というのは、結局、極論すれば俗世の人の作法の学問でしかない。
それを学んだ果てには、俗世での栄達も、収入もあろうが、所詮《しょせん》、それはそれでしかない。
儒教と道教とはむろん違うが、道教にしても、
宇宙や生命についての答えがない
という点では、同じであった。
しかし、この洛陽の街をそぞろ歩いている逸勢は、むろんのこと、空海の『三教指帰』について知るべくもない。
この、唐語を唐人と同様にあやつる、博識な、自分と同年齢の男の才を、
不思議な男よ
そういう風に捉えている。
ゆくうちに、いつの間にか、ふたりは南市《なんし》の一画に入り込んでいた。
市場である。
様々な店が軒《のき》を並べ、ある者は直接路上に野菜や肉を並べ、ある者は、絹を売り、ある者は生きた鶏《にわとり》や、馬や、牛を売っている。
「凄いな」
空海が、つぶやく。
人や、人のたてる喧噪《けんそう》が、渦のように空海と逸勢を包んでいる。
ゆくうちに、
「おう……」
逸勢が声をあげた。
行く手に一本の大きな柳樹があり、その根の周囲を人が囲んでいるのである。
「大道芸か」
逸勢は、すぐさま、そこの様子を見てとっていた。
人の群れを分けて、その見物人の中に立つと、独りの、黒衣の男が、柳樹の前に立って、何かをしゃべっていた。
顔に、白い髭《ひげ》をはやした、細い眼の老人であった。
右手に、杖を握っていた。
「何をしゃべっているのだ?」
逸勢は訊《き》いた。
逸勢には、ほとんど、現地の唐語がわからない。
老人が、何かを売っているらしいことはわかる。
しかし、何を売っているのか。
それらしいものは、老人の周囲には見当らない。
ただ、大きな桶《おけ》が老人の横に置いてあるだけだ。
桶は深くて、その中には何が入っているのかわからない。
ただ、桶の縁に、柄杓《ひしゃく》らしいものが乗せてあるので、水か何かが入っているのだろうと思われるだけである。
「瓜《うり》を買わないかと言っている」
空海が、老人の台詞《せりふ》を、逸勢に通訳する。
「瓜? 瓜などは、どこにもないではないか。あの桶の中に入っているのか?」
逸勢が訊く。
「まあ、待て――」
空海は、楽しそうに眼を細めた。
空海には、老人のしゃべる言葉が、よどみなく耳に入ってくる。
「さあ、誰か、瓜を買う者はおらぬか」
老人が言っている。
空海は、それを眺めながらその状況を逸勢に説明する。
「よし」
誰かが声をあげた。
「おれが瓜を買おう」
商人風の男であった。
南市まで商《あきない》にやってきて、ふとこの人だかりの中に立ち寄ったものらしい。
「おいくつさしあげましょうかな」
老人が訊いた。
「ふたつだ」
商人風が答える。
「よろしい」
黒衣の老人は、大仰にうなずいて、懐に左手を差し込んだ。
何かを取り出した。
小さなものだ。
これを、左手の人差し指と親指でつまんでいる。
黒い粒であった。
「瓜の種らしいな」
空海が、逸勢に言った。
老人は、右手に握った杖の先で、足元の地面を掘り始めた。
「さてこの瓜の種をこうしてここへまけばすぐに瓜ができる。すぐに瓜がなる」
瓜の種を蒔《ま》いて、
「すぐに瓜がなる。すぐに瓜がなる」
言いながら杖の先で種の上に土をかぶせてゆく。
「瓜がなる、瓜がなる」
老人は、杖を左手に持ち替え、右手で柄杓の柄を握り、桶の中から水を汲《く》んで、その水を、種にかぶせたばかりの土の上に掛け始めた。
「すぐに芽が出るぞ。芽が出るぞ」
何かうたうような、低い声であった。
「むむ」
空海の横で、逸勢が声をあげた。
同じどよめきが、群衆の中からもおこっている。
「芽が出たぞ、空海!」
逸勢が言った。
まだみずみずしく濡れた土の中から、小さく頭を持ちあげてきたものがあった。
緑色をした、植物の芽であった。
空海は、逸勢にうなずきながら、微笑を溜めて、その老人を眺めていた。
「方士《ほうし》か」
ぽつりと、低く空海がつぶやいた。
そのうちにも、芽はどんどん伸びてゆく。
「さあ、伸びるぞ、伸びるぞ、大きくなるぞ――」
老人が言う。
「芽が生えた」
芽が生えた。
「ほれ、花が咲いた。ふたつじゃ」
小さく、ふたつの瓜の花が咲いた。
その花がすぐに落ち、それまで花があった箇所がみるみるうちに大きくふくらんでゆく。
「さあ、もっと大きくなるぞ」
さらに大きくなった。
もう、はっきり、瓜のかたちとわかるかたちになっている。
「植瓜《しょっか》の術か」
さすがに、逸勢は、その術のことを知っていたらしい。
当時、日本に入っていた大量の漢籍の中に、いくつか、その植瓜の術の名が見えている。
「初めて見る」
つぶやいた。
ふたつの塊りは、大きく熟れた瓜となってふくらんだ。
そこから、老人が、無造作にふたつの瓜をもぎとって、商人風の男に手渡した。
商人風の男から、黒衣の老人が銭を受け取った時には、すでに、瓜の葉も茎もきれいに消えていた。
しかし、商人風の男が手にした瓜だけは消えない。
どっと、喚声が沸いた。
「凄いな、空海よ」
「まあね」
「なんだ、感心していないのか」
「いや、驚いているよ。たいした術だ」
しゃべっている間に、次の買い手が現われた。
また、先ほどの手順を踏んで、事が進んでゆく。
「しかし、あの瓜、買った後で消えたりはすまいな」
真顔で逸勢が言った。
その逸勢を見て、
「儒者のくせに……」
小さく空海が微笑した。
怪力乱神を語らず
という、論語の言葉をふまえての、空海の言葉である。
「あの瓜は消えない」
空海は言った。
「どうしてだ」
「あの瓜は本物だからだ」
「なに!? では、他は本物ではないのか?」
「芽が出たり、芽が生えたりという、あれの方は幻術《まやかし》よ」
小声で空海は言った。
日本語だからこそできる会話であった。
「言葉にまどわされている。あの言葉によって、皆は術をかけられ、芽が出てきたと言われれば、芽が出てきたと、葉が出てきたと言われれば、葉が出てきたように、思い込んでしまうのだ」
「しかし、おれは、唐語はわからぬぞ」
「おれが、あの老人の言っていることを、おまえに話してやっていたからだ。もし、おれがいなければ、たぶん、逸勢にも、本当のところが見えたであろうな」
「しかし、今は、おまえがいちいち、説明しなくとも、ちゃんと芽が出て、瓜がふくらみ始めているのがわかるぞ」
「それは、おまえが、すでに一度術にかかっているからだよ。頭の中で、覚えているからだ」
言ってから、ふいに空海は口をつぐんだ。
「どうした」
逸勢が訊いた。
「知識というものは怖いものだな」
ぽつりと空海が言った。
「なに!?」
「知識は、人を明るくもするが、逆に人を盲目にもすることがあるということだ。唐語など知らねば、術にはかからぬ。瓜の種を蒔き、そこから芽が出、花が咲いて、瓜の実がなるのだということなど知らねば、術にはかからぬ」
「しかし、おまえは、知っていてかからなかったのだろう?」
「いや、おれのことを言っているのではない」
「おれのことか?」
いささか、むっとしたように、逸勢が言った。
「いや、おれのことでもあり、おまえのことでもある」
「――」
「おれは、人間のことについて、知識ということについて、言っているのだ」
その時、また、喚声が沸いた。
また、瓜がなって、それを黒衣の老人――方士がもいで、買い手に渡したのである。
「さあ、瓜の欲しい人はおるかな」
方士が言った。
「よし、買うぞ」
逸勢が日本語で声をあげた。
「どなたかな」
方士がつぶやいた。
「ふたつ買うと、言ってくれ」
逸勢が、空海の脇腹を、肘で突いた。
空海は苦笑して、
「ふたついただきましょう」
唐語で言った。
群衆の視線がふたりに集まった。
自然に、空海と逸勢の前の列が割れて、ふたりは押し出されるように、前へ出た。
「いいか、おまえの眼にはどう見えているのか、見ながらそれを小声でおれに教えてくれ」
逸勢が言った。
「しかしな」
「ここは大唐国よ、日本の言葉ならわからん」
そこまで言い終えた時には、空海と逸勢は、人の輪の前に出ていた。
ふたりは、突っ立って、その方士と対峙《たいじ》した。
色の黒い、年齢の見当のつかない老人であった。
七十過ぎではあろうと思われた。
九十過ぎではあるまいとも思われた。
しかし、その間の、何歳であるのか、その見当がつかない。
単純に、眼の周囲の皺《しわ》のみを見れば、だいぶ歳経て見えるが、その男の肉体全体が放っている雰囲気、精気のようなものは、もっと若く見える。
方士は、空海を、細い眼でしばらく見つめ、そして、懐にまた手を差し込んだ。
空海は、説明しない。
まだ、方士の動作と、男のしゃべることが一致しているからである。
「ここで瓜を取り出して、懐に入れるぞ」
低く空海が言ったのは、方士が柄杓の柄を持って、桶の中へ身を乗り出した時であった。
「む」
と、低く、逸勢が声をあげた。
空海が言った通り、水を汲みながら、桶の中から、瓜を取り出し、方士がそれを素早く懐に入れるのを見たからである。懐に入れた瓜はふたつ。
方士の懐が、大きくふくらんでいるのが、今は、わかる。
「芽が出る」
方士が言った。
「芽は出ない」
低く空海が囁《ささや》く。
「葉が伸びる」
方士が言った。
「葉は伸びない」
空海が言った。
「花が咲く」
「花は咲かない」
「実がなる」
「実はならない」
「実がふくらむ」
「実はふくらまない」
方士の言葉にかぶせるように、空海が低く逸勢に告げてゆく。
「懐から、さっきの瓜を取り出すぞ」
空海が言った時、逸勢は、はたして、方士が瓜をもぐと言いながら、自分の懐からふたつの瓜を取り出すのを見た。
喚声があがった。
空海は、前に出、瓜を受け取って、銭を払おうとした。
「いやいや」
方士は、片手を振って、その銭を受け取ろうとはしなかった。
「何故ですか」
「わたしは、瓜を売っておるのではない。術を売っておるのでな」
方士が言った。
「術にかからなんだ御仁から、銭はもらえぬわい」
「知っておられたのですか」
「まあな」
「すみません」
空海が頭を下げた。
「いやいや」
方士は手を振り、
「この国の方ではありませんな」
空海に言った。
「はい」
「何処《いずこ》よりまいられた?」
「倭国《わこく》からです」
空海は、日本国と言いかけ、倭国と言いなおした。
この時期、日本は、日本国より倭国の方がまだ一般的であったからだ。
そのことを、この旅の間に、すでに空海は学んでいる。
「ほう」
方士は声をあげた。
「それは遠いところからまいられたな」
空海と、方士との会話は、むろん、唐語である。
ふたりの会話の横で、逸勢は、ふたりが何を話しているのかと、好奇心に溢れきった顔で立っている。
しかし、さすがに、ふたりの会話の最中にわり込んでゆくようなことはしなかった。
「唐は、長いのですかな」
「いえ。まだ来たばかりで」
「以前に、唐に遊ばれたことは?」
以前、この唐に来たことがあるのではないかと、方士は空海に訊いているのである。
「初めてなのです」
空海が言うと、
「ほう……」
方士は賛嘆の声をあげた。
「それにしては、なめらかな唐音をあやつることよ」
「はい」
「で、何をしにまいられたのか」
「留学生として、密《みつ》を学びに――」
密――密教のことである。
「盗みに来たか」
言って、方士は微笑した。
「盗み?」
「その顔は、学ぶという顔ではない。密法《みっぽう》を盗みに来たという顔だな」
「はい」
空海がうなずくと、方士は、しげしげと空海を見つめた。
「倭国の人間は、皆、ぬしのようなのか」
「色々です」
「色々か。まさか、倭国の人間が皆ぬしのようであったら、えらいことだ」
「何故ですか」
「密のみならず、この大唐国全ても盗まれてしまうわい」
笑った。
つられて空海も笑った。
「ならば――」
と、方士が言った。
どこへゆくかという問いを、方士が発する前に、
「長安まで」
空海が答えていた。
「長安かよ」
方士がつぶやいた。
また空海を見つめ、
「名を、聴かせてくれぬか」
訊いた。
「空海といいます」
空海は名のってから、傍《かたわら》の、逸勢の名を、唐音で方士に告げた。
「わしは、丹翁《たんおう》じゃ」
方士が言った。
「字《あざな》ですか」
「うむ」
方士はうなずき、
「で、空海よ、長安にはどのくらいおることになるのか――」
「ざっと、二十年――」
言ってから、
「た[#「た」に傍点]、ぶ[#「ぶ」に傍点]、ん[#「ん」に傍点]」
と空海は言いそえた。
「では、いずれ長安で、酒でもくみかわしたいものだな」
「あなたも長安へ?」
「ゆく」
方士――丹翁は言い、少し、微笑した。
「では、あまりここにいてもお邪魔でしょうから――」
空海は頭を下げた。
持っていたふたつの瓜を、丹翁に差し出した。
「これはいただくわけにはゆきませんので」
「もろうておけよ、空海。この丹翁の術を見切れる者なぞ、この唐国にもそうはおらぬ。わしの名を知る者に、こういうわけでわしから瓜をもろうたと言えば、たとえそれが殺し合いの相手でさえも、十年の知己《ちき》じゃ」
「いただきます」
空海は素直に言って、頭を下げた。
そこを辞して、人の輪の中へ入ってゆこうとする空海の背へ、丹翁が声をかけた。
「空海よ。密教を求むるなら、長安は青龍寺《せいりゅうじ》の恵果《けいか》和尚がよかろうぞ」
空海は、振りむき、頭を下げた。
「凄いな、空海、おまえの言った通りだったよ」
人混みの中から抜け出ると、興奮した声で逸勢は言った。
空海と、逸勢と、その手にひとつずつの瓜を抱えている。
ふたりの周囲を、馬がゆき、人がゆく。
売り子の声が、渦のようにひしめいている。
「さあ、空海、教えてくれ」
逸勢が言った。
「何をだ」
「さっきのことだ。あの男と何を話していたのだ」
もどかしそうに訊いた。
空海は、微笑し、
「色々とな」
つぶやいてから、いましがた、丹翁と名のった方士との話のあれこれを、逸勢に話してきかせた。
話が終える頃、ふいに、空海は、その臭いを嗅《か》いでいた。
血臭であった。
気がつけば、前から歩いて来る者が、奇妙な眼で、空海と逸勢を眺めてゆく。
手の湿り気に、空海は気づいていた。
瓜のどこかが割れていて、そこから、瓜の汁がこぼれ出ているのかと思った。
「む」
空海は、低く、声をあげて、そこに立ち止まっていた。
「どうした空海」
逸勢が立ち止まって空海に訊いた。
「見ろ」
空海が言った。
空海は、そこに立ち止まったまま、瓜を握っているはずの両手を見つめているのだった。
「どうした――」
そう言いかけた逸勢が、その時、ようやく気づいていた。
「わっ」
と言って、逸勢は、手に握っていたそれを投げ捨てていた。
それが、湿った音をたてて、土の上に落ちた。
そこの土に、赤いものがじんわりと染みを広げてゆく。
そこに、血にまみれた犬の首が転がっていた。
空海と逸勢が、瓜と思って両手に抱えていたものは、切り落としたばかりと見える、犬の首であったのだ。
「幻術《かけ》られたか――」
空海はつぶやいていた。
最初から、丹翁は、空海が術を見破っていたのを知っていたのである。
空海は、丹翁が桶から取り出すのは、瓜であると知っていた。
その知識を、逆に利用されたのだ。
てっきり、桶から出てくるのは瓜と思い込んでいるその隙に、つけ入られたのである。
――知識は怖いと、さっき自分で言うたばかりではないか。
空海は、己れに向かって心の中で言った。
「さすがは、唐土だ」
空海はつぶやいた。
「おれの考えなど、およびもつかない人間がいる」
――広い。
そう思った。
急に嬉しくなった。
――おもしろい。
空海は、声をあげて笑い出していた。
「どうした、空海」
逸勢が声をかけても、空海は笑うのをやめなかった。
空海は、血まみれの犬の首を抱えたまま、楽しそうに笑っていた。
(二)
「もし――」
歳の頃なら七〇ばかりの、白髪|白髯《はくぜん》の老人が奥から姿を現わし、そう声をかけてきたのは、一同の食事がすみ、そろそろ、寝間としてわりあてられている部屋へ、おのおのがもどろうとしている時であった。
「御一行の中に、異能の和尚殿がおられるとうかがいましたが――」
老人は、一同を見回して、そう言った。
通詞が、通訳をすると、テーブルを囲んで座っていた人間の視線は、半分以上が、隅につくねんと座っている男の方に集まった。
その男だけが、まだ食事の最中であった。
誰もが疲れている。
一日中、馬車の、堅い木の椅子に座って揺すられてきたのだ。
船旅から陸路にかわった|※[#「さんずい+卞」、第3水準1-86-52]州《べんしゅう》からかぞえれば、六日目だ。
車の轍《わだち》でえぐれた道である。道の凹凸《おうとつ》が、そのまま、尻にぶつかってくるのだ。
車輪は、木製である。
弾機《ばね》を使用しているわけでもない。
地面からの震動が、尻から背骨を伝い、頭蓋《ずがい》の中に響いてくるのである。牛車でのんびりという一日ではない。馬車で、馬を急《せ》かしての一日である。
うたたねをするどころの間もなく、身体が揺られているのである。
うたたねなどをすれば、たちまち、馬車の屋根を支えている支柱に頭をぶつけてしまう。
これまでも、食事がすめば、すぐに眠るのが、一行の習慣になっていた。
食事といっても、異国の料理である。
異国の地で採れた異国の材料を、異国の調理法で料理したものであった。
何もかもが、日本とは違う。
疲れている身体には、なかなか馴じめるものではない。
出された食事の半分も食べればいい方で、多くの人間が、出されたものの大半を残している。
一行のほとんどが下痢をしている最中であり、全員が、下痢の経験者であった。
ただひとりの例外をのぞいては、である。
その例外の男が、まだ食事をしているのである。
空海であった。
この異国にあって、空海のみが嬉々としているようであった。
これまでの生活のほとんどを、山岳修法や、旅に使ってきた空海にとっては、揺れる馬車も、異国の食事も、なにほどのこともない。
まるで、馬のように喰う。
自分の皿を空にして、他人の皿にまで手を伸ばす。
今も、空海が食べているのは、隣りに座った、| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》の残したものである。
青菜と豚肉とキクラゲを、唐辛子と何種類かの香辛料をたっぷり入れた汁で煮込んだものだ。
辛い。
空海をのぞいた全員が、その辛さのあまり、それには、ひと箸《はし》しか口をつけてはいない。
それを、空海はもりもりと食べている。
見ていて小気味よいほどの食べっぷりである。次々と喰い物が空海の口の中に消え、腹におさまってゆく。
その空海に、皆の視線が集まったのだ。
一行二十三人のうち、僧は、空海ただひとりである。
髪は少し伸びているが、僧形《そうぎょう》をしているのも空海ひとりである。
わざわざ訊かずとも、老人の言う和尚≠ェ、空海ひとりしかいないことは、誰にでもすぐわかる。
それを、わざわざ訊いてきたというのは、日本からの遣唐使の一行に対して、それなりの手順を踏んだものと思われた。
「おい、おまえのことらしいな」
横に座していた、橘逸勢が、空海を肘で突いた。
しかし、言われなくとも、空海には老人が何と言ったのか、むろんわかっている。
ただ、老人の言った異能の僧が、自分のことを言っているのだと思いつかなかっただけである。
「今日、天津橋《てんしんきょう》のたもとで、幻術師の術を、ひと目で見ぬかれた方です」
老人は言った。
老人が言った途端に、空海が顔をあげた。
「ああ、それならわたしですね」
空海が、口を動かしながら、なめらかな唐音の発音で答えた。
ものを食べながらではあったが、それが少しも気にならないほど、さわやかな言い方であった。
「すみません。もう食事は済んだものとばかり思っておりましたので」
老人は言った。
「かまいませんよ」
空海はみごとな唐語で答えた。
通詞よりも唐語がうまい。
「あなたは、本当に日本の方ですか?」
老人は訊いた。
唐人よりも、きれいな唐音をあやつる、この日本の留学僧《るがくそう》に、老人はいっぺんで心を奪われてしまったようであった。
「留学僧の空海といいます」
空海が名乗ると、老人も、
「孫岳梁《そんがくりょう》といいます」
自分の名を空海に告げた。
「この官店《かんてん》をあずかっている者ですが、あなたにひとつ、お願いがあってやってきたのですよ」
この間のやりとりを、通詞が、皆に通訳してやっている。
「どのようなことですか?」
空海は訊いた。
「実は、五日ほど前から、この官店の台所にあやかしが出るのです。それを、なんとかしていただきたいと思いまして――」
この一行の代表である藤原葛野麻呂《ふじわらのかどのまろ》は、すでに、先ほどこの官店の主である老人とは挨拶をすませている。
最近は病に伏せりがちで、今日、一行が洛陽に着いた時にも、老人――孫岳梁が病床のひとだというので、葛野麻呂ひとりが、簡単な挨拶のために老人の病の床まで出かけていって会ったのだった。
「わたしで、だいじょうぶですか」
「だいじょうぶですとも。昼間のことは耳にしています。幻術にまどわされないあなたなら、わたしの願いを聴きとどけて下さると信じてます」
空海は、さぐるような視線を、藤原葛野麻呂に向けた。
老人の申し出を受けてよいものかどうか、葛野麻呂に、視線で問うたのである。
「なんとかできるものなら、してやったらどうなのだ」
葛野麻呂は日本語で言った。
「わたしでお役に立てるのなら――」
空海は言った。
「お疲れのところ、申しわけありませんが、ひとまず話だけでも聴いて下さい」
老人――孫岳梁が一同を見、そして、空海を見た。
そして、話し始めた。
「実は、この部屋の隣りにくだんの台所があるのですが、あやかしは、そこに出るのです」
最初に出たのは、五日前の晩であったという。
ひと通りの食事がすんだ後に、ここの料理人が、かまどの火で栗を焼いていた時だ。
かまどの横の壁にある窓に、なにやらの音がする。
見ると、そこの窓から、一本の腕が部屋の中に伸びている。
皺の浮いた、歳老いた老人の腕のようであった。
その手が、掌《てのひら》を上にして、小さく上下に揺れている。
「おくれ、おくれ」
声がする。
驚いて見ているうちに、その手がさらに伸びて、料理人の方に近づいてきた。
「おくれ、おくれ」
その手が言う。
それで、料理人が、火で焼いていた栗をひとつ、その手に乗せてやると、すっと、その手はひっ込み、声もやんだ。
やれやれと思った、またその翌日の晩である。
「また出たのですか?」
空海が訊いた。
「ええ、出たのです」
老人が答えた。
二度目の晩のその時も、やはり、料理人は残ったかまどの火で、栗を焼いていた。
この料理人は、栗が好きで、いつも、仕事の後は、自分で栗を焼いて、それを食べるのを楽しみにしているのである。
栗が焼けたかどうかというその時、また、窓の方に、何かの気配がある。
そこへ眼をやると、また、昨夜と同じように、そこから手が一本伸びてきており、
「おくれ、おくれ」
上下にひらひらとその手がおどる。
料理人が、その手の上に栗を乗せてやると、その皺だらけの手は、すぐに、窓の外の夜の闇の中に引っ込んだ。
「そんなことが、もう、これで四日続いているのですよ」
と、老人は言った。
「今日で、それが五日目なのです」
「それで、今日は、その手は出たのですか?」
空海は訊いた。
「まだなのです。いつも通りであれば、ここの食事が終り次第、あとをかたづけまして、料理人が栗を焼くと、そういうことになっているのですが――」
「では、いつも通りにするように、その料理人に申しつけていただけますか」
「かまいませんが……」
「わたしもその現場へゆき、この目でそのあやかしを見てみましょう。どうにかなるもならぬも、その後ですね」
空海が言うと、
「わかりました」
老人が頭を下げた。
「では、ここをかたづけて、むこうの用意ができ次第、あなたを呼びにまいりましょう――」
「では」
「では」
そして、一同に丁寧に頭を下げ、老人はその部屋を辞したのであった。
その時には、通詞が説明を終えているから、皆にも事情は呑み込めている。
皆が皆、好奇心に溢れた眼で、空海を見つめている。
「なんとかできるのか、空海よ」
橘逸勢が、興奮を隠しきれぬ声で言う。
「どうなのだ」
藤原葛野麻呂も、空海に訊く。
「なるようにはなるでしょうよ」
空海は、さらりと答えて微笑するだけであった。
(三)
さて、件《くだん》の台所である。
そこは、土間と板の間とに分かれており、その板の間の上に、空海は、四人の男と共に座していた。
四人のうちのふたりは、空海と共に、遣唐使としてやってきた橘逸勢と藤原葛野麻呂《ふじわらのかどのまろ》である。
もうふたりは、この官店の主である孫岳梁《そんがくりょう》と料理人であった。
窓から伸びてくる手を、異国の僧である空海が、果たしてどうするか、それを見ようとする者も何人かいたが、いくらあやかしとはいえ、いや、あやかしであるからこそ、人が多いよりは少ない方がよかろうということになって、結局、空海を含めた五人が、この台所に集まったのであった。
かまどは、土間の方にある。
煉瓦《れんが》の壁に寄せて、そのかまどは設けられており、そのかまどの横の上――ちょうど人の顔ほどの高さの所に、問題の窓はあった。
「あの窓ですね」
空海は視線をその窓に向けて言った。
「そうです」
答えたのは料理人である。
歳の頃ならば、五〇ばかりの、鼻の下に髭をはやした男である。
「栗を焼き始めるのはいつぐらいからですか」
「もうそろそろです。ひと通りの仕事が済んでからですから――」
「では、いつもと同じように始めて下さい。我々はここにいないものと思って」
空海が言うと、孫岳梁が、白い髯《ひげ》の生えた顎を引いてうなずいた。
「やりなさい。我々のことは気にせずに――」
では――
と答えて、料理人は土間に降りて、かまどの前までやって来ると、近くに転がっていた薪《まき》のひとつを、かまどの前の地面に転がして、その上に腰を下ろした。
丸く上体を前に曲げた料理人の背を、斜め後ろから見るかたちになった。
料理人の足の先に、かまどの火が見えている。
火とはいっても、もう炎はあげていない。
燠火《おきび》が、かまどの奥で、赤々とした色を放っているのが見えるだけである。
料理人は、懐から、ひと握りの栗を取り出して、それを燠火の手前の灰の中に投げ込んだ。
誰も、声を発しない。
しばらくの時が流れると、かまどのあたりから、栗の焼ける香ばしい香りが漂ってきた。
ぽん、
と、かまどの中で、栗のひとつがはぜた。
料理人は、木の棒をかまどの中に差し込んで、焼けたと思われる栗を、ひとつふたつ、灰の中から掻き出して、かまどの外に転がした。
その焼けた栗を手に乗せて、爪で皮をむき始めた。
手の皮が、だいぶ厚く、丈夫にできているらしい。
それを食べ始めた。
そうやって、みっつ、よっつほどの栗を食べたかと思える頃、
「で、出たぞ、空海――」
低い声で、橘逸勢が言った。
出ていた。
件の窓から、白い、細い手が部屋の中へ伸びてくるところであった。
逸勢が言わずとも、その時には全員が同時に同じ光景を見ている。
指先から窓をくぐってきた手は、泳ぐような仕草で、ゆっくりと、その掌《てのひら》をゆらめかせた。手首から腕にかけてが、驚くほど細く、長い。
その手が、何かをねだるように、上下にひらひらと動いた。
「おくれ、おくれ……」
手が言った。
女の声のような、子供の声のような、大人の声のような、何ともわからぬ声であった。
料理人が空海を見た。
空海は、無言でうなずいた。
料理人は、手に持っていた栗を、その白い手の上に乗せてやった。
すると、手はそれを握り、入ってきたのと同じ速さで、窓の外へ出てゆき――
消えた。
手が消えた後、しばらくの沈黙があって、誰からともなく、ほう、という溜め息が洩れた。
「御覧になられましたかな」
孫岳梁が言った。
「はい」
空海がうなずいた。
「いや、聴いた通りのことを、眼の前で見たよ」
逸勢は、興奮を隠しきれぬ声で言った。
藤原葛野麻呂は、
「うむむ」
と、低くうなるばかりであった。
料理人は、今の一件で、すっかり喉《のど》が渇いたのか、土間の隅に置いてある大きな水瓶《みずがめ》から、杓子《しゃくし》で水をすくってそれを飲んでいる。
「今、見られた通りでございますよ」
水で濡れた唇を、右手の甲でぬぐいながら料理人が言った。
「今のようなことが、この四日間、毎晩あったということですね」
空海が言った。
「今夜を入れれば、五晩目になります」
料理人は答えた。
「昨夜などは、手の消えた後に、気丈夫の者を外にやらせてみたのですが、誰かがいるというわけではありません。特別におそろしいというものでもなく、悪さをするわけでもありませんが、薄気味の悪いことでございます」
孫岳梁が言う。
「外は、裏庭でありましたね」
「ええ、そのむこうは塀で、それがこの官店をぐるりと囲んでおりまして、その気になれば塀を越えて中へ入ることも出ることもできましょうが、手が消えた後すぐに、そこの裏口から人をやりましたので、誰かが塀から外へ出ようとしているのであれば、すぐにそれとわかります――」
「でしょうね」
「樹の陰や、建物の陰、誰かが隠れるような場所も捜してみたのですが、妖しいものはおりませなんだ」
孫岳梁は、そう言って空海を見た。
「いかがでございましょうかな」
「いや、たいへんおもしろいものを見せていただきました」
空海は、その顔から微笑を絶やさない。
「おもしろい?」
「いえ、たいへんに興味深いものをという意味です。ところで、皆さんに、わたしから、いくつかうかがってもよろしいでしょうか――」
空海が言った。
「なんなりと」
孫岳梁が空海を見つめながら言った。
「我々もか」
唐語にはまだ慣れてない逸勢が、葛野麻呂に、空海の言葉のわからない部分を通訳してもらってから、訊いてきた。
「そうだ」
と、空海は唐語で答えたのだが、そのくらいであれば、逸勢でも通詞なしにわかる。
「さて――」
空海は、言ってから、一同を眺めた。
「――今、皆さんは、あの窓から人の手が出てくるのをごらんになったわけですが、その手について聴かせてもらえましょうか」
「はい」
「その手ですが、岳梁どのはどうごらんになられました?」
「と、申しますと?」
「その手、右手でございましたか、それとも左手でございましたか」
空海は訊いた。
「それは……」
答えようとして、岳梁は言葉につまってしまった。
右手か左手か――わかっていたはずのその答が、急にどちらであるのかわからなくなってしまったのである。
「たしか、右手であったと――」
岳梁は答えた。
「わたしは、左手であったような気がしますが――」
料理人が答えた。
「左手ではなかったか」
「右手であったはずだ」
葛野麻呂と、逸勢が続けて言った。
「ははあ」
四人の答を聴き終えて、空海は嬉しそうに言った。
「同じ手首を見ておきながら、それが右手であったか左手であったかで、ここまで意見が分かれてしまうのですね」
「おまえはどうなのだ、空海よ」
逸勢が訊いてきた。
「まあ、それを言ってしまえば、この話はこれで済んでしまうからな」
「空海よ、ならば、おまえはもう、あれが何であるのかわかっているのか」
「たぶん、な」
「たぶん、だと?」
ふたりのやりとりは、短い唐語である。
その意味が、孫岳梁にも伝わっている。
「もし、あれが何であるかわかっているのなら、お教えいただけますか」
孫岳梁は、空海に言った。
「それは、明日、明るくなってから申し上げた方がよいと思います」
「何故ですかな」
「明るくなっていれば、色々と確認できることもあろうかと思うからです」
「あなたがそう言うのであれば、しかたがありませんな」
「明日、朝食を済ませた後に、また同じ顔ぶれで、ここに集まっていただければ、出発までの時間のうちに、必要なことは申し上げられると思いますよ」
空海は言った。
そういうことになったのであった。
(四)
さて、その翌朝、同じ顔ぶれがまた台所に集まった。
誰もが、好奇心に満ちた顔をしていたが、それをとても隠しきれない様子であるのが、橘逸勢であった。
「なあ、空海、わかっているのなら教えろよ」
昨夜、部屋へもどってからも、ひとしきり、逸勢はそう言って空海に迫ったのである。
「明日のお楽しみだ」
空海がそう言うと、逸勢は、それがたいへん不満そうであった。
「犬の首のこともあるしな。明朝というのが一番よかろうよ――」
しかし、知りたがっているのは、逸勢ばかりではなく、同じ一行の仲間も、空海がもどってくるのを待って、様子を聴きに来る。
葛野麻呂も、それは同じである。
彼等の好奇心を宙に浮かせたまま、一夜明けての早朝であった。
「原因となったものは、窓の外にあるはずです」
一同の顔を見まわして、空海は言った。
「裏庭へ出てみましょう」
横手の木戸から裏庭へ出た。
早朝である。
年内のうちに長安へ着こうとしているため、洛陽でも一泊するだけで、すぐに発たねばならない。
だから、朝食も、すでに陽が東の地平を離れる頃にはすませてしまっている。
まだ、陽の差し込む前の裏庭は、一面の落葉の上に、白く霜が降りている。
「さて――」
空海は、その、霜の降りた落葉を踏みながら裏庭を歩き、件の窓に近い所に生えている、一本の槐《えんじゅ》の樹の陰で立ち止まった。
「見つかりましたよ」
空海が言った。
「これが、昨夜の手の正体です」
一同が空海の周囲に集まった。
空海が指で示している場所に眼をやった。
「おう」
と、声をあげたのは、孫岳梁である。
槐の根元――枯れ草の間に、一本の、古びた杓子が転がっていた。
見れば、その杓子の中に、何かが入っているではないか。
「これは――」
「栗だ」
逸勢と、葛野麻呂が言った。
その杓子の中に入っていたのはまぎれもない、五つの栗の実であった。
「ちょうど五日分の栗が入っていますよ」
空海が言った。
料理人を見た。
「さて、このことについては、あなたが説明できるのではありませんか。それとも、他の誰かでないと、できませんか――」
空海が言うと、
「いえ、わたしが御説明申しあげられると思います」
料理人は、しげしげと、その霜の降りた杓子と、栗とを見つめながら言った。
「この杓子は、五日前の昼に捨てたものでございます」
「ということは、あの手が最初に出てきた日のことですね」
「そうです」
言って、料理人は、一同を見た。
「台所には、古くからひとつの水瓶が置いてありまして、この杓子は、その水瓶から水を汲《く》むのに使っていたものです。ちょうど、二十二〜三年は使ったと思うのですが、その杓子の底に、ついに罅《ひび》が入りまして、汲んでも水が洩れるようになってしまいました。それで、新しい杓子を入れ、古くなったこの杓子を、わたしは、何気なくこの窓から捨ててしまったというわけなのです」
料理人は言った。
空海は、身を屈《かが》めて、その杓子を拾いあげた。
「そういうわけです」
空海は言った。
「器物というものも、二十年以上も人が使用していると、自然に魂《たましい》がこもるものです。その魂が精となって、夜ごと現われていたのですよ」
空海は微笑した。
「毎晩、栗を喰べた後で、あの杓子で水を飲んでから眠るというのが、わたしの楽しみだったのです」
「その昔なつかしさの余り、精が人の手の形となって現われたものでしょう」
「では、この杓子はどうすればよろしいのですか」
料理人が訊いた。
「魂がこもって精を持ったものですから、人と同じようにするのがよいでしょう」
「と、申しますと?」
「人と同じに、焼くなり、土に埋めて葬るなりのことをして、経のひとつもあげてやれば、それでよいのです」
さらりと言ってのけて、空海は、微笑したのであった。
(五)
「つくづく不思議な男よな、おまえは――」
橘逸勢が、しみじみと空海を見つめながらそう言ったのは、馬車の中である。
すでに、馬車は、洛陽を出て長安へ向かっている。
地面の凹凸が、そのまま、直《じか》に、尻に響いてくる。
「おれがか」
空海は言った。
「そうだ」
「おまえは、時々、そういう言い方をするが――」
「不思議だから不思議と言うているのさ。昨日の方士との一件もそうだし、今朝方のことだってそうだ」
「ふうん」
「なあ、空海よ、坊主というのは、皆おまえのようなのか」
「どうなのかな」
「気のない答え方をするなよ」
「まあ、同じだろうさ」
「同じ?」
「儒者とな」
「よくわからぬな。仏法の徒と、儒学の徒とが、どうして同じなのだ?」
「儒者にも色々といる。たとえば、孔子も儒者であろう。わが叔父である阿刀大足《あとのおおたり》もまた儒者であり、そして、今ここにいる逸勢もまた、儒者のひとりであろうが――」
「うむ」
「同じ儒者ではあるが、孔子も、阿刀大足も、逸勢も皆違う人間ではないか。坊主もまた同じよ」
「空海よ、おまえの言うことはわかる。わかるが、しかしわからない」
「何故だ」
「おまえは無理に本当のところを言わないようにしているとしか思えぬ――」
「ほう」
「人それぞれが違うのはあたりまえではないか。そのあたりまえのことを言って、おれを騙《だま》そうとしている」
「別に、騙そうとはしていない」
「いいか、空海よ、おれは、これまでに坊主という人間を何人も見てきた。皆それぞれに違うが、空海よ、おまえはそういう中でも特別に違っている人間のようだぞ」
「そうか」
「正直に言えよ、空海。正直に言って、おれを安心させろ」
「何を正直に言えばよいのだ」
「おまえが、自分のことを、特別だと思っているということをだ。自分は、他人とは違うと、おまえは思っているはずだ」
「ははあ」
「よいか、空海、この逸勢でさえ、自分は他人とは違うと思うているのだぞ。おまえのような人間が、そう思うてないわけがないではないか。おれが、自分のことを特別な人間と思うているのに、ぬしのような男が、自分のことを特別だとも何とも思うておらぬというのであれば、おれは困ってしまうではないか――」
逸勢は、愛しいほどに素直な言い方をした。
「逸勢が困るか」
空海は微笑した。
「困る」
「それは申しわけがないな」
「そう思ったら正直に言ってくれ。ただし、嘘はつくなよ」
「つかぬ」
「おまえ、自分のことを、他人とは違う人間であると思うているだろうが」
逸勢は訊いた。
「うん」
空海は、あっさりと答えた。
そのよどみのなさに、逸勢は、気の抜けたような表情になった。
「それだけか」
「それだけさ」
空海は答えた。
しばし沈黙してから、何か納得しかねた表情で、逸勢は空海を見た。
「どうも、おまえは人を騙すのがうまい」
「おれは誰も騙してはいないぞ」
「騙してはいなくとも、おれは、どうもおまえにうまく騙されたような気がしている」
逸勢は言った。
言って、つくづくと空海を見た。
やはり、奇妙な男であった。
不可思議としか言いようがない。
逸勢の視線を受けて、空海は、静かに微笑しているばかりである。
その空海の中に、様々なもの、時には互いに矛盾するものすらが、その矛盾を抱えたまま、同じこの男の内部に同居しているようなのである。
智と野性。
上品と下品。
聖と俗。
人という生命の結晶体が有するあらゆるきらめきが、このひとりの男の肉の中にあるようであった。
それ等は、時には調和し、時には矛盾し、軋《きし》み、不協和音さえあげながら、この空海という人間の肉の中で、混沌《こんとん》として滾《たぎ》っているようであった。
「あれが函谷関《かんこくかん》ですよ」
その時、前で、馬の手綱《たづな》を握っていた男が声をあげた。
「おう」
馬車の上で、声があがった。
逸勢も、そして空海も、馬車から身を乗り出して前方に視線を放った。
前方の地平の上に、函谷関の青く峻険《しゅんけん》な山岳がそびえているのが見える。
頂《いただき》に近いあたりには、雪の白さえ冠《かぶ》っている。
「あの向こうが長安ぞ」
興奮を隠しきれぬ声で、逸勢が言った。
日本を出てからすでに五カ月余り――一行は、ようやく、長安まで九日足らずという所までたどりついたのであった。
空海を含めた、一行の誰もが、その時、地平にそびえる山岳のむこうに、痛いほどの視線をむけたに違いない。
その雪を冠った山の彼方に、爛熟期の長安があった。
長安は、まさに、触れれば落ちそうなほどに熟しきった果実であった。
その果実の絢爛《けんらん》も、混沌も、全てを丸ごと貪《むさぼ》り尽くそうとするものを待つように、長安城はそこにあった。
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第二章 暗夜秘語
(一)
長安は、坩堝《るつぼ》であった。
人種の坩堝であり、文化の坩堝であり、聖と俗の、そして、繁栄と退廃の坩堝であった。
空海|入唐《にっとう》当時の長安は、世界に類を見ない大都市であった。
その規模において、西のローマ帝国をさえ凌《しの》いでいる。
人口、およそ百万。
そのうちの一万人――百人にひとりが異国人であった。
空海等、日本からの遣唐使の一行が、長楽駅《ちょうらくえき》に到着したのは、十二月の二十一日である。
長楽駅は、長安のひとつ手前の宿場で、長安からは五キロと離れてはいない。
旅人――特に、外国からやってきた使節の一行は、ここで旅装を解き、正装してから長安城に入ることになる。
それも、すぐ入城できるわけではない。
この長楽駅で、唐の朝廷からの沙汰《さた》を待ち、その後に入城することになる。
この同じ十二月に、吐蕃《とつばん》(チベット)、南詔《なんしょう》の使節団も長安に入っている。
空海たちの一行は、長楽坡《ちょうらくは》を上《のぼ》って春明門《しゅんめいもん》から長安に入った。
宿舎として、一行にあてられたのは、宣陽坊《せんようぼう》の官宅であった。
空海と、橘逸勢が、ようやく長安の住人になったその時、すでに、長安城を中心にした異変は、起こっていたのであった。
(二)
さて、話は少しもどることになる。
時期的には、空海たちが、まだ福州にある時であり、劉雲樵《りゅううんしょう》の屋敷に妖物が棲《す》みつくようになってからほどなくの頃である。
八月――
満月の夜であった。
徐文強《じょぶんきょう》は、うっとりとした表情で、畑の中を歩いていた。
綿の畑である。
あちこちではじけた白い綿が、月光の下に点々と見えている。
畑は、驪山《りざん》の北にある。
今、徐が歩いている場所から見える限りの畑が、全て徐のものだった。
毎年、この時期になると、夜、独りで畑にやってきては、徐は綿を眺めるのである。
眺めながら考える。
この綿を摘《つ》みとるのは、いつ頃がよいか。
五日後がよいか、七日後がよいか。
そういうことを考えながら歩く。
その綿をどうするか。
いくらで売れるのか。
それで金が入ったら何に使うか。
そんなことを考えながら歩くのは楽しい。
ひと晩中でも飽きない。
夜、それも、満月の夜だからいいのだ。
昼間では、綿がどれだけよくできているかそれはわかるが、その綿がどう市場に流れて、どのように使われ、どれだけの金が自分に入ってくるか、その金をどう使ったらいいか、そういうことが見えてこない。
夜ならば、そういうことまでわかるのだ。
徐の畑で穫《と》れる綿は、あちこちで評判がいい。その中でも、とくにこのあたりで穫れる綿はさらにできがよかった。
その場所を、こうして歩いているうちに、色々なことがわかってくるのだ。
綿が、いつ、摘み穫られたいと思っているか、どのように使われたがっているか、そういうことが心の中に浮かんでくるのである。
月光の下で、言葉ではない無言の独り言をかわしあっている綿たちの言葉を、自分は聴きに来ているのだと徐は思っている。
綿の声を聴き、綿が願っている通りに、自分はしてやるだけなのだ。
それが、はっきりわからないうちは、三晩でも、四晩でも、続けてこの畑に足を運ぶ。
今年はどうか――
そんなことを考えながら、徐は歩いている。
月光に、点々と白く見えている綿の色が、徐には黄金《こがね》の輝きに見える。
風は、ごくわずかであった。
あるかなしかの風が、綿の葉を揺らしているようであり、揺らしてないようでもある。それほどの風である。
綿の葉と、土の匂いが、夜の大気の中にたっぷりと溶けている。
歩いているうちに、ふと、どこからか声が聴こえた。
「おう……」
という、低い、小さな声であった。
わずかの風で、葉と葉が触れ合ったかどうかという音――それほど幽《かす》かな声であった。
始めは、徐は、気のせいかと思った。
しかし、それが気のせいではないとわかったのは、最初のおう……≠ニいう声に続いて、
「おう……」
「おう……」
とあちこちから同様の、囁《ささや》くような声が響いてきたからである。
やっと聴こえるかどうかというその声が、無数にあちこちであがると、ざあっ、と風が畑の葉を揺らして吹き寄せてきたような――その音を十分の一くらいに薄くしたようなざわめきとなって、その囁くような声が徐の耳を打ったのである。
「満月の晩だな……」
「満月の晩だな……」
囁くような声があがる。
綿の声とは、明らかに異質な響きを持った声であった。
綿の声、と徐が言っているものは、あくまでも、何ものかが満ちてくるように、この畑の中を歩きまわるうちに、ほろりと自分の裡《うち》に発見する言葉のようなものだ。
今、徐の耳に響いてくるのは、それとは異質のものであった。
「出てゆかねばならぬな」
「出てゆかねばならぬな」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
あたりで鳴いている虫の声に混じって、うむ≠ニ答えるその声が、果てしなく周囲に満ちた。徐は、まわりを見回した。
しかし、どこにも人影らしきものはない。
まるで、草の陰で鳴いている虫が、鳴くかわりに人の声を発したようであった。
「いつがよいか」
声が囁いた。
「いつがよいか」
声が答えた。
「あの日の翌日がよかろうよ」
「あの日の翌日がよかろうな」
「うむ」
「うむ」
徐は足を止めていた。
何者が、どこで、何のことを話しているのか。
こんなことは、初めてであった。
薄気味の悪さもさることながら、徐は、好奇心の強い男であった。
息をひそめて、徐は耳をすませた。
「あの日と言うても、その日はいつであったか」
「うむ、いつであったか」
いつの間にか、声はふたつになっている。
「おう、七日後であったな」
「おう、七日後であったぞ」
「では、その日の翌日だな」
「おう、その日の翌日だな」
「しかし、その日とはどういう日であったかな」
「そうよ、その日とはどういう日であったかな」
「わからぬな」
「わからぬな」
「わからぬなれば、また明日の晩に、話をしようではないか」
「わからぬなれば、また明日の晩に、話をしようではないか」
「まだ七日ある」
「まだ七日ある」
「それまでに思い出せばよいのだ」
「それまでに思い出せばよいのさ」
「うむ」
「うむ」
それきり、声が途切れた。
あとは、虫の音《ね》ばかりが、天の星のように響いてくるばかりである。
不思議なこともあるものだ
徐は、心の中でつぶやいていた。
さっきの声は、いったい何の話をしていたのか。
七日後に、いったい、何があるというのか。
その興味で、徐の心はいっぱいになっている。
それが何であるのかたまらなく知りたくなった。
そうか――
徐は思った。
今の話の様子では、また明日、この話の続きを、彼等はするらしい。
それならば、自分も、また、明日、今晩と同じ時間にこの場所に来ればいいのである。
その翌晩も、星月夜であった。
月は、昨夜よりも、やや欠けているが、見た眼には満月と変わらない。
昨夜と同じ時間に、同じ場所に立って、徐はそれを待っていた。
あの声が聴こえてくるのを、である。
風は、ほとんどない。
それも昨夜と同じで、虫の音が響いているのも昨夜と同じであった。
待つうちに、果たして、またどこからともなく、声が響いてきた。
「十六夜の晩だな」
「十六夜の晩だな」
その声に続いて、
うむ……
うむ……
という声が、ざわめくように綿の畑一面に広がってゆく。
満月に近い月が、皓々《こうこう》とあたりを照らしている晩である。
やはり、人影はない。
「あと何日であったかな」
声が言う。
「あと六日であったわい」
声が言う。
――昨日より、日が一日減っているのは、一日経っているからだ。
そのことに気づくと、徐の胸はふいにどきどきと高鳴ってきた。
「六日はよいが、その六日後に何があるのだったっけな」
「そうよ、その六日後に何があるのだったかであったな」
「雹《ほう》が雨《ふ》るのであったか」
「違うな、雹ではない」
雹というのは、ひょう、及びあられのことである。
「雹なれば七月のことよ」
「七月なればすでに過去ではないか」
徐は、今年の七月に、大量の雹が雨《ふ》ったことを思い出していた。
『新唐書《しんとうじょ》』の貞元二十年の項に、
二十年二月|庚戌《かのえいぬ》、大いに雹雨《ほうふ》る。七月|癸酉《みずのととり》、大いに雹雨る。冬、木冰雨《ぼくひょうふ》る
とある、その雹のことである。
「雹は、言うなれば、六日後の日の予兆よ」
「そうであったな」
「しかし、予兆とわかっても、何の予兆かはわからぬ」
「わからぬな」
「わからぬな」
「わからぬなれば、また明日の晩に、話をしようではないか」
「わからぬなれば、また明日の晩に、話をしようではないか」
「まだ六日ある」
「まだ六日ある」
「それまでに思い出せばよいのだ」
「それまでに思い出せばよいのさ」
「うむ」
「うむ」
それきり、また声が途切れた。
周囲が、虫の音ばかりになっても、しばらく徐は動けなかった。
何か、よほどのことが起ころうとしているに違いない。
徐は、怖ろしくなっていた。
しかし、好奇心には勝てなかった。
家族の者にも、自分の畑で何があるのかを語らず、徐はまた翌晩も出かけた。
しかし、その晩も、また次の晩も、またその次の晩も、声はその日に何があるのかを思い出せずに、日が過ぎて行った。
さすがに、家族のものが怪しみはじめた時には、もう、その日が一日前に迫っていた。
その晩も、徐は、出かけて行った。
その日は、やはり風はなかったが、月は見えなくなっていた。
空を、雲が覆い、かろうじて、月を呑《の》み込んだその腹のあたりの雲が、ぼうっと光っているだけの闇夜であった。
虫の音も少ない。
「月は見えぬな」
「月は見えぬな」
そういう声が、やはりどこからともなく聴こえてきて、会話は始まったのであった。
「もう、明日ではないか」
「うむ、明日だな」
「思い出さぬか」
「まあ待て」
そのような会話がひとしきり続き、やがて、
「おう」
声があがった。
「おう」
嬉々とした声であった。
「思い出したぞ」
「思い出したぞ」
「あの男が倒れる日よ」
「あの男が倒れる日よ」
「あの男とは、誰のことかな」
「あの男とは、皇太子のことよ」
「李誦《りしょう》よ!」
「李誦よ!」
ふたつの声が、嬉々として叫ぶ名を耳にした時、徐は身を震わせていた。
李誦というのは、今上帝《きんじょうてい》である徳宗《とくそう》皇帝の嫡男の名であったからである。
「死ぬのか」
声が言う。
「死にはせぬ」
声が答える。
「倒れるだけよ」
「倒れるだけか」
「しかし、それで、我等はいよいよ出ることになる」
「李誦が倒れるのが明日で、我等が出るのがその翌日か」
「そうよ」
「そうよ」
「ふふ」
「かか」
声が笑った。
すると、闇夜の綿の畑一面に、
ふふ……
かか……
という、低いが、しかし嬉々とした笑い声が広がっていった。
(三)
はたして、李誦が倒れたという知らせが、徐のところへ届いたのは、次の日の夕刻であった。その知らせを持ってやってきたのは、左金吾衛《さきんごえい》の、三人の役人であった。
そのうちのひとりは、徐の顔見知りの、張彦高《ちょうげんこう》である。
「おい」
と、挨拶《あいさつ》もそこそこに、張は徐に言った。
「これはどういうことだ」
張は、懐から白い紙片を取り出して、徐につきつけた。
昨夜の言葉を耳にした徐が、昨夜のうちにしたため、息子に持たせて、早朝には読めるように張の家まで馬で持ってゆかせた手紙である。
皇太子の李誦の身体の具合が最近悪いというような話を耳にしてはいないか、もし、何か病を得ていて、それが、この日急に悪くなるようなことがあったら、ぜひ知らせてくれと、そういう内容がしたためてあるものであった。
張は、左金吾衛の長史の職にある。
皇太子の身に何かあれば、まず知らせの届く立場にいた。
徐とは幼な馴じみである。
張の声がはずんでいる。
長安からここまで、馬で半日以上かかる距離を、大急ぎで馬を飛ばしてやってきたものらしい。
「やはり、皇太子様の身に、何かあったのか?」
徐は言った。
「今朝、問安《もんあん》の後で、お倒れになった」
張は言った。
太子の職に、視膳《しぜん》≠ニ問安≠ェある。
視膳というのは皇帝の食事の前に、毒味役をつとめることである。
問安というのは、朝と夕に、皇帝の寝所の宦官《かんがん》に、
陛下はおすこやかでいられるか?
と、尋ねることである。
それが、皇太子の職務である。
その問安の後に、しばらくして、ふいに、李誦は倒れたのだという。
「卒中《そっちゅう》だ」
と、張はつけ加えた。
卒中――脳溢血《のういっけつ》のことである。
徐は、その言葉を耳にして、
「おお……」
低く声をあげた。
「よいか、皇太子様がお倒れになったのは、おれがおまえのこの手紙を読んでからのことだ。この意味がわかるか」
徐は、うなずいた。
「皇太子様がお倒れになることを、何故、事前におまえが知っていたのだ? 返事によっては、捕えねばならぬし、場合によっては、幼な馴じみとはいえ、もっと別の処置もしなくてはならぬかもしれぬ。ひとまずは、おれと一緒に長安まで来てもらうことになる――」
張は、そう徐に告げた。
「おまえがそう言うのはわかる。しかし、わたしが、皇太子様がお倒れになったことについて、何か関わりを持っているのではないかと思っているなら、それはとんでもない考え違いだ。わたしは、偶然に、手紙に書いたことを耳にしただけなのだ」
徐は、そう言ってこの七日間の間に、自分の畑であったことを、張に告げた。
「まさか」
と、張は言った。
「信じられない話だ」
「嘘ではない」
「もし、それが嘘でないのなら、明日の晩に、何ものかが、おまえの畑に出てくるということではないか――」
「いや、明日でなくともよい。今夜も、同じ時間に畑にゆけば声は聴こえてくるはずだ。そうなれば、わたしの言っていることが本当であると、わかるはずだ」
「しかし、今晩中には、おれは、おまえを長安城まで連れてゆくことになっている」
「もう夕方だ。いくらも待たせようというのではない。明日また、わたしの言うことが本当かどうか、確かめにくるよりは、今夜中にそれを確かめておくのが一番のはずだ――」
なるほど、徐の言うことに理があると思った張は、
「よし、ではそういうことにしよう」
うなずいていた。
(四)
その晩は、月の明りさえも見えない闇夜であった。
風が吹いていた。
畑一面の綿が、ざわざわと鳴っていた。
張と、徐、そして張の部下たちは、闇の中に立って、凝《じ》っとそれを待っていた。
張の部下のひとりが手に握っている松明《たいまつ》の炎が、風に煽《あお》られて、音をたてて燃えている。
漆黒《しっこく》の闇であった。
互いの顔ばかりが、炎の灯りで、闇の中に赤々と見えているだけである。
「まだか」
張はつぶやいた。
「もう少し――」
徐が言った。
「本来は、おれの役職は、こういう仕事ではないのだ。他の者が来るというのを、手紙をもらった当人ということで、無理を通しておれがやってきたのだ……」
張が、そう言ったその時であった。ふいに闇のどこからか、声が響いてきた。
「風が吹いているな」
低いが、はっきりとその声は届いてきた。
「風が吹いているな」
別の声が答えた。
「どうだ、やっぱり李誦は倒れたろう」
「おうよ、やっぱり李誦は倒れたわい」
ふふ……
ひひ……
かか……
無数の笑い声が闇にさざめくように満ちた。
「いよいよ明日だな」
「いよいよ明日だな」
声が言う。
「誰だ?」
張が思わず声に出していた。
しかし、返事はない。
かわり、風が強さを増し、闇の底一面の綿の葉を、ざわざわと揺すりあげた。
その音に、低い、無数の笑い声が重なった。
馬の嘶《いなな》きも、それに混じったようであった。
甲冑《かっちゅう》の鳴る音。
戦車の軋《きし》み音。
そして、さらに無数の低い笑い声――
くく……
ふふ……
かか……
それ等の音が重なりあい、その音にさらに風の音が重なって、いつの間にか、強い風の中で、闇の天いっぱいにどよもしの音《こえ》をあげていた。
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第三章 長安の春
(一)
刺骨《しこつ》、という言葉がある。
長安の冬の寒さを指して言った言葉である。
刺骨――つまり、骨を刺《さ》すような寒さのことだ。
空海が、長安に入ったのは、まさにこの刺骨の時期であった。
西暦八〇四年――十二月二十一日のことである。
その時から、すでに一カ月余りが過ぎている。
長安を吹く風の中には、すでに春の兆《きざ》しがある。
[#ここから2字下げ]
長安の二月 香塵《こうじん》多し
六街《りくがい》の車馬 声|※[#「車+隣のつくり」、第3水準1-92-48]々《りんりん》
家々楼上《かかろうじょう》 花の如き人
千枝万枝 紅艶《こうえん》新たなり
簾間《れんかん》の笑語 自《みず》から相問《あいと》う
「何人《なんびと》ぞ占《し》め得たる長安の春」と
長安の春色 もと主無《あるじな》し
古来 尽《ことごと》く属す 紅楼《こうろう》の女
如今《いま》 奈《いかん》ともするなし 杏園《きょうえん》の人
駿馬《しゅんば》軽車 擁《よう》し将《も》ちて去る
[#ここで字下げ終わり]
――韋荘《いそう》「長安の春」
長安の春は、二月に始まる。
朔北《さくほく》からの風が、黄塵《こうじん》とともに、その春を運んでくるのである。
その二月――
風の中には、すでに、開き始めた杏《あんず》の花の匂いも混じっていた。
空海と、橘逸勢は、その春の粧《けわい》の感じられる風の中を歩いている。
刺骨の時期は終り、風は温《ぬる》んでいる。
大街《たいがい》の左右に立ち並ぶ、楡《にれ》、槐樹《かいじゅ》、楊柳《ようりゅう》には、すでに新芽がふくらんで、淡い緑色がほころびかけていた。
その下をゆく車馬の音までが、|※[#「車+隣のつくり」、第3水準1-92-48]々《りんりん》と華《はな》やいでいるようであった。
高楼の上の、蒼《あお》い天までも、優しい色になっている。
大街をゆき、狭斜《きょうしゃ》――遊郭街の路地に入れば、人々の足取りまでが軽い。
遊里や酒房《しゅぼう》が軒を並べるそういう狭斜の路地を、僧形《そうぎょう》の空海が歩いても、立ち止まって眺める者はいない。
商人も、官吏も、僧も、異国人までもが、そういう路地に溢れている。
この時期の長安ほど、あらゆる種類の人種が生活していた都市は、当時の世界にあっては、他に類を見ない。
異国の使臣《ししん》だけで、常時、四千人を数えたと言われている。
長安の人口百万人のうち、一万人が異国人であったというから、使臣をのぞいても、さらに六千人の異国人がこの都市で生活をしていたことになる。
まず、倭国《わこく》である。
そして、吐蕃《チベット》。
西胡《イラン》。
大食《アラビア》。
天竺《インド》。
さらには、トルコや、ウィグルや、様々な西域の民族や、少数民族が、この都市に集まっていた。
そういう人々が運んできたのは、文物ばかりではない。
宗教も運んできた。
道教。
仏教。
密教。
それらは言うに及ばず、西胡《イラン》の国教である|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]教《けんきょう》――つまり拝火《ゾロアスター》教や、摩尼《マニ》教も長安には入っている。さらには、景教《けいきょう》――ネストリウス派のキリスト教も入っており、それ等の寺院も、長安にはあった。
人種による差別はなく、異国人であっても、試験の成績さえよければ官人として採用され、高い地位にまで登ることは可能であり、事実、そういう異国人も無数にいた。
そういった異民族が持ち込んでくる、様々な宗教もまた、政治レベルで保護されていたのである。
そのような異国の民が、華やかな色彩をつまんで撒《ま》き散らしたように、道をゆく群衆の中に混じっている。
革のコートを着、膝まである革の長靴をはいた胡人《こじん》が前を歩き、横手の酒房の中からは、胡楽《こがく》の音まで聴こえてくる。
胡というのは、狭くとらえれば、イランのことであるが、広くは、西域のことを指す言葉である。
胡人といえば、普通には、西胡《イラン》人、大食《アラビア》人、波斯《ペルシア》人、トルコ人、ウィグル人までも含んでの呼称である。
胡女《こじょ》。
胡姫《こき》。
胡商《こしょう》。
胡麻《ごま》。
胡楽。
胡旋舞《こせんぶ》。
それ等は皆、西域の人間や、西域から渡ってきた食べもの、西域の文化のことを指す言葉である。
紅毛|碧眼《へきがん》――
そういう人種を、空海も、逸勢も、この長安で初めて眼にしたことになる。
貴人や官人たちの間でも、そういう西域風のなり[#「なり」に傍点]をすることが、一種の流行《はやり》になっている。
西域風の長靴をはき、裾の長い衣《きぬ》を着て馬に乗り、颯爽《さっそう》と道をゆく貴人の姿も稀《まれ》ではない。
人々の話し声や、車馬の音、流れてくる管弦《かんげん》のしらべ、食べ物の匂い――空海たちにとっては、全てが異国のものである。
猥雑《わいざつ》で、姦《かしま》しく、混沌《こんとん》としている。
逸勢のみならず、空海でさえ、そういう中に身を置いていると、心が浮きたってくるようであった。
しかし、空海が、そういう風景の中にあって、逸勢と違っているのは、そこに、宇宙を観《み》ていることであった。
空海は、眼にするあらゆるもの、様々なものが、一見はどのように違って見えようとも、等しく宇宙というものの中では、同じものであるということを知っている。
あらゆるものは、宇宙から等距離にある。
そう思っている。
唯一、自分が他人と違っているとすれば、そういう宇宙の原理が、他者のみならず自分の肉体をも、太い力で貫いていることを知っていることだ。
その宇宙を、空海は、この街に身を埋《うず》めて、いよいよはっきりと感じとっている。
宇宙原理――密教的に言うなら、大日如来《だいにちにょらい》のことである。
――その大日如来に、深々と自分の肉体は抱え込まれているのだ。
空海はそう思っている。
眼に見えるもの、触れるもの、嗅げるもの、聴こえるもの、味わえるもの――それらはどれも皆、同じ泡《うたかた》のひとつであると空海には観えている。
しかし、観えていながら、空海は、冷たい眼でそれ等を眺めているのではない。
珍しいものには、おそろしく率直に感動し、食したことのないものを見れば、すぐにつまんでそれを口にする。
どれも皆、味が違う。
同じであるはずのものでありながら、いったん個という人の眼で見れば、およそあらゆるものが違って見える。
同じであって、違うという、矛盾するその視線を、空海は己れの中に見ている。
不思議であった。
その不思議な混乱を、空海は、素直に楽しんでいる。
「おもしろいな――」
歩きながら、空海がつぶやいた。
横を歩いている逸勢が、それを耳にして、
「何がだ、空海――」
声をかけてくる。
「己れの心がさ」
答え、空海は、微笑しながら歩いている。
「おい、空海よ、おまえ、また何やらややこしいことを考えていたのではないか」
「別にややこしいことではない」
「何なのだ」
「見ろよ」
空海が、視線を周囲の雑踏に巡らせて、言った。
「見たがどうした」
逸勢が空海を見た。
「曼陀羅《まんだら》だな」
ぼそりと空海が言った。
「やはりややこしいことではないか」
「いや、ややこしくない」
「まあいい。おまえの話はおもしろいから、聴いてやろう。聴くが、しかし、いいか、空海――」
「なんだ」
「言葉でおれをたぶらかすなよ」
「たぶらかしはしない」
「まあいいから話してみてくれ。わかるようにな――」
空海は微笑した。
「そうだな」
空海は、歩きながら、天を見上げ、また、その視線を地上の雑踏にもどした。
「たとえば、おれとおまえとは、違う人間だな」
「もちろん違うさ」
逸勢は言った。
「倭人と漢人とも違う。儒者と沙門《しゃもん》とも違うし、たとえば金持と貧乏人とも違う」
「うむ」
「しかしだ」
言って、空海は、指差した。
その方向に、妓館の塀があり、その塀越しに、白梅の花をつけた枝が、路地の上に伸びていた。
「あの花からの距離は、誰も皆同じなのだ」
「なに!?」
逸勢は声をあげた。
「やっぱりややこしいではないか」
「それならば、あの雲だな」
空海は言った。
「雲?」
「あそこを流れてゆく雲がある」
空海が見あげた。
「うむ、あるな」
答えた逸勢の視界を、さきほど空海が指差した梅の花が、後方に過ぎてゆく。
その白梅のずっと上方を、悠々と一片の雲が東に流れてゆく。
梅の香が匂った。
「あの雲からの距離は、ここにある誰も皆同じではないか。金持だから、あの雲に近く、貧乏人であるからあの雲から遠く、儒者だから、沙門だからどうだということはない――」
「うむ」
「皆同じ人だ」
「あたりまえではないか」
「しかし、沙門と儒者が違うといえば違う。金持と貧乏人とも違うといえば違うではないか――」
「うむ」
「何故なのであろうかな」
「突然に訊くなよ、空海――」
「違うといえば違う。同じといえば同じ、これは何故なのであろうか」
「以前にも、長安に向かう途中、馬車の中でそんなことを言っていたな。空海、それには、おまえが答えてくれ。おれは、ややこしいのは困る」
「それはな、沙門と儒者というのも、金持と貧乏人というのも、人の法だからだ。人の法が造った分け方だからなのだ」
「ほう」
「沙門と儒者が同じで、金持と貧乏人が同じというのは、天の法だからだ」
「ふむ」
「それはわかろう」
「まあ、わかるな」
「そこでだ、逸勢よ」
「おう」
「沙門と儒者であるおれとおまえとが同じであるように、そこらの樹とも、さっきの梅の花とも、犬や猫とも、蛇や魚とも、おれやおまえは同じものなのだ」
「む――」
「皆、同じ生命なのだよ。天の法から見ればな」
「むむ」
「さらにだな、おれたちと花や犬や樹や蛇や魚とが同じように、それ等と、この地面やそこの石やあの雲やあの空やおよそあらゆるものが、同じものなのだ。天の法のうちではな」
「むむむ」
「その宇宙の原理が、おれにもおまえにも、さっきの梅にも、そこをゆく漢人にも胡人にも、家にも、流れてくる楽音にも、魚を煮る匂いにも満ちている。あらゆるものが、その宇宙の原理で貫かれているのだよ――」
「つまりそれが――」
「曼陀羅ということだ」
「その曼陀羅がようするに……」
「おもしろいと、おれは言っているのだよ」
「おまえ、歩きながら、そんなややこしいこと考えていたのか」
「ややこしくはない」
「つきあってられぬな」
言ったが、逸勢は不快そうな顔はしていない。
この、倭国から自分と共にやってきた、異僧を、楽しそうな眼で眺めている。
空海が時おり使用する宇宙という言葉は、すでにこの時代に存在した。宇も宙も、どちらもともに巨大な覆《おお》い、つまり家の屋根という言葉であり、さらに戦国時代には、
「上下四方を宇といい、往古来今を宙という」
と『尸子《しし》』に書かれている。
上下四方、即ち空間のことであり、往古来今とは、過去、現在、未来のことであり、即ち時間のことである。
宇宙が、今日言うところの時空のことであるとの考え方は、世界のどの国よりも先がけて、古代中国にあったのである。
「おまえと一緒にいると、どこにいるのもおなじという気分になってくる」
逸勢は言った。
「どこに?」
「倭国にいるのも、この唐国にいるのもだ」
「ふうん」
「しかし、同じであろうが、何であろうが、よほど帰りたかったのであろうな」
「永忠《ようちゅう》和尚のことか」
「そうだ」
逸勢は言った。
空海と、逸勢は、西明寺《さいみょうじ》からの帰りであった。
二月の九日――
明日は、藤原葛野麻呂等、大使の一行が日本へ向かって長安を発《た》つ日であった。
本来であれば、もう少し早く発つ予定であったのだが、事情により、出発が遅れたのである。
事情というのは、皇帝である徳宗の死であった。
徳宗が崩じたのは、その年、貞元《ていげん》二十一年正月の癸巳《きし》――つまり一月二十三日である。
六十四歳の死であった。それから三日後に、四十五歳で皇太子の李誦が即位した。
しかし、この新皇帝も、即位はしたものの、昨年の九月に卒中で倒れているため身体の自由が利《き》かず、自由には口も利けない状態であった。
空海たちが、長安に着いたおり、昨年の十二月二十五日に謁見式《えっけんしき》があり、その時に、空海も逸勢も、この不幸な親子の皇帝と皇太子を見ている。
謁見式は、空海等遣唐使一行と時期を同じくして長安にやってきた、南詔《なんしょう》、吐蕃《とつばん》(チベット)の大使等一行と一緒に行なわれたのだが、その時すでに、徳宗皇帝の身体は病魔に侵されており、それは、見てすぐにそれと知れるほどであった。
その時、一緒に姿を現わした皇太子も、つきそいの者なしには歩けぬ状態であり、一言も声を発しなかった。
徳宗皇帝が、やがて病魔に倒れることになるであろうとは、葛野麻呂も一度ならず口にしたことはあったが、まさか自分が在唐中にそれが起こるとは考えてもいなかったようであった。
それが起こったのである。
そうなっては、いかに異国の大使とはいえ、喪《も》に服さねばならない。葛野麻呂は、徳宗皇帝の死を悼《いた》むため素衣冠を着け、宮城の承天門に仗《じょう》をたてている。空海も、その列に加わっている。
そういうことがあって、長安を発つ日が延び、結局、二月の十日ということになったのである。
それが、明日だ。
遣唐使一行が帰るとなれば、唐に残ることになっている空海や逸勢が、いつまでも、大使が宿としていた宣陽坊《せんようぼう》の宿舎|鴻臚《こうろ》客館にいるわけにはゆかない。
留学僧《るがくそう》としての空海が、正式な宿舎として唐朝廷より用意された、延康坊《えんこうぼう》の西明寺へ入らねばならない。
それで、出発日の前日である今日、空海は逸勢と共に、身の回りの品をまとめて、人を傭《やと》い、荷馬車で西明寺までそれを運んだのであった。
まだ宿舎の決まらない逸勢は、しばらく空海のところに居候をすることになっていた。
それまで、空海たちが宿舎にしていた宣陽坊は、長安を東西に分けている朱雀大街《すざくたいがい》の東――つまり、左街にあった。
西明寺のある延康坊は、西――つまり右街にあった。
距離にして約一・三里――五キロ余りであった。
荷物を置き、馬車を先に帰して、空海と逸勢は、歩いて宣陽坊まで帰ることにしたのである。
宇宙だの、曼陀羅だのという話になったのは、その途中でのことであった。
そして、逸勢は、永忠《ようちゅう》のことを思い出したらしかった。
永忠――
三十年も昔に、この国へ渡ってきた、日本の僧である。
当時、遣唐使船は、渡唐していない。
永忠は、私船に身を投じて、海を渡ったのである。
遣唐使船は、そういつも出ていたわけではない。
空海の乗った船も、実に二十四、五年ぶりの遣唐使船であったのだ。
その永忠が、三十年、この長安で留学僧として暮らしたのが、西明寺であった。
空海が入ることになったのは、その永忠が、三十年暮らしたその部屋であった。
永忠は、明日、藤原葛野麻呂等と共に、日本へ帰ることになっている。
その永忠が、しばらく前に空海と逸勢を出むかえて、西明寺の中を案内してくれたのであった。
逸勢は、永忠と会うのは、二度目であったが、空海は何度も、西明寺に永忠を訪ねて会っているらしかった。
すっかり、自分の回りの品々の処分を済ませ、さっぱりした自分の部屋へ、次の住人となる空海を案内した時、それまで三十年暮らした部屋を見つめ――
「長うござりますよ、三十年は――」
しみじみと永忠は言った。
三十年前と言えば、日本の朝廷がまだ奈良にあったころであり、空海はこの世に生を受けたかどうかというころである。
都が平安京になったことを、永忠に教えたのは、空海である。
その部屋全体に、永忠の体臭が染《し》み込んでいるようであった。
「今ではね、日本にいる知人よりも、こちらの知人の方がよほど多いし、気心も知れているのです。しかし――」
永忠は言葉を切って、部屋を、慈愛に満ちた眼差《まなざ》しで見つめた。
「――しかし、それでもわたしは、あの国へ帰りたいのですよ」
「帰れますとも。今年の夏になるまでには、日本の土を踏めるでしょう」
空海が言った時、永忠は、自分の眼頭《めがしら》を押さえた。
「三十年、このうちの半分は、無駄な時間であったような気がします。今からならば、わたしは半分の十五年で、今、わたしが手に入れて日本へ持ち帰ろうとしているものと同じだけのものを、手に入れることができると思いますよ――」
言葉を切って、空海を見、
「密を求めて、やってこられたと言っておりましたかな」
「はい」
「密教ならば、まずは、青龍寺の恵果《けいか》和尚がよろしいでしょう」
永忠は言った。
「そのようにあちこちで聴きました」
「それは本当ですが――」
何か重要なことを言おうとでもするように、永忠は空海を見やった。
「結局、自分で押しかけるよりは、乞《こ》われて出向く方が、この国では何事も早いということです。密を手に入れるにもね。自分で、誰かの紹介状を持って出かけたとして、その時に、たとえば恵果和尚に会えればいい方で、たとえ会えたとしても、三年は雑用でしょう。三年目に声がかかって、経のひとつふたつ読むようにはなるかもしれませんが、灌頂《かんじょう》までは、さらに十年から十五年はかかりましょう」
「ええ」
「あなたは、二十年の予定と言ってましたが、仮に、あなたが、請《こ》われて恵果和尚の元へ出向いたとなれば、あなたの能力にもよるのでしょうが、五年から七年ですむでしょう」
「しかし、それを、一年で済ませてしまおうという人間もおります」
「ほう」
「最澄という僧なのですが」
「なるほど。今回長安へは来ずに、直接|天台《てんだい》へ向かったという僧がいたということを耳にしましたが、たしか、それがそういう名であったような――」
「そうです」
「しかし、一年というのもまた、急な話ですな」
「経を買いに来た商人《あきないびと》とすれば、一年というのも納得がゆくでしょう」
「これは、手厳しい御意見ですね。そういうあなたは、いかがなのですか――」
「最澄が商人《あきないびと》であれば、わたしは盗人《ぬすびと》というところでしょう」
「おもしろいことを言われますな」
「こちらの西明寺には、恵果和尚のおられる青龍寺に、つき合いの深い方がおられると聴きましたが――」
「ははあ、もうそこまで御存知なのですか。それならば、たぶん、志明《しみょう》と談勝《だんしょう》でしょう。今日は、いるはずですから、紹介しておきましょうか――」
「いえ。それにはおよびません。日本から、空海という僧が来て、どうやら密を盗みに来たらしいと、そのように伝えておいていただければ充分です」
「盗みに来たと、本当にそう伝えてよろしいのかな?」
「はい」
「それから、恵果和尚のことだが、何か聴いてはおりませんか」
「どのようなことでしょうか」
「恵果和尚が、御病気であるというような」
「それならば、伝え聴いていますが、だいぶお悪いのですか」
「まさか、年内ということはないにしても、さっき言った五年は、もたないかもしれません」
「密を極めた方でも、天の法には従わねばならないということですね」
「彼《か》の釈尊《しゃくそん》でさえも、そうであったのですから――」
「ええ」
「恵果どのに密を伝えた不空《ふくう》も、不空に密を伝えた金剛智《こんごうち》も、今はこの世にはおられません」
「わたしは、その不空|菩薩入滅《ぼさつにゅうめつ》の日に生まれたのですよ」
「ほう、それはまことか」
「はい」
「しかし、そうなのでしょうな――」
「何がでしょう」
「密を極めたとしても、やはり死してゆくということですよ」
「ほっとしました」
「ほう……」
空海の答えが意外であったらしく、永忠は、不思議そうな声をあげた。
「やはり死ぬ――身のひきしまる思いがいたします。死するからこその、仏であり、密であるのですから。死なぬための法が欲しければ、玄道《げんどう》をやればいいのです。しかし、玄道の道を学んだとて、死は死でありましょう」
玄道――つまり仙道のことである。
「商人も死ぬ。仏法の徒も死ぬ、乞食も死ぬ。密の徒も、玄道の士も、帝であってさえ死ぬ――」
空海は、楽しそうにさえ言った。
「死にますな」
答えた永忠の言葉にかぶせて、
「小気味よいほどです」
空海は言ってのけた。
「ほう」
「だからこその、仏法であり、密でありましょう」
そう言った空海の顔を、永忠はしげしげと見つめた。
「不思議な方ですね」
永忠は空海に言った。
空海と話をしているうちに、次第に、永忠の言葉は、丁寧になってゆくようであった。
「いや、あなたのような方と話をしていると、明日、日本へ帰るのが惜しくなってきますよ。この国に残って色々と話をしたいのですが、やはり、帰らねばなりません……」
永忠は、しみじみと、空海に言ったのであった。
「帰らねばなりません……か」
逸勢は、歩きながら、その時の永忠の声音《こわね》を真似て、つぶやいた。
「二十年か、我々は――」
今さらながら、二十年という、これからこの長安で過ごさねばならない歳月のことを、逸勢は思っているようであった。
「二十年ということはなかろうよ」
空海は言った。
「いや、空海よ、仮にさっき永忠和尚の言った五年で、ぬしが密を己《おの》がものにしたとして、二十年は二十年ぞ。そういうことで、我々はこの唐へやってきたのだ。自分の意志で、五年と決めるわけにはゆかぬ」
「ふふん」
「五年で帰るにしてもだ、その時に、果たして都合よく、日本からの遣唐使船があるかどうか。ことによったら、二十年後に、あるかどうかさえ疑わしいのだぞ」
「わかってるさ」
空海は、風のように飄々《ひょうひょう》と歩きながら、
「すでに、種は播《ま》いておいたから、そのうちに、いい芽が出るかもしれぬさ」
ぽつりとつぶやいた。
「なんだ、その種というのは?」
「芽が出てのお楽しみだ」
「ちぇっ」
逸勢は、子供のような仕草で、小石を蹴った。
「方《まさ》に老《おい》の暗《ひそ》かに催《もよお》すを知る――か」
逸勢は、いつの間にか自分の身に老いが始まってくるのを知った、という意味の詩句をつぶやいた。
「さっきの詩か」
空海は言った。
さっきの詩、というのは、諸々の話が済んだ後に、永忠が見せてくれた詩のことである。
「そう言えば、西明寺は、牡丹《ぼたん》の名所でありますね――」
永忠にそう言ったのは、空海であった。
「それはみごとなものですよ」
永忠が言った。
西明寺の牡丹は、長安の他の牡丹の名所よりも、やや遅れて咲く。そのため、その時期にはたいへんな賑《にぎ》わいとなる。
多くの長安の文人や、画家が訪れては、詩を詠《よ》み、画《え》を描いてゆく。
「あなたは、詩を詠むのでしたね」
「いえ、詠むというほどのものではありません」
「いや、なかなか書と文の立つ方であるとの評判ですよ。もし興味がおありなら、見せてさしあげましょうか――」
「何をですか」
「この西明寺へやってきた人間が詠んでいった詩を、書き写したものがあるのですよ――」
「それは、ぜひ、拝見したいものですね」
それで、永忠が、席をはずして、持ってきた詩の中に、逸勢が口にした一節の入っている詩があったのである。
「昨年の作ですがね」
空海と逸勢は、その詩を見た。
――西明寺の牡丹の花の時、元九を憶《おも》う
と、題された詩であった。
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前年、名を題する処
今日、花を看《み》来たる
一たび芸香《うんこう》(秘書省)の吏《り》と作《な》り
三たび牡丹の開くを見る
豈《あ》に独り花の惜しむに堪《た》うるのみならんや
方《まさ》に老《おい》の暗《ひそ》かに催《もよお》すを知る
何ぞ況《いわん》や花を尋《たず》ぬる伴《とも》
東都(洛陽)に去りて未《いま》だ廻《かえ》らざるをや
|※[#「言+巨」、第3水準1-92-4]《なん》ぞ知らん紅芳の側《かたわら》
春尽きて思い悠《ゆう》なる哉《かな》
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題の下に、作者の名が書いてあった。
白楽天《はくらくてん》作
とある。
白楽天――字《あざな》である。
本名は、白|居易《きょい》。
この白楽天の詩が、『白氏文集《はくしもんじゅう》』として日本に伝わり、平安教養人の必読書として、貴人たちの間でもてはやされるようになるのは、まだしばらく後のことである。
空海|入唐《にっとう》当時、白楽天は、まだ、無名に近い秘書省の一官吏である。
むろんのこと、この時の空海は、まだこの白楽天の名を知らない。
玄宗《げんそう》皇帝と楊貴妃との愛をうたった長編詩「長恨歌」が、この白楽天の手によって書かれるのは、この時より後のことである。
「あなたが写されたのですか」
空海は訊いた。
「いや、さっき話の出た、志明が書き写したものです。あの男は、こういうことが好きでね。それを今、行って借りてきたのですよ」
「どういう男なのですか」
「志明の知り合いらしいのですがね。秘書省の役人だとかで、わたしも、一度、顔を合わせていますが、年齢は、あなたといくらもかわらないと思いますよ」
永忠の言う通りであった。
この時、空海は三十二歳。
白楽天は、空海より二歳年上の、三十四歳であった。
「それにしては――」
と、空海は言った。
「老いたことを書いていると言いたいのですね」
「ええ」
空海は答えた。
良い詩である。
元九という友人と、昨年は一緒に見た牡丹を、今年は独りで見に来ている。その友人は、今は、洛陽の地にいるらしい。
匂いたつような花の盛りにあって、老いを思う。
それはまさしく、仏法の考えである。
考えではあるが、仏法は、そこが出発点である。
密教で言うなら、生まれ、生き、死に、死んでゆくその生命の有りよう――生生流転《せいせいるてん》するその生命を、巨大な宇宙のダイナミズムとしてとらえている。
「他の詩も、見てみたいですね」
素直に空海は言った。
「興味があれば、志明に声をかければ、白楽天を紹介してくれるでしょう」
「わかりました」
「ところで、先日の件ですがね」
永忠が言った。
「よい人が見つかりましたか」
「ええ、般若三蔵《はんにゃさんぞう》が教えてくれるそうですよ」
「それはありがたいことです」
「あの男ほど、適任な者はおりませんよ。なにしろ、天竺《てんじく》の人間ですから――」
「確か、玄奘《げんじょう》三蔵も修行されたという、天竺のナーランダ学林で、仏法を学ばれたとか――」
「そうです。この国の言葉については、もう唐人と同じです。あなたほど、唐語に長《た》けている人間なら、何の不自由もないでしょう」
そう、永忠は言った。
それからひとしきり日本の話になり、その後、空海と逸勢は、西明寺を辞《じ》したのであった。
「あのような詩は、おれの好みではないな」
歩きながら、逸勢が言った。
「あのように素直すぎる詩は、逸勢は好まぬのであろう――」
「まあ、そうだ」
逸勢は答える。
いつの間にか、宣陽坊までは、もうひと息のところまで来ていた。
「ところで空海よ、詩の話の後で、永忠和尚が何か言っていたが……」
「ああ、般若三蔵が教えてくれると言った、あのことか――」
「何を教えてくれるのだ」
「梵語《ぼんご》さ」
空海は言った。
「梵語だと」
梵語、すなわち、古代インドで使われていたサンスクリット語のことである。
「ああ」
「何故だ」
「我々が読むことのできる仏典は、皆、唐語で書かれたものだ。しかし、それ等の仏典は皆、始めから唐語で書かれていたものではない――」
「うむ」
「その前は、天竺の言葉で書かれていた。その天竺の言葉が、梵語さ」
「ううむ」
「梵語がわからねば、仏法にしろ密にしろ、その細かい機微がわからぬ」
「なるほど」
「それにだ、いきなり恵果和尚のところへ出かけてゆき、仮にその日から密を教えてやろうということになっても、梵語を知らぬでは、どうにもならぬ」
「しかし、おまえ、梵語であれば、書けもし、しゃべれるのではなかったか」
「あれは、日本のみの梵語よ。ここで、密を盗むには、不向きだ。むしろ、まるで知らぬ方がよかろう」
「しかし、何年もかかるのではないか」
「いや、そんなにはかかるまいよ」
自信たっぷりに、空海は言った。
「そう言えば、おまえ、今、その日から密を教えてやろうということになってもと言っていたな」
「言ったが、まさか、会《お》うたその日に教えてやろうというわけでもあるまい。たとえばの話だ――」
「梵語か――」
「遠まわりかもしれないが、この遠まわりが、思わぬ早道になるかもしれぬ」
「さっき、永忠が言っていたな」
「訪ねてゆくよりも、請われてゆけか――」
「その通りではあろうが、問題は、むこうが請うてくれるかどうかだろう」
「難しかろうな」
「まあ、無理であろうよ」
「逸勢よ、おれは無理とは言っていないぞ。おれは難しいと言ったのだ」
「なに!?」
言った逸勢に、空海は、微笑した。
「まあ、どうなるかはわからぬがな。わからぬからおもしろい」
空海は言った。
「ところで空海よ――」
逸勢は、急に、何事か思いついたように言った。
「なんだ」
「じきに宣陽坊だが、すぐには帰らず、平康坊《へいこうぼう》の方に足を向けてみる気はないか――」
「女か」
あっさりと空海は言った。
平康坊は、宣陽坊の北隣りの坊で、妓館や酒房が軒を並べている一画がある。
歓楽街である。
青い眼の胡姫《こき》や、当然ながら日本人である逸勢にとっては異国の人間である唐人の妓生がいる。
逸勢は、その一画に足繁く通い、どうやらなじみの女もいるような風情《ふぜい》であった。
そういう通りへ足を向ける度に、逸勢は、空海に、中の様子を細かに語って聞かせるのである。
青い眼の胡姫と、初めて客として会った時などは、興奮した声で、部屋の調度から、胡姫の服装、音楽の響きぐあいにいたるまで、熱心に語った。
|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》というものを見たことがあるかと、逸勢は空海に言い、その説明をする。
これまで、詩文などでしか眼にしたことのない|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の説明をする時の逸勢は、唐に二十年もいるのはたまったものではないと常々口にしている逸勢とは、別人のようであった。
|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》――炉《ろ》のことではない。
酒肆《しゅし》などで使っている、台のようなものだ。
黒い土を盛って、炉の形に壇をつくり、そこに酒や肴《さかな》を並べて、客は、胡姫と向かい合うのである。
灯りは、灯明皿の灯りである。
その灯りの中で、女の白い手がしなしなと動き、酒を杯に注いでくれるのを見るのは、
「実によいものだぞ」
と、逸勢は言うのである。
外に出る時には、唐語をしゃべることのできる空海にくっついて歩きたがる逸勢も、そういう所へ足を向ける時は、他の仲間とゆくか、独りでゆく。
空海が、僧であるというので、誘わぬように遠慮もしているらしいが、逆に、そのことで空海をからかったりもする。
そういう場所から帰ってきた時、逸勢は、空海の前で、
「いや、おれは坊主にならずによかった」
などと、空海の表情を楽しそうに眺めながら言ったりもする。
空海は、微笑しながら、逸勢の話を聴いているだけである。
その逸勢が、珍しく、空海を誘ってきたのだ。
それで、空海は、女か、と答えたのである。
「そうだ、女だ」
逸勢は答えた。
この男にしては、珍しく、やや下品なものが、その微笑を浮かべた口元に漂っている。
「今夜は、酒宴になろう。それまでにもどればよい。暮鼓《ぼこ》が鳴り始めてから、女と後朝《きぬぎぬ》の別れをし、服を着て出てきても、宣陽坊の坊門が閉まるまでには帰ることができる――」
暮鼓というのは、陽暮れと共に京城門の楼上で打ち鳴らされる太鼓のことである。
その暮鼓が鳴り終ると、京城門が閉ざされる。
その後に、街鼓《がいこ》が六百|槌《つい》――約四十五分ほど打ち鳴らされ、それが止《や》むと、各坊の坊門が閉ざされるのである。
坊門が閉ざされると、自分の住む坊には帰れなくなる。
いったん坊が閉ざされた後に、大街を歩行しているのを金吾衛《きんごえい》の役人に見つかれば、犯夜≠ニして笞《むち》二十の刑を受けることになる。
夜に大街を歩けるのは、役人か、県や坊で発行した、特別の通行証――文牒《ぶんちょう》を持っている者に限られる。
暮鼓に対して、暁鼓《ぎょうこ》がある。夜明けと共に打ち鳴らされるこの暁鼓によって、坊の坊門が開けられることになっていた。
「悪くないな」
空海は言った。
その言い方が、やけにあっさりとしている。
「よいのか」
逸勢が言った。
「よいも何も、おまえが誘ったのではないか――」
「いや、おれはおまえが困る姿を見たくて誘っただけなのだが、本当にかまわぬのか」
「いいさ」
「後悔するなよ、空海」
「別に後悔などはしないさ」
空海の言い方は淡々としている。
「ほう」
逸勢がにやりとする。
「そのおまえの言っていることが、強がりかどうか、ゆっくり試してみたいものだ」
本気のようであった。
「ならば、今日はよそう。どうせゆくのなら、今日はあわただしい。皇帝が崩御されて、しばらく妓楼も閉めていたしな。日をあらため、葛野麻呂が帰ってから、ゆっくりと出かけようではないか――」
「それもいいな」
「その時は、泊まりでゆくが、どうだ」
「うん」
空海の答えにはよどみがない。
その雰囲気に、逸勢がややおされたか、
「おい、空海、おまえ、まさかおれの知らないうちに、妓館などに顔を出しているのではあるまいな」
逸勢が言った。
当時の奈良仏教においては、不犯《ふぼん》――女と交情を持たないということは、重要な僧の戒律《かいりつ》のひとつであった。
その戒律を破ったことが公《おおや》けになると、破門になり、二度とその宗派の寺には足を踏み入れることが許されなくなる。
少なくとも、表向きには、そうだ。
食欲。
性欲。
眠欲。
人の欲望のうちのもっとも強いものみっつのうちのひとつ、女の肉に対する欲望を、完全に断つところに、当時の仏教は成立していたのである。
なのに、空海は、あっさりとした顔で、妓生を買いにゆこうという逸勢に、
それもいいな
などと答えている。
逸勢が、自分の知らぬうちに、空海が妓館に足を踏み入れたことがあるのではないかと考えたのも、無理からぬことであった。
「さあて――」
空海は、楽しそうに逸勢を見た。
「何故、急に行く気になったのだ」
逸勢は訊いた。
「逸勢に誘われたからな」
「これまではどうして、一緒に行かなかったのだ」
「誘うてくれなんだからよ」
空海は言った。
空海の答えは明瞭《めいりょう》であった。
「わかった」
逸勢は言った。
「西明寺に落ち着いたら、さっそくゆこうではないか」
「うむ」
「その時になって、あの時に行くと言うたは、戯《たわむ》れであったなどと言うて、逃ぐるなよ」
「逃げはせぬさ」
「よし」
逸勢は言ってから、
「よし」
またひとつうなずいた。
何やら楽し気な顔つきになっている。
その顔が、ふいに真顔になった。
「ひとつ、聴かせろ、空海――」
「何をだ」
「これまで、わざわざ訊かないでおいたのだが、気になることがあってな」
「なんだ?」
「空海よ、おぬし、女を知っておるのか」
逸勢が言うと、空海は、楽しそうに、くくと声をあげた。
「ちゃんと答えろよ」
「あれはなかなかよいものだと思うている」
「よい?」
「うん。よいな、女は――」
空海は答えた。
高い天と、街の雑踏――そのどちらでもないあたりに顔をあげて、空海は茫《ぼう》とした視線を彼方に放っていた。
異国の喧騒《けんそう》、ざわめき、それ等が宇宙の音楽のように、自分の肉体を包んでいるのを、空海は感じていた。
その音楽に、空海は、うっとりと酔っているようであった。
(二)
馬上の、別れであった。
空海も、橘逸勢も、唐の風習にならって、楊柳の枝を折り、それを丸めて旅立つ者にたむけた。長安の東、|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]橋《はきょう》のたもとが、送る者と送られる者との別れの場所であった。
長安を出、送る者も送られる者も、馬に乗ってここまでやってきた。
最澄たちの乗った二船が、無事に唐に着いていたことも、今はわかっている。
春の野を馬で歩き、春の風の中をやってきたのだが、誰も、言葉は少なかった。
それまで土の色しか見えなかった野のあちこちに、緑色のものが萌《も》え出ている。
甘草《かんぞう》や、|※[#「くさかんむり/繁」の「毎」に代えて「誨のつくり」、第3水準1-91-43]簍《はこべ》の種類が、遠いこの異国の野にあっても、まず先に萌え出てくるものらしい。早春の息吹《いぶ》きに満ちた道であった。
空海は、時おり、馬を、永忠の乗っている馬車に寄せては、短い会話をかわしている。
「春なのだな」
むっつりと黙っている逸勢の横に馬を並べては、ぽつりと、空海はそんなことをつぶやく。
|※[#「さんずい+顏のへん」の「彡」に代えて「生」、第4水準2-79-11]水《さんすい》に至り、そこにかかった|※[#「さんずい+顏のへん」の「彡」に代えて「生」、第4水準2-79-11]橋《さんきょう》を渡った。
そして|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]《は》橋に着いた。
皆、つらい旅を共にした仲間であった。
死を覚悟しての、異国への出発であった。
四船で発ち、二船が海に沈んだ。
目的の異国へ、ともかくも生命を落とさずにたどりつき、そして、今日の別れであった。
昨夜は、充分に言葉をかわしたはずなのに、何かまだ言い足りないものが、誰《だれ》の胸のうちにもある。
しかし、何が言い足りないのかはわからず、出て来る言葉は、何度も繰り返された、短いものばかりであった。
「息災《そくさい》でな」
「死ぬるなよ」
その短い言葉の中に、万感の思いがある。
帰る方とて、これからまた、生命がけの船旅が待っているのである。
無事に日本にたどりつけるという保証があっての旅ではないのである。
いよいよの別れとなった時、空海に馬を寄せてきたのは、藤原葛野麻呂であった。
「空海、ぬしの才には何度も助けられた」
低い声で言った。
「生きて帰って来い」
空海の返事を待たずに、葛野麻呂は背を向けた。
別れには、ほとんどの者が、涙した。
葛野麻呂が、背を向けたのも、溢れてきた涙を空海に見せまいとしたものである。
逸勢と、空海だけが、涙を流さなかった。
いつもは、もう少し口数の多い逸勢は、この日ばかりはほとんど口を利かず、黙《もく》していた。
一行が、出発した。
|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]《は》橋の板の上を、馬の蹄《ひづめ》が、車が、音をたてて遠ざかってゆく。
|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]《は》橋を渡れば、さらに東に、道は果てしなく続いている。
それが、どれほど遠い道であるか、見送る空海にも、逸勢にもわかっている。
空海も逸勢も、その道を通って、ここまでやってきたのである。
遠いがしかし、その道の果てに何があるのかは、わかっている。
この長安の華麗から見れば、ほとんど片田舎のようではあったが、その果てには、日本の京が待っているのである。
故郷である。
一行が遠ざかり、やがて、声も届かなくなった。
空海と、逸勢の前を、|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]水《はすい》の青い水が、悠々と流れてゆく。
対岸の楊柳が、萌え出た新芽で、青く煙《けぶ》っている。
今さらながらに、春は、やってきているのであった。
一行の姿が、やがて、平原の彼方に見えなくなった時、ずっと、その方向を睨んでいた逸勢が、
「去ったか、俗吏《ぞくり》め……」
ぽつりと言った。
言った途端に、逸勢の肩が震え始めた。
逸勢の眼から、涙が溢れ出ていた。
逸勢は、喉《のど》をつまらせて、嗚咽《おえつ》した。
空海のみが、涙がなかった。
空海は、逸勢の後方に馬を停《と》めて、この男の気が済むまで泣くにまかせ、黙って天を見ていた。
――あれもこれも、皆曼陀羅よ。
空海の眼は、そう言っているようであった。
(三)
その男に会ったのは、帰りであった。
空海と逸勢は、ゆっくりと、馬を歩ませていた。
「空海よ」
馬上の逸勢が、空海に声をかけてくる。
「なんだ」
空海が、前方を眺めたまま答える。
「おれは、すっきりした」
ほんとうにさっきまで嗚咽していた人間とは見えぬほど、逸勢の表情は、自分で言うように、すっきりとしていた。
何か憑《つ》きものが落ちたようであった。
「しかし、空海よ、おまえという男は、つくづく奇妙な男だなあ――」
逸勢は、どこか不満そうな口ぶりで言った。
「どこがだ?」
空海が、やはり、前を見ながら答えた。
さっき|※[#「さんずい+顏のへん」の「彡」に代えて「生」、第4水準2-79-11]《さん》水を渡り、もう、向こうには、長楽坡《ちょうらくは》の坂が見えている。
坂の左右に、旅人が、旅塵をはらう茶亭《ちゃてい》が何軒か並んでいるのがわかる。
「何故、おまえは泣かぬのだ」
逸勢は言った。
「何故であろうかな」
まるで、自分のことではないように、空海が答えた。
「おまえのことだぞ、空海。他人《ひと》事《ごと》のような言い方をするな」
「そうだな」
「それさ、その言い方が、他人事のようだというのだよ」
「困ったな」
「ばか、困っているのはおれではないか」
「何故、逸勢が困るのだ」
「おまえに、見られてしまったからな」
「何をだ」
「訊くな、空海よ。くやしくなってくるではないか」
「涙を見られたのが、くやしいのか」
「言うな、そのことは」
「言い出したのは、逸勢からではないか」
空海に言われて、逸勢が、言葉につまる。
「まあいい。空海よ、おれはとにかく、すっきりとした」
逸勢は言った。
「うん」
「すっきりしたという、そのことが、大事なことなのだ」
「うん」
空海の答えは素気《そっけ》がない。
空海は、馬上から遠く、視線を放って、それを動かさない。
空海は、広々とした、天と地の息吹きを呼吸しているようであった。
そのまま、ふたりが、長楽坡にさしかかった時であった。
「おい……」
ふいに、声をかけられた。
しかし、最初は、空海も逸勢も、それが自分たちに向けられたものだとは思わない。
そのまま通り過ぎようとしたところへ、
「おい」
また、声をかけられた。
太い、男の声であった。
空海と逸勢は、馬を停めていた。
見ると、右の道端に、大きな岩があり、その上に、ひとりの男が腰を下ろしていた。
「ほう……」
その男を見て、空海は、思わず声を洩らしていた。
惚れぼれするほど、大きな男であった。
その男が尻の下にした岩も大きいが、その岩と同じか、それ以上の重さがありそうに見えた。髯面《ひげづら》であった。
髪がぼうぼうと伸び、その髪と髯との境目がわからない。
陽に焼けた、埃《ほこ》りと垢《あか》とで汚れた黒い顔をしていた。
空海の、小さな賛嘆の声が届いたのか、その男は、太い唇で、微笑した。
思いがけなく、白い歯が、その唇からこぼれた。
着ている服も、いつ洗ったのかわからぬほどぼろぼろで、元の色の見当すらつきかねるほどであったが、その白い歯が、逆によく目立った。
年齢は、空海と同じか、やや若いくらいに見える。
「何か用か」
空海は言った。
「金はあるか?」
男が、岩に腰を下ろしたまま訊いてきた。
「ある」
無造作に空海が答えていた。
答えた空海に、逸勢が、馬上から声をかけた。
「おい、いいのか、そんなことを言って――」
物盗り――とまでは逸勢は口にしなかったが、それでも、空海には充分、逸勢の言いたいことは伝わったらしかった。
「まさか、これだけ人通りのあるところで、物盗りということもあるまいよ」
はっきり空海は答えていた。
その声は、むろん、男に届いている。
しかし、逸勢と空海の会話は日本語である。男に、その意味がわかっているとは思えない。
男は、また、微笑した。
悪い微笑ではない。
妙に、人なつこいものがある。
前を通るだけで体臭が届いてきそうなこの風体をあらため、風呂に入り、よい衣《きぬ》を着てどこかの妓館にでも足を運べば、女たちが放ってはおくまいと思われた。
「どのくらいある?」
男が訊いた。
「まあ、相当なものだな」
空海は言った。
「本当か?」
「本当だとも」
空海が答えたのは本当のことである。
なにしろ、二十年分の生活費を持ってきているのである。
それだけではない。
ただこちらで密教を学んで帰ればいいだけではなく、経典《きょうてん》や仏具まで、手に入れてこなければならない。
経典は、写経をせねばならない。
写経をいちいち自分でやっていたら、とてもではないが、おそろしい時間の無駄になる。
人を傭《やと》って、その写経をさせるのが一番である。
そのためには金がかかるのである。
それも、半端な額ではなかった。
その金を、空海は用意してきているのである。
「おれを、傭ってくれ」
男が、空海に言った。
「傭う?」
空海は訊き返した。
「ああ」
くったくなく、男は答えた。
「空海――」
逸勢は、かまわずに、ゆこうという素振りである。
しかし、空海は、馬上から男を見下ろしたままだ。
「ここでね、通る人間たちに、色々声をかけてるんだが、誰も相手をしてくれないのさ――」
「何故、傭って欲しいんだ」
空海が訊くと、
「そりゃあ、あんた、金が失《な》くなっちまったからに決まっているじゃないか」
男が言う。
「なるほど」
思わず空海は微笑した。
「あんた、この国の人間じゃないね」
「わかるか」
「ああ。びっくりするほど、うまく唐語を使うんで、おれもわからなかったが、今、あんたの連れがあんたに声をかけたのを耳にしてね。この国の言葉じゃなかった――」
男は、太い右手の人差し指で、鼻の下を掻《か》いた。
その鼻が、すっきりと高い。
「あんたも、この国の人間じゃないな」
「半分はあたりで、半分ははずれだな」
「ほう。どうしてなのかな」
「おれの生まれは、天竺さ。親の片一方が天竺の人間で、もう片一方がこの国の人間なんだ――」
「ならば、天竺の言葉はしゃべれるのかな」
空海が訊いた。
男の口から、ふいに、異国語が滑り出てきた。
言い終えて、男はまた白い歯を見せた。
「なるほど、しかし、それは、あんたに何ができるかということだな」
空海は言った。
「驚いたな。あんた、どうして、天竺の言葉がわかるんだい?」
「わかるといっても、少しさ」
そう言った空海の肩を、逸勢が馬上から指で突いた。
「なんと言ったのだ、この男?」
逸勢が、いつの間にか、この男に興味を奪われているようであった。
逸勢にしても、まるで、唐語の教養がなく唐に渡ってきたわけでもない。
最近では、耳が唐音に慣れ、妓生と言葉をかわすうちに、ややこしくない会話であれば、何とか聴きとれるし、なんとか話すこともできるようになっている。
だから、最初の、空海と男とのやりとりはなんとかわかっていたのだが、男が、天竺の言葉で話し始めた途端に、もう、わけがわからなくなってしまったのである。
「言葉はこの通りしゃべれるから、おれを傭ってくれるのかどうか、それを決めてくれと、彼は言ったのさ――」
空海は言った。
空海は、男に向きなおった。
「天竺の言葉がしゃべれるというのはいいな。しかし、まず、どのくらいの金が欲しいのかだが――」
「いくらでもいい。その額はあんたが決めてくれればいいんだが、ふたつ、条件がある。まず、食い物だけは、余りものでいいから、腹いっぱいに喰わせてもらいたいんだ。たくさん喰うんだ。見ればわかるだろうけどね――」
「もうひとつは?」
「長安で人を捜している」
「人を?」
「暇な時には、その人を捜すことにしたいのだが……」
「誰をだい?」
「それが、わからないのさ。わかっていたはずなんだが、半月ほど前に、盗人とやりあってね」
「盗人?」
「眠っているおれの懐をさぐってきた奴がいたんだよ。眼が覚めて、やりあうことになっちまってね。ひとりをぶちのめしている間に、もうひとりいた盗人の相棒の方に後ろから、丸太で頭を叩かれたのさ」
「ほう」
「どちらも捕えて、役人に引き渡してやったんだが、頭を叩かれたおかげで、誰を捜していたかを思い出せなくなっちまったんだよ――」
「何のために、人捜しを?」
「だから、それも忘れちまってね。忘れるくらいだから、たいしたことじゃあないんだろうけど、妙に気になってるんでね」
「人を捜すくらい、もちろんかまわないが、それよりも、あんたに何ができるのかだな。それを教えてもらえるかね――」
「そうだな」
男は、太い人差し指を、ぼうぼうとした髪の毛の中に差し込んで、ぼりぼりと音をたてて、頭を掻いた。
「おれは、強いよ」
ぼそりと言った。
「確かに強そうだが、どのくらい強いのかな」
「虎ならば、一度、素手で殺したことはあるけどな」
「素手で?」
「うん。棒で殴り殺したことなら、二度だ。あまり、いい気分のものじゃなかったけどね――」
「しかし、口で言うだけなら、子供だって言うだろうな」
「そりゃあ、そうだ」
よし――
と、男はつぶやいて立ちあがった。
立ちあがってみると、はっきりと男の身体の大きさがわかった。
馬上の空海と、ほとんど視線をあげずに話ができるほどであった。
「じゃあ、見てな」
男は言って、それまで、自分が座っていた岩の前に立った。
男は、無造作にしゃがみ込むと、その岩を両腕に抱えた。
男自身の肉体が有する容積と、その岩の容積とは、ほとんどかわりはない。
男の全身に、ふいに、力がみなぎるのがわかった。
男の肩と腕に、瘤《こぶ》のように筋肉が盛りあがった。
「うん」
短く、男の喉から声が絞り出された。
一瞬、動かなかった。
しかし、動かなかったのはその一瞬だけで、その岩がふいに、浮きあがった。
奇跡を見るような感じであった。
「むう」
その岩が、男の腹の上に担ぎあげられていた。
「こんなものかな」
男が言った時、男の腹が、太い音をたててなった。
男が、よろめいた。
どん、
と、地響きをあげて、岩が地に落ちた。
そのまま、男はそこにへたり込んでしまった。
「大丈夫か」
空海に、男は、微笑で答えた。
「いつもなら、頭より高く持ちあげられるんだけどね、何しろ、腹が減っちまって――」
男が言った時、また、男の腹が音をたててなった。
「傭ってもらえるかい?」
男が言った。
もう動きたくないというように、男は、そこに胡座《あぐら》をかき、空海を見あげて微笑していた。
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第四章 胡玉楼
(一)
空海は、西明寺《さいみょうじ》にいる。
――二月二十一日。
藤原葛野麻呂《ふじわらのかどのまろ》等が、長安を発ってから、すでに十一日が過ぎている。
空海は、西明寺の庭の中にあって、独り、午後の風に吹かれていた。
空海の周囲では、そこここに牡丹の芽がふくらんで、幼児の握り拳《こぶし》のように天に伸びている。
中天を過ぎた陽が、その赤い芽に当って、芽の先には、点々と光が宿っているように見える。
生え出てからしばらくは鮮やかな赤い色をしている牡丹の新芽も、いずれは、みごとな緑葉となって、花を飾る。
西明寺は、長安でも、一、二を争う牡丹の名所であった。
しかも、西明寺の牡丹は、他の牡丹よりもやや遅れて咲くから、花の盛りの頃は、花の数よりは人の数の方が多くなるくらいである。
空海は、ゆっくりと庭を歩いては、歩を止めて牡丹の枝を眺め、軽く枝へ手をかざす。
まるで、見えない花が、すでにその枝に咲いていて、その花を、空海が優しく愛撫《あいぶ》しているように見える――そんな仕草であった。
そぞろに歩きながら、空海は、苦笑していた。
今朝の、| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》のことを思い出したからである。
逸勢は、朝からやけに機嫌がよく、空海の顔を見る度《たび》に、
「今日ぞ、空海よ」
声をかけてくる。
うきうきとした声だ。
その意味が空海にはわかっている。
葛野麻呂が日本へ帰る前日に、空海が、逸勢とした約束のことを言っているのである。
西明寺に移って、落ち着いた頃に、胡姫《こき》のいる妓館へ出かけようという約束であった。
その約束が今日なのである。
「それで、何かわかるんですかい」
空海の後方から、声がした。
空海が振り返ると、そこに、身体の大きな漢《おとこ》が立っていた。
髯面《ひげづら》で、空海よりも、頭ひとつ分は、たっぷりと高い。それも、ただ身長があるというだけでなく、身体に、岩のような厚みと量感がある。
惚れぼれとするような巨躯《きょく》であった。
「大猴《たいこう》――」
空海は言った。
大猴――というのが、その男の名であった。
ちょうど、十一日前、藤原葛野麻呂等一行を、|※[#「さんずい+霸」、第3水準1-87-33]橋《はきょう》まで送り、その帰りに、長楽坡《ちょうらくは》で会った男であった。
傭ってくれと、その男の方から、空海と逸勢に声をかけてきたのであった。
その男を、空海が傭ったのである。
「おれは、身体がでかいから、みんな大猴と呼んでるよ」
空海に名を問われて、男はそう答えた。
猴《こう》――猿のことである。
つまり、大猴で大猿ということになる。
その男――大猴が、今、空海、逸勢等と共に、この西明寺にいるのである。
「わかる?」
空海は、大猴に言った。
「牡丹の芽の上に、手をかざしてました。何か調べてるみたいな手つきだったけどな」
傭われてから、大猴の言葉が少し丁寧になっている。
「このことか」
「そうだよ」
「色々わかるさ」
空海が言った。
「何がです?」
「どの枝の花が、どれだけ咲きたがっているのかとか、そういうことがね」
「そんなことがわかるんですかい」
「まあ、わかったり、わからなかったり、色々だけどね」
「ふうん」
大猴が、空海の横に並んだ。
並ぶと、さすがに、大猴の身体の大きさが目立つ。
「水汲みは?」
空海が訊《き》いた。
「すんだよ」
大猴が答えた。
髯面だが、よく見れば、空海とあまりかわらないか、やや若いくらいの年齢のようである。
さすがに、会った時よりは身綺麗《みぎれい》になっていた。
ぼうぼうに伸びていた髪は、後方に束ねて結んである。服も、洗濯をしたものらしく、埃と垢にまみれていた顔も、陽に焼けてはいるが、汚らしい印象はなくなっている。
存外に、よい男である。
「今日の午後は、あっちの方はいいって言ってたけど――」
大猴が言った。
あっち[#「あっち」に傍点]というのは、天竺《てんじく》の言葉の勉強のことである。
空海は、般若三蔵からだけでなく、この大猴からも、天竺の言葉――梵語を学んでいるのである。
「言ったよ」
空海は、歩き出しながら言った。
その後に、大猴が続いた。
今日の午後は、逸勢と、平康坊にある妓館にゆくことになっているので、梵語を学ぶのは休むことにしたのである。
本来なら、一緒に大猴を妓館まで連れてゆきながら、梵語を学ぶこともできるのだが、逸勢が、それを望まないのはわかっていたから、空海はそれをやめたのである。
空海が、大猴を傭うことを決めた時、
「よいのか」
逸勢が問うてきた。
「よいさ」
空海は答えた。
「悪人の相ではない。長安で、色々と動いてくれる人間なら、もともと傭うつもりでいたのだ。それに、他にもこの男は役に立ちそうだ」
「役に立つ?」
「言葉さ」
もともと、空海は、この大猴から、日常の梵語を学ぶつもりであった。
西明寺にいる時だけでなく、外へ出かける時にも一緒に連れてゆき、ことあるごとに梵語で話をするようにした。
「これは、梵語では何というのだ?」
街を歩きながら、眼についたものや、心に気になったものについて、大猴に問うと、大猴がそれに答えてくれるのである。
般若三蔵には訊けぬような、男女の秘めごとのあれこれや、女性の陰部などの俗称も、大猴にならば訊くことができる。
そういうことを訊く時でさえ、空海は、できるだけ唐語を使わぬようにした。
梵語で問い、梵語で答えさせる。
「いいのかな」
大猴は言った。
「何がだ?」
空海が訊く。
「本当にこんなことで、飯を喰わせてもらっちまっていいんですかい」
大猴が、太い指で、頭を掻いた。
ここでの大猴の仕事は、空海に梵語を教えるだけでなく、水汲みや、薪《まき》運び、時には寺で飼っている馬の面倒までもみたりする。
空海だけでなく、西明寺の他の僧にとっても、梵語のできる大猴がいるのは、都合がよかった。
空海は、西明寺に宿を移す前から、ちょくちょくとここに永忠《ようちゅう》を訪ねている。
空海は、不思議な才を有していた。
すっと、人の懐の中に入るのがうまい。
媚《こ》びたり、相手の機嫌をとったりすることなく、いつの間にか、相手の心を捕え、その相手の懐に入り込んでしまっているのである。
西明寺に移る以前から、永忠だけでなく、他の僧からも、早く西明寺へ来いと言われるようになっていた。
しかし、いくら、空海にそういう天性の才があったとはいえ、奇態な姿の男をいきなり連れてきて、この寺に置いてくれと願い出てそれが許されるものではない。
この大猴に、梵語の才があったればこそのことである。
大猴は、寺の経蔵の裏手にある馬小舎《うまごや》の中に、自分で勝手に眠れる空間を造り、そこで寝泊まりをしている。
寺とは言っても、僧が乗るための牛車や馬車があり、それを牽《ひ》くための牛や馬を寺で飼っているのである。
大猴は、そういう牛や馬の扱いにも慣れていた。
結局、大猴の喰べる分だけは、西明寺がもち、空海が大猴に銭を払うことに、今は落ちついている。
「かまわんだろうよ」
空海は言った。
「かまわんと空海先生がいうんなら、こっちはそれでいいんだけどね」
大猴の言い方にはくったくがない。
「ふふん」
「昨日も、ちゃんと自由にさせてもらったしね」
大猴は言った。
暇な時には、自由にしていいとの約束がある。
ちょうど昨日がそういう日であった。
「約束だからな」
空海が答えると、大猴は、太い唇でにっと笑った。
この大漢《おおおとこ》が笑うと、何とも言えない愛敬《あいきょう》がある。
人を捜す、といっても、大猴がやるのは、人混みをぶらぶらすることだ。人の多いところを歩いて、自分の捜している相手が自分を見つけてくれるのを待つ――これが大猴の人捜しのやり方であった。
人混みの中にあっても、大猴の身体は並はずれて大きい。よく目立つので、この方法はそれほど悪いやり方でもなかった。
「あんたは、不思議な人だなあ。それにしても、よく、おれのような男を傭う気になったものだよ。天竺の言葉も、あっという間に覚えちまうしな。あんたと一緒にいるのは楽しい――」
「ふうん」
「いつでも、喧嘩でおれが必要な時には声をかけてくださいよ」
言って、大猴は、背を向けた。
数歩前へ進んで、空海を振り返った。
指で、照れたように頭を掻いた。
「おれは、あんたが気に入ったよ」
ぶっきらぼうに言って、また背を向けて歩き出した。
今度は振り返らなかった。
空海の唇には、微笑が浮いていた。
部屋にもどると、逸勢が、そこで空海を待っていた。
「いよいよだな、空海よ」
逸勢が言った。
空海よりも、緊張している口調である。
「うん」
無造作に空海は答え、逸勢の前に腰を下ろした。
空海の座った左手に、窓がある。そこに、牡丹の庭が見えていた。
座した空海をしばらく無言で見つめ、
「しかし、空海よ、おまえ、本当にいいのか?」
逸勢が言った。
今日、平康坊の妓館へゆくことを言っているらしかった。
「よくないのか?」
「おまえは、僧ではないか」
「僧になるよりも先に、おれは男に生まれているのだぞ」
「今は僧だ」
「今も男だ」
言って、空海は笑った。
どうやら、逸勢は、空海のことを心配しているらしい。
「おれひとりであればどうということはないのだが、今日は、おまえが一緒ということになると、妙に落ちつかぬよ」
緊張しているらしい。
「おまえは、存外に良い漢《おとこ》なのだよ、逸勢――」
空海は言った。
「ちぇ」
逸勢はおもしろくなさそうに、舌を鳴らした。
「おまえのことは、心配してやるだけ損だ」
言って、部屋の天井を眺め、逸勢は、しみじみとした眼で、部屋のあれこれに視線を向けた。永忠が、三十年、この長安で過ごした部屋であった。
「なあ、永忠和尚や、葛野麻呂は、今はどのあたりであろうかな」
「さて、洛陽に着いて、先へ進んだかどうか、そのくらいであろうかよ」
「うむ」
逸勢は答えて、また、感慨ぶかげに部屋を眺めた。
「三十年か――」
ぽつんと逸勢がつぶやいた。
「うむ」
「なあ、空海よ、永忠和尚も、妓館へ女を買いにゆきたいと思うたことがあったのかな――」
「あったろうさ」
あっさりと空海が言った。
「何故わかる」
「永忠殿も男だからな」
「おまえの言うことは、はっきりしすぎていて、おもしろみに欠けるな」
「これでは、妓生に好かれぬか」
空海が笑った。
逸勢は、相手をしきれないといった風情で、小さく首を振り、
「ところで、空海よ、最近、奇妙な噂を聴かぬか?」
ふいに、空海に向かって身を乗り出した。
「噂?」
「朱雀大街に、何やら、高札を立ててゆく者があるらしいではないか――」
「その話か」
空海は言った。
その話[#「その話」に傍点]なら、空海も知っている様子である。
こういう話だ。
このひと月余り――つまり、徳宗が死んでから、何日おきかに、朱雀大街のどこかに高札を立ててゆく者がいるのである。
徳宗崩じて次は李誦
そう筆で書かれた高札である。
その言葉の意味は明白である。
徳宗皇帝が死んで、次は李誦が死ぬぞ
高札の文はそう言っているのである。
李誦――今は皇帝となった順宗である。
誰がその高札を立てたのかはわからない。
見つければ、たちまち役人がやってきて、その高札を引き抜いて持ってゆく。
しかし、引き抜いても、また、数日のうちに、朱雀大街のどこかに、それと同じ高札が立つ。
そういうことが何度かあったのだ。
見つけるのは、高札だけである。
左右の金吾衛の役人が、夜中に見回るが、常に朱雀大街の全体に眼を配っていられるわけでもない。
どんなに、見張っていても、高札は、立つ時には立つ。
逸勢は、そのことを言っているらしかった。
「その話ならば耳にしている」
空海は言った。
「しかし、昨夜のことまでは知らぬだろうが――」
「昨夜?」
「うむ。ついにな、役人のひとりが、その高札を立ててゆく者を見たのだ」
「なに!?」
「いや、ひとりではない。正確に言えば三人なのだが、そのうちのふたりは死んでしまっているから、おれは今、ひとりと言ったのだよ」
「ほう」
初耳である。
「さっき、青龍寺からもどってきた志明《しみょう》が、聴き込んできたらしい」
「どういう話なんだ?」
「その三人の金吾衛の役人は、ちょうど、昨夜、朱雀大街を馬で見回っていたのだが、その時に、高札の主に出会ったらしいのだよ」
「うむ」
「真夜中過ぎだ。その三人は、朱雀門から馬で下っている最中であった。場所は、永崇坊《えいすいぼう》と靖安坊《せいあんぼう》とが朱雀大街を挟んでいるあたりさ」
そのあたりまでさしかかると、何やら、前方に人影が見えたのだという。
後ろ姿であった。
男のようであった。
がっしりした体格の、身体の大きな男であった。
月夜である。
その男が、夜の朱雀大街を、北から南へ、悠々と下っている。
見れば、男が右肩に何かを担いでいる。
高札であった。
「おい」
馬で近づいた役人のひとりが、後ろから声をかける。
しかし、男は立ち止まらない。
「おい、停まれ」
もう一度声をかけた。
それでも男は立ち止まらない。
役人は、馬で男を追い越して、前にまわった。
男の行く手を遮《さえぎ》るように馬を停めた。
「どこへゆくか?」
男に向かって言った。
夜間に坊の外を歩くことは許されていない。
それでも男は立ち止まらない。
馬に近づいてゆく男の左手が、すうっと持ちあがる。
ぶん、
と、音をたてて、その左手が前に振られた。
左手が、馬の額にあたった。
殴られた馬の額の骨が、めこり、と内側にへこんでいた。
馬の両眼が飛び出し、馬は、鼻と口から血を流して横ざまに倒れた。
馬に乗っていた役人は、倒れた馬の身体と地面の間に、片足を挟まれた。
「こいつ」
「おのれ」
残ったふたりが、剣を抜いて、馬上から男に切りかかった。
男は、その剣をかわし、持っていた高札で、馬上の役人を、地に払い落とした。
落ちた役人が、起きあがろうとする間もなく、片足でその役人の胸を踏み抜いた。
役人の胸の骨が折れて、男の片足が胸の中に潜《もぐ》り込んだ。
「ひい」
と、もうひとりの役人が起きあがろうとするところへ、上から、男の片足が降りてきた。
その片足が、その役人の頭を踏み潰《つぶ》した。
熟《う》れた果実のように、その頭が潰れた。
そのまま、男は、高札を肩にしたまま、歩み去った。
「で、今朝、その高札が、蘭陵坊《らんりょうぼう》の西門の前で見つかったのだそうだよ」
「こわい話だな」
「最初に、馬を倒された役人が生き残って、今おれが話したことを、もどって報告したということだ」
「ふうん」
「どうも、何やらが、この長安で始まりかけてるようだな」
逸勢が言った。
「まあ、都とか、朝廷とかは、どこもそういうものさ」
空海が言う。
「夜に出歩いていて、そういうのと出会ったらと思うと、良い心地はせぬ」
「夜に、出歩かねばよかろう」
「それはまあ、そうだが――」
そこまで言って、逸勢は、首を傾けた。
「そういえば、あの男、大猴のやつ、昨日はずっとどこかに出かけていたようだな」
「昨日は、自由にしても良い日だ」
「しかし、帰りは、だいぶ遅かったらしいぞ。あの男が帰ってきたのを、おれは見ていない。なのに、今朝起きてみれば、あの男がいる。どこぞに出かけていて、夜のうちか、朝早くに帰ってきたのだろうかよ」
「そんなところだろうさ」
空海は言った。
「しかし、あの男、ほんとうによく喰うな」
何やら、思い出したように、逸勢は言った。
「うむ」
「最初に会った時などは、特にすごかったではないか」
「そうだったな」
空海は答えた。
最初に、大猴に会った日、大石を担ぎあげた後、空腹のためにそこに座り込んでしまった大猴を、空海は、長楽坡の宿のひとつに連れてゆき、飯を喰わせたのだが、大猴はあきれるほどに喰った。
鶏《にわとり》を、ほとんど丸ごと一羽。
野菜と肉を炒《いた》めたものを三人前。
スープを五杯。
さらに卵を七つ。
その間に飯を三皿は腹に詰め込んでいる。
まだまだ入りそうであったのを、さすがに遠慮をしてやめたといった様子であった。
逸勢はその時のことを言っているのであった。
「正直に言って、あの男のことについては、おれは、どうなるかと思っていたのだよ」
「ほう」
「傭うのはいいが、あの男のことを、西明寺にどうとりつくろうのかとな。そうしたら、おまえ、あれにはおれも驚いたよ」
「ふふん」
逸勢の言葉に、空海は微笑した。
空海という男、他人が、自分の才に驚くのを見ると素直に喜ぶところがある。
空海がまずしたのは、男の身なりを整えることであった。
宿で、湯を沸かし、風呂に入れ、髪と髯を整えさせて、新しい服を着せた。
その上で、宿の者に紙と、墨と筆を用意させ、その紙に、字を認《したた》めた。
[#ここから1字下げ]
この者は、名を大猴といい、天竺の言葉を能《よ》くする者である。こちらへ来てから知り合いし者なれど、血の半分は漢族、もう半分は天竺のものである。仏法を学ぶ身にとって、天竺の言葉を知るのは、それだけで釈尊の教えに一歩近づくものであり、この大猴は、天竺の言葉を学ぶため、自分が洛陽より長安まで呼んだものである。事情によって、大猴は、長安には自分よりもふた月ほど遅れてやってくることになるが、もし、自分の留守中にこの男が訪ねてきたら、自分が帰るまで、ひとつよろしくお願いしたい。
[#ここで字下げ終わり]
そういう意の文を、さらさらと、空海はしたためた。
平明で、わかり易い文章であった。
しかし、達筆である。
文の終りに日本国留学生沙門空海≠ニ記してある。
空海は、その文を別紙に包んで、大猴に持たせた。
「これを持って先に独りで西明寺へ行ってくれ」
空海は言った。
「いや、その前に、先ず宣陽坊の鴻臚寺《こうろじ》へ寄るのがいいな」
そう言いそえた。
鴻臚寺というのは、寺の字があるが、役所の名称である。外国からの大使などの面倒を、あれこれと見たりするのが仕事だ。鴻臚館とも呼ばれ、空海や逸勢は、一時、ここに住んだ。
「そこでまず、日本国の大使の中に、僧の空海というのがいると思うが、その男に会いたいと言えば、西明寺の名を教えてくれるだろう。西明寺へゆくのはそれからだ」
「で、西明寺へ行ってどうすればいいんで――」
「問題はここからだが、西明寺に行ったらば、唐語ではなく、初めは天竺の言葉のみを使うことだ。天竺の言葉で、おれに会いに来たと言い、宣陽坊の鴻臚寺へ行ったら、空海はここだと教えてもらったのだと言うのだ」
「天竺の言葉でだな?」
「そうだ。そこで、この手紙を渡すのだ。そのうちに、天竺の言葉をしゃべれる人間が出てくる。しゃべれるといっても、あんたが唐語をしゃべれるほどではない。カタコトに毛の生えた程度のものだ。おそらく寿海《じゅかい》というのが、出てくるはずだ。この人間が、天竺の言葉には一番|堪能《たんのう》であるからな――」
「それで――」
「たぶん、ほどのよい、部屋に通されるだろうな。天竺の言葉をしゃべれる人間を、それほど冷たくはあつかわぬはずだ。寿海か、もしくは他の、天竺の言葉をなんとか話せる僧が、おまえの相手をしてくれるはずだ」
「うむ」
「そうしたら、その男に、こう問えばいい」
「何と問うのだ」
「この寺には『阿毘達磨倶舎論《あびだつまくしゃろん》』は置いてありますかとな。あるならば、ぜひ拝見したいと――」
「それで?」
「むろん、西明寺に置いてないわけはない。あると答が返ってこような」
「うむ」
「そうしたら、その『倶舎論』は、旧訳《くやく》でしょうか、玄奘《げんじょう》訳の新訳でしょうかと訊くのだ。これも、答は決まっている。両方あると言うであろうな」
「それでどうする」
「そうしたら、玄奘訳のものをお願いしますと言えばいい」
「へえ」
「たぶん、『倶舎論』であれば、無理には断わらぬだろう。その頃には、むこうも、おぬしに興味を持っていようから、いったいどういうつもりであろうかと、それだけのことからも、断わらぬだろうよ」
「――」
「さて、この後に『倶舎論』に眼を通すわけだが、これで時間を調節すればよい」
「時間?」
「ああ。暮鼓《ぼこ》の最初のひと打ちが鳴るまでだ。それが鳴ったら、『倶舎論』を閉じて、うむと、もっともらしく唸《うな》ればよい」
空海は言った。
空海の眼には、楽しそうな笑みが浮いている。
「唸ってどうするのだ、空海よ」
訊いてきたのは逸勢である。
「そこで、ひと言問うのだ」
「何と問う?」
逸勢が訊く。
「ここからは、唐語でいい。唐語で次のように問う――」
「どのようにだ?」
「| 世 親 《ヴアスバンドウ》(『倶舎論』の著者)は、ひとりではなくふたりいたと考える、ナーランダ学林の学僧もおりますが、そのことについては、いかが思われますか?――と、そう問えばよい」
「で、どうなる」
「相手は困る」
「困る? 何故だ?」
逸勢が問う。
「説明はややこしいが、とにかく困るのだ。場合によっては、笑われるかもしれぬ」
「だから何故なのだ?」
「その『倶舎論』というのには、実に膨大《ぼうだい》な量におよぶ文章で、この宇宙のことが記されている。ただの人間であれば、一生かかって、書けるかどうかというほどのものだ」
「――」
「しかし、| 世 親 《ヴアスバンドウ》が記したと言われているものは、それだけではない。『倶舎論』から『成業論《じょうごうろん》』、『唯識《ゆいしき》二十論』、『唯識三十|頌《じゅ》』、さらには『摂大乗論釈』など、他にも無数の唯識の論を書いている。しかも、どうやら、百年近くの間にだ――」
「むむ――」
逸勢は、『倶舎論』以外には、空海のあげたどの論の名もわからない。
「だから、| 世 親 《ヴアスバンドウ》はふたりいたのではないかということになってくるのだよ」
「そんな説が本当にあるのか?」
逸勢が訊いた。
「ないな」
あっさりと空海が言った。
「ないのに訊くのか?」
「だから、相手が困るのさ。坊主とも見えない素人の、しかも、天竺語ばかりをそれまでしゃべっていた人間が、いきなりそんなことを訊いてきたわけだからな」
「――」
「おおいに困る。たとえ、おれが思いついたことにしろ、もしかしたら、そういうことは、本当にありそうだからだ。思いついたおれも、困っている。他にも、| 世 親 《ヴアスバンドウ》がふたりと思える根拠が色々とあってな。そして、坊主という人種は、見栄っ張りで、そういう話がとても好きなのだよ。知らぬとは言いにくい。それに、もし、うまくゆけば、その新しい説で、西明寺で注目を浴び、位のひとつもあがる手立てとなるかもしれない――」
「凄いことを考える男だな」
「相手が困るのはわかる。そしてどうなるのだ」
逸勢が言った。
空海は、楽しそうに笑って、
「そこへおれが帰ってゆくのだ」
「で?」
「話を聞いて、すみませんでしたと頭を下げる」
「ほう」
「その男の申しました、| 世 親 《ヴアスバンドウ》のことは、わたしが勝手に思いついたことで、つい、出まかせに、その男にナーランダ学林の学僧のことまで持ち出して、戯れに語ったものでございます。その男を、長安まで呼んで、天竺の言葉を学びたくて、前から頭の中にあったあれやこれやを、つい、さもありそうにこの男に語ったのです。しかし、さすがに| 世 親 《ヴアスバンドウ》のことは、自分でも思いつきに思え、つい、ナーランダ学林の学僧が言ったことにしてしまったものでございます――とな」
「それでどうなる」
「まあ、うまくおさまるだろうよ」
「何故、この大猴に、最初は天竺の言葉で話させるのだ?」
「その方が、むこうが驚くだろうからな。それに、おれたちが帰るまで、唐語がわかるとなれば、色々と訊かれて困ることになるだろうからな」
「しかし、空海よ――」
「なんとかなるさ」
そして――
「本当になんとかなってしまったのだからなあ――」
空海の部屋で、逸勢は、溜息をついているのである。
「ところで、いよいよ、今日だぞ」
逸勢は空海を見た。
「ああ」
空海が答えた。
「逃ぐるなよ」
逸勢が言った。
(二)
|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》をはさんで、空海は、橘逸勢と向かいあっていた。
小さな部屋であった。
床は、板張りになっていて、その上に敷き物が敷いてあり、ふたりは、その上に座している。灯りが、ぼんやりと部屋の内部を照らしている。
空海と逸勢の横には、胡《こ》の衣装に身を包んだ若い女が座していた。
胡女《こじょ》であった。
どちらも、暗い灯りのもとで見ても、そうとわかるほど瞳が蒼《あお》い。
胡玉楼《こぎょくろう》
それが、今、空海と逸勢がいる、平康坊の妓楼《ぎろう》の名であった。
その名に胡の字が付くごとく、胡姫《こき》が多い。
胡姫だけでなく、部屋の調度の品も、胡物が多かった。
床の敷き物は、波斯絨緞《ペルシアじゅうたん》であった。
壁にかかった絵も、西域のものであり、置かれている壺《つぼ》も西域のものであった。
しかし、こういう場所に、そう何もかも西域のものばかり置けるものではない。値が高いし、盗まれる恐れや、壊される恐れもある。
絵にしろ、壺にしろ、半分以上は、唐で造られた贋作《がんさく》であろうと空海は思っている。
しかし――
少なくとも、胡姫は本物であったし、|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の上に乗っている薄い緑色を帯びた瑠璃《るり》の盃は、どうやら本物のようであった。
瑠璃――つまりガラスのことである。
そして、酒は、西域の葡萄酒《ぶどうしゅ》であった。
だいぶ高級な妓楼らしかった。
「空海よ、最初は、いい妓楼に行った方がよいのだぞ」
そう言って、逸勢が連れてきたのがこの店であった。
いつも、逸勢が馴じみにしている店ではないようであった。
どうやら、この晩のために、逸勢はこの店に目星をつけていたらしい。
空海の横にいる胡姫が玉蓮《ぎょくれん》、逸勢の横にいるのが牡丹《ぼたん》である。
玉蓮の方が、歳の頃なら二十二〜三、牡丹の方はまだ二十歳そこそこに見える。
白い二の腕を見せて、胡姫の牡丹が注いでくれた葡萄酒を瑠璃の盃に受けて、逸勢がそれを口に運ぶ。
|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の上の瑠璃に、灯りの色が映って、葡萄酒がえも言われぬ色あいになっている。
瑠璃の盃からは、えもいわれぬ葡萄酒の香りが立ちのぼってくる。
「これが長安ぞ、空海――」
逸勢は、酒よりも、この店の雰囲気に酔ったようになっていた。
空海は、笑みを溜めて、やはり葡萄酒を口に運ぶ。
空海は、僧衣のままであった。
「よいのか、空海、そのような格好で――」
この部屋に入るまでは、日本語で空海にそのようなことを囁《ささや》いていた逸勢であったが、そんなことも、もう、かまわなくなっているようであった。
「玉蓮|姐《ねえ》さん、その人、本当に御坊《おぼう》さまなの?」
逸勢の横の牡丹が、玉蓮に訊いた。
「本当だよ」
答えたのは逸勢である。
「そうなの?」
玉蓮が、横の空海に訊く。
「ああ」
空海は答えた。
「どこの御坊さん?」
「西明寺の空海だ」
空海は、こともなげに言ってのけた。
「おい、空海――」
さすがに、逸勢があわてて言った。
「こんな所へ、そんな格好で来て、西明寺の名前まで出して、それで済むと思っているのか?」
「かまわんさ」
空海が言う。
空海と逸勢が、時おり、耳慣れない異国の言葉を使うことに、玉蓮と牡丹は興味を覚えている。
「唐の方ではないみたいね、どちらから来たの?」
玉蓮が訊いた。
「倭国《わこく》だ」
空海は言った。
「倭国って?」
「ここからずっと東の海にある、陽の出ずる国が倭国だ」
「海? まだ、わたしは海を見たことがないわ」
言いながら、玉蓮が、空海の盃に左手で葡萄酒を注ぐ。
よく見ると、玉蓮は、さっきから左手しか動かしていない。
右手がよく動かないらしい。
「どうした?」
それに気づいて、空海が声をかけた。
「右手が不自由なのか?」
「ええ……」
曖昧《あいまい》に、玉蓮がうなずいた。
「ここふた月ほど、玉蓮姐さんの右手は、動かないのよ」
牡丹が言った。
「へえ」
空海は玉蓮の右手を見た。
「よかったら見せてごらん」
空海が言うと、玉蓮は、左手で自分の右手を握り、おずおずと右手を差し出した。
その手を空海が手に取った。
「ふうん」
肩近くまで、その白い腕を露《あら》わにして、両手で、下から上まで、揉みたてるようにして、さすりあげてゆく。
「触られてるのがわかるかい」
「なんだか、自分の手じゃないみたい」
「触られているのが、はっきりわかる場所まできたら、教えてくれるかい」
空海が、順に、腕を上へ揉みあげてゆくと、
「ああ、そこよ、そこから、腕の感覚が普通の感じにもどってるわ」
玉蓮が言った。
そこは、腕のつけ根に近い場所であった。
「痛みは?」
「あまりないけど、時々、骨の中まで凄く痛くなる時があるわ」
「始めから、腕全部がこうなったのかな?」
「最初は、手首だったのよ、それが、だんだんと腕の方に広がってきて、今はここまで――」
玉蓮が真顔になっている。
「ほう」
「なおせる?」
「たぶん、なおせるかもしれないな」
「本当?」
玉蓮が、声を高くした。
「おい、空海、いいのか、そんなことを言って――」
逸勢が、言った。
「たぶん、なんとかなるだろう」
空海は、玉蓮の手を握りながら、牡丹に向かって言った。
「これから、わたしが言うものを用意してもらおうかな」
「え、ええ」
牡丹も、真顔になっている。
「小筆と、硯《すずり》、墨、それから水――」
「紙も?」
「紙はいい。あとは、生の肉――そうだな、生の肉なら、何でもいい。魚の肉でもね。それから、針があったら、一本もらえるかな――」
「わかりました」
牡丹が立ちあがった。
「あとは、ここにあるもので、間に合わすことができるだろうよ」
牡丹が、ぱたぱたと足音を響かせて姿を消し、やがて、言われたものを用意してもどってきた。
「よし」
空海は言って、硯に水を落とし、墨を磨《す》り始めた。
「逸勢、頼まれてくれるか?」
空海が言った。
「おう」
「そこに、針があるだろう。その針の先を、そこの灯りの火で、軽く焙《あぶ》っておいてくれるか」
「うむ」
わけがわからないなりに、逸勢は、空海のやろうとしていることに興味を覚えているようであった。
針の先を灯りの炎であぶり始めた。
「赤くなるまであぶり、赤くなったらそれでいい。そうしたら、どこかへ針を置かずに、そのまま持っていてくれぬか」
「わかった」
やがて、墨を磨り終えた。
「その針をかしてもらおうか」
逸勢が、持っていた針を、空海は右手の指先につまんだ。
「右手をかしてごらん」
玉蓮に言った。
玉蓮の差し出した右手を左手に握り、中指を前に突き出させた。
「少し痛い」
短く言って、空海は、突き出された玉蓮の中指を握って、その爪の間に、浅く針の先を差し込んだ。
「痛っ」
玉蓮が声をあげた時には、もう、針は引き抜かれていた。
爪の間から、指先に血がふくらんでくる。
「だいじょうぶだ。さあ、腕をかしてごらん」
空海が、玉蓮の腕を取った。
牡丹を見、
「たのむよ、玉蓮姐さんの右袖が滑ってこないように、押さえておいてくれるかい」
空海が言った。
「はい」
牡丹が、|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》をまわって、玉蓮の横にやってくると、空海に言われたように、袖を押さえた。
「よし、それでいい」
空海は言って、左手で玉蓮の右手を押さえたまま、右手に小筆を握った。
小筆の先を、磨ったばかりの墨に浸した。
「何をするのだ、空海」
逸勢が訊く。
「まあ、見ていろ、逸勢――」
空海は、右手に握った小筆で、文字を書き始めた。
玉蓮の右腕であった。
ちょうど、肩の付け根のあたりである。
凄い速さで、空海の筆が、玉蓮の白い肌の上を滑ってゆく。
筆の先から、生き物のように文字が生まれてゆく。
書きながら、空海が何かを低く唱えている。
腕の、外側から内側まで、余すところなくその文字が、肌を埋めてゆく。
その文字を書く場所が、肌を埋めながらだんだんと肘の方に近づいてゆく。
肘までたどりつき、さらに手首の方に、筆が移ってゆく。
「何を書いている?」
逸勢が訊いた。
「『般若心経』さ」
空海は言った。
空海は、玉蓮の右腕に、『般若心経』を書いているのであった。
ついに、手首まで書き終えた時、空海は逸勢に言った。
「逸勢よ、おまえの瑠璃の盃の中の酒を、皆飲んでしまってくれ」
「お、おう」
言われて、逸勢は、いくらも残っていなかった葡萄酒を、全て飲み干した。
「次は?」
「その盃の中に、持ってきた、羊の生肉をひと切れ、入れてくれ。指先ほどの量でいい」
空海は言った。
空海の手は、まだ動いている。
筆は、玉蓮の手の平の上を動いていた。
それは、不思議な光景であった。
唐の国の妓楼のひと部屋で、西と東からやってきた、異国の人間が、行灯の暗い灯りの元で、奇妙な行為を続けているのである。
しかも、そのうちのひとりは、妓楼に似合わない僧形の男である。
「入れたぞ」
逸勢は言った。
「よし、それを持ってこっちへ来てくれ」
空海が言うと、腰をかがめて、逸勢が空海の横へやってきた。
その時には、空海は、玉蓮の右手の甲の分の文字を書き終えていた。
あとは、五本の指だけである。
「よいか、逸勢」
空海は言った。
「おう」
「玉蓮の右手の中指の先を、盃の縁《ふち》に乗せて、そこから落ちてくる血を受けてくれ――」
先ほど、空海が針を差した爪の間からふくらんできた血が、もう、下に滴《したた》る寸前になっている。
「わかった」
右手に、瑠璃の盃を持ち、左手で玉蓮の中指をつまんで、逸勢は言われた通りにした。
その時には、空海は、すでに玉蓮の親指に文字を書き終え、人差し指に移っていた。
人差し指が終った。
次が小指であった。
小指が終った。
次が薬指であった。
薬指が終った。
残ったのは、中指一本だけであった。
「いよいよだぞ」
空海が言った。
ごくりと、逸勢が、口の中にわいた生唾《なまつば》を飲み込む音が、やけに大きく響いた。
空海が、いよいよ中指に、文字を書き始めた。
『般若心経』の、最後の部分である。
[#ここから2字下げ]
羯諦羯諦《ぎゃていぎゃてい》 波羅羯諦《はらぎゃてい》
波羅僧羯諦《はらそうぎゃてい》 菩提薩婆訶《ぼうじそわか》
[#ここで字下げ終わり]
その言葉が、細かな文字で、指の根元から先端に向かって書き込まれてゆく。
般若心経《はんにゃしんぎょう》
その最後の経≠フ字が、中指の爪の先に書き込まれた時であった。
「おう……」
逸勢が、低く、囁くような声をあげた。
「見ろ、空海……」
空海は、黙ってうなずいただけであった。
玉蓮の中指の先――爪の間の血の中に、何か、黒いものが動いているのである。
玉蓮も、牡丹も、顔から血の気が失せていた。
声もない。
その爪の間から、出ようとしているものがもぞり、と血の中で蠢《うごめ》いた。
黒い、小さな毛のたくさん生えた触手。
蜘蛛《くも》の触手に似ていた。
しかし、それは、蜘蛛ではない。
「蟲《むし》だ」
姿を現わしながら、その蟲は、だんだんと大きくなってゆく。
逸勢が言った時、玉蓮の指先から、不気味な、これまで逸勢が眼にしたことのない黒い蟲が一匹、這い出てきた。
脚が、全部で十二本ある。
その蟲が、いきなり、玉蓮の中指の先から、瑠璃の盃の中の、生の肉に飛びついた。
「うわっ」
逸勢が、あやうく、その盃を放り出しそうになるのを、空海が受け取って、盃を|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の上に置いた。
蟲が逃げぬよう、空海は硯を、その盃の上に乗せて、蓋《ふた》をした。
玉蓮は、両手を胸の前で握り、声もなく眼を開いて、その盃を見つめていた。
「ほら、動いた」
空海が言った。
「動いた?」
玉蓮が言った。
「右手さ」
「あら!?」
玉蓮は言って、胸の前で組んでいた手をほどいた。
「動いたわ、本当に動いたわ」
嬉しそうに声をあげた。
「玉蓮姐さん」
牡丹が、玉蓮の手を握った。
「空海よ」
逸勢は、すでに胡座《あぐら》をかいている空海を立ったまま、見下ろしながら、言った。
「おまえ、本当に凄い男だな」
(三)
「餓蟲《がむし》さ――」
あらためての酒宴になってから、空海は言った。
胡座をかいた空海の横に玉蓮は座って、空海の腕に左腕をからみつかせている。とろけるような表情で、玉蓮は空海を見つめている。
「餓蟲?」
逸勢が言う。
「ああ。この唐では何と呼ぶのかはわからんがな」
「いったい、どういう蟲なんだ」
「まともな蟲ではない」
「ほう」
「あの蟲は、一匹のようでいて、一匹ではない」
「なに!?」
「たくさんの同じ小さな蟲が合わさって、あの大きさの蟲になったものだ」
「ほう」
「ふたつに裂けば二匹に、その二匹をさらにふたつに裂けば四匹になって、その四匹は八匹になり、八匹は十六匹になって――」
「きりがないではないか」
「そういう蟲なのだ」
「ふむ」
「どんなに小さくしても、あの蟲は、同じ形をしている」
「ほんとうか」
「ああ。元もとは、どこにでもいる蟲なのだ。――」
「なんだって?」
「この部屋の空気の中にも、外にも、いない場所はないと言ってもよい」
「なんだと!?」
「おれにしても、あれが、蟲であるのか、他の何かであるのか、実を言えばよくわからないのだ。姿を見るそのたびに、違う格好をしているが、どれも、同じものではあるらしいのさ」
「むう」
逸勢は、盃を口に運ぶのも忘れて、空海の話に耳を傾けている。
もうすぐ、真夜半《まよなか》になろうという時間であった。
「どうやら、あれは、人の念に感応して、人の体内に凝ってゆくらしい」
「人の念?」
「ああ」
言って、空海は、玉蓮に視線を向けた。
「玉蓮姐さん、ふた月より少し前に、誰かから恨みを受けるようなことがなかったかい?」
空海は訊いた。
「恨み?」
「この蟲の時は、たいてい、相手は女ということが多いんだが」
「女?」
「ただの女じゃなくて、方士《ほうし》か道士に知り合いがいるような女だな」
「あら」
空海が言った時、牡丹が声をあげた。
「それならば、麗香《れいか》姐さんよ」
牡丹が言った。
「麗香?」
訊いたのは、逸勢である。
「ええ。麗香姐さんなら、玉蓮姐さんを恨んでいてもおかしくはないわ」
「ほう」
空海が、楽し気な声をあげた。
「どういうことがあったのかな」
訊いた。
「麗香姐さんのごひいきに、劉雲樵《りゅううんしょう》という人がいたんだけど――」
牡丹が言った時、
「牡丹ちゃん」
たしなめるように、玉蓮が声をかけた。
「言っておいた方がいいわよ。ここで、空海さんに、話しておいた方が、後のためにもなるんじゃないの」
「後のため?」
「もし、麗香姐さんが、玉蓮姐さんになにかしてるために、今の蟲がくっついたんなら、今とってもらったって、またくっつくかもしれないじゃない」
もっともなことを言った。
玉蓮が、何かを言いかけ、そのまま言わずに唇を閉じた。
自分は言わぬが、牡丹が言う分にはかまうまいと、そう覚悟を決めたようであった。
「劉雲樵はね、金吾衛のお役人で、よく、この胡玉楼に通ってた人なの。自分のお金っていうよりは、どこかでうまいことやってせしめたお金よ。そうでなければ、とても通えやしないもの――」
「――」
「この胡玉楼はね、もうひとつの雅風楼《がふうろう》って妓楼と棟続《むねつづ》きで、中は同じなの。入口は別々なんだけどね。雅風楼の方をくぐったお客さんのお相手は、この国の女の人がして、胡玉楼の入口をくぐったお客さんは、あたしたちがお相手をすることになってるんだけど、まあ、いそがしくなると、そのあたりは、適当になってくるんだけど、表向きはそういう風になっているの」
牡丹は、空海を見つめながら言った。
「劉雲樵は、最初は、雅風楼の方のお客さんで、お相手はいつも、麗香さんがしていたのよ」
「それで――」
「それがね、劉さん、ある時から、急にこなくなっちゃって」
「金が失《な》くなったか?」
逸勢が言った。
「どうも、そうじゃなかったみたい。それとも、またお金のつごうがつくようになったのかしら。昨年の暮れから、また、お店に顔を出し始めたんだけど、その時、たまたま麗香さんに、別のお客さんがついていてね、それで、劉さんのお相手を、たまたま玉蓮姐さんがしたっていうわけよ」
牡丹の口調が、すっかりくだけたものになっている。
「それ以来、劉さん、玉蓮姐さんがお気に入りみたいで、来ればいつも、お相手は玉蓮姐さんてことになっちゃって――」
「それで麗香が――」
逸勢が言った。
「しかし、それだけじゃ、麗香がやったかどうかまでは、わからないな」
空海が言った。
「でも、さっき、言ってたでしょう、方士か道士に、知り合いがいるやつはいないかって――」
「麗香姐さんには、いるのかい?」
「いるわ」
「ほう」
「きっと、その知り合いの道士だか方士だかに、よくない呪《まじ》を教わって、玉蓮姐さんにそれをかけたのよ」
「しかし、必ずしも、そうとは限らないんだ」
「え?」
「呪《まじ》をかけなくても、特別に念のこわい人は、思うだけで、ああいうことができたりするんだからね」
「じゃ、やっぱり、麗香さんよ」
「何故?」
「あの女《ひと》、いつだったか、階段を登ってゆく玉蓮姐さんを、凄い顔で下から睨んでいたことがあったもの」
「なかなか、こわい女《ひと》みたいだね」
「そうよ」
牡丹はそう言ってから、玉蓮に視線を移した。
「玉蓮姐さん――」
「なに!?」
「ついでだから、あのお話もしちゃったら?」
牡丹が言った。
「ついで!? まだ、何かあるのかい」
逸勢が訊いた。
「それがね、玉蓮姐さんの話だと、劉雲樵さん、最近どうもおかしいみたいなの」
「どんな風に?」
「どうも、そのおかしいのが原因で、しばらく店に来られなくなっていたらしいんだけど、店にまた来るようになってからも、劉さんは、まだおかしかったわ。そうでしょう、玉蓮姐さん」
牡丹に訊かれて、
「え、ええ」
玉蓮は、曖昧にうなずいた。
「どんな風におかしいのかな?」
空海が訊いた。
「それが、どうも、劉さんのお屋敷に、何か、おかしなものが憑《つ》いたようなんです」
「おかしなものが憑いた?」
「それが、猫だっていうんですよ」
「猫?」
「それでいま、劉さんのところは、どうしようもなくなっちゃってるの。奥さまも、その猫にとられちゃうし――」
「猫に、とられたって?」
声をあげたのは逸勢であった。
まさかというような声であった。
「それでね、その猫、予言をするらしいのよ」
言ったのは牡丹である。
声をふいにひそめ。
「玉蓮姐さんから聴いた話だと、その猫、徳宗皇帝の死ぬのを、予言したっていうのよ――」
牡丹は言った。
「なんだって」
逸勢の、テーブルに置いた手に力がこもった。
「どうやっても、猫は出て行かないで、それで、いよいよ、青龍寺がのり出してくるようなのよ」
牡丹は、明るい顔で、そう言ったのであった。
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第五章 猫屋敷宇宙問答
(一)
劉雲樵の屋敷のある光徳坊《こうとくぼう》は、西明寺のある延康坊の北側にあった。
空海と、橘逸勢は、光徳坊の中を歩いていた。
周囲には、春の兆《きざ》しが溢れている。
道をゆく、男や女たちの服装も、どこかはなやいでいる。
皆、足どりが軽い。
空海が前を歩き、そのやや後方を、逸勢が歩いている。
歩いているうちに、少しずつふたりの間の距離が広がってゆく。
空海は、普通に歩いているのだが、逸勢がすぐに遅れてしまうのだ。
それに気づいた逸勢が歩調をはやめると、ふたりは横に並ぶのだが、いつの間にか、また、逸勢が遅れてしまうのである。
空海が、これからゆこうと思っている場所に、逸勢はあまり行きたがってはいないように見える。
気のりがしない様子であった。
だから、つい、足が遅れてしまうのである。
「なあ、空海よ――」
逸勢が、後ろから空海に声をかける。
「おまえ、本当に行く気なのか?」
逸勢が訊いた。
「行く気さ」
空海が答えた。
行く
というのは、劉雲樵の屋敷のことである。
ふたりは、今、劉雲樵の屋敷に向かって歩いているところであった。
「しかしなあ、先方には何の知らせもやってはいないのだろう?」
「やってない」
空海の答は素気なかった。
逸勢を振り返らずに、
「やってないから良いのだ」
空海は言った。
「また、おまえはわからないことを言う」
逸勢は、追いついて空海の横に並んだ。
「だいたい、おまえがゆかなくとも、どうやら明日あたりには、青龍寺から誰か来るのだろう」
「だから、今日、ゆくのさ」
「しかし、知らせもやらず、金吾衛《きんごえい》の役人の家におしかけるのだぞ。話通りであれば主《あるじ》のいない留守の家に、かってにあがり込むことになる。しかも、わけありの家へだ――」
「今さら、どうということはなかろうよ。噂通りの家ならばな」
「しかし、いきなりではないか――」
「だからいいのだよ、逸勢――」
「何故だ」
「そのままを見ることができるからな」
「何か、策《さく》はあるのか?」
「ないな」
空海は、あっさりと答える。
逸勢は、溜め息をついた。
また、わずかに、逸勢が遅れている。
「ちぇ」
逸勢は小さく舌打ちをした。
逸勢なりに、なにがしかの覚悟が決まったらしい。
「とにかく、金吾衛の役人とは、いざこざをおこすなよ」
言って、空海の横に並んだ。
「わかってるさ」
空海は答えた。
空海と逸勢が、劉雲樵のことを耳にしたのは、昨夜である。
場所は、
胡玉楼
という妓楼であった。
そこで、空海は、妓生の娘から、劉雲樵の猫のことを、聴かされたのであった。
その話をしてくれたのは、妓生の玉蓮と牡丹である。
客で遊びに来ていた劉雲樵という金吾衛の役人が、猫に憑《とりつ》かれたというのである。
正確には、猫に憑かれたのは、劉の妻の春琴《しゅんきん》である。
昨年の八月に、ふいにその猫が劉の屋敷にやってきて、人の言葉でいろいろとあてもの[#「あてもの」に傍点]をするのだという。
劉が金を失くせば、どこそこにその金はあるだろうと言い、明日の天気までも言いあてる。そして、それがあたる。
庭のこれこれの場所を掘ってみよと言われ、そこを掘れば銭が出てくる。
しかし、気味が悪い。
そのうちに、猫は、劉に妻の春琴を抱かせろと言いだした。
いくら、明日の天気をあてようが、銭の埋まっている所を教えてもらおうが、そればかりは承知できない。しかし、断わるのも恐ろしい。
想い余って劉は、道士のところへ相談に出かけたのが、その道士も、猫の妖物《ようぶつ》にはかなわなかったという。
春琴は猫のものになった。
そうこうするうちに、ある日、その猫は、徳宗皇帝の死まで、予言したのだという。
そして、予言通りに、徳宗皇帝は死んだ。
ついに、たまりかねて、劉は、金吾衛の仲間にそのことを話したというのである。
それが、十日ほど前のことだという。
そう言えば、最近の劉の様子にはどうもおかしいものがあったと、うなずけるところもあったから、さっそく、仲間の役人数名が、劉の屋敷を見に出かけた。
もちろん、劉も一緒である。
しかし、屋敷には誰もいない。
「春琴――」
妻の名を呼んでも応えるものはない。
劉も、最近は家へ帰らず、友人の家や、女の所へ寝泊まりしているから、はたして家が今どうなっているのかもわからない。
碗やら、皿が、出たままになっており、その上に食べ物の残りが喰いかけのまま残っている。
ひからびかけた鼠の屍《しかばね》が乗っている皿もあった。
屋敷全体に、どこか、饐《す》えたような臭いが漂っている。
しかし、劉の妻はおろか、猫の姿もない。
役人たちは帰っていった。
劉も気味が悪いから、家に残っていられない。役人たちと一緒に帰った。
二日後に、また仲間の役人と一緒に出かけた。
しかし、やはり、家には誰もいない。
その翌日にも、また、役人と一緒に家に行ったのだが、やはり、家には誰もいない。
「どこぞの男と一緒に女房が逃げてしまい、それを正直に話すのがいやなので、あのような造り話をしたのだろうよ」
しまいには、仲間の役人はそういうことを言うようになった。
で、久しぶりに、劉はひとりで屋敷にもどったのだった。
夕刻である。
しかし、やはり家に人の気配はない。
少しだけ、劉はほっとした。
いっそのこと、本当に、妻の春琴が、あの猫とともにいなくなって、このまま帰って来ないのなら、むしろそれはありがたいくらいであった。
そう思ったところへ、ふいに後ろから声がかかった。
「あなた……」
女の声だ。
劉が振り返った。
「ひっ」
と劉は声をあげた。
いつ現われたのか、後方の暗がりの中に、妻の春琴が立っていた。
「死ぬな……」
と、声がした。
あの猫の声であった。
あれ、と思った劉がよくよく眼を凝らすと、妻の春琴の頭の上に、あの黒い猫が座って、緑色の瞳で、劉を睨んでいた。
「徳宗ではないぞ。あの男はもう死んだからな――」
猫の赤い口が、ぱかりと開いた。
笑ったように見えた。
「ひと月かな……」
猫がつぶやいた。
「うん、たぶんひと月か、そのくらいのうちには死ぬだろうな」
「だ、誰が死ぬ!?」
「金吾衛の役人劉雲樵――おまえだよ」
猫が言った。
「わあっ」
と、声をあげて、後ろも見ずに劉は自分の家から走って逃げた。
劉が、知り合いを通じて、青龍寺の坊主に、相談に出かけたのが、二日前だ。
その帰りに、劉は、胡玉楼とは棟続きの雅風楼に顔を出したのである。
そして、玉蓮相手に、酒の勢いをかりて、猫のことを語ったのである。
それを、空海と逸勢は、昨日、玉蓮から聴かされたのであった。
「明後日には、青龍寺のお坊さんの誰かが、劉さんのお屋敷に、様子を見に出かけることになっているみたいよ」
と、玉蓮は言った。
明後日――つまり、明日である。
「しかし、空海よ、大丈夫かな」
逸勢が言う。
「何がだ?」
「今度の妖物は、どうも、この前の柄杓《ひしゃく》の件とはわけが違うのではないか」
「違うだろうな」
「おまえの手にはおえないかもしれない」
「ああ、おえぬかもしれぬな」
「おいおい」
逸勢が、真顔で声をかけた。
「簡単にうなずくなよ、空海。おれは、おまえにもっと違うことを言って欲しかったのに――」
「何と言って欲しかったのだ」
「大丈夫だ、まかせておけ」
「大丈夫だ、まかせておけ」
空海が言った。
「怒るぞ、空海」
「怒るな」
「怒る。おれは真面目に心配しているのだ。どんなに剣呑《けんのん》な相手かもしれず、場合によっては徳宗皇帝の死に関わるごたごたに巻き込まれるかもしれないのだぞ」
「わかっているさ」
「わかっているようには見えない」
「ほう」
「おまえを見ていると、珍奇な獣でも見物に出かけようとしているようにしか見えない」
逸勢が言うと、空海が、声をあげて笑った。
「凄いな、逸勢。その通りだ。おまえは人の心が読めるのか――」
空海が言った。
「ちぇっ」
相手をしてられないといった風に、逸勢は足元の小石を蹴った。
「逸勢よ――」
石を蹴ったばかりの逸勢に、空海が声をかけた。
「なんだ、空海」
やや怒ったような声で、逸勢が言った。
「劉雲樵の屋敷へ着く前に、いくつか教えておくことがある」
空海が、真顔になっていた。
「ほう」
「もし、おれの教えたことが守れぬようであれば、あるいは、逸勢は屋敷の中へは入らず外で待っていた方がよいかもしれぬ」
「何故だ」
「おまえが言ったように、今度の妖物は、危険な相手だと思うからだ」
「おいおい、脅かすなよ、空海――」
「おれは、本当のことを言っているのだぞ」
「わかったよ、空海。とにかく、それを言ってみてくれ。守れるか守れないかは、その後で返事をする。守れぬようであれば、おれはおとなしく、外でおまえを待っているよ」
「よいか、逸勢よ――」
空海が言った。
「うむ」
「おれたちが、これから雲樵の屋敷へゆき、そこで妖物と出会ったとするな――」
「うむ」
「その妖物は、きっと色々なことを言うに違いない。それには答えるな」
「なに?」
「そして、妖物が口にすることは信ずるな。全て嘘と思え」
「何故だ」
「妖物の言葉に、いちいち答えていたら、知らぬ間に呪《まじ》にかかって、憑《とりつ》かれてしまうからだ」
「だから、妖物の言うことを嘘と思えと――」
「そうだ」
「わかった。嘘と思えばよいのだな」
逸勢が答えた。
その逸勢に目をやって――
「いや、逸勢よ、おれの言い方がまずかったのだが、そう真剣に嘘と思わなくともよいのだ――」
「なに?」
「なんというか、つまりだな、妖物の言うことを嘘だと真剣に思うということは、それは、むこうにとっては、自分の言うことを信じているというのと同じことになってしまうのだよ――」
「え?」
「おまえが、嘘と思えば、そこをつかれて、呪《まじ》にかけられてしまうだろう」
「嘘と思えと言ったのは、おまえだぞ、空海――」
「なんとしたものかな」
「それはおれの台詞《せりふ》だ」
「つまり、妖物は、本当のことも言うのだよ。いや、むしろ、本当のことの方が多いかもしれない。だから、うっかり信用すると、急に嘘を言ったりする。しかし、それまで言っていたことが本当だと思っていれば、その嘘を信じてしまうことになる――」
「――」
「たとえばだな、逸勢よ。誰かがおまえの家系を調べて、父は誰それ、母は誰それ、ふたりはどこどこの生まれでということを知ったとするな――」
「うむ」
「その男とおまえが、いきなり初対面で会ったとする」
「うむ」
「すると、その男が、いきなりこう言うわけだ。逸勢どの、あなたの父はこういうもので、あなたの母はこういう方ではありませんかとな――」
「うむ」
「ふたりの生まれはどこそこで、そのまた父は何某という者でと、その男は調べてきたことを、おまえに言うわけだ――」
「うむ」
「おまえはびっくりするであろうな」
「そうだろうな」
「その後で、その男は嘘をつく。おまえの知らない、もっとずっと昔の家系まで溯《さかのぼ》って、あなたの祖先は、昔はどこそこのあたりを支配していた某氏のこういうものですね――と」
「うむ」
「すると、人は、それを信じてしまうものなのだよ――」
「おまえの言いたいことはわかったよ、空海。しかし、わからないことがある」
「なんだ」
「ならば、おれはどうしたらよいのだ」
「そうだな」
「信じてもいけない、嘘と思うもいけない――それでは困る――」
「妖物の言うことは、皆、風の音と思えばよい――」
「風か」
「うむ。風と思えば、嘘も本当もあるまい。風は風だ――」
「よし、わかった。風と思えばよいのだな」
「それができるか」
「できるだろう」
「それから、さっき言ったことも忘れるな。妖物の言った言葉に、答えてはいけない。妖物との話は、皆、おれがする――」
「わかった。しかし、どうしても、何か答えねばならなくなったり、はっきりと、妖物がおれに何か訊いてきた場合はどうするのだ。答えまい答えまいと思うのも、おまえの言い方だと、いけないのであろうが――」
「そうだな」
「そういう時は、どうすればよい」
「よい方法がある。妖物に何か答えねばならなくなった時には、こう言えばよい」
「どう言うのだ」
「どうしたものかな空海――」
空海が、逸勢の口調を真似て言った。
「よし、わかった」
逸勢が答えた時、
「おう、あれが劉の屋敷のようだぞ」
空海が言った。
空海と逸勢は、劉の屋敷の前に立った。
土塀が周囲を取り囲み、正面に門がある。
浅く、門の扉が開いていた。
見あげれば、門の屋根のあたりに、何やら黒い雲気《うんき》が、もやもやとわだかまっているようであった。
扉の間から見える庭は、枯れ草やら、新しく伸びてきた草やらが、所かまわず、ぼうぼうと繁っている。
「何やら、良い心地のせぬ屋敷だな、空海よ――」
逸勢が、声をひそめて、つぶやいた。
逸勢も、この屋敷の妙な雰囲気を、敏感に感じとっているようであった。
「ここで待つか」
空海が言った。
「いや、ここまで来ておいて、そうはできぬよ。おれもゆく」
逸勢が言った。
「よし」
「うむ」
空海が、扉に手をあてて、それを押し開いた。
「ゆくぞ」
そして、空海と逸勢は、劉雲樵の屋敷に入って行ったのだった。
(二)
庭の一面に、草が繁っていた。
そのうちの半分は枯れ草で、そのうちの半分は、枯れ草の間から伸びてきた青い草である。
大きな槐《えんじゅ》や、木犀《もくせい》の樹が生えている。
屋敷の陰には、柳らしいものの姿や、夾竹桃《きょうちくとう》も見えた。
その上から、春の陽光がうらうらと差しているが、その陽光の温かみは、地上まで届いてきていないようであった。空気が、肌に冷たかった。
屋敷の屋根の少し上あたりで、陽光の質が、何か別のものに変貌し、その変貌した陽光が地上に落ちてきているようである。
どこから吹いてくるのか見当もつかない風が、ゆるゆると肌を撫《な》でてゆく。
妙に、どこか、ささくれたような感触の風であった。
「こんな屋敷に、誰か住んでいるとは思えないな」
逸勢が言った。
「いるさ」
空海が言った。
「え?」
と、逸勢が空海を振り向いた。
「あそこだ」
空海がそこへ視線を向けた。
逸勢が、そちらへ顔を向ける。
ひときわ大きな槐の樹の下に、ひっそりと女が立っていた。
歳の頃なら三十ばかりの、色の白い女だった。
「女だ……」
逸勢が、唾を呑み込みながら言った。
草の上に立った女が、艶然と微笑して首をわずかに傾けた。
黒い髪を、高く上に結《ゆ》いあげている。
「ゆこうか」
言った時には、空海は、のびやかな足どりで、草の上を歩き出している。
逸勢が、その後に続いた。
女の前に立った時、逸勢は、危うく口から声をあげるところであった。
「み、見ろよ、空海――」
空海を肘で突いた。
逸勢が、何のことを言っているのか、空海はよく承知しているようであった。
女の頭の上に、一匹の黒い猫が座って、緑色の瞳で、空海と逸勢を見つめていたのである。
結いあげた髪と見えたのは、その黒猫であった。
「お待ち申しあげておりました」
女は、赤い唇で微笑した。
見れば、顔には白粉《おしろい》を塗り、頬には紅を差している。
化粧をし、きちんと姿を整えている。
逸勢は、一瞬、驚きかけ、いや、騙《だま》されまいぞと、自分に言い聴かせるように、唾を呑み込んだ。
――待っていたとはいうが、そうではあるまい。
そう思い込もうとしているようであった。
「それはすみませんでした」
あっさりと空海が言った。
「何しろ、昨夜の今日でございますので、自分の身づくろいをするのにいっぱいで、何のおもてなしの用意もありませんが――」
女が言った。
「気をお使いになることはありません。勝手にやってきたのですから」
空海が言うと、女は微笑した。
その間、女の頭の上の猫は、何もしゃべろうとはしなかった。
黙したまま、凝《じ》っと空海と逸勢を見ているだけであった。
「どうぞ――」
女が、空海と逸勢をうながすように先に立って歩き出した。
饐《す》えた臭いのする玄関から家の中へ入った。
暗い板敷きの廊下を歩き、小さな部屋に通された。
床の上に、敷き物が広げられ、そこに簡単な酒と肴《さかな》が用意されていた。瑠璃《るり》の瓶子《へいし》に瑠璃の盃。そして、瑠璃の皿の上に、何やらの肉を、野菜と一緒に煮込んだものが乗っていた。
取り皿と、箸《はし》の用意もあった。
空海と逸勢が座すのを待ってから、女は、ふたりの正面に座した。
並んで座った空海と逸勢の左手に、庭と、さきほど女の立っていた槐の樹が見えていた。
「一杯、いかがでございますか――」
女が瓶子を取って、それを空海に差し出した。
「少しだけ、いただきます」
空海が言って、盃を握り、女の前の敷き物の上に置いた。
その瑠璃の盃に、女が、酒を注ぐ。
葡萄酒《ぶどうしゅ》であった。
「あなたさまはいかがですか」
空海の盃に注ぎ終えて、逸勢を見た。
逸勢は、ちらっと空海に視線を向けて、
「どうしたものかな、空海よ」
言った。
「少しだけ、いただいておけばいい」
空海は言った。
逸勢は、黙って盃を前に押した。
女が、逸勢の瑠璃に、酒を注いだ。
注ぎ終って、女は、自分の盃に自分で酒を注いだ。
三人が、その酒――葡萄酒を唇に運んだ。
三人とも、酒に、軽く唇を、触れただけであった。
それで、儀式が終った。
「なかなか、唐語がお上手ですね」
女が、赤い唇をねっとりと動かしながら言った。
「はい」
「倭国《わこく》にも、かような酒はございますか?」
女が訊いてきた。
唐語のことといい、倭国と口にしたことといい、女は、すでに、空海と逸勢が日本からやってきたことを知っているらしい。
「ありません」
空海は答えた。
「空海さま[#「空海さま」に傍点]も、逸勢さま[#「逸勢さま」に傍点]も、たいへん字がお上手と聴いておりますが――」
女が、そろりと言った。
明らかに、あなたたちふたりの名も、すでに自分は知っているのですよという意味の言葉であった。
「たいしたことはありませんよ。この国の方からそう言われても、からかわれているとしか思えませんね」
「御|謙遜《けんそん》をおっしゃいますこと――」
女は、ぬるりとした眼で、空海の顔を覗き込んだ。
女の頭の上の猫は、やはり何も言わない。
ただ、動かずにそこに座っているだけだ。
普通の話をしているのに、普通ではない。
異様な世界に入り込んでしまっているようであった。
「ところで、今日は、何をしに参られましたか?」
女が訊いてきた。
「何も」
と、空海が言った。
「何も?」
「はい。ただ、あなたと話がしてみたくて、やってきたのですよ」
「どのような話を?」
「何でもよいのです。あなたと話ができればそれで良いのですから――」
「ほんとうに?」
女が訊いた。
女の瞳が、鈍い光を帯びていた。
「はい」
空海が答えた。
「どのようなお話をいたしましょうか」
「そうですね、宇宙についての話などはいかがです?」
「宇宙、ですか?」
「ええ」
空海が答えると、女は微笑した。
「空海さまは、楽しいお方ですね。では、その宇宙のお話でもいたしましょうか」
空海と、猫の妖物に憑《とりつ》かれた女との、奇妙な宇宙についての話は、そうして始められたのであった。
(三)
それは、奇妙な会話であった。
小さな東海の島国からやってきた留学僧《るがくそう》の沙門《しゃもん》と、劉雲樵の妻、春琴に憑《とりつ》いた妖物が、宇宙について、様々な話をかわしたのである。
ある時は、仏法の話となり、ある時は、玄道《げんどう》の理《ことわり》についての話となる。
ある時は空海が問い、妖物が答え、またある時は、妖物が問い、空海が答える。
黙って、座したままそれを聴いているのは、橘逸勢である。
ふたりの会話は、ある時はひとつになり、ある時はふたつに分かれ、さらに無数の変化を見せ、終るところを知らなかった。
たとえば、
「空海さま、あなたは、この世で一番大きなものは、何であるとお考えでございますか?」
女が問う。
それを受けて、
「言葉でしょうね」
空海が答える。
「それは何故ですか」
「どのような大きさのものも、言葉でそれを名づけることによって、名という器の中におさめることができるからです」
「言葉で名づけられぬほど大きなものがあるのではありませんか」
「では、それがあるとして、それが何であるかを、あなたはわたしに説明できますか」
「できません。何故なら、私が、あなたにそれを言葉で説明した途端に、それは言葉より小さいものになってしまうからです」
「ですから、わたしは、今、それは言葉だと言ったのです」
「では、空海さま。あなたは、この世で一番小さなものは、何であるとお考えでございますか?」
女が訊いた。
「それも言葉でしょうね」
空海が答えた。
「それは何故ですか」
「どのような小さいものも、言葉でそれを名づけることによって、それを人に言葉で示すことができるからです」
「言葉で名づけても、その言葉の網《あみ》の間からすり抜けてしまうほど小さなものがあるとは思いませんか」
「では、それがあるとして、それが何であるかを、あなたはわたしに説明できますか」
「できません。何故なら、私が、あなたにそれを言葉の網ですくいあげて見せた途端に、それは、言葉よりも大きくなってしまうからです」
「ですから、わたしは、今、それは言葉だと言ったのです」
そして、たとえば、今度は、空海が女に問う。
「美《び》と、醜《しゅう》というものは、この世に存在しますか?」
「ありません」
女が答える。
「何故ですか?」
「それは、人間に属性を持つ言葉のひとつにすぎないからです。人の言葉ではなく、天の理を有する言葉で表現できるものが、この世に存在するものなのです」
「天の理を有する言葉で表現できるもの、というのは何でしょうか」
「それは、まず、数です。それから、堅いとか、柔らかいとか、冷たいとか、熱いとか、さらには正しく使用される大きいとか、小さいとかいう言葉のことです」
「それを説明してもらえますか」
「人間に属性を持つ言葉には、普遍性がありません。美とか、醜とかもそうですが、好きとか、嫌いとかいう言葉も、そういう言葉のひとつです」
「もっと説明してもらえますか」
「たとえば、あるふたつの石を比べた場合、どちらの石の方が堅いか柔らかいか、どちらの石の方が大きいか小さいか、その答は、その答を出すものが人であるか獣であるか虫であるかを問わず、同じものです。これはつまり、堅い、柔らかい、大きい、小さい、という言葉が、天の理を有していることを表わしているのではありませんか」
「説明を続けてもらえますか」
「ある花と、ある花とを比べて、こちらの方が美しいとか、こちらの方が美しくないとかいう言い方は、天の理を有する言葉の中にはありません。天の理を有する言葉で言えば、この花の花びらは四枚である、こちらの花の花びらは五枚である、こちらの花は白い、こちらの花は赤い、そういう表現になるのです。たとえば、ふたつの花の美しさを比べた場合、こちらの花の方が美しいと言う人間もいるし、そちらの花の方が美しいと言う者もいます。人によって、その答はさまざまで、仮に獣や虫に、花の美や醜について答えさせれば、その答はまったく人間と違うものになるか、あるいは美や醜という問いや答、もしくはそのような言葉そのものが彼等には存在しないということもあるでしょう」
「本当に、美や醜は、この宇宙にはないのですか」
「ありません。宇宙にはそういう言葉はありません。あるとすれば、それは、宇宙ではなくひとりひとりの人間が持っているものなのです」
たとえば、そのような会話が、果てしなく延々と続いたのであった。
(四)
ひとしきり、そういう話が続いた後に、
く、
く、
く、
という低い含み笑いが、その部屋に低く響いた。
見れば、笑っているのは、女の頭の上の、黒い猫であった。
「おもしろい男よなあ、空海――」
猫が、赤い口を開け、人の声で言った。
「久しぶりに、楽しい話をしたわ」
猫が、白い鋭い歯をしらしらと見せて言った。
「どうだ?」
猫――妖物が言った。
「どうとは?」
「楽しませてもろうたのでな、礼がしたい」
「礼?」
「この女を抱かせてやる」
「よいのですか」
「よい」
「しかし、遠慮いたしましょう」
「なかなか味の良い女だぞ。良い声で鳴く。尻の振り方もうまい」
「残念ですが」
「女は嫌いか」
「わたしは、仏法に生きねばならぬ沙門《しゃもん》でありますので」
「言いおるわい、この坊主どのは」
く、
く、
く、
と、妖物は笑った。
「なあ、空海とやら」
妖物が言った。
「そろそろ本音を言わぬか」
「本音?」
「何しにここへ来た」
「だから宇宙の話をしに来たと――」
「このまま帰るつもりか」
「無事に帰していただけるのなら――」
空海が、涼しい声で言うと、ふいに天井が鳴り始めた。
あちこちで、柱や梁《はり》が軋《きし》み、床が揺れた。
「帰さぬといったら?」
「さて、どうしたものでしょうか――」
ふいに、家鳴りがやみ、揺れがおさまった。
逸勢は、生きた心地のない様子で、顔を青くしている。
女と、空海、そして、妖物だけが平然とそこに座している。
「喰えぬ男よな、空海――」
妖物が、赤い舌をそろりと出して、唇を舐《な》めた。
「ぬしのような男が、ただ、ここへ天地《あめつち》の話だけをしにきたとは、とても思えぬ。それで、このままぬしに帰られてみろ、おれは、ひと晩、ぬしが何故ここへ来たのかを考えねばならぬ。ひと晩では、答が出ない。ふた晩目も考える。ふた晩でも答が出ない。おれは考え続けるだろうよ」
妖物は言った。
「で、それでもわからぬであろうな」
「そうですか」
「それで、ついには、次におまえがやってくるのを、今か今かと焦《こ》がれて待たねばならぬ。その時になって、ぬしはやってくるつもりなのであろうが――」
「さて――」
「なあ、空海よ。互いに、そういう手間をはぶこうではないか、三日後だか五日後だかは知らぬが、その時にする話を、今、ここでしてゆけ」
妖物が言った。
「礼がしたいと、さっき言っていましたね」
「おう、言うたわ」
「礼がしたいとのことであれば、これからわたしが訊くことに、ひとつふたつ、答えてはもらえませんか」
「おう、言うてみよ」
「では、今日のことですが、どうして、我々がここにやって来るのを知っていたのですか?」
空海が訊いた。
「天眼通《てんげんずう》よ」
妖物が言った。
天眼通――仏の持っている六神通《ろくじんずう》のひとつで、遠くのものでも、何でもそこに居ながら見透《みとお》す能力のことである。
「おれは、ここにいながら、誰がどこで何をしているかがわかるのだ。天竺《てんじく》であろうが、倭国であろうが、雑作《ぞうさ》なきこと。ぬしがのぞむのであれば、ぬしの家族のことを見てしんぜようか――」
「では、倭国の讃岐《さぬき》というところに、わたしの妹が住んでいるのですが、妹が今何をしているかわかりますか――」
空海が言った。
沈黙があった。
か、
か、
か、
と、妖物が声をあげて笑った。
「ひっかけようとしたな、空海、ぬしに妹などおらぬではないか」
「いや、さすがですね。ひとつあなたを試してみようとしたのですが、そううまくはゆきませんね」
「今のは許してやろうよ。次に訊きたいことはなんだ?」
「あなたのことですよ。あなたはいったいどういう方なのですか」
「おれか」
妖物が言った。
「実は、何を隠そう、わたしは本当は、おまえたちが弥勒菩薩《みろくぼさつ》と呼んでいるものです。ここの劉雲樵が、役人という立場を利用し、あちらこちらから金を強請《ゆす》りとり、あくどい仕事をしているので、こらしめるためにやってきたのですよ」
妖物の口調が変わって、声も女のようになっている。
「兜率天《とそつてん》からここまでは、何に乗ってやってこられたのですか」
「何にも乗りません。意志の力によってやってきたのです」
妖物が言う。
「須弥山《しゅみせん》の頂《いただき》に住んでおられる三十三天の皆さまが、毎年ひと粒ずつ下界から拾ってきては溜めている、芥子《けし》の実は、もう、どれほど集まりましたでしょうか」
「試すな空海、そのようなことはしておらぬ」
妖物が言った。
もとの声にもどっている。
「あなたはどういう方なのですか?」
空海は再び訊いた。
「やめよ、やめよ。空海。時間の無駄であろうがよ。おれが何を答えようが、ぬしに信用するつもりがないのであれば、同じことではないか」
「なるほど」
空海は言った。
「用件を言うがよい」
妖物が言った。
「では妖物どの。あなたは、明日のことは知っておられますか」
「明日?」
「青龍寺から、誰か、ここへ来るのではありませんか」
空海が言った途端に、妖物が、低い声で笑い出した。
く、
く、
く、
いかにも楽しそうな声であった。
「知っておるわ、そのことならなあ。そうか、空海よ、ぬしの本当のねらいは青龍寺か――」
妖物は言った。
言い終えてから、また笑った。
(五)
「しかし、空海よ――」
逸勢が言った。
帰りの道である。
すでに、陽は、大きく西に傾いている。
「おれはまだ、無事にこうして、あの屋敷から出られたというのが信じられないな」
逸勢の言葉に、空海は、涼しい顔で微笑した。
「しかし、こうして歩いている」
「おまえは、人に好かれるのがうまい。人だけでなく、妖物にもだ」
「うん」
「あれは、始めから考えてたのか」
「何だ?」
「宇宙の話がしたいと言ったことだよ」
「あそこでの思いつきだな」
「だが、空海よ、思いつきにしては、あの妖物め、喜んでいたぞ」
「おれもおもしろかったよ。しかし、あの妖物め、底が見えない。心を許すわけにはゆくまいよ……」
空海はつぶやいた。
「だが、空海よ、よいのか」
逸勢が言った。
「何がだ」
「さっきのことだ」
「さっきの?」
「青龍寺のことだ」
「ああ、あれか」
「おまえ、本当に青龍寺とはり合うつもりなのか」
「ああ」
空海は答えた。
空海は、空を見あげた。
青い、宇宙まで続いている、長安の空であった。
[#改ページ]
第六章 祟り神
(一)
空海は、板敷の床の上に、仰向けになって眼を閉じている。
眼を閉じてはいるが、眠っているわけではない。
両手を枕にして、風の音に耳を傾けているらしい。
窓から入り込んできた陽光が、空海の上に、槐《えんじゅ》の枝影をちらちらと揺らしている。
口元や、喉元に揺れるその光と影の動きを、空海は、眼を閉じて楽しんでいるようでもあった。
その横手では、橘逸勢が、立ったまま腕を組んで壁に背をあずけている。
午後であった。
逸勢の爪先に、陽光が揺れている。
「ううむ」
逸勢は、さっきから、しきりと、小さな唸《うな》り声を喉の奥であげていた。
「なあ、空海よ――」
我慢ができなくなったように、逸勢が空海に声をかける。
「なんだ、逸勢」
空海が、眼を閉じたまま答える。
「どうなったかな?」
「どうとは?」
「だから、劉雲樵の屋敷の妖物《ようぶつ》のことだよ」
逸勢は、焦《じ》れたように言った。
「どうなっただろうな」
空海が、つぶやく。
その声には他人《ひと》ごとのような響きがある。
「おまえ、よく、そうやってのんびりしていられるな」
逸勢が、腕を組みなおした。
空海を上から眺め、
「青龍寺《せいりゅうじ》がゆくのは今日なのだろうが。朝出ていれば、もう、何ごとかあったのではないか?」
「あっただろうな」
空海が答える。
素気がない。
「おまえが、あんなことを言うものだから、おれは今でも、心の臓がどきどきしているよ。おまえが昨日言ったことは、本当のことか――」
逸勢が訊《き》く。
逸勢の言うおまえが昨日言ったこと≠ニいうのは、空海が、劉雲樵の屋敷で、妖物に向かって言ったことである。
昨日、青龍寺のことを空海が口にすると、妖物――劉雲樵の妻は、楽しそうに笑った。
その妖物に向かって、さらに空海は言ったのである。
「青龍寺が、何をしに来るかは、わかってますか?」
「噂の真意を確かめに来るのであろうが」
「噂とは?」
「おれが、徳宗が死ぬと言ったことよ。それが本当であれば――つまり、この屋敷にそのようなことを口にする妖物がいるとわかれば、青龍寺も放ってはおけまいが――」
「でしょうね」
「おれを調伏《ちょうぶく》すると、そういうことになるであろうな――」
「調伏されますか?」
空海が訊くと、呵々《かか》と妖物が笑った。
「おもしろいことを訊く男よなあ、空海――」
妖物の憑《とりつ》いた、女の眼が空海を睨《にら》んだ。
「まずは、調伏は無理でしょうね」
空海が言った。
「ほう!?」
妖物が、興味深そうな声をあげた。
「何故かな?」
「つまり、最初から、恵果《けいか》和尚がやって来られるわけではないでしょうから――」
「ふむ」
「それなりの法力《ほうりき》を持った者ではありましょうが、まあ、それなりのというところでありましょう」
「ふむ」
「ひとまずは、青龍寺側が、身を引くということになりますか」
空海が言うと、
く、
く、
く、
と、妖物は、喉の奥で押し殺したような笑い声をあげた。
「で?」
「青龍寺が駄目とあらば、わたしが、ここにやって来ることになりましょうか――」
「ぬしが、我を調伏することになると」
「はい」
空海が答えると、相手は、おかしくてたまらぬといった風に、大きな声をあげて笑った。
「これは、たまげたことを申す沙門《しゃもん》どのだわい――」
さらに妖物はひとしきり笑って、
「ぬしの目的は、青龍寺をだしぬくことかよ――」
空海に訊いた。
空海は、黙したまま、静かに微笑するばかりであった。
「まあ、よいわ」
妖物が言った。
「今日のところは帰るがよい。おれの気が変わらぬうちにな」
「そういたします」
「生かしたまま帰してやろうかよ」
「はい」
「生かして帰してやることが、おれの礼さ。久しぶりに、おもしろい話をさせてもろうたでな」
妖物が言った。
「では、これにておひきとり下さいませ」
劉雲樵の妻が、倭国《わこく》の作法で、床に両手をつくと、静かに頭を下げた。
「はい」
と、そう答えて、空海は逸勢をうながして劉雲樵の屋敷を辞《じ》したのであった。
「あの時、生かして帰してやると言われた時には、ほっとしたことはほっとしたが、おれは本当に恐ろしかったぞ――」
逸勢は、また、腕を組みなおして言った。
「なあ、空海よ。妖物がその気になれば、おれたちを殺せるのだと、その時おれは本当にそう思ったよ」
「そうか」
「空海よ。あの時、妖物がその気になれば、おれたちを殺すことができたのだろう?」
「できたろうな」
あっさりと空海が言う。
空海は、眼を開いて、逸勢と視線を合わせ、笑った。
「簡単に言うな。おれは、そんなことはないと、おまえに言って欲しかったのに――」
「しかし、殺すというそのことだけで言えば、逸勢よ、おまえだって、このおれを殺すことができるのだぞ。おまえの持っている太刀《たち》で、このおれを突けばいいのだからな」
「おれが言っているのは、太刀のことではない。法力の話をしているのだ――」
「死ぬ身になれば、太刀で殺されるも、法力で殺されるも同じ死ではないか」
「それはそうだが――」
何か、納得しかねるように、逸勢は口ごもった。
逸勢は、腕を組んだまま沈黙した。
そしてまた、溜め息をつく。
「それで、空海、今日、青龍寺が、あれの調伏に失敗したら、どうなる」
「さて」
空海は、胡座《あぐら》をかき、壁に背をあずけている。
「おまえ、そうしたら自分がやることになると言っていたな」
「ああ、言った」
「本気なのか?」
「本気さ、半分はな」
「半分?」
「たぶん、そういうことにはなるだろうさ」
空海はつぶやいた。
「あの妖物に、おまえ、勝ち目はあるのか。話をしている最中に家まで鳴りだした時があったろう。あの時、おれは、おまえがいなかったら、走って逃げ出していたところだぞ」
「あれか」
「そうだ。何をするにしても、家が崩れてきたら、おまえだって助からなかろうが――」
「家が崩れてきたのならな」
「え?」
「逸勢よ、おれが、今、わからないのは、あの妖物の目的さ」
「目的?」
「どういう心づもりがあって、あのような真似をしているのかということだ」
「――」
「仮に、徳宗皇帝を呪《しゅ》で殺そうというのなら、わざわざ予言をしたり、劉雲樵の妻に憑《とりつ》いたりせずともよいではないか――」
「まあ、そうだ。しかし、相手は、妖物だぞ――」
「妖物だから何なのだ」
「いや、つまり……」
逸勢は口ごもり、
「……妖物だから、我々の考えのおよばぬところもあるのだろうよ」
「うむ」
空海はうなずき、
「妖物だからというのはともかく、我々の考えがおよばないということについては、その通りだな」
空海はうなずいた。
「しかし、どうなったのかな、青龍寺と、妖物は――」
「焦《あせ》るな、逸勢。待っていればそのうちにわかるだろうよ」
「そのうちに?」
「ああ、そのうちにな」
空海は言って、また、床の上に仰向けになった。
空海の言ったそのうち≠ヘ、夕刻になった。
夕刻になって、西明寺《さいみょうじ》にいる空海の部屋を訪ねてきた者があったのである。
(二)
「空海先生――」
窓の外から声があった時には、嚇々《あかあか》とした溶《と》いだ絵の具のような色の陽光が、その窓から差し込んで、向かい側の壁にぶつかっている頃であった。
「おう」
と答えて、空海が起きあがった。
「今の声は、大猴《たいこう》ではないか」
逸勢が、組んでいた腕をほどいて、窓に眼をやった。
そこに蓬髪《ほうはつ》の、大きな男の顔が笑っていた。
「そっちへ行ってもいいかい?」
大猴が言った。
「ああ。こっちへ来て、見てきたことを聴かせてもらおうか」
空海が言うと、窓から、大猴の顔が消えた。
すぐに、重い足音がして、ぬうっと熊のように、大猴が入ってきた。
「見てきたよ」
あがり込んで床の上に胡座をかいた。
「どうだった、青龍寺は?」
空海が訊いた。
その空海に、
「おいおい――」
と、逸勢が声をかける。
「――空海よ、これはいったいどういうことなのだ?」
「だから、この大猴に、劉雲樵の屋敷まで様子を見に行ってもらっていたのだ」
空海が言った。
逸勢は、さらに何か言いたげな様子であったが、自分も、あの劉雲樵の屋敷のことには興味がある。
喉まで出かかった言葉を押し殺して、
「どうだったのだ?」
大猴に問うた。
大猴は、逸勢を見、その視線を空海に移して、うなずいた。
「ええ。空海先生に言われた通り、光徳坊《こうとくぼう》の、南の坊門《ぼうもん》あたりを朝からうろついていたら、坊さんのなりをした男ふたりが、金吾衛《きんごえい》の役人らしい男を連れてやってきましてね。それで、その後をつけたら、その三人は、やっぱり、空海先生の言ったように、劉雲樵の屋敷へ入ってゆきましたよ」
「それで?」
問われて、大猴は、大きな右の拳で鼻頭をぬぐった。
「その役人が、どうも劉雲樵本人のようでしてね。なんだか、ひどく怯《おび》えてる風でしたよ」
「ふむ」
「劉雲樵は、なかなか屋敷の中へ入りたがらなかったんだけどね、皆に背を押されるようにして、中へ入って行きましてね。おれも、ついでに、その後から屋敷の中に入ってゆこうかと思ったんだけどね……」
「行ったのか?」
「いえ、入らなくていいと言われてたんで、ずうっと、門の近くで、三人が出てくるのを待ってました」
「で、どのくらい?」
「一刻か、もう少しくらいだったと思いますよ」
「その間に、何か――たとえば家鳴りのような音でもしたかな」
「いえ、屋敷の中は、しんと静まりかえっているばかりで、ほとんど物音も聴こえてきませんでしたよ。そのうちに、男の悲鳴が聴こえたんで、何かあったなと思ったんですが、中へは入ってゆきませんでした。悲鳴が聴こえたっきり、他には何も聴こえてきませんので、よっぽど中へ入ろうかと思ったんですが――」
大猴は、空海に向かって身をのり出し、
「――入ろうかどうしようか迷っているところへ、三人が出てきたんですよ」
「無事にか?」
「ええ。劉雲樵なんかは、もう、笑みがこぼれっぱなしでね。坊さんに、何度も、何度もぺこぺこ頭を下げてましたよ」
「ほほう」
空海が、興味深そうな声をあげた。
「それは、つまり、空海よ。あの屋敷の妖物が、青龍寺の坊主に調伏されてしまったということではないのか?」
逸勢もまた、身をのり出して言った。
「ふふん」
空海の顔には、楽しくてたまらぬといった笑みが浮きあがっていた。
「逸勢よ、これは実に、おもしろいことになってきたではないか」
言われても、逸勢には、何のことかわからない。
「こいつは、根が深いぞ、逸勢。あの妖物も、なかなかどうして、いよいよ厄介な相手のようだな」
「よくわからぬな、空海。何故、根が深くて、あの妖物がいよいよ厄介な相手なのだ」
言った逸勢の言葉が、空海に届いたのかどうか、
「おれは、なんか、こう、ぞくぞくとしてきたぞ、逸勢よ――」
空海は、その唇に、笑みを溜めながら言ったのであった。
(三)
どこかで、誰かが月琴《げっきん》を弾《ひ》いているらしく、その音が小さく漂ってくる。
灯りを点《とも》すには、まだ、しばらくの時間があり、外の明りをたよりに、空海は静かに酒を飲んでいた。
空海と向き合って、酒の相手をしているのは、橘逸勢である。いや、逸勢の酒の相手を、空海がしているのである。
胡玉楼《こぎょくろう》の二階であった。
妓楼《ぎろう》である。
玉蓮《ぎょくれん》も、牡丹《ぼたん》も、まだ顔を出してはいない。
上った時に、牡丹が、ちらっと顔を見せただけである。
すぐに、玉蓮と共にやってくるはずなのだが、それが、まだ来ない。
それが逸勢には不満らしかった。
瑠璃《るり》の盃に注がれた葡萄酒を、口に運んでは、せわしい溜息をつく。
「まだかな」
逸勢は、入口の方を向いて、つぶやいた。
「せかずともよかろうが、逸勢よ」
空海がいった。
「別にせいてはおらぬ」
逸勢は、盃を|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の上に置いて、空海を見た。
「今夜は、ここへ泊まってゆくのだろう?」
空海が言うと、逸勢は、驚いた顔で空海を見た。
「泊まってゆくと言っても、本当によいのか、空海よ」
「泊まるぞと言って、出てきたのはおまえではないか」
「しかし、おまえは坊主ではないか」
「坊主が泊まるのはいけないか」
「いや……」
逸勢は口ごもった。
坊主が、妓楼に出入りしていることは、逸勢も知っている。
本来であれば、このような場所に、僧が足を踏み入れてはいけないことになっているのだが、それは表向きのことで、あちこちの寺の僧が、身を忍ばせて、妓楼に通ったりする。
その中には、西明寺の僧もいるし、青龍寺の僧もいる。
しかし、まるっきりの僧形《そうぎょう》で、妓楼の門をくぐる僧はいない。
身なりを変えるか、目立たぬように横手の入口から入るか、それなりに身を忍ばせて、馴じみの女の元へ通ってくるのである。
しかし、空海は、そういうことに頓着しない。
表から、僧形のまま、入ってゆく。
僧形の姿を隠そうとしないからといって、逆に、ことさら顔をあげているわけでもなく、足音高く入ってゆくわけでもない。
仲のよい知人の家でも訪ねてきたように、するりと風のように入ってゆく。
だが、それにしても――
少しあからさまにすぎるのではないか
と、逸勢は思っている。
「しかし、もう少し、なんというか、坊主らしさがあってもいいのではないか」
口ごもってから、逸勢が空海に言った。
「坊主らしさとはどういうことだ」
空海が逸勢に訊く。
「それは、おまえ――」
答えようとして、また逸勢が口ごもる。
空海の顔を見つめ、小さく首を振った。
「もうよい。おまえの顔を見ていると、心配するのが馬鹿らしくなってくる」
逸勢は、また、盃を運んだ。
暮鼓《ぼこ》が、鳴り始めた。
空海が背にした白壁に、ねっとりとした赤い陽が映っている。
空海の正面にある窓の向こう――長安の街並の上に、ゆっくりと陽が落ちようとしている。
街路に生えた槐《えんじゅ》の影が、夕空に浮かびあがっていた。
「なあ、空海よ」
逸勢が、瑠璃の盃を手にしたまま言った。
「なんだ、逸勢」
空海が、夕陽から、逸勢に視線をもどした。
「昨日もまた、出たそうだな」
「あれか」
「うむ」
うなずいて、逸勢は盃を置き、
「例の高札さ。徳宗崩じて、次は李誦≠フな――」
声をひそめて言った。
「しかも、空海、今度は宮城のすぐ前だったというではないか」
「らしいな」
「まったく、妙なことばかりおこる」
「そうだな」
空海は、言葉少なく、うなずくばかりであった。
「なあ、空海よ。そういうのは、仏法ではどうにもならぬのか?」
「仏法で?」
「そうだよ」
「意味がわからぬ」
「だから、おまえの馴じみの仏に祈るのでもよい。法力を使うのでもよい。そういうことでなんとかならぬのか――」
「ならぬな」
あっさり、空海が言った。
「ならぬ?」
「そうだ」
「しかし――」
「ならぬ世であるからこその仏法であるのさ」
「また、おまえ、おれの頭を痛くしようとしているのではないか」
「そんなことはない」
「いや、おまえは、話をややこしくするのがうまいからな」
「まあ、仏法で何とかなるもならぬも、相手に会《お》うて、その相手に仏法を説かねばならぬではないか。仏法というのは、時間がかかるのだ――」
空海はつぶやいた。
空海の眼は、いつの間にか、外を見ている。
すでに、陽は、没し終えていた。
赤い西の空に、あちこちから、いく筋もの煙が伸びている。
街並は、薄い墨を流したようになっている。
空海の視線を追って、逸勢は、窓の外に眼をやった。
「不思議だなあ、空海よ」
逸勢がつぶやいた。
遠い視線を、夕焼けの空に向けている。
「京の都の夕暮れを、おれは何度も見たよ。この長安で、初めて夕暮れを眼にした時には、ときめいた。ときめいて、しみじみとしたよ。ずい分|遥《はる》ばると来てしまったものよとな――」
「――」
「しかし、人というものは、いつの間にか、慣れてしまうものなのだなあ」
「うむ」
「最初のうちこそ、この長安の華やかさに驚いたが、最近は、京のことが、しきりと思い出されてな」
「帰りたくなったか」
「あと二十年もいるのかと思うと、時々、ひどく力が抜けてしまうことがある」
一時は、瑠璃だの、|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》だのと眼を輝かせていた逸勢が、いつになく、しんみりとしている。
ふたりして、しばらく暮鼓の音に耳を傾けていた。
やがて――
逸勢が、深い溜息をついた時に、火の点った灯り皿を持って、牡丹が部屋に入ってきた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃったわ」
最初から、親しみを込めた口調で、牡丹が灯りを置いた。
「玉蓮さんは?」
空海が訊いた。
「玉蓮|姐《ねえ》さんは、今、お役人のお相手の最中よ」
「役人?」
逸勢が訊いた。
「白《はく》さんというひと。最近、玉蓮姐さんがおめあてで、時々顔を出すんだけれど、難しそうな顔をして、お酒ばかり飲んでいるわ」
「ふうん」
つぶやいた空海の横に、牡丹が座った。
「玉蓮姐さん、あれから、すごく調子がいいみたいよ」
牡丹が言った。
しばらく前に、玉蓮の腕から、空海が餓蟲《がむし》を取りのぞいてやったことについて言っているらしい。
空海の、空になっていた玉《ぎょく》の盃に、葡萄酒が満たされた。
しばらく、空海と逸勢は、牡丹にせがまれて日本の話をした。
話がとぎれた時、
「ところで、麗香《れいか》姐さんはどうしてるの?」
空海が訊いた。
麗香というのは、雅風楼《がふうろう》の方にいる妓生の名である。
劉雲樵が、しばらく通っていた妓生が麗香であった。
「あいかわらずよ。お役人のお相手が多くて、雅風楼じゃ人気があるの」
「ふうん」
空海は、小さくうなずいて、
「牡丹さんに、頼みがあるんだけどね」
牡丹に言った。
「それとなく、麗香姐さんのことを調べてもらえないかな」
「調べる?」
「うん」
「どんなことを?」
「何でもいい。たとえば、どこの生まれだとか、どういうお客さんが多いとか。兄弟や家族のこととかね――」
「いいわ。でも、あのひと、自分のことは、あまりしゃべりたがらないから、あのひと自身のことはよくわからないのよ」
「役人の相手が多いって、言ってたね」
「ええ」
「どういうお役人が多いのか、そういうこともわかるとありがたいんだが――」
「わかったわ」
「麗香姐さんには、調べているのがわからないようにできるかい」
「わたしは、お調子者だから、わかっちゃうかもしれないけれど、玉蓮姐さんなら、そういうことは上手だと思うわ」
「じゃ、玉蓮姐さんにも――」
「いいわ。わたしから頼んでおくわ。でも、どうして――」
牡丹が訊くと、逸勢が相槌《あいづち》を打った。
「うむ。空海よ、だがどうして、そういうことを知りたいのだ」
「少し、考えていることがあるのさ」
「だから、何を考えているのだ」
「そのうちに教えてやるさ。今はまだ、何とも言えぬからな」
空海は、そう言って、盃を口に運んだ。
また、ひとしきり飲んでいるうちに、暮鼓は鳴り止《や》み、いつの間にか、窓の外には、夜の帳《とばり》が下りていた。
そこへ、玉蓮が入ってきた。
牡丹より歳は上だが、あでやかで、色気がある。
「玉蓮姐さん――」
牡丹が声をかける。
牡丹が逸勢の方へ動くと、空海の横の、空いたその場所に玉蓮が座った。
「おや、墨《すみ》の匂いがしますね」
座った玉蓮に、空海が言った。
「あら、よく手を洗ってきたんだけど――」
玉蓮は笑って言った。
「また、白さんが、墨と筆を出させたの?」
牡丹が訊くと、玉蓮がうなずいた。
「そうなのよ。お酒を飲んでいたら、急に、墨と筆って――」
「なんのことなんだ、玉蓮」
逸勢が訊いた。
「いえね、時々、わたしを呼んでくれる、白さんてお客さんがいるんですけど、このお客さんが、いつも、お酒を飲んでいると、いきなり、墨と筆を出してくれないかって、そう言うんですよ」
「ほう」
「無口で、静かに飲んでいるんですけど、それが急に、宙のどこかを見つめちゃって、墨と筆って――」
「いつもなのかい」
「ええ。それで、最近は、白さんの時は、いつも墨と筆を出せるようにしておくんですけれど――」
「それはつまり、その墨と筆で、何か書くってことだろう?」
「ええ。何か、詩をお書きになろうとしてるんですけれど、それが、なかなかうまく書き出せないらしくて――」
「ほう……」
興味深そうな声をあげたのは、空海であった。
「詩をね……」
「あら、空海さんは、詩をお書きになるんですか――」
日本から来た、この僧が、漢語に堪能《たんのう》なだけでなく、詩にも興味がありそうなのを知って、玉蓮は驚いたらしい。
「興味があるんなら、わたし、ちょうど今、白さんがお書きになって、捨てていったのを持っていますよ――」
玉蓮が、懐へ手を入れて、そこから、たたんだ紙片を取り出した。
「へえ」
と、玉蓮の手から、空海がその紙片を受け取った。
見ると、ほどほどに見られる字で、
[#ここから2字下げ]
漢皇重色思傾国
御宇多年求不得
楊家有女初長成
養在深閨人未識
天性麗質難自棄
一朝選在君王側
[#ここで字下げ終わり]
と、ある。
「ふうん――」
空海がその紙片を見つめ、
「なかなかのものだな――」
つぶやいた。
「空海、おれにも見せてくれぬか」
逸勢が手を伸ばしてきた。
受け取った紙片に目をやった逸勢が、ほうほうとうなずいている。
「どうなんですか?」
玉蓮が、空海と、逸勢を交互に見つめて、言った。
「いや、なかなかみごとなものだ」
逸勢が言った。
「だいぶ、長い詩と見たが、書き出しで迷っているらしい」
空海がつぶやいた。
「長いとか短いとか、そういうことが、そこだけ読んでわかるのですか」
「うん、わかる」
空海は答えた。
また、逸勢からその紙片を受けとり、
「なかなかのものだな――」
もう一度、言った。
「白さん、だいぶ悩んでるみたいでしたよ」
「始めに苦しんでおけば、その分だけ、書き出した時には勢いがつきますからね」
「それにしても、空海よ。さすがに唐の長安だな。無名の役人が、このような詩をこのような場所で書くとは――」
「――」
「いや、長安は凄い所ぞ」
逸勢が、声を大きくしてうなずいた。
「どうした、逸勢――」
その逸勢を見て、空海が微笑した。
「ずい分元気になってきたな」
「ばか」
逸勢は、少し照れたような顔になって、盃をまた口に運んだ。
「日本にも、詩があるのですか」
ふいに、玉蓮が訊いた。
「詩ですか」
空海は、つぶやいてから、
「漢語で、唐風の詩を書くことは書きますが――」
「日本には、詩がないのですか」
「ありますよ。日本では、詩のことを、歌と呼んでいます。その歌が、唐でいう詩にあたるものでしょう」
「歌?」
「恋の歌が多い」
空海は言った。
「空海さんも、恋の歌を造るのですか」
「いや、わたしは、恋の歌は詠《よ》みません。宇宙についての歌なら、詠んだことがありますが――」
「じゃ、空海さんは、恋をしたことがないの――」
玉蓮が言うと、空海は、
「ありますよ」
微笑して答えた。
素直すぎるくらい、真っ直《すぐ》な言い方であった。
「じゃあ、女のひとのことは知っているのね」
「その知っているということがどういうことかわかりませんが、それが妙適《スラタ》のことであれば、知っています」
「妙適?」
「女のひとの身体を抱いて、良い気持になることが、妙適です」
「まあ……」
玉蓮は、声をあげて空海を見た。
「玉蓮さん、空海とそんな話をしても、いつの間にか、何やらおかしなことを言われて、ごまかされてしまいますよ。こいつは、話をややこしくするのがうまいから――」
「いつも、逸勢さんは、ごまかされているの?」
「いつも、騙《だま》されてますよ」
逸勢は、言った。
それから、ひとしきり、また日本の話になり、その話が一段落した時、空海が、玉蓮に言った。
「そうそう、玉蓮さん。最近、劉雲樵が、こちらに顔を出しませんでしたか?」
「あら」
問われて、玉蓮が声をあげた。
不思議そうな顔で空海を見た。
「空海さんには、わからないことがないみたいね。劉さんなら、昨日、胡玉楼に来たわよ」
「へえ」
「えらくごきげんが良くて、お仲間を何人か連れてきてたわよ」
「いいことがあったみたいだね」
「ええ。このあいだ、空海さんにお話ししたあれがね――」
「奥さんに憑《とりつ》いていた猫のことよ」
牡丹が、身を乗り出して、言いそえる。
「その猫が、落ちたんですって――」
玉蓮が言った。
「ははあ」
空海が、興味深そうにうなずいたのを見て、玉蓮も身を乗り出して、
「青龍寺のお坊さんが、落としてくれたっていう話よ」
皆の顔を見回しながら、言った。
「その時の話は、耳にしてますか――」
「ええ。大きな声で、何度も話すから、だいたいのところは――」
「教えてくれませんか」
言われて、玉蓮は、ちょっと思案気な表情を造り、すぐにうなずいた。
「いいわ。空海さんなら。それに、あんなに大きな声で話すんですもの、他の人の耳にももう入ってるでしょうしね」
言って、玉蓮は、語り出した。
「劉さんね、三日前の昼に、青龍寺のお坊さんを連れて、自分の家にもどったんですって――」
(四)
劉雲樵と共に、劉雲樵の屋敷へ出かけたのは、明智《めいち》と、清智《せいち》という僧であった。三人が、屋敷へ入ってゆくと、玄関に、劉雲樵の妻が、出むかえに出てきた。
「また、無駄なことをなさりに来たのね、あなた」
春琴《しゅんきん》が言った。
「好きなようになさるといいわ」
そう言って、春琴は、背を向けて奥へ姿を消した。
三人が後を追ってみたが、もう、春琴の姿はどこにもない。
家の中、庭、あらゆるところを捜しても春琴の姿はない。
で、明智と清智は、炉を置いて、護摩《ごま》を焚《た》きはじめたのである。
雲樵と春琴が、寝室として使用していた部屋である。
そこに、一番強く妖気がこもっているからだという。
護摩を焚き、ふたりが真言《しんごん》を唱え始めてしばらくすると、
「やめよ」
という声が、天井のどこからか、聴こえてきたという。
「やめよ。その火を焚くのをやめよ。真言をやめよ」
それでも、ふたりが真言を唱え続けていると、次第に、家のあちこちが、みしみしと、小さく軋《きし》み出し、そのうちに大きく家が揺れ出した。
「ひいい」
と、雲樵が外へ抜け出そうとするが、床が揺れ、足がもつれて動けない。
ふいに、部屋の天井近くに女の姿が出現し、そこから、床の上に春琴が落ちてきたという。
春琴は、床の上で、身をもがいて苦しみ始めた。
ここぞとばかり、僧が護摩を焚き、真言を唱えた。
劉雲樵は、苦しがっている妻をおろおろとして眺めているばかりである。
「やめて、許して」
そういう春琴に、真言を唱えるのをやめた明智が問うと、苦しみながら、春琴が答えた。
「わたくしは、五年前、この屋敷の床下で暮らしていた猫であります」
声は、春琴の声ではなく、しわがれた男の声である。
「ある日、この屋敷の台所から、大きな魚をひとついただいて、床下で食べたのですが、その魚が良くなかったためか、しばらくすると、胸が苦しくなり、呼吸までもができなくなって、その床下で、さんざん苦しんだあげくに、翌日、わたくしは床下で死んだのであります」
「その猫が、何故、この屋敷へ祟《たた》るのか?」
明智が問うた。
清智は、その間も真言を唱え続けている。
「死んで五年も経つのに、未《いま》だ、誰にも葬られることなく、骨と皮ばかりになり果てている自分が哀れで、この家のものを逆恨みして、憑《とりつ》いたものでございます」
「徳宗皇帝の崩御を、予言したな?」
「以前から、お身体を悪くしているとの噂を耳にしておりました。最近になって、それがとくにお身体の具合が悪そうなので、そう申したら、はからずも的中したと、そういうわけでございます」
春琴の眼からは、涙が流れている。
「成仏《じょうぶつ》したくば、そこに座し、両手を合わせて念仏せよ」
そう言うと、苦しみながら春琴は両手を合わせた。
念仏するうちに、春琴の表情が、だんだんと晴れやかになり、最後には涙を流しながら、口元に微笑さえ浮かべて念仏していたという。
(五)
「で、その猫が落ちたらしいのよ」
玉蓮が言った。
「なるほど――」
その後で、床の下に潜ってみると、はたして、干《ひ》からびて、骨と皮ばかりになった猫の屍骸《しがい》があったという。
「その猫の屍骸を、坊さんが始末してやって、それでなにもかもうまくいったと、そういうことみたいね」
「ふうん」
逸勢が、しきりと感心した声をあげる。
「それは、おもしろいな」
空海は言った。
楽しそうな微笑が、空海の唇に浮いている。
「玉蓮さん。さっき、牡丹さんにも頼んだことがあるんだけど、もうひとつ、頼まれてもらいたいことがあるんですよ」
「なにかしら」
「特別なことじゃありません。これからも、劉雲樵は、ここへ顔を出すでしょうから、何か、彼の様子がおかしくなったら、西明寺の空海まで、教えてもらいたいんですよ」
「おかしいって、たとえば?」
「とにかく、様子がいつもと違っていたら、教えて下さい。様子がよほどおかしければ、すぐ、その場で使いを出してくれてもいいし、劉雲樵に、直接、西明寺の空海を訪ねるように言って下さい」
「おいおい」
と、空海に声をかけてくる逸勢の言葉が耳に入らぬ風で、空海は、さらに言いそえた。
「それから、先ほどあなたたちにお願いしたことは、麗香姐さんには絶対に内緒ですからね」
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第七章 胡旋舞
(一)
劉雲樵は、複雑な気分だった。
くるくると、自分の気持が変わるのである。
浮き浮きとした気分には違いないのだが、ともすると、気持が沈みがちになる。
猫の妖物《ようぶつ》が落ちてから、七日目の晩であった。
すでに、荒れていた家の中は、ほどよく取りかたづけられ、明日からは、奉公人もまた屋敷に寝泊まりするようになる。
妻の春琴が、もとの妻にもどってくれたのも嬉しい。
しかし、春琴は、あの猫に犯されている。
猫と春琴とが、どのように交わっていたのか、それはわからないが、息も絶えだえになるほどの春琴の声を、何度となく耳にした。
その声が、まだ、耳に残っているのである。
嬉しいが、そのことを思い出すと、胸が痛くなるのである。
どうやら、自分はあの猫に嫉妬《しっと》しているらしい。
そのことがわかる。
人が、獣に嫉妬するのか――
しかし、嫉妬しているのだからしかたがない。
七日前に、猫が落ちるには落ちたが、それから、まだ、春琴とは一度も、閨《ねや》の秘めごとをかわしてない。
明日の晩からは、奉公人が泊まるから、本当の意味での、ふたりきりになる機会というのは、今晩だけである。
なんとか今晩のうちに、とにかく春琴となんとかなってしまいたいと、劉雲樵は思っているのである。
その思いは、自然と春琴にも届いている。
春琴も、雲樵と思いは同じらしい。
今日は、朝から、雲樵は春琴に優しい言葉をかけ、それとなく気を使っている。春琴も、雲樵の思いがよく伝わっているらしく、まめまめしく、なにかと雲樵の世話をやく。
帰ってきて、食事を済ませ、別々に湯浴《ゆあ》みをした。
準備はすっかりできている。
あとは、きっかけをつくるだけの状態になっている。
劉雲樵は、どきどきしながら、酒を飲んでいる。
場所は寝室であった。
灯りが点《とも》っている。
寝台の上に、盆が置いてあり、その盆の上に玉《ぎょく》の盃がふたつ、乗っている。
中に入っているのは、葡萄酒である。
すでに、雲樵は先に寝台に入って、そこに胡座《あぐら》をかき、ふたくちみくち、酒を口に運んでいる。
寝台の周囲は、上から垂れた絹の布で囲われている。
その絹の布に灯りが差して、炎の色がゆらめいている。
そこへ、まだ、寝台の外にいる春琴の肢体が映っている。ひどく艶《なま》めかしい影であった。
いつ、春琴が焚いたのか、部屋の空気の中には、なやましい香の匂いが溶けていた。それに、春琴が使ったらしい白粉《おしろい》や、紅の匂いまでするではないか。
すっかり、春琴もそのつもりになっているのである。
さっき、いそいそと、盆に酒の入った盃を乗せて運んできたのも春琴である。
しかし、春琴は、なかなか中に入って来ようとはしない。
映る影を見ていると、髪に手をあてたり、身につけているものの襟元をなおしたりと、男にとっては、もうどうでもいいようなことをしている。
まさか、おれを焦《じ》らしているわけでもあるまい――
と、雲樵は思う。
照れているだけなのだと、雲樵は思った。
ここまで、女の方が準備をしてくれたら、誘うのは男の役目である。
酒を口に運び、絹に映る春琴の影を見ているうちに、不安よりも、欲望の方が勝ってしまったようであった。
春琴は、どのようなことをしてやると悦《よろこ》ぶ女であったのか?
そんなことを、しきりと思い浮かべようとするのだが、ずい分遠い昔のことのようで、はっきり思い出せない。
「春琴や、もう、いいからこっちへおいで――」
雲樵は、声をかけた。
「だって、まだ、髪が乱れているような気がして……」
「いいじゃないか」
雲樵は言った。
どうせすぐに、もっと乱れるようなことをするのだから――そう思ったが、雲樵はそれを口にはしなかった。
それは、あまりにも、女心を理解していない言葉ではあるまいかと考えたからである。
普通の夫婦ならともかく、自分たち夫婦にとっては、今日は特別な夜なのである。
「おまえみたいに、見目《みめ》の良い女は、少しくらい髪が乱れていたほうがいいのだよ」
雲樵は言った。
「それに、あんまり、髪が整っていると、乱すのがこわくて、おまえの髪を撫でてやることができなくなってしまうじゃないか――」
うん、我ながらなかなかうまいことを言うな――
雲樵が思った時、絹に映っていた春琴の影が、雲樵の方に振り向くのがわかった。
「ほんとう?」
と、春琴が言った。
おや――
気のせいだろうか、その声が、少し、しわがれているように、雲樵には聴こえた。
さては、春琴は、もう興奮しているのかと思ったが、気のせいであったような気もしている。
もう一度、春琴の声を聴こうと思い、
「ねえ、春琴や、こっちへおいで――」
そう言った。
「優しくしてくれる?」
春琴が言った。
声が、もう、もとにもどっている。
雲樵はほっとして、
「優しくするよ。今日は、大切な夜だからね――」
少し焦れた声で言った。
「嬉しいわ。でも、男の人って、口ばかりだから――」
「そんなことはないよ」
「でも、わたしは、もう、歳をとってるから――」
「春琴や、三十八歳というのは、これから本当に女のよろこびを楽しむための歳じゃないか――」
「でも、身体の張りはなくなってくるし、お乳だって下がってくるわ」
「そんなことは、わたしは、少しも気にしないよ」
すると、絹のむこうから、しくしくと、啜《すす》り泣く声が、聴こえてきた。
春琴が、哭《な》いているのである。
「何故泣くのだね、春琴や」
雲樵が言った。
「あなたは、わたしを殺そうとなんか、しないわよね」
春琴が言った。
「あたりまえじゃないか」
「あなたは、あとですぐに掘り出してやるからといって、わたしを埋めて、何年も土の中に放っておくなんてこと、しやしないわね」
少しずつ、春琴が、奇妙なことを言い始めた。
「あなたは、女の首を槍の先に刺して悦《よろこ》んだりしないわね」
ぞくりと、小さな寒気が、雲樵の背を疾《はし》り抜けた。
「春琴や、おまえ、今夜は、少しおかしいのではないかい」
おかしいのではないか――と、そう口にしたとたんに、雲樵の胸に、本当に、春琴がどうもおかしいのではないかとの思いが生じていた。
するするという、衣擦《きぬず》れの音がした。
春琴が、身にまとったものを脱いでいるのである。
その影が、絹の垂れ幕に映っている。
裸になった。
その影の様子がおかしい。
こんなに、痩せていたろうか――
背や、腰が、あんなに曲がっていたろうか――
「わたしが、お婆あさんになっても、わたしをよろこばせてくれるの?」
春琴のその声が、はっきりと、しわがれていた。
「う、うん――」
答えた劉雲樵の髪が、恐さで、逆立っていた。
「わたしを可愛がってくれるのね」
春琴の声ではなかった。
絹の垂れ幕の内側に、するりと、皺だらけの手が差し込まれて、幕が、横に引き開けられた。
裸の、皺だらけの老婆が、そこに立っていた。
「あなや!」
劉雲樵は、叫んで、寝台の上に立ちあがっていた。
口を、大きく開き、出せる限りの大声で、劉雲樵は叫んでいた。
(二)
三月になっている。
長安は、いよいよの春であった。
槐《えんじゅ》や、楡《にれ》の緑が、いよいよ増している。
長安の都全体が、淡い緑に包まれて萌え出してゆくようであった。
ぬるみはじめた水。
大地が陽光を含み、その光がそのまま大地から新緑の色となって湧き立ってくるようであった。
青と、丹《に》とで彩《いろど》られた長安の都に淡い緑が重なって、今さらながらに、長安の春は盛りをむかえようとしていた。
あちこちで、すでに、桃の花は咲き始めている。
長安は、唐王朝が実らせた、世界史上類を見ない、絢爛《けんらん》たる果実であった。
遠く、西域の人間が、革靴を履《は》いて、街路を闊歩《かっぽ》し、今で言えばパンタロン風の絹のズボンを穿《は》いて、着飾った女たちがあでやかに街を歩く。
長安の左街は、屋敷町である。
右街が、商家の町であった。
西市がその中心である。
遥かな西域から、タクラマカン砂漠を渡ってやってきた隊商が、駱駝《ラクダ》の背から荷を降ろすのも、この西市であった。
動いている町である。
鼻の高い男や、驚くほど蒼い瞳をした少女が、その道端で、大道芸を見せていたりする。
空海の居住|西明寺《さいみょうじ》のある延康坊《えんこうぼう》は、その西市に近い。
この頃、空海は、精力的に歩きまわっていた。
すでに、この頃の長安には、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]教《けんきょう》(ゾロアスター教)も、景教《けいきょう》(ネストリウス派のキリスト教)も入っていて、長安の中にはその寺院も建てられていた。
空海は、そういうさらに西域の宗教についても、貪欲《どんよく》に吸収しようとした。
空海と、| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》は、西市の喧騒の中を歩いていた。
ここ四日間ほど、毎日、独りで空海は外に出ていたのだが、その日は、久しぶりに逸勢が一緒にゆくと言い出したのである。
朝のことだ。
知識欲の塊《かたま》りのような空海が、日々あちこちに出歩いているのを見て、
「空海よ」
逸勢は言った。
「おまえ、そう、毎日毎日、よく出かけるところがあるな」
不思議そうに空海を見た。
逸勢も、人並以上の知識欲がある。
また、あったればこそ、遣唐使船にも乗ることができたのである。
逸勢もまた、当時の日本にあっては、特殊な知識人のひとりである。
その逸勢が、空海の知識の広さ、その深さに驚嘆して一目置いているのである。
――しかし。
こんなに毎日、よく出かけられるものだと逸勢は、空海に対して思っている。
逸勢の頭には、まだ、あと二十年はあるという気持が根強く残っている。
逸勢にしても、色々見聞を広げるために外へ出るつもりはあるのだが、何も空海ほどまでにしなくてもよいのではないかという気持がある。
「ほんとうにそうだな、逸勢よ。よく出かけるところがあるものだ」
空海は、他人《ひと》事《ごと》のようにそう答えた。
西明寺の庭であった。
外へ出る仕度《したく》をして、空海が庭へ出、牡丹に手をかざしているところへ、逸勢がやってきて、声をかけたのである。
「今日は、どこへゆくのだ?」
逸勢が訊《き》いた。
「西市だ」
「なんだ、近くではないか」
「うむ」
空海は、牡丹の新芽に手をかざしたまま答えた。
「何をしにゆく」
「人に、会いにゆく」
「人?」
「胡人《こじん》の商人に知り合いができてな」
「胡人だと」
「波斯《ペルシア》人だ」
「なんだって?」
「これが、ちょっとおもしろい男なのだ」
「どうおもしろいのだ」
「話がさ」
「話?」
「|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の話さ」
「|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教というのは、おまえ――」
「火を拝む宗教だ」
そういう話をしているうちに、
「おれもゆく」
と逸勢が言い出したのである。
で、ふたりは西市の喧騒を歩いている。
たった一頭の牛だけを牽《ひ》いて、それをしきりに売りつけようとしている漢人がいるかと思えば、桶《おけ》に張った水に、鯉を生かしたまま放し、それを売っている者もいる。
露天で、駱駝の荷を解き、そのままそこで商売をしている胡人の商人もいる。
そういう場所は特に人だかりが凄い。
人の身体を分けて覗き込むと、売っているのは、美しい瑠璃《るり》(ガラス)の盃であったり、絨毯《じゅうたん》であったり、女の耳飾りであったりする。
そういうのを見るのは、さすがに、もう初めてではないが、逸勢は、子供のような声をあげては、溜め息をつく。
また、歩き出した。
「どこまでゆくつもりなのだ、空海よ」
逸勢が訊く。
「もう少し先さ」
空海が答える。
「なあ、空海よ」
逸勢がしきりと空海に声をかけてくる。
「さっき、おまえ、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]教《けんきょう》と言っていたが、それは、どのような宗教なのだ。おれも、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の名前くらいは知っている。火を拝むらしいという、そのくらいも知っている。しかし、いまひとつ、おれは|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教のことがよくわからないのだよ――」
逸勢が、素直に訊いた。
普段は、こうまで素直に、人にわからないことを訊ねたりしない逸勢だが、空海とふたりきりになると、逸勢は素直である。
「宇宙の話をしても、怒らぬか」
空海が訊いた。
「また、宇宙か」
「宇宙から話をした方がわかり易いからな」
「訊いたのはおれだ。おまえが一番よかろうと思う方法で話してくれればよい。よいが、しかし――」
「なんだ」
「おれを騙《だま》すなよ、空海」
「騙しはせぬ」
「いいから話してくれ」
歩きながら、逸勢が言う。
「そうだな」
空海は、そうつぶやき、歩きながら青い天を見上げた。
「|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教は、この宇宙をふたつに分けて考えている」
「ふたつ?」
「善と悪とのふたつだな」
「ほう」
「この宇宙は、全て、善と悪とのふたつに分けることができる」
「なに!?」
「おれが言っているのではない。|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教が言っているのだ」
「うむ」
「善の神をアフラ・マズダといい、悪の神をアンラ・マンユという」
「どのような神なのだ」
「善神アフラ・マズダは、光明の神だ。悪神アンラ・マンユは、闇の神だ」
「――」
「善神アフラ・マズダは、善なるものの一切を創造し、悪神アンラ・マンユは悪なるものの一切を創造する」
「む」
「この善神アフラ・マズダと、悪神アンラ・マンユは、互いに軍隊を引き連れて闘っている。その闘いの場が、この宇宙であり、その闘いの相が、この宇宙の様々な諸相となって現われるというのだな」
「むむ」
「そしてまあ、いつか、善神アフラ・マズダが、悪神アンラ・マンユを滅ぼして、この宇宙は光明なるもので包まれるというのだよ」
「むむむ」
「火というのは、つまり、善神アフラ・マズダの息子のことだ。その火を拝むのは、つまり、善神アフラ・マズダの息子を拝むことによって、悪から身を守り、自分を光明で、つまり、善なるもので満たそうという、まあ、そういうことなのだ」
「むう」
と、逸勢は、大きく息を吐いた。
「いや、それはわかり易い。おまえの話が、珍しくよくわかった」
「うん」
「しかし、よくわかるが、よくわからない」
「ほう」
「その善だとか悪だとか言っているが、いったい何が善で、何が悪なのだ、空海よ」
逸勢が訊いた。
「凄いな、逸勢」
空海が言った。
「何が凄い」
「おまえが今問うたそのことは、その通りなのだよ」
「なに!?」
「この宇宙を、善と悪とのふたつに分けているくせに、では、何が善で何が悪かということになると、いまひとつ、はっきりわからない」
「おまえの、密《みつ》ではどうなのだ」
「密で言えば、基本的には、この天地の諸相に善とか悪とかいう区別はない。そのかわりに曼陀羅《まんだら》と法がある――」
「うむ」
「曼陀羅と、法の話はしなくてもよいか」
「よい。ややこしくされてはかなわぬからな――」
はは、と空海は声をあげて笑った。
「で、空海よ、おまえ、どうして|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教などに興味を持ったのだ」
「まあ、火だな」
空海は言った。
「火?」
「密においても、火を使う修法がある」
「修法?」
「護摩《ごま》だ」
「どういうことだ」
「|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の火と、密の護摩とが、なんとかおれの中で、というよりは、この宇宙で結びついてきそうなのだ」
「ふうん」
わかったような、わからぬような声で逸勢はつぶやき、
「空海よ、今日のところは、ややこしい話はそこまでにしておこうよ」
そう言った。
「そうだな」
うなずいて、空海は、先へ視線を転じた。
そこに、人だかりがあって、その人の輪のむこうから、月琴の音やら笛の音や鼓《こ》の音が届いてくるのである。
「何であろうかな」
眼を光らせて、逸勢が言った。
逸勢の足が、自然に速くなる。
空海が、やや遅れて逸勢の後に続いた。
人垣の後方から、首を伸ばして、逸勢が中を覗《のぞ》き込む。
人垣の中で、三人の女が踊っていた。
瞳の蒼《あお》い、異国の女である。
音楽の調子も、踊りの動きも、速い。
日本での雅楽《ががく》の舞いに比べれば、それは風のようであった。
「何だ、これは?」
逸勢が、横に来た空海に訊く。
「胡旋舞《こせんぶ》だ」
空海が言うと、
「おう」
逸勢が声をあげた。
「これが胡旋舞か」
逸勢も、胡旋舞の名は、書物で眼にして知っている。
『通典《つてん》』の巻一に、胡旋舞については、
「舞、急転、風の如し。俗にこれを胡旋と謂《い》う」
と、ある。
唐よりも、さらに西域に住む民族の踊りである。
しかし、これまで、逸勢は、その実物を見たことはない。
「胡旋舞というものを、長安へ着いたらぜひ見たいものだな」
長安までの道々に、逸勢は、空海にそう言っていた。
その胡旋舞が、今、逸勢の眼の前で舞われているのである。
空海が入唐《にっとう》時に長安にいた詩人、白楽天が、胡旋舞については、その楽府《がふ》に、
[#ここから2字下げ]
胡旋女、胡旋女、
心《しん》は絃《げん》に応じ、手は鼓《こ》に応ず。
絃鼓《げんこ》一声、双袖挙《そうしゅうあ》がり、
廻雪飄々《かいせつひょうひょう》、転蓬《てんぼう》のごとく舞う。
左旋、右転、疲るるを知らず、
千|匝《そう》万周、已《や》む時なし。
人間《じんかん》、物類の比すべきなく、
奔車《ほんしゃ》も、輪、緩《かん》にして旋風《せんぷう》も遅し。
[#ここで字下げ終わり]
と唄っている。
「素晴らしいものだな、空海よ――」
逸勢が言う。
「うん」
空海は、逸勢の横でうなずいた。
「おまえ、これを見て驚かぬのか」
空海の返事の素っ気なさに、逸勢が訊く。
「驚いているさ」
「いや、驚きが足りぬ」
逸勢の言葉に、空海は苦笑した。
「空海よ、おまえ、もしかしたら、胡旋舞を見るのは、これが初めてではないのか」
「うむ」
「ずるい」
空海がうなずくと、逸勢が声を大きくした。
「それはないではないか、空海よ。おれは、酒屋へゆけば、きちんとその話をおまえにし、妓楼《ぎろう》にまでちゃんと誘うているというのに、おまえは、これまで胡旋舞を見て、それをおれに何故教えてくれぬのだ」
「いや、すまぬ。おまえが、それほど胡旋舞に思いがあるとは知らなかったのだ」
空海が言った。
逸勢は、おもしろくなさそうに、
ち、
ち、
と、舌を鳴らした。
やがて、胡旋舞が終った。
見ていたものから、溜め息が洩れ、次々に銭が飛んだ。
女と、それから、女の後方で、腕を組んで踊りを見ていた、西域風のなり[#「なり」に傍点]をした男が、銭を拾う。
長い革靴を履いた男であった。
銭を拾っていた女のひとりが、少し顔をあげて、空海を見た。
「あら、空海さん」
蒼い瞳の女が微笑した。
それまで、下を向いて銭を拾っていた男も、その声に気がついたらしく、顔をあげた。
「空海さん」
男が言った。
「やあ」
空海は、頭を下げて、その男と女に挨拶をした。
「おい、空海、知り合いか」
逸勢が小声で訊いた。
「そうだ。今日は、この人たちに会いに来たのだ」
空海は逸勢に言って、男に歩み寄った。
「マハメットさん、御紹介しますよ。こちらは、倭国《わこく》から一緒にやってきた橘逸勢という男です」
空海は、その男の手を握りながら言った。
逸勢は、ぽかんと口を開けて、そこに突っ立っているばかりであった。
(三)
「逸勢よ。この方は、マハメットさんといって、胡《こ》のお人だ。おれが今、胡の言葉や、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]教《けんきょう》について、色々と教えていただいている方だ」
空海は、逸勢に日本語でそう言った。
「よろしく」
と、逸勢は唐語で言って、頭を下げた。
「いや、逸勢さん。倭国の方は、皆、この空海さんのようなのですかな。この方は、お会いしていくらもしないうちに、我々の言葉を片言ながら話すようになっただけでなく、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の火について、独特の考えまで持つようになってしまったのですよ――」
「火?」
「はい。|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教でいう火は、我々人の裡《うち》にも燃えているはずで、火を拝《はい》すというのは、そのまま、自分の裡なる火――神を拝すことになるのではないかと、この方は言われるのですよ――」
なめらかな唐語であった。
マハメットは、本心から、空海に驚いているらしく、逸勢に言うその言葉には、空海に対する賛嘆の響きがあった。
「いやいや、マハメットさん。この男が特別なのですよ――」
逸勢は、唐語で言った。
空海のことを褒《ほ》められて、逸勢の顔からとまどいが消えて、微笑が浮いている。
本来、逸勢の性格からすれば、誰かが、自分の眼の前で、自分ではない別の人間を褒めそやせば気分を悪くするはずなのだが、空海だけは別格であるようであった。空海が他人に褒められると、誇らしげな気持さえ、逸勢の中には湧いてくるらしい。
いつの間にか、金を拾い終えた三人の娘たちが、マハメットの横に並んでいる。
いずれも、十代の後半から、二十歳を出たかどうかという年齢に見える。
鼻筋が、すっきりと高く、すっきりと大きな眼をしている。
眼や唇のあたりに、共通した特徴がある。
「逸勢よ。こちらは、マハメットさんの娘さんたちだ――」
空海が言った。
もう、逸勢に話しかける時は、唐語になっている。
その空海の言葉が、三人の娘たちにも聴こえたらしく、娘たちが、それぞれに膝を折って、微笑した。
「トリスナイです」
「トゥルスングリよ」
「私はグリテケン」
三人の娘が、それぞれに逸勢に名を告げた。
長女が、トリスナイで、二十一歳。
次女が、トゥルスングリで、十九歳。
三女が、グリテケンで、十七歳。
「今日は、逸勢にも、少し|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の話をしてやってくれませんか――」
空海が、マハメットに言った。
「いいですとも。しかし、その前に、空海さんのお耳に入れておきたいことが、ひとつ、ありましてね」
マハメットは、そう言って空海を見つめ、その視線を娘たちの方へ向けた。
「おまえたちは、ちょっと、向こうへ行っていなさい――」
マハメットが娘たちに言った。
「あら、空海さんを独り占めはいけないわ」
そう言ったのは、姉のトリスナイであった。
「そうよ」
「いつも、お父さんばかり、空海さんのお相手をして――」
トゥルスングリと、グリテケンが、姉の言葉に相づちをうった。
「いや、おまえたち、わしは空海さんと大事な話があるのだよ。その話の間、ちょっと向こうへ行っておいてくれないか、ということなんだ」
マハメットが言うと、娘たちは、小さく可愛い唇を尖《とが》らせ、それでも背を向けて、向こうへ去った。
「どういうお話ですか?」
空海が訊いた。
「昨日、レイハンに会ったのですがね。空海さんがよく顔を出すという話をしたら、レイハンが、空海さんに伝えてくれと――」
「レイハンが? 何をですか!?」
「劉雲樵が、気が狂ってしまったと、そう伝えればわかると――」
「劉雲樵が?」
「ええ。三日前に、使用人が、狂ったまま屋敷の中をうろついている劉雲樵を見たらしいと――」
マハメットのその言葉を耳にして、空海は、
「しまった――」
唇を噛《か》んだ。
「おいおい、空海よ。ここで、劉雲樵の名が出るとは思わなかったぞ。いったいどうなってるんだ」
逸勢が訊いた。
「だから、今、耳にした通りさ」
「いや、おれが訊きたいのは、こちらのお方のことさ。いったいどういうつながりで、こちらのマハメットさんの口から劉雲樵の名が出るのだ」
「胡玉楼《こぎょくろう》さ」
空海は言った。
「なに!?」
「胡玉楼の、玉蓮姐《ぎょくれんねえ》さんが、おれにマハメットさんを紹介してくれたのさ。胡の神のことについて色々話をしてくれる方はいないかとお訊ねしたらな――」
「え!?」
逸勢は、ますます分《わか》らない。
「今、レイハンという女の人の名前が出たろ。そのレイハンが、玉蓮姐さんなんだよ」
空海が言った。
「逸勢よ。おまえ、玉蓮姐さんの玉蓮という名前が本名だと思っていたわけではないだろう?」
胡玉楼の妓生は、胡姫《こき》である。
つまり、西域の、碧眼《へきがん》の娘たちがそこで働いている。
空海と逸勢が馴染みになった玉蓮も牡丹《ぼたん》も、碧眼で、肌の色の白い胡姫であった。つまり、玉蓮も牡丹も、本名は、漢名ではない。
座敷≠ノ上る時の源氏名≠ニして、玉蓮、及び牡丹という名を使っているのである。
空海に言われて、ようやく、逸勢は事情を呑《の》み込めたらしい。
「ということはつまり、おまえ、このマハメットさんは、レイハン――玉蓮姐さんの知り合いということになるのだな」
「おなじみのお客さんということになろうかよ――」
空海が言った。
「それで、娘さんをむこうへやったのか」
そう言って、逸勢がうなずいた。
空海は、逸勢が納得したのを確認してから、マハメットへ向きなおった。
「それで、マハメットさん、今のお話ですが、もう少し、詳しく話をしてもらえませんか」
「劉雲樵のことですか――」
「そうです」
「詳しくと言っても、わたしがレイハンから耳にしたことだけですが――」
そう前置きしてから、マハメットは話し始めた。
劉雲樵の妻である春琴が猫に憑《とりつ》かれてから、屋敷を空けていた使用人たちが、劉雲樵の屋敷にもどってきたのが、三日前である。
もどってきてみれば、どうにも屋敷の様子がおかしい。
玄関に、糞や小便の跡があり、家に上ってみると、廊下にも糞が転がっている。
人糞である。
それで、おそるおそる劉雲樵の居間へ入ってゆくと、そこに、劉雲樵がいた。
劉雲樵は、全裸で、髪がまっ白になっており、痩せ衰えた病人のような姿になっていたという。
しかも――
「なんと、使用人のひとりが、劉雲樵を居間で見つけた時、劉雲樵は、そこで自分のひり出した糞を喰うておったそうで――」
マハメットが言った。
「春琴という、奥さんがいたはずですが――」
「それが、屋敷には劉雲樵がひとりきりで、他には誰もいなかったとか」
「で、劉雲樵は、今どこに?」
「さあ、そこまでは聴いておりませんがね」
マハメットは言った。
空海が、マハメットの元を辞したのは、それから間もなくであった。
西市の雑踏の中を、空海は黙々と歩いてゆく。
その右横を逸勢が歩いてついてゆくのだが、ともすれば、逸勢が遅れがちになる。
「おい、空海よ、どこへゆこうとしているのだ」
逸勢が、空海に訊く。
「平康坊《へいこうぼう》だ」
空海が言う。
「平康坊と言ったっておまえ、八里は先じゃないか――」
八里――逸勢の言う里≠ヘ、平安時代に日本で使用されていた里≠ナある。
一里が、およそ、七百メートル。
逸勢はつまり、平康坊は五、六キロメートルは先ではないかと、空海に言ったのである。
しかし、空海は答えない。
黙々と歩いてゆく。
「胡玉楼へゆくつもりか」
逸勢が訊く。
平康坊には、胡玉楼がある。
「玉蓮に会って、話を聴かねばならぬ」
空海は、前を向いたまま答えた。
「急にどうしたのだ」
「どうもしはせぬ」
「いや、いつものおまえらしくないではないか。いつものおまえなら、もっとゆっくり歩きながら、ややこしい話をしたがるではないか――」
「いや、これが、おれの普通の歩き方だ。逸勢といる時、ゆっくり歩いているだけのことだ――」
「今だって、おれは、一緒にいるではないか。おれが一緒にいる時は、もう少しゆっくり歩くのではなかったのか――」
「おまえの言う通りだな。おれは今、少し興奮しているらしい」
「どうして興奮している?」
「おれの考えている通りになってきたからだよ。劉雲樵の屋敷に憑《つ》いたもの[#「もの」に傍点]が、このままおとなしくしているはずはないと思っていたのだが、やはり、そうだった」
「そう言えば、そんなことを言っていたな」
「おれの思っている通りに進んでいながら、手違いがあった」
「手違い?」
「策におぼれてしまったのだ」
「どういう策だ?」
「だから、劉雲樵に、おれのところへ来させるという策だよ」
「あれか」
逸勢はうなずいた。
劉雲樵に、何かあったら、西明寺《さいみょうじ》の空海を訪ねるように伝えてくれと、胡玉楼の玉蓮と牡丹に空海が頼んでいたことを、逸勢は思い出したらしい。
「もう少し、ゆっくりと来るかと思っていた。しかし、突然に劉雲樵が狂ってしまうとはなあ――」
「ゆっくり?」
「ああ。春琴に憑いたもの[#「もの」に傍点]が、劉雲樵をどうにかするつもりなら、とっくにどうにかしているさ。そうしないということは、まだ、しばらくは大したことはおこるまいと考えていたのだ。しかし――」
「なんだ」
「むこうが、もう、劉雲樵を利用するだけしてしまったということかもしれないな。いや、それよりも、別の恨みがあったのか? それとも、狂わせるつもりはなかったのに、劉雲樵が狂ってしまったのか――」
空海は自問している。
「しかし、逸勢よ。一番肝心なのは、そのことではない――」
「何なのだ?」
「もし、青龍寺《せいりゅうじ》が、その日のうちに劉雲樵が狂ったことを知ったとすると、おれは、青龍寺に、二日半も遅れてしまったことになるということなのだ」
空海は言った。
「おい、待てよ――」
また、先へ出た空海を、歩調を速めて、逸勢が追った。
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第八章 孔雀明王
(一)
正面に、黄金の像がある。
座像であった。
巨大な座像である。
座高だけで、人の身長の三倍以上はあろうかと見える。
結跏趺坐《けっかふざ》――
両の手を握っている。
親指を掌《てのひら》の中に入れて握る金剛拳《こんごうけん》である。
左の金剛拳の人差指を一本立て、それを右手の金剛拳で握っている。
智拳印《ちけんいん》――
その印《ムドラー》を結んでいることから、その像が大日如来《だいにちにょらい》であることがわかる。
大日如来――密教においては、この世のあらゆる場所に遍在する宇宙の根本原理、真理が、この大日如来である。
梵語ではマハーヴァイローチャナ――漢字では摩訶毘盧遮那《まかびるしゃな》と音写する。
大きな堂の中心に台座があり、その上にその大日如来の像が座している。
如来が座しているのは、巨大な黄金の蓮華《れんげ》の上であった。
暗い堂の中を、その如来像から放たれる黄金の色が満たしていた。
如来像の周囲に、諸仏が置かれ、堂の四隅には、それぞれ、東西南北を守護する尊神《そんしん》が配されている。
東に持国天《じこくてん》。
西に広目天《こうもくてん》。
南に増長天《ぞうじょうてん》。
北に多聞天《たもんてん》。
暗い、黄金色の光の中で、それ等の諸仏や尊神が、なまめかしく、その黄金の微光を呼吸しているように見える。
大日如来の前に、独りの僧が座していた。痩《や》せた、小さな男であった。
剃髪《ていはつ》のためばかりではなく、頭部にはみごとに毛がなかった。
老人である。
年齢は、六十歳くらいであろうか。
眉は白毛であった。
しかも、その白い眉が、おそろしく長い。
眼の上にかぶさってくるほどである。
皺に囲まれた、細い、柔和《にゅうわ》な眼をしていた。
皺こそあるが、肌の色は、きれいな白桃色をしていた。
老僧は、そこに座して、経を唱えるでもなく、何かをするでもなく、その柔和な眼で、黙《もく》したまま大日如来を眺めている。
その老僧の眼の中に、様々な表情が、現われては消える。
まるで、そこに座して大日如来を眺めていると、眼の前に様々の景色が展開し、その景色のひとつずつに、老僧が新鮮な驚きの表情を浮かべているようであった。
老僧の後方に、微《かす》かな、人の気配があった。
「恵果《けいか》さま」
男の声がした。
恵果と呼ばれた老僧が、後方を見やった。
そこに、五十年配のひとりの僧が立っていた。
「義明《ぎみょう》か――」
老僧――恵果が言った。
「失礼します」
義明と呼ばれた僧が、素足で、黒光りする本堂の床板を踏んで、恵果の後方まで歩いてくると、そこに座した。
恵果が、義明に向きなおる。
腰の位置を、横にずらせてから、斜めに、義明を向く。
自分の尻を、大日如来の方へ向けて座るのを自然な動作でひかえたものらしい。
義明は、座してから、真っ直《すぐ》に、恵果を見た。
実直そうな相を持った男であった。
僧というよりは、武士のような雰囲気が、その座り方にも、貌《かお》にもある。
「何の用かな」
恵果が訊いた。
「いくつか、ご報告せねばならないことがございまして――」
義明が言った。
「ほう」
「もしや、お耳には、すでに入っているかもしれませんが、劉雲樵という、金吾衛《きんごえい》の役人のことでございます」
「猫が憑《つ》いたという、あの件か――」
「やはり、お耳に届いていましたか」
「うちから、明智と清智が出かけて行ったそうだな。それが、どうかしたか――」
「はい。明智と清智からうまくいったという報告を、わたしも受けていたのですが――」
「うまくいっていなかったと――」
「はい」
「その猫、徳宗皇帝の死を、予言したとか聴いているが――」
「その通りでございます」
「義明よ。何故、そのことを、わしに言わなんだのかな」
「話だけで、実際はたいしたことはありますまいと考えておりました。明智と清智をやって、それでおさまったと思うておりましたので――」
「ふむ」
「青龍寺には、この手の話が、いつも舞い込んでまいります。その全てについて、その都度《つど》恵果さまに報告申しあげて、指示をいただいてというわけにもまいりません」
「まあ、それは、仕方あるまいよ」
「すみません」
「で、どうであったのかな。その話を聴かせてもらえるか――」
「はい……」
答えて、義明が、劉雲樵と猫とのことについて、ひと通りを語って聴かせた。
恵果は、うんうんと、柔和な顔でうなずきながら、義明の話を聴いた。
話が終って、
「で、義明よ。そのおかしくなった劉雲樵が、使用人によって見つけ出されたのはいつなのかな」
恵果が訊いた。
「三日前の、昼近くであったとか――」
義明が言った。
「三日前とな――」
「それは、つまり、劉雲樵が青龍寺に猫を落とすのを頼んだということを、使用人たちが知らなかったからで、それで、こちらまでその知らせが来るのが遅れたのでございます」
「しかし、明智と清智が、一度は、猫は落ちたと判断したのであろう」
「はい」
「それが落ちておらなんだということか――まさか、猫の件とはまったく別のことで、劉雲樵の気がふれたということでもあるまい」
「春琴という劉雲樵の妻の行方が知れぬことからも、関係はあると思われます――」
「一度は落ちた妖物が、こんなに早く、また憑《つ》くとは――あるいは、落ちたと見えて、実は落ちていなかったか――」
恵果は、そう言って、言葉を切った。
義明は、黙ったまま、恵果の次の言葉を待った。
「いずれにしろ、その妖物、ただもの[#「ただもの」に傍点]ではあるまいよ」
「はい」
「順宗《じゅんそう》皇帝の件もある……」
恵果は、低い声でつぶやいた。
順宗――つまり、徳宗皇帝の後を継いで皇帝となった、徳宗の息子の李誦《りしょう》のことである。
「辻《つじ》に、例の高札を立ててゆく輩《やから》の件もございました」
「徳宗崩じて、次は李誦≠ゥ――」
「そちらの件も気にかかります」
「まったく、わしの生命も、そう長くはあるまいに、様々なことがおこるものよ――」
「また、そのようなことを――」
ふと、遠い眼つきになって――
「義明よ、密であろうが、何であろうが、つまるところは人ぞ」
恵果は言った。
虚空に遠のいていた視線が、ふっと義明の顔の上にもどってきた。
「人に、伝えてこその、密よ――」
「――」
「わしが心を痛めているのは、その密を人に伝えきらぬ間に、この世を去らねばならぬのかもしれぬということだ」
恵果は、唇を閉じた。
また、虚空を見る。
「それもよかろうかよ……」
恵果は、虚空に向かって、問うようにつぶやいた。
「義明よ。人にはなあ、器《うつわ》というものがある。生まれつきその身に持った器と、修行によって得た器とがあるが、人によって、その器の大きさ、深さが違うということだ。わしという器の中に入っている密を、一滴あまさず別の器に注ぐには、わしと同じか、わし以上の器を持った者でなければならぬのだ……」
「はい」
静かに、義明はうなずいた。
「今日は、ほんに、如来は良い顔をされておられた。その顔に、ようもまあ、わが心の映ることよ。いつまで見ても、見飽きるということがない」
「お邪魔をしましたか――」
「いやいや、心を天に遊ばせてばかりではいかん。天にばかりいる仏では、使えぬ銭と同じじゃ。銭も仏も、使うてこそ、意味がある……」
恵果の視線が、再び義明にもどっている。
「さきほどの話の件だが、劉雲樵は、今、どこにいる?」
「金吾衛の、仲間の役人が、その家に預かっているそうです」
「一度、会うてみる必要があるな。手配はできるかね」
「できます」
「二日後ならば、空いている」
「わかりました」
「ところで、さっき、報告することが、いくつかあるというていたな」
「はい」
「他には何かあるのか?」
「西明寺にいる、倭国《わこく》から来た留学僧《るがくそう》のことは、お耳に届いていると思いますが――」
「洛陽《らくよう》の官店《かんてん》で、あやかし[#「あやかし」に傍点]の始末をつけたという、あの男の話か――」
「はい」
「うむ」
と、うなずいた、恵果の眼が、微笑するように細められた。
「たしか、空海とか言うたか?」
「はい。その男のことでございます」
「志明《しみょう》と談勝《だんしょう》の話では、なかなかに文才のあるおもしろい男とか。| 世 親 《ヴアスバンドウ》がふたりという話は、わしも耳にしたよ。密を盗みに来たとか言うておるらしいが……」
「はい」
「なかなか盗みに来ぬではないか――」
「ええ。志明と談勝が言うには、どうやら空海、妓楼にも出入りをしているようで――」
「ほう、妓楼に行ったか、あの男」
「最近では、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教に興味を持ったらしく、その方面の人間ともつきあっている様子です」
「ほほう――」
恵果が、おもしろそうな眼つきになった。
「しかし、よく、その空海のことを知っているな」
「西明寺の、志明と談勝が、おもしろがって空海のことを話してくれるのです」
「なるほど――」
「その空海が、先ほどの猫の件で、何やらたくらんでいる様子らしいのですが――」
義明が言うと、
「ほう、それはそれは――」
恵果は、子供のような表情になって、微笑した。
「鳳鳴《ほうめい》と会わせてみたい気もする……」
「あの吐蕃から来た――」
「うむ」
恵果はうなずいた。
この時が、空海が、胡玉楼に向かって、逸勢と道を急いでいる時であった。
空海と青龍寺とは、劉雲樵の件については、ほぼ、同時に知ったことになる。
「しかし、義明よ」
恵果は言った。
「はい」
「このこと、そうとうに根が深そうじゃ。ことによったら、このわしも出てゆかねばならぬやもしれぬ……」
何か想うところがあるらしく、恵果はそう言って自ら、うん、とうなずいてみせた。
(二)
ふと、空海は、眼を醒ました。
眼は開けない。
眼を閉じたまま、どうして、自分が眼醒めたのかと考えた。
意識の半分は、まだ、眠りの中である。
眼を開ければ、完全に眼醒めてしまうことになる。
昼に、平康坊まで逸勢と出かけて帰ってきてから、せねばならないことが、色々とできてしまったのだ。
それを頭の中で、まとめ、大猴《たいこう》に仕事を頼み、さらに、常のように大猴から天竺の言葉を学んだのである。
天竺の言葉――梵語である。
それが済んでから、灯火の下で、見聞したことや、考えていることを書きつけた。
今夜、書いたのは、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の火についてである。
その火を、密教的に、さらに裡《うち》に取り入れてゆく方法がありそうであった。そのことについて記してゆくうちに、心が昂《たかぶ》ってきて、夜半近くまで、それに時間を潰してしまったのである。
それから、褥《しとね》に横になった。
空海にしては、珍しく、闇の中で眼が冴えざえとして、すぐには寝つけなかった。
火によって、自分と宇宙とを一体化する理と行とが、すでに空海の中にはできあがっている。
それがわかる。
それを言葉にしてゆくのだが、思考の速度に手の速度が追いつかないのだ。
もどかしい――
もどかしいが、思考に表現を追いつかせようとする作業は、空海にとっては、嫌な作業ではなかった。
疾《はし》ってゆく思考を、短い言葉で書きとめた時には、思考を、言葉が追いこしたのではないかと思えるほどの、魂の疾走感を味わえる。
そういう作業をしすぎたためか、手を止めて、褥に横になっても、頭の中でその作業が続いているのである。
頭の中で、その動きにまかせ、意識を少し遠くにやって、頭の中のその動きを、そこから風景のように眺めることにした。
眺めているうちに、眠くなり、眠ったのである。
そして、ふと、眼を醒ましたのであった。
心気《しんき》を澄ませる。
隣りの部屋で眠っている、逸勢の寝息が聴こえる。
いや、その寝息で眼が醒めたのではなかった。
鼻から吸い込んでくる闇の中に、微かに花の匂いが混じっている。
桃の花の匂いだ。
しかし、この花の香に、眼を醒ましたのではなかった。
何か――
心気を凝らした。
気配があった。
耳だ。
両耳の中に、その気配がある。
細い蜘蛛《くも》の糸を、さらに百倍以上も細くしたものが、耳の奥にまとわりついてくる感覚。
微かな花の香を、耳で嗅ごうとしているような感じがある。
微細で、ごくわずかの気配。
眠りの中で、空海は、自分の意識を、何度となくその気配の糸で触られていたのである。
来い……
と――
その気配が囁いた。
来い……
空海は、眼を開いた。
闇を見た。
その闇が、ほんの微かに青い光りを帯びている。
月光であった。
窓が、微かに開いていて、そこから部屋の中に差し込んだ月光が、部屋の闇に、微かな燐光《りんこう》を帯びさせているのである。
どこへ来いというのか――
空海は、自問した。
上半身を起こして、首をめぐらせた。
どこにも、誰もいない。
外だ……
と、耳の奥で声がする。
――ふむ。
空海は、立ちあがった。
土間へ降り、夜着のまま、素足で外へ出た。
外は、庭であった。
素足の下に、冷たい土の感触がある。
夜気が、空海の肉体を包んでくる。
月光の下に、芽ぶいて、葉を広げかけた牡丹が並んでいる。
来い……
と、また声がした。
空海は、言われるままに、歩き出した。
夜気に、桃の花の香が溶けている。
「いい夜だな……」
誰にともなく、空海はつぶやいた。
方向は定めてはいない。
歩く方向が違えば、声がそれを教えてくれるだろうと思った。
大きな槐《えんじゅ》の樹の前までやってきた。
ここだ……
声が言った。
見ると、槐の根元に近く、月光の中に、人影が立っていた。
いや、人ではない。
ぼうっと、青い光を放っている。
月光よりも、もう少し緑色がかった光である。
静かな声が、空海の耳に響いてきた。
むろん、日本語ではない。
唐語でもなかった。
天竺の言葉――梵語であった。
[#ここから2字下げ]
Namo buddha_ya namo dharma_ya nam-ath・ sam・gha_ya, namah・, suvarn・a^vabha_sasya mayu_rara_jn~ah・, namo maha_ma_yu_ryai vidya_-ra_jn~yai. Tad-yatha_, siddhe susiddhe, mocani moks・an・i mukte vimukte, amale vimale nirmale, an・ure (an・d・are), pan・ure (pan・d・are), man'gale
[#ここで字下げ終わり]
空海の知っている韻律、言葉であった。
孔雀明王《くじゃくみょうおう》の陀羅尼《ダラニ》であった。
樹下に、月光を浴びて、美しい独りの尊神が立っていた。
右手に輝く孔雀尾を持ち、左手に蓮華を持っている。
孔雀明王が、そこに立っていた。
空海は、微笑を浮かべて、孔雀明王に歩み寄った。
「空海よ……」
と、孔雀明王は言った。
「我は、孔雀王である――」
男でも女でもない、澄んだ中性的な声であった。
孔雀明王――インド、天竺において、猛毒の蛇を喰べることから、その能力が神格化され、菩薩形の尊神として仏教の守護神のひとりとなった神である。
「はい」
と、空海は涼しい声で答え、
「その孔雀王さまが、何故、わたしをお呼びになったのですか――」
訊いた。
「おまえに、忠告をしにきたのである」
「忠告、ですか?」
「おまえは、はるばる海を渡り、この長安まで何をしに来たか?」
孔雀明王が言った。
「密を求めにまいったのであろうが――」
空海の返事を待たずに、孔雀明王が言った。
「その通りでございます」
「ならば、何故、おまえはぐずぐずしているのだ」
「ぐずぐず?」
「何故、はやく青龍寺へゆかぬのか?」
「まだ、その時期ではありませぬゆえ――」
「何故、その時期でないと言うのか?」
孔雀明王が訊いた。
それを受けて、空海は微笑した。
「何故、笑うのか?」
孔雀明王が言う。
「孔雀王さまともあろうお方が、わざわざ当人の沙門に訊ねねば、そういうこともおわかりにならないのですか――」
空海は言った。
「愚かなことを問う男よ。我を試す気か。神であろうと、人の心が全てわかるというものではない――」
孔雀明王が言った。
「なるほど」
「もう一度訊こう。何故、まだその時期ではないと言うのか――」
「わたしの方にも、先方にも、まだ、その準備ができてないからです」
「先方?」
「青龍寺です」
「ほう……」
「双方に準備がととのわぬうちに行うよりも、それがきちんとととのってからの方が、何事も早くゆくのではありませんか。花も、準備がととのわぬうちには、咲きません――」
空海が言うと、孔雀明王が静かに孔雀尾を蓮華を握った手に移し、空いた右手を横へ伸ばした。
そこに、牡丹の枝があった。
葉が、すでに、芽から大きく広がりかけている。
「これを見よ、空海――」
孔雀明王が、その枝先を、右手の人差し指で指差した。
すると、月光の中で、ふいに、小さくその枝先が動いた。
風ではなかった。
広がりかけていた葉が、みるみるうちに広がり、その葉の間から、花の蕾《つぼみ》がふくらんだ。
その蕾が割れて、牡丹の花が、大きく花びらを月光の中に開いてゆく。
孔雀明王が、指をもどした。
月光の中で、重たく花びらを開いた牡丹が、静かに風に揺れていた。
「みごとなものでございますね」
空海の声には、賛嘆の響きが混じっている。
咲いたばかりの、みずみずしい赤い花びらをした牡丹であった。
「必ずしも、準備が整わなくとも、このように花を咲かせることはできるのだ」
孔雀明王は、中性的な声で言った。
「はい」
と、空海は率直にうなずいて、
「まさに、わたくしがやろうとしておりますのも、実は、今、明王さまがおやりになったのと同じことでございまして――」
「同じ?」
「花を咲かせることでございます」
「花とは、密《みつ》のことか?」
「はい。このわたしの中に大輪の密の花を咲かせることが目的でございます。しかも、できるだけ早くにと考えておりますれば、同じと申しあげたわけでございます」
「ほう……」
「本来であれば、二十年の時をもちて咲かせるべき花を、もっと短い年月で咲かせようと考えているわけでござります」
「密《みつ》の花をか?」
「さようでございます」
「ならば、一刻も早く青龍寺にゆかねばならぬのではないか」
「ですから、今、青龍寺へ行ってしまっては、かえって時間がかかることになってしまうのではないかと、わたしは考えているのでございます――」
「何故かな?」
「わたくしは、倭国《わこく》からやってきたただの留学僧《るがくそう》でございます。普通であれば、二十年、この国にとどまって、密《みつ》を学んでゆかねばなりません」
「うむ」
「学ぶ以上は、完全な密を持って帰らねばなりませぬ――」
「完全な密とは?」
「ですから、この世に密の教えが最初に広められた時の言語をもって、語られた密でございます」
「ほう」
「唐語による密は、もちろん必要といたしまして、しかし、密の教えが最初に説かれたところの言葉――梵語《ぼんご》を知らねば、その教えの細かい機微まではわからぬのではありませんか――」
「なるほど」
「今、青龍寺へ行っても、梵語がわからねば、密の根本に触れぬまま、密を学ばねばなりません。それで今、梵語を、わたしは学んでいるのでございます」
「それであれば、何故、梵語を、もっと必死になって学ばぬのか」
「それは、どういう意味でございますか」
「空海よ。おまえが今、していることは、余計なことではないのか――」
「何のことでございます?」
「関係のない件には、かかわりをもたぬことじゃ」
「ははあ」
空海は微笑した。
「劉雲樵の件のことですね」
「いかにも。あれは、ぬしのためにはならぬな」
「どうためになりませんか――」
「場合によっては、死ぬこともあろう」
「劉雲樵の件で?」
「うむ」
答えて、孔雀明王が、孔雀尾を右手に持ちかえた。
「死ぬのは困ります」
「ならば、劉雲樵の件にはかかわらぬことだ――」
「しかし、あれには個人的な興味もございまして――」
「忠告はした。あとは、おまえが決めることじゃ」
孔雀王は言った。
空海を眺めながら、半歩、後方に下がり、孔雀王は、蓮華を握った左手と、孔雀尾を握った右手を、ゆらりと動かした。
舞を舞うような動きであった。
右足が持ちあがり、左足が宙を踏む。
「天へ、帰る」
孔雀明王の身体が、宙に浮きあがった。
優雅に舞いながら、孔雀王が、月光の中を天に昇ってゆく。
歩きながら――
まるで、宙に見えぬ階段があるもののように、一段ずつ、丁寧に足を運んでゆく。
槐《えんじゅ》の枝をかすめ、槐の一番高く伸びた枝よりも、なお、高い場所まで昇ってゆく。
その光る身体が、高い風に吹かれ、槐の樹の上で、ふっと消えた。
「孔雀王どのか……」
消えたその、槐の上のあたりの空間を見つめながら、空海は小さくつぶやいた。
空海の腰のあたりの高さで、孔雀明王の咲かせた大輪の牡丹の花が、月光の中で、静かに風に揺れていた。
(三)
朝の勤行《ごんぎょう》を済ませたばかりの空海の部屋へ、足音高く入ってきたのは、橘逸勢である。
文机《ふづくえ》の前に座している空海の背へ、声をかけた。
「おい、空海よ――」
逸勢は言った。
「どうしたのだ、逸勢よ」
振り返った空海に、
「牡丹の話は聴いたか」
逸勢は言った。
「牡丹?」
「まだ、時期には早いというのに、庭の牡丹が、一輪だけ花を咲かせたのだよ」
「そのことか」
「なんだ、知っているのか」
「うむ」
逸勢は、少しがっかりしたような顔つきをして、空海の前に座った。
「一輪、たった一輪だけだぞ。不思議なことがあるものだなあ、空海よ」
「その花はな、昨夜、孔雀明王どのが、天より降りて来られて、おれの眼の前で咲かせたのだ」
「なんと――」
「孔雀明王どのは、劉雲樵の件から手を引けと、そう、おれに忠告に来て下さったのだ」
「なんでまた、そんなことを――」
「早く、青龍寺にゆけと言われた」
「ふうん……」
うなずきかけてから、逸勢は、急に真顔になって、
「しかし、おまえ、孔雀明王というのは、本当にあの孔雀明王だったのか――」
「さあて」
空海は、楽しそうに逸勢を見た。
「まさか、本当に、孔雀明王などというものが、この世に居るのだなどと、おまえは考えているのではあるまいな」
「逸勢が、珍しく、儒者らしきことを言う――」
空海が笑った。
怪力乱神を語らず
という、孔子の言葉が『論語』にあることは、すでに書いた。
超自然現象――たとえば、霊であるだとか、鬼であるだとか、そういうものについては語らないという孔子の言葉である。
「逸勢、おまえも、気をつけた方がいい」
空海が言った。
「何を気をつけるのだ」
「劉雲樵のことから手を引かぬと生命を失くすぞと、孔雀明王どのが、そう言っておられたからだ」
「なんだと?」
「まあ、脅されたわけだが、こうなっては、いよいよ、手を引くわけにはゆくまいよ――」
空海は、逸勢を見つめながら、そう言ったのであった。
[#改ページ]
第九章 邪宗淫祠《じゃしゅういんし》
(一)
空海と橘逸勢が西明寺《さいみょうじ》を出たのは、まだ、陽が中天にかかる前であった。
西市へ向かっている。
昨日、顔を合わせたばかりの、マハメットに、もう一度会いにゆくためである。
昨日、劉雲樵《りゅううんしょう》のことを耳にして、空海は、早々《そうそう》にマハメットの許を辞《じ》したのだが、別れ際に、再び、翌日――つまり、今日、会う約束をしたのであった。
劉雲樵の話が、ひと通りすんだところで、
「ところで、空海さん。例の件については話がつきましたよ」
そう、マハメットが空海に言った。
「そうですか。で、いつになりましたか?」
空海が訊《き》いた。
「それが、突然なのですが、明日の昼過ぎであれば時間がとれるというんですよ」
「マハメットさんは?」
「明日、空海さんがいらっしゃるのなら、御一緒しようと思ってますが――」
「では、お願いします」
そういう話が、昨日、まとまったのであった。
「何なのだ、空海よ」
と、その時逸勢は日本語で訊いた。
「いや、こちらのマハメットさんに、しばらく前から頼んでいたことがひとつあったのだ。その返事を、今、いただいたのだよ――」
「どういう願いごとだったのだ」
「|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]教《けんきょう》の|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]祠《けんし》を見たいと、マハメットさんに頼んでいたのだ」
|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》祠というのは、つまり、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の寺――ゾロアスター教の寺院のことである。
「できるのなら、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の僧に会って、話を聴いてみたいとな」
「ほう……」
「それなら、布政坊《ふせいぼう》の|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》祠と、そこにいる安薩宝《あんさつぽう》がよかろうとマハメットさんが言って、話をつけてくださったのだ」
「安薩宝《あんさつぽう》?」
「安というのは、人の名だよ――」
空海は言った。
空海が、入唐《にっとう》した当時、すでに、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教は、中国に入ってから三百年ほどの歴史を持っていた。
唐の都である長安にも、いくつかの|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の寺――|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》祠があり、在留西域人の数も、少なくなかった。
そういう在留西域人をまとめて管理するために置かれたのが、薩宝《さつぽう》≠ニいう官である。
西域|胡人《こじん》の有力者が、その薩宝に任命されることになっている。
安というのは、その西域人の中国名であった。
西域人が中国名を名のる時は、安の名が使われる場合が多い。
「逸勢もゆくか」
空海にそう言われて、逸勢も、その|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の寺へ出かけてゆく気になったのである。
それで、空海と逸勢は、共に、西明寺を出たのであった。
とりあえず、向かうのは西市である。
そこで、マハメットと会い、マハメットに連れられて、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》祠のある布政坊へゆくことになっている。
布政坊は、西明寺のある延康坊《えんこうぼう》からは、光徳坊《こうとくぼう》と延寿坊《えんじゅぼう》をふたつをはさんだ北側にあった。
長安の治安を守っている右金吾衛《うきんごえい》も、その布政坊の中にある。
「しかし、空海よ――」
逸勢は、歩きながら空海に声をかける。
「今朝の話だがな、おまえ、本当に孔雀明王に生命が危ないと言われたのか?」
「ああ。劉雲樵のことから手を引かなければね」
「生命が危ないというのは、このおれも、その危ない中に入っているのかな」
空海は、少し、考え、
「まあ、入っていると考えた方がよかろうな――」
「本当か――」
「本当かどうかはわからぬが、危ないと考えておくべきだろう」
「脅かすなよ」
「脅かしてはいない」
「それは、あの、猫の妖物《ようぶつ》がおれやおまえに、何かをしかけてくるということになるのかな――」
「さあて」
空海は、歩きながら言った。
「昨日、おまえ、胡玉楼《こぎょくろう》へ行ったろう。あれで、もっと、劉雲樵の件に深入りすることになってしまうのではないか――」
逸勢は言った。
空海は、マハメットの許を辞した足で、そのまま胡玉楼へ向かい、玉蓮《ぎょくれん》と牡丹《ぼたん》に会って、劉雲樵について詳しい話を、あらためて聴いたのであった。
「うん。まあ、そうだな」
「なにやら、だんだん、おそろしいことになってきたような気がするな」
逸勢は言った。
「うむ」
うなずいた空海へ、
「しかし、空海よ。おまえ、今日は、色々と調べごとがあるのではなかったか」
逸勢が訊いた。
「それは、昨日のうちに、大猴《たいこう》に頼んでおいたので、あの男が、うまくやってくれるだろう」
大猴は、天竺《てんじく》の言葉がしゃべれることから、西明寺でも、重宝《ちょうほう》がられて、僧が梵文《ぼんぶん》を読む時の役に立っている。
「何を頼んだのだ」
「まあ、ふたつだな」
「ふたつ?」
「劉雲樵のことと、麗香《れいか》のことさ」
「へえ!?」
言われて、しかし、逸勢には、よく呑み込めない風であった。
「劉雲樵が、今、どこにいるのか、どんな様子であるのか。そして、劉雲樵の家系がどうなっているのか、そんなあたりを調べてもらっている」
「麗香の方は?」
「昨日の、玉蓮|姐《ねえ》さんの話だと、しばらく、麗香姐さんは雅風楼《がふうろう》に出てないらしいじゃないか。そういうことも気になっているんでな。麗香姐さんの身の回りのことや、昔のことなどを、大猴に調べさせているのだ」
「しかし、劉雲樵のことはわかるが、麗香の方まで調べるのは、どうしてなんだ」
「麗香姐さんのお客が、あの劉雲樵だったからさ――」
「しかし……」
「猫がさ、劉雲樵が雅風楼へ出入りしていることや、道士の所へ出かけていったのを知っていたという話じゃないか――」
「そのことと、麗香と関係があると――」
「かもしれないということさ」
空海は言った。
「しかし、おまえ、妖物だとか、梵語だとか、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教だとかに夢中で、肝心の密《みつ》の方はどうなっているのだ」
「これも、その密のためさ」
「なに!?」
「はは」
「おまえは、妖物だとか、梵語だとか、今からゆく|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の寺のことも、皆、密のためだというのか――」
「そうさ。おれ自身の興味もあるがな。ああ、逸勢よ、おれはもっと時間がほしい。自分の身体がひとつしかないのが、もどかしいくらいだ」
「ふうん」
逸勢はつぶやいて、
「しかし、おれたちには、二十年の時間があるのだぞ」
逸勢が言った。
「いや。あと二十年も経ったら、おれは五十歳を超えてしまう。二十年も待てるものか――」
「――」
「逸勢よ。今朝、庭に咲いていた牡丹を見たろう」
「見た」
「おれがやろうとしているのも、あれなのだ」
「あれ?」
「密という大輪の牡丹を、おれは、おれの中に、早く咲かせねばならぬ。二十年もかけずにな――」
「うむ」
「しかし、あの牡丹のように、早く咲かせすぎるのはよくない」
「――」
「早く咲かせるのはいいが、準備のないうちに、無理に咲かせた花は、じきに枯れてしまうだろう。しかし、二十年という時間はかけられない――」
それで、そのための準備を、自分は今しているのだと、空海は言った。
その時には、すでに、空海と逸勢は、西市のざわめきの中にいた。
(二)
「その方は、仏陀《ブッダ》よりも古い時代の方なのですね」
空海は言った。
場所は、布政坊にある、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教《けんきょう》の寺――|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]祠《けんし》の中である。
暗い部屋であった。
入口をくぐって、正面に祭壇があり、そこで火が燃えていた。火と、煙の匂いが、部屋の中にこもっている。
壁に、煙の色がすっかり染み込んでいて、それで、窓の少ないこの部屋の内部が、さらに暗く見えているのである。
しかし、壁と天井との間に煙出しの透き間があり、煙がうまくそこから逃げてゆくようになっているため、思ったほどけむくはない。
|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の始祖、ゾロアスターが生まれたのは、前七世紀から六世紀の間であろうと言われている。
後に、仏陀《ブッダ》と呼ばれることになる人物――ゴータマ・シッダールタが、天竺《インド》のルンビニーに生まれたのが、前五六三年である。
ゾロアスターが生まれた年代がいつであるか、はっきりとはわからないが、今日言われている、キリスト誕生より六百五十年前という説をとるとすれば、ゴータマの誕生より八十年以上も前に、ゾロアスターは生まれたことになる。
「おそらく、わが|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の始祖が生まれたのは、仏教の教えが始まるよりも、さらに昔のことであったろうと言われています」
そう言った、安薩宝の言葉を受けて、空海は、答えたのである。
ゾロアスターが、天啓を受け、伝道生活に入ったのは、三十歳の時であったろうと言われている。
ゾロアスター教が、本格的に人々の間に浸透してゆくのは、それから、十二年後、バクトリア地方の首長ヴィシュタスパを帰依《きえ》させてからである。
安薩宝は、空海に問われるままに、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教とゾロアスターのことを語りながら、
「何事も、その国の天子の心をしっかりと捕えておかねば、世には広まりにくいものですよ」
空海に向かって、そう言った。
祭壇の前に、立ったままの会話であった。
安薩宝は、役人たちが身につけるのと同じような服を身につけ、やはり、役人たちがかぶるのと同じ冠を頭にのせている。
年齢は、五十代の半ばくらいであろうか。
髪には、すでに白いものが混じり、顎の周囲を包んだ髯《ひげ》にも、白いものが混じっている。鼻は高く、瞳は青い。
空海と安薩宝の他に、橘逸勢、マハメットのふたりがいる。
部屋には、小さく、火の燃える音が響いている。
「不思議ですね」
祭壇の火を見つめながら、空海はつぶやいた。
「何がですか――」
安薩宝が訊いた。
「あの火ですよ」
「火?」
「闇の中でこそ、火は、美しい……」
「――」
「闇が濃ければ濃いほど、火は眩《まぶ》しく見えるもののようですね」
空海が、静かな口調で言った。
「その通りです――」
安薩宝は言った。
空海を青い瞳で見つめ、
「あなたは、とてもおもしろい考え方をする。あなたと話しているのは、とても楽しい――」
安薩宝は、マハメットに向きなおり、
「よい方を紹介してくれた。異教の方と、あまり、立ち入った話はしにくいものなのですが、あなたとなら、それができそうですよ、空海さん――」
空海に視線をもどして、安薩宝は微笑した。
「わたしの、部屋へ来ませんか」
安薩宝は言った。
安薩宝に勧《すす》められるままに、外へ出た。
明るい陽が、頭上から注いでいる。
槐《えんじゅ》の緑が、きらきらと光りながら、風が吹くたびに、葉の上の光を樹下に落としている。
安薩宝の家は、裏手にあった。
レンガと、土壁でできた家である。
通された部屋は、土間に、椅子とテーブルがあった。
部屋の隅に、甕《かめ》が置いてある。
テーブルについた四人の前に、どこからか現われた女が、素焼きの碗を並べた。
甕の中から、冷たい水を水差しの中に注いで、女が、その水差しを持ってきた。
それを、テーブルの上に置く。
窓から入ってきた光が、槐の葉影を、そのテーブルの上に落としている。
女が、碗に注いでいった水を、空海は飲んだ。
冷たくて、飲み終えた後、口の中にさわやかな甘みの残る水であった。
「空海さん――」
と、安薩宝は言った。
「はい」
空海が、碗をテーブルの上に置きながらうなずいた。
「ヤートゥ、という言葉を知っていますか?」
安薩宝が空海に訊いた。
「ヤートゥ、ですか?」
安薩宝が言ったヤートゥ≠ニいう発音を、正確に口の中で発音しながら、空海が言った。
「はい」
「初めて耳にする言葉です――」
空海は、そう言って、安薩宝の横に座っているマハメットを見た。
安薩宝がヤートゥ≠ニいう言葉を口にした時、不快な言葉でも耳にしたような表情を、マハメットが浮かべたからだ。
しかし、その表情は、すぐにマハメットの顔から消えてしまい、今、空海が眼にしているのは、それまでと同じ表情を浮かべているマハメットの顔である。
「昔、ゾロアスターが、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教を世に伝えようとした時、様々な妨害がありました。当時、あちこちにはびこっていた邪宗淫祠《じゃしゅういんし》があり、その邪宗淫祠のヤートゥが、ゾロアスターの神の仕事を妨げたのです」
「ええ」
「空海さん。仏教でも、仏陀《ブッダ》が覚《さと》りを開かれる前、様々な魔羅《マーラー》たちが、それを邪魔しようとしたということですね」
「はい」
「景教《けいきょう》の方でも、やはり、似たようなことはあったようです」
景教――空海が入唐した当時、すでに唐に入っていた、キリスト教の、ネストリウス派のことである。
「そのことなら耳にしています」
「空海さん。さっきの光の話ですが、ある国からある国へ、光を運ぶということは、そのまま、その光が造る影の部分まで持ち込んでしまうということですね」
安薩宝が言った。
空海は、安薩宝の言葉を、噛みしめるように、しばらく沈黙してから、
「はい」
低い声でうなずいた。
「我々は、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教をこの国に持ち込んだのですが、それは、そのまま、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の教えに反する考え方も、この国に持ち込んでしまったことになるのですよ」
安薩宝は、そう言って、深い溜め息をついた。
「さっきの、邪宗淫祠のことですね」
「そうです」
「ではヤートゥというのは?」
「その、邪宗淫祠を信仰する、呪術師のことを、ヤートゥと呼んでいるのですよ。カラパンとも呼んだりいたしますが」
安薩宝は言った。
「そのヤートゥが、唐にも来ていると――」
「ええ」
安薩宝はうなずき、
「唐というよりは、この長安にも、そういう呪術師《カラパン》がいるのです」
そう言って、小さく微笑した。
「まったく、アフラ・マズダとアンラ・マンユの闘いは、どこの土地でも永遠に繰り返されてゆくもののようです」
言ったのは、マハメットであった。
その時、さきほど、水を入れて外へ出て行った女が、また、部屋にもどってきた。
「安さま」
と、女が言った。
「何かね」
安薩宝が、女を見た。
女は、空海と逸勢を見、そして、その視線をまた安薩宝にもどした。
空海と、逸勢がいる場所で、用件を口にしていいものかどうか、女は迷っているらしかった。
空海が、席をはずそうとして立ちあがりかけると、安薩宝が、それを制した。
「こちらは、マハメットが紹介してくれた、マハメットのお客さまだ。おまえが言おうとしていることが、もし、マハメットにも言ってよいことであるなら、この方たちにも言ってよいことなのだ。どうかね?」
安薩宝が言った。
「マハメットさまになら、かまいません」
「ならば、この方々にも、それは話してもかまわぬということだ。安心して言いなさい」
安薩宝が言うと、すぐに、女は決心したように、口を開いた。
「左|金吾衛《きんごえい》の、張《ちょう》さんがいらしてます」
「張? おう、あの張か」
「はい」
「かまわないから、ここへ通しなさい」
安薩宝が言うと、女は、すぐに部屋を出て行った。
「我々は、帰ります――」
そう、空海が言うと、安薩宝が、空海をとめた。
「いや、空海さん。あなたには、ここにいてもらった方がかえっていいかもしれません――」
安薩宝は言った。
「張の友人の畑から、何やらおそろしげなものが出てきて困っているというので、その相談にのってやるところだったのです」
(三)
張|彦高《げんこう》は、歳《とし》の頃なら、四十ばかりの、鼻の下に二本の細い髭《ひげ》を伸ばした男だった。
腰から、ひと振りの刀《とう》を下げている。
部屋に入ってくると、張は、安薩宝《あんさつぽう》とマハメットに挨拶《あいさつ》をし、そこにいる空海と逸勢《はやなり》にいぶかしげな視線を送った。
「張さん、こちらは、倭国《わこく》から密教と儒教を学びにこられた、空海さんと橘逸勢さんです」
安薩宝が言った。
空海と逸勢が自分の名を告げて挨拶をすると、張は、
「張です」
堅い声で、短く自分の名を告げた。
空海と逸勢に対して、警戒しているのがはっきりわかる。
「また、何かあったのですか――」
安薩宝が訊《き》くと、
「はい」
張がうなずいた。
また、空海と逸勢に視線を送ってくる。
安薩宝に何か言いたそうに口を開きかけるのだが、空海と逸勢がいるので、それをためらっているらしい。
「安心しなさい。こちらは、マハメットが、わたしに会わせようと紹介してくれた人たちだ。マハメットが、めったな人間をわたしに会わせるはずはないだろう?」
「はい」
うなずきはするが、まだ緊張は隠せない。
「異国の方に、そういう話を聴いてもらうというのは、貴重な意見をいただけて、かえってよいかもしれないと思って、空海さんをお引きとめしたのだよ。マハメットから聴いたのだが、空海さんは、異能のある方で、ついしばらく前も、胡玉楼の玉蓮姐さんに憑《つ》いていた餓蟲《がむし》というものをとって下さったのだ。しかし、あなたが、話し辛《づら》いというのであれば――」
安薩宝がそこまで言った時、
「我々は、これでおいとまを……」
空海が、静かに頭を下げていた。
その空海に向かって、
「い、いや――」
張が声をかけた。
空海が張に視線を向けた。
「あなたが、あの、空海さんだったのですか――」
張が、声をつまらせながら言った。
「わたしのことを、知ってるのですか――」
「はい。倭国の方が、玉蓮の手に憑いていたなんとかという蟲《むし》をとってくれたという話なら、わたしも玉蓮から直接聴きました。思い出しましたよ。その倭国の坊さまというのが、空海さんだったのですね――」
「おやおや」
空海は、そう言って、逸勢と顔を見合わせた。
「わたしが、時々、張さんを胡玉楼へお連れしているのですよ。金吾衛《きんごえい》の張さんには、普段から、色々お世話になっておりますのでね」
横手から、マハメットが声をかけた。
「ははあ――」
納得したような声をあげたのは、逸勢であった。
「そういうことですか」
逸勢は、自分で、自分の言葉にうなずいていた。
「そういうことであれば、ぜひ、空海さんにも聴いていただきたいのですが――」
張が言った。
「お役にたてるかどうかはわかりませんが」
空海が言った。
「では、そういうことに――」
安薩宝がうながして、一同は、あらためて席についた。
「空海さんたちは、初めてだろうから、最初から、その話をしてさしあげなさい。わたしも、もう一度、その話を聴いて、考えをまとめてみたいから――」
安薩宝が言うと、張は、どこかもったいぶったように一同の顔を眺めてから口を開いた。
「わたしの知り合いに、徐文強《じょぶんきょう》という今年四十五歳になる男がおりまして、この徐は、驪山《りざん》の北に広い綿の畑を持っているのですが、そこで妖異《ようい》が起こったのです」
張は、妖異、という言葉に力を込めて言った。
「徐が、最初にその妖異に気がついたのは、昨年の八月のことです」
それは、八月の満月の夜であったという。
自分の綿畑をそぞろ歩きながら、綿の収穫のことを考えていた徐文強は、不思議な声を耳にしたのである。
それは、地の底からともなく、綿の葉陰からともなく、ひそひそと徐の耳に届いてきたのだという。何者かが、何かの相談をしているらしい声であった。
毎夜、その声は聴こえた。
相談の内容は、どうやら、いつがよいか、というその日付に関することである。
その日が、
あの日の翌日がよかろうよ
ということでは意見の一致があるのだが、では、そのあの日≠ェいつかということが声の主たちにはわからないようなのである。
あの日≠ェ、七日後であることを、やがて声の主は思い出すのだが、では、七日後のその日にどういうことがおこるのか――
徐は、夜になる度《たび》に、畑へ出かけて声の会話を聴いた。
そして、ついに、そのことのおこる前日に、声の主は、その日に何がおこるかを思い出したのである。
それは、徳宗《とくそう》皇帝の皇太子である李誦《りしょう》が、その日に倒れるというものであった。
倒れはするが、
死にはせぬ
と、声は言った。
その時、その日≠ヘ、すでに翌日に迫っていたのである。
そして、李誦の倒れたその翌日に、
我等はいよいよ出ることになる
と、その声は言った。
で、皇太子の李誦が倒れた日の朝、張は、徐からの文を受け取ったのである。
その手紙には、皇太子李誦の身体の具合が最近悪いというような話を耳にしてはいないか、もし、何か病《やまい》を得ていて、それが、この日急に悪くなるようなことがあったら、ぜひ知らせてくれと、そういう内容がしたためられていた。
「皇太子が、問安《もんあん》の後にお倒れになったという知らせをわたしが聴いたのは、その手紙を読んだ後だったのです」
と、張は言った。
「それで、どうされたのですか?」
空海が訊いた。
「急いで、信用のできる部下二名を連れて、徐の家まで馬で出かけたのです」
何故、徐が、皇太子の倒れることを知っていたのか、それを知るためである。
「場合によっては、徐を捕えねばならないことになるかもしれず、また逆に、徐の力になってやれるかもしれないと、わたしは考えました――」
「徐さんとは、どういうお知り合いだったのですか?」
「わたしと徐とは幼な馴じみで、生まれが同じ驪山の麓《ろく》であったのです」
「で、徐さんとお会いになった?」
「ええ」
張は答えた。
そして初めて、張は、徐から、夜になると畑でかわされる声のことを聴かされたのであった。
そして、その晩、張は、徐と、ふたりの部下と共に、徐の畑に出かけたのである。
その晩は、月の明りさえも見えない闇夜であった。
風が吹いていた。
畑一面の綿が、ざわざわと鳴っていた。
張と、徐、そして張の部下たちは、闇の中に立って、凝《じ》っとそれを待っていた。
張の部下のひとりが手に握っている松明《たいまつ》の炎が、風に煽《あお》られて、音をたてて燃えている。
漆黒《しっこく》の闇であった。
互いの顔ばかりが、炎の灯りで、闇の中に赤々と見えているだけである。
「まだか」
張はつぶやいた。
「もう少し――」
徐が言った。
「本来は、おれの役職は、こういう仕事ではないのだ。他の者が来るというのを、手紙をもらった当人ということで、無理を通しておれがやってきたのだ……」
張が、そう言ったその時であった。ふいに闇のどこからか、声が響いてきた。
「風が吹いているな」
低いが、はっきりとその声は届いてきた。
「風が吹いているな」
声が答えた。
「どうだ、やっぱり李誦は倒れたろう」
「おうよ、やっぱり李誦は倒れたわい」
ふふ……
ひひ……
かか……
無数の笑い声が闇にさざめくように満ちた。
「いよいよ明日だな」
「いよいよ明日だな」
声が言う。
「誰だ?」
張が思わず声に出していた。
しかし、返事はない。
かわりに、風が強さを増し、闇の底一面の綿の葉を、ざわざわと揺すりあげた。
その音に、低い、無数の笑い声が重なった。
馬の嘶《いなな》きも、それに混じったようであった。
甲冑《かっちゅう》の鳴る音。
戦車の軋《きし》み音。
そして、さらに無数の低い笑い声――
くく……
ふふ……
かか……
それ等の音が重なりあい、その音にさらに風の音が重なって、いつの間にか、強い風の中で、闇の天いっぱいにどよもしの音《こえ》をあげていた。
(四)
「ふうん……」
小さく声をあげたのは、空海である。
唇に、笑みが湧きそうになるのをこらえているようであった。
――おもしろいな。
その唇がほころんで、おもわずそういう言葉が滑り出てしまいそうであった。
「たいへんに、興味深いお話です」
空海は言った。
「それきり、声は小さくなって途切れてしまったのですが、問題は――」
「翌日の晩ですね」
「そうです」
「翌日の晩も、徐さんの畑にいらっしゃったのでしょう」
「ええ」
「長安の方へは、どういう連絡をしたのですか――」
「わたしがそこに残り、部下のひとりを長安へ帰し、何人かの人間を呼んでくるように申しました。皇太子の御病気に関することであり、報告をしないわけにはゆかず、かといって、わたしが見聞したことだけでは、事を大きくするわけにもゆきません。何が起こるかわかりませんので、ひとまずは、何人かを呼んで、そこで翌日の晩に何が起こるのかを確認するつもりだったのです――」
「なるほど――」
「長安へ人を呼びにやらせた男は、三人の部下を連れて、翌日の昼過ぎに、やってきました」
張は、そう言って、一同を見まわしてから、ゆっくりとその晩のことを語り出したのであった。
(五)
翌日の夜、徐文強の綿畑に集まったのは、七人の男たちである。
徐、張、そして、張の部下の役人が五人。
その晩もまた、分厚い雲が天を覆《おお》っていた。
しかし、処《ところ》どころに、雲の割れ目があり、そこに、驚くほど透きとおった夜空が見えている。その夜空に、点々と星が光っていた。
歪《いび》つに欠けた月が、厚い雲の間から、時おりのぞく。
雲の動きは速かった。
高い空には、強い風が吹いているらしい。
いったん姿を見せても、月は、たちまち、また雲の中に呑み込まれてゆく。
月を呑み込んだ雲の、その月の周囲だけが、ぼんやりと明るい。
風が、闇の奥から吹いてきては、ざわざわと綿の葉をしきりに揺すってゆく。
松明は、二本。
張の部下のふたりが、それぞれ一本ずつその手に握っている。
松明の炎が、風に煽られて、大きく揺らぐ。
赤い火の粉が、細い線を引いて、蛍のように闇に飛んだ。
張の部下は、おのおのが、腰に、刀やら剣を下げてきている。
刀を下げている者がふたり。
剣を下げている者が三人。
張もまた、腰には刀を下げている。
徐自身は、小ぶりの刀を、懐にしのばせていた。
時間だけが、過ぎてゆく。
風は、強く、なまあたたかい。
途中で、松明を、用意してきた新しいものにかえた。
「何がおこるのかな……」
徐が、こわごわと言った。
「わからない。わからないが、昨夜の言葉が本当であれば、何者かが、ここに姿を現わすということだろう」
張が答えた。
「しかし、まだ、何も……」
徐の声は、微《かす》かに震えていた。
徐は、ここにやってきたことを、後悔している様子であった。
「ならば、これから何かがおこるのだろうさ――」
張の声も緊張しているが、徐よりも胆《はら》をすえてはいるらしい。
五人の役人のうち、昨夜、ここにいなかった三人は、半信半疑といった顔で、そこに立っている。
やがて、さらに半刻もたった頃……
「おい……」
と、低い声が、どこからか響いてきた。
微かな、風のざわめきに消されてしまいそうな声であった。
「おい……」
最初の声に答えて、もうひとつの声が響いた。
徐と張は、顔を見合わせた。
互いに、今の声がはたして本当に聴こえたのかどうかを、相手に問おうとする眼であった。
自分も今の声を耳にしたぞと答えるように、どちらからともなくうなずいた。
他の五人の顔を見る。
「誰か、今、何かを言ったか?」
張が訊いた。
「いいえ」
五人が、誰も口を開いてはいないという。
風が、ひときわ強くなって、ざわざわと男たちの周囲の綿の葉を揺すりあげた。
「そろそろだな」
声がした。
「うん、そろそろだ」
声が答えた。
「したぞ!」
低く、張が言った。
徐がうなずいて、張に身を寄せた。
男たちの間に、緊張が疾《はし》った。
むこうに停めて、繋《つな》いである馬が、高い声で、天に向かって嘶《いなな》いた。
「今宵《こよい》は、風が強い」
「今宵は、雲がある」
どこからか、響いてくる声が言った。
その声が、はっきりと、全員の耳に届いた。
また、馬が向こうで嘶いた。
不気味な獣が、闇のどこからか、近づいてくるのに、馬が気づいたような風であった。
「まあよい」
「まあよい」
「我等が出るにはふさわしい夜よ」
「我等が出るにはふさわしい夜ぞ」
たまらずに、誰かが、鞘《さや》から剣を抜き放っていた。
次々に、鞘から剣や刀が抜かれる音が、闇の中に響いた。
「ゆくか」
「ゆこう」
声が言う。
「気をつけろ!」
張が叫んだ。
その時――
張の眼の前の土が、そこに生《は》えている綿の根ごと、もぞりと上に持ちあがった。
「わっ」
と、張が後方へ跳びのいた時、最初に動いた土の、すぐ横手の土が、また、もぞり、と動いた。
徐は、張が動いたはずみで、前に転んでいた。
その、徐のすぐ顔の先の土の中から、太い虫のように這《は》い出てきたものがあった。
動けずに、徐は、口を魚のように喘《あえ》がせて、それを見つめていた。
視線をそらそうにも、そらせないらしい。
地面の中から、それが、出てきた。
それは、指であった。
指が出、続いて、手が出てきた。
ぷうんと、強い土の臭いが、徐の鼻に届いてきた。
徐は、意味のわからない声をあげて、膝と手で這って逃げた。
ようやく立ちあがった徐に、松明を持っていた役人のひとりが、その松明を渡し、自分は剣を構えた。
張と、五人の役人は、遠巻きに、手が這い出てくる地面を囲んだ。
その時には、もう、みごとに弾《はじ》けた綿を踏まぬようにという気遣《きづか》いは失くなっている。
手が、出て来ようとする場所は、二カ所であった。
その時には、すでに、二カ所から、四本の腕が、土の上に出てきていた。
土の上に出たその手が、自分の腕の周囲の土を掻きのけてゆく。
炎の灯りが、その光景を照らしている。
男たちは、ただ、遠巻きにしてその光景を見ているだけであった。
ふいに、両腕の間から、首が出てきた。
男の首であった。
役人のひとりは、声をあげて、腰を後方にひいた。
もう一方の両腕の間の土からも、やはり、首が現われた。
男である。
どちらの男も、頭に、兜《かぶと》をかぶっている。
兵士のようであった。
ふたつの首は、頭部についた土を落とすように、首を振った。
「久しぶりの外よ」
「久しぶりの外ぞ」
ふたつの首が言った。
役人たちは、声もない。
ふたりの兵士は、そこにいる役人たちの姿が見えるのか、見えぬのか、両手を地に突いて、踏んばるようにして、身体を抜き出し始めた。
肩、胸、腹――ゆっくりと、兵士の身体の全貌が姿を見せ始めた。
甲冑を着た大きな兵士であった。
その腹のあたりに何か模様のようなものが描かれている。
「うん」
「うん」
ふたりの兵士は、自分たちを見守る役人たちを無視するかのように、大きくのびをした。
「さて」
と、一方が言う。
「さて」
と、一方が答える。
「行かねばならぬ」
「行かねばならぬ」
そう言った兵士に、
「おまえたちは何者だ」
張が言った。
張よりも、ふたまわりは、身体が大きく、逞《たくま》しい。
近づくだけで、圧倒されてしまいそうであった。
張に訊かれても、しかし、ふたりの兵士は答えなかった。
「土の中に潜《ひそ》んでおるなど、人ではあるまい。何故、皇太子がお倒れになることを、おまえたちが知っていたのだ。あれは、おまえたちの仕業《しわざ》であったのか――」
しかし、ふたりの巨大な兵士は、蠅《はえ》ほどにも、男たちを感じてはいないらしい。
ふたりの兵士は、天を仰《あお》いでいた。
「月が暗いが――」
「月が暗いが――」
「歩くに不自由はあるまい」
「歩くに不自由はなかろう」
「うむ」
「うむ」
うなずきあっている。
「闇こそが、我等にはふさわしかろうな」
「闇こそが、我等にはふさわしかろうよ」
そこへ、ついに、恐さをこらえきれなくなった役人のひとりが、兵士に切りかかった。
「えやあっ」
剣で、正面から打ちかかった。
その剣が、兵士の身体にあたって、ごつん、とはじかれた。
剣で叩かれた兵士が、初めて、自分に剣を打ち込んできた男を眺めた。
無造作に、兵士の右手が伸びた。
逃げようとする役人の首を、兵士の右手がつかんだ。
役人が、軽々とひき寄せられた。
もがいている役人の頭部を、兵士が、両手で包んだ。
木の枝を折るような音がして、役人の首が後ろ向きになった。
その役人は、小便を洩らし、大量に脱糞《だっぷん》をして、土の上に俯《うつぶ》せに倒れた。しかし、その顔は、天を見上げていた。
何度か、その役人の身体は痙攣《けいれん》し、すぐに動かなくなった。
「ぬ!?」
張は、刀で、兵士に切りかかろうとしたが、足がすくんで動けなかった。
もうひとりの役人が、後ろから、もうひとりの兵士に切りかかった。
剣の刃が、兵士の頭部に当った。
ごつん、
という音が響いただけであった。
兵士が、その役人の方をふり向いた。
「わわわわ……」
役人は、奇妙な声をあげるだけで、足がすくんでいるらしく、動けなかった。
その役人の脳天に、兵士の右拳が、真上から無造作に打ち下ろされた。
役人の頭部の半分が、頭部の下の部分にめり込んだのか、それとも潰《つぶ》れたのか――役人の頭部の上半分が見えなくなっていた。
その役人は、口から、大量の血とどろどろしたものを吐き出し、最後にふたつの自分のめだまを吐き出して、畑の土の上に前のめりに倒れた。
もう、兵士に打ちかかろうとする者はなかった。
「さて」
と、兵士のひとりが言った。
「さて」
と、兵士のひとりが答えた。
「ゆこう」
「ゆこう」
「長安城も騒がしくなるぞ」
「長安城も騒がしくなるな」
そう言って、ふたりの兵士は歩き出した。
誰も、後を追わなかった。
やがて、闇の中に、ふたりの兵士の姿は見えなくなった。
高い声で、馬が嘶いた。
風が、ごうごうと強さを増し、闇の中で、綿の葉が、ざわざわと鳴った。
(六)
逸勢が、唾《つば》を飲み込む音が、大きく部屋に響いた。
「それで、どうされたのですか?」
空海は訊いた。
「とにかく、長安へもどって、そのままのことを報告しました。なにしろ、ふたりも人が死んでいるものですから――」
「で、長安の方では、どうしたのですか?」
「翌日に、今度は、兵士をやって、土の中から出てきた兵士たちを捜させたのですが、それらしい人間は見つかりませんでした。そういう兵士を見た者がいるかどうかも、近在の村や、あちこちを訊いてまわったのですが、やはり見たものはいないと――」
「畑の方は、その次の晩からはどうだったのですか――」
「それが、その次の晩からは、誰も出ても来ませんし、声も聴こえてきません――」
張《ちょう》は、空海の顔を、正面から見ながら言った。
「それで?」
「それで、それっきりになってしまったのですよ。畑では、それからずっと、何事もなく、綿の取り入れも済んだのです」
「ふうん」
「もし、役人がふたり死んだということがなければ、夢を見たのではないかと思うところです。現に、そう考えている人間もいます――」
「だいたいのところはうかがいました」
空海は言った。
「しかし、あなたが、今日、ここへいらっしゃったというのは、それから、また何かがあったということなんでしょう?」
「おっしゃる通りですよ。空海さん――」
張は、複雑な顔つきになって、一同を眺めた。
「上の者にも話はしたのですが、とりあえず様子を見に行ってこいと。しかし、この前のようなことがあったものですから、どうしたものかと思案しておりましたら、マハメットさんが、安《あん》司祭を紹介してくださったので、こちらへ相談にうかがっているというわけなのです」
張の顔には、思いがけない疲労の色が浮いていた。
助けを求めるように、空海に視線をむけ、次に、その視線を安薩宝に向けた。
空海は、張を見つめた。
「いったい何があったのですか」
そう訊いた。
「それが、今年に入ってから、また、同じようなことが、始まったというのですよ」
張は言った。
「それはいつなのですか?」
空海が、張に訊いた。
「徐文強の話によれば、今から四日ほど前のことだそうです」
「ははあ」
空海は、何か思いあたることがあるかのように、うなずいた。
四日前というと、気が狂った劉雲樵が、屋敷にもどった使用人によって発見されて、二日後のことである。
「もしかすると、もっとしばらく前から、声は聴こえていたのかもしれませんが、とにかく、その声をまた耳にしたのが、四日前の晩だということなのです」
張はそう言った。
「で、それは、どんな風であったのですか」
空海が訊ねると、
「はい――」
張が、うなずいて再び、徐文強の綿畑であったことを語り始めた。
(七)
徐文強の畑の地中から、ふたりの男が這い出てきたのは、八月である。
そのことが起こってからは、ほとんど何ごともなく、日々は過ぎたのであった。
綿の取り入れもすみ、冬を越して、徳宗皇帝が崩御《ほうぎょ》したのが一月二十三日である。
予言通りに脳卒中で倒れた息子の李誦が皇位についたのが、三日後の一月二十六日である。
その間、徐文強の畑は雪の下であった。
さすがに、綿の取り入れの時には畑へ入ったが、それ以外の時には、徐文強は、ほとんど畑に足を踏み入れなかった。
少なくとも、陽が暮れてからは、畑の近くへさえも、徐はゆかなかった。
五日前に、また、あの声が届いてきた時も、それを耳にしたのは徐ではなかった。
それを耳にしたのは、徐文強の使用人の、蘇文陽《そぶんよう》という男と、崔淑芳《さいしゅくほう》という女であった。
蘇文陽と、崔淑芳は、共に、徐文強の土地に家を持っている蘇家の息子と、崔家の娘である。文陽が二十二歳、淑芳が十九歳になる。
「まあ、このふたりが恋仲でしてね。その逢引《あいびき》の最中に、例の声を耳にしたというわけなのです」
そう、張は言った。
文陽と淑芳が、人目をしのぶ仲になったのは、一年ほど前からであった。家族や他の使用人の眼を避けて、夜になると、納屋《なや》や外で、逢瀬を重ねていたのだが、やがて、家族の知るところとなって、この春に一緒になることになっていた。
公認の仲になるにはなったが、そうなればなったで、今度は逆に、納屋で逢引をするというのも、気恥かしい。誰かが納屋を覗《のぞ》きに来るわけではないが、逆に、覗かぬようにという配慮をされては、皆の視線が納屋に集まっているような気がして落ち着かない。
幸《さいわい》にも、三月に入っているので、夜とはいえ、特別に外が寒いわけではない。
それで、外で会うことになった。
夜になって、誰も来ない場所――それが、徐の綿畑であったのである。
そこで、ふたりは会った。
ふたりとも、そこで何があったのか、まるで知らないわけではない。徐が、使用人たちに、あったことを細かく語ったわけではないが、ことのあらましは知っている。
ふたりの大男が出てきたという跡は、そのままになっているが、ぽっかり大きな穴が空いているわけではない。
人が出てくるのと同時に、土が崩れて埋まってしまっているので、知らない人間にとっては、ここがそうだと教えられれば、そうかとうなずける程度の窪《くぼ》みになっているだけである。
しかし、さすがに、その場所の上で逢ったわけではない。同じ綿畑の一画ではあるが、そこから少し離れた場所である。
畑の中にはいくつかの道が通っていて、その道のところどころに、大きな柳樹《りゅうじゅ》が生えている。
逢ったのは、その柳樹の根元であった。
淡い新芽がふきこぼれた枝が、いくつも頭上からかぶさっているその下である。
育ちかけた月が、天に斜めにかかっていた。文陽と淑芳が、柳樹の根元で、互いに相手の身体を抱きあった頃に、
「気持ちがよいか……」
どこからか、男の声がかかった。
低い、くぐもった声であった。
文陽と淑芳は、同時に、その声を耳にした。
しかし、その声が本当に聴こえたのかどうか――
それを確認するように、ふたりは、互いの眼を覗き込んだ。
そこへ、
「気持ちがよいな……」
別の声が響いた。
はっきり、その声が耳に届いたと、相手の眼が告げていた。
「思い通りにことが進んでいるからか」
「思い通りにことが進んでいるからよ」
声が言った。
ふたりは、抱擁を解いて、周囲を見回した。
闇が、ふたりを包んでいて、そよそよと春の冷たい風が動いている。
「そろそろ我等も出ねばなるまいな」
「そろそろ我等も出ねばなるまいよ」
「うむ」
「うむ」
その声を、ふたりは背中で聴いた。
あなや、と声をあげて、ふたりはその場から走り出していたのである。
(八)
「ふたりからその話を聴いた徐文強が、わたしのところへ、そのことを知らせてきたのが、四日前です」
張は、話をしているうちに、少し興奮してきたのか、頬を微《かす》かに赤く染めて言った。
「畑へは出かけたのですか?」
空海が訊いた。
「それが、まだなのです。徐も、畑には出ていないはずだと思います」
「まだ、きちんと報告はしていないのですか?」
「報告はしたのですが、新皇帝にかわってから、いろいろと金吾衛《きんごえい》内部でごたついていまして――」
「そうでしょうね」
「わたしの部下や上司の顔ぶれもかわり、長安城の外部のことまで、手がまわらないのです。前回のことでも、少し、内部では問題がありまして――」
「問題?」
「ええ。本来、我々金吾衛の衛士《えじ》の役目は、長安城内部の治安を守ることでして、城門よりも外のことについては、別の管轄《かんかつ》になっているのです」
張は、溜め息混じりに言った。
「それも、各坊の内部はまた別の管轄になっておりまして、金吾衛の仕事は、もっぱら、城門内の大街《たいがい》及び坊を囲む道でのことに限られるのですよ。前回は、わたしの独断で余計なことをしたため、さっきも言ったように、色々とごたつきがあったのです。人死にが出なければよかったのですが――」
「なるほど……」
「役人が一番気にしているのは、保身ですよ。できるだけ、管轄外のことには関わりを持たないようにしたがるのです」
「それは、お国でも、倭国《わこく》でも同じですよ」
「城外の方を管轄している者へは、連絡は入ったはずですが、あちらも事情はこちらと同じでごたごたしている最中でしょうから、どこまで本気になってくれるかどうか――」
「ははあ」
「金吾衛の方は金吾衛の方で、いくつか事件を抱えておりまして――」
「ほう……」
「お耳に入っていると思いますが、最近、大街や、あちこちの辻に、高札を立ててゆく輩《やから》がいるのですよ」
「徳宗崩じて次は李誦≠ニいう、あれのことですね」
「それが、昨夜もまた、あったのですよ」
「それはお困りでしょう」
「それで、マハメットさんに相談したのです」
「何故、マハメットさんに?」
「出てきた男の腹のあたりに、こう、何か模様のようなものが描れていたのですが、わたしにはそれが胡の文字のように思えまして、それで――」
「胡の文字?」
「胡の文字と言っても、色々あるのはわかっておりますが、わたしには何が何やらわからぬもので――」
「それを、ここで描けますか?」
「いえ、とても描けません。それに胡の文字かどうかも本当のところはわからぬわけですから――」
「ふぅん……」
「そういうことであれば、ついては、我々が色々と考えるよりも、それなりの道の人の意見を訊いてみるのがよいだろうとマハメットさんがおっしゃって、こちらの安《あん》司祭を紹介して下さったのです。以前からも、安司祭は存じあげておりまして、三日ほど前にこちらへお邪魔して、今、お話したようなことをお話して、その時は家へ帰ったのです。それで、本日、少し時間がとれましたので、何かよい知恵は浮かんだかと、こうしてやってきたのですよ」
「お話のあらましはわかりました――」
空海は、かたちのよい顎《あご》を引いてうなずいた。
「いかがですかな、空海さん」
安司祭が、碧《あお》い瞳を空海に向けた。
「たいへん興味深いお話なのですが、なんとも言えませんね。その徐さんの畑へ、一度お邪魔してみれば、何かわかるかもしれないのですが――」
「よかったら、力になってやってもらえますか。あなたのことは色々と聴いています。洛陽《らくよう》の官店《かんてん》で、あやかしの騒ぎをしずめたことや、玉蓮姐さんの腕についていた餓蟲《がむし》をとってやったことをね――」
「そんなことまで、もう、お耳に入っているのですか」
空海は、照れたというわけでもなく、すこやかな笑みを浮かべた。
「それは、何のことですか?」
張が、安司祭に訊いた。
安司祭が口を開く前に、
「その話なら、わたしがしますよ」
マハメットが言った。
マハメットは、空海という男がすっかり気に入っているのか、熱っぽく、それ等のことを語った。
マハメットの話を聴いて、張が、空海を見る目つきが明らかに変化した。
「空海さん。わたしからもお願いしますよ。ぜひ、徐の力になってやってくれませんか」
「わかりました。しかし、わたしが、徐さんの力になってさしあげられるかどうかはともかく、問題の畑を一度訪ねてからということですね――」
「もちろんです」
「そういう時間をとるというのは、もちろんできますが、徐さんの都合はどうなのですか――」
「だいじょうぶですよ。明日、使いの者をやって、返事を持たせてもどって来させましょう。それほどお待たせせずにお返事できると思いますよ――」
張の言葉にうなずきながら、空海は、逸勢に眼をやった。
「逸勢よ、おまえはどうする?」
逸勢は、空海に、ふいに問われ、
「う、うむ――」
口ごもってから、
「ゆく」
低くうなずいたのであった。
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第十章 妙適菩薩
(一)
夜である。
空海が、橘逸勢と共に、安薩宝の所へ出かけた日の晩――
空海の部屋に、逸勢と大猴《たいこう》が、集まっていた。
板の間には、空海が西市で買い込んできた波斯《ペルシア》の絨毯《じゅうたん》が敷かれていた。
その絨毯の上に、三人が、おもいおもいに胡座《あぐら》をかいて座っている。
空海は、窓に寄せた文机《ふづくえ》の横に座り、右肘を文机に乗せていた。
逸勢は、空海の斜め左横に座し、入口を背にするかたちで、大猴が座している。
大猴の巨体が空海の部屋に入ると、急に、部屋が狭くなったように感じられた。
大猴は、長い髪を赤い布で縛って後ろで留めているのだが、それでも、縛り切れない髪がぼうぼうと立ちあがっている。
部屋の隅に、灯りが点《とも》っていて、赤い炎がそこで揺れている。
燃えている油の匂いが、微《かす》かに部屋の空気の中にこもっている。
空海は、逸勢と大猴を見まわし、
「さて――」
と、何か楽しいものでも待っている子供のような顔をして言った。
「頼んでおいたことだが、どういうことがわかったのかな」
大猴を見た。
「いろいろと、わかりましたよ」
大猴は言った。
「何がわかった?」
空海は訊いた。
大猴が唇を開こうとした時、逸勢が先に唇を開いていた。
「おい、空海、おまえたちが今話をしているのは、何のことなのだ」
「昼間、マハメットさんの所へゆく時に、おまえにも話をしたろう」
「大猴に、調べものをいくつか頼んであると言った、あのことか」
「まあ、そういうことだな」
そう言って空海は、大猴を見た。
「で、どれから話をしたものですかね――」
大猴は、太い指で、ぼりぼりと音をたてて頭を掻《か》いた。
「どれからでもいいさ。そうだ、劉雲樵の居場所はわかったかな」
「わかりましたよ」
答えた大猴に、
「ほう――」
空海が身を乗り出した。
「劉雲樵は、太平坊《たいへいぼう》の、呂家祥《ろかしょう》の家にやっかいになっていますよ」
「呂家祥?」
「劉雲樵の同僚の役人です。劉雲樵の使用人の家を見つけて、それを聞き出してきたんですが、劉雲樵は、どうも、半分気がふれてしまったらしいですね」
「うむ」
「劉雲樵は、どうも、猫の妖物《ようぶつ》に、おまえはじきに死ぬと言われたようです」
「じきに?」
「一カ月で死ぬだろうってね」
「それはいつだ?」
「二月の十五日です。ですから、三月――今月の十五日までには、自分は死んでしまうのだと、劉雲樵は思い込んでいるようです」
「今日が五日だから、あと十日ほどということになるかな」
「それでね、もうひとつ、おもしろい話を耳にしましたよ――」
「どんな?」
「青龍寺《せいりゅうじ》がね、もう一度、劉雲樵の様子を見にやって来るらしいんですよ」
「いつだ?」
「それが、近いうちらしいんですが、はっきりした日にちまでは――」
「ふうん」
空海は、文机に乗せていた右手の人差し指の先で、机の上を叩いた。
「いよいよ、偉い人物のお出ましということになったか」
空海は言った。
空海の顔に、嬉々《きき》とした楽しげな微笑が浮いた。
「それで、次は麗香《れいか》のことなのですが――」
「雅風楼《がふうろう》の麗香か」
「ええ」
「麗香|姐《ねえ》さんは、今、どうやら、平康坊《へいこうぼう》にいるようですよ」
「ほう」
「こっちの方は、偶然なんですがね。雅風楼へ通っていた男で、麗香姐さんのおなじみを、雅風楼で捜したんですよ」
「うむ」
「そうしたら、そういう方が今日も何人か来ていましてね。そっと訊いてみたら、そのうちのひとりが、何日か前に、外で麗香姐さんらしい人間を偶然に見たというじゃありませんか」
大猴の声が、知らぬ間に大きくなっていた。
「それで、どうであったのだ、大猴よ」
訊いたのは逸勢である。
「それがね、なんでも、道士だか方士《ほうし》だかの家の前で、麗香姐さんの顔を見たっていうんですね。声をかける間もなく、麗香姐さんは、その家の中に引っ込んじまったということらしいんですよ」
「らしい?」
「正直に言うと、そのことを、お客から訊いてくれたのは、牡丹《ぼたん》ちゃんなんですよ。牡丹ちゃんのお客に、以前、麗香姐さんのおなじみがいるっていうんで、訊いてみてもらったのです」
「その道士だか方士だかの名前は?」
「それが、わからないんですよ。家の前に、あなたの運勢を観《み》ます≠ニいう札がかかっていたから方士か道士であろうと、その人は勝手に思い込んでいるようです」
「なるほど――」
逸勢がうなずいた。
「しかし、その家の場所はわかるんだろう?」
空海が訊いた。
「わかると思います。詳しく訊いておきましたから――」
「それで、劉雲樵の家系とか、麗香姐さんのそういう方面のことは、調べがついたのかな――」
「いや、実は、そっちの方はまだでしてね――」
大猴は、くったくなく微笑して、また頭を掻いた。
「まあ、そんなところだろうさ。今一日分の調べにしては、上等だよ」
空海は言った。
「ところで、空海先生」
あらたまった口調で、大猴が声をかけてきた。
「ほら、いつだったか、空海先生が、いつも毎朝手をかざしている牡丹の枝があったでしょう」
「うん」
「その枝に、なんと、花のつぼみが、もうふくらみかけてましたよ」
「そうか――」
「そうかって、空海さん、あの枝に、いったい何をしているのですか」
「たいしたことじゃない。ただ、あの枝に、この西明寺《さいみょうじ》で一番みごとな牡丹を咲かせてやろうと、そう思っただけなのだよ――」
空海がそこまで言った時、外に、人の気配があった。
「おい、空海――」
扉の向こうから、空海を呼ぶ声が聴こえた。
志明《しみょう》の声であった。
「はい」
と、空海が声をあげると、
「入ってもよいか」
今度は談勝《だんしょう》の声がした。
「どうぞ」
空海が言った。
扉が開いて、そこに、まず志明が姿を現わした。
その志明のすぐ横に談勝が立っている。
談勝は、右手に灯明皿を持っていた。
そこに、小さく、赤い炎が燃えている。
「何か御用でございますか」
空海は言った。
「少し、時間はあるかな、空海?」
談勝が訊ねた。
「時間?」
「今、西明寺に、客人がまいられている。その客人に会わせておこうと考えたのだ」
「客人と申しますと?」
「鳳鳴《ほうめい》という、我らの知り合いの僧でな」
「僧の鳳鳴!?」
「青龍寺の鳳鳴ぞ――」
談勝が言った。
「おまえ、青龍寺にゆきたがってたのではないのか」
それまで黙《もく》していた志明が言った。
空海は一瞬沈黙し、すぐに、
「では、よろしくお願い申しあげます」
頭を下げた。
「おまえの話をしたら、鳳鳴が、おまえに興味をもってな。一度顔を見てみたいというので、我々がおまえを呼びに来たのだ――」
談勝が言った時には、すでに空海は立ちあがっていた。
「逸勢と大猴と、三人でうかがってもかまいませんか?」
「むろん」
志明が答えた。
「ひととおり、今夜の話も済んだわけだし、みんな一緒にゆこうではないか」
空海が言った。
「はい」
大猴が、のっそりと立ちあがる。
「ならば」
と、逸勢が遅れて立ちあがった。
三人は、志明と談勝に連れられて、鳳鳴のところまでゆくこととなったのであった。
(二)
灯明皿を手にした談勝を先にして、志明、空海、逸勢、大猴の順で、長い廊下を、何度も左右に曲がりながら進んでいった。
廊下は暗く、どこまでも続いていた。
先頭の談勝が立ち止まったのは、小さな扉の前であった。
「鳳鳴、空海を連れてきたぞ」
談勝が言った。
そのまま、扉を押し開いて、談勝はその部屋の中に入って行った。
志明、空海、逸勢、大猴の順で、部屋の中に入った。
そこは、空海の居室と、あまり変わらない広さの部屋であった。
床は、木の板であった。
奥に窓がひとつある他は、何もないと言ってもよかった。
文机も、夜具すらもない。
空海のように、他所《よそ》からやって来た者が宿泊するために設けられた部屋のようであった。
しかし、今は誰も使用する者がない部屋で、西明寺を訪れて宿泊してゆく人間が、時おりこの部屋を利用することになっているのだろう。
部屋の隅に、鉄製の灯明皿がひとつ。
そこで、赤い炎が揺れていた。
その、暗い灯りの中で、ひとりの僧が、床に座していた。
結跏趺座《けっかふざ》――
年の頃ならば、空海よりやや上の、三十五〜六歳というところであろうか。
その僧――鳳鳴を見て、空海は、小さく息を呑んでいた。
すぐに、逸勢も、空海と同じことに気づいたらしい。
「く、空海よ――」
声を掠《かす》れさせた。
空海は、逸勢に、無言でうなずいた。
その僧――鳳鳴の肉体は、木の床から、五寸ほども、宙に浮いていたのである。
「鳳鳴――」
志明が声をかけると、鳳鳴の身体が、すっと床に沈んで、普通の結跏趺座の姿になった。
鳳鳴が、目蓋《まぶた》を開いた。
濡れた、黒い瞳が現われた。
その眼が、空海を見た。
「空海です」
空海は、短く自分の名を告げた。
「倭国から、留学僧《るがくそう》として、唐へやってまいりました。今は、この西明寺に、ごやっかいになっています」
空海につられて、ふたりが口を開いた。
「橘逸勢です」
「大猴って呼ばれているよ」
「鳳鳴です」
と、その僧は言った。
「青龍寺からいらしたそうですね」
空海が言うと、鳳鳴はうなずき、その後に小さく首を振った。
「確かに、わたしは、今日青龍寺からやってきたのですが、正確に言うと、少し違います」
鳳鳴は言った。
「どう違うのですか?」
空海が訊いた。
「わたしも、実はあなたと同じなのです」
「――」
「わたしも、実は、留学僧としてこの国にやってきて、密《みつ》を学んでいる者なのです」
「どちらからいらっしゃったのですか」
空海が訊く。
鳳鳴は、小さく空海に視線をやってから、
「西蔵《チベット》です――」
そう言ったのであった。
(三)
藤原葛野麻呂《ふじわらのかどのまろ》を大使とする日本国の遣唐使が、唐の都長安に入ったのは、延暦《えんりゃく》二十三年(八〇四)の十二月である。
すでに書いたことだが、この年の十二月に長安に入った異国の大使は、日本国ばかりではない。他にも、二国の大使が、長安に入っている。
『旧唐書《くとうじょ》』に、
[#ここから2字下げ]
十二月、吐蕃《とつばん》、南詔《なんせう》、日本国、竝《ならび》ニ遣使朝貢ス
[#ここで字下げ終わり]
と、ある。
吐蕃というのは、西蔵――つまりチベットのことである。
南詔というのは、雲南地方の新興国で、チベット・ビルマ語族の国である。
自分たちと時期を同じくして、吐蕃《チベット》の大使が長安に入っていることを、すでに空海は知っている。
吐蕃王国がソンツェン・ガンポ王によって誕生したのは、七世紀の前半である。
空海入唐より、約二百年近い昔のことだ。
隋《ずい》、唐、二代の圧力によって滅亡寸前にあった吐谷渾《とよくこん》を併合し、七世紀後半から、東西通商路――今日シルクロードと呼ばれている路の東端と南縁の支配に乗り出し、安禄山《あんろくざん》の乱以後は、大唐帝国を脅《おびや》かす強国となっている。
空海入唐時――吐蕃《チベット》は、東洋の島国、倭国《わこく》とは比べようもない大国であった。
空海の前に座した鳳鳴は、その吐蕃からやってきたというのである。
「昨年の十二月に、吐蕃からの大使が長安に来ていましたが、あなたもその時にいらしたのですか?」
空海が訊《き》いた。
「いえ、わたしは六年前に、密を学びにこの国へやってきたのです」
鳳鳴は言った。
顔つきは、空海と同じ倭国の人のそれに似ていたが、肌の色は倭人《わじん》のそれよりも黒い。
人の姿形をした鉄のような印象を与える男であった。
「鳳鳴は、青龍寺きっての秀才ぞ」
空海の横に立っていた談勝《だんしょう》が言った。
「いずれは、この鳳鳴が、金剛界《こんごうかい》、胎蔵界《たいぞうかい》、両部の密を授けられるのではないかと言われておる」
談勝の言葉にかぶせて、志明が言った。
「ほう……」
空海は、感心したような声をあげた。
唐までやってきた密教――純密には、ふたつの流れがある。
一般には、金剛界、胎蔵界、と呼ばれるふたつの体系がそれである。
極めて簡略に記しておけば、精神原理を説く金剛|頂経《ちょうきょう》系の密教が金剛界、物理原理を説く大日経系の密教が胎蔵界と呼ばれている。
金剛界の密教は、金剛智《こんごうち》という天竺《てんじく》の僧が伝えた。天竺僧――つまり、インドの僧である。
胎蔵界の密教は、やはり善無畏《ぜんむい》という天竺《インド》僧が伝えた。
天竺本国にあって、別々に発展してきた両部の密教の体系を、恵果《けいか》は、その一身に受けている。
ふたつの密教の体系が、唐において、初めてひとつにまとめられたのである。
そのふたつの体系を、恵果から授けられるというのは、密教の頂点に立つということであった。
いずれは、金剛界、胎蔵界、両部の密を授けられるのではないか――
という志明の言葉が真実であれば、この鳳鳴は、談勝が口にする以上に、並ならぬ才を秘めていることになる。
「それは凄いことですね」
空海は、素直に賛嘆の声をあげた。
誰からということもなく、その場に座した。
自然に、空海と鳳鳴が向きあうかたちになった。
「空海さん、あなたのことは、志明と談勝から時々うかがっておりました」
鳳鳴が、強い光を宿した濡れた眸《め》で空海を見つめながら言った。
「書も、文章も、異国の方とは思えぬほどのものであるとか。志明は、あなたほど筆の立つ人間は、今、この長安に、その数をかぞえて、五指に満たないであろうと――」
「そんなことはありませんよ。先日も、ある場所で、ある方が書かれたという詩の書きかけの一節を拝見したのですが、みごとなものでございました。無名の方がこれだけのものを書くとはさすがに長安は唐の都であることよと、あらためて驚いた次第です――」
空海は言った。
「この西明寺へまいりましたおりにも、白楽天《はくらくてん》という方の詩を、以前、ここにお世話になっていた倭国の永忠《ようちゅう》から見せられたのですが、それにも感心いたしました。聞けば、白楽天という方は、まだ無名のお役人であるとか」
「いや、謙遜《けんそん》なさることはありませんよ。あなたの書いた書や詩を、さきほどここで拝見したのですが、わたしもたいへんな才であるとお見受けしました。視点に独特のものがありますね」
世辞という風でもなく、鳳鳴が言った。
思ったことを、そのまま口にしたという風であった。
庭に石があるのを見て、
そこに石がある
と、見たそのままを口にするのと似た言葉の響きがある。
「吐蕃《とばん》にも、仏教は伝わっているとうかがっていますが、確か、お吐蕃《くに》では仏教のことをチョエと呼んでおられるとか?」
空海が訊いた。
「はい」
「チョエとは、仏教で言う法のことだということですね」
「その通りですよ」
「あなたも、カイラーサへは参られたのですか?」
空海が訊くと、初めて、鳳鳴は、小さく、その唇に笑みを浮かべた。
「それは、わたしに、ボン教徒であるのかどうかと訊ねられたという風に考えてよろしいのですか?」
「はい」
「あなたが、吐蕃のボン教や、聖地であるカイラーサ山の名までご存知とは驚きました。わたしの国では、カイラーサはカン・リンポチェと呼ばれております。おっしゃる通り、確かにわたしはカイラーサ山まで出かけたことがあります。もともと、わたしの父はボン教徒で、わたしもボン教徒であった時期がありますからね。もっとも、吐蕃の仏教徒の多くは、ボン教徒であった者か、もしくはその両方を信仰している者ですからね」
鳳鳴は言った。
ボン教――というのは、仏教が入るまえに吐蕃《チベット》で信仰されていた宗教である。
その根は、胡《イラン》の宗教ともつながっていると言われている。
生命神ラ(bla)をまつっていた、ム(dMu)部族の宗教が元になり、ボン教が発達し、そのボン教をベースに、中国とインドから仏教が入り込んで、ボン教と混ざりあいながら、やがてラマ教と呼ばれるチベット密教へと発展してゆくのだが、それは、ここでは別の話である。
「ところで――」
と、鳳鳴が、空海に声をかけた。
「あなたは、密を学びにこの長安までやって来られたのでしょう?」
鳳鳴が訊いた。
「そうです」
空海は答えた。
「それならば、何故、あなたはすぐに青龍寺へやってこないのですか?」
「青龍寺へゆくまえに、色々とやらねばならないことが、あるからです」
自然に、会話は、空海と鳳鳴との間でやりとりされるようになっていた。
「たとえば、やらねばならないこととは、何でしょう?」
「梵語《ぼんご》ですよ」
空海は言った。
「なるほど」
空海が、梵語と答えた意味を、鳳鳴はすぐに理解したらしい。
「しかし、梵語であれば、青龍寺でも学ぶことはできますよ」
「わたしが学びたいのは、他にもまだあるのです」
「それは何ですか?」
「たとえば、筆の造り方です。たとえば、紙の漉《す》き方です。たとえば、川の水を堰《せき》とめる方法です。たとえば、深い川にどうやって橋を架《か》けるかという、その方法です。たとえば、唐の都の制度です」
「ははあ」
「そういうこと全てを含めたものが、わたしにとっての密なのです」
「それが、あなたにとっての密一乗ということなのですね」
「はい」
空海は答えた。
「では、そのようにこの場ではうかがっておきましょう」
鳳鳴は、あっさりとうなずいてみせ、
「ところで、『理趣経《りしゅきょう》』は、すでにお読みでしょうね」
空海に訊ねてきた。
「はい」
「では、清浄句《せいじょうのく》の一は何でしょうか?」
「妙適《みょうてき》です」
空海は答えた。
鳳鳴の言った『理趣経』というのは、密教において、最も重要な根本思想について記された経典のひとつである。
男女の愛欲について、それは清らかな菩薩《ぼさつ》の境地であると記した経典である。
その経典を、すでに、空海は日本で眼にしていた。
それを、初めて眼にした時には、空海は衝撃的な驚きを味わった。
天と地とが入れかわったような思いを、その時、空海は体験している。
なるほど、と、うなずいた。
天が、晴れたような思いであった。
自分という人間が抱えている、欲望や、飢え、その他人間についてまわるあらゆるもの全てをひっくるめて、それを、肯《よし》、とその経典は肯定しているのである。
人がその肉体と心に持つ自然《じねん》の欲望の全てを、その経典は清らかな菩薩の境地である≠ニ、そう言っているのである。
空海が、その肉の裡に有していたものは、才ばかりではない。その才にも増して、ひと一倍強い欲望を、空海はその肉の裡《うち》に抱いていた。
女の肉が欲しいと、歯を軋《きし》らせながら山野に臥《ふ》した夜も何度となくあった。
その、黒々とした欲望の強さが、その経典の句を眼にした瞬間に、その強さを残したまま、そのまま眼のくらむような光輝くものに変わったのだ。
自分という人間が、そっくりそのまま入れかわってしまったようであった。
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妙適清浄句是菩薩位《みょうてきせいせいくしほさい》
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それが、その第一の清浄句である。
妙適清浄《みょうてきせいじょう》の句《く》、是菩薩《これぼさつ》の位《くらい》なり
そういう日本語訳になる。
妙適≠ニいうのは、梵語ではスラタである。
スラタというのは、男女が互いに交合し合うことによって生まれる、悦《よろこ》び――快感のことである。
つまり、
男女の交合のたえなる思いは清らかな菩薩の境地である
ということになる。
その清浄句は、全部で十七あることから、十七清浄句と呼ばれている。
たとえば、その中では、欲箭《よくせん》≠熕エらかな菩薩の境地であるという。
欲箭
すなわち、欲望の矢が疾《はし》ることである。
男が女を見た時、あるいは女が男を見た時、心の裡を貫いて疾る欲望の矢もまた、清らかな菩薩の境地であるというのである。
また、愛縛《あいばく》≠熕エらかな菩薩の境地であるという。
愛縛
つまり、相手を独占したいと思い、愛情によって相手や己れを縛ることである。現実的には、男女が裸で抱き合い、手足を互いの肉体にからめ合っている姿である。これもまた清らかな菩薩の境地であると、『理趣経』は言うのである。
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|妙適清浄句是菩薩 位《みょうてきせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|欲箭清浄句是菩薩 位《よくせんせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|触清浄句是菩薩 位《しょくせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|愛縛清浄句是菩薩 位《あいばくせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|一切自在主清浄句是菩薩 位《いっさいじざいしゅせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|見清清浄句是菩薩 位《けんせいせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|適悦清浄句是菩薩 位《てきえつせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|愛清清浄句是菩薩 位《あいせいせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|慢清清浄句是菩薩 位《まんせいせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|荘厳清浄句是菩薩 位《そうげんせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|意滋沢清浄句是菩薩 位《いしたくせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|光明清浄句是菩薩 位《こうめいせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|身楽清浄句是菩薩 位《しんらくせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|色清浄句是菩薩 位《しょくせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|声清浄句是菩薩 位《せいせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|香清浄句是菩薩 位《きょうせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
|味清浄句是菩薩 位《びせいじょうくこれぼさつのくらいなり》
何以故一切法自性清浄《かいこいっせいほうしせいせいせい》
故般若波羅蜜多清浄《こはんにゃはらみったせいせい》。
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男女の交合によって生ずるたえなる思いは清らかな菩薩の境地である。
欲望の矢が疾《はし》るというのは、清らかな菩薩の境地である。
互いに身体を触れ合うというのは、清らかな菩薩の境地である。
愛によって、縛り縛られることは、清らかな菩薩の境地である。
あらゆることにおいて、自分が自由の主《あるじ》であるということは、清らかな菩薩の境地である。
愛の眼で相手を見るというのは、清らかな菩薩の境地である。
最高の悦びは、清らかな菩薩の境地である。
愛情を抱くというのは、清らかな菩薩の境地である。
心がたかぶることも清らかな菩薩の境地である。
身を飾ることも清らかな菩薩の境地である。
心がうるおうことも、清らかな菩薩の境地である。
光り輝くように満ち足りた心も、清らかな菩薩の境地である。
身体が楽しいことも、清らかな菩薩の境地である。
眼に見える相手の姿は、清らかな菩薩の境地である。
耳に聴こえる相手の声も、清らかな菩薩の境地である。
鼻に匂う相手の香りも、清らかな菩薩の境地である。
舌に触れる相手の味も、清らかな菩薩の境地である。
何故かというと、これらのものはみな、全て始めから清らかなのであって、それが菩薩の境地であるからである。
故《ゆえ》に、真理に至《いた》る智恵は、清らかなものなのである。
これが、『理趣経』における十七清浄句のくだりである。
妙適です
と答えた空海を、鳳鳴は正面から見つめ、
「では、あなたはその妙適《スラタ》を体験したことがありますか?」
「あります」
あっさりと空海は答えていた。
「いかがでしたか?」
「妙適《スラタ》がですか?」
「はい」
「よいものですね」
それにもまた、空海は迷うことなく答えていた。
「なるほど……」
また、微かに、鳳鳴が微笑したようであった。
志明と談勝が、何か言いたそうに唇を開きかけたが、何も言わずに開きかけた唇を閉じた。
僧には、戒律《かいりつ》がある。
女犯《にょぼん》――つまり、僧がその不淫戒《ふいんかい》を破って女と交わることは、たいへんな罪になる。しかし、その戒律が、昔からきちんと守られてきたわけではない。
僧は、女性と交わることはもちろん、飲酒、肉食《にくじき》等も戒律によって禁じられているが、それを破る者は少なくない。
それは、唐代の西明寺においても、むろん例外ではない。
例外ではないが、しかし、他人に女を抱いたことがあるかと問われて、あっさりはいと答えられるものではない。
妙適《スラタ》を知っているか?
という問いは、そのまま、
女を抱いたことがあるか?
という問いと、同じである。
空海は、鳳鳴にそう問われて、素直にはいと答えている。
しかも、女の味はどうであったかと次に訊かれて、俗な表現で言えば、
よい味でございましたな
と、空海は答えているのである。
言葉の表面は、どう体裁《ていさい》をとりつくろおうが、話の内容はそういうことだ。
それに、志明と談勝は驚いて声をかけようとしたのである。
女と交わりを持ったのが、僧になる以前であるのならともかく、もし、僧になってからのことであれば、それを聴いた以上は、志明も談勝も、この空海に対して、何らかの処置《しょち》を講じねばならなくなる。
妙適を知ったのは、僧になる以前であったのか。それとも僧になってからか?
続けて、鳳鳴がそう問わなくてほっとしたのは、志明と談勝の方であったかもしれない。
もし、空海がそう問われて、仮に僧になってから妙適の体験があったとすれば、
なってからもございました
と、あっさり答えていたろうからだ。
『理趣経』にどのような記述があるにしても、『理趣経』は、無数にある仏教の経典のうちのひとつである。
『理趣経』は『理趣経』、戒律は戒律である。
志明と談勝のそういう雰囲気とは別に、今、ここでどういう話がなされているのか、つかみかねている人間がふたりいた。
橘逸勢と、大猴《たいこう》である。
ふたりとも、おおまかには、男女の秘めごとのことが話題になっているのはわかるが、その細かい部分まではわからない様子であった。
しかし、この吐蕃《チベット》からやってきた僧に、空海がやり込められているのではないらしいことは、逸勢も理解しているようであった。
それから、話は、ひとしきり日本国と吐蕃国のことにおよんだ。
「わたしは、吐蕃の僧院、|大 招 寺《トゥルナン・ゴンパ》で修行していたのですが、以前から密に興味を持っていて、それで、密を学びに長安へやってきたのです」
鳳鳴はそう言った。
「ところで、鳳鳴さんは、どういう用むきで西明寺にいらしたのですか」
空海が訊いた。
「明日の午前中に太平坊へゆく用事がありましてね――」
そう言って、鳳鳴は、空海の様子をうかがうように、言葉を切った。
「はい」
「それで、青龍寺のある新昌坊《しんしょうぼう》からは、少し時間がかかりますので、今日のうちにこの西明寺まで来ることにしたのですよ」
西明寺のある延康坊から太平坊までは、坊ひとつ半ほどの距離である。
長安の東の端にある新昌坊からゆくことを思えば、すぐ近くと言ってよい。
「太平坊のどちらですか?」
「呂家祥《ろかしょう》の屋敷です」
「ほう……」
「あなたも、御存知だと思いますが、その呂家祥の屋敷に、今、劉雲樵という男がいるのですよ」
「それで?」
知っているとも知らぬとも、空海は答えない。
逸勢は、ごくりと音をたてて唾《つば》を呑み込んだ。
「それが、なかなか、おもしろいことになりそうなのです」
鳳鳴は、そう言って、空海を見た。
「明日、御一緒にとお誘いしたら、あなたはゆきますか?」
ふいに、鳳鳴が訊いてきた。
おい――
そう言いたげな眼で、逸勢は空海を見た。
「ぜひ」
空海は言った。
「出発は辰巳《たつみ》の頃ということで」
「はい」
劉雲樵の件について、空海と鳳鳴との間にかわされた言葉は、それだけであった。
また、しばらく吐蕃の話があって、
「では、そろそろ」
空海がいとまを告げた。
立ちあがりかけた空海に、
「お待ちなさい」
鳳鳴が声をかけた。
「あなたの顔には、これから何か、色々と危険なことがふりかかってくる相が出ています――」
「そうですか?」
空海は、涼しい顔で、鳳鳴を見た。
「わたしが、あなたに良いものをさしあげましょう」
鳳鳴は、そう言って、眼を閉じ、口の中で低く呪《しゅ》を唱え始めた。
「オン・バザラ・アラタンナウ・ウン……」
唱えながら、開いた両手を前へ持ちあげ、ゆっくり胸の前で合わせてゆく。
「ナウボウ・アキャシャギャラバヤ、オン・アリキャ・マリ・ボリ・ソワカ」
唱え終えた時には、鳳鳴の両手は合わさっていた。
鳳鳴が、眼を開いた。
「虚空蔵《こくうぞう》菩薩の真言《マントラ》ですね」
空海が言った。
「そうです」
言いながら、鳳鳴が、ゆっくりと合わせていた手を開いた。
「おい……」
逸勢が小さく声をあげた。
開いた鳳鳴の両手の間に、淡い金色の光を放つ玉があった。
「尊玉《そんぎょく》ですか――」
空海が、その光る玉を見つめながら言った。
「虚空蔵菩薩の尊玉です」
鳳鳴が言った。
「これを、あなたにさしあげます。それで、今夜は、どれだけ熟睡《じゅくすい》しても、どんなもののけもあなたのそばには寄れないでしょう――」
「ありがたくいただきます」
空海は、両手を伸ばして、その淡い金色の光を放つ玉を、鳳鳴の手から受け取った。
両手の指先に包みこむようにして、空海はそれを持ちあげ、自分の額に押しあてた。
すっと、その金色に光る玉が、空海の額の中に潜《もぐ》り込んだ。
「では、わたしも何か御礼の品をさしあげねばなりませんね」
空海は、そう言って、眼を閉じた。
空海の唇から、低く呪《しゅ》がこぼれ出てきた。
「ナウマク・サラベタタァギャティビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン……」
不動明王《ふどうみょうおう》の呪《しゅ》のうちの、火界呪《かかいしゅ》であった。
その真言を唱えながら、空海は、左掌を開いて胸の高さでそれを上に向けた。その上に右掌を重ねる。
さらに真言を唱えながら、ゆっくりと、重ねた右掌を、左掌から持ちあげてゆく。
「空海……」
横にいた逸勢が、小さく声をあげた。
空海が右掌を持ちあげてゆくにしたがって、その右掌と左掌との間に姿を現わしてくるものがあった。
細い、金色の茎《くき》が、左掌から生え、右掌が離れてゆくに従って、そこに伸びてゆくのである。
空海の右掌が、すっかり離れると、空海の左掌に生えているものが明らかになった。
金色の茎の先端に咲いた、淡い金色の花。
しかも、その花は、炎のように形をかえながら、その茎の先端でゆらめいていた。
「不動明王の吉祥花《きっしょうか》です」
空海は言った。
「これを、あなたにさしあげましょう」
「いただきましょう」
鳳鳴が、そう言って、両手を伸ばしてきた。
空海の左掌に咲いていた吉祥花が、鳳鳴の手に移った。
鳳鳴が、その、淡い金色の花を自分の喉《のど》に押しあてた。
すっと、その花が鳳鳴の喉の中に潜り込んだ。
空海と鳳鳴が、顔を見合わせた。
「では」
「では」
どちらからともなく、声がかけられ、空海が立ちあがった。
「凄いな……」
腕を組んでふたりのやりとりを見ていた大猴が、そうつぶやいて、立ちあがった。
その時には、もう、逸勢も立ちあがっている。
「失礼します」
空海は、そう言って、その部屋を後にした。
そのようにして、空海にとっても、逸勢にとっても、長い一日であったその日は、幕を閉じたのであった。
(四)
部屋にもどってからも、逸勢は興奮して、眼を光らせていた。
「いやあ、気分がよかったぞ、空海よ」
「なにがだ?」
空海は訊いた。
「だからだ、おまえが、あの吐蕃の鳳鳴とはりあって負けなかったことだよ」
「負ける?」
「そうさ。あの部屋へ行って、あの男が宙に浮いているのを見た時には、魂が冷えたよ」
「なんだ、そのことか」
「そのことかって、おまえ、生身の人が宙に浮くのだぞ。たいへんなことではないか――」
「たいへんにはたいへんだが、それがどうしたのだ」
「どうしたって、おまえ、あれがたいしたことではないというのか――」
「そうは言ってはおらん」
「いや、おまえの口ぶりはそうだ。自分にもあれができると、そう思っていなければとても、あんな口ぶりでは言えぬぞ」
「できないことはないが――」
空海のあっさりした口調に、
「なに!?」
逸勢が驚きの声をあげた。
「なんだ、空海、おまえ、あれができるのか。おい――」
声が高くなっている。
「できないことはないと言っただけだ」
「とにかくできるんだな」
「できる」
「安心した」
逸勢は言った。
「安心?」
「あの鳳鳴というのにできて、おまえにできないことがあるというのはくやしいじゃないか――」
「何故くやしい?」
「おまえが好きだからだよ、空海。おまえがあの男にやり込められるということは、日本国がやり込められることになる……」
「日本国か――」
まるで、思いもかけなかった言葉を逸勢の口から聴いたように、空海はつぶやいた。
日本国など、唐に比べれば小さくて片田舎のようなものよ
そういうことを言っていた逸勢の口から、
かような言葉が出るとは思わなかった
そういう眼で、空海は、逸勢を見た。
「なあ、空海。おれは、おれの性格をよく知っているよ。すぐに、人と人とを比べたがる。自分と他人とを並べたがる。そして、その優劣を決めたがるのだ――」
逸勢は素直に言った。
「たしかに、そういうところがあるな」
「なあ、空海よ。正直に言うとだな、日本国にいる時は、おれは自分のことを天才と思うていた。役人なんぞは、俗物ばかりで、真に自分の才を評価してくれる者など、この国には誰もおらぬと思うていた。唐の長安であれば、東西の才が集まり、そこでなら自分の才を真に理解してもらえると思うていたのだ――」
「うむ」
「唐の王宮へ出入りをし、そういう天下の才人と交わり、酒を酌みかわしながら、気の利《き》いた話をし、倭国に橘逸勢ありと、そのように言われたいと思うてきた。いや、そうなるであろうと思うていたのだよ、このおれは――」
逸勢は、空海を見、
「しかし、空海よ、おれは、おまえに会い、この唐の都長安にやってきて、つくづくと思い知らされたよ。天才だのなんのというても、それは、あの、日本国の中だけのことであったのだなあ……」
しみじみとした口調で言った。
「おまえと一緒でよかった。もし、おまえがいなければ、この長安でおれの心はもっと小さくちぢこまっていたかもしれぬよ――」
「ふうん」
「空海よ、おまえには、とてもかなわぬ。しかし、おまえにかなわないというそのことが、不思議なことにおれは少しもくやしくないのだ」
「――」
「それは、おまえが、本当に凄いからだと思う」
逸勢は、まだ、興奮の残っている口調で言った。
逸勢は、唐の都、長安は西明寺の一室で、そこに燃えている灯明皿の灯りを眺めた。
「おれは、今、しみじみと、あの狭い倭国のことがなつかしいのだよ……」
逸勢は言った。
そして、長い一日であったその日の最後の灯りが消されたのであった。
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第十一章 猫道士
(一)
徒歩で、西明寺《さいみょうじ》を出た。
空海と、| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》。
そして、青龍寺《せいりゅうじ》の鳳鳴《ほうめい》。
大猴も一緒である。出がけに、送りに来た大猴に空海が眼をやって、
「大猴も行きたそうだな――」
そう声をかけて誘ったのである。
案内人がひとり、ついた。
案内人は、呂家祥《ろかしょう》の屋敷からむかえに来た、役人の趙子正《ちょうしせい》である。
道中、逸勢は無口であった。
無口ではあったが、顔が好奇心でふくれあがりそうになっている。
普通に歩いているだけなのに、その興奮で息が切れるのか、時おり、大きく息を吸い込んでは、それを、大きく吐き出す。
太平坊《たいへいぼう》の、呂家祥の屋敷に着いた。
呂家祥は、金吾衛《きんごえい》の役人にしては珍しく、人あたりの柔らかな、四〇過ぎの男であった。
呂家祥とは、鳳鳴も、空海も、逸勢も初対面である。
それぞれが、自分の名をなのった。
「西明寺にいる、倭国《わこく》の留学僧《るがくそう》の空海です」
「橘逸勢です」
「大猴です」
青龍寺の鳳鳴と一緒に来た人間が、倭国の留学僧と儒学生であることを知ると、呂家祥は怪訝《けげん》そうな顔をした。
しかも、もうひとりは胡人《こじん》の風貌をしている大漢《おおおとこ》である。
「おふたりとも、私の友人です。倭国にも、あなたの友人の劉雲樵《りゅううんしょう》が直面しているような事件がいくつかあるとのことで、昨夜は、おふたりから、その話を聴いていたのです。空海さんは特に、そういう方面のことには、法力《ほうりき》を持っておられる方で、あなたの友人の劉さんのことに、たいへん興味を持たれた御様子なので、今日はここにお連れしたのですよ。大猴さんは、時おり劉雲樵があばれることもあるという話なので、そういう時のために来ていただきました――」
あらかじめ、用意していたような台詞《せりふ》が、鳳鳴の口からよどみなく流れた。
呂家祥は、畏《かしこ》まって、四人を中に通した。
劉雲樵の寝ている部屋へゆくと、劉雲樵は、寝台の上に上半身を起こして、起きていた。
呂家祥。
鳳鳴。
空海。
逸勢。
大猴。
入ってきた五人を順にその眼で追ってきた。
しかし、五人を視線で追いはするが、その視線の焦点は、どこにも定まっていないように見える。
劉雲樵の頬は痩《こ》け、眼窩《がんか》から両眼が突き出て、異相の顔になっていた。
頬から顎《あご》にかけて、不精髯《ぶしょうひげ》が浮き出ている。
口が半開きになって、そこから歯と舌が覗《のぞ》き、口の端には、涎《よだれ》の乾いた跡があった。
自分の周囲に立った四人を眺め、ふいに、頬をひきつらせた。
「ひいっ」
声をあげた。
「おれを殺しに来たのか。そうか、おれを殺しに来たのだな……」
低い、底にこもった声で言った。
眼球が、劉雲樵がしゃべっているその間中、ぐるぐると動いた。
「待ってくれ。ひと月と言ったろう。まだ、いくらも経っていない。まだ何日もあるじゃないか。もっと後に来い」
劉雲樵は、間違いをしでかした部下にでも言いきかすように言った。
この部屋に通される前に、四人は、ひと通りの事情を聴いている。
青龍寺の僧がふたりもやってきて、
「猫は落ちたから大丈夫だ」
そう言って帰っていった後に起こった事件である。
その後に、劉雲樵の妻はいなくなり、本人の劉雲樵は、半分狂人となってしまったのであった。
そのために、青龍寺の方から、再び劉雲樵のところへ任《つか》わされたのが、鳳鳴であった。
空海は青龍寺の僧ふたりが劉雲樵の屋敷へ出かける前に、その屋敷へ出かけて猫の妖物《ようぶつ》に会って話をしている。
宇宙についての問答をした。
したたかそうな妖物であった。
空海が青龍寺に興味を持っていることを、猫の妖物は見抜いた。
なまなかの相手ではない。
空海が劉雲樵の屋敷へ出かけたその翌日、青龍寺からふたりの僧は来た。
そのふたりによって猫が落ちたという話を聴かされても、空海の態度には、それを信じていないところがあった。
胡玉楼《こぎょくろう》の玉蓮《ぎょくれん》に、もし、劉雲樵がまだ何かの悩みごとを抱えているようであれば、西明寺の空海を訪ねるように伝えてくれと、そう頼んでいる。
しかし、劉雲樵は、空海を訪ねる時間もなく、狂人となってしまったのであった。
鳳鳴は、空海が、劉雲樵の屋敷へ行ったことを、知っているようでもあり、知らぬようでもあった。
どちらにしろ、空海が、こんどの一件に関わっているらしいことは、鳳鳴は知っているらしい。
空海。
鳳鳴。
ともに、唐の人間ではない。
異国の僧である。
「さて、空海さん、どうしたものでしょうね――」
鳳鳴が、空海に言った。
「とにかく、この劉雲樵から事情を聴かねばなりませんが、これでは、まともな話はできそうにありませんね」
「はい」
「劉雲樵の屋敷で何があったのか。妻の春琴《しゅんきん》がどうなったのか。まず、猫の妖物が、今、この劉雲樵に憑《つ》いているのかどうか、そのあたりからということになりましょうか――」
「空海さんが、おやりになりますか?」
「いえ、わたしは、とりあえず今日はついてきた者ですから、今日は、鳳鳴さんのやり方を拝見させていただきますよ」
空海は、そう言って、一歩引いた。
逆に、鳳鳴は、前に一歩踏み出して、劉雲樵の寝台の横に立った。
劉雲樵は、怯《おび》えたように身をすくませて、寝台の隅に腰で這《は》って逃げた。
逃げたその奥は壁である。
「恐がることはありません。あなたを助けに来たのですよ」
落ち着いた声で、鳳鳴は言った。
鳳鳴の声を聴いて、ほんの一瞬、劉雲樵の眼に正気がもどったようになる。
「本当か?」
言うそばから、その眼の中に、くるりと正気の色が裏返り、狂気の色が宿る。
「殺しに来たのだろう。そうだろう。どこだ。どこに絹の布を隠しているのだ――」
「絹の布?」
「そうだ。それで、おれの首を締めようというのだろう。春琴も、おれを、そうやって殺そうと――」
「春琴が?」
「殺されないぞ。おれは殺されないぞ。おれは殺されないぞ」
うわごとのように、劉雲樵は言った。
「わたしは、あなたの味方ですよ」
鳳鳴が、軽く右手を伸ばした。
「えいっ」
声をあげて、劉雲樵は、逆に、その右手に跳びついてきた。
かつん、
と、劉雲樵の歯が、宙で鳴った。
劉雲樵は、鳳鳴の差し出した右手に噛みつこうとしたのである。
鳳鳴が右手を引かなければ、指を噛み切られていたかもしれなかった。
そのまま、劉雲樵は、四つん這いのまま、寝台から床へ飛び降り、床を疾《はし》った。
空海に向かって、跳びつこうとするところへ――
「まて」
大猴の巨体が、劉雲樵の前に立ち塞《ふさ》がった。飛びかかってきた劉雲樵を、大猴が、太い両腕で捕えていた。
凄い力だった。
劉雲樵の両腕を後方にまわして、動けないように押さえ込んだ。
「ほう……」
と、大猴の腕力の強さに、呂家祥が賛嘆の声をあげた。
「どうしますかね、空海先生?」
息も乱さずに、大猴が言った。
空海は、どうするのか、と、問うように鳳鳴を見た。
「では、そのまま押さえておいていただきましょうか」
鳳鳴は、そう言って、劉雲樵に近づいた。
鳳鳴は、右掌を、劉雲樵の額にあてた。
しばらく、右掌をそこに押しあててから、その手を次には喉《のど》にあてる。
次が、胸であった。
次が、腹であった。
次が、股間であった。
順に掌をあてながら、口の中で、低く何かの真言《マントラ》を唱えているようである。
「あれは、何をしているのだ、空海よ――」
逸勢は、声をひそめ、囁《ささや》き声で、空海に訊《き》いた。
「だから、妖物が、劉雲樵の肉体に憑いているかどうかをみているのだよ」
空海は言った。
「あれでわかるのか?」
「わかる時もある。わからぬ時もある。それに妖物も、いつも憑いているわけではなく、出たり入ったりする場合もあろうから、いまいないとなっても、明日はどうかはわからぬ――」
「むむ」
逸勢は、劉雲樵の肉体のあちこちに手をあててゆく鳳鳴を見ながら、身体を堅くした。
やがて、鳳鳴が掌を放した。
「憑いてはいないようですね」
鳳鳴は、そう言って、これまで劉雲樵に触れていた掌を放した。
「おい……」
逸勢が、空海の袖を引いた。
鳳鳴の掌が、黒く染まっているのを見たからである。
鳳鳴の掌の表面の黒いものは、もぞもぞと動いているようであった。
よく見ると、それは、蟻《あり》よりも小さな黒い蟲《むし》であった。
「たかっていたのは、小さなごみのようなものばかりでしたよ」
鳳鳴は言って、その黒い蟲の這っている掌を睨《にら》んだ。
ふうっ、
と、大気に溶けてゆくように、鳳鳴の掌からその黒い蟲のようなものが消えた。
「なんだ、今のは?」
逸勢が訊いた。
「いつだったか、玉蓮|姐《ねえ》さんの腕から、おれがとってやった餓蟲《がむし》というのがあったろう。あんなようなものさ――」
空海が言った。
「すみませんが、乾いた布を少し用意していただけますか――」
鳳鳴が、表情を変えずに、呂家祥に言った。
「もう、捨てる寸前の、襤褸《ぼろ》でかまいませんよ」
眼を吊りあげて、今の光景を見ていた呂家祥は、その声で我にかえり、慌てて、部屋の外へ、布を用意するように言った。
すぐに、その布が用意された。
「すみませんが、もう少し、劉雲樵を押さえていて下さい」
鳳鳴が言った。
「ああ、いいよ」
大猴が楽しそうに言った。
鳳鳴は、また、劉雲樵の前に立って、静かに、今度は両掌を、劉雲樵の頭部にあてた。両掌で、はさむようにする。
「お手伝いしましょうか」
空海が言った。
「頼みます」
鳳鳴が言った。
鳳鳴の唇から、低く真言《マントラ》がこぼれ出した。
[#ここから1字下げ]
Namo buddha_ya namo dharma_ya nam-ah・ sam・gha_ya, namah・, suvarn・a^vabha_sasya……
[#ここで字下げ終わり]
孔雀明王咒《くじゃくみょうおうしゅ》であった。
空海は、用意された布――襤褸を手に握ると、鳳鳴の横に立った。
鳳鳴が真言《マントラ》を唱え続ける。
ごくり、逸勢が唾《つば》を飲み込む音が大きく響いた。
と――
劉雲樵の鼻から、黒いものが流れ出してきた。
黒くて、濡れて光っているものだ。
それが、ふたつの鼻の穴から流れ出して、唇の方へと伝わってゆく。
それを、空海が、持っていた布でぬぐう。
ぬぐうそばから、それが流れ出してくる。
やがて、黒いものの流れ出る速度がゆっくりとなった。
そして、止まった。
部屋の中が、腐ったような、生臭い匂いでいっぱいになった。
鳳鳴が、手を放した。
「終りましたよ」
鳳鳴が言った。
「これを捨ててくれませんか」
空海が、劉雲樵の鼻から流れ出てきたものをぬぐった布を、呂家祥に渡した。
「何なのだ、今のは?」
逸勢が訊いた。
「劉さんの中に入っていた、悪い気[#「気」に傍点]や、餓蟲のようなものや、腐った血だよ。それを、鼻から取り出したのさ」
空海は言った。
劉雲樵は、怯えた眼で、鳳鳴と空海を眺めていた。
怯えてはいるが、さっきまでその眼にあった狂気の色は、ずっと減っている。
「もう、放しても大丈夫だ」
空海が言うと、大猴が、劉雲樵を押さえていた手の力を抜いた。
「すごいね、空海先生」
大猴が言った。
劉雲樵は、夢から醒《さ》めたような、表情をしていた。顔は、まだ青白いが、死人のような印象は、もう、その顔にはない。
「呂さん。劉さんに、熱いお茶を一杯、さしあげて下さい」
鳳鳴が言った。
すぐに、そのお茶が用意された。
劉雲樵は、ゆっくりと、碗に満たされたお茶を飲み干した。
劉雲樵の顔色が落ちついていた。
「さて、それでは、あらためて訊くといたしましょうか――」
鳳鳴が、劉雲樵に向かって言った。
「劉さん、いったい、あの晩に何があったのですか――」
劉雲樵は、怯えた眼で鳳鳴と空海を見た。
すがるような眼であった。
「わたしの家内が、妻の春琴が、いきなり年老いた、皺《しわ》だらけの老婆になって、わたしを殺そうとしたのです」
(二)
劉雲樵は、怯えた表情で、その晩のことを語り始めた。
話の途中で、鳳鳴が、時おり口を挟《はさ》んで質問をする。質問をするのは、鳳鳴である。基本的には、部外者の立場にある空海と橘逸勢は、黙《もく》して耳を傾けている。
怯えと興奮のため、劉雲樵の話が同じことの繰り返しになったり、話の前後がわからなくなった時に、鳳鳴が声をかけ、的確な質問をするので、劉雲樵の話が、なんとか筋道立ったものになっていた。
妻の春琴と、久しぶりに同衾《どうきん》しようとした時、その春琴が、歳老いた皺だらけの老婆になっていたのだと、劉雲樵は、震える声で説明した。
その時、劉雲樵は、寝台の上で妻の春琴を待っていた。
春琴は、寝台の周囲を囲んだ絹の垂れ幕のむこうでもじもじとしている。その春琴と、言葉をやりとりしているうちに、春琴は、しくしくと泣き出した。
劉雲樵が、泣くわけを春琴に問うと、春琴は不思議なことを言い出した。
「あなたは、わたしを殺そうとなんか、しないわよね」
「あたりまえじゃないか」
劉雲樵が言うと、
「あなたは、あとですぐに掘り出してやるからと言って、わたしを埋めて、何年も土の中に放っておくなんてこと、しやしないわね」
春琴が言う。
と――
春琴が、絹の垂れ幕の向こうで、身にまとったものを脱いでいる気配である。
その姿影が、垂れ幕に映っている。
その様子がどうもおかしい。
痩せていて、背や腰が、大きく曲がっている。
「わたしが、お婆さんになっても、わたしをよろこばせてくれるの?」
そう言った春琴の声が、はっきり、しわがれていた。
すでに、劉雲樵の知っている春琴の声ではない。
春琴の手が、垂れ幕の中に差し込まれてきた。
春琴の手ではない、皺だらけの手である。
それが、垂れ幕を横に引き開けた。
裸の、皺だらけの老婆が、そこに立っていた。
「あなや!」
劉雲樵は、叫んで、寝台の上に立ちあがっていた。
口を、大きく開き、出せる限りの大声で、劉雲樵は叫んでいた。
骨の上に、人の皮をそのまままとったような老婆であった。
眼窩《がんか》は深く落ち窪《くぼ》み、目やにが、眼の周囲に浮いている。
白髪だった。
髪はあるが、しかし、髪の量そのものが少ない。頭部に、まばらにその白髪が生えているだけである。
胸にはあばら骨が浮き、首には筋が浮いている。乳房は、大きな皺のようになって垂れ下がり、胸に張りついている。
「わたし、綺麗?」
老婆は言って、やにだらけの黄色いめだまをぎろりと動かして、劉雲樵を見た。
老婆は、枯れ枝のような手で、床に落ちていた春琴の服を拾いあげ、それを、自分の身体に巻きつけ始めた。
巻きつけながら、低い声で、何か言った。
言葉というよりは、それは、何かの歌のようであった。
歌であることはわかるが、その声は低く、不気味なほどしわがれていて、呪文のようにも聴こえた。
しかし、歌である。
その歌に合わせて、老婆の身体が、服を身に巻きつけたまま動き出した。
足を踏み、手を返し、首をめぐらす。
自分で唄っている歌に合わせて、どうやら、老婆は踊っているらしかった。
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雲想衣裳花想容
春風拂檻露華濃
若非群玉山頭見
會向瑤臺月下逢
雲には衣裳を想い 花には容《かんばせ》を想う
春風 檻《おばしま》を払《はら》うて 露華濃《ろかこま》やかなり
若《も》し群玉山頭《ぐんぎょくさんとう》にて見るに非《あら》ずんば
会《かなら》ずや瑤台月下《ようだいげっか》に向《むか》って逢《あ》わん
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美しい、心にしみる曲と詞であったが、声は切れぎれで、踊りの動きも踊りにはなっていない。
老婆は、ふいに唄うのをやめ、恨めしい眼で、劉雲樵を睨《にら》んだ。
「何故、そのような眼で、わたしを見るの?」
老婆は言った。
「わたしの姿が、そんなに醜いのかえ?」
老婆が、劉雲樵の方に近づいてきた。
老婆の身体に巻きついていた春琴の美しい服が、はらはらと床に落ちてゆく。
老婆は、寝台の縁で立ち止まった。
劉雲樵は、生きた心地がしない。
劉雲樵を猫のように光る眼で見つめ、寝台の周囲に垂らした絹の垂れ幕を、その歯でくわえ、きりりと噛み裂いた。
老婆と化した春琴の眼に見すえられた途端に、劉雲樵の身体は動かなくなってしまった。
「絹の布よ。この絹の布で、あなたをくびり殺してやるわ。絹はとてもよく締まるのよ――」
春琴は、そう言いながら、劉雲樵の首にその柔らかな絹を巻きつけてきた。
首を締められ、気が遠くなり、そのまま何もわからなくなって、気がついたら、翌日やってきた使用人たちに、自分の糞を喰べているところを発見されたというのである。
劉雲樵の髪は、そのひと晩で真っ白になっていた。
劉雲樵の話を、ひと通り聴き終えて、
「そういうことですか……」
鳳鳴は、小さくつぶやいた。
空海の方に向きなおり、
「いかがですか?」
短く訊いた。
「不思議なことですね」
空海は言った。
「はい」
「春琴さんがどうして老婆になってしまったかですが、いくつか考えられることはありますね」
「何が考えられるのだ、空海よ――」
逸勢が空海に訊いた。
「ひとつは、春琴さんが、本当に老婆になってしまったことさ」
空海が言った。
「もうひとつは?」
逸勢が訊く。
「劉さんが春琴さんと思い込んでいた人は、春琴さんではなく、始めからその老婆だったのではないかということだな――」
「もうひとつは?」
「春琴さんと、老婆が、劉さんが寝台の幕の中にいるあいだにうまく入れかわってしまったか、あるいは劉さんが何かの術にかけられていたか――」
「他には?」
「そんなところだろうよ」
「おまえは、どうだと思ってるのだ、空海?」
「わからぬ」
「わからない?」
「相当にたちの悪い何かが春琴さんに憑《つ》いたか、逆に劉さんの方に何かが憑いたか、もしくはその両方か、色々な場合が考えられるからさ」
「春琴さんに憑くというのはわかるが、どうして、劉さんに憑いたなどと言えるのだ――」
「今言った通りさ。つまり、何かが劉さんに呪《まじ》をかけるか憑くかして、春琴さんを老婆だと思い込ませたのかもしれないし、老婆を春琴さんと思い込ませていたかもしれないってことだ」
「ふうむ」
わかったような表情で、逸勢はうなずいてみせた。
空海は、鳳鳴を見やり、
「春琴さんが口にしたことで、気になることがいくつかありますね」
「ありますね」
うなずいて、鳳鳴は、その言葉を口にした。
あなたは、わたしを殺そうとなんか、しないわよね
あなたは、あとですぐに掘り出してやるからと言って、わたしを埋めて、何年も土の中に放っておくなんてこと、しやしないわね
わたしがお婆さんになっても、わたしをよろこばせてくれるの?
「それから絹ですね」
空海が言った。
「ええ」
「絹で首を締めたそうですね」
「何か、思いあたることはありませんか?」
鳳鳴が、劉雲樵に訊いた。
「土に埋めて何年も放っておくとか、絹とかにですか?」
劉雲樵が言う。
「はい」
「特別にはありません」
「歌はどうなのですか?」
空海が訊いた。
「春琴が唄った歌のことですか?」
「それと、踊りです」
「初めて耳にする歌です。踊りも、初めて見たものです」
「もし、覚えていたら、春琴さんが、どんな風に踊っていたか、そのかたちをやってみせてくれませんか」
「今ですか?」
「はい」
空海が、きっぱりした口調でうなずくと、劉雲樵は立ちあがった。
「全部、覚えてるわけじゃありませんので、いくつか、はっきり覚えてる動作だけやってみます――」
おずおずと、劉雲樵は両手を持ちあげ、
とん、
と、右足を軽く床に突いた。
たどたどしい動作で、劉雲樵は動いた。
「こんな風であったかと思います――」
踊り終えて、劉雲樵がつぶやいた。
「その踊りに心あたりは?」
「ありませんね」
劉雲樵は答えた。
「呂さん、今の踊りは御存知ですか?」
鳳鳴が、空海にかわって声をかけた。
「いいえ、わたしは、そちらの方はとんと駄目でありまして――」
呂家祥が、首を左右に振った。
「空海、おまえはわかるのか?」
逸勢が訊いた。
「おれは、まだ、踊りの方にまでは手がまわらないのだ。しかし、心あたりに、今のふり[#「ふり」に傍点]を見せて訊ねてみることくらいはできるだろう――」
「そうですね。わたしにも心あたりがありますので、今の踊りについては、わたしも調べてみましょう。踊りと一緒に唄っていた歌詞が、だいぶ役にたつでしょう」
鳳鳴が言った。
「たいへん美しい女性について詠《よ》んだ歌のようですね」
空海が言うと、鳳鳴もうなずいた。
「さて――」
と、鳳鳴は、あらためて、劉雲樵を見やった。
劉雲樵は、不安そうな眼で、鳳鳴を見ている。
「もうひとつ、訊きたいのですが、猫に、一カ月後に死ぬと予言されたそうですね」
鳳鳴が言った途端に、劉雲樵の表情に出ていた不安が、はっきりとした恐怖の色に変わった。
「ひい」
と、声をあげた。
すでに、その話は、空海も逸勢も耳にしている。
猫に死を予言され、それで怯えた劉雲樵が青龍寺に助けを求めたのである。そして、青龍寺の僧が劉雲樵の屋敷へ行って、猫を調伏《ちょうぶく》した。しかし、もう何もおこらないはずであったのに、何ごとかがあったらしく、劉雲樵が狂ってしまったことから、今日、こうして鳳鳴が劉雲樵のもとまでやってきたのである。だから、鳳鳴も、ひと通りはそのあたりのことは承知しているはずであった。
「猫の言った日まではあと十日ほどはあるのではありませんか――」
鳳鳴が訊くと、劉雲樵は、今日の日付を確認し、ほっとしたような表情になって、
「そうです。あと九日はある勘定になります――」
そう言った。
「そうですか……」
鳳鳴は、何事か考える風で、短くつぶやいた。
「わかりました。では、その九日の間、わたしがあなたと一緒にいることにしましょう。どうせ、今は、お役目をなさってはいない御様子ですから、わたしがいてもお役目の邪魔になるということもないでしょう――」
「か、かまわないのですか?」
「もとはといえば、わたしどもが、あの猫を調伏したと思い込んだために、今度のことがおこったようなものですから……」
「し、しかし……」
劉雲樵の顔には、安堵《あんど》と、この若い僧にまかせてよいのだろうかという不安とが、複雑な表情となって現われた。
「もちろん、あなたがおいやでなく、こちらの呂さんが御承知くださればということになりますが――」
「わたしは、もちろんかまいません」
成り行きを見守っていた、呂家祥が言った。
「では、お、お願いします」
劉雲樵は、不安を消し去ることができないものの、かといって頼るものなく予言の日まで独りでいられるわけもなく、鳳鳴に頭を下げた。
「では、本日この時より、わたしはここにいることになりました。さっそく、その旨《むね》、青龍寺にまで知らせにもどらねばなりませんが、わたしがいない間になにかあってもいけませんから、あとで文を書くことにしましょう。色々、必要なものもありますから、ちょうどいい。ついでにもうひとりほど、青龍寺から来ていただくことにしましょうか。その方が、わたしも色々動けますから――」
「よろしいのですか?」
「もちろんです。恵果さまが、この一件につきましては、わたしに一任してくださいましたので――」
「おまかせします」
「これからは、お独りでは外出されませんように。寝る時は、わたしも同じ部屋に眠ることにしましょう……」
劉雲樵に言ってから、鳳鳴は、空海に向きなおった。
「さて、空海さん。あなたから、劉さんに他に何か訊いておくことはありませんか?」
空海を試すような風で、鳳鳴が言った。
「そうですね――」
空海は、劉雲樵に視線を向けて、
「劉さんは、雅風楼《がふうろう》という妓楼《ぎろう》へ出入りなさってたのではありませんか?」
「ありますが――」
「劉さんの馴じみの妓生で、麗香《れいか》さんという方が、そこにいらっしゃいませんか」
「いますよ」
「その方が、今、どうしてるかわかりますか?」
「わかりません。なんでも、もう、雅風楼をやめられたという話だったような気がしますが――」
「その麗香さんとは、どういうきっかけでお馴じみになったんですか?」
「西市で、たちの悪い男にからまれているのを、助けてやったのです」
「それは、どんな風にだったのですか」
「半年くらい前であったと思うのですが、別の妓楼の馴じみの女に、西域の珍しいものでも買っていってやろうと、西市に出かけたことがありました」
「それで――」
「瑠璃《るり》の耳飾りで、ほどのよいものを見つけまして、それを買おうとしている時に、麗香を見たのです――」
「その時、麗香さんが、男にからまれていたのですね」
「そうです。銭を貸してくれと、麗香はその男に言われていたのです。言葉の様子からすると、南の方の男のようでした。長安《ちょうあん》では珍しくない、仕事のない喰いつめた連中のひとりです。都へゆけばなにかいいことがあるだろうと、長安までやってきたのはいいが、そうそういい話があるわけでもなく、仕事も見つからずに路銀《ろぎん》を使い果たして、人に銭をたかって、その日を生きている連中ですよ」
「それで、あなたが助けてやったのですね」
「はい。金吾衛《きんごえい》の役人をやっておりますので、ああいう連中のあつかいは慣れているのですよ――」
「それで、麗香姐さんと知り合ったわけですね」
「そうです」
「仲は良かったのですか」
「それはもちろん。向こうは助けられた恩がありますから、普通の客以上に親密にしていたのです」
いったん、話し出すと、劉雲樵の口はなめらかだった。
「雅風楼では、どういうことを話したのですか――」
「色々です」
「というと?」
「むこうは、金吾衛の役人というのに興味があるらしく、色々訊ねてくるので、こちらも色々とお役目のことなど話したりしましたよ――」
「ふうん」
空海は、小さく声をあげて、
「劉さんは、猫の件で、最初は道士の所へ訪ねて行きましたね」
「はい」
「そういうことも、麗香姐さんには話をしたのですか?」
「しました。そのことでは麗香にも相談にのってもらい、道士にでも相談したらいいと、麗香が教えてくれたのです」
「その道士は、誰が紹介したのですか――」
「麗香です」
「へえ」
「紹介というほど大袈裟《おおげさ》ではなく、長安に住んでいる何人かの道士の名前を教えてもらったのです。その中から、ひとりを、わたしが選んだのですが……」
「なるほど」
「なにか、あるのですか?」
「いえ、ちょっと興味を持っただけでして――」
空海は、そう言って、頭を下げた。
(三)
太平坊を出たのは、三人であった。
空海。
橘逸勢。
大猴。
三人が、並んで、歩いてゆく。
鳳鳴ひとりが、呂家祥の屋敷に残った。
鳳鳴は、太平坊の坊門まで、空海たち三人を見送りに来た。その鳳鳴と、しばらく前に坊門でわかれている。
「空海先生は、凄いね」
大猴は、道々、しきりと感心した声をあげる。
逸勢は、腕を組みながら、唇をいかつくさせて、歩いている。
空海は、いつもと同じで、飄々《ひょうひょう》とした感じで、歩いてゆく。
「なあ、空海よ……」
逸勢が、空海に声をかける。
「どうした」
「……あれで、鳳鳴というのは、存外に良い漢《やつ》かもしれぬな」
「急にどうしたのだ」
「いやいや、坊門まで我等を見送りに来てくれたではないか――」
「あれは、我々に話があったのだ」
「そんなことはわかっている。その話の内容だ。おまえをしきりに青龍寺に誘っていたではないか」
「そうだったな」
空海はうなずいた。
呂家祥の屋敷を出た時は、鳳鳴を含めて四人であった。
鳳鳴は、
「三人を、坊門まで送ってきます」
そう言って、空海たちと共に、呂家祥の屋敷を出てきたのである。
「ところで、さっきのあれは、わたしには初耳でしたよ」
呂家祥の屋敷が見えなくなったところで、鳳鳴が空海に言った。
「あれ?」
「雅風楼の麗香という妓生のことです。あれは、今度のことと、何か関係があるのですか――」
「あるかもしれません。ないかもしれません――」
空海は正直に言った。
「あなたは、あると考えているのでしょう」
「考えています」
はっきりと空海は答えた。
しばらく、黙したまま、歩いた。
街路に植えられた槐《えんじゅ》の緑が、陽光を浴びて、頭上できらきら光っている。
馬車や、人の往来が、そこそこにある。
そういう風景を見るともなく眺めながら、空海も鳳鳴も歩いている。
「わたしはね、空海さん。この一件は、なかなか根の深いものだと考えているのですよ」
ぽつりと、鳳鳴は言った。
「わたしもです」
空海は言った。
「妖物を、落としたの落とさないのということで、解決がつくようなものではなさそうです――」
鳳鳴は、はっきりと言った。
「そうですね」
「劉雲樵の過去――もしかしたら、家系図の昔にまで遡《さかのぼ》って考えてみた方がいいかもしれません」
「わたしも同意見ですね」
「そのことについては、これから、少し調べてみようと思ってるのですよ。劉雲樵本人にも訊いてみます」
「わたしの方は、麗香のことを、少し調べてみましょう。実は、この大猴に、すでに麗香のことは調べてもらっているのです」
「何かわかっているのですか」
「今、麗香は、雅風楼にはいないのです。どうやら、親仁坊《しんじんぼう》の道士だか方士だかの家にいるらしいのですが、何かわかったら知らせましょう」
「わたしの方も、劉雲樵の件で、何かわかればお知らせしましょう」
「この大猴を、時々うかがわせますので、大猴を通じて連絡がとれるでしょう」
「わかりました」
「わかりました」
空海と鳳鳴とは、互いにうなずきあった。
歩くうちに、向こうに坊門が見えてくる。
「青龍寺には、いつ、いらっしゃるのですか?」
ふいに、鳳鳴が訊いた。
「そのうちに、と思っています」
「恵果|阿闍梨《あじゃり》は、あなたに興味を覚えておいでのようですよ」
「そうですか」
「色々と……青龍寺の気をひくようなことをなさいましたからね」
「恐縮です」
「賢《さか》しいまねをしすぎるよりは、素直にいらっしゃった方がよい場合もあります」
「胆《きも》に銘じておきますよ。あなたの御忠告は、よくわかります」
「この劉雲樵の件でも、青龍寺をだしぬこうと考えていたのではありませんか?」
「始めのうちはそうです」
「今は?」
「何か、ことの根が深そうで、そうも言ってはいられなくなりました」
空海の言い方は素直である。
鳳鳴は微笑した。
「あなたが、こういう方でよかった。実は、恵果和尚から、空海という人間を見て来いと言われていたのです。あなたのことは、見たままに報告することにしましょう」
鳳鳴は、そう言ってから、足を止めていた。
坊門の前に着いていた。
「青龍寺に来る時には、わたしに言って下さい。わたしが御案内しましょう」
「そのおりには、ぜひ」
坊門の前で、空海と鳳鳴は向かいあい、互いを見つめ合った。
「では」
「では」
空海と鳳鳴は、そう声をかけあって、別れたのであった。
そうして、今、三人は、平康坊《へいこうぼう》に向かって歩いているところであった。
「しかし、空海よ、おれには少しわからないことがある――」
歩きながら、逸勢が訊いた。
「なんだ」
「麗香のことだが、どうして、おまえはその女が怪しいと考えたのだ」
「ひとつずつのことだけを考えればどうというわけでもないのだが、いくつかのことを考えに入れてゆくと、麗香が、どうもこの一件に関係しているらしいと考えざるを得なかったのだ――」
「ほう」
「まず、春琴に取憑いた猫だが、この猫が一番最初に劉雲樵に向かって言ったのが、麗香のことだったというじゃないか――」
「雅風楼の麗香という女のところへ寄ってきたことを、猫はちゃんと知っていたらしいな――」
「それだけなら、別にどうということはない。猫は、他にも、色々と人が知らないことを口にしているわけだからな」
「では、どうして――」
「道士の一件さ」
「ほう」
「劉雲樵が、思いあまって、道士に妖物落としを頼んだろう。道士は、猫に毒の入った食べ物を与えようとしたが、猫は、そのことをすでに知っていた。それはどうしてなのかな――」
「だから、猫の妖物の妖力《ようりき》が、道士の験力《げんりき》よりも優れていたからではないのか」
「いいか、逸勢。いかに妖力が優れていても、ひとりの男がその日一日、どのような行動をしていたか、別の場所にいて知るのは、たいへんに難しいことなのだ。いっそのこと、その後を尾行《つ》けた方がずっと楽なのだ。しかも、その時は、そこそこに験力のある道士が相手なのだ。おれには、猫が、その毒のことまで妖力でわかったとは思えない」
「だから、それだけ、猫の妖物の妖力が強かったのだろうと、おれは言ったじゃないか」
「まあいい。そのことひとつだけに関する限りは、どういう解釈もできるからな」
「まだ、何かあるのか?」
「ある。おまえも知っているだろう。胡玉楼《こぎょくろう》のことをさ――」
「胡玉楼?」
「玉蓮姐さんの腕に取り憑いた餓蟲《がむし》というのを、おれがとってやったことがあったろう?」
「そのことなら覚えている」
「あれは、ただ、普通にしているだけで、あれほど人の身体に溜るものではない――」
「ほう、どういう時に溜るのだ」
「邪視《じゃし》だな」
「邪視!?」
「そうだ。あの時は、言わなかったが、悪意とか、憎しみをもって誰かを眺めるだけで、その誰かを病《やまい》にかけたり、時には死に至らしめたりすることのできる眼――それが、邪視だ」
「ほう――」
「その頃だろう。玉蓮姐さんが、麗香姐さんのお馴じみだった劉雲樵のお座敷にあがったのは――」
「そんなことを言っていたな」
「それで、おれたちは、劉雲樵の件に首を突っ込んだわけだからな」
「そう言えば、麗香から、時々、凄い眼で睨まれることがあると、玉蓮姐さんは言っていたような気がするよ」
「それで、おれは、麗香姐さんが邪視の持ち主ではないかと考えるようになったのさ――」
「ふうん」
「しかし、それも、そのひとつだけを考えれば、どうということはない。しかし、それに劉雲樵がやはりからんでいるとなるとどうなる?」
「どうって?」
「麗香姐さんに、劉雲樵が、いちいち報告していたとなれば、色々なことが納得いくじゃないか。しかも、大猴の話では、麗香姐さんは、最近雅風楼にはいないで、何やら道士だか方士だかの家にいるって話だろう。はっきりした根拠があるわけではないが麗香姐さんが、敵の仲間と考えれば、色々なことが納得いくじゃないか――」
「なるほど、それで、おれにも少し見えてきたよ」
「しかしまだ、はっきりそうと決まったわけじゃない……」
空海は、歩きながら、念を押した。
「ところで、もうひとつ訊かせてくれ、空海――」
「なんだ」
「さっき、鳳鳴が言っていたことだが、おまえ、青龍寺の気をひこうと色々と何かやっていたと言われなかったか?」
「言われたよ」
「それは、どういうことなのだ」
「だからさ。おれの噂が、それとなく青龍寺の方へ流れてゆくようにしたということさ――」
「なに!?」
「洛陽の官店での、あやかしの一件とか、| 世 親 《ヴアスバンドウ》のこととか、たとえば、今回のことだとかな――」
「なんだって――」
「西明寺の志明《しみょう》と談勝《だんしょう》が、そういう、ほどよいおれの噂を青龍寺に流してくれたのだよ」
「おまえ、あのふたりに頼んだのか?」
「頼みはしない。あのふたりが勝手にしただけだ。今回の劉雲樵の一件も、青龍寺より先に、おれの手でおさまりをつけてやろうとしたのだが、なかなかどうして、根が深そうでな――」
「そんなことを言っていたな」
「鳳鳴に忠告された。賢《さか》しいまねをしすぎてはいけないとな。あれはなかなかありがたい忠告だった――」
「しかし、どうして、おまえは、自分の噂が青龍寺へ流れるようにしたのだ」
「密《みつ》さ」
空海は、立ち止まり、天を仰いで、はっきりと言った。
「密?」
「おれは、密の何もかもを、根こそぎこの手に欲しいのだよ」
「――」
「しかも、短期間でだ」
「なんと」
「そのためには、ただの留学僧空海[#「ただの留学僧空海」に傍点]として青龍寺へゆくよりは、あの空海[#「あの空海」に傍点]ということでゆく方が早かろう」
そう言った空海を、逸勢は、しみじみとした眼で見つめた。
「とんでもないことを考える男だな、おまえは――」
「しかし、賢しいのはいけない。あやうくおれは、賢しいことをしすぎて、しくじるところであった……」
空海は、まだ天を仰いでいる。
青い、長安の天であった。
[#改ページ]
底本
徳間書店 単行本
沙門空海唐《しゃもんくうかいとう》の国《くに》にて鬼《おに》と宴《うたげ》す 巻ノ一
著 者――夢枕 貘
2004年7月31日 第一刷発行
発行者――松下武義
発行所――株式会社 徳間書店
[#地付き]2008年12月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・吐蕃《とつばん》
・吐蕃《とばん》
修正
遺唐使→ 遣唐使
遺使→ 遣使
安薩宝《あんさつぼう》・安薩宝《あんさつぽう》→ 安薩宝《あんさつぽう》に統一