東天の獅子 第一巻
天の巻・嘉納流柔術
夢枕獏
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)前田光世《まえだみつよ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)創始者|嘉納治五郎《かのうじごろう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)こつん[#「こつん」に傍点]という感触
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[#挿絵(img/01_000.jpg)入る]
〈帯〉
執筆11年、原稿用紙2000枚。
待たれた大作、ついに刊行開始!
明治初期の柔道界が生き生きと描かれている。
嘉納師範の歴史は、そのまま柔道誕生の歴史である。
山下泰裕氏
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東天の獅子――とうてんのしし――
第一巻
天の巻・嘉納流柔術
夢枕 獏
双葉社
目次
序章 鬼の系譜
一章 永昌寺
二章 講道館
三章 四天王
四章 刺客
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まえがき
物語の力について
これは、長大な物語である。
格闘の話ではあるが、これは物語としてまっとうであり、その本道にあると思っている。
思いたってから数十年――書きはじめてからも、これまでに十年余りの時間が過ぎてしまった。
本来は、明治時代の柔道家、前田光世《まえだみつよ》について書くつもりであった。二〇代の時にアメリカに渡り、二〇〇〇試合して無敗。最後はブラジルに渡ってその生涯を終えた。一度も日本に帰らなかった。
この前田光世がいなかったら、現在世に知られるバーリトゥード――総合格闘技は世になかったと言っていい。あったとしても、現在とはもっと違ったものになっていたろう。
その前田が世に登場するまでの話を書くつもりで、柔道創成期のことを書きはじめたら、これがおもしろくなり、次々と長くなり、ついには四巻本となってしまった。
いつものことながら、書けば書くほど長くなるというぼくの癖がまた出てしまったのである。
長くはなってしまったが、どうか、このおもしろさに免じて許していただきたい。
柔道の創始者、嘉納治五郎。
姿三四郎のモデル、西郷四郎。
講道館四天王のひとり、横山作次郎。
柔道王国久留米の中村半助。
大東流合気柔術創始者武田惣角。
仲段蔵、佐村正明、西郷頼母近悳、好地円太郎、照島太郎、松村宗棍、大竹森吉等々――きらびやかでなんという凄いメンツがこの時期の日本に生じたのか。
彼らの足跡をぜひともここに書き残しておきたかった。
書けば書くほど筆がのって、とまらなくなり、物語に力がこもってこんなにおもしろいものになってしまった。
細かいことはあとがきに譲るが、書いたこと全てを忘れて、一読者としてこの物語に耽溺したいと本気で思う。
いいなあ。
まっさらな状態でこれが読めるなんて。
あなたのことが、ぼくは本当にうらやましい。
作者が本気で読者に嫉妬しているのであります。
[#地から8字上げ]二〇〇八年九月十二日
[#地から4字上げ]東京にて――
[#地から3字上げ]夢枕獏
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東天の獅子 第一巻  ◎天の巻・嘉納流柔術◎
序章 鬼の系譜
一九五一年(昭和二十六)一〇月 ブラジル
(一)
負けたことがなかった。
広いスタジアムの中心に、ぽつんと独り突っ立って、木村政彦はそう思っている。
負けたことがなかった。
リオ・デ・ジャネイロの、マラカナン・スタジアム。
いつもは、サッカーの選手とその観客が集まり、声をあげている場所だが、今夜は違う。今夜の観客は、皆、このおれが闘うのを観に来ているのだと木村は思っている。
三十四歳。
身長一七〇センチ。
体重八十六キログラム。
会場を埋め尽くした四万人の観客の視線に、自分の肉体がさらされている。
それは、いやな感覚ではなかった。
視線は、力である。視線は、それにさらされる人間の気持を高揚させるエネルギーを持っている。多ければ多いほどいい。これまでに、何度も、木村はそれを体験してきた。
観客の心の中に生ずるあらゆるものが、その視線に込められる。
期待。
不安。
興奮。
さらには、試合には直接関係のない、家庭内のごたごたからくるいら立ちや、不満。想い。欲望や、憎しみや殺意のようなものまでがその視線に乗って届けられてくるのだ。ひとりひとりのそれは微弱なものであるのに、百、千、万と集まってくると、それが、会場に温度を持った磁場のようなものを創る。
その視線の磁場の海の中で、闘う。
観客の怨念や、得体の知れないどろどろとした情念のようなものをその身に受けて、それを闘う者がどれだけ背負うことができるのか。
それは、闘う者が背負う荷を選ぶのではない。
荷の方が、それを背負う者を選ぶのである。
闘いが始まれば、それを背負って自分の肉体が動き、細胞の汁がしぼり出されてしまうくらいに筋肉が軋む。その感覚が嫌いではなかった。
熱気。
夜になっても、まだ大気は温度を保っている。
柔道着に、汗が薄く吸われている。日本から持ってきた柔道着だ。そして、ぼろぼろの黒帯。
負けるのが嫌だった。
たとえ、練習であれ、乱取りであれ、負けたくなかった。稽古の時でさえ、試合のつもりでやった。警視庁の道場では、皆、自分とやるのをいやがった。それを、拝み倒して相手を前に引きずり出し、片端から投げ飛ばした。大外刈りが得意だった。足を刈られた痛みでうずくまってしまう者や、後頭部を畳に打ちつけられて、脳震盪をおこして気絶する者まで出た。
講道館で禁じられていた腕がらみを、警視庁の道場では使用できたので、一日にひとりふたりは、腕を脱臼するか捻挫する者が出た。
負けない――
それが、誇りであった。
全てであったといってもいい。
この熱。
この緊張。
久しぶりだった。
久しぶりに、本当に勝つための勝負をする。
だが、どこかに、醒めた視線がある。
誰かが、醒めた眼で自分を眺めているような感覚がある。
妙な感覚だった。
これは、自分の視線か。
醒めた眼で木村を眺めているのは、木村自身であった。
負けたくなかった。
そして、負けたことはなかった。
二〇歳を過ぎてからはだ。
木村政彦が、それまでの生涯で負けたのはただの四度だけだ。十九の時に、四度、負けた。
以来十五年間、誰にも、どのような勝負にも負けたことはなかった。
(二)
木村政彦は、鬼≠ニ呼ばれた柔道家である。
大正六年(一九一七)九月、熊本に生まれた。
地元の鎮西中学から、昭和一〇年に拓殖大学商学部予科入学。
在学中の昭和十二年から、全日本選士権三連覇。
大学学生選士権優勝二回。
昭和十五年天覧武道大会優勝。
昭和十六年明治神宮大会優勝。
太平洋戦争を挟み、十年近いブランクの後、昭和二十四年、全日本選手権優勝。
昭和二十五年、プロ柔道選手権大会優勝。
昭和十二年から、無敗。
出場した全ての大会で優勝をさらうという前人未到の記録を打ち立てている。
この後、柔道をやめ、ハワイに渡ってプロレスラーとなったのが、昭和二十六年。
同じ年の秋にプロレスでブラジル遠征。
帰国後、木村より遅れてプロレスラーとなった力道山とタッグを組み、シャープ兄弟と試合をし、昭和二十九年十二月に、力道山と闘っている。
一種の、狂気と天才を身の裡《うち》に合わせ持った、異常人であった。
負けないこと――勝つためには、どのような努力も惜しまなかった。
創始者|嘉納治五郎《かのうじごろう》から始まり、山嵐の西郷四郎《さいごうしろう》、山下義韶《やましたよしかず》、横山作次郎《よこやまさくじろう》、徳三寳《とくさんぽう》、空気投げの三船久蔵《みふねきゅうぞう》と連なる、講道館柔道史における異能人の血の系譜上に生まれた人間である。
この中で、鬼と呼ばれたのは、横山と徳のふたりだけであり、木村は、明らかにその鬼の血の系譜を、現代に繋ぐ人間であった。
負けぬために、あらゆることをやった。
信じられないくらいの時間を、稽古に費やした。
人が三時間やるのなら、六時間。
人が六時間やるのなら十二時間。
他の人間より倍の練習時間を自らに課し、多い時には日に十八時間にも及んだ。通常では、どんなに少なくとも練習時間は七時間。
警視庁の朝稽古に出、学校で授業を受け、その後、学校の道場で稽古。このあと、帰る足で講道館へゆき、そこで練習。さらに深川の道場で二時間の稽古。これ等の稽古時間を全てプラスしてみれば、一日に七時間は、充分にやっていることになる。
「強さというのは、一種の麻薬です。そのためには、自分らは狂ったようになってしまうんです。何でもできるし、どんなに辛い練習であろうと、それに耐えられてしまうんです」
そのように言った、実戦空手派の武道家もいる。
木村にとって、弱さとは悪であった。
自分の弱さを許せなかったのみならず、他者の弱さにも我慢が効かないところもあった。弱さが許せない。
稽古中に、相手の弱さに我慢がならず、わざと腕がらみで関節を捻挫させてしまうということもあった。
自分よりも強い男――自分に勝った男のことも、木村は執念深く覚えていた。負けた試合のことを忘れない。
そして、自分が負けた相手には、後に必ず勝ってのけた。
生涯で、正式な試合において、木村が負けたのは四度であった。
いずれも、拓大予科一年の時であり、先に記した通り、四度とも十九歳の時である。
昭和一〇年、春――
木村は講道館の紅白試合に出場した。
紅白に選手を分けての勝ち抜き戦である。
木村は四段であった。出場した木村は、四段の相手八人を倒し、九人目の明治大学の宮島という学生に負けた。
これは、仕方がない。
いずれもが四段の実力者である。下位の人間を相手にしたわけではない。紅白試合に出場してくるくらいであるから、いずれも、各大学や道場での猛者ばかりである。彼等を相手に、たて続けに八人を抜き去ったことが奇跡のようなものである。それを誇りに思うべきであり、九人目に負けたのは、仕方のないことである。
その負けは、負けではない。
しかし、木村は違った。
それでも負けは負けであり、八人抜いたことよりは、九人目に負けたことの方を覚えている。
木村の師であった牛島辰熊七段(当時)は、鉈《なた》のような言葉で、木村を叱責した。
「九人目に負けるとは何ごとか!」
おもいきり殴られた。
「試合は、武士が互いに白刃《はくじん》を抜き放って、殺すか殺されるかの真剣勝負をするのと同じである。相手を投げるということは、殺すことであり、投げられるということは、殺されることである。お前は、八人殺して、九人目に殺されたのだ。生命ながらえたくば、相手を殺すしかない」
木村は、殴られながら、火のような涙をこぼして、牛島の言葉に頷いた。
同じ年の五月――
木村は五段になっていた。
宮内省主催の五段選抜試合が開催され、全国から若手五段の実力者が集まった。この試合にも、木村は出場した。
このおり、木村は、警視庁の大沢五段と、京都武道専門学校の助教、阿部謙四郎五段に破れている。
さらにまた同じ年の秋、五段紅白試合が講道館で開催された。この試合にも木村は白軍で出場した。
木村の出番になった時、紅軍の相手は十四人残っていた。
十四人全てを投げ殺すつもりだった。もし、十三人に勝っても、十四人目に負ければ、それは自分の死である。
五段ともなれば、四段よりもさらに実力は伯仲する。しかし、相手はこの木村の気合に呑まれた。
たちまち、木村は、四人を倒していた。
五人目が、山本という男であった。
右変形に組み、一気に倒そうと引きつけた途端に、木村は、勢いよく後方に刈り倒されていた。
小内刈りである。
五人目に、木村は一本負けをして、牛島流の表現をするなら、殺されたのである。
繰り返すが、この年の四敗が、生涯を通じての木村の敗北であり、以来、真剣勝負が前提となった試合では、木村はただの一度も負けていない。
さらに言うならば、宮島、大沢、阿部の三人には、木村は雪辱を果たしている。
阿部に雪辱を果たしたのは、一年後であった。
講道館での稽古のおりである。
木村は、あらかじめ、阿部が京都から出てくるのを知っており、言うなれば、これは待ち伏せであった。
阿部の姿を見かけた木村は、走り寄り、
「お願いします」
稽古を申し込んだ。
ふたりの稽古が始まると、他の者は稽古をやめて、この闘いを遠巻きに見守った。
この稽古で、木村は阿部を、
羽目板に十一回、畳に六回、イヤというほど叩きつけてやった
と、一九八五年発行の自著『わが柔道』の中で書いている。
しかし、一本負けをした山本とは、結局、再戦することはなかった。
殺されたままでは腹の虫がおさまらない。なんとか雪辱を、と念じていたが、その後、彼とは一度も相対する機会に恵まれなかった。四十年近く経った今でも、これは残念でならない
と、前記の著書で木村は書いている。
しかしながら、前著の発行は、一九八五年であり、それから計算するなら、これは四十年ではなく五〇年であろう。
木村政彦、六十九歳の時の発言である。
もし、その機会のあるのを知れば、たとえ六十九歳のこの時であろうとも、木村は道衣を身につけ、帯を締めたであろう。
まことに、執念というしかない。
木村の生活を考えてみるに、この頃、木村は、一日中、二十四時間でも柔道のことで埋めることができたであろう。また、現実に、そのようにしてきた。
稽古中は言うに及ばず、飯を喰う時には、このひと粒ひと粒が、肩の筋肉になれと念じて飯を噛んだ。眠る時間を三時間にしてまで、深夜、布団の上で技の新しい工夫について考えた。
腕立て伏せを一日に千回。
庭の樹に帯を掛け、これを相手に見たてて打ち込みの稽古を千回。
最低でも、これだけのことを一日にこなしてきたのである。
驚くべきことには、試合があった日も、木村はこれを休まなかった。吐きながら、庭の樹に打ち込みをし、腕立て伏せをする。
何かの都合でこの稽古ができなかった時には、損をした気分になった。
ひとつのことに、自分の二十四時間と、持っているだけのエネルギーを捧げ尽くしてしまう。肉体にある燃料のありったけを、枯れ果てるまで燃やしてしまう。
木村は、それができた。
異様な能力であったといっていい。
木村政彦が天才であるというのは、まさにそのことにおいてである。
それを、木村は日常とした。
武道家として、あたりまえのこととして、それをやったのである。木村にとっては、それはあたりまえのことだった。木村にとっては、それは、強くなるために、あたりまえのことをしただけだったのである。
強くなる――これを生き方として選んだ瞬間から、それはあたりまえのことになったのである。
戦争が始まって、木村は甘木防空隊に入隊した。
二等兵の時、東京から銃剣術の名人が来た。
銃剣術の指導のためである。
名人の指導が始まり、
「誰でもいいから立ち合う者はいないか」
と、名人は言った。
出てゆく者はいない。
この時、
「木村二等兵、前へ」
隊長が木村を呼んだ。
柔道では名の知られた木村が、この名人と銃剣でどう闘うか、隊長はそこに興味を持ったのである。
覚悟を決めて銃剣を手にした木村は、
「さあ、突いて来なさい」
という名人に、すぐには手を出さない。
眼は吊りあがっている。
試合であろうと稽古であろうと、どのような勝負であれ、木村にとっては、それは生死を懸けた殺し合いである。
間合を測り、木村は、突くと見せて、いきなり名人に銃剣を放りなげた。
これを躱《かわ》そうとして体を崩した名人に、木村は恐ろしい速さでタックルにゆき、足を掛けて名人を倒した。
馬乗りになり、名人の面をはずし、現われた顔を、上からおもいきり殴りつけようとした時、
「やめい、やめい、木村!」
隊長が叫んだ。
隊長にしても、まさか、このような闘い方を木村がするとは考えてもいなかったのである。
木村が結婚したのは、除隊した昭和二〇年七月のことである。
その年に、終戦となった。
昭和二十一年九月、GHQの方針で、大日本武徳會は解散を命じられた。
残ったのは純民間団体の講道館であった。
戦後の混乱期――木村が、闇屋をやり、ヤクザと交友し、財閥の領袖、古荘健二郎の用心棒をしたのはこの時期である。
二十二年七月一日、木村は西日本柔道選手権大会で優勝。
二十三年三月十五日、全九州対全関西の対抗試合に出場し、相手選手の腕を投げ折ってしまう。痛み分けで両者引き分けとなったが、試合は殺し合いとの考え方で言えば、文句ない木村の勝ちであった。
他にも幾つかの試合をしたが、木村は勝ち続けた。
この間に、木村は、練習をまったくといっていいほどやっていない。試合前に、二日、三日軽く汗を流し、それで試合に臨み、圧倒的な力の差で勝ってのけている。
こうした腐敗しきった生活の中で、猛訓練を積んだ人たちをなぎ倒すことができた理由はどこにあるのだろう
と木村は自問する。
それは、
練習一途に走った時代の修業の度合があまりにも他と比べて違いすぎていた
からであろうと木村は書いている。
過去に自分の肉体に積みあげた財産の残りで勝っていたのである。
木村が、中央の大会に再び出場したのは、昭和二十四年のことであった。
この年の五月五日、日本橋浜町の仮設国技館で、戦後二回目の全日本選手権大会が開かれた。
これに、木村は出場した。
昭和十六年の明治神宮大会で優勝して以来、木村にとっては八年ぶりの全国大会であった。
練習らしい練習もせず、東京へ出、試合前日に深川の安宿に泊まった。
そこに訪ねてきた昔の仲間と深夜まで酒を飲み、ほとんど眠ることなく、木村は試合場の畳の上に立った。
ところが、木村は、三回戦まで勝ち進んで、四回戦の決勝戦にまで残ってしまったのである。
一本勝ちふたつ、優勢勝ちひとつ。
鍛えていない左脚付け根の筋肉が、三戦目で裂けてしまったにもかかわらず、これに木村は優勢勝ちを収めたのである。
決勝戦の相手は、東京の石川隆彦六段であった。
木村より、ひと回りも身体の大きい選手である。
この時、木村の身長は一七〇センチ、体重は八十六キロである。柔道選手として考えた時、決して大きな身体をしているわけではない。当時、柔道の試合は、全て無差別であったから、たとえ相手が身長一九〇センチ一〇〇キロを超える人間であっても闘わねばならない。しかし、木村は、そういう相手と闘って、これまで勝ってきたのである。
石川との試合は、二度の延長戦にまで及び、結局、引き分けで、木村と石川ふたりの優勝ということになった。
八年もの間、稽古らしい稽古をしなかった人間が、引き分けながら優勝というのは、一種の奇跡である。
木村が、その生涯において、一番大きな出世の機会を得たのは、昭和二十四年の暮れであった。
「貴殿を警視庁の柔道主任師範として推薦したいのだが――」
熊本県警本部長から、木村はそのような依頼を受けたのである。
稼業としていた闇屋から足を洗うよい機会であった。木村はこれを受け、翌年の四月一日からいよいよその職につくことになった。
しかし――
二月のある日、木村は、師である牛島辰熊の訪問を受けた。
この訪問が、木村の運命を分けたのである。
「プロ柔道の組織を創ることになった」
と牛島は言った。
これに参加してもらいたいというのである。
師の要請であり、これを断ることはできない。
結局、木村は警視庁柔道主任師範の職を捨て、プロ柔道に身を投ずるのである。
木村政彦、三十二歳。
選手総勢二十一名。
早大出身の山口利夫もこのメンバーの中にいた。
給料は木村が十万円、他は五万から三万である。
昭和二十五年の四月十六日に、後楽園の仮設道場で旗あげして、木村は初代チャンピオンになった。しかし、最初は入っていた客が、半年もすると、ほとんど入らなくなった。
この頃に、木村の妻であるとみ子が、肺病で熊本医大病院に入院をした。当時、肺病と言えば、難病の最たるもので、戦後の食料不足と貧困でいためつけられた人間がこの病気にかかれば、治療の見込みはなかったといっていい。
入院費と、そして、日本では手に入らない薬ストレプトマイシンを買うために、莫大な金がかかるようになった。
そういう時期に、ハワイの松尾興業社から木村は誘いを受けたのである。ハワイ八島で、三カ月間柔道の興行をして回る仕事である。
昭和二十六年三月、木村、山口、坂部の三人は、プロ柔道協会を脱退して、ハワイ行きを決めた。
主力選手三人を失って、すでに客の少なかったプロ柔道協会は半年後に潰れることになった。
このハワイ興行中に、木村はプロレスと出会うことになるのである。
三カ月の契約が切れる三日前、ホノルルのプロレスのプロモーター、アル・カラシックがホテルに三人を訪ねてきた。
「プロレスをやってみないか」
という誘いであった。
ギャラは、高額であった。
一カ月に四試合やって、一九八五年当時の金に換算して、四〇〇万円の金が出るという。
坂部が下りて、木村と山口がその誘いに乗った。
柔道からプロレスへ。真剣勝負の世界から百パーセント八百長の世界へ
プロレスの世界は、けっして私の肌に馴染みはしなかったが、とにかくこの仕事で得た金で、私は日本では買えない肺病の特効薬ストレプトマイシンやパスを買い求め、日本へ送り届けることができた。ギャラはよかったから、いくら高い薬でも十二分に買えた。この薬効があって、妻は命をとりとめたのである
このように、木村は自著の中で書いている。
昭和二十六年七月、木村は、山口利夫、加藤行雄と共に、サンパウロ新聞の水野に招かれ、ブラジルに渡ることになる。
プロレスの興行のためであり、つまり、木村は、元柔道家のプロレスラーとして、ブラジルに渡ったわけである。
そこで、木村を待っていたのが、エーリオ・グラッシェという、奇態なる武道家であったのである。
(三)
木村は、どこか醒めたような眼で、杯を口に運んでいた。
山口利夫、加藤行雄が一緒である。
サンパウロ――
日系人がやっている店だ。
日本の酒を飲んでいる。
畳ではなくて、椅子とテーブルだが、その上に乗っている料理は日本料理だ。
刺身は、日本で食べられるほどの鮮度こそないが、ブラジル料理の肉に胃が疲れて辟易しかけていた木村にとっては、充分な味を持ったものだ。
味噌汁。
少し硬いが米の飯。
野菜の天ぷら。
煮もの。
漬けもの。
焼いた肉もある。
ブラジル人がよく喰べる、豆の煮込み料理もあった。
パパイヤ、マンゴなどの、日本ではお目にかかれない果物も大皿に盛られている。
行く先、行く先の会場に、サンパウロ新聞の水野も同行した。
尻の毛まで抜いてくれそうな気がするくらい、水野の接待は行き届いていた。
ほとんど毎晩、行く先々のホテルに、女の用意があった。飲み喰いの全ては、水野が勘定を持ってくれた。
興行は、成功だった。
行く先々で、会場は超満員となった。
自分たち三人と、地元のレスラーと試合を組む。負け役は、加藤と山口が主にやり、勝ち役は木村がやった。
熱しやすいラテン系の血のせいか、試合はおもしろいように受けた。
プロレスの試合の他に、行く先々にある柔道の道場で、自分たちが本来持っている技術である柔道の指導もした。その指導料も収入として入ってくる。
ブラジルは、コーヒーの産地であり、金は豊富にあった。
他に、木村は、段位も発行した。
紅白の勝ち抜き戦をやらせて、実力を見、それに合わせて初段から三段までを発行した。段の発行者が木村であることを知ると、遠方からも段位修得のためやって来る者があり、もらったその認定証を、額に入れて飾る者までいた。
この指導料と、段位の認定料が、莫大な額の収入となった。
ある道場の看板を書いてやり、一九八五年の貨幣価値に換算して、五〇万円相当の金をもらったこともあった。
「ギャラを増やしてくれ」
そう申し入れたら、水野は木村たちのギャラを、あっという間に三倍にした。
プロ柔道が危くなり、約束されていた給料も遅配になっていた頃を思えば、信じられないような状態であった。
「これは、儲かりますよ」
と、水野は言った。
「儲かる?」
訊いたのは、加藤であった。
「ですから、日本でね、これをやったらばということですよ」
「これっていうのは、つまり、プロレスのことですか」
山口が言うと、
「そうです」
水野がうなずいた。
「日本でか……」
杯を口に運びながら、木村がつぶやいた。
「木村さん、やりませんか。プロ柔道の連中にも声をかければ、人は集まります。ハワイからでも、アメリカ本土からでもレスラーを呼んで興行を打てば、たいへんなことになりますよ」
「そりゃ、そうだろう」
木村の口調は醒めている。
「どうしたんですか、木村さん。何か気に入らないことでも?」
水野が声をかけてきた。
「自分でやっていながら、こう言うのもおかしいんですがね、おれは、あまりプロレスが好きになれないんですよ」
「―――」
水野は、木村の言葉に、返事につまった。
「日本じゃないから、こんなこともできるんだよ。日本で、この木村に八百長をやれと……」
そう言われて、ようやく、三人にも木村の不機嫌が理解できたらしい。
「しっ。先生、ここは日本語のわかる人間もいるんです。そんなことを大きな声で言ってはいけません」
わかってるよ、と言うように、杯の中に残っていた酒を、木村は口の中に放り込んだ。
プロレスが真剣勝負なら、わたしもやります。しかし、それが八百長をやるということなら、わたしはプロレスはできんです
ハワイで、そう言った坂部の顔を、木村は思い出した。
自分は、どんなに金を積まれても、それだけはできません
すがるような眼で、坂部は木村を見た。
木村さん、あなたのような人がプロレスをやってはいけません――坂部の眼は、そう言っていた。
痛いほど、木村にはそれがわかった。
しかし、病気の妻のため、薬代や入院費を稼ぐのに、この自分には、他にどんな方法があったというのだ。
確かに、プロレスは楽であった。
真剣勝負ではないから、汗に血が混じるようなトレーニングをする必要もないし、試合前の、あの逃げ出したくなるような緊張もない。
楽であった。
しかし、今、妙に昔試合で味わったあの緊張や、筋肉のちぎれるようなトレーニングがなつかしくなることがある。
死ぬほど練習をすることがどういうことか――そんなことを真剣に考えたこともあったのだ。
拓大予科の学生だった頃だ。
木村の精神よりも、筋肉がそれをなつかしがっている。あの過酷なトレーニングを受け止めた筋肉が、そこにかかる負荷をなつかしがっているのである。
あの頃は、今よりもずっと濃い時間の中に自分はいたような気がする。
妻の薬のことは、もしかしたら口実で、本当のところは、自分はあの過酷な世界から逃げ出したのではなかったか。
杯をテーブルの上に置く。
気まずい沈黙が流れた。
その気まずさをとりなすように、
「いや、実は、最近、妙なことになってましてねえ」
水野は、額の汗をふきながら、そう言った。
「何ですか、その妙なことというのは?」
加藤が訊いた。
ほっとしたような声で、水野が加藤に答える。
「挑戦してきた奴がいるんですよ」
「挑戦だって?」
「木村先生と戦わせろって、本社の方にうるさく言ってくる人間がいるんですよ。直接来たり、文書で言ってきたり……」
ようやく、木村の視線が動いた。
水野を見た。
「おれと?」
「エーリオ・グラッシェという男です」
「何者なんだ?」
「バレツウズの選手ですよ」
「バレツウズ?」
「時々、やってますよ。ボクシングのように拳で叩いてもいいし、空手のように蹴ってもいい。柔道のように投げても、締めても、逆をとってもいいという競技です」
木村の双眸が光った。
「喧嘩か!?」
木村は訊いた。
「喧嘩?」
「殴ったり、蹴ったり、投げたり――そりゃ喧嘩だろう」
喧嘩――
後に、バーリ・トゥードとして日本に知られることになるその闘いの本質を、この時、木村はみごとに言いあてていた。
木村の血が、ざわめいた。
「眼を攻撃するのと、噛みつくのと、やってはいけないのは、そのふたつくらいみたいです」
「てことは、髪の毛を掴んだり、鼻の穴に指を入れたりしてもいいってことだ……」
そろりと、木村は言った。
鼻の穴に指を入れる――これは、ノウズ・フックという、プロレスの裏技だ。
マットの上に、両手両膝を突き、いわゆる亀の状態になってしまった相手を仰向けにさせる時の技術である。
鼻の穴に指をフックして引き、顎をのけぞらせる。あるいは唇に指をフックしてそれをおもいきり引く。ノウズ・フックとマウス・フック。これをやられると、相手はあっさりと上を向く。
これは、プロレスではもちろん反則技になる。
「そうすると、きんたまを蹴ったり、掴んで握り潰してもいいっていうわけだな」
「詳しくはわかりませんが、いいんだと思います」
なんだと!?
木村は、声に出さずに唸った。
まさか。
睾丸は、男の最大の急所である。もし、そこに打撃が加えられれば、たとえそれが軽いものであっても、やられた方は股間を押さえてのたうちまわることになる。
我慢するとか、耐えるとかいったレベルの痛みや苦しみではない。入ったその瞬間に勝負は決することになる。
そのような競技があるわけはない。
あるのか、そのような競技が――
「あるみたいですよ」
木村の心の裡を察したように、水野が言った。
「それはつまり、試合としてか」
「ええ」
「試合というのは、ようするに、ボクシングや柔道のように、たとえば金をとって客にそれを見せたりしてるというのか」
「ええ」
水野は答えた。
「バレツウズというのは、こちらの、ポルトガル語では何をやってもいいという意味の言葉ですから――」
まさか!?
水野がどう言おうと、木村の疑問は同じだ。
まさか、そのような闘いが、試合として成立するのか――
「いいじゃないですか」
言ったのは加藤であった。
「バレツウズだろうが何だろうが、おれが相手をしますよ。木村さんがやることはない」
「いや、いけません。バレツウズは困ります。そういう試合を皆さんにさせられません」
水野は、自分できっかけを作ったこの話題を、木村にしたことを後悔しているようであった。
「強いのか?」
木村が訊いた。
「その、エーリオ・グラッシェという男、強いのか――」
木村はまだ冷静だった。
「わかりません」
「わからない?」
木村に問われて、水野は額に汗を浮かせはじめた。
このことを話題にしたのを、どうやら本気で悔やんでいるらしい。
「水野さん、何か知っていることを隠してますね」
「隠すなんて、そんな――」
「エーリオ・グラッシェというのは、どういう男なんですか」
「サ、サンパウロに道場を持っている人物です」
「道場?」
「ジユ、ジュージュツの道場です」
「ジュージュツ?」
はじめ、木村はその発音の意味がわからなかった。
「柔術ですよ。柔術」
「柔道じゃないのか」
山口が言った。
「柔術で間違いありません。グラッシェ・ジュージュツアカデミーという道場を、サンパウロにあるビルに持っています」
「なに!?」
「ビルの一階から三階まで、合わせて六〇畳はあります。市内に、そういう道場を七カ所くらい持っていると思います」
たいした規模であった。
「紛《まが》いものでしょう。実力はないくせに、商売だけがうまくて道場を出している人間は日本にもいます。売名ですよ。どうせ、我々が勝負を受けるわけはないと思ってるに決まっています」
山口が、テーブルの上に、身を乗り出すようにして言った。
「見よう見真似で覚えた柔道を、柔術と言って人を集めてるんでしょう。自分が相手をしましょう」
加藤が言った。
「それが、そこそこはやるようです」
「やる?」
「これまで、何人もの日本人と、エーリオ・グラッシェは闘っていますが、負けていません。いえ、全部の試合に勝っているんです」
「全部?」
「ええ。いつでも、誰とでも闘うとエーリオ・グラッシェは言っています。ですから、道場に行って、エーリオに試合を申し込んで負けた日本人がたくさんいるのです」
「日本人が、負けた?」
「はい」
「柔道家か、その日本人は――」
「自称もいるでしょうし、ブラジルではそこそこ知られている人もいます。エーリオが挑戦して、それを受けて負けた人間もいます」
「バレツウズでか?」
「バレツウズの時もあれば、柔道の試合の時もあります。日本人ばかりでなく、白人のレスラーや、ボクサーもエーリオの相手の中にはいます。彼等とやる時は、自然にバレツウズになりますが……」
「―――」
「しばらく前にも、大野という日本人の柔術家と闘っています」
「大野? 何段なんだ」
「三段くらいはあったと思います」
「勝負は?」
訊いたのは木村だった。
「一〇分三ラウンド闘って引き分けです」
「引き分け?」
「チョークの掛け合いで、大野の方がふらふらになっていたそうです。判定があったら、大野の方が負けていたのではないかと聴いています」
水野は言った。
「やりましょう」
言ったのは加藤だった。
「我々は、本場、日本から来た人間です。ブラジルに移民してきた人間が、たまたま柔道をやっていたというのとは違います。講道館は、出たも同然の身ですが、柔道を舐められては、後《あと》に退《ひ》けません」
結局――
やることになった。
試合を強く望んだ加藤が、エーリオの相手をすることとなった。
(四)
木村が、エーリオと初めて会ったのは、サンパウロ新聞社の応接室であった。
エーリオ側と、ルールについて話しあうために、そこで会ったのだ。
その場に立ち合ったのは、木村、山口、加藤、そして水野。
相手側が、エーリオ本人と、そして、門下生がふたり。
それから、エーリオの兄でマネージャーをやっているという、カルロス・グラッシェが一緒であった。
ドアが開いて、エーリオが入ってきた。
それほど、背は高くなかった。
身長は、一七三センチ。
木村より、三センチ高い。
しかし、体重は六十四〜五キログラムと見えた。木村よりも、二〇キロ以上は軽そうであった。
エーリオたち四人は、全身に緊張を漲《みなぎ》らせていた。
事が起これば、すぐにでもエーリオの身を守りながら闘うぞという気構えが、そこから見てとれた。
先に応接室にいて、ソファーに座していた木村は、ふいに、何かの臭いを嗅いだように思った。
何だろう?
獣臭のようなもの。
そして、なつかしいような臭い。
あれか。
試合前、会場に入った時。まだ勝者も敗者も決まっていない選手たちの肉体から立ち昇ってくるものだ。あの熱気のようなもの。それを、今、入ってきた男たちが、身に纏《まと》わりつかせているのである。
エーリオと、カルロスが、テーブルの向こう側に腰を下ろす。その時に、エーリオの眼が、ドアとの距離を目測するのを、木村は見た。
門下生ふたりは、座らずに、エーリオとカルロスの背後に立った。
ただごとではない。
敵地陣営に入ってゆく時の武士たちのたたずまいは、このようなものかと思った。
自然に、自分の顔が強張ってゆくのが、木村にはわかった。
彼等に比べ、自分たちはどうか。
相手がいったいどれほどのものか、ひとつ見てやろう――そういう気持で、彼等を待っていた。山口も、加藤も、それからこの自分もだ。
相手が刺客で、隙を見せたら刃物で突きかかってくるかもしれないなどとは思ってもみなかった。サンパウロ新聞社のこの部屋は、言うなれば自分たちの城だからである。
木村は、ソファーに深く預けていた腰の位置を、体重を前にずらして浅くした。
何かあったら、すぐに立てるようにした。
硬い鉄のようにエーリオはそこに座して、木村を眺めていた。
鼻の下に、黒い口髭がある。
量られている――
と、木村は思った。
エーリオが、このおれの技量を量っている。
どれだけの男か、どれだけやるのか。
水野が、短い言葉で、それぞれを紹介した。
握手は交さなかった。
互いに軽く会釈しただけだった。
エーリオは、痩せて見えるが、骨が太そうであった。
猛禽の眼をしていた。
話をしているのは、専ら、カルロスと水野であった。
これまでの間に、あらかじめ決められ、調整が済んでいることを確認する作業であった。
会場は、リオの、マラカナン・スタジアム。
日取りは、一カ月後の九月六日。
そういう確認の作業が済んで、ルールの話になった。
「我々は、バレツウズ・ルールを望んでおりません」
水野がポルトガル語で言った時、エーリオの唇に、微かな笑みが点った。
「水野さん、今、何と言ったのですか」
加藤が訊いた。
「我々はバレツウズを望んでいないと、彼に言いました」
「待ってくれませんか。わたしは、そんなことは一度も言ってはいませんよ。それは水野さんあなたが望んだことじゃありませんか」
加藤は言った。
水野は、加藤を見、
「わかりました」
うなずいた。
「正確に言いましょう。あなたと対戦するカトーは、バレツウズでもいいと言っているが、わたしは、バレツウズを望んでないとエーリオに言いなおしましょう」
水野が、もう一度エーリオにポルトガル語で告げると、カルロスがポルトガル語で何かを言い、言い終えると、エーリオがうなずいた。
「何と言ったのですか」
加藤は訊いた。
「それは残念です。バレツウズは、どういう競技を学んだ人も、その技術を試合で使用することを束縛されないたいへん素晴らしいルールです。しかし、柔術と柔道は、双子と言ってもいいくらい似た競技であるから、バレツウズにしなくとも、お互いの強さを量ることはできるでしょう――そう言ったのです」
「投げたら、一本勝ちでいいのか」
加藤のその言葉を通訳すると、また、エーリオの唇に、微笑が点った。
しかし、口を開いたのはカルロスだった。
「投げる、というのは、闘いの流れの中のひとつの要素であり、局面にすぎません。投げたことをもって、まだ相手が動けるのに、一方の勝ち、投げられたことをもって、一方の負けとするのは、おかしいのではありませんか」
カルロスのその言葉を通訳された時、今度は木村の唇に楽しそうな笑みが浮いた。
「あんたらの言う通りだよ」
木村は言った。
水野が、それを通訳する。
「ひとつ訊きたい。ならば、どっちが勝ったか負けたかは、何が決めるんだい。ルールかい、それともレフェリーかい」
木村は問うた。
通訳された木村の言葉に、カルロスと、それからエーリオは静かに首を左右に振った。
「いいや」
と、エーリオは言った。
「ルールは、勝敗を決めません。レフェリーも勝敗を決めません。ルールが決めるのは、闘いの方法であり、レフェリーはルールの通りに闘いが行なわれているかを監視することができるだけです」
「何が勝敗を決めるんだい」
「それは、闘っている者どうしの心です」
きっぱりと、エーリオは言った。
「ひとりの人間が、闘いの中で、負けたと心に思った時が、負けた時です」
不敵な面構えのエーリオの顔を、木村は見つめている。
「おれは、これまでに、何度も相手の腕を折ってきたよ」
木村は言った。
「あれは、いやな音だよ――」
腕がらみにとって、相手の腕を絞りあげる。
肘関節の靭帯が、伸びてゆく。靭帯といえども、骨ではない。肉、筋だ。弾力がある。
腕を絞り、捻ってゆくと、その弾力いっぱいに靭帯が伸びきる。限界まで伸びる。それがわかる。伸びきった時、こつん、という手応えがあるからだ。こつん、という音でない音。
その時、靭帯は、弾力のない、細いガラスの棒だ。
わずかに力を込めるだけで、折れる。割れて裂ける。
みりみりという音がし、ぷちぷちと肉の中で靭帯の細胞が裂けてゆく感触が、握った手からこちらへ伝わってくる。
木村は、それをよく知っていた。
「時々、眠る前にその音のことを思い出したりする」
木村は、エーリオを見つめながら言った。
「それを思い出すと、眼が冴えて、夜、眠れなくなることがあるんだよ」
「―――」
「おれは、あんたの腕の折れる音を思い出して、眠れなくなるようにはなりたくないね」
木村の言葉が通訳されると、
「それは、こちらのカトーではなく、あなたがわたしと闘うということですか」
エーリオが訊いてきた。
「だから、あんたが勝ったらだよ。あんたが加藤に勝ったら、おれがあんたとやってやるよ」
「もしそうなったら――」
「やることになるよ。あんたとな。だから、その時、ひとつ約束してくれ」
「どういう約束ですか」
「もし、おれの技が入って極められたのなら、あきらめてギブアップをしてもらいたいのさ」
木村は言った。
「ギブアップ?」
「タップをしてくれと言ってるんだよ」
木村の言葉が通訳されると、エーリオはこれまでよりも濃い笑みを唇に浮かべ、
「同じ言葉を、わたしもあなたに送りたいと思います」
そう言った。
試合ルールについては、次のように決まった。
特別柔術ルール
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一  互いに道衣《どうぎ》着用。
二  一ラウンド一〇分で、三ラウンドまで。
三  投げも、押さえも、一本を取らない。
四  打撃技の禁止。
五  眼への攻撃の禁止。
六  股間への攻撃の禁止。
七  指一本を掴むことの禁止。
八  髪を掴むことの禁止。
九  マウス・フック、ノウズ・フックの禁止。
十  勝敗は、次の事項によって決まるものとする。
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イ 一方のギブアップ。
ロ 一方の失神、気絶。あるいは脳震盪によるノックアウト。
ハ 一方のセコンドのタオル投入。
ニ ドクターストップ。
ホ 反則による一方の負け。
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十一 以上によって決着のつかない場合は引き分け。判定はしない。
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以上であった。
(五)
九月六日、マラカナン・スタジアムに、特設会場を設けて、試合は始まった。
床は、畳ではなく、地面に直接マットを敷いたものだ。
加藤とエーリオは、試合開始のゴングが鳴っても、すぐには組み合わなかった。
手先を伸ばし合って、相手の出方をさぐるように、互いの周囲をじりじりと回りあった。
身長で、ややエーリオが優り、体重で、一〇キロ近く加藤が優っている。
「あれで、菜食主義者なんですよ」
試合前、水野がそう言っていたことを、木村は思い出した。
「肉も鶏肉も、めったに食べないらしいんですよ」
宗教ではないので、絶対に肉を食わないというわけではない。たまには食べたりはするが、基本は食べない。
替りに、果実を食べるのだという。
果実を中心に、野菜、米、などをバランスよく摂る。エーリオの兄、カルロスがそのメニューの発案者らしい。
エーリオを見ると、その肉体には無駄な肉がないのがわかる。レスラーなどのように、大胸筋や上腕の筋肉が必要以上に発達しているというわけではない。
エーリオと加藤が、組んだ。
組んだ瞬間に、加藤は、大外刈りに、エーリオを仰向けに倒した。
だが、これで一本になるわけではない。
エーリオは、ほとんど、加藤の技にさからわなかった。あっさりと、倒れた。
それを眺めていた木村の眼には、エーリオが、わざと仰向けに倒れたようにさえ見えた。
下から、エーリオは加藤の襟を掴んで引き寄せている。
加藤が、これを嫌って隙をみてエーリオの手を振りほどき、立ちあがった。
向き合う。
組んで、投げる。
エーリオが下になる。
エーリオが下から、加藤を引き寄せようとする。
加藤がこれを嫌って立ちあがる。
組む。
加藤が投げる。
この繰り返しであった。
一ラウンド目の一〇分は、この展開で終った。
自陣にもどってきた加藤に、
「どうだ、奴は?」
木村が訊いた。
「ふわふわしてて、手応えが感じられません。強いのか、弱いのか」
「気をつけろ、あの男、わざとおまえに投げられている」
木村はそう言った。
「このままだと、先におまえの方が疲労するぞ」
「わかってます」
加藤は答えた。
この時には、まだ加藤には自信があった。
二ラウンド目。
前半は、一ラウンド目と似た展開があり、後半から、その勝負が一変したのである。
上になった加藤が立ちあがろうとした時、下のエーリオが、それをさせなかったのである。
加藤の胴に下から両脚を巻きつけて、加藤の頭部に左手をからませて、引きつけているのである。
下から加藤の腰のあたりに巻きついていたエーリオの脚が、次第に上の方に移動してくる。
エーリオの身体は、上から加藤にのしかかられて、腰のところで、上半身と下半身とがふたつ折りにされている。
柔らかい身体であった。
妙な戦慄が、ちりちりと、木村の背に立ち昇っている。
何だ、これは!?
日本の、投げる柔道とは異質の、下からねちねちと粘っこくからみついてくる柔道。いや、柔道ではなくて、これは柔術か。
このようなものを、知っている。
自分は、それをやったことがある。
寝技が主体の柔道。
相手の関節を、ひたすら取りにゆく柔道。
投げて一本を取る柔道ではなく、関節を極めて一本を取る柔道。
十年以上も前だ。
拓大予科にいる頃。
そうか、と木村は思った。
これは、高専柔道ではないか。
高専柔道――
正しくは、高等専門学校柔道。
明治の頃――
大日本武徳會という組織が成立した。
京都の武徳殿を総本山とする組織である。
柔道、柔術をはじめとし、剣道、弓道、薙刀にいたるまでの武道を、そこで統括していた。
高等専門学校の学生たちの間で行なわれていた、講道館とはまた別のスタイルの、寝技専門の柔道の大会が、この武徳殿で開催されていたのである。投げよりも、相手を寝技に持ち込み、関節技で勝負を決っする柔道である。
これが、短く高専柔道と呼ばれていたのである。
戦後、GHQによって、武徳會が解散させられたのと同時に、この高専柔道は姿を消していったのだが、木村は、拓大予科の時代に、これを学んでいるのである。
それも、かなり徹底してやった。
木村自身、投げの一本よりも、関節を取っての一本の方が、より、勝利としては完璧なものであると考えていたからである。
投げで勝ちが認められない闘い――街での喧嘩になった時、より効力を持つのが、寝技であろうと木村は考えていた。
自分の腕がらみも、その中で完成させていった技だ。
一対一、素手ということを考えた時、寝技の方が、実戦に近い――これが木村の信念であった。
その時、木村が目の前にしているものは、まぎれもない、高専柔道とその思想の背景を同じくする寝技のシステムであったのである。
エーリオの右足が、加藤の左脇の下から抜け、肩の上にかかった。
危ない。
「逃げろ、加藤!」
木村は声をあげた。
あれは、三角締めだ。
自分の両脚で、相手の首と脇の下を同時に挟み、頸動脈を締める技だ。
この三角締めは、講道館ではなく、高専柔道の技の研究から、開発されていった技である。
それを、何で、このブラジル人が使用できるのか。
それとも、これは、おれの見間違えかと木村は思った。
たまたまそういう体勢になっただけで、三角締めをねらったものではないのか。
「三角をねらっているぞ!」
木村の声が届いたのか、加藤は、左手をエーリオの右脚の内側に差し込んで、肩に乗っていたエーリオの右足をはずした。
「加藤!」
木村は声をあげた。
木村の心は、そこでふたつに分かたれた。
加藤に勝って欲しいと考えている自分がいる。
エーリオに、勝って欲しいと考えている自分がいる。
もし、エーリオが加藤に勝てば、自分は、この男と、闘うことになるからだ。
底の見えない男だった。
このエーリオという男が、その背後にどういうシステムを持っているのか。それを吐き出させてやりたかった。
その役をやるのは、加藤ではない。
この自分だ。
このおれだ。
木村は、ふたりの闘いを見ながら、きりきりと歯を軋らせた。
(六)
何故だ――
と、木村は思っている。
何故、勝てなかったのかと。
何故、加藤は、エーリオ・グラッシェに勝てなかったのか。
サンパウロのホテルの部屋で、ベッドに仰向けになって、木村は天井を睨んでいる。
生ぬるい空気を、天井から下がった大きな羽根が、のんびりした速度で掻き混ぜている。
試合から、七日後の夜――
結果は、引き分けであった。
一ラウンド一〇分。
三ラウンドやっているから、三〇分闘ったことになる。
この間に、加藤はエーリオを何度も投げている。
その数、およそ三〇回。
しかし、柔道の試合のように、投げたら勝ちというルールではない。いくら投げても、相手にダメージがないのでは、投げの意味がない。
先に息があがったのは、むしろ投げた加藤の方であった。
投げ、というのは、闘いの終着地点ではない。終着に至るまでの過程のひとつである。投げたら、その後どうするか。自分に有利なポジションをとって、関節を極めるか、首を締めるか。
相手が落ちるか、まいったを言うか。戦闘不能に陥るか、それで始めて決着がつく。
もし、投げを終着とするのなら、投げて、相手に徹底的なダメージを与えなければならない。
頭から落とすか、こちらの体重を乗せて肩から落とすか――肩から落として、鎖骨を折る。真横から肩に加えられてくる力を支えているのは鎖骨である。だから、肩から落とされると、この鎖骨が折れるケースが多い。
それを知らない加藤ではない。
加藤もそれをやろうとした。
しかし、それができなかった。
木村には、むしろ、相手が、加藤の力に逆らわずに、自分から投げられていったようにさえ見える。
相手の力に逆らわない――こういうやり方はある。しかし、逆らわないだけでなく、むしろ自分から投げられにゆく、このような発想は柔道にはない。少なくとも、今の柔道にはない。何故なら、投げられたら、負けになるからだ。
しかし、自分から投げられて、受け身をとれば、ダメージは最小限に押さえることができる。
エーリオは、加藤にわざと投げられ、寝技に自ら誘い込もうとしているように見えた。
寝技――
高専柔道。
これは、まさしく、自分がやってきたことではないか。
通ずるだろうか、と木村は思った。
自分が工夫した大外刈りが。
右手で、相手の奥襟をとり、右足で、相手の右足の脹脛《ふくらはぎ》を刈る。刈るというよりは蹴りだ。自分の踵《かかと》で、おもいきり蹴る。正確にいうなら、相手の踵とアキレス腱の中間のやや上部を、蹴って刈る。
右手に自分の体重を乗せ、相手を後頭部から床に落とす。
もし、エーリオが自ら倒れにゆくのなら、後頭部が、さらに強く床に叩きつけられることになる。
おれの大外刈りを、エーリオがどう受けるのか。
それを試したい。
自分と、同じ臭いがする――と木村は思った。
あのエーリオの体臭は、自分と同じだ。
「プリモ・カルネラや、ジョー・ルイスに、挑戦状を出しているそうですよ」
水野の言葉を、木村は思い出していた。
プリモ・カルネラは、一九〇六年にイタリアに生まれたプロボクサーである。
動くアルプス、歩く人間山脈と呼ばれた巨漢であった。
身長、一九五センチ。
体重、一四八キロ。
一九二八年にプロボクサーになり、一九三二年に、パリでJ・シャーキーを破り、世界ヘビー級の王座に就いている。
戦後、プロレスラーとして再デビュー。
木村より十一歳上だが、一時、別の競技で頂点に立ったことのある男が、プロレスラーとして再デビューしたということでは、木村と似ているかもしれない。
もちろん、木村も、カルネラの名前は知っている。
四十五歳くらいになっているはずだ。
ジョー・ルイスに至っては、現役の、ボクシング世界ヘビー級のチャンピオンである。
エーリオ・グラッシェという、木村でさえ名前も知らなかったこの男が、ブラジルの地でいくら騒いでも、むこうは歯牙にもかけないだろう。
賞金をつけた。
もし、自分に勝ったら、一万六千ドルをやるとエーリオは破格の条件を提示したが、プリモ・カルネラも、ジョー・ルイスもこれを受けなかった。
ルールは、バレツウズ。
何でもあり――パンチで殴ってもいいし、蹴ってもいい。組んで投げてもいいし、締めてもいい。関節の逆を取ってもいい。
こんなルールを相手が呑むわけはない。
本気なのか、この男。
いや、本気なのだ、と木村は思う。
売名にしろ、そうでないにしろ、本気なのだ。エーリオは、本気で彼等と闘い、そして、バレツウズで勝つ気でいるのである。
これまでに、何人ものレスラーやボクサーと闘い、これに勝利してきたというのは、本当のことだろう。
二万人の観客の前で、相手の腎臓を蹴り破って殺してしまったというのも、事実だろう。
もてあましてるのだ、と木村は思う。
エーリオ・グラッシェという男は、自分をもてあましているに違いない。自分の強さを。強くはなってみたものの、その強さをどうしていいかわからずに、自分の強さを対等に受け止めてくれる相手を捜しているのだ。
ならば――
と、木村は思う。
自分と同じだ。
いや、もっと正確に言うなら、過去の自分と同じなのだ。十年前の自分と。
「エーリオは、肋が二本、折れていたみたいですね」
と、試合後に、水野が報告に来た。
加藤との試合中に折ったのではなく、試合三日前、稽古中に折ったのだという。
試合前に、ドクターが、痛み止めの注射を打つかとエーリオに訊いた。
エーリオは、それを拒否したという。
「痛みがわからないと、試合中に、折れた肋骨が曲がってもわかりません。それが心臓に刺さるといけないですから――」
そう言ったらしい。
加藤との試合が終った日の夜に、すぐにエーリオ側は再戦を要求してきた。
その試合は、約二カ月後である。
つまり、あの試合は、エーリオが折れた肋の痛みをこらえて闘っていたことになる。
なんという男か。
そういう男がいるのか。
過去の自分が、エーリオという男の中にいる。
柔道が捨て去ってきたもの、自分が過去に置いてきてしまったもの。それがここにあった。
過去の化石と、自分は出会ったのだ。いや、化石ではない。それは、まだ、生きているのだ。
このブラジルの地に。
幾つだ?
このエーリオは。
一九一三年生まれ。
おれより、四歳か五歳上か。
三十八歳か、三十九歳。
その歳になっても、まだ、エーリオの内部には、火が点《とも》っているのだろう。
このおれはどうだ。
燠《おき》のように、まだ、心のどこかで燻っているものはある。それを掻き集めれば、炎になるだろうか。
エーリオという男は風だ。その風によって、また、火が燻り始めたのだ。
「もう一度、自分にやらせて下さい」
試合後、加藤は、泣きながらそう言った。
エーリオ側からも、改めて再戦の要求がきた。
もう一度、闘いたいと。
肋が折れていて、全力が出せなかったとは、一言も言ってよこさなかった。
誰がエーリオと闘うか。
今日の昼に、山口、加藤と三人で話し合った。
それで、加藤がもう一度、エーリオと闘うことに決まった。
一カ月半後の、一〇月半ば過ぎの試合だ。
「投げたら、寝技でいけ。腕がらみで、腕を挫《くじ》くか、締めて落とすしかない」
加藤がエーリオと再戦することが決まったその日の昼、木村は、加藤にそう言った。
十月半ばなら、まだ、肋は充分に治ってはいないだろう。にもかかわらず、それを向こうが承知したのは、我々の帰国が迫っているからだ。
我々がブラジルにいる間に、エーリオは、加藤と決着をつけたいのだろう。
それで、次はおれだ。
十月半ばならば、このおれとやるための時間も、まだ残っている。もし、エーリオが、加藤に骨を折られたりしてなければだ。
もともと、エーリオが闘いたいと言ってきた相手は木村である。
加藤は、木村のかわりに試合をした。
もしエーリオ側が勝てば、次は木村が相手をすることになっていたのが、引き分けてしまったのである。
加藤が、前回のように投げにこだわらず、寝技でゆけば、向こうの実力がわかる。
もし、エーリオが負ければ、そこまでの男だったということだ。
だが、もし、加藤が負けたら――
その時は自分がゆく。
仰向けになっている木村の分厚い身体が、一瞬、ぶるりと大きく震えた。
(七)
試合が始まった。
エーリオと加藤は、リング中央で組み合った。
エーリオは、左手で加藤の右袖を握り、右手で奥襟を握った。
加藤は、左手でエーリオの右袖を握り、右手でエーリオの左襟を握った。
加藤が、やや体重を前にかけ、エーリオが腰を引きぎみに組んでいる。
加藤の身長が、一六四センチ。
体重八〇キロ。
エーリオより、六センチ身長は低いが、体重で九キロ優っている。
エーリオが、動きを誘おうとするが、加藤は岩のように動かない。
わずかでも、エーリオが隙を見せたら、いっきに投げて、そのまま上に被さり、寝技に入ってゆく――そういう戦略であった。
この間、木村と山口で、加藤の稽古の相手をした。
普段から無口だった加藤が、ほとんどしゃべらなくなった。酒と女を断ち、トレーニングをした。
一日、九時間。
一カ月で、加藤の身体に付いていた無駄な脂肪が四キロ、落ちた。
技の切れが鋭くなり、特に左の背負いに入るタイミングは、切れ味のよい鉈を振り落ろすような速度があった。
プロレスラーの顔つきでなく、格闘家の顔になっていた。耳の下から顎の下にかけてあった肉のたるみが、きれいに失くなっていた。
前のように、長い試合はしない。
一ラウンドで決める。
加藤の眼がそう言っていた。
エーリオが、加藤を引き込もうとして、動きを誘おうとするが、加藤はびくともしない。
講道館の五段。
木村より四歳若く、まだ三〇になったばかりである。
エーリオが、左足で、加藤の右足を払いにゆく。
動かない。
次は、右足で、加藤の左脚をひっかけてバランスを崩そうとするが、それでも加藤は動かない。
エーリオが、加藤を横への動きに誘った。
その刹那――ふいに、加藤の上体が沈んだ。
加藤の腰が、エーリオの身体の下に入り込む。
加藤の左からの背負いだ。
エーリオの両足がマットから離れ、宙に跳ねあげられた。
艶やかな背負いであった。
ふいに、リングに咲いた白い花を見るようであった。
逆立ちするような格好でエーリオの身体が宙で回転し、その両脚の膝裏あたりが、最上段のロープに叩きつけられた。大きくロープの反動でバウンドし、エーリオはロープ際で、崩れるように倒れ込んだ。
その上から、加藤が被さってゆく。
エーリオが、身を反転させて、加藤の身体の下から脱出しようとする。その勢いで、加藤がリング下へ落ちそうになった。
レフェリーが、そこでふたりを分けた。リング中央にふたりはもどされ、試合が再開された。次は、エーリオの動きを待たずに、加藤が強引に攻めた。
エーリオの右足に、自分の左足を引っ掛けて後方に倒そうとする。
エーリオは、自ら後方に跳んで、上段ロープに体重を預け、倒れるのを防いだ。
加藤が、それでバランスを崩す。すかさずエーリオが上に被さってゆき、ふたりの身体がロープ際でもつれた。
これを、レフェリーが分けた。
また、リング中央で、ふたりが組み合った。
リズムに乗ってきた加藤が、また強引に左の背負い投げにいった。
エーリオは、加藤の腰を左足でまたぐように自ら向こう側に跳んだ。そのエーリオの動く方向に、すかさず加藤がエーリオの身体を押し込んで、ロープ際に追いつめた。
エーリオの身体が、ロープを背負いながら沈んでゆく。
それを追って、加藤が上から被さってゆく。
両手首をクロスさせて、右手でエーリオの右襟を、左手でエーリオの左襟を掴む。
十字締め――
頸動脈を締める技だ。
上から、加藤がエーリオの頸を締めている。
それを、リング下から睨んでいた木村が、
「いかん、やめろ!」
叫んでいた。
その瞬間、ふわりと、体重が消失したように、加藤の身体がエーリオの身体の上に被さった。
加藤の身体の下から、ゆっくりと蛇のようにエーリオが這い出てきた。
加藤の身体は、崩れたまま動かない。
加藤は、落ちていた。
気を失っている。
エーリオが、上から締めてくる加藤に、下から同じ技を返していたのである。
木村は、リングに上って、加藤を抱き起こした。
観客が、総立ちになって声をあげている。
歓声が、熱い波のように、四方から寄せてくる。
その波を浴びながら、エーリオが、加藤を抱き起こした木村の頭上で、両手をあげて微笑していた。
試合開始、六分十一秒であった。
(八)
マラカナン・スタジアムの、特設会場の中央に、木村は独りで突っ立っていた。
ゴールをひとつはずし、そこに、リングでなくマットを直接敷いて、試合場とした。
観客、四万人。
その中には、大統領から、政府の高官までが顔をそろえている。
日本で言うなら、天覧試合のようなものだ。
久しぶりの試合だ。
プロレスで鈍った身体が、どこまでもどっているか。そもそも、プロレスをやる以前から、身体は鈍っていたのだ。
もう、往年の肉体のコンディションは望むべくもないが、加藤が引き分けてからは、かなり身を入れたトレーニングをした。ここ数年でいえば、一番身体ができあがっている。
肉の火照り。緊張。
負けられない試合であった。
プレッシャーも大きい。しかし、その自分を、どこからか、醒めた眼で見つめている自分がいる。
そんなにむきになるんじゃない――もうひとりの自分が、木村をそういう眼で見つめている。
もう、おまえは、こういう世界を捨てたんじゃないのか。金の無い柔道家ではなく、銭の取れるプロレスラーをおまえは選んだんじゃないのか。
あのエーリオにしてもそうだ。どうして、こういう勝負にむきになるのだ。
昔をなつかしがっているだけじゃないのか。
そういう声もあるような気がする。
しかし、そういう声のことなど、気にしていられない。
エーリオが出てきた。
木村の正面に立った。
おそろしく真剣な眼で、木村を睨んでいる。
子供のような、とてつもない無垢の眼であるような気もした。あらゆる修羅場を全て体験し尽くした人間の眼のような気もした。ブラジルの碧空――空の青い奈落のようであった。
木村は、ひとつの秘策を考えていた。
このエーリオという男に、それがどこまで通ずるかわからない。しかし、成功すれば、試合の流れを、うまく自分に向けさせることができる。
一ラウンド一〇分で、三ラウンドまで。
試合が始まった。
エーリオが、水のように前に出てくると、先に木村の両袖を掴んできた。
強い力ではない。
木村も、エーリオの袖を掴む。
仕掛けてきたのはエーリオが先だった。大外刈り、小内刈りで、木村を攻めてくる。それを、がっちりと木村が受ける。動かない。
次は、木村の番であった。
大内刈り、払い腰、内股、一本背負い投げ――
技を掛ける度に、エーリオの身体は宙を舞ってマットの上に横たわる。技に逆らわないのである。それを、木村は追わなかった。
不思議そうな顔で、エーリオは下から木村を見、起きあがってくる。
何故、寝技でこないのか――エーリオの眼はそう言っていた。
一ラウンド目は、その攻防で終った。
一分のインターバルを置き、二ラウンド目が始まった。
開始早々に、木村は、右手でエーリオの左襟を握った。左手は、エーリオの右袖を掴んだ。
これからが本番だ。これまでは、互いに相手の手の内をさぐりあったのだ。
本気でゆく。
呼吸を測り、いっきに投げた。
大外刈りだ。
右足の踵で、おもいきり、エーリオの右足のアキレス腱を蹴りながら刈った。
背から、エーリオはマットの上に倒れ込んだ。
脳震盪を、おこすことはできなかったが、木村は、そのまま、エーリオの上に重なった。
崩れ四方固め――
しかし、驚いたことに、上から押さえ込んだ木村に対して、エーリオは、倒れたまま、まず自分の頭部を両手でガードした。
まるで、寝技の状態から、木村が頭部を殴ってくるであろうと、エーリオが考えたとしか思えなかった。
木村は、大外刈りで投げる時に、エーリオの左襟を握った右拳で、エーリオの顔へ、パンチをひとつ叩き込んだのである。投げに行くついでに襟をつかんだ拳を、わざとあててやったのだ。
反則すれすれ――というより、故意にやったのなら、反則をとられてしまう。
しかし、審判には見えていない。
木村にしてみれば、見えないように、やったのであり、わかっているのは、木村と、相手のエーリオだけである。
このパンチで、エーリオは、寝技の先手を木村に許した。
木村は、自分の腹が、エーリオの顔の上になるように押さえ込んだ。
こうすると、口と鼻を塞がれて、下の者は呼吸ができなくなってしまうからだ。呼吸ができなければ、酸素不足で息があがり、早くスタミナを消耗する。
エーリオが、転がって逃げてゆく。
うまい。
まるで、腹の下から水がこぼれてゆくように、するすると、エーリオが動いてゆくのである。木村は、エーリオのその動きに逆らわなかった。
逃がしながら、追いかけてゆく。
エーリオが逃げる。
うまい。そして、強い。自分の寝技を逃がれて、ここまでやれる人間が、これまでにいたか。
日本に、そういう相手はおらず、こんなブラジルという異国の地に、その相手がいようとは。
二分。
三分。
四分。
木村は、夢中になってエーリオを追った。
ついに、苦しくなったエーリオが、左腕を不用意に伸ばしてきた。
その左手首を、木村の右手が捕えた。
左手を、自分の右手首に添えて、ロックする。
いっきにしぼりあげた。
腕がらみである。
高専柔道で磨いた得意技だ。
しぼってゆくと、エーリオの腕のねじれが止まり、こつん[#「こつん」に傍点]という感触があった。耳で聴くのではなく、身体で聴く、音でない音。
それが、どういう意味の音か、木村はわかっていた。
腕――肘関節の靭帯が伸びきった音だ。
伸びて、もう、これ以上は伸びないところまできている。もう、筋や靭帯がガラス細工のように張りつめて、割れる寸前までいったということだ。
もう、何があろうと、これがほどけることはない。
ギブアップしろ、と木村は思う。
しかし、エーリオはタップをしない。
何故だ。
どうしてタップをしない。
折るぞ。
力を込める。
みり……
小さく音がする。
さあ、約束だ。
極まったら、ギブアップをすることになってたんじゃないのか。
しかし、その声も、動作もない。
まさか……、自分の口から負けたと言うまでは負けではないと考えているのか。
いいのか。
いいのか。
何を迷っているのか。
昔の自分だったら、ひと息に折っている。
何を迷っているのだ。
しかたがない。
ぐうっ、と力をこめた。
ぐじ、
ぐじ、
という音の感触が、握った手首から、伝わってきた。
しかし、それでも、エーリオは声をあげなかった。
喉の奥で、ぐっ、となにかをつまらせるような音がしただけだ。
そして、その時、ようやくセコンドのカルロスがタオルを投げてきた。
木村は、力を抜き、立ちあがった。
エーリオは、右手で左腕を押さえながら立ちあがってきた。
歯を噛み、顔をあげて、宙を睨んでいる。
何という激しい顔をするのか。
勝者ではないが、敗者でもない顔。
一瞬、木村は、自分が負けたのかと錯覚しかけた。
いや、試合という形式には自分は勝ったが、何か別のもの、別のものの競べ合いに、自分はこの男に負けたのではないか。
大きな歓声も、会場に躍り込んでくる日系人たちも、木村には遠い世界のことのように思えた。
木村は、まだ顔をあげている男にむかって、たどたどしいポルトガル語で訊いた。
「あんたのその技、いったい、誰に習ったんだ」
エーリオは、木村を見やり、
「日本人だ。あんたの国の人間だよ」
そう言った。
「日本人?」
「コンデ・コマさ」
そう言われても、まだ、木村にはぴんとこない。
「前田光世という男だ」
エーリオの横に立っていた、カルロスが言った。
(九)
木村政彦が、エーリオ・グラッシェと生涯最後となった真剣勝負を闘った数日後――同じ昭和二十六年(一九五一年)の十月二十八日。
日本の、進駐軍のメモリアル・ホール――後の日大講堂に設けられたプロレスのリングに、ひとりの男があがった。
木村のプロレス入りに遅れること五カ月余り。
大相撲の関脇までゆき、自ら刺身包丁で髷を切り落とし、大相撲から引退した男。
この男は、ビヤ樽のような身体で、ほとんど相撲技のみでボビー・ブランズと闘い、一〇分一本勝負を引き分けたのである。
後に、木村政彦と宿命の対決をすることになる男――力道山光浩であった。
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一章 永昌寺
(一)
その男が、稲荷町にある永昌寺の門をくぐったのは、明治十五年の九月である。
古い山門であった。
門の瓦屋根を支えている柱の木目が、風雨にさらされて、刻まれたように浮き出ている。
屋根のすぐ下の雨のかからない場所に、古びた分厚い檜の板が掛けられていた。反って細かい罅《ひび》が無数に入ったその面に、右から左へ太い筆の文字で永昌寺と書かれている。
男は、門の中央から中に入ってきた。
右寄りでもなく、左寄りでもない。計測《はか》れば、男の両肩から左右の門柱までの距離は、一分《いちぶ》と違わずに同じであったろう。
入ると、正面に、屋根が破風造りの玄関がある。
まだ暑い午後の陽を肩に浴びながら、男は右手に杖《つえ》をついて玄関の前に立った。
薄汚れた男であった。
木綿の着物の肩や袖のあたりがほころび、破《やぶ》れ目まである。生地に、土埃と汗と垢が、等分に染み込んでいそうだった。穿いている白縞の袴もぼろぼろで、裾から糸屑が垂れている。
下駄の歯も、磨り減って半分以下になっていた。
奇妙であったのは、下駄が斜めになっていないことであった。普通、これだけ歯が磨り減れば、前の歯、後ろの歯、あるいはその左右が、履く人間の歩く癖に応じて、減り方に段差が生じてくる。その段差がほとんどないのである。
どこからか、男たちの力のこもった掛け声や、肉体が畳を打つ時の重い音が響いてくる。
その音を、目で捜そうとでもするように、男は首をめぐらせた。
音は、右手方向から聴こえてくる。
玄関に向かって右手に五、六間ほど行ったところに、左右に杉の柱を立て、その上に同じく杉材を横に渡しただけの、冠木門《かぶきもん》がある。門の左右は、腰高の榊の生垣になっていた。
その門と生垣の向こうに、木造の平屋が立っているのが見える。
どうやら、玄関の奥にある本堂とは、棟続きになっている家らしい。
男は、冠木門の方に向かって歩き出した。
かたちばかりの、戸のない冠木門をくぐると、また、玄関があった。
「お頼み申します」
男は言った。
しかし、誰かが出てくる気配はない。
建物の中からは、あいかわらず、掛け声や人が倒れる重い音が響いてくるから、人がいることは間違いがない。ただ、中にいる人間が、男の訪問に気づいていないだけのようである。
ことさらに声を大きくするでもなく、男はもう一度声を掛け、返事のないのを確認してから、右手方向に、建物を左に見ながら歩き出した。
時計と逆回わりに建物を回わり込んでゆくと、声が大きくなってくる。
建物の角まで来ると、男は、自然にその角から距離を大きくとった。まるで、その角の陰に何ものかが潜んでいて、角を曲がってゆく人間に襲いかかろうとしているのだと思い込んでいるような男の歩き方であった。
しかし、男の歩き方は自然である。
歩いている最中に、ふとそのような考えが頭をよぎったのではなく、そういった歩き方が、自然に身についているらしい。
先ほど、門の中央をくぐったのも、同様の発想が、その行動の背景にあるのであろう。
門の左右から、あるいは門の片側の一方から、何者かが自分を襲ってきたら――
そのどちらの場合でも、門の中央を歩けば、門柱の陰から、一番大きな距離をとることになる。そうすれば、もし、襲いかかられたにしろ、門柱寄りを歩くよりもわずかに時が稼げることになる。
油断はないが、歩き方が自然体である。
角を回わり込むと池があった。
小さくはないが、さほど大きくもない池であった。
睡蓮の葉が浮いており、何本かの杭が池の中から突き出ている。
澄んでいるとも、濁っているともつかない褐色の水の表面《おもて》近くに、鯉の頭がひとつ、ふたつ、見えていた。
池の向こうが、江戸の頃からのものと思われる土塀で、その土塀の内側――池との間に、こんもりと枝に葉を繁らせた樫の古木が並んでいる。
建物と池の間の狭い土の上を、男はゆっくりと歩いてゆく。
左側が建物、右側が池だ。
建物の池側は、濡れ縁になっていて、その濡れ縁の廊下が、向こうに見える本堂まで続いている。
庭に面した部屋の障子戸が、全て敷居からはずされ、中の様子をひと目で見渡すことができた。
広さは十二畳余りもあるだろうか。
寺の書院といった作りであった。
その畳の上で、四人の人間が柔《やわら》の稽古をしていた。
四人とも、稽古衣《けいこぎ》を着ていた。
袖が、肘よりもやや長めの上衣。
両膝がやっと隠れる程度の下穿《したばき》。
そして、帯。
どうやら寺の書院を、道場の代りにして稽古をしているらしかった。
ふたりずつ組んでふた組になり、それぞれが立って向かいあう。
手を伸ばし、袖と襟をつかみ、相手を腰に乗せて投げる。次には、投げられた方が、投げた方を同じ技で投げる。
四人は、それを、さっきから繰り返しているのである。
四人とも、若い。
一〇代の半ばから後半といった男たちであり、まだ少年の面影を貌立ちのどこかに残していた。
(二)
最初に、その男に気づいたのは、山田|常次郎《つねじろう》であった。
建物と池との間に立って、凝っと自分たちの稽古を見つめている男がいるのである。
山田常次郎は、相手の襟を掴もうとしていた手を止めて、庭に立っている男を見やった。
山田の相手をしていた牛島玉吉も、すぐにその男に気づいた。残りのふたり、松岡寅男麿《まつおかとらおまろ》とその相手をしていた士族の有馬純臣《ありますみおみ》も、動きを止めて庭の男を見た。
子供か――
最初、山田常次郎はそう思った。
それほど、その男の背丈が低かったからである。
身長は五尺はあるまいと思われた。
見たところ、おおよそで一四六センチから一四八センチ。
明治三十三年の調査によれば、この時の十七歳男子の平均身長が一五八センチである。現在から考えればかなり低いが、この時庭に立った男の身長は、それよりさらに一〇センチ余りも低かったことになる。
しかし、その男は、子供ではなく、少年でもなかった。
貌立ちだけ見れば、二十三歳か四歳くらいだろうか。
短くしてはいるが、乱れた髪。
濃く浮いた不精髯。
ぼろぼろの汚れた衣服。
ずんぐりとした木の棒のように立って、その男は、稽古をする四人の男たちを見つめているのであった。
炯々《けいけい》とした、鋭い光を放つ眼が、山田常次郎を見やった。
獣か、猛禽類のような眼であった。
しかも、その眼つきは、ことさらに作ったものではない。おそろしいほどの自然さで、男はそういう眼つきをしているのである。
山田常次郎には、それがわかった。
先天的なものか、後天的なものかはわからないが、そのような視線を自然に有している眼を、山田常次郎は初めて見た。
「先ほど玄関から声をかけたのですが、誰もお出にならなかったので、こちらに回わらせていただきました」
男は、強い東北訛りのある発音でそう言った。
わざとそうしているのかどうか、感情の見えにくい声であった。
「慶應義塾の竹村庄八君からこの場所をうかがったのですが、講道館はこちらですか――」
「ええ、そうです」
山田常次郎はうなずいた。
静岡県は伊豆の出である山田常次郎は、門弟の中では、最も講道館への入門が早かった人物である。
後に富田常次郎と改名し、西郷四郎、横山作次郎、山下義韶と共に、講道館四天王と呼ばれることになるのだが、この時、まだ山田常次郎は十八歳であった。
講道館が、嘉納治五郎の手によって創設されたのが、明治十五年の五月である。山田常次郎は五月に入門しているから、この九月は、入門五カ月目ということになる。
「嘉納治五郎先生は御在宅ですか――」
その男は言った。
「今、学習院に出かけておりますが……」
山田常次郎は男を見つめ、
「あなたは?」
男の名を問うた。
「武田惣角《たけだそうかく》」
男は、木の棒をちぎって捨てるように、短い言葉で答えた。
「武田……?」
「惣角です」
武田惣角と名のった男は、慇懃に頭を下げた。しかし、頭を下げても、視線までは下げなかった。顔を伏せはしたが、視線だけは、山田常次郎に残している。
後に、大東流合気柔術《だいとうりゅうあいきじゅうじゅつ》の創始者となるのがこの武田惣角であった。
この時、惣角二十三歳。
嘉納治五郎と同い年である。
武田惣角も嘉納治五郎も、同じ万延元年(一八六〇)の十月に、それぞれ、会津と摂州でこの世に誕生した。
「では、志田四郎君はおられますか」
山田常次郎には、惣角の言った志田四郎≠ニいう言葉が、
スナスロウ
と聴こえた。
それを耳にした時、頭に蘇ったのは、ちょうど一カ月前に入門した志田四郎のことであった。
あの男も、自分のことをスナスロウ≠ニ呼んでいたと記憶している。
志田四郎が講道館へやってきたおりに、初めて対面したのが山田常次郎であった。
人の訪《おとな》う声に、常次郎が書院の玄関まで出てみると、そこに志田四郎が立っていたのである。
大正八年に講道館より発行された『有効乃活動』には、次のように記されている。
[#ここから1字下げ]
『或る日、毛髪のび面汚れ弊衣破履《へいいはり》の一小童師範の門を叩く、即ち書生出でゝ其の名を問ふ、曰くスナスロウ、解せず再問す、曰くスナスロウ、書生遂に解する能はず筆紙を出して書せしむ、初めて志田四郎なるを知る。誰か此の時後日の西郷四郎を思ふものあらん。講道館に入門する時年僅かに十四歳、柔道の生涯は某の紹介によりて師範の書生となるより始まる。』
[#ここで字下げ終わり]
この記述には、志田四郎の入門時の年齢を十四歳としているが、これには異説がある。
講道館に残されている『講道館修業者誓文帖』によれば、講道館創始の年明治十五年の入門者の数は、全員で九名である。その初めが山田常次郎であり、志田四郎は七番目の入門者であった。
そこに自分の年齢を書き込む時に、志田四郎は、はじめ十五年四ケ月≠ニ書き、次にそれを訂正して、十四年四ケ月≠ニ書きなおしているのである。
ここで、志田四郎の年齢が、数えで十四歳か十五歳かということになってくるのだが、故郷に残る戸籍上の生年月日は、慶応二年二月四日ということになっている。その記録を正確なものとするなら、明治十五年八月八日の入門時、志田四郎の満年齢は十六年六カ月でなければならない。
何故、このような記録の違いがおこったのか、定説はまだない。
この誓文帖、九名中八人までが印鑑をもちいて捺印しているのだが、ただひとり志田四郎のみが、血判を捺している。これが嚆矢《こうし》となったのか、これ以後の入門者は全て血判となった。
山田常次郎が、志田四郎の年齢については、自分よりもひとつ歳下であったと何度か発言している記録があるので、おそらく戸籍に書かれた年齢が正確なものであったと思われる。
だとするならば、明治十五年の九月――この時、志田四郎は数えで十七歳。
山田常次郎は十八歳であった。
ちなみに付け加えておけば、志田四郎は後の西郷四郎であり、小説『姿三四郎』のモデルにもなった人物である。
ともあれ――
山田常次郎は、武田惣角と名のる青年を目の前にして、一カ月前、睨むように自分を見ていた志田四郎のことを思い出していたのである。
「入門させて下さい」
志田四郎は、汚れた顔に赤く血を昇らせながら、朴訥《ぼくとつ》な硬い声でそう言った。
やはり、言葉に訛りがあった。
「名前は?」
山田常次郎は訊いた。
「スナスロウ」
「え?」
山田常次郎はまた問うた。
スナスロウ≠フ意味がわからなかったのである。
名前を問うたのだが、この青年は名を問われたのだとはわからず、別の答えを口にしたのだろうと思った。
「名前は?」
「スナスロウ」
また同じ答えであった。
紙と筆を持ってきて、そこに姓名を書かせ、はじめてスナスロウ≠ェ志田四郎≠ナあったことを、山田常次郎は知ったのであった。
それにしても、志田四郎は丈の低い男であった。
身長が、五尺。
およそ、一五一センチ。
身長は低かったが、首が異様に太い。
昏い双眸を持った男であった。
しかし、その眼の景色の中に、一途というのか、どこか純なものが宿っているように山田常次郎には思えた。
あの志田四郎と同じ訛りが、武田惣角の言葉にはあったのである。
「志田は今おりませんが、志田とはどのような――」
「同郷です」
武田惣角は言った。
「会津ですか」
「ええ」
武田惣角はうなずいた。
まっすぐに山田常次郎を見ていた。
ほんのわずかにしろ、視線をはずさない。
相手をするのが疲れる眼つきの男であった。
志田四郎の眼つきともどこか似ているようなところもあるが、この武田惣角という男の視線には、何かしら怖いものがある。狂気性のようなものが、その眼の奥に潜んでいるように見える。
人の持つ理とは別の理を、心のすぐ内側に隠し持っているのではないか。
その面構えや物腰から、何らかの武術を身につけているのだろうが、闘いとなった瞬間に、この男はためらわずに相手の眼の中に指を入れてくるだろう。
そう思わせるものがあるのである。
相手の眼の中に指を入れる――
そういう行為に対して、
あたりまえではないか
何の気負いもなく、そう答えているようなたたずまいが、この武田惣角という男にあるのである。
「志田のお知り合いですか」
「いいえ」
迷いもなく、武田惣角は答えた。
それで、会話が途切れた。
その後、どういう会話をしたらいいのか、山田常次郎にはわからない。
用件は?
そう訊ねていいのか、あるいは、帰るまで待ちますかと声をかけるか。
志田四郎は書生として、今、嘉納治五郎のお供で学習院へ行っている。
帰りは、嘉納治五郎と一緒である。
それを、この武田惣角に言おうと思った。
しかし、そう言おうと思っていたはずだったのに、口から出たのは、別の言葉であった。
「何か、武術をやっておられるのですか?」
山田常次郎は訊いた。
「会津にいる頃、渋谷東馬先生の道場で、小野派一刀流を学びました」
「剣術ですか」
「その後、直心影流《じきしんかげりゅう》を二年半ほど」
「榊原鍵吉《さかきばらけんきち》先生のところですね」
「ええ」
「では、あなたも撃剣会に?」
山田常次郎が問うと、武田惣角は唇を閉じて押し黙った。
繋ぐ言葉を失って、山田常次郎が言葉を捜していると、
「くだらぬことです」
武田惣角は、硬い声で言った。
「くだらない?」
「ただの見せものです」
もう、答えるのを拒否するように、きっぱりと言いきった。
明治の時代に入って、武士という階級が消失し、西洋の文化が日本に入り込んでくると、剣術や柔術等の道場は、急速に衰退した。
武術などは野蛮な文化であるとして、大衆がそれを嫌ったのである。
今さら、剣や柔術など学んでもどういう意味があるのか。
そろばん、算術を学ぶ方がまだ気が利いている……
こういう風潮の中で、榊原鍵吉が撃剣会を始めたのである。
大道で、あるいは小屋掛けをして、剣の技術を客に見せて金をとったのであった。
試合のみならず、手裏剣を的に当ててみせたり、飛び入りの相手と闘ってみせたり、時には、頭の上に乗せた瓜を鎖鎌の分銅《ふんどう》で割ってみせたりと、軽技まがい、見せものまがいのことまでやってみせたのである。
これに、十五歳の頃の武田惣角が出ているのである。
山田常次郎も、武田惣角が出ていたことまでは知らないが、撃剣会がどういうものであったのかはよく理解している。
撃剣会のことまで口にしてしまったのは、うっかり口が滑ってしまったためなのだが、その口が滑ってしまった原因は、武田惣角本人にあるのだと、山田常次郎は思っている。
取りつく島がない――
武田惣角は、そういう話し方をする。
それで、思わず余計なことまで口から出てしまったのだ。
「失礼しました」
頭を下げ、思わず、
「他には?」
さらに山田常次郎は問うていた。
その言葉を口にしてから、まずいことになったと山田常次郎は思っている。
これではまるで、訊問ではないか。
ひとつの失敗をとりつくろうために、さらに失敗を重ねてゆくようなものだ。
どういう用件かはわからないが、仮にも道場生である志田四郎を訪ねてきた人物である。そういう人間に対して、細かくその素性を問うようなことをするのは、褒められたことではない。
非礼をわびねばと、その言葉を捜しているうちに、
「御式内《おしきうち》を――」
武田惣角は言った。
「御式内?」
聞いたことのない名であった。
山田常次郎は、講道館に入門してから、まだ四カ月しか経ってないが、嘉納治五郎とのつきあいはもっと古い。
嘉納治五郎の父、嘉納|次郎作《じろさく》が東京まで連れてきた男である。
当時、海軍省の官材課長であった次郎作が、伊豆天城山の御用材伐採の現地視察に出向いたおり、伐採人夫たちが世話になっている病院に立ち寄った。そこの病院長夫人の弟が山田常次郎であった。
この常次郎を預かるかたちで東京に連れてきて、勉学のかたわら、息子の書生として治五郎の側に置くようにしたのである。
永昌寺には、講道館とは別に、若者たちが集まるもうひとつの私塾があった。
それが、嘉納塾である。
講道館が武を学ぶ場所であるなら、嘉納塾は、文を学ぶ場所であった。
嘉納治五郎が、当時のどのような武術家よりも特異であったのは、この文∞武≠両立せしめていたところである。
本人自らも、東京大学文学部の課程を全て修めた人間であった。
卒業して、学習院の教師となり、その傍ら、講道館と嘉納塾をやっていたのである。
入門料も、指導料もとらなかった。
住み込みの書生は、山田常次郎と志田四郎のふたりがいたが、このふたりの衣食住の面倒まで、嘉納治五郎が見ていたのである。さらには、深夜まで内職として、翻訳の仕事をやり、その収入を、書生たちの食費にあてていた。
山田常次郎は、初め、この嘉納塾の人間であった。
それが、いきがかり上、柔道の稽古にも手を染めるようになり、この新しい武道にのめり込んでいったのである。
常次郎は、治五郎から、古流柔術や剣術について、かなりの知識を得ている。その知識は、道場内では治五郎に次ぐ。
どのような流派であれ、その稽古内容まで知っているかどうかはともかく、ひと通りその流派名は耳にするか眼にしている。
その常次郎にとっても、
おしきうち
という流派は耳慣れぬ言葉であったのである。
「知らなくて当然です」
惣角は言った。
「剣術ですか、柔術ですか?」
常次郎は訊いた。
しかし、惣角は、その問いには答えなかった。
ここで、初めて、惣角の唇に、微笑とも苦笑ともつかない、薄い笑みが浮いた。
気をつけて見ていなければ、そうとはわからないほど小さな、針先ほどの笑みであった。
「志田四郎君に訊いてくれればわかります」
惣角は言った。
「志田が知っているのですか、御式内を?」
しかし、もう、惣角は常次郎のその問いには答えようとはしなかった。
(三)
武田惣角という武道家は、明治期の他のどの武道家と比べても特異な存在であった。
自分の道場を持たず、看板を持たなかった。
ただ、技は教えた。
諸国を巡り、請われればそこに滞在し、一〇日から半月ほど教えて、ひとり一〇円の金をとった。
常に、その懐に抜き身の刀を持っているような男であり、そしてそれは事実であった。
一種の異常人といっていい。
万延元年、桜田門外の変のあった年に会津に生まれ、昭和十八年(一九四三年)に、八十四歳で青森でその生涯を閉じている。
合気柔術という流派の性質からか、壁抜けをしたとか、人の過去を言いあてたとかいう、神がかった逸話も多い。
生涯、文字が書けなかった。
この点、嘉納治五郎とは、対照的な武道家であったといっていい。
また、実際に、常に懐に匕首を忍ばせていた。
それも、その匕首を鞘に収めていたのではない。抜き身に手拭いを巻きつけ、二寸ほどその切先を外に出して、それを懐に入れていたのである。
その晩年――
惣角翁の三男である武田時宗《たけだときむね》氏の伝える逸話がまた異様であった。
八〇歳を越えた惣角が、家でうたた寝をしている。呼吸が細く、時に、それは止まっているかのようにも見えた。
生きているのか、死んでいるのか。
時宗氏が、それを確かめようと手を伸ばした途端――
「しゃっ!」
跳ね起きた惣角が、伸ばした時宗氏の手を、隠し持っていた匕首でざっくりと突いてきたというのである。
なんとも凄まじい。
次の逸話も晩年のものである。
自分の門人以外が出した食物を、惣角は絶対に口にしなかったという。
猜疑心が強い。
相手が毒味までして、どうぞと差し出された菓子まで、手をつけぬこともあった。
これも、時宗氏が一緒の時のことである。
高野佐三郎《たかのささぶろう》という武術家の家を、武田惣角、渋谷周蔵と共に三人で訪ねたことがあったという。その時、茶菓子が出された。
惣角だけはそれをひと口も口にしなかった。
時宗はそれを食べた。
「あれに、もし、毒でも入っていたらどうするのだ」
家に帰ってから、惣角は、激しく怒ってみせたという。
「何故、おまえは食べたのだ」
さらに惣角は言う。
「お前は、高野佐三郎を何者だと思っているのだ」
高野佐三郎は、高等師範学校の教師である。
武道家といってもそれで食える時代ではすでにない。
時代は昭和に入っているのである。
「高野の家を出る時に、おまえは高野の前を何故歩いたのだ」
しかし、時宗氏には、それがどういう意味のことかわからない。
「もし、高野に背後から抱きつかれて刺されていたら、おまえの生命はないぞ」
「まさか」
時宗氏は言った。
もはや、そういう時代ではない。
相手は武道家といえども、学校の教師である。それに、生命をねらわれるような覚えもない。
「まさかまさかと言って、皆殺されているのだぞ」
この時の惣角の怒りは異様といえた。
もの心ついてから、死ぬその寸前まで、常に武田惣角という男は、このような意識で生きてきたのである。
ある若い一時、そのような精神を持つことはあるにしても、そういう状態を生涯持ち続けたという点、日本武道史上においても、武田惣角という存在は特殊な例であったと考えていい。
この惣角が、あえて御式内についてどういう説明もしなかったのは、ある意味では当然のことであった。
他流派の武道の道場に、単身、惣角は乗り込んでいるのである。
言うなれば、敵地の中にいる。
その敵に対して、自分がどういう武器を持っているかを教えてしまう――御式内について常次郎に語るというのは、惣角にとってはそういうことであった。
そういうこともおまえはわからぬのか。
惣角の口許に微かに浮いたのは、そういう笑みであった。
常次郎の武道家としての位を、この時惣角は見切っていた。
可愛い……
常次郎に対して、そのような感想を持ってもおかしくはない。
志田四郎に訊け――
惣角がそう言ったのは、余計なことなのだが、ある意味では、常次郎の可愛さに対して、自然に口から出たものであったのかもしれない。
山田常次郎にそう言ってから、惣角は小さく息を吸い、
「待たせていただきます」
低い声でそう言ったのであった。
(四)
待つ――
武田惣角はそう言った。
池を背にして、下から鋭い眼で山田常次郎を見あげている。
右手に、杖を持っていた。
「おあがり下さい」
山田常次郎は、惣角を見下ろしながら言った。
「ここで結構です」
「あがって下さい。先生がこられるまで、茶など入れますので」
「かまわないで下さい」
惣角は、かたくなに背を池に向けたままであった。池になら背を向けてもいい――惣角の眼はそう言っているようであった。
「あがって下さい。先生に自分が叱られます――」
常次郎が重ねて言うと、
「わかりました」
ようやく惣角はうなずいた。
「どうぞ」
常次郎がうながすと、惣角は歩を進めた。
しかし、常次郎の正面ではない。
惣角は、廊下に沿って右へ移動し、常次郎から距離をとって、驚くほど少ない動作で下駄を脱ぎ、上にあがってきた。
右手にはまだ杖を持ったままである。
「こちらへ――」
常次郎が、奥へ案内しようとすると、
「せっかくの機会ですから、稽古を拝見したいのですが、かまいませんか」
惣角がいった。
「ええ」
惣角は、自ら動いて、稽古場の中に進み、
「では、ここで」
奥の壁を背にして、そこに座した。
廊下を正面に見る場所であった。稽古場への出入りは廊下側からだけであるから、誰がやってきても、すぐにそれとわかる位置であった。
松岡寅男麿が、茶を入れてきた。茶の入った湯呑みを惣角の前に置いた。
しかし、惣角はそれに手をつけなかった。
また、四人の稽古が始まった。
それを、惣角が見ている。
松岡も、牛島も、有馬も、惣角の視線が気になるらしく、稽古がやりにくそうであった。
人の身体が、投げられて畳の上に落ちるたびに、床全体が大きく揺れた。
ひとくぎりがついたのか、あるいはつけたのか、
「よし、やめ」
常次郎が言うと、全員が動きを止めた。
士族の有馬純臣は、稽古衣にたっぷり汗を吸わせて、肩で息をしていた。
惣角に見られているうちに、つい、稽古に必要以上の力がこもってしまったらしい。
すでに、惣角の眼の前の湯呑みからは、湯気があがっていない。
中の茶は、少しも減っていなかった。
気を利かした松岡が、
「茶を入れ替えてきましょう」
惣角の前に置いてあった湯呑みに手を伸ばすと、
「結構です」
惣角が言った。
その言葉を、松岡は遠慮と受け取った。
「手間のかかるものではありませんから――」
「結構です」
「しかし……」
「茶はいりません」
乾いた木の棒を、突き出すような言い方であった。
「嘉納先生のお客に、冷めたお茶を出しておくわけにはいきません」
山田常次郎が言った。
「わたしは、嘉納先生の客ではありません」
「嘉納先生を訪ねて来られたのではないのですか」
「嘉納さんと、志田四郎君を訪ねては来ましたが、自分は、あなたが考えているような客ではありません」
「どういうことでしょう」
「自分が来たのは、嘉納流を見るためです」
「嘉納流を見る?」
「講道館流がどれほどのものかを見に来たのです――」
「どういう意味でしょう」
「言った通りです」
「嘉納先生と、立ち合いたいということですか――」
「必要ならば――」
「必要?」
「嘉納流の柔術を知るために必要ならばということです」
山田常次郎の身体に、緊張が走った。
「道場破りということですか」
「違います。道場破りではありません」
「先生と立ち合いたいと言ったのではありませんか」
「必要ならば、と言ったのです」
沈黙があった。
自分の左側に置いていた杖に、惣角の左手がゆっくりと伸びてゆく。
相手を刺激しない速度だ。
杖を握り、ゆっくりと惣角が立ちあがる。
「自分ではいけませんか」
常次郎は言った。
「それは、どういうことですか」
「わたしが、嘉納先生の代りをします」
「あなたが?」
「自分では不足ですか」
「あなたは、弟子である自分が、師である嘉納先生と同等であると言っていることになります」
「そうは言っていません」
「では、わたしの相手をするなら自分で充分――そう言っていることになります」
「―――」
常次郎は、言葉に詰まった。
惣角の言った通りではないにしても、近いものは胸の裡にある。
不気味な佇まいを持った相手であるが、小男ではないか――そうも思っている。
柔の術理は、小が能《よ》く大を制するところにあるということは、師の嘉納治五郎からよく言われていることである。しかし、それは、相手が柔を知らぬ場合であると、常次郎は考えている。
双方が、柔の術理について、きちんと学んでいる場合には、当然ながら、身体の大きい方が有利であろう。
さらに言えば、同じように柔の術理を学んでいても、その内容に大きな差がある。何を、どう学んできたか、それこそが重要であると思っている。
この武田惣角という男が学んできた御式内という流派がどのようなものかはわからないが、いずれは古流であるには違いあるまい。
古流の多くは、その形《かた》のみを残し、形のみが伝承されている場合が多い。
あるものは戦場の組み打ち術の域を出ていない。
技としては素晴らしいが、しかしその術理は、戦場で兜や鎧を身につけている人間が闘い合うことを前提としたものである。その形は無視できない。武具を身につけない柔の術理を学んでゆく時に、大きな参考になる。
それを、今やっているのが、自分の師である嘉納治五郎である。
嘉納治五郎は、鎧組み打ちの術理を色濃く残した起倒流を学び、それをもとにして新しい術理を考え出した。それが、嘉納流の柔術である柔道である。
起倒流《きとうりゅう》の飯久保恒年《いいくぼつねとし》師範が、週に二、三度指導に来てくれているが、それは、飯久保師範が、嘉納治五郎という人物がやろうとしている柔道というものに共鳴しているからである。
古流である起倒流を、新しい柔道の術理の中に生かしてもらいたいと考えているからである。
元来、古流は、技の相伝に時間がかかる。もったいぶった教え方や方法論をいまだに使っている。
その点、嘉納流は違う。
人が、何故、倒れるか、どうすれば倒れるかを、初めからわかり易く説明をしてくれる。誰でもが、古流に比べて短期間で強くなることができる。
それを、自分は、すでに三月も学んできた。
嘉納治五郎が、自流派を興す前から数えれば、もっとも長く、その相手を務めてきたのである。
嘉納治五郎は、夜でも、新しい技を思いつくと、自分を起こしてその相手をさせる。
「ちょっと、そこに立っているだけでいい」
そう言って、自分の襟や袖を取ったりして、頭の中に描いた技を試してくるのである。
そういう時間を数えれば、自分は、一年以上も、嘉納治五郎という人間に直接教えられてきたのだ。
それに、この講道館では、自分が一番強い。
さらに言うなら、嘉納治五郎は、大学を卒業し、今は、学習院で教壇に立っている人物である。
ここが、他の柔術家と根本的に違うところだと思っている。日本の最高学府を修了した頭脳が、柔道を作ったのだ。
古流には、負けない。
常次郎はそう思っている。
その思いが、表情や態度に出たのかもしれない。
それを、この武田惣角という男に見透かされたのだろう。
「わたしでは、あなたのお相手はつとまりませんか」
常次郎が言った時、惣角の口元に、またあの薄い笑みが浮いた。
微笑とも苦笑ともつかない、あるかなしかの笑み。
それを、常次郎は、敏感に感じとっていた。
「何か、おかしいことでも――」
「きみは、正直すぎる」
「正直?」
常次郎の声が、堅くなった。
正直というのが、この時、褒め言葉ではないことくらい、常次郎もわかる。
「捕えられた兎が、自分が捕えられたことにも気づかずに、捕えた猟師に向かって、勝負をせよと言っているようなものだ」
惣角は言った。
「わたしが兎だと言っているのですか」
思わず、常次郎の声が高くなる。
その問いに、惣角は答えなかった。
「きみは、死ぬよ……」
ぼそりと惣角は言った。
「死ぬ?」
「わたしが今、きみを殺そうとすれば、きみは間違いなく死ぬ」
惣角の口調は、いつの間にか変わっている。
「どういうことですか」
「きみは、間合ということを知らない」
「間合?」
「わたしの持っているこの杖が、もし刀であったらなんとする?」
ぞろり、と惣角は言ってのけた。
常次郎は、惣角が左手に持っている杖を見やった。
それまで、何ということもなく見ていたその杖が、急に不気味なものに変じていた。
もし、これが剣なら、自分の距離は近すぎる。
手を伸ばして組むには遠すぎ、剣と知って逃げるには近すぎる距離。
稽古でかいた汗とは別の汗が、常次郎の背に滲んできた。
「きみは、わたしと立ち合うつもりだったのだろう?」
「ええ」
常次郎は答えた。
「死ぬ覚悟が、あるのかね」
いきなり問われた。
なんという、一直線の問いか。
「わたしが、きみの申し出を受ける時、わたしは死ぬ覚悟をする」
惣角は言った。
いくらなんでも――
そう常次郎は思う。
稽古で骨を折られたり、怪我をしたりする覚悟は常にあるにしても、いきなり、道場でのこういうやりとりで、死という言葉が出てくるとは――。
「何故、あなたが死ぬ覚悟をするのですか」
「試合《しあ》うとはそういうことだ」
「―――」
「もし、ここできみと立ち合って、わたしがきみに勝ったらどうなる」
「どうとは?」
「きみたちは、全員でわたしを殺すかもしれない」
「そんなことをするわけがないではありませんか」
「するわけがないと、何故わかる。きみがたとえそう思っていたとしても、他の者はどうなんだ。仮に他の者も同じように思っていたとしても、どうしてそれがわたしにわかる?」
「―――」
「わたしが、きみとここで立ち合うというのは、そこまでの覚悟をするということだ。あるいは、きみたち全員と闘っても勝つ自信があるということだ」
わかりにくい言い方ではなかった。
惣角の言っていることは、わかりやすすぎる。
「嘉納先生は、そういうことは教えないのか――」
山田常次郎は、言葉に窮した。
教えてもらっていると言えば、嘘をつくことになる。教えてもらってないと言えば、師の嘉納治五郎に恥をかかせることになる。
「いいだろう」
ふいに、武田惣角は言った。
「嘉納先生が教えないことを、わたしが教えてあげよう」
「何でしょう」
「きみの得意技は何かね?」
「得意技?」
「きみが、一番自信のある技だ」
「大車ですよ」
「稽古の終り頃に、きみが掛けていた技があったが、あれかね」
「ええ」
大車――
柔道の五教の中に含まれる技で、払い腰に似ているが、多少違う。
払い腰は、腰をねじり、相手の右前脚を、こちらの右脚で払いあげて倒す技だが、大車は、こちらの右脚のふくらはぎを相手の右前股にあて、この右脚を軸に相手の身体を回転させて投げる技だ。
強引に力でもってゆくというよりは、技の切れやうまさで相手を倒す技である。
これを、常次郎は得意としていた。
無理に仕掛けることはできないが、いったんこの体勢に入ったら、師の治五郎でも倒すことができると、常次郎は思っている。
「では、その大車をわたしに掛けてみますか」
「どうやって?」
「きみが、大車を掛けやすいかたちで組む。そのかたちで、きみは好きな時にわたしを投げればいいのだ。わたしがそれを受ける。わたしを投げることができたらきみの勝ちだ――」
「―――」
「どうですか」
いつの間にか、惣角の口調がもとにもどっている。心の中で高ぶっていたものが、多少おさまってきたのだろう。
「わかった。やろう」
山田常次郎は言った。
(五)
牛島玉吉、松岡寅男麿、有馬純臣が道場の隅に寄って座した。
中央で、山田常次郎は武田惣角と向き合った。
「きみの勝手のいい形を取りなさい」
惣角は言った。
「失礼――」
山田常次郎は右手で惣角の左襟を掴み、左手で惣角の右袖を掴んだ。
惣角は、稽古衣ではなく、永昌寺の山門をくぐった時のままの白縞の袴姿である。
袖も、稽古衣ではないため、力を込めれば破れてしまうかもしれなかった。
惣角もまた、常次郎の左襟を右手で掴み、右袖を左手で掴んだ。
講道館柔道でいう、右自然体の組み方である。
これだけで、自分は圧倒的な優位に立ったと常次郎は思っている。
組む前の当て身技や、相手がどう組んでくるかという心配をしなくていい。
最初から、自分の得意な形に入っている。
この体勢から右袖を引いて、相手をその右前方に引き崩そうとする力を加えてやる。
それを庇おうと、相手が左足を前に踏み出す。
その瞬間をねらって、それまで、相手の右前方に引いていた力の方向を変える。左手で相手の体重全体を正面から手前に引いて、相手の左襟を握った右手でその動きを助けてやる。
これで、相手のかたちが崩れる。
ここで、技を掛ける。
左足の爪先を軸にして、腰をひねりながら、右脚のふくらはぎを相手の右前股にあて、右後ろ股で相手の身をこねあげながら、回転させて投げる。
これを、ひと呼吸、一瞬にしてやってのければいい。
遠慮はいらない。
殺すつもりも、怪我をさせるつもりもない。ただ、おもいきり投げて畳にその身体を叩きつけてやるつもりだった。
もしも、投げられまいと相手が堪えたのなら、その時は臨機応変に別の技に繋いでゆけばいい。
相手は、どういう力もその身体に込めていない。
いくらでもこちらの思い通りに動かすことができそうであった。
呼吸を整え、常次郎は間をはかった。
「きえいっ!」
声をあげて、いきなり技に入っていた。
その瞬間――
自分の腕の中から、惣角の姿が消えていた。
惣角の身体が、常次郎の腕の間をすり抜けていた。惣角が、自分の右側にいる。
腕を取られていた。
つい今まで、惣角の左襟を掴んでいた右腕だった。
何が起こったのかわからなかった。
自分に加えられてくる力に抵抗する間もない。
右膝の後ろを、斜め横から蹴られていた。
右膝が曲がって、身体が前のめりに泳いだ。
いや、泳がされた。
胸から畳の上に落とされた。
腹這いにされた。
右腕が一本の棒のようになって、上に持ちあげられる。
右肩――右腕の付け根に、惣角の左膝が乗っている。
完全に右腕を極められていた。
右の肩関節に痛みがある。
靭帯が、ぎりぎりまで伸ばされていた。
いったい、自分がどうされて、このような体勢になったのか。
記憶をたぐろうとするが、その過程がわからない。
ただ、右肩に激痛がある。
「まいったをしなさい」
惣角が言った。
常次郎は答えない。
歯を噛んで呻いている。
「まいったを――」
さらに力が込められる。
靭帯が、その弾力の限界まで伸びきった。
靭帯が、ガラスのように張りつめて、あとわずかの力で、その表面にぷちぷちと小さな亀裂が入ってゆきそうであった。
「まだだ――」
言った途端に、常次郎は、自分の右肩の中で異様な音を聴いた。
びりり、
という布の裂けるような音であった。
右肩の中で、靭帯が切れたのである。
「ぐむうっ」
常次郎は呻いた。
惣角は、取っていた常次郎の右腕を放し、静かに立ちあがった。
「山田さん――」
「常さん」
牛島や、有馬たちが、駆け寄った。
常次郎が、額から脂汗を流しながら立ちあがった。
左手で、右肩を押さえている。
惣角を見た。
惣角は、その時、もう杖を手にして廊下に近い場所に立ち、半眼で、四人の男たちを平等に見つめていた。
「何故、折った?」
牛島玉吉が問うてきた。
「その質問は、わたしにせずに山田さんにするといい」
あっさりと言った。
「なに!?」
有馬純臣が声をあげた時、廊下の向こうに人の気配があった。
廊下の板を踏みながら、何人かの人間が近づいてくる気配があった。
惣角は、素速く場所を動いて、廊下から近づいてくる人間たちを眺めることができる場所に立った。
三人の男が、廊下を歩いて道場に入ってきた。
ひとりは、起倒流師範の、飯久保恒年であった。
もうひとりは、若い、小柄な男であった。
首が異様に太い、昏い双眸を持った男――志田四郎である。
そして、最後の男が道場に入ってきた時、牛島や、有馬が、声をあげた。
「先生――」
「嘉納先生――」
嘉納流柔術、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎であった。
嘉納治五郎――
この時、まだ、二十三歳である。
「何ごとですか」
嘉納治五郎は、静かな声で言った。
(六)
嘉納治五郎は、道場の中央で武田惣角と対座していた。
和装である。
五つ紋の羽二重の羽織を着て、仙台平《せんだいひら》の袴を穿いている。
帰ってきた時の服装のままである。
背筋を伸ばし、正座した股の上に掌を乗せて、正面にいる武田惣角と向き合っている。
視線は、真っ直ぐであった。
どういう乱れもその視線にはない。正面から、これほど真っ直ぐな視線を向けられると、誰でも思わず眼をそらせたくなるが、武田惣角は、炯とした光る眸で、平然と嘉納治五郎の視線を受けていた。
野の獣のごとき臭気が、その貌から立ち昇ってくるようである。
異相であった。
治五郎の後方に、山田常次郎、松岡寅男麿、牛島玉吉、有馬純臣、志田四郎が座している。
山田常次郎は、左手で右肩を押さえ、唇を噛んでいた。
武田惣角がひとりであるのに対して、治五郎の側は、六人いる。
起倒流の飯久保恒年は、どちらの側にも寄らずに、奥の壁際に座して、判者のようになりゆきを見守っている。
今、治五郎は、道場にいた者たちから、ひと通りのいきさつを聴き終えたところであった。
「なるほど、そういうことでしたか」
治五郎はうなずいた。
この間、武田惣角は終始無言であった。
座した左脇の床に杖を置き、治五郎の視線を、刺すような光を溜めた眼で受けていた。
「常次郎――」
治五郎は、後方にいる山田常次郎に静かに声をかけた。
「あなたは、今日、たいへんに意義のあることを、武田さんから学びました。それは、これまでわたしが教えてなかったものです」
「はい……」
「武田さんに、御礼を言いなさい」
この時、山田常次郎が唇を噛んだのは、右腕の痛みをこらえたためであったのか、それとも他の思いを呑み込んだためであったのか。
山田常次郎は、左手を床に突き、
「御教授、ありがとうございました」
震える声でそう言った。
「わたしからも礼を言います」
治五郎は床に両手を突き、深々と頭を下げた。
顔をあげ、
「申しわけありませんでした。さぞや御不快な思いをされたことでしょう。わたしがいたりませんでした」
治五郎は、また、正面から惣角を見やった。
他流の道場へやってきて、師範の留守中に道場生と試合をし、その腕を折ってのける――これは、たいへんなことである。
それは、場合によっては、折った方が生きて道場から帰ることができない可能性さえ含んだ行為であった。他の道場生が、道場の看板を守るため、いっせいにかかってくることもあり得た時代であり、その闘いで怪我をするだけでなく、生命さえ亡くすこともあり得たのである。
惣角が、山田常次郎の腕を折ったことの背景には、そこまでの覚悟があったということである。
しかし、まいったと山田常次郎が言わない以上、惣角は腕を折るしかない。これは、まいったと言わなかった常次郎に責任がある。
自分の、弟子への教育が到らぬばかりに、あなたにそこまでの覚悟をさせてしまった、それはひとえに師である自分の責任である――治五郎の詫びは、そういう意味であった。
「妙な人だ」
ぼそりと、惣角は言った。
それまで黙していた惣角が、初めて言葉を発した。
「妙? わたしがですか」
治五郎が言った。
「そうだ」
「何が妙と?」
「わかりません」
惣角は、ぶっきらぼうに言った。
「妙だから妙と言いました。説明できない」
また、惣角は黙した。
「わたしを訪ねていらしたのでしょう」
治五郎が訊いた。
「ああ」
「御用件は?」
「嘉納流を知りたいと思ったのだ」
「柔道のことですか」
「そうか。君は、自分の流派のことを柔道と呼んでいるのだったな」
「そうです」
「柔道を見たい」
「柔道は、まだ完成しておりません」
「完成?」
「今、この道場生たちと一緒に柔道を作っている最中なのです。形だけ、わたしが彼等の面倒を見ておりますが、わたしもまた柔道に入門したばかりの人間なのです」
治五郎は、床に両手を突いた。
「お願いがあります。わたしにあなたの技を学ばせてもらえませんか」
「学ぶ?」
「はい」
「試合うということか」
「ええ」
答えて顔をあげた治五郎の眼を、惣角はさぐるように見つめた。
何を考えているのか、この男――
そういう眼だ。
弟子の敵を討とうというのか。
わからない。
あまりにも真っ直ぐに治五郎が見つめているためだ。
治五郎が口にした以上のことが、その言葉の背後にあるのかどうか見当のつけようがない。
立ち合っても、この男に負けるとは思わない。しかし、勝てば、今度こそ、本当に無事に帰ることができるかどうか。
断わる――
惣角の眸に最初に浮いたのは、拒否の色であった。しかし、惣角が口にしたのは、拒否の言葉ではなかった。
「いいでしょう」
言ってから、惣角の眸に、軽い驚きの色が浮いた。
何故、心とは別の言葉を自分は口にしてしまったのか――
惣角の唇に、微かな笑みが浮いた。
薄刃の刃物に似た、触れれば切れそうな笑みであった。
おもしろい――
いいだろう。
この男を試してやろう。
もともと、そのために自分は来たのではなかったか。
腹を決めた途端に、怖い色の光が、惣角の眸の中に点った。
「いいでしょう」
惣角はもう一度言った。
「お願いします」
「そのかわり、わたしは、手加減できません。それでかまいませんか」
「かまいません」
「当て身も、踏み技もあります。それでいいのですか」
「はい」
治五郎はうなずいた。
「闘うのは、あなたとだけです。もし、試合の最中であろうと、後であろうと、他の者が挑んでくるようなことがあれば――」
左脇の床に置いてあった杖に、左手で触れた。
「ま、ここにいる人間の半分は死にますか」
治五郎は、けろりとした声で言った。
「わたしが、立ち合い人をやろう」
言ったのは、それまで奥でなりゆきを見守っていた飯久保恒年であった。
立ちあがり、飯久保は前に歩み出てきた。五〇歳よりわずかに手前かと見える、身体つきのがっしりした男であった。
鼻の下に、濃い口髭を生やしている。
「起倒流の飯久保だ。わたしが立ち合い人ということで、不満があるかね」
「起倒流の飯久保先生であれば、どういう不満もありません」
惣角は言った。
「週に一、二度、嘉納君のところまで稽古をつけに来ている。嘉納君が、他流とどういう闘い方をするのか、わたしも興味がある」
「恐縮です」
治五郎は、そう言って、静かに立ちあがった。合わせて、惣角も立ちあがる。左手に杖を握っている。
「先生!?」
山田常次郎が、悲痛な声をあげた。
「稽古衣を持って来て下さい」
落ちついた声で、治五郎は言った。
(七)
嘉納治五郎――
武田惣角――
ふたりは、道場の中央で向かい合っていた。
共に、万延元年一八六〇年生まれの、数え歳で二十三歳。
治五郎の身長が、五尺二寸。
惣角の身長が、四尺九寸。
治五郎が一五八センチ、惣角が一四九センチ。
治五郎も小兵であるが、惣角はさらに小さい。
治五郎が着ているのは稽古衣である。
惣角は、永昌寺の門をくぐった時のものをそのまままだ着ている。
ぼろぼろの白縞の袴の裾から垂れた糸屑が床に触れている。
「はじめ」
飯久保が声をかけた。
しかし、どちらもほとんど動かない。
共に、わずかに腰を落とし、右足を浅く前に出しただけであった。
構えない。
治五郎は、正面から、真っ直ぐな視線を惣角に向けている。
惣角は惣角で、治五郎の身体全体を、どこを見るともなく見ている。その眼つきが、一見、眠そうにも見える。
どちらも動こうとしない。
治五郎が見ているのは、惣角の眼であり、惣角が見ているのは、嘉納治五郎という肉体全体に満ちている気配のようなものだ。
どちらが先に動くか。
嘉納流を見たい――そう言って永昌寺にやってきたのは惣角であり、その意味から言えば、惣角から動き、仕掛けてゆくのが筋である。
しかし、この立ち合いは、治五郎自身が頭を下げて望んだものでもある。その意味からすれば、治五郎から足を踏み出してゆくのが筋である。
しかし、どちらも動こうとしなかった。
かといって、ふたりの間に、緊張が張りつめているといった風でもない。ふたりの肉体の間には、優しい風が吹いているようにも見える。
その風を、惣角が眠そうな眼で見つめている。
その風の中に、治五郎はただ立っている。
距離は一間半。
ほう――
と、惣角は心の片隅で感心した声をあげている。
この男、このような立ち方ができる男であったのか。
惣角は、闘う時に相手の気を観る。
闘う時には、心の中に、どう動くか、どう攻撃をするかという気が生ずる。気が生ずれば、それが動く。
その動きを読んで、先手を打ってゆく。
気を合わせる。
合気。
惣角は、自分の術理の総体をそういう名で呼んでいる。
しかし、この嘉納治五郎という男の肉体は、どのような気も発していない。いや、発していなくはないのだ。嘉納治五郎の肉体からは、ゆるゆると風の中に気が流れ出てくるばかりで、それは、野の一角にただ無心に溢れ出てくる泉の水のようなものだ。
攻撃性をともなっていない。
怯えもない。
大気のごとき自然体であった。
学士の柔術が、この年齢で、このような境地までたどりつけるのか。
おもしろい。
惣角は、その時、自分の唇に浮いた笑みに気づいていない。
しかし、このような立ち方ができるからといって、それが強さとはまた別のものであることは、惣角自身もよくわかっている。
坊主の中には、座してこのような境地に至る者も少なからずいるが、それは、ある意味では無心に眠る赤子と同じ存在である。眠っている赤子の顔を、おもいきり踏みつけることのできる人間にとっては、どうというものではない。
自分からゆく。
惣角は、そう決めた。
決めた時には、その心のままに惣角の身体は動いていた。
当て身。
自分が動き、相手が反応すれば、それに応じて治五郎の身体のどこへでも、当て身を入れるつもりであった。
すうっと惣角が前に出るのと同時に、治五郎の身体も、空気のように前に出てきた。
惣角の動きに合わせたのか、治五郎も惣角と同様に自分から動こうとしたのか。
惣角が驚いたのは、ほんの一瞬であった。
ひと呼吸の、千分の一ほどの間――
普通の闘いであれば、何ほどの気にもならない短い時間である。
しかし――
その短い一瞬の時間のため、当て身を出す間が消失していた。
まるで、鏡と向きあっているかのように、治五郎と惣角はすうっと両手を持ちあげて組んでいた。
互いに、右手で相手の左襟を掴み、左手で相手の右袖を掴んでいた。
当て身を入れようと思っていたのに、組んでしまったことにも驚いたが、惣角はまた、組んでから驚いていた。
治五郎の肉体の量感が、ほとんど感じられないのである。
空気と組んだようであった。
組み、蜘蛛の糸さえ切れぬような力で軽く引いた途端に、すうっと重さのないもののように治五郎の肉体が寄ってきたのである。
空気に対しては、どのような技も仕掛けようがない。
ふっ、
と唇を尖らせて息を吹きかければ、それだけで治五郎の肉体は向こうへ行ってしまいそうであった。
なんとみごとに、自分の力を抜くことができるのか。
寄ってくる治五郎の肉体を止めようと、引いた力を、わずかに押す力に変えた。
これも、大気に浮かぶ蜘蛛の糸さえ動かせそうにないほどわずかな力である。
しかし、そのわずかな力に、治五郎の肉体が反応していた。
治五郎の肉体が、すうっと沈んだのである。
これも、重さを感じさせない動きであった。
感覚でいうなら、蜘蛛の糸が、自分の重さで大気の中を沈んでゆくような速度。
速くはない。
速くはないはずであった。
しかし、気づいた時には、治五郎の肉体は下に沈み、惣角の身体は、治五郎の肉体を軸にして、前のめりに回転を始めていたのである。
自分が今、投げられているのだとわかった。
しかし、惣角は、自分の身体を投げてゆくその力に逆らわなかった。
投げられたら負け――そういう勝負ではない。
まいったと自ら負けを認めるか、一方が闘えなくなるまで続けられる勝負である。
丸くなって、惣角は床に転がった。
投げたまま、離さず、治五郎が上に被さってきた。
もう、治五郎は惣角の両襟を取っている。首を締めてくる技だ。
惣角は、床に転がった勢いを止めずに、さらに身体をもう一回転させながら、今度は自分が治五郎の上になりにいった。
治五郎が、それを嫌ってするりと横へ逃げた。
ふたりが、同時に立ちあがる。
立ちあがりながら、惣角が治五郎の脇腹に向かって、中足《ちゅうそく》――右足の親指の付け根で蹴りにいった。
惣角の右足が、治五郎の左脇腹に吸い込まれてゆく。
治五郎は、それを左肘で受けた。
強い衝撃が、治五郎の全身を打った。
左腕の肘の部分で受けても、衝撃は内臓まで届いてきた。
蹴った足がもどってゆくのに合わせて、治五郎は惣角に向かって動いていた。
再び組みにいったのである。
組んだ――そう思った瞬間に、左の|顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》に強烈な打撃が加えられてきた。
一本拳《いっぽんけん》。
惣角が、右の握り拳から中指の第二関節を立てて、それを治五郎の顳|※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《かみ》に当ててきたのである。
鉤打ち――
ボクシングでいうフックの変形技である。
一瞬動きの止まった治五郎の顎を、下から跳ねあがってきた惣角の左膝が打った。
治五郎は、かろうじて右手を自分の顎と惣角の膝との間に入れたが、その手ごと顔を上向きにされた。その顔面を、斜め上から叩きつけてきた惣角の掌が捕えた。
鼻頭《はながしら》にそれが当った。
治五郎は、顔をそむけるようにして、力の何割かをかろうじて横に逃がしたが、かなりの衝撃を顔面で受けていた。
治五郎の両手は、今しがた自分の顎を打ってきた惣角の左脚を抱え込んでいた。
惣角の軸足――右足に自分の左足を引っかけ、惣角を押し倒しにゆく。
惣角が、仰向けに倒れた。
治五郎が惣角を倒したようにも見えるが、惣角が自ら仰向けに倒れ込んだようにも見えた。
仰向けに倒れながら、惣角は、自分の左足で、左腕ごと治五郎の首を下からからめとっていた。
惣角は、治五郎の首をからめとった自分の左足を、自分の右足の膝裏あたりで引っ掛けた。
そのまま、下から締めあげた。
治五郎は、自らの左肩で、自分の首の左の頸動脈を締めるかたちになった。
治五郎の鼻から、大量の血が溢れ、惣角の袴を濡らしている。
「ま、まいりました」
治五郎が言った。
「それまで!」
飯久保が走り寄ってきて、ふたりを分けようとしたその時――
飯久保がふたりを分ける寸前、惣角は技を解いて大きく後方に転がった。
転がって起きあがった時には、左手に、あの杖を握っていた。
「武田くん……」
飯久保が、さすがに少し鼻白んだ声で言った。
「先生!」
道場生たちが腰を浮かせている。
彼等が走り寄ってくるのを制するように治五郎は床に正座をして、
「素晴らしい……」
鼻から流れ出る血をぬぐいもせずに、杖を左手に握って片膝を突いている惣角に向かってつぶやいた。その血にまみれた治五郎の顔には、笑みがこぼれていた。
惣角は、すでに自分の位置と庭までの距離を目測し終えている。
今は、乾いた硬い視線で治五郎をさぐっている。
しかし、まだ、この嘉納治五郎をその眼は測りきれてはいない。
この男、なんとあっさり、自分の敗北を道場生たちの前で認めるのか。
これまで自分が相手にしてきたどのような武道家とも違う。
何者なのか、この嘉納治五郎という男。
「あなたの今やってきた当て身は、どこのものなのですか」
「沖縄の古伝さ」
思わず惣角は答えている。
「沖縄手というやつですか」
「唐手《トウデイー》だ」
惣角は言った。
惣角自身が、この手を学んだのは最近である。
九州で知り合った男が沖縄の出身で、この唐手の目録を持っていた。この男と一緒に沖縄へ渡り、唐手の形の手ほどきを受けた。
「柔術の当て身と間合いが違っており、とても受けきれませんでした」
治五郎は、興奮した声で言った。
「なるほど、今のが唐手ですか」
治五郎は、自分でつぶやき、自分でうなずいている。
「さきほど、あなたを投げた時、まるで手応えがなかった。空気を投げているようでした。あれが御式内ですか――」
治五郎が、次々に惣角に問うてくる。
「最後は、足でわたしの頸と肩を極められましたが、これも知りませんでした。これも御式内の手なのですか。それともあなたの工夫なのですか――」
「両方だ」
惣角は、低く答えた。
治五郎は膝で惣角ににじり寄り、
「わたしが、あなたをこう倒しに行った時――」
さきほどの自分の体勢をそこで真似た。
「――あなたは、自ら倒れ込んで、その時にはもう足をわたしの頸に掛けておられました。ほとんど拍子ふたつで極められたような気がするのですが、あれは、わたしにわざと膝を取らせたのですね」
「そうだ」
あたりまえではないか――そう言うように惣角はうなずいた。
「わたしのどこが、いたりませんでしたか?」
治五郎が訊く。
惣角は、ようやく、この学士柔術の創始者が、他意を持たずに自分に近づき、問いを発しているのだということに気がついていた。
「嘉納さん――」
惣角は、両膝を床に突いてそこに座し、杖をあらためて自分の左脇に置いた。
「あなたの組み手は神技です」
正直に言った。
引こうが押そうが、こちらが加えてゆく力に、瞬時に同じ力で対してくるあれは、まさに神技であった。
もしも組むだけの方式の試合であれば、負けていたのは自分であったかもしれない。
「しかし、正直すぎます」
「正直?」
「こちらが加えてゆく力に、正直に反応しすぎる。一〇〇人武道家がいれば、一〇〇人が一〇〇人とも、あなたの技で投げられてしまうでしょうが、一〇一人目には、その動きを読まれてしまうことになります」
「はい」
「あなたの動きは、理にかないすぎているのです。勝負には、理では計れない機微がある――」
「はい」
治五郎は、素直にうなずいた。
その治五郎に、さすがに惣角は辟易した表情を見せた。
勝負に勝っても、この男に対する自分の評価が、どういう変化もしていないことに、惣角は気づいていた。
妙な男であった。
「御式内とは、どういう派なのですか」
治五郎は訊いた。
「それならば、彼にも言ったが――」
惣角は、山田常次郎を見やり、
「御式内のことなら、志田四郎君に訊けばいいでしょう」
「志田?」
治五郎は、後方の志田四郎を見やった。
志田四郎は、さきほどからそこに正座したまま、ほとんど動こうとしていなかった。
両膝の上に両手を置き、昏い双眸で、武田惣角を見つめていた。
「わたしの用事は済みました」
惣角は立ちあがった。
左手に杖を握っている。
「失礼する」
ぽつりと言った。
惣角の短躯が動いて、庭へ降りた。
誰も惣角を止めなかった。
惣角の姿が消えてから、庭に虫が鳴き出した。
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二章 講道館
(一)
嘉納治五郎という人間は、天才であった。
一種の異様人であったと言ってもいい。
このような精神と肉体が、どうして明治という時代に生まれ得たのか。明治という時代であるからこそ、このような人物が輩出されたのか。
もしも、嘉納治五郎という人間が、この時代に生まれていなかったら、当然ながら柔道というものはこの世に存在しなかったであろうし、素手の武道というものは、完全に形《かた》のみを残す形骸化したものになっていたであろう。
後に、柔道や柔術が世界に広まって競技化してゆく過程を眺めると、明治という時代に嘉納治五郎という存在が柔道という新時代の武道を創始したということは、人類史的な事件であったと言ってもいい。
もしも嘉納治五郎という存在と柔道がなかったら、人類の財産とも言える素手の闘いの技術――現在の格闘競技の風景はまったく違うものになっていたはずである。
武術というものは、古来より、それは天才のものであった。
ある種の才能がなければ、その技術の習得は難しかった。
いつの頃からか、武道の技術書――奥伝書や目録に、宗教の用語――仏教の言葉がまぎれ込むようになった。
剣禅一如――
という言葉はまさしくそれであり、心眼とか、道場という言葉もそうである。
道場というのは、本来は僧が修行する場所のことを指す言葉である。それが、現在では武術を修行する場所を指す言葉として使われることの方が一般的である。
自流派に重みをつけ、箔をつけるために、難解な、仏教用語の混じる奥伝書が生まれていったのである。
柳生新陰流は、ひとつの典型であるといっていい。
これを、天才の世界から、常人の世界へ引きもどしたのが、剣の世界では北辰一刀流の千葉周作であり、素手の武術の世界では柔道の嘉納治五郎であった。
天才でなくとも、学べば誰でもある程度まではすぐに強くなることができる。
剣道の竹刀を握る時には、右手で柄の上を握り、左手で下を握る。この時、左手は、小指に力を入れて握り、他の指は、薬指、中指、人差し指の順に力を抜いてゆく――
千葉周作は、このような初歩のことから、分かり易く教えた。
嘉納治五郎は、これを柔道でやったのである。
名人、達人と呼ばれる人々は、武術の世界には何人もいるが、たとえば、何故人が倒れるのか、何故、人が人を投げることができるのか、この術理を言葉をもって説明できる人間は、そうは多くいなかった。
こう襟を取って、こう足を掛けて、こうすると倒れる――
実際に、相手と組んでその技をみごとに掛けてみせることはできても、では何故相手がそれで倒れるのかと、分かり易い言葉で他人に説明することが、多くの人間にはできなかったのである。
これができたのが、嘉納治五郎であった。
人が人を倒す――
この術理を、嘉納治五郎は明解に言葉で語ることができたのである。
嘉納治五郎は、型しか残っていない古伝書の技の中から、その理を見つけ、その技をあらためて実用の世界に開花させた。
今日ではあたりまえとなった乱取りというシステムを取り入れたのも、嘉納治五郎であった。
古流は、型の稽古をするが、その型を実戦でどう技として使用するかについては、そのシステムを持つものが少なかった。
乱取り――
ルールを決めて行なわれる、実戦に近い練習試合――これが乱取りである。
柔道は、この乱取りを、当時のどの流派よりも重視した。
これが、柔道の今日の隆盛の一因となったのは間違いがない。
人は、何故倒れるか。
人が立っている。
これを、いきなりただ倒そうと思っても、なかなか倒れるものではない。
人が倒れる時、あるいは投げられる時は、その立っている状態からいきなり投げられる状態に移行するのではない。投げられる直前、人は、その重心を崩している。
そのことに、治五郎は気づく。
人を投げるのも技だが、その前に、立っている人間の重心を崩すための技があるのではないか。
名人、達人と呼ばれる人々が凄いのは、投げる技よりも、まず、相手の重心を崩すための技が上手なのではないか。
この立っている人間の重心を乱れさせることを、治五郎は崩し≠ニ呼んだ。
投げ技の前に、まず、この崩し≠ェある。
立っている人間に仕掛け、崩し、投げる――人が人を投げるというのは、必ずこの、仕掛け、崩し、投げという三段階があることを治五郎は発見したのである。
この概念は、治五郎以前にも知られていたものであった。
しかし、これを、理論化し、誰にでもわかり易く体系化していったのが治五郎であった。
天才は、そのような理論など知らなくても、無意識のうちにひとつの技の中でそれをやることができる。だが、武術がそういう天才のものであるうちは、今日のごとき柔道の発展は望めなかったであろう。
治五郎は、当時の最高学府である東京大学の学生であり、卒業してからは、学習院の教師であった。
学習院で柔道の教師をしていたのではなく、教壇に立って生徒を教える文学士であった。
さらには、英語の本の翻訳をし、一枚一円のその翻訳料を、道場の維持費にあてていたのである。
肉体。
精神。
本来であれば、ふたりの人間に宿るはずのものが、嘉納治五郎というひとつの肉体の中に宿ったのである。
明治――
柔術や武道は、近代化の波にさらわれ、古い、野蛮であるということから、ほとんど一般の人間からは顧みられなくなっていた時代であった。
これを、嘉納治五郎が救ったといっていい。
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先生はそのころ、金の必要が生ずると、いつも急に夜遅くまで、ときには徹夜までして、いっしょうけんめいにこの翻訳を始められた。そしてその原稿料なるものが当時一枚一円であった。それが何十枚か脱稿すると、私はそれを携えて、かねて約束の文部省の会計課長のところへ持って行き、小切手をもらって、さらに日本銀行に回り現金を受け取ってきたことがたびたびあった。その英書というのは、たしかシッジウックという人の倫理学書であったと記憶している。だから当時、先生の唯一の道楽であった「武」すなわち柔道から生ずる赤字額を「文」すなわち翻訳をもって補填したというわけであったから、まことに神聖なる内職であった。
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富田常次郎(山田常次郎)は、当時をこのように回想している。
嘉納治五郎が、「武」の顔と、「文」の顔と、ふたつながら持っていたことは、柔道にとって僥倖であったのではないか。
(二)
嘉納治五郎は、万延元年(一八六〇)一〇月二十八日、摂津国菟原郡御影村浜東(現在の神戸市東灘区)に、幕府海軍官材課長嘉納次郎作|希芝《まれしば》の三男として誕生した。
この半年前、同じ年の三月、尊王攘夷派の水戸浪士たちが、大老井伊直弼を桜田門に襲い、これを殺害している。いわゆる桜田門外の変である。
実家は酒屋である。
姉が五人、兄が二人、三男ではあるが兄弟八人のうちの末弟である。
数え年で九歳の時が明治元年。
一〇歳のおりに、母が病没。
明治三年十一歳の時に、父と共に東京へ出てきた。
幼少の頃より、英才教育を受けてきた。
七歳――現在でいうなら六歳の時から郷里において画家山本竹雲、医師山岸某氏に就いて、漢学、習字を学んだ。
東京に出てからは、木沢某氏らに就いて漢学を修め、生方氏に書を学び、家庭教師に就いて英書を読んだ。
十三歳になった時には、箕作秋坪の塾に通い、英書を学んでいる。
十四歳で私立育英義塾に入学、蘭人ライヘ、独人ウェッセル両氏に就いて、英語、独語、普通学を修めた。
十五歳で、官立外国語学校に入学、英語、普通学を学び、十六歳で官立開成学校に入学。
十八歳の時に、開成学校が名称を改め東京大学となり、この時に同大学文学部第一年に編入となった。
嘉納治五郎が、初めて柔術に触れたのが、この十八歳の時であった。
もともと、身体が大きかったわけではない。
壮年時でも五尺二寸の小躯であった。
治五郎は、幼少時から、学問の道に入り、徹底した教育を受けてきた。しかし、幼い治五郎が、それをいやがっている節は、今日残っている治五郎本人の書き記したものを探しても見当らない。むしろ、治五郎は、積極的に、学問の道にその身を投じていったように見える。
知的な好奇心――嘉納治五郎は、その並はずれた所有者であった。
知と理をもって、世界や社会の力学を読み解いてゆく悦びを、治五郎は幼くして味わってしまった。
後に柔術と出会った時に、これを理解してゆく時も、治五郎を突き動かしていたのはこの知的な好奇心であったのではないか。幼い時から受けていた知的な訓練と方法論が、そのまま柔術を理解してゆく時の、治五郎のやり方となったのである。
幼少時の治五郎の肉体と風貌を思うに、まずどこから見ても柔術などやりそうな子供には見えなかったに違いない。
小さく、痩せた身体。
細い手足。
青白い皮膚。
瞳は黒く澄んでいて、同じ歳頃の子供よりも、遥かに大人びた光をそこに宿していたろう。
皮膚の色が白い分だけ、その唇は、内側の血の色が透けて、ほんのりと赤みを帯びていたのではないか。
知的好奇心――
これは、嘉納治五郎という人間を読み解いてゆく時に、重要なキーワードとなるだろう。
もうひとつには、天性とも言うべきバランス感覚がある。
あることに偏ろうとしないこと。
意識的にというよりは、嘉納治五郎のもって生まれた本然として、そういう精神的な志向があったのではないか。
和と洋。
東と西。
幼少時より、漢書を学びながら、それと並行して英語を学んでいる。
精神と肉体。
文と武。
日本の最高学府の最新の教育を受けながら、日本古来の柔術を学ぶという感性。
これは、二十三歳の時に、治五郎が始めたふたつの塾≠ゥらもうかがい知ることができる。
二十三歳――東京大学を卒業して、治五郎は、ふたつの私塾≠開いている。
それが――
嘉納塾。
講道館。
このふたつである。
嘉納塾では、文武のうちの文を教え、講道館では、武――つまり、自らが起こした柔術の新しい流派、柔道を教えた。
どちらも私塾≠ナあり、塾生からは金を取ってはいないのだ。生活のためではない。儲けを度外視している。
経済のためだけなら、学習院の教師ということでやってゆける。
しかし、金のために治五郎はこれをやっているのではなかった。治五郎は、むしろ自分で稼いだ金をこのふたつの私塾≠フために使ってゆくのである。
柔術という古い武道の中に、西洋的なスポーツという概念を合わせて柔道を完成させたのも、治五郎の天性の感性によるものであろう。
柔道は、巷間《こうかん》言われるように
柔能く剛を制す
ものではない。
これは、柔道、あるいは柔術の持っている要素のひとつにしかすぎない。
柔の中に剛を、剛の中に柔を――柔と剛との間を自由に変化しながら相手を制すのが柔道の極意である。柔が剛を制するというだけの、一方的なものではない。
これについては、治五郎自身が、後年、次のように述べている。
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柔道とはどう云う意味かと云へば、少なくともその名称は柔能ク剛ヲ制ス≠ニ云う言葉から出たらしい……所《ところ》が深く考へてみると、いつでも柔能制剛の理屈では説明出来ない。仮に誰かが私の手首を握るとする。その握られた手はどうなるかというと丁度ここがてこの支点になって拇指と他の四本の指で握ろうという力に対して、全身の力を手首に働かせてその握ってくる力に対抗せしめるのであるから、こちらが遥かに強い。しかもここがてこの支点となるから訳なくとれる。これが果して柔能く剛を制する理屈で取ったのかと云うとこれはそうではない。又勝負の時には相手を蹴るということがある。この場合は柔能く剛を制す、とはいえない。これは積極的にある方向に力を働かせて向こうの急所を蹴って相手を殺すとか傷つけるとか云うことになる。ある手で突くのも同様である。刀で斬るのも棒で突くのも同様である。これも柔能く剛を制するという事ではない。
[#ここで字下げ終わり]
治五郎が、柔術における強さや技術について、早くから柔と剛のバランスにあると考えていたことは、まず間違いがない。
さらに書いておくならば、この考え方は、治五郎の独創ではなく、日本の古流柔術――渋川流柔術や、治五郎も学んだ起倒流にも存在している。
文政九年(一八二六)に、片山松斎が著わした『北窓雑話』にも、
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柔は能く剛を兼ね、剛は能く柔を兼ねて、剛柔一体たる所を真実の柔術と名づく。柔に剛を含まざれば柔弱に流れ、剛に柔を含まざれば剛強に落ちて共に道を成すべからず。
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とある。
学問に対するのと同等の知的探求心をもって、治五郎は柔術に関心を持ち、柔術を探求してゆくのである。
人は、何故、投げられるのか。
その時にどういう力が人体に働くのか。
柔術の技術、奥義、これを理≠もって読み解いてゆき、自らの肉体を実験台として、古流の技を体系だてていったものが、柔道の技となっていったのである。
こういったことをふまえて、嘉納治五郎という人物を眺める時、この男が、自分の肉体とそれを機能させる技術や理屈に関心を持っていったというのは、極めて自然な流れであったといっていい。
学問、教養を身につけてゆく過程の中で、治五郎は早くから、自分が、存在としておそろしくバランスを欠いたものになりつつあることに気がついていたに違いない。
肉体は細く、弱く、しかし学問だけは誰にも負けない――そういう存在は、治五郎のバランス感覚――感性からすれば、一種の畸型であった。
明治六年、芝の烏森町にあった育英義塾に入塾し、治五郎は初めて家を離れて寄宿生活をすることになった。
数え年十四歳。
この時に、治五郎は、柔術を学ぼうとする。
後に治五郎は書いている。
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この塾にはオランダ人が教頭をしており、ドイツ人が助教ですべての学科を英語で教えていた。自分はその以前箕作秋坪の塾に通うて、いくらか英書を学んでいたから学科の上では他人におくれをとるようなことはなかったけれども、当時少年の間では、とかく強いものが跋扈して、弱いものはつねにその下風に立たねばならない勢いであったので、これには残念ながらつねにおくれをとった。自分は今でこそ普通以上の強健な身体を持ってはいるが、その当時は、病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた。それゆえ、往々他から軽んぜられた。学問上ではたいていのものに負けないとの自信がありながら、往々にして人の下風に立たせられた自分は、幼少の時から、日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた。
[#ここで字下げ終わり]
治五郎が、最初に柔術を教えてくれと頼んだ相手は、治五郎の家に出入りをしていた旗本の中井という男であった。
「今時、そのようなものを学ぶ必要はない」
中井は、治五郎の申し出を断った。
次に頼んだ片桐という人物も同様の理由でこれを断った。
さらに、肥後の人間で今井という扱心流の柔術家に同様のことを頼んだのだが、これも、今の時代に必要がないという理由で、断られている。
父親を通じて、柔術家を捜そうとしたが、父の意見もまた、
「今の世に柔術を学ぶ必要はない」
ということで、これもかなわなかったのである。
治五郎は、もちろん本気であったが、文明開化の時代に柔術は野蛮であるとの風潮が一般にはびこっている頃であり、実際にその技術を持っている当の柔術家でさえ、多くは同様の眼で柔術を捕えていたのである。
治五郎が、実際に柔術家の門をくぐったのは、すでに書いたように、明治一〇年、東京大学文学部に入学した年であり、十八歳になってからであった。
(三)
明治一〇年、六月――
嘉納治五郎は、雑踏の中を歩いている。
人が多かった。
耳にはしていたが、これほどの人が出ているとは考えてもいなかった。
新橋から京橋まで続く、銀座の煉瓦街であった。
京橋、銀座、築地にかけて、大火があったのは、五年前――明治五年の二月二十六日である。この火事によって、このあたり一帯の家のほとんどが焼けてしまった。
その復興のため、銀座煉瓦街が計画されたのである。
仏国の巴里《パリ》のごとき街道に、英国の倫敦《ロンドン》のごとき街並をこの一画に造りあげること――この工事によって、欧米、ロシアの列強に日本国の威信を示すことも、目的のひとつであった。
大火の翌年、明治六年に着工され、四年後の明治一〇年六月九日に完成した。
銀座四町、尾張町二町、竹川町一町、金六町一町、合わせて八街の街路と建物の全てが煉瓦造りとなった。
街道は、幅七間。
路上は一面煉瓦が敷きつめられており、その両側には、街路樹が植えられた。
車道と歩道を分け、両側に建つ煉瓦造りの建物は、高さ数十尺にも及び、これが新橋から京橋まで続いている。
二階建ての高楼である。
四方の壁は、巨万の煉瓦を積み重ねたものであり、木の柱も使わず、土も塗らない。
この煉瓦の道を、治五郎は歩いているのである。
洋装をした女が、馬車に乗って煉瓦の道をゆく。
周囲を歩いている和装、洋装の男女も、子供の手をひいている家族連れも、多くはここに用事があって来たというよりは、見物に来たという体であった。
商工合わせて、数多くの店が並んでいる。
唐物を売る店の隣りが呉服屋で、牛肉店と蕎麦屋が向かい合う。
洋服の裁縫をする店。
書店。
紙屋。
茜染めの幕を店の前に張ってあるのは煙屋である。
黒塗り瓶を並べた銘茶を商う店。
金|屏風《びょうぶ》をめぐらせた骨董屋。
仙女香を焚いている家具屋。
陶器。
下駄。
靴。
薬。
傘。
どの店にも人が溢れ、人の出入りが絶え間ない。
時計の値段が、百円。
三升《みます》格子の単衣《ひとえ》が一円二十五銭。
足袋の看板は、人の身体ほどもあり、扇屋の看板に使用されている扇は、仁王がそれを持って扇げば、犬や猫なら宙に舞ってしまいそうなほど大きかった。
どの店の建物も似ているが、看板や内装は店の持ち主の自由に任されている。
官庁が、金を取って店の持ち主に貸しているのだが、建築費全額を払い終えれば、その土地や建物が自分のものになるのである。
だから、売り子の声も、ひときわ大きくなり、それがまた賑いを増す要因となっているのである。
「お代はいらないよ」
赤い幕の向こうから、男が、治五郎に声を掛けてきた。
煙屋である。
どの煙を買うか、試しに一服吸うのならただで、一銭も取らないというのである。
「煙草《たばこ》は、やりません」
治五郎は生真面目に答えて、頭を下げた。
その頭が上がらないうちに、男は、もう次の客に声を掛けている。
また歩き出しながら、治五郎はあたりを見やった。
黒い洋装姿の、手にステッキを持った男が、その杖の先で、靴屋の店先に並べられた靴を指して何か言っているかと思えば、その横を、荷台に青物を溢れさせた大八車が引かれてゆく。その先を、人力車に乗った和装の男が通り過ぎてゆく。
日本とは思えぬ風景であった。
しかし、では、どこに似ているのかというと、それは治五郎にはわからなかった。
英国とは、こんなものか――
勝手に頭に描いた倫敦の風景と、目の前に今広がっている風景とを、治五郎は重ね合わそうとして、それをやめた。
英国は、日本と同様に古い歴史を持つ国である。
その異国の街の風景と、この東海の国の風景が――たとえどんなに似せようとしたとしても、同じであるわけはなかった。そうたやすく、異国の文化を真似られるわけもない。
では、この風景は何だろう――治五郎は、そんなことを考えている。
英国でも日本でもない風景。
喧騒の中を、治五郎は歩いてゆく。
西南戦争は、この年の九月、西郷隆盛の自刃によって終っている。
日本は、近代に向けて凄い勢いで走り出していた。
急な坂道の上方から、下方に向かっていきなり押し出されてしまった、引き手のいない荷車。
止まろうとしても、もはや日本は止まることができない。多くの荷を積んだまま、日本は坂道をひた走りに下ってゆく。
その荷台からは、多くのものが振り落とされてゆくことになる。
古き日本。
その荷車が、どこまで走ってゆけるのか、あるいは途中でひっくり返ってしまうのか、それは治五郎にもわからない。
しかし、自分のいる日本という国が、もはや引き返すことのできない流れの中に入ってしまったのだということは、治五郎にも実感できた。
いったい、何を指標とするか。
まるで、自分のようだ――治五郎はそう思った。
この風景。
この街。
この日本。
急速に入り込んできた洋のもので溢れかえっている。
それはよい。
幼い頃から、英書を読んできた治五郎に、洋の文化に対する嫌悪感はない。それを取り入れようとすることには、むしろ積極的だ。
異国に対する知識や興味は人並み以上である。
しかし、洋の学問を自身の身につけてゆく時、何を指標となすべきか。
何を標としたらよいのか。
この街の風景にも、自分にも、その標とすべきものがない。
いつの間にか、治五郎は、日本橋の上に立って、あたりを眺めていた。
ここから見る風景には、治五郎のよく知っている日本がまだ残っていた。
新しくできあがったばかりの銀座煉瓦街を見にやってきたのだが、さすがにその喧騒《けんそう》に酔ってしまった。
足も疲れている。
煉瓦街を歩きながら、もしやと思って整骨屋の看板を捜したのだが、さすがにそれは見つからなかった。
整骨屋をやっているのは、昔の柔術家であるということを、治五郎は聴き知っており、最近は外を歩くたびに、整骨屋の看板を見つけては、そこに足を向けることにしているのである。
父親や、他人に頼らず、自分の足で柔術を教えてくれる人物を探すことにしたからであった。
これまでに、何度か、そういう看板を見つけてはそこを訪れたが、その多くは、治五郎の問いに、自分は柔術などはできないと答えるのが常であった。たまに、昔は柔術をやっていたことがあると答える者もいるが、そういう整骨屋も、
「今はやっていない」
と治五郎に言うばかりである。
「この時世に、柔術などを学んでどうするのだ」
これまでに、何度も耳にした言葉を聞かされて、治五郎は店を出てくることになる。
もしかして、今も教えている柔術家はいないのかもしれない。
そういう危機感を、治五郎は抱き始めていた。
危機にあったのは、柔術ばかりではない。
剣術もそうであった。
時代が明治とかわり、武士という階級が消えて、柔術以上に剣術は衰退の憂き目にあったのである。
町道場で剣術を教えていた人間の何人かは、自分の技術を、大道芸の見せ物として売らねば、生きてはゆけなくなった時代であった。
旧幕府講武所剣術師範役で直心影流の榊原鍵吉も、そういった人間のひとりであり、明治六年に「官許撃剣会」の名前で浅草左衛門河岸で興行を行なっている。
剣術を主とし、これに薙刀、鎖鎌、槍術、柔術を加えて木戸銭を取り、人に見せたのである。
柔術の場合は、女が演武者であることが多く、実情は見せ物であった。
この興行に、若い武田惣角も出ているのである。
この時期、治五郎と同い歳の武田惣角が、すでに周囲にもその実力が認められる武道家であったことに比べ、治五郎はまだ武道家ですらなかった。
柔術を教えてくれる人物を探している十八歳の大学生である。
いつの間にか、治五郎は歩き出していた。
日本橋の人形町通りである。
弁慶橋の近くにさしかかった時、治五郎はその看板を目にしていた。
通りの地面に、
整骨 八木貞之助《やぎていのすけ》
と書かれた木の看板が立てられていたのである。
右手にあるしもた屋らしき家と家との間に路地の入口が見えている。看板はその路地の入口に置かれていた。
達筆、というほどのものではないが、たっぷりと墨を使った、黒々とした太い字で書かれていた。
代書屋か看板屋に頼んだというよりは、おそらくこの八木貞之助という人物が自分で書いたものであろう。
路地を入ってゆくと、左右が長屋になっており、奥の右側の軒下に、さっきよりは小さな、
整骨
と書かれた木の看板が下がっていた。
路地の入口にあった看板の文字と同じ手であった。
看板の前に立った。
戸が開いていて、中が見渡せた。
人の数はない。
さほど広い家ではない。
今見えているひと間だけのものだ。
戸を開け放したまま、この家の主は外へ出てしまっているらしい。
治五郎がそう思った時、
「お客かね」
背後から、太い声がかかった。
振り返ると、そこに白髪白髯《はくはつはくぜん》の、歳の頃なら六〇代の半ばと見える人物が立っていた。丈は、五尺四寸ほどに見える。
治五郎よりも高い。
くたびれて、かたちも崩れ、色の褪せた紬《つむぎ》を着ていた。
しかし、歳の割には、背がすっきりと伸びており、肩幅が思いの他広い。
鼻の作りも眼の作りも、口の作りも大きかった。状貌魁偉《じょうぼうかいい》ともいえる偉丈夫である。筋骨の張っているのが、着ているものの上からもわかる。
「八木貞之助先生ですか」
治五郎は言った。
「先生?」
治五郎の言い方が、あまりにかしこまったものであったためか、一瞬、その人物は怪訝そうな顔をしたが、すぐに自分のことだとわかったらしい。
「八木だが、君は?」
そう問われた。
「失礼いたしました。嘉納治五郎と申します。学生です」
治五郎は頭を下げた。
「見たところ、客とも見えんが、どういう御用かね」
「八木先生は、柔術をやっておられますか」
治五郎は言った。
「柔術?」
「柔術です」
「やらんこともないが、それがどうしたのかね」
「やっておられるのですか、柔術を――」
治五郎の顔が明るくなった。
心の裡《うち》がそのまま見渡すことのできる顔であった。
治五郎は、正面から、真っ直ぐに八木の顔を見ている。
「昔の話だ」
八木は答えた。
これまで、治五郎が何度も耳にした言葉が返ってきた。
しかし、治五郎は、この人物は違う――そう思っている。
この肉や骨の張り具合や、佇まいを見ると、これまで治五郎が会って来た整骨屋とは別種の人物のように見えた。
「やっておられたのですね」
勢い込んで、治五郎は問うた。
不思議なものでも見るような眼で、八木は治五郎を見やった。
しばらく見つめてから、
「あがるかね」
治五郎を眼でうながした。
家の中へ入ろうと、そう言っているのである。
「はい」
治五郎はうなずいた。
(四)
八畳間ほどの、畳の部屋であった。
押し入れがひとつ。
それが、この八木の家の間取りの全てであり、その八畳間に、箪笥《たんす》、火鉢、つづらが置かれている。
その奥に八木が座して、治五郎と向かい合っている。
厠と井戸は、外に共同のものがある。
どうやら、八木は、家を空けて、厠に立っていたのだろう。
帰ってきたところで、治五郎と出合ったものらしい。
家に上がった時に、戸を閉めようとすると、
「いや、閉めんでよいのだ」
八木が言った。
「その方が、客が入り易いのでな」
言われて、治五郎は戸が開いていた意味が呑み込めた。
なるほど、開いている方が、新しい客は入り易い。厠へ立つ程度の時は、いつも八木はこのように戸を開けたままにしておくのだろう。
「どろぼうも、こんなに何もない所へ入っても持ってゆくものがなかろう」
にこりともせずに、八木は言った。
それで、座があらたまった。
「柔術が、どうかしたのかね」
八木が言った。
「教えていただきたいのです」
治五郎は、両膝を両手で掴むようにして言った。
正座をしている。
正面から八木を見ている。
「柔術を?」
「はい」
治五郎はうなずいた。
「柔術など、今の時世には流行《はや》らぬよ」
これもまた、何度も治五郎が耳にしてきた言葉を八木は口にした。
「そんなことはありません」
治五郎は言った。
「あるさ」
あっさりと八木は答えた。
「このわたしを見なさい。もし、柔術が流行るものなら、こんなところに住んではおらぬよ」
言われて、治五郎は言葉に詰まった。
流行ります
あやうくそう言いそうになり、治五郎はその言葉を飲み込んだ。
「柔術は、必要です」
そういう言い方をした。
「必要はない」
八木は言った。
「柔術は、実の術理だ。当て身をあて、組み、相手を倒す。そういうことの必要な世にこれからなってゆくとは思われない」
「―――」
「今、必要なのは、西洋の学問だ。そちらの方面は、わたしはからきしだめだが、そのくらいはわかる」
「西洋の学問が、これからの時代に必要であるというのはわかります。しかし、それだけではないと思います」
「ほう」
「銀座の煉瓦街へは、もう、いらっしゃいましたか」
「一度だけ、様子を見に行った。さすがに驚かされた。しかし――」
「しかし?」
「わたしには無縁のところだ」
「自分も、今日、あそこを見てきました」
「どうだった?」
「先生と同じ意見です。驚きました。短い時間で、よくもあそこまでと思いました。いずれは、そう遠くない時期に、日本も世界の列強と肩を並べる日が来るだろうと思いました――」
「それで――」
「しかし、あれがあのまま発展してゆくのなら――」
「ゆくのならどうなのかね」
「うまく言えませんが、このままゆくのなら、この日本は何か大事なものを置き忘れたまま西洋へ近づいていってしまうのではないかと思います」
「大事なものとは何なのだね」
「この国です」
「ほう」
「日本は、日本でありながら、日本という国をどこかへ置き去りにしてしまうのではないかと思いました」
治五郎は、まだ、八木から視線をそらさない。
「あれは、わたしです」
治五郎は言った。
「どういうことかね」
「わたしは今、大学で西洋の学問を勉強しております。そのことでは、同輩の誰にも負けない自信がありますが、このままゆくと、あの煉瓦街と同じで、何か大事なものを置き忘れてしまいそうな気がしているのです」
それは、治五郎の、切なる実感であった。
肉体の一部のみが肥大した畸型。
それは、自分の場合、頭である。
「大学というと、東京大学かね」
「ええ」
治五郎はうなずいた。
大学は、この時、ひとつしかない。
大学と言えば東京大学のことであり、それは、日本で唯一の最高学府であることを意味していた。
それを、八木はわかっているらしい。
「この国で一番の学府で、学べないものがあると、君は言っていることになる」
「そうです」
治五郎はまたうなずいた。
「それで、柔術かね」
「はい」
答えた治五郎を、八木は見やった。
治五郎は、八木の視線を正面から受けている。受けながら、真っ直ぐに八木を見ている。普通、人と対面する時は、直接に相手の眼を見ない。
多少、相手の額や鼻、唇のあたりにその視線をずらす。
しかし、治五郎は、その視線をずらさない。
「嘉納君――」
八木は言った。
「はい」
「そんなに真っ直ぐ、人の眼を見るものではないよ――」
困ったように、八木は言った。
「はい」
しかし、まだ、治五郎の視線は八木の眼を見ている。
その視線を、八木は受けている。
すると、ふいに――
八木の両眼から、ふわりと透明な涙が溢れ出てきた。
唐突な涙であった。
たじろいだのは、治五郎であった。
口を開きかけたが、掛ける言葉が出てこなかった。
「不思議な人物だなあ、君は――」
溜め息のように、八木は言った。
「眼の筋がいい」
「眼の、筋……」
治五郎は、八木の言った言葉を口にした。
「そうだ」
「―――」
「眼だけではない。骨の筋もいい。骨も真っ直ぐに伸びている。身体の中の骨の納まりがいい。骨に病んだ所がない」
「―――」
「そういう骨を持った者は、真っ直ぐに伸びるだろう。わたしには、それがわかる」
治五郎は、両手で両膝を掴んで、八木の話を聴いている。
八木は、涙をぬぐおうともしなかった。
「柔術が、必要だと言ってくれた君の言葉は嬉しかった……」
ぽつりと八木は言った。
「これまでの、わたしの数十年が救われたような気がする」
「先生……」
八木は、治五郎を見つめ、
「もしかしたら、わたしは、とんでもない人物に、今、立ちあっているのではないかという気がしてきたよ」
しみじみと言った。
「とんでもありません」
「いいや、それがわたしの実感だよ」
「―――」
「あるいは、君の手によって、柔術は、この新しい時代に生き残ってゆくのかもしれない」
「先生――」
「わたしは、柔術は、やがて滅んでゆくものだと覚悟をしていた。自分が身につけたものが、将来消えてゆくものだと考えるのは、淋しいものだ。しかし、そこへ、君があらわれた」
「―――」
「柔術は、今の世の中では、無用の、野蛮なものだと思われている」
「―――」
「確かに、柔術には、そういう側面もある。今は見せものとなっている面もあるが、しかし、それだけではない――」
八木は、治五郎を見つめ、
「嘉納君、君に協力をしよう」
そう言った。
「教えていただけるのですか、柔術を!?」
「教えるのは、わたしではない」
八木は言った。
「わたしは、柔術を人に教えられる器ではない」
八木は、座したまま家の中を見回わし、
「見ての通り、ここは八畳ひと間に、箪笥もつづらも置いてある。とても柔術を教えられるような場所ではない」
治五郎に視線をもどした。
「わたしが学んだ柔術は天神真楊流という。知っているかね」
「はい」
治五郎はうなずいた。
「楊心流と真之神道流の二流を合わせた御流儀であるとは耳にしていますが、それ以上のことは知りません」
「わたしの同門に、福田八之助という人物がいる。この男が、日本橋元大工町で道場を開いている。ここを紹介しよう」
「ありがとうございます」
「福田ならば、君を教えるにふさわしい人物だ」
そう言いながら、八木は立ちあがった。
「嘉納君」
「はい?」
治五郎は、座したまま八木を見あげた。
「立ちなさい。君にひとつだけ教えておくことがある」
「わかりました」
治五郎は立ちあがり、八木と向かい合った。
(五)
治五郎は、自分の眼の前にいる八木を見つめている。
八木は八木で、治五郎を正面から眺めている。
「嘉納くん」
八木は静かな口調でそう言った。
「はい」
治五郎は、頬を赤く染めてうなずいた。
「君の利き腕はどちらかね」
八木が訊いた。
「右です」
「では、その右手で、わたしを打ってきなさい」
「打つ?」
「そうだ」
「ですが……」
「遠慮することはない。右手で、わたしの顔にむかって、おもいきり拳で打ち込んできなさい」
「いいんですか」
「かまわない。本人のわたしがそう言っているのだ」
「力を込めてもいいのですか」
「かまわない」
「本当に当てるつもりでやってもいいのですか」
「もちろん」
八木は、落ち着いた声でうなずいた。
冗談を言っているような様子ではない。
もし、自分が殴りかかれば、それを何かの方法で、うまくかわしてみせようというのだろうか。
なるほど、そういうことか。
ならば、八木が言うように、実際に当てるつもりで打ちかかっていいのだろう。手加減をするのは、かえって失礼になるかもしれない。
自分のできうる最大の力と速度で、この八木という老人に打ちかかる。年齢のことは頭から抜き去る――
頭の中に生まれた、このような理詰めの思考に、素直に従うことができるのが、この嘉納治五郎という青年の特質であった。
覚悟を決めた。
「いつ打ちかかればよろしいのですか」
「いつでも」
八木の答えは静かであった。
「これからいくからと、わざわざ声をかける必要はないよ」
「わかりました」
治五郎はうなずいた。
八木を見やれば、その眼は、治五郎を見つめている。
強い視線ではない。眼を大きく見開いているわけでもない。心もち眼をいくらか細め、見るともなく治五郎を見ているようであった。
両手は、身体の横にだらりと自然に垂らしている。
治五郎も、同様である。
互いにどういう構えもとってはいない。
治五郎は、呼吸を整え、拳で打ち込む間を頭の中で測った。
無防備の人間に向かって、おもいきり打ちかかるというのは、むろん、生まれて初めてのことである。どういう恨みも何も八木にはない。その八木に打ちかかる――そのためらいを思考の中から消し去らねばならない。頭ではそれを理解できてはいるが、ためらいが完全に消え去ったわけではない。しかし、消え去ってはいないなりに、全力でゆかねばならない。
呼吸を整え、止め、
「やっ!」
治五郎は声を発して打ちかかった。
右拳で、八木の頭部に向かって――
右手首に、
ぱん、
と何かが触れてきた。
次の瞬間に、天地が入れかわっていた。
背に、どん、とぶつかったものがあった。
畳だった。
治五郎は、畳の上に仰向けになり、天井を見上げていた。
上から、八木が見下ろしていた。
八木の左手が治五郎の右手首を握り、八木の右手が治五郎の右肘に当てられていた。
そのかたちで、八木が笑いながら治五郎を見下ろしているのである。
何がおこったのかわからなかった。
自分の右拳が、八木の顔に当るかと思えた時、右手首に何かが当ってきて、続いて、右肘を不思議な力が上に押してきた。今見れば、それは、八木の右手であったのだろうとわかるが、そのまま、自分の身体が崩れ、そういえば、その時、右足の踵に何かが、とん、とぶつかってきたような気もする。いずれも、殊更に強い力ではなかった。
気がついたら、右腕をとられ、畳の上に仰向けにされており、八木が見下ろしていたのである。
何かの力で強引にねじ伏せられたというわけではなかった。
力ではない、何か別のものによって、自分がそうされたのだとわかった。
「どうだね」
八木が、そう言って、手を放した。
治五郎は起きあがり、
「八木先生、今のは何ですか」
言いながら、畳の上に正座した。
「おいおい、わたしは先生ではない」
「いえ、先生、今のは何なのですか」
「天神真楊流の、技だよ」
「技!?」
治五郎は、そう問うてから、急に何かわかったように声を大きくした。
「そうですか、今のが技なのですか」
力でないもの――それが、技である。
今、自分を投げたのは、力ではなく技であったのだということを、治五郎は理解した。
「何という技なのですか」
治五郎が問うと、
「鐘木《しもく》」
八木が答えた。
「今のが柔術ですか」
「そうだ」
うなずいて、八木は、治五郎に、立つようにうながした。
「その技を教えて下さい」
治五郎は、正座したまま言った。
「それを教えるのは、わたしではない。それは、これから福田八之助からきみが学ぶのだ。そうすれば、いずれ、きみにもわかるだろう」
「何がわかるのですか?」
「今、わたしは、ふたつのことを君にした」
「ふたつのこと?」
「ああ」
「鐘木という技の他にも、まだ何かをしたのですか」
「した」
「何なのですか」
「それは、きみが、これから天神真楊流を学べば、いやでもわかってくることだ。さあ、お立ちなさい」
治五郎は、興奮しながら言った。
「そうですか、わかりますか」
「必ず、わかる」
「わかりました」
治五郎は立ちあがった。
「ゆこう」
八木は、治五郎をうながして、玄関に足を踏み下ろした。
(六)
晴れた日であった。
治五郎は、八木と共に歩いている。
人形町から元大工町までの道である。
まだ、古い日本が街並のあちらこちらに残っている道だ。
銀座の賑わいとはまた別の賑わいがある。
尻を出し、素足で道を走る子供や、天秤棒で魚の入った桶を担ぎ、それを売り歩いている魚屋の姿もある。
そうかと思えば、人力車に乗った洋装の男が、銀座方面からやってきて、ふたりの横を通り過ぎていったりもする。
火の見|櫓《やぐら》。
喧嘩をする子供の声。
赤ん坊の泣き声。
どれもが、ひとつになって、治五郎には馴じみのある風景となっている。自分、あるいは日本人が、服の上に纏っているもう一枚の服――それが、この風景であるような気がする。
見るともなく見え、聴こえるともなく聴こえている日本。
その中を、治五郎と八木は歩いてゆく。
口数は多くない。
「先生は、もう、柔術をやらないのですか」
治五郎は、歩きながら、横にいる八木に訊いた。
「やらん」
何故なのですか――
そう問おうとして、治五郎はその問いを腹の中に収めた。
柔術の手のことは、自分はよく知っている人間ではない。しかし、さきほど自分がやられた手――あれは、相当に熟練した達人のものだったのではないかと治五郎は思っている。
それだけの技を持った八木のような人物が、どうして、柔術を今やっていないのか。
今はそういう時代ではない
八木はそう言っていたが、理由はそれだけではないような気がする。
しかし、今、そこまでのことを問うのは、失礼というものであろう。
問わぬまま、歩いた。
やがて――
八木は足を止めた。
「ここまででいいだろう」
八木は言った。
「ここまで?」
「もう少し歩くと、左側に煙管《きせる》を売る店がある。その角を左に曲がれば、すぐにわかる」
「八木先生は、ゆかれないのですか」
「わたしはきみをここまで案内してきただけだ。顔までは出せない」
その顔を見ているうちに、ぜひ一緒にとは、治五郎には言えなくなってしまった。
「おそらく、今日は福田八之助がいるはずだ。訪ねていなければ、後日、また出なおしてもよい」
「―――」
「福田に会って、人形町の八木から聞いたと言えば、わかるはずだ」
「はい」
「福田に会って、それでよいと思えば、入門するといい」
「わかりました」
治五郎はうなずき、
「八木先生は?」
「これでわたしの用は済んだ。帰る」
短く告げて、
「では、ゆくよ」
八木はもう、治五郎に背を向けて、人形町の方に向かって歩き出していた。
「八木先生」
声をかけたが、八木はもう振り返らなかった。
「ありがとうございました」
治五郎は、その背へ声をかけた。
その姿が見えなくなってから、治五郎は再び歩き出した。
木造の、小さな家であった。
一戸建てで、二階。
隣りの家との間は、人がやっと通り抜けることができるかどうかという幅しかない。
入口の右横――
玄関に、看板があった。
看板はふたつ。
ひとつは、
整骨
と書かれた木の板であった。
そして、もうひとつの板がその横に並んでいた。
その板に、
天神真楊流
そう書かれていた。
中から、人の気合や、強い力で床を踏む足音などが聴こえてくる。
声をかけると、戸が開いて、そこに、ひとりの男が立っていた。
黒い袴を身に着けた、五〇代の半ばくらいかと見える人物であった。
口髭を生やしている。
背は、当時の日本人としては、特別に高いわけではない。
治五郎よりも、やや大きいかもしれない。
しかし、身長に比べて肩幅があり、同じ身長の人間よりも体重はありそうであった。
治五郎の顔を見、
「何か?」
そう問うてきた。
「嘉納治五郎と言います」
治五郎は言った。
「こちらに、福田八之助先生はいらっしゃいますか」
その男は、その顔に、屈託のない笑みを浮かべ、
「福田なら、わたしです」
治五郎にそう言った。
福田の背後に、道場らしきものが見えていた。玄関をあがってすぐのところに、畳一〇畳ほどの部屋があり、さらにその奥に、三畳間があるのが見えた。
その一〇畳間のうち、一畳ほどが二階への階段として潰されているから、一階部分のその部屋の広さは、九畳ほどしかない。
その九畳で、ふたりの人間が稽古をしていた。
どうやら、奥の三畳間が、整骨の治療室で、手前の一〇畳間が、道場になったり、患者がいればその待合室になったりするのだろう。
「人形町の、八木さんから、うかがってまいりました」
「おう、八木先生から――」
福田は、治五郎の背後に眼をやった。
そこに誰もいないのを確認して、
「八木先生は?」
そう訊いてきた。
「わたしを、こちらまで案内して下さったのですが、すぐそこから帰られました」
「お帰りになった?」
福田が、玄関に下りようとしたところへ、
「もう、いらっしゃいません」
治五郎は言った。
福田は、あらためて治五郎を見、
「で、何の御用なのですか」
すでに、治五郎は覚悟を決めていた。
「こちらに、わたしを入門させていただきたいのです」
治五郎は言った。
(七)
天神真楊流柔術――
これは、楊心流と真之神道流の二流を合わせた流派で磯又右衛門という人物が開祖である。
磯又右衛門――幼名は岡本八郎治。
後に栗山又右衛門と名を改めたが、磯氏に由緒あってその家を継ぎ、幕府の臣となり、磯又右衛門柳関斎源正足と称した。
嘉納治五郎が訪ねた当時、この流派の福田道場は、日本橋の元大工町にあった。
道場主の福田八之助は、磯又右衛門の直門である。
まだ、時代が明治となる前、幕府に講武所と呼ばれる機関があったことは、一般にはあまり知られていない。
剣術、槍術など、主に武芸に関わるものを教えるところであり、その中には武術の一科として柔術も入っていた。
ここでは、起倒流も楊心流も入っており、その中に天神真楊流も入っていて、福田八之助はそこで、柔術を人に教える立場にあった人物である。
天神真楊流の福田は、ここで他流派とも交流し、起倒流や楊心流の教師たちとも互いに稽古をしたりしている。
その中には、他流との試合も含まれている。
柔術の古流派というのは、今日我々が考えるよりもずっと門が広く、他流派との交流や試合も、かなりの頻度で行なわれていたのである。
明治初期の武術の各流派は、我々が思うほど閉鎖的な関係ではなかったのである。
講武所に限っていえば、楊心流が一番強かったのではないかと言われている。
しかし、治五郎が入門した当時、柔術は剣術と共に、この世から廃れてゆく運命の中にあった。すでに、幕府も講武所もなく、柔術家は、全て、自分の才覚と強さで、この世を渡っていかねばならなくなっていたのである。
天神真楊流もまた例外ではあり得なかった。
治五郎入門時、福田道場の道場生は、六、七人であった。
治五郎自身の発言によれば、たまに道場に顔を出す人間が、四、五人。
一日おきに顔を出す者が一名、毎日顔を出す者が一名。
それだけの人数しか、いなかったという。
この頃の柔術の道場はと言えば、例外はあるにしても、概ね、こんなものか、これよりひどいところが多数派であったに違いない。
治五郎が入門してから、毎日顔を出す人間が、ひとりからふたりになった。
ひとりは青木という男であったが、もうひとりが、治五郎本人であることは言うまでもない。
青木が休むことはあっても、治五郎が休むことはなかった。
自分は必ず毎日通った
このように治五郎は書いているが、この言葉に嘘はない。
この頃の福田の教え方というのが、手とり足とり、技を教えるというものではなかった。
昔から言われていることに、
技術は教わるものではない。盗むものだ
という言葉がある。
福田もまた、そういう指導をした。
これは、嘉納治五郎自身が、当時のことを振り返って書いたエピソードのひとつなのだが、福田と治五郎の稽古中の逸話に次のようなものがある。
稽古中に、
「嘉納くん、教えてやろう」
福田が声を掛けてくる。
「今日は、きみしかいない。わたしの相手をしなさい」
「はい」
治五郎が答えて福田の前に立つと、
「おいでなさい」
と福田が言う。
治五郎が、福田に向かってゆく。
試合ではない。
稽古である。
打撃――つまり当て身は使用しない乱取りのようなかたちの稽古である。
治五郎がゆけば、福田が投げる。
福田がゆけば、治五郎が投げる。
どちらが強いかを決めようというのではない。
これまで学んだことのおさらいのようなものだ。
組み合いながら、互いに技を出してゆく。
そのうちに、ひょいと治五郎が投げられた。
すぐに治五郎は起きあがったが、自分が、どういう技で、どのように投げられたかわからない。
記憶にない技であった。
いつか、八木にやられた時のような感じに近い。
しかし、今は、あの時八木に掛けられた技がどういうものかはわかっている。
自分も、あの鐘木という技を相手に掛けることができる。
だが、今、福田が自分に使ってみせた技がどういうものなのか、それが治五郎にはわからないのである。
「先生、今の技はなんですか」
しかし、福田は、それに答えない。
「おいでなさい」
静かな声でそういうだけである。
治五郎が掛かってゆくと、また投げ飛ばされた。
しかし、また、自分がどう投げられたのか、何故、投げられたのかわからない。
ただ、さっきと同じ技で、今自分が投げられたのだということはわかる。
「先生、今のはどういう技ですか」
たとえ、初めて掛けられた技にしても、今なら、多少はその技のシステムが治五郎にはわかる。こう力を入れて、こう押して、相手が押してきたら、こう重心を移動して、こう投げる――おおまかな技の術理の見当がつく。
だが、今の技がわからない。
「さっきと同じ技だ」
福田は静かにそう答えるだけである。
「それはわかります。今、自分はどう投げられたのですか。それがわからないのです」
しかし――
「おいでなさい」
と福田は言うばかりである。
また、掛かってゆく。
今度は、さっきとは違う掛かり方をした。
負けるにしても、さっきと同じ技では負けぬようにと、これまでとは違う動きをした。
だが――
幾らも揉み合わぬうちに、また、あっさりと投げられた。
「先生、今、わたしは、このように袖を取って、このように足をさばきました。この時、投げられたのですが、どう投げられたのかがわからないのです」
起きあがって、治五郎は言った。
しかし、福田は答えない。
「おいでなさい」
また、同じことを言った。
ならば、と治五郎がまた向かってゆくと、また投げられてしまった。
「先生、教えて下さい。今のはどういう技なんですか」
組み合ってこそいるが、投げられた時に、治五郎には、福田の身体のどこかが自分の身体のどこかに触れ合ったとは思えない。
福田が、治五郎に触れているのは、互いに握り合った袖くらいである。
他の場所が触れているようには思えない。
まるで、空気に投げられたような気がする。
「おいでなさい」
福田はそのように言うばかりである。
向かってゆく。
また投げられる。
「教えて下さい、先生――」
治五郎が問えば、福田は、平然として次のように言ったという。
「なあに。まだまだおまえさんが、そんなことを聴いたってわかるもんか。ただ、数さえかけられれば、そのうちにわかる。さあ、おいでなさい」
こう言われては、もう、治五郎も問えない。
この日は、一日中、同じその技ばかりを福田から掛けられた。
始めて一年ほどは経った頃であり、治五郎も腕をあげている。
自分が、道場でなかなか勝てない相手は、今はひとりかふたりである。
それは、毎日稽古に来ている青木であり、もうひとりは、一日おきに稽古にやってくる魚屋の福島兼吉である。
しかしこの、福島には、技では負けてはいない。
ただ、やたらに力が強く、身体の重さが二〇数貫もあるという身体の大きさを、まだ治五郎の腕ではもてあましてしまうだけである。青木も福島には勝てない。
しかし、勝負はともかく、技のことならば、弟子の中では二番目であると自負している。
その自分が、福田に一日中同じ技で投げられて、その技がわからなかった。
「あれは、福田先生が、慢心しかけたわたしに、柔術の奥の深さを教えてくれたのであろう」
治五郎は、後に、弟子のひとりにこのように語っている。
「その技は、何だったのですか」
弟子に問われて、
「今思えば、あれは、隅返しという技であったのではないか」
こう治五郎は答えている。
隅返し――
後年、講道館に入門して、小柄ながらその実力を世間に知らしめた三船久蔵の空気投げが、これと同種の技である。
(八)
治五郎が学んだ頃は、まだ、近代的な筋力トレーニングの基礎のようなものが、西洋でもようやくできたかどうかという頃であった。
筋肉を鍛えるには、一日ぎりぎりまで筋肉を使用して細胞を破壊し、次に二日、筋肉を休ませるといったような発想はまだなかった。
まだ、学生であった治五郎が、大学で話題になる時、
「ああ、万金膏《まんきんこう》のことか」
と言われることが多かった。
これは、稽古で傷めた筋肉を治すためにいつも万金膏を身体に貼っていたからである。
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平素使いなれない筋肉をどしどし使ったために、翌日は身体が痛んでうごけない。朝便所へ行ったところが、容易に立ちあがることができなかった。
それでも一日も休まず、ちんばをひきながら稽古を続けた。
稽古着は今とちがって、下ばきは股まで、上着は広袖というのだから、肱や脛は、いつも擦りむきどうしで、万金膏のたえまがなかった。この万金膏のべたばりでは、大学の寄宿舎の友人達から、いつも冷やかされたものだ。
今日でもなお当時の友人に遇えば、ともすると万金膏が話題になる。
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(『嘉納治五郎――私の生涯と柔道』日本図書センター・一九九七年刊)
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ひとつの目的を持った時の、治五郎の集中力には、特殊なものがあった。
技を習得する――それを応用して、誰かを投げる。それは、治五郎にとっては、一種の学問のようなものであった。
治五郎の最初のテーマは、前述したが、福島兼吉であった。
この兼吉と稽古をしていても、なかなか勝つことができない。
この兼吉に勝つために、治五郎は工夫をした。
大学の寄宿舎の賄いに、昔二段目の相撲取りであった内山喜惣右衛門という人物がいた。
この内山のところへ出かけてゆき、治五郎は教えを乞うたのである。
内山から、色々と相撲の手を学んでみたものの、やはり、兼吉には勝てない。
相撲では、足の裏以外の場所が地に触れてしまうと負けだが、柔術では必ずしもそうではない。
地に、自分や相手が倒れてからも、技の出し合いが続くこともある。
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西洋の方には何かうまい手がないかと思って、当時上野の図書館がまだ湯島の聖堂の中にある時代であったので、そこへ行っていろいろの本を調べて見た
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なんと、次に治五郎がとった方法というのが、西洋であり、図書館であったというのが、治五郎の治五郎たる所以《ゆえん》である。
このようなことを思いつき、しかも実行するということを、この時代、治五郎以外の誰ができたであろうか。
福島兼吉について書いておけば、この人物は、日本橋の魚河岸の親方で、子分も多くいた。顔役である。
その人物を知る上で、幾つかの興味深いエピソードがある。
ある時、福島は、吉原へひやかしにゆき、ある廓《くるわ》で辱しめを受けて、その仕返しに行った。
廓からは、ふたりの男が出てきた。
福島は、あっという間にこのふたりを蹴倒してしまった。
柔術の当て身である。
これに対して、廓からは、さらに男たちが出てきて、福島に向かってきた。
福島は、やにわに、その怪力でめりめりと近くの鴨居を引きはずして、それを振り回して男たちに応戦した。
この騒ぎを聴きつけて巡査がやってくると、福島は自ら両手を後ろに回し、
「おかみの縄にかかります」
おとなしく捕縛されたというのである。
警察が調べてみたら、福島を無理に引っぱりあげたのは廓の側であり、出てゆこうとした福島に茶碗を投げつけて額に怪我をさせたのも廓側である。
これは、廓が悪いということになって、結局福島は二〇銭の罰金ですんだ。
また、ある時は、祭の時に子分が他の者から殴られた。
相手は多勢であったが、福島はここへ乗り込んでいって、この男たちを存分にたたきのめしてしまった。
これが、大事となった。
相手が、さらに人数を連れて、復讐にやってきたのである。
それで祭がめちゃくちゃとなり、これを気に病んで、ついに福島は頭がおかしくなってしまった。
ある夜――
「出かけてくる」
それだけを言って、福島は外へ出た。
家人が、これをおかしく思い、ある男に尾行させた。
福島は、多摩川の堤まで歩いてゆき、そこから川の中へ入ってゆく。
尾行してきた男が見ていると、別に入水自殺をするようでもなかった。
福島は、川の中ほどまで歩いてゆき、流れから顔を出している大岩の前まできて、そこで立ち止まった。
月明りで見ていると、福島は、その大岩を両手で抱きかかえると、大きく身を後方に反らせ、
「あきゃあっ!」
悲鳴のような叫び声をあげて、身を引き寄せながら、おもいきり、全力で自分の額を大岩に打ちつけた。
驚いた尾行者が駆けつけた時には、もう、福島の額は割れて、死んでいたというのである。
まことに、凄まじい死に方をしたものである。
治五郎が、勝とうとしていた福島兼吉は、こういう男であった。
当然ながら、治五郎の入門当時、まだ福島兼吉は生きている。
この男に勝つために、治五郎が工夫したのが、レスリングの技であった。
これを、まず、大学の友人に試すとよく技が掛かる。
道場に出かけていって、青木に試してみても、また、よくこの技がかかる。
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そこでいよいよ自信が出来たから或る時意を決して福島にそれを試みた
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あるおり、治五郎は、福島に声をかけた。
「福島さん、ちょっと試したいことがあるのですが」
治五郎がそう声をかけただけで、福島はすぐに何のことかわかったようだった。
「先生、やっと準備ができましたね」
福島はそう言った。
福島が、治五郎を呼ぶ時は、いつも先生≠ナあった。親しみを込めた呼び方である。
治五郎が、大学に通っているからであり、別に他意があるわけではない。
先生はかんべんして下さい――治五郎が何度言っても、福島が治五郎を呼ぶ時は、先生≠ナかわらない。
「はい」
治五郎は、うなずいた。
「先生が、色々、工夫をしてたのは知ってたんでね。いつ声を掛けてくれるのか、いつ声を掛けてくれるのかと、楽しみにしてたんですよ」
それを聴いていた福田が、
「では、わたしが、検分役になろう」
そう言って、ふたりの前までやってきた。
その日、稽古に出ていたのは、治五郎の他は、青木、福島の三人だけである。
青木が、道場の隅まで動いて、そこに座した。
治五郎は、福島の巨体の前に立った。
身体の大きさが、倍ほども違うように見えた。
(九)
福島の身体は、あらためて対峙してみれば、やはり大きい。
身長は、六尺にやや足らずといったところだが、頭ひとつ治五郎より大きい。
体重は、およそ二十三貫(八十六キロ)。
日頃の鍛練で、治五郎の肉もあつくなり、筋肉で体重も増えている。それでも、十六貫(六〇キロ)。福島とは七貫(二十六キロ)の差があった。
福島は身体の大きさと、力の強さを利用するのがうまい。闘っている最中に、体重を上手に預けてこられると、やがてこちらの息があがってしまい、疲れたところで投げられてしまうのである。
治五郎ほど俊敏な動きをするわけでもなく、技が特別に優れているというのでもない。かといって、福田の門に入って、治五郎よりも長く天神真楊流を学んでいるから、下手というわけでもない。
福島は、闘いというものの機微をよく理解していた。
無駄な動きをしないのである。
自ら技を仕掛けて相手を倒すというよりは、相手が動いて隙ができたところへ、技をかけてゆく。相手が動かねば、身体の重さを利用して、相手を疲れさせる。
治五郎が、自分なりに工夫したことも、福島が動いてくれないことにはどうしようもない。
しかも、ここぞと決めた時の福島の勢いは凄い。ひと息に技に入られて、畳に叩きつけられてしまう。
このような相手にどうやって勝てばよいのか。
それを治五郎は工夫したのである。
それがどこまで通ずるか。
治五郎は福島と相対し、互いに頭を下げて一礼をした。
「よろしいか」
福田が、ふたりの気合を量るようにそう言った。
治五郎と福島は無言のままうなずいた。
「始め!」
福田が言った。
「いざ」
「御免」
組んだ。
互いに、左手で相手の右袖を、右手で相手の左襟を掴んだ。
福島と乱取をする時には、よくなる型である。
福島は、重い、岩のようであった。
人の形をした岩が稽古衣を着ているようである。
福島は、ここで、無理に投げにくるような相手ではなかった。
圧力をかけてくる。
身体の重さを利用した圧力である。
力にまかせてぐいぐいと押してくるようなら、治五郎もやりようがあるのだが、じわじわと迫ってこられるのでは、仕掛けようがない。無理に投げようとしても、腰を落されればそれまでであった。
治五郎が右袖を引く左手に力を加えると、ゆるりと福島が右足を前に出してくる。
それに合わせて、治五郎は福島の重心を崩そうとしたが、それができなかった。いつもと同じである。
軽く福島が重心を低くしてこらえてしまう。
こらえるその力を利用して、治五郎は、福島の右足の踵に自分の左足を引っかけて、福島を身体全体で押す。
これでも、福島は重心を崩さない。
ここで、無理をすると、福島の足を引っかけにいった足を逆に刈られて、浴びせ倒されてしまう。
福島がそう出てくる前に、力を抜き、また自然に組んだ状態にもどす。
短かいやりとりを、何度か繰り返す。
いつもと同じだ。
福島もまた、治五郎の、天性の勘の良さは理解している。
治五郎や青木以外の人間と乱取をする時の福島は、もっと積極的だ。
自分から前に出てゆき、相手が押し返してくれば、横に身をひいて、強引に相手を腰の上に乗せて投げ飛ばしてしまう。
福島が、動きを少なくしているのも、相手が治五郎であるからこそである。
魚河岸の親方をやって、多くの人間を束ねているだけの貫禄がある。
力だけでも駄目、智恵だけでも駄目。そのふたつに加えて、度胸も駆けひきの上手さも、魚河岸を束ねてゆくためには必要になってくる。さらには、人間的な魅力――男としての可愛さのようなものもなければならない。
そういうものが、この福島という人物にはあった。
治五郎は、そういうことも、理解している。
闘いの機微と、人間の機微とは同じでこそないが、共通するものがある。
ある人間とある人間とが、どちらが強いかを比べることは、その人物と人物とを比べることなのではないかとも、治五郎は思っている。
なるほど――
と、治五郎は福島という漢《おとこ》と何度か組んでみて、思うところがあった。
その人の人物というものが、闘いというものには否応なしに出てしまうものなのだと治五郎はすでに気がついている。
当初、柔術を学ぼうとしたのは、強くなりたかったからであり、馬鹿にされたくなかったからである。
しかし、柔術を学ぶというのは、それだけではないものがある。
おもしろい。
治五郎は、自分の筋力がみるみるうちに増してゆくことがおもしろかった。
使えば使っただけ、眼に見えるかたちで筋力がついてゆく。胸が厚くなり、腕が太くなってゆく。
肉の充実感が手にとるようにわかる。それが精神の充実感とも重なってくる。
学問によって、新しい知識を得るたびに、自分を取り巻いている社会が変化をし、宇宙が広がってゆく――柔術をやるというのは、その感覚に似ている。
福島と組んでいる治五郎は、どきどきと胸をときめかせている。
(十)
投げた。
音をたてて、福島の巨体が背から畳の上に落ちていた。
治五郎の足元に、福島が仰向けになって倒れ、下から治五郎を見あげていた。
驚いている。
いったい、自分に何があったのか、よくわかっていない顔であった。
「一本」
検分役の福田が言った。
福島が起きあがる。
互いに一礼をした後で、
「まいりました」
福島は言った。
「気がついたら、倒されてた。どんな技でやられたのか、まだわからねえ」
福島は不思議そうな顔で治五郎を見ている。
「嘉納君、今のは?」
福田が訊いてきた。
「自分の工夫です」
「工夫?」
「自分で考えたのです」
治五郎は言った。
こちらが疲れてくると、福島が動きを大きくしてくるのはわかっていた。
かといって、それを利用して、福島の重心を崩せるほどではない。
いったい、どうすれば、福島の重心を崩せるのか。そもそも、重心とは何か。
そういうことを、治五郎は考えた。
人の身体にある重心という概念は、そもそも立っているから、存在するものである。柔術で、その重心が崩れるというのも、立っているからこその考え方である。
この重心そのものを崩して投げることより、まず、上に持ちあげてしまったらどうであろうかと、治五郎は考えた。
しかし、上に持ちあげるといっても、手では持ちあげられない。
しかし、福島の重心が動く時に、その重心の下に入ってしまい、その上で脚と腰の力でなら持ちあげることができそうである。
ここで、投げにいくと、こらえられてしまうから、まず持ちあげる。持ちあげた上で投げる。
それならばできそうであった。
「君だけで、考えたのかね」
福田は訊いた。
「西洋の本を読みました」
「西洋の?」
「レッスリングの本です」
「ほう」
「一六七四年アムステルダムで出版された、オランダ式レッスリング『ボルステル』の教本を読みました」
「あれは、古流で言う衣被《きぬかつぎ》だよ」
「衣被?」
「岩石落とも呼ばれたりする。津軽藩の本覚克己流《ほんがくこっきりゅう》和の木末倒とも似ている」
福田は言った。
どのような技か。
一書に曰く――
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深く踏み込み、我が右の手にて敵の右の手を取り、左の足を敵の後へ踏み込みながら身を潜り、我が左の手を敵の両足の間に打ち入れて引き上げ、我が背の上、右の肩の順より右の前へ投ぐる
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講道館柔道においては、後に肩車という技となっていったものである。
「まだ、君には教えていなかったが――」
福田もその眼に驚きの色を隠せない。
「あったのですか、そういう技が――」
「相撲にもある。相撲でも衣被と呼ばれている技だ」
「相撲ならば、大学の賄いに、昔二段目までいった内山さんという方がおられ、その内山さんに色々と手を教わりましたが、その中には衣被というのはありませんでした」
「相撲でも、そういつも使う技ではない。一〇日や半月通ったからといって、学生に教えられるような技ではない」
「そうですか、他の古流にも、相撲にもあったのですか」
治五郎は言った。
「嘉納、君はおもしろい」
福田は、ぽん、と治五郎の肩を叩いた。
「これは君が自分で考案したというのが凄いのだ。そういうところに君の才能はあるのかもしれぬな」
「先生」
「何だ」
「いったい、柔術の古流というのは、どのくらいあるのですか」
「さあ――」
福田は思案するように首を傾け、
「今、自分が知っている流儀の名をあげるだけでも、一〇や二〇はあがる。まあ、少なくとも百はあるだろう。多ければ二百以上にはなるかもしれぬ」
そうつぶやいた。
「二百……」
「ああ」
「その二百の流派に、それぞれ色々な技があるということですか」
「そういうことだ」
「自分は、その全てを学ぶことはできますか?」
「ひとつの流派を一年ずつ修行したとしても二百年――」
「無理ですね」
「流儀にも色々あって、投げ技が優れているところもあれば、当て身が優れているところもある。固め技、締め技が優れているところもある。しかし、それぞれに、基本の型は、そういくつもあるものではない」
「色々な流儀を学び、その優れたところを集めて、ひとつの流儀としたようなところはあるのですか」
「ない、と言えばない。しかし、あると言えばある」
福田はそう言って治五郎を見た。
「どういうことでしょう」
「君が言うような流儀はないが、しかし、考えてみればどの流派も、それぞれに色々な流儀の良いところを集めて作ったものでもあるのだ」
「今ある流派のほとんどがそうであると?」
「そういう考え方もあるということだ。君が今学んでいる天神真楊流柔術も、磯又右衛門先生が、楊心流と真之神道流の良いところを合わせて、一流を興したものなのだ」
福田は、治五郎を見つめ、
「君がやりたまえ、嘉納君――」
そう言った。
「わたしが?」
「学士で、柔術を学んでいる君にしかできないこともあるだろう。柔術だけと言わず、西洋のスパアラ(ボクシング)も、レッスリングも、みんな合わせて、そのよいところを取り出して、新しい流派を君が興せばいい」
福田は言った。
半分は冗談であった。
しかし、半分は、福田の本心でもあった。
治五郎は、これまで福田が教えてきたどのような道場生とも違っている。この奇妙な若者なら、新しい時代の新しい柔術を作ることができるかもしれない。
「君がやればいい」
福田は、もう一度言った。
(十一)
奇妙なことが起こった。
福島に勝ってから、衣被を使わなくとも、治五郎は、福島に勝てるようになったのである。
むしろ、衣被を掛けようとすると、逆に福島に警戒されて、掛からなくなってしまった。しかし、そのかわりに、他の技が掛かるようになったのである。衣被を警戒するので、かえって福島の闘い方の幅が狭くなり、力も入るようになり、他の技に掛かってしまうのである。
さらに付け加えるなら、治五郎自身の実力があがったのである。
しかし、自分の実力があがったのだとは、治五郎は自覚していない。
福島が弱くなった――
これが治五郎の正直な印象であった。
青木も、治五郎には勝てなくなった。
どういう技を掛けようとしても、治五郎がそれを凌いでしまうのである。
技を掛ける前に、その動きを察知して、治五郎がそれを凌いでしまうから、一見すると、相手は、治五郎に何か仕掛けているようには見えない。
技の出し合いがなく、組んで動いているうちに、すとん、と治五郎の技が入って相手が倒れてしまう。
「まるで、空気を相手にしてるみたいだなあ」
青木はそう言った。
治五郎の肉体に、手応えがない。
手応えがないから、技が掛け難《にく》い。
相手をしている者にとっては、どうもそういうことのようであった。
明治十二年――
福田の道場はすでにお玉が池に移っている。
ちょうどその年、アメリカ合衆国の第十八代大統領であったグラント将軍が来朝した。
この時、グラント将軍をもてなしたのが、当時の実業界の大立者であった渋沢栄一である。
この渋沢が、日本の柔術をグラント将軍に紹介したいと思い立った。
渋沢が、これを依頼したのが、天神真楊流三代目の磯正智である。
磯正智は、同流から人材を集め、渋沢の別邸である飛鳥山まで出かけて行った。この中に、福田八之助門下の、嘉納治五郎も入っていたのである。福田は、磯正智の弟子であった。
グラント将軍は、南北戦争当時、北軍の総司令官をしていた人物である。
この男の前で、治五郎は柔術の技を見せた。
やったのは、乱取りである。
治五郎の相手をしたのは、同門の五代竜作であった。
五代は、大学の同級生であり、治五郎が天神真楊流に入門させた男で、後に工学博士となっている。大学では、治五郎と共に、ベースボールをやっていた仲である。ちなみに書いておけば、治五郎も五代も、ポジションはピッチャーであった。
治五郎は、すでに入門二年目であった。
修行者としては、まだまだ初心者だが、強さは福田門下随一である。
治五郎は、五代を次々に投げた。
投げ、極《き》める。
首取り――背後から腕をからめて首を締める。
投げた五代の手を取って、腕拉《うでひしぎ》逆十字固めを極める。
それが、まるで、型稽古を見るように鮮やかであったので、
「あれは、わざと投げられているのか」
グラント将軍が磯正智と渋沢栄一に訊ねたという。
「いいえ、試《ため》し合いですので――」
磯正智と渋沢栄一はそのように答えた。
福田が、身体の不調を訴えて寝込むようになったのは、この後からである。
六月――
細かい梅雨が東京の日本橋を音もなく濡らしている頃。
治五郎は、病床にある福田と対面していた。
道場の二階――そこが福田の住居になっていた。
薄い座布団に正座をし、福田の妻が入れてくれたお茶を、治五郎は飲んでいる。
いくらも道場生がいるわけではないのだが、今は、治五郎と青木が、やってくる道場生の面倒をみている。
その日は、稽古は休みであったのだが、福田を見舞うために、治五郎は日本橋まで足を運んだのであった。
「不思議な人物だなあ、君は――」
座している治五郎を、寝床の中から見あげながら、福田は言った。
その顔が、痩せている。
頬の肉が落ち、濃く髭が浮いている。
「君が教えるようになってから、道場生の誰もが強くなった……」
「そうでしょうか」
「青木も、福島も、みんな君に引っぱられるようにして実力があがった。ここで、下で稽古をしている音を聴いているだけで、それがわかる」
「うるさいですか」
「いいや」
福田は、首を左右に振った。
「君たちが稽古をしている音を聴いていると、気持ちが落ち着くのだ。かえって、君たちが帰ってしまうと淋しいくらいだよ――」
福田は、笑みを見せた。
「君には、ものを学ぶということについて、天賦の才がある。それと同時に、他人にものを教えるということについても、同様の才がある」
「そうでしょうか」
「あることを上手にできるということと、それを他人に上手に教えることができるということとは、別の才能なんだ。天は、そのふたつの才能を君に与えたようだなあ」
治五郎は、それを否定することも、うなずくこともできずに、福田の眼を見つめていた。
午後――
屋根を打つ細い雨の音が静かに二階のその部屋に響いている。
「こと、組んで技を掛け合うことについては、きみの体捌《たいさば》きは神技に近い――」
「そんな――」
「今、わたしがきみと乱取をしても勝てるかどうか」
「まだ、自分の実力はとても先生にはおよびません」
「わたしには、才がなかった」
「―――」
「資質といってもいい。わたしには、柔術の才がなかった」
「そんなことはありません。先生の技こそ神技です」
「そう言ってもらえるのは嬉しいが、もしも君がそう思ってくれるのなら、それは才によるものではない」
「―――」
「精進によるものだ」
「精進?」
「そうだ。わたしには、自分に柔術の才がないことは、早くからわかっていた。だから、わたしは精進をした。他人の倍の稽古を、自らに課した。今日わたしがあるのは、その精進と稽古のおかげだ」
「―――」
「同門に、わたしより才のある人物は何人もいたよ。君を、ここへ連れてきた八木貞之助という人物もそのひとりだ」
福田は言った。
治五郎は、膝をにじらせ、軽く前に身を乗り出した。
「先生」
「何だね」
「八木貞之助先生は、もう、柔術をなさらないのですか」
治五郎は訊いた。
かつて、入門時に、福田に一度問うたことのある問いであった。
しかし、その問いに、そのおり福田は答えなかった。
それで、その問いはそれきりになっている。
治五郎は、人形町の八木のもとへは、あれから三度顔を出している。
一度目は、入門が決まって、ひと月ほどしてからであった。
当初、稽古が終ると、もう身体がほとんど動かず、大学に通うことを考えると、他の用事はどういうこともする気にならなかった。それが、足を引きずりながらにしろ、どうにかまともに歩けるようになったのが、入門してひと月も経った頃であったのである。
「御挨拶が遅れましたが、おかげさまで福田先生の門下に加えていただくことができました」
整骨の患者がいたため、簡単な挨拶をしただけで、その時は八木の家を辞している。
その年の暮に挨拶に行き、昨年の暮にもまた、八木のところへは挨拶に行っている。
「八木先生は、もう、柔術をなされないのですか」
そのおりにも、治五郎は同様の質問を本人の八木にしている。
しかし、その時八木はどういう答えも返さず、治五郎の問いをはぐらかしている。
その質問を、今また、治五郎は福田にしているのである。
「さあ――」
福田は小さく首を左右に振り、
「わからん」
そうつぶやいた。
「何があったのですか」
治五郎の問いに、福田は沈黙をした。
そのことを、話すか話すまいか、考えているようであった。
やがて、決心がついたように、治五郎を見あげ、
「わかった。君には話しておこう。しかし、くれぐれも他言は無用だ」
「はい」
「あれは、君がわたしのところへやってくる十二年ほども前のことだから、今から十四年ほども昔になるだろうか」
「―――」
「八木は、磯先生の門下でも、三本の指に入る実力の持ち主だった。五番やって、一本わたしが取ることがあるかどうかというくらいだった……」
「そんなにお強かったのですか」
「ああ――」
うなずいて、福田は眼を閉じた。
そのおりのことを、思い出そうとしているようであった。
「十四年前、他流との試合があった……」
そう言って、福田は眼を開いた。
「どの流儀かは言わぬよ。むこうが五人、こちらが五人を出して、勝負をした」
「はい」
「乱取ではなく、試合だよ。当て身を使ってもいいという約束の試合だ。わたしも、その勝負に出た」
「先生も?」
「ああ。わたしともうひとりが勝ち、四番まで闘って、二対二だ。最後の五番目の勝負が、八木だった」
「―――」
「その時の試合で、八木が相手を投げ、それで相手が死んでしまったのだよ」
「死んだのですか、相手が――」
「頭を強く打ったのだ」
「技は?」
「山颪《やまおろし》」
「山颪?」
「関口流の技だ。後ろから右手で相手の襟首を掴み、左手で帯の後ろをつかみ、相手を仰向けに担ぎあげて頭から落とす」
「衣被に似ていなくもないですね」
「相手が、肩の上で、仰向けになっているか、俯せになっているかの差だな。衣被なら、相手を頭から落とさぬように加減もできるし、投げられる当人も受け身をとることができる。しかし、この山颪は、加減が難しい――」
「それで、相手が?」
「投げられて、首の骨が折れた……」
「―――」
「以来、八木は柔術をやめた――」
「そういうことがあったのですか」
「ああ――」
「言葉もありません……」
治五郎は、低い声で言った。
「君は、八木のところへ行ったおりに、八木から投げられたそうだな」
「はい」
治五郎はうなずいた。
その話なら、入門時に、福田に伝えている。
打ってこいと八木に言われ、打ちかかっていったら、あっさりと投げられた。
今では、治五郎も、あの時の技が何であったのか、わかっている。
「鐘木で投げられたのです」
治五郎は答えた。
「しかし、まだ、わかっていないことがあります」
「何だね」
「あの時、八木先生は、ふたつのことをわたしにしたと言われました」
「それは、君から聴いているよ」
「ひとつは、鐘木をわたしに掛けたことです――」
「うむ」
「もうひとつがわかりません。以前、わたしは先生にそのことをうかがいましたが、教えていただけませんでした」
「そのうちにわかる――わたしはそう言ったのだったかな」
「そうです」
「それが、まだわからないということかね」
「はい」
「もちろん、わたしは、あの時八木が君に何をしたか、よくわかっている」
「それを、教えて下さい」
「教えるのは簡単だが、しかし、それでは君のためにならないだろう」
「そうですか――」
治五郎は肩を落とした。
「それは、八木が、君に課した宿題だろうから、君が自分で解くことだな」
「わかりました」
「ひとつだけ、手助けしておこう」
「はい?」
福田は、自分に掛かっていた布団を持ちあげ、身を起こした。
「先生――」
「たまには、こうした方が、身体のためにはいいんだ」
福田は、布団の上に座して、治五郎を見た。
背筋がしっかりと伸びている。
福田の眼が、正面から治五郎を見つめていた。
「嘉納君」
福田は言った。
「いつか、君が、他流の誰かと試合《しあ》うことがあるとしたら、そのおりに、試してみるといい」
「何をですか」
「君が、八木の真似をすればいいのさ」
「真似を?」
「相手に向かって、訊ねるといい。あなたの得意な技は何でしょうかと――」
「―――」
「相手が技の名を言ったら、ではそれを自分に掛けてみて下さい――そう言って、相手が技を掛け易いように、身を投げ出すのだ」
「それで、わかりますか」
「わかる」
はっきりと、福田は言った。
「君が、次に学ぶべきは、そういう部分だな」
「そういう部分というのは?」
「柔術というのかな、この社会というのかな、人と人との関係における心の問題に関わる部分のことだ」
「わかりません」
「だから、その時に、わかるということさ――」
福田は、自分の息子でも見るような眼で、楽しそうに治五郎を見つめて微笑した。
(十二)
福田八之助が亡くなったのは、それから二カ月後であった。
明治十二年八月――
五十二歳。
福田が死んで、この道場を預かったのが治五郎であった。
この時、治五郎はまだ二〇歳であった。
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福田の門には、乱取では自分以上の強い弟子はほかにあったけれども、形と乱取と併せて修業して、たえず道場に出入りしたものは自分のみであったのと、また自分は熱心に稽古をしたという処から、福田の家人から信用をうけ、伝書一切を承けついで、福田の道場を托せられたような次第であった
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このように治五郎は書いている。
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自分以上の強い弟子はほかにあった
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というのは、治五郎の謙遜かもしれず、あるいは事実であったかもしれない。
ともかく、福田の未亡人が、ぜひにと治五郎に頼んだということは間違いない。
これを、治五郎は、最初断った。
「自分の器ではありません」
まだ修行中の身であるからと何度も断った。
「これは、亡くなった福田の願いでございます」
誰もいない道場で、未亡人は治五郎に言った。
福田の位牌が、畳の上に置かれている。
「先生の?」
「はい」
うなずいて、未亡人は、紫色の風呂敷包みを取り出して、それを畳の上に置いて、
「これを――」
治五郎に向かって、その包みを押し出した。
「何でしょう」
治五郎が、その包みを解いてみれば、中から出てきたのは数冊の和綴じの本であった。
「これは――」
手にとってみれば、それは、天神真楊流の伝書と、他流派の同様の伝書であった。
「あなたに渡してくれと、福田から頼まれたものです」
未亡人は言った。
夏――
午後。
暗い部屋の外では、強い光が注ぎ、しきりとアブラゼミが鳴いている。
その声が、静かな道場の中にも染み込んでくる。
「先生が……」
「亡くなる二日前でした……」
未亡人は言った。
福田が、床の中から、妻を呼んだ。
見れば、枕元に伝書が積みあげられていた。
自分が死んだら、これを嘉納君に渡してくれ――
そう言ったという。
すでに、自分の死期を福田は覚っていたのである。
「あなたのことを、いずれ一流を起こす人物だと、福田は言っておりました……」
未亡人の眼には、涙が浮いている。
「そのおりに、これを役立ててほしいと。天神真楊流を、その流儀の中に生かしてほしいのだと……」
未亡人は、泣きながら語っている。
治五郎も、その頬に涙を伝わらせている。
もはや、言葉はない。
「わかりました」
治五郎は、そういって、伝書を膝の上で抱きながら、頭を下げたのだった。
(十三)
治五郎が、福田の道場を預かっていたのは、短い期間であった。
この期間に、治五郎は、ひとりの訪問者を受けた。
「御免――」
そう言って、その男は玄関から入ってきた。
その時、道場にいたのは、治五郎ただひとりである。
入ってきた男も、ひとりであった。
身の丈は、五尺六寸余り――
蓬髪の、身体のがっしりとした男であった。
着ているものは、垢じみている。
歳の頃なら、三〇代の半ばくらいであろうか。
濃く髭が浮いている。
錆びた刃物のような眼光を持った男であった。
「はい」
治五郎が、稽古衣を着たまま出てゆくと、男は、無遠慮な眼で、道場内を見回わしているところであった。
治五郎を見やると、
「金丸七之助と申します」
慇懃に頭を下げ、
「嘉納先生は御在宅ですか」
そう問うてきた。
「嘉納ならば、わたしですが」
そう言った治五郎を、男は、値踏みするような眼で眺めた。ねっとりと、舐めるような視線であった。
「お若い……」
そうつぶやいた。
「何か?」
「わたしは、本伝三浦流を学んだ者ですが、こちらのお稽古を拝見にうかがったのですが……」
そう言った。
「今日は、わたくしひとりです。夕方には何人か来ると思いますが、よろしかったらどうぞ」
治五郎は、男から距離をとって退がった。
これは、男を上がり易くするためであり、上がろうとした男が、その動作をふいに攻撃の動作に変えた時のための用心であった。
これはつまり、男の方にとっても、同様の問題がある。
上がろうとした時に、上から何か仕掛けられては不覚をとることになる。だから、間合を大きくとっておけば、どちらからもすぐには攻撃を仕掛けることはできなくなり、また、いきなり攻撃を受けることもなくなるのである。
治五郎は、この微妙な距離を自然にとれるようになっていた。
男は、ゆっくりと道場にあがってきた。
お稽古拝見――
これは、道場破りをする人間の、手口のひとつであることを、すでに治五郎は知っている。
「こちらへ――」
治五郎は、男を奥へうながした。
治五郎は、ときめいていた。
(十四)
治五郎は、男と道場の中央で向きあった。
どちらも正座をしている。
治五郎は、まだ二〇歳そこそこの学生であった。学業を終えてから道場に足を運んでいる。
師の福田が死んだ後、その道場を預かっている身分であるとはいえ、道場の代表には違いない。しかし、それにしても、治五郎は若かった。
まだ、夕刻前である。
外は明るい。
福田が死んでから、道場にやって来る者の数はさらに減った。
青木はほとんど顔を出さなくなり、以前とかわらずにやってくるのは福島だけである。この日も、まだ誰もやって来ない。福島がこの時間に来ないのなら、もう誰も来ない可能性がある。
そういう中で、ただ独り道場にいる時に、この男――金丸七之助がやってきたのである。
「お弟子の方は、今日はおらんようですな」
七之助が、言った。
「はい」
治五郎は頷いた。
道場に通って来る者の中では、治五郎が一番若い。その若い治五郎が道場を継いだとあっては、古くからの道場生たちもおもしろかろうはずがない。
自然に足が遠のいて、以前よりもさらに通う者が少なくなるのも仕方のないことであった。
そういった事情を、七之助もわかっているようであった。
学士で、二〇歳の若者が道場主をやっている――これを、与《くみ》し易しと考えて、ここまで足を運んできたものであろう。
武者修行という形式の稽古法は、江戸から明治の頃、柔術家たちの間で盛んに行なわれていた。
それは、今日一般的に考えられるような殺伐とした道場破り%Iなものではなく、一種の無銭旅行的な要素の強いものであった。
修行者は、行く先々の道場で居候となり、そこで飯を喰わせてもらうのである。
行った先の道場のレベルが高ければ、そこで教わり、低ければそこで教えてゆく。
三日ほどいることもあれば、一カ月、三カ月、あるいは半年も滞在することもあった。
場合によっては、武者修行の期間は、一〇年におよぶこともあったのである。
稽古をつけてやった場合には、出てゆく時に、道場から何がしかの金を包んだものが渡される。これは、わらじ銭と呼ばれ、こういった餞別を修行者に出すのは、道場主のマナーであった。また、修行者が次にゆく土地に知り合いの道場があれば、そこへ紹介状なども書いてやるといったことも、普通に行なわれていたのである。
修行者の方も、そういう場合は手ぶらではない。
前にいた土地の名産品などを持って、きちんと道場主に挨拶をしてから、そこに厄介になることになる。
武者修行――今風に表現すれば武術留学は、江戸末期にはかなり盛んになり、高杉晋作、坂本龍馬もこれを行なっている。龍馬が、土佐から江戸へ出て北辰一刀流を学び、免許皆伝の腕前であったことは知られている。
明治に入ってから、武術家が食べていけなくなり、道場を畳んだり、見世物まがいの興行を打つようになってゆく一方で、このような武者修行者も増えていった。これは、ひとつには、身分制度がなくなり、腕に覚えはあるものの、職がない元武士が日本国中に溢れたことと、関所などがなくなって、人の行き来が自由になったことと無関係ではない。
ひとりで幾つかの流派の目録を取り、自流派を起こす者もおり、明治の初期、一時的に武術はすたれるものの、その反動による武術復興の機運も、同じ明治期の中頃からは高まったりしたのである。江戸期の身分制度でいうなら、武士だけでなく商人や町人まで、自由に武術を学ぶことができるようになっていったのである。
その武術の復興に、やがて、嘉納治五郎の起こした講道館柔道は大きな役割を果たしてゆくことになるのだが、それは、もう少し後のことである。
もう少し、武者修行の話を続けたい。
武州伝気楽流は、第十二代菅沼勇輔良金によって創始された流派であるが、この菅沼勇輔良金は、第十一代飯塚|臥竜斎《がりょうさい》興義に就いて気楽流を学び、皆伝を得た後、諸国に武者修行に出ている。江戸、甲信越を回わり、四国、中国にまで足を延ばし、この間に巡伝にあずかる者は三千人を越えたと言われている。
この気楽流は、修行者の多くが農民であり、彼等が武者修行に出る場合は、農閑期であった。
起倒流を学び、後に奥田流を創始した奥田松五郎も、幕末期は、江戸に看板を掲げていた諸流派の猛者たちにも恐れられた武道家であった。大小無数の試合に出、負けを知らなかったという。
明治初年から十五年にかけて、諸国を武者修行して歩き、起倒流を広めるのに努めている。
基本的には、武者修行に出ることが許されていたのはその流派の目録を取得した者であり、出立にあたっては、師匠が発行した添書《そえがき》と呼ばれる紹介状、つまり身分保証書のようなものを持ってゆくのが建前であった。しかし、建前は建前であり、取得した目録や添書も、いいかげんなものを所持している者も多かった。
『yawara 知られざる日本柔術の世界』(山田實)から、その添書の一例を挙げておく。
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当弘武館門生、根岸純太郎儀、柔道熱心に付き、諸国遊歴|差許《さしゆる》し候様、柔道は忠孝一切たるに依り、専ら温和を主として、篤敬《とっけい》を以て交わり、よく法律を遵守し、苟《いやしく》も粗暴の挙動なく、謹んで修行致すべき旨懇論致し置き候間、江湖(各地)の諸先生宜敷く御教導の程願い上げ奉り候也。
明治四拾参年弐月吉日
埼玉県秩父郡横瀬村之住
戸田仁兵衛拾四代之伝来
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[#地から6字上げ]気楽流柔術
[#地から1字上げ]弘武館 本橋惣五郎満之
おおむね、添書の文面はこのようなものであった。
文中に柔道とあるが、これは、今日我々が知っている柔道のことではなく、柔術のことである。
この添書は講道館が出来てずっと後のものであるが、柔道という言葉は、けっして嘉納治五郎の創作ではなく、講道館柔道∴ネ前から、柔術を指す言葉として知られていたのである。
この添書が、武者修行の通行手形であった。
もともとは、自分の技を磨くための武者修行であるのは、江戸期も明治期もかわりはないのだが、当然ながら、武者修行者の中には、自分の名を売り、自流派を広めるために、これを行なう者も少なからずいたのである。
このおり、地方の道場を訪問する修行者の口上は、だいたい決まっている。
「一手御指南を」
あるいは――
「お近づきの稽古を」
と言うのが口上である。
七之助が言った、
「お稽古拝見」
というのも、そういった口上のひとつである。
紹介状の有無や、この時の言葉のニュアンスから、道場側は、訪問者の真意を見極めねばならない。
中には武者修行の名を借りて、金をせびったり、自分を売り出すためにやって来る者もいるからである。
道場側は道場側で、そのような人間も修行者の中にはいるとわかっているから、畳がわりに使用している筵《むしろ》の中に、縫針や釘のようなものをひそませておいたりする。
そういった手合いと試合をして、万が一にも負けたりすれば、道場の評判は落ち、道場主の生活がたちゆかなくなることも充分にあり得たのである。
武道復興後の明治後年には、そのような傾向はさらに強くなっている。
しかし――
治五郎が、金丸七之助と向かいあっている時は、まだ明治十二年である。
武術復興のきっかけとなった、第一回警視庁武術大会が開催されるのは、この時より七年後、講道館柔道が誕生してからは四年後の、明治十九年であった。
柔術を学びはじめてからまだ二年余り――治五郎は、金丸七之助が言うように若かった。
(十五)
治五郎は、金丸七之助と対座しながら、相手の真意を探っている。
相手は、誰かの紹介状を持っているわけではない。
話の口ぶりからは、治五郎が若いことも、その時、治五郎ひとりしか道場にいないことも、わかっていた節がうかがえる。
目的は――
金か
と治五郎は思う。
相手は若い。
どれだけ修行したかはわからないが、たいした実力があるわけではないだろう。道場をまかされるくらいであるから、そこそこはやるにしても、小さな道場の中でのことだ。少ない人数の中で、どっちが勝ったの負けたのと言っているだけのことだ。
実力の底は知れている。
七之助が、そう考えているらしいことを、治五郎は敏感に嗅ぎとっている。
学士柔術――
学士が柔術をやっている――そのこと自体が珍しい。大学に通っているともなれば、学問の道では、当時、エリート中のエリートである。
本ばかりを読んでいる人間のやる柔術に、いかほどのことがあろうか――
そういう視線に、すでに治五郎は何度もさらされている。
眼の前の人物が、自分の実力についてどういう評価を下しているかは、なんとなくわかるようになっている。道場破りをして金を巻きあげようと考えている人間にとっては、今の治五郎はまさしく絶好の相手であったことであろう。
道場主で、しかも実力はない。
なお、道場にひとりしかいない。
試合っても、道場生を何人も相手にせずにすむ。
一手御教授を――
そう言えば、適当な口実を設けて、この若い道場主は、試合うのを断ってくるであろう。
「本日のところは、これでお引き取りを――」
そういって、多少の銭の入った包みを出してくることになる。
相手の読みはそこにあるのだろう。
治五郎は、ぽつりぽつりと、七之助と言葉を交している。
天神真楊流についての話である。
話をしてみれば、天神真楊流について、きちんとした知識を持っているのがわかる。
さきほどの、道場に上ってくるおりの気の配り方といい、ただ腕力だけで腕に覚えのある人間がやってきたのではないことがわかる。
柔術の心得があるというのは、嘘ではないようであった。
「本伝三浦流を学ばれたとおっしゃっておられましたが――」
治五郎は、七之助が学んだという流派に話題を振った。
「そもそもの開祖は、三浦与次右衛門義辰先生であるとうかがっております」
治五郎が言えば、
「そのようですな」
七之助の答は短い。
「陳元贇《ちんげんぴん》から学んだ柔法が、その元となっているそうですね」
「なに、柔は、どの派も、元をたどればいずれも陳元贇の名が出てくることになってるものですからな」
七之助は言った。
それは、嘘ではない。
陳元贇は、元明国の人であった。
それが日本へ渡って来て帰化した。
中国の柔法を能くし、この陳元贇が、何人かの日本人に教えた柔法が、今日の柔術の技術の元になったものであるというのは、多くの書が記していることであった。
ある伝によれば、三浦与次右衛門義辰は、永禄年間の生まれであるとされている。
この三浦与次右衛門義辰が、江戸の麻布国昌寺に福野七郎右衛門、磯貝次郎左衛門と共に寄寓《きぐう》していた折、同じ寺に仮寓《かぐう》していた陳元贇と知り合い、柔法を学んだのが三浦流の始まりである。
しかし、これは通説であり、史実と考えるには無理がある。
陳元贇が国昌寺に寄食していたのは寛永三年から四年頃のことである。
三浦与次右衛門義辰が永禄生まれならば、この時三浦は七〇歳に近い。
日本柔術の祖とも言われる関口柔心が、三浦与次右衛門義辰から柔術を学んだことは、よく知られている事実であり、そうすると、関口柔心の年齢から考えても、三浦与次右衛門の永禄生まれとする説は信用し難いものがある。
しかし、三浦が陳元贇から、柔の術理を学んだということについてのみなら、充分に信憑性のあることだ。
この三浦流は、甥の三浦丹治入道義邦が継いだが、義邦が小田原で死去した後、伝系は長く世に現われなかった。
江戸後期になって、三浦義辰の十九世と称する高橋玄門斎展歴が現われ、小石川に道場を開いて、この流を再興した。
七之助が本伝三浦流≠ニ言ったのはこの流派のことで、正式には日本柔術本伝三浦流≠ニいう。
三浦流の細部――具体的な技まではわからないが、治五郎の頭の中には、それくらいの知識は入っている。
治五郎が、三浦流について話を向けようとしたのを、陳元贇の名を出して、七之助がうまくはぐらかしたと見えなくもない。
「それよりも、自分は、かねてより御流儀の投げには興味を持っておりました」
金丸七之助は言った。
「今日は、ひとつ、稽古をつけていただくわけにはゆきませんか」
治五郎を見た。
七之助の視線が鋭くなっている。
治五郎が迷ったのは、ほんの数瞬であった。
「ええ」
ほとんど間を置かずに答えていた。
(十六)
治五郎の覚悟は、金丸七之助を道場に上げた時からすでに決まっていた。
「お稽古を」
そう挑まれたら、受ける。
受けずに帰せば、福田の名と、天神真楊流の名に傷がつくと考えていたのである。金を出して帰ってもらうにも、その金が治五郎にはない。
自信もあった。
自信というよりは、自分を試してみたいという欲望であった。
自分がどれだけ強いのか。
他流を相手に、自分が学んだものがどこまで通用するのか、それを自らの身体で試してみたかった。
自分は、あの福島兼吉にも勝っているのである。
自分の実力がどれだけあるのかを考える時、治五郎が基準にするのが福島であった。
他の人間と相対した時、自分がどれだけやれるのかはわからないが、福島ならばわかる。
福島兼吉が、他流派の人間と試し合いをした時、福島が負ける姿というのが、治五郎には想像がつかなかった。
誰とやっても、福島は勝ちそうな気がする。
その福島に自分は勝っている――
治五郎の自信はそこにある。
仮に、今、この眼の前にいる金丸という人物と福島がやった時、間違いなく福島が勝つであろう。
福島の方が、この男より強い。
自分はその福島より強いのだ。
その自分が、この男に負けるはずがない。
そう思っていたからこそ、勝負を受けたのである。
もうひとつには、死んだ福田が言っていた言葉を思い出したからだ。
他流の誰かと試合うことがあったら、相手に得意な技は何かと訊ねてみるといい――福田は治五郎にそう言った。
相手が技の名を言ったら、それを自分に掛けてみてくれと言えばいい――そうすれば、わかるだろうと福田は言った。
わかる――というのは、八木が治五郎にしたことが何であったかわかるということである。
福田の道場を紹介してくれた八木と初めて会った時、治五郎は、八木に鐘木という技を掛けられている。
その時、八木は、ふたつのことをしたと治五郎に言った。鐘木という技を掛けることと、それからもうひとつのことを。
それが何であるかを、八木も福田も教えてはくれなかった。
君が、次に学ぶべきは、そういう部分だな
と福田は言った。
そういう部分≠ェ、いったい何を指すのか、治五郎にはわからない。
治五郎は、それを知りたかった。
「あなたの得意な技は、何ですか」
治五郎は、ゆっくりと立ちあがりながら言った。
「ほう……」
七之助も、ゆっくりと立ちあがりながら、治五郎を見た。
「何故、そのようなことを訊くのだね」
「その技を掛けていただきたいのです」
不遜な言葉であった。
これから立ち合う相手に、得意な技を言わせて、それを自分に掛けてみよと言っているのである。
「何故……?」
七之助が問うてきた。
「試合う相手の一番得意な技を掛けてもらうことが、一番の勉強になると、師の福田が言っておりました」
治五郎は言った。
嘘であった。
福田はそんなことは言ってない。
しかし、相手の得意な技を掛けてくれるよう、相手に言ってみなさいとは間違いなく口にしているのである。そうすれば、八木の出した謎が解けると言うのだから、あながち治五郎が嘘を言っているわけでもない。
すでに、治五郎と金丸七之助は、立ちあがって向かいあっている。
まだ、充分な距離がある。
どちらの間合でもない。
七之助は、稽古衣に着換えているわけではない。入ってきた時のままの、汗じみた着物を纏ったままの姿でそこに立っている。
「七里引ですか――」
ぼそりと、七之助が言った。
古流において、七里引と言えば、肘関節を極めて連行する技法の俗称である。
流儀の形として、その名を使用しているところは少ない。
形の名称としてはっきりその名を使っているのは、気楽流であるが、気楽流で言う七里引という技は、肘関節を極める技ではない。
「御流儀では、引立ですかな」
「はい」
治五郎はうなずいた。
相手の手首を握り、その腕を自分の脇の下に抱え込んで肘関節の逆を取る。
天神真楊流では、その肘を極める技を引立と呼称している。
伯耆《ほうき》流で言う引起である。
立ったまま、あるいは膝を突いたまま、肘を極める技だ。
「では、その七里引を、わたしに掛けていただけますか」
治五郎は、そう言って、右手を持ちあげて前に差し出した。
「ほう……」
七之助の眼が尖った。
治五郎は、右手を前に差し出して、静かにそこに立っていた。
右手を差し出す一瞬に、とまどいとわずかな恐怖があったが、それは、ほんのふた呼吸ほどの間だけであった。
差し出して、呼吸をふたつほどした時には、すでに治五郎は自分のしたことの意味がわかっていたのである。
なるほど――
治五郎は、新鮮な驚きを覚えていた。
こういうことであったのか――
どきどきと心臓が音をたてて、顳|※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《かみ》を打っているのがわかる。
治五郎は、興奮していた。
あの時、八木が、自分に対してやったもうひとつのことが、何であるかわかったからである。
次に自分が何を学ぶべきか、福田が生前に言い残したことが何であるか、今、治五郎にはわかっていた。
それは、技の限定ということであった。
手を差し出し、相手がその手をどう取ってくるかを考えた時に、治五郎にはその動きが見えたのである。
相手が、右手で差し出した自分の右手首を掴む。次に踏み込んで左手で自分の喉を攻めてくる。これが、ほとんどひと呼吸の動作で行なわれる。次には右腕を、相手は左の脇の下に抱え込み、左腕をからめて肘関節を極めにくる。
その動きが見えたのである。
七之助の七里引が、もう少し違う形であるにしろ、いずれは、肘をねらってくる技であろう。
それならば、自分の肘を庇って、相手に組みつき、瞬時に投げに入る形が幾つも頭の中に浮かんでいる。
なんということか。
相手が、どういう技を掛けてくるかということが、あらかじめわかっているということは、ここまで自分を有利な場所に立たせるのか。
あの時、八木は、自分が拳で打ってくるのがわかっていた。
わかっていれば、それがどんなに強い力であろうが疾《はや》い動きであろうが、それをかわして技を掛けることは、雑作もないことであった。
闘いの機微、あるいは難しさというのは、相手がどのような技を使ってくるのかわからないところにある。それがあらかじめわかっているということは、一方を圧倒的に優位な立場に立たせる。
なるほど、闘いの前に、このような掛け引きが、柔術にはあるのか。
治五郎の唇には、微笑が浮いている。
しかし、同じ微笑が、金丸七之助の唇にも浮いていた。
治五郎は、七之助のその微笑に気がついた。
気がついた途端、治五郎の心の中に湧いたのは恐怖であった。
なんということか。
もしも相手が、この金丸七之助という人物が、そのような掛け引きのことを知っていたらどうなるのか。
いや、知っていたら、ではない。
他流の道場にやってきて、試合を挑んでくるような人間が知らないわけはなかった。
治五郎の唇からは、笑みが消えた。
もし、知っているのなら、相手は、逆にその状況を利用することであろう。
相手に告げた技にゆくと見せて、いきなり当ててくるかもしれない。
蹴ってくるかもしれず、肘を顔面に打ち込んでくるかもしれない。
いや、間違いなくそうしてくるであろう。
そうされても、文句は言えない。
ひとつの技に入るのに、別の技から入ってゆくというのは、あたりまえにあるからだ。
「当ててからその技に入ってゆくのが自分の流儀である」
そう言われたらそれまでである。
武術家どうしの立ち合いで、負けた方がどのような言いわけを用意しようが、それはみっともないだけである。
相手の裏をかく――それは、闘いにおいては正当なことだ。
あらかじめ、相手に得意な技の名を告げさせ、それを使わせるのも、裏をかくことのひとつである。
ならば、どうするか。
相手が何かを仕掛けてくる前に、こちらからいきなり当ててゆくか。
自分にとっては、そうすることが一番いいことだとは理屈ではわかっている。
しかし、それが自分にできるか。
治五郎には、まだ、それだけの決心がついてない。
そこまでのことをしていいのか。
よい――
と、自分の裡の理屈は叫んでいる。
だが、決心がつかない。
そこまでの修羅場の場数を、まだ治五郎は踏んでいない。
他流と闘うということは、こういうことであったのか。
治五郎の稽古衣の下の皮膚に、ふつふつと汗が浮いてきている。
そこで、初めて、治五郎は福田の言った言葉の真の意味が理解できた。
君が、次に学ぶべきは、そういう部分だな
と福田が言っていたのは、ただ、相手の技を限定すれば有利であるという表層的なことではない。
ここまでのことを言っていたのである。
治五郎は、ほとんど身動きがとれなくなっていた。
つうっ、
と、金丸七之助が、浅く前に出てきた。
自分の間合をとるためだ。
思わず、治五郎は後方に退がっていた。
「おや――」
七之助は言った。
「退がってしまっては、七里引が掛けられませんよ」
七之助の唇には、強い笑みが浮いていた。
自分が、相手よりも、圧倒的に優位な立場に立っていることを確信した笑みであった。
今さら、治五郎が腕を引っ込めて、普通の立ち合いに持ち込んだところで、もはや、七之助の優位は動かない。
治五郎は、完全に七之助に呑まれていた。
七之助の、蛇のような眼が、治五郎を睨んでいた。
たまらない恐怖が、治五郎の背にこみあげてくる。
自分は、どうされてしまうのか。
もしもできることなら、この男に謝り、金を与えてでも帰ってもらいたかった。
その時――
入口の戸の開く気配がして、
「ごめんよ」
大きな人影が入ってきた。
その大きな男は、戸口のところで足を止めた。
治五郎と七之助が向き合っているのを眺め、
「先生、そりゃあ、何の真似ですかい」
太い声でそう言った。
福島兼吉であった。
(十七)
「お待ちを――」
治五郎は、そう言った。
腕を下げて、後方に退がり、七之助から距離を取った。
「福島さん」
治五郎は、七之助から油断なく離れながら、福島を出迎えた。
「何をなさってたんです」
福島は、金丸七之助を、硬い眼で睨みながら言った。
侠客肌のこの男は、すぐにその場の状況を見てとったような口調で言った。
「こちらは、本伝三浦流の金丸七之助先生です」
治五郎が言うと、
「金丸です」
七之助が、福島に向かって頭を下げた。
「天神真楊流をお知りになりたいということであったので、これから試合うところでした」
それだけで、福島は全て呑み込めた様子であった。
治五郎の額に浮いた汗も、きちんと福島は見てとっている。
「ははあ」
福島は、大きくうなずきながら、
「そりゃあ、もうしわけありません。つまらぬ邪魔をしてしまいました」
治五郎と七之助に頭を下げてみせた。
「しかし、そういうことであれば、先生が相手をするまでもありません。先生おひとりであるのなら仕方がないとしても、こうして、弟子がいるのに、先生にお相手させるわけにはいきません。あたしに、お相手させて下さい」
治五郎の返事を待たずに、福島は七之助を見やり、
「そういうわけで、あたしがお相手いたしましょう。ようござんすね」
伝法な口調で言った。
「いえ、福島さん。わたしがやります」
治五郎は言った。
「よろしいんですか?」
念を押すような口調で、福島は、治五郎を見やった。
「大丈夫です。わたしがお相手します」
ほんのわずか前まで、治五郎の身体の中にあった堅さが消えていた。
治五郎の額にあった汗の小さな玉も、一度ぬぐった後は、もう額に湧き出てきてはいなかった。
治五郎と金丸を交互に見やりながら、福島はうなずいた。
「先生がそうおっしゃるんなら、あたしに異存はありません。検分役は、あたしが務めさせていただきましょう」
福島は、道場にあがり込んで、壁際に座した。
「お邪魔をしてすみませんでした。お始めになって下さい」
福島が、座したまま言った。
治五郎は、あらためて、立っている七之助に向きなおり、先ほどと同様に、右手を差し出した。
「どうぞ」
そう言って、浅く腰を落とした。
すでに、迷いは治五郎から消えていた。
右手を差し出しているのは、もう、形だけである。
相手がどうくるかなどは、もう、関係がない。
自分の間合に入ったら、その瞬間に、自由に技を掛ける腹が決まっていた。
覚悟というほどのものではない。
あたりまえのこととして、そうするつもりであった。
今度は、額に汗を浮かべはじめたのは、七之助であった。
治五郎の視線に押されるように、七之助が退がってゆく。
その退がった距離を、治五郎が埋めてゆく。
そのうちに――
ふいに、大きく七之助が後方に退がり、
「いや、充分でござる」
すでに古めかしくなった言葉で言って、左手をあげ、掌を治五郎に向けた。
もう、前に出てこないでくれという意味の動作であった。
「天神真楊流、充分に見せていただきました」
頭を下げた。
治五郎は、逆に、自分のあげていた腕を下ろし、
「よろしいのですか」
そう問うた。
「充分」
金丸七之助が繰り返した。
「そうですか」
うなずく治五郎に、再び頭を下げ、
「御教授、感謝いたします」
そう言った。
「これにて、失礼させていただきましょう」
さっそくにも道場から下りようとしかけた七之助に、
「待ちねえ」
福島が声をかけた。
七之助が足を止めた。
「何か、考え違いをしちゃあ、いないかい」
「何のことでしょう」
「あんたが言うべきことは、充分≠カゃあない――」
「―――」
「参りました――そう言ってもらおうか」
むっとしたような顔を、七之助は福島に向けた。
「文句があるんなら、おれがかわりに相手をするよ」
福島が、ぬうっと立ちあがった。
「福島さん」
治五郎が、声を掛けたが、福島はそれを無視した。
「おまえさん、さっき、うちの先生の腕の一本でも叩き折ってやろうって、そう考えていたろう」
「まさか」
「嘘を言ったってわかるよ。おれはそれだけのところをくぐってきてるんだ。どう言いわけしようとおれには聴こえないよ」
福島が、前に出る。
「いいかい、本当なら、おまえさんの腕の一本も、このおれが折ってやるところなんだ。おまえさんのようなやつを無事に帰したら、後で何と言うかわからねえからね。あそこの道場主は弱い。この自分に手も足も出なかった――必ずそう言うよ。そう言わせないために、腕の一本も折っておくところなんだよ。それを、参ったのひと言で、おさめてやろうってえんだ。おとなしく言うんだね」
福島の声は、あくまでも穏やかであったが、凄みがあった。
「わかった、言う……」
七之助は、覚悟を決めたような顔でうなずいた。
「参った。参りました」
青い顔で、七之助は言った。
「おれはね、日本橋の河岸をしきっている福島って者だよ。名前くらいは聞いたことはあるだろう。もしも、誰かが、ここの先生のことを弱いだなんて言っているってえ噂が耳に入ったら、おれは、あんたが言ったものだと思うよ。そん時ゃあ、あんた、無事にこの界隈を歩けると思っちゃあ、いけないよ」
こそこそと、鼠のように、七之助は外へ出ていった。
その背を見やってから、福島は治五郎に向きなおった。
「いやあ、強くなりなすったねえ、先生――」
福島は、微笑した。
「闘わずに、相手を位負けさせるなんて、なかなかできることじゃあない」
言われても、治五郎はうなずかなかった。
静かに首を左右に振った。
「福島さん、ぼくは、まだ未熟です」
治五郎は言った。
「まさか。このあたしももう勝てねえってえのに、何を言うんです」
「まだ、未熟です。福島さんの足元にもおよばない――」
「―――」
「福島さん、ぼくは、まだ、道場主なんてがらじゃない。やめます」
治五郎は言った。
「やめて、もう一度、始めから修行のしなおしです」
(十八)
ほどなく、治五郎は、福田道場の道場主をやめて、同じ天神真楊流の磯正智の門下に入っている。
磯正智は、治五郎の師であった故・福田八之助の師にあたる人物であった。
天神真楊流流祖磯又右衛門の高弟であり、もともとの名は、松永清左衛門といった。
はじめは、磯又右衛門の一子、又一郎が二代目として天神真楊流を継いだのだが、早くにこの又一郎は世を去っている。
又一郎の死後、天神真楊流の三代目となったのが、松永清左衛門であり、継ぐにあたって、名を磯正智と改めた。
身長五尺一寸。
治五郎よりも低い。
この時、磯正智六十二歳。
神田のお玉が池に道場を開いていた。
小兵ながら、磯正智は、形の名人であった。動きに惚れぼれするものがある。美しい。しかも、それのみではなく、その形の細かい意味まで、丁寧に語ることができたのである。
柔術の古伝となると、形は残っているが、その組み方の形、足の捌き方、肘の角度等、それぞれどういう意味があるのかがわからなくなってしまっているものも多かった。
それを、磯正智は語ることができたのである。
「意味のない形などない」
これが、磯正智の持論であった。
他流派の人間が、自流派の形の意味について、磯正智に教えを乞うということも、よくあったのである。
治五郎にとって、この磯正智の下で修行できたことの意味は大きかった。
他人に技を教えることの上手さについて、福田道場の頃から治五郎は抜きん出ていたが、そういう資質が完成されたのはこの時期である。
磯正智については、形のみではなく、武勇伝も残っている。
維新前――
某藩から、磯正智に他流試合を挑んでくる者があった。
これが、ひとりではない。
三人であった。
藩命により、磯正智は、この三人と闘うこととなった。
ひとりずつではない。三人一緒である。一対三の闘いである。当て身技もある闘いであった。拳や足や肘による打撃を入れてもいい試合である。
この闘いの様子は、治五郎自身が、聴いたことを、次のように記している。
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その時、一人は真正面から、一人は右側から、一人は左の方から三人総がかりで正智先生に蹴かかった。先生最初のうちはよく受けていたが、三人同時の当て身がきいて、遂に受けきれずに、うつぶせになってしまったという。
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磯正智の負けであった。
しかし、当て身もやる柔術の達人を相手に、しばらくにしろ、よくしのいだものだ。素人相手ならともかく、互いに技術を持った人間たちが闘う場合、一対三は、圧倒的に不利である。
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当身は単に一人にあてさすことすら容易ではない。よし数人でも、一方ずつ受ければまだしもだが、それを三方同時に蹴こますことは非常なことである。これを敢てした磯先生の強みは一通りではない。
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治五郎は、このように記している。
この試合によって、磯正智は何人扶持かを藩から貰っている。
講道館初期の時代に、猛者で知られた井上縫太郎五段がいるが、この父親が、井上敬太郎という人物であった。
井上敬太郎は、磯又一郎の門人で、治五郎の言葉によれば、
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天神真楊流のもっとも出来る一人であった
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という。
自分で道場を持っているが、一時期、治五郎自身もこの井上道場に名札を下げていたこともある。
後に講道館に入門することになる、横山作次郎、そして西郷四郎もまた、この井上道場の門下生であったことを考える時、天神真楊流と嘉納治五郎との関わりは、かなり深い。
この井上敬太郎と磯正智の逸話を、治五郎が書いている。
その時期については、治五郎は記していないが、治五郎が入門する前のことであろう。
ある時、磯正智が、人前で形を見せることがあった。
その時、磯正智は、上半身裸となり、木刀を一本用意させ、井上敬太郎に向かって、
「この木刀の柄頭で、儂《わし》の腹を突け」
そう言った。
突けと、磯正智が指で示した場所は、水月《すいげつ》である。ちょうど胃袋のところである。
素手――いや、ボクシングのグラブを嵌めていても、ここにタイミングよく打撃が入れば、人は、倒れてのたうちまわる。人体の急所である。
柄の部分であろうと、木刀は木刀である。
「せや」
井上敬太郎は、力を込めて水月を突いた。
「ぬるい」
突かれた磯正智は、すかさず言った。
「まだ、遠慮がある」
言われた井上敬太郎は、
「えやっ」
さらに力を込めて突いた。
「まだだ」
磯正智は言った。
「渾身の力を込めよ」
井上敬太郎は、心を決めた。
もしもこれで、磯正智が死ぬようなことがあれば、腹を切る。
そういう覚悟であった。
「せいや!」
腹から内臓まで、貫き通すつもりで突いた。
「吩《ふん》!」
磯正智はそれを受けて、けろりとしていた。
軽く腹のあたりを押さえ、
「今のが本身ならば、それで人が殺せるだろう」
磯正智はそう言ったという。
治五郎が、福田道場に入ったのが、明治一〇年、十八歳の時である。
二〇歳の時に、福田が没して磯正智の門に入った。
それから二年後の明治十四年六月、磯正智がこの世を去ったのである。
天神真楊流を、治五郎は十八歳の時から二十二歳まで、およそ四年間学んだことになる。
あらたな師を、治五郎は探した。
そして、出会ったのが起倒流であった。
治五郎が、大学時代にベースボールをやっていたことは、あまり知られていない。
治五郎のポジションはピッチャーで、塩田仁松と本山正久という男がキャッチャーをやっていた。このベースボール仲間の本山正久の父が、起倒流をやっていたのである。名を、本山正翁といった。
本山正翁は、維新前、幕府の講武所において、起倒流柔術の教授方を務めていた人物である。
本山正久の紹介で、本山正翁に会い、治五郎は、この人物から起倒流を学ぶこととなった。
しかし、正翁は、乱取りはせず、もっぱら形稽古ばかりを行なった。
自分ではなく、別の人間から起倒流を学んだ方がいいと言い出したのは、正翁の方からであった。
「嘉納君――」
ある時、治五郎は、稽古の後で、正翁からそう声をかけられた。
「何でしょう」
「起倒流を学ぶのなら、わたしなどより、もっと適当な人物がいる」
正翁は言った。
「飯久保恒年君と言って、技においては、わたしなどよりずっと優れたものを持っている。飯久保君ならば、乱取りをやるだろう」
こうして、治五郎は、起倒流飯久保恒年と出会うこととなったのである。
明治十四年、夏――
治五郎は、正翁の紹介状を持って根岸にある飯久保恒年が住んでいた、富田常次郎記すところの侘住居≠訪ねている。
(十九)
この時、飯久保恒年四十六歳。
江戸の生まれである。
本名を鍬吉といった。恒年は号である。
士族であった。年少の頃より、竹中鉄之助の下で起倒流柔術を学んだ。
安政三年に免許を得ている。
幕府の講武所の教授方も務め、麻布|日ヶ窪《ひがくぼ》に道場を構え、ここで子弟の指導に当っていた。
達人であった。
起倒流は、そもそも、立ち技の柔術である。
組み、投げる。この術理について、起倒流は他流から抜きん出ている。
身長五尺八寸。
当時の平均からすれば、大兵である。
顔は面長で、眼は長く切れている。
富田常次郎の記すところによれば、
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時勢や境遇に超越して、常に悠々迫らざる真に古武士的風格の持主であった。
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という。
維新の際、徳川氏に従って静岡に移住したが、明治の初年に上京して駅逓《えきてい》局に吏員として勤めていた。
この時期、飯久保は自分の道場を持っていない。
「ほう、天神真楊流を四年――」
治五郎の言葉を聴いて、飯久保はうなずいた。
「誰に学ばれたのかね」
さらに飯久保はそれを問うてきた。
「福田八之助先生に二年。磯正智先生に二年――」
もちろん、飯久保は、そのふたりの名を知っている。
磯正智とは、講武所時代に、何度も話をしたことがある。
「何故、天神真楊流をやめて起倒流を?」
飯久保の興味はそこであった。
治五郎は、確信犯であった。
いくら、友人の父親が、起倒流をやっていたとしても、無目的に別の流派を学んだりはしない。
それならば、これまで通り天神真楊流を続ければよい。別の流派を学ぶということは、治五郎にとっては、当然のごとくに、天神真楊流にないものでなければならない。
後の、講道館柔道の発展を考える時、治五郎がほとんど意味もなく、行きあたりばったりに何かを為すということはあり得ない。
天神真楊流の次に何を学ぶべきか。
この頃までには、治五郎には、すでに柔術諸流派について、充分な知識があったと考えていい。現代風に言うならば、きちんとしたリサーチのもとに、治五郎は行動を起こしたものとすべきであろう。
さらに立ち入って考えてみるに、治五郎が講道館柔道を起こすのは、この翌年である。飯久保の下を訪れた時、すでに治五郎には、自分が、新しい柔術の流派を起こそうという発想があったと考えるのが自然であろう。
自分が起こすべき新流派のために、今、為すべきは何であるか――
それが、治五郎にとって起倒流であったのではないか。
「天神真楊流にないものを教えていただきたいのです」
治五郎は、こういう時に、駆け引きをしない。
表現は、よどみがなく、真っ直ぐである。
「それは何かね」
「投げです」
これもまた、治五郎は、すぐに答えている。
「ほう」
飯久保は、自分の年齢の半分に満たない若者に興味を覚えた様子であった。
「天神真楊流にも、投げはある」
「しかし、同じ投げでも、天神真楊流と起倒流とは、入り方が違います。変化の数も多い……」
「ふむ」
「磯正智先生が、まだ存命の頃、天神真楊流は、当て身、固め技、色々あるが、投げだけで言えば起倒流だなと、おっしゃっていたことがありました」
「―――」
「固め技を極めるためには、まず相手を倒さねばなりません。相手を倒すには、投げ技が優れていなければなりません」
「―――」
「いくら、寝技に熟練しても、相手を倒さないことには、どうしようもないからです。たとえ寝技を知らなくとも、絶対に相手に投げられなければ、負けることはありません」
「それは、きみの言う通りだな」
飯久保はうなずき、
「ところで、きみのその服装だが、何か思うところがあるのかね」
飯久保が訊いた。
この頃の治五郎の服装は、だいたい決まっていた。
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朴の一本歯の下駄をはき、虚無僧のかぶる例の笠(治五郎の場合三角帽型の編笠)をかぶって、槍の穂をとった頭より高いやつを突いて歩く
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富田常次郎「柔道五十年・永昌寺の思い出」『週刊朝日』昭和十年一月
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富田常次郎はそのように記している。
磯又右衛門の道場に通っている頃は、治五郎は、大学と道場へは、ほとんどその姿で通っていたのである。
前記の富田の談話によると、当時の無茶苦茶な西洋崇拝の思想に反感を持っていたからであろうと、富田は語っている。
しかし――
「奇をてらうというのは、普通はきみのような人物はやらぬはずだ」
飯久保は言った。
奇をてらう
というのは、普通は、実力のないものが、そのかわりとして、別のもので自分を世に知らしめようとする行為である。
自分を見て欲しい――
そういう意味のものである。
治五郎という人間について考えた時、最も遠いのが、この奇をてらう≠アとである。
治五郎のように、日本の最高学府にいる、エリート中のエリートである人間が、わざわざそのようなことをする必要はない。
西洋にかぶれることを嫌ってはいても、治五郎は西洋そのものを拒否してはいない。
むしろ、福島に勝とうとしたおり、レスリングの本を読んだように、西洋を取り入れることに、治五郎は積極的である。
「棒は、福田さん。朴の一本下駄は磯さんかね」
治五郎が答える前に、飯久保が言った。
「はい」
恐縮したように、治五郎はうなずいた。
この棒については、治五郎自身が、福田道場を回想して興味深いことを記している。
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時には青木が欠席し、先生が灸のあとがうんだなどということで、稽古が出来ないときがある。その時には、先生から棒を振って自分でころがって独り稽古をするように命ぜられる。
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棒の練習は、体を作るのにきわめて有効とされているが、では具体的にこの棒でどのような独り稽古≠していたのであろうか。
ここでの手掛かりは、振る≠アとと自分で転がる≠アとだが、山田實氏は、『yawara 知られざる日本柔術の世界』の中で次のように記している。
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この場合、福田は元来、秩父の出身で、江戸へ出るまでは同地にあって気楽流と奥山念流の柔術(ともに棒、他の武器法を含む)を学んでいたともいわれ(『福田八之助伝』昭和四十二年・秩父市柔道連盟)、とすればこの棒の振りもそれらの形であったかと思われる。
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おそらく、そういうことであろう。
「福田先生には棒を、磯先生には、一本歯の下駄をはけば、崩れにくくなると教わりました」
治五郎は言った。
一本歯の下駄は、二本歯の下駄よりも、立つのが難しく、これを日常的にはいていれば、自然にバランスがよくなる。現代の武道家でも、これを実践している人間が何人かいる。
日常まで、柔術の稽古を持ち込む――これこそが、治五郎にとって自然なことであったろう。
当時、治五郎の柔術へののめり込み方は、半端ではなかった。異様であったといっていい。
治五郎にとって、稽古をするということは、とことんやることであり、体力のひとしずくすら残さない――そういうやり方であった。
治五郎は書いている。
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ある時は身体綿の如く疲れ、道を歩きながらよろよろとして倒れかかって、路傍の塀に突き当ることもしばしばあった。
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棒を杖がわりに突きながら、一本下駄で、よろめきながら歩く東京大学の学生――まさに異様な姿である。
これが、治五郎にとって、文と武を両立させる姿であった。
「どうだね、嘉納君――」
飯久保は言った。
「はい?」
「きみの天神真楊流を見てみたい」
「わたしの?」
「正翁先生からの手紙にその天分の才量り知れぬものあり≠ニ書いてある」
「そんな」
「少し狭いが、ここでできるだろう」
「稽古衣の用意がありません」
「かまわんよ。投げだけの乱取りだ。稽古だけはずっとしてきたが、乱取りは久しぶりだ。相手をしてくれないかね」
これは、断れない。
治五郎自身にしても、身をもって起倒流を知るよい機会であった。
「わかりました」
治五郎はうなずいていた。
(二〇)
卓袱台を畳み、脇へのけると、八畳間ほどの空間ができた。
そこで、治五郎は、飯久保と向きあった。
大きい。
福島ほどではないが、対峙した時、福島よりも大きなものを治五郎は感じた。福島の圧力には、熱気のようなものが感じられたが、飯久保からは、その熱気は感じられない。
静かな山を眼の前にしたようであった。
まだ、動き出す前の風のような印象もある。
何もかもが、自然体である。
「ゆくよ」
飯久保が言った。
すうっと、透明な力のようなものが動いてきて、治五郎に手を伸ばしてきた。
それに誘われるように、治五郎も手を伸ばし、飯久保の襟と袖を掴んでいた。
どちらが勝ったの負けたのと、むきになるような闘いではない。
治五郎は、起倒流を知りたいと思っている。
飯久保は、治五郎を知りたいと思っている。
これは、互いに相手を知るための会話のようなものだ。
組んでみて、治五郎はそれがわかった。
相性がいい。
自分の形には、どこも無理がない。
これは、相手の飯久保がこちらに合わせてくれているのだろうかと、治五郎は思った。
右。
左。
前。
後。
小さく、組んだまま、力のやりとりをする。
このまま、どういう技にも入れそうな気がする。
大きな動きはできない。
しかし、会話はできる。
会話のためには、充分な広さといえた。もしも、この広さ――あるいは狭さを無視した闘いにどちらかが入ろうとすれば、それはそれで、相手の器量が見てとれることになる。
治五郎は、半身になり、すっと飯久保の重心の下に入ろうとした。
と――
空気のように、飯久保の身体が動いて、治五郎は、一瞬、自分の身体が重力を失ったように感じた。
次の瞬間――
とん、
と治五郎は、背から畳の上に落とされていた。
無理に投げつけられたのではなかった。
何か見えないものに、自分がつまずいて、倒れそうになったところを、むしろ優しく抱えられて、静かに背から畳の上に下ろされたような感じであった。
腰車――
倒れている治五郎を、上から笑みを浮かべた飯久保が見下ろしていた。
治五郎は、その眼に、涙を浮かべていた。
これに、飯久保の方が驚いた。
「どうしたのかね」
膝を突いた。
治五郎を抱え起こした。
「どうしたのかね」
飯久保は、もう一度訊いた。
あ……
と、治五郎は、声を呑み込んだ。
自分の眼に溢れてくる涙に、治五郎も今、気づいたらしい。
「凄い……」
治五郎は言った。
「凄いです、飯久保先生……」
「何がだね」
優しい声で、飯久保は問うた。
「こんな風に、人を投げることができるのですか」
治五郎は、涙をぬぐった。
「ぼくにはわかります。ぼくは今、とてつもない体験をした……」
治五郎は、もどかしそうに言った。
治五郎は、感動していたのである。
しかし、その感動を、うまく言葉にできない。
治五郎には、わかっていることがあった。
足|捌《さば》きである。
飯久保が、足捌きのみで、自分の重心を畳の上から浮かせたのだ。
その浮いた身体を、飯久保が、その後静かに畳の上に下ろした……。
こんなことができるのか。
こういう境地が、柔術の闘いの中で起こりうるのか。
「いいや」
飯久保は、静かな声で首を左右に振った。
「凄いのは、わたしではない。きみだよ、嘉納くん……」
「いいえ」
「いや、わたしも、四〇年近くも柔術を学んできたが、実は、今のように人を投げたのは初めてなのだ」
飯久保は言った。
「相手が、きみだからだ」
「―――」
「相手が、きみだから、できたのだ」
「いいえ」
「きみは、まるで、宙に初めから浮いている羽毛のようだったよ。強引な力では、絶対に投げることはできぬだろうと、わたしは思った。わたしは、ただ、その羽毛が風に乗って動くのを邪魔せぬように、その力に合わせただけなのだ……」
言ってから、
「ああ……」
飯久保は、感に堪えぬような声をあげた。
「わたしは、今、自分ときみとの間に生じたものについて、どう言葉にしてよいのかわからないのだ……」
「飯久保先生……」
「嘉納くん。教えよう――いいや、わたしがきみに教わりたいくらいだ」
「とんでもないです」
「わたしは、師ではない。多少きみより歳をとっていて、多少、きみより先に柔術を始めたというだけの人間だ。嘉納くん、わたしは、とんでもない勘違いをしていた。もう、柔術は、この世に残らぬものと思っていた。柔術と共に、自分もやがて、この世から消えてゆく人間だと思っていた。しかし、それは、とんでもない思い違いだった」
飯久保は、治五郎の手を握った。
「わたしは、きみの仲間だよ。柔術という門に共に入り、共にそこで修行している仲間だよ。教える、教えないではない。一緒に修行する仲間として、共に稽古をしようということであれば、わたしは喜んでそうしようと思う」
こうして、治五郎は飯久保から起倒流を学ぶこととなったのであった。
(二十一)
その翌年――
明治十五年五月。
嘉納治五郎は、永昌寺に講道館を開設し、その流儀を後に柔道と名付けたのであった。
飯久保は、仕事の帰りに、週に三度か四度、講道館に指導に訪れ、自分の技術を治五郎の門下生たちに伝えたのである。
その中には、西郷四郎もいた。
この関係は、明治二十一年、飯久保が死ぬ直前まで続いた。
その死の間際に、飯久保は、起倒流の伝書の全てを治五郎に託している。
(二十二)
乱取の一紀元
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乱取の奥義
これからまた、講道館のことに転じて話を続けることにする。自分が道場を起こすときは、天神真楊流の師匠はすでに皆歿しておったが、起倒流の飯久保という先生はなお達者で、明治十八、九年頃まで、即ち自分が人を教えるようになってあとまでも、絶えず指導をしてくれた。自分が道場をおこした頃は、先生はもう五十歳以上であったが、なかなか強く、乱取ではまだ自分の及ぶ所ではなかった。そこで自分は、門人を教えながら、先生について形もならい、また乱取の指導も受けておった。ここに一つ、自分の乱取の進歩の上に一紀元を画したという事実があるから、この機会にこれを話しておこう。
多分明治十八年の頃とおもうが、或る日のこと、先生と乱取をしていると、自分の投げがよくきく。これまではこちらからなげることもあったが、ずいぶん先生からなげられたのに、その日はこれまでとちがい、不思議にも先生からは一本もとられず、しかも自分のかけるわざがまことによくきく。一体先生は起倒流であるから、投わざの名人であって、平素自分は、よく先生から投げられたのである。しかるに、その日は本当に珍しい結果を見たのである。先生がいかにも不思議に思われ、いろいろと考えておられた。これは全く、自分が相手の身体を崩すことを研究して自得した結果であったのだ。これまでも、なるほど崩しもした、また相手の動きを見ることに苦心もしたが、崩すということに特に集中して、まず崩してしかるのち、技をかけること、これを徹頭徹尾実行したのである。他日講道館において、六方の崩し、或いは八方の崩しということを教えたが、この研究からである。
その時の研究は、人の身体は、押すか引くかすれば必ず崩れるものであるということである。何心なく、ふと立っておるものは、その人が如何に体力のあるものでも、前から押せば後に傾き、またこれを引けば前に傾く、即ち崩れる。もし相手が体力があるもので、こちらの押すのを押しかえせば、後には崩れない。また、引くとき引き返せば、前には崩れない。しかし、いかに体力のあるものでも、自分に引こうとするときに、こちらから押せば、後に必ずよろける。こちらを先方が押すとき、こちらが引けば、前によろつくことは間違いのないことである。そこで原則は、引くか押すかを巧みにすれば、引く作用または押す作用によって、相手の安定を奪い、必ず動揺さすことが出来る。わざは相手の身体が安定をかきたるときにかかるものであるということである。
さきにのべた六方の崩しというのは、前に崩した後に崩し、左右の後隅と左右の前隅と、この六方に崩すので、八方はそれに左、右の二方が加わるのである。それで、崩すというときには、いずれ、向こうの姿勢なりまた力の入れ工合によって、八方のいずれかに崩れる。もちろん或る場合には、その中間に崩れるのであるが、大体六方、八方とわけたのである。もとより、崩すということはどの方向にも出来るはずであるが、原則としては、少しも力がはいってないときはいずれへでも、また力の入れてあるときはその力の入れてる方向へ崩すのである。その頃は、弟子中にも出来たものがおったから、これを相手として各種のわざの練習をしておったので、先生の崩れ方によって、これに応ずるわざをかけ得たのである。
免許皆伝
この相手の身体を崩して、わざをかけることについての話を、先生にしたところが、先生のいわれるには、いかにもその通りである。自分はこれから足下に教えるところはない。今後は若いものを相手に、ますます研究をつむがよい。向後自分との乱取は見合わせましょう。といわれて、これを限りに乱取りを止められたのである。しかし、そののちも形を練習してもらい、またいろいろの話を聞いて、得る処少なくなかった。このことがあってまもなく、先生から起倒流の免許状を与えられ、伝書も先生のもっておられたあらゆる物をことごとく授けられ、ここに免許皆伝をうけたのだ。
昔の話に、深山において仙人から教えをうけたとか、または天狗の直伝を得たとかいって、神秘の秘術を誇唱したものであるが、今ここに、かかる流説を批判するの必要はもとよりない。しかしながら、一道の理合《りあい》を悟得したるのちとその以前とを比較すれば、そこに著しき相違の生ずるものであることは、事実疑うべからざることである。昔からの柔術諸流に比べると、講道館道場は足を使うことに著しく秀でていることは、それらの諸流の柔術家からも認められている。また、腰をつかうことも同様である。これは要するに、相手の身体を崩すことをよく理解しておるというにほかならない。技は何技でも、相手のからだをよく崩してこそ始めてかかるのである。
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[#地から3字上げ]『嘉納治五郎――私の生涯と柔道』
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三章 四天王
(一)
志田四郎は、最初から講道館に入門したのではなく、もともとは天神真楊流の門下生であった。
これを、嘉納治五郎が、今日風に言うのならスカウトして、講道館の門下生としたのである。
治五郎が、初めて志田四郎を見たのは、明治十五年の五月、永昌寺に講道館を創設してからのことであると考えたい。これから紹介する幾つかのエピソードを考えた時、その方が話の筋がすっきりと通っているからである。
志田四郎が、佐藤与四郎と共に、郷里の会津津川を出、上京したのは、明治十五年(一八八二)のことである。
この時、まだ鉄道は敷設されておらず、徒歩であった。
津川から野沢、野沢から若松へ出、白河街道から白河に至り、大田原、宇都宮、古河《こが》、越谷《こしがや》へ至り、およそ一〇日をかけて八〇里(三百二十キロメートル)を歩き、入京したものと思われる。
牧野登の『史伝西郷四郎』によれば、陸軍士官学校への入学が、ふたりの上京の目的であったらしい。
先に上京して、すでに慶應義塾に学んでいる同郷の竹村庄八をたよった。
竹村は、志田四郎より、六歳年上であった。
この竹村が、日記を付けている。それによれば、志田四郎と佐藤与四郎が、竹村が住んでいた慶應義塾の寮を訪れたのは、三月二〇日となっている。
この時、東京は、すでに人口九〇万の大都市であった。
交通手段も、人力車から鉄道馬車へ移りつつある頃で、照明もガス燈からアーク燈へと代わりつつあった。西洋が、音をたてて東京へなだれ込んでいる時代であった。
その喧騒のただ中へ、志田四郎は飛び込んできたことになる。
四郎が上京したこの三月二十日に、上野に動物園が開園している。
志田四郎、十七歳。
上京したのが、三月二十日。
同じ年の五月に講道館創立。
四郎の講道館入門が、八月二十日。
四郎の上京から講道館入門までこの間、五カ月。
陸軍士官学校へ入学しようとしていた四郎が、いったいどのような経緯で講道館入門を果たしたのか。
竹村庄八の日記によれば、士官学校に入学したいというふたりを、彼は説破≠オたという。
[#ここから1字下げ]
佐藤志田の士官学校希望の主義を説破したりて夫れより佐藤を三菱の商業学校へ入らしめ志田は先づ漢籍并びに数学を修めて士官へ入るの準備を為して如何と二氏に問へしところ二氏も漸く余輩の説に従ふの色あり。
[#ここで字下げ終わり]
これが、三月二十四日である。
ふたりを前にして、
「そう熱くなるものではない」
そう言っている竹村の姿が眼に浮かぶ。
「気持ちは大事だが、気持ちだけで世の中を渡ってゆけるものではない」
竹村は、ふたりを説得して、ひとまず士官学校への入学を思いとどまらせている。
四郎に対しては、
漢籍并びに数学を修めて
と言っているところをみると、少なくとも四郎の学力がまだまだであったのであろう。
「『論語』くらいは読めるのか」
竹村は、そのように四郎に訊いたかもしれない。
簡単な、代数の問題でも出して、四郎の学力を試したろうか。
「読めません」
「わかりません」
四郎は、低い声で、ぼそりと答えたことであろう。
佐藤は、うなだれていたろうか。
少なくとも、四郎は、昂然と顔をあげ、炯々と光る眼で竹村を見つめていたはずだ。
後の四郎を考える時、他人よりも学力が劣っていたという節は見あたらない。
頭は悪くない。
自分がそれを知らないのは、ただ学んでいないからだ――そう思っている。
竹村の言葉を聴きながら、
そういうものか
とも思い、また、
そういうものであろう
とも思っている。
「志田君、ところで、君の身長はどのくらいあるのだね」
竹村は訊いた。
「五尺一寸」
四郎は答えた。
竹村は、四郎をしげしげと見つめながら、
「ぎりぎりだな」
そうつぶやいた。
「ぎりぎり?」
「士官学校へ入学するには、身長で五尺一寸以上と決まっている」
別に、竹村は嘘を言っているわけではない。
明治六年に、日本で初めて制定された一月一〇日付の徴兵令で、甲〜戊の区別なく、その身体検査基準は、身長五尺一寸以上となっている。
この基準は二年後に改正されたが、それでも歩兵五尺一寸、砲兵五尺四寸、他・五尺三寸五分である。士官の場合も、最低基準は五尺一寸であり、実際には五尺一寸に満たない身長であった四郎は、成績にかかわらず、士官にはなれないことになる。
この当時、士官学校の試験課目は、体、漢、数であった。
竹村が、四郎に、体をぬかして漢、数を学べと言ったのは、体力については、四郎に優れたものがあったのを認めていたからであろう。しかし漢、数を修め、いくら体力に優れたものがあったとしても、身長が基準に満たなければ、士官学校に入学することはできない。
一説によれば、この後、志田四郎は陸軍予備校の成城学校に入学し、講道館で修業するかたわら、明治十八年と十九年の二回、士官学校を受験したとも言われている。
しかし、明治十八年から十九年にかけては、古流柔術諸流と講道館柔道との闘いが最も激しくなってゆく時期であり、いくら四郎が天才であっても、受験勉強のかたわら、これら諸流の猛者との闘いに勝利することは難しい。
ちなみに、成城学校の開校は、明治十八年であり、これだと四郎の受験勉強期間には三年間の空白ができてしまう。さらに書いておけば、成城学校に保存されている、開校以来の生徒原簿のどこにも、志田四郎、そして保科四郎、西郷四郎(いずれも志田四郎の改名したもの)の名はない。
おそらく、四郎は、案外に淡々として士官学校入学をあきらめたのではないか。
もうひとつ書いておけば、四郎の目的は、会津を出ることにあったのであり、士官学校入学というのはそのための口実に近いものであったのではないか。
上京五カ月後に講道館入門。
それよりさらに前に、天神真楊流の井上敬太郎道場にいたことを考えあわせると、士官学校入学を四郎があきらめたのは、上京してすぐでなければならない。
「そうですか――」
志田四郎は、低い声でつぶやいた。
力なくでもなく、肩を落としたわけでもない。
ただ、事実そのままを受け入れたという口調であった。
「わかりました」
四郎は、竹村を見つめながら言った。
視線をそらさない。
「わかった?」
「あきらめます」
あっさりと四郎は言った。
竹村にとっては、あまりにもあっさりしすぎているように思える。しばらく前まで、士官学校に入りたいと熱く語っていた男が、ここまで簡単にあきらめられるものなのかどうか。
自分で言い出しておきながら、竹村は、一瞬、不安になった。
もしかしたら、自分は、この若者の夢を潰してしまったのではないか。
「しかし、あきらめるといったって――」
「身長が五尺一寸以上なければいけないのでしょう」
「それはそうだが」
「実は、自分は、五尺五分ほどしか身長がありません。受けても落ちるだけです」
一緒に会津を出てきた佐藤もこれにはびっくりしている。
「身長が足りないといっても、まだ、伸びるかもしれない。そんなに簡単にあきらめることはない」
佐藤が言った。
「この一年、五尺五分のままです。もう伸びるとは思えません」
「士官学校をあきらめてどうするのだ」
「これから考えます」
考えてみるなら、四郎の言うことは少しもおかしくない。
規定の身長に満たないから士官学校をあきらめる。
次のことは、これから考える。
思考の流れにはよどみがない。まともすぎるほどまともだ。
しかし、どこかが妙である。どこかおかしい。
「しかし……」
竹村は、四郎に何か言いかけて言葉につまった。
何をどう言っていいのかわからない。
表情のない、どちらかと言えば昏い双眸で、四郎はふたりを見つめている。
その時、竹村には、ようやく、自分が四郎に対して抱いている奇妙なものの正体に気がついた。
それは、感情であった。
四郎の言葉からも、態度からも、四郎の感情が見えてこないのである。
士官学校に入ることができなくてくやしい。くやしいがあきらめる。次のことは、まだわからない。不安である。ゆっくり考えさせて欲しい。
そのような、人間としてあたり前の感情が見えてこないのである。かといって、感情を隠そうとしている風にも見えなかった。隠しても感情は自然に言葉の端々や表情に出るものだ。
それが見えない。
よほど、自分の表情を隠すことに長けているのか、あるいは、これが志田四郎という人物の性《たち》なのか。
「どこかに、稽古ができるところはありますか」
ふいに、四郎は言った。
「稽古?」
竹村は訊いた。
「自分に今できるのはそれくらいですから」
四郎が答える。
「何の稽古なんだ」
「柔の――」
「やわら?」
「柔術です」
「志田くん、君は柔術をやるのか」
「稽古なら」
四郎は、短く言った。
「そうか、君もやるのか」
「竹村さんもやられるのですか」
「ああ、慶應義塾でね」
竹村は言った。
竹村は、その日記によれば、当時慶應義塾の拳法道場≠ノ通っている。
この拳法道場が、果たしてどのような流派のどういう術理を教えていたのかはわからない。
沖縄手――唐手のような打撃が主体のものなのか、あるいは、柔術の一流派であるのか。
ともあれ、その拳法の道場に、たとえば、柔術のある流派の門下生が通っていたとしてもどういう不思議もない。
たとえば、それが、天神真楊流井上敬太郎道場の門下生であってもいいし、天神真楊流は、打撃――当て身に優れた技術のある流派であるから、案外、井上敬太郎本人が、その拳法道場に教えに来ていたということもあったかもしれない。
しかし、慶應義塾内の拳法道場に、四郎を呼ぶわけにはいかない。
「ならば――」
ふいに竹村は膝を正し、
「天神真楊流はどうだろうか」
そう言った。
(二)
嘉納治五郎が、天神真楊流の井上敬太郎道場へ顔を出したのは、七月に入ってからであった。
井上の道場は、下谷同朋《したやどうぼう》町――現在の台東区上野三丁目にあった。
治五郎のいる永昌寺からは、歩いて行ける距離であった。
治五郎には、ひとつの目的があった。
ひとりの少年を見に来たのである。
三日ほど前に、永昌寺で会った少年である。
名前は、志田四郎――
その志田のことが、治五郎は気になっていたのである。
三日前――
学習院からの帰り、永昌寺の山門をくぐった治五郎は、本堂の横手にある大きな欅の樹の下にふたりの人影を見た。
男と女。
女の方は、誰だかわかっている。
湯浅八重――
旧会津藩士の妻で、五人の子供がいる。
夫を喪《な》くして、嘉納家に寄寓し、嘉納塾と講道館の世話をしている。塾生や道場生の食事や洗いものなども、この八重がやっているのである。
もうひとりは、少年であった。
五尺にわずか余るか余らないか。
背が低いわりには、身体つきがしっかりしている。
骨が硬く、太そうな骨柄である。
声をかけようとしたが、治五郎はそこに立ち止まって、見るともなくふたりを眺めた。
八重が、少年に声をかけると、少年は頭に手をやって、笑ったように見えた。
と――
少年が奇妙な動作をした。
履いていた下駄の鼻緒から指をはずして、浅く上に飛びあがったのである。
一尺も飛びあがってはいない。
あ、
と、思わず治五郎は声をかけそうになった。
その少年が、前のめりに倒れたように見えたからである。
しかし、そうではなかった。
少年は、頭を、腹に抱え込むようにして背を丸め、宙で一転して、飛びあがった下駄の上にまた両足を着いて、降り立ったのである。
膝を抱えて、しゃがむようなかたちではあったが、みごとに少年は下駄の上にまた着地して、そして、また立ちあがった。
八重が、声をあげて笑った。
そこで、初めて、治五郎は声をかけた。
「八重さん――」
治五郎は、ふたりがいる欅の木陰に向かってゆっくり歩き出した。
アブラゼミの声が、ふたりの頭上から無数の小石のように注いでいる。
「先生――」
八重は、笑顔を治五郎に向け、
「お帰りになったんですか」
横の少年に視線を向けた。
「志田四郎です」
少年が、短く自分の名を告げた。
それが、治五郎にはスナスロウデス≠ニ聴こえた。
「こちらが、さっき話をした、嘉納治五郎先生」
八重は言った。
治五郎は、
「嘉納です」
そう言って、浅く頭を下げ、また顔を上げて少年を見た。
さっき見た笑みが、少年の顔から消えていた。
別人のようになっていた。
昏い光を溜めた、鉄の棒のような視線が、治五郎を見ていた。
「会津にいるころ、お世話になっていた方の息子さんです。会津から上京してきたとかで、久しぶりにわたしを訪ねてきてくれたのです」
志田四郎が、会津にいた頃、子供の頃から母親がわりのように、四郎の面倒を見てくれた女性の名が、八重であった。
「ならば、ゆっくりしていくといい」
治五郎が言うと、
「帰ります」
少年が、低い声で言った。
少年は、治五郎に向かって、丁寧に頭を下げ、すうっと歩き出していた。
隙のない身ごなしであった。
歩き出す前に、数歩、流れるように後ろに退がり、治五郎から距離をとっている。
それから背をむけた。
治五郎に見えるのは、遠くなってゆく背中ばかりである。
「すみません。いつも、ああいう調子なんです」
八重は言った。
「今、妙なことをしていましたが……」
治五郎が言うと、
「ああ、あれを御覧になったのですか」
八重が笑った。
「あれ?」
「猫の三寸返りです」
「猫の三寸返り?」
「子供の頃から、やってたんです。まだできるのかと訊いたら、できるというので、ここでやってみせてくれと言ったら――」
「今、ここでやってみせたのですか」
「ええ」
八重が、うなずいてみせた。
そういうことが、三日前にあったのであった。
(三)
井上敬太郎の道場で、治五郎は、敬太郎と並んで壁際に座していた。
井上敬太郎は、治五郎の、磯道場時代の兄弟子にあたる。
その後に、起倒流を学ぶことにはなったが、天神真楊流をやめたわけではない。
現にまだ、この井上敬太郎の道場には、治五郎の名札が掛かっている。
治五郎は、まだ、道場にやってきた目的を敬太郎には告げていない。
あれから、妙にあの志田四郎という少年のことが、頭にひっかかって離れなかったのである。あの動き。
低い高さで、回転してみせた技。
それから、治五郎と相対した時の距離のとり方。
それはもう、まぎれもなく武道家のそれであった。
猫の三寸返り
八重は、四郎がやってみせたあの動きを、そう呼んだ。
詳しく訊いてみたら、四郎は、柔術を会津時代に学んでいたらしい。
「流派は?」
治五郎は、八重に訊いたが、
「さあ」
と、八重は首を傾けてみせた。
「誰に学んでいたかもわかりませんか」
その問いにも、八重はよくわからないと答えている。
もしかしたら、我流かもしれませんねと八重は言った。
三寸返り≠焉Aいつもただ独りで練習をしていたようですし。
最初は、高い所から飛ぶ。
飛んで地に降り立つ。
そのうちに、宙で一回転するようになる。
次に、もう少し低いところから同じことをする。
やっているうちに、どんどんそれが低くなって、ついには、下駄の上から転んでも、うまく立つようになったのだという。
転がるのは、何も前方にだけ回るわけではない。
横にも回るし、斜めにも回る。
回って、立つ。
どんなに低い場所で、背から落としても、猫は必ず背から落ちずにみごとに立つ。
それを見て、四郎が自分で工夫したのが、猫の三寸返り≠ナあるという。
「妙な方でしたねえ……」
昔をなつかしむような口調で、八重は言った。
その妙≠ニいうのが、治五郎にもわかっている。
本当に、不思議な男だった。
青木とも福島とも違う。
「何でも、今は、井上敬太郎先生の道場に通っているようですよ」
「天神真楊流の?」
「ええ、あの井上先生のところですよ」
八重は言った。
あの、妙な動きを見せた少年が、自分の知っている道場にいる――
それが気になって、治五郎は、今日、井上の道場まで足を運んできたのである。
「どうですか」
井上が、治五郎に訊いた。
今、道場内では、乱取りの最中であった。
井上の門下生たちが、組み合って、互いに投げあっている。
投げてふたりとも倒れれば、そのまま押さえ込みに入る。
肩や肘関節の逆を取り合うのはほんのかたちだけだ。
組み合う前に、軽く、当て身の形をとったりはするが、これは、拳や足が、相手の身体に触れる前に止めている。
そういう約束の乱取りである。
「あの男が、おもしろいですね」
治五郎は言った。
それは、背の高い男であった。
あの福島と同じくらいであろうか。
組むと、強引に腕力で相手を引きつけ、崩し、投げる。
腕力を使ってはいるけれども、無理に使っているようには見えない。それなりに、技を掛ける時の呼吸が合っている。
無駄が少ない。
「横山作次郎といいます」
井上敬太郎は言った。
「他には?」
井上敬太郎は、さらに治五郎に訊いた。
「他に?」
「志田四郎が気になっているのではありませんか」
敬太郎に言われる。
「わかりますか」
「もちろん」
「そうです。あの志田四郎を見てみたくて、今日はやってきたのです」
「何かありましたか」
「ええ、ちょっと――」
治五郎は、言葉を濁した。
もしかしたら、志田は、永昌寺に行ったことを、井上には言っていないかもしれないと思ったからである。
おそらく言ってはいまい。
もしも、井上がそれを知っているのなら、今日、井上の口からそれを言ってくるだろう。
場合によったら、志田から治五郎に挨拶をさせているかもしれない。
もしも、自分の門下生が、井上の道場に行くようなことがあれば、井上にきちんと挨拶をしてくるよう、自分なら門下生に言うであろうからである。
自分ならそうする。
井上でも同じであろう。
その挨拶がなかったということは、井上が知らなかったということであろう。
そうなら、今、ここでわざわざ言うことではない。
「何か?」
「後で、お話ししますよ。それよりも、あの志田はどうしてここへ?」
「いや、慶應義塾でも教えているんですがね、そこの生徒の竹村という人物が、柔術の稽古をしたがっている男がいるからと、しばらく前にここへ連れてきたのですよ」
「それが、志田四郎ですか」
「ええ」
治五郎は、あらためて、四郎を見た。
見ていると、確かに小兵であるが、さっきから一度も投げられてはいない。
相手が投げに来る前に、すうっと志田の重心が落ちて、投げられなくなってしまうのである。
どの場合も、相手が技を出すより速い。
相手が技を出す前に、もう、志田は逃げているのである。
ただでさえ、小さな志田が、さらに重心を下げると、これは案外に投げるのが容易ではない。
それを、相手が無理に投げようとすると、すうっと志田の身体が沈んで、相手の重心の下に自分の重心を入れ、相手を崩している。
そのまま、巻き込むように投げる時もあれば、腰で相手の身体を浮かせて、投げる時もある。
その動きに、誰かに習ったというよりは、天性のものがあるのである。
「井上先生――」
治五郎は言った。
「何でしょう」
「志田四郎君と、稽古をしてみたいのですが、よろしいですか」
「もちろん、かまいません。稽古衣は?」
「お借りできればありがたいのですが」
治五郎が言うと、
「おい、横山」
井上が、大兵の男に声をかけた。
乱取りをしていた横山が動くのをやめ、こちらを振り向いた。
「嘉納先生に合う稽古衣を持ってきてくれ。先生が、稽古をしてみたいそうだ」
横山は、武骨な眼を治五郎にいったんむけてから、
「はい」
うなずいて小走りに道場の隅に向かった。
「おい、志田」
さらに井上は、志田四郎に声をかけた。
「嘉納先生が、おまえに稽古をつけて下さるそうだ。相手をしなさい」
志田四郎は、表情のない眼で、治五郎を見ていた。
(四)
自然に、他の者たちは壁際に寄って、そこに座した。
道場の中央で、治五郎は志田四郎と向かいあった。
審判は、自然に井上敬太郎がやることになった。
当然のことながら、全員が、治五郎が何者であるかを承知している。
もともと、天神真楊流を学んでいた人物で、学士。
卒業と同時に、自流派を興し、講道館を開いた。
一流派の長である。
誰もが、柔道とはいかなるものかに、興味を抱いている。
嘉納治五郎の実力についても同様だ。
はたしてどこまでやれるのか。
その治五郎が、志田四郎と向きあっている。
当て身なし――
そう取り決めている。
ただ一度の勝負ではないから、どちらがどちらを投げたら闘いが終るというのではなかった。肘の逆を極めて、相手が参ったをしてからも、また、乱取りは続けられることになる。
「始め」
井上が合図をした。
その声がかかった途端に、四郎の双眸に変化が起こった。
表情が無いといえば無いのだが、その眸の奥に、何かが点ったのである。
これまで、治五郎が見ていた乱取りの最中の四郎の眼の中にはなかったものだ。
強い温度がある。
四郎の人格が、そのわずかの眼の変化で一変したように治五郎には思えた。
鬼がおりた――
そう言えばよいのだろうか。
やる眼だ。
治五郎はそう思った。
本気で、この男は、何かをしようとしている――
手を抜かない。
その眼がそう語っている。
こわい眼だった。
四郎の重心が、深く落ちている。
軽く顎を引いて、上眼づかいに治五郎を睨んでいる。
動かない。
いや、微かに足で呼吸を測っている。
治五郎も、そうしたいところだが、これは自ら望んだ勝負である。
稽古――
始めはほんの軽い気持ちであった。
この志田四郎という男が、どういう人物なのか、それを肌で知りたかっただけだ。
それで、自然に井上に声をかけた。
だが、四郎と向き合った途端に、その軽い気持ちは消し飛んでいた。
本気。
志田四郎の眼と肉体に満ちているのは、それであった。
本気でやる。
わざわざことわるまでもない、あたり前のことのように、本気であるという火が、志田四郎の眼に点っている。
治五郎には、後悔もとまどいもない。
治五郎も、本気であった。
「わたしから行くよ」
治五郎は、小さくつぶやき、
つ、
つ、
つ、
と前に出た。
志田四郎は、退がらなかった。
自ら、つうっと前に出て、治五郎をむかえた。
組んだ。
重い。
治五郎が、まず感じたのは、四郎のとてつもない重さであった。
大きな岩のようだ。
どういう力を加えても動きそうにない、不動の岩。
しかし――
その岩が、ふいに動いた。
重いまま動いた。
それを、術理でどうしようこうしようという発想が、治五郎には浮かばなかった。
真っ直ぐに押してくる力を、どうするもこうするもない。
身体を横にひき、半身になってその力をやりすごそうとした。
しかし、やりすごせなかった。
治五郎が動くのと同じ方向に、四郎の真っ直ぐな力が押してくるのである。
治五郎は、左に動くと見せ、右に動きながら、押してくる四郎の身体を軽くひいた。
押してくる相手なら、前へつんのめるか、そこで足を踏んばって耐えようとするか、そういう呼吸を測ってひいた。
しかし、四郎は動かない。
いや、動いては来るのだ。
しかし、治五郎が、力を加えたからといって、その四郎の動く速度が変化しないのである。
同じ力、同じ速度が、治五郎を押してくるのである。
いきなり――
まさにいきなりであった。
押してくる速度を残したまま、四郎の身体が、ふいに下に沈んだのである。
おそろしいまでの速さであった。
四郎の身体が、治五郎の重心の下に入り込んでいた。
鬼神のごとき動きだ。
なんという動きをするのか。
これまで、こんなに速い動きを見せてはいなかったはずだ。
治五郎は、踏んばらなかった。
かといって、力にまかせて投げられるわけでもなかった。
自身の力を抜いて、人形のように、脱力して四郎の身体の上にかぶさったのだ。
投げられない。
治五郎は、四郎の身体に密着した、人間の身体をした粘土であった。
投げられないと見るや、すぐ四郎は、治五郎の足に自分の足をからめてきた。
治五郎の足を刈ろうというのである。
「シッ!」
強い四郎の呼気が、道場の空気を裂いていた。
(五)
自分が密着している四郎の肉の中で、妙な動きが始まる気配があった。
人の肉が、ある動作を始める寸前の、準備のための動き。いや、まだ、肉は動いてはいないのだ。気配のみの動きとは言えない動き。
時間にしたら、一秒の百分の一にも満たないわずかな時間。
こわい風が、一瞬、治五郎の肉体を吹き抜けていったようであった。
来る。
治五郎は、それを直感した。
何だかはわからない。
しかし、それが自分を襲ってくる。
それだけは間違いがない。
恐怖。
「む」
四郎の技が始まる寸前――治五郎は、四郎がからめてきた足を、逆に刈り返していた。
そのまま、自分の体重を浴びせて四郎の身体を倒し、その上に被さろうとした。
四郎が、こらえた。
それを、治五郎は待っていた。
機会《チャンス》だ。
治五郎は、身を沈めながら、半身になった。腰を入れ、四郎の身体を上に跳ねあげ、襟を掴んで投げた。
決まった!?
そう思った時、信じられないことが起こっていた。
四郎の身体が、くるりと宙で一転したのである。
治五郎が投げたその力を利用して、四郎の身体は回転し、両足で畳の上に降り立っていたのである。
猫の三寸返り
その言葉が、治五郎の耳の奥に響いた。
背から、畳の上に落ちるはずであった肉体が、治五郎の眼の前に立っていた。
しかも、ただ投げられて立つだけなら、背をこちらに向けることになるのだが、四郎は、正面を治五郎に向けていたのである。
治五郎が握ったままであったため、四郎の稽古衣の襟がねじれている。
襟に指を巻き込んでいたら、その指が折れていたかもしれなかった。
四郎は、一瞬も動きを止めなかった。
立った時には、もう、
とん、
と治五郎の懐に入り込んでいた。
疾《はや》い。
空気のような治五郎の動きに比べれば、荒い。荒いが、しかし、疾い。天性の動きである。
しかし、治五郎とて、並の使い手ではない。
すうっ、と大気の流れるごとくに横へ動き、治五郎は自分の懐から四郎の身体を外へはずしていた。
もし、四郎がさらに追ってきて投げに来るのなら、場合によっては、投げられながら寝技に持ち込むつもりでいた。
しかし、四郎は追っては来なかった。
動きを止めたのである。
ここで、さらに治五郎が外へ逃げたのでは、自然に四郎の身体を引いてしまうことになる。引く――つまり、四郎の身体に力を加えることになる。それは、それまで大気のような存在であった治五郎が、その瞬間に、重さを持った生身の身体として、そこに実体化してしまうことになる。
自然に、治五郎も動きを止めていた。
止めたその瞬間に、
とん、
とまた四郎が懐に飛び込んでくる。
それをまた、外にはずす。
おもしろい――
治五郎は思った。
この男、おもしろい。
小兵。
短躯。
毬のような肉体。
それが、一瞬も休まずに動き続ける。
しかし、
天神真楊流ではないな――
治五郎は、そうも思った。
柔術を始めて、三カ月というのも嘘であろう。
いくら天性のものがあるとはいえ、たった三カ月の修業で、ここまでの器量が身につくものか。
井上道場に顔を出す前に、どこかで、武芸を学んでいるに違いなかった。
間のとり方、距離のとり方に、独特の妙がある。ひとつの距離、ひとつの間に自分の身を置かない。ある間から別の間へ、ひとつの距離から別の距離へ、常に身体が移動している。
得物を手に持って試合うやり方で、ある期間修業した者でなければ、こういう動きはできない。
棒か。
剣か。
槍か。
いずれにしろ、それは、天神真楊流ではない。
治五郎は、そう見た。
しかも、この男は、それを隠している。
自分の流儀を使わぬようにしている――治五郎にはそう思えた。
「隠す必要はない」
治五郎は、組みながら四郎に言った。
「君の流儀で来なさい」
四郎にだけ届く声であった。
その声が、四郎に聴こえたのかどうか。聴こえたはずであったが、四郎の表情に、変化はない。本気の眸。
四郎の視線からうかがえるのは、それだけだ。
そのふたりの勝負を、怖い目で眺めている男がいた。
その男は、壁際に座し、ほとんど瞬きしない眸で、睨むようにふたりを眺めていた。
あの男がおもしろいですね
治五郎が、しばらく前に、稽古を見て、井上敬太郎にそう言った男であった。
丈五尺六寸二分。
二十三貫。
横山作次郎であった。
この明治期の日本人の基準から考えると、巨躯の持ち主といっていい。
あからさまな不満を、口の中で噛むようにして、横山はふたりを見つめている。
「ぬるい」
横山は、声をかけた。
「志田、当ててゆけ」
その声が、治五郎の耳にも届いた。
次いで、
「横山、口を慎みなさい」
井上敬太郎の声が聴こえてくる。
しかし、治五郎に、そちらに注意を向けている余裕はない。
四郎が、常に動いているからである。
当て身――
拳で、あるいは肘で、相手の顔や身体を突く。
蹴足《けぞく》――足で相手を蹴る技もある。
基本的には、投げに至るための、崩しの技だが、当て方、当てる場所によってはただひと打ちで、相手に致命傷を負わせることもできる技だ。天神真楊流には、この当て身技の技法が多くある。
治五郎も、この天神真楊流を十八歳の時から学んでおり、その技法も、危険さもよく理解している。
しかし、同門同士でやるこのような試し合いでは、当て身は自然に禁止されている。暗黙の了解であった。だから、わざわざ闘いの前に、当て身を禁止しようという話し合いもしないし、蹴足をやめようという申し入れもしない。
それで始められた稽古――勝負であった。
そこへ、横山が、当て身を使えと声をかけてきたのである。
本気なのか、それとも、単に治五郎に動揺を与えるための言葉なのか。
ぬるい
と言ったのは、横山もまた、この志田四郎が、何かを隠していることを知っているのか。
もとより、志田四郎が、本気なのは治五郎はわかっている。
しかし、本気ではあるが、四郎も治五郎も当て身は使わない。当て身を使わないという暗黙の約束の中での本気である。そういう意味で、四郎は、本気であるにもかかわらず、まだ、何か使わぬ武器を隠し持っているように治五郎には思えたのである。
それは、実際に、この志田四郎という男と組んでみなければわからない勝負の機微である。
たとえ、闘ったとて、この志田四郎の実力をきっちり受け止めることができるだけの器量の持ち主でなければ、わからぬ部分であった。
その機微が、横山には見えているらしい。
おそらく、横山自身も、四郎と何度か稽古をして、それがわかっているのであろう。
その歯痒さが、今の言葉を言わせたのだろう。
今、この道場で、それがわかっているものが、何人いるか。
道場主である井上敬太郎は、むろん、わかっているであろう。
あとは、横山作次郎と、そして自分くらいではないかと治五郎は思った。
そういう思考が、わずかに治五郎の脳裏に動いた。
記せば長いが、計測すれば、一秒にも満たない短い時間であった。
その瞬間――
四郎の身体が沈んでいた。
懐に飛び込んでは来なかった。
沈みながら、治五郎の下に、毬のような四郎の身体が潜り込んできたのである。
来る!?
あの、恐怖にも似た予感が、風のように、治五郎の背から天に向かって吹きぬけた。
次の瞬間、治五郎の身体の下で、四郎の身体が膨れあがった。
まるで、四郎の肉体が爆発したように治五郎には思われた。
その爆風を、空気のようにかわそうとした時――
治五郎は、右脚に異様な感覚を味わっていた。
自分の右脚の脛を、何者かがいきなり掴んできたのである。おそろしい力に、脛が鷲掴みにされ、上方へ向かって、おもいきり持ちあげられたのである。
何だ!?
手か。
誰かが、手で、自分の脛を掴んだのか。
それとも、獣が、脛に噛みついてきたのか。
上に跳ねあげられたのは、下半身だけであった。
頭は、下を向いていた。
もう、毬のような四郎の回転に、頭から巻き込まれている。
何という強烈な技か。
かわせなかった。
この回転に呑み込まれるしかない。
治五郎にできたのは、どういうあらがいもせずに、その流れに自ら身を躍らせることであった。
その時、誰もが、音をたてて頭から畳に叩きつけられる治五郎の姿を想像したに違いない。
だが――。
音は、しなかった。
したのは、叩きつけられる音ではなく、触れる音であった。治五郎の稽古衣が、畳に触れる音だ。
背を丸め、四郎の回転に合わせて、治五郎もまた回転していたのである。治五郎が先に畳の上で回転し、その上からふたつ巴となって四郎の身体が回転してゆく。ふたりの身体がひとつの球となった。
回転は、止まらない。
一転。
二転。
治五郎と四郎、どちらの肉体がどちらの肉体を追っているのかわからない。
三転して、その回転が止まっていた。
治五郎が下で、四郎が上。
治五郎は畳を背にしていた。
しかし、攻撃しているのは四郎ではなかった。攻撃しているのは治五郎であった。
畳の上に仰向けになった治五郎の上に、やはり仰向けに四郎が重なっている。その四郎の背後――下から四郎の首に治五郎が右手を回わして、四郎の襟を握っていた。四郎の片腕が、頭の方に伸ばされていた。
片羽締め――
頸動脈を締める技である。
顔を赤くして、四郎はその締め技に耐えていた。からみついてくる治五郎の腕や手を、残った一本の手ではずそうとする。しかし、それがはずれない。
「ぐむ」
四郎が喉を鳴らした。
もがく。
しかし、はずれない。
もがく――
しかし、はずれない。
「ぐっ」
四郎の額に、太く血管が浮きあがる。
喰い縛った歯が覗く。
四郎が、身を起こそうとする。
四郎の身体がぶるぶると震えている。
上体を起こした。
四郎の身体の震えは、もう、痙攣に近い。
四郎が、膝を突き、片膝を立て――
信じられないことが起こっていた。
ついに、四郎は、治五郎を背負うかたちで畳の上に、二本の足で立ちあがっていたのである。四郎の身体の痙攣が止んでいた。
「それまで!」
井上敬太郎の声があがった。
治五郎が、片羽絞めを解くと、畳の上に四郎の身体が崩れていた。
四郎は、立ったまま落ちていたのである。
「みごとな勝負でした」
井上敬太郎が言った。
「楽しみなお弟子をお持ちですね」
治五郎は言った。
それを、憮然とした表情で、横山作次郎が眺めていた。
(六)
奥の四畳半で、治五郎は、井上敬太郎と対座していた。
座布団の上に正座をしているのだが、ふたりとも、背筋がすっきりと伸びている。
ふたりの前に、まだ湯気のあがっている湯呑み茶碗が置かれていた。
すぐ向こうでは、また稽古が始められたのだろう、畳を踏む音や、人の肉が畳を打つ音が、ふたりのいる四畳半まで届いてくる。
「妙な男ですね、彼は――」
治五郎が、つぶやくように言った。
彼というのは、志田四郎のことである。
「ええ、妙でしょう」
井上敬太郎が、嬉しそうにつぶやいた。
「さっきも言いましたが、将来が楽しみです」
「入門して、まだ三月ほどですが、なかなか、あそこまではできません」
「確か、会津の出でしたね」
「よく御存知ですね」
「講道館の賄いをやってもらっている、会津から来た八重という方がいるのですが、この八重が志田四郎を知っているのです」
治五郎は、しばらく前に見たことについて、井上に語った。
「ほう、猫の三寸返りですか」
井上は、興味深そうな声で言った。
「御存知でしたか」
「いえ、知りませんでした」
「しかし、どうして、志田は東京へ出てきたのでしょう」
「士官学校に入って、陸軍大将になりたかったのだと、本人は言ってましたが」
「本人?」
「志田四郎です」
「陸軍大将ですか」
「それが、駄目だったそうです」
「何故ですか」
「あそこは、身長に制限があるのです。四郎の身長では、入学できません」
「そうでしたか」
「それで、ここへ」
「入門前は、どこかの流派で学んでいたのですか」
「やはり、気になりましたか」
「ええ」
「わたしも気になりました」
「いきなり、柔術を始めて三カ月で、ああはなれるものではありません」
「それについては、わたしも志田に訊ねたことがあります」
「ほう」
「入門して、一〇日くらい経ってからでしょうか――」
その時のことを、井上は語り出した。
入門時に、柔術を学ぶのは初めてかどうか、そのくらいのことは訊ねる。
別に試験ではない。答によって、入門できたりできなかったりするわけではない。誰に対してもする問いである。
志田四郎にも問うた。
「いいえ」
四郎は短く答えた。
「柔術を学ぶのは初めてです」
最初は、それだけであった。
初めてと言われれば、本当にそうかとは問わない。
そうか、初めてかと、そう思うだけだ。
しかし、道場で稽古をするようになって、半月もしないうちに、四郎が並ではない器量の持ち主であることが、井上にはわかった。
乱取りをやっても、めったに投げられることがない。投げられても、すぐに畳の上に立ってしまう。
勘がいい。
教えたことを、すぐに覚え込む。
頭でわかるというよりは、身体で理解してしまう。
投げるという動作の中には、実に複雑な両者の身体の動きがある。力の入れかた、抜きかた、止めかた、はずしかた、間――そこには精妙な力学とそれを具現化する動く肉体がある。
単に眼に見えるかたちだけのものではない。
勝負――技の掛け合い、投げるという動きの重要な部分は、実はかたちとして眼には見えていないのだ。
相手の左袖を引きながら、右の襟を掴んだ手は逆に押す――それも、ただ押すだけではなく、上方、下方、右、左、その時その時に出す技のタイミング、間によって、全て違ってくる。同じ力の入れ方をしても、間が悪ければどうしようもない。
これは、実際に組み、投げたり投げられたりを何度も繰り返すことで学んでゆく以外にない。
それを、四郎は、一度か二度、教えるだけで、基本的なところを理解してしまう。だからその覚えたことを応用することもできる。
天性の勘があった。
しかし、それにしても、覚えが早すぎた。
技によっては、始め、まごつくこともあったが、初めから、その技を知っていたとしか思えないような動きもする。
一カ月もしないうちに、道場で、四郎の相手をまともにできるのは、井上と、それから横山作次郎、あとはひとりかふたりくらいになってしまった。
さすがに、初めてとは思えず、ある時、
「おい、志田――」
井上は、四郎に訊いた。
「きみは、この道場に来る前、何か柔術を学んでいたのではないか――」
「―――」
四郎は、沈黙した。
やはり――
とそう思って、
「何流を学んでいたのかね」
そう問うた。
「我流です」
四郎は、短く棒を突き出すような言い方をした。
「我流で、どの流派を学んだのだ」
「我流です。流派名はありません」
四郎は、そう答えた。
「そうか」
井上も、それ以上を四郎には問わなかった。
四郎が、過去に何流を学んでいようと、それはそれでかまわないことであった。
その流派を言いたくなければ、それもかまわない。もし、過去に何か学んでいる流派があり、それを口にするのを四郎がいやがっているのなら、無理に訊くことでもない。
「で、それきり、そのままです」
井上は言った。
「そうでしたか」
治五郎は、話を聞き終えてうなずいた。
「しかし、志田が笑いましたか」
「笑った?」
「嘉納さんのところの賄いの、八重さんと言いましたか」
「はい」
「その八重さんの前で、志田が笑っていたと言ってました」
「ええ、言いました」
「ほとんど毎日、志田は稽古に出てきますが、わたしはまだ一度も、志田が笑うのを見たことがありません」
「一度も?」
「ええ」
井上は、うなずいた。
「しかし、志田ですが、本当のところはどうなんでしょう」
「以前に、何か学んでいたかどうかということですか」
「ええ」
「嘉納さんはどうなんですか」
「やっていたのではないかと思います」
「わたしもそう思います。しかし――」
「しかし?」
「どういう流派の何を学んでいたかの、見当がつきません」
「間の取り方に、何か、妙なものがありませんか」
「そうですね。あれは、何か、武器を持った時の間合に似ています。剣か、棒か――」
井上は、治五郎が考えていたのと同じことを言った。
「案外、志田は、自分の身体そのものを武器と考えているのかもしれません」
治五郎は言った。
「なるほど、そういう見方もありますか」
井上が答えた時、治五郎は、あらためて膝を正し、背筋を伸ばした。
「井上先生――」
治五郎は言った。
治五郎の眼が、正面から井上を見た。
「何でしょう」
言ってから、井上は、頭を掻き、
「こわいなあ。嘉納さんが、そういう眼つきをする時は――」
そう言った。
「こういう眼つきですか」
「はい」
「こわい?」
「頼みごとをされたら、断われなくなる」
言われて、治五郎は、口をつぐんだ。
しかし、眼はそらせない。
治五郎の眼が、まっすぐに井上の眼を見つめている。
「志田四郎が、欲しいんでしょう」
「わかりますか」
「わかります」
うなずいた井上に、
「お願いがあります」
治五郎は、畳に両手を突いた。
「志田四郎を、うちで預からせていただけませんか」
治五郎は、頭を下げた。
「うちで、というのは講道館で――ということですね」
「はい」
治五郎は、顔をあげた。
「嘉納流柔術――柔道ですか」
「そう名づけました」
「お弟子は、まだ、おひとり?」
「ええ。前からうちにいた山田常次郎という男です」
「そうでしたね」
「お願いできますか」
「志田四郎のことですか」
「はい」
「それなら、先ほど返事をいたしました」
「え」
「断われないと言ったでしょう」
井上は、笑みを浮かべながら言った。
「あなたが、いずれ、一流を興す人物であるということは、わたしもそう思っていたし、以前より福田先生からも耳にしていました。新しい流儀には、若い新しい人材が必要です。志田のような男は、あなたのところこそが、ふさわしいのかもしれません。わたしのところでは、志田の才能を、いずれ、もてあますことになるかもしれません」
「井上先生――」
治五郎は、井上を正面から見ている。
治五郎は、感動していた。
腹の底からの感動である。
優れた人材を、こうもあっさり譲ることのできる器量が、この自分にあるであろうか。
自分の器量は、それほど大きくない。
自分が井上の立場であったら、断わっていたろうと思う。
断わられて当然と思いながら、失礼を顧みず口にした言葉であった。
掛け引きはない。
井上も、志田四郎の特異な才には気づいている。
できることなら、自分の手で、その才を育ててみたかったことであろう。そう思っていたはずだ。
しかし、治五郎に頼まれた。
頼まれたとて、治五郎に、どういう借りがあるわけでもない。天神真楊流についてなら、治五郎より早くその門に入っている。
断わりたければ、断わることもできる。
それを、笑って承知してくれたのだ。
その笑みが治五郎には、痛かった。
思わず、治五郎は、涙をこぼしそうになった。
その涙を、治五郎はこらえた。
「ありがとうございます」
素直な気持を素直に告げた。
「しかし、問題は、志田の気持です」
井上は、真顔になって、治五郎に言った。
「ええ」
「では、本人に訊いてみましょう」
井上は、立ちあがった。
障子を開けて出てゆき、すぐにもどってきた。
再び治五郎の前に座してから、
「すぐに、志田が来ます」
井上は言った。
ほどなく、人の気配があって、
「志田です」
障子の向こうから、声がかかった。
「入りなさい」
井上が言うと、障子が開いた。
廊下に正座している、稽古衣を身につけた志田四郎の姿があった。
「失礼します」
頭を下げて、部屋の中に入り、また座して障子を閉め、あらためてふたりに向きなおった。
閉めたばかりの障子をすぐ背にして、志田はそこに正座をした。
無言で、志田は、師の言葉を待った。
丸い身体。
毬身。
岩のように、志田は黙している。
「志田」
井上は言った。
「講道館へゆく気はないか」
井上は、志田四郎を見つめている。
志田は、黙したまま、井上の視線を受けている。
「嘉納さんが、おまえを預からせてくれないかと言っているのだ」
志田の視線が動いた。
治五郎を見た。
その視線が、井上にもどる。
志田四郎の返事は短かった。
「行きます」
四郎は言った。
これには、井上も多少驚いた。
理由も訊ねない。
よいのですかと、井上の顔色もうかがわない。
行くか、と問われて、行く、と答えただけである。
治五郎が、四郎に声をかけるより先に、四郎の視線が再び治五郎に向けられた。
「ひと月ほど、待っていただけますか」
来てくれるのは嬉しいが――
思わず治五郎は、そう口にしそうになった。
ひと月というのはどういうことかね
好奇心である。
何故ひと月なのか。
道場をかわるのに、色々と準備があるのか。あるのだとして、何故、一カ月なのか。
普通は、こういう時に、
色々と都合をつけることがありますので
そのような前置きをする。
そういう前置きなしに、結論だけを四郎は口にする。
「いつでもいい。その気になったら、講道館へ顔を出しなさい」
治五郎が言うと、
「ひと月で行きます」
そう、志田四郎は答えていた。
(七)
スナスロウ≠ェ、永昌寺にある講道館を訪ねてきたのは、ちょうど一カ月後の明治十五年八月八日であった。
すでに書いたが、これを、出むかえたのが、山田常次郎である。
山田常次郎が、入門者のひとり目。
志田四郎は、ふたり目の入門者であった。
何故、ひと月であったのか。
四郎が正式に入門してから、治五郎は井上敬太郎の道場まで、挨拶に行っている。
その時、笑みと溜め息と共に、井上は治五郎に言った。
「ひと月の意味がわかりましたよ」
「意味?」
治五郎は訊いた。
「志田のやつ、このひと月で、これまで勝てなかった者全員を、投げてゆきました」
「投げて?」
「横山作次郎も、投げられました。横山は、勝ち逃げだと言って、怒っていましたよ」
「すると、先生も?」
「ええ、最後に、このわたしも投げられました」
井上は、笑いながらそう言った。
「嘉納さん。志田をよろしくお願いします」
井上は、深々と治五郎に向かって頭を下げた。
(八)
講道館草創期――
講道館四天王と呼ばれた男たちがいた。
講道館柔道が世に出てゆく時、柔術諸流派の猛者たちと、生命がけの死闘を繰り広げた男たちである。
順にその名と入門年を挙げてゆくと――
山田常次郎、明治十五年五月入門。
志田四郎、明治十五年八月入門。
山下義韶、明治十七年八月入門。
横山作次郎、明治十九年四月入門。
このようになっている。
横山作次郎について言えば、後年本人の記すところによると明治十八年入門(『日本武術名家伝』)となっているが、講道館の入門者名簿(『世界柔道史』恒友社)に明治十九年の入門となっているため、ここではこれを横山の入門年とした。
生まれた順で言えば――
横山作次郎、元治元年(一八六四)生。
山下義韶、慶応元年(一八六五)生。
山田常次郎、慶応元年(一八六五)生。
志田四郎、慶応二年(一八六六)生。
一番年長の横山からこのような順で並ぶことになる。
これを、身体の大きさ――体重はその都度変化があることを考えて、身長の順で並べると次のようになる。
横山作次郎、五尺六寸二分(一七〇センチ)。
山下義韶、五尺三寸五分(一六二センチ)。
山田常次郎、五尺三寸(一六〇センチ)。
志田四郎、五尺五分(一五三センチ)。
ここまでは、客観的な数字の順序であるが、では、この四人を強さの順に並べたらどうなるかという興味が次には湧いてくる。
四天王の中で、誰が一番強かったのであろうか。
それぞれの年齢や、全盛期をどこにおくかで様々な答がそこに用意されることになろう。いずれにしても、上位に来るのは、志田四郎と横山作次郎になるであろうか。
同門故、生死を分けるがごとき試合はなかったろうが、逆に同門故に、乱取りなどの稽古の最中に、手合わせはしているはずである。
互いに組み合い、時には思わず本気になることもあったろうか。あるいは、本気は出さないが、相手の器量を、その場で推し量ることはあったろう。
しかし、この四人のうちの誰かが誰かと闘ったという正式な記録は、どこにも残されていない。関係者の談話、あるいは当人の発言というかたちでさえ、あったはずの四人の闘いの記録はないのである。
たとえ稽古というかたちにしろ、この四人は、互いに組むのを避けていたのだろうか。
だが、何らかのかたちで、この四人の男たちが組むことは、一度ならずあったはずである。
組めば、相手の器量はわかる。
その時――
「こいつにはかなわない」
そう思ったか。
あるいは、
「おれの方が上だ」
そう心の中でつぶやいたか。
いずれにしろ、この四人は、誰もが個性的だ。
治五郎の最初の弟子である山田常次郎は、四人の中では一番インテリである。知と武をひとつの肉体の中で両立させたという点では、最も治五郎的武道家と言っていい。
志田四郎は、四人の中では一番身長が低い。天性の才――天才の量を比べ合ったら、四人の中でも随一であった。一種の異様人であった。
異様人ということでは、横山作次郎も負けてはいない。身長一七〇センチ。今日ではむしろ背が低いと言ってもいい身長であるが、男子の平均身長が、一五八センチの当時としては、大兵と言っていい。性格は豪放。その試合ぶりもまた、力に満ちたものであった。
山下義韶は、人柄温厚。人当りがよく、しかも、努力の人であった。才はむろん人並み以上にあったが、この人物は才よりは日々の弛まぬ鍛錬によって、その肉体を常に強さの高みへと押し上げていった。年一万本の稽古を己に課し、九千六百十七本まで達成した話は有名である。後年、柔道普及のためアメリカに渡り、ルーズベルト大統領とも親交を持ったのも、この男ならではのことであった。
(九)
すでに志田四郎と山田常次郎のことについては書いている。
ここではまず、横山作次郎のことから語りたい。
ひと呼んで鬼横山。
もちろんこれは、鬼のように強かったから付いた呼び名であるが、柔道の歴史上、鬼の異名をとったのは、三人しかいない。
戦前で、横山作次郎、徳三寳。
戦後で、木村政彦。
横山作次郎は、初代の鬼ということになる。
元治元年、武蔵多摩郡|野方《のがた》村――現在で言えば練馬区の農家の次男坊として生まれた。
性格は剛毅。
子供の頃から、その膂力《りょりょく》は並はずれて強かった。
そのことを示す、強烈なエピソードが残っている。
作次郎が十三歳のおり、家に日本刀を持った強盗が押し入った。これに気づいた作次郎は、逃げもせず、家にあった日本刀を持ち出して、障子越しに切りつけた。
ただ一閃。
このひと太刀によって、強盗の胴は障子ごと両断された。強盗は、瞬時に絶命。皮一枚とわずかな肉で、強盗の胴はかろうじて繋がっていたという。
大人の胴を、十三歳の少年が、骨ごと断ち切っていたことになる。
どれほど修業を積んでいたとしても、実戦のおりに、ここまでのことをやってのけることができる人間は、大人でもそうはいない。
異様な胆力の持ち主であったといっていい。
このエピソードの後、東都に出て三島塾、速成学館に通学。
その傍ら、起倒流、天神真楊流を学んだ。
この時、作次郎が入門した天神真楊流の道場が、井上敬太郎道場であった。
この時、作次郎十六歳。
資料により、まちまちだが、治五郎より、三歳から四歳年下ということになる。
作次郎が井上道場に入門した二年後に、志田四郎が入門してくることになる。天神真楊流については、作次郎の方が、四郎より二年先輩ということになる。
しかし、志田四郎は、井上道場に入門したのと同じ年――明治一五年に、治五郎に見出され、講道館に入門している。
作次郎の講道館入門は、それから四年後の明治十九年である。年下で、かつての後輩が、自分より先輩として講道館にいる。これは、横山作次郎のような人間にとって、かなりやり難いことであったろう。
入門前後の事情から考えて、四郎同様、治五郎が対柔術諸流派用の人材として、井上道場から作次郎を譲り受けたと考えるのが妥当であろう。
その辺りの話と、柔道史上に名高い、鬼横山対|良移心当流鍾馗《りょういしんとうりゅうしょうき》の半助との死闘については、いずれ別の章で改めて語りたい。
横山の、講道館時代の「辻投げ」のエピソードは知られているが、次に紹介するのは、天神真楊流井上敬太郎道場に居た頃の話で、本人自身が語っているものだ。
[#ここから1字下げ]
私の若い時分、東京は今日の有様とは全く違ったものでした。古くから住んでいる人でしたら、帝国大学(現在の東京大学)の丁度後の根津に官許地域(遊廓)のあったことを覚えているでしょう。この一画の後に不忍の池、これは上野公園の下にありますが、これに沿って道がある。この両側が竹藪で、夜ともなると、それは何とも言えず淋しい場所でした。
そして、かの官許地域というのは当時、遊び人や無頼漢どもが横行しており、これはと思う善良な通行人を見つけると何のかのと因縁をつけてはおどし、金品を捲き上げるということがありました。ところで、私が修行していた柔術道場(天神真楊流・井上敬太郎)は根津からそう遠くないところ(湯島同朋町)にありまして、私達門弟は、かの悪者共を自分達の腕を試す恰好の材料とすることを思い立ちました。というわけで、私達は大抵月のない夜を選んでは、問題の道路によく出かけ、竹藪の中に身をひそめていました。そして、連中の一行がやって来ると、私達の仲間の一人がいきなり前に飛び出して道を塞ぎます。当然、そこで喧嘩が起こります。もちろん、私達には連中にそれほど手ひどい傷をあたえるつもりはありません。私達としては、ただ連中を少しばかり驚かせてやり、またその悪行を懲らしめるのに相応しいだけの身体的苦痛を与えてやろうということだけです。
そのようなわけで、私達は皆で約束し、連中の生死に関わる急所は撃たないこと、ただこの喧嘩好きの不良共の下顎を一時的に外してしまうことだけを心がけることとしました。この業というのは、顔面のある部位を開いた掌面で激しく一撃するだけで出来るという簡単なものです。両者しばしば言い合って後、殴り合いとなるや、私達はこの必要な一撃を相手にあたえ――この一撃で十中八九、私達の対戦相手は戦闘能力の喪失というわけです――瞬時にこの対戦を終わらせたものです。私達柔術の修行生にとって、かの下顎を外された我が犠牲者達が、何か叫ぼうとするのだが声にならず、ただウワウワ言いながら、やられたアゴを両手で支え、一目散に逃げていくのを眺めているのは、至極愉快なことでしたね。時々、一撃で相手を片付けることが出来ず、何べんも繰返さなければならない門人もいましたが、そういうのはまだ業が未熟な者とされました。ところで、接骨術は柔術の不可欠な部分として師匠達により教えられているものですが、そういうわけで、かの連中は翌日の朝になると、その外れたアゴを入れてもらうため道場へ来たものです。時には、先に述べた騒ぎの後で、日に十人近くもの患者が師匠の治療を受けにやってきたものです。
おかげで、私達は自分達の業の効果を目の辺りに検分することができました。これがまた私達を夜の冒険へと駆り立てる刺激になったのです。当時、私達は皆な血気盛んであり、このような無茶をする若気の至りということもあったのです。また、確かにこのような企んだいたずらを喜んでしていた面もありました。
しかし、時代は変わりました。今日、このような行いが、たとえその動機において賞められることがあったとしても、勿論すすめられることでは決してありません。というわけで、この話は、私の若い時分の、思わずしゃべってしまった打ち明け話としておいてください。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
〈E・J・ハリソン『日本の武道精神(The Fighting Spirit of Japan)』の中から山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』(BABジャパン)に載ったものを引用〉
[#ここで字下げ終わり]
この横山作次郎には、ふたつの顔があった。
ひとつは、柔道家としての表の顔であり、もうひとつは、裏の顔とでも言うべき、壮士、遊侠の世界での顔である。
裏の世界では、隅田≠フ名で知られており、このことについては、作次郎の弟子であった、空気投げで有名な三船久蔵十段も認めている。
表の顔としては、講道館の四天王のひとりであり、柔術諸流派の猛者たちを相手に、後世に語り継がれる試合を幾つもしている。
道場破りが来れば、
「おれが相手をしちゃろう」
自ら立って対戦した。
酒が好きであった。
その量が半端ではない。
飲み始めれば、まず、一升は飲む。
講道館は、道場内では禁酒である。
一切の飲酒行為は、道場では禁止されている。
そこでも、横山は、よく治五郎に隠れて酒を飲んだ。
ある時、数人の道場生を相手に、横山は道場で酒を飲んでいた。
その時、ふいに治五郎が道場に入ってきたというのである。
慌てて酒を飲み乾し、杯を懐に入れて隠したが、徳利一本を隠しそこねた。
「おい横山」
「はい」
横山も、他の道場生たちも、叱られることを覚悟したが、治五郎が口にしたのは、
「良い手を思いついた」
であった。
新しい技について、自室で色々と思案をしていたら、良い手を思いついてしまったと興奮した声で言うのである。
道場に転がっている徳利を見つけ、
「ちょうどいい」
その徳利を立てて、そこで型を演じ始めた。
相手がこうきたら、こうゆく。
相手が受ける。
そこで――
つうっと前へ動いて、立っている徳利を軽く足で払った。
徳利が倒れた。
中にまだ残っていた酒が、畳の上にこぼれた。
横山は、こぼれた酒をぬぐい、倒れた徳利を起こして、中に残っていた酒を全て乾してから、
「先生、もうこぼれません。もう一度お願いします」
また徳利を立てた。
その徳利を相手に、また、治五郎が型を演ずる。
徳利が倒れる。
「先生、今度は自分が徳利のかわりをいたします」
こうして、治五郎と横山は、ひとしきり新しい技の型を演じたというのである。
飲酒について、ひと言も言わずに稽古をした治五郎も治五郎らしいが、倒れた徳利の酒を治五郎の前で飲んでみせた横山も横山である。
この時より、横山の道場内での飲酒は止んだ。
治五郎は、毎晩、塾生達に漢籍の講義をした。
この時、よく居眠りをしていたのが作次郎であった。
治五郎に質問され、
「先生、文字が本の上で乱取りをしとります」
作次郎はこのように答えた。
これには、他の塾生も、治五郎も笑う他はない。
横山作次郎――治五郎に愛されていた。
作次郎の荒さには、どこか可愛気がある。
横山のエピソードには、酒に纏わるものが多い。
弟子たちが、おおいに辟易したのも、横山のこの酒癖であった。
酔うと、横山はよく弟子たちに無理を言った。
稽古の後、よく横山は弟子たちと一緒に風呂に行ったという。
途中に、大きな松の古木が生えている。
その前に立ち止まると、
「おい」
横山は弟子たちに声をかける。
「この松を投げてみよ」
すでに軽く酒が入っており、そういう時にはいきなり無茶を言い出す。
巨木である。
投げるには、根こそぎ地面から引き抜かねばならず、地から生えていなくとも、重くて投げたりできるようなものではない。まず、手が幹に回わらない。
それでも、弟子たちは、ある者は松を抱え、ある者は稽古衣の帯を引っかけ、腰を当て、跳ねあげ、足をかけ、投げようとする。
しかし、松は微動だにしない。
「力が入っとらん」
「腰の位置が悪い」
「気合いを込めろ」
さんざん、松相手に乱取りをやらされるのである。
松に当てている腰は、皮が擦りむける。足には血が滲む。
「おまえら、全員、負けじゃ」
ようやく解放される頃には、へとへとになっている。
風呂に行き、酒が入ると、横山はこのような無理難題を弟子たちにふっかけるのである。
「一度、横山先生が手本ば見せてくれんとですか」
ある時、風呂へ行く前、熊本出身の弟子のひとりが言った。
横山は、その弟子をひと睨みし、無造作に帯を松に引っかけて、その帯を相手の襟に見たて、
「ふむ、ふむ」
数度タイミングを計ってから、
「すりゃあ!!」
裂帛の気合いと共に、腰を当てて松を投げに入った。
鈍い音がして、頭上でざわりと松の枝が揺れた。
これまで、葉先さえ揺らしたことのない松が、初めて枝を揺らしたのである。
千切れた帯が、横山の手に握られていた。
「おれでも無理だったか――」
鬼横山は、ぼそりとそう言って笑った。
風呂に入るため、裸になった時、弟子たちは横山の腰を見て声をあげた。
横山の腰の皮が、べろりと大きくむけて、血が流れていたのである。
次のエピソードは、石黒敬七の『柔道と空手』の中に紹介されている話である。
明治二十七年というから、横山作次郎が講道館に入門してから九年目――日清戦争のさ中のことである。
小石川富坂にあった講道館に、毎夜、不思議な賊が出没したというのである。
飯泥棒である。
夜の二時頃になると、この賊が現われ、道場の台所に侵入して、飯を喰ってゆくのである。
朝起きて、道場生が台所へゆくと、飯が無くなっている。これが、二日、三日と続いた。
不寝番《ふしんばん》の門人をひとりたてたが、この門人は、賊にあっという間に倒され、意識を失っている間に、またもや飯を喰われてしまった。
次の晩には、ふたりの門人を不寝番として置いたが、このふたりも、賊に倒され、飯を喰われてしまった。
倒された門人の証言によると、相手は、まだ若い男であったという。中国服を着ており、なかなか貌立ちの美しい男であったと――
その若い男が使った技は、いずれの場合も当て身であったというのである。
突きと蹴り――
その技を当てられ、意識を失っている間に、飯を喰われてしまうのである。
時が時だけに、
「清国の軍事探偵ではないか」
道場生の中から、そういう声もあがった。
しかし、真相はわからない。
さらに賊は、倒された門人たちに向かって、
「おまえたちでは弱すぎる。もっと強い人間はいないのか」
このように言い残して去って行ったというのである。
金を盗むわけでも、何かを持ってゆくわけでもない。夕食に残った飯を喰べてゆくだけだ。
こういう賊に対して、また、講道館が多人数を出すのも聴こえが悪い。
「おれがゆこう」
そう言い出したのが、横山作次郎であった。
横山は、その晩、ただ独り、二〇畳ほどの台所の床に、ごろりと仰向けに寝ころんで賊のやってくるのを待った。
夜が更け、やがて、柱時計が鳴って、午前二時になったのを告げた。
その時――
かたり、と音がして、天井の引き窓が開いた。
横山が、眼を凝らして見上げていると、そこから、ひとつの人影が侵入してきた。
人影は、両手で天井の桟を伝って移動してきた。
凄い握力である。よほど、指の力が強いのであろう。
賊は、指を離して床に降り立った。
なるほど、中国服を着た若い男であり、その顔にはまだ少年の面影が残っている。
むっくりと、横山が起きあがった。
「おまえが賊か」
低い声で横山が言う。
賊は、驚きもせず、平然と横山を見つめ、
「ようやく強そうなのが出てきたか」
そう言った。
「目的は何だ」
横山は賊に問うた。
「まさか、本当に飯が喰いたいわけではあるまい」
「腕試しだ」
賊は言った。
「おれの学んだ技が、講道館にどれほど通用するのか試しに来た」
賊は、低く腰を落とし、両手を持ち上げて構えた。
柔の構えではない。
「唐手か」
横山は訊いたが、もう、賊は答えない。
じりっ、じりっと横山に迫ってくる。
「おもしろい」
横山も腰を落として構えた。
近づいてくる男に向かって、横山は自ら前に出て、組むより先に足払いを仕掛けた。
男は、後方に跳んで、その足払いを避けた。
その時、この物音を聴きつけて、別室で待機していた門人たちが、台所に駆けつけてきた。
「手を出すなよ」
すかさず、横山が言った。
門人たちは、動かずに、賊と横山の闘いを見守った。
賊が、突き、蹴りの当て身を仕掛けてくる。
これを、横山がかわしながら、組みつこうとする。
しかし、なかなか組ませない。
柔術――柔道にも当て身はあるが、これは、最終的には、組み、投げたり絞めたりするための崩しの技である。
しかし、賊の使用する当て身の技は、始めから当てることのみを目的としている技であった。当てた後で、組まない。当てた後に、さらに当てる。当て身だけで、勝負に決着をつけるつもりらしい。
横山にとっても、初めて接する技であった。
何度か身体に拳や蹴りを当てられているが、横山の身体は鍛えられている。ひとつやふたつ、当てられたからといって、そう簡単に壊れるような身体ではない。
頭部への当て身と、吊り鐘――睾丸への当て身を気をつければいい。
横山自身も、天神真楊流を数年に亘って学んでおり、この流派には当て身技が多く含まれている。
横山の当て身も、賊の身体に当っているが、賊は賊で、やはり相当にその肉体を鍛えているらしい。
賊が、横山の股を、凄い疾さで蹴りあげにきた。
前々から隙をうかがっていた、力のこもった蹴りであった。
この蹴りを、横山が身体を開いてかわした。
賊の体勢が崩れたその瞬間、横山の巨体が太い蛇のごとくに、するりと賊の懐に跳び込んでいた。
払い腰。
「せいやっ!」
賊の身体が、どんと音をたてて堅い床に叩きつけられた。
勝負あった、と見た門弟たちが歓声をあげた。
「騒ぐな」
門弟たちをたしなめたのは、横山の一喝であった。
横山は、左手で、自分の左脇腹を押さえている。
「先生!」
駆け寄る弟子たちに、
「投げる時に、手刀を当てられた」
横山はそう言った。
倒れている賊に歩み寄り、
「気が済んだか」
横山が言った。
「負けました……」
そう言って、賊が起きあがってきた。
「相打ちだ」
横山が言うと、
「横山さんの勝ちです。手加減していただいたのがわかります。今も、頭から落とせたのに、そうしなかった……」
賊が、深々と頭を下げた。
この時の賊が、後に空手家として名をなすことになる松村義昭であったというのである。
以来、横山と松村は、肝胆相照らす仲となったというのだが、これはいささかできすぎている話である。
作り話か、あるいは、似たようなできごとに尾鰭《おひれ》がついたものなのか。
いずれにしても、鬼横山なればこその逸話であろう。
さて――
次は、三船久蔵言うところの隅田=A裏の顔の横山について、語っておこう。
壮士、侠客としての顔を持った横山の話である。
壮士とは、もともと、明治二十三年の国会開設前後に盛んになった、自由民権運動の活動家のことであったが、後には、選挙などのおり、反対党の演説会などを実力をもって妨害したりする、一種の職業集団に対する呼称となった。
妨害されれば、対抗する党の方も、似たような壮士を雇ってこれを守ろうとする。
自然、壮士には暴力の匂いがつきまとうことになる。
ヤクザまがいの者や、ヤクザそのもの、剣術家や柔術家が壮士となったり、あるいは壮士として雇われたりした。
井の字絣の着物に縦縞の袴、長髪、素足に高下駄を履き、袖をたくしあげて手には太い桜のステッキを持つ――これが、一般的な壮士像であり、在日した仏人画家ビゴーのポンチ絵にもよく描かれている。
このステッキに、刀をつけて仕込杖としている者もおり、仕事のない時には、恐喝やたかりのようなことまでした。
壮士の多くは、このような暴力集団であったと言っていい。
横山自身は、その裏の顔については、次のように語っている。
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私は曾て一度ならず、柔道を(本来の)攻撃と防御の目的のために用いたこともあります。しかし、これらの場合というのは我が立憲政府(政党政治)の初期頃によくあった選挙運動に最も深く関わっているもので、私としてはあまり深入りしたくないのです。何しろ、当時の選挙運動というのは、対立候補の支持者間で血なまぐさい暴力が付き物でしたからね。
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〈E・J・ハリソン『日本の武道精神(The Fighting Spirit of Japan)』の中から山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』(BABジャパン)に載ったものを引用〉
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柔道本来の目的――というと、当然、試合ではなく実戦ということであり、本人の言う通り、深入りしたくない(語りたくない)ほど血腥《ちなまぐさ》いできごとの当事者であったことも、一度ならずあったのであろう。
横山は語る。
(十)
これは、横山自身の言葉を使うと、
どちらかと言えば穏やかな話
ということになる。
作次郎自身の言によれば、明治四十二年(一九〇九)のことだというから、作次郎が四十六歳の時ということになる。
正月の初め――
作次郎は、神田小川町にある料理屋の二階で、鍋を突つきながら酒を飲んでいた。
その相手をしているのは、三船久蔵である。
後に十段にまでなり、神技とまで言われた空気投げを得意技とした柔道家だが、この時、まだ二十七歳。四段である。
食べているのは、牛肉であった。
醤油と砂糖で味つけをして、葱を一緒に鍋に入れる。これを箸でつまみながら、酒を飲んでいるのである。
三船久蔵の書くところによれば、「今文」というすきやき屋である。
毎年、正月の八日に行なわれる講道館の鏡開きは、すでに終わっている。
深川にある洲崎《すさき》の賭場に出かけ、そこからの帰りに、「今文」に立ち寄ったのである。
作次郎とは仲の良い、その筋では名の知られた人物がやっている賭場であった。
ふたりが、何の用でそこまで行ったのか、少しはそこで遊んできたのか、そこまでは、作次郎の資料にも久蔵の資料にも書かれていない。
深川も、「今文」も、作次郎が、弟子の久蔵を誘ったものであろう。
「前田は、今、どこだ」
杯を口に運びながら、作次郎は言った。
言い終えたばかりの口の中に、あっという間に酒が消えた。
作次郎は、口の中に、酒を放り込むようにして飲む。杯に満たされた酒を、一度で飲んでしまう。卓の上にもどされた杯に、酒が残っていることはめったにない。
空になった作次郎の杯に酒を満たしてやりながら、
「キューバあたりだろうと思いますが」
久蔵が言う。
作次郎が口にした前田は、前田光世のことである。
前田光世が、柔道を世界に広めるために、富田常次郎と共に船で日本を出て紐育《ニューヨーク》に向かったのは、五年前、明治三十七年の十一月十六日のことである。
以来、アメリカの紐育、イギリスのロンドン、ベルギーと転戦して、柔道衣を着た試合では無敗。
「斬雲《ざんうん》先生のところに来た手紙に、そう書いてあったそうです」
「ふうん」
作次郎は、注がれたばかりの酒を、また、無造作に口に放り込む。
空の杯に、また、久蔵が酒を注ぐ。
「前田さんのことが、気になりますか」
「ふふん」
久蔵の言葉に、うなずくともなく、否定するともなく、小さく声を洩らした。
作次郎が、海外に行ったきりになっている前田のことをぽつりと口にするのは、いつも、正月に行なわれる、講道館恒例の鏡開式の後である。
前田光世の入門は、明治三〇年である。
この前田が、初めて頭角を現わしたのが、翌明治三十一年十二月に行なわれた、講道館の月次《つきなみ》勝負の時である。
月次勝負というのは、毎月、実力的にほぼ同じ者の間で闘われる勝ち抜き戦である。
この時、突然に現われた無名に近い前田は、乙組、甲組合わせて連続十五人に勝ち抜き、初段の認定を受けている。
正式な認定は、その翌年、正月の鏡開式の日に行なわれた。
その認定をしたのが、横山作次郎であったのである。
前田は、強かった。
同じ年の十月に、もう、前田は二段に認定されているのである。一年の間に、ふたつも段位をあげたというのは、当時人材が多く集まっていた講道館においても、稀有のことであった。
三船久蔵が講道館に入門したのは、前田に遅れること六年――明治三十六年である。
この時期の前田については、いずれじっくりと語ることになるが、久蔵は、この前田に、入門時、徹底的に鍛えられている。
前田が、初段認定を受けたその日、もうひとつの事件があった。
それは、横山作次郎が、新鋭の永岡秀一四段に投げられたことである。
作次郎は、この時三十六歳。
横山の肉体は、すでに全盛期を過ぎており、永岡秀一は、後に十段となり講道館の指南役にまでなってゆく逸材であったのだが、それでも、投げられたことにかわりはない。
試合ではなく、乱取りであった。
しかし、乱取りだからといって手を抜いた勝負をするわけではない。闘う者どうしには試合と同じである。
闘いは五十五分続き、作次郎が永岡に横捨身で投げられたところで、嘉納治五郎が、
「それまで」
の声をかけたのである。
勝ち負けはない。
しかし、作次郎の感覚からすれば、これは負けと同じである。
まだまだ――
どのような新人が現われても、まだ、彼等に負けることはない、作次郎はそう考えていた。
それが、違った。
今のは、何かの間違いである、もう一度やれば――その思いがなかったのである。
自分の内部に、そういう思いのなかったことの方に、作次郎は驚いたのである。かつて、肉の中であれほど猛っていたものが、静かになっている。
自分を投げた永岡よりも、さらに新しい世代が、もう、講道館には育っている。それが、前田であった。
自分を投げた永岡ですら、遠くないうちに、前田に投げられてしまうだろう。
しみじみと、それを実感したのが、明治三十二年の鏡開きの時だったのである。
その日、作次郎は、前田に向かって、
「これからはおまえたちの時代だ」
そう言った。
その時代≠ェ今、海外にいる。
「前田さんは、本当に強かったですからね」
久蔵は、溜め息と共に言った。
作次郎は、久蔵の言葉に、うなずくともなく、小さく顎を引いて笑った。
作次郎が考えた通り、数年後には、前田は永岡を投げている。
作次郎が、徳利を持って、久蔵に向かって差し出した。
久蔵は、両手で杯を持ち、作次郎の酌を受けた。
杯に酒を注ぐ時、作次郎は、ちらりと奥の方へ視線を動かしてみせた。
「いただきます」
酒を口に運びながら、久蔵は、作次郎が視線を送った方向へ、視線を走らせた。
十六畳ほどの広さの部屋であった。
襖で、八畳ふた間にしきることができるのだが、襖は取り払われていて、ひと間の部屋になっている。そこへ卓が置かれ、卓ごとに低い衝立てで仕切られていた。
客は、作次郎たち二人と、他に老夫婦が二人。
そして、奥――部屋の半分以上を占めるかたちで、一〇人余りの男たちが、寄せてひとつにした卓を囲んでいた。
井の字絣の着物に縦縞の袴を穿いた者が半数以上いる。
ひと眼で壮士とわかる男たちであった。
その壮士たちが、時おり、ちらりちらりと、作次郎と久蔵の方へ視線を送ってよこすのである。それに気づいているかという意味で、作次郎は久蔵の前で、彼らに視線を送ってみせたのである。
承知しています――そう言うように、久蔵も彼等に視線を送って見せたのだ。
しかし、ふたりとも、わざわざ会話を中断したりはしない。
それまでの話を、そのまま続けている。
「自分も、負けん気の強い方なのですが――」
久蔵は言った。
「しかし、前田さんは、不思議な方でした……」
「不思議?」
「負けても腹が立たないのです」
「ああ」
作次郎は顎を引いて言った。
「あいつには、確かにそういうところがある」
「でしょう」
うなずいた久蔵に向かって、作次郎は小さく眼で合図をした。
来たぞ
そういう意味の合図である。
久蔵は、すでに、壮士たちのその動きを、眼で捕えていた。
まず、壮士たちのひとりが立ちあがり、続いて、ふたり、三人と立ちあがってきた。
畳の上に置いていた羽織や杖をそれぞれ手に持ったところを見れば、帰るつもりなのであろう。
奥にいる壮士たちが、階下へ下りる階段までゆくのには、ちょうど作次郎たちの横を通らねばならない。
ふたり、三人と、作次郎と久蔵が向き合っている卓の横を通り過ぎてゆく。
そのうちのひとりが、ふいに作次郎の横で足を止め、身をかがめて畳の上に置いてあった作次郎のコートと帽子を手に取った。
盗人にしては堂々としている。
そのまま歩き去ろうとする男に、
「おい」
作次郎は、声をかけた。
「そのコートも帽子も、わたしのものなんだがね」
「いや、これはおれのさ」
男は、コートと帽子を手に持ったまま、すでに階段から下りかけていた仲間の男たちに聴こえるように言った。
「さっき、二階に上った時に、脱いでここへ置いて行ったんだ。おれのだよ」
ゆずらない。
「どうした」
「揉めごとか」
先に歩を進めていた男たちが、足を止めて声をかけてきた。
「こちらのお客が、おれの帽子とコートを、自分のものだと言ってるんだ」
男は言った。
「なに」
「それはいかんなあ」
仲間の壮士たちが、集まってきた。
「この帽子もコートも、おれが確かにここに置いたものだ」
男が言うと、
「お客さん、おれも見ている。間違いない」
「その通りだ」
「それとも、おれたちが嘘をついているとでも」
壮士たちが口々に言い寄ってきた。
「君たちは、帰るところか」
作次郎が訊いた。
「そうだ」
「だから、このコートを手に取ったのではないか」
壮士たちが言った。
「ちょうどよかった。我々も帰ろうとしていたところだ。外で話をしよう」
作次郎は言った。
「それがいい。他の客にも店にも、迷惑をかけるわけにはいかん」
「うむ」
壮士たちが答えた時、作次郎は、顔を隠すように下を向き、三船久蔵に視線を向けた。
その顔が、子供のように笑っていた。
「三船君、ゆこう」
久蔵のことを、これまで三船と呼んでいたのが、三船君になっている。
作次郎の態度も言葉も、すでに芝居がかっていた。
のっそりと、作次郎は立ちあがった。
悠々と男たちを見回わした。
壮士たちは、十三人いた。
老夫婦が、心配そうな視線を送ってくるが、作次郎は、ふたりに向かって小さく頭を下げただけであった。
頭を掻きながら、久蔵も立ちあがった。
小兵である。
身長五尺二寸五分(一五九センチ)。
体重十五貫(五十六キロ)。
壮士の眼が、久蔵を値踏みした。
彼らの顔に、安心したような笑みが浮いた。
「出よう」
肩を揺らしながら作次郎が動くと、それを囲むように壮士たちも動き出した。
外へ出た。
すでに夜である。
見あげれば、星が点々と夜空に光っている。
先ほどまでいた「今文」の二階からの灯りが、壮士たちの一団に囲まれた作次郎と久蔵を照らしている。
壮士を自称する人間たちが、金のありそうな人間や、弱そうな人間に因縁をつけて、金をたかるということは、それほど珍しいことではなかった。
「今文」の二階で鍋を突ついている時、彼らが自分たちに眼をつけたらしいことは、作次郎にも久蔵にもわかっていた。
作次郎たちはふたり。
壮士たちは十三人。
たとえ、立ち回りになろうと、自分たちが負けることはないであろうと壮士たちは確信していた。
作次郎は、右手に、太いステッキを持っていた。朱塗りの槍の柄を改造したもので、これは、作次郎が生涯持ち歩いたものである。
作次郎のコートと帽子は、まだ、先ほどの壮士が持っている。
彼らは、ふたりを囲んで、このコートと帽子は自分たちのものであると、わざとらしい恫喝するような声で主張している。
作次郎は、それを風音ほどにも気にしていない。
悠々と星を眺め、口元には笑みを浮かべている。
「話を聴いているのか」
壮士たちのひとりが、声を荒くした。
「聴いてない」
作次郎は言った。
「なに!?」
「寒い。早くしてくれ」
作次郎は、焦《じ》れたように言った。
確かに寒い。
冬である。
強くはないが、吹いてくる風が、酒が入って温まっている身体から体温を奪ってゆく。
「早く?」
「おれから手を出すわけには、いかんということさ」
「なんだと」
「だから、口以外の方法で、おそれいりましたと、おれに言わせりゃあいいのさ。そうしたら、言い値で、そのコートと帽子を買いとろうって言ってるんだよ」
つべこべ言わずにかかってこい――作次郎の言っているのは、そういうことである。
「その杖を抜いたっていいんだぜ」
作次郎は、横手で、杖を手にしている壮士に向かって言った。
「先生!」
さすがに呆れて、久蔵が声をかけた。
「三船、おまえもひと汗かけよ」
作次郎が声をかけた時――
横手にいた壮士が、右手で持っていた杖の中ほどを左手で握った。
「後悔するな」
右手で、仕込み杖から、ぎらりと刃を抜き放った――いや、抜き放ったように見えた。
しかし、刀身が鞘の中から滑り出てきたのは、中ほどまでであった。
その壮士が動くのと同時に、作次郎がすうっと足を踏み出していたのである。
横に――
刀身が途中まで抜き出された時、作次郎の右掌が、その壮士の左頬をはたいていた。
妙な音がした。
人の肉が人の肉を打つ音の中に、骨が抜ける音が混じったのである。
仕込み杖を抜きかけた壮士の顎がはずれていた。
顎が、だらりと長く垂れ下がった。
井上敬太郎道場時代に、よくやった手であった。
「あがあが――」
壮士は、柄から右手を放し、顎を押さえた。
「三船、四人ほど頼む」
作次郎が言った時には、もう、壮士たちがふたりに向かって襲いかかってきていた。
久蔵が使ったのは、当て身であった。
掴みかかってきた男の水月《すいげつ》に、身を転じながら腰を落とし、右の肘を打ち込んだ。
その男は、腹を押さえ、前かがみに倒れ込んでいた。呻きながら身をよじっている。
後ろから抱え込んできた男の襟を掴み、腰を入れて、頭から地面に落とした。
軽い体重の移動だけで投げている。
まるで、空気に乗せられたように、ふわりと男の身体が浮いて、ふわりと落ちた。
畳ではない。
固い地面の上だ。
男は、声もあげずに動かなくなった。
三人目の男は、久蔵が軽く足を引っかけて、身をかわしただけで、顔から地面に突っ込んでいった。
四人目の男は、袖と襟を掴んできた。
多少は、柔の心得があるらしい。
久蔵は、その男に対しては、ほとんど何もしなかったに等しい。
手さえ触れなかった。
久蔵がやったのは、重心を移しただけである。
それだけで、男の身体は宙に浮いて、地面に毬のように転がっていた。
久蔵が、作次郎の方を見やった時、もう、立っている壮士は三人になっていた。久蔵が四人倒す間に、作次郎は、五人倒したことになる。
残った壮士三人のうち、ひとりが、作次郎のコートと帽子を持っていた。
ひとりは素手。
もうひとりは、手に仕込み杖を抜き放っていた。
しかし、作次郎は、抜かれた刃を見ても、少しも動じてはいない。
「そんなんじゃあ、人は切れねえぜ」
作次郎は言った。
作次郎は、刀を持った男に向かって、無造作に歩いてゆく。
「切れたとしたって、大義もなく、いきがかりで人を切っちまうんじゃあ、合わねえよ」
刀を持った男が、退がる。
作次郎が前に出る。
男が退がる。
泣きそうな顔になっている。
「く、来るな!」
男が、ひきつった声で叫んだ。
「行かなきゃ、おめえさんを投げられねえじゃないか」
男の持った仕込み杖の刃を、ひょいと作次郎が握った。
「あ、あ、ああ……」
男が、震えながら声をあげる。
もしも、男が、強く刀を引いたら作次郎の手から、指が二本か三本は、ぼろぼろと落ちることになるだろう。
「許してやる、逃げろ」
作次郎が言うと、男は杖から手を放して、逃げ出した。
ふたりの男がそれに続こうとするところへ、
「待て」
作次郎が声をかけた。
「コートと帽子を、置いてゆけ」
作次郎が言うと、その男が立ち止まった。
「捨てるなよ。汚れる。ここまで持ってこい――」
作次郎の言葉に、男が、摺り足で近づいてきた。
作次郎の手に、刃を握られたままの刀がまだ残っている。
作次郎は、刀をがらりと地に落とし、男から、コートと帽子を受け取った。
「先生、驚かせないで下さい」
久蔵が近づいてきた。
「あの男が刀を引いたらどうするつもりだったんですか」
「そんな度胸はねえよ」
伝法な口調で、作次郎は言った。
すでに倒されていた男たちも、ひとり、ふたりと起きあがって、逃げ出してゆく。
「おい」
作次郎は、さっきまでコートと帽子を自分のものだと主張していた男に声をかけた。
この男は、身を竦《すく》めたまま、作次郎の傍から動けないでいた。
「はい」
男は、身を硬くして返事をした。
「酒代でもせびろうとしたんだろう」
「はい」
「ふたりしかいない。いざとなっても大丈夫だろうってな」
「はい」
何を訊いても、男ははい≠ニ答えるばかりであった。
ぽん、
と作次郎は、男の肩を叩いて背を向けた。
「三船くん、飲みなおそうか」
作次郎は、歩き出した。
(十一)
作次郎の裏の顔の話はまだある。
この話の相手も壮士であった。
同じ年の正月、講道館に、ひとりの男が駆け込んできた。
「横山先生はおられますか」
作次郎が出てゆくと、友人のところの使用人であった。
「どうした」
「うちの主人が、たいへんなことになってしまって――」
使用人が説明をした。
その友人の主人というのが、ある芝居興行に、金を出したというのである。
それがうまくいって、数千円からの儲けが出た。
そこで、この件で世話になった知人を呼んで、家で夕食をご馳走することにした。
さて、その知人と食事をしているところへやってきたのが、五人の壮士たちである。
五人の壮士たちは、主人に会いたいという。
「ただいま、主人は来客中でございます。用件があれば、承っておきますので、後日またあらためておこしいただけませんでしょうか」
使用人がそう言っても、壮士たちは帰ろうとしない。
「会わずに帰るわけにはゆかぬ」
使用人が止めるのもきかずに、壮士たちは勝手に家にあがり込んできた。
主人が知人と食事をしている席までやってくると、五人の壮士はふたりを囲むようにして座り込んだ。
「金を儲けたそうだな」
壮士のひとりが言った。
どこからか、主人が芝居に金を出して利益を得たことを聴き込んできたらしい。
「その金を貸してくれぬか」
壮士たちは言った。
いや、金を貸すわけにはいかないと、主人はきっぱり断った。
「くれと言うているのではない。貸してくれと言うている」
「芝居なんぞで儲けた不浄の金を、我らが借りて、お国のために使うてやろうと言うておるのだ」
「どうだ、貸さぬか」
壮士と言うよりは、ここまでくればただの無頼漢である。
「お帰りいただきたい。今、わたしは客人と食事をしている最中であり、失礼ではないか――」
主人が言うと、
「何が失礼だ」
壮士たちは怒り出した。
着ている着物の中に隠し持っていた短刀などを取り出して、それを抜き、刃をちらちらと見せては脅し始めた。
「きちんとした返事をもらうまでは、帰れぬなあ」
その席に座り込み、勝手に卓の上の食物や酒に手をつけはじめたというのである。
使用人は、壮士たちの様子をうかがい、隙を見て逃げ出し、作次郎の元までやってきたというのである。
主人という人物も、世間的には堅気で通る仕事をしているわけではない。何かあったからといって、すぐには警察に駆け込めるものではない。できることなら、警察沙汰にはせずに事を収めたい。
もちろん、壮士たちも、主人のそういった事情を知っての申し入れである。
話を聴くなり、
「わかった」
すぐに仕度をして、作次郎は講道館を出た。
ただ独りである。
屋敷へ着き、上ってゆくと、使用人の言った通りであった。
五人の男が、主人とその知人を囲んで、刀や短刀などを抜いて脅しているところであった。
作次郎が見れば、頭目株の人物は、覚えのある顔であった。
「おとなしく帰るんだ。それで見逃してやろう」
作次郎は言った。
この言葉に、若い男が、作次郎の喉元に、刀の刃をあててきた。
しかし、作次郎は、少しも怯む様子がなかった。
「おれを隅田と承知でやろうっていうのなら、好きにするんだな」
作次郎は、落ち着いた声で言った。
隅田というのは、横山作次郎の裏の名である。
「強がるんじゃない」
刀を持った男が力を込めて刃を押しあてると、ぷっつりと作次郎の喉の皮膚が切れて、血が首筋を伝った。血は、襟元から胸の方まで、つうっと流れてゆく。
頭目株の男が、隅田という名前と、作次郎の顔に、ようやく思いあたった。
「刀をひけっ!!」
高い声で叫んだ。
「申しわけありません。隅田先生のお身内と知らなかったのは、こちらのうかつでした」
作次郎に向かって頭を下げた。
「何を謝ってるんです」
「こんな野郎のひとりやふたり、どうにでもなるじゃありませんか」
若い者が、不満そうな声をあげた。
その若い者の頬を、頭目株の男が、おもいきりはたいた。
「馬鹿野郎。隅田先生は、深川洲崎の御身内だぞ」
もう一度叩いた。
「星亨《ほしとおる》先生とも、懇意にされていた方だ」
星亨というのは、当時の政界の大立者であった人物である。
その名を耳にした途端に、若い者たちの顔に怯えの色が浮いた。
若い者たちの気力が萎えた。
「隅田さんにこういうことで怪我をさせて、東京で無事に息ができると思うな」
頭目株が声を大きくした。
「いい。知らんでやったことだ」
作次郎は言った。
しかし、ひとりだけ、不満そうな顔をした男がいた。
さっきまで、作次郎の首に、刃をあてていた一番若い男であった。
「どうした、北村」
頭目株が、その若い男に声をかけた。
「気に入りません」
その若い、北村と呼ばれた男は言った。
「何が気に入らん」
「自分らは、覚悟して、ここへやってきたのではないのですか。深川や、星先生が凄い方だというのはわかります。しかし、この隅田という男は、ただ、星先生たちの威を借りているだけではありませんか」
「馬鹿!」
頭目株の男が、北村を拳で殴りつけた。
「待て」
作次郎は、頭目株の男を止め、
「きみの言うことも、もっともだ」
北村に言った。
「かかってきなさい」
作次郎は言った。
「かかって?」
「その刀を使っていい。好きなようにかかってきなさい」
言われた北村は、刀を握り締め、作次郎を睨んだ。
その視線を、作次郎は、平然と受けている。
「糞!」
北村は、刀を放り捨てた。
素手になった。
「庭へ出ろ」
北村は、部屋の前の濡れ縁から、庭へ跳び下りた。
悠然と、作次郎が素足のまま庭へ降りる。
睨み合った。
「やしゃあっ!」
北村が、作次郎に殴りかかってきた。
作次郎は、片足を後方に引き、北村の襟を掴み、北村の体重を腰の上で跳ねあげて、おもいきり地面に叩きつけた。
肉と骨がひしゃげる音がした。
普通の者なら立てない。
講道館の鬼の横山が、おもいきり地面の上に投げ落としたのである。
それを、呻き声をあげ、歯を食い縛りながら、北村は立ちあがってきた。
「ま、まだだ……」
その北村の肩を、作次郎は、軽くぽんと叩いた。
「やめとけ」
落ち着いた声で言った。
「身体が治ったら、いつでも講道館の横山を訪ねてこい」
「講道館、じゅ、柔道か」
「ああ」
「行く、必ず行くぞ」
「いつでも相手をしてやる」
笑った。
この時の北村が、後の北村一四段である。
(十二)
「今文」の件も、芝居興行で金を儲けた友人の件も、横山が、隅田として裏の顔で関わった事件である。
深川洲崎の大物というのは、当時では名の知られた武部申策という壮士あがりの人物である。
横山が、隅田として深くつきあっていたのが、この深川の武部申策であった。
この横山作次郎については、いずれまた、あらためて稿を起こしたい。
志田四郎との因縁話についても書かねばならず、やがて、本格的に登場することになる前田光世について書くおりにも、重要な役割を果たすことになってくるからである。
次章は、おそらくこの横山の講道館入門のいきさつから書き始められることになるはずであるが、その前に、四天王最後のひとり、山下義韶について語っておきたい。
山下義韶は、慶応元年(一八六五)二月、小田原藩主大久保家の武芸指南役の家に生まれた。
武芸家として、義韶は三代目になる。
ふたりが出会ったのは、まだ義韶が講道館に入門する前である。
治五郎が、開成学校に通っていた頃のことだ。
治五郎が、福田八之助門下に入り、天神真楊流を学び始めた時期であるが、ふたりが知りあうきっかけとなったのは、柔術ではない。
野球であった。
後の東京大学である開成学校時代、治五郎は、柔術と並行して、野球をやっていたのである。
日本へ本格的に野球を持ち込んだのは、この開成学校の教師で、ウィルソンというアメリカ人である。この外国人教師が、学生たちに野球を教えたのである。その学生たちの中に、治五郎も入っていた。
学生たちを中心にチームが作られ、横浜に住んでいるアメリカ人たちと試合をしたりしていた。
中野武二の『新日本文化史』によれば、
「嘉納治五郎、仙石貢などはヤジ隊長だった」
とあるが、実は、治五郎は選手もやっていた。
投手と捕手が自分のポジションであったと治五郎本人が語っている。
ちなみに、このベースボールを野球と訳したのは、正岡子規である。
子規の本名は、升≠ニいった。こののぼる≠野ボール≠ニあてて、野球≠ニ洒落で呼んだのが定着してしまったのである。
開成学校時代、治五郎は神田三崎カ原に住んでいたことがある。漢学者の平松という人物の家の離れを借りていたのだが、その近くに山下の家があったのである。
三崎町の練兵場で、治五郎は、よくベースボールの練習をしたが、この時治五郎の相手をしたのが、山下義韶であった。
これが、治五郎と山下の最初の縁である。
治五郎が、十八歳から二十三歳にかけてのことであり、山下が十三歳から十八歳にかけての頃のことである。
治五郎は、すでに福田八之助のもとへ天神真楊流を学びに通っていたから、親しくなったこの五歳歳下の少年を、何度か福田の道場へ連れていったことがあると、記録にはある。
山下が柔術に興味を持ち、治五郎に連れて行ってくれとせがんだのではない。
治五郎が、山下に声をかけた。
「柔術に興味はないか」
治五郎が訊いた時、山下は、しばらく沈黙してから、
「興味はあります」
不思議な間をおいて、そう言った。
「やったことは?」
「ありません」
正直に、山下は答えている。
すでに、小田原を離れ、武芸指南という役職もないが、そういう家の生まれである義韶には、柔術の何たるかの理解は、常の人よりはある。
やったことはないが、柔術がどういうものかはわかっている。
「先生はやってるのですか」
山下は訊いた。
勉強もみてもらっているから、山下にとっては、治五郎はこの頃から先生である。
何か、珍しい生き物でも見るような眼で、山下は治五郎を見た。
山下にとって、治五郎は洋≠フ匂いのする人物であった。
ハイカラ。
日本国の最高学府で学びながら、アメリカからやってきたばかりのベースボールというゲームをやっている。
治五郎は、インテリ中のインテリである。
その治五郎の口から、山下にとっては、文明開化によって、自分の父親が失ってしまった職に関わるものの名前を聴かされたのである。
山下にとっては、すでに過去の職であり、まさか自分がそういうものにこれから関わるであろうとは考えてもいない名であった。
治五郎の口から、どうして、自分にとっては過去のものでしかないものの名前が出てくるのか。
そういう興味が湧いた。
「やっている」
治五郎は答えた。
その頬に、痣がある。
「その痣は、では――」
「柔術の稽古で作った痣だ」
治五郎は、まるで、その痣を自慢するように、楽しげに微笑した。
「では、前に見た痣も――」
「柔術の稽古で作った――」
治五郎は言った。
以前に、山下は、何度か治五郎の腕や脚など、身体のあちこちにできた痣を見ている。
「どうしたのですか」
とその時山下は治五郎に訊いているが、
「転んだのさ」
とだけ治五郎は答えている。
その時のことを思い出して、山下は治五郎に訊ねたのである。
転んでできた痣とは思ってはいなかったが、ではどうしてできた痣かとなると、山下も思い浮かばなかった。
それが、柔術であったとは――
「それより、もっと興味があるのは、嘉納先生がどうして柔術をやっているのかということです」
山下は素直に思ったことを口にした。
「ぼくが柔術をやるのが不思議かい」
「不思議です」
「何故?」
「先生が、ベースボールをやるのは、わかります。ですが、これからの時代に柔術など――」
「いらないと?」
「そこまでは言いませんが、先生の将来にとっては、必要ないのではないかと……」
山下は言った。
その問いに、治五郎は答えなかった。
答えぬかわりに、治五郎は笑った。
「今度、声をかけるから、一度、見にくるといい」
治五郎は言った。
「見に?」
「自分の眼で確かめるといい」
「何をですか」
「さっきの質問の答をだ」
「―――」
「ぼくの将来に――というよりは、この日本の将来に柔術が必要なのか必要でないのかをね」
「見に行けるのですか」
「もちろん」
山下が、治五郎に誘われて、福田道場まで出かけて行ったのは、それから三日後であった。
治五郎の人柄を信頼していたからである。
行っても、無理に入門を勧めたり、何度も見に来いと勧めたりするような人物ではないとわかっていた。
その日は、福田をはじめとして、青木や福島兼吉も道場に出ていた。
午後に道場に入り、夕刻近くまで稽古をした。
治五郎が、道場の面々と稽古をする姿を、山下はずっと正座をしたまま見つめていた。
最初に挨拶を交わした他は、山下はずっと無言であった。治五郎は治五郎で、そこに山下の存在などないように、いつもと同じ稽古を続けた。
ひと通りの稽古がすみ、最後は全員が師の福田を前にして正座をし、
「お稽古ありがとうございました」
挨拶をして、稽古が終った。
汗をぬぐい、稽古衣から着替えた治五郎が、
「では帰ろうか」
そう言うまで、山下は正座を続けていたのである。
座布団の上ではない。
道場の、畳を敷いてない板敷きの上である。
膝を崩せとも、治五郎は言わなかった。
ただ、放っておいた。
道場を出て、ふたりきりになった。
元大工町を、神田方面に向かって歩いている。
夕刻で、ちらほらと、早い灯りを点しはじめている家もあった。しかしまだ、空には残照が残っていて明るい。
からり、ころりと、ふたりの下駄が鳴る。
「どうだった、義韶くん」
治五郎が訊ねた。
「おもしろかったです」
山下が答えた。
「たいくつはしなかったろう」
「はい」
「柔術をやる気はあるかい」
治五郎の問いに、山下はしばらく沈黙した。
下駄の音だけがしばらく続いた。
やがて――
「ありません」
山下は言った。
「何故?」
「自分は、負けん気が強いからです」
「ほう?」
「たぶん、やれば、ぼくは負けます」
山下は、自分に言い聞かせるように言った。
「必ず負けます。道場にいる誰とやっても負けるでしょう」
「それはそうだろう」
治五郎は、この山下の実直な言い方に、好感を持っている。
「負けたら、くやしいです」
「ああ、くやしい」
「負けたら、ぼくは夢中になって稽古をするでしょう。他のことが眼に入らなくなってしまいます。ぼくは柔術にのめり込んでしまうでしょう」
「―――」
「それが、怖いです」
できるだけ正直な言い方になるように、考えながら、言葉を選びながら、山下は言った。
のめり込むのが怖い。
負けん気が強い。
温厚で、人当りのよい山下の性格の芯のあたりに、この負けん気の強さのあるところを、治五郎は正確に見抜いていた。
「怖いか」
「はい」
しばらく、また沈黙が続いた。
からり、ころりと、下駄の音が響く。
ゆっくりと、地上から明るさが消えてゆき、点る灯の数が増えてゆく。
「いつでもいいんだ」
治五郎は言った。
「やりたくなった時にやればいい」
「はい」
山下は、素直にうなずいた。
この山下の持っている特質のひとつに、真面目さがある。そして、その自分の特質を、山下はよく理解していた。
負けず嫌いの自分が柔術を始めたら、とことんのめり込んでしまうだろうというのは、かなり正確に山下が自分の性格を理解していたことを示す言葉であろう。
のめり込む――事実、山下は、後に講道館に入門してから、柔道にのめり込んでゆく。
狂ったように――ではない。
あくまで実直に、この男らしく山下は柔道にのめり込む。
この山下の奇妙なところ、あるいは人間としてのおかしみは、才を持ちながら自分にはその才がないと思い込んでいたところにある。
山下は、稽古によって強くなろうとした。
ある年に、年一万本の稽古を自らに課したこともある。
その年は、九千七百本までの稽古をした。
一万本まで、あと三百本。
それを達成することができずに、山下は泣いてくやしがった。
しかし、一年間に九千七百本と言えば、一日二十六本から二十七本の稽古を、毎日休みなくやらねばならない。それだけでも凄いことである。
とても常人に真似のできるようなことではなかった。ある種の狂気性がなければ、とてもなし得ることではない。しかし、眼を閉じて、この山下の姿を思う時、そこからはどのような狂気性も見えてはこない。
そこに、この山下義韶という人物の凄さがあるような気がする。
山下が、正式に講道館に入門するのは、これより数年後のことである。
明治十五年、開成学校があらたまった東京大学を、治五郎は二十三歳で卒業する。
それと共に、治五郎と山下との縁はいったん切れることとなった。
この同じ年に、治五郎は、嘉納塾と、そして講道館を創立することになる。
治五郎と、山下が再び出会うのは、この二年後の明治十七年であった。
つまり、講道館が、永昌寺から南神保町《みなみじんぼうちょう》に移ってからのことになる。
表神保町を歩いていた治五郎が、偶然に山下と出会い、ここからふたりの交流がまた始まることになる。
山下は、嘉納の家に出入りするようになり、翻訳の清書を手伝うようになった。
しかし、すぐに山下は講道館に入門したわけではない。
それでも、当然柔術の話くらいはしたであろう。
「今では、先生がここで柔術を教えておられるのですか」
山下は訊いた。
「いいや」
治五郎は、首を左右に振り、
「教えているのではない。わたしは、皆と一緒に柔術を学んでいるのだ」
このように言った。
「柔術と、今先生は言われましたが、ここで教えている柔道は、柔術なのですか」
「ここで学んでいる柔術のことを、わたしが柔道と呼んでいるだけだがね」
「―――」
「あえて言うなら、柔道というのは、嘉納流の柔術のことさ」
「嘉納流?」
「多くの柔術流派の様々な技や考え方をひとつにまとめたものが、柔道だよ」
「そんなに凄いものなのですか、柔道というのは――」
「これからさ。今、わたしは様々な柔術古流のよいところをひとつにまとめたものが柔道だとは言ったが、まだそれは完成していないのだ。柔道は、これから完成させてゆくべきものなのだよ」
治五郎は、泰然として、そう言った。
山下自身も、治五郎の所へ出入りをしながら、いやでも皆が柔道の稽古をする姿を見たことであろう。
そして、ある日――
「嘉納先生――」
山下は、治五郎の前に座し、あらたまった口調で言った。
山下の頬が、微かに赤く染まっている。
「自分に柔道を教えて下さい」
「負ける決心がついたか」
「はい」
山下はうなずいた。
「覚悟がつきました」
山下は畳に両手を突いて、頭を下げた。
こうして、山下は講道館に入門し、明治十七年八月十四日、治五郎の家に寄寓することとなったのである。
山下の上達は早かった。
入門した翌年、明治十八年の三月に初段。六月には二段。九月に三段。明治十九年五月には四段という異例の速度で昇段した。
山下の年間一万本稽古は、この時期に立てられた目標であった。
弟子たちが数いる中での一万本ではない。
周囲を見れば、富田常次郎、西郷四郎、横山作次郎をはじめとする猛者たちばかりの頃である。
彼らを相手にして、年間九千七百本まで稽古をしたというのは、よほどの気力がなければできることではない。
五段への昇段は、富田(山田)、西郷(志田)に遅れたが、六段については富田(山田)を追い越して、横山と並んでいる。
富田(山田)常次郎が昭和十五年七十三歳で没。この時、七段。
西郷(志田)四郎は、大正十一年に五十七歳でこの世を去ってから六段を与えられ、横山作次郎も五〇歳で亡くなったおりに八段を与えられている。
四天王の中で、唯一、十段を与えられたのが、山下義韶であった。
西郷が、若くして二十五歳で講道館を去り、横山が五十歳でこの世を去ったことを考えに入れても、誰よりも遅れて柔術を学んだ山下が、何ものかをまっとうしたことは確かであろう。
柔道が、海外に広まってゆくきっかけを、前田光世らに先がけて、いちはやくアメリカで作ったのも、この山下であった。
「素質よりも鈍根《どんこん》だ」
というのは、大成してからの山下の言葉である。
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四章 刺客
(一)
明治十八年九月――
池尻富興《いけじりとみよ》は、稽古衣を肩にかけて歩いていた。
深夜に近い時間であった。
神田の神保町にある下宿先まで帰る途中であった。
新潟の生まれだ。
講道館に入門したのが、一年前である。
郷里では、天神真楊流を学んでいた。学んでいたといっても、道場に通っていたわけではない。
父親の池尻常太郎が同流をやっていたのである。
常太郎は、もと武士である。江戸の講武所で、磯又右衛門の直門である福田八之助等と共に、鍛練をしていたというのが、常太郎の自慢であった。
東京へ出たら福田の門を叩け、というのが、父常太郎の口癖であった。
一〇歳になる頃には、もう、常太郎から柔術の手ほどきを受けていた。
はじめは、やる気がなかったが、無理矢理常太郎に技を教え込まれた。
十二歳の時に、近所の悪童たちに喧嘩をしかけられたことがある。
「もう、武士の時代ではない」
そう言って、からんできたのである。
あたりまえではないか
富興はそう思っている。
自分が生まれた時には、すでに維新は終っていたのである。知識としては自分の家がもと武士の家であったことは知っている。しかし、それは、それだけのことだ。
身分としての武士に、富興は、未練も興味もない。
武士かどうかということは、身分のことではなく、刀を腰に差しているかでもなく、心の問題であると思っている。心の中に、刀を持っているかどうか。何ものかを守るために、生命をかけて抜くことのできる刀を心に持っているかどうか。
十二歳ながら、そう思っている。
しかし、それを言っても始まらない。
左右は、植えられたばかりの稲の苗がある田圃《たんぼ》である。
無視をして、無言で通り過ぎようとした。
しかし、富興の行く手を彼等はふさいできた。
相手は三人。
いずれも、富興より一歳か二歳歳上である。
「刀がなければ、喧嘩もできんか」
「これからは、商人の時代だ。刀よりも銭がものを言うんじゃ」
真ん中で、そう言ったのは、作造という油屋の息子だった。
以前から、似たようなことで、しつこく富興にからんでくる人間たちであった。
富興が独りで歩いてるのを見て、ちょうどよいと思ってやってきたのであろう。
富興は、無言で、作造の横をすり抜けて歩き出した。
「こら」
「逃げるか」
「話はすんどらん」
三人が、富興の背に掴みかかってきた。
振り向きざまに、富興は、一番先に手を伸ばしてきた作造の腕を取って、投げ飛ばしていた。きれいに宙を飛んで、作造の身体は、田圃の泥の中へ、頭から突っ込んだ。
泥水が宙に跳ねた。
思わず、父親から学んでいた技が出てしまったのである。まるで、空気を投げたよりも手応えがなかった。自分の勢いで飛んだ分、空気より軽かったといっていい。
続くふたり目は、背中から、田の中へ落ちていた。
これも、手応えがない。
三人目は、富興に突きかかってくることができずに、そこに突っ立ったまま何か言っていたのだが、富興には、もう、そんな言葉は耳に入っていない。
富興は、感動していたのである。
人を投げるということは、こういうことであったのか。
日頃から、父の常太郎には、
「力を使うな。技を使え」
そう言われてきた。
その技を使うというのは、こういうことであったのか。
その日――
父の常太郎と稽古をした。
その最中に、常太郎が動きを止め、
「おまえ、何かあったな」
富興を見つめ、そう言った。
富興は、何も答えなかった。
常太郎は、
「技が変わった――」
不思議そうな顔で言った。
「昨日までより数段強くなっている」
そうも言った。
富興がとぼけていると、まあ、技が伸びる時はこういうものだろう、自分で納得したようにつぶやき、嬉しそうに笑った。
あの時から、柔術の稽古がおもしろくなったのだ――富興は、そう思っている。
「おまえには、素質がある」
常太郎からは、そうも言われた。
それで、上京する時には、福田の門を叩けと言われていたのである。
明治十七年――富興は上京した。
学問をするためである。
書生をしながら、兵学校へ入る試験を受けるつもりであった。
その前に、まず、福田の家を訪ねたのである。
そこで、富興は、福田八之助の死を知らされたのである。
「ならば、嘉納先生のところへ行きなさい」
福田の夫人にそう勧められた。
他に心あたりもなかったので、言われるままに講道館をたずねた。
福田のところで、ここを教えられたと告げると、嘉納は、
「では稽古をしていきなさい」
くったくのない表情でそう言った。
言われるままに、用意してもらった稽古衣に着替え、道場生たちと、乱取りをした。
もともと、天神真楊流が、柔道の核にある。
手は合う。
富興は、自信があった。
一〇歳の頃から、ずっと常太郎から柔術を学んでいるのである。ただの入門志願者ではないとの自負がある。
ましてや、柔道は、まだ道場を開いたばかりの流派である。
道場の中には、当然自分より強い者もいるだろうが、半数ぐらいには勝てるであろう。強い相手とやって、負けるにしても、不様な負け方はするはずがない――そう思っていた。
相手は、小男であった。
毬のようによく動く男だったが、組んでしまえばどうにでもなるように思えた。
しかし――
信じられないことが起こった。
組んだ途端に、天と地が逆さになっていたのである。
頭が下。
足が上。
身体が宙に浮かされていた。
自分の足越しに天井を見上げていたかと思うと、次の瞬間には、畳に叩きつけられていたのである。
何が起こったのか、自分がどう投げられたのかもわからない。
しかし、一度投げられたからといって、終りではない。
立ちあがって、すぐにまた組む。
今度は、大きく横に飛ばされていた。
また、立ちあがる。
組んだ途端に投げ飛ばされた。
組むと、二秒と立っていられないのである。
何度も投げられた。
「やめ」
という嘉納の声がかかった時には、もう、立っているのがやっとであった。
「筋は悪くない」
嘉納は、富興にそう言った。
その言葉も、ゆっくり聴いていられないほど、肩で息をしていた。
それでも、聴いておかねばならないことがあった。
「あの人は、どういう方なんですか」
富興は、治五郎に訊いた。
「志田四郎だ」
治五郎が教えてくれたその名前が、頭に焼きついた。
その場で、富興は入門を決めていた。
あれから一年。
まだ、講道館の入門者は、一〇〇人に満たない。
しかし、その人数の半分近くは、自分が入門した後に入った者たちである。
この一年で、倍以上、自分は強くなったと思っている。
最近では、稽古の後に、近くの神社で、独りでさらに稽古を続けている。
今は、その帰りである。
月が出ている。
月明りで、灯はいらない。
充分に歩くことができる。
小さく下駄を鳴らしながら歩いていると、ふいに、
「おい……」
暗闇から声がかかった。
(二)
富興は、立ち止まった。
「その稽古衣は講道館だな」
声が言った。
声は、斜め後方から聴こえてくる。
富興は、たたんだ稽古衣を帯で縛り、その帯を握って肩から背へぶら下げている。
富興は、振り返った。
そのあたりか――
と見当をつけた家の陰から、ゆらりと人影が月明りの中へ出てきた。
男であった。
全身が黒く見える。
夜のためばかりではなかった。
男が身につけているものが全て黒いのである。
袴までが黒い。
一瞬、富興は、物盗りかとも思った。
しかし、男の物腰からすると、どうやらそうではないらしい。
歩く足の踏み出し方や、腰のすわり具合からして、何かの武道を身につけているのだろうとわかる。
ゆるゆると近づいてくると、男は、五歩ほど向こうで立ち止まった。
「何か用か」
まだ、稽古衣を肩に掛けたまま、富興は言った。
「稽古をつけてもらいたい」
静かな声で、男は言った。
「稽古?」
「ここで、おれと試合《しお》うてくれと言っているのだ」
「―――」
「別に、武器は持っとらん」
そのくらいは、富興にもわかる。
持っているとしたら、懐に隠せるほどのものであろう。しかし、この男が武器を持っていないと言うのなら、そうだろうと自然に思った。
それを信ずることができる響きが、この男の声にはあった。
「名のらんでいい。おれも名のらん」
男は、淡々と言った。
声に、緊張がない。
かなり使う相手であろう。
富興は、無言で男を見つめていた。
「やらんのなら、それでいい。別の相手を捜す」
「別の相手というのは、講道館の、ということか」
「そうだ」
「講道館に、恨みでもあるのか」
「ない」
「ない?」
「講道館が、どれほどのものか、それを知りたいだけだ」
男は、静かに富興を見つめている。
身長は、五尺六寸か七寸くらいだろうか。
富興よりも上背がある。
男を見つめているうちに、富興は、自分の血が次第に熱くなってくるのを覚えていた。
いったい、自分の実力がどれほどのものか。
男の言うように、講道館がどれほどのものか、富興自身も知りたかった。
それを、他流と試すことができるのだ。
おもしろい。
決心がついていた。
「やろう」
富興はうなずいていた。
(三)
「ここで、いいのか」
富興は訊いた。
夜――
人通りがほとんどないとはいえ、天下の往来である。
闘っている最中に、人が来るかもしれない。
当人たちが納得している試合であっても、他人の眼にはどう映るかわからない。
場合によったら、講道館にどういう迷惑が及ぶかわからない。それに、嘉納治五郎からは、他流との試合を禁じられている。できれば人目につきたくない。
「かまわんだろう」
男は言った。
「それほど時間はかからんだろうからな」
その言葉を耳にして、富興は、かっ、と身の内が熱くなるのを覚えた。
時間がかからない――勝負は短い時間でつくと男は言っているのである。つまり、自分が勝つと男は言っていることになる。
しかし、虚勢を張っているような声音ではない。思ったことをそのまま口にしているような自然さがある。
呼吸が荒くなりかける。
深い呼吸を、数度繰り返し、富興は呼吸を静めた。
極度の緊張も、興奮も、闘いによい結果をもたらさない。どちらも身体の動きが荒くなるだけだ。
すっと気道が通り、呼吸が静まった。
「ほう」
男は、小さく声をあげた。
「みごとなものだ」
男の言葉は、聴き流した。
「わかった――」
富興は、履いていた下駄を脱ぎ、道の端に置いた。
そろえて置いた下駄の上に、道衣を置いて、再び富興は男の前に立った。
「おれも、勝負は早い方がいい」
素足で土を踏み、腰を落とした。
「うん」
男はうなずき、そのまま前に足を踏み出してきた。
男の背が、ふいに低くなったように思えた。
そうではなかった。
男は、足を前に踏み出しながら、下駄を脱いでいたのである。
下駄の歯の分だけ、身長が低くなったように見えただけである。男は、別に腰を落としたわけではない。
ただ歩いてくる。
思わず退がりたくなるような威圧感がある。
しかし、富興は下がらなかった。
つうっ、と富興は男を迎え撃つように前に出ていた。
左手で、男の右袖を掴み、右手で男の左襟を握った。
前に出てくる男の力を利用して、崩し、そして投げる。
崩れなければ、男の次の動きを待って、崩す。投げるよりは、まず、崩すことだ。
崩せば投げることができる。
場合によっては、肘か拳を当てて、崩す。
当て身を使うのは本意ではないが、そこまでやる覚悟はしておかねばならない。
組んだ。
組んだ途端に、富興は驚愕した。
岩だ。
そう思った。
動かない。
家一軒ほどもある岩。
それに触れたようなものだ。
触れただけで、わかる。
どれほど力を込めようと、それが人の力で動かないことがわかる。
巨大な量感を前にした時、人の力がどれほど微々たるものかがわかる。努力すればとか、あとどれだけ力をつければとか、どれだけ修業すればとか、そういう人間の尺度が入り込む余地がないのである。
それだけの圧倒的な量感が、この男にはあった。
動かない。
崩せない。
それが、組んだ時にわかった。
崩しようがない。
山を崩せないのと同じだ。
組んだ瞬間に、相手は、止まっていた。
浅く腰を落とし、袖だろうが襟だろうが、自由に富興にとらせた。
しかし、どうしようもない。
驚愕した次の瞬間、富興は恐怖していた。
どうする。
その方法論が、頭の中から消失していたのである。
肉体が、勝手に反応していた。
「せやっ」
肘を、打ち込んだ。
左襟を握った右手を引きながら、肘を折り、その肘先を相手の腹に向かって打ち込んでいたのである。
がつん、
とも、
ごつん、
とも聴こえた。
自分の肘が、相手の肉体を打つ音。
その感触。
これが、人の肉か。
「そこまでか、講道館は――」
ぼそりと、男の声が響いた。
「しゃあっ!」
富興は、裂帛の気合を放ち、男を腰に乗せて投げようとした。
崩しも何もない。
そういうことを忘れ果てていた。
がむしゃらに足を掛けにいった。
掛からない。
「つまらん」
男の声が、また聴こえた。
いきなり、富興の身体が浮いた。
投げられたとか、技を掛けられたというのではなかった。
ただ、大きな力によって上に持ちあげられた。
次の瞬間、富興の肉体は宙を舞っていた。
宙で富興の身体は一転し、背から地面の上に落ちていた。
受け身をとった。
しかし、下は、畳ではない。
硬い土の上だ。
したたかに背を打っていた。
思わず声が出ていた。
「がはあ――」
肺の中にあった空気を、全て外に吐き出していた。
苦しい。
すぐには、肺に空気を吸い込むことができなかった。
一度、二度、三度、空気を求めて、富興は魚のように口をぱくぱくとさせ、そして、ようやく息を吸い込んでいた。
ひゅう、
と喉が鳴った。
何度も何度も、富興は息を吸い、そして吐いた。
咳込みながら顔を起こし、男の姿を捜した。
男の姿はなかった。
向こうに、月光の中を去ってゆく男の背が見えた。
「ま、待て――」
富興は、左手を地面に突き、起きあがりながら言った。
しかし、もう、その声は男には届いていなかった。
(四)
「三人目になりますか」
静かな声でそう言ったのは、嘉納治五郎であった。
南神保町にある講道館。
治五郎の部屋であった。
治五郎は、書き物机として使っている座卓の前に、和装で座していた。
その正面に、稽古衣を着た、山田常次郎、山下義韶、そして、保科四郎が座している。
治五郎は、座布団の上に座しているのだが、三人は畳の上に直接座している。
保科姓は、志田四郎の新しい姓である。
昨年――明治十七年の五月に、志田四郎は、旧会津藩家老、保科近悳の養子となって、志田から保科へと改姓していた。
「昨夜が、河野勇二郎です」
山田常次郎が言った。
「その前が、北川音松だったか」
「そうです」
常次郎がうなずいた。
「その二名かと思っていたのですが、先ほど池尻富興がやってきて、半月ほど前に実は自分も同様の辻投げに合っていると報告にきたのです」
そう言ったのは、山下義韶である。
「ことによったら、もっと人数が増えるかもしれませんね」
治五郎は、腕を組んでつぶやいた。
三人の話を合わせてみると、一番最初に辻投げに合ったのは、池尻富興ということになる。
それが、半月前。
ふたり目の北川音松が、十日前。
三人目の河野勇二郎が、昨夜。
いずれも、ただ独りで、講道館から帰る途中で声をかけられている。
経過は、どの場合も同じであった。
講道館がどれほどのものかを知りたい――
声をかけてきた男は、そのように言ったという。
相手をしたくなくば、それでよい、そのまま帰るがいい――そう言われたからといって、そうですかと帰るわけにはいかない。
池尻も、北川も、河野もこれを受けた。
北川の場合は、男を背負おうとした途端に、背後から男が直に腕をからみつけてきたのだという。
顎の下に、男の太い腕が這い込んできて、締められた。
頸動脈を圧迫され、血脈を止められて、落ちた。
河野は、北川のことを知っていたので、最初から、当てにいった。
組むと見せかけて、拳で頬を打ちにいった。
これをあっさりとはずされて、その勢いのまま、背負われて、地面に叩きつけられている。
それで、動けなくなった。
地面の上だ。
投げ落とされれば、ダメージは大きい。
すぐには呼吸ができない。
喘いでいると、
「こんなものか」
そういう男の声が響いてきたという。
「物盗りではないようなのですが」
常次郎は言った。
三人とも、懐に、わずかながら金の入った財布を持っていたが、いずれも男がそれを盗ろうとした形跡はない。
「どの時も、同じ男と考えてよいのでしょうか」
山下が言った。
「おそらく、そうでしょう」
治五郎がうなずいた。
「誰が、こんなことをしているのですか」
「他流の、講道館に恨みを持つ者がやっているのでしょうか」
常次郎と、山下が続けて言った。
講道館の門をくぐった人間は、すでに一〇〇人を超えている。
他の古流柔術では、ありえぬことであった。
全国の門人数では、一〇〇人を超える流派はむろんあるが、起こしたばかりの新しい流派が、たちまち門人を一〇〇人に増やすことなどありえぬことであった。
どこかの流派の人間が、それに嫉妬してことに及んでいることも考えられる。
「誰だかは、わかりません。しかし――」
「しかし?」
「恨みというのとは、多少違うかもしれませんね」
「何故です?」
「恨みからであれば、もっと大きな怪我を負わせることもできたでしょう」
治五郎は言った。
確かに、治五郎の言う通りであった。
三人が三人とも、大きな怪我を負ったわけではない。
一〇日ほどは、腰や背の肉や骨が痛むかもしれないが、放っておいてもいずれは治るものであった。
医者へ行ってどうのこうのというほどの話ではない。
「そうですね」
うなずいたのは、常次郎であった。
「池尻の他にも、もうひとり、男と出会った門下生がいるのですが――」
常次郎は言った。
「もうひとり?」
「はい。申しあげようと思っていて、つい、話を切り出す機会を見つけられなかったのですが、何日か前に、その男らしい人物に声をかけられたことがあると、言ってきた人間がいるのです」
「誰ですか」
「伊藤直文です」
「どういうことだったのだね」
「たぶん五日前の晩だったらしいのですが、伊藤も、夜道を歩いていて、その男らしい人物に声をかけられたというのです」
「それで――」
「他流との試合は止められているので、闘えないと言ったら、そうか、とそう言って、あっさり男は引き下がったそうです」
「なるほど」
「もし、この男が講道館を恨んでいるのなら、無理矢理にでも勝負を挑んでくるところでしょう」
常次郎は言った。
他流どうしの試合は、どちらも大きなリスクを背負うことになる。
負けた方の流派は面子を潰すことになるし、負けた人間は、流派の名誉に泥を塗ったということで、その流派にも居にくくなる。
後に遺恨を残し易い。
それで、よほどの信頼関係がなければ、他流との試合はやらないことになっている。
もしもやる場合には、流派の長の許可が必要となる。
「まだ、本気ではないでしょう」
治五郎がつぶやいた。
「本気ではない?」
常次郎が言った。
「相手には、まだ、ゆとりがあります」
そう言ってから、治五郎は、ちらりと保科四郎に視線を送った。
四郎は、畳の上に正座をして、先ほどからずっと無言であった。
治五郎を見るでもなく、常次郎や山下を見るでもなく、正面に視線を据えて、ただ、凝っと座している。
「我々のところへ来れば――」
山下が、歯を噛んだ。
山下も、常次郎も、四郎も、講道館に寄宿している。
どこかから通っているわけではない。
だから、その辻投げの男に夜声をかけられるということはない。
声をかけられるのは、自然に、外から通ってきている門下生に限られることになる。
その時――
「先生――」
声がかかった。
若い道場生が、稽古衣姿でやってきて、
「井上敬太郎先生がお見えになっております」
そう告げた。
(五)
短い挨拶をすませると、
「困ったことになりました」
井上敬太郎は、そのように治五郎に切り出した。
「と言いますと?」
治五郎が、井上に問うた。
「先日、うちの道場で話をした件です」
「横山作次郎君のことですか」
「そうです」
井上はうなずいた。
横山の名前が出た時、山田常次郎も山下義韶も、
あの男のことか
そういう顔つきをした。
ふたりとも、井上道場の横山のことは話に聴いているし、本人に会ったこともある。短い挨拶程度の会話ならしたこともある。ただ、まだ手合わせをしたことがない。
唯一人、少しも表情を変えなかったのは、保科四郎であった。
四郎だけが、井上道場時代に、横山と手合わせをしている。
井上が部屋に入ってきた時、治五郎は、山下、山田、四郎の三人を退がらせようとしたのだが、
「いや、そのままで」
三人が部屋に残っていても少しもかまわないのだと、井上自身が治五郎に言ったのであった。
治五郎と一緒に部屋にいる三人の顔ぶれを見て、何やら取り込み中であったことを、すぐに理解したのだろう。
「わたしの方こそ、突然にお邪魔をして、皆さんのお話の邪魔をしてしまったようですね」
ていねいな口調でそう言ったのである。
「お取り込み中であれば、日をあらためますが――」
そのように言った井上に対し、
「いいえ。話は今済んだところです。ちょっとしたできごとがありまして、場合によっては、井上先生にも御相談しようと考えておりました。いらっしゃっていただけたのなら、ちょうどよいところでした」
「何でしょう」
「いえ、我々のことよりもまず、井上先生のお話からうかがいましょう」
治五郎は、そう言って座るよう井上を促したのであった。
「失礼いたします」
井上は、山田常次郎が用意した座布団の上に正座をし、あらためて一同と短い挨拶を交し、さきほどの困ったことになりました≠ニいう言葉を口にしたのである。
「横山くんが何か――」
治五郎が訊いた。
「ひと月前に横山自身が言ったことが、まだ、本人の中で燻っているようなのです」
「ははあ――」
治五郎は、うなずくともなく井上を見やり、何ごとか了解できたかのように、小さく顎をひいてみせた。
ひと月前――
その日、治五郎は所用があって、単身、井上の道場に出かけて行った。
そこで、あるできごとがあったのである。
(六)
所用を済ませ、帰ろうとした治五郎に、
「久しぶりに、稽古でも見てゆきませんか」
井上が声をかけた。
急ぎの用事があるわけではない。時間はある。
「そうですね、拝見させていただきます」
井上の家は、道場と一緒であった。
一軒の家の、東側が道場になっており、西側に井上が住んでいる。
道場部分の方が大きい。畳で三十六畳ある。
道場の壁際に治五郎は、井上と並んで座した。
正座である。
道場では、八人の男たちが、稽古をしていた。
乱取り――
自由に相手と組み、投げたり投げられたりする。
知っている顔が何人かいた。時おり、井上道場には顔を出してゆくので、新人でない限り、一度は治五郎はその顔を見ているはずであった。
稽古を眺めているうちに、治五郎は奇妙なことに気がついた。妙に、肌にぴりぴりと触れてくるものがあるのである。自分を包む空気がささくれて、そのささくれの先が肌に触れてくる――
そういう感触であった。
それが何であるか、治五郎には、やがてわかった。
ひとりの道場生が、稽古中に、治五郎に向かって時おり視線を放ってくるのである。その視線が治五郎にからみついて、その奇妙なささくれを肌にもたらすのであった。
盗み見る――というのではない。
その男は、あからさまに治五郎を見つめてくる。
睨む、というのとは違うが、挑戦的な視線であった。
時には、相手を投げ飛ばす時も、その相手を見もしないで、治五郎に視線を送ってくる。相手の身体が宙に舞い、背から畳の上に落ちる時も、そちらを見ず最後まで治五郎を見ているのである。
自分の力を誇示しているようにも見える。
どうだ――
とその眼が治五郎に向かって言っている。
このおれはどうだ。
技は、大きかった。
力強く、疾い。
荒々しいが、粗雑ではない。
力で、相手の肉体を持ちあげる。樹を、その根ごと引き抜くように、畳の上から相手の身体を引っこ抜く。そして、投げる。
宙に浮いた相手の肉体は、講道館風に言うなら、崩された状態にある。この崩しを、この男は並はずれた膂力でやってのけるのである。
崩し、投げる。
その柔《やわら》の理にかなっている。
福島兼吉の力をさらに強くして、さらに、それに技の術理が加わったようなところが、この男の闘いぶりにはあった。
技の術理といっても、細かい次元のことではない。一見は荒っぽく見えるような技も、そこには基本的な理が通っているということである。
その男のことなら、治五郎は以前から知っている。
井上道場の猛者。
横山作次郎であった。
何度か顔を見たこともあるし、挨拶を交したこともある。
こうした乱取りを横山がやっているのを見るのは、二度目のはずであった。
最初は、三年前か、四年前か――志田四郎を見た時だ。あの時も、この横山の乱取りを見ている。
あの時も、力の強さや、技に入る時の疾さには舌を巻いたが、今は、さらに力も強くなり、さらに疾くなっている。
横山の乱取りの相手をしている男も、かなりの実力者と見えるが、横山にはかなわない。
横山が、治五郎に声をかけてきたのは、井上が、
「やめ」
の合図をして、乱取りが一段落して、ひと息ついた時であった。
道場から退出しようと立ちあがった治五郎のもとへ、横山が歩み寄ってきたのである。
「嘉納先生」
治五郎の右手から、横山が声をかけてきた。
治五郎は、足を止めて、声の方へ視線を向けた。
「横山です。ごぶさたしております」
横山の視線が、正面から治五郎を見すえていた。
一度視線が合ったら、そらすことができなくなりそうな視線であった。
この視線から視線をそらす時は、そらす方が敗北を認めねばならないような、そういう視線であった。
「嘉納先生には、前々からひとつおうかがいしたいことがありました」
横山は言った。
「何かね」
「志田四郎のことです」
横山は、まだ、志田四郎が保科四郎となったことを知らないらしい。
「四郎が何か」
「以前、先生がこの道場にいらっしゃったことがありました。覚えておられますか――」
「覚えている」
「あの時、嘉納先生は、自分の門下に志田をもらえまいかと、井上先生におっしゃいました」
横山の言う通りであった。
そこで、治五郎は志田四郎と稽古試合を行ない、そして勝っている。
その時、横山もそこにいたのである。
「何故、自分ではなかったのですか」
横山はそう言い、
「何故、自分ではなく、志田だったのですか――」
同じ問をさらに繰り返した。
「横山!」
治五郎の横にいた井上が、強い口調で横山をたしなめた。
「嘉納先生に失礼だぞ」
むっとした顔で、横山が口をつぐんだ。
不満そうな表情で、顔がふくれあがりそうになっている。
心に生ずるどのような感情であれ、この男はその表情に表わしてしまうであろう。どれほどわずかな感情にしろ、この男はそれを隠せそうにない。
激情すれば、たちまちそれが顔から噴きこぼれてくるに違いない。
なんと直截《ちょくさい》な……
治五郎は、むしろ横山に好感を持った。
思わず、口元に笑みが浮かびそうになったが、治五郎は、それを意識してこらえた。もしもここで笑みを浮かべたりしたら、この男はそれを誤解するであろう。
「かまいませんよ。失礼などということはありません。井上先生、少し彼と話をしたいのですが、よろしいですか」
治五郎は言った。
井上は、治五郎を見やり、横山を見やり、
「え、ええ」
とまどいながらうなずいた。
「あの時、講道館へ来ないかと誘ったのが、何故、きみではなく志田であったのかということかね」
治五郎は、改めて問うた。
「そうです」
横山はうなずいた。
そうか――
この時、治五郎は、ようやくこの横山が何故、このようなことを訊ねているのか、その理由に思いあたった。
自分を選ばずに、志田を選んだ。
それが、横山には不満であったのだ。
それは、治五郎があの時選んだ人間が、そのおり道場で稽古をしていた道場生たちの中で一番強いと治五郎が考えた人物であったに違いないと、横山が思い込んでいるからである。
確かに、あの時自分は、志田四郎に対して興味を持った。強いとも思った。しかし、それと同様のことを、実は横山に対しても感じていたのである。
単に強さということのみなら、横山の方が強いと自分は判断していたはずである。それを、どうして志田にしたのか。
色々な理由はある。
あの時は、始めから志田に興味をもって、井上道場の門をくぐったのである。
猫の三寸返り
を見たからだ。
いったい、どのような稽古をしているのか、それに興味を持ったのだ。
それで、乱取りを見ているうちに、自分の身体でそれを味わってみたくなり、試合ってみたら、どうしても講道館で志田を育ててみたくなったのだ。八重との繋がりもある。その意味で、講道館と志田四郎とは、まるで無縁ではない。
だから、志田が欲しいと井上に告げたのである。
しかし、欲しいというのなら、横山だって欲しい。
志田を訪ねて行ったら、井上道場には志田とはまったく別の闘い方をする、横山を見た。志田とは、タイプは違うが、それはまたそれでおもしろい。
ぜひ講道館に欲しい人材であった。
しかし――
志田も横山も欲しいと、そこまで井上には言えない。
だから、志田の名前をあの時出したのだ。
それを、この男はずっと不満に思っていたらしい。
だが、そういう自分の心の綾を、今、ここで横山に説明しきれるものではない。むしろそれを、横山は言いわけととるであろう。
治五郎は、横山の問いには、答えなかった。
「きみも、講道館へ来るかね」
思わず、そう言っていた。
「講道館へ?」
「ああ、そうだ。柔道を一緒にやってみる気はないか」
「はぐらかさないで下さい」
横山は言った。
「はぐらかしてなどいないよ。もし、きみが講道館へ来たいというのなら、井上先生にはわたしの方からお願いするよ。井上先生の許可なしには無理だが、井上先生がそれを許して下さるなら、講道館は、喜んできみのために門を開きたい」
「―――」
横山は、次の言葉に詰まった。
顔を赤くして、むっとしたような顔のまま治五郎の顔を見ていた。
「かまわんよ」
横で、ふたりのやりとりを聴いていた井上が、そう言った。
「嘉納さん。横山は、さっきから、自分も講道館に行きたいと、そう言っているのですよ。嘉納さんが、講道館へこないかと言った時に、わたしにはそのことがわかりました」
治五郎から横山に向きなおり、
「横山、講道館へ行きたいというのなら、わたしには、どういうわだかまりもない。嘉納さんとは同門で、嘉納さん自身は柔道という新しい派を起こされたが、同時にまだ天神真楊流の門人でもある。だからこそ、こうして今も、嘉納さんはわたしの所へ訪ねてくるし、わたしも嘉納さんの所を訪ねてゆく――」
「―――」
横山は、口をつぐんだまま開かない。
怒ったような顔になっている。
「ただし、講道館へ行きたいのなら、自分の口で、それを言うことだ。わたしも、おまえが行きたいと言わぬのに、無理に行かせるわけにはゆかぬからな」
井上は言った。
しかし、まだ、横山は口を閉じている。
「講道館には、志田四郎がいる」
「―――」
「ゆけば、また、志田と試《ため》し合いをする機会もあろう」
そこで、初めて、何か痛みでもこらえるように、横山は低く喉を鳴らした。
志田――保科四郎は、井上の道場を辞める前に、横山を投げている。
横山を投げ、そして井上道場を出た。
横山にとっては、勝ち逃げされたことになる。
「どうする?」
井上が訊いた。
そこで、横山は、ようやく口を開いたのであった。
「わたしは……」
横山は言った。
言い辛いことをこれから口にしようとしているかのように、口ごもり、横山はそこで言葉を切った。
「わたしは……」
もう一度言った。
「わたしは、自分より弱い方に、教えを乞うことができません」
横山は、ひと息に、吐き出すようにそう言った。
「わたしは、自分の性格がよくわかっております。嘉納先生に教わるのなら、それは自分が嘉納先生に負けてからです。そうでなければ、わたしは、講道館へ行っても、嘉納先生に迷惑をかけることになります」
胸中の火を吐き出すように、横山は言った。
「横山。嘉納先生に失礼ではないか。
おまえは強い。今では、おまえはわたしよりもずっと強くなっている。今のわたしがおまえと闘えば、きっと負けるであろう――」
「しかし、先生は先生です」
「おまえに勝てぬぞ」
「かつて、わたしは先生に挑み、敗れました。それで先生の門下に入りました。わたしにとって、師事するというのは、そういうことなのです」
「では、わたしとここで試合うかね」
横から治五郎が言った。
横山は、首を左右に振った。
「いやかね」
「いやではありません」
「では、どうして――」
「それでは、志田と同じだからです」
駄々っ子のように、横山は言った。
自分でも、どうしていいかわからないというように、横山は口をつぐんだ。
その顔をしばらく見つめてから、
「わかった」
治五郎は言った。
「きみ自身が、自分で自分の気のすむ方法を探すのだな」
治五郎の右手が、小さく横山の肩を叩いた。
「井上先生、今日は、これで失礼いたします――」
治五郎は、そう言って、横山に背を向けて歩き出した。
そういうことが、ひと月ほど前にあったのである。
(七)
「それで、横山のことで何かあったのですか」
治五郎が、井上に訊ねた。
「ええ、実は……」
そこまで言って、言いにくそうに、井上は次の言葉を飲み込んだ。
「どうなさいました」
治五郎が訊いた。
「それが、大変申しわけないことなのですが――」
「何でしょう」
「横山が、辻投げをやっていたのです」
「辻投げ?」
「はい。それも、講道館の門弟ばかりをねらって、これまでに三人、投げたと言っておりました」
井上は、顔をあげてそう言った。
治五郎は、常次郎、山下、そして四郎の三人と顔を見合わせてから、
「そうでしたか」
うなずいた。
「実は今、井上先生に御相談したいことがあると言っていたのも、その件だったのですよ」
「むう……」
「先生がいらっしゃるまで、ここでその話をしていたのです。ちょうどよいところにいらっしゃっていただけたようですね。なるほど、そういうことでしたか――」
「申しわけありません」
井上が頭を下げる。
「井上先生が謝るには及びません。わたしも、不注意なことを言ってしまいました」
治五郎は言った。
顔をあげた井上に、
「しかし、どうして、井上先生がそのことをお知りになったのです」
「しばらく前に、本人がわたしのところへやってきて、そう言ったのです」
「本人が――」
「そうです」
うなずいて、井上は、語りはじめた。
昼前、自室にいる井上のもとへ、横山がやってきたのだという。
井上の前に座した横山は、
「先生に、お話ししなければならないことがあります」
迷いのない顔で、そう言ったという。
「何だね」
井上は、横山に訊いた。
「実は、辻投げをやっておりました」
正座した太い股に掌を置き、胸を反らせたまま横山は言った。
「辻投げ?」
すぐには、井上も、横山が口にした言葉の意味がわからなかった。
それにかまわず、
「相手は、講道館です」
横山は、正座したまま、平然と言った。
「嘉納先生の門下生を投げたというのか」
「投げました」
顎を動かしもせず頷いて、横山は辻投げのことを語ったというのである。
「それで?」
治五郎は、井上にその先をうながした。
「わたしは、すぐに、そのような真似はやめるように横山に言いました」
井上は、声を荒くして、横山を叱った。
講道館へ出かけてゆき、全てを治五郎に話して、謝罪せねばならない。
井上は、そう横山に言った。
井上としては、横山が自分に辻投げのことを打ちあけたということは、当然謝罪の意志が横山にあるものと考えたのである。
ところが、そうではなかった。
「わかりました」
いったんうなずいてから、
「今夜を最後にします」
横山は言った。
「今夜だと!?」
「はい」
「まだ、やるつもりか」
「今夜あたりは、歯応えのある人間が出てくるような気がしますので――」
「横山っ」
「自分には、こういうやり方しか思いつきません」
「馬鹿!」
「自分は、馬鹿です」
横山は、井上にむかって、丁寧に頭を下げた。
横山作次郎、この時二十三歳。
まだ、多感な若者である。
「もうしわけありません」
横山は、片膝を立て、立ちあがろうとした。
「待て」
井上が片膝を立てた時には、もう、横山は立ちあがっていた。
「失礼いたします」
背を向けて、横山は歩き出していた。
「横山っ!」
強引に後ろからかかって、強引に横山を押さえつけようとしたが、その背に隙がない。
上手に、先手先手と横山に間をはずされていた。
そのまま、下駄を突っかけて、横山は外へ出ていた。
「それで、こちらへうかがったのです」
井上は、治五郎に向かって言った。
治五郎は、何やら納得したらしく、
「なるほど、そういうことでしたか」
井上に向かってうなずいた。
「そういうわけです。こういう役をやることになってしまいました」
井上もまた、治五郎に向かってうなずいていた。
「井上先生が、果たし状ということですね」
「はい」
もっと強い相手を出せ
横山は、井上敬太郎を通じて、そういう挑戦状を講道館に対して突きつけたことになる。
今夜を最後……
今夜あたりは、歯応えのある人間が出てくるような気がする
井上も、治五郎も、それは承知している。
横山が、辻投げのことを打ちあけた以上、井上も放ったままにはしておけない。講道館へ出向いてこの話をしなければならない。そうすれば、自然に、自分がもっと強い相手とやりたがっているということが、治五郎に伝わるであろうと考えての横山の発言であった。
――強い男を待っている。
横山の肉声が聴こえてきそうであった。
「あの男も、どうしていいかわからんのでしょう」
井上は言った。
「わたしが、不注意でした」
治五郎が、井上に頭を下げた。
「不用意に言葉をかけてしまいました」
「嘉納さん、あの男が特別なのです。嘉納さんに、責任があるわけではありません」
言った井上が、そこで、あらためて居住まいを正し、治五郎を見やった。
「嘉納先生……」
「何でしょう」
「横山は、やめる気です」
「やめる?」
「柔術をです」
「何故です?」
「あの男は、講道館に勝ったら、やめるつもりなのです」
「―――」
「講道館に勝てば、いずれにしろもうわたしのもとへはもどってこないつもりなのでしょう。
嘉納先生の門下生を辻投げしておきながら、それに勝ったからと言って、わたしのところへもどってくるとは思えません」
「―――」
「横山が、最近、妙な連中とつきあっているのは、わかっています」
「妙な連中?」
「博打打ちです」
「ほう」
「講道館に勝ったら、彼らの仲間になってしまうことでしょう」
「―――」
「あの男は、一〇年にひとりの逸材です。いずれにしろ、もう、わたしのところへもどってくることはないでしょう」
井上は、畳に両手を突き、
「お願いします、嘉納先生――」
頭を下げた。
「横山に、講道館の誰かが、勝ってほしいのです。講道館に負けたらば、おそらく……」
そこで、井上は、言葉を捜しあぐねたように唇を閉じた。
「おそらく?」
治五郎が問うた。
井上は、小さく首を左右に振って、
「不器用な漢ですから……」
そうつぶやいた。
柔術の新しい勢力である、講道館柔道――そこへ入門して、自分の力を存分に試してみたい。
しかし、入門にあたっては、保科(志田)四郎と同じ道を通りたくない。
横山は、意地を張っている。
嘉納治五郎の体捌きを、横山は井上道場で見ている。志田四郎と闘い、片羽締めで、治五郎が勝った試合だ。
あの動き。
あの技。
自分も、あれを体験してみたい。
治五郎の動く肉体を体験してみたい。
志田四郎が、講道館に入門してからも、四郎のことや講道館のことが、横山の気にかかっていたのである。
あれからも、何度か治五郎は井上道場へ顔を出している。その時に、稽古を申し込めば、あるいは治五郎は、それを受けてくれるかもしれない。いや、治五郎は受けるであろう。
だが、それを横山は言い出せなかったのである。
そして、ついには辻投げという行為に及んだのである。
井上は、それをよく理解している。
横山のそういう気持ちを、師としてもう少し受けとめてやるべきであった。横山の気持ちをわかっていたからこそ、
横山は、さっきから自分も講道館に行きたいと、そう言っているのですよ
あのような発言もしたのだが、それも今思えば不用意な発言であった。
横山の気持ちへの配慮が足りなかった。
そう思う。
今も、井上は、それを口にしかけた。
横山は、負けたら講道館に――そう言おうとしたのだ。
しかし、今の横山の気持ちが、そんな単純なものであるはずもない。横山自身もまた、自分で自分の気持ちを計りかねているというのが、正直なところであろう。
勝とうが負けようが、横山は、武の道から離れて、別の世界へ行ってしまうのではないか。
井上はそう思っている。
今、横山はその岐路に立っている。
もはや、横山は自分の手を離れている。
「よろしくお願いします」
井上は、治五郎に、また頭を下げた。
そう言うしかない。
その時――
「先生――」
治五郎に声をかけてきたのは、山下義韶であった。
「どうした、山下」
「お願いがあります。この試合、わたしが受けたいのですが」
「試合?」
「先生も言ったではありませんか。これは、横山からの挑戦状です。わたしにやらせて下さい」
山下の眼が、治五郎を睨むように見た。
治五郎は、黙ってその視線を受けた。
「お願いいたします」
山下が、また、頭を下げた。
「そうか、試し合いか……」
治五郎が、自らに言い聴かせるようにつぶやいた。
「ええ」
山下がうなずいた。
講道館の門下生が、井上道場の横山に、稽古をつけてもらっている――たまたまそれが路上であったということだ。
武器を使用しているわけではない。
後ろからいきなり襲ったわけでもない。
名こそ名のらなかったものの、試し合いを申し込み、それを受けた相手とのみ闘っているのである。
「先生が許して下されば、横山の出没しそうなあたりを、稽古衣を持って歩いてきます。むこうから声をかけてくるでしょう」
山下はそう言った。
それこそが、横山の望みであろう。
講道館に入門してから、まだ一年余りしか経っていないが、誰よりも多く稽古しているのが、この山下であった。
四郎や山田常次郎に比べれば遅れて入門をしているが、すでに実力では、このふたりに次ぐ位置にある。
稽古の量に限って考えたら、講道館随一と言っていい。
時には常次郎でさえ、山下をもてあます。今いきなり乱取りをやらせたら、どちらが勝つかは何とも言えないところがある。
実力的には、これまで横山に辻投げにあっている三人とは比べられない。
そこへ――
「自分とやらせて下さい」
そう言ったのは、これまで、凝っと口をつぐんでいた保科四郎であった。
「これは、自分にも関わりのあることですから――」
表情の見えない、堅い声であった。
「いえ、自分が――」
山田常次郎も、名乗りをあげていた。
講道館の実力者、上位三人が、自分が横山の相手をしたいと言ってきたのである。
「待ちなさい」
そう言ったのは治五郎であった。
「横山君の相手を講道館がするというのは、これはやむを得ぬことでしょう」
治五郎は、井上と、それから弟子の三人に向かって言った。
「しかし、誰が相手をするにしろ、外でというわけには行きません」
治五郎の言葉に、井上がうなずいた。
「三人のうちで、横山君の顔を知っているのは、保科と山田でしたね」
ふたりがうなずいた。
「では、ふたりで、今夜、心あたりの場所を捜して、会ったら、わたしと井上先生が待っているからと言って、ここまで横山君を連れてきて下さい。講道館が相手をするからと――」
「ふたり一緒にですか。別々にですか――」
山田常次郎が言った。
「別々にゆく方が、早く出会えるでしょう。横山君も、ひとりの方が声をかけやすいでしょう」
「では、ひとりずつでいいのですね」
「ええ」
「横山君を連れてきた方が、彼と試合えるということですか」
「考えておきましょう」
治五郎は言った。
(八)
山下義韶は、道場の中央に座していた。
正面に神棚がある。
ただ独り、山下は、その神棚を見るともなく見つめていた。
その顔に、ぬぐおうとしてもぬぐおうとしても、不満そうな表情があらわれてくる。
上から吊るされたランプの灯りが、畳の上に座した山下の影を落としている。山下の頬と鼻に、ランプの炎の色が揺れていた。
治五郎と井上は、治五郎の自室にいる。
保科四郎と山田常次郎は、すでに外へ出ていた。
いくら顔を知らぬからといって、自分だけが、横山をここへ連れてくる役をもらえなかったのが、山下には不満であった。
考えておく――と治五郎は言った。
おそらく、ここで横山の相手をするのは、四郎か山田か、そのどちらかになってしまうであろう。
だが一番先に、名乗りをあげたのは、この自分なのだ。
日に日に強くなっている――
その実感が山下にはある。
めきめきと、音をたてて自分の肉体が強くなってゆくようであった。強くなることがおもしろくてたまらない。
駆け昇るようにして、先輩たちを追い抜いてきた。
入門して、一年余り。
すでに、実力で言えば、自分より上には山田と四郎しかいない。
このふたりの強さは、他の道場生とは別格であった。
さらに、保科四郎の強さは別格である。
だが、自分は、もうそのふたりに次ぐ場所まで来ているのである。
その自分の強さを試してみたかった。
他流の人間とやれば、それがわかる。
講道館がどれほどのものか、自分が学んできた技術がどれほどのものか、自分がどれほどのものか、山下はそれを知りたかった。
横山の名であれば、山下も知っている。
知らぬ者がない、天神真楊流井上道場の門下生である。
その横山とやってみたかった。
自分が学んだ柔道は、優れた技術の体系であると思っている。
他の流派で、秘伝と言われている技も、ここでは自然に学ぶことができる。
人が、何故倒れるのか、どうして人が人を投げることができるのか、それを自分は知っている。柔の術理を、神秘的な力としてではなく、技術として学んだ。他の流派で四年から五年かかるものを、講道館では一年余りで学ぶことができると思っている。
横山が、どれほど強いと言っても、何ほどのものかという思いがある。
しかし、このままでは、自分は横山と闘うことはできない。
そもそも、出会って道場へ来いと告げて、はいそうですかと道場へやってくるであろうか。
来るわけはない。
横山にしてみれば、講道館は敵地ではないか。
一対一で闘うという保証がどこにあるというのか。
数人がかりで、横山を袋だたきにするかもしれないのだ。
もちろん、治五郎がそんな真似をするわけもないし、自分たちも、そういうことをしようとは思っていない。自分で言えば、尋常の勝負がしたいだけだ。
だが、それがどうして横山にわかるというのか。
横山が、優れた武道家ならば、当然、警戒して来るわけはない。
すると、どうなるか。
出会ったその場所で、勝負をしようということになる。
人気のないところへ行って、そこで闘おうではないかと、横山は言うであろう。
そう言われたら、山田も四郎もそれを受けるだろう。自分だったら受ける。
言いわけはできる。
すでに、路上でやったこれまでの闘いを、治五郎は、稽古であると認めているのである。
自分が行きたかった。
座して、心を静めようとしても、自然に気持ちが猛《たけ》ってくる。
横山作次郎――
いったい、どういう男なのであるか。
山下は、眼を閉じた。
同じ速度で呼吸を繰り返す。
肉の内部が熱い。
火炎が、噴きあげて、肉を焦がしている。
呼吸は、その炎に風を送るようなものであった。
自然に、呼吸が荒くなってくる。
身体を、動かしたくて、動かしたくてどうしようもない。
肉を使う――それが、自分にどれだけの悦びをもたらすのか、わかってしまった。
もう、この道から、自分は逃れられないと山下は覚悟している。
この道で、どこまで登りつめることができるか。
それを、自分の肉体に問うてみたかった。
今なら――
今なら、誰とやっても負ける気がしなかった。
こんなに、肉体が動くことを欲しているのだ。
獅子とだって、闘えるような気がしている。
横山作次郎、何ほどのものか。
山下がそう思った時――
「ごめん」
道場の玄関で、声がした。
戸の開く音がして、
「ごめん」
また声がした。
男の声である。
山下は、眼を開いて立ちあがった。
玄関へ出ると、そこにひとりの男が立っていた。
眼光の太い男であった。
上背もある。
身体つきもがっしりしていた。
ひと目で、何かやっている男とわかった。
玄関に置かれたランプの灯りが、男の眼に映っている。
「どちらさまでしょう」
山下が問うと、
「横山作次郎と言います」
男が答えていた。
「横山――」
山下の後方で、声がした。
井上の声であった。
山下の背後に、井上と治五郎が立っていた。
「先生――」
横山が、井上を見た。
「横山、おまえ、外で辻投げをするのではなかったのか」
井上が訊いた。
「やめました」
横山は言った。
「やめた?」
「神保町のあたりで、ひとりで待ったのですが、待っている間に、恥ずかしくなりました」
「恥ずかしくなった?」
「はい」
横山は、悪びれることなく、うなずいた。
「今日は、ずっと、昼に先生に言ったことを考えておりました」
「―――」
「先生には、たいへん申しわけないことになってしまったことを、ずっと後悔しておりました」
横山は、言葉を切って、治五郎と井上を見た。
この横山を、山下はずっと見つめていた。
なんという男であろうか。
眼の前に立っただけで、風圧のごときものが、この男から届いてくるのである。山のようなたたずまいを持った男であった。自分の方が、上に立ってこの男を見下ろしているはずなのに、この男の方から見下ろされているような気がする。
これが、横山作次郎か。
「嘉納先生、申しわけありません。自分は、講道館の門下生に辻投げをしておりました」
素直な言葉で、作次郎は言った。
「今夜を最後にと思って、暗闇に潜んでいたのですが、これはどうも、自分のやり方ではないことに気づきました。お恥ずかしい限りです。この辻投げには、ずっと忸怩たるものを感じておりました。初めからこうすればよかったのです」
「こうすればとは?」
治五郎が問うた。
「こうやって、直接、講道館へ来ればよかったということです」
「ほう」
「稽古をつけていただけませんか」
「稽古?」
「どなたでも、結構です。講道館流を見せていただきたい」
平然と、横山は言った。
「わたしがやります」
そう言ったのは、山下であった。
「先生、わたしにやらせて下さい。わたしは、他の流儀を学んでおりません。一から先生に講道館で学びました。講道館流というのなら、わたしが、講道館流です」
感情を出さぬよう、声が高くならぬよう、静かに山下は言った。
低い、底にこもった重い声であった。
微かにその声が震えていた。
「どなたでも、結構です」
横山は言った。
「横山!」
井上が言った。
「横山君――」
前に出ようとした井上を遮るように、治五郎が言った。
「直接、講道館に来てくれて、わたしも嬉しいよ」
「―――」
「あがっていきませんか」
治五郎は言った。
治五郎は、山下を見やり、
「相手は、この男がしますよ」
そう言った。
「名のりなさい」
治五郎は、山下をうながした。
「や、山下義韶!」
山下は叫んでいた。
高い、喜悦の声であった。
(九)
山下義韶は、奮然として畳の上に立った。
横山作次郎が、眼の前に立っている。
あの横山が、すぐそこにいる。
山下は、横山を睨んだ。
分厚い肉体であった。
横山は、ごつい切り株のように、その両足で畳を掴んでいる。
押そうが引こうが、動きそうにない。
どちらも、すでに稽古衣を身につけていた。
試してやる――山下はそう思っている。
横山を。
この男がどれだけのものか。
そして、自分自身を。
果たして、自分がこの横山とどこまで闘えるのか。
歳はほとんどかわらない。
横山が、元治元年(一八六四)生まれ。
山下が、慶応元年(一八六五)生まれ。
この時、数えで横山が二十二歳、山下が二十一歳である。
こと、柔術に関する限りは、横山はすでに一〇年以上にわたって学んでいる。それに比べて、山下はまだ講道館に入門してわずか、二年にも満たない。
しかし、家は代々、小田原藩主大久保氏の武芸指南役を務めている。
生まれた時から、武芸は山下にとっての日常であった。
治五郎にも言ったように、柔術についてはこれまでどのような流派にも属したことはないが、剣については子供の頃から竹刀や木剣を握ってきた。得物を持っての間合の取り合いならば、誰にも負けぬ自信があった。飯を喰うような感覚で、勝負、という場所の空気を呼吸することができる。
この時代の柔とはまた違うが、得物を捨てて、いざ組み打ちになった時の技法も学んでいる。
武術家の家に生まれ、物心ついた時から、父の汗の臭いや、道場の空気を呼吸してきた。武芸と常に身近く接してきた時間の長さなら、自分が一番であると、山下は思っている。
礼をする。
頭を下げている時も、山下は横山から視線をはずさなかった。上眼づかいに横山を見ていた。
顔をあげる。
横山と眼が合った。
「始め!」
立ち会い人の井上敬太郎が言った。
試合が始まった。
横山も山下も動かない。
睨み合っている。
射るような眼をしているのが山下であった。
横山は、ただ動かない。
山の如くに動かず、ただ山下を見つめている。
向き合っているだけで、山下の呼吸が荒くなってゆく。
山下の肩と胸が、大きく盛りあがる。
日常の稽古では体験したことのないものであった。
静めようとしても静めようとしても、呼吸が荒く、速くなってゆく。
横山作次郎、丈五尺六寸二分。
山下義韶、丈五尺三寸五分。
八センチ余りも横山の方が大きい。
対峙して、初めて、山下は人の肉体というものの、巨大きさに気づいていた。
これほど大きなものなのか、人の肉体というのは。
単に、横山の身体が大きいというそれだけのものではない。ただ立っている――それだけの肉体が、圧倒的な力をもって眼の前にそびえているのである。
他流と闘うというのは、こういうことなのか。
呼吸が、整わない。
汗まで出てきた。
「しゃあっ」
山下は、両手を持ちあげて、声をあげた。
「しゃあっ!」
「しゃあっ!!」
声をあげる。
気負うなという方が無理だ。
自然体も何もない。
今、気負っている自分をそのままぶつけるしかない。
息が荒いなら荒いでいい。
それが今のおれではないか。
その今のおれが気負っているなら、その気負いを丸ごとこの横山にぶつけてゆくしかない。
声と共に、山下の肉体を塞いでいた何かが消失したようであった。
ゆっくりと、山下の呼吸がもどってきた。
「うりゃあっ」
前に出た。
組んだ。
互いに、襟と袖を取った。
しかし、動かない。
押しても、動かない。
引いても、動かない。
押して、相手がこらえるところを引いて重心を移動させようとしても動かない。
講道館で習得した技が、この横山には通じない。
こちらの仕掛けを見切られてしまっている。
組んで、動きを誘い、互いに崩し合って技を掛け合う。
同門であれば、自然にそういう流れの中での乱取りになる。だが、横山は、山下のそういう仕掛けに一切応じようとはしなかった。
「ぬうっ」
山下は、強引に技を掛けにいった。
横山の懐に入り込み、足をからめ、身をひねって相手の身体を投げにいった。
その時、
ふっ、
と自分の体重が消失した。
持ちあげられていた。
技ではない。
力だ。
圧倒的な力によって、今、山下の身体は畳から宙に浮きあがっていた。
これか!?
これで池尻富興はやられたのか。
その思いが掠めたのは一瞬であった。
「くむう」
山下は、全身で横山にしがみついていた。
両足を横山の腰に巻きつける。
両手で横山の襟を握り、締めた。
「吩!」
横山は、自ら俯せに畳の上に倒れ込んでいった。
横山の腹にしがみつくかたちになった山下は、背から畳の上に落ちた。自分の体重だけではなく、横山の体重も加わっている。
音をたてて、重なりあったふたりの肉体が畳の上にはずんだ。
山下が下。
その上に横山の肉体が被さっている。
岩のように横山の肉体は重かった。
しかし、攻めているのは下になった山下である。横山の頸を、取った襟で締めている。
横山は、慌てなかった。
右手で、自分の襟を掴んでいる山下の左手首を握り、腕力でその手を引きはがした。
そのまま、山下の左腕を、腕がらみに取ろうとする。
「ぬわっ」
山下は、下から足で横山の身体を押した。
自分の身体と横山の身体との間に透き間を作り、立ちあがる。
横山も立ちあがってきた。
まだ、横山に左手首を掴まれている。
なんという力か。
機械のように容赦のない力に手首をつかまれると、握ろうとしていた手に力がこもらず、指が思わず開いてくる。
「しゃあっ」
「ふくうっ」
技をかけながら、山下が横山の手をふりほどこうとする。
離れない。
「むうっ」
「むうっ」
そのまま、技の掛けあいになった。
まだ、山下の左手首は握られたままだ。
そのため、山下は横山に充分な投げを打てない。
横山は横山で、山下の左手首を右手で握っているため、充分に相手を投げることができなかった。
「しゃっ」
「しゃっ」
技がかからない。
と――
横山の身体が、ふいに縮んだ。
横山が、右膝を突いて腰を落とし、山下の左手首を握った自分の右腕の下を頭からくぐっていた。くぐる時に、横山の左手が、山下の股の間に入り込んで、山下の左脚を刈りながら、そのまま山下の身体を両肩に担ぎあげて立ちあがっていた。
「せいっ!」
立ちあがった時には、もう、山下の身体を背から畳の上に投げ落としていた。
天狗投げ――
天神真楊流で言う衣被に似た技であった。
畳の上で、山下の身体がはずんだ。
まだ、山下の左手首を掴んでいる。
受け身はとれなかった。
仰向けに倒れた山下の左手首を、横山の左手が握った。
山下は、横山の両手で左手首を握られたことになる。
両手の腕力で、横山は、おもいきり山下の左腕を引きながら、山下の上半身を上に引っぱりあげた。山下の両肩と首が、畳から上に持ちあがる。
浮いたその頭部に、上から横山の右足が乗せられた。
山下の頭部と上体を、横山は真下に向かって落とした。同時に両手でおもいきり山下の左腕を押しているので、宙に浮いていた山下の頭部は、凄い勢いで畳に叩きつけられようとした。しかも、その頭部には、横山の右足が乗っているのである。
横山は、山下の顔の上に乗せた右足で、おもいきり山下の顔を踏み抜こうとした。
どん、
と、横山の右足が、音をたてて畳を踏みぬいていた。横山の右足が踏んだのは、仰向けになった山下の頭部の、すぐ横の畳であった。
畳と横山の右足との間で、山下の頭部がサンドイッチになる寸前で、横山が足をはずしたのである。
「一本!」
井上敬太郎の声が、道場に響いた。
顔を踏み抜かれると思っていた山下は、仰向けになったまま、眼を見開いていた。踏まれるのを覚悟して、山下の顔は鬼の形相になっていた。
歯を喰い縛っていた。
「それまで」
井上敬太郎が言った時、山下と横山は、上と下で顔を見合わせていた。
「なかなかのものだ」
横山は言った。
横山は、そのまま治五郎に向きなおった。
「嘉納先生――」
静かな声だった。
呼吸も乱れていない。
「お願いします」
頭を下げた。
「わかった」
治五郎は、正座したままうなずいた。
「山下、わたしの稽古衣を持ってきなさい」
ゆっくりと、治五郎は立ちあがった。
(十)
治五郎と横山は、静かに向き合っていた。
これから闘おうとしているようには見えなかった。
どういう構えも、どういう表情も浮かべてはいない。しかし、強いて言うなら、微笑に近いものは、ふたりの口元にあるかもしれない。
あるかなしかの微笑である。
あると思えばある。
ないと思えばない。
あるとするなら、治五郎の微笑と横山の微笑とは、その質を異にしているようであった。
治五郎のそれは、自然に浮いてきたものだ。
何も隠さない。
もしも治五郎の口元が笑っているように見えるのなら、その微笑と等価のものが、そのまま治五郎の心の中にある。
逆に横山の微笑の背後には、もっと大きな感情のたかまりが隠されているように見える。
喜悦。
悦び。
心の裡の感情を、横山は押し殺そうとでもしているようであった。それでも、隠しきれずに心の裡から洩れ出てくるもの――それが、横山の口元に浮いている微笑の正体なのではないか。
その時――井上の声が響いた。
「始め!」
横山の前に立った治五郎は、まるで大人と対峙した子供であった。
横山は、丈五尺六寸二分。
二十三貫(八十六キロ)。
これに対して治五郎は丈五尺二寸。
身長で十二センチの差があった。
体重で、二〇キログラム前後の差があったと考えていい。
体重一〇〇キロと一二〇キロ――そういう差ではない。
六十六キロと八十六キロ。
治五郎にしてみれば、自分の体重の三分の一ほども相手が重いことになる。
素人と玄人の差ではない。
どちらも同程度に柔術の修業を積んだ人間ならば、体重の差がそのまま実力の差になり得る。
現代の格闘競技が、柔道、ボクシングに限らず、細かく体重によって分けられた階級制になっているのはそのためである。
ちなみに、プロボクシングのフライ級では、一〇八ポンドから一一二ポンド(四十九・〇s〜五〇・八s)の体重の選手でなければ対戦できないことになっている。
最大の体重差があっても、一・八キログラムまでである。
治五郎と横山との対戦は、ウェルター級の選手と、ヘビー級の選手が闘うようなものであった。
しかし、明治のこの時代、柔術はスポーツではなく護身術であった。
実戦の術である。
階級制という発想はまだ、ない。
日常の闘いにおいて、相手の体重が全て自分の体重と同じであるはずもない。
大きい人間の方が強い――あるいは闘いにおいて有利であるとの考え方はむろんあったが、では闘いの相手を体重別にするとの発想は存在しなかった。
柔術は、競技ではなかったのである。
治五郎は、自然に、自分より身体の大きな横山と向き合い、横山は横山で、自然に自分より体重の軽い治五郎と向き合っている。
動いた。
ゆるやかな風のように、治五郎の身体が前に出てゆく。
「しゃああっ!!」
横山が、吼えた。
横山は、両手を上にあげて叫んだ。
流れてくる風の前に、横山の巨躯が立ち塞がった。
横山は、両手をあげたまま、前に出た。
袖は取れない。
自然に、治五郎は横山の襟を取った。
右手で左襟を。
左手で右襟を。
それは、そのまま治五郎が横山の懐に入るかたちになった。
真上から、横山の両手が鷲の脚の鉤爪のように降りてきて、治五郎の肩に近い襟を掴んでいた。
「やしゃあ!」
横山は、腰をひねりながら、強引に治五郎を投げにいった。
しかし、治五郎は投げられなかった。
逆に、横山の方が重心を崩していた。
横山の投げをかわした治五郎が、右足で、横山の左足を軽く刈っていたのである。
重心をもどそうという横山の動きを、治五郎が追ってゆく。
次々に、足を掛け、体を入れかえ、押し、引き、横山に技を掛けてゆく。
疾い。
横山が、かろうじてそれをかわしてゆく。
治五郎が追う。
治五郎の動きが、横山を休ませなかった。
美しい。
巨木に、柔らかな風がからみながら、その巨木を押し動かしているように見える。
横山の肉体が崩れた。
治五郎が横山を投げた、というより、横山の肉体が何かにつまずいて自ら倒れかかったように見えた。
「くむう」
横山がこらえた。
その横山の肉体が、さらに大きく逆側に傾いた。
こらえる。
すると、またもとの方向に横山の身体が傾く。
一度、その肉体に生じた小さな揺れが、治五郎が手を添えるだけで、次々に揺れるたびに大きくなってゆくようであった。
井上敬太郎は、息を呑んでふたりの動きを見つめていた。
横山が、肉体を揺らされながら、歯を喰い縛っている。
「かあっ」
声をあげたのは、横山であった。
横山の肉体が、大きく飛んでいた。
見た眼は、治五郎に投げられたように見えた。
しかし、そうではなかった。
横山は、治五郎の仕掛けてくる技をこらえず、その技の方向に、自ら跳んでいたのである。
横山の身体が転がった。
投げられたら――あるいは、投げられたように見えたら終りという闘いではない。
投げられる、畳の上に転がるというのは、闘いの中に生ずるシーンのひとつにすぎない。
転がった勢いを利用して、横山の身体が起きあがった。
とん、
とその身体にぶつかるようにして、治五郎がもう横山の懐に入っている。
さらに横山を投げようとする。
が――
横山の身体が動かない。
山下の時と同じであった。
横山の巨体が、そこに立ったまま動かなくなった。
治五郎もまた、動くのをやめた。
治五郎も、横山も動かない。
互いに、襟と袖を取ってはいるが、そのままのかたちで両者とも動かなくなっていた。
一秒。
二秒。
三秒。
まだ動かない。
五秒。
一〇秒。
十五秒。
と――
「かあっ!」
いきなり、治五郎の身体が上に持ちあがった。
真上に――
横山が持ちあげたのだ。
左右。
前後。
そういう動きか、力であれば、技を仕掛けられ易い。
しかし、真上へむかう力であれば、その力に対して技を仕掛けるのは難しい。
とにかく、治五郎の身体を畳の上から浮きあがらせる――そうすれば、治五郎が技を掛ける時に支点とすべきものが存在しなくなる。
いったん相手の肉体を宙に持ちあげてから自由にする――横山が得意とする手であった。
しかし、それにしては、軽々と治五郎の身体が宙に浮きあがってゆく。
治五郎は、横山が持ちあげる力を利用して、自ら宙に跳んだのである。
横山の右手を、治五郎の両手が捕えていた。
治五郎の右足が、横山の左肩の上にするりと入り込んでいた。
治五郎の左足が、横山の右脇の下から入り込んで、横山の背中に回わっていた。
治五郎の両足が、横山の背後――首の後方でからみあった。
そのかたちで、止まった。
横山の右腕が伸びたままになっている。
「くむうっ」
くぐもった声で、横山が叫んだ。
背筋を使って、自分の首からぶら下がっている治五郎の身体をさらに高く振りあげ、そのまま、畳の上に治五郎を落とした。
横山の体重が乗った一撃であった。
しかし――
下になったまま、治五郎は動かない。
上になったまま、横山も動かない。
下から、治五郎の両足はまだ横山の首と肩にからんでいる。
ふいに――
治五郎が、横山の首と肩にからめていた足を解いた。
横山の巨躯が、治五郎の身体の上に崩れたまま、ぐったりと動かない。
治五郎が、ゆっくりと横山の身体の下から這い出し、そして、立ちあがった。
横山は、尻を半分上に持ちあげた格好で俯せになったまま動こうとしなかった。
「いっ……」
井上が声をあげた。
「一本。それまで――」
井上は言った。
(十一)
横山は、落ちていた。
井上が横山の上半身を起こし、背後にまわってその背に右膝を当てた。後方から横山の両肩をつかんで、手前に引いた。
活≠入れたのである。
肋骨を開き、肺をふくらませて、酸素を送り込んだのである。柔術の蘇生術のひとつであった。
「むう……」
息を吐いて、横山が蘇生した。
眼を開いた。
横山の前に、稽古衣姿の治五郎が正座をしていた。
一瞬、横山は、怪訝そうな顔をした。
どうして、治五郎が自分の前で正座をしているのか。自分は今、試合中ではなかったのか。
――そうか。
「負けたのですね」
無念そうな口調ではなかった。
妙にさっぱりした顔をしていた。
「どうだ、横山くん、おもしろいだろう」
治五郎は言った。
「はい」
横山が、何かふっきれたような顔で、うなずいた。
「わたしも、おもしろかった」
治五郎は、笑った。
「最後に、自分が掛けられたあの技……」
横山は、落ちる前のことをうまく思い出せぬように首を傾け、
「あれは、何という技なのですか」
そう訊ねた。
「三角落とし、とわたしは呼んでいる」
「はじめて耳にする技です」
「実は、三年前、その技でわたしは負けている」
「負けた? 先生がですか」
「ああ」
「相手は?」
「武田惣角という人物さ」
「武田惣角?」
「うちの四郎と同郷の人物さ」
「志田と?」
横山は、まだ四郎のことを志田と呼んでいる。
「恐るべき使い手だった。子供のようにあしらわれたよ。その時に掛けられた技に工夫をして、今のかたちにしたのがこの三角落としだ」
「―――」
横山は、今、眼の前にいるこの男を倒した人物がこの世にいるとは、まだ信じられぬような眼で治五郎を見つめていた。
「一緒にやろう、横山くん」
裏も表もない顔で、治五郎は言った。
真っ直すぎるほど真っ直な眼で、治五郎は横山を見ていた。
こんな眼で見られたら――
困る。
もう、かなわない。
「横山くん、この道は、奥が深く、そして、おもしろい」
治五郎の言葉に、横山は、畳の上にあらためて正座しなおした。
「嘉納先生」
畳に両手を突き、横山は治五郎を見た。
治五郎は、静かな山のようにそこに座して横山を見ていた。
「よろしくお願いいたします」
鬼横山が、頭を下げていた。
[#地から3字上げ](第一巻 了   第二巻につづく)
[#改ページ]
題字 岡本光平
装幀 高柳雅人
本書は「小説推理」'98年4月号〜'02年7月号にかけて不定期掲載された同名作品(全20回)に加筆、訂正を加えたものです。
なお、作中には実在の人物、団体が登場します。
執筆にあたり、各種資料を参考にしておりますが、その解釈は著者独自によるもので、作品はフィクションです。
夢枕獏●ゆめまくらばく
1951年神奈川県生まれ。77年、SF文芸誌『奇想天外』にて「カエルの死」でデビュー。89年『上弦の月を喰べる獅子』で第10回日本SF大賞、98年『神々の山嶺』で第11回柴田錬三郎賞を受賞。『餓狼伝』『魔獣狩り』『キマイラ』『陰陽師』シリーズなどで人気を博す。他に『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』『シナン』などの歴史長編や、趣味である格闘技、釣り、写真に関連した著作も数多い。近著に『毎日釣り日和』。
[#改ページ]
底本
双葉社 単行本
東天の獅子 第一巻 天の巻・嘉納流柔術
著 者――夢枕 獏
2008年10月19日  第1刷発行
発行者――赤坂了生
発行所――株式会社 双葉社
[#地付き]2008年11月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
山下義韶《やましたよしかず》
「横山。嘉納先生に失礼ではないか。
おまえは強い。今では、おまえはわたしよりもずっと強くなっている。今のわたしがおまえと闘えば、きっと負けるであろう――」
「講道館に勝てば、いずれにしろもうわたしのもとへはもどってこないつもりなのでしょう。
嘉納先生の門下生を辻投げしておきながら、それに勝ったからと言って、わたしのところへもどってくるとは思えません」
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89
箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
|※《かみ》 ※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]「需+頁」、第3水準1-94-6