目次
二十四の瞳
一、小石先生
二、まほうの橋
三、米《こめ》五ん合豆《ごうまめ》一升《しょう》
四、わかれ
五、花の絵
六、月夜のカニ
七、羽ばたき
八、七《なな》重《え》八重《やえ》
九、なきみそ先生
十、ある晴れた日に
二十四の瞳
一、小石先生
十年をひとむかしというならば、この物語の発端《ほったん》はいまからふたむかし半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普《ふ》通《つう》選挙法《せんきょほう》というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日、農山漁村の名がぜんぶあてはまるような、瀬《せ》戸《と》内海《ないかい》べりの一寒村へ、わかい女の先生が赴《ふ》任《にん》してきた。
百戸あまりの小さなその村は、入《い》り江《え》の海を湖のような形にみせる役をしている細長い岬《みさき》の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へいくには小船でわたったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてくあるいたりせねばならない。交通がすごくふべんなので、小学校の生徒は四年までが村の分《ぶん》教場《きょうじょう》にいき、五年になってはじめて、かた道五キロの本村《ほんそん》の小学校へかようのである。
手づくりのわらぞうりは一日できれた。それがみんなはじまんであった。まい朝、あたらしいぞうりをおろすのは、うれしかったにちがいない。じぶんのぞうりをじぶんの手でつくるのも、五年生になってからのしごとである。日曜日に、だれかの家へあつまって、ぞうりをつくるのはたのしかった。
小さな子どもらは、うらやましそうにそれをながめて、しらずしらずのうちに、ぞうりづくりをおぼえていく。小さい子どもたちにとって、五年生になるということは、ひとり立ちを意味するほどのことであった。しかし、分教場もたのしかった。
分教場の先生はふたりで、うんと年よりの男先生と、子どものようなわかいおなご先生がくるにきまっていた。それはまるで、そういう規則があるかのように、大むかしからそうだった。
職員室のとなりの宿直室に男先生はすみつき、おなご先生は遠い道をかよってくるのも、男先生が、三、四年を受け持ち、おなご先生が一、二年とぜんぶの唱歌と四年女生《じょせい》の裁縫《さいほう》をおしえる、それも、むかしからのきまりであった。
生徒たちは先生をよぶのに名をいわず、男先生、おなご先生といった。年よりの男先生が恩給《おんきゅう》をたのしみにこしをすえているのと反対に、おなご先生のほうは一年かせいぜい二年すると転任《てんにん》した。なんでも、校長になれない男先生の教師としての最後のつとめと、新《しん》米《まい》の先生が苦労のしはじめを、この岬の村の教場でつとめるのだといううわさもあるが、うそかほんとかはわからない。だが、だいたいほんとうのようでもある。
そうして、昭和三年の四月四日にもどろう。その朝、岬の村の五年以上の生徒たちは、本校まで五キロの道をいそいそとあるいていた。みんな、それぞれ一つずつ進級したことに心をはずませ、足もともかるかったのだ。
かばんの中はあたらしい教科書にかわっているし、きょうからあたらしい教室で、あたらしい先生におしえてもらうたのしみは、いつも通る道までがあたらしく感じられた。それというのも、きょうは、あたらしく分教場へ赴任してくるおなご先生に、この道で出あうということもあった。
「こんどのおなご先生、どんなやつじゃろな。」
わざとぞんざいに、やつよばわりをするのは、高等科――いまの新制中学生にあたる男の子どもたちだ。
「こんどのもまた、女学校出《で》え出《で》えのたまごじゃいよったぞ。」
「そんなら、また半人まえ先生か。」
「どうせ、岬はいつでも半人まえじゃないか。」
「びんぼう村なら、半人まえでもしようがない。」
正規の師《し》範《はん》出ではなく、女学校出の準教員《じゅんきょういん》(いまでは助教《じょきょう》というのだろうか)のことを、口のわるいおとなたちが、半人まえなどというのをまねて、じぶんたちも、もうおとなになったようなつもりでいっているのだが、たいして悪《わる》気《ぎ》はなかった。
しかし、きょうはじめてこの道をあるくことになった五年生たちは、目をぱちくりさせながら、きょう、なかま入りをしたばかりのえんりょさで、きいている。だが、前方から近づいてくる人のすがたをみとめると、まっさきに、歓声をあげたのは五年生だった。
「わあ、おなごせんせえ。」
それは、ついこないだまでおしえてもらっていた小林《こばやし》先生である。いつもはさっさとすれちがいながらおじぎをかえすだけの小林先生も、きょうは立ちどまって、なつかしそうにみんなの顔をかわるがわる見まわした。
「きょうで、ほんとにおわかれね。もうこの道で、みんなに出あうことはないわね。よく勉強してね。」
そのしんみりした口調になみだぐんだ女の子もいた。この小林先生だけは、これまでのおなご先生の例をやぶって、まえの先生が病気でやめたあと、三年半も岬の村をうごかなかった先生であった。だから、ここで出あった生徒たちは、いちどは小林先生におそわったことのあるものばかりだ。
先生がかわるというようなことは、本来ならば新学期のその日になってはじめてわかるのだが、小林先生は、かたやぶりに十《とお》日《か》もまえに生徒に話したのである。
三月二十五日の修業式に本校へいったかえり、ちょうど、いま、立っているこのへんで、わかれのことばをいい、みんなに、キャラメルの小《こ》箱《ばこ》を一箱ずつくれた。だからみんなは、きょうこの道をあたらしいおなご先生があるいてくるとばかり思っていたのに、それをむかえるまえに小林先生にあってしまったのである。小林先生も、きょうは分教場にいる子どもたちに、わかれのあいさつにいくところなのであろう。
「先生、こんどくる先生は?」
「さあ、もうそろそろ見えるでしょう。」
「こんどの先生、どんな先生?」
「しらんのよ、まだ。」
「また女学校出え出え?」
「さあ、ほんとにしらんの。でもみんな、性《しょう》わるしたら、だめよ。」
そういって小林先生はわらった。先生もはじめの一年はとちゅうの道でひどくこまらされて、生徒のまえもかまわずないたこともあった。なかした生徒はもうここにはいないけれど、ここにいる子の兄や姉である。わかいのと、なれないのとで、岬へくるたいていのおなご先生は、一どはなかされるのを、本校がよいの子どもらは伝説としてしっていた。
四年もいた小林先生のあとなので、子どもたちの好《こう》奇《き》心《しん》はわくわくしていた。小林先生とわかれてからも、みんなはまた、こんどくる先生のすがたを前方に期待しながら、作戦をこらした。
「芋女《いもじょ》うって、どなるか。」
「芋女でなかったら、どうする。」
「芋女に、きまっとると思うがな。」
口々に芋女芋女といっているのは、この地方がサツマイモの本場であり、そのいも畑《ばたけ》のまん中にある女学校なので、こんないたずらなよびかたも生まれたわけだ。小林先生もその芋女出身だった。
子どもたちは、こんどくるおなご先生をも芋女出ときめて、もうくるか、もう見えるかと、道がまがるたびに前方を見まわしたが、かれらの期待する芋女出え出えのわかい先生のすがたにはついに出あわず、本村のひろい県道に出てしまった。と同時に、もうおなご先生のことなどかなぐりすてて、小走りになった。
いつも見るくせになっている県道ぞいの宿屋のげんかんの大どけいが、いつもより十分ほどすすんでいたからだ。とけいがすすんだのではなく、小林先生と立ち話をしただけおそくなったのだ。せなかやわきの下で筆箱をならしながら、ほこりをたててみんなは走りつづけた。
そうして、その日のかえり道、ふたたびおなご先生のことを思いだしたのは、県道から岬の方へわかれた、山道にさしかかってからである。しかもまた、むこうから小林先生があるいてくるのだ。長いたもとの着物をきた小林先生は、そのたもとをひらひらさせながら、みょうに両手をうごかしている。
「せんせえ。」
「おなごせんせえ。」
女の子はみんな走りだした。先生の笑《え》顔《がお》がだんだんはっきりと近づいてくると、先生の両手が見えないつなをひっぱっていることがわかって、みんなわらった。先生はまるで、ほんとにつなでもひきよせているように、両手をかわるがわるうごかし、とうとう立ちどまってみんなをひきよせてしまった。
「先生、こんどのおなご先生、きた。」
「きたわ。どうして。」
「まだ学校にいるん?」
「ああ、そのこと。船できたのよ、きょうは。」
「ふうん。そいでまた、船でいんだん?」
「そう、わたしもいっしょに船でかえろうとすすめてくれたけど、先生、もいっぺんあんたらの顔を見たかったから、やめた。」
「わあ。」
女の子たちがよろこんで歓声をあげるのを、男の子はにやにやして見ている。やがてひとりがたずねた。
「こんどの先生、どんな先生ぞな。」
「いーい先生らしい。かわいらしい。」
小林先生はふっと思いだしたような顔をした。
「芋女?」
「ちがう、ちがう。えらい先生よ、こんどの先生。」
「でも、新米じゃろ。」
小林先生はきゅうにおこったような顔をして、
「あんたら、じぶんでおしえてもらう先生でもないのに、どうしてそんなこというの。はじめっから新米でない先生て、ないのよ。またわたしのときみたいに、なかすつもりでしょう。」
そのけんまくに、心の中を見すかされたと思って目をそらすものもあった。小林先生が分教場にかよいだしたころの生徒は、わざと一列横隊《いちれつおうたい》になっておじぎをしたり、芋女っ、とさけんだり、あながあくほど見つめたり、にやにやわらいをしたりと、いろんな方法で新米の先生をいやがらせたものだった。しかし、三年半のうちにはもうどんなことをしても先生のほうでこまらなくなり、かえって先生が手出しをしてふざけたりした。五キロの道のりでは、なにかなくてはやりきれなかったのだろう。ころを見て、またひとりの生徒がたずねた。
「こんどの先生、なにいう名まえ?」
「大石《おおいし》先生。でもからだは、ちっちゃあい人。小林でもわたしはのっぽだけど、ほんとに、ちっちゃあい人よ。わたしのかたぐらい。」
「わあ!」
まるでよろこぶようなそのわらい声をきくと、小林先生はまたきっとなって、
「だけど、わたしらより、ずっとずっとえらい先生よ。わたしのように半人まえではないのよ。」
「ふうん。そいで先生、船でかようんかな?」
ここが大問題というようにきくのへ、先生のほうも、ここだなという顔をして、
「船はきょうだけよ。あしたからみんなあえるわ。でも、こんどの先生はなかんよ。わたし、ちゃんといっといたもの。本校の生徒といきしもどりに出あうけど、もしもいたずらしたら、サルがあそんでると思っときなさい。もしもなんかいってなぶったら、カラスがないたと思っときなさいって。」
「わあ。」
「わあ。」
みんないっせいにわらった。いっしょにわらって、それでわかれてかえっていく、小林先生のうしろすがたが、つぎのまがりかどにきえさるまで、生徒たちは口々にさけんだ。
「せんせえ。」
「さよならあ。」
「よめさあん。」
「さよならあ。」
小林先生はおよめにいくためにやめたのを、みんなはもうしっていたのだ。先生が最後にふりかえって手をふって、それで見えなくなると、さすがにみんなのむねには、へんな、ものがなしさがのこり、一日のつかれも出てきて、もっそりとあるいた。かえると、村は大さわぎだった。
「こんどのおなご先生は、洋服きとるど。」
「こんどのおなご先生は、芋女とちがうど。」
「こんどのおなご先生は、こんまい人じゃど。」
そしてつぎの日である。芋女出でない、小さな先生にたいして、どきどきするような作戦がこらされた。
こそこそ、こそこそ。
こそこそ、こそこそ。
道々ささやきながらあるいていくかれらは、いきなりどぎもをぬかれたのである。場所もわるかった。見通しのきかぬまがりかどの近くで、この道にめずらしい自転車が見えたのだ。自転車はすうっと鳥のように近づいてきたかと思うと、洋服をきた女が、みんなのほうへにこっとわらいかけて、
「おはよう!」
と、風のようにいきすぎた。どうしたってそれはおなご先生にちがいなかった。あるいてくるとばっかり思っていたおなご先生は自転車をとばしてきたのだ。自転車にのったおなご先生ははじめてである。洋服をきたおなご先生もはじめて見る。はじめての日に、おはよう、と、あいさつをした先生もはじめてだ。みんな、しばらくはぽかんとしてそのうしろすがたを見おくっていた。
ぜんぜんこれは生徒のまけである。どうもこれは、いつもの新任先生とはだいぶようすがちがう。少々のいたずらでは、なきそうもないと思った。
「ごついな。」
「おなごのくせに、自転車にのったりして。」
「なまいきじゃな、ちっと。」
男の子たちがこんなふうに批評している一方では、女の子はまた女の子らしく、すこしちがった見方で、話がはずみだしている。
「ほら、モダンガールいうの、あれかもしれんな。」
「でも、モダンガールいうのは、男のようにかみをここのとこで、さんぱつしとることじゃろ。」
そういって耳のうしろで二本の指をはさみにしてみせてから、
「あの先生は、ちゃんとかみゆうとったもん。」
「それでも、洋服きとるもん。」
「ひょっとしたら、自転車屋の子かもしれんな。あんなきれいな自転車にのるのは。ぴかぴか光っとったもん。」
「うちらも自転車にのれたらええな。この道をすうっと走りる、気色《きしょく》がええじゃろ。」
なんとしても自転車では太《た》刀《ち》打《う》ちできない。しょいなげをくわされたように、みんながっかりしていることだけはまちがいなかった。なんとか鼻をあかしてやる方法をかんがえだしたいと、めいめい思っているのだが、なにひとつ思いつかないうちに岬《みさき》の道を出はずれていた。宿屋のげんかんの柱どけいはきょうもまた、みんなの足どりを正直にしめして八分ほどすぎている。
それ、とばかり、せなかとわきの下の筆入《ふでいれ》はいっせいになりだし、ぞうりはほこりをまいあがらせた。
ところが、ちょうどそのおなじころ、岬の村でも大さわぎだった。きのうは、船にのってきたとかで、気がつかぬうちにまた船でかえったのをきいた村のおかみさんたちは、きょうこそ、どんな顔をして道を通るかと、その洋服をきているというおなご先生を見たがっていた。
ことに村の入り口の関所とあだ名のあるよろず屋のおかみさんときたら、岬の村へくるほどの人は、だれよりもさきにじぶんが見る権利がある、とでもいうように、朝のおきぬけから通りの方へ気をくばっていた。
だいぶながらく雨がなかったので、かわいた表通りに水をまいておくのも、あたらしい先生をむかえるにはよかろうかと、ぞうきんバケツをもって出てきたとき、むこうから、さあっと自転車が走ってきたのだ。おやっと思うまもなく、
「おはようございます。」
あいそよく頭をさげて通りすぎた女がある。
「おはようございます。」
へんじをしたとたんに、はっと気がついたが、ちょうど下り坂になった道を自転車はもう走りさっていた。よろず屋のおかみさんはあわてて、となりの大《だい》工《く》さんとこへ走りこみ、井《い》戸《ど》ばたでせんたくものをつけているおかみさんに大声でいった。
「ちょっと、ちょっと、いま、洋服きた女が自転車にのって通ったの、あれがおなご先生かいの?」
「白いシャツきて、男みたような黒の上着きとったかいの。」
「うん、そうじゃ。」
「なんと、自転車でかいの。」
きのう入学式に長女の松《まつ》江《え》をつれて学校へいった大工のおかみさんは、せんたくものをわすれて、あきれた声でいった。よろず屋のおかみさんは、わが意を得たという顔で、
「ほんに世もかわったのう。おなご先生が自転車にのる。おてんばといわれせんかいな。」
口ではしんぱいそうにいったが、その顔はもうおてんばときめている目つきをしていた。よろず屋のまえから学校までは自転車で二、三分であろうが、すうっと風をきって走っていって十五分もたたぬうちに、おなご先生のうわさはもう村じゅうにひろまっていた。
学校でも生徒たちは大さわぎだった。職員室の入り口のわきにおいた自転車をとりまいて、五十人たらずの生徒は、がやがや、わやわや、まるでスズメのけんかだった。そのくせおなご先生が話しかけようとして近づくと、やっぱりスズメのように、ぱあっとちってしまう。しかたなく職員室にもどると、たったひとりの同僚《どうりょう》の男先生は、じつにそっけない顔でだまっている。
まるでそれは、話しかけられるのはこまりますとでもいっているふうに、つくえの上の担当箱のかげにうつむきこんで、なにか書類を見ているのだ。授業のうちあわせなどは、きのう、小林先生との事務ひきつぎですんでいるので、もうことさら用事はないのだが、それにしてもあんまり、そっけなさすぎると、おなご先生は不平だったらしい。しかし、男先生は男先生で、こまっていたのだ。
――こまったな。女学校の師《し》範《はん》科《か》を出た正《せい》教員《きょういん》のぱりぱりは、芋女《いもじょ》出え出えの半人まえの先生とは、だいぶようすがちがうぞ。からだこそ小さいが、頭もよいらしい。話があうかな。きのう、洋服をきてきたので、だいぶハイカラさんだとは思っていたが、自転車にのってくるとは思わなんだ。こまったな。なんでことしにかぎって、こんな上等を岬へよこしたんだろう。校長も、どうかしとる。
と、こんなことを思って気をおもくしていたのだ。この男先生は、百姓《ひゃくしょう》のむすこが、十年がかりで検定試験をうけ、やっと四、五年まえに一人まえの先生になったという、努力型の人間だった。
いつもげたばきで、一まいかんばんの洋服はかたのところがやけて、ようかん色にかわっていた。子どももなく年とったおくさんとふたりで、貯金だけをたのしみに、けんやくにくらしているような人だから、人のいやがるこのふべんな岬の村へきたのも、つきあいがなくてよいと、じぶんからの希望であったというかわりだねだった。
くつをはくのは職員会議などで本校へ出むいていくときだけ、自転車などは、まださわったこともなかったのだ。しかし、村ではけっこう気にいられて、魚《うお》や野菜に不自由はしなかった。村の人とおなじように、あかをつけて、村の人とおなじものをたべて、村のことばをつかっているこの男先生に、新任のおなご先生の洋服と自転車はひどく気づまりな思いをさせてしまった。
しかし、おなご先生はそれをしらない。前任の小林先生から、本校通学の生徒のいたずらについてはきいていたのだが、男先生についてはただ、「へんこつよ、気にしないで。」とささやかれただけだった。だが、へんこつというよりも、まるでいじわるでもされそうな気がして、たった二日めだというのに、うっかりしていると、ため息が出そうになる。
おなご先生の名は大石《おおいし》久《ひさ》子《こ》。湖のような入《い》り江《え》のむこう岸の、大きな一本松《いっぽんまつ》のある村の生まれである。岬の村から見る一本松は盆栽《ぼんさい》の木のように小さく見えたが、その一本松のそばにある家ではおかあさんがひとり、むすめのつとめぶりを案じてくれている。――と思うと、大石先生の小さなからだが思わずむねをはって、大きく息をすいこみ、
「おかあさん!」
と、心のそこからよびかけたくなる。ついこのあいだのこと、
「岬は遠くて気のどくだけど、一年だけがまんしてください。一年たったら本校へもどしますからな。分教場《ぶんきょうじょう》の苦労は、さきしといたほうがいいですよ。」
なくなった父親の友だちの校長先生にそういわれて、一年のしんぼうだと思ってやってきた大石先生である。あるいてかようにはあまりに遠いから、下宿をしてはとすすめられたのを、親子いっしょにくらせるのを、ただ一つのたのしみにして、市の女学校の師範科の二年をはなれてくらしていた母親のことを思い、かた道八キロを自転車でかよう決心をした大石先生である。
自転車は久子としたしかった自転車屋のむすめの手づるで、五か月月《げっ》賦《ぷ》で手に入れたのだ。着物がないので、母親のセルの着物を黒くそめ、へたでもじぶんでぬった。それともしらぬ人々は、おてんばで自転車にのり、ハイカラぶって洋服をきていると思ったかもしれぬ。
なにしろ昭和三年である。普通選挙《ふつうせんきょ》がおこなわれても、それをよそごとに思っているへんぴな村のことである。その自転車があたらしく光っていたから、その黒い手ぬいのスーツにあかがついていなかったから、その白いブラウスがまっ白であったから、岬の村の人にはひどくぜいたくに見え、おてんばに見え、よりつきがたい女に見えたのであろう。しかしそれも、大石先生にはまだなっとくのいかぬ、赴《ふ》任《にん》二日めである。ことばの通じない外国へでもやってきたような心細さで、一本松のわが家のあたりばかりを見やっていた。
カッ、カッ、カッ、カッ。
始業を報じる板《ばん》木《ぎ》がなりひびいて、大石先生はおどろいてわれにかえった。ここでは最高の四年生の級長にきのうえらばれたばかりの男の子が、背のびをして板木をたたいていた。
校庭に出ると、きょうはじめて親の手をはなれ、ひとりで学校へきた気負いと一種の不安をみせて、一年生のかたまりだけは、独特な、無言のざわめきをみせている。
三、四年の組がさっさと教室へはいっていったあと、大石先生はしばらく両手をたたきながら、それにあわせて足ぶみをさせ、うしろむきのまま教室へみちびいた。はじめてじぶんにかえったようなゆとりが心にわいてきた。席におさまると、出席簿《しゅっせきぼ》をもったまま教《きょう》壇《だん》をおり、
「さ、みんな、じぶんの名まえをよばれたら、大きな声でへんじするんですよ。――岡《おか》田《だ》磯《いそ》吉《きち》くん。」
背のじゅんにならんだのでいちばん前の席にいたちびの岡田磯吉は、まっさきにじぶんがよばれたのも気おくれのしたもとであったが、生まれてはじめて、くんといわれたことでもびっくりして、へんじがのどにつかえてしまった。
「岡田磯吉くん、いないんですか。」
見まわすと、いちばんうしろの席の、ずぬけて大きな男の子が、びっくりするほど大声で、こたえた。
「いる。」
「じゃあ、はいってへんじするのよ。岡田磯吉くん。」
へんじした子の顔を見ながら、その子の席へ近づいていくと、二年生がどっとわらいだした。本ものの岡田磯吉は、こまってつっ立っている。
「ソンキよ、へんじせえ。」
きょうだいらしく、よくにた顔をした二年生の女の子が、磯吉にむかって、小声でけしかけている。
「みんなソンキっていうの?」
先生にきかれて、みんなはいちようにうなずいた。
「そう、そんなら、磯吉のソンキさん。」
また、どっとわらうなかで、先生もいっしょにわらいだしながらえんぴつをうごかし、そのよび名をも出席簿に小さくつけこんだ。
「つぎに、竹下竹一《たけしたたけいち》くん。」
「はい。」りこうそうな男の子である。
「そうそう、はっきりと、よくおへんじできたわ。――そのつぎは、徳《とく》田《だ》吉《きち》次《じ》くん。」
徳田吉次が息をすいこんで、ちょっとまをおいたところを、さっき、岡田磯吉のとき、「いる。」といった子が、すこしいい気になった顔つきで、すかさず、
「キッチン。」
とさけんだ。みんながまたわらいだしたことで相沢《あいざわ》仁《に》太《た》というその子はますますいい気になり、つぎによんだ森岡正《もりおかただし》のときも、「タンコ。」とどなった。そして、じぶんの番になると、いっそう大声で、
「はあい。」
先生は笑《え》顔《がお》のなかで、すこしたしなめるように、
「相沢仁太くんは、すこしおせっかいね。声も大きすぎるわ。こんどは、よばれた人が、ちゃんとへんじしてね。――川本《かわもと》松《まつ》江《え》さん。」
「はい。」
「あんたのこと、みんなはどういうの?」
「マッちゃん。」
「そう、あんたのおとうさん、大工さん。」
松江はこっくりした。
「西口《にしぐち》ミサ子《こ》さん。」
「はい。」
「ミサちゃんていうんでしょ。」
かの女《じょ》もまた、かぶりをふり、小さな声で、
「ミイさん、いうん。」
「あら、ミイさんいうの。かわいらしいのね。――つぎは、香《か》川《がわ》マスノさん。」
「へい。」
思わずふきだしそうになるのをこらえ、先生はおさえたような声で、
「へいは、すこしおかしいわ。はいっていいましょうね、マスノさん。」
すると、おせっかいの仁太がまた口をいれた。
「マアちゃんじゃ。」
先生はもうそれを無視して、つぎつぎと名まえをよんだ。
「木下《きのした》富士子《ふじこ》さん。」
「はい。」
「山石《やまいし》早《さ》苗《なえ》さん。」
「はい。」
へんじのたびにその子の顔に微笑《びしょう》をおくりながら、
「加部《かべ》小《こ》ツルさん。」
きゅうにみんながわいわいさわぎだした。なにごとかとおどろいた先生も、口々にいっていることがわかると、香川マスノのへいよりも、もっとおかしく、わかい先生はとうとうわらいだしてしまった。みんなはいっているのだった。かべこっつる、かべこっつる、かべに頭をかべこっつる。
勝ち気らしい加部小ツルはなきもせず、しかし赤い顔をしてうつむいていた。
そのさわぎもやっとおさまって、おしまいの片桐《かたぎり》コトエの出席をとったときにはもう、四十五分の授業時間はたってしまっていた。
加部小ツルがチリリン屋(こしにりんをつけて、用たしをする便利屋)のむすめであり、木下富士子が旧家《きゅうか》の子どもであり、へいとへんじをした香川マスノが町の料理屋のむすめであり、ソンキの岡田磯吉の家がとうふ屋で、タンコの森岡正が網元《あみもと》のむすこと、先生の心のメモにはその日のうちに書きこまれた。
それぞれの家業はとうふ屋とよばれ、米屋とよばれ、網屋とよばれていても、そのどの家もめいめいの商売だけではくらしがたたず、百姓もしていれば、かたてまには漁師もやっている、そういう状態は大石先生の村とおなじである。
だれもかれも寸《すん》暇《か》をおしんではたらかねばくらしのたたぬ村、だが、だれもかれもはたらくことをいとわぬ人たちであることは、その顔を見ればわかる。
この、きょうはじめて一つの数からおしえこまれようとしている小さな子どもたちが、学校からかえればすぐに子もりになり、麦つきを手つだわされ、あみひきにいくというのだ。
はたらくことしか目的がないようなこの寒村の子どもたちと、どのようにしてつながっていくかと思うとき、一本松をながめてなみだぐんだ感傷は、はずかしさでしかかんがえられない。
きょうはじめて教壇に立った大石先生の心に、きょうはじめて集団生活につながった十二人の一年生のひとみは、それぞれ個性にかがやいてことさら印象ぶかくうつったのである。
このひとみを、どうしてにごしてよいものか。
その日、ペダルをふんで八キロの道を一本松の村へとかえっていく大石先生のはつらつとしたすがたは、朝よりいっそうおてんばらしく、村人の目にうつった。
「さよなら。」
「さよなら。」
「さよなら。」
出あう人みんなにあいさつをしながら走ったが、へんじをかえす人はすくなかった。ときたまあっても、だまってうなずくだけである。そのはずで、村ではもう大石先生批判の声があがっていたのだ。
――みんなのあだ名まで帳面につけこんだそうな。
――西口屋のミイさんのことを、かわいらしいとゆうたそうな。
――もう、はやのこめ(さっそく)から、ひいきしよる。西口屋じゃ、なんぞもっていっておじょうずしたんかもしれん。
なんにもしらぬ大石先生は、小がらなからだをかろやかにのせて、村はずれの坂道にさしかかると、すこし前こごみになって足に力をくわえ、このはりきった思いを一刻も早く母にかたろうと、ペダルをふみつづけた。
あるけばたいして感じないほどのゆるやかな坂道は、いきにはこころよくすべりこんだのだが、そのこころよさがかえりには重い荷物となる。そんなことさえ、かえりでよかったとありがたがる、すなおなきもちであった。
やがて平坦《へいたん》な道にさしかかると、朝がた出あった生徒の一団もかえってきた。
――大石《おおいし》、小《こ》石《いし》。
――大石、小石。
いくにんもの声のたばが、自転車の速度につれ大きくきこえてくる。なんのことかはじめはわからなかった先生も、それがじぶんのこととわかると思わず声を出してわらった。それがあだ名になったと、さとったからだ。わざと、リリリリリとベルをならし、すれちがいながら、高い声でいった。
「さよならあ。」
わあっと喚声《かんせい》があがり、また、大石小石と、よびかける声が遠のいていく。
おなご先生のほかに、小石先生という名がその日生まれたのである。からだが小つぶなからでもあるだろう。あたらしい自転車に夕日がまぶしくうつり、きらきらさせながら小石先生のすがたは岬《みさき》の道を走っていった。
二、まほうの橋
とっぱなまで四キロの細長い岬のまん中あたりにも小さな部落がある。入り海にそった白い道は、この部落にさしかかるとともに、しぜんに岬をよこぎって、やがて外海ぞいに、海を見おろしながら小石先生の学校のある岬村へとのびている。この外海ぞいの道にさしかかる前後に、本校へかよう生徒たちと出あうのが、まいにちのきまりのようになっていて、もしや、すこしでも場所がちがうと、どちらかがあわてねばならぬ。
「わあ、小石先生がきたぞう。」
きゅうに足ばやになるのはたいてい生徒のほうだが、たまには先生のほうで、入り海ぞいの道でゆくてに生徒のすがたを見つけ、あわててペダルに力を入れることもある。そんなとき、生徒のほうの、よろこぶまいことか。顔をまっかにして走る先生にむかって、はやしたてた。
「やあい、先生のくせに、おくれたぞう。」
「月給、ひくぞう。」
そして、わざと自転車のまえに法度《はっと》する(通せんぼうをする)子どもさえあった。そんなことがたびかさなると、その日家へかえったときの先生は、おかあさんにこぼした。
「子どものくせに、月給ひくぞうだって。かんじょうだかいのよ。いやんなる。」
おかあさんはわらいながら、
「そんなこと、おまえ、気にするばかがあるかいな。でもまあ、一年のしんぼうじゃ。しんぼう、しんぼう。」
だが、そういってなぐさめられるほど、苦痛を感じていなかった。なれてくると、朝早く自転車をとばす八キロの道のりはあんがいたのしく、岬をよこぎるころにはスピードが出てきて、いつのまにか競走をしていた。それがまた生徒の心へひびかぬはずがなく、まけずに足が早くなった。シーソーゲームのようにおしつおされつ、一学期もおわったある日、用事で本校へ出むいていった男先生はみょうなことをきいてかえった。
この一学期間、岬の生徒は一どもちこくしないというのだ。かた道五キロをあるいてかよう苦労はだれにもわかっていることで、むかしから、岬の子どものちこくだけは大目に見られていたのだが、ぎゃくに一どもちこくがないとなると、これはとうぜんほめられねばならぬ。もちろん、一大事件としてほめられたのだ。男先生はそれを、じぶんの手がらのように思ってよろこび、
「なんしろ、ことしの生徒んなかには、たちのよいのがおるからなあ。」
五年生のなかにたったひとり、本校の大ぜいのなかでも群《ぐん》をぬいてできのよい女の子がいることで、岬からかよっている三十人の男女生徒がちこくしなかったようにいった。だがそれは、じつはおなご先生の自転車のためだったのだ。しかし、おなご先生だとて、そうとは気がつかなかった。
そしてたびたび、この岬の村の子どもらの勤勉さにかんしんし、いたずらぐらいはしんぼうすべきことだと思った。そう思いながら、心の中ではじぶんの勤勉さをも、ひそかにほめてやった。
――わたしだって、とちゅうでパンクしたときにちこくしただけだわ。わたしは八キロだもの――などと。そしてまどの外に目をやり、じぶんをいつもはげましてくれるおかあさんのことを思った。おだやかな入り海はいかにも夏らしくぎらぎら光って、母のいる一《いっ》本松《ぽんまつ》の村は白い夏雲の下にかすんで見えた。あけっぴろげのまどから、海風がながれこんできて、もうあと二日で夏休みになるよろこびが、からだじゅうにしみこむような気がした。だが、すこしかなしいのは、なんとしても気をゆるさぬような村の人たちのことだ。それを男先生にこぼすと、男先生はおく歯のない口を大きくあけてわらい、
「そりゃあむりな注文じゃ。あんたが、なんぼねっしんに家庭訪問してもですな、洋服と自転車がじゃましとりますわ。ちっとばかりまぶしくて、気がおけるんです。そんな村ですからな。」
おなご先生はびっくりしてしまった。顔を赤らめ、うつむいてかんがえこんだ。
――着物きて、あるいてかよえというのかしら。往復四里《り》(十六キロ)の道を……。
夏休み中にもなんどかそれについてかんがえたが、決心のつかぬうちに二学期がきた。暦《こよみ》のうえでは九月といっても、長い休みのあとだけに、暑さは暑さいじょうにこたえ、おなご先生の小さなからだはすこしやせて、顔色もよくなかった。その朝家を出かけるとき、先生のおかあさんはいったのである。
「なんじゃかんじゃとゆうても、三分の一はすぎたではないか。しんぼう、しんぼう。もうちょっとのしんぼう。」
手つだって自転車を出してくれながら、なぐさめてくれた。しかし、先生でもおかあさんのまえでは、ちょっとわがままをいってみたくなることは、ふつうの人間とおなじである。
「あーあ、しんぼ、しんぼか。」
はらでもたてているように、さあっと自転車をとばした。しばらくぶりに風をきって走るこころよさが身にしみるようだったが、きょうからまた、自転車でかようことを思うと気が重くなった。休み中なんどか話がでて、岬でへやでもかりようかといってもみたが、けっきょくは自転車をつづけることになったのである。
自転車も、朝はよいけれど、やけつくような、暑熱のてりかえす道を、せなかに夕日をうけてもどってくるときのつらさは、ときに息もとまるかと思うこともある。岬の村は目のまえなのに、日がなまいにち、ばか念を入れて、入り海をぐるりとまわってかようことをかんがえると、くやしくてならない。しかも自転車は岬の人たちの気にいらないというのだ。
あんちきしょ。
口に出してはいわないが、目のまえによこたわる岬をにらまえると、思わず足に力がはいる。めずらしく波のざわめく入《い》り江《え》の海を右にへだてて、岬に逆行して走りながら、ああ、と思った。きょうは二百十《にひゃくとお》日《か》なのだ。
そうと気がつくと、なんとなくあらしをふくんだ風が、じゃけんにほおをなぐり、潮っぽいかおりをぞんぶんにただよわせている。岬の山のてっぺんが、かすかにゆれうごいているようなのは、外海の波のあらさを思わせて、ちょっと不安にもなった。とちゅうで自転車をおりねばならないかもしれぬからなのだ。そうなると自転車ほどじゃまものはない。しかし、だからといっていまおりるわけにはもういかないのだとかんがえながら、いつしか、空想は羽のある鳥のようにとびまわっていた。
……風よ、なげ。アリババのようにわたしが命令をくだすと、風はたちまち力をぬいて、海はうそのようにしずまりかえる。まるで、いま、ねむりからさめたばかりの湖のようなしずかさです。橋よ、かかれ。さっとわたしがひとさし指をまえにのばすと、海の上にはたちまち橋がかかる。りっぱな、にじのようにきれいな橋です。わたしだけに見える、そして、わたしだけがとおれる橋なのです。わたしの自転車は、そっとその橋の上にさしかかります。わたしはゆっくりとペダルをふみます。あわてて海におちこむとたいへんですから、こうして七色のそり橋をゆっくりとわたりましたが、いつもより四十五分も早く岬の村へつきました。
さあたいへんです。わたしのすがたを見た村の人たちは、いそいでとけいの針を四十五分ほどすすめるし、子どもたちときたら、見るも気のどくなほどあわてふためいて、たべかけの朝飯をのどにつめ、あとはろくにたべずに家をとびだしました。
わたしが学校につくと、いまおきだしたばかりの男先生はおどろいて井戸《いど》ばたにかけつけ、手水《ちょうず》をつかいはじめるし、年とったおくさんはおくさんで、ねまきも着かえるまがなく、しちりんをやけにあおぎながら、かた手でえりもとをあわせあわせ、きまりわるそうなていさいわらいをし、そっと目もとや口もとをこすりました。目のわるいおくさんは、朝おきるといつも目やにがたまっているのです……。
ここだけはほんとのことなので、思わずくすっとわらったとき、空想はきりのようにきえてしまった。ゆくてから、風にみだされながらいつもの声がきこえたのである。
「小石せんせえ。」
一月《ひとつき》ぶりの声をきくと、ぐっとからだに力がはいり、「はあい。」とこたえたものの、風はその声をうしろのほうへもっていったようだ。思ったとおり、外海のがわは大きく波がたちさわいでいて、いかにも厄《やく》日《び》らしいさまを見せている。
「おそいのね、きょうは。四十五分ぐらいおくれているかもしれないわよ。」
それをきくと、なつかしそうに立ちどまって、なにか話しかけそうにした子どもたちは、本気にして走りだした。先生のほうも、風にさからって、いっそう足に力をいれた。ときどき方向のきまらぬような舞《ま》い舞い風がふいてきて、なんども自転車をおりねばならなくなったりした。まったく、四十五分ほどおくれそうだ。
海べの村でも一本松はいつも岬にまもられているかたちで、厄日にもたいしたことはないのにくらべると、細長い岬の村は、外海がわの半分がいつもそうとうの害をうけるらしい。木々の小えだのちぎれてとびちった道を、自転車も難渋《なんじゅう》しながらすすんだ。おしてあるくほうがおおかったかもしれぬ。こうして、ほんとうにずいぶんおくれて村にさしかかったのであったが、村じゅうが一目で見えるところまできて、先生は思わず立ちどまってさけんだ。
「あらっ。」
村のとっつきの小さな波止場《はとば》では、波止場のすぐ入り口で漁船がてんぷくして、くじらの背のような船底《ふなぞこ》を見せているし、波止場にはいれなかったのか、道路の上にもいくせきかの船があげられていた。海からうちあげられたじゃりで道はうずまり、とうてい自転車などとおれそうもないほどあれているのだ。
まるで、よその村へきたようなかわりかただった。海べりの家ではどこもみな、やねがわらをはがされたらしく、やねの上に人があがっていた。だれひとり先生にあいさつをするゆとりもないらしいなかを、先生もまた、道にうちあげられた石をよけながら、自転車をおしてやっと学校にたどりついた。
門をはいっていくと、どっと一年生が走ってきて、とりまいた。そのどの顔にも、いきいきとした目の光があった。それは、昨夜のあらしのおとずれを、よろこんででもいるようにげんきなのだ。うわずった声の調子で、口々に話しかけようとするのを、すこし出しゃばりの香《か》川《がわ》マスノが、わたしが報告の役だとでもいうふうに、その声の高さでみんなをおさえ、「せんせ、ソンキのうち、ぺっちゃんこにつぶれたん。かにをたたきつけたように。」
マスノのうすいくちびるから出たことばにおどろき、だんだん大きく目をみひらいた先生は、顔色さえもすこしかえて、
「まあ、ソンキさん、うちの人たち、けがしなかったの?」
見まわすと、ソンキの岡《おか》田《だ》磯吉《いそきち》は、びっくりしたのがまださめないようなようすで、こっくりをした。
「せんせ、わたしのうちは、井戸のはねつるべのさおが、まっ二つにおれて、井戸ばたの水がめがわれたん。」
やっぱりマスノがそういった。
「たいへんだったのね。ほかのうち、どうだったの。」
「よろず屋のおじさんが、やねのかこいをしょって、やねからおちたん。」
「まあ。」
「ミイさんとこでさえ、雨戸をとばしたんで。なあミイさん。」
気がつくと、マスノがひとりでしゃべっている。
「ほかの人どうしたの。なんでもなかったの?」
山石《やまいし》早《さ》苗《なえ》と目があうと、内気な早苗は赤い顔をしてこっくりした。マスノは先生のスカートをひっぱって、じぶんのほうへ注意をひき、
「せんせ、せんせ、それよりもまだ大騒動《おおそうどう》なんよ。米屋の竹一《たけいち》ん家《く》は、ぬすっとにはいられたのに、なあ竹一。米一俵、とられたんなあ。」
同意をもとめられて竹一は、うんとうなずき、
「ゆだんしとったんじゃ。こんな雨風の日はだいじょうぶと思うたら、けさんなって見てみたら、ちゃんと納屋《なや》の戸があいとったん。ぬすっとの家まで、米つぶがこぼれとるかもしれんゆうて、おとっつぁんがさがしたけんど、こぼれとらなんだん。」
「まあ、いろんなことがあったのね。――ちょっとまって、自転車おいてくるから、またあとでね。」
いつものとおり職員室の方へあるいていきながら、ふっと、いつもとちがったあかるさを感じて立ちどまった先生は、そこでまたおどろかされてしまった。井戸のやねがふっとんで、見おぼえのトタンやねのあたりが空白になり、そのあたりの空に白い雲がとんでいた。走りまわっていたらしいうしろはちまきの男先生が、いつもににあわずあいそのよい顔で、
「やあ、おなご先生、どうです、ゆうべは、だいぶあばれましたな。」
たすきがけのおくさんも出てきて、頭の手ぬぐいをぬぎながらひさしぶりのあいさつをし、
「一本松が、折れましたな。」
「え、ほんとですか。」
先生はとびあがるほどおどろき、じぶんの村の方に目をやった。一本松はいつものところにちゃんと立っているが、よく見るとすこしちがったすがたをしている。たいした暴風でもなかったのに、年をへた老松《ろうしょう》は、えだをはったそのみきの一部を風にうばわれたものらしい。
それにしても、入り海をとりかこんだ村々にとって、大むかしから、なにかにつけて目じるしにされてきた名物の老松が難にあったのを、地元のじぶんが気づかずにいたのがはずかしかった。しかもけさがたは、ごうまんにもいい気になって、一本松の下からひとさし指一本でまほうの橋をかけ、波をしずめたのだ。
村のとけいを四十五分もすすめさせることで、村じゅうの人を大さわぎさせたのに、きてみればそれどころでない大さわぎなのだ。男先生はあわてて手水をつかっているどころでなく、はだしになってはたらいている。おくさんはしちりんなどとっくにすまして、きりりとしたたすきがけではたらいているではないか。
ああ、二学期第一日は出発からまちがっていた、と、おなご先生はひそかにかんがえた。家を出るときの、おかあさんにたいしてのぶあいそを悔《く》いたのである。三時間めの唱歌のとき、おなご先生は思いついて、生徒をつれ、さいなんをうけた家へお見舞いにいくことにした。
いちばん学校に近い西口ミサ子の家へより、見舞いのことばをのべた。なんといっても家がぺっちゃんこになったソンキの家が被《ひ》害《がい》の第一番だとみんながいうので、つぎには荒神《こうじん》さまの上にあるソンキの家へむかった。
マスノがけさいった、かにをたたきつけたようだというのを思いだし、それはおとなの口まねだろうと思いながら、へんに実感をともなって想像された。だが家はもう近所の人たちの手だすけであらかたかたづいていた。別棟《べつむね》のとうふ納屋のほうがたすかったので、そこの土間《どま》にじかにたたみを入れて、そこへ家財道具をはこんでいた。
一家七人が今夜からそこにねるのかと思うと、気のどくさですぐにはことばも出ないでいるのを、手つだい人の中から川本《かわもと》松《まつ》江《え》の父親が口を出し、大《だい》工《く》らしいひょうきんさで、しかし、いくぶんかの皮肉をまじえていった。
「あ、これはこれは先生、先生まで手つだいにきておくれたんかな。それならひとつ、その大ぜいの弟子《でし》を使《つこ》うて道路の石でも浜《はま》へころがしてつかあさらんか(くださいませんか)。ここは大工でないとつごうがわるいですわい。それとも、手斧《ちょうな》でも持ちますかな。」
よいなぐさみものといわんばかりに、そこらの人たちがわらう。先生ははっとし、のんきらしく見られたことをはじた。そのとおりだと思った。しかし、せっかくきたのだから、一《ひと》ことでもソンキの家の人たちに見舞いをいおうと思い、なんとなくぐずぐずしていたが、だれもとりあってくれない。しかたなくもどりかけながら、てれかくしに子どもたちに、はかった。
「ね、みんなで、これから道路のじゃりそうじをしようか。」
「うん、うん。」
「しよう、しよう。」
子どもたちは大よろこびで、クモの子がちるようにかけだした。あらしのあとらしい、すがすがしさをともなった暑さにつつまれて、村はすみずみまではっきりと見えた。
「よいしょっと!」
「こいつめ!」
「こんちきい」
めいめいの力におうじた石をかかえては、道路のはじから二メートルばかり下の浜へおとすのである。ふたりがかりでやっとうごくような大きな石ころもまじえて、まるで荒磯《あらいそ》のように石だらけの道だった。いまはもう、ただしずかにたたえているだけのような海の水が、昨夜はこの高い道路の石がきをのりこえて、こんな石までうちあげるほどあれくるったのかと思うと、そのふしぎな自然の力におどろきあきれるばかりだった。
波は石をはこび、風は家をたおし、岬《みさき》の村はまったく大騒動の一夜であったのだ。おなじ二百十日も、岬の内と外ではこうもちがうのかと思いながら、先生はかかえた石をドシンと浜になげ、すぐそばで、なれたしぐさで石をけとばしている三年生の男の子にきいた。
「しけのとき、いつもこんなふうになるの?」
「はい。」
「そして、みんなで石そうじするの。」
「はい。」
ちょうど、そこを香川マスノの母親がとおりかかり、
「まあ、先生、ごくろうでござんすな。でも、きょうはざっとにしたほうがよろしいですわ。どうせまた、うしろ七《なの》日《か》や二百はつかがひかえとりますからな。」
本村《ほんそん》のほうで料理屋と宿屋をしているマスノの母は、わが子のいる岬へようすを見にきたということであった。マスノがとんできて、母親のこしにかじりつき、
「おかあさん、おそろしかったんで、ゆうべ。うち、ごつげな音がして、おばあさんにかじりついてねたん。朝おきたら、はねつるべのさおがおれとったんで。水がめがわれてしもたん。」
けさきいたことをマスノはくりかえして母にかたっていた。ふんふんといちいちうなずいていたマスノの母親は、半分は先生にむかって、
「岬じゃあ船がながされたり、やねがつぶれたり、ごっそりかべがおちて家の中が見とおしになった家もあるときいたもんですからな、びっくりしてきたんですけど、つるべのさおぐらいでよかった、よかった。」
マスノの母親がいってから、
「マアちゃん、ごっそりかべがおちたって、だれのうち?」
マスノはかかえていた石を、すてるのをわすれたように、とくいの表情になって、
「仁太《にた》んとこよ先生。かべがおちておし入れん中ずぶぬれになってしもたん。見にいったら、中がまる見えじゃった。ばあやんがおし入れん中でこないして天じょう見よった。」
顔をしかめてばあやんのまねをしたので、先生は思わずふきだしたのである。
「おし入れが、まあ。」
そういったあとで、わらいはこみあげてきて、ころころと声に出てしまった。
なぜそんなに先生がわらいだすのか生徒たちにはわからなかったが、マスノはひとり、じぶんが先生をよろこばしたような気になって、きげんのよい顔をした。みんなはいつかよろず屋のそばまできていた。
よろず屋のおかみさんはすごいけんまくを顔に出して走りよってきて、先生のまえに立った。かたで息をしながら、すぐにはものがいえないようだ。きゅうにわらいをけした先生は、すぐおじぎをしながら、
「あら、しつれいいたしました。しけでたいへんでしたなあ。きょうは石ころそうじのお手つだいをしていますの。」
しかし、おかみさんはまるできこえないようなようすで、
「おなご先生、あんたいま、なにがおかしいてわろうたんですか?」
「…………。」
「人がさいなんにおうたのが、そんなおかしいんですか。うちのおとうさんはやねからおちましたが、それもおかしいでしょう、みんごとたいしたけがは、しませなんだけんど、大けがでもしたら、なお、おかしいでしょう。」
「すみません。そんなつもりはちっとも――。」
「いいえ、そんならなんで人のさいなんをわろうたんです。おていさいに、道そうじなどしてもらいますまい。とにかく、わたしの家のまえはほっといてもらいます。――なんじゃ、じぶんの自転車が走れんからやってるんじゃないか、あほくさい。そんなら、じぶんだけでやりゃあよい……。」
あとのほうはひとりごとのようにつぶやきながら、びっくりして二の句もつげないでいる先生をのこして、ぷりぷりしながらひきかえすと、となりの川本大工のおかみさんに、わざとらしい大声で話しかけた。
「あきれた人があるもんじゃな。人のさいなんをきいて、けらけらわらう先生があろうか。ひとつ、ねじこんできた。」
やがてそれは、また尾《お》ひれがついて村じゅうにつたわっていくにちがいない。じっとつっ立って、二分間ほどかんがえこんでいた先生は、しんぱいそうにとりまいている生徒たちに気がつくと、なきそうな顔でわらって、しかし声だけは快活に、
「さ、もうやめましょう。小石先生しっぱいの巻だ。浜で、歌でもうたおうか。」
くるっときびすをかえして先に立った。その口もとはわらっているが、ぽろんとなみだをこぼしたのを子どもたちが見のがすわけはない。
「先生がなきよる。」
「よろず屋のばあやんが、なかしたんど。」
そんなささやきがきこえて、あとはひっそりと、ぞうりの足音だけになった。ふりかえって、ないてなんかいないよう、と、わらってみせようかと思ったとたん、またなみだがこぼれそうになったので、だまった。
このさいわらうのはよくないとも思った。さっきわらったのも、よろず屋のおかみさんがいうように、人のさいなんをわらったというよりも、ほんとうのところは、マスノの身ぶりがおかしく、それにつづいておし入れの連想は、一学期のある日の仁太を思いだしてわらわせたのであった。
「天皇《てんのう》陛《へい》下《か》はどこにいらっしゃいますか。」
はい、はい、と、手があがった中で、めずらしく仁太がさされ、
「はい、仁太くん。」
仁太はからだじゅうからしぼり出すような、例の大声で、
「天皇陛下は、おし入れの中におります。」
あんまりきばつな答えに、先生はなみだを出してわらった。先生だけでなく、ほかの生徒もわらったのだ。わらいは教室をゆるがし、学校の外までひびいていったほどだった。東京、宮城《きゅうじょう》などという声がきこえても、仁太はがてんのいかぬ顔をしていた。
「どうして、おし入れに天皇陛下がいるの。」
わらいがやまってからきくと、仁太は少々自信をなくした声で
「学校のおし入れん中にかくしてあるんじゃないんかいや。」
それでわかった。仁太がいうのは天皇陛下の写真だったのだ。奉安殿《ほうあんでん》のなかった学校では、天皇陛下の写真をおし入れにかぎをかけてしまってあったのだ。
仁太の家のおし入れのかべがおちたことは、それを思いださせたのであった。わかいおなご先生は、思いだすたびにわらわずにいられなかったのであるが、そんないいわけをよろず屋のおかみさんにきいてももらえず、だまってあるいた。なみだがこぼれているいまでさえ、その話はおかしい。しかしそのおかしさを、よろず屋のおかみさんのことばは、さし引きしてつりをとったのである。
浜に出て歌でもうたわぬことには、先生も生徒もきもちのやり場がなかった。浜におりると先生はすぐ、両手をタクトにして、うたいだした。
はるは はよからかわべのあしに
「あわてどこ屋」である。みんながとりまいて、ついてうたう。
かにが みせだし とこやでござる
チョッキン チョッキン チョッキンな
うたっているうちに、みんなのきもちは、いつのまにかはれてきていた。
うさぎゃおこるし かにゃはじょかくし
しかたなくなく あなへとにげる
おしまいまでうたっているうちに、しっぱいしたかにのあわてぶりが、じぶんたちのなかまができたようなおもしろさで思いだされ、いつかまた、心からわらっている先生だった。「このみち」だの「ちんちんチドリ」だの、一学期中におぼえた歌をみんなうたい、「お山の大将」でひとやすみになると、生徒たちはてんでに走りまわり、おとなしく先生をとりまいているのは一年生の五、六人だけだった。手入れなどめったにしないみだれたかみの毛を、うしろでだんごにしている女の子もいるし、いがぐりが耳の上までのびほうだいの男の子もあった。とこ屋のない村では学校のバリカンがひどく役にたち、それは男先生の受け持ちだった。かみの毛をだんごにしている女の子のほうは、おなご先生が気をくばって、水銀軟膏《すいぎんなんこう》をぬりこんでやらねばならない。さっそく、あしたそれをやろうと思いながら先生は立ちあがり、
「さ、きょうはこれでおしまい。かえりましょう。」
ハタハタとスカートのひざをはらい、一足うしろにさがったとたん、きゃあっと悲鳴をあげてたおれた。おとしあなにおちこんだのだ。いっしょに悲鳴をあげたもの、げらげらわらいながら近よってくるもの、手をたたいてよろこぶもの、おどろいて声をのんでいるもの、そのさわぎの中から、先生はなかなか立ちあがろうとしなかった。よこなりに、くの字にねたまま、砂の上にかみの毛をじかにくっつけている。わらったものも、手をたたいたものも、だまりこんでしまった。異様なものを感じたのだ。つぶった両の目からなみだがながれているのを見ると、山石《やまいし》早《さ》苗《なえ》がきゅうになきだした。そのなき声にはげまされでもしたように、「だいじょうぶ。」といいながらやっと半身をおこした先生は、そうっとあなの中の足をうごかし、こわいものにさわるようなようすで、くつのボタンをはずし右の足くびにふれたと思うと、そのまままたよこになってしまった。もうおきあがろうとはしない。やがて、目をつぶったまま、
「だれか、男先生、よんできて。おなご先生が足のほね折って、あるかれんて。」
ハチの巣《す》をつついたような大さわぎになった。大きな子どもたちがどたばたかけだしていったあとで、女の子はわあわあなきだした。まるで半鐘《はんしょう》でもなりだしたように、村じゅうの人がとびだして、みんなそこへかけつけてきた。まっさきにきた竹一の父親は、うつむいてねているおなご先生に近よって、砂の上にひざをつき、
「どうしました、先生。」
と、のぞきこんだ。しかし、先生は顔をしかめたまま、ものがいえないらしい。子どもたちからきかされて、足のけがだとわかると、すこし安心したようすで、
「くじいたんでしょう。どれどれ。」
足もとの方にまわり、くつをぬがせにかかると、先生は、うっと声を出してますます顔をしかめた。くつのあとをくっきりとつけて、先生の足くびは、二倍もの太さになったかと思うほどはれていた。血は出ていなかった。
「ひやすと、よかろうがな。」
もう大ぜいあつまってきている人たちにいうと、徳《とく》田《だ》吉《きち》次《じ》のおとっつぁんが、いそいでよごれたこしの手ぬぐいを潮水にぬらしてきた。
「いたいんですかい、ひどく?」
かけつけた男先生にきかれて、おなご先生はだまってうなずいた。
「あるけそうにないですかい?」
また、うなずいた。
「いっぺん、立ってみたら?」
だまっている。西口ミサ子の家からミサ子の母親が、うどんことたまごをぬったはり薬を布にのばしてもってきた。
「ほねは、折れとらんと思いますが、早く医者にかかるか、もみりょうじしたほうがよろしいで。」
「もみ医者なら中町《なかまち》の草《くさ》加《か》がよかろう。ほねつぎもするし。」
「草加より、橋本外科《げか》のほうが、そりゃあよかろう。」
口々にいろんなことをいったが、なにをどうするにも岬の村では外科の医者も、もみりょうじもなかった。たった一つはっきりしていることは、どうしても先生はあるけないということだった。あれこれ相談の結果、船で中町までつれていくことになった。漁師の森《もり》岡正《おかただし》の家の船で、加部《かべ》小《こ》ツルのおとうさんと竹一《たけいち》の兄がこいでいくことに話がきまった。男先生はついていくことになり、おなご先生をおんぶして船にのった。すわらせたり、おぶったり、ねかせたりするたびに、おなご先生のがまんした口から思わずうなり声が出た。
船がなぎさをはなれだすと、わあっと、女の子のなき声がかたまってとんできた。
「せんせえ。」
「おなごせんせえ。」
声をかぎりにさけぶものもいる。小石先生は身うごきもできず、目をつぶったまま、だまってその声におくられた。
「せんせえ。」
声はしだいに遠ざかり、船は入り海のまん中に出た。朝、まほうの橋をかけた海を、先生はいま、いたさをこらえながら、かえっていく。
三、米《こめ》五ん合豆《ごうまめ》一升《しょう》
十《とお》日《か》すぎても、半月たってもおなご先生はすがたを見せなかった。職員室の外のかべにもたせてある自転車にほこりがたまり、子どもたちはそれをとりまいて、しょんぼりしていた。もう小石先生はこないのではないかとかんがえるものもあった。本校がよいの生徒にしてもそうだ。先生の自転車がどれほどまいにちのはげみになっていたか、めいめいが、長い道中どれほど小石先生のすがたをまっていたか、小石先生にあわなくなってから、そう思った。村の人にしてもおなじだった。だれがどうというのではなく、不当につらくあたっていたことを、ひそかに悔《く》いているようだった。なぜなら、小石先生の評判がきゅうによくなったのだ。
「あの先生ほど、はじめから子どもにうけた先生は、これまでになかったろうな。」
「早うなおってもらわんと、こまる。岬《みさき》の子どもが、先生をちんばにした、てなことになると、こまるもん。あとへ来手《きて》がなかったりすると、なおこまる。」
「ちんばになんぞ、ならにゃえいがなあ。わかい身そらで、ちんばじゃ、なおっても、かようにこまるじゃろな。」
こんなふうにおなご先生のうわさをした。どうしてももういちど岬の学校へきてもらいたいきもちがふくまれていた。きてもらわないと、ほんとにこまるのだ。直接に、もっともこまったのは男先生だった。
小さな村の小学校では、唱歌は一週一どだった。その一時間を、男先生はもてあましたのだ。おなご先生が休みだしてから、はじめのうちは、ならった歌を合唱させたり、じょうずらしい子どもに独唱させたりした。そうして、一月《ひとつき》ほどはすんだが、いつまでもごまかすわけにもいかず、そこで男先生はとうとうオルガンのけいこをはじめ、そのためにあせをながした。先生は声をあげてうたうのである。
ヒヒヒフミミミ イイイムイ――
ドドドレミミミ ソソソラソ――と発音するところを、年よりの男先生はヒヒヒフミミミ――という。それはむかし、男先生が小学生のときにならったものであった。
ミミミミフフフ ヒヒフミヒ――
唱歌は土曜日の三時間めときまっている。うれしくたのしくうたってわかれて、日曜日をむかえるという寸法の時間割りであったのが、子どもにとっても先生にとっても、きゅうにおもしろくない土曜日の三時間めになってしまった。男先生にとっては、なおのことである。木曜日ごろになると、もう男先生は土曜日の三時間めが気になりだし、そのために、きゅうに気みじかになって、ちょっとのことで生徒にあたりちらした。わき見をしたといってはしかりつけ、わすれものをしてきた生徒をうしろに立たせた。
「男先生、このごろ、おこりばっかりするようになったな。」
「すかんようになったな。どうしたんじゃろな。」
子どもたちがふしぎがるそのわけを、いちばんよく知っている男先生のおくさんは、ひそかにしんぱいして、それとなく男先生をたすけようとした。金曜日の夜になると、おくさんは内職の麦稈《ばっかん》真《さな》田《だ》(むぎわらをさなだひも状にあんだもの)をやめてオルガンのそばに立ち、先生をはげました。
「わたしが生徒になりますわ。」
「うん、なってくれ。」
豆ランプが、ちろちろゆらぎながら、オルガンとふたりの年より夫婦のすがたをてらしているところは、もしも女の子がこれを見たら、ふるえあがりそうな光景である。やみと光の交錯《こうさく》の中で先生とおくさんはうたいかわしていた。
ヒヒヒフ ミミミ イイイムイ
おくさんだけがうたい、それにオルガンの調子があうまでにはだいぶ夜《よ》もふけた。村はもう一けんのこらずねしずまっていることで、かえって気がねでもしているように、おくさんは豆ランプをけしてから足さぐりでへやにもどりながら、ほうっとため息をし、ひそやかに話しかけた。
「おなご先生も、えらい苦労かけますな。」
「うん。しかし、むこうにすりゃあ、もっと苦労じゃろうて。」
「そうですとも。あんたのオルガンどころじゃありませんわ。足一本折られたんですもん。」
「もしかしたら、大石先生はもう、もどってこんかもしれんぞ。先生よりも、あの母親のほうが、えらいけんまくだったもんな。かけがえのないむすめですさかい、二どとふたたび、そんな性《しょう》わるの村へは、もうやりとうありません、ゆうてな。」
「そうでしょうな。しかし、こられんならこられんで、かわりの先生がきてくれんとこまりますな。」
人にきかれたらこまるとでもいうようにないしょ声でいって、うらめしそうに、ちらりと海のむこうを見た。一本松《いっぽんまつ》の村もしずかにねむっているらしく、星くずのような遠い火がかすかにまたたいている。こんな夜ふけに、こんな苦労をしているのはじぶんたちだけだと思うと、おなご先生がうらめしかった。
あれいらい、おくさんもまた一役かって、四年生五人の裁縫《さいほう》を受け持っていたのだ。しかし、ぞうきんさしの裁縫はちっとも苦労ではなかった。まるで手まりでもかがるように、ていねいにさすのを、一時間のあいだ、かわるがわるにみてやればそれですむ。だが、唱歌だけは、なんとしてもオルガンがむずかしい。オルガンは、裁縫するようには手がうごかないからだ。それを一生けんめい、ひきこなそうとする男先生の勉強ぶりは、おくさんにとっては、神々《こうごう》しいようでさえあった。十月だというのに、男先生は、たらたらあせをながしていた。外へきこえるのをはばかって、教室のまどはいつもしめてあったから、あせはよけいながれた。
先生ならばオルガンぐらいはひけるのがあたりまえなのだが、なにしろ、小学校を出たきり、努力ひとつで教師になった男先生としては、なによりもオルガンがにが手であった。いなかのこととて、どこの学校にも音楽専任の先生はいなかった。どの先生もじぶんの受け持ちの生徒に、体操も唱歌もおしえねばならない。そんなこともいやで、じぶんからたのんで、こんなへんぴな岬へきたのでもあったのに、いまになってオルガンのまえであせをながすなど、オルガンをたたきつけたいほどはらがたった。
しかし、今夜はそうではなかった。おくさんひとりの生徒にしろ、ひき手と歌い手の調子が合うところまでいったのだ。そんなわけで、男先生のほうは、わりとごきげんだった。そこでおくさんにむかって、すこし鼻をたかくした。
「おれだって、ひく気になればオルガンぐらい、すぐひけるんだよ。」
おくさんもすなおにうなずいた。
「そうですとも、そうですとも。」
大石先生が休みだしてから、あすは六回めぐらいの唱歌の時間になる。男先生にとっては、あすの唱歌の時間がたのしみにさえなってきた。
「きっと生徒が、びっくりするぞ。」
「そうですね。男先生もオルガンひけると思うて、見なおすでしょうね。」
「そうだよ。ひとつ、しゃんとした歌をおしえるのも必要だからな。大石先生ときたら、あほらしもない歌ばっかりおしえとるからな。『ちんちんチドリ』だことの、『チョッキンチョッキン、チョッキンな』だことの、まるで盆《ぼん》おどりの歌みたよな、柔《やお》い歌ばっかりでないか。」
「それでも、子どもはよろこんどりますわ。」
「ふん。しかし女の子ならそれもよかろうが、男の子にはふさわしからぬ歌だな。ここらでひとつ、わしが、やまとだましいをふるいおこすような歌をおしえるのも必要だろ。生徒は女ばっかりでないんだからな。」
おくさんのまえでむねをはるようにして、ことのついでのように、いまのさっきまでふたりでけいこをした唱歌をうたった。
「ちんびきのいわは、おんもからずう――。」
「しっ、人がきいたら、気ちがいかと思う。」
おくさんはびっくりして手をふった。
そして、いよいよあくる日、唱歌の時間がきても、生徒はのろのろと教室にはいった。どうせ、きょうもまた、オルガンなしにうたわされるのだと思って、はこぶ足もかるくなかったのだろう。小石先生だと、土曜日の二時間めがおわると、そのままひとり教室にのこって、オルガンをならしていたし、三時間めの板《ばん》木《ぎ》がなるとともに行進曲にかわり、みんなの足どりをひとりでにうきたたせて、しぜんに教室へみちびいていた。どんなにそれがたのしかったことか、みんな、心のどこかにそれを知っていた。口ではいえない、それはうれしさであった。だから、小石先生がこなくなったいま、口ではいえないものたりなさが、心のどこかにあった。それを、気づくというほどでなく、みんなは気づいていたのだ。
「先生はきき役しとるから、みんなすきな歌うたえ。」
オルガンなど見むきもせずに、男先生はそういうのだ。うたえといわれても、オルガンがならぬと歌はすぐに出てこなかった。出てきても調子っぱずれだったりする。
ところが、きょうはすこしちがう。教室にはいると男先生はもう、オルガンのまえにちゃんとこしかけてまっていた。おなご先生とすこし調子がちがうが、ブブーと、おじぎのあいずもなった。みんなの顔に、おや、という色が見えた。二まいの黒板には、いつもおなご先生がしていたように、右がわには楽《がく》譜《ふ》が、左がわにはきょうならう歌が、たて書きに書かれていた。
千引《ちび》きの岩《いわ》
千引《ちび》きの岩《いわ》は重《おも》からず
国家《こっか》につくす義《ぎ》は重《おも》し
事《こと》あるその日《ひ》、敵《てき》あるその日《ひ》
ふりくる矢《や》だまのただ中《なか》を
おかしてすすみて国《くに》のため
つくせや男《だん》児《じ》の本分《ほんぶん》を、赤心《せきしん》を
漢字にはぜんぶふりがながうってある。男先生はオルガンのまえから教壇《きょうだん》にきて、いつもの授業のときのように、ヒッチクダケの棒の先で一語一語をさししめしながら、この歌の意味を説明しはじめた。まるで修身の時間のようだった。いくらくりかえして、この歌のふかい意味をとききかしても、のみこめる子どもはいくにんもいなかった。一年生がまっさきに、二年生がつづいて、がやがや、がやがや。三年生と四年生の中にも、こそこそ、こそこそ、ささやき声がおこった。と、とつぜん、ピシッと、ヒッチクダケがなった。教壇の上のつくえをはげしくたたいたのである。とたんに、ざわめきはやみ、ハトのような目が、いっせいに男先生の顔をみつめた。男先生はきびしく、しかし一種のやさしさをこめて、
「大石先生は、まだとうぶん学校へ出られんちゅうことだから、これから、男先生が唱歌をおしえる。よくおぼえるように。」
そういったかと思うと、オルガンの方へいき、うつむきこんでしまった。まるでそれは、はずかしがってでもいるように見えた。しかもそのしせいで男先生はうたいだしたのである。
「ヒヒヒフミミミ、イイイムイ。はいっ。」
生徒たちはきゅうにわらいだしてしまった。ドレミファを男先生はむかし流にうたったのである。しかし、いくらわらわれても、いまさらドレミファにしてうたう自信が、男先生にはなかった。そこでとうとう、ヒフミヨイムナヒ(ドレミファの音階)からはじめて、男先生流におしえた。そうなるとなったで、生徒たちはすっかりよろこんだ。
――ミミミミフフフ ヒヒフミヒー フーフフフヒミイ イイイムイミ……
これでは、まるで、気ちがいがわらったりおこったりしているようだ。たちまちおぼえてしまって、その日から大はやりになってしまった。だれひとり、その勇壮《ゆうそう》かっぱつな歌詞をうたって、男先生の意図にそおうとするものはなく、イイイイムイミーとうたうのだった。
それからまた、なんどめかの土曜日、やっぱり「千引きの岩」をうたわされてのかえり道であった。一年生の香《か》川《がわ》マスノは、ませた口ぶりで、いっしょにあるいていた山石《やまいし》早《さ》苗《なえ》にささやいた。
「男先生の唱歌、ほんすかん。やっぱりおなご先生の歌のほうがすきじゃ。」
そういってからすぐ、おなご先生におそわったのをうたいだした。
やまの かあらあすうが もってえきいたあ――
早苗も、小《こ》ツルもいっしょにつづけてうたった。
あかい ちいさあな じょうぶくろ……
お昼きりの一年生の女の子ばかりがかたまっていた。
「おなご先生、いつんなったら、くるんじゃろなあ。」
マスノの目が一本松の方へむくと、それにさそわれてみんなの目が一本松の村へそそがれた。
「おなご先生の顔、見たいな。」
そういったのは小ツやんの加部《かべ》小ツルである。通りかかったソンキの岡《おか》田《だ》磯吉《いそきち》と、キッチンの徳《とく》田《だ》吉《きち》次《じ》がなかまにはいってきて、口まねで、
「おなご先生の顔、見たいな。」
いつしか、それは実感になってしまったらしく、立ちどまっていっしょに一本松の方を見た。
「おなご先生、入院しとるんど。」
ソンキがきいたことをきいたとおりにいうと、小ツやんがよこどりして、
「入院したのは、はじめのことじゃ。もう退院したんど。うちのおとっつぁん、きのう道で先生に会《お》うたいよったもん。」
それで小ツルは、だれよりもさきに顔が見たいと思いついたらしい。チリリン屋のかの女《じょ》の父親は、船と陸と両方の便利屋だった。きのうは大八車《だいはちぐるま》をひいて町までいったのである。すくなくも一日おきぐらいに、入《い》り江《え》をとりまく町や村を、たのまれて用たしでぐるぐるまわってくるチリリン屋は、船や車にいろんなうわさ話もいっしょにつみこんでもどってきた。
大石先生のけががアキレス腱《けん》がきれたということも、二、三か月はよくあるけまいということも、それらはみんな、こしにすずをつけてあるきまわっているチリリン屋がきいてきたものだった。
「そんなら、もうすぐに、先生くるかしらん。早うくるとええけんどな。」
早苗が目をかがやかすと、小ツルはまたそれをよこどりして、
「こられるもんか。まだ足が立たんのに。」
そして小ツルは、すこし調子にのって、
「おなご先生ん家《く》へ、いってみるか、みんなで。」
いっておいて、ぐるっと、ひとりひとりの顔を見まわした。竹一《たけいち》も、タンコの森岡正《もりおかただし》も、仁太《にた》もいつのまにかなかま入りしていた。しかし、だれひとり、すぐには小ツルの思いつきにさんせいするものはなかった。ただだまって一本松の方を見ているのは、そこまでの距《きょ》離《り》が、じぶんたちの計算ではけんとうがつかなかったからだ。かた道八キロ、おとなのことばで二里《り》という道のりは、一年生の足の経験でははかりしれなかった。とほうもない遠さであり、海の上からはいっしゅんで見わたす近さでもある。ただ、氏神《うじがみ》さまより遠いということはすこしこわかった。かれらはまだ、だれひとり一本松まであるいていったものがないのだ。そのとちゅうにある本村《ほんそん》の氏神さまへは、毎年の祭りに、あるいたり、船にのったりしていくのだが、そこから先がどのぐらいなのか、だれも知らない。たったひとり仁太が、ついこないだ一本松より先の町へいったことがある。しかしそれは、氏神さまの下からバスにのって、一本松のそばを通ったというだけのことだった。それでもみんなは、仁太をとりまいた。
「仁太、氏神さまから、一本松まで、何時間ぐらいかかった?」
すると仁太は、とくいになって、あおばなをすすりもせずに、
「氏神さまからなら、すぐじゃった。バスがな、ブブーってらっぱならしよって、一本松のとこつっ走ったもん。まんじゅう一つ食うてしまわんうちじゃったど。」
「うそつけえ、まんじゅう一つなら、一分間でくえらあ。」
竹一がそういうと、川本《かわもと》松《まつ》江《え》が、西口《にしぐち》ミサ子に、「なあ。」と、同意をもとめながら、
「なんぼバスが早うても、一分間のはずがないわ、なあ。」
みんなの反対にあうと、仁太はむきになり、
「そやってぼく、氏神さまのとこで食いかけたまんじゅうが、バスをおりてもまだ、ちゃんと手にもっとったもん。」
「ほんまか?」
「ほんまじゃ。」
「指きりじゃ、こい。」
「よし、指きりするがい。」
それで、みんなは安心をした。仁太が生まれてはじめてのったバスのめずらしさに、まんじゅうをたべるのもわすれて、運転手の手もとを見ていたなど、だれもかんがえなかった。ただ、ともかくも仁太だけがバスにのったことと、一本松のまだつぎの町でおりるまで、まんじゅう一つをたべるまがなかったことと、この二つからわりだして、氏神さまから一本松までの遠さを、たいしたことではないと思った。たとえ自転車にのってとはいえ、おなご先生はまいにち、あんなに朝早く、一本松からかよっていたではないか。と、そんなことも遠さとしてより、近さとして、みんなの頭にうかんだらしい。そんなきもちのうごいているときに、対岸の海ぞい道にバスが走っているのが見えたからたまらない。小さく小さく見えるバスは、まったく、あっというほどのまに走って林の中へすがたをけした。
「ああ、いきた!」
マスノがとんきょうにさけんだ。なんということなく男の子にさえ力をもっているマスノの一声《ひとこえ》である。
「いこうや。」
「うん、いこう。」
正と竹一がさんせいした。
「いこう、いこう。走っていって、走ってもどろ。」
「そうじゃ、そうじゃ。」
小ツルと松江がとびとびしていさみたった。だまっているのは早苗と、片桐《かたぎり》コトエだけである。早苗はもちまえの無口からであったが、コトエのほうは複雑な顔をしていた。家のことを思いだしていたのであろう。
「コトやん、いかんの?」
小ツルがとがめだてるようにいうと、コトやんはますます不安な表情になり、
「おばんに、問うてから。」
その小さな声には自信がなかった。一年生のコトエをかしらに五人きょうだいのかの女は、せなかにいつも子どものいないことがなかった。かぞえ年五つぐらいからかの女は子もり役をひきうけさせられていたのだ。家へかえって相談すれば、とてもゆるされるみこみはなかった。そしてまた、それは早苗や松江や小ツルもおなじであった。みんな、しゅんとして顔を見あった。かぞえ年十さいになるまではあそんでもよいというのが、むかしからの子どものおきてのようになっていたが、あそぶといっても、それはほんとうに自由にあそぶのではなく、いつも弟や妹をつれたり、赤んぼうをおんぶしてのうえでのことだった。ほんとに、すきかってにあそんでよいのはひとりっ子のマスノとミサ子だけだ。
コトエの一《ひと》ことはみんなにそれを思いださせたが、しかし、思いとどまることはできない空気だった。
「飯たべたら、そうっとぬけだしてこうや。」
小ツルが、のりかかった船だとでもいうように、みんなをけしかけた。
「そうじゃ、みんなうちの人にゆうたら、いかしてくれんかもしれん。だまっていこうや。」
竹一が知恵をめぐらしてそう決断した。こうなるともう、だれひとり反対するものはなく、秘密で出かけることがかえってみんなをうきうきさせた。
「そうっとぬけだしてな、波止《はと》の上ぐらいからいっしょになろう。」
正がそういうと、総帥格《そうすいかく》のマスノはいっそうこまかく頭をつかい、
「波止《はと》の上は、よろず屋のばあやんに見つかるとうるさいから、やぶのとこぐらいにしようや。」
「それがえい。みんな、畑の道通ってぬけていこう。」
めいめい、きゅうにいそがしくなった。
「ほんまに、走っていって、走ってもどらんかな。」
念をおしたのはコトエである。みんなが走ってかえっていくあとから、コトエはかんがえかんがえあるいた。どうかんがえても、だまってぬけだす工夫はないように思えた。じぶんだけはやめようか。しかしそれはできない。そんなことをしたら、あしたからだれもあそんでくれないかもしれぬと思った。のけものになるのはいやだ。だまってぬけだせたとしても、あとでおばんやおかあさんにしかられるのもいやだ。
赤んぼなんぞ、なければよかった。
そう思うと、いつもはかわいい赤んぼうのタケシの顔がにくらしくなり、一日ぐらい、ほったらかしたくなった。かの女の足はきゅうにあともどりをし、畑の方へあるいていった。やぶが見えだすと走った。だれかに見つかりそうで、どきどきした。
二時間後のことである。子どもについて、まっさきにしんぱいしだしたのは、コトエのおばんであった。
「はらもへろうのに、なにこそしよるやら。」
はじめはひとりごとをいった。もどればタケシをコトエのせなかにくくりつけておいて、おばんは畑へ二番ササゲをつみにいく手はずになっているのに、コトエはかえらないのだ。学校へ見にいったところで、いまごろいるはずもないと思い、赤んぼうとゆわいひもをもって、いちばんなかよしの早苗のところへのぞきにいった。てっきりそこであそびほうけていると思ったのだ。
「こんにちは、うちのコトは、きとらんかいの?」
もちろんいるわけがない。それどころか早苗もまだかえらないというのだ。かえりに荒《こう》神《じん》さまをのぞいてみたが、スギの木かげにあそんでいたのはコトエよりすこし大きい子や、小さい子ばかりだった。だれにともなく大声で、
「おまえら、うちのコト、知らんかいの?」
「知らんで。」
「いっぺんも、きょうは見んで。」
「早苗さん家《く》とちがうか。」
いろんなへんじが矢つぎ早にとんできた。それはみなはらのたつへんじばかりだった。
「しようのないやつじゃ、ほんまに。見つけたら、すぐもどれいよったと、ゆうておくれ。」
おばんは、ひょいとなげるようにして赤んぼうをせなかにやり、まだわかりもしない赤んぼうに話しかけた。
「ねえやんは、どこへうせやがったんじゃろな。コトのやつめ、もどってきたら、どやしつけてやらんならん。」
しかし、昼飯もまだなのを思うと、すこししんぱいになった。しんぱいしいしい土間《どま》でぞうりをつくっていると、川本大《だい》工《く》のおかみさんが、気ぜわしそうな足どりでやってきた。
「こんちわ、えいお天気で。うちのマツを見にきたんじゃけんど、見えんなあ。」
それをきくと、コトエのおばんは、ぞうりつくりの手をおいて、
「マッちゃんもかいな。昼飯もたべんと、どこをほっつきあるきよんのかしらん。」
「うちのマツは昼飯はたべにもどったがいな。はしおいて、用ありげに立っていって、すぐもどるかと思や、もどってきやせん。」
コトエのおばんはきゅうにしんぱいになってきた。もうぞうりどころでなかった。大工のおかみさんが、さがしてくるといってかえったあとも、しんぱいはだんだんひろがってくるばかりだった。出たりはいったり、立ったりすわったり、おちつかなかった。
――むりもない。あそびたいさかりじゃもん。まいにち子もりばっかりじゃあ、むほんもおこしたかろう……。
ポトンとなみだがおちた。そのなみだでかすんだ目に、小さいときから子もりばかりさせたためか、出っちりになってしまったおさないコトエのかわいそうなすがたがうかんできてきえなかった。
――それにしても、どこで、なにをしているのかしらん。きょうはわかいもんまでがおそいなあ……。
外に出て沖《おき》をながめた。あじ漁に出ているコトエの両親たちのかえりまでが、きょうはとくべつおそいように、おばんには思えた。
「まだ、もどってこんかえ。」
大工のおかみさんの三どめの声がかかるまでに、小ツルの姉と、早《さ》苗《なえ》の弟と、富士子《ふじこ》の母親とが、めいめいの家のむすめを案じて見にきた。まもなく一年生のぜんぶがいないとわかり、やがて本校がえりの生徒のひとりが、八幡堂《はちまんどう》という文房《ぶんぼう》具《ぐ》屋《や》のそばでみんなを見かけたというのをきいて、やっとしんぱいは半分になった。それだけにうわさは村じゅうにひろがり、てんでにかってなことをいいあった。
「しばいがきたというから、いったんじゃないかな。」
「銭《ぜに》もないのに、どうして。」
「のぼりやかんばんでも、口あけて見よるかもしれん。」
「子どもっちゃ、ものずきなことやの。」
一年生の家のものはいまは半分笑《え》顔《がお》で話しあった。
「いんま、はらへらして、足に豆《まめ》こしらえて、もどってくるわいの。」
「どんな顔して、もどってくるかしらん。あほくらいが。」
「もどったら、おこったもんかいの、おこらんほうがよかろうか。」
「ほめるわけにゃ、いくまいがのう。」
こんなのんきそうなことがいえたのも、ソンキの兄や、仁太《にた》や富士子の父親たちがむかえに出むいた安心からであった。それにしても、だれひとり大石先生を思いださなかったとは、なんとしたうかつさだったろう。
三人の出むかえ人は、本村にさしかかると、これはと思う人にいきあうたびにたずねた。
「ちょっとおたずねですがな、お昼すぎごろに七、八つぐらいの子どもらが十人ほど通ったのを見ませなんだかいな。」
おなじことをなんべんくりかえしたろう。
そこで、子どもたちはどうしていたろう。
やぶの上へまっさきについたのは、いうまでもなくコトエだった。コトエはそこで、草むらに学校の包みをかくして、みんなをまった。吉次とソンキが先をあらそうように走ってきた。つづいて竹一と正と。いちばんおくれてきたのは富士子と仁太であった。仁太は用心ぶかく、シャツやズボンの四つのポケットをソラマメのいったのでふくらましていた。家にあっただけみんなもってきたのだという。それを気まえよくみんなにすこしずつわけてやりながら、いちばんうれしそうな顔をしていた。ポリポリいり豆をかみながら一行《いっこう》は出発した。
「おなご先生、びっくりするど。」
「おう、よろこぶど。」
コトエひとりは先頭に立ってみんなをふりかえった。走っていって走ってかえるはずなのに、だれもかれものんびりとあるいていると思った。いけばわかるのに、みんな口々におなご先生のことばかりいっている。
「おなご先生、ちんばひいてあるくんど。」
「おなご先生の足、まだいたいんかしらん。」
「そりゃいたいから、ちんばひくんじゃないか。」
するとソンキは、ちょこちょことまえにすすみ、
「な、みんな、アキレスはここじゃど。このふといすじが、切れたんど。」
じぶんのアキレス腱《けん》のあたりをさすってみせ、
「こんなとこが切れたんじゃもん、いとうのうて。」
ようやくみんなの足は早くなっていった。子どもたちだけでこの道をあるくのは、はじめてだった。山ひだを一つすぎるごとにあたらしいながめがあらわれて、あきなかった。岬《みさき》をよこぎり、入り海ぞいの道にかかると、一本松《いっぽんまつ》の村はななめうしろに遠のく。それだけ近くなっているのが、うそのような気がして心細くなったが、だれも口には出さない。やがて、はるかかなたに本校がえりの生徒のかたまりが見えた。みんな、はっとして顔を見あわせた。
「かくれ、かくれ。大いそぎで。」
マスノの一声は、あとの十一人をサルのようにすばしこくさせ、かや山の中へ走りこませた。ガサガサと音がしてカヤがゆれた。
「じっとして! 音さしたらいかん。」
マスノがうすいくちびるをそらして、すこしつった切れ長の目にものをいわせると、竹一や正までが声もからだもひそめてしまった。みんなの背の倍もありそうなササガヤの山は、十二人の子どもをかくしてサヤサヤとなった。しかし気づかれずに大きな生徒たちをやりすごせたのは、じつにマスノの機転であった。かの女《じょ》ににらまれると、みんなはネコのようにおとなしくなるのだ。
岬の道を出て、いよいよ本村にはいるころから、みんなはしぜんと小声にしゃべっていた。一本松の村までにはいくつかの町や村の、たくさんの部落があった。大小のその村々をすぎてはむかえ、すぎてはまたむかえ、あきるほどそれをくりかえしても、一本松はなかなかこなかった。岬の村から見れば、あんなに近かった一本松、目のまえに見えていた一本松、それがいまはすがたさえも見せない。八キロ、おとなのいう二里《り》の遠さを足のうらから感じだして、だんだんだまりこんでいった。いきあう人の顔も、見おぼえがなかった。まるで遠い国へきたような心細さが、みんなのむねの中にだんだん、重《おも》石《し》のようにしずんでいく。
もうひとつ、はなをまわれば一本松は目のまえにながめられることを、だれも知らないのだ。きいてもらちのあかぬ仁太にきくことも、もうあきらめてしまって、ただまえへまえへと一足でもすすむよりほかなかった。
竹一とミサ子はまっさきにぞうりをきらし、きれぬかた方をミサ子にやって、竹一ははだしになっていた。吉次も正もあやしかった。だれも一銭ももっていないのだ。ぞうりは買えるわけがない。はだしでかえらねばならないだろうことは、あるいてきた道の遠さとかんがえあわせて、ぞうりのきれかけたもののきもちはよけいみじめだった。
とつぜん、コトエがなきだしてしまった。昼飯ぬきのかの女は、つかれかたもまた早かったろうし、がまんできなくなったのだろう。道ばたにしゃがんで、ええん、ええんと、声を出してないた。すると、ミサ子と富士子がさそわれて、しくしくやりだした。
みんなは立ちどまって、ぽかんとした顔でないている三人を見ていた。じぶんたちもなきたいほどなのだ。げんきづけてやることばなど、出てこなかった。きびすをかえせばよいのだ。もうかえろうや、と、だれかがいえばよいのだ。
しかしだれも、それさえいいだす力がなかった。マスノや小ツルさえ、困惑《こんわく》の色をうかべていた。かの女たちにしても、なきだしたかったのだ。しかしなけなかった。いっそ、みんなでなきだせば、どこからかすくいの手がのべられるだろうが、それにも気がつかなかった。
初秋の空は晴れわたって、午後の日ざしはこのおさない一団を、白くかわいた道のまん中に、異様さを見せてうしろからてらしていた。家へかえりたいきもちはしぜんにあらわれて、しらずしらずあるいてきた道の方をむいて立っていたのである。その前方から、警《けい》笛《てき》とともに、銀色の乗り合いバスが走ってきた。しゅんかん、十二人は一つのきもちにむすばれ、せまい道ばたの草むらの中に一列によけて、バスをむかえた。コトエさえももうないてはいず、一心にバスを見まもっていた。
もうもうと、けむりのように白い砂ぼこりをたてて、バスは目のまえを通りすぎようとした。と、そのまどから、思いがけぬ顔が見え、
「あら、あら!」
といったと思うと、バスは走りぬけた。大石先生なのだ。
わあっ。
思わず道へとびだすと、歓声をあげながらバスのあとをおって走った。あたらしい力がどこからわいたのか、みんなの足は早かった。
「せんせえ。」
「おなごせんせえ。」
とちゅうでバスがとまり、おなご先生をおろすとまた走っていった。松《まつ》葉《ば》づえによりかかって、みんなをまっていた先生は、そばまでくるのをまたずに、大きな声でいった。
「どうしたの、いったい。」
走りよってその手にすがりつきもならず、なつかしさと、一種のおそろしさに、そばまでいけず立ちどまったものもあった。
「先生の、顔見にきたん。遠かったあ。」
仁太が口火をきったので、それでみんなも口々にいいだした。
「みんなでやくそくして、だまってきたん、なあ。」
「一本松が、なかなかこんので、コトやんがなきだしたところじゃった。」
「せんせ、一本松どこ? まだまだ?」
「足、まだいたいん?」
わらっている先生のほおを、なみだがとめどなくながれていた。なんのことはない、一本松の先生の家も、すぐそこだとわかると、また歓声があがった。
「ほたって、一本松、なかなかじゃったもんなあ。」
「もういのうかと思たぐらい遠かったな。」
松葉づえをとりまいてあるきながら先生の家へいくと、先生のおかあさんもすっかりおどろいて、きゅうにてんてこまいになった。かまどの下をたきつけるやら、なんども外に走りだすやら。そうして一時間ほども先生の家にいただろうか。そのあいだにきつねうどんをごちそうになり、おかわりまでするものもいた。先生はよろこんで、記念の写真をとろうといい、近所の写真屋さんをたのんで、一本松まで出かけた。
「もっと、みんなの顔見ていたいけど、もうすぐ日がくれるからね。うちの人、しんぱいしてるわよ。」
かえりたがらぬ子どもらをなだめて、やっと船にのせたのは四時をすぎていた。みじかい秋の日はかたむいて、岬の村は、なにごともなかったかのように、夕ぐれの色の中につつまれようとしていた。
「さよならあ。」
「さよならあ。」
松葉づえで浜《はま》に立って見おくっている先生に、船の上からはたえまなく声がかかった。
三人のおとなたちが町から村をさがしまわっているとき、十二人の子どもは、思いがけぬ道を通って村へもどった。
わあい。
やあい。
ときならぬ沖あいからのさけびに、岬の村の人たちは、どぎもをぬかれたのである。しかってはみても、けっきょくは大わらいになって、大石先生の人気はあがった。
その翌々日《よくよくじつ》、チリリン屋の大八車《だいはちぐるま》には、めずらしい荷物がつみこまれた。あんまりこまかいので、チリリン屋はそれをリンゴのあき箱《ばこ》にまとめて村を出ていった。道々、いろんな用たしをしながら一本松までくると、リンゴの箱をそのままかついであるきだした。こしのすずがリリンリリンと、足をかわすごとになりつづけ、やがて、リッ、となりやんだのが、大石先生の家の縁先《えんさき》である。チリリン屋のリンの音は、どこかから、なにかがとどけられるときのあいさつである。いいわけは、あまり必要ではなかった。
「はあい。米《こめ》五ん合《ごう》の豆《まめ》一升《しょう》。こいつはかるいぞ煮《に》ぼしかな。ほい、もひとつ米一升に豆五ん合――。」
小さなふくろをいくつもとりだして縁側の板の間につみかさねた。ふくろには名まえが書いてある。それはみな、義理がたい岬の村から、大石先生への見舞《みま》いの米や豆だった。
四、わかれ
写真ができてきた。一本松《いっぽんまつ》を背景にして、松葉づえによりかかった先生を、十二人の子どもたちが、立ったり、しゃがんだりしてとりまいている。磯吉《いそきち》・竹一《たけいち》・松《まつ》江《え》・ミサ子・マスノ、じゅんじゅんに見ていって仁太《にた》のところへくると、思わずふきだした。あんまり仁太がきばりすぎているからだった。つめている呼吸が、いまにも、うううともれて、うなりだしそうにかたくなっている。
気をつけのそのしせいは、だれが見たってわらわずにいられるものではなかった。マスノとミサ子のほかは、生まれてはじめて、写真をとったということで、だいたい、みんなかたくなっている。そのなかで仁太と吉《きち》次《じ》はとくべつであった。仁太とは反対に、身をすくめ、顔をそむけ、おまけに目をつぶっている吉次は、ふだんの小気《しょうき》さをそのままうつしだされているようで、かわいそうにさえ思えた。
かわいそうにキッチン、こわかったんだろう、写真機の中から、なにがとびだすかと思ったんだろう……。
ひとり写真をながめてわらっているところへ、本校の校長先生がきた。その声をきくと、こんどは大石先生のほうが思わず気をつけのようになって、げんかんに出ていった。松葉づえははなれていたが、まだまだびっこのあるきぶりを見ると、校長先生はちょっとまゆをよせ、気のどくがった顔で見ていた。
「ひどいめにあいましたな。」
「はあ、でも、ずいぶんよくなりました。」
「いたいですか、まだ?」
へんじにこまって答えられないでいると、校長先生がさいそくにきたとでも思ったらしく、おかあさんがかわって答えた。
「いつまでもごめいわくをかけまして、すみません。もうずいぶんらくになったようですけど、なんしろ、自転車にのれないものですから、いつまでもぐずぐずしておりまして、はい。」
しかし校長先生のほうはそんなつもりではなく、見舞いがてら吉報《きっぽう》をもってきたのであった。友人のむすめである大石先生のことも、きょうは名まえでよんで、
「久《ひさ》子《こ》さんもかた足犠《ぎ》牲《せい》にしたんだから、岬《みさき》づとめはもうよいでしょう。本校へもどってもらうことにしたんじゃがな、その足じゃあ、まだ本校へも出られんでしょうな。」
おかあさんはきゅうになみだぐんで、
「それは、まあ。」
といったきり、しばらくあとが出なかった。思いがけないよろこびであり、きゅうには礼のことばも出てこなかったのだ。それをごまかしでもするように、さっきから、やっぱりだまっているむすめの大石先生に気がつくと、
「久子、久子、なんです。ぼんやりして。お礼をいいなさいよ。」
しかし、大石先生としては、せっかくのこの校長先生のはからいが、あんまりうれしくなかったのだ。これがもし、半年まえのことならば、とびとびしてよろこんだろうが、いまでは、もう、そうかんたんにいかない事情が生まれてきていた。だから口をついて出たことばはお礼ではなかった。
「あのう、もうそのこと、きまったんでしょうか。後任の先生のことも。」
まるでそれは、とんでもないといわぬばかりの口調《くちょう》である。
「きまりました。きのう職員会議で。いけませんかい。」
「いけないなんて、それは、そんなこという権利ありませんけど、でもわたし、やっぱりこまったわ。」
そこにおかあさんでもいたら、大石先生はしかりつけられたかもしれぬ。しかしおかあさんは、茶《ちゃ》菓子《がし》でも買いにいったらしく、出ていったあとだった。校長先生はにこにこわらって、
「なにがこまるんですか。」
「あの、生徒とやくそくしたんです。また岬へもどるって。」
「こりゃおどろいた。しかし、どうしてかよいますかね。おかあさんのお話だと、とうぶん自転車にものれんということだったので、そうはからったんですがね。」
もう、いいようがなかった。すると、岬の村がいっそうなつかしくなり、思わず未練がましくいった。
「後任の先生は、どなたでしょう。」
「後《ご》藤《とう》先生です。」
「あら!」
お気のどくといいそうになってあわててやめた。後藤先生こそ、どうしてかようだろうと案じられたのだ。もうすぐ四十で、しかも晩婚《ばんこん》の後藤先生には乳《ち》のみ子《ご》があった。じぶんよりはすこし岬へ近い村の人とはいえ、一里《り》半《はん》(六キロ)はあるであろう岬へ、さむさにむかってどうしてかようだろうかと思うと、その気のどくさと、じぶんの心のこりとがごっちゃになって、きゅうにまゆをあげた。
「では、校長先生、こうしていただけませんでしょうか。わたしの足がすっかりなおりましたら、いつでもかわりますから。それまで後藤先生におねがいすることにして……。」
いかにもよい思いつきだと思ったのだが、校長先生のへんじは思いがけなかった。
「義理がたいこというなあ、久子さん。あんたがそないに気をつかわんでも、ちょうどよかったんだから。後藤先生は、すすんで岬を希望したんだから。」
「あら、どうしてですの。」
「いろいろ、あってね。老朽《ろうきゅう》で来年はやめてもらう番になっていたところを、岬へいけば、三年ぐらいのびるからね。そういったら、よろこんで、しょうちしましたよ。」
「まあ、老朽!」
三十八や九で老朽とは。まだ乳のみ子をかかえている女が老朽とは。あきれたような顔をしてことばをきった大石先生を、いつのまにか外からかえってきたおかあさんは、くだものなど盛《も》った盆《ぼん》をさし出しながら、むすめのぶえんりょさに気が気でなく、
「久子、なんですか、せっかくの校長先生のご好意に、ろくろくお礼もいわないで。だまってきいてりゃ、さっきからおまえ、へそまがりなことばっかりゆうて……。」
そして校長先生のまえに手をつき、
「どうもほんとに、わたしがいきとどきませんでな。つい、ひとりっ子であまえさせたらしく、しつれいなことばっかり申しまして。これでも、学校のことだけはあなた、ねてもさめてもかんがえとりますふうで、早く出たい出たいと申しとりましたんです。おかげさまで、本校のほうにかわらしていただけましたから、もう十日もしたら、バスにのって、かよえると思います。こんな、気ままものですけど、どうぞもう、よろしゅうおねがいいたします。」
むすめにいわせたいことを、ひとりでならべたてて、なんどもぺこぺこ頭をさげた。そして、それとなく目顔であいずをしたが、大石先生はそしらぬ顔で、まだ後藤先生にこだわっていた。
「それで、もう後藤先生は、岬へかよってるんでしょうか?」
校長先生もまた、このすこしふうがわりの、あまのじゃくみたいなむすめをあいてにして、おもしろがっているようすで、
「そいつは、まだですがね。なんなら、もいちど職員会議をひらいてとりけしてもよろしい。後藤先生はがっかりするでしょうがなあ。」
おかあさんひとりは、気をもみつづけ、はらはらしていた。そのおかあさんにむかって、校長先生は、
「大石くんに、にたとこがありますな、一徹《いってつ》居士《こじ》なところ。なにしろかれは、小学生でストライキをやったんだからな、前代《ぜんだい》未《み》聞《もん》ですよ。」
あっはっはっとわらった。その話は、まえにもきいたことがあった。なんでも小学校四年生の父が、受け持ちの先生に誤解されたことをおこって、級友をそそのかして一日ストをやったというのだ。同級生だった校長先生も、同情して、みんなでいっしょに村役場へおしかけていって、先生をとりかえてくれといったのだという。ことしの春、就職をたのみにいったとき、はじめて父の少年時代のことをきいて、母と子はいっしょにわらったのである。ただ思い出話としてわらってかたられる父のことが、いまの大石先生には、ふしぎと、まじめにひびいた。
校長先生がかえったあとも、ひとりでかんがえこんでいる大石先生を、おかあさんはいたわるように、
「でもまあ、よかったではないか、久子。」
しかし大石先生はだまっていた。そして晩のごはんをいつもよりたべなかった。夜おそくまでかんがえつづけたあげく、やっとおかあさんにいった。
「よかったのかもしれないわ。わたしにも、後藤先生にも。」それは、「よかったでないか、久子。」といわれてから四時間もあとのことであった。おかあさんはほっとした顔で、
「そうとも、そうともおまえ、万《ばん》事《じ》つごうよくいったというものよ、久子。」
すると先生はまた、ややしばらくかんがえてから、はっきりいった。
「そんなこと、ぜったいにないわ。万事つごうよくなんかならない。すくなくも後藤先生のためにはよ。だって、老朽なんて、しつれいよ。」
このむすめは気がたっているのだというふうに、おかあさんはもうそれにさからおうとはしないで、やさしくいった。
「ともかく、もうねようでないの。だいぶふけたようじゃ。」
その翌朝、思いたった大石先生は、岬の村へ船で出かけた。船頭は小《こ》ツルの父親とおなじく、わたし船をしたり、車をひいたりするのが渡《と》世《せい》の、一本松の村のチリリン屋であった。十月末の風のない朝だ。空も海も青々として、ひきしまるような海の空気は、両そでで思わずむねをだくほどのひやっこさである。
「おお、さぶ。もうあわせじゃのう、おっさん。」
「なに、日があがりゃ、そうでもない。いまが、いちばんえい季節じゃ。あつうなし、さむうなし。」
めずらしくかすりのセルの着物に、紫《し》紺《こん》のはかまをつけている大石先生だった。ござをしいた船の胴《どう》の間《ま》によこいざりにすわった足を、はかまはうまくかくして、ふかい紺青《こんじょう》の海の上を、船は先生の心一つをのせて、櫓《ろ》音《おと》も規則ただしく、まっすぐにすすんだ。二か月まえになきながらわたった海を、いまはまた、気おいたつ心でわたっている。
「なんせ、ひどいめをみたのう。」
「はあ。」
「わかいものは、ほねがやらこい(やわらかい)から、折れてもなおりが早い。」
「ほねじゃないんで。すじともちがう。アキレス腱《けん》、いうんじゃがのう。ほねよりも、むずかしいとこで。」
「ほう、そんなら、なおいかん。」
「でも、ひどいめにあわすつもりでしたんじゃないさかい。けがじゃもん、しようがない。」
「そんなめに、おうても、わかれの、あいさつとは、気のえい、こっちゃい。ゆんとん、さんじゃい(かけ声)。」
船頭さんは櫓にあわせてみじかくことばをくぎりながら、
「ゆんとん、さんじゃい」で、いっそう力をいれてこいだ。大石先生もくっくっわらいながら、それにあわせて、
「そんなこと、ゆうても、たったの、一年生が、親にも、ないしょで、見舞いに、きたんじゃもん、いかんと、おれるかい、ゆんとん、さんじゃい。」
大石先生がきゃっきゃっとわらうと、船頭さんもいいきもちらしく、
「義理と、ふんどしゃ、かかねば、なるまい。そういう、もんじゃよ、ゆんとん、さんかよ。 」
もう大石先生ははらをかかえて、思うぞんぶんわらった。海の上ではだれも気にするものはなく、そのわらい声まで櫓の音でくぎられながら、船はしだいに沖にすすみ、やがて対岸の村へと近づいていく。まだ朝げのもやのきえきらぬ岬のはなは、もうとっくにきょうの出発がはじまったらしく、小さな物音がしきりにひびいてきた。いまごろ、あの子どもたちはどうしているだろうか。自転車でかよっていたとき、よろず屋のまえにさしかかると、あわてて走りだしてきていた松江、よく、波止場《はとば》の上まで出てきてまちうけていたソンキ、三日に一どはちこくする仁太、おしゃまのマスノ、えんりょやの早《さ》苗《なえ》、一学期に二ども教室で小便をもらした吉次、と、ひとりひとりの上に思いをめぐらしながら、よくぞあのちびどもが、思いきって一本松までこられたものだと思うと、あの日の、ほこりにまみれた足もとなど、思いだされて、いとしさに、からだがふるえるほどだった。
あのときは、わたしのほうがおどろかされたから、きょうはひとつ、みんなをびっくりさせてやる……。だれにまっさきに見つかるだろうかと、たのしい空想をのせて船はすすみ、みどりの木立ちや黒い小さなやねをのせて岬はすべるように近づいてきた。ふたりの女の子が砂浜《すなはま》に立ってこちらを見ている。一年生ではないらしい。ふしぎそうにこちらから目をはなさない。変化にとぼしい岬の村では、海からの客も、陸からの客も見つけるに早く、好《こう》奇《き》の目はまたたくまに集団をつくるのだった。立ちどまっている子どもが五人になり、七人にふえたと思うと、そのすがたはしだいに大きくなり、がやがやさわぎとともに、ひとりひとりの顔の見わけもつきだした。しかし、子どものほうではだれもまだ着物の先生にけんとうがつかぬらしく、ま顔で見つめている。わらいかけてもわからぬらしい。しびれをきらして思わずかた手があがると、がやがやはきゅうに大きくなって、さけびだした。
「やっぱり、おなご先生じゃあ。」
「おなごせんせえ。」
「おなごせんせが、きたどう。」
浜べはもういつのまにかおとなまでがまじっての大かんげいになった。船頭さんのなげたともづなは歓呼の声でたぐりよせられ、力あまって船は砂浜までひきあげられるさわぎだった。ひとしきりわらいさざめいたあげく、ともかく学校へむかった。とちゅうで出あう人たちは、いちいち見舞いのことばをおくった。
「けがはどないでござんす。案じよりました。」
先生のほうもいちいちあいさつをかえした。
「ありがとうございます。そのせつは、お米《こめ》をいただいたりしまして、すみませんでした。」
「いいえ、めっそうな。ほんの心もちで。」
すこしいくとくわをかついだ人が、はちまきをはずしかかっている。おなじような見舞いをきいたあと、
「こないだはどうも、きれいなソラマメありがとうございました。」
すると、その人はすこしわらって、
「いやあ、うちは、ゴマをあげましたんじゃ。」
じぶんのばか正直さに気がつき、これからは米とも豆《まめ》ともいわないことにきめた。わずか一学期だけのことだったので、一年生の父《ふ》兄《けい》のほかはよく顔をおぼえていなかったのだ。そのつぎに出あった、漁師らしい風体《ふうてい》の人を見ると、魚《うお》をくれたのはこの人かと思い、用心しいしい、頭をさげた。
「こないだは、けっこうなお見舞いをありがとうございました。」
するとその人は、きゅうにあわてだし、
「いや、なに、ことづけようと思とったんですが、つい、おくれてしもて、まにあいませなんだ。」
先生のほうもおなじようにあわてて、赤い顔になり、
「あら、どうもしつれいしました。思いちがいいたしましたの。」
これが以前だったら、おなご先生は見舞いをさいそくしたといわれるところだったろう。いきすぎると子どもたちがわらいだし、その中の男の子が、
「先生、清六《せいろく》さん家《く》は、人にものやったためしがないのに。もらうだけじゃ。山へしごとにいとってしょんべんしとうなったら、どんな遠うても、わがうちの畑までしにいく人じゃもん。」
わあとみんながわらった。その話はまえにも一どきいたことがあった。四年生にいるそのむすこが、組でひとりだけ、どうしても音楽帳をもってこなかった、そのときである。いつもわすれてくるのかと思ってただすと、なきそうになってうつむいた。するとならんでいた生徒が、かわって答えた。
「歌をなろうても銭《ぜに》もうけのたしにはならんゆうて、買《こ》うてくれんのじゃ。」
つぎの唱歌のとき、清一というその子に音楽帳をやると、うれしそうにうけとったことを思いだした。かれは、教科書までぜんぶ、他人の使いふるしをもらっていた。しかも村で二番めの身上《しんしょう》もちだというのだ。そこに清一のいないことで、ほっとしている先生へ、
「せんせの足、まだいたいん?」
まっさきにきいたのは仁太である。もう松《まつ》葉《ば》づえではなかったにしろ、やっぱりびっこをひいているのを見ると、仁太はうたてかった(つらかった)のであろう。
「せんせ、まだ自転車にのれんの。」
こんどは小ツルだった。
「そう、半年ぐらいしたら、のれるかもしれん。」
「そんなら、これから、船でくるん?」
ソンキの質問にだまって顔をふると、コトエがおどろいて、
「へえ、そんなら、あるいて? あんな遠い道、あるいてえ?」
コトエにとってはわすれられない二里の道だったのだろう。空腹としんぱいでまっさきになきだしたコトエである。なかまはずれになりたくないばかりに、本の包みをやぶにかくして出かけたコトエは、船でおくりとどけられたときにも、ひとり気がふさいでいた。どんなにしかられるかと、びくびくしていたのだ。しかし、むかえに出ていたおばんは、どこの親たちよりもまっさきに、船にあゆみ(歩み板)のかかるのもまちきれず、ジャブジャブと海の中へはいっていき、どの子よりもまっさきにコトエを船からだきおろしたのである。まるでがいせん将軍のようにはれがましくあゆみをわたる子どもらとそれをむかえる親たちの中で、コトエとおばんだけはないていた。やぶへまわって本包みをとってもどりながら、もうそのときはふたりともふだんの顔になって話しあった。
「これからは、だまってやこい(なんか)いったらいかんで。ちゃんと、そうゆうていかにゃ。」
「そうゆうたら、いかしてくれへんもん。」
「そうじゃなあ、ほんにそのとおりじゃ。ちがいない。」
おばんはふるえるような力のないわらい声でわらい、
「でもな、なにがなんでも飯だけはたべていかんと、からだに毒じゃ。」
そういわれてコトエは、先生の家でごちそうになったきつねうどんを思いだした。思いだしただけでもつばが出てくるほどうまかったきつねうどん。空腹はきつねうどんの味を数倍にしてコトエの味覚にやきついていた。
その後もかの女《じょ》は、なんどかきつねうどんの話をしては、大石先生を思いだし、先生を思いだしてはきつねうどんを思いうかべた。思いがけず先生がやってきたいま、かの女はまた、あの遠い道ときつねうどんを思いだしながら、きいたのである。あんな遠い道を、あるいてえ……と。しかし、コトエでなくとも、子どもらは、きょうの先生を、ふたたび学校へむかえたものとかんがえていた。だれもうたがおうとしない態度を見ると、先生は、上陸第一歩できょうの目的をはっきりさせるべきだったと思った。
おわかれにきたのよう……。
そうさけびながら船をおりたら、そくざにそのような雰《ふん》囲気《いき》が生まれたろうにと、くやみながら、コトエのことばにしがみつくようにして、ゆっくりといった。
「ね、遠い道でしょ。そこを、ひょこたん、ひょこたん、と、ちんばひいてあるいてくると、日がくれるでしょ。それでね、だからね、だめなの。」
それでも子どもたちにはさっしがつかなかった。網元《あみもと》の森岡正《もりおかただし》が、正らしいかんがえで、
「そんなら先生、船できたら。ぼく、まいにちむかえにいってやる。一本松《いっぽんまつ》ぐらい、へのかっぱじゃ。」
正はちかごろ櫓《ろ》がこげるようになり、それがじまんなのであった。先生も思わずにこにこして、
「そうお、それで夕がたはまた、おくってくれるの?」
「うん、なあ。」
あとをソンキにいったのは、すこし不安でソンキに加勢をもとめたものらしい。ソンキも、うなずいた。
「そう、ありがとう、でも、こまったわ。もっと早くそれがわかってたらよかったのに、先生もう、学校やめたの。」
「…………。」
「きょうは、だからおわかれにきたの。さよなら、いいに。」
「…………。」
みんなだまっていた。
「べつのおなご先生が、すぐきますからね、みな、よく勉強してね。先生、とっても岬《みさき》をすきなんだけど、この足じゃあしかたがないでしょ。また、よくなったら、くるわね。」
みんないっせいにうつむいて先生の足もとを見た。早苗が目にいっぱいなみだをため、それをこぼすまいとして、目をみひらいたままきらきらさしている。感情をなかなかことばにしない早苗のそのなみだを見たとたん、先生の目にもおなじようになみだがもりあがってきた。と思うと、きゅうにハチの巣《す》にでもさわったように、わあっとなきだしたのはマスノだった。するとコトエやミサ子や、気のつよい小ツルまでが、しくしくやりだした。なき声の合唱である。岬分教場《ぶんきょうじょう》の古びた門札《もんさつ》のかかった石の門の両がわに、大きなヤナギとマツの木がある。そのヤナギの木の下で、三十四、五人の生徒にとりまかれて、おなご先生もまたかまうことなくなみだをこぼした。マスノの音《おん》頭《ど》があんまり大げさだったので、吉次や仁太までなきそうになり、それをがまんしているふうだった。大きな生徒の中にはおもしろそうに見ているものもいた。職員室のまどからその光景を見ていた男先生は、古ぐつの先皮だけをのこした上ばきをつっかけてとんできたが、わけをきくと、
「なんじゃあ、おなご先生がせっかくおいでたんだから、わろうてむかえんならんのに、みんな、はでになくじゃないか。さ、どいたどいた。おなご先生、早く中へおはいりなさい。」
しかしだれひとりうごこうとはせず、しくしくつづけた。
「やれやれ、女子と小人《しょうじん》はなんとかじゃ。なきたいだけないてもらお。なきたいものは、なんぼでもなけなけ。」
古ぐつの上ばきをパック、パック音させて男先生が去りかけると、はじめてみんなはわらいだした。なけなけといわれたのがおかしかったのだ。
始業の板《ばん》木《ぎ》がなりわたり、いよいよきょうの勉強もはじまるわけだ。そのはじめにわかれのあいさつをしてかえるはずの大石先生であったが、わかれのことばをいったあと、なにかにひっぱられるようにして一、二年の教室へはいった。ひさしぶりのおなご先生に、みんなうきうきした。
「じゃあ、この時間だけ、いっしょに勉強しておわかれにしましょうね。算数だけど、ほかのことでもいいわ。なにしよう?」
はい、はい、と、手があがり、まだ名ざしをしないうちにマスノが、
「唱歌。」
とさけんだ。歓声と拍手《はくしゅ》がおこった。みんなさんせいらしい。
「浜《はま》で歌うたう。」
わあっと、また、ときの声があがる。
「せんせ、浜で歌うたう。」
マスノがひとりで音頭をとっている。
「じゃあ、男先生にそいって、浜までおくってきてね。船がまってるから。」
パチパチと拍手がおこり、つくえがガタガタなった。男先生に相談すると、それならみんなでおくろうということになった。びっこの大石先生をとりまくようにして十二人の一年生が先頭をあるいた。いちばんしんがりの男先生は、けがの日いらいほこりをかぶっているおなご先生の自転車をおしていった。道で出あった村の人も浜までついてきた。
「こんどは、なきっこなしよ。」
大石先生はひとりひとりの顔をのぞきながら、
「さ、指きり、マアちゃんもなかないでね。」
「はい。」
「コトやんも。」
「はい。」
「早苗さんも。」
「はい。」
これだけがいちばんなき虫だから、これだけ指きりしたから、もうだいじょうぶ――。ひとりひとりの小さな小指にちかいながら、浜へくると、仁太が大声で、
「なに、うたうん。」
と、マスノの顔を見た。
「ほたるの光だ、そりゃあ。」
男先生がそういったが、一年生はまだほたるの光をならっていなかった。
「そんなら一年生も知っとる歌、『学べや学ベ』でもうたうかい。」
男先生はじぶんのおしえた歌をきいてもらいたかった。しかしマスノがいち早くさけんだ。
「山のカラス。」
かの女はよほど「山のカラス」がお気に入りらしかった。そしてもう、まっさきに、うたいだしたのだ。
山のカラスが もってきた
あかい小さな じょうぶくろ
まだやっと一年生なのに、かの女の音頭とりはなれきっていた。天才とでもいうようなものであろうか。ちゃんと、みんなをあとについてうたわせる力があった。
あけてみたらば 月の夜《よ》に
山がやけそろ こわくそろ
村の人も大ぜいあつまってきて、あいさつをした。大石先生もいっしょにうたいながら、船にのりこんだ。
へんじかこうと 目がさめりゃ
なんのモミジの 葉がひとつ
くりかえしうたって、いつかそれもやみ、しだいに遠ざかる船にむかってよびかける声も
細りながら、いつまでもつづいた。
「せんせえ――。」
「また、おいでえ。」
「足がなおったら、またおいでえ。」
「やくそくしたぞう。」
「や、く、そ、く、し、た、どう。」
最後は仁太の声で、あとはもう、ことばのあやもわからなくなった。
「かわいらしいもんじゃのう。」
船頭さんに話しかけられて、はじめてわれにかえりながら、しかし目だけは、まだ立ちさりかねている浜べの人たちからはなさずに、
「ほんまに、みんな、それぞれ、えい人ばっかりでのう。」
「むかしから、ひちむつかしい村じゃというけんどのう。」
「そうよの。そんな村は、気心がわかったとなると、むちゃくちゃに人がようてのう。」
「そんなもんじゃ。」
つよい日ざしと海風に顔をさらしたまま、もうごまつぶほどにしか見えない人のすがたとともに、岬の村を心の中にしみこませるように、いつまでも目をはなさなかった。櫓の音だけの海の上で、子どもたちの歌声は耳によみがえり、つぶらな目のかがやきはまぶたのおくにきえなかった。
五、花の絵
海の色も、山のすがたも、そっくりそのままきのうにつづくきょうであった。細長い岬《みさき》の道をあるいて本校にかよう子どものむれも、おなじ時刻におなじ場所をうごいているのだが、よく見ると顔ぶれのいくにんかがかわり、そのせいでか、みんなの表情もあたりの木々の新芽のように新鮮《しんせん》なのに気がつく。竹一《たけいち》がいる。ソンキの磯吉《いそきち》もキッチンの徳《とく》田《だ》吉次《きちじ》もいる。マスノや早《さ》苗《なえ》もあとからきている。
このあたらしい顔ぶれによって、物語のはじめから、四年の年月がながれさったことを知らねばならない。四年。その四年間に「一《いち》億同胞《おくどうほう》」の中のかれらの生活は、かれらの村の山のすがたや、海の色とおなじように、きのうにつづくきょうであったろうか。
かれらは、そんなことをかんがえてはいない。ただかれら自身のよろこびや、かれら自身のかなしみの中からかれらはのびていった。じぶんたちが大きな歴史のながれの中におかれているともかんがえず、ただのびるままにのびていた。それは、はげしい四年間であったが、かれらの中のだれがそれについてかんがえていたろうか。あまりにおさないかれらである。しかもこのおさないもののかんがえおよばぬところに、歴史はつくられていたのだ。四年まえ、岬の村の分教場《ぶんきょうじょう》へ入学したそのすこしまえの三月十五日、その翌年かれらが二年生に進学したばかりの四月十六日、人間の解放をさけび、日本の改革をかんがえるあたらしい思想に政府の圧迫《あっぱく》がくわえられ、おなじ日本のたくさんの人々が牢獄《ろうごく》に封じこめられた、そんなことを、岬の子どもらはだれも知らない。ただかれらの頭にこびりついているのは、不況《ふきょう》ということだけであった。それは世界につながるものとは知らず、ただだれのせいでもなく世の中が不景気になり、けんやくしなければならぬ、ということだけがはっきりわかっていた。その不景気の中で東北や北海道の飢《き》饉《きん》を知り、ひとり一銭ずつの寄付金を学校へもっていった。そうした中で満州事変・上海《シャンハイ》事変はつづいておこり、いくにんかの兵隊が岬からもおくり出された。
そういうはげしいうごきの中で、おさない子どもらは麦飯をたべて、いきいきとそだった。前《ぜん》途《と》になにがまちかまえているかを知らず、ただ成長することがうれしかった。
五年生になっても、はやりの運動ぐつを買ってもらえないことを、人間の力ではなんともできぬ不況のせいとあきらめて、むかしながらのわらぞうりにまんぞくし、それがあたらしいことでかれらのきもちはうきうきした。だからただひとり、森岡正《もりおかただし》のズックを見つけると、みんなの目はそこにそそがれてさわいだ。
「わあ、タンコ、足が光りよる。ああばば(まぶしいこと)。」
いわれるまえから正は気がひけていた。はいてこなければよかったと後悔《こうかい》するほどはずかしかった。女のほうでは小《こ》ツルがひとりだった。くつは、足をかわすたびにぶかぶかとぬげそうになった。小ツルはとうとうズックを手にもって、はだしになり、うらめしそうにくつをながめた。六年生の女の子がじぶんのぞうりととりかえてやりながら、大声で、
「わあ、十《と》文半《もんはん》じゃもん、わたしにでも大きいわ。」
おそらく三年ほどもたせるつもりで買ってやったのだろうが、小ツルはもうこりごりしていた。ぞうりのほうがよっぽどあるきよかったのだ。ほっとしている小ツルに、松《まつ》江《え》はわらいかけ、
「な、コツやん、べんとが、まだ、ここで、ぬくいぬくい。」
そういって、こしのあたりをたたいてみせた。
「ユリの花のべんとう箱《ばこ》?」
小ツルが、いつ買ったのだ、という顔で問うのを、松江は気よわくうけ、
「ううん、それはあしたおとっつぁんが買《こ》うてきてくれるん。」
そういってしまって、松江ははっとした。三日まえのことを思いだしたのだ。ミサ子もマスノも、ふたにユリの花の絵のあるアルマイトのべんとう箱を買ったときいて、松江は母にねだった。
「マアちゃんも、ミイさんも、ユリの花のべんとう箱買《こ》うたのに、うちにもはよ買《こ》うておくれいの。」
「よしよし。」
「ほんまに、買《こ》うてよ。」
「よしよし、買《こ》うてやるとも。」
「ユリの花のど。」
「おお、ユリなとキクなと。」
「そんなら、はよチリリン屋へたのんでおくれいの。」
「よしよし、そうあわてるない。」
「ほたって、よしよしばっかりいうもんじゃもん。マッちゃん、チリリン屋へいってこうか。」
それではじめてかの女《じょ》の母はしんけんになり、こんどはよしよしといわずに、すこし早口で、
「ま、ちょっとまってくれ、だれが銭《ぜに》はらうんじゃ。おとっつぁんにもうけてもろてからでないと、赤はじかかんならん。それよか、おかあさんがな、アルマイトよりも、もっと上等のを見つけてやる。」
そういってその場をながされたのだが、松江のためにさがしだしてくれたのが、古いむかしの柳《やなぎ》行李《ごうり》のべんとう入れとわかると、松江はがっかりしてなきだした。いまどき柳行李のべんとう入れなど、だれももっていないことを、松江は知っていたのだ。世の中の不況は父のしごとにもたたって、大《だい》工《く》の父が、しごとのない日は、草とりの日《ひ》傭《よう》にまでいっているほどだから、べんとう箱一つでもなかなか買えないこともわかっていた。しかし松江は、どうしてもほしかったのだ。ここで柳行李をうけいれたら、いつまでたってもユリの花のべんとう箱は買ってもらえまいということを、松江は感じて、ごねつづけ、とうとうなきだしたのである。しかし母親もなかなかまけなかった。
「不景気なんだから、ちっとがまんしい。来月になって、景気がよかったら、ほんまに買おうじゃないか。なあ、マツはいちばん大きいから、もっとききわけいでどうすりゃ。」
それでも松江はしくしくないていた。いつやむともしれないほど、しんねりなきつづけるのは、よほどの思いにちがいない。そのままつづけばいつやむともしれぬなきぶりであったが、やがて、なきどころでないことがおこった。かの女の母は、きりっとした声でいった。
「マツ、べんとう箱はきっと買《こ》うてやる。指きりしてもええ。そのかわりおまえ、産《さん》婆《ば》さんとこへ、ひとっ走りいってきてくれや。大いそぎできてつかあされ、ゆうてな。いきしなに、よろず屋のばあやんにも、ちょっときてもろてくれ。こんなはずないんじゃけんど、おかしいな。」
あとのほうはひとりごとのようにいって、納《なん》戸《ど》にふとんをしきだした母親を見ると、さすがに松江もなきやみ、あわてて家をとびだした。小さいからだをつぶてのように走らせながら、かの女の心には一つのたのしみがふくらんできた。それは指きりしてもよいといった母のことばだった。産婆さんの家は本村《ほんそん》のとっつきにあった。かえりはとちゅうまで自転車にのせてくれ、すこしのぼり坂のところまでくると、年とった産婆さんは自転車をとめ、
「おまえは、ここでおりておくれ。一刻も早ういかんならん。」
松江はこっくりして、自転車のあとから走った。自転車はみるみる遠ざかり、すぐに山の中へきえていった。大石先生の自転車いらい、女の自転車もようやくはやりだして、いまではもうめずらしくはなかったが、それだけに走りさった産婆さんの自転車を見て、まいにち朝早くおきて、てくてく、町まであるいてしごとにいく父親にも、自転車があれば、どれほどたすかるかと、ふと思った。
走ってかえると、もう赤んぼうは生まれていた。いそがしそうにたすきがけで水をくんでいたよろず屋のおばさんは、松江を見るなりいった。
「マッちゃんよ、おまえ、えらかろうが、大いそぎでかまの下たいておくれ。」
バケツのままかまに水をあけておいてから、小声で、
「こんまい女の子じゃ。月たらずじゃといな。でも、ええじゃないか、なあマッちゃん。また女でおとっつぁんはうんざりしようけんど、女の子はええ。忠義はできんけんど、十年もたったら、マッちゃんじゃって、どない出世するかしれたもんじゃない。」
なんの意味かよくわからぬまま、松江はかまの下をたきつづけた。母親になにかことがあると、年よりのいない松江の家では、小さいときから松江がかまどに立たねばならなかった。
それから三日め、はじめてべんとうをもって本校へいく松江は、納戸にねている母親に注意されながら、湯気の出ているごはんをかまからべんとう箱につめた。
「おとっつぁんのは、両行李ぎゅうぎゅうにつめこんであげよ。おまえのはかるく入れてな、なにせ、大きいべんとう箱じゃもん。うめぼしは見えんほどごはんの中におしこまにゃ、ふたにあながあくさかい。」
血の道がおこりそうだといって、しかめ顔に、手ぬぐいではちまきをしてねている母を、おさない松江は気にもかけず、
「おかあさん、ユリの花のべんとう箱、ほんまに買《こ》うてよ。いつ買《こ》うてくれるん?」
「おかあさんが、おきれたら。」
「おきれたら、その日に、すぐに?」
「ああ、その日に。」
松江はうれしくて、きょうかりてもっていく父親のアルミのべんとう箱の大きさも気にかからなかった。松江ぐらいの女の子なら、三人分はゆうにはいる大きな、ふかいべんとう箱が、小学校の教室ではどれほどこっけいに見えるかを、かの女はかんがえなかった。柳行李よりはそのほうがよいと思ったのだ。それどころか、からだにつたわってくるべんとうのぬくみは、かの女の心をほかほかとぬくめつづけていた。小ツルの問いに、思わず、あしたと答えたけれど、あしたは買ってもらえない。しかし、あさっては買ってもらえるかもしれないとかんがえると、かの女はひとりわらえてきた。こんな、あたたかいきもちで出かけていった松江であった。松江にかぎらず、みんななにかしらうれしがっていた。マスノはあたらしいセーラー服をきてじまんらしかったし、コトエは、おばんのつくっておいてくれたぞうりのはなおに赤いきれのないこんであるのがうれしそうだった。まるで、大学生のきるような、こまかいさつまがすりのあわせをきせられている早苗は、赤いはっかけ(すそまわし)を気にして、ときどきうつむいて見ている。じみなその着物を人にわらわれないうちに、早苗の母はいったのである。
「なんと、じみすぎておかしいかと思うたら、赤いはっかけでひきたつこと。それでまた、
これが早苗ににあうとゆうたら。この着物きたら、かしこげに見えるわ。すそにちろちろ赤いのも見えて、みごとい、みごとい。よかったあ。」
これだけほめられると、早苗は正直にそれを信じこんだ。着物をきているのはコトエとふたりだけで、コトエもまた母親のだったらしい黒っぽい、とびもようのある綿《めん》めいせんをきていた。本だちそのままらしく、こしあげもかたあげももりあがっている。しかしかの女のじまんは、先ばなおに赤いきれのついたぞうりのほうだった。やぶのそばの草むらを通るとき、コトエだけは、ふっと、大石先生を思いだし、一本松《いっぽんまつ》の方を見た。
「小石先生!」
したしく、心の中でよびかけたつもりなのに、まるでそれがきこえたかのように、小ツルがよってきた。
「小石先生のこと、知っとん?」
「なに?」
知らないとわかると、こんどは早苗に、
「知っとん? 早苗さん。」
「なにを?」
小ツルは大声で、ぐるぐると見まわし、
「みんな、小石先生のこと、知っとるか?」
ニュースは、いつだって小ツルからである。みんなは思わず小ツルをとりまいた。とくいの小ツルは、例のとおり、シノで切ったような細い目を見はり、見はってもいっこうひろがらない目でみんなを見まわし、
「小石先生な、あのな、えいこと、ことこと、こんぺいと。」
そしてマスノの耳にくしゃくしゃとささやいた。ふたりだけのじまんにしようとしたのに、マスノはすっとんきょうにさけんだ。
「わあ、よめさんにいったん?」
小ツルは、まだあるんだとばかりに、
「な、ほてな、あのな。」と、わざとゆうゆうになり、「しんこんれんこん(新婚旅行《しんこんりょこう》)なあ、おしえてやろうか。」
「うん。」
「うん。」
「こがつくとこ。んがつくとこ。ぴがつくとこ。らがつくとこ。」
「わかった、金《こん》毘羅《ぴら》まいり。」
「そう。」
わあっと声があがった。百メートルほども先になった上級生の男の子たちがふりかえったが、そのままいってしまうと、みんなも、とっととそのあとをおいながら、口だけはやかましく小石先生のうわさをした。それはおとといのことで、きのう小ツルの父がきいてきた話だということもわかった。よめにいったとすれば、小石先生はもう学校をやめるのではなかろうかというのがマスノの意見だった。小ツルがそれにさんせいし、小林《こばやし》先生も、よめにいくのでやめたと、記《き》憶《おく》のよいところを見せた。そしてまた、やめてもらいたくないという希望をいち早く口に出したのもマスノであった。めずらしく早苗とコトエがさんせいした。早苗がコトエに、
「小石先生、もいっぺんあいたいもんなあ。」
「ううん。いつかしらん、うどん、うまかったなあ。」
コトエがいった。みんなはそれで、四年まえのことをはっきり思いだした。その小石先生が、きょう学校にきているかどうかは、みんなにとって大問題になってきた。みんなの足は、しらずしらず早くなった。なかば走りながらマスノは、
「かけしようか、小石先生きとるか、きとらんか。」
「しよう、なにかけるん?」
うてばひびく早さで、小ツルが応じた。
「まけたら、ええと、ええと、すっぺ(しっぺい)五つ。」
森岡正がそういうと、マスノは右手を高くあげながら、
「すっぺ五つなら、まけてもええわ。うち、先生きいとる。」
「うちも。」
「うちも。」
なんのことはない、みんな小石先生がきているというのだ。とうとうかけはながれたまま、学校へ近づいた。さすがに新入生の五年生はきまじめな顔をして校門をくぐった。ひょいと見ると職員室のまどから小石先生がこちらを見ている。おいでおいでと手をふられると、みんなはその方へ走っていった。
「もうくるか、もうくるかと思って、まってたのよ。ちょっとまって。」
そういって出てきた小石先生は、あるきながらみんなを土手《どて》の方へつれていった。
ひとりひとりの顔を見ながら、
「大きくなったじゃないの。いまに先生においつくわ。あら、小ツやんなんか、おいこしそうだ。」
小ツルにかたをならべ、
「へえ、まけた。でもしようがない、小石先生だもんね。」
みんなわらった。
「あんたらが小石先生といったもので、いつまでたっても大石先生になれないじゃないの。」
またわらった。わらいはするが、だれもまだ、なんともいわない。
「いやに、おとなしいのね。五年生になったら、こんな、おとなしくなったの。」
それでも、にこにこしているだけなのは、小石先生が、何年かまえとすこしかわって見えたからだった。色も白くなっているし、そばにくると、スミレの花のようにいいにおいがした。それはよめさんのにおいだというのを、みんなは知っていた。
「せんせ。」
マスノがやっと口をきった。
「先生、唱歌おしえてくれるん?」
「そう。唱歌だけじゃないわ。あんたたちの受け持ちよ、こんど。」
わあっと歓声があがり、きゅうにうちとけてしゃべりだした。先生、先生とだれかがよびつづける。よびつづけながら、岬《みさき》の村のいろんなできごとが、その海の色や風の音までつたわってくるようにわかった。コトエのうちでは最近、おばあさんが卒中《そっちゅう》でなくなり、ソンキのおかあさんはリューマチでねこんでいるという。早苗のおでこのかすりきずは、ついこないだ、ミサ子とふたりでかたをくんでスキップで走っていて、道路から浜《はま》におちたときのけがだとわかったし、キッチンの家ではブタが三びきも、とんコレラで死んでしまい、おかあさんがねこんだ、などと話はつきなかった。
小ツルは、先生のからだをつかまえて、ゆすぶり、
「先生、仁太《にた》、どうしてこなんだか?」
「あ、それきこうきこうと思ってたの。どうしたの、病気?」
すぐには答えず、みんな顔見あわせてわらっている。先生もつられてわらいながら、これはきっと仁太が、とっぴょうしもないことをしでかしたにちがいない、と、ふと思った。
「どうしたのよ。病気じゃないの?」
早苗の顔を見ていうと、早苗はだまってかぶりをふり、目をふせた。
「落第。」
ミサ子が答えた。
「あら、ほんと?」
おどろいている先生を、わらわせようとでもするように小ツルは、
「いつも、はな、たらしとるさかい。」
みんなはわらったが、先生はわらわなかった。
「そんなことうそよ。はなたらして落第なら、みんな一年生のとき落第したわ。病気なんかで、たくさん休んだんでしょ。」
「でも、男先生がそうゆうた。はなたれもしだいおくりというのに、仁太は四年生になってもはなたれがなおらんから、もいっぺん四年生だって。」
小ツルの話に、みんながつんつんはなをすすった。それには先生もちょっとわらったが、すぐ、しんぱいそうな顔になった。始業のかねがなったので、みんなとわかれた先生は、職員室にもどりながら、仁太のこときりかんがえていなかった。かわいそうにとつぶやいた。落第した仁太が、弟の三吉と同級生になってもういちどやりなおす四年生を思うと、きもちがくもってきた。はなたれもしだいおくりと、ほんとに男先生がいったとしたら、仁太を四年生にとどめることこそ、はなをたれっぱなしにさせておくことのように思ったのだ。あのからだの大きな仁太のむじゃきさが、それでうしなわれるとしたら、仁太の一生についてまわる不幸のように思えて、きょう、ひとりとりのこされた仁太のさびしさが、ひしひしとせまってきて、またくりかえした。
はなたれも、しだいおくり。
はなたれも、しだいおくり。
仁太はどうしてとりのこされたろう。
それを竹一にでももういちどきこうと思った大石先生は、お昼休みの時間をまって、そとへ出た。運動場の見わたせる土手のヤナギの下に立つと、竹一は見あたらず、まっさきにとらえたのは松江だった。松江はなぜかひとり校舎のかべにもたれてしょんぼりしていた。まねくと土手の下まで走ってきて、そっくりそのまま母親に通じる目でわらった。手をのばすと、ますます母親似の顔をして、きまりわるそうにひっぱりあげられた。仁太のことをきこうとする先生とも知らず、松江は、じぶんひとりの気づまりさからのがれようとでもするように、せっぱつまった声でよびかけた。
「せんせ。」
「なあに。」
「あの、あの、うちのおかあさん、女の子うんだ。」
「あらそう、おめでとう。なんて名まえ?」
「あの、まだ名まえないん。おとつい生まれたんじゃもん。あした、あさって、しあさって。」
と、松江は三本の指をゆっくりとおり、
「六《むい》日《か》ざり(名付け日)。こんど、わたしがすきな名まえ、かんがえるん。」
「そう、もうかんがえついたの?」
「まだ。さっきかんがえよったん。」
松江はうれしそうにふっとわらい、
「せんせ。」
と、いかにもこんどはべつの話だというふうによびかけた。
「はいはい。なんだかうれしそうね。なあに。」
「あの、おかあさんがおきられるようになったら、アルマイトのべんとう箱《ばこ》、買《こ》うてくれるん。ふたにユリの花の絵がついとる、べんと箱。」
すうっとかすかな音をさせて息をすい、松江は顔いっぱいによろこびをみなぎらせた。
「ああら、いいこと。ユリの花の絵がついとるの。ああ、赤ちゃんの名まえもそれなの?」
すると松江は、はじらいとよろこびを、こんどはからだじゅうでしめすかのようにかたをくねらして、
「まだ、わからんの。」
「ふうん。わかりなさいよ。ユリちゃんにしなさい。ユリコ? ユリエ? 先生、ユリエのほうがすきだわ。ユリコはこのごろたくさんあるから。」
松江はこっくりうなずいて、うれしそうに先生の顔を見あげた。松江の目がこんなにもやさしいのを、はじめて見たような気がして、先生はその長いまつ毛におおわれた黒い目に、じぶんの感情をそそいだ。仁太のことはもう、ひとまずながして、心はいつかなごんでいた。松江にとってもまた、その数倍のよろこびだった。先生にいわなかったけれど、お昼のべんとうのとき、松江は大きな父のべんとう箱を、小ツルやミサ子からわらわれたのである。それで、かの女《じょ》はひとりみんなからはなれていたのだ。しかしいまは、そのしょげたきもちも朝つゆをうけた夏草のように、げんきをもりかえした。じぶんだけが、とくべつに先生にかまわれたようなうれしさで、これはないしょにしておこうと思った。だのにその日、かえり道でかの女はつい口に出してしまった。
「うちのねね、ユリエって名まえつけるん?」
「ユリエ? ふうん、ユリコのほうが気が気いとら。」
はねかえすように小ツルがいった。松江はむねをはって、
「それでも、小石先生、ユリエのほうがめずらして、ええってゆうた。」
小ツルはわざととびあがって、
「へえ、なんで小石先生が。へえ!」
なにかをさぐりあてようとでもするような目で松江の顔をのぞきこみ、
「あ、わかった。」
ならんでいたミサ子をうしろの方へひっぱっていって、こそこそささやいた。富士子《ふじこ》・早苗・コトエとじゅんじゅんにその耳に口をよせ、
「なあ、そうじゃな。」
おとなし組の三人は小ツルのいい分にさんせいできないことを、気よわな無言であらわすばかりで、松江を孤《こ》立《りつ》させようとした小ツルのたくらみはくずれてしまった。よく気のあうマスノが、きょうは母の店によって、ここにいないのが小ツルのよわさになっていた。かの女はみんなに、松江がひいきしてもらうために、ひとりで小石先生にへつらったといったのである。そのためにかえってじぶんから孤立した小ツルは、ひとりふきげんにだまりこんで、とっとと先をあるいていった。みんなもそのあとからだまってついていった。
一つはなをまがったときである。まえの小ツルがきゅうに立ちどまって海の方をながめた。先にたつものにならうガンのように、みんなもおなじ方を見た。小ツルがあるきだすとまたあるく。やがて、いつのまにかみんなの視線は一つになって海の上にそそがれ、あるくのをわすれてしまった。
はじめから小ツルは知っていたのであろうか。それともたったいま、みんなといっしょに気づいたのであろうか。しずかな春の海を、一そうの漁船が早《はや》櫓《ろ》でこぎわたっていた。手ぬぐいで、はちまきをしたはだかの男がふたり、力いっぱいのかっこうで櫓をおしている。二丁櫓のあとが、はばひろい櫓足をひいて、走るように対岸の町をさして遠ざかっていくのだ。もうけんかどころでなかった。
なんじゃろ。
だれのうちのできごとじゃろう。
みんな目を見あわした。きえさりつつあたらしくひかれていく櫓足から、岬の村に大事件が突発《とっぱつ》したことだけがわかった。急病人にちがいない。船の胴《どう》の間《ま》にひろげたふとんが見られ、そこにだれかがねかされているとさっした。しかし、またたくまに船は遠ざかり、のりこんでいる人の判別もつかなかった。まるでそれは、しゅんかんのゆめのように、とぶ鳥のかげのようにすぎた。だが、だれひとりゆめとかんがえるものはいなかった。一年に一どか二年に一ど、急病人を町の病院へはこんでいく岬の村の大事件を、さかのぼって子どもたちはかんがえていた。かつて小石先生もこうしてはこばれたのだ。けがをしたか、急性の盲腸炎《もうちょうえん》か。
なんじゃろう。
だれぞ盲腸の人、おったかいや。
あとからおいついてきた男の子もいっしょにかたまって評定《ひょうじょう》した。女はだれも声をたてず、男の子がなにかいうたびにその顔に目をそそいだ。そんななかで松江はふと、けさ家を出かけるときの母の顔を思いうかべた。しゅんかん、黒いかげのさしたような不安にとらわれたが、そんなはずはないのだ、と、つよくうちけした。しかし、頭痛がするとて顔をしかめ、手ぬぐいできつくきつくはちまきをした、そのむすび目のところのひたいによっていた、もりあがったしわを思いだすと、なんとなくはらいきれぬ不安がせまってきた。はじめに、きょうは父に休んでもらいたいといった母、しかし父は、しごとを休むわけにいかなかった。
「松江を休ませりゃ、ええ。」
父がそういうと、そんならええといい、松江にむかって、
「学校、はじめてなのになあ。だけんど、あそばんともどってくれなあ。」
思いだして松江はどきどきしてきた。すると、いつのまにか足は、みんなの先を走りだしていた。ほかの子どももついて走った。足がもつれるほど走りつづけて、ようやく岬の家《や》なみを見たときには、松江のひざはがくがくふるえ、かたと口とで息をしていた。村のとっつきがよろず屋であり、そのとなりのわが家に、おしめがひらひらしているのを見て、安心したのである。しかし、その安心でなきそうになったかの女は、こんどは心臓がとまりそうになった。井戸《いど》ばたにいるのが母ではなく、よろず屋のおばさんだと気がついたからだ。はずんだ石ころのように坂道をかけおりた松江は、わが家のしきいをまたぐなり、走ってきたそのままの足のはこびで、母のねている納《なん》戸《ど》にとびこんだ。母はいなかった。
「おかあさん……。」
ひっそりとしていた。
「おかあ、さん……。」
なき声になった。よろず屋の方から赤んぼうのなくのがきこえた。
「うわあ、わあ、おかあさん。」
力のかぎり大声でなきさけぶ松江の声は、空にも海にもひびけとばかりひろがっていった。
六、月夜のカニ
五年生の教室は川っぷちにあたらしく建った校舎のとっつきであった。川にむかったまどからのぞくと、おくみのような形の、せまい三角地をはさんで、高い石がきは川床《かわどこ》まで直角にきずかれていた。危険防止の土手《どて》は地面から三尺(約一メートル)ほどの高さでめぐらしてあったが、土手はあまり用をなさず、子どもらはわずかなあそび時間をも、かってに石がきをつたって川の中へおりていった。おもに男の子だった。川上に家は一けんもなく、ちろちろの水はきれいだった。山からながれてきてはじめて、ここで人のはだにふれる水は、おどろくほど、つめたくすみきっていた。子どもらにとっては、ただ手足をふれているだけで、じゅうぶんまんぞくのできるこころよい感触《かんしょく》であった。水はここではじめて人の手にふれ、せきとめられてにごった。だれがいいだしたのか、ウナギがいるといううわさがたってから、子どもたちの熱意は川底にあつまり、まいにち、土手の見物と川の漁師とのあいだでときならぬやりとりがつづいた。川床の石をめくっては、まだ一どもとれたことのないウナギをさがしているのだが、出てくるのはカニばかりである。それでもけっこうおもしろいらしく、漁師も見物もふえるばかりだった。くるぶしをかくしかねるほどの水量は、あそび場としてもきけんはなく、だから小石先生もだまってながめていた。
「せんせ、ズガニ、あげよか。」
保護色なのか、どろ色をして、足にあらい毛のあるカニをつかまえて、うでいっぱいさし出したのは森岡正《もりおかただし》だった。
「いらん、そんなもん。」
「たべられるのに、せんせ。」
「いやだ、そんなもんたべたら、足や手にひげがはえるもの。」
川底と土手からどっとわらい声がおこった。まどぎわの先生ももちろんわらいころげたのだが、ついさっきまでの先生は、そんなわらいとは遠いきもちで、まどの外にくりひろげられた風景をながめていたのであった。川の中でも土手の上でも、岬《みさき》の子どもらはしらずしらずかたまっていた。だが、そこに松《まつ》江《え》のすがたは見ることができない。その目に見えぬすがたが、ときどき先生の心を占領《せんりょう》してしまうのだ。
母親がなくなってから、松江は一どもこの教室にすがたをあらわさなかった。まどぎわの、まえから三番めの松江の席は、もう二か月もからっぽのままである。入学の日のことを思いだして、ユリの花の絵のついたべんとう箱《ばこ》をみやげに松江の家をたずねたのは、かの女《じょ》の母親がなくなってから一月《ひとつき》ぐらいたっていた。ちょうど川本《かわもと》大《だい》工《く》も家にいて、男なきになきながら、赤んぼうが死なないかぎり、松江を学校にはやれぬといった。あまりに事情が明白なので、それでも松江を学校によこせとはいえず、だまって松江の顔を見た。小さな赤んぼうをおぶったまま、父親のわきにちょこんとすわって松江もだまっていた。へんにまぶたのはれて見える顔は、頭のはたらきをうしなったようにぼんやりしていた。そのひざの上へ、
「マッちゃん、これ、ユリの花のべんとう箱よ。あんたが学校にこられるようになったら、つかいなさいね。」
あまりうれしそうにもせず、松江はこっくりをした。
「早く、学校へこられるといいわね。」
いってしまって、はっとした。それは赤んぼうに早く死ねということになるのだ。思わず赤くなったが、松江たち親子には、はっきりひびかなかったらしく、ただ感謝のまなざしでうけとられた。
まもなく、赤んぼうがなくなったときき、松江のためにほっとしたのだが、松江はなかなかすがたを見せなかった。マスノやコトエたちにようすをきいてもらちがあかず、先生はとうとう手紙をかいた。十日ほどまえになる。
――松江さん、赤ちゃんのユリエちゃんは、ほんとに、かわいそうなことをしましたね。でももう、それはしかたがありませんから、心の中でかわいがってあげることにして、あなたはげんきをだしなさいね。学校へは、いつからこられますか。先生は、まいにちマッちゃんのからっぽの席を見ては、マッちゃんのことをかんがえています。
早くこい、こい、マッちゃん。早くきて、みんなといっしょに、勉強しましょう。――
手紙は松江の家といちばん近いコトエにことづけた。しかしその手紙が、松江にとってどれほどむりな注文であるかを先生は知っていた。赤んぼうのユリエはいなくなっても、松江にはまだ弟妹《ていまい》がふたりあった。五年生になったばかりのかの女は、おさない頭脳と小さなからだで、むりやり一家の主婦の役を受け持たされているのだ。どんなにそれがいやでも、ぬけだすことはできない。父親をはたらきに出すためには、小さな松江がかまどの下をたき、すすぎせんたくもせねばならぬ。ひよこのようにきょうだい三人よりあって、父親のかえりをまっているだろうあわれなすがたが目のまえにちらつく。法律はこのおさない子どもを学校にかよわせることを義務づけてはいるが、そのために子どもをまもる制度はないのだ。
翌日、コトエは先生の顔を見るなり報告した。
「先生、きのうマッちゃん家《く》へ手紙もっていったら、知らんよそのおばさんがきとった。マッちゃんおりますか、ゆうたら、おりませんゆうたん。しかたがないから、これマッちゃんにわたして、ゆうて、そのおばさんにたのんできたん。」
「そう、どうもありがとう。マッちゃんのおとうさんは?」
「知らん。――見えなんだ。そのおばさん、おしろいつけて、きれい着物きとった。マッちゃん家《く》へよめにきたんとちがうかって、小ツルさんがいうんで。」
コトエはちょっとはにかみわらいをした。
「そうだと、マッちゃんも学校へこられていいけどね。」
それから、また十日以上たったが、松江はすがたを見せない。手紙は読んだろうかと、ふと心にかげのさす思いで、まどの下を見ていたのだった。ズガニを三びきとった正は、それをあきかんに入れて得々として石がきをのぼってきた。三角形のあき地にあるアンズの木は夏にむかって青々としげり、黒いかげを土手の上におとしている。そのま下にかたまって、岬組の女生徒たちはズガニの勇士をむかえ、われがちにいった。
「タンコ、一ぴきくれなあ。」
「うちにも、くれなあ。」
「わたしもな。」
「やくそくど。」
カニは三びきなのに希望者は四人なのだ。正はかんがえながらあがってきて、
「食うんか、食わんのか。」
みんなの顔を見まわした。食うものにやろうと思ったのだ。いち早く小ツルが、
「食う食う。月夜のカニは、うまいもん。」
それをきくと、正はにやりとし、
「うそつけえ、カニがうまいんは、やみ夜のこっちゃ。」
「うそつけえ、月夜じゃないか。」
「ああきいた、あきいた。月夜のカニはやせて、うも(うまく)ないのに。」
正が確信をもっていうと、小ツルもまけようとはしない。おなじような正の口まねで、
「ああきいた、あきいた。月夜のカニがうまいのに。ためしに食うてみる、みんなくれ。」
「いや、こんな川のカニでわかるかい。海のかにじゃのうて。」
それをきくと女組がわあわあさわぎたて、まどの先生にむかって口々にきいた。
「せんせ、月夜のカニとやみ夜のカニと、どっちがおいしいん?」
「せんせ、月夜じゃなあ。」
マスノや小ツルやミサ子たちだった。
「さあ、ねえ。やみ夜のように思うけど……。」
男組がわあっときた。
「ほらみい、ほらみい。」
こんどは先生はわらいながら、
「でも、月夜のような気もする……。」
女組が両手をあげ、とびとびしてよろこんだ。そうしてさわぐことがおもしろく、だれもそれを本気にしてかんがえていなかったのだが、正だけはねっしんに先生を見あげ、
「ばかいうな先生!」
すると女組がまた、わあっときた。
「先生をばかじゃとい。」
「ほう、タンコは先生をばかじゃとい。」
正は頭をかき、みんなのしずまるのをまって、やっぱりしんけんにいった。
「ほたって先生、それにゃわけがあるんじゃもん。月夜になるとな、カニはばかじゃせに、わがのかげぼうしをおばけかと思ってびっくりして、やせるんじゃ。やみ夜になると、かげぼうしがうつらんさかい、安心して身がつくんじゃど。だから、月夜はカニがあみにかかってもにがしてやるんじゃないか。かすかすで、うもないもん。やみ夜までおくと、しこしこの身がついて、うまいんじゃ。ほんまじゃのに、せんせ。うそじゃと思うなら、ためしてみるとええ。」
「じゃあ、みんなでためしましょうね。」
じょうだんにそういって、その日はすんだのだが、翌々日《よくよくじつ》、森岡正はほんとに月夜のカニをもってきた。一時間めの算数がはじまるまえ、ひょうたんかごをつき出したのである。
「せんせ、カニ。月夜のかに。やせて、うもない月夜のカニ。」
それはけさとれたばかりで、まだ生きていた。ガサゴソと音がしている。みんなわらった。
「ほんとにもってきたの。タンコさん。」
先生もわらって、しかたなさそうにうけとった。カニは、この期《ご》になってもまだじぶんの運命をなんとかして打開しようとでもいうように、せまいかごの中をガサゴソはいまわっていた。どういうわけか、二ひきとも、大きなはさみをかた方だけもぎとられたあわれなすがたで、のこったかた方のはさみを上にむけ、よらばはさむかまえであわをふいている。
「かわいそうに、これ先生がたべるの?」
「うん、やくそくじゃもん。」
「にがしてやりましょうよ。」
「いや、やくそくじゃもん。」
正はうしろをふりむいて、「なあ。」と、みんなのさんせいをもとめた。男の子は手をたたいてよろこんだ。
「じゃあこうしましょう。あとで小使いさんにこれをにてもらい、きょうの理科の時間に研究しようじゃないの。それから、カニっていう題でつづり方も書いてくるの。」
「はあい。」
「はあい。」
大さんせいだった。かごはまどべりの柱のくぎにかけられ、その時間中カニはガサゴソの音をたてつづけてみんなをわらわせた。
時間がすむと、先生はひょうたんかごをはずし、じぶんで小使い室の方へあるいていった。小ツルとコトエが用ありげについてきて、
「せんせ。」とよびかけ、ふりむくのをまって、
「マッちゃんのこと。」といった。
「マッちゃん?」
「はい。マッちゃん、ゆうべの船で、大阪《おおさか》へいったん。」
「ええっ。」
思わず立ちどまった先生の顔を見あげながら、コトエが、一生けんめいの顔で、
「親類の家へ、子にいったん。」
「まあ。」
「そいで、マッちゃん家《く》、おっさんと男の子とのこったん。」
「そう、マッちゃん、うれしそうだった?」
コトエは答えずに、かぶりをふった。小ツルがかわって、
「マッちゃん、いかんゆうて、はじめ、庭の口の柱にだきついてないたん。マッちゃん家《く》のおとうさんがよわって、はじめはやさしげにすかしたけんど、なかなかマッちゃんがはなれんので、あとは頭にげんこつかましたり、せなかをどづいたりしたん。マッちゃん、おいおいないて、みんながよわっとった。よろず屋のばあさんが、ようやっとすかして、得《とく》心《しん》さしたけんど、みんなもらいなきしよった。わたしもなみだが出てきてよわった。とちゅうまで、みんなと見おくっていったけんど、マッちゃん一口《ひとくち》もものいわなんだ。なあコトやん。そいで……。」
きゅうにハンカチを顔にあてて、くっくっとなきだした先生におどろいて、小ツルはだまった。いつのまにか早《さ》苗《なえ》やマスノもよってきて、かた手にひょうたんかごをもったまま、うつむいてハンカチを目にあてている先生を、うたてげに見ていた。みんなの目にも、さそわれたなみだがもりあがっていた。
そのあともしばらくは、まどぎわのまえから三番めの松江の席はあいたままおかれてあったが、あるとき、その、松江のたった一日すわった席に先生はだまってこしかけていた。そのあとすぐ席の組みかえがあって、その列は男の子になった。それきり松江のうわさは出なかった。先生もきかず、生徒もいわず、松江からのたよりもなかった。もうみんなの心から、松江のすがたはおいだされたのであろうか。わかれのあいさつにもこずに、どこかへいってしまった五年生の女の子……。
そして、もうすぐ六年生に進級するという三月のはじめであった。春は目のまえにきていながらめずらしく雪のふる中を、ひとバスおくれた大石先生は、学校まえの停留所からかさもささずに走って、職員室にとびこんだとたん、異様な室内の空気に思わず立ちどまり、だれに話しかけようかというふうに十五人の先生たちを見まわした。みんなしんぱいそうな、こわばった顔をしていた。
「どうしたの。」
同僚《どうりょう》の田《た》村《むら》先生にきくと、しっ、というような顔で田村先生はおくまった校長室に、あごをふった。そして小さな声で、
「片岡《かたおか》先生が、警察へひっぱられた。」
「えっ。」
田村先生はまた、しずかに、というふうにこまかく顔をふりながら、
「いま、警察がきてるの。」
また校長室を目顔でおしえ、ついいまのさっきまで片岡先生のつくえをしらべていたのだとささやいた。ぜんぜん、だれにもまだことの真相はわかっていないらしく、火ばちによりあって、だまっていたが、始業のベルでようやく生きかえったように、廊《ろう》下《か》へ出た。田村先生とかたをならべると、
「どうしたの。」
まっさきに大石先生はきいた。
「赤だっていうの。」
「赤? どうして?」
「どうしてか、知らん。」
「だって、片岡先生が赤? どうして?」
「知らんわよ。わたしにきいたって。」
ちょうど教室のまえにきていた。わらってわかれはしたが、ふたりとも心にしこりはのこっていた。まだなんにも知らないらしい生徒は、雪にいきおいづいたのか、いつもよりげんきに見えた。ここに立つと、すべての雑念をすてねばならないのだが、教壇《きょうだん》に立って五年間、大石先生にとってこの時間ほど長く感じたことはなかった。一時間たって職員室にもどると、みんな、ほっとした顔をしていた。
「警察、かえったよ。」
わらいながらいったのは、わかい独身の師《し》範《はん》出の男先生である。かれはつづけて、
「正直にやるとばかみるっちゅうことだ。」
「なんのこと、それ。もっと先生らしく……。」
つっつかれて大石先生はいうのをやめた。つっついたのは田村先生だった。
教頭が出てきての説明では、片岡先生は、ただ参考人というだけのことで、いま校長がもらいさげにいったから、すぐかえってくるだろうといった。問題の中心は片岡先生ではなく、近くの町の小学校の稲川《いながわ》という教師が、受け持ちの生徒に反戦思想をふきこんだという、それだった。稲川先生が片岡先生とは師範学校の同級生だというので、いちおうしらべられたのだが、なんの関係もないことがわかったというのである。つまり、証拠《しょうこ》になるものが出てこなかったのだ。そのさがしている証拠品というのは、稲川先生が受け持っている六年生の文集「草の実」だというのである。それが、片岡先生の自宅にも、学校のつくえにもなかったのだ。
「あら、『草の実』なら見たことあるわ、わたし。でも、どうしてあれが、赤の証拠。」
大石先生はふしぎに思ってきいたのだったが、教頭はわらって、
「だから、正直者がばかみるんですよ。そんなこと警察にきかれたら、大石先生だって赤にせられるよ。」
「あら、へんなの。だってわたし、『草の実』の中のつづり方を、かんしんして、うちの組に読んできかしたりしたわ。『麦かり』だの、『しょうゆ屋のえんとつ』なんていうの、うまかった。」
「あぶない、あぶない。あんたそれ(『草の実』)稲川くんにもらったの。」
「ちがう。学校あてにおくってきたのを見たのよ。」
教頭はきゅうにあわてた声で、
「それ、いまどこにある?」
「わたしの教室に。」
「とってきてください。」
とうしゃ版の「草の実」は、すぐ火ばちにくべられた。まるで、ペスト菌《きん》でもまぶれついているかのように、あわてて焼かれた。茶色っぽいけむりが天じょうにのぼり、細くあけたガラス戸のあいだからにげていった。
「あ、焼かずに警察へわたせばよかったかな。しかし、そしたら大石先生がひっぱられるな。ま、とにかく、われわれは忠君愛国でいこう。」
教頭のことばがきこえなかったように、大石先生はだまってけむりのゆくえを見ていた。
翌日の新聞は、稲川先生のことを大きな見出しで「純真なるたましいをむしばむ赤い教師」と報じていた。それはいなかの人々の頭をげんのうでどやしたほどのおどろきであった。生徒の信望をあつめていたという稲川先生は、一朝《いっちょう》にして国賊《こくぞく》に転落させられたのである。
「あ、こわい、こわい。沈香《じんこう》もたかず、へもこかずにいるんだな。」
つぶやいたのは年とった次席訓導だった。ほかの先生はみな、意見も感想ものべようとはしなかった。そんな中で、ひとり大石先生は、大げさな新聞記事の中の、わずか、四、五行のところから目がはなれなかった。そこには、稲川先生のおしえ子たちが、ひとり一つずつのたまごをもちよって、さむい留置場の先生にさし入れてくれと、警察へおしかけたことが書かれていたのだ。
きょうはもう出勤した片岡先生はきゅうに英雄《えいゆう》にでもなったように、ひっぱりだこだった。どうだった。の質問に答えて、一日でげっそりほおのおちたかれは、青いひげあとをなでながら、
「いや、どうもこうも、いまかんがえるとあほらしいんじゃけどな、すんでのことに赤にならされるとこじゃった。稲川は、きみが会合に出たのは四、五回じゃというがだの、小《こ》林多喜二《ばやしたきじ》の本を読んだろうとかって。ぼくは小林多喜二なんて名まえも知らん、ゆうたら、このやろう、こないだ新聞に出たじゃないかって。いわれてみりゃあ、ほら、ついこないだ、そんなことが出ましたな。小説家で、警察で死んだ人のことが。」(ほんとうは拷問《ごうもん》でころされたのだが、新聞には心臓まひで死んだと報じられた。)
「ああ、いたいた。赤い小説家だ。」
わかい独身の先生がいった。
「そのプロレタリアなんとかいう本をたくさんとられとりました。あの稲川は師範にいるときから本ずきでしたからな。」
その日国語の時間に、大石先生は冒険《ぼうけん》をこころみてみた。生徒たちはもう「草の実」とその先生のことを知っていたからだ。
「うちで、新聞をとってる人?」
四十二人のうち三分の一ほどの手があがった。
「新聞を読んでいる人?」
二、三人だった。
「赤って、なんのことか知ってる人?」
だれも手をあげない。顔を見あわせているのは、なんとなく知っているが、はっきり説明できないという顔だ。
「プロレタリアって、知ってる人?」
だれも知らない。
「資本家は?」
「はあい。」
ひとり手があがった。その子をさすと、
「金もちのこと。」
「ふうん。ま、それでいいとして、じゃあね、労働者は?」
「はい。」
「はい。」
「はあい。」
ほとんどみんなの手があがった。身をもって知っており、自信をもって手があがるのは、労働者だけなのだ。大石先生にしても、そうであった。もしも生徒のだれかに、答えをもとめられたとしたら、先生はいったろう。
「先生にも、よくわからんのよ。」と。
まだ五年生にはそれだけの力がなかったのだ。ところがすぐそのあと、このことについては、口にすることをとめられた。ただあれだけのことがどこからもれたのか、大石先生は校長によばれて注意されたのである。
「気をつけんと、こまりまっそ。うかつにものがいえんときじゃから。」
校長とは、父の友人というとくべつの関係だから、それだけですんだらしい。だが、このことは、あかるい大石先生の顔をいつとなくかげらすもとになった。たいして気にもとめていなかった「草の実」のこととおなじく、けしがたいかげりをだんだんこくしていった。
六年生の秋の修学旅行は、時節がらいつもの伊勢《いせ》まいりをとりやめて、近くの金《こん》毘羅《ぴら》ということにきまった。それでもいけない生徒がだいぶいた。はたらきにくらべてけんやくないなかのことである。宿屋にはとまらず、三食分のべんとうをもっていくということで、ようやく父《ふ》兄《けい》のさんせいを得た。それでも二組あわせて八十人の生徒のうち、いけるというのは六割だった。ことに岬《みさき》の村の子どもらときたら、ぎりぎりの日まできまらず、そのわけを、おたがいにあばきだしては、内情をぶちまけた。
「先生、ソンキはな、ねしょんべんが出るさかい、旅行にいけんので。」
マスノがいう。
「だって、宿屋にはとまらんのですよ。朝の船で出て、晩の船でもどってくるのに。」
「でも、朝の船四時だもん、船ん中でねるでしょう。」
「ねるかしら、たった二時間よ。みな、ねるどころでないでしょうに。それよりマスノさんは、どうしていかんの。」
「かぜひくといかんさかい。」
「あれあれ、だいじなひとりむすめ。」
「そのかわり、旅行のお金、倍にして貯金してもらうん。」
「そうお、貯金はまたできるから、旅行にやってって、いいなさいよ。」
「でも、けがするといかんさかい。」
「あら、どうして。旅行すると、かぜひいたりけがしたりするんなら、だれもいけないわ。」
「みんな、やめたらええ。」
「わあ、お話にならん。」
先生はにがわらいをした。
「先生、ぼくはもう、金毘羅さんやこい、うちの網船《あみぶね》で、三べんもいったから、いきません。」
森岡正がそういってきた。
「あらそう。でもみんなといくの、はじめてでしょう。いきなさいよ。あんたは網元だからこれからだって、まい年いくでしょうがね。先生いっとくから。修学旅行の金毘羅まいりがいちばんおもしろかった、と、あとできっと思いますからね。」
加部小《かべこ》ツルは、じぶんもいかないといいながら、やはりいかない木下《きのした》富士子《ふじこ》のことを、こんなふうにいった。
「せんせ、富士子さん家《く》、借銭《しゃくせん》が山のようにあって旅行どころじゃないん。あんな大きな家でも、もうすぐ借銭のかたにとられてしまうん。家ん中、もう、なんちゃ売るもんもないんで。」
「そんなこと、いわんものよ。」
かるくせなかをたたくと、小ツルはぺろっと舌を出す。
「いやな子!」
そういいながら思いだすのは富士子の家だった。はじめて岬へ赴《ふ》任《にん》したときでも、もうあしたにも人手にわたりそうなうわさだったその家は、蔵《くら》の白《しろ》かべが北がわだけごっそりはげていた。古い家に生まれた富士子は、いかにもその家がらをせおったようにおちつきはらっていて、めったになかず、めったにわらわない少女だった。小ツルなどからあからさまなことをいわれても、じろりとつめたい目でにらみかえす度胸は、だれにもまねのできないものだ。「くさってもタイ」というかの女《じょ》のあだ名は、かの女の父の口ぐせからきており、かの女はそれにまんぞくしているところが見えた。
そこへいくと小ツルなどはさっぱりしたもので、人のこともいうが、じぶんのことをいわれても、べつに気にとめないふうだった。一家そろってはたらき、そのはたらきを表看板にして、うらも表もなかった。たとえば小ツルのあだ名は「目っつり」といわれている。たいしたきずではないが、まぶたの上のおできのあとがひっつれているからだ。ふつうなら、ことに女の子は「目っつり」などとなぶられればなきたくなるだろうが、小ツルはちがっていた。まるで人ごとのようにわだかまりのないようすで、
「目っつり目っつりと、やすやすゆうてくれな。目っつりも、なろうと思うてなれる目っつりとちがうぞ。」
それはかの女の母たちがそういっていたからであろう。旅行にいけないわけをも、かの女はざっくばらんにいうのだ。
「わたしん家《く》なあ先生、こないだ頼《たの》母子《もし》講《こう》をおとして、大きい船を買《こ》うたん。だから、けんやくせんならんの。金毘羅まいりは、じぶんで金もうけをするようになってから、いくことにきめた。」
それで他人のふところもえんりょなくのぞきこんで、人のことはいうなといってもへいきでいう。ミサ子がいかないのはよくばりだからだの、コトエや早苗はきょうだいがおおくて、旅行どころでなかろうとかと。
ところが前々日になると、旅行志望者はきゅうにふえて、岬ではマスノをのけてみんながいくということになった。
そのきっかけは、だまりやの吉《きち》次《じ》が、山出しをしてもうけた貯金をおろして申しこみをしたことにあるようだった。吉次がいけば、どうしたってだまっていられないのがソンキであった。磯吉《いそきち》は、じぶんもとうふやあぶらげを売りあるいてもらった歩《ぶ》金《きん》を貯金していたのだ。ソンキさえもいくとなると、どうしたって、正や竹一《たけいち》がやめるわけにはいかない。正もあみひきでもうけた貯金を思いだすし、竹一もたまごを売ってためた金でいくといいだした。けんやくな岬の村の子どもらは、こんなことで貯金をおろすことを思いつかなかったのだ。正など、おろさなくてもよいといわれながら、どうしてもおろすのだといって、竹一といっしょにわざわざ郵便局へいったりした。
男の子のほうがそうなると、女の子のほうもだまっていられない。いちばんしんぱいのないミサ子は、富士子をさそった。ふたりの母親たちがなかがよかったからだ。らでん(うるし工芸装飾《こうげいそうしょく》の一種)のすずり箱《ばこ》が富士子には知らせずにミサ子の家へいき、それで富士子はいけることになった。ふたりのことがわかると、じっとしていられなくなったのは小ツルである。かの女はさっそくさわぎだした。
「ミイさんも富士子さんも旅行にいくう。うちもびんぼう質《しち》において、やってくれえ。」
小ツルはほんとうにそういって、じだんだふんでないた。そのためにかの女の細い目はよけい細く、はれぼったくなった。小ツルの母親は、小ツルとそっくりの目を糸のようにしてわらいだし、むずかしい問題を出した。
「ミイさんとこは金もちじゃし、富士子さんとこはおまえ、なんとゆうたって庄屋《しょうや》じゃもん。あんな旦《だん》那《な》衆《しゅう》のまねはできん。じゃがな、もしもコトやんがいくんなら、小ツもやってやる。いっぺんコトやんと相談してこい。」
とうていコトエはいくまいと思ってそういったのであろう。ところが、走っていった小ツルはにこにこしてもどってきた。はあはあかたで息をしながら、
「コトやん、いくゆうた。」
「ほんまかいや。」
「ほんま、ばあやんがおって、そうゆうたもん。」
あまりのかんたんさに小ツルの母親はうたがいをもち、ききにいった。出しゃばりの小ツルがそんなふうにもっていったのではないかと思ったのである。
「うちの小ツが、しゃしゃり出たこといいにきたんじゃないかえ。」
さぐるようにいうと、漁師なみに日やけしたコトエの母は、まっ白く見える歯を見せてわらい、
「一生にいっぺんのことじゃ、やってやりましょいな、こんなときこそ。いつも下《した》子《こ》の子もりばっかりさして、苦労さしとるもん。」
「そりゃ、うちの小ツもおなじこっちゃ。しかし、なにきせてやるんぞな?」
「うちじゃあ、思いきって、セーラー買《こ》うてやろうと思う。」
「はした金じゃ、買えまいがの。」
「ま、そんなこといわんと、買《こ》うてやんなされ、下子もきるがいの。」
「ふうん。」
「早苗さんも、そうすることにしたぞな。小ツやんにもひとつ、ふんぱつしてあげるんじゃな。」
「そうかいの。早苗さんも、のう。そうなると、小ツもじっとしておれんはずじゃ。やれやれ。そんならひとつ、びんぼう質におこうか。」
こんないきさつがあったのだ。ところが、当日になると、早苗は、かぜぎみでいけないといった。しかし早苗はのどがいたいのでも、鼻がつまっていたのでもない。いたかったり、つまったりしたのは、おかあさんのさいふの口のほうで、早苗のために売りにいったさんごの玉のついたかんざしは思う値で売れず、洋服を買うことができなかったのだ。人の足もとを見てからにと、早苗の母は、その古手《ふるて》屋《や》(古物商《こぶつしょう》)のことをいつまでもおこりながら、早苗にはやさしく、
「着物きて、いくか。」
早苗がなきそうな顔をすると、
「ねえさんの、きれいな着物にこしあげしてきていくか。」
「…………。」
「おまえだけ着物きていくのがいやなら、やめとけ。そのかわり、洋服を買おうや。どうする?」
「…………。」
早苗はぽろっとなみだをこぼし、くいしばった口もとをこまかくふるわせていた。二つのうちのどちらをとってよいか判断がつかなかったのだ。しかし母親のこまってなきそうな顔に気づくと、きゅうに早苗の決心はついた。
「旅行、やめる。」
こんないきさつがあったとは、だれも知らず、修学旅行は六十三人の一団で出発した。男と女の先生がふたりずつで、もちろん大石先生もくわわっていた。午前四時に乗りこんだ船の中ではだれもねむろうとするものはなく、がやがやのさわぎの中で、「こんぴらふねふね」をうたうものもいた。
そんな中で、大石先生はひとりかんがえこんでいた。そのかんがえから、いつもはなれないのが早苗だった。
ほんとに、かぜけだったのかしら。
早苗のほかにも、十いくにんかの子どもがそれぞれの理由で旅行にこられなかったのだが、とくべつに早苗が気になるのは、岬の生徒で、かの女ひとりが不参加だからかもしれぬ。六年になってから、マスノはすっかり母たちの家へうつっていたので、もう岬のなかまではなくなっていた。たったひとり、あの岬の道を学校へいくきょうの早苗を思うと、きょうを休みにしなかったことが、かわいそうに思えた。先生もいない教室で、しょんぼりと自習している生徒たちを思うと、早苗ばかりでなく、かわいそうだった。
金毘羅は多度津《たどつ》から一番の汽車で朝まいりをした。また「こんぴらふねふね」をうたい、長い、石段をのぼっていきながらあせをながしているものもある。そんな中で大石先生はぞくりとふるえた。屋《や》島《しま》への電車の中でも、ケーブルに乗ってからも、それはときどき全身をおそった。ひざのあたりに水をかけられるような無気味さは、あたりの秋色《しゅうしょく》をたのしむ心のゆとりもわかず、のろのろとみやげもの屋にはいり、おなじ絵はがきをいく組も買った。せめてのこっている子どもたちへのみやげにと思ったのである。
屋島をあとに、最後のスケジュールになっている高松《たかまつ》に出、栗林公園《りつりんこうえん》で三どめのべんとうをつかったとき、大石先生は、おおかたのこっているべんとうを希望者にわけてたべてもらったりした。べんとうまでが心の重荷になっていたことに気づき、それでほっとした。
夕やみのせまる高松の町を、築港《ちっこう》の方へと、ぞろぞろあるきながら、早くかえって思うさま足をのばしたいと、しみじみかんがえていると、
「大石先生、青い顔よ。」
田村先生に注意されると、よけいぞくりとした。
「なんだか、つかれましたの。ぞくぞくしてるの。」
「あら、こまりましたね。お薬は?」
「さっきから清涼丹《せいりょうたん》をのんでますけど。」といいさして思わずふっとわらい、
「清涼でないほうがいいのね。あつういうどんでもたべると……。」
「そうよ。おつきあいするわ。」
そうはいったが、まえにもうしろにも生徒がいる。それを桟橋《さんばし》の待ち合い所までおくってからのことにした。男先生たちに事情をいって、ひとりずつそっとぬけだし、めだたぬよう大通りをすぐ横町にはいった。そこでもみやげものやたべものの店がならんでいた。のきのひくい家《や》なみに、大ぢょうちんが一つずつぶらさがっていて、どれにもみな、うどん、すし、さけ、さかななどと、ふとい字で書いてあった。せまい土間《どま》の天じょうを季節の造花モミジでかざってある店を横目で見ながら、
「大石先生、うどん屋かぜぐすりというのがあるでしょ、あれもらったら?」
そうね、と、へんじをしようとしたとたん、
「てんぷら一ちょうっ。」
いせいのよい少女の、よくひびく声が大石先生をはっとさせた。あっとさけびそうになったほど、心にひびく声であった。このあたりにはめずらしい、なわのれんの店の中からそれはひびいてきたのだった。思わずのぞくと、かみをももわれにゆったひとりの少女が、びらびらかんざしといっしょに造花のモミジをも頭にかざり、赤いまえかけに両手をくるむようにして、無心な顔で往来の方をむいて立っていた。それはどうしても、大石先生として見のがせぬすがたであった。立ちどまった先生たちを客と見たのか、少女はさっきとおなじ声でさけんだ。
「いらっしゃあい。」
それはもう、じぶんの声にさえ、いささかも疑問をもたないさけびであった。日《に》本髪《ほんがみ》に、ませたぬき衣《え》紋《もん》のかわったすがたとはいえ、長いまつ毛はうたがう余地もなかった。
「松江さん、あんた、マッちゃんでしょ。」
はいってきた客に、いきなり話しかけられ、ももわれの少女は息をのんで一足さがった。
「大阪《おおさか》へいったんじゃなかったの。マッちゃん、ずっとここにいたの?」
のぞきこまれて松江はやっと思いだしでもしたように、しくしくなきだした。思わずそのかたをかかえるようにしてなわのれんの外につれ出すと、おくからあわただしいげたの音といっしょに、おかみさんもとびだしてきた。
「どなたですか、だまってつれ出されたら、こまりますが。」
うさんくさそうにいうのへ、松江ははじめて口をきき、おかみさんのうたがいをうちけすように小声でいった。
「大石先生やないか、おかはん。」
うどんはとうとうたべるひまがなかった。
七、羽ばたき
修学旅行から大石先生の健康はつまずいたようだった。三学期にはいってまもなくのこと、二十日ちかく学校を休んでいる大石先生のまくらもとへ、ある朝一通のはがきがとどいた。
拝啓《はいけい》、先生のご病気はいかがですか。わたしはまいにち、朝礼のときになると、しんぱいになります。大石先生がいないとせえがないと、小《こ》ツルさんや富士子《ふじこ》さんもいっています。男子もそういっています。先生、早くよくなって、早くきてください。岬組《みさきぐみ》はみんなしんぱいしています。小夜奈良《さよなら》。
岬組の生徒たちの真情にふれた思いで、ふとなみだぐんだ先生も、最後の小夜奈良で、思わずふきだした。早《さ》苗《なえ》からだった。
「さよならを、ほら、こんなあて字がはやってるんよ、おかあさん。」
朝食をはこんできた母親に見せると、
「字はうまいではないか、六年生にしちゃあ。」
「そう、いちばんよくできるの。師《し》範《はん》へいくつもりのようだけど、すこしおとなしすぎる。あれで先生つとまるかな。」
口ではなかなか意志表示をしない早苗のことをしんぱいしていうと、
「だけど、おまえ、久子だって六年生ぐらいまでは口数のすくない、あいきょうのない子だったよ。それがまあ、このせつはどうして、口まめらしいもの。」
「そうかしら、わたし、そんなに口八ちょう?」
「だって、教師が口がおもたかったらこまるでないか。」
「そうよ。だからわたし、この山石早苗という子が、教壇《きょうだん》に立ってものがいえるかしらと、しんぱいなの。」
「じぶんのことわすれて。久子だって人の前じゃろくに唱歌もうたえなかったじゃないの。それでもちゃんと、一人まえになったもの。」
「ふうん。そうだったわ。いま唱歌すきなの、もしかしたら子どものときの反動かな。」
「ひとりっ子のはにかみもあったろうがね。そのはがきの子もひとりっ子かい。」
「ううん。六人ぐらいのまん中よ。ねえさんは赤十字の看護婦だそうよ。じぶんは先生になりたいって、それもつづり方に書いてあるの。きいたって口ではいわないくせに、つづり方だと、すごいこと書くのよ。これからは女も職業をもたなくては、うちのおかあさんのように、つらいめをする、なんて、よっぽどつらいめをみてるらしいの。」
「おまえとおなじじゃないか。」
「でもわたしは、小さいときからちゃんと人にもいってたわ。先生になる、先生になるって。山石早苗ときたら、なんにもいやしない。いつでもみんなのうしろにかくれているみたいなくせに、書かせるとちゃんとしてるの。」
「いろいろ、たちがあるよ。こうしてはがきをよこしたりするところ、なかなかうしろにかくれちゃいないから。」
「そうなの。そして、小夜奈良なんだもの、おもしろい。」
はがき一まいにつりこまれて思わずすすんだ朝食だった。そのあとも、まるで鏡にでも見入るようにそのはがきを見つめ、やがては子どもたちのことがつぎつぎとうかんできた。川本《かわもと》松《まつ》江《え》はどうしたであろうか。
――てんぷら一ちょうっ。
かん高にさけんでいたももわれのむすめ。桟橋前《さんばしまえ》「しまや」という看板をおぼえてかえり、手紙を出してみたが、へんじはこなかった。小学校四年しかおさめていない子どもには手紙をかくすべもわからなかったのだろう。それとも本人の手にわたったかどうかもあやしい……。あの夜《よ》、うさんくさそうに出てきたおかみさんも、事情がわかるとさすがにあいそうよく、
「まあま、それはそれは。ようきておくれましたな。さ、先生、どうぞおかけなさんせ。」
中へ招じ入れ、せまいたたみの縁台《えんだい》に小さな座ぶとんを出してすすめたりした。しかし話をするのはおかみさんばかりで、松江はだまってつっ立っていた。いつのまにか男の生徒が五、六人やってきて、なわのれんのむこうに顔をならべているのを見ると、大石先生は立ちあがらずにいられなかったのだ。
「じゃあまたね。もうすぐ船がくるでしょうから。」
いとまをつげたが、べつに見送りにもこなかった。ゆるされなかったのであろう。わざとふりむきもせず、さっさとあるきだすと、ぞろぞろついてきた生徒たちは思い思いのことをいった。
「先生、だれかな、あの子?」
「先生、あのうどん屋と、一家《いっけ》(親類《しんるい》)かな?」
本校にはたった一日しか顔を出さなかった松江を、だれも松江と気づいていないのは、その中に岬の子どもがまじっていなかったからであろう。へたにさそい出したりしなかったことを、松江のためによろこびながら、いまでも一種のもどかしさで思いだされる松江であった。おなじ年に生まれ、おなじ土地にそだち、おなじ学校に入学したおない年の子どもが、こんなにせまい輪の中でさえ、もうその境遇《きょうぐう》は格段の差があるのだ。母に死なれたということで、はかりしれぬ境遇の中にほうり出された松江のゆくすえはどうなるのであろうか。かの女《じょ》といっしょに巣立《すだ》った早苗たちは、もう未来への羽ばたきを、それぞれの環境《かんきょう》の中でしたくしている。将来への希望について書かせたとき、早苗は教師と書いていた。子どもらしく先生と書かずに、教師と書いたところに早苗のせいいっぱいさがあり、あまっちょろいあこがれなどではないものを感じさせた。六年生ともなれば、みんなはもうエンゼルのように小さな羽をせなかにつけて、力いっぱいに羽ばたいているのだ。
かわっているのは、マスノの志望であった。学芸会に「荒城《こうじょう》の月」を独唱して全校をうならせたマスノは、ひまさえあれば歌をうたい、ますますうまくなっていた。歌にむかうときかの女の頭《ず》脳《のう》はとくべつのはたらきをみせ、楽《がく》譜《ふ》を見てひとりでうたった。いなかの子どもとしては、それはじつにめずらしいことだった。かの女のゆめのいきつくところは音楽学校であり、そのためにかの女は女学校へいくといった。
女学校組はマスノのほかにミサ子がいた。あまりできのよくないミサ子は、受験のためのいのこり勉強《べんきょう》にいんうつな顔をしていた。かの女の頭は算数の原理を理解する力も、うのみにする記《き》憶力《おくりょく》にもかけていた。しかもそれをじぶんでよく知っていて、無試験の裁縫《さいほう》学校にいきたがった。だがかの女の母はそれをしょうちせず、まいにち、かの女にいんうつな顔をさせた。なんとかして県立高女に入れたいかの女の母は、ねっしんに学校へきていた。その熱意でむすめの脳みその構造がかわりでもするように。それでもミサ子は、へいきだった。
「わたしな、数字見ただけで頭がいとうなるんで。県立の試験やこい、だれがうけりゃ。その日になったら、わたし、病気になってやる。」
かの女は算数のために落第することを見こしているのだ。そこへいくと、コトエはまるで反対である。家でだれにみてもらうというでもないのに、数《すう》の感覚はマスノの楽譜とおなじだった。いつもコトエは満点であった。その他の学科も早苗についでよくできた。かの女ならば女学校も難なくはいれるであろうに、コトエは六年きりでやめるという。あきらめているのか、うらやましそうでもないコトエに、たずねたことがある。
「どうしても六年でやめるの?」
かの女はこっくりをした。
「学校、すきでしょ。」
またうなずく。
「そんなら、高等科へ一年でもきたら?」
だまってうつむいている。
「先生が、うちの人にたのんであげようか?」
するとコトエははじめて口をひらき、
「でも、もう、きまっとるん。やくそくしたん。」
さびしそうな微笑《びしょう》をうかべていう。
「どんなやくそく? だれとしたの?」
「おかあさんと。六年でやめるから、修学旅行もやってくれたん。」
「あら、こまったわね。先生がたのみにいっても、そのやくそく、やぶれん。」
コトエはうなずき、
「やぶれん。」とつぶやいた。そして、前歯を見せてなきわらいのような顔をし、
「こんどは敏《とし》江《え》が本校にくるんです。わたしが高等科へきたら、晩ごはんたくもんがないから、こんどはわたしが飯たき番になるんです。」
「まあ、そんならいまごろは四年生の敏江さんがごはんたき?」
「はい。」
「おかあさん、やっぱり漁にいくの、まいにち?」
「はい、おおかたまいにち。」
いつかコトエはつづり方に書いていた。
わたしは女に生まれてざんねんです。わたしが男の子でないので、おとうさんはいつもくやみます。わたしが男の子でないので、漁についていけませんから、おかあさんがかわりにいきます。だからおかあさんは、わたしのかわりに冬の寒い日も、夏の暑い日も沖《おき》にはたらきにいきます。わたしは大きくなったらおかあさんに孝行つくしたいと思っています。
これなのだと、大石先生はさっした。まるで女に生まれたことをじぶんの責任ででもあるようにかんがえているコトエ。それがコトエを、なにごとにもえんりょぶかくさせているのだ。だれがそう思わせたのかといってみてもまにあわぬ。コトエはもう六年生でやめることを、わが身の運命のように受け入れているのだ。
「でもね、コトエさん――。」
それはまちがっているのだといおうとしてやめた。かんしんね、といおうとしてそれもやめた。気のどくねというのも口を出なかった。
「ざんねんですね。」
それはいかにも適切なことばであったが、コトエはそれでなぐさめられ、気もちがあかるくなったらしい。すこしそっ歯《ぱ》の大きな前歯をよけいむきだして、
「そのかわり、えいこともあるん。さらい年、敏江が六年を卒業したら、こんどはわたしをお針屋へやってくれるん。そして十八になったら大阪《おおさか》へ奉公《ほうこう》にいって、月給みんな、じぶんの着物買うん。うちのおかあさんもそうしたん。」
「そしておよめにいくの?」
コトエは一種のはにかみを見せて、ふふっとわらった。それはもうわが手ではうごかすことのできぬ運命ででもあるように、かの女はそれに服従しようとしている。そこにはもう、あたえられる運命をさらりと受けようとする女のすがたがあった。はたちにもなれば、かの女はある日ハハキトクのにせ電報一本で奉公先からよびかえされ、危《き》篤《とく》のはずの母たちの膳《ぜん》だてのまま、よくはたらく百姓《ひゃくしょう》か漁師の妻になるかもしれぬ。
かの女の母もそうであった。そして六人の子を生んだ。五人まで女であったために、それがじぶんひとりの責任であるかのように夫のまえで気がねしていた。その気がねがコトエにもうつって、かの女もえんりょぶかい女になっていた。夫にしたがってまいにち沖に出ている漁師の妻は、女とは思えぬほど日にやけた顔をし、潮風にさらされてかみの毛は赤茶けてぼうぼうとしていた。しかもそれで不平不満はなかったかのように、じぶんのあるいた道をまたむすめにあるかせようとし、むすめもそれをあたりまえの女の道とこころえている。そこにはよどんだ水がながれの清《せい》冽《れつ》さを知らないような、古さだけがあった。正直いちずなまずしい漁師の一家にとっては、それが円満《えんまん》具《ぐ》足《そく》のかざりなのだろうかと、ひとりもどかしがる大石先生だった。さりとてコトエを高等科に進学させることで、まずしい漁師一家のかんがえが一新されるものではないと思うと、空をながめてため息をするよりなかった。
教師と生徒の関係が、これでよいのかと疑問をもつと、そこに出てくる答えは、「草の実」の稲川《いながわ》先生であった。国賊《こくぞく》にされ、刑《けい》務《む》所《しょ》につながれた稲川先生は、ときどき獄中《ごくちゅう》から、ありのようにこまかい字の手紙をおしえ子によせるということだったが、なんのかわったこともないありきたりの手紙も、生徒には読んできかされないといううわさだった。そんなものであろうか。教室の中で、国定教科書をとおしてしかむすびつくことをゆるされないそらぞらしい教師と生徒の関係、たとえ生徒のほうでかってに関をのりこえてこようとも、じょうずにかたすかしをくわさねば、思いがけないおとしあながあることを知らねばならなかった。みんなの耳と目がしらずしらず人の秘密をうかがいさぐるようになっているのだ。しかしまたときには、べつのことで思いがけないいたずらにひきずりこまれたりもする。病気のためしばらく休むといったとき、小ツルなど、むなもとに手を入れるようなぶえんりょさで、ぬけぬけといった。
「先生の病気、つわりですか?」
思わず赤くなると、やんやとはやすものもいた。子どものくせに、と思ったが、かたをすかさずに答えた。
「そうなの。ごめんなさい。ごはんたべれないから、こんなにやせたんだもん、すこしげんきになってからくるわ。」
そのときからの欠勤だった。休むと宣言したとき、だれよりもしんぱいそうな顔をしたのがやはり早苗だったことなど思いだし、六年まえの写真をとりだしてみた。十三まいやきましをしておきながら、なんとなくわたしそびれてそのままになっている写真は、ふくろのまま写真ブックのあいだにはさまっていた。あどけない顔をならべている中で、小ツルはやはりいちばんおとなっぽかった。このときからずぬけて背も高い小ツルは、いまでは、みんなより二つほども年上に見えた。おかっぱか横分けにしている中で、かの女ひとりは、シナの少女のように前髪《まえがみ》をさげて、ひとりおとなぶっているのだ。マスノが岬《みさき》の道づれでなくなってから、かの女はひとりいばっているふうであった。高等科をおえると産《さん》婆《ば》学校にいくのが目的なのも、おませなかの女につわりの興味をもたせたのかもしれない。
岬の女子組では、あとに富士子がひとりいるが、かの女の方向だけはきまっていなかった。いよいよ、こんどこそ家やしきが人手にわたるといううわさも、卒業のさしせまった富士子のうごきをきめられなくしているのだろうと思うと、コトエと同様、あなたまかせの運命がかの女をまちうけていそうであわれだった。やせて血のけのない、白く粉《こ》のふいたような顔をした富士子は、いつもそで口に手をひっこめて、ふるえているように見えた。陰《いん》にこもったようなつめたい一《ひと》重《え》まぶたの目と、無口さだけが、かろうじてかの女の体面をたもってでもいるようだ。
そこへいくと、男の子はいかにもはつらつとしている。
「ぼくは、中学だ。」
竹一《たけいち》がかたをはるようにしていうと、正《ただし》もまけずに、
「ぼくは高等科で、卒業したら兵隊にいくまで漁師だ。兵隊にいったら、下士官になって曹長《そうちょう》ぐらいになるから、おぼえとけ。」
「あら、下士官……。」
不自然にことばを切ったが、先生のきもちのうごきにはだれも気がつかなかった。月夜のカニとやみ夜のカニをわざわざもってきたような正が下士官志望は思いがけなかったのだが、かれにとってはおおいにわけがあった。徴兵《ちょうへい》の三年を朝鮮《ちょうせん》の兵営ですごし、除隊にならずにそのまま満州事変に出征《しゅっせい》したかれの長《ちょう》兄《けい》が、最近伍長《ごちょう》になってかえったことが正をそそのかしたのだ。
「下士官を志望したらな、曹長まではへいちゃらでなられるいうもん。下士官は月給もらえるんど。」
そこに出世の道を正は見つけたらしい。すると竹一も、まけずに声をはげまして、
「ぼくは幹部候補生になるもん。タンコにまけるかい。すぐに少尉《しょうい》じゃど。」
吉《きち》次《じ》や磯吉《いそきち》がうらやましげな顔をしていた。竹一や正のように、さしてその日のくらしにはこまらぬ家庭のむすことはちがう吉次や磯吉が、戦争について、家でどんなことばをかわしているか知るよしもないが、だまっていても、やがてはかれらもおなじように兵隊にとられていくのだ。その春(昭和八年)日本が国際連盟を脱退《だったい》して、世界のなかまはずれになったということにどんな意味があるか、近くの町の学校の先生が牢獄《ろうごく》につながれたことと、それがどんなつながりをもっているか、それらいっさいのことを知る自由をうばわれている事実さえ知らずに、いなかのすみずみまでいきわたった好戦的な空気につつまれて、少年たちは英雄《えいゆう》のゆめを見ていた。
「どうしてそんな、軍人になりたいの?」
正にきくと、かれはそっちょくに答えた。
「ぼく、あととりじゃないもん。それに漁師よりよっぽど下士官のほうがえいもん。」
「ふうん。竹一さんは?」
「ぼくはあととりじゃけんど、ぼくじゃって軍人のほうが米屋よりえいもん。」
「そうお、そうかな。ま、よくかんがえなさいね。」
うかつにもののいえないきゅうくつさを感じ、あとは、だまって男の子の顔を見つめていた。正がなにか感じたらしく、
「先生、軍人すかんの?」ときいた。
「うん、漁師や米屋のほうがすき。」
「へえん。どうして?」
「死ぬの、おしいもん。」
「よわむしじゃなあ。」
「そう、よわむし。」
そのときのことを思いだすと、いまもむしゃくしゃしてきた。これだけの話をとりかわしたことで、もう教頭に注意されたのである。
「大石先生、赤じゃと評判になっとりますよ。気をつけんと。」
――ああ、赤とは、いったいどんなことであろうか。この、なんにも知らないじぶんが赤とは――。
ねどこの中でいろいろかんがえつづけていた大石先生は、茶の間にむかってよびかけた。
「おかあ、さん、ちょっと。」
「はいよ。」
立ってはこずにふすまごしのへんじは、火ばちのわきにうつむいた声であった。
「ちょっと相談。きてよ。」
足音につづいてふすまがあくと、指ぬきをはめた手を見ながら、
「わたし、つくづく先生いやんなった。三月でやめよかしら。」
「やめる? なんでまた。」
「やめて一文《いちもん》菓子屋《がしや》でもするほうがましよ。まいにちまいにち忠君愛国……。」
「これっ。」
「なんでおかあさんは、わたしを教師なんぞにならしたの、ほんとに。」
「ま、人のことにして。おまえだってすすんでなったじゃないか。おかあさんの二の舞《ま》いふみたくないって。まったく老眼鏡かけてまで、人さまの裁縫はしたくないよ。」
「そのほうがまだましよ。一年から六年まで、わたしはわたしなりに一生けんめいやったつもりよ。ところがどうでしょう。男の子ったら半分以上軍人志望なんだもの、いやんなった。」
「とき世時《よじ》節《せつ》じゃないか。おまえが一文菓子屋になって、戦争がおわるならよかろうがなあ。」
「よけいいやだ、わたし。しかも、おかあさんにこりもせず、船乗りのおむこさんもらったりして、そんした。このごろみたいに防空演習ばっかりあると、船乗りのよめさん、いのちちぢめるわ。あらしでもないのに、ドカーンとやられて未亡人なんて、ごめんだ。そいって、いまのうちに船乗りやめてもらおうかしら。ふたりで百姓でもなんでもしてみせる。せっかく子どもが生まれるのに、わたしはわたしの子にわたしの二の舞いふませたくないもん。やめてもいいわね。」
早口にならべたてるのを、にこにこわらいながらおかあさんはきいていたが、やがて、おさない子どもでもたしなめるようにいった。
「まるで、なんもかも人のせいのようにいう子だよ、おまえは。すきできてもらったむこどのでないか。おかあさんこそ、文句いいたかったのに、あのとき。わたしの二の舞いふんだらどうしようと思って。でも、久子が気に入りの人ならしかたがないとあきらめた。それを、なんじゃ、いまさら。」
「すきと船乗りはべつよ。とにかくわたし、先生はもういやですからね。」
「ま、すきになされ。いまは気がたってるんだから。」
「気なんかたっていないわ。」
学校でとはだいぶちがう先生である。しかしそのわがままないいかたのなかには、人のいのちをいとおしむ気もちがあふれていた。
やがておちついてふたたび学校へかようようにはなったが、新学期のふたをあけると大石先生はもうおくりだされる人であった。おしんだりうらやましがる同僚《どうりょう》もいたが、とくにひきとめようとしないのは、大石先生のことがなんとなくめだち、問題になってもいたからだ。それなら、どこに問題があるかときかれたら、だれひとりはっきりいえはしなかった。大石先生自身はもちろん知らなかった。しいていえば、生徒がよくなつくというようなことにあったかもしれぬ。
その朝七百人の全校生徒のまえに立った大石先生は、しばらくだまってみんなの顔を見まわした。だんだんぼやけてくる目に、あたらしい六年生のいちばんうしろに立って、一心にこちらを見ている、背の高い仁太《にた》の顔がそれとわかると、思わずなみだがあふれ、用意していたわかれのあいさつが出てこなかった。まるで仁太が総代ででもあるように、仁太の顔にむかっておじぎをしたようなかたちで、壇《だん》をおりた。高等科の列の中から正や吉次や、小ツルや早苗のうるんだまなざしが一心にこちらをみつめているのを知ったのは、壇をおりてからだった。お昼の休みに別むねにある早苗たちの方へいくと、いちはやく小ツルが見つけて走ってきた。
「せんせ、どうしてやめたん?」
めずらしくなきそうにいう小ツルのうしろから、早苗の目がぬれて光っていた。あんなに女学校、女学校と、まっさきになってさわいでいたマスノが、けっきょくは高等科へのこったというのに、そのすがたが見えないことについて、小ツルは例によって尾《お》ひれをつけていった。
「マアちゃんな先生、おばあさんとおとうさんが反対して女学校いくの、やめたん。料理屋のむすめが三《しゃ》味《み》線《せん》というならきこえる(わかる)が、学校の歌うたいになってもはじまらんいわれて。マアちゃんやけおこして、ごはんもたべずになきよる。――それからな先生、ミサ子さんの学校は女学校とちがうんで。学園で。みどり学園ゆうたら、生徒は三十人ぐらいで、仕立て屋に毛がはえたような学校じゃと。そんなら高等科のほうがよかったのにな、先生。」
思わずわらわされた先生は、わらったあとでたしなめた。
「そんなふうにいうもんじゃないわ、小ツやん。それより、マアちゃんどうしたの?」
「ふがわるいゆうて、休んどん。」
「ふなんかわるないゆうて、なぐさめてあげなさい、小ツやんも早苗さんも。それより、富士子《ふじこ》さんどうした?」
「あ、それがなあ、先生、びっくりぎょうてん、たぬきのちょうちんじゃ。」
小ツルは声を大きくし、みひらいても大きくなりっこのない細い目を、むりにひらこうとしてまゆをつりあげ、
「兵庫《ひょうご》へいったんで。試験休みのとき、うちの船で荷物といっしょに親子五人つんでいったん。ふとんと、あとはなべやかまやばっかりの荷物。たんすも大むかしのぬりのはげたん一つだけで、あとは行《こう》李《り》じゃった。富士子さんとこの人、みんな荒ばたらきしたことないさかい、いまにこじきにでもならにゃよかろがって、みなしんぱいしよった。いんま、富士子さんらも芸者ぐらいに売られにゃよかろがって――。」
じぶんとこの運賃、半分は売れのこりの道具ではらったことまでしゃべりつづける小ツルのかたをかるくたたいて、
「小ツルさん、あんたはね、いらんことを、すこし、しゃべりすぎない? あんた産《さん》婆《ば》さんになるんでしょ。いい産婆さんは、あんまり人のことをいわないほうが、いいことよ、きっと。これね、先生のせんべつのことば。いい産婆さんになってね。」
さすがに小ツルはちょこんとかたをすくめ、
「はい、わかりました。」
三日《みか》月《づき》の目でわらった。
「早苗さんも、いい先生になってね。早苗さんはもっと、おしゃべりのほうがいいな。これも先生のおせんべつ。」
かたをたたくと、早苗はこっくりしてだまってわらった。
「コトやんにあったら、よろしくいってね。からだだいじにして、いいよめさんになりなさいって。これおせんべつだって。」
小ツルはすかさず、
「先生も、よいおかあさんになりますように、これおせんべつです。」
ふざけて先生のかたをたたいた。小ツルはもうほとんど先生とおなじ背の高さになっていた。
「はい、ありがとう。」
思いきり声をあげてわらった。
高等科になって、はじめて男女別組になった教室には、正たちはいなかった。男の子の方へいって、とくべつに岬の生徒だけにわかれのあいさつをするのも気がすすまず、かえることにした。
「タンコさん、ソンキさん、キッチンくんらに、よろしくね。気がむいたら、あそびにきなさいっていってね。」
「先生、わたしらは?」
小ツルはすぐあげ足をとる。
「もちろん、きてちょうだい。こいっていわなくても、むかしからあんたたちくるでしょう。あ、そうそう。」
写真を出して一まいずつわたすと、小ツルはきゃっきゃっとひびきわたる声でわらい、とびとびしてよろこんだ。
その翌日、ときはなたれたよろこびよりも、だいじなものをぬきとられたようなさびしさにがっかりして、昼ねをしているところへ、思いがけず竹一と磯吉がつれだってやってきた。あまりに早いことづけのききめにおどろきながら、みだれたかみをゆいもせずにむかえた。
「ま、よくきてくれたわね。さ、おあがんなさい。」
ふたりは顔見あわせ、やがて竹一がいった。
「つぎのバスでかえるんです。あと十分か十五分ぐらいだから、あがれんのです。」
「あらそう。そのつぎのにしたら?」
「そしたら、岬へつくのが暗《くろ》うなる。」
磯吉がきっぱりいった。どうやら道々そういう相談をしたらしい。
「あ、そうか。じゃあまってて。先生おくっていくから、あるきながら話しましょう。」
いそいでかみをなおしながら、
「竹一さん、中学いつから?」
「あさってです。」
そのたいどはもう、中学生だぞといわんばかりで、手にはあたらしい帽子をもっていた。磯吉のほうも見なれぬ鳥打帽《とりうちぼう》を右手にもち、手おりじまの着物のひざのところをぎょうぎよくおさえていた。
「磯吉さん、きのう学校休んだの?」
「いいえ、ぼくもう、学校へいかんのです。」
そして、磯吉はきゅうにしゃちこばり、
「先生、ながながおせわになりました。そんなら、ごきげんよろしゅ。」
ひざをまげておじぎをした。
「あら、まだよ。いま、いっしょにいきますよ。」
なきわらいしそうになるのをこらえながら、つれだって出かけた。バスの乗り場までは六分かかる。まん中になってあるきだすと、磯吉はすっぽりと頭をつつんだ大きな鳥打帽の下から小さな顔をあおのけ、
「先生、ぼく、あしたの晩、大阪《おおさか》へ奉公《ほうこう》にいきます。学校は主人が夜学へやってくれます。」
「あらま、ちっとも知らなかった。きゅうにきまったの?」
「はい。」
「なに屋さん?」
「質《しち》屋《や》です。」
「おやまあ、あんた質屋さんになるの?」
「いえ、質屋の番頭です。兵隊までつとめたら、番頭になれるいいました。」
さっきから磯吉はずっと、よそゆきことばでかたくなっている。それをほぐすように、
「いい番頭さんになりなさいね。ときどき先生にお手紙くださいね。きのう、小ツやんに写真ことづけたでしょ。あのときのこと思いだして。」
竹一も磯吉もわらった。
「これ、おせんべつ、はがきと切手なの。」
もらいものの切手帳とはがきをあたらしいタオルにそえてつつんだのを磯吉にわたし、竹一にはノート二さつとえんぴつ一ダースをいわった。
「やぶ入りなんかでもどったときには、きっといらっしゃいね。先生、みんなの大きくなるのが見たいんだから。なんしろ、あんたたちは先生のおしえはじめの、そしておしえじまいの生徒だもん。なかよくしましょうね。」
「はい。」
磯吉だけがへんじをした。
「竹一さんもよ。」
「はい。」
村のはずれのまがりかどにバスのすがたが見えると、磯吉はもういちど帽子をとっていった。
「せんせ、ながながおせわになりました。そんなら、ごきげんよろしゅ。」
いかにも、それはおうむのようなぎごちなさだった。いいおわるとすぐ帽子をかぶった。おとなものらしい鳥打帽はまんがの子どものようではあったが、にあっていた。あたらしい学生帽と二つならんで、バスのうしろのまどから手をふっていたふたりを、見えなくなるまでおくると、ゆっくりと海べにおりてみた。しずかな内海《うちうみ》をへだてて、細長い岬の村はいつものとおりよこたわっている。そこに人の子はそだち、羽ばたいている。
――ながながおせわになりました。そんならごきげんよろしゅ……。
岬にむかってつぶやいてみた。それはおかしさとかなしさと、あたたかさが同時にこみあげてくるような、そしてもっと含蓄《がんちく》(意味ぶかいこと)のあることばであった。
八、七《なな》重《え》八重《やえ》
春とはいえ、さむさはまだ朝の空気の中に、かまいたちのようなするどさでひそんでいて、日かげにいると足もとからふるえあがってくる。
K町《ケーまち》のバスの停留所には、この早いのにもう用たしをすましてきた客がふたり、下りバスをまっていた。六十を二つ三つすぎたらしく見えるおじいさんと、三十前後の女客と。
「ううっ、さぶい!」
思わず出たうめき声のようにつぶやくおじいさんに、
「ほんとに。」
と、女客は話しかけられもしないのに同意した。さむさは人間の心をよりあわせるらしく、どちらからとなくしたしさをみせあった。
「ほんとに、いつまでもさむいことですな。」
「そうです。もう彼《ひ》岸《がん》じゃというのに。」
話しかけたわかい女は、四角い包みをむねにかかえこむようにしながら、おじいさんの、むき出しのままかたうでにひっかけているそまつなランドセルに、したしいまなざしをおくり、
「おまごさんのですか?」
「はいな。」
「わたしも、むすこのを買《こ》うてきました。」
むねの包みを見やりながら、
「きょう売りだすというのをきいて一番のバスで出かけたんですけど、むかしのような品はもう一つもありませなんだ。こんな紙のじゃあ、一年こっきりでしょう。」
おたがいの品物をなげくようにいうと、そうだというようにおじいさんは首をふり、
「やみなら、なんぼでもあるといな。」
そして、はっはっとわらった。おく歯のないらしい口の中がまっ暗に見えた。女は目をそらしながら、
「きょう日《び》のように、なんでもかでもやみやみと、学校のかばんまでやみじゃあ、こまりますな。」
「銭《ぜに》さえありゃあなんでもかでもあるそうな。あまいぜんざいでも、ようかんでも、あるとこにゃ山のようにあるそうな。」
そういって歯のない口もとから、ほんとによだれをこぼしかけたところは、あま党らしい。口もとを手のひらでなでながら、てれかくしのように、むこうがわをあごでしゃくり、
「ねえさん、あっちでまとうじゃないか。日なただけはただじゃ。」
そういってさっさと反対がわ乗り場の方へ道をよこぎった。ねえさんとよばれて思わずにやりとしながら、女客もあとをおった。――ねえさん、か。と、女客は、心の中でいってみて、背の高いおじいさんをふりあおぎ、わらいながらたずねた。
「おじいさん、どちらですか。」
「わしか。わしゃ岩が鼻でさ。」
「そうですか。わたしは一本松《いっぽんまつ》。」
「ああ一本松なあ。あっこにゃ、わしの船乗り朋輩《ほうばい》(なかま)があってな。もうとうのむかしに死んだけれど、大石《おおいし》嘉《か》吉《きち》という名まえじゃが、あんたらもう、知るまい。」
それをきいたとたんに、女客はとびあがるほどおどろいて、
「あら、それ、わたしの父ですが。」
こんどはおじいさんが、ひらきなおるようなかっこうで、
「ほう、こいつはめずらしい。そうかいな。いまごろ嘉《か》吉《きつ》つぁんのむすめさんにあうとはなあ。そういやにたとこがある。」
「そうですか。父はわたしが三つのとき死にましたから、なんにもおぼえとりませんけど、おじさん、いつごろ父といっしょでしたの。」
おじいさんをおじさんとあらためてよんだのも、生きていれば父もこのぐらいの年配かと思ったからだ。
いうまでもなく、大石先生の、あれから八年めのすがたである。船乗りの妻としてすごした八年間には、はらをたてて教職をひいたあのときとはくらべることもできないほど、世の中はいっそうはげしくかわっていた。
日《にっ》華《か》事変がおこり、日独《にちどく》伊《い》防共協定がむすばれ、国民精神総動員という名でおこなわれた運動は、ねごとにも国の政治に口を出してはならぬことを感じさせた。戦争だけを見つめ、戦争だけを信じ、身も心も戦争の中へなげこめとおしえた。そしてそのようにしたがわされた。不平や不満ははらの底へかくして、そしらぬ顔をしていないかぎり、世わたりはできなかった。
そんな中で大石先生は三人の子の母となっていた。長男の大吉《だいきち》、次男の並《なみ》木《き》、末っ子の八津《やつ》。すっかり世のつねの母親になっている証拠《しょうこ》に、ねえさんとよばれた。だがよく見ると、目のかがやきのおくに、ただのねえさんでないものがかくれている。
「おじさん、もしよろしかったら、お茶でものみませんか。」
停留所のわきの茶店をさしていった。この年よりから、父親をかぎだそうとしたのである。しかし年よりは、がんこに首をふり、
「いや、もうすぐにバスがきまっそ。ここでよろしいわい。」
年よりのほうもなんとなく、あらたまったたいどをみせていた。
「それで、嘉《か》吉《きつ》つぁんのよめさんは、おたっしゃかな。」
「はあ、おかげさまで。」
といったが、年とった母が、よめさんとよばれたことで、思わず笑《え》顔《がお》になった。かえればまずそれを母にいおうと思った。ちょうど上りバスが警笛《けいてき》とともに近づいてきた。上り客でないことをしめすように、いそいで標識からはなれたが、バスはとまった。茶店ののき下に立って、おりる客の顔を、見るともなく見ていた。バスはすしづめの満員で、おりてくるのはわかい男ばかりだった。ほとんどみな、ここでおりるかと思うばかり、つぎからつぎへと出口にあらわれるわかい顔を見ているうち、ふと思いだしたのは、きょうこの町の公会堂で徴兵《ちょうへい》検《けん》査《さ》がとりおこなわれることだった。ああ、それかと思いながら、わかさにみちた個々の顔につぎからつぎへと目をうつしていた。
「あっ、小石先生!」
思わずとびあがるほどの大声だった。ほとんど同時に先生もさけんだ。さそわれるような大声で、
「あらっ、仁太《にた》さん!」
そして、あとからあとからとつづいて出てくる顔にむかって、
「あら、あら、あら、みんないるの、まあ。」
仁太につづいて磯吉《いそきち》・竹一《たけいち》・正《ただし》・吉《きち》次《じ》と、かつての岬《みさき》の少年たちはみんなそろった。
「先生、しばらくです。」
東京の大学をあと一年という竹一は、細長くなった顔を、いかにも都会の風にふかれてきたというようなようすで、まっさきにあいさつした。つづいて神戸《こうべ》の造船所ではたらいている正が、これはいかにも労働者らしくきたえられたつらだましいながら、人のよい笑顔で頭をさげ、きまりわるげに耳のうしろをかいた。まっていたように磯吉がまえに出てきて、
「先生、ごぶさたいたしまして。」
すこししんぱいなほど青白い顔に、じょさいないわらいをうかべた。どこへもいかずに岬の村で山切《ぎ》りや漁師をしている吉次は、あいかわらず借りネコのようなおとなしさで、みんなのうしろにひかえ、水ばなをすすりあげながらだまって頭をさげた。仁太ばかりは例のとおりのぶえんりょさで、あいさつぬきだった。かれは父親を手つだってせっけん製造をしているという。経済的にはいちばんゆとりがあるらしい仁太は、新調の国民服をきていた。
「先生、こないだ富士子《ふじこ》に会《お》うた、富士子に。」
じまんらしく富士子をかさねていう。しかし先生はわざとそれにのらず、とりまかれた青年のすがたをあおぐようにしてながめまわした。八年の歳月《さいげつ》は、小さな少年を見あげるばかりのたくましさにそだてている。
「そう、検査だったの。もうね。」
なみだのしぜんとにじみだす目に五人のすがたはぼやけた。いつまでそうもしておられぬと気づくと、きゅうにむかしの先生ぶりにもどり、
「さ、いってらっしゃい。そのうち、みんなで一ど、先生とこへきてくれない。」
それでいかにも男の子らしくあっさりとはなれていくうしろすがたを、さまざまの思いで見おくりながら、ひさしぶりにじぶんの口で「先生」といったのが、なんとなく新鮮《しんせん》な感じで、うれしかった。
ふりかえると、年よりは茶店のよこの日だまりにちりをよけてまっていた。日あたりのよい生《い》けがきの一か所につぼみをつけたヤマブキがむらがり、細いえだはつぼみの重さでしなっている。その一えだを無造作に折りとり、年よりもまたわかものたちを見おくりながら、小さい声で、
「えらいこっちゃ。あやってにこにこしよるわかいもんを、わざわざ鉄砲《てっぽう》の玉のまとにするんじゃもんなあ。」
「ほんとに。」
「こんなこと、大きな声じゃいうこともできん。ゆうたらこれじゃ。」
ランドセルをもったまま両手をうしろにまわし、さらに小声で、
「ほれ、治《ち》安《あん》維持《いじ》法《ほう》じゃ、ぶちこまれる。」
歯のない口にきゅうにおく歯がはえたような気がするほどわかがえった口調だった。治安維持法というものを、かの女《じょ》はよく知らない。ただ「草の実」の稲川《いながわ》先生が、その治安維持法という法律に違《い》反《はん》した行動のために、牢獄《ろうごく》につながれ、まもなく出てきてからも復職はおろか、正当なあつかいもうけていないということだけが、その法律とつないでかんがえられた。稲川先生の母親は、まるで気ちがいのようにむすこをかばい、いまではかれが前《ぜん》非《ぴ》をくいあらためていると、あう人ごとに吹聴《ふいちょう》してまわるのにいそがしいといううわさをきいた。どこまでがほんとうなのか、ただ稲川先生はひとり養鶏《ようけい》をしながら世間ばなれの生活をしていた。かれが世間をはなれたのではなく、世間がかれをよせつけないのだ。かれのたまごは、毒でもはいっているかのようにきらわれ、ひところは買い手もなかった。時代は人を三びきのサルにならえとしいるのだ。口をふさぎ、目をつぶり、耳をおさえていればよいというのだ。ところがいま、目のまえにいる年よりは目や耳をふたしたサルの手をはぎとるようなことをいう。朋輩のむすめだとはいえ、はじめてあった女に、なぜ心のおくを見せるようなことをいうのだろうか。半分は警戒心《けいかいしん》もおきて、かの女はそれとなく話題をそらせた。
「ところでおじさん、わたしの父とは、いつごろの朋輩でしたの?」
にこっとわらった年よりはまたおく歯のないもとの表情にもどり、
「そうよなあ、十八か、九かな。ふたりとも大望《たいもう》をもってな。あわよくば外国船に乗りこんで、メリケンへわたろうというんじゃ。シアトルにでもいったとき、海にとびこんでおよぎわたろうという算段よ。」
「まあ。でも、むかしはよくあったそうですね。」
「あったとも。メリケンで一もうけしてというんじゃが、じつをいうと、徴兵がいやでなあ。――いまならこれじゃ。」
また手をうしろにまわしてわらった。
「とうとう目的成就《じょうじゅ》しなかったわけですか?」
「そういうわけじゃ。もっともそのころは、船に乗っとりさえしたら兵隊にはいかいでもすんだからな。そのうちふたりとも船乗りがすきになってな。おなじ船乗りなら免状《めんじょう》もちになろうというんで、これでも勉強したもんじゃ。学校へいっとらんもんで、わしらは五年がかりでやっと乙《おつ》一の運転士になったあ。嘉《か》吉《きつ》つぁんのほうが一年早う試験にとおってな、わしも、なにくそと思うて、あくる年にとったのに――。」
そのとき朋輩は難船してゆくえ不明となり、ついによろこんでもらえなかったというのだ。父の妻としての母からきくのとはちがった父のすがた、なみだどころか微笑《びしょう》さえうかんで想像されるわかい日の父のすがた、かたる人の親愛感からであろうか、父ははつらつとしたこのもしい青年であったと知った。その父が徴兵をきらったということは初耳である。それについて一言《いちごん》もしない母は、父からそれをきかなかったのであろうか。それとも例のサルになっていたのか、「よめさん」とよばれたこととともに母にきいてみようとかんがえながら、話はつきなかった。
「そしておじさん、いつごろまで船に乗っておいでたん?」
「十年ほどまえよ。ようやっと、こんまい船の船長になってな。――むすこは学校へやって苦労させずに船乗りにしてやろうと思うたら、船乗りはいやじゃときやがる。商業学校にやって、銀行の支店に出とったけんど、とられて、死んだ。」
「とられてって、戦争ですか?」
「そういな。」
「まあ。」
「ノモンハンでさあ。これは、そいつのせがれので。」
ランドセルは年よりの手でつよくふられ、中のボール紙がカサコソと音をたてた。
――おたがいに、せがれをもつのはしんぱいのたねですね。といおうとしてのみこんだ。
バスでは客がたてこんでいてならぶことはできなかった。うしろの正面に席をとった大石先生は、じっと目をつぶっていた。思いだすのは、いまのさっきわかれたおしえ子のうしろすがたである。けもののようにすっぱだかにされて検査官のまえに立つわかものたち。兵隊墓に白木の墓標がふえるばかりのこのごろ、わかものたちはそれを、じじやばばの墓よりも関心をもってはならない。いや、そうではない。大きな関心をよせてほめたたえ、そこへつづくことを名《めい》誉《よ》とせねばならないのだ。なんのために竹一は勉強し、だれのために磯吉は商人になろうとしているのか。子どものころ下士官を志望した正は、軍艦《ぐんかん》と墓場をむすびつけてかんがえているだろうか。にこやかな表情のうらがわを見せてはならぬ心ゆるせぬ時世を、仁太ばかりはのんきそうに大声をあげていたが、仁太だとて、その心のおくになにもないとはいえない。
あんな小さな岬の村から出たことし徴兵適《ちょうへいてき》齢《れい》の五人の男の子、おそらくみんな兵隊となって、どこかのはてへやられることだけはまちがいないのだ。ぶじでかえってくるものは、いくにんあるだろう。――もうひとり人的資源をつくってこい……そういって一週間の休《きゅう》暇《か》を出す軍隊というところ。生まされる女も、子どもの将来が、たとえ白木の墓標につづこうとも、案じてはならないのだ。男も女もなむあみだぶつでくらせということだろうか。どうしてものがれることのできない男のたどる道。そして女はどうなるのか。あの組の七人の女の子の中で、ミサ子ひとりは苦労をしていなかった。みどり学園から東京の花嫁《はなよめ》学校にはいり、在学中に養子をむかえてすぐ子どもをうんだ。苦労のおおい時代に、これは別格である。風のつよい冬の日に、ひとり日光室で日なたぼっこをしているような存在である。
そこへいくと歌のすきなマスノは、きりきりまいをするような苦労をした。ただうたいたいためにうちょうてんになり、親にそむいていくどか家出をした。無断で応じた地方新聞のコンクールに一等入選し、それが新聞に出たときが家出のはじめだった。そのたびにさがしだされ、つれもどされては、また出る。いつも歌がもとだった。歌をうたいたい歌のじょうずなむすめが、なぜ歌をうたってはいけないのだろう。三どめの家出のとき、かの女《じょ》は芸《げい》者《しゃ》になって出ようとしていたという。つれにいった母親にかの女はないてしがみつき、
「三味《しゃみ》線《せん》なら、きこえるとゆうたじゃないかあ。」
かの女の音楽へのはけ口はいつのまにか三味線のほうへながれていっていたのだ。しかし、かの女の親たちは、そのよしあしはともかくとして、わが身は料理屋で芸者と近づきながら、むすめを芸者にするわけにはいかなかった。マスノはいま、その家出中に知りあった年とった男と結婚し、ようやくおちつきをみせていた。いまではもう、年とった母にかわって、料理屋をきりもりしているという。たまに道で出あうと、なつかしがってとびついてき、
「せんせ、わたし、いつも先生のこと、あいたくてえ。」
なみだまでためてよろこぶ子どもっぽいしぐさなのに、じみづくりなかの女は、はたちやそこらとは見えなかった。
高等科へもすすめず、よめにもらわれることを将来の目的として女中奉公《じょちゅうぼうこう》に出たコトエはどうなったであろうか。かの女はよめにもらい手がつくまえに、病気になってかえってきた。肺病であった。ほねと皮にやせて、ただひとり物置きにねているときいてから、だいぶたつ。
高等科にすすめなかったもうひとりの富士子については、いやなうわさがたっていた。仁太が、富士子に会《お》うた、というのは、あそび女としての富士子との出あいにちがいなかった。仁太の顔にあらわれたものでそうとさとって、わざとききかえさなかったが、うわさはとうのむかしに小《こ》ツルからきいていた。富士子は親に売られたというのだ。家具や衣類とおなじように、きょうの一家のいのちをつなぐために、富士子は売りはらわれたのだ。はたらくということを知らずにそだったかの女が、たとえいやしい商売女にしろ、売られてそこではじめて人生というものを知ったとしたら、それは富士子のためによろこばねばなるまい。しかし人は富士子をさげすみ、おもしろおかしくうわさをした。
いまではもう人の記《き》憶《おく》からきえさったかに見える松《まつ》江《え》といい、いままた富士子といい、どうしてかの女たちがわらわれねばならないのか。しかし、大石先生の心の中でだけは、かの女たちもむかしどおりいたわられ、あたためられていた。
――マッちゃんどうしてる。富土子さんどうしてる。ほんとにどうしてる……。
ときどき先生はよびかけていた。
まっとうな道とはどうしても思えぬ富士子たちにくらべると、小ツルや早《さ》苗《なえ》は健康そのものに見えた。優秀な成績で師《し》範《はん》を出た早苗は、母校にのこる栄誉を得てそのひとみはますますかがやき、大阪の産《さん》婆《ば》学校を、これも優等で卒業した小ツルとは、大石先生をまん中にしてのなかよしになっていた。実地の勉強をかさねたうえで、小ツルは郷里にかえるのが目的であった。わざとかうっかりか、手紙のあて名を大石小石先生と書いてきたりするのだが、人間の成長の過程のおもしろさは、母の予言どおり、おしゃべりの小ツルをいくぶんひかえめに、無口な早苗をてきぱきやにそだてていた。
ふたりはすくなくも年に二ど、さそいあっておとずれてくる。たいてい夏の休暇と正月で、もってくるみやげもおなじだった。ふたりともおなじものというのではない。大阪の小ツルはあわおこしだし、早苗は高松《たかまつ》でかわらせんべいときまっていた。年ごろで、ますますふとるいっぽうの小ツルの目は、まったく糸のように細くなっていた。どちらかといえば、きついかの女の性格は、この目でやわらげられ、えへ、とわらうと、こちらもいっしょに声をあげてわらいたくなった。えへ、というとき、あとへ土《ど》産《さん》といってみやげをおくのが小ツルのくせであった。
あるとき小ツルはいった。
「いつもおなじ土《ど》産《さん》で芸がなさすぎると思うことありますけどね、じぶんの子どものときのこと思うと、この土《ど》産《さん》でとびとびするほどうれしかったから。」
早苗もおなじように、かわらせんべいの包みをさし出し、
「あほうの一つおぼえということがありますからね。」
大吉は、土《ど》産《さん》のねえちゃんとよんで歓迎《かんげい》し、その日は、一日わらいくらしてわかれるのがおきまりになっていた。それらの土《ど》産《さん》も、戦争が長びくにつれ、手にはいりにくくなったらしく、昨今は商売物らしいガーゼをくれたり、早苗のほうはノートやえんぴつを、まだ学校でもない大吉のためにもってきたりするようになった。ようやく学齢にたっした大吉のために、ランドセルを買いにいってのかえり、はからずも出あったおしえ子に刺《し》激《げき》されてか、もろもろの思い出はむねにあふれた。
一本松《いっぽんまつ》でございます。おおりのかたは……。
車掌《しゃしょう》の声に思わず立ちあがり、あわてて車内を走った。例の年よりにえしゃくもそこそこ、ステップに足をおろすと、いきなり大吉の声だった。
「かあちゃん。」
にごりにそまぬかん高いその声は、すべての雑念をかなたにおしやってしまおうとする。
「かあちゃん、ぼくもう、さっきからむかえにきとったん。」
いつもならば、ひとりでにわらえてくる、きれいにすんだその声が、きょうはすこしかなしかった。わらってみせると大吉はすぐあまえかかり、
「かあちゃん、なかなか、もどらんさかい、ぼくなきそうになった。」
「そうかい。」
「もうなくかと思ったら、ブブーってなって、見たらかあちゃんが見えたん。手えふったのに、かあちゃんこっち見ないんだもん。」
「そうかい。ごめん。かあちゃんうっかりしとった。おおかた、一本松わすれて、つっ走るとこじゃった。」
「ふうん。なにうっかりしとったん。」
それには答えず包みをわたすと、それが目的だといわぬばかりに、
「わあ、これ、ランドセルー? ちっちゃいな。」
「ちっちゃくないよ。しょってごらん。」
ちょうどよかった。むしろ大きいくらいだった。大吉はひとりでかけだした。
「おばあ、ちゃあん、ランド、セルー。」
すっとんでいきながら、足もとのもどかしさを口にたすけてもらうかのように、ゆくてのわが家へむかってさけんだ。
かたをふって走っていくそのうしろすがたには、無心にあすへのびようとするけんめいさが感じられる。その可《か》憐《れん》なうしろすがたのゆくてにまちうけているものが、やはり戦争でしかないとすれば、人はなんのために子をうみ、愛し、そだてるのだろう。砲弾《ほうだん》にうたれ、さけてくだけてちる人のいのちというものを、おしみかなしみとどめることが、どうして、してはならないことなのだろう。治安を維持するとは、人のいのちをおしみまもることではなく、人間の精神の自由をさえ、しばるというのか……。
走りさる大吉のうしろすがたは、竹一や仁太や、正や吉次や、そしてあのときおなじバスをおりて公会堂へとあるいていった大ぜいのわかものたちのうしろすがたにかさなりひろがっていくように思えて、めいった。ことし小学校にあがるばかりの子の母でさえそれなのにと思うと、何十万何百万の日本の母たちの心というものが、どこかのはきだめに、ちりあくたのようにすてられ、マッチ一本で灰にされているような思いがした。
おウマにのった兵隊さん
てっぽうかついであるいてる
とっとこ とっとこあるいてる
兵隊さんは 大すきだ
気ばりすぎて調子っぱずれになった歌が家の中からきこえてくる。しきいをまたぐと、ランドセルの大吉を先頭に、並木と八津がしたがって、うちじゅうをぐるぐるまわっていた。まごのそんなすがたを、ただうれしそうに見ている母に、なんとなくあてつけがましく、大石先生はふきげんにいった。
「ああ、ああ、みんな兵隊すきなんだね、ほんとに。おばあちゃんにはわからんのかしら。男の子がないから。――でもそんなこっちゃないと思う……。」そして、
「大吉い!」と、きつい声でよんだ。口の中をかわかしたような顔をして大吉はつっ立ち、
きょとんとしている。はたきと羽子板を鉄砲にしている並木と八津がやめずにうたいつづけ、走りまわっているなかで、大吉のふしんがっているきもちをうずめてやるように、いきなりせなかに手をまわすと、ランドセルはロボットのような感触《かんしょく》で、しかし急激《きゅうげき》なよろこびでうごいた。長男のゆえにめったにうけることのない母の愛《あい》撫《ぶ》は、満六さいの男の子を勝利感によわせた。にこっとわらってなにかいおうとすると、並木と八津に見つかった。
「わあっ。」
おしよせてくるのを、おなじようにわあっとさけびかえしながら、ひっくるめてかかえこみ、
「こんな、かわいい、やつどもを、どうして、ころして、よいものか、わあっ、わあっ。」
調子をとってゆさぶると、三つの口はおなじようにして、わあっ、わああ、と合わせた。そこにどんなきもちがひそんでいるかを知るにはあまりにおさない子どもたちだった。
春の徴兵適齢者たちは、報告書とてらし合わされて、品評会のなっ葉やダイコンのようにその場で兵種がきめられ、やがて年の瀬《せ》がせまるころ、歓呼の声におくられて入営するのが古いころからのならわしであった。しかし、日ごとにひろがっていく戦線の逼迫《ひっぱく》は、そのわずかな時間的ゆとりさえもなくなり、入営はすぐに戦線につながっていった。船着き場の桟橋《さんばし》にたてられたアーチは、歓送迎門の額をかかげたまま、緑のスギの葉はこげ茶色にかわってしまった。歓送歓迎のどよめきは年じゅうたえまなく、そのすきまを声なき「凱旋《がいせん》兵士」の四角な、白いすがたもまた潮風とともにこのアーチをくぐってもどってきた。
日本じゅう、いたるところにたてられたこの緑の門を、かぞえきれぬほどたくさんのわかものたちがくぐりつづけて、やむことを知らぬような昭和十六年、戦線が太平洋にひろがったことで、歓呼の声はいっそうはげしくなるばかりだった。天皇の名によって宣戦布告された十二月八日のそのずっとまえに、その年の入営者である仁太や吉次や磯吉たちは、もうすでに村にはいなかった。出発の日、いくばくかのせんべつにそえて大石先生は、かつての日の写真をはがき大に再製してもらっておくった。もう原板《げんぱん》はなくなっていた。竹一のほかはみななくしていたので、よろこばれた。
「からだを、だいじにしてね。」
そして、いちだんと声をひそめ、
「名誉の戦死など、しなさんな。生きてもどってくるのよ。」
すると、きいたものはまるで写真のむかしにもどったようなすなおさになり、磯吉などひそかになみだぐんでいた。竹一はそっと横をむいて頭をさげた。吉次はだまってうつむいた。正はかげのある笑顔を見せてうなずいた。仁太がひとり声に出して、
「先生だいじょうぶ、勝ってもどってくる。」
それとて、仁太としてはひそめた声で「もどってくる」というのをあたりはばかるようにいった。もどるなどということは、もうかんがえてはならなくなっていたのだ。仁太はしかし、ほんとにそう思っていたのだろうか。まっ正直なかれには、おていさいや、ことばのふくみは通用しなかったからだ。仁太だとていのちのおしさについては、人《じん》後《ご》におちるはずがない。それを仁太ほど正直にいったものは、なかったかもしれぬ。かれはかつての日、徴兵《ちょうへい》検《けん》査《さ》の係官のまえで、甲種合格《こうしゅごうかく》。と宣言されたせつな、思わずさけんだという。
「しもたあ!」
みんながふきだし、うわさはその日のうちにひろまった。しかし仁太は、ふしぎとびんたもくわなかったという。仁太のその間髪《かんはつ》を入れぬことばは、あまりにも非常識だったために、係官に正当にきこえなかったとしたら、思ったことをそのとおりいった仁太はよほどの果報者だ。みんなにかわって溜飲《りゅういん》をさげたようなこの事件は、近ごろの珍談として大石先生の耳にもはいった。
その仁太は、ほんとに勝ってもどれると思ったのだろうか。
ともあれ、出ていったまま一本のたよりもなく、その翌年もなかばをすぎた。ミッドウェーの海戦は、海ぞいの村の人たちをことばのない不安とあきらめのうちにおいこんで、ひそかに「お百度」をふむ母などを出した。仁太や正は海軍に配置されていた。平時ならば微笑でしか思いだせない仁太の水兵も、いったままたよりがなかった。
仁太はいま、どこであの愛すべき大声をあげているだろうか――。
ひとりを思うとき、かならずつづいて思いだすのは、いつも、あのK町《ケーまち》のバスの停留所で見たわかものたちである。わらうと、口のおくが暗く見えた年よりのことである。春さむの道ばたに、ただの日光をうけてつぼみをふくらませていたヤマブキである。そうして、さらにさらに大きなかげでつつんでしまうのは、いつのまにか軍用船となって、どこの海を走っているかさえわからぬ大吉たちの父親のことである。その不安をかたりあうさえゆるされぬ軍国の妻や母たち、じぶんだけではないということで、人間の生活はこわされてもよいというのだろうか。じぶんだけではないことで、発言権をなげすてさせられているたくさんの人たちが、もしも声をそろえたら。ああ、そんなことができるものか。たったひとりで口に出しても、あのおく歯のない年よりがいったように、うしろに手がまわる。
ただの日光をうけて、春さむの道ばたにふくらむヤマブキは、それでも、花だけはさかせたろうに……。
九、なきみそ先生
海も空も地の上も戦火から解放された終戦翌年の四月四日、この日朝早く、一本松《いっぽんまつ》の村をこぎだした一せきの伝《てん》馬《ま》船《せん》は、こんがすりのもんぺすがたのひとりのやせて年とった小さな女をのせて、岬《みさき》の村の方へすすんでいった。
しずかな海に、もやはふかくたちこめていて、岬の村はゆめの中にうかんでいるように見えたが、やがて、のぼりはじめた太陽にさまされるように、その細長いすがたを、しだいにくっきりとあらわしはじめた。
「あ、ようやっと晴れだした。」
まだ十二、三と見える船頭は、小さなからだぜんたいをうごかして櫓《ろ》をおしすすめながら、まだ遠い岬の村にながめいった。目ばかりかがやいているようなその男の子に、おなじように岬の村に目を見はっていた女は、いとおしむような声で話しかけた。
「岬、はじめてかい、大吉《だいきち》?」
みかけによらず、わかい声である。
「うん、岬なんぞ、用がなかったもん。」
ふりかえりもせずに答えた。
「そうじゃな。おかあさんでさえ、ずっとくることなかったもんなあ。岬というところは、そんなとこじゃ。あれから十八年! ほう、ふたむかしになる。おかあさんも年よせたはずかいな。」
なんとそれは、大石先生の、ひさしぶりの声とすがたである。きょう、かの女《じょ》は十三年ぶりの教職にかえり、しかもいま、ふたたび岬の村へ赴《ふ》任《にん》するところなのだ。まえには自転車にのってさっそうとかよっていた先生も、いまではそんなわかさがなくなったのであろうか。ところが、そうばかりではなかったのだ。戦争は自転車までも国民の生活からうばいさって、敗戦後半年のいま、自転車は買うに買えなかった。岬へ赴任ときまったとき、はたと当惑《とうわく》したのはそれだった。とちゅうまであったバスさえも、戦争中になくなったまま、いまだに開通していない。むかしでさえも、自転車でかよった八キロの道は、あるいてかようしかなかった。とうてい、からだのつづくはずがないとかんがえて、親子三人岬へうつろうかといいだしたとき、一言《いちごん》で反対したのが大吉だった。船でおくりむかえをするというのだ。船だとて借りるとすれば、そうとうの礼もしなければならない。
「雨がふったら、どうする。」
「そしたら、おとうさんのかっぱきる。」
「風のつよい日は、こまるでないか。」
「…………。」
「あ、しんぱいしなさんな。風の日はあるいていくよ。」
へんじにつまった大吉を、いそいでたすけたものだ。あしたはあしたの風がふく。あしたのことまでかんがえてはいられなかった長い年月は、雨や風ぐらいでへこたれぬことだけは、おしえてくれた。戦争は六人の家族を三人にしてしまったけれど、だからなお、のこった三人はどうでも生きねばならないのだ。大吉は六年生になっている。並《なみ》木《き》は四年だった。出がけになぎさに立って母の初出勤を見おくってくれた並木も、もうそろそろ学校へ出かける時分だと思って一本松をふりかえった。ひさしぶりに沖《おき》からながめる一本松も、むかしのままに見える。なんの変化も見られぬその村にさえ、大きな変化をきたした戦争のはての敗戦。
「大吉、つかれないかい。手に豆《まめ》ができるかもしれんな。」
「豆ができたって、すぐにかたまらあ、ぼく、へいきだ。」
「ありがたいな。でも、あしたからもっと早めに出かけようか。」
「どうして。」
「先生のむすこが、まいにちちこくじゃあ、なにがなんでもふがわるい。そのうちおかあさんも、また自転車を手に入れる算段するけども。」
「へっちゃらだあ。ちゃんと理由があると、しかられんもん。船で、おくったげる。」
ゆっくりと、櫓についてからだを前後にうごかしながら、とくいの顔でわらった。
「うまいな、櫓おすの。やっぱり海べの子じゃな。いつのまにおぼえたん。」
「ひとりで、おぼえるもん。六年生なら、だれじゃっておせる。」
「そうかね。おかあさんもおぼえよかな。」
「そんなこと、ぼくがおくってあげる。」
「そうそう、森岡正《もりおかただし》という子がいてな、一年生なのに、おかあさんを船でおくってあげるっていったことがあった。むかし――。もう戦死したけれど。」
「ふうん。おしえ子?」
「そう。」
ふっとなみだが出た。生きていれば、もうよいわかものになったろうと、五年まえ、桟《さん》橋《ばし》でわかれたきりの正を思いだし、それがおさない日のおもかげとかさなってうかんできた。あれきりついにあうことのなかった正。そしてもう永久にあうことのできなくなったおしえ子たち。はげしい戦いにたおれたいま、いくにんがふたたび故郷の土をふみ、ふたたびあえるかと思うと、心は暗くしずむ。
悪《あく》夢《む》のようにすぎたここ五年間は、大石先生をも人なみのいたでと苦痛のすえに、小さなむすこにいたわられながら、このへんぴな村へ赴任してこなければならぬ境遇《きょうぐう》においこんでいた。わが身に職のあることを、はじめてかの女は身にしみてありがたがった。おしえ子の早《さ》苗《なえ》にすすめられて願書は出してみたものの、きていく着物さえもないほど、生活は窮迫《きゅうはく》のそこをついていた。不《ふ》如《にょ》意《い》な日々のくらしは人を老いさせ、かの女もまた四十という年よりも七、八つもふけて見える。五十といっても、だれがうたがおう。
いっさいの人間らしさを犠《ぎ》牲《せい》にして人々は生き、そして死んでいった。おどろきに見はった目はなかなかにとじられず、とじればまなじりをながれてやまぬなみだをかくして、なにものかにおいまわされているようなまいにちだった。しかも人間はそのことにさえいつしかなれてしまって、立ちどまり、ふりかえることをわすれ、心のおくまでざらざらにあらされたのだ。あれまいとすれば、それは生きることをこばむことにさえなった。そのあわただしさは、戦いのおわったきょうからまだあすへもつづいていることを思わせた。戦争はけっしておわったとは思えぬことがおおかった。
原爆《げんばく》の残虐《ざんぎゃく》さが、そのことばとしての意味だけでつたえられてはいたが、まだほんとうの惨状《さんじょう》を知らされていなかったあの年の八月十五日、ラジオの放送をきくために学校へ召《しょう》集《しゅう》された国民学校五年生の大吉は、敗戦の責任を小さなじぶんのかたにしょわされでもしたように、しょげかえって、うつむきがちにかえってきた。
あれからたった半年、いま目のまえに櫓をこぐ可《か》憐《れん》なすがたは、ふかい感慨《かんがい》をそそるものがある。時代に順応《じゅんのう》する子どもというもの。半年まえのかれのことをいえば、いまははずかしがる大吉なのを知っている。口には出さず、ひとり思いだすだけである。あの日、しょげている大吉の心をひったててやるように笑《え》顔《がお》でかたをだいてやり、
「なにをしょげてるんだよ。これからこそ子どもは子どもらしく勉強できるんじゃないか。さ、ごはんにしよ。」
だが、いつもなら大さわぎの食卓《しょくたく》を見むきもせずに大吉はいったのだ。
「おかあさん、戦争、まけたんで。ラジオきかなんだん?」
かれは声まで悲《ひ》壮《そう》にくもらしていった。
「きいたよ。でも、とにかく戦争がすんでよかったじゃないの。」
「まけても。」
「うん、まけても。もうこれからは戦死する人はないもの。生きてる人はもどってくる。」
「一億玉砕《いちおくぎょくさい》でなかった!」
「そう。なかって、よかったな。」
「おかあさん、なかんの、まけても?」
「うん。」
「おかあさんはうれしいん!」
なじるようにいった。
「ばかいわんと! 大吉はどうなんじゃい。うちのおとうさんは戦死したんじゃないか。もうもどってこんのよ、大吉。」
そのはげしい声にとびあがり、はじめて気がついたように大吉はまともに母を見つめた。しかしかれの心の目もそれでさめたわけではなかった。かれとしては、この一大事のときに、なおかつ、ごはんをたべようといった母をなじりたかったのだ。平和の日を知らぬ大吉、生まれたその夜も防空演習でまっくらだったときいている。燈《とう》火《か》管制《かんせい》の中でそだち、サイレンの音になれてそだち、ま夏に綿入れのずきんをもって通学したかれには、母がどうしてこうまで戦争をにくまねばならないのか、よくのみこめていなかった。どこの家にも、だれかが戦争にいっていて、わかいものというわかいものはほとんどいない村、それをあたりまえのこととかんがえていたのだ。学徒は動員され、女子どもも勤労《きんろう》奉《ほう》仕《し》に出る。あらゆる神社の境内《けいだい》はかれ葉一まいものこさず清掃《せいそう》されていた。それが国民生活だと大吉たちは信じた。しかし、山へどんぐりをひろいにいき、にがいパンをたべたことだけはいやだった。小さな大吉の村からもいくにんかの少年航空兵が出た。
――航空兵になったら、ぜんざいがはらいっぱい食える。
かわいそうに、年《とし》歯《は》もいかぬ少年の心を、はらいっぱいのぜんざいでとらえ、航空兵をこころざしたまずしい家の少年もいた。しかもそれで少年はもう英雄《えいゆう》なのだ。まずしかろうと、そうでなかろうと、そこへ心をかたむけないものは非国民でさえあった時世のうごきは、親に無断で学徒兵をこころざせば、そしてそれがひとりむすこであったりすれば、英雄の価値はいっそう高くなった。町の中学では、たくさんの少年志願兵の中に、親に無断のひとりむすこが三人も出て、それが学校の栄《えい》誉《よ》となり、親たちの心をさむがらせた。そのとき、小さかった大吉は、じぶんの年のおさなさをなげくように、
「ああ、早くぼく、中学生になりたいな。」
そしてうたった。
なあなつ ボータンは サクラにいかあり……。
人のいのちを花になぞらえて、ちることだけがわこうどの究極の目的であり、つきぬ名誉であるとおしえられ、信じさせられていた子どもたちである。日本じゅうの男の子を、すくなくもそのかんがえに近づけ、信じさせようと方向づけられた教育であった。校庭のすみで本を読む二宮金《にのみやきん》次郎《じろう》までが、歓呼の声でおくりだされてしまった。何百年来、朝夕を知らせ、非常をつげたお寺のかねさえ鐘楼《しょうろう》からおろされて戦争にいった。大吉たちがやたら悲壮がり、いのちをおしまなくなったこともやむをえなかったのかもしれぬ。しかし大吉の母は、一どもそれにさんせいはしなかった。
「なああ大吉、おかあさんはやっぱり大吉をただの人間になってもらいたいと思うな。名誉の戦死なんて、一けんにひとりでたくさんじゃないか。死んだら、もとも子もありゃしないもん。おかあさんが一生けんめいにそだててきたのに、大吉あそない戦死したいの。おかあさんがまいにちなきのなみだでくらしてもえいの?」
のぼせた顔にぬれ手ぬぐいをあててでもやるようにいったが、熱のはげしさはぬれ手ぬぐいではききめがなかった。かえって大吉は母をさとしでもするように、
「そしたらおかあさん、靖国《やすくに》の母になれんじゃないか。」
これこそ君《きみ》に忠《ちゅう》であり親《おや》には孝《こう》だと信じているのだ。それでは話にならなかった。
「あーあ、このうえまだ靖国の母にしたいの、このおかあさんを。『靖国』は妻だけでたくさんでないか。」
しかし大吉は、そういう母をひそかに恥《は》じてさえいたのだ。軍国の少年にはメンツがあった。かれは、母のことを極力世間にかくした。大吉にすれば、母の言動はなんとなく気になった。ずっとまえにもこんなことがあった。病気休暇《きゅうか》でかえっていた父に、ふたたび乗船命令が出たとき、大吉がまっさきにいきおいづいて、並木たちとさわぎたてると、母はまゆねをよせ、おさえた声でいった。
「なんでしょう、この子。ばかかしら、人の気も知らずに。」
そういってひたいをつんと指さきでおした。ひょろひょろとたおれかかった大吉は、はらをたててむしゃぶりついてきた。しかし、母の目になみだがこぼれそうなのを見ると、さすがにしゅんとしてしまった。父はわらって大吉をなぐさめた。
「いいよ、なあ大吉。まだ、八つや九つのおまえらまでがめそめそしたら、おとうさんもたすからんよ。さわげさわげ。」
しかし、そういわれるともうさわげなかった。すると、父は三人の子どもをいっしょくたにかかえて、
「みんなげんきで、大きくなれよ。大吉も並木も八津《やつ》も、大きくなって、おばあさんやおかあさんをだいじにしてあげるんだよ。それまでには戦争もすむだろうさ。」
「えっ、戦争すむの。どうして?」
「こんな、病人までひっぱりださにゃならんとこみると――。」
だが、大吉たちにはその意味はわからなかった。ただ、じぶんの家でも父が戦争にいくということで肩《かた》身《み》がひろかったのだ。一家そろっているということが、子どもに肩身のせまい思いをさせるほど、どこの家庭も破《は》壊《かい》されていたわけである。
戦死の公報がはいったのは、サイパンをうしなうすこしまえだった。さすがの大吉もそのときはないた。ひじをむねのほうにまげて、手首のところでなみだをふいている大吉のかたを、母はだきよせるようにして、
「しっかりしようね大吉、ほんとにしっかりしてよ大吉。」
じぶんをもはげますようにいい、そのあと、小さな声で、どんなに父が家にいたがったかをかたった。
「いったら最後もうかえれないこと、わかってたんだもん。それなのに大吉たち、大さわぎしたろう。気のどくで、つらくておかあさん……。」
しかし大吉はそのときでさえ、なぜ母はそんなことをいうのだろうと思った。父はよろこびいさんで出ていったのだといってもらいたかった。戦死はかなしいけれど、それだとて、父のない子はじぶんだけではないのにと、そのことのほうをあたりまえにかんがえていた。となり村のある家などでは、四人あったむすこが四人とも戦死して、四つの名誉のしるしはその家の門にずらりとならんでいた。大吉たちは、どんなにか尊敬の目で、それをあおぎ見たことだろう。これは一種の羨望《せんぼう》でさえあった。
その「戦死」の二字をうかした細長い小さな門標は、やがて大吉の家へもとどけられてきた。小さな二本のくぎといっしょに状ぶくろに入れてあるのを手のひらにあけて、しばらくながめていた母は、そのまま状ぶくろにもどして、火ばちのひきだしにしまった。
「こんなもの、門にぶちつけて、なんのまじないになる。あほらしい。」
おこったような顔をしてつぶやき、ショキショキと米をつきはじめた。米はビールびんの中でつくのである。病気でねていたおばあさんのおかゆのためで、大吉たちの口にははいらなかった。防空演習でころんで、それがやみつきになったおばあさんは、もうとうていなおる見こみもなく、ねているだけだった。ころんだのがもとでやみついたのではなく、やみついていたからころんだのだろう、と、医者はいった。八十すぎて、かみもひげもまっ白となり、村の医者は、なおるみこみのない病人のところへはなかなかきてくれなかった。ほかにたのむ医者はなく、せめてうまいものでもと心がけたが、なかなか手にはいらなかった。海べにいて、さかなさえ手にはいらないのだ。さかなはありませんか、たまごはありませんかと、一ぴきのメバル、一つのたまごに三ども五ども頭をさげねば手にはいらなかった。そのために母がひとりでかけまわった。
そしてある日、名誉の門標はいつのまにか火ばちのひきだしから、門のかもいの正面にうつっていた。母のるすに大吉がそこへ打ちつけたのである。小さな「名誉の門標」は、しかるべき位置に光っていた。「門標」の妻は、しばし立ちどまってそれをながめた。ひとりの男のいのちとすりかえられた小さな「名誉」を。その名誉はどこの家の門口《かどぐち》をもかざって、はじを知らぬようにふえていった。それをもっともほしがっていたのは、おさない子どもだったのであろうか。
そうして、ついにむかえた八月十五日である。濁流《だくりゅう》が、どんないなかのすみずみまでもおしよせたようなさわぎの中で、大吉たちの目がようやくさめかけたとしても、どうしてそれをわらうことができよう。わらわれる毛ほどの原因も子どもにはない。
戦争の残飯《ざんぱん》をあさる人たちもおおいなかへ、生きのこった兵隊がまいにちのようにもどってきた。生きてはいてももどれぬ兵隊、永久にもどることのない父や夫やむすこや兄弟たちの、かつての名誉の門標は家々の門から、いっせいにすがたをけし、ふたたびゆくえ不明になった。それで戦争の責任をのがれられでもしたように。
おなじようにそれのなくなった家で、思いがけなく大吉は、妹の八津のとつぜんの死をむかえねばならなかった。おばあさんがなくなってから一年めのことである。わずか一年そこそこのうちに、三人の死をむかえたわけだった。父のように大海《たいかい》の泡沫《ほうまつ》の中にきえてすがたを見せない死、おばあさんのようにやみほうけてかれ木のようになってたおれた生《しょう》涯《がい》、きのうまでげんきだったのが、一夜のうちにゆめのようにきえてしまった、はかない八津の死。そのなかで八津の死はいちばんみんなをかなしませた。急性腸カタルだった。家のものにだまって、八津は青いカキの実をたべたのである。もう一月もすればうれるのに、しぶくはないということで八津はそれをたべたのである。いっしょにたべた子もあるのに、八津だけがいのちをうばわれた。
戦争はすんでいるけれど、八津はやっぱり戦争でころされたのだ――。
母がそういったとき、大吉はきゅうには意味がのみこめなかったが、だんだんわかってきた。近年、村のカキの木も、クリの木も、うれるまで実がなっていたことがなかった。みんなまちきれなかったのだ。
子どもらはいつも野に出て、ツバナをたベ、イタドリをたベ、スイバをかじった。土のついたサツマをなまでたべた。みんな回虫がいるらしく、顔色がわるかった。そんななかで病気になっても村に医者はいなかった。よくきく薬もなかった。医者も薬も戦争にいっていたのだ。おばあさんのなくなったときには、村の善法《ぜんぽう》寺《じ》さんまでが出征《しゅっせい》してるすだった。近村《きんそん》の寺の坊《ぼう》さんは、戦死者でいそがしかった。終戦のちょっとまえにかえった善法寺さんは、かえるとすぐ供《く》養《よう》にきてくれたが、いままた、つづけて八津のためにお経《きょう》をあげてもらうことになるなど、どうしてかんがえられたろう。
おばあさんが死ぬまえ、菩《ぼ》提《だい》寺《じ》にお坊さんもいないことをくやんだが、小さな八津は坊さんのことなどかんがえたこともなかったろうと思うと、大吉は、声はりあげて経を読む坊さんまでがうらめしかった。おかあさんの話では、八津が生まれたときにおとうさんはもう、からだのぐあいがすこしわるくなりかけていて、船をおりて養生《ようじょう》するつもりだったという。長年、世界の七つの海をわたりあるいたおとうさんは、いまはもう家にかえって休みたいといい、八つめの港をわが家にたとえて、そのとき生まれた女の子に八津という名をつけた。しかし、病気のおとうさんもわが家の港に病気をやしなうことができず、希望をかけた八津もまた死んでしまった。
ものがとぼしく、八津のなきがらをおさめる箱《はこ》も、材料をもっていかねばつくれないといわれ、すこしこわれかけていたむかしのたんすでつくることにした。花までが人間の生活の中からおいだされていた。大吉は並木とふたりで墓場へいき、ジャノメソウやオシロイバナをとってきて八津をまつった。もとは、花をたくさんつくっていたという庭は、大吉たちの記憶《きおく》のかぎり、ダイコンやかぼちゃ畑で、せまいのき先にまでかぼちゃはうえられて、やねにはわせていた。八津がなくなるとおかあさんは、なきながら、のきのカボチャをひきちぎるようにしてぬきとった。うらなりの実が三つ四つ、長いつるにひきずられておちてきた。その中のまるいのを盆《ぼん》にのせて仏壇《ぶつだん》にそなえたのだったが、えきりといううわさがたって、だれもきてくれぬ通夜《つや》のまくらもとにすわって、いつもの停電のすんだあと、おかあさんはふと気がついたように、まくら刀《がたな》にした小さなゾーリンゲンのほうちょうをとりあげ、いきなり、ぐさりとカボチャの横ばらにつきたてて、大吉たちをおどろかした。ゾーリンゲンはおとうさんが買ってきたものだった。もしも、おかあさんがわらっていなかったなら、日ごろ、こわいとおしえられているゾーリンゲンである。大吉たちは悲鳴をあげたかもしれない。しかしおかあさんはわらっていたのだ。なきはらした顔の笑顔は、ちがった人のように見えたが、なんでもない、なんでもないという目の色は大吉たちをしゅんかんで安心させた。
「いいもの、八津にこしらえてやろう。こんなこと、おまえたち、知らないだろ。八津はとうとう知らずじまいじゃ。カボチャはうらなりでもたべるものと、大吉ら、そう思ってるだろう。おかあさんの子どものときは、カボチャのうらなりは、子どものおもちゃ。ほら、これがまど――。」
カボチャの横ばらは四角に切りぬかれた。
「こっちは、まるまどといたしましょう。少々むずかしいな。手塩ざらもってきて、大吉、型をとるから。それとお盆もな。わた出すから。」
大吉と並木は目をまるくして見ていた。できたのはちょうちんだった。まどに紙をはり、そこにくぎをさすとろうそくの座もできた。配給のろうそくをともすと、いかにもそれは、八津のよろこびそうなちょうちんであった。かなしみをわすれて大吉はいった。
「おかあさん、工作、満点じゃ。」
小さな棺《かん》ができてくると、ちょうちんは八津の顔のそばに入れてやった。八津がもってあそんでいた貝がらや紙人形もそばにおいた。かなしみがきゅうにおしよせてきて、大吉も並木も声をあげてないた。おんおんなきながら大吉は、八津がいつもほしがっていたちえの輪を思いだし、かしてやらなかったじぶんの不しんせつをじぶんでせめながら、いまあらためて、それを八津にやろうと思った。むねに組みあわせた手にもたせようとしたが、つめたい手はもうそれをうけとってはくれず、ちえの輪はすべって棺のそこにおちた。並木もなきながら、かれもまた八津の目にふれぬようにしまいこんであっただいじな色紙をもってきて、つるや、やっこや風船を折って入れた。そんなものをもって、八津は死出の旅《たび》路《じ》についたのである。
こういうことがあって、大石先生はきゅうにふけたのである。しらがさえもふえた。小さなからだはやせるとよけい小さくなり、こしでもまげると、おばあさんそっくりになった。小さいながらも大吉はどきんとし、こんどはおかあさんが、どうかなるかと案じた。人のいのちのとうとさを、しみじみとあじわえる年になってきた。
おかあさんをだいじにしてあげるんだぞ――。
おとうさんのことばが生きてきた。
「おかあさん、まきはぼくがとってくる。」
そういって並木といっしょに山へいく。
「おかあさん、配給は、ぼく、学校のかえりにとってくるから。」
遠い配給所へいくのもかれの役になった。並木もまけてはいられなかった。
「おかあさん、水やこい、みんなぼくがくんであげる。」
なみだもろくなったおかあさんは、
「きゅうにまあ、ふたりとも親孝行になったなあ。」
これほどよわり、いたわられているかの女《じょ》が、ふたたび教職にもどれたのは、かげに早《さ》苗《なえ》の尽力《じんりょく》があったのだ。早苗はいま、岬《みさき》の本《ほん》村《そん》の母校にいた。
「四十じゃあね。現職にいても老朽《ろうきゅう》でやめてもらうところじゃないか。」
首をかしげる校長へ、再三たのんで、ようやく、岬ならばということで話がきまった。しかもそれは大石先生のもっている教員としての資格でではなく、校長いちぞんで採決できる助教《じょきょう》であった。臨時教師なのだ。かわりがあれば、いつやめさせられるかもしれないのだ。早苗は、気のどくさにしおれて、それを報告した。だが、大石先生の目は、異様にかがやいたのである。
「岬なら、ねがったり、かなったりよ。まえのかりがあるから。」
条件のわるさなど気にもかけず、心のそこからつきあげてくるような笑《え》顔《がお》をした。そのとき大石先生の心には、わすれていた記憶が、いまひらく花のような新鮮《しんせん》さでよみがえっていたのだ。
せんせえ、またおいでえ……。
足がなおったら、またおいでえ……。
やくそく、したぞう……。
あのとき、じぶんのあとへ赴《ふ》任《にん》していった老朽の後《ご》藤《とう》先生とおなじように、じぶんもまた人にあわれまれているとも知らず、いや、大石先生がそれを知らぬはずはなかった。しかしおさないふたりの子をかかえた未亡人のかの女もまた、やはり後藤先生とおなじく、よろこんで岬へいかねばならなかったのだ。しかし、かの女はいま、近づいてくる岬の村の山々の、夜気《やき》にあらわれた緑のつややかさを見ると、じぶんもまたわかがえってくるような気がした。むかし、洋服も自転車も人にさきがけたかの女も、いまではしらがまじりのかみの毛をむぞうさにひっつめ、夫の着物の紺《こん》がすりでつくったもんぺをつけ、小さなむすこに船でおくられている。むかしのおもかげをしいてさがせば、きゅうにかがやきだしたひとみの色と、わかわかしい声であるかもしれぬ。なまいきといわれてけなされたかの女の洋服や自転車は、それがきっかけになってはやりだし、いまでは村に自転車にのれぬ女はないほどだ。だが二十年近い歳月《さいげつ》は、もうだれもわかい日のかの女をおぼえてはいまい。
陸地がすうっとすべるように近づいたと思うと、船はもうなぎさ近くよっていた。ふなれな手つきで水《み》さおをおす大吉と、見なれぬ大石先生に、むかしどおり村の子どもはぞろぞろあつまってきた。しかし、そのどの顔にもおほえはなかった。長い年月の衣料のふそくは、質素な岬の子どもらのうえにいっそうあわれにあらわれていて、わかめのようにさけたパンツをはき、そのすきまから皮膚《ひふ》の見える男の子もいた。わらいかけるとおびえたような目をしたり、無感動な表情のままふかい関心を見せて道をひらいた。めずらしげにじろじろ見るのはむかしのままであった。その好《こう》奇《き》の目にとりかこまれながら、大石先生ははずみをつけてとびおりた。石ころ一つにさえむかしのおもかげがのこっているようななつかしさ。すこし船によったらしく、頭がふらついた。ゆっくりあるいていると、うしろからささやく声がした。
「たいがい、せんせど、あれ。」
「ほんな、おじぎしてみるか、そしたらわかる。」
思わずにっとした顔のまえへ、ばたばたと三、四人の小さな子どもが立ちふさがり、ぴょこんと頭をさげた。新学期に近づいて新入生におじぎがとり入れられたのをしおに、まだ学校ではないらしい小さな子らも、まねているのであろう。えしゃくをかえしながら大石先生はなみだぐんでいた。まず、おさない子らに歓迎《かんげい》されたような気がしてうれしかったのだ。そっと目がしらをおさえ、笑顔を見せた。あらためて見たが、すぐに思いだす顔はなかった。道ゆく人もそうだった。むかしながらの村の道を、なんとかわった人のすがたであろう。とはいえ、その中でもっともかわっているのがじぶんだとは、気がつかなかった。その大石先生をおいぬきおいぬき、三々五々と走っていく生徒たちもたえなかった。ちらりちらりと、こちらをぬすみ見しては走りさっていく。それらのすがたから、わざと目をそらしたのは、見られたくないものが光ってこぼれそうだったからだ。
ひとりかえっていく大吉の方へ手をふってみせてから校門をくぐった。古びてしまった枚舎の、八分《ぶ》どおりこわれたガラスまどを見たとき、しゅんかん、絶望的なものがみち潮のようにおしよせてきたが、むかしのままの教室に、むかしどおりにつくえといすをまどべりにおき、外を見ているうちにせぼねはしゃんとしてきた。なにもかも古いこの学校へ、あたらしいものがやってきはじめたからだ。古い帯心《おびしん》らしい白い布でつくった、あたらしいかばん。まん中に一本ぬいめのあるらしい、めいせんのふろしき、その中には、新聞紙を折りたたんだだけのような、表紙のないそまつな教科書がはいっているだけでも、子どもたちは希望にもえる顔をしていた。むかしどおりの岬の子の表情である。十八年という歳月をきのうのことのように思い、きのうにつづくきょうのような錯覚《さっかく》にさえとらわれた。大げさな始業式もなく、教室にはいると、さすがにかあっと顔に血がのぼるのを感じた。それでも、なれたたいどで出席をとった。わかく、はりのある声で、「名まえをよべば、大きな声で、はいとへんじをするのよ」とまえおきして、
「川崎覚《かわさきかく》さん。」
「はい。」
「加部《かべ》芳《よし》男《お》さん。」
「はあい。」
「げんきね。みんな、はっきりおへんじができそうですね。加部芳男さんは、加部小ツルさんのきょうだい?」
いま、へんじをほめたばかりなのに、もう加部芳男はだまってかぶりをふる。名まえをよばれたときでなければ、はいとはいえないもののように。しかし先生は笑顔をくずさずに、
「岡《おか》田《だ》文吉《ぶんきち》さん。」
それはあきらかに磯吉《いそきち》の兄の子どもとさっしられたが、めくらになって除隊された磯吉につらい兄であるときいて、ふれずにつぎにうつった。
「山本克彦《やまもとかつひこ》さん。」
「はい。」
「森岡《もりおか》五《ご》郎《ろう》さん。」
「はい。」
正の顔が大きくうかんできた。
「片桐《かたぎり》マコトさん。」
「はい。」
「あんた、コトエさんのうちの子。」
マコトはぽかんとしていた。かの女は小さいときなくなった姉のことなどおぼえていなかったのだ。それでもう、古いことはきくのはやめた。西口《にしぐち》ミサ子のむすめは、勝《かつ》子《こ》といった。そのほか三人の女の子の中に、赤いあたらしい洋服をきた川本《かわもと》千《ち》里《さと》という子どもがいた。がまんできず、休み時間のとき、それとなくきいてみた。
「千里さんのおとうさん、大《だい》工《く》さんね。」
すると千里は、松《まつ》江《え》そっくりの黒い目を見はって、
「ううん、大工さんは、おじいさん。」
「あら、そうだったの。」
しかしかの女の学籍《がくせき》簿《ぼ》には、かの女の父は大工とあった。
「松江さんて、だあれ、ねえさん。」
「ううん、おかあさん。大阪におるん。洋服おくってくれたん。」
どきんとした。そして、この組に仁太《にた》やマスノがいないことにほっとし、またそれで、さびしくもなった。仁太がいればいまごろはもう、十人の新入生の家庭事情はさらけだされ、めいめいのよび名やあだ名までわかっているだろう。その仁太や竹一《たけいち》や正《ただし》は、そして、磯吉や松江や富士子《ふじこ》は、と思うと、かれらのときと同様、いちずな信頼《しんらい》をみせて、きょうあたらしく門をくぐってきた十人の一年生の顔が、一本松の下にあつまったことのある十二人の子どものすがたにかわった。思わずまどの外を見ると、一本松は、むかしのままのすがたで立っている。そのそばに、ふたりの男の子が、じっと岬を見ているかもしれぬ、そんなことも知らぬげなすがたである。
大石先生はそっと運動場のすみにいき、ひそかに顔をととのえねばならなかった。そういうかの女に、早くもあだ名ができたのを、かの女はまだ知らずにいた。岬の村に仁太はやっぱりいたのである。だれが先生の指一本のうごきから目をはなそう。
かの女のあだ名は、なきみそ先生であった。
十、ある晴れた日に
四月とはいってもまださむさのなごりは午後の浜《はま》べにみちていた。砂の上に足をなげだしている大石先生は、思わず立ちあがって、ハタハタともんぺのひざをはたいた。そのうしろすがたへよびかけるものがあった。
「先生、そんなとこで、なにしておいでますか。」
西口ミサ子であった。
「まあ、ミサ子さん。」
はでな花もようのめいせんのあわせにきちんと帯つきで、ミサ子はこれからどこかへ出かけそうなかっこうに見えた。あらたまったあいさつのあと、きゅうにしたしさをみせて、
「先生にお目にかかりたくて、いま、学校へいくところでしたの。」
そういってから、もういちどあらためてこしをこごめ、
「先生、このたびはまた、ふしぎなご縁《えん》で勝子がおせわになることになりまして、どうぞよろしくおねがいもうします。」
そのゆっくりとしたものいいぶりや、ていねいなものごしは、二十年まえのかの女《じょ》の母親にそっくりであった。しかしミサ子のほうは、さすがにあっさりと生地《きじ》を見せ、なつかしそうにいった。
「先生がまた岬《みさき》へおいでるというのをきいて、わたし、うれしくてなみだが出ましたの。親子二代ですもの。こんなこと、めずらしいですわ、ほんとに。でも先生、おたっしゃで、よろしかったこと。」
「おかげさまで。でも、みんな、いろんな苦労をくぐりましたね。」
それにはこたえず、あたりを見まわしながら、ミサ子は、
「先生がけがをしたところ、ここらへんでしたかしらん?」
なつかしそうな目をしていった。
「そう、でしたね。よく思いだしてくれたこと。」
「そりゃあわすれませんわ。ときどき思いだしては早苗さんと話していたんですもの。わたしらのクラスは、岬に学校がひらかれていらいの、かわりもののよりあつまりらしいって。ほら、あのとき、先生とこまであるいていったりして。」
そういいながら、はるかな一本松《いっぽんまつ》に目をやり、ちょうど近づいてきた大吉《だいきち》の船を、けげんな顔でながめた。船はもう目のまえにそのすがたを見せていたのだ。その方を、顔をふってしめしながら、大石先生は笑《え》顔《がお》でいった。
「ミサ子さん、あれ、わたしのむすこですよ。ああしてまいにち、わたしをむかえにきてくれますの。」
それをきくとミサ子はおどろきを声に出し、
「まあ、そうですの。それで先生、浜においでたんですか。」
もう三日つづいている大吉の出むかえを、ミサ子はまだ知らなかったのだろうか。むかしからあまり人とまじわらない家風をミサ子もうけついでいるようにみえた。しかし時代の風はミサ子の家の高い土べいをもわすれずに乗りこえて、かの女の夫をもさらっていったまま、まだかえらぬ兵隊のひとりにくわえていた。だが目のまえに見るミサ子は、くったくのないむすめのように、おおらかに、むかしながらの人のよい顔つきでにこにこしていた。そまつなもんぺから足をぬくことができないでいる村人の中で、かの女ひとりは大《たい》家《け》のわかおくさまなのだ。長い年月のきのうからきょうにつづくさまざまな苦労を、どのようにしてミサ子はくぐってきたのであろうか。終戦のときには、西口家の倉庫にも、軍の物資が天じょうまでつみあげてあるといううわさもあったが、ほんとうかうそかさえわからずにすぎている。その物資でミサ子の家はふとっているといううわさもきいたが、ミサ子の顔つきには、そんな悪のかげりはみえなかった。
いまもかの女は大石先生とかたをならベ、大吉の船のひとゆれごとに本気なしんぱいを見せた。
「この風では、子どもにはすこしむりですわ、先生。あ、あぶない!」
大吉の小さなからだは櫓《ろ》といっしょに、海にのめりこみそうに見えたりする。そのけんめいさは、小船とともに大吉の小さなからだにあふれていて、見ているこちらもしぜんに力んできた。おかではさむくさえあるのに、大吉はあせみずくにちがいなかった。
「自転車は、もうおのりにならないんですか、先生。」
ミサ子から声をかけられてもそれに耳をかすゆとりもなく、大石先生は、波にもまれる大吉を小船もろともたぐりよせたいきもちで見ていた。ミサ子はかさねて、
「雨や風の日は、船はむりでしょう。自転車のほうが、かえって早いでしょうに。」
「ええ、でもねミサ子さん、自転車なんて、きょう日《び》は、買うに買えないでしょ。もしも買えるとしても、ふところがしょうちしない。」
船から目をはなさずにいいながら、以前でさえも月賦《げっぷ》で買ったことを思いだした。それをしてくれた富《とみ》子《こ》という自転車屋のむすめは、そのあと結婚して東京でくらしていたのだが、はがきさえも品ぎれがちの戦争中に消息もたえ、そのままになっている。東京の本所《ほんじょ》で、やはり自転車屋をしていたかの女一家が、いまどこにどうしているのか、おそらくは三月九日の空襲で一家全滅《ぜんめつ》したのではなかろうかとかんがえだしたのは、戦争もおわるころだった。わが身のあわただしい転変に心をうばわれ、人のことどころではなかったのだ。
K町《ケーまち》の富子の父たちのすんでいた家はいまも自転車屋であるが、どんないきさつからか戦争中に店主がかわって、いまでは、いつ見ても貧相な感じの年とった男がひとり、きたない古自転車をいじくっているだけだった。そこでも、あととりむすこが戦死したのだ。あたらしい自転車など、どこにあるのだろう。だのにミサ子は、しごくかんたんにいった。
「先生、もしも自転車をお買いになるんでしたら、ご相談にのりますから。」
それがどういう意味なのか問いかえすひまもなく、大吉の船はきゅうに速力をまして近よってきた。陸地のかげにはいって、風がなくなったのであろう。大吉は母親にだけにっとわらって、そっぽをむいてすましていた。水《み》さおをおしていつもするようにへさきを砂浜によせ、母親ののりこむのをまっている大吉の横顔に、いつもとちがったことばがいち早くとんできた。
「さ、ぼっちゃん、つかまえてますから、あがってらっしゃい。」
おどろいてふりかえる大吉に、こんどは大石先生がわらいかけ、
「大吉、ひと休みしたら?」
だまってかぶりをふる大吉へ、かさねて、
「ちょっとおかあさん、このかたに、お話があるの。だから、そのあいだだけまって。」
大吉はおこったような顔をして、だまって浜にとびおりた。大きな石にともづなをとるのをまって、
「大吉も、ここへおいで。」
大吉もいるまえで、ミサ子に自転車の話をききたいとかんがえたのだが、もうそのことはわすれたような顔をしているミサ子と、おとなっぽくひざをだいて沖《おき》を見ている大吉とにはさまれてすわると、どうしたのか自転車のことは口に出したくなくなった。どんな方法がミサ子にあるというのか。いずれは、おたがいの心をよごすほかに道がないことがわかるように思えたからだ。おもくるしくだまっていると、それをほごすように、ミサ子は気がるに話しだした。
「早《さ》苗《なえ》さんと、こないだ話したんですけど、わたしらのクラスだけで、先生の歓迎会《かんげいかい》をしようかって。」
「まあうれしいこと。でも、歓迎していただくほど、わたしが役だちますかどうか。ここへくるまでは、むかしのままげんきなつもりでしたのにね、きてみるとなけてなけて。なけることばかりが思いだされましてね……。」
そういってもうなみだぐんでいる先生だった。それをいそいでぬぐい、思いさだめたようすを声のひびきにこめて、
「しかしまあ、うれしいことですわ。クラスの人、なんにんいますの。」
「男がふたり、女が三人。でも女のほうは小ツルさんやマッちゃんもよぼうと、いってますの。」
「マッちゃんて、川本松《かわもとまつ》ちゃん?」
「え、長いこと、どこにいたやらわからなかったのが、戦争中にひょっこり、もどってきたんですの。ほんのちょっといただけで、またどこかへ出ていきましたけど、マスノさんが所を知ってるそうです。マッちゃん、きれいになって、先生、見ちがえそうでしたわ。」
そういいながら、ミサ子の顔に異様な表情が走ったのを、わざと気づかぬ顔で大石先生は、おとといの教室を思いだしていた。
――千《ち》里《さと》さんは、おとうさんもおじいさんも大《だい》工《く》さん。
――ううん、大工さんは、おじいさん。
――松《まつ》江《え》さんて、おねえさんでしょ。
――ううん、おかあさん。大阪《おおさか》におるん。洋服おくってくれたん。
松江そっくりの黒い目をかがやかせた川本千里であった。それについて、ミサ子にきく気はおこらなかった。しかし、ベつのことできかずにいられないことがあった。
「それよりか、富士子《ふじこ》さんはどうしてるか、わかんないの。」
ミサ子は松江のときの表情をいっそうつよめていった。
「あの人こそ先生、かいもくゆくえ不明ですわ。なんでも戦時中、成金《なりきん》さんにうけだされて出世したといううわさもありましたけど、どうせ軍需会社でしょうから、いまはどうなりましたか……。」
しらずしらず顔色に出たミサ子の優越感《ゆうえつかん》にも、人生のうら道をあるいているらしい松江や富士子のことにも、わざと目をそらすかのように大石先生はうつむいて、じぶんにでもいってきかせるように小声でつぶやいた。
「生きていれば、またあうこともあるけれど、死んでしまっちゃあね。」
ミサ子もしんみりと声をおとし、
「ほんとですわ。死んで花《はな》実《み》がさくものか……。コトやんが死んだのは、ごぞんじですか?」
だまってうなずく先生に、ミサ子はたてつづけて、
「ソンキさんのことは?」
おなじようにうなずく先生の目に、またもなみだはあふれていた。磯吉《いそきち》が失明して除隊になったと早苗からきかされたとき、早苗といっしょに声をあげてないた先生であったが、あのときのかなしみはいまも心のそこにしずもっている。早苗が見《み》舞《まい》にいくと、磯吉は眼帯をした顔をひざにつくほどうつむきこんで、いっそ死んだほうがよかったとしょげきっていたという。質《しち》屋《や》の番頭をこころざしていたかれが、まずしい実家にかえっての立場を思うと、死にたかった磯吉のきもちもさっしられて、ないたのだが、いまはもうちがってきている。その後の磯吉が、町のあんまの弟子《でし》入《い》りをしたときいて、かれのそのおそがけの出発にほっとしていたからだ。たった一つの生きる道、その暗黒の世界を磯吉はどのように生きぬくであろうか。しかしミサ子は、じぶんの心のまずしさをさらけだすようなことをいった。
「生きてもどっても、めくらではこまりますわ。いっそ死ねばよかったのに。」
だれが磯吉をめくらにしたか、そんなことは、ちっともかんがえてはいないようなミサ子のことばに、もうにげてはいられないとばかりに、大石先生はいった。
「そんなこと、ミサ子さん、そんなことどうしていえるの。せっかく立ちあがろうとしているのに。ことにあなたは同級生よ。」
しかられた生徒のようにミサ子はあわてて、
「でも、でも、ソンキさんは、人にあうと死んだほうが、ましじゃ、ましじゃというそうですもの。」
じぶんのかんがえのあささに目がさめたように、赤い顔をしてミサ子はいった。
「それを、気のどくだと思わないの。死にたいということは、生きる道がほかにないということよ。かわいそうに。そう思わないの。」
「そりゃ、思いますとも。かわいそうですわ。なんといったって同級生ですもの。でも、だいたい、わたしたちの組はふしあわせものがおおいですね、先生。五人の男子のうち三人も戦死なんて、あるでしょうか。」
ならんでいる大吉にひじをつつかれて、大石先生はきゅうに気がついてふりかえった。六、七人の子どもが、三人のすぐうしろを、みだれた半円形にとりまき、めずらしそうにながめていた。きゅうにふりむかれて子どもらは、とびたつ鳥のように走りだしたが、走りながらさけんだ。
なきみそ、せんせ。
なきみそ、せんせ。
すぐうしろの丘《おか》の共同墓地の方へにげていくのを見ると、
「ちょっと、お墓へまいりましょうか、ミサ子さん。」
「え、水もらっていきましょう。」
ミサ子はすばやく立って小走りに、道ばたの家へはいっていった。まもなく手おけをもって出てくるのを見ると、大石先生はあごをしゃくって墓地の方をしめしながら、
「すぐそこ、ほんの十分かそこらだから、まっててね。おかあさんのおしえ子の墓まいりなんだから。いっしょに、きてもいいけど。」
なんとなく不服らしい大吉をのこして、ふたりはならんであるきだした。
「まあ、のっぽになったことミサ子さん。あんたいちばんちっちゃかったでしょう。」
「いいえ、コトやんです。そのつぎがわたしでしたわ。……先生、コトやんの墓。」
道ばたから二足《ふたあし》三《み》足《あし》はいったところに、そのコトエの墓はあった。雨風にさらされ、黒くなった小さな板やねの下に、やはり黒っぽくよごれた小さな位《い》牌《はい》が一つ、まるで横になってねているようにたおれていた。生前のコトエがつかっていたのであろうか、あさい茶わんに茶色の水が、なかばひからびていた。それになみなみと水をそそぐそのわきで、大石先生は位牌をとってむねにだいた。これだけが、かつてのコトエの存在を証明するものなのだ。俗名《ぞくみょう》コトエ、行年《ぎょうねん》二十二さい。ああ、ここにこうしてきえたいのちもある。医者も薬も、肉親のみとりさえもあきらめきって、たったひとり物置きのすみで、いつのまにか死んでいたというコトエ。――もしもわたしが男の子だったら役にたつのにとゆうて、おとうさんがくやむんです。わたしが男の子でなかったから、おかあさんは苦労するん……。
男に生まれなかったことを、まるでじぶんや母親の責任であるかのようにいった六年生のコトエの顔がうかんでくる。希望どおりかの女が男に生まれていたとしても、いまごろは兵隊墓にいるかもしれないこのわかいいのちを、えんりょもなくうばったのはだれだ。またなみだである。
「去《い》に。めずらしげにつきまわらんと。」
そういったミサ子のしかり声で、子どもたちに見られていることに気がついた。
「ほんとに、いよいよなきみそ先生、と思うでしょう。」
そういってわらうと、ミサ子もいっしょにわらいながら、うながすようにひしゃくをさしだし、
「先生、さ、お水。」
いつのまにまつったのか、つみ花のマユミの葉が、茶わんに青くもりあがっていた。兵隊墓は丘のてっぺんにあった。日清《にっしん》・日《にち》露《ろ》・日《にっ》華《か》と、じゅんをおって古びた石《せき》碑《ひ》につづいて、あたらしいのはほとんど白木のままのくちたり、たおれているのもあった。その中で仁太《にた》や竹一《たけいち》や正《ただし》のはまだあたらしくならんでいた。混乱した世相はここにもあらわれて、つみもなくわかいいのちをうばわれたかれらの墓前に、花をまつるさえわすれていることがわかった。花たてのツバキは、がらがらにかれて午後の日をうけている。きちんと区画した墓地に、墓標だけがならんでいるあたらしい兵隊墓。人々のくらしはそこへ石の墓をつくって、せめてものなぐさめとする力もいまはなくなっていることを、墓地はかたっていた。
それは大石先生の心にもひびくことであった。おなじような夫の墓を思いながら、あちこちと春草のもえだした中からタンポポやスミレをつんでそなえると、ふたりはだまって墓地を出た。もうないてはいなかったが、うしろからぞろぞろついてくる子どもたちは、あいかわらずよびかけた。
「なきみそ、せんせえ。」
すると、うてばひびくように、大石先生はふりかえりざまこたえた。
「はあいい。」
おどろいたのはミサ子だけではなかった。子どもたちのやんやとわらう声をうしろに、先生もわらいながら、まだ知らぬらしいミサ子にいった。
「どうも、へんなあだ名よ。こんどはなきみそ先生らしい。」
若葉のにおうような五月はじめのある朝、大石先生は校門をくぐるなり、一年生の西口勝子のまちかまえていたらしいすがたに出あった。
「せんせ、ゆうびん。」
ほこらしげに勝子は、一通の手紙をつきだした。
――たまの日曜日、先生もご用のおおいこととおさっしいたしますが、どうぞどうぞお出かけくださいませ。一どご相談してからと思っていますうちに、だんだんムギも色づきだしましたし、ムギかりが近づくにつれ、しだいにむずかしくなりそうでしたので、大いそぎわたしたちでとりきめました。この日ですと、たいていの顔がそろうはずですから、どうぞお出かけくださいますよう……。
例の歓迎会の案内である。ミサ子やマスノの名も書いてあったが、早苗の字なのは、はじめからわかっていた。読みおわった先生は、勝子にむかって、
「おかあさんに、先生が、はいっていってたといってね。わかった。ただね、はいっていえばいいの。」
だが、ひとりじぶんのつくえのまえにこしかけると、さてこまった、とつぶやいた。というのは、ちょうどその日にあたるあさっての日曜日には、すこし早いが八津《やつ》の年《ねん》忌《き》をしようと、昨夜大吉《だいきち》たちとやくそくをしたばかりなのであった。いなりずしでもつくろうというと、
「わあっ。」
と、並《なみ》木《き》はからだごと歓声をあげ、大吉は大吉で兄らしい思《し》慮《りょ》をめぐらしていったのである。
「おかあさんおかあさん、八津の墓にもいなりずしもってってやろう。ぼく、あした学校のかえりにK町のやみ市であぶらげ買ってきとく。おかあさんおかあさん、あぶらげなんまいたのむん? おかあさんおかあさん、やみ市でも、ダイズもっていくん? 何合《なんごう》もっていくん? おかあさんおかあさん、ぼくたち、きょうからびんで米つこうか――。」
こんなとき、やたらおかあさんおかあさんとかさねていうのが大吉のくせであった。よほどうれしかったのだ。それをのばすといったら、どんなにかがっかりするだろう。年忌とはいっても、時節がら客をまねいたり、坊《ぼう》さんをよんだりするのではない。いわば、いつもるす番をしたり、おくりむかえをしてくれるふたりのむすこをなぐさめるための計画であり、ひさしぶりに月給をもらったひそかな心いわいでもあった。それを八津にむすびつけたのは、八津とおない年の一年生を見るにつけ、八津が思いだされたのでもあったし、ミサ子といっしょに仁太や竹一たちの墓へまいったりしたことからの思いつきでもあったろう。
その日先生は家へかえってから、ふたりの子どものまえで話しだした。
「なあ、きみたち、こまったことができたんだけど、あさっての日曜日、おかあさん用事ができたの。八津の年忌、一週間のばそうよ。」
「いやっ。」
「いやだっ。」
ふたりはま正面から反対した。
「そう。こまったな。おかあさんのむかしのおしえ子がね、歓迎会をしてくれるというのよ。歓迎会って、よろこんでむかえてくれる会よ。それをことわるわけには、いかんだろ。」
「いやっ。やくそくしたもん。」
いつもるす番の時間のおおい並木はひるまずそういったが、大吉はさすがにだまっていた。しかしその顔には、失望の色がはっきりあらわれていた。
「そうよ。おまえたちとやくそくしたから、おかあさんこまったのよ。いっしょにかんがえてよ、並木も大吉も。おかあさん、歓迎会にいかないで、うちにいたほうがいい?」
そして、手紙を読んできかせた。ふたりともだまりこんで、顔を見合わしていたが、やがて並木は、ぶつぶつとつぶやいた。
「やくそくしたもん。ぼくらのやくそくのほうが、さきだもん。民主主義だもん。」
民主主義に思わずふきだしたおかあさんは、それと同時に一つのかんがえがうかんだ。
「じゃあね、これはどう。八津の年忌はのばすのよ。そして、あさっては本村《ほんそん》へピクニックとしようや。おかあさんの会は水月楼《すいげつろう》よ。ほら、香《か》川《がわ》マスノって生徒のやってる料理屋。そこで、歓迎会がすむまで、おまえたち、本村の八幡《はちまん》さまや観音《かんのん》さんであそぶといい。おべんとうは、波止場《はとば》ででもたべなさいよ。そうだ、つりざおもってって波止場でつりしたっておもしろいよ。どう?」
「わあっ、うまい、うまい。」
並木がまたさきに歓声をあげ、大吉もさんせいらしい笑《え》顔《がお》でうなずいた。
日曜日は朝からくもっていた。ふりさえしなければ、一本松《いっぽんまつ》から一里《り》の道をあるくにはかえってつごうがよかった。歓迎会は一時からというので、十二時にはもう家を出た。以前ならば十五分ほどバスにのればいけた道を親子はてくてくとあるきだした。めずらしいことなので、出あう人がきいた。
「おそろいで、どちらへ?」
へんじをするのは並木ときまっていた。並木はすこしふざけて、
「ぴくにいくんだよ。」
それはピクニックというのをわざとそういったのであるが、だれにも通じなかった。ききかえすものもなかった。それがまた、ふたりにはおもしろくてたまらなかった。むこうから知った人のすがたがあらわれるたびに、
「おそろいでどちらへ。」
と、ふたりは、親子三人だけにきこえる声でいう。すると、かならずそれはあたった。
「おそろいでどちらへ。」
「ぴくにいくんです。」
並木はすごく早口でいって、とっとといきすぎた。大吉がおっかけていって、ふたりはしゃがみこんでわらう。こんなことは生まれてはじめてなので、ふたりはうきうきしていた。なんどもおなじことをくりかえしているうち、もうたずねる人もなくなったころには、となりの村にさしかかっていた。本村にさしかかり、おかあさんとわかれねばならぬ場所が近づくと、さすがのきょうだいもすこし不安になったらしく、かわるがわるきいた。
「おかあさん、ぼくらのピクニックのほうが早くすんだらどうしよう。」
「そしたら水月の下の浜《はま》で、石でもなげてあそんどればいい。」
「本村の子が、いじめにきたら。」
「ふん、並木もいじめかえしてやりゃあいい。」
「ぼくらよりつよかったら。」
「かいしょうのない、大きな声でわあわあなくといい。」
「わらわれらあ。」
「そうだ、わらわれらあ。なき声がきこえたら、おかあさんも、水月の二階から、手たたいてわらってやらあ。」
「おかあさんの歓迎会、浜の見えるへや?」
「たぶんそうだろう?」
「そんならときどき顔出して見てなあ。」
「よしよし、見て、手をふってあげる。」
「そしたら、大石先生とこの子じゃと思うて、いじめんかもしれん。」
並木に大石先生といわれたことで、思わずにやりとなり、
「へえ、大石先生か、このおかあさんが……。」
岬《みさき》ではなきみそ先生といわれているといおうとしてやめた。わかれ道へきていた。そこからふたりは八幡山《はちまんやま》へ登るのだった。十間《けん》(約十八メートル)ほどもいってから、大吉がさけんだ。
「おかあさん、もしも、雨ふってきたら、どうしようか。」
「あんぽんたん。ふたりでかんがえなさい。」
水月まではもうあと十分たらずだった。まっすぐにあるいていくと、むこうから早《さ》苗《なえ》とミサ子が子どものように走ってきた。
「せんせえ。」
ろくにあいさつもしないで、両がわからとびついてきた。
「先生、めずらしい顔、だれだと思います?」
早苗がいった。
「めずらしい顔?」
「いっぺんにあてたら先生を信用するわ。な、ミサ子さん。」
ふたりはいたずらっぽくうなずきあってわらった。
「ああこわい。信用されるかされないか、二つに一つのわかれ道ね。さてと、めずらしいといわれると、さしずめ、ああ、ふたりでしょう、富士子《ふじこ》さんに松《まっ》ちゃん?」
「わあ、どうしよう!」
早苗は子どものように大声をあげた。
「あたったの? ふたりともきたの?」
「いいえ、ひとりです。ひとり。あてて? わあ、もうわかったわ。いるんだもん。」
三人はもう水月のまえにきていた。見ていたのか、げんかんには小ツルやマスノをまん中にして、ずらりとならんでいたのだ。黒めがねの磯吉《いそきち》にどきんとしている大石先生のかたへ、いきなりしがみついてなきだしたのは、マスノの横に立っていた、どことなくいきなつくりの着物をきた女だった。
「せんせ、わたし、松《まつ》江《え》です。」
名のられるまえに、先生もすぐ気がついた。
「まあ、ほんとにめずらしい顔。よくきたわねマッちゃん、ほんとに、よく。ありがとうマッちゃん。」
松江はしゃくりあげながら、
「マスノさんから手紙もらいましてな、こんなときをはずしたら、もう一生なかまはずれじゃと思うて、はじも外聞も、かなぐりすててとんできました。先生、かんにんしてください。」
それこそはじも外聞もなくなきだすのを見ると、マスノはわざとえりがみをつかんでひきもどしながら、
「これ、マッちゃんひとりの先生じゃありませんぞ。さ、いいかげんで、上へいこう、いこう。」
やっぱり海にむかった座《ざ》敷《しき》だった。
「ソンキさん、こんにちは。」
先生は磯吉の手をとって、いっしょに階段をあがろうとした。
「あ、先生、しばらくでした。」
「七年ぶりよ」
「そうですな。こんなざまになりましてな。」
磯吉は、ちょっと立ちどまってうつむいたが、ひかれるままに、先生とならんで階段をあがった。くもっていた空はすこしずつ晴れ間を見せ、ま昼の太陽は海の上にぎらぎらしていた。二階はまぶしいほどのあかるさなのに、山に面した北まどの方はいまにもふってきそうな、きみょうな空もようである。しかし、八畳《じょう》を二つぶっとおしたへやに、さわやかな風はみちわたり、はだにこころよくしみとおるようだった。
「ああら、ながめのいいこと、ちょっとう……。」
手すりのそばからだれにともなくふりかえった小ツルは、きゅうに口をおさえてあとをいわなかった。磯吉を見たからだ。その間《ま》のわるさをすぐに、ふっけすように、マスノは例のゆたかな声で、
「さ、先生はここ。ソンキさんとならんでください。こっちがわがマッちゃん。ふたりで先生をはさんで、たんのうするだけしゃべりなさい。あとはめいめいかってにすわって。」
なげだすようにいってはいるが、それはじつに思いやりのあるマスノのはからいであることを、先生はひそかに感じた。
「先生を、一年生みんなでおむかえしたつもりですの。ですから……。」
ちらりと磯吉を見て、マスノもやはりあとをいわずに床《とこ》の間《ま》を指さした。そこには、はがき型の小さな額ぶちに入れた一本松の写真が、木ぼりのウシの置き物にもたせかけてあった。早苗がかんたんではあるが、あらたまったあいさつをすますと、マスノはまた間《ま》をおかずにいった。
「さ、あとは無礼講でいきましょうや。むかしの一年生になったつもりで、なあ、ソンキ。」
きちんとかしこまった磯吉はにこにこしながらひざをさすった。さっきから、きっかけをつかもうとあせっていた松江は、先生にすりよっていって、その顔をのぞきこむようにしながら、
「せんせ、千里がおせわになりまして。それきいたときわたし、うれしいてうれしいて。わたしはもう先生のまえに出られるような人間ではありませんけど、でも、たとえどんなにけいべつされても、わたしは先生のことわすれませんでしたの。あのべんとう箱《ばこ》、いまだってもってますから、だいじに。」
そういって、ハンカチーフを目にあてるのを見ると、マスノはまぜかえすような調子で、
「なあにをマッちゃんがまた、酒ものまんうちにひとりでくだまいてるの。やめた、やめたそんなぐち。先生のまえでいうこっちゃないわ。むかしにかえって!」
ポンと松江のかたをたたくと、松江はむきになり、しかし陽気さをくわえていった。
「だからむかし話してんのに、なあ先生。わたし、あのべんとう箱、戦争中は防空壕《ぼうくうごう》にまで入れてまもったんですよ。あのべんとう箱だけは、むすめにもやりたくないんです。わたしの宝でしたの。きょうもお米入れてもってきたんですよ、先生。」
それをきくと吉《きち》次《じ》が、あ、そうじゃ、といいながら、国民服のポケットから小さな布ぶくろをとりだし、
「はい、うら(わたし)の食いぶに(わけまえ)。」
と、マスノの方へさしだした。
「ええじゃないかキッチン、おまえ、さかなもってきてくれたもん。」
どうやらきょうの会はもちよりであるらしいと思いながら、大石先生はしきりに松江の話をきこうとした。松江のいうべんとう箱とはいったいなんだろうと思ったからだ。防空壕にまで入れた宝のべんとう箱とは。
先生はあのユリの花のべんとう箱のことをすっかりわすれていたのだ。
「マッちゃん、ベんとう箱って、なあに。」
小声できくと、松江はとんきょうな声を出し、
「あら、先生、わすれたんですか。そんならもってくる。」
トントン音たてて階段を走りおりていったと思うと、やがてまたトントンかけあがってきた松江は、みんなのまえに、からのべんとう箱を、赤んぼうのする、あるまいあるまいでしてみせ、
「どうですこれ、わたしが五年生になったとき先生にもらったんですよみなさん。どうです、どうです。」
わあと歓声があがり、
「先生、見そこないました。先生がマッちゃんだけにそんなひいきをしたの、知らなんだ、知らなんだ。」
マスノの抗《こう》議《ぎ》にまた笑声《しょうせい》があがった。しかし、先生はなみだぐんでそれを見ていた。
見せられて思いだしたそのべんとう箱に、いちどもべんとうをつめて学校へはこなかった松江のことが、修学旅行のとき、桟橋《さんばし》まえの小料理屋で、てんぷらうどん一ちょうっとさけんでいた松江のすがたが、ひさしぶりに生きてうごいて、いま目のまえにいる松江とむすびつこうとしている。かわいそうだった松江、そのかわいそうさをくぐってきたことをじぶんのはじのように卑下《ひげ》しているような松江……。
ぼつぼつ料理がはこばれだすと、松江はいち早く立ちあがった。ビールとサイダーを両手にもって、なれた手つきでついでまわると、それを見さだめてからマスノがいった。
「さ、先生のために、乾杯《かんぱい》!」
マスノは、まっさきにコップをほした。松江がつぐのをつづけてほしてから、大きなため息をし、
「ああ、ここに仁太《にた》やタンコがおったらなあ。そしたらもういうことないですな先生。ソンキにタンコにキッチンに仁太と、人のいいのがそろとったのに。竹一《たけいち》じゃとて、上の学校へいきだしてからはすこしすましとったけど、人間はよかった。わたしらの組、お人よしばっかりじゃないですか。それが、男はみんなろくでもないめにあい、女は海千山千《うみせんやません》になってしもた。小ツやんや早苗さんじゃとて、やっぱり海千山千よ。ただその筆頭が、わたしとマッちゃんかな。でもやっぱり、人はわるうないですよ。苦労しただけ、ものわかりもええつもりです。ミイさんのような賢《けん》夫《ぷ》人《じん》や、小ツやんや早苗さんのオールドミスのおえらがたにはできんことも、わたしらはするもん。なあマッちゃん、おおいにやろう。」
そういって松江のコップにビールをついだ。ビールをのんでいるのはふたりだけなのだ。小ツルははじめから磯吉のそばにすわりこんで、いちいちたべるもののせわ役をしているし、松江は松江で、ここがじぶんの持ち場だというように、こまめに立ったりすわったりして料理をはこんでいた。むかしながらのおとなしさで、だまって、のんだり食ったりしている吉次とならんで、早苗はふきだしながら、先生の方を見、
「な先生、そう思いませんか。こういうところに出るといちばん役にたたんのは学校の先生だと。」
かたをすくめてわらうと、
「わたしこそ。」
と、ミサ子がもじもじしたので、そこでわらいがうずまいた。だいぶよってきたマスノは、磯吉のそばによってきて、コップを手ににぎらせ、
「さあ、ソンキ、あんまになるおまえのために、も一ぱいいこう。」
気がつくと、磯吉ははじめからひざもくずさず、きちょうめんにかしこまっていた。
「ソンキさん、みんなぎょうぎわるいのよ。あんたももっとらくにすわったら。」
大石先生にそういわれると、磯吉はすこしななめにまげた首のうしろに手をやり、
「いやあ先生、このほうがじつは、らくなんです。」
質《しち》屋《や》の番頭が目的だったかれの十代の日のひざの苦行はもう身についてしまっているというのだ。かれはいま、三十に近くなって、こんどはうでをかためねばならないのだ。もうすでにかたまったかれのうでがどこまで、あんまとして成就《じょうじゅ》できるか。しかもそれよりほかに生きる道はないのである。あんまの師《し》匠《しょう》は、そういう弟子《でし》をとりたがらないのだが、マスノのほねおりで、かれのばあいは首《しゅ》尾《び》よくすみこめたという。その磯吉に、マスノはまるで弟あつかいの口をきき、
「おまえがめくらになんぞなって、もどってくるから、みんながあわれがって、見えないおまえの目に気がねしとるんだぞ、ソンキ。そんなことにおまえ、まけたらいかんぞ、ソンキ。めくらめくらといわれても、へいきの平ざでおられるようになれえよ、ソンキ。」
ビールは磯吉のひざにこぼれた。それを手早く磯吉はのみほし、マスノにかえしながら、
「マアちゃんよ、そないめくらめくらいうないや。うらあ、ちゃんと知っとるで。みな気がねせんと、写真の話でもめくらのことでも、大っぴらにしておくれ。」
思わず一座は目を見合わせて、そしてわらった。ソンキにそういわれると、いまさら写真にふれぬわけにもいかなくなったように、写真ははじめて手から手へわたっていった。ひとりひとりがめいめいに批評しながら小ツルの手にわたったあと、小ツルはまようことなくそれを磯吉にまわした。
「はい、一本松《いっぽんまつ》の写真!」
よいも手つだってか、いかにも見えそうなかっこうで写真に顔をむけている磯吉のすがたに、となりの吉次はあたらしい発見でもしたようなおどろきでいった。
「ちっとは見えるかいや、ソンキ。」
磯吉はわらいだし、
「目玉がないんじゃで、キッチン。それでもな、この写真は見えるんじゃ。な、ほら、まん中のこれが先生じゃろ。そのまえにうらと竹一と仁太がならんどる。先生の右のこれがマアちゃんで、こっちが富士子じゃ。マッちゃんが左の小指を一本にぎりのこして、手を組んどる。それから――。」
磯吉は確信をもって、そのならんでいる級友のひとりひとりを、ひとさし指でおさえてみせるのだったが、すこしずつそれは、ずれたところをさしていた。あいづちのうてない吉次にかわって大石先生は答えた。
「そう、そう、そうだわ。そうだ。」
あかるい声で息を合わせている先生のほおを、なみだのすじが走った。みんなしんとした中で、早苗はつと立ちあがった。よったマスノは、ひとり手すりによりかかって、うたっていた。
はるこうろうのはなのえん
めぐるさかずきかげさして
じぶんの美声にききほれているかのようにマスノは目をつぶってうたった。それは、六年生のときの学芸会に、最後の番組としてかの女が独唱し、それによってかの女の人気をあげた唱歌だった。早苗はいきなり、マスノの背にしがみついてむせびないた。
(一)いんだん 「帰ったの」の方言。
(二)こんまい 「小さい」「細かい」の方言。
(三)担当箱《たんとうばこ》 教師が教科書や出席簿《しゅっせきぼ》などを入れておく箱。
(四)へんこつ 「へんくつ」の方言。
(五)板《ばん》木《ぎ》 合図するために叩《たた》いて鳴らす板。
(六)厄《やく》日《び》 天候による厄難が多いとする日。二百十日《にひゃくとうか》、二百二十日など。
(七)うしろ七《なの》日《か》 二百十日から数えて七日め、厄日とされている。
(八)ごつげな 「ひどい」「ものすごい」の方言。
(九)奉安殿《ほうあんでん》 太平洋戦争以前及《およ》び、戦争中に、学校で、天皇《てんのう》・皇《こう》后《ごう》の写真や教育勅語《ちょくご》を保管するために、校舎とは別に設けた特別の建物。
(一〇)赤心《せきしん》 偽《いつわ》りのない心。真心の意。
(一一)ヒッチクダケの棒 節と節の間が短い竹で作った棒。教師が黒板などを指す時に用いる。
(一二)女子と小《しょうじん》人は…… 〈女子と小人とは養いがたし〉という論語の中のことば。女と徳のない者は、取り扱《あつか》いにくいという意。
(一三)満州事変 昭和六年(一九三一)に起きた日本による満州(中国東北部)侵略《しんりゃく》戦争。
(一四)上海《シャンハイ》事変 昭和七年(一九三二)に上海で起きた日本と中国の衝突《しょうとつ》事件。
(一五)日《ひ》傭《よう》 一日を限って雇われること。日雇い。
(一六)血の道 お産の後などにおこる、頭痛・めまい・発汗《はっかん》などの症状《しょうじょう》をもつ婦人病。
(一七)おくみ 着物の左右にあって、襟《えり》から裾《すそ》までの半幅《はんはば》の部分のこと。
(一八)どづいたり 「どづく」は、「なぐる」「こづく」の方言。
(一九)赤 共産主義者の俗称。
(二〇)沈香《じんこう》もたかず…… 特に良いところもなければ悪いところもない平々凡々《ぼんぼん》であるという意味のことわざ。
(二一)小林《こばやし》多喜二《たきじ》 (一九〇三―三三)小説家。プロレタリア作家として活動したが、逮《たい》捕《ほ》され拷問《ごうもん》により虐殺《ぎゃくさつ》された。「蟹工船《かにこうせん》」「党生活者」などの作品がある。
(二二)頼《たの》母子《もし》講《こう》 一定の期日に一定の掛け金を出し、くじ引きなどで、組合員全員に順番に一定金額を融通《ゆうずう》する組織。
(二三)山出し 山から木・薪《たきぎ》などを運び出すこと。
(二四)びんぼう質《しち》において 貧乏人が無理してお金を工面することをたとえている。
(二五)ふがわるい 「体裁《ていさい》が悪い」の方言。
(二六)かまいたち 突然皮膚《とつぜんひふ》が裂《さ》けて、鋭《えい》利《り》な鎌《かま》で切ったような切り傷が出来る現象。ここでは、厳しい寒さをたとえている。
(二七)やみ 正規の手続きを踏《ふ》まずに商品を取引きすること。戦争中から戦後にかけて行なわれた。
(二八)日《にっ》華《か》事変 昭和十二年(一九三七)七月に、日本と中華民国との間にはじまった戦争。長期化し、太平洋戦争に発展した。
(二九)徴兵検査《ちょうへいけんさ》 旧兵役《へいえき》法に基《もと》づいて、成年男子を召集して、兵役に服する資格の有無を検査したこと。
(三〇)三びきのサル 見ザル、聞かザル、言わザル。自分に都合の悪いことは、見ない、聞かない、言わないということをたとえている。
(三一)メリケン アメリカ、アメリカ合衆国のこと。
(三二)ノモンハン 昭和十四年(一九三九)五月に、中国東北部のノモンハンで起こった日ソ両軍の衝突事件。
(三三)まくら刀《がたな》 護身のために、枕《まくら》もとに置いておく刀のこと。
(三四)ゾーリンゲン ドイツの刃《は》物《もの》メーカー。
(三五)手塩ざら 小さくて浅い皿《さら》のこと。
(編集部編)