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堀田善衞
広場の孤独
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[#ここから横書き]Commit 〔A〕(罪・過)などを行う,犯す……〔B〕託する,委す,言質を与える,危くする,危殆に陥らしめる………〔C〕累を及ぼす……… That will commit us.それでは我々が危くなる……
(研究社・新英和大辞典・第十版より)[#ここで横書き終わり]
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一
電文は二分おきぐらいに長短いりまじってどしどし流れ込んで来た。
「え――と、〈戦車五台を含む共産軍タスク・フォースは〉と。土井君、タスク・フォースってのは何と訳すのだ?」
「前の戦争中はアメリカの海軍用語で、たしか機動部隊と訳したと思いますが……」
「そうか。それじゃ、戦車五台を含むタスク……いや敵機動部隊は、と」
副部長の原口と土井がそんな会話をかわしていた。木垣は『敵』と聞いてびくっとした。敵? 敵とは何か、北朝鮮軍は日本の敵か?
「ちょっと、ちょっと。北朝鮮共産軍を敵と訳すことになっているんですか? それとも原文にエネミイとなっているんですか?」
東亜部兼渉外部長の曽根田は、何かというと渉外関係を円滑にするため、という名目で外人記者その他を社用と称して待合へひっぱってゆくところから『お社用部長』という仇名《あだな》で呼ばれていたが、戦争中サイゴンで仕入れたというしゃれた防暑服に派手な模様入りのストッキングをはいた足を机の上に投げ出したまま、ちらりと木垣、原口、土井の三人を横眼で見て、
「前後の関係をよく見極めて適当に訳しておいてくれ」
と云ったかと思うと、すっと立って裏口から編集局を出て行ってしまった。ドアーがばたんとしまったとき、吐き出すように、
「あれだ、お社用め、何だかびくびくしてやがる。前後の関係をよく見極めて、か、ハイ、シャヨウですかだよ、莫迦莫迦《ばかばか》しい」
と云ったのは、平素口数の少い三十か三十一の御国の声であっただけに、木垣はふいとふりかえって御国の顔を見詰めた。しかしその顔には別にこれといった表情もなく、既に先程から辞引片手にかかっていた、難解なマックアーサー声明を訳しつづけていた。木垣は何となく、この御国という青年は党員じゃないか、と直感的に考えた、しかし、この反動を以て鳴る新聞社の、それも渉外部に党員がおいてある筈《はず》は、まずないであろう……。
そう考えて木垣もまたさっきからかかっている夕刊用の長い香港《ホンコン》電報の翻訳をつづけた。その電文の要旨は、如何《い か》に中共が香港、澳門《マカオ》などを通じて戦略物資の買付けに努力を集中し、かつは台湾からさえ石油製品が中共地区へ密輸されていることなどを報じて、朝鮮戦乱|勃発《ぼつぱつ》とともに、次第に困難なものとなって来た中共承認済みの英国の立場を、一層ぬきさしならぬものにしようとする、一種意地の悪い底意の感じられるものであった。訳しながら、ふと彼は電文中の commitment という言葉にぶつかって鉛筆をおいた。夕刊第二版の〆切《しめき》りまで後わずか十五分くらいしかなく、手を休める時間のある筈はなかったのだが、それでも彼の眼と頭はその言葉に吸いつけられていった。Commit ――罪・過ナドヲ行ウ、為ス、犯ス、……ニ身ヲ任セル、危クスル、言質ヲトラレル、引キ渡ス――翻訳機械のようになった頭は、この言葉にあてはまるべき訳語を次から次へと自動的にひき出していったが、その自動作用が漸次弱まってくると、彼は、いまこんな仕事をしていること自体、それは既に何かの Commitment をしてしまったことになるのではないか、という、背筋に或る冷いものの流れるような反省が湧《わ》き起って来た。それはいまにはじまったことではなかった。しかし、いま、北朝鮮共産軍をやみくもに『敵』と訳するかどうかという議論のあった後だけに、コミットメントという一語は鋭く彼の虚点を衝《つ》くものを含んでいたのだ。しかし、とにかく〆切りが切迫している。彼はぐいと唾液《だえき》を飲み込んで再び先を訳しはじめた。訳し終って原稿をボーイにもたせてやり、椅子の背に身体をもたせかけると、背後で、
「…… Gotta goodie, Doi ?」
というメリケンスラングが聞えた。
「None, none, everything's bad !」
何かいいニュースがあるか、なんにもありゃせん、というわけであるが、話しかけた方は顔つきからして、如何にも幼い頃から味噌汁をすすり、畳の上をはいずりまわって育ったに違いないどす黒い面相なのに、汚らしいアメリカのスラングを使い、黄と緑のアロハシャツをひらひらさせていた。話しかけられた土井は二十七、八歳の二世だが、戦争中憲兵隊の通訳をしたため(これもまた一つのコミットメントだ……)米国へ帰れなくなった、まだ少年とも云うべき渉外部員である。二人はつづけてあたりかまわぬ米語で女の話をはじめ、二人とも外国人風な身振りと眼や肩の動かし方を真似て大袈裟《おおげさ》に笑った。二世の土井少年の方は、それでも不自然でなかったが、皺《しわ》だらけな日焼け顔のアロハシャツは、猫が片手をあげてふざける時のような甘たれた表情で、しきりに戦争中マニラで買った女が如何によかったかという話を、云い廻しに困るとスラングで誤魔化しながらつづけていた。
夕刊第三版〆切り間際に、低い、下腹にひびくような、号外発行を知らせるブザーの音がして急に政治部のデスクに人がよっていった。共産党弾圧の政府発表があったのだ。副部長の原口は、すぐに電話をとり上げ、人をはばかるような声でいまの弾圧をめぐる裏話や朝鮮の戦況の悪いことなどを誰かに報告し出した。恐らくは政界か財界のボスに情報を提供しているのであろう、と木垣は思った。原口は一応その電話を切ると、すぐにまた受話器をとってある雑誌社にかけ、時局解説が出来ているから取りに来い、と云い、受話器を置くや否や、
「ボーイ、ます目の原稿用紙!」
と呶鳴《どな》ってボールペンで荒々しくその時局解説なるものをなぐり書きに書き出した。原口は、身体の大きな西洋人だけに似合う筈の、根の形がそのままむき出しになった巨大なパイプをくわえ、濃い煙を吐きつづけに吐いて猛烈な勢いでペンを動かし、三十分もたたぬうちに十数枚の原稿を書きとばした。木垣はその原稿が活字となり、何十万部か刷られて日本の隅々まで滲透《しんとう》してゆく光景を思い描いてみた。しかし、何も雑誌ばかりではない、木垣自身が朝からつづけさまに訳しつづけて来た新聞記事すらが、無署名なるが故になお一層動かし難い真実として人々の眼にうつるのではないか。彼は再び、コミットメント、という言葉を思い浮べて、
「やっぱりだ……」
とふと呟《つぶや》いた。
そこへ会議室から編集総務が電話で渉外部、東亜部全員と論説委員などの朝鮮戦争対策を議題に連合会議をやるから、デスクは一応木垣にあずけて、全員会議室へ来い、と云って来た。
どやどやと十一、二人の人間が引きあげていったが、その間約三十分、不思議にさして重要な電文も電話送りの記事も来なかった。木垣は机の上に足を投げ上げて考え込んだ。
「――やっぱりだ……」
しかし何がやっぱりだというのか。彼は二年前にS新聞社をやめ、以来京子とともに翻訳の下請仕事をやったりして細々と生計をたてていたのだが、それが、朝鮮に戦争が勃発すると、各新聞社ともに東亜部及び総司令部の戦況発表を扱う渉外部が急に多忙になり、人手不足になったところから、この新聞社に臨時手伝いとして呼び出されたのであった。
二年前、彼がS社をやめた時の、そのやめ方については彼自身かえりみてやましいところは殆《ほとん》どなかった。戦後に発足した新興紙のS社は忽《たちま》ち経済的危機に見舞われ、出所のあやしげな資本を導入しなければやってゆけない状態にたちいたった。従業員組合は連夜十時頃まで大会を開いて新資本を呑むか否かを議論した。勿論《もちろん》勢いの赴《おもむ》くところは既に明らかであった。その最後の大会の、ぎりぎりの採決に入る直前、二十六、七歳の若い文化部の記者が立ち上った。
「緊急質問をいたします。それでは委員長は、われわれをあの呪《のろ》うべき戦争に追いやり、しかも戦争で肥え太り、いままた虎視眈々《こしたんたん》と復活の道を狙《ねら》っている追放資本をわが社に入れ、その資本の代弁者が重役として入って来て編集方針に容喙《ようかい》するという、そういう最悪の条件を認めよ、と云われるのですか? 何も根拠はありませんが、その資本は、いま疑獄事件として法廷に持ち出されているS電工事件関係者から出たものという噂がありますが、どうなんですか、その点緊急質問としてお伺いしたく思います」
思えばあの頃から、この国の社会は底の方で揺れ出したのだ……。この質問に対して委員長が何と答えたか、木垣は既に忘れてしまっていた。恐らく忘れるしかないような、何の具体性もない返答であったのであろう。営業部や広告部、もちろん編集局内部さえも『いまさら追放資本だなんて、若い奴は困ったものだ。あいつ党員じゃないのか』そういう声があった。質問をした青年はもちろん共産党員ではなかった。木垣も一時は入党するのが自然だな、と思っていたのが、突然カトリック信者になって人を驚かせた青年であった。木垣は大会では殆ど何一つ発言せず、新資本が入り、S新聞が一般紙たることをやめて経済記事専門の新聞になったので、当時文化部系だった彼はすることもなくなった、としてやめたのであった。何も旗幟《きし》鮮明に追放資本導入に反対だったからではない。はっきり云えば、京子との同棲《どうせい》生活のため、家の問題、いや部屋の問題で困っていた際なので退職金が欲しいという、ただそれだけのことだったかもしれぬ。その時退職した人々は二十数名あったが、恐らくはっきりと追放資本の導入に反対する、としてやめたのはあの質問をした独身で親がかりのカトリック青年だけだったといっていい。
人間は機械化された社会にあっては、生活の喜びを失う、という人がある。その通りかもしれぬ。しかし、次から次へとテレタイプが海外から送りつけてくる電文を翻訳し、白ゲンと呼ばれる紙切れに訳文を叩きつけてゆき、それが直ちに印刷される、その輪転機の、にぶく足|許《もと》にひびいてくる唸《うな》りを身体に感ずることは、戦慄《せんりつ》と云ったら云い過ぎるかもしれないが、そこに一種異様な肉体的な喜びめいたものがあることは否定できない。二年間の浪人生活中、四六時中世話になり放しの、S社時代の幹部だったT氏を通じて、いまのこの社から呼び出しがあったときにも、木垣は様々に考えた。しかし、輪転機の、あの唸《うな》るような呼び声は彼の心の奥の、或る脆《もろ》い部分をゆさぶりかえし、日本が完全に独立するまでは、新聞にたずさわるまいという、誓いみたいなものをどこかにひっこめようとさえ、彼は努力したのであった。そして……T氏の好意を無にしてはならぬ、たとえほんの一時だけでも出なければならぬ。と、都合の悪い部分はT氏のせいにし、いわば一種の事故ということにしてのこのこと出かけてゆき、惨烈な戦争の報道を煙草をふかしながら翻訳して、今日で十日目であった。そして彼は呟いていた――
「――やっぱりだ……」と。
受付から電話が来た。
「OA通信の外人の方がおいでですが、渉外部さんは会議中でしょう? どうしましょうか?」
咄嗟《とつさ》に木垣は、
「お通ししろ」
と答えて自分ながら驚いた。臨時手伝いにすぎぬ彼は、責任のある問答の出来る立場にない。しかし日本人以外の人間、殊に戦争の当事者たる米国人がこの戦争を、ぎりぎりのところどううけとっているのか、本人の口から聞いてみたいという欲望はあまりにも強かった。彼はその記者を待つあいだ、隣の外信部のデスクにつんであった外国の新聞を一枚とった。表題には Gazette de Geneve とあり、スイスの新聞であった。日本の新聞より一まわり大きい紙型に、のんびりと形のよい活字がならんでいた。日本の新聞は、如何にも活字が|つまっている《ヽヽヽヽヽヽ》という感じであるが、このスイスの新聞は、独仏二カ国語で表裏に同じ記事を扱っているようであった。たとえば≪Coree≫というフランス文字が大きく出ていても、それが、彼が毎時毎分扱って来た≪Korea≫とか≪朝鮮≫とかと同じ意味をもった言葉とは思えなかった。
――のんびりしてるように見えるな。
と思って第一面をのぞき込むと、そこは文芸欄で、パリーの文壇消息のようなものを伝えていた。≪サルトル氏、再びモォリヤック氏と論戦≫という見出しが眼についた。木垣はこの世界的に有名なサルトル氏の作品は何一つ読んだことはなかったが、それでも興味を覚えて読み出し、途中で足を机から下し、緊張した姿勢にかえった。
それは文壇ゴシップというにはあまりにも露骨なものであった。サルトルがジャン・カスゥ、アンドレ・ジイド、ヴェルコゥル、アラゴン、ジャン・ゲーノなど、左翼|乃至《ないし》進歩的といわれる作家詩人たちとともに、フランス政府に中共を承認させ、中共の国連加入反対を停止せしめ、国際関係の緊張の緩和に貢献し、印度の平和維持のための努力を援助する目的で、平和と独立フランスのためのアッピールを提唱したところ、カトリック作家のモォリヤックがこれに喰ってかかった、というのである。木垣はこういう云い分に喰ってかかるとは、一体モォリヤック氏にどういう云い分があるのか、といささか不審に思った。モォリヤック氏の云うところは、今に及んでフランスの独立などとはとんでもない言葉遣いである。第一|米国防省《ペンタゴン》が独立という言葉をフランスの分派行動のあらわれと見たら、結局フランスはソヴィエト機械化師団に蹂躪《じゆうりん》されてしまうであろう。もし、サルトルやジイドに、いまなお自由人として生き自由人として死に、自ら真実と信じるところを考えかつ書く機会と自由があり、自ら独立フランス人と称することが出来るとすれば、それはアメリカの武力を背景とする国際連合が、彼らの書斎を守っているからだ。仕事が出来るということが、そもそもアメリカのお蔭なのだ。中共の国連加入だの、フランスの独立だのと云ってアメリカの対仏不信を招くのは、怖るべき錯誤である……
木垣はこれと同じような議論を、スイスやフランスではなく、この日本の綜合雑誌でも何度か読んだことがあるような気がした。モォリヤック氏の言葉のうち、フランスというところを日本と置きかえれば、あれはそっくりそのままではなかったか……。木垣は時々自分でも、おれはナショナリストかしら、と疑うことがあったが、彼の心のうちには、国の独立と精神の独立とは不可分の関係にあるという、偏執概念のようなものがあった。
むき出しのセメントの床は、地下室にある五台の輪転機がフルに動き出したので、ディーゼル船のようなかすかな震動をはじめた。もし新聞に、世の難題が次々と解決され人々の不安を鎮めるような良いニュースばかりがのっているものなら、この震動をどんなにか心よく味わえることであろう。〈新聞よ、飛べ、平和の鳩のように〉とはいつかの新聞週間か何かの標語である、木垣はふとそれを思い出し汗をぬぐいながらも背筋に冷いものを感じた。
――寒々とするようなことばかりだ、この暑いのに。
寒々とする、そう頭の中で云ってみると、先程から commit, commitment と気にしていたことが、モォリヤック氏の云い分に接して一度にはっきりして来た。いま彼が手伝っている新聞の立場は、これを比喩《ひゆ》として云えば、明らかにモォリヤック氏の側である。そしていわばサルトル、ジイドの立場に立った雑誌が、その立場の故に出なくなったという噂《うわさ》を二、三日前に聞いたことが思い出された。
――この新聞の手伝いをしているという事実は、個人的な考えの如何に拘《かかわ》らず、一切の他者に対して、明らかにこの自分自身がモォリヤック氏の立場に立つカテゴリーの中に入り、これを支持する、つまりそういう風に一歩|踏み出《コミツト》したことを意味する。
木垣はまた汗をふいた。そして先夜、戦後彼が上海《シヤンハイ》で抑留されていた頃に知り合った、国民党系の中国人記者、張国寿と一緒に横浜へ行ったとき、所謂《いわゆる》特需景気に酔いどれた労働者たちを見たことを思い出した。張国寿がそれを見て、見給え、やはり日本人は戦争を喜んでいる、と云ったことも思い出された。成程労働者たちは、懐《ふとこ》ろが温そうで景気よく酔っていた。しかし、その顔には、張《チヤン》の云うような、あけはなしな喜びや満足の表情があるとはうけとれなかった。彼はまた、
「あの爆弾なァ、いくつ目だったか忘れたけれど、ひょいとかついだら肩でつるりと滑りゃがるんだよ、おれァ、ほんとにひやっとしたぜ」
そんな会話を聞きつけた。その労働者の眼に木垣は、不安、不満、またしいて云えば或るうしろめたさのようなものも感じた。それは木垣自身の気持の反映にほかならなかったかもしれぬが、しかし爆弾をかつぐことによって、彼らもまた内心の如何に拘らず一歩限界を|越えた《コミツト》のではないか。だが、限界とは何か。新聞社などに出ず、つまり社会組織の中へ現実に入らず、これまで二年間のように、家にこもって探偵小説、通俗小説、冒険物語から大戦記録など、手あたり次第、金になり次第翻訳することが、限界を越さず手を清くしてすごすことか。そんなことはありえない。彼の家の近所に住む人で、共産党の新聞に籍があったために追放されたKという人が、木垣のところへコーヒーやチーズ、バター、石鹸、衣料など、米国品や英国品の行商に来た。その人は来る度にこれは闇《やみ》の品物ではない、正規の放出品である、と云った。弁解がましいところはちっともなかった。しかし、如何に安くて良質であろうとも、それを売られることはやはり民族産業にとっては辛いことではないか。
号外を売り歩く鈴の音が聞える。共産党弾圧のニュースがひろまってゆく。しかしこれを全然弾圧と思わぬ人もいる筈である。木垣は、自分がたとえ何を考えたにしても、その物思いは型で鋳たように、定《きま》ってどこかで屈折して伸びなくなることを知り、気を紛らすために窓際へ立とうとした。
「Hullo, good day ! Is everybody out ?」
木垣の頭の上で、いかにも good day というにふさわしい、いささかもかげりのない明るい声がした。十日前、彼がはじめてデスクについた日にやって来て、既に顔見知りの外人記者が椅子の背に手をおいていた。OA通信のハワード・ハントであった。彼は部長の席を顎《あご》で示して、みな留守かとたずね、開襟《かいきん》シャツからつき出た逞《たくま》しい腕で顔や首筋の汗をぬぐった。いま会議中だが、十分もすれば終るだろうから待ったらどうか、と云うと、承知したという気持を全身で示して、ゆっくり、
「All right.」
と答えて木垣の横の椅子をひきよせ、いままで彼が見ていたスイスの新聞をのぞきこんだ。そして「サルトル、サルトル、日本でまでサルトルは有名か」と肉づきのいい口許に皮肉味をたたえて呟きながら、いまさっき木垣が読んだサルトルとモォリヤックの論争記事を読み下し、
「フランス人たちはあわてている」
と云った。
「いや、フランス人たちは考えているのだ」
と木垣が答えると、
「考えているあいだにやられるかもしれぬ」
と応じて来た。木垣はこの返答に手応えを感じ、通り一遍の挨拶を直ちに越えてみる気持になった。
「たとえやられるにしても、考えるだけは考えねばならぬ。この記事によると、モォリヤック氏は恐れているように思えるが、サルトル、ジイド氏らは未来への道をひらくために考えているようにうけとれる。対立を深める一方の考え方、及び恐怖からは多幸な未来は生れえない」
ハントは、ヘェ理窟っぽいね、というように肩をひょいと持ち上げて別のことを云い出した。
「僕はいまさっき朝鮮の前線から飛びかえったばかりだが、今度の戦争で日本人の考え方は随分な影響をうけたろうか?」
「アメリカ式の輿論《よろん》調査によると、アメリカに頼らねばならぬという気持がぐっと深まったことになっている」
「何故《な ぜ》だろうか?」
わかり切ったことだが、君個人の意見を聞きたいという風に、ハントは口許をゆるめていたが、数時間前まで朝鮮の修羅を前にしていた眼は笑っていなかった。
「戦争の恐怖、征服され支配されることへの嫌悪《けんお》!」
「しかし米国も君の国を征服し支配している!」
「その通り、しかしアンコールは御免だというのだ」
「けれども他国の征服や支配は、戦争の結果として、御免だろうが何だろうが、好むと好まぬとにかかわらず結果するものだ。アンコールが御免だと云うなら、何故米国に頼らないで自力で防衛しようと思わないのだろうか?」
「武装は憲法で禁じられているし、以後の戦争では一国だけでの抵抗というものは、米ソを除き、どの国にも不可能であろう。だからフランスは考えているのだ。日本も考えている。サルトル、ジイド氏らがモォリヤック氏に反撥するとすれば、それは恐らくモォリヤック氏の考えが恐怖に根差しているからであろう。恐怖は判断の基準についての確信を動揺させる。世界に共通の判断基準がなくなれば、あらゆる議論は反対側にとって、考慮の対象ではなく、挑戦とみなされるようになる。そうなれば理性はその役を果さず、歴史は人間の思考及び祈念をおしのけて自動的に破局へと回転してゆく……」
単語をくりながら喋《しやべ》っているうちに、木垣は次第に動悸がしてくるのを感じていた。ハントにとってこんなことはただの会話であって議論《デイスカツシヨン》でさえないかもしれぬ、それなのに何故おれの心臓は鼓動を早めるのか。このおれ自身が判断の基準についての確信を失っているからではないか、恐怖に憑《つ》かれて。
木垣が言葉を切ったので、ハントは彼が一息入れるつもりだと察して煙草をすすめた。木垣はハントに影響されないで自分の意見をまとめようとし、彼の煙草を断って自分の煙草をとり出した。火をつけて一服、二服ふかしたところで、
「そうなれば……」
とハントは毛むくじゃらな手で再び汗をぬぐい、木垣に後をうながした。木垣は何となく訊問《じんもん》されているような気持がすると同時に、この機会に自分の考えをはっきりさせてみようと思った。
木垣が黙って考え込んでしまうと、ハントもしばらく、朝鮮で流された血を見続けに見て来たに違いない鋭い眼差《まなざ》しを伏せ、胸の中の何かを抑えるように大きな手を膝に置いた。そしてぽつりと、
「朝鮮の情況は深刻だ。しかし米軍は決して海へ放り出されるようなことはない。米国人が血を流して持ちこたえている間に、キガキ、君もゆっくり考えてくれ、僕も考えよう」
と白人に特有、と云っていい率直で素直な口調で云い、部長の曽根田に先に会うつもりだったが、会議は大分長い、「みな考えている」ようだから、先に編集局長に会う、と云って木垣に手をさし出した。
二、三歩あるいたかと思うと、ハントはまた戻って来て、
「明日、僕は三十四歳の誕生日を迎える。夕方六時に外人記者《コレスポンデント》クラブへ来ないか、他の記者連中とも話そう」
と云った。
ひとしきり跡絶《とだ》えていた電報がまた続々流れ込み出した。隣の外信部のデスク近くに置いてあるテレタイプが鳴り出し、ワシントンから、ロンドンから、パリーから、モスコオから、キャンベラやブエノス・アイレスから、またニューデリー放送はヒマラヤ山脈の向う側|新疆《しんきよう》省でさえも人間の社会生活の目的に対する共感が停止し、かつて知らぬ動揺が起っていることを伝えて来た。木垣一人ではさばききれなくなり、会議室へ電話して応援を依頼した。
御国が走って来た。デスクにつくとすぐに御国は机一杯になった戦況関係の電文を見ようともせずに、
「あんたの云ったことが大分問題になったよ」
と云った。咄嗟《とつさ》に木垣には何のことか見当がつかず、なおも鉛筆を走らせながら、
「ええ?」
と聞きかえしたが、急げば急ぐほど字が大きくなるな、などとつまらぬことを考えていた際だったので、大して気にもしなかった。
「あなた、北朝鮮共産軍を『敵』というのはどういうことだ、と云ったでしょう? それですよ」
「なんだって。そんなことがどうして」
「思想が悪い、ってんでしょう。特に副部長の原口がね」
木垣は、先程政界か財界のボスらしい人のところへ電話をかけ、最悪の場合はですな、つまり増援軍の到着がおくれたりするとですな、海へ押し出されることもないではないという情勢ですな、それでです、そうなれば再軍備、いやその……警察隊の増強は必至ですから、先ず繊維製品や皮革、木材などはですな……などと云っていた原口の厚ぼったく異常に赤い唇を思い出した。
「へえ、そういうことになりますかな、思想が悪い、とね」
「へえ、だなんて。そうなんですよ。僕自身が第一、あんたが忙しいからって援軍を呼ばなくても、お前はこの会議から席をはずせ、と云わんばかりな扱いだったんですから」
「君が……それはまたどうしたわけかね?」
ふいに木垣は先程の(党員じゃないか)という疑問がまた湧き上って来たので鉛筆を置いて聞きかえした。
そこへ上半身裸で、見事な体躯《たいく》の地方部長がどたどたと走って来た。手に原稿を一枚もっている。
「部長はどうした、部長は? 爆撃だ、爆撃だ!」
御国の手がすっと電話の方へ伸びた。地方部長の手から原稿をひったくり、会議室の部長を呼び出すと同時に木垣に眼で合図して特約外国通信社との直通電話を指さした。物も云わずに若い御国に原稿をひったくられた裸の四十男は、これも別の電話をとって印刷局に号外の用意を命じた。曽根田部長は案の定、その情報については特約外国通信社に照会してからにしろ、と指令して来た。木垣のとった受話器の奥では、早くも甘い女の声がハロー、ハローと呼びかけていた。御国が原稿を木垣にわたした。主任を呼び出して、
「日本海岸のT市の支局から、T県警察筋からえたとして、国籍不明の飛行機六機が海岸|遥《はる》か沖合で空中戦を行い、海中に爆弾数発を投下して飛び去った、という情報を送って来たが、そちらにそのニュースは入っているか、関係方面は確認しているであろうか?」
と聞き合せた。
その通信社にそんな情報は入っていなかった。御国は既に別の通信社を呼び出していたが、そこにもそんなニュースは入っていなかった。木垣もまた更に別の通信社を呼んだがやはり入っていなかった。デスクのまわりには人だかりがし、誰もかれもが〈爆撃か、爆撃か〉と興奮していた、いや喜んでいた、と云った方が或《あるい》は正確に近いかもしれない……。この人たちは、この不確認情報を、〈爆撃だ〉としてひそひそ声で得意気に、今宵の酒のさかなにするに違いない……。
曽根田は特約外国通信社からニュースとして公式に権威《オーソライズ》づけられるまで、控えろ、と電話で指令して来た。裸の地方部長は、やっと彼の手にかえって来た原稿をふりまわしながら、号外準備中止を申入れた。印刷局はこの中止指令に怒ったらしく、受話器一杯にがんがんひびく声で、
「何を早合点してやがんだ、まだ日本は参戦じゃねえわい!」
と呶鳴るのが傍の木垣にも聞きとれた。
副部長の原口が駈けつけて来て、地方部長の背中をピシャッと叩いて云った。
「おい、特種を握りつぶされて残念無念、てところだな。T支局をなぐさめとけよ。ところでだ、おい」そこで彼は声を低めた、「来やがったね、とうとう、ええ? この辺も危いぞ、また鉄兜《てつかぶと》をひっぱり出さにゃならんかね、おい、おれあね、ちゃんと保存してあるんだから」
既にこの人たちは一歩|踏み出《コミツト》し、不吉なメロディに乗ってしまっているのではないか、と木垣はぴくぴく動く裸男の巨大な背中の筋肉を見ながら、暗い気持になっていった。最大の不幸は、最大のニュースなのだ。しかも最大の不幸のうちでも時間的に最も永続性があり、変化に富むものは戦争である。
渉外、東亜、論説、編集総務など全員、それに政治部及び経済、外信の要員を加えた連合会議で何が議されたかはわからぬが、彼らはすでに「来やがったね」という方に張ったのではなかろうか。万一彼らが御国の云う『敵』、そしていまの『来やがった』という、この方向に張り込み、そういう気構えで編集するとすれば、ここで日本の運命は決せられるのではないか……。しかもそういう新聞の手伝いをして片棒かついでいるということはどういうことか、どういう責任を負っていることであるか。
原口と地方部長は声をひそめて何か話し合っていた。
「六時から部長以上全員で緊急会議だよ、休んでる奴も非常呼集さ」
「ふ――ん」
そんな声が聞えた。
何か大きなニュースが入ると、いままで重大に思われていたニュースが、急に色あせてつまらないものに見えて来るものである。御国は十本近くも鉛筆をならべて、精力的に電報を片づけては原口のデスクに届けさせていたが、木垣はもう興味を失っていた。疲れてもいた。窓から外を眺めると、午後四時の太陽は、勝手|気儘《きまま》にあたりかまわず建てられた不調和な日本の中心部を、赫《か》っと照らし出していた。軍艦の艦橋部のような型をしたA新聞社の上に伝書|鳩《ばと》が舞っていた。一羽、二羽、どうしても他の鳩たちのように陣列をつくって飛べないのがいた。ああいうのを劣等鳩というのであろう。木垣はその劣等鳩がしまいにはどうするか、どうなるか、と並々ならぬ気持で注視していた。
給仕のデスクの電話がなった。給仕は夜学へ行ってしまっていた。木垣が電話をとると、二世の土井少年の嬉しそうな声がはねかえって来た。
「今夜十二時半に羽田へアメリカの水泳選手の一団がつくんだ。そいつにインタヴュにゆくから、写真と車に徹夜だと云っといてくれよ、夜食に寿司四人前註文しといてくれよな。O・K?」
尻上りなO・Kを最後に土井は返事も聞かずに電話を切った。相手は給仕だと思いこんでいるのだ。それはかまわぬ、しかし何か得態の知れぬ、怒りに近いものがこみあげて来て思わず、
「寿司でも何でも四人前でも四百人前でもとってやるよ!」
と云うと、原口がひょいと顔をあげ、ぽかんと口をあけて木垣を見つめた、何を云ってるんだ? という風に。そこへ渉外、東亜、その他の部員たちが戻って来た。会議が終ったのだ。曽根田部長は席へつくと直ぐに防暑服の上着をぬぎ、襟《えり》に汗がどの程度|滲《し》み込んだかを細心に調べた。局長室からハワード・ハントが出て来て、木垣に親しみ深い微笑を送ってから、曽根田に手をさし出した。曽根田は一瞬木垣を怪訝《けげん》そうに見つめたが、どこか身体工合でも悪いような不自然な笑い顔をつくってふらふらと立ち上り、ハントを迎えた。
木垣は会議の結果を知りたかったので、
「木垣さん、ちょっと、出ませんか」
と御国が窓際へやって来たとき、すぐにつれだって外へ出た。
二
われわれ日本人、特に都会人は、喫茶店というものが異様なまでに好きである。例えばある会社に用があって来た訪問者を、わざわざ会社の外へ、喫茶店や待合へひっぱり出して話をする場合があり、はなはだしいのになると、家庭への訪問者を家庭でもてなさないで、近所の喫茶店へつれてゆくというようなことさえある。要するに日本の会社にしても家庭にしても、つねに閉鎖的であって、人は宿かりのように貝がらの奥に閉じこもり、他人が訪ねて来たときにもそのままの態勢で応対する一貫した社会的客観性がえがたいせいかもしれない。
木垣はそんなことを考えながら、軽演劇の小道具のような、いまにもつぶれそうな椅子に腰を下した。椅子の背には桃色のペンキが塗ってあり、あたりを見回すと、外人の妾《めかけ》なのか令嬢なのか見当のつかぬ女や、戦争中|上海《シヤンハイ》のダンスホールにあふれていたのっぺりした中国人青年と寸分|違《たが》わぬ、ギャバジン服の若い男などが、占領軍放送の甘いメロディにのせてゆらゆら首をふっていた。
「木垣さんは前の新聞をやめられてから、翻訳や雑文で足かけ三年食って来られたって、本当ですか?」
白い半袖|開襟《かいきん》シャツからは、かつて肋膜《ろくまく》か肺を患《わずら》ったことのありそうな、平べったい胸部がのぞいていた。御国の質問にいささか木垣は当惑した。そんなことではなくて、木垣は彼が先刻の会議の模様を滔々《とうとう》と喋り出すもの、と思っていたのだ。
「そう、とにかくどこへも勤めないでどうにかやって来た」
「本当に出来たんですね?」
御国は異常に執拗だった。
「どうしてそんなことを……」
「それがね、僕なんかもどうも……怪しいんですよ。殊にさっきの会議の模様などから見ると……」
「何が……?」
「首がですよ、首が」
「首がって、労働組合がちゃんとあるんでしょう、この社にも」
「無論あります。でも駄目、駄目、問題になりません」
「ふうん……。思想問題か何かで? 君は党員なの?」
思い切って訊《たず》ねてみると、御国は日焼けのせぬ白い顔の筋肉をぴくっと歪《ゆが》めて否とも応とも云わず、
「僕はもともと外信部にいたんですが、去年の冬から、僕らはひとかためにして資料部へ追いやられていたんですよ。そこで写真資料の整理をやらされていたんですが、朝鮮戦争で人手が足りなくなったんで渉外へ呼び戻されたんです」
「僕とちょっと似ているね、僕は前の社で世話になった人から依頼され、断れぬ義理があったので、とにかく、出て来たんだよ」
「その義理って、どういうんです、差支えなかったら聞かせて下さいませんか」
「そいつは……。僕が家庭の問題でもめ事を起した時、中に入ってもらった――そういう義理さ」
一瞬御国は木垣の胸のうちを見|透《とお》そうとでも云うような、鋭い眼つきで木垣の眼を直視した。その視線をまともにうけて木垣は、党員(と彼は定めてしまった)――というものは、同志のあいだでは私生活の中にも立入って批判、自己批判をするのであろうか、と思いつき、そこに強力な人間連帯、同志感というものがあるかもしれぬと思い、またいささかやりきれぬ思いもした。
「何だか君に訊問《じんもん》されてるみたいだね」
御国はにっこり無邪気に笑って、
「いえ、いえ、とんでもない」
と否定した。鋭い、猜疑《さいぎ》に近い視線が一瞬のあいだに、若々しい羞恥《しゆうち》と交替した。
「僕もね、ここを遠からず追っぱらわれると思うんです。そうしたらどうして暮そうかと思って、ちょっとお聞きしたんですよ。僕は結婚早々でまだ子供はありませんが、木垣さんは?」
「ひとり、女の子だ。もうじき二つになる。とにかくひどく貧乏は貧乏だが、暮せぬことはないよ、何でもやる気にさえなれば。しかし君のような」党員、と口まで出かかったが、ふと抑えた、「……人は、何でもやるという訳にはゆくまい、探偵小説の翻訳などは一番金になる仕事だが、これはブルジョア的娯楽で、人を革命的情熱から遠ざからせること確実、という代物《しろもの》だから」
「いや、そんなこと構いません」
「構わない? 何故?」
「だっていずれにしろ生活をするということは、手を汚すことです」
「ふ――む」
「ふ――む、じゃありませんよ。そんなことを云い出したら僕がこんな反動新聞に就職していること自体、おかしなことになるじゃありませんか?」
「そう、僕は先刻の『敵』論議の時から、何ということはないがこいつは党員だな、と思っていた。実際にそうかどうかは先ず聞かぬことにしよう。それで君がこんな新聞にいることに、何となく割り切れぬものを感じていたんだ」
御国は、それまでは前途に対する気懸りめいたものを除けば、胸に個人的なわだかまりなどはなく、一応割り切れた、澄んだ眼をしていたが、木垣が、割り切れぬ、と云った瞬間からどことない焦躁《しようそう》が、御国の二十代を出たばかりの身体全体にあらわれて来た。
「だって僕たちは、あらゆる組織の中にいる必要があります。弾圧の本家本元にだっていますよ」
たしかにその通りであろう。木垣はそこに、党に加入した人々のやみくもな、いや組織的な強味があることを感知させられた。彼は、今朝から、たとえ臨時手伝いに過ぎぬとしても、こんな新聞に手をかしていることは一つの commitment ではないか、などと内心はらはらするものを感じ通して来たところだっただけに、弾圧と抵抗によって緊密な連帯組織の中に生活を繰り込み、抵抗と組織の将来だけに生活の意味を見出している人間の姿が、少くとも彼自身よりは何倍かゆるぎないものに見えるのであった。
「なるほど。そうすると、如何に悪質な環境の中にいようとも、党員は、少くとも精神的には救われている訳だな。しかし、党員以外の個人はどうなるのかね、君の所謂《いわゆる》生活のために手を汚さざるをえぬことを苦痛とし、君たちのように組織的な……実践的な夢で以て始末出来ない人たちは?」
「それですよ、そんな人たちを救い出し解放するために、僕たちは死ぬ覚悟をしているのですよ」
「そうすると、君は僕のために死ぬのか?」
「そうですよ? それに明後年は、きっと戦争ですよ……そんなこと御存知でしょう……?」
「…………」
木垣が何か云いかけて口をつぐみ、しばらく重い沈黙がつづいた。と、突然御国は屈託なげにからからと笑い出した。その笑い声が、どこかひきつったような不自然なものだったので、木垣は内心ぎょっとして眼をあげた。しかしその時、御国は立ち上って果物や菓子などの見本の入れてあるガラス箱の方へゆき、何かケーキを註文して戻って来た。
「こんな話、よしましょう。木垣さんは、翻訳だけで、小説は書かないんですか?」
その声の調子から云って、御国が書かないのかという、その小説とは、彼の死ぬ覚悟というものとは何の関係もないもののようであった。
「日本映画に大抵出て来る、キャバレのシーン、ああいう風なちぐはぐなシーンをやまにした小説とか、おでん屋にいったら女に会った式の小説のことを言うのなら、話は別だが。若し僕が書くとしたら、君たちのような、この現代にはっきりした確信と希望をもって生きている人を主題にした、現代世界そのものがファクターになったものが書きたい。しかしそうすると、もう個人がドラマの主人公ではなくて、事件とか事実とか事故とかが主人公になってしまうかもしれない」
「なるほど、そうすると、その、積極的に、発言、をする訳ですね。しかし事件とか事故とかが主人公になるというと、つまり僕たちみたいなのが一方的な信念病人、みたいな恰好《かつこう》になって、存分にからかわれる訳ですか」
「そんなことはない、そんなことはない」木垣は二度否定して声をおとした。「とにかく僕が書かないのは、要するに君の云う、発言、が恐《こわ》いからさ。書いたものは後々までのこる。才能のあるなしは別としても、こんな風な、どっちにころがるんだか得態の知れぬ時代には、証拠をのこさぬ方が賢いということになる」
呟《つぶや》くようにそんなことを云いながらも、彼は何となく自分は〈嘘をついている〉という感じをまぬがれなかった。
「僕がいま、君は僕のために死ぬのか、と問うた時に、君は、そうだ、と答えた。それを聞くと僕は戦争中のことを思い出すのだ。僕は身体が弱かった、いや正確に云えば弱いということになっていたために、戦争にゆかなかった。そして僕と同年代の連中が、口にこそ出さなかったが、僕らは君たちのために死ぬ、という、そういう表情をあらわに見せて各々の家を出ていった。あれを思い出す。僕は一種のうしろめたさと屈辱感を覚えて辛かった……」
そこまで云って木垣はまた黙りこんでしまった。しかし彼の内心は言葉にならぬ言葉をつづけていた。『そして戦争が終ったとき、人々がみなやれやれ逃れたと云ったとき、僕は、これからは決して間断ない屈辱の中に自分を置くまい、と誓った。ところがしかし……』
「それで一体木垣さんは、結局どういうんですか、何にもしないことを選んだんですか。それで前のS新聞をやめられて、家にひきこもられたのですか。けれども翻訳をして外国のものを紹介するってことは、立派に一つの社会的行為だと思いますが」
木垣は御国の云うことをもう聞いていなかった。
「そうだ」
と答えはしたものの、彼はもう会話に興味を失って考え込んでいた。
こういう問答に際して考え込む人物は、大きな社会的変動、例えば革命などに際しては、その考えの内容ではなくて、考えている身体の形を見定めて、ひょいと一つきすれば、その考えとは正反対な立場へころりとのめってゆくかもしれない。
御国は、不意に不機嫌そうに黙りこんでしまった木垣を眺め、視線を乱す何か硬い粒が眼に入ったかのように眼をしばたたいた。ついでぎごちなく店内を見廻して、同じ新聞社の仲間らしい一人の青年のテーブルの方へ、
「ちょっと失敬します」
と云って立って行った。
岐路における選択の片方は、つねに死である。如何《い か》なる場合にも、人は生を選びえなければならぬ筈である。木垣には、一九五〇年の七月某日、喫茶店の椅子にぐったり腰を落しているのは、木垣幸二という特定の人物ではなくて、どこの誰でもいい任意の人物のように思いなされた。人は選ぶことによって数学の単位のような任意の存在から、意味をもった特定の存在になるのである。彼の周囲では、選択は畳み込み追い込むように行われていた。新聞も経済も戦争の方に張り込み、輿論《よろん》調査と称するものによれば、国民の大部分も決定をしたことになっている、たとえそれがかりそめの恐怖にもとづくものであろうとも。木垣は自分の手を凝《じ》っと見詰めた。彼の手も汚れているのだ。そしてその汚れこそが真に彼自身にほかならぬのだ。しかしその汚れを正当化し、口実をみつけるために選ぶこともまた、己れを裏切ることにほかならない。彼は再び、放出のコーヒーやチーズやバターを行商してあるく、近所に住む追放された党員のKを思い出し、また先夜の特需景気に酔った労働者を思い出した。絶対に手を清くする純粋の道徳――そんなものは存在しない。だとすれば、あの労働者の赭《あか》ら顔こそは健康なものであって、椅子の上に〈死んでいる〉木垣こそは、実に本当に死んでいるのではないか。
御国は、これも白い半袖開襟シャツに白ズボンをはいた、額の広い青年をつれてテーブルへ戻って来た。
「立川君です。工務局の輪転機係りですが、今日は休みなのに朝鮮の戦況が気になるというんで出て来たんです」
と紹介した。
背の低い、ポマードをつけて髪をきれいにわけた立川は、挨拶をした拍子に額におちかかって来た髪をかきあげ、横ビンに丁寧になでつけてから、
「木垣さんの訳された探偵小説、友達に借りて読みましたよ」
と云った。
「面白いかい?」
と御国が聞くと、
「うん、面白いよ」と率直に勿体《もつたい》ぶらずに云ったところが気持がよかった。しかし次の瞬間、木垣ははっとさせられた。立川は御国を横眼でちらりと見て、「何しろ絶対にアリバイの確立している、誰が見ても犯人でありえない奴が、とどのつまり犯人になるという小説なんだ。そうでしたでしょう、木垣さん? だから参考にもなったよ、ははッ」と云ったのだが、その流し目には素朴な顔つきを裏切る、何か少し調子の狂ったものがあった。短い笑い声も、誰か相手に笑いかけるというものではなく、いわば自分自身に向って笑いかけるものであった。じめじめした自嘲などとは頭から無関係な、乾燥し切った空虚、そんなものが感じられた。行動においてはじめて充実する虚無、木垣はふとそんなことを考えた。
「新聞だってそうだよ、そうでしょう、木垣さん」
と御国は頬杖ついて低い声を出した。「戦争犯罪の巨魁《きよかい》の一つは、何といっても新聞ですよ。しかも新聞には、事実の報道をしたまでのことだ、という絶対のアリバイがいつでも用意されているんだから。ところがその誰が見てもアリバイのはっきりした奴が、実は一番の元兇《げんきよう》なんだから……。天皇や東条式の奴らが何を云おうが、新聞やラジオが報道し宣伝しなかったら、そんなもの屁《へ》でもありゃしない」
木垣は労働者らしい労働者、特に立川のような自覚をもった機械労働者とは、前の新聞をやめてから殆《ほとん》ど接触がなかった。
「僕は、臨時雇で、それも今日でやっと十日目にすぎないせいかもしれないし、二年も自分の家で仕事をしてきたせいかもしれないけれど、とにかくこの社から出ると、漸《ようや》く自分をとりもどせた、ほっとする、といった感じがして、これから自分の仕事にかからねば、と思うのだが、あなたはどう?」
「そうでしょう、木垣さんなんかは別にちゃんと趣味なり仕事なりをもってらっしゃって、生活費を――尤《もつと》も臨時なんでしたら生活費とも云えませんでしょうが――とにかくその趣味なり仕事なりを生かすための生活費をかせぎにおいでな訳、と先ず考えていいでしょう、一般のインテリ・サラリーマンのように。けれども僕なんか、工場に入って輪転にとっついてはじめて、ほッとするんですよ。その、つまり、生活なんですよ。もちろん生活費のこともありますがね」
ここでも木垣は会話の対象にならなかった。なるほど、と答えた後に、言葉がつづかないのである。立川の言葉をそのまま信じれば、彼にとって、労働は単なる労働ではなくて、それは既に一つの精神的価値、一つの生活になり切っているのだ。木垣は、いわば『別の生活がある』と云う。しかしそんなものが果してありうるであろうか。限界がどこででもぼやけていて、しかもそれがぼやけているということを四六時中気にしているこの生活以外の、どこに『別の生活』がありうるか。
「いまね、僕らの輪転は、ひでえことを刷りまくっていますが、いまに僕ら自身の意見を刷り出しますよ、遠いこっちゃないです」
立川の小さな眼に、異様な光りが増して来た。しかもその光りは決して希望といったものの輝きではなかった。いや、それはまさに希望の光りそのものなのかもしれないが、その希望が、もし明日実現するとするならば、木垣は恐らく今日と明日とのあいだにある夜の深淵《しんえん》に呑み込まれてしまうかもしれない。そして立川の眼は、彼がそのことを充分承知の上で話していることを物語っていた。少くとも木垣にはそう思えた。
御国は大きな懐中時計をひき出して、
「そろそろ明朝《あ す》の地方版の出て来る時間ですね」
と云って立ち上った。
社の入口まで三人つれだって来たが、立川は、じゃ、と云って輪転機が唸《うな》り声をたてている地下室の階段に向い、少し背をまるめ船乗りがタラップを下りるときのような恰好で敏捷《びんしよう》に階段を下りていった。
デスクに戻ると原口副部長は、御国にひょいと電文を一つわたして、
「大至急頼むよ、但しおしまいに註《ちゆう》を入れることを忘れずにな」
と云った。註とは『平壌放送は共産政権のカイライ放送で本記事はこの事実を念頭に入れ評価さるべきである』というのである。原口はついで木垣の方へ立って来て、先に木垣が書いた原稿の一片を示し、
「まだ君は新仮名遣いになれないのかね。かいまきを着込んでぐたッとあぐらをかいたような、ゐ、なんか書くんじゃないよ、スマートなハンサムボーイが立っているようにな、いると書いてくれよ」
と云った。
三
ハワード・ハントとの約束をまもって外人記者《コレスポンデント》クラブに行ってみると、ロビイは思いのほかがらんとしていた。その日の早朝、マックアーサー元帥が朝鮮の前線へ飛んだのを追って、大多数の記者たちも便を見つけて朝鮮へ行ったのだった。冷房装置を施したクラブへ一歩入ると、夕陽に照らしつけられて歩いて来た木垣は、すッと汗のひく思いをしたが、ハワード・ハントは、
「アツイ、アツイ?」
と云ってエレヴェーターから飛び出して来た。
「僕の部屋へ行こう。尤《もつと》も中国の記者と同居だよ」
さして広くもない部屋をついたて様のもので二つに割り、鉄のベッドと毛布、それにテーブルが一つに椅子が三脚おいてあるだけで、木垣の予想に反して客は一人もいなかった。ハントは部屋へ入るとすぐについたての上へ首をつき出し、
「ハロオ、チャン、おれの誕生日だ、一緒に飲まないか」
と隣室、というよりもついたての向うでタイプライターを叩いていた中国人記者に呼びかけた。
「Thank you.」
とアメリカ訛《なま》りの太い声がした。木垣はその声に聞き覚えがあった。ついたてをずらして出て来たのは、ふとりじしの張国寿であった。
「なんだ、あんたか」
と日本語で木垣が云うと、ハントはおや知り合いか、そいつは紹介の労がはぶけて便利だ、と云わぬばかりに二人を見交わし、無言でボーイのもって来たコカコラ、ビール、ウィスキー、ザクスカなどをテーブルの上にならべ、無造作にコップをとりあげて自分から先に、
「おめでとう」
と云って笑い出した。
「僕たちは上海《シヤンハイ》での知り合いなのさ。四、五日前も木垣君と横浜で大いに羽目をはずしたよ」
「ところでハント君、ほかにお客はないの? 僕たちだけ?」
木垣が怪訝《けげん》に思ってたずねると、ハントは鼻でクンクン小犬の鳴くような音をたてて電話器を指さし、
「ここに二人分の代表者がいる。八時にサン・フランシスコから僕の妻と女の子が電話をかけてくる筈だ。客はそれだけ。みんな忙しいから電話相手にひとりで祝おうと思っていたのだが、昨日の君との話が面白かったから君を招いたのだよ」
一わたり身体にアルコールが滲《し》みわたった頃、張《チヤン》は声をひそめて、
「木垣君、このあいだ飲みまわった時、君は変な気がしなかったか」
と訊ねた。
「いや別に……」
木垣は言葉|尻《じり》を濁した。たとえ何であれ、近頃は何を見ても何をしても、|変な気《ヽヽヽ》がしないことは滅多にないからであった。
ハントは素早く張の言葉と眼差しに何か異常なものがあることを察知して、
「変とは……何が変なんだ?」
と問いかえした。
「それがね、先夜、木垣君と銀座から横浜まで飲み歩いた。日本人の所謂《いわゆる》梯子《はしご》という奴だ。ところで酔ってくると妙なもので、僕は次第に中国人経営のバーやキャバレを選んで入るようになった。中国人のキャバレへ入ると、いつも隣の席へ眼つきのよくない、中国人らしい男がやってくるんだ。そして僕の、いや僕たちの会話に聞き耳をたてている。どうもそうなんだ。そうとしか思えない。横浜のキャセイというキャバレなんかでは、隣のボックスで飲んでいた日本人の一組に席をかえさせさえしたようだった。それで僕は、ははあ、と気付いたんだ。こいつは、尾行されていないまでも監視されスパイされている、とね……」
「キャセイというキャバレ、僕も誰かと行ったことがあるような気がする。そうだ、君の社の曽根田部長とだ」
ハントはそう応じはしたものの、張《チヤン》の言葉には半信半疑なようで、木垣の方を向いて、君は何も感じなかったのかい? といった顔つきをした。張は木垣が何とも云い出さぬ先に、
「木垣君、とにかく君と一緒だったから、後で何か君に迷惑がかかりはしなかったかと、実はあの後内心ひやひやしていたんだよ」
「でその監視《スパイ》は、中共側のそれだという訳だな?」
ハントは眉をよせて青い眼を光らせた。急に彼の顔は陰鬱な老人めいたものに見えた。
「それは、わからん。少くとも断言することは出来ないよ」
「そのインフォメーション(情報)を、僕が足で調べて書くことは、かまわぬだろう? 君たちに迷惑はかけないから」
張がうなずくと、ハントはあたりかまわぬ大きな声で、
「|見出し《ヘツドライン》、日本にはられた中共地下工作網!」
と云ったが、
「その記事で君のサラリイが百|弗《ドル》も上ることを僕は祈るよ」
と張が低い声で答えると、ハントは敏感に、
「御免、御免、気にさわったら許してくれ」
と詫《わ》びた。
木垣は外人を前にしてあまり酔わないように、と酒を制していたが、スパイ云々《うんぬん》の話が出だした頃から我慢ならなくなり、頻繁《ひんぱん》に盃《さかずき》を口へもっていった。もしそういう組織がたしかにあるものとすれば、張と一緒にずっと飲み歩いた木垣もまた、恐らくはマークされているであろう。旧交をあたためるために、ただ外国人と酒をくみかわすことだけからでも、何か恐しいことがとび出してくる可能性がある……。
「そんな話を聞いていると、何だか裸で十字路に立っているような気がするね」
木垣がハントと張の二人のどちらに云うともなく口をはさむと、ハントはすぐにうけて、
「裸《ネーケツド》なのは君一人だけじゃないよ、日本全部がそうなのかもしれないぜ。僕は日本へ来て四カ月、いろいろな人とインタヴュをした。ところが知識階級になればなるほど、頼りなくなってゆくね、昨日の君のモォリヤックの意見じゃないけれども、アメリカの軍隊がいなくなったら、日本はもう存在しえないといった人がいるかと思うと、左翼の人はその正反対なことをほのめかす。君は君で裸《ネーケツド》で、考えているのだ、と云うが……」
三人とも何を話すにしても声が低くなりかけたところへ、勢い良く電話のベルが鳴った。ハントはにっこり笑って腕時計を見た。針は正八時をさしていた。
「来たよ、僕の妻と娘が!」
ハントは妻と娘を現実に抱きよせるかのように、腕で大きく弧を描いて受話器をつかみあげ、甘い声で、
「Hullo ……」
と呼びかけた。
八時、と定めれば、まさに正八時に何千|哩《マイル》か彼方から電話をかけうる世界がそこにあった。ハントは木垣と張《チヤン》にウィンクをしてみせたり、空いた左手で抱きよせる真似をしたりチュッと接吻の音を吹き込んだり、傍若無人な通話をはじめた。張はしばらくあっけにとられたようにそれを見ていたが、やがて溜息を一つつくと、ビールにウィスキーをぶちこんで一気にぐいぐいあおりはじめた。
「君の奥さんや子供さんは?」
と日本語で話しかけて木垣は、しまった、と思った。が、もうとりかえしはつかなかった。
「妻子は上海《シヤンハイ》にいる。金がないものだからね、抗戦が終ってからもなかなか重慶からつれ出せなかったんだ。そのうち内戦がはじまった。それでもどうにか上海までつれ出した頃に、革命……中共が上海を接収した。そして近頃、彼女はもう上海からは動かぬ、台北なんかへ流れて行ってこせこせするのは御免だ、と云って来ている」
「そう……」
ハントが耳にあてた受話器からは、電波のせいでもあるか、時々甘酸っぱい幼児の声が「ダディ、ダディ(お父さん)」と洩《も》れて来た。ハントは、これに「そちらはいま一時頃だろう、お昼寝の時間だ、良い夢を見てお休み……」と云いきかせていた。
木垣もまた盃をおいてもうすぐ満二歳になる自分の子供を思い出した。彼は酔って帰ると必ず子供を起す癖があった。今夜こそは起すまい、静かに寝かせておいてやろう、とその時彼は思ったが、それが出来るかどうかわからなかった。深く考えつめたこともなかったが、酔って子供の寝顔を見ると、戦争中、爆弾で防空壕の出口を埋められて窒息死した子供の静かな死顔を思い出すので、どうしても起してみないと承知出来ないのであった。ハントは楽しげに子供と代った細君に日本で買った土産《みやげ》物のことなどを話していたが、受話器を左手にもちかえて傍の紙切れに何か数字を書いて喋《しやべ》りながら計算をやり出し、やがて早々に電話を切った。恐らく通話が長すぎて予定の電話料を超過すると見たのであろう。張は三杯目のウィスキー入りのビールを口|許《もと》までもってゆき、暗い顔つきでコップの中を凝視していた。先に日本は裸《ネーケツド》だ、と話していた時は、それでもなお張の顔にも木垣の顔にも一種の張りがあったが、各々妻子の上を思い出すと異様に個人的な、うち側にこもったような表情が浮び出て、座は何となく白けた。ハント一人は陽気に、
「シャンパンを買っとけばよかったな。サン・フランシスコのおれのアパートじゃ友人が集ってシャンパンを飲んでるよ。しかしここは前線基地だからビールとウィスキーのカクテルで我慢してくれ」
そこへドアーをノックして日本人のボーイが電報をもって入って来た。
「フィルム欠乏すぐ送れ、か」ハントは時計を見て、「今夜十時に輸送機が一機出る。そいつに積もう」
そこまで独語した彼は、パンと手を叩いて、
「そうだ、張、フィルムを送り込むついでに横浜まで足を伸ばそう、そのキャセイというキャバレへ案内してくれないか、僕がおごるから」
張はいくらか酔ったような、どろりとした如何にも東洋人らしい眼をあげて、一言はっきり、ノオ、と断った。断られたハントは木垣の顔を見詰めて、
「君、迷惑かしら?」
と心から依頼するような口調で云った。木垣は疲れてもいたので断りたかったが、この誕生祝いに招かれた義理もあり、また「前線基地」日本の最前線の一つである、飛行場がどんなであるか、どんな風な戦争の匂いがそこに漂っているか、見たくもあったので、同行を承諾した。また彼の気持の奥には、張の云ったような組織がもしあるものとしたら、それがどんな面構《つらがま》えをしたものかをも瞥見《べつけん》したい気持もひそんでいた。飛行場もそのキャバレも、ともに日本にあることは間違いなかったが、その日本はもはや隅々までくまなく日本ではないのだ。
「僕は寝るよ」
張はふとった身体をゆさぶってついたての向うへ行った。ベッドに重い音がしたかと思うと、
「木垣君」
と日本語で呼んだ。木垣が「何か御用?」と云ってついたての上からのぞきこむと、張はベッドに仰むけに寝て小さな額縁入りの赤ん坊を抱えた若い中国人女性の写真をのぞきこんでいた。
「二、三日中に、ひょっとすると明夜半、僕はニュー・ヨークへ発《た》つ。転勤だ、国連《ユー・エヌ》つきの記者になる……また会おう、別れる前に」
張のまるい大きな顔はあぶらぎって赤く光っていたが、その声にも表情にも、国際連合つきの記者という、華々しい舞台へ行く人の喜びと期待といったものは、何一つなかった。
ジープをとばして近くのA新聞社に先ず行き、七階にある事務所からフィルムの箱をかついで来たハントは、夜のアスファルト道を四十|哩《マイル》くらいのスピードで走らせながら、
「さっき張君は、日本語で何て云ったの?」
とたずねた。この若いアメリカ人は何でも知りたがる。
木垣は彼の妻子の消息や国連へ転勤することなどを伝えた。
「ああ……」
ハントはハンドルを握ったまま軽くうなずいた。「僕は日本へ来る前にはベルリンにいた。張君は、たとえ革命に追われたにしてもまだ行くところがあるだけ幸福だ。ヨーロッパには妻子とは無論ばらばらになり、しかもゆきどころのない人が、キャンプに何万人ともしれず収容されている……」赤信号でジープが止った。街燈に照らし出された横顔をちらりと見上げると、青かった筈の眼が褐色《かつしよく》に見え、きらきら光っていた。まさか涙を浮べているのではあるまい、と木垣はちらりと考えたが、あるいは本当に涙ぐんでいたのかもしれぬ、「そんな人を何とか幸福に出来るよう、われわれは時間をかせがねばならぬ」と云っただけでハントは口をつぐんだ。
時間をかせぐ? 木垣には納得のゆかぬ言葉であったが、このアメリカ人のあまりにも正面切った考えを解しかねるほどに、ひょっとするとおれは歪《ゆが》み曲っているのかもしれぬ、そもそも、幸福とは何か、がもうわからなくなっているのではないか、とも反省させられた。しかし「そんな人」は、いままた朝鮮に何十万と出来ているのではなかろうか?
「朝鮮にも、沢山の不幸な人が出来ただろうが……」
「そうだ、たしかに。近代史にかつてないほどの人間惨劇《ヒユーマン・デイザスター》だ」
近代史にかつてない、と云われることは、悲劇的なことばかりではないが、世界戦争、原子爆弾、そして戦後の不安、しかも極東の一角で燃え出した不安に人間が焼かれている……ハントはまだこの近代史を〈幸福〉という側から考えることができるようであったが、木垣には〈惨劇〉の方が先に来た。そこまで来ると、当然話の継穂はなくなった。ジープは速力を増して走り出した。軍需品を積むらしいトラックの一隊がサイレンを鳴らすジープに先導されて疾走して行った、子供を親の手から奪うという魔王のような冷い風をまきおこして。トラック隊の行先に、すぐそこに、爆裂し赤々と燃え上るものが見えそうに思われた。
空は茫《ぼう》とあかるくなって来た。轟々《ごうごう》たる爆音がジープのエンジンの音など吹き消してのしかかるように響いて来た。国道からそれて焼跡を貫通した広い路をしばらくゆくと、バラック建ての家がかたまっているところに、一軒飲み屋らしいものがあった。ハントはその前で車を停め、
「ここで待っていてくれないか、フィルムを届けてすぐ帰るから」
と云ってまたアクセルを踏んだ。
「おらァ、こいで飛行場ちゅうもんにつとめてからもう十年が上になるテ。戦争中はシナやら南方やらの飛行場をブンまわされて、それで終戦よ。こいで飛行場はおしまいかと思ったら、そっくりそのまま進駐さんにひきつがれてな、もう十年になるわい!」
声の主は五十がらみの、身体中にうるしを塗ったような逞《たくま》しい男であった。
「日本の戦争の手伝いをしてサ、いまァ、またアメさんの戦争の手伝いだサ。面白ェ、世の中だなァ」
四、五人、占領軍の番号入り作業服をぬいで肩にかけた土工人夫らしい男たちが、各々きまったように首に手拭いをまいて真中の卓をかこみ、焼酎《しようちゆう》を飲んでいた。中にたった一人、白い半袖シャツを着た若いのが、顎《あご》をぐいとつき出し、向い側の、見るからに智能程度が遅れてでもいるのじゃないかと思われる、無表情な男に、
「おい、ノガミ、酒はうまかろうが!」
とからかうような口調で云った。木垣が隅の板張りにおしつけられた木箱に腰を下すと、太ったおかみが物も云わずに一杯の焼酎をもって来た。米国製のビールやらウィスキーには、どことなく機械製品――そういう非個性的な臭みがまつわりついていて、木垣は一定量以上には飲めなかったが、アルコールのように透明なこの飲料は、これはまたあまりにも日本の戦争の臭いがつきすぎていた。若者はしきりに「おい、ノガミ、ノガミ」とからかっていたが、そのノガミというのは、どうやら無表情な男の名前ではなくて、上野を反対にして野上《ノガミ》と読む、上野地下道の出身という意味らしかった。五十がらみの人夫頭らしい男も、ひょいとノガミと呼ばれる男の方を向いて、
「戦争ちゅうもんは、なんちゅうても、景気のいいもんやな。戦争して一文の得にもならんじゃろうが、なんせ、こんなのまで働いておまんまを頂けるようになるんやからな」
「おまんまどころか、酒まで流しこんで、ナ」
「しかしだナ、それから考えたっても軍需工業の親方連中は、えれェ儲《もう》けだろうな、エエ?」
「そンだかて、いまに共産党の天下になれァ、これ……だよ、ナ?」
木垣に背をむけた、首の短い角刈りの男が手を咽喉《の ど》のあたりへもってゆき、咽喉奥でギイ、という金属的な音をたてた。
「九州にいる兄貴分の話だとな……」
九州の話、北海道の話、彼らがどうしてそんな遠いところの事情に通じているのかわからなかったが、この人たちにはこの人たち独特の情報網があるらしかった。だまって聞いているうちに白い開襟《かいきん》シャツが突然敵意のある目付きで木垣をしばらく凝視し、やがて人夫頭に何か耳うちした。
「おかみ、勘定!」
百円札がばらばらと卓子《テーブル》の上に散りしき、一同は重い足音をたてて一度に姿を消してしまった。
外で、
「あれ、いねえじゃねえか、ジープ」
という声がした。
木垣は一瞬のうちに一切を悟った。恐らく彼ら人夫たちは、彼がジープを乗りつけてこんな飲み屋へ入って来たことを不審とし、彼らの会話をスパイしに来たもの、と考えたのであろう、と。
人がいなくなると、忽ち台所から、二匹の巨大な鼠《ねずみ》があたりをうかがうようにちょろちょろと出て来た。木垣は何とも云えぬさびしさを感じた。彼ら人夫たちが、彼を鼠のように人をうかがうスパイと見たことは、もとより悲しいことであったが、先程張国寿とハントとの三人で話したことと、いまの人夫たちの話のあいだに、さした差異も認められないということもまた彼の心に異常な感動を呼んだ。最も国際情勢に通じている筈の外人記者たちと、あの人たちとの差異は、要するに使用する言葉の技術性だけではないか。
木垣の眼底には、白いシャツを着た若者の鋭い眼差《まなざ》しが突き刺さったまま残っていた。鼠は板張りにそってちょろちょろしていたが、突然生皮をひんめくるようなジェット機の噴射音が襲って来た時、手洗いの下の溝《みぞ》の中へ消えていった。鼠を見たことから、彼は、船が沈む前には鼠が一斉にいなくなるという船乗りの伝説を思い出し、また毎朝新聞をひらくときまって「いやあね」という京子の顔を思い浮べた。上海で一緒になった、京子の、終戦後の唯一の希望はアルゼンチンへ移住することであった。彼女は、そして木垣もまた、船の鼠なのかもしれぬ。
彼は外へ出て空を仰いだ。夜目に明らかな銀色の巨大な機体が、四つのエンジンから四つの青白い火を吐いて西の方へ飛び去った。飛行機のいなくなった後の空には、粒の大きい夏の星が輝いていた。
再びハントのジープに同乗すると、ハントはすぐにあの飲み屋にどんな客がいたか、どんな話題があったか、などと知りたがった。
木垣は白シャツの若者の眼つきをちらと思い出し、
「要するに、日本は誰の味方でもない、日本はアジアの端の方にある国だ、という話さ」
と、いくらかとげとげしく片づけた。
赤十字の大きなマークをつけた救急車がサイレンを鳴らしながら十何台か通り過ぎた。朝鮮からの負傷者を運んでいるのだ。すれちがいざま、ハントは、金属とガラスで出来た清潔な箱の中に流血する人間をのせた車の列を指さして、
「あれでもか?」
と念を押すように云ったが、木垣は答えなかった。答えるためには、車を下りてかからねばならぬ、これ以上同席は出来ない、という気がしたのだ。車を下りて答え、そして木垣は恐らく広い夜道をとぼとぼとハントとは逆な方向へ歩いてゆかねばならぬ。ハントには木垣のそんな行動は納得出来ないであろう。
木垣が陰気に黙り込んでしまったので、ハントは話題を変え、
「飛行場のオフィスで輸送の手続中、君の社の土井君に会ったよ。今夜また、水泳選手の後続部隊が到着するそうだ」
「そう、二世だった土井君……」
「二世、|だった《ヽヽヽ》、とは何故?」
「土井少年は戦争中、交換船で日本へ帰って来た……そして彼は戦争中に一つコミットメントをした。そのために戦後、二世ではなくなったのだ……」
「コミットメントとは?」
「そう。彼は戦争中に日本憲兵隊の通訳になった……」
「ああ、そう、東京ローズみたいにね」
ハントは日本語でああ、そう、とうなずき、
「それで米国の市民権を失ったのだな。そんな、裏切行為をやった連中は、イタリーにもドイツにもいたが、やはり日本にもいたんだね」
「そう、米国の市民権を失って、いまでは日本人以外の何者でもない」
「そして、日本人にもなり切れない……」
「そうらしい……」
「彼は僕にサイン帳を見せてくれたよ。驚いたね、マックアーサー夫人のサインまであったよ。将軍、政治家、ジャーナリスト、スポーツ選手、実業家、俳優、歌手、実に種々様々だ。これからは朝鮮へ慰問にゆく芸能人が沢山来るから、土井君のサイン帳はますますにぎわうことだろう。そうなることを僕は祈るよ、それが祖国のない土井君の楽しみだとすれば」
「うむ、僕も祈ろう。日本は狭くて人が多く、意識を同じくしない人に対しては不寛容だから――」
「しかし僕はあのサイン帳を見て驚いた、こんなに沢山の有名人が日本を訪れたかと思ってね」
「日本は世界の焦点、という訳か――」
「そう、しかもその日本は、君の民衆の言葉によれば『誰の味方でもない』……」ハントは低い生真面目な声でうめくように呟《つぶや》き、後半はエンジンの静かな廻転の中へ沈んでいった。彼は自分でもその言葉の重さに驚いたか、追っかけるように声をあげて、
「時に、土井君は、仕事がすんだら僕たちを追いかけてキャセイへ来るそうだ。君と一緒だと云ったら驚いていたよ」
――日本は誰の味方でもない。
たしかにこの言葉は木垣自身が云ったものであった。しかしそれが彼と同年のアメリカの青年の口から繰りかえされると、言葉はその重みと広がりをぐっと増して来て、あたかも木垣が多数の人々を代表して何か重大な声明でも発表したかのような響きを帯びていた。しかもその言葉は暗い孤独な影を長々とひいていた。
エンジンは順調に廻転していた。会話は死んでしまい、夜半近い風が肌寒く感じられた。木垣は心の中で先の言葉をくりかえしていた。日本は――ではなくて、単に「おれは、僕は――」と云うべきではなかったか。おれはしかし、果して日本の味方か、どうすることが日本の味方をすることなのか。資本家や新聞のように、この戦争に、この国際的対立に張り込んでゆくことが味方をすることなのか――。
ハントは何か歌をうたい出した。奴隷哀歌《ニグロ・スピリチユアル》に似た哀調を帯びた歌であった。一節のおわり毎に|繰り返し《リフレイン》があって、ハントはそこだけ声の幅をひろげて、
―― just standing alone,
just standing alone ……
たったひとりで立っている、たったひとりで立っている……。
と長く後をひいてくりかえし歌っていた。
木垣は胸のうちが静まるのを待って、ハントの歌うリフレインを声に出してくりかえし、
「日本も孤独だが、それ以上に現代の人間は、交通通信《コミユニケーシヨン》が便利になるに従ってより孤独になってゆくのではないか、君はどう思っている?」
とまで云うとハントは急にハンドルから右手をもぎとるように離し、あかあかと灯のついた工場を指した。
「あそこを見給え。決して孤独でも孤立でもない。君の云うようにたしかに人々の心の底には一抹《いちまつ》の疑いとともに孤立感、孤独感が根本的には存在しよう。しかし、気持の如何《いかん》にかかわらず日本は、再び君の言葉で云えば、既に日本は〈コミット〉している、そしてあそこで力をあわせて働いている人たちは、決して孤独ではない筈だ」
車はとっくに六郷橋を越えて川崎の重工業地帯へ入っていた。この前の戦争の跡はまだ生々しくのこっていた。焼跡の骨のような鉄骨が夜の底で天に突き刺さっていた。両手をさしあげて何かを祈っていた。そのすぐ横の工場は、焼けた工場の骨や頭蓋などと何の関係もないかのように、徹夜で、生きていた、めらめらと朱色の焔《ほのお》を吐きながら。戦争による廃墟のど真中に立った工場が、再び戦争によって、しかも戦争のために、動いているとはどうして信じられよう。そして万一あの工場が戦争のために動いているとしたら、そこに働いている人々がどうして孤独でないと云えようか。木垣はこの激しい対照を眺めながら、自分の気持の基調が生きた工場にはなくて、死んだ工場の荒れ果てた風景にへばりついているように思った。
「ハワード、君は生きた工場を基調にして考え、僕は戦争による廃墟《はいきよ》を基調にして考えているようだ」
「死者は死者をして葬らしめよ、という言葉を知っているかい?」
「知っている、君たちよりもっと身にしみて知っているようにさえ思う」
「そうかしら?」
木垣はハントと一緒に来たことを後悔し出した。気持が完全にはなれてしまっているのだ。ハントは恐らくそんなことをちっとも気にせず、木垣とても、そこに不快な感じはちっともないのだが、自動車の両輪のように決して一つになることはないのだ。しかもこの両輪は、どうやら唯一の方向へ向って走っているらしい……。
川崎から横浜へ――人々の家は既に眠っていたが、大工場はみな眼醒《めざ》めていた。人も風景も、深く前の戦争の痕《あと》をとどめていたが、夜の中では早くも別の戦争が工場を動かしていた。
ハントはキャバレのドアーを押すと、ぐるりと一通り見廻して一番奥のボックスへゆき、シャンパンを註文した。シャンパン、と聞くと女たちが五、六人よって来た。一本少くとも二千円はするだろうと思われる純粋な酒はたちまち空になり、二本目を註文した時には、支配人らしい中国人が挨拶に来た。ハントはその中国人とつれ立ってボックスをはなれ、バーの方へ行った。恐らく彼は張国寿の云った組織|云々《うんぬん》のさぐりを入れにいったのであろう。
「あの外人、何なの? この前も一遍来たわね」
ほろ酔い加減で、猫のように身体をまるめた体温のひどく高い女が木垣に訊ねた。
「新聞記者さ……」
「あら、そうなの……そいじゃ、聞いたらわかるかもしれないわね、あたしのコレ、司令部付きなのよ、朝鮮へ行っちゃったの」
「…………」
「いやねえ、戦争なんかして。でも、仕方ないわねえ」
その時だった、不意に飾り電気の桃色の光りを遮《さえぎ》って赤黒い影がテーブルを蔽《おお》い、やわらかい大きな手が木垣の肩をつかんだ。
彼はぎょッとしてふりかえった。
「……バロン・ティルピッツ!」
「左様、バロン・ティルピッツだ……」
木垣の頭の中の時計は急速度に逆転した。敗戦後の上海《シヤンハイ》で木垣と京子は生活に困り、同じく困った同胞たちが家財道具を売り払って暮していた時、彼はいくらか語学が自由になるのを利用して、西洋人居留民たちに日本人の持物のうち、骨董品《こつとうひん》や美術品を出来るだけ高く売りつける仕事をしたことがあった。その時の一番の買い手がこの旧オーストリー貴族で、ナチに追われた亡命者のティルピッツ男爵であった。木垣は、この額の真中に皺《しわ》という以上に、深い肉の窪《くぼ》みがあり、眼窩《がんか》というよりも、むしろ肉の窪みの奥に灰色の水晶体を光らせた男と交渉する毎に、得態の知れぬ恐怖感をましていったのであった。得態の知れぬ――とは云い条、得態ははっきりしていると云えば云えないことはなかったのだ。ティルピッツ男爵は、いわば国家であれ何であれ、何か大規模なものが地すべりを起して陥没する、その現場に|いつでも《ヽヽヽヽ》存在しているような男であった。印度でチフスが流行する、中国に飢饉《ききん》が発生する、スペインに黒死病が蔓延《まんえん》する、とそういった事件が起きた時、人々が地図でその場所を捜している時に、いち早く現場に姿を現して救済事業に従事している、そういう人間があるものであるが、ティルピッツは、人の噂を綜合すると、大規模な没落が行われる場所には必ず姿を見せる葬儀屋のような男であった。オーストリーを追われてチェッコに入り、チェッコがヒトラーに脅かされるぎりぎりの時までプラーグにいて亡命してゆく人々の家財道具のブローカーをやり、金や宝石の密送を手伝う。またスペイン内戦の時には、マドリッドで、トレドで、バルセロナで多くのスペイン美術の傑作を手に入れ、アメリカへ売りとばした。第二次大戦が勃発《ぼつぱつ》するぎりぎりまでパリーにいて、避難するブルジョアたちの家財道具を引きうけた。そして最後の船で南米にわたり、南米にいるドイツ人、イタリー人の動産不動産を買い占め、終戦後は、どういう手づるでか国際連合の救済機構に参加し、いち早く上海に姿を現したのであった。彼は日本人の所有品や略奪品にろくなものがないことに呆《あき》れながら、そのまま居据って中共の南下に脅えた国民党要人や金持の所有品を二束三文に叩いて買い、良質のものはマニラにうつした……。そして戦後五年たって一応復興しかけている日本に姿を現したとは――木垣は自然、これからの日本で没落するものとは? と考えざるをえなかった。
「男爵、あなたは日本へ誰の葬式をしに来たのだろうか?」
ティルピッツは女たちを追いはらい、いままでハントが坐っていた席に、骨ばって大きな身体をどうにか落ちつけ、手品師が国旗をとり出すように、黒ずくめの服の袖から大きなハンケチをとり出し、ググウという異様な音をたてて洟《はな》をかみ、蝶《ちよう》ネクタイのような口髭《くちひげ》を丁寧に拭いてから、
「葬式? 葬式なんかじゃない。わしはいささか日本の美化に貢献したいと思ってやって来ましたのじゃ」
とゆっくりゆっくりドイツ語風のアクセントの残響を漂わせながら英語で答えた。西洋の貴族というものがどういう言葉遣いをするものか、木垣は何の知識ももたなかったが、この老人は韻でも踏むように句節の切れ目の音を浮かすような風にひびかせた。
「美化とは?」
「そう。わしはいま花屋をやっとる」
「花屋?」
「いや、交通が便利になって、アメリカから飛行機で二十時間内外で人が来る。旅客たちは米本土を出発する時に、大てい花束をもらって来ますじゃろ? 高貴で高価な薔薇《ば ら》などをね。これが二十時間内外じゃと、まだ充分生きておる。薔薇は殊に生命が長い。この花を飛行場で貰いうけたり買いとったりして、ちょいと薬品で細工をし、挿木《さしき》にする。一鉢日本円で二万円以上のものがざらに出来ますわい。何分、わしは貴族で、子供の頃から薔薇をつくる以外に土というものをいじったことがない。薔薇は専門家です。……おや、シャンパンを飲んでますな?」
ティルピッツはふと厚ぼったい肉の奥の眼をあげて、こんな素人《しろうと》臭いものを飲む木垣の相手は何者だろう、という風にバーの方を見た。バーからはハントが不快そうに健康な顔を歪《ゆが》めて戻って来た。恐らくこの性急な青年は、老練な中国人支配人に巧みに手玉にとられたのであろう。ハントが来ると、ティルピッツは、
「失礼」
と一言素気なく云って重々しい面持をつくり、オランウータンのように長い腕をだらりと下げたまま、少しも手をうごかさずに立去った。その幾分猫背な後姿を見ていると、この老人のそのまた祖父あたりが、陰鬱な中世風の城の中で、巨大な椅子に腰を下し、音楽を演奏させながら気品の高い薔薇の花に凝《じ》っと見入っている不気味な様子が空想された。しかしここは中世の城などではなく、戦後の日本の、片仮名でヨコハマと書くのがふさわしい港近くの、中国人経営のキャバレである。黒服の老人が両手をだらりと下げて喧騒なジャズの音を縫ってゆく様は、何としても不調和なもので、折からフロアーではじまったストリップ・ショオなどよりも強く人の眼をひいた。
「あの老人、ときどき来るの?」
と木垣が再びよって来た女たちに聞くと同時に、ハントが「あれ一体何者だ?」と、先刻の不快そうな様子とはがらりと変った無邪気な、アメリカ人らしい好奇心を示した。木垣は眼でハントにちょっと待て、と合図した。
「うちの支配人の知り合いの方らしいのよ。ときどき、ひょっこりといらっしゃるの、そしてね、誰ってまだきまった人はないんだけど、時によっちゃ、物凄《ものすご》いチップを下さるのよ。それもここがハネてから後の|つとめ《ヽヽヽ》なんか全然なしでよ」
女は後半を強調しながら、まるい眼を一層まるくして老人の席にいる女を羨《うらやま》しそうに見詰めていた。ちんまりとした鼻に大きな口をしたこの日本の女は、これは何という無邪気な顔であろう。先刻挨拶に来た中国人の支配人、それにティルピッツ、またハントと比べてさえ。木垣はふとその女の手をとった。手は温く、酒のために早くなった脈搏《みやくはく》さえ感じられそうに思われた。彼女の言葉の端々にはまだ彼女が生れて育ったらしい日本の田舎《いなか》の臭《にお》いがのこっていた。こういう女性が、奇怪な色のドレスをまとい、異様な外国人たちと接して、一体どういうことになってゆくのか。この女が子供を生むとしたら、一体どういう子供が生れて来るのか。この女の背後にあって、木垣自身をも含めた日本全体の影像――そのなかへ既に様々な外国が地表だけでなく、或る部分では子宮のうち深くさえ入り込んでいる筈だが……。そんなことを考えるともなしに考えていると不意にあることを思いついて、木垣はハントの顔を思わず凝視した。
彼は、老人がここの支配人の知り合いであるという女の話から、もしかしてティルピッツ男爵が、張国寿の云った組織云々と関係があるのではないか、と思ったのであった。決して不可能事ではない筈であった。彼は老人が上海《シヤンハイ》で武器を扱っているらしいという噂を聞いたことがあったのだ。
「あれ、何者かね?」
ハントが催促した。木垣は、老人はティルピッツ男爵と云い、国際的ブローカーらしいが詳しいことは何も知らぬ、と答えるだけに止《とど》めた。
「ところで、何かつかめたか?」
木垣が話題を変えると、ハントは駄目《だめ》駄目、一度や二度では勿論《もちろん》駄目、といった風に肩をすくめてみせた。ハントがまたシャンパンを註文したのを止《や》めさせ、カクテルに代えると、また支配人がやって来てハントに、土井という日本人があなたを呼んでいるが、と告げた。
木垣はなれぬ英語で喋りつづけて疲れていたせいもあって、元来英語の方が楽な土井少年にハントをゆずりわたしたかった。そして家へ帰りたくなった。土井がハントに、先刻羽田で出迎えた水泳選手が如何に素晴らしい青年たちであったかを最大級の形容詞を使って語り、こんな戦争最中にも運動選手を送り込んで日本人の気を晴らしてくれる米国の対外政策を賞め讃え、あげくのはてに明朝特別インタヴュをしたいから斡旋《あつせん》してくれないか、などとべらべら喋っているのを聞いていると、ボーイがティルピッツからのメッセージをもって来た。勘定用の紙の裏に、ドイツ語で何か書いてあったが、木垣はドイツ語が読めず、何しろちょっと話しに来ないか、ということだろうと思って、ハントと土井に別れを告げた。ハントはわざわざつきあってくれてありがとう、また近く社へ会いに行く、君の話は心に銘じて覚えておく、
「さよなら、考えるミスター・サルトル・ジイド君!」
とにやりと唇《くちびる》の端を曲げ、眼でティルピッツの席をさしてつけ加えた、「君の|お化け爺さん《モンスター》によろしく」
木垣は床を踏んで歩き出してみて自分が相当に酔っていることを知った。そして痩《や》せて面長な日本の女を抱くようにして坐りながらも、顔だけはきびしい、生真面目な表情をした六十男、オーストリー旧貴族の前に立ち、改めて握手しながら困ったことになったな、と思った。酔ってしまうと、彼の語学は、英仏ごちゃまぜにまざってくるのであった。しかも彼はティルピッツが日本に来ていることに、何とない、不快なものを感じ出していた。しかしこの老人がこんなところにとぐろをまいているからには、日本にも恐らくはこんな男をうごめかすだけの下地が既に出来たのではないか。
男爵はあまり上等ともいえぬスキダム酒を木垣にすすめたが、
「シャンパンを飲んでいたな。それじゃもう女か冷い空気しか欲しくはあるまい。この子の相手をしてくれるかね?」
老人から見れば娘よりももっと幼い筈の日本娘は、いくらか英語がわかるかびっくりしたように木垣と老人を見比べたが、老人は木垣にもとよりそんな気がないと知ると、内ポケットから米ドルや占領軍の軍票、日本円などをまぜまぜにした札束をとり出し、丁寧に日本円を選りわけ、ありたけの円紙幣を女に渡しながら呟《つぶや》いた。
「人間というものは、住む国が小さければ小さいほど、大きな札を刷る習癖がある……。明日はどこの客がわしに金をくれるかな」
女は訴えるように木垣を見上げ、
「このお爺《じい》さんね、来るといつでもあんなこと云うの、まるでこれから自殺でもするようなこと云うのよ」
「まあ、心配しないでいいよ」
全く心配することはなかった。男爵は何処の誰にも、全く責任のない身の筈であった。彼の階級は第一次大戦及びヒトラーのため、また第二次大戦のために全滅させられた。ウィーンは四国占領下にあり、恐らく彼は帰ろうにも帰れないであろう、たとえ入国するとしても、恐らく彼はオーストリーに国籍のない、外国籍の人として入ることになるのであろう。親戚や知り合いがアメリカとアルゼンチンにいると、上海《シヤンハイ》にいた頃語ったことがあった。
「外へ出ましょうかな。まだ日本の空気はいい。安定はしていなくても、少くとも空気に死臭がない……」
木垣は波止場近い横浜の風景――どの建物の看板も、悉《ことごと》く全部横文字であった――を気持よく受取っている自分に気付いてはっとした。あたかも外の世界と遮断《しやだん》された、外国租界の中で保護されている、そんなような気分になっていたのではなかろうか? 時々疾走してゆく自動車は、周囲の建物とぴったりしていた。そういう、いわば無機的な近代的風景を小気味のいいものに思うことは、じめじめした風土での生活にとって、衛生上必要なことでさえあろう。しかしこの風景の裏にあってこれを支え、或《あるい》はこれらの建物の真下に、ひしゃげた瓦屋根《かわらやね》や地面に直接したわらぶきの家や泥の家に住んで、これと相対している日本の民衆、アジアの民衆――殖民地、半殖民地、及び被占領国民の思考は、決して真直《まつすぐ》には伸びえない。それは必ずどこかで屈折し、挫折《ざせつ》する。
白人の商人や船乗り、それに印度人、中国人、インドネシア人などの方が、日本人の客よりも多いキャバレにいたことの反動もあろう、またそこを出た拍子に、淫売が一人よって来て木垣の顔をのぞきこみ、なんだジャップか、と云ったことの反動もあろう、いずれにもせよ、彼はいつの間にか〈われわれ〉と複数で考えていた。しかし、考えてみればそこに、戦争中の国家主義民族主義の残滓《ざんし》が、名を変え色どりを変えてこびりついていないとは、断言は出来ない。ここでもけじめはぼやけていた。しかも見る人によっては、木垣は既にあちら側の人、ということになるかもしれない。〈われわれ〉――われわれとはそもそも何か? しかし少くともこの複数の相手が、がっしりした足どりで傍を歩いているティルピッツ男爵ではない、またあってはならない……。彼は昨日の夕方、御国と妙な小説論をやったことを思い出し、この〈われわれ〉を『小説』で腑分《ふわ》けしてみたら、と考えた。すぐ傍に、世にも稀《まれ》なほどロマネスクな人物が、相変らずだらりと両手を下げて歩いているにも拘《かかわ》らず。
「おい、息子、わしは上海で君と別れてから、例のガラクタをマニラ経由でアメリカに売込み、そして欧洲の入口まで行ってみた」
黒々とそびえたった教会堂の前まで、広い道を二人とも黙りこくって歩いて来た時、ティルピッツは、マイ・サン(おい息子)と口を切った。眉と眉のあいだに盛り上った肉と対照をなす鋭い直線的な鼻梁《びりよう》や、一文字にしまった口許には、六十歳を越している筈の、老いの翳《かげ》などいささかもなかった。
「印度洋を過ぎて、船が東アフリカのソマリランドに近づいた。冷い風が吹いてくるのに、太陽は火のように熱かった。左舷の方に、青い海から直接巨大な岩壁がつっ立っておった。海の青にくらべて、岩壁は紅に近いほどに赤茶けておった。岩の割れ目からは、熱い砂が滝のように海に流れ落ちておる。岩の内側は、木もなければ生物も住まぬ、熱の沙漠《さばく》なのじゃ。何年振りかでこれを見て、わしは胸を衝《つ》かれた。その中でわれわれが育ち、かつそれを信じて生きて来たヨーロッパ文明の外側の枠《わく》が、この恐しい不毛の熱の沙漠であり、北に向っては北極洋であり、東に向ってはロシアの、涯《はて》もない、無のような――ヨーロッパ的概念から見ればだよ――ロシアの草原だったのじゃ。人間が煮えくりかえっているヨーロッパという鍋《なべ》の、その外側の面《つら》つきを、わしはソマリランドの岩壁にありありと見る思いをした。遺憾ながらわしはこの鍋の面つきに気付いてしまった。人間、気がつくということは……。たとえばわしが貴族であったことに気付いた時、わしの階級は終っておった」
木垣は老人がいま本当の話をしているということに何の疑いももたなかった。上海時代の経験で、彼は男爵が、時々完全に架空な自叙伝を語って聞かせることを知っていた。自分の生きるべき土地と階級を失ってしまった人にとっては、自分がどんなものであったかということを、その土地と階級に何の関心もない人に語って聞かせたところで何にもならぬということを、彼はよく知っていた。だから、彼は時と場合によっては、何にでもなる。貿易商、美術品|蒐集家《しゆうしゆうか》、ギャング、ゆすり、貴金属宝石商、密輸出入業者、小国の外交機関顧問、金融業者、賭場《カジノ》の焦点的人物、何にでもなり、どんな過去でも極めて巧みに構成した。その点彼にとって現実は無用のものであって、彼は自分で創《つく》り出したロマネスクな世界に生きていた、と云っていいであろう。
「船がジブチへ着いた。わしはもうヨーロッパを見にゆく必要を感じなくなっていた。それでジブチで下船して、対岸の、アラビアのイェーメンへ渡った。イェーメンには、印度や中東、アジアや南太平洋地区の不安定なのに脅え、かつは自分たちの独立国が出来たので、そこに安住しようというユダヤ人が充満していた。息子《マイ・サン》、あのユダヤ人でさえが互いに集って住まなければならぬという、いまはそういう時代なのじゃ。みなイスラエル行の飛行機に乗る順を待っているのだ。イェーメンで飛行機を見つけてアジアへ帰るつもりだったが、ふとイスラエルのユダヤ人の国を見にゆきたくなった。それで座席を見つけてテル・アヴィヴへ行ってみた。まだアラビア人やシリア人と戦争しておったが、しかしわしは生れてはじめてといってもいいほどに驚いた。イスラエルでは、自然科学、社会科学など、西欧世界が与えうる最高の教養をもったユダヤ人たちが、最低に近い無智文盲のアラビア人シリア人と、本当に手に手をとりあって、何をしていたと思う? 百姓をしていた! 荒地をその手で開拓していた。それでわしは思った、ヨーロッパ文明がその文明のゆえに、近いうちに根柢《こんてい》から破壊されても、きっとイスラエルからはまた新しい文明が生れるだろう……と」
「近いうちにとは?」
深夜の鋪装《ほそう》道路にひびく跫音《あしおと》は、あたりのビルに反響した。皮膚の色はもとより、生活の歴史も、何もかもまるで違うのに、跫音だけは何の区別もない、人間らしい音をたてていた。そしてその同じだということが、ふいに木垣の胸に異様な感動を呼び起した。ティルピッツは、木垣のぶざまな質問には答えず、
「息子《マイ・サン》、君はひょっとしてわしが絶望して自殺するのじゃないか、などと思うかもしらんが、わしはもうとっくから墓場なのじゃ。わしの階級、貴族などというものは世界中どこにも存在しておらん。わしの存在そのものが、もはや一つの虚構《フイクシヨン》なのじゃ。|いかさま《フイクシヨナル》だ。わしはもう二十年くらいのあいだ、様々の服を着更えて来た。時には一日に二度も三度も。服を着更える毎に、きれいさっぱりとその服に合った気持に、自分の気持を転換する術を心得た。一着の服で人間が変るものなら、人間など存在しないも同然だろう。しかしわしは死にたくない。もちろんこれはいつ死んでもいいという意味でもある。だからわしは動乱が起って人間の新しい血の流れるところへ来て身を温める。動乱、それはつまりわし自身なのだ。もう一度云いかえれば、動乱や革命は、人間的理由に始まって非人間的結果を生む。わしはその結果なのだ。動乱や革命の、非人間的な結果のなかに、なおかつ人間的なものをつくり上げようとする、見方によって徒《いたず》らな努力、その努力自体の中にしか現代の希望はない。……わしはそれを現場近くで見ていたい。わしの息子たちは、三十五を頭に、みなコンミュニストになってしまったらしい……。君がさっき一緒にいたOA通信のハワード・ハント、あれなどもフレッシュな血だな」
木垣は深い淵《ふち》に沈められたように思った、あらゆるものがその底でうごめき、流血している、そしてその暗い奥処《おくが》に、東洋人の場合で云えばまったく老人にふさわしからぬ、苦悩或は思考につぶつぶの汗をかいた、彫り込みの深い顔が浮んでいた。淵につり下った木垣の身内で時計の振子が振幅大きく右に左に揺れ動いた。老人は星空を仰いでいた。
ようやく浮び上って彼は男爵がハントの名を知っていたこと、あの中国人の支配人がティルピッツにハントを指さして何か囁《ささや》いていたことなどを思い出した。
老人は通りがかった外人用タクシーを止め、木垣に東京行終電に間に合うかどうかを聞かせた。あやうく時間があることがわかると骨ばった手で木垣を車の中に押し込み、自分は外に立ったままで、
「息子、また会おう、わしの電話番号は……だ」
と東京の番号を木垣に書きとらせた。
桜木町駅構内は深夜にもかかわらず、万国旗のような衣裳をひらひらさせた若い男女で、むしろにぎわっていた。終電に駈《か》け込み、座席をみつけて坐って腕組みすると、上着の内ポケットががさついた。何か紙切れのようなものが一まとめ入っている。何だろう? まさかあの張国寿が云った〈組織〉の連絡文書ではないだろうが――といぶかりながらも木垣は手で触れるのが何か恐かったので、若者たちの歌う文句を聞くともなく聞いていた。
――メスかコルトか、生命とり
…………………………………………
――こんな女に、誰がした
…………………………………………
――霧が汚した、聖処女地
…………………………………………
歌の文句はいずれも挫折《ざせつ》に関するものであった。そしてそれを歌う男女も、挫折し屈折し歪《ゆが》み曲ったものをのっぺりと無表情な表情に託し、口|許《もと》を嗜虐《しぎやく》的にゆるめていた。
「おい、あれ見ろよ!」
突然彼の前に立っていたアロハシャツの若者が窓の外を指さした。
遥《はる》か下方の貨物列車用のホームには、あかあかと電燈がつき、銀色の砲弾めいたものを無蓋《むがい》貨車に積込む人々がサーチライトに照らし出されていた。
「あれよォ、あの木の枠ンなかへつっこんだ砲弾みたいなもンよォ。あいつァ、飛行機の補助タンクだぜェ」
「こっちで作っとンのかよォ?」
「そうよ。あいつを翼の両側へとっつけてよ、対馬《つしま》海峡のこっちから戦闘機が飛び出すんだってさァ。それでよォ、あいつの中の燃料がなくなるとな、捨ててくるんだとよォ」
「ふ――ん」
「おい、ツタ公のアレよ、アレ飛行機乗りじゃなかったっけなァ?」
「そうだったかナァ?」
そんな会話を聞きながらも、木垣は内ポケットの紙片をしきりに気にしていた。
四
蒲田《かまた》の駅を出てすぐのところで、何か事故でもあったのか、三十分ほど停止し、阿佐ヶ谷の家へ帰るには中央線の終電を利用出来なくなった。編集局のどこかでごろ寝すればよかろう、と心を決め、木垣は夜半一時過ぎ、社へ戻った。
昼間は、人間と電話と紙切れが主客のけじめあやしくごったかえしている、だだっ広い編集局はがらんとして、あちらこちらに一人二人、二人三人と夜勤の記者が電話と頭を並べ、机によって居眠りをしていた。電話のベルが鳴れば、この頭は機械的にむっくり起き上って机とのあいだに距離をおくことになる。碁や将棋をうっている連中もいた。パチリパチリと盤面に置かれる石は電線や送稿管の錯綜《さくそう》した天井や壁に反響し、およそ電話と輪転機に象徴されたこの社会の機構とはかけはなれた音をたてていた。
渉外部に誰が来ているか、と思って汚れた柱の間から窓際のデスクをすかして見ると、副部長の原口と御国が何か喋《しやべ》っていた。見定めてから、木垣は、先ず何よりも第一に、という風に踵《くびす》をめぐらして便所へ行った。内ポケットの紙切れが気になったのだ。
便所の中で何か秘密な、いや個人的なことをする――彼は軍隊にいた頃を思い出した。人おのおののプライヴァシィというものが、全く無視された社会では、個人個人の秘密は、糞便をたれるためにしゃがむ、あの時のような姿勢で人々の胸の中にわだかまっているのだ。
ポケットの紙切れは――彼は電車の中で間をおいては何度か指先で触《さわ》ってみて、横に長いそのかたちや、十三枚全部が大体同じ大きさであることから、紙幣であるにちがいないとは知っていたのだ。そしてまた、これが恐らくはタクシーに乗るとき、変に彼を押し込むようにしたティルピッツ老人が、そっと彼のポケットにつっこんだものであろうことにも、気付いていたのだ。
紙切れは案の定、米ドルであった。百ドル紙幣が十三枚、千三百ドル。闇相場で大体五十二万円にあたる。木垣の生活にとっては、見たことも触れたこともない金額であった。
しかし何故、何故ティルピッツ老人がこんな金を木垣に(くれたのか、あずけたのか)?
便所から出て電燈ばかりが煌々《こうこう》と輝いてはいるが、どことなく陰気で犯罪めいた匂いのする巨大な部屋のセメントの床を踏み、彼は渉外部のデスクの方へ歩いていった。(くれたにしても、あずけたにしても)、理由が全然わからない。しかしこの金をきっかけにして、彼が、たとえば新聞の第一面と第二面の中間、中間というよりも、二つながらの裏側にうごめく、異様な運動体の中へ自動的に繰り込まれてゆくことは、すこぶるありそうなことであった。夜があけたら、先刻横浜で別れるとき、老人が云った東京の電話番号が、どこのどういう電話であるか調べてみよう。
原口と御国が、どうしたんだ? という顔つきで木垣を見上げた。
「横浜で飲んじゃいましてね。中央線がなくなったから、社でとまろうと思ったんですよ」
「さっき土井君から電話があったよ、ハントと一緒だったってね。君、なかなかやるじゃないか」
原口は鉢巻《はちま》きをしめなおし、まだ生えそろわぬ口髭を気にしながら、
「おれ、ちょいと横になるぜ。木垣君も御国君と一緒に、ついでに夜勤をやっちまえよ」
「木垣さんは、臨時でね、まだ社員じゃないから、夜勤はないんですよ」
「そうか、ふう――ん」
原口は木垣の顔を見詰めて何か考えをめぐらしているようであった。
外信部の夜勤は机に伏して眠りこけていた。テレタイプがコツコツと自動的に電文を打ち出していた。御国が立っていってテレタイプから黄色い電文を切りとって来て、一応読み下し、木垣に手渡した。
[#ここから2字下げ]
――ロンドン発――当地の金融筋ではニュー・ヨークからの情報として、ソ連は外国市場で多額の金塊を売却しようとしており、澳門《マカオ》、香港《ホンコン》、フランス、スエーデンに大量の金を送るため、欧洲市場、特にブラッセルでダイヤモンドを売却中といわれる。ソ連が引続き外国市場、特に東洋市場で金を大量に売却すれば、世界中に全般的にデフレをもたらすおそれがあり、その影響は戦後のインフレよりももっと深刻なものがあろう。問題はソ連の金塊手持がどの程度に上っているかにある。パリーの金塊市場はソ連の意図に対して深刻な警戒ぶりを見せている…………
[#ここで字下げ終わり]
御国は外信部のデスクへ電文をかえしにいった。
「あれはどういうことなのかね、君はコンミュニストらしいが、ちょっと説明してくれないか」
木垣の額には、気軽な質問の調子を裏切る深い皺が刻まれていた。彼には、この一片の報道が政治的世界の氷山の頭のように思われたのだ。こういう、後になって必ず意味を増してくるに違いない、国際政治上の事故や事件が、一体どういう風に個人的人間に於《おい》て消化され統一されるのか。或は消化や統一の全然外で、たとえば朝鮮の難民たちのような工合に、事は人間外で起って人間を捲き込んでゆくにすぎないのか。動乱や革命は、人間的理由に始まって非人間的な結果を生む、というティルピッツの言葉が思い浮んだ。それにまた、彼が電文を御国にかえした瞬間、こうした国際的な事故事件と、人間との、この二つのうち、どちらか一つはフィクションではないか、もしどちらかがフィクションであるとしたら、いまでは人間、人間の概念の方が稀薄《きはく》になってしまって、いわばフィクションに近づいているのではないか、そういう思いもちらとかすめていったのであった。
「つまりですね、これはコンミュニズムが、単に一国内の革命とか、革命戦争とか内戦とかという段階を通り越して、実際に世界中の経済機構を揺り動かすだけの実力が出来て来た。従来は資本主義がイニシアティヴをとって国際市場を帝国主義的におさえて来た――木垣さんなんかにおなじみの言葉で云えば、非人間的な経済機構のかわりに、金などという無価値な、化物みたいなものを排除した人間的な経済機構が、誕生の芽を吹き、既に枝葉をのばし出した、ということですよ、世界的にね。金塊なんか純金だろうが何だろうが、われわれ労働者や農民には、贋金《にせがね》同然ですからね」
三十になったかならぬ年頃の御国が、きれいさっぱりと(と木垣には思われた)――説明し切るのを聞きながら、木垣はふたたび内ポケットにしまった、ティルピッツの千三百ドルの札束が気になって来た。ひょっとしたらこの金は、いまの電文と不可分な関係のある金ではないか……? 老人は欧洲からの帰りに香港《ホンコン》に滞在したと云わなかったか……? 香港は澳門《マカオ》のすぐそばである。木垣はまた数日前に訳した長文の香港の対中共貿易に関する電報や、あれこれの電文を思い合せた。
もしこの金がそういう金であるとしたら、そして彼が何かの目的に使用したとしたら、彼は自らの意図及び使途の如何《いかん》にかかわらず、向う側、国際情勢という化物《モンスター》に、消化され統一されてしまうことになる、若し、彼、木垣自身の存在が稀薄で虚構《フイクシヨン》に近いとすれば……。ここに一つの分水嶺《ぶんすいれい》がある。
彼は、自らわしは虚構《フイクシヨン》じゃ、と云っていたティルピッツが、わしはそれを現場近くで見ていたい、と呻《うめ》くように云ったときの、重々しく充実した、圧倒的な存在感を思い出した。
「すこし横になるよ」
御国が、いいよ、という風にうなずいたので、木垣はあちこちから椅子をあつめてきてその上に長々と寝た。
ところが驚いたことに、身を横たえて眼を瞑《つぶ》ると、すぐそばでテレタイプはひとりでコツコツと電文を打ち出してはいたが、途端に世界の情勢も人間の概念も拭《ぬぐ》ったように消え去り、木垣の赤黒い網膜には阿佐ヶ谷の家に、いや応接間に畳をしいた貸間にいる、妻の京子と、近く二歳の誕生日を迎える幼な児の寝姿が浮んで来た。それは別に驚くべきことでも不思議でも何でもないことであったが、海を越えたすぐ向うの朝鮮では、何十万という難民があてどもなく食もなく、夜の中を彷徨《ほうこう》し死に果てているという時、また一日に数十本も世界の不安定を伝えてくる電報を処理しながら、なお安らかな妻子の眠り顔を思い浮べられるということは、やはり不思議と云っていい筈である。〈不思議……〉と考えていると、網膜からはいつか妻子の顔は消え去り、奇妙に細長い島か船のようなものが浮び上って来た。その船の上には、旧仮名遣いの『ゐ』の字のように、ぐったりとあぐらをかいた人間があふれんばかりに坐りこみ、船は海峡のようなところにさしかかっていた。そしてどうやら船は自身の重みで沈みそうになっていた。右舷に坐り込んだ人々は、狡《ず》るそうな顔つきで坐ったまま右の方の陸地に船をしばりつけようとし、左舷の人は左の方の陸地に綱を投げようとあせっていた。同船者の大部分は、船が沈みそうなこともさして気にならないようで、相変らず『ゐ』の字のように坐り込んでいた。木垣は、これも坐り込んで首だけのばして右を見たり左を見たりしていた。そしておれはどうも重いらしい、おれのような重いだけの奴がいるから、この船は沈むのじゃないか、とはらはらしていた。そうだ、たしかにおれはこんなことをしながら、相乗りの客にも、向うの岸にもこっちの陸地にも甘えている……。そんな彼を処罰でもするように、甲板にはあっちからもこっちからもごつごつしたものが突き出ていて、腰が痛かった。あまり居心地が悪いので右か左かどっちかへちょっと位置を変えようと身じろぎしたとき、木垣はごつんと机の足に頭をぶっつけた。
「寝にくいでしょう。宿直室へおいでなさい、きっとベッドがあまっていますよ」
起きあがろうとすると、内ポケットのドル札がまたがさついた。
千三百ドル、五十二万円。全く責任のない、拾得物でさえない金……。木垣の頭は、京浜電車の中でそれが札であることに気付いた瞬間から、躊躇《ちゆうちよ》や恐れなどとは別のところで一つの計画をたてていたのだ。
先程彼は網膜にうかんだ京子と幼な児を、〈妻子〉と呼びかけてあわててその言葉をのみ込んだ。彼と京子は、法律上の夫婦ではなかったのだ。二日ほど前の午後、御国と喫茶店で話したとき、木垣は家庭のもめ事をおこし、前の社の幹部に中に入ってもらったことを話した。その当時、彼の法律上の妻は、弁護士を通じて、いま彼の内ポケットにある金の約半額をよこすなら離婚証書に署名すると云ったのであった。
千三百ドル、五十二万円――もちろんこれだけの金額をそっくりそのまま渡していい筈だ――しかし、と木垣は考えた。これで京子と子供の籍が入ったにしても、この得態の知れぬ金で買い取った自由には、必ず罰がともなう筈である。すなわち、この、自ら労働してえたのではない金の行使以後は、彼は彼自身の自由の主人公ではなくなるのだ。つまりこの金も、それによる自由も、元来一つの事故にすぎないが、この事故を自らの中にくりこんで利用した後は、劇の主人公は入替ってしまうのだ。
誰にしても五十二万円の偶然の金は、必要でも不必要でもないであろう。彼は何となく自分が或る任意の副人物になったような気がした。そして彼自身の主人公の存在をたしかめでもするように、ポケットを上から手で触ってみた。手を胸においたまま、しばらく天井を仰いでいると、御国とかわした、例の事実乃至《ないし》事件乃至事故が主人公になるという、小説論議が思い出て来た。また、わしは動乱の結果それ自体なのだ、と云ったティルピッツの横顔が眼に浮んだ。内ポケットの札束は、たとえ国際情勢という暗渠《あんきよ》からつかみとられて来たものであったとしても、決して贋札《にせさつ》ではあるまい、丁度ティルピッツが断じて物語中の妖怪《ようかい》ではないように。しかしその金で人間を、木垣自身がかつてコミットした過失をあがなおうとすると、一瞬にして贋金にかわり、あがなう人間もまた自らの主人ではなくなる――そこにも一つの分水嶺がある。
この事故と金と人との、解き難くもつれあった事態の奥に茫《ぼう》と見えている分水嶺、その峰の峙《そばだ》った道の両側に、事件や事故ではない、現代の劇があるような気がした。
おれの〈小説〉のテーマはそれだ――しかし〈小説〉は半熟卵のように次第に形をとって来ても、椅子を並べて窮屈そうに横になった木垣の姿勢に変化はなかった。単なる事故と劇、事件と劇、と考えていると、彼の法律上の「妻」の顔がぼんやり網膜に浮いて来、たちまち小説よりもはっきりした形をとり出した。彼はあわてて眼を見ひらいた。そしてしばらくは水死人のように瞳孔《どうこう》をひらき切りにしていたが、やがてゆっくり瞼《まぶた》がおりて来て、小説も事故も水面にとどめたまま、彼は眠りの水底へ沈んでいった。
いま、あわてて眼を見ひらいたように、彼は戦争の初期に、あわてて(恐らくは眼を瞑《つぶ》るために)結婚したのであった。そして形の如く結婚後一カ月で召集され、入隊早々に胸を悪くして軍病院に三カ月厄介になって召集を解除された。軍隊生活になれ、そこに人間の恒常なものを見出すには、あまりにも不充分な経験であった。しかもその期間は、いかに眼を瞑ろうと努力しても、若い木垣はそれまで、後生大事に破らぬよう、水にも濡《ぬ》らさぬようつとめて保護して来た護符をひきちぎるには充分であった。この護符には、祖国とか皇軍とか万世一系とかいう言葉が裏書きされ、護符はその言葉を保証とし担保として、次に茫々として思考の消滅した、救いにも似た晦冥《かいめい》な世界への変容を可能にしてくれる筈であった。召集解除になってみると、おのれはもとより、生活自体が白けたものに見えて来た。座が白けたとき、人は親友に対してさえ酷薄になり、無責任になることがある。彼は妻をおきざりにした。国内政治と云い、国際政治と云い、それは電波のように大気の中に空転する何物かでは決してない。人は政治とともに、個人的犯罪をも犯すのだ。
彼はつてを求めて香港《ホンコン》にわたり、ついで上海《シヤンハイ》にうつった。そこでドイツ大使館の上海情報処につとめていた京子と知り合った。このドイツの役所に、一人の中国人青年がいて、この青年と京子は親しくつきあい、時には自分がタイプした文書の内容や日本のことなどを話し、それについて議論をした。ところが終戦後この青年が重慶のスパイだったことがわかった。京子は無意識のうちに情報をもらしたのだ、と云ったが、木垣はそれを信じなかった。勿論彼女は日本側の憲兵隊に強制されてドイツ人の動向を喋《しやべ》った。そしてドイツ人との日常会話のあいだに、日本及び日本人の動向を話題にしたであろうことは疑いを容れない。いわば意識せざる三重スパイである。ところが木垣が驚き、かつさもあろう、と納得したのは、敗戦後、誰もかれもが日本の悪口を云って得々としていた時、彼女は日本に関する情報をドイツの方法を通じて重慶に洩《も》らしたことを激しく後悔しだしたことであった。原因不明な熱病みたいなものを病み、また強度の神経衰弱に陥った。木垣が、近衛内閣の参与をしながら、国家機密をソ連に通報したというゾルゲ事件の時の、日本人関係者のことを話し、君もまたそんな風に、愛国者だったのかもしれぬではないか、と、慰めても、ゾルゲのことなら知らぬでない、と云い、決して首肯しなかった。彼女の考えていることは、それとは全然別のところに、すなわち、そういう国際間の問題に、生身の生活をもった個人がコミットしてゆくことそれ自体にあるらしかった。
敗戦後の日本同様、語学さえ出来れば食いはぐれのない時に、彼女は決して動こうとせず、帰国して木垣との同棲《どうせい》生活が上海同様に続き、木垣の収入だけでは食い物にも困るほど窮迫しても、また占領軍関係につとめたらどうかという誘いがいくらあっても、かたくなに断りつづけて放出のトウモロコシ粉入りのパンを黙々と齧《かじ》っていた。彼と彼女は、いわばお互いの精神の崩壊した一角で結び合されていたのだ。緊迫した国際情勢、国際関係という劇薬が、島国育ちの青年の心の皮膚をやきただれさせたのかもしれぬ。或はまた、既にひび割れていたところへ、この劇薬が浸透して来て、実直なものを変質させてしまったのかもしれぬ。しかもそうした、ただれてひびの入った人間は、三重スパイとして最も適当なのだ。土井少年のコミットメントもまたその例外ではない。
しめっぽく露をふくんだ夏の夜が明け出した頃、突然議論をしているらしい高声のために彼は眼を醒《さま》された。
「何を云ってやがる! 手前らの愛国心なんぞは――第一、手前らの祖国は日本じゃねえじゃねえか!」
木垣は仰むけに寝たまま眼を開いた。怒声を発しているのは、原口副部長であった。
「あなたと議論してもはじまりませんよ。あなたの云う祖国というのは、税金や生活苦に苦しんでいる民衆が、現実に住んでいる祖国じゃなくて、戦争中の、あの煽動《せんどう》的な非国民という言葉を裏返しにしたものにすぎんじゃないですか!」
答えたのは御国であった。二世の土井がいつの間に横浜からひきあげて来たか、赤い顔をして原口と御国のあいだに一人前な恰好《かつこう》で立ちはだかり、
「まあまあ、原口さん、それに御国さんもまあまあ……」
というような、かつて米国に市民権があったという男らしからぬ、曖昧《あいまい》なことを云っていた。土井少年には、議論の核心がどこにあるか全然わかっていないらしいことは、眼ざめたばかりの木垣にも、一見して明らかだった。彼はケンカだ、ケンカだ、と思ったのだ。そしてケンカか、ケンカか、と夜明け近くなり退屈し切った夜勤の記者たちが方々からよって来た。原口は、ただでさえ厚い下唇をとび出させ、周囲の情勢如何によっては御国を撲ろうという気勢を見せていた。木垣は起き直って椅子に坐り、御国の顔をじっと見詰めた。彼は御国に実意あってのことか、それともどこかに活字で書かれてあったことを繰りかえしているのかどうか、たしかめたかったのだ。新聞記者というものは、十中八九まで、雑談をしているあいだは面白いが、議論をはじめると急に個性を失ってどこかに書いてあったらしい、四角四面なことを云い出すものである。しかし顔色をなくして、眼尻と唇を痙攣《けいれん》させているかに見える御国の顔からは、決定的なものは何も読みとれなかった。どうしたところから口論になったものかもわからなかったが、しかし原口の顔にあらわれたものは、御国の言葉に肉体的な嫌悪を感じて怒ったという、ただそれだけのものにすぎなかった。戦後五年になるけれども、まだわれわれのあいだには、統一的な祖国の姿というものが、誰の眼にもその位置の不安定さを重要な契機とするほかには、思い浮べようがないのだ。木垣はそう思ってふいに立ち上り、立ち上ったけれどもすることもないので手許にあった、誰が飲んだともしれぬ茶碗にのこった番茶をぐっと飲みほしたとき、原口が何かタイプした横文字の原稿を手にしていることに気付いた。二人がふいに口をつぐみ、睨《にら》み合いをはじめた途端に、緊張した空気を破ってテレタイプがコツコツとニュースを叩き出した。日本人が祖国を論じ合っているうちにも、世界に数多くある国々は、それぞれ落着かぬ世界にニュースと称するものをまきちらしているのだ。
二人は黙って眺めあったまま、しばらくはそのまま立ちすくんでいた。木垣は原口の手にした原稿の下に横文字で書き流したサインが、何か見たことのある書体だなと思いながら腕組みをした。その拍子に原口が、体重があるんだぞおれは、と云わぬばかりにどさんと腰を下した。そして引出しから罫紙《けいし》をとじた書類をひっぱり出し、再び立ち上って出て行った。御国は原口のデスクの上の、いまのタイプ原稿を木垣にさし示し、
「これ、いまさっき届いたハワード・ハントの原稿ですが、十二時頃まであんたハントと一緒だったんでしょう? 何か議論をしたんでしょう? もうちゃんと原稿になって来てますよ。これがね、いまの口喧嘩の原因ですよ。原口のバカがね、このハントの正面切った意見の尻馬《しりうま》にのって、日本のインテリなんていう奴は、国を亡《ほろぼ》すことだけしか考えとらん、なんて云い出すものだから……」
「再軍備論か……」
「いや、それで僕が、本当に考えさえすれば、本当の考えから国が亡びたためしはない、考えもせずに目前の利害の尻馬にのってうろうろする奴こそ国を亡すんだ、とそう云ったんです。そうしたらなんだか急に怒り出したんです」
木垣はハントの原稿を手にして、読むよりも先に、このアメリカ人の勤勉さに驚嘆した。恐らく彼は横浜からフル・スピードで事務所に帰ってこの原稿を叩き、直ちに届けさせたものであろう。
標題に『奇妙な日本知識人の愛国論』として、日本の知識人たちは、並のフランス人以上にサルトルのことなどまでよく知っているようだが、国際情勢の認識にかけては、驚くほど感傷的で幼児程度でしかない。或る者は日本の孤立孤独を強調するが、緊迫した情勢、特に朝鮮戦争以後にはどこにも孤立も孤独もありえないことに気付かず、気付いていながらも敢て眼をつぶろうとする。或る者はまた民主主義も生活水準も安全保障も自由も、一切が米国の援助にかかっている。換言すれば米国の援助のない日本は愛するに耐えない、とまで極言する。こういう不見識な、日本国民自体を侮辱したような愛国論は、どこから出て来たものなのであろうか、それともこれは日本知識階級が抑圧の歴史をくりかえして今日にいたったことから発した、一種の伝統的習性なのであろうか、云々。
読みながら木垣は背後に御国の鋭い視線を感じ、レンズを通した光線に皮膚をやかれるような感覚をもった。
「まくらの部分は、君が云うように、たしかに僕の云ったことをそのまま使っている」
「そうでしょう、どうもこの〈孤独《ソリチユード》〉なんて言葉は、ハントみたいな生きのいい記者の語彙《ごい》には、ありそうもないですよ」
「この主意の尻馬にのって原口が何をし出かそうというのか知らないが、こういわれても仕方のない面がある。僕はこの頃、国際政治という奴は、もうもう、完全に人間の理性を越えてしまったところで、戦争を唯一のリアリティとした怪物的な論理で、というより組織で運んでいるように思えて仕方がない」
「だからその間にあって人間及び平和はとりのこされて孤独だと云う」
「そう」
「だからですよ、さっきも経済機構のことで云ったでしょう。その孤独をつなぎあわせて人間的な論理にのせるようにしなければならないのですよ。フランス共産党の機関紙が『人間性《ユマニテ》』と呼ばれる所以《ゆえん》です」
ここでも木垣は、きれいさっぱりと、つきぬけられてしまった。しかし、木垣は御国の、張りのある、美しいとさえ云える顔を見詰めながら考えた。彼の論理にはあまりにも曖昧なものの影がない、曖昧なものをいささかも含まぬ論理は、日常人の論理ではなく、永久に闘い争う者の論理ではないか。しかし闘い争わず、流血を見ずして平和や人間らしい生活が獲得された例が、かつてあるかどうか……。
「とにかく、孤独というものはよく分りませんが如何なる組織も解消できない、全世界をはねとばすほど堅い、芯《しん》みたいな何かなんでしょうけれど、しかしそう思っているだけでは仕方がないでしょう。たとえ占領下でも一歩踏み出して行動しない限りは、あなたの云う〈孤独〉の中で、孤独でさえなくなり、次第に映画みたいにフェイド・アウト〈溶暗〉していって、日本という存在自体がどこかへ溶けてしまいますよ」
「木垣さん、あんた、こんないい仕事があるのに、なんだってこんな新聞社なんかへ来たんです?」
ボーイが各デスクへ朝刊の九版、最終版をくばり、それをわざとバリバリ音をさせてひらいた土井少年が、語尾をですウ、とひっぱって広告欄を指さして見せた。土井は恐らく、御国と木垣がまたケンカをするのではないか、と気をつかっていたのだ。或《あるい》は、二人の短いが緊張した会話が不愉快だったのだ。彼が指さしたところに、木垣が訳した探偵小説の広告が出ていた。
「どれどれ、『さまよう悪魔』、か、なるほど、なかなかいい題ですね。妖怪が真昼間、巷《ちまた》を徘徊《はいかい》する。まさか共産党宣言の書き出しから盗んだんじゃないでしょうね」
御国の冗談は、議論のあとだったせいかぎごちなかった。
そこへ食堂から原口が電話をかけ、木垣に、ちょっと話があるがよかったら朝飯をつきあわないか、と云って来た。
「いよいよ、正式に社員として採用するから――というんですよ、きっと。だけど、よしなさいよ、家で探偵小説《ミステリイ》を訳しておられた方が気楽だし、それに第一たのしいじゃないですか。こんなところにいると、末にはろくなことになりませんよ」そこまで云うと土井は御国をちらりと見上げて首をすくめ、「朝鮮みたいに革命でも起った日には、事ですよ、全くの話が」
土井少年は引出しをあけて、ポケットブックの探偵小説スリラー小説の類を八九冊もひっぱり出して見せた。みなアメリカ製の本であったが、どの本も、表紙には乳房だけがむっくり盛り上り、顔や身体全体の筋肉はだらりと弛緩《しかん》した女とか、階段にさかさに倒れた屍体《したい》や拳銃・薬|瓶《びん》などが毒々しい色彩でモンタージュしてあったが、中に一冊、木垣の眼をひいたものがあった。それはニュー・ヨークのタイムス・スクェアらしい交叉点のど真中に、ぼんやり立ちすくんだ男を描いたもので、男は四方から押し寄せてくる、色様々な自動車にいまにも轢《ひ》き倒されそうになっている。題名は "Stranger in Town"『巷《ちまた》の異邦人』というのであった。
三階の編集局を出て、六階にある食堂までの階段を上る途中、木垣の足は心と同じほどに重かった。昨夜の半徹夜のせいばかりではない、正式の社員になれとすすめられたらどう返事すべきか。この決断には月々の定収入以上のものがかかっていた。選択! 選択! 選ばない自由などは自由ではない――そんなことを頭の中で呟《つぶや》きながら五階目の階段を上り切ったとき、不意に彼は歩みを止めた。
"Stranger in Town"……
――任意の stranger を主人公にして〈小説〉を書いてみたらどうか。この任意の人物が、周囲の交叉し対立する現実に対応しつつおのれの立場を選ぶ。様々な事件や事故に接して選ばれたその立場位置が、今度は逆に、いわば対角線的に、この人物の位置を決定してゆく。つまり電波探知機が、電波を交叉させて飛行機の位置を測定するように。位置が決定すれば、それまで任意の飛行機であったものが、その位置にある或る特定の飛行機になるように、この人物は位置決定によって、任意の人物から特定の人物になる。そこまでを先ず描く。
世に任意の人物、臨時にちょっと雇ったといった人物というものは存在しない。みな特定の人物なのだ。だから任意の人物とは、全くの虚構《フイクシヨン》である。これは普通の、生きた人間のあり方とは逆であるが、逆算することによって未知数のX、すなわち各人を特定の各人として他から別様に成立させている、予見不能の地域をはっきりさせる。そこを照射することに力を集中する。云いかえれば、颱風《たいふう》を颱風として成立させている、颱風の中心にある眼の虚無を、外側の現実の風を描くことによってはっきりさせる――こうしておれの存在の中心にあるらしい虚点を現実のなかにひき出してみれば、おれは生身の存在たるおれを一層正確に見極めうるのではないか。予見不能の地域、颱風の眼、それは人間にあっては魂と呼ばれるものではないか。もしそれが死んでいるならば、呼びかえさねばならぬ。この〈小説〉の題名は、そうだ、ひとまず Stranger in Town これを意訳して、広場の孤独、とする。
階段の踊り場に立ち止り、片手を脇にあてて頭をかしげ、腹でも痛むかのような恰好で木垣はどぶ泥の臭いのする朝の風に吹かれていた。しばらくすると首筋や顔がべとついて来た。〈小説〉の思いつきもいつか湿って来た。この湿った風をうけては、何もかもが活溌に動きながら腐ってゆくように思われた。頭を使うことの一切に対する徒労感がつのって来た。〈一層正確に見極め〉て何になるというのか。朝鮮は、戦争だ、そしておれの一生、一層正確に見極め、眼玉をひらいたまま死ぬのか、おれたちは、朝鮮の青年、中国の青年、アメリカの青年、ロシアの青年、フランスの青年、英国の青年、ドイツの青年、日本の青年、おれたちは、戦争を一層正確に見極めるために生れて来たのか。敵、敵、戦争とは敵のことだ。『明後年は戦争です……。御存知でしょう?』といつか御国が云った。彼があんなことを云ったのは、恐らく戦争を防ぐために、しかもなお万一はじまった時に、人が確乎《かつこ》不動の立場に立てるように、人はいまから心づもりをしておかねばならぬ、再び汚辱と罪の淵《ふち》へ沈んではならぬ、という意味だったかもしれない。御存知でしょう? しかしおれは何を御存知だというのか、おれは、何一つ御存知ではない、第一社員になるかならぬかも御存知ではないし、明日から第三次世界戦争だと云ったところで、それはおれの御存知とは何の関係もない、まるで無関係ではないか、それでいながら決して無関係ではない。木垣はそろそろ消極的な、生きること考えることさえも、他人に手伝ってもらわねばならぬ自分の位置に飽いて来ていた。さっき、デスクの上にちらばっていた電文の一つには、貴重な原子爆弾の最も economical な使用法は population bombing だが、いまや原爆は多数出来たから、uneconomical な使用法をもあわせ考えねばならん、と書いてあった……。
彼は窓から下を見下した。新聞配達車が続々帰投して来ていた。そこへがばッと身を投げようか、消極に飽いたということが窓から身を投げることなのか。しかしいまここで身を投げることは、死ぬことでさえない、フィクションにすぎない。彼は土井が見せたスリラー小説の表紙絵を思い出した。
原口は生えそろわぬちょび髭《ひげ》に味噌汁のかすをくっつけ、箸《はし》でどんぶりから大量の飯をつまみあげては口へはこんでいた。
話というのは、社員になるならぬ、ではなかった。いやそれ以上であった。先に食い終った原口は首に巻いた手拭いで丁寧に口髭の味噌かすをぬぐいとり、顎《あご》をつき出して云った。
「あんたを信用しての話だが――あんたのことは二、三聞き込んだからね」原口は社会部で育ち政治部を経て渉外の副部長になった男であった。「それでだ。僕は今度この社をやめるんだ。別の仕事をはじめる。それでだ。あんたは、ずっと新聞社にいる気はないだろう、どうかね」
「多分、ありません」
「多分かね、大分頼りない返事だね。まあいいや。それでだ、単刀直入に云うとね、わしは社をやめて今度の警察保安隊に入る。渉外と情報をやることになっとるんだ。わしもね」それまでの僕という第一人称が、いつのまにか|わし《ヽヽ》にかわった、「わしもね、新聞の、その、無署名の記事ばっかり書いとる……この、何というかね、何といっても個人的な責任の、その、うまくない仕事に飽きて来たんだよ。それでだ」それでだ、それでだ、という言葉が鍵《かぎ》のようになって|わし《ヽヽ》に始まる告白めいたことを云った際の、変にインテリくさい顔が見る見る霧消していった。「それでだ。ちょっと、たしかめておきたいが、あんた思想的には無色透明だろうね、ええ? 大体みんなそう云っとったが」
「無色透明なんかじゃありませんよ。みんなって誰のことか知りませんが。不透明も不透明、曖昧模糊《あいまいもこ》として魑魅魍魎《ちみもうりよう》横行す、ですよ」
木垣は原口の、それでだ、それでだという粗笨《そほん》な言葉遣いに親しみを感じた。しかしこういう親近感こそ最も危険なものであろう。
「はッはッ、魑魅魍魎かい、恐れ入ったね。それでだ。とにかくみんなの云うことを信用するとしてだ。あんた、わしと一緒に来てくれんかね。こんな社で安月給でこきつかわれるこたあないよ。ペラペラもいけるしさ、ね」原口は楊枝《ようじ》を使いながらひょいと声を落した。「いまはどこの国だって国内政治ってもなァ無いに近い時代だよ。だからペラペラは……」
「読み書きはできても、ペラペラはだめですよ。それに僕は警察や軍隊は大嫌いです、折角ですがお断りします」
原口は急に手を伸ばして薬鑵《やかん》からどくどくと茶を注ぎ、木垣をぐっと見据えたまま、咽喉《の ど》仏を上げたり下げたりして一気に呑みほした。突き出した咽喉仏には、紫色の剃刀《かみそり》負けのようなものが粒々に吹き出ていた。木垣が彼の申出を拒絶したのは、確然と説明可能な理由によるよりも、むしろ、ひょっとするとこの醜い吹出物のせいであったかもしれぬ。
しかし二、三日前、御国の話によれば、北朝鮮軍を『敵』と呼ぶのはどういうことだ、という質問から、木垣のことを思想が悪いと云ったという当の原口が、誰から何を聞き出して〈信用〉したか知らぬが、どうしてこんな話をもちかけて来たのか、思想が悪いと云ったというのは、彼を引抜くための方便だったのか、それとも、防壁の一角がくずれ、ふにゃふにゃした中味がすけて見える構造を見抜いたのであろうか、木垣は何をしでかすかわからぬ自分を殆ど恐れようとした。
つづいて原口はお社用部長からの伝言だが、と前置して、僕の方へ来んとならば、社員には一応なるんだろうね、それはいいんだろうと念を押した。
「もしなるんでしたら、一応、なんかならないで、まるのままなりますよ」
「という意味はどういう意味だい?」
「一応、相談してみなければ……」
「君の女房にかい、それとも、もとS社の幹部だった君の紹介者にかい?」
「両方ともですよ」
原口は、そうかそれもそうだな、という風にうなずき、じゃあ、と云って立ち上った。彼の顔には、不決断で機会を逃した者に対する、軽蔑《けいべつ》めいた表情があらわれたのを、木垣は見のがすわけにはゆかなかった。立ち上りざま、
「何分うちの社は反動新聞だしな、それに警察ちゅうもんは、君たち……同調者から見たら、いつでもファッショみたいに見えるんだろ」
と云い捨て、肩を張って食堂を出ていった。尻のポケットからは、罫紙に墨でしるした書類と、それの英訳らしいタイプでうったものがのぞいていた。踊るような書体で、意見、と書いたところだけが見えていた。
一応相談してみなければ……一応相談? 誰に相談するというのか。個人の責任において決定すべき筈の事柄を、大抵はしばらく考えさせてくれ、とか、私一存では参りませんから、とかと云って回避し遷延して、一応、個人の責任をうやむやなものに還元してから行動する、この国の社会の慣習に彼もまたいま妥協し従ったのだ。消極に飽いたどころの始末ではない。それからまだ、と彼は考えた、原口は、君たち同調者……、と云ったな、同調者とは何の同調者だ? 彼は何か上下震のようなものに、分水嶺のあっち側へ放り出されたり、こっち側へ投げ出されたりする、揺れ動くものを足下に感じた。
編集局にもどると、早出の記者の半数くらいが出勤して方々で電話のベルが鳴り出し、この世が滅びてしまうまではつづくであろう新聞社の一日が、またはじまりかけていた。帰り支度をした御国が、
「どこかでコーヒーでも飲んで東京駅から帰りましょう、あなたも夜勤をしたことにしておきましたから」
と誘った。
五
朝の六時頃から八時頃まで、馬場先門から丸の内一帯を歩いたことのある人なら誰でも知っている筈である。どろんと澱《よど》んだ濠《ほり》と何百年もむかしからとりのこされていたような石垣のある風景を前にして、不揃《ふぞろ》いな形のビルが立ち並び、その谷底のすり切れたアスファルト路の両側には、赤、緑、黄、黒、濃紺、灰色、それに見るからに野戦を思わせる緑のかったカーキ色の自動車がずらりと並んでいる。そしてその自動車には、殆ど一様にと云っていいくらい、背の低い、首の短い日本人がとりついている。年は十四、五から二十五、六くらいと思われる少年たちが、一方の手には皮か毛布の切れっぱしのようなものをもち、他の手にはワックスの瓶《びん》や鑵《かん》をもって、長い時間をかけて車体のごく細《こまか》いところまで恐しく丁寧に磨いているのだ。御国と木垣が並んで外人記者《コレスポンデント》クラブの前まで来ると、ここでも、占領軍の帽子を真似て作ったらしいものをかぶった少年が、記者たちのジープやセダンを洗っていた。中にはハントのジープもあった。丸の内仲何番館という名称のついた、古めかしい赤|煉瓦《れんが》の低いビル街には、クリームの腐ったような、腋臭《わきが》に似た臭《にお》いが漂っていた。この臭いの中でも、少年たちは木垣などにはいくら聞いても覚えかねるジャズのメロディを口ずさみながら、
「オ・ケイか」
「ノー・グウよ」
などという隠語みたいな言葉をかわしながら自動車を磨いていた。或る少年はまた、黙りこくって懸命に艶《つや》を出そうと努めていた。歌っているものも、喋《しやべ》っているものも、黙りこくっているものも、しばらく磨いてはすこし離れて車体の光り工合をじっと眺める。彼らが自分たちの仕事の成果を眺める目つきには、微妙な、分析してみればそれぞれの日本人全部に共通するような、あるとらえがたい表情が含まれていた。それは、車がつやつやと光り出したことに満足しているようであり、うつろで無意味な笑いを笑っているようでもある。また自嘲めいたものもそこに含まれているし、やりどころのない不平不満のようでもあり、またその不平不満が、ぴかぴか光る車に反射しておのれに帰ってくることに、或る皮肉な、嗜虐《しぎやく》的な感じを楽しんでいるようでもある。いずれにしても、如何《い か》に彼らがこれらの車を磨いても、これに似た車を自分のものにすることは、一生――恐らくは不可能であろう。
木垣は、少年たちのこうした複雑な表情を見るのが、いまがはじめてでないことを漠然と考えていた。あれは、いつ、どこで見た表情であったか――たしかこれと全く同じ表情をした少年たち、また大人たちを見たことがある……。
そうだ、あれは戦争中、香港《ホンコン》で、上海《シヤンハイ》で、西貢《サイゴン》でシンガポールで、日本人の車や靴を磨いていた少年たちや、車の番や門番《ガード》をしていた大人たちの表情そっくりそのままではないか。中国人、安南人、インドネシア人、フィリッピン人、印度人、白系ロシア人など、彼らが日本人の下で、いま自動車を磨いているあの少年たちの顔をしていたのだ。それからまたいつか横浜で見た労働者の片づかぬ顔つき、また彼をスパイと見たらしい飲み屋の人々、万国旗のような衣裳をまとった若い男女。それはまた木垣自身の顔にほかならず、御国の顔でもあり、張国寿の顔でないとも云い切れない。極端な云い方をすれば、この表情をまぬがれているものは仏像だけかもしれぬ。少年たちの眼つきや口許は、いま日本人があれらのアジア人たちと同一水準にあることをあまりにも明らかに物語っていた。
木垣はこうした感想を、口に出して横を歩いている御国に話してみたい衝動に駆られた。御国は共産主義者であった。共産主義は、この民族問題に鋭く注目し、これをその原型に於《おい》て把握《はあく》している唯一のものではなかろうか。しかしこのために、ハントの言葉によれば『近代史にかつてないほどの人間惨劇《ヒユーマン・デイザスター》』をひきおこしてもよいということにはならない。だがしかし、とそこにまた政治は厳しい楔《くさび》を一本打込む、果してこれは武器をとらずして解決出来るていの問題であろうか。ここまで来ると、木垣はまたしても判断停止、であった。歩くのがいやになって来た。日に数十回も判断停止をして生きているということは、結局、何を考えるにしても結末はすべて判断停止で終っているということである。これでは、たとえ胸中にどのような動揺動乱があろうとも、不在者も同然である。小説中の人物よりももっと虚構に近い。彼は何者か、胸中の動揺動乱である、彼は何をしているか、一九五〇年夏、二十世紀正午の分水嶺で判断の針を停止している。金属のような夏の光りの輝く丸の内の朝を、東京駅に向って歩いている木垣は、生きているのではない、しかも死んでもいない。彼は御国に話しかけたいという衝動を抑えた。自ら判断を停止してしかも他人に話しかけるということ、それは性感を停止して性交をするにひとしい。しかし衝動は抑えても、ワックスを手にした少年たちの表情にかわりはなかった。カツカツと靴音をひびかせて占領軍の女兵士が一人歩いて来た。服装は折目正しく清潔で、眼は真直前方を見詰め、木垣のようにあっちを見たりこっちを見たり、きょろきょろしていなかった。
「ちょっと、田舎《く に》へ帰ってみようかな」
思わずそんな言葉が口をついて出た。御国はあまり突然だったので、なに? なんですって? と聞きかえした。少年たちは複雑な表情を浮べたまま物を云わない、黙っている、それを口に出して叫び、表現しようとしない。口に云えぬ感情は郷愁のようにうちにこもる。〈郷愁〉――そんな言葉を思いついたことから、田舎にいる母のことを思いかえし、それで田舎へ帰ってみようかなどと云い出したのであったが、アジアの民族問題が、何という迂路《うろ》を辿《たど》って、何という奇妙な表現に達したことか。木垣はどこかで狂ったように笑う笑い声を聞きつけた。そして何となく手を咽喉《の ど》許《もと》までもってゆき、胸がむかむかでもするかのように、手で胸部をなで下すと、内ポケットにおしこんだ、ティルピッツの札束のふくらみの上で手はとまってしまい、全身がしびれるかのような感じを覚え、足がすくんだ。彼は無意識でこの千三百ドルの札を彼のうち深く埋葬してしまおうと努めていたのだ。
「疲れましたねえ。僕はこれから家へ帰って、また外へ出掛けねばならないんですよ」
とそれまで黙りこくっていた御国が口をひらいた。御国が途中ずっと黙っていたのは、木垣と原口との話を、木垣が云い出すのを待っていたのかもしれない。木垣はしかし、それを話す気はなかった。そして御国の家へ帰ってからの用件というのは、きっと、細胞の仕事だな、と直感した。
「もし……その……なんだとしても、僕みたいな人間とは、危くて細胞の仕事なんか一緒に出来ないだろうな……」
「いや、党に入れば、変りますよ、きっと」
「僕は、いま……」
ここに米ドルで千三百ドル持っている――と云おうとしたのだ。だが何のためにそんなことを御国に云わねばならぬのか、木垣はめまいと嘔《は》き気に近いものを感じた。しかし御国は急に緊張した顔つきで、鋭く、木垣の眼をまともに見詰めた。そして歩みを止め、はっきり立ち止ってしまった。『僕は、いま……』――御国は細胞の仕事|云々《うんぬん》という、いまの木垣の言葉からして、何か党に――参加する、或はしてみたい――というに近い言葉が、その後に続くべき筈、と解釈したのかもしれなかった。木垣の麻痺《まひ》したような表情は、この解釈の裏うちをした。
「入党する人は、みんながみんな党や運動方針について充分不可欠な知識と覚悟をもっているとは限りませんよ。何だってあらかじめ知りつくすことは不可能ですからね」
話は、まったく思いがけない方へ、ぐいと方向を転換した。木垣は愕然《がくぜん》とした。
「ああ――」
咽喉奥から、無意味な、動物的な声が出て来た。
丸ビルの、外国航空会社のガラス窓には、ゆきかうサラリーマンたちと何の変りもない木垣の姿がうつっていた。違うところと云えば彼が暑いのに上着を着ているくらいのものであった。半袖|開襟《かいきん》シャツの御国は、ハンケチをとり出して汗をぬぐっていた。三十秒ほど、たたずんだままの沈黙がつづいた。と、その間に御国は、『いま僕は』という木垣の言葉が、彼の解釈とは全く異った内容の序詞であったことに気付いたのであろう。彼は木垣の困惑した表情に顔をそむけ、先に一歩踏み出した。
この三十秒に、木垣も選択したかもしれなかった。『いま、僕は』この後につづく言葉が、一生を別様に変革したかもしれなかった。いま、それは現在である。一切は現在に含まれている。千三百ドルも共産党も警察保安隊も、正式入社も、〈小説〉を書こうかということも、また京子と赤ん坊の籍のことも、法律上の「妻」も、アルゼンチン逃亡も、更には何年か後の戦争も平和も、それ自体一つ一つ切りはなして考えれば、矛盾することはもとより、対立し、敵対するものすらが、彼の現在に含まれているのである。
御国は、確実な足どりで九十度転回して航空会社のガラス窓に姿をのこしたまま、何かを祓《はら》うように大きく手をふって丸ビル前の大通りを横断し、東京駅へ向っていった。木垣がそれに気付いて一歩踏み出そうとした時、信号は待ちかまえていたように赤にかわった。
「キガーキ」
呼ぶ声がした。
航空会社から張国寿が出て来た。
「昨夜は失敬。昨夜君とハントが出掛けてから電報が来てね。今夜、飛行機でニュー・ヨークへ発《た》つことになったよ。おや、君、御国と一緒だったと思ったのに……」
張《チヤン》は、
「ミークニ」
と大声をあげて呼んだ。
安全地帯で信号の変るのを待っていた御国は、肩をねじ上げるようにしてふりかえった。「どこかでコーヒーを飲もう。この頃は、外人記者《コレスポンデント》クラブなんかより、日本人の店の方が余程うまいやつを飲ませてくれる。日本も一応住みよくなったね、アジア諸国が不快がる筈だよ。ところで君、ハントがね」張は急なニュー・ヨーク行で興奮しているのか、木垣の肩を抱えて喋《しやべ》りつづけた。「あの野郎、夜中にもどって来やがって、いきなりタイプをばたばた叩きゃがる。それがやれやれ終ったかと思うと、今度はまたまたサン・フランシスコの細君から電話さ。この電話がまたふるってるんだよ。奴の細君、友人達と一緒にアパートでのハントの誕生祝賀会から流れ出して、ハレムあたりのナイトクラブにいるんだな、酔っ払っているんだよ。受話器から、ニグロだろうきっと、物凄《ものすご》いジャズ、ビーバップの凄い奴がガンガン洩《も》れて来て、細君は細君でべろんべろんなんだ。ハントは可哀想なくらい心配して、タイプをぶっ叩《たた》いた元気はどこへやら、日本語で何とか云ったろう」
「青菜に塩か」
「そう、そう。ウーム、ウームって虎みたいに唸《うな》ったよ。この一幕が済んでやれやれ眠れるかと思ったら、今度は電報さ」
「あなたの転勤命令?」
「いや、ハントだよ。仏印のハノイ行さ。ハノイにいた奴がマラリアで倒れたんだな。あわてて奴、荷物やカメラをがさがさやり出し、おかげでこっちはまるで眠れやしない。僕のニュー・ヨーク行の座席や荷物の交渉は、予約済だから午後でいいんだけれどね、そんなこんなで朝っぱらから僕も飛び出したのさ。ハントの奴、マタナイ、って云って予防注射をうけにすっとんでいったよ。仏印のホーチミンがまたうるさくやりだしたんだよ、北朝鮮と呼応して。僕が国連へ行くようなものさ」
「ハント君の、そのマタナイってのは何です?」
話しながら、三人はコーヒー茶碗を別れの盃《さかずき》代りにあげた。
「マタナイ!」張は茶碗をあげたまま眼をむいて云った、「ハントがね、See you again.(また会いましょう)というのを、日本語じゃ何と云うかって聞くから、|またね《ヽヽヽ》、というんだと教えた。ところが彼はどうしても、ネ、と云えない。何度教えてもマタ|ナイ《ヽヽ》って云うんだ。それじゃ、待たない、で意味が反対になる、といくら云っても、ネ、が発音出来ない。僕も面倒になってマタナイことにしたよ。はッはッはあ――」
張は愉快そうに笑った。しかし、妙にせっかちに、畳み込むように言葉をつづける口裏には、あたりの客をふりかえらせるほどの笑い声を裏切る、或る焦躁《しようそう》感があった。ナイトクラブで細君が酔っ払おうが、ハントに転勤命令が来ようが、笑ってみていればいい筈である。それしきのことに神経質になっていて前線記者がつとまるか……。
「マタナイ、か、なるほど。しかしハントさんの奥さんはさぞ待ちくたびれているんでしょう。何分死傷者の多い従軍なんだから。待ちくたびれてお酒でも飲んだんでしょう。しかし張さん、あなたのお家族は?」
木垣は、突然はッと気付いて御国の横腹をつついた。けれども、もう遅かった。小鼻が弾力一杯に伸張するほどに愉快そうだった張の顔は、見る見る平べったくなってゆき、無表情にコーヒーをすするまでにかわってしまった。妻子の話をするのは禁物なのだ……。ニュー・ヨークの国連へ行くことは、仕事としては張りのあることかもしれないが、それはしかし、彼の肉体にまで深く食い入った愛情から遠く離れてゆくことであった。距離ばかりではない、仕事と愛情のあいだに、はっきりと政治が割込んで来てこの二つを断ち切ってしまったのだ。彼が仕事の面で動けば動くほどこの距離は遠くなり、共産主義中国からも妻子からも、彼はついに失われた孤独の人になるかもしれない。張はじっと前方を見詰めたまま、何とも答えなかった。しかし事情を知らぬ御国は、木垣が横腹をつつくので、ちょっと怪訝《けげん》そうにふりむいたが、かまわずに、
「国連へおいでになれば、あそこだけが、とにかく常時二つの世界が公然と話し合っている、ひらかれた広場ですから、どちらがどうかたむくか、世界的なドラマをタイム・テーブルのすぐそばで目撃できるわけでしょう……」
と云って国民政府系の新聞通信員張国寿の意見を聞き出そうとしたが、張《チヤン》は、両の手のむっちりとした指で茶碗をかかえたままの、孤独な姿勢をかえようとしなかった。
「UNITED NATIONS ! UNITED NATIONS !」と吐き出すように云って、「国際連合、国際連合というけれど、あなた、国際連合のもう一つの名前を知っていますか? それはね、NOT-SO-UNITED-NATIONS(そんなに国際、連合じゃない)というんですよ。あそこは要するに、第三次戦争を、そう、避けたりのばしたりするための安全弁みたいなものですが、この弁から、ふうッと噴き出してくる悪気流を、毎日毎日吸って暮していたら、大抵頭がおかしくなって来ましょうよ。そういう非生活的で、まったく非生産的な悪気流のことを、国際情勢というんですよ」
非生活的、非生産的、木垣はティルピッツ男爵を思い出した。
張は低声で呟くようにこれだけ云うと、時計を見て立ち上った。
「マタナイ、ね」
張が国連でこの悪気流に酔わされているあいだに、台湾は、また上海にいるという彼の妻子はどうかなりはしないか。妻子と台湾と――この体格のいい中国人張国寿が、中国から失われた人、になるとは考えられない……しかし中国本土の政治は、彼を反動反革命分子として――いや、いや、彼は――。
判断停止というよりも何よりも、木垣は、自分の思考|乃至《ないし》動揺の中心部に、ぽっかりと暗い穴、颱風の眼のようなものがあって、さまざまな相反する判断が敲《う》ちあって生れる筈の思考の魚が、生れかけるや否や途端にその穴、その眼の中へ吸い込まれてゆくように思われた。もしその穴、その颱風の眼をそこだけ切りとって博物館に陳列するとしたら、それには、人間的《ヽヽヽ》、という符牒《ふちよう》のような札がかけられるかもしれない。御国は立ち上って張と握手をかわしていた。木垣はそれを眺めながら、自分をも含めたこの三人がつくっている三角形の中に、何か涼しいもの、時間のように流れ去ってゆくもの、変革され交替するなにものか、を感じた。そこにもう一人、新しい第四の人が来ているような気がした。そして外へ出たとき、扉がひとつ、ぎい、とひらいたように思った。まばゆい夏の光りがさっと襲いかかり、彼の胸の暗室の、汚濁し停滞した空気を追いはらうようだった。そして彼は再び〈小説〉のことを考えた。筋や話をあてにせず、胸中の動揺動乱が導く筈のものをあとづけてみる。そういう小説を書いてみよう。彼にとって小説は、既に括弧の中から外に出ていた。
御国は、
「ちょっとほかに用がありますので……」
と云って喫茶店を出たところで張と木垣に別れを告げた。木垣はクラブまで張をおくってゆくことにした。
「昨夜、バロン・ティルピッツに会った」
「会ったのか? 君は上海で知っていたんだったな。しかしね、気をつけ給えよ。あいつは、いまこそ合法的だが、いまに非合法化されたらいっぺんで軍事裁判をくらうよ。尤《もつと》もそれまでまごついてもいまいがね。君ね、あいつとのつきあいは、特に金銭関係をもつなよ、注意した方がいいよ、君たちはまだはっきりとは戦争じゃないと思ってるかしらんが、実際は国連対北朝鮮の生きるか死ぬかの戦争なんだから」
張の話し振りには、男爵のことを立入って話したくないらしいひびきがあった。木垣は、自分でもうがちすぎはしないかと疑ったが、張の口振りには彼自身ティルピッツ男爵から離れうることに、ほっとしたものを感じているらしい様子さえうかがわれた。そしてこの木垣の直感を裏付けるように、張は、
「一旦あのバロンと金銭関係をもつと、奴は世界中どこまででも追っかけてくるからね」
とつけ加えた。
木垣はすぐに、実はいまたしかに老人の仕業《しわざ》にちがいない金をもっている、と打明けて経験のあるらしい張の意見を聞きたかったが、ジープのエンジンをふかしてハントが追いかけて来、注射が痛いとか、飛行機は何時だとか、サン・フランシスコについたら妻を見舞ってやってくれとか、木垣の社の連中によろしくだとかとタイプライターのようにまくしたてたので、出鼻を挫《くじ》かれ、そのまま張ともハントとも別れてしまった。
六
新聞社に出て以来、今日で丁度二週間目であった。いつもは帰路の電車に乗ると、それが如何に混んでいても、何となくほっとした。騒音と活気とが同意語になっているような外の世界での生活の扉がばたんとしまって、京子と赤ん坊と、彼自身の仕事、或《あるい》は立川の言葉によれば趣味、と称するものの方に向いた扉が自動的にひらくのであった。ところが今朝はそうはゆかなかった。どちらの扉もひらいたまましまらないのだ。彼は上着はぬいでいたが、外で起った一切を着込んだまま、阿佐ヶ谷の貸間へ帰っていった。
「あなた、お金もって来た? 今朝Kさんがアメリカのチーズが入ったからってもってらしたのよ。それでお米の配給なんだけれど、あたし四十円しかないのよ」
木垣の手は、あやうく内ポケットに押し込んだ、便所の秘密を、とり出そうとして、あわててズボンのポケットをさぐった。
彼は問わず語りに京子に横浜へ行ったこと、及びティルピッツに会ったことなどを話した。彼女は木垣の心の動きや行動を、一から十まで、単に観察するだけでなく、積極的に知りたがった。また彼の行くところは、どこへでも一緒についてゆきたがった。これは、単に二人が外地で白人たちにまじって暮したせいばかりではなく、正式な法の保護がないということを、事毎に痛感させられるこの国の社会の痛烈さにもよるものであろう。けれども、彼が、一言ティルピッツと云った時の彼女の表情の変化は、彼が二人に共通の旧知に偶然出会ったという、そのことに対する驚き以上のものを物語っていた。簡単に昨夜から今朝へかけての出来事を話し終えると、彼女は黙って立っていって一通の外国航空郵便をもって来た。
「昨日の午後、来たの」
木垣が何と云うか――彼女の表情は硬《こわ》ばっていたが、実はその底に次のような二つの表情を準備していた。
……どう? とにかくここまで漕《こ》ぎつけたのよ。あたしこっそりと工作してたのよ』
……まあ、いやなの? それじゃあたしたちこれから先どうするの?』
発信地はアルゼンチンのブエノス・アイレス。発信者はローベルト・ツィンマーマン、とあった。
「ツィンマーマンと云う人ね、ティル男爵の親戚なの……」
京子の声は後半|慄《ふる》えを帯びていた。木垣は棒立ちに立ちすくんでいた。
大体の文意は次のようなものであった。危険地帯である日本を出たい気持はよく解った。当地にも戦後欧洲各地から、特にイタリーから三十万も移民が来たが、やはり生活難で十パーセントはまた帰国した。そういう次第だから、旅費は当地へ来てから返還するから当地でドルを都合せよ、との御申出だが、当面の工面がつかない。身許引受及び入国許可だけは確かにアレンジしてさしあげるから、旅費と当面の生活費だけは貴方で何とかして来てもらいたい、尤《もつと》もカジノで儲《もう》けたら別だが――。
「この人にね、この人がブエノスから戦後欧洲まわりで東洋経由アメリカへ行った時、上海で会ったことがあるの。旅費はね、大体一人五百ドルなの、子供は満四歳まで無料なの……」
一人五百ドル、二人で千ドル、残り三百ドル……当面の生活費。
「ティルには会っていたんだね、ずっと前から会っているの? 斡旋《あつせん》を依頼したんだね、この人に? 老人は君のことをなんにも云わなかったけれど?」
「あなたに云ったらきっとまたうまくゆかなくなると思ったから、黙っていたの。あなたって、具体的な決定をする段になると、きまって故障を、それもわざわざ自分でこしらえ出すんですもの」
「それで、老人に、お金……でも、頼んだの?」
「いいえ、とんでもない。どうせ薄気味悪いお金にきまっていますもの。あたしはもう国際……問題は、御免よ。それだからこそ南米へ逃げたいんですもの。これからはきっと、あの人はアメリカ派、この人はどこどこ派って争うようになりますわ、そしてあげくのはてに、ドイツみたいにはさみうちにあったり、往復されたりしたら、子供が、子供が、ね……それがたまらないの」
とすれば、ティルピッツが京子の意を汲《く》み、或はツィンマーマンがドルのたてかえを断ったことを知り、或は推察し、木垣の好きそうなヨーロッパ論や動乱論人間論を一席やり、そのひまにそっと金をねじこんだのか?
脱出は二人の生活の暗黙の条件のようなものであった。それは戦争危険地帯からの逃亡であると同時に、生活それ自体からの逃亡でもあった。いまの世の中では、どんな形ででも戦争の危険と関係せず、それからの逃亡をのみはかることは、生活自体から逃亡するにひとしい。生活から逃亡したいという夢は、木垣と京子の生活自体の基石とも云うべき重要さをもっていたのだ。何故《な ぜ》なら、農夫の生活にとって大地は密着したものであるように、この二人の生活にとって外国とは、密着した何物かであった。そして京子は、その外国の危険に二人がコミットしてゆくことを恐れていた、凡《あら》ゆる危険と恐怖は外国から来る、という東洋人の尾※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨《びていこつ》にも似た考えは彼らにも頑強にとりついているのかもしれぬ。しかしこの夢を絶つとなれば、京子はますます萎《しぼ》んでゆきはせぬか。それから京子が故意に見落しているのかもしれなかったが、たとえ海の彼方が入国を許可してくれても、贋《にせ》夫婦の名を旅券に書き込んでくれるほど日本の外務省は甘くない筈である。
京子は庭で砂いじりをしている幼な児の背をじっと見詰めながら、声を落して、
「ティルピッツね、なにをやってるか御存知?」
「花屋をやっているって云っていたが」
「花屋ですって、とんでもない、そんなこともやってるのかもしれないけれど。本当はね、パナマの船会社のエージェントをやっているらしいの。なんでもね、パナマじゃ、一九二五年にある法律が出来て、その法律によると、外国籍の船を、世界各地にあるパナマ領事館にちょっと手数料を払うだけで簡単にパナマ国籍にうつせるらしいの。だから、戦争が近づくと、世界の悪質な船主たちは、すぐに船籍をパナマにうつし、パナマ国旗の下に戦略物資や禁制品を敵国や準敵国に売込んで莫大《ばくだい》な儲《もう》けをするらしいのよ。ティルがエージェントをしている会社には、自前の船なんか一隻もないらしいの。そんなことして、鉄やら竹やらのカーテンを商売に使っているらしいのよ。だから睨《にら》まれているのよ……」
「ふーん、そう……。それじゃ男爵はコンミュニストか? 息子がみなそうなったと云っていたが」
「だかどうだか……。ユダヤ人じゃなし、ただの金儲け目あてとも思えないけれど、だけどこんな世の中ですもの、なんだってありうるわ、anything happens よ」
張国寿の云った合法的及び軍事裁判|云々《うんぬん》という言葉が、これで一挙にはっきりし、あのキャバレの喧騒の中を、あわれなストリップ・ショオを圧倒して、オランウータンのように長い手をだらりと垂れて歩いていったティルピッツの姿が眼に浮んだ。木垣は彼の肉の中におち窪《くぼ》んだ、猛禽《もうきん》類のような眼に、ぐいと凝視されたような気がした。
千三百ドル――十三枚の紙切れは京子とともにアルゼンチンへ逃亡することを可能にしてくれるかもしれない、また京子と、庭で遊んでいる幼児の籍を入れることを可能にしてもくれよう。
「君……ひとりでも行くか……どうしても日本を……」
京子はかねてこの問いを恐れていた、しかし既に問われた以上は仕方がない。という風に、諦《あきら》めたようにうつむき、肩で大きな息をしていた。
「ひとりだと……あたしはやっぱり毛唐じゃないから枯れ死んでしまうかもしれません」
そう云うと急激に顔をそむけ、ばたばたと走り出して庭にいる幼児の方へ馳《は》せ下りていった。
ひとり部屋にのこった木垣が足の下にふみつけていた新聞には、
『全面講和は期待薄。軍事基地反対は理想論』
という四段抜きの見出しが出ていた。
木垣は、自分が全面講和を選んで波を立てずに話し合いをつけねばならぬものが全体いくつあるか、と彼の現在に含まれた因子を指折り数えるように、汗ばんだ指を曲げたり伸ばしたりしていた。そして深々と息を吸い込むと同時に、人が何であれ彼をとりまいて選択を迫るもの一切と全面的に話し合いをつけ、十全の独立を保ってゆくことが如何に困難であるかを思い知らされた。いずれか一つにコミットしてゆき、その対立者と対立することの方が、安易なのである。
彼は狂人のように大きく瞳孔《どうこう》をひらいて、全、面、講、和、という四つの異常に大きな活字を凝視したまま、ポケットからマッチを取り出し、一本すって火をつけた。視線を活字からマッチの小さな焔《ほのお》にうつしたとき、彼は三年前の冬、S社にいたころの事を思い出した。それは追放資本云々でS社が動揺していた頃であり、またその夜は日本ではじめてのゼネストが決行されるかされぬか、という切迫した時で、編集局の殆《ほとん》ど全員が居残って情報を待っていた。ゼネストは禁止された。その情報が入ったとき、ストーヴに紙屑を投げ込んでは暖をとり、既にカストリに酔っていた一人の青年が立ち上って詩の朗誦《ろうしよう》みたいなことをはじめた。マッチの焔の色から彼はストーヴの焔を思い起したのであった。その詩は東北地方の有名な詩人の作をなぞったもので覚えやすかった。
雨ニモ負ケテ
風ニモ負ケテ
アチラニ気兼ネシ
コチラニ気兼ネシ
ペロペロベンガコウ云エバハイト云イ
ベロベロベンガアア云エバハイト云イ
アッチヘウロウロ
コッチヘウロウロ
ソノウチ進退|谷《きわ》マッテ
窮ソ猫ヲハム勢イデトビダシテユキ
オヒゲニサワッテ気ヲ失ウ
ソウイウモノニワタシハナリソウダ
ソウイウモノニニホンハナリソウダ
…………………………………………
酔って詩を読んだ青年はどういうものか後にカトリックに入信した。マッチの棒は次第に短くなり、指先が熱くなって来た。そのまま二秒、三秒、脳の芯《しん》がじいんと熱くなり、木垣は眼を瞠《みひら》いたまま熱に耐えた、そうすることが何かの信をうるために必要である、とでもいうように。火が消えて指先がかすかに白くなり、焼けた部分の指紋が白く浮き出してみえた。彼はまた一本マッチをすった。放心状態に近かった。軸先の燐《りん》はそれまでになく大きな爆発を起した。足許の新聞紙をとりあげて火をうつし、灰のない火鉢に投げ込んだ。また別の新聞紙を二枚、火に加え、片手をぬぎすてた上着の内ポケットに入れて、十三枚の緑色の紙切れをつかみ出し、赤黒い焔の中に投げ込んだ。焔は新しい対象をえて、それが可燃かどうか調べるように一時焔を収めたが、見る見る青緑の火が長方形の紙幣のはしはしを甞《な》めはじめた。庭に出てしゃがんでいた京子がふとふりかえり、片手を高々と挙げて飛び込んで来た。そして腹部に銃弾を食らったように火鉢のそばにうずくまった。
彼女は、しばらく食い入るように青緑の火を見詰めていたが、やがてぶるぶる慄える手を、水でもすくうように両掌を上にして、そのままゆるゆると火の中へさしのばした。突然木垣もしゃがんで火の中へ手をつっこみ、燃える札をつかんで畳の上へ投げ出した。けれども火を消そうとしなかった。一瞬畳の上にうつった火をぼんやり見守っていた京子は、何を思ったか、再び燃えくすぶるものを火鉢の中へ戻した。
それが燃え尽きたとしても火傷ができたくらいで事態は何一つ変らないであろう。しかし煙にむせ、掌中に疼《うず》く熱を感じながら、木垣は胸一杯に息を吸った。吐くときに声が出た。また吸って眼を一層大きく瞠いた。なにも見えなくなっていった。
異様な匂いがして来た。髪の毛のこげる匂いでもない、へんにニス臭い匂いであった。京子がまた火に手をかざしていた。木垣は京子の腕をつかみ、強く引いた。どたり、と石の彫像でもつき倒したように畳にころがった。
その夜、十時半過ぎ、木垣と京子が火傷の痛みを我慢しながら媾合《こうごう》を終り、京子は眠いのか絶望しているのか判断のつかぬ表情で天井を眺め、木垣は身を京子からひき後始末をすませると殆ど同時に、細い活字のいっぱいつまった本を手にとった。どこまで読んだか、と頁を折ったところをさがしていたとき、すぐ頭の上の、通りにじかに面したガラス窓をコツコツ叩く音がした。
「木垣さん、起きていらっしゃいますか、僕です、御国と立川です」
こんな夜中に御国が、それも立川とつれだって何の用があるのか。彼は、今朝丸ビル前でかわした会話を思い出した。
「木垣さん、ちょっとたいへんなんです、ちょっとしたクーデターです、やりましたよ」
クーデター……! 木垣は本を放り出して飛び起きた。窓のかんぬき型の鍵《かぎ》がこわれたので、鍵の根元を紐《ひも》でしばりつけてあったのが、なかなか解けなかった。京子もはね起きて木垣にかわり、もつれた紐を解きにかかった。苛立《いらだ》たしい手持ぶさたな一瞬、木垣は地下に潜《もぐ》った共産党幹部の顔を思い浮べながら、いまのいまこの日本で突発したクーデターは、前の戦争についでおれにどんな運命をもたらすか、と考えるともなく考えながら、あたりに、いまの媾合の汚物はないか、と見まわした。汚物はなにもなかったが、しめ切った狭い部屋の空気は、むし暑さにかてて加えて異様にすえた匂いを沈澱させていた。
窓がひらいた。冷い空気がさっと流れ込み、窓枠《まどわく》の中に、赤い顔をした二人の若者が立っていた。酒気が漂っていた。
「クーデターだって?」
「そうですよ、やられましたよ、すっぱりとね」
「なに、やられた?」
「そうです、これですよ」
御国が落着いた声でそう云って、手で首を斬る真似をしてみせた。
「すぱっと追放されましたよ」
立川が後をうけた。
「追放? クーデターって、君たちがクーデターをやったのじゃないのか?」
立川の顔が急に腹痛でも起したようにくしゃくしゃと歪《ゆが》んだ。
二人を部屋に招じ入れ、おや、あなたも奥さんも手に繃帯《ほうたい》をして一体どうしたんです? というのを何とかごま化し、子供を起さぬように低声で話すのを聞いてみると、一九五〇年七月、報道関係を皮切りとして、日本の全産業に及んだ赤追放令《レツド・パージ》が、その日の午後発動されたのであった。御国も立川も勿論やられた。二人を含めて組合は、憲法第十四条、同十九条、同二十一条、労働基準法第三条、労働組合法第七条などを盾にとって一応拒否した。ところが相手は、おろおろしながら超憲法的措置だと云ったという。とにかく中労委へ提訴することに定《き》めて御国は、外信、東亜、渉外各部、立川は印刷局の仲間たちとの惜別の会を終えて、いま木垣の近所に住む、これも先に赤追放をうけたK氏のところを訪ねるつもりで来たが、ちょっと寄ってみた、というのであった。
「それが党員だけじゃないんですよ、同調者というのまで含んでいるんです。党員でもなんでもない、労働記者クラブへ出ていたというだけの人や、組合の積極的な幹部なども、とにかく本社だけで三十八名やられたんですよ」
立川があぐらをかいて興奮しているのに反して、御国はきちんと坐って赤ん坊の寝顔を眺めていたが、
「同調者って、どういうの?」
と木垣が聞くと、静かに、
「英語ですとね、fellow traveler というのです」
同調者――つい近頃この言葉を、木垣はたしかに一度聞いた、と思った。がいつ誰が云ったのだったかは思い出せなかった。
「ふーむ。fellow traveler というのは、つまり同船者とか同乗者とか、つまり道連れという意味だろう。かりに日本を一つの船とすると」
「そうなんですよ。だからわれわれ及びその、フェロオなんとかは、同船者じゃねえというんですよ。木垣さんみたいな人も、もしずうっと正式の社員だったら、そのフェロオなんとかに繰りこまれますぜ、きっと」
立川が白い歯をむき出しにして云った。頬のしまった筋肉が時々|痙攣《けいれん》してどことなく、素朴な残忍さ、といったものが見えかくれした。
廊下に出てピジャマをゆかたに着更えた京子が再び入って来て、カバン兼用の大型ハンドバッグから外国品らしいウィスキーをとり出し、コップに湯呑茶碗二つ、それにK氏が今朝もって来たというチーズなどをとりそろえた。ウィスキーは生粋の英国製ブラック・エンド・ホワイトであった。どこからこんなものをもって来たのか、木垣はひょいと京子の顔を見上げた――彼女は今朝千三百ドルの札が燃えた後、ぷいと立ち上って外へ出て行き、いまさっき、九時過ぎになってやっと帰って来たのだ――彼女は恐らくティルピッツ男爵に会いに行ったのだ。
ウィスキーを甞《な》めだすと、御国は押し黙ってしまい、立川が次から次へと喋《しやべ》り出した。経営者は実に様々な、まちまちなことを云ったというのである。超憲法的法規範による、と云ったり、現在は超憲法的状態だと云うかと思うと、企業を防衛するためだ、また憲法そのものを防衛するための措置だ、と云ったりもしたというのである。
「それで御国君、送別会では……」
顔を伏せて何か考え込んでいる御国を、せめてはげましてやりたいと思って話しかけたのだが、そこまで云って彼は気付いた。「その会に原口、出て来た?」
「いえ、来ませんでした。陰鬱でね、お通夜みたいでしたよ、まるで僕らが死にでもしたみたいでしたよ。はは……。お社用も社用だとか云って来ませんでしたよ。土井君が何と思ったか涙を流したりしましてね」
「そうか……」
同調者、と云ったのが原口であったことを木垣は思い出した。そしておれはいま、それが原口であった、という事実をやや落着いて見据えている。出発はここからだ。物を見ること、ただ見るだけでも実に容易なことではない。
「私たち印刷の方の送別会じゃね、とんでもねえ野郎がとび出して来ましたよ。仲間が――つまり追放組がですよ――やられたてんで悲憤|慷慨《こうがい》して酔っ払ってですね、いいですか軍艦行進曲を呶鳴《どな》り出した奴がいたんですよ。軍艦行進曲をですよ。勿論《もちろん》すぐやめさせましたがね。何を感違いしてやがんだ、ってね」
御国は面をあげて立川に、興奮するなよ、という風に眼くばせをしてから云った。
「日本はね、いままでも底揺れしていましたが、この夏を、特に朝鮮の戦争をきっかけにして、ぐぐっと傾斜してゆきますね」
そうか、それを考えていたのか、と木垣は御国の顔を見た。彼の立場から云えば朝鮮の戦争は、はっきり解放戦争であろう。その解放戦の影響の一つがここにある、木垣は疑いをのこしながらも御国の言葉をそんなに解釈してみた。そしてそのことを話し合ってみたかった。ところが御国の言葉は、立川の興奮にかえって油をそそぐ結果になった。
「そうですよ、この地すべりを食いとめなけりゃ。ガン、ガンやらなきゃ、ね。このままのめっていって全面講和にならんかったら、結婚式もあげずに同棲《どうせい》するみたいなもんですよ、アジアの日陰もんです。どんな私生児が生れるか知れたもんじゃねえです、ねえ奥さん……」
若い立川は明らかに酔っていた。次第に声が高くなり、赤ん坊が眼をさまして泣き出した。それを機会に二人は立ち上り、京子に夜分邪魔してすまなかった、と丁寧に詫《わ》びた。
「あの若い方の人、立川さんていうの?」
「そうだよ」
木垣はウィスキーの瓶《びん》をとりあげてしげしげとラベルを眺めていた。頭が変に冴《さ》えていた。
「あの方のお話だと、あたしたち……少し似てるわね」
人は苦しい時にいささかの笑いをもとめたり、またおのれを正当化するためには、何をだしに使うか知れたものではない。京子はそう云ってかすかに眼尻だけ笑っていたのが、木垣が瓶のラベルを念入りに調べているのに気付き、ふいに笑いを消し去った。
「似てるって、なんに? 立川君はなにを云ったかな」
京子はそれには答えずに、別のことを、今朝家を出てからのことを話し出した。
「あたし、今朝ね、あれ、燃えてしまって……あんまり辛かったからふらふらと外へ出てティルピッツ男爵に会いに行ったの」
「会えたか?」
「ええ、銀座のドイツ人のレストランで」
「あの金のこと」
みなまで云わせないで
「そうなのよ」
と云って彼女は手を額にもってゆき、ゆっくりと顔をなで下した。
「あなたが燃やしてしまった、って云ったらこんな風に顔の皮膚の色がかわるほどに、おそろしく力を入れて額から顎《あご》まで撫《な》でおろして云ったわ。ヨーロッパ人にとっては、ひろった金だろうが何だろうが、燃やしたりはしない、何故かって云うとヨーロッパ人にとっては〈|それ以前《ヽヽヽヽ》〉(彼女はこの言葉に特に力を入れた)の問題は、明々白々だから、その金で何をするか、つまり届けるか、使うか、だけが問題だ。ところが君たちには、それ以前に、種々様々な怒りや不満がいりみだれてコンプレックスになっている――と、そんなようなことを、ぽつりぽつりと云ったわ」
「…………」
「それからね、こんなことも云ったわ、他の人全部が不安なとき、安心して暮すのは貴族というもので、貴族の行動というものは多かれ少かれ売春行為に似ている、だって。だけど売春も現実のうちだから、気にせぬとあれば、アルゼンチンは少し船賃がかかりすぎるから――と云って顔中の筋肉をいっぺんに動かして、にやり、としたわ。だからパナマのクリストバールへ行ったらどうかって」
「クリストバール?」
「運河地帯にある港らしいの、そこに老人がエージェントをしている会社があるらしいの」
「そこへ行って日本籍の船が戦略物資をあちこち運ぶ、火つけ役の手伝いをする?」
「そうとも限らないでしょうけれど……それで、あたしよく考えて、いいえ、よくもなんにも全然考えないで、男爵、もういくら売春したって安全も安定もどこにもないんでしょう、あなたがその証拠じゃないかしら、って何の気なしに云ったら、これで別れましょう、御多幸を祈る。とそう云って立って来て丁寧に、繃帯の上から接吻してくれたわ。接吻は手だからまあいいけれど、御多幸を祈るって云い方が、何だか底知れぬみたいで肌寒くなったわ。それからこのウィスキーをとりよせてあなたに、ってくれたのよ。近く香港《ホンコン》へ発《た》つって云ったわ」
木垣は京子をいたわってやりたかったが、何故かいま話の相手になる気がまるでなかった。会話は死んだ。木垣は、御国と立川が来る前に京子とともにした性のことを思い出した。思い詰め、疲れ果てた彼女は、夜に入って帰って来てからも一言も口をきかなかったのだ。彼と京子は、実に様々なものをあの性の闇の中に押し込み、押し沈めたのだ。人は何と多くの希望や絶望を性の中に押し込んで生きていることか。しかも、ほかならぬそこから人間が生れて来るのである。彼は新聞社に出て以来のことをあれこれ思いかえし、頭をめぐらして軽いいびきをかいている幼児を見詰めた。立川は〈どんな私生児が生れて来るやら〉と云った。この子供は、彼と京子が生きてこの世界と接してきた、その一切を押し沈めたるつぼから生れて来たのだ。
「いまでも私生児ってこと、あるのかしら?」
「法律上は、ないことになっている」
「法律上は、って?」
彼女もまたどんな方向からかわからぬが、同じことを考えていた。
「立川君と反対な立場から云えば、単独講和だって講和は講和だ、ということさ。法律上、はね」
「そう……」
外を酔っ払いが歌をうたって通り過ぎた。自己抑圧と自己|挫折《ざせつ》にくずれた心をうたう、短調の流行歌は、人の心の薄く弱いひだにべたべたとまつわりついた。あの絶望的な短調が、いまもなお民衆の中から発想されるためには、国際情勢という非生活的な悪気流が必要なのだ。
「あたし、寝るわね……」
やがて京子は幼児の横に身をよこたえ、眉のあいだに深い皺《しわ》を二本よせたまま、寝息をたてはじめた。
なにもかもが揺れ動き、なにひとつ解決していない――そういう感じであった。その動揺が眼に見えた。眼に見えたものは表現しなければならぬ。それがこのおれの解決の糸口なのだ。彼には彼がこれから書こうとしているものの全体が見えていた。
遠くからかすかに飛行機の爆音が聞え、たちまちのうちに爆音は大きくなり、子供がびくっと寝がえりをうった。窓から見上げると、赤青の灯が幾何学の点のような星々の下を真直に、東らしい方向へ飛び去っていった。あの飛行機に、ニュー・ヨークへゆく張国寿がのっているのかもしれない。あるいはハノイへゆくハワード・ハントが乗っているかもしれない。またあの老人が、座席に背をもたせかけ、ぎょろりと眼をひらいたまま居眠りをしているかもしれない。
向いの家で時計が二時をうった。跫音《あしおと》がして御国と立川の顔がスタンドの光りに照らし出された。二人とも眼はくぼみ、暗く緊張した顔つきをしていた。
「お休みなさい……」
御国がそう云った。
「もう電車がないだろうが……」
「いいえ、話しながら歩いてゆきますから……」
立川が答えた。話しながら――そうだ、誰にしても話をつけねばならぬものがあまりにも沢山ある。二人の跫音が消えたとき、木垣はぶるっと頭を振って再び空を仰いだ。星々はいつの間にか消えてしまって、空はいつものように暗かった。光りは、クレムリンの広場とかワシントンの広場とか、そういうところにだけ、虚《むな》しいほどに煌々《こうこう》と輝いているように思われた。そして彼はそこにむき出しになっている自分を感じた。生れてはじめて、彼は祈った。レンズの焦点をひきしぼるような気持で先ず書いた。
広場の孤独
と。
この作品は昭和二十八年九月新潮文庫版が刊行された。