堀田善衞
スペインの沈黙
目 次
なぜゴヤか?
スペイン便り
牛の鈴鈍く革命は進む
ラ・バンデラ・ローハ!(赤旗の歌)
ピカソとリンカーン旅団
教会・憲法・軍隊
いわゆる王侯貴族なるものについて
グラナダの夏
樫の木の下の民主主義に栄えあれ!
グラナダ暮し
ゴヤと怪物
ゴヤの墓
スペインの沈黙
「戦争の惨禍」について
スペイン・四度目のゴヤの旅
フランコ、頑張れ
グラナダの冬
アンダルシーア大巡礼
グラナダ暮し
マドリードにて
歴史について
芸術家の運命について
世界・世の中・世間
歴史について
あとがき
初出一覧
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インタビュー
なぜゴヤか?
北国の港町に生まれて
――スペインへは五月にご出発ですか。
堀田 五月に船で出ようと思っています。
――船で?
堀田 その船というのが、いま驚いたことにポーランドの貨客船しかない。客船もない、西の方へはね。みんなアメリカへ行っちゃうんですね。変なことになったもんだな、実際。
――回船問屋の息子さんとしては切歯扼腕ですね。どういう商売なんですか、回船問屋というのは。
堀田 徳川時代は北前船《きたまえせん》といいましてね、うちの場合は越中伏木港(富山県高岡市)ですけど、そこから米と酒、雑穀といったものを北海道へ運び、向うからコンブ、肥料用のニシン、それからカズノコ、まあ、ニシンといえば従ってカズノコということになるけどね。そういうものを堺あるいは大阪へ持って行くんですね。
ですから、関西料理というものは、つまりコンブのダシを基礎にした料理ですわね。その関西料理というものは、結局は北前船がつくったものなんですね。だから、関西料理の歴史もせいぜい二〇〇年か二五〇年程度のものでしょう。そんなに古いものじゃない。
商売そのものについていえば、これはめちゃくちゃに儲かるんだ。無事に着けばの話だけど、千石船一船でもって、今の金にして五億円か一〇億円、もっとなったんじゃないでしょうかね。
――田中角栄がふたり買える。
堀田 だから、京都なんかへ行って、古道具屋一軒、店ごと買ってきたりね。そういう馬鹿馬鹿しい儲け方ってものが、資本主義時代になると、できないわけですね。国家と結びつかないとやっていけない。岩崎(三菱)汽船とか、三井汽船とか、ね。その他の中小の、昔々からの船舶業というものは、明治に入って日清戦争の頃からそろそろだめになっちゃうんじゃないでしょうかね。
――でも、一九一八年生まれの堀田さんが物心つく頃まで、その栄華の名残りみたいなものはあったわけですね。
堀田 まあ、庭に丹頂鶴の番《つが》いが放されていたり、イギリスやソビエトの船のオフィサーが遊びに来ていたり、といったことはありました。ですから私は、幼年時代から共産主義というものは恐ろしいものであるなんてことは、ソビエトの船乗りたちが遊んでいるのを見ていて、とうてい信じがたいことであると思っていましたね。
――ゴヤのことをアンクル・ゴヤ≠ニ隣りのおっさんみたいに呼ぶ感覚も、遠くはその辺から?
堀田 そうかもしれませんね。北国の小さな港町ですけど、外国人が日常町をうろうろ、ぶらぶら、薬屋へ頭突っ込んだり、八百屋でリンゴ買ったりしている。外国人といったって、八百屋でリンゴ買ったりしてんだから何てことはないという……。
芸能的雰囲気の中で
――物書きが生まれるような文人的雰囲気はお宅にあったんですか。
堀田 むしろ芸能的雰囲気でしょうね。たとえば旅の能楽師とか、ふすま絵を描く絵師、それから落語を語る人、そういう旅芸人というものは、だいたい地方の素封家を頼って旅して歩くわけでしょう。芭蕉だってそういう旅芸人のひとりですよ。うちの離れにもそういう人たちが半年でも一年でもいたようです。そのうち女中さんと仲よくなって一緒に出て行ったりね。
――淫蕩的雰囲気も欠けてはいなかった。中学時代、音楽家を志望なさったというのは、そういう芸能的雰囲気と関係ありますか。
堀田 だろうと思いますね。それともうひとつは、ぼくは中学は金沢へ移りましたからね。金沢に楽器店をやってる叔父さんがいましてね、そこに下宿してましたから、そういう影響だと思うんですよ。私は、バイオリンを除く大抵の楽器は、何とか操りますよ。バイオリンはいかんね、あんなギーギー、コーコーいう音は。
――ピアノはかなり本格的に?
堀田 割合やりましたね。今はあんまりやりませんけどね。なにぶんピアノを二階に上げちゃったもんだからね。ぼくは、二階って、上がるのめんどくさいから行かない。ギターはときどき弾くね。それは、大学へ入って東京で下宿するようになりましてね、身辺に何もないし、メロディだけじゃなく、コードというか、ハーモニーの弾けるものが欲しい。ギターなら手軽にハーモニーが出ますからね。
――下宿でギターというのは、今のヤングの先取りですね。大学時代、旅回りのレビュー団でバンドのアルバイトをしたというのは、芸が身を助けたわけでしょうけど、戦争中のこととは思えませんね。
堀田 非常に楽しかったね。ぼくの『若き日の詩人たちの肖像』を読んで、安岡(章太郎)なんか怒っちゃってるのね。つまり、うらやましくてさ。やつは、落第ばかりして、ショボショボしてただろう。ぼくが何ということなしにスーッと旅のレビュー団に入ったりするものだからね。
――川端康成だって、踊り子のあとをくっついて歩いただけですからね。
堀田 村や町に着くと、興行主というのはだいたいやくざですよね。それが、あの踊り子をひと晩抱かせろ、なんてことを言い出す。それをあきらめさせるのがぼくの仕事でした。小学生のころ、ばくち打ちが賭場を開くとき、ぼくのおやじのところへあいさつに来るのを見てましたから、そういう者を扱う術は、ぼくは多少心得ていましたからね。高飛車に出ればいいんですよ。おやじなんか、玄関に突っ立ったまま、「素人衆に迷惑かけるでないぞ」なんて、どなってましたからね。
――堀田さんの役どころは、若旦那くずれの与三郎ですね。踊り子さんがほっておかない。で、音楽家志望はどうなりました。
堀田 大学に入って急速に左翼化しましたからね。
――レビュー団の軟派学生とマルクシズムは、あまり結びつきませんね。
堀田 ぼくのは英語のマルクシズムだからね。日本語だとやたら難解なマルクス主義用語も、英語ではふつうの日常語ですから。
――観念的なマルクスボーイにならずにすんだ。英語は、中学時代、楽器屋さんのあとでアメリカ人宣教師の家に預けられてマスターしたわけですね。
堀田 ボブという坊やがいてね、これが典型的なアメリカのワルガキで、犬を殺したり、ろくなことをしない。ぼくはそれに英語を教える家庭教師になった。
――アメリカ人に英語を?
堀田 だって北陸弁でもって暴れ回っているわけだ。お母さんは病気がちだしね。ヒステリーの発作がすごい。ほとんど素っ裸で仁王立ちになって、グランドピアノを引っくり返しちゃったことがある。ストリップと女相撲土俵入りを一緒にしたようなものだった。まあ、女というものは動物であるという認識を、あの辺から得たかもしれません。
ぼくはボブに、英語で算術から修身まで教えた。あんまり暴れるからね。「ユー・マスト・リスペクト・ユア・ファーザー」。だから、太平洋戦争が始まったとき、おれも戦争に引っぱり出されるだろうけど、ボブのやつがおれの鉄砲の前に出て来たらどうしようって、それがいちばんいやだったね。
――大学は慶応の政治学科から仏文に転科される。政治学科はお父さんの意志ですか。
堀田 そうかもしれない。おそらく政治学をやって代議士にでもなれってことだったんじゃないですか。おやじは戦時中、富山県の県会議長なんかしていて、松村謙三という自民党の代議士さんがいましたが、この人はぼくの家のプロテジェ(被後援者)だったわけじゃないでしょうか。それから読売新聞の正力松太郎、あれもうちの書生さんとはいわないけど、若い頃色々と後援していたらしい。だから、代議士に出る気なら、それほどむずかしくはなかったでしょう。そうすれば今ごろは環境庁長官ぐらいですよ。
――文化庁長官で「ゴヤ展」を呼んだりして。今からでも遅くないと思うんですが、その気はありませんか。
堀田 おやじも慶応で小泉信三と同級だったんですが、戦争中、大げんかしたらしい。おやじが怒ったのは、小泉信三は日本の有識者の中でもアメリカの実力を最もよく知っているはずだ、そういう人間が、人民が焼け出されてもまだまだアメリカに勝てるなんてバカなことを言うとは何事であるか、ということだったようです。小泉さんはものすごい好戦派ですからね。内閣参与というようなものになると、ああなるんじゃないですか。
今の文士諸君でも、福田内閣と親しかったりする人がいるようですけど、文士というものは、それだけはやっちゃいかん。そりゃ、何をやっても構わんです。女郎屋経営したっていいけどね、内閣参与とか、文部省の審議会に入るという程度でも、権力と手をつなぐことだけはしちゃいかんと思いますね。しないという、消極的なモラルですから、守りやすいと思うんですけどね。
焼け跡共和国の夢
――昭和一七年に大学を卒業されて、就職先が、外務省の外郭団体の国際文化振興会、それから海軍軍令部の……
堀田 軍令部臨時欧州戦争軍事情報調査部という、長い長い名前のところ。どっちみち、じきに召集が来るだろうから、それまでなるべく仕事のないところで、のんきに本でも読んで暮らそうというふうでしたよ。ぼくらの仲間でも、中村真一郎は、海洋気象台というところで、モナコの王様の書いた海洋学の本を翻訳してた。福永武彦君は日伊協会というところに入って、「興亜レオナルド・ダヴィンチ展」なんてのをやってたんだな。ダヴィンチがなんで興亜になるのか、さっぱりわからん。
ぼくは何してたかというと、軍令部ではロンドンのBBCのフランス向け放送を翻訳してたんだな。それが、「ウサギは走ったからキツネは後を追っかけろ」とか、「天使が落っこってくるといかんから、ブタはそれを助けにいけ」とか、そういうわけのわからんもんですよ。フランスのレジスタンスに対する、連合軍側の指令ですね。それで、ノルマンジー作戦の、いわゆるDデイの暗号が、ヴェルレーヌの、「秋の日のヴィオロンのため息の……」というやつ。
――『史上最大の作戦』やなんかのサワリですよね。それも訳された?
堀田 訳したはずなんですがね、全然記憶がない。
――ないですか。困った詩人ですね。
堀田 だって、Dデイの暗号だと知っていれば興奮もするんだけど、まるでチンプンカンなんだもの、バカバカしくてやってられない。
――そのあと、召集令状はきたが病気で帰され、敗戦の年の春に上海へいらっしゃるわけですね。
堀田 三月の末に上海へ行ったわけですから、三月一〇日の東京大空襲は知っているわけですけど、非常に複雑な心境でしたね。その複雑さというのは、空襲でもって全部焼けちゃって、東京、平べったくなったわね。それが日本全体平べったくなったらどうなるか……。皇室も焼け出されてしまえば、庶民と同じになってしまえば、天皇制は解消できるだろう、そして、別の日本共和国というものが成立し得るだろうという希望は、非常に持っていましたね。この焼け跡の先に日本共和国があるだろうという予感があったわけです。
ところが、非常に大きな衝撃だったのは、三月一〇日の空襲のあと、三月一八日、天皇が深川の方の焼け跡を回ったんですね。ぼくは深川に好きな女の子がいましてね。富岡八幡のそばに住んでいましたから、そこへ見に行ったんです。そしたら、そこへ天皇の車が来ちゃってね、あのおっさん、長靴はいて焼け跡視察に来たわけです。そしたら、そこら辺で焼け跡ほじくって茶わんなんか捜していた人たちが、もう土下座しちゃってね、それで言うことがいいんだなあ、陛下、われわれの努力が足りませんでしたって、涙流して謝ってるんだね。ぼくはガツーンと絶望しましたね。
焼け出されて、それの元凶である天皇が、よくもよくも視察に来やがる。来る方も来る方だけど、焼いてしまって申しわけありませんと謝る方も謝る方だ。なるほど、これが日本かと思ったですね。
――焼け跡共和国は見えてきませんね。
堀田 上海に行ってから、武田泰淳と未来の展望についてディスカッションしたことがあるんです。米軍が上陸して、その米軍につく日本軍と、あくまで抗戦する日本軍と、もうひとつ、食物を求め、寝るところを求めて強盗の集団になる、そういう日本軍と、三つが生ずるだろう。で、米軍についた方も、あくまで抗戦する方も希望なし。日本の希望は、この第三の強盗集団になるグループ、そこにあるだろうという展望を持ったことがありますけどね。
――しかし、どうしてまたそういう時期に上海へ?
堀田 戦争も先が見えてきたようだし、上海をひとつのステップストーンにしてヨーロッパへ行こうと思っていた。
――そういうルートがあったんですか。
堀田 そんなもんないと思うけどね。だって、日本より近いじゃない。
――上海でいちばん印象深かったのは何ですか。
堀田 そこに戦争がなかったということでしょうね。上海って港は、ほとんど全中国に外国製品をサプライする基地ですからね、ジョニー・ウォーカーだって、タバコのスリーキャッスルだって、何でもある。上海の周りは新四軍という中共軍に包囲されてるわけなんですけど、新四軍も上海を攻める気なんか全くない。そのまま温存しとけばいいわけですから。
だから、三月一〇日東京大空襲の焼野原から、戦争のない、物資の非常に豊富なところへポカッと降り立って、はじめぼくは憤慨したらしいんですね。内地じゃ、みんな焼け出されて、食うや食わずで苦労してんのに、何だここは、というわけですよ。それで、ぼくは国際文化振興会から派遣されたわけなんだけど、やることがないから、今でいう講演タレントになっちゃった。今日は銀行、明日はビール会社と内地の現状をしゃべって歩くわけです。それで、ビール会社へ講演に行って、ビール三ダースもらってきたら、たちまち堕落しちゃった。武田泰淳も同罪ですけどね。
たまに軍関係の翻訳のアルバイトをしてそこばくの金が入ると、旧フランス租界のユダヤ人のやってたバーに飲みに行ったり、まるで堕落の極に達してましたね。
三井機関、三菱機関と改称しろ
――そこで恋愛ということになったわけでしょう。
堀田 まあ、そういうこともありましたね。
今のわが輩の細君は、もともと毎日新聞にいたんですけど、例の児玉機関系統の水谷機関という特務機関に勤めてましてね。そこで彼女は何をしてたかというと、これも非常にわからないんですね。銀行へ行って、リヤカーいっぱいの札束を持ってきたりね。一度、彼女の事務所でロッカーをフッとあけたら、南部一四式というのかな、肩当てのある、ばかでかい拳銃がズラーッと並んでたね。
――奥さんの話は、武田泰淳氏との三角関係ということで、だいぶ書かれてますね。
堀田 あんなもん、書くやつには書かしとけ。武田がまだ生きてるんなら、もうそんなこと時効ですから、いくらでも話したっていいんですけど、死人に口なしになっちゃって、ぼくだけペラペラしゃべるのは公平を欠くよ。
それはともかく、児玉機関のやったいちばん大きな仕事というのは、銅幣《どんぺい》といって、銅貨ですね。三文の値打ちもない紙幣と引き換えにそれを掻き集める。銅を溶かして武器にするためですね。それから、金《きん》を集めること。情報なんていう形のないものより、鉄とか、銅とか、米とか、アンチモニーとか、そういう物の方が大事なんだ、戦争というものを実際にやるためには。だから、商社ですよ、特務機関というものは。ただ、そういうものはみんな敵地区にあるわけでしょう。だから敵との取引ですよ。重慶でマッチが足りなくなったといえば、あるルートを通じて日本製のマッチをドーッと重慶へ流してやる。その見返りに敵地区からこっちの必要なものをもらう。そういうものなんですよ、戦争というものの中身は。
だから、商社なんていうものは、みんな丸紅機関とか日商岩井機関、三井機関、三菱機関と改称した方がいいですよ。そういう戦争の台所というものを上海で知ったことは、非常な収穫であったかもしれませんね。
――戦争が終って国民党宣伝部へ入ったというのは……。
堀田 帰りたくなかったわけ。ヨーロッパへ行くつもりだったから。ここでぼくは、打って変ってアナウンサーになっちゃった。引揚げ関係のニュースを日本語で放送するわけです。
ただ、ヨーロッパ行きがとてもだめだというならば、敗戦の日本で革命のためにひと働きしたいという気持と、両方パラレルにありましたね。それで一九四七年の正月に帰ってきたわけですが、佐世保に着いたら、船中にコレラが出たという疑いで、一週間上陸できなかった。陸上から来るのはお巡りさんだけで、ぼくはそのお巡りさんをつかまえて、いま日本で流行っている歌をうたえと言ったんです。そうしたら、お巡りは得意になって、ミカン箱の上に乗って「リンゴ可愛や」というのを歌い出した。それでぼくはいっぺんに絶望しましたね。敗戦で食うものもないというのに、なんたるセンチな歌をうたっているのか。これでいっぺんに日本国民に絶望しましたね。なんたる抒情的な国民であるかと。だって二・一ゼネストの前夜だもの。
そのせいだけでもないんだけど、しばらくは文学をやるのもやめだ、しょうがないから時勢とともに流れていこうという気持だったと思いますね。たまたま席のあった新聞社でジャズの評論かなんかやってました。あのままやっていれば大橋巨泉ぐらいにはなってたかもしれない。
――その新聞社がつぶれてからですね、作家生活に入ったのは。
堀田 ええ。勤めをやめてみると、作家になるのは当然だと思っていましたね。つまり、作家というのは「なるもの」じゃなくて、「……であるもの」であると思っていましたし。
ゴヤとの出会い
――あと、堀田善衞というとAA会議ということにもなるわけですが、初めてゴヤのオリジナルをごらんになったのは、一九五八年の第一回AA作家会議の準備旅行でパリにお寄りになったとき、ということになりますか。
堀田 たぶんそうだと思いますね。そのときルーヴルで、フランス革命の国民公会から大使としてマドリードに行っていたギーユマルデという人の肖像画を見ているはずです。それから「ソラーナ夫人像」。これはいいと思いましたね。最もコンサバティブな、いわば黒いものしか着ないスペインの貴族というのは、なるほどかかるものであろうとは思っていたのですが。
――ということは、そのときすでにゴヤは堀田さんの中に棲みついていた。でなければ、ルーヴルでとくにゴヤに注目してくるはずがありませんからね。それ以前にはどういうゴヤ体験があったわけですか。
堀田 いちばん最初というのは、戦争中、阿佐谷の古本屋で、ニューヨーク版の『戦争の惨禍』の版画集を見つけましてね。それを長いことかかって見ていました。戦争というものがお互いに身近だったわけで、その戦争に対する見方が、あの版画で見る限り、敵味方双方に対してわりあいに公平だなというのが、そのときの印象でしたね。残虐行為に関しても、敵のものも、味方のものも、遠慮会釈なく描くしね。ということは、戦争を考える視点というものが、「大東亜共栄圏を築くためにがんばれ」というのではない、第三者的な見方があるものだということを、あの版画集は、漠然とではあるけど、若いぼくに教えたかもしれません。ただ、ずいぶん昔の話ですから、「今にして思えば……」という添え書きが必要でしょうね。
――ゴヤを書こうと思い立ったあたりの記憶はおありですか。
堀田 われわれのような現代人というものはどこで成立したのかという問題がひとつありましてね。今日風にいえば、現代人あるいは近代人のルーツ≠セな。その場合、やり方はいろいろあると思うんです。フランス革命の自由・平等・博愛というものを出発点にするのもひとつの方法でしょう。ただ、自由・平等・博愛というものは、そこで空中から掴み出されたものではなく、それ以前の一八世紀あるいは中世ヨーロッパの重みに耐えかねて、まんじゅうを踏みつぶしたら中から|あん《ヽヽ》が出てきた、その|あん《ヽヽ》が自由・平等・博愛というものであった。それならば、一八世紀という、自由・平等・博愛という|あん《ヽヽ》を抱えた、丸ごとのまんじゅうがあったはずだ。それを踏まえなければ、近代というものは生まれ得ない、納得しがたいであろう。そういうわけで、一八世紀というものを含んだ人間を考えなければ現代はあり得ないはずだ、というようなことを、非常に長い間かかって、徐々に考えていただろうと思いますね。
――ゴヤは、一八世紀から一九世紀にまたがった八二年間(一七四六〜一八二八)というものを十分に生きていますからね。しかしゴヤだけということでもない。なぜゴヤなんですか。
堀田 大学のフランス文学の人たちがやるように、ヴォルテールから始めるか、あるいはジャン・ジャック・ルソーから始めるというのも方法でしょう。ぼくは小説家ですから、やはり具体的なものがないと、という理屈もありますけど、何といってもゴヤの絵は面白いです。単純に面白いということがないと小説家は動きませんよ。
――面白いということは、先ほどからルルうかがってきたような、もろもろの体験、グランドピアノをひっくり返した女相撲みたいな、それこそ具体的な西洋体験、放浪体験、上海という台風の目の中から見た戦争の現実や経済のメカニズム、焼け跡共和国幻想、そういったもののすべてを放り込める大きさがゴヤにはあった……。
堀田 そうなんです。枠が大きいから何でも放り込める。ぼくがゴヤを始めたときに、ちょうど中村真一郎君が頼山陽を書いていまして、おまえのところは枠が大きいから何でも放り込めるけれども、頼山陽はどうも枠が小さくてね、ということを彼は嘆いていたことがありました。
ゴヤの絵を追って
――『ゴヤ』が書き始められたのは七三年ですけど、それ以前も、執筆中も、何回となくスペインへ行ってらっしゃいますね。
堀田 そうなったらゴヤそのものを見るためにスペインへ行くわけで、それがなければ、ぼくはフランコという人好きじゃないし、恐らく行かなかったでしょう。ただ、幸いゴヤの作品は余り散らかっていないんです。スペイン内でも、主としてマドリード、バレンシア、セビーリア、サラゴーサ、そんなもんです。あとはパリ、ニューヨーク、ストックホルム、ベルリン、そんなものでしたかね。
――ゴヤの絵を追って行くわけですね。
堀田 ええ。ただ、あれはめんどくさいんだな。西ドイツのババリア地方の奥の方に個人蔵のものがあって、見せてくれるということになったりしてもね、誰かをつかまえて車を運転させて行くわけだけど、行った先に絵がたった一枚きりしかなかったりすると、運転してくれたやつが、しまいに怒り出しちゃってね。
――絵を訪ねての旅の中で、いちばん印象に残っているのはどういうことですか。
堀田 アルバ公爵家で三回門前払いを食ったときでしょうね。三回といったって、こっちにしてみれば三年でしょう。間に一年おけば五年になっちゃうんだ。マドリードにあと一週間いて、その間にこことあそこに行ってと、予定を考えていると気が狂いそうになってくる。アルバ家の馬鹿野郎、またおれに門前払いを食わせやがってと、あんまり腹立てると、飲みすぎて、翌日二日酔いで役に立たない。
――相当な紹介状はもらっていらっしゃるわけでしょう。
堀田 美術館の館長とか、二回目は政府高官とかね。ところが、アルバ公爵家にとっては、政府高官といったって、ただの官僚であって、まるで問題にしてないわけですね。そりゃそうなんだ。アルバ家のリリーア宮殿というのは、東京でいえば日比谷公園にあたるところにあって、あの辺全部アルバ家の領地だと思いますね。アンダルシーアに一体どのくらいの領地があるものか、わかりませんね。もう大変な、わが国ではちょっと類を求めることもできない。イギリスのエリザベス二世とも親戚ですしね。
――門前払いというのは、どういう感じなんですか。
堀田 門番の家があって、そこへ紹介状を出すと、セクレタリーのオフィスへ持っていくわけです。それで戻ってきて、いまセクレタリーが不在である、ということになるわけですよ。
――セクレタリーの段階で居留守を使われちゃ、見通し暗いですね。
堀田 結局、いまの当主の姪御さんと知り合いになれて、やっとアルバ家の扉が開かれるわけです。それで、応接室といったところに通されてみると、ティツィアーノの「三代目のアルバ公爵」がある、それから、ベラスケス、ルーベンス、ベロネーゼ、ティントレット、伝ダ・ヴィンチといった絵がダーッとかかっている。その中に置いてみると、ゴヤの「白衣のアルバ公爵夫人」なんてものは、もう下手くそで見ていられないようなものでしたね。
――当主というのは、どういう感じの人ですか。
堀田 三〇代の、いい若い者って感じですね。「どうぞご自由にごらんになってください」と言って、スポーツカーでブワーッと出て行った。
――どうしても一点一点実物を見ておく必要があったわけですか。
堀田 美術評論家諸君が画集を見ただけで理屈をこねることは構いませんけどね、小説家には小説家のプライドがありますからね。画集で見たものを、あたかも本物を見たかのように書けば、文章は必ず軽薄になりますよ。大差ないといえば、ないかもしれない。しかしね、川をジャバジャバ渡っていくのと、橋をスーッと車で通ったのとの差ぐらいは出るだろうと思いますね。
矛盾を生きたゴヤ
――絵だけでなく、ゴヤの足跡もあまねく辿っていらっしゃる。ゴヤの生まれた村へは……
堀田 二度ぐらい行ったと思います。サラゴーサから四五キロぐらい離れた、フェンデトードスという村です。最初に行ったときは、電気もないし、裸山のまっただ中の、何もない村です。よく調べてみると、地下水だけは豊富で、昔はサラゴーサにその水を売ることによって村の経済が成り立っていたらしい。もっとも、この間もういっぺん行きましたら、もちろん電気も来ていたし、ゴヤの生家も、壁のしっくいなんか塗り直してきれいになり、すぐ隣りには「マハ」というバーまでできちゃった。
とにかく、いちばん不思議な点は、首席宮廷画家ということで、いちおう画家としての位人臣を極めたゴヤが、こういう全くの寒村で生まれていることですね。お父さんが彫金師だったようだから、全く芸術に無縁の環境ではなかったにしても、この人は全く無教養なわけですね。あの頃の画家は、どうしても宗教画あるいは歴史画を描く必要があるんですが、そういうことに関する基礎知識が全くないわけです。それで、アカデミーへ何べんでも立候補しては落ちるわけです。それも教養のなさだと思うんです。しかし、友達がよかったということは大変なことですね。友達は、主として、フランス革命の良い部分に賛同する開明派といいますか、今の言葉では進歩派と言っていいでしょうが、そういうのがたくさんいた。さらに、食っていくためには、一大保守反動の貴族たちと交際して、彼らの肖像画を描いておべんちゃらを使うという生活をせざるを得ないし、その矛盾だらけのところを平気で渡っていくということは、一九世紀の人ではなくて、やはり一八世紀の人だということです。
――で、何とか強引にアカデミーにもぐり込むわけですね。
堀田 それでまず、タピスリー――壁掛けですわね――それの下絵を描く仕事を与えられるわけです。ゴヤにとって幸運だったのは、マリー・アントワネットが羊飼いの女に扮装してみたり、いわば貴族階級の下降志向がヨーロッパ全体でのひとつの流行になる。その場合、古いタイプのアカデミシャンは、そういう風俗を大胆に取り入れることに、非常なちゅうちょがあった。インチキな知識に基づくギリシャ神話でも描いていた方が安全なわけですね。ところが、ゴヤの場合は、その安全な道を閉ざされている。ギリシャ・ローマ神話の知識がないんだから。ですから、思い切った道を行くしかない。それで今度は、そういう庶民の風景をタピスリーの下絵に描きだした。それがちょうど時代の嗜好にあって、喜ばれた。つまり、一朝にして流行作家になっちゃった。それは、古典および歴史に関する知識がなかったからこそできた。だから、芸術家の生誕というものは、何がきっかけになるかわからんですよ。
――それで、王室をはじめ権門貴紳から肖像画の注文が殺到する。ゴヤの肖像画は何点ぐらいあるんですか。
堀田 三百数十点あるでしょう。本当に、回り灯篭みたいに権力者がゴヤの前を次から次へ通りすぎるわけです。その回り灯篭のあり方というものも、まるでニュース映画を見るようだというふうに考えることもできると思うんです。この三百数十点の肖像画の人物の全部ではないが大多数を、いわば登場人物として扱ってきたということが、ぼくが今度つくった『ゴヤ』四冊の、いちばん本質的な特徴であるかもしれませんね。ぼくはもともと作家だから、全体としては小説としてできているつもりなんですけど、誰も認めてくれなくても、それは構いません。ただ、とくにゴヤの伝記をつくったという考えはないんですよ。
フランス革命はフリーセックスの敵
――またこの連中が華麗なるハイソサエティ相愛図を繰り広げてくれますね。
堀田 そうですね。ゴドイという、日本ではあまり聞き慣れない名前ですけど、ヨーロッパ史には必ず出てくる、二三か二四で総理大臣になっちゃった人であって、これが王妃のマリア・ルイーサの恋人なんですね。むしろ、恋人だったから総理大臣に引き立てられた。カルロス四世という旦那は、自分の総理大臣と自分の奥さんが日夜仲よくしているということは熟知しているわけですね。それでよかったんでしょうね。
一夫一婦制度というものがそれほど重要視されないとすれば、そこに恋愛があるのかないのかさえわかりませんよ。一夫一婦制度というものは、フランス革命以後のものですよね。あれ、ブルジョア道徳ですから。つまり市民諸君は、初めのうちは経済的にも一夫一婦であらざるを得なかったわけです。だからね、『ボヴァリー夫人』なんていうものは、一八世紀にはあり得ない。あれは完全にフランス革命以後の、ブルジョア道徳が確立して以後の悲劇ですね。
だから、今のようなフリーセックス、あるいは夫婦交換がいいという人にとっては、フランス革命というのは敵にあたるわけですね。ただ、一八世紀のフリーセックスは、権力と富力に保証されたフリーセックスであったわけですね。これからの、スウェーデンなんかのフリーセックスは権力も富力も関係がないということらしいですからね。だから、それは非常に新しいですよね。そして、一夫一婦制度というものを認めた上でのフリーセックスらしいから。つまり、彼らがデッドエンドにぶつからないで、フリーセックスというものを伸ばしていくためにはどうあるべきかということまで考えている人は、どうもいそうもないね。フリーセックス・イデオローグというのはいるんですかね。
――ゴヤ自身も、先程のアルバ公爵夫人とねんごろになったり、一八世紀型フリーセックスを満喫する。
堀田 画家の特権を含めてね。パリである有名な画家と話したところ、「モデルと寝なければ彼女に対して失礼にあたる」そうだからね。ただ、「裸のマハ」「着衣のマハ」のモデルがアルバ公爵夫人であるということにするのは、どうしても無理ですね。ゴヤを主人公にした小説というのは、マハ・イコール・アルバ公爵夫人ということにしないと成立しない。たとえば、アルバ公爵夫人は大変な開明派であり、進歩派であり、芸術のためには裸になることも辞さなかった、というぐあいにね。
――アルバ公爵夫人にとってのゴヤは、ちょっと毛色の変った、フリーセックスの相手のひとりに過ぎなかった?
堀田 そういう意味で興味はあったんでしょう。アルバ公爵が亡くなるとすぐ、サンルーカルという、アンダルシーアの方の別荘へゴヤを連れて行って、そこで同棲してますからね。ゴヤにとっては大変なことだったでしょうね。田舎から裸一貫で、無教養のままマドリードに攻め込んできて、そこでとにかくアカデミーの扉をこじ開け、貴族社会に自分をねじり込み、そのトップの貴婦人とご一緒にお寝《やす》みになるようになったわけですからね。
――同棲生活はどれくらい続いたんですか。
堀田 約三カ月です。「サンルーカル画帳」という、その頃のデッサン帳が残っていますけど、それなんか見ると、おしまいの頃は、公爵夫人はゴヤにうんざりしてきたらしいね。ゴヤは四〇代で突然耳が聞こえなくなり、それからいくらもたっていませんからね。ぼくは、四〇代でツンボになるというのはどういうことかと思って、日本でそういう人たちにインタビューしてみたり、神経科のお医者さんや聾唖学校の先生に取材したりしましたけど、途中ツンボがその状態に慣れるというのは、非常にむずかしいことらしいですね。ぼくもね、うちで耳にゴム栓を詰めて、おれは聞こえないんだぞと、やってみたことがあるんですよ。しまいに細君から、もうやめてくれと言われてね。
――堀田夫人もいらいらする、いわんやアルバ公爵夫人においてをや……。聞こえなくなったのは梅毒ですか。
堀田 梅毒でしょう、やはり。ただ、二〇世紀に入ってからのように、鼻が落ちるといった猛烈なやつじゃない。まだおとなしかったんじゃないでしょうか。
「サンルーカル画帳」は、話が通じないための、一種の会話帳でしょうね。公爵夫人が尻をまくって見せているものとか、視覚的寝物語といった性質のものもありますね。それが後年の膨大なデッサンの出発点になる。それまでは、スペインの絵描きは、ゴヤを含めて、デッサンをするという習慣がなかったんですね。
――三カ月でお払い箱にされたゴヤのショックは大きかったでしょうね。
堀田 アルバ公爵夫人に裏切られたという感じは終生残ったでしょうね。ということは、ニューヨークにある「黒衣のアルバ公爵夫人」の足の前に、「SOLO GOYA」と書いてあったんです。それが消してあった。一九五〇何年かに絵を洗ったら出てきたわけです。ソロ≠ニいうのは、ゴヤだけ∞オンリー・ゴヤ≠ニいう意味ですね。砂の上に書いたその文字を公爵夫人が指差して見せるという構図になっている。ゴヤは、夫人に裏切られてから、そのソロ≠ニいう字を塗り消してしまったわけです。
――マハがアルバ公爵夫人でないとすると、あれは誰ですか。
堀田 おそらく総理大臣のゴドイのお妾さんのペピータという人であろうということに、近ごろは確定したようですね。
あの裸と着衣は、本来は二枚重ねて壁の中にはめ込んであって、カーテンをサッと開くと、着物を着たやつが出てくる。それで、ボタンをガチャンと押すと、ガチャコンと着衣のがひっくり返って裸のやつがパッと出てくるという仕掛けになっていたらしいですね。注文主のゴドイが、家で仲間と酒でも飲み、それからおもむろに書斎へ連れ込んで、ちょっと見せてやろうか、というようなものだったと思いますね。
ある日本人画伯の話を開高(健)君が伝えてくれたんですけど、あの裸のマハは、マハと一緒に寝て、まだ精液がそこら辺にポトポト落っこっているような間に、裸で立ってきてダーッとデッサンしたものであろうと。こんなに馬力がないと絵を描けないんだったら、おれはもういやだと思ったという。それは絵描きさんというものの実感を、ある意味で伝えているかもしれませんね。
人間とはかかることをするものか……
――一八〇八年、ナポレオンがスペインに侵入する。先ほど話の出た『戦争の惨禍』がその産物ですね。
堀田 ナポレオンが世界史にもたらした大変化というのは、フランス革命を守るための国民軍をつくったということですね。それまでは雇い兵対雇い兵の戦争だから、お互い死んだり片輪になったりしたくないということでナアナアになる。また戦場になった土地の住民は、戦争には全く関係ない。ドンパチの合間に畑を耕していればいいことでね。ところが、国民対国民の戦争となると、敵国民は全部敵ですよ。そこから残虐行為が生まれる。
だから、人類に与える不幸さかげんにおいて、雇い兵戦争と国民戦争とでは、ぼくはやはり国民戦争の方が人間にとってずっと不幸だと思いますね。それが現代のベトナム戦争までずっと続いているわけですよ。
ゴヤにとっても、それは新鮮であり過ぎたでしょう。人間とはかかることをもやらかすのかという驚きが、つまり『戦争の惨禍』ですね。ただ、ゴヤはその場合、敵と味方の残虐行為を区別することなく描いている。それはやはり、一八世紀の伝統というものが、まだ彼の中に生きているせいだと思うんですね。つまり、近代的な意味での国民になり切っていない。
とにかく非常に無意識の部分の多い人ですからね。あるイデオロギーにもとづいて戦争の惨禍というものを描いたということじゃないと思いますね。ゴヤを革命家に仕立てた方が楽だし、面白いけど、私は、一八世紀以来の長い歴史の中に生きている人としてのゴヤを提出したわけです。
――にもかかわらず、ナポレオンが没落してフェルナンド七世が復位すると、ゴヤの立場はまずいものになる。
堀田 ナポレオン軍というのは、ある意味では自由・平等・博愛の解放軍ですから、ゴヤもそれに協力している。ところが、われわれにも経験があるけど、帝国主義の占領軍がデモクラシーをもたらすという、この矛盾は、非常に解決しがたい政治的問題をあとに残しますね。現在も残っているわけですよ。ですから、そういう意味での近代史の発端というものも、ここに見られると思いますね。フェルナンド七世がゴヤに、おまえがフランス軍の占領下で何をしていたかよく知っているぞ、本来なら縛り首にするところだが、芸術家だから堪忍してやる、と言ったという伝説がありますね。
――おかげで『黒い絵』と呼ばれる、ものすごいものが残ることになる。
堀田 ゴヤは、郊外に広大なる農地のついた別荘を買ったわけですね。そこで晩年を送るつもりだったと思います。結局は半亡命という形でフランスのボルドオへ行き、そこで死ぬわけですけどね。
その家に入るについて、一八一二年に奥さんが亡くなっていますから、レオカーディアという他人の奥さんを連れてくる。七〇何歳かのゴヤと、四〇ほど年下のレオカーディアとの間に子供が生まれるんです。まあ、達者なものですね。そこで、二階の食堂の白い壁を見ているうちに、猛然と絵が描きたくなる。一四枚の心象風景を三年がかりで描くわけですね。芸術の歴史の中で、自分自身のためだけの絵、他人さまに見せるつもりはないという、そういうものが発生した最初の例だろうと思うんですね。
――場所が食堂でしょう。あのサトゥルヌスが子供を頭からガリガリかじっている絵の下で飯を食っていたというのは……
堀田 なかなかの神経ですね。ゴヤは、これも梅毒のせいでしょうけど、前の奥さんとの間にできた二〇人もの子供のうち一九人までを死なせているわけです。サトゥルヌスは、自分の時間を食べるといわれている怪物でもあるわけですね。だから、自分にも死が迫っているということと、それにひっかけて、たくさんの子供を死なせてきた、そういう自責の念が「サトゥルヌス」には完全にあらわれていると思います。
一四枚の中には、たとえば老人がマスターベーションをしていて、それを売春婦とおぼしい若い女があざ笑っているという絵がある。八〇歳になんなんとする、あるいは八〇歳を越えた老人の性欲というのは、いったいどういうことに相なるものであるか、ぼくも心もとないものがある。
「ユーディット」と呼ばれている絵は、旧約の中の物語で、ユーディットという大変な娼婦が敵の将軍を誘惑して、油断を見すまして首を切っちゃう。それなんかも、ゴヤが自分の女出入りを振り返って、本当におれを愛したやつがいたのか、みんな騙して首を切っていったんじゃないか、それでいながら女なしでは一日もいられない、そういうありようが未解決のままで表現されていると思うんですね。
ぼくなんかも老年の入り口に現在立っていて、八〇歳になっても女に関することっていうのは思想的解決がつかないままで死ぬのかね、ということを考えさせられて、ちょっと絶望的な感じになりますね。
えらい人に長くつき合わされた
――シュールのはしりみたいな絵もありますね。
堀田 ええ。「犬」という題の絵は、斜めに線が一本あって、犬の顔がポカッと出ている。流砂に呑み込まれる一瞬前の図でしょうけど、絵画の歴史の中で、そういう妙ちきりんなものを絵にしてよろしいという伝統は全くないわけで、だから、今の方がごらんになっても、非常に新しいものとして見えると思います。
まあ、ゴヤの精神分析というのが最近のはやりですけど、そういう不思議な絵について、あまり解釈し過ぎない方がいいと思うんですよ。何のことだかわからんというところは、わからんままに残しておいていいと思うんです。ただ、実存という言葉はあまり熟した言葉ではないけれども、人間の実存にまで突き刺さっているような、人間の存在のわからなさというところまで突き抜けていった画家というものは、そうめったにいるもんじゃない。
それから、勇気の問題もあると思うんです。八〇歳に達して、まだマスターベーションでもしなければ、というのが人間の真実であるならば、それも描き残してみようという勇気、あるいはやけくそかもしれませんけど、そういうことを平気でやれるという肝っ玉の太さというか、プロレタリアートの無作法さというか……。ぼくなんか生え抜きのインテリですけど、ゴヤが根っからのプロレタリアート出であったということ、しかもなお、ひとつの時代の社会を土足で頂点まで踏み登っていったしたたかさ、そういう要素が、ぼくら生え抜きのインテリをも惹きつけてやまない要素だろうと思います。
――ゴヤを書きおえた瞬間はどうでしたか?
堀田 まあ、とにかくえらい人に長いことつき合わされて、ひどい目に会ったという感じでしたね。何せ八〇歳にもなって、まだ「おれは勉強する」といって、新しい技術の習得にはげむような男ですからね。
他人の八二歳の生涯を生きるということは、本当にくたびれることでした。終り近い頃に、ゴヤの死のところを書きおえて書斎を出て来て、家人に、ゴヤ死んだぞ、と告げたとき泪《なみだ》がワーッと出た。ゴヤに死なれた当座は、本当に空虚で困りました。
しかし、ゴヤという人は本当におもしろい人です。彼がやらかすことのおもしろさに救われつづけたと言えるでしょうね。
何しろ近代の出発点でボコッと巨大な岩のようにそびえ立った人でありながら、人間的にも政治的にも右往左往……、ですから現代という混迷のなかにあるわれわれにとっても、本当に示唆するところの高い人だと思いますよ。
[#地付き](聞き手・『PLAYBOY』編集部)
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スペイン便り
牛の鈴鈍く革命は進む
昨年の秋から今年の春にかけて、たてつづけに、と言いたいほどつづけざまに敬愛する友人たちを失い、それに私自身も六十歳に達して何とはない生き疲れのようなものを感じ出したので、一、二年の予定で思い切ってこちらへ引っ越した。
こちら、と言っても、ここは、スペイン北部海岸の村である。人口二五〇人、牛の数も二五〇頭、朝は牛乳集めのトラックが入って来て、次には村人が鈍い音をたてる鈴を首につけた牛を牧場につれ出す、それから乾草用の草を大鎌で刈る音がして、その後は道ばたで遊ぶ子供たちの声のほかには村じゅう音一つしない。
このアストゥリアス海岸は、ビスケー湾に面した断崖つづきのリアス式海岸であり、ノルウェー風な峡谷《フィヨルド》もあって、地形的には背後にピコス・デ・エウローパ(ヨーロッパの尖塔)と呼ばれる二五〇〇メートル級の高い山脈を背負っているので、居着いてみると伊那谷と三陸海岸とスイスがごっちゃになっているような感を抱かせられる。裏庭にはリンゴとアンズがたわわになり、そのうしろの丘はユーカリの林である。雨量が少なくないので、コスタ・ベルデ(緑の海岸)という名に恥じず、いわば日本でのスペイン・イメージとはまったく違った、緑にみちた風景である。
村にはバーをかねた雑貨食料品店がただ一軒あるだけで、夜は私どものところだけを除いて真っ暗、巨大なホタルがとびまわる。バーへ出掛けて行くと、村人たちに、海岸へ行ったか、海岸へ行ったか、と毎日聞かれる。海岸までは二キロほどで、あたかもスペインのけわしい山波の波が逆に海へ押しよせているような灰色の断崖にかくされた小さな砂浜が自慢なのである。長途の旅に疲れはてている私どもが、いやまだだ、レンタメンテ、レンタメンテ(ゆっくり、ゆっくり)と言いつづけていることに呆れているようである。
平和な村である。山一つ向こうの川には鮭が上ってくるそうで、ここには農薬のノーの字もなく、トマトは凸凹、ピーマンは赤ん坊の頭ほどあり、キュウリは自在に曲りくねり、インゲン豆は五寸以下のものはない。魚の小アジは一キロ、円に換算して一二〇円ほどである。
と、こう書くと、まるで楽園か何かのように思われるかもしれないけれども、ここにも現代のきびしさはやはり反映して来ているのであって、先に子供たちの遊ぶ声のことを書いたのであったが、よく聞いていると、その声は、ドイツ語、オランダ語、フランス語などを喋っている。いわゆる過疎状態はここにも訪れて来ていて、若者たちだけではなく、多くの人々がドイツやベルギー、フランス、イギリスなどへ出稼ぎに行き、なかには行きっきりになった人々もい、その留守宅が民宿のようなことになり、そこへ北ヨーロッパから夏の太陽を求める人々が入り込んで来ているというかたちになっているのである。
それはもはや珍しい話ではないであろうが、私どももまたその一組ということになってみると、別種な感慨にとらわれることになる。
そうして、昨夜のテレビジョンを見た人がバーで、セニョール・福田は、新内閣を組織してニコニコ大口あけて笑っていた、などというニュースを教えてくれると、一瞬どこにいるのだろうと自らを疑う瞬間もあるのである。
私がしばらくの休養と勉強のためにこの地を選んだのは、世話をしてくれた人があったせいもあり、またここ七、八年、スペインの大画家の一人とつき合って仕事をして来たせいもあった。とはいえ、まだまだ、私の読むだけのスペイン語では村人の話はうまく聞きとれず、何だと、わからぬぞ、の連発である。それでも聞きなおし聞きなおししていると、村の歴史というものがやはり耳に入って来る。
……むかしはこの村から沢山の人がキューバへ稼ぎに行った。(まるでキューバがこの村の植民地のような話である)。フィデル・カストロが出て来てからはメキシコだ。(そう言えば、数日前には前の農家の前に、メキシコ・ナンバーの大型のアメリカ製の車がとまっていた)。メキシコで稼いで帰って来た奴のことを、インディアノス(インディアン)と呼ぶのだ。
……いや、もっとずっとむかしは、アフリカやアメリカへ出掛けて奴隷取引の商売をしていた奴もいたもんだ。(これには私もびっくりである。しかし考えてみれば、スペインの歴史として少しも不思議ではない。けれども、それにしては金持ちらしい家がまったくないのもスペイン式と言うべきか)。
フランコ亡きあとのスペインへ来ていっそ気楽なのは、どの町や村の入口にも、以前には必ずあった、人をおびやかすような例の五本の矢をたばねた独裁政党ファランヘ党の紋章が消えてなくなったことである。近くの町の郵便局――この村にはない――へ行って、そこにフランコの肖像がないので驚いた、と言うと、抱きつかんばかりに喜んで握手をする人もあり、また、フランコの死んだ日に、マドリードでは涙を流しながらシャンペインを飲んだ人々が多くいて、その空きビンがひっそりと町々にころがっていた、という情報を教えてくれる人もいる。郵便切手からもフランコは次第に姿を消して行く。
この国では、いま静かな革命が進行中なのである。ここはバスク地方には属していないが、サン・セバスティアン市ではバスに、「|バスク語《EUZKERAZ》を学ぼう!」という大きな広告が見られ、商店には「バスク語、話します」という掲示が出ていた。
[#地付き](一九七七年七月十六日、アンドリン村にて)
ラ・バンデラ・ローハ! (赤旗の歌)
村を左右に分けている、カンカン照りの一本道を男の子が一人、歌をうたいながら歩調をとって歩いてくる。
甲高い歌声を聞いて、その|繰り返し《リフレーン》のところの、
――ラ・バンデラ・ローハ!
ということばを耳にして、私はほとんど愕然として、昼寝のベッドから起き上った。
――ラ・バンデラ・ローハ!
それは約三十七、八年も前に、私もがうたったことのある歌である。それとメロディがまったく同じなのだ。あのときはたしか、ラ・バンデラ・ロッサ! とイタリア語で歌ったものであったと思う。誰からどう教わってそういう歌を覚えたものであったかはもう記憶にはないのだが……。
たった一人ではあるけれども、子供は歩調をとって、なおも歌いながら行進をして来る。
――ラ・バンデラ・ローハ!
私は部屋から飛び出して行って、そのただ一人の行進をしている男の子をつかまえ、誰にそんな歌を教わったのだ、と苦心サンタンをして訊ね、また苦心サンタンをしてその男の子の返答を聞く。
おじいさんに習ったのだが、そのおじいさんはつい近頃死んでしまった、という由であるらしいのである。
ラ・バンデラ・ローハとは、要するに、赤い旗、赤旗という意味であり、この歌と、四十年前のスペイン内戦とは切っても切れぬかかわりがあるのである。
その歌を、一九七七年夏のいまのいま、七つか八つの男の子が、たった一人で歩調をとって歌いながら行進をして行く。
肩に鉄砲をこそかついでいないけれども……。
そう言えば、つい四、五日前の霧雨の降る寒い午後に、村の教会の鐘が、低く、高く、低く高く間をおいて鳴り響き、何か不吉な感を与えたものであった。そうしてその明くる日の朝、村人の一人が訪ねて来て、パコじいさんが死んだから、あなた方も村人《プエブロ》として葬儀に参加してほしい、といいに来たものであった。
私どもはもって来た衣装をひっくりかえしてなるべく黒っぽいものを着、私はネクタイを一本しか持っていないので、仕方なく赤のネクタイをして出掛けた。けれども、葬儀はきわめて非形式的であって、だれもが普段着のままであった。私どもは非キリスト教徒なので教会には入らず、外で待っていた。
|パコ《フランシスコ》じいさんは、八十四歳で、村でたった一人英語の出来る村人で、私どもには貴重なおじいさんであった。ほかに、マドリードから来ている別荘の人で、五、六カ国語の出来る人はいるのであるけれども。
パコおじいさんは、ニューヨークに十五年いた、と私に語っていたが、その曽孫が、
――ラ・バンデラ・ローハ!
と歌ってただ一人の行進をしていた男の子であったのである。
そのおじいさんの若い頃の経歴などを聞くほどの親しさになるには、時間が足りなかった。けれども、生涯の終わりに近く、曽孫の男の子に、「赤旗の歌」を教えて、何度も繰りかえすけれども、ただ一人の行進をさせるとは……。
その後に、村人たちの話を総合してみると、やはり、パコおじいさんは若き日に、近くの鉱山で働き、献身的なアナーキストとして活動をしたものであった。一九世紀末からのスペイン・アナーキストの特筆すべき特徴は、その道徳的、と言うよりはむしろ宗教的なまでに身を持するに厳格なことであった。組合の幹部になれば、決して報酬は受けず、酒もタバコも飲まない、女郎屋にも上らず、オルグに際しての旅費も必要最低で、犯罪者に対しても寛容である等々の戒律を厳守していたものであった。この最後の条件が、職業的テロリストの介入を許すことにも結果としてはなったのであるけれども。
私個人としては、スペイン・アナーキズムというものは、このカトリック専制国内での一種のプロテスタント(抗議派)であったというように考えているのであるが。
四十年前の残酷な内戦の記憶は、まだまだなまなましいのであって、それはわれわれの敗戦の歴史についての記憶などの比ではないようである。その記憶が、私どものかりそめの宿となったこの小さな村の底にも、左右ともどもに、しっかりと――という表現は妙に聞こえるであろうけれども――澱んでいるのであって、フランコ死後といえども、決して派手に爆発したりすることもなく、一種の政治的制動機として作用をしているようである。小さな村での憎悪怨恨その他その他のことどもは、外国人に話せるようなことではありえない。人々はひっそりといわば息を詰めて、いわゆる〈民主化〉の成り行きを見詰めているもののようである。
去る六月の総選挙の際には、世界中から数百人の――特に日本からは数十人もの――ジャーナリストが、事あれかしと詰めかけたもののようであったが、さしたる事もなかった。この国の人々の息の詰め方に触れられなければ、どうやら何事も地についたことはわからないのであるらしい。
パコおじいさんにしても、フランコの死後に敢てした事《ヽ》の一つは、わずかに曽孫に
――ラ・バンデラ・ローハ!
の歌を教えたくらいのものであったのであろう。組織の人々以外は、みな、黙っているのである。
政治革命はともかくもとして、風俗革命の方は、一気に世界なみのところにまで達し、女性の服装などにしても、お祭りの際は別として、別にスペインにいるという気はしないのである。しかしそれも、十五年前には考えられないことであった。
十五年前にも、私は娘をつれてこの国を旅したことがあった。その時は、ショートパンツをはいた娘が、お坊さんにつかまり、警察へつれて行かれそうになったものである。その当時、ビキニの海水着など考えられもしなかったのに、いまは地中海の海岸にはヌーディストのクラブまでがある。
教会の力もまた、世間並みとなり、映画館に張り出してあった教区司祭の、四項目、あるいは五項目にわたる禁止警告なども姿を消した。
しかし、戦前の日本でさえ考えられないほどの、ほとんど領主制といったほどの大地主制度を残し、それに手をつけられないままの<民主化>というものが何を意味するか、ペセタ切下げ以後の、この国の政治的、経済的前途についても、人々は息を詰めて注目をしているもののようである。
村の男の子の甲高い歌声が、私の耳にこびりついてはなれない。
――ラ・バンデラ・ローハ!
[#地付き](九月七日、マドリードにて)
ピカソとリンカーン旅団
夏の数カ月間を北スペインの、人口二五〇人、牛の数も二五〇頭という寒村――今年の夏は寒かった――ですごし、秋に入ってマドリードへ下って来た。その間に、丸山真男氏とともに大佛次郎賞を頂くことになり、短期間、一時帰国をしたのであったが、またマドリードへ戻って来た。
マドリードは、言うまでもなく数あるヨーロッパの国々の首都の一つであってみれば、表面のところでは、とりわけてスペイン的なものなどありようがない筈である。
けれども、ここに住みついてみると、やはりここはスペインであって、スペイン以外ではありえないことに気付かされるのである。その一つに、秋に入って|はじめて《ヽヽヽヽ》ピカソの展覧会が催される、ということがあった。
この|はじめて《ヽヽヽヽ》は、しかし、まったくヨーロッパの首都なみではないのである。ピカソの作品展などは、他の、ヨーロッパ、アメリカ、日本等ではすでに珍しくもなんともないものである。けれども、このスペイン出身の二〇世紀の大画家の、たとえ小規模であるとはいえ、制作年代を追っての展覧会は、要するに|はじめて《ヽヽヽヽ》なのである。
ピカソがスペインを最終的に出て、内戦につぐフランコ独裁などのせいで戻らなくなったのはいつからのことであったか私はつまびらかにしないのだが、とにかくこの国では、一九七七年秋、多少大袈裟に言えば、いわばピカソ解禁、といったおもむきである。バルセローナには、以前から幼少時代のピカソの作品を集めた美術館はあるにはあったが。
新聞でその報知を見て、私も友人といそいそと出掛けて行っておどろいたものである。展覧会は、ある財団の寄贈になる文化センターのようなところで催されていた。そこへ近づくと、そのブロック一帯に、四列ほどの人々の行列がエンエンとつづいていて一向にはかどらない。それは気ぜわしいところのあるスペイン人諸君には珍しいほどのことであって、彼らは実に我慢づよく待っていた。私どももまた、小一時間は立ちつくしていたのである。
そうして、いざ入口にまで達すると、入場は無料なのであったが、その警戒の厳重なことに二度びっくりをさせられた。ほとんどボディ・チェックまでをされかねない有様で、女性諸君はハンドバッグの中味までをいちいち検査される。ほとんどハイジャック事件後の空港を思わせる。何事ならん、と思って訊ねてみると、しばらくの以前に、ある画廊でピカソの版画の小さな展示会をやったところ、旧フランキスタ(フランコ派=右翼)の暴徒に襲われて版画もろとも画廊もメチャメチャにぶっこわされたことがあったからだ、という由であった。
このピカソ展は、いわばこの国における自由化のシンボルのように見受けられはした。けれども、四十年にわたる怨恨と対立の根は一朝にして消えはしないのである。
展覧会そのものは、一九〇一年から一九六八年までの作品三十一点を、英国とスイスから(!)あつめて来たもので、小規模ながらピカソの生涯の作品歴が明らかに頭に入るよい展示であった。人々は食い入るような目付きで実に熱心に眺めていた。私自身は、カンバスの白をほとんどそのままで残したような、闘牛場の輪郭だけをわずかに線描をした一九六〇年の作品に打たれた。祖国の闘牛場の白熱する陽光が画家の心に生きていることに感動をしたのである。
しかし、如何にピカソが亡命者であったからとはいえ、この偉大な、亡命者などというものを越えた大芸術家の作品が、その祖国には、幼少の時代のものを除いてほとんどなくて、英国とスイスから借りあつめて来なくてはならないとは!
はじめてづくしのもう一つは、九月の末に、マドリードのある大きなレストランで食事をしていると、その別室からアメリカ語とスペイン語のいりまじった、大声での演説やら会話などが溢れ出て来てうるさくてかなわぬという事態から知らされたものであった。
その別室に、新聞記者らしい人々やカメラマンなどがしきりに出入りし、食後のカフェとブランディが続々運び込まれた頃には、アメリカ語、スペイン語の大声、喚声はしまいには割れんばかりとなる。あまりな有様に、よろよろと足許のあやうい六十歳か七十歳ほどのアメリカ人とおぼしい老人が出て来たので、何事なりや、と訊ねてみると、この老人は、私どもの席に坐り込んで、まず私の顔を、疑わしそうに見詰め、
「君ハ知ッテイルカナ、知ラナイダロウナ……?」
と何度もくりかえしてから、やっとのことで、
「われわれ七人は全員アメリカ人で、一九三六年にスペインに内戦が起こったときに、アメリカから義勇兵として共和国政府の側に参加したのだ。フランコが死んで、はじめてわれわれも、もう一度スペインへ行ってみようということになり、シカゴ近辺だけで七人の同志をつのってやって来たのだ」
という。
「それではあなた方は、あのリンカーン旅団の生き残りであるか?」
「若者よ、よくぞその名を知っていてくれた!」
私はもう若者ではないが、その名くらいは三十七、八年前から知っている。老人の真赤な顔からは、さんさんとして涙が流れている。
「今日われわれはバスで、われわれの同志の多くが倒れたハラマ川の戦場に行って来た。あれは一九三七年二月のことだったのだ。何分にも、われわれはほとんど何の訓練もうけていなかったから、多くのものがむざむざと死んだ……」
老人の話によれば、このリンカーン旅団に参加したアメリカ人たちは、その後、アメリカで共産党員に準ずる破壊活動被疑者として扱われ、つい十年ほど前までFBIにつけまわされていたものであるという。
老人は別室へかえって行き、戸口からアメリカ語、スペイン語のいりまじった軍歌(?)らしいものが、はじけるような勢いで響いて来た。
その数日後の、社会党と共産党の新聞に、これらのアメリカ人に感謝をするという投書が何通ものっていたと、友人が教えてくれた。
[#地付き](マドリードにて)
教会・憲法・軍隊
この国の大きな教会の、大きなお祭りを見たことのある人は、そのお祭りで美々しく装った軍人、軍隊が大きな役割を果たすのを見て驚く、とまでは行かなくても、奇異な思いをされたはずである。教会内での大祭典が、海軍の提督だとか陸軍大将の演説、あるいは献辞ではじまることさえあるのである。そうして教会内での儀式が終り、十字架上のキリストの像、あるいは金銀宝石に飾られて足の指にまで指輪をはめたマリア像、諸聖人像などがかつぎ出されて町々を行列行進をするとき、そのキリスト、あるいはマリアの直前直後を軍楽隊つきの軍隊と警察が粛々と扈従《こじゆう》警護をするのを目撃されるとするならば、おそらく大抵の人は目をまるくされるであろう。ときには二十一発の礼砲までが放たれる。
この国がカトリック国家なのであってみれば、軍隊の任務のうちの大きなものがカトリック教とその教会を守ることにあるのであるからには、教会のお祭りに軍隊が出て来ても何の不思議もないのである。またこの国の歴史を少しひもといてみれば、内戦、外戦を問わずにキリストやマリアの旗のもとに戦って来た、そのカクカクたる様相が納得出来る筈である。マヤ族もインカ族もアズテク族もその旗のもとに征服され、財宝と生命を奪われたのであった。
しかしところで、いま私は、この国がカトリック国家であってみれば、と書いたのであったが、現在いまのいまはどうなっているのか、実はよくわからないのである。フランコ時代の旧憲法は効力を停止し、政教分離を目指す新憲法は、いまだに議会の委員会での起草、討論の段階にあって、基本法がないままに、新しい法律は、ドン・ファン・カルロス王の布令という形をとって施行されているのである。
(新憲法は一九七八年十二月に国民投票によって成立発効した。後記)
そのために、奇妙なことが時々おこるようである。スペインの都市には、かつて長い伝統をもつ夜警、あるいは鍵番《セレノス》なるものがいて、深夜はアパート、あるいはビルディングへ入るにしても、そこから出るにしても、入口または門のところで手を叩くと、夜陰の、その暗闇のなかから、どこからともなくこのセレノスなるものが鍵の音をがちゃがちゃさせてやって来てあけてくれるという仕掛けになっていた。これは言うまでもなく人民の動きの監視、特に集会の監視役をかねていたものであったろうが、これが数年前に廃止をされた。ところが近頃では、世界じゅうの都市の治安の悪さにならってか、御多分に洩れずこの地でも少々よろしくないことがあるようで、この夜警・鍵番を復活することになり、その復活命令が王の布令によって出された。(ここで急いでつけ加えておきたいのは、こういう布告がたとえ出されたとしても、この国の都市の治安は日本と並ぶほどによいということである。)
こういうこまかいことまでが布令でまかなわれるのである。
しかも憲法が起草中であるということは、布令を出す当の本人である王自身にとっても甚だ具合のわるいこともあるようなのである。一昨年の十一月に、王が九歳になるフェリーペ親王を、正式に皇太子に叙任をしようとし、その儀式を古式ゆたかに催そうとしたところ、憲法がまだ正式に出来ていないのであるから、という横槍が議会筋から出て、その式の直前に、叙任式ではなくて、この九歳の坊やが民衆の頌詞《しようし》をうける式という曖昧なものに変更になったことがあった。
王もさぞかし面喰らったことであったろう。
私は現在アンダルシーア地方のグラナダ近郊に住んでいるのだが、この地方でも自治運動はさかんで先日も大きなデモがあり、マラガ市でも死者が一人出たようであった。ところで、そのデモの予定日の前日に、大きな爆発音がつづけさまに起って雪のシエラ・ネバダ山脈にぶつかって|こだま《ヽヽヽ》し、にぎやかなことであった。ここでも自治運動は住民のほとんど一致した支持をうけているのであるから、私はデモの前祝いの花火かと思っていたところ、そうではなくて、それは軍隊の大砲の演習なのであった。住民デモの前後には、大抵、軍隊がおれたちはここにいるぞ、という軍隊側でのデモが行われるのだという話を聞かされたものである。
しかし、大きな政治デモが行われ、警察、あるいは反対派との衝突が起ると、しばしば射殺された死体が残されたことが報ぜられ、しかも大抵の場合は、誰が発砲をしたかはわからずじまいになってしまうのであるらしい。警察は発砲していないと声明し、しかもなお死体は現実に町に在る。
どうしてこういうことになるのだという私の問いに対する友人知人たちの答えは、いつも曖昧なものであり、それはあたかも、察しはついているのだが、そのことは言わない、あるいは言えないことになっているのだと言わぬばかりの在り様なのであった。
そういう状況がスペイン各地にくりかえされていた頃のある日に、新聞の切り抜きを見せてくれた人があった。それは例によって王の布令の一つであって、そこには現在七万件以上が発行されている銃砲所持許可証のうち、五千二百件の私人所有銃砲と、五千四百七件の狩猟クラブ所属員のものと、七十件の外交官所有のものに限り今後も許可し、その他の六万件前後の許可証は無効にする、と書かれてあった。一種の武装解除ではないか、と言う私の問いに対する答えは、無言の肯定だけであった。
ではこの六万件前後の銃砲は誰が所有をしていたか。スペインの新聞を調べてみても何も書いてない。わかり切ったことだと言わぬばかりな様子である。
しかし隣国であるフランスのパリ発行の新聞は遠慮も会釈もない。右翼の、従来とも半地下団体である「|フランコの守り《ラ・ガルディア・デ・フランコ》」その他の組織を、武装解除をする狙いがこの布令にはあるのだとある新聞は書いていたものである。
四十年間つづいた独裁国家と、五百年はつづいたカトリック国家からの脱皮と民主化、政教分離は、実に困難なジグザグの道程である。一昨年十一月二十日のフランコの一周忌には、マドリードで十万人の集会があった。国家予算の割当がなくなった場合に、この国の強大な教会はどうして財政をまかなって行くか。教会の子女に対する教育権とその予算の問題もどうするものか。私としても、京都にはキャバレーを経営しているお寺さんだったか神社だったかがあるらしいなどということは、冗談にも言わないように口をつぐんでいる。
[#地付き](グラナダにて)
いわゆる王侯貴族なるものについて
数年前にマドリードのあるホテルにいたとき、顔なじみのウェイターが、
「今夜、サロンでガラ・グランデ≠ェある」
と言うので、ガラ・グランデとは何のことだと聞きなおすと、ものを知らぬ奴は仕方のないものだといった顔つきで、男女ともに礼装をし勲章を着用しての大パーティーであると説明をしてくれて、何なら見物をさせてやろうかといった様子であった。私にもそのくらいの好奇心はあるので、私としては大枚のチップを払い、広間を見下ろすことの出来る小部屋に、警護の刑事かボディー・ガードと覚しい私服の男といっしょにいることになった。この男にもチップを払わさせられたものであったが。
その、パーティー兼舞踏会のガラ・グランデ≠ネるものは、おどろいたことに、ロシアの旧王室ロマノフ家の大公女マリア・ウラジミローヴナ嬢と、旧ドイツ帝国及びプロシア王国の皇太子フランツ・ウィルヘルム大公の結婚披露宴パーティーであって、この結婚によってフランツ・ウィルムヘルムなる若者は自動的にロシア大公爵の称号をももつことになるということであった。
私は大抵のことにはあまりものに動じない方であるが、入り口の案内役が大音声でナントカ公爵及び公爵夫人とか、カントカ伯爵だとかとおらび上げ、旧ロシア帝国かプロシアあたりのそれらしい軍服を着た老人や、首から犬の首輪のような勲章をぶら下げて幅広のタスキをはすかいにかけた男、アタマにダイヤモンドの輪ッパをかぶった女などが続々とあらわれ、楽隊が「双頭の鷲」と「ドイツはすべてに優越す」という音楽を大音響でやりだしたのには、さすがに、多少大袈裟に言えば度胆をぬかれたものであった。これはいったいどこの世の中の何世紀頃のハナシであるか、と。いちばん最後に遅れて入って来たのが、なんとエジプトの王妃、つまりはファルーク旧王の未亡人であった。
マドリードとリスボンには、現在社会主義国となっている東欧の、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリアなどの旧王室やら大貴族などがかつての独裁政権を頼って住みついていて、いわばヨーロッパの旧王侯貴族のハキダメのようなことになっているという話は聞いたことがあった。けれども、旧ロシア帝国の大公女とドイツ、プロシアの御曹子が結婚をして、「双頭の鷲」と「ドイツはすべてに……」が奏されるとは!
まるでむかしの映画「会議は踊る」のような光景であった。
ところでしかし、現在のこのスペイン国も王国であるということになっていて、この国にも大貴族や貴族の称号をもった人々がうようよといて、私も伯爵の称号をもった人を一人と、侯爵を一人と、未婚であったが伯爵夫人――というより女伯爵と言うべきか――の称号をもつ女性を知っていたが、後者の女伯爵は、その称号がかえって邪魔になってなかなか結婚できないで困っていたものであった。持参金や財産処理などの問題がからむものであるらしかった。そうして前二者に対しても、セニョール・コンデ(伯爵閣下)とか、セニョール・マルケス(侯爵閣下)などと呼びかけると、羞しそうにして、やめてくれ、そんな呼び方をするのは、と言うのがつねであった。
しかしそれでも大貴族の大《グランデ》という量目のつく連中は、男性は王の前で帽子をぬがなくてよいとか、女性は椅子に腰をおろしてよろしいとかという旧習はまもられているらしく、この国の週刊誌なども、わが日本のある種のものと同様に、王族だとか貴族だとかいうものが大好きであるらしい。
近頃そういう週刊誌をにぎわせたのは、ファン・カルロス王がオーストリア国を訪問した際のことである。この王は、フランスのブルボン家の血筋なのであるが、ウィーンのハプスブルグ旧王家から嫁に行っていたアルフォンソ十二世の王妃のマリア・クリスティナの曽孫にあたるとかいうことで、ウィーンでは王宮で大宴会が、また国立歌劇場での大舞踏会――またまたガラ・グランデ、である――が催されて、ウィーンの旧貴族たちが昴奮をするということがあったようである。
オーストリアは言うまでもなく社会主義政党が政権を握る共和国であり、ウィーンの市長は、第一次大戦の終了時から、ヒトラーの時期だけを除いてずっと社会党が担当して来た筈であった。しかも総理大臣のクライスキー氏は社会主義インタナショナルの大物である。その人がスペイン国王を迎えてのガラ大パーティーの招待者になる。
そういうところに、このヨーロッパというものの古い、――と言うべきか、旧弊な、と言うべきか――血が、歴史の瘤《こぶ》のようにして露出するもののようである。私はモスクワのある雑誌の編集部で、一人の特定の婦人だけが、男に手を与えてその手の甲に接吻をさせるという挨拶の受け方をしているのを見て、あれはどういう人かと質問をしたところ、むかしの貴族の血筋の人だ、という返事をうけたことがあった。
しかしこの国、スペインの王制なるものは、まだ確定をしたものではない。新憲法がまだ起草討論の段階にあるのであり、野党第一党の社会労働者党は、王制に反対であり、王などという仲介なしで、よきにつけあしきにつけ人民のみが責任をもつ共和国制を主張している。共和国制が議会で否決されるならば、王から一切の政治権力を剥奪しようという二段階作戦をとっているようである。
この強力な社会主義政党は約百年の歴史をもち、共産党とともにフランコの独裁時代の苦難をくぐり抜けて生き抜いて来たものであった。
来る五月には議会で憲法草案が出来上がり、それが国民投票にかけられる段取りである。またまた政治の季節がこの国に訪れようとしている、現在私どもの住む家のすぐ近くの中学校の壁には、"Rey No" つまりは、国王なんぞは要らない、と大書してあり、また別のところには、Anarquia ――無政府状態、というよりは無権力と訳した方がよいように思われるが――無権力状態こそは人間の条件にふさわしいものである、という意味のスローガンが大書してある。
人々は、しかし、一般に内戦の苦く辛い記憶と、四十年間に及んだ独裁制からようやくまぬがれ出て、どうやらデンマーク、オランダ、スウェーデン風な在り方を望んでいるように感じられる。
ところでいちばんおしまいになってしまったが、最初に書いたホテルでの大パーティーで小室で私にチップを要求した私服の男は、あとで聞くと保険会社のエージェントで貴顕高官やその夫人たちのつけている宝石を守るために来ていたものであった。
[#地付き](グラナダにて)
グラナダの夏
暑い!
壮烈にアツイ! シエラ・ネバダ山脈にはまだ雪はあるものの。
それは暑いというよりも、むしろ熱いのであって、アチチの方の熱さである。直射日光の下では約四〇度近く、日蔭では二七度ほどである。
しかしそれも大体午後四時から八時頃までであって、午前中及び午後九時半以降の日没後は、風は涼しく頗《すこぶ》るすごしやすい。だから、どうにも耐えがたい時刻は、どうしても昼寝《シエスタ》をせざるをえない。それは自然の要求なのである。夜なかの十二時頃に子供たちが広場で遊んでいるのを見ても、きわめて当たり前という感じがする。
今年は五月と六月が天候不順で、雨が降ったり曇天だったりで、私は友人たちにいつもアンダルシーアにいるとは思えないと不平を言っていたのであるが、友人たちは、まず六月中頃から七月はじめにかけてのグラナダ国際音楽祭がすむまで我慢しなさい、と言い、まさにその音楽祭が終わってみたら、途端に、アチチ! になって来たのである。
この野外音楽祭は、グラナダのアルハンブラ大宮殿とそのアラブ風な庭園で行われ、開演は毎日夜の十一時からである。それが終わってノドをうるおして帰って来ると、大体午前三時頃になる。
今年の音楽祭の呼びものは、それは何といってもロストロポーヴィッチのチェロと、ストラヴィンスキーの音楽によるモーリス・ベジャール演出の二〇世紀バレー団のそれであった。そのいずれにしても、私には、素晴らしい、としか言葉がないのであるが、異様な感を与えたのは、初日と二日目がモスクワ交響楽団の演奏であり、これと近頃ソビエト国籍を剥奪されたチェロの巨匠ロストロポーヴィッチ氏のすれ違いであった。
モスクワ交響楽団とロストロポーヴィッチ氏がグラナダで鉢合わせをするとは。
私は他国の政治のことをとやかく言おうとは思わない。けれども、濃く深い群青の夜空に轟くような大きな音で響きわたるロ氏のチェロの音を聞きながら、これほどのことが出来るならパスポートも何も要らない、そんなものを剥奪されても痛くもかゆくもないだろう、と思っていた。氏の演奏中に、大きな流星が一つ、アルハンブラ大宮殿の糸杉の上に流れた。流星に国籍なんぞはない。
ロ氏の主な演目は、スペイン王室楽団伴奏でハイドンのニ長調協奏曲とバッハの無伴奏サラバンドであった。
同じくグラナダで、七月のはじめの夜、あるカフェで私は新聞を読んでいた。私の横で、私の新聞をのぞき込んでいた老人が、私が新聞のページをめくると、突然、
「オーッ!」
と唸り声を発した。
その紙面に大きな写真がのっていて、マドリードの宮殿で、フランスの大統領ジスカールデスタン氏を迎えてのレセプションの様子が報じられていたのである。そうしてこの老人が大声で唸ったのは、スペイン国王のドン・ファン・カルロスが国王服――というのであろうか、それとも大元帥服といったものか――に勲章を一杯つけ、肩からははすかいに幅広いタスキ様のものをかけ、腰には真紅の腰帯で、フランス大統領の方はエンビ服にレジオン・ドヌール勲章の首飾りで、しかしこれだけならばこの老人も別に驚きはしなかったであろうが、そういう恰好の国王が、仏大統領に、スペイン共産党の書記長のサンチアゴ・カリーリョを紹介していたのである。
スペイン国王がその宮殿で他国の大統領に、自国の共産党の書記長を紹介する……。
いまのスペイン国としては何の不思議もないことではあるが、この国の老人たちにとっては、やはり、「オーッ!」と唸らざるをえない光景なのであろう。
それは一昔前どころか、三年前にすら想像も出来ない在り様であった。この国王は、六月には中国――タイワンではない――を訪問していたが、もし毛沢東がまだ生きていて、毛氏とファン・カルロス王が一緒の写真が新聞に出たとしたら、かの老人は、またまた「オーッ!」と唸ったであろう。三年前には毛氏の写真をもっているだけでも留置場入りであったのだから。
私もまた老人にその写真を指さして、「オーッ!」と唸りかえしの返事をしておいた。
この国の民主化、国の体制づくりは一見のところでは着々と進行しているように見える。新憲法の草案では、主権在民の議会制王国という、ギリシャ時代の政権思想中の、民主制、王制、貴族制などの混合国制≠フようなことになることになり、共和国制を目指す最大の反対党である社会労働者党は棄権をすることによってこれを成立させた。これで最大の難関は越えられたようである。
けれども不思議なのは、私の狭い範囲の知り合いの誰に聞いてみても、つまりは右翼的傾向の人も左翼の人も、誰も心から王制を支持していないことである。友人の一人は、「大多数の非王制主義者《ノン・モナルキスタ》の支持による王制なのです、如何にもスペイン的でしょう」と言ってくれたものであったが、今世紀はじめの共和国制の失敗が影をおとしているものと思われる。
この国の政治を見ていて、しかし、一つ羨しいと思われるのは、政治家たちの若さである。ファン・カルロス王は三九歳、首相のスアレス氏が四五歳、社会労働者党の書記長フェリーペ・ゴンサレス氏が三六歳、この国の最大の発行部数をもつ新聞の編集長がなんと三二歳という若さである。そうして共産党の書記長サンチアゴ・カリーリョ氏が六三歳であることは、その亡命時代の長さを物語っていよう。共産党の党首のイバルリ女史が八二歳である。まるで政治の世界の老齢層を共産党が代表しているように見えることすらあるのである。
しかもそれでいながら私どもの身のまわりで見ているだけでも、社会労働者党と共産党は若年層をぐいぐい引きつけているようであり、今秋の新憲法に対する国民投票についで、もし総選挙があれば、三六歳の美青年が内閣を組織することになるであろうと言われている。
その辺にも、「オーッ!」と唸った老人の、あるいは老人たちの危惧の念はあるものかもしれないが、若い政治家たちは、しかし、かなり巧みに、しかもおだやかに、たとえばあまりに多すぎて困る老将軍やら老提督や警察の幹部などに引退をすすめているようである。
社会労働者党はマルクスと、共産党がレーニン主義と縁を切ったことについて、ある週刊誌のマンガは、マルクス一家とレーニン一家が店じまいをして家をたたみ、家族を連れてピレネー山脈の彼方へ亡命をして行くの図を描いていた。
[#地付き](グラナダにて)
樫の木の下の民主主義に栄えあれ!
昨年の初夏、フランスから北スペインのバスク地方へ入って来てはじめてスペインの新聞を買ったとき、その第一ページの見出しを見ておどろいたことがあった。その大きな活字の見出しは、
『ゲルニカ』をゲルニカにかえせ!
というもので、このバスク地方の小さな町の町長さんの声明がそれにつづいていた。その声明によれば、ゲルニカは、一九三七年四月二六日の、市場のたつ月曜日に、フランコ指揮下のナチ・ドイツの空軍によって、約十万ポンドの焼夷弾と高性能爆弾によって破壊され、当時約七千の人口のうち、婦女子や司祭、尼僧なども含む二千五百人を越える死傷者を出した。それ以後の四十年間、歴史と伝統に輝くバスクの自治権は奪われたままで、今日まで耐えて来た。しかも中央からの援助もさしてないままに、われわれは営々として町の再建のために努めて来た。ピカソのかの傑作『ゲルニカ』は、ナチス・ドイツの鬼どもによる無差別爆撃によるわれわれの父母の苦難を描いたものである。
しかるが故に――というこの論理の飛躍も如何にもスペイン的なものであるが――『ゲルニカ』はゲルニカに属する。『ゲルニカ』はゲルニカにこそかえされるべきものである。
町長さんの声明はたしか右のような趣旨のものであった。私はこれを記憶によって書いているので誤りがあったらお許しをねがわねばならないが。
ところでこの問題の『ゲルニカ』は、現在はニューヨークの近代美術館にあるのである。私もかつてこれを見に行ったことがあるが、それは今から考えてみても、如何にも仮の宿という感じで、この美術館の二階の段階の上り口のところに掲げてあって、なんとも見にくい位置にあった。その階段の踊り場は、この大作の全体を眺めるには狭過ぎ、後退しようとすれば階段を下りなければならず、階段を下りれば、手摺が邪魔になってやはり全体が見えない、という具合のわるいことになっていた。むしろ、この大作のための下絵の方が、この作の裏の部屋のなかにあるために、そちらの方が優遇されている感さえあったのである。
私はこのゲルニカの町長さんの声明を読んで、なるほどニューヨークの近代美術館は、あれは仮の宿なのであったか、とひとりで納得をしたものであった。
しかし、『ゲルニカ』の帰属をめぐる問題は、町長さんの考えるほどには簡単ではないらしいのである。まずこの大作は、一九三七年のパリ万国博覧会に際して、スペイン共和国政府館のために壁画を描くようにと、共和国政府《ヽヽヽヽヽ》からピカソが依頼されて描かれたものであった。従って第一義的な所有者は、スペイン共和国政府であったであろうが、それはフランコによって叩き潰されて存在しない。一九三九年にこの政府が存在しなくなったとき、ピカソはこれをニューヨーク近代美術館の要請によって、貸与《ローン》≠キるというかたちでこの市へ移すことを許可したものであった。爾後この絵は、あの窮屈な階段の上に掲げられてそこを動いたことがない。
しかし、現在共和国≠ナはないにしても、主権在民の王制をとり、フランコ時代に抑圧されていた人権の自由化が実現した段階へ来ては、この国の世論も黙ってはいられないのである。
それはどこへかえされるべきであるか。
もう一つしかし、ピカソの遺志の問題が別にあるのであった。フランコ政権の末期の一九六九年に当時政府がこの大画家に対する和解と敬意を表明するために、この作品の故国への帰還を要望したことがあったらしいが、これはピカソ自身によって拒否された。そうしてこの時点で画家は遺言書を作成して、これを彼の弁護士に託したのであった。この遺言書の主文はまだ発表されたことはないようだが、そのなかに、「ゲルニカとその下絵の類は、スペイン共和国に属する。」と明言してあるとその弁護士は言明をしている。
だとすれば、つまりはこの遺言を文字通りに解するとすれば、現在のファン・カルロス王制政府にはその資格はないことになる。
けれども、そこにこそ、独立不羈にして譲ることなきスペインかたぎというか、特に長く迫害に耐えてきたバスクの人々の魂から発するものが、中央政府などというものをスッと超えて、実に生ま生ましく、目に見えて発揮されるのである。マドリードの政府にその資格がないならば、ゲルニカの町にそれをかえせ! という次第になる。
それはかつて、一八〇八年にナポレオンの軍隊が侵入して来たとき、マドリードの政府があわてふためき壊滅状態になっていた、そのときに、この市近郊のモストーレスという寒村の村長さんが敢然として、モストーレス村一個としてナポレオンに対して宣戦布告をした、という歴史的事実を思い起こさせるのである。
それはまた、この国の、村や町、あるいは諸地方の強烈な自治への、ほとんど本能的と言いたくなるほどの要求を想起させ、フランコの独裁政治というものが、その裏側を衝《つ》く強権政治であったという理解へも、いわば裏側から導くものであろう。自治への度を越した要求は分離主義を招き、それは国家解体への傾きを生むであろう。またこの自治への翹望は一方ではアナーキズムへの温床にもなりうるのである。
さもあらばあれ、ピカソの遺言執行にあたる弁護士は、画家の「スペイン共和国に属する」という言葉を広義に解しようとしているもののようであり、またニューヨークの近代美術館も「所有権はわれわれにはない」と明言しているのであってみれば、返還はいつの日か実現するであろう。
けれども、そこまで行くにはまだまだ凸凹の道を辿らなければならないようである。というのは、弁護士のほかに、画家の遺族の意向もあるであろうし、またもしかえって来たとしても、どこに掲げるか、という問題もある。プラド美術館は、古典絵画を主とし、この美術館の別館である十九世紀スペイン美術館が適当であるという主張もあるようである。
『ゲルニカ』のことはともかくとして、現実のゲルニカの町は、カンタブリカの海岸にほど近い、樹木のゆたかな山間に、この無差別爆撃の思想がついには広島・長崎への原爆攻撃を招いたことなども知らぬげに、惨禍のあともよく再建されて、彼らのバスク自治権を表象する議事堂は神聖な場所として扱われ、またその自治権の古典的表象でもある樫の木は、現在のそれはまだ若い木ではあるものの、それもまた神木に近い敬意をうけているのである。かつての大木はいまは自治記念館に大切にその幹の一部が保存されている。かつてその木の下にバスクの長老たちが集まって衆議を決したものであった。
私としても、樫の木の下の民主主義に栄えあれ、と一言呟かざるをえなかった。
――樫の木の下の民主主義に栄えあれ!
[#地付き](マドリードにて)
[#改ページ]
グラナダ暮し
ゴヤと怪物
ゴヤという名をもっていた男がのこした仕事に魅入られることになったのは、十五年ほど前のことであったろう、いや、それはもう少し以前のことであって、私の学生時代の教師であった故高橋広江がジョルジュ・グラップの手になる伝記を訳した頃からであったかもしれない。しかし、何故か――、と問われて言えることは、ふとしたことから――というほどのことであろう。それ以上でも以下でもない。理由はぜんぶあとからやって来る。そのぞろぞろと、ワラジ虫のように関係代名詞をいくつもいくつもひきずった理由の群れどもが、それこそゴヤの夜半夢、あるいは白昼夢のようにつらなって、彼の暗い版画や肖像画の背景を通りすぎて行くのが、私には見えている。絵画自体が、またいま仮に私が理由≠フ群れたちと呼んだものが自ら語り出すのを待っているだけである。
その、ぞろぞろと歩いている理由≠フ群れ――、驢馬《ろば》の恰好をしていたり、大金持のくせにケチと貪欲の権化であるほかはないような面をした王侯貴族高僧などの肖像になっていたり、あるいはまたペスト患者や気違い病院となっていたり、さらに悲惨と高貴が闘牛の牛の一対の眼に集中していたり、戦争の惨禍≠ニなり、または、この女とならばどんな強姦もきっと和姦になるにちがいないマハたちの肉になったりしている理由≠ヌもの、私を遠まきにしてぞろぞろと歩きまわる、夢魔そのものであって同時に現実の真実であるものどもと、いまはつきあうことを私は避けたい。いや、つきあわないですむものならば、それですませたいという気持ちが私には、ある。出来るならば、その方が無事なのだ。けれども、そうは行かないように出来ているのであるらしい……。
かくて、ふとしたことからはじまって、このスペインの百姓男とのつきあいを、とうとう運命的にしてしまったのは、一九五八年にモスクワのプーシュキン美術館で見た、一枚の小さな絵であった。そのМОНАХИНЯ НА СМЕРТНОМ ЛОЖЕ=i瀕死のモナ)とロシア語で題のつけられた三〇号くらいの絵は、私がいままでに調べたどんなゴヤの画集にも伝記にもカタログ類にものっていないものであった。死の床に横たわった中年の女――死の床、といま書いたが、別に床があきらかに描かれているわけではなく、すべてはねばりつくような蝋灰色と黒だけで、その瀕死の女は眼を瞑って現実に死につつあった。死の色というものが、あれほどに近接して描かれた例というものを私は知らなかった。これ以上は書くまい。まず人はこういうふうにしてものに魅入られて行くのであろう。しかし、相手がわるかった。相手はゴヤであり、あの絵が存在をつづける限りは永久に死につづけるモナである。私自身の内部にあっても、モナは私が生きている限りにおいて死につづけている。
この瀕死のモナ≠ヘ、プーシュキン美術館においても、あまり優遇はされていない。ほんの片隅に、ひっそりと灰色に、そうしていつまでも死につづけている。今年の二月、もう一度彼女を見に行ったのであったが、やはり同じ場所で、黙して死につづけていた。再会して、私は彼女に愛を感じた。彼女が、かくも近く、しかもかくも遠くにいることに苦痛をさえ感じた。
ゴヤはそれを理解≠オようというつもりならば、理解≠フための道をいくつか自ら用意していてくれる。理解しにくいなどということはない作家である。ゴヤを渦中にもつ当時のスペインの歴史の状況、政治、社会などを概略心得るだけでも、道のようなものはひらけるであろう。伝記にいたっては、実にこれは、いわばあまりにも面白すぎて小説家でさえ躊躇せざるをえない。フォイヒトヴァンガーは言うに及ばず、ウージェニオ・ドルスやアントニナ・ヴァランタンやヒュー・ストークス、あるいはエリック・ポーターなどの著書は、まことに恰好な読物であろう。また黒い絵(Pinturas Negras) と呼ばれるものや諸種の版画に接して瞠目する人々のなかで、そこにある狂気を見出した人は、たとえば病理学者であるガストン・ルウァシ博士の分析を読めばいい。スペイン語も勉強して、と熱をあげうる人々は、もっとも正統的な研究であるプラド美術館長の故サンチェス・カントン氏のものを読めばいい。
いや、私はゴヤ案内に適した人間ではない。文献などをあげたのは、やはり、私にはゴヤの変化《へんげ》が怖ろしいからなのだ。
逃亡ついでに、もう少しゴヤを理解≠キるための道をさがしてみよう。ゴヤはそれを理解≠キるためならば、いわば逆算の利く作家である。ゴヤのなかに、ピカソを、ドラクロワを、ロートレックを、ドーミエをその他の近代現代の画家を見出すことは、さしてむずかしいことではない。むしろそれはやさしすぎるほどの作業である。たとえばここに、砂にうまる犬≠ニいう奇妙な絵がある。その顔だけしか描かれていない犬の顔を、印刷によるものならば指先で、あるいはプラドのあの採光の悪い美術館でならば掌で遮って、その塗り込められた前景と後景とだけをよくよく見込んでみるならば、そこに人はあるいは現代ポーランドのある種の暗鬱な画家などよりももっと怖ろしいものをつかみ出して来なければならなくなる。しかし、それらは所詮理解≠ニいうものにいたるための、そのためだけの道というものである。
道がなくなってしまえば、つまりはそれから先は、人が歩いて行くところが道なのだ。歩かなければ、道はないのだ。歩かなくてもいい、戻ってしまってもいい。その辺がゴヤと私とのつきあいの状況というものであろう。
しかし、いよいよその怖ろしい一歩を踏み出さねばならないのであるらしい。私は砂に埋れかかっている、あのカリカチュールめいた犬の顔に無限の親しみを感じる。状況かくの如し、である。
私はゴヤ妖怪を見詰めていて、あるいは一八一五年作になる、六十九歳のときの自画像を見詰めていると、自然にもう一人の男の、これは写真であるが、その写真が近づいて来るのを感じる。それは、読者の方々にとっては、あまりに唐突で、かつはあまりに、地球と土星ほどにも離れすぎているので、此奴阿呆じゃあるまいか、と思われるに違いないのだが、その写真のあるじは、魯迅先生である。魯迅は、中国の文学者であった。ゴヤの自画像についても、魯迅の写真についても、私は多くを語るまい。魯迅の『宮芝居』とか『故郷』とかいう、人生の苦《にが》さを抑えた幼年時代の回想が、あのように美しく描かれるためには、『阿Q正伝』『吶喊』『狂人日記』などのような、いたましく無気味な現実がなければならなかった、というほどのことにいまはとどめておこう。この二人の影像を、特にその一人の限りもない怒りと憂いに、ついにうるんでしまった眼と、別の一人の、耳は聞えず、人間のすることの怖ろしさ、愚劣さ、高貴さ、すなわち人間というものは何をするものであるかを縦にも横にも立体にも三六〇度ぐるりと、深さも高さも、そのほとんど一切を見切ってしまった男の、むくんだ顔にくっついた一対の眼を、凝っと見比べて頂きたい。ゴヤがスペインの怪物であるならば、魯迅も中国の怪物なのだ。ということは、人間は何をするものなのか、怪物とは、人間そのもののことなのだ、ということであろう。魯迅から現代中国というものがはじまるという言い方がもし正しいとすれば、あの気障《きざ》なアンドレ・マルロオがゴヤ論の結句とした、「かくて、近代絵画ははじまる」という言い方も正しいかもしれぬ。
白緑色の髪をふりみだし眼に名状しがたい恐怖の原型を刻印としてもつサトゥルヌスは、自らの子を喰らいながら言っているかもしれぬ。
『四千年の食人の歴史をもつおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった。真実の人間の得がたさ。
人間を食ったことのない子どもは、まだいるかしらん。
子どもを救え……』(魯迅『狂人日記』)と。
ゴヤの墓
この画家の運命について考えていると、不謹慎と言われるかもしれないけれども、その死後の運命について、私はなんだか可笑しくなって来て深夜ひそかに笑い出したことがある。
御承知のように、ゴヤは亡命先のボルドオで一八二八年四月十六日、八十二歳の高齢で亡くなった。そうしてボルドオにあった墓には、彼の死亡の日付も年齢も間違えて刻んであったものである。
まあしかし、間違えられても仕方はなかったのかもしれない。とにかく、当時は亡命中であったとはいえ、ゴヤはスペイン宮廷付の画家であったのであり、ボルドオでもそれ相応の尊敬はうけていたのであるが、死んで入るべき彼自身のための墓がなかった。その面倒をちゃんと見てくれる人がいなかった。それで彼の遺骸は、同じく亡命者であって彼の友人でもあったドン・マルティン・デ・ゴイコエチェア(一八〇六年没)の墓に同居をすることになったのである。このゴイコエチェアの娘がゴヤの息子の嫁になっているのであるが……。
そうして祖国スペインは、ナポレオン戦争以来の政治、軍事、経済のゴタゴタがつづき、長くこの大画家の死のことなどにかまっていられなかった。それに、私もボルドオのシャルトルーズ墓地へ行ってみて知ったのであるが、この墓地には実に多くのスペイン姓の墓があるのである。
彼の死後五十年たって、一八七八年に、やっとマドリードにはゴヤの遺骨をスペインへ迎えようという議がもちあがる。しかし、何分にもスペインでの事務というものは甚しく時日のかかるものであり、事はフランス当局との折衝をも必要としていて、そのスペイン国内での事務処理と、フランス当局との折衝に、たっぷりと十年の歳月が必要であった。アスタ・マニャーナ、というものである。それで、一八八八年にいたって、ようやく議は成立し、同年七月五日、両当局者立会いのもとにゴイコエチェア・ゴヤ両人共用の墓をひらいてみることになった。
ところが、石をのけてみるというとこれはしたり、両人のお骨は、生前仲のよかったことを立証でもするかのようにして、どれがゴイコエチェアやらゴヤやら、さっぱりわからぬほど、両者合体してしまっていたのである。しかも、あろうことか、アタマが一つしかなかった。紛失したのはゴヤのアタマであって、のこっているのはゴイコエチェアのそれであるということになった。どういう証拠があってそうきめられたものか、そんなことはわからない。
誰か、ゴヤの熱狂的な崇拝者が墓をあばき、骸骨からゴヤの|されこうべ《ヽヽヽヽヽ》をもぎりとってもって行ってしまったのだ、ということになった。そうしてあとをごまかすために両人の遺骨をごちゃまぜにし、一つのアタマだけで両者に兼用してもらうことにしたらしいのである。
そうして、十九世紀の中頃には、ゴヤの生れ故郷であるサラゴーサ近郊のフェンデトードスの村には、ディオニジオ・フィエルロスとかという画家の手になるゴヤのされこうべという一枚の絵があったそうであるから、村の血縁の誰かが盗み出したのだろうという話もあるが、その絵自体が紛失してしまっているのでは話にもなんにもなりはしないであろう。また話にならぬという点では、このフェンデトードスの村にはゴヤの生家なる石造の小屋が再建されていて、その再建された家の壁には、幼年時代のゴヤが描いたということになっている、例の魔女がホーキにまたがっている落書があるが、近頃再建されたものに、子供時代のゴヤのデッサンがあるなどとは、まるで頼朝八歳のときのされこうべといったものであろう。
立会った両国の当局者は、しかし、アタマが一つしかない両人ごちゃごちゃの遺骨を前にしてはたと当惑し、どうしたらよいかという指令を両国のより高いところから仰ぐことにきめて、ふたたび墓のふたをしめてしまった。この間、一年……。
結局、両国の議が熟して、どれがどうなったともわからぬこの御両人の骨は、ともかくいっしょにマドリードへひきとることになり、かくて、とにもかくにも一八九九年に、ゴヤのこの首なし遺骨はマドリードへ戻りつくにはついたのだが、さて、ではどこに御安置申し上げるか、それがまたなかなかにきまらない。
そこで、一応《ヽヽ》、マドリードのサン・イジドロ寺院に宿を借りることになった。まだまだついの宿りにいたるまでにはいたらず、五年はたっぷり待たなければならなかった。
一九〇五年に、やっとのことでこのゴイコエチェア・ゴヤの骨は、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ寺院の、いまの宿り場にたどりついたものである。この間、何十年であったか。いかにアスタ・マニャーナのスペインとはいえ、ずいぶんと長くかかったものである。
しかし、それだけの時間をかけただけのこと、あるいはその甲斐があって、このサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダは、彼のお骨を納めるにふさわしい場所であった。一七六八年に、この小さな御堂の天井に、ゴヤはフレスコでこのアントニオ聖人の挿話を壁画に描いているのであったから。
そうして、このフレスコ画は彼の作品中でも傑作に属するものであり、たとえばカディスの町中のアパートのなかの教会にある壁画などよりも、やはりずっと出来のよいものである。保存も完璧である。
天井はひどく高いから、見においでになる人は望遠鏡かオペラグラスをもっておいでになる方がいい。完熟期のゴヤの多くの絵がそうであるように、ほとんど準備らしい準備も下絵もなしに、描きながら思いつきながらというふうで、ほとんど即興的に、とさえ言いたくなるほどの自由さで描いて行ったものらしい。少し倍率の大きな望遠鏡でのぞくと、円天井の絵の一部にははじめのデッサンの線がシックイにのこっていて、その線と本番の絵とはまるで食い違っていることが認められる筈である。
そうして、ゴイコエチェア・ゴヤの墓はといえば、大理石の、どこのどんなバカ絵描きが描いたものかわからぬが、絵つきの大理石の祭壇の前に、従ってこの円天井の真下に、安っぽい天使の彫刻をほどこした板石があって、そこにお骨が納めてあるのである。
これまた不謹慎なはなしではあるが、私はこの墓のそばに立って円天井の壁画を見上げながら、なにやら腹の底から可笑しくなって来たことがあった。死者追悼とか墓参とかという気持からははるかに遠く、大らかな哄笑を呼ぶ心持に、私はなって来たのであった。
なにしろ、その天井に描かれている人物たちは、みなマドリードの、そんじょそこらの町の男女であり、洗濯女や女魚売りやら、いまにもランカンから落っこちそうな餓鬼どもやら、大工に左官屋に掻ッパライといった、ゴヤという大将がいちばん好きだった連中である。アントニオ聖人そのひとが、ほとんど何等の聖化をもともなっていない。モデルはおそらく彼の友人の誰かである。ここに描かれた女どものうちの何人かとは、彼自身関係があったものであろうことにも間違いはないであろう。なにしろこのゴヤという大将は、宮廷画家であって御大層な馬車などに乗っていはしたものの、またアルバ公爵夫人などをうまい具合にちょろまかしたりはしたものの、要するに餓鬼大将がそのまま大きくなったような人だったのであるから。彼は不良少年でさえなかったであろう、要するに餓鬼大将である。
もちろん、当時にあってもこの絵は、涜聖だということで物議をかもした。全体の雰囲気が、まるでマドリードの市場のようにやたらに騒々しくて聖人の説教どころの感じではまったくなく、それに、たとえば前掛けをして腰に赤い帯をつけた何かの売り子か下女と覚しい女の背中に羽根が生えていて天使であるということになっているにいたっては、御堂としてもあわてたものであろう。おそらくこの下ぶくれの女中天使も、当時はどこそこの誰、というふうにアイデンティファイをすることが出来たものであろう、そう思われる。
要するにマドリードのマホでありマハである。アントニオ聖人の奇蹟は、元来リスボンで行われるのであるけれど、そんなことはこの餓鬼大将の知ったことではない。十八世紀も末に近づくと、宗教的壁画は一つのキマリが出来てまるで面白くなくなるのである。しかしここに本当に生きている連中がいる。
この騒々しい、まことに愉快で、生きていることの愉しさと面白さを十全に感じさせてくれる自作を、ゴイコエチェア・ゴヤのごちゃまぜ遺骨が、その真下から眺めあげているのである。
しかも、その遺骨にはゴヤのアタマがなくて、彼のかわりにゴイコエチェアのアタマが見上げているとなると、私にしても哄笑は怪笑か妖笑になりかけるのであるが、それはゴヤの生涯にふさわしいと思えば、さして怪でも妖でもないと納得出来る筈である。
ところではじめにかえって、ボルドオ市には、だからゴヤの骨もゴイコエチェアの骨もなにもないのに、広大なシャルトルーズ墓地の糸杉の立ち並ぶあたりにゴヤの立派な墓があって多くの人が参詣をしている。私もその一人であった。
スペインの沈黙
――美術展に寄せて――
スペインという国について、われわれは――いやわれわれだけではなくて、西ヨーロッパ一般もまた――どうやら大いなる誤解をしているようなのだ。たとえばスペイン≠ニいう呼名が出て来ると、まるで対句のようにして情熱≠セの、熱情≠セの明るい≠セのということが出て来る。
カルメンの影響力
私の考えでは、こういう大誤解をふりまいた元凶は、それはスペインそのものの責任ではまったくなくて、どうやらその元凶はフランスの作家プロスペル・メリメであり、メリメよりももっと責任のあるのは、作曲家のビゼーであろう。メリメ作の「カルメン」は、それなりにスペインの情熱の暗さというものを表現しえていると思うのだが、これを原作としたビゼー作曲の歌劇「カルメン」となると、これはもう文字通り、情熱的《ヽヽヽ》なものとなってしまう。歌劇の影響力というものはおそるべきものだ。「蝶々夫人」が日本≠ナあったりしたのではたまったものでないのと似ている。
第一にカルメン嬢はジプシー娘なのであって、正統的なスペイン人ではない。イベリア半島にその在所をもつものではない。異人の娘なのである。まあしかし、そんなことにインネンをつけに行ってももう遅すぎるのであるから、情熱的《ヽヽヽ》であることを一応認めることとしてからでも、少々考えておかなければならぬことが残るはずである。
それは、情熱、激情といったものは、実は明るい≠ニいったこととはなんの関係もない、実はひどく暗い、未分明な人間情念であるということだ。たとえばここで、オランダの哲学者スピノザの次のようなことば、きわめて理性的で、従って明るい≠アとばをもち出すとする。
「激情というものは、我々がそこからそれにふさわしい理念をつくり出すとき、激情たることを止める」
ついでに言えばスピノザもまた、スペイン出身のユダヤ教徒の先祖をもつ人であった。情熱の何たるかを彼は熟知した人である。
だから、激情あるいは情熱的であるということは、姿勢としては受身で、実は暗いことなのだ。明るいどころのさわぎではない。それに、スペインや北アフリカの、あのものすさまじいまでに青い空というものは、そこに住む人々にとっては、明るかったり青かったりするようなものではないであろう。それはむしろ耐えて生きて行かなくてはならぬ負荷のようなものであろう。青くて明るくてありがたいのは、ピレネー以北から来る日光浴の観光客にとって、である。
きわだつ暗い沈黙
かつてスペイン各地の美術館で何度かお目にかかったスペイン美術の数々の名作に、今度は東京は上野でふたたびあいさつをかわすことが出来て、今回もまた、というよりは現代日本の喧騒のなかでお目にかかり、私がより一層に、きわだって感じたものもまた、一種の、暗い沈黙、といったものであった。
スルバランの白≠ノ託された沈黙、あるいはベラスケスの、たぐいまれな知的な沈黙、またゴヤ若年のころ、放蕩無頼の生ぐさい生活をマドリードの巷で送っていたころの自画像を見ていても、そこにやはり私は、言いえずして物狂わしい沈黙を強いられているものを感じる。リベラの「盲目の彫刻家」にいたっては、ことばというものの存在しない、沈黙が画面の裏へ抜けて行くような作品である。さらにまた、ルーカスの「革命」といったものにしても、元来叫びと悲鳴などの、いわば雄叫びにみちたはずの画面もまた、不思議なことに絵の裏にある深淵のような謎に満ちた沈黙によって裏付けられている。
わずかにことばをもって話しかけて来るものは、グレコのみであるように思う。それはグレコがギリシャで育ち、コンスタンチノープル、ベネチアと経てトレドに至ったことを物語っているように思われる。しかし、それも饒舌といったものではない。やはりスペインの沈黙≠ノよって規制をされている。
これらの絵画にあらわれている――と私に見える――スペインの沈黙なるものは、いったいどこからどうして生じて来たものなのか、と問いかつ答えなければならないのであろうが、素人の悲しさで、その任に耐えない。
あれこれ思いあぐみ、思いめぐらしての私の考えを言えば、それは、島国である日本と少しばかり似ていて、ピレネー山脈でさえぎられて孤立していながら、それでいて日本同様に、やたらと|外の文化《ヽヽヽヽ》に訪れられてばかりいるものに独自な、一種の強いられた沈黙ではなかろうか、ということである。
ゴヤの魂の大爆発
スペインの歴史を少し調べればわかることであるが、このイベリア半島へは、実にいろいろな、異質なものが入って来た。東方のフェニキア、カルタゴ、ローマ文化、西ゴート族のゲルマン的なるもの、八百年にわたるイスラム支配、イタリア・ルネサンス、バロック、近世における政治上のこととしても中欧はウィーンのハプスブルグ家による支配、フランスのブルボン王朝による支配、ナポレオン軍の侵入――ざっと数えてみても、歴史にこれだけの侵入交替があり、これではイベリアの魂は、物狂わんばかりにも押し黙らされてしまうであろう。その狂せんばかりに押し黙っている魂の大爆発を、ゴヤに私は見る。さればこそ、そのゴヤについての、アンドレ・マルロオの「かくて、近代絵画ははじまる」という気障ったらしいことばを、仕方はない、認めないわけに行かないのである。
そうして私は思うのだが、外《ヽ》の文化に、やたらと訪れられ放しのわれわれの日本にもまた、狂せんばかりに押し黙っている魂がいるはずだ、と。
それは、現代の狂騒の、どこに、果して押し黙ったままで、いつの日かの大爆発を待っているものであろうか。
「戦争の惨禍」について
――乾いた眼の告発――
外国からの解放軍
ここに一つの国がある。愚昧な王と貴族が中世的な独裁政治を行ない、おまけに坊主どもが威張りくさって宗教裁判、異端糺問などというものまでをやらかしている。
そうしてその隣の国もまたつい先頃までは大差なかったのだが、その隣国の人民が目覚めて革命を起こし、王を処刑した。その「革命」、「自由」は必然的に前記の国に大きな反響、影響を及ぼした。人々はこの自由と革命の隣国にあこがれた。
ところが、この国の王は革命や自由を許すわけにゆかず、軍を隣国へ送り込んだ。軍は滅茶苦茶にやっつけられて、逆に国は隣国の軍隊に占領された。
占領軍は、自由と革命の味方であったろうか? 外国からの解放軍というものがありうるか?
いやそれを言う以前に、もしその革命と自由の国に、反革命が起こり、反革命がすでに国の全体を支配し、軍の頭領が今度は新たに「皇帝」になろうとしていたとしたらどうなるか?
これが、ざっといっての十八世紀末から十九世紀はじめにかけての、スペインにおける状況であった。スペインは、ナポレオンの軍隊に占領されていた。
ナポレオン軍は、はじめは受身な共感、あるいは好意的な無関心をもってスペインの人民にうけいれられていた。パリのブルボン王朝の弑逆者が、マドリードのブルボン王朝への名誉あるフランス大使として赴任していた。ゴヤはこの大使の肖像画を描き、赤白青の三色旗は讃えられている。ゴヤは宮廷画家であり、ナポレオンが本国で自由と革命を踏みつぶしているあいだも、三色旗はスペイン人民にとって自由と解放の象徴であった。そこから、ゴヤのみならずスペイン人民の分裂と苦悩の一切がはじまっていた。後年、マルクスは「スペイン革命」という論文のなかで「正常な状況のなかにおけるよりも、革命的な状況であればあるほど、軍隊の在りようは政府自体の性質を反映するものである」と言っているが、ナポレオンの政府はどのようなものであったか。
占領軍が当該国の人民に対して歯をむき出しにするには、さして時日もいらなければ、大した事件をも必要としない。小さな火花で十分である。スペイン全土にゲリラ戦がはじまった。
政治の中の芸術家
ゴヤはしかしフランス軍と協力する新スペイン王朝の宮廷画家である。恭順と反逆、妥協と抵抗、協力と反抗、これらはすべて政治の渦中にまき込まれた芸術家、芸人の運命である。体制に、なんらかの意味での妥協なしでは、芸人芸術家はその才を発揮することは出来ない。
「戦争の惨禍」のみならず、ゴヤの生涯はいわばこういう矛盾の、あるときは、巨大で黒々としてまがまがしく、あるときは無邪気に光り輝く矛盾のかたまりであった。そうして「戦争の惨禍」に限って言えば、ここに人々が見せつけられるものは、それは「見ていられない」ものを「私はそれを見た」(Yo Lo vl) として、銅版に切りつけるようにして刻されたものである。
人間存在そのもの
樹木に吊りさげられた屍などはまだ生易しい方である。首、手、足をばらして別々に木に吊りさげたもの、「今度は何をしてやろうか?」とて、男の性器を切取っているナポレオン軍兵、「死体を埋めて、ともかく黙っていよう」という民衆、「嫌だ、あたしは」と若い女が叫び老婆が短剣をもって兵に襲いかかる図等々。
そうかと思うと、この占領軍に対するゲリラ戦のさなかにあって、敵と人民との中間にあって綱わたりをしている坊主や、「これが最悪だ」とのタイトルをもつものは、坊主がぬけぬけとロバに宣旨を書きとらせている。そうしてもっとも痛烈なのは「人民」と題されたものであり、これは抵抗する人民自体の、残酷さにおいて敵兵に劣らぬ復讐の図である。
「戦争の惨禍」は、単にナポレオン軍に対する人民の抵抗という観点からだけで描かれたものではない。そこには坊主に対する告発にも見られるように、いわばかかること(戦争)をなすことの出来る、人間というもの、その存在自体に対する告発である。ゴヤは歎いても、怒ってもいない。その眼は乾いている。精確さはそこから来る。怖ろしいことである。
私がはじめてこの版画集を見たのは、戦時中のことであった。「南京虐殺事件」ということばが、密々に、どこからともなく耳に聞こえはじめていた頃のことであった。
スペイン・四度目のゴヤの旅
気障な言い方ということになるであろうが、私はときどき自分自身に問うことがある。
何がいったい自分をスペインへとひっぱりつけるのであるか、と。
考えてみると、スペイン≠ニいう四つの仮名文字が若年の頃の私のなかに刻み込まれたその手始めは、やはり一九三六年から三九年までのスペイン内戦であった。その当時、敵対する双方が如何なる目的をもって戦っていたものであったかが、若年の私に明瞭にわかっていたとは言えない。けれども、三七年にマドリードでひらかれた世界作家会議の記録が小松清氏によって訳され、それは深い印象を私にのこした。同じ小松氏によるアンドレ・マルロオの『希望』もまた。
後年このマドリード作家会議の参加者の一人であった、故イリヤ・エレンブルグ氏と話したとき、私がアジア・アフリカ作家会議の運動に従事しているのは、おそらくその時の印象から発しているものであろう、と半分がたはひやかし気味にエレンブルグ氏に言われて、ハッとしたこともあったものであった。同氏はこの会議に参加していた。
スペイン内戦については、ここはその場所でもないので何も言わないことにするけれども、今回四度目の旅でアラゴン地方のベルチーテの町を通ったとき、内戦の戦禍の跡のまことになまなましい一劃の廃墟に行き当り、痛切な思いで私は自分の青春を思い出した。
ベルチーテの町は、戦争の惨禍があまりにひどく、再建の目途(?)もないまま、廃墟は廃墟として放置して、別のところに町を新たにつくりなおしたものであった。
しかしこの内戦の後半、共和国側は、今日のことばで言うスターリニストたちによって占められ、たとえば無政府主義者たちは手ひどい弾圧をくわされたものであった。もしソビエトの援助によって、独伊の支援をえたフランコ軍が敗れていたとして、さて、あとの共和国がどのようなものになったか、と考えてみると、年に一度は用事でモスクワに寄る私は、はなはだ複雑な感慨にとらわれる。逆のイデオロギー、逆の立場からして、双方ともに警察国家を形成してしまった……。
もっともスペインにおける警察軍 (Guardia Civil) は、歴史に深く根付いているものではあったが……。
ヨーロッパの東の辺境に位置するロシアと、西の辺境にあるスペインとは、さまざまな面で、実に似通ったものを多く持っていることに、私は双方のいたるところで気付くものである。
それらのことはともかくとしてスペイン≠ニいうこの四つの音が発音されるとき、私にやはり真先に見えて来るものは、カスティーリアの、あの裸の曠野高原であり、アラゴンの灰色の卓子状の山や、ごろた石の野ッ原である。
そうして歴史にそれを見れば、気違い女王≠ニ呼ばれたファナや、スペイン第一の家柄であるアルバ公爵家のことなどが眼に浮ぶ。前者の気違い女王は、まことにオフェリアが死んだハムレットを思いつづけて、自ら望んだ幽囚の生を生きながらえたような女性であった。
しかもこの気違い女王の息子が、カルロス五世として、スペイン王にしてドイツ皇帝、オーストリア、フランドルの領主、神聖ローマ帝国皇帝であり、世界がアダムの時以来見た最大の帝国の王≠ナあったなどと言えば、それは気が遠くなるような話である。
すべての例が、まことに人間裸のままで、裸のカスティーリアやアラゴンの荒野に展開されるのである。ヨーロッパには、ゴチック・ストーリー≠ニ称される、主として中世に材を求めた歴史小説の一分野があるものであった。現代ではデンマークのイサーク・ディネセンなどがその第一人者である。イベリア半島の歴史は、裸の荒野と岩山の山巓に建った、裸の石づくりの城内外で、たとえ大仰な衣裳をまとっていたとしても、魂において裸の人間たちによって形成されたものであった。それは残酷な歴史である。スペインは、La Douce France(おだやかな、あるいは優雅なフランス)と称されるようなところではない。私はスペインの歴史を読むことを好む。
民衆もまたむき出しに露骨である。気違い女王には、ラ・ロカ、すなわち、ずばりと気違い、という仇名をつけ、世継ぎの出来ない王にはインポテンシア、つまりは不能王という仇名をつける。遠慮も会釈もありはしない。
たとえば、王家がすべて外国人であったところから、スペインの事実上の統治者でありつづけたアルバ公爵家の歴史などというものもまた興味深いものである。今回の旅では、サラマンカ近郊の、トルメス川に沿ったアルバ・デ・トルメスという小さな町にある、第三代アルバ公爵が一五六五年に建てさせた城館を見に行ったのであったが、現在は、かつて武器庫であった塔しか残っていない。広大な城館は、一八〇八年のスペイン独立戦争、すなわち抗ナポレオン戦争のときに破壊されたままである。すべてに歴史がこびりついている。すなわち歴史が裸で立っている。
この第三代アルバ公爵は、フェリペ二世の麾下にあって総司令官としてポルトガルを占領したり、オランダ独立戦争を弾圧したり、あるいはドイツはエルベ川まで攻めて行ったりもしているのである。
それ以来、スペインのありとあらゆる歴史にアルバ公爵あるいは公爵夫人の名が出て来る。ジャン・ジャック・ルソーと文通をした開明な公爵もいたし、近頃のことで言えば、スペイン内戦のときに、英国大使としてロンドンに駐在していたアルバ公爵は、英国とフランスが共和国派を援助しないように中立≠保つように力の限りをつくした人であった。当時のヨーロッパの左翼一般にとっては、保守反動の権化のようなものとして、憎悪の対象になっていた人でもある。
そうして、ゴヤも、このアルバ公爵家とは無関係ではない……。
しかし、ゴヤとアルバ公爵、あるいはもっと正確には第十三代アルバ公爵夫人マリア・デル・カイエターナとの関係などに入る以前に語っておかなければならないことがあった。
私にゴヤがいつ訪れて来たものであったか?
それは明らかではない。戦時中に、『戦争の惨禍』と題されたニューヨーク版のエッチング集の、小さな本をもっていたことは記憶にあるけれども、それが太平洋戦争最中の私にどういう印象を与えていたものであるか、あまり明らかではない。ただ、ゴヤの戦争(スペイン独立戦争)の惨禍というものの見方が、スタンダールの『パルムの僧院』中の、主人公ファブリシオ・デル・ドンゴの戦争の見方、ウォーターローの戦場に彼がいあわせての見方に似ている、と漠然と思ったことが、漠然と記憶にあるばかりである。それがゴヤとの、最初の邂逅であった。
そうして、読者の方々のなかには、まことに奇怪なことに思われる方もおありであろうが、徐々に、戦中戦後を通じて、次第に私を内面からゴヤに、あるいはスペインに導いて行ったものは、ドストエフスキーの小説であった。
ドストエフスキーとゴヤ……。
それはまことに奇怪かつ異様な取り合せというものである、と思われる人の方が多いであろう。しかし精神の世界は広く、かつそこに国境はない……。幽暗な精神の世界で、ヨーロッパの東の辺境を代表するテンカン病みと、西の辺境のツンボが眼と眼をあわせている、その光景が私に次第に見えて来たことであった。
私はゴヤの文献を集めはじめ、スペイン語の自習をはじめた。それは一九五〇年代後半からのことである。
ところでアルバ公爵家であるが、アルバ・デ・トルメスの塔を見た後に、セビーリアの別邸を訪れることが出来た。場所はセビーリアの、現在では下町と言ってよいようなところにあり、優雅な庭園をかこんでの、いささか古めかしく、どことなく放置されている感じの邸であった。おそらく公爵および公爵夫人は、セビーリアの四月十八日から二十三日までのお祭りを主宰するためぐらいしか、現在では利用していないものであろう。
この邸の書庫を見ていて、何気なく一冊の本を引き出してみて私はびっくりした。それは『ドン・キホーテ』の初版であった。また、モンテーニュの『随想録』の初版なるものにも私は生れてはじめてお目にかかった。それらの値打ちも知れぬものが、きわめて無造作に、扉も何もない本棚に突っ込んであるだけである。イタリア系の絵が壁を飾っている。
また公爵夫人は――公爵の夫人だから公爵夫人なのではなく、公爵夫人はそれだけで独立の爵位である――コルドバに広大な領地を現在ももっている筈であるから、コルドバにも邸をもっているものであろう。
さてしかし、首都マドリードにある公爵邸である。リリーア宮殿 (Palacio de Liria) と呼ばれ、東京で言えば日比谷公園にあたるところに、つまりはマドリード市のど真中にある。
私はこれまでに何度か、ここへ潜り込もうと試みた。この屋敷内へ入り込まないことには、ゴヤ描くところのアルバ公爵夫人像にお目にかかることが出来ないのである。これを一目でも現実に見ておかないことには、ゴヤを書く資格に欠けるであろう。(絵はこれだから困るのであり、私人の私蔵品である。)
これならば公爵家の頑丈な鉄門もひといきであろうという紹介状を手にして攻め込んだものであった。が、結果はつねに公爵、あるいは公爵夫人が留守であるか、あるいは家令そのものがいないかしてダメということであった。
が、今回はやっとのことで、神吉敬三氏がアルバ公爵の姪のホセ・マルティネス・デ・イルーホ嬢からの紹介をとって下さったおかげで、邸内に受け入れられた。
入ってみておどろいたことは、その壁にかかっているものどもが、ゴヤの第十三代夫人像だけではなくて、ティツィアーノの第三代公爵像からはじまって、ヴェロネーゼ、ベルリーニ、アンドレア・デル・サルト、レオナルド派のもの、レンブラント、ブリューゲル、ルーベンス、ベラスケスのインファンタ像、ムリーリョ、グレコ、スルバラン、メングス、リベラ等々……。
これはもうオドロキ桃ノ木ナントカノ木というものである。私はもう茫然としてしまった。
読者の方々は、私が矢鱈と、公爵だの公爵夫人だのと言い出すことに呆れられたかもしれないが、これもまたスペインの現実の一つなのである。この国は、フランコ以後に王制に戻ろうとしているのである。
十一年ほどのあいだに、私は合計四回スペインを訪れているわけであるが、この十年の間にスペインはおどろくべき産業の高度成長をなしとげた。かつての砂漠同様のごろた石の土地や山地には、スプリンクラーが入り、当方がこれはスペインではない、と思いたくなるほどの農地の拡大と植林が行われた。ヨーロッパでの経済成長率は最高だという話も聞いたものである。私にはスペインが日本の道を歩いているのではないか、とさえ思われた。
しかも、そう言えば、といったかたちで、セビーリア県のオスーナの町では、日本の大商社、大銀行が連合してトイレットペーパーから自動車までの大工業プロジェクトの進出を計画しているという話までを聞かされた。
それがあの美しい荒蕪地に公害をまきちらすことにならないように、と祈るしかないわけである。
フランコ、頑張れ
十一月二十日(七五年)の朝、八時半か九時半頃であったろう、今回のスペイン旅行にも同行してくれた朝日ジャーナル編輯部の矢野純一君の部屋から電話がかかって来た。マドリードでのホテルである。
私はまだ眠っていた。
「フランコ、死にましたぜ……明け方の五時半とかということでした」
私は返事もしないで、大きな吐息を一つした。
「ああそう……」
私にはこの独裁者の死を哀悼すべき義理はない。
ただ今回の十一月十日からのスペイン滞在中、この十日間を通して、実に異様に聞えるであろうが私は、心中では、フランコ頑張れ、フランコ頑張れ、と言いつづけて来たことも事実であった。
というのは、もし彼の死が公式に発表されると、途端に三日間の服喪ということになり、公けの機関――美術館やアカデミーをも含む――は一週間休みになることをあらかじめ知っていたからである。
そうして、今回の旅の最大の眼目が、ゴヤのデッサンを再検討することであり、それを見せてくれる日が十一月十九日一杯ということに、これもあらかじめ決定していた。つまりマドリード滞在最後の日の一日前である。
フランコ氏は、東京出発の時以来、すでに死の床にあり、毎日のスペイン紙には、フランコ氏にとりつけられた医療器械の名前が仰々しくならんでいて、私は毎日それを苛々しながら眺めていた。もしフランコ氏が十一月十九日夕刻以前に死ぬということになると、滞在を十日間以上はのばさなければならなくなる。
この国での事務折衝ということをしたことのある人ならば、十日以上という日どりについて理解をしてくれるであろうと思う。
それに冬のマドリードは寒い。春と夏にさえ私はこの国で風邪をひいてひどい目に遭っている。
ゴヤのデッサンは、国立図書館とプラド美術館に分散保管されていて非公開である。非公開のものを見せてもらうには、それなりの手続きが要る。以前の時には、この手続きだけで一週間たっぷりかかった。私が日本かどこかの大学の教授ででもあれば、名刺一枚で短時日にどうにかなるのであるが、何の肩書きもない小説家などというものは、こういうときにはどうしようもないものだ。
それは私に、何の肩書きも紹介者もなしにモスクワのマルクス・レーニン研究所の玄関に立つという想定を自然に呼び出して来る。レーニンの原稿を見せてくれ……。
プラド美術館の方は、館長のサラス氏と会談をしていくつかの疑問点を質問する機会があったので、この方は一発で片がついたのであったが、これも当方の旅行の都合で十一月|十九日《ヽヽヽ》午後ということになり、国立図書館の方は、やはり手間どって、同じ十九日《ヽヽヽ》の午前中ということになった。
十一月十九日……。
これでは私でなくてもフランコ頑張れ、と心中だけででも称《とな》えざるをえないであろう。
十九日夕刻|以前《ヽヽ》に死なれれば、それまでの手続きは一切御破算になり、また一週間以上をかけてやりなおさなければならない。
それに、彼の死の前後に十日間もマドリードにいるとなれば、日本のジャーナリズムは許してはくれないであろう。私個人がイヤだと言いさえすればよいことではあるが、これまでに相当の紀行文やルポルタージュのようなものを書いて来たことの業がここへ来てたたってくるかもしれない。しかし私としてはこの人のことだけは書きたくない。ゴヤのことさえなければ、元来、この人のこの国へは、来たくもなかったのである。それが今回で六回目か七回目……。
十一月十三日、バルセローナへ出てアマトリエル・スペイン芸術研究所長のホセ・グーディオール氏と歓談。いくつかの質問。
十四日にグラナダへ飛んで、そこからレンタ・カーで矢野氏に運転をしてもらってアンダルシーアを転げてまわる。
フランコ頑張れ……。
十八日マドリードに戻る。
サン・フェルナンド・アカデミー訪問。
十九日、
午前中、国立図書館。
午後、プラド美術館。
デッサンを一枚一枚手に取って見る。
見終って美術館裏のバーで矢野氏と、また行をともにしてくれたマドリード在住の、ベラスケス研究家の大高保二郎氏と祝杯。バーの窓の上半分にのぞいているマドリードの青空が眼に滲みた。
一杯機嫌でバーを出ると、旧知のホセ・マルティネス嬢にまでばったり出会う。かつてこのお嬢さんのおかげで、やっとこまんとこ、三年越しでアルバ公爵家のリリーア宮殿に入ることが出来たのであった。現アルバ公爵の姪御さんにあたり、彼女自身、伯爵か子爵かの複数の爵位をもっているひとである。プラド美術館の別棟である近代(十九世紀)美術館につとめている。
この彼女にひっぱられて、副館長のラフエンテ・フェラーリ氏にまで会うことになる。氏は最初に私にレクチュアをしてくれた人である。おかげで久闊を叙することが出来た。
その夜は早く寝た。
同行の家内は、買いあつめた瀬戸物類を如何にして割らずに持ち帰るかと、荷造りに苦心惨憺している。
そうして二十日の朝が来た。
ホテルの部屋のTVは、FRANCO HA MUERTO とだけ、字幕だけを出している。十時近くなって、この字幕の下に、政府主席が十時から演説をする、と出る。フランコ・ア・ムエルト――フランコは死んだ、とただそれだけである。
こうなったらもう、言葉づかいとしては不謹慎であろうが、逃げ出すことしかない。
北の海岸のサン・セバスティアンまで飛び、そこでレンタ・カーを雇い、フランスに入ってバイヨンヌまで行き、そこのボナ美術館でゴヤを三枚見、ここでのナポレオンのあとを偲び、それからボルドオまで北上し、ここでゴヤの旧住居三軒を見れば、今回はすべての予定が完了する。
ところが、海霧の渦巻く雨のサン・セバスティアンで、平手打ちを喰らわされた、と一時は思わされた。
今日一日は国境閉鎖で、スペインからの自家用車及びレンタ・カーは国境を越えられぬ、と言うのである。
やはりどうも不謹慎なことを言ったり、となえたりしたせいで一発やられたか……。
気を落ちつけるために飯を食い、もう一度レンタ・カーの事務所へ戻って来ると、タクシーでなら国境は越えられる、と言う。早くそれを言わんかい。
しかし不思議な話である。国家元首が死んで国境閉鎖するというのも不思議ならば、スペインからの自家用車とレンタ・カーは国境を越えられないが、タクシーでならばよい、という話は。
フランス領に入って、バイヨンヌの夜は、町の酒場にスペイン系の移民や亡命者が黒山のようにたかって、フランコの死万歳、万歳である。私はそれを避けた。
グラナダの冬
グラナダで暮すことは若い頃からの夢であった。ヨーロッパ・イスラムの最後の拠点、というよりも、むしろバグダード、ダマスカス、アレクサンドリアなどにさかえたイスラム文化の西方における一つの中心であり、かつはスペイン統一と建国の女傑であるイサベル女王の眠る地でもあり、その名前(グラナダ=柘榴《ざくろ》)が示すように、アンダルシーア地方でももっとも豊かな土地であった。
本当にグラナダ・柘榴とはよく言ったもので、この土地の名を古来、世界の人々の記憶にとどめさせたアルハンブラ大宮殿は、外から見れば、アルハンブラ(=赤い城)のその名の通りにむき出しの赤黄色の煉瓦の城壁があるだけで、それはまことに柘榴のように、その皮の内側にこそたわわに甘美な実をもっているのである。
しかし私どもが借りた家の庭から見るシエラ・ネバダ山脈はもう真白で、雪は次第につい近くの山にまで降りて来ていて、冬はなかなかにきびしそうだ。
私どもは今年(七七年)の初夏にスペイン北部海岸の村に住みつき、秋に入って国内旅行をかねてマドリードに下って来、その途中で一度、大佛次郎賞なるものを頂くことになって短期間帰国をして、ふたたびマドリードへ戻ったのであったが、マドリードの冬は寒いと聞いていたので、暖いアンダルシーアの地へ移るつもりであった。マドリードで知り合いの老ゴヤ学者の方に、ここは冬になると寒いというから南へ移るつもりです、と言うと、どこへ行くか、と問いかえされ、すぐにはグラナダとは言わずに、地中海の沿岸へ行ってもいいのだが、あそこはとにかくドイツ、オランダ、イギリスなどの植民地のようなことになり、高層ホテルとアパートだらけになり、小さな漁村に住むとなると、とれた魚はみな都会へ行ってしまってろくな魚が残っていないということになる、だから……、といささか知ったかぶりを言うと、相手はにやにやして、ではどこに、ともう一度聞くので、そこでようやく、グラナダ、と言ったのであった。それでも老学者は、微笑をしているだけで返事はしてもらえなかった。
シエラ・ネバダに万年雪があって夏でもスキーが出来ることは承知していたけれども、雪がつい近くの山にまでおりて来るとは勘定に入れていなかったのである。一週間か十日ほど、カンカン照りの雲一つない青空の日々がつづき、そのときは黒眼鏡をかけていないと眼が痛くなり、日向は熱いくらいで、シエラ・ネバダの雪氷が白熱したように輝いているのだが、そういう日々の果てで突如として黒雲が、まるでアラブとスペイン・カトリックの戦争前夜のように風雲急に空一杯を駈けまわりはじめると、これはもういけなくなる。夜は木枯しが吹きすさび、つい近くの牛屋で牛たちが悲鳴をあげはじめる。
あのあけっ放しのアルハンブラ大宮殿で、アラブの公達《きんだち》たちはどうして暖をとっていたものであろうか……。
この地へ着いて紹介してくれる人があってある画家の持ち家を私どもは借りた。グラナダの中心部から十キロほど離れた村――またまた村である。名前はウエトール・ヴェガといって、Vega というのは豊かな沃野という意味で、野菜や果物はさすがにゆたかであった。ここで私は、何かをひけらかしたりするつもりはまったくないのだが、日本での生活の異常さをいささか感じないではないので、私どもの出費のことを少し書いてみたい。家はベッド・ルーム三、居間一、応接間一、食堂一、それにバス・ルームと台所という次第で、庭は広くプールがあり、リンゴの木三、イチジク三、オレンジ二、レモン、柿、梅、ビワの木各一、葡萄の古木十本、バラ数十本が植わっていて、この家の家賃が一カ月八〇〇〇ペセタ(約二万四千円弱)で、光熱費、水道料などもすべてその中に含まれている。
大家の画家が好意で私どもに――と思っていろいろ調べてみても、大体そんなものなのである。どういうことになっているのであろうと考えてみても、これははじまらない。そうだからそうだというだけのことのようである。そう言えばマドリードには三食付きで一日三〇〇ペセタ(約九百円弱)のペンションまでがあった。生活費は、この村の地酒の葡萄酒と就眠用のコニャックを含めても一日約五〇〇ペセタ(約千五百円弱)もあれば……。日本でのことを考えると、何か後暗いことをでもしているみたいな感じがすることがある。
それはさて措き、夜、特にシエラ・ネバダからの吹き降しが吹きはじめると、やはり寒さはなかなかにきびしい。けれども、これも大家の画家が勝手に使え、と言ってくれた、庭の片隅に積み上げてあるオリーブの古木の、その一本一本が片手ででは扱いかねるほどの薪を暖炉に燃やしていると何とか過せるのであった。
もとはこの村のオリーブの木の畑――というべきか林というべきか――であった土地に家を建てたので、取り払ったその古木が余っているのであった。それはねじくれ曲った、おそらくは樹齢数百年のものの筈である。火持ちは石炭よりずっとよい。しかし、これを惜しげもなく燃やすことは、これもまた勿体なくて、なにやら後ろめたい気がしないではない。
ついでに言っておけば、スペインを旅行された人々の目に親しいあのオリーブの木は、大抵は樹齢百年以上であり、マリョルカ島には二千年というものがあるそうである。この木は村人の話によると、挿し木をして育てるもので、植えてから十三年たたぬと実が出来ないということであった。桃、栗三年、柿八年、柚子のバカめが十八年と言うけれども……。
さてしかし、ここで君は一体何をしているのか、と問われると、実はハタと返答に困ってしまうのである。グラナダまで郵便を出しに行き、新聞を買い、買物をし、要するに生活をし、本を読んでいる、では返答に、少くともこの地から見ていてあたかもすさまじい旋風の只中で風圧に抗していそがしくしていなければならぬ、ただならぬ雰囲気の中に対しては、返答にならないであろう。しかし、仕方はない――私は要するに若年の頃からかねて一度ゆっくりとつき合ってみたいと思っていた、ルネサンス期の巨人、怪人、奇人、英雄、梟勇、女傑、天才、痴人、狂人、狂女などの相手をしているだけである。
ラジオのスイッチを入れると、アラビア語の放送がスペイン語、フランス語、イタリア語、英語、ドイツ語などを圧倒せんばかりの勢いで入って来て、そのどれもこれもがこの頃はサダット、サダット!≠ニ叫びつづけている。日本についてのニュースは、ドルばかり溜め込んでケシカランというものばかりである。
グラナダの酒屋へ出掛けて行くと、日本酒を買え買えとすすめられ、断り切れなくなって買って来た。四合瓶の一級酒で三四〇ペセタ(約千円強)である。正月用にとっておくつもりである。魚屋は電卓をあげたせいがあって今日も勘定を取らない。スペインで一番値段の高い食べ物の一つである、大型の車海老といえども、一つせいぜい一五ペセタ(約四十五円弱)である。
昨夜の寒風で、一日に十は咲きひらくバラの花がちぢんだようになっている。林檎と葡萄、イチジクとレモンとオレンジの実が一緒になっているのを見るのは季節が交錯しているような気がしてまことに妙なものだ。筋向いの農家の庭の、背の低い、三尺ほどの高さの柘榴の木に、五つもの真紅の大きな実がぶら下っている。
[#地付き](一九七七年一二月)
アンダルシーア大巡礼
西部劇状況、と言ってよい状態が、信仰の喜悦と合体して存在し得るとは、私も想像もしなかった。しかもそれが一週間近くも、昼夜ぶっつづけに続くのである。
時は、キリスト教暦の言う復活祭の後の七週間目の日曜日、つまりは聖霊降臨節と日本語に訳されている日からはじまる。それは今年(七八年)で言えば五月の七日であった。
この日あたりから、スペイン西部、アンダルシーアの南部全体が、その底の方から湧き立って来る何物かに揺り立てられはじめる。
あらゆる都市や町、村で馬や馬車、幌馬車の準備がはじまり、馬車で足りない分は、トラクターにトレイラーを引かせ、またトラックもその中で寝泊りの出来るように幌馬車風に仕立てられる。
そうしてこれらの馬、二輪馬車、四輪馬車、二頭の牛に引かせた幌馬車、トラクター、トラックなどの大群――馬はおそらく千頭を越え、馬車、幌馬車、トラクター、トラックなども二、三千台にのぼる――が、濛々たる茶黄色のアンダルシーアの砂塵を巻き上げて各都市や町、村の教会で祝福を受けてから出発をするのである。
馬、あるいは馬車、幌馬車その他その他に乗った女性たちは老いも若きも例の、赤、青、黄などの水玉模様に裾と袖口にヒラヒラのついた、いわゆるフラメンコ衣裳であり、足許は騎乗用の半長靴、漆黒の髪には真紅のカーネーションを挿しはさみ、その上に黒の、フェルト製のソンブレロ(帽子)、このソンブレロの飾り帯には町や村の名が書き込まれている。単独騎乗の女性にしても、男女二人乗りの女性にしても、フラメンコ衣裳のせいがあって腰が締めつけられているために、馬の背に跨って乗るわけには行かず、両肢を馬の左側にそろえて乗るという、十九世紀風の女性騎乗の恰好そのままであるため、時にはそういう騎乗法になれていない御婦人は、ドスンと音をたてて両足を差し上げて落馬をなさる。
そうして男性の、貴族、地主、牧場主、あるいはそれに準ずる人々は、モーニング・コートのズボンのような竪縞のそれをズボン吊りでつりあげ、腰には黒地に白の水玉のサッシュをしめ、その上に皮の、サオーネと称される騎乗用の――私がごたごたと説明をするよりも、日本の読者諸氏には、TV映画の、ロウ・ハイド≠フ登場人物たちの腰当てとスネ当てをかねたものを思い出して頂く方が早いであろう――そのサオーネなるものをまとい、上着はボレロ風の短いもので、頭には灰色のソンブレロである。そうして口には日がな一日かかすことの出来ないタバコである。
アンダルシーア南部全体の都市や町、村から、距離の遠い場所から出立した連中は|その日《ヽヽヽ》の一週間も前に出て来たものであり、これが野を越え、丘を越え、川を渡渉して何日も野宿をしてやって来るのである。この馬、牛、トラック、トラクターなどの大行列の先頭には、それぞれの町、村、通りなどの御自慢のマリア像、あるいは救世主像が、牛車かトラックに乗せられて立ち、それがアンダルシーアの早い夏の強烈な陽光にきらきらと光りつづけに光っている。
それは壮烈な光景である。
濛々たる茶黄色の砂塵と、悲しみと苦痛に、真珠か水晶の涙を流している聖母マリア、そうして昼夜ぶっつづけに打ち鳴らされる太鼓の響きと笛、それに間を置いての打ち上げ花火の轟音である。馬車や牛車、それにトラックもほとんど道のないような広大な牧場や小麦畑などの道路を辿って行くのであるから、二六時中揺れに揺れ、そこへもって来て冷たいビールや白葡萄酒、あるいはシェリー酒が配られ、これでは昼寝どころか夜も眠れまい。
村や町の行列が、野原のどまん中で、あるいは川を渡渉出来る場所で出会えば、まず白葡萄酒を酌み交わし、兄弟姉妹の契りを結ぶためには白葡萄酒一本をまるまる頭からぶっかぶせて、それを金ダライで受けて飲みほさねばならぬ。渡渉地点では、男も女も全員が全員に対して水をぶっかけ合う。一種の洗礼行事であろう。
馬はいななき、牛はうめき立て、トラクターのディーゼル・エンジンは真黒い煙を青空に吐き立てる。ギターを掻き鳴らして歌われるカンテ・ホンドォの唄に、笛、ラッパ、太鼓、酒、酒……。
その喧騒と、最良の意味での野蛮さは、人々の血を騒がせる。
そういう、おそらくは百組をはるかに越えると思われる行列集団が砂塵を巻き上げて、ではどこへ行くか……。
しかも道路という道路は、マドリードから、バルセローナから、ドイツ、オランダ、フランスなどの出稼ぎ先から、あるいはアメリカやラテン・アメリカ諸国などからアンダルシーアへお里帰りをして来た連中の車でごったがえしているのである。
どこへ行くか……。
この彼ら全体の行き先は、セビーリアのすぐ南西、大河グアダルキビール川の右岸に拡がる、ラス・マリスマスと呼ばれる、平原と叢林地帯と、グアダルキビール川が溢れて、あるいは大西洋から溯って来た潮の溢れた湿地、沼沢地帯、それに大西洋に面した、アリゾナの砂漠を思わせる、これも広大な砂丘地帯、これらの四つの、初見のところではいかにも非スペイン的と思われる、それぞれ地学的に性格の異なった地帯の中心にある、エル・ロシーオ(露の村)と呼ばれる、これまた非現実的なことに、一年にたった一度、一週間だけ十万人近い人口が集まって、その他の年間五十一週間は、ほとんど無人となる異様にして奇怪なる露の村・エル・ロシーオ≠ェ人々の目指す場所なのである。
この、エル・ロシーオなる、一年を一週だけで生きる、多少大袈裟に言えば――しかし誰がいったいスペインという国を誇張なしで語れるであろうか――奇跡的な、架空の村に触れる前に、その露の村・エル・ロシーオ≠サのものを含む、このラス・マリスマスと全体として呼ばれている広大な、しかもある意味ではこれも誇張なしに奇跡的な地帯自体について、多少のことを書いておくことも無駄ではあるまいと思う。
ではこの平原、叢林、沼沢、砂丘の四つの要素を含む広大なラス・マリスマスの何が奇跡的であるか……。
スイスとともに、その国土の七〇%以上が海抜五〇〇メートル以上の山国であるスペインにしては、セビーリアのすぐ南西から大西洋の海岸までの、北から南に六五キロ、東西七五キロにわたる約二千四百平方キロの平地の存在は、奇跡的などというのがここであまりに大袈裟であるとしたら、一歩を譲って、それはやはり珍しいことなのである。
そうして、このうち約半分にあたる千二百平方キロは、サンルーカル・デ・バラメーダなる町を河口にもつグアダルキビール川からと、そこへ溯って来る大西洋の潮流の影響をうけて、ヨーロッパ第一の大湿原、あるいは沼沢地帯を形成している。しかもこの大河の左岸の平原地帯は潅漑用の運河、あるいは排水網の整備によって平凡な農地、しかし主として水稲用の水田などになってしまってはいるものの、より広大な右岸は、いまだに大部分が原始そのものの湿原・沼沢地帯なのである。
左様――原始……。
さればそこへ入って行くことは、地の理を知り尽した地許《じもと》の人々でなければ危険である。何度くりかえしても飽きの来ることのない、広大《ヽヽ》な、ということばと見渡す限り、ということばに縁どられた無限の地平の、沼と、草むらを踏みしめれば必ず足のキビスまで、あるいは膝まで水が来るこの場所で道に迷えば――という言い方は、しかし、やはりまずいであろう、何しろ原始そのままで、道はないのであったから――遭難は確実である。いくら呼んでみても、人ッ子一人いはしないのであるから。
また夏季、この沼沢地中の、一年を通して湖状をなしているラグーナは別として、その大部分がいっせいに干上ってヒビ割れが生じ、何百万、何千万、あるいは何十億とも知れぬ鯉を主とした魚たちが干上った地に斃死をしているとしても、四輪のものはジープ以外はあやういのである。なぜかと言えば、ところどころに、緑の草と樹木に恵まれた小さなオアシスのようなものがあれば、それは地許の人々がスペイン語でオホ(目)≠ニ称している底なしの、流砂をともなった、荒地のなかの目≠フような地獄が点在しているからであった。目≠フ周辺には、大抵、牛か、この地に群棲している赤鹿あるいは淡黄色の大鹿の角や頭骨が見られる。
それは強烈な土地なのである。
夏だけを除いて、冬から春、秋から冬、春にかけてこの湿原は、またしても、広大《ヽヽ》な、沼の連続になってしまう。読者諸氏には、アフリカの砂漠から五〇〇キロとは離れていないところに、北海道は釧路市附近の湿原を十倍ほどにしたものをでも想像して頂かねばなるまい。
そこで、釧路地方の湿原を想像して頂くとすれば、そこにつきものであるのは、鶴《つる》の群れ、ということになるであろう。
鶴は、何もシベリアと釧路湿原の専売ではないのであって、それは南アフリカや遠くロシアの平原からこのスペイン南西端へも群れをなして飛んで来るのである。
しかし、この地に渡って来て卵を生みヒナを育て、彼らが一人前になるのを待って再びアフリカへ、カリブ海へ、北欧、中近東、ロシア及びシベリアへと渡って行く、百何十種類かの鳥たちのことを書き出したらそれこそキリがない筈である。
それは、単にスペインやヨーロッパだけではなく世界中の、Bird-Watcher 鳥類観察者たちにとってのあこがれの地なのである。私自身はこの沼沢地へ入って行く手だてのないがままに、この地の周辺を何度かうろついて村人たちから聞きとった、ほんの少数の鳥の名だけをしるしておこう。日本の鳥類観察者たちを羨ましがらせるために。
鷭《ばん》、大鷭、黒鴨、鴨、アヒル、ヤマウズラ、鵞鳥、アジサシ、ヤツガシラ、鶸《ひわ》、鵲《かささぎ》、セイタカシギ、蜂喰鳥、雁、駒鳥、ヤマシギ、ヒドリガモ……等々。
これらのうち雁はデンマークから、駒鳥は英国から、ヤマシギはスコットランド、真鴨はスウェーデンから、ヒドリガモはシベリアから、椋《むく》鳥はドイツから、ソリハシはオランダから、フランスからはセイタカシギ、エティオピアからは蜂喰鳥、北アフリカからはヤツガシラ、南アフリカから鶴、西アフリカから白鷺、中央アフリカから鳶《とび》、ヘラ鷺、サハラ南部から鴨、コンゴから青鷺……。フラミンゴの大群はどこから来るのであったか。
そうしてこの沼沢地に常住する鳥に、ハゲタカ、帝王鷲、フクロウ、カササギ、鷺等がいて……。
こう書いて来て、おそらく私自身が鳥のことを何も知らないことを暴露しているのであろうが、私としては要するにかつてバーで話しながら村人から聞いて書きとめてもらったものを日本語に直しているだけなのであり、この地の周辺をうろつくだけで実見したものはほんの少数にすぎない。中には、当然のことであろうが、辞書をいくらひっくりかえしても出ていない名もいくつかあった。しかしそれでも大鷭や鴨、鵞鳥などは数十万、数百万羽にのぼるであろうと思う。
帝王鷲や、白鷺などが翼も動かさずに天空を滑走しているのを見ることは、ズブの素人であっても心を動かされるのである。
そうしてこの地には、鳥だけではない、数種類の大小の鹿、大山猫、イノシシ、ウサギの大群、それにかつて十九世紀の末に北アフリカから労務用につれて来られて、しかし村人たちが気味わるがってとうとうこの地に追放されて野生にかえったラクダまでがいる。猛毒の蛇やトカゲなども十何種類かいるそうである。そうして蛇がいれば、その蛇を喰うマングースとかというものまでがいる、という次第になる。
それからもう一つ、あやうく忘れてしまうところであったが、大書をしておかねばならないのは、このラス・マリスマスで育てられる闘牛用の牛《トロ》である。草や水に塩分があるので、ここのトロは特に足が強く、闘牛場へ飛び出して来た途端に、自分の体重の重味で足をくじいてしまうといったズッコケ牛はここにはいないと村人たちがそり返ったものである。
しかし、誰がいったいラクダなどというものを、わざわざこの馬と驢馬《ろば》と騾馬《らば》の国であるスペインへ連れ込んだものか知らないが、村人たちが気味わるがったのも当然だと思われる。
ラクダは、北アフリカの、異教徒なのである。
さてしかし、エル・ロシーオ≠フ祭りのことを書こうとしていて、少々迂路をまわりすぎたかもしれないが、これだけの鳥と動物の一大宝庫を前にしては、たとえ私の知識が、渡り鳥とそうではないものとの区別もおぼつかぬ、まことに頼りないものであるにしても、素通りは出来なかったのである。そうして村人たちがラクダを追放した話で鳥たちの楽園の記をしめくくったことにも、このラス・マリスマスの地と、ひいてはエル・ロシーオの祭りとの因縁があればこそ、であった。
さてこの野蛮にして壮烈なエル・ロシーオの祭りについて何事かを語るためには、事スペインに関してはほとんどすべてがそうであるように、歴史を一度ぐいとばかり、約千二百年ほどを溯ってかからねばならないのである。
西暦紀元七一一年、あるいはそのもう少し以前まで、である。その頃のスペインは、ヨーロッパの東北地方の暗い森のなかから出て来た西ゴート族に支配されてい、彼らはすでにキリスト教に転宗していて、この近くのことで言えばセビーリアをはじめとしてスペイン各地にすでに数多くの教会が設立され、聖処女マリア信仰もが確立したものとして存在していた。
そこへ、問題の七一一年に北アフリカからイスラム教徒であるモーロ族がどっと侵入して来て、ほんの数カ月というほどの短い期間に南スペインのほぼ全体を席捲し、野蛮さ勇猛さにかけてはモーロ族に決して劣らなかった筈の西ゴート族は、実に手もなく征服されてしまったのである。それは要するに文明の差、といったものであったのであろう。
恐慌状態に陥ったキリスト教徒たちは、イスラムのモーロ人たちが彼らの教会の聖処女像に対しておそらくは涜神的なことがなされるであろうと予想し、長老たちがよりより相談をして彼らの聖処女像や救世主像を教会から担ぎ出し、ほんの少数の人々しか知らない場所に埋めたりして、要するにあらかじめ隠してしまったのである。
かくて現実にモーロの征服者を迎えてみると、一切は彼らの予想とはまるで異なっていたのである。文明的なイスラムは、キリスト教徒を奴隷化することもなく、はじめはイスラムへの改宗を求めはしたが、それも強制的なものではなかった。彼らがキリスト教のままでいることに異を称えることもなく、教会の礼拝行事などもそのものとして認めてくれたのである。但し、そのために、些少の人頭税を払うことを条件に。
イスラムが左手にコーラン、右手に剣、などと野蛮で武断的なものという概念は、スペインへ入って来たイスラムに限っては、まったく事実とは反したものであった。事態がかくの如きであると知ったキリスト教徒たちの多くは、人知れぬところに埋めたり隠したりした聖像を再び掘り出して来たりして教会にまた安置をしたものであった。
けれども、長老などというものはいつの世の中にあってもあまり信用は出来ないのであって、自分からイスラム教徒に転宗して征服者のおこぼれにあずかろうとしたのもまた、これらの長老どもにほかならなかった。
こうなると、転宗した長老どもも聖像をどこへ隠したかは自分からは言わないであろうし、中にはその場所を忘れてしまった者もいたであろう、丁度犬が骨を埋めてその場所を忘れてしまったかのように。
かくてイスラム支配の七百年近い歳月が流れる。
この間の七百年という時間は長い。日本で言えばざっと言って『古事記』や『日本書紀』の成立から応仁の乱頃までの時間にあたる。
このラス・マリスマス地方を含むあたり一帯は、わりに早くキリスト教徒の支配が恢復した地方ではあったが、それでも四、五百年間はイスラム支配下にいたのである。この辺に、たとえばシェリー酒で有名なヘレス・デ・ラ・フロンテラとか、アルコス・デ・フロンテラなどと、フロンテラ(国境)という名をもったところが多いのは、より南方の、まだまだイスラム治下の王国との国境の町という意から来たものであった。
かくてキリスト教徒の国土恢復《レコンキスタ》が進んで行くに従って、奇跡≠ェ方々で出来《しゆつたい》しはじめるのである。
キリスト教徒の国土恢復なるものの実態が、実は羊の大群をひきつれた牧羊者の植民者的侵入であってみれば、その奇跡≠フ体現者の大部分が孤独な彷徨者である羊飼いたちであったことに何の不思議もないであろう。アラブ・イスラムのモーロ族がこの国では定住した農業者であり、キリスト教徒の方がよほどベドウィン的な牧羊民族であったのである。
これらの孤独な彷徨者たちは、結婚もせず家族をもつこともなく、羊たちとともに年がら年中、何年間でもスペインの荒涼たる山や台地を野宿して歩き、その途中で、たまたま四、五百年から七百年前に埋められ隠されて、そのまま忘れられてしまった聖像を見つける。
かくて、奇跡の誕生である。
乾燥し切ったスペインの地にあっては、埋められた聖像が朽ちてしまうということはない。
そこの空が夜でも茫と明るかったでげす。
崖っぷちのほら穴から、おいおい、そこなファン、ちょっとここへ来なさい、という声が聞えましたです。
というのが、この奇跡伝説の大体のきまりであり、そういうマリア像、あるいは救世主像発見の奇跡に関するはなしは、この国の各地に私の聞いただけでも八つか九つくらいはあった。そうして、それらのなかでも、このエル・ロシーオの奇跡ばなしは、なかなかロマンティックであった。
……イスラムの支配が終って一世紀か、もう少し経った頃に、この地方周辺の町の一つであるアルモンテから、一人の狩人が叢林地帯へ入って行ったところ、彼の犬が、ある大木の前でピタリととまり、狙いをつけはじめたのである。しかしそこにウサギも鹿もイノシシも何もいなかった。それでも犬は狙いをつけつづけるので、その狩人があたりを調べてみると、その樹木のほら穴のなかに、一体の聖処女像がかくされていたのである。狩人はおどろき、かつ勿体《もつたい》ないことに思って狩りはやめてその聖処女像を担いで町へ帰ることにした。ところがあまり重いので途中で疲れて眠ってしまった。そして、目が覚めてみると、聖処女像は姿を消してしまっていてどこにも見当らなかった。狩人はもしや、と思って、はじめの大木のところに戻ってみると、像はもとのように樹木のほら穴のなかにいた。
……これは奇ッ怪至極というわけで狩人は町へ駈け戻り、疑う仲間と一緒に長い長い距離を歩いて再びこの大木のもとに来てみると、やはりそこに像はおさまっていた。人々は木のほら穴から像を取り出し、町へ担いで行こうとすると、聖処女マリアさんは、イヤダ、イヤダと言い、ここにいたいのだ、と駄々をこねる。再び町へ戻り神父に相談をすると、考えあぐねた末に神父が決を下した。
……あのマリアさんは、いまのあの場所で崇められることを望んでおいでなのであろう。従って、たとえそれが無人の野ッ原の只中であろうとも、そこに御堂を建てて進ずるべきである、と。
というのが、エル・ロシーオの聖処女像とその祭りの縁起であった。はじめはその土地の名をとってロシーナの聖処女と呼ばれていたそうであるが、いつの間にかロシーオ(露の)聖処女と訛った、というが、その訛りの由来などは、誰も知らないし、そんなことはどうでもよろしい……。
かくて、この荒涼たるステップの平原の、奇跡の御堂への巡礼は数百年の伝統をもつ、南アンダルシーア全体の行事となり、セビーリアの大貴族や金持ちたち、またあたり一帯の町や村は、はじめに記した時期の、この年間のただ一週間のみのために、巡礼集会のための家を建てはじめた。
だからエル・ロシーオは、一見のところでは、大きなユーカリの森をところどころに持ち、白い大きな教会とその広場を中心とした、現実の村の形はたしかになしているのである。けれども、この村に人がいるのは――とは言えその人の数は八万人から十万人にのぼる――毎年、聖霊降臨節の一週間だけなのである。その他の年間五十一週間は、その留守宅村の管理人の家族を除いては、これはまるで人がいない。
それは毎年毎年きまったときにやって来る、ラス・マリスマスの渡り鳥たちを模したかのような、人間たちの振舞い様である。この渡り鳥たちは、スペイン各地からだけでなく、ドイツやフランス、アメリカ大陸からも渡ってくる。
私たち――私と家内と写真家の佐伯泰英君――は、五月十日(水曜日)にグラナダを出て花盛りのアンダルシーア街道を走って、夕刻ポルトガルとの国境にほど近いウエルバの町のホテルに入り、ここでマドリードから駈けつけて来た画伯の島眞一夫妻と一緒になる。ホテルの相客たちもまたエル・ロシーオの祭りに参加をするために、遠くからやって来た人々である。
ウエルバの町は私も一度は来たかった港町である。かつてコロンブスは新大陸への渡航許可を待って、この町のはずれのラ・ラビーダの僧院で悶々の日々をすごし、かつ許可を得て第一回の航海に出立したのも、この僧院のすぐ前面の海からであった。そうしてもう一つ、これもかつての歴史に石器と鉄器のあいだをつないだ青銅器時代と称された彫刻の全盛時代に、そのための銅材を供給したのは、この町の河港をなしているリオ・ティント川の上流の、同じ名称のリオティント鉱山であった。そうしてリオ・ティント(赤い川)とはその名そのものが示すように、世界史における公害第一号でもあった。それから、「ロバと私」という愛すべき作品でノーベル賞を得た詩人ファン・ラモン・ヒメネースの故郷の町モゲールもすぐ近くである。
私は言うまでもなく、その僧院とリオティント鉱山を見に行ったのであったが、いまはしかし、この国のどこにでも露頭をしている歴史の原鉱に触れるときではなさそうである。人のかたちをした渡り鳥の大群のなかに、われらもまた身を投ずべき日々の一週間である。
あくる日の朝早く、カメラの佐伯君と画家の島君は車でサンルーカル・デ・バラメーダの町へ出掛けて行く。この、グアダルキビール川の河口左岸にある古い町から、数百人の巡礼たちが川を渡り、大砂丘を突っ切ってついで湿地帯に入り、合計三日がかりで野宿をつづけ、エル・ロシーオに到着する様をカメラに納めるためである。カメラマンの仕事というものも、これは大変である。マドリードで彼がこの国のお百姓さんのはく頑丈なドタ靴を買って来ていたことが納得される。
私ども老夫婦は、ホテルで、しかし、ドンドーンという花火の音と、太鼓と笛、ラッパなどの音で目を覚まさせられる。飛び出して行ってみると、これはウエルバ市を代表する巡礼たちの行列の先頭である。
行列のその先頭には、真紅の平べったいフェルトの帽子をかぶり、短い灰色のボレロに袖を通し、上着らしいものは左肩にだけひっ掛けて、いわゆる肩掛けの騎士≠フ恰好で、やはり灰色のしまったズボンに、サオーネと称される皮の膝当て、あるいは腰当てをつけた長靴の、男性と思いきやこれは単独騎乗の女性である。おそらくこの町の代表的大貴族の夫人であろう。この男装(?)の女性が先導である。このあとに、花飾りのついた二台の二輪馬車に乗った御夫婦が従い、つづいて四頭の牛に引かせたウエルバの聖処女像が鈴の音をひびかせてゆっくりと通る。そのあとには軍楽隊である。カトリック国であるスペインでは、軍隊は教会に奉仕する義務があるのである。そうしてその後に、何十台とも数え切れぬ、生花とフラメンコ衣裳の女性たちが溢れんばかりに乗り込んだ四輪の幌馬車が続き、それから幌つきのトラックに、トラクターに引かせたトレイラーである。幌馬車には大抵ギターの奏《ひ》き手がいて、それを中心に唄をうたいつづけて行く。後者のエンジンつきの車どもにも男女はこぼれ落ちんばかりに乗り込み、それだけではなくて、ここに四日分か五日分の全員のための食料、飲料、氷、鍋釜、食器、テント、寝具――といっても各自の家のベッドからひっぱがして来たマットやフォームの類と毛布である――、ランプにプロパンガスに薪《たきぎ》にする枝のたぐい、これらのものの一切を積み込んでいる。
これで、町を出ればすぐに原野である。彼らは街道は避けて、牧場や畑になっている野ッ原や湿原の小道を、濛々たる埃と砂塵をまき上げて真直ぐにエル・ロシーオへと突っ切って行く。
馬車もトラックも揺れに揺れて、中から人も物も時にはこぼれ落ちて、しかも人も物も馬も牛も埃だらけで、髪も口のなかも砂だらけになる。行進のあいだも、夜の野宿の間も二六時中太鼓は叩き放しで、白葡萄酒とビールは流れるように配りつづけられる。何人もいる花火の仕掛け係りは行列のすぐ横でドカーンとばかり花火をあげつづける。昼も夜も。
それは、何度もくりかえすが、壮烈なエネルギーに満ちた大行進である。こういう行列がアンダルシーア南部全体、東西南北の町や村から、おそらくは百をとうに越えて、エル・ロシーオへと集中するのである。
エル・ロシーオの西北方、ウエルバ市あたりからこれを見れば、地学的にこれは砂漠と荒地の、西部劇的大饗宴である。トラックやトラクターなどがいなくて、すべてが馬、幌馬車に牛車だけだったらどんなにか、と思うのは二十世紀の今日としては贅沢というものであろう。
エル・ロシーオ西北方からの行進が砂漠の大饗宴であるとすれば、南東方向からのそれはどうであるか。
たとえばグアダルキビール川はセビーリアより南方に橋というものがない。従ってその河口のサンルーカルの町からエル・ロシーオへ行くには、渡し舟でまずこの茶褐色の大河を渡ってかからねばならぬ。これがまた大仕事である。馬と幌馬車、牛車などだけであったむかしならば、そうも面倒はなかったであろうが、いまはトラック、トラクターなどの重量物までがいる。とにもかくにもこの川を渡ると、対岸は、赤松の、密林と言いたいほどに茂った林があり、子供の頭ほどはある松カサが地面一帯にころがっている。この松林が尽きると、今度は、川の左岸にいては想像も出来ない大砂丘群、それは砂漠と言って充分な、樹木は一本もなく、わずかに、根の浅い、風に吹かれて転がって、行った先でまた根付くという葎《むぐら》のような黄色い小さな花をつけるものがあるだけで、この砂漠を一三キロから一六キロほどを突破しなければならない。それは風の具合によって模様を変える真の砂漠であって、ここで群れにはぐれて、馬かトラックかが足をとられたら死ななければならないであろう。しかも、この砂丘・砂漠は、年によってその拡がりを変え、去年の知識は二年と役には立たない。林のなかへ侵入して来た大量の砂は、その林の全部を枯死させ、それは死の森のような景観を呈する。そうしてその一番高い枯死した樹木のテッペンに、帝王鷲やハゲタカが直径一メートルはあろうかという巣をつくってあたりを睥睨《へいげい》している。
日がな一日かかってこの砂漠を行進し、夕刻、といっても日没は九時すぎであり、その時刻に、今度は、これまたそれまでの砂丘・砂漠からは想像も出来なかったような、立派な樫の大樹やユーカリの森と、ありとあらゆる草や葎の茂る湿原地帯に出るのである。しかもそこに、その砂漠が尽きて湿原がはじまる境界に、忽然として、宮殿・パラシオ≠ニ称される百人は優に泊ることの出来る白亜の宮殿が出現するのである。それは、代々の王室や大貴族たちがここへ狩りに来るときのための館である。かつて画家ゴヤと第十三代アルバ公爵夫人の二人がここに身を寄せて、彼らの短かりし愛の暮しをしたことがあった。現在ニューヨークにある、アルバ公爵夫人黒衣像はこの宮殿をめぐる景観を背影にして描かれたものであった。建物は言うまでもなく石造であり、石などというものが一切見当らぬこのあたりでこの館を造るについてはこれまた大変なハナシがある。石は、実は英国産であった。というのも、サンルーカル、あるいはカディスの港からヘレス名産のシェリー酒を積み出すについて、英国の港を空荷で出たのでは安定を欠くために、船は石材をバラスとして積んで来たものであった。その石材を運び込んでこの宮殿・館を建てたのであった。そうしてこの館こそが、陸棲の鳥、海棲の鳥、湿原を好む鳥などを観察するにもっともよい場所とされているのである。
サンルーカルから来た連中だけではなく、カディス港などの南東方向から来た人々はみなここで合流して一泊をする。従ってここではほとんど夜を徹しての交歓の宴会がつづく。太鼓はドンドン、花火はドカーン、それに掻き鳴らされるギターにのせて、八木節かソーラン節を連想させる、アンダルシーアのカンテ・ホンドォなる歌がうたわれ、踊りは言うまでもない。
その明《あく》る朝は、早く夜明けに行進は再開始されて、今度は湿原・叢林のなかの安全な小道を、約七時間かけてエル・ロシーオそのものへと向うのであるが、安全な小道とは言うものの、何分にも沼沢地であってみれば、馬も足をとられ、車輪はぬかるみにはまり、それは容易なことではないのである。そうしてここを通り抜ける楽しみは、数千、数万の青鷺とその巣を見ることにあるようである。苦あれば楽ありとはよく言ったものである。
湿原をやっとの思いで通り抜けて、ようやく乾いたステップに到着すれば、もはやエル・ロシーオは近い。それは遠くから見える。
エル・ロシーオの上空は、すでに到着しているか、その周辺をまだ行進しているかする連中の車や馬、牛のまき上げる砂塵で濛々と煙って見えるのである。
かくて年に一度の蜃気楼のような、人間と馬と牛と車とテントの西部劇的大集合である。エル・ロシーオに最終的に到着すれば、まず脇目もふらずにロシーオの聖母像を収めてある聖堂へ乗りつけ、彼らが牛車に乗せて来た彼らの聖母あるいは救世主像とが挨拶をかわす。かくて対面の挨拶がおわると、彼らはこの蜃気楼村のなかを何度も何度もぐるぐる廻って彼らの到着を触れまわる。何十という町や村を代表する連中の行列が、太鼓とギターをうち鳴らし、花火をあげ、酒を酌み交しながらそれを行うのであるから、それはもう恐ろしいほどの大混雑なのであるが、私はそこに群衆を整理する警官の姿を一人も見なかった。昼夜兼行の四日間の祝祭を通して警官を見なかった。
大群衆が大群衆自体の論理に従って、たとえそれが整然としてでなくても、何の事故もなく自らを処理しているのである。私はそこに奥深く宗教的なものに裏打ちされたスペイン・アナーキズムの代表的具現を見た気がしたものであった。
お互いに酒を飲み、踊りまわりなどしていれば、そこにどうしてもある種の人間的衝突が起るものであるが、衝突に怒った二人、あるいはグループがまさに撲《なぐ》りかかろうとするその瞬間に、誰かが「ビバ! ラ・パローマ・ブランカ!」(白い鳩万歳! 白い鳩はエル・ロシーオの聖母の別名である)と叫べば、当の二人、あるいはグループもまたその合言葉に和して即座に仲直りをして酒を酌み交す。
土曜日の夜九時に、照明というほどのものもない闇のなかで、ここに集合した八万人から十万人近い全西部劇軍団が起ち上って聖堂をめぐっての大行進をはじめる。われわれのようなこの大群衆の論理の外の余所《よそ》者は、余程気をつけていないと、砂地のために馬のヒヅメの音がしないので暗闇からぬッと出て来る騎乗の人々のなかに巻き込まれて立ち往生ということになる。すぐ背中のところで花火があげられ、闇にやや無気味な太鼓の音が轟く。人々は、土曜の夜から月曜の午後までほとんど眠らないのである。どうにも眠くてかなわなくなった人は、ラス・マリスマスへ出て行って流星を見ながら眠る。それはアバンチュールの機会でもあろう。
ある村のテントで白葡萄酒とトリの馳走にあずかっていた時、同行の島画伯夫妻があまりに若く見えたために、村人から兄妹かと訊《き》かれ、いや夫婦だ、と答えると、ここではみな夫婦だ、という返事がかえって来たことが何かを物語ってもいるであろう。それはバッカスの饗宴でもあるのである。
月曜日の朝十時、再び大集合が行われて野外のミサが開始される。人々は騎乗のままであり、この人々が一斉に下馬をして大地に跪いて祝福を受ける、その動きと静止の瞬間は、人の為《な》すさまざまな業《わざ》のなかでも感動を与えるものであった。そうして聖職者の出る幕は、この時だけなのである。俗界の権力も聖霊の世界の権力も最小限に限定されている。
この日曜日一杯と月曜の朝まではここに集まった人々全体の交歓に費され、人々はすべて兄弟姉妹であり、前記の村人のことばによれば夫婦でもあるらしい。
そうして月曜の朝、エル・ロシーオの聖母像が担ぎ出されて、人々に祝福を与える。この担ぎ手は、はじめにこの像を木のほら穴から見つけ出したアルモンテの町人に限るのであるが、もしアルモンテの担ぎ手を押し出してでも担ぎたいとあればそれは自由で、このために、時には突進して来る他の町村の男たちとぶつかって血の流れることもあるようであるが、それもまた、
「ビバ! ラ・パローマ・ブランカ!」
なのである。
その担ぎ手たちの表情は、彼らがほとんど恍惚状態にあることを物語っている。
ビバ! ラ・パローマ・ブランカ! ……
[#地付き](グラナダにて)
参考文献 Juan A. Fernndez : Donana. 1974, Sevilla.
グラナダ暮し
一九七八年六月某日。
受信。池田満寿夫とリランより。
リランはマスオが東京へ行ったり、パリ、ローマなどと駈けまわってばかりいて、落着いて彼の顔を見る暇もない、と嘆く。
それは当分仕方がないだろう、誰の人生にも一度はあることだ、と返信。今夏、マリョルカ群島のイビサか、ギリシャで会いたいとのランデヴウ申し出には、暑過ぎるから御勘弁を、と返事。
朝ッパラから軍隊が大砲を何十発もブッ放す。いままでの例で、さては今日は何かの政治的集会かデモがあるのであろうと思っていると、案の定、この大砲が終った頃に、緑と白のアンダルシーアの旗をかかげた拡声器つきの宣伝カーが、インタナショナール≠フ歌を大声で歌いながらやって来て、集会の案内を告げに来た。
この国でインタナショナール≠聞かされると、何かが胸に衝迫を与えると同時に、その初々しさに、いつか微笑を誘われる。フランコ独裁下の四〇年間、この歌を大ッピラに歌う者は直ちに逮捕され拷問刑に付されたのである。
しかし、アンダルシーア自治運動のデモのためにインタナショナール≠歌うとはどういうかかわりあいであるか。アンダルシーア自治の歌といったものがないのか。
いま|歌う《ヽヽ》と書いたが、それはテープでもレコードでもなく、車の助手席に乗った女性がマイクを手にし、金切り声を張りあげて自分で歌っているのである。
夜、涼しくなってから坂を降りて行って、若い同胞の彫刻家の家を訪ねる。アルバイシンのカスバ風の迷路の一角の小さな二階屋で、その地階のアトリエには大工道具や板、木材、金属のパイプ様のものなどが壁にたてかけてあり、彼は、その板や黒檀の材などで、たとえて言えばマンドリンの胴のようなものをはりあわせてつくり、それに金属パイプをはめ込んで、いわば音の出る彫刻を制作しているのである。
私にはなんとも言い様がないのであるが、この青年は見込みがある、と思う。異国でただひとり真剣に仕事に打ち込んでいるためであろう、まだ幼さの残った顔にヒゲなどを生やしているのだが、いい顔をしていると思う。人々が彼のことを Kan, Kan と呼んでいるので、どういう名なの、と聞いてみると、姓はM……で、感《ヽ》という名だという。感という名か。珍しい。
午後、直射日光の下で三七度。室内二〇度。
それでも外出にはセーターを肩にひっかけて行く。
同じく六月某日。
八百屋へ買物に行く。タマゴ一二コ、ピーマン一キロ、キウリ一キロ、レタス一キロ、サクランボ一キロ、スモモ一キロ、これだけで合計二七〇ペセタなり。日本円にして七〇〇円ちょっとか。このうちサクランボ一キロで、六〇ペセタ=一五〇円見当なのだが、家内に言わせると、日本では二〇〇〇円を下ることはないだろうと言う。
物価は、これは|感じ《ヽヽ》ということだけで言うのだが、スペインを一とすれば、六月はじめに自動車のナンバー書き換えに行って来たフランスは二倍、昨年船でヨーロッパへ着いて上陸をしたオランダとドイツで三倍、北欧で五倍という|感じ《ヽヽ》であり、このデンで行くと日本は十倍という|感じ《ヽヽ》である。
いまわれわれが住んでいるアルバイシンの丘の頂上のアパートは、寝室二、広い応接、居間兼食堂の間と、浴室、台所と、これに共用のプールとテニス・コート、ガレージ、光熱、水道料全部コミで円にして一カ月五万円である。
同じアパートに住むアメリカ人作家の某氏に訊ねてみても、物価はアメリカに比べて、少し安い程度だと言う。この作家は日本でしばらく暮したこともあり、日本はcrazy nation≠セと言う。
小生思うに、この物価の安さと安定とは、一つにこの国が食糧の全部を自給出来、かつ余剰を輸出さえしていることにあるのであろう。食糧の自給を放棄した、あるいは放棄せざるをえなかった国家には、つまり農業の比重が次第に低下して行く国家には、ある種の精神的荒廃というものが忍び込むこと、それは避け難いのではないか……。
農業、農耕と文化の関係について。
このアパートの周囲にも、失業者が多い。彼らは日がな一日、広場へ集って日向ボッコに影ボッコである。しかし、パンと肉と野菜と果物と葡萄酒とチーズを欠くことはない。牛乳も絞りたての生ま牛乳である。それがミニマムなのである。それをしも欠くことになれば革命が起るであろう。
この国の失業者に、東京の山谷、大阪の釜ケ崎的な悲惨さがまったくないこと。
夕刻散歩に行き、イチゴを買うと、
「このイチゴはサクラモンテで出来たものだ、ヒターノス(ジプシー)はよくないが、このイチゴはよい」
と言う。サクラモンテは当アルバイシンに隣接する丘で、ヒターノスの多いところである。
同じく六月某日。
グラナダ国際音楽祭、はじまる。
今夜は、夜十一時開演で、モーリス・ベジャールの二〇世紀バレー団の公演で、ストラヴィンスキー作曲の「ペトルーシカ」と、オッフェンバッハ作曲の「パリの賑い」の二つ。
会場はアルハンブラ大宮殿内のヘネラリーフェ庭園の野天の舞台。背の高い糸杉に三方を囲まれた舞台に、ほとんど舞台装置というほどのものもなく、踊り手は糸杉のなかから出て来て、糸杉のなかに消えて行く。天井は濃紺の、あくまでに青い海底のような夜空であり、時に流星が流れる。
しかしこのペトルーシカを見ていて、何となく小生には不満があった。何が不満なのかとよくよく考えてみると、少年時代にニジンスキイ=ディアギレフのバレー・リュッスのことを読んだことがあり、ニジンスキイの写真集などを見たことの記憶とそのイメージが残っていることに原因があるのであろうと思い至る。もとよりニジンスキイの実物など見たこともないのだが、大芸術家というものの残像の強さに、少々愕然とする。
二番目の曲目は、エンタテインメント。カンカン・ダンスを練習着のままで踊るところなど、気が利いている。しかしフランス語のセリフが入って来ると、このスペインで聞くフランス語なるものが鼻にかかって間の抜けたものに聞えて来るので、思わず笑い出したくなる。
今日、J. B. Duroselle : Histoire de Catholicisme 読了。
同じく七月某日。
代々木の娘からの手紙に、「『眠狂四郎』永遠に眠る」という新聞の切り抜き、同封。
暗然。
梅崎春生、椎名麟三、檀一雄、武田泰淳、森有正、竹内好。ここスペインへ飛び出して来たについても、後の三人のつづけざまの死が一因となっていたと思う……。
それが、この国へ来てからでもすでに、吉田健一、平野謙、そしていま柴田錬三郎。
われらすべて死す
マドリードにて
真に奥行きのある、つまりは内容のある絵画、しかもそれが自家の壁にかかっているのでない場合、ということは美術館などに収蔵されている場合には、その一枚の絵、あるいは複数の作品を、見て見て見抜いたとは、なかなかに言えることではない。それは至極あたりまえのことであってわざわざ言い出すこともないことであるけれども、そこに美術作品というものの含む、根本的なものがある。一点制作という絶対的な事情が存在している。文学書や楽譜などの複数コピイ可能なものとの差違である。
たとえばゴヤの白衣の「アルバ公爵夫人像」などは、マドリードのリリーア宮殿と呼ばれる現アルバ公爵家の豪華な謁見室の暖炉の上に掲げられていてこそ、アルバ公爵夫人像でありうるのであって、黒衣の同公爵夫人像がニューヨークのヒスパノ・アメリカン・ソサエティのうそ寒い空間にいられたのでは、それは同じ画家の手になるものとは言え、これをアルバ公爵夫人像として見るには、見る当方の方でいささかの努力が必要になって来る。
美術というものは、因果な芸術である。けれどもそれがやはり一点制作という芸術の真の在り様であろう。
また同じくゴヤについて言うとすれば、彼の肖像画中の最高の傑作である「チンチョン伯爵夫人像」は、この伯爵夫人の後裔である現スエーカ公爵家の奥の間にあるのであるが、この現スエーカ公爵家は手許不如意ででもあるのか、マドリードの中流アパートにあって、この大きな一枚に壁面は少し狭過ぎるのではあるけれども、それでもこの公爵家のフラットの雰囲気、調度などとよく合っていて、私としてはやはりああ、チンチョン公爵夫人、あなたはあなた自身の子孫の家にいまもおいでになれてよかったですね≠ニ言いたい気持を抑え切れなかった。
本当によく出来た絵画は、それにふさわしい家の壁にあるのが本来の姿であろうし、夜になると人気のない美術館の在り様などを考えてみると、それがよく見込んだ絵の場合であればあるほど、当方の心に寒む気がして来るのである。
一年半ほどのスペイン滞在中、私どもは主としてグラナダに住んでいたのであるが、マドリードにも、合計で三カ月ほど住んでいた。マドリードでの私どものアパートは、プラド美術館のすぐ上の丘、サン・ヘロニモ大教会の裏で、従ってレテイロ公園もすぐそばという場所であった。
その場所のせいがあって、どこへ行くにも、たとえば私が日課にしていた新聞を買いに行くにも、プラド美術館の通常入口前の広場を通り、従ってこの入口前にあるゴヤの銅像に毎日二度ほどは挨拶をする仕儀にたち至ったものであった。
セニョール・マエストロ、今日もお暑いことで……
と。
けれども、今度のスペイン滞在中に、私は実にただの一度もプラド美術館へは入らなかった。本当は入れなかったのであるが、それはあとにするとして、私自身、自分に対していろいろに理屈を言って聞かせてはいた。このところここの家は空気調節のための修理中で、半分の壁面に作品をごてごてと二段掛けにしているから、とか、あるいは前館長のハビエール・デ・サラス氏が死んで新しい館長が来たから、またまた絵の並べ方を変えたり、部屋割りを変更したりしているであろう、云々と。
ついでに言っておけば、美術館の館長が変ると、絵の並べ方を変えたり、前の館長が特定のある作品によい場所を与えていたのに、後任がそれを他の作品と差し変えてしまったりすることは、実に他人迷惑な話である。ハビエール・デ・サラス氏もまた氏の前任者であったサンチェス・カントン氏の並べ方を大幅に変更して、私をあわてさせたものであった。
変えるのがわるいなどと私は言っているのではない。たまにはそれもよいであろうが、主要な作品というものは、自ら自分の居場所を決めているものなのである。
たとえばもう一度ゴヤの作品について言うならば、例の「裸のマハ」と「着衣のマハ」の一対の作品は、サンチェス・カントン氏が館長であったときには、一階(日本流には二階)の一番奥のゴヤ専用の部屋の入口の左右に分けて掛けてあって、部屋正面の大作「カルロス四世家族図」とよい対照をなし、おまけにゴヤ夫人像が斜めにこの裸のマハ、着衣のマハを睨みつけているという、まことに劇的と言える配置になっていたものが、サラス館長がこの劇をぶっこわして、マハの二枚を別のところへ移してしまった。
私が文句を言っても仕方はないが、あまり勝手なことをされても困るのである。アンドレ・マルロオがダ・ヴィンチの「モナ・リザ」とワットオの「道化師」を差し変えさせたときにも、私はこの独善的な文化大臣のすることにわが眼を疑ったものであった。
絵には絵の居場所というものがあるのである。
さてしかし、理屈はこのくらいとして、一年半もスペインに住んでいて、その間に何度もマドリードへ出たり入ったりしていながらプラド美術館へ一度も入らなかったことの弁を書かねばならぬ羽目になった。
毎日プラド美術館の前を通りながら、私にはある心の痛みがあった。それは正直な話である。
あるときには、犯罪者のそれに似たような感のすることもあった。ドストエフスキーの「罪と罰」のなかに、ラスコルニコフが金貸し婆さんを殺しての後に、その犯罪の現場近くへ戻って行く場面があるが、それほど大袈裟ではないにしても、かすかにそのことを思い出していたのも事実である。
言ってしまえば、私はゴヤの作品が怖くなって来たのである。ゴヤの作品とその生涯、時代について、私は四冊もの評伝を書いてしまい、このマエストロの作品に、そのほとんど全作品について何かを書いて来た。十年以上にわたってプラド美術館に通いつめ、一枚の作品を求めて、スペインだけではなく、ヨーロッパの各地、アメリカまで何度も何度も出掛けた。
これを書いているあいだも、うすうす感じてはいたのである。これを書き上げてしまったら、きっとお出入り禁止になるぞ、と。
結果は、予感の通りであった。
毎日、顔をしかめた銅像に、
セニョール・マエストロ、今日もよいお天気で……
と挨拶はするものの、とうとう私はプラド美術館には入れなかった。
その代り、私は、エウヘニオ・ドールスの書いている「プラド美術館の入口に儀仗兵のように立つ四本の立派な樹木」と友達になり、夜に入るとこの見事な樅の老木の一本に背をもたせかけて、この前庭の芝生にオシッコやフンをしに来ている犬どもと戯れていたものであった。
お出入り禁止ではあったが、私は幸福であった。
[#改ページ]
歴史について
芸術家の運命について
今年、一九七七年の年頭は、私にとってもめでたいもののはずであった。
というのも、このところ五年がかりで朝日ジャーナルに連載をして来た、スペインの画家ゴヤの伝記の仕事が、昨年秋にようやく脱稿し、第四巻目の本も今年春には出るところまでこぎつけたからであり、この伝記は画家ゴヤの伝記であると同時に、私自身としての一種のヨーロッパ論でもあり、幼少のころから世話になって来たヨーロッパの文化文学への恩返しのつもりでもあったからである。
それにもう一つ、この七月には私も念願の六十歳に達するからでもあった。なぜ念願のなどと大袈裟なことを言うかといえば、戦時中に、いつ召集令が来るかと怯えて暮していた時には、せめて三十五歳くらいまで生きられたらなあ、と思っていたものであったが、思いがけず戦後にまで生き伸びて、その戦後の最中に三十五歳に達した時、その時はその時で、ダンテの『神曲』冒頭の、
われ人生の途、半ばにして……
という詩句を思い浮かべて、ちらと七十という数字が思い浮かんだ記憶があるからであった。
そこまで達するには、もう十年の歳月をしのがねばならぬ次第であるが、まずはともあれ、ようやく十年というところまで、という感慨もあるのである。
武田、森氏、そしてマルロオ
こういう次第で、いささかおかしいが、自分で自分を祝ってもそれほど不思議でもない状況にあったはずであるけれども、その気にどうしてもなれないのであった。
それは、直接には、昨年秋に、ほとんどまとめて、と言いたいほどの衝撃をもって襲って来た親友、畏友の死であったろう。
武田泰淳、森有正、それに、彼らの葬儀を終えて、「ゴヤ」の仕事で世話になったスペインとフランスの専門家、学者たちにお礼かたがた訪れたヨーロッパ旅行中には、アンドレ・マルロオまでが死んでしまった。
マルロオ氏には、私はもちろん面識も何もなかったが、この問題の多い作家とは、やはり四十年来ほどの期間、彼の書き物と行動とにつき合って来たつもりである。この人は、しばしば私を悩ませた。一九三五、三七年の文化擁護作家会議などでの発言や、スペイン内戦での行動などは、若き日の私にとっても力強いはげましとなり、戦後に知った、彼の戦時中のレジスタンス活動もまた刮目《かつもく》をさせたものであった。
ところがその後の、アルジェリア戦争やベトナム戦争に対する沈黙と、ド・ゴール支持、その文化大臣、一九六八年の、いわゆる五月革命に対する弾圧参加などは私を苛立たせ、また美術関係の著作が多くなってからは、その恣意独断にもとづく、ほとんど口から出まかせと言いたくなるほどの著作にも、ほとほと悩まされたものであった。
しかしそういう彼であっても、その死が報ぜられ、その遺体が病院から運び出される写真が大きく新聞にのるとなると、私自身のなかでも、何物、あるいは何者かが運び出されるようにして消えて行くのを痛感せざるをえないのである。
まして、誰もいないヨーロッパのホテルの一室で、天井に、その種の死≠フイメージを見詰めていることは、楽なことではなかった。
この男はおれにとって何であったか、とにかく長い期間にわたって随分悩まされたな、厄介きわまりない男であったが、いまこうして死なれてみると、そういったたぐいの感想が次から次へと湧き起こって来て、夜中に外へ出て酒をでも飲まないと眠れなくなって来る。
私としては『ゴヤ』を書いていて、その八十二歳にも及ぶ長い、伝記作家にとっても長すぎるほどの全生涯につき合って来て、ついにその死を迎えて、Adios Goya ゴヤよさらば、と書き記した時には、まことに茫然としてしまったものであった。
大作終えて身も世もあらず
実質のところでも、約十年にわたってつき合って来た主人公の死に接して、しかもそれからそれほどの時間もおかずに武田泰淳と森有正の二人に死なれたことは、実際言って身も世もない思いをさせられた。前者への弔辞の冒頭に、
「泰淳武田先生、寂しくなりました。――」
と私は書いたのであったが、本当に、寂しくなってしまったのである。
正月早々何を不吉な、と読者の方々からのお叱りがあるであろうことは、万々承知の上のことなのであるが、人生とは、と考えることもまた新年の計に入り得るものであろうと考えるので、無理をしてペンを原稿用紙に押しつけている次第である。
昨秋はひどい思いを数々させられたので、かくてはならじと、ヨーロッパへのお礼旅行を思い立って腰を上げてみると、ヨーロッパ論どころか、そのまんなかでマルロオの死を迎え、この彼もまた未完の作品を残しての死であったと知ると、つくづくと芸術家の運命、とりわけてゴヤ以降の近代芸術家の運命というものについて考えさせられる次第である。
喜びと心配――サルトルに会う
今回の旅のしめくくりに、朝吹登水子さんを通じてジャン=ポール・サルトル氏との私的な会談をおねがいしておいたのが実現して、近頃での数少ない喜びを味わったのであるが、その会話、それは歓談と言ってよいものであったけれども、ここでもしかし、やはりハラハラのし通しであった。
ほとんど失明状態のサルトル氏は、それでも明暗が茫と見える程度と言われる、残りの片目をノートに押しつけるようにして著作『権力と自由』の執筆中であり、私の要請に喜んで応じてくれて金芝河《キムジハ》氏へのメッセージをも書いてくれたのではあったが、話題に昴奮をしてくれば血圧が上って来ることは目に見えていて、あまりに刺激的な話題は当方から避けねばならず、私としてもアンドレ・マルロオが死にましたね……≠ニいう一語が口から出そうになるのを、懸命に抑え込まねばならない。
氏は、私の仕事が四冊で完結したことを朝吹氏からつとに聞いて知っていて、それを祝ってくれたが、そういう話題が出れば出たで、私としてはそれにしてもあなたのフローベールが三冊で中絶というのは残念です≠ニいう返事が口から出ることを、なんとしてもつつしまなければならない。
氏は、静脈瘤のせいで、歩行も容易ではないのである。
民主主義を追求――サルトル氏に気迫
私自身がサルトル氏に訊《ただ》したかったことは、実は次の一事に尽きるのである。
つまりは、フランス革命後にナポレオンによって創設された近代国家が、その暴力装置としての近代的国民軍をともなって、そこで開始をされた帝国主義と植民地主義の時代、しかもこの帝国主義、植民地主義がより進んだ°゚代化をもたらす、政治的には民主主義(フランス革命の実質内容)をもたらすと称して開始された近・現代の根本的矛盾が、たとえばベトナム農民の三十年にわたる抵抗とその勝利によって終焉を告げたものと見るかどうか……。
この一事に、私の問いは尽きるものであったが、これに対する氏の答えは、まことににべもないものであった。
「帝国主義のもたらす民主主義は、もとより真の民主主義ではないが、このパターンが続いたことは事実であり、それがベトナム戦争で終わりを告げたとは思わない。別の形のものが続くであろう」と。
言外に、われわれはまだまだ「真の民主主義」を見出すために戦い続けなければならない、そのためにも、自分も見えない目を紙にこすりつけても『権力と自由』を書く、というほどの気迫がこもっていると見受けられた。
私自身は、自身の現代終焉願望をにべもなく否定されてがっくりすると同時に、渾身の力をいま一度でも二度でも振りしぼって生き続けよ、と励まされた感をもったのであった。
金芝河氏へのメッセージも、そういう戦いの一環として「そのためにはあらゆる努力をする用意があります」として書かれたものであった。前記のテーゼに対する質疑と、金芝河氏の現況、それからちょうどその日(十二月九日)の数日前に行われた日本でのロッキード選挙の結果など、いわばごっちゃにして話し合ったものであったが、そのなかで、ふと彼がいわば脈絡なく、「しかし歴史というものがある。(Mais il y a l'histoire.)」とつぶやいた一語が私の胸に刻み込まれた。
私の考えでは、しかし、ヨーロッパが前記のパターンから次第に脱却しようとしていることは、まず間違いないように思われる。歴史というものがあるのである。
今回の旅では、フランス、スペインのほかにポルトガルをも訪れてみたのであるが、リスボンの空港はいまだにアフリカの旧植民地アンゴラ、モザンビークからの無一文で、国内でのあてのない引揚者でごったかえし、ホテルにも住むあてのない人々が泊り込んでいる。リスボンの街は左翼右翼の落書だらけで、その点では景気よく見えはするが町も村もさびれ果てている。
人々にも元気はなく、ポルトガル怨歌であるファドは、ますます怨みっぽく聞える。けれども、それでも何でも、やはり歴史というものはあるのである。
農・工業の国へ――変容するスペイン
一昨年の冬にスペインを訪れた時には、ちょうど独裁者フランコが死んだところで、あわやこの国は如何なることに相成るか、と思ったものであった。国内は火の消えたようにしんとしていて、それでいて、国境を一歩越えたフランス領バイヨンヌでは、同じスペイン人たちが、フランコ死んだ万歳、万歳で湧きかえっていたものであった。今回の旅でもバルセローナへ行けば、カタルーニアは如何にスペインでは|ない《ヽヽ》かを熱烈に説かれる始末であった。
言うまでもなく紆余曲折はあるであろうし、血なまぐさいこともあるであろうが、また、たとえ「真の民主主義」ではないにしても、自由化の方向だけは確立されたと見てよいであろうと思われる。スペインは、かつての流血と「砂漠のアラビア」の別称のあった荒地の国から、次第に農業本位、工業中位国の、緑なすスペインへと変わりつつあるのである。
痛烈な風刺漫画――特攻輸出≠ノ悲鳴
私事からして、近・現代の芸術家や思想家の運命をつくづく考えさせられるというところから発して、ジャン=ポール・サルトル氏との私的会話に触発をさせられて、いまだに国家単位というものを解消しえない現代自体を考えるという、柄にもない大事に達してしまったのであったが、今回の滞在で、今度はわれわれの国のことに関して一つ考えさせられたのは、次のような漫画に接して、であった。
ヨーロッパという航空母艦が、バンザイと叫んで体当たり特攻(日本の輸出ドライブ)をかけて来る飛行機の下で悲鳴をあげている……という、そういう一枚の漫画であった。
われわれはいったいいつまで、こういう攻撃型の国家をもちつづけるのか、またもちつづけられるものなのだろうか、という一事である。
世界・世の中・世間
もう十数年も前のことであるが、ある作家といっしょに、ある外国を旅行して歩いたことがあった。
ホテルで、その友人の作家と話をしているうちに、彼が目を伏せて、ぼそりと言った。
「こうして毎日旅行をしてあるくと、一生懸命働いている人がバカみたいに見えるね」
と。
それはたしかに極端な言い方というものである。目を伏せてでも言わなければ言えないような言い方というものでもある。とりわけてバカみたいに≠ニいう表現を文字通りにとってはならないかもしれないのであるが、そこに、しかし、何程かの真実が含まれていることもまた否定しがたいのである。
どこのいかなる土地であれ、そこに定住をして材木を引っ張ったり、川や海に網をうったりしての、それぞれの生業をいとなみ、貧富いずれにしても生計の道をたてている人々と、その土地にさしたる、直接の用もなく、何の責任もない旅行者とでは、せいぜいのところで、同じ人類というものに属しているというくらいのかかわりしか生じないのである。それがわるいなどと私は言っているのではない。
人はときに自分の定住の地と生業をはなれて、責任のない目で人々の生活のありさまを眺めてみることも必要なのである。すなわち、自身の定住の地においての、一生懸命に働いている、そういう自身の姿そのものが、行きずりに通りかかった旅行者には、バカみたい≠ネものに見えるかもしれないことを知るだけのためにも。
私のような文学の仕事に従事している者にとって、如上のような人間生活の在り様を翻訳してみるとすれば、それは、いわば定住者の文学と旅行者の文学ということになるであろうと思われる。たとえばその旅行者が作家であった場合、その土地のことを、どの程度にでも調べ、観察し、その上でそれを何等かの形で書いたとしても、モデル問題などというものは生じないであろう。
けれども、定住者がその定住者同士のことを書く場合には、必ずやどの程度かにおいてモデル問題というものが生じているのである。モデルにされた人がそれを問題とすると否とを問わずに、それが実在することだけは疑えない。
言うまでもなく、旅行者といってもそれは千差万別であって、行き先に、たとえば商用などというビジネスの仕事のある人などは、本来的に旅行者であるかどうかと問われなければならぬようなものであろう。そういう人は、行き先での定住者と責任のある応対、折衝などをしなければならないのであってみれば、決してその対応者がバカみたいに′ゥえたりする筈はない。
しかも、虚構のなかを浮遊して行くかのような、いわば純粋旅行者というものがもしあるとすれば、彼は旅先で何を見、何を観察するか。旅先で接する人々が、もし同じ人類の一員というほどの関係としてしか関係して来ないとすれば、必然的に彼の見る、あるいは観察するものは、それを見聞するおのれ自身の反応というものになるであろう。
あるときに私は、ある西洋音楽の専門家と話していた。その専門家が言うには、西洋の家というものが石造のそれであるからして、音が外に洩れない。だから西洋の音楽家たちは自宅で思う存分の練習が出来るのではないか、と。この人も何度もヨーロッパに旅行をしたことのある人である。
そういう話、あるいは説を聞いて私はびっくりした。私もヨーロッパの石の家のなかに住んでいたことがあった。それは石造のアパート様の建物であったけれども、石は石でも石は側壁《ガワ》だけのことであって、床と天井は石ではない。御承知のように、西欧の中流以下のアパートの床=天井というものは意外にヤワにつくられているのであって、建物が古いと、床は歪んでいたり、傾斜をしていたり、ときには歩くと揺れたりさえしかねないことがある。しかも、もし階段が石造りであったりすると、それは音に対して煙突のような作用をし、ドアーをバターンとやれば音は全階にひびくのである。
従って、多くの国において定住者たちはそういう音に対して極めて神経質になっている。天井にひびく階上の足音、掃除をするに際して家具をひっぱりつけたり、引きずったりする際の音などには、時として耐えがたい思いをさせられる。人々は音をたてないように、たとえて言えば息を殺して暮すというような次第になる。私は日本での、タタミと靴をぬいで暮す暮し方は、音に対する安全保障としては実によく出来ていると思う。
しかし、国、あるいは地方によっては、音に対しての気の配り方には、大きなバラツキがある。たとえば、近頃私どもがいたスペインなどは、これはもう音に関しては始末におえないのである。友人のある画家は、音を消してテレビジョンを見ている。どうして音を出さないのかと問うと、なに、隣家のテレビの音がつつ抜けだから、自分のところで音を出さないでも大丈夫だ、と言う。私どものいたアパートでは、筋向いの若夫婦がステレオを買って来たかと思うと、三日ほどはヴォリュームを最大限にあげて鳴らす。つまりは、ステレオを買ったゾ、という、隣近所一帯に対するデモンストレーションなのである。あまりの騒々しさに私が抗議に行くと、
――このステレオは日本製なのに……。
と言う。
あるときウィーンに住んでいる友人が訪ねて来てくれたので、音に関しての愚痴を言うと、彼が言うには、ここ(スペイン)の方が開けッ放しでいいのではないの、と言う。というのは、ウィーンなどでは誰も彼もが音に関して極度に神経質になって暮しているので、同じアパートでも誰が何をして暮しているのかわからぬほどで、しまいには不気味になって来る、と言うのである。
先の音楽の専門家は、おそらく一流のホテル暮しだけをして、石造の家を外部からだけ眺めて、つまりは石の家は音を遮断するであろうという、自分自身の信念(?)だけを西欧にあって観察していたものであろうと思われる。
石造の建築物は、壁と、床=天井のつくりがよほどしっかりしていてくれないと、それは騒音の巣になりかねないのである。しかもそのもっともよい例は、ほかならぬ教会や大聖堂でパイプ・オルガンの演奏を聞かれるときに実証される筈である。教会、大聖堂は、大旨、床と天井しかない石造のガランドウであり、さればこそパイプ・オルガンは嚠喨《りゆうりよう》として堂宇一杯に響き渡るのである。
日本の建物が開放的であるから騒音に対しても開放的であるということにはならないであろうと思う。タタミと靴をぬいだ生活は、騒音の遮断には上乗であろうと思われる。わが国での騒音は、それこそステレオやテレビ、ラジオなどの機械によって再生産されたものが多すぎることにあろうと思われる。
ついでにもう一つ。タタミと靴をぬいだ生活は、赤ン坊を育てるにも都合がいいということがあるであろう。というのは、丁度ハイハイをする頃の赤ン坊は、西欧では、如何なる上流階級のそれであろうとも、大人たちが靴をはいて歩く床を這ってあるくのであるから、その小さな掌やヒザ、額などはみな真ッ黒に汚れている。あれは衛生的ではない。
もっとも、西欧では子供は人間扱いを受けていないということも言えるのであるかもしれない。一種別の生物扱いをしているのではないかとさえ思われることがないではない。子供がおとなしいと同じ程度に、犬どももおとなしいのであるから。
しかしそのおとなしい犬を、ヨーロッパから日本へつれて帰ると、本当に途端に家族以外の人に吠えついたり、他の犬にケンカを吹っかけるのは、あれはどういうわけのものなのであろうか。
一度動物学者に聞いてみたいものである。
世界もまた世の中であり、世間なのである。もはや外国≠ニいったことにあまりこだわりすぎることもないであろうと思う。私としては、自分の仕事さえ出来ればどこにいてもいい、またどこで死んでもかまわぬと思っているようである。それに、ことばの不自由さということにも、それほどこだわる必要はないように思っている。定住とまで行かなくても、住みついてしまえばどこのことばでも、生きて行くに必要な程度には、誰にしても覚えてしまうものである。私の家内などははじめスペイン語を一つも知らずにいて、別に教師につくこともせずに一年半いて、しまいには買物に行って値切るということまでやってしまったものである。
私自身スペインに住んでいて、町に散歩に出て、ときどきは、なぜこうもスペイン人ばかりいるのだろう、と首を傾げるというおかしなことになったこともある。
また私どもが住んでいた頃に、夕方の子供用テレビの番組に、日本製の水滸伝≠ニいうものをやっていた。これが終った頃に散歩に出ると、近所の子供たちがいっせいにチーノ、チーノ(中国人)≠ニはやしたてる。それで私はチーノではないぞ、ハポネス(日本人)だぞ≠ニ言って、買物篭を振りあげて追いかけまわしたりしたものであった。
それは遊びである。けれども、一度なぜチーノではないのだ、なぜハポネスなどであるのか?≠ニ子供に反問されて、ぐっと閉口をしたことがあった。人々のなかに、世間に融け込んでしまえば、世界もまた世の中であり、世間であるにすぎないのである。こだわりを捨てることである。
思うにこだわりは、むしろ本国――われわれの場合には日本――から伸びて来ている見えない紐、あるいは綱によってがんじがらめにされている場合に、どう仕様もないものとしてまつわりつくようである。
ある商社員の場合、である。夏の休暇の時期に入って、アパートのブラインドを朝から晩までおろし放しにして、昼間から電燈をつけて暮している。どうしてそんなことをしているのかと訊ねると、アパートのまわりじゅうの家族がみなバカンスでどこかへ旅行に行ってしまい、ほとんどの部屋がブラインドをおろしている。けれどもこの商社員のつとめている東京の本社は、決して一週間以上の休暇をくれない。従ってブラインドをおろしてでもいなければ、恥かしくて夏のさなかに町なかにはいられないのだ、と言う。
情けないはなしではあるが、これが実情のようである。
バス(風呂)にお湯を入れたままで東京からかかって来た電話に出て、部屋じゅうを水びたしにしてしまったりもしているのである。
しかし世界もまた世の中であり、世間であるにすぎぬと覚悟出来るためには、一つの必須の要件があると思われる。
それは、自国の歴史を徹底的によく知ること、また相手国の歴史をも、ひょっとしてその当の国の並みの人々よりもより一層に深く広く知ること、である。そのための手だてには事欠かぬ筈である。
しかもその上で、何をどう見るかという視点の問題もあるかもしれない、と付け加えておきたい。
文化、文明に生粋なものなどはありえないのである。文化、文明は、すべて異質なものとの衝突、挑戦、敗北、占領、同化、異化、克服の歴史なのである。たとえば、奈良へ行ってそこに何を見るか。そこに純粋な日本を見る人は、逆立ちをした旅行者のようなものであろう。むしろそこに、印度、ペルシア、中国、朝鮮の文化、文明の波が押し寄せて来て、その波の遺して行ったものを見る人の方が健康な目をもっていると言える筈である。
そういうところからはじめての歴史についての知が肉眼の裏打ちとなってくれたら、異和感のあるものについての、その異和の根元にあるところのものについて納得が行く筈である。
たとえばイスラム教の地域へ行って、飛行場で、あるいは銀行でさえも、一日五回、デスクのそばにいつも置いてある敷き物をしいて祈りと礼拝をはじめられれば、大抵の同胞はみな呆れてしまう筈である。呆れていられるあいだは、まだいいのである。それが、何かにつけて気にかかり、この野郎、何をしているか! などと思い出すならば、世界は世の中にも世間にもなってはくれない。それはいつまででも外国≠ナあり、世界≠ナあってしまうのである。
そういう人に限って、帰りの日本航空の飛行機に乗り込むと、途端に大酒を飲み出して大声張りあげての自慢ばなしなどをおっぱじめてしまうのである。それは空疎なことであって、何の蓄積をもその人にもたらさないであろう。一回その自慢ばなしをしてしまえば、それでその経験は一過性のものとして空に散ってしまうであろう。
それでは、世界は世の中にも世間にもならず、それは人生にすらなってくれないのである。
「一生懸命に働いている人がバカみたいに見える」というところから発して、人々がついに行きつけるところには、無限に豊かなものが存在するであろうことだけは間違いがない。
歴史について
昨年(一九七八年)の早春、私どもがまだスペインに住んでいた頃、セビーリアの北の方の、エストレマドゥラという地方へ旅をしたことがあった。
この地方は、荒涼として不毛な景観の多いスペインの諸地方のなかでもとりわけて不毛で、人口分布も頗《すこぶ》る稀薄なところなのである。従ってどんなに手間暇をかける観光旅行の日程にも入らない。そうしてスペイン人諸君にとってもあまり用のないところである。
そういうところへ、何をしに行こうとしていたのであったか。私は要するに「歴史」というものを見たかったのである。
元来このエストレマドゥラ地方なるものはポルトガルと境を接していて、ローマの植民地であった時代にはポルトガル地方を含んでルシターニアと称されていたところであり、その首都は、いまにローマ時代の橋や円型、及び半円型の劇場址などをのこしているメリダという町であった。しかし、私はここに紀行文を書こうとは思っていないので、そこでのくさぐさは別のところに譲ることにして、単にここに、二千年以上も歴史を溯るローマ時代の壮大な遺址があるというにとどめておきたい。
そうして、それらの橋や劇場址などが、朽ちることのない石造大建築物であったればこそ、今日までその姿をとどめていて、橋などは現在もポルトガル街道の重要な交通用のものとして現用されているものであることを付け加えるくらいに、ここでもとどめておきたい。
けれども、ローマ時代の植民者たちが、いまほんの少し触れただけの石造大建築物をもちえたということは、その当時、この地方が可成りに地味豊かで生産性の高いところであったことを意味するであろう。そうでなければ、如何にローマ人諸君が原住民に奴隷労働を課していたからといっても、円型劇場と半円型劇場の二つまでを作って芝居や演説や闘技などをたのしめた筈はないのである。
今日見るこのエストレマドゥラ地方は、ドゥエロ川、タホ川、グァディアナ川の三つの、いずれもポルトガルへ流れ込む川に沿った狭小な地域を除いては、生産性などということばをつかうこと自体が、たとえば日本やフランス、アメリカなどと比べてみた場合、それはおかしなことにさえなりかねないほどに、荒涼たることになってしまっているのである。
この地方の荒野を車で、八〇キロの速度で走っていて、三〇分走っても人ッ子ひとり見ないことも珍しくはない。
では、どうしてかかることになり果ててしまったか。その説明は、やはりつくのである。
ローマ時代のあとをうけて、ドイツの暗い森のなかあたりから物の怪に憑かれたかのようにして駈け込んで来た西ゴートと称される民族は、原始キリスト教をもたらしたとはいうものの、仕事としては掠奪専業であったことは仕方がないであろうが、その後に入って来た文明民族としてのアラブ=イスラム教徒たちがローマ時代の水道や潅漑施設をうけつぎ、かつそれをより発展させて農耕と牧畜に精を出していたということは、実証出来ることのようである。
アラブ=イスラム教徒たちというと、羊やラクダを追って荒野を放浪してあるく民族というイメージの方が強いようであるが、少くともスペインへ入って来たその人々は、そうではなかったのである。そうして一三世紀に入って、北方から再征服《レコンキスタ》ということで雪崩れ込んで来たキリスト教徒たちは、都市を略奪しつくして南方へ南方へと進出し、今度はアラブ=イスラム教徒たちが奴隷化され、ついに滅びて行ってしまったものであった。土地は荒廃し、ローマ時代及びその後にアラブ=イスラム教徒によってうけつがれより発展させられていた上下水道、潅漑設備なども破壊され、土に埋もれて行ってしまった。
それが、日本のような島国ではなかったために、つまりは民族の交替によってなされたことであるとはいえ、かつて歴史にのこる大文明を築いたものが、ただひたすらに廃墟、廃址としてのみ残っているのを見ることは、島国の同一民族のなかに育って、文化文明の漸進的過程を歴史として見て来た者の眼には、かなり異様に、衝撃的に歴史観の訂正を要求するものとして映ずるのである。
ヨーロッパの西の辺境であるスペインの、そのまた辺境であるこのエストレマドゥラ地方にもう少しこだわるとすれば、アラブ=イスラム教徒の滅亡後に来たものは、少し誇張をして言えば、実は人間ではなくて羊であった。旧カスティーリア地方の貴族や僧院などの所有になる羊の大群が草を求めてこれも南下、再征服をはじめ、わずかに残っていた農業者たちを追い出してしまう。
荒廃だけが残ることになる。
歴史は、たまさかの波乱を含みつつ、しかし大づかみには順調に発展段階を踏んで進んで行くもの、などという概念は、この地方の、ところどころにローマ時代の石《ヽ》だけをのこした廃址と、人ッ子ひとりいない荒野とを眺めているだけでけし飛んでしまうのである。伝統などということばはここで何等の文化的意味をもちえず、自然ということばにも何等の文化的意味をも付託することが出来ない。
自然とは、ここで、不毛ということと表裏をなす同義語であり、それはむき出しの自然であるにすぎない。
そうして、人間よりも羊の大群が主人公となってしまい、人々が如何にして自らを養い、また子孫を養育すべきかと苦慮をしていた頃に、西の国境の彼方のポルトガルから聞えて来た噂に、海彼《かいひ》のエル・ドラドについてのものがあった。その頃はまだアフリカのみについてであったが、それがスペイン人自体によって新大陸にまで拡大されるには、そう長い時間はかからなかった。
コンキスタドール、つまりは征服者と呼ばれる、中南米へ暴れ込んで行った連中の大部分が、この地方の出身者であることの歴史的理由は、納得の行くものである。
ローマ時代の古都メリダの東三〇キロほどのところにあるメデリンという寒村は、かつてメキシコの征服者であるエルナン・コルテスを生んだところであった。
いま私は、ところであった、と書いたのであるが、それはまさに過去そのものであって、この村にはコルテスの銅像が一基あるだけであって、この世界規模での暴漢をしのばせるものは、皆無なのである。
彼が、メキシコで殺戮に殺戮をかさねて故国へ送り出した金銀財宝の山はどこへ行ってしまったか。それはまた別の話に属するのであるが、この見るべきものの皆無な村の広場に立って埃まじりの風に吹かれていると、近世史のなかでの、少くとも植民地主義確立の歴史とはいったい何であったのか、と考え込まざるをえなくさせられるのである。
ここに、たしかに歴史を動かした者が一人生れ育って、ここから出て行き、海を渡って新大陸を荒らしまくった。それはその通りである。しかしここには何もない、何も見えない。空の空である。歴史とは銅像のことであったか。
村人たちや村長さんに何かを訊ねてみたところで、通り一遍の話がかえって来るだけである。歴史とは埃まじりの風のことであるか。そうであるのかもしれないのである。
しかし埃まじりの風の語ることばを解するほどには私の耳は鋭敏ではない。
メキシコへまで出掛けて行けば何かがわかるのかもしれない。たとえば、メキシコにはこのコルテスの銅像が一つもない、などということが。
銅像がなければ、またしても埃まじりの風だけしかないかもしれないのである。
この村から北へ六〇キロほど行ったところに、トルヒーリョという町がある。この町の広場にも一基の銅像がある。ペルーの征服者、フランシスコ・ピサロのそれである。
前記のコルテスとともに、彼らがメキシコやペルーで具体的に如何なることをやらかしたかは別に記したこともあるので触れないが、ともかくこのトルヒーリョの町は、中南米で二〇の国家を作った、と自慢をしている。
けれども、さればその二〇の植民国家から彼らが何を持ちかえったかといえば、これは完全に皆無なメデリン村よりもまだ少しはましというものであるかもしれない。広場をかこむかつては壮麗なものであったであろう石の館がそれである。
征服者侯爵ピサロ邸と、アマゾンの発見者≠ニいわれるオレリヤーノ邸、ピエドラス・アルバス侯爵邸、サン・カルロス公爵邸などがそれにあたる。
スペイン人諸君は、これらの石造の館のことを、(中南米の)金《きん》を石にかえた≠ニ自嘲をこめて言うのであるが、どこをどう眺めまわしてみても、この自嘲がほかならぬ現実であることに気付かさせられるだけである。
町はメデリン村ほどではないにしても、やはりさびれて、年老いた、おそらくは失業者であるか、季節労働者であるらしい人々が日蔭にたむろしたり、あるいはカフェに集って日がな一日おしゃべりをしているだけである。
しかもバルコンつきの石の館といいナントカ侯爵邸などとはいうものの、その地階は呉服屋やカフェなどになっているのであって、その当主たちはおそらくマドリードで官吏になっていて、帰って来るのはお祭りのときくらいのものであろう。
町に若者たちの姿を見ることもあまりないのである。老人と女、子供たちばかりである。歴史にもし持続性があるものとすれば、それはいまも若者たちが中南米へ、あるいはドイツ、スイス、オランダ、フランスなどへ出稼ぎに行って、戻って来るものの方が少いということぐらいのものであろう。
しかもなおこの町にもローマ時代の遺址も、またその基石の上に建てられたアラブ=イスラム教徒の作った城址や城壁、城門などもがはっきりと残っていて、ここで歴史の時間は、過去へ、過去へと逆流しているかに思われるのであった。
二千年前のローマの基石やアラブ=イスラム時代の城壁と、征服者たちの石の館にかこまれた広場に立っていると、現在の、帽子をかぶり、くたびれた背広服を着ているこの町のブルジョアや失業者たちの方が余計な、ふさわしからぬ闖入者《ちんにゆうしや》のようにも見えて来るのである。
けれども、これらの貴族たちの石の館を眺めていて、異様なことに、不意に私は数年前にニューヨークのマンハッタン地区にいたときの、一種特別な戦慄をともなった感覚を思い出した。
マンハッタン地区の、あの虚無的なガラス張りの高層ビルが、古ぼけてところどころ窓ガラスが割れたままになっている、この町の貴族たちの館にかさなって見えて来たのであった。
しかしなぜそういう奇妙な幻像が、一六世紀の植民地主義の幽霊のようなものにかさなってあらわれたのであろうか。私はなにもそれがスペイン帝国主義、植民地主義発祥の地であるからして、それにアメリカ帝国主義などというものをかさねあわせてみたりするほどに不細工なイデオローグなどではありえない。その説明は、私自身にもしかとはなしえないのであるが、マンハッタン地区にいて、首のあたりが痛くなるほどにその高層ビルを見上げたり、用もないのにロックフェラー・センターに入って行ってエレベーターに乗って最上階まで行って、そのまままた降りて来たりという馬鹿げたことをしているときに、私はこれは一種の廃墟なのではなかろうか、いつかはここも廃墟、廃址というものと化することがあるものなのではなかろうか、と真面目に考えていたことがあったことは、たしかに思い出していたのである。
もちろん、そんなことを真面目に考える私などは一種の途方もない馬鹿野郎であって、この世の用にも立ちがたい仕様事なしであることはわかっているのである。
マンハッタンの、あれらの高層ビルは、いわば全地球の、全人類のもつ全活動の情報が経済価値に置き換えられて詰め込まれている、いわば情報倉庫、情報センターであろう。あれらのビルのなかで何が生産されているわけでもない。収集され、生産されているものは情報である。
そうして、この観光客さえもが来ないトルヒーリョの広場をとりかこむ石の館もまた、海の彼方にエル・ドラドありとの情報を聞きつけて、闇雲に飛び出して行った数知れぬ人々のうちの、幸運であったほんの数人の人々の子孫がうち建てたものであり、その他の人々の大部分は新大陸の闇に消えるか、あるいはその地に住みついて戻らなかったものである。彼らがその地で獲る財宝の五分の一は国王に献じ、残りの五分の四は自分のものとしてよいという契約のもとに彼らは出掛けたのであったが、その五分の四はいったいどこへ行ったのか。彼らが祖国へ送りつけた金銀財宝は、別の政治的理由によって主に低地諸国やドイツ、イタリーなどの金融業者のところへ、スペイン人たちの頭越しに流れて行ってしまい、本国スペインは植民地発見後に、それ以前よりもずっと貧しくなってしまうという事態を招いたものであった。人的資源ということばをもし使うとすれば、勇敢で冒険心にみちみちた人々がみな出て行ってしまい、あとにはより一層に荒廃した土地と、ほんの数軒の石の館だけが残った。
いま現在といえども、産業らしいものも何もないのである。観光客を招こうにも、幹線道路からはずれていてどうにもならず、また現代の車による観光客というものは地場にはあまり金にはならぬものであろう。
とすれば、たとえばこのゆたかな歴史的遺址をもつトルヒーリョの町は、歴史の特殊例であって、エア・ポケットのようなものであるか。
そうではあるまい、と私には思われる。かつての歴史が一度御破算になってしまって、時間がそこで止まってしまったような町や村に事欠くことはない筈である。スペインが特にそういう化石のような町や村に富むことは否定しようもないかもしれないけれども、長い歴史の時間を、単に過去に対してのみではなくて、未来に対しても延長して考えてみた場合に、たとえばマンハッタン地区にそういう時間が想定されてみても不思議はない筈ではなかろうか。私はなにもSF式に地球破滅などを前提にしているものでもなければ、別して終末論の信者などでもありはしないのであるが、しかし、歴史が段階的に、階段を上りつめる、あるいは階段を降りて行くような風にして進行するという、いわば一九世紀的な歴史観というものから、トータルに脱け出さなければ、見ていても見ていることにはならぬという、異様な歴史の場に着到しているのではないかという、漠然たる予感をもつにいたっているというにすぎないのである。
この広場に面したピエドラス・アルバス侯爵邸の地階のバーで、この町の主だった人々の寄り合いを眺めていると、またしても私にはマンハッタン地区の一流料理店でマルティニ酒を飲みながら昼食をとっているビジネスマンたちのことがかさなって見えて来て、そこにさしたる差異もないという気までがして来るのであった。
けれども、人間の寄り合い、会合ということでは、現象としてピエドラス・アルバス侯爵邸のバーもマンハッタンの料理屋も同じで差はないにしても、彼らが背景として持つものは大違いである。一方には、たとえ化石化し果ててはいても二千年の人間の営みのあとは明白に存し、他方にはガラス張りの高層ビルと情報だけがある。しかも後者は、その文明、その精神の後楯《うしろだて》としては、旧大陸にいまだに依存するものを残しているのである。
ヨーロッパは、なにもスペインだけではなくて、ほとんどどこにいてもローマ時代以降、あるいはそれ以前からの歴史を直接に感得させるものをもってい、その長い長い時間の流れの間にあって、文明の伸び縮みや盛衰、民族交替などを当然のこととして受けとめさせるものを実態をともなって用意をしている。
歴史のある時期に、ある秩序が成立し、完成したことが、それがそれまでの時間の経過のなかでの各種の要求が満たされて完成したのであってみれば、その完成と同時にその秩序は崩壊するに決まっているという、そういう前提があってのことであったことを、それらの遺址や歴史的建造物などが明瞭に、しかも二六時中語りつづけているのである。それは警告しつづけている、と言い直してもよいであろう。
つまりは、それを逆に言えば、長い、二千年もの過去をも過去とせず、そこに現在と未来もが、いわば円環的に等価なものとして含蓄される歴史観が見出されない限り、現在の人間というものがトータルな姿で、あらわには見えて来ないのではなかろうか、と彼らの歴史が私にしきりに語りかけて来るのである。
人間が裸で歴史のなかに放り込まれていることの孤独と恐怖が、情報によって、一過性の経済計画によって、たまさかの観光などによって蔽われている限りにおいては、歴史の現在の不気味な恰好さえが見えなくなるであろう。
私は、自分の最近の経験からして、この文を綴るについてスペインとヨーロッパでの事例に限って書いて来たのであったが、「歴史」というものが人々の日常の生活につねに現前しているという事態は、なにもヨーロッパに限ってのことでは言うまでもなくありえないのであって、インドでも中国でもそれは当然事であり、それが当然なのが人間の生活の在り様の筈である。
そうして第二次大戦後の西ヨーロッパでは、彼らのそれまでの歴史の属性の一つであった欧州内での戦争はもはや不可能であり、必要もないという認識に基づいた秩序作りに専念し、その秩序が一応出来上って、しかもそれが一定の年月を経て、そこに微妙な変質が訪れて来ていることの自覚の上に、様々な調整への試みがなされているのが現状のように私などには感じられるのである。
しかもそういうヨーロッパで暮していて、そこにもう一つ、際立って異質な要素が加わりつつあると感ぜられるものの一つが、日本製商品の大量進出である。それは何も日本製だけではない、昨年五月にパリであまりの寒さに、パリの中心部で私はセーターを一枚買ったのであったが、それはよく見ると香港製であった。ヨーロッパ人にとっては香港製も日本製もほとんど差はない。集中豪雨的進出≠ニいうことばがわが国にあることを私は後に知ったけれども、産業の、ほとんど世界制覇を目指すかのような現在集中型の在り様というものは、長い歴史の現存在、現前をつねに意識して自分たちの現在の秩序を見守るという形式を踏む人々には、奇異、異様という以上に野蛮なものに見えているようである。ある文明が紛《まご》う方なく文明であったとしても、あるいは文明が文明であればあるほど、その文明とそれまで無縁に暮して来た人々にとって、奇異、また恐怖の念をもって迎えられることがあるのは、前記コルテスやピサロたちが中南米へ押し込んで行ったとき、メキシコやペルーの原住の人々に、騎乗の彼らが半人半馬の怪物として見えたという例を引き出すまでもないであろう。しかも、その日本商品の数々が、半人半馬などではまったくなくて、他ならぬヨーロッパ文明の生んだ科学技術をより一層増幅洗練したものであってみれば、彼らの受ける衝撃はより複合された、もつれた糸にからみつかれるようなものになる。その上で、なおかつ彼らがその衝撃によっても、彼らの生活様式や生産様式までを変える気がまったくないとなれば、彼らにからみついた糸は、実のところ当方へかえって来て、当方がその糸のからみを解くという二重の仕事までを引き受けざるをえなくなる。
集中豪雨型の文明というものはありうるものなのであろうか。現在集中型の文明というものも果してありうるのであろうか。それは文明などというものではない。しかもわれわれがそれを文明であると錯覚しうる限りにおいては、精神の役割は次第に幕の後方へ、あたかも溶暗をでもするかのように退いて行かなければならないであろう。
いったいいつ頃から何が原因でこういう事態が生じたものであるかを考えうるほどに私は知恵において澄明ではない。けれども、長崎での蘭学時代から明治にかけて、ヨーロッパが外部に対して武器としたものが何であるかを見抜くについては、きわめて着実であったことだけは誰にしても否定出来ないであろう。日本自体の内部における生活感の充実をそのための犠牲にしたことも、その初期においてはなかった筈である。
かつて中国が、戦後のある時期に、日本に軍国主義が復活をしていると激しく非難をしたことがあった。そのときに私は、半分は冗談めかしてではあったが、われわれの現在は、少くとも軍国主義ではないが、ひょっとして軍艦主義であるかもしれない、と書いたことがあった。それはかつての帝国海軍の艦艇において、居住性は最低であるかもしれないが、戦闘能力は最高である、と誇らかに言われていたことにひっかけたわるい冗談ではあったが、やはり冗談ではなかったのであるかもしれない。住宅のことや公害のことなどの、居住性の問題は、どれほどに改善され、人が沈着に生活感の充足、充実を恢復しえているものであろうか。戦闘能力最高と、集中豪雨とはここで同義語であろう。
経済価値に置き換えられた情報が如何に全日本に情熱的に集中されても、かつてわれわれがもっていた筈の、長きにわたる歴史の実体が干渉し、制御作用を働かせるのでない限りにおいては、その情報の蓄積が一旦御破算になった場合のマンハッタンと同じような、廃墟のイメージが忍び込まないとは誰にしても言えないことではなかろうか。歴史の実体とは、ここで生活感の充足、充実と言いかえてもいいのである。
二一世紀の展望を語る前に、それ以前に蝦蟇《がま》か腐木の根っこのように盤踞《ばんきよ》している世紀末のことを忘れてはならないであろう。一八世紀の世紀末には、フランス革命というものがあった。一九世紀の世紀末には、マルクス主義なるものがあった。われわれの二〇世紀のそれには何があるものであろうか。
[#改ページ]
あとがき
私としても異様な本を出すことになった。
初めに収められたものは、雑誌『PLAYBOY』に求められて、同誌の編集の方による私へのインタビューであり、私自身の育ちから始められて、これは、三日がかりで責めつけられたものであった。
そうして、その次の「スペイン便り」は、一九七七年の七月から翌七八年の十月までスペインに住んでいたときに、朝日新聞の求めに応じて、不定期的に寄稿をしたものである。おそらく一九三〇年代の悲惨な内戦や、その後の四十年間にわたるフランコの独裁政治などについて、強い関心を持たれる読者には、ある種の不満を残すものとなるであろうが、しかし、その長きにわたる歳月を苦しみをもって耐えてきた人々のただ中に立ちまじっている場合、それはなかなかに言うは易くして出来がたいことなのである。
三番目の「グラナダ暮し」としてまとめられているものは、評伝『ゴヤ』(新潮社)を書くについて、その前後と執筆中にこの大画家にあふられて書いたものと、七七年の秋から翌年の夏までの約十カ月ほどアンダルシーア地方のグラナダに住んでいたときの記である。
そうして四番目は、いわば私に世の中がどう見えているかをつづったものである。
こういう編集をしてくれた岸宣夫氏に謝意を表したい。
[#地付き]著者
一九七九年四月二六日
初出一覧
なぜゴヤか? 『PLAYBOY』一九七七年六月号。
スペイン便り
牛の鈴鈍く革命は進む 『朝日新聞』一九七七年八月四日夕刊。
ラ・バンデラ・ローハ! 『朝日新聞』一九七七年九月二〇日夕刊。
ピカソとリンカーン旅団 『朝日新聞』一九七七年一二月五日夕刊。
教会・憲法・軍隊 『朝日新聞』一九七八年一月一七日夕刊。
いわゆる王侯貴族なるものについて『朝日新聞』一九七八年三月二四日夕刊。
グラナダの夏 『朝日新聞』一九七八年八月一八日夕刊。
樫の木の下の民主主義に栄えあれ!『朝日新聞』一九七八年一〇月六日夕刊。
グラナダ暮し
ゴヤと怪物 『みづゑ』一九六二年秋季号。
ゴヤの墓 『芸術生活』一九六九年五月号。
スペインの沈黙 『朝日新聞』一九七〇年五月二七日夕刊。
「戦争の惨禍」について 『毎日新聞』一九七一年一一月一一日夕刊。
スペイン・四度目のゴヤの旅 『朝日ジャーナル』一九七三年一二月二八日号。
フランコ、頑張れ 『波』一九七六年一月号。
グラナダの冬 『波』一九七八年二月号。
アンダルシーア大巡礼 『PLAYBOY』一九七八年一〇月号。
グラナダ暮し 『波』一九七九年一月号。
マドリードにて 『繪』一九七九年三月号。
歴史について
芸術家の運命について 『朝日新聞』一九七七年一月四〜五日夕刊。
世界・世の中・世間 『Winds』一九七九年六月創刊号。
歴史について 『朝日ジャーナル』一九七九年一月五・一二日号。
堀田善衞(ほった・よしえ)
一九一八年、富山県高岡市の廻船問屋に生まれる。慶応義塾大学政治学科予科から仏文科に転科、『荒地』『詩集』などの同人となる。四二年大学卒業後、国際文化振興会に奉職。雑誌『批評』に参加。四五年、勤務先から上海に派遣され、現地で終戦を迎える。中国国民党宣伝部に徴用され、四六年『祖国喪失』『歯車』などの執筆を開始。四七年帰国。新聞記者生活のかたわら、詩・小説・評論を発表。五二年『廣場の孤獨』『漢奸』などで芥川賞を受賞、「いちばん遅くやってきた戦後派」などと称された。五六年以降、アジア・アフリカ作家会議運動の創始者の一人として国際舞台で積極的に活動を続け、その功績により七八年ロータス賞を受賞する。七一年『方丈記私記』で毎日出版文化賞、七七年『ゴヤ』で大仏次郎賞、九四年『ミシェル 城館の人』で和辻哲郎文化賞を受賞。九八年逝去。主な作品に『歴史』『夜の森』『記念碑』『鬼無鬼島』『海鳴りの底から』『若き日の詩人たちの肖像』『インドで考えたこと』『上海にて』『定家明月記私抄』などがあり、五〇年に及ぶ文業は『堀田善衛全集・全十六巻』に集成されている。
本作品は一九七九年六月、筑摩書房より刊行され、一九八六年九月、ちくま文庫に収録された。