堀田あけみ
愛をする人
縋《すが》るように見上げた目に、時間が猛烈《もうれつ》な速度で逆行を始めた。
「悠子《ゆうこ》ちゃんだろ?」
見慣れた頼《たよ》りなげな目が驚《おどろ》きに見開かれ、やがて安堵《あんど》の色になった。
「先生」
ほとんど息だけで、彼女は一希《かずき》に言った。
「先生なら私を助けてくれるよね」
1
大学生の平均的なアルバイトと言えば、家庭教師である。木本《きもと》一希も、大学に入学して一番にしたことと言えば、条件の良い家庭教師の口を探《さが》すことだ。学校の掲示板《けいじばん》を見て、電話をかけたのが、平田《ひらた》悠子の家だった。「高一女子」とあったのに、面接に訪れた際に出て来た母親は、二十代後半から三十代前半に見えた。ひどく若作りなのか、と訝《いぶか》しんでいた一希だが、その理由はすぐに推測可能になった。
「悠子さんがどうしても東京の大学に行きたいと言うもので、力を入れて教育したいと思いまして」
悠子さん。
見るからに裕福《ゆうふく》そうなこの家では、それも不自然ではなかった。しかし一希の感想としては、やはりそれは母親が娘《むすめ》を呼ぶ呼び方ではなかった。おそらく、彼女は一希の教え子となるべき少女の実の母親ではない。
「よくできる子で努力もします。けれど理数が弱いので、家庭教師をつけようと、主人が申しましたの。本人は、もうすぐ学校から帰って来ます」
第一印象が肝心《かんじん》である。かなり条件もいいし、不採用になってたまるかと締《し》めてきた慣れないネクタイで、首筋が痒《かゆ》い。
「僕《ぼく》の採用は、お一人で決められていいんですか?」
一希は、なんとなく尋《たず》ねてしまった。
「え?」
「いや、御主人は……」
「悠子さんは私の責任で育てますから」
しばらくは沈黙《ちんもく》が続く。重苦しい。何か話題を見つけようとするのだが、初めての家へ来て緊張《きんちよう》しているし、相手が普通《ふつう》の母親でもなさそうなので、何も見つからない。
「木本さん、お幾《いく》つですか」
母親の方から尋ねてくれたのには助かった。
「十九です」
一希は一浪《いちろう》しているから、入学した時点で十九歳だった。
「私とそんなに変わりませんね」
そう言われて、再び戸惑《とまど》う。若作りだと思っていたが、逆に老《ふ》けて見えていたということなのか。自分からそう言ってくれたことは、ありがたいような気もしたが、どんな顔をするかで、今度は困る。好奇心《こうきしん》が満足されたような顔を、あからさまにして見せるわけにも行くまい。
「お察しの通り、本当の娘ではないんです。私も今年で二十三ですから」
「それはお若いですね」
それが精一杯《せいいつぱい》だ、言えることといったら。
「ただいま」
遠くから声がする。「悠子さん」が帰って来たようだ。
「悠子さん、家庭教師の方がいらしてますよ」
継母《はは》の声に、彼女は応接間に入って来た。長い髪《かみ》を少しとって頭の後ろにリボンで束《たば》ねる、平凡《へいぼん》な髪型で平凡な顔立ちの少女だ。美女の類《たぐい》に入る継母とは、なるほど、親子に見えないのは年齢《とし》のせいばかりではない。
「平田悠子です」
そう言った声だけが、これまでに聞いた中でも最も美しいと言えるほどの声だった。
「今日は、いろいろお話しするだけにして、悠子さんの気に入るようだったら、これからも来ていただきましょうね」
その言い方は、一希に対してはかなり失礼なものになるのだが、許すことにした。今は新しい娘《むすめ》の機嫌《きげん》をとることで精一杯なのだろう。一希と三つか四つしか違《ちが》わないのに、高校生の娘の親になろうと言うのである。想像してみるだけでも、いかにも大変な仕事だ。悠子は黙《だま》って頷《うなず》き、一希を見つめて少し笑った。笑った顔の方が綺麗《きれい》だ。そしてこの子は不思議な目をしている。平凡そうな、大人《おとな》しそうな少女なのに、瞳《ひとみ》の中に狂気《きようき》を潜《ひそ》ませているような気がした。もちろん思い過ごしだ。一希は緊張《きんちよう》の余り、妙《みよう》な方向へ思考の――妄想《もうそう》の枝を伸《の》ばしている。
彼女はちょっと首を傾《かし》げて、一希をじっと見ている。彼の言葉を待っているかに見えた。大人しそうな子だから、彼の方から会話を始めなければならないようである。母親に対しては、適当な話題が見つからず気詰《きづ》まりだったが、彼女に対してならば、幾《いく》らでも話題はあり、気が楽だった。
「理数が弱いって聞いたんですけど、将来はそちらの方へ進みたいんですか」
適当な話題は見つかったが、切り出し方はぎごちない。情けなくって舌打ちしたいよりも、滑稽《こつけい》に思えて笑いがこみあげ、抑《おさ》えるのに苦労した。
「いいえ。外国語の方に行きたいと思っています。英語じゃ面白《おもしろ》くないから、スペイン語とかイタリア語とか……まだそこは決まってないけど。浪人《ろうにん》はしたくないから、いろいろ学校受けたいもんで、中には入試に数学の要《い》る所もあるかもしれんし、国立も受けたいで、共通あるし。入試に要らなくても、一年生から、きちんと理数やっておきたいんです。損しないと思います」
彼女もかなり緊張しているようだが、高一にしてはしっかりした子だ。一希としては気に入った。
「先生の学部は、どちらなんですか」
先生、という呼び方は居心地が悪い。彼女の尋《たず》ね方には特徴《とくちよう》がある。答えるとき、人の話を聞くときには、きちんと相手の目を見つめるのに、自分から質問をするときには声を低めて目も伏《ふ》せてしまう。彼女の癖《くせ》らしい。
「工学部です」
「すごいですね」
「何が。別にそんなことないよ」
「私、理数まるっきり駄目《だめ》で、特に化学や物理が駄目で、そういうことできる人って、きっと天才だろうなって思う。思います」
「僕《ぼく》には、他所《よそ》の国の言葉に真正面から取り組もうなんて人の方が、よほど立派に見えるな。そんな気力が自分には全然無いから。はっきり言って、君の志は立派だよ」
と言う、最後のフレーズは言わないほうがよかったと思う。深く考えずに口にしてしまったが、仕事欲しさのおべっかのようで、一希の耳にはひどく卑《いや》しいものに響《ひび》いた。それなのに彼女は、それは嬉《うれ》しそうに笑い、一希を救ってくれる。
「そう言ってもらえると、すごく嬉しいです」
それから一時間ほど、専《もつぱ》ら勉強について話し、一希が帰ろうとするときに、母親は再び娘《むすめ》の機嫌《きげん》を伺《うかが》うような言い方をした。
「悠子さん、今、決めなくてもいいのよ。ゆっくり考えて決めて、後から連絡《れんらく》を差し上げる、というのでも。大切なことですからね」
「来週からでも来ていただきましょう、お継母《かあ》様。とてもいい方《かた》だと思います」
彼女がそう言ったことで、一希もほっとしたし、若い継母も目に見えて、ほっとした顔になった。
玄関《げんかん》で、ランドセルを背負ってはいるが、かなり大人《おとな》びた様子の少女に会った。今時《いまどき》の小六なら、こんなものだろう。
「久美子《くみこ》さん、悠子さんの家庭教師の先生よ」
継母《ははおや》に言われ、黙《だま》って頭を下げた彼女は、無口な所は姉に似ているが、顔はあまり似ていない。年齢《とし》からして、もちろんこの母の実の娘ではないだろう。
二十三歳でいきなり思春期の娘二人か。大変なことだな。
帰り道、一希は敢《あ》えてそれ以上のことを考えるのはよそうと思った。ああいった複雑な家に関《かかわ》りを持ってしまったからには、複雑な部分からは逃《に》げをうったほうが得策《とくさく》だ。悠子に勉強を教えて、給料をもらう以外のことはしないようにと決めた。
継母――美咲《みさき》という名であることが、そのうちにわかった――の言った通り、悠子は実に熱心な生徒だが、理数系になると、かなり真剣《しんけん》に考えても間違《まちが》えた。三十分考え込んでも手が出ない問題もある。かなり難しい問題に自力で正解を得ても、式をよく見ると二か所で間違えていて、それが誤《あやま》りを相殺《そうさい》して正解と同じ答えになってしまう、という器用なことをしていたりした。一生懸命《いつしようけんめい》やっているのがわかるだけに気の毒でもあったが、苛々《いらいら》していることも事実である。数学の得意な一希には、どこがどうわからないのかが、まずわからないので教えようがないのだった。
しかし彼が驚《おどろ》かされたのは、そのわからなさや努力にではなくて、淡々《たんたん》とした我慢強《がまんづよ》さが、十五歳の少女のそれとは思えない点にであった。幾《いく》ら難しくても、やけもヒスもわがままも見せない。そう、彼は尋《たず》ねたことがある。
「悠子ちゃん、いつも真面目《まじめ》だけど、嫌《いや》になることないの。気分|転換《てんかん》したかったら言ってくれていいし、苛々《いらいら》するようだったら、発散したっていいんだぜ。俺《おれ》、英語苦手で三単現のSとか時制とかでつまらんミスばっかりしてさ、一人で喚《わめ》いたり参考書に八つ当たりしたりさ、したもんだけど」
「そういうことは一人のときにします。するんだったら」
その台詞《せりふ》は言い方によっては、恐《おそ》ろしく冷淡《れいたん》に響《ひび》いただろう。しかし、悠子の言い方は柔《やわ》らかく、そう、いい子だね、と自然に返してしまえるものを持っていた。
「慣れてますから」
さらに彼女は言って、じっと一希の目を、あの不思議な色で見つめた。
「慣れてる?」
とても聞き流せない。問い返さずにはいられない。
「物事が自分の思い通りに運ばないことには、慣れてますから。私が我慢《がまん》して済むことなら、我慢します」
多分、それは一希の好奇心《こうきしん》が、抑《おさ》え切れずに無言で問うていたものを満たす答えだったのだろう。思春期の娘《むすめ》と継母《はは》と言うには、あまりにも波風の無い悠子と美咲の関係の土台となるものは、年齢《とし》を考えると不気味とさえ言える、この悟《さと》り方なのだろう。久美子と美咲の関係は、また違《ちが》っている。悠子の勉強|部屋《べや》まで、久美子の喚き声が聞こえることもある。美咲もまだ二十三である。久美子の態度次第では、相当に感情的な反応を返した。
「少し、勉強し辛《づら》い雰囲気《ふんいき》だよね」
一希の声に、少々非難めいた響《ひび》きが入る。
「母親|面《づら》せんといてよ、他人なんだでね」
「母親面してるわけじゃないわ。あなたを心配しているのよ」
「お父さんに気に入られたいだけでしょ」
「あなたのためよ」
「押《お》しつけんといて!」
「どうしてそんなに素直《すなお》じゃないの」
「あんたが母親面するで。だって他人だもん」
二人の声が、まるですぐそこでの出来事のように聞こえて来る。悠子の方が、聞かないふりをしているようだった。聞かないふりの一希に、悠子が愚痴《ぐち》る、という図式の方が一般的だと思うのだが。悠子はただノートに向かって、一番苦手な微積分《びせきぶん》に取り組んでいる。
「悠子さんはあんなに素直じゃないの!」
美咲の声に、悠子は怒《おこ》ったようにシャープペンシルを放《ほう》り出した。
「あれだけは言って欲《ほ》しない」
小さく呟《つぶや》く。一希は東京の出身である。名古屋にある大学に入学したものの、どうしても名古屋弁の粘《ねば》っこさに馴染《なじ》めず、悠子がその美しい声でいつもきちんとした標準語を話してくれたら、と何度も思っている。
「お母さんは標準語だね」
ふと、そう言ってしまった。
「そでなきゃ、も少し久美子も素直になります。お継母《かあ》様は、関東の出身だもんで、ああいう話し方で普通《ふつう》なんだでって幾《いく》ら言っても、あんなドラマみたいな喋《しやべ》り方する気取り屋は嫌《きら》いだって」
「悠子ちゃんは、どうなの」
少し立ち入ったことを訊《き》くと、悠子は答えなくなる。口を閉ざすというのではなく、何を言おうか戸惑《とまど》って、言葉を失ってしまう。それは一希にも、表情を見ていればわかった。
「久美子ちゃんは、まだ小さいもんな」
自分で答えておくと、悠子が今度はすぐに首を振《ふ》った。
「そうじゃないと思いますよ。本家本元本妻《ほんけほんもとほんさい》関係の人間は、あの子だけだからでしょう」
その言葉遊びのような台詞《せりふ》の中から、思いがけない事実を見つけて一希はうろたえる。
悠子は静かに言った。
「私は愛人の子ですから」
不機嫌《ふきげん》そうにも、悲しそうにも、挑戦《ちようせん》的にも、彼女はその言葉を口にしなかった。首筋の黒子《ほくろ》のことでも話題にするかのように、とても自然な十五歳の声で、そう言った。
一希は後悔《こうかい》した。この家が、複雑な事情を孕《はら》んでいそうなことに気付いたときから、そういった部分には触《ふ》れないようにと気を遣《つか》って来たのに、思わぬ所で妙《みよう》なことを聞かされてしまった。そういった事情というものは、周りまで巻き込まずにはいられない存在なのかもしれない。どこかに不自然さが露呈《ろてい》して、それを繕《つくろ》って見せようと別の所を裂《さ》き、結局ひどくきまり悪い思いですべてを晒《さら》してしまうしかなくなる。悠子があっさりと一言で、不自然さの片《かた》をつけてしまったのは、きまり悪さを避《さ》けるために会得《えとく》した技《わざ》なのかもしれなかった。十五歳にしては出来過ぎていても、彼女に関して今さら驚《おどろ》くことはなかった。彼女は、あらゆる面において、ひどく賢《かしこ》い子なのだ。
「嫌《いや》なことを言わせたね」
やっと一希がそう言うと、悠子は首を振《ふ》った。
「先生にとっては、聞きたくない話だったと思います。私は、別に」
それだけ言うと、また数回、前よりも激《はげ》しく首を振った。
「こういう所で育つと、何もかもを誰《だれ》かに知ってて欲しくなることがあります。でも、誰にも何も言えないでしょ。中学のときは、たまにひそひそ話されて、高校に入って誰も何も言わなくなったところだで。自分から、べらべら話すこっちゃないのに、誰かに言いたなってまう、ずっと嘘《うそ》ついとるみたいなのが苦しいで」
声が震《ふる》えた。泣くかな、と一希は思ったが、悠子がそうする暇《いとま》も与えず、わあわあと泣いた久美子が部屋に飛び込んで来た。
「お姉ちゃん、やっぱりやだー。久美子、あの人きらーい。どうにかしてえ」
大きな声を聞いて、美咲も悠子の部屋へやって来る。
「先生がいらしてるときに、悠子さんの邪魔《じやま》しちゃ駄目《だめ》って言ってあるでしょ。悠子さんは東京の大学にどうしても現役で行きたいって、高一の今から頑張《がんば》ってるんだから」
「いいがね。邪魔せんで、ここにおっても。お姉ちゃん、助けてよ、お姉ちゃん、一緒《いつしよ》におってもいいでしょう、ねえ?」
「いけません。先生にも失礼ですよ」
「お姉ちゃんだって、あんたから逃《に》げたいで、東京に行くって決めとるんだわ」
「それならそれで構わないわ。とにかくあなたは外へいらっしゃい」
「やだー、お姉ちゃーん」
外へ連れ出そうとする美咲の手を振りほどいて、久美子は悠子にしがみついた。やっと悠子が口を出す間が生じる。
「お継母《かあ》様、先生さえよろしかったら、いてもいいんですよ、久美子、大人《おとな》しくしてるって約束《やくそく》するなら」
得たりと笑顔になりかける久美子を、再び美咲はつかまえる。
「癖《くせ》になりますから、外に出させます。さ、久美子さん」
力ずくで久美子を引っ張り出す美咲の目尻《めじり》が、光っていた。
「人殺しーっ! 継子苛《ままこいじ》めーっ! 鬼《おに》ーっ!」
「そんな言葉が怖《こわ》くて、母親がつとまりますかっ!」
二人の声が遠くなって行く。
「とんでもない家へ来てしまったって、思ってらっしゃいますか」
悠子に問われ、自分を繕《つくろ》おうとした一希だが、ありきたりな嘘《うそ》は見破られてしまいそうな気がして、
「少しね」
と笑って見せた。
「でも、悠子ちゃんて大人だなって感心したほうが強い」
「大人、ですか」
「三人の中で一番落ち着いてる」
「動けないんです。久美子やお継母様が、どこまで知ってるのかわからないから。よくあるパターンで、子どもの無い夫婦が、諦《あきら》めて愛人の子を引き取ったら、子どもができてしまったって。父の先妻の方《かた》とは、三年くらい一緒《いつしよ》にいたのかな、久美子が生まれてすぐにお亡くなりになりました。それからずっと父と三人で、お継母様がお嫁にいらしたのは、私が中三の春です。久美子もお継母様も、私の本当の母さんのこと知ってるのか、知らないのかわかんなくて。こちらから尋《たず》ねたら、いずれにしてもばれてしまいますから。できるだけ自分の立場を危うくしないように、気を遣《つか》ってるんです。嫌《いや》な子どもでしょ」
平田の家の事情は、一見しただけで複雑なのに、奥《おく》深く、どんどん絡《から》み合って行く。
「もういいよ、言わなくて。辛《つら》いだろ」
「軽蔑《けいべつ》したんですか」
尋《たず》ねる悠子の目は澄《す》んでいた。挑戦《ちようせん》的でもないし、責めているのでもない。この子は、どこまでも真直《まつすぐ》だ。
「どうして」
「愛人なんてふしだらな奴《やつ》だって。ふしだらな女から生まれた子だって」
「悠子ちゃんは、自分のことをそう思ってるの」
「いいえ。母さんのことは、ほとんど覚えていませんけど、思い出すと、とても優《やさ》しい気持ちになれます。きっと優しい人だったんだと思います。でも、母さんみたいにはなりたくない。私は絶対に平凡《へいぼん》な結婚《けつこん》をして、平凡に一生を送るんです」
「不思議な子だね、悠子ちゃんは」
一希は心の底から嘆息《たんそく》した。
「天使みたいだ」
その分、いささか人間味に欠けるような気はするが。
「それは先生の買い被《かぶ》りです」
「こんなこと話してちゃいけないのかな、そう言えば。勉強のためだって久美子ちゃん追い出しといて」
「先生は、勉強に戻《もど》りたいですか」
悠子が微《かす》かに一希に向かって身を乗り出した。
「今日は、お喋《しやべ》りってことにしちゃ駄目《だめ》ですか」
「構わないけど、勉強家の悠子ちゃんが珍《めずら》しいね。どうかしたの」
「私のセラピストになって下さい」
「難しい言葉を知ってる」
「漫画《まんが》に出て来た」
「俺《おれ》、そんなたいそうなことできないよ」
「私が心の中に溜《た》めてる嘘《うそ》、みんなどっかへやっちゃって下さい。話させて下さい」
一言ごとに、悠子の乗り出し方は大きくなり、今はあの瞳《ひとみ》が一希の顔のすぐ近くにあった。
「俺に話すだけで何かが楽になるのなら、話してごらん」
一つ頷《うなず》いて、彼女は何かを話そうとした。しかし言葉が出て来ない。何度も何かを言おうとするのだが、何も言えない。
「もう、何もかも言ってまったみたい。改めて言うことなんか、何《なん》も残っとらんかな……勉強しましょうか」
「無理しなくていいよ。ゆっくり思い出してごらん」
「先生のこと、訊《き》いていい?」
「今度は俺? いいよ。木本一希、東京出身、射手座《いてざ》、AB型、趣味《しゆみ》は機械いじりに音楽|鑑賞《かんしよう》それに映画」
「家族は?」
やはり彼女にとっては、これが一番の関心事だろう。
「両親・祖母・弟」
「ごく普通《ふつう》の?」
「そう。祖父《じい》ちゃんは俺が高三のときにね。弟は二つ下。受験生。一緒《いつしよ》に住んでる祖母《ばあ》ちゃんは親父《おやじ》の母親だよ。親父はサラリーマン、おふくろは主婦、一戸建て住まいね」
「東京では一戸建てって今、高いんでしょう?」
「東京って言っても武蔵野《むさしの》だし、昔《むかし》から住んでるし、たいしたことないよ」
「じゃあ、本当に普通の家庭なんですね」
「そうだね。嫌《いや》んなっちまうくらい、平均点の一家だな。うーん、平均点過ぎて物足りないなんて言ったら、悠子ちゃんとしては面白《おもしろ》くないだろうな」
「あたりまえです。贅沢《ぜいたく》ですよ。人生が二度あったら、片方は波瀾万丈《はらんばんじよう》がいい。でも、一度しかないんだから、平凡《へいぼん》な幸せが一番だと思います」
「珍《めずら》しくない? 悠子ちゃんの年頃《としごろ》ってさ、まだまだ突飛《とつぴ》な夢《ゆめ》見ない? 女優とかスチュワーデスとか。そこまで堅実《けんじつ》な……」
「突飛ですよ。普通に結婚《けつこん》して、普通に子ども育てた人、いないもん、私、三人の母親持ってるのに三人とも違《ちが》う。一人は他人の子を育てて、一人は自分の子をとられて、一人は妹くらいの年齢《とし》の娘《むすめ》を持っちゃって。そんな育ち方すると、平凡な結婚って、とてつもなく遠い憧《あこが》れって感じになる」
悠子の目が遠くを見る。本当に、遠くに憧れを見ているようだ。平凡過ぎる育ち方をした一希には、何もコメントすることができない、十五年の紆余曲折《うよきよくせつ》だ。何も言えないことが正解だろう。何か言えるのだったら言いたくなる。何かしら説教じみたことを。そうして何もかも壊《こわ》してしまう。悠子は心をすべて言ってしまいたいだけだ。何かを言って欲しいのではない。
一希が何も言わないので、しばらくの沈黙《ちんもく》の後、悠子は再び口を開いた。
「本当の母さんに会いたいなあ。お父さん、何も言ってくれんし。会わせてくれんでもいいから、生きとるかどうかだけでも教えてくれんかな」
「どうして自分が本当の両親の子じゃないってわかる? 小さかったんだろ」
「覚えてるんです、微《かす》かに。もらわれてきたときのこと、本当の母さんのこと、久美子のお母様のこと」
「思い込んでるだけかもしれない」
「思い込みますか、普通《ふつう》。ごめんなさい」
「どうして謝る?」
「先生にする話じゃありませんでした。嫌《いや》でしょう、こういう話」
「そんなことないよ」
「私に気を遣《つか》って嘘《うそ》なんかつかなくてもいいんですよ」
「心外だな、その言い方」
一希は、本気でむっとしていた。だから、どうしても語調を抑《おさ》えることができず、ひどく怒《おこ》った声になった。聞いてくれたら楽になると言うから聞いてやっているのに、なんだ、その言い方は。そんなふうに感じてはいたが、けしていやいや聞いていたわけではなかった。好奇心《こうきしん》という意味で、喜んで聞いていた……かもしれない。そして、力づけようとしてやったのに。
「だって私の言うこと、嘘へ嘘へって持ってくじゃないですか。思い込んでるだけじゃありません。父からも、はっきりそう言われてます。それが?」
謝るべきは彼の方かもしれなかった。本当の母親から引き離《はな》され、会いたいと思いながら会えずに生きて来た彼女には、下手《へた》な慰《なぐさ》めは不要である。慰めにもなっていなかったと言うべきかもしれない。
「君は、今のお母さんには何の反発も感じないの?」
一希は、卑怯《ひきよう》にも話題を変えた。悠子は、不服そうな顔も責めるような目も見せず、素直《すなお》について来た。
「戸惑《とまど》います。母親を意識させられるのって初めてですから。母親って言うよりも、お姉さんって感じで付き合いたいけど、向こうは母親になりたいみたい。久美子もそうなんですよ。戸惑ってる。あ、久美子はお父さんをとられたって思ってるのかもしれないな。私だって、苛々《いらいら》させられることあるけど、まあ、我慢《がまん》したらいいことだから。私が我慢して済むことならそれで」
出来過ぎていて気味が悪い。それが一希の率直《そつちよく》な感想だが、これ以上、彼女を傷つける可能性のあることは言えない。代わりに訊《き》いてみた。
「そんなに我慢続けると、辛《つら》くならない?」
「なりますよ」
いつもの通りだ。彼女は、辛いはずのことを、あっさりと言い過ぎる。
「誰《だれ》かが辛い思いしなきゃいけないんだったら、自分がするのが一番気が楽でしょう」
「そうかなあ」
一希には、とてもそうは思えない。気が楽……か。
「そんなことしてたらさ、辛さは悠子ちゃんの中に、どんどん蓄積《ちくせき》されちゃうんだろ? それが一杯《いつぱい》になって入りきらなくなったらさ、悠子ちゃんはどうする気?」
「さあ」
「そういうこと言える、友達《ともだち》とかいるの?」
「そこまで言えないな。友達って大切だから、失《な》くしそうな賭《か》けはしないと思う」
この子は、どこまで行ってもそうなのだ。とても堅固《けんご》な柵《さく》を自分の周りに造り、必死に自分を守っている。淡々《たんたん》とした態度は、懸命《けんめい》さの裏返しだ。多分彼女は、人生の始まりから傷つき過ぎた。生みの母と生き別れ、新しい母に死に別れ、母親不在の日々の後で、いきなり姉ほどの年齢《とし》の母親をあてがわれ。傷ついて来たから、傷つくことの辛さを知っているから、これ以上、誰も傷つけまい、自分も傷つきたくない、けれど二者択一《にしやたくいつ》を求められれば、自分を傷つける方を取ろう。
どうして≠ニ尋《たず》ねられたら、彼女はきっとこう答えるのだろう。
「慣れてますから。慣れない人よりは、慣れた人の方がいいでしょ、こういうことは」
それが、人生の不幸を引き受ける、という重大なことであっても、彼女はあっさりと言うに違《ちが》いない。
彼女の目の不思議さは、その悟《さと》りの色であると同時に、妙《みよう》な頼《たよ》りなさを秘めてもいた。しゃんとして強そうなのに、頼りなくも見える彼女は、ひどく強がっている。
「もしね、どうしても誰かに何か言ってみたくなったら、俺《おれ》に言えよ。俺は絶対に、どんな悠子ちゃんを見たって、嫌《きら》いになったりしないから。悠子ちゃんはこんなにもいい子だって、ちゃんとわかってるんだから」
一希に言われ、
「はい、そうします。ありがとうございます」
と頷《うなず》く悠子が、おそらくは、けしてそうはしないだろうことも、彼は予感していた。
事実、そんなことは起こらなかった。その日、心の中を半分ほど見せたきり、悠子は真面目《まじめ》な生徒に戻《もど》り、三年間、満点の態度をとり続け、第一志望の大学に入った。
三年間もつきっきりで教えたのである。二人は、それなりに親しくなり、兄妹《きようだい》のような仲になったが、それから五年、彼女から一希への連絡《れんらく》は、年に一通の年賀状だけだった。
それなのに、彼女がわかる。いつも自分を抑《おさ》えつけて強がってきた彼女が見せた、頼りなげな目の印象が、雲が湧《わ》くようにむくむくと胸に広がる。
「やっと助けられるときが来たね」
彼は迷わず彼女に手を伸《の》べていた。
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一希《かずき》の就職先は東京だったが、四年間で一人暮《ひとりぐ》らしの気楽さを知ってしまった彼は、家のことは東京の大学に通う弟に任せて、一人暮らしを続けた。名古屋との生活費の差には、少々ひるんだが、気楽で自由な生活の代金だと考えると、高いとは思えなかった。幸い彼は両親の若い頃《ころ》の子で、父もまだ元気に働いている。彼の就職に前後して、大学の指導教官が東京の大学に職場を変え、これも何かの縁だと親しくするうちに、その娘《むすめ》と付き合い始め、婚約《こんやく》した。
彼女も、名前は優子《ゆうこ》といった。幼い頃《ころ》から大切に大切に育てられた彼女は、大切にされ過ぎたためか、他人の気持ちを考えることができない部分はあったが、素直《すなお》で優しい、女らしい女性だった。一希は、妙《みよう》に悠子《ゆうこ》を忘れられなかったけれど、それは、こういった感情とは別のものだと知っていたから、一度だけ、優子に悠子のことを話した。
「優子は俺《おれ》より四つ下なんだよね」
「うん」
「じゃ、悠子ちゃんと同じだ」
「あたりまえじゃない」
「いや、優子じゃなくてさ。俺が大学生のときにさ、家庭教師で三年間見てた女の子がいるんだよ。その子が悠子って名前でね、字は違《ちが》うけど。てんでガキだったけど、今、これくらいになってるのかと思って、しみじみしちゃってたんだよ。不思議な子だったな。じゃあ今頃《いまごろ》、就職|探《さが》してんだ」
「私も名古屋にいた頃の話ね。世間って意外と狭《せま》いから、知ってる子かもしれない」
「いや、知らないと思うよ。優子はずっと私立の女子校にいただろ。彼女はずっと共学だった」
「気になる存在だったんだ」
「不思議な子だったよ。屈折《くつせつ》してるんだよ、母親は三人も変わってるしさ。本当の母親は籍《せき》入ってなくて、亡くなった本妻の子の母親代わりしてたら、七つか八つしか違わない母親が登場してさ、それなのに、どっかが真直《まつすぐ》なんだ。すごくいい子だったよ。いい子過ぎて痛々しかったな。いつも自分を抑《おさ》え込んで他人のことばかり考えてた。どうしてるんだろうな、今頃。年賀状には元気だって書いてあったけど。東京に来てるはずなんだけど、卒業したら名古屋に戻《もど》るのかな」
一希は、つい夢中《むちゆう》になって話し過ぎた。
「ふうん」
と言う優子の、いかにもつまらなさそうな相槌《あいづち》で、それに気付く。目をやると、表情でもてんで面白《おもしろ》くない、と言っていた。彼は一つ学ぶ。優子は他の女の話を好まない。
「それだけの話だよ」
いかにも、今まで話してきたことが下らないことだったんだ、というようにしめくくって、一希は次の話題を探した。
そのことがあってからしばらくは、悠子のことが気になった。平凡《へいぼん》な結婚《けつこん》に憧《あこが》れていた彼女だが、その夢《ゆめ》を共に実現させるのに相応《ふさわ》しい、誠実な男性を見つけたのだろうか。
翌年の年賀状には、「夢が叶《かな》います」と書いてあった。
「もうすぐ結婚します。就職先は、小さな文房具《ぶんぼうぐ》の会社です。彼の収入が落ち着いたら、平凡な主婦、そして母親になれると思います」
それは、一希に身勝手な嫉妬心《しつとしん》を起こさせた。自分で苦笑してしまう。この四年間、会ってもいない彼女なのに、知らない男の妻になるとわかると、大切な御花畑を踏《ふ》み荒《あら》されたような気持ちになる。本当にいい男性なのだろうか、とも思う。
その不安を消すために、彼は自分に彼女の目の色を思い出させた。あの不思議で落ち着いた、悟《さと》りきった目。あの目が大切なことを見落とすはずがないと思う。しかし、そうする程に、彼女の目の中の頼《たよ》りなげな色も浮《う》かんで来て、やはり彼は不安になる。もう一度会いたいと思ったが、それも不自然なようで、何も無いまま一年を過ごした。
婚約《こんやく》はしたものの、いつ結婚する、ということを明確に決めてはいなかった。優子に不足不満は無いが、まだ仕事も安定しているとは言えないし、自由を半分かた放棄《ほうき》する気にもなれない。
結婚してもいいかな、と初めて考えたのは、二十七歳の正月だ。悠子からの年賀状は来なかった。
一希は一希なりに、悠子の大きな支えとして存在してきたつもりだ。それはけして思い上がりではないと思う。しかし配偶者《はいぐうしや》を得た今となっては、悠子に一希は不要になったと宣言されたようなものだった。そうなってみて初めて、一希の中で悠子がいかに特別な存在であったかということがわかる。特別な存在として抜《ぬ》け落ちてしまった悠子の穴を見て、彼はそれを埋《う》めることを考えたのだ。しかし、結論を急ぎはしなかった。
そんなときに、いきなり悠子に会ったのである。
「いったい、どうしたの」
道傍《みちばた》にうずくまっているのを助け起こしながら尋《たず》ねる。
「酔《よ》っ払《ぱら》ったのか」
悠子は力無く首を振《ふ》った。
「夜は、薬屋さん、開いてないの」
彼女は道傍にうずくまっていたわけではないのだ。よく見ると、薬局の下りてしまったシャッターによりかかっていたのである。
「住んでるのは、この近くか」
彼女は頷《うなず》く。
「旦那《だんな》さんはどうしたんだ」
虚《うつ》ろだった目が、そのとき、ぱっと見開かれた。
「いないもん、そんなの」
吐《は》き捨てるようなその言葉を問い返している場合ではなかった。もっと重要なことは。
「何の薬を買いに来たんだ」
「頭痛薬」
「それなら俺《おれ》の鞄《かばん》に入ってる。掴《つか》まれよ、家まで連れてってやるから」
「先生」
「立ってられないくらい辛《つら》いんだったら、今は要《い》らないことは何も言うな。悠子ちゃんが感謝してたり、悪いと思ってることくらい、俺、わかってるから。道順だけ言ってくれ。後のことは、今度、聞く」
悠子は少し細めに見えたが、そうやって支えてみると、意外と重く感じられた。彼女が脱力《だつりよく》しているせいかもしれない。
一希は、彼女を支えたまま、初めての場所である彼女の部屋《へや》に入ったときにも、何の違和感《いわかん》も覚えなかった。深夜に、もう二十三歳にもなる女性が一人で暮《く》らす部屋へ入ることは、非常識と言われるべきなのだろうが、彼にとって彼女は、高校生の悠子ちゃんでしかなかった。
一希の渡《わた》した薬を飲み、少しは落ち着いた様子で、悠子はベッドの中から呟《つぶや》いた。
「信じられない」
「俺《おれ》もだ」
二メートルほど離《はな》れた三面鏡の前のスツールの上から、一希が返した。やっと悠子の顔が笑う。久し振《ぶ》りに見た笑顔《えがお》だ。
「俺が通りかからなかったら、朝まであそこにいたのかな」
「多分。死んでたかもしれません」
「オーバーな」
「死ななかったとは限りません。人生ってすごいですね。ねえ、同じ東京に住んでいて、何年も会わないまま過ぎて、本当にぎりぎりの状況《じようきよう》で会っちゃうんですね。こうなると、もう偶然《ぐうぜん》じゃありませんね。運命ですよね」
力無い声の呟《つぶや》きに、一希は苦笑した。変わらないな。この、とらえどころのなさは。
「余計なこと言わないで寝《ね》てていいよ」
「先生は帰らなくていいんですか」
「帰らなきゃ怒《おこ》るような人もいないし。悠子ちゃんが大丈夫《だいじようぶ》になるまで、ここにいられるよ。安心して休みなさいってば。医者は呼ばなくていいの」
「いいです。よくあることですから。よくあることだから、薬がすぐに減っちゃって、気が付くと無いんです」
よくあることだなんて、一度、しっかり医者に診《み》てもらったほうが、と言いかけて、一希はふと思いあたった。女の子にとってはよくあることなのかもしれない。二十三歳になっていても、一希が悠子を見る目は、今でも、「女の子」に対するそれだった。そして、そのときには自分も、あまり変わったような気はしないが、今より少しは瑞々《みずみず》しい、二十歳《はたち》の頃《ころ》に戻《もど》る。
「何も訊《き》かないんですか」
悠子が尋《たず》ねる。
「何を訊いて欲しい」
「何もかも」
「話したら楽になるのか」
「多分」
「それなら今度聞く。今は、ゆっくり休みなさい」
「鍵《かぎ》はオートロックです。いつでも後の心配しないで帰れます、ここは」
「帰って欲しいのか」
「明日のお仕事に障《さわ》ります」
「そうやって他人のことばかり考えるのもやめなさい。それとも帰って欲しいのか」
悠子は激《はげ》しく首を振《ふ》る。いつも他人のことを考える。そして嘘《うそ》は下手《へた》。帰って欲しいと言えば、一希はすぐに帰る。多分、彼が早く家に着き、眠《ねむ》ることの必要性と、帰って欲しいと言われたときに自分の心が傷つくことの重要性を、彼女は心の中で秤《はか》りにかけているのだ。
「眠ったら帰るから、眠りなさい」
悠子は微《かす》かに頷《うなず》いて目を閉じる。何分かして、もう眠ったようなら帰ろうかと思う頃に、閉じた瞼《まぶた》に涙《なみだ》が盛《も》り上がって来るのに気付く。
「苦しいか?」
「違《ちが》います」
「どうした」
「先生、やっぱり私の話、聞いて下さらないんですね」
「何言ってんだよ」
「帰ったら、もう来ないでしょう」
「来るよ」
「どうして」
「何がどうしてだ」
「来る理由が無い」
「悠子ちゃんに会いに、が理由だ」
悠子が開きかけた目を、一希は近付いて軽く抑《おさ》える。
「今日はもう眠りなさい」
「はい」
「何も考えないこと」
「はい」
悠子は、一希の言葉にいちいち頷く。
やっと眠った悠子の部屋を後にしたのは、二時を回った頃だろうか。悠子を拾ったのは地下鉄の駅の近くだ。その駅を利用するつもりだったのだが、もちろん終電は出ている。タクシーの中で、今日、やたら悠子に対して命令形の口調《くちよう》を使った自分に気付き、一希は苦笑した。まだ一希は悠子の先生だ。おそらく一生そうなのだろう。
また会いに行く、と言ったときには、本気は半分だけだった。やはり二人とも立派な大人《おとな》だ。お互《たが》いに干渉《かんしよう》しないでおいたほうがいいかもしれないと思った。しかし、彼女は一時的な体調のせいだけではない衰弱《すいじやく》を見せていたような気がする。それに姓の変わっていない理由は何なのだろう。会わずにおくには、気になることが多過ぎる。
しかし、何よりも一希の心を占《し》めていたのは、一希がその場限りの嘘《うそ》をついたと思ったときの悠子の気持ちだ。彼女は少女時代にさえ、辛《つら》い思いを重ね過ぎて来たと彼の心に波を立てた。きっと彼女はその上にさらに、辛い経験を重ねているのだ。これ以上、彼女の気持ちを少しでも傷つけることはできない。
そう考えたから、一希は悠子の部屋にメモを残して来た。連絡《れんらく》先を書いて、名刺《めいし》を残してもよかった。なぜか、それはしたくないと思い、心を籠《こ》めて一文字ずつを書いた。
一週間は、何も起こらなかった。
それは、それでいい。少し涼《すず》しい心に、彼女が俺《おれ》を必要としていないということは、彼女にとってもいいことなのだと言い聞かせた。
電話のベルは、真夜中の零時《れいじ》。
「もしもし」
それだけでわかる。
「こんな時間にどうした、悠子ちゃん」
「すみません」
「いや、帰って来たばかりだから構わない」
「五分置きにかけてました」
「いつから」
「八時です。迷惑《めいわく》だったでしょうか」
「いや、誰《だれ》もいないから、そんなことないんだけど」
「隣《となり》の部屋《へや》の人とかに」
「そんなことまで考えなくてもいいってば。それよりも、俺《おれ》は悠子ちゃんの方が心配だよ。八時から今まで、ずっと五分置きじゃ大変だったろう」
「はい。でも、あんまり遅《おそ》くなると迷惑かと思って。例えば、疲《つか》れて戻《もど》っていらしたときに、すぐにベッドに倒《たお》れ込んで、眠《ねむ》りかけたところへ電話って、きっと不愉快《ふゆかい》でしょう。五分|毎《ごと》だったら、ベルを鳴らし終わった直後に、部屋に戻られたとしても、次のベルが鳴るときには、まだ起きていらっしゃるんじゃないかと思ったんです」
「留守電つけようか」
「とんでもない。私のためにそんな……あ、他の用事のためだったら、私にそういうこと言う権利ありませんけど」
「どうして悠子ちゃんのためじゃいけないのさ」
軽い冗談《じようだん》なのに、悠子は黙《だま》ってしまう。それは、ただの沈黙《ちんもく》ではない。何かはわからないが、彼女が困ったから何も言えないでいることが、一希にはわかった。しまったことをしたな、と彼は一人舌を出す。これじゃあ、鼻もちならない男が女を口説《くど》いてるみたいだ。悠子に久し振《ぶ》りに会えたあの夜とかかってきた電話との相乗《そうじよう》効果で、はしゃぎ過ぎた。悠子がその気になったりしたら、どうするつもりだ。
「いいよ。悠子ちゃんのことは、わかってるから。何て言うだろうって予想も、もうついてるからさ。俺もね、つけようと思ってたの。仕事|遅《おそ》いだろ。彼女からの電話とかね、トラブル多いんだ」
情けないくらいわざとらしい予防線に、悠子はくすくす笑う。その反応に、一希は、ほっとした。
「俺って、男のくせにお喋《しやべ》りだな。ごめん。悠子ちゃんの方が用事あったんだよね。どうしたの」
「やっと夢《ゆめ》を確かめる勇気が出せたんです」
「わからないな」
「先生が、いつの間にか消えてたから、みんな夢だったんじゃないかと思いました。番号残ってたけど、ここに電話して先生がいなかったらどうしようって思うと怖《こわ》くて怖くて、電話できなかったんです。夢は夢のまんま、大事にしようと思って、その方がいいと思って、でも、もしここに本当に先生がいらっしゃるなら、一言、お礼言わないと失礼だと思って、でも勇気が出なくて今日になってしまいました。恩知らずだと思われましたか?」
「いや、電話が無いのは、俺に頼《たよ》らなきゃいけないようなことが無いってことだから、いいことだと思ってた」
一希はそう言った後を、彼女が口をはさめないほど急いで、先手を打つつもりで言った。
「でも、寂《さみ》しかったよ」
「すみません」
何を言っても、彼女は謝るのである。彼は、それにいちいち頓着《とんちやく》するのはやめにした。謝ることはないと、そのつど言うよりは、優しく心を籠《こ》めて接することが、彼女の感じる負担を軽くするとわかっている。
「その後はどう? ちゃんと元気?」
「はい」
「今度、ゆっくり話をしようよね」
「はい」
「いつがいい?」
「え……いつでもいいんですけど」
「今、決めとこう。今度、今度はあてにならないからな」
急な彼の提案に、彼女は戸惑《とまど》っているようだ。
「今週でいいかい」
「あ……はい……」
「何曜日? 俺は水曜がいいな」
「私は、いつでも……」
「じゃ、水曜だ。場所はまた連絡《れんらく》する。電話番号教えてくれないか。二三一の続き」
「どうして、そこまではご存じなんですか」
「この前、部屋の壁《かべ》にメモが貼《は》ってあったろう。写してきてもよかったんだけど、女の子の一人暮《ひとりぐ》らしの部屋だから、本人が知らないうちに番号|控《ひか》えておくなんてフェアじゃないと思って遠慮《えんりよ》した」
悠子は一つ一つの数字を確認しながら、教えてくれた。
「OK。もう、悠子ちゃんの用事はいいのかい」
「はい、お礼だけ」
「それなら、よくわかったから」
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
彼女は受話器を置かない。
「どうしたんだ? 切っていいんだよ。不安なのか、まだ。大丈夫《だいじようぶ》。夢《ゆめ》じゃない」
「わかりました。よくわかりました。でも、先に切っていただきたいんです」
一希は苦笑した。実は彼も電話は相手が切るまで待つ方だ。
「俺、苦手《にがて》なんだよ、そういうの」
そこからまた話が始まる。結局、二時間話し込んでしまった。それだけ話していても、出て来るのは他愛無《たわいな》い昔話《むかしばなし》ばかりで、彼女が今も一人で暮らしている理由を訊《き》き出すことも、彼に他の女性と結婚《けつこん》する気のあることを言い出すこともできなかった。
彼女と二人で会おうと考えたときに、一希の頭にはまず優子の行動|範囲《はんい》を表す地図が浮《う》かんだ。できるだけ優子に会わない場所で会おう。万が一、ばったり会ったりすると面倒《めんどう》だ。「昔の教え子だよ」と言えば、それを疑ったり、悠子に不愉快《ふゆかい》な思いをさせるような態度に出るほど、愚《おろ》かな女ではない。しかし、何かが確実に跡を引く。それがわずらわしいのだ。
それにしても、彼女に会おうと言った自分の目的は何なのだろう。単なる懐《なつ》かしさだろうか。彼女が結婚を決意して、それを捨てるまでの経緯《いきさつ》を知りたいという好奇心《こうきしん》だろうか。
それとも、もう一つ、別のことを?
いや、それは無い。彼は一人首を振《ふ》る。多分、懐かしいのだ。それだけだ。彼女が昔通りでいるから、彼女といると瑞々《みずみず》しいほんの少し若かった頃《ころ》に戻《もど》れるような気がする、それを快《こころよ》しとしているだけだ。
そんなわざとらしい理屈《りくつ》をつけてしまうこと自体、事実がそうでないことを示しているような気もする。会いたいから会う。それだけで十分なのに。
優子が芝居《しばい》を観《み》に行きたいと電話をかけてきたのは、火曜日の夜だった。
「いつ?」
「明日」
「明日!?」
一希の声がオクターヴ上がっても、優子の甘《あま》えた声の調子は少しも変わらない。
「うん」
「急過ぎるじゃないか」
「だって、今、気がついたんだもの。今週中しかやんないの。今度の日曜日まで」
「じゃあ日曜日」
どうせ日曜日は優子のために空《あ》けてある。
「sold outだもん。水曜日なら、まだ席あるし、私の時間に余裕《よゆう》があるのも、ちょうど水曜日なんだ。だから、ね」
用がある、とは言えなかった。そうすれば、何の用かと訊《き》かれるだろう。嘘《うそ》をつかざるを得なくなる。嘘は、どこから綻《ほころ》びて行くかわからない。
「どうにかするよ」
彼は言った。悠子の方をどうにかしよう。彼女なら、無理も通るだろう。
「え? いいの? じゃあねえ、じゃあねえ、六時に開演するから、五時半ね、大急ぎで来てね」
悠子に何と言おうかと胸を痛めながらも、優子の嬉《うれ》しそうな声を聞くのは、やはり彼には快いものだった。
自分から、ほぼ強引《ごういん》に誘《さそ》っておいて、それを断るのは辛《つら》い作業だ。心を決めて電話をしてはみたものの、コール音が鳴り始めると、出ないでくれたらいいと思う。しかし、その思いを完結させる間も無《な》く、彼女が出てしまう。
「もしもし」
若い女性の言い方だ。自分からは名乗らない。
「あの……悠子ちゃんかな」
「あら、先生ですか」
「よくわかったね」
「だって、そういう呼び方なさるの、先生しかいませんから」
「そうか、大人《おとな》だもんな。こう呼ばれるの、嫌《いや》?」
「いいえ。先生ですから」
「そうだなあ。俺《おれ》も、先生なんて他の奴《やつ》から呼ばれたら、くすぐったくて身の置き所がなくなりそうなのに、悠子ちゃんからそう言われるのって、気持ちいいよ」
本当の話を切り出したくなくて、時間を稼《かせ》いでいる。彼女の声がひどく嬉しそうに響《ひび》くのが、言いにくさに拍車《はくしや》をかける。いつまでも耳に快いこの声を聞いていたいと思った。
「あのさあ、水曜日の話ね、あれ、延期して欲しいんだよね」
「あ、そうですか」
声が落ち込む。嘘がつけない。
「悪いね」
「とんでもない」
「次の日、決めておこうかと思って」
「あ、いいです。また別の用事が入ったら、先生、工夫しようとして、苦労なさるでしょう。そういう迷惑かけたくないから……」
悠子は妙《みよう》に早口になった、落胆《らくたん》を隠《かく》している様子だ。そう推測する彼は、自惚《うぬぼ》れているのだろうか。
「もう会いたくない? 怒《おこ》ってるのか」
「いいえ、そういうことじゃありません。あの、私、だいたい暇《ひま》なんです、夜は。ですから、先生がお暇なときに呼び出して下されば、私、出ますから。ときにはいないこともありますけど」
「そうか。じゃあ、そういうことにしていい?」
「はい。そうして下さい」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい。わざわざ申し訳ありませんでした」
普通《ふつう》の電話なら、そこで切れる。けれど二人共、先に受話器を置くのが苦手だ。気まずい沈黙《ちんもく》。
「あ……あの……」
彼女の方から、遠慮《えんりよ》がちにそれを破った。
「あ、そうか」
彼女も彼も、自分から受話器を置くことが苦手だったのだと、今、思い出す。
「そう。おやすみ」
「おやすみなさい」
自分から受話器を置いた後、彼はいろいろな可能性について考えた。
彼女の気持ちがすべて会話の通りである場合。彼女は、いきなり予定を変えられたことを、そんなに気にしてはおらず、その理由を尋《たず》ねる気もなく、次の約束《やくそく》もいつだってよく、つまりはどうだっていい。そうであってくれたら、彼にとってはこれ以上気楽なシチュエイションは無いのだが、それはあまりに寂《さび》しいと思う。確かに、それは彼の知る限りで、彼女が常に用いて来た処世術ではあるけれども、それが彼女の本心だとも思えない。
実は彼女は、彼の誘《さそ》いをうっとうしいと感じており、内心、キャンセルになったのを喜んでいる場合。どうしても断りきれないのかもしれない。次の誘いも来なければいいと。けれど、それならば自分から電話をかけて来たりはしない。
彼女は彼と会うのを楽しみにしており、実は約束の変更を怒っている場合。確かに怒っていても、悠子は口には出さないだろう。彼女を怒らせたのはまずいが、これが男としては嬉《うれ》しい展開だとも言える。同時に、彼の自惚《うぬぼ》れである可能性も一番高そうだった。
今夜は眠《ねむ》れない。
仕事? 恋人《こいびと》? 多分、後者。
「やっぱりだったよ、ウェンズデイ」
古いうさぎのぬいぐるみに頬《ほお》ずりをする。悠子の頬の涙《なみだ》は止まらない。
「いつも期待すると、辛《つら》い思いをするんだよ、ウェンズデイ」
悠子は、水曜日に平田の家にやって来た。父に手をひかれてやって来た。実の母が彼女に持たせたのは、当時の彼女よりも一回り大きいうさぎのぬいぐるみだけだった。彼女の抱《かか》えたぬいぐるみは、足を半分も地面に引き摺《ず》り、そこは泥《どろ》にまみれていた。彼女が家に入ると、彼女の歩いた後には、泥が模様を描《えが》いた。
「悠子ちゃん、お洗濯《せんたく》しましょ」
平田の養母《はは》が取り上げようとしても、悠子はうさぎを離《はな》さなかった。
「一緒《いつしよ》にしましょうか」
彼女は養母について行った。
「ウェンズデイ、今日はウェンズデイ。悠子ちゃんは水曜日に来ました」
歌うように口ずさみながら、養母は何を考えていたのだろう。残るのはウェンズデイという名のうさぎだけ。今でも両手でたっぷり抱えられるほど大きい。
悠子は、ずっと平凡《へいぼん》な妻、平凡な母親となることを夢に見ていた。それは、女優になりたいとか、スチュワーデスになりたいという、他の少女達の夢と寸分違わない。無責任に憧《あこが》れはするけれど、それがどういうものなのかは知らない。
少女期には、特に平凡な母の方に重点が置かれていた。悠子は、母親達の中にあまり「妻」を感じなかったのである。彼女には、父親に対する不信感が常にあった。その一方で、三人の母親を次々と肯定的《こうていてき》に受け入れて来た。父と母を一組の「夫婦」という単位にして見ることを、彼女は避《さ》けていたようだった。
平凡な母親。それは、友達の明江ちゃんや真由美ちゃんのお母さんのことである。自分の母親は少し違っているとは、幼心《おさなごころ》に感じていた。友達の家に遊びに行くと、友達がお母さんと一人に溶《と》けて見えてしまうことがある。なんとなく、一人の人間に見えてしまうのだ。それは「血のつながり」であると同時に、「乳のつながり」であるように思われた。自分を胸に抱いて、乳を授けてくれた人を、悠子はどこかに置いてきてしまったのである。
思春期の頃《ころ》、自分の辿《たど》った道も父から言い聞かされてよく理解していた彼女は、何度か自分を生み、二年余りを育ててくれた母を思い出そうとしてばかりいた。うんと小さい頃に、明らかに今の家ではない場所で、高い窓を見上げて子守唄《こもりうた》を聞いていた記憶がある。友達に訊《き》いても、二つ違いの妹が生まれたときのことを憶《おぼ》えていたり、三歳のときに引っ越したけれど、前の家を微《かす》かに憶えていたりするから、憶えていたとしても不思議は無いのだ。実際、彼女は平田の家に初めて来たときの記憶は持っている。それなのに、実の母を思い出そうと、幾《いく》ら頭の中を探《さぐ》っても、悲しい空白に行きあたるばかりで、悠子は途方《とほう》に暮れる。
養母の典子は優しかった。子どもに、構《かま》えを作らせない、無邪気《むじやき》と言っていい人柄《ひとがら》の女性だった。この人がいなければ、幼い悠子はもっと、母を恋しがって泣いたことだろう。
「悠子ちゃんは、年齢《とし》の割には、聞き分けも良いし、新しい環境《かんきよう》にも適応してますよ。私の言うことも、よう聞いて下さいますしね。可愛《かわい》い子です」
典子が夫にそう言っているのを悠子が聞いたのは、そろそろ良い子でいる限度が近付いて、母のところへ戻《もど》りたいと泣き始めようかというときだった。よくわからないけれど、どうやら自分は誉《ほ》められているらしい。それならば、もっとずっと誉められていたい。その気持ちが、母を恋しがる気持ちに勝ったのは、悠子の中に本能的な諦《あきら》めがあったからではないだろうか。もう、二度と母には会えないと、本能で感じていたか、消された記憶の中で、母が言い聞かせたものかもしれない。
「あの子は、母親似なんでしょうね」
そのときは聞き流した続く一言は、今、考えると深い意味を持つ。
あれは、すべてを許して受け容《い》れたあの母《ひと》が、夫に向かって吐《は》いた恨《うら》みごとではなかったのか。
可愛くて優しい悠子ちゃんが、あなたに似ている筈《はず》は無い。
どうやら、この大人達は、とても悲しく寂《さび》しい人なのだと、悠子は感じていたに違いない。
「悠子ちゃん、お母さんがいないのは嫌《いや》?」
しばらくして典子に尋《たず》ねられたとき、悠子は何度も何度も頷《うなず》いた。諦めていた母親のところへ、戻《もど》してもらえるのかもしれない。そう思うと、自然に腹の中から笑い声がのぼってくる。典子としては、母親を思い出して泣かれると予想していたので、少々|面喰《めんく》らった思いだが、泣いている子よりも笑っている子相手の方が、話はし易い。
「悠子ちゃん、じゃあね、私がお母さんになるのは、嫌かなあ」
悠子の笑いが止まった。これは最終通告だ。もう、あの母には会わせてもらえない。
平田の家に来て、初めての涙《なみだ》が両頬《りようほお》を転がって行った。
「やっぱり、嫌? 私がお母さんじゃ嫌なの、悠子ちゃん?」
優しい、いつもと同じ典子なのに、今日の彼女は悠子を戦慄《せんりつ》させる。
「お母さんには、もう会えないの?」
泣きながら、やっと悠子は尋《たず》ねた。
「お母さんは、私」
言い募《つの》る典子が、だんだん大きく膨《ふく》れあがって行くように、悠子には見える。
「ゆうちゃんのおかあさんにはあ、もお、あえないのお」
「会えない」
典子は、きっぱりと言った。
「あの人には、もう会えないの。だけど、悠子ちゃんにはお母さんが要《い》るの。だから、私がお母さんになろうと思う。嫌?」
否《いや》も応《おう》も無い。今、彼女が口にしたすべてが正論なのだ。この人を母と呼ばなければ、自分は母親を失ってしまう。それでも悠子は、すぐには頷《うなず》けなかった。彼女が新しい母を得ると同時に、彼女の母であった人は、母としての全人格を奪われてしまう。
「嫌なの、悠子ちゃん」
「あなたを、お母さんて、呼べばいいの?」
典子は目を見開き、少し身体《からだ》を退《ひ》く。悠子の母は、「悠子ちゃん」という呼び方はしなかった。悠子に「あなた」と呼びかけていた。それを真似《まね》た大人《おとな》びた呼びかけに、典子は戸惑《とまど》う。一瞬《いつしゆん》、皮肉《ひにく》だろうかとも考えたが、二歳の子どもにそれはないだろう。
「そう。私が悠子ちゃんのお母さん」
「はい、おかあさん」
そう言ったら、典子も泣いてしまった。
しばらくは慣《な》れなかったけれど、悠子は典子を嫌《きら》いではなかったので、苦痛は無かった。悠子が実の母を思い出すことが、養母を悲しませると感じて、母を思い出さないようにした。そんな消極的なものではなかったかもしれない。悠子は新しい母の為《ため》、積極的にそれまでの母の記憶を消しにかかっていたのかもしれない。その結果、母の手がかりをすべて失い、後に苦しむことになったのかも。
養母は優しかった。けれど友達の家で感じられるような母子の一体感は、最後まで感じとることはできなかった。後に、久美子が生まれると、傍《そば》で見ていて友達の家で感じたのと同じ一体感が伝わることがわかった。やはり、悠子は他人の子だ。
典子に落ち度は無い。彼女は実の子と継子《ままこ》とを区別はしなかった。人の力の及ばないところに生まれる差異を、敏感過ぎる悠子が見逃してはおけなかっただけなのだ。いずれにしても、典子は久美子の誕生日さえ待つことなく病没《びようぼつ》してしまった。悠子が、その差が何であるかを感じ取ろうとしても、悠子・典子・久美子が同時に生きた期間は短過ぎた。そして、実の母も典子も、普通の母親だと悠子には思えず、憧《あこが》れの依《よ》って立つものともなり得ないのだった。
典子が声を荒らげたのを、二回だけ聞いたことがある。一度は夫に対して。
一度は悠子に対して。
悠子が四歳のとき、久美子が生まれた。日に日に張り出して行く典子の腹は、悠子の好奇心を刺激《しげき》した。つい目が吸い寄せられてしまう。そんな悠子は、典子にも嬉《うれ》しいものだったようだ。
「中に、赤ちゃんが入ってるから大きなるんだよ」
「赤ちゃん?」
「そう。悠子ちゃんの妹か弟になるの。悠子ちゃんは、お姉ちゃんになるの」
「お姉ちゃん?」
「そう」
「あのね、寛子ちゃんとこに赤ちゃんおって、寛子ちゃんの妹って言っとったけど、そういうお姉ちゃんに、私もなるっていうこと?」
「そう。悠子ちゃんは賢《かしこ》いねえ。その通りだよ。嬉《うれ》しい?」
「嬉しい」
悠子は、「本当に」とか「とても」とか「この上なく」という言葉を知らなかったが、知っていたら、それらのすべての言葉を「嬉しい」の上につけただろう。その夜は嬉しさのあまり、眠れなかった。
添《そ》い寝をしてもらったことは少ないが、夜、トイレに行きたいと叫《さけ》ぶと、いつでも来てくれた典子が、今夜は来てくれない。もう少し力を入れて、さらに大きな声を張り上げる前に、彼女は自分一人で起き上がり、そっと子供部屋のドアを開けた。部屋の外はまだ明るい。眠れない子どもにとってのとても長い時間は、起きている大人達にとっては、ほんの短い時間に過ぎないようだった。これなら、一人でトイレに行ける。そう思うと同時に、典子が来てくれなかった理由を、悠子は納得《なつとく》もした。とても大きな典子の声が、居間の方から聞こえていたのだ。悠子はそちらの方へ歩いて行った。確かにトイレはそちらにあったし、あの静かな人がどうして大声を出すのか、どうしても興味があった。
「そんなに心配なら、あんた、悠子は他所《よそ》にやって下さい」
悠子が耳を澄ましたとき、最初に把握《はあく》できた言葉だった。
「実の子が可愛《かわい》て、あの子を邪険《じやけん》にするのがそんなに心配なら」
悠子は、どきどきしてその場に立ち尽くした。
「あんたには、私の真心、少しも見えとりません。今まで、私が悠子をどんだけ大事にして来たか。はい、あの子には何の恨《うら》みもありません。あの子の母親にも。好きな男の子どもが欲しいと思って、どこが悪い。我慢《がまん》ならんのは、あんただわ。あんたは、自分の可愛い子を手元で育てとる。けど、あの子の母親は可愛い盛りの娘を手離さなかんかった。私は、あんなに可愛い悠子が自分の子でないことで、いつも悲しい思いをしとらなかん。あんたは、その両方を持っとらっせるけどが、悠子にどんだけのことをしたっとりますか。私以上のことをしとるとでも言やあすかね。あんたに、たった今言わしたことを言う権利が本当にあるか、まっぺん考えてまいたいもんだわね」
どうやら、典子は悠子のことを好きらしく、ここからさらに、悠子が他所にやられることはないらしいとわかった。悠子は、何かしらとても怖《こわ》いものを見た気持ちになったが、とりあえず安心しようと自分に言い聞かせて、一人でトイレに向かった。その背中に、最後の叫びが、ある記憶を裏づけるように今までより幾分《いくぶん》小さく届いた。
「悠子は母親似ですね。父親に似たら、あんないい子にはならんかったでしょう」
悠子は、振り向いて居間の方を見た。そのままの姿勢で、しばらくは静かになった居間を見つめ続け、やっとトイレに駆《か》け込むことにしたのである。
翌日には、不安感から一日中典子にしがみついていたのを憶《おぼ》えている。
「悠子ちゃん、どうしたの。今日は甘えんぼさんね」
どうしたの、と言われても悠子には答えられない。本当のことを言ってはいけない、ということだけを本能的に知っている。
「怖《こわ》い夢でも見た?」
典子からの助け舟に、悠子は夢中で頷《うなず》き、いっそう強くしがみついた。そうすると、養母《はは》は優しく悠子を抱《だ》き締《し》めてくれた。
悠子に対して声を荒らげたのは、久美子が生まれて間も無い頃《ころ》である。
幼稚園の同級生、真由美ちゃんが家出をして、悠子のところへ来た。もちろん「家出」というのは早熟《そうじゆく》でこまっしゃくれた真由美ちゃん一人の用いた言葉で、真由美ちゃんのお母さんは、悠子ちゃん家《ち》に遊びに行ったとしか思っていなかっただろうし、典子も、
「家出して来ました」
真由美の宣言にもかかわらず、にこにこして、
「真由美ちゃんがみえたよ」
と悠子のところへ連れて行っただけだった。
悠子はそのとき、生まれたばかりの小さな小さな久美子を、けして飽《あ》きることなく見ているところだった。赤ちゃんは本当に小さい。小さいのに動くのはとても不思議だ。最初は、あんまり可愛《かわい》い顔ではなかったけれど、すぐにお人形のような姿になった。
「真由美ちゃん、妹、見したげようか」
妹、というのは何分にも大切な宝物なので、自然と恩着せがましい態度になって悠子は言う。
「ほら。久美子だよ。可愛いでしょ。生まれたばっかだよ」
けれど、真由美ちゃんは久美子に関心を持っていない。自分の主張を、ここでも繰り返す。
「私、家出した」
悠子にとっては、これは文字通りの意味になる。
「ええっ、どうして!?」
久美子のことはひとまず置いて、悠子は真由美ちゃんの、固い決心の色を浮かべた目を近くに寄って覗《のぞ》き込んだ。
「ママ、私のこと嫌《きら》いになったで」
「うん」
「この前、弟が生まれたの」
「うちとおんなじだ」
「ママ、赤ちゃんだけが可愛なった。もう、あんなうちにはおれん」
典子がおやつを運んで来た。真由美ちゃんの言葉を、微笑《ほほえ》みながら聞いている。真由美ちゃんから家出した旨《むね》を聞かされてすぐ、真由美ちゃんの家に電話を入れた。夕食時になったら、真由美ちゃんのお母さんが迎えに来る筈《はず》だ。
「でも、赤ちゃんは可愛いよ」
「すぐ泣くし、なんか臭《くさ》いよ」
「私は、だあいすき」
悠子が立って、久美子に頬《ほお》ずりしに行くのを、典子は満足そうに見ている。真由美も、つまらなさそうに、悠子に続いた。
「ね?」
可愛いでしょ、と言いたげに見上げる悠子に、真由美は申し訳程度に鼻をくんくん言わせて、
「そんなに臭くないみたい」
と見当の外れたコメントを出した。
「真由美ちゃんとこ、赤ちゃん弟?」
「うん。妹だで臭くないのかな」
「それにうちのお母さんは、赤ちゃんも悠子ちゃんも両方可愛いって」
最大の満足感にふくらんで行く典子の思いを、続く言葉が突き刺《さ》した。
「赤ちゃんの頃から、お母さんじゃなかったからかな」
「悠子っ!」
悠子は、初めて呼び捨てにされた。このとき以外に、呼び捨てにされた記憶は無い。
「なんで、嘘《うそ》をつくのっ!?」
本当のことを言ったのに、嘘つきにされて、悠子は傷ついている。優しい養母《はは》は気付かない。
「悠子は、ずっとずっと、ここの子でしょ!?」
悠子は、典子の見幕《けんまく》に、ただ呆然《ぼうぜん》としていた。それは真由美ちゃんも同じだ。典子は、我に返ってから、二人の子どもの呆《ほう》けた顔を見較べる。悠子の表現力と真由美ちゃんの理解力が揃《そろ》って不十分だった為《ため》、二人とも何がどうなって典子が取り乱しているのかは、わからないようだ。
「おやつ、食べる?」
典子は、その場の雰囲気《ふんいき》を取り繕《つくろ》う為に、子どもの関心を食べ物に向けさせた。
「いただきます」
傍観者《ぼうかんしや》である分だけ、真由美の方が立ち直りは早い。母親から教えられた通りの礼儀で、ミルクとクッキーに手を合わせた。
久美子が泣き出す。
典子は、抱き上げて久美子をあやす。悠子は、何が起こって自分が怒鳴《どな》られたのか、ぼんやりとはわかっているけれども、半分はわからないといった、釈然《しやくぜん》としない気持ちでおやつの前に座《すわ》った。
「やっぱ、うるさいわ」
真由美ちゃんは、徹底《てつてい》して赤ちゃんが嫌《きら》いなようである。
悠子には、よくわからなかった。生まれたときからその家の子である真由美ちゃんは、新しい赤ちゃんが生まれると、あまり可愛《かわい》がられなくなる。途中からこの家の子になった悠子は、久美子が生まれても同じように可愛がってもらえる。それならば、途中からの子どもの方が何かと得ではないか。しかし、典子はそれを口にされると怒る。そして悠子も納得《なつとく》してはいない。どちらかと言うと、真由美ちゃんが羨《うらや》ましいような気もするのである。
もっと長く生きたとしても、あの人はあれ以上、声を荒らげることはなかっただろう。
三人の母の、誰《だれ》のようになりたいとも思わない。三人三様の懊悩《おうのう》のいずれとも縁の無い平凡《へいぼん》な母親になりたいと思っている。けれど、どうしても誰かを選ばなければいけないとしたら、悠子は典子を選ぶ。
彼女は、紛《まぎ》れも無く『母』であった。
悠子は、典子から最も多くを教えられ、その生き方を見ることによって、最も多くを学んだのである。最後には、自《みずか》ら死とはどういうものかを悠子に教えた。
五歳になるかならないかの頃、病院に行った典子が、ある儀式の後、永遠に消えてしまった。
悠子が、死とはどういうものかを知ったのは、このときである。
「私の、お母さんですか」
幼稚園《ようちえん》から帰って来た上の娘の問いに、家政婦さんは戸惑《とまど》った。
「いいえ、私はお手伝いさん。今日から、お嬢《じよう》ちゃんとおちびちゃんの面倒見させてもらいます。どうぞよろしく」
彼女は強く念を押《お》す。
「私は、お世話をするだけですよ。お嬢ちゃんの新しいお母さんには、なりませんからね」
悠子は、自分の本当の母親ではないかと思って尋《たず》ねたのだが、誤解されたところを見ると、全然違う人のようだ。
「はい。よろしく」
大人《おとな》びた溜《た》め息と共に、悠子は久美子のところへ行った。
「久美子はいいなあ。お母さんがおらんくなったこと、知らんでもいいもんね。お母さん死んだんだと」
しばらくは外へ遊びに行く気にもなれず、悠子はいつも、久美子に話しかけていた。自分から、久美子の母親代わりになろうなどと考えたことはなかったが、知らない間に、彼女は立派《りつぱ》にその役を果たしていた。
経済的《けいざいてき》には、比較的《ひかくてき》恵まれた家庭だったが、家政婦兼ベビーシッターを毎日頼むというのは、かなりの出費である。悠子は徐々《じよじよ》に仕事を覚え、十歳の頃には、とりあえずのことはできるようになっていた。家政婦さんも、週休二日から三日になり、週に一回になり、そのうちに、試験期間中だけ、ということになった。
久美子が、すっかり「お姉ちゃん子」になったのは、その為だろう。
思春期を迎え、悠子は父を批判的《ひはんてき》な目で見るようになった。
典子は本妻だ。悠子の実の母親は、おそらく隠れて会わねばならない愛人だったのだろう。それならば、典子の死後、再婚するようなことがあってもよかったのではないだろうか。障害《しようがい》がなくなったのだから。どうして、悠子を取り上げたまま、放っておくのか。
死んでしまったのかもしれない。悠子が平田の家に来たのも、実の母が死んでしまったからなのかもしれない。
父に尋《たず》ねてみた。
おまえはもう、平田家の長女なんだから、いつまでもそういうことを気にしていてはいけない、と言われた。
「私には、本当のことを知る権利があると思うのですが」
いつになく固《かた》い口調の悠子の問いにも、論点のすり換えが待っていただけだ。おまえはもう、おまえだというだけでなく、久美子の姉であったり、母親代わりであったりするのだから、久美子の為にも、そんなことを考えていてはいけないよ。
私の娘、と言わなかった父を、悠子は卑怯《ひきよう》だと思った。父は、悠子の向ける批判的な目を知っている。だから、反感を煽《あお》っては、と思い、自分を前面に出すことを避《さ》ける。私の娘、と強調してくれたら、反感も消えるかもしれないのに。
子どもというものは、誰でもが一度くらい、自分は他所《よそ》の子ではないかと疑うと言う。疑問《ぎもん》と言うよりも、それは甘美《かんび》な幻想だ。本当の自分は、きっと今の自分より、恵まれて幸福で美しい。
本当に他所から来た子どもは、どうしたらいいのだろう。幻想は抱けない。かなり現実に近い想像を、あれこれと巡《めぐ》らす。
もう死んでしまった、という可能性については、あんまり悲しいので考えないことにした。
本当のお母さんは、平田家の平和を乱さないようにと、姿を消してしまったのではないかしら。ドラマには、よくある話だ。お父さんは、今、行方《ゆくえ》を必死で探しているのだけれど、なかなか見つからない。再婚しないのはそのせいだ。
しかし、それでは典子の立場がない、という気もする。
それとも悠子は、実の母から、本当に捨てられてしまったのだろうか。これも、あんまり悲しい。考えているうちに、涙が出て来てしまう。
「お姉ちゃん、何泣いとんの」
すっかり「お姉ちゃん子」の久美子は、目ざとく見つけてすり寄って来る。
「お母さんのこと考えたら、涙出てきちゃった」
「いいなあ」
甘えた溜《た》め息が耳をくすぐる。
「私、思い出すこともできんで、泣けん。お母さんなんて、おらんもんだって思っとるもんね、最初から。でもさあ、お母さんてきっと、お姉ちゃんみたいなもんなんだよね」
「違うと思うけど」
「お姉ちゃんには、お姉ちゃんがおらんで、ようわからんのだと思う。私、みんなが可哀想《かわいそう》がるほどには、お母さんのおらんこと、大変だとは思わんもんなあ」
「それはそうだね」
悠子にとっても、久美子の世話や家事は、あまりにも普通のことになってしまい、友達や周《まわ》りの大人達に感心してもらうほどのことではなくなっていた。新しい学年が始まって、担任が変わる度《たび》に、悠子は呼び出され、涙を溜めた担任教師から、頑張《がんば》ってくれと励《はげ》まされた。それに、涙や笑顔、とにかく感動的な顔をして応《こた》えることができたら、とは悠子も思っていたのだが、根が正直で、淡々《たんたん》とした受け答えしかできない。自分が冷たい人間のような気がして、そういうときは、ちょっと寂《さび》しかった。
「お母さんみたい、おらんくて当然だよね」
久美子が、まだまとわりついている。姉の涙が心配で、離《はな》れたくないのだろう。
「それは違うよ。おるのが普通」
久美子の頭を撫《な》でながら、悠子は穏《おだ》やかに異を唱《とな》えた。まだ少し、声が湿っぽい。
「そりゃあ、お姉ちゃんはお母さんのこと、少しは知っとるもん。私、全然知らんでさ。ねえ、お姉ちゃん。私、もしお父さんが再婚《さいこん》するなんて言ったら、絶対反対するな。今の三人の生活、すごくバランスとれとるって感じだもん。絶対|壊《こわ》したないもん。お姉ちゃんは?」
「私は、お母さんは、おった方がええなあ」
「そんなこと言わんといてえ」
「だって、そう思うもん」
「もう、意地悪」
二人の話が、それ以上進まなかったのは、何年も再婚話に耳を貸す様子の無い父が、本当に再婚するとは思わなかったからである。
悠子と久美子が、改まった態度の父の前に膝《ひざ》を揃《そろ》えたのは、典子の死から九年余が経った悠子十四歳、久美子十歳のときだった。
悠子には、なんとなく予感があった。この雰囲気《ふんいき》。父は再婚しようとしている。ほとんど諦《あきら》めてはいたが、最後の最後に、悠子はまだ夢を見ようとしていた。本当のお母さんがやっと見つかって、お父さんは結婚するのだ。あの優しいお母さんの記憶の前では、色褪《いろあ》せて感じられるかもしれない。けれど本当のお母さんだ。ここに来る前のことは、忘れてしまった。もう、努力しても何も思い出せないけれど、その努力の隙間《すきま》に、甘くて切ない匂《にお》いがある。本当のお母さんも、きっといい人だったに違いない。父の方を、期待を籠《こ》めて窺《うかが》ったが、父は目を伏せた。どうやら、期待は空振《からぶ》りだ。予想通りと言えば予想通りだったと、悠子は唇《くちびる》を噛《か》む。思い直して隣に座る久美子を見ると、父と姉の緊張《きんちよう》を何だと思っているのか、けろっとした顔をしている。
「どんな用事ですか?」
長い沈黙《ちんもく》に耐《た》えかねて、悠子が口を開く。自然と、口調もいつもより改まったものになる。父は、一拍《いつぱく》の休みを置いて、言った。
「おまえらには、長いこと苦労させたと思っとる」
どうやら、悠子の予想は半分くらいは当ったようである。
「これからは、新しいお母さんに来てもらって……」
父は、その先をどう続けるつもりだったのだろうか。
「やだあーっ!」
とにかくその場は、いきなり立ち上がった久美子の狂気めいた悲鳴《ひめい》に占領《せんりよう》されてしまい、どんな話もできる状態ではなかった。
「やだやだ絶対やだ!」
「久美子、お父さんの話、聞こうね」
「やだっ! 今さらお母さんみたい、いらん」
「どんな人かもわからんうちから……」
「お姉ちゃん、お母さんていい人だったんでしょう。その人以上の人、おらんて」
「久美子」
「やだあっ!」
久美子の扱いは、悠子に任せて父は黙っている。下手《へた》に自分が前面に出るよりも、その方がいいと判断してのことだろう。それがまた、悠子の目には卑怯《ひきよう》であると映《うつ》る。
「久美子が落ち着いたら、まず悠子とだけ話そか。後でな」
父がそう言って出て行こうとしたとき、暴《あば》れながら泣き叫んでいた久美子が、ぴたりと静かになった。
「私も、聞く」
しゃくりあげながら、彼女は言った。
「私にも、聞く権利、ある」
そして一段と声を張り上げる。
「私が、一番あるよ。お姉ちゃんよりある。だって、お姉ちゃんには二人めのお母さんだけど、私にとっては初めてのお母さんなんだもん」
わかったような、わからないような理屈《りくつ》だけど、私のお母さんは三人めよ、と悠子は心の中で訂正する。
「いや、口で説明して、どうなるもんでもないと思って。一度、会ってまおうと思っとるだわ」
「そうですね」
久美子を制する速さで、悠子は同意した。
「幾《いく》つくらいの方かだけ、聞きたいけど」
これが、最後の最後。
「二十一歳」
望みは、切れた。
十歳の久美子にとっては、二十歳以上はすべて大人に分類されてしまうことが、この場合は幸《さいわ》いと言ってよかっただろう。六十歳を過ぎた父には、孫《まご》でも通用する年頃だと久美子が理解したなら、さらなる大騒ぎが起こったに違いなかった。
悠子には、若い娘と結婚する老いた男の図式が、やはり醜悪《しゆうあく》に見えた。それがたいした問題でなくなったのは、二十一歳の女性では、悠子の実の母にはあり得ないという事実の方が大きかったからである。
悠子は、ウェンズデイを抱《だ》き締《し》めて泣いた。お母さんのくれたウェンズデイ。お母さんが名付けてくれたウェンズデイ。もう、どちらのお母さんにも会えない。
今日は、ウェンズデイが少し重い。涙《なみだ》が浸《し》み込んでしまったのかしら、と思って少し離《はな》して見ると、足元に久美子がとりついているからだった。
「久美子もウェンズデイが欲《ほ》しい」
悠子はウェンズデイから手を離した。久美子が、今度は頭からウェンズデイを抱え込む。
「久美子が欲しいのは、お母さんなんじゃない」
久美子の頭に手を置いて、悠子は尋《たず》ねた。
「うん」
「そんなら新しいお母さんが来ること、喜ばな」
「本当のお母さんが欲しい」
「無理言ったらかん。私は、よっぽどの人でない限り、新しいお母さんと仲良くしようと思っとるよ」
「本当のお母さんに悪いとは思わんの」
「お母さんは、そんな心の狭《せま》い人じゃない」
そう言いながら、悠子は考える。典子はどちらを喜ぶのだろう。悠子が、二人めの母を慕《した》ったように、三人めの母親も快《こころよ》く受け入れることか。それとも、悠子が誰にでもなつくのは、面白《おもしろ》くないかもしれない。他の女性の産《う》んだ子どもを、家庭の中へと引き取るには、他の女性が家庭の中へ入るときよりも、ずっと大きな葛藤《かつとう》と決断を要する。その決断をした典子は、悠子にとっての「特別なお母さん」でいたいかもしれない。典子がどう考えたかは別として、悠子は新しい母と仲良くしようと決めている。できたら姉のように接してもらいたい。他所《よそ》から来た者同士の、連帯感《れんたいかん》が欲しかった。同時に、久美子にも新しい母を受け入れて欲しいと思う。どこかから、新しい母に対する親近感が湧《わ》いて来るのだ。長いためらいの後、思い切って、悠子は言った。
「新しいお母さんと仲良くするなら、ウェンズデイあげようか」
「いらん」
久美子は、愛《いと》しそうに抱えていたウェンズデイを突き返す。それは半ば予想していた反応なので、悠子は安心してウェンズデイを受け取った。もし、本当に持っていかれたらどうしよう、と思っていたのだ。
複雑《ふくざつ》な思いでウェンズデイを抱き締めながら、母を知らない久美子のあの拘泥《こだわ》りは何なのだろうと、少し不思議に思った。
初めて美咲に会ったのは、ホテルのレストランである。地味な和服を身につけた美咲がその頃二十一歳だったことを考えると、随分老《ずいぶんふ》けて見えていたことになる。見せていた、と言うべきかもしれない。綺麗《きれい》な人だった。
「長女の悠子、次女の久美子」
父に紹介されたときにも、久美子は子どもじみた反抗心で、ずっと横を向いていた。
悠子は、美咲を嫌《きら》いではない。一生懸命に優しくなろうとしている人だと思った。久美子は、出されるものを食べるとき以外は、ずっと横を向いているので、悠子が積極的に話をした。学校のことや趣味《しゆみ》のこと、話題が核心《かくしん》に入って行くのが怖《こわ》くて、どうでもいいことを、次から次へと話した。
もう、二人が結婚することはわかっているのだから、改めて念を押されたくなかった。
途中からトイレに行きたくなったが、食事中にトイレもないものだろうと、デザートが出るまで我慢《がまん》した。
急いでトイレから出たとき、父が待っていた。
「いい人だと思う」
思わぬ所に出現されて、少し驚《おどろ》いた。それを隠す為と、機先を制する意味で父に言う。安堵《あんど》の色が、父の顔を覆《おお》うが、その下に複雑な表情がある。
「それは良かった」
「お母さんは、まだ少し難《むずか》しいけど、お姉さんみたいに、いろんなこと話せたらいいと思うわ」
「けど、おまえの本当の母親のことは話すなよ」
どうしてこの人は、いつも悠子の計画を踏《ふ》み潰《つぶ》しにかかるのだろう。
「おまえと美咲が結んだら、久美子が孤立《こりつ》してまうでな。そうなると、久美子がますます荒れる」
悠子は返事をしなかった。
「わかっとるならええけども」
父が追いかけるように言う。了承させられたも同然だった。父の言うことは、正しかったからである。
それがきっかけで、悠子は美咲との間に、しっかりと線をひくことになった。美咲が家庭に入ることに異存は無い。彼女を丁重《ていちよう》に扱い、彼女に従順《じゆうじゆん》であろう。あくまでも外から来たお客様として。よくて継母《けいぼ》として。けして母でなく。そこには、父に対する復讐《ふくしゆう》めいた考えもあった。父が、悠子の計画の出鼻《でばな》をくじいたから、それなら、あなたの妻から、あなたの娘である私は、一歩も二歩も離《はな》れてやるぞ。美咲に対するすまない気持ちも、すぐに合理化された。
痛々しいまでに、愚《おろ》かしいほどに、美咲は母であることを欲したのである。妹など求めてはいなかった。同列に並ぶ姉であることは考えず、ひたすら強大な力で娘達を守り、愛する存在であろうとしていたのだ。
そんな美咲にとっては、べったりと近い妹よりも、ある程度の距離を置いた娘の方が、ありがたい存在なのであろう。
十四歳の春、悠子が中三になろうという春に、美咲は平田の家に来た。その日から、猛烈《もうれつ》な久美子の反抗《はんこう》が始まる。悠子に叱《しか》りつけられても、効果はほとんど無かった。それに、久美子に泣かれると、悠子はどうしても突き放せない。
(久美子を孤立さすなって言ったの、お父さんだし)
そんな考え方は意地悪《いじわる》だ、とは思うが妙《みよう》に気持ち良いことも確かで、悠子は父に対する否定的《ひていてき》な感情の強さを、改めて認識《にんしき》した。
三年生の担任は、二年生のときに英語を教わった、女教師である。
「平田さん、若いお母さんができたのね」
「はい。いい人なので嬉《うれ》しいです」
探《さぐ》りを入れるように訊《き》かれ、悠子は必要以上にはきはきと答える。
「良かったわね」
「はい。受験にも専念《せんねん》できます」
「お母さんと言っても、まだ若い方だし、私にお手伝いできることがあったら、何でも言いなさいね。今まで、小さいお母さん役、御苦労様」
「ありがとうございます」
若過ぎる母について、とやかく言わない人で良かった。それとも、その点を考慮《こうりよ》して担任を選ばれたのかもしれない。たとえば、若い独身の男性を、今の悠子の担任につけては不祥事《ふしようじ》を起こせと、けしかけているようなものであろう。
悠子の方には、早熟《そうじゆく》な男子から父と美咲の年齢差をからかわれるくらいの問題しかなかったが、久美子の方では、当然のように問題が起こった。
「平田さん、いらっしゃい、ちょっと」
帰りの挨拶《あいさつ》の後、担任から呼ばれたときにもう、悠子は、あれじゃないかなあと予想していた。
「妹さんの担任の先生は、知ってるわね」
やっぱり、と頷《うなず》く。今日は、小学校の授業|参観《さんかん》なのだ。
「今日は、部活動はお休みして、今から小学校へ行ってくれないかしら」
悠子は、かくっと首を落とす。
「妹が何かしたんですね」
「さあ。平田さんに来てくれってことだけだったから」
「妹が、継母《はは》になつかないんですよ」
隠れてあれこれ言われる前に、悠子は自分から言ってしまう。下駄箱《げたばこ》の所で、同じクラブの友達に追いついて、
「妹が、なんか困ったことしたみたい。小学校に呼び出されてまったで、行ってくるわ」
さらっと言ってのける。友達もつられて、
「あんたんとこ、もうお母さんおることない? なんであんたが呼び出されるの」
デリケートな話題に似合わない、のんびりした口調で尋《たず》ねる。
「多分、そのお母さんが原因じゃないかと思うわけ。はよ済《す》んだら、戻《もど》るわ。じゃね」
悠子は、あくまで明るく中学校を走り出る。
久美子の通う小学校は、当然、悠子の母校でもある。しかし、久美子の担任は、悠子が卒業してから赴任《ふにん》した、知らない人だった。ここでも中年の女性である。職員室に久美子がおらず、美咲だけがうなだれて座っていた。若いせいで、美咲が叱《しか》られているように見えてしまう。
「失礼します。平田です」
職員室の入り口で、きっぱりした声を響《ひび》かせると、久美子の担任が迎えに来た。よく知らない相手であるせいか、悠子の担任よりも、少し意地が悪いように見えた。促《うなが》されるままに美咲の隣に腰をかけた悠子は、余計なお世話かもしれないと思いつつ、膝《ひざ》に重ねられた美咲の手に触《ふ》れ、軽く叩《たた》く。その手をすぐに引いて、教師の方を向いた。
「どうしたんですか」
「今日ねえ、授業参観だったんですよ」
「はい。知ってます」
「久美子さんがね、『この教室に、誰《だれ》のお母さんでもない人がいます。そういう人は追い出しましょう』って言い続けて、授業ができなかったの」
美咲は、ますます深くうなだれる。悠子の方は、恥《は》ずかしさで熱くなった。多分、耳が赤くなっているだろう。
「平田さんがすぐに出て行って下されば、授業は再開できたんでしょうけど、それでは何の解決にもなりませんしねえ」
そう言いながら、あのとき出て行ってくれていたらよかったのに、という顔をした。
「よく言って聞かせます。今後は、そういうことのないようにしますから」
「あら、お姉さんは、しっかりしてるのね」
ということは、美咲は何も言えなかったのだろうか。女教師はさらに、家庭をかき回すようなことを言う。
「そうね。実のお姉さんが、こんなにしっかりしとるんなら、いいわねえ。そっちにお任《まか》せすれば。本来なら、お母さんのお仕事ですけど」
どうやらこの女性は、中年女性の潔癖《けつぺき》さでもって、四十以上年上の男性に嫁《とつ》いだ美咲を、妙な目で見ているらしい、ということが、悠子にも感じられた。
「お父さんに言いましょう」
一時間ほど説教を聞かされた帰り道、悠子は美咲に言った。
「でも、母親の仕事ですよ」
予想通り、美咲は意地になっていた。
「父親の仕事でもあるんです」
意地を張り合えば、久美子が勝つことに、気がつかないんですか、と言いたいのをこらえて、悠子は話をそちらの方へ持って行く。
「でも、できる限りのことは、私がしませんと、久美子ちゃんの心を開くことはできないと思うんです」
「徐々《じよじよ》になさった方がいいと思いますよ、お継母《かあ》様。久美子は一筋縄《ひとすじなわ》では行かない性格ですから」
「でも、いつかは悠子さんみたいに、心を開いてくれるわよね」
美咲は、期待に満ちた目で、悠子を見た。困難な道を選んだ割には、この人は理想家だと悠子は思う。悠子は現実家だ。
「だといいとは思いますけど。姉の私にもわからない子ですから、どうなりますか」
余計な期待は失望につながるばかりだと、悠子は考える。しかし、リアリストの悠子にも、あなたが出過ぎると余計な混乱を招くから、慎《つつし》んでくれと面と向かって言うことはできず、とりあえず、父に頼んで他人の迷惑《めいわく》になることはしないようにと説得してもらった。久美子は、悠子と違って父に対して否定的《ひていてき》な感情は持っていないので、父の言うことは素直に聞く。
「学校で、しなきゃいいのね」
「家でもいかんぞ」
「どっちか一つしかやめれんよ」
「何故《なぜ》」
「お父さん、あの人と私と、どっちが大事?」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題だよ。どっちか一つやめるのは、お父さんが両方とも同じくらい大事だってこと、両方やめるのは、あの人のが大事だってこと。どう?」
久美子は上目遣《うわめづか》いに父を見る。
「同じくらい大切でしょ」
父の弱みを見事に突いて攻撃《こうげき》する。悠子は久美子の敵に回らなくて良かった、と思い、美咲がますます気の毒になった。
久美子は、学校ではいい子にしているらしい。家では鎮《しず》まることを知らない。けして、友達を家に連れて来ないのは、美しく優しい継母《けいぼ》を誉《ほ》められるのが嫌《いや》だからだった。
悠子が美咲と揉《も》めたのは、一度きりである。ウェンズデイを手離《てばな》せ、と美咲が言ったときだ。いつまでも、ぬいぐるみを連れて家の中を歩くものではない、と言った。
「そろそろ高校生になるんだから、少し大人《おとな》にならないと。それに、随分《ずいぶん》汚れてしまっているし。捨てちゃいましょう」
「友達の家にも、ぬいぐるみはあります。二十個も部屋に並べとる子もおるのに」
「それは飾りでしょう。悠子さん、連れて歩いてるじゃないの」
「あると落ち着くので」
「その状態を、卒業しましょうと言ってるの」
今度ばかりは頑固《がんこ》な悠子に、美咲も折に触れて注意を繰り返す。世話がかからない分だけ、母親を必要とすることの少ない悠子に対し、どうにかして親の義務を果たそうとしているかに見えた。
しかし、これも結局は、久美子との騒動《そうどう》につながって行く。
「ええがあ。お姉ちゃんの好きにさせたれば。あんたも意地《いじ》が悪いね」
「私は、悠子さんが精神的に大人にならなきゃいけないと思って……」
久美子は巧みに話を進める。
「お母さんの形見だもんねえ、持っとって欲《ほ》しないわねえ」
「形見?」
「しらじらしく、訊《き》き返さんといてくれる? 知っとるくせに」
怖《こわ》いけれど、感心してしまうほど、久美子は継母《けいぼ》をいじめるのが上手《うま》い。
「勝手だわ。自分の為《ため》に、お姉ちゃんからお母さんの思い出とろうとするの。いいがね。お母さん、死んでまったんだでさ、もう本人おらんのだで。思い出くらいそっとしとけば。そう邪魔《じやま》にもならんでしょ。それなのに、意地悪ーい。恩着せがましくさあ」
「そういうわけだったの? 形見だから大切にしていたの? 悠子さん」
「ただのライナスの毛布です。あると落ち着くんです」
悠子は静かに言った。久美子がそれ以上、何も言おうとしないのに、ほっとしながら。言いたいことを途中で止められると、久美子はヒステリックに喚《わめ》き出す。聞きたくないことも、言わせておくより他、ないのである。
本当は、形見だから、である。それも二人の母の。別に、美咲にあてつけるつもりは無い。ただ、美咲はどうしても「母」ではないので――「いい人」ではあっても「母」ではないので、よりどころとしての「母」が必要なのだった。それに、長い時間と人に言えない事情を共有してきた仲間《なかま》でもある。
「本当に?」
美咲が確認する。悠子が頷《うなず》く横で、久美子が言う。
「嘘《うそ》に決まっとるが。お姉ちゃん優しいもん、本当だって言うしかないの知っとって、わざわざ訊《き》くんだもんなあ。やんなっちゃう」
悠子は、聞こえていないことにしている。そうは行かない美咲が気の毒だ。
美咲は、それからぱったりと、ウェンズデイのことを口にしなくなった。
「ほーら、形見だからじゃないって言われたら、何も言わんくなった。やっぱりそのこと気にして、捨てろ捨てろって言っとったんだに」
久美子の毒舌《どくぜつ》だけが、相変わらず冴《さ》えわたっていた。
「お継母《かあ》様、卒業式には来て下さいね」
二月の半ば、二人きりの居間で、悠子は美咲に言った。父は出張、久美子はもう眠っている。
「いいの?」
「何を怯《おび》えてみえるんですか。私が来て欲しいんです」
美咲は、少しだけ嬉《うれ》しそうにした。疲れているのだろう。本当に、これ以上、精神や体がもつのだろうか。
「悠子さん、少しお話ししていいかしら」
「何を」
「久美子ちゃんがどうしてああなのか。教えて欲しいの。悠子さんは、とてもよくしてくれるのに、どうしてかしら」
悠子を縋《》るように見る美咲が憐《あわ》れだ。
「私にもわかりません。ごめんなさい」
本当に、悠子にもわからない。ただ、推測することしかできない。不確かなことを口にするのは嫌《きら》いな悠子だが、美咲を放っておくのは、あまりに気の毒で、敢《あ》えてその推測を口にした。
「父をとられたような気がするんじゃないですか」
「そう思う?」
「推測だけですけど」
「悠子さんにも何も言わないの?」
「ええ、何も」
本当は、「嫌いだ」「気に入らない」とは言っている。しかし、そんなわかりきったことをわざわざ教えることはない。
「じゃあ、悠子さんはどうして、私に反抗《はんこう》しないの」
他所《よそ》から来た辛《つら》さを知っているからだ。それを口にしてはいけないと、父は言った。それを守っているのも正直過ぎるかもしれない。しかし、それは逆手《ぎやくて》に取ることができる。父の言うことを守るから、美咲から距離を置く。それに、久美子と美咲のどちらにつくかの選択《せんたく》を迫られたら、悠子は迷わず久美子につく。
「どうしてでしょうね」
悠子は曖昧《あいまい》に笑って誤魔化《ごまか》すが、美咲は承知しない。
「自分のことなら、わかるわよね。どうしてなの」
「いい人だと思いますもん。好きなんです、お継母様が。好きな人が辛そうにしとるの、見るのやでしょ」
本当のことを言えないせいで、悠子の言葉はやや冷たく響《ひび》く。
「私、苦しいのよ。悠子さん」
「そうでしょうね」
「久美子ちゃんは、親よりも年が上の男性と結婚したことに、拘泥《こだわ》りを持ってるんじゃないかと思うのは間違ってる?」
「久美子には、そんなことわかりませんよ」
「悠子さんは、どうなの?」
「私は、人それぞれだと思いますから、構《かま》いません」
「あなたはクールね」
その言い方が、悠子には気に入らない。小さな報復《ほうふく》をする。
「相手によります」
美咲の表情に効果を見て取り、後悔《こうかい》する。
「悠子さん、私がどうしてここに来たかに興味ある?」
無いと言えば嘘《うそ》になる。あると言えば浅ましく響く。
「私、苦しいの」
美咲は繰り返した。
「あなた達の目が気になって仕方《しかた》ないの。悠子さんは、久美子ちゃんと違って、ものがよくわかっているし、私にも優しいから、私、何もかも聞いて欲しくなったの」
それはフェアじゃない、と悠子は思った。悠子には、何も言わせないで、自分だけ、すべてを吐《は》き出してしまいたいなんて。
でも、という考え方もある。言うなと言っているのは父だから、そんな言いつけ、破ってしまおうか。
「聞きたくありません」
悠子は、知らぬ間に首を振っている。
「お継母《かあ》様の辛《つら》さを分け持ってしまうのが、怖いんです」
「本当のお母さんの辛さなら?」
「今は、あなただけが母と呼べる人です」
「それで満足しなければならないんでしょうね、私は」
ここにも、悠子の憧《あこが》れる幸福な母の姿は存在しない。彼女達の姿を心に刻んで、そういう道を行かないようにしたい、という思いよりも、はるかに強い予感が胸を噛《か》む。
大きな力に流されて、自分の意志に逆らって、悠子も情の煩悩《ぼんのう》から解放されることなく生きてしまうのではないだろうか。
ウェンズデイは太ったかもしれない。彼女の涙を今までに沢山《たくさん》食べ過ぎて。
二人めの母は、ウェンズデイの実質的な名付け親になった。三人めの母は、彼女からウェンズデイを奪《うば》おうとした。東京に連れて行くと言ったときも、もう子どもじゃないんだからと、おかしいくらいムキになったっけ。そのとき継母《はは》はまだ二十代だったのだ。
「ウェンズデイ、私が何を言ったら本当になると思う? 今から何言っても嘘《うそ》だよね」
悠子の初恋《はつこい》は一希である。何も言えなかったけれど今まで八年間、一希より好きになれる人には出逢《であ》えなかった。けれども彼は、けして彼女の側にはいてくれそうになかったので……彼女をひどく幼い人物としてしか扱《あつか》ってくれなかったので……彼女はいつも彼の次に好きな人の側にいた。その人は彼女が夢《ゆめ》見て来たと言ったら、平凡《へいぼん》な幸せをくれると言った。そして、その日を目前にして、別の女の子を幸せにするために、どこかへ行ってしまった。ひどい男だ、あんな奴《やつ》と結婚《けつこん》しなくてよかったと周囲は口を揃《そろ》えて言ったけれど、彼女はむしろ悪いのは自分であると感じていた。一生側にいたいくらい好きだと口に出したのは彼女の方だ。二番めに好きでしかいられない人なのに。彼は自分を一番好きになってくれた女性の所へ行ったのに違《ちが》いない。
紛《まぎ》れもなく、愛していたのよ。
そうでなければ、心はこんなにも痛まない。
一希に思いがけなく再会し、初めて会ったときから好きだったと言っても、多分、信じてはもらえないだろう。他の男と一度は婚約《こんやく》までしている。そして一希は、彼女より後に知り会った女《ひと》を恋人《こいびと》と呼ぶ。
彼女は、どうしてあのとき何も言わなかったのだろう、などという自問はしない。理由はわかっている。自分にはその資格が無いと思っていたのだ。好きであればあるほど、いい人だと思い慕《した》うほど、この人は私生児なぞを相手にしてはいけない人だと考えた。
「会うことが、いけないことになると思う? ならないよね。誘《さそ》ったのは先生の方だもん。それに、会ったってそれだけだもん。何も起こるわけないもん。いいよね。会いたいだけなんだもん。それ以上のことは何も望まんもん」
二番めに好きだった人が側にいなくなってから、独り言が増えた。
三面鏡を覗《のぞ》き込み、止まらない涙《なみだ》を拭《ぬぐ》ってみる。一希があの夜、腰《こし》をかけたスツールに何故《なぜ》か座れない。
本当は、彼女は大声で一希を詰《なじ》りたいのかもしれない。悠子には、もうずっと、本当に自分が何を考えているのかが、わからないままになっていた。長い間、自分を殺し過ぎたせいかもしれない。自分に正直になって、期待したり望んだりしたところで、かなわず悲しい思いをするだけだという学習は、いつ行われたものだろう。
悔《くや》しくて、辛《つら》くて、私の方が先に約束《やくそく》してたのに、とわがままの一つも言いたい気持ちと、最初からわかっていた通りの展開だったという思い。それが行きつく先は、やっぱり私の人生なんかこんなもんだという自嘲《じちよう》だった。
そうよ。生まれたときから、どうせ望まれてはいなかったのだから。
3
本当に彼女は夜に出歩くことはないらしい。
「友達《ともだち》はいるの」
心配になって尋《たず》ねたら、
「はい。でも忙《いそが》しい人多いし、お嫁《よめ》にも行っちゃうし、なかなか」
というのが答えだった。
一希《かずき》が電話で呼び出したのは、気軽な雰囲気《ふんいき》の小さなレストランだった。軽く飲める店を先に考えたが、最初はこういった店の方が無難《ぶなん》だろうと考えた。そんな自分に苦笑する。最初は、なんてどういうつもりだ。これっきりかもしれないのに。そんなに度々《たびたび》会うわけにもいかないだろう。いや、しかしときどきは会い続けたい。昔《むかし》のままに、兄と妹のようなつきあいができたら最高だと思っている。
彼女のワインがなかなか減らない。
「お酒、嫌《きら》い?」
「苦手《にがて》です」
「弱いの?」
「そういうわけじゃないんですけど、苦手なんです。お酒飲むと、嫌《いや》なこと忘れるって言いますよね。逆なんです、私。嫌なこと思い出すんですよ」
「今までにあった嫌なこと?」
「覚えの無いことまで。よくわかりませんけど、小さい頃《ころ》のことじゃないかと思うんです。自分で憶《おぼ》えてないくらい小さい頃のこと。脳味噌《のうみそ》の襞《ひだ》の間に挟《はさ》まってるみたいな」
「だから、飲まないようにしてるの?」
「はい」
「ワインくらいじゃ酔《よ》わないよ」
彼がそう言うと、彼女はグラスを手に取り、もう一口|啜《すす》ってみる。
「無理に勧《すす》めてるんじゃないからね」
急いで言った。悠子《ゆうこ》はにっこりして頷《うなず》く。
「そう言えば、先生、今はどんなお仕事してらっしゃるんですか」
彼は大きなコンピューター関係の会社の名を言った。
「すごいですね」
「すごいかな」
「誰《だれ》でも知ってる会社じゃないですか」
「その中の部品だよ」
「いいえ。先生だったら、ちゃんと立派なお仕事してらっしゃるはずです。誰にもできることじゃなくて」
再会以来、初めて彼女の口調《くちよう》が強くなった。会えなかった空白の時間に対する過大評価。彼は、それを重荷に感じてもいいはずだった。しかし、テーブルの向こうから真剣《しんけん》に見つめる目と、テーブルの上で握《にぎ》りしめられた小さな拳《こぶし》が、彼には快いばかりだ。
「そう言う悠子ちゃんは」
「文具会社に勤めてます」
「専攻《せんこう》は何だったっけ」
「ロシア語」
「全然、関係無い仕事?」
「そうです。何のために大学行ったのかわかりません。先生にも、いろいろ苦労かけたのに。でも、今の仕事好きなんです。ノートなんかの表紙|描《か》く仕事。今度、持って来ます」
そう言って、はっとしたように口を噤《つぐ》む。今後、重ねて会おうとしているように受け止られはしなかったか。節操《せつそう》の無い、調子に乗り易《やす》い人間だと思われはしなかったか。一希は優《やさ》しく笑っている。そうだ、大人《おとな》の世界には、けして来ない今度が、あちらにもこちらにも転がっているから。口だけの今度は珍《めずら》しくないから。
「趣味《しゆみ》が仕事になったんだね」
「そうですね」
「かなり幸せなことだと思うよ、それ」
悠子は少し躊躇《ちゆうちよ》したが、頷《うなず》いた。
「はい」
「納得《なつとく》のいかないことまで、肯定《こうてい》しなくていいからね」
「え?」
「迷ってるように見えた」
「ええ。少し考えて、考えてみて、やっぱり先生のおっしゃる通りだと思いました」
「それなら構わない」
オードブルとスープで、お互《たが》いの仕事がわかった。メインディッシュは?
「どうして一人でいるか、訊《き》かないんですか?」
「言いたかったら言いなさい」
「先生は聞きたくないんですか?」
「知りたいよ。あれから、ずっと気にしてた。けど、尋《たず》ねることで悠子ちゃんを傷つけそうな気がした。これ以上傷つけられないよ。君はこの四半世紀には十分過ぎるくらいの傷を抱《かか》えてる。悠子ちゃん、俺《おれ》といるときは、尋ねられるのを待つのはやめろ。言いたいことだけ言いなさい。俺は君の言いたいことは、みんな聞きたい」
彼女は紅《あか》く肉汁を浮《う》かせた肉片に、銀色のナイフを入れる。
「夢《ゆめ》が叶《かな》うと思ったんですよ。平凡《へいぼん》な家庭を持てるって。憧《あこが》れ続けた、普通《ふつう》のお母さんになれるって。ほとんど一緒《いつしよ》に暮《く》らしてました。子どもも欲しいし、そろそろきちんと結婚《けつこん》しようかって言ってたんです。そしたら、お兄さんが死んじゃって。その人、実家が老舗《しにせ》の和菓子屋さんなんですよ。帰らなきゃいけないって、帰って跡継《あとつ》がないとって。一緒に帰ったら、向こうにはね、もう決まった許婚者《いいなずけ》が待ってたんです。老舗の格に、ちゃんと合った人が。信じてたんですけど、彼のこと。私しかいないって言ってくれたし。でも、親からの説得もあって、可愛《かわい》い人だったし、向こうの人、選んでくれちゃいましたね。一人で帰って来ました」
すうっと入ったかに見えたナイフなのに、最後に残った筋が一本、なかなか切れない。
一希は呆然《ぼうぜん》と悠子を見つめていた。怒《いか》りのために、肉が冷《さ》めて行くのを忘れている。彼の知っている限り、彼女はこれから先、誰《だれ》よりも幸せになっていい女性だった。辛《つら》い思いを沢山《たくさん》受け止めて来た、それで歪《ゆが》んだりもしなかった、いつも自分を脇《わき》へ置いて他人のことを考えて来た……その男とつきあっている間にも、どれほど尽《つ》くしたか。彼には容易に想像できる。
「先生、お肉、嫌《きら》いなんですか」
「大好き。いや、ひどい男だなって……」
「いい人でしたよ」
彼女は口元だけで笑って訂正《ていせい》した。
「いい人なんです」
「だって、悠子ちゃん、君は……」
「親孝行じゃありませんか。あれから会ってないけど、いい旦那《だんな》さんになってると思いますよ。そしたら、いい人じゃないですか。今の奥《おく》さんにとっては、かけがえの無い、いい人でしょう。本当に、優しいし、しっかりもんだし、お人好《ひとよ》しで……」
「お人好しは悠子ちゃんだよ。もうやめろ、そんな男|誉《ほ》めるの」
「先生でも許しませんよ。あの人のこと、知りもしないのに『そんな男』呼ばわりは」
彼女は笑う。悲しい顔も怒《おこ》った顔も見せない。彼は溜《た》め息をついた。
「参るよな、悠子ちゃんには、いつだって」
「すみません」
「どうして謝るんだよ。そうやって……いや、いい」
結局、彼女には何も言えない。
「なんですか」
「いや、いい」
「そうですか」
そうやって頭さえ下げてれば、自分の周りの問題が解決して行くとでも思ってるのか。少々|苛立《いらだ》って、一希はそう言いたかったのだ。そう言ったとしても、悠子は傷ついた顔すら見せず、頷《うなず》くのだろう。すみません、今までこうして生きて来たものですから……辛《つら》いことが多過ぎて、これ以上の辛いことを未然に防ぐためなら、何でもしたいって……弱虫なんですよね。そう言われると、自分にはもう彼女に説教する資格など無いと、彼は思ってしまうのだ。
一希は、悠子と過ごした三年間を悔《く》やみ始めていた。とにかく、希望の大学に入れることが一番の目標だった。だから兄妹のような仲とは言っても、結局は勉強という軸《じく》でしかつながっていなかった。それ以外のことは、おまけのようなもので、今考えると、たいした意味もなかったのだ。彼は、もう少し勉強なんか、さぼってもよかった。他人に甘《あま》えること、心を開くことを、あの三年間に教えるべきではなかったのか、それは彼の思い上がった後悔《こうかい》だろうか。そう思うと、再会の日、夢中《むちゆう》で助けを求めた悠子の苦しみが懐《なつ》かしくさえある。
会うのを今日でやめちゃいけない。何度も会って、あのときできなかったことをしなければ。そんな気がしてきた。
「それから、新しい恋人《こいびと》とかできた?」
「いいえ」
「忘れられないんだ」
「強《し》いて忘れようとは思いませんから。しがみついてるつもりもないですけど。縁が無いってやつですよ」
悠子はワインを一口|含《ふく》む。
「男運の悪さって、DNAの中に入ってるんじゃないでしょうか。しっかり遺伝しちゃうみたい」
「一度きりで、そんなこと言うなよ。まだ若いし」
「また、きちんと恋愛《れんあい》する気力、無いんです」
「ばか言ってんじゃない」
一希は手を伸《の》ばして、悠子の額《ひたい》を小突《こづ》いた。
ばかじゃありませんよ。いつだって二番めにしかその人のこと好きになれなくて、それで失敗してきたんですから。あたりまえですよね。一番に好きになってくれなきゃやですもんね。でも仕方がないじゃありませんか。一番好きな人の側には、もう、どんなことをしたっていられないんだもの。
「先生、恋人は」
「一応」
ほら。
「結婚なさるんですか」
「そのつもり」
やっぱり。
「お幸せに」
彼女は笑う。その本心を知らない彼にとっても、この笑顔は痛々し過ぎた。
「笑うなよ」
「笑います」
「辛《つら》いんだろう」
「泣いたら先生、困るんでしょう」
「困った奴《やつ》だな」
一希は、さっきから考え続けていたことを口にしてみた。
「俺《おれ》、悠子ちゃんのこと見たとき、すごく安心したし嬉《うれ》しかったんだよね。悠子ちゃんは、何もかもあんまり昔《むかし》のまんまでさ。俺のよく知ってる悠子ちゃんがいるってこと、ばかみたいに嬉しくてしようがなかった。うん。ばかなんだよね。それじゃ、いけなかったんだよ。悠子ちゃんのいい所も昔のまんまだけど、悪い所も変わってないんだ。他人のこと考えるのもいいけど、自分が積極的に幸せになること考えなきゃ。自分の人生を突《つ》き放して見るのはやめたほうがいいよ」
「そう言われても」
悠子は口ごもる。何かを一心に考える。一希を見ようとはしない。
「俺が教えてやるから。少しずつ。それが言いたかったんだと思うよ、ずっと。高校生の頃《ころ》からさ。ただ、あの頃の俺は本当に子どもで、何もしてやれなかった。でも、今なら何かできるんじゃないかと思う」
彼の言葉に、彼女は無表情になっていた。涙《なみだ》が溢《あふ》れようとするのを堪《こら》えたら、そんな顔しかできなかった。
これからも、彼が側で支えてくれるなら、それはとても嬉しいことだ。しかし、それは恋人としてではない。彼女は昔から、彼が恋人として側にいることを望んでいたのだ。だからと言って、奪《うば》おうとは死んでも思わない。死んでも。彼女の不幸は恋人の兄の死から始まった。恋人の親の決めた許婚者《いいなずけ》により決定された。自らの存在が他人に不幸をもたらすものであるなら、死んだほうがましだということを、彼女は学んでいた。生きていて他人の役に立つことなど無い。他人にマイナスをもたらさないことが、彼女にとっては、生きて行くぎりぎりの資格だった。
「そんなことしてて、彼女に叱《しか》られませんか」
「見くびるんじゃないよ」
一希に額《ひたい》を小突《こづ》かれて、彼女は、今度は楽しそうに、彼をなごませてくれるような笑顔を見せる。彼の言葉は、「俺って男を見くびるな。女一人にびくびくしたりしない」という意味にも、「俺の彼女は、そんなに心の狭《せま》い女じゃない」という意味にもとることができた。どちらであっても、彼女には関係が無い。どのような形であっても、とりあえず、彼が彼女を気にかけてくれるのであれば、それ以外のことは、どうでもよかった。
「悠子ちゃんは、いつだってしゃんとしてる。他人を頼《たよ》ったりしない。それは他人を頼るのが嫌《きら》いなわけじゃない。自分が頼ってしまうことで他人に迷惑をかけることが嫌《いや》なんだね」
他の誰《だれ》かが言うと、余計なお世話になることなのに。
「はい」
そう頷《うなず》くことで、悠子の気持ちはとても楽になる。
「少なくとも、俺は迷惑じゃない。誰にも頼らずに済ませられるのは、結構なことだよ。でも、無理に我慢《がまん》することないよ」
「でも、頼ること覚えると、私、怖《こわ》いかもしれない。爆発《ばくはつ》するかも」
「今まで、そんなにいろいろ我慢してきたわけ?」
彼女は頷く。彼は愛《いと》しげに苦笑した。
「ばかだね」
「ばかじゃありません」
彼女がムキになる。
「私、我慢してなかったら、どっかが崩壊《ほうかい》してました。私、名古屋にいた頃、幸せでした。学校での生活も、家での生活も、大好きでした。それ、我慢しとったからですよ。我慢|失《な》くしとったら、どっかが崩壊してました」
「俺《おれ》にはわからないけど、そうかもしれない。ごめん。酷《ひど》い言い方しちゃったね」
一希が素直《すなお》に自分の非を認めると、身を乗り出すようにして勢いのあった彼女が、急にしゅんと小さくなる。
「いえ、先生のおっしゃったことが、どうと言うんじゃないんです」
「俺ね、自分が何も我慢しなくてよかったからさ。家族とか親友とかって、我慢する必要が無いからそう呼べる相手だと思ってたんだ。確かに悠子ちゃんは、そういうわけには行かなかっただろうね。本当に悪かったよ。でも悠子ちゃん、また嫌《いや》なことを言ってしまうかもしれないけど、結婚するつもりだった人にも、我慢してたの? いろいろ……」
「そうですね。そうでもしないと、私の周りから人なんていなくなってしまいそうな気がしてましたから」
「一生そうして行くつもりだったの?」
「慣れてますから」
「俺は、けしていなくならないよ。どんなわがまま言っても、八つ当たりしてもいい。悠子ちゃんには、もっと感情を発散させることが必要なんだ。思った通りのこと、してごらん」
一希は、とても優《やさ》しい。口先ばかりではない。目が優しい。
これは、どんな優しさなのだろうと、悠子は考えてみる。この目は、とても優しい。けれど、恋人《こいびと》を見るときには、もっと別の目をするのだろう。この目を、この人はどんなときに使うのだろう。捨てられた仔犬《こいぬ》を見るときか。
それを考えると切なくてたまらない。けれど、優しさだけは本物だ。彼女は、それで満足しなければならない。
「わかったら返事しなさい」
「はい」
他人から見たら、二人は仲の良い恋人以外の何者でもない。そうでないことを、二人はどこかで不自然なほど、強調しようとしていた。そのために、「先生」と「教え子」の関係をデフォルメしていたのかもしれない。
悠子の仕事は、ノートやレターセットのイラストを描《か》くことである。特定の人気キャラクターを持っているわけではないが、それなりに評判は良かった。職場で机を並べる佐藤佳美《さとうよしみ》は、最近、仔猫《こねこ》のキャラクターが大人気となっている。しかし、売り上げは伸《の》びても月給が上がるわけではないし、名前が世間に出るわけでもない。ただ、喜んで使ってもらえるというのが、何よりも嬉《うれ》しいことだった。佳美は、ずっと近くにいて、悠子が恋をして結ばれて、一人になるまでを見てきた。姉御肌《あねごはだ》の佳美としては、それ以来、男には心を閉ざしたような悠子が、不憫《ふびん》でならないのである。
その日、悠子は自分が手がけた商品を並《なら》べて、考え込んでいた。一希に今度会うときに、どれとどれを持って行こうかと迷っていたのである。彼女の得手《えて》は動物を擬人化《ぎじんか》した子どもっぽいものなので、どれを持って行っても彼には似合わないような気がした。こんな仕事をしています、と知らせるだけなのだから、無理に使ってもらうこともないのだが、作り手としては、やはり使って欲しい。
「彼女に手紙書くときとか……」
わざと口の中で呟《つぶや》き、一希と自分の間に線を引こうとする。
「やっぱり、これかな……」
彼女にしては珍《めずら》しい、自転車や時計《とけい》、椅子《いす》等をかなりリアルなタッチでデザインしたシリーズがある。あまり売れなかったが、一希に贈《おく》るには一番良さそうな気がした。
「何してんのよ」
佳美が顔を出す。
「今までの商品の反省をもとに、明日の商品|創《つく》り出そうとしてるとか?」
「ううん。こないだ、世話んなった人にばったり会ったもんで、今、こういう仕事してますってことで、何か贈ろうと思って」
「あ、じゃあ、これにしなよ。このキャラクター、私、悠子の描《か》いた中で一番好き」
「てるてるボーイズ?」
「うん」
「三十歳近い男の人の喜ぶもんじゃないがね」
「えーっ、世話になった人って、そんなに若いの?」
「もっと年くった人にと思って、てるてるボーイズ勧《すす》めたわけ? 呆《あき》れた」
「いっそのこと、娘《むすめ》か孫にでもと思ったの」
佳美は、何か嬉《うれ》しそうだ。多分、誤解しているのだろうな、と悠子は思った。
「まあ、娘って線ならね……小さ過ぎるか」
予防線として、嘘《うそ》をついてみる。自分自身のためにも、一つ柵《さく》を作る。ここから先は立入禁止。それを誇張《こちよう》する。
「何だ所帯持ちか」
佳美は露骨《ろこつ》に落胆《らくたん》する。悠子は、わかりきったことを尋《たず》ねた。
「どうして佳美ががっかりしちゃうわけえ? 相手探してんの? 不倫《ふりん》でもいいじゃない」
「心配してんのよ、あんたのことを。いつまでも一人でいるんだから」
「いいじゃない。佳美だって一人だもん」
「恋人《こいびと》くらいいる」
「ごめんね、もてなくて」
こんなときの悠子の笑顔が、佳美には歯痒《はがゆ》くてたまらない。
「何度も言ってることを、また言わせたいわけね。よし、言ってやる。あんたは一人が似合うタイプじゃないってこと。側にいてくれる人がいて、能力を発揮できるタイプなんだから。一人で一生懸命《いつしようけんめい》になるの見てるとね、痛々しくて仕方ないのよ、あなたの場合。もてないわけじゃないって、自分でも知ってるんでしょ」
「知ーらない。初耳」
悠子は、佳美に勧められた品は無視して、最初に自分が選んだ何組かを、社名の入った封筒《ふうとう》に入れた。
「まだ、あんな男のこと想《おも》ってる」
佳美の方は、商品どころではない。声が真剣《しんけん》になってきている。
「あんな男呼ばわりだけは許さない」
悠子の目も真剣だ。
誰《だれ》かが、悠子を捨てた男を悪く言う度に、彼女の心は激痛《げきつう》を覚える。悪いのは自分なのだから。一生側にいると誓《ちか》いながら、二番めにしか好きになれなかった彼女が悪い。一番にしようと努力はしたけれども、結果は変わらなかったのだから、同じことだ。それを言ってしまうと、今度は自分が非難されそうで、口を噤《つぐ》む彼女は、やはり卑怯《ひきよう》だ。一番に愛してくれていたのに裏切ったと言うほうが、男にとっては勲章《くんしよう》になるだろうと、百歩|譲《ゆず》ったとしても。
だから、と言うのも、さらに卑怯だろうか。一希からの二度めの誘《さそ》いを断らなかったのを。積極的に待ちさえしたのを。彼女は、一番好きになれない男を、自分の側に何年も縛《しば》りつけておいた。今度は、彼女が一番に好きになってはくれない人に釘付《くぎづ》けになる番だ。想《おも》いの燃えるままに、他の女性を妻にしようとするその人を近くで見つめ続け、辛《つら》い思いをすることで、罪が軽くなるのなら。
「今度はどこで会おうか」
「お酒の飲める所がいいです」
即答《そくとう》だった。
「苦手《にがて》なんだろ。俺《おれ》のことなら考えなくていいんだぞ」
「先生、私の近くからいなくなったりしないっておっしゃいましたよね」
「ああ、しない」
嘘《うそ》。いつかいなくなってしまうくせに。けれど、優しい心から出た嘘だとわかっている。許そう。それ以上に感謝しよう。彼女の心を傷つけないために、嘘までついてくれる人がここにいる。
彼女の心は、彼に聞こえていたのかもしれない。
「少なくとも今はしないよ」
彼は訂正《ていせい》した。
「わかりました」
悠子は頷《うなず》く。
「それなら私の醜《みにく》さを徹底《てつてい》的に見ていただきたいんです。私、多分|普段《ふだん》は毒にも薬にもならない人間なんだと思います。けど、お酒飲んだら泣いてからむんじゃないかと思うんです。先生、受け止めて下さいますよね」
受け止めて下さいますか、とは尋《たず》ねなかった。受け止めて下さいますよね、と言った。少なくとも一希は、彼女がこんな言い方をするのを聞いたことはない。すべてを自分の中で完結させようとしてきた彼女が、何かを彼の方に向けている、開いているサインである気がした。不安が無いわけではなかったけれど。悠子がここまで言うのだから、相当の何かを心に持っている予感はあったけれど。
「あたりまえだ」
彼は、そう答えなければならなかった。
「今日、私、いつもよりブスじゃありませんか」
いきなり尋ねられて一希は、
「いつもよりと言うなら綺麗《きれい》だ」
と答えた。少しメイクがきつい。個人的に好きではないが、悠子は悠子だから、プラスには評価しない代わりに、マイナスに評価もしない。店の雰囲気《ふんいき》や照明のことを考えると、それが合っているかもしれない。一希としては、そんなこと、どちらでもいいのだが、正直にそう言うよりは、綺麗だと言うのが礼儀《れいぎ》だと思った。相手が優子だったら、俺は厚い化粧《けしよう》は嫌《きら》いだとはっきり言っただろう。だけど、そんな化粧は夜だけにしておいたほうがいいよ。言おうとして口を噤《つぐ》む。夜にしか会わない二人の関係に、こんなにも健全なものであるにもかかわらず、何かしら淫靡《いんび》な匂《にお》いを感じてしまった。それが化粧という、彼にとってはかなり性的な印象の強いものと結び付いて、口に出せない感情を作る。
「先生にお会いするんだからと思って、きちんとお化粧したら、なんか馴染《なじ》めなくて、お化粧って綺麗になるためにするもののはずなのに、ブスになっちゃったみたいで」
「そんなことない。悠子ちゃんは、悠子ちゃんが思ってるより、ずっと綺麗な子だよ」
「ありがとうございます」
「お礼を言うことじゃないんだから」
一希は、なんとなく感じた妙《みよう》な気持ちが胸の中で大きくなっていくのを感じる。少年のような、微《かす》かな緊張《きんちよう》が身体《からだ》の芯《しん》を走って行く。
「飲みたいって言ったのは悠子ちゃんだろ。何を飲むんだ」
「ああいうのがいいです。いろんな色した」
彼女は控《ひか》えめに、カウンターの三つ四つ離《はな》れた席を示す。
「カクテル?」
「はい」
「どれ」
「赤いの」
彼は手元のメニューに挟《はさ》まれた写真入りのカクテルの案内を見た。
「やめなさい。強いよ、あれは」
「じゃあ……」
「ピンク」
一番弱そうなものを選ぶ。彼女は素直《すなお》に頷《うなず》いた。
「はい」
彼自身には水割り、それにパスタとサラダ、軽い食事を頼《たの》む。しばらくは会話の糸口が掴《つか》めない。
「先生、『ちょうちん』って映画、ごらんになりました?」
「いや」
彼女の尋《たず》ね方があまりに唐突《とうとつ》だったので、記憶《きおく》を確かめもしないで答えてしまった。ゆっくりと検索《けんさく》してみても、やはり観《み》ていない。
「そうですか」
悠子は何かしら嬉《うれ》しそうだ。沈黙《ちんもく》が重かったので、それを取り去ることができて、ほっとしているのだろう。
「その映画の中で、石田えりが、ひどい顔して出て来る所があるんですよね。おかしなメイクしてるとかそういうんじゃなくて、ごく普通《ふつう》のひどい顔なんです。なんかブスだなーと思って見てたら、言うんですよね『私、ブスでしょ』って。その続き、何だったっけ、『早く会いたくて化粧《けしよう》もしないで来たの』とか……忘れちゃったけど、そんなようなこと言うんですよ。いいな、と思って。健気《けなげ》ですよね。でも、下手《へた》な化粧してブスになるのなんか、みっともないばかりだし。それにもう一つ、『ブスだなあ』って思ってるこっちの心を見透《みす》かされた痛みも感じたんですよね。誰《だれ》が見ても明らかなブスでないと、このシーン、意味無いんですけど、でも、女が同性のことブスだって思うとき、優越感《ゆうえつかん》があると思います。それって醜《みにく》いでしょう。それ言いあてられたみたいで、どきっとしました」
そう言う間に、グラスが空《から》になっている。
「美味《おい》しい?」
一希が尋ねると、嬉しそうに頷いた。
「気をつけなさい。口あたりに騙《だま》されるぞ。飲み易《やす》いけど、それでも結構強いんだから。お酒、今までそんなに飲んでないんだろ?」
「はい。二、三回で懲《こ》りました」
尋ねるだけ虚《むな》しい。彼女の頬《ほお》は、既《すで》に、ほんのり、などというものではなかった。
「もう、やめなさい」
「どうしてですか」
「顔色がすごい」
彼女はポシェットの中からコンパクトを出す。
「あ、ほんとだ」
「気持ち悪くならない?」
「全然」
「ならいいや。でも、今日はやめといたほうがいい」
「はい」
それでももっと飲みたい、とだだをこねるなら、そうさせてやろうと思っていた。彼女の一人くらい、潰《つぶ》れたって連れて帰ることができるし、彼はそんなこと何とも思わない。彼女は一生、負い目に思うだろう。
それきりで飲むことをやめた彼女は、泣きもからみもしなかった。その日も普通の世間話をし続けた。しかし、やめさせておいたのは正解だ。カウンターの高いスツールから下りた彼女の腰《こし》が、すとんと垂直に落ちる。一希がさりげなく支えたから転びはしなかったけれど、これは酒が利《き》いている。腰に手を回して店を出た一希は、これはどこから見ても腹が立つ恋人《こいびと》だな、と思った。人目を考えずに自分の世界に浸《ひた》る恋人達。ほとんど例外なく嫌《きら》われる。一希は絶対に人前で恋人と必要以上の接触《せつしよく》は持たない。優子が手をつなぐのは放《ほう》っておくが、腕《うで》を組む体勢に入ると、どうにかして組めない形に腕を持って行く。もしかしたら、優子ともこんな姿勢で歩いたことはないかもしれない。そして、これで優子にばったり出くわしたりしたら大事《おおごと》だな、とも思う。従妹《いとこ》と教え子、どっちがいいんだろうな、いいわけに。
「大丈夫《だいじようぶ》?」
タクシーに乗るまで、一希の支えが必要だったけれど、頭の方はしっかりしているらしい。
「申し訳ありません」
声もしっかりしている。
彼女のマンションの前、一希はタクシーを待たせずに返した。
「大丈夫ですよ」
そう言いながら、三歩めでよろける。
「そうじゃないみたい」
部屋《へや》の前まで連れて行く。
「ここまでで、大丈夫だね」
一度は入った部屋だけれど、若い女性が一人で暮《く》らす場所だ。無遠慮《ぶえんりよ》に入りたくはない。
鍵《かぎ》を回して、悠子は言うつもりだったのだ。はい、大丈夫です。ありがとうございました。今日はとても楽しかったです……またいつでも誘《さそ》って下さい……それとも彼女に叱《しか》られますか……お気をつけて帰って下さい。けれど、みんな口元で凍《こお》ってしまった。
振《ふ》り向いて、一希を見上げた瞳《ひとみ》からは涙《なみだ》が止まらない。半開きの唇《くちびる》は、それでも言おうと努力しているのだ。ありがとうございました……さよなら。
「悠子ちゃん、部屋に入っていい?」
そう尋ねることが、即《すなわ》ち彼女の許可だった。返事は待たず中に入る。彼女は上がり口にぺたんと座り込んで、涙を零《こぼ》し続けた。
彼には弟しかいない。だから兄と妹がこういうことをする関係であるのかどうかわからない。彼が、彼女とは兄と妹のような関係でいることを望んだのも、彼が彼女を胸の中にしっかりと抱《だ》き締めていたのも事実だ。
息が止まるかと思う。
お互《たが》いに、それは意外過ぎる展開で。
彼女には彼の真意が全く見えない。けれど彼女は、その手をふりほどこうともしない。真意はどうでもいい。彼女は、これを望んでいた。彼女はいろいろなものを欲《ほつ》した。欲したが求めはしなかった。求めても得られないことがわかっていたから。側にいることを、言葉を交わすことを、笑いかけられることを欲しているのだと思っていた。それだけではなかった。体温を感じることも、肌《はだ》を重ねることも欲していた。こうなったから、それがわかる。真意がどうであっても、今後の展開がどうであっても、彼女はその時間を幸せだと思っていた。
彼は自分の意志を越《こ》えて動いて行った身体《からだ》を持て余す。それが愛《いと》しいと思う心からか、もっと原始的な性の衝動《しようどう》なのか。前者だけだと言うほどの偽善者《ぎぜんしや》でもなく、後者のみだと言うほど、卑屈《ひくつ》でもない。両方に決まっている。
二人は戸惑《とまど》い、どうやってこの収拾《しゆうしゆう》をつけようかと考える。そして、結論も出ていないので体勢を変えない。身体を離《はな》したら、お互いの表情を見なければいけない。
彼はありとあらゆるネガティヴな表情……嫌悪《けんお》・軽蔑《けいべつ》・諦《あきら》め――を彼女の上に見るのが怖《こわ》かった。彼女は、彼の後悔《こうかい》を表情に読み取ることが怖かった。
それだけではない。この後、どんな顔をして、何を言って帰ればいいのだろう。これから二人を、どういう関係だと思えばいいのだろう。このまま断ち切るには切《せつ》な過ぎるものが、二人をつないでいる。
結論も出せないまま、離《はな》れて行こうとした一希を止めたのは、悠子の弱くて細い手の力だった。ぎゅっとスーツを掴《つか》んで、離そうとしない。
「悠子ちゃん……」
彼女は俯《うつむ》いている。一希には小柄《こがら》な彼女の後頭部だけが見える。
「何を考えてるのか、教えてくれ」
彼女は答えない。肩《かた》の震《ふる》え方で、泣いているとわかったが、とても静かだった。
「教えてくれ」
繰《く》り返された質問に答える声は、やはり泣いていた。
「言えないことを考えています」
「どうして言えない?」
「言っちゃいけないことってあるでしょう」
「無い」
「あります」
「俺《おれ》には無い。何でも言いなさい、心の中に溜《た》めて、腐《くさ》ったらどうする。言いたくないなら言うな。言っちゃいけないことだから、言いたいけど黙《だま》ってるなんていうのなら、言っちゃえ」
「言いたいけど、言ったら、大切なものを失《な》くす!」
彼女はスーツを握《にぎ》りしめた拳《こぶし》で激《はげ》しく彼の胸を叩《たた》いた。そうして、何回も肩で息をした後、小さく小さく言った。
「あなたが、好きです」
平凡《へいぼん》な、どこにでもありそうな言葉だった。けれど、それを口にすることがどんなに重い労働であるか、多くの人が知っているところの。
彼は、自分はこの言葉を予想していたのかもしれないと思った。今の自分の気持ちがわからない。意外さに驚《おどろ》いているのか、来そうなものが、やっぱり来たか、と思っているのか。
「いつから?」
「多分、初めて会ったときから、ずっと」
「そんなこと言ったら……」
その答えは、紛《まぎ》れもなく予想外で、一希を驚かせた。
「はい。そのまま、他の人の所へ行きました。努力はしたんです。その人のこと、一番好きになろうとしました。信じて下さい。駄目《だめ》だったけど。だからあの人、ひどい男じゃないんです。悪いのは、あの人のこと、二番めにしか好きになれなかった私なんです。だから……」
「それも言いたいことか。辛《つら》いから思い出さずにおきたいことじゃないのか」
彼女は答えもしなかったが、話を続けようともしなかった。明らかに予想外な事実が出現したことで、彼の混乱は、おさまりかけていたものが再度|噴《ふ》き出そうとする。彼は緩《ゆる》めかけた腕《うで》をもう一度|締《し》めつけた。
「先生、先生」
泣きながら彼女が叫《さけ》ぶ。
「服が汚《よご》れますけど」
「こんなときに……莫迦者《ばかもの》」
本当に……なんて莫迦なんだ。
「どうしてあのとき……六年前に何も言わずに別れたんだ……最初から……そうしたら……」
それ以上言ったら、彼は優子を裏切る。
「私には、そんな資格無いと思っています」
「今も」
「はい。だって先生、今の彼女と別れて、私とつきあおうなんて思わないでしょう」
その通りだ。こうなってしまったけれど、そして、もし悠子が何年か前に自分の想《おも》いを明らかにしていたら、彼の人生も全く違《ちが》う展開を見せただろうと思っているけれど。
「思うと言ったら」
「死にます」
「なぜ」
「先生がそんなことなさったら、相手の女の人が不幸になります。その原因は私です。私が存在することで誰《だれ》かが不幸になるんだったら、私は死にます。存在しなくなります」
彼は彼女を自分の胸から剥《は》がした。あれから初めて、彼女の顔を見た。涙《なみだ》に流れた化粧《けしよう》も鼻水も、けして醜《みにく》くはなかった。しゃくりあげるのを堪《こら》えようとして、二、三秒ごとにひきつる唇《くちびる》の赤が愛《いと》しかった。そして彼女の顔には、彼が怖《おそ》れていた類《たぐい》の表情は気配さえも無い。彼が顔を近付けて行くと、彼女は少し身体《からだ》を退《ひ》いたようだったが、それ以上は動かなかった。
唇が触《ふ》れるまであと一センチの所で、彼は寸止めをかける。
「このまま止めなかったら、後悔《こうかい》するぞ」
「しません」
「きっと、する」
「しても構いません」
距離《きより》を零《ゼロ》にする為《ため》の動きは、彼女の方からだった。
「ユウコ……」
呟《つぶや》いた名前が、どちらのものなのかは、自分にさえもわからない。
「ばかだな」
それが誰《だれ》に向けられたものなのかも。
4
冷静になって考えると、一番の大莫迦者《おおばかもの》は自分だという気がする。しかし、罪の意識は無いのだ。考えてみると、一希《かずき》と悠子《ゆうこ》は家庭教師時代から、妙《みよう》な一体感を持ってはいた。自分自身と何をしても他人に文句を言われる筋合いはなかろうという、誰が聞いても通りそうにない理屈《りくつ》を、大真面目《おおまじめ》に自分に言い聞かせたりもする。一希の頭は、仕事をする状態にはなかった。
一希は、それでいい。悠子の方はどうだろうか。彼を恨《うら》んだとしても不思議はないし、優子との別れを迫《せま》っても不自然ではない。世間|一般《いつぱん》で言えば、優子を不幸にするくらいなら死ぬと断言するほうが、よほど不自然だ。しかし、悠子が口にするとそうでもない。彼女は巧妙《こうみよう》だ。彼の逃《に》げ道を作っておいてから、危険な場所へ誘《さそ》う。彼女は死ぬと言ったら死ぬだろう。彼女を生かしめるために、彼は優子の側に留《とど》まらなければならない。恩師の娘《むすめ》、彼に数々の利益をもたらす存在。悠子に提供できるものは、彼女自身と心だけだ。優子のために、悠子のために、彼は今いる場所に立っていなければならない。二人の女性を共に愛し、愛される快い場所に。
大莫迦者の上に、もう一つ何かつけてもいいかもしれない、というのが彼の自分に対する評価である。悠子の方はどうだろう、などと一瞬《いつしゆん》でも考えてしまったことに対して。そう考えること自体が、彼女に対する裏切りであるような気がした。裏切りなどという単語を、彼女の辞書は持っていないかもしれない。不信くらいなら持っているだろう。彼女のあの目を信じていないことになる。彼の腕《うで》の中で、彼女は笑っていた。小さくて頼《たよ》りない、その瞬間《しゆんかん》にも彼の支えが必要な彼女なのに、笑みは大きく寛《ひろ》く、母性をたたえているように見えたのが不思議だった。改めて「平田悠子」ではなく、ただの女として見てみると、幼く見えた身体《からだ》が、小柄《こがら》で華奢《きやしや》な全体の印象に反抗《はんこう》するように、煽情《せんじよう》的なほど豊かな曲線を持っていることがわかる。
彼の中に、罪の意識は無い。悠子との関係がこうなってしまった以上、悠子か優子、どちらかを断たねばならない、それが道徳だという知識は持っているが、相手が悠子であるだけに、ピンと来ないのだ。兄妹のような関係に肉体の接触《せつしよく》が加わっただけではないか。それは、罪でもなんでもない男女の接触が、近親|相姦《そうかん》という名のもとに白眼視される危ない関係でもあるかもしれないが。
一希の悠子に対する理解は、彼女の彼に対するそれよりも正しかったのだろう。正しく理解しているから、信じることができるし不安も感じない。彼女の方はそうは行かなかった。彼が後悔《こうかい》しているかもしれないという考えが、一瞬《いつしゆん》も休まず彼女を苦しめ、二度と彼に会えないことを彼女は怖《おそ》れた。彼の気持ちを理解していない、と言うより、彼女の心は不安定であり過ぎる。自分を信頼《しんらい》していなさ過ぎることが、他人を信じることを妨《さまた》げる。
不安がある。畏《おそ》れもある。けれど彼女のどこかが幸せに笑っている。長い時間の、青春と呼ばれる時間のほとんどを費やした思いが報《むく》われたことに、嬉々《きき》としている場所がある。二度と会えなくても、あの時間を知ることなく一生過ごすよりはいい。彼女は偶然《ぐうぜん》の出逢《であ》いに感謝するべきか、運命を信じるべきか、迷っている。
多分、彼が何事も無しに昨夜、帰って行ったのなら、彼女はとっくに電話をかけてお礼を言っていただろう。お礼の電話をかけるんだから、と自分の行為を正当化しつつ、彼の声を楽しみ、あわよくば次の誘《さそ》いをくれないかと期待もして。
彼女は、一希の優《やさ》しさをよく知っている。優しさがときとして嘘《うそ》をつかせることも知っている。たとえ後悔していても、彼に電話をかけたら、優しい声が答える。だから、彼女は電話の前に座り込んだまま。受話器を持つことまではできるけれど、ダイヤルが回せない。
これが本当に好きだということなのだとしたら、誰《だれ》かを好きでいること、その人との接触《せつしよく》を良好で不安の無い状態に保ち続けることは、結構、高等な技術だ。今までつきあってきた男性に対して、こんな不安を感じたことはなかった。
ダイヤルが回せないまま、電話機から離《はな》れることもできないでいると、ベルが鳴る。
「悠子ちゃん」
「先生?」
やっぱり……と言いたかった。そんな予感がしてました、と。けれど、それは正しくない。予感が当たったのではない。期待なのだ。
「会いたい」
ただでさえ速かった鼓動《こどう》に、それで加速度がつく。
「いつですか」
「今。いいか」
「はい。どこへでも行きます」
彼女は、時計《とけい》も見ないで言った。かなり遅《おそ》い。
「来なくていい。俺《おれ》が行く」
「どこへ」
「そこ」
彼女が息を呑《の》む音が、一希にまで聞こえた。
「いいか」
「はい。今、どこ……」
「三十分くらいで行ける」
「待ってます」
三十分|経《た》ったら会える。二度と会えなかったらどうしよう、と思っていた。たった三十分で、また、会える。
この部屋に来て……来て、それから二人でどこかへ行くのだろうか。それとも、ここにいるのだろうか。彼に呼び出されたら、どこへでもすぐに飛んで行こうと思っていたけれど、自分がそんな状態にはないことに、彼女は気付いた。どこかへ出かけようと思ったら、それがたとえ三十メートル先のコンビニエンスストアであったとしても、まず、パジャマは着替《きが》えなければならないだろう。濡《ぬ》れた髪《かみ》も乾《かわ》かしておきたい。手入れの大変な長い髪だけれど、なんということはなく伸《の》ばしている。髪を傷めるのが嫌《いや》で、ドライヤーも最低限にしかあてないようにしているから、彼女はいつも、早めに入浴して洗い髪は自然|乾燥《かんそう》させる。
とにかく、今は、パジャマだけでも着替えなければ。急いで立ち上がった拍子《ひようし》に、踏《ふ》みつけたクッションが勢いよく滑《すべ》る。したたかに打ちつけた膝《ひざ》は、涙《なみだ》が出るほど痛い。こんなに痛い思いをするのは久し振《ぶ》りだ。膝を抱《かか》えてぴょんぴょん跳《と》びながら、ポロシャツとフレアースカートに着替える。必要もないのに下着入れを開けて、替えようか、替えるとしたら、どれにしようかと考える。そのうちに、お茶も出せないんじゃ気まずいと考えつく。冷蔵庫の中に、烏龍《ウーロン》茶があったはず、それともポットのお湯、まだ鈍《にぶ》く痛む膝を抱えて、キッチンまで走る。
「どうしよう。私、何したらいいんだろう」
彼女は苛々《いらいら》して足を踏み鳴らした。一希がここに来るのは三度めだ。今さら、何を取り繕《つくろ》うこともないかもしれない。しかし、一度め、彼女は体調を崩《くず》して寝込《ねこ》んでおり、二度めは泥酔《でいすい》していた。しゃんとしているときくらいは、最高の状態で見てもらいたい。
時計を見ると、まだ余裕《よゆう》はある。それはそれで、彼に会うまで、まだ二十五分も待たなければならないのかと腹立たしい。苛立《いらだ》ちの中で彼女は思った。こうして彼が来た後は、どんな長さであろうと、彼の訪問は恐《おそ》ろしく短いものに感じられるのだろうと。それがこの世のきまりなのだから、人生やってるのも、たまに莫迦莫迦《ばかばか》しくなる。
彼女の部屋《へや》には、チャイムがついている。そのドアを、ノックする人もいる。
「先生?」
念のために、ドアアイから覗《のぞ》くと、魚眼《ぎよがん》レンズの形に歪《ゆが》んだ顔をして一希が立っていた。
「俺《おれ》だよ」
答える声が小さく優しい。
「急に、悪い」
後ろ手にドアを閉めながら見た悠子の姿の中で、一番印象的なのは濡《ぬ》れた長い髪《かみ》だった。彼女は結局、髪を乾《かわ》かすことは忘れていたのだ。三十分前に予告は受けていたし、待って待って待ち続けていたのに彼女は、戸惑《とまど》っている。
「どうぞ、上がって下さい」
語尾《ごび》が、ひっくり返りそうだ。
「迷惑じゃなかった?」
「とんでもない。いつでも来て下さい。本当に嬉《うれ》しいです」
「こんな遅《おそ》くに、悪いとは思ったんだけどね。ごめん」
「遅ければ遅いほど嬉しくなります。こんな、こんな夜中にも、私のこと考えてくれる人がいるなんて」
彼女は、彼が脱《ぬ》いだ靴《くつ》を、さりげなく揃《そろ》えた。そして立ち上がり、彼の眼差《まなざ》しに出会って困惑する。こんなときに、咎《とが》めるような目で見られなければいけないのはなぜだろう。しかし、どうして、という疑問は彼の方から発せられた。
「どうしていつも、そういう考え方をする? 何がそんなに寂《さび》しい?」
「だって……」
彼女は絶句する。いつものように。
何が、とわかっていたら、彼女はもっと楽なのかもしれない。そして、改めて訊《き》かれると困る、ということもある。自分の外ではなく、中に何かが抜《ぬ》けている寂しさのような気がするそれとは、慢性《まんせい》的につきあってきた。
「上手《うま》く言えませんけど」
そう言われてしまうと、彼もそれ以上は訊《き》けなくなる。彼女は、ふと口に出してみた。
「こういう気持ち、そう言えば寂しいって言うんですね。先生に言われて気がつきました。先生、何かお飲みになりますか。お酒はありませんけど。あ、すぐ近くに自動|販売機《はんばいき》ならあります」
続けて彼女は尋《たず》ねた。座卓《ざたく》の前のクッションに、勧《すす》められるまま、一希は腰《こし》をおろした。
「お酒はいらない。何か冷たいものがあれば。烏龍《ウーロン》茶か何か」
「はい」
彼女はキッチンへ、ぱたぱたと駆《か》けて行く。
「でも先生、どうなさったんですか」
キッチンから声が聞こえる。
「それが何でもないんだ」
答えながらも、それは本人を説得する力さえ持たない。
「実に何でもないんだ、いや本当に」
説得力を持たせようという努力が仇《あだ》になって、ますます泥沼《どろぬま》にはまる。からからと氷の触《ふ》れ合う音をたててグラスを運んで来た彼女は、それ以上追求しようとはしなかった。
実は、彼は昨晩のことを確認しに来た。彼女が怒《おこ》っていないか、傷ついていないか、彼を蔑《さげす》んでいないか。彼女はそれらのネガティヴな感情を行動や表情・言葉には出さない。しかしそれらは、彼女の近くにいるとおさえようなくふりかかって来る。どこからか滲《にじ》み出ている。彼は、言葉で確認するつもりだった。昨夜のことを、どう思っているのか。これから、どうやってつきあっていけばいいのか。会わないようにするか、昨夜のことは無かったものとして、今まで通りのつきあいをするか、それとも昨夜のような関係として続けるか。その場合、悠子は優子のことを、どう考えるのか。すべて言いにくいことばかりだ。が、それらをはっきりさせないことには、不安でやっていられないだろうと、彼は考えたのだ。ここに来るまで、そう考えていた。
ドアを開けた悠子は、戸惑《とまど》いながら、歓迎《かんげい》を滲み出させていた。それが彼に間違《まちが》いを気づかせる。言葉にしたら、彼は悠子を永遠に失っていた。それ以上に、彼女を深く傷つけた。
確認の必要は、何も無い。
「ずっと帰ってないけど、今度、名古屋に行こうかと思ってます。お継母《かあ》様と話がしたくて」
一希が黙《だま》っているので、悠子が話し始めた。
「どうして急に」
「うーん、なんか……なんかよくわかりません。年齢《とし》も七つか八つしか離《はな》れてないし、もちろん、本当の母親じゃないけど、とにかく今の私が『はは』って呼べる唯一《ゆいいつ》の人だし。久美子《くみこ》がなんだかんだ言って、そのまま名古屋の短大行っちゃったから、家にいて、あの子も先生がいらしてた頃《ころ》ほどの反抗《はんこう》はしないけど、素直《すなお》じゃないし。お継母様、偉《えら》いですよね。頑張《がんば》ってる。気に懸《か》かるのは、もう十年近くにもなるのに子どもがいないことで……お継母様も、そろそろ高齢《こうれい》出産になっちゃうし、できないのか、つくんないのか……私、子どもがいないことって、不幸だと思ってますから……私のことはともかく、久美子を憚《はばか》ってのことなら気の毒だなあって。父が老齢《とし》だってこともありますけど」
「帰ろうと思うとき、お父さんのことは考えないの」
「はい」
彼女の答え方には、妙《みよう》な力があった。
「本当のお父さんだろ」
「そうなんですけど、あんまり構われてないんです。なんか、女にだらしのない男って印象しかなくて。甘《あま》えたこととか、記憶《きおく》ありません。久美子は違《ちが》うみたいですけど。やっぱり本妻の子ですよね」
そんな言い方はやめなさい、と言いたかったが、その前に、もっとひっかかることがあった。
「俺《おれ》もだらしないぞ、女に」
彼は、彼女を試す。さあ、どうする? 嫌《きら》いになるか?
彼女の目に浮《う》かんだ悲しみの色が、彼の心を痛くする。だが彼女の答えは、このときも速かった。
「先生は、だらしがないんじゃないんです。心が大きいから、私も入れるんですよ」
「そんなふうに考えて、後悔《こうかい》したら、どうする」
「本望《ほんもう》です」
思いつめた目をした後、彼女は口元を綻《ほころ》ばせたが、少し無理が見えた。
「先生と父は違います。先生は、自分の娘《むすめ》を、その母親以外の女に押《お》しつけて、子どもを持ってかれた女と押しつけられた女と、両方を不幸にしたりはなさらないんじゃありませんか。自分の娘だでってひきとったんなら、自分がどうにかしたらいい」
そう言えば、家庭教師の時間が早かったせいか、彼女の父親とは、三年間、一度も顔を合わせなかった。彼女の言葉は彼に美咲《みさき》を思い出させもした。あの頃《ころ》の美咲は、今の一希よりも年下だったのだ。あの頃は、まだ女の子、と呼ぶことが許される風情《ふぜい》だった彼女も、そろそろ中年期にさしかかっていることだろう。会えばがっくりするほど、老《ふ》けてしまったかもしれない。
平和過ぎる家庭に育った一希は、ごく普通《ふつう》に、父を尊敬もし、疎《うと》ましく思いもしている。だから彼女の目に初めて見る、父親への憎悪《ぞうお》めいたものが理解できない。理解はできないが、彼女にそんな目をさせておくのはよくないことだと思う。
「俺だって……今、ここに来てること、世間の人の九十パーセントは悪いことだって言うと思うよ」
一希の話題に、悠子の目が一番|優《やさ》しくなる。自惚《うぬぼ》れめいた考えは、そのまま現実になる。
「困りますか」
「困るかもしれない」
「嫌《いや》ですか」
「嫌なら来ない」
「じゃあ」
彼女は口を噤《つぐ》む。迷っているのは彼にもわかる。迷っているのがわかるから、何を言おうとしているのかもわかる。ばれたも同然なのだから、迷う必要はないのだが、彼女としては、そうも行かないらしい。何度か口を開きかけては、身体《からだ》を退《ひ》くようにして閉じる。そして、出て来るのはいつも単純な、だから痛いくらいな真実の言葉。
「側にいて下さい」
そして窺《うかが》うように、
「ますか?」
と。
口で答える代わりに、彼女を抱《だ》くことを選択《せんたく》する自分は、ずるくなったのだろうか、と一希は思う。悠子との間に展開する一連の出来事に関して、彼の思いは知識を裏切り続ける。何も言わずに腕《うで》を伸《の》べる動作の裏にあるものは、誠意だ。言葉は一番|嘘《うそ》に近く、彼は心許せない女を抱くほど老いてはいなかった。
彼は、引き締《し》まった彼女の顔を両方の掌《て》で包み、呟《つぶや》いた。
「可愛《かわい》い」
が、すぐに訊《き》いてしまう。
「そういうことは、言わないほうがいいのかな」
悠子は、彼の手の中で首を傾《かし》げ、無言で問い返した。
「そういう言い方すると……辛《つら》くなるのかな、とか思って。あんまりべたべたして、離《はな》れられなくなると……その……俺、思うんだけど……精神的に適切な距離《きより》の問題って言うのかな……」
急にしどろもどろになってしまうのは、思っていることを、言葉に置き換《か》えられないもどかしさと、優子に対してさえ滅多《めつた》に使ったことのない「可愛い」という言葉を不用意に口にしてしまった戸惑《とまど》い。
「どうしてですか。沢山誉《たくさんほ》めて下さい。嘘《うそ》でも冗談《じようだん》でも構いませんから」
彼女が柔《やわ》らかい身体《からだ》を押《お》しつけてくる。彼の中心で火花が弾《はじ》け飛ぶ。
「可愛いよ、可愛い。悠子は、可愛い」
濡《ぬ》れた髪《かみ》が、彼の腕《うで》をからめ取って行く。
悠子のことを愛しているかと尋《たず》ねられたら、彼はどう答えるのだろう。
悠子と優子、どちらをより愛しているかと尋ねられたら。
そんなことには答えなくていい。誰《だれ》も問うたりはしない。自問しない限り。そして彼は、けして自分に答えられない問いを課したりはしない。
悠子はいつも家にいる。友達《ともだち》がいないのかと心配になったが、話しているうちに、佳美の名を憶《おぼ》え、最近では知り合いであるかのような錯覚《さつかく》さえ感じる。だが、夜に出歩くのは月に多くて二回で、彼女は彼が訪ねるとき、電話かけるとき、いつも一人で部屋にいた。
一人でいると彼女が気に懸《か》かる。時間に余裕《よゆう》があれば会いたくなる。週に二回程度は、ざらになった。あらゆる所に出かけて行く優子の場合とは対照的に、彼女の部屋から一歩も出ない。電話を入れて、確認をすることもある。突然《とつぜん》チャイムを鳴らすこともある。悠子がいなかったのは、二、三度だけだ。電話のベルが鳴るだけ鳴って、誰も出なかった。すべて、友人と会っていたという理由だ。
「この不良|娘《むすめ》、こんな遅《おそ》くまで、どこに行ってた?」
十二時を過ぎて、やっとつながった電話に、巫山戯《ふざけ》て怒鳴《どな》りつけたら、
「ごめんなさい、ごめんなさい」
本当にうろたえてしまうのがおかしかった。
「友達と食事してて、それから少し飲むつもりが盛《も》り上がりまくって、ごめんなさい」
夜遅くまで一緒《いつしよ》に飲めるほどの、親しい友人を彼女が持っているということは、彼にとっては安心の材料にこそなれ、不安や不満を呼びはしなかった。自分が側にいてやれないときにも、彼女は独りではない。けれど彼は保護者の役割を演じる。何をしても文句を言われる筋合いはない二十歳過ぎの女性を叱《しか》りつける。それは、ままごとに似ている。彼女も嬉々《きき》として被《ひ》保護者の役割を演じていた。狼狽《ろうばい》ぶりは本物だったけれど、それを楽しんでいるようにも見えた。
彼は、優子をデートの帰りに家まで送ったその足で、悠子を訪ねることもした。何の抵抗《ていこう》もない正直さでデートの帰りに寄ったと言うと、悠子は透明《とうめい》な眼差《まなざ》しで、ちゃんと優子を家まで送ったかを確認するのだった。そして、数十分前に優子に口づけた唇《くちびる》を悠子に重ね、優子を抱《だ》いた腕《うで》を悠子に回す。
二人が、この関係を誰《だれ》にも漏《も》らさないのは、世間|一般《いつぱん》からは、二人のそれが不道徳な関係として非難されるもの、社会的な地位や人間関係さえ破壊《はかい》する可能性を持っていることばかりが理由ではなかった。互《たが》いの気持ちが、あまりに純粋《じゆんすい》だから、他人から汚《よご》れた解釈を押《お》しつけられては我慢《がまん》できないだろうと思った。透明な純粋な、俗世間から離《はな》れた二人の世界。夢《ゆめ》でも現実でもない、微妙《びみよう》なバランス。
「こういうの、どう呼ぶんだろうね」
一希は、悠子の隣《となり》で、ふと呟《つぶや》いたことがある。
「不倫《ふりん》」
悠子は準備していたかのような速さで答えた。彼は咎《とが》めるような力を、彼女の肩《かた》に回した手に加える。
「そんな哀《かな》しい呼び方はしたくない」
「愛人」
「したくないったら」
「私は好きですよ。中国語では、夫や妻のことを『愛人《アイレン》』って言うんでしょ。流石《さすが》、漢字発生の地だなって、感心してるんですよ。恋人よりも誠実じゃないですか。愛人って」
「悠子が好きなら、それでいい」
少し無理も見えるけれど、彼女の言うことは、尤《もつと》もらしい。
「それでいいよ」
彼が繰《く》り返すと、彼女は何度も何度も頷《うなず》いた。
やはり、彼女は無理をしているのだと思った。
これを運命と呼ばずに、遺伝と呼ぶのはどうだろう。と、悠子は考えた。
彼女の母は、愛人だった。妾《めかけ》というのかもしれない。少なくとも、世間と法律の認めるところの、妻ではなかった。そのような存在から生まれた自分を卑下《ひげ》もしたし、恨《うら》みに思ったりもした。そうしながら生きて来た。その在り方を憎《にく》み、自分はそうならない、絶対にならない、と何度も何度も考えて。どうして彼女は、ここに来てしまったのだろう。
蛙《かえる》の子は蛙、という言葉の意味が、元は否定的なものだったと読んだのは何かの雑誌でだったと思う。今では、名優の子が役者になり、デビュー作から達者なところを見せたりする場合に使われるが、もともとは、蛙の子は、どう頑張《がんば》っても蛙にしかなれない、という意味だったらしい。それならば、まさしく彼女は蛙の子だ。おたまじゃくしの間は、親と似つかぬ自分の姿に、わくわくしていたものだが、気が付くと手が出て足が出て、蛙になっている。DNAにプリントされた情報が、彼女をここまで連れてきたのだとしたら。そう言ったら、彼女は何かから逃《に》げることになるだろうか。
母からの遺伝を色|濃《こ》く受け継《つ》いでいるのは哀《かな》しい。けれど、父に似るよりはいい。妻達にも、子ども達にも、責任を示さないような父に似るよりは。掴《つか》み所の無い優しさだけを残している、おそらく幸福ではなかったであろう母の跡を辿《たど》るほうが。
「男ができたね」
ランチの向こうで佳美が言った。いつもの店の日替《ひが》わりのメニュー。フライにソースをかけながら、悠子は目を上げないで言う。
「その言い方、大嫌《だいきら》い」
「この前の妻子持ち」
「違《ちが》う」
「嘘《うそ》ついてる」
悠子は唇《くちびる》を噛《か》む。相変わらず、佳美の目を見ようとはしない。
「いつまでソースかけてんの。フライが真黒《まつくろ》」
その真黒になったフライを、悠子は口に運んだ。目を上げると、潤《うる》んだ視線が佳美にぶつかってしまう。
「嘘つきのくせして嘘が下手《へた》」
「どうして私のこと、そこまで追いつめなきゃいけないのかなあ」
悠子の呟《つぶや》きに、佳美は一瞬《いつしゆん》むっとした。悠子が俯《うつむ》いたままで、その露骨《ろこつ》な表情を見ないで済んだのは、ありがたいことだと思ったが。
「ごめん。私、嫌《いや》な言い方して、悪かった。でも悠子、そうなのね」
否定しても見破られるに決まっている。肯定《こうてい》したら一希を裏切る。悠子は黙々《もくもく》と食事を続けた。ソース浸《びた》しになったフライの異常な味にも無感覚になっている。
「だとしたら放《ほう》っておけないじゃない。悠子、そういうことには向いてないもん。他人の不幸の上に自分の幸福が立ってたら、それを一生負い目に思うような性格じゃない。世間から、後ろ指さされて耐《た》えてけるような強さ無いし。そこが可愛《かわい》いんだし」
「そんなことない」
「それは強がりよ」
悠子は佳美の目をやっと見た。それはもう努力の末に乾《かわ》いており、佳美には意外だった。悠子は考えていたのだ。仲良くしているようだけれど、本当に、この人には何も自分を知らせていないんだと。
「世間からの後ろ指みたい慣れとるよ。私、妾《めかけ》の子だもん」
佳美の表情が凍《こお》りそうになる。完全に凍ってしまう前に、悠子は再び目を逸《そ》らす。
「ごめん……知らなかった……」
「いいよ。他人が気にするほど、本人は気にしとらんし」
「でも……じゃあ……なおさら」
「まともな恋愛《れんあい》しなかんて?」
「やめてよ! そういう、自分をおとしめるような言い方は!」
「いいの。あの人の……」
相手の女性、と言いかけて、佳美についていた小さな嘘《うそ》を思い出す。
「奥《おく》さんから、あの人、奪《と》ろうなんて思っとらんで。ばれんかったらいいがね。黙《だま》っとったらみんなが幸せでおれるもんを、なんで好きこのんで不幸になりに行かなかん?」
「それって、何かおかしいよ」
いつもの佳美らしい力が無い。意外な事実に戸惑《とまど》ったままだ。
「あんた、本当に……からかってんじゃなくて?」
「昔《むかし》、おんなじこと訊《き》きゃあた人がおらした」
一希も戸惑い、思い過ごし説まで持ち出していたっけ。
「ついでに三人も母親、代わったわ。どの人も好き。でも、どの人も平凡《へいぼん》な幸せとは縁遠かったわね。だで、私、人生に対して考え方が普通《ふつう》でないと思うよ」
本当は、そう思ってはいないし、思いたくもないけれど、つい、自分を下げてしまった。そして口にすると、自分が本当にそう考えているかのような錯覚《さつかく》が、確信に変わって行くことにも気付いた。
「ごめん」
佳美は繰《く》り返し謝った。しかし、自説を曲げることはしなかった。
「けど、やっぱり、悠子は考え直さなきゃいけないと思う。まっとうに幸せになって欲しい」
「スキーの上手《うま》い人ってさ」
悠子が、いきなり話を変える。
「私みたいな下手糞《へたくそ》が、下の方でちんたら滑《すべ》っとると、それを不幸だと思うみたいだね。無理矢理《むりやり》、上の難しい方に連れてく。一緒《いつしよ》に滑ろうって。上手《じようず》な人は、下手が気になってよう滑れんし、下手は下手で転がるばっかで、初心者コースのが楽しいと思っとる。そういうことって、何にでもあるよね」
何を言い出すのかと思ったら、なるほど、関係はありそうな話に落ち着いた。それも佳美を説得することはない。
悠子の笑顔が充《み》たされて見えるのは、何かの間違《まちが》いだと佳美は思った。何かの間違い、見間違い。そうでなければ悠子の強がりなのだ。彼女が今、そんな顔をできるわけはないのだから。
5
「あー、先生、木本《きもと》先生でしょ」
後ろから声をかけられ、一希《かずき》はどきっとした。それは悠子《ゆうこ》の声ではない。彼女以外に、彼を先生呼ばわりする人間がいただろうか。隣《となり》を歩いていた優子《ゆうこ》も、驚《おどろ》いている。
「やっぱり先生だっ」
前に回って顔を覗《のぞ》き込んだのは、二十歳《はたち》前後の女性だ。跳《と》び上がって、一希の後方に手を振《ふ》る。
「お姉ちゃあん、私の言った通りだよ。やっぱり先生だがね」
休日の人混《ひとご》みの中、彼女の物怖《ものお》じしない名古屋弁が、雑踏《ざつとう》を制して響《ひび》きわたる。
「久美子《くみこ》、まちっと大人《おとな》にしやあか。先生、恋人《こいびと》と一緒《いつしよ》におりゃあすに。あんまり失礼なことしたらかんよ」
悠子も、久美子に続いて一希の視界に入って来る。
「先生、お久し振《ぶ》りです」
一希に会釈《えしやく》した後、優子にも頭を下げる。
「高校生のとき、名古屋で先生に家庭教師していただいとりました。平田《ひらた》悠子と申します。こちらは妹の久美子。初めまして」
悠子は久美子の頭を押《お》さえつけて御辞儀《おじぎ》させる。
「鈴本《すずもと》優子と申します。お噂《うわさ》はかねがね」
優子も丁寧《ていねい》な挨拶《あいさつ》を返す。
「久し振りだなあ、大きくなっちゃって」
一希がわざとらしく感心すると、
「大きさは、そんなに変わってないと思いますよ」
悠子が混《ま》ぜっ返す。
「そりゃそうだけど。二人とも大人っぽくなっちゃって」
「ねえ、久し振りなんでしょう。一緒にお茶でもどうかしら」
優子が気を利《き》かせる。このあたりは、一人前の女房《にようぼう》のようだ。見知らぬ女性の出現にも動じない。余裕《よゆう》をたっぷりと見せつけているように、悠子には見え、自分のそんな感じ方を醜《みにく》いと思った。
「わーいわーい」
「お邪魔《じやま》じゃないかと」
姉妹は対照的な反応を見せる。
「何言ってんだよ、六年振りだぜ」
一希の一言で、その場は決まった。
窓際のテーブルを選び、一希は優子を座らせてから自分が腰《こし》をおろし、悠子は久美子にそうした。
「先生、奥《おく》さん?」
久美子が無遠慮《ぶえんりよ》に尋《たず》ねる。悠子が後を引き取る。
「そうだわねえ。先生も、そろそろそういうお年齢《とし》ですもんね。奥さんだとしたら、恋人《こいびと》なんて言い方したの、えらい失礼になりますね、ごめんなさい。いつまでも大学生の先生のような気がしますもんね」
平然と、上手《うま》いことを言う。一希も悠子に負けないように芝居《しばい》をする。
「いや、そういうお年齢で独身だよ、俺《おれ》は。それより、二人は今、何してるの?」
「私は東京で働いてます。久美子は地元の短大で」
「うん。だで、まんだあの鬼婆《おにばば》と暮《く》らしとる」
「久美子っ!」
「相変わらずだなー」
二つの声に久美子は舌を出した。
「だって鬼だもん」
「何言っとりゃあす、この子は。ようして下《くだ》されるがね、お継母《かあ》様。それに、久し振《ぶ》りにお会いした先生に言うことかね、それが。それに鈴本さんも困っておいでるがね。そういうことはね、あんまり聞きたいこったないで、こういう所で言ったら……」
「もういいから。先生、久し振りだで私の話、聞いたって。お姉ちゃん、すぐあいつ庇《かば》うに」
「よしよし」
二人が対角線上で話し始める。悠子は一歩|退《さが》るようにして、話から外れる。彼女の対角には、優子が退屈《たいくつ》そうに座っていた。とても柔《やわ》らかい顔だ、と悠子は思った。大切に大切に、くるまれて育った人の顔だ。いつも、一希から話を聞いているので、先入観もあるかもしれない。悠子とは異なる人種であることは明らかだった。悠子の場合、苦労が顔に出過ぎているのだ。
「すみません、妹、わがままで」
久美子の勢いに負けそうになりながら、悠子は優子に話しかけた。
「こみ入った御家庭なんですね。私は構いませんから」
優子は相変わらず退屈そうだ。悠子は話題を探《さが》す。しかし見つけたとしても、一希と久美子の間をぬって、声を届かせるのは一苦労だろう。
二人の会話が一段落ついたのは、悠子が洗面所へ行くと席を立って行った間だった。久美子が肩《かた》で一つ、大きな息をする。
「あー、すっきりした。先生、ありがとう」
「いやいや。しかし、久美子ちゃんは変わらないね。でも、俺《おれ》だって最後には悠子ちゃんと同じこと言いたいぞ」
久美子は照れ臭《くさ》そうに笑う。
「全然わからないってわけじゃないの。お姉ちゃんの言いたいこともね。だけど、説明できないものが、どおっと胸に押《お》し寄せて来るの。これが、どもならんだ。継子《ままこ》の宿命と言うか」
「あの……」
初めて優子が口を出した。久美子は、んっ!? という具合に、話を聞く体勢を作るが、一希には、どきんとする一拍《いつぱく》がある。
「お二人、似てませんね」
「そうなの。どっちもお父さんには似とらんしい、私、お母さん死んだの赤ちゃんときだし、私らの顔、どうなっとるのかわからん」
久美子は、まだ悠子が異母姉であることを知らないらしい。知らないふりをしているようには見えない。もっとも、彼女達のように、複雑な環境《かんきよう》に育った人間は、強がることを覚えながら生きている。久美子のそれも芝居かもしれない。その場で、自分を偽《いつわ》る必要が何も無い恵《めぐ》まれた生き方をしているのは、優子だけだ。
優子は再び口を開く。
「私も、一時期、名古屋にいたんですよね。それで思うんですけど、お姉さんて、若い割には異様に名古屋弁がきつくありません? 私の友達《ともだち》、あんな喋《しやべ》り方する人、いない」
「そうかなあ」
久美子は気付かないらしい。一希も、今日はそう思った。悠子は一希に対しては敬語を使うので、方言の割り込む余地は少ないのだ。
「俺も、そう思った。久美子ちゃんに話すときだけ、妙《みよう》に名古屋弁が強く出るんだよな」
普段《ふだん》はそんなことないよ、と言いそうになり、心の中で慌《あわ》てる。表面では平然と、
「俺達に話しかけるときは、そうでもないよな、優子」
よくもここまで芝居《しばい》ができるようになったもんだと感心する。優子も頷《うなず》いた。
「そうか。もしかしたらさあ、私、知んないけど、私達の本当のお母さんの真似《まね》って言うのかな、知らないうちに似てきちゃったのかもしれない。私、鬼婆《おにばば》よりもお姉ちゃんのこと、お母さんだと思っとるもん」
久美子は屈託《くつたく》なく笑った後、わざとらしく声をひそめる。
「お姉ちゃんには言わんといてね、怒《おこ》るで」
「世の中には、ああいう人もいるのね」
優子は、それ以上のコメントはしなかったし、一希も求めはしなかった。
ただ、四人でいる間ずっと、悠子の口元に浮《う》かんでいた原因不明の表情が、自嘲《じちよう》を意味していないことを願っていた。
「ねえ、最近、家に来ないね」
優子が甘《あま》えた目で一希を見上げた。優子が自分の話をし始めた。これで悠子の話は完全に終わりだ。彼女はそのサインを送っている。一希も、異存はなかった。悠子の話は、優子とするものではない。
「お父さん、寂《さび》しがってる」
「そうか。先生にも不義理してるな」
「先生だって。もう『お父さん』って呼んでいいって本人は言ってるよ」
彼女はそう言ってけらけら笑う。多分、嘘《うそ》だ。先生は、そこまで軽くない、というのが彼の考えだ。ここに、もう一つのサインがある。そろそろ結婚《けつこん》してもいいんじゃない?
いつ結婚するの、は最初は口に出しての質問だった。彼は、悠子と再会する前から、そんなに早く自由を放棄《ほうき》する気はなかった。結婚イコール束縛《そくばく》が、すべての場合に真だとは思わない。しかし、一希にとっては真であろう。優子だけではない。優子の父には、ずっと世話になって来ているし、就職のときにも大いに世話になっている。平凡《へいぼん》なサラリーマン家庭の木本家にしてみても、長男の嫁《よめ》の実家が大学教授となると、気圧《けお》されっ放しになるだろう。つまり、家族ぐるみで、しがらみの中に突入《とつにゆう》する。四方八方からからめ取られて、自由を望むほうが無理になる。ましてや、悠子と出会ってしまった今となっては、まだ結婚はできない。今、悠子を一人にするわけには行かない。これからどうするかは、ひとまず考えない。とにかく今は、悠子の側にいる。
「からかうなよ」
「本気だって」
「俺、結婚したって、そんな呼び方できないよ。先生は先生だもんな」
「やあだ」
優子が笑い崩《くず》れる。そして、ふと真面目《まじめ》な顔になった。
「でも、そういうものかもね。彼女もあなたのこと、先生って呼ぶものね」
頷《うなず》きながら一希は、彼はいつから悠子ちゃんを悠子と呼ぶようになったのだろうと考えた。そして、優子からのサインを、上手《うま》くとは言えないまでも、躱《かわ》せたことに安心していた。
「楽しかったねえ、お姉ちゃん」
久美子が言うのは、一希と偶然《ぐうぜん》に会えたことだ。久美子は鏡に向かって、化粧《けしよう》を落としている。悠子よりも濃《こ》いかもしれない。悠子は相槌《あいづち》の代わりに風呂《ふろ》の加減をみて、久美子に先に入るように言う。
「わーい、入ろう」
久美子はタオルを受け取って、スキップしながら浴室に消えた。ざぶんと飛び込む音まで聞こえる。思わず悠子は笑い出し、しばらくは手に顔を埋《うず》めて笑っていた。
「ほんとにあの子は」
いつまでも子どもみたいで、外側は悠子を追い越《こ》さんばかりに大人《おとな》びて行く。それを見ているときの微笑《ほほえ》ましさと甘《あま》い切なさは、母親のものかもしれない。名古屋にいる継母《はは》は、こんな彼女を、どんな気持ちで見ているのだろう。
だが、久美子に対する微笑みが引いて行くと、暗い気持ちがのしかかって来た。一希を今の恋人《こいびと》、婚約者《こんやくしや》から奪《うば》うことなど、考えたこともなかったし、今も考えない。けれど今まで、苦しくはなかった。相手の実在が無かったから。
一希と、恋人として共に街《まち》を歩き、いずれは妻となる女性に対する嫉妬《しつと》だろう、これは。こんなにも苦しいのは。
羨《うらや》ましいと思う。一希と、世間に容認される関係を持っていることよりも、表情が羨ましかった。大切に育てられた人に特有の、伸《の》び伸びと広がりきったような表情だった。悲しんだり悩《なや》んだりはするだろうが、得体《えたい》の知れない怯《おび》えが無い。
悠子は常に怯えている。久美子に本当の母がばれることや、久美子と美咲《みさき》の仲がこれ以上悪化すること、父の体調が最近思わしくないということもある。それは小さい頃《ころ》から。怯えるネタにはこと欠かなかった。説明が面倒臭《めんどうくさ》くて、いつもある程度、嘘《うそ》をついて生きて来た。子どもの頃は、嘘がばれたら、きっと仲間外れにされるだろうな、と思った。夢《ゆめ》にも見た。うなされても、慰《なぐさ》めてくれる母親はどこにもいない。隣《となり》に眠《ねむ》る久美子だけが頼《たよ》りだった。一度は、完全に安心できる生活を味わったこともある。それ故《ゆえ》に、より一層強く、愛する男が去って行く怯えを学習したのだろうが。
彼女は何度となく空想を試みた。ごく普通《ふつう》の家庭に生まれたらどうなっていただろう。父親がいて母親がいて、もちろん同じ両親を持つ兄弟がいて。何千回と試みられたそれは、すぐに挫折《ざせつ》する。彼女は平凡《へいぼん》な家庭について何も知らなかった。テレビドラマのわざとらしさでは、限界はすぐにやって来る。
憎《にく》くない。恨《うら》めしくもない。
ただ、苦しいと思った。そして、彼女に対して憎しみを抱《いだ》くようになる可能性に怯えた。一希の愛する女性を憎んでは、彼に背《そむ》くことになる。
鈴本という名で電話が入っていると伝えられた一希は、優子だと思い込み、急いで電話に出た。
「もしもし」
「何だよ」とか「会社にはあんまり電話するんじゃないって言っただろ。そっちも仕事中なんだし」などという言葉で始めなくて、本当によかった。
「悪いね、仕事中に」
重々しい声だ。忘れもしない。
「あ、先生、御無沙汰《ごぶさた》しております」
見えないのに深々と礼をする。見えないので顔をしかめて舌を出す。
「近くまで用があって来たんだが、昼でも一緒《いつしよ》にどうかね。娘抜《むすめぬ》きで話したいことがある」
時計《とけい》を見る。もう午《ひる》だ。
「わかりました」
場所は相手が指定した。かなり高級な店だ。支払いのときの態度が面倒《めんどう》になるな、と彼は再び顔をしかめる。出させるのも割りかんの主張も難しい。教官と教え子という関係ならば、もう少し簡単なのだが、実質、舅《しゆうと》にあたる相手だ。出かける前に、ネクタイを直す。
会ってみて、優子の言った通り、随分《ずいぶん》久し振《ぶ》りなんだなと実感した。鈴本の様子が、かなり変わったように見えたのだ。口では、
「お久し振りです。先生もお変わりなく」
と言いながら、そっと観察し、どうしてそう見えるのか、原因を探《さぐ》ろうとする。
白髪《しらが》だ。ちらほらだったのが三分の一くらいに増えた。
「まだ先生かね」
鈴本は溜《た》め息まじりで言った。
「そろそろ別の呼び方をして欲しいもんだがね」
何の話かと思ったら、これか。今の一希には、あまりありがたくない話だ。ここは、鈍《にぶ》いふりしてぼけ倒《たお》そう。
「と申されますと?」
流石《さすが》に「お父さんと呼んでくれ」とは照れ臭《くさ》くて言えないだろう。もう一つ大きな溜め息をつき、初老の男は遠回しに言い始める。
「焦《あせ》ってはいないがね、そろそろじゃないかと思っているんだよ。あれが一人娘だから、孫の顔が見たい、片付けて安心したい、すべてあいつ一人にかかることだ。君は私が見込んだ男だし、あれも心底好いているようだ。本人が言わないのに、親が口を出すのも変なのかもしれんが、あれはのんびり屋で放《ほう》っておくと嫁《よめ》に行くことも忘れてしまいそうなのでな。安心させてくれんかね、一希くん」
なるほど、すっかりその気になっているのか、こっちをのせる方略なのか、この前までの「木本くん」が「一希くん」になっている。
「先生は情けないと思われるかもしれませんが、僕《ぼく》にはまだ、彼女を養って行ける自信も収入も無いと思っています」
「あれも働いている。それに優子は君とだったら、貧しくても構わないと思っているだろう。私も、援助はするし……」
鈴本の様子が、少しおかしい。いつも整然とした話し方をするのが、妙《みよう》につっかえたり、止まったりするようになった。もしかしたらこれは、自分の意志で来ているのではないのかもしれない。娘に頼《たの》まれてのことではないか。
「こう言っては何ですが、彼女は世間を知りません。先生に、このようなことを申し上げるのは失礼かもしれませんが、平均以上の恵まれた裕福《ゆうふく》な育ちをしています。だから、貧乏《びんぼう》してもいい、と言うかもしれない。けれどそれは本当は貧乏というものを知らないからかもしれない。彼女に責任を持とうと思ったら、彼女のそういう育ち方ごともらわなければいけないわけで。結婚したら生活の質が落ちた、こんなはずじゃなかったのに、ということのないようにしたいと思っています。それが僕の意地なんです」
必死に言い募《つの》る彼の様子は、鈴本に感銘《かんめい》を与《あた》えたらしい。娘のことを、この若者はここまで想《おも》ってくれるのか、という感動だったのだろう。一希は、多少後ろめたいものを感じた。悠子のことが無ければ、こんなに懸命《けんめい》にはなれなかっただろう。
「もう少しだけ待って下さい。そんなに長くはかけません」
こう、とどめを刺《さ》されては、鈴本にはどんな言葉も返せない。
「本当に君は、いい青年だ」
「とんでもない」
一希は目を伏《ふ》せる。この仕種《しぐさ》さえも、鈴本の目には謙虚《けんきよ》な好ましいものと映《うつ》るのだろう。彼は実際、とんでもない男なのだ。世間から見ると。そして、そのことを考え始めると、どうしてこんなに罪の意識を感じないのだろうという不思議に行き着く。多分、純粋《じゆんすい》なのだ、と自分で言うのはおこがましいことだろうか。
優子とのそれは普通《ふつう》の恋愛《れんあい》だ。そして、悠子に対するものは、もっと心の底の純な部分から湧《わ》き上がって来る。だから、一緒《いつしよ》に街《まち》を歩けなくても、将来を、誓《ちか》わなくても、強く結びついていられるのだ。
悠子はいつも、長い髪《かみ》で裸《はだか》の胸を隠《かく》すようにして、暗闇《くらやみ》の中で身を起こす。それがどれだけ挑発《ちようはつ》的か、彼女には絶対わかっていないと思う。彼女をもう一度胸に引き寄せながら、彼は言った。
「先生がさあ、来たんだよ」
彼が先生と言えば、それが優子の父親を指すことは、彼女ももう呑《の》み込んでいる。
「あっちの家族は焦《あせ》り出したみたいだ。よく考えたら、焦んなきゃいけないのは俺《おれ》かもな。もう三十近い」
「先生の幸せを、私が邪魔《じやま》してるんでしょうか」
そして彼女が先生と呼ぶとき、それは一希を指している。彼は、彼女を巡《めぐ》る腕《うで》を、ぎゅっと引き締《し》めた。
「おまえがいるから幸せなんだよ」
彼女は、彼の言葉を信じた。彼の側にいると、彼女は理屈抜《りくつぬ》きに安心できる。彼の胸は、彼女の持つ、この世で一番の、そして唯一《ゆいいつ》の楽園だった。楽園などという響《ひび》きは軽過ぎる。彼女はその場所を「聖域」と呼びたいとさえ思う。しかし彼女は、自分一人の心の中でも、その呼び方は許さなかった。彼は、いずれ離《はな》れて行く。楽園なら失っても生きては行ける。聖域を失ったら死ぬしかない。
二人は明日を考えない。これから先、どうなるのか。先のことを考えると、彼と彼女は一緒《いつしよ》に暮《く》らせはしないのだから、早くお互《たが》いに見切りをつけ、彼女は新しい関係を開発したほうがいいに決まっている。第三者から見た二人の関係は、何一つ生産できない不毛のそれだ。
生産などできなくていい。未来などなくていい。今に純粋《じゆんすい》な想《おも》いを託《たく》し籠《こ》めていられたら。何の生産、即《すなわ》ち見返りも求めず、今だけに縋《》っているからこそ、純粋さを保っていられるのだ。身体《からだ》の接触《せつしよく》が不純だと言うのは誰《だれ》だろう。想いを煮《に》つめた末の行為《こうい》は、いっそ単純な呼吸に似て行く。それがあるから、生きて行ける。
「俺、男の兄弟しかいないからわからないけど、やっぱり女の子がいると、父親は花嫁《はなよめ》姿を切望するもんなのかな。まして、優子は一人娘だし。悠子の家はどうだい」
「わかりません。うちの場合、お継母《かあ》様が待ってるみたいですよ。血がつながっていないだけ余計に……母親の役を演じる場所が欲しいのかもしれません。私は長女ですけど……ずっと東京にいるから、名古屋の家は久美子に養子をとってもらいたいって言ってるんですよね。もちろん久美子は、早くお継母様と離《はな》れたいから、そんなの嫌《いや》だって言ってますけど。私も、久美子にはそうして欲しいんですけどね」
そう言いながら彼女は、彼にぎゅっとしがみつく。彼には彼女の思いが伝わる。父が次女に家を継《つ》がせようとしていることを、自分の出生と重ねているのだろう。彼も、力づけるように彼女に回した腕にさらに力を籠《こ》める。何も解決してはくれないけれど、それはこの世の何よりも彼女を安心させる。彼女はもう一つ、心に懸《か》かっていたことを言ってみる気になった。今まで言う気になれなかったのは、それが未来のことだからである。過去のことは変えようがない。しかし、未来のこととなると、口に出したときから、不安は実現してしまい、期待は消滅《しようめつ》してしまう。そんな気が彼女にはしていた。彼の腕は、そうではないと言う。胸の中に貯《た》めておくよりも、言ってごらん、その方が楽になるよ、と。
「父の体調が、最近、思わしくないそうです」
「幾《いく》つなんだっけ」
「七十二」
彼は、小さく叫《さけ》んだ。それでは祖父に近いのではないか。それとも、彼の知らないうちに父もそんな年齢《とし》になっているのだろうかと考える。頭の中で計算してみたが、父は五十八歳、祖母は八十歳だ。彼女に、その戸惑《とまど》いが伝わったらしい。
「ただの助平爺《すけべじじ》いです」
「駄目《だめ》だ、自分の父親に、その言い方は」
彼の厳しい叱責《しつせき》を、珍《めずら》しく意に介《かい》さぬ様子で、彼女は続ける。
「私の母も、久美子を生んだお養母《かあ》さんも、お継母《かあ》様も若いんですよ。大人《おとな》になるほど、父が嫌《きら》いになります」
「でも悠子、お父さんの体の具合、気にしてるんだろ。心配なんだよ、実は」
「だから、わからなくなるんです。本当にあの人のこと、どう考えてるのか。なんだかんだ言っても父親だから、心配なのか、あの人に何かあったその後のことを考えるから怖《こわ》いのか……私達、結局あの人をステーションにしてつながってるんですよね。あの人がいなくなったら、ばらばらになる。家族の存在は無くなります」
「それは違《ちが》う。今度は悠子がステーションになれるよ。久美子ちゃんも、お母さんも、悠子のこと、すごく好いてると思うよ」
やっと、悠子のためになることが口にできた。彼の中に広がる安堵《あんど》感を蹴散《けち》らすように、悠子はかぶりを振《ふ》る。
「それが重荷です。私の家って、家族が家族の真似《まね》してるだけに見えます。それが、ちょっと悲しい」
そこで、彼女の話は終わる。過去で彼女の話は終わる。家族というものを持ち得なかった故《ゆえ》に、一生に一人の配偶者《はいぐうしや》と、二人の親の血を引いた子どもから成る家族を自分で作るのが夢《ゆめ》だと、昔《むかし》の彼女なら言っただろう。今は、けして口にはしない。
彼は、彼女の夢を潰《つぶ》した責任を感じる。彼女の夢を、敢《あ》えて心に繰《く》り返すことで、罪滅《つみほろ》ぼしをしているような気持ちになる。彼は彼女を抱《だ》き締《し》める。今を抱き締める。
6
やはり、口に出すのではなかった。
新幹線の窓を雨が横に流れる。一人、父をごく普通《ふつう》の父親として受け入れていた久美子は、しかし、会社にかけて来た電話の中で、悠子の予想よりは取り乱していなかった。そして悠子は泣いたりはしない。頭の中に、どんとした重い物が詰《つ》まり、目も見えない。
いきなり名古屋へ戻《もど》るにあたって、彼女が一番に考えたのは、一希《かずき》に知らせなければということだった。一度、自分の部屋《へや》に戻《もど》り、そこから一希の部屋へ電話した。聞き慣れた留守番電話の声に続けて、簡単に父の死と一週間の帰省を告げた。
何も考えられない二時間は、永遠に近い長さだ。やっと名古屋に着いたときには、体が石になり、動くのが嫌《いや》でたまらなかった。駅前のデパートには、バレンタインデイのディスプレイが麗々《れいれい》しい。どうして今年に限って正月にも帰らなかったのだろう。少しでも一希の近くにいたかったからだ。その甲斐《かい》あって、一日には数分の電話、三日には数時間の訪問があった。今さら、父と会うことが、自分にどんなプラスになるものかわからない悠子は、悔《く》やまない代わりに、もっと辛《つら》くなる。会えなくても存在を感じるだけで安心できる、会えば理屈抜《りくつぬ》きに感情に働きかける、愛《いと》しい存在としての父を持てなかった自分が哀《かな》しくなるばかりだ。自分のためにしか哀しめないことが、また次の悲しさを連れて来る。
「久美子さん。悠子さん、なかなか着きませんね」
美咲《みさき》は、そう言う間にも、手に持ったハンカチを神経質にいじっている。久美子も、今日ばかりは反抗《はんこう》を忘れていた。
「そうねえ。そろそろ着いてもいい頃《ころ》なのに」
平田《ひらた》の遺体は家に戻った。若い後妻の美咲は、このときとばかり親戚《しんせき》……知人一同の前で、その働きぶりを見せつけなければならないはずなのだが、脱力《だつりよく》の余り、すべてを親類任せにしていた。彼女は両親も健在だ。さほど違《ちが》わないが、夫よりも年下なのである。葬儀《そうぎ》の場には不慣れな上に、土地柄も風習も異なる。呆然《ぼうぜん》と座り込んだままの美咲を、陰《かげ》で悪く言う人もいる。平田の死を、悲しみとしてでなく、事実として受け止めている人々。
なんだの、あの人。一番働かなかんときに、何ぼーっとしとりゃあす。あかんわね、若い人は。
「私、何したらいいんですか」
魂《たましい》の抜《ぬ》けたような声で尋《たず》ねる美咲の手を取ったのは、平田の妹にあたる岩木貞代《いわきさだよ》だった。
あんたは何もせんでええ。今日から、辛い日が始まるに。今日くらいは、ゆっくり別れを惜《お》しみゃあ。兄《にい》様に、ついとったって。
娘《むすめ》ほどの年齢《とし》の女性を二人も妻にした平田を、彼女が快く思っていないことは、美咲から見ても、よくわかった。その彼女の温かい言葉は、美咲の新しい涙を誘《さそ》う。しかし、その女性よりも彼女が欲していたのは悠子だった。あの落ち着いた継娘《むすめ》が帰って来てくれたら、とだけ思い続けている。
騒《さわ》がしかった人の出入りが途絶《とだ》え、短い静寂《せいじやく》が偶然《ぐうぜん》に訪れた。その数分が、美咲には耐《た》えられないものと感じられ、久美子に声をかけたのである。
美咲の願い通り、静寂は、長く続きはしなかった。玄関《げんかん》で、すぐに貞代が大騒ぎを始めたのだ。何を言っているのか、はっきり聞こえないので、二人が出て行ってみると、貞代は座り込んだ悠子を抱《だ》き起こそうとしているところだった。
「お姉ちゃん、しっかりしてえ」
美咲の前では、歯を食いしばっていた久美子が、悠子にとりついて、大声で泣き出す。美咲も力が抜けて行くのを感じ、その場にばったり倒《たお》れてしまいたい気持ちになった。この期《ご》に及《およ》んで、久美子は美咲に対する不信感を見せつける。頼《たよ》りにし、帰りを待っていた悠子は、帰って来るなり、挨拶《あいさつ》もしないで倒れ伏《ふ》してしまう。
そして、彼女の気持ちを見透《みす》かし、それを踏《ふ》みつけるかのように、また周囲が騒然《そうぜん》とし始める。仕出しの料理は、家では何と何を出す、会葬《かいそう》御礼は……すべてが美咲に振《ふ》りかかる。
しばらく黙《だま》って! と叫《さけ》び出しそうになったとき、凛《りん》とした声が響《ひび》いた。
「母の在所とこちらとでは、流儀《りゆうぎ》が違《ちが》うようです。申し訳ありませんが、叔母《おば》様が中心になって下さいませんか。その方が間違《まちが》いがありませんし」
やはり悠子は、いざ立ち直ると頼りになる。美咲は悠子に感謝したが、持ち上げるような言い方をされても、貞代はいい顔はしなかった。若い後妻を、よく思ってはいないのと同様、彼女は他所《よそ》から引き取られた悠子にも、あまりいい感情を持ってはいないのだ。悠子が普段《ふだん》から、あまり実家に寄りつかないことが、これに拍車《はくしや》をかけている。そこに、自分の天真爛漫《てんしんらんまん》さをよく知っている久美子が入って来る。
「お姉ちゃんて賢《かしこ》い。叔母さんだったら、何を任しても大丈夫《だいじようぶ》だもんね。良かった。こんな心細いときに、叔母さんがおってくれて」
久美子にそう言われると、貞代は途端《とたん》に満更《まんざら》でもなさそうな顔になる。
「そらあ、あんた達ばっかに任せといては、どもならんでねえ。そうさしてまってええかね、美咲さん」
貞代の目は、幾分挑《いくぶんいど》むような色をしていた。夫の葬儀《そうぎ》を、身内とは言え、親戚《しんせき》の者に任せるか、それともすべてを一身に負うか。美咲には気力が残っていなかった。脱力感《だつりよくかん》が意地に勝った。
やはり、涙《なみだ》は流れ続けた。心の中の悲しみを、彼女はどうしても説明できなかった。そのような、理屈《りくつ》を抜《ぬ》いたつながりが、自分と父との間に存在していたことは嬉《うれ》しい。しかし、死によってしか、それを知り得なかったことで、悲しみは数倍になる。
会社は、一週間休める。儀式《ぎしき》としての葬儀には長過ぎる休暇《きゆうか》だが、残された者達が悲しみを癒《い》やしながら、これから生きて行くための方針を立てるには、短い。悠子には、はっきりさせておかねばならないことが山ほどあった。
まず、帰ってしまう前に貞代をつかまえる。
「二人きりでお話ししたいことがあります。よろしいでしょうか」
彼女の抱《かか》える問題の多さは、叔母《おば》であればよくわかる。貞代は承知し、二人は弔問《ちようもん》客も棺《ひつぎ》も消えた座敷《ざしき》で向かい合った。美咲には聞かれても構わないが、久美子には聞かれたくない。悠子は襖《ふすま》を開け放し、小さな声で話すという方法を選んだ。葬儀も後片付けも終えて、自室に入った久美子が出て来る気配《けはい》があれば、すぐに話をやめられるように。
「いろいろお世話いただいて、本当に申し訳ありませんでした。私の押《お》しつけた役、引き受けていただいて、どれだけ助かったかしれません。おかげさまで、父を無事に送り出すことができました」
悠子が畳《たたみ》に手をついて、深く頭を下げる。貞代はふと、この子はなんて喪服《もふく》の似合う子だろう、と思う。若いのに飾《かざ》りの無い黒い服の似合う彼女は、なんと哀《かな》しい女性だろう、とも思った。そして、今まで妾腹《しようふく》だと疎《うと》んじて来たけれど、この子は何も悪くないのだと、簡単なことに今さらのように気付いた。
「何言っとりゃあす。あんたも、しっかりしとったわ。流石《さすが》は長女だと思ったに」
「とんでもない。何もできませんでした」
そこまでは伏《ふ》せていた目を、悠子は上げて言った。
「父が亡くなって、私達の家族は、大黒柱《だいこくばしら》と同時に、つながるべき要《かなめ》を失いました。私達は複雑な家族です。家族と呼ぶことさえ、できないかもしれません。私は、そのあたりの詳《くわ》しい事情を完全に理解してくれているかたが、どれだけいらっしゃるのか、どなたとどなたがそうなのかも、わかりません。叔母《おば》様は確実にご存じだし、私達のためを考えても下さる方なので、相談したいと思ったんです」
「そりゃあ、いろいろあるわねえ。美咲さんもまんだ若いもんで、平田の籍《せき》を抜《ぬ》いたほうがいいかもしれんし、そうなったら久美子ちゃんには二親《ふたおや》とものうなるで、そのことも考えなかんしねえ。あんたも、そのまんまあっちにおるか、こっちに戻《もど》るか考えなかんし、結婚《けつこん》はどうしやあすの。いい話ならあるんだよ」
「私は結構です。久美子の方をお願いします。けど、とりあえず、私が叔母様の意見をいただきたいのは、久美子と私のことです。久美子はまだ、私と母親が違《ちが》うことを知らんと思います。それを、今、教えたほうがいいかどうか、叔母様の考えを聞かせていただけますか。私は、今さら言いたありません。言いにくいし、今まで黙《だま》っとったわけですから、言ったらもう久美子は私のこと絶対に信じてくれんくなるだろうし。けど、人間は真実を知らな不幸だとも言いますでしょう。私は、どうしたらいいと思いますか」
「そらあんた、黙っとったほうがええわ」
貞代は即座《そくざ》に言った。
「言ったからとて、久美子ちゃんが悠子から離《はな》れてくとは、私は思わんけどね。あんたは今まで久美子ちゃんの面倒《めんどう》を母親みたいに見てきた大事なお姉ちゃんだでね。半分、血がつながっとらんのがわかっても、手のひら返すような真似《まね》はせんと思うよ」
「はい」
と口では答えたものの、それは疑わしいと悠子は思っている。今の状態から、二人が不仲になった場合を想定することはできないが、あれだけよくしてくれる継母《はは》に、十年近くにわたる反抗《はんこう》を続けている久美子を見ると、そう思ってしまう。
「他人から知らされるより、悠子が言ったほうがいいけど、いらん波風はねえ。ここまで来たんだで、黙っとればええわ」
叔母の意見が、そちらの方向であることに、悠子は安心した。とりあえず、叔母に相談したかったことはそれだけだ。他のことは、すべて本人次第の問題だ。だが、貞代は家の問題を考えているらしかった。
「悠子と久美子ちゃんの仲がええのは、誰《だれ》が見てもわかるでええけど、久美子ちゃんと美咲さん、上手《うま》く行っとるのかね」
質問の形式はとっているが、叔母《おば》は知っているのだろう。
「お継母《かあ》様、よくして下さるんですけど、なかなか……」
「久美子ちゃん、たまに私にも愚痴《ぐち》こぼしよったしね、美咲さんのことで」
「そうですか」
それは知らなかった。あまり感心したことではない。悠子は鼻の頭に寄った皺《しわ》を、急いで戻《もど》そうとする。
「何て言ってました」
「気取っとるとか、無理に母親|面《づら》するとか、干渉《かんしよう》し過ぎるとか、よう叱《しか》られるとかねえ」
「私は、そんなこと思いません。干渉し過ぎるって言うのは、わかるような気もします。母親になろうと、必死に努力してみえましたから。御機嫌《ごきげん》とったりせんと、いかん所はぴしっと叱るんですよ。私は、そういう態度、好きです……」
「悠子は苦労が多い分だけね。そういう見方ができるかもしれんけど、久美子はその点、甘《あま》えが先に立つでね。本当のお母さんのことみたい、憶《おぼ》えとらんだろうけど」
悠子の顔色が変わった。興奮したような赤が薄《うす》くさしたのを、貞代は見逃《みのが》さない。
「言ったらかんことだったかねえ、悠子の前で、本当のお母さんて」
「いえ、別に……」
悠子は唇《くちびる》を噛《か》んだ。本当の母親について知りたいと、彼女は思い続けて来た。特に思春期の頃《ころ》、その願いは切実だった。父に再三|尋《たず》ねたが何も教えてもらえない。そのことも、彼女の父親不信の原因になっているかもしれなかった。
彼女は濁《にご》しかけた言葉を撤回《てつかい》する。
「叔母《おば》様、ご存じですか、私を産んだ母のことは」
「知っとったら、教えたげるんだけどねえ……」
「そうですか」
「本当に、いきなりあんた連れて来てねえ」
「父の本当の娘だっていう確証も無いんですね」
うなだれた悠子を貞代はじっと見つめる。そんなことはないと、力づけてやりたかったが、それこそ貞代ばかりではない、親戚《しんせき》一同の疑っていたことでもあった。彼女は見事に父親とは違《ちが》う顔をしている。それを、母親似と言っていいかどうかは、母親の顔を知らない人々にわかることではなかった。
「こんだけようやってくれるあんたのこと、悪く言う人はおらんと思うで、そんなことは考えんでええわ。悠子、しっかりしやあよ」
それが叔母に言える、精一杯《せいいつぱい》の優《やさ》しい言葉であることは、悠子にもよくわかる。彼女は素直《すなお》に感謝し、最後に言った。
「どうもありがとうございます。もう一つ、わがまま言わせていただけますか。遺産の件でも力になって下さい。私は一人でやってけますから、どうか久美子とお継母《かあ》様に不利にならないように」
彼女は特に後者にアクセントを置いた。周囲の大人《おとな》達の優先順位は久美子・悠子・美咲に決まっている。けれどこの叔母も、頷《うなず》きながら美咲のことを考えてはいないのが、悠子にはわかって、切なかった。
一希《かずき》の声が、聞きたい。いや、望んでいるのは声ではない。声だけなら、留守電で充分《じゆうぶん》だ。さっきから迷っているのは、留守番電話の無機質な応答が返って来ることを恐《おそ》れているからではないか。
彼女が望んでいるのは、こんな夜中にも、悲しみを包んでくれる人がいるのを確認することだ。確認ができなかったら、まるで世界中から見放されたような絶望の中へ頭から落ちてしまい、眠《ねむ》れなくなる。眠っている間だけが安心できるときなのに。安心を失《な》くしてしまうと、よしんば眠れたとしても、悪夢《あくむ》は現実よりも悲しい。
彼女には、ダイヤルが回せない。
「お姉ちゃん、電話するの?」
流石《さすが》の久美子も声に元気が無い。自分の部屋《へや》から、ひょいと顔を出して、廊下《ろうか》に置かれた電話の方を見ている。
「ううん、かけたとこ」
悠子は首を振《ふ》った。
「ねえ、側におってくれん?」
久美子が上目遣《うわめづか》いの甘《あま》えた顔を見せる。
「いいよ」
悠子は微笑《ほほえ》んで、久美子の方へと歩いた。こんなときにも二人の思うことは対照的だ。久美子は寂《さび》しいから誰《だれ》かの側にいたいと言う。悠子は苦しいから一人でいたい。一希になら側にいて欲しい。それが叶《かな》わないから、いっそ一人の方がいい。
「お継母《かあ》様も、一人にしといちゃいかんのかもしれんね」
久美子と並《なら》んで座りながら悠子が言うと、予想通り、久美子は不満そうな顔をした。
「いいがね、あんな人。なんで、そう気にするの」
「こっちが訊《き》きたいわ。いい人だがね。なんであんたは、そう反抗《はんこう》するの。もう何年になる? 十年近いでしょうが。少しは仲良くしようと思わんのかね」
「全然」
「なんで」
「嫌《きら》いだもん」
「だで、なんで」
「わからんけど、嫌いなもんは嫌い。いかにも水商売っぽいもん」
「美人なだけでしょ」
「そうかあ? 絶対、そういう商売の人だったと思う。でなかったら、こんな年齢《とし》の離《はな》れた男の後妻になろうなんて思わんて。まともには結婚《けつこん》できんような人だったんじゃないの。そんでだわ、知性が感じられんの。そういう人、母親って認めたないし。私ね、自分の母親知らんがね。お姉ちゃんは、少しは覚えとるでしょ」
久美子の声が、また湿《しめ》り気《け》を帯びてくる。
「覚えとるよ。優《やさ》しいお母さん。私なんかのこと、あんなに可愛《かわい》がってくれて」
悠子の声も泣き声になる。久美子はそれを誤解しているだろう。悠子の悲しみは、久美子以上に母を知らない自分に対するものだけれど。
「あたり前だがね。お姉ちゃん。自分の娘《むすめ》だもん。いいなあ、私も、ぼんやりでいい、お母さんの思い出って欲しいなあ」
「でも、もう手に入らない」
「うん」
「これから先、どうする気? お継母様と二人で暮《く》らさなかんのだよ。お継母様もまだお若いし、いつまで平田の籍《せき》にいらっしゃるかわからんけど、しばらくはそうでしょう。久美子だって、もう一人前のいい大人なんだで、もう少し、ちゃんとして。頼《たの》むに」
「お姉ちゃん、戻《もど》らんの?」
「今の仕事、好きだし」
仕事は口実だ。地元に戻って、別の仕事で暮らして行けと言われたら、そうしても構わない。ここには一希がいないから、戻りたくない。久美子が、私も東京に行こうかな、面倒《めんどう》見てくれる、と言ったときに思い留《とど》まらせる言葉も準備したが、彼女には知らない土地で苦労する気もないらしい。
「いつ、仕事に戻る?」
「一週間、休む」
「じゃあ、あと四日かあ。その後は、あの人と二人かあ。友達の家、泊《と》まり歩いたろかな」
「やめやあ、みっともない」
「わかってる、わかってる」
久美子は、悠子の肩《かた》に額《ひたい》を押《お》しつける。
「わかってる。お姉ちゃんは、辛《つら》い思い抱《かか》えて、一人で東京に戻るんだもんね。余計な心配かけちゃかんて、わかっとるよ。ごめんね」
「久美子が謝ることはないんだよ、別に。でもね、いっぺん、三人で話し合わなかんことは確かだね。私のおるうちに」
「それはやだ」
「なんでって」
「今は、やだ。も少ししたら考えるけど」
「久美子」
「お願い」
「安心して東京行かせて」
「だで、極力|摩擦《まさつ》の無い生活は心がけるで、話し合うのは勘弁《かんべん》して。今、私、不安定になっとるし、何言うかわからんで。ね」
「わかった、としか言えんね。久美子は、もう」
久美子は力無く笑う。
「お姉ちゃん、今日は一緒《いつしよ》に寝よう」
「いいよ。本当に、もう大人なのに甘《あま》えっ子」
「だって、お姉ちゃん、たった一人の家族になったもん」
「またそういうこと言って」
「だって、あの人まんだ若いしさ、どうせこの家も出てくんでしょう、そう遠《とお》ないうちに。その方が、あの人のためにもいいんでしょ、お姉ちゃん。そしたら、ずっと頼《たよ》ってけるのはお姉ちゃん一人」
「旦那《だんな》さん見つけなさいよ。叔母《おば》様に、お見合い頼《たの》んどいたけど」
「お姉ちゃんは?」
「私は自分で」
「お見合いかあ。お姉ちゃんが自分でって断言しちゃうと、そういうのに頼るの、情けないような気持ちになってくる。でも、そんな年齢《とし》だね。いいかもしんない。まだ、わかんないや、でも。頭ん中、ぐちゃぐちゃ」
そう言って、久美子は大きな溜《た》め息をつく。そして、きらきらとした目で、じっと悠子を見つめた。
「よかった。お姉ちゃんがおってくれて。こういうときに、お姉ちゃんがおってくれるで、私、普通《ふつう》に生きとれるのかもしれん」
その目が刺激《しげき》するものは、紛《まぎ》れもない、母性本能であると思う。もしかしたら悠子の在り方が、久美子と美咲の間に、障壁《しようへき》となっているのかもしれない。そんな気がして、悠子は胸に鈍《にぶ》い痛みを感じる。
久美子が美咲と話をしたくないと言う限り、無理強《むりじ》いしたらろくなことにはならない。久美子は、五日の休みの後、いつも通りに短大に行くことにした。久美子を送り出してから、悠子は美咲に声をかける。美咲は、女物ばかりになった洗濯物《せんたくもの》を干していた。悠子には、彼女が一回り小さくなったように感じられてならない。
「お継母《かあ》様、しばらくしたら、お茶でもいれましょうか」
「そうですね」
答える声も、力弱く、細かった。
悠子は、洗濯物を干し終える頃《ころ》を見はからって、丁寧《ていねい》に煎茶《せんちや》をいれ、葬儀《そうぎ》の残りの和菓子を添《そ》えて、居間に持って行く。
「悠子さん、明日、発《た》たれるんでしたっけ」
「はい」
「また、寂《さび》しくなってしまいますね」
「久美子がいますのに」
二人の間に、沈黙《ちんもく》が落ちる。悠子は、あまりにも型通りでおざなりな答えを、反省しながら訂正《ていせい》する。
「久美子と二人きりになるから、余計に始末が悪いんですわね」
美咲は黙《だま》って俯《うつむ》いている。しばらく待っても、何も返って来ないので、悠子は続けた。
「もう十年近くも経《た》って、あの子もいい大人《おとな》ですのに。なんでああなんでしょう。私は、逆に感心してまうけど、ああはつっぱれんわね、普通《ふつう》。けど、お継母様にしたら……ねえ。本当に辛《つら》いでしょう」
「ええ。悠子さんが、最初からききわけ良かったでしょ。他人|行儀《ぎようぎ》な感じはしたけど、親切にしてくれた。だから、久美子さんも悠子さんの年齢《とし》になれば、と思ってたの。それに、ドラマとかでよくあるじゃない、最初は反発している子が心を開いて……って。甘《あま》かったわね。現実にはね、都合《つごう》のいい台本なんて無いのよね」
「これから、どうなさるんですか。お継母様も、まだお若いですから」
「まだ考えてないわ。しばらくは、平田の家にいさせてくれるわよね?」
「お継母様には、望む限りいつまでも、その権利がありますよ。でも、それでいいんですか」
美咲は溜《た》め息をつく。
「悠子さんて、本当にしっかりしてるのね。小さい頃《ころ》に、いろいろあったからかしら。その分、久美子さんと違《ちが》うんでしょうね」
「久美子も母親無しで大きくなりましたもの。苦労はしとります。けど、あの子には、ちゃんと父親がいました」
「悠子さん、その言い方はいけません。お父さんは、あなたのことを、ずっとずっと気に懸《か》けていらしたんですよ」
「けれど私は、父を憎《にく》んだことがあります。勝手な人間です。亡くしてみて、やはり父は父としての存在感を持ってたんだなって思いました。悲しなったで。でもね、やっぱり最後まで勝手な人間だったと思います。こんなに急に。これで、少しは入院でもしとってくれるなら、二人で留守を守っとる間に、お継母様と久美子の間も、違《ちが》うようになっとったかもしれん。そんなふうに。お継母様、どうして父と結婚《けつこん》したんですか?」
「ききたくないんじゃなかったの」
「昔、そう言いましたよね」
「きいて欲しかったときに」
「そうですね、今さらきくのも、おかしいですね、ごめんなさい」
悠子は初めて、美咲を相手に、ちょっと嫌な思いを噛みしめた。それがわかったのだろうか。
「やっと話させてくれるのね」
美咲は、そんな言い方をした。
「いい人だったからよ」
「どんなふうに?」
「いい人って言うのか、寂《さび》しい人だって思って。私がこの人についててあげなきゃ、この人、一人になっちゃうって」
「それって同情って言いません?」
「愛よ」
美咲は頷《うなず》きながら繰《く》り返す。
「愛よ。四十以上も年齢《とし》が離《はな》れてるのも、妹くらいな娘達も乗り越《こ》えたもの。久美子さんとの不仲にだって、私が逃《に》げ出さなかったのは、悠子さんのフォローもあったけど、あの人を愛していたからよ」
「父は、あなたに何もしなかったような気がしますけど」
「いてくれたら、それで良かったの。いろいろな愛があるけど、これも紛《まぎ》れもなく、その一つなのよ」
「そうですね。なんか安心した」
悠子が言うと、美咲も安心したような頷《うなず》き方をする。美咲は、誤解しているだろう。悠子の安心は、美咲が父を本当に愛していたことに対するそれだと思い、感動しているだろう。他人の言うことを、自分の文脈に合わせて、いいように解釈するのは、ときにうっとうしくもなるが、便利なこともある。
そして悠子は、最も聞きたいことを、苦労してさりげなさを装《よそお》いながら口に出す。
「父から、私の本当の母親について、何かお聞きになったことはありませんか」
典子の前の母について、何かわからないかと思ったのだ。悠子の知らない典子の話でも良かった。
「ごめんなさい、無いわ。あなた達のお母様については何も……」
やはり、そう言われた。『あなた』ではなく『あなた達』と言った。美咲の性格から、そして答え方からも、それが嘘《うそ》でないことはよくわかった。けれど、これは悠子の決めた最後のチャンスだ。ここでわからなかったら、もう諦《あきら》めようと決めている。くい下がらずにはいられない。
「何でもいいんです。ほんの小さなことで。本当に愛していたのかどうかだけでも……お願いします」
「ごめんなさい。本当に何も……」
「そうですよね。今の女に昔《むかし》の女の話なんか、しませんよね、普通《ふつう》」
美咲は痛々しいほど頬《ほお》を歪《ゆが》めた。そのなげやりな言い方は久美子のもので、悠子はけしてそんなふうに言葉を吐《は》き捨てたりはしなかったはずだ。
「その言い方は、お父さんに失礼でしょう」
あまりに落胆《らくたん》したのだろう、今日の悠子は詫《わ》びもしない。
「じゃあ、どういうつもりでその話をしないのかは?」
悠子は顔を手に埋《うず》めて呻《うめ》いた。
「そんなこと、知るわけありませんよね」
「ごめんなさいね」
「お継母《かあ》様が謝ることじゃありませんけど……でも……どうして私、亡くなったばかりの父を、こんなに恨《うら》まなきゃいけないんでしょう」
確かに美咲の謝る筋はない。けれど彼女は詫び続けた。そして空を仰《あお》いだ悠子の目から、ぽたぽたと落ちる涙《なみだ》も、父の死と、実の母を知る望みを絶たれたことに対するものだと信じた。不憫《ふびん》な娘《むすめ》だと思う。
家庭に恵《めぐ》まれ、良縁に恵まれ、未来にも恵まれた家庭を築くであろう女性達の群れの中に、自分が入れなかった悲しみの涙が、いつか父の死を悼《いた》む涙を押《お》しのけて流れていることに、悠子はとうに気付いている。今度は、そんな自分への憐《あわ》れみの涙に変わるのかもしれない。
「お姉ちゃん、やっぱり今日?」
登校前に、久美子がやって来た。恨《うら》めし気《げ》な目をして、悠子の荷物をさすっている。
「仕事があるもの」
それに、隠《かく》れて会わなきゃいけない人がいるの。会わないと息ができなくなるの。
「久美子、何度も言うけど、あんたはもう大人《おとな》。ちゃんとしやあよ。叔母《おば》様に、いろいろ頼《たの》んどいた。お見合いのことも。喪《も》があけるまで、そういう話はなさらんだろうけど、もしあったら、お継母《かあ》様と相談して、あんたのいいようにしなさい」
「自信無いなあ」
「何が」
「二人で暮《く》らすの」
「甘《あま》えとってかん」
久美子は、東京から戻《もど》って来て、か、私も東京行きたい、のどちらかを言葉の裏に隠《かく》している。どちらも、今の悠子にはできない。
「あんたの年齢《とし》で、やあなお姑《しゆうとめ》さんと同居しとる人もおりゃあすに、何をわがまま言っとるの。お継母様には、あんたが偉《えら》そうな顔できるんだで、そんだけでもいいと思やあ。じゃあ、またね」
悠子は優しい声で言いながら、久美子を送り出す。久美子は頷《うなず》いていたが、いかにも不満そうだった。
久美子の後ろ姿の向こうに、灰色の空がある。帰りも雨になりそうだ。
本当は、美咲の言葉を、悠子は何一つ納得《なつとく》していない。愛しているからの一言で、彼女が今までの苦労を引き受けたとは。美咲は、本当に話したいときに聞いてくれなかった悠子に、ささやかな報復をしていたのかもしれない。しかし、自身を振《ふ》り返ってみると、納得しないのは罪であるとも思えてくる。彼女自身の方が、もっと矛盾《むじゆん》を抱《かか》えているではないか。美咲は結婚《けつこん》した。少なくとも見返りを得た。世間からも認められた。若過ぎる後妻という後ろ指や、継子《ままこ》の反抗《はんこう》も、認められたればこそだ。悠子には出口が無い。どこへも行けず、何も得られない。それでも一希の側に、一秒でも長くいたいと思う。この気持ちと同じだろうか。一希は優しい。けれど父は冷たく、身勝手な人間だった。それなのにどうして。美咲を妻とし、悠子を娘《むすめ》として家族の中に取り込んだ父の方が、今だけを頼《たよ》りに悠子を実際には放置している一希よりは誠実だと言うのだろうか。
雨ではなかった。窓の外は雪。二百キロのスピードで、後ろに叩《たた》きつけられる。
どんな疑問が出て来ても、彼女は彼に会いたいと思い、会えば安心し、それ以上は望まない。
そこが都市であるせいか、彼女は故郷に何の感情も持てない。帰って行く場所は、彼の胸の中だと思う。そこにいる彼女を傷つけることは、誰《だれ》にもできない。
新幹線から降りてすぐ、彼女は電話をかけた。留守番電話に、帰って来たとだけ告げる。
その夜は、ずっと待っていた。本人がいきなり現れるかもしれない。少なくとも電話は鳴るだろう。
いつの間にか、期待することを覚えてしまった自分の浅ましさを、戒《いまし》められた思いの中で日付が変わる。
自分の方からかけてみるには勇気が要《い》った。彼の帰りが何かで遅《おそ》くなって、メッセージを聞いてない、だから何も言って来ない。そう信じるから眠《ねむ》ることができる。確かに、今日帰ることは事前にも知らせた。けれど、それを忘れられたからと言って文句を口にしては、彼女の存在価値は無くなると思った。それを口に出さずに待っているから『愛人』なのである。口に出したら『恋人《こいびと》』になる。恋人は二人も要らない。
彼女は我慢《がまん》できなくなり、受話器を取る。留守番電話の声を少し聞いて、眠ろうと思う。離《はな》れていると、本人がいないことは悲しい。近くにいれば、いなくてもどうにかなる。
答えは、留守番電話ではなかった。
「悠子じゃないか。大変だったな。もう大丈夫《だいじようぶ》か」
電話をくれとも来てくれとも言わず、ただ東京に戻《もど》った。彼の近くに帰って来たという事実だけを告げたのは、よく言えば、彼に何かを強制しないでおこうという配慮《はいりよ》、悪く言えば、それだけ言ったら何かの働きかけがあるだろうという思い上がりだ。何も返って来なかった悲しみで、目の前が霞《かす》んだ。それでも言葉は気丈《きじよう》に返って行く。
「はい。いろいろ心配おかけして、申し訳ありませんでした。大丈夫です」
「本当は無理してるんだろ。よしよし」
こんなにも優しいのは、彼女が求めているからだと知るのは辛《つら》かった。求めないでいるのが、自分の取り柄《え》だと考えていたが、間違《まちが》っていたのだろう。何かを求めていたから、彼は優しくしてくれたのだろうし、彼女からのサイン無しに、優しくしてもらえるような存在感も価値も無いのだと、彼女は泣きながら結論を出した。
彼にはわからない。声が元気を装《よそお》っているから、彼女が泣いているとは思わない。相手に見えなければ、どんなに涙《なみだ》は流してもよかった。
妹のこと、継母《はは》のこと、本当の母について知る望みが絶たれたこと……話したいことが、次々と浮《う》かんで来る。
「声だけお聞きしたかったんです。こんなに遅《おそ》く、ごめんなさい」
「そんなこと、気にしなくていい」
「じゃあ、おやすみなさい。本当に、すみませんでした」
「本当に、もう大丈夫か?」
「はい」
「大丈夫じゃないくせに。もうしばらく、こうしておいで」
彼女は無言で頷《うなず》き、目を閉じる。涙はまだ止まらない。口を開けば、どうしてわかっていながら、自分から声をかけてくれなかったのか。そう尋《たず》ねてしまう。どんなに優しく、無邪気《むじやき》を装っても、詰《なじ》る言葉になる。彼女は目を閉じて、黙《だま》っている。とり残されたような寂《さび》しさも消えないが、受話器の向こうに誰《だれ》かがいて、その人の時間が確実に彼女のために開かれているのは快いものだった。
7
結局、自分は彼にとってその程度の存在にしかなり得ない人間なのだ、という考えに、その後、彼女は一週間くらい浸《ひた》っていた。しかし、それは違《ちが》うのではないか、と改めるような動きが出て来た。
昔《むかし》だったら、そうじゃない。昔というと、とても遥《はる》かなときを指しているようだし、彼女としても、一希との再会を遥か昔の出来事と感じているのだが、実際には半年も経《た》っていない。けれど出会った頃《ころ》は、三日に一度くらいは電話があった。言葉にして、彼女の小さな美点まで誉《ほ》めてくれた。近くまで来たときには訪ねてくれた。それが、今は無い。かつて一度は、気持ちが均等な二方向に流れていたのだ。それが今は、一つの方向に偏《かたよ》りつつある。
理由はわからない。見当はつく。確認したら、惨《みじ》めになる。彼女はいつもスペアとかセカンドとか呼ばれる存在だ。
職場でも、元気の無い彼女を、周囲は父を亡くしたせいと、いたわった。
「飲みに行こうか。そんな気持ちじゃない?」
佳美《よしみ》が誘《さそ》う。金曜日。休みの前日。飲んだ帰りに一希が訪ねる確率が一番高い日。高かったと言うべきだろう。一希との接触《せつしよく》は、父の死を契機《けいき》に、どんどん希薄《きはく》になっている。彼はけして、終わりにしようという言葉は口にせず、彼女にとても優しい。
多分、今夜も来ない。けれど、もし来たら、彼女は部屋《へや》にいなかったことをずっと後悔《こうかい》する。一人で待つよりは、佳美と出かけたほうがずっと楽しい。
「うん、やめとく。ごめんね。嬉《うれ》しいけど」
「そっか……仕方ないね」
向こうを向きかけた佳美の背中に、悠子は急いで言った。
「外に出るのは嫌《いや》だけど、一人でいるのも嫌だから、私の部屋でっていうのは、どう? 嫌?」
「いいよ。もちろんじゃない。どうして外で飲むのがよくて、悠子の部屋で飲むのが悪いなんてことがあるの」
悲し気《げ》な悠子の扱《あつか》いに慣れていない佳美は、饒舌《じようぜつ》になる。
初めて入る悠子の部屋が、何もかもきちんとこぢんまりしているのに、佳美は感心した。同時に、いかにも悠子だと思う。途中《とちゆう》で買ったワインを開け、缶詰《かんづめ》やクラッカーを肴《さかな》に並《なら》べた。甲斐甲斐《かいがい》しく酒肴を作るということをいつもの彼女ならしただろう。今は気力が無い。何よりも相手が一希ではなかった。
ここまで来て、佳美は少し後悔《こうかい》した。どうにかして、悠子を力づけてやりたいと思ったが、何から話したらいいのかわからない。不用意な言葉は彼女を傷つける。
「いつか、本当のお母さんのこと、聞かせて欲しかったんだけどな……」
悠子が自分から話し始めて、助かったと言えば助かった。いきなり、あまりに重い話題ではあったけれど。
「もう、何も残っとらん。誰《だれ》にも教えんと逝《い》ってまったもんなあ」
やはり何も言えないでいる佳美に、悠子は優しく笑いかける。その邪気《じやき》の無さが、佳美を切なくさせる。胸ぐら掴《つか》んで、もっと悲しそうにしてていいのよ、何を他人に気を遣《つか》ってるのよ、と揺《ゆ》さぶってやりたくなる。そうするわけにもいかなくて、佳美はただ黙《だま》っている。何も言ってやれないことが、まるで罪であるかのように感じている佳美に、そんなこと気にしなくていいから、と悠子は笑うのかもしれなかった。
「まんだ、妹の結婚《けつこん》のことも考えなかんし。お継母《かあ》様も、まんだ三十代だもんなあ。身の振《ふ》り方、しっかり考えんとなあ」
独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いたとき、電話が鳴った。悠子が十秒おきくらいに三回、はい、はい、はいと言って終わる。
「佳美、悪いけどお……帰ってくれるかな」
もじもじと悠子が言う。
「本当に悪いんだけどお」
佳美には心あたりがある。
「例の人が来るの?」
横を向いて答えない悠子は、この場合、充分《じゆうぶん》答えてしまっている。今は、普通《ふつう》のときではないし、多分、その人は佳美よりも強く優しく、彼女を包んでやれるのだろうから、帰ってもよかった。けれど、できない。
「帰らないと言ったら」
「いいよ。その人に紹介《しようかい》する」
「何よ、それは」
「それしかないじゃない。それに、そうしたら、いい人だって佳美にもわかるだろうし」
「いい加減にしたらどうなの? いつまで、そういう関係続けるつもりよ! 長く続きゃしないのよ。何の可能性も無い。出口なんてどこにもなくなる前に、出てらっしゃいよ」
佳美がきめつけたのは、悠子がいつも、反論するにしても静かだったからだ。悠子は頑固《がんこ》である。けれど意見を変えないだけで、声を荒らげるような真似《まね》はしない。だから佳美は安心して、威丈高《いたけだか》な態度に出たのである。なるほど、確かに今は、尋常《じんじよう》の事態ではなかった。
「うるさいっ!」
悠子が叫《さけ》ぶ。
「うるさいうるさい、うるさあいっ!」
悠子のそんな態度を予想していなかっただけに、佳美は出方を失った。
「なんで幸せになっちゃかんの? 世の中、幸せな人、一杯《いつぱい》おるがね。どうして私だけ幸せになったらかんの。教えてよっ!」
「幸せになって欲しいからじゃない。今の人から離《はな》れなきゃ、悠子、絶対に幸せになれない。どうしてわからないの?」
「幸せかどうかなんて、私が決めるわ! 私、幸せなんだから。あの人の近くにいると幸せなんだから」
「どうするのよ、これから。離れて行くしかないのに! 幸せなわけないじゃない!」
「人間なんてねえ、明日死ぬかもわからないの。それなのに、先のこと考えて、今日の幸せ棒に振《ふ》ってらんない!」
「悠子、お父さんとあんたは違《ちが》うのよ。急にお父さんが亡くなったからって、そんなこと言わないで。冷静に考えてよ」
「わからないのね。佳美にはわからないの。もう帰ってよ」
「紹介《しようかい》してくれるんじゃなかったの」
「あんたって、本当に意地悪。帰って。お願いだから。あの人に会わせたくない」
「私だって、会いたくないわよ、もう」
佳美は立ち上がる。けれど、立ち尽《つ》くして動けない。このまま、離れて行けない。
「出てって、あの人が来るから」
「本当に、あんたは……」
「出てってくれなきゃ、放《ほう》り出すわ……」
彼女が、その人との関係をこんなに大事にしているということは、彼女が幸せである証明なのだろうか。佳美には、もしそうであったとしても、それは間違《まちが》った幸福であるとしか思えない。けれど、とりあえず今、彼女の心を占《し》めているのは、辛《つら》い思いを抱《だ》き締《し》めている悠子に、さらなる辛さを感情的に押《お》しつけてしまったことだ。
「私、帰るね……」
部屋を出た佳美が振《ふ》り返ると、ドアの隙間《すきま》、悠子の見つめる目があった。寂《さび》しそうで悲しそうな目。どうしても幸福な目には見えなかった。
「どうした、悠子」
ドアを開けた途端《とたん》、座り込んで泣いている彼女に出会う。彼は、そっと彼女を包み込んだ。
「どうしたもこうしたもない。辛《つら》いよな。本当に、どうしておまえにばかり、こんなことが起こるんだろうな。おいで。思い切り甘《あま》えて、泣いていいから」
ぐっと彼女は彼にしがみつき、精一杯《せいいつぱい》の力を籠《こ》める。どんなに力を籠めても、彼女の腕《うで》は彼にはくすぐったいばかりで、とても愛《いと》しい。
「悠子、可哀想《かわいそう》に」
「私、可哀想じゃない」
彼の胸でくぐもった声を出した後、涙《なみだ》の溜《た》まった目をして彼を見上げた。
「先生の近くにいたら、世界一幸せにだってなれます」
彼は力の限りを彼女に返す。彼女は黙《だま》っていたが、彼の腕《うで》の強い力は、骨に喰《く》い込むように痛かった。
諦《あきら》めていた頃《ころ》に、彼がいきなりやって来たことで、彼女はひどく救われた気持ちになった。心配していた佳美との仲も、表面は以前と同じになっている。ほんの少し、冷たい風が吹《ふ》いているのは仕方のないことだろう。彼との関係を保って行くために、佳美との関係が歪《ゆが》んで行くのは悲しい。悲しいが、どちらか一つしか選べないという、二者択一《にしやたくいつ》の問題をつきつけられたとき、今の彼女にとって、一希との関係に勝てるほど重要な問題は、世界中に一つもない。
あの日、確かに突然《とつぜん》やって来はしたけれど、彼の訪問が少なくなっているのは事実だ。その上、少なくなった訪問のそのときにさえ、以前よりも二人の距離《きより》を遠く保とうとしていることがわかる。
「俺《おれ》は帰るから。戸締《とじま》りには気をつけて、ゆっくり眠《ねむ》るんだよ」
いつも通り、彼はそう言って出て行く。最近の「いつも通り」。昔《むかし》のように、抱《だ》き寄せて口づけたりはしない。
「どうしてですか」
それだけは、訊《き》いてはならないと思う。その制限を課していることが、自分にとって正しいのか、疑問にさえ思うようになって来た。
彼女は無色|透明《とうめい》な存在だった。彼を今の恋人《こいびと》から奪《と》ろうとは思わない。彼の恋人に嫉妬《しつと》をしない。だから、彼は彼女に何でも話すことができる。恋人に相談したら、解決の前に一悶着《ひともんちやく》ありそうな悩《なや》みや恋人自身に関する、のろけ半分の不満まで。それらが心を乱さないわけはない。彼女はそれほど完成された人間ではない。けれど努力の末に自分を抑《おさ》えることはできた。笑いながら彼の言うことはすべて受け入れる。完全な受け身ではなく、彼女は彼の言うことを、心を籠《こ》めて一生懸命《いつしようけんめい》聴《き》くように心がけた。それが彼女の存在価値なのだ。
悪い夢にうなされることがある。自分がいろいろな所にいる。どこにいるのが本当の自分なのかわからない。不安の他に焦《あせ》りがある。胸が悪くなる。三日続くと、彼女は鳴らない電話を自分から鳴らす。
「夢なんか見ませんよね」
「うん、見ない」
「朝までぐっすり眠《ねむ》れますよね」
「大丈夫《だいじようぶ》だよ」
彼の声はとても優しい。不思議なことに、ちゃんと彼女を夢から守ってもくれるのだ。
だが、彼女には予感がある。いつか、この声も魔法《まほう》の力を失って行く。そうなる前に、自ら魔法の恩恵《おんけい》を拒否《きよひ》することが、賢《かしこ》い選択《せんたく》なのだと彼女は知っている。
今、その選択をする賢さがあれば、最初から一希に近づいたりしなかった。
「今すぐに会いたいんです」
初めて電話に、そう訴《うつた》えたのは、三月の初めだった。継母《はは》から贈《おく》られた豆雛《まめびな》の、内裏《だいり》が二体、金の屏風《びようぶ》に涙《なみだ》で霞《かす》んでいた。
「行ってもいいですか」
「待っておいで」
と彼は言った。
「俺《おれ》がそっちへ行くから」
「それなら、いいです。それでは完全に迷惑かけてしまいます。いいんです。別に、いいんです。おやすみなさい。もう眠ります」
必死で言う頃《ころ》には、もういない。きっと急いで、彼女に向かって駆《か》けている。
彼が玄関《げんかん》を入って来るまで、彼女は悔悟《かいご》の念に苛《さいな》まれていた。どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。彼の恋人は、わがままで嫉妬《しつと》深い、彼の口を借りれば。わがままで嫉妬深い女がそんなに好きなら、自分もそうなろうかという、浅はかな考えを抱《いだ》いたこともなくはない。それをけして実行に移しはしなかった。しなくて正解だと思っている。それは少し考えればわかることだ。彼女の中に、わがままで嫉妬深い印象だけが育って行くのは、彼が本人に言えない不満を悠子に見せているからで、悠子に向ける必要のない愛《いと》しさも彼の心に溢《あふ》れている。それは彼女一人の持って生まれた魅力《みりよく》と、察するところ、苦労を知らずに育った故《ゆえ》の素直《すなお》さ、伸《の》びやかさ、純粋《じゆんすい》さだろう。
とても普通《ふつう》とは言えない環境《かんきよう》に置かれて、屈折《くつせつ》しきった彼女が嫉妬したり甘《あま》えたりしても、汚《きたな》らしくなるばかりだ。
そう考えて、自分を鼻で笑ったとき、来る所まで来たな、と思った。こんなことでは泣けない人間になり下がってしまった。
「悠子、どうした」
彼が、予《あらかじ》め開けてあった玄関を入って来たとき、彼女は床《ゆか》に座り込んで壁《かべ》を見ていた。彼女が立ち上がる前に、彼は身を屈《かが》め、彼女を包み込む。
「何があった」
「ごめんなさい。先生がいらっしゃるなら、私、何も言わなかったんですけど……」
「謝らなくていいんだよ」
そう言う彼の声が、少し苛立《いらだ》っているようで、彼女は哀《かな》しかった。こうして後ずさり、自分の要求を見せないことが、一希を苛立たせるのだろうか。だとしたら、やはりわがままになったほうがいいのかもしれない。
「ごめんなさい。わがまま言ってしまいました」
「甘えられる分は甘えていい」
「私、自分の存在がマイナスになるくらいなら……」
「それもわかってる。もう口は閉じて」
彼の指先が、顔をなぞって行く。
「目も」
彼女は素直に目を閉じる。
甘えていいと彼は言う。甘えるしかない。自分から電話をかけなければ、彼の声を聞くことはできない。来てくれと言わなければ彼に会えない。
彼女の想《おも》いは何も変わらない。変わったのは、彼の中の何かか、彼を巡《めぐ》る状況《じようきよう》だ。側にいても不安が募《つの》る。一人になったら、彼女は呟《つぶや》くだろう。
「何もかも最初から、こうなることは、わかっていたから……」
「桜《さくら》の木の下には、死体が埋《う》まってるんだっけ?」
「知らない」
「桜の花は人を狂《くる》わせるんだよね。悪い人も怖《こわ》い人も桜の花は怖いんだ。桜のこと書いた話は怖いけど綺麗《きれい》だよ。さらってきた女の人が、首で遊ぶのもそうだよね。桜の花の咲《さ》く頃《ころ》に鬼《おに》が来るとか言わない?」
「言わない」
「いろんな人が桜のこと書いたの読んでさあ、どれがどれだかつながんないの。ねえ、坂口安吾《さかぐちあんご》のは鬼だっけ? 狂《くる》うんだっけ? 怖《こわ》いんだっけ?」
「酔《よ》っぱらい」
「あはははっ」
こんな悠子を初めて見た。新入社員の歓迎《かんげい》会の後、悠子は夜桜《よざくら》が見たいと言う。こんな遅《おそ》くには、照明も消えているからと止めた佳美を振《ふ》り切るようにして、悠子はタクシーの運転手に言っていた。
「桜の咲いてる所まで」
放《ほう》っておくわけには行かず、佳美も同じ車に乗り込んだ。
「ほらあ」
深夜の公園は、照明も無く、人もおらず、花の数よりも、塵芥《ごみ》入れから溢《あふ》れた塵芥の方が目立つような有り様だった。うんざりした佳美は、そのままタクシーの中へ悠子を押《お》し戻《もど》そうとする。いつもよりひどく強情な割には、酔《よ》っている様子の見えない悠子は、闇《やみ》に浮《う》かんだ桜を見た途端《とたん》、酔ったと言うより、とりつかれた勢いで、花の中に飛び込んで行った。
「これが夜桜。ライトみたい、あてたらかんて。ほら、綺麗《きれい》、綺麗、あははっ!」
今年の桜は早かった。いつも、歓迎会の頃に満開になるのに、もう散りかかっている。夜の中、はらはらと落ちる花弁に晒《さら》されて、悠子は危ない足取りで歩き回る。
「あっ!」
足を縺《もつ》れさせて転倒《てんとう》したときにも、声をあげたのは佳美だけで、悠子はただ笑っていた。
地面に座り込んだ悠子に、闇の中から花びらが降りかかる。見上げると、それは木の上から落ちるのではなく、闇から湧《わ》いて出ているように見えた。
闇から湧く薄桃色《うすももいろ》の夢《ゆめ》が降る。
何もかも夢だ、桜の花が見ている夢。想《おも》いも嫉妬《しつと》も自分自身も、一希の見ている夢ならいい。一希の目醒《めざ》めと同時に消えてしまえ。
あんなにも、母と同じ道を行くことを拒《こば》みながら、同じ道を歩く自分を、世界中から嗤《わら》われたい。彼女は後天的なマゾヒストだ。苛《いじ》められることの方が多いから。それを喜べたら楽になる。
彼女は、ずっとこうして花を浴びていたかった。
「帰ろう」
佳美が彼女を引きずって行く。
「やだあ」
言いながらも従って、タクシーに乗った。
「本当に酔っぱらいには困ったもんだ」
佳美が呟《つぶや》く。
「酔ってるかなあ、私」
「そうでないとしても、酔ってることにしてあげるわよ」
動き出す車の窓の外、あちこちで桜は、ますます勢いを増して地に堕《お》ちて行く。
会う度に、悠子の目が寂《さび》しそうになって行くから、一希は胸が痛い。
彼は、迷っていた。
何かがきっかけで、という事はなく、ある日突然《とつぜん》、疑問が湧《わ》いたのだ。このままでいいのだろうか。悠子ならば言うだろう。いい。このままでいられたら、三人ともが幸福だ。確かに、悠子の位置を知らない優子は幸福である。一希の立場を不幸だなどと言ったら、罰《ばち》があたるだろう。申し分のない恋人《こいびと》と、セカンドでいいと認める愛人がいる。けれど、悠子の幸福は本物だろうか。そんなことは本人が決める、と悠子は言うに決まっている。しかし、世間の基準も莫迦《ばか》にはできないものがある。一般《いつぱん》論に従うと、優子のことも、不幸だと言うのかもしれない。真実を知らないのは不幸だと。その三人の幸福な三角形は、まやかしだ。
その逡巡《しゆんじゆん》が、彼女に対し、距離《きより》を置かせる。
結局、彼は平凡《へいぼん》な家庭に育った世間|並《なみ》の人間だ。悠子のように、一つ、飛び超《こ》えたところがない。世間の器《うつわ》におさまってしまう。
彼がすべてを失うことはない。すべてが露見して、優子が去って行っても、悠子は残る。それだけの深い想《おも》いが彼には重荷だ。
どちらか一人の選択《せんたく》を迫《せま》られたら、彼は優子を選ぶ。悠子はそうしろと言う。たとえ彼女が何も言わなくても、彼は優子を選ぶだろう。優子への気持ちは紛《まぎ》れもなく人間に対するものだ。悠子に対するそれには、花や仔猫《こねこ》に対するものと大きな共通点を持つ。
世間の考え方など関係ないと、ここまで来た。彼自身、疑問も迷いも持たないまま。ふとした疑問から、彼女を抱《だ》こうとする腕が躊躇《ためら》うようになる。その、ほんの小さな躊躇いという不純物が、二人の関係を濁《にご》らせる。こうなったら彼は、もう彼女の側にいてはいけないのかもしれなかった。
今、突然《とつぜん》離《はな》れてしまったら、彼女はどうなるかわからない。彼の結論は少しずつ離れて行こうというものだった。自分からは何も働きかけない。彼女は今に無力感を学習するだろう。虚《むな》しさの中で、自ら糸を切るだろう。
彼は卑怯《ひきよう》だった。
罪悪感を薄《うす》めてくれるように、悠子の行動が変化して行く。最近、かつては全く口にすることのなかった優子のことが、よく話題に登場する。それを口にする彼女は、けして美しくない。自虐《じぎやく》的になる。
「私には、力のある父はいませんから」
「早く、はっきりさせないと、後で揉《も》めますよ。早く結婚《けつこん》したほうが勝ちじゃないですか」
「羨《うらや》ましいですよ。大切にくるまれて、苦労を知らずに育った人は」
「あの人、嫌《きら》いじゃないです。一度しかお会いしてませんけど」
悠子は口を歪《ゆが》めて笑う。
「久美子に似てますもんね」
反応のしかたを失うことが、会う回数に反比例して、多くなって行く。そして会えないことが、彼には苦痛ではない。
自分が、どんどん悲しい人間になって行くのが、悠子には辛《つら》かった。どうして言わなくていいことばかり口にしてしまうのだろう。一人になると、彼を楽しい気持ちにさせるようなことだけを言おうと思うのに、会えない間に、詰《なじ》る思いばかりが溜《た》まる。会えた途端《とたん》に彼に対する不満は消えてしまうから、心の底に、ほんの少し溜まった澱《おり》を、自分をおとしめることに使ってしまう。それが彼を悲しませることは知っているのに。もしくは知っているから。もっと悪いときには、彼の恋人《こいびと》のことを口にする。もちろん貶《けな》しはしないが彼の心に刺《さ》さることを言う。そして彼女は彼から遠くなり、幸せからも遠くなる。
8
「珍《めずら》しいですね」
口に出してから、彼女はしまったと思う。
「そんなことないだろう」
彼はそう言ってみせる。半年前には、週に何回も突然《とつぜん》訪ねた。
「でも、最近は、あんまりいらっしゃらないから」
「そうかな。忙《いそが》しかった」
かつては優しいものですらあった沈黙《ちんもく》が、今は不自然に二人を包む。
何も繕《つくろ》うものが無いから、嘘《うそ》も無かった二人の間に、嘘が入って来る。不器用な二人には嘘が隠《かく》せない。つくづくと見つめてしまう。
それに耐《た》え切れず、彼はとりあえず本当のことを言った。
「今夜は泊《と》まる」
それを聞いた、悠子の率直《そつちよく》な気持ちは「嬉《うれ》しい」以外になかった。疑問や戸惑《とまど》いは後からやって来る。いつも彼は翌日のことを気にして、早く帰った。仕事の無い日にはデートがあった。明日は休みだ。彼女は言葉は使わず首だけ傾《かし》げる。
「しばらく、会わないことにした」
今度は悠子は口に出す。
「どうして」
「悠子には関係ない」
悠子を安心させようとして言ったのだろうか。悠子はとても寂《さび》しい。
「そうでしたね。失礼しました。でも……もし喧嘩《けんか》したんだったら、早く仲直りしてもらわないと……」
このまま終わりになって、自分の方にチャンスが巡《めぐ》って来ればいいと、彼女は願わないのだろうか。それとも彼女はとことん巧妙《こうみよう》で、それさえ表には出さないのか。彼の懸念《けねん》を他所《よそ》に、彼女は続ける。
「先生は、私みたいな思いを味わっちゃ駄目《だめ》です。思い出なんか、何の役にも立たない。あの人を思い出にしちゃ駄目です」
「どうして、一度しか会ったことのないあいつをそんなに庇《かば》うんだ」
「私は先生のことを思ってます。あの人のことは考えません。先生が辛《つら》くならないようにって言ってるだけです。私だって……人間……なんだから。なんだから、あの人のこと妬《ねた》ましく思うし……そしたら口に出してしまいそうで。先生、嫌《いや》な気分にしたくない。私は、先生の休憩所《きゆうけいじよ》に……上手《うま》く言えんけども……なりたいから。それだけで充分《じゆうぶん》だから」
「本当に充分なのか」
「充分じゃない。けど、自分の思い通りに世の中ならんことはわかってます。わかってるから、我慢《がまん》できるんです。もし、充分になろうとしたら、私は先生の心を傷つけることを望みます、あの人の不幸を望みます。そうしたら私は自分を憎《にく》まなきゃいけない。自分の心が鬼《おに》になります。だから……」
彼は、長い間忘れていた。慣れ過ぎていた。突然《とつぜん》に、彼女の持つ声の美しさを再認識する。その声が、彼女の単なる言葉を響《ひび》かせ、音楽にする。彼の心を揺《ゆ》さぶる。
「悠子」
離《はな》れて行けない。優子に対する、平穏な愛《いと》しい思いは動かせない。けれど悠子の呼び起こす、狂気《きようき》に似た想《おも》いも、また。
愛している、と口では言えない。涙《なみだ》が零《こぼ》れそうになった。
全身の力で、彼女を抱《だ》き締《し》めた。
彼の肩越《かたご》し、三面鏡に幾《いく》つも映《うつ》る自分の顔が、彼女には見えた。父には少しも似ていないから、おそらく母に生き写しなのだろう。母のようにだけはなりたくないと思いながら、彼女はここまで来てしまった。彼女は母を思っている。あの男性と結ばれたことが、あなたには幸せでしたか。
私が今、味わっているような幸福を、あなたも知っているのですか。
ほんの小さなことがきっかけで始まった諍《いさか》いを、彼は自分の頭を下げることによっておさめた。二人で食事をしたとき、彼がうっかり三連発したマナーのミスが、優子を怒《おこ》らせたのである。あまりに莫迦莫迦《ばかばか》しくて、謝る気にもなれなかったのだが、悠子にああ言われてから、莫迦莫迦しいからこそ、さっさと頭を下げて構わない、と考え直した。今は機嫌《きげん》を直した彼女と二人、休日の街《まち》を歩いている。何年もの間、繰《く》り返した行動。それでも彼を満足させてくれる行動。これこそが彼の日常なのかもしれない。
「あ、あの人だ」
優子が立ち止まる。
「ね?」
悠子が書店で文庫本を見ていた。
「挨拶《あいさつ》して来ようかな」
行きかける一希の腕《うで》を優子が掴《つか》む。
「いいじゃない」
滅多《めつた》に会えないんだしさ、という白々しい嘘《うそ》も、どうしてそんなこと言うんだよ、という問いも、彼は口に出せない。彼女が何かを知っているのかと目を凝《こ》らす。
「そうだな、まあ、いいか」
何も見えないまま、彼は知らん顔して悠子の後ろを通り抜《ぬ》けた。
彼女は知っていた。
彼が通り過ぎて行く姿を、目で見られない分、心で追って行った。そして彼女の心はすぐに立ち止まる。そこから先は知らない、という場所に。
幸福そうな二人は、これからどこへ行くのだろう。食事、映画、買い物……彼女が一人でしなければならないことを、彼らは二人で通って行くのだろう。一人で摂《と》ると味気ない食事、抜《ぬ》くこともある。彼らは食事一回にもいろいろと考え、ときには意見が合わずに言い争ったりもするかもしれない。
しばらく、唇《くちびる》を噛《か》みしめて、立ち尽《つ》くさねばならないほど、熱い思いが通り抜けて行った。
そして彼女は、ゆったりと笑う。
あなたは恋人《こいびと》だ。だから二人で笑いながら街を歩き、一緒《いつしよ》に食事をし、幾《いく》らでも夢《ゆめ》を見たらいい。
私は愛人だから。隠《かく》れて会うことしかできない、待つことしかできない。けれど何の見返りも考えず、ただひたすらに愛だけを送り続ける自分を、不幸だとは思わない。
誰《だれ》の恋人になるよりも、あの人の愛人になることを自分で選択《せんたく》したのだから。
後悔《こうかい》はしない。
けして。
あとがき
あとがきと言うと、何かこの本について書かなければいけないのだろうか。自分の本の話は苦手なので、私のあとがきはいつも近況《きんきよう》報告になってしまいます。でも、それが好きだというお手紙も結構多い。嫌《きら》いであれば、手紙は出さないからであろう。そして堀田はおだてに弱い。
そういうわけで、近況報告です。なんと言っても、大学院の博士課程に入れたので嬉《うれ》しいです。それから、学会誌に論文が載ったのにも感動している。堀田は、こういう仕事をしているせいで、自分の名前が活字になる、嬉し恥ずかし晴れがましのときめきを知らないように思われている。けど、そうでもない。
弓道の試合で優勝して新聞に載ったときは嬉しかったさ。今回もスキップしてしまったぞ。
要するに本名が嬉《うれ》しいのだな。つきあい長いし、日の目見んしな。
でも、初めて本が出たときは、身の周《まわ》りがばたばたしていて、ああっ、私の書いたものが本になった、と感動する余裕《よゆう》も無かったので、今回、その分感動しているということもあるかもしれない。
このように、私は作家を専業《せんぎよう》としていたことが無い。つまり、どんなに〆切りが迫って来ても、小説だけにかかりきり、というわけには行かない。それに生来の遅筆《ちひつ》を重ねて、編集部の佐野さんには、どれだけ迷惑《めいわく》をおかけしたことか。それを考えると、おちゃらけた調子のあとがき書いとる場合ではないのであった。チェッカーズのツアーパンフに、美味《おい》しい紅茶やクッキーもプレゼントしていただいて、嬉しいと同時に、申し訳なくてしかたなかった。
ただ、私は「だだくさ」な仕事だけは、したくないのです。「だだくさ」というのは名古屋弁で、雑だとか、そういうことを言うのですが、私は「快」の方向の誘惑《ゆうわく》には弱いので、眠いときなんか、つい「だだくさ」に仕事済ませて、眠ってしまいたくなる。それをいつでも、うっと堪《た》えて、及ばないなりに一生懸命仕事をします。
これからも「うっ」を重ねて、ゆっくり仕事して行くしかないと思っています。
佐野さん、よろしくお願いします。
四月から、学校の方が一段と忙《いそが》しくなりそうなの。新しい仕事も入って、ストレスたまるかもしれないけど、原稿用紙には、毎日向かうからね。
と、今回は特にさんざん世話かけた担当さんへの謝辞を終えて。
私の周りの、素敵《すてき》な人達にも感謝します。その人達のフォローが私の生活を、とても嬉しくさせてくれるから。
そして、これを読んで下さる方々に。
ありがとうございました。
一九九〇・四
堀田あけみ
文庫版あとがき
気が付けば、この職業に就いて十年と少しが経ち、十何冊の本を書いて来ました。その中で文庫化されたのは(もともと文庫だった作品を除いて)、二冊だけという状態が長く続いていましたが、この秋、新たに三冊が文庫化されることになりました。文庫本になるということは、出版社さんが「もっと可愛がってもらうんだよ」と良いべべを新しく着せ、頭を撫《な》ぜて世間に送り出して下さることなのでしょう。素直に喜びたいと思います。
この作品は、ハードカバーから文庫になるまでの時間が短いので「ああ、やっと」といった感慨はありませんが、別の意味で感慨深いものがある。もう文庫になるのか、という気持ちです。これを書いた頃はああだった、こうだったというのが無くて。これを書いた「昔」も私は今のままだったのですよ。変化し続けるのが若さの特徴のような気がしているので、その事実で「ふうん」と思います。私もそろそろ三十歳だなあと。だからといって、何もネガティヴなものは感じないのですけれどね。ある時期から年齢に関しては非常に淡白になって。具体的に言うと、あらゆる面において、胸を張って生きていくのに必要最小限な自信を獲得した時期から。
多くの男性から、悠子ちゃんは可愛いと言われ、多くの女性から、でも何考えてんのかわかんなくて怖い、と言われました。悠子はともかく、作品自体は幸せ者です。ハードカバーでは名倉靖博さんに、文庫本では篠有紀子さんに、二回も可憐《かれん》に飾っていただくことができました。今回は井出千昌さんに解説もいただいております。作者も作品も幸せです。とてもとても感謝しています。
そして、角川書店の佐野真理さん。私が下手な字で書いた作品を、こんな幸せ者に育ててくれて、ありがとうございます。
ここまでは過去への感謝。
もう一つ。
いつか、活字でこの文に会うあなたにも、私は心から感謝します。
ありがとうございました。
私がいつも、愛をしているように、あなたも素敵に愛をして下さいますよう。
一九九二秋、旅の途中にて
堀田 あけみ
角川文庫『愛をする人』平成4年11月10日初版刊行
平成8年12月20日12版刊行