堀 和久
春日局
目 次
第一章 生い立ち
第二章 江戸城
第三章 竹千代誕生
第四章 嫡庶を正す
第五章 三代将軍
第六章 緋の袴
第七章 正室と側室
第八章 からたち寺
あ と が き
[#改ページ]
第一章 生い立ち
1
虹が、東山連峰のゆるやかな緑の起伏の上空に、大きな弧をえがいていた。
ひとしきり軒先をたたいた驟雨《にわかあめ》が、すぐに射してきた陽光に追い立てられるように遠ざかっていったあとである。
三人は、話をやめて、しばし、淡く刷《は》きあげた七色の天の帯にみとれた。
御所をとりまく公家屋敷の一角。東山の稜線を借景した、枯山水の庭に面した客間である。
「お福どの。あれじゃ、あの虹のかけ橋、見事なものよのう。あれが、そなたの役どころと考えてみてはどうじゃ」
薄化粧をした公家顔の、ややかん高い声が若々しい。
当主の三条西|実条《さねえだ》であった。ちょうど三十歳。その年齢で、正四位下・参議は、大臣家の家柄としては順当な昇進であろうか。しかし実条は、もっと高い地位へ早くのぼりたいと考えている。武家の威勢の前に無気力が目立つ当節の堂上人のなかで、実条は、生新なる心意気と、いささかの野心を秘めた公達《きんだち》として知られていた。
禁裏ではもちろん、京童《きようわらべ》の間でも「東夷《あずまえびす》」と陰で侮蔑する徳川の武士とも気軽に、むしろ進んでつきあっている。
この日の客も、昨年(慶長八年・一六〇三)の二月に、はるか東国の鄙《ひな》びた江戸の地に幕府をひらいた徳川家康の、上方《かみがた》の探題ともいうべき京都所司代・板倉伊賀守|勝重《かつしげ》であった。
勝重は当年六十歳。三河武士らしい朴訥《ぼくとつ》にして重厚な風貌である。将軍家の目代《もくだい》として、京をはじめ畿内に無比の権力を有するが、位階は従五位下にすぎない。実条の前では謹《つつし》みを失わず、
「参議どのは、佳《よ》きことをおおせられる。まさしく、京都と江戸との、朝廷と幕府との、あるいは公家と武家との、大きなかけ橋になられることが、お福どのに望まれておりますのじゃ」
と、誠意をこめて説く。
お福と呼ばれている大柄の女人は、年ごろは二十五、六。萌黄地《もえぎじ》の清楚な小袖に紗《しや》の裲襠《うちかけ》を涼しげにはおっている。ふくよかな顔に疱瘡《もがさ》あとのあばたが薄く残っており、髪形は武家風であるが、どことなく雅《みやび》やかな風情をただよわせていた。
お福は、慎《つつ》ましやかに目を伏せて、思案をつづけている。
実条は、委細かまわず、快活に、
「天の恵みとは、このことではなかろうかのう、伊賀どの。金のわらじをはいて唐天竺《からてんじく》まで探し歩いても、お福どのほどの適格者を見つけ出すことはできますまい」
勝重が四角ばってうなずく。
「将軍家から内命をうけましたみぎり、乳母《うば》お一人、なにほどのことがあろうと手配《てくば》りいたしたものの、思わぬ難事。所司代づとめの者みな、日がたつにつれて青くなりもうした」
「条々《じようじよう》が、実際に事にあたってみると、案外にきびしいからのう」
「さよう。将軍家が近々御出生のお孫さまの乳母に京の女人を所望されるのは、もっともの儀と存ずる。江戸は政庁をひらいたばかりの殺伐の地、まず女《め》が少ない。また、総じて教養にとぼしく、野卑ともうすほかはござらぬ」
「関東の女性《によしよう》は、男と同じ荒々しい言葉を遣《つか》い、ひげをたくわえ、髪のなかに角《つの》を隠しもつと仄聞《そくぶん》したことがあるが、まことであろうかのう」
お福が、いぶかしげに顔を上げる。
「さて、いちいち調べたことはござらぬが、角はいかがであろう。ひげはあったとしても、うぶ毛が少しく濃いくらいではございますまいか」
勝重は実直な性質らしく、実条のあきらかな戯《ざ》れ言に、きまじめに受け答えている。
「さりながら、参議どの。言葉遣いは、たしかに荒々しく、行儀は山出しのままでござるな」
「そこで、千年に近い文雅の伝統を有する王城の地に、征夷大将軍が、まさに生まれ出んとする血筋のために、その乳人《めのと》を求められたというわけでありますな」
「おおせの通りでございまする。とはもうせ、優雅にして才智豊かなる京の女人であれば誰でもよい、というわけにはまいらぬ」
「いかにも、いかにも。なにしろ、武家の棟梁《とうりよう》が家柄の御傅役《おもりやく》である。いかに学芸多才といえども、なよなよと、色好みの女官《によかん》くずれではたまりませぬ」
「御意《ぎよい》。身体強健にして、節操正しきが条々の一つでございまする」
お福が、大きい強健そうなからだを、思いなしか縮めた。
「京の公家の家で育ち、なおかつ、由緒の武人の系図の者であれば、なおよろしかろう」
実条は、自慢の色を目にうかべて、お福を見やる。
勝重も会釈をし、
「お福どのの父君・斎藤|内蔵《くらの》助利三《すけとしみつ》どのは、美濃守護職の御一族であり、斎藤山城守道三の御姻戚でもござった。明智日向守光秀公の御家老をつとめ、その名声は、われらにはまぶしいばかりでありましたぞ」
お福は、かすかに首をふる。四歳のときに死別した父・利三の記憶はほとんどないからである。
「あいや、伊賀どの、肝心《かんじん》なことを忘れてはなりませぬぞ」
「はて……はて……」
「乳母でありまするゆえ、乳が出なくてはどうにもなりますまい」
勝重は、思わず扇子で膝を打ち、
「そうでござった。それが肝心かなめ」
「だが、油断めさるな。折りよく母になりたての女人を見立てたとて、愛《いと》しの夫《つま》が手放さなければ、百二十有余里もの彼方の、江戸城奥御殿へは入れぬ道理」
ちらり、実条はお福を一瞥《いちべつ》する。
硬軟両人の掛け合いの妙に、たびたび笑いをこらえていたお福の頬が、ほのかに赤らんだ。
お福は、九年間つれそった夫・稲葉佐渡守|正成《まさなり》と離縁したばかりで、少女時代をすごした遠い親戚のこの三条西家に、いわば出戻っていたからである。
勝重は、羞恥のお福から視線をそらしたまま、重々しく合点し、
「さよう。事を進めるうち、そのことが最も難物であることがわかりもうした」
と、とほうにくれた表情をつくる。
実条の目が笑って、
「そのことを知った非蔵人《ひくろうど》や小《こ》舎人《どねり》などの御所づとめの軽輩どもが、あらぬ噂をまきちらしはじめたとか。所司代では、万策つきて、京の七口に乳母を求むの高札を立てようとしている、とな」
口調は憂《うれ》いをふくんでいる。
「都人《みやこびと》には、おかしきことを針小棒大につくり変えて、からかう、悪しき趣味がなくはない。とりわけ、内心こころよく思わぬ相手のことは、とことん笑いの種にいたす。権力を奪われた都人の、ひがみ根性がしからしむると考えてもよろしかろう。すでに高札は粟田口《あわたぐち》をはじめ京の出入口、七カ所に立っておる、と噂に早速、尾ひれがつき、高札は半月も雨ざらしのまま、誰ひとり応じる者はない、となり、鬼が棲《す》むという東夷《あずまえびす》の国に京女が出向くはずがなかろう、徳川殿も女ひでりとはもうせ、とんだ恥さらしをいたすものだと……」
「実条さま」
お福が小声でたしなめた。
実条も、公家の一人として、権力を奪われた側の無念さをひそめもつとみえ、底意地をふくむ放言の度をすごす。
勝重の顔面は、さすがに赤黒くふくらんでいる。だが、怒るわけにはいかない。実条は年下とはいえ、正四位下の参議である。しかも、都人特有のつくり話を伝えているのだ。
「伊賀どの、いっそ、京七口に高札を立ててみればよかったであろうに」
勝重は、もってのほかというふうに首をふった。
「もうし上げては憚《はばか》りもござろうが、京周辺には、徳川をこころよく思わぬやからが少なからずいる、とみなさねばなりませぬ」
武辺者の、精いっぱいの、皮肉のおかえしであった。
「事をたくらむ曲者《くせもの》の一味が、高札に応じて江戸城奥向きへまぎれこむ恐れがなきにしもあらず。ここは、たしかな保証人のおられる、素性正しき、われらが充分に納得できる女性《によしよう》でなくては、将軍家孫さまの乳母に推挙できもうさず」
きっぱり言い切って、板倉勝重は膝を進めた。
「お福どの、御貴殿のことを、過日、参議どのからうかがい、小躍りする思いにて、江戸へ早馬を立てもうした。将軍家は、ちょうど上洛の途につくところにて、大慶《たいけい》とおおせられ、京へ着き次第、面談したきむね、返書がまいっておりまする。数日のうちに、二条城へ入られましょう。事は、勝手ながらかように進み、急を告げておりまする」
実条も、諧謔《かいぎやく》をまじえて、とりなす。
「お福どの、まろは、そなたを厄介ばらいしようとしているのではないぞよ。それはわかるな」
「はい」
「さきほども言ったように、このことは、天の恵み、天の配剤と思うほかはない。そなたが、子を生《な》したばかりの身で離縁して、戻ってきた。ちょうどそのころ、鷹司《たかつかさ》家で三歳になられた姫の髪置《かみお》きの祝いがあっての、その帰路、所司代どのが、ふと乳母の心当りをたずねられた。これも、奇縁」
実条は、居住まいを正した。
「今は、皇宗以来二千有余年におよぶ歴史においても、重大なる時期とおもんぱかる。公家と武家の間は、往々にして、円満にいきかねるものだが、近ごろは、とりわけむずかしい。なぜなら、前《さき》の天下人の豊臣秀吉公は、内心はどうあれ、禁裏を至尊とうやまい、自ら公家に同化し、関白・太閤《たいこう》として天下の万機を補佐される形をとりつづけた。政庁も、大坂、伏見、京の聚楽第《じゆらくてい》と、すべて畿内であった。晩年こそ狂耄《きようもう》いちじるしかったが、天性|闊達《かつたつ》、明けっぴろげで、わかりやすいお人柄であった」
勝重は神妙に謹聴している。
お福も、兄同様に敬愛する実条を、謙虚にみつめていた。
「しかるに、徳川どのは、関ヶ原の合戦で大勝なされて天下を掌中にされたあと、位階は受けられるものの、公家の仲間入りはせず、武家政庁である幕府を、しかも遠い武蔵の国でひらかれた。さらに、征夷大将軍家康公は、陰の性にして寡黙、胸中を余人にもらさず、都人にはきわめてわかりにくいお人柄」
実条は、ことさら溜め息をつき、
「伊賀どの、これは決して悪意で言うのではありませぬ。徳川家《おいえ》のためを思って、あえて歯に衣《きぬ》をきせずに言うのだが、未《いま》だに衰えぬ豊臣家人気、それに反して、徳川家への風当りの強さ。これを放置しておけば、近い将来、由々しき仕儀になりましょうぞ」
「おおせの通りでありまする。それゆえ、将軍家におかれては、六十三歳になられる御高齢にもかかわらず、昨年につづき、今年も上洛の途についておりまする。ひとえに、朝廷と幕府との融和の実《じつ》をあげんとする真情のあらわれではござりますまいか。また、乳母どのを、御出自の三河ではなく、駿河でもなく、江戸でもなく、京都に求められるのは、まさしく朝幕親密の願いをこめられているからでござりましょう」
実条はうなずき、お福の方へ向き直る。
「家康公の後継《あとつぎ》が、権大納言・秀忠公であられることは知っておろう」
「はい」
「二代将軍に擬《ぎ》せられおる秀忠公には、すでに御台所《みだいどころ》のお腹にて、千姫|君《ぎみ》、子々《ねね》姫君、勝姫君、初姫君とおられる。だが、将軍宣下以前の御出生で、しかも姫ばかりである」
お福の顔面がひきしまってくる。
「このたびの御台所の御懐妊は、徳川家が幕府をひらいてから初めてのおめでたであり、御誕生の御子が男子であれば、三代将軍になられる御身分。また女子であられても、いずれ禁裏と浅からぬ縁を結ばれる運命《さだめ》になるであろう。将軍家は、そのように遠慮深謀されている由、もれうけたまわる」
「このことからも、乳人《めのと》を選ぶ条々の容易ならざることが、おわかりいただけるでござろう」
勝重も、ここを先途と、熱っぽく説く。
「お福どの、そなたも独身《ひとりみ》になって、これからの暮らしを考えねばならぬめぐりあわせ。まだ若い。だが、男はこりごりで再婚はいやだという。さすれば、貧乏公家の当家の食客《かかりびと》として凡々のうちに朽ちるより、天下をきりもりする徳川家の懐へ入り、大輪の花を咲かせてはどうであろう。そなたなら、できる」
実条は、庭の彼方をふりむいた。
「それ、あれじゃ、菊(天皇家)と葵《あおい》(徳川家)の花園を結ぶ虹の……」
おおらかに言いかけて、
「あれ……なんとまあ、薄情なことよ。せっかくの譬《たと》えものが消えてしもうた」
と、わざと悄気《しよげ》顔をつくったが、すぐに形のよい無鬚《むしゆ》のあごを引きしめる。
「天に描かれる虹のかけ橋は、時がたてば消え失せる。だが、人が織りなすかけ橋は、努力次第では時とともに幅ひろく強靭《きようじん》になり、永遠《とわ》に崩れないであろう。まろも、およばずながら、そのかけ橋の一本《ひともと》の杭《くい》になりたい。所司代どのとて、志《こころざし》は同じであろう」
「いかにも」
板倉勝重は全身に力をこめて応える。
実条が身をのり出す。
「あとは、そなたの決心次第。事は急ゆえ、所司代どのも、こうしておみあしを運んでおられる。このあたりで、色よい返事をしてはどうかのう」
お福は、笑いを抑えていた。虹が消えていたときの、実条の剽《ひよう》げようが、心を和《なご》ませている。
四つ年上の実条は、少年のころから怜悧《れいり》と剽軽《ひようきん》をあわせもつところがあり、公達のあいだで人気者になっていた。そのような実条に、お福は淡い恋心を抱いたこともあった。
新たなる天下人である徳川将軍家の、その血筋の御傅役《おもりやく》になれば、推挙者であり身元保証人にもなるであろう三条西実条の立場はよくなり、人気は朝幕双方にひろがってゆき、立身出世につながるであろう。実条こそ、大輪の花を咲かせねばならないお方。
(このお方のためにも)
頬を熱くしてそう思うと、お福は襟を正し、しとやかに両手をついた。
「お二方《ふたかた》の種々《くさぐさ》のおぼしめし、下世話にもうす買いかぶりに相違なく、恥じ入るばかりでございまする。なれど、この上のお断りは、これも身のほど知らず。将軍家の御意《ぎよい》にそわぬ仕儀にいたるやも知れませぬが、二条城に参上、お目通りだけはさせていただきとう存じまする。よしなに」
と、頭をさげる。
「おお、よくぞもうされた」
「大慶、大慶」
勝重と実条の顔面に安堵と欣喜の色がひろがり、二人も威儀を正して両手をつかえ、うやうやしく返礼した。
2
透廊《すきろう》と呼ばれる渡り廊下でつながっている主殿の客間から、ほがらかな笑いが流れてくる。実条と勝重の主客が、まずは重畳《ちようじよう》と、御所ことばでいう九献《くこん》(酒)を傾けているのであろう。
西の対屋《たいのや》の端が、お福に与えられている居間であった。二間つづきの、少女時代をすごしたなつかしい部屋でもある。
お福は、十七歳になる義理の姪にあたるおのうの介添えで、常の衣裳に着替えていた。客間では、やはり緊張しつづけていたのであろう、居間でくつろぐと一度に汗がふき出してきた。
おのうは、お福と同じ稲葉一族で、伊勢国岩手城主・牧村兵部大夫利貞の娘である。加賀国主・前田利常の縁者に嫁《とつ》ぐことになっており、婚前の行儀見習のため、親戚の大臣家へ寄寓していた。一族の稲葉良通(一鉄)の正室が、三条西家の先々代の姫、というつながりである。
三条西家は、当主の実条が世話好きで如才がないので、千客万来、食客も絶える間がなかった。だが、高禄をはむ武家の客や、その子女の寄寓者は、金品の進物をともなう。そのことで、三条西家は潤《うるお》っている面もなきにしもあらずであった。これも実条の才覚であろう。
小袖をぬぎおとすと、肌着の襟から豊満な両の乳房がのぞく。張ってしこりになり、痛いほどである。
お福は三男を出産して一月《ひとつき》余、乳の出が増える時期であった。八歳を頭に二人の男子と嬰児は、美濃国武儀郡谷口の里(岐阜県武芸川町)の、別れた夫・稲葉正成のもとに置いてきている。激しい諍《いさかい》の末、縁を切ってもらい、身ひとつで家を出たのだった。
もめ事の直接の原因は、正成の隠し女である。産褥《さんじよく》についている間に、八重という女を備前岡山城下から呼びよせ、隣村の美山の里に囲っていたのだった。岡山は、正成の旧主小早川秀秋・五十一万石の城下だったところで、正成は二年半前まで秀秋の与力大名として筆頭家老をつとめ、五万石に遇されていた。
八重は、そのころ、正成が寵愛していた女である。遊女の出という噂であった。慶長六年十二月に、狂乱の秀秋を見限り、小早川家を立ちのいたとき、正成はお福に誓約して何人かいた側妾《そばめ》とはすべて手を切ったはずである。
美濃の山村に隠棲してからも、正成の女あさりは止まなかった。日帰りのできる岐阜城下や郡上街道の宿場に、情を重ねた女がいるらしい。
谷口村は、稲葉家ゆかりの地で、正成の母方の血縁の開田《かいだ》家が広大な田畑を有していた。浪人になった正成の一家を養うのに痛痒《つうよう》は感じない。しかし、お福にすれば、開田家に遊蕩の負担までかけるのは心苦しい。
否、勝気のお福は人並み以上の悋気《りんき》をもっている。正成が五万石の大名だったころは自制していた。が、無禄となった今、無能で野卑なただの大男にすぎない。それゆえに、正成の女癖に我慢ができなくなっていた。八重の一件で、お福の堪忍袋の緒が切れたのである。
離縁になれば、京の三条西家をたよる心づもりであった。だが、乳飲み子を抱いての長旅は危険である。ちょうど開田家に乳のありあまる女がいたので、一時、預けることにした。子供は、いずれ何人か引き取るつもりでいる。
それにしても、子づれでないことは、江戸城奥御殿入りには好都合である。乳母に決まれば、乳をふくませるのは将軍家の孫である。わが子は他に預けなくてはならない。いかに乳の出が豊かであっても、左の乳を孫君に、右の乳をわが子に、という僭上が許されるはずがなかった。
「造作《ぞうさ》をかけました。ありがとう。もう、お部屋へお戻りなさい」
お福は、着替えをおえると、まだ何か世話をしたげな姪に、やさしく言った。
おのうは、同じ屋根の下に住みはじめたお福に、わずか数日でなつき、何かと用事をつくっては訪れてくる。
大柄で才智に優れたお福は、異性からよりは同性に好かれる質《たち》のようであった。おのうのほうは、ふくらみにとぼしいからだで、処女のはにかみというより男が本心うとましい性《さが》のようである。
「見も知らぬ殿御《とのご》のところへ嫁入りするより、お福姉さまのお腰元になって、いっしょに暮らしたい」
と、昨夜などは、お福の寝所にしのびこんできて訴える有様であった。
「なにをおっしやる。女は嫁《か》して夫に仕え、子を産むのがつとめ」
と、さとせば、
「それでは、姉さまが夫とお別れなされたのは、なにゆえでございます。もう男はこりごりと、実条さまにお話しなされていたではありませんか」
と、鼻にかかった甘え声でなじる。
これには、お福も返す言葉に困る。
おのうは今、所司代板倉伊賀守の来邸と、実条にお福をまじえての、客間での長談合が気になってならないのだった。
お福が透廊を渡って帰ってくるのを待ちかまえていて、着替えの介添えを買って出た。敬慕する人に奉仕できるよろこびとともに、その人の身に何がおこったか知りたいのである。
その願いがかなえられず、やわらかい物言いながら、すげなく部屋を追われるおのうはうらめしげであった。
おのうが未練を残して立ち去ると、お福は襖をしめ、足早に次の間へ入る。茶道具などを収めてある二階棚の前にすわり、襟を大きくひろげた。
染みを防ぐ乳当てをとると、張った乳房がまろび出る。その刺激で白いものがしたたった。
お福は急いで大ぶりの茶碗を手にもち、乳をしぼり出す。毎日、何度かこうしないと乳房がしこって痛く、苦しいのである。母としては哀しい所行であった。しかし、今、お福の目は輝いている。禍福はあざなえる縄のごとし、というが、この母乳がふたたび役に立つのである。しかも、将軍家の孫君を育てる大役であった。思わぬ運命がひらけそうである。
実条の言葉がよみがえった。
「……当家の食客として凡々のうちに朽ちるより、天下をきりもりする徳川家の懐へ入り、大輪の花を咲かせてはどうであろう。そなたなら、できる」
「そなたなら、できる」という力強い声が、お福の耳朶《じだ》に、こだまのようにくりかえし響く。
お福は昂《たかぶ》る気持をおさえ、しぼり取った乳の入った茶碗を袖のうちに隠して、裏庭へおりる。
高い築地《ついじ》ぞいに雇人の住む雑舎《ぞうしや》が並んでいるが、対屋との間は身の丈ほどの板で仕切られていた。その板塀は、手前に植えこまれた、からたちの籬《まがき》で、ほとんど見えない。
十二歳のとき、この三条西家で養われるようになったお福は、若い当主の実条におねだりして、からたちの垣根をつけ加えてもらったのである。実条は十六歳、内大臣だった父公国の薨去《こうきよ》にともない、家督を継いで二年目であった。
からたちは、青い針のとげを密生させて、丈夫に育っていた。さきほどの驟雨で葉が洗われ、ところどころに水玉を光らせている。
お福は、その濡れた籬の根元にしゃがみこみ、茶碗の乳をそっと流す。
晩春に匂いの強い白い五弁の花を咲かせるからたちには、思い出があった。十二歳の少女の脳裏に刻みこまれていた記憶の一つである。
四歳のときに見た光景を、いつまでも覚えていることができるものであろうか。あるいは、亡き母や付き人たちがくりかえし語ったであろう追想が、自分の記憶にすり替わっているのかも知れない。
お福が生まれたのは、琵琶湖畔の坂本城(大津市下阪本町)であった。天正七年(一五七九)の晩春である。
曲輪《くるわ》内の斎藤利三の屋敷は、からたちの生垣《いけがき》でかこまれており、お福がうぶ声をあげたとき、白い花のさかりであったという。
お福は今でも、からたちの可憐な花びらが白い幔幕のように屋敷をかこんでいたさまを、眼裏にうかべることができる。
父の斎藤内蔵助利三は、城主明智日向守光秀の五家老の一人であった。家老は、一族で婿の明智秀満、同じく明智光忠、斎藤利三、藤田伝五、溝尾庄兵衛の五名である。
斎藤利三は、若いころ同族の稲葉良通(一鉄)の麾下に入ったが、叔父にあたる明智光秀に招かれ、やがてその重臣の列に加わった。光秀の妹・お節が利三の母という関係である。
恵那郡明智城で出生した光秀も、斎藤・稲葉と同様、由緒ある美濃衆であった。
坂本城の構築がはじまったのは元亀二年(一五七一)である。当時、光秀は織田信長から最も信頼されていた智将であったが、織田家の譜代ではない。足利義昭をともなって信長の陣営に参じた外様であった。その義昭を信長の武力を背景に十五代将軍におし上げた功績は並ぶものがない。これを機に、信長は尾張の田舎大名から天下人へ跳躍することができたからである。
信長は、大恩ある光秀を厚く遇した。丹波・近江の二国のうち三十四万石を分与するとともに、のちの京都所司代にあたる重職に任じ、朝廷・公家・僧侶・都人への対策をまかせていた。足利幕府が滅亡する天正元年までは、将軍義昭に関する諸事もつかさどっている。
天正五年、光秀は、信長の中国地方征討計画にもとづき、山陰方面攻略の拠点にするため領国丹波の亀山の地(京都府亀岡市)に築城をはじめた。三層の天守閣が盆地を睥睨《へいげい》する巨城が竣工したのは天正七年である。
坂本城には、城代として明智秀満が配され、斎藤利三が秀満を補佐した。お福の誕生は、亀山城完成の年であり、父利三が坂本城の副将に任じられて、羽振りがひとしおのころである。
西に、天台宗総本山・延暦寺の大伽藍を擁する比叡山がそびえ、その山越えの参道があり、南北に西近江路が走っている坂本の地は陸の要衝《ようしよう》である。同時に、水路の基地でもあった。
東に大海とみまがうばかりにひろがる琵琶湖は、京都をはじめ、近江・美濃・越前・若狭・丹波・摂津の各国への交通に盛んに活用されていた。舟便は、軍用にせよ商用にせよ、人と物を大量に早く輸送することができる。
この琵琶湖を支配せずには、天下制覇はむつかしい。
坂本城普請は、信長の比叡山焼き討ちの直後であり、琵琶湖沿岸の湖賊や乱波《らつぱ》どもを従属させたあとであった。坂本城の主務は、僧兵の再起を監視し、湖上の治安を維持し、畿内に睨みをきかせるにある。この重責をゆだねられた明智勢は、織田軍団の華《はな》といえた。
お福の一歳から四歳までの間、各地で争乱はくりかえされているものの、畿内は小康状態を保っていた。信長の天下人としての地位がほぼかたまった時期である。
京の粟田口から五里たらずの坂本城は、教養人である光秀を幕って公家・文人・書家・絵師・儒者・僧侶・茶人等の来訪が繁く、絶えずゆかしい寄り合いがもたれていた。
光秀は組下大名を五氏統率していたが、みな勇将であるとともに風雅の人である。
丹後田辺城主の細川|藤孝《ふじたか》(幽斎)は、足利幕府の管領《かんれい》の出で歌道の大家であり、蹴鞠《けまり》の名手だった。
大和|郡山《こおりやま》城主の筒井|順慶《じゆんけい》は、奈良興福寺の出で仏法学者であり、茶人でもある。
摂津|茨木《いばらき》城主の中川清秀と摂津|伊丹《いたみ》城主の池田|恒興《つねおき》は、ともに連歌に興じ、犬追物《いぬおうもの》や笠懸《かさがけ》を好んだ。
摂津|高槻《たかつき》城主の高山|重友《しげとも》(右近)は、異国文明であるキリシタンを奉じ、茶人としても名が通っている。
総帥の明智光秀は、古典に通じ、連歌や和歌を詠み、墨蹟を賞《め》で、茶の湯で一家をなしていた。
お福の父の斎藤利三は、主君であり叔父である光秀の薫陶をえて、諸芸に通じていた。光秀不在のときは、代わって粋客の相手をつとめた、とお福は母から聞かされた。
屋敷を、からたちの籬でかこったのも、万葉集のなかの一首、
枳《からたち》の 茨刈《うばらか》り除《そ》け 倉《くら》立てむ
屎《くそ》遠くまれ 櫛《くし》造る刀自《とじ》
を父が好んだからだという。
物心がつく年ごろになって、お福は母にたずねたことがある。
「あまりきれいな歌とは思えませんけれど」
「この歌の面白いところはね、韻《いん》遊びにあるのですよ。かとくが重なっているでしょう。からたち、かり、くら、くそ、くし。お父上は、滑稽《こつけい》な歌がお好きだったようです」
お福は、客を迎えた両親が古歌に興じる光景を胸にうかべ、自分も、いささか品の悪いからたちの歌に愛着を覚えるようになったものである。
通称「からたち屋敷」では、茶会や連歌の会もたびたび催され、五人の組下大名、とりわけ名士である細川藤孝・忠興父子をはじめ、茶の湯の今井宗久・宗薫父子、津田宗及、連歌師の里村|紹巴《じようは》・里村|昌叱《しようしつ》らが出入りしていたのだった。
利三の末っ子であるお福は、誰からも可愛がられた。藤孝や忠興の膝に抱かれ、泣き出すお福をキリシタン呪文の十字を切ってあやすのは高山右近だった、というのも語り草の一つである。
坂本城は、琵琶湖の水を引きこんで環濠をめぐらした、水城《みずじろ》であった。比叡山や大津のほうから眺めれば、五層の天守閣を頂く結構壮麗な城郭が、湖水に浮かんでいるかに見える。
湖に面した舟着場には、桔梗《ききよう》の家紋を染めぬいた旗をかかげた大小の軍船が舳《へさき》を並べていた。船頭や水夫《かこ》は、帰順した琵琶湖の湖賊や比良山地をねじろにする乱波らである。
平時、軍船は舟遊びに用いられた。夏は夜の涼み舟となり、篝《かがり》をたいて管弦に興じ、歌舞を楽しみ、秀句を競った。湖上の、この舟遊びでも、よちよち歩きのお福は一挙手一投足が笑いを呼び、人気者だったという。
それら雅やかな光景の数々を、幼児が覚えているはずがない。しかし、お福は、舟遊びも、天守閣下での蹴鞠も、馬場での勇壮な犬追物も、からたち屋敷での歌会や茶会の模様なども、逐一、眼裏によみがえらせることができるのだった。
このことが励みになって、貧しい不遇の時代も文字を学び、古典をひもとき、和歌を詠み、茶道にも心をよせた。
「武人の妻にしては、まれにみる多芸|才媛《さいえん》」
と、お福が祢賛されているのは、たしかに十二歳から十七歳までの多感な五年間を三条西家で養育されたことによる。だが、それ以前の、坂本城での日々も大きく影響しているのだった。
(わたしは、学問風雅のなかで生まれ育った……)
という誇りがそれである。
父利三はもとより、明智光秀とその一族に慈《いつく》しまれ、細川藤孝の膝で遊び、高山右近にあやされ、里村紹巴に習ってこましゃくれた歌を詠んだという事実は、お福の心魂に滲みている。
(もし、将軍家孫君の乳母になって江戸城へ入れば、あのころの、人と人とのつながりが生き返るかも知れない)
この想像は、お福には楽しく、また心強かった。
あれから二十数年の間に、多くの人が黄泉《よみ》に旅立った。合戦で、あるいは病魔、老衰などで。それでも、細川藤孝は幽斎と号し、将軍家から四万石の養老扶持を賜わって悠々自適と聞く。嫡男の忠興が家を継ぎ、豊前小倉城三十五万石に封じられていることも、お福は知っている。
高山右近は播磨明石城六万石を領していたが、秀吉による天正十五年(一五八七)のバテレン追放令にそむき、改易された。しかし、風の便りでは、前田利家のとりなしで加賀藩が預かり、客将として三万石に遇されているようだ。
細川父子も高山右近も、明智光秀や斎藤利三らを裏切って羽柴秀吉に与《くみ》し、延命を計ったのだが、戦国乱世での向背は常のことで、お福には怨恨の思いは薄い。
今井宗久は亡くなったが、子の宗薫の噂はどこでも耳に入る。茶匠というよりは、本業の堺商人として名が高い。将軍家の覚えがめでたく、さまざまな諮問《しもん》にあずかっている様子である。
里村紹巴や昌叱は存命であろうか。
江戸へ行けば、斎藤利三の末っ子だったお福のことを思い出してくれる人が、案外多いかも知れない。
お福は、からたちの籬から対屋の居間の方へ戻りながら、気持が次第に浮き立ってくるのを覚えた。
3
空の一角が茜《あかね》色に染まりはじめた。
お福の居間の広縁《ひさし》からは、築地越しに、道をはさんだ隣家・飛鳥井《あすかい》家の檜皮葺《ひわだぶ》きが見える。その屋根と庭木の梢に強い夕陽があたって、燃えているようだ。
お福は、夕映えを目にすると、いつも胸がしめつけられる。感傷を呼ぶのではない。坂本城炎上の日を思いおこすからである。
むろん、四歳だった自分が覚えているはずはないと思う。これも、周囲の人々がくりかえし語ったその情景が、心に刻みこまれてしまったのであろう。
天正十年(一五八二)六月十五日の払暁。琵琶湖に浮かぶ水城は、退去する女子供たちで混乱をきわめていた。
主君の明智光秀が、突然、天下奪取の野望を抱いて織田信長を弑《しい》したのが六月二日。
連絡がとだえている坂本城では、事の真相が全くわからない。殿は、近ごろ横暴残忍になった信長公を恨んでおられた、という噂も流れた。
そのうち、一昨日の十三日になって、京都南方の山崎関所と天王山周辺で、羽柴秀吉勢と合戦がくりひろげられ、御味方が敗《やぶ》れたという急報が、夜に入って届いたのである。
このたびは、山陽道の毛利攻めの軍令で、明智勢は総出陣であった。坂本城も、主として老齢と病弱者で編成された留守居の一隊のほかは、女子供である。立ち騒いでいるところに、傷ついた敗走の士卒が三々伍々帰城してくる。
城代の明智秀満と紅《くれない》の母衣《ほろ》を背負った馬廻りの一団が、追撃の敵軍を遠くふりきって水門から帰還したのは十四日の午《ひる》ごろであった。
秀満は、信長の本拠である近江・安土城を占拠していたのだが、敗報に接し、再起をはかるため手勢をまとめて坂本城をめざしたという。途中、大津で、羽柴秀吉麾下の堀秀政の先鋒と遭遇した。秀政は近江・長浜城主である。
秀満は、一兵たりとも損傷したくないと考え、
「無益な功名はやめよ、続け」
と、部下へさけび、むらがる敵を蹴ちらしながら打出浜《うちでのはま》へ疾駆する。
琵琶湖はわが庭。浅瀬のつながりを知る主従である。追いすがる敵の人馬が次々に深みに沈むのを尻目に、湖を横切り、水門から帰城したのである。
この快挙は、雲竜の陣羽織を比叡下しの風になびかせて愛馬を泳がせた「秀満どのの湖水渡り」として、多少誇張されて語り継がれることになる。
秀満は、十四日の夜中まで、備えを厳重にして総帥の明智光秀、副将の斎藤利三ら味方の集結を待った。しかし、秀吉勢の追撃と掃討《そうとう》が激しいのか、生還の士卒がとだえたままである。
天守閣から夜の闇を見すかせば、城は敵の松明《たいまつ》や篝でかこまれており、西近江路は軍勢で満ち満ちていた。
「もはや、これまで」
秀満、深更、城中の金銀財宝を集めさせると、金銀は部下と留守居の妻子たちに分け与え、
「長年の忠誠、かたじけなく思う。勝敗興亡は時の運、この上の忠義立ては無用である。夜の明けぬ前に、舟を使って落ちのびよ」
と厳命した。
お福の母・おあんは稲葉|道明《みちあきら》の娘であり、稲葉良通(一鉄)の姪である。毅然として、
「わらわは、当城の副将の妻、最後まで戦いまする」
と、言い張った。
「おあんどの、それは心得ちがい。拙者は光秀どのの婿、子も同然。この城を預かっておりまする。利三どのは、いわば中途から参じられた客将、義理は薄うござる。しかも、御安否は不明。どうぞ、御子《おこ》たちのためにも生きのびて、できうれば、われらの後生を弔《とむら》ってくだされ」
ねんごろに諭した。
秀満は、次いで、よく透る声の特技で召し抱えている使番を呼び、口上を伝えて、街道に最も近い櫓にのぼらせた。
やがて、冴えた大声が、甲冑《かつちゆう》のすれ合う音のみが聞こえる無気味な夜のしじまを破った。
「寄せ手の御大将にもうし上げる。城将明智|左馬助《さまのすけ》秀満の申し入れである。われら命運ここに尽きたかにみゆるゆえ、しばし、後始末をいたしたい。女子供、雑兵《ぞうひよう》を舟にて落ちのびさせる儀、明け方まで、お目こぼし願いもうす。当城に蔵する名刀・書画・茶器のたぐい、天下の財宝なれば、滅ぼすのは、よしなしと存ずる。目録をそえて、お渡しいたしたし。以上」
しばらくたって、環濠のむこうから、大きなしわがれ声が返ってきた。
「城方の御大将に、堀|掃部大夫《かにもりのたいふ》秀政の返辞をお伝えもうす。念入りのお申し越し、あっぱれ武士《もののふ》のいたしようと感服つかまつり候。夜明けを期し、当方で打つ太鼓の三番にて、弓矢合わせたく候。それまで、ご存分に。道具のたぐい、使者にお託しあれば、お志、万世に伝えるでござろう。以上」
夏の夜である。空が白みはじめるまで一刻《いつとき》(二時間)ほどの猶予があるであろうか。湖に通じる搦手《からめて》門はごった返していた。
機を見るに敏な湖賊や乱波どもは、明智勢の敗色に、いち早く軍船もろとも遁走している。
残っている何艘かの軍船と小舟群に、泣き叫びながら殺到する者どもを、
「見苦しいぞよ、それでも武士のともがらか」
と叱り、混乱をさばいているのは、抜身の薙刀《なぎなた》を突き立てて桟橋にふんばる、お福の母おあんであった。
「女子供、ひ弱き者が先じゃ。男衆は水にもぐり、岸づたいに歩いて渡らっしゃい」
お福の二人の兄と姉が、おあんの袖にすがるように寄りそっている。三人とも幼い。
お福は、長身骨太の僧侶の、たくましい腕に抱かれていた。
坂本城には、比叡山焼き討ちの前後に逃がれてきた仏徒が、十数人身を寄せている。随風《ずいふう》さまと呼ばれている、いつも飄逸超然のおもむきを人々に与える大柄のこの初老の沙門も、その一人であった。斎藤利三一家とは特に親しい。
あたりが、ほのかに明らんでくる。
不意に、満身の力で打ったような太鼓の音が、朝霧をふるわせた。
「一番太鼓じゃ。お方さまも急がれませ」
随風が、なおも残り人を目で探しているおあんに声をかけ、最後の舟に乗ることをすすめた。
舟はすでに満載である。おあんが、子たちを抱きよせて身を船縁《ふなべり》に入れると、もう動きがとれない。
「これ、もそっと詰めよ」
と命じるおあんに、随風は笑って、
「愚僧は男衆じゃ。水にもぐってまいりましょう」
腕のなかでおとなしくしているお福をひょいと左の肩にのせ、水中に入った随風は、右手で三十数人乗っている舟の艫《とも》をぐいと押す。天台密教の秘法を修得しているのか、人間ばなれした怪力である。
「人を乗せすぎておるのう。櫓を使うと、ひっくりかえるぞ。愚僧にまかせられよ」
胸まで身を沈めた随風は、片手で舟を押しつづける。
大手門の方角から、ふたたび太鼓が鳴りひびき、舟上の老若男女を戦慄させた。二番太鼓である。
随風の腕に力がこもる。
先行の軍船や小舟は、霧が晴れてゆく湖上を、思い思いの方角へ退避していた。
随風は、他の舟のように沖へ向かわず、背丈がとどく岸ぞいに、北へ押していく。深みに行けないためのように見えたが、これこそ随風の先見の明にほかならなかった。
沖には、寝返った湖賊や乱波どもが、分配金を懐にした落人をよき鴨《かも》とばかり待ち伏せていたからである。多くの舟が間もなく襲われて、略奪と殺戮《さつりく》にあい、婦女は拉致《らち》のうえ凌辱《りようじよく》されることになる。
ついに、三番太鼓の音が湖面を渡った。余韻を追うように、城の周囲で百雷のごとき鬨《とき》の声がおこる。まさしく鯨波《げいは》であった。
本丸には、明智秀満とその親族、それに、どうしても退去を肯《がえ》んじない譜代の家臣がかなり残っているはずである。
舟の上の者は、かたずをのんで、遠ざかってゆく浮き城を凝視していた。
「あっ」
誰かが叫んだ。
そそり立つ五層の天守閣の矢狭間《やはざま》から煙がふき出したのである。黒煙はたちまち赤い炎と化した。次の瞬間、青い閃光と巨大な火柱が立ち、耳をつんざく轟音とともに、天守閣がこなごなになって天高く飛び散ったのである。
ありったけの松明《たいまつ》と鉄砲火薬を集めて火を放ち、壮烈な自爆をはかったにちがいない。
「見るな、見るな、見ぬほうがよかろうぞ」
随風が、おだやかな声でくりかえしながら、舟をぐいぐい押していく。
「後ろをふりむきなさるな。皆のもの、前を見なされ、比良《ひら》の山脈《やまなみ》が朝日に輝いているではないか」
随風は、読経できたえた朗々とした声で語る。
「起こってしまった事を、悔み悲しんでも、功徳にはならぬ。後ろをふりむきなさるな、前を見よ。前をじっと見て、明日のことを考えなされ」
説教しながら随風がふと見上げると、肩の上のお福は、素直に、そして凛々《りり》しく、つぶらなひとみで前方を見つめている。
「おお、いい子じゃ、お福姫。そうじゃの、そなたが大人になるころは、無益非道の戦乱の世はおわり、誰が天下を統一するにせよ、平穏和親の浄土が到来しているかも知れぬのう。わしは、老齢《とし》じゃ。この世で極楽浄土を拝むことは、むずかしかろう」
泰然と笑う。
この随風は、別の法号で百八歳まで生き、お福の後半生にかかわりあってくる。
左手で肩のお福を支え、右手一本で随風が押しつづける舟は、岸とは三間と離れてない近まをゆるやかに進んでいた。
浜や往還には、早くも秀吉方の軍兵が落人狩りのために散開している。
舟は、弓でも鉄砲でも、はずれようのない距離にいた。しかし、矢も弾丸も飛んでこない。武器をかまえる一隊があると、村人が大勢かけよって、いのち乞いをしている様子である。
坂本城近辺は、明智光秀の仁慈がゆきわたっていた。光秀とその家臣の治政を徳としている。随風は、その人情を見込んで、舟を岸ぞいに進めているようである。
侵攻軍は、時と場合によっては、無辜《むこ》の住民の憎悪を買ってまで残虐行為はしない。占領後の統治に支障をきたすからである。
それでなくても、黎明の湖を行く舟は、一種犯しがたい威厳につつまれていた。胸までつかって静々と舟を押す黒衣の僧の、その剃りあがった頭頂が朝日に輝き、肩に幼女を乗せている。満載の老若男女は粛として前方を見つめて動かない。
村人は思わず手を合わせて拝み、掃討の任務をおびている軍兵も、気圧《けお》されたように見送っている。
4
天をこがして炎上している坂本城から、わずか十町ほどの小川の河口に、随風は大胆にも舟をおしあげた。
敵方の兵が槍ぶすまをつくって待ちかまえている。
お福を肩にのせたままの随風は、恐れず、へつらわず、将と目される騎馬武者の前に進み出た。
「愚僧は随風ともうす天台の沙門。城より逃がれ出た者を、あれに見ゆる西教寺《さいきようじ》へ避難させとうごじゃる。ごらんの通り、戦《いく》さにかかわりのない弱者なれば、お通し願いたい」
「なるほど、おことが随風どのか」
中年のずんぐりした武者は打てば響くように応じ、下乗の礼をとった。片足が萎《な》えているとみえ、からだが傾いている。
「拙者は、羽柴筑前守秀吉の軍目付、黒田官兵衛ともうす田舎侍でござる。御坊《ごぼう》の噂は、かねて耳にしておりましたぞ。阿闍梨《あじやり》の位にふさわしき大乗律《だいじようりつ》の学識と法力《ほうりき》をそなえられながら、叡山の邪道腐敗をきらい、野にあって一沙門をつらぬかれおる真の聖《ひじり》とか」
「あ、小便《しようすい》をたれ流しおったな」
随風は、肩のお福の失禁にあわてる。お福も恥ずかしいのか泣きべそだ。
「かまわん、かまわん、湖《うみ》の風でお尻《いど》が冷えたのであろう」
と、あやし、官兵衛へ失礼をわびるように一礼。
「愚僧は、からだが大きいゆえ、大きな袈裟《けさ》をまといまする。その虚仮《こけ》おどしの大袈裟を、近ごろは大法螺《おおぼら》と同じ意に用いるそうな。酔狂なる吹聴《ふいちよう》、迷惑でごじゃりまするな。なれど、にせ聖に免じて、通行、お許しくださいまするか。幼な子もむずかりおりまする」
随風の滑稽な言行に、黒田官兵衛は笑いをおさえていたが、鋭い眼光にもどる。
舟からおりた一群のなかには、壮年の男がまじっている。が、見るからに賄方《まかないかた》や長袖者のたぐいである。
「大事ありますまい。御坊にお預けもうそう」
官兵衛は、持ち場の将に槍ぶすまを解くよう命じた。
一行が通りすぎるのを見送っていた官兵衛は、ふと思い出したように、皆を守って後尾《しんがり》を行く随風を呼びとめた。戦場で鍛えた地声が野太い。
「明智日向守どのの最期を御存知か」
随風はふりかえって立ちどまる。
おあんをはじめ落人たちも足をとめて、官兵衛をくいいるように見つめた。
「一昨日、十三日の夜、山崎の合戦場からのがれ、おそらくここ坂本城をめざしたのでござろう。途中の醍醐《だいご》の西、小栗栖《おぐるす》という地の竹やぶにて、物盗りの土民のつき出す竹槍にて、あえなき最期をとげられた。一時は天下を取ったかに見ゆる智謀の将の、謀叛をたくらんだがゆえの、あわれなる死にざま、因果応報でござるな」
「さにあらず」
随風の目は、おだやかであった。
「因果は輪廻《りんね》、ただめぐりめぐるものでごじゃろう。諸行《しよぎよう》無常、生まるる者は皆、土に帰る。盛んなる者は必ずおとろえ、会うものには別れがごじゃる。どのような死にざまをしようと、悲しむことも、苦しむことも、怒《いか》ることも、そしてまた、誹《そし》ることもごじゃりますまい」
おあんが、夫・斎藤利三の生死を問いたげに、二歩三歩、官兵衛へ近づく。その前を、なにげなくふさいだ随風は、肩のお福をおあんの腕に渡し、
「さあ、急ごうではないか。皆の衆、昨日からろくに物を食ってないであろう。寺へ入って、粥《かゆ》など馳走していただこう」
随風は、たっぷり湖水を吸った法衣の腰を勢よくからげ、大股で歩き出す。
一同も我にかえり、逃げるように軍兵の輪から遠ざかって行った。
比叡山のふもとには、天台宗系の寺院や草庵が、山上の総本山をかこむように散在していた。しかし、元亀二年の信長による延暦寺焼き討ちは、ふもとの寺院も巻きぞえにせずにはおかなかった。
湖岸からおよそ半里。急坂の上に七堂伽藍をつらねた西教寺も、当時の兵火で焼失してしまった。だが、この十年の間に、新領主明智光秀の内々の援助があって、本堂・客殿・鐘楼が再建されている。そのほかの堂塔は、まだ仮小屋であった。
西教寺は、聖徳太子の勅命による建立という伝承をもつ、延暦寺より古い寺である。天台真盛宗という別派でもある。しかし、宗門根絶やしを断行した信長にすれば、光秀の西教寺への好意や随風などの僧侶保護は、心外であったにちがいない。このようなところにも、信長と光秀の不和の一因がひそんでいたのであろう。
それだけに、住職は寺衆をさしずして、坂本城からの避難人を手厚くもてなした。
いったん参道をおりて行った随風が、一刻ほどで戻ってきた。客殿の、おあん一家のいる房へ入る。
おあんは、随風を見ると、すぐに両手をつかえ、
「さきほどは、われを忘れて、愚かなるふるまいをいたしかけました」
と、わびた。
随風は、ゆったりと座につき、
「御内室が夫を思う気持は、うるわしきことでごじゃる。さりながら、時と場合によりまするな」
と、微笑する。
「さようでございました。恥じ入りまする」
「その斎藤内蔵助どのの消息でごじゃるが、城下の早耳の者にあたってみましたところ、どうやら落ちのびられ、敵方は探しあぐねている様子」
「では、御無事で……」
とつぶやく安堵の色もつかの間、新たな不安におそわれ、そばの幼な子たちを抱きよせた。
「さよう。内蔵助どのは、羽柴秀吉どのにとっては恐ろしい武将《つわもの》。必ず捕らえよ、との軍令が出されたもようでごじゃる」
「さすれば、ここにも手の者が……」
「お方さまとお子たちは、誰の目にも、名もなきともがらには見えませぬ。どのような災厄がふりかかるやも」
随風は、甘えて寄ってきたお気に入りのお福の頭をなでながら、
「秀吉どのは、亡き信長公とはちがうと存ずるが、戦さは人を狂気にいたしまする。荒木一族へのむごき仕置を思いおこさずにはいられませんのじゃ」
気丈なおあんも、身ぶるいしてうなずく。
三年前の天正七年、摂津伊丹城主・荒木村重が反旗をひるがえした。激怒した信長の素早い攻撃態勢に、村重は近臣とともに身を隠したが、残された家族や郎等が捕まった。信長は、見せしめに、嬰児をふくむ五百余人すべてを四軒の家にとじこめ、周囲に薪《まき》と枯れ草を積ませ、焦熱地獄そのままに焼き殺させたのである。
これが、謀叛人の親族への、誰もが知る報復の近例であった。
「すぐに、ここから姿をくらますがよろしかろう。裏山の奥に、愚僧の御籠《おこも》り堂がごじゃる。住みごこちはよいとはいえぬが、安全じゃ。しばらく、そこで様子をごろうじよ」
随風は、ふたたびお福を肩にのせ、幼な子たちの手を引くおあんを、人目をさけて裏山へ導いた。
道なき道を分け入った御籠り堂は、たしかに住みごこちを賞《め》でようのない洞窟であった。随風は、年に何度かここに十数日間籠り、修行をくりかえしているようである。だが、水は近くに渓流があり、食糧のたくわえもあった。年長の子は、むしろよろこんではしゃいでいた。
三日後の六月十八日の朝、おあんは、夫・斎藤利三の自刃を知らねばならなかった。
「見事な御最期だったとのこと」
随風は、目に悲憤をこめて語った。
「京の銀閣寺にほど近い、白川畔の捨て小屋にひそんでいたのを、褒賞めあての訴人がいて敵にかこまれましたが、昨日の夕暮れ、内蔵助どのは、腹を真一文字にかききり、その臓腑を敵に投げつけたそうでごじゃりまする」
端座して聞くおあんの両眼に涙があふれたが、嗚咽はもらさなかった。
子たちも、事情はよくのみこめないものの、母にならって正座をくずさなかった。お福が母親にすり寄り、小さな袖で、流れおちる涙を無心にぬぐってやっている。
おあん母子の、あらためての流浪の生活がはじまる。
美濃には清水城の稲葉良通(一鉄)をはじめ一族は多かったが、敵味方が定まらぬ激動の時であり、謀叛人の身内を受け入れるどころか、わが身が危うい事態である。京都にも、三条西家、蜷川《にながわ》家と姻戚はあったが、累《るい》をおよぼす恐れがあり、今は頼るわけにはいかない。
随風が周旋して、京都吉田山に閑居する絵師の海北友松《かいほうゆうしよう》宅へ仮寓することになった。
友松は、信長に滅ぼされた近江の雄・浅井長政の重臣・海北綱親の五男であった。幼いころ東福寺へ入れられ、仏徒の道を歩むところであったが、還俗し、絵師として坂本城にも出入りしていた。友松は、随風らとともに斎藤家の「からたち屋敷」での宴の常連だったのである。
坂本城下から京へ入るには、大津街道をたどって粟田口ヘ出る。その手前の、山科・日の岡(九条山)には昔から刑場があり、重罪人は首を晒《さら》された。
おあん母子は、随風と出迎えた海北友松にともなわれて、日の岡にさしかかった。
山と山が迫る昼も薄暗い切り通しである。晒し場は見せしめのためにあるので、誰の目にも入るよう、ことさら狭い道にもうけられてあった。
友松は、手を合わせたのち、母子をうながして急ぎ通り抜けようとした。だが、おあんの足は動かない。
「よく見ておくのです。あれがお父上ですよ」
母は気丈に子たちに言った。
一帯は異臭がたちこめ、凄惨をきわめた光景である。四、五段につくられた長い棚に、生首がずらりと並んでいるのである。敗者の首《しるし》であった。その数、五百余。
中央に磔《はりつけ》柱が二本。名札が立っていた。
「明智日向守光秀」「斎藤内蔵助利三」と読める。
二将は、いったん首実検に供された。そののち、首と胴をつなぎ合わせ、磔柱にくくられ、全身を晒されているのだった。
随風は、低い力のこもった声で経を誦《ず》している。
兄たちと姉は泣き出したが、末っ子のお福は母と随風にならって、じっと合掌していたという。
四歳だったお福の眼裏に、この梟首《きようしゆ》場の光景は焼きつき、折りにふれてよみがえってくるのである。
吉田山の海北友松の幽居に半年ほど厄介になったあと、おあん一家はやはり坂本城「からたち屋敷」に出入りしていた文人や茶人の申し出で、その屋敷を転々とすることになる。
羽柴秀吉方の目を恐れての、外歩きもままならぬ、肩身のせまい寄食の日々であったが、接する人々は当代の知識人ばかりである。この環境は、惨めな一面、お福に計り知れない心の豊かさをもたらしたのだった。
信長の筆頭家老・柴田勝家と雌雄を決した賤ヶ嶽の合戦をはじめ、実力で信長の後継者の地位をものにした羽柴秀吉は、畿内・山陽・山陰を征服、天正十三年六月、四国討伐の軍をおこした。
四国の覇王は長曾我部元親《ちようそかべもとちか》である。元親は土佐の岡豊《おこう》三千貫の土豪から乱世の風雲に乗り、一代にして四州全土をきり従えた英傑であった。しかし、天下一統をめざす秀吉との衝突は避けられない運命である。
秀吉の代将は弟の秀長であり、率いる軍勢は兵農分離によって戦いに専従できる十二万三千。
対する元親麾下は、一領具足《いちりようぐそく》の直軍が農繁期にあって動員に支障をきたしている上に、向背定まらぬ土豪の連合軍である。兵力も二、三万。
元親は、猪突の猛将ではなく、先の見える武人であった。徹底抗戦して滅びるよりは、と三州返上、土佐一州安堵の条件をのんで、和睦した。
秀吉も、戦線が四国全土にひろがって泥沼化するよりは土佐を与えて平和を招来し、次の九州遠征に備えたかったのである。
四国の安穏は、おあん母子に幸いした。長曾我部元親が、秀吉と折衝して、堂々と斎藤利三の遺族を引きとったからである。元親の正室が利三の妹という関係だった。おあんにとっては、元親夫人は義理の妹、お福からいえば叔母にあたる。
元親夫妻は、京都からきたおあん一家のために、軍都の浦戸城下よりは小京都と呼ばれる中村の地に屋敷を用意した。
悠揚と流れる四万十《しまんと》川の下流にひらけた中村邑は、応仁の乱を避けて下向した前関白《さきのかんぱく》一条|教房《のりふさ》とその子孫が、京都に似せた碁盤目《ごばんめ》の町並みをつくり上げ、長曾我部に滅ぼされるまでは四国の中心地であった。
一条家の政庁は「中村御所」と称され、上方《かみがた》から公家・名僧・学者・文人・雅客らの来訪が多かった。その名残りは濃く、旧家では行儀作法風俗は都風であり、鴨川・東山といった名がつけられた名勝で歌会や管弦技芸の遊びが絶えず催されている。
七歳から十二歳までの土佐中村での五年間も、お福の将来にとって無駄ではなかった。
天正十八年三月、箱根山から西をすべて支配下におさめた秀吉は、関東の雄・小田原北条氏を征伐するため出陣した。秀吉は、人臣のきわみである関白に任じられ、源・平・藤・橘の四名家と並ぶ新しい豊臣の姓をさずけられている。
それより先、軍令が臣従する全大名に発せられ、二十二万の大軍が編成された。土佐十万石に封じられている長曾我部元親も、規定の四人役(百石につき四人)により、四千の軍兵を引き具して出陣に参加、聚楽第《じゆらくてい》で閲兵をうけた。
この上洛のとき、元親は十二歳のお福を軍列に加えていた。前年に病死した母おあんの遺志によるものである。
おあんは、ほかの子たちは長曾我部家の庇護にゆだねるのに心残りはないが、
「才智非凡にみゆる末娘のお福だけは、京で文雅の道を進めさせたい気がいたします。わらわが死んだら、三条西家へ送りとどけてたもれ」
と、元親夫妻に言い遺《のこ》し、遠縁の三条西実条の快諾も得ていたのである。
大臣家であり和歌家元でもある三条西家で、お福は十二歳から十七歳まで実条の妹分として愛育され、文禄四年、十七歳の春、一族の大名・稲葉正成に嫁《とつ》いだ。
後妻としてである。先妻は稲葉重通の娘であった。お福は、いったん重通の養女になり亡き義姉のあとを継ぐ形で、八つ年上の正成へ輿入れしたのだった。
正成との離縁は、前述のように、直接には正成の隠し女が原因である。しかし、真因は性格や教養のちがいに帰すべきであろう。
生粋の武人であった正成には、あまりにも博学で雅趣ゆたかな妻が重荷であったにちがいない。お福とは正反対の、小柄で、白痴美に近い八重という女に惹《ひ》かれる夫の気持を、お福は理解できなくはなかったのである。
後年、江戸城大奥で権力を増してゆくお福に、夫婦別れの原因についてあらぬ噂が流れる。嫉妬に狂ったお福が夫の隠し女を刺し殺して家を出た、というのである。また、忍び込んできた四人組の盗賊を薙刀で二人まで斬り伏せた、という風聞もひろまった。
もちろん、お福の武勇をたたえるのではない。反対派が流しひろめた中傷である。
お福は、夫の隠し女に妻の座をゆずって、身一つで、実家といえる京都の三条西家へ出戻っていたのである。
[#改ページ]
第二章 江戸城
1
二条城といえば、都人《みやこびと》は同じ二条通りでも堀川の東の、室町の地を頭にうかべる。十三代将軍足利義輝が幕府を置き、松永久秀の勢に攻められて焼失したあと、織田信長が十五代将軍義昭のために再建した城館である。
永禄十二年(一五六九)に、信長が自ら指揮した工事は、洛中洛外から老若男女が総出で見物したほどの、お祭り騒ぎであった。
巨大な名石を運ぶときは、綾錦でつつみ、さまざまな花で飾り立て、笛や太鼓ではやしながら、丸木《ころ》の上を大縄で引くのである。縄には三、四千人もの役夫《やくぶ》がとりつき、時には信長が石の上に立って扇を振った。
その二条城も、明智光秀の奇襲にあって信長の嫡男・信忠とともに炎上してしまった。
お福は、当時四歳であったし、光秀や父・斎藤利三の軍が本能寺と同時に二条城を焼き討ちにしたことについての関心は薄い。あるいは、無意識のうちに関心を逸《そ》らしているのかも知れない。
「徳川どのはの、関ヶ原合戦に大勝した後、東軍《わがほう》に味方したものの、かつて豊臣の恩顧をうけていた諸大名に命じて、堀川の西に、おのれの屋敷である二条城を新たに築かせたものじゃ。謀叛を恐れて財を減らす陰険な策じゃと、あの工事は評判が悪かった」
三条西実条は薄笑いをうかべて語り、乳母の件で江戸将軍徳川家康と面談するため二条城へおもむく妹分のお福に、牛車《ぎつしや》を提供した。前後の白地袖に八《や》つ丁子車《ちようじぐるま》の家紋を入れた、大臣家が用いる網代車《あじろぐるま》である。
牛車は、六位以上の位階をもつ者にしか許されず、車の種類によっては細かい規定がある。だが、無位無冠でも陪乗は普段におこなわれており、寺社詣でや物見遊山に家族親戚が借用することがあった。お福も少女時代、よく牛車に便乗したものである。
牛車は公家独特の乗りものであり、輿《こし》や駕龍《かご》におされてその数が少なくなっている昨今、田舎侍などが畏敬視する珍物であった。
位階をもつ武家もいる。乗る資格はあるのだが、牛車には乗り降りに作法があり、意外にむずかしい。やはり馬が無難とみえ、高位の武人が無粋なひづめの音を響かせて都大路を行き、京童《きようわらべ》の蔑視をあびるのである。
牛車は、権力を武家に奪われた公家の、あるいは都人の、数少ない伝統誇示の一つといえるかも知れなかった。
殿上人《てんじようびと》は、所司代役所や大名の京屋敷などを訪れるときには、ことさら飾りたてた牛車で乗りつけ、畏敬のまなざしを受けてわずかに溜飲をさげている。
その心情を知るお福は、あえて辞退せず、三条西実条の猶妹《ゆうまい》の資格で網代車の人となった。
乳母《うば》に正式に登用されれば徳川家の臣下となる。牛車は憚《はばか》りであろう。だが、それ以前は、いわば客である。それに、お福には、三河の一土豪の出自である松平・徳川家に勝るとも決して劣らない家柄の誇りがある。
動きはじめた網代車には、姪のおのうが強いて侍女役を願い、同乗していた。
烏帽子《えぼし》に狩衣《かりぎぬ》姿の御綱持ちや随身《ずいじん》(公家侍)も、今日はとりわけ派手に装っている。三条西実条の見栄であり、公家の武家への意気地であった。
迎えに出向いてきた騎乗の所司代・板倉伊賀守勝重と下僚の一隊が格好の供ぞろえとなって、牛車はゆるやかに、公家小路から二条城へ向かう。
たいした距離ではない。二十町そこそこである。しかし、物見高いのは京童。江戸幕府の探題である所司代を護衛兵の形にして雅《みやび》やかに大輪《おおわ》をまわす大臣家の牛車に、人だかりができ、都大路を二条城までついてくる有様であった。
徳川二条城は、慶長六年に起工、完成は八年三月であった。
家康の、将軍宣下を受けるための上洛は同年三月である。この京都滞在中の宿所として用いるため、工事が急がされ、諸大名は予想以上の出費をよぎなくされた経緯《いきさつ》をもっていた。
お福が鎮座する牛車は、水無月《みなづき》十二日の強い陽をあびながら、牛の嗚き声ものどかに大手門をくぐり、御殿正面の唐風|四脚門《しきやくもん》へ近づく。
家康は、六月十日に二条城へ入っていた。
昨年につづく上洛は、朝幕親善を身をもって示すことと、西国の外様大名に無言の威圧を与えることが主目的だったが、誕生を間近にひかえた孫の乳母決定も、氏《うじ》の長者としてゆるがせにできない仕事に数えている。
関白からの使者との対面、諸大名引見などの公務をひとくぎり終えた家康は、奥御殿の白書院(居間)に戻ってきてくつろいだ。
「次の客は、誰じゃな」
お勝がささげた茶を、むぞうさに喫しながら問う。
家康は六十三歳。肥満がいっそうすすみ、腹がじゃまして褌《したおび》も自分で結べぬほどであるが、心身ともに若々しく、飾りがない。
「乳人《めのと》を願い出ましたお福御寮人でございます。間もなく、お着きになりましょう」
よどみなく答えるお勝は、家康の最もお気に入りの側室であった。お勝の方《かた》と呼ばれている。
家康が関東へ入国した天正十八年に、人質同様にさし出された太田|持資道灌《もちすけどうかん》の末裔《まつえい》、太田|康資《やすすけ》の娘である。当時、十三歳。美貌の上に聡明なところを家康は愛《め》で、成熟を待って妾《そばめ》に直した。
今は二十七歳になっているが、寵愛は変わらず、上洛の旅にともなったただ一人の側室である。閨《ねや》の用よりは、側役としてなまじの近習より重宝なのであった。
「石橋をたたいて渡るほどに諸事慎重な所司代が、手をつくして探した末、江戸と京のかけ橋にもなる天与の女性《によしよう》、とまで惚れこんで推挙してきておる。わしに、異存があろうはずはないのじゃが……」
家康は、茶碗を置いて脇息にもたれ、浅黒い下ぶくれの顔をしかめた。
「何か、お心にかかることがございますか」
「二十六歳、ということであったな」
「はい」
お勝の、小ぶりできりりとした面に、とまどいと不安がよぎる。
家康は子細ありげな表情のまま、
「大納言(秀忠)どのが同い年の二十六、阿江与《おえよ》どのは三十二歳……」
と、つぶやき、ひょいと愛妾を見やる。
「あ」
お勝の言うに言われぬ顔色に、家康は初めて笑い声をたてた。
「わかったか」
しかし、お勝は率直に「はい」とは言えない。六歳年上の阿江与の方の度はずれた悋気《りんき》と、律義すぎる夫・大納言秀忠の恐妻を意味していたからである。
「伊賀守の書き上げには、身体強健、節操正しき、はあったが、顔形《みめ》のことが抜けておった。堅物らしい勝重の見方じゃが、はて、お福どのとやら、どうであろうのう。阿江与どのよりいちじるしく美しければ……これは、事じゃ。わしの落度になる」
家康の小鼻がうごめき、目は依然、笑っている。
たしかに、お福が際立って美しければ、騒動の種になりかねない。だが、家康は本気で危ぶんでいるのではなかった。艶福のわが身にくらべて、あまりにも女あしらいに不甲斐《ふがい》ないわが子をからかっているのである。
お勝は、そのへんの呼吸は心得ている。
まじめな顔で両手をつかえ、
「お乳調べと合わせ、顔形《みめ》もとくと拝見することにいたしましょう」
「たのんだぞ」
「では、そろそろ時分《じぶん》と存じますので」
と、お勝は座を退き、入側《いりがわ》へ出た。
二条城は、蘇鉄《そてつ》の間と称される畳廊下をはさんで、表御殿三棟と奥御殿二棟がつながっているが、政庁ではなく、私邸の色合いが濃い。
江戸城でも表と奥の区分が厳重ではない草創期である。お勝は侍女二人を供に従えて、蘇鉄の間を渡り、表御殿二の棟まで進んだ。
二の棟には、庭に面して、式台の間がある。対面所と客座敷を兼ねた広間である。
お勝は、ここで待つことにした。
座する間もなく、御玄関で到着を告げる声である。
ふりかえって、のびをしたお勝の目に、車寄せに向かう華麗な牛車が、垣根越しに一瞬|過《よぎ》った。
お福は、牛車の窓のすだれを透して見る二条城の、その長い石垣にも、|鉄 張《くろがねば》りの大手門にも驚かなかった。王城の地には、御所をはじめ神社仏閣等、壮麗な建物はあまたある。
城郭の内外には、将軍に従ってきた軍団がものものしく警備にあたっていたが、それにも恐れを覚えない。
(わたしは、五万石の大名の正室だったのだ。ただの乳やり女ではない)
胸のうちで自分に言いきかせるお福は、いつしか、敵陣へでものりこむように気負っていた。
公家の見栄と意地が網代屋形にしみこんでいるような牛車にゆられているせいであろうか。東夷《あずまえびす》と都人が嫌悪する、胴丸に臑当《すねあ》てをつけた徳川の兵を数多く目に入れているゆえであろうか。
乳母召し抱えのお目通り、という本筋を忘れて、お福は異様に昂《たかぶ》っているのだった。
車寄せで、牛をはずした網代車の前すだれから、お福は作法通りおりたった。その優雅さに警備の武士の間から感嘆の声がもれた。
同行の所司代・板倉伊賀守に鷹揚《おうよう》にうなずくさまは、女人には類のない貫禄である。
廊下へ迎え出たお勝は、所司代に案内され、侍女を一人従えて回廊から現われたお福に瞠目した。
想像を上まわる大女である。紗の裲襠《うちかけ》をゆったりとはおったその背に見えがくれする長い黒髪は、御所風のすべらかしであり、にじみ出る気品とともに常の女にはない気迫を感じ取った。
式台の間に誘い、一同座して初対面の挨拶と身分の紹介を交わしたあと、お勝は侍女の一人に先触れさせて、板倉勝重をひとまず先に黒書院へ送り出した。
奥御殿のうち、表に近い黒書院は、将軍家が血族やごく親しい人士と懇談する一棟である。お福も、乳母として身内に近い扱いになる女人なので、黒書院へ導かれる。
あらためて対座したお勝は、やわらかいまなざしをお福へ向けて、微笑した。
すでに、顔貌のほうはしっかり見てとっている。ひたいのひろい、いかにも賢そうな色白の面に、疱瘡《もがさ》がめだつ。醜女ではない。さりとて、美貌とはいいがたかった。
このほうは安心である。だが、お勝は一瞥《いちべつ》して、お福に別の杞憂《きゆう》を抱いていた。気性の激しさである。それが表にあらわれているのだった。
(おそらく緊張のあまりであろうが、このままでは、上様《うえさま》の御不興を……)
と、直感したのである。
お勝は、家康の気質を熟知していた。
十三歳から近侍して十四年。この間、十数人を数える側妾《そばめ》の多くが、お腹さま(生母)になっても、ごく短い御用でかえりみられなくなっている。お勝は、子を生《な》していないが、激戦の期間をのぞくほとんどの歳月、家康と起居を共にしてきたのだった。
少女のころは娘のように可愛がられた。お手がついてからは寵妾随一となり、今は正室のいない家康が「古御前《ふるごぜん》」と呼ぶこともあるほどの信頼である。
それゆえ、三十六歳も年上の家康の胸のうちまで察することができるようになっているし、この以心伝心が家康にとってお勝を片時も手放せなくしているといえた。
家康は、おのれを制御する力の強い人である。その我慢と忍耐が、乱世を生き残り、ついに天下をものにした大きな要訣であった。
まず、好き嫌いを顔にあらわさない。戦場ではいざ知らず、殿中では温厚寡黙、怒声を発したのを、お勝さえ耳にしたことがなかった。しかし、お勝は、家康が胸の底に抑えこんでいる激しい好悪の情を知っている。
怜悧《れいり》を愛するが、衒学《げんがく》を憎む。進取の言行を賞するが、抜け駆けの功名は容赦しない。大言壮語を信ぜず、寡黙謙譲を尊ぶ。慕い親しむ者はうけ入れるが、狎《な》れ寄る者を遠ざける。
とりわけ女の高慢、勝気、饒舌《じようぜつ》、知ったかぶり、嫉妬深さをしんから嫌った。
「男は陽《ひなた》、女は陰《かげ》と昔からきまっておる。天地に昼があり、夜がなくては困りものであろう。陰陽は合わせものじゃ。これで世の中がうまくいく」
家康が、時折、奥向きの女どもに垂れる訓戒である。
「女子《おなご》は素直が第一じゃ。幼《いとけな》き時は親に従い、世に出ては長上に従う。嫁《か》しては夫に従い、老いては子に従う。これが女のつとめであり、女の値打ちぞ。女が男のようになっては、廃物《すたれもの》じゃ」
お勝にも、十六、七の生意気盛りのころ、このような考えを男衆の身勝手と腹立たしく思う時期があった。けれど、奥御殿の内から武将やその家族の栄枯盛衰の有り様を見聞しているうち、昼があって夜がくるのではなく、夜があって昼の輝きが生きてくる、というふうな男と女の機微が実感できるようになったのである。
「男というものは、白を黒と言っても、はい、と答える女を、愚かとは決して思わぬものじゃ。女が従順温和であればあるほど、男はおのれの粗暴や誤りを内心で恥じ入り、正そうとするものじゃ。それを、小賢《こざか》しく向かってくると、理非は別にして、かっとする。攻められれば戦うのが男の本性。負けられぬのも男の宿命《さだめ》。さあ、どうなろうぞ。これを心得ておらぬと、女も不幸、男も不運、ともに身を滅ぼしてしまう」
家康がこのような考えをもち、側妾の多くを学のない下賤の女や苦労を経た後家《やもめ》に求めるのは、最初の正室・清池《せいち》院さまに因があると、お勝は察している。
生前、築山殿《つきやまどの》と呼ばれた清池院は、駿河と遠江《とうとうみ》を領する東海の大守・今川義元の姪であり、養女であった。
妻《めあわ》せられた当時、十六歳の家康はその今川家に人質として養われていたのである。驕慢な年上の奥方さまであった。
今川家が滅び、家康が三河を平定、遠江を征服して二国を治める大守になった後も、築山殿の家門を鼻にかけた気位の高さと我儘、それに嫉妬深さはなおらなかった。
お勝は、お福を一目見たとき、その築山殿のことが頭をかすめたのだった。築山殿は、お勝が二歳の天正七年に死去している。面影を知るよしもないのだが、なにゆえか、反り身になって近づいてくるお福の全身に、非業の死をとげたと伝わる清池院さまを重ね合わせたのだった。
盟邦だが実力が上であった織田信長の、理不尽といえる政略によって嫡男の信康と築山殿を殺害せざるをえなかったのだが、信康の死に慟哭《どうこく》した家康は、正室の絶命の報にはただうなずいただけだったという。
お福は、家康の発案と目利きによって選ばれる新将軍家直系の子の乳母・御傅役《おもりやく》になる人であった。弥栄《いやさか》を願う徳川家の将来に浅からぬかかわりをもつ女性である。
(このままでは、よくないことが……)
とっさに考えたお勝は、すぐに奥御殿へ同行せず、松の緑を背景に遅咲きの藤の花房が風にゆれている庭先を眺めながら、お福の気の静まりを待ち、あわせて和合のひとときをつくるべきだと思ったのである。
2
お福は、お勝と向かいあっているうちに、不思議な安らぎを覚えていた。
お勝の方《かた》については、板倉伊賀守から前もって教えられていた。
「将軍家の御信任格別のお方さまにて、奥向きのことも統《す》べておられる。さしあたり、お福どのの応接《あしらい》をなされ、江戸城奥御殿のことなどもご指南なされるでありましょう」
六千六百石の旗本であるが、大名格といわれる所司代の敬意がただならない。
(何者ぞ)
という反発が、お福にあったことは否めなかった。
女同士の、本能的な競い心であろうか。
(最初が肝心、軽く見られてはならぬ)
網代車のなかでの気負いは、将軍家康よりは、奥向きの権勢並びないと聞くその寵妾へ向けられていたのかも知れない。
回廊を折れて、次の棟にさしかかったとき、侍女を二人従えた老女が出迎えていた。
老女と感じたほど、その人物は地味な衣裳をまとい、小柄で臈《ろう》たけ、謙虚に小腰をかがめていたのである。髪は武家風に短く結い上げていた。
対座すると、三十歳を越えていない、自分とほぼ同じ年ごろに見えてきた。名乗りで、お勝の方と知ったとき、お福は思わず声をあげそうになったものだ。
(このお方が、江戸城奥向きの主……)
今、親しげにほほえみかけられ、お福の全身から力《りき》みがぬけていく。
お勝の笑顔は美しかった。小ぶりの顔がひどく幼く、可愛げに映る。
(このお方が、古狸などと公家などから陰口される江戸将軍の思われ女、その人とは)
お福が、お勝の無言の微笑に魅せられていると、
「このお城も、たいそう急ぎの御普請で、庭の木なども寄せ集めとか。立派なお庭をおもちの都の方には、さぞお見苦しいことでしょう」
ものやわらかな声にも笑みがふくまれていた。
お福が、とまどいながら言葉を選んでいると、
「あの藤の木、このお庭の土に付くかどうか危ぶんでいたそうですが、やっと花がひらいたと、掃除の者がよろこんでおりました」
このお方さまは、庭掃除の下僕とも話を交わされるのであろうか、とお福は驚かされつづける。
お福が言葉を失っているのを気遣ったのであろうか、お勝は話の向きを少し変えた。
「三条西の御家は、歌道のご本家と聞いております。藤の花を詠んだ和歌も、いろいろありましょうなあ」
格式張らない言葉遣いである。
「はい。多くは存じませぬが、一首、思い出しました」
お福は素直に口をひらいた。
お勝は、耳を傾ける風情《ふぜい》である。
「新古今集に撰《えら》ばれております紀貫之《きのつらゆき》の歌でございます。緑なる松にかかれる藤なれど、おのがころとぞ花は咲きける」
「緑なる、松にかかれる藤なれど、おのがころとぞ、花は咲きける」
お勝は、味わいながら復詠して、
「まあ、紀貫之どのが、ここに座って詠まれたような、ぴったりの歌ですね」
と、無邪気によろこぶ。
お福の顔もほころび、自分でも予期せぬ言葉が出た。
「ここで、お方さまのようなお方にお目にかかれ、うれしゅうございます。お目見得《めみえ》の首尾がどうなるかは存じませぬが、末永くお導きくださいませ」
頭を深くさげたのである。
「お福どの、それはこなたから申し上げねばならぬご挨拶。江戸へおはこびになられれば、驚かれましょう。かの地は、まこと、東夷」
お勝は、禁句をこだわりなく口にのせ、お福をまごつかせる。
「汐入《しおい》りの葦《よし》や茅《かや》の原がお城近くにひろがって、そのお城も、西の丸は新たに築かれたものの、御本丸は昔の草葺《くさぶ》きのまま。幕府がひらかれて、まだ一年と少しですもの、すべては、これから。奥向きも、これから御殿を建て、人を集め、制度をつくり、徳川永世の基《もとい》をかためる、われらもそのお手伝いをせねばならないのです」
お勝は、両手をそろえて辞儀を返す。
「お福どの、末永くお力添えを」
「お方さま……」
お福があわてるより早く、お勝はすらりと立ち上がり、
「まいりましょう、将軍家がお待ちかね。さぞ、女同士のおしゃべりに、しびれを切らせておられましょう」
急ぎ足で入側へ出る。
あざやかな立ち居振舞であった。
廊下を何度かまがって、杉戸に蘇鉄など珍奇な南蛮草木が描かれたひろい畳廊下を渡ると、奥御殿の入口である。
番衆は、細身の脇差をさした小姓姿の女人である。お勝一行を迎えて平伏した。
お勝は、黒書院の裏廊下のほうへお福を誘い、一室に入った。簡素な調度だが、お勝の房《ぼう》のようである。
「形だけですが、お乳調べを」
お勝はささやき、お福主従を屏風《びようぶ》の内へ招く。
影のように付き添っていたおのうが、初めて生き生きと立ち働く。
奥向きを司《つかさど》るお勝は、この種の扱いになれているとみえ、ほとばしりを防ぐ懐紙をもって、にじり寄る。
「お見事」
青筋をうかせて張っている乳房に感嘆するお勝の声に、羨望がまじっていた。子を生《な》したことのないお勝のそれは、まだ少女のようなふくらみなのかも知れない。
調べはすぐにおわった。
お福は、着付けを直すおのうのなすがままになりながら、お目見得の首尾を疑う気配をみせず、江戸へ赴任すると信じこんているお勝に問い質さずにはおれなかった。
「お勝さま、一つだけ、お確かめしておきたいことがございます」
「なんなりと」
「わたくしの筋目は、御承知の上のこととは存じまするが、父は明智日向守の一味でございました」
お勝の面に、あの美しい微笑がひろがる。
「大納言家(秀忠)の御簾中《ごれんちゆう》(阿江与夫人)が織田信長公のお血筋であられることを気になさっているのですね」
明智光秀は織田信長に謀叛し、信長父子を討ったのである。
「戦乱の時を経た由緒の家門で、敵味方、あるいは恩讎《おんしゆう》をくりかえさなかった氏族があるでしょうか」
お勝の穏やかな面がかすかに曇る。
「わたくしも、徳川家と戦った小田原北条家につながる家の子でした。祖先は、江戸城の主であったとか……」
お福は、はっとする。そうであった、お勝の方の出自の太田家は、関東管領|扇 谷《おうぎがやつ》上杉家をとりしきっていた江戸城主・太田持資道灌の末裔である。名門であるとともに、道灌は文武兼備の将であり、とりわけ和歌の素養で知られていた。その家系であれば、さきほどの新古今集に編まれた藤の花の一首など、もとから諳《そら》んじていたであろう。
お福の顔が赤らんでくる。
お勝の憂《うれ》いをふくんだ声はつづいていた。
「……徳川家は、一族にとっては敵でありましたけれど、わたくしは、その敵の、しかも総大将に仕えております。御簾中さまとて、御生家の浅井家を攻め滅ぼしたのは、母君さまの実の兄上にあたる織田信長。さらに、養い父《おや》の柴田勝家と母上を亡きものにした羽柴秀吉、のちの関白秀吉公に引きとられ、姉上の淀殿は仇敵の寵をうけ入れなされました。その亡き秀吉公と徳川家は、尾張の小牧山あたりで激しく戦っております。その、昔の敵将秀吉公のお指図で、阿江与の方は秀忠さまへ輿入れなさったのです」
無用の斟酌《しんしやく》であることが納得できたでしょうね、というふうにお勝はお福を見やり、小さく溜め息をついた。
「武家の子女の宿命《ならい》とはもうせ、悲しいことです。天の道、人の道にはずれる所行ではないでしょうか。止めにしたいものですね。敵も味方もない、いつまでも平和な世の中、女は、とりわけそれを願っています。そうでしょう?」
お福の眼裏に、粟田口の梟首《きようしゆ》場がうかぶ。
やさしかった父の無残な遺体、慈しんでくだされたという光秀の半ば腐れた骸《むくろ》、ずらりと並んだ将兵の首。
「お福どのも、つらい思い出がたくさんおありの御様子。それゆえに、京と江戸との、東と西との、大きなかけ橋になられようと御決心なされたのでありましょう」
お福が何か言いかけた。
「いえ、いえ、三条西御殿でのご様子、伊賀守さまがきちょうめんなお方ですので、手にとるように……」
と、お勝は、あらためてお福の面容に目をあてる。何か思い出したのか、笑いをかみころした表情で、
「また、長話になりました。将軍家をこの上お待たせもうしては、切腹をおおせつけられるやも」
戯《ざ》れ言をいいながら、お福を急《せ》かせる。
おのうは、この部屋に控え、お福はお勝に従って表廊下へ出た。
黒書院の三の間に入ると、西日が障子に映えて明るい二の間に端座していた板倉伊賀守が、ほっとしたように振りむいた。
お福は、お勝にうながされて、二の間へ進む。
「おお、やっとまいられたか」
一段高くなっている一の間から声がかかった。丸みのある温かいひびきだった。
「近こう、近こう」
やや、せっかちな仰せ。
お勝が、伏し目のままのお福を、下段の框《かまち》まで導いて、
「ご機嫌うるわしきご様子、お気を楽にお話しなされませ」
と耳打ちした。
「ようこられた。面《おもて》を上げなされ」
気さくで丁重な物言いである。
お福は顔を上げ、
「福ともうしまする。お見知りおきくださいまするよう」
と、上座を仰ぎ見た。
金箔地に松を雄渾《ゆうこん》に描いた床の間を背に、布袋腹《ほていばら》の家康は脇息にもたれ、左右の女小姓に団扇《うちわ》で風を送らせていた。
「家康じゃ。そなたのことは、今、伊賀からあらためて聞いた。満足に思う」
「過分の御諚《ごじよう》、痛み入りまする」
お福は恥じらいながら頭を下げる。
二の間の端で見守るお勝の面に安堵があった。お福の全身から、あの猛《た》けだけしさが消え、つつましやかに受け答えるさまは可憐ですらある。
お勝は視線を感じた。家康の、お福の顔形《みめ》に安心の意を送るいたずらっぽいまばたきである。
お勝は澄ました顔のまま、
「お福御寮人のおからだを、お役目によりあらためさせていただきました。この上なく御健康、乳も、もうしぶんございませぬ」
と言上する。
家康は大きく、何度もうなずき、
「それにしても、いささか時を費やしたのう。東夷はいやじゃと、乳人が逃げ出したのではないかと、気をもんだぞ」
将軍の口からも東夷である。これはもう自嘲ではなく、天下人の余裕とうけとるほかはない、とお福は感じ入る。
「もうしわけございませぬ。お福どのとは初のお目もじながら、何か生き別れの姉妹《はらから》にめぐり合えたような心地がいたしまして、ついつい、おしゃべりに夢中になってしまいました」
お勝が機知ゆたかに詫《わ》びている。
「ほう、はらからとな。さすれば、どちらが姉で、どちらが妹じゃ」
興にのった家康の声であった。
「それはもう、こちらが姉でございます」
「柄《がら》が小さい姉さまじゃな」
「年上ゆえ、からだも萎《しな》びておりまする」
家康が声をたてて笑い、板倉勝重や下座の女中たちも忍び笑いを禁じえない。
家康は笑いを収め、大きなからだを縮めるようにして俯《うつむ》いているお福へ、
「そなたも、江戸の地に姉ができたゆえ、何事も話し合って、大納言家のため尽してくれよ」
「は、はい。心して勤めさせていただきまする」
「江戸は、町づくりも城づくりも、また、人づくりも緒《ちよ》についたばかりじゃ。よろず荒々しく、秩序というものが充分に定まっておらぬ。とまどうことも少なからずあろう。腹立たしいことも、苦しむことも、多々できてくるかも知れぬ」
家康は、遠くを見る目つきになり、しばし思いにふけった。やがて、
「道のりは、長い」
と、つぶやき、まなざしを、両手をつかえて謹聴しているお福にもどした。
「どうでも、手にあまることが出来《しゆつたい》せば、お勝にはもちろん、わしに直接、訴え出ても苦しくないぞ。大納言家の秘事《ひめごと》にかかわることであっても、遠慮はいらぬ。……忠義の真心からであればのう」
家康は、お勝と板倉勝重を等分に見て、
「両人が証人じゃ。お福がこと、ただの乳やり女《め》とは思わぬゆえ、かような約定を与えるのじゃ」
お勝と勝重がかしこまっている。
家康は、ふたたび、お福に目を移す。
「お福、江戸城へ入ったならば、子の養育は言うまでもなく、そなたが具《そな》えおるさまざまな能力《ちから》をあたうかぎり用いて、徳川の未来|永劫《えいごう》のため尽してくれることを望んでおるぞ」
「はい」
お福の声は凛《りん》としていた。
「ふつつか者ではございますが、御諚、うけたまわりましてござりまする」
3
京都から江戸まで、東海道で百二十六里。天災地変がなければ、十四泊十五日ほどの旅程である。
お福の江戸行きは公用であるから、駕龍《かご》、宿、荷の継ぎ立て等は先乗りの役人が万事手配して、とどこおりがない。
侍女二人と護衛の武士団は、家康の指示で、江戸から扈従《こじゆう》してきている二条城詰めから選ばれた。おのうは泣きすがって供を願ったが、お福は許さなかった。いずれ、あきらめて加賀小松城へ輿入れするであろう。
府中宿から原宿にかけては、さまざまな富士山を間近に仰ぐことができた。雨にけぶる富士、朝日に輝く富士、沼沢に雄大な影を描いた富士、雲海からつき出た富士、夕焼けに染った富士。
時折、乳房のしこりとともに美濃の谷口の里に残してきた子たちを思い、人知れず涙ぐむお福であったが、概して楽しい旅であった。
お勝の方の息のかかった侍女が、ゆきとどいた介添えをしてくれる。そのお勝の方も二月《ふたつき》後には江戸へ戻ってくるはずである。前途に不安はない。
阿江与の方の御出産は七月半ばという奥御殿医の診察《みたて》に変わりはない。半月ほどのゆとりがある道中であった。
六月二十九日の朝、最後の泊り地の川崎宿を発つ。江戸城まで四里余、もうすぐ長い旅がおわる。
六郷川では、両岸と水中に間竿《けんざお》をつらねて地方《じかた》衆が架橋のための振矩《ふりがね》(測量)をおこなっていたが、まだ舟渡しである。
川を越えて間もなく、街道の東に海がひらけた。紺青の沖合いに、大小の船がおびただしい。
「ごらんなされませ、みんな石舟でございます」
松原が織りなす日陰で休息することになって、駕龍からおり立ったお福に、侍女の一人が指さした。
「御本丸に用いる大石を、諸大名が競って運んでいるのでございます」
旗本の娘である侍女は誇らしげである。
昨年の二月までは、江戸は関東六州二百五十万石の徳川家の本拠であった。一門と譜代大名によって応急の町づくりと本丸の修理、西丸の新築がおこなわれたにすぎない。
二月十二日、家康は征夷大将軍の宣下をうけた。武家の棟梁である。三月三日に、諸国の大名に対し江戸普請手伝いの命令を発した。
幕府が開設された江戸は、全国六十六州、およそ二千万石の総城下町となる。工事は天下普請と称され、軍役に準ぜられた。奉仕をしぶる大名は逆心ありと見なされる。諸大名は、まさしく、競って工事に参加していたのである。
石舟はさまざまな形をしていた。大きな帆船の胴に石を積んでいるもの、網で包んだ巨石を船尾にゆわえて櫓でこいでいるもの。平舟の中央を穴にして、そこに大石を吊って、その何艘かを親船が引いているもの。
それぞれの船には、家紋を染めぬいた色とりどりの旗指物がなびき、見あきがしない風景であった。
「あの石は、どこで積みこんでいるのでしょう」
お福の問いに、今一人の侍女が、
「武蔵野がどこまでもつづく江戸の近くでは、大きな石がとれませんので、伊豆の国の岩崖から切り出すのだそうでございます」
伊豆といえば、その昔、源頼朝が島流しにされていた流刑の地ではないか。
「そのような遠国《とつくに》から……海《わた》の原のこと、途中で、あまた難儀もあろうに」
つぶやくお福は、これから末永く仕えることになる徳川家の、天下人としての威勢に心強さを感じるとともに、権力の争いに遅《おく》れをとった諸大名とその家臣・家族の悲哀を思いやらずにはおれなかった。
粟田口の梟首場が、また脳裏によみがえる。あれこそ、負けた側の惨めな姿のきわみであったが、家の旗印をかかげて航行している船の列も、台に並べられた晒し首に見えてくるお福であった。
(敗者も、そして勝者もない、そのような世の中というのは、ありえないのであろうか)
お福は思い沈む。
(人は、なにゆえ争い、戦わねばならないのであろう)
小は子供のけんか、女の悋気、立身出世の争い、大は国盗り天下取りの合戦。それが、業《ごう》の報いをうけている現世だと教えられたこともあったが、納得できるものではない。
戦い争うことを天職とする武士とは、一体何であろう、とまで考え進む。
胸の底に、わだかまっているものがあった。
十日ほど前になる。美濃路と伊勢路とも交わっている桑名の宿に、別れた夫の稲葉正成が訪ねてきたのである。
さすがに世間体をおもんぱかってか、遠縁の者という口上で、無精ひげで面貌を変え、猟師のなりをしていた。八歳になる千熊《ちくま》をともなっている。
「伊勢まいりを思い立ってな。千熊《これ》にも、禁裏と公家の崇敬あつい伊勢の大神宮を、今のうちに拝ませておきたいと……言ってみれば、親心じゃ」
卑屈にひびく笑い声をたて、
「途中で、そこもとの江戸道中の噂を耳にした。千熊が、ひと目、会いたいというので……なあ、お前」
こっくり、うなずいたものの、子供ながらの憤りの顔色で虚言とわかる。お福と会うために、時を合わせて、谷口の里から出てきたのだ。
父親から種々言い含められているのであろう、侍女を遠慮させている座敷に余人はいなかったが、千熊は「母上」と呼びかけようとはせず、他人行儀を守っている。
千熊は母っ子であった。不憫である。子を置きざりにした親として心が痛む。
そのようなお福の胸中をみすかすように、
「いずれ、ころあいをみて、この千熊だけでも江戸へ呼び寄せてやってくれ。生まれる将軍家の孫が男子であれば、小姓にでも取り立てられるであろう」
正成の目に、ゆくゆくは、お福の地位を足がかりに、おのれをふくめて一族の開運を計ろうとする下心が宿っている。
お福は、身辺が落ち着けば、子たちを引き取るつもりであった。将来の立身についての親心は、乳人を承知した気持のなかにふくまれている。しかし、そのことを正成からあからさまに言われると、不快が先立つ。
「いや、いや、無理強いしているのではないぞ。千熊を徳川の家で出世させるなど、わしがその気になれば、わけもないこと。わしとて、清正や正則に劣らぬ知行を得られるのじゃ」
加藤清正は肥後五十四万石、福島正則は安芸五十万石である。
「そこもとも知っての通り、わしは徳川に、関ヶ原でとてつもない貸しがある。家康に天下を取らせたのは、このわしだからのう」
広言のわりには、ひそめ声になっている。
そのはず、稲葉正成は、この大言壮語で主家を自滅させ、おのれも五万石の知行を失い、未だに仕官の道がとざされているといえるからだ。
四年前の関ヶ原の陣は、確かに、天下取りの合戦であった。
地の利は、豊臣秀頼と淀殿を擁する石田三成指揮の西軍にあった。先んじて関ヶ原を見下ろす周辺の山に布陣し、家康が率いる東軍を、袋のねずみのごとく谷間に追いこんだのである。西軍八万四千、東軍七万四千、兵の数でも優《まさ》っていた。
にもかかわらず、西軍が惨敗したのは、家康の政略が功を奏したからである。巧妙に石田三成を貶《おとし》めて豊臣恩顧の大名を離反させ、西軍に与《くみ》してしまった大名や武将にまでひそかに手をのばして、寝返りを働きかけていた。もちろん、過分の恩賞を内示している。
稲葉正成も、取り引きに耳を傾けた一人であった。当時、正成は筑前等三十三万六千石の小早川秀秋の筆頭家老として二万石を食《は》み、一万五千の軍を掌握していた。
秀秋は、秀吉の正室|北政所《きたのまんどころ》の兄木下家定の五男で、秀吉の猶子《ゆうし》である。豊臣の威光で、毛利一族の名門・小早川隆景の養子となり、その家門を継いだ。しかし、凡庸な十九歳である。豪傑肌の正成の言うがままであった。
戦闘は、石田三成直軍の島左近・宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継らの奮戦で、東軍が崩れかけた。
家康は色を失い、躍起になって内応をほのめかした敵陣営へ密使を潜入させ、その決行をせきたてた。
しかし、誰も動かない。吉川広家・毛利秀元・長曾我部盛親・長束《なつか》正家・増田長盛・小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直得……いずれも形勢をうかがっているのだ。
日和見《ひよりみ》は、戦国乱世に生き残り、さらに覇権に近づく手段の一つで、必ずしも卑劣ではない。勝つほうについて、その勝利を確実ならしめる働きをし、手柄を誇張して多大の報酬にあずかり、地歩を飛躍させる有効な機略である。
壮絶な激戦を足下に見る松尾山の小早川陣地では、総大将の秀秋が顔面をひきつらせていた。忍んできた家康の密使は刀の柄に手をかけて下知を迫り、入れかわりに駆けつけた三成の目付衆は口角にあわをとばして傍観を詰《なじ》る。
板ばさみの秀秋は、
「正成、早く軍を動かせ、なんとかしろ」
と、わめいて錯乱に近い。
稲葉正成は、ろくに実戦を知らない弱輩の主君などほとんど眼中になく、
「まだじゃ、まだじゃ」
と、幕僚を制して、舌なめずりしながら戦況をにらんでいた。
旗・指物が入り乱れる窪地では、新手新手をつぎこんでくる東軍が劣勢を挽回しつつある。
突然、松尾山の麓で異変がおきた。西軍に属する淡路三万三千石の脇坂安治の勢およそ一千が、東軍の守備線に移動し、徳川の部隊と連合して小早川陣地へ鉄砲を打ちかけてきたのである。旗幟《きし》の鮮明を求める最後通告にほかならない。
一瞬、迷った正成は、秀秋へ振り向き、噛みつくような形相で、
「殿、時機を逸しては悔を千載にのこしまする。徳川どのへお味方つかまつる」
と言い放つや、馬にとびのり、采配を打ち振った。
「敵は石田|治部少輔《じぶしようゆう》三成ぞ、まずは、あの大谷吉継の陣へつっこめ」
自ら先頭を駆け、一万五千の総軍を主戦場へ突撃させた。
形勢は急転換、西軍は間もなく潰滅した。
戦後、家康は論功行賞で小早川家を殊勲第一に挙げ、三十三万六千石から十七万四千石加増して、五十一万石の大守に昇らせた。そのうちから五万石を稲葉正成に分与するよう指示もあった。
しかし、秀秋と正成は、それぞれ大いに不満であった。なぜなら、口では功績第一と賞めながら、加増の率《わりあい》が東軍に貢献した他の豊臣旧臣にくらべて低かったからである。
例えば、加藤清正は二十九万石増与されて五十四万石。福島正則は二十六万石加増の五十万石。黒田長政は三十三万八千石を加えられて五十二万石。池田輝政にいたっては三十六万八千石もの加増で五十二万石の大大名である。
「十七万石なにがしは、いかにも安い。殊勲第一ならば、輝政より多い四、五十万石の加増でしかるべき。百万石頂戴しても過分ではあるまい」
と、秀秋が怒れば、正成も家康側近の誰かれなくつかまえては、
「采配を振ったのは拙者でござる。同輩はいずれもあっぱれなる出世、いつまでも与力大名では面目なし、お察しあれ」
と訴え、暗に加藤清正、福島正則と同等の処遇を求めた。
酒の振舞いをうけ、酩酊すると、
「おのおのがたも知っての通り、徳川どのに天下を進呈したのは、この稲葉正成でござるよ。あのとき、拙者がちがう采配を振っておれば、六条河原にずらり並んだ首は、おぬしらであったぞ」
と哄笑し、本多忠勝・榊原康政・井伊直政ら徳川譜代の猛将を憤然とさせる。
これらの報告をうけた家康は、冷笑して、
「底の浅い男よ。それゆえ、与力大名どまりじゃ。あくどい二心《ふたごころ》を責めて、毛利や吉川のごとく領地の大半を奪ってもよかったのじゃ。小早川の寝返りがなくても、いずれ、決着はついていた。あやつの采配は、勝ちに乗っただけじゃ。戯《たわ》けものめ」
と、もらした。
家康の考えが噂となってひろがると、新しい権力者の意向に阿《おもね》るかのごとく、諸大名の小早川家に対する態度が変わった。
秀秋が高言を吐けば、
「亡き太閤の猶子の身でありながら、その親元の豊臣家に弓を引くとは」
と、さげすみ、正成への評は名将から、
「陪臣《またもの》の身で、徳川どのと豊臣を秤にかけようとした痴《し》れ者」
へ落ちた。
生来、小心者の秀秋の心気は狂い、正成をひたすら恐れ、憎み、呪う。家臣団も正成に背を向けた。
「狂暴の主君、わが諫言《かんげん》を用いたまわず、やむなく見限る」
と言い残して、正成は美濃谷口の里に隠遁したが、その実、領国に居たたまれなくなったのである。
秀秋は、その翌年に狂い死にし、小早川家は断絶になってしまう。
禄を離れてからも、否、浪々の身になって一層、
「徳川には大きな貸しがある。なにしろ、家康に天下を取らせてやったのは、このわしじゃからのう」
が、虚勢を張るときの正成のきまり文句になっている。
今では、誰も、犬の遠吠えほどにも感じない。
であるのに、正成は桑名の宿で、内情をよく知る先妻へ、おくめんもなくこううそぶいたのである。
「そこもとも、徳川に仕えて、何か困った事態に追いこまれたときは、家康に関ヶ原を思い出させてやれ。稲葉正成の功績を、よもやお忘れではござるまい、と言ってやるがよい。特に許す。離縁した妻への、せめてもの餞別《はなむけ》じゃ」
お福は返す言葉がない。この人は正気であろうか、と悲しみの目で無精ひげの大男を見やると、正成は肩をそびやかした。
「わしは、そのような取り引きは好まん。いわんや、女の引きで世に出ようなどとは、最も恥とするところじゃ。堂々と、弓矢によって、一国一城の主に返り咲いてやる。あるいは、徳川に代わって天下を奪い取るやも知れぬぞ」
お福は顔をそむける。正成の本心は見え透いている。別れた女房が将軍家血筋の乳母になるという奇貨を利用して、家康に関ヶ原の縁を思い出させ、旧領を回復したいのだ。大名暮らしに戻りたいのである。
「ははあ、そこもとは、法螺《ほら》じゃと思うとるな。天下を奪い取る話よ。そこが、賢《さか》しくとも、女じゃ」
正成は、真顔で四辺に鋭い目を配り、ふたたび声を低めた。
「天下は、今一度、覆《くつがえ》るぞ。家康が将軍になったとて、先の短い老ぼれじゃ。考えてみるがいい、ついさきほどまで、豊臣の天下はゆるぎないと誰しも思っておった。ところが、太閤が死ぬと、わずか二年で関ヶ原決戦じゃ。秀吉公子飼いの豪の者がことごとく主家を裏切ってしまった。福島正則、加藤清正、加藤嘉明、黒田長政、池田輝政、山内一豊、浅野幸長……数え上げればきりがない。豊臣側は子飼いでは石田三成、大谷吉継、小西行長など、文吏の徒ばかりではないか。あとは、漁夫の利を狙った腹黒いやからが参戦した。かく言うわしも、そのなかの一人じゃった」
正成は、おのれの弁舌に酔っている。その顔つきを浅まし、と思いながら、お福は話に引きこまれていた。正成の言は、見方によっては、真実であったからである。
「一枚岩を誇っていた豊臣でさえ、このざまじゃ。まして、徳川は子飼いの三河侍とて、四天王と称する酒井・本多・榊原・井伊にしろ小粒。軍団を支えているのは、滅びた今川・武田、それに豊臣から餌をまいて釣り上げた戦さ上手どもじゃ。いわば、寄せ集め。やつらは、今は猫かぶりに服従しておるが、誰もが胸に一物かくし持っておる。天下は回り持ちじゃ。織田・足利義昭・豊臣、いずれも一代限りではないか。島津・伊達・黒田・前田、それに謙信の後を継ぐ上杉景勝らが、このまま指をくわえて徳川の俄《にわか》天下を眺めておくと思うか。さよう、徳川は俄天下じゃ。誰もが時を待っておる。その時機は、家康が惚《ほう》けて死ぬるときじゃな。秀吉公は六十三で死んだ。家康も、今、六十三であろう。間もなく天下は乱れる。わしが世に出るのは、その時よ」
正成は、かたわらで膝をそろえている倅《せがれ》を見やり、
「千熊、お前はどうする。いずれ滅びる家に、母御《ははご》の引きで束《つか》の間仕えるか、それとも、天下を取るかも知れぬこの父のもとで、粟飯《あわめし》をくらいながら栄華を待つか、お前の望み次第じゃ」
千熊は、耳を赤く染めて、黙ってうつむいたままであった。
品川宿を過ぎ、芝浦と呼ぶ浜のあたりから風景が一変した。人の渦である。耳をろうする喧騒である。海辺には無数の石舟が重なりあっており、砂地には綱引きの回転支木や帆柱状の巻き上げ道具が林立して、巨石の陸揚げと運び出しがおこなわれているのだ。
街道を進むと、砂ぼこりの行く手に、馬印を立てた諸藩の普請小屋が点在しており、丘陵の切りくずしや、沼沢・入江の埋め立て工事もたけなわである。
「あれが、新しく建った西の丸でございます」
侍女が指さす彼方に、優美な城郭が望まれたが、その手前は環濠を掘りめぐらす工事でごった返していた。
なるほど、将軍家やお勝の方が言っていたように、江戸の地は町づくりも、城づくりも緒についたばかりのようである。
それにしても、炎天下、どこもかしこも、おびただしい人の群れであった。風が、砂塵とともに、むっとするような汗の匂いを運んでいる。
「諸大名は、石高千石につき一人の割合で人夫を課せられておりまするが、どこも将軍家の意を迎えるため、四、五人は出しておるようで、さよう、士分をふくめて十万人ほどが立ち働いているのではござるまいか」
護衛の士も誇らしげに、お福に語った。
人の渦は、だが、よく見ると、家紋を染めた旗ごとに持ち場がわかれており、陣笠に裁着《たつつ》け袴の武士たちによって、見事に統率されている。
「まるで、戦さ場のようでございますね」
侍女の感嘆を待つまでもなく、お福はそのことを思っていた。つれて、正成の放言の端々がよみがえる。
「天下は、今一度、覆るぞ」「やつらは、今は猫かぶりに服従しておるが、誰もが胸に一物かくし持っておる」「天下は回り持ちじゃ。織田・足利義昭・豊臣、いずれも一代限りではないか」「徳川は俄天下じゃ」「その時機は、家康が惚けて死ぬるときじゃな」
お福は、暑気のなかで、ぶるっとからだを震わせた。
目の前の、将軍家の意を迎えるため唯々諾々《いいだくだく》として働いているかに見える十万の人の群れは、時機がくれば仮面をかなぐり捨てて徳川家へ刃向かう軍兵なのであろうか。
徳川将軍家がその威勢にものをいわせて築きつつある天下の総城下町・江戸は、数年後には壊れ崩れる砂上の楼閣というのか。
お福は、
(そうはさせてはならぬ)
と、江戸城を目の前にして、決意を改めるのであった。
4
この日、お福は、西丸下の武家屋敷に導き入れられ、旅装を解いた。本多佐渡守正信の役宅である。
正信は、幕府年寄衆(のちの老中)の一人であったが、四歳年下の将軍家康とは君臣ながら水魚の交わりといわれ、腹心中の腹心と目されている。家康が上洛している今、江戸城の城代であった。
「明日、大納言家にお引き合わせするとして、本日のところは、長旅の疲れを休めてくだされ」
本多佐渡守は、本邦ではめずらしい柘植《つげ》の入れ歯を用いていることで知られていた。その入れ歯のせいか、言語がやや不明瞭である。
髷《まげ》は半白で、鶴のようにやせ、眼病の後遺症であろう、片目が灰色に濁っていた。
その、どこを見ているかさだかではない目を和《なご》ませて、
「これは、言わでものことでござるが、役目柄もござってな。その、なんでござる、奥向きに入られれば、徳川家《おいえ》の内情も多々、見聞きするでござろう。良きにせよ、悪しきにせよ、たとえ御身内であろうとも、お漏らしなきよう。よろしいな」
「はい。心得ましてございます」
「それから、今一つ。何か望みのことがござれば、将軍家、あるいは大納言家、御簾中に直《じき》にもうし上げず、年寄衆を通されよ。拙者も、なにぶんのお力添えはいたすつもり」
正信は、淡々とした口調のまま、
「ところで、さしあたり、掛け合いごとはござるかな。忌憚《きたん》なくもうされよ。俸禄、それに、美濃に残されたお子のことなど」
「何もございませぬ。委細、よしなにお計らいくだされませ」
「さようか」
軽くうなずき、
「そなた、稲葉正成どのの御内室であったとか」
「さようでございます」
「そなたが江戸へまいられること、御存知か」
「風の便りで、知ったようでございます」
「拙者も、正成どのとは面識がござる。……何か、言付《ことづ》けでも、ござらなかったかな」
何げないふりだが、正信の濁りのない片方の目が光を帯びている。
稲葉正成が執念をもつ、関ヶ原合戦時の貸し云々《うんぬん》、を指しているのだった。徳川家にとっては、お福を重用するからには避けられない問題であり、そうであれば、早目に何らかの処置をしておきたいのであろう。
家康から指示がきていて、そのため、本多正信役宅で一泊する手筈になったのかも知れない。
「正成どのとは、今は他人でございまする」
お福は、きっぱりと答えた。
「かの人も、ひとかどの武人でございますれば、例えば、女の引きで世に出ようなどとは、夢にも思わぬことでございましょう」
「ほほう」
正信は、茫《ぼう》とした表情のまま、
「桑名の宿で、そうもうされたか」
お福は、ぎくりとする。宿に訪ねてきた親子の正体を知っているのだ。間者が同道していたとみなさねばなるまい。そのことを正信は敢えてほのめかし、今後とも身を慎むよう警告を発しているのであろう。
(老獪《ろうかい》な)
お福は気を引きしめたが、素直に、
「はい」
と答える。
正信は、入れ歯を舌でこねながら、ひとり言のように、
「徳川は、まだ、基礎《もとい》がかたまってはおらぬ。それゆえに、さまざまな手段《てだて》をこうじておるのじゃが。そなたを招いたのも、その一つ。生まれる御子が男子であれば、三代将軍になられる御身。女子であられても、徳川の行く末に大きな役割りを担《にな》われるでござろう。その御子の、御傅役《おもりやく》をお願いするのじゃ」
正信は姿勢を正して、お福を直視した。老人の干からびたからだが、にわかに大きく膨れあがり、威圧をもって迫ってくるようにお福に感じられた。
「われらは、老い先が短い。われらが死ねば、ふたたび天下が乱れるようであってはならないのじゃ。これは、徳川の権勢を守りたいからもうしているのではござらぬ。世のため、万民のため、無益な殺しあいのくりかえしを、止めにしたいからじゃ。そのためには、徳川の幕府は、俄天下であってはならぬ」
正信の眼光が、もとの好々爺の柔らかさにもどった。
「上様はもちろんのこと、拙者も、三代さまの弥栄《いやさか》まで見届けたいがのう。なにせ、この年じゃ、かなうまい」
濁った片目も笑っている。無気味な面相であるが、老臣の忠義の誠心はひしひしと伝わってくる。
「お福どの、頼みまするぞ」
お福は、あらためて責務の重大を思い知らされ、
「うけたまわってございまする」
と、誠実をこめた平伏の礼をとった。
西丸は、板葺き草葺きのままの簡素な本丸の西に、もとは谷であったという広い堀と新たな土塁をへだてて建てられていた。鯱《しやち》をそなえた総瓦である。
「建物だけで六万八千坪ござる」
登城に付き添う本多家用人は自慢するが、天守閣が見あたらぬこともあり、大坂城や聚楽第《じゆらくてい》を知るお福の目には、どうしても田舎城に映る。
「御本丸は、いつごろ、新たになりましょうや」
「まずは堀をめぐらし、石垣を築き上げ、しかるのちに御殿に着手すると聞きまする。本丸御殿は十万坪近くになるとか。五層の天守閣もそびえまする。かかる大工事ゆえ、四、五年を見込んでいるようでござるが、大名諸家の功を競う有様を見ますれば、一両年うちには完成するかも知れませぬな」
諸大名の忠節無私を信じこんでいる口調である。
大局に立つ将軍や年寄衆、あるいは渦中からはずれているがゆえに岡目《おかめ》をもつ稲葉正成などは、現《うつ》し世をそのままに見ないが、下士や奉公人は疑うことを知らない。江戸幕府は早や磐石と太平楽の様子である。
建坪合計十六万八千坪の城郭群が出現したときこそ、徳川の基盤は半ば成ったといえようが……。
(今の時期の慢心は、危ういことではあるまいか)
お福は、すでに身内の心構えになって、徳川家《おいえ》の前途を案じている。
城郭に隣接する丘陵を整地して造営された西丸は、本丸御殿の改築がはじまれば、仮の本丸となり、幕府の諸役人が移ってくる。
今は、世子・大納言秀忠の居城であった。ゆくゆくは、家康の隠居城になるという。
お福は、西丸玄関門から表御殿へ導かれた。先導は、本多家用人から御殿坊主に替わる。
城内はさすがに重厚な造りで、廊下から見る各部屋の襖絵や欄間の透彫《すかしぼり》が豪華である。
一室に通された。本多正信と幾分若い継裃姿が四人、お福を目で迎えた。正信の引き合わせで、世子付きの重臣であることを知る。
「次の世を担う有為《ゆうい》の士でござる。あいたずさえて、御子をお育て願いたい」
正信は言い添えた。
重臣は、酒井忠世、大久保|忠隣《ただちか》、土井利勝、安藤重信である。三十代の年ごろに見えた。
今度は、正信自らが案内役になって、廊下を進む。
京都二条城の、黒書院に似た棟へ入った。御座の間のようである。
徳川の家風は、諸事格式張らず、上下の礼も厳しくないように見うけられる。廊下を行き交う武士たちも、さきほどの世子重臣部屋の士たちも、前線の陣屋住まいのような粗野といえる立ち居であった。華麗な御殿に似つかわしくない。
(これらも、いずれ改めねば……)
お福は心の中で思ったものである。
今、将軍家嫡子の御座の間に入るにも、本多正信は小姓の取り次ぎを待つのではなく、
「お連れもうしましたぞ」
と、三の間で声をかけながら、二の間へ進んだのである。
すると、どうであろう。上段の間の、付書院《つけしよいん》に向かっていた着流し姿の若侍が、
「では、奥へ行こう」
と、立ってくる。
大納言秀忠その人に間違いない。
お福はあわてて正座し、平伏したが、
「そなたのことは聞いておる。堅苦しい挨拶はよかろう」
と、正信と並んで入側へ出てしまった。
しもじもの家で、叔父が甥をどこかへ誘いにきたほどのやりとりである。おそらく、正信は秀忠を襁褓《むつき》のときから膝に抱いたであろう。それにしても、互いに軽々にすぎはしないか。
「徳川の治政のしかたは、庄屋仕立てじゃ。村を治めるほどの気軽さで、よろず重みがない。あれで天下の政事《まつりごと》がおこなえるのであろうか」
と、江戸下向から戻った勅使が公家仲間に語ったと小耳にはさんだことがあるが、お福は同じ思いである。
(あるいは、照れであろうか)
お福は伏目ながら、刀持ちの小姓を従えて前を行く同い年の秀忠を観察する余裕があった。
(真面目すぎるほどのお人柄と聞いていたが、どこか頼りない感じも……)
直接の御主人となる人である。このお方と御簾中阿江与の方の間に生まれる御子の乳母になるのである。両親に代わって、おそらく元服まで育てることになる御傅役に任じられたのであった。
育英徳目について厳粛なる訓示があるものと、その心構えで参上したのであるが、気配は全くない。秀忠は、正信と暢気《のんき》に鷹狩りの話など交わしながら、表と奥の境である御錠口を通りすぎる。
驚いたことに、刀持ちの小姓がそのまま奥御殿へ入って行く。
大坂城でも聚楽第でも、大名諸家においても、奥向きには十歳以上の男は、家族・親戚、年寄衆のほかは入れない御定がある。御錠口で、刀持ちも女小姓に替わるのである。中庭をへだてた御膳所と見える棟にも男の姿が少なくない。
(このほうの制度も何とかしなければ……)
そう思うお福は、またまた、わが目を疑った。子供がやたら多いのである。男児も女児も十歳以下のようであったが、廊下や広間で、とんだり跳ねたり、走ったり、我がもの顔にふるまっているのだ。
「驚かれているようでござるな」
正信は、さすがに苦笑して、お福をかえりみた。
「本丸の奥向きがあまり粗末なのでな、将軍家の幼な子さまも、ここでお育てしておる。そのお相手も出仕しておるので、あの騒ぎでござる」
家康は老いてなお盛んである。五年前に九男五郎太丸(義直)を、三年前に十男長福丸(頼宣)を、去年、十一男の鶴千代(頼房)を、それぞれ側室に生ませていた。
秀忠のほうは、六年前に次女の子々《ねね》姫、五年前に三女勝姫、一昨年、四女の初姫が、三姫とも正室阿江与の方の腹から誕生している。長女の千姫は、去年、七歳で豊臣秀頼に輿入れしたので、江戸城にはいない。
家康・秀忠父子の幼な子六人と、それぞれに付けられている同年輩のお相手十数人が、入りまじって奔放に遊び興じているのだからなまじの騒ぎではない。
(まさしく、奥向きも庄屋仕立て)
都人が関東を東夷と眉をひそめるのも、宜《むべ》なるかな、とお福は人知れず溜め息をついた。
入側を幾曲がりかした、御殿の端と思われる棟の入口で、秀忠と正信の足がとまる。刀持ちの小姓は手前の小部屋へ入り、控えた。子供たちの騒ぎ声はここまで届かない。
老女が迎え出て、一行を棟の内へ招じる。
産所である。御座の間と同じ造りで、三の間、二の間があり、進むにつれて伽羅《きやら》の香りが強まった。
上段の間に、きらびやかな衣裳の侍女たちにかしずかれて、白無垢姿の臈《ろう》たけた女人が端座していた。阿江与の方である。
産み日に間があるので褥《しとね》は敷いてない。屏風の類も隅に片付けられてある。
阿江与の方は、夫の秀忠と本多正信には目もくれず、老女の指示で膝行《しつこう》して下段中央へ進むお福を凝視していた。
お福は、その視線を針のように感じ、江戸城へ入って初めて名状しがたい戦慄を覚えたのである。
[#改ページ]
第三章 竹千代誕生
1
きり裂くような音色を撒《ま》いて、純白の矢が飛ぶ。蟇目矢《ひきめや》であった。
鏑《かぶら》矢の一種だが、鏃《やじり》はなく、矢先に|蟇 《ひきがえる》の目に似た孔《あな》を九つあけた長円形の鏑がついている。飛びながら大きなひびきをたてるので、蟇目はひびき目の略ともいわれていた。
産所御殿への渡り廊下にふんばり立ち、庭へ向かって白木づくりの大弓を引いている狩衣姿は、酒井河内守|重忠《しげただ》である。立烏帽子《たてえぼし》の下の厳《いか》つい顔面は鍾馗《しようき》ひげ。重忠は、最古の松平郷譜代十二家の筆頭に上げられる家柄に加えるその豪傑づらで、長女千姫出生のときも蟇目役をつとめた。
矢を天地四方へ放ったあとは、しばし大弓の弦を爪弾く。弦がはじける鋭い音が間断なくつづく。鳴弦《めいげん》と呼ばれ、蟇目矢とともに魔障《ましよう》悪霊を追いはらう古式である。
陣痛が強くなってあわただしい御殿内で聞く蟇目矢の音と鳴弦は、お役が酒井河内守だけに頼もしい限りであった。あの面貌と百戦練磨の弓矢さばきでは、いかなる妖怪変化《ようかいへんげ》といえども近づくことはできまい。
上段の奥に褥《しとね》。框《かまち》近くに据えられている産台に腰かけて息《いき》んでいる阿江与《おえよ》の方《かた》は、白帷子《しろかたびら》に真紅の裲襠《うちかけ》をはおっていた。当時は座産である。真紅の上着は血を目立たせないための色染めであった。
産台の四辺は松竹鶴亀の絵を描いた屏風でかこってある。かこいの内に入ることを許されているのは、御年寄の|民部卿 局《みんぶきようのつぼね》、中年寄の石浜、産婦女医法に通じている南条という四十歳ほどの女医者のみである。
乳母《うば》のお福をはじめ、産湯や産衣の支度にたずさわっている侍女たちは下段に控えていた。
南条は産台のそばにうずくまって分娩の状態を見ながら、いっしょに息んでいる。苦しんでいる阿江与の方を後で支えているのは石浜、前から抱いているのが民部卿局で、
「お方さま、あと一息、あと一息でございます。しっかりなされませ」
と、くりかえし励ましていた。
民部卿局は、民部省の卿(長官)の家の一族で、小督《おごう》と呼ばれていた阿江与の方が秀吉に引きとられて間もない十二歳のときから御傅役《おもりやく》として付いていた。幼くして両親を失った阿江与の方にとっては母代わりでもある。公家の出であるから、江戸城でも上臈《じようろう》の扱いであった。六十に近い、灰汁《あく》のぬけた老女である。
阿江与の方の気性を熟知する民部卿局は、表向き、お福に冷厳であった。御目見得《おめみえ》のときに膝行を命じたごとくである。阿江与の方に対する主従のけじめを異常なほどつける。だが、陰ではやさしかった。
「お方さまは、わたくしがお気に召さないのでしょうか」
数日前、お福は思いきって民部卿局にたずねてみた。
朝夕ご機嫌うかがいに伺候するのに、十日以上たちながら一度もお言葉がないのである。京都での将軍家とお勝の方の、ねんごろな扱い、江戸城での大納言の気さくさ。それらにくらべて、何という違いであろう。
御目見得のときの、無言の、針のような視線はつづいているのである。
「気に病むことはありませぬ」
民部卿局は、疲れのみえる顔色で言った。
この老女が局《つぼね》にひとりでいるときにみせる屈託の表情は、長年仕えてきた我儘な女主人に倦《う》んでいるのではないかと、ふとお福に感じさせたほどである。
「お方さまは、人見知りなさるのです。お馴れあそばすまで、時間《とき》がかかります」
そういえば、阿江与の方に近侍している奥女中たちに、新規召し抱えはないと聞く。したがって、みな高年齢である。でなければ、十三、四の禿《かむろ》髪の侍女であった。娘盛りは見られない。
「もう気づいているでしょうが、お方さまは、そう、妬心《としん》が少しお強いようです。ご自分より美しい人や優れたものをもっている女性《によしよう》をごらんになると、ご機嫌が傾くのです」
小づくりの老女は、お福を眺め上げ、
「あなたも妬《ねた》まれているのですよ。でも、女はひとさまから羨《うらや》まれるほどでなくては、生まれ出たかいがありませんものね。誇りをもってしかるべきで、気にすることはありませぬ」
と、ほほ笑む。
お福は赤くなっている。どぎまぎしながら、
「わたくしが……。あれほどお美しく、気品に満ちておられるお方さまに……」
民部卿局は、にこやかさを失わず、
「若さは、なにものにも替えがたい美しさです。お福どのは、三人のお子を生んだとは思えない肌艶をお持ち。お方さまは、それが妬ましいのです。それに、お見事なまでに健《すこ》やかなおからだ。自然にそなわる貫禄がありますもの」
お福は、大きなからだを縮めて、また赤くなった。
関東の女は小柄なのか、それとも阿江与の方の傍らには、自分より背丈のある召使いは置かないのか、お福は奥御殿では群を抜く大女であった。
ついつい猫背になるのだが、それでも廊下をすれちがう奥女中たちは、とび退《すさ》らんばかりに道をゆずる。乳母に対する尊崇とはかなりちがう恐れと好奇のまなざしで、袖引きあって見送るのである。
彼女らは、阿江与の方に見倣《みなら》ってか、決してお福に親しもうとはしない。
お福は、敵陣営にひとり放りこまれたような心細さを覚えている。二条城で姉のような気遣いをみせてくれたお勝の方がいてくれたら、としきりに思うが、江戸に戻ってくるのは再来月になる様子であった。
今は、民部卿局を心頼みにするほかはない。
民部卿局は、
「お方さまのご不興は、本当はあなたにかかわりはないのですよ」
と、小声で付け加えた。
「わが子の乳母を選ぶのに、何の相談にもあずかれず、将軍家と京都所司代で決めてしまわれたことに、じつはね、御不満なのです。その大事に、何の申し立てもなされず、父君の御諚のままに従われる秀忠《せのきみ》さまへも、お腹立ちのご様子。あなたは、お気の毒に、そのとばっちり。あなたでなくても、同じ目にあったでしょう」
老女は急いで口を覆う仕草をして、
「これは内緒、内緒。あなたを安心させるためにお話ししたのですからね、他言は無用ですよ」
と、親しげに念を押した。
民部卿局が、孤立している自分に陰ながらであるが好意を示すのは、奥御殿長老としての心くばりだと、お福は思っていた。だが、やはり、高齢の老女に魂胆があったことを知ることになる。
「お篦刀《へらがたな》を」
屏風のすき間から、緊張した顔をつき出したのは女医者の南条である。
「はい」
尼姿の初老の女中が小走りに三の間の入側へ出た。
入側では、端正な面立ちの武士が、白木の三方《さんぼう》を捧げて待っている。篦刀を献ずる役は当年三十三歳の酒井忠世。重忠の嫡男であった。折敷《おしき》には、へその緒を切る長さ一尺二寸、幅一寸の竹づくりの篦刀がのっている。
尼女中が、その三方を受けとって産室へ戻った。男性との折衝事は坊主頭の女中でなくてはできない。
この様子を目の端に入れた父の酒井河内守は、介添えの|胡※[#「竹/録」]《やなぐい》持ちに声をかけ、ここぞとばかり蟇目矢を天地四方へ射込む。
突然、ほとばしるような産声《うぶごえ》。
慶長九年七月十七日、巳刻(午前十時)少し前であった。
「おお」
河内守が鍾馗ひげの口元をよろこびで打ちふるわせ、鳴弦に変える。
屏風の内で、赤子をとり上げた南条の、
「ごらんなされませ、若君さまでおわします」
という、うわずった声。
「お方さま、お手柄でございまする。まがうことなき、若さま」
感きわまった民部卿局の叫び。
これは皆にも触れる高い声であった。
どよめきが産所御殿に波打つ。
今度も姫では、と半ばあきらめていた奥御殿に、待望の男子誕生である。まさしく、お手柄であった。
お福も興奮をおさえかねていた。男子であれば、三代将軍となるべき家康公の嫡孫にほかならない。乳母としての責務は姫よりもぐっと重くなる。同時に、傅育のしがいもあるというものだ。
お福は、襟元をくつろげ、いつでも授乳できる姿勢をとる。
泣きつづける赤子は、南条の手で、葵《あおい》の家紋入りの白木|盥《たらい》へ浸されていた。産湯である。すぐに産衣でくるむ。松竹鶴亀を染めたこの小さな練り絹の衣にも葵の紋が付いていた。
これからまた一つの儀式を経ねばならない。拾うた子は丈夫に育つという伝承から、高貴の家では子を一度捨て、拾う風習がある。この拾う役を御抱き上げといい、長寿の家柄として知られている腰物奉行の坂部左五右衛門正重が仰せ付かっていた。
南条が赤子を二の間入側にそっと置く。すかさず、往来を通りかかった態の坂部正重が芝居気たっぷりに、
「おお、捨て子ではないか」
と、抱き上げ、
「賢《かしこ》そうな、丈夫そうな子じゃ。これはめでたい、めでたい」
と、あやす。
そこへ、尼女中が現われ、
「わたくしがお育てもうしましょう」
赤子を受けとって部屋へ戻り、上段の間の民部卿局へ捧げ渡した。
控えの間に入って汗をぬぐう坂部左五右衛門は、大事な将軍家孫君に万一のことがあってはと、数日、赤子の重さの人形で抱き上げとあやし方の稽古に励んだということである。
この間に、阿江与の方は産台から、そっと褥に移されていた。横になるのではなく、積み重ねた布団《ふとん》に身をもたせて座っている。血を逆流させないための、産後の心得であった。中年寄の石浜が付き添っている。
赤子を受けとった民部卿局は、褥に寄り、ぐったりとしている阿江与の方に、
「お乳を」
と、ささやいた。
阿江与の方は目をひらき、かすかに母親らしくほほ笑み、赤子を抱きとって胸におしあてる。お乳つけであった。形だけである。
元気に泣きつづける赤子は、民部卿局の手から、やっと乳母のお福へ渡った。なれた手つきで乳首を可愛い口にあてがうと、ぴたりと赤子は泣きやみ、むさぼるように乳を飲みはじめる。豊満な乳房は、吸えば吸うほど艶やかに張ってくるように見うけられた。
皆の視線が、若君を貼りつかせているお福の胸元に集まっている。
「お成りーっ」
渡り廊下の声の、長く引いた語尾が消えないうちに、乱れた足音が二の間を通って、産所に駆けこんでいた。框につまずいて腹ばいになったのは大納言秀忠である。
「若とな、あっぱれである」
褥に座する妻に声をかけたが、それもうわの空、
「若はどこじゃ、泣き声がせぬが、大事ないか」
あたりを見まわす。
「若君さまは、ここにおわしまする」
落ち着いた声で、赤子に乳首をふくませたまま頭を下げたのはお福である。
「おお、そこか、どれどれ」
秀忠が下段のお福のそばに行こうとしたその刹那《せつな》、阿江与の方がうめきとともに、
「痛い、苦しい」
と、小さな声をあげたのである。
秀忠は、ぎょっとして、
「どうした、どこが痛むのじゃ」
褥のそばに引き返す。
民部卿局が、ちょっと首をすくめて、
「これへ」
と、お福を呼びよせ、赤子を抱きとると、
「お福は三の間で控えよ」
声高に指示する。阿江与の方に聞かせるためである。
秀忠に手をとられて労られている阿江与の目が、お福を射ている。それを感じとっているお福は、襟元を合わせると平伏し、そのまま膝行して退出した。
屈辱の念が全身に満ちているが、ここが忍耐のしどころだと思う。主従の関係は変えようがないにせよ、将軍家孫君の身は、生母ではなく、この乳母が預かるのだ。
阿江与の方への反発が対抗心となって、かえってお福を奮い立たせていた。
上段の間から民部卿局の、
「さあ、殿さま、ごゆっくりと御対面あそばせ。まあ、なんとお目のあたりが殿さまにそっくり、お口元はお方さまそのままではございませぬか」
などの賛辞と、それに和する侍女たちの華やいだ声が流れてくる。
お福は、誰もいなくなった三の間でひとり端座し、乳首に残る若君の感触をいとおしみながら、
「若君は、わらわが、見事、三代将軍にお育てしてみせましょう」
と、おのれを鼓舞するようにつぶやいた。
2
七月二十三日、七夜《しちや》の賀宴が江戸城西丸奥御殿の客座敷でとりおこなわれた。七夜の祝いは、生児の命名の日であり、産婦床上げを寿《ことほ》ぐ日である。
上段の間に、秀忠と床上げをしたばかりの阿江与の方。並んで、若君を抱いているのは民部卿局であった。
赤子は乳母が抱いてしかるべきだが、阿江与の方が肯んじなかったようである。
「乳は充分にさしあげてあります。襁褓《むつき》も替えたばかりでございます。式が終るまで、おむずかりはございますまい」
お福はそう言って、生後七日の若君を民部卿局の手に渡し、下段の端に控えている。
招かれた客は、家康の六男で若君の叔父にあたる松平忠輝をはじめ、江戸在留の一門・譜代大名十数名。蟇目役の酒井重忠、篦刀役の酒井忠世、秀忠付重臣の大久保忠隣・土井利勝・安藤重信。産婆役をつとめた女医者の南条らであった。
さきほど、京都・伏見城に滞在中の将軍家康からの使者が到着し、歓声が二度あがったところである。一度目のよろこびは、名付け親を引きうけていた家康からの、御名が祝宴に間に合ったこと。つづくどよめきは、若君の名が家康の幼名であった竹千代だったことによるものだった。
秀忠・阿江与の方には、四年前に男子が生まれている。秀忠の幼名である長丸の名が与えられたのだが、わずか九カ月のいのちであった。長丸は由緒の名ではない。秀忠が三男であったからだ。竹千代こそ、徳川家|嫡流《ちやくりゆう》の名である。このよろこびが家臣一統にあった。
お福も、家康の配慮に感激をかみしめたものである。
使者は、若君誕生を知らせるため十七日の巳の刻に早馬を飛ばした近習・内藤次右衛門正次である。伏見城で家康に報告し、幼名を戴くと、折りかえし継ぎ馬を駆って江戸へ戻ってきたのだった。
往復二百五十里、歩けば三十日は見込まねばならない。それを六日間で駆け遂《おお》せたのである。正次は屈強の若武者だが、秀忠に将軍からの書状を差し出す形のまま、昏倒してしまった。この勇者は意識不明のまま二日ほど眠りつづけることになる。
「若君さま、竹千代、と命名され候」
本日、奏者役をつとめる重臣最年長の大久保忠隣によって、正式に披露され、大書した紙が床の間にかかげられた。
次いで、忠隣のよく透る声が客座敷広間に渡る。
「竹千代君、お付き小姓が決まりました。拝謁の儀がござれば、方々も、お見知りおかれまするよう」
入側から、半白髷のひょろりとした本多佐渡守正信に率いられて、五歳から十歳ほどの総髪茶筅の男児が四人ばかり現われた。裃《かみしも》半袴の正装である。
下段の脇に並び、まず、そろって上段に拝礼。
「永井右近大夫直勝が三男、熊之助」
熊之助が上段へ平伏ののち、下段の一同へ顔をよく見せて、一礼。
「水野清六郎義忠が二子、清吉郎」
同じ作法で挨拶。
「岡部庄左衛門長綱が季子《きし》、七之助」
みな晴れの場にりりしく緊張している。
「稲葉内匠正成が三男、千熊《ちくま》」
お福はわが耳を疑う。正成三男の千熊なら、わが子ではないか。
正成は先妻との間に男子を二人もうけているので、お福にとっては第一子の千熊だが、公には三男であった。のち、先妻の子たちは別家を立て、千熊が嫡男《ちやくなん》となる。
きちんと上段に平伏し、少しからだをよじって下段一同に顔見せしている少年は、美濃谷口の里にいるはずの八歳になるわが子であった。裃の紋所は、まがうことなく「三文宇(折敷《おしき》に三)」である。
介添えの本多正信と視線が合う。正信は軽くお福にうなずいてみせた。
それにしても、早速、若君お小姓に登用されるとは。それも、お福の知らないうちに事が運ばれ、本人がこの広間に姿を見せているのである。
正信の厚情に、お福の胸は熱くなり、若君お抱き役をはずされた口惜しさが癒えていく。
式典がおわると、お福は、御座の間へお戻りになる大納言夫妻をお見送りし、千熊登用の御礼を申し上げる。
別室で、竹千代君に授乳し、襁褓も改めて、しばし中年寄の石浜に若君お守りをたのみ、本多正信の控えの間へ急ぐ。
御客溜りには、正信がお付き小姓衆の子供たちと茶菓《さか》の接待をうけていた。
お福は、うれしげに見つめてくるわが子には見向きもせず、正信の前へ進み、深々と頭を下げた。
正信は、こけた頬を照れたように指で掻きながら、
「じつはの、昨日から、わしの屋敷で預かっていたのじゃ。そなたが、なまじ遠慮ごとを言い出しても面倒と思うてな。若君御誕生の日に、もらいうけの使者を美濃へ発たせた。正成どのは、快く送り出されたとか。まずは重畳《ちようじよう》。ところで奥御殿に、いっしょに住まわせまするか。八歳ならば大事ないと思われるが。それとも、わしが引きつづき預かってもよいが」
お福は真摯《しんし》な表情で、
「お小姓衆の日々のお勤めは、いかようになりまするや」
「おのおの、親元の江戸屋敷から出仕とあいなる。若君、お遊びができるほどになられれば、宿直《とのい》のこともござろうが、夜は乳母どの、奥女中衆の介添えでよろしかろう。なにしろ、御誕生になったばかりじゃ」
「それでは、まことに御厄介ながら、お言葉に甘え、佐渡守さま御屋敷にお置きくださいまするよう。わが子とて、わが子にあらず、千熊ひとりの奥御殿住まいは、よろしからずと存じまする」
「よくぞもうされた。お福どのには、ゆくゆく奥向きの制度なども定めてもらわねばならぬ。自ら律してこそ、令も行き届くというもの。お福どの、あるいは千熊どのが屋敷を賜わるまで、それがしがお預かりもうそう」
「勝手ながら、厳しいしつけのほども願わしゅう」
正信は、入れ歯を舌でおさえながら笑った。
「承知いたした。千熊、覚悟するがよいぞ。東国《あずま》武士の教えようは、ちと手荒いかも知れぬからのう」
千熊は、のみこみよく、けなげに、
「佐渡守さま、厳しい御指導、充分にお願い申し上げまする」
と両手をつかえた。
「うむ。いさぎよい子じゃ。行く末、竹千代君のよき御側役になられよう。ところで、お福どの」
「はい」
「ここに集《つど》いおるお小姓衆」
と、正信は、いずれも選ばれただけあって、行儀よく正信とお福の方を向いてかしこまっている子供たちを見やり、
「同じく、竹千代君の世になれば、よき補佐の者として、徳川幕府を支える仲間《ともがら》。奥御殿に出仕とて、若君はまだ赤子、とりたてての御用はござらぬ。まずは、人としてのしつけ、読み書き、文雅の道なども手解《てほど》き願わねばなりませぬ。このためにこそ、将軍家におかれては、京洛に広く才媛の乳母を求められたのでござる」
お福は、大きなからだを縮めて謹聴している。
正信は、長広舌になると不思議に入れ歯を気にせず、言語が明瞭になる。
「動乱がおさまったかに見ゆる今後、万民の上に立つべき武士が、勇猛のみで世を治めようとすれば、またもや、戦さがくりかえされましょう。そうであってはならぬ。ゆえに、竹千代君におかれてはもとより、お小姓衆も学を修め、徳をみがき、風雅を知り、度量の大きい人柄にお育てしなければなりませぬ。いずれ、しかるべき御進講の者が付きましょうが、元《もと》になるのは、お福どのでござれば、念入りの御養育のほど、頼みまするぞ」
「身にあまる仰せ、心して勤めさせていただきまする」
正信は大きくうなずき、子供たちへ向う。
「皆の者、これからは、ここにおられるお福どのが、お城における母上じゃ。よく聞き分けて、お教えをまもり、徳川家に仕える者として恥ずかしくない武士《もののふ》になってくれ」
「はい」
元気な声が、いっせいに返ってきた。
二日後の七月二十五日、伏見城の家康から使者が到着、正式に若君誕生の祝辞が伝えられた。
このとき、竹千代のお小姓にさらに一人、推薦があった。松平右衛門大夫正網の養子、長四郎信綱である。当年、九歳。
父君の御諚とあれば否応《いやおう》はない。秀忠は早速、長四郎に出仕を命じた。
このことを知った民部卿局は、
「お勝の方の、おねだりでしょうよ」
と、さも不快げに言い、お福を内心驚かせた。
民部卿局は奥御殿の長老として、性行円満、人をあからさまに誹謗するとは思わなかっただけに、意外な感に打たれる。そのようなお福の心の動きを見取ったのであろう、民部卿局は、おだやかな表情に戻って、
「お福どのは、お勝の方と松平正綱どのとのかかわりあいを、御存知ないであろう」
「はい」
「何年も前のことじゃが、上様は、三十六も年にひらきのある若いお側妾《そばめ》をふびんに思われて、お気に入りの近習であった松平正綱どのにお妻《めあわ》せになられた。正綱どのは、御主君ご寵愛のお方さまを下げ渡され、感激この上なかったのじゃが、お勝の方はついに夫に身を許さず、上様のもとにお戻りになった。かような所縁《ゆかり》があるによって、その罪滅ぼしもあって、正綱どのの養嗣子《あととり》を推挙なされたのであろう」
お福は、それはちがうと思う。お勝の方の人柄からいって、そのようなかかわりあいの人の子を、自分の口から取り立てを願うとは到底考えられない。わが子千熊が本多正信の配慮によって出仕が決まっていたように、長四郎の登用も、お勝の方の与《あずか》り知らぬことではあるまいか。
むろん、お福はそのことを口にしない。
江戸城奥向きに住まいして、ひと月に満たないが、内輪の事情もおぼろに見えてきているからだった。
本丸が簡素なため、新築の西丸奥御殿の東側を将軍家の側室たちとその子ら、西側を大納言家の御簾中とその子らが居住しているのだが、この双方に拮抗《きつこう》が感じられる。奥女中にそれが目立つ。衣裳や髪形、小間物にいたるまで張り合っているようであった。
(とんだ東軍、西軍じゃ)
と、苦笑するお福だが、
(これではならぬ)
と、つねづね憂えていたところである。
それが、奥女中や部屋子にとどまらず、長老にも対抗心があることを、かいま見たのである。そういえば、御簾中・阿江与の方は将軍家康を必ずしも尊崇していない。
民部卿局は、今、家康方の奥向きをあずかっている阿茶《あちや》の局とは、同年配のせいか好誼《よしみ》を通じているようである。だが、若い実力者であるお勝の方を毛嫌いしていることが明らかになった。
(これは厄介な人と人との関係じゃ)
お福は困惑する。
民部卿局が、新参のお福に好意を寄せているのは、奥御殿長老としての心くばりにはちがいない。反面、我儘で気むずかしい御簾中の介添役の後継者として、お福を育てたいという気持があることを、お福は察するようになっていた。もう楽隠居をしてもよい年齢である。
のみならず、民部卿局には、京都で親しくなったというお勝の方からお福を引きはなして、自陣につないでおきたいという魂胆があることも、今、推しはかれるのだった。
(これから一層、慎重に身を処していかねばならぬ)
お福は、にこやかに民部卿局の相手をしながら、胸中、深く期するのである。
3
山王社は、日吉《ひえ》山王神社ともいい、文明年間、太田道灌が江戸城を築くにあたり、武蔵国川越の星野山《せいやさん》無量寿寺(喜多院)にあった山王権現を城内に遷座し、御城の鎮守としたのが起こりである。
徳川家入国後、家康は近江国坂本の山王権現(日吉神社)を勧請して、御家の産土《うぶすな》神と定め、西丸新築にともない紅葉山に移したが、さらに城郭大拡張計画に際して、半蔵門外の三宅坂上へまつり換えていた(明暦の大火後、赤坂の現社地へ新造。明治元年、日枝神社と改称)。
十一月八日、竹千代君の山王御宮参りがとりおこなわれた。
これより先、閏《うるう》八月二十五日に、将軍家康の江戸城還御があり、表御殿での行事もそこそこに奥御殿へ入られ、竹千代との対面を急がれたものである。
お福に抱かれて現われた孫を一目見るなり、
「おお、まるまると肥《ふと》っておるぞ」
と、相好をくずして、赤子の柔らかい頬をつつき、
「これで、一安心。まずは乳母どののお手柄じゃ」
と賞した。
つき従ってきたお勝の方も、
「上様、所司代どのがもうされたように、やはり、お福どのは天がお恵みくだされた乳人でございましたな」
と、意味ありげな笑顔で言えば、
「まことに、さよう、さよう」
お福の体躯に目を走らせて、呵々《かか》大笑するのである。
家康のよろこびようで、お福の立場が明らかによくなった。
この日の山王社参詣も、晴れて竹千代を抱いて駕籠の人となり、大納言秀忠、阿江与の方の駕龍につづいて三宅坂上の社殿へ進んだのである。
供奉《ぐぶ》は、秀忠付きの重臣である大久保忠隣・酒井忠世・土井利勝・安藤重信とそれぞれの家臣団。阿江与の方付きの民部卿局と奥女中衆であり、きらびやかな行列になっていた。
とくに目を引くのは、竹千代の駕龍の前後を、可愛い小姓たちがけなげに固めていることである。とりわけ千熊は絶えず四方に目を配り、狼籍者が乱入せば刺し違えても主君を守る気構えがあらわであり、駕籠のなかのお福をほほ笑ませた。
将軍家の産土神が、琵琶湖畔のあの坂本城下の山王権現を勧請した由緒も、お福には感慨深いものがある。
(これも、何かの縁《えにし》であろうか)
神事の間、嬰児を抱くお福は、控えた衣裳であり謙虚な立居であったが、堂々たる体形と悠揚迫らぬ振舞いで、華麗な衣裳をまとった生母の阿江与の方の存在を薄めたことは否めない。
阿江与の方の不機嫌に、秀忠と民部卿局がしきりに言葉をかけているが、老女にはその理由が察せられても、秀忠には解せぬ奥方の不快顔である。
慎ましやかに見て見ぬふりをしているお福にとって、阿江与の方の動揺が痛快でなくはない。そのような気持は不義不純であるという反省はある。しかし、底意地の悪さを仕掛けてきたのは先方ではないか。乳母の身分とはいえ、こちらも女としての意地がある。
(この若君を肌で接してお育てもうしあげているのは、わらわじゃ)
お福は、晴れ着の竹千代を、阿江与の方の視線を感じつつ、これ見よがしに頬ずりしてみせた。
客殿で休息中、境内で揉め事がおきた。
今日の宮参りは、将軍家からの指示があって、道筋と山王社周辺の警備は厳重であった。
江戸は、城郭拡張工事の最中であり、いたるところで諸藩の将卒と人足たちが立ち働いている。その数、およそ十万。
ここ高台の山王社客殿からも、石垣構築や環濠掘削に従事している人の群れが、眼下に見渡せた。
将軍の世子夫妻と嫡孫の外出である。徳川家に敵意を隠しもつ者がまだ少なくない時代であった。猥雑な工事場のなかで、いかなる陰謀が画されているかわかったものではない。
半蔵門からわずかな道のりであるが、一帯には譜代大名の軍勢と旗本諸隊が人垣をつくって警戒していた。
諍《いさかい》は、大名家の組頭と壮年の旗本の二人であった。声高にののしりあっているので、互いの身分が知れる。
旗本のいでたちが、当節、珍妙というほかはない。戦場そのままに、甲冑《かつちゆう》を身につけ、背に指物を負って馬をのりまわしていたのだった。それを、持ち場の隊長がとがめ立てをしたことから、額をつきあわせんばかりの口論になった模様である。組頭のほうは、陣羽織に裁着《たつつ》け袴の軽装であった。
旗本は馬をおりており、神域であるから刀に手はかけない。互いに腕を組んでの言い合いだ。さすが、双方、場所柄と祝い日であることは失念していないようである。だが、旗本のほうの声がむやみに高い。
「……ほう、ますます心得ぬことを言わっしゃる。それがしは田圃の案山子《かかし》ではござらぬぞ。主家の護衛を仰せつかったからには、一命を捨てても万全を期さねばならぬのじゃ。貴殿はお若いゆえ戦場のことは不案内とお見うけする。不肖、直参・大久保彦左衛門|忠教《ただのり》、十七歳のみぎり、遠州犬居城攻めに敵の兜首を上げる初陣を飾ってより、戦塵をくぐること数知れず……」
客殿の奥の間で神官と用談していた大久保忠隣が走り出て、秀忠夫妻に一礼、境内へとび出そうとした。
「忠隣、捨ておけ」
秀忠が制した。
「はっ。しかしながら……」
「そちが行けば、かえって事が荒立つ。なにしろ、頑固では将軍家もてこずりなされるほどの、忠隣の叔父貴どのじゃ」
一座の者は、くすくす笑っている。
境内の将卒たちも、この喧嘩を楽しんでいる風が見える。
どうなることかと気をもんでいたお福だったが、皆の余裕に、あの旗本が江戸の名物男らしいと察する。
「忠世、ころあいじゃ、仲裁《わけ》てまいれ」
「はっ」
「双方の面目を損ずるでないぞ」
「心得ましてございまする」
温厚な酒井忠世がかけ出ていった。
すぐに騒ぎは収まり、大久保彦左衛門と名乗った甲冑武者はひらりと馬にまたがるや、境内を堂々と一周、
「あいや」
という掛け声も高らかに、蹄《ひずめ》の音を残して遠ざかって行った。
客殿で笑いが一度におこった。それは軽侮ではなく、古風な旗本の稚気に対する好意ある笑いであった。
ひとり憮然《ぶぜん》としているのは大久保忠隣である。
その忠隣が、竹千代をあやしているお福のそばに、若君の御機嫌をうかがう態で寄ってきて、
「さきほどの、彦左衛門でござるが」
と、話しかけた。
御殿内では、重臣と乳母であっても公用のほかは言葉を交わすことはめったにないが、城外の気楽さが上下にある。
秀忠の座の周囲も茶菓をかこんで、野営のように主従が打ちとけていた。
「忠隣さまの叔父さまとか」
「たしかに、叔父でござる。が、それがしより七つ年下でござる」
お福のけげん顔に、
「父の忠世には兄弟が多く、彦左衛門は八男、それがしは長男の子ゆえ、彦左衛門からみれば甥になりまする。が、長男と八男が親子ほど年がひらいておりまするゆえ、甥が叔父より年上という仕儀になりました次第」
憮然たる面持である。
忠隣は当年、五十二歳と聞く。とすれば、叔父の彦左衛門は四十五歳ということになる。
さきほどの、秀忠の「なにしろ……忠隣の叔父貴どのじゃ」の言に、周辺が失笑したのは、この年齢のあべこべの意味があったのであろう。
「それはさておき」
忠隣は、やや親しげなまなざしでお福を見やって、
「乳母どのは、京都にては三条西家でお育ちなされたとか」
「はい。十二歳から十七歳まででございまするが」
「じつはな、それがしの祖母が三条西家の出自なのじゃ」
「まあ、これは奇縁でございまする」
公家の家も子女が多い。正室腹、妾腹、養女とこみいっていて、盛んに政略結婚をとりかわしている。
聞けば、当主の三条西実条からいえば、曾祖父・公条《きんえだ》の姫の一人である。そういえば、そのような縁組を耳にしたことがあるようだが、聞き流していた。それが急に身近な話になったのである。
お福の驚き顔に、忠隣は微笑して、
「それを言い出したのが彦左衛門でしてな、彦左衛門からすれば、生母ではござらぬが、母上にあたるわけで、乳母どのが三条西家ゆかりと聞いて、一段と親しみを感じたようでござる」
彦左衛門は妾腹で、生まれる前に正室の三条西夫人は亡くなっていた。忠隣もその祖母を知らない。
「それゆえ、さきほどの声高の振舞いでござるが、どうやら、お福どのへのご挨拶のように思えましてな。あの叔父貴どのには、そのような風変わりな所行がござるによって」
お福は、思わずうつむいて笑いを抑え、
「お会いなされたときに、よしなにお伝えくださいませ」
「彦左衛門もよろこびましょう」
忠隣は、お福の腕のなかで眠っている竹千代に一礼して、座を離れていった。
お福は、ここにも味方がいた、と胸のうちを明るくし、彦左衛門が駆け去った彼方へ目を移した。
4
年があけて慶長十年。
その正月九日に、家康はまたもや京都へ向かった。将軍辞任を奏上するためである。
家康の将軍在位は、わずか二年二カ月。幕府の基礎がかたまらないうちに、世子秀忠に政権をゆずる決意をしたのは、天下は回り持ちの風潮にとどめをさし、徳川世襲の事実を世に示す意図からであった。
二月になると、江戸城下は参集してくる軍兵で満ち満ちた。将軍宣下をうける秀忠の上洛に供奉する関東・奥羽の諸大名の勢である。戦闘ではなく祝賀参列とあって、諸家の兵はそれぞれ色彩に特徴をもたせた軍装で綺羅《きら》を競っており、工事人足の群れを見つづけていた目には、城下が百花繚乱の花畑に変わった感がする。
二年二カ月前に家康が将軍宣下をうけたときの儀式は、豊臣政権下で同輩であった外様雄藩への配慮があり、万事控え目であった。
しかし、今般は、徳川永久政権の示威がともなう。家康は、諸大名に華麗を求めた。
お福ら奥御殿の女たちも、新しい軍勢が着到するたびに物見櫓に集い、その景観を楽しんだ。
「やはり、仙台さまが、ひときわ目立ちまするな」
「伊達をする、の本家ですもの」
軍装くらべに興じる女たちの軍配は、伊達政宗の手勢に上がった。
数千の足軽隊が、そろいの真紅の三角笠をかぶり、その笠には部隊ごとに色がちがう鳥の大きな羽をさしているのである。騎乗の士は黒一色の甲冑に身を固め、金の日の丸を入れた母衣《ほろ》を背負っている。母衣の色は、猩々緋《しようじようひ》、桃、紫、萌黄《もえぎ》、紅白模様、とさまざまであった。
政宗の軍隊は、事あれば衆目を集める仕立てをすることで名高く、世人はいつしか、派手な装いを「伊達をする」といい、異装を好む人種を「伊達者」と呼ぶようになっている。
秀忠の出発は二月十四日であった。
先陣は、仙石秀久の軍団を先頭に、伊達政宗・堀秀治・上杉景勝・蒲生秀行・真田信幸の軍団とつづき、秀忠の本陣である。直軍は約三万。後陣は、最上義光・佐竹義宣・南部利直の奥羽勢であった。総勢十万余。
物見櫓から眺めれば、文字通り、長蛇の列である。早朝の進発が夕暮れになっても後陣が残っている有様だった。
京都に入ると、西国の諸大名が手勢を率いて待機しており、新将軍参内に随従する軍兵は十六万になるはずだという。
「お父君は十六万人ものお供を従えて、二代将軍さまになられる。若君さまが三代将軍になられるときは、どのようなお供揃えになるでしょうね」
お福は、無心に乳を吸う竹千代に語りかけずにはいられない。
秀忠の将軍宣下は、四月十六日であった。新将軍秀忠は二十七歳。大御所と称することになった家康は六十四歳。
秀忠は六月四日に江戸還御。本来なら本丸へ入るところだが、改築工事が進んで古い殿舎は取りこわされたので、引きつづき西丸住まいとなる。
西丸が、暫時、幕府本営であった。
家督は秀忠にゆずったが、政事の実権は依然、大御所家康がにぎっている。家康は、幕府年寄衆(老中)を次の通り決めた。
筆頭(老中首座)に大久保忠隣、以下、酒井忠世・土井利勝・安藤重信・本多忠勝、関東総奉行を兼任する青山忠成・内藤清成。それに、本多正信をお目付役として配した。
この顔ぶれは、お福にとっては悪くない。
それにも増して心強いのは、同じ西丸内で家康とお勝の方が温かく見守ってくれていることである。
秀忠は言うまでもなく、阿江与の方も、内心はどうあれ、家康の意向にそむくようなことはできるものではない。
お福は西丸奥御殿の、家康の棟と秀忠の棟の、その東西にわかれた中ほどに与えられた子育ての間で、心おだやかに育児に専念することができた。
翌慶長十一年九月、金の鯱《しやち》を輝かせた五層の大天守閣をそなえた本丸殿舎が竣工した。
表御殿・中奥御殿・奥御殿を合わせた総建坪は一万千余坪である。そのうち、奥御殿は六千三百坪を占めていた。この広大無比の奥御殿を「大奥」と呼ぶようになる。
早速、幕府は本丸表御殿へ移された。秀忠の家族と奥女中衆も本丸大奥へ引っ越しをする。
舅《しゆうと》一族との同居から解放されて、広い奥御殿へ渡る阿江与の方の晴れ晴れとした顔がむくんでいた。また懐妊していたのである。
阿江与の方は三十四歳。高貴の出自にしては異例といえる多産の質であった。
お福には、長局《ながつぼね》ではなく、御座の間に隣接する棟が用意されてあった。竹千代の寝所である上段の間、お福の私室と次の間、お小姓衆の控えの間、長局から通ってくる侍女たちの部屋、と棟は大小五室に分けられてあった。
大奥の御主人は、将軍夫人になって御簾中から御台所《みだいどころ》と呼びようが変わった阿江与の方である。総取締りの役は御年寄の民部卿局である。両人によって、大奥のすべてのことは決められるのであるが、ことお福に関してだけは、大御所の指示を仰がねばならなかった。
阿江与の方には、とりわけ、このことが口惜しいが、仕方がない。お福は、家康が選んだ嫡孫の乳母であったからである。
お福への部屋割りは、むろん、家康の配慮であった。
この年の十二月三日、阿江与の方は男子を出産した。国千代と命名された。
三歳になっている若君に、徳川家嫡流の名である竹千代をいただいているお福である。動揺はない。しかし、このたびは、阿江与の方が御台所の御身で乳母を用いず、自らの乳で育てるといい張り、それをおし通したと聞いたときには眉をひそめた。
(張り合いをなされるおつもりであろうか)
阿江与の方は、
「竹千代どのは、わが子であって、わが子ではない」
と、側近にもらしているようである。
その気持はわからなくはない。阿江与の方にすれば、せっかくの嫡男を舅の家康と乳母のお福に奪われた思いであろう。
お福にも、竹千代君は自分の手で三代将軍に育てあげる、という気概が強い。以心伝心、阿江与の方もかたくなになって、同じ屋根の下にいながら、お福を、そして竹千代を無視しようとしている。
秀忠は父親らしく、ときどきお福の棟を訪れては、可愛い盛りの竹千代と遊ぶのを楽しみにしていた。
しかし、夫が同い年のお福と、竹千代をまじえて送るひとときに妄想をたくましくする阿江与の方は、秀忠が隣の棟へ寄り道をしたことを知ると荒れ模様になる。
それが気重で、秀忠の足も遠退きがちになっていた。そこに、男子誕生である。しかも阿江与の方が自らの乳で育てるという。
お福は、赤子を抱きあう将軍夫妻の水入らずの団らんを目にうかべ、激しい不安を覚えた。
(国千代君は、御両親の慈しみを、一身にお受けなされるであろう)
お福は、よちよち歩きの竹千代の後を追いながら、
「若君さま、ご心配はいりませぬぞ。若君には大御所さまがついておられる。何も心配なさることはござりませぬ」
と、語るのだが、それは多分に自分自身への気休めの言葉であった。
その後ろ楯の大御所家康の心身に異常が生じたのは、年末から年始にかけてであった。
大奥でも年末の御煤払いは念入りにおこなわれ、新本丸で迎える初めての元旦にそなえていた。
西丸で起居の大御所が、
「淋《りん》をお悩みのご様子……」
という噂は、お福も耳にし、お勝の方を通じてお見舞い申し上げていた。
淋は、今日でいう性病の一種の淋病ではない。腹部より下の内臓疾患全般を指し、腎臓《じんぞう》の諸病、排尿困難、便秘、糖尿病などもふくんでいる。
西丸奥御殿を訪ねて、お見舞いの言伝を申し上げたおり、お勝の方は、
「上様は、将軍職を秀忠さまにおゆずりあそばされて、ほっとなされたのか、急に老《ふ》けこまれました」
と、もらしたものである。
お福は気になっていた。
それにひきかえ、二十八歳の秀忠には自信がみなぎり、将軍の威厳がにじみ出てきている。
慶長十二年元旦の午後であった。
「大御所さまが、お倒れになられた」
という知らせが、表から阿江与の方にもたらされたのである。本来、内密であるべきこの注進が、すぐ大奥じゅうにひろがったのも奇妙である。
家康は、西丸表御殿の大広間で、徳川一門、譜代大名・国持ち外様大名等の拝賀に応えていたとき、不意に目くらみに襲われたように片手をついた。すぐに年寄衆に支えられて、中奥御殿へ渡られ、床に臥せられたというのである。
お福は、いてもたってもいられない気持であった。使いを西丸のお勝の方のもとへ走らせたが、
「御心配なきよう、ただのお風邪でございましょう」
という返事をもちかえっただけである。
正月二日から降りはじめた雪が止まず、江戸は大雪となった。凍りつくような日々である。
「大御所さまのご加減はいかがであろう」
お福はそればかりをつぶやいている。
六日の朝、地震が何度も御殿をゆるがせた。
九日の夜半、城下の神田職人町から出火、折りからの強風にあおられて、下町の大半を焼きつくす惨事となった。
「正月早々、次々に悪いことがおこっておりまする。皆の者、油断めさるな」
お福は、小姓たちの気を引きしめる。
四歳になった竹千代を守る小姓衆五名のうち、最年長の松平長四郎信綱が十二歳、稲葉千熊正勝が十一歳、永井熊之助直貞が八歳。この三人が頼りになる。
ことに、長四郎信綱は沈着英俊、少年ながらお福の片腕をつとめていた。
若君がお遊びできるようになったので、二人ずつ交代の宿直もおこなわれていた。この三人は、御寝間の下段に寝ていても、足の指で引き戸を押えて仮眠していた。戸が少しでも動けば、はね起きて身構えるのである。
ほかの二人の場合、一応、引き戸に接して寝ているが、お福が深夜見回っても気付かず熟睡していることが多い。
それにしても、庇護者の大御所病臥は、竹千代君の居住棟を、日一日、わびしくさせていく。
国千代誕生以後、この棟は孤立していたが、それが一層顕著になった。奥女中たちは、何かを恐れるように近寄ろうとしない。配置されている三人の侍女が、おどおどと長局から出仕してくるだけである。
長局は、民部卿局の完全な支配下にあり、その老女が阿江与の方と一心同体となって国千代君を傅育しているのであれば、奥女中の誰一人、お福のご機嫌をうかがおうとしないのは当然といえる。
三人の侍女も、民部卿局の間者と見なさなければならず、うかつな口はきけないのである。
本多正信に苦衷を打ちあけようにも、正信もお福に冷たくなっていた。
お福の一子・千熊正勝は、半年ほど本多正信屋敷に寄寓していた。そのうち、五百石を給され、神田駿河台に屋敷を賜わった。今はその屋敷から登城している。年少といえども五百石の直参であるから、相応の家人も傭い入れてあり、供揃えもお定め通りであった。
ここまでは正信の手配であった。
ところが、駿河台の拝領屋敷の隣人が大久保彦左衛門だったのである。
「貴殿の母上・お福どのとは、親戚に近い関係がござっての。隣同士になるとは何かの縁じゃ。向後、昵懇に願いたい」
二千石の歴戦の勇者に一人前の挨拶をうけた千熊は、彦左衛門にすっかり傾倒してしまった。
お福も、宮参りの日以来、彦左衛門には好意を抱いている。
彦左衛門は、千熊をわが子のように可愛がり、文武の稽古をつけてくれる。
このことを知った正信は、ある日、お福と面談することがあったとき、
「ときに、そなたから過日、御子息のしつけを頼まれたがの。千熊どのは、老ぼれの古めかしい作法より、面白き御仁と遊ばれるほうを好まれるような」
と、皮肉を言い、手を引いてしまったのである。
この裏には、大久保一派と本多一派との暗闘が介在していることを薄々感じているお福だが、正信にへそを曲げられてしまっては、いかんともしがたかった。
二月になると、大御所の病いは回復し、お福をほっとさせた。が、安堵もつかの間、家康は駿府城を隠居城に定めて移住を発令し、二月二十九日には江戸城西丸を発駕してしまったのだった。
この挙は、いかにも唐突であり、病み上がりのこともあって、
「上様、御乱心」
のささやきが、本丸大奥にひろがった。
お福の、薄く疱瘡《もがさ》あとが残っているふくよかな顔面から、血の気が引いた。
「天は、われらをお見放しになられるのか」
[#改ページ]
第四章 嫡庶を正す
1
慶長十二年の夏から十五年にかけて、江戸は静かであった。城の内外をごった返しにしていた城郭大工事が一段落ついたのである。
ほうぼうにあった普請小屋が姿を消し、荒々しい人足たちも、それぞれの生国へ帰っていった。
関ヶ原の合戦後、七年の歳月が流れている。天下は泰平のうちに、徳川の政権を不動にしつつあるかに見えた。しかし、裏面では、大坂城の豊臣秀頼の処遇をめぐって、東西がふたたび緊迫の度を加えていた。
大御所家康が、箱根の険の西にある駿府城に居を構えたのは、豊臣家と西国大名が万一謀叛をくわだてたとき、江戸城の出城として大御所自らが指揮をして敵をくいとめるためである、といったもれ話も、お福の耳に伝わる昨今であった。
東と西の、平和のかけ橋を志して江戸へ下ってきたお福だったが、残念ながら今は治政に目を向ける余裕はない。大奥において孤塁を守るのが精一杯の日々であった。
十二年十月四日、阿江与の方が第五女を出産。松姫と名づけられた。のちの和子・東福門院である。
御座の間の棟は、いちだんとにぎやかになり、奥女中たちの華やいだ声が絶え間ない。
将軍夫妻の膝下で、二歳になった国千代を中心に、姉の勝姫(十歳)、初姫(七歳)、そして赤子の松姫が育っているのである。
同じ将軍夫妻の実子で、しかも嫡男《ちやくなん》でありながら竹千代は見捨てられた観があった。
いつもひっそりとしている隣の棟では、お福と六人の小姓が、はぐれ鳥の一家のように羽をよせあって、四歳の若君を護っている。
この状態のまま、数年がすぎた。
竹千代廃嫡の噂がときおり流れたが、それは国千代付きの奥女中たちが故意にささやく風説であって、お福は気にしなかった。将軍夫妻の国千代への偏愛をみるとき、一抹の不安はぬぐえないが、まだ両若君とも幼児である。三代将軍継承問題は、まだまだ先のことであろう。
しかし、大奥での、女たちの人気は判然としている。
「国千代君さまは、御台《みだい》さまに生き写しのお顔立ちであられ、何とまあ御聡明。竹千代君さまは、お乳のせいか、どなたやらに似て、おからだは大きいが、お可愛気がない」
これが、大方の見方であった。
儀式のときなど、竹千代は皆の前に姿を現わすが、年にしては大柄であっても、どこか鈍重な感じである。無口で、幼いながら身構えるところがあり、たしかに親しみにくい公子であった。
一方、国千代は、誰からもちやほやされる子特有の明るさがあり、年のわりにませていて、することなすことが可愛く、笑いを呼ぶ。
きょうだいがいっしょになっても、竹千代は姉たちや弟と遊ぼうとしない。お福のそばから動かず、じっと目を据えている気味の悪さがあった。
(いじけておられるのじゃ)
お福は、御傅役《おもりやく》として胸が痛む。
(わらわの心構えが間違っていたのであろうか)
悩むお福は、いっそ阿江与《おえよ》の方の前にひれ伏して和を乞い、その腰巾着に身を変えようかとも思う。そうすれば、|民部卿 局《みんぶきようのつぼね》の後継者として、ごく近い将来、大奥を支配する老女の地位に着けるであろう。
民部卿局もそれを望んでいる。
(しかし、それでは、竹千代君乳母としての操を売ることになる)
阿江与の方に屈伏したとて、竹千代君の立場が好転するとは思えないからである。むしろ、国千代擁立に献身させられるのがおちであろう。
竹千代が七歳になった晩春、事件がおきた。
その日の午後、お福は御広敷(大奥事務所)へ出向いていた。
竹千代と小姓たちの手習用筆紙を請求しても、なかなか届かないのである。衣服や玩具のたぐいの割り当ても少なくなってきたようだ。国千代の棟へは、明らかに諸大名からの贈物の数々が絶え間なく届けられているのである。それらへの抗議であった。
竹千代は小姓たちと縁側で、投壺《とうこ》に興じていた。
投壺は、公家の家の男子の遊びで、矢の長さの三倍半のところに膝をついて、矢を壺に投げこむ競技である。お福が、京都から道具をとりよせて、教えたものである。
そのうち、一人が、中庭をへだてた御座の間の棟の、その高い軒下に、すずめが巣をつくっているのを見つけた。
親鳥がしきりに餌を運んでおり、目をこらすと、巣から子たちが身をのり出して、ぴいぴい鳴いている。
「あれが、ほしい」
突然、竹千代が言い出した。
「ほしい、とおっしゃられても、あれはどうにもなりませぬ」
千熊がなだめる。
「いや、ほしい。誰か、あの巣を取ってまいれ」
普段は無口で、気弱ですらある竹千代だが、時として、言い出したら聞かなくなる強情ぶりを発揮する。
「若君、あの御殿は上様の御寝所でございます。見つかれば、ただではすみません」
永井熊之助も、理由《ことわり》を説く。
一同は、遊びをやめて、困惑顔である。
「お前らは、わしの家来であろう。そうではないのか、主《あるじ》の命令が聞けぬのか」
こわいお福がいないので、我儘の言い放題である。
「小平次」
ついに、新入りの阿部小平次忠秋が名指しされた。
小平次忠秋は、三河譜代の旗本・阿部忠吉の嫡男で、今年の早春、竹千代君お小姓に加えられたばかりである。主君より二つ年上の九歳であった。
「小平次、お前はこの前、木に登ってみせたな。身が軽そうじゃ。こっそり、あの巣を奪ってこい」
「はい」
と、答えたものの、小平次の顔面は蒼白である。
御殿の屋根は高い。すずめの巣は、その内側にある。どのようにして、あの場所まで行くことができるであろうか。
それに、御寝所の庭のまわりには、護衛の伊賀者が潜伏しているはずである。狼籍者は斬り捨てられても仕方がない。廊下を行き来する奥女中たちの姿も、ひんぱんであった。
「小平次、臆《おく》したか。何をぐずぐずしておる、行けっ」
さすが将軍の世子である。幼いながら下知《げじ》には大将の風格があった。
「はっ」
小平次は眦《まなじり》を決して立ち上がった。
主君の命令には背《そむ》いてはならぬ、と教えこまれている旗本の子である。
とにかく向こうの御殿に近づいてみることだ、小平次の引き締まった顔面がそう語っている。
「待て」
部屋から、皆がいる縁側に出てきたのは松平長四郎信綱である。
長四郎は、お福に言いつかって、反古《ほご》から習字の稽古に使える紙を選り分けていたのだった。
十五歳のからだは、のび盛りで、一つしかちがわない千熊がひどく子供じみて見える。他の小姓たちはさらに幼い。
いかにも大人びている長四郎に、大奥出入りさし止めの議が、阿江与の方あたりから出されていた。その動きを知る長四郎は、目立たないように部屋にこもりがちであった。
竹千代も、長四郎には一目も二目も置いており、この小姓頭をみると思わず後ずさりしてしまった。
「若君」
「な、な、なんじゃ」
竹千代は緊張すると吃《ども》る癖《へき》がある。
「あの巣は、高いところにありまするな」
「そ、そ、それがどうした」
「取りに行く者が、危うい目にあうとは思いませぬか」
竹千代は黙ってしまった。だが、顔面にうき出た癇筋が、容易に承知しないことを示している。
「若君、なにゆえ、あのようなものが欲しいのです」
長四郎は、おだやかに問う。
竹千代は、声をほとばしらせて言った。
「国千代に奪われるのが、く、く、くやしいのじゃ」
長四郎は、はっとする。
他の小姓たちも唇をかみしめた。
小姓たちも、国千代のいる棟へ運ばれていく贈物の数々を見ている。内心、くやしさでいっぱいであった。
その気持を、主君が叩きつけたのである。
長四郎は、泣き出しそうな表情の主君を見つめていたが、
「夜までお待ちください」
と、微笑し、
「小平次では無理でございます。わたくしが取ってまいりましょう」
きっぱり言い切った。
ほっとする一同に、
「おい、みんな」
長四郎は、きびしい声をかける。
「このことは内密ぞ。乳母《うば》どのにも、もらしてはならぬ。この長四郎の一存でやるゆえ、たとえ騒ぎになっても、知らぬ存ぜぬを通せ。わかったな」
「はい」
小姓衆は、長兄のような長四郎に絶対服従であった。
日が落ちる前に、小姓衆は大奥を下がる。
今夜の宿直は、千熊と岡部七之助であった。
長四郎は、屋敷には臨時の大奥泊まりを連絡して、小姓衆控えの間の押入れにかくれている。
御膳所から夕食が運ばれてきた。千熊と七之助は下段で、同じ料理を伴食する。
膳部を配して奥女中たちが退がると、主従は目くばせして、飯と菜を懐紙につつみ、三人が交互に隣室にしのんで行き、押入れの長四郎に差し入れする。
竹千代は、皆と共同しておこなう悪戯《いたずら》じみたことが大好きであった。
お福は、小姓衆控えの間とは襖を接した部屋で、侍女たちと食事をとっていたが、気付かない。
やがて、膳部を下げにやってきた奥女中たちが驚いた。茶碗や皿のものが、ほとんど片付いているのである。
「まあ、若君さまも、余さずお召し上がりになって」
と、目を丸くしている。
「今日は、投壺遊びに夢中になっての、腹がへったのじゃ。のう、千熊」
「はっ。それに、若君、今日の飯は、とりわけ旨うございましたな」
言いつくろう主従の言葉は、どこかぎこちないが、奥女中はうれしそうに、
「このところ、お食が細くなっておられましたので、気遣っておりました。料理の者もよろこびましょう」
いそいそと空の膳部を持ち帰った。
竹千代の棟は孤立していたが、それでも係の奥女中や台所の者に味方はいる。ひそかに、竹千代君とそのお付き衆に同情しているのだった。
夜が更けると、長四郎は殿舎をしのび出た。
お福は、竹千代が千熊と七之助を従えて、たびたび便所《かわや》へ立つのが不審で、
「夕食は残らずお召し上がりとか。お腹をこわされたのではございませんか。医者を呼びましょう」
竹千代はあわてて、
「腹ぐあいは悪うない。星見をしているのじゃ、天象の書物が面白くてな」
「なれど、今夜は曇り日。星は出ておりませぬぞ」
「いや、その……出るかも知れないと思うてな、それで、たびたび見に出ているのじゃ」
ほうほうの態で部屋へ戻った竹千代らは、急いで天象の書物を探し出して、書見台に置き、口から出まかせを取りつくろう。
やがて、
「まだ星は出ぬかのう」
などと声高に言いながら側縁へ出て行った竹千代ら三人が、間もなく「あっ」と叫んで逃げるように駆けこんで、寝所にとじこもってしまった。
庭の向こうが何やら騒々しい。
「千熊」
お福は、わが子を呼びつけた。
「何がおきたのです。何を見たのです」
問い質すが、千熊はおし黙ったままだ。
といって、こちらに何も異常は認められない。お福は千熊を竹千代の側に戻して、寝につこうとした。
そこへ、民部卿局からの使者である。
急ぎ着衣をあらためて、御座の間の棟へ伺候すると、御寝所の縁側に長四郎が秀忠自らの手で引き据えられているではないか。
阿江与の方も、侍女に手燭をかざさせて、お出ましである。
庭の暗がりに黒装束の伊賀者が三、四人、うずくまっていた。
「これは、そこもとが預かりおる小姓か」
秀忠が問う。
「はい。松平長四郎にござりまする」
お福は気も転倒している。なにゆえ、今日宿直でもない長四郎が、事もあろうに上様御寝所で捕えられているのか。
「恐れながら、長四郎が何をしでかしたのでござりましょうや」
「それを問いつめておるのじゃ。こやつ、本当のことをもうさぬ」
「長四郎、何をしたのじゃ」
お福は、理非曲直を正すときには烈婦となる。すさまじい形相であった。
長四郎は、ぴくりと身をふるわせる。
「本当のことは、もうし上げておりまする。夕方、この御殿の軒下にすずめが子を産んでいるのを見つけ、急にほしくなり、人が寝静まるのを待って頂戴にあがったのでございます。もう少しのところで足をすべらせて、庭へ落ちました。もうしわけございませぬ。存分に御処置くださいますよう」
潔《いさぎよ》い態度である。全身を打って痛かろうに、きりりとした表情をくずさない。
「そのことは何度も聞いた。予がいうのは、このことは、そちの一存ではなく、誰かそちに命じた者がいるはずだ、と、くりかえし問い質しておる。その者の名を言え、言えば許してつかわす」
「誰からも命じられませぬ。わたくしが、ひとりで巣を見つけ、一人じめにしようと思ったのでございます」
「ええい、しぶといやつ」
秀忠は、長四郎を庭へ蹴落とした。
「袋に入れて、木につるせ」
闇のなかの伊賀者に命じる。
忍者たちの仕事は早い。長四郎は、長蓑《ながみの》と呼ばれる伊賀者の携帯具に押しこまれ、庭木につり下げられた。
「ばか者め、苦しいであろう。ありていに白状すれば、おろしてやるぞ」
長四郎は無言のままである。
「よし、朝までそうしておれ」
秀忠は怒って、部屋へ戻っていった。
阿江与の方も、民部卿局や奥女中たちにとりかこまれて、縁側から引き揚げる。ふと、お福をかえりみて、
「京風のしつけのなかには、泥棒のお稽古もあるのかのう」
と、嘲笑を残した。
お福は足袋はだしのまま庭へおりた。
蓑虫のように首だけ出した形でつるされている長四郎が、悲痛な声をあげた。
「乳母どの、もうしわけありませぬ」
お福は、長四郎の顔色をじっとみて、
「怪我はないか」
長四郎は首をふる。
「では、朝まで、星の出でも待とうぞ」
お福は、にっこり笑って、木の根元に端座する。ともに夜を徹する覚悟らしい。
真相は、誰もが察している。長四郎に巣取りを命じたのは、竹千代以外にない。しかし、その名を明かさないのも、臣としての忠義であろう。
東の空が白んできた。
秀忠がひとりで縁側へ出てきた。
秀忠は、つるされたままの長四郎と、その下で平伏しているお福を眺めた。
「おろしてやれ」
声をかけると、朝霧のなかから伊賀者が二人、さっと現われ、長四郎を木からおろした。
「今度だけは、乳母どのに免じて許してつかわす。行け」
長四郎は、長蓑から這い出して、お福と並んで平伏した。
秀忠は、部屋へ入りぎわ、お福をふりかえり、
「お福」
「はい」
お福は、秀忠を仰ぎ見る。
「竹千代は、よい家来をもっておるのう」
秀忠は微笑した。
お福は、この思いがけないお言葉に、みるみる目の前を涙でかすませてしまう。
2
松平長四郎信綱は、大奥出入りさし止めになった。
竹千代お小姓の身分はそのままだったが、主君のそばに侍《はべ》らない小姓というものはあるはずがない。
「今度だけは、許してつかわす」
という秀忠の御諚であっても、蟄居《ちつきよ》と同じ処分である。
すずめの巣事件で、あらためて十五歳をこえる男子の大奥居住が、阿江与の方の周辺で取り沙汰されたようである。十五歳は元服の年であり、大人と見なされる。
このぶんだと、十四歳の千熊も、いずれ大奥に出仕することができなくなるであろう。
お福は、江戸入りをしたとき、奥御殿の制度を整備する必要を感じ、このこともおのれの使命の一つに数えていた。
お福は、十歳以上の男子の大奥泊まりは好ましくない、という考えである。しかし、その前提に、世子やその小姓たちが学問・稽古する御殿が設けられるべきであり、それが認められていない今、長四郎の出仕停止は打撃であった。
こと志と大きくちがい、昨今のお福は無力である。理想は聞きとどけられず、要望はほとんど取り上げられない。
家康・所司代・お勝の方は、乳母にとどまらない広範の期待をこめて、お福を選んだのである。
だが、大奥を主宰する阿江与の方は、お福に乳やり女だけを求め、御傅役《おもりやく》を自任するお福の言行が気に入らないのである。理非ではなく、女同士の感情を主とした対立である。阿江与の方の、お福への不興は毛嫌いになっており、よき解決のために話し合う余地を残していない。これが、第一の誤算であった。
第二の誤算は、竹千代を擁護してしかるべき秀忠の重臣たちが、竹千代とお福に冷淡であることだった。
誕生の日に、蟇目矢《ひきめや》を射た酒井重忠、御篦刀《おへらがたな》をつとめた酒井忠世、御抱上げ役の坂部正重も、その後、竹千代のもとに伺候しようとしない。
幕府老職筆頭の大久保忠隣は、公務多忙を理由に、お福の面談申し入れに応じなかった。
「大奥のことは御広敷役人に」
という指示である。
しかし、相談したいのは衣料や筆紙購入のたぐいではない。世子としての竹千代君の、それにふさわしい処遇に関する要件である。御広敷役人で埒《らち》があく事柄ではない。
それを知りながら、お福に会おうとしないのは、本多一派との抗争が激しさを加えているからだった。
対立の背景に、武功派と文吏派がある。
武功派は、長年にわたる血と汗で今日の徳川家を築き上げたという自負がある。だが、泰平の今日、報いられることは少ない。
文吏派は、平和になった今日、その平和を維持し徳川の天下を永世のものにするのは自分らの力だと信じている。厚遇されるのは当然であり、武功派の連中は時代に順応できない無用の長物と見るのである。
武功派の頭領にまつり上げられているのが譜代の重鎮・大久保忠隣であり、文吏派の代表が本多正信であった。しかも正信は、一度主家を離れた帰り新参である。才智によって重用され、 異例の出世をとげたのだった。
「戦場ではものの役に立たなかった腰抜けが、そろばん勘定だけで大殿の腰巾着になった」
と、武功派は正信を陰でののしる。
対立を複雑にしている要因が別にあった。駿府派と江戸派の主導権争いである。
徳川家の跡目は秀忠が継いでいる。武家の棟梁たる将軍は秀忠である。家康は大御所と称する隠居であった。しかし、現実に、すべての権限を有しているのは大御所家康であり、秀忠は、事実の上からは、まだ世子の身分であった。将軍見習である。
幕府は、駿府の指令で動いているのにすぎないのであった。その駿府の命令を伝達するのが本多正信であり、秀忠に代わって拝受せねばならないのが大久保忠隣の立場である。
忠隣としては、うっ憤を大殿の家康へ向けるわけにはいかないゆえに、その代弁者である正信を憎まざるをえない。
お福の要望も、竹千代君の処遇も、秀忠あるいは忠隣ら幕閣で決められないのが現実であった。出すぎたことをすれば、それが正しくとも、駿府からの誅罰が下される昨今である。
江戸の要人を恐怖せしめた事件がおきたのは、家康が駿府城へ隠居して間もなくであった。
江戸近郊にまで鷹狩りに出た家康は、禁猟区に定めてある自分の鷹場に、鳥をとる網や罠が仕掛けられてあるのを見て、激怒した。
「痴《し》れ者めが。誰の仕業《しわざ》じゃ」
村役人に詰問すると、
「総奉行さまのお指図でございます」
おろおろと答える。
総奉行とは、江戸老職を兼ねる青山忠成と内藤清成である。秀忠政権の権威を高めようと日夜精励している大久保忠隣派である。
「このあたりは、最近、野鳥がたいそう増えまして、麦の芽をついばみ、種倉を襲い、野菜も食い荒します。このことを総奉行さまに申し上げましたところ、百姓どもを難儀させては国のためにならぬ、と増えすぎた分の鳥を捕《と》ることをお許しなされました次第……」
家康はみなまで聞かず、
「だまれ、盗人《ぬすつと》たけだけしいわい」
と、むちを振って村役人を追いはらい、江戸城へ戻ると秀忠を召し出し、両総奉行の誅罰を命じたのである。
律義一筋の将軍は、大御所の不興を買ったというだけで驚愕し、理非を究めず、両人に切腹を命じようとした。
この暴挙ともいえる大御所の命令をとりさげさせることができるのは、本多正信ただ一人である。正信は、家康の前に出て、諫言《かんげん》した。効を奏して、忠成・清成の両老職は死一等を減じられて閉門となった。しかし、誰も正信を賞讃しなかった。
「企らんだのは正信じゃ。大御所はその狂言に乗られた。駿府の意向に誰も逆らえなくするためと、とかく正論を吐く忠成と清成を幕閣から追い出すためである」
これが、大久保派の胸のうちであった。
たしかに、以後、江戸老職は忠隣をはじめとして、おのれの意見を披瀝《ひれき》しなくなり、駿府の顔色のみをうかがうようになったのである。
お福が何を具申しても、江戸老職が耳を傾けようとしないゆえんである。
それでは、直接、駿府の大御所に訴えればよいのだが、これができない現状が、お福の誤算の第三であった。
(大御所さまは老耄《ぼけ》られたのではなかろうか)
という疑念が、お福の心底に生じている。
西丸という立派な隠居城がありながら、不意に駿府へ移住して行ったことから異常であったし、鷹場事件は明らかに非は家康にある。
鷹狩りは、所詮、領主の遊びである。領民に難儀をかけてはならぬ、とは家康のかねての教訓である。青山忠成と内藤清成は、大御所のその民百姓第一の意を体して、野鳥捕獲を許可したのであった。本来の家康であれば、両人を褒賞して、徳川の美風の範としたはずである。
だが、両人に下されようとしたのは極刑である。
お福は、このことを知ったとき誤報だと思った。間違いないことをたしかめると、
(大御所さまは、やはり御乱心)
と、目の前が暗くなった。
お勝の方からの書簡の、何やらあいまいな物言いとも符合する。お福は、お勝の方へ、大奥での竹千代君の孤立を暗示し、大御所への執り成しを願う手紙をたびたび送っているが、返事はいつもはぐらかされていた。
互いに御家の秘事にかかわることだから、はっきり書くことはできない。何者かに盗み読まれてもいいように、あたりさわりのない文面となる。もどかしい。しかし、お福は、少なくとも本多正信配下の間者の動きを知っているので、慎重を欠くことはできない。行間に、大御所の心身の健全ならざることを感じるのみである。
(それにしても、陰険なる徳川家の内情よ)
武家の風儀は、是々非々が明快で、人と人との関係もさわやかなものだと、お福は考えていた。とくに、天下を掌中にし、その政権を永世のものにしようと意気込む徳川家臣団は、些事にこだわらず、高い理想に向って大同団結しているものと信じていた。
外から見るのと、内へ入って実感するとでは大きな違いがある。
旭日の輝きに見えた将軍家も、裏へまわれば、派閥閨閥の醜い争いに明け暮れており、小さな面子《メンツ》にこだわり、嫉妬と中傷が渦巻き、間者が跳梁《ちようりよう》し、まさに足の引っぱりあいであった。
したがって、要職にある者は、自らの地位と一族の利益を守るため、揚げ足を取られまいと気を配り、事なかれ主義に陥っているのである。
竹千代君は、その風潮の犠牲になっているといえなくはない。
(治政の枢要をにぎる殿方の、浅ましさ。それでも男《おのこ》か)
お福が、幕府老職のみならず、将軍夫妻、さらに統率力を弱めている総帥の家康まで、内心軽侮し、頼りにならないことを、ひそかに肝に銘じたのは、このころである。
(竹千代君は、わらわがお守りするほかはない。この広い天と地の間で、この福だけが、若君の正真の御味方なのじゃ)
お福は、次第に猛女の様相を強めていく。
松平長四郎が、出仕さし止めになって、その責任を痛感しているのであろう、ともすればしょんぼりと脇息にもたれて涙ぐんでいる竹千代を見ると、
「若君、女々《めめ》しいぞよ」
と大声で叱り、
「若君は徳川家の御嫡男、いずれお父君のあとをお継ぎになって、三代将軍になられる御身、そのことを寸時もお忘れめさるな」
と、絶えず嫡男であることを言い立てて自信を植えつけながら、心身の鍛練に努めた。
「さあ、さあ、木刀をお持ちになって、お庭へお出ましあれ、わらわがお相手つかまつろうぞ」
襷《たすき》をかけ、鉢巻きをしめ、木の稽古|薙刀《なぎなた》を小脇に、率先して広縁からとびおりる。
「千熊どの、熊之助どの、小平次どの、何をぐずぐずしておる。若君の左右を固めさっしゃい」
大柄のお福が打ち振る薙刀は、風を切ってうなりを上げ、まだ骨のかたまらない少年剣士たちをすくませる。
「若君、日ごろのくやしさや、お腹立ちを、その剣に託されよ。福を大敵と狙い、思いきって打ちこむのじゃ」
けしかけられた竹千代は、その気になって顔面を紅潮させ、
「ええいっ、思い知れ」
渾身の力で突っこんでくる。が、
「とう」
お福の薙刀が一閃すると、木刀は天高く舞い上がった。
「なんとまあ、手応えのないこと。それでも男でありまするか。皆の者、束になって掛かってこさっしゃい」
お福も日ごろのうっ積がある。その気うつを晴らすかのように、つい本気になって戦ってしまう。
「さあ、こい、まだじゃ、まだじゃ」
気合いもすさまじく、乱闘をつづける。
さすがに竹千代のからだには触れなかったが、倅《せがれ》の千熊はとくに容赦なく打たれ、足蹴にされ、体当りを食ったりで、さんざんな目にあうのである。
お福は、戦国武将・稲葉正成の奥方であった九年間に、正式に武術を修得している。膂力《りよりよく》は強い。体力はある。その薙刀さばきは、名のある剣客でも手こずるにちがいないと思わせるほどで、見物する奥女中たちを唖然とさせた。
このことから、いつ知れず、悪意をふくむお福の武勇伝がつくられ、面白おかしく口から口へ伝わることになる。
お福どのは、稲葉正成の奥方時代、忍びこんできた夜盗数人と一人で渡り合い、二人を斬り殺した。乳母どのは、離縁のとき、夫正成どのの愛妾を短刀で一突きにし、溜飲を下げて家を出たそうな、等である。
3
年が明けて、慶長十六年の正月、江戸城西丸の修築が公表され、奥羽・関東・信州の大名十三家に工事手伝が命じられた。総指揮にあたるのは本多正信である。
西丸は、大御所が駿府城へ隠居した後は、空城になっていた。大御所が鷹狩りに関東方面まで足をのばされた折りに宿泊するくらいである。
お福は、この西丸へ、竹千代君が入城できるよう内願をつづけていた。西丸は、隠居城または世子の居城としての役割をもつ。
小姓たちが大奥出入りにふさわしくない年齢に近づくにつれ、お福は西丸移住を強く望んだのである。それと共に、将来の地位のために、しかるべき輔翼の士を付けられるよう願い出ていた。
竹千代君の母代《ははしろ》として傅育の任を他へゆずる気は毛頭ないお福だが、女手一つですべてを教導する時期はすぎている、という判断はもっていた。
お福の、年寄衆を通じての将軍秀忠への進言は、
「御西丸を竹千代君に下され、奥向きを御寝所ならびに御休息の居間となされ、福がこれをお預かりもうす。中奥は修練の場となされ、小姓衆はここに出仕、ともに学問・武術を修められる。表御殿にては、年寄衆のなかより選任せられる輔翼の歴々により、治政の法を学ばれる。小姓衆もこれに陪席が許される」
であった。
西丸を本丸幕府の雛形とし、竹千代君に将軍教育を今のうちから始めようとする意図がありありである。
年寄衆から、この件に関しては何の沙汰も返ってこない。
将軍秀忠の御意が得られないからであろう。その裏に、阿江与の方の意向がある。
「乳母の分際で、まあ何という出過ぎた振舞いでありましょう。西丸に入るのは、国千代どのこそふさわしゅうございます」
柳眉をさかだてて夫に言う、その口調までお福に想像されるのであった。
三月になって、西丸修築工事が、石垣の積み直し、枡形門の築造などから本格化すると、幾つかの、まことしやかな噂が大奥にひろがった。
「大御所さまが、駿府からお戻りになるゆえ……」
というのから、
「いよいよ、お世継ぎお定まりのことがあり、御世子が御入城になるため」
と、このほうが真実味を帯びており、やがて風説は、
「御世子は、やはり御聡明な国千代さまにお決まりのご様子……」
と、この一つにまとまり、寄るとさわると声高に言いあう有様になった。
お福は、お付きの奥女中と侍女たちに、
「そのようなことがあろうはずはない。こちらをあわてさせるための、根も葉もない悪だくみにちがいありませぬ」
と言い切り、険しい表情で、
「このこと、若君のお耳に絶対に入れてはなりませぬぞ」
と注意した。
さらに、千熊を呼び、
「お聞きか」
と、探ると、千熊は母親の目を見つめたまま、うなずく。出仕の途中の廊下で、早くも噂を耳にした様子である。
「若君は……?」
千熊は首をふる。
「それはよかった。今日はの、皆で軍書の回し読みなどをして、御部屋の外へ出られぬよう工夫するがよい。母者《ははじや》は、これより表御殿へおもむき、御老職に真実をたしかめる所存ゆえ、留守をたのみまするぞ」
「はい。長四郎どのの分まで務めまする」
松平長四郎が蟄居の今、年長の千熊が小姓頭を代行している。長四郎の貫禄には及ばないものの、若君への忠誠心に見劣りはない。
(わが子ながら、あっぱれ)
お福は、胸のうちで褒め、心強く思っている。
この時代、表御殿と大奥のへだては、後世ほど厳重ではない。
夜間の出入りは禁じられているが、昼間は親族や表役人などの男姿が大奥でしばしば見られる。奥女中衆も所用があれば表御殿へ出て、老職や諸役人と面談した。
お福が、表御殿の長廊下を進むと、彼方の御用部屋からそそくさと出て行く大久保忠隣と土井利勝の後姿が見られた。
(お逃げなされるのか)
お福は歯ぎしりする。
先触れで、お福の来訪を知り、面倒なりと座をはずしたのにちがいない。
御用部屋の中央の、大きな炉の前で落着かぬ素振りで待っていたのは、酒井忠世一人である。炉は密談するとき、火箸で字を書き、すぐ消すために設けられてあるという。
忠世は、秀忠付き老職から幕府御年寄衆に昇格したなかの、若手である。首座の大久保忠隣は、お福より二十六歳年上であるが、忠世は六歳年長にすぎない。竹千代君の御篦刀をつとめた縁もあり、温厚な性格とあいまって、乳母どのの応接を押しつけられた形であった。
ぎこちない互いの挨拶のあと、お福は直截《ちよくせつ》に用談に入る。
「このたびの西丸お手入れは、お世継ぎ御入城の備えとの風聞でございますが、まことでござりましょうや」
「はて、身どもは、そのようなことは、うけたまわっておりませぬ」
お福は、酒井忠世を凝視した。女人の強いまなざしに当惑の色は隠せずにいるが、別段、しらばくれているようには見えない。
「それでは、なにゆえ、急な御普請を」
「駿府よりの御指示ゆえ、しかとはわかりかねるが……」
忠世は口ごもり、
「乳母どのの御疑念を、いささかやわらげるために、存じよりをもらすのでござれば、他言は御無用に」
「しかと」
「公儀より出される御城普請手伝いは……その狙いの一つは、諸大名に財があまらぬよう出費させることにありますのじゃ。これは、天下平穏をつづけるため、治政の者がなさねばならぬ奥義《おうぎ》でござってな。財があまれば、野望がめばえ、武器を買い集め、兵をつのって乱を呼びまする。ゆえに、公儀としては、順繰りにな、諸大名に工事を申し付けるわけでござる。これは、大御所さまの御思案でな」
そういえばその通りで、徳川家が天下の権をにぎると、まず江戸城下の整地、石垣用石材の切り出しと搬入、本丸改築、駿府城大修築、篠山城普請、名古屋城新築、そしてこのたびの西丸修築と、絶え間なく徳川一門の城郭工事をおこない、諸大名にまんべんなく手伝を割り当てているのである。
その負担にたえかねた豊臣系の大名・福島正則が、
「あまりではござらぬか。将軍家は、われらを潰すおつもりか」
と、同じ豊臣遺臣の加藤清正に愚痴をもらすと、
「その通り。われらは目の上のこぶ。落度あれば、潰すおつもりでござろう。腹に据えかねるならば、領国へ帰り、謀叛の旗を上げるがよい。それができぬとあれば、おとなしく命令に服し、裁着《たつつ》け袴にわらじばきで、工事の采配を振ることじゃ」
と、髭づらの猛将が、目に涙をうかべて朋友を諭した、という話も伝わっていた――
「これで得心がいきましたかな。乳母どのから、たびたび年寄衆に内願が出されていることは、末席のそれがしも存じておりまする。しかしながら、老職各位は、天下治政の方策が円滑《なめらか》にまいるよう、これでなかなか気苦労があり、多忙でござってな。お世継ぎのことを軽んずるわけではないが、まだ御両人とも御幼少、焦眉の急というわけではござらぬ。あまり、騒ぎ立てぬほうがよろしかろう」
酒井忠世は、やんわりと忠告する。
お福は、ひとまず安心したものの、せっかくの機会であった。勇を鼓して、もう一押しする。
「今朝ほどから、大奥では、御世子に国千代君がお決まりの取り沙汰が、なかば公然となされておりまする。火のない所に煙は立たぬと申しまする。お心当たりはございませぬか」
忠世は、形をあらため、じっとお福を見返した。
美男というほどではないが、引きしまった面貌の中年男性に見つめられて、お福は肌がほてってくるのを覚える。
「乳母どの。われらは徳川の家人でござる。御家という大きな木の繁栄をこそ願うのでござって、その一つ一つの枝ぶりに心を奪われてはなりませぬ。それがしは、竹千代君御誕生のみぎり、御篦刀を拝命し、父重忠は御蟇目役をつとめました。父子ともに、竹千代君を思う気持は、乳母どのに引けはとりませぬ。しかしながら、国千代君も、主筋。上様の御血筋でござる。われら、家人としては、いずれの御曹司がお世継ぎに立たれようと、忠誠をつくすのが本分ではございますまいか」
いったん頬を染めた血が、凍っている。そのお福の顔色に、
「いや、いや、御跡目のことは、まだ何も決まっておりませぬぞ。ただ、家人としての心得を申し述べてみただけでござる」
「竹千代君は、御嫡流のお名前をいただき、御長男であられる。その長幼の序が、くずれることがありうるのでございましょうか」
すがるようなお福の声である。
「これも、心得のために申しそえておきましょう」
忠世は、武人らしい冷徹な表情になっていた。
「御当代(秀忠)は、御三男であられた」
お福の目が暗んだ。
そのことを知らないわけではなかった。むしろ、心の底で最も恐れていた事実であった。
家康が、後継のことを重臣に諮問したのは、関ヶ原合戦で圧勝し、天下の権をほぼ掌中に収めた時分であったと聞く。
選ばれた重臣は、榊原康政・井伊直政・本多忠勝・大久保忠隣・本多正信・平岩親吉の六人。
長男の信康を失っていた当時、世継ぎ候補は三人いた。次男の秀康、三男の秀忠、四男の忠吉である。
四男の忠吉を推したのは、忠吉の傅役であった井伊直政だった。人柄はよいが、なにしろ四男である。同調者を得られなかった。
「秀康公でなくてはなりませぬ」
と主張したのは、本多正信である。
「事実上の長男であられることが第一。さらに武勇と智略を兼ねそなえられ、英雄の御素質でございまする」
正論である。多くの顔がうなずいた。
異論をとなえたのは、大久保忠隣であったという。
「なるほど、乱世の折りには、武勇が尊ばれましょう。さりながら、天下平定後の今後は、御実直、御聡明で、孝心ことのほか厚く、大殿の御意を引き継ぐのに最もふさわしい御器量の君こそ、推挙申し上げてしかるべき」
秀忠公は三男であるが、来るべき時代にふさわしい主君だと力説したのである。
家康は、数日間熟慮の後、忠隣の進言をとり、後継者は三男の秀忠に決まったのであった。
この経緯《いきさつ》は、お福の胸中に暗雲となってわだかまっていた。
御当代は、来るべき時代にふさわしい主君として選ばれたのである。同じ伝でいけば、次の時代はさらに泰平が期され、それにふさわしい主君となれば、残念ながら、暗い感じのする無口の竹千代より明るく御聡明の評判が高い国千代に、衆目が一致するのを防ぐことはできない。
お福は、すずめの巣事件の折りにみせた将軍家の、
「竹千代は、よい家来をもっておるのう」
という仰せに、望みを託していたのであるが、あれは上様の憐憫で、御本心は国千代君にあると覚悟せねばなるまい。
しかも、お福が心頼みにする大久保忠隣は、上様の意向を尊重する考えの人であり、長幼の序を固執したのは、今は疎遠になっている本多正信であったのである。
忠隣は、秀忠擁立の功で年寄衆首座に出世したのであり、大久保派と本多派の溝は、この後継論争からひろがったという言い伝えがあり、お福に一層、不利の感を強めるのであった。
そのようなお福の心の動きを見透かしたのか、酒井忠世は、つぶやくように言った。
「われらに、それほどの力はござらぬ。お頼みなされるなら、佐渡守(本多正信)どののほうが確かなのじゃが……」
お福は、ふたたび目の前が暗む。
正信の、あの無気味に濁った隻眼が脳裏にうかぶ。
「何か望みのことがござれば、将軍家、あるいは大納言家、御簾中に直《じき》にもうし上げず、年寄衆を通されよ。拙者も、なにぶんのお力添えはいたすつもり」
その声がよみがえる。
直接に大御所や将軍家に陳情せず、忠実に年寄衆を通してはいるのだが、
(頼りにする相手を間違えたか)
お福は臍《ほぞ》をかむ。
しかし、大久保家とは三条西家を通じての縁があり、千熊の拝領屋敷が彦左衛門の隣であったりで、いつ知れず大久保派と目されるに至っていた。
本多正信が、そのことを不快に思っているのは明らかで、今さら、正信にすがることはできない。相手にもされないであろう。
忠隣や土井利勝がお福を避けているのも、このような政争をこじらせたくない用心のためであろうか。
(腹立たしきは派閥、わらわに何の罪科《つみとが》がある。なにゆえ、年寄衆が相和して、内願を取り上げてくださらぬのか)
お福は目に涙をにじませて、孤立無援のなかで出来る限りの好意を示してくれた酒井忠世に深々と頭を下げた。
「水は流れるように流れまする。あせらずに、時期を待つことでござる」
忠世の暖かい声に送られて、お福は悄然と御用部屋を退出した。
大奥殿舎へ戻ると、お福は何か胸騒ぎを覚えて、足を急がせた。
案の定、部屋へ入ると、留守居の侍女が立ちすくんでいる。御座の間から人と人とがもみ合う物音。
「放せ、放せ。わしは死にたいのじゃ」
と叫ぶ竹千代の幼い声がする。
お福は、襖を体当たりで倒して、上段の間へ駆けこんだ。
千熊と阿部小平次が、暴れる竹予代の腕を左右から押えにかかっており、永井熊之助は竹千代の右手に握りしめている短刀をもぎ取ろうとしていた。
清吉郎と七之助は、ただおろおろしているだけである。
「若君」
お福は、竹千代の前に仁王立ちになり、ものすごい形相でにらみすえた。
「乳母」
竹千代がひるむ。その瞬間、お福は細い手首をつかまえて、短刀を奪い取っていた。切っ先が指にふれたのであろう、お福の掌がみるみる赤く染まる。
「なんとしたことじゃ、若君、いかなる御了見ぞ」
「乳母、わしは、この世にいらざる人間じゃ。お世継ぎは国千代に決まったというぞ。国千代の家来になるくらいならば、わしは死ぬ。死にたいのじゃ」
血がしたたるお福の手が、竹千代の頬に飛んだ。八歳のからだが畳にのめるように倒れ転がる。
「千熊、そなたの油断じゃ」
お福は、わが子の襟首をつかまえて、思いきり突きとばす。千熊は、違い棚のあたりまでふっとんだ。
「若君、無礼を働いたこの乳母を成敗なさるがよい。若君の御軽率、乳母のほうこそ死にとうなった。さあ、さあ、一突きになされ、殺してくだされ」
お福は、半身をおこした竹千代の前に短刀を置き、片膝立てて迫る。
竹千代は激しく首を振った。それから何を思ってか、自分の袖口を噛みきり、引き裂いて長布をつくり、
「千熊」
「はっ」
「乳母どのの手当をせよ」
と命じたのである。
お福は、初めてわが掌の血糊に気付き、心配そうに傷口をのぞきこむ竹千代を見返した。
「若君」
お福は感きわまって、ひれ伏した。
4
固く口止めはしたが、この椿事が外にもれたかどうかわからない。
御座の間で相撲をとったことにして、襖の破れや畳の荒れを修理させた。お福の手の傷は、出血量のわりには、たいしたことはない。
騒動は、かえって、雨降って地固まるの効能をもたらした。竹千代が胸のつかえをおろしたように明るくなったのである。お福の、噛んでふくめるような現状の説きあかしと、お福と小姓たちが自分のことをどんなに大切にしているかを実感したことで、くよくよしなくなったのだった。
小姓たちを呼び集め、声をひそめて、
「乳母どのに逆らわぬほうがよいぞ、力が強い」
頬をさも痛そうにさすってみせ、
「千熊、そちの母者じゃが、あれは、鬼婆かも知れぬの、そちは二|間《けん》ほども投げとばされた」
くっくっと、笑うのである。
京都の二条城では、大御所家康と大坂城にこもる豊臣秀頼との会見が実現し、江戸城でもその話でもちきりであった。
豊臣家とは二重の絆《きずな》で結ばれている姻戚である。秀頼は、将軍秀忠の長女・千姫の婿殿であり、秀頼の御母堂・淀殿は阿江与の方の姉であった。
大奥でも、豊臣家との和親をよろこぶ声で満ちている。しかし、お福は、三条西実条からの手紙で、ひと波瀾を予感する。
会見は上々の首尾でおこなわれたが、大御所には十九歳に成人していた秀頼公の美丈夫ぶりにいたく驚きの御様子。上方の衆は、はじめて間近に見た豊臣家の御曹司にわき立っている、とあったからである。
実条は、正三位・中納言に昇進しており、禁裏の枢機に参与し、所司代板倉伊賀守との交際もますます密のようである。行間に、大御所が豊臣家の底力に脅威を感じたさまが、うかび上がってくる。
畿内の豊臣びいきは、依然強いようである。
この四月に、朝廷では、徳川ぎらいの後陽成天皇の退位と、十六歳であられる後水尾天皇の即位が急ぎとりおこなわれていた。
これにも幕府の介入があったと義憤する都人の「東夷《あずまえびす》」への反感が、豊臣家の二世への熱いまなざしとなったことは容易に察せられる。
お福は、京都と江戸とのかけ橋を志した初心を失ってはいないが、徳川家と豊臣家の決戦はやむをえないという考えを秘めていた。
(竹千代君のため、三代将軍の御世を安らかにお迎えするため)
である。
十九歳の豊臣秀頼は、まだ八歳の竹千代の義兄であり、もともと豊臣家は徳川家の主筋であった。朝廷と西国諸大名の間に根強く残っているとみられる豊臣への政権返還工作が、成功しないとも限らない。妥協策として、秀頼が秀忠の嫡子に直されたとしても、血筋からいって不自然ではない。
(万一、秀頼公が三代将軍を継ぐ情勢になれば……)
豊臣家は、竹千代君にとって新たなる大敵といわなければならない。
(秀頼、滅ぼすべし)
である。
それに、お福は豊臣家ぎらいであった。坂本城を攻め、父・斎藤内蔵助利三の遺体を粟田口の刑場に晒したのは、豊臣秀吉である。養い親の長曾我部元親の領土を奪ったのも秀吉である。そして、表向き夫の稲葉正成が見限ったにせよ、実情は秀吉の猶子《ゆうし》・小早川秀秋に五万石を召し上げられて浪人暮らしを余儀なくされ、いわば煮え湯をのまされたと、お福は思っている。
(豊臣家は滅ぼさねばならぬ)
直接には、竹千代君の将来の弊を除くことにあるが、引いては徳川永世の基を固めるためには、豊臣家は禍《わざわい》であるという非情な見通しを、お福はもっていた。
豊臣秀頼の上方での格別の人気は、江戸の年寄衆にも不安を呼びおこしたようである。
秀頼公が三代将軍を継ぐのではなかろうか、という噂が江戸でもひろがると、にわかに幕閣で竹千代・国千代の継嗣問題が討議されるようになった。
家康が、将軍職の徳川世襲を天下に示すため、わずか二年二カ月で秀忠に譲位したように、秀忠とその幕僚は早目に三代将軍を内定して、政権奉還を期待する上方の風説をもみ消す必要にせまられたのである。
「上様の御意は、国千代さま。御台所さまが強く望まれておられる」
という耳打ちが、ふたたび大奥のあちこちで交わされるようになった。
大身旗本や諸大名の、阿江与の方への伺候が急に増える。それは、とりもなおさず、国千代君への御機嫌伺いにほかならない。
その気配は、部屋にとじこもりがちになった竹千代にも、敏感に察せられるはずである。竹千代は、以前に増して無口になり、じっと座って目を据える陰気な公子に戻ってしまった。
千熊をはじめとして、小姓衆の気遣いは並大抵ではない。
竹千代の佩刀は乳母の強権でお福が預かり、小姓衆も出仕すると腰のものをお福の部屋の厨子棚に収めて、刃物の類を目につくところに出さなかった。
お福は、国千代が正式に世継ぎに決まったときのことを思い煩わずにはいられない。
(竹千代君は、弟君の臣下になるのであろうか)
「国千代の家来になるくらいならば、わしは死ぬ」
と叫んだ竹千代の悲痛な顔がうかぶ。
秀忠公における兄君・越前中納言秀康公のように、遠国の一大名に封じられ、憤怒のあまり、いのちを縮めることになるのであろうか。世が世なら二代将軍になっていた秀康公の病死は、四年前で、三十四歳の若さであった。自害の噂も流れたものである。
(秀康公の非運が、竹千代君の明日の姿であろうか)
お福も悶々の日を重ねていた。
大御所さまが京都から駿府城へ還御された、という報が江戸城に届いて間もない五月中旬であった。お福は永井伝十郎|直清《なおきよ》から面談を求められた。
永井直清は、お小姓永井熊之助の次兄である。当年二十一歳の若侍であった。
弟が世話になっているそのご機嫌伺いであろうか、といぶかりながら、客座敷へおもむいて、対面すると、
「お人払いを」
との申し出である。
お福は、随従の侍女を別室に退らせた。
「じつは、拙者、父の指図にて参上いたしました」
兄弟の父親の永井右近大夫直勝は、駿府城詰めの御書院番頭のはずである。
「これを」
直清は、懐から小型の封書を二通出して、お福の前に置く。一通は永井直勝からで、一通の表書きは、なつかしいお勝の方の筆跡であった。
直勝は紙片に、
「松平右衛門も同心、ともに進言、らち明きもうさず、乳母どの御足労あるべし」
と、簡潔に書いていた。
お勝の方は、
「御呉服の間の女中二名、お伊勢参り発願、御同行あれかし」
と、小さな文字でしたためてある。
直清は、お福が読みおわると、すぐに、
「ごめんこうむりまする」
と、二通の書状の上書きはそのままに、内の手紙だけを手元に引きとり、まるめて口の中へ入れ、のみこんでしまった。このために、紙片に細字で要点のみを記したようである。
「兄・尚政、阿部左馬助どの、拙者は千熊どのの屋敷、あるいは長四郎どのの屋敷で、大久保彦左衛門どのもまじえて、談合を重ねてまいりました。上様(秀忠)の御意向、国千代君にあるやに拝され、拙者、駿府へ密行。父と相談、松平どの、お勝の方さまのお知恵もいただき、乳母どのの大御所さまお直訴のほかはなく、それをおすすめに参上した次第にござりまする」
直清は緊張しきった低い声で語った。
お福の胸は感動にふるえている。
三兄弟の長兄の永井尚政と、お小姓小平次の父の阿部左馬助忠吉は、ともに秀忠の近習である。出仕さし止めの松平長四郎も、駿府詰めの義父・松平右衛門正綱へ内情を訴え、大久保彦左衛門も千熊を励ましつづけてくれていたのであろう。
竹千代君にゆかりの人々が、この窮状のなかで、なんとか活路を見いだそうと、お福の知らないところで懸命に働いていたのである。
お勝の方のお知恵とは、おそらく、過日、京都二条城での御目見得《おめみえ》の折りの、家康公の、「どうでも、手にあまることが出来《しゆつたい》せば、お勝にはもちろん、わしに直接、訴えても苦しゅうないぞ……」
という御諚であるにちがいない。
お福にとっても、それが一縷の望みであったが、決行できずにいた。直訴さし止めの本多正信の忠言もある。それに、大御所が西丸におわすのであればまだしも、駿府は四十里余の彼方である。
裁縫の者が勤める御呉服の間には、お勝の方の恩をこうむった女中が何人かいると仄聞したことがある。お勝の方は、その者に策をさずけたのであろう。ここにも、お福の味方がいたのである。
翌日、御呉服の間の中年女中が二人、お福を訪ねてきて、伊勢参り講への参加をすすめた。
遠国の社寺参詣は、発願者が何人かまとまれば許可がおりやすい慣習が大奥にある。これが策であった。
お福が願い出ると、取締り老女の民部卿局は、お福を遠ざけておいたほうが事を進めやすい、物怪《もつけ》の幸い、と阿江与の方と語り合ったのか、
「骨休めもかねて、ごゆっくりお参りなされませ」
と、いたわって、通行手形を渡した。
お福は、神妙な顔でそれを押し戴く。
出立に際し、竹千代君と小姓衆には、
「大御所さまに、決死のお願いをするため、駿府城へ参るのじゃ」
と、密事を打ち明け、
「留守の間、何がおこったとしても、思慮のないことはなされまいぞ。必ず、吉報をもって帰るほどに」
と、眦《まなじり》を決して言い渡した。
竹千代も奮い立った様子である。
若君乳母どのをふくむ大奥女中衆の旅であるから、公儀から護衛がつく。
大奥御門前で、お福は目をみはった。どのように手をまわしたのか、十人ほどの足軽隊を率いて馬上で指揮をとる陣羽織の武士は、大久保彦左衛門である。
「さあ、駕籠《かご》の者、わしはせっかちじゃ。いささか早足になるから覚悟いたせ。そのかわり、酒代は充分にはずむぞ」
まるで戦陣へ乗りこむような意気込みであった。
女駕籠三挺と足軽隊は、彦左衛門の騎走にあおられて、東海道をひた走る。
乗るほうも楽ではない。お福と女中二人は腹部に晒《さら》しをきつく巻き、鉢巻きをしめ、気付けの生姜《しようが》を口にふくんで吊り綱をにぎりしめるのである。
三日目の朝、|薩※[#「土+垂」]《さつた》峠をこえた。
富士山を背にした海辺の道に、永井直勝と松平正綱が馬首を並べ、数人の供を従えて出迎えている。
大久保彦左衛門が、うれしげに馬の手綱を引き、
「やあ、やあ、彼方にござるは、永井氏、松平氏とお見うけいたす。ごくろうに存ずる。大久保彦左衛門忠教でござる」
大音声で名乗りをあげ、一むち、駆け寄って行った。
女駕籠三挺の供揃えが二倍に増えたおもむきで、お福は誇らしく、また力強い限りであった。
午前《ひるまえ》、駿府城の、名物となっている優雅な四脚門《しきやくもん》をお福の駕籠と警護の士がくぐった。
永井直勝の先駆で、奥御殿の玄関に、お勝の方が待ちかねていた。
「お方さま、姉上さま」
お福は、小柄なお勝の方に抱きつく。
「まあ、まあ、落ち着きなされ」
押しつぶされそうになるお勝の方も、姉上と呼ばれて、再会の感慨はひとしおである。
控えの間で、お福は旅汚れの衣服を、持参の白装束に着替えた。白の小袖に、白の裲襠《うちかけ》である。
休息の間に通された。
大御所家康は、昼食中である。先客の姿があった。下段で、かしこまって相伴している老齢の武士は、京都所司代・板倉伊賀守勝重である。あと二人分の膳部が並べられてあった。お勝の方と、お福のための配膳であるようだ。
お福は、伏し目の上端に映った家康の髷《まげ》の白さとやつれに驚いていた。
(お変わりなされた)
豊満だった頬がしぼんで見える家康は、お勝に導かれて入ってきたお福を一瞥《いちべつ》、おやっというふうに白無垢姿をまじまじと見つめ、箸を投げるように置いた。昔の家康に見られなかった粗野な所作である。
お福は、下座に端座し、
「上様には、いつに変わりませぬ、ご機嫌うるわしき御尊顔を拝し、恐悦に存じたてまつりまする」
丁重に頭を下げた。
「いや、ご機嫌うるわしくはないぞ」
調子はずれの甲高い声である。
介添えのお勝の方が気遣わしげに身じろぎをしたのを、お福は感じとっていた。
(やはり大御所のご心身は御不例……)
不安がにわかに強まる。
「江戸の孫どものいざこざは、お勝からも、正綱(松平)、直勝(永井)からも聞かされた。こうるさいこと、将軍家のことは将軍家にまかせておけばよいのじゃ、と叱った」
ろれつがあやしい。
お福の背に冷や汗がにじんでいる。
「わしは、さっきまで怒っていたのじゃ。しょうこりもなく、今度は、乳母が物もうしにやってくるというではないか。たわけめ、身のほど知らずの出過ぎたふるまい、城に入れずに追い返せ、と怒鳴りつけてやった」
お福は、胸のうちでほっと安堵の息をつく。
大御所の言葉に、荒々しさと病後特有の乱れはあるが、笑いがふくまれていることに気づいたからである。
両手をつかえたまま、お勝の方へ視線を走らせると、うなずきが返ってきた。
「ところがじゃ、何としたことか、伊賀守が京都から、まかり出てきおった」
板倉伊賀守も箸を置いて、家康のやや異常な口舌をこわばった面持ちで謹聴していたが、自分の名が出ると恐懼《きようく》して頭を下げた。
「何事じゃ、わしは呼んだおぼえはないぞ、と問えば、お勝とこもごもにもうすには、七年前、二条城でわしがお福に約定したことを果してくれ、とのきつい掛け合いじゃ。二人は、その証人という。什麼生《そもさん》、この家康、老いて、時たま床に臥せるといえども、頭はたしかじゃ」
禅僧の喝のような大声に、お福は思わず、
「ははっ」
と平伏してしまう。
「うむ、うむ、覚えておる、覚えておるとも。初めて会うた折り、そなたには直訴を許した。同席の伊賀守とお勝に、証人を命じた。よかろう、もうしてみよ、わしに直接、訴えるほどの大事であろうのう」
「はい」
お福は、目でお勝の方の指図を仰ぐ。
「お覚悟の上でのお目通りでありましょう。存分に」
「ありがとう存じまする。それでは、無礼をかえりみず、ありのままを言上させていただきまする」
お福は、あらためて上段の間へ両手をつかえ、
「竹千代君、お短刀《こしがたな》にて、ご自害なされようとしました」
「なにっ」
家康の声と同時に、お勝の方と板倉勝重も驚きの目をお福へ向けた。手紙には書けないことである。
お福は、そこまでに至った経緯《いきさつ》を、できるだけ冷静に、しかし将軍夫妻の国千代君への偏愛は臆せず述べた。
聞き終った家康は、しばし、うなっていたが、急に癇を高ぶらせ、
「おろか者め」
と、声を荒らげた。
「心ひ弱き竹千代よ、それゆえ、親御から疎《うと》まれるのじゃ。そのような愚昧《ぐまい》に家を継ぐ面目があろうか。出来そこないじゃ。三代目は国千代でよい」
「なんと仰せられまする」
お福が血相を変えて叫び、敢然と膝を進めた。
「恐れながら、愚昧とは、出来そこないとは、あまりなお言葉。上様は、人の外見《うわべ》だけしかごらんになりませぬか。竹千代君は、平常、物静かではございますが、学問、武術ともに日夜鍛練なされ、秘められおりまする才智、仁愛、武勇はまぎれもございませぬ。この乳母、ふつつかながら、若君を、断じて愚昧にはお育てもうしてはおりませぬ」
家康は辟易《へきえき》して手を振り、目で伊賀守とお勝に取り鎮めを合図するが、両人は気付かぬ態で、毅然とお福へ励ますまなざしを送っている。武士の情け、お手討ち覚悟で請願しようとしている烈女への、証人としての礼であった。
「しかるに、三代さまは国千代君でよろしいとは、ああ、徳川家の棟梁であられる大御所さまの御諚とは、とうてい信じられませぬ。上様は、古来よりの長幼序ありの美徳と、長子相続の掟《おきて》を何とおぼしめされる。お代替わりごとに、跡目争いがおきましては、その家は支離滅裂をたどり、敵に侵《おか》されまする。嫡子を廃し、庶子を選ぶは、これ下剋上《げこくじよう》、ふたたび乱世を招くの仕儀ではございますまいか。上様のお志は永世の平和、徳川家《おいえ》の磐石《ばんじやく》を計ることと拝しますれば、先ず、嫡庶《ちやくしよ》は正さねばなりませぬ」
言い切ったお福は肩で息をした。顔面は蒼白である。両手をつかえたまま、上座をくい入るように見ている。
家康は膳部を押しやって、脇息を前に据え、両ひじをついて掌を組み、目を閉じている。
お勝も、伊賀守も、前のめりに家康を凝視していた。
表御殿の土圭櫓《とけいやぐら》から、底力のある音が伝わった。午《うま》の下刻を知らせる太鼓である。
家康は、夢からさめたように顔を上げ、
「そうか、嫡庶は正さずば、乱世を招くか」
と、つぶやき、
「乳母どの、大儀《たいぎ》であった。秋が深まるころに、武蔵野へ鷹狩りに行く心づもりじゃ。そのときに、な」
疲れた表情で言った。
「はっ、はい。ありがたき、幸せに存じたてまつりまする」
お福の頬にさっと赤味がさし、その面を畳にすりつけた。
家康は、お勝のほうを向き、
「将軍家へ代筆《たより》をする折りに、なにげなく、な、跡継ぎのことは急ぐことはあるまい、と書き添えておいてくれ。決めてしまったことを、隠居《わし》が覆《くつがえ》すのはよくないからのう」
「はい、早速に」
はずんだお勝の方の声である。
(大御所さまは、ご自分で仰せられたように、頭脳《おつむ》はたしかであられた)
お福の胸はうれしさでいっぱいになる。
[#改ページ]
第五章 三代将軍
1
ひもを揺らすと、きれいな音が響きあう。
鈴は本来、魔除けや祓《はら》い清めの効用があるとされるが、獅子頭《ししがしら》を象《かたど》っているので、ありがたみが倍加する。赤子の拳ほどの土鈴が三個束になっていた。
鈴束は、竹千代君の棟の、入口廊下につるされてある。
お福が伊勢大神宮の門前町で購《あがな》ってきたものだった。他人の目には、伊勢詣での土産にすぎない。だが、お福はもちろん、竹千代と小姓衆の耳には、鈴の音に大御所家康の、
「秋の深まるころに、武蔵野へ鷹狩りに行く心づもりじゃ。そのときに、な」
という慈声がこもっているのである。
廊下を通るごとに、ひもを揺らして鈴の音に聞き入るのは楽しく、心丈夫になるのであった。
伊勢参りの途中、駿府から竹千代あてに早飛脚を立てたが、それは留守を心配する乳母の心情と旅の無事を報告するごく普通の文面であった。ただ末尾に「東海の富士山がことのほかうるはしく拝され候」と加筆している。あらかじめ打ち合わせていた「首尾は上々」を意味する伏せ文字であった。
お福は、正直なところ、駿府から江戸へ引き返したかった。だが、それでは密謀が露顕して、事がもつれてしまう。はやる心をおさえて東海道を西へ旅をつづけ、伊勢大神宮で竹千代君の三代将軍実現を祈願したのであった。
伊勢山田の、宇治の郷《さと》では、お福は女中二人と比丘尼《びくに》禅寺の慶光院に宿を借りた。
大久保彦左衛門ら護衛の衆は、山田奉行陣屋泊まりである。
慶光院は、後醍醐天皇の皇女祥子内親王開基の由緒をもつ准尼門跡で、代々の院主は公家の息女が多かった。お福は、三条西家の猶妹《ゆうまい》として院主の周清上人《しゆうせいしようにん》と面識があったので、旧交をあたためたのである。
この慶光院とは、後年、お福は思いがけぬいきさつから縁を深めることになる。
帰心矢のごとし、ではあったが、反面、お福にとって得がたい道中であったことも否めない。旅は日ごろの憂さを晴らしてくれる。英気の養いになる。それに、大奥に一人でも多くの味方が欲しいお福は、呉服の間の、お紺・お梅の両人をとりこにすることができた。お福が同性に敬慕される質であることは、前にも述べた。
また、大久保彦左衛門を通じて、徳川譜代の士卒の実態と心情を知ることができた。これも、将来のために貴重な体験であった、と回想する。
(竹千代君が家督を継がれたのちに、折りふし、ご助言もうし上げることができよう)
と思うからである。
彦左衛門は、本家の甥・大久保忠隣を寄親《よりおや》とする寄子の身分であった。だが、自分では一騎当千の直参旗本の気持である。
事実、十六歳で召し出されて以来、家康の旗本として戦功を重ねてきた。
その彦左衛門の憤懣《ふんまん》は、
「われら、三河以来の譜代の者が、日々、忘れられ、軽く扱われていることでござる。家康公《ごしゆくん》との間が遠く隔たってしまった。かつて主家を裏切った帰り新参や算盤《そろばん》勘定で重用された者が出世して、われらを遠ざけてしまったからでござる」
かつて主家を裏切った帰り新参とは、本多正信を指す。家康は二十二歳の永禄六年、領内の一向一揆に苦しめられたが、その一揆の首謀者の一人が二十六歳の正信であった。
武力蜂起が鎮圧されると、正信は逃亡。七年後に、大久保忠世の尽力で帰参がかなったのである。忠世は、彦左衛門の長兄であり、忠隣の父である。
今では、本多正信は家康の殊遇によって嫡男《ちやくなん》の正純とともに勢力を張り、恩顧の大久保一族の政敵と化し、あまつさえ家康公と譜代の忠臣たちの間に入って、隔離をはかっている、と彦左衛門は睨んでいるのであった。
「上様には、深いお考えがあってのことと存するが、それにしても口惜しいことでござるよ。徳川家《おいえ》とは何らかかわりのない外様衆の前田家が百万石、関ヶ原合戦で敵方であった島津家が七十三万石、豊臣の家来であった福島正則、加藤清正、池田輝政などが三十万石ほども加増されて、五十万石の大守ではありませぬか。それにひきかえ、主家のために一命を捨てて戦ってきた譜代の者は、侍大将で五、六万、われら旗本にいたっては二千石、千石、五百石という薄い扱いでござる。他家の家来が五十万石、当家の忠功の臣が千石、五百石。われら、知行の多少に不満をもつほどいやしくはござらぬが、大禄のよそ者が大名行列を組んで威張り返り、直参が小禄ゆえに肩身のせまい思いで御城下を歩かねばならぬのが、納得できないのでござる」
旅のつれづれに、陽気な豪傑が目に涙をうかべて物語るのである。
「ほんに、不思議なことでござりまするなあ」
お福は、このようにつぶやくほかはない。
関ヶ原合戦後の、家康の外様優遇政策は、別れた夫・稲葉正成も妬み半分、批判していた。しかし、彦左衛門の憤懣は、わずか二千石の寄子の身分を恨んでいるのではない。徳川の天下のために滅私奉公した三河以来の忠臣たちが、あまりにも報われない現状を義憤しているのだった。
「竹千代君が天下さまになられれば、われらの心情を汲《く》んでくださるかのう」
彦左衛門は、期待の目で冗談めかして言ったが、すぐ首をふった。
「いや、いや、ますます世の中が泰平になれば、武勇をもって仕える者は、さらに疎《うと》んじられ、算勘者が幅をきかせるであろうよ」
さびしげに笑うのであった。
大奥の中庭で萩《はぎ》が乱れ咲き、やがて散っていった。
秋が日々深まっていく。
食膳に、松茸《まつたけ》が香気をただよわせ、鶴や鴨の吸い物が出るようになった。御鷹場に渡り鳥が飛来する季節である。
十月十六日、放鷹を楽しみながら東海道を下った大御所家康が江戸に着き、西丸へ入った。将軍家と幕府年寄衆が、早速、ご機嫌伺いに参上する。もれ話では、老齢の大御所は数日間、旅疲れを癒したもうという。
その数日がすぎても、大御所の動きはなく、お福のもとに何の沙汰もない。竹千代側に不安と苛立ちが高まる。
その張りつめた気を散らすのは、大柄のお福の、物に動じないおおらかな立ち居と、
「昔から、果報は寝て待て、ともうしまする。待てば甘露の日和《ひより》あり、との言い伝えもあるではございませぬか」
などと、むしろ浮きうきした言い草であった。
しかし、誰も見ていないところでは、お福は気弱な表情になって、持仏の釈迦如来像を一心に拝んでいたのである。
二十四日の朝食後、大奥はにわかにあわただしくなった。
|民部卿 局《みんぶきようのつぼね》が、お福のもとにあたふたとやってきて、
「大御所さまが渡らせたまいまする。お福どのは、竹千代君を後見なされ、奥御殿御玄関までお出迎えあれ」
と指示したあと、言い惜しむような表情になって、
「大御所さまには、久しく御対面のなかったお孫君御兄弟を、なつかしがられてのお渡りの由、その折り、竹千代君|乳母《うば》の顔も見たいとの仰せがあり、さよう心得られませ」
と付け加えて、急ぎ足で去っていった。
民部卿局を鈴の廊下まで見送り、その鈴束を揺らして、清らかな響きを拝み、いそいそと部屋へ戻ったお福は、
「乳母」
一声叫んだ竹千代にとびつかれた。
襖のむこうに、千熊以下小姓衆の、歓喜をあらわにした顔が並んでいる。民部卿局の声に聞き耳を立てていたとみえる。
「乳母、乳母、今日は甘露の日和になりそうじゃのう」
「若君、急ぎお支度をなされませ。粗相があってはなりませぬぞ。日ごろの稽古通りの作法で、な。皆の者、早くお召し替えの手伝いをせぬか」
「はい」
「はい」
小姓たちは納戸へ駆けていった。
木綿の無地という質素なこしらえだが、裃《かみしも》半袴の正装である。その竹千代に随従して、お福はしとやかに大奥御玄関へ出た。若君よりはさらに地味な礼装である。家康の華美ぎらいを駿府で知ったお福は、主従の衣裳をすべて質素につくり変えていたのだった。呉服の間の、お紺とお梅が意を体して、急ぎの仕立てに献身したものである。
かなりの刻《とき》がたって、阿江与《おえよ》の方と国千代が姿を見せた。民部卿局がつき従っている。
国千代は、花鳥を色とりどりに縫箔《ぬいはく》した綸子《りんず》の振袖に、錦の肩衣をつけていた。阿江与の方も、化粧を念入りに、艶やかに装っている。手間がかかったはずである。
出迎えがそろったのを見定めて、使番が走り出る。
すぐに、大手三の門まで出向いていた将軍秀忠が、父君の大御所を丁重に導いて御玄関に現われた。大御所、秀忠ともに不興の面持ちである。ごく近くで、出迎えの者たちがそろうのを待っていたのであろう。
(遅れなされたのが国千代君と阿江与の方であることは、お耳に達しているはず)
お福は、先勝の気分であった。
お客棟の大広間で、あらためて対面の儀がおこなわれた。
上段の間に、家康と秀忠。中段の間に、阿江与の方と竹千代・国千代兄弟。下段の間に、民部卿局・お福、そのほか奥女中が居流れている。
竹千代が挨拶を言上すると、家康は身をのり出して、
「うむ。しばらく見ぬうちに、大きくなられた。武士の子らしく、たのもしい。乳母どのの丹精じゃな、重畳《ちようじよう》」
と、甲高い声である。
お福は平伏のまま、からだを熱くして、駿府城での直訴の日を思いおこしていた。
「竹千代どの、これへ、ここへまいられよ」
家康は、目を細めて招く。
「はい」
竹千代は、お福に教わった通り、元気よく答え、粗相のないように気を配りながら上段の間へ進む。
「おう、おう、行儀作法もできておる。これへ、これへ」
と、自分と秀忠の間に坐らせた。
中段の間で、国千代が阿江与の方にうながされて、
「国千代でございまする」
いかにも利発そうな声をあげ、兄につづいて上段の間へ駆け寄る。
「これ」
鋭い家康の叱呵《しつか》であった。
「無礼であろうぞ。ここは、前《さき》の将軍、今の将軍、次の将軍が坐るべき席である。稚《いとけな》い年ごろとはいえ、長幼の序をわきまえざるは、傅育のあやまりであろう」
「は、はっ」
妻子の遅参から引け目の顔色であった秀忠が、蒼白になって頭を下げた。
うつむいた阿江与の方の顔面にも血の気がない。歯をくいしばっているさまがうかがえる。
「それに、国千代は、甘やかされておるのではないか。行く末、竹千代どのの家来となって忠勤|抽《ぬき》んでるべき身分でありながら、慎しみに欠け、装いも華美にすぎる」
国千代は、阿江与の方にすり寄って、泣きべそをかいている。まともに叱られ、冷たくあしらわれたのは、生まれて初めてなのであろう。
怒りの家康は、竹千代へ目を移すと、たちまち相好をくずした。
「竹千代どの。竹千代という名はの、この祖父《じい》の幼いときの名じゃ」
「はい、ありがたき幸せに存じまする」
今日の竹千代は、どもることはなく、人が変わったように快活である。
自信がなせる変貌であろう、とお福はうっとりと、上座の光景を仰ぎ見ている。
「うむ、うむ。賢い子じゃ。どれ、菓子をつかわそう。これはの、オランダ人が献上してきたビスカウトという南蛮菓子じゃ」
家康は、高坏《たかつき》に盛られた菓子を何枚か懐紙にのせて、竹千代に渡す。
「ありがたく頂戴いたしまする」
竹千代は、それをおしいただく。
家康は、うらやましそうに見つめている国千代に気付くと、
「国、そちも相伴したいか」
「はい」
「それでは、食え」
家康は、菓子を一枚、放りなげた。
下段の間で、奥女中衆がいっせいに悲鳴のようなうめきをもらす。
たしかに、この挙措は、お福でさえ息をのむほどの奇行であった。嫡庶《ちやくしよ》を正すにしては極端すぎる。
(大御所さまは、やはり、どこかおかしい)
いずれにしても、竹千代君の跡目は確定したのである。愕然としている将軍夫妻であるが、公式に表明した大御所の意向に逆らうことはできまい。
(危ういところであった)
大御所の心身が明らかに衰弱しておれば、将軍夫妻が主導権をにぎり、竹千代と国千代の立場は入れ替わっていたにちがいない、と思うからである。
2
大奥の雰囲気が一変した。
陪席を許された上級の奥女中は、大御所が竹千代君を「次の将軍」と明言したことや、国千代君を上段の間へあげず、菓子を投げ与えた光景を目のあたりに見ている。この驚きが、長局はもちろん、呉服の間、料理方、御末《おすえ》と呼ばれる雑用の下女にまでひろまるのに、わずかの刻《とき》しか要さない。
奥女中たちの、竹千代君とお福への接しかたはもちろん、小姓衆に対する態度までうやうやしくなった。
お福は早速、手綱をしめる。
「驕《おご》ってはなりませぬぞ。驕る平家は久しからず、という教えがありまする。実れる稲穂は頭《こうべ》を垂れる、ともいいまする。今まで以上に謙虚にふるまい、主従ともども学問・武術の切磋琢磨《せつさたくま》を怠りませぬように」
と諭し、引用した格言の出所、語意なども講釈するのである。
竹千代は、誕生以来の乳人であり、傅役《もりやく》であり、このたびは危うかった跡目相続のために決死の働きをしてくれたお福に頭があがらない。育ての母であり、学問・武術・行儀作法の師であり、生涯の恩人であることが骨身にしみわたっている。
「乳母の教えに間違いはない。言う通りにいたすぞ」
と、敬愛のまなざしを向ければ、小姓衆は一層、敬虔に、謙虚と切磋琢磨を誓った。
お福は、この機をとらえ、中奥御殿に竹千代君と小姓衆のための学問所を賜わるよう出願し、直ちに受け容れられた。
西丸入城は、大御所の江戸宿所となっている西丸であるので、当分|適《かな》えられそうにない。そこで、御鈴口で大奥とつながっている中奥御殿にその場を申請したのである。
千熊も十五歳、ほかの小姓たちも子供のからだつきでなくなりつつある。大奥に秩序をもたらしたいという気持とともに、松平長四郎信綱を復帰させたい思惑も強い。
長四郎は、小姓衆の長兄格であり、やはり要《かなめ》であった。千熊は、お福の実子でもあり、温和な性質とあいまって、小姓頭として適正ではないと思うのである。
李下《りか》に冠《かんむり》を整《ただ》さず。親子による専権を邪推されてはならない。派閥で苦しめられているお福は、私心による勢力をつくるまいと自戒していた。
松平長四郎の中奥出仕も直ぐに許された。
お福は、長四郎を大奥の客座敷に呼び、竹千代・小姓衆とともに、長兄格の復職を祝した。
一年余見ぬうちに、長四郎はすっかり大人びていた。十六歳である。うっすらと、ひげが生えかけていた。
兄貴分の帰復は、一同を心からよろこばせた。
竹千代は、お福の駿府直訴の陰の働きを、長四郎とその父松平正綱も懸命につとめたことを知っている。
「長四郎、無理にすずめの巣を取らせて、わしが悪かった。これからは、よくないことはよくない、とはっきり忠言してくれ、頼んだぞ」
「かしこまってございまする。それにしても、若君、大人になられましたな」
長四郎が、率直に、感嘆している。
翌日から、お福は朝食後、巳《み》の中刻(十時)に竹千代を御鈴口から中奥御殿へ送り出した。
中奥御殿の学問所には、長四郎以下小姓衆がそれぞれの屋敷から出仕している。
教導役は、幕府年寄衆をはじめ、諸役人・儒者などが交互につとめることになった。剣術は、将軍秀忠の指南役・小野次郎右衛門忠明が稽古をつける。
小野忠明は、秀忠から忠の諱《いみな》を賜わる前の旧姓は神子上《みこがみ》典膳。伊藤一刀斎から秘伝を受け継いだ当代随一の剣客である。主として大御所家康のお相手をつとめている相役の柳生宗矩が、人を見て手加減するのに反し、小野忠明は将軍といえども容赦なく打ち込む剛直の士であった。
(竹千代君も、お小姓衆も、さぞ痛めつけられるであろう)
かわいそうな気がするが、お福は敢えて、最も厳しい師範に指導を依頼したのであった。
肝煎《きもい》り役は、これもお福の内願で、酒井忠世に決まった。事実上の、竹千代輔翼の重臣となる。
当座の利便を配慮すれば、年寄衆首座の大久保忠隣か、大御所に直結する本多正信に支配を懇望したほうがよい。だが、政争に巻きこまれることは避けたかった。
お福は、胸中、両者を見限っている。拮抗《きつこう》して隠微に争う大久保派と本多派に、共倒れの危険を感じるからであった。
竹千代君の前途を冷静に考えれば、今はそれほどの力はないが、党派に偏らず、自分より七歳しか年のちがわない若さをもつ酒井忠世に将来を託したほうがよい、というお福の見通しである。
忠世は、一見温和であるが、思慮深く、厳正な信念の持主であることは、先日の会談で体験していた。
お福にとって、わが子同様の竹千代君と小姓たちと、別れた暮らしになるのは、非常につらいことであった。自らの処置が、うらめしくもなる。しかし、私情は捨てねばならない時期である。
若君を中奥御殿へ送り出した後、お福は閑《ひま》をもてあますことはない。奥女中たちが、誼《よしみ》を通じようと何かにかこつけて募い寄ってくるし、身上相談もうける。諸大名や大身旗本のご機嫌伺いも繁くなった。昼間じゅう、客座敷で応接しつづける日もある。
十日に一度の割りで、この大奥客座敷に小姓衆を招き、竹千代君とともに昼食をとる慣習《しきたり》をつくった。お福は、手塩にかけた小姓たちの成長を見守りたかったし、訓育もつづけたかった。わが子・千熊と会える日でもある。
この昼食のひとときは、にぎやかであった。箸を使っている間は、作法を重んじて静かであったが、その前後、小姓たちは我先にお福へさまざまなことを報告するのである。
「乳母どの……」
「乳母どの……」
と、声が重なって、一度に十人の訴えを聞いたと伝わる豊聡耳皇子《とよさとみみのみこ》(聖徳太子)の気分になるお福であった。
この間、竹千代は、大抵口出しをせず、にこにこと眺めているだけであった。申《さる》の中刻(午後四時)になると大奥へ戻り、お福を独占できるからである。
お福も、毎日、若君のお帰りが待ち遠しい。その時刻が近づくと、御鈴口ヘ迎えに出るのである。
「今日は、どのようにお過ごしでございましたか」
と、たずねるより早く、長廊下を曲がりくねって起居の棟に至るまで、しゃべり通しである。
入浴の介添えもお福がおこなう。夕食の相伴もお福である。寝床をしつらえるのも、侍女たちにまかせない。厠《かわや》に供をするのもお福であった。
男子禁制の理想から、小姓衆を大奥へ入れなくなって、かえって、お福は若君と水入らずの時間《とき》をもつことができるようになったといえる。実の親子にも勝る親密さであった。
(世話のしすぎではあるまいか)
と、自問することはある。
(でも、まだ八歳の稚《いとけな》さ)
昼間は、突き放しているのである。朝と夜くらい可愛がっても、甘やかしにはなるまい、とお福は自答する。
溺愛へのこの自己弁護は、やはり、竹千代の男としての成長をやや歪《ゆが》める結果をもたらし、後年、お福をあわてさせるのである。
お福が、思いもよらぬ人と再会したのは、翌慶長十七年の初冬であった。
この年も、秋の深まりとともに大御所家康は、渡りの白鳥や寒鴨《かんがも》を求めて東行し、閏《うるう》十月十二日に江戸城西丸へ着駕した。
数日の休養の後、茶会を催したり、浦和・古河・忍《おし》の方面まで気ままな狩りに興じている様子であった。
旅先の家康から、お福に使者があったのは十一月一日の夕方である。
使者は、駿府から随従してきている、顔見知りの松平正綱であった。長四郎の養父であり、直訴のときの陰働きの一人である。
「川越の喜多院へ参られたし」
という家康の口上を伝え、
「明朝は夜明け立ちになりまする」
と、付言した。
江戸から川越まで十三里。払暁に立てば、日没前に着く道程《みちのり》であった。
「川越へ……。はて、どのような御用でありましょう」
「上様は、ただ今、忍城を宿所となされており、明日、川越へ発たれまする。喜多院にて何か慶賀のことがあるやに漏れうけたまわりまするが、くわしくは存じませぬ」
喜多院とは、今年の四月まで、星野山無量寿寺《せいやさんむりようじゆじ》北院と号していた古刹である。家康は、この天台宗八檀林の一つを関東天台宗の本山に決めて、喜多院と改称させ、老朽した堂宇の修築を急がせていた。
慶賀とは、その落成の祝いであろうか。
(それにしても……)
真意がわからないまま、翌早朝、駕籠の人となった。
松平正綱が手勢を率いて、護衛と案内をつとめる。戦乱が収まって久しいとはいえ、都邑《とゆう》を離れれば、まだ野伏《のぶ》せりや盗賊のたぐいが出没するからであった。
川越路は、武蔵野平原をふみ固めた細道で、左右に水田は少なく、わずかな畑と雑木林がどこまでも続いている。途中、ところどころで、火煙が遠望された。焼き畑づくりの野火である。
「伊勢物語にございまする野火止め塚の由来をごぞんじでしょうか」
野火留《のびどめ》という聚落《しゆうらく》で休息したとき、お福は松平正綱に話しかけた。
「伊勢物語でございまするか。手前、いたって武骨者、平家物語ならば少々ひもといたことがございまするが」
才女の聞こえ高い将軍家世子|御傅役《おもりやく》に、正綱は恐縮している。
「ほんに、伊勢物語は軟弱なものゆえ、武人には似つかわしくございませぬな」
お福は小さく笑い、野火止めの一節を語った。
昔、ある男が、懸想《けそう》した娘を親から奪って武蔵野へ逃げこんだ。だが、盗人として捕り方に包囲される。男は娘を草むらにかくして、姿をくらました。
捕り方が、いぶり出しのため草原に火をつけようとしたところ、娘が飛び出して哀願し、一首詠んだ。
武蔵野は けふはなやきそ 若草の
妻《つま》(夫)もこもれり 吾もこもれり
役人は感じ入って、二人を許した――
「その、野火止めの塚は、どこか、この近くにありまする平林寺という禅寺の境内に残っているはずでございまする」
「ははぁ、なるほど……」
正綱は、まじめ顔でうなずいたが、目を冬枯れの草原へ移し、
「手前は、この川(河)越路をたどるときは、やはり、河越合戦を思いうかべまするな。天文十四年と覚えまするが、上杉管領家と古河|公方《くぼう》家の連合軍八万余騎を、北条氏康の八千の兵が破った夜戦でござる。主戦場だったと伝わる東明寺の境内には、大きな首塚が残っておりまする」
「ははぁ、さようでございまするか」
今度は、お福が浮かぬ顔でうなずいた。
川越喜多院には、黄昏前に着いた。
山門のあたりに大勢の人が集まっている。その中心に、短躯肥満の家康と長身の老僧、それに公家が数人、四脚門の額とりつけ作業を見上げていた。額は「星野山」と大書されてある。
「おや」
駕籠《かご》からおりたお福は目を凝らした。
公家の一人が、三条西|実条《さねえだ》に似ているのである。色艶のよい顔がふっくらと変わっており、全体に肉がついて重々しい風格であるが、猶兄の実条にまぎれもない。
大御所がわざわざ川越まで自分を呼び寄せたのは、このためだったのか、とお福の胸は高鳴った。
正三位中納言であるが、来春早々、大納言に昇進するはずだという手紙を受けとっている。文通は絶やさないが、一別以来、八年の歳月がたっていた。実条は三十八歳になっているはずである。
(ご立派になられて)
四つ年下の自分は三十四歳になっている、と、あらためて思い知らされ、お福は急に容貌《かんばせ》の衰えが気になり、足が前へ進まない。
(殿方は年をとるごとに味わい深くなられるが、女子《おなご》は概して醜く老いるもの)
お福らしからぬこだわりは、少女のころ、ひそかに実条を恋慕したことのあった名残りであろうか。
松平正綱の復命で、家康はふりかえり、駕籠のそばにたたずんだままのお福を笑顔で手招いた。
「よう来られた。京都の上皇《じようこう》(後陽成上皇)から御宸筆《ごしんぴつ》の山号額が贈られたのでな、早速、お掲げしたところじゃ。明日、奉戴の法要がおこなわれる」
語った家康は、なつかしそうに微笑している三条西実条をちらっと見やって、お福に、
「驚いているようじゃが、三条西卿は、御勅額を奉じてまいられた」
御城を離れているせいか、家康は気さくである。心身ともに健康のように拝される。
「お福どの」
実条のややかん高い声は変わらない。
「そなた、昔と少しも違わぬのう。いや、かえって若返ったように見ゆる。江戸の水が合ったようで、重畳」
「あれ、まあ、実条さま……」
お福は、まっ赤になって身をくねらせた。
「これは、どうじゃ。女豪傑の色っぽさよ。積もる話は、のちほど、ゆるりとなされよ」
家康は上機嫌である。
「乳母どのを、遠路招きよせたのはな、今一人、昔のそなたをよく知るという御仁に、早よう会わせたかったからじゃ」
その言葉が終らぬうちに、住職らしい面長の、魁偉《かいい》といえる骨太の矍鑠《かくしやく》とした老僧が、
「お福どの、久しいのう」
と、目を細めている。
「はい……」
お福は、長身の老憎を仰ぎ見て、しきりに思い出そうとする。
家康が愉快そうに笑って、
「乳母どのが、今菩薩とうやまわれる天海僧正と知りあいであったとは、それを聞いて、わしも驚いたものじゃ」
「天海僧正さま……」
お福は、焦る。
大奥にとじこもっているお福は世相に疎くなっていた。だが、天海僧正の高名は耳に入っている。僧正は、徳川家の関東入国前から、星野山無量寿寺の北院に住していたようであった。数年前に、総本山の比叡山延暦寺の探題職に任じられ、南光坊に兼住して仏教界の浄化にあたっているとも聞く。
家康は、この南光坊天海の人柄と法話にことのほか感銘し、
「天海僧正は人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりしを」
と、側近に嘆いたという逸話も、お福は思い起こすことができた。
しかし、そのような高僧と、どこで知り合いになったのであろうか。心当たりは、全くない。
お福の困惑に、天海僧正は底力のある声で笑った。気持のよい哄笑《こうしよう》である。
「無理もない。わしのほうは、よく知っておるが、お福姫は、まだ四、五歳じゃった」
(四、五歳……)
お福は懸命に幼時の環境をよみがえらせようとする。
(坂本城……粟田口……)
「さよう、坂本城。琵琶湖にうかぶ美しい城であった。落城の折り、女子供らは舟で逃れ出たのじゃが、わしは、お福姫を肩にのせてな……」
「そのお坊さまは、随風《ずいふう》さま。亡き母から、くりかえし聞かされました」
叫ぶようにお福は言った。
「その随風が、この天海じゃ」
天海僧正は大口をあけて笑う。
「あ、あ、あ」
お福は絶句し、土下座した。
「これ、これ、着物《めしもの》が汚れるではないか」
天海は身を屈《こご》め、お福を立たせようと持ち上げたかに見えたが、そのままひょいと、重ね着でさらに肥った大女を自分の肩にのせたのである。
一同が度肝《どぎも》をぬかれた怪力であり、傍若無人、無邪気きわまる所作であった。
「こうしての、舟を押して、湖《うみ》を渡ったのじゃ」
その格好をしてみせて、大笑いである。
「あれ、あれ、お許しを、僧正さま……」
お福は袖で顔をおおって哀願している。
「陸《おか》へ上がったところで、槍ぶすまに迎えられ、黒田官兵衛どのに誰何《すいか》されもうした」
「ほう、如水《じよすい》に。そういえば、坂本城攻めに加わっていたようじゃな」
家康もあっけにとられていたが、すぐに平常にもどり、今は亡き智謀の将の名に興味を示した。
「近々、長政に会ったら話してやらずばなるまい。そのほうの父は、今をときめく天海僧正と竹千代どのの母代《ははしろ》を脅《おど》したのだ、とな」
家康も愉快そうな笑いをたてる。
長政は、晩年に如水と号した黒田官兵衛|孝高《よしたか》の嫡男で、筑前五十二万石の大守である。
「その黒田官兵衛どのと問答しているうちに、湖の風でお尻《いど》が冷えたのでごじゃろう、お福姫がの、わしの肩で小水をたれ流しおった」
お福の臀部をたたいての哄笑である。
「あれーっ」
身も世もない声をあげて倒れかかるお福を抱きとめて、
「つい、昔話に熱が入ってしもうた」
悪びれず、地上へおろす。
お福は、うずくまったまま、泣きじゃくった。
天海僧正は、平気な顔で、
「さあ、さあ、斎《とき》(食事)の用意ができているころでごじゃろう」
と、まだ呆然《ぼうぜん》と立っている三条西実条をはじめ、賓客をうながして、客殿のほうへ向かう。
家康が、お福のそばにしゃがみこんで諭した。
「お福、僧正を恨んではならぬぞ」
「はい」
「そなたも、これから、好むと好まざるとにかかわらず、権勢を強めてくる。将軍家世子の母代ゆえに、な。権力というものは、魔物じゃ。自分で自分を滅ぼしてしまうことにもなる」
家康は、思い出し笑いをかみしめた表情で、
「この世に、弱味をにぎられている恐《こわ》い人がおる、というのは、ありがたいことじゃ。そう思わねばならぬ。僧正は、そなたの行く末を見透されて、温かい説法を垂れなされたのじゃ。わかるな」
「はい。肝に銘じましてございまする」
お福は端座して平伏した。
今日は慈父のような家康である。
翌十一月三日、伽藍修築落慶と勅額奉戴の祝いを兼ねた大法要が営まれた。
そのあと、自然の野趣を残した広い庭園で、茶会が催された。
大御所家康と上皇使者・三条西実条が主客であるが、天海僧正は集いくるものは貴賤を問わず招き入れたので、にぎやかな茶の湯となった。
その天海僧正の姿を目で追うお福は、人の縁《えにし》の不思議さに夢心地であった。七十七歳になっているという僧正の、頑丈な肩の温《ぬく》もりが、まだお尻《いど》に残っている。
紅葉が散る季節である。彼方の築山が落ち葉で赤と黄の段だら模様をえがき、それが冬麗《ふゆうら》らの光に映えて、お福の目にはまぶしい。
3
大納言・三条西実条が従二位に昇り、武家伝奏に補されたのは、慶長十九年一月五日である。
武家伝奏は、幕府から願い出ることを天皇に伝達奏聞する役で、武家が政務を独占してからは、朝廷百官のなかで最も重い役職となっていた。他の官職は、ほとんど有名無実と化していたからである。
したがって、納言・参議の官位をもつ者から、学才があり、弁舌にすぐれ、かつ帝《みかど》の臣《おみ》としてふさわしい容貌の持主が選ばれた。定員は二名。先任の相役は大納言・広橋兼勝《ひろはしかねかつ》である。
朝廷としては、将軍家世子|御博役《おもりやく》のお福と縁戚であり、お福を通じて大御所および将軍家と親密になった三条西実条に、一段と難儀になってきた幕府との疎通を期待しての抜擢であろう。
政権をにぎる徳川幕府は、表面では朝廷に畏敬をよそおいながら、諸大名と同様にきびしく統制しようとしている。あらゆることに干渉していた。二年余前の後陽成天皇の譲位は、その力ずくの不遜に耐えられなくなっての、怒りの表明にほかならない。
即位のときが十六歳、この正月で十九歳になる今上《きんじよう》・後水尾天皇を、幕府の強権から護持せねばならない武家伝奏の責務は重い。
しかし、実条は、この官職を狙っていた。お福を京都所司代に推挙し、江戸城へ送り出すことになったときから、菊(天皇家)と葵(徳川家)、公家と武家、京都と江戸の、その両方にかける虹のかけ橋の一色《ひといろ》になりたい、と宿願を立てたのである。
当時は、謙虚に、
「かけ橋の一本《ひともと》の杭になりたい」
と言ったものだが、虹は七色である。
お福が最もあでやかな色合いならば、それに副《そ》う一色は、
(武家伝奏になったときの、まろであろう)
と夢想していたのであった。
お福も、兄と敬愛する実条に、大輪の花を咲かせて欲しかった。学識があり、和歌の家の風雅を身につけ、時として剽軽《ひようきん》な言行で人を和《なご》ませるが、武家何するものぞ、という気骨も秘めている。公家らしい気品のある容貌も兼ねそなえていた。
一月十八日、三条西実条が就任挨拶のため江戸入りしたことを知ったお福は、胸をときめかせ、対面の日を心待ちにした。実条一行は、大手門前竜の口の伝奏屋敷を宿所にしているはずである。
武家伝奏は朝廷と幕府のつなぎ役である。幕府側に好感を植えつけるため、何はさておいても江戸へ下向してきたのであろう。
(固陋《ころう》の、これまでの殿上人《てんじようびと》とはちがい、花よりも実をおとりになる実条さまらしい智略)
お福は、禁裏の高官という見栄を捨てて、「東夷《あずまえびす》」へ早速「御機嫌伺い」にやってきた実条の英断を、心のなかで賞《め》でた。
(世の中は変わっていく。人も変わらねばならぬ。実条さまも、そして、わらわも……)
お福は三十六歳。天海僧正という心強い味方も加わって、地位は強化されている。
阿江与の方も民部卿局も、大御所をはじめ幕府年寄衆、天海僧正らが後ろ楯になっているお福に、もはや悪意をあらわにすることはできない。
竹千代は十一歳、お福の膝下で順調に成長していた。
三条西実条が江戸へ直行してきたのは、大御所が在府していたからである。大御所家康と将軍秀忠に、同所で談合できるのは、布令二つより出るの感の幕府の真意を別々に推察する労がはぶけて、実条には都合がよい。
家康は、昨年の九月十七日に駿府城を発ち、二十七日に江戸城へ入って以来、関東から離れようとしなかった。浦和・川越・鴻巣・葛西などに鷹狩りに出向くほかは、西丸にあって、本多正信・正純父子を座右におき、密議を重ねている様子である。
江戸長期逗留も異例なら、西丸に将軍家をはじめ幕府年寄衆、それに内外の智者と目されている人士を代わる代わる呼んで密談するのも、今までにないことであった。
招かれた人士は、金地院崇伝、天海、林道春(羅山)、京都所司代・板倉勝重、外様大名であるが家康の相談相手として知られる伊予二十万石の藤堂和泉守高虎らである。
(何か大事が起こりそうな……)
大奥にいるお福にも異変を予感させる、家康周辺のあわただしさであった。
その過労のためか、老齢のせいか、
「大御所さま、御不例《ごふれい》(病気)のため、御鷹狩りをおやめあそばされた」
という噂も、再三、耳にする。
お福は、しかし、この風聞にさほど憂慮を覚えなかった。
(竹千代君のための、大御所さまのお役目は済んでいる)
という思いをもっているからである。
この冷徹さを、お福の変貌の一つに数えることができよう。
(あと、大御所さまのお役目が残っているとすれば、豊臣秀頼公が三代将軍位を継ぐ、その芽を根こそぎ抜いてくださることじゃ)
お福の頭のなかには、竹千代君の将来しかない。何事も、竹千代君中心に考える。
しかし、竹千代君を、無事、三代将軍につけることが、即、徳川家の永世繁栄と天下万民の平和至福につながると信じるお福は、この私情を少しもやましく思わなかった。無二の忠節であり、大義に殉ずる道だと考えている。
一月二十日の午後、お福は西丸奥御殿へ招かれた。気ままに大奥を出ることのできないお福のために、家康が、またはお勝の方が、猶兄との懇談の場をもうけてくれたようである。
上座下座のわずらいのない数寄屋へ通された。簡素な茶屋に、家康と実条。それに、炉の前のお勝が微笑で迎えた。
お勝の方は、前年九月末の、家康の江戸入りに随伴していた。長旅が予定されていたからであろう。
老弱の家康の影のように、鷹狩りにも付き添っていた。家康は七十三歳、お勝の方は三十七歳である。
家康が在城のとき、お勝の方はしばしば本丸大奥を訪れてきた。まず、阿江与の方の御機嫌を伺い、その帰りにお福の部屋へ立ち寄った形で、呉服の間のお紺やお梅など旧知を呼び、双六《すごろく》・歌がるた・貝合せ・碁《ご》などを楽しむのである。碁は、殿方が夢中になる陣取りの囲碁ではなく、たわいがない連珠《れんじゆ》、すなわち五目並べであった。
お勝の方も、お福も、もとは武家の出、勝負ごとにはつい熱が入り、大きな声が出て、かしましい。
「母代《ははしろ》さまが、まるでお子のようになられて」
と、奥女中たちは、普段は厳然としているお福の意外な姿をみて、うれしがるのであった。――
喜多院での邂逅《かいこう》以来、一年数カ月ぶりに接する実条は、お福の目にはひときわ男ぶりが上がって見えた。
ふっくらと肥りぎみだった体躯が、ほどよくひきしまっている。公家独特の薄化粧が高貴で、戦場焼けが連日の鷹狩りで地肌になった猫背の家康を、引き立て役にしていた。
数日前からの胸のときめきは、実条と目を合わせたとたん、|唐紅 《からくれない》の霧となって顔面に散ってしまった。
また家康に「女豪傑の色っぽさよ」と、からかわれそうである。
お福はあわてて平伏し、家康に招かれた御礼を言上し、そのままの姿勢で、実条に武家伝奏補任の祝辞を述べた。
茶を喫しながら、京都の近況、禁裏で興行された女歌舞伎のこと、キリシタン禁令のこと、竹千代君の成育、鷹狩りのこと等々、なごやかに話に興じる。
キリシタンが話題になったのは、昨年の暮、家康が禁令を金地院崇伝に起草させ、全国に公布したからである。
これまで、伴天連《バテレン》の宗門布教は貿易の利益とのかねあいがあって、黙認であった。ところが、お膝元の駿府城の奥御殿にも、おたあジュリアという美しい奥女中をはじめ、多くの信者がいることがわかった。さらに、側近の本多上野介正純の家臣・岡本大八なる者がキリシタンで、長崎奉行と肥前の大名有馬晴信をまきこむ贈収賄と殺人未遂が発覚し、これを機会に家康は禁制にふみきったのであった。
一方、にわかにキリシタンを邪教と断じて弾圧にのり出したのは、豊臣秀頼の大坂城に伴天連と諸国浪人の信者が無数に集まりつつあるため、との取り沙汰もあった。
伴天連は、母国のポルトガルやスペインから軍船と軍隊を呼び、豊臣家の巻き返しに力を貸すのだ、という噂も流れている。
その風説を裏付けたのは、禁令布達の直後の十二月十四日、大久保相模守忠隣に京都|出張《でばり》が命じられ、正月早々、軍勢を率いて畿内のキリシタン制圧へ向かったことである。年寄衆首座の出馬であった。西丸での連日の密談の一つは、邪宗門の根絶を通じて大坂城の孤立を計ることであったか、とお福にも推察されたのである。
この推察は間違っていなかったものの、思いもよらぬ異変が、茶室でなごやかに語らっていた同時刻に、京都で起こっていたのだった。
このことを、お福が知るのは、五、六日後である。秘密は完璧に守られていて、大御所と将軍のほかは本多正信・正純父子ら数人しかこの件の策謀に与《あずか》っていなかったようだ。
お福は、西丸での密議は、豊臣家対策だと初めは予想していた。
秀頼、というよりは母堂の淀殿が、徳川家を永世の将軍家とは認めず、秀頼幼少のため一時政権を貸与した仮の幕府という考えを改めていない。徳川家は、あくまで豊臣関白家の大老職なのであった。
現将軍秀忠は、淀殿からみれば義弟である。徳川の世子竹千代は十一歳にすぎない。秀頼は二十二歳。見事に成人して、都人や豊臣恩顧の諸大名、浪人、キリシタンなどから期待のまなざしを受けている。
淀殿はちかごろ、
「豊臣関白政権復活、あるいは秀頼どのを秀忠どのの養嗣子に直して三代将軍に。さすれば、四代将軍は秀頼どのと徳川家血筋の千姫との間にもうけられるであろう公子が継ぐことになるゆえ、両家は合流、一筋の政所《まんどころ》となって天下に真の泰平がきたる」
という持説をあらためて持ち出し、朝廷筋や五山の高僧、豪商等に周旋を依頼、江戸城の阿江与の方にまで働きかけているという。
阿江与の方は、姉・淀殿からの申し入れに、
「それも一案」
と、秀頼公の次の将軍は、今は九歳の国千代どのが継ぎ、五代将軍に秀頼公・千姫の公子、という条件を逆に密送した、という怪説までお福の耳に入っている。
お福憎しと国千代への愛着が一層つのっているにちがいない阿江与の方である。あながち、世間のつくり話として笑殺できないお福であった。
噂を伝えるのは、主として呉服の間のお紺とお菊である。どのような風聞でも知らせてほしい、とお福が命じているからであった。そのような密命を下すまでに、お福は権勢をひろめていた。
呉服の間は、将軍家の御用達や奥女中たちが注文する呉服・織物商人など外の者が普段に出入りしている、いわば大奥の窓である。豪商は大抵、京都に本店を置き、大坂・堺・長崎といった都邑に支店を配していた。商売柄、世間の動向に敏感であるため、さまざまな風説が最も早く呉服の間に流れこむのである。
お紺とお菊は、お福のために、巧みに話を引き出すので、かなりの秘話まで居ながらにして集めることができる。同じ大奥のすぐ隣の棟の、阿江与の方や国千代君の様子も、出入り商人を介した呉服の間からの報告で、つかめるほどであった。
早耳の本多正信を手足にしている家康である。お福が知るほどの世評ならば、いち早く腹に収めているであろう。
家康は、将軍家に豊臣の血を入れることを望んでいない。むしろ、豊臣家を将来の禍根と考えている。そのことは、お勝の方のもれ話で、お福は確認できていた。
それゆえに、大御所家康は、目の黒いうちに豊臣家に何らかの手を打つであろう、とお福はにらんでいたのである。
(そうでなくてはならぬ、竹千代君の御ために)
お福は、よい機会だと思った。
茶会が果てようとしたころあい、なにげない口調で、
「大御所さまは、豊臣家をいかようになさるおつもりでござりましょう」
と、問いかけてみたのである。
「ほう、乳母どのも気にかかるか」
案の定、家康は興を示した。
「はい。秀頼公が、ご立派に成人なされている由。万が一、三代さまになられますると、福は、生きてはおれませぬ」
お福は大胆に答える。
家康は愉快そうに笑った。
「そうよのう。竹千代どのの傅役《もりやく》としては、気がもめる成り行きになったものじゃ。それでは、そなたは、豊臣家をどうすればよいと思うぞ」
戯《ざ》れ言に近かったが、家康の目は光っている。
お福は、一瞬のちゅうちょの後、抑えきれない声をほとばしらせた。
「大御所さまに、豊臣家を滅ぼしていただきとう存じまする」
驚きの小さな声が三条西実条とお勝の方の口からもれた。
家康だけは、欣然とうなずき、
「さすが、竹千代どのの母代《ははしろ》じゃ、思い切ったことをもうす。本丸表御殿の年寄衆は思案のしすぎで、ぐずぐずともどかしいが、そなたは女の身で、わしに豊臣を滅ぼせと、命令しよったわい」
目を細めて笑う。
「命令などと……そのような恐れ多いことを。お許しくださいませ。これも、徳川家《おいえ》の弥栄《いやさか》と竹千代君の三代さまを切に願うあまりのはしたなさと、御寛容くださいまするよう」
「わかっておる、わかっておる。愛《う》いやつじゃ」
家康は満悦の笑みを、あっけにとられた表情のままの三条西実条へ向け、
「卿《おんみ》の|猶 妹《いもうとご》は、ただものではござらぬのう。昔から、このように勇ましくござったか」
「……別人を見る思いでございます。のう、お福どの、そなた、徳川家の人になりきってしまわれた。いや、お見事、お見事」
気圧《けお》されたように賛辞を呈するのであった。
お勝の方は、京都二条城で初めて会った日のことを胸にうかべているのか、感慨深げに「徳川家の人になりきった」お福を眺めている。
翌一月二十一日、家康は三条西実条一行とつれ立って、駿府城へ帰るため江戸を離れた。
それから五、六日後のことである。
お福は、思いもよらぬことを、呉服の間のお紺から耳打ちされた。
「とても信じられませぬが、相模守さまが、お禄召し上げのうえ、近江の国へ流罪《るざい》になられたとのこと」
「大久保忠隣さまが」
お福は目を丸くした。
「相模守さまは、京都へお着きになって、キリシタン征伐をはじめようとなされた矢先、所司代さまから上意を伝えられたそうにございます」
「そのまま、お受けなされたのであろうか」
「なにか、お覚悟の前のような、そのような御様子で、改易配流の申し渡しをお聞きになったとか」
所司代板倉伊賀守勝重が上意を伝達したのは、一月二十日の午後であったという。お福が、大御所に招かれて、三条西実条とお勝の方をまじえて、茶を喫し、談笑していたころである。
この風説は、やがて事実だとわかった。
三河以来の名門であり、家康の股肱《ここう》と目され、秀忠の御傅役《おもりやく》をつとめ、ついには幕府年寄衆の首座を占めた重鎮の、突然の追放である。譜代大名・旗本はもちろん、三百諸侯も青天に霹靂《へきれき》を聞くような驚きであった。
大久保派が本多派に完敗した、と解することもできる。
お福は、しかし、忠隣の失脚に、ほとんど痛痒《つうよう》を感じなかった。
(竹千代君のために、さほど力になってくださらなかった。これからも頼りにはならないお方だ)
と、見切りをつけていたからである。
考えてみれば、去年(慶長十八年)の四月に、忠隣の寄子で、大久保一族の資金源《かねぐら》と見られていた天領二百万石を治める総代官で金山総奉行の大久保石見守長安が病死した。この金主を失ったこと自体が痛手だったが、死後、私曲非道が顕《あらわ》れたとの理由で遺族・家臣一統が死罪に処せられ、姻戚大名や知己の士が数多く連座したのである。これも世を震憾《しんかん》させた事件であった。
このときから、長安の寄親である大久保相模守忠隣の命運は定まっていたといえるかも知れない。
お福が背筋を冷たくしたのは、忠隣の不意の没落よりも、かつての寵臣であり、勲功厚い現職の幕府最高官を、いとも簡単に抹殺してしまう大御所家康の非情さに対してであった。
(これも、老耄狂気のしからしむるところであろうか)
そうでもなさそうである。このところ、大御所の頭はたしかのように拝された。
4
大坂と江戸との間がにわかに緊迫し、家康が無理押しに戦端をひらいたのは、大久保忠隣放逐後、十カ月目である。
このころになると、忠隣改易の真意が、お福にも呑みこめていた。
本多正信・正純父子が、家康の意を体して、
「豊臣は、御家の将来を考えれば、必ずや騒動の元凶になりまする。理非はさておき、今のうちに、断固、討たねばなりませぬ。豊臣を亡きものにしてこそ、天下一統、永世和平が成ったといえましょう」
と力説するのに反し、大久保忠隣は、
「秀頼公は、将軍家の姫君(千姫)の婿殿であり、最も親しい徳川一門でござる。決して敵対しているわけではござりませぬゆえ、天下人の寛容をもちまして和合の道をさぐるべき」
と、正論をゆずらなかったのである。
正論が必ずしも時勢に適合しない前例を、家康の後継者選びのとき、正論で事実上の長男である秀康を推して敗れた本多正信に見ることができる。その時の仇を討ったわけではあるまいが、今度は忠隣が完敗したのであった。
将軍秀忠も、重臣間の対立を避け、徳川陣営を一枚岩にするためには、大御所の忠隣追放の断に、同意せざるをえなかったようである。
豊臣家を滅ぼして天下統一を仕上げる前に、家康は徳川家の内部統一を断行したといえよう。大久保忠隣は、その犠牲にほかならなかった。
決して敵対しているわけではない豊臣家を討伐する大義名分は、お福には滑稽なほど強引に感じられた。
目的のために手段を選ばないのは、政略の一策として了とするが、
(もう少し優雅にやれないものか)
と、大御所をはじめ武家の粗暴なまでの強気に、あきれかえってしまう。
豊臣家は、家康にすすめられて、秀吉ゆかりの東山・方広寺大仏殿の再建をすすめていた。御家無事の祈願をこめた大普請である。手元金ではたりず、太閤分銅と称される軍事用備蓄の金塊まで幾つか鋳潰したようだ。これも、豊臣家の財を減らすための、本多正信が発案した遠謀と取り沙汰されている。
その大仏殿完成を待って、落慶法要の直前に、突然、家康は全く理非を無視した難題をつきつけて、豊臣側の逆上を誘ったのであった。
七堂伽藍の鐘楼につるされた梵鐘の銘に、徳川家|呪阻《じゆそ》の文字があるという些細事である。
「鐘銘の文中国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌≠ニあるが、国家安康は家康の御名を引き裂き、君臣豊楽 子孫殷昌は豊臣を君主として、子孫殷昌を楽しむ、と読めるが、不届至極ではないか」
と、談じ込んだのである。
幕府は、豊臣方の弁明や陳謝に一切耳を傾けず高飛車に、三カ条の恭順のあかしを求めたのだった。
一、大坂城を明け渡して、秀頼は遠国の一大名となる。
一、秀頼が江戸に出仕する。
一、淀殿が江戸に居住する。
秀頼あるいは淀殿の江戸出府は、人質を意味した。徳川家を旧臣とみている豊臣側には、とうてい受け入れることのできない要求である。
淀殿と秀頼は屈辱よりは決戦を選び、大坂城に兵を集めた。挑発に乗って、滅びの道に足をふみだしたのである。召募に応じたのは、関ヶ原合戦で没落して徳川に恨みをもつ浪人ばかりで、真田幸村・後藤又兵衛ら数えるほどしか大将格はいない。それでも、天下転覆に望みをかける軍兵は十万余人に達した。
攻撃軍の総大将・大御所家康が手勢をひきいて駿府城を出陣したのは、十月十一日。
将軍秀忠は、東国の諸大名が結集するのを待って、十月二十三日に江戸城を進発した。
およそ十年前、秀忠が将軍宣下をうけるための上洛では、供奉する諸大名の家臣団は綺羅《きら》を競い、城下は百花繚乱のおもむきであった。
今も、城下は軍勢で満ち満ちている。が、長槍を林立させた足軽隊や鉄砲隊、それに大筒《おおづつ》組も目立ち、鎧《よろい》のすれあう音、軍馬のいななき、雄叫《おたけ》びなどとともに殺気が大奥の物見櫓まで吹き寄せてくる。
軍列は切れ目なく東海道を上り、後詰《ごづ》めの部隊を見送るまで五日間を要した。その後も、小荷駄隊が、荷を満載した牛馬を二百頭も三百頭もつらねて、本隊を追って行く。
江戸城の留守居の大将は、名目の上だけではあるが、将軍世子の竹千代である。
徳川方の軍兵が大坂城を十重《とえ》二十重《はたえ》に包囲完了したとき、総勢は二十万をこえていた。
この攻城軍のなかに、慶長十二年に隠棲地の美濃国内で一万石を給されていたお福の前夫・稲葉正成の姿があった。お福の周旋ではなく、家康が関ヶ原合戦時の功労を理由に召し出したのである。
寄親の大久保忠隣流罪に連座して、二千石の禄を失った大久保彦左衛門は、間もなく駿府城へ召し出されて、家康の旗本に再登用されていた。知行は千石に半減したが、槍奉行に任じられ、勇躍、大坂城を遠望する茶臼山本陣を固めている。
彦左衛門の直参復帰には、お勝の方を通じて嘆願したお福の陰の力がなかったとはいえない。彦左衛門は忠義純情の御家人であり、竹千代君世子決定の功労者の一人である。わが子・千熊正勝の隣人でもあった。
戦闘は、十一月に入って本格化したが、前《さき》の天下人・太閤秀吉が難攻不落を豪語した大坂城である。徳川勢は攻めあぐみ、講和にもちこんだ。むろん、策略で、和睦の条件に環濠を埋めさせたのである。
裸城にしてしまったところで、翌慶長二十年の夏、籠城の浪人軍の追放を要求して豊臣方を怒らせ、戦争再開にもちこんだ。
激戦が五月六日と七日の両日にわたって城下で展開され、六日の夕刻、豊臣勢は全滅、淀殿・秀頼母子は近臣や侍女たちと天守閣下の櫓にこもり、火を放って、紅蓮の炎のなかで自害し果てた。
秀頼の正室の千姫は脱出に成功し、家康の陣所へ導かれている。
豊臣家は二代にして滅びたのであった。秀吉が関白に任じられてから数えれば、三十年の家門にすぎない。
(だが、徳川家は、さらに日が浅い)
家康が将軍宣下をうけ、江戸に幕府をひらいてからの歳月は、わずか十二年、やはり二代目である。
(豊臣家の轍《てつ》を踏んではならぬ。竹千代君が三代さまとなり、御子が四代将軍を継ぎ、御血筋が五代、六代、七代……と永世つづいてほしい。そのことが、長久の平和につながり、万民に幸福をもたらすことになる。大坂合戦で鬼籍へ入った敵味方数万の霊を慰めることになろう。その基《もとい》は、三代将軍の実現にかかっておるのじゃ)
お福の想念は、結局、そこに帰一するのであった。
慶長二十年は、戦塵がおさまった七月十三日に改元され、元和元年となった。年号に、平和の元始にしたいという願いがこもっている。
その七月七日、遠征中の将軍秀忠は、伏見城に諸大名を召し集め「武家諸法度十三条」を発令した。
同月十七日、二条城において、大御所家康と将軍秀忠が同席で、五摂家をはじめ主だった公家を前に「禁中並公家諸法度」を発布。
両法度は、以後、何度か改訂し、詳細峻厳に整っていくが、豊臣家を滅ぼした直後に、全国の武家と伝統を有する公家を、法令をもってはっきり支配下におくことを宣告したのである。
諸大名は恐れ畏まって服従を誓い、天皇をはじめ公家・門跡も憤怒を抑えて遵守を回答した。
武家伝奏の三条西実条は、この禁中並公家諸法度の布告にあたって、公家側と武家側の板ばさみになり、苦しんだようである。
お福への書簡で、
「御身は徳川家の人になられたゆえ、気が楽でありましょうが、まろは蝙蝠《こうもり》の悲哀を味わいました。鳥であろうとしても鳥から邪険にされ、獣《けもの》のところへ行けば鳥じゃと追い返されまする」
などと、皮肉まじりに愚痴をこぼしていた。
お福は返信の筆をとり、
「福は、竹千代君の御為にこそ献身いたしまするが、武家の召使いとは思っておりませぬ。誓いました大望がございまする。実条さま、蝙蝠とは情けのうございます。貴兄は、聖なる鹿であり鱗翅《りんし》をもつ瑞鳥でもある麒麟《きりん》でなければなりませぬ。これからもめげず、京都と江戸にかかるかけ橋を飛び駆けてくださいませ」
と、激励したものである。
お福もまた、美しき麒麟でありたかった。
将軍秀忠の江戸城凱旋は、八月四日であった。
大御所家康は、いったん駿府城へ帰還し、十月十日に江戸城西丸へ入り、あらためて諸大名の祝賀を受けた。
お福の新たな出願で、家康と秀忠は話し合い、竹千代輔翼の士が正式に選出された。酒井|雅楽頭《うたのかみ》忠世・土井|大炊頭《おおいのかみ》利勝・青山|伯耆守《ほうきのかみ》忠俊の三人である。
酒井忠世は、四年前から、お福の希望で竹千代君教導の肝煎り役で、事実上の傅人《もりびと》であった。大久保忠隣失脚の後は、年寄衆の重鎮になっている。当年四十四歳。
土井利勝は四十三歳。幼いときから、当時の徳川家本拠・浜松城の奥御殿で育てられたことから、家康の落胤《おとしだね》と噂されたこともある。だが、家康の伯父・水野信元が隠し女に生ませた庶子であった。七歳のとき、誕生したばかりの長丸君(秀忠)に御小姓として付けられ、以後、秀忠とともに成長してきた。慶長十五年から年寄衆に加わり、今は酒井忠世と並ぶ幕府の実力者である。
青山忠俊は、今年の五月に年寄衆に抜擢されたばかりの新鋭であった。三十八歳。幕府草創期の老職で関東総奉行を兼ねていた青山忠成の嫡男である。父の忠成は、御鷹場周辺の村民の難儀を救うため、増えすぎた野鳥の捕獲を許して大御所の逆鱗《げきりん》にふれ、閉門に処せられた。忠俊の重用は、その罪滅ぼしの意がふくまれているようにも見られる。父に似た剛直、正義の人である。
家康は三人を呼び、秀忠と竹千代、それにお福を陪席させて、次のように訓示した。
「竹千代どのは、いずれ三代将軍になられる。将軍は武家の棟梁《かしら》であるとともに、万民の師表と仰がれたいものじゃ。竹千代どのは十二歳。これから急にからだが大きくなり、血気もみなぎってくる。理屈を覚え、我儘が出るやも知れぬ。表御殿での暮らしが多くなるゆえ、母代《ははしろ》どのの目の届かぬところ、三名にして、厳しく躾けられるよう」
「はい」
家康は、三人の顔を一人一人凝視して、言葉を継ぐ。
「忠世は、厳正にして思慮深い性ゆえ、引きつづき第一の後見として、慈仁ぶかく、軽率にならざるよう教導してくれ」
「はっ」
「利勝」
「はっ」
「そなたは、知恵にすぐれ、機略があるゆえ、時に応じ、よき相談相手になられよ」
「心得ましてござりまする」
「忠俊」
「うけたまわりまする」
「なんじは、正義の心が強く、剛勇抜きんでておる。公子が邪曲に傾くを防ぎ、軟弱にならざるよう、遠慮なく鍛えられよ」
「御諚、肝に銘じましてござりまする」
「さて、将軍家」
「はい」
秀忠は、生来実直の質だが、父の前ではとりわけ謹み深い。
「お聞きの通りじゃ。竹千代の補導は、奥ではお福どの、表においては三人にまかせ、余人には口を出させぬがよろしかろう。あれこれいじると、竹もまっ直ぐには伸びず、曲がってしまう」
「仰せに従いまする」
この後、当の竹千代に、母代と三人の傅役《もりやく》の教えを必ずや守るよう、諄々と説き聞かせた。
「御配慮の数々、ありがとうございまする。大御所さまのお諭《さと》しには、決してそむきませぬ」
竹千代は大人びた口調で、はっきりと誓った。
大御所家康は、この竹千代輔翼の士の任命を置き土産《みやげ》に、半年後の翌元和二年四月十七日、七十五年の生涯を駿府城で閉じた。
大御所の死去によって空城になった西丸へ竹千代・お福とその付人たちが移ったのは、元和三年十一月である。世子の公認といえた。
元和六年九月七日、十七歳で本元服する習わしに則《のつと》り、竹千代の元服式が本丸表御殿でとりおこなわれ、家光と改名した。家康の家の字をいただいたのである。
式典には、朝廷から勅使の参向があった。広橋内大臣兼勝と三条西大納言実条である。
十五歳の国千代も、阿江与の方の強い要望で、同時に元服し、忠長と名を改めた。秀忠の忠を継いだのである。
(御台《みだい》さまは、まだまだ、あきらめてはおられぬような)
お福は警戒したが、それは杞憂《きゆう》に終りそうである。
国千代が忠長となっても、依然、本丸大奥で将軍夫妻と同居していたが、ある日、夕食の団らんで、秀忠は吸い物の鴨の具に舌つづみをうった。
「このところ、鷹狩りに出ぬが、どこからの進物じゃ」
「褒めてやってくださいませ」
阿江与の方が忠長を見やり、こぼれるような笑みを夫へ向けた。
「国千代どのが、鉄砲でしとめたのでございます」
阿江与の方は、いつまでも国千代と呼んでいる。
「ほう、鴨はどこにいた」
「紅葉山に近い、西の丸のお堀でございます」
「なにっ」
秀忠は、急いで懐紙をとり出すや、口のなかの鴨の肉を吐き出した。
「忠長、何ということをするのじゃ。西丸は次の将軍が住まう貴い城であるぞ。その御城へ向って、臣下の身が鉄砲を向けるとは……」
日ごろ温厚な秀忠が目を怒らせて叱ったというのである。
「臣下の身、とはっきり仰せられたそうにございます」
呉服の間のお菊の注進に、お福は大きくうなずき、
「これで、家光さまは御安泰。あとは、三代さまになられる日を待つのみ」
と、やっと長年の愁眉をひらいたのであった。
秀忠が、二十歳に達した家光に将軍位をゆずったのは、元和九年七月である。在職は足掛け十九年。四十五歳であったが、徳川永世政権の証《あかし》として、早目に後継を立てたのであった。先代と同様、今後は大御所として大局に当たる。
徳川家光の三代将軍宣下は、七月二十七日、伏見城において勅使三条西大納言実条を奉迎、厳粛にして華麗に執行された。
お福は、家光の特命で上洛の行列に加えられ、晴れの式典を御簾《みす》の陰から拝観することができた。
束帯に威儀を正した家光の面は上気して美しく、上段の間へ進んでおごそかに宣旨をのべる勅使・三条西実条にも見惚れるお福は感無量である。
[#改ページ]
第六章 緋の袴
1
正二位内大臣征夷大将軍の宣下をうけた翌日、家光は伏見城で諸大名の祝賀をうけた。
元和九年七月二十八日である。
大広間には、尾張中納言義直・紀伊中納言頼宣・水戸宰相頼房ら家門、大沢少将基宿・吉良義弥ほかの高家《こうけ》、井伊直孝をはじめとする五万石以上の譜代大名の面々、加賀宰相利常・薩摩宰相家久・伊達陸奥守政宗ら外様雄藩の国持大名が、それぞれの官位に応じて直垂《ひたたれ》、狩衣《かりぎぬ》、大紋《だいもん》、素襖《すおう》に礼装し、色あざやかに居流れていた。
上座左右に、酒井忠世・土井利勝・青山忠俊ら年寄衆が威儀を正している。
拝賀は、十数回にわかれておこなわれることになっている。その第一陣は、幕府からも一目置かれている実力者ぞろいであった。
およそ百五十のこの顔ぶれは、上段の間の武者隠しの前にしつらえてある御簾《みす》の、その裏から拝観しているお福にも威圧を覚えさせた。
「御出座」
の触れで、一同いっせいに平伏。その衣擦《きぬず》れが風をともなって、御簾を波立たせる。
上段の間に新将軍家光が着座。
手に笏《しやく》をもった束帯姿の家光は二十歳。畏敬をあらわす諸大名の息遣いと衣擦れの風にあおられたかのように、挙動が落ち着かない。
酒井|雅楽頭《うたのかみ》忠世の重厚な口調の挨拶があり、お言葉となる。
「よ、よ、よ、よ……」
御簾のなかのお福は身をのり出し、手に汗をにぎる。久しくあらわれなかった吃《ども》りが、緊張のあまり再発したようだ。
茵《しとね》の上の家光は、必死の形相で、二度三度呼吸を整え、
「予は」
今度はもつれない。初めのひと言がうまく出ると、あとは順調であるのが家光の例であった。
お福は、ほっとして、からだをもとに戻す。
「予は、生まれながらの将軍である」
挑みかかるような大声になっていた。
下段の間の、前列に並んでいた御三家が、
「ははっ」
と、大仰《おおぎよう》に平伏した。
後に居流れる全大名が、あわてたように、
「はーっ」
と畳に顔面をすりつける。
「祖父家康、父秀忠は、織田・豊臣の麾下に属していたときがあったゆえ、その昔は、おのおのがたの長老格とは同列の大名であった。だが、予はちがうぞ」
お福にゆとりが生まれている。
(うまくいきそうじゃ)
有力大名への、この頭ごなしの言明は、代替わりにともすればゆるむ箍《たが》をしめ直し、新将軍の権威を格別に高める狙いで三傅役が相談、土井利勝が起草したものである。
お福は、家光が諳《そら》んじる稽古相手をつとめたので、次につづく言葉を知っている。
「予は、生まれながらの将軍じゃ。遠慮気がねは一切せず、おのおのがたすべてを臣下として扱うゆえ、さよう心得よ。不服の者、あるいは天下を望む者は、今すぐ国元へ戻り、ぐ、ぐ、ぐ……」
家光は、大きく息を吸い、吐く息とともに、
「軍勢を、もよおし、せ、せ、攻めてくるがよい。早速、血祭りにあげ、新しい政事《まつりごと》の首途《かどで》とするであろう」
大広間は、慶賀の日の、思いもよらぬ成り行きに、静まり返ったままである。
「恐れながら、申し上げまする」
入側にまではみ出て、ひしめくように列座している諸大名の、まん中あたりで野太い声が響いた。
「陸奥守にございまする」
両手をつかえたまま独眼を光らせている老体は、かつては関白秀吉ともわたりあった、奥州の覇王とも称される伊達政宗である。
「将軍家におかれては、頼もしきことを仰せられる。もし、江戸へ弓を引くやからがあれば、この政宗に先鋒をお命じくだされ。たちどころに踏みつぶしてごらんに入れるでござろう」
「いやいや、先鋒ならば、それがしにおまかせくだされ」
「この毛利秀元をお忘れになっては困りまするぞ」
「われらも、直ちにはせ参じるでござりましょう」
大広間は先陣争いで賑やかになった。
上座脇で、土井利勝が油断のない眼光で一座を見渡していたが、その口元には会心の笑みがこぼれている。じつは、最初の御三家の恐れ畏まった平伏も、伊達政宗の言上も、利勝があらかじめ手を打っておいた策だったからである。
(さすが、知恵者、機略のお人。家康《ごんげん》さまの御諚通りじゃ)
お福は、家康にどこか似たところのある、下ぶくれの面立ちをもつ気鋭の老職を見つめながら、
(これからは、酒井忠世ではなく、土井利勝の時世になるやも知れぬ)
という思いにとらわれていた。
将軍家弟・忠長は、国千代時代の十一歳で甲斐国内十八万石、十三歳で甲斐一国二十万石に加増されていた。元服間もなく、西丸の堀の鴨を撃った事件がおこり、そのことも関係してか、大奥の父母の膝下から離れ、北の丸に与えられた屋敷へ移っている。
付け家老は、鳥居土佐守|成次《なりつぐ》と朝倉筑後守|宣正《のぶまさ》である。両人とも、酒井忠世や土井利勝に勝るとも劣らない名門であった。
とりわけ、鳥居成次の父・元忠は、徳川家の柱礎と讃えられている。十三歳のとき、十歳だった家康に近侍し、以来、形影一体となって戦場を駆けめぐった由縁をもつ。本多正信が重用される前の、いわゆる軍師でもあった。
最期が壮烈である。慶長五年、関ヶ原合戦の年、西軍を寡兵で牽制《けんせい》する大役を荷なって、敵中にとり残されることになる伏見城の城将を引きうけた。やがて、東西が手切れになると、鳥居元忠麾下のわずか千八百の城兵は、四万余の西軍にとりかこまれ、連日連夜の猛攻をうける。
「持ちこたえよ。われら務めは、関東におわす御主君が軍勢を結集して引き返してこられるまでの、時を稼ぐにある。寸時でも敵を釘づけにしておくのじゃ」
六十二歳の老将・元忠は叱咤激励する。
業《ごう》を煮やした西軍の大将・石田三成の陣頭指揮にもかかわらず、十日間、城を保ったのだった。
十一日目、城内から裏切り者が出て、曲輪に火が放たれ、城門が破られた。攻撃軍がなだれこみ、焔と黒煙が渦巻くなかで肉薄戦が展開される。
殿中では血しぶきが天井まで飛び散り、阿鼻叫喚《あびきようかん》と化した。寡は衆におよばず、元忠はじめ城兵は阿修羅《あしゆら》の働きの末、斬り死にしたのである。
「関ヶ原合戦を勝利に導いた陰の殊勲は、元忠とその手勢ぞ。徳川の天下の捨て石になってくれた」
家康は、伏見城を修築するとき、血しぶきをとどめる天井と柱はそのまま残すよう命じた。
「見よ、あれが鳥居元忠の忠義のしるしじゃ。皆の者もよき鑑《かがみ》とせよ」
その元忠の忘れ形見が、鳥居成次であった。忠長より甲斐国|郡内《ぐんない》二万五千石を分与され、谷村城主でもある。
朝倉宣正は越前の大守・朝倉義景の一族である。先代の在重《ありしげ》から家康に仕えた。
宣正は十八歳のとき、十二歳だった秀忠のお相手役に選ばれた。家柄の良さに加え、文武両道に卓越していたからである。秀忠の近臣中の近臣であった。将軍家指南役の小野忠明とともに、秀忠の七本槍としても知られている。知行は一万六千石。相役の鳥居成次より三歳若い。
両家老は、おそらく阿江与《おえよ》の方の指図に従ったのであろう、主君忠長に早々《はやばや》と正室を迎えたのである。家光が将軍に就任した元和九年の、十一月七日であった。
十八歳という年齢は、継嗣誕生を急ぐ武家では早婚ではない。しかし、兄の家光をさしおいての結婚は、何やら思惑が見え隠れする。というのも、昨今、家光は男色を好み、女体に全く興味を示さないからである。
「家光どのは、当分、子を成すまい。跡取りが望めぬ徳川宗家があってよいものであろうか」
このように冷笑している阿江与の方を知るお福は、大御台所《おおみだいどころ》の捨てきれぬ執念に気圧される。
代替わりで、家光・お福らは晴れて本丸へ移り、秀忠は大御所、阿江与の方は大御台所と称して西丸へ退いていた。
その西丸の奥御殿には、北の丸屋敷から忠長がしょっちゅうやってきて、泊まってゆく日も多いようである。阿江与の方が、忠長好みの侍女を寝所《ねや》へ送りこんでいるとも聞く。
「何という風儀の乱れよ」
お福は、正室はもちろん、侍女が男子を産むことも恐れずにはいられない。忠長への世襲は防げても、四代さまを向こうに奪われないとも限らないからである。
苛立ちは、忠長の正室・光姫《みつひめ》の出自を思うとき、一層募る。織田信長の血筋であるのだ。
信長の二男が正二位内大臣の織田|信雄《のぶかつ》。その嫡男《ちやくなん》が従四位上少将の信良《のぶよし》で、光姫は信良の長女であった。
信長の妹・お市の方の三女である阿江与の方とは同族になる。
織田家は、往年の権勢こそ失っているが、天下人の後胤である。姻戚に名門が多く、公家とのつながりも浅くない。光姫は側室腹だが、信良の正室(光姫の嫡母)は、大臣家・三条西家より上位の清華・久我家の血筋である。
それに、織田家は、お福には鬼門であった。
お勝の方は、
「戦乱を経た由緒の家門で、敵味方、あるいは恩讎をくりかえさなかった氏族があるでしょうか」
と、無用の気遣いであることを説く。
しかし、父・斎藤利三が、本能寺で信長を討ち、織田家を没落させた明智光秀の一族で重臣だった過去は拭えない。
(よりによって、織田の血筋を忠長どのの室に迎えるとは)
阿江与の方の底意地の悪さを痛切に感じるお福であった。
お福は、家光の正室選びを急いだ。
光姫より格が上でなくてはならない。御三家をはじめ、武家の息女は念頭になかった。
それには、京都である。できれば、皇女が望ましい。
三年前の元和六年六月、秀忠の末娘・和子が入内《じゆだい》していた。家光の妹である。後水尾天皇の中宮《ちゆうぐう》としての禁裏入りであった。天皇二十五歳、和子十四歳。
京都と江戸、菊と葵の間の、大きなかけ橋の実現であったが、紆余曲折《うよきよくせつ》を経た。
屈辱きわまる「禁中並公家諸法度」を押しつけられ、加えて、これまで当然とされてきた女官の寵愛を将軍家から非難された。その上での、天皇の外戚たらんとする入内の、事実上の強要である。
公家の上下こぞって悲憤慷慨し、天皇はついに譲位の内示をもって抵抗するに至った。
天皇が退位してしまえば、徳川家の外戚策は水泡に帰す。
一方、天皇家と公家にも、徳川家と親密を計らねばならない実情があった。収入を幕府ににぎられているからである。朝廷の御料はわずか一万石、幕府から献上という形で、あてがわれているにすぎない。
無比の富豪である徳川家からの輿入《こしい》れであれば、祝儀で天皇家も公家全体も潤う。また、将軍家の姫は、莫大な化粧料を持参して内裏《だいり》に住まうはずだ。御料一万石の増献もにおわせている。
涙をのんで妥協せざるをえなかった。
公武間を懸命に周旋したのは、武家伝奏の三条西実条である。相役の広橋兼勝が、主上の女官寵愛の件でしくじりがあり、失脚同様であったので、実条の負担は重かった。
京都所司代はもちろん、天海僧正も調停に当たっている。
お福はまだ、幕府の重要施策に口出しはできない。せめて、実条に徳川家の真意を逐一知らせ、力付けることで東西橋わたしの素志に関与したのであった。
それでも、和子入内が正式に決まると、特に秀忠の仰せ出しにより、お福に婚礼衣裳と内裏での服飾類の支度が下命された。宮廷容儀の知識に関しては、大奥でお福の右に出る者はいないからである。
お福は、呉服の間に入りびたって、呉服橋御門前に支店をもつ後藤縫殿介ら京商人の御用達を指図、お紺やお菊らを督励して、公武融和にふさわしい衣裳の数々を仕上げたのであった。
入内の総費用は七十万石相当の巨額に達したようだ。二条城から御所へ運ばれた長持だけでも三百七十八荷。すべてに葵の紋を縫いこんだきらびやかな唐織の覆いがかけられ、浅黄の素襖を着た数千の荷持夫《にもちふ》にかつがれて都大路を進んだという。
和子入内の盛儀で、公武間の和解親睦が成ったかに見えた。が、朝廷・公家の反感がかえって陰にこもった、といえなくもない。
お福の、皇女降嫁の打診に、三条西実条はそのことを暗示して「とても無理」と、はっきり返信してきた。
「それでは、なんとしても五摂家の姫を」と要望したのだが、これも思いのほかの難渋である。
空しく半年が過ぎた。
元和十年は、甲子革命の年にあたるというので、二月三十日に寛永元年と改元されている。
五摂家は、近衛・九条・一条・二条・鷹司《たかつかさ》で公家の極位であり、摂政関白となりうる家格である。皇子の養子入りがあり、女御として禁裏へ上がることも多く、天皇家との血のまじわりは濃い。
それだけに、皇室の藩屏《はんぺい》として「専横きわまる東夷《あずまえびす》」と言い合わせ、憎しみは根強いようである。
母の阿江与の方はともかく、父の秀忠は家光の正室に摂家の姫を迎えたいとするお福の献言に大乗気であった。
京都所司代・板倉|周防守重宗《すおうのかみしげむね》に命じて、三条西大納言の周旋を手伝わせた。
周防守重宗は、伊賀守勝重の嫡男である。父の勝重は七十五歳の高齢になった元和五年に隠退を許された。秀忠は、側近の一人であった重宗に、父の職を継がせたのである。
重宗は、父が都人の心情をより多く汲んだのに比し、秀忠と幕府の意志にきわめて忠実であった。時代の変化がそれを要求した。強権をもって「禁中並公家諸法度」を遵守《じゆんしゆ》させ、細かい違反まで摘発することもめずらしくない。
公家にとっては、仏の勝重から鬼の重宗への交替である。その鬼の所司代が乗り出したのである。五摂家といえども観念せざるをえなかった。
白羽の矢が立ったのは、鷹司家である。摂家筆頭の近衛家の分家筋で、五家末席であることから押しつけられたにちがいない。それに、幸か不幸か、嫁《ゆ》かず後家になりかけていた姫がいたのである。
慶長十一年から足かけ三年、関白の任にあった鷹司|信房《のぶふさ》の息女・孝子《たかこ》である。家光より二つ年上という年齢は妨げにはならない。秀忠の室の阿江与の方は六歳年上である。兄の信尚《のぶひさ》も慶長十七年から元和元年まで四年、関白の位にあった。
孝子は、幼少時、同じ摂家の二条家の庶子と婚約が成っていたが、その公子が病死してしまった。その後、縁談を断わりつづけて操を立てていたのである。
「お福どのは覚えておいでか」
三条西実条の書簡に、くだけた文言《もんごん》で奇縁が追伸されていた。
「二十年ほど昔のことになろうか、所司代どのから乳母の心当りをたずねられて、そなたを推挙したのが、鷹司家からの帰路であった。鷹司家で三歳になった姫の内祝があって招かれたのだが、その姫が孝子姫であったとは、不思議な縁と思われぬか。めでたし、めでたし」
とあった。
お福も、これは瑞兆《ずいちよう》と小躍りする思いであったが、よろこびは短かった。
数日後の急報で、孝子姫は関東下向の縁談に半狂乱になったことを知ったからである。
公武親和、天下万民の至福のため、という三条西実条の説き伏せにも、
「わらわは人身御供《ひとみごくう》か。尼になりまする。それが許されなければ、喉《のど》を突いて死にまする」
と、手のつけようがない模様である。
孝子姫は、どうやら激しい気性のようであった。
手紙の往復が頻繁になる。
普通、飛脚は江戸・京都間を七日で走る。だが、公儀御用である。砂塵を巻き上げて東海道を疾走する早馬の継ぎ立てで、まる二日で書状が届く。
孝子姫は、ますます頑固《かたくな》になっていくようである。
お福は、実条からの書信の行間に、思いがけない運命に翻弄される女性《によしよう》の血の涙を見る。
征夷大将軍は、武家にとっては至上の地位であるが、もとは御所を守る番兵の頭《かみ》が蝦夷《えぞ》(東北)遠征を命じられた、その職名にすぎない。近衛大将で従三位、鎮守府の将軍《かみ》は従五位下ではないかと、公家は武人軽蔑を捨てきれないのである。
鷹司家は、正一位にまで昇る、皇族の血が入った摂政関白家である。世が世ならば、将軍など卑職とみる位であった。その後の慣例で、将軍は正二位内大臣に任じられる。しかし公家は、成り上がりのむくつけき者の虚飾だと、内心であざ笑っている。
摂家の姫にすれば、鬼が島のように思われる東夷へ、生《い》け贄《にえ》としてささげられる恐怖に近いであろう。耐えがたい恥辱でもあろう。
お福は、同じ女として、また公家の家で育ったものとして、孝子姫に同情を禁じえない。
だが、お福の筆は、容赦なく成婚を督促する。
「江戸は決して東夷ではないこと、家光公のお人柄など、よくよくお話しなされ、家光公御傅役として京都より下向の福も大奥におりまするゆえ、お心支えになされまするよう、このことも、よしなにお伝えくださり、今年中には、ぜひぜひ、お輿入れの期限、違《たが》いなく、大御所(秀忠)におかれても、一日千秋との御諚……」
最後通牒の意をふくめて、灯下、三条西家と所司代へ文をつづったのは、大奥の中庭のしげみから鈴虫の哀しげな鳴き声を聞く季節である。
すでに、鷹司家には充分すぎる支度金が渡り、牡丹の家紋入りの嫁入り道具の数々が整っていた。
瓜実顔《うりざねがお》の孝子姫が、笑いを失った氷のような面持ちを長柄の塗輿にのせて、江戸城大手門を静々とくぐったのは十二月二十日である。
牡丹の家紋をちりばめた塗輿の屋根と長蛇の行列に、粉雪が舞っていた。
2
京都から御台所《みだいどころ》(将軍正室)を迎えるのを好機に、お福はかねてから胸に描いていた大奥の模様変えにとりかかり、入輿の日までにそれをおえていた。
主として障壁画と屏風絵の一新である。
家光は、将軍宣下をうけて江戸へ戻ってくると、お福を正式に老女(御年寄)に任じていた。表御殿の、幕府年寄衆(老中)と同等の権威が添えられた大奥総取締役である。
大奥のことは、よろず、お福の一存できめられる。
御殿の壁・障子・襖は、表御殿も大奥も、大体、松竹梅と鶴亀が主題になっている。めでたさと長寿|弥栄《いやさか》をあらわす花鳥画であった。富士、桜、雲竜、鷹などが組み合わされている部屋もある。
いずれにしても武家好みであり、筆致は重厚|雄渾《ゆうこん》である。
お福は、女人の住まいである大奥だけでも雅《みやび》やかに装いたいと思っていた。都から摂家鷹司の姫が人輿される。野蛮だと冷笑されないためにも――。
御玄関から起居御殿、あるいは客座敷へ至る大廊下の襖には、移り変わる四季の風景を描かせた。朝陽に残雪が輝く山嶺を背景に、梅と小鳥。水ぬるむ小川のほとりの桜花爛漫の図。雨に打たれる山吹の群生。月光に映える藤の乱れ咲き。田圃の夏空に飛びかうさまざまな蜻蛉《とんぼ》。七堂伽藍を遠く眺める夕暮れの紅葉の六区切りである。
客座敷と通称される御殿は、大広間や御台所専用の御対面座敷、大小の対面座敷がある大きな建物である。ここには「源氏物語」の、各帖の華《はな》の場面を絵物語でつづる色彩ゆたかな襖をたてめぐらせた。大奥人も客も、衣飾よろしきをえれば、平安王朝の世にとけこめるはずである。
御台所となる孝子姫の起居御殿は「栄華物語」の雅やかな襖絵にした。平安王朝の、二百年の栄華を叙述した物語であるが、憩いの屋形らしく、お福は淡い色づけの仕上げを注文している。寝所は、襖は鷹司家の紋章である牡丹、格天井《ごうてんじよう》の一枚一枚に百人一首の人物と和歌を描かせた。
絵筆をとったのは、御用絵師の狩野探幽とその一門である。だが、お福は京住まいの画匠も江戸へ呼びよせた。海北友雪《かいほうゆうせつ》と彼が選んだ王朝画の名手たちである。
友雪は、お福が四歳だった坂本城落城の逃亡時代、半年ほど一家が庇護をうけた海北友松の子である。天海僧正が海北親子の消息を知らせてくれたのだった。友松は亡くなっていたので、お福はせめて旧恩に報いたいと念じ、子の友雪を礼を厚くして招聘《しようへい》したのである。
大奥と表御殿、中奥御殿とは銅包みの塀で仕切られている。延べ銅の使用は火災の類焼を防ぐためであった。
通路は一カ所(明暦大火後に二カ所になる)厚い杉戸を御鈴口と呼ぶ。そこに吊された鈴を引いて、御成り・お帰りの合図とするからである。
御鈴口から起居御殿までは長い廊下。お福は、御鈴廊下ともいわれる無風流なこの通路両面板壁に、虹を描かせた。七色の弧の上に麒麟《きりん》が飛び交っている。廊下の左右は中庭であった。明かりとりの窓をひらくと、光のすじが虹に当たるよう趣向させた。
表御殿が江戸とすれば、大奥は京都に擬せられる。武家風御殿と公家風御殿を結ぶ、虹のかけ橋を、お福は渡り廊下に空想したのであった。
孝子姫は、新装成った大奥に居住したが、江戸城に慣れることと、御台所の心得を身につけるため、しばらく婚礼を延ばしている。鷹司家からの付け人の強い要望によるものであった。
お福は、御台所御殿に日参して、孝子姫の閉された心をひらくのに誠実《まこと》をつくしたが、ついに笑顔を引き出すことはできなかった。
「将軍家の正室に摂家の姫を……」
と言い出したのがお福であることを知っている様子である。
お付き頭の大納言局《だいなごんのつぼね》をはじめ、侍女たちも敵意のまなざしを隠そうとしない。
大納言局は、鷹司家の親戚の、大納言家の出で、孝子姫の幼いころから仕えている老女であった。年かっこうは、お福より十歳は上。江戸城においても、お福と同格の大奥御年寄として扱われる。
半年たっても事態は好転しない。延引を重ねるわけにもいかないので、八月九日(寛永二年)の吉日を選んで婚儀をとりおこなうことに決した。
当日、西丸から大御所秀忠と大御台所阿江与の方のお出ましがあり、家光の弟君の駿河中納言忠長夫妻・御三家・御一門・譜代の重臣等も式典に招かれていた。
忠長は、昨年の八月、五十五万石に加増されて駿府城主となっていた。官位も従三位権中納言に昇り、駿河中納言と称されている。
式場は、大奥の、源氏物語絵巻に彩られた客御殿大広間であった。
婚礼は古来、夜間におこなわれる。だが、百目蝋燭《ひやくめろうそく》の列が夜を昼の明るさに変えていた。
新郎の将軍家光は束帯姿、新婦の孝子姫は下げ髪にあでやかな十二単《じゆうにひとえ》。介添えのお福と大納言局、そのほか給仕の奥女中たちも上方《かみがた》風に華やかに装っている。大御所をはじめ殿方は、束帯、直垂、狩衣、大紋と位階に応じた礼装である。
立秋がすぎ、日没とともに冷気がしのびよってきたとはいえ、残暑の候であった。十二単の重みに耐えている花嫁御寮人の額は玉の汗である。しかし、心労でさらに細くこけた面長の孝子姫は、能面のように表情を動かすことなく、三三九度の盃事をおえた。美貌とはいえないが、冷厳で、気品にみちている。
向かいあう家光のほうが上気し、挙動に落ち着きがない。
新郎二十二歳、新婦二十四歳、年齢以上のひらきを人々に感じさせた。それに、家光は童顔の肥満体であり、老《ふ》け顔で細身の孝子姫との一対《いつつい》は滑稽でなくはない。
お福は、ふと気づいて視線を動かす。阿江与の方の、明らかに冷笑を含んだ目とぶつかりあった。かっと、からだが熱くなる。見直したときには、阿江与の方は、いとしげなまなざしを忠長夫妻へ向けていた。
(口惜《くちお》しいことじゃが……)
お福は心のなかでつぶやく。
忠長と光姫の一組のほうが、人々の目を奪っているのだ。若い夫婦は、ともに美しく、釣り合いもとれ、まさしく内裏雛《だいりびな》であった。
(誤ったか)
摂家にこだわりすぎたのではあるまいか、とお福は惑う。しかし、もうどうにもならないことだ。
(くよくよするでない。禍《わざわい》を転じて福となす努力を重ねればよいことじゃ)
お福は気持を立て直した。
この夜は、お床入りはない。新婦の疲労をおもんぱかっての、大納言局の申し入れを、お福が了としたのである。
翌日は、中奥御殿の能舞台で祝い猿楽が興行された。そのあとで宴《うたげ》となる。
夕暮れに、家光は中座して大奥へ戻り、小座敷であらためて孝子の方と盃を交わし、祝膳をともにした。お福と大納言局が相伴にあずかる。
家光は中奥の宴で飲食しており、孝子の方もひそかに腹ごしらえをしているはずである。食事は形だけであった。
夫婦はいったんそれぞれの居間へ退《さ》がり、身支度をととのえる。いよいよお床入りであった。
「乳母《うば》」
と、家光は心細げな面持ちで、昔の名で呼びかける。
「御台《みだい》は、いつも、権高に澄ましこんでおるようじゃが、あれで肌身を許すのであろうか」
「上様」
お福は、きりりと顔をひきしめた。
豊満な乳房をふくませて、ここまで家光を成人させた乳母は、肩に垂らした黒髪に白いものが目立つ四十七歳になっている。
「あなたさまは、生まれながらの将軍でございまするぞ。三百諸侯の上に立ち、六十余州を思いのままになさる上様が、女性《によしよう》一人を扱いかねて、どうなさるのでございまする。御台様は、上様の御子を産むために嫁《とつ》いできたのではございませぬか」
「そうであった。あれは、予の妻じゃ。下世話にいう、したば、じゃ」
「なんでございまする。その、したば、とは」
「伊豆守がいいおった。下々《しもじも》では、夫が上歯《うえば》で、妻は下歯《したば》と呼ぶことがあるそうな。よく噛み合ってこそ家は安泰というわけらしい。予も、京都からまいった下歯をかみしめてやるぞ」
家光は、二度三度、力強く歯をかみ合わせた。
伊豆守は、家光の赤子のときからの小姓衆の一人、松平長四郎信綱である。家光の将軍宣下にともない、従五位下伊豆守に叙任されていた。
同時期に、初期小姓衆の、お福の子・稲葉千熊正勝は丹後守に、永井熊之助直貞は豊前守に、阿部小平次忠秋は豊後守に叙任。今は、一番から六番まで組織化された小姓組軍団の、それぞれ五十人の部下をもつ番頭《ばんがしら》をつとめている。
そのなかで、兄貴格の松平伊豆守は、下情にも通じているようである。
お福は笑いをおさえて、
「あまり乱暴になさらぬよう。京女はたおやかでございまする。お床入りの作法は、心得ておられまするな」
「し、し、し、知っておる」
家光は急に赤くなって、言葉をつかえさせた。
「大炊頭《おおいのかみ》が、ま、ま、ま、枕絵《まくらえ》を示して、うるさく言いおった」
大炊頭は年寄衆筆頭格の土井利勝である。枕絵は男女交合を描いた春画であり、また床入り指南書でもあった。
「丹後も、豊後も、おのがことを語ってくれた」
稲葉丹後守は、数年前、一族の斎藤重利の姫を迎え二児を成している。お福は祖母になっていた。
阿部豊後守も一児の父である。ともに、おのれの初夜の体験を語って聞かせたのであろう。
家光は二十二歳にして童貞であった。お福に責任がなくはない。お福は、公家と武家のかけ橋の祈願から、なまじの女人に世子を生ませたくなかった。しかるべき公家の姫でなくてはならない、と思いつづけてきた。それゆえに、家光には人倫の道を教えこみ、大奥の女たちには厳しい目配りを怠らなかったのである。
中奥御殿に学問所ができ、成人して表御殿での生活が主となると、中奥泊りが多くなり、若い小姓と同衾《ともね》する味を覚えてしまった。
衆道《しゆうどう》は、武家においては必ずしも醜行ではない。女人禁制の戦場や出城では、小姓が主君の身のまわりの世話をする。寵童は閨《ねや》にもはべる。自然のなりゆきといわねばならない。
お福は、かけ橋の夢のために、家光の男色《なんしよく》を黙認していた。案ずることはない、女色を知れば、いつ知れず男のむさい肌への興味は失せるもの、と考えていた。
今こそ、男色を断ち切るときである。いかに権高で、澄まし顔であろうと、孝子姫の肌に耽溺《たんでき》してもらわねばならない。
鷹司家にとっても、将軍家と絆《きずな》を強めることは、徳川の治世がつづくとみられる今後、大いなる利益と権力を得ることになる。現に、莫大な輿入れ支度金を手にしたし、ことあるごとに摂家の姻戚には将軍家から少なからぬ金品が贈られるはずである。幕府に事実上支配されている朝廷においても、格別の地位を占めるであろう。
このことは、老女の大納言局が、いち早く覚《さと》ったようである。
実感があった。無数の武家屋敷と大店《おおだな》が外郭を埋め、殷賑《いんしん》をきわめている城下町と豪壮華麗な江戸城は、都人には想像をはるかにこえる驚きだったにちがいない。
大奥は、その名の通り、六千五百坪におよぶ巨大な奥御殿である。内部は、この世のものとは思われない王朝風の装飾であった。
徳川家の財力と風雅に、東夷の思い込みが間違っていたことを痛感したようである。
当初の、お福に対する大納言局の敵意は、日がたつにつれて敬意に変わり、近ごろでは媚さえみせはじめた。お福は、年上の同性からも募われる質のようである。
今宵のお床入りは、めでたい成就を切願して、大納言局も孝子姫に念入りに作法を教え諭しているはずである。公家の家には、嫁入り道具としての枕絵が代々伝わっている。
寝所は、たがいの居間から少し離れた、虹の長廊下に近い棟であった。上段の間に、次の間がついている。
先に御台所が大納言局に導かれて寝所に入った。知らせをうけて、お福の先導で家光が畳廊下を進む。
上段の間で、家光と孝子の方は、今一度、老女二人の介添えで固めの盃事をおこなう。
その後、両老女は、金糸銀糸で鶴亀・松竹梅を刺繍《ししゆう》した布団が二組並んでいる部屋のなかを、目くばせで確め合いながらあらためる。
枕辺に、乱れ箱、紙入れ台、犬張子……不足のものはない。
寝間着への着替えを手伝ったお福と大納言局は、布団のまわりに屏風を引きまわして、深々と一礼、次の間へ退がった。境の襖をしめる。
初夜の見届け役は、お福と大納言局の両老女が自らつとめる。寝ずの番であった。
襖の向こうは、静まり返っている。
「いいか、よく聞くがよい」
家光の、低い声がもれてきた。
お福にはよくわかる。吃《ども》るまいと、いくどとなく呼吸を整えたうえで、口をひらいたのである。
「予は、生まれながらの将軍である。向後、何事も、予に従ってもらわねばならぬ。摂家の姫とて気がねはしないぞ。まずは、一日も早く、こ、こ、こ、子を産んでくれ。必ずや、男児《わこ》をな」
また、暫時のしじま。
「上様には……」
ふるえを帯びた、冷たい、おし殺した声である。
「鷹司家が、どのような家柄か、ご存知であられたうえでの、御諚でありまするか」
「な、な、な、な、なんと」
「そもじが、生まれながらの将軍家でおわせば、こちは、この日本《やまと》の国が生まれてこのかた、数千年|統治《しろしめ》される天子さまの縁家《つづきあい》でございまする……」
お福は、大納言局の裾をおさえていた。御台所付きの老女の、ただでさえ磁器のように白い顔面は蒼白である。狼狽を通りこして、姫への怒りで目が血走っていた。お福が裾をおさえ、目で強く制しなければ、寝所へ飛びこみかねない。
「……徳川の家は、三河の山里で名を成してわずか百年たらず、先代さままでは豊臣家のご家来だったとか。まことでございましょうや」
大納言局が、お福の手をふりきって框《かまち》へ泳ぐようにかけ寄り、
「ごめんをこうむりまする」
叫んで、襖をひらいた。
同時に、それぞれの布団の上で相対していた、南側の布団の家光が、奇声を発して座を蹴り、次の間へ走りこんできた。
驚愕の目の動きのまま、端座しているお福の前にくずれすわる。
「う、う、う……」
「落ち着きなされませ」
「う、乳母」
やっと言葉になった家光は、今にも泣き出しそうである。
お福は、家光の手をとって立たせた。
「お見苦しきお姿を、女中どもに見せてはなりませぬ。いと涼しげなるお顔色《かんばせ》にて、還御《かんぎよ》願わしゅう」
「うむ……うむ」
家光は、ようやくおのれを取り戻し、将軍の威厳を全身によみがえらせた。
介添えに余人をまじえず、老女二人で次の間詰めをしていたのは不幸中の幸いだった、とお福は胸をなでおろしている。男色癖の殿御と気位の高い姫御である。予期せぬことが起こらぬでもない、と奥女中たちを棟の外へ退がらせていたのである。
居間に近づくと、畳廊下の左右に侍女や奥女中たちが頭を低くさげて出迎えていた。
殿御が早々に寝所から戻るのは奇異ではない。古来、男女の仲は通い婚である。江戸城でも、将軍は中奥から大奥へ通う形をとっている。
(妙な噂にはなるまい)
お福に、若い御台所への怒りは薄い。
とっさに出た逆上による暴言ではなく、悩み苦しんだ末の、一命を賭けた抗議であることが、お福に感じられたからである。
あの毒舌は、公家一人一人の本音《ほんね》であり、都人の誰もが将軍家へたたきつけてやりたい啖呵《いいはなち》であろう。
お福は、十数年前、駿府城へのりこみ、白装束で大御所家康に直言した、あの猛々《たけだけ》しい心情を思いおこしている。
(あっぱれ)
そう言ってやりたいほど、摂家の姫へ対して涙ぐましい気持になっていた。
(わらわは、徳川家の人になりきったのではなく、やはり、公家の味方か。それとも、鳥でもなく、獣でもない、蝙蝠《こうもり》)
自嘲がわく。
お福は、家光を御座の間ではなく、自分の居間に招じた。茶菓《さか》を供して、にこやかに語りかける。
「権現さまが、こう仰せられたことがございまする」
家光は、東照大権現の神号で日光東照宮に祀られている祖父の家康を、格別に尊崇していた。乱世を終息させ、徳川の幕府をうちたてた初代将軍である。お福の直訴をうけ入れ、嫡庶《ちやくしよ》を正して長幼の序を公示、家光を三代将軍につけてくれた大恩がある。
権現さま、という言葉が出ると、家光は茵《しとね》からおりて謹むのが常であった。今も、茵から急いですべりおり、姿勢を正した。
「この福を、お諭しになられたのでございまするが……」
と、お福は、川越喜多院で天海僧正に再会し、衆目のなか、僧正の肩にのせられて、四歳のときの粗相をあからさまにされた一件を打ち明けた。
「福が、恥ずかしさのあまり泣きくずれておりますると、権現さまが、おやさしく、そばにおしゃがみあそばされて、そなたも、これから、好むと好まざるとにかかわらす、権勢を強めてくる。それゆえ、この世に、弱味をにぎられた恐《こわ》い人がいるのは……ありがたいことじゃ。そう思わねばならぬ。僧正を恨んではならぬぞ≠ニ、このようにお諭しになられたのでございます」
家光は、太《ふと》り肉《じし》の母代《ははしろ》が天海僧正の肩にのせられて、お尻《いど》をたたかれている姿を眼裏に浮かべたのか、すっかり機嫌が直っている。
「上様、御台さまを、お恨みあそばされてはなりませぬぞ。大きなみ心で、哀しき御身の嫁御寮人さまを暖くお包みあってこそ、日本《やまと》の国の新しい天下人でございまする。おわかりか」
「うむ」
家光は、幼い子供のように素直にうなずいた。
3
家光と御台所の仲は、お福・大納言局両老女の真心をこめた仲裁《とりなし》で繕《つくろ》われ、五日に一度くらいの割りで、共に寝所ですごすようになった。その夜は、老女二人で次の間に控えた。諍《いさかい》はないかわり、睦《むつ》み声も聞こえない。言葉少なく、それぞれの布団で寝苦しく朝を迎えるのである。
大納言局は、ますます、お福に頭が上らない。
お福も心痛し、家光に密かに問えば、
「孔子さまのお嘆きになってしもうた」
顔を赤くしている。
「孔子さま……。なんのことでござりましょう」
「子曰《しのたま》わく、少ないかな仁《じん》」
まだ訝《いぶか》しげなお福である。
このなぞなぞも、松平伊豆守あたりの入れ知恵であろうか。
「仁少なければ、これ、腎虚《じんきよ》。まだわからぬか」
「あれ」
お福も、年甲斐もなく面を染めた。
男の精力と精水は腎の臓から湧き出るとされている。それが虚《から》となる腎虚は、すなわち陰萎《いんい》を意味する。
「廊下を行くまでは起陽凜々《きようりんりん》であっても、御台に驚かされたゆえ、顔をみると、たちまち萎《な》えてしまうのじゃ」
家光は肩を落とす。
お福は、それとなく家光の股間《こかん》を見やって、深いため息をもらした。
家光は、このことから、傾《かぶ》き好みと男色をぶりかえしたようである。だが、お福はそれを強く諫めることはできなかった。
傾く、傾き、等は正常ならざる状態をいう。
元和元年の大坂の陣を最後に世は泰平となり、「元和偃武《げんなえんぶ》」という新語がもてはやされていた。大多数の人にはよろこびだが、大久保彦左衛門ら生粋の武人はさびしい思いを禁じられないようで、特に若者はありあまる精気をもてあまし、傾いた。
傾き者は髪型や衣裳を奇抜にして世人を驚かせることに快を覚える。硬派は、その異装で無頼無法に身をまかせ、辻斬りや喧嘩買いに走った。はめをはずせない軟派は、化粧に凝り、髷を解いて肩までたれる長髪にし、振袖や天鵞絨《ビロード》襟の革羽織などをまとって女色や男色に淫する。
これら傾き者たちの装いや所作を踊りにとり入れて人気をはくしたのが、出雲大社の勧進芸人出身の阿国太夫を始祖とする傾き(歌舞伎)踊りであった。その傾き踊りを、また傾き者たちがまねるという有様である。
将軍家光も、まだ若い。松平長四郎信綱ら年上の初期小姓衆は、政務に半ば関与しているので、身辺の世話から遠ざかっている。近侍しているのは、十五、六歳の美少年小姓であった。
家光は、その者たちを傾き風に装わせ、中奥御殿の剣道場で「踊りむち打ち」に興ずる今日このごろである。
むち、とは指南役の柳生宗矩が稽古で用いる竹刀《しない》の別称であった。木刀とはちがい、割り竹を束ねて革袋に入れた竹刀は、撓《しな》うさまが鞭《むち》のようである。創案は、宗矩の師の、新陰流・上泉信綱《かみいずみのぶつな》であった。
先任の師南役である小野忠明は、木刀、時には真剣で稽古をつけたが、宗矩は融通がきき、
「将軍家は、心身鍛練のために剣術をなさるがよろしい。天下人さまが兵法者の禄《ろく》を奪うがごとき剣豪になられては、われら、たまりませぬ」
などと笑わせ、怪我《けが》のない竹刀で流儀の型を教える程度ですませるのである。
家光は、しかし、このような宗矩にあきたらず、天下無双を自他ともに許す小野忠明を一度でよい、打ちこみたいと念願していた。
二月(寛永二年)に川越へ鷹狩りに行き、天海僧正の喜多院の庭で、迎春花とも呼ばれる黄梅《おうばい》を賞でながら茶を喫していたとき、家光はなにげないふりで、
「忠明」
と、身辺警護の任についている一刀流の名人を呼びつけた。
「近う」
「はっ」
忠明が間近で両手をつかえた瞬間、
「とう」
家光は抜き打ちに斬りつけた。
左右に控えていた松平信綱と阿部忠秋が、あっと声をもらしたとき、将軍家光はぶざまに横転していた。敷物の毛氈《もうせん》を、忠明が思いきり引いたのである。
「見事、さすが達人でごじゃる」
天海僧正が哄笑《こうしよう》して、指南役をことさら褒めそやしたので、家光は怒るわけにはいかない。
しかし、小野忠明のほうで、これを機に隠居を願い出て謹慎してしまった。
したがって、中奥御殿の剣道場に峻厳剛直の師南役が現われることはない。
今一人、家光にとって煙たい存在であった傅役《もりやく》の青山伯耆守忠俊も、今年の早春、忠明と前後して蟄居《ちつきよ》していた。
亡き家康が、家光のために正式につけた輔翼の士は、酒井忠世・土井利勝・青山忠俊の三名である。忠世には厳正と慈仁を、利勝には才智と機略を、そして剛勇の忠俊には、
「公子が邪曲に傾くを防ぎ、軟弱にならざるよう、遠慮なく鍛えよ」
と、家康はそれぞれの役割を示した。
酒井忠世と土井利勝は、幕閣の両輪として多忙をきわめている。それに、将軍位についた家光に、あれこれ小言をいう時期はすぎていると考えていた。
青山忠俊だけは、政務よりは権現さまの遺命大事に、補導の手をゆるめなかった。
ある日、忠俊が中奥の御休息の間に伺候すると、家光は合わせ鏡をしながら小姓に髪型を直させている。顔に薄化粧を刷いているばかりか、傾き者の間で流行の、肩が大きくぬけて胸元がひらく「流れ衣紋《えもん》」の小袖を着流していた。
「上様」
忠俊の顔面に朱が注がれる。禿げあがってひろい月代《さかやき》から湯気を出さんばかりの激昂でつめ寄り、
「御免」
鏡をもぎ取るや、遠くへ投げ捨て、主君の襟をつかんで乱れた着付けを正した。
「嘆かわしゅうござる。天下に範を垂れたもうべき将軍家が、世のきらわれ者の浮かれやからの、そのまねをなさるとは。権現さまが、このざまをごらんあそばされれば、なんと仰せられましょうや」
耳をろうするばかりの大音声で、武家の棟梁の心得をくどくど説諭するのである。
権現さまという言葉が出たので、家光は形を改め、頭をたれて神妙の態である。が、眉間のたてじわが激しくぴくついていた。
ついに、家光は膝をたたき、
「くどいぞ、伯耆。もうよい、退がれ」
怒鳴った。
青山忠俊は、やがて四万五千石の所領を召し上げられて、改易。今は、遠江国小林村に捨扶持千石を与えられて蟄居する身であった。
小野忠明と青山忠俊という剛直の士を遠ざけた早春以降、中奥御殿には家光を直諫する者はいない。
化粧と美麗な流れ衣紋の小袖で綺羅《きら》を競う小姓たちを、道場で輪に並べ、剣術の稽古よろしく竹刀《むち》を打ちふって踊らせる「踊りむち打ち」は、家光の最近気に入りの余興であった。
その日の腰ふり上手に、夜、伽《とぎ》を命ずるのである。
寛永三年元旦。二十三歳になった将軍家光は中奥御殿で起床、熨斗目《のしめ》・長上下《なががみしも》の礼服に身を整えて、大奥入りをした。
家法にのっとり、特製の雑煮で年の初めを祝うためである。雑煮といっても、餠《もち》は見当たらない。大根の切れ端が入っただけの塩汁であった。
三河の松平郷から、野に伏し、山を陣屋にして粗食に耐えて戦い、今日を築き上げた、その昔の辛苦を忘れまいと、家康が定めた新年の行事である。
御座の間で、膳部を前に御台所孝子と向かい合った家光は、
「徳川の家は、先日、そなたがもうしたように、三河の山里から成り上がった」
と、摂家の姫へ、率直に、粗末な塩汁の由来を語ってきかせた。
じっと耳を傾ける孝子の、白い磁器のような頬にすーっと流れてゆくものがあった。
家光が箸をとり、
「うむ、これはうまい、うまいのう」
と、作法通りに感嘆の声をあげると、
孝子も椀《わん》に口をつけ、
「ほんに、美味《びみ》でございまする」
と、大納言局に教えられた通りではあるが、素直な声で応じた。
相伴するお福と大納言局が顔を見合わせ、うれしげにうなずきあった。
二日は諸事始めである。大奥では、お書初《かきぞ》め、お歌初め、お裁《たち》初めなどがにぎやかにおこなわれた。夜は、お秘事《ひめごと》(姫)始めである。
寝所に、将軍夫妻は子孫繁栄の祈念を新たにして入る。次の間で控えるお福と大納言局の耳に、待望の睦言《むつごと》がもれ伝わった。老女二人は、思わず首をのばす。交合の気配。初夜の実《じつ》を上げたようである。
朝、居間に戻ってお福が家光にたしかめると、
「宝船を枕の下に敷いて寝たせいであろう、帆柱が、見事、立った」
照れながらも、うれしげであった。
「それは、まこと、おめでとう存じまする」
お福も、わがことのように、うれしい。
正月二日に、七福神をのせた宝船の絵を枕の下に敷いて眠り、瑞夢を願うのは昔からの習俗である。
三月は烈風の季節。大奥の物見櫓から見渡す、果てしなく屋根が重なりあう江戸の市井は、時折、巻き上がる砂ぼこりで視野をさえぎられる。
黄色を帯びた砂塵は、すぐそばにそそり立つ五層の天守閣をも包み、それが降りそそいで、御殿の下女たちは箒《ほうき》を手放せない。
その春《はる》疾風《はやて》に乗って、うれしい再会があった。おのうが、六歳の女児をともない、お福をたよって現われたのだった。
おのうは、稲葉一族で、お福の義理の姪《めい》にあたる。二十数年前、三条西家で嫁入り前の行儀見習をしており、お福になついて、
「見も知らぬ殿御のところへ嫁入りするより、お福姉さまのお腰元になって、いっしょに暮らしたい」
と、お福の寝所にまでしのびこんできた娘である。
ふくらみのとぼしいからだつきは変らないが、三十九歳という年齢が、小ぶりの面立ちを臈たけて見せていた。
「武人の妻としての人生《こしかた》は、失敗《しくじり》でございました」
おのうは、肉付きがいいお福の膝に手をかけて、甘えるように語る。
三条西家で箔《はく》をつけて、加賀百万石の支藩である小松城主・前田対馬守直正に輿入れしたのが慶長十年。二児をもうけたが、七年後に突然、実家に戻された。
慶長十七年、その年に発布されたキリシタン禁制におびえた前田家は、おのうの亡き父、伊勢岩手城主牧村利貞がキリシタンであり、おのうが形見の銀の十字架《クルス》をもっていたというだけで不縁にしたという。おのうは、のちに剃髪して尼になるほど、敬虔な仏教徒である。
「すぐに、今度は陸奥《みちのく》の猪苗代《いなわしろ》へ嫁《とつ》がされました。女子《おなご》は哀しいもの、氏《うじ》の長者から行けといわれれば、黙って従わねばなりませぬ」
再婚の相手は、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》の重臣で、岩代猪苗代城主であった町野長門守|繁仍《しげより》であった。
氏郷は伊勢松坂の城主であったことがあり、同じ伊勢の牧村家と親交があった。その縁であろう。
しかし、蒲生家は氏郷の子の秀行《ひでゆき》の世に、宇都宮へ転封になっていた。だが、町野繁仍は、そのまま磐梯山を美しく眺める猪苗代湖畔の別邸に残り、子たちの仕送りをうけながら隠居暮らしをしていたのである。
「気を失いかけました」
おのうは、身ぶるいをして、お福に訴えた。
婚礼の当日、二十五歳のおのうが初めて新しい夫を見たときのことである。町野長門守は、歯が全部抜けた、あごが重ね餠のように醜くたるんだ老人だったのである。
隠居といっても、この時代、三十代で子に跡目をゆずり、閑居することはめずらしくない。おのうは、自分の年齢を考えあわせ、壮年の殿御を思いうかべていたので驚きと悲しみは大きかった。
「わたくしは、立ち居もままならぬ老いぼれの、看病《みとり》役をかねた慰み女として、色好みだけは失わない厄介者にあてがわれたのでした」
おのうは泣きじゃくった。
お福は、おのうの華奢《きやしや》なからだを、しっかり抱きしめてやる。
六歳の連れ子は、向こうの部屋で、お福の侍女たちと無心に遊んでいた。お振りといい、おのうとは血のつながりはないという。夫・町野繁仍の孫にあたる女児であった。
繁仍は一年後、おのうの腹の上で、絶命した。七十一歳であった。
おのうは、繁仍の娘婿で蒲生家の重臣だった岡半兵衛重政に養われたが、重政夫妻があいついで病死した後、その遺児のお振りを引きとり、江戸城大奥で羽振りをきかせていると聞くお福をたよったのである。
「おのう、そなたも思いもよらぬ苦労を重ねたものじゃ。よい、よい。これからは、このお福姉さまのお腰元、ではのうて、片腕となって、働いてくりゃれ。お振りは気立てのやさしそうな子じゃ。行く末、悪からぬように、ともに育てようぞ」
「ありがとう存じまする」
おのうは、お福の豊かな胸のなかで、感涙にむせんでいる。
「考え、考えたあげく、思いきって姉さまをお慕いして、ほんによかった。おのうは、やっと、幸せになれそうでございます」
お福も、これから大奥を取り仕切っていく上で、何でも相談できる腹心が欲しいと思っていたところであり、もっけの幸いといえた。
4
寛永三年は、お福にとって喜ばしいことがつづく。
梅雨が明けると、江戸城の表御殿は、日々、あわただしさを増していった。七月に予定されている大御所秀忠と将軍家光の上洛の、大掛かりな準備のためである。このたびは、二条城に後水尾天皇の行幸を仰ぐという、徳川家|開闢《かいびやく》以来の栄誉がひかえていた。
供奉する諸大名が集まりはじめた六月の中旬、大奥に珍客があった。
家康の逝去後、落飾《らくしよく》して英勝院と名を改め、本丸と拮橋《はねばし》で結ばれている北の丸に隠棲の、お勝の方がともなってきたのである。
客は、豊前小倉三十五万石の藩主・細川忠興と堺の豪商で茶人の今井宗薫であった。
「亡き父からは、あなたさまのことはよく聞かされたものでござる。われらも、坂本城にはたびたび参上しておりますのじゃが、じつは、記憶がおぼろでしてな」
三斎と号している忠興が、剃り上げた頭をつるりとなでれば、宗薫も、
「なにしろ、母代《ははしろ》さまは四歳であられたとのこと。いかがです、この宗薫に見覚えがござりまするか」
と、おどけて顔をつき出す。
忠興の父は細川藤孝(幽斎)であり、宗薫は今井宗久の子である。この二組の父子は、坂本城の歌会・茶会の常連で、城主の明智光秀や、その家老のお福の父・斎藤利三とも親しかった。
「坂本城でのことは、わらわも、亡き母からくりかえし聞かされておりまする。こうして親しくお目もじできて、夢のようでございまする」
お福は、ぽっと顔を染めて、
「あの、忠興さまには、よくお膝に抱いていただけたとか」
「ほう、あなたさまを……」
忠興が、細っそりとした自分より大柄なお福を見やって面映ゆい表情をすれば、
「これは、これは、おだやかではありませぬな、英勝院さま」
と、宗薫がはしゃぐ。
「ほんに、お福どのがうらやましい。天海僧正さま、海北友雪さま、三条西さま……黒田さまにしても、昔のお知り合い、そのかたがたが、慕い寄ってこられて……。御人徳でございまするな」
尼姿のお勝の方は、にこにこと妹分のお福を眺めていた。
黒田さま、というのは、筑前五十二万石の黒田家である。先年、喜多院で天海僧正と再会した折り、黒田官兵衛麾下の槍ぶすまに囲まれた昔話が出て、大御所家康が、
「今度、長政に会ったら、話してやらねばなるまい。そのほうの父は、今をときめく天海僧正と竹千代の母代を脅かしたのだとな」
と、笑ったものである。
このことを知った黒田長政は、早速、大奥にお福を訪ね、莫大な金品を贈って陳謝したのであった。
長政は三年前に死去したが、黒田家からの金品贈呈はつづいている。お福は、諸大名からの贈りものは私《わたくし》せず、給金の少ない奥女中たちに分け与えていた。
大御所秀忠は、六月二十日、家光より先に上洛の途についた。
秀忠が待ちきれないように発駕を急いだのは、末娘である和子姫と孫皇子たちに早く会いたい一心からである。
供奉の前駆は伊達宰相政宗。万余の行列の指揮をとるのは土井大炊頭利勝であった。
公武合体の理想と、天皇家の外戚として朝廷を完全に支配下におき、天下統一の総仕上げをなさんとする政略を秘めて、末娘を入内させたのは六年前である。
三年前の寛永元年十一月に、十七歳になった女御和子は女一宮《によいちのみや》・興子《おきこ》内親王を出産、翌年、正式に中宮《ちゆうぐう》(皇后)に冊立《さくりつ》されていた。さらに去年、待望の一の宮・高仁《すけひと》親王の降誕というお手柄を立て、今年の早春には女二宮を出産していたのである。
天皇とのことのほかの睦まじさが推しはかられ、入内当時の険悪な朝幕間を思うとき、秀忠は今昔の感に打たれるのであった。
将軍家光の江戸城出立は七月十二日。美麗をこらした万余の行列の前駆は、水戸宰相頼房、後尾《しんがり》が駿河中納言忠長。総指揮は酒井忠世がとり、稲葉正勝・松平信綱・阿部忠秋ら重臣が輿のまわりを固めている。
この日、京都では、先発の大御所秀忠が参内して親しく天盃を賜わり、中宮御所で一皇子二皇女にまつわられる和子姫と感激の対面をはたしていた。
家光の入洛は八月二日であり、十八日に参内、従一位右大臣に叙任された。大御所秀忠には太政大臣昇進の| 詔 《みことのり》が伝えられたが拝辞、左大臣を受納している。
両所の参内に際しては、主上をはじめ中宮、禁裏に仕える女房衆、公家の端々まで惜しみなく金品が付け届けられた。
二条城行幸の九月六日を迎えた。夜来の雨が朝方にやみ、昼前に空が紺青に澄みわたってゆく。
「帝晴《みかどば》れじゃ」
鳳輦《ほうれん》を待ちうけて都大路を立錐の余地なく埋める老若男女は、口々に感激の声をあげ、好日をよろこびあった。
まず、中宮の行啓《おなり》である。束帯に礼装した先駆の二十騎は譜代大名であった。
女御和子が中宮に冊立されると、宮中に中宮|職《しき》という役所が設けられ、大夫《たいふ》に大納言三条西実条が任じられていた。
このたびの盛儀の主宰は、公家と武家の要《かなめ》の位置にしっかり根をおろした三条西実条である。実条は、文武百官を引き具した形で、長柄の朱傘をさしかけられ、馬上ゆたかに公家行列の先頭に立っていた。人も馬も一世一代の晴れの日と飾りたてている。
唐車《からぐるま》は牛車《ぎつしや》の最高で、上皇・皇后・皇太子などが乗用する。中宮和子の唐車に従う内裏《だいり》女房の網代《あじろ》車や長柄の輿、手輿が延々とつづく。そのあとが、また騎馬の武士群である。
やや間をおいて、次に現われたのは、天皇の母堂である中和門院《ちゆうわもんいん》(近衛前子)の女院《によいん》行列であった。
つづいて、一段と長い綺羅《きら》をつくした列の通過である。中ほどに、後水尾天皇御座の鳳輦が行く。冠に褐衣《かちえ》袴の舁手《かつぎて》は三十二人。乗物の頂に金色の鳳凰《ほうおう》が秋の日ざしに輝いている。騎馬の随身に、所司代板倉重宗、土井利勝、酒井忠世の顔が見える。関白近衛|信尋《のぶひろ》以下公家の牛車・輿は無数であった。
主上を二条城の車寄せに出迎えた将軍家光は、葵の紋を浮かせた紅《くれない》の二重織物の|袍 《うえのきぬ》と下襲《したがさね》、朽葉唐織《くちばからおり》の表袴《おもてばかま》という華やかな束帯。
鳳輦からおりられた天皇は、黄櫨染《こうろぜん》の袍に蘇芳《すおう》の下襲、|浮織※[#「穴/果」]霰《うきおりかさん》の表袴という雅《みやび》やかさであった。
この行幸の模様は、子の稲葉正勝や松平信綱などが書状を早馬に託して、江戸城大奥のお福へ知らせる。
お福は、おのうと額を寄せあって、次々に届く手紙をむさぼり読み、絢爛《けんらん》たる光景と家光の晴れ姿を眼裏にうかべて胸をおどらせるのであった。
饗宴は五日間にわたって、二条城内に新築した行宮《あんぐう》でくりひろげられた。二日目は舞楽管弦、第三日は蹴鞠と和歌の会、四日目は能興行、終わりの日は五層の優美な天守閣で四方の風景を眺望しながらの盃事であった。
二日目の九月七日、歌舞の催しに先立って将軍家光から主上に銀三万両、中宮へ銀一万両、女院へ銀一万両。そのほか時服・沈香《じんこう》・紅糸《べにいと》・白綾子《しろあや》・金襴《きんらん》などおびただしい献上物が御簾《みす》の前に陣列された。
その詳細が大奥へ届いたのは九日の夕暮れであった。
この文《ふみ》を読んでいるとき、西丸からの急使が阿江与の方の重態を知らせたのである。
阿江与の方は五十四歳。高齢というほどではないが、家光と忠長の地位権勢の差がひらいてゆくにしたがって、うつうつとして楽しまなくなり、昨年来、寝たり起きたりの日々であった。残暑が衰弱したからだにさわったのであろうか、容態が急変したという。
お福は、おのうを従えて西丸奥御殿を見舞った。典医が列座している、昏睡の大御台所の枕辺に、すっかり老いこんだ|民部卿 局《みんぶきようのつぼね》が悲しげなまなざしでお福を迎えた。
阿江与の方が苦悶の表情を残したまま息を引きとったのは、十五日の、暑さが増す昼前である。苦悶は、からだの痛みというより、執着《しゆうじやく》のように、お福には思われた。
「国千代……国千代はまだか」
阿江与の方は、危篤の状態になっても、うわ言のように忠長の幼名を呼びつづけていた。
死を前に、忠長の行く末が急に心掛かりになったのであろうか。
二条城に大御台所の病い危急の早馬が到着したのは、十一日の夜半であった。
行幸の日程はおえていたが、関連の諸行事はつづく。夫である秀忠も、嫡男の家光も京都を離れるわけにはいかない。
「わたくしを江戸へ戻してくだされ」
忠長は半狂乱になっていた。
十二日の払暁、忠長と随伴の一隊が都大路に蹄《ひづめ》の音をひびかせた。
東海道を「母上」「母上」と叫びながら、昼夜休みなく馬を駆る忠長に、十数名の従者は次々に倒れる。十五日の昼すぎに江戸城西丸大手門をくぐったとき、供は矢崎二郎八と青木勝五郎の近習二名になっていた。
端正な顔立ちの忠長が、涙と汗と埃《ほこり》で泥水をかぶったような面貌に変わって病室へかけこんできたとき、阿江与の方の肌はまだ冷えきってはいなかったが、脈がとまって一刻《いつとき》(二時間)ほどたっていた。
「おそかったか、おそかったか、おそかったか」
忠長は三度かすれた声で叫び、血を吐いて気を失った。
喜ばしいことがつづいたこの年の、その慶事に、阿江与の方の死を数え入れようとするおのれを、お福は恥じる。しかし、家光のためには、煩《わずら》いの種が消えたことは確かであった。
(忠長卿は、もはや敵ではなくなった)
お福はそう断ずる。
二条城行幸を最大の光輝とする秀忠・家光両御所の上洛で、朝廷と幕府の軋轢《あつれき》はなくなり、公武合体がついに成ったかに見えた。
だが、菊と葵は、容易に接《つ》ぎ木にはならないようである。
翌寛永四年七月に、後水尾天皇の逆鱗《げきりん》にふれる事件がおこった。
朝廷がもつ古来の権限である高僧への紫衣《しえ》勅許を、幕府が「禁中並公家諸法度」「勅許紫衣法度」違反として抗議し、すでに下されている紫衣|口宣《くぜん》数十枚を破棄してしまったのである。
天皇は、
「前代未聞、これほどの恥をかかせるにおいては、朕《ちん》を邪魔と見るのであろう。急ぎ、徳川の血筋を皇位につけたい下心は明白」
と、中宮大夫・三条西実条や所司代・板倉重宗などのとりなしに耳を貸さず、退位を決意したのだった。
徳川和子である中宮所生の皇子・高仁親王は三歳になっていた。幼帝の即位は稀有《けう》ではないが、いかにも横車をおしたようで徳川家と幕府は面目を失墜する。天下一統の功業に瑕《きず》がつく。
幕府は、天皇の譲位通告に困惑した。
徳川方の真意は、血筋の早期|践祚《せんそ》で皇統の内へ入ることを急いだのではなく、幕政の権威を守ることにあったのである。
慶長十八年から元和元年にかけて、幕府集権を徹底させるため、武家・禁中・公家・寺院へ次々に法令が発布された。家康の晩年にあたる。
各法度には「何事も、幕府に届出、認可あるいは同意を得ること」という意味の一条が必ず織りこまれてあった。紫衣事件は、これに抵触したのである。
後水尾天皇は、従来からの特権である紫衣勅許を、幕府に届け出ることなく、悪いことに乱発していたのだった。数少ない収入源であることにもよる。
「主上《しゆじよう》のなされたことである。そのような口宣《くぜん》にまで目くじらを立てるのは、いかがかと存ずる」
幕閣でも、行き過ぎによる公武間のひび割れを憂慮する意見はあった。酒井忠世ら老練の年寄衆である。
それに対して「生まれながらの将軍」の側近衆で、老臣に「合戦の経験もなく、信長・秀吉ら先人の朝廷対策も知らざる」と白い目で見られる新鋭の執政――松平信綱・稲葉正勝・阿部忠秋らが、
「幕府の権威は守らねばなりませぬ」
と、強硬に主張した。
お福もまた、些細事から、せっかくの公武親和がくずれることを恐れ、信綱・正勝・忠秋の三人を、大奥の客座敷へ呼びつけたのである。正勝は実子だが、信綱も忠秋も幼時から人倫・文武を厳しくしつけてきた、わが子同然の者であった。
ところが、お福は子たちに裏切られるのである。
「母代《ははしろ》さまの仰せではござるが、表の治政にお口出しは遠慮願いとう存じまする」
松平信綱が、冷徹な面持ちで、進言を拒む。
「まあ、何という高飛車な」
お福は血相を変えた。
「問答無用といわっしゃるか」
「さようでございまする。御無用」
厳然と言い切る信綱は、昔の幼い小姓ではない。三十二歳になる、家光第一の股肱《ここう》であった。信綱ら側近の意見は、将軍の意志と解され、近ごろは年寄衆も無視できなくなっているのであった。
「正勝どの、そなたは何と考える」
「母上」
正勝は、千熊時代と変わらぬ温和な容貌と性質をもちつづけていた。母に似ないのは、烈しい気性を忌避しているためであろうか。
「われらも、朝廷は尊し、としておりまする。しかしながら、政令が東と西の二つより出てはならないのです。天下の乱れとなりまする。たとえ、些細事といえども、法度は法度でございます。情にかまけて、特例をつくれば、天下の示しがつかなくなりまする」
母には頭が上がらなかった正勝が、澄んだ目で、堂々と述べる。
「……正勝、そなたも、なんと、たいそうな口をききやるようになったものじゃ」
にらみつけるが、眼光も言い方も弱々しい。
「忠秋どの、そなたも同じか」
「はい。徳川永世の基礎《もとい》を固めるためには、小さなことも見逃せませぬ。蟻《あり》の一穴《いつけつ》、城壁をも崩す、ともうしまする」
「もうよい」
お福は泣き声をあげた。
「お退がりなされ。向後、表のことに口出しは、決していたしませぬ」
白毛がますます増えた長髪を打ちふって面を伏せてしまったお福に、信綱ら三人は困惑の表情であったが、口々に挨拶をして立ち去っていった。
「お方さま」
付き添っていたおのうが、嗚咽《おえつ》をもらしはじめたお福へ、心配そうににじり寄る。
「姉さま」
嗚咽は激しくなり、肩が大きくふるえはじめたのである。
「どうなされました」
おのうは、おろおろと、お福の顔をのぞきこむ。
その顔が上がって、ほとばしり出たのは明るい笑いであった。むせび泣きは、はじめから、おかしさを噛み殺したうめきだったのであろうか。
「乳母どの、乳母どのと、まつわりついていた、あの子らがのう、一人前の口をきくようになった。徳川の永世の基礎を固めることを真剣に考え、信じるところを屈せずに言い通す男《おのこ》になりおった。上様は、よき家来をもったもの。めでたいことではないか」
うれしげに笑うその声が、また湿って、やはり淋しそうな表情になるお福であった。
おのうも、泣き笑いの相伴である。
大老格の土井利勝が、
「幕府の権威第一、主上の御譲位もやむをえない」
と決断したことから、寛永五年二月、幕府は京都所司代に命じ、内裏の東南に、天皇の隠居所である仙洞御所《せんとうごしよ》の造営をはじめたのである。
だが、その四カ月後の六月十一日、皇位を継承する高仁親王が急死してしまった。
代わるべき皇子はいない。
三条西実条らが奔走して、皇子誕生まで、後水尾天皇の譲位は延期されることになった。
三歳の幼児の夭折は奇異ではない。この時代、一歳から五歳までの子は三人に二人は死ぬとみられていた。いったん病むと、神仏や巫女《みこ》にたよるしか手立てはないのである。このため、名家名門は何人もの側妾を置き、継嗣が絶えないよう閨《ねや》において努力する。一夫多妻は好色のみとはいえなかった。
しかし、時が時だけに、高仁親王の急逝には怪聞が口から口へひろがった。
「所司代と、江戸から派遣《つかわ》された中宮職の御付き侍が、中宮さまのお腹《はら》だけに皇子を生《な》すよう、御密会の夫人《ぶにん》(隠し側妾《そばめ》)がお孕《はら》みになると、ひそかに、お腹を打ち、あるいは毒をまいらせて流産《みずこ》にしたそうな。このたびは、その報復《しかえし》とか」
大体、このような噂である。
ともあれ、朝幕間は小康状態を得た。
ところが、くすぶりつづけていた紫衣事件は、幕府の強権に抵抗し、仏法の根元を理をもって述べながら抗議をやめなかった大徳寺の高僧・沢庵宗彭《たくあんそうほう》ら四人を配流、という結末を迎えたのである。抗議の取り扱いは、南禅寺の住持だが幕府に仕え、宗門支配の地位にあった金地院崇伝《こんちいんすうでん》である。黒衣の宰相とも称され、幕府の方針に忠実であった。
将軍家の信任厚い天海僧正は、問われれば意見を述べるが、概して治政には関与しなかった。しかし、高僧の流罪には反対した。このことも、崇伝をかたくなにして、流罪の主張を押し通させたのかも知れない。
なぜなら、家康の没後、神号をめぐって両者は対立し、崇伝が敗れているからである。
崇伝は「大明神」を主張、天海は「大権現」でなくてはならぬ、とめずらしく自説に固執した。
仲裁に入った秀忠が、
「明神は悪く、権現を推す、その理由《いわれ》を示されよ」
詰問すると、天海僧正は、ただ一言、
「豊国大明神は不吉」
と答えた。
豊国大明神は、豊臣秀吉の神号である。豊臣家は前年、大坂の陣を最後に、悲惨な滅亡をとげている。
これで、崇伝の説は退けられ、東照大権現に決定したのであった。
紫衣問題では、天海の寛容説は退けられ、崇伝の厳罰上申が取り上げられたわけである。
沢庵は出羽|上山《かみのやま》、玉室は陸奥|棚倉《たなくら》、東源は津軽、単伝は出羽|由利《ゆり》に、それぞれ流された。判決は、寛永六年七月二十五日である。
崇伝には、世人によって「大欲山気根院僭上寺悪国師」という異名がつけられた。
後水尾天皇が、再度、譲位を決心したのは、その直後であった。
「朕は、心身ともに疲れた。位を女一宮に譲り、隠棲して安らぎをえたい」
女一宮とは、中宮和子所生の長女・興子内親王である。
女帝は、皇統二千有余年の間に、八人、重祚《ちようそ》が二度あるので、十代を数える。しかし、奈良朝の称徳天皇(孝謙重祚)以来、八百六十年ほど、その例をみない。しかも、興子内親王は七歳であった。
「そうまでして、徳川は皇室外戚の地位を得たいのか」
という世の非難は目に見えている。
「後水尾天皇も中宮も、まだお若い。皇子誕生とその御成長まで、なにゆえお待ち願えないのか」
幕閣では、強硬派の土井利勝も、保守派の酒井忠世も頭をかかえこんでしまった。
天皇は三十四歳、中宮和子は二十三歳である。
お福が、突然、中奥御殿に召し出されたのは、八月二十一日であった。
急ぎ参上すると、御座の間には、上段の間に将軍家光。中段の間の上座に利勝・忠世・酒井忠勝・内藤忠重ら年寄衆が列座。下座に松平信綱・稲葉正勝・阿部忠秋ら家光側近衆が陪席していた。
お福は、中段の間の上座中央へ導かれた。家光の真正面である。大奥では、くつろぎの家光は普段に見ているが、
(表御役所で拝する上様は、格別御立派)
と、緊張のなかでも、お福はうれしい。
「乳母どの、今一度、伊勢参りをしてくれ」
意外にも、家光の直の仰せ出しである。
「お伊勢参りに……」
お福の脳裏にうかぶのは、家光が八歳だったとき、伊勢参りを口実に駿府城へ走り、家康に直訴した、あの道中である。
「子細は、大炊が話す」
すかさず、土井大炊頭利勝が向き直り、伊勢参拝を口実に京都へ寄り、主上に謁見、そのお心を慰めもうし上げ、皇子誕生まで御在位下さるよう懇願するように、という秘命を伝えたのである。
お福は驚き、
「何をもちまして、無位無官の、しかも、女の身のわたくしが……」
一も二もなく辞退した。
「万策尽きたのじゃ。主上におかれては、仙洞御所の件、沢庵禅師等配流のことなどあり、われら江戸の年寄衆、京都所司代、誰も御信用なさらぬ。拝謁も停止《ちようじ》の由。お福どのには、中宮大夫・三条西卿との縁があり、主上におかれても、御感斜めならずとのこと、もれうけたまわる。このほかに策なし、と一座にて決したること。曲げて、御承引願いたい」
利勝が頭を下げれば、酒井忠世も少し膝を進め、
「無位無官といわれるが、昇殿にさいしては、三条西卿の猶妹《ゆうまい》の資格にて、従三位に叙せられることになっておりまするぞ」
「福。先年、主上を二条城へお迎えしたおり、予を育て、将軍位につけてくれた乳母どのの話が出ての、主上におかれては、御感、浅からず、一度会ってみたい、とのお言葉があった。そのことを思い出して、皆の者に計ったのじゃ」
家光が身をのり出して、つけ加えた。
お福の入洛は九月十二日。二条城を宿所にして、およそ一月《ひとつき》の間、京都の実情をつかむことと、朝廷要人と懇親を重ねるために費やした。主上および公家全体の幕府への悪感情は、予想以上に根深いようである。しかし、お福の誠実をこめた働きかけで、急な譲位は避けられそうな情勢に変わってきた。
その好転した状況のなかで、十月十日の午後、いったん中宮御所へ入り、中宮和子に拝謁して楽しいひとときをすごした。
和子の誕生は、お福が江戸城へ入って三年目であり、幼少から親しんでいる。入内のときには、婚礼衣裳等をお福が見立てて、豪華美麗に仕上げた。そのことの話も出た。
「間もなく、御上《おかみ》より召し出しがありましょう。これを着けて参上するがよい」
中宮は侍女に指示して、ひと重ねの衣をお福の前に置かせた。美しい緋の袴である。
茜《あかね》で染めた絹の袴だが、高位の僧が勅許によって着用する緋色の法衣と同等のものであった。それを、中宮は、参内にあたって従三位に叙せられ、春日局の称号を下賜されているお福のために、用意していたのである。
お福は感激で目をうるませ、おし戴いた。
夜に入って沙汰があり、三条西実条の介添えで、お福は御所へ渡り、御学問所(書院)へ導かれた。天皇は三十四歳。憂いをふくんだ面立ちながら、お福を親しげに引見した。家光から聞いていた将軍家の乳母であり、中宮の幼時を知っている女人だったからであろう。
長橋《ながはし》の局の御酌で天盃をたまわり、対面の儀はすぐに終った。将軍と幕府の意は、関白や武家伝奏等の朝廷要人に伝えてある。直の奏上はない。
お福が、上々の首尾で江戸城へ戻ったのは十一月八日であった。だが、数日後、京都からの急報が、お福を愕然とさせた。
十一月八日のその日、京都御所では、後水尾天皇が幕府に通知することなく、突然、譲位を宜し、女帝|明正《めいしよう》天皇を立てたというのである。続報は、天皇は後水尾院に、中宮は東福門院と称号をあらためたと伝えた。
お福の脳裏によみがえるのは、参内後に事情を知らない公家の間で高まったという、
「将軍家の乳人《めのと》とはいえ、賤しき武家の一召使いが参内を強要したとは、主上の御逆鱗《ごげきりん》もって知るべし」
などの、お福を非難する憤怒の声である。
「もうしわけございませぬ。福は、何のお役にも立たなかったばかりか、かえって御譲位をお早めしたのではございますまいか」
自責するお福に、土井利勝は、
「万策尽きた上での、春日局どののお働きであった。徳川が誠実のかぎりを示したことになり、決して無駄ではございませぬ。これでよいのでござる」
と、労をねぎらった。
お福は、ふと、自分は将軍家と幕府の体面をとりつくろうために利用されただけではあるまいか、という疑念にとりつかれた。賤しき武家の一召使い、と謗《そし》ることもできる女を参内させることで、主上と公家を激怒させ、譲位を早めて徳川の血の入った女帝践祚を実現させる、その役割を演じさせられたのではないかと思い煩う。
しかし、興子内親王の即位は好ましくなく、皇子誕生まで待ちたい、というのが将軍家と幕府の意向であった。そのための使いであったのだ。
(後水尾帝も和子中宮も、御機嫌はうるわしく拝された。それでありながら、なにゆえの急な御譲位)
苦悩するお福に、
「緋の袴を着用し、中奥御座の間へ」
という家光の仰せ出しがあったのは、十一月も末で、底冷えのする日であった。
命のままに緋の袴に正装して、身も心も寒々としたまま中奥御殿へ伺候すると、御座の間は、赤々と炭が燃えた幾つもの火櫃《ひびつ》でかこまれている。中段の間で平伏して迎えたのは、御用絵師の狩野探幽であった。絵道具をすでにひろげている。
上段の間から笑顔の家光が、
「これは予の命令じゃ。辞退はならぬぞ」
いきなり釘をさしてくる。
「何事でござりましょう」
「乳母どのが、大きな役目をおびて参内したときの、その晴れ姿を残しておきたいと思ってな。予が立ち会う。探幽、すぐに始めよ」
お福にためらいの間を与えない。
探幽は、敷物の上にお福を座らせ、画像にふさわしい姿勢をととのえさせて、すぐに絵筆をとった。
「探幽、わかっているであろうが、絵姿というものは、その人の内に秘めた美しさも出さねばならぬぞ。黒髪も、見た目よりも長く豊かに描くがよい。今は、春日局は長旅の疲れでやつれておる。本来は、もそっと、ふっくらとしておるぞ」
お福は、部屋の暖かさとともに、家光の心遣いに胸を熱くする。目頭が濡れてくる。そっと頬に手をあてると、脇息に両肘をついて眺めていた家光が、しみじみとした声で言った。
「予には、生みの母に可愛がられた記憶《おぼえ》がない。母は、お福であった。のう、春日局」
[#改ページ]
第七章 正室と側室
1
寛永八年は、新春から雪の日が多かった。
雪は豊穣の吉兆といわれる。実りは、田畑だけではない。母胎にも期待されるのであった。
一月七日。大奥では、御台所《みだいどころ》の臨席を仰ぎ、お福をはじめ御目見得《おめみえ》以上の奥女中が大広間に会して、七草粥を祝った。一年の邪気をはらい、万病を防ぐ新年の行事である。
早朝から軽やかに舞いおりていた綿雪が、いつ知れず中庭の寒椿を雪だるまに変えていた。
会食がおわり、|大納言 局《だいなごんのつぼね》に付き添われ、侍女たちを従えて起居の棟へもどる御台所・孝子の方をお見送りしたお福とおのうは、顔を見合わせる。
「おめでたではございますまいか」
おのうがささやいた。
「そなたも、感じたか」
七草粥にむせた孝子の方のしぐさが、つわりに見えたのである。
「それにしても、大納言局さまは、お気づきではないご様子」
「そうよのう、御懐妊ならば、祈願のことゆえ、何はさておいても御注進なさるはずじゃが」
「ご老女は、お清《きよ》さまとか。御経験が……」
お清とは、未婚、または男との交わりで汚れていない女人をいう。
「南条に診《み》させましょう」
お福は、侍女を一人さしまねき、医者部屋へ使いに出した。
間もなく、お福の居間へ姿を現わしたのは、ずっと以前、家光の出生にたずさわった女医者である。
京都の産婦人医界の泰斗で、『撰聚婦人方《せんしゆうふじんほう》』三巻を著わした一鴎軒《いちおうけん》・南条|宗鑑《そうかん》の一族であることから、南条と呼ばれていた。京都出身の|民部卿 局《みんぶきようのつぼね》が、阿江与《おえよ》の方の侍医にと招き、お福と前後して奥御殿へ入っていた。家光につづき、忠長、和子を助産している。
先年、阿江与の方が亡くなり、翌年、あとを追うように民部卿局が他界したあと、六十歳をすぎている南条をお福が大奥へ引きとり、長局《ながつぼね》に部屋を与えていた。
幸い、奥女中たちに重宝がられている。
以前は、奥医者(男性)は、大奥のどの部屋へも入って行けた。この例外が風紀の乱れにもなっていた。お福は、諸制度を整える一環として、御広敷役所と客座敷棟のなかほどに病いの間を設け、医者の出入りはそこまでと定めていた。
病人は、よほどの重態でないかぎり、女目付と同伴で病いの間へ出向き、診察をうけ、薬をもらうのである。
南条は、師の宗鑑がそうであったように、産科のみならず本道《ほんどう》(内科)や外科、鍼灸《しんきゆう》術にも通じていた。たいていの煩《わずら》いは、南条の手当で間に合っている。
お福は、南条に意を伝え、おのうを付けて御台所の棟へ出向かせた。
やがて、大納言局を加えた三人が、あわただしくお福の居間へ戻ってきた。
「お方さま、うれしゅうございます。ほんに、うれしゅうございまする」
お福にとりすがったのは、大納言局である。
おのうも、臈《ろう》たけた面をほころばせていた。
お福の目の問いに、南条はかしこまり、
「今しばし、ご様子を、と存じまするが、まず、御懐妊、まがうことなきか、と拝しました」
「おお、それはお手柄、お手柄。上様も、さぞ、およろこびになられましょう」
お福も歓喜をあらわにして、
「南条どの、大事な大事な第一子じゃ。男児であればよいが……。ともあれ、向後、念入りにたのみまするぞ」
「心得ましてございまする」
坊主頭に羽織という、奇怪にも見える老女医者は一礼したが、そのやや濁りを帯びた目が妖しく光っていたのを、浮かれ心のお福が見落としたとしても、やむをえまい。
家光と御台所の間は、やはり睦まじいとはいえなかった。互いに、心の底のしこりは消えていない。結婚六年目の受胎は、夫妻ともに重い責務を果たしたという安堵が強い。が、それによって愛情は濃《こま》やかにならず、逆に、閨の事がと絶えてしまったのである。
将軍になって八年目を迎える家光は、地位に自信をもってきていた。大御所秀忠は西丸に隠居したまま、治政のことには容喙《ようかい》しなくなっている。
三傅役のうち、青山忠俊は遠ざけられ、酒井忠世に往年の精彩は失せているが、
「将軍位とともに、天下を治むるわが宝を、そのほうにゆずる」
と、秀忠が、本丸老職に配しておいた土井利勝が期待通りの働きをしていた。
小姓上がりの松平信綱・稲葉正勝・阿部忠秋らも、家光を支える治政家として育ってきている。
秀忠は、おのれが将軍でありながら、重要な法令が大御所家康から出た二元政治の弊害と悲哀を、身にしみて知っている。京都と江戸と、政令が二つより出る芽を摘もうと幕閣が非常の決意で事にあたっている今、秀忠は多少目にあまることがあっても、見て見ぬふりをすべきだと自戒しているのであった。
愛妻家、といっていいであろう。お静という奥女中に手をつけ、ひそかに一子(保科正之)を生ましめたほかは、秀忠は側室をもたずに通した。妻の肌のみに親しんだ。その阿江与の方に先立たれてからは、心身ともに弱まり、このごろは、父家康の晩年に倣《なら》って写経に安らぎを見出す日々である。
家光のほうは、父秀忠からも、御台所からも、口やかましい老臣からも解き放たれ、のびのびした毎日を送っていた。
尊崇する権現さまがそうであったので、家光は特に鷹狩りを好んだ。
二月十二日、手ずから鷹を放って得た鶴を明正天皇と後水尾上皇に献上するため、早馬を発たせている。以後、禁裏への鶴奉呈が、早春の恒例となった。
獲物が多いと、出仕の大名や時には旗本を招いて、鶴の吸い物を振舞う。
大久保彦左衛門も、ある日、相伴にあずかった。
家光は、彦左衛門がお福とかすかながら縁戚のつながりがあり、三代将軍擁立の陰働きもあったことから、
「爺、爺」
と、折りふし、中奥の休息の間に召し出して、権現さま時代の諸将の武勇伝を語らせ、歯に衣《きぬ》着せぬ意見にも耳を傾けていた。
だいぶ前のことだが、沼津二万石の領主であった次兄の大久保|忠佐《ただすけ》家で、嗣子忠兼が父より先に死に、跡取りがいなくなった。当時の将軍は秀忠であったが、彦左衛門の忠節を認めていたので、忠佐家を継がせて二万石の大名にしてやろうと温情を示した。
ところが、彦左衛門は、
「手前の武功によらざる昇進は、ひらに辞退つかまつる」
と、受けなかった。
家光も、寄親の大久保忠隣に連座して減俸された千石のままでは気の毒と、五、六千石ほどに取り立てようとするのだが、
「それがし一人、格別の功績もなくお恵みくださるは、ありがたき御沙汰なれど、迷惑。それより、三河衆でありながら千石以下の微禄に甘んじおる直参に、千石なり、五百石なり総加増が願わしく」
と、持論を披瀝《ひれき》するばかりである。
徳川家のために直接働いたわけでもない外様者が百万石、五十万石の大大名になり、主家の天下取りのため捨て身で戦いつづけた譜代衆の多くが千石、五百石、二百石という微禄である現状を、家光も知っている。
まだ竹千代時代、お福から、
「若君が家督を継がれて、徳川の御当主になられましたら、ぜひぜひ、この不公平をお改めになり、譜代の忠臣たちの知行を外様より多くしてあげてくだされ」
と、頼まれている。
家光は忘れていない。
しかし、現実に照らし合わせれば、総加増は不可能であった。
千石以下の、直参と称される旗本・御家人は二万二千余人を数える。各人に千石を加増すれば、二千万石が必要となるのだ。六十余州の総石高がおよそ二千五百万石であり、そのうち、徳川家の天領は四百万石である。できる相談ではない。
家光が、そのことを語り諭《さと》すと、彦左衛門は恐懼《きようく》して沈黙したが、頬骨の出た利かぬ気の老顔には「それなら、外様大名を攻め滅ぼして、総額二千万石の領地を奪えばよい」と書いてある。
しかしそれは、元和偃武《げんなえんぶ》の現今、さらに不可能なことであった。
家光は、だが、彦左衛門の、おのれより朋輩を思うその義侠を愛《め》で、
「何かもの申したいことがあれば、遠慮なく直《じき》に言うがよい。爺は槍一筋の家人《けにん》の名代《みようだい》じゃ。天下治政の参考《めやす》にしようぞ」
と、天下の御意見番たることを許していた。
その大久保彦左衛門が、朋輩の旗本十数人と鶴の吸い物付きの昼餉《ひるげ》をいただき、恐悦して退出する。なかには、家族に栄誉をわかつため、うやうやしく香の物を懐紙に移し、土産にする士もいる。
「彦左」
「はっ」
上段の間で、下級旗本と親しく会食することに満悦している家光が声をかける。
「そのほう、鶴を味わうのは久しぶりであろう」
彦左衛門はしかめっつらのまま、
「恐れながら、ただ今いただきました鶴でござれば、毎日食しておりまする」
「なんと……。そうか、進物があるのじゃな」
鷹狩り、それも鶴の捕獲は、御三家ほか少数の大名にしか許されていない。だが、彦左衛門ほどの名物男になれば、それら家門からの差し入れがあるのだろうと察したのである。
「進物ではござりませぬが、明日、同じ鶴を献上いたしまする」
翌日、家光のもとに届けられた彦左衛門からの進物は、小さな竹籠に入った青菜である。
その夕、大奥でくつろいだ家光は、お福に彦左衛門のいつもながらの奇行を語り、
「青菜が鶴とは、いかなる判じ物であろう」
と、首をかしげた。
御台所と同衾《ともね》することがなくなった家光が、久しぶりに大奥へ御成りになったのは、この判じ物を解くためであろう、とお福はおかしかった。体面上、近習に聞くわけにはいかないのだ。
「太田道灌さまに捧げた、山吹の歌でございましょう」
「七重八重、花はさけども山吹の……という、あれか」
「下の句をどうぞ」
「みのひとつだに、なきぞかなしき」
「おわかりになりませぬか」
「みのひとつだに……実《み》が入ってなかったのか」
家光が小さく叫ぶ。
「菜っ葉だけだったのでありましょう」
「そうか、そうか。鶴は肉が少ないからの、ゆきわたらなかったのか。それで、実の一つだになきぞかなしき、か」
家光は膝をたたいて笑い興じている。
幼少時の、じっと目を据えて黙りこくっている竹千代の面影は、全くみられない快活さであった。
お福も口元に手をあてて笑いながら、無邪気な振舞いの上様がいとしい。
大納言局が、取り乱した形相でお福の居間にかけこんできたのは、二月二十三日の夜であった。
「お方さま、胎児《ややこ》が流れたようでございまする」
泣き声である。
お福は寝支度にかかろうとしていたが、すぐに帯をしめ直し、
「南条は」
「手当をしておりまする」
「大事ありませぬか」
母体を気遣ったのである。
「南条どのは、よくある流産で、大事ないともうしておりまする」
御台所の棟へかけつけると、異臭がたちこめていた。
孝子の方は、新しくしつらえた寝床に臥せていたが、ほっそりとした顔面は死人のように青く、動かない。
「御台さま」
お福が鋭く声をかけると、孝子の方は重たげに目をひらき、この上ないほどの哀しいまなざしで、かすかに首をふった。
「しっかりなされませ、しっかりと。たいしたことではありませぬぞ。女性《によしよう》には、ままあることでございまする。よろしいか」
気合いを入れておいて、汚れた夜具の前で背を丸めて跡かたづけをしている女医者南条のそばへ行き、布団をめくった。
腐臭が鼻をつく。おびただしい血痕のなかに、どろどろの肉塊が認められる。
「申しわけございませぬ。このようなことにならぬよう、念入りにお薬などさしあげていたのでございますが」
南条は頭をさげたままである。
「夕方、地震がございました」
南条はつけ加えた。急ぎ言い訳をする口調である。
たしかに、日暮れどき、違い棚の御所人形がころげ落ちたほどの強い揺れがあり、大奥じゅうに悲鳴がとびかった。
「あれに驚かれての、御流産と拝しまする」
ありうることである。しかし、お福は、くずれた肉塊の端にくっついている小さな絹袋を凝視していた。口がわなわなとふるえてくる。激情を抑え、御台所の枕元で憂い顔の大納言局をかえりみて、
「お使いを立て、宗伯《そうはく》さまを急ぎお迎えあるよう」
と指示した。
施薬院《やくいん》宗伯は、慶長四年、二十三歳で医師最高位である法印に任じられたほどの名医で、家康が侍医として招き、ひきつづき御匙《おさじ》をつとめている。日比谷御門内に屋敷が下賜されてあった。
南条が、この間、そっと立ち、部屋を出ようとした。
お福が、つ、つ、と寄り、そのまま連れ立つ形で廊下へ出たが、
「来やれ」
襟をつかまえ、引きずるようにして、自分の居間に伴った。
「何事かございましたか」
先に寝所へ入っていたおのうが、異常な気配に起き出て、お福を探していたところであった。
「言え、何をたくらんだ」
お福は、南条を突きとばした。おし殺した声が怒りに満ちている。
「いきなりの御無体《ごむたい》、迷惑でございまする。ものの怪《け》にでもお憑《つ》かれなされたか」
いつもは卑屈なほど腰のひくい南条が、思いなしか、ふてぶてしく、お福を見上げる。目が妖しく光っていた。
お福は、半身を起こした南条の襟元をふたたびつかんで、引き立たせる。
「南条、おのれ、毒をまいらせたであろう。強いて流産《みずこ》にしたのであろう。あの絹袋は中条流の挿《さ》し薬にちがいない。そのほうの口から聞いたことがありまするぞ」
南条の、しわの多い小さな顔に狼狽《ろうばい》と恐怖が走った。
三年前、皇嗣高仁親王の急な薨去《こうきよ》があったとき、奇怪な風説が江戸にも流れた。中宮以外の隠し夫人《ぶにん》が懐妊すると、何者かが毒をまいらすなどして流産にしてしまう、という噂である。
大奥のお福の居間でも、
「恐ろしや、毒とはどのようなものであろうのう」
と、おのうが、ちょうど居合わせていた女医者の南条に聞くと、
「毒とて、口からのませるだけではございませんよ。下《しも》の口から握り薬を挿し入れて、子を腐らせて堕胎《おろ》す術もございます」
と、師の南条宗鑑と並ぶ産婦人科医であった南蛮流の中条|帯刀《たてわき》が秘薬としていた、挿し薬のことを語ったのである。
子腐り薬の主成分は、水銀と檳榔子《びんろうじ》で、それを絹袋に入れ、引き出すときの便利のため袋の端に糸をつけておくのだという話であった。膣深く挿入後、一刻《いつとき》(二時間)ほどで胎児はくずれ、血塊とともに引き出される。南条は、激しい地震を口実にしようと、今宵、流産予防と偽《いつわ》って、この秘術をほどこしたのであろう。
お福は、南条を締め上げる。
「言え、何の恨みで、あのようなむごいことを」
老いた女医者は、苦痛の表情ながら、強情に唇を引き結んだままであった。
「言わぬか、言え、何の恨みぞ」
お福の右手が力まかせに打ちおろされ、南条の頬をふるわせる。激しい音だ。二つ、三つ、四つ、お福は狂ったように殴打する。
泣き叫んでお福にとりすがっているのは、おのうである。
「お止めくだされ、お願いでございます。死にまする、南条どのが、死にまする」
「おお、死ねばよい、殺してやろうぞ、この鬼め、せっかくの上様の御胤《おたね》を、せっかくの上様の御子を」
お福は、南条を畳に叩きつけると、長押《なげし》へ走り、久しく飾り物になって使うことのなかった薙刀《なぎなた》をつかんだ。ひと振りして鞘《さや》を飛ばす。白い刀身が行灯《あんどん》の明りにぎらりと光った。
「お方さま、いけませぬ」
おのうが、覆いかぶさるように南条をかばい、お福を見上げて大きく首をふる。
お福はひるむ。
「おのうさま、かたじけなく存じまする」
女医者は唇の端から流れる血を、懐紙でていねいにぬぐって、坐り直した。
「もうし上げましょう。その上で、お仕置をいただきましょう」
南条も武士の家の裔《すえ》であろうか、覚悟を決めた、きりりとした面立ちになっていた。
「御台さまには、何の恨みもございませぬ。御恩になった大御台所さまの、御霊《みたま》安かれと、御遺言に従ったのでございます」
「阿江与の方さまの……」
お福は、意外な人の名に、茫然とする。
「逝去《おかくれ》になったときの、おかわいそうな大御台所さまのお姿が消えませぬ。大御台さまは、家光さまの御子を出産《うま》せてはならぬ、四代将軍は忠長さまの御子でなくてはならぬ、南条、それを見届けてくりゃれ、と病い篤《あつ》くなられて、くりかえし仰せられました。いつとはなしに、忘れるともなく忘れておりました。いつぞや、挿し薬のことを座興にもらしたのは、不覚。この上は、御存分に成敗なされてくだされませ」
首を打たれようとするかのごとく、両手をつく。
お福は、おのうに薙刀を奪われるままになりながら、気が抜けたように坐りこんだ。
「……大御台さまがのう……。そなたは、そなたで……忠義を働いたのか……」
つぶやくお福に、さきほどまでの狂い猛《たけ》った烈女の面ざしは消えている。
2
本郷台地は湯島とも呼ばれ、江戸城の北方に、上野の山と並んで樹木を繁らせていた。森のなかに社寺が点在している。
湯島天神は、およそ三百年昔の足利幕府初期に創建され、百五十年ほど前に江戸城主・太田道灌が再興した、とお福は聞いている。
その古い社《やしろ》と切通し坂をへだてて、坂を登りつめたところに新しい寺院が建っていた。柿葺《こけらぶ》きの惣門《そうもん》わきの石柱に「報恩山|天沢寺《てんたくじ》」と彫られてある。
建立の本願は、お福であった。
元和九年、家光は三代将軍の宣下をうけて江戸へ還御すると、お福に、
「母代《ははしろ》どのに、長年苦労をかけた礼をしたい。何でもよい、望みを言ってくれぬか」
と、再三、催促した。
お福は、翌寛永元年の秋になって、
「それでは、仰せに甘えて、亡き父母の菩提《ぼだい》を弔い、あわせて老後の隠居所にもいたしたいと思いまするゆえ、庵《いおり》を建てていただけましょうや」
伺いを立てた。
「引き受けた。万事、この将軍さまにまかせられよ」
家光は勇み立ち、早速、天海僧正に地を相させ、湯島台地に惣門・本堂・鐘楼・庫裡・客殿につながるお福の庵(屋敷)という、思いもよらぬ大伽藍を建ててしまったのである。
お福の家系は禅宗である。
家光は、抜かりなく臨済宗・妙心寺派の大本山妙心寺から周劉渭川《しゆうりゆういせん》禅師を招き、開山とした。本尊は、お福が折り折りに祈願した持仏と同じ釈迦如来である。
落慶法要は、寛永二年の秋であった。家光と孝子姫の婚儀につづく吉祥で、十一月には上野山に天海僧正が住持する関東天台宗の総本山・東叡山寛永寺の本堂が完成している。
お福は、年に何回かの参詣のほかは、天沢寺の庵を用いることはなかったが、女医者の南条を、このたび、おのれの菩提所へ「配流」したのである。
南条は、自害しようとした。
お福は、その軽挙を強く諫め、
「しかし、あれほどの事を仕出かしたからには、大奥には置けませぬ。といって、今は、寄る辺のない御身と聞く。抹香臭いところではあるが、老後を養うには心安まるのではなかろうか」
と、天沢寺の庵番《いおりばん》になることをすすめ、形をあらためて、
「南条、そのほうの罪、軽からぬ。よって、湯島台へ流罪申しつける」
と、宣したのである。
南条は号泣して、その申し渡しに服した。
一方、御台所・孝子の方は、いのちには別状ないものの、陰部《かくしどころ》が毒物でただれ、閨の事ができないからだになっていた。
孝子の方は、京都へ戻りたい一心であるが、朝幕和合の証としての摂家と将軍家の婚姻である。離縁などできることではない。
それに、流産は、夫である家光にも地震による驚きのため、と言上してある。真相を明らかにすれば、騒動はひろがり、汚名は崇源院(阿江与の方)におよぶ。天災のせいにしておくにしくはない。
お福は、噂のひろまりの早い大奥に、いち早く厳重な箝口《かんこう》令をしいていた。お福の薙刀をふりまわしての猛女ぶりを知る大奥女中たちは、命令を忠実に守るであろう。
大納言局を通じて、孝子の方の願いがお福にもたらされたのは、法印施薬院宗伯の施療によって心身の健康をとりもどした初夏の候であった。
宗伯は、お福の、将軍家にも内密にしておきたいという判断を了とし、医家の心得もあって、御台所のからだの異常を外にもらすことはない。
「御台さまは、乾濠《おほり》のむこうの吹上《ふきあげ》のお庭から聞こえてくる、さまざまな小鳥のさえずりを楽しまれ、できることならば、あの森のなかで余生を送りたい、と仰せられておりまする。お若いのに、余生などと……」
大納言局は袖で目のあたりを押える。
「大奥御殿で、名ばかりの御台所であるのが、おつらい御様子……。この儀、いかがでありましょう」
お福は、家光に取り次いで、指示を仰いだ。
「一度の流産くらいで、思いつめることはなかろうに……」
家光は、大奥の御座の間で考え沈んでいたが、
「やむをえないのう。もともと、相性がいいとはいえなかった」
と、つぶやいた。
「京都への聞こえもあろう。病後の養生という名目にて、住み心地よい館《やかた》を建てることにしよう。委細、乳母《うば》どのにまかせるゆえ、大納言局とも相談して、よきに計らってくれ。後日、作事奉行をさしむける」
「御諚の通りにいたしまする」
お福は、一昨年、春日局という称号を禁裏より賜わっているが、大奥でそう呼ばれることをきらっていた。公の場で、儀礼上、局名を用いるのまでは拒めないが、従来通りの、お福、乳母どのでよい、そうでなくては気が張って御膳ものどに通りませぬ、と言いつづけている。
大奥では、お方さま、母代さま、老女さまが通り名であった。家光は、乳母どのと呼んで、お福をよろこばせる術を心得ている。
中の丸ともいわれる吹上の庭は、武蔵野の面影を濃く残した丘陵であり、涼風が下から吹き上げてくるところから、吹上と名づけられたという。御三家の屋敷などが配されてあるが、大奥に隣接する乾濠《いぬいぼり》のむこうは、森のたたずまいであった。
孝子の方の望み通り、その森のなかに、公家屋敷に多い寝殿造りの館が竣工したのは、吹上一帯が紅葉で彩られ、夏鳥にかわって百舌鳥《もず》・鵯《ひよどり》・鶸《ひわ》などの鳴き声が耳につく初冬である。
お福が心をこめて作事させた起居の棟の「栄華物語絵巻」の襖・障壁、家紋の牡丹の襖、百人一首の格天井《ごうてんじよう》は、そのまま新しい館へ移された。
大奥から別居した孝子の方は、御台所の称を返上した。これより「中の丸さま」と呼ばれるようになる。
この年(寛永八年)、西丸では、正月から大御所秀忠の食が進まず、床に臥せる日が多くなっていた。
施薬院宗伯は、六月上旬、秀忠の腹部に腫塊《しこり》を触診した。体内の、痛みを覚えない固まりは、病人には安心を与えるが、練達の医家は積聚《しやくじゆ》(癌)の疑いをもつ。積聚は死病である。
宗伯は、疎漏なきを期し、京都から本道の名医・半井通仙院《なからいつうせんいん》と吉田|盛方院《せいほういん》を召し寄せるよう、家光に進言した。
「医学は、なんともうしましても、京都が本場でございます。わたくしは江戸が長くなっておりますので、後れをとっているやも知れませぬ」
これは、当代第一人者と目されたゆえに、家康・秀忠・家光と三代の将軍家に束縛されたことへの、皮肉をふくんでいる。
事実、宗伯は間もなく、徳川家典医を辞して、京都へ戻るのである。
「大御所の病いは、それほど進んでおるのか」
「病気は、文字が示す通り、気の病いでもあります。大御所さまには、このところ、忠長さまの御品行をいたくお気になされ、それが、おからだに障《さわ》っているとも拝されます」
家光の、ややぶよぶよした顔面が、かすかにゆがむ。
弟の忠長が狂暴に走っている起因は自分にあることを、家光は知っている。
寛永元年に、忠長は、家康が延べ十三年間在城した由緒ある駿河城を与えられ、駿河・遠江五十五万石に封じられている。寛永三年には従二位権大納言に官位も進んでいた。
その忠長は、今なお、兄の家光より才智・胆力・容貌、いずれを比べても勝《すぐ》れていると信じ、将軍家を軽んずる態度を改めない。また、家光に、内心、飽き足りなく思っている勢力が、ひそかに忠長へ心を寄せている節もあった。
忠長が在国中の駿府城は、江戸参勤のために往復する諸大名で、いつもにぎわっている様子である。
駿河大納言忠長の、おだやかならざる行状は、主として土井大炊頭利勝を通じて、秀忠と家光に言上されていた。
寛永元年以来、加増がないのを、忠長は大いに不満にしているという。
「母上が父君よりも御長命であったならば、今ごろは、兄者は退位、予が将軍を襲っていたであろう。五十五万石など、笑わせる」
酒席で近臣にもらしたというこの放言は、秀忠・家光父子の臓腑を赤くねじらせずにはおかなかった。
忠長が、秀忠に、大坂城百万石をねだったのは事実である。父の目の黒いうちに墨付きを得ておこうと、病気がちを知って急ぎ手紙をしたためたらしい。
家光は、驕児として育った甘えが感じられるその書簡を見せられ、意見を求められたとき、
「外様の前田家が百万石でございますれば、副将軍といえる忠長の百万石は、よろしいのではございますまいか」
と、鷹揚な態度を示した。
家光には、不運な弟に対する同情が芽生えている。お福がいつか言ったことがあるように、「忠長はもはや敵ではなくなった」と考えているからであった。
秀忠は、憐れみのまじった不安を目にうかべて、
「よいか、将軍といえども、何事も一存で決めてはならぬ。まず、利勝に計ることじゃ」
と、諭した。
土井利勝は、家光の諮問をうけると、家康に似たしもぶくれの顔面を引きしめて、
「なりませぬ」
と、即答した。
「上様には、豊臣家滅亡後、大坂城を大名に与えず、城代を置いて直轄としている意味を吟味なされたことがありませぬか。忠長さまが逆心を隠し持たれているとは、夢にも思いませぬ。しかしながら、世には、特に西国あたりに、事を望む輩《やから》が、なしとはいえませぬぞ。事が起きてからでは、遅うございまする。禍《わざわい》の種は、決して播いてはなりませぬ。……芽は、根元から摘まねばなりませぬ」
直諫である。
隠し目付が、忠長の最近の狂暴を報告してきたのは、その直後であった。曰く、殺生禁断の駿州|浅間山《せんげんやま》で猿狩りを敢えておこない、猿の親子千二百余匹を射殺された。曰く、小姓や下僕をささいなことでお手討ちなされること十数件。曰く、妊婦を捕えて腹を割き、胎児調べに興じておられる。
大御所の、近ごろ異例の政治容喙で、忠長に蟄居《ちつきよ》を命じ、甲州|流謫《るたく》地へ幽閉せしめたのは五月末であった。
付家老の鳥居成次・忠房親子と朝倉宣正も、
「後見職として、その責任最も重し」
と、改易。
成次は、その半月後の六月十八日、失意のうちに死去。自刃とも伝わっている。
お福が、久々に表御殿へ召し出されたのは、忠長の幽閉が大奥にも伝わった数日後であった。
「忠長卿は、もはや敵ではなくなった」と判断しているお福は、今は家光と同様、忠長に同情を寄せていた。家光とお福は、どちらに影響されるともなく、以心伝心、いつの間にか同じ考えになるのである。
お福は、隠し目付が見届けたという忠長卿の、一連の自暴自棄といえる所業が信じられない。育ちからくる我儘はあっても、妊婦の腹を割いたり、猿を千二百余匹も射殺するなど、度はずれた残虐はできないお人だ、とみている。
(忠長さまを、強いて陥《おとしい》れる陰謀ではあるまいか)
土井利勝の、浅黒いしもぶくれの面貌がうかぶ。
以前のお福は「禍の芽は、根元から摘まねばならぬ」という冷酷な信念を胸底に秘めていた。そのため、三代将軍位を横取りされるかも知れない豊臣家の討伐を、家康に願ったことさえある。
生来の激しい気性は、時として、女医者南条を殴打し、薙刀をふりかざすがごとき蛮勇をあらわにしてしまうが、同時に涙もろくもなっている。菩提所・天沢寺の施主になってから、仏心が急に増していた。
(何事であろう)
不意の召し出しに、お福は衣裳を改めて表御殿へ急ぐ。
導かれたのは、中奥に近い黒書院で、家光が待ちかねており、陪席は土井利勝一人である。
「春日局」
呼び方からして常ではない。
「大御所におかれては、御不例が長びき、はかばかしくない。そのほう、御苦労ながら、近江《おうみ》の多賀大社に参籠、平癒祈願をしてきてくれい」
「はい」
うけたまわったが、あまりにも唐突である。
将軍家にかかわる祈願であれば、地の果てでも、こちらから願い出るところであるが、大御所のために近江までおもむけとは……。
お福の不審顔に、家光も釈然としない面持ちでいるのは、利勝に説き伏せられたからであろうか。
案の定、家光が歯切れ悪く言葉を継いだ。
「利勝がもうすには、多賀大社は、古《いにしえ》より禁裏の勅願所であり、歴代主上が御不例のみぎり、しかるべき女房(高位の女官)が参籠する由。徳川家人の女房にして従三位の位階をもつ春日局のほかに、その任にあたる者なし、との事じゃ」
利勝へ一瞬投げたお福の眼光に険がある。
女の身の従三位は殊遇であった。利勝は幕府大老格にして、やっと従四位下である。慣例によれば、それ以上の昇進は望めない。利勝の、男らしからぬ意趣晴らしであろうか。
利勝は、お福の視線を受け流して、にこやかに口をひらいた。ここが、この無比の実力者に無気味さを感じるところである。
「ついで、というわけではござらぬが、多賀大社の帰り、すぐ近くの彦根城へ立ち寄っていただきたい」
やはりそうか、多賀大社は隠れ蓑だったのか、とお福は腹のなかで身構える。
「春日局どのは、お察しかどうか、井伊少将どのには、一昨年より領国に引き籠もりのまま、出府の気配がござらぬ。痔瘻《じろう》のため歩行難渋、という届出であるが、痔には悪い乗馬にて狩りに興じられる日もあるやに聞く」
以前、隠密を耳目にしていたのは亡き本多正信である。今は、土井利勝が隠し目付を掌握しているようであった。
元和元年発布の「武家諸法度」には、供回りの数など参勤の作法は定められてあるが、出府を義務づけてはいない。一年おきの江戸と領国との交互住まいが制度となるのは、四年後の寛永十二年である。
したがって、大名が在国のまま狩猟に興じているからといって罪を問うことはできなかった。しかし、譜代大名としては破格の三十五万石の大守であり、家臣団の筆頭に位置する井伊直孝が何年も江戸城に出仕しないのは、幕府にとっては面目にかかわる異常事でなくはない。
直孝が臍《へそ》をまげているのには、理由がある。勇猛を馳せた「井伊の赤備え」の矜持《きようじ》をもつ直孝は豪放の気性であった。つねづね、
「華奢風流を好む者は、心柔かにして婦女子と変わるところはない。武士は、無芸こそ名誉」
と、周囲を諫めていた。
数年前、家光がまだ「流れ衣紋」などに興味をもち、合わせ鏡で髪型を気にしていた当時、直孝は江戸城でひと悶着おこしたのである。
家光は、小姓衆の「踊りむち打ち」に味をしめ、諸大名にも若侍の歌舞を献上させていた。
井伊家は大禄であり、家臣も多い。
「芸達者はあまたであろう、披露せよ」
家光は命じた。
「仰せながら、それがしの家中は、武張り者ばかりにて、平に御容赦」
と、直孝はそっぽを向いたのである。
側近の松平信綱が見かねて、
「上様の御諚でござる。お国自慢の踊りか小唄などござりましょう」
と、とりなせば、土井利勝も、
「戦陣での余興と思えば、できなくはなかろう」
と威圧した。
「かしこまりました。それでは明日、奉るでござろう」
翌日、直孝は甲冑《かつちゆう》の上に狸々緋《しようじようひ》の陣羽織をつけ、同じく赤備えの胴巻姿の小姓衆を率いて現われた。
「それ、戦さ踊りじゃ」
号令とともに、主従木刀をむちゃくちゃに打ち振っての乱舞である。
土井利勝や松平信綱らは、半ば襲いかかられて、及び腰で見物する有様であった。
それから間もなく、井伊直孝は帰国し、領国に引き籠もってしまったのである。
「病床の大御所さまは、井伊少将どのを頼りにされ、切にお会いしたきご様子。そのことを伝え、急ぎ出府なさるよう、お話し願いたいのでござる」
利勝は用件を述べた。
お福の不審は解けない。ますます怪訝《けげん》な表情で、
「ついで、とはもうせ、そのような治政の御用向きは、わらわでは筋違いかと存じまするが……」
「いや、そなたでなくてはならぬのじゃ」
利勝は断言する。
「おわかりになられぬか」
「……はい」
「では、お耳に少しくさわるかも知れませぬが、治政の大事にかかわることなれば、率直に申し上げておきましょう」
利勝は、上段の間を仰ぎ、了解を求めるように一礼して、お福へ向き直った。
お福の目の端を、家光の当惑を隠せない気弱な面持ちが横切った。
「井伊少将どのは、二つのご不満を、春日局どのにお持ちのようでござる」
「まあ……」
お福は青ざめる。
「一つは、将軍家が、いささか……その、軟弱になられたのは、乳母どののせいではなかろうか、と。一つは、駿河大納言さまの配流幽閉の御処置の陰に、春日局どのの……」
「大炊頭さま」
臓腑の底からの声であった。お福は、立ち上がらんばかりの物腰である。
「いや、いや、真実ではないことは、上様はじめ、われらがよくよく承知しておりまする。井伊どのの誤解でござる。それゆえ、春日局どのが直接、少将どのに面談なされるのが、一挙両得、さまざまな懸案と誤解がとける早道ではなかろうかと、それを、上様に進言したのでござる」
言葉はやわらかく、ていねいであるが、利勝の目は冷酷にお福を射ていた。
お福は言い知れぬ恐怖に襲われて、その目の冷たさに、からだ中が凍りついていくのを覚えた。
3
お福の多賀大社行きは、吹上の森で孝子の方が望む殿舎造営がはじまった時期である。このほうも気にかかるが、諸事をおのうにまかせて、お福は翌日、早くも出立した。御役目を嫌った、と土井利勝に言わせないためである。
幕府年寄衆と同等の権威が認められている大奥老女である。
「相応の供揃えを」
と、利勝が手配しかけるのを、お福は拝辞した。大名並みの行列を組めば、あげつらわれることは目に見えている。利勝は試しているのだ。
「社寺祈願は、密《ひそか》におこなうほど効験多しと聞きまする。単独《ひとり》では、かえって御心配をおかけしますゆえ、御広敷《おひろしき》役所から伊賀者を一人、付けていただきましょう」
「道中、大事ござらぬか」
「御存知かどうか、身を守るほどの武術《こころえ》はございまする」
この返答には、表御殿でむしかえされているらしい中傷への抗議がこめられている。
阿江与の方と拮抗していたころに、大奥で耳打ちされていたものと同じで、お福が稲葉正成の妻であった当時の武勇伝として、
「夜盗数人と一人で立ちあい、二人を斬り殺して、呵々《かか》大笑したそうな」
「離縁のとき、正成の愛妾を短刀で一突きし、溜飲をさげて家を捨てたとは、春日局らしい」
といった戯れ話であった。
おのうは憤慨するが、お福は、
「意気地なしの殿方の、あわれなるやっかみであろう。捨ておくがよい」
と、気にもとめなかった。
しかし、利勝から、譜代大名筆頭で徳川家人の代表である井伊直孝が、お福にただならぬ悪意を抱いている、ということを知らされた今、おのれの立場を厳正に振りかえらざるをえない。
(わらわは、意外にも、憎まれている)
虚を衝《つ》かれた思いである。
大奥の女たちは言うまでもなく、表御殿の年寄衆・諸役人・三百諸侯・旗本たちは、ごくごく一部の人をのぞき、将軍家光の母代である春日局に敬意をはらい、親愛の情を寄せ、徳川家の柱石として大切にしてくれている……と信じこんでいたのである。
(自分でも気付かぬ驕《おご》りで、真実《まこと》の姿が見えなくなっていたのであろうか)
お福は慄然とする。
酒井忠世に見切りをつけて以来、お福は土井利勝を心頼みにしてきた。利勝も当然、忠世と同様、お福に好意と支援を惜しまない殿方と、勝手に決めていたのだった。
(少なくとも、味方ではなかった。むしろ、敵だったのか)
なにゆえに、井伊直孝や土井利勝などの重鎮が、自分に冷たい目を向けているのであろうか。このことを考え詰めていくと、
(わらわは、もはや徳川家に必要ではない、否、むしろ厄介者になっているのではなかろうか)
という恐ろしい疑念の虜《とりこ》になるのであった。
夏の旅は、東海道より中山道が、暑さをしのぎやすい。河口に近い大きな川の渡しの難儀がないので、ほぼ同じ距離の多賀・彦根だと、中山道のほうが早く着く。
武蔵野はどこまでも濃い緑であった。一里塚は日陰を幕う旅人や農夫でにぎわっていた。
碓氷峠には銀色の入道雲がたちふさがっていた。
諏訪瑚のさざ波が目に痛かった。
油照《あぶらで》りと驟雨《しゆうう》に苦しめられたのは木曾路である。
関ヶ原の古戦場は蝉しぐれであった。
遍路姿に似た質素な旅装の、脚絆《きやはん》をきつく巻いたお福の足は、しかし、道中の風景に止まることはない。中年の伊賀者を従えて、黙々と多賀大社を目ざす。行き交う人も、宿場役人も、大柄な初老の女人が従三位春日局とは知るよしもない。
お福の胸に重くのしかかっているのは、権力者の、思いもかけない末路であった。他人事《ひとごと》ではないのである。
年寄衆首座の大久保忠隣は、キリシタン討伐の指揮をとるべく京都へ向かったが、その旅先で突如、改易を通告された。忠隣の失脚を父・正信と共謀したと目される本多正純は、一時並びなき権勢をもったが、家康の死後、突然、流罪となる。断絶となった最上家の城受け取りの公務中、やはり旅先で改易を宣告されたのだった。
正純放逐を企んだのは、家康の寵臣が邪魔になった酒井忠世・土井利勝ら秀忠の側近衆だったことは明らかである。
旅宿でお福が眠られぬ夜を重ねるのは、蒸し暑さや蚊のせいではない。配流や役儀召し放しの申し渡しが、江戸を離れた無手孤立の出張《でばり》先で多くおこなわれる慣例を頭にうかべるからである。
(わらわも、そうではあるまいか)
家光に嫌忌されて四万五千石の身分を奪われ、遠州の山村に放逐された青山伯耆守忠俊は、
「春日局なる|※[#「虫+尤」]虫《はらむし》(回虫)、あの女こそ、将軍家を誤り育てた、徳川家の獅子身中の虫じゃ。なにゆえ、早く退治しないのか」
と、公言しているという。
今になれば気になる風聞である。
「春日局、なんじは本来、乳母じゃ。乳やり人じゃ。役目はとうに終っておる。なんじが育てた将軍家はもちろん、松平伊豆、阿部豊後、なんじの倅《せがれ》の稲葉丹後までが迷惑に思い、一日も早い隠居を望んでおるのがわからぬのか。惚《ほ》けたか、お福姫」
ぴしゃり、厳《いか》つい天海僧正にお尻《いど》をたたかれて、
「あれっ」
叫んだとたん、目がさめた。
寝汗をびっしょりかいている。
半身をおこしたお福は、肌を拭うよりも、まず隣の部屋の気配をうかがう。供の伊賀者は寝静まっているようだ。この男は、もちろん、土井利勝の耳目である。それを承知で、お福は所望したのであった。公儀隠密は、このほかにも、お福の行状を見守っているにちがいない。
(忠実清廉を見せぬばならぬ。落度があってはならぬ。敵に役儀召し放しの口実を与えてはならぬ)
敵とは、今や土井利勝である。
お福は、道中、このことを肝に銘じていた。
(忠実清廉に、落度なく御役目を果たしておれば、よもや、利勝どのとて、わらわを御役御免にすることはできまい。上様がお許しになるはずがない)
お福は、まだまだ、大奥にとどまっていたかった。権勢を失いたくない、と追い詰められた心境になって、初めて切実に思う。
(私利私欲のためではない)
これは、天地神明に誓える。
悪夢に思わず叫んだのは、鳥居本《とりいもと》宿の本陣の一室であった。多賀大社まで、あと一里半、明朝は、神殿にぬかずける。
不吉の上使は、大御所不例快癒の祈願がおわるまで、現われないはずだ。
褥《しとね》の上に端座したお福は、肌の汗を拭いながら、心の中でおのれを叱咤する。
(わらわの御役目は、終ってはいない。今、おめおめと隠居するわけにはいかないのじゃ)
やり残している将軍家母代としての御役目は、継嗣をつくることである。家光に男子を産ましめることである。
(お世継ぎのお顔を拝するまでは……そうじゃ、殺されても、大奥から退《ひ》けるものではない)
お福の、薄く疱瘡《もがさ》が痕《あと》をとどめるややたるんだ顔面に、眼光も鋭く、猛女の気迫がよみがえっていた。
多賀大社は、イザナギ・イザナミの二神を祀るところから、その第一子とされる天照大神が主神の伊勢大神宮の親、ともいわれる古社である。延命長寿・縁結び・子授けの神として、禁裏をはじめ、上下万民の崇敬を集めていた。
豊臣秀吉は、生母大政所の延寿を祈願し、一万石を寄進するとともに社殿を大修築している。その豪壮な建物群は、元和元年に炎上しており、お福が参籠する大社は仮殿であった。
神社から、徳川家と幕府へ社殿再建の勧進がなされている折りから、将軍家代参の従三位春日局は丁重の上にも丁重に迎えられた。
お福は、この殊遇に慎しみを乱すことなく、精進潔斎、七日間の平癒参籠に入った。巫女《みこ》にまかせず、高位の女人が自ら荒行《あらぎよう》を全うするのは、きわめて異例である。
お福は、しかし、病臥の大御所秀忠のために断食をし、水垢離《みずごり》をとっているのではなかった。お福の頭のなかには家光しかなく、家光が嫡子を得るまでは大奥を支配する地位にいなければならない、その保身のための擬態であったのである。敵・土井利勝をあざむく策略であった。
本来の使命である秀忠の病気回復ではなく、家光の子授けをもっぱら祈願していることに、お福は不思議にも疾《やま》しさを覚えない。祭神にも恥じなかった。
(徳川家《おいえ》の繁栄こそ、大御所平癒に勝る忠義)
と信じているからである。
(神さまも、おとまどいなされることは、ありますまい)
お福は、神罰を少しも恐れていなかった。
イザナギ・イザナミの夫婦《めおと》神も、病気加療よりは、子孕みの願いを聞きとどけるほうが楽しいにちがいない、と、お福はまじめに、そして無邪気に思っているのである。
御籠り満願の翌日には、精進明けの宴も辞して、憔悴しきった面貌のまま、彦根へ向かった。多賀から彦根城まで一里弱。
井伊少将直孝との面談は、お福にとって一つの正念場である。
直孝は、お福より一回り近い年下で、当年四十二歳、式典や年中行事の場で顔を合わせる直孝は、赤ら顔の魁偉《かいい》といえる大兵《だいひよう》であり、二の腕や襟元に剛毛がのぞいていることがあった。
甲冑から頬当《ほおあて》・すね当・刀槍・指物・旗まで真赤な井伊赤備え隊の、大坂夏の陣での勇猛ぶりは今だに語り草で、大将の直孝は「赤鬼」の異名で畏怖されたという。
お福の肚《はら》は決まっていた。
土井利勝は、直孝が抱く春日局への二つの大きな誤解を、直接話し合うことで解消するよう示唆した。しかし、それはこの度の出張《でばり》では私事ではないか。多賀大社参籠と井伊直孝への伝言が公用である。
(公務を忠実に果たすことじゃ。余の事にかかずらうは、災厄のもと)
お福は、結婚生活をふくめ、五十余年の波瀾に富んだ歳月のなかで、人の扱いを会得したように思う。
(殿方は、剛直の人であればあるほど、下手に出ればつけあがる。毅然たる態度を通せば、向こうから折れてくる。赤鬼とて、なにほどのことがあろうぞ)
へりくだって和を乞わないことにした。将軍家使者として、正常にふるまえばよいことである。
緑に包まれた高所にそびえる彦根城は、関ヶ原合戦後、西の防禦拠点として、家康が十二大名に普請手伝を命じ、二十年を費やして完成した巨城であった。
東は佐和山が天然の土塁であり、西にひろがる琵琶湖を広大な外堀にしている。どっしりと構えた三層三重の天守閣が、それを仰ぐお福に、ふと、直孝の面影を彷彿《ほうふつ》させた。
春日局が将軍家の御諚を伝えに城へ立ち寄ることは、通達されている。また、領内多賀大社でのお福の動静は、逐一、報告されているにちがいない。
内郭中堀の櫓門に、城主井伊直孝はじめ重臣が正装して出迎え、お福を本丸客殿へ導いた。
お福は、脚絆ははずしているものの、白装束に近い行者姿のままである。断食と荒行が、太り肉《じし》のお福のからだを引きしめ、背丈を一層高くみせていた。こけた頬、くぼんだ眼窩《がんか》が容貌を峻厳にしている。
待ちうけていた直孝ほか豪傑づらの家臣一統に、初め、将軍家を軟弱にした乳母への反感と侮《あなど》りの気配があった。武者走りに、赤備えの軍兵をすき間なく整列させた、こけ威しも、お福には笑止である。
お福の、上使としての悠揚迫らぬ作法は、彦根城の主従を、やがて厳粛な言行に変えていった。
客殿に入ると、お福は上段の間に着座する。直孝は下段でかしこまる。畳廊下に重臣が陪席していた。
お福は、余計なことは何も言わず、
「上様のお言葉をお伝えいたしまする。表御殿黒書院において、上様御面前にて、土井大炊頭利勝どのが申されました」
情況をありのままに述べる。正確な伝達が、後日の誤解やあげつらいを防ぐからである。
「病床の大御所さまは、井伊少将どのを頼りになされ、切にお会いしたきご様子、そのことを伝え、急ぎ出府なさるよう、お話しせよ、とのことでございました。以上、お伝えいたしまする」
「うけたまわりましてございまする」
直孝が恐懼《きようく》、平伏している間に、お福はすっくと立つ。
そのまま退室、玄関の方へ進む。
直孝と重臣たちが、あたふたと追ってきた。
「春日局さま」
「はい」
「恐れながら、別室にて、粗末なれど御膳の用意がござりまする。また、数日、当家にて御休息、願わしゅう」
「少将どの」
「はっ」
「大社にて、護符をいただいておりまする。一刻も早く、大御所さまへお届けせねばなりませぬ。これにて、御免をこうむらせていただきまする」
伊賀者の供を一人従えて、悠々と下城してゆくお福を、直孝以下の豪傑づらが、なすすべもなく、見送りのためぞろぞろと武者走りを下っていくのであった。
白塗籠《しろぬりごめ》の渡り櫓のむこうに、琵琶湖が青々とひろがっている。
お福は、やはり湖畔の城であった坂本城を想う。彦根藩の軍船で渡れば、すぐであろう。京都へも近い。三条西家へ顔出しをしたかった。内大臣に昇進している実条は、長年の激務がさわって病みがち、と便りにあった。一目、見舞って行きたい。
だが、お福はそれらの私情に堪えた。
(敵に口実を与えてはならぬ)
土井利勝は、お福が京都へ回り寄るのを見越して、その過失を待っているのかも知れなかった。
接見の場ではあったが、井伊直孝は底意地の悪い人物には見えなかった。今後、春日局を悪しざまに言うことはないように思われる。
日夜付き従っている伊賀者がお福に心服してしまったように、彦根の赤鬼の心情を射止めた手ごたえを感じている。
(あるいは、あれも罠《わな》……)
と、お福は、土井利勝の底知れぬ謀略を想像して身震いをする。
お福に井伊直孝の悪意をことさら語り、面談をすすめたのは、二人の互いにゆずらぬ強情から見苦しい争論になることを予想し、それに難癖をつけて喧嘩両成敗にもちこむ策ではなかったか。
土井利勝が牛耳《ぎゆうじ》る幕閣にとって、井伊直孝と春日局は目の上のこぶであるかも知れないからである。
(危ういところであった)
お福は、公用のみで彦根城を後にしたおのれの判断を善しとした。
4
井伊直孝は直ちに出府し、西丸に宿直《とのい》して、日夜、大御所の枕頭にはべった。
大御所秀忠の死は、年が明けた寛永九年一月二十四日である。五十四歳。台徳院《いとくいん》と諡《おくりな》された。
甲州に幽閉されていた忠長は、同年十月二十日に正式に改易に処せられ、上野国高崎城主安藤重長に預けられた。座敷牢で、狂気を発した忠長が自刃を遂げたのは、翌寛永十年十二月六日であった。二十八歳である。
お福は、後年、阿江与の方と忠長母子の霊を弔うため、京都の黒谷・金戒光明寺《こんかいこうみようじ》に立派な供養塔を建てるのである。
家光の、後顧の憂いのない親政の時世がはじまった。親政といっても、土井利勝をはじめ、新たに年寄衆に列した松平信綱・稲葉正勝・阿部忠秋らがしっかり補弼《ほひつ》の任にあたっている。井伊直孝は、秀忠の遺命により、「年寄衆上座」(大老)の名で、幕政に睨みをきかせていた。
酒井忠世は、寛永十一年七月、西丸が失火で全焼した責任をとらされ、失脚している。秀忠死後の西丸を預かっていたからである。
お福にとって痛恨事は、小田原八万五千石の大名になっていた長子・稲葉正勝の病死である。寛永十一年一月二十五日であった。三十八歳。遺領は、十二歳の嫡男正則に賜わった。お福の孫である。
正勝の後を継ぐように年寄衆に抜擢された堀田正盛も、お福の外孫であった。夫であった稲葉正成の先妻の娘と旗本・堀田正吉の間に生まれた子である。
稲葉正成は、六年前の寛永五年に他界している。お福に何の感慨もなかった。
家光の治政の美挙に、千石以下の旗本に対する二百石ずつの総加増がある。寛永十年二月七日に発令され、とりわけ大久保彦左衛門に「快なり」と叫ばせた。
御旗奉行に任じられていた彦左衛門は、七月に沙汰が下った千石の加増を、今度は拝受し、二千石に復帰した。七十四歳、
「まだまだ若い者に負けんぞ」
と、朝夕、槍をしごく荒武者である。
お福も若くはない。
寛永十三年の秋、強いてすすめた側室・お振りが、やっと懐妊の兆しをみせたとき、お福は五十八歳になっていた。
お振りは、おのうの連れ子である。気立てのやさしい幼女は、十六歳になっていた。お福とおのうの膝下で、部屋子として育ててきたので、家光とも顔なじみである。
お福は、家光とお振りを、ほとんど叱りつけるようにして、寝所へ送りこんだのであった。
やり残した最後の御奉公である、お世継ぎ出生を急がねばならなかった。家光は三十三歳になっている。
「わしは淡泊でのう、女なしで暮らせる男じゃ」
「女はどうも好きになれぬ」
「中の丸(孝子の方)に悪いではないか」
などという逃げ口上に、お福は耳をかさない。
「御三家に御子が多いとはいえ、四代さまは上様の御胤《おたね》でなければ、福は死ぬに死にきれませぬ」
と、時には泣き落とし戦術を用いる。
お福は、心身ともに老いを感じるようになっていた。大奥を取り仕切ることがわずらわしくなっている。
「隠居の時期じゃ。天沢寺で写経などして憩いたいもの」
そんな弱音を、おのうにもらすことがある。
江戸城に住まいして三十余年。家光の将軍宣下とともに老女に任じられ、大奥の采配を振ってきた。御台所孝子の方が吹上・中の丸へ隠棲してからは、御台所代行として、大奥諸制度の整備に尽力してきた。
元和九年に発布された大奥法度は、お福の手で漸次、改正を重ねてきている。
男子禁制とその細部の条項。風紀粛正のため、病いの間を新設したのもその一つである。大奥からの文通制限、大奥の内情は親兄弟といえども口外厳禁。奥女中・部屋子の採用規定、節倹令、火元の注意令、行儀作法の向上……。
酒井讃岐守忠勝は、酒井忠世の従弟《いとこ》である。忠世の衰勢をおぎなうように、幕閣で力をつけてきた。その忠勝が、大奥の慣習に介入してきたのである。
黒田長政が、お福への金品贈呈を恒例として以後、諸大名もこれにならって、参勤交代で出府すると、将軍家献上とともに大奥へも国産品や金銀を贈るようになり、それが慣習となっていた。
お福はそれを私《わたくし》せず、奥女中の身分に応じて分配していた。大奥の女たちの楽しみの最たるものになっている。
忠勝は、諸大名からの苦情が増えてきたのであろう、これを悪弊として、断固廃止しようとした。
お福は、色めき立つ奥女中どもを制して表御殿へおもむき、年寄衆の御用部屋にのりこんだのである。
上座の井伊直孝・土井利勝・酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛ら重職を前にして、唇にしめりをくれ、やおら談判にかかった。
「おのおの方は、諸大名の利益《ため》のみを思い、女奉公人の難儀をかえりみたまわず、これ、天下の施策《しおき》として、片手落ちではございますまいか。奥女中どもの給金を、方々は御存知でありましょうや」
年寄衆は顔を見合せ、首をひねる。
「すずめの涙とは、この事。小袖一枚新調するのに、あたかも殿方が甲冑一領を購《あがな》うほどの思いをいたしまする。諸大名からの祝儀進物は、すずめの涙をおぎなうものにして、一同、最も頼りにしてきた軍資金。贈物|停止《ちようじ》をお決めなされるのであれば、それ相応の御合力金を、殿方でもうす御加増として、お上より賜わりたく、この儀、心してご相談下さるよう、願い上げまする」
年寄衆は、お福の舌鋒に気圧されたように沈黙している。停止提案の酒井忠勝だけは顔面を真赤にして、反論の言葉を探している風であった。
「御合力金の案文は、ここにしたためてありまする」
お福は、かまわず、用意の書付けを押しやった。
「どれ、検分」
上座の井伊直孝が、手をのばして書付けをとりあげ、目を通す。
赤ら顔の剛《こわ》い頬ひげをふるわせて笑いを抑え、
「これは見事じゃ、細かく書き分けてござる。鶴翼《かくよく》十八段構えの陣立てで攻められる思いじゃな」
と、書付けを土井利勝に回す。
「われら老職が車懸《くるまがか》りで反撃して、さて、勝ち目があるかのう」
ついに声をたてて笑い出す井伊直孝の目に、お福に対する好意が宿っていた。
お福の要求は通り、幕府御金蔵から御合力金が奥女中上下すべてに支給されることになった。お福は、それを従来の節季二度払いではなく、十二等分して月々、受けとれるよう交渉し、これも実現させている。
お振りが、家光の第一子を出産したのは、寛永十四年閏三月五日であった。
悪霊を払う蟇目《ひきめ》役は武勇の聞こえの高い石川主殿頭忠綱に下命された。ところが、篦刀《へらがたな》役を大老の井伊少将直孝が進んで引き受けたのである。
そのことを知ったお福は、たちまち涙もろい顔になり、
「渡る世間に鬼はなし、といわれまするがのう、彦根の少将どのは、赤鬼に変化《へんげ》された菩薩さまではありますまいか」
と、おのうに語ったものである。
待望の産声はやさしかった。残念ながら女児である。
嫡男降誕にかけるお福の、城内紅葉山東照宮にお百度をふんだほどのすさまじい祈願を知るお振りは、産褥で、
「もうしわけございませぬ」
と、か細く、おびえ声でくりかえす。
落胆のお福であったが、気をとり直し、
「いや、お手柄じゃ、お手柄じゃ。若君であろうと姫君であろうと、上様の御胤《おたね》には違いない。この次は、必ずや、若君をお生みなされよ」
と、慰め、励ました。
第一子は千代姫と命名された。
生来、蒲柳《ほりゆう》の質で内気なお振りの方は、床上げしたあとも、くよくよと詫び言をいいつづける女になり、やがては家光の不興を買うことになる。
このころになると、京都の三条西実条を通じて手配していた、大奥勤め志願の女人が次々に江戸へ下ってきた。
表向きは、いささか野鄙な江戸城奥御殿の風俗・作法を都風に改めるため、その手本としての招致である。したがって、若い子女ばかりではない。茶道・華道の媼《おうな》、有職故実《ゆうそくこじつ》に通じた元女官、小笠原家の行儀指南、四条流包丁家元の縁者、歌女《うため》、楽女《がくによ》、舞妓《ぶぎ》などもいた。
お福は、それら京女のなかに、家光の好みに合い、子を孕みそうな腰つきの娘がいれば、有無《うむ》を言わせず閏へ送りこんだ。
「むごい御老女さま」
と泣かれようが、
「鬼婆」
と憎まれようが、上様の添い寝を命じるのである。
家光も次第に柔肌になじみ、女の味わいに興味をもつようになり、やがて好色といえるほどに変わってゆく。
現に、京都町人の娘で、お夏という二十四歳の、熟れた肌に耽溺していた。
おのうは、親心の常として、家光の寵愛が養女のお振りの方から他の女へ移ることを憂えた。
お振りは、将軍の子の生母「お腹さま」であるので、「お振りの方」と敬称されている。
「そなたも老女ならば、めでたいことと思わねばならぬ。権現さまは、生涯のうち、二十人近い側室をお用いになられた。それによって、十八人のお子を成されたのじゃ。成人されたのは、その半数。上様にも励んでいただき、お世継ぎと、万が一のため、なお四、五人の男児を得たいもの」
お福は息巻いたが、さすがに薄情にすぎると思い、
「お振りの方はまだ若い。それに、ただ一人のお腹さまじゃ。そのうち、御寵愛がもどるであろう。当分は、可愛い千代姫さまをお抱きになることで、お気をまぎらせていただきましょう」
と、よき片腕のおのうの機嫌をとった。
ところが、翌寛永十五年二月、むごい御老女といわれているお福をさえ、
「むごいこと」
と、慨嘆せしめた指令が表御殿からもたらされた。二歳(満一歳)になったばかりの千代姫の、御三家筆頭・徳川|光友《みつとも》への輿入れである。
光友は尾張徳川家の二代目で、十四歳であった。
大奥御成りの家光に、お福が母代の資格で詰《なじ》ると、
「これは異なこと。わしは、乳母どのも、おのうも、当のお振りも、よろこぶと思ったのじゃが」
と、不思議そうな顔である。
予想される大奥の非難に、あらかじめ備えておいた対応策のように思えたが、理由《ことわり》を聞けば女の浅はかさを恥じるほかはない。
「年寄衆が考えたことじゃが、わしはすぐに承知した。子は天からの授かりもの。向後のことは、人知の及ぶところではない。よって、将軍家としては、後継について打つ手は打っておかねばならぬ。その責務がある」
武家の棟梁、徳川宗家当主の威厳がにじんでいた。家光は三十五歳になっている。
千代姫を尾張徳川家へ嫁《とつ》がせれば、光友は家光の猶子《ゆうし》である。養嗣子にすぐになりうる。また、家光の第一子である千代姫が男児を産めば、嫡孫の扱いができるのであった。
「将軍家の血筋は確保されたことになる。めでたいことではないか。なにゆえ、乳母どのはよろこんでくれないのじゃ」
お福は、恐れ入る。しかし、どうも、釈然としない。
「それに、お振り。あの女は、大奥に置いておかないほうがよいのではないか」
「なにを仰せられまする」
「わしは、陰気な女はきらいじゃ。二度と、かの部屋へ通うことはあるまい。閨へも呼ばぬ。それより、姫とともに尾張家へ行けば、生母さまとして、ことさら大事にされる。乳母どのは、赤子を母から引き裂くことを心配していたようじゃが、子とも別れずにすむのじゃ。大奥で、嫉妬に苦しめられることもなかろう。八方、めでたしではないか」
家光は雄弁であった。このところ、吃《ども》りは出なくなっている。自信のあらわれであろう。
お福は、家光に男の身勝手を強く感じる。陰気な女はきらいじゃ、と言い切り、子に親を付けて、いわば尾張家へ追い出す非情さに権力者の傲慢をみる。以前の家光は、もう少し思いやりのある将軍であった。
しかし、御諚に理屈は通っている。お振りに対するある種の思いやりがないとはいえない。
お福は、家光を扱いかねているおのれに、やはり老いを自覚せずにおれなかった。
黙りこくってしまったお福に、家光は内緒話をするかのように顔をよせ、
「お楽という女、あれは見つけものだぞ。気性はからりとしており、わしに合う。それでいて腰しなやかにして、陰戸《ほと》のぐあいが、また絶妙である。あれは、中国《から》の房中《ぼうちゆう》術の書物にある、竜珠《りゆうしゆ》というものではあるまいか」
卑猥に笑うのである。
「上様」
お福は、いたたまれなくなって、御座の間を退出した。
入側に出て、ほっと息をつく。
「なんという淫らな」
顔をしかめるお福だが、その、しわが刻まれた面に微笑がひろがっていく。
「しかし、そのことを、よろこばねばなるまい。上様には、とにかく、御子を成してもらわねばならないのじゃ」
お福は、一人でうなずくと、大奥随一の権勢をもつ老女の表情になり、胸をはり、背筋をのばして、静々と奥女中の住まう長局のほうへ歩を進めた。
近ごろ、牛の角《つの》だの鼈甲《べつこう》細工などによる|自 慰《ひとりあそび》がはやっているらしく、長局の部屋部屋を不時臨検して、風紀の乱れにきつい灸《きゆう》をすえる心づもりである。
家光の寵愛は、お夏からお楽へ移ったようであった。
お楽は、今年の正月、島原一揆(島原の乱)鎮定祈願のため、お福とおのうが連れ立って金龍山浅草寺へ参詣した折り、目にとまった娘である。
昨年(寛永十四年)十月に肥前国島原一帯でおきた騒動は、隠れキリシタンが宗門再興を志して立ち上がったとも、領主の|苛斂 誅求《かれんちゆうきゆう》に堪えかねて農民が蜂起したとも、豊臣の残党がそれらを扇動して事を大きくしているとも伝わった。
天下は定まっている。所詮、蟷螂《とうろう》の斧《おの》、と見ているお福は、鎮圧が思ったより長びいても、全く危惧は覚えていない。といっても、大奥として戦勝祈願の一つくらいおこなわなければ面目が立たなかった。それに、十二月三日、板倉重昌に次ぐ重ねての上使(指揮官)として出陣していった松平信綱の武運は祈りたかった。憎らしいほど立派になって、近ごろは顔もみせない信綱だが、お福にはわが子同様の思いが残っている。
浅草寺は、その昔、源頼朝が関東で兵をあげたとき、二万七千余騎をひきいて平氏討滅を祈願した由緒をもっていた。家康が定めた徳川家祈願所の一つでもある。
参詣人でこみあっている参道を、雷神《らいじん》門(雷門)まで徒歩でくると、門前広場のあちこちで土地《ところ》の女子供たちが羽子板に興じていた。
「あの子をごらんなさいませ」
おのうが笑いながら指さすまでもなく、お福はその娘に目を引かれていた。
輪になった男の子のなかでただ一人、娘が奮闘している。紅花染めの小紋を散らした小袖は晴着であろうが、大奥女中から見れば古着に近い。だが、羽子《はね》を打ち上げる肢体がのびやかで、汗をにじませた丸顔が生き生きしている。
年の頃は十六、七であろうか。美人というのではないが、目鼻立ちは整っており、男の子とやりあう言葉が歯切れよい。町屋でいうところの、お侠《きやん》であろう。
「あの娘、上様にどうであろう」
「えっ」
おのうは、お福の顔をみつめる。
おのうは、お振りの養母であり、潔癖の性も強い。お福が将軍の好色をあおるように次々に側妾を献ずるのを、その真意は理解しながらも、悲しく思っていた。
「わらわの目に狂いはない。上様は、なよなよした京女より、本心はからりとした娘がお好みじゃ」
お福は、供回りを見かえり、御広敷用人を招いて命じた。
「あの娘の身元を調べてくりやれ」
おらんという名のそのお侠は、雷神門向いの町地で店を張る古着屋作左衛門の娘であった。娘といっても二度目の女房の連れ子である。
作左衛門は、若いころ筑後柳川十一万石・立花家の浅草下屋敷に中間《ちゆうげん》奉公をしていたという。そこで、おらんを立花家徒士頭・大沢清宗の養女ということにして、大奥へ召し上げたのである。
おらんは、お楽と名を改めた。すでに男を知っていたせいか、いやがりもせず御寝所にはべった。
お福の眼力はあやまらず、家光は、
「あれは見つけものだぞ」
と、竜珠と称する逸品陰戸のしまりぐあいに夢中になっているのである。
翌寛永十六年三月になると、側室にお万が加わった。
側室は京都御所風の身分わけで、中臈に属するが、お万は上臈の扱いで、直ちに、お万の方と敬称された。摂家・清華家《せいがけ》・大臣家に次ぐ羽林家《うりんけ》・従三位六条宰相|有純《ありずみ》の姫であったからである。当年、十九歳。
お万の方は、十六歳のとき、伊勢内宮に近い宇治の里の比丘尼寺・慶光院へ入った。慶光院は紫衣を許された准尼門跡で、公家の息女を院主に迎えることが多い。お万の方も三年後に院主に推され、慣例に従って、継目御礼のため江戸にきたのである。
その御目見得のとき、すでに漁色家となっていた家光に見そめられてしまった。
かつて衆道に溺れた家光は、美少年にみまがう剃髪の聖女に心を奪われたようである。
「乳母どの、あれをなんとかしてくれ」
はじめて家光からの女の所望である。
慶光院は、三十年近い昔、家康へ直訴のとき、口実の伊勢参りをしたその折り、宿を借りた因縁があった。お福は、その後、歴代院主と文通をつづけており、寺領の加増にも寄与している。
お福は慶光院と話をつけ、院主になったばかりの公家尼を、心を鬼にして還俗させ、側室に直してしまった。
御仏《みほとけ》に生涯仕えるため由緒ある比丘尼寺へ入った公家の姫にとって、あまりにも残酷な運命であった。
将軍家の寵を賜わる身分になるのを、世間では玉の輿に乗るといい、女の出世だと聞かされても、身震いするばかりである。清浄無垢の明け暮れから、俗世|穢土《えど》へ突き落とされたお万は、伊勢へ戻してくれるよう涙が涸《か》れるほど哀願をつづけたが、聞き入れられなかった。
お万の方の、お福への恨みは長くつづく。
一方、家光の寵愛を失ったことを直感しているお振りの方は、その悲しみのみならず、まだ乳離れもしていないわが子の輿入れを知らされると、狂を発した。お福とおのうの言葉は耳に入らない。
叫び暴れるのではなく、何かにおびえたように目をきょろきょろし、そうでなければ朝から夜までしくしく泣きつづけるのである。
哀れであった。
表向き強い姿勢をくずさないお福であったが、
(わらわも、罪深い。お万の方といい、お振りの方といい……。これから、まだまだ、若い女性《によしよう》を泣かすことになろう)
と、持仏の釈迦如来像の前に坐りこみ、切に、天沢寺の庵室へ隠居したいと思うのである。
庵番の女医者南条は、その後入道して、真摯な尼となっている。
お振りの発狂もあって、千代姫の嫁入りは一年おくれ、寛永十六年九月二十一日、市ヶ谷の尾張家江戸藩邸へ入輿した。
食がすすまず、床に臥せたお振りの方は大奥へ残り、おのうが一心に看病した。
そのかいもなく、お振りの方が息を引きとったのは、翌寛永十七年八月二十八日であった。
[#改ページ]
第八章 からたち寺
1
お福は、お振りの方の最期《いまわ》に立ちあっていない。京都へ遣わされていたからである。
このたびの上洛は、寛永十一年の家光の参内以後、将軍家直々の挨拶がとぎれていることから、その名代であった。
将軍家の入洛があれば、少なからぬ金品が要所へ贈呈される。禁裏でも宮仕えの者の間でも、その期待があった。
寛永十七年五月二十六日に江戸を発ったお福は、将軍家名代にふさわしい華麗な行列を組んでいた。今は誰も、春日局を陥《おとしい》れようとする者はいない。
献上物は、十八歳に成長されている女帝明正天皇へ金千両と綿二百把。後水尾上皇に同じく金千両と綿二百把。東福門院(和子)へは金千両と晒布百疋。そのほか、皇子・皇女をはじめ、公家・上臈・女官・端女《はしため》にいたるまで、銀子や時服、紅糸などが配られた。これらは市中へ売られて、殿上人の臨時収入になるのである。
お福には、従二位が贈られた。内大臣に相当する高位である。
お福は謹み受けたが、格別の感激はない。官職も位階も、今の世では有名無実に近く、虚飾であるからだ。まして、自分の働きによる叙勲ではなく、将軍家の威光で贈呈されたものである。
「将軍の乳人にすぎない徳川の女召使いが、天盃を賜わり、二位に昇進とは。帝道もいよいよ地に落ちたものじゃ」
と言い交わしているらしい都人の嫉《そね》みがわずらわしいだけであった。
お福の上洛は、表向きは禁裏へのご機嫌伺いであるが、それを家光が命じるきっかけになったのは、三条西実条の病状悪化であった。
家光は、今なお苦労をかけている母代どのを、淡い思慕を寄せたことのある猶兄《ゆうけい》の見舞いに行かせたのである。
実条は、寛永六年十一月に内大臣に任じられ、即位したばかりの幼少の女帝をよく補佐し、なにかと面倒な後水尾上皇の執事別当も兼ねた。
武家伝奏にはじまる二十年に近い公武間調停の激務は、実条の心身を疲労困憊させていた。二年後の寛永八年十一月に内大臣ほか公職を辞任し、養生生活に入っていた。
寛永十二年に従一位に叙せられた実条が、右大臣に昇進して朝廷にかえり咲いたのは、今年(寛永十七年)六月二十四日、お福の入洛の日である。将軍家母代・春日局の猶兄に対する礼のようなもので、実条は屋敷で病臥したままであった。
数年前に軽い中風を併発し、手足が少し不自由である。口もだらしなくもつれる。
お福は、もちろん京都滞在中の宿所は三条西邸にしている。三条西家は、家督は孫の実教《さねのり》が継いでおり、従三位参議に任じられていた。当年二十二歳である。嫡男《ちやくなん》の公勝は寛永三年に、父に先んじて死去していた。
公式行事をおえて、江戸へ戻る日がせまった晩夏の午後、お福は実条の病室で過ごしていた。病室は、東山連峰を借景した枯山水の庭に面した、かつての客間である。
口がもつれてよだれが垂れるのは、見せたくもなかろうし、見たくもない。言葉はほとんど交わさないが、二人はいっしょにいるだけで満ち足りた気持になっていた。実条の正室は亡くなって久しい。気がねのいらない、いわば水入らずのひとときであった。実条は六十六歳、お福は六十二歳になっている。
あたりが少し暗くなって、軒先に雨脚が走る。驟雨であった。ひとしきり涼を撒くと、急に明るくなって陽が射してきた。
「出ましたよ、やっと出てくださいました」
お福が少女のような声をあげた。
「う、う」
実条が半身を起こそうとする。
お福が急いで身を寄せて抱きおこし、実条のからだを庭へ向けた。
虹は、東山のゆるやかな緑の起伏の上空に、大きな弧をえがいて、淡く浮き出ていた。
「やっぱり、出てくださいました。これを見ないことには、帰るに帰れないところでございました」
実条もうれしげに何度もうなずいている。
「京都から江戸へかける虹のかけ橋。公家と武家を結ぶ平和のかけ橋。菊と葵の花園に、ねえ、実条さま、わたくしたちは、虹のかけ橋をかけることができたでしょうか」
お福は、実条を後から支えるように抱いたまま、じっと、陽の光に薄れてゆく虹を見つめていた。
お福が三条西実条の死去の報に接したのは、この年の十月中旬であった。従一位右大臣の薨去は十月九日である。
しかし、深い悲しみは、十一月になって側妾《そばめ》の一人、お楽の方の懐妊が確かになったことで、きれいに消えてしまった。
側室は増えたが、お振りの方が身籠って以来、四年ぶりのおめでたである。
相州鎌倉扇ヶ谷の、遠祖太田道灌の旧跡に家光から地所の寄進をうけて「英勝院」と号する一宇を建てて住まっていた英勝院(お勝の方)も、鎌倉からはるばるかけつけてきて、
「お楽なら、らくらくの安産で、流産する気遣いはありますまい」
と、はしゃげば、
「あの威勢のよいお楽の方です。ぜひとも、男児を、お世継ぎを産んでもらわねばなりませぬ」
お福も意気込む。
「英勝院さま、それにつけ、生まれる御子が必ず若君、という手だてはないものでしょうか」
「はて。中国《からのくに》に、変性男子の法、という仙人の秘術があるやに聞いたことがあるが……。まさか、中国まで仙人を探しに行くこともできず」
「手だてを思いつきました」
お福が目を据え、決然とした面持ちで言った。
「天海大僧正に、おたのみもうしまする」
「天海さまに……」
英勝院は、磨かれた磁器のような首をかしげる。
「変性男子なる秘術を……お引きうけになられましょうや」
「将軍家の弥栄《いやさか》にかかわる重大事でございまする。なんとしても、お世継を産ましめねばなりませぬ。上様は、三十七歳になられまする。安閑としてはおられませぬ。この福の、最後の責務《おつとめ》、大僧正さまの法力にすがるほかはございませぬ」
お福は、すっくと立ち上がると、家光の同意を得るため、表御殿へ向かった。
南光院天海は、元和二年に大僧正に任じられ、上野山の東叡山寛永寺の開山住持をつとめるとともに、日光山別当を兼帯していた。
日光山には、元和二年に秀忠が創建し、家光が寛永十一年から一年半の歳月と金五十六万八千両・銀百貫目・米千石を投入して大改築した、大権現家康を祀る東照宮がある。
お福は、将軍家光の添え状を持して、上野山へ登り、寛永寺に天海大僧正を訪ねた。
天海はこの年、百五歳。人が長寿の秘訣をたずねると、
「気は長く、勤めは堅く、色うすく、食細うして、心広かれ」
と歌に託して述べ、また別の日には、
「長命は、粗食《そじき》、正直、日湯《ひゆ》、陀羅尼《だらに》、おりおりご下風《げふう》、あそばさるべし」
と教え、哄笑《こうしよう》するのであった。
日湯は毎日|湯浴《ゆあ》みすること、陀羅尼は読経、おりおりご下風とは時どき思いきって屁《おなら》を放つことである。
天海は、お福の必死の口上を聞きおわると、
「よろしい」
大きな力強い声で諾《うべな》った。
「お福姫が最後の責務《おつとめ》として、将軍家世継ぎを願うというのであれば、わしも、最後の力をふりしぼって、法力をためしてみよう。お楽という女子《おなご》の腹で育ちおる胎児《こ》を、男にして、この世にひり出してやればよいのじゃな」
「はい。丈夫な丈夫な若君としてでございまする」
「丈大な丈夫な、が付いたか。よかろう。月が満ちてくれば、日光山にのぼり、東照大権現のお力も借りてな。東照宮とて、曾孫《ひまご》のことじゃ、知らんぷりはできまいよ」
上体をゆすって大笑いするのだった。
天海が日光山の奥の院の果て、人跡絶え、樹立ちから光も洩れぬ深山に慈慧《じえ》堂と名付けた護摩《ごま》堂を建て、男児生誕祈念をはじめたのは寛永十八年七月上旬である。
お楽の方の産み月は八月上旬とみられていた。
七月下旬、いよいよ大願成就のお籠りに入るにあたり、天海はその労をねぎらう将軍家使者・久世《くぜ》大和守広之にこう宣した。
「もし、修法|験《げん》なく、男子の誕生を見ないときは、われ、生きてふたたび山をおりることはないであろう。この決意、将軍家へお伝えあれ。春日局にも、よしなに」
久世広之は驚いて江戸城へ戻り、この旨、言上した。
表御殿の白書院には、年寄衆が列座し、お福も陪席が許されていた。
家光は困惑をあらわにし、
「困ったことじゃ。大僧正に、そこまで思いつめさせてはならぬ。大和守、日光へ今一度使いせよ。お楽が産む子が、たとえ男児でなくても、子はまた生まれよう。しかし、大僧正はかけがえのない能化《のうけ》(生き菩薩)じゃ。子は女でもかまわん。そう伝えよ。のう、春日局」
同意を求められたお福は、動ぜず、
「大僧正の御法力は、必ずや、男児を産ましめまする。万が一のときは、わらわも、覚悟がございまする」
懐剣をとり出して、膝の前に置いた。
一同は、息をのんで、毅然と背を立てている春日局を見守った。
深山の慈慧堂での、天海大僧正の護摩修法は八月|一日《ついたち》より、三日二夜《さんじつにや》つづいた。護摩壇には火が赤々と燃え、煙が堂に充満、太鼓の音が響き、鉦が鳴り、全員白衣の一門の僧が和する誦経《ずきよう》は耳をろうするばかりである。
時おり、天海大僧正が大声で呪文をとなえ、全身をふるわせて九字を切る。
三日目の、八月三日巳刻(午前十時)、膝立ちになって九字を切った天海大僧正は、すさまじい喝とともに倒れ、気を失った。
ちょうどそのころであろうか、江戸城大奥の産所御殿で、けたたましい産声が上がったのである。四肢をふんばって泣く赤子は、まぎれもなく、丈夫な丈夫な男児であった。
お福は産所御殿にいなかった。自室の仏間で、白木の三方《さんぽう》の上に抜身の懐剣を置き、釈迦如来像と相対していた。
「お方さま、おめでとう存じまする。若君でござりました」
廊下の彼方から小走りにくる、おのうの声である。
お福は、静かに懐剣を鞘に収めると、はじめて微笑をひろげて立ち上がった。
八月九日、七夜の祝賀が大奥客座敷で盛大にとりおこなわれた。将軍家が三十八歳になっての、待望の若君である。
七夜は、生児命名の日でもある。
やがて、上段の間に、父の家光が出座した。つづいて若君を抱いて姿を現わしたのは、春日局である。
これは、家光の指示であった。
生母のお楽の方がまだ産褥に臥しており、また身分の賤しい出自であることにもよる。が、そうでなくても、嫡男披露のお抱き役はお福にと、家光は決めていたようである。
その昔、家光の七夜祝いのとき、正室|阿江与《おえよ》の方に代わって、乳母のお福が生児を抱くはずであった。だが、阿江与の方が肯んぜず、栄誉を|民部卿 局《みんぶきようのつぼね》にゆずったのである。そのことを、家光は知っていた。
お福を息がつまるほど感激させたのは、その配慮に加えて、若君の晴れの産着である。葵の紋付であるが、生地全体に、稲葉家の家紋である「三文字」がちりばめられてあったのだった。
お福が抱く若君には、徳川家嫡流の幼名である竹千代の名がつけられた。のちの四代将軍家綱である。列座の御三家・御一門・年寄衆の間で、よろこびのどよめきがおこる。
九月二日、表御殿で、若君初の謁見がおこなわれた。ここでもお福は竹千代君を抱いて、家光とともに出座し、諸大名の拝礼を受けたのである。
2
慈慧堂での祈念に生命力をつかい果たしたのか、天海大僧正は冬の訪れとともに、上野山の寛永寺本坊で病いの床に臥す日が多くなった。
時を同じくして、お福も大任を果たしてほっとしたのか、気力を失い、湯島台の天沢寺へ隠居したのである。
お福は、すでに麟祥院《りんしよういん》という法号を、開山の渭川《いせん》禅師から授かっていた。隠棲を機に、家光のすすめで、山号を天沢山《てんたくざん》と変え、寺名を麟祥院と改めた。
麟祥院には、家光から三百石の寺領が寄進されている。
庵番の南条尼は、半年前、お福に感謝しながら他界していた。飯たきと雑用の下女を使うだけで、当分、俗事にかかわることなく、ひとりで閑居したかった。
庵室で静かに来し方を思いやれば、感慨無量なものがある。
とくに、後半生は罪深かったように思う。
お振りの方の死、お万の方の還俗、二人の女人の悲しみと憤りはまだ記憶に新しい。お夏、お楽、そして大奥を出る前に、お琴とお玉の二人を家光の閨に入れた。お世継ぎの男児が竹千代君一人では、安心できないからである。
お玉は、お万の方の部屋子であった。お万の方の実家である六条家が、侍女にと送りこんできた十五歳の、やや勝気な美女である。関白二条光平の家臣・本庄宗利の娘とあるが、事実は、京堀川通りの八百屋の子であった。その引け目が、部屋子でいるより、上様の側妾になりたい、と自らお福に志願してきたのである。
このことで、また、お福はお万の方の誤解を受け、憎しみを倍加してしまった。
(仕方がない。恨まれるようなことをしたのは、間違いないのじゃ)
阿江与の方も、憎しみを抱いたまま死んでいったのであろう。忠長卿は二十八歳で自刃した。その悲惨にくらべると、わが子・稲葉正勝は三十八歳の病死であった。幸せといわねばなるまい。
四歳のときの記憶。それは多分、母やさまざまな人がくり返しくり返し、語った追想が自分にのり移ったのであろう。
粟田口刑場に並んだ無数の首、その中央の磔柱で腐りかけていた父・斎藤利三の姿。
戦争のむごさと遺《のこ》された者の辛苦が骨身にしみ、二度と同じ不幸をくりかえしてはならぬ、と誓ったこともあったのに、
「わらわは、豊臣家討伐を、権現さまにけしかけたことがある」
お福は、当時を思いおこす。
あの大坂の冬と夏の合戦。戦場で何万の人が死んだであろうか。どれほど多くの首が刑場に並んだであろうか。
「恐らく、わらわと同じように……」
と、つぶやき、暗然となるのであった。
親を失い、夫を失い、子を失った遺族たちが、第二の四歳のお福が、無数に各地をさすらったであろう。
しかし、徳川の政権を永世のものにすることによって、平和が到来したことは事実だと思う。そのことに少しは貢献した自分を見返り、お福は自責からようやく解き放されるのであった。
「悔いはある……」
と、またつぶやく。
ひとり暮らしは、つい、自問自答の声が出てしまう。
「人に恥じることは、多々あるが……」
天には恥じない気持が、お福には強かった。力いっぱい生きてきた。その場、その場で全力をつくした。人に恨まれることはあっても、極楽の仏にせよ、地獄の閻魔《えんま》にせよ、顔をそむけずに、自分の行状を述べることができるように思うのであった。
安らかな気持になれたお福の脳裏に、匂いの強い白い、五弁の花びらの群れが浮かびあがる。
「からたち……」
坂本城の曲輪の屋敷は、からたちの籬《まがき》にかこまれていた。三条西家に寄寓して間もなく、お福は若い当主の実条にねだって、部屋の前面に、からたちを植えてもらったのであった。
「からたち……そうじゃ、わらわの終の栖《すみか》を、からたちで飾ろう」
お福がこの思いつきを、早速、久々に登城して麟祥院の寄進者である将軍家光に語り、許可を求めると、
「乳母どの、その、からたちの木なるもの、六十余州どこにもあるものなのか」
家光は、にこやかに問う。
「あると存じまするが」
「うむ。さすれば、諸大名に命じ、一万石に一本ずつなりと献上させよう。およそ二千本が集まる勘定じゃ。わしも、天領四百万石の当主として、四百本は寄進しようぞ」
驚いて拝辞するお福に、
「春日局、そなたは、それくらいの贈物を受けてもよい身分じゃ。徳川永世の礎《いしずえ》に力をつくし、ひいては諸大名に安泰をもたらしているのじゃ。まあ、わしが命じなくとも、将軍が、からたちの籬を寄進すると聞けば、大名どもは先を争って、手伝いを申し出、麟祥院は、からたちだらけになるであろうぞ」
家光は愉快そうに笑った。
お福はまさかと思っていたが、ひと月せぬうちに、七千坪余の麟祥院の境内は、各地からのからたちで、二重三重にかこまれたのであった。
お福が隠居して半年ほどたった寛永十九年八月二十三日に、英勝院が亡くなった。六十五歳である。
お福は、親しかった人々の多くが幽明|境《さかい》を異にしていることに、あらためて淋しさを覚える。
お福を江戸城に送りこんだ京都所司代の板倉伊賀守勝重は、寛永元年に他界している。
酒井忠世の死は寛永十三年である。
大久保彦左衛門は、十六年に黄泉《よみ》へ去っていった。
二年前の三条西実条の死去は、やはり心にこたえる。そして、姉と頼んだ英勝院・お勝の方の他界である。
天海大僧正は、
「煩悩の数の百八歳まで生きてみよう。それで、おしまいじゃ」
と、呵々大笑しているという。
百八歳は来年である。
(わらわと、どっちが先か)
そのようなことを考えるお福は、もう寝たり起きたりの毎日になっていた。
寛永二十年、残暑がきびしい八月になると、お福は重態になった。
猶子《ゆうし》の堀田加賀守正盛と孫の稲葉美濃守正則が、将軍家光の命令で、ほとんど枕頭につきっきりで看病にあたった。
お福は、病いの床についても薬は一切のまなかった。家光がさしむけた典医の調薬も断わるのである。
看病の者たちがその強情を強く諫めると、お福はやっとその理由を語った。
「忘れもしない寛永六年、上様は二十六歳であられました。閏二月、疱瘡《ほうそう》を病まれました。お城の東照宮さまにお百度をふみ、今後、わたくしは決して薬をのみませぬので、その代わり、上様のおいのちをお救い下され、と願《がん》を立てたのでございまする。この誓い、今になって、何で破れましょう」
家光は、しばしば馬を駆って、麟祥院を訪れた。
三歳になっている世子の竹千代が、おのうに抱かれて見舞いにきたのは、九月五日であった。
お福は心からよろこび、竹千代の小さな手をおしいただき、
「立派な四代さまにおなりあそばせよ」
と、くりかえし語りかけた。
九月十日、家光が自ら薬をもって来駕。
「乳母どの、そなたの乳によって、今日の将軍家光があるのじゃ。予のために薬断ちをし、それゆえに寿命をちぢめたとあっては、予もいのちがちぢむ思いがする。どうか、予のために、薬をのんでくれ。頼む」
家光は頭を下げ、自分の手で薬をお福の口ヘ注ごうとした。
お福は、その手をおしいただき、のむふりをして、着物のなかへ流してしまったのである。
九月十三日、おのうが大奥の側妾を全員引きつれて、麟祥院に見舞いにやってきた。
お夏の方、お楽の方、お万の方、お琴の方、お玉の方。庵室は、たちまち華やかな大奥と化した。
「お方さま、お夏の方とお玉の方が懐妊しておりまする。徳川家《おいえ》は万々歳でございまするよ」
臨終に近いお福は、もう、うなずくだけである。
そのとき、お万の方が膝を進め、憎しみの消えた澄んだ目で両手をつかえた。
「お方さま、わたくしは大奥へまいり、上様の寵をいただいたことを、今は、しあわせに存じておりまする」
頭を深くさげたのである。
お福の白蝋《はくろう》の面に安堵がひろがり、こけた頬に涙が幾筋も流れた。
お福が眠るように六十五年の生涯を閉じたのは、その翌日、寛永二十年九月十四日の、夜来の雨が上がった辰の刻(午前八時)であった。
射しはじめた陽が、半ば葉の落ちて、とげになったからたちの籬を、明るく照らしていた。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
あ と が き
歴史上の人物には悪役が少なくない。多くは、悪人にされてしまった人々である。
権力が移ると、前任者を貶《おとし》めることによって、おのれの価値を高めようとするのは、世の常のようである。また、あまりにも偉大であったため、後世、毀誉褒貶が増幅されることもあろう。有名税である。
悪というのは、もとは、激しい、猛々しい、強い、という意味に用いられていた。悪人は一種の英雄でなくはない。
春日局は、どちらかといえば悪役である。烈女・猛女・女傑の評は、ほめ言葉より逆の思いがこもっている。権力欲の強い、小賢しい、嫉妬深い、独占欲の強い女として描かれることも多い。
人間は、いうまでもなく、複雑なしろものである。善・悪・温・傲等、種々の要素をあわせもっている。見方によって、どのようにも評価ができよう。
春日局は、一介の浪人の妻から大奥の実力者に成り上がって、専横をほしいままにした女性と、一般には見られているようだ。
『寛政重修諸家譜』などから、春日局と関係者の系譜をひろってゆくと、興味ある人脈が浮き上がってきた。そこからふくらんだイメージは、既成の春日局像を一新するものであった。
彼女は決して成り上がり者ではない。気性の激しさは否めないが、猛女のたぐいでもない。その足跡を綿密にたどるとき、豊かな感受性と教養・知性・目的意識、そして行動力をあわせもった、現代でいうキャリア・ウーマンであったことがわかる。
別の見方をすれば、乱世から秩序ある社会への転換期が生んだ才媛であり、その時代の要求に見事に応えたクリエーティブな女性ともいえる。
といっても、春日局に関する史料がそれほどあるわけではない。周辺の史実から業績をあぶり出したもので、参考資料はその傍証のために活用させてもらったのである。
春日局を主人公にした小説・戯曲・読物は多々あるが、ほとんど参考にしなかった。したがって、類書とはかなりちがったものになっているかも知れない。
なお、春日局が病いを養い、死去した場所は、代官町(北の丸)の拝領屋敷の説があるが、麟祥院《りんしよういん》にしたことを記しておく。こちらのほうが本当のように、私には思えるのである。
人物の年齢は数え年、季節は旧暦である。言葉遣いも、なるべく当時の用語を用いた。たとえば、嫡庶《ちやくしよ》の庶は、妾腹の子を指すが、嫡子《ちやくし》以外の正室の子にも使われている。
大奥の様子は、三代将軍家光・春日局時代を境に、また明暦の大火の前後では、変わってきている。江戸城奥御殿を大奥と呼ぶようになった時期も、はっきりしていないようである。
一九八八年五月
[#地付き]堀 和久
参 考 文 献(主なもののみを掲げる)
「徳川実紀」
国史大系編修会編 昭和40年 吉川弘文館
「徳川諸家系譜」
昭和49年 続群書類従完成会
「寛政重修諸家譜」
昭和39〜41年 続群書類従完成会
「公卿補任」
国史大系編修会編 昭和40年 吉川弘文館
「公卿辞典」
坂本武雄編 昭和49年 国書刊行会
「大日本人名辞典」
大日本人名辞典刊行会 昭和49年 講談社
「戦国人名辞典」
高柳光壽・松平年一 昭和56年 吉川弘文館
「戦国武家事典」
稲垣史生編 昭和53年 青蛙房
「徳川将軍家人物総覧」
歴史読本増刊号 昭和53年 新人物往来社
「有職故実」
江馬務 昭和40年 河原書店
「女官通解」
浅井虎夫 昭和60年 講談社
「日本風俗史事典」
日本風俗史学会編 昭和54年 弘文堂
「江戸名所図会」
鈴木棠三・朝倉治彦校註 昭和50年 角川書店
「大日本地名辞書」
吉田東伍 昭和45年 冨山房
「日本城郭大系」
昭和55年 新人物往来社
「江戸城」
村井益男 昭和39年 中央公論社
「甦る江戸城」
アサヒグラフ増刊 昭和63年 朝日新聞社
「近世日本国民史・徳川幕府統制篇」
徳富蘇峰 昭和58年 講談社
「日本の歴史13 江戸開府」
辻達也 昭和55年 中央公論社
「徳川幕閣」
藤野保 昭和40年 中央公論社
「柳営婦女伝双」
国書刊行会編 昭和40年 名著刊行会
「大奥の生活」
高柳金芳 昭和56年 雄山閣
「春日局補伝」
細川潤次郎 大正2年 細川氏蔵版
「明智光秀と春日局考」
北瀬富男編 昭和62年 北瀬富男
「徳川家康教訓」
徳川義宣 昭和58年 徳川黎明会
「三河物語」
大久保彦左衛門原著 昭和55年 教育社
「徳川家臣団」
綱淵謙錠 昭和61年 講談社
「家光・十一名臣」
徳永真一郎 昭和59年 毎日新聞社
「後水尾院」
熊倉功夫 昭和57年 朝日新聞社
「大僧正天海」
須藤光暉 大正5年 冨山房
「密教大辞典」
昭和44年 法蔵館
「神社辞典」
白井永二・土岐昌訓編 昭和54年 東京堂出版
「日本剣豪列伝」
江崎俊平 昭和57年 社会思想社
「中条流産科全書」
日本産科叢書編 昭和46年 思文閣
「英雄たちの病状診断」
服部敏良 昭和58年 PHP研究所
単行本 昭和六十三年五月文藝春秋刊」
〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年十月十日刊