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指紋捜査官 「1cm2(平方センチ)の宇宙」を解き明かした男の1万日
堀ノ内雅一
目 次
序 章 指紋の神様
第1章 油 断――つい指紋を残してしまう人間
第2章 挫 折――刑事課から鑑識へ
第3章 隆 線――最初の三億円事件での無念
第4章 着 眼――隠れた指紋を見つけ出す
第5章 偽 装――犯人との知恵比べ
第6章 報 恩――フィリピンでの陣頭指揮
第7章 執 念――一八年目の敵討ち――二度目の三億円事件
第8章 研《けん》 鑽《さん》――巧妙化する犯罪に立ち向かう
終 章 自宅風呂場での実験
あとがき
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序 章 指紋の神様
呼吸するのと同じに殊更に意識することもなく、私たちは日々、時々刻々、あちらこちらに「指紋」を撒《ま》き散らしながら生きている――。
至極、当たり前すぎて、普段はすっかり失念していたこの事実に改めて気づかされたのは、塚本宇兵《つかもとうへい》という指紋捜査官と出会い、犯罪捜査の現場で巻き起こる数々の指紋にまつわるドラマにふれたのがきっかけだった。ともすれば犯罪や事件とセットで語られがちな指紋だが、実は万人が等しくその身に有する、ごくごく身近な存在だったのだ。
この塚本氏を主人公とした、小説より奇にして、ときに痛快な指紋捜査の現場でのエピソードについては追い追い語っていく。その前に、まずはしばしの間、この本を持っている両の手をページから離して、その指先を見つめてほしい。そこにある、無数の皺《しわ》と渦巻きが、この本のもう一方の主人公となる指紋だ。
「万人不同」「終生不変」の二大特性により、犯罪捜査の基本とされる指紋。つまり、この世に自分と同じ指紋を持つ人間は二人とおらず、その指紋は赤ん坊のときから死ぬまで変わらない。
近年、脚光を浴びている最先端の人物鑑定法にDNA鑑定があるが、これは遺伝子が同じ一卵性双生児では使えない。対して指紋は、一卵性双生児といえどもまったく同じというわけではない。こうした優れた特性により、指紋が過去から現在、そして将来も犯罪捜査・鑑識の要《かなめ》という点は誰もが認めるところだ。
「指紋が付きやすいのは、四〇〇グラムという重さを握り持ち上げたとき。そう、ちょうどビール瓶の重さだな」
と、塚本氏。
なるほど、いまだ記憶に新しい『松山ホステス殺人事件』の福田和子被告が平成九年七月二九日に捕まったとき、逮捕の決め手となったのはやっぱり指紋であり、福田被告の指紋は彼女が触ったビール瓶などから検出されていた。
このときの指紋採取というのは、福田被告が一五年間に及ぶ整形逃亡$カ活の最後の時期、出入りしていたおでん屋の女将《おかみ》らが、正体不明の中年女の素性を怪しんで逮捕に協力したものだった。あらかじめ福田被告の来店を予想して、事前に磨いておいた<rール瓶や灰皿、マラカスなどを用意していたというが、これらは警察の指示であったと思われる。
「そのビール瓶はあまり冷やされていなかったのではなかろうか。キンキンに冷やされたビール瓶だと、水滴などで指紋が流れやすくなるからだ。本当は、熱い茶が入った湯呑《ゆの》みなどがベストなんだが……」
とまれ、かくして二一日前というまさに時効寸前、事件発生から五四五九日目にして、世間を騒がせた希代の悪女が引き起こした事件は一転、指紋によって解決した。
「『指紋の神様』に会ってみないか――」
最初にこう言われたとき、真っ先に脳裏に浮かんだのは、日本にとんといなくなったプロに会えるのではないかという、取材者としての直感だった。
自分のことを棚に上げて言うわけではないが、何かにつけてプロ不在を感じることが多いこの頃。身近なところでは、たとえば町の書店がある。こういうことだ。
以前なら、これこれの本を探していますが、と問えば、店内のどこからともなく現れ、「それならば、この棚にございます」と、人間データベースよろしく一瞬で指し示してくれる店員がどこの書店にも一人はいた。だが、最近は尋ねてみても、「この棚になかったのなら品切れです」とあっさり言われ、仕方なく諦《あきら》めて他を物色していたら、別のジャンルの棚に目当ての本がしっかり納まっていたということが何度かある。同じ経験をした人も多いのではないか。
高度のハイテク化・マニュアル化により、経験や知識はないがしろにしてもいい便利≠ネ社会。そんな社会をどことなく味気なく、いささか興醒《きようざ》めに感じ始めていたときに出会ったのが、警視庁鑑識課で三〇年にわたって指紋捜査の第一線に立ち続けてきた塚本宇兵氏だった。
「神様」と呼ばれるというのは、犯罪の現場で指紋を見つけ出す並外れた洞察力に対して周囲がおくった尊称であるが、平成七年三月、警察庁が指定する広域技能指導官(捜査の人間国宝)に選ばれたことで、今では誰もが認める神様になった――というのが、取材前に人づてに聞いた人物像の一端だった。
かの三島由紀夫の割腹自殺で知られる東京・市谷《いちがや》の陸上自衛隊駐屯地のちょうど背後に位置する、第五機動隊内の警視庁鑑識研究所を訪ねたのは平成一〇年春。塚本氏はここの所長だった。応接室で初めて対面したとき、私はまず氏の目を凝視した。悟られぬようにしたつもりだが、まるで観察するような失礼な視線だったかもしれない。「警察の人間の目は出来る人ほど鋭い」と以前から聞いており、その先入観を持ったまま面と向かったのだった。
だが、塚本氏は初心者の私に指紋と指紋捜査の大枠を解説してくれながら、終始、やさしい眼差《まなざ》しだった。先入観は見事に打ち砕かれた。背もそんなに高くなく、眼鏡の風貌《ふうぼう》といい、親しみのある茨城|訛《なま》りといい、ちょうど犯罪映画の古典的名作『飢餓海峡』(昭和三九年、内田吐夢監督)で伴淳三郎《ばんじゆんざぶろう》が演じた老警部補を連想させた。ちなみに、塚本氏はこのとき六二歳だった。
「警察学校を出てすぐの巡査時代、新宿区の御苑前《ぎよえんまえ》派出所に立っていたとき、道を聞かれるのが一番まいった。自分では『代々木《よよぎ》駅に行き』と言ってるつもりが、茨城訛りのせいで相手には『よよぎイキにエケ』と聞こえてしまうらしいんだな。それで、相手は俺の説明を聞いてもきょとんとしている。あんまり、そんなことが続くから、最後は『さあ、来なさい』と、そのたびに道案内して歩いたもんだ。とにかく、あの時代はよく歩いたもんだ」
指紋のいろはの話の合間も、そんなエピソードで笑わせてくれた。
しかし、ずっと柔和だった表情が、一転、猛禽《もうきん》のそれに変容したのは、指紋捜査の現場での話に入ったときだった。眼鏡の奥の二つの眼球は私と話をしながら、私を通り越して、今まさに現場の遺留指紋と相対しているように鋭く光っていた。ああ、とことん現場の人なんだ――それを知っただけで、最初の打ち合わせはもう十分だった。
その後、取材が続いていった。やっぱり、プロであるというのは、その分野が好きで好きで究めていくうちに、ますますプロになっていったのだろうか。最後は、努力より持って生まれた素質が物を言うのか。自分の思いに技術が追いつかないとき、彼らはどんな手段で克服しているのだろうか……尋ねてみたいことは山とあった。だが、まずはとにかく現実の事件の話から聞くことにした。
指紋が生身の人間の残したものである限り、それにまつわるエピソードの数々は、犯罪という特殊性を超えてスリリングかつドラマチックだった。
もちろん、手柄話ばかりではない。まず、塚本氏が新人の頃、指紋係が嫌で嫌でたまらなかったというのも驚きだった。同じく新米時代、力が入りすぎて、大事な指紋を台無しにしたというポカも語られた。ベテランの域に達してからも、警察という組織の中で思うような捜査ができず歯がゆい思いをするところなど、「どこも同じだな」との感慨を抱く会社人間も多いに違いない。ただ、塚本氏のプロ中のプロたる所以《ゆえん》は、きっちり過去の無念の敵討ちをのちになし遂げるところ、失敗を教訓にまで昇華させてしまう、言葉は古いが、筋金入りの根性だ。
中には、捜査に携わる立場として表に出していいものかどうかというギリギリの§bもあった。しかし、塚本氏はさらに一歩を踏み込んで語ってくれた。わが国では、警察だけが一元に管理し利用する陰の存在≠ニして、どちらかといえば縁の下の力持ちに徹してきた感のある指紋だが、そのことがどうしても納得できないからだという。こういうことだ。
「ちょっと前まで、指紋の話をわれわれ警察の人間がすることは、犯罪者やその予備軍にわざわざ犯行|隠蔽《いんぺい》の手口を教えることになると先輩から教わり、きつく口止めされたものだ。でも、そのお陰で、指紋には犯罪がらみという暗いイメージがついてしまった。
たしかに、指紋が犯罪との関わりで成長してきたとしたら、生い立ちが悪かったと言えるかもしれない。だが、個人識別の手段として、この指紋ほど優れた道具はないんだ。もう、指紋は、警察がキャビネットの中に仕舞い込んでおくだけのものじゃない」
指紋の話となると、つい熱くなる人だ。
だが、たしかに、その言葉の通り、指紋をキー(鍵《かぎ》)の代わりにしたセキュリティシステムはすでに世界中で稼働している。アメリカのペンタゴン(国防総省)や各国の原発施設の多くにも導入済みともいう。あらかじめシステムに個人の指紋画像を記憶・登録させれば、あとは人さし指などの指紋をセンサーに読み取らせればいいというもの。これなら暗証番号も不要だし、キーをなくす心配もない。何より偽造も不可能となり、万全のセキュリティシステムといえる。
「たとえば交通事故があったとき、指紋を登録していれば、その身元や血液型、かかりつけの医療機関などが瞬時にわかる――そんなシステムは早急に完成されるべきじゃないだろうか。逆に言えば、現状では、何か大規模な事故や災害があって身元不明者が大勢出たとき、最初に身元が確認されるのは指紋を登録済みの前科者という皮肉な事態が起こりうる……」
昭和六〇年八月一二日に群馬県・御巣鷹山《おすたかやま》で発生した日航ジャンボ機墜落事故の際、大半の犠牲者の身元確認は指紋をはじめ歯型、衣服などによって行われていた。顔写真では判断がつかなかったのだ。また、昭和五六年八月の台湾における遠東航空旅客機の墜落事故では、塚本氏自ら日本での身元確認活動に携わった。
「現地の警察から要請があった。遭難者らの身元を確認するために、本人が日本で残した在宅指紋を送ってほしいと。特に印象深いのは、乗客の一人だった、ある女流作家の身元確認だった。迅速に確認作業を済ませるには、なるべく本人が残した確率の高い指紋を採取して送るに限る。だから、私はその作家の書斎を訪問して、彼女しか触っていない物はないかと探した。そうして目に入ったのが、書きかけの原稿だった。これなら、編集者に渡す前は、まず本人しか触っていないと読んだんだ」
しかし、飛行機事故などで性別さえわからないほど遺体が損傷した場合、指紋による確認は現実的に不可能なのではないか、との素朴な疑問が残る。
「焼失死体、腐乱死体、たとえば土左衛門(水死体)などの手指は、たしかに指紋が採取できないほどに損傷している。そうした場合も、われわれは諦めずに、まずアルコールで指先をきれいにして、それから指紋採取を行う。
もちろん、指先の表皮はほとんどが失われている。だが、人間の指の表皮の下層には真皮があって、これが残っていれば、そこに隆線(汗の噴き出し口が隆起したスジ、起伏=指紋を構成するもの)が認められることがある。もちろん、隆線とはいっても、その名残り≠セが。これをいかに見つけ出し、いかに傷つけたり壊したりしないで採取するか、そこが腕の見せ所だ。うまく採取できれば、個人識別は十分可能だ。
こうした経験を経て、自分自身、たとえば海外旅行をするとき、出発前に家族に指紋を残しておくのがいいと思うようになった。備えあれば憂いなし、というわけだ。本当は、みんなが指紋を登録する制度が早くできればいいんだが」
国民総背番号制の是非が議論されている昨今の事情を思えば、こうした発言にも賛否両論があるだろう。その前に、指紋には押捺《おうなつ》制度問題という負の遺産もあるが、これに関しても、
「一部の外国人だけに義務付けるからいけないんだ。日本人も全国民が登録しなければ逆に意味もなくなる。パスポートとしても、これほど有効なものはない。写真なんて、いくらでも誤魔化《ごまか》しがきく。極端な話をすれば、国際的なテロリストが男から女に化けて不法入国する場合だってあるだろう。
ほら、先日(平成一二年一一月)の日本赤軍最高幹部の重信《しげのぶ》房子容疑者だって、偽造パスポートで何度も出入国を繰り返していたというじゃないか。私もニュースで見たが、あんなに痩《や》せて顔つきが変わっているとは思わなかった。でも、いくら顔は変えても指紋は変えられないんだ」
と、きっぱり。その重信容疑者は、二五年以上前の、デモによる逮捕時に採取されていた指紋によって身元確認がなされ、逮捕に至ったという。
テロリストの場合はもちろん最重要資料の扱いだろうが、こうした前歴者の指紋データなど数百万人分を管理しているのが、警察庁刑事局鑑識課指紋センター(以下、指紋センター)。ここでは現在、指紋・掌紋の分類保管、犯歴の登録および照合、遺留指紋の照合等が行われると同時に、全国の警察署などから年間二十数万人分の指紋原紙が送られ、一日約一〇〇〇枚を処理。遺留指紋の照合によって、年間約二七〇〇件の犯人割り出しの実績を持つ。
この指紋センターの発足から三年後の昭和五八年、指紋を取り巻く環境が大きく変わった。指紋をデータベース化して照合ができるようにした『AFIS(Automated Fingerprint Identification System/指紋自動識別システム)』の導入が行われたためで、これを「指紋第一次革命」とする。
たとえば、塚本氏ら指紋係が犯罪現場で犯人が残したと思われる『遺留指紋』を採取したとしよう。この遺留指紋をデータベースから検索して、被疑者を割り出すまでに、だいたい一週間かかる。
「警察署に被疑者を連行して指紋を採取する場合ならば、かなり鮮明な指紋が期待できる。まあ、準備万端整って採取するわけだから。こうして、指の腹をきれいに回転させて採った指紋を『回転指紋』という。しかし、われわれが現場から採ってきた遺留指紋の場合、ほとんどは不鮮明だったり、たった一本の指の指紋の断片である『片鱗《へんりん》紋』しか採れなかったということもある。いや、こうした不完全な指紋のほうが圧倒的に多い。つまり、これをそのまま指紋センターに送ってデータベースで照合しても、まずヒット(合致)することはない」
そこで――、
「現場で採った『現場《げんじよう》指紋』を写真機で撮影して、それを五倍ぐらいの大きさに拡大。その上にトレース用紙を置いて、担当係官が隆線の一本一本をていねいになぞっていく。このとき、同時に指紋の薄くなったり、歪《ゆが》んだ部分を補っていく」
まさしく長年の経験とカンに裏付けられた手業《てざわ》、職人業で完成されたトレース指紋をもとに、電子情報に置き換えてデータベースとの照合に入る。興味深いのは、この工程にファジーの考え方が取り込まれていることだ。
「完全に一致するものを捜していけば、まずヒット数はゼロだろう。そこで、類似点の多い指紋からヒットしていくようにプログラムされている。たとえば、九九九九点満点として、きれいに採れた回転指紋をかければ、まず九〇〇〇点以上となる。しかし、これが片鱗紋や歪んだ指紋だと一〇〇〇点、二〇〇〇点、場合によっては数百点になってしまう。また、当然のことだが、ポイントの高い指紋が犯人のものとも限らない」
だから、指紋係らは、「まずコンピュータで大まかに(臭い指紋の)洗い出しをして、その後に手探りで詰めていく」のが普通だ。つまり、
現場指紋採取→車両で警察本部へ搬送→トレース用写真作成→遺留指紋トレース→指紋センターへ搬送→トレース読み取り→コンピュータ照合→ニアヒット確認(犯人割り出し)→最終確認→回答
となり、一週間。
もちろん、緊急の場合は採取した指紋の搬送にパトカーを使ったりファクスでやり取りして時間の短縮を図っているが、これではとても逃走中の犯人に追いつけない。この一週間を一日でも縮めたいというのが、事件を担当する警察官たちに共通の思いだ。そこで期待されるのが、各警察本部に導入されつつある『遺留指紋照会端末』だ。
その特徴をひと言でいうと、トレースなどの手作業の部分をCCDカメラとコンピュータに代用させ、さらに車両による搬送の代わりに衛星通信回線を使う点だ。
現場指紋採取→車両で警察本部へ搬送→画像処理特徴点抽出→衛星通信回線→コンピュータ照会→ニアヒット確認(犯人割り出し)→最終確認→回答
これにより、一週間が一日どころか、わずか半日―数時間まで短縮された。
このシステム最大の特徴は、指紋情報のやり取りがほとんど電子化されていること。また、指紋の『特徴点』については後述するが、これをコンピュータに入れる場合は「x・y」の座標軸の考え方が応用されているという。
一方、すでに検挙した被疑者の身元や犯歴を指紋センターで確認する場合には、『ライブスキャナ』が期待される。これは、ずばり、指紋のコピー機。光の全反射を利用して、ガラス面に密着させた指紋を読み取るというもの。指紋とは出っ張ったりへこんだりした隆線の連続や不連続だから、その密着度の違いをCCDカメラで捉《とら》えるのだ。ライブスキャナにより、採取から回答までのスピードは従来のなんと三〇分の一の、わずか数時間にまで短縮された。また、インクによる手指の汚れがないことで、心理的にも新しい時代のシステムといえるだろう。
今後、ライブスキャナは全警察署に、遺留指紋照会端末も全都道府県警察本部に設置されていくという。さらに、都道府県警察本部と警察庁の指紋センターが回線でつながれる計画も報じられている。指紋を取り巻く環境はどんどんハイテク化・ネットワーク化されており、「第二次指紋革命」は粛々と進行中だ。
だが、ここでちょっと考えてほしい。
どんなに高精度のコンピュータが導入されようと、全国の警察署のデータベース同士がつながろうと、犯罪捜査の原点は、これまで同様に、現場における指紋採取の場面である。ここ抜きには、コソ泥であれ強盗殺人やテロ事件であれ、どんな捜査も先には動いていかない。
逆に、犯行自体が巧妙になり、科学的な偽装が施されれば施されるほど指紋の重要度は増すはずだ、と塚本氏は言う。
「人間の五感を、ある程度は高度な機械に代用させることはできても、指紋採取時に求められるカンだけは機械には真似ようがない。ここだ!≠ニ思うポイントに瞬時に目をつけ、経験と技術で指紋を物にするのは、いつもわれわれ指紋係の役目。犯罪を犯すのが人間である限り、その人間のことを一番よくわかり、その人間が残した指紋にぎりぎりまで迫っていけるのも、やっぱり人間しかいないんだ」
さて、前置きはこのくらいで。
今から語られるのは、一人の男が、犯罪現場に残されたさまざまな指紋と格闘しながら、やがて「神様」と呼ばれるほどの指紋鑑定と指紋捜査の第一人者に育っていく物語である。
本来ならば、「塚本氏」とか、敬称を略しても「塚本」と文中では表記するべきなのだろうが、あえて「宇兵」という呼称で進めさせていただく。ときに喧嘩《けんか》宇兵≠ニ呼ばれるほど一本気で、かつ職人仕事を淡々とこなしていく姿が、宇兵という名の持つ語感にあまりにぴったりだからだ。
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第1章 油 断
――つい指紋を残してしまう人間
疑惑の手袋|痕《こん》――白昼主婦殺人事件
「指紋が犯罪捜査に便利なのは何となくわかるけれど、でも、本気になって指紋を残さずに犯行を完遂しようと思えば、できないことはないんじゃないの……」
出端《ではな》を挫《くじ》くようでいささか気が引けるが、単純にそう考える人もいるかもしれない。実は、私もそうだった。
たしかに、犯罪をテーマとした書物の一部には、たとえば、手に完全にフィットする医療用のゴム手袋をすれば指紋は残らないどころか犯行を素手同様に行えるとか、犯行前に接着剤を指先にまぶしておくだけで一時的に指紋を消すことができるなどと、ご丁寧に完全犯罪(!?)のノウハウを伝授しているものもある。スパイ映画などでも、住居や金庫に侵入するというとき、犯人はまず手袋に覆面姿だ。
はたして、そんなに簡単なものだろうか。
「もちろん、手袋をしていれば指紋は残らない。勇んで犯行現場に指紋採取に出かけて行って、犯人が手袋をしていたとわかって、ガックリということもあった。
だが、今度は、手袋を使用していたということで犯行が計画的だったとわかったり、手袋に加えその手口などから常習者の仕業と判明したりする。そうなれば、今度は過去の犯歴を探るなど、捜査手法を変えていけばいい。つまり、人間は何一つ証拠を残さずには犯罪を実行することは不可能なんだ」
そう言って宇兵は、平成四年に東京都下のベッドタウンで起きた『白昼主婦殺人事件』について話し始めた。
秋の穏やかな午後だった。主婦が何者かに殺害された。近所でも評判の明るい人柄の奥さんだった。何としても犯人を逮捕したいとの思いは宇兵も捜査一課も共通していたが、その犯人像に関して、捜査初日から双方で意見が真っ向から対立する。
現場は立川《たちかわ》署管内の住宅、犯行時間は正午すぎと見られた。被害者の主婦の首にはネクタイが巻かれたままであった。犯行現場となったダイニングキッチンのテーブルの上には、茶托《ちやたく》に載った湯呑《ゆの》みが二個、ガラスコップが一個。また、流しにはインスタントラーメンを食べたと思われる丼《どんぶり》一個が残されていた。
捜査一日目、宇兵が現場で聞かされた一課の見解は次の通りだった。
「夫からの供述によれば、『妻は自分の湯呑みを持っており、わざわざ茶托付きの湯呑みは使わない』という。客用と思われる茶托付き湯呑みが二つ残っている事実から、おそらく犯人は二人。二人がかりで輪姦《りんかん》したあと、口封じに殺害したのだろう」
一方、宇兵は現場に入って、すぐにどこか変だ≠ニ感じた。
『まさか、女に飢えている刑務所からの脱走犯二人組がたまたまこの家に侵入したというのならわかるが、真っ昼間から二人で輪姦などするだろうか。それに、乱暴目的で押し入った相手に、わざわざ客用の茶托付きの湯呑みで接待するだろうか』
宇兵は、現場にいた刑事にそれとなく自分の考えを伝えたが、彼は聞く耳を持っていなかった。何といっても、被害者に一番近い人物である夫本人から、「妻は普段から茶托など使わない」との証言を得ているのだ。人に聞く¢{査の伝統は、平成の時代になっても健在らしい。
この三〇年間、徐々に変わってきたとはいっても、やっぱり現場では人に聞く¢{査がはびこっているのか――。物に聞く¢{査の要《かなめ》である指紋をないがしろにされた悔しさを改めて思い出した宇兵は嫌味の一つもぶつけたくなったが、しかし、とにかく今は指紋採取が先である。
コップや湯呑みからは唾液《だえき》等を採取できると思われたので、慎重に周囲から指紋採取をしたのち、上部をラップでていねいに覆い完全に密閉した。ラップは家庭用と同じ物。また密閉するというのは、中に飲み物などが残っている場合、それを一滴たりとも逃さないためだ。ときに、その残留物の中に薬物や毒物が残っていることもある。
最初に湯呑みAから指紋採取を試みたところ、やや小さ目の指紋が一つだけ採れた。
『この小ささは女の指に違いない。ということは、被害者の主婦はやっぱり湯呑みを使っていたんじゃないか……』
次に、宇兵は部下に湯呑みBからの指紋採取を命じた。
「キャップ、出ません」
「何、出ない? そんなわけない。もう一回、やってみろ」
「あっ出ました……出、出ましたが、これは……」
「何だ。見せてみろ……おい、こいつは手袋|痕《こん》じゃないか」
それは手袋、それも工事現場などで使う軍手の痕《あと》とすぐわかった。宇兵の中で、ピンとひらめくものがあった。
二度目のひらめきは、早くも翌日訪れた。
部下の一人が、家の周囲に煙草の吸殻が落ちていると報告してきたのだ。
「何、煙草?」
「はい、庭の地面にいくつも。それもすべて『フロンティア』という銘柄です」
「じゃ、ホシは庭で入り待ち=i侵入しようと様子をうかがうこと)してたのか」
早速、庭に出た宇兵だったが、ここで別の疑問がわき起こる。
『待てよ……たしか犯行は真っ昼間。この庭で入り待ちしてたんじゃ、通行人にもろに目撃されるんじゃないか。そんな危険を冒すだろうか』
宇兵は庭と道路を仕切る柵《さく》が意外に低いことが気にかかっていた。そのときだ。
「おやっ?」
何気なく見上げた家の壁を見て、宇兵はまたまたピンときた。
『この壁、塗り替えたばかりだな。そういえば、ここの夫婦は長いこと外国で生活していて、最近になって帰国したと一課の連中が話してた。そうか、このペンキの新しさは、まだ数カ月以内に改築の職人が入ったということだな』
宇兵は、自らが過去に二年間、フィリピンへ赴任していたときのことを思い出した。そのときも帰国後、主《あるじ》不在ですっかり傷んだ自宅の修理に職人を入れていたのだ。
「なるほど……」
宇兵の中で、漠とした推理が徐々に確信に変わろうとしていた。
一つの確信を持った時点で、宇兵は一課の刑事に告げた。
「俺はこう読んだ。ホシは顔見知りで、最初から強姦《ごうかん》目的だ。十中八九、家の改築職人に違いない」
「いや、今、奥さんの男関係も当たっているが、そっちも脈がありそうなんだ」
一課が、まずは被害者の交遊関係を洗うというのは捜査の定石通りで、それについては宇兵も納得していた。だが、この場合は違う。
「何、言ってるんだ。害者=i被害者)の愛人かもしれない男が、わざわざ軍手をして茶を飲むのか、ラーメンを食うのか」
そう言いながら、宇兵の中でもう一つの確信が芽生えた。犯人には前=Aつまり前科があるに違いない。だから、お茶を飲むときも、ラーメンを食べるときも軍手を取らなかった。いや、取れなかったのだ。そう、指紋を残さないために――。
三日目、警視庁の科学捜査研究所で行われていた鑑定の結果が出た。
まず、湯呑みの唾液から血液型が割れた。湯呑みAはO型、湯呑みBはB型だった。被害者である主婦の血液型がO型だと判明したため、湯呑みAは主婦が使用したものとひとまず断定された。当然、湯呑みBは犯人が使用したもので、その血液型はB型となる。
次に被害者の解剖の結果、その胃袋にはインスタントラーメンの残留物は認められなかった。こうなると、ラーメンを食べたのは犯人と考えるのが最も自然だ。ここにきて、捜査一課も同家に関わりのある職人に的を絞るようになる。
しかし、この直後、大きなヘマがあった。
「何、逃げただと?」
宇兵は報告を受けて、思わず声を荒げた。一課では、数カ月前に家の改築に入った職人たちからしらみ潰《つぶ》しに供述を取りながら、任意で指紋採取と同時に頭髪の提出を求めたという。髪の毛というのは血液型を調べるためで、一本あれば十分なのだ。そして、この捜査の過程で一人の内装職人が妻とともに東北地方に逃走。果ては心中を図るという思わぬ展開となった。
「馬鹿やってるんじゃないよ、まったく。怪しいと思ったら、尾行して飲食店で張りゃあいいんだ。そこで、使い捨てたコップでも煙草でも持ってくればすむことじゃないか。それを『髪の毛、ください』じゃ、逃げられるに決まってるよ」
そして、容疑者の内装職人の身柄を確保後、DNA鑑定に持ち込まれることになった。
DNA鑑定とは、一九八五年にイギリスで考案され、日本では平成四年度から警察庁が正式導入したという、まだ歴史が始まったばかりの最新の鑑定法。ヒトの細胞内に存在するDNA(デオキシリボ核酸)の特定部分の配列を比較することによって、同一人物であるかどうかの確率を求める手法だが、ここであえて確率≠ニしたのは、現在の精度では、指紋のように個人を一〇〇パーセント特定することは難しいとされているからだ。前述したように、DNAが同じ一卵性双生児では使えないなどの弱点がある。ただし、平成一二年七月に行われた、『栃木県|足利《あしかが》市女児殺害事件』の最高裁判決では、DNA鑑定に証拠能力があることが初めて認められている。
この事件は、平成二年五月、元幼稚園バス運転手の被告が四歳の女児を車で連れ出して殺害したというもの。このときの鑑定では、栃木県警が被告宅のゴミ袋から発見した被告の体液が付いたティッシュと女児の下着に付いていたものとが一致。バス運転手はいったん犯行を自供したものの、その後否認に転じていたが、それをDNA鑑定が覆したのだ。
さて、宇兵ら指紋係が注視する中、内装職人の頭髪が入手され、被害者に残された体液との鑑定が行われた。その結果、頭髪と体液の持ち主は同一人物と判定され、逮捕に至った。男には強姦《ごうかん》の前科があり、この事件でも最初から強姦目的で、改築後の様子を案じるふりをして被害者宅を訪問したものだった。
茶托《ちやたく》付きの湯呑《ゆの》みが二つあったのは、たまたま被害者の主婦も同じ湯呑みを使っただけ。おそらく、自分専用の湯呑みは昼食時に使用した直後だったのだろう。いずれにしても、世話になった顔|馴染《なじ》みの職人さんを丁重にもてなそうとした主婦の厚意を踏みにじる、非道な犯行だった。
さらに数日後、例のフロンティアの吸殻は、犯人のではなく、被害者の親類のものとわかった。あのとき、宇兵が何気なく壁面を見上げていなければ、捜査は余計に混迷していたかもしれない。
プロファイリング的捜査の原点
お気づきになっただろうか。実は、この事件は指紋で解決したのではない。最後は、今をときめくDNA鑑定が決め手となった。それでも冒頭で紹介したのは、ここに犯罪捜査の原点があるように感じられたからだ。
プロファイリングという単語が、一時、もてはやされた。ジョディ・フォスター主演のアカデミー賞映画『羊たちの沈黙』や、ベストセラー『FBI心理分析官』などにより、日本でも一般的になりつつある最先端の犯罪捜査の一手法である。簡単に解説すれば、犯罪のパターンから犯人の心理を読み、特定の犯人像を割り出す捜査手法だが、実は、宇兵らはもう四〇年も前からこのプロファイリング的捜査を行ってきたのだ。
当の宇兵は言う。
「先の事件を例にとれば、湯呑みを見ても、ただの湯呑みと見ちゃ駄目なんだ。使用されているかどうか。使われたのなら、中の茶はどんな状態か。恐らく、口の部分からは唾液《だえき》が採取できるだろう。目には見えないが、指紋も残っているに違いない。でも、なぜ湯呑みは二つで、しかも茶托付きで、この場所にこの角度で置かれているのか……。
より多くのことを物から聞き出すには、刑事でも鑑識でも鳥の眼≠ニ蟻の眼≠ェ肝要。鳥の眼とは、空高くから全体を見渡す眼。蟻の眼とは、本当に蟻になったつもりでチリ一つでも見逃さない眼のこと。また、いずれも速さが肝心だ。時間が経ってしまい、チリ一つが動いてしまうことでさえ、凶器の特定が曖昧《あいまい》になることだってあるんだ。そして、さらに求められるとすれば、観察するのではなく、その先を見通す眼だ。
あとは、現場に入って疑問を持ったら、どんな小さなことでも、いい加減には済まさないということ。私が今日までやってこられたのも、何でも、単純になぜだろう≠ニ思える人間だったからだろう」
同じ犯行現場を見ても、ある者はちょっとした異変に立ち止まってなぜだろうと疑問を抱き、ある者は気づかずに素通りしてしまう。ちょうど、同じ海に潜っても、ベテランの海女《あま》は他の者より多くの収穫を挙げられるのと似ている。
以前、もう七〇に手が届くという海女に話を聞いたことがあるが、彼女は自分が名人と呼ばれる理由をわからないとしながらも、こう言った。「ただ、長くやっているだけ」。もちろん、長期にわたり努力と経験を積むことによるデータの蓄積があるのは間違いないが、周囲の海女仲間に聞くと、彼女は不思議に若い時分から多くの収穫を挙げていたという。きっと、努力と才能と、そのどちらも必要なのだろう。
加えて、宇兵の言から、さらにもう一つ求められるとすれば、先入観なく対象と向き合える素直さ≠ゥ――。
こうして、『白昼主婦殺人事件』は解決した。なるほど、「人間は何一つ証拠を残さずに犯罪を犯すことは不可能」というのは本当らしい。
続いて、同様の事件の話にいく前に、この本で扱う指紋について確認をしておきたい。
犯罪捜査の中で「指紋」というとき、人によって思い浮かべるものが微妙に違うかもしれない。
@犯罪現場から検出した犯人およびその他の指紋
A被疑者から採取した指紋
B(警察庁指紋センター、所轄の警察署等に保管してある)前歴者の指紋
宇兵が担当するのは、主として@の現場指紋の採取である。その指紋がいずれ被疑者逮捕につながりAとなり、さらに保管されBとなることもある。
つまり、捜査の基本とされる指紋の中でも、ことさら基本となる部分を担っていることになる。それを頭に置いて、もう一つの「つい証拠を残してしまう人間」のエピソードを読んでほしい。
白く輝く指紋――コンビニ強盗殺人事件
コンビニ≠ニして親しまれるコンビニエンスストアほど、現代社会を象徴する存在はないかもしれない。終夜営業で、買い物をするのに会話も交わさなくていい。何より、街が暗闇の中、そこだけぼんやり灯《とも》った明かりを目にすると、ホッとさせられる。
その明かりにつられるのか、常夜灯に集まる羽虫のように深夜といえども多くの人間が訪れるが、そんな匿名性を有した場所だけに犯罪の現場となることもある。犯行を行う側からいえば、不特定多数の中に自分を紛れ込ませれば完全犯罪も可能なのではないか、と考えるらしい。
平成四年五月の深夜というより明け方、正確には午前四時一〇分頃だった。都内のコンビニで男性店員が強盗に襲われ、胸部を刺されて失血死した。監視カメラの死角を狙った巧妙な犯行だった。
不幸中の幸いがあったとすれば、コンビニの出入口が自動ドアではなかったことだ。犯人も、その他の客同様に、開き扉の把手《とつて》を押して店内に入ってきているのはまず間違いない。宇兵ら鑑識は早速、このドアの把手を中心に現場指紋を採取、合計一三六個の指紋を得た。
当初、犯人が残したと思われる『遺留指紋』は特定できなかった。だが、宇兵は諦《あきら》めなかった。ひと通り指紋を採ったあと、今度はドア部分に強力なライトで斜光線を当ててみた。小さな物なら手に取って動かしながら見る角度を変えることもできるが、ドアはそうはいかない。こんなときは、光を異なる角度から当てることで、隠れた指紋を浮き上がらせてみる。光の角度は四五度くらいがちょうどいい。
すると、本当に出現したのだ。左ドアの把手部分に白く輝く『掌紋』が出た。掌紋とは、掌全体の痕《あと》で、これも指紋同様、個人識別に用いられる。
「まだ新しいな」
その鮮明度から印象後二―三時間と判断した宇兵は、通常の指紋検出に使われるアルミ粉末では(残っている湿気によって隆線が潰《つぶ》れ)さらに不鮮明になると予想されることから、湿気を飛ばす効果のあるアルミと炭酸鉛の混合物であるLA粉末で検出を試み、その結果、この掌紋一個を含めて六個の指掌紋を採取した。
瞬時に指紋の状態を見極め、どの検出薬を使うかを判断し、採取時には細心の注意で指先に力を込める――。
「それが技術であり、経験だ。ここで一つでも判断を誤れば、もう指紋はなくなってしまう。そう、採取者が自ら消してしまう場合だってある。刷毛《はけ》を使う角度、方向、指先の力の入れ具合……強すぎても弱すぎてもいけない。これは、何度も失敗しながら体で覚えるしかないんだ」
現場から鑑識課指紋係の部屋に戻った宇兵だったが、やっぱり気になっていたのは、一つだけ採れた白く輝く掌紋だった。
「これは、ハネかポチか……」
『ハネ』とは、脂肪や水分など過剰な分泌物によって指紋が印象されたときによく見られる現象で、触れた物から手指が離れる際に隆線が分泌物を引っ張ってハネた状態をいう、指紋係の間の符丁である。『ポチ』も同様で、指紋が付いたときに汗腺《かんせん》口(汗の噴き出る部分)周辺に集中してポチポチ《ポツポツ》と印象された状態である。
つまり、両者とも、指紋を残した人物がまさにその瞬間、極度の緊張状態にあったことを表すものであり、冷や汗モノ≠ナ犯罪行為が行われた証拠なのだ。
「待てよ、今はまだ五月だ。まして、午前四時過ぎ。自然の状態で汗をかく人間は、よほどの汗かきでなければそんなにはいないだろう。こりゃ、臭うな」
もちろん、極度の汗っかきの人がたまたまその時間、コンビニを訪れたという可能性も無視していいわけではない。だから一〇〇パーセントとはいかないが、それでもかなりの確率で、これは「遺留確度の高い掌紋」と判断した。つまり、その他の指掌紋に比べて、犯人が残した可能性が限りなく高いとの判断が下された。
その後、捜査は『関係者指紋』の採取に移った。犯行以前に現場に出入りしたことのある人間の指紋を同意・協力を得た上で採取して、現場から得た複数の指紋から次々に省いていき、犯人と思われる指紋にどんどん絞り込んでいく。まずは従業員、アルバイト、出入り業者、そして聞き込みから当時出入りしていたことがわかった客などからも、関係者指紋が採られた。その数、九一名に及んだ。もちろん、宇兵ら指紋係は聞き込みはしない。これは刑事課の仕事となる。
そして、最後の九一番目の関係者指掌紋をチェックしているときだった。
「これは……」
宇兵がルーペの先に認めたのは、採取されたばかりの掌紋に現れたにじみ[#「にじみ」に傍点]だった。
「こりゃ、多汗によるものだな」
もちろん、協力して≠ニはいっても、指紋を採取されるというのは、一般人からすればいわば非日常の行為で、誰しも多少は緊張するかもしれない。医者の前に座っただけで脈拍数が多くなるのと同じだ。だが、そのときのにじみ[#「にじみ」に傍点]は、プロの目には常識の線をはるかに超えていた。
宇兵は、すぐに犯行現場のコンビニ入り口の把手から採取しておいた掌紋と、この九一番目の掌紋とを対照した。結果はヒット≠ナあった。
九一番目の掌紋の持ち主は、同コンビニの元店員だった。あとは早かった。掌紋が一致するに及び、犯行を自供。事件は二カ月で解決した。
当初、犯行を否認していた元店員には、一応アリバイもあった。だが、口ではすらすら嘘をつき通したつもりでも、体は正直に反応していたのだ。人は人を殺害しておいて、それも時期はズレていたとはいえ同じバイト仲間に刃物を突き立てながら、それほど平然とはしていられないものなのだ。そう思うと、少しは希望もあるが……。
「われわれの間で、よく完全犯罪が議論されることがある。あり得るとすれば、ひと言で言うなら、意識しないで犯行をやってのけることだ。
よく、あるだろう。気付かないで期限切れの定期を使っていたなんてこと。無意識に行動すれば、相手も警戒はしないもの。そう考えると、人を殺しておいての完全犯罪というのは、まず世間の常識ではあり得ないことになる。
だが、昨今の事件報道等を見ていると、動機なき殺人≠ネどということが盛んに議論されている。動機もそうだが、たとえば人の命を奪うことに後ろめたさを一切持たない人間が現れて、普段通りの行動の果てに何食わぬ顔で犯行を行うことがあれば、完全犯罪もないとは言えなくなるのかもしれない」
完全犯罪も不可能ではない、生まれついての犯罪者――そんな話を聞いて、こちらの顔が凍りついていたのだろう。一転、こんなエピソードを明かしてくれた。
数年前、東京の目白《めじろ》であった殺しの話だった。普通、殺人を犯すほどの犯人は、殺害行為のあとには指紋をできうる限り拭《ふ》き取って逃走するものだ。誰だって、みすみす証拠を残して捕まりたくはないから。
「その事件でも、犯行現場の部屋からは不審な指紋が出るには出た。関係者指紋を除いていくと、その指紋が一番怪しいんだ。だが、その数が異常に多いときた。二〇個はあったかな。現場は混乱したよ。『なんで、こんなにたくさん残していったの』『犯人がこんなに指紋を残すはずがない』と、みんな、かえって不思議がっていた」
ところが、やっぱり、その指紋の落とし主が犯人だった。
その正体とは――
「中年の女だった。殺人のあとにも欲深さが消えなかったというか、被害者を殺してから部屋の中の金目の宝飾類を物色したというんだ。それで、なかなか目ぼしいものが出ないもんだから、あちこち触り散らしているうちに恐くなって逃走した、と……」
なるほど、完全犯罪をしようと思ったら、さりげない程度に指紋を撒《ま》き散らしておくに限るということか。日常の中に証拠を紛れ込ませるというトリックは、昔からあった犯罪ミステリーの王道だったと思うが。
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第2章 挫 折
――刑事課から鑑識へ
完落ち
人生には、とかく、まわり道がつきものだ。
だが、指紋と出会うまでの宇兵の警察官人生をまわり道と呼んだら、本人には不本意だろう。「あの時代があったから、指紋のおもしろさもわかったんだ」と、ちょっとムキになってそう言うに違いない。
高校を出てすぐに警察学校に入り、順当に警察官として採用された宇兵だが、最初から指紋係だったのではない。その前に、派出所勤務や機動隊を経て刑事課で刑事として犯人逮捕に駆けまわっていた一〇年間があって、ほとんどの若手同様、ここで経験を積み、いずれは殺人を扱う警視庁刑事部の花の¢{査一課へという道を思い描いていた。それは、高卒のノンキャリアとして警察官人生をスタートさせた宇兵の夢、だった。
日本一の出世競争社会ともいわれる警察組織の話をするとき、よく、「キャリア」「ノンキャリア」という単語が出てくる。キャリアとは国家公務員T種試験合格者で、毎年、わずか二〇名前後のみが警察庁に採用される、警察職員二六万人のうち〇・二パーセントに当たるわずか五〇〇人というエリート集団。映画『踊る大捜査線』で柳葉敏郎《やなぎばとしろう》が演じた、ビシッと背広で決めた室井《むろい》警視正がキャリアの象徴として描かれていたといえばイメージしやすいかもしれない。一方、そのひと握り以外の各都道府県警採用者を大雑把にノンキャリアと呼び区別している。
ちなみに、警察内の階級とは――
巡査→巡査長→巡査部長→警部補→警部→警視→警視正→警視長→警視監→警視総監→警察庁長官
両者の差は歴然としており、たとえば、キャリアは階級もいきなり警部補からのスタートだ。警視正までの昇進のスピードも、キャリアの平均一〇年に対してノンキャリアは三〇年。ノンキャリアが警視長より上にいくこともまずない。蛇足ながら、組織の頂点である警視総監と警察庁長官にまで上り詰めるのはキャリアの中でも各々一名ずつという、文字通り、エリート中のエリートだ。
「キャリアとかノンキャリ(ノンキャリア)とか、格別、意識したことはない。ただ、自分の仕事をしてきただけ」
とかく現場を知らない(知るひまのない)キャリアは、年若くして指揮官となったときに、机上の空論を振りかざして親子ほども年齢差があるノンキャリアを困らせているなどと、いささかの揶揄《やゆ》をこめて言われることがある。その意味を含めて、「キャリアの存在を意識してきたか」と尋ねたところ、宇兵からは明らかな戸惑いとともにそんな答えが返ってきた。
階級や出世を気にしていなかったというのは、多分、真実だ。それは、これから紹介する仕事ぶり、経歴がちゃんと証明している。ただ、出世競争社会の只中《ただなか》に飛び込んだ以上、彼もその流れには無縁ではいられなかった。まあ、それは、日々の業務をこなしながら昇任試験と取り組まなければならなかったというレベルの話だが。つまり、彼は警察官人生の中途で、出世よりも没頭できるものを見つけたのだ。
さて、これから語られるのは、宇兵がまさか指紋係になるとは思っていない頃の、新米刑事としての奮闘ぶりだ。階級でいえば、巡査部長の時代だった。
――バシャーン!!
湯呑《ゆの》みから茶の飛び散る妙に乾いた音に、今朝も神田《かんだ》警察署のデカ部屋の空気が一瞬、凍りついた。
昭和三八年、この当時の神田署は木造の二階建て。その一階のほぼ中央に刑事課・捜査係室はあった。広さは、ちょうど教室二つ分ほど。課長、係長がヒラより一段高い雛壇《ひなだん》≠ノ座り、総勢四〇名ほどの刑事が日々、事件捜査と取り組んでいた。今日もまた一日が始まる。宇兵を含め、誰もが緊張の前の一瞬の静けさを味わっているとき、その音がとどろいたのだ。
振り返って見れば、タールが塗られた黒色の床板にぶちまけられた茶からは、まだ湯気がほんのり立ち昇っていた。ここ三日ほど、宇兵とほぼ同時に配属されてきた新米刑事が朝の茶を古参のデカ長の机に運ぶたびに、デカ長は手渡された湯呑みに一瞥《いちべつ》をくれるや、ひと言も発せずにいきなり板の間に茶を放り出すという行為を続けていた。
「あっ、す、すみません」
おどおど謝りながら雑巾《ぞうきん》を取りに走る新米を横目に見ながら、宇兵はこの日も考え込んでしまった。たしかにそのデカ長は無口で近寄りがたいタイプではあったが、人間的にはそれほど非道な人物には見えない。つまり、デカ長は何か真意があって茶を放っているのだが、宇兵にはそれが理解できなかったのだ。さりとて、直接理由を聞くわけにもいかず、とうとうこの朝、隣席の先輩刑事にそれとなく尋ねてみたが、
「あれか。そうだなぁ……まあ、俺に言えるのは、デカ長は長年、あの湯呑みを使っているってことぐらいだな」
と、まるで謎掛けのような返事だけ。
巡査部長とはいえ新人である以上、自分だっていつお茶の当番を仰せつかるかわからない宇兵にとって、このデカ長の新米刑事への洗礼≠ヘひどく気持ちを落ち込ませた。
警察学校卒業から八年目、二七歳にしてここ神田警察署で念願の刑事としてのスタートを切った宇兵だったが、当初は気の重い日が続いた。その理由は、巡査として刑事の経験がないままいきなり巡査部長刑事、いわゆる「デカ長」に任命されたからだ。
以前であれば、巡査で刑事の経験がある者だけがデカ長となった。多くの制服の巡査の中から刑事としての資質を見込まれた者が巡査として新米刑事となり、「自分で考えろ、体で覚えろ」といった昔かたぎの徹底した職人教育により、逮捕状の請求やホシ(被疑者)の取り調べといったノウハウを身に付け、「ホシを取れる(逮捕できる)、ホシを落とせる(自供させられる)」一人前の刑事となる。そして、昼も夜もない厳しい勤務の合間を縫って巡査部長昇任試験の難関を突破した者だけがデカ長となった。こうしたことから、デカ長の実力と権威は絶対視され、デカ部屋のリーダーとして君臨できていたのだ。
それを宇兵は、警視庁の制度が変わったことから、わずかな期間の刑事養成講習を受けただけで、いきなりデカ長としてデカ部屋に放り込まれたのだ。いくら時代の流れとはいえ、講習で学んだ机上の知識だけで、経験と実績が物を言う実力社会で過ごすのは、しかも責任の重いデカ長として日々を送るのは、正直、しんどかった。
思い通りにいかない取り調べに業《ごう》を煮やしたのもこの頃だ。
「おい、何で、よそ様の家の庭になんかいたんだよ」
「いやぁ、便所を借りようと思ったんだけど、家の人が留守だったみたいなんすよ」
「違うだろ。本当のこと言えよ。お前、住居侵入だけですまされるなんて思うなよ」
「そんなこと言ったって、俺は本当に便所を借りようと……」
そんな与太話が通じると思ってんのか――デカ部屋から続く三畳ほどの広さの取調室。小さな木机を挟んで対面している、ひと回りも年上の男を怒鳴りつけたくなるのをグッとこらえ、
「おい、そんな弁解は通じないんだよ。いつまでも逃げ隠れするだけが人生じゃないぞ。そろそろ、垢《あか》落とし(白状)して、すっきりしたほうが自分自身のためだぞ」
と、今度は諭すようにして自供を促したつもりが、途端にだんまりである。
そのホシは、住居侵入で捕まった四〇歳の前科三犯だった。前科もほとんどが軽犯罪の類《たぐい》で、極悪人のふてぶてしさこそないものの、世をすねたような目つきが当初から宇兵を暗澹《あんたん》とした気分にさせた。
だが、前科等から相当数の余罪があると見込まれていたのも事実。その余罪すべてを自供させれば、新米デカ長の宇兵自身が一目置かれるようになるのはもちろん、総監賞ものの大手柄である。そこで宇兵は、男の一〇日間の勾留《こうりゆう》期間中(取り調べ等の捜査のために身柄を拘束できる期間)、休日返上で取り調べに当たったが、男は世間話には乗ってくるが、どうしても犯行については認めない。
当初は宇兵自身も、
『前持ち(前科持ち)だから、簡単には落ちないだろう。粘るしかない』
と、根気よく取り調べに当たっていた。しかし、完落ち(全面自供)どころか今回の住居侵入すら認めようとしないまま、勾留満期(勾留期限を迎えること)が近づく頃には、
『このままでは無罪放免かもしれない。だが、この野郎、なぜ、黙っているんだ。俺が年下だと思ってなめてやがるのか。力ずくで吐かせてやろうか』
と苛立《いらだ》ちが高まり、男を殴りつけたい衝動すら覚えるようになっていた。が、まさか、目の前の相手と喧嘩《けんか》を始めるわけにもいかない。たとえ、半ば力ずくで自白を得たとしても、裁判で「無理矢理、言わされた」と覆されれば元も子もない。
その日も、朝から苛立つ気持ちを抑えながらホシと向かい合っていただけで昼の時間となり、取調室に被疑者用の公費弁当が届いた。弁当といっても留置場で出るのと同じ、麦飯の上にサンマが半身載っただけの粗末な食事だった。
「おい、とにかくメシを食えよ。続きはそれからだ」
しかし、男は宇兵が弁当をすすめても一向に手を出そうとしない。
「おい、腹、減ってないのか。早く食ってしまえ」
再度、すすめるが、やはり食べようとしない。
「お前、あとで『飯も食わせてもらえなかった』とでも言うつもりか」
と問いただすと、一口、サンマをかじったものの、すぐに無言のまま箸《はし》を置き、宇兵を睨《にら》み返してきたではないか。
その反抗的な態度に、思わず我を忘れた宇兵は、空腹も手伝っていきなり男の手元から弁当を引き寄せ食べ始めてしまった。すぐに、『しまった。本当に飯も食わせてもらえなかった≠ニ言われてしまう』と気付いたが、『ええい、ままよ』と、ヤケになって逆に男を睨み付けながら黙々と食べ続けた。そして、あと少しで食べ終えようとしたときだった。男が急にうつむき嗚咽《おえつ》を始めたのだ。
「うううっ……」
初めは、弁当を食われて泣き出したのかと思った。こうした連中は、往々にして子供っぽいところがある。
「どうした。何を泣いてるんだよ。弁当は食っちまったよ、悪かったよ」
「違うんです」
「何だ、気分でも悪くなったか」
「いや、違うんです。うううっ……」
「じゃ、何で、お前は泣いてるんだよ」
「だんなは、わしのメシを食ってくれた」
「えっ?」
「うれしかったんですよ。わしみたいなもんの食べ残しのメシを食ってくれたから、うれしかったんですよ。今までのデカはどいつも頭ごなしで、メシだって、『そんな臭いメシがお前には一番だ』と言って放って寄越して……わしのことを人並みに扱ってくれたデカはいなかった。世間だってそうだ。前科者のわしをまともに相手になんかしてくれなかった。それをだんなは、わしが話すのをじっと待ってくれ、わしみたいなもんの食べ残しのメシまで嫌がらずに食ってくれた。人並みに扱ってくれたと思ったら、わし……」
そう言って、またひとしきり嗚咽する男だったが、突然、神妙な顔になると、
「刑事さんに全部お話しします――」
と、今回の住居侵入が窃盗目的だったことを認め、余罪も五〇件余りを吐き出した。改めてその顔を見れば、胸のつかえが下りるのたとえ通り、その目つきまで別人のように清々としているから、根っからの悪人はいないというのも本当かもしれない。
この弁当事件で、宇兵は取り調べのノウハウをようやく掌中にしたように感じた。偉そうに刑事風を吹かせても被疑者は落ちない。最後は、人間と人間。こっちが被疑者にすべてを「吐かせよう」と思っているのと同じく、被疑者も刑事の人間性を見極め、「この人になら話していいのか」ということを推し量っている。ホシを落とすには、その信頼を勝ち得るしかない。そのためにはホシの心情を読み、理解することが肝要だ。
一つわかれば、一つ不安も減る。例の「湯呑《ゆの》み事件」も、またしかり。
ある朝、宇兵は湯沸かし室で、逆さまにして並べられているデカ長の黒い湯呑みを手に取っていた。何の変哲もない湯呑みだが、つくづく眺めながら、それをひっくり返して内側を覗《のぞ》いた拍子に、ようやく彼はデカ長の真意を汲《く》み取った気がした。
『そうか。長いこと同じ湯呑みを使っているから、茶渋の跡が輪となって付いている。この輪の位置が、デカ長が好む茶の量ということだ。きっと、あの新米刑事の入れた茶は多すぎたか少なすぎたのだろう。デカ長が言いたかったのは、刑事となったからには、それくらい相手のことを読めという意味だったのではないか……』
もちろん、誰かにそれが正しいかどうかを確かめたりはしない。自分なりの読みを磨き、それを日々積み重ねていくしかない。刑事の世界では、すべてがその不文律に従って動いていた。
こうして刑事の仕事にのめり込み、これからが正念場と気合を入れ直した矢先だった。突然、刑事課から本部鑑識課への異動話が持ち上がる。これぞ、宇兵にとっては青天の霹靂《へきれき》の一大事だった。
鑑識係
「塚本君、本部鑑識課からお声がかかったが、行かないか」
「えっ、鑑識? 私が鑑識ですか!」
外から戻った宇兵をつかまえ、いきなり上司の刑事課長が言い出して、その場で言葉を失ってしまった。鑑識といえば、神田警察署にも三人の係員がいたはずだが、これまでことさらその存在を意識したことはなかった。そういえば、警察学校時代に最も退屈だったのが鑑識の授業だったが……。
当時、警視庁刑事部は、担当する事件ごとに四つの捜査課と鑑識課などから構成されていた。
捜査一課=殺人事件や誘拐事件などの凶悪犯
捜査二課=汚職や金融事件などの知能犯
捜査三課=窃盗犯
捜査四課=暴力犯(暴力団員等による犯罪)
鑑識課=指紋や足跡などの採取や管理
などを、それぞれが担当していた。
一課は殺しを扱う文字通り花形、二課はスーツ姿が目印、人情家の多いとされる三課、「どっちがどっちかわからなくなる強面《こわもて》揃いだった」と宇兵も言う四課。そして鑑識といえば、「職人集団には違いないが、ホシに手錠をかけることもない、取り調べることもない、また総監賞をもらう機会も少ない地味な存在」で、いわば縁の下の力持ちでしかなかった。たしか、警察犬もこの課の管轄下にあった。
「私は刑事になりたくて、それも捜査一課の刑事に憧《あこが》れて警察官になったんです。ですから、今回の鑑識課のお話は、せっかくですがお断りします」
そんな言葉が喉元《のどもと》まで出かかる。が、現実には言葉にならなかった。本部からの誘いを自分ごときが断るのは不可能であるのも、刑事課長の命に従わないわけにはいかないことも、一〇年以上、警察の飯を食ってきた宇兵は百も承知していた。課長はそんな部下の胸の内を見透かすように畳み込んでくる。
「配置先は現場鑑識だろうから、この先、刑事を長くやっていくにも大きな現場を数多く経験できることは勉強になる。それに、本部からのお声はなかなかないよ」
「現場鑑識ですか。わかりました……」
渋々、鑑識課への異動を承諾したものの、「これでしばらくホシの顔を見ることもないのか」と、さすがに落胆を隠せなかった。
一カ月後、宇兵は鑑識課に配置換えとなったが、現場鑑識ではなく指紋係を命じられ、前回にも増して大きく落胆することになる。
現場鑑識ならば、日勤(午前八時三〇分〜午後五時一五分)、当番(午前八時三〇分〜翌朝一〇時)、非番(泊まり明けの休み)の三部制で待機していて、いったん事件発生となれば、臨場(事件の発生現場へ出向くこと)もできる。しかし、指紋係では、宿直に当たらなければ臨場の機会はほとんどなかった。
当時、警視庁の指紋係は八〇名前後の人員で、約半数が指紋資料の整理保管を、残り半数が指紋の照合を行っていた。宇兵が担当することになったのは指紋照合で、第二方面管下(警視庁の管轄区域を八つの地域ブロックに分けたうちの一つで、大田区・品川区が該当する)にある蒲田《かまた》警察署ほか八つの警察署から依頼される指紋の照合に、部下五名と共に当たることとなった。
月に二―三回ある宿直勤務で殺人などの重要事件が発生すれば、指紋採取のために臨場できた。しかし、普段は、来る日も来る日も各警察署から送られてきた指紋と鑑識課が保管する前歴者(前科のある者)の指紋を対照する作業や、現場で採取されたすべての指紋と関係者指紋を対照し、犯人が現場に残したと思われる遺留指紋を選別するといったデスクワークが延々と続いた。
もともとデスクワークは苦手で、これまでも警ら、機動隊、捜査とずっと「動」の仕事をこなしてきた宇兵には、鑑識の「静」の作業は苦痛でしかなかった。
『なんで、毎日ルーペ(拡大鏡)を覗いて指紋照合ばかりしなきゃならないんだ』
との単純な不満が、いつしか出勤拒否の願望にまで発展。照合作業を行っていても、ルーペの先にある指紋の渦巻きが、いつの間にか故郷の山から眺め下ろした田畑のだんだら模様に見えてきて、彼を郷愁の中へと引きずり込むのだった。
喧嘩宇兵
塚本宇兵は昭和一一年の正月、どこの家からも筑波山《つくばさん》が望めるほどの雄大な自然に恵まれた茨城県筑波郡|上郷《かみごう》村(現・つくば市上郷)で産声を上げた。宇兵という名は、羽振りのよかったご先祖にちなんで付けられた。生家は陸稲《おかぼ》やサツマイモを栽培する中規模農家で、六人兄弟の四番目、男兄弟の中では次男として育った。幼い頃から生傷が絶えず、高校の頃には近隣の学生から喧嘩《けんか》宇兵≠フ名で呼ばれていた。
「四里四方に塚本先輩のことを知らない者はいませんよ」
取り巻きにおだてられ、早く仕事を見つけて学校から逃げ出したいという思いもどこへやら、いささか舞い上がっていたのもこの頃だ。秋の学園祭ではこんなこともあった。
他校から来た不良が、テカテカ光る革靴を履いたまま土足厳禁の立て札がある廊下を闊歩《かつぽ》しているとの注進が宇兵のもとに届いた。明らかな挑発行為だが、相手は札付きのワルで、体格は優に宇兵よりひと回りは大きかった。まともにいけば潰《つぶ》される。思案した末に、宇兵は校庭の倉庫から草刈り鎌《がま》を持ってくると、対面した相手の首筋に突き付けながら鷹揚《おうよう》に言った。
「お前、誰に許可もらって、でかいツラぁしてるんだ」
言い訳はさせなかった。喧嘩はもう出合い頭の睨《にら》み合いで九分九厘が決まる。気合で相手の動きを封じ、その場で革靴を脱がし放り投げると、代わりの草履をくれてやって、
「俺は二年の塚本宇兵だ。ここではここのやり方に従ってもらう。それが仁義ってもんだろう。文句があるなら、いつでも俺の所に来い」
まだ警察官になるなどとは夢にも思っていないとはいえ、「仁義」とは大した迫力だ。もちろん、手柄話ばかりではない。高二の三学期には、とうとう煙草で停学となった。たしか、学校創設以来初めての停学処分第一号≠ニいう名誉(!?)だった。校長室に呼ばれた父は、
「学校で吸うからいけないんだ。家で吸ってりゃいいものを。ねえ、せんせえ」
これには校長もニヤリとするしかないようだった。ああ、親父がこれだもんなと呆《あき》れる半面、中二の秋、母が亡くなってからは男手一つで兄弟を育ててくれた父を思うと、「この父にだけは迷惑かけられない」と、改めて痛感する宇兵だった。停学中は家の畑を手伝い、父からは『ひかり』という煙草が一日一箱支給された。そんなとき、父は無理に理屈をつけるように、「昔なら、中学三年を出ればもう立派な村の若い衆だ」と言うのが常だった。
はたして、立派だったかどうかはわからない。だが、何とか無事に高校を三年間で卒業した宇兵だった。
時は昭和二九年、すでに日本は高度成長期に入ろうとしていたが、まだまだ就職難が続いていた。国鉄か消防か警察か、それともチンチン電車の運転手か――もとより家業である農家を継ぐ意思も、継ぐだけの畑もなかった彼は、近所の予科連出の先輩に「なかなかいいぞ」と薦められた警視庁の警察官登用試験を受けることにした。
試験は、ちょうど高校の卒業式と同じ日だった。当時は九段の現在の武道館がある場所に警察学校があり、そこが試験会場となった。朝、会場に着いてみると、すでに一〇〇〇人からの受験者が列を作っていた。ほとんどが宇兵と同じ、農家の次男坊や三男坊だ。身体測定に始まり、○×式の筆記試験に論文、面接がその日の試験メニューだった。
身体検査でのこと。宇兵の左頬に残る数センチの切り傷を見咎《みとが》めた医師が言った。
「こういう傷がある者は、本来、警察は採らないんだが……」
「いえ、これは……いいえ、何でもありません」
医師は、宇兵の頬の傷を喧嘩の刀疵《かたなきず》だと早合点したようだ。不敵な面構えが災いしたかもしれない。しかし、真相は違う。説明も面倒だから弁解はしなかったが、実は四つのとき、村のバス通りを猛スピードでやってきた兵隊さんの自転車とすれ違い様、その泥除けに引っかけられ転倒してこしらえた傷だった。
普通に接触しただけなら、かすり傷ですんだろう。だが、そのとき、彼はザラメをまぶした赤ん坊の拳《こぶし》ほどもある飴玉《あめだま》を頬の中で転がしながら歩いていた。まさに宇兵少年にすれば滅多にない至福に浸っている最中、衝突のショックで飴玉が頬を破って飛び出すほどの悲惨な事故に巻き込まれたわけだ。診察した村医者は、「さすが男の子。よく泣かなかったもんだ」と、褒美として五銭をくれた。本当は声を上げて泣きたかったが、滅多にお目にかかれない五銭銅貨を手に、また飴玉が一〇も買えるぞと思うと、とうとう涙のほうが引っ込んでいった。
そんな遠い日の出来事が頭を過《よぎ》り、なかなか試験に集中できなかったが、何とか筆記と論文を終えた。論文のテーマは、『警察の役目』という定番だったが、宇兵は自らの経験から、「先手必勝」「上からの押さえつけは逆効果」などと書き連ね、合格。終わってみれば、一〇〇〇人中八八名合格という難関突破だった。こうして三〇年一月二〇日、第六八六期生として警視庁警察学校に入学。
宇兵が警察に行ったと聞いた後輩の一人は、「とうとう塚本先輩は豚箱に入ったか」と勘違いしたと、仲間うちではちょっとした笑い話だった。
警察学校での教育は、九段にあった本校で九カ月間、さらに中野にある分校(旧中野警察学校)で三カ月間にわたり行われた。いわば警察官として第一線に出るための通過儀礼でもあったこの一年間は、宇兵にとって机上の勉強の中身よりも、軍隊方式で叩《たた》き込まれる教練の厳しさを思い知らされた試練の日々だった。教練は、厳格に定められた敬礼の仕方から歩き方といった警察官としての一挙手一投足を、教官の号令のもと集団訓練により身に付けるもので、一人でも間違う者がいれば連帯責任でペナルティが科せられた。
彼はこの教練を通じ、『上司は絶対。その命令は絶対』という階級制度の一面を知ると同時に、一方では、『権威を笠《かさ》に着た警察官にはならない』という決意を密《ひそ》かに抱くようになっていた。噂では、「逃げて帰る者が続出する」厳しさと聞いていた教練だったが、宇兵自身は、故郷での畑仕事よりはずいぶんマシだと思っていた。ほぼ二カ月おきに後輩がやってきて胸の名札の赤線が増えるたびに、彼は自分がどんどん警察の人間になっていくのがわかった。
卒業後は、茨城|訛《なま》りに手こずったという派出所勤務を二年間、その後、機動隊に配属されたが、もともと、じっとしているのが大嫌いで団体行動を好む彼には、いかにも性に合う職場となる。大きな声では言えないが、実は個人で動く交通違反の取り締まりがあまり好きではなかった。
当時は、今に比べて交通事情がゆったりしていたとの事情もあった。だから彼は、いつも「これくらいの違反で罰金を取っちゃ申し訳ない」と思っていたというのだ。少々の交通違反ではまず切符を切らないのがポリシーであり、一度など、無免許運転をお咎めなしで帰したことさえあった。老母の急病で病院へ急いでいると言われれば、目をつむるしかないと判断したのだ。しかし、このときばかりは、あとで先輩に打ち明けて、さすがにこっぴどくしぼられた。
宇兵が所属したのは第三機動隊。仕事の中身は競輪競馬場の警戒、年末年始の盛り場の警ら、国会や米国大使館の警戒警備などであった。
最大の出番は昭和三五年の、かの六〇年安保闘争だった。デモ隊を阻止するというとき、形としては、宇兵たちは守る側、学生らが攻める側となる。力と力のぶつかり合いである。大海の波と波のように、出合い頭に攻守の力が拮抗《きつこう》する中央付近は、鯨の背のように迫《せ》り上がってはまた収斂《しゆうれん》していくという繰り返しだった。が、使命感に燃える宇兵は、それをエネルギーの浪費とは微塵《みじん》も思わなかった。それどころか、大概は守りの最前列を買って出た。
ここぞ、久々の喧嘩宇兵の出番であった。先頭は見通しもいいが危険度も一番高い、投石もまともに飛んでくる。が、無闇に避《よ》けるわけにはいかない。矢鱈《やたら》に避けたら、視界のきかない後方の仲間に不意打ちで命中することになるからだ。まさしく人の楯《たて》だった。
その最前列で学生と向き合ったときだ。彼らは隣同士腕を組み、ずんずん前に来ながら口々に機動隊に向かい「税金ドロボー」と叫んでいた。もちろん、宇兵たちも言われっ放しではなかった。
「おうおう、お前らも親の金を使ってまで、わざわざこんなとこに来なくていいんだよぉ!」
本音だった。ひがみではないが、親の臑《すね》かじりで運動ごっこをしている連中を宇兵はどうしても好きになれなかった。
宇兵は特にヘルメットのメガネ野郎と向き合ったとき、そいつの眼鏡を人さし指一本でツーッと下にずらしてやるのが愉快だった。ただ眼鏡が鼻の頭に移動しただけなのに、両手をスクラムで塞《ふさ》がれている男は催涙弾でも食らったみたいに慌てふためいた。特に質《たち》の悪いやつはトンネルを潜らせ≠ス。口汚かったり、唾《つば》を吐きかけてくる学生がいれば、そいつ一人をごぼう抜きにして機動隊の中に引き入れて後方へ後方へと、ちょうど玉送りゲームの要領でトンネルの中を潜らせていく。大抵は、孤立させられただけでシュンとなったが……。
団塊より上の世代なら誰もが記憶している六月一五日、宇兵は機動隊員として首相官邸の中にいた。
前日からカンヅメ状態だったが、食料を運ぶトラックが奪われ、いわゆる兵糧攻めが続いていた。人間は腹が減るとやたらに苛立《いらだ》つこと、特に常日頃、優秀だとか真面目だとかいう人間ほどキレやすいのを身を以《も》って知らされたのもこのときだ。彼らが学生を半殺しにするのではないかという勢いで殴ったり蹴《け》ったりしているとき、止め役となるのが、宇兵はじめいつもは無茶ばかりしている連中だった。
日が暮れてから、全学連主流派が国会南通用門を突破したとの報が届いた。宇兵たちの首相官邸の周囲でも機動隊の車が次々炎上し、それを見た機動隊員は闘争本能に火を点《つ》けられたごとくいきり立った。守るのではなく攻めるために「出してくれ」の大合唱であった。
歴史的事件となる東大生・樺美智子《かんばみちこ》の死を、たまたま無線係をしていた宇兵は時を置かずして知らされていた。もちろん、その時点では氏名などはわからない。「病院で一名死亡。圧死」とだけ聞いたように記憶している。
その場では、これといった感慨を持つゆとりはなかった。ただ、「あり得る」と思ったくらいだ。とにかく、デモ隊の総数は一万とも聞いていた。これだけの数が国会になだれ込んでいったら、もう国会としての機能は維持できない。そのためにはどう守るか、いや、守りきるためには攻めるしかないと、その場の機動隊員全員が真剣に思い詰めており、彼もまた歴史の現場に居合わせた大勢の中の一人だった――。
宇兵は、ふと我に返った。
デモ隊の怒号と思っていたのは、効かないクーラーががなり立てるエンジン音だった。自分の前にあるルーペのレンズの眼≠ェ、逆に彼を見つめ返すように、そして挑発するように、先程までと同じ位置に存在していた。
「ふうっ……」
と、ため息一つ。
派出所や機動隊勤務を経てようやく念願の刑事となり、仕事のおもしろさもわかりかけてきたところで突然の鑑識課への異動、しかも指紋係として、最も苦手とするデスクワークの日々を送る羽目になった自分の無念を今更ながら思い出す。
宇兵自身は、自らの希望ではなく、あくまで命令で鑑識課へ配属されてきたという認識だったため、当初はしばらくすれば捜査一課へ異動、あるいは警部補に昇任して鑑識課を卒業≠オたのち、捜査一課へという思惑もあった。しかし、その後、鑑識などのいわゆる専門職にいったん入ると、あとはそこで上り詰めていくのが刑事部の通例であることも知った。もし、この先、鑑識課から捜査一課への逆異動があったとすれば、それは異例中の異例なのだ。
『退職するまで、ルーペを覗《のぞ》き続けるのか――』
宇兵は腐りかけていた。
一般の企業にあてはめてみるとわかりやすい。営業がやりたくて電機メーカーに入った若者が、会社の都合で定年まで研究室に閉じ込められ商品開発をやらされるとしたらどうだろう。宇兵も同様だった。若く、人より血気盛んなだけに、単調な作業に飽き、変化に富んだ刑事職に戻りたいという気持ちが、『ここは自分のいるべき世界じゃない』との思いを増幅させ、いよいよ追い込まれていったのだ。
しかし、同時に若さとはずいぶん気まぐれで、きっかけさえ与えられれば、それまで負の方向に向いていたベクトルを大胆にも一八〇度転回させ、瞬時に正のエネルギーを生み出すようになる。宇兵にとっては、やがて起きる『Kホテル事件』がその転機となった。
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第3章 隆 線
――最初の三億円事件での無念
一発大逆転――Kホテル事件(一)
「大井《おおい》で変死です。殺しの線もあるそうです。マルガイ(被害者)は女一名」
電話を取った鑑識課員が緊張した声で言う。部屋中の視線が彼の口許《くちもと》に集まっている。宇兵が宿直に当たっていた昭和四二年一〇月一六日、午後四時のことだった。
事件の概要は、大井警察署管内のKホテルに二人連れの女性客が宿泊、うち一名が室内で首に浴衣《ゆかた》のヒモが巻かれたままの状態で死んでおり、もう一名は行方をくらましている、というものだった。
現場が宇兵の担当する第二方面であったため、彼は上司の警部補や他の指紋係ら四名とともに、鑑識専用のライトバンで現場へ急行することになった。車中では、背に「警視庁」の文字の同じ濃紺の作業着を着た誰もがほとんど無言である。うまく遺留指紋が検出できればいいが――全員の思いがその一点に集中していた。
さて、事件解明への経過をたどる前に、ここで当時の鑑識課を取り巻く状況について簡単にふれておきたい。
現在、事件が起きれば、特に殺人などの凶悪事件では、何より現場《げんじよう》保存が優先される。犯人は指紋はじめ掌紋、足跡、さらに血液、体液、そして毛髪や衣服の糸屑《いとくず》といった遺留物など、犯行現場に必ず何らかの手がかりを残しているものだからだ。その意味では、現場では鑑識優先≠ナ、初動捜査の任務を担う機動捜査隊も鑑識の見通しが立たないと動けないものなのである。
しかし、昭和四二年当時、捜査一課は鑑識課の捜査にはほとんど重きを置いていなかった。現場に死体があれば鑑識から検視官が入ることになるが、指揮を執るのはあくまで一課の刑事で、鑑識はお呼びがかかるまでは現場にも入れてもらえなかった。つまり、鑑識課員以外の刑事らによって現場が荒らされたあとで、ようやく鑑識課の出番となるのである。
『物(物証)より人(自白)』が犯罪捜査の根幹にあった時代には、犯人の発見でも、聞き込みや取り調べといった人に聞く¢{査に重きが置かれた。そして、刑事らが、「こいつに間違いない」という心証を抱くほどの容疑者が見つかれば、自供を得るため徹底した取り調べが行われ、鑑識不在のまま捜査が進むこともしばしばだった。首尾よくホシが完落ちすれば、そのまま一件落着となり、現場から採取された指紋などは、自供を裏付ける単なる補強証拠としてしか見られていなかったのだ。
そんな存在感の乏しかった鑑識課の中でも、宇兵は一番の新参者として現場に臨場していた――。
「今のうちに、とにかく(指紋を)採れるだけ採っておこうや」
同僚の声に、宇兵は早速準備にかかった。彼ら指紋係は、例によって、殺害現場となったホテルの部屋に入れてもらえず、仕方なく、その手前の中廊下にある洗面台や備え付けのコップなどから指紋採取を開始した。このまま四―五時間、蚊帳《かや》の外状態で待たされるのはざらである。
『なんで、指紋係が現場に入れてもらえないんだよ……』
胸の内で不満を言いながらも、ダスター刷毛《はけ》《たんぽ》、小筆、鏡、虫眼鏡など指紋採取の七つ道具をジュラルミンのケースから取り出すと、先輩に教わった通りに、宇兵は指紋の残っていそうな場所に目星を付けて採取作業を始めた。
ラブホテルならば、まず目を付けるのは、ゴミ箱と接待|痕《こん》≠ナある。接待痕とは湯呑《ゆの》みなどを使った痕跡をいう。つまり、ゴミ箱や湯呑み、灰皿などは、場所が場所だけに、客が入れ替わるたびに交換される場合がほとんどである。だから、犯人や参考人の指紋が採取できる可能性が高い。宇兵は言う。
「ときに、こちらの出端《ではな》を挫《くじ》くように、ホテルの客室係のおばちゃんが、『さっき、きれいに掃除しちゃったよ』などと言うことがある。でも、そこで、『じゃあ、やっても無駄か』と引き上げるか、『いや、必ず犯人は指紋を残しているはずだ』と食い下がるか……掃除をしたとは言っても、客室係にすれば、自分の仕事を全うしているのを主張したいだけのときもある。だから、俺たちはけっして諦《あきら》めちゃ駄目なんだ」
洗面台の蛇口、手を突いたと思われるタイルの側面、鏡面、コップ……銀色の白粉《おしろい》のようなアルミニウム系の微粉末をウサギの毛で作られたダスター刷毛や小筆で付着させていき、ちょうどあぶりだしのように浮き上がってきたところをゼラチン紙に転写していく。このとき、刷毛でこすり過ぎても消してしまう恐れがあるし、逆に少なすぎると、指紋そのものが浮き上がってこないこともあるから細心の注意を要する。ついでながら、隠れた指紋を浮き上がらせるのに用いられる粉末等は、その検体の種類や状態によって二〇種以上が使い分けられる。
また、現場に残された遺留指紋のほとんどが目には見えない『潜在指紋』であり、さらに採れた場合もそのほとんどは不完全だったり、一部が欠けていたりする片鱗《へんりん》紋である。それだけに、まだ駆け出しの宇兵には、たとえ犯人逮捕には直接結びつかない関係者指紋であっても、鮮明に一個の指紋を採取できたときには十分な達成感があった。
ときには、犯人像をより明確にするため、そうした現場に残されたバラバラの片鱗紋を集めて『組立指紋』を作ることもあった。大きさやバランスから、まず同一人物のものであることを見極め、次にその片鱗紋の一つひとつを、中指なのか薬指なのか推理・判断して、最後に十指に組み立てていく。余罪捜査や職務質問等にも貢献する組立指紋の作業は、いわばパズルである。ただし、組立指紋を作れるほどにふんだんに指紋が現場に残されているケースは、それほど多くはなかったが。
さて、宇兵が次に洗面流し台の上のガラスコップから指紋を採取しようと、そちらに視線を向けたときだった。背後から同じくコップをつかもうとする手が伸びてくるのがわかった。しかも、手袋をしていない。瞬間、その手を払いのけながら、
「駄目ですよ、勝手に触っちゃ」
声のトーンはつとめて抑えていたが、ピシャリと払いのける手には有無を言わせぬ力が込められていた。
「何だと! 貴様」
手を払われたのは捜査一課の刑事で、明らかに年下の指紋係の顔を正面から見据えた。いくら刑事の指紋はあらかじめ登録されているとはいえ、現場では白手袋は必須《ひつす》、万が一忘れた者は、「手はポケット」がお約束≠フはずである。
「勝手に素手であちこち触られちゃ、どれが犯人の残した指紋だか、わからなくなるじゃないですか」
「むむむ……貴様、名前は」
刑事は、自分に落ち度があるのは明白なだけに、せめて生意気な指紋係に口の利き方の一つも教えてやろうとしたのだが、その指紋係は、もう左手の三本指だけで器用にコップを内側から支え持ちながら、右手のたんぽを使って指紋を採取し始めていた。
「あんにゃろう……おい、あいつは何者だ」
刑事は、近くを通りかかった同年輩の指紋係に聞いた。
「ああ、塚ですか。塚本宇兵っていってね、今度うちに来た新入りなんだよ。生意気なところもあるが、これからもちょくちょく世話になると思うからよろしく頼むわ」
「宇兵ねぇ……」
当の宇兵は二人の会話も耳に入っていないのだろう。いや、聞こえてはいても我関せずの風で、首尾よく指紋を物にした様子。コップを手にやおら二人に振り向くと、ニコリと笑ってみせる姿は、たしかに憎めない。
その後、捜査は順調に進み、やがて死亡した女性と現場から行方をくらました女性の身元が割れた。死亡者は北海道にある中小企業の三四歳になる経理課員、所在不明となったのは二二歳の同僚であり、さらに二人が北海道警察本部から四〇〇万円の業務上横領事件で指名手配されている事実も判明した。
この指名手配の事実に加え、現場の電話機の下から自筆の遺書が見つかったこと、死体の真上に鴨居があったことなどから、経理課員が横領した四〇〇万円を連れの女に持ち逃げされたのを悲観しての首吊《くびつ》り自殺――という筋読み(事件の背景や動機を推理すること)がなされた。
が、宇兵は、どうにも納得がいかなかった。その理由は、遺書に裏切った同僚の女や金のことが書いていなかったというのもあるが、何より引っかかったのは、首吊り自殺を図ったはずの女性が下着を着けていないことだった。その女が生前|穿《は》いていたはずの下着は、ベッドの台座とマットの隙間から発見されていた。
『おい、待てよ。女は自殺するときには正装して死ぬはずじゃないのか。たしか、ベテラン検視官もそう話してたはずだ。自殺後に股《また》が開かないよう、足首をヒモで縛っていくほど気を遣う、それが女というものだと……それなのに、なぜパンツがベッドの間になんか挟まってるんだよ』
さすがに捜査一課の刑事には言えなかったので、照合作業の途中、宇兵は鑑識課の上司にその疑問をぶつけてみた。すると、
「ばかぁ。何、寝言を言ってんだ。北国の女は裸で寝るんだよ」
「えっ……!? でも、行方をくらました女が殺したという線もあるじゃないですか」
「女の細腕で、それも一人で扼殺《やくさつ》できると思うか。それに、自殺か他殺かは一課が決めることなんだよ。お前はつべこべ言わず、自分の仕事をしてろ」
と、いつものことだが、取りつく島もない。
その夜は、指紋係の部屋で泊まり込みとなる。
指紋係の部屋は、方面ごとに担当者がいることや、保管する指紋資料も多かったため、大きさだけをいえば、刑事部屋の倍近くあった。それだけに夜は冷える。当時はまだ、指紋係に仮眠室など、とてもとても用意はしてもらえない時代のこと。宇兵は慣れた手つきで、指紋キャビネットとして使っているスチールの机を並べ、毛布を敷いてベッドの代わりにし、その上で寝る準備をした。だが、なかなか寝つけなかった。
『やっぱり、どこか変だ。首吊り死体ばかりじゃない。遺書が出たとはいっても、夫も子供もいるのに出身高校の校長宛てというのはどうしてだ。それに、連れの女が裏切ったのだとしたら、遺書に金のことが書いてないのも妙だ。いや、やっぱり、それより何より、女が下着を着けずに自殺したのが俺はどうしても納得いかん……』
天井の木目の模様が、昼間、Kホテルの殺害現場から採取した指紋に見えてきて、眠ろうとすればするほど目が冴《さ》えてくる。こんな夜が、この先も何十回、いや何百回何千回も訪れるとは、まだこの夜の宇兵は知らない。
一発大逆転――Kホテル事件(二)
そもそも指紋とは、指の汗腺《かんせん》の開口部(汗の噴き出し口)が隆起した線(隆線)から成っていて、そこから出る汗や付着した皮脂の成分が、指が触れたところに残ったものである。何気なく鼻の頭に触れたり、颯爽《さつそう》と髪をかき上げたりする行為を経て、指紋はより鮮明になって残される、という仕組みだ。
山と谷の関係のように、盛り上がったり溝になったりしたこの隆線は、指の末節だけでなく、手指の節や掌《てのひら》、また足の裏にも存在する。指紋といえば渦巻き≠フイメージが定着しているが、たしかに多い順に、渦を巻く渦状紋が五〇パーセント、馬の蹄《ひづめ》に似た蹄《てい》状紋が四〇パーセント、弓なりの弓状紋が一〇パーセント、残りわずかの特殊な指紋を変体紋と呼んでいる。
「川の流れのように縦に隆線が流れているもの、点が集まったようなもの、滅多にお目にかかれるわけじゃないが、長く指紋係をやっていると、変わった指紋に出会うこともある。一番珍しい変体紋? それは、二〇年ほど前に鑑定したある窃盗犯のものだった。隆線が、ちょうど小さな人≠フ字のようになっていて、それが無数に並んでいるんだ。まあ、あいつが一番だな。でも、いくら珍しい指紋の持ち主はいても、さすがに隆線そのものがないという指紋にはまだ出会っていない」
そんな変体紋の持ち主でさえ、「万人不同」「終生不変」の指紋の特性は同じだ。くだいて言えば、この世の中に自分と同じ指紋を持つ人間は二人とおらず、その指紋は赤ん坊のときから死ぬまで変わらない。前にも触れたが、一卵性双生児でさえその指紋がまったく同じとはいえず、たとえケガをしても治ればまた元の指紋がよみがえる――この不同性と不変性によって、指紋は個人識別の道具として犯罪捜査に利用されるようになる。
この指紋の二大原則を最初に著書『指紋』で指摘したのは英国人のフランシス・ゴールトンで、一八九二年(明治二五年)のことだ。
日本との馴染《なじ》みでいえば、やはり英国人の牧師兼医師のヘンリー・フォールズが一八七四年より築地《つきじ》病院で勤務していたとき、日本人が指・掌紋を証文等に押捺《おうなつ》する習慣があるのに興味を抱くとともに、たまたま当時、大森貝塚から発掘された先史時代の土器に指紋が残されていることに着目し、その研究を思い立っている。それを思うと、日本にこそ指紋のルーツがあると言えなくもない気もする。
フォールズは、自分の屋敷でウィスキーを雇い人にこっそり飲まれたとき、瓶に付着した油の付いた℃w紋で犯人を特定するという、まさに現代の指紋捜査の先駆けともいうべき行為で周囲を驚嘆させている。また別の事件では、白壁をよじ登った人間の指紋が、煤《すす》によって印象されていたことで犯人の特定に至っている。彼の功績を讚《たた》える記念碑が東京都中央区の聖路加《せいろか》国際病院内に建っていることを知る人は警察関係者でも少ないようだ。また、現在の十指指紋法の原型を作ったのがドイツの警視総監だったテオドル・ロッシェルで、一九〇三年のことだった。
一方、わが国では、明治四〇(一九〇七)年に累犯(再犯)加重の厳罰化など刑法が一新されている。そもそも、なぜ犯行を重ねる者が出てきたかという理由だが、そこには、「出来心」や「魔が差した」末の犯行に伝統的に寛容な日本の司法風土があった。つまり、それを逆手に取って、偽名で初犯を装う不届き者が続出するようになったのだ。当然、初犯なら裁判にかけられても執行猶予がつく可能性が高いし、事によったら警察署でお説教されて解放される場合だってあるかもしれない。
というわけで、累犯者を厳刑に処す体制を整えた(その罪状に定められた刑の二倍以下、累犯期間は五年)が、そのためには大前提として個人識別法が確立されなければならない。そこで欧州各国に派遣されたのが、司法省民刑局長の平沼|騏一郎《きいちろう》と同省参事官の大場|茂馬《しげま》であった。これをもって、岡っ引き時代≠ノようやく幕を引こうとしたわけだ。
では、コンピュータもない時代、どのように指紋を分類・整理していたか。一本の指ごとに、紋様に〇から九までの符号を付けて分類したのだ。たとえば、
左 五八七七四
右 八八九四四
「これは、実は私の指なんだがね……」
そう言って、宇兵は、目の前で黒インクを使って改めて自らの指で指紋採取をしながら説明してくれた。数十秒のうちに、レポート用紙の上に一〇個の指紋が並んだ。
「保管されるときは、必ず、左手、右手の順番になっている。そして番号は、左から示指(人さし指)・中指・環指(薬指)・小指・拇《ぼ》指(親指)の順に、その人物の指紋の紋様を表す番号を並べている。指紋番号は、一が弓状紋、二―六が蹄状紋、七―九が渦状紋と決められている。
私の指でいくと、左手の示指は蹄状紋(五)、中指は渦状紋(八)といった具合だ。〇というのは指が欠損していること。損傷は「×」。摩耗や現時点で傷や包帯を巻いていて採取不可能なときは、数字の代わりに「?」をつけておく。この「?」に関しては、後日、再確認することもある。
当然、指は一〇本あるから、組み合わせは一〇の一〇乗となり、限りない分類数となる。これを、分類番号に応じてキャビネットに並べておく。そして、被疑者の一〇本の指の指紋を採り、その特徴に応じて分類番号のキャビネットを開けば、プロであれば目視で確認できる数千枚単位の枚数にまで絞られることになる」
ところが、別の問題があった。
身元確認や前歴確認ならばそれですむが、犯罪現場に残された遺留指紋については、そうはいかない。現場ではほとんどが片鱗《へんりん》紋や不鮮明な指紋、ときにはたった一本の指の指紋しか残っていないからだ。そこで、さらに一本の指の指紋を細かく分類する方法が取られてきたが、きわめて特異な紋様やきれいに出た指紋しか照合できないし、それでも膨大な時間がかかっていた。だが、他に方法がないわけだから、当時の指紋係は手作業でこれをコツコツとやるしかなかったのだ――。
さて、平沼らが組織した「犯罪人異同識別法取調会」では、当時の市ヶ谷監獄に収容されていた一〇五七名の囚人について指紋原紙を作成、その一人一〇本分で一万五七〇個の指紋を分類し、隆線の研究等を行っている。さらに警視庁に刑事課が新設され、その課内に捜査、庶務とともに鑑識が設けられ、「指紋に関する事務」を担当するようになるのは、明治四四年四月一日のこと。翌月からは管内各警察署において被疑者の指紋原紙(逮捕した被疑者の指紋が押捺された資料)を作成することになり、これが警察における指紋法採用の先駆けとなる。
同年八月一六日の東京朝日新聞には、次の記事(要約)がある。
『四月六日夜、神田区|錦《にしき》町一の一鉄道院技師石川石代氏の母の隠居所に侵入して、母と女中を絞殺した強盗事件の現場から採取した指紋が、保管中の強盗前科者松尾三保吉の指紋と完全に一致したのでその行方を追及の結果、同年八月一四日|千住《せんじゆ》町で検挙した』
警視庁で指紋から犯人を割り出して検挙した事件の、記念すべき第一号である。
その後、社会的に影響のある事件で指紋が解明の鍵《かぎ》となった最初の事件は、昭和四年に犯人逮捕に至った『説教強盗事件』だった。これは、盗みに入った犯人が家人に戸締りの不用心さなどを説教したことからこう呼ばれた事件だったが、このとき対照した指紋原紙は延べ一三〇万枚! 係官は、「もし自分が担当した原紙から犯人が出たら免官も仕方なし」、つまり犯人の指紋原紙を見逃したならば辞職も覚悟で対照作業に臨んでいた。犯人の男は逮捕後、
「俺は、前に甲府刑務所に服役したときに指紋を採られていたので、絶対に現場に指紋を残さないよう細心の注意を払っていたのに」
と、悔しがったという。
ちなみに、警察庁が全国の警察署から遺留指紋を集め、それを保管していた指紋と照合する作業に最も早く取りかかったのは、昭和三〇年代からだった。そう思うと、宇兵の警察官としての経歴(昭和三〇年に登用試験に合格)は、指紋捜査の歴史とほぼ同じ歩みとなる。つくづく指紋には縁がある人らしい。
Kホテル事件に話を戻そう。
宇兵らが現場での指紋採取を終えてしばらく後も、依然として、自殺、他殺の断定ができないまま捜査は進み、その一方で、ホテルから行方をくらました二二歳の女の所在がいまだつかめていなかったため、捜査一課が手がかりを追って北海道へと飛んだ。
北海道における聞き込み捜査で、やがて二二歳の女と交際していたバーのボーイが浮かんだ。この男には前科二犯があり、事件発生当時より所在不明であることも判明。そこで、事件の鍵を握るかもしれない人物として、指紋照合の依頼があった。
早速、前科のあるボーイの指紋原紙と、捜査初日に洗面所のコップから採取しておいた指紋との対照が行われた。ボーイの指紋とコップの指紋とが合致すれば、この男がたしかにあの日、犯行現場にいた証拠となり、他殺の線が濃厚となる。宇兵はデスクに腰掛け――緊張の一瞬――ルーペを覗《のぞ》き込んで、双方の特徴点を丹念にチェックしていく。
人間の一本の指には平均するとおよそ一〇〇の特徴点があり、そのうち一二点が合致すれば同一人の指紋であると特定される。単純計算でいくと、一本の指紋の中で一点だけ同じ指紋の確率は一〇分の一とされ、二点同じ指紋は一〇の二乗分の一だから確率は一〇〇分の一に減る。さらに一二点が同じというと、もう天文学的な数字となり一兆分の一。つまり、人間の指は一〇本あるから一二点が合致する人物は一〇〇〇億人に一人いるかいないかとなり、地球上の全人口が約五七億人だから、これはまずこの世に同じ指紋の人間はいないという結論が導き出される。
「一つ、二つ、三つ……」
特徴点の合致する数が増すたびに、ルーペを持つ指先に自然に力が入ると同時に、左右両眼の視神経が熱を帯び、こめかみの辺りがヒクヒクしてくるのがわかる。この痙攣《けいれん》を、宇兵もようやく不快ではなく心地よく感じられるようになっていた。ルーペを覗くようになってまだ半年強だったが、彼は自分なりの手法≠すでにものにしていた。
「全体を見ようとしても無理だし、無駄だ」
最初に先輩が教えてくれたのは、刑事時代同様、またも謎掛けのようなヒントだけだったが、あとでわかってみると、これが案外に真理を衝《つ》いていた。そうなのだ。一つの指紋を全体像として頭に叩《たた》き込んでみても、最初はいいが、一〇〇枚、一〇〇〇枚の膨大な数になってくると、もういけない。集中力は途切れ、目の焦点が合わず、何を見てもボーッとするだけで、指紋係の隠語で言うところの目が上がって≠オまう。
そして何度か、いや何千、何万枚と試行錯誤を繰り返すうちに宇兵にもわかった。
「そうか。もし、それが合致する指紋なら、すべてが同じということだ。だから最初は一点でいいから、特異な特徴点を定めて、そこから攻めればいいんだ!」
まさしく逆転の発想であった。
そして、じきに自分だけの好きな特徴点を持つようになった。隆線の中にある、たとえば島状点、短点、分岐点、交差点など一〇〇近くある特徴点のいくつかだった。現に、今も遺留指紋の中で、宇兵はまず島状点と短点を頭に叩き込み、そこから攻めていく作戦に出た。
こうして対照するときに基となる遺留指紋(の特徴点)さえ頭に入っていれば、あとはルーペを覗きながら、右手でパッパッパッと合致しない指紋を瞬時に弾《はじ》きながら、機械的に対照作業を進めていけばいい。先端、つまりは指の先の中心から上半分に特徴点が少ないことも経験からわかっていた。この先端部分を中心に攻めるのも、彼の手法の一つだった。
ところで、宇兵に話を聞きながらずっと思案していたのは、肝心の指紋の対照作業をどう文章にしていくかということだった。
まずは教えられた通り、自分の指で試してみた。十指の分類をやってみたが、どれが渦状紋か蹄《てい》状紋か皆目わからない。どれもが同じに見えて、またどれもが違って見えて、言ってしまえば、チンプンカンプンだった。
「ほら、同じ蹄状紋でも、隆線が右に流れるものと、左に流れるものがあるだろう……」
神様と呼ばれるほどの人物がその工程をスラスラと話しているのを聞くと、何となくわかったような気になる。だが、その後、自分の指先を改めて凝視してみると、途端に、なぜ、この皺《しわ》や渦の複合体で個人識別ができるのだろうと、また単純な疑問に舞い戻ってしまうのだ。
ここは、彼の対照作業を追体験していくしかないようだ。
もう一度、あなたの指先を凝視してほしい。そこには、まるで地図の等高線のように存在する指紋の皺や渦があるはずだ。もし、ルーペがあれば、それで拡大するのがいい。すると、そこにある指紋が、実は一本の線のようでいて途中で途切れていたり、離島のように独立していたり、枝状に分岐しているのがわかるだろう。これが、特徴点である。宇兵ら指紋係は、その特徴点を形状によって島状点、短点、分岐点、交差点などと名付けている。読んで字の如しだ。
さて、いくつかの特徴点を発見できたろうか。では、さらによく見つめてほしい。すると、その特徴点と特徴点の間に隆線が複数本あったり、もしくはなかったりするはずだ。宇兵らは、そうした全体とごくごく限られた一部とを総合的に見ながら、それらをポイントとして頭に叩き込みつつ対照作業を行っている。つまり、ここでも鳥の眼≠ニ蟻の眼≠ェ生かされていたわけだ。
このKホテル事件の指紋対照作業のときも、宇兵はまず先端部分にある島状点を捉《とら》えた。合った。次は短点、さらに次は分岐点。これも合った。
「……六つ、七つ、八つ……」
宇兵は思わず「来た!」とつぶやく。三つまでは何とか合致しても、そこで立ち往生するのが常だった。だが、今回ばかりは違う。指先の震えを何とか抑え、さらに対照作業を続ける。
「……一〇、一一、一二。よしっ!!」
もう、こっちのものだ。宇兵の頭の中に、Kホテルの洗面所に備え付けのコップを握っている優男《やさおとこ》の姿が像を結んだ。ブルブルブルとルーペに添えた左手から伝わるように、それこそ脳味噌《のうみそ》まで全身が武者震いしている。気がつくと、彼はじかに捜査一課に電話を入れていた。
「現場で採取された指紋の中に、ボーイの指紋がありました。捜査初日に現場、中廊下で採ったコップの指紋が合致しました」
「なに、ボーイは現場にいたんだな。自殺ではなく他殺の線が濃厚ということだな。わかった!」
「あの……」
会話の途中でいきなり切れた電話。そのとき宇兵は、あの日、現場にも入れてもらえずに仕方なく採取した、たった一個の指紋が、事件の認定を自殺から他殺へと大転換させた瞬間を目の当たりにしたのだ。
その後、捜査は他殺の線で進み、ボーイが逮捕された。逮捕直後はアリバイを主張し、犯行を否認したボーイだったが、ホテルでの指紋を突き付けられるに及び、とうとう自供を始めた。
やがて事件の全容が明らかになる。ボーイは二人の女に会社の金四〇〇万円を横領させた上、若いほうの女に被害者を殺害させたのちに、自分と二人で東京で水商売を始める計画だったのだ。
ところが、さすがに若い女は一人では同僚殺しを完遂できなかった。そこでボーイが急きょ飛行機で上京。ボーイはまず若い女を残しておいて、別室(彼らは偽名でホテルの二つの部屋を使っていた)で被害者と肉体関係を持った。そのとき、寝物語に「お前はもう指名手配がかかっているから、ニセの遺書を書いて死んだことにしといたほうがいい」と言いくるめ、その後、「精力剤だ」と偽って睡眠薬を注射して眠らせている。浴衣のヒモで首を絞めたのはボーイと若い女の二人がかりであった。直後、ボーイらは浴衣《ゆかた》のヒモを鴨居にぶら下げて首吊《くびつ》り自殺を偽装しようとしたが、被害者の体重の重みで死体が落ちてしまい諦《あきら》めていた。
この事件は、指紋係となって八カ月もの間、指紋の照合にも身が入らずに悶々《もんもん》とした日々を送っていた宇兵の気持ちをいっぺんに晴らした。
『こりゃ凄《すご》いな。指紋一個で事件がひっくり返るんだ! 事件認定やホシの割り出しの決め手となる指紋を、捜査一課も無視はできないだろう。指紋捜査を極めれば、捜査一課とも対等に渡り合えるんじゃないか――』
宇兵の指紋係としての座標軸がここに定まった。
競うのは花の捜査一課、もちろん、じかに対決する相手は犯人であるが。そして、そのときわが身の武器となるのは、わずか一センチ四方の指紋である。もう、迷いは微塵《みじん》もなかった。
一生の悔い――三億円事件(一)
時効までの七年間に動員した捜査員、延べ一七万一七〇五人、寄せられた情報二万七七八三件、捜査対象者一一万七九五〇人。そして、被害額三億円といえば、昭和四三年一二月一〇日に発生した『三億円現金輸送車強奪事件』にまつわる種々のデータである。
当時の三億円は、現在のレートにして一〇倍の三〇億円とも言われる。また、捜査にかかった総額は一〇億円弱という数字もあるから、その被害額と社会に及ぼした影響の大きさは、事件をリアルタイムに体験した者でなくとも容易に想像できるだろう。
事件のあらましは次の通りである。
東芝|府中《ふちゆう》工場の従業員に支給するボーナス用の二億九四三〇万七五〇〇円を積んだ現金輸送車は、この日、午前九時一五分、日本信託銀行|国分寺《こくぶんじ》支店を出発。激しい雨の中を時速三〇キロメートルで走行していた。
午前九時二五分、東京都府中市栄町の府中刑務所裏の、通称・学園通りに来たとき、一台の白バイが近づいてきて、
「日本信託の車ですね。支店長宅が爆破された。この車にも爆発物が仕掛けられているとの情報があるので調べさせてもらう」
と、停車を命じた。
輸送車に乗っていた運転手と日本信託の資金係長ら三名は、咄嗟《とつさ》にこれより四日前に実際に『支店長宅を爆破する』との脅迫状が届けられていたことを思い出し、警察官に言われるまま車を下り、避難した。
警察官が点検を始めた直後、現金輸送車の下から白煙が上がった。
「ダイナマイトだ、下がれ!」
四人がひるんだ隙に、警察官は現金三億円余を積んだままの輸送車を奪い去った。警察官は、実は変装した犯人で、煙は発煙筒を焚《た》いたものだった。あとには、犯行に使われた偽装白バイと、ハンチング、発煙筒の燃えかすが残された。(=第一現場)
午前一〇時一八分、犯行現場から一・三キロメートル離れた国分寺市西元町の雑木林の中から乗り捨てられた現金輸送車が発見されたが、当然のこととして、現金が詰められていたジュラルミンのトランク三個は姿を消していた。(=第二現場)
午後五時、草色のカローラが信託銀行と第一の犯行現場の中間地点で発見される。このカローラは、現金輸送車の見張り用であったと思われる。(=第三現場)
こうして、事件は日本中を騒然とさせながら、どんどん深い迷宮の中へと入り込んでいく。
四カ月後の昭和四四年四月九日、小金井市本町の団地駐車場に長期間放置されていた濃紺のカローラから、ジュラルミンの空のトランク三個が発見された。のちに、これは犯人の逃走用の車とわかった。(=第四現場)
「なんだ、うちのご近所じゃないか……」
野次馬を押し退け、「立入禁止」の札が下がったロープをくぐりながら、思わず、独りごちる。
三億円事件発生の翌日、宇兵は第三現場にいた。が、家のことを考えていたのはそこまでで、いったん現場に足を踏み入れ、犯人が残したと思われる草色のカローラから指紋を採取し始めると、もう指紋以外の一切が頭から消えていた。
たしかに、宇兵の住まいは、この現場から徒歩で五分の警視庁の家族寮「府中荘」にあった。二四歳で同郷の妻をもらっていたが、結婚五年目に長男が誕生したのを機にそれまでのアパート住まいから寮生活となっていたのだ。しかし、まさか、自分が家族と生活する何の特徴もない新興のベッドタウンが、やがて昭和を代表する迷宮入り事件の象徴として人々の記憶に刻まれるようになろうとは夢にも思っていなかった。
第八方面(多摩地区方面)で発生したこの事件は、宇兵の本来の担当ではなかった。しかし、被害額三億円という日本犯罪史上前例のない事件であったために、第二方面担当の彼までもが駆り出されたのだった。
宇兵は、現場に遺留されたカローラなどから指紋採取を行っていたが、
『真っ昼間からこれだけのことをしでかしたんだ。すぐに捕まるだろう』
と考えていた。これは、当時の捜査関係者に共通する認識だ。
特別捜査本部(特捜)に招集された刑事の誰もが、歴史に残るに違いない大事件の捜査に従事できるという刑事|冥利《みようり》に燃えていた。一方、宇兵は特捜から依頼を受けて指紋照合に従事していたが、今一つ情熱を感じることができなかった。それは、特捜が関係者指紋の採取を徹底しなかったからだ。
「なんで、特捜は関係者指紋を徹底して採らないんですか。運転手も銀行員も、全員の指紋を採って現場指紋から除いていかなければ、犯人の遺留指紋にたどり着かないじゃないですか。特捜にそれを頼んでください」
さすがに特別捜査本部に直接進言はできないので、上司にぶつける。しかし、
「そんなこと俺が言えるわけないだろう。特捜の指示に従ってやってればいいんだよ」
という返事が、例によって、返ってくるだけだった。そのくせ、そんな先輩に限って、本部から指紋資料が届くと出来のいい順に持っていくというのが指紋係の中の暗黙の掟《おきて》でもあった。徒弟制度は警視庁のそこここに亡霊のように生き残っていた。
現場に残された指紋は犯人のものだけとは限らない。その現場が一般の住宅であれば、そこに暮らす家族や訪問客など関係者の指紋が当然のこととして残っている。極端なことを言えば、犯人は指紋を残していないかもしれない。そこで、遺留した指紋を突き止めるため、あるいは犯人が指紋を遺留したかどうかを確認するために、現場指紋から関係者指紋を除外していく作業が必要である。だからこそ、関係者全員の指紋採取が徹底されなければならないのだ。
さて、現場指紋から関係者指紋を除外し残った指紋を『三号指紋』と呼ぶが、これが即、遺留指紋とはいえないのだ。それは、すべての関係者の指紋が採取できるとは限らないからだ。事実、ある事件では、十数年前に被害者の家を改築したときの大工の指紋が関係者指紋として採取されていなかったため、捜査を攪乱《かくらん》されたこともあった。
つまり、すべての関係者指紋を採取するのは容易な作業ではない。さらに、関係者指紋は、本人の任意の協力を得て初めて採取できる。本人が「悪いことはしてないのだから、指紋を採るのだけは勘弁してほしい」などと言って拒否した場合、説得に時間がかかるのも常だった。
このように、手間と時間が要求されるにも拘《かかわ》らず、必ずしも万全とはいえない関係者指紋の採取よりも、地取り(犯罪現場周辺の居住者等に対する聞き込み捜査)や前歴者に当たることを特捜は優先したのだろうと、宇兵は理解するしかなかった。当初より地取り等には一〇〇名以上の刑事が投入されていたのに比べ、指紋係は通常の業務をこなしながらこの事件にも関わっていた。
「いつものこと」と言ってしまえばそれまでだが、ようやくKホテル事件で指紋捜査にのめり込み始めていた宇兵には、とことんおもしろくなかった。
一生の悔い――三億円事件(二)
薄暗い部屋。目の前に、白い陶製のタンク。それも全体にびっしりと水滴が浮き出た壁面に、宇兵の人さし指が伸びていく。その指をタンクに押し当てたと思ったら、今度は場所をずらして、もう少し力を込めて試してみる。すると、そこには、いつもルーペの先に見ているような指紋がくっきり印象される。
「なるほど……これくらいの力が指先に入ったときが、一番きれいに指紋が残るってわけだな」
宇兵はしゃがんだまま実験≠繰り返す。ここは自宅のトイレの中。大きな声では言えないが、彼は自宅でも警視庁でも、この個室がどこより好きだった。それは、単に他人に邪魔されずに指紋の印象実験ができるからではない。実際に、犯罪を実行した者は緊張のあとに弛緩《しかん》が襲うからだろうが、小用を足してから逃走する場合が多いのだ。だから、彼が指紋採取で目を付けるポイントの一つがトイレ、それも触らずにはおられない大・小≠フ金属レバーであった。
「でも、神経質なやつなら、二本の指で握らずに、一本だけで押して済ませるかもしれないな……」
宇兵は、一人の男の顔を思い浮かべながら実験を続けた。
その男の顔は、ここ数週間、警察官ばかりでなく日本中の人々の網膜に焼き付いた「三億円事件のモンタージュ写真の青年」の顔だった。
全国に指名手配された白ヘルメット姿の犯人像は、『年齢一八から二六歳、身長一六五から一七〇センチ』、事件当日、現金輸送車に乗っていた四人の目撃証言から作成されたかなり具体的なものだった。何より、犯人の顔が白日の下に晒《さら》されたのである。事件発生から一一日後に完成された一枚のこの白黒写真によって、事件は一気に解決するかと、当時の刑事たちの思惑をそのまま言葉にするなら、「年内で堅いだろう」と、誰もがそう確信していた。
捜査側に有利な状況として、一つには遺留品の多さもあった。偽装白バイ、逃走用カローラ、レインコート、ハンチング、発煙筒に加え脅迫状の筆跡まで犯人は残していた。証拠品の数は六〇点以上。精鋭部隊の捜査一課にすれば、逮捕はまさに時間の問題のはずだった。しかし、二〇〇人近くにふくれ上がった特別捜査本部の意気込みとは裏腹に、捜査はいよいよ混迷していく。遺留品の多さが逆に捜査の足枷《あしかせ》となっていたのだから、何とも皮肉である。
年が明けて昭和四四年四月からは、「捜査の鬼」といわれた平塚|八兵衛《はちべえ》警部補が指揮を執るようになる。この名刑事が単独犯行説を取ったことから、当初からの複数犯説が揺らぎ始め、続いて八月には数多くの犯行の痕跡《こんせき》が残る日野市での捜査が打ち切られるに至り、初めて事件の「お宮入り(迷宮入り)」が囁《ささや》かれるようになる。
例の切り札となるはずのモンタージュ写真の犯人像も、宇兵に言わせれば、足枷となってしまった。
「まだ、モンタージュについての知識が一般にまで十分に浸透していなかったという背景もある。そんな中で、あれだけ明確に一枚の写真として顔≠突き付けられると、それを見せられた人たちはけっして架空の人物とは見ずに、どこかにいるはずの実在の人物として捉《とら》えがちだ。その結果、目元でも口許《くちもと》でも一カ所でも印象の違う箇所があれば、『こんな人は見たことがない』と、頭の中でそれ以上の絞り込みがストップしてしまう」
ここから先は仮定の話となるが、あれがもし似顔絵だったら、逆に若干の印象の違いは、「そっくりな人がいる」「似た人がいる」との感想となって、別の結果を導けたかもしれない。
「似顔絵であったら、割れていた(被疑者を突き止められた)のじゃないか……」
宇兵は今でもそう思っている。
「おいおい、また、来なすった」
宇兵は、捜査本部から届いた『さし名照会』の名簿が入った分厚い封筒を前に、わざとらしく大きくため息をついた。同じ指紋係の仲間らは、その封筒に憎々し気な視線を投げている。さし名照会とは、警察が保管する指紋資料のうち容疑者として浮上した人物の指紋と、現場の遺留指紋とを対照する作業で、容疑者の氏名を特定して行われることからこう呼ばれている。
宇兵が三億円事件を正式に担当するようになったのは、事件発生から三年目の昭和四六年のことだった。すでに捜査員も三〇名ほどに縮小され、ちょっとひねた見方をすれば、人に聞く¢{査の行き詰まりの果てに、物に聞く℃w紋捜査にようやくお鉢が回ってきたという、何とも皮肉な状況だった。
「一日五〇人で人間の指は一〇本だから、五〇〇本。これに現場指紋三〇枚を照会していくわけだから、一日一万五〇〇〇個の指紋を俺たち五人で見ていくわけか」
誰かが投げやりに言う。
当初、捜査本部では、警察庁に保管されている犯罪歴のある人間を片っ端から容疑者として当たっていく捜査手法を取るともいわれていた。そうなると、約六〇〇万人分の指紋を照会しなければならなかった。まあ、そこまで極端ではなかったが、宇兵らのもとには、相変わらず、毎日毎日、怪しいと思われる人物の指紋がさし名照会として五〇―六〇通送られてきていた。
こうした際の指紋対照の場合、まず現場指紋を頭に叩《たた》き込むのが鉄則となるが、その数はどんなに頑張ってもせいぜい一日二個であった。それを、机上で前歴者の指紋と照らし合わせながら一枚平均五秒ほどでチェックしていく。まず、目視により明らかなハズレ指紋は一秒以下で捨て、引っかかるとルーペを用い一―二分かけてじっくり検証する。一日五時間も集中すると、頭の芯《しん》がキンキン痛み、肩には重い鉛を載せているようで、もう軽口をたたく気力もなくなる。
指紋係となって生まれて初めてルーペで指紋を覗《のぞ》いたときは、どれも同じ渦の流れに見えて頭がクラクラしたものだ。さすがに、四年以上の経験を積んだ今ではそこまでの混乱はない。だが、現場から上がってきた指紋は、当然、片鱗《へんりん》紋のほうがはるかに多かった。チェックには、鮮明度によって数秒でできるものもあれば、指紋係三名で臨んでもたっぷり一日を要するものもある。
昼間、ルーペと五時間も格闘を続け、帰宅してからは、警察組織に属する者の宿命として、巡査部長から警部補への昇任試験の勉強をしなければならなかった。憲法、行政法、警察法、刑法、刑事訴訟法……小難しい文字を追いながらも、ふと、昼間、瞬時に左から右に捨て去った一枚の指紋がよみがえって、もっとじっくり見ておくべきだったんじゃないか、との悔恨の思いが過《よぎ》ったりする。
『このままでは、三億円事件も昇任試験も、どっちつかずになってしまうのではないか』
そんな不安が胸の内で高まるのを、どうにも抑えられなかった。
一生の悔い――三億円事件(三)
「さし名(照会)ばかり、五〇人も六〇人もやってられないよ」
翌日、とうとう宇兵は胸のわだかまりを口にした。相手は特捜の幹部とはいかず、旧知の若手刑事であった。当時の彼の立場では、特捜に直《じか》の意見具申などもっての外だ。
しかし、それでも宇兵が特捜の人間に意見をぶつけたのには理由があった。実は事件発生当日、偽装白バイの指紋採取を担当した同僚からあることを耳にしていた。
「白バイには、ゴム製の膝《ひざ》当ての裏部分に『顕在指紋(肉眼で見ることができる指紋)』があった。あれは、バイクを塗装するときにできた指紋に違いない。あの指紋の主が犯人かもしれない」
白バイの履歴は、事件直後、比較的早い時期に明らかになっていた。ヤマハ・スポーツ350RI、犯行日の約二〇日前に日野市で盗まれ、青の車体を白く塗装されたものであり、その偽装白バイに犯人は大きな証拠を残していたかもしれないのだ。それが顕在指紋、つまり、塗料が半乾きのときに恐らくは不注意から残された犯人の指紋が、凹凸もそのままに肉眼で確認できる形で残っていたというのだ。
実は、宇兵は相当以前から、密《ひそ》かにこの白バイに残された一個の指紋に絞ってさし名照会を行っていた。『他から出たときはそれまでだ』と、半ば腹をくくって対照作業を続けていたが、残念ながら、それが前歴者の指紋と合致する瞬間はとうとう訪れなかった。
思いがけない電話は、宇兵が特捜本部の若手刑事に愚痴をこぼした翌日、早速かかってきた。受話器の向こうの相手は、いきなり居丈高に切り出してきた。
「捜査一課の平塚だ。お前、俺を知ってるか」
「名前は聞いたことがありますが、知っているとは言えないと思います」
「何だと!」
宇兵に名指しでかかってきた電話の相手は、数々の難事件を解明してきた捜査の鬼・平塚八兵衛、その人だった。
「お前、さし名ばかり五〇人も見てられないとか何とか、言ったそうだが」
なぜ平塚さんが俺に――という驚きと同時に、警察内で情報が伝わる速さに縮み上がる思いがした。
「はい、その通りであります。特捜から毎日毎日五〇も一〇〇もさし名が送られてくると、とてもすべてをきちんと見ることはできません。われわれは、これ以外に一般事件の指紋も手掛けながらやっているのですし……」
「馬鹿言うな。これは警視庁挙げての大事件なんだ。他の事件なんかほっといていいから、三億円に集中してやれ。俺の命令だ」
「私は特捜の人間ではありません。命令は鑑識課長にお願いします」
「何! ふざけたことを」
「ふざけてなどいません。私の言うことが嘘や大袈裟《おおげさ》だと思うなら、一度、指紋係のデスクの指紋の山をご自分の目で見に来てください」
しかし、この一指紋係が吐いた暴言ともいえる台詞《せりふ》に対して、無視するどころか、平塚刑事は時をおかずして指紋係の部屋まで本当にやってきたのだから、さすが鬼≠ニ一目置かれるだけの大物である。
気付いたときには、五八歳になるベテラン中のベテランの平塚は、宇兵の前に仁王立ちになっていた。いずれも日本犯罪史上に残る昭和二三年の『帝銀事件』や三八年の『吉展《よしのぶ》ちゃん事件』を手掛けた名刑事は、想像していたより小柄なのがちょっと意外だった。犯人から自供を引き出す名人であることから「落としの八兵衛」とも呼ばれ、宇兵にすれば、人に聞く捜査≠フ権化のような平塚を前に、心中たじたじになりながらも、もう引き下がるわけにはいかぬと、ここぞとばかり胸の思いを吐き出していた。
「できないものはできるとは言えないんです。いくら指紋のプロといっても、集中できるのは、せいぜい二―三時間。いつも家に帰って、対照漏れがあったんじゃないかと不安に襲われて眠れないです。だいいち、そんなことじゃ、自分が納得できません」
「だからといって、止めるわけにはいかないだろうが」
「いえ、ですから、この事件では多くの遺留指紋がありますが、私は白バイの顕在指紋に絞ってやるべきだと……」
「無茶を言え。白バイの指紋なんぞ……そんなもん、通行人がどこで触っとるかわからんじゃないか!」
「いえ、顕在指紋というのは、塗料を使った際に、まだ表面が乾かずにやわらかいときに触ったからできたものです。犯人以外に付けるチャンスはないものです。けっして、その後に通行人や第三者が触ってできたものではありません」
「お前、犯人がペンキを塗るところを見てたのか!」
「いえ、それは……」
二人のやり取りをずっと見ていたはずの上司が、一向に自分に加勢をしてくれないのが、宇兵にはやり切れない思いだった。
三億円事件は、宇兵には指紋係として実に苦い経験となった。しかし、教訓も多かった。当時を振り返って彼は言う。
「まず、捜査は社会や時代背景も読み取らねばならないことを改めて痛感した。当時、自分を含めて、どれだけの捜査関係者が、事件が起きた現場の三多摩地区における村落的社会の崩壊を読み取っていたろうか。
土地ブームで、あちこちに、にわか成り金が出現していたのも捜査を難航させる要因となった。『あそこの息子が急に金回りがよくなって新車を乗り回している』との情報があり調べれば、実は農地を売って大金を得ていただけとの見込み違いも多かった。ピーク時三〇〇人という刑事を導入し、聞き込みも延べにして実に一〇〇万世帯というローラーを掛けた捜査をしても、その方向が間違っていれば、すべては空回りするしかないのだ」
そして、いまだ悔やみ切れないといった口調でぽつりとつぶやく。
「人に頼らず、もっと物に聞いてくれていれば――」
もちろん、宇兵のいう「物」とは指紋のことである。言うではないか、『「人」は嘘をつくが、「物」はけっして嘘をつかない』と。どうしても、後悔は、指紋がないがしろにされる無念さに戻っていくしかない。
現に警視庁内の関係者と情報交換するうちに、各部署で宇兵と同様に捜査に不満を覚えている人間が多いこともわかった。事件発生五日後に自殺したA少年(当時一九歳。地元の非行グループのリーダーで、父親は現職の白バイ警官)を、もっと徹底して「潰《つぶ》す」べきだったと思っている特捜本部の刑事もいた。宇兵との共通点は、どちらも若く、自分の主張を組織の中で押し通せないもどかしさに苛立《いらだ》っていることだった。驚くべきことに、彼の知る範囲では、これだけの重要人物であるにも拘《かかわ》らず、A少年からの指紋採取は行われていないという。
刑事事件の時効まではまだ四年近く、民事時効までは十数年の猶予があったが、宇兵たち指紋係がこの三億円事件に関わる場面は、日を重ねるごとに少なくなっていった。
他の事件でルーペを覗《のぞ》いているとき、なかなか記憶から消し去ることのできない三億円事件の白バイの顕在指紋――上部だけの片鱗《へんりん》紋ではあったが、特徴点はたしかに一二点以上存在した――が、ふと、脳裏を過ったりする。そんなとき、宇兵は一人、
『いつか必ず、指紋捜査の存在を認めさせてやる』
密かに、しかし、熱く胸の内でつぶやくのだった。
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第4章 着 眼
――隠れた指紋を見つけ出す
よど号事件
「なかなかお似合いですよ」
玄関口に立つ宇兵に、妻が笑顔でうなずいてみせる。いつもは「いってらっしゃい」の言葉きりで、けっして無駄口を叩《たた》かなかったが、一八年間連れ添った夫の顔に今日初めて銀縁の眼鏡が納まっているのを目にして、つい口がすべったのだ。
妻とは同郷の仲である。所帯を持ったのは宇兵が二四歳、妻が二二歳のときだったが、その結婚に誰より乗り気だったのが宇兵の父だった。風来坊の気質のある息子を落ちつかせて早く一人前にするには、しっかりした嫁を迎えるに限ると考えたのだ。
結婚式も新婚旅行もなし。儀式といえば、夫婦となった夜に交わしたこんな会話だけだった。
「俺はお前を養うために一生懸命に外で働く。お前は家のことをしっかりやってくれ。それだけでいい」
「はい」
「知っての通り、俺は学生時代にさんざ馬鹿もやってきた。もう、十分だ。だから、これからは突拍子もない暮らしはいらない。ただ、警察官らしく生きていきたい。お前も、警察官の妻らしく生活してくれればいいんだ。そして子供ができたら、警察官の子供らしく育ってくれたらいい」
黙ってうなずく妻。宇兵にはもったいないほど賢く気丈な彼女は、その後もずっとこの夜の約束を守り通す。
そして、およそ二〇年の歳月が流れ、四二歳になる頃、宇兵は老眼鏡をかけるようになった。田舎育ちの強みか、体力に加えて視力も自慢の一つで、高校までは二・〇、警視庁に入ってもしばらくは一・五を維持していたが、段違いに視力が落ちてきたとすれば、それはやっぱり鑑識へ来て毎日ルーペを覗くようになってからだった。近眼を飛ばしていきなり老眼というのは、これはもう職業病というしかない。
この眼鏡と時を同じくして、昭和四七年、宇兵は警部補に昇任する。とはいえ、五年前に捜査係から一緒に鑑識課に異動してきた同僚の中では、しんがりでの昇進だった。指紋に夢中になりすぎた、といっても、これは言い訳にならないだろうが、指紋をないがしろにされるたび、出来の悪い子を持った親がむきになって庇《かば》うように、指紋の秘めた底力を広く知らしめたいとの思いは募るばかりだった。
ただ、指紋の力を再確認したという点では、こんな忘れられない大きな事件もあった。昭和四五年三月三一日に発生した『「よど号」ハイジャック事件』である。
同日午前七時三三分頃、富士山上空で、日本赤軍を名乗る複数の犯人によって東京発福岡行きの日航旅客機よど号が乗っ取られ、乗員乗客一二九名を乗せたまま北朝鮮行きを命じられた。しかし、よど号は韓国のソウル金浦《きんぽ》空港に着陸、政府要人と交換に乗客らは釈放された。その間の模様は逐一テレビによって放映され、日本中が画面に釘付《くぎづ》けとなった。
その後、犯人グループを乗せたよど号は北朝鮮平壌空港に着陸し、犯人らは北朝鮮に逃走、一方、よど号は羽田空港に戻ってきた。直ちに行われた検証の結果、機内からは二七八個の現場指紋を採取。宇兵らは、連日、日本赤軍の前歴者との対照作業に忙殺されることとなった。
指紋照合と乗客の証言などから犯人は九名のグループであることが判明し、日本赤軍のリーダー田宮|高麿《たかまろ》はじめ七名までは三日以内に現場指紋が合致した。だが、残り二名については、日本赤軍はじめ他の極左集団の前歴者を次々に対照していくも、判明しないままだった。
一方、公安第一課からは、逐次、さし名照会があり、この中に、やはり赤軍派幹部で爆発物取締罰則違反で全国指名手配されていたUが含まれていた。このUは、乗客による写真面割(目撃者等に捜査側が呈示した写真の中から犯人を指示させる捜査手法)で犯人に酷似していると指摘された男であったことから、マスコミもそれを嗅《か》ぎつけ、
『捜査本部は乗客の写真面割でUが犯人の一人であると断定した』
などと報じた。
これを受け、公安第一課からは鑑識に対して、
「写真面割でUが出たのに、なぜ、現場指紋にUの指紋がないんだ。おかしいじゃないか。対照ミスではないか!」
と、詰問調で問い合わせてくる。
しかし、宇兵らは、複数の係員により繰り返し行っている指紋対照に漏れがないことに自信を持っていた。むしろ、人の記憶に頼る写真面割の正確性に疑問を抱いていた。とはいえ、そんなことを口に出すわけにもいかず、自分たちの指紋捜査を信じて黙々と対照作業を続けるのみだった。
そんな中、事件発生から約一カ月後、公安一課は数冊の本とノートを持ち込み、それらから採取できた指紋とよど号機内から採取された現場指紋との照合を依頼してきた。本などの持ち主は高校生二名で、いずれも事件発生直前から所在不明となったことなどから容疑者として浮上した者たちであった。
ただちに、ニンヒドリン法(汗の成分中のアミノ酸に青紫色に反応する薬品)により検出された高校生二名の指紋と現場指紋とを照合した結果、現場指紋の一部が合致し、これにより判明しなかった犯人二名が確認された。さらに、高校生のうち一名がUと酷似していたことから、写真面割のミスも明らかにされた。ここにきて、犯行グループ九名全員が指紋によって確認された。
プレッシャーをかけてきた公安係員に対してひるむことなく、また曖昧《あいまい》なまま決断を下すこともなく、見た物だけを信じ、指紋対照作業を続けた鑑識係たち。一連の作業を行いながら彼らの脳裏にあったのは、「人間の記憶はミスを冒すが、指紋は嘘をつかない」との、強固な指紋への信頼感だった。
そして、その結果、この事件は指紋の絶対性を示したと同時に、宇兵の中にますます指紋捜査に対する自信を植えつけることとなった。
さて、警部補昇任と同時に東京・小平市にある関東管区警察学校にて六カ月間の刑事専科の研修後、警察署に異動となる。警ら係長(現在の地域係長)を一年間つとめたのち、警務係長を命じられた。一般企業でいえば、庶務や総務に当たろうか。
宇兵としては鑑識への復帰を切望していたが、ここでもそれが叶《かな》わなかったのである。しかし、「命令は絶対」という警察組織の鉄則に従い警務係長となり、準備期間一カ月という殉職した警察官の葬儀など初体験の難仕事をこなしながら一年が過ぎた頃、署長から警視庁本部への異動を伝えられる。
「一年間、ご苦労だった。警務係はこれでお役御免だ。塚本君、次は本部(警視庁)の人事一課に内定をもらっといたよ」
「えっ……!?」
宇兵は一瞬、捜査一課≠フ聞き違いではないかと耳を疑った。
「今、署長は人事一課とおっしゃったのですか」
「そうだ」
「それは……お断りします」
「何! いやと言うのか」
「そうです」
「何でだ、君、これは出世コースだということは知っとるだろう」
署長の親心は痛いほど感じていた。だが、これだけは譲るわけにいかない。
「はい。お心遣いはありがたいと思います。しかし、私はどうしても従うわけにはいかないんです」
「じゃあ、他に希望があるというんだな。いったい君はどこに行きたいんだ」
「鑑識、です」
「鑑識だと。鑑識と人事一課と、どれほどの差があると思ってるんだ。俺は君の将来を考えて……だいいち、鑑識、鑑識というが、汚れ仕事の鑑識のつらさは君が一番知っておるだろうに」
「はい、そのとおりです。しかし、私はその鑑識に行きたいと思って、この一年間やってまいりました。たしかに署長のおっしゃるとおり、今は鑑識は捜査一課に頭が上がりません。でも、私は指紋のことをようやくわかりかけてきて、もう少しで、捜査一課と五分で勝負できるようになると信じているんです。三億円(事件)でも、悔しい思いをしてきました。何で、もっと指紋に目を向けてくれないのかと、それは悔しい毎日でした。私は鑑識に戻ってもっと腕を磨きたいんです!」
署長は半ば呆《あき》れているようだった。しかし、宇兵は、ただただ熱情に駆られてしゃべったわけではない。この一年の間、こんなことを考えていた。
『警視庁全体で指紋を本当にわかっているのは一〇〇名程度だ。花の捜査一課への未練はあるが、もう一度、鑑識課へ戻って指紋捜査をとことん突きつめていけば、あの一cm2の宇宙≠ェ抱える謎も解き明かされて、何とか俺でも誰にも認めてもらえるようなプロとして食っていけるはずだ。そして、いつか、捜査一課にも一目置かれる指紋捜査官になってやる――』
人事一課への異動を断った宇兵が、警察庁鑑識課を経て再び警視庁鑑識課指紋係に戻ったのは昭和五二年三月であった。そして翌年、『昭島《あきしま》市|女将《おかみ》殺人事件』が発生した。
これから先、宇兵の仕事、いや人生は文字通り、指紋一筋≠ニなる。彼の物語も、時系列にとらわれず、指紋捜査のテーマごとに追いかけてみたい。まずは、現場に入って、なぜそこに目をつけたのかという、彼の着眼点に的を絞ってみた。
不可解な指紋――昭島女将殺し
「はい、鑑識、指紋。塚本です」
宇兵が事件の第一報を受けたのは、昭和五三年三月五日正午頃、すっかり板に付いた眼鏡の汚れをハンカチでごしごし拭《ぬぐ》っている最中だった。あんなに慣れなかった眼鏡だが、いつの間にか、手が空けば、こうして磨くのが癖になっている。
「昭島署管内で殺人事件発生……」
あわてて眼鏡をかけ直す。すぐに昭島署から鑑識課に臨場の依頼があり、ただちに足跡係、写真係、現場係、検視官、警察犬、そして指紋係が現場へ飛んだ。指紋係は、管理官(警視)、係長(警部)、現場担当となる警部補の宇兵をはじめとする七名。すでに捜査一課と昭島署員も到着しており、総勢六〇名以上の人員で臨む態勢だ。
被害者は、昭島市松原町の小料理店の女性経営者、四四歳。第一発見者は女性従業員だった。この従業員の供述によれば、事件発生当日、従業員はいずれも休みだったため、女将は一人で店を開けていたとのこと。
すでに現場には、昭島署員によって立ち入り禁止区域が設けられ、機動捜査隊員らにより第一発見者からの事情聴取や周辺の聞き込み等も始まっていた。一方、鑑識で最初に現場に足を踏み入れるのは足跡係で、これは各捜査員が踏み込む前に確保すべき足跡をチェックするためであった。続いて写真係が入り、足跡係とともに初期捜査の基本である「現場保存」につとめる。そして、検視官が死体を検分するのと前後して、指紋係の出番となる。
「ありゃ、何だ?」
最初に――下半身|剥《む》き出しの――死体を見たとき、宇兵の目にとまったのは、右脇腹に残された赤みがかった輪っか≠セった。
よく見れば、かなり大きな歯牙痕《しがこん》(噛《か》み跡)で、それが人間の歯の形にくっきりと色白の皮膚に残されていた。さらに観察すると、歯型はその一本分だけ、不完全に欠けていた。右頬、両方の乳首も噛まれており、右の乳は無残にも乳首が原形を留《とど》めないほど噛み潰《つぶ》されている。これらの歯牙痕に残された唾液《だえき》の鑑定から、犯人の血液型がO型もしくはB型であることが判明した。
「異常者による殺人か。それにしても、ひどいことを……」
死因が絞殺であるのは、被害者の首に両手で絞めた跡があることから十分推察できた。だが、被害者に対面した瞬間の宇兵は、右脇腹の丸い噛み跡の印象が鮮烈すぎて、それ以外のことを思うゆとりはなかった。
店はといえば、カウンターにテーブルが四つの小ぢんまりした造りだった。店舗部分の奥がそのまま住居となっていて、その六畳間で女将は死んでいたのだ。ブラウスだけは身につけていたとはいえ、頭の上までたくし上げられており、ほとんど全裸だった。
宇兵は、咄嗟《とつさ》に一〇年以上前の巡査部長時代、高輪《たかなわ》のラブホテルで見た同様の女性の死体を思い出した。それは陰部にコーラ瓶が差し込まれた死体で、犯人は外国人だった。当時はSMという異質の世界の存在をよくは知らず、捜査の過程で、「外国人はこんな残酷なことをするものか」という感懐を抱いたものだ。
宇兵はこのときの経験と、また昭島には米軍基地が近くにある事実を思い出し、ホシは外国人かもしれないと直感した。捜査に偏見は禁物だが、カンは大切だった。
死体を「宝」と呼ぶ捜査官は少なくない。その理由は、死体が放置された状況、死体から採取される唾液、血液、皮膚片、微物(被害者が争ううちに爪の間に付いた犯人のセーターの繊維など)、ときには大便でさえが犯人特定や犯行状況確定などの重要なヒントとなるからだ。それらは口を持たないが、実に雄弁であった。
特に宇兵は、死体を自分の眼で十分に観察したいという強い願望を持っていた。何も、検視官や他の捜査官の鼻を明かしてやろうというのではない。死体には実に多くの指紋採取のヒントが隠されているからだ。手の位置や首の向いた方向などから、自分なりにあらゆる犯行状況を想定し、犯人や被害者の行動を読むことで、指紋採取のポイントをつかむことができるのである。
また、死体そのものからの指紋採取も重要だ。ミイラ化した表皮か、死後まもないかの違いはあっても、いずれもアルコール洗浄したあとは、通常の指紋採取と同様である。このとき宇兵は、まず死体の一〇本の指の指紋の全体像を頭に入れる。宇兵流に言うなら、「眼のカメラで撮る」わけだが、それをしておくだけで、その後の現場指紋の中から遺留指紋を選別する作業をより効率的に進めることが可能となる。
もちろん、最初から死体が平気だったわけじゃない。今から二〇年も前、警察官人生の最も初期の新米巡査だった頃、原宿《はらじゆく》駅で遭遇した自殺死体への恐怖と、その後、自身に訪れた変化について、彼はこう語る。
「原宿駅で飛び込みがあって、深夜に班長と駆けつけたんだが、そのうち班長が呼び出されて派出所に戻ってしまった。それで、明け方まで、一人で薦《こも》を被《かぶ》せられただけのマグロ(轢死体《れきしたい》)を番することになった。ホトケさんは、若い女性だった。雨が降っていてね、ゴムの合羽《かつぱ》に雨粒がボツボツボツボツ当たって落ちつかず、見上げれば、ちょうどホームの桜がぼうっと薄明かりに煙《けぶ》って見えるのがやけに不気味に感じられた。そのうち体も冷えてきてガタガタ震えがきた。
二時間もたって、真夜中になったときだった。ふと、思ったんだ。『何で、俺は恐いんだろうか』と。そのうち、『よしっ!』と自分で自分に発破をかけて、ずんずん死体に近づいていって薦を一気にめくっていた……たしかに無残な姿だった。でも、ホトケさんと対面して、自己流に念仏なんか唱えているうちに気付いたんだ。なんだ、ただの死体じゃないか。迷わず成仏してくれよ、と。そうしているうちに、さっきまでの恐怖心がすっかり消えていたんだ」
そして、彼は悟ったという。
「恐怖とか不安というのは、現実を直視せずに逃げている心に宿るものだということがわかったんだな。そのとき、もしかしたら、俺は死体に縁があるのかもしれないとも思ったけど、まさか死体は死体でもその指紋と一生付き合うことになるとは――」
そうはいっても、蛆《うじ》が湧いて腹がゴロゴロ鳴っていたり、一〇〇メートルも先から臭ってくるような死体には、できれば対面したくなかった。しかし、多くの場数を踏み、風下には立たない、満腹時は対面しないといった基本から、いったん腐臭の強い死体が放置された部屋に入ったら作業が終わるまで出ないという究極の対処方まで身につけてしまえば、それも難なく克服できた。よく、部下にも言ったものだ。
「人が嫌がる珍味も、手を伸ばし食べ続けているうちに好物になる。何でも食べてみようとか、見てやろうという好奇心が俺たち鑑識には大事だ」
とはいえ、どうしても好きになれなかったり、生理的に死体を受け入れられずに鑑識から去っていく者もいた。去る者は追わず。こうして宇兵の周囲には、彼同様の仕事人間だけが集まり、職人集団を形成するようになる。「お前、鑑識のくせに死体を素手で触れないのか」と先輩から叱責《しつせき》された時代は、遠い昔である。
結果的に、小料理屋の店内から指紋は一〇〇個近く採取された。出入口のガラス戸、テーブル、コップ、ビール瓶……。最も上手《うま》く採取できるのは、犯人が四〇〇グラム程度の重さの物を持ち上げたときに付いた指紋だ。それより軽ければ指紋は薄くなり、重ければ肝心の隆線が潰《つぶ》れてしまう。四〇〇グラムといえば、この事件の犯行現場にも転がっていたビール瓶がその重さだった。
当初は、捜査一課から送られてくる容疑者と思われるさし名指紋と現場指紋との対照作業が集中して行われた。ところが、一向に落ちない(合致する指紋がない)。
そんなとき、宇兵が目をつけた一つの不可解な℃w紋があった。
それは、カウンターの一枚板の内側、つまり、いつもは女将が立つ側の側面に付着した右親指の指紋だった。カウンターの高さは腰の位置、板の厚みは五センチしかなく、普通に立っているだけでは、腕をつき体重をかけて寄りかかることはあっても、特に親指の指紋は付きにくいはずの場所だった。それが、ちょうど指圧をするときのような形で、きれいに印象されていたのだ。
「これが遺留指紋ではないか。こいつに合致した者がホシに違いない」
現場を読む――宇兵の指紋捜査は、実は指紋を採取しルーペを覗《のぞ》く以前に、現場に足を踏み入れた瞬間から始まっている。犯人は何が目的で、どう行動し、どのように殺害に至ったか、その『スジを読む(シナリオを描く)』わけだ。この手続きがあって初めて、彼はどこから指紋を採取すればいいか、どれが犯人の指紋かをつかむことができる。
このとき最大のポイントとなるのは「入り」、つまりは犯人の侵入ルートである。一体、どこから入ったのかをまず押さえ、続いて死体の状況から物盗りか怨恨《えんこん》か、さらには殺してから物盗りと見せかけた偽装殺人か、それとも性犯罪なのかを読み取っていく。
指紋は実に多くのことを語ってくれる。性別、利き腕、体格……中には用意周到で手袋を着用し、指紋を残さない犯人もいる。しかし、逆にそのことが、常習犯や計画的犯行である証《あかし》となりもする。指紋を残さないのが何よりの証拠となるわけだ。ついでに言えば、手袋痕など特殊な手がかりについては「痕跡」を担当する係員がいる。
この事件で、カウンターの奇妙な指紋を発見した宇兵の読みはこうだった。
犯人は犯行の前後、もしくはその両方に、このカウンターの内部に頭を低くして潜んで様子を窺《うかが》っていた。つまり、犯行前なら、ここから六畳間の女将をいつ襲おうかと狙っており、犯行後であれば、いつ店から逃げようかと外の気配を窺っていた。いずれにせよ、不自然な姿勢で体を屈《かが》めてカウンター内に潜んでいたため、右手の親指だけで寄りかかるようにしてわが身を支えるしかなかったのではないか――。
もう一つ、その指紋にはある特徴があった。「毛せん」が日本人の平均以上に多いことだった。毛せんとは、指紋の隆線と隆線の間にできる不規則な線のことで、これが多いということは、大柄な人物もしくは太っている人を意味する。
「おいおい、こりゃ、ますます臭うぞ」
宇兵は隣のデスクで指紋の対照を続ける同僚に声をかけた。
「やっぱり、塚さんの睨《にら》んだとおりか」
「ああ、この毛せんの様子じゃ、ホシはやっぱり外国人かもしれない」
指紋係一同の見解としては、犯人は外国人で一致、指紋鑑定官の意見も同じだった。
『帰宅女性を付け狙う不審な外国人、目撃される。女将殺しの犯人か!?』
スポーツ新聞に、そんな見出しで新事実が報道されたのは、事件発生から一カ月が過ぎた頃だった。宇兵たち指紋係は色めき立った。
早速、捜査一課へ問い合わせる。
「あの新聞記事、本当か?」
「ああ、あのアメリカ人のセールスマンね」
「じゃ、やっぱり、ホシは外国人だったのか?」
「いや、あいつはシロだ」
「何でだ?」
「一応、一週間前に任意で呼んで、口を開けさせて歯型を確認したんだよ。ほら、ホトケさんの脇腹の動かぬ証拠」
「ああ、あの……」
宇兵の脳裏に、再び、あの白い肉塊にくっきり赤く刻印された歯牙痕《しがこん》がよみがえった。
「あの女将の体に残っていた歯型は、一本だけ欠けてたんだよ」
「ああ、知ってるよ」
「でもな、そいつの歯型は一致しなかったんだよ。きれいに全部揃っていたんだ」
「でも、指紋は採ったんだろうな」
「いや、採ってないよ。シロなんだから必要ないだろ」
「馬鹿言うな! こっちは外国人が臭いと睨んでるんだ。重要な外国人容疑者をみすみす指紋も採らずに帰しちゃ困る。もう採れないのか」
「いや、身元は押さえてあるから採れるはずだ」
「じゃ、至急、頼む」
宇兵の依頼により、そのアメリカ人から任意で採取された指紋が送られてきた。ただちに照合した結果、あのカウンターから採取された指紋と合致したのである。
そのアメリカ人男性は、二七歳の電気器具のセールスマンだった。捜査一課の取り調べに対して、「当夜は、基地内でショウを見ていた」とのアリバイを主張し容疑を認めようとしなかった。
しかし、カウンター内側から自分の指紋が出た事実を突きつけられるに及び、とうとう犯行を自供。決め手となったカウンター内側の指紋は、宇兵の読み通り、男が犯行後に外に出る機会を窺っているときに付けたものだった。
その後、わかったことだが、当初、歯型が一致しなかったのは、歯が欠けるまではいかないが、偶然にも犯人の歯が一本だけ他より短かったのだった。カンというのは、ただの思い付きではなく、経験や技術に支えられていればこそ生きてくる。宇兵が外国人にこだわったのも、指紋や毛せんという強固な裏付けがあったからだ。こうして、たった一つの指紋が、容疑者をクロへと逆転させた。
それにしても、最も気になるのが、どうして宇兵はあのカウンターの指紋に目をつけたかということだ。そもそも、なぜ、カウンターの内側などから指紋を採取していたのか。
「ネタを明かすなら、あらゆる可能性がある場所から採取しているということ。採り過ぎは、あとで時間がかかって自分の首を絞めるだけだけど、逆に、採取漏れは絶対に許されないものだから」
宇兵は、本当は手の内を明かしたくはないんだがといった、やや困惑の表情をにじませそう言う。でも、すべての場所といっても、そこに目をつけるかどうかは人によって違ってくるはず。たとえばカウンター一つとっても、上部の平面部分からはもちろん誰もが採取するだろうし、ときには裏側から採ることも必要になるかもしれないが、やはり側面に着眼する者はごく限られるのではないか。
「いや、そりゃそうなんだけど。これは、もう場数を踏むしかない。逆に、長くやっていれば、自《おの》ずとここから採れば出るというのがわかるんだ。たとえば、あるスナックで起きた殺人事件の現場に行ったとしよう。すると、ドアの把手《とつて》が、最近流行の縦に細長いタイプのものだったとする。ノブ全体が長いバーになっていて、それを押して入るやつだ。
さて、これから、その把手のバーから指紋採取をしようというとき、それなりに経験を積んだ係官なら、まず、どこから採ると思う? 両端の下部か上部から攻める。誰もが触る中央部分は最後でいい。だって、自分が犯人になったと考えてみればいい。指紋が見つからないように、なるべく目立たない部分を握るんじゃないか。軽いドアなら、指の腹が付かないよう、グー(拳《こぶし》)で押して入っていくかもしれない……。
そんなことをいつもいつも考えていると、どこから採ればいいかが自ずと見えてくるようになるものなんだ。自慢するわけじゃないけどね。だから、言葉では言えないだけに、俺たちは結果を出すしかないんだよ」
言葉では言えないそれを、世間では「カン」という。そして、その宇兵のカンは、次の『女子大生殺害事件』でもフルに発揮された。
入りの指紋、帰りの指紋――女子大生殺害事件(一)
平成一年秋の穏やかな日だった。午後五時三〇分頃、フリーで出版関係の仕事をしているS子(二四)は、徹夜仕事を終えて都内のマンションに帰宅した。
マンションの玄関から階段で二階にある自室まで上がり、ドアホンを鳴らすが、返事がなかった。いつもなら、ルームメイトのE子がドアを開けてくれるはずだった。E子は大学一年生の一九歳。いまどきまじめを絵に描いたような娘で、授業が終わるとほとんどまっすぐに帰宅して二人分の夕飯の支度をしていてくれた。地方出身で血縁関係にある二人は、都会暮らしの防犯面の安心と、何より高い家賃を折半できるという理由から、E子の大学入学と同時に共同生活を始めていた。
まじめ人間のE子も、さすがに大学生活にも慣れて、サークルのコンパにでも参加したのだろうと独り合点したS子は、仕方なく自分の鍵《かぎ》を取り出してドアを開けた、そのときだった。
ガチャンという音とともに、腕が強く引っ張られるようなショックを感じた。中から、ドアチェーンが掛かっているではないか。途端に不安に襲われ、室内に向かって何度も大声で呼びかけてみるが、やっぱり返事がない。しばらく思案していたが、とうとう階上の大家を訪ねた。
こうして、梯子《はしご》でベランダから室内に入った大家の息子が、殺害されていたE子の第一発見者となった。続いて変わり果てた姿のE子と対面したS子はその場に泣き崩れた。前夜、家を出るときに電話中の彼女に手を振ったのが、まさか今生の別れになろうとは――。
同じ日の夕刻だった。
帰宅して玄関を入った宇兵をつかまえて、妻が声をかけた。
「ポケベル、鳴りませんでした?」
「ああ、鳴った。いま、そこで……」
「すぐ電話がほしい、とのことでした。役所から」
妻は夫の勤め先を、結婚当初からそう呼んでいた。一方、鑑識課の当直室では、宇兵からの連絡を待ちわびていた。
「塚本だ」
「○○管内で女性が全裸で殺されました。住所は×××です。課長と管理官がすでに現場に向かっています。特捜事件らしいです」
「了解、俺もすぐに行く。管理官に連絡しておいてくれ」
電話を切るや、とんぼ返りで出ていこうとする宇兵を妻が止める。
「食事ができてます。食べていったほうがいいんじゃないですか」
時計を見る。午後七時三〇分――一瞬、迷いが生じる。
「お茶漬けにしますから、少しでもお腹に入れていかないと体がもちませんよ」
「わかった。早くしてくれ」
今夜は徹夜になる、との判断からだった。が、二分後、けたたましくベルが鳴った。今度は宇兵自ら受話器を取る。先程の当直からだった。
「あのあと管理官から再び連絡があり、今晩は遺体を出すだけになるだろうと。本格的な現場検証は明日からになるので、塚本さんにはそれをやってほしいとのことでした」
「そうか……わかった」
と答えたものの、一瞬の躊躇《ちゆうちよ》が自らを現場から遠ざけたように思われて、後悔が襲った。現場にすでにいる管理官は、帰宅したばかりの宇兵に気を遣ってくれたのだろうが。しかし、もう遅い。現場検証は明日と聞いたのを思い返し、彼はとりあえずは納得し、ようやく背広を脱いだ。
「…………」
まんじりともせず、床に就いたまま仰向《あおむ》けに薄明かりに照らし出された天井の一点を凝視している宇兵。そのうち、節穴の一つひとつが指紋の文様に見えてくるというのは、もう何度も経験したことだった。
結局、現場行きを翌日にして夕食を摂《と》ったときも、風呂《ふろ》に浸《つ》かったときも、そして今、寝床に入っても、どうにも落ちつかないのだ。現場の状況はどうだろうか、はたしてよい状態の遺留指紋は採取できたろうか、犯人の犯行前後の行動前足《まえあし》≠ニ後足《うしろあし》≠ヘどこまで読めているか、被害者とはどんな関係なのか、たしか若い女性の全裸死体と言っていたが……その悶々《もんもん》とした思いは、翌朝、家を出るまでついに消えなかった。
まず、警視庁の指紋係室に出勤。昨夜の状況を管理官および係員から聞く。
「指紋は出たか」
「はい、一応」
しかし、喜んだのも束の間。直後、その犯人の遺留指紋と思われた指紋が大家の息子の指紋だったと判明して、部屋に暗いムードが漂い始める。その空気を打ち破るように、宇兵の声が轟《とどろ》く。
「よしっ、現場だ」
指紋係ら五名のメンバーを引き連れ、現場に向かう。半日の遅れが、彼の足をいつになく急がせていた。
入りの指紋、帰りの指紋――女子大生殺害事件(二)
「どうも、性目的の流しの犯行の線が強いね」
現場に到着後、昨夜から担当していた指紋係員や捜査一課の刑事に状況を聞いていた宇兵だったが、ひと通り聞き終わると、そう独り言のように口にした。それから、今度は胸の中でこうつぶやく。
『「濃鑑」(被害者に関係する犯人)ならば人に聞く¢{査一課が強いが、「流し」(通りすがりの犯行)となると、これは鑑識の物に聞く¢{査の出番だ』
「入りはどこだ?」
「表の排水パイプのようです」
現場係員がマンション正面中央部の排水パイプを指し示す。それは何の変哲もないプラスチックの雨樋《あまどい》で、宇兵の立つ場所から見ただけで、人一人の体重を支えるに十分な強度があることはわかった。ところが、彼にはその答えが気に入らなかったようだ。
「何でだ?」
「第一発見者もここから入ったそうで、他には壁によじ登ったような跡がないんです」
「でも、道路から丸見えじゃないか」
そう言いながら、もう宇兵はマンションの脇に回っていたが、すかさず、
「こっちの雨樋は?」
それは、道路からはちょうど死角になる建物側面に這《は》わされた、正面のと同様な塩ビ系の雨樋だった。
「はい、でも、ここには白いコンクリートに靴で擦《こす》ったような跡がないですよ」
「何、じゃあ、靴を脱いで入ったんじゃないか」
「それが……部屋の中から足跡(靴底の痕《あと》)が採取されてますから」
「それは犯人のものか」
「わからないんですが、今のところ、その線が強いと思われます」
「わからないじゃ駄目だ。大きいほうの脚立を持ってきてくれ」
それから宇兵は、自ら脚立を上り始めた。丹念に雨樋と周囲の壁をチェックしながら、三分の二くらい上ったときだった。
「昨夜、誰かこの雨樋を上ったか」
「誰も上っていないと思います」
「そうか……おや……!」
昨夜は、この地域で生憎《あいにく》、一時的に雨が降ったと聞いていた。そのため、たしかに下部は雨で雨樋の埃《ほこり》は流されていたが、急きょ、係員らによってシートで覆ってあった上部の埃はかろうじて残っており、そこから新しい擦り跡を発見できた。宇兵は、即座に入り(の指紋)か、帰り(の指紋)か、あるいは両方かと睨《にら》んだ。このときまでに、彼の頭の中には、この事件の最重要ポイントはこの雨樋の上部に続いて設置されているアルミ製ベランダの手すりにある、との確信が生じていた。
「おい」
宇兵はそれから指紋担当の係員を呼び、
「この雨樋からは指紋も採取しておくように」
と言い残すと、二階のベランダに向かう。
室内では慌ただしく鑑識活動が行われていたが、宇兵はそちらには目もくれず、まっすぐにベランダに出た。
ベランダの右端には洗濯機が置かれていたが、その付近のベランダの手すりの上下左右の一本一本をつぶさに観察していく。
「やっぱり!」
うっすらと埃の付いた手すりの下方横枠に三本の筋を発見。下を覗《のぞ》いてみると、彼が読んだ通り、ちょうど雨樋の真上である。しかも、印象状況は外から内に向いていた。
『これが入りの指跡≠ノ違いない。犯人がこの雨樋を上り、手すりを乗り越えた証《あかし》だ』
宇兵は全神経を傾けながら、室内で鑑識活動を行っている係員も目に入らないといった視線で、ベランダから犯行が行われたであろうベッドの上を凝視し、犯人の殺害方法と行動の一部始終を推理し始めていた。
被害者E子の部屋は、玄関を入ってキッチン、浴室を過ぎた奥の六畳と四畳半のうち、四畳半の洋室だった。すでに死体は前日に運び出されていたが、宇兵はポラロイド写真を手に、犯行現場を頭の中で再現した。ベッドの脇の床上に両手を後ろ手に縛られた無残な姿で眠るように横たわっていた被害者。全裸の死体には布団が掛けられていたが、これは発見者のS子のせめてもの心遣いとわかった。たしか、死因は窒息死、犯行は一八日深夜から未明頃と推定されると検視官は言っていたな……。
ときどき宇兵の出現に気づいた係員が「ご苦労さま」と声をかけるが、彼は応じることなく、微動だにしない。犯人の入りの痕跡《こんせき》を見つけた今、今度は帰りの指紋を捜している。一〇分もそうしていたろうか、それから、
「おい、K部長。下の雨樋は終わったろう。すぐにベランダに上がってきてくれ」
「はいっ」
有無を言わせぬ迫力に気圧《けお》され、宇兵よりひと回り年下のKが照明器具と指紋採取の七つ道具を抱えて、荒い息で駆け上がってくる。K部長は知っていた。こうしたときの塚本キャップは、失敗の許されない一発勝負の指紋採取を要求してくる、と。
Kにしてみれば、重要ポイントを任せてくれるというのは、すなわち自分の技量を認めてくれた証左となる。にわかに緊張が全身を走る。追い打ちをかけるように、宇兵が小声で指示を出す。
「ベランダで入りの指紋は確認した。いいか、ホシが忍者でもない限り、必ず帰りの指紋もこの手すりに残っているはずだ。LA粉末(アルミと炭酸鉛の混合粉末)を付けて、この付近をやってくれ。LAは軽くな。いいか、見ているぞ」
LA粉末をベランダの手すりの周囲に付着させようとするKの小筆が小刻みに震えている。それを認めた宇兵は、
「大丈夫。必ず検出できるからな」
前途有望な後輩をリラックスさせるため、そう声をかけながら、わざと視線を遠くにやる。それから三―四分が過ぎたときだった。
「出ました!」
シーッ――
口許《くちもと》に人さし指を当て沈黙を指示し、そっと覗き込む宇兵。
『よしっ、いいぞ。いいか、この反対側にもあるからな』
と、今度は無言で左手の指で丸い輪を作り、合図を送る。意を得たりとうなずくK部長。
勝負は十数分だった。K部長が小さくうなずいたのを確認すると、
「あとは頼んだよ」
その後の室内からの指紋採取を指示すると、宇兵はマンションの階段に出て腰を下ろし、愛飲する「ピース」に一服つけた。一つ山を越えた……そこに現場係員が駆けつけてきて、
「キャップ、ホシは屋上で入り待ち(付近で侵入の機会を窺《うかが》うこと)していて、ベランダ伝いに下りてきたかもしれませんので、見てほしいんですが」
と息せき切って言う。が――
「あとから行くから、よく見といてくれよ」
そう言うだけで、ついに腰を上げようとしない宇兵。意地悪するわけじゃないが、極度の集中と緊張が解けたばかりの今は余計な口は叩《たた》きたくない。この至福の一服は誰にも邪魔されたくなかったのだ。
入りの指紋、帰りの指紋――女子大生殺害事件(三)
現場検証三日目のこと。捜査本部に姿を現した宇兵は、
「これが犯人の指紋です。残念ながら、前歴者の指紋には該当しませんでした。そこで、この指の持ち主を捜してください。一本の指でいいんです」
と言いながら、二枚の遺留指紋の写真を担当刑事のデスクに並べた。写真には、次のように符号を付して採取場所が記入してあった。
A=入りの指紋/アルミ製ベランダ・下方の横枠(外から内に向かって三本の指痕)
B=帰りの指紋/アルミ製ベランダ・上部の横枠(内から外に向かって左親指の指紋)
「現場検証でスジを読んだ結果、犯人は建物脇の排水パイプ、つまり雨樋からベランダを経由して六畳間に侵入し、次いで犯行現場の四畳半へ移動したものと思われます。ただし、四畳半の窓は閉まっていました。なお、雨樋の周囲の壁面にゲソ痕(靴で擦った痕)がないことから、侵入時、犯人は靴を脱いでいたと見て間違いないでしょう。
ドアチェーンがかかっていたことからも明らかですが、犯人の侵入経路と同様に逃走経路もベランダから雨樋です。つまり、Aは犯人の『入りの指紋』、Bは『帰りの指紋』です。これがあるからいいんです。遺留指紋に間違いないからです」
捜査初日に急に雨が降ってきたとき、現場係員らが機転をきかせてビニールシートで雨避《あめよ》けをしたが、残念ながら雨樋の指紋はすでに雨で流されたか、擦り跡止まりで指紋は採取不能の状態だった。
しかし、間一髪、ベランダの手すりと室内を合わせて一一三個の指紋採取に成功。さらに選別作業をした結果、上記A・Bの二個を含む四個が犯人が残したと思われる三号指紋(遺留指紋)となった。そして、今、宇兵は犯人に直接つながる証拠として、そのうち二個の指紋を捜査本部に持参したのだった。
ところが、担当刑事にしてみれば、その自信満々の物言いが気に入らなかったのだろうか、
「なぜ、これらが犯人の遺留指紋だとわかるんですか」
と詰め寄ってきた。それに対して、宇兵はますます冷静に、しかし熱っぽく答えるのだった。
「ベランダの手すりで採った上向きの指紋Aは、厳密には指痕です。これは侵入時、ホシが雨樋《あまどい》を伝って上ってきた際に、パイプの埃《ほこり》や汚れによって指紋の隆線に目詰まりを生じたために、指紋が潰《つぶ》れてしまったものなんです。残念ながら、この『入りの指紋』は完全な指紋とはいえず対照はほとんど不可能です。
それに対して、指紋Bを『帰りの指紋』と言ったのは、これが下向き、つまり手すりを上からつかんだ指紋だったからです。侵入直後は犯人の指紋は埃などで潰れていたのが、室内で犯行を行い、部屋を物色したり、被害者の着衣や体に触れることによって犯人の手の埃が拭《ふ》き取られ、さらに被害者の体の脂肪分が指紋の隆線に付着するなどしたため、その指紋はより鮮明に印象されたと思われます。ホシはベランダを乗り越えてさらに雨樋を伝って降りるとき、まさか自分が来たときより鮮明な指紋を残しているとは想像もしなかったでしょう」
滔々《とうとう》と説明してみせる宇兵だった。だが、けっして自分たちの成果を自慢しているのではない。この指紋の主を早く捕まえてくれ――自ら逮捕に乗り出すことのできない彼ら指紋係には、指紋こそが犯人に近づき、食らいついていく唯一の手段だったのだ。
最後に彼は、指紋選別対照の経験を有する機動捜査隊員のデカ長二名を捜査本部に配置するよう助言して部屋から退出した。
事件発生から一カ月半後の一一月一日、ある私鉄の駅で警ら中の警察官二人が一人の不審な男を呼び止めた。男は、こちらに向かい歩いていたのに、警察官の姿を認めた途端、反転して路地を小走りに去ろうとしたのだった。
もちろん、逃げ切れるわけもない。男は呼び止められ、職務質問をされ、所持品の提示を求められた。手提げ袋の中に男は数冊の本を持っていたが、そのすべてに売り上げカードが入ったままだった。その三〇歳だと話した男は、渋々、万引きしてきたのを認めた。
翌日、女子大生殺害事件の捜査本部に、一枚の指紋を含むこの男の微罪処分手続き書が送られてきた。それまでに、女子大生殺しの現場から採取された『帰りの指紋・B』を遺留指紋としてAFISにかけてはいたが、残念ながら不発見だったため、すべての臭い℃w紋が捜査本部に集められるようになっていたのだ。
最初の指紋対照は、宇兵の部下ではなく、彼の助言によって捜査本部に派遣された機動捜査隊のデカ長によって行われた。その数時間後、宇兵のもとにデカ長から興奮気味の電話が入った。
「昨夜《ゆうべ》、万引きで任意同行を求めた男の指紋が、あの女子大生殺しの犯人の遺留指紋に似てるんですが……」
「それで、そいつはどうした?」
「それが、帰したらしいんです」
「帰したぁ?」
「はい。万引きだと微罪処分だし、まさか身柄拘束もできんだろうって」
「それにしても、似てる≠ヘないだろ。お前、指紋を何年やってんだよ。合うか合わないかのどっちかなんだ」
「うーん……自分が見たところでは、合うと思うんですが」
「わかった。すぐこっちに持ってきてくれ」
すぐに指紋が宇兵に届けられた。ルーペを覗《のぞ》けば、一目瞭然《いちもくりようぜん》だった。今、宇兵の目の前で、この指紋と被害者E子宅のベランダに残された遺留指紋とが合致したのだ。実に、一五万五七三八本目の指だった。
「ほら、合うじゃないか!」
宇兵は早速、その結果をデカ長に折り返した。
しかし、その数日後、今度は不貞腐《ふてくさ》れたような声でまた同じデカ長から電話が入ったのだ。
「令状請求しようとしたが、検事が首を縦に振らないんです。やたら慎重になってて、『その指紋は、覗きか窃盗未遂犯の指紋かもしれないではないか』と言うんです。もう、やってらんないですよ」
しかし、宇兵は簡単には引き下がらなかった。
「十分に説得したのか。覗きや窃盗で、入りの指紋と帰りの指紋があんなに違うということはあり得ないんだよ。犯人は侵入後に被害者を無抵抗にして、衣類や体を触っているから、その間に指紋の埃も取れて、帰りの指紋がはっきり印象されるようになったんだ。いま、俺が話したことを繰り返して、もう一度、説得してみてくれ」
宇兵の迫力に気圧されるように、ただちに捜査本部に追跡捜査班が編成された。ここからは、捜査本部の本領発揮だった。
まず男が公園などで野宿をしながら路上生活を送っていることが、最初に万引きで任意同行した地区の警ら係によって報告された。それからは、各捜査員は男の写真を手に、昼も夜も駅や公園に立ち、男が現れるのを待った。そして一一月二五日、男はコンビニで雑誌を立ち読みしているところを任意同行を求められたのだった。
同行にも素直に応じた男は、取調室に入ると、女子大生殺害をすらすらと自供し始めた。いわゆる、通り魔殺人だった。犯行の手順は、靴を脱いで雨樋を上ったこと、ベランダ側の窓の鍵《かぎ》は掛かっていなかったことなど、宇兵が現場から読んだ通りだった。
なお、宇兵が現場に臨場した初日、現場係員が「室内から足跡が採取されている」と話していたが、あれは、事件の第一報を受けて駆けつけた警察官が土足のまま部屋に上がり込んで残した足跡とのちに判明していた――まあ、よくあることであった。
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第5章 偽 装
――犯人との知恵比べ
オウム事件と偽装指紋
指紋が犯罪捜査の要《かなめ》であり、そのことを誰もが知っている以上、それを逆手に取り、証拠が残らないよう偽装して犯罪を完遂しようとする悪いヤツが出たとしても不思議ではない。そうなると、宇兵たちの闘いの相手は、隠れてはいるがどこかにある指紋ではなく、最初から現場には存在しない指紋、となる。
「だけどね、仕事というのは、厄介なら厄介なほど入り込むものなんじゃないかい」
と、宇兵。
とはいえ、偽装するといっても、大抵は、冒頭でもふれたが、手袋をするか、触った箇所をきれいに拭《ふ》き取っていくかという範囲だろう。偽装にかける手間や金と、その犯罪によって得られる利益とを秤《はかり》に掛ければ、そんなに手の込んだ手段は避けるのが普通だ。
ところが、指紋を焼き取ったり、皮膚移植をしてまで偽装するとんでもない連中が現れた。彼らは頭がいい≠ゥら、どうすれば指紋を残さないで済むかを情報収集し、研究しつくしており、その結果の皮膚移植手術だった。彼らとは、オウム真理教の一部信者たちだった。
「はい、鑑識、指紋。塚本です」
平成七年三月九日、朝一番の電話は捜査一課のT課長からだった。旧知の仲ではあるが、捜査一課長直々の電話は滅多にない。
「おはようございます」
「うん。それで塚さん……」
挨拶《あいさつ》もそこそこ、もう用件に入ろうとしている。ただならぬ雰囲気に、受話器を握る宇兵の手に力がこもる。
「実は、『假谷《かりや》さん拉致《らち》事件』で頼みがあるんだ」
假谷さん拉致事件――という言葉に瞬間、緊張が全身を貫く。
「これは塚さんにしか頼めない……拉致に使われたと見られるワゴン車の実況見分を仕切ってほしい」
九日前の二月二八日の白昼、目黒公証人役場事務長の假谷清志さんが何者かに拉致された事件のことは知っていた。假谷さんの妹がオウム真理教信者であり、以前から教団とトラブルが絶えないことから、当初からオウム教団と拉致事件との関わりが取り沙汰《ざた》された。
さかのぼること六年前の平成一年一一月四日未明には坂本堤弁護士一家が突如、失踪《しつそう》、現場にオウム真理教のバッジが残された。六年六月二七日には日本中を震撼《しんかん》させた松本サリン事件があり、半年後の七年一月一日には上九一色《かみくいしき》村のオウム関連施設周辺でサリン残留物が検出されたと報道されたばかりだ。そして、今回の拉致事件。
宇兵は、自らの六〇歳定年の日を一年後に控え、こうした一連の事件の報道を複雑な思いで捉《とら》えていた。ひと言でいえば、「日本も変わったもんだ」との感慨である。三〇年前、鑑識課に配属される前には神田警察署の刑事課にいたが、その頃に駆け出し刑事として関わった事件と、これら現代の凶悪事件の数々がまったく次元の違う場所で起きているように錯覚されたからだ。
かといって、傍観していたわけではない。なぜなら、定年までの一年間に、何か大きな事件と関わるようになるのではないかとの思いが確かにあった。事実、今、電話を寄越したT課長は事件が起きた日の二月二八日付で鑑識課長から捜査一課長に栄転していったばかりだったが、その異動のまさに前日、
「きっと、この一年の間に塚さんの出番があるよ」
と、宇兵に向かい何やら予言めいたセリフを残していた。ロス疑惑、トリカブト事件など数々の難事件を担当してきた警視庁有数の名刑事の言葉だけに、やたらと確信めいて聞こえたものだった。そして今、その言葉が思いもかけない形で実現しようとしているのだった。
『指紋係の俺に、犯行車両と思われるワゴン車全体の実況見分を指揮しろというのか。たしかに鑑識の出番には違いないが……』
実況見分とはいわゆる現場検証のことで、犯行現場ばかりでなく犯行に使用された車両に対しても行われる。そして、假谷さん事件ほどの重要事件であれば、警視庁では実況見分をより緻密《ちみつ》に行うため、走行距離の測定や遺留物(泥やゴミなど)の採取、写真撮影、そして指紋、足跡等の証拠資料の採取といった作業を細分化した上、それぞれを鑑識課の各担当管理官が指揮することになる。宇兵もすでに指揮担当管理官(警視)で、指紋係の最高指揮官ではあったが、現場は現場管理官が指揮するのが通例であった。
しかし、捜査一課長の依頼は、実況見分のすべてを宇兵に指揮してほしいという前例のないものであった。さらにT課長は、
「それから、この件は保秘≠ナ頼む。もちろん鑑識課長にもだ。人員も最小限にしてほしい」
と、念を押してきた。もちろん保秘、つまりは徹底した情報管理下における捜査を行うというのはわかるが、宇兵にも立場というものがある。
この種の依頼は、厳格な階級社会である警察組織では、宇兵の上司である鑑識課長を通じて指示されるか、もしくは依頼を受けたあとに彼自身が鑑識課長に報告し、その了承を得て行うのが大原則である。
前例と原則を打ち破る捜査一課長の依頼に宇兵は驚きと戸惑いを感じたが、自分を見込んでくれた期待に応《こた》えたいという気持ちが、「わかりました」と静かだが、力強い返事をさせていた。
実況見分を行う日時、場所について指示を受け、電話を終えた宇兵は、今回の実況見分について思いをめぐらせた。その目的は、捜査一課が発見したワゴン車が犯行使用車両であることを裏付けるための証拠、つまり、假谷さんの指紋か血痕《けつこん》の発見だ。それができれば、ワゴン車の借り主に捜査員を集中でき、犯人検挙に向け捜査は急進展するだろう。
ただし、警察が犯行に使用されたワゴン車を発見したことが万が一報道でもされたら、犯人は証拠隠滅や逃亡を企てるに違いない。直属の上司にも秘密を保ち、人員を最小限に絞るというのもそうした事態を未然に防ぐためだ。
キャップとなった宇兵は早速、二百数十名の鑑識課員の中から、指紋採取担当三名、足跡採取担当と写真撮影担当各一名、現場観察担当(指紋・足跡・写真以外を担当)二名の、総勢八名のエキスパートからなるプロジェクトチームを選抜した。
招集後は、各メンバーに「上司にも同僚にもこの件は保秘。つまり、一切、しゃべってはならない」と厳命した上、「捜査一課の特命である」ことだけを伝え、件《くだん》のワゴン車が運び込まれている市谷の第五機動隊の車庫に向かった。
実況見分は正午前には開始された。捜査一課員立ち会いのもと、車内外および備品からの指紋採取と写真撮影、車輪等に付着した泥の採取、メーター関係のチェックなどが次々と行われ、気付けば、午前零時をまわっていた。
「よし、今日はもう打ち切ろう。最後に担当箇所に漏れがないかチェックを頼む」
宇兵が言う。
「キャップ、どうも、ここに妙な影があるんですが」
指紋係の一人が自信なさげに口にするのを、宇兵自ら確認する。ワゴン車の中央座席の背もたれの一部が、正面からはわからないが、斜めに見ると、たしかにシミのようになって、ほんのわずか黒ずんで見える。
「こりゃ、何かを拭き取った痕《あと》だな。血液か嘔吐《おうと》の痕か……よし、ロイコを持ってこい」
ロイコ≠ニは、マラカイドグリーンという血液検査薬であり、血液に反応すると緑色に変色する性質を持つ。すぐにロイコが運び込まれ、検査が行われる。
「出ました!」
「よしっ。この血液とマルガイ(被害者)の血液型が一致すれば、この車が犯行車両だ。すぐに科捜研(科学捜査研究所)へ持ち込め」
「でも、キャップ、どうやって運びますか?」
「決まってるだろう、椅子ごと外して持っていくんだよ!」
「は、はい」
最終的にワゴン車からは二十数個の指紋が採取されていた。しかし、宇兵は周到な犯人のことだから指紋はすべて拭き取って残していないだろう、たとえ採取できても、それらの指紋はレンタカー会社の社員か犯行後にこの車を借りた第三者のものだろうと読んだ。そこで、
「この車から、犯人の指紋検出はおそらく無理だろうから、ただちに、車を貸し出したときの紙(申し込み用紙)を当たってくれ」
と、実況見分に立ち会った捜査一課員に依頼した。
その五日後には、鑑識課の宇兵のもとに、レンタカー会社から任意提出を受けたワゴン車の申し込み用紙が届けられ、即日、数個の指紋を得ることができた。早速、手元に届いていた七―八名のさし名照会の指紋と対照する。
このさし名照会による指紋の合致は、容疑者が犯行現場にいたことを証明するもので、犯人特定の決め手となる場合が多い。假谷さん事件の場合も、さし名照会を受けた人物は特別捜査本部が捜査を尽くして絞り込んだ容疑者である以上、ワゴン車の申し込み用紙に残された指紋と合致すれば、その者を犯人と見てほぼ間違いない。
ルーペを覗《のぞ》く両の目を通じ視神経から後頭部にかけて電気が流れるような痺《しび》れが襲い、やがてそれは全身に伝播《でんぱ》していく。もう何度も経験したはずの緊張感だ。
「よしっ! 合った」
やがて宇兵は、さし名照会を受けた容疑者の中から、レンタカーの申し込み用紙に残された指紋と合致する指紋を持つ人物を割り出した。すぐに捜査一課長に電話を入れる。
「出ました。ワゴン車の申し込み用紙の指紋が、マツモトタケシ≠ニいうやつの指紋と合いました」
「何、本当か。松本剛の指紋が出たのか。それでいい。それでいいんだ!」
松本剛はオウム真理教の信者で、なおかつ假谷さんの妹の担当であり、その自宅にも何度も出向いていた要注意人物だった。この男は假谷さん事件が発生する前年の八月、ロック歌手・尾崎豊の後援会を騙《かた》って若い信者を集めていた時期があり、足立《あだち》区内でビラを勝手に貼ってまわっていたため、東京都屋外広告物条例違反の容疑で取り調べを受け、このとき、十指のすべての指紋および掌紋を採られていた。
半年たって、そのときの指紋資料が活用されたわけだが、宇兵はもちろん松本剛の名など知らない。ただ捜査一課長の興奮ぶりを感じて、ヒットを直感したのだった。
「この指紋が合致した以上、あとは科捜研にまわしたワゴン車内の背もたれから採取した人血の血液型が假谷さんのものと一致すれば、一課もお札(逮捕令状)が取れるだろう」
宇兵は、実のところ、指紋検出に際してはこの程度に考えていた。
が、数日後、現実に血液型は假谷さんのものと一致し松本剛に逮捕令状が、続いて假谷さん拉致事件での捜索令状も発令された。こうして、たった一個の指紋が全国オウム施設の一斉捜査の扉を開き、さらに日本犯罪史上に残るオウム真理教事件解明の端緒となったのだ。
さて、レンタカーの申し込み用紙から検出された松本剛の指紋は左手薬指の一指だけだった。おそらく指紋を残さぬよう、申し込み用紙に必要事項を記入するときも細心の注意を払っていたはずで、このことは、のちに別の信者がレンタカー申し込みの際に、指紋を残さぬようあまりにぎこちない記入の仕方をして逆に不審がられ、通報されている事実からも明らか。にも拘《かかわ》らず、どうして松本はたった一つの指紋を残してしまったのか。
その理由を、宇兵はこう読んだ。
「松本は怪しまれるのを恐れて、手袋をせずに素手のまま申し込み用紙に記入した。そこで、極度の緊張の中で用紙に指紋が付かないように細心の注意を払ったはずだ。しかし、こうした緊張は長く持続するのは不可能に近い。必ず緩む瞬間がある。この場合は、ニセの名前を記入するときではなかったか。その一瞬のスキが、用紙に環指(薬指)の指紋を付着させてしまったに違いない」
松本剛の指紋が検出され、捜査員たちの士気が上がったのも束の間、一週間とたたない三月二〇日早朝、東京で地下鉄サリン事件発生。翌々日の二二日になって、とうとう上九一色村や全国のオウム施設に一斉捜査が行われた。宇兵も鑑識課員を率いて、一斉捜査の第二回目から上九%りした。
「これを自分たちだけで造ったというのか……」
宇兵は、第七サティアンと呼ばれるオウムの化学プラント棟――このときは、まさかここでサリンが精製されたとは知らなかった――の内部に足を踏み入れ、場違いな感慨にひたっていた。体育館のように広大な建物内に張りめぐらされたパイプ類、おびただしい数のフラスコや試験管。喩《たと》えようのない臭気と背筋を凍らせる冷気に、そこに立ち入ったすべての捜査員が、言い知れぬ恐怖感を感じ取った。
サティアン内からの指紋検出は、現地に赴く前から、気の遠くなるような作業であることがわかっていた。とにかく、ドアノブ、壁、デスク、書類、機器、備品類など、そこにあるすべての物を漏らさずに当たっていかなければならない。そして、それをあらかじめ採ってあるオウム幹部たちの指紋と対照していく。この作業を通じ、たとえば、ある幹部が「私は第七サティアンになど行ったことがない」と供述しても、指紋の検出によって、その発言は虚偽だと覆すことができるわけだ。
宇兵ら鑑識課員は、日々、一五人態勢で取り組んでいた。ジーヴァカ棟(オウム厚生省トップ・遠藤誠一の専用研究棟)でのことだ。床にまで積み上げられた夥《おびただ》しい数の分厚い専門書とフラスコなど実験備品がすべてドイツ製であることが、ここで何か特別な研究が行われていた事実を物語っていた。不気味さを感じながらも作業を開始しようとしたとき、ある刑事がボソリと言った。
「ここは遠藤が細菌研究をやっていた部屋だ。この細菌に感染すると、二年くらいで突然死するらしい……」
その言葉に全員が凍り付き、思わず防毒マスクに手をやっていた。また、こんなこともあった。
上九を訪れた最初の頃、宇兵はある女性信者に道案内されてサティアン内を視察してまわった。その後ろ姿をつくづく眺めれば、丸坊主に例のヘッドギアを装着し、真っ白いクルタと呼ばれる着衣を身に着けていた。途中、室内のトイレへ導いてくれたのだが、彼女は無表情のまま、質問にもプライベートな内容には一切応じず、前だけを凝視してとにかくまっすぐに進んでいくのだ。宇兵は室内の異臭やトイレの汚さを嫌悪するより、ロボットのような彼女の行動に、なぜか恐怖や不気味さではなく言い知れぬ淋《さび》しさを感じるのだった。
そんな体験をした数日後だった。今度は彼が作業をしているところに、やはりクルタをまとった別の女性信者と迷彩服の機動隊員が会話をしているのが目に飛び込んできた。そのときである。その女性信者がニコリと笑ったのだ。同じ年頃の機動隊員との世間話の中で、つい気が緩んだのかもしれない。普段なら記憶にも残らない一瞬だろうが、なぜかその微笑に宇兵は心を奪われた。
「あんな素敵な笑顔を持っているのに、どうして、彼女はこんな所で隠れて生活していたのだろうか」
その後も、上九にいる間中、各サティアンの中で指紋採取を続けながら、宇兵の頭からその笑顔が消えることはなかったという。人情家の彼らしいエピソードだ。
鑑識課員が泊まり込みで作業する日々は約半年続いたが、その甲斐《かい》あって、上九のサティアン群からは、多くのオウム幹部の指紋が検出された。当然といえば当然だが、教祖・麻原彰晃《あさはらしようこう》こと松本|智津夫《ちづお》はじめ、建設大臣¢$紀代秀、科学技術省長官¢コ井秀夫ら錚々《そうそう》たる指紋の山≠ナあった。
特に、早川の指紋の対照作業は「楽勝だった」と宇兵。なぜか――
「早川は、村井とともに過去に指紋を消そうとした形跡がある。しかし、彼らが思ったほど完璧《かんぺき》には指紋は消されておらず、そのために、かえって、そのときの傷が特徴となったからだ」
まさしく、墓穴を掘ったわけだ。たしかに早川と村井は、平成一年一一月、坂本弁護士一家を殺害した約三週間後にドイツのボンへ行き、そこで指紋を消そうとしている。方法は、フライパンに指を押し付けて焼くという、乱暴にして原始的な指紋消去法だった。追い込まれた彼らの心理がうかがえるが、エリートと呼ばれた村井が、どんな苦悶《くもん》の表情で熱したフライパンに両の手を押し付けていたのだろうか。
人間の指は一番表面に表皮があり、その下に真皮があって、さらに下が指肉の部分となる。だが、フライパンに押しつけたくらいでは、表皮は焼けても真皮は残っていたのだろう。結局、指紋は消えずに、彼らは東京に戻ってオウム真理教付属医院顧問の中川|智正《ともまさ》から指紋消去手術を受けている。
「おそらく、電気メスでキズをつけるような方法で指紋を消そうとしたのだろう。早川の指紋は、指の中心部が五ミリほど消えていた。しかし、指紋を対照するときにポイントとなる特徴点は一本の指におよそ一〇〇あって、中心部を五ミリ削り取っても、まだ半分の特徴点が残る。われわれには一二の特徴点があれば十分だ。彼は知らなかっただろうが、指の周囲の指紋も、掌《てのひら》全体の掌紋も残っていて、早川の場合、かえって、その傷が他と差別化するときのポイントとなって対照しやすかった」
オウムの幹部たちがあえて指紋を消そうとしたのは、犯人である痕跡をなくすことで「完全犯罪ができる」と思ったからだ。彼らのことだから、指紋についても研究に研究を重ねた末の消去手術だったに違いない。
しかし、優秀で研究熱心なはずのオウム幹部でさえ、指紋を甘く見ていたようだ。たしかに、コンピュータの照合では、当初、彼らの偽装指紋≠ヘ漏れていたようである。だが、宇兵ら指紋のプロの鍛え上げられた目は誤魔化《ごまか》せなかった。
最初に、早川の指紋原紙が宇兵のもとに届いたときだ。早川の指紋は、以前に彼が熊本県の波野村で逮捕されたときに採られていたものだった。原紙には身元や犯罪歴などの情報が書き込まれているが、早川の場合には、『指の先に変形あり。修行のためのタコとのこと』と、注意書きが添えられていた。が――
「違う! これはタコなんかじゃない」
宇兵はその異常さを一瞬に看破した。
「こいつは明らかに指紋を消した跡だ。しかし、なぜ、そこまでして指紋を消そうとするんだ。何か、とてつもない犯罪をたくらんでいるのか……」
実は、その背後には別の意味が隠されていた。あとからわかったのは、指紋消去手術のきっかけは、例の坂本事件だったのだ。
早川も村井も坂本弁護士一家殺害事件に関わった犯行グループの一味だが、その中でこの二人だけが、犯行の際に手袋を着けていなかった。もしかしたら、犯罪の証拠となる指紋を自分たちは現場に残してきたのじゃないかという底知れぬ恐怖――つまり、坂本事件の犯人である証拠を隠すための指紋消去だったわけだ。
また、早川はなぜか小指の指紋だけは消していなかったというが、その理由も、「海外に行くこともあった早川は、諸外国で事件などに巻き込まれたときに身分を証明するものが何もないと困るということで、一本だけ指紋を残していたのでは」と、宇兵は読んでいる。
早川は、この通り。村井はすでに四月二四日に死亡していたので、死体から対照するための指紋を採取した。そして、教祖・麻原だが、この男も新たに指紋採取をすることになり、捜査一課から要請がきて二人の係官が派遣されることになった。
宇兵は、いささか心配だった。護送されるときの様子を聞いていたが、一課はかなりナーバスになっているようだった。もしかしたら、指紋採取も拒否されるのではないか――気付いたときは、出かけようとする係官に発破をかけていた。
「相手は教祖か何か知らないが、詐欺師のような野郎だ。毅然《きぜん》とした態度を忘れるな」
これが効いたのかどうか、麻原は警視庁の取調室で、すんなり十指の指紋を採らせたという。
さて、レンタカー申し込み用紙からの指紋検出の直後より全国に特別手配されていた松本剛が逮捕されるのは、地下鉄サリン事件からほぼ二カ月後の五月一八日。その前の四月八日には石川県|穴水《あなみず》町の貸別荘で潜伏の事実が判明したが、ここでも指紋が大きな役回りをした。
この貸別荘を三月二五日から借りていたのは、麻原の主治医の林|郁夫《いくお》だった。林が自転車泥棒で逮捕されたことでこの貸別荘の存在が急浮上し捜索されるのだが、そこから松本剛の指紋が検出されたのだ。
松本は間一髪、逃走したあとだったが、室内で食料の食べカスなどと一緒に見つかったものは、その場には似つかわしくない、何とも異様な医療器具の数々だった。鎮静剤のアンプルや手術用のメス、血の付いた脱脂綿、注射器とともに整形手術の概要を示すテキストまで。さらに女性用のカツラや二七センチサイズのパンプスまでが発見されるに及び、松本は林によって整形手術を施され女装して逃走している可能性が強まった。
室内から松本の指紋が見つかったと書いたが、厳密には掌紋であった。松本は、林から指紋を消す手術を受けていたのだ。
「強制捜査のきっかけを作ったのが松本の指紋だったとしたら、オウムとしては、二度と再び松本の指紋をこの社会に撒《ま》き散らすことはできないと考えたのではないか。その証拠に、松本に施された手術というのは、これまでのような指紋を焼いたり削り取ったりというものではなく、二の腕を切開して、その皮膚を移植するという複雑で最終手段的なものだった」
後日、宇兵の元に逮捕後に撮影された松本の指紋の写真が届いた。そこに写し出された指先の様を見て、彼は愕然《がくぜん》とした。皮膚と肉の一部をまだらに筋状に削り取った痕《あと》は赤く腫《は》れ、刺すような痛みがこちらにも伝わってくるようだった。たしかに指紋消去の痕跡《こんせき》なのだろうが、手術と呼ぶにはあまりに杜撰《ずさん》で痛ましいものだった。過去、何百万枚という指紋を目にした宇兵だが、こんな悲惨な――人間として惨めな――指紋は初めてだった。
「愚かなやつらだ……」
こうして、移植手術までして指紋を消そうと試みたオウムだったが、しかし、まだ彼らは甘かった。
指紋を消しても、人間には掌全体に掌紋があり、そこにも個人識別に十分な幾多の隆線(指の汗腺《かんせん》の開口部が隆起したスジ、起伏)が刻まれている。そして、この掌紋によって、松本はどんどん追い詰められていき、最後は、足立区のJR北千住駅前の居酒屋で仲間と落ち合い飲食した翌日に逮捕される。彼は居酒屋で、さすがに逃亡中とはいえ修行中の身であるからか、それとも手術後の激痛からか、ビールではなくウーロン茶を飲んでいたというが、宇兵は松本がそのときコップをちゃんと掴《つか》めていたかどうか、といぶかる。
「松本のように皮膚を移植して指紋を消した場合、その形状の赤みと痛みは一生、続くはず。彼はお札も数えられないだろうし、コップだってツルツルしてまともに持てないのではないか。指紋というのは、人間にとっては滑り止めの役目もあるわけだから……」
普段、意識することはないが、われわれは多大なる指紋の恩恵を被って日常生活を送っている。もし、指紋がなかったら、まともにコップ一つ持つことさえできないというのだから。それを思うと、オウム信者の彼らにとって指紋を消す行為は、人間であることを止め、「教祖の意のままに行動します」との究極の恭順の意思表示だったのかもしれない。
焼付指紋――神田強盗放火殺人事件(一)
どんな偽装工作を施されようが、必ず現場のどこかに犯人に結びつく証拠が眠っている。それを、知恵とねばりで掘り起こすのが鑑識の仕事であることを改めて認識させられる事件が起きた。昭和五六年七月のことである。
犯人は、千代田区神田にある台所用品を扱う会社の財務係の男、三三歳。数年前から密《ひそ》かに会社の金を小出しにして使い込んでいたが、気付いたときには一四〇〇万円という大金に。そんな折り、にわかに会社の合併話が持ち上がり、発覚を恐れた財務係は、とりあえず証拠書類を残業時に燃やして時間稼ぎをしようと、家から灯油を持ってきて準備していた。しかし、犯行当日、上司の財務主任が残業を急に言い出してなかなか帰宅しないため、業《ごう》を煮やした末に殺害を決意する。
自分のロッカーに入れておいたソフトボール用のバットを持ち出し、上司の背後から「もう帰りましょう」と声をかけながら、上司が振り向きざま殴りつけ、逃げるのを階段上まで追い、さらに殴り続けて殺害。
その後、金庫から約二六〇万円を盗み出し、七階の事務所と同じ階の書類倉庫に放火した上で、立ち去ろうとドアを開けた途端に鉢合わせした警備員を同じくバットで撲殺し、姿をくらました。
事件が発覚したのは、翌朝、厳密には七月七日の午前八時三一分に入電された一一九番通報によってだった。
その朝、出勤した警備員が閉じたままのシャッターをこじ開けビル内に入り警備員室へ行ってみると、前夜から詰めていたはずの警備員の姿がなく、室内には煙が立ち込めていた。放火された後も、火勢は何とかビル内で燻《くすぶ》っていたと思われる。さらに気付けば、エレベーターの表示が六階で止まったままだった。不審に思った警備員は内階段から六階へ上がったが、ここには異常はなく、さらに七階へ上がろうとした途中、踊り場で一人目の被害者の財務主任を発見。すぐに一一九番通報している。
やがて、救急車と消防車が到着。直後、消火活動をしていた消防隊員が七階の書類倉庫内で二番目の被害者である警備員の焼死体を発見した。解剖の結果、二人の被害者の死因はいずれも頭蓋《とうがい》内損傷と失血で、凶器は鈍体で棒状のものと判明。また現場検証により、前日夕刻に金庫に入れられたはずの現金二六〇万円が紛失しており、これらの状況から凶悪な強盗殺人事件であると断定。即日、神田署に特別捜査本部が設置された。
「熱《あ》っちいな……」
現場に着くや、宇兵ら一五人の鑑識係をビル火災特有の熱気と悪臭が襲った。次に目に飛び込んできたのは、地獄絵のような事務所の光景だった。もちろん消防隊によって火は完全に消されていたが、椅子やスタンドのプラスチック部分が原形をとどめぬほどグニャグニャになっており、消火活動のため床は水浸しだった。
「こりゃ、やっかいだな」
殺人などの凶悪犯罪を犯した犯人が、証拠隠滅のため放火して逃げるというパターンは間々見られる。ときに、死体さえ焼き尽くしてくれるのではないかと思い込むようだが、死体はもちろん、すべての証拠が燃え尽きることはない。だが、さすがの宇兵も、現場の惨憺《さんたん》たる状況を前に少し気弱になってしまった。
こんなとき、自分を支えてくれるのは、「必ずホシはどこかに証拠を残している」「必ずホシを鑑識活動によって挙げる」という信念だけだった。宇兵は犯人の逃走経路を思い描いた。一階の出入口が閉鎖されたままで、なおかつ一階には警備員室があるということを考えても、犯人は上へ逃げたに違いない。ただ、被害者を撲殺している以上、犯人も返り血を浴びている可能性は高く、それが手などに付着していれば、必ずやどこかに指紋を残しているはずだ――確信した宇兵は、出入口付近にしゃがみこんで念入りに指紋が残っていそうな場所を探し始めた。
まずは鳥の眼で、部屋の構造全体を脳裏に叩《たた》き込む。このとき、当然のこととして、犯行現場となった部屋がビル全体の中でどんな位置関係にあるかを把握する。ドアや窓の場所、机の配置、内階段とのつながりまで。さらに、そのビルが町の中でどんな立地にあるかを頭の中の地図で再構成する。そこまでしなければ、犯人の入り≠ニ帰り≠見通すことはできない。それから、今度は蟻の眼で、指紋が残っていそうなポイントを探っていく。ほどなくして、宇兵の動きが止まった。
「やっぱり、ここしかないだろう」
宇兵の目の前に、七階事務所のドアが無残な姿で横たわっていた。消防隊が、消火活動のためにわざと外したのかもしれない。犯行直後にはもちろん普通にドアの機能を果たしていたわけで、犯人はここから外に出るとき、そのノブを触らないわけにはいかなかったはずだ。
「あれは……」
そう思ってドアノブに近づいてみると、全体に煤《すす》がかかって黒ずんでいるものの、一部に、その黒ずみが激しい箇所が認められた。
「これが指痕ではないか。しかし、煤だらけで、隆線なんて見えやしない……」
そのときだった。
「足跡を確保!」
思案する宇兵の耳に、足跡係の声が飛び込んできた。被害者の返り血を踏んだ犯人の足跡が発見されたのだった。その声にせき立てられたように、宇兵は指紋係も負けずに結果を出さねばならぬと意を決した様子で、両手でドアを持ち上げつつ、おもむろに立ち上がると、
「おい、そっち、持ってくれ」
すでに焼け落ちていたドアは、四人がかりなら十分に持ち運べそうだった。
「塚さん、どこへ持っていくつもりだい?」
「この上が屋上だろ。ちょっと天日で乾かしてみようと思うんだ」
「そうか」
「あとは奇跡を祈るしかない」
一か八かの賭けだった。ノブをさらに乾燥させ刷毛《はけ》で払うと余分な煤が落ち、終《しま》いにはノブの金属素材が出てくる。そこに、何らかの痕跡を見つけられるのではないかと読んだのだ。幸い、その日は好天だった。宇兵らは屋上に着くと、早速、ノブを太陽光に当てた。
「駄目だ。熱が弱すぎる」
「おい、至急、ドライヤーを用意してくれ」
「わかりました」
やがて届けられたドライヤーのスイッチを入れると、宇兵は慎重にノブにそれを近づけていった。
「おっと、危ない、危ない」
そう言って、今度はドライヤーを引き離す宇兵だった。完全にカラカラに乾かしてしまうと、せっかく残っているかもしれない指痕まで台無しにしてしまう。彼はドライヤーの温風を微妙な間合いで吹き付けつつ、刷毛を使い続けた。
一〇分、三〇分、変化はない。こうなれば、もう根比べである。宇兵は、あたかも赤ん坊の肌を撫《な》でるような慎重さで刷毛を使っていった。小一時間が過ぎたときだった。赤黒く癒着したノブの表面に、数本のウズが浮き出てきたのだ。
「出たぞ!」
「血液まみれの指紋だ」
指紋の形に血が焦げた、いわば黒い指紋だった。犯人は、放火によって証拠を消したつもりでも、実は被害者の返り血を手や体に浴びており、その手でノブをつかんだことで動かぬ証拠を残したのだ。
「やりましたね」
「おい、写真係、頼んだ!」
すでに本部に依頼して待機させていた指紋専門の写真係が、指紋を接写しようと、カメラのレンズをノブ部分に限りなく近づける。ゼラチン紙に転写できない指紋は、最も鮮明な形で写真に残すのだ。
カシャン、カシャン、カシャン――宇兵らが注視する中、吹きさらしの屋上に乾いたシャッターの音が連続して響いた。
焼付指紋――神田強盗放火殺人事件(二)
指紋係の仕事は、現場に残された指紋を採取することである。当然、その数は多いにこしたことはない。この現場でも同じだった。いや、犯人が故意に火災を起こして証拠隠滅のための偽装工作を図ったのが明らかなだけに、宇兵らは意地になって指紋を捜していた。
現場に臨場し、さて、指紋採取の最初のポイントをどこにするかは、これは捜査官の読みとカンしかない。例の昭島|女将《おかみ》殺人事件でも、あの、カウンター側面を採取場所に選んだ時点で、捜査側の勝利は決まっていたのかもしれない。
さて、宇兵らが屋上でノブの血紋を何とか採取しようとしていたのと同時進行で、捜査一課と他の指紋係との間で、ある可能性が議論されていた。犯人が七階からさらに上方に逃走しているのは間違いないと思われただけに、屋上から一階まで続く排水パイプを伝って地面まで下りたのではないかというのだ。
ビルは八階建てで目まいを誘うに十分な高さがあるが、犯行発覚時、一階出入口のシャッターが閉まっていた事実を考慮しても、犯人の背に羽根でも生えていない限り、その可能性は大きい。現にパイプを屋上から見下ろしたところ、何かでなぞったように、地面まで一本の線が連続して残されているではないか。
「やっぱり、これを伝って下りたんだ」
「どうしてわかるんですか」
「あのナメクジの這《は》ったような線は、ホシのベルトのバックルの跡だ。ホシは両手でパイプを抱えて、腹をパイプに押しつけて、擦《こす》りながら下まで行ったんだよ。きっと、このパイプにも十分な数の指紋が残っているはずだ。よし、誰か、パイプの指紋を採ってきてくれ」
「…………」
しかし、飲み込まれるような眼下の高さにビビったか、みんな恐る恐る地面を覗《のぞ》き込むだけで、宇兵が言い出しても誰も名乗りを上げようとはしない。仕方なく、言い出しっぺの宇兵が採取することとなる。
床に這いつくばったり、机やテーブルの下にもぐり込んで指紋採取作業をするのはもちろん、ときには、手鏡と懐中電灯を使って不自然な姿勢で普段は死角となっている部分から採取することもある。そんなとき、自分が大男でなくてよかったと思う瞬間もあった。しかし、今回のようにビルの屋上から宙吊《ちゆうづ》りになりながらの指紋採取は、さすがの宇兵も経験がなかった。
命綱を付け、部下にロープを垂らしてもらいながら、宙吊りの宇兵が排水パイプ伝いにゆっくりゆっくり下りていく。手には染料に使う薬品の一種であるインジゴ粉末を持ち、それを指紋がありそうな部分だけではなく、パイプの全面に塗りながら慎重に作業を進めていった。
「おい! ゆっくりやってくれ」
途中、放り出されそうになりながらも、宇兵は手元だけは慎重に刷毛を使いつつ下っていった。
採取作業を終えようやく着地したとき、部下らは宇兵の顔を見るなり、場違いな笑い声を漏らした。その顔が、インジゴ粉末をまともに浴びて真っ青になっていたからだ。しかし、彼らの笑顔は長くは続かなかった。その場で行われた鑑定の結果、パイプからは指紋が一個として発見されなかったからだ。
その結果を聞かされた宇兵は、思わず、
「なぜだ!」
と叫んでいた。
宇兵は、必ず犯人が伝って下りたパイプからは複数の指紋が検出されると信じていた。だからこそ、自ら命綱を付けて下りることを買って出たのではなかったか。だが、結果として検出されないのも、また事実だった。
一方、屋上でドアノブから採取し、本部に持ち込んで検査、対照を行っていた血紋からは、個人を特定するに十分な一二以上の特徴点が発見されていた。確認されたのは、たった一本、左手中指の指紋だったが。
実は、犯行現場となった同社では数カ月前に窃盗事件があり、そのときに関係者指紋として採取していた財務係の指紋と合致した。さらに、返り血を踏んだ足跡も、財務係が普段使用していたサンダルと一致。この両者の一致は財務係を被疑者とする決め手となり、翌日には、特別捜査本部は財務係を強盗殺人、現住建造物放火で全国に指名手配し、捜査は財務係の追跡に重点が移った。
犯人の財務係は、上司とガードマンを殺害して放火、会社のビルを飛び出して以降、関東近県を転々としたあと、長野から山形の山深い温泉地に逃げ延びていた。供述によれば自殺を考えていたというが、おそらくは死ぬ勇気もなかったのだろう。都内に住む実兄に「逃走に疲れた。これから出頭する」と電話した直後、宿泊していた旅館の主人に付き添われて自首している。
男が自首を決意したのは、逃走四カ月の間に、ラジオで自分が全国指名手配されたことを知ったからだった。宇兵ら鑑識課員が知恵を絞って採った指紋と足跡が犯人を追い込み、事件を解決したのである。
さて、宇兵は、この事件の鑑識捜査から一つの原理を突き止めた。それは、例の排水パイプに指紋が付着していなかった理由であった。犯人の手指も、またパイプ側も、どちらも微細な埃《ほこり》でひどく汚れている場合、すぐに犯人の指の隆線と隆線の間にその埃が詰まって真っ平のツルツル状態になってしまい、指紋や掌紋が印象されなくなる(つかなくなる)というものだ。
当初、あのビル側面の排水パイプからは必ず指紋を採取できるはずだと信じて疑わなかった宇兵は、のちに実験を行い、この指紋と埃との因果関係を再確認している。こうやって失敗したり成功したり、その度に理論を一つひとつ組み立てていきながら、指紋捜査のさらなるプロフェッショナルへと成長していくのだった。
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第6章 報 恩
――フィリピンでの陣頭指揮
昭和五七年四月、宇兵のもとへ、JICA(国際協力機構)を通じて、フィリピンの国家警察軍から鑑識捜査の指導に来てほしいと依頼があった。宇兵にとっては、二度目のフィリピン行きだった。
最初は二年前、三週間の日程で警察庁や警視庁の選抜メンバーの一人として、やはり鑑識技術の指導を行っていた。その際、日本の鑑識のレベルの高さに驚愕《きようがく》かつ感服した現地警察が、一年後、再び宇兵を名指しで指導を要請してきたのだった。しかし、警視庁はこの要請に応じなかった。彼を長期間失っては、警視庁の指紋捜査に支障をきたすと懸念されたからだ。
そして、さらに一年後、再びフィリピンから宇兵名指しの要請が届いた。ここにきて、上司の課長は言った。
「二年越しでラブコールを送られちゃ、行かないわけにはいかんだろう」
こうして、任期二年間のフィリピン行きが決まった。早速、半年間の語学研修がスタートしたが、茨城|訛《なま》りにコンプレックスを持つ彼は、
「なんで、指導に行く俺が英語を勉強しなきゃいけないんだ。教えてもらうという気持ちがあるのなら、向こうが日本語を勉強すべきじゃないか!」
しかし、英語に悩んでばかりいるわけにはいかなかった。もっと大切なことが、宙に浮いたままだったのだ。
「とんでもない。私は嫌ですよ」
最初に妻にフィリピンへ一緒に行こうという話を持ちかけたとき、彼女は即座にそれを拒否した。
「子供のことを考えてくださいな。まして、フィリピンなんて……今まで通り、家のことは心配ありませんから、安心してお父さんだけ一人で行ってください」
宇兵は、妻のこの返答に二の句を失った。子供の問題というのは、長男が高二、次男が小二だったが、特に長男は進学を控え微妙な時期にあった。さらに潔癖な彼女は、当時、マニラを筆頭に日本人によるアジアの買春ツアーが盛んに報道されていたことから、フィリピンに対していいイメージを持っていないようだった。
しかし、宇兵に一番手痛かったのは、妻の「今まで通り、家のことは心配ない」という言葉であった。警察に勤務してから二七年、鑑識の職を得てからは一五年間、けっしていい夫、いい父親ではなかった。
まだ年も若く刑事職にあった時分は家庭を顧みるゆとりなんかなかったし、鑑識課に配属され、のちに部下を持つようになってからも、彼らには「いつでも現場に駆けつけられるよう、日頃から家でくつろぐ習慣をつけるな」と命じ、もちろん自らも率先してそうした生活を強いてきた。親族の冠婚葬祭さえ、いや、「危篤なら知らせる必要はなし」と、自分の親の葬儀の出席さえ当てにできない夫に、やがて妻は家庭の中から努めてその存在を消すようにしたし、息子たちも父親には学校行事の参加を最初から期待しなくなった。
こんなこともあった。次男が小学生のとき、ふざけていて友達の歯を折るという怪我をさせてしまった。相手の父親は激怒しており、担任は妻に一緒に謝罪に行きましょうと持ちかけた。しかし、彼女はきっぱりと申し出を断った。
「学校の先生に出ていただくことではありません。私の息子の問題ですから、私がきちんと先方と話をしてきます」
宇兵は、あとになって近所の同級生の父親からその話を聞かされ、妻にすぐに自分に打ち明けてくれればよかったのにと言った。すると、彼女はこう答えたのだ。
「いえ、どこの家庭でも父親は仕事、子供のことは母親と思っていましたから」
つくづく、この女房には頭が上がらないと思ったものだ。
ただ、あえて言うならば、宇兵が鑑識の仕事に情熱を燃やしたのは、少しでも犯罪を減らし、自分の妻や子のような普通の家族が安心して暮らせる社会になってほしいという一念からだった。幸い、子供も二人とも男の子だったこともあり、彼は口に出しては言わないが、常に背中で自分の生き様を示してきたつもりだった。たしかに妻に対しては、女房孝行と呼べるような行動は皆無で、まさしく彼女が言う通り、迷惑のかけっぱなしの二七年間だった。子育てに没頭していたはずの妻が物言わぬ植木に凝っているのを知ったのも、つい最近のことだった――。
しかし、宇兵にしてみれば、だからこそフィリピンに彼女を誘ったのだ。海外旅行どころか飛行機にも乗ったことのない妻に、ちょっとした異国体験を味わわせてやりたいと、本音を言えば「罪滅ぼし」だったわけである。そんな心情がようやく通じたか、長い説得の時間があって、彼女もようやく折れ、受験前の長男は実家に預けることにして、妻と次男がフィリピンへ共に行くことになった。
イメルダの壺事件(一)
二年間の期限付きで宇兵が派遣されることになったフィリピンは、いわゆるマルコス時代であった。マルコス氏は、戦後、フィリピンが共和国として独立してから六代目の大統領で、ちょうど前年までの戒厳令もあって、その独裁体制には反対運動が激化する兆しを見せていた――。そんな情勢下で、国家警察軍で鑑識の指導を行う予定だったが、宇兵本人にしてみれば、鑑識の中でも指紋捜査の極意を一人でも多くの後継者に伝えたいという思いしかなかった。
当時、国を統制するのは四軍からなる国家警察軍で、宇兵はその直轄組織である犯罪科学研究所の本部に詰めることになった。驚いたのは、まず、指紋の使われ方であった。指紋を個人識別に使うという考え方はたしかに存在していたが、ただし、それはもっぱら「就職用」としてだった。
フィリピンでは、大手企業や大きなお屋敷などにメイドとして就職するとき、あらかじめ指紋を提出・登録しておく習慣があった。これがなされていないと就職はできないという、つまりは身元保証の手段であった。犯罪現場での使われ方よりも、どちらかというとこちらが主で、犯罪の現場での指紋捜査となると、宇兵の目にはゼロに近いレベルとしか捉《とら》えようがなかった。犯罪現場に臨場して指紋を採取するのは月に一度あるかないか、それも金持ちや警察官の知人が被害者で、強く依頼された場合のみというのが、当時のフィリピンの指紋捜査の実態だった。
「マラシガン カモン!」
けっして流暢《りゆうちよう》とはいえない、宇兵の英語がオフィスに轟《とどろ》く。ここ数日、日に何度、同じ名前を繰り返し叫んでいるだろうか。
『ただ闇雲に指紋捜査の技術を伝えても、知識の垂れ流しにしかならないだろう。それならば、自分が見込んだ一人の人間に確実にノウハウを伝授し、その人間を通じて広めていくほうが効率がいいのではないか――』
宇兵は密《ひそ》かにプランを練り、そして白羽の矢を立てたのが、マニラ大学出の中堅研究所員、三〇代前半のマラシガンだった。まだ青年のような彼の生真面さと、何より指紋に興味を持っていることが宇兵の眼鏡にかなったのである。
しかし、宇兵がマラシガンを独占するようになった途端、今度は彼の上司にあたる女性チーフが何かと突っかかってくるようになった。たとえば、宇兵がマラシガンを現場に同行させようとすると、そのチーフは、「幹部が率先して現場に行く必要はない。幹部は部下に命令を下すだけでいい」と来る。また、イギリス留学の経験を笠《かさ》に着て、何かと言うと「イギリスは」と、宇兵のやり方を牽制《けんせい》してくる。
そんなとき宇兵は、
「いや、私は日本流の鑑識捜査をマラシガンやあなた方に伝えたいだけなんだ。そして、幹部が率先して部下と共に現場に出るというのが日本流のやり方なんだ」
と答えた。それ以上、彼女が何かを言ってくることがないのも知っていた。要は、女の嫉妬《しつと》なのである。マラシガンは、なかなかのハンサムだった。
それより困ったのは、宇兵はまずマラシガンに技術を教え、それをさらに彼の同僚や部下たちに伝えてもらうつもりだったのだが、お国柄のせいか、他のスタッフはマラシガンの元へ聞きに行こうとはせずに、やっぱり宇兵に教えを請いにやってくる。また、マラシガンも、宇兵から学んだ技術を自分だけの秘蔵の宝物のように、外部に漏らそうとはしないのだ。これでは二度手間、三度手間である。仕方なく、宇兵はマラシガンや現地スタッフの一人ひとりに、その真意を説いてまわった。
そんな奮闘の日々を送っているときだった。宇兵を名指しで、ラモス長官(のちの大統領)から捜査依頼が舞い込んだ。
イメルダの壺事件(二)
ちょうどその頃、マニラのデパートでクリスタルの展示会が行われていたが、オープン早々、会場から盗まれていた時価数百万円のクリスタルの壺《つぼ》が、一週間後になって、デパートのトイレから発見されたのだという。どうやら、犯人は盗品のクリスタルをとりあえずはトイレの天井裏に隠しておき、ほとぼりが冷めたところで持ち出そうと計画していたらしい。
依頼の内容とは、壺からの指紋検出による犯人の割り出しだった。また、ラモス長官直々の要請というのは、そのデパートの実際の経営者がかのイメルダ大統領夫人で、出展されたクリスタルの中にも夫人の所有物がかなりあるとの話だった。
現場に到着した宇兵は、よく効いた冷房にホッと安堵《あんど》しながらも、見事なクリスタルの壺を前に一転、毅然《きぜん》とした口調でマラシガンに命じた。
「マラシガン、俺が教えた通りに指紋を採ってみろ」
マラシガンは、やや緊張の面持ちでゆっくりと作業を開始した。今では指紋採取に使う機材もほとんど日本と同じ物が使われているが、フィリピンを最初に訪れたときは、いかにお金をかけないで採取作業を進めるかが、宇兵にとって一つの課題だった。なぜなら、下手に予算がかかるとなると、そこで指紋捜査の流れ自体がストップしてしまう恐れがあるからだ。そこで宇兵は一計を案じた。お金をかけないで済む代用品を考案したのだ。驚くなかれ、刷毛《はけ》の代わりはニワトリの羽根を束ねて、ゼラチン紙にはセロテープを代用させ、採取のためのアルミ粉末に至っては、なんと鍋《なべ》・釜《かま》の煤《すす》を用いたという。
「よし、君は表をやってくれ。中はまだ君には難しいだろうから、俺が採る」
「えっ、中も採るんですか」
「当たり前だ。このクリスタルの壺の形状からして、犯人は焦って運ぶときに必ず中にも手を突っ込んでいるはずだ」
クリスタルからは全部で八個の指紋が採取できた。現場の状況から、内部犯であるのは、ほぼ間違いなかった。宇兵は、次にデパートの警備担当に言った。
「従業員の指紋ファイルはありますね」
「もちろん」
「では、それを貸してもらいたい」
早速、運ばれてきた指紋ファイルを見て、宇兵は驚いた。数にして六〇〇枚以上、机に積み上げると優に五〇センチもある。
「ようし、見てろよ」
こうなると、俄然《がぜん》、燃えてくるのが性分だ。
クリスタルから採れた現場指紋を頭に叩《たた》き込み、彼はマラシガンと共に従業員の指紋との対照を始めた。周囲では、警備担当はじめデパートの関係者が不安そうな目で二人の手元を凝視している。しかし、宇兵に焦りはなかった……そして半分の量が終わりかけた数分後、約三〇〇枚目の指紋資料でその指はピタリ止まった。
「警備員さん、この男はクリスタル展に関与した人間ですか」
「いいえ、ぜんぜん違う売り場の人間です」
その答えに、関係者から落胆のため息が漏れた。一人、宇兵の反応だけが違っていた。
「いや、そうじゃないんです。展示の関係者であれば、クリスタルに触れる可能性があるから、指紋が出ても不自然ではない。しかし、触れるチャンスがないはずの男の指紋が検出された以上、この男が重要参考人です」
あとは時間の問題だった。当時のフィリピンでは、犯人を突き止めるための捜査手法が未発達で、警察も犯罪者も現行犯でなければ逮捕は難しいとの思い込みが強かった。しかし、指紋を使えば、現行犯でなくても、たとえ逃走した犯人であっても逮捕することができる。それが実証された事件だった。
初めてフィリピンで迎えた、その年の正月。日本大使館の新年会に招《よ》ばれた宇兵は、公使に名刺を渡しながら挨拶《あいさつ》をした。
「あなたが塚本さんでしたか」
「はあ、何か?」
「例の、マニラのデパートのクリスタルの犯人逮捕で……」
「はあ、お耳に入っていましたか」
「ええ、ええ。あのあと、イメルダ・マルコス夫人から直々に電話でお礼があったようですよ。日本からきた指紋捜査官はマジシャンのようだと」
宇兵が顔を赤らめたのは、乾杯のシャンパンのせいばかりではなかった。
ご恩返し――緊急指紋捜査チーム(一)
フィリピンでの最初の一年はあわただしく過ぎていった。赴任二年目には、ベニグノ・アキノ元議員の暗殺事件が発生した。宇兵は、自ら実況見分を指揮しようとしたが、これは当時の極めて緊迫した情勢を理由に実現しなかった。
宇兵がフィリピンで身を粉《こ》にして教えていたのは、指紋捜査に関する技術ばかりではなかった。あるときは、「ガン(銃)の撃ちっ放し」の誘い文句にだまされ遊んだ挙げ句、法外な料金をふっかけられて軟禁された日本人観光客を現地のヤクザ組織から救出した。ドラマさながらに、ジャングルの中を犯人追跡に駆け回ったものだ。
もちろん、指紋捜査の指導に関しては思っていた以上の成果を挙げていた。マラシガンも最近では単独で現場に出向いて指紋を採取し、事件解明に貢献できるまでに成長していた。他のスタッフも着実に技術を身に付けていた。こうして約束の任期の二年が終わろうとしていた。
帰国を一週間後に控え、国家警察軍の関係者やJICAの仲間たちが送別会を開いてくれた。
「あっと言う間でしたが、私の教えられることは、すべて優秀なスタッフの方々に伝えることができたと自負してもおります。素晴らしい人たちと出会え、ここフィリピンは、私にとって第二の故郷となりました。本当に、みなさん、実りある二年間をありがとうございました」
宇兵は、慣れないスピーチを口にしながら感慨無量の思いに浸っていた。
送別会から三日後、帰国まであと四日と迫った日の早朝五時三〇分、宇兵はJICA次長の突然の来訪で眠りを破られた。
「何事ですか?」
「A君が刺された」
「えっ、彼が。で、彼は――」
無言で、首を横に振る次長だった。
「そんな馬鹿な」
宇兵の脳裏に、三日前の送別会で司会を買って出てくれた日本人青年の顔がまざまざと浮かんだ。面倒見がよく、通訳を含め公私にわたり何かと慣れない宇兵をサポートしてくれた彼は、マイクを握りながら満面の笑みをたたえていた。フィリピンに来てから、ほとんど毎日接してきた笑顔だった。いい若者だった。
「とにかく、一緒に行ってくれませんか」
「もちろんです」
宇兵らが車で五分の現場サン・ロレンソ・ビレッジに着いたとき、すでに管轄の地方警察軍の私服警官四人が現場検証を始めていた。最初は、突然の闖入者《ちんにゆうしや》に不審そうな顔を見せたが、宇兵が身分証明証を見せると途端に安心したふうで、奥へ何かを取りに戻る様子だった。
やがて再び現れた彼らを見て、宇兵は思わず表情を強張《こわば》らせた。
「おいおい、勘弁してくれよ……」
その私服の一人が、現場となったベッドルームから、手袋もせずに凶器の包丁を鷲掴《わしづか》みにして運んできたのだった。彼にすれば、被害者の同胞へ気を遣っての行為だろうが、宇兵はこのまま任せていたら捕まる犯人も逃がしてしまうと判断、次の瞬間にはこんなセリフを吐いていた。
「現場を保存し、写真を撮りたい。今後の捜査はわれわれにやらせていただきたい」
宇兵が独自に捜査を開始しようとした午前八時頃だった。大使館から報《しら》せを受けて領事がやってきた。彼は現場で捜査活動している日本人の指紋捜査官を見て愕然《がくぜん》とした。
「塚本さん、あんたが捜査しちゃ、やっぱりまずいよ」
「わかってます。でも、これは、誰が何と言おうと私の仕事です。今日までの二年間、ここでお世話になってきて、まして警視庁の捜査官としてやってきた以上は、私がやらなければいかんと思うんです」
「でも、あなた、ここでは捜査権がないことはわかってるでしょう」
「それは承知してます。これまでも、何度か陣頭指揮を執りたい事件はありましたが、私は身を引いていました。それくらいの分別はあるつもりです。しかし、今回は違います。幸い、国家警察軍に私の教え子がいます。彼らと一緒にやるというのならできるのではないでしょうか。絶対に日本大使館には迷惑はかけません。約束します。フィリピンを愛し、この国で長く仕事をしてきた被害者の無念を考えてください。私にしても同じ思いです。ここで私がやらなければ、何のために職人の私が日本から来たかわからないじゃないですか」
「しかし、塚本さん……」
「わかっていただけますね。では、失礼します」
言い終わらないうちに、もう踵《きびす》を返している。体面ばかり気にするエリートの領事に、これ以上、理屈ばかり重ねられても埒《らち》が明かない。こんなとき、途端に十代の頃の喧嘩《けんか》宇兵に戻ってしまう。
領事とのやり取りを打ち切った宇兵は、警察キャリア出身の一等書記官と簡単な作戦会議を始めた。
日曜日だったが、そのうち、噂を聞きつけたJICA派遣の農林省や建設省(当時)の職員が集まってきた。宇兵らの交代要員として派遣されてきていた警察庁の専門捜査官も合流し、にわか仕立てではあるが、捜査チームが一応の形を成した。また、フィリピンの国家警察軍からも、エルバス大佐を通じて協力の申し出があった。
「よし、聞き込みは言葉に不自由しないJICA組に任せましょう。五班に分かれて、近所からどんな情報でも集めてください。一人は残っていただいて、メイドの証言を取ってもらいます。私たち警察組は現場を徹底捜査します」
「捜査本部にはJICAの事務所を使ってください」
職員が申し入れてくれた。これはありがたく受け入れた。
「塚本さん、あなたは帰国が迫っています。犯人逮捕まで、どれくらいの日数を想定すればいいですか」
「一〇日間、いや、一週間見てくだされば何とか」
「一週間ですね、わかりました」
「それで、申し訳ないが、私の帰国を一週間延長してもらいたいんですが」
「でも、それは……」
「被害者の彼のことを考えても、私は犯人をこの手で逮捕するまでとても帰国なんてできません」
「わかりました。すぐに手続きしましょう」
「ありがとうございます。……では、みなさん、一二時間後の午後八時にJICAの捜査本部に集合して報告会議を行うとしましょう。何とかわれわれの手で犯人を挙げようじゃないですか。よろしくお願いします」
宇兵の合図に、にわか捜査官たちそれぞれが散っていった。次に宇兵は自宅へ電話を入れると、妻におにぎりの焚《た》き出しを頼んだ。これには、すぐに一等書記官の細君らも加わった。
さあ、準備は整った。宇兵は、心配気に成り行きを見守っていたエルバス大佐と、ずっと隣で顔を紅潮させ待機していたマラシガンに言った。
「エルバス大佐、私が二年間、この地で教えてきたことを具体的に披露しますから、よく見ていてください。さあ、マラシガン、君の協力が必要だ。しっかり頼むぞ――」
ご恩返し――緊急指紋捜査チーム(二)
最初に宇兵がやったこと。それは犯行現場の徹底した検証だった。
そこは、フィリピンの日本人邸宅のどこにもあるように、天井には回転翼のファンがゆっくり回っているベッドルームだった。そこから続くサロンとゲストルームへ足を踏み入れれば、血の飛沫《しぶき》や滴下跡等により、いわゆる血の海状態になっていた。
動機は何だ。怨恨《えんこん》か、物盗《ものと》りか。だが、彼の人柄を考えると、怨恨の線は薄いだろう。電話の線も切断されている。計画的だな。やはり、物盗りだろうか。しかし、それにしては物色の跡がほとんど見られないし……宇兵は、とにかく、両方の線を念頭に現場鑑識活動を進めることにした。
それにしても手が足りなかった。日本だったら、一五―一六人の優秀な鑑識課員がいても、鑑識活動だけで優に一週間は必要なほど大きな家である。現状のスタッフとしては、大使館の書記官二名、JICA派遣の警察関係者四名(うち二名は交代要員として三日前に着任したばかり)の計六名。しかも、現場経験者は宇兵のみで、他の五名はデスクワークの一般職員であった。
『こりゃ、余程、ポイントを絞る必要があるな』
宇兵は、頭の中で今後の捜査計画を練った。
鑑識活動は、写真を五〇枚以内、指紋を二〇個以内、足跡を三個以内、現場見取り図を三枚以内、血液採取を三カ所以内の必要最小限にとどめる。人員は、自分が指導しているフィリピン側の部下二名を充て、実況見分は一日で終わらせ、同時に指紋捜査を行う。その他、JICA職員、農林・建設省関係者ら一〇名をペアにして聞き込み班として動いてもらう。
「よしっ――」
それから宇兵は、指紋捜査について考えた。
フィリピンは、周知の通り、暑い国である。犯罪者とはいえ、手袋を使用することは少ないように聞いていた。まず、遺留指紋は確実に採取できるだろう。それをいかに活用するか、だ。この国にも、前科者の指紋ファイルはある。が、日本のように、犯行現場から採取した指紋とただちに対照できるような一指指紋表は作成されていない。また、対照技能を有する人員も二―三名と極めて少ない。
捜査のポイントは、怨恨にしろ物盗りにしろ、高級ビレッジ内の犯行という点だ。フィリピンにこうした高級ビレッジは七カ所あり、このいずれかで就労した経験がないと、警戒厳重な警備の目をくぐり、住宅に侵入するのは困難だ。各ビレッジには警備員が常駐するオフィスがあり、各家で働くメイドや運転手、ハウスボーイらの履歴書、写真、押捺《おうなつ》指紋が数年間分保管されている。一カ所三〇〇〇枚の押捺指紋として、計二万一〇〇〇枚を五日間で対照していくことになるが、対照者は日本側、フィリピン側ともに二名しかいない。これは、のんびりとしたフィリピン方式では埒が明かない。少々、荒っぽくても日本式にガンガンやるしかない。
しかし――と宇兵は思った。
『これこそ、指紋捜査の原点じゃないか。遺留確度(犯人の指紋と思われる可能性)が高く、対照しやすい鮮明な指紋一個だけに絞るんだ。そして、必ず出ると確信を持ち、四名の対照者は分散させることなく、同じ事務所に集めよう。似寄り(ホシと思われる)の指紋は相互に確認し合うことにより、対照漏れもなくせるはずだ……ようし、見てろよ。必ず、敵は俺が取るからな』
それから彼は、犯人の「入り(侵入経路)」と「帰り(逃走経路)」の足取りを捜し始めた。被害者宅では、外玄関ほか出入口について、鍵《かぎ》が壊されるなど侵入された形跡が発見されなかった。しかし、建物の裏にまわって合点がいった。隣家とを隔てる塀は高さが一四〇センチくらいしかなく、犯人はここを乗り越えて隣家から侵入してきたのではないか、と読んだのだ。そこで、隣家の日本人商社マンに聞き込んだところ、
「昨夜は午後一一時頃、帰宅しました。そうしたら、うちのクリーニング・メイドの部屋の窓の所に私の時計とウォークマンが置いてあったので、部屋へ持って帰りました。そういえば、すでに窓が外れていましたね。あと、事件を知ってわかったのですが、うちの財布から一八〇ペソが紛失していました」
日本なら窓が外れていたら一大事だが、何といっても、熱帯地域でのこと。酒にも酔っていた隣家の主人は、メイドが暑くて外したのだろうと思って、そのまま二階の自室で寝てしまったという。
さらに、隣家のクリーニング・メイドに尋ねると、
「自分の部屋の窓ガラスが外されていただけじゃなくて、窓の下に置いてあったプロパンガスのボンベが移動していたのでおかしいと思っていたの」
と言うではないか。この証言を得るに及び、宇兵はここが「入り」だと読み、早速、窓ガラスからの指紋採取に取りかかった。
クリーニング・メイドの部屋の窓ガラスからは五個の指紋が採取できたが、いずれもがガラスの両端についた拇《ぼ》指(親指)と示指(人さし指)の指紋だった。また、すべて鮮明な指紋だったのは、ガラスという印象されやすい場所だったことと、事件当日という好条件が重なったためだ。
『普段、メイドが窓を開閉するときは内側から鍵を外し、窓枠を持って動かすだろう。それなのに、これらの指紋はいずれも外側にあって、しかもガラスの端に集中して残されている。間違いなく、犯人が窓ガラスを家の外側から外すときに触った痕跡《こんせき》だ。新しい指紋だというのも、クロの証拠だ。これらの指紋に絞って捜査を進めれば、きっと犯人を逮捕できるだろう』
指紋採取とほぼ同時に、隣家の庭や被害者宅のキッチンからは犯人のものと思われる足跡も数個、確保されていた。気になっていたのは、凶器に間違いない包丁の指紋だったが、ここからは宇兵が予想した通り、指紋は採取できなかった。
元来、凶器からは指紋は採取しにくいというのが彼の持論だった。
「犯行に直接使われた凶器であればあるほど、犯人はまず念入りに指紋を拭《ふ》き取っているものだ。また、この事件では、包丁で刺すという行為によって殺害が行われていた。犯行時、犯人は極度の緊張と焦り、そして何より渾身《こんしん》の力を込めていることで、包丁を握った指紋の痕《あと》は大きくズレていると思われた。わずか一ミリでもズレると、もう鮮明な指紋採取は不可能だ。とはいえ、この事件では、窓ガラスから遺留指紋が鮮明に採取できたのは大きな成果だったが」
気付けば、時刻は約束の午後八時をとうに回っていた。大急ぎでJICAに急きょ設けられた捜査本部≠ノ向かう。
「塚本さん、すごいネタが取れました」
興奮気味に話し始めたのは、フィリピン滞在八年というJICAの農業専門の職員だった。彼には、その語学力を活《い》かして、タガログ語しか通じない近所のフィリピン人の聞き込みに当たってもらっていた。
「隣家のクッキング・メイドが住み込みで働いていたのは聞いてますね。彼女、今、出産のために休んでいるんです」
「ああ、それは隣家の主人からも聞いてますよ」
「そのボーイフレンドが、前日、土曜日の午後、あの辺りをウロウロしていたというんです」
「えっ!」
「いや、よく現れてはいたそうなんですが、その日は様子が違っていたと。三軒隣のメイドの証言です」
「そうですか。われわれも重要参考人と思われる指紋を採取できました。おそらく、そのボーイフレンドがホシかもしれない」
「ホシ?」
「いや、すみません。犯人のことです」
宇兵は、当初から、被害者宅の外玄関が閉まったままであることがひっかかっていた。しかし、捜査チームの聞き込み結果を聞き、隣家とのつながりが見えた今、このボーイフレンドを重要参考人として勝負をかけるしかないと考えるようになっていた。
報告は深夜二時まで続いた。せっかく女房たちが作ってくれたおにぎりだったが、のんびりと手を伸ばす者は誰一人いなかった。
ご恩返し――緊急指紋捜査チーム(三)
翌朝、まずは宇兵自ら隣家のクリーニング・メイドに聞き込みした。
「あんたと同僚のクッキング・メイドは今、休暇中だそうだが、彼女のボーイフレンドを知ってるかい?」
「ええ、知ってるわ。彼女がいた時分は、彼もたまに顔を見せてたもの」
「土曜日の午後、その男がボスに金を借りにきたと聞いたんだが」
「そうよ、来たわ」
「お金のことは聞いてるかい?」
「たしか六〇〇ペソだったわ。それまでは借金しても二〇〇ペソだったのに、あの日に限って、なぜか六〇〇ペソ。きっと赤ちゃんができてお金が必要だったのね」
「お宅のボスは彼にその金を貸してやったのか?」
「ノー。ボスはその日、家にいなかったの。それで、彼は私にボスに六〇〇ペソ貸してくれるよう頼んでおいてくれと。そして、またどこかへ消えたわ」
ここにきて、宇兵は確信した。クリーニング・メイドに礼を言うと、間髪入れず、捜査本部が置かれたJICA事務所の一等書記官に電話を入れた。
「重要参考人が割れました。至急、マカティ警察署に連絡してください。名前は○○○、住所は×××。すぐに身柄拘束してください。なお、連行する際、男の靴と洋服も差し押さえて持ってきてください」
フィリピンでは、捜査令状がなくても、容疑者は一八時間の身柄拘束ができるのだ。表に現れた宇兵に、噂を聞きつけた現地の新聞記者が群がる。
「今は重要参考人の状態なので、まだ何も話せないんだ」
もちろん、ブンヤ(記者)がそれで諦《あきら》めるはずがない。宇兵は、逃げるようにして被害者宅に再び入っていく。どこも、ブンヤは同じだ。
約二時間後、日本の警察では考えられないような茶番劇があった。
薄汚れたジープが一台、被害者宅に到着し、
「ミスター塚本はいるか?」
ジーパンの男が玄関で声を上げているのが宇兵の耳にも届いた。
「私だ」
「あんたがミスター塚本か。よかった。こいつが、犯人の○○○だ。だけど、事件は知らないと否認してるぜ」
宇兵を名指しした男のジーパンの腰にピストルが挟んでなければ、とても警官だとはわからなかったろう。犯人とされる男は、ジープの上で両側を警官に固められておとなしく座っている。それにしても、重要参考人を被害者宅に連行してくるとは……宇兵は、重要参考人を確保できた安堵《あんど》とともに、なんと開放的、いや無防備なのだろうと、ちょっと呆《あき》れもした。
そこに、今度はにわか捜査官となったJICA職員の一人がガラスのコップを差し出しながら、
「捜査本部の一等書記官が、これで指紋を採ってくれ≠ニ寄越しました」
と言うではないか。
宇兵は一瞬判断に迷ったが、まさか、この犯行現場で白黒をつけるわけにはいかない。
「すまないが、マカティ警察署に連れていってくれないか。逃げられないように頼むよ」
と、ジーパン・ポリスに小声で依頼した。
あとで一等書記官から聞いたところでは、警察キャリアの彼は、容疑者から任意で押捺指紋を採取するのも困難と判断、コップで水を飲ませて指紋を採取して遺留指紋と照合しなければと思ったそうだ。重要参考人は強制捜査できることを、キャリアの彼は知らなかったためだが、それも犯人逮捕への情熱のなせるわざなのだろう。
クッキング・メイドの二七歳のボーイフレンドは、当初、犯行を頑《かたくな》に否認。しかし、指紋のみならず、足跡の靴の形も、その靴に付いた血液も、すべて宇兵が採取・照合したものと合致した事実を突きつけられるに及び、とうとう自供に至った。
「物盗りに入って、顔を見られたため刺した……」
犯人は、自分のガールフレンドが働いていることから勝手知ったる@ラ家の、クリーニング・メイドの部屋の窓から侵入したものの、主人が突然帰宅したため、午後一一時頃から犯行推定時刻の午前四時頃まで敷地裏の空き地に潜んでいた。数時間もじっと身を潜めていたのは、ビレッジのガードマンの巡回時間を知っていたからだ。また、奪って窓付近に置いていた時計などを主人に持ち去られたのに気付き、見つかったかもしれないと思ったらしい。だから、隣家でのそれ以上の盗みを諦め、塀を乗り越えて被害者宅へキッチン脇の小さな網戸から侵入し、そこで、宇兵もよく知っている日本人青年と鉢合わせした――。
聞きながら、宇兵はようやく肩の荷が下りたような感慨に浸ることができた。仲間を失ったことは言葉に表せぬほど辛《つら》かったが、何とかご恩返しができたように思ったのだ。もちろん、恩返しの相手は、被害者の青年とフィリピンという国だった。
終わってみれば、事件発覚の翌日に犯人逮捕というスピード劇だった。宇兵は、ずっと片腕として捜査に当たったマラシガンにねぎらいの言葉をかけた。
「マラシガン、わかったな。ボカス、ボカス(明日)≠ナは、犯人は逮捕できない。捜査は熱いうちにやらなきゃいかんのだ」
これは、フィリピンでは、警察官は「ボカス、ボカス」で五時でさっさと帰宅してしまうことが多かったからだ。なぜ定時かといえば、彼らの多くはそれからアルバイトに精を出すのである。まあ、これは不安定な国情のせいと言うべきかもしれないが。さらに宇兵は続ける。
「現行犯でなきゃ犯人を逮捕できないというのも嘘だ。どうだ、俺が教えた通り、犯人は現場に、ご丁寧にも証拠を残していってたろう。捜査員も二〇〇人も三〇〇人もいらないんだ。数人、いや、一人でもちゃんと現場をわかった人間がいればいい。手がかりは、必ずある。指紋一つが決め手だ。それが俺が君に伝えたかった、日本流の指紋捜査の基本だ」
宇兵は直弟子に語りながら、自分自身が異国の地で、指紋の底力を改めて見直している事実に気付いた。
「マラシガン、どうか、この経験を忘れないでくれよ」
「はい、ボス。ありがとうございました」
現在、このマラシガンは、フィリピン警察本部の指紋係チーフとして活躍している。
当初の予定より一週間遅れで、宇兵はともに捜査に当たった仲間たちに見送られ、マニラ空港を旅立った。妻子は期日通り帰国していたが、彼は捜査に忙殺され、見送りにも行ってやれなかった。
「やっぱり、最後まで女房には迷惑のかけっぱなしだったな」
小刻みな飛行機の振動が宇兵を軽い眠りに誘う。悲しくも誇らしい事件を幕引きに、フィリピンでの二年間が終わった。
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第7章 執 念
――一八年目の敵討ち――二度目の三億円事件
改 革
「お父さん、いってらっしゃい」
いつも通りの朝、いつも通りの妻の見送りだが、声の調子がどこか明るく、吹っ切れたようにさえ聞こえるのは気のせいばかりではない。
フィリピン以降、妻や息子たちの宇兵への態度が明らかに変わっていた。遠い異国の地という特殊な環境ではあったが、間近に鑑識の仕事を目にしたこと――妻は自ら現地での捜査に焚《た》き出しで協力もしていた――で、彼の二四時間態勢の仕事への情熱に対して、全幅の理解と信頼を寄せるようになっていた。宇兵にしても、常に家族をほったらかしにしているような後ろめたさを感じていただけに、つくづくフィリピンへ妻子を同行してよかったと感じていた。
その頃、刑事を取り巻く環境にも重大な変革があった。
ちょうどフィリピンへ赴いたのと同じ昭和五七年、被疑者留置規則が改正され、留置人の管理が従来の刑事課から警務課に移ったのである。これは、「刑警分離」ともいわれるもので、刑事にとって衝撃的な改革であった。
以前であれば、もう一息でホシが自供しそうな状況にあれば、少々の取り調べの時間の延長はその場の刑事の裁量に任された。しかし、それが有無を言わさず許されなくなった。警務課から日課時限(昼食や就寝時間)を告げられれば、取り調べがどんな状況にあろうが中断せざるを得なくなったのだ。
振り返れば、江戸時代以来、被疑者の自白を取るためなら拷問も致し方ない、見方を変えれば、自白こそ完全無欠の証拠であるという時代が長く戦前まで続いていた。もちろん、戦後は拷問そのものが憲法上も禁止されていたことから、刑事は被疑者との間にある種の人間関係≠築くことによって自供を得てきた。終戦後には、GHQ(連合国軍総司令部)により「自白偏重の捜査方法を改めよ」との勧告もあったが、あくまで日本流に曲解されていたようだ。
およそ二〇年前、宇兵が神田警察署の捜査係でデカ長として捜査にのめり込んでいた頃も、多くの先輩刑事たちは被疑者の故郷へ自ら出向き、土地の川や山の写真を撮ってきて見せる、名物の団子を買ってきて、「刑事だとは言わないで買ってきたから、安心して食え」とすすめる、取り調べが正月にかかれば家からおせちを持参する、といった努力を重ね、被疑者との間に疑似親子ともいうべき信頼関係を築いた。さらには、刑務所から出てきたあとも就職の世話では保証人を買って出て、被疑者の更生に尽力した。まさしく、あの先輩刑事たちは犯罪者にとって師であり、親代わりの「だんな」だった。そして刑事らの間でも、警察内部の階級ではなく、どれだけ多くの犯罪者を更生させたかという経験の多さが優れた刑事かどうかの目安となっていた。
しかし、こうした刑事たちの努力を、『恩を着せることにより自供を引き出す違法な捜査手法であり、その元凶は、被疑者を拘置所ではなく警察署の留置場に長期間|勾留《こうりゆう》した上、刑事がその処遇を管理することにある』とする、いわゆる「代用監獄」問題に関わる一部の批判や、冤《えん》罪事件の多くが自供偏重によるものであった事実などから、時代は確実に「自白」から「物証」重視へと変わっていく。特に、被疑者の管理が現場の刑事課から警務課に移ったことで、刑事は被疑者とこれまでのような人間関係を築くのが困難となり、変化に追いつけない多くのだんな刑事≠スちを置き去りにしながら、「自白が証拠の王」という時代も終焉《しゆうえん》を告げた。
そして、人証から物証へと捜査の比重が変化するのと歩調を揃えるようにして、宇兵が手がける指紋など鑑識の科学的捜査が俄然《がぜん》クローズアップされていくのである。
一八年目の敵討ち――有楽町三億円事件(一)
過去、何度かマスコミの取材を受けている宇兵だが、決まって聞かれるのが、「これまでで一番印象深い事件は?」という質問である。犯罪捜査というのは、もちろん一人でできるものでもないし、鑑識だけで終わるものでもない。逆に、鑑識はその端緒でしかない。まあ、そんな事情もあるから、大概の人物なら、周囲に気を遣って、「どれも同じにやりがいがあったので、一つを選ぶというのは難しい」などと答えがちだが、宇兵は違う。
「有楽町《ゆうらくちよう》三億円事件。さらに一日を挙げろというなら、昭和六二年一〇月二八日となる」
なんとも、潔いのだ。
宇兵の挙げるその日≠ゥら逆算すること約一一カ月前の昭和六一年一一月二五日午前八時、世田谷《せたがや》区|池尻《いけじり》の三菱銀行東京事務センターから、現金三億三三〇〇万円が入ったジュラルミントランク七個を積んだ現金輸送車(乗員三名)が、同行の有楽町支店へ向かって出発した。八時二〇分、現場に到着。すでに有楽町支店からは、輸送車を出迎えるために二名の行員が支店前の路上で待機していた。輸送車の運転手は現金を渡すために後部ハッチドアを開け、同じく乗員の一人が行員から現金受領証にサインをもらっていた、まさにそのときだった。
いつの間にか輸送車の後方に停車していた白色ワゴン車から二人の男が降りてきて、そのうちの一人が運転手の後頭部を何らかの凶器で一撃、別の一人が催涙スプレーを乗務員らの顔面に噴射し、ひるんだ隙に輸送車内からジュラルミントランクを奪い、乗ってきたワゴン車で数寄屋橋《すきやばし》方向へ逃走した。
同じ頃、宇兵は霞《かすみ》が関《せき》の警視庁本部・指紋係内の更衣室で、いつものように背広から濃紺の作業着に着替えていた。フィリピンから戻ったあと、正確には昭和五九年四月、警視庁鑑識課現場指紋係長(警部)となっていた。
彼が作業着のボタンの最後の一つをかけたのとほとんど同じ午前八時二四分だった。警視庁に一本の一一〇番通報が入った。
「有楽町、三菱銀行有楽町支店前路上にて現金輸送車が強奪――」
と、突然、庁内放送が更衣室に闖入《ちんにゆう》してきた。
「何!」
緊張の面持ちに変わった宇兵に、部下は悠長に、
「また誤報かもしれませんね」
たしかに、「○○銀行より緊急通報」といった庁内放送があっても、追いかけるようにして誤報であったとの訂正が入る場合もあった。しかし、このとき、宇兵の感触は違っていた。
「いや、銀行のアラーム異常感知であれば誤報もあるが、現金輸送車≠ニいう言葉まで出ていて誤報はあり得ない。こりゃ、大きな事件になるかもしれん。おい、すぐに現場に向かうぞ」
「は、はい」
すでに一一〇番通報とほぼ同時に丸の内署を中心とした六キロメートル圏配備が発令され、所轄の警察官らによる交差点での検問など、徹底した犯人の捕捉《ほそく》態勢が取られた。しかし、すでに逃走の恐れもありと判断されたか、早くも、十数分後の八時四〇分には全体配備が発令される。こうなると、警視庁の管轄である東京二三区および都下全域に検問態勢が及ぶこととなる。
この直後、まだ午前九時にはならないうちに、宇兵ら鑑識スタッフは誰よりも早く現場に臨場していた。霞が関と有楽町は目と鼻の先でもあったが、現金輸送車が襲われたという報告の何か≠ェ、いつになく足を急がせていた。
九時一五分、築地《つきじ》署員が、犯行現場からほど近い西銀座地下駐車場の地下二階に置き去りにされた、犯行に使用されたと思われるワゴン車を発見。車中には強奪されたジュラルミントランク二個、郵送用の袋四個が乱雑に置かれ、現金のみが姿を消しているのがわかった。また、同車両が盗難車であるのもじきに判明した。
午前一〇時〇〇分、丸の内署に、『有楽町二丁目現金輸送車多額現金強奪事件特別捜査本部』が設置され、捜査第一課、第一機動捜査隊、丸の内署、第一方面管下全署の特別捜査員ら総勢六三名からなる捜査部隊が結集された。特捜本部の名称には多額≠ニあるが、実は強奪された現金は三億三三〇〇万円だった。マスコミは、これを端《はな》から『有楽町三億円事件』と呼んで大々的に報道した。
もちろん、一八年前の府中三億円事件を念頭に置いての異常な騒ぎぶりであった。
「おう、塚じゃないか」
特捜本部が設置されたのとほぼ同じ頃、現場に現れ、宇兵に声をかけてきたのは、捜査一課のベテランのO警部だった。
「Oさんが専属キャップなんですか」
「ああ、そうなるだろう」
O警部は検挙率トップクラスのスゴ腕刑事であるばかりか、宇兵とは因縁浅からぬ仲であった。新米巡査当時の指導巡査(新任巡査の教育・指導係)が彼であった上、交番勤務を共にした歳月も二年近くを数えた。年はたしか彼のほうが三つ上だが、どちらも同じく職人|気質《かたぎ》で、また互いに一目置く仲であり、「塚」「Oさん」と呼び合う関係であった。
「Oさん、これは早いとこ、挙げなきゃ駄目ですよ」
「そうだな。前のこともあるしな」
その前≠アそ、宇兵が満足のいく指紋捜査を完遂できずに、無念さをずっと怨念《おんねん》として抱き続けてきた府中三億円事件、それであった。
「もちろん、指紋はお前がやるんだな」
「はい」
「そうか。俺か、お前か、どっちが早くホシを割れる(被疑者を特定すること)かだな」
返答の代わりに大きくうなずき、心中で『今度こそ』とつぶやく宇兵の脳裏に、O警部と共に過ごした御苑前派出所の頃がよみがえった。
一八年目の敵討ち――有楽町三億円事件(二)
さかのぼること三〇年前、御苑前派出所では四名の警察官が常駐していた。上から班長、次席、そしてOと宇兵というチーム編成で、いわば、宇兵にとってOは、「すぐ上の先輩」である。共にまだ独身の寮暮らしで、日勤―当番―非番の三交替の生活。たまに遊び歩くのも一緒なら、警察官としての心得も仕事も手取り足取りで教えてくれたのがOだった。
しかし、宇兵が思いがけず鑑識課へと異動していったのとは正反対に、Oは、いわば宇兵がかつて望んだ捜査一課の道をずっと歩いていた。Oの名を一躍上げたのが、当時、渋谷《しぶや》で起きた『ライフル乱射事件』と称される凶悪事件。渋谷の銃砲店に押し入った青年がライフルを乱射したのだが、このとき、原宿警察署の私服刑事として匍匐《ほふく》前進で犯人に近づいてゆき、その手の銃を叩《たた》き落としたのがOだった。もちろん、警視総監賞も受けたこの功績だけではないだろうが、その後は、宇兵が鑑識課へ移ったのとは対照的にOは捜査課一筋であった。
同じ派出所から出ていきながら、一方は渋々と鑑識へ、そして一方は花の捜査一課へ。そんな二人が今、因縁の三億円事件で真っ向から勝負しようとしていた。
捜査一課の人に聞く¢{査が勝つか、鑑識の物に聞く¢{査が勝つか――宇兵は体の奥底から湧き上がる武者震いをどうにも止められなかった。
事件当日、宇兵らは早速、被害にあった現金輸送車から四〇個、犯人が遺《のこ》した逃走車両から一一七個、駐車券から四〇個の現場指紋を採取した。
運転席、後部座席、ドア、ガラス窓……犯人グループが極めて念入りな犯行計画に基づいて行動したことは、車内に手袋が遺されていた事実からも明らかだった。おそらく、犯行時には手袋をしていたに違いない。
しかし、それで諦《あきら》める宇兵ではない。いつものように、淡々とだが粘り強く指紋採取を続けていった。車を盗み出すときは、いくら百戦錬磨の犯人といえども焦るだろうし、車の窓に目隠しの細工をするときなどに不用意に指紋を残した可能性は過去の経験からも大きい。
「おい、普段の成果が試されてるんだぞ」
宇兵は部下にそう命じながら、自分自身をも戒めていた。俺たちも、犯人も、ちょっとでも油断したほうが負けだ――。
事件発生から二日後、港区赤坂の神社の地下駐車場から手提げ袋に入った被害品の一部である現金一五〇〇万円が、同神社の関係者によって発見された。
千円札で一万五〇〇〇枚。うち新札券が三〇〇万円分、すなわち三〇〇〇枚あった。
「塚、千円札の新札券が三〇〇〇枚、出たぞ」
「本当ですか!」
Oからの朗報だった。宇兵は咄嗟《とつさ》に、『この新札券三〇〇〇枚から指紋が検出できれば勝てる』、つまり犯人に行き着くことができると確信した。
すぐに検出作業が始められた。まさしく、祈るような気持ちだった。結果は――けっして多いとはいえないが、七個の指紋が採れた。
「よし、この七個の指紋が犯人たちの遺留指紋である可能性が最も高いわけだ。これを徹底して洗うぞ、いいな!」
「わかりました」
これが犯人の指紋である確率を限りなく上げていくには、まず、ここから犯人以外の指紋を除いていけばいい。そうして最後に残ったのが、犯人の指紋と思われる。まして相手は新札券だ。それに触れた人間の数は少ないはずだ。
「よし、この新札券を取り扱った銀行員と造幣局の作業員すべての関係者指紋を採取するんだ!」
銀行、造幣局に加え、考えられる関係者の総数はおよそ二〇〇人とわかった。二〇〇人が一〇〇人になり、さらに五〇人にと指紋が絞られていくのにつれ、指紋係のスタッフの緊張も段違いに高まっていくのがわかる。しかし、そこから先の作業はなかなかに大変だった。銀行はスムーズに協力してくれたものの、造幣局では労組の壁などがあり、簡単には応じてもらえない。
「塚さん、どうしたもんですかねえ」
「どうしたもこうしたもないだろう。協力者指紋を採れなきゃ、犯人の遺留指紋は断定できないんだぞ」
「ですが……」
「何だ?」
「造幣局の労組からは、『新札券を造る過程では、札に手を触れることはない』と申し入れてきてます」
宇兵は部下を叱りつけたくなるのをグッとこらえ、諭すように話し始めた。
「俺たちの通常の鑑識作業を思い出してみろ。こんなとこから採れるはずがないと諦めたら、そこで何事もおしまいなんだ。まして、この世に絶対なんてない。だから、新札券といえども誰かが触った可能性はなくはないんだよ。わかるか。つまりは、その指紋を事前に省いとかない限り、犯人の指紋と断定はしちゃいけないんだ。よーし、見えてきたぞ」
宇兵の頭に次のプランが浮かんだ。造幣局側には、協力者の名前はいらない、また、指紋の採取はこちらから人員を派遣して造幣局内で完結させる。つまりは、指紋もけっして持ち出さないという条件を出した。造幣局には犯人はいないだろうとの読みもあり、この際、関係者指紋の採取を優先させるべきであるとの判断だった。
ここに来て造幣局側も折れた。指紋採取が終わってみれば、作業工程では絶対に手を触れることはないとの話だったが、宇兵の睨《にら》んだ通り、七個のうち一個が同局員に符合した。やってよかった。それに、捜査に絶対はないとの信念が実証されたのも素直にうれしかった。ここまできたら、一個とはいえ、七個から六個に絞ることのできた意義は想像以上に大きいはずだ。
一八年目の敵討ち――有楽町三億円事件(三)
最終的に残った六個の指紋を中心に指紋捜査を行う方針が固まり、まず、警察庁のAFISを使っての照会が行われた。
序章でもふれたが、AFISとは、警察庁に保管されている前歴者を中心にした指紋原紙六〇〇万―七〇〇万人分をコンピュータによって瞬時に検索するシステムである。その速さは、一個の指紋につき、一〇〇〇分の一・三秒! たとえば、一指について瞬時に一〇〇〇枚くらいの指紋原紙を呼び出すことができるし、捜している指紋に近い指紋原紙≠フ上位二〇枚に限定しての呼び出しといった離れ業も可能だ。同システムによって被疑者が特定されてから各捜査員や検問の捜査官にデータが手渡されるまで、時間にしておよそ一―二時間という超スピードである。
そういえば、この指紋のデータベース設置も、被疑者留置規則の改正など「刑警分離」に続く昭和五八年のことだった。人証から物証へと捜査の要《かなめ》が変わる中で、こうしたハイテク化も自然の流れとして敢行されたものと想像できる。
コンピュータ化では、宇兵には忘れられない思い出がある。
AFIS設置の数年前から、警視庁では本格稼働前の準備段階として徐々に電算化をはかっていた。これは、一本の指紋を一七|桁《けた》の数字に変換してコンピュータ入力し、検索するというシステムだった。しかし、指紋係のベテランたちは、けっしてコンピュータに頼ろうとはせず、まず昔ながらの手繰りで対照作業を行い、それで合致しない場合にのみコンピュータを使うという手順を頑《かたくな》に守ろうとした。一方、宇兵ら若手は、まったく逆に、まずコンピュータで大まかに洗い出しをして、その後に手繰りで詰め≠行えばいいと考えた。言ってしまえば、ベテランは現行のシステムに慣れ過ぎてしまっていたのだ。
宇兵には、「せっかく、いいものができたのだから」との思いもあったが、何より、誰でも平等に検索できるシステムが必要だと考えていた。だから、コンピュータ化にも大賛成だったし、導入する以上は課内で統一のシステムでなければならなかった。
彼は一計を案じた。管理官のもとへ行き、先か後か、コンピュータをどう使うかについて「多数決を採ってくれ」と直訴したのだ。もちろん、若手の間では、最初にコンピュータを使って絞り込むという案で根回しをしていた。結果は言わずもがな。こうして、指紋対照のハイテク化は一気に加速した。
「出ない……」
頼みの綱となった六個の指紋についてAFISによる照会を行ったが、不発見だった。これは、指紋を残した犯人には犯罪前歴がないということを意味していた。
「AFISにもなしか。俺のカンだが、どうやらホシは、過去に日本においては犯罪を犯していないようだな……」
と、宇兵。部下が不思議そうな顔で尋ねる。
「日本においては、ですか」
「そうだ。どうも、俺はこの犯人が外国人臭いと思うんだ。採れた指紋の大きさも、日本人にしては太過ぎる」
これは宇兵だけでなく、のちにマスコミも騒ぎ始める疑問だった。というのも、当初から遺留品に国際色がかなり強く残されていたからだ。
まず、犯行時に使われた「目つぶし用」の催涙スプレーからして、外国製の護身用だった。当時の日本では、まだ珍しかった商品でもある。
「日本では出始めたばかりの、この護身用のスプレーを凶器に使おうという発想自体、日本人離れしている」
たしか、O警部もそんな感想を漏らしていた。
犯行に使われ、西銀座地下駐車場に放置されたワゴン車からは、男物コート、人面マスク、枕カバーなども発見されていた。そして、いずれもが外国と縁の深いものばかりだった。男物コートは身長一八〇センチ以上というLLサイズ、生地の良さに比べ縫製が荒っぽいのがいかにも外国製だ。人面マスクは、ご存じ、マイケル・ジャクソンの顔を模したもの。枕カバーも、リース会社を訪ねれば、主に外国人向けの商品と判明した。さらに、赤坂の神社の地下駐車場から発見された現金を包んでいた『キヤノン』なる紙袋は、印刷されていた文字などからオランダ・アムステルダムの空港内の免税店だけで使用されているものとわかった。
しかし、いくら外国人が臭いと睨んでいても、AFISに記録が残されていない限りは、また、振り出しからあらゆる可能性を潰《つぶ》していくしかない。が、宇兵の部下の鑑識課員たちは、この事件にだけ没頭するわけにもいかず、日々、送られてくる通常業務の指紋の照会作業もしていかなければいけない――宇兵の脳裏に、一八年前の自分の姿がよみがえる。
『たしか、あのときは、俺がやってられねぇ≠ニケツをまくって、捜査一課の平塚さんが鑑識課まで乗り込んできたんだったな。俺もよくやったもんだ』
思わず、鬼の八兵衛とのやり取りを思い出して苦笑が漏れる。それから、大急ぎで感傷的な気持ちを頭から追い払った。
『駄目だ、駄目だ。こうしちゃいられないんだ。あのとき、白バイの遺留指紋に絞って対照作業をやっていれば、犯人を挙げられたかもしれないんだ。いや、挙げられなくても、こんなに長い間、悔しい思いを引きずることはなかった。それなのに、あの頃は誰も俺の意見に加勢してくれなかった。……おい、宇兵、お前、あのときの悔しさを忘れたのか。また、今度はお前の部下に同じ思いを味わわせるつもりか』
再び、宇兵は動いていた。といっても、一八年前とは状況が違っていた。今度は新米捜査官の闇雲な直談判《じかだんぱん》ではない。彼には今、多くの部下がおり、何より地道な指紋捜査の積み重ねによって培った実績があり、組織の上層部にも話を聞いてもらえるだけの自信も備わっていた。
事件が起きて間もなく、ある捜査本部の打ち上げの席だった。混雑した会場で、宇兵は捜査一課長を見つけるや、自分は飲まないビールを課長に注ぎながら、
「課長、有楽町三億円の件でお願いがあります。指紋対照の専属チームを作りたいんです。特捜本部のほうは一〇〇人単位の人員で動いているそうじゃないですか。今や、指紋捜査と刑事捜査とが車の両輪であるのは誰もが認めています。AFISに犯人がかからなかった今、今後、どれだけの年数、対照作業が続いていくかわかりません。しかし、われわれ鑑識の指紋係だけでは、日々の業務もあって、一日、一〇〇件、二〇〇件といった対照作業は不可能です。ですから、指紋捜査の特別対照プロジェクトを作ることを許可してください」
捜査一課長は酔いもいっぺんで醒《さ》めたという顔をして、返事もできないまま立ち尽くしていた。
昨秋の直談判から、気がつけば一カ月半近くが過ぎていたが、何の返答もなかった。やっぱり、無駄だったか――宇兵は、一〇年ほど前のある連続窃盗放火事件を思い出していた。
一年に一度、特に目覚ましい事件解決活動に対して、警察庁長官賞が授与されることになっていて、毎年、二―三件がその対象となっていた。これは、部課ごとの自己申告制となっていたのだが、その年、鑑識課では、その連続窃盗放火事件を自信を持って上申したところ、実は捜査一課のほうでも同じ事件で上申していることがわかった。
捜査一課に長官賞を横取りされてしまうかもしれないと懸念した、当時警部補だった宇兵は、早速、捜査一課に上申を取り止めるように電話を入れたのだ。
「うちの指紋で犯人を割り出した事件だ。それに、遺留指紋によって余罪も多数確認できていたから、取り調べは容易だったはずだ。ぜひ、この事件は鑑識課の名で申請したい。悪いが、手を引いてくれ」
「何を言うか。指紋係が指紋を採ってくるのは当たり前の話じゃないか。それを、わざわざ長官賞に上申するとは厚かましい」
「何だと!」
相手が受話器を叩きつけて、それで話し合いは決裂。どうにも収まらない宇兵は、その場で鑑識課の課長に経緯を訴えて出た。しかし、
「いやいや、まあ、いいじゃないか。そう、めくじら立てるほどの……」
「どういう意味ですか。この事件じゃ、臭いと睨んで、四件の余罪も指紋で確認してるんですよ。それを、何が『いいじゃないか』ですか。わかりました、もう結構です」
身内の課長に諭されたがその怒りはやはり静まらず、とうとう捜査一課の二番手に当たる管理官へ電話していた。が、あとになって冷静に考えればわかることだが、一警部補の発言を、そこまで真剣に聞き入れてくれるというのは、大きな組織であるだけになかなか難しい側面もあるのだろう。結局、満足いく回答を得られず、宇兵はこんな捨て台詞《ぜりふ》を残して、何とか己のやり切れなさを収めたのだった。
「わかりました。捜査一課は指紋係官たちの血と汗の成果を横取りしてまで長官賞が欲しいんですか。じゃあ、喜んで進呈しましょう。その代わり、そんな了見の狭い連中との仕事は、今後一切御免ですから、そのおつもりで」
結局、その年の警察庁長官賞は捜査一課に授与されることとなった。
『やっぱり、捜査一課は花形なんだ。俺たちは何年たっても縁の下の力持ち。こっちは現場で死体相手に指紋を採って、向こうは背広着て颯爽《さつそう》と取り調べに当たるのも、ずっと変わらず。でも、考えてくれよ。その花の一課だって、俺たちの指紋がなけりゃ、指名手配ひとつできないんじゃないか』
もちろん、どっちが上で下なんてことを言っているわけではない。誰より、指紋捜査に誇りと愛情を抱いているのは宇兵本人が一番よくわかっていることだ。
ただ、あの長官賞騒動から一〇年という歳月が過ぎて、指紋を取り巻く環境も、指紋捜査の実績も格段の進歩を遂げているというのに、今回の有楽町三億円事件でも専属チームを作りたいという嘆願が無視され、またぞろ指紋捜査をないがしろにされたような状況になってしまい、さすがの宇兵もちょっと弱気になってしまったようだ。
一八年目の敵討ち――有楽町三億円事件(四)
たしか、新年の御用始めの日だった。だから、一月四日に間違いない。宇兵は、普段より早めに切り上げて帰宅の電車の中だった。
ピーピーピーピー……
ポケベルが突然鳴り始めた。次の駅で途中下車して連絡を入れる。捜査一課の管理官からだった。
「塚さん、いい知らせだ。君がこないだ一課長に話していた人員を取れるようになった」
「そうですか、ありがとうございます。では、早速ですが、○○君と○○君と……○○君をお願いします」
彼は、もしそうなったらぜひ一緒に仕事をしたいと思っていた六名の警察官の名前をその場で挙げていた。一般職一名、巡査部長五名。いずれも若手ながら指紋で五年以上の経験があり、かつ指紋捜査を理解している強者《つわもの》ばかりだ。直属の部下は、他の事件の仕事が山とあって専属というわけにはいかないのが残念だったが、この六名で専属チームを作れば、あの府中の三億円事件と同じ轍《てつ》を踏まないで済むだろう。
あとでわかったことだが、この仕事始めの日、捜査一課長は警視総監のもとへ挨拶《あいさつ》に出向き、そこで総監直々に、「丸の内の三億円事件は、何としてでも挙げろ」と厳命されたらしい。
こうして、宇兵は六名の特別対照プロジェクトチームとともに、O警部とも密な連絡を取り合いながら犯人逮捕に向けて捜査を続けていく。
「Oさん、どう、読んでますか」
「ずばり、外国人」
「やっぱり。俺も同じだ。だったら、外国人の関係者指紋など、ありとあらゆる指紋をこちらに持ってきてください。ゴミ一つでも何でも片っ端から、どんなものでもかまいませんから」
「了解した」
こうなると、もう、一〇年前の警察庁長官賞じゃないが、どっちが上で下、先で後といった問題はなかった。結局、外国人に関する指紋を片っ端から見たいと思っても、鑑識は直接指紋を採取に出かけるわけにもいかず、一方、捜査一課の人間も、いくら花形とはいえ、自分たちで高度な専門技術を要する指紋照会をするわけにはいかないのだ。
こうして捜査一課から持ち込まれた指紋の数は、何と二三〇万枚にも及んだ。それを、丹念に六個の遺留指紋と対照していく。相手が二〇〇万枚だろうが三〇〇万枚だろうが、元になる遺留指紋が六個という数なら、これを頭に叩《たた》き込むのはそれほど難しくはない。宇兵以下、プロジェクトの全員が遺留指紋の確定と同時に六個の指紋を脳裏に焼き付けていた。
しかし、ここからが指紋捜査の難しさである。どれだけ対照作業を重ねても、とうとうそれが合致することはなかった。事件発生から、早くも十カ月が過ぎていた。
『早くも迷宮入り 三菱銀行「三億円事件」』
宇兵やO警部の奮闘、苦悩をよそに、事件はマスコミにとって恰好《かつこう》のネタだったようだ。何といっても、府中の三億円事件の犯人が捕まっていないまま、である。事件発生からわずか数週間後には、過激派犯行説や『黒幕は一八年前の府中三億円犯人か』なる無責任な記事まで出ていた。
たしかに物証は多く残されていた。しかし、世は大量生産の時代である。物(遺留品)からたどっていこうとしても、どこで誰が買ったかまでは確認できない。また、犯人が犯行時、ヘルメットで顔を隠していたため、府中のときのようなモンタージュを作ることさえできないでいた。捜査一課にも、宇兵ら鑑識課の周囲にも、「もう駄目か」といった諦《あきら》めムードが漂い始めていた。
「外国人なら、もう高飛び(国外逃亡)してるかもな」
誰ともなく、そんな会話が交わされていた。宇兵自身、そうした沈滞ムードを感じてはいたが、それを打破する特効薬などなく、地道に対照作業を重ねるしかないと、ともすれば自棄《やけ》になりそうになるプロジェクトのメンバーに発破をかけながら、指紋との格闘を続けていた。
一八年目の敵討ち――有楽町三億円事件(五)
そして運命の日、昭和六二年の一〇月二八日がやってくる。改めて言うが、宇兵にとって、生涯、忘れることのできない一日といったら、この日をおいてない。有楽町の路上で三億円が強奪されてから、約一一カ月後のことであった。
現場指紋の対照作業を終えた、指紋の最終責任者である首席鑑定官が宇兵のもとへやってきて、机の上に『エレベーターの前へ』というメモを置いて早足に立ち去った。
「まさか……」
もう、こうなると、三〇年間の警察官人生で培ったカンである。悪い知らせではない。足早に追いかけ、聞いた。
「どうした?」
すると、鑑定官はなおも人目を避けるようにして、小声でこう返答するのだった。
「塚さん……新券が符合した」
「何! 誰にだ?」
言いながら、足がガタガタ震えるのが自分でもわかった。鑑定官も興奮を隠せないようだった。これだけの大事件である。一人で結果を収めるには不安なあまり、宇兵に打ち明けたと思われた。
「外国人らしいです。ただ、現時点ではまだ保秘のため、写真電送で送られてきた指紋資料の名前の部分がカットされているので、はっきりとはわかりませんが」
「そうか、間違いなく、新券だったんだな」
「はい」
そう確認した瞬間、宇兵の背筋を戦慄《せんりつ》が走った。新券に目を付けた彼の狙いに、間違いはなかったのだ。
捜査本部では、捜査の中途から、別の窃盗事件ですでに逮捕されていた日本人美術ブローカーの供述やレンタカー会社に対する捜査などから、犯人と思われる複数の外国人の旅券等を入手していた。ここに記載された氏名に該当する容疑人物の犯罪経歴などを割り出すために、捜査本部ではその氏名を警察庁刑事局国際刑事課およびフランス政府に送り、資料の提供を求めていた。
予想された通り、旅券等の記載名は偽名で、確認のために送った氏名に該当する人物の資料は届けられなかった。しかし、その後、警察庁刑事局国際刑事課の保管資料の中から、それに類する人物として数名分の指紋原紙が送付されてきて、一部が鑑識課の対照作業にて合致したのであった。
容疑者A(当時三一歳)の左中指指紋が、宇兵が睨《にら》んだ通り、神社の地下駐車場で発見された千円札の新券と。容疑者B(三三歳)の右中指が、同じく神社に残された現金を入れた黒色ビニール袋と。容疑者C(二五歳)の右|拇指《ぼし》および右示指がやはり新券と。容疑者D(三九歳)の左右拇指がこれまた新券と。
残念なのは、大声で快哉《かいさい》を叫べなかったことだ。もちろん、まだまだ保秘の状態に変わりはなかった。外国人なら、犯人が日本にいるかどうかも不明だ。もし、この状態でマスコミにでも嗅《か》ぎつけられたら、犯人の逃亡を促すことにもなりかねない。そのためには、まず身内に対しても徹底した保秘を貫かねばならない。
「よし、勝ったな――」
ようやく、静かにそれだけを口にした宇兵だった。
指紋の合致した外国人について、入国の事実や入国後の足取り等の徹底した捜査が行われ、数日後には、国際刑事警察機構《ICPO》を通じてフランス国籍の男ら二名(最終的には四名)が強盗傷害容疑で国際指名手配された。国際手配では重要度の二番目に当たり、逃亡中の身元や犯罪歴などを求める「青手配」だった。
事件がさらにここから大々的に報道されるようになったのは、この外国人容疑者グループが、三年前にフランスの市立美術館から印象派の巨匠コローの名画『夕暮れ』など五点を盗み出した絵画窃盗団の一味であることが判明したからだ。
一味は、一年前の一一月上旬にパリから国際便で入国。都内のホテルや一カ月単位で借りられるマンションなどを転々としながらワゴン車を盗み出し、二五日に現金強奪を易々と成功させると、数時間後にはシンガポールへ向けて国外脱出するという大胆不敵を絵に描いたような犯行だった。
金持ちの日本の、中でも急激に国際都市化したトーキョーが狙われた新しいタイプの犯罪事件だったといえるだろう。終わってみれば、現場指紋の採取は犯行に使われた車両から四〇個、逃走車両から一一七個、駐車券から四〇個など合計七〇八個、宇兵らプロジェクトチームが目を通した指紋の総数は五〇〇万人分以上となった。気の遠くなるような数字だが、苦労に見合うだけの成果はあった。
宇兵はこの事件を経験して初めて、自分の中に府中三億円事件が一八年間もの間、ずっとコンプレックスとして燻《くすぶ》っていたのに気付いた。
『事件が発生し、三億円∞現金輸送車≠ニ聞いたときに感じたいつにない緊張感は、やはり府中の事件を未消化のままやり過ごしていたせいだったのか』
それだけに今回の指紋捜査のプレッシャーも大きかったわけだが、狙いを付けた通りの指紋によって犯人を割り出したことで、ようやくコンプレックスからもプレッシャーからも完全に解放されている自分を再確認できた。絵画ブローカーの証言も大きかったが、実は指紋の割り出しはその証言以前に終えていた。
残念なのは、フランスと日本の間には犯人の身柄の引き渡し条約がなく、宇兵らは特別捜査本部の要請に基づき指紋の鑑定書を作成、フランス警察に告発した時点で捜査を終了した点だ。
後日、宇兵とO警部との間でこんな会話があった。
「おう、塚、やったな」
「ホシの顔を見られないのは残念ですが」
「ああ、うちの若いもんも何とかならないかとブーブー言ってるよ」
「一課と鑑識の勝負は引き分けですかね」
「うんうん、五分と五分だ」
「お疲れさまでした」
「そっちこそ。今度、焼酎《しようちゆう》でも差し入れしとくよ」
「本当ですか。期待して待ってますよ」
固い握手で、またそれぞれの持ち場に戻っていく二人だった。
宇兵は今でも、この事件に関しては日本人が関与していたのではないかと思っている。来日わずか二週間で外国人四名がこれだけの周到な犯罪を全うできるものか、日本語がまったく使えない一行がレンタカーや仮住まいのマンションの交渉などをどう行ったのか、犯人らはなぜ繁華街である有楽町駅前に決行時間にだけ人通りの少なくなる時間帯のエアポケットができることを知っていたのか……。それにつけても、日本の警察の手によって逮捕できないのが悔しかったが、もうそのことは言うまい。
さらに数カ月後、この事件の容疑者Dがパリ郊外で射殺されていたことが、続いて主犯格のAがメキシコで逮捕されたとの報が彼のもとに届いた。こうして、宇兵にとっては誰よりも意味を持つ一八年越し、二度目の三億円事件が一応の決着を見せた。
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第8章 研《けん》 鑽《さん》
――巧妙化する犯罪に立ち向かう
地ボシ――中村橋派出所警察官二名殺害事件(一)
未明の電話の最初のベルで、宇兵は目覚めた。
「はい、鑑識……いや、塚本です」
完全に覚醒《かくせい》するのに手間取り、一瞬、指紋係の部屋にいるような錯覚に陥ったが、相手はおかまいなしに話を始めていた。凶悪極まる殺人事件発生の報《しら》せだった。
「わかりました。それで、派出所北側の道路で紙袋を押さえている、と。恐れ入りますが、気になるのはこの時間のことです。物上《ぶつあ》げ(現場から遺留品を持ち帰ること)は早急にお願いします」
とうに眠気は吹っ飛んでいた。隣で妻が心配気な表情で宇兵を見ているが、余計な口出しは一切ない。これまでも、ずっとそうだった。黙って夫を送り出し、一週間になろうが一カ月だろうが、いつもと同じように家を守り、そして帰宅したときには、普段通りに出迎えた。
彼は素早く着替えをすますと、妻が用意してくれた泊まりのための支度を手にして家を出た。長くなれば、また宅配便で下着などを送ってもらうことになる。
電話で聞かされた事件の概要はこうだ。
平成一年五月一六日午前二時五〇分、東京都|練馬《ねりま》区の西武池袋線・中村橋駅に近い中村橋派出所。駅そばの大通りとはいえ、人影のほとんど絶えた深夜の派出所脇の路上で、見張り勤務に出ていたY巡査(三〇)が刃渡り一七センチのサバイバルナイフで何者かによって背中と胸をいきなり刺された。
犯人はナイフを振りかざしながら拳銃《けんじゆう》を奪おうとしたが、Y巡査は必死に抵抗。異常に気づいたK巡査部長(三五)がすぐに駆けつけたが、犯人は同じくK巡査部長の胸、背中、脇腹にナイフを突き立て、やはり拳銃の奪取を試みた。しかし、K巡査部長が先に拳銃を抜いたため、犯人はそのまま逃走した。
事件を最初に知ったのは、派出所の隣のそば屋の主人であった。店舗二階の住居部分で就寝中、表の木戸にぶつかるようなガタンガタンという物音に窓を開けてみると、路上で警察官が黒っぽい服装の男と格闘していた。すぐに男は逃走、それに向かって警察官が立ち上がり発砲した。慌てた主人は、即座に一一〇番通報した。
練馬警察署から警察官が駆けつけたとき、派出所内の机上には血痕《けつこん》が溜《た》まり、K巡査部長が椅子に腰掛けたまま机に突っ伏していた。それから、出入口から北側の道路に向けて血痕が点々と続いた先に多量の血溜まりがあり、Y巡査が派出所に頭を向けて絶命しているのが発見された。その後、瀕死《ひんし》の重傷を負っていたK巡査部長も息絶え、ここに、派出所において二警官殺害という前代未聞の凶悪事件が確認された。
でも、まさか派出所で警官が二人も殺されるとは。救いは、その電話の時点で、すでに現場からは大手カメラ店の紙袋が発見されており、中にはサバイバルナイフの鞘《さや》、軍手片方、タオルが入っていたと聞かされたことだった。
「こりゃ、遺留品に間違いない。ここから指紋が検出されれば犯人は必ず検挙できる。いや、何としても検挙しなければならない」
ただ、気になったのは、事件の発生が深夜という点だった。現場に遺留品を長く放置することで、紙袋には夜露が付いてしまう恐れもあったし、また不慣れな現場の警察官たちによって不用意に触られることで指紋が消滅する可能性もあった。だから、宇兵は現場写真撮影等を最小限に済ませたところで、すみやかに遺留品を鑑識に物上げしてくれるよう、わざわざ電話で依頼したのだった。
それから、彼は仲間の無念の死を思った。一人は致命傷を負いながら机までたどり着いていたというではないか――すぐにでも現場に駆けつけたかったが、ともかく本部で連絡を待つことにした。現場で鑑識の人員が足りないとなれば、改めて係官を派遣しなければならないからだ。宇兵は数年前から、自ら現場の最前線で作業をするというより、部下を統括する立場に変わっていた。
それでも夜明けとほぼ同時の、午前六時前には警視庁に到着していた。そして、宇兵を急《せ》かすように、七時過ぎ、本部鑑識課に現場から緊急車両にて遺留品が届けられた。
交番での警察官殺害という事件の衝撃は彼の想像以上に内部で大きく、遺留品が届くと同時に、宇兵のデスクの電話は鳴りっ放し状態となった。
地ボシ――中村橋派出所警察官二名殺害事件(二)
「はい、鑑識、指紋。塚本です」
ひっきりなしにかかる電話とは、もちろん、遺留品から指紋採取ができたかどうかの確認を促すものだった。ある捜査一課の幹部などは、
「絶対に漏れのないよう丹念に、慎重に、至急やってくれ」
などと、気持ちはわかるが、半ば支離滅裂な命令を口にした。その様子を前に、指紋係の部下たちの顔にも一様に緊張と焦りが表れ始めた。
『やばいな……』
宇兵は思った。
『捜査一課の催促をそのまま彼らに伝えると、慌ててやるあまりに失敗する恐れがある。ここは命を落とした二人のためにも、俺が落ちつかなくちゃならない』
犯人の残した紙袋とは、七色に色刷りされ、かつビニールコーティングされた比較的新しい品物だった。宇兵も最近よく町を歩いていて見かけていた。しかし、今、目の前に運び込まれた紙袋は、この世にたった一つしか存在しない、犯人につながる重要な証拠である。指紋検出で、どの試薬を使うかが最大のポイントとなる。
鑑識課には、あらゆる素材からの指紋検出に対応できるよう、専門実験室といった『理化室』がある。この存在は重要だ。なぜなら、指紋捜査にとっての難敵の一つが、日々、生活の場に出現する新素材だからだ。特に近年、この事件の紙袋のように、表面がコーティングされたツルツルした素材が多く、指紋の残りにくい(残っても横すべりしやすい)こうした素材は宇兵ら鑑識課員を悩ませもし、逆に闘争心をかき立てもした。
今も、指紋理化係の一人が、次にどんな指示が出てくるかと、じっと宇兵の口許《くちもと》を凝視していた。やがて、何かを決心したようにゆっくりと宇兵の口が開いた。
「重要なのは、この犯人が現場に残したと思われる紙袋だ。こいつから指紋が採れれば、十中八九、事件は解決できる。……ここからをよく聞いてくれ。すぐに採取作業にかかる必要はない。まず、じっくりと、どの試薬を用いるのがいいか、最善の採取の方法を考えてくれ。それがポイントと思うなら、簡単に先に進むな。テストができるんだったら、まず他の物で試してみてからじっくりやれ」
てっきり作業を急がされると思っていた部下たちは、宇兵の意外な指示に、ちょっと戸惑ったようだった。その顔は、「でも、本部からの催促の電話をどうするんですか」と聞きたがっていた。
「なに、現場からの電話は俺がすべて受けて、お前たちを煩わせることはしない。約束する。だから、検出方法をじっくり考え、それで手順が決まったら俺に教えろ。一週間かかってもいい。とにかく、一個の遺留指紋を採取することが何より今、大切なことなんだ。よし、早速、かかってくれ」
散っていく部下を見送りながら、宇兵は指紋係になってまだ間がない頃の、ある失敗を思い出していた。
町田の飲み屋の女将《おかみ》殺しだった。すぐに店内のゴミ箱から、犯人がツマミとして食べたと思われるスルメのセロハン包みが見つかった。新人だけに、誰よりも早く犯人の指紋を検出したいと焦ったのだろうし、また「セロハンであれば簡単に採れる」との油断もあった。小筆に付けるアルミ粉が多すぎたかと、手先をストップさせようと力を込めたときはもう遅かった。包み紙のセロハン自体が粘着性を持っていたこともあり、大量のアルミ粉で指紋自体を潰《つぶ》してしまった。
「焦りと油断ほど、恐いものはない」
宇兵は自分に言い聞かせるようにつぶやくのだった。
時間は気にするな、とたしかに言ったが、一分一秒でも早い逮捕は全員の願いである。結局、試薬の検討に要した時間はわずか一時間きりだった。その検出法の手順とは、
「初めに、シアノアクリレートのガス法、次に炭酸鉛の固体法、最後に紙袋の内部をニンヒドリンの液体法でやってみたい」
というものだった。部下からの報告を聞きながら、宇兵は大いに満足していた。自分でもまったく同じ手順を考えていたからだ。
「よし。すぐにかかってくれ」
第一次のシアノアクリレート法とは、簡単に言ってしまえば、強力な瞬間接着剤をガス状にして潜在指紋に付着させ検出するというもの。密封した箱の中に紙袋を入れてこのガスを充満させると、接着剤のガスが指紋に含まれる水分のある部分に付着し、つまり指紋の上に浮かび上がってくる。
実際に行ってみると、数十分で、不完全ではあるが指紋を浮かび上がらせることができた。しかし、この方法には落とし穴があった。いざ、浮かび上がった指紋を写真撮影しようとすると、真上からでは完全に判別できるほどには見えないのだ。斜めから光を当てて人間の目で見たときには、たしかに指紋はわかる。ただし、斜めに見たのでは、手前から段々小さくなって、つまりは歪《ゆが》んだ指紋になってしまうし、隆線が重なってしまう箇所も出る。
指紋を転写できない以上、写真撮影するしかないのだが、約一〇〇枚ほどをいろいろな角度から撮影したが駄目だった。
部下は、当然のごとく、すぐにも二番目の方法を試したいと宇兵に言ってきた。だが、彼はその申し出を言下に却下した。
「駄目だ。せっかく、ここに指紋があることがわかっているんだから、対照可能な指紋が撮影できるまでは次に進んじゃいかんのだ。諦《あきら》めないで、何とか対照に堪え得る指紋を一個でいいから撮影してくれ」
「わ、わかりました」
部下は、見るからに不服そうだった。気持ちはわかる。宇兵は今度は諭すように言った。
「君が、早く『出ました!』と言いたい気持ちはよくわかる。だが、もし二次に進んで、万が一、今あるとわかっている指紋を消してしまったらどうする? ここに、何とかすれば指紋を採取できる可能性があるのなら、それにまず全力を注いでみることだ。この四、五時間の足踏みはけっして無駄にはならんのだ。われわれの役目は、犯人の残した遺留指紋一個を検出することなのだからな」
再び、第一次の手法で浮かび上がった指紋を、何とか写真撮影する方法が検討された。そんな中で、ある係員が警察庁の写真係に微弱紫外線装置があるのを思い出した。
「あれで撮影すれば、もしかしたら……」
「よっしゃ、それでいこう!」
結果は吉と出た。早速、警察庁に依頼して微弱紫外線装置で撮影したところ、何とか、以前の斜めから撮影したものよりは鮮明な指紋が二個採れた。
「よしっ、これで次に進めるぞ」
こうして、ようやく二次の炭酸鉛法へ移行した。これは、鉛を焼いて作った重量のある白い粒子を指紋にふりかけて採取するという手法。特に、一次でシアノガス法を行ったあとだと、すでに指紋部分に盛り上がりがあって、よりよく付着させることができるのだ。
「キャップ、成功です。先程より鮮明です」
さらに、紙袋の内部から第三次のニンヒドリン法によって指紋採取を試みた。これは、ニンヒドリンという液体を用い、人間の分泌するアミノ酸に化学変化を起こさせ、その部分を青紫色に変色させるというもの。紙袋の表は七色もあって青紫色の変化は見えにくいが、袋の内側の白色部分ならば判別できると読んだのだ。
これも狙い通りで、三個。終わってみれば、紙袋表面から採取できた二個と合わせ、合計五個の指紋を検出できた。まずは第一段階は突破である。途中、つまずきもあっただけに、宇兵と部下はその成果を素直に喜び合った。
地ボシ――中村橋派出所警察官二名殺害事件(三)
「また来てる。弱ったな……」
ほぼ一週間ぶりに帰宅した宇兵を玄関先で待っていたのは、家族の笑顔ではなく、ブンヤたちだった。警部となりキャップと呼ばれるようになって以降、特にフィリピンから戻ってからは、何かと鑑識捜査の情報が集まる彼もマスコミから追われる身となっていた。
「塚本さん、どうもです」
ペコリと頭を下げながら、顔|馴染《なじ》みの記者が待ちかねたとばかりに話しかけてくる。
「ご苦労さんだね、こんなとこまで」
「例の中村橋の……」
「いつもと同じことしか言えないよ。私は事件のことは話せません、としかな」
「指紋が一〇〇個も出たと聞きましたが」
「おいおい、俺にカマかけても無駄だよ」
もし、ここで、「何、どこで聞いてきた?」などと答えようものなら、翌日の朝刊に何を書かれるかわかったもんじゃない。まさに、狐と狸の化かし合い。新米記者のように、「指紋は出ましたか」とズバリ聞かれるのも困ったもんだが。
記者たちの来襲は深夜早朝を問わずあったが、宇兵は徹底して「話せません」で通した。無視もいけない。相手は勝手に肯定と取るからだ。それでも、敵もさるもの。中には、宇兵の在宅を確認して鑑識捜査の進捗《しんちよく》具合を確かめるという知恵者もいた。泊まり込みが続き、自宅不在が続くということは、これは事件が大きなヤマを迎えている事実を暗に物語っているからだ。
「おい、中でお茶でも飲んでいくかい」
事件以外の世間話なら、いつでも大歓迎だった。
そうやってマスコミを煙《けむ》に巻きながら、実は、犯行現場となった派出所等からはすでに合計七七個の指紋と掌紋を採取済みだった。しかし、宇兵は、この事件解決の決め手は紙袋に残された五個の指紋以外にないと確信していた。その紙袋を残したのが犯人とすれば、そこに遺留された指紋も犯人のものである確率が限りなく高まる。
特別捜査本部も同じ考えで、紙袋からの指紋採取直後から一週間をかけて、特捜部員たちが、まずカメラ店の従業員から関係者指紋を採取することになった。可能性として、その紙袋が犯人の手に渡る前にカメラ店従業員の指紋が付着しているかもしれないからだ。協力してもらった従業員の数は、七〇〇名以上に及んだ。
その関係者指紋は、一週間の間、毎日、指紋係のもとに持ち込まれた。宇兵らは複雑な心境で対照作業を行った。
『店員には合致しないでくれ!』
本来、指紋係は合致させるのが仕事のはずであるが、しかし――もし、一つ関係者に合致すれば、それは犯人につながる指紋が一つ減ったことを意味するからだった。まさに、祈るような気持ちでの作業が続いた。
宇兵らの祈りが通じたか、カメラ店の従業員の指紋とは一個も合致することなく、すべての対照作業が終わり、その五個の指紋は、ますます犯人のものであるとの遺留確度の高い指紋となった。
同時に、警察庁指紋センターのAFISにもかけたが、発見されず。ここにきて、かなりの高確率でこの犯人は犯罪前歴のない者と判断された。すぐにその旨が、特別捜査本部に告げられた。
さらに犯行から一週間後、殺害現場から約六キロメートル離れた公園の池の縁から、茶封筒、血痕《けつこん》が付着した背広上下と靴、サバイバルナイフなどが入ったビニール袋が発見され、これに加え、犯行現場がいわゆる繁華街とは違うこと、また犯行時刻も午前三時前で、車の利用も確認されないといった諸条件が出揃うに及び、犯人は地ボシ(地元在住者)の線が強まった。
そこで、指紋係では特捜と緊密な連携をはかり、犯行現場から周囲五キロメートル圏内に居住する男性の関係者指紋の採取を要請。犯人の逃走も十分考えられるため、重要度によってABCのランクを付け、最重要ランクのAに関しては、速やかに持ち込んでもらえるよう手配した。
また、この事件は、長い警視庁の歴史の中でも派出所で二名の警察官が殉職するといった過去に例のない凶悪事件だけに、警視総監からも「公葬までには何としても犯人を逮捕せよ」との厳命が下った。捜査に当たる全員に再び緊張感が走った。
特別捜査本部によって、指紋係には犯行現場近くに居住する男性の関係者指紋が毎日二〇―三〇枚送られてきた。
六月七日、公葬まであと二日という日の朝だった。特捜の指揮を執る管理官から、宇兵のもとにこんな要請が電話であった。
「実は、土地鑑情報から四〇〇名ほどを抽出したので、さし名照会をお願いしたい」
土地鑑情報とは、その土地に通じる犯罪前歴者の情報である。つまり、管理官は、犯行現場となった練馬区中村橋周辺の地理事情に通じる前歴者の中に犯人がいると読んだのだ。しかし、宇兵の読みは、AFISで繰り返し照会しても該当する指紋に行き当たらないことからも、この犯人は犯罪前歴のない者というものだった。この要請は自分の読みに反する――そう思った宇兵は咄嗟《とつさ》に口にしていた。
「俺は、この犯人は歴=i犯罪前歴)がないと睨《にら》んでいるんだ。だから、当初から、あなたにも『歴のない者(の関係者指紋)を採ってきてくれ』としつこく言い続けてるんじゃないか。関係者指紋の採取を優先してくれないか」
「でも、そんなに一般の人に協力してもらおうと思っても、実際は無理だよ」
それでなくても指紋に対する偏見は根強い。いきなり刑事が訪ねて事情を話しても、すべての人が指紋採取に協力的というわけにはいかなかった。もちろん、協力する義務もない。宇兵もその事情は重々承知だった。が、簡単に引くわけにもいかなかった。
「何を言う。二〇〇人も捜査員がいるなら、一日に一人一枚でも二〇〇枚採れる勘定じゃないか。俺はそれを頼んでるんですよ」
「それはわかってる。だが、進展が見えないから、今度は土地鑑≠ナ頼んでいるんじゃないか」
会話をしながら、宇兵は、『ああ、やっぱり、特捜本部の連中は俺たちを信用してないんだな』と、落胆した。当然、これまでにはさし名照会も並行して行われており、その数はもうじき三万枚に達するほどだった。まだまだ、指紋係と刑事たちとの間の溝は深い――が、このときの宇兵は違っていた。本部の言いなりに従うわけにはいかなかった。なぜなら、信念を持っていたからだ。
「いや、断る。対照はすることはするが、今はできないよ。明後日《あさつて》は二人の公葬だ。この時期は、一人でも多くの関係者指紋を採取し、それと対照するのが先決じゃないか。何度も言うが、土地鑑のさし名照会は前歴者であって、この事件の被疑者は前歴者じゃないんだ。一人一枚の関係者指紋が事件解決に結びつくんだ。何とか、公葬までにやろう。あと二日あるじゃないか」
終《しま》いには、逆に管理官を説き伏せる勢いの宇兵だった。この頑《かたくな》までの申し入れには理由があった。深夜の自宅で事件の一報を受けたとき、彼は殉職した若い警官たちに思いを馳《は》せながら自分に言い聞かせたのだ。
「何としてもホシを挙げる。そのためには突飛な手段を用いても無駄だ。ただただ、自分のやるべきことを確実にやるしかない」
改めてその気持ちを己の中で確認し、作業に戻った宇兵だった。そして、同じ日の夕刻、午後四時頃、いつもの通り、部内の逓送便で一七枚の関係者指紋が届いた。
地ボシ――中村橋派出所警察官二名殺害事件(四)
毎日、決まった時間に届けられる逓送便で来たということは、その一七枚の関係者指紋は、送り主の特捜本部にとっては「臭くない」指紋であることを意味していた。もし、彼らが「臭い」「ホシの可能性大」と思っていたら、間違いなく時間を選ばない特使便で送ってくるはずだ。
しかし、宇兵は、そのとき、なぜかその一七枚が気になり、指紋を受け取った担当係員の方をずっと凝視していた。指紋係の部屋には、他の事件の指紋対照を行っている係員もいて、三〇名前後の指紋係が一心に作業を続けていた。その中で、宇兵の視線は、その担当係員が一枚一枚、関係者指紋をめくっていく手元に釘付《くぎづ》けになっていた。
どうして気になったか、と聞かれれば、それはカンというほかない。そして、彼のカンは当たった。担当係員は宇兵の右斜めちょうど一〇センチほどの机に座っていた。一枚、二枚……もちろん、紙袋から採取した五個の指紋は、すでに夢に出てくるほどに彼の頭に完全にインプットされている。一五枚、一六枚……そして、最後の一枚になったときだった。係員の手がピタリと止まり、頭が動かなくなった。
どれくらいの時間が経ったろうか。係員が頭をゆっくり上げると、天井を見上げたまま大きく深呼吸した。宇兵と係員の中間に位置している首席鑑定官が、緊張した面持ちの係員に人がいない窓の方を軽く顎《あご》で示し、無言のまま宇兵に振り向いた。
一方、一部始終を見ていた宇兵は静かにうなずくと席を立っていた。気がつくと、台本でもあるかのように、三者が同時に立ち上がっていた。
それから、まず首席鑑定官が窓際の誰もいない机の上ですぐに対照を始めて、一分、二分。
「ふうっ……」
首席鑑定官はため息を一つ、それから、
「塚ちゃん、煙草を一本吸わせてくれ」
すぐに朗報が聞けると思っていた宇兵だったが、首席鑑定官は煙草を吸い終わると、再び机に着いてルーペを覗《のぞ》いたのだった。
しかし、宇兵は肩透かしを食ったようには思わなかった。これほどの大物≠ノなると、まず、一二カ所すべての合致はあり得ない。最初に五―六カ所が合って、それを繰り返し確認しているうちに何とか七―八カ所が合致するようになる。宇兵の経験では、そんなとき、興奮は頂点に達し、足はガクガク震え、胸はドキドキ、喉《のど》はカラカラになるものだ。もしかしたら、最初に対照した係員は、まだ頭の中が真っ白な状態かもしれない。
首席鑑定官は、ようやく自分自身で納得できたのか、
「うん」
と、再度、大きくうなずきながら宇兵にルーペを譲り、最終確認を依頼してきた。
高まる気持ちを抑え、しかし慎重にルーペの前に座る。それから、対照作業を終えた彼は言った。
「これ、大丈夫だよ。おい、課長も呼んでこい」
宇兵の鋭い視線の先で、たったいま運び込まれた指紋と、現場に残されたカメラ店の紙袋から採取した指紋五個のすべてが合致した瞬間だった。あとでわかったが、関係者指紋としては一一五人目の指紋だった。
翌日、逮捕してみれば、犯人は犯行現場の派出所から一キロメートル余のアパートに住んでいた元自衛官の男(二〇)だった。
ガンマニアでハードボイルドの劇画に憧《あこが》れていた犯人は、当初より警察官から拳銃を奪うのが目的で、凶器のサバイバルナイフも犯行の二年前に入手したものだった。当日、警察官二人と揉《も》み合いになって、結局、拳銃を奪うことはかなわないままナイフで刺殺して逃走。アパートに逃げ帰ったところ、着衣に血液が付着していたので、サバイバルナイフや茶封筒などと一緒にビニール袋に入れ、一週間後に近所の池に捨てていた。
特捜本部の聞き込みの中で、現場近くのビデオショップ店員の証言から、一人の男が浮かび上がった。その男は、まさか自分が指紋を残してはいないはずと高をくくっていたのだろうか、それとも協力しなければ不審がられるとでも思ったのだろうか、指紋採取の依頼にも素直に応じていた。
宇兵らは、当初、紙袋の指紋を、犯人が「自分の物だが、過去に捨てたもの」と偽証したとき、その嘘を突き崩す手段があるかどうか案じていた。しかし、その不安を解消、逆に自信にしたのが、例の一週間後に池で見つかった茶封筒の指紋だった。犯人は水の中に捨てれば、指紋も消えてしまうと考えていたかもしれない。たしかに、ビン類などと違い紙に付いた指紋は水の中では消滅しやすい。だが、このとき、茶封筒の一部が水に浸されておらず、そこからたった一個だが確かに指紋を採取できていたのだ。そして、その茶封筒の指紋も、この二〇歳の男のものと合致していた。だからこその、宇兵の「大丈夫だよ」の一言だったのだ。
こうして殉職警官の公葬の前日、鑑識や刑事たちの執念で、事件はまさに劇的に解決した。
「お疲れさまでしたぁ――」
宇兵の音頭で、一同がコップを掲げる。大事件、難事件が解決すると、こうして課内でお清め≠ニも呼ばれる打ち上げをするというのは、おそらく警察という組織が始まって以来の慣習だろう。始まるのは、たいてい午後六時前後。ちょっと前までは一升瓶に湯呑《ゆの》みが定番だったが、さすがに最近は少しは垢抜《あかぬ》けて、缶ビールと乾き物がデスクの上に積まれている。
酒を飲めない宇兵ではあるが、この場の雰囲気は好きだ。今日も、一人、ウーロン茶片手に若手たちの相手をしている。つい、愛用のピースの本数が増えるのもこのときだ。彼らにしてみれば、ようやく保秘も解け、事件の話を大っぴらにできるという安心感もある。そこに酔いも手伝って、会話は自ずと熱っぽくなる。
「一課からせっつかれたって、納得いかないのに一回切りで指紋採取をやめちゃあいけないんだよ。大切なのは、粘り≠ネんだ」
宇兵自身は、この打ち上げのひと時を伝承の場≠ニ考えている。自分自身、若い頃は先輩にやたら議論を吹っかけたもので、険悪なムードになったこともあった。だが、そんな中から学ぶことが多かったのも事実だ。また、「なぜだ」と、現場に疑問を持ち続けることで、明日への活路は必ずや開けていく。
逆にいえば、常に疑問を抱き、この打ち上げの場で宇兵に議論を吹っかけてきたり、やり込められて顔を真っ赤にしている後輩は頼もしく感じる。かといって、苦言を呈するばかりではない。褒めるが七で、叱るのは三。宇兵自身、「生意気だ」と言われながらも、先輩たちに発破をかけられながらここまで来られたという思いが強いからだ。
喋りすぎた検事――杉並老女殺害事件(一)
TMBとは、テトラ・メチル・ベンジンの略で、この特殊な溶液が、目には見えないくらい薄い血液の付着した指紋(血液指紋)の血液中に含まれる酵素に化学反応し、その部分が青緑色に発色する性質を利用した指紋検出法だ。
血液指紋がなぜ重要かといえば、たとえば、犯行現場の血溜《ちだ》まりに被害者以外の指紋があるとしたら、それは加害者のものである確率が限りなく高くなるからだ。しかし、液体である血液に触れた指紋や掌紋は、多くは横滑りに潰《つぶ》れていたり、乾いて隆線が見えにくくなっている場合が多い。そこで、TMBの出番となる。
その日も、宇兵は杉並区の現場で指紋を採取していた。平成二年の年の瀬のことだが、もちろん現場鑑識に暮れも盆もない。
被害者となった老女の家を、第一発見者となる設計士が屋根修理の打ち合わせに訪れたのは一二月六日の午後二時前だった。ブザーを鳴らしても返事がない。六〇代半ばとはいえ、約束を忘れたことは一度もなく、不審に思った設計士が玄関のドアに手をかけたところ、鍵《かぎ》はかかっておらずドアは簡単に開いた。次の瞬間、玄関のたたきとそこから続く廊下に付着した血液を認めて、設計士は息をのんだ。
宇兵をはじめとする鑑識係二七名は、この設計士の一一〇番通報によって、杉並署員らに続いて現場に臨場していた。老女は、一階の八畳間でうつぶせで死亡していた。検視の結果、死因は顔面や上背部、上肢を刺されたことによる失血死と推定された。
すぐに指紋採取が行われ、七七個の現場指紋・掌紋を採取、さらに対照可能な指紋二〇個が選別された。
「こりゃ、次はTMBの出番だな」
現場の八畳間に足を踏み入れた瞬間から、宇兵はそこがいわゆる血の現場≠ナあるのを見て取った。そこで、血液指掌紋も残っている可能性が大きいため、TMB法による検出が行われることになった。しかし――
「塚さん、駄目です」
「手袋か」
「はい……」
犯人が物色したと思われる場所を中心に、霧状もしくは液状にしたTMB溶液を振りかけたり塗ったりしながら検出を試みたが、採取できたのはすべて手袋|痕《こん》であった。用心深い犯人は、指紋を残さないため、手袋を着用の上で犯行に及んだのだ。
「クソッ……おい、ちょっと待て」
そのとき、宇兵の目に留まった一つの血液痕があった。それは八畳間の出入口近くの木の柱に付いた血液痕だった。
「よし、ここだ」
宇兵は、一つの可能性にかけていた。というのも、柱の真下に血まみれの手袋が捨てられていたのが見つかっていたからだ。いくら手袋をしていても、これだけの血液量が残っているということは、犯人の手にもかなりの量の血液が手袋からしみ込んで付着していると思われた。犯人は部屋を出るとき、ここで手袋を取り、両手の血液を拭《ぬぐ》い取ったに違いない。
「ホシは手袋を取ったとき、バランスを失って思わず手を突いたんだな。さすがに殺しの直後だ。焦ってもいただろう」
そして犯人は、血まみれの手を柱に突いてしまうというミスを犯したものの、それが押しつけた形となり、ほとんど自分の目にも指紋が判読不明だったため、まさかそこから指紋・掌紋を採られるとは思いもしなかったのではないか。
じっくり観察してみると、それは確かに左手の血液掌紋だった。ただ、残念なのは、ほとんどが――犯人の考えた通り――ひしゃげたような形状で残っていて、掌紋としては使い物にならなくなっていた。
現場の鑑識課員たちは、一気に落胆ムードに包まれた。しかし、これで諦《あきら》める宇兵ではなかった。
「おい、何のためのTMBだと思ってるんだ」
若い指紋係たちにやんわり発破をかけながら、宇兵は、その柱の掌紋の周囲にもTMB溶液を振りかけるよう指示した。そう、TMB法の優れているところは、目に見えない血液の痕《あと》も浮かび上がらせることができる点だ。
慎重に作業を進めていた係員だったが、薬品付着の紙片を握っていた手をパッと離した瞬間、左手の、ほとんど付け根に近い部分の隆線がわずかに青緑色に浮かび上がってきたのが認められた。転写は不可能なため、すぐに写真撮影が行われ、続いて対照作業にまわされた。
まず鑑識活動の最初の段階で、現場から採取されていた七七個の指掌紋は、被害者のものか、身元とアリバイの明確な関係者の指紋と判明した。いよいよ、あの柱の掌紋に期待がかかった。
「合うなよ、合うなよ」
宇兵らの祈るような気持ちが通じたか、結果は、被害者のとはまったく別の掌紋が検出されたのだ。ただちに、この掌紋こそ、犯人の残した唯一の℃閧ェかりとなる遺留掌紋であると推定された。
喋りすぎた検事――杉並老女殺害事件(二)
「はい、塚本です」
夜の一一時過ぎだった。妻に手渡された受話器の向こうから、T警視のちょっと疲れた声が聞こえてくる。
「塚さんよ、あのじいさんだが、否認してるんだ」
その七八歳という、被害者よりもはるかに高齢のじいさん≠アそ、特別捜査本部も宇兵らも犯人と目星を付けた相手だった。最初の七七個の指掌紋の中にも、この老人の指掌紋は出ていたが、被害者とは以前に勤務先で同僚だったという老人は、「かなり前に(老女の家を)訪れたことがあるが、最近は行っていない」と、犯行を強く否認していた。しかし、関係者として採取した老人の掌紋と、TMB法によって犯行現場の柱から検出された唯一の遺留掌紋とが一致したことで、この老人が犯人であるのは間違いないと宇兵は読んでいた。
「いや、Tさん、あのじいさんは間違いなくホシだよ。血液掌紋が一致してるんだから、もう逃げようがないんじゃないか」
「ただなぁ、あのヨボヨボぶりを見ていると、本当にあんな犯行を犯せるのかと心配になるんだ。なにせ、あの年で、右手が利かないんだからな」
「だから、臭いんだよ。片手でやるしかなかったから、被害者に抵抗されたとき、激しい揉《も》み合いになってると俺は睨《にら》んでるんだ。あの、滴下痕があったろう……」
「ああ、見事な滴り具合だった」
犯行現場から廊下伝いに玄関に向かって、血が滴り落ちた痕がちょうど一メートルおき間隔で付いていた。見事なというのは、床の上できれいな金平糖《こんぺいとう》の形状をしていることだった。
「あれが被害者を追いかけまわしているときにできた血液痕なら、ああはきれいには滴下痕は付かない。ありゃ、手をかばいながら逃げたときに、血液が同じ高さからポタポタ滴った痕に違いない。だから、じいさん、自分の手にも傷を負ってるんじゃないかと……」
宇兵が言い終わらないうちに、T警視が答える。
「ああ、もうほとんど治っているが、たしかに切り傷があった」
「じゃあ、間違いない。ホシだ」
犯人は自らも傷を負っており、もちろん被害者の血液も付着しただろうが、それ以上に、自らの傷口から流れ出る血を、犯行後、家から出る前に拭《ふ》き取る必要があったのだ。そして、手袋を外そうとして、思わずよろけて柱に手を突いてしまった。そう考えると、あの年齢も犯人である動かぬ証拠の一つに思えてくる。
しかし、容疑者の老人が否認を続けたまま、年越しを迎えることになった。御用納めをすますと、宇兵は心機一転とばかり、好きな場所の一つである上野・アメ横へ出向いた。例年の通り、すごい人出だ。
妻への土産に、魚屋と値引き交渉を楽しみながら新巻鮭を買い求める。そういや、さっきの魚屋、嗄《しやが》れた声で「だんなさん、こんなに新鮮ですよ」と言いながら鮭の腹を親指でツンツンと押して見せたが、ナマモノに付いた指紋はどうなるんだろうか……。
「いやいや、この正月休みばかりは指紋のことは、ひとまず忘れよう」
宇兵は苦笑いしながら、再び駅へと向かって流れる人込みに身を任せた。
「親父さん、正月だというのにお屠蘇《とそ》だけかい」
「まあ、俺のことは気にせずに、お前たちでどんどんやってくれ」
穏やかな正月三日の朝である。父親より先に酔っぱらった息子たちが、赤い顔して新年の挨拶《あいさつ》を口にする。長男は父親と同じ警察官に、次男は「警察官は相手を殴れない決まりだから嫌だ」とサラリーマンの道を選んでいた。成人して、一人前に母親に酌をさせて酒など飲んでいる息子たちを前に、ビールを一口だけ含んだ顔を宇兵はちょっと赤らめた。
宇兵はもともと酒を飲まない。下戸《げこ》でいる理由は、飲んでも美味《うま》いと思わないという単純なものだが、初対面の人に話すと、必ず意外な顔をされる。鑑識という神経を研ぎ澄ます職場にいれば、酒でも飲んでうさ晴らしをしないと身も心も保《も》たないだろうと、誰もが想像するようだ。
しかし、と宇兵は思う。たしかに警察組織の人間関係は複雑で、現場での仕事も思うようにいかないことのほうが多い。世間で言われる通り、ストレスの多い職場であるのは彼も否定はしない。だから、酒の席で酔いの力を借り、普段は言えないことを上役や同僚にぶつけて日頃の胸のつかえを押し流すという気持ちもよくわかる。なるほど、互いに酔っていれば、後腐れもなく本音が言えるだろう。だが、その論法でいけば、宇兵に酒の力は必要なかった。彼は酔わなくても、いつでもその場で本音で物を言い、行動していたからだ。
そういえば、年末の忘年会でも、杉並の老女殺しの捜査の進め方をめぐって、仲間うちでちょっとしたいざこざがあった。そんなときの止め役も宇兵だったが、彼は仲裁に入りながら、胸の内で『だから、お汁粉屋で忘年会をすりゃよかったんだ』などとつぶやいていた。
息子たちの会話に耳をやりながら、その忘年会の様子を思い出していた宇兵だったが、突然、台所から戻ってきた妻に呼びかけられ、正月気分も一度に吹き飛んでしまった。
「お父さん、役所からですよ」
だが、宇兵も、家族たちも、「正月早々」とは思わなかった。ただ、息子たちは、ちょっと淋《さび》しそうな母親に向かい、「今年も父さんは相変わらずのようだね」という含みを込めて、口には出さずにうなずきかけながら、お銚子《ちようし》のお代わりを頼んだ。
電話の相手は捜査一課長だった。
「塚さん、新年、おめでとう……いや、新年早々すまん」
「どうしたよ? 杉並の件か」
「そうなんだ。すまないが、大至急、例の柱の掌紋から血液型を取ってほしいんだ」
「血液型? どうしてだ? じいさんが否認を続けるのが心配なら、俺、いつでも公判で証言してやるよ。ホシに間違いないんだから。れっきとした証拠もあるじゃないか。それを何も、こんな正月から……」
ちょっと皮肉を言ってしまったかと宇兵は後悔した。が、血液型がなぜ必要なんだ。それも、何をこんなに急いでるんだ。
「すまん。事情はあとで必ず説明させてもらうから、とにかく頼む。失敗はできないんだ。だから、塚さん、あんたに頼む」
もう宇兵に断る理由はなかった。それに正月休みだと言っても、宇兵の頭から指紋が消えてしまったことは一日とてない。現に正月の今日も、天井の木目を見ては、年末にルーペで覗《のぞ》いた指紋を思い出していたじゃないか。それならいっそ、鑑識の仕事をしているほうがいい――半分、本音だった。電話を切った宇兵は妻に、
「おい、出かけるぞ」
それから、
「お前たち、ゆっくり飲んでてくれ。正月くらい、母さんの話し相手になってやってもいいだろう」
と息子たちに言葉を残すと、家々の門松を右に左に見ながら、警視庁へと寒風の中を急いだ。
喋りすぎた検事――杉並老女殺害事件(三)
正月|三箇日《さんがにち》早々、いまだ血の臭いの残る杉並の殺人現場へ行き、柱の掌紋から血液型を調べ上げようとしているわが身を思うと、たしかに世間から見れば因果な商売なのだろう。しかし、宇兵は自分が頼りにされたのだと思うと、ちっとも苦にならなかった。
さて、その採取法とは、柱の例の掌紋部分をノミで慎重に削り取り、その木片を科学捜査研究所へ送って血液型を割り出すというものだった。はたして、三カ所から被害者の血液が、二カ所から被疑者である老人のものと思われる血液が検出されていた。
宇兵にすれば、この被疑者の血液型が老人のものと一致するのは当然のことだった。しかし、捜査本部にすれば、まさに賭け≠セったのである。
「何だって! 検事がじいさんに喋《しやべ》ったっていうのか」
ようやく一週間後になって、一課の幹部から宇兵に真実が語られた。こういうことだった。
逮捕後、身柄を検察庁に送られた老人は、検事の取り調べを受けた。このとき、いつまでも頑《かたくな》に否認を続ける被疑者の老人に向かい、しびれを切らした検事がつい口をすべらせてしまったのだ。
「いつまでもしらを切り通せるもんじゃないぞ。否認しても、こっちは証拠を握ってるんだ。お前は知らないかもしれないが、現場からお前の血液まみれの手形も出ているんだからな」
「えっ、私の手形が!」
「そうだ。動かぬ証拠というやつだ」
「いや、あれは……」
「何だ」
やや、間があったに違いない。その数秒の間に、老人は死に物狂いで考えたのだ、ピンチをチャンスに逆転する言い訳を。
「検事さん、申し訳ないです。私は嘘をついていました。実は、あの日の朝、杉並の○○○さんの家に行ったんです。すると、すでに彼女は血まみれで倒れていました。あわてて抱き起こしたんですが、すでに死んでいて、それで恐くなった私は彼女を残して逃げて家に帰って、その後は一日、布団を被《かぶ》って寝ていました。だから、私の手形が残っていたとしたら、あのとき、彼女を抱きかかえたときに付いたものです」
「何だと!」
もう遅かった。血液掌紋が出たことは、あくまでも隠し玉にするべきだった。
老人が、「あの家には行っていない」という主張を押し通していたら、公判で掌紋を証拠として提出すればよかった。犯行現場に行ってないのに、掌紋が――まして血液まみれの柱に――残るはずはないからだ。しかし、「行ったけれど、殺していない」となれば、話は振り出しに戻ってしまう。検事のうっかり<~スが、老人に恰好《かつこう》の口実を与えたわけだ。
「だろうな、正月早々、あんたから慌てた電話をもらって、何かあるとは思っていたが、まさかねえ、検事先生がそんなお喋りをするとは」
正月三日、宇兵らが犯行現場の柱から採取した血液からは、たしかに老人と同じ血液型が検出されていた。もし、老人が言い訳する通りに、「現場には行って老女を抱きかかえたが、恐くなってそのまま逃げ帰った」というのが本当なら、あの柱に――それも被害者の血液と同じ場所に――老人の血液が残っているというのは、どう考えても不自然だ。抱きかかえただけで、なぜ、自分の血液までそこに残っているというのか。
この柱の血液を突きつけられるに及び、とうとう老人も犯行を認めた。
「これで、検事さんも懲りただろうよ」
大きなヤマを一つ越えて、ようやく宇兵にも正月がやってきた気分だった。
発掘現場にて
平成七年の一月、宇兵は寒風吹きすさぶ茨城県ひたちなか市の古墳の出土現場に立っていた。国立歴史民俗博物館より、土器や埴輪《はにわ》に残る指紋に関する研究への技術協力を求められてのことだった。茨城といえば故郷でもあり、二つ返事で応じた宇兵だった。
訪れてみれば、発掘現場は意外に住宅街の中にあったが、一面を掘り起こされたむき出しの平地に立つと、野原を駆け回った幼い日がよみがえって、頬を撫《な》でていく風が懐かしく感じられた。すでに多くの土器や埴輪が出土していたが、それらに残された指紋は、いくつかは目にそれと見えるものもあったが、ほとんどが部分だったり、無残に欠けたいわゆる片鱗《へんりん》紋だった。発掘を担当する助教授は言った。
「土器というのは、作製の工程の関係で、内側やつなぎ目などに指紋が付いていることが多いんです……」
なるほど、これは素人には指紋採取は困難だろう。
そこで宇兵は、撮影したり、液状にした合成樹脂《シリコン》を使って転写する方法を提案した。その後は、助教授らが茨城や千葉の出土現場からの円筒埴輪など一万点以上を調査し、その中の数百点から指紋を採取。それらを、今度は宇兵らが休日などを使って照合するという連携作業が続いた。
ルーペを覗きながら、宇兵は古代の埴輪職人に思いを馳《は》せた。俺と似て、頑固者だったろうか……こんな夢見がちな気持ちは、普段の犯罪指紋の照合ではまずあり得ない。
やがて、多くのことが指紋から判明した。二点の円筒埴輪の断片から、まったく同じ指紋が見つかった。埴輪作り専門の技術者がいたのではないか、と現場は色めき立った。また、技術者によって、指紋が磨滅している人とそうでない人がある事実もわかった。熟練度の差だろうか。
もっと調査が進み、国内の離れた地域から同一の指紋が発見されたりすれば、技術者の移動や交易の状況がさらに明らかになるかもしれない――。
だが、宇兵はロマンを感じる発掘現場に長居はできなかった。やがて、オウム事件の端緒となる假谷さん事件が発生し、前述の通り、現場検証の仕切りを任されることになったからだ。そして、このオウム事件が、宇兵が指紋捜査官として手がけた最後の大事件となった。
気がつけば、ルーペ越しに指紋と向き合い、ときに呻吟《しんぎん》し、ときに快哉《かいさい》を叫びながら三〇年、延べにして一万日の歳月が経っていた。
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終 章 自宅風呂場での実験
塚本宇兵が警視庁を退職して指紋捜査の第一線から身を引いたのは、オウム事件発生から約一年後の平成八年三月末日のことだった。
現在は嘱託として警視庁鑑識研究所所長の身分であることは紹介ずみだが、今も、指紋との密な関わりは相変わらず続いている。
警察大学や法務省の検事の研修生らに鑑識捜査について講義したりする他は、大きな事件が起きると、経時変化(指紋が印象されて消えるまでの変化)や死体指紋の採取法などについて、ちょうど知恵袋のようにアドバイスを求められることも多い。いや、現場に出ないだけに、若い鑑識課員らから何か相談を受けるというときは、決まって現場ではどうしようもない難事件のことが多い。
たとえば、つい最近もこんな相談が検事から持ち込まれた。
「児童虐待……」
宇兵の脳裏に、検事の話を聞き始めてすぐに、その単語が浮かんだ。
まもなく平成一一年の盛夏を迎えようとしていたが、ここ最近も児童虐待事件は増え続けており、その報に接するたび、孫を持つ身の宇兵は深く心を痛めていた。
その検事は、相変わらず熱っぽく、宇兵に語り続けた。それは、三歳の少女が自宅の風呂《ふろ》場で溺死《できし》したという事故(まだ事件になっていない段階)についてだった。
「私は、母親がわが娘を虐待の果てに風呂場で溺《おぼ》れさせて殺害したと見ています。その証拠に、風呂場から被害者である少女の指紋は検出されていません」
「えっ、指紋が出ていない?」
宇兵が尋ねるのを待っていたとばかりに、
「そうです。つまり、母親が無理矢理に少女の体を浴槽に押し込んだために、娘の指紋が浴槽や周辺に付くひまがなかったんです。母親は、娘は一人で風呂に入っていて溺れたと供述していますが、指紋が出ていない事実からも、これが虚偽であることは明らかです。やったのは、あの母親です」
検事は確信しているようだった。宇兵は、ようやく、彼が鑑識研究所の自分のもとへやってきた目的がわかった。こう言いたいのだろう。
「娘の指紋が検出されないということは、風呂場において、娘が浴槽やその他の物に触ることなく湯水に浸《つ》けられ死亡させられたからだ。だから、塚本さんには、指紋が検出されない、イコール、娘は自分で風呂に入っていて溺れたのではなく、母親によって浴槽に沈められたことを証明してほしい」
それにしても、指紋の専門家である自分に指紋が出ないことを証明しろとは――言いたいことはわかったが、宇兵は内心、困ったと思った。
「指紋が検出されない」というのは、つまり、「触っていないからだ」とか、「その人物がそこにいなかったという不在証明になる」と信じる人は多い。この検事のように、いわゆる法の専門家の中にもかなりいるようだ。
しかし、これは単純な考え違いだ。
たとえば、何かに触っていても、擦《こす》れていたり(擦過痕《さつかこん》)、水撥《みずは》ねしたりしていて、うまく指紋が採れないということは指紋捜査の現場では多々あるもの。いや、指紋のほとんどは不完全な片鱗《へんりん》紋で、宇兵ら鑑識のプロでさえ、採取を二〇回試みて一回採れれば御の字といった側面があるのも、また厳とした現実なのだ。
つまり、「指紋が検出されない」というのは、実際は、「触っているが出ない」、もっと厳密に言うと、「触っているが個人識別に到達できるほど鮮明には¥oない」という可能性も意味する。誰かが何かを素手で触ったからといって、そのすべてから指紋を検出できるわけではないのだ。
しかし、それをこの場で検事に説明するのは憚《はばか》られた。半ば興奮状態にある相手の理屈に理屈で対抗しても詮《せん》なし。それよりは、相手が納得するほどの事実を突きつけるに限る、との判断だった。
その後も検事は、被害者の三歳女児の写真――顔面に何カ所もアザの痕《あと》のある――などを見せながら、最後は宇兵に、「ぜひ、意見書を提出していただけますように」と、頭を下げて帰っていった。警視庁鑑識課管理官で指紋の神様≠ニも呼ばれる宇兵が、「事故現場の風呂場から少女の指紋が検出されないということは、母親によって浴槽に沈められたことを証明する」という意見書を提出すれば、それは捜査や裁判の上でも、母親犯人説の大きな後押しとなる。
たしかに、一人では背の高い浴槽をまたいで風呂に入りづらい三歳という年齢、また写真で見せられた顔面の不自然なアザからいけば、検事の言う通り、母親はクロなのかもしれない。先程のむごたらしい少女の写真を思い出すたびに、ちょうど同じ年頃の孫の顔が浮かび、宇兵の全身を言いようのない怒りが貫く。しかし、指紋捜査に偏見や先入観は禁物だ。
宇兵は、どうしたものかと、鑑識研究所のデスクに座ったまま、目の前のピースに手を伸ばした。
次の日曜日、宇兵は午前中から自宅の風呂場にいた。お供は、近所に住む三歳の男の子だった。宇兵にも四歳になる孫娘がいたが、少しでも被害者に近い年齢がよかろうと、今日は男の子の両親に事情を話して早朝から自宅に招いていた。といっても、のんびりと休日の水遊びではない。実験をしていたのだ。
宇兵は、自宅の浴槽の材質が、少女溺死の現場の浴槽と違っているのに気付いた。前者はステンレス製、後者はポリプロピレン製だった。そこで、現場の浴槽と同じポリプロピレン製の洗面器を検体≠ニして、実験を行うことにした。
まず、洗面器をよく拭《ふ》き、乾燥した状態で男の子の左右の手で持たせたり、強く押し当てさせたりを、一〇回ほど繰り返した。宇兵は無邪気な姿を前に、改めて被害者のことを思い出して悲痛な思いに襲われたが、そこはグッとこらえ、淡々と実験をこなしていった。それから、約三〇分間おいて、今度は潜在指紋検出のための試薬を塗布した。続いて、指紋検出作業にかかったが、結果として、完全な指紋は採取できず、指痕が二―三個採れるにとどまった。
だが、仕方ない。もともと幼児の指というのはやわらかく、その上、顔面や体にも脂肪分が少ないため、指紋が採取しにくいのだ。指紋というのは、指が、汗や顔面や頭髪などを知らず知らずのうちに触って、その脂肪分が指に付くことによって、より鮮明に印象されるようになるものなのだ。その日は、男の子がさすがに飽きてしまったようで、それ以上の実験を中止するしかなかった。
約一カ月後、今度は自分の四歳の孫に実験に協力してもらうことにした。女の子でもあったし、少しは宇兵の無理な要求にも我慢してくれるだろう、との目論見《もくろみ》もあった。
指紋検出の手順は、前回と同じであった。そして、結果もまた同じ不検出≠ニなった。しかし、ここから先がちょっと違った。孫に、「もう少し、じいちゃんの言うことを聞いてくれよ」と言い聞かせ、宇兵は孫の小さな指を自分の顔面に持っていき、ベタベタと触らせた。成人の脂肪分を付着させることによって、少しは指紋が採取しやすくなると考えたのだ。もしかしたら、被害者の少女も、風呂を嫌がったり、もしくは母親に抵抗して、その体や顔面などに触っていたかもしれない――。
約三〇分後、今度は『連続指紋』が六個採れた。ちなみに連続指紋とは、小指・薬指・中指と、二本以上の指が連なった状態で指紋が採れることをいう。連続していれば、たとえば、その指が左手のものなのか右手なのかという判断がしやすくなったりする。
「よく我慢してくれたね」
やさしい祖父の顔に戻って孫にねぎらいの言葉をかけた宇兵だったが、その後の識別作業に移ったとき、彼はその結果に、自分の読みが正しかったことを改めて知る。六個のうち、個人識別が可能なほど鮮明に採れた指紋は、たったの一個しかなかったのだ。
まず、前述の通り、幼児の場合は指がやわらかく、脂肪分が少ないということがある。さらに、もともと指紋そのものが小さく、隆線も細くて浅いため、何かに押しつけたとき、その隆線が潰《つぶ》れてしまうのだ。
宇兵は、やがて、彼の思い込みなどではなく、あくまで実験から得た結果に基づいて、意見書を作成した。やや専門的になるが、以下に記す。
『本件、被害者(三歳女児)の指紋が、なぜ現場の浴槽から採取できなかったのか。
これについて、私の経験と、実験した結果について述べたい。
なお、被害者が多汗症などの体質ではなく、潜在指紋が鮮明に印象されるとの前提において考察する。
一、風呂場の環境と潜在指紋の印象
被害者の自宅の浴槽は、ポリプロピレン素材で、表面は滑らかで、比較的硬い素材でできている。こうした素材から潜在指紋を検出・採取する場合は、固体法のアルミニウム粉末(アルミニウム粉末と石松子《せきしようし》粉末を混合したもの)をダスター刷毛《はけ》に付着させ、ブラッシング法によって検出し、黒ゼラチン紙に転写して採取するのが一般的な検出・採取法である。
浴槽の縁がよく乾燥し、被害者が適正な指紋を印象していたならば、個人識別可能な現場指紋を検出・採取することが可能である。
@被害者の女児が風呂場に入ったとされる午前一一時頃、もし、前夜に入浴したあと、窓や出入口が密閉された状態であった場合、風呂場内の湿度は相当高く、浴槽の縁、周囲のタイルや壁などには結露があったと想定できる。
このような状態では、潜在指紋は印象されにくく、また印象されたとしても、指痕となることが多い。
A風呂場の窓や出入口が開けられており、周囲の壁などが乾燥していたとしても、女児が指を触れた浴槽の縁の部分に湯が付いていた場合、あるいは、女児が浴槽内の湯に手を入れたため手や指に水分が付着していた場合も、指紋は印象されにくく、印象されたとしても指痕となる場合が多い。
B女児の指が浴槽の縁に触れたまま動きがあった場合、前後、左右、押圧の強弱、動きの速度によっても異なるが、この場合も指痕となることが多い。
二、潜在指紋印象後の破壊
@一のような諸条件がなく、鮮明な潜在指紋が印象されていたとしても、その後、潜在指紋等が印象された箇所を人の体や衣類等で擦ったりした場合は、潜在指紋は消滅する。
A女児が溺れているのを発見し、救出する際、女児の体を浴槽の縁に擦るような状態となった場合、潜在指紋は破壊消滅する。
B救出者の母親が、女児を救出する際に、自身の胸や腹で浴槽の縁に触れ、両手で被害者を抱きかかえた際、浴槽の縁に衣類などを擦った状態となり、潜在指紋は破壊消滅する。
三、結論
被疑者(母親)の供述について、自宅浴槽の縁等に被害者の女児の指紋がついていなくとも、矛盾しない。
なぜ、矛盾しないかというと、
「実験で得られた結果の通り、潜在指紋のよりよい印象条件があり、印象後、破壊消滅行為がなかった場合でなければ、個人識別可能な現場指紋は採取できない」からである。
平成一二年一月三一日
[#地付き]警視庁刑事部鑑識研究所 塚本宇兵
宇兵は、自宅風呂場の実験によって、念には念を入れ、なるべく整った条件下での指紋採取を行っていた。だが、結果は、すでに紹介した通り。
長年の経験によるカンからいけば、この被疑者の母親は十中八九クロだろう。しかし、その後の取り調べやこの宇兵の意見書などもあって、母親はシロと判定されるに至った。
宇兵は言う。
「昔ながらの人に聞く¢{査だったら、この母親はまず間違いなくホシ(犯人)とされていただろうが、今は物に聞く℃梠繧セ。
この実験の結果が、検事の期待に真っ向から反するものなのはわかっていた。しかし、物に聞く捜査の主役たる指紋の実験の結果は、結果として謙虚に受け止めなければならない。つまり、指紋がないからといって、触ってないことにはならない。そして、逆に、触ったからといって、必ず指紋が残るわけでもない。悔しいけれど、あるはずの指紋が採れない場合もある……」
それこそが、もともと指紋を好きでなかった宇兵が、気がついたらのめり込んでいたという指紋の奥深さなのだろう。取材も終盤に入ったとき、ぽつりと漏らした次の言葉が忘れられない。
「私は本当に運がよかった。まず、巡査部長時代から鑑識一筋に来られたこと。次に、警視庁はどこよりも扱う指紋の数が多かったこと。日本一は、恐らく世界一だろう。そして、刑事課から鑑識へまわされる悔しさを味わったこと。だから、指紋に没頭するしかなかったし、いったんそうなったあとは、もう指紋がおもしろくておもしろくてしょうがなかった。また、そうでなければ勝てなかった。だから、ただ無我夢中にやってきただけで、私はけっして神様なんかじゃないんだよ」
宇兵はいったい誰と勝負し続けていたのか。
指紋を現場に残していったホシとか、ライバル視していた捜査一課の刑事たちとか、それとも現場に残された指紋そのものが相手だったのか。いや、違う。彼はいつも自分自身と闘っていたのだ。
そして、その闘いは現在も続いており、指紋から離れてしまう一般企業への天下りは断固として拒否。さすがに最近は喧嘩《けんか》宇兵≠ニ呼ばれることはないが、指紋への頑固さは現役当時のまま、のようである。
「まだまだ知りたいことがある。一つが、指紋の付いた時期の特定。いずれ、光工学の技術を応用して遺留指紋を非加工で採取できるようになれば、一つの指紋から二次的、三次的な情報を得ることもできるはずだ。たとえば、指紋に残された分泌液から血液型を判定するといったことだ。現在、指紋はミリ単位の世界だが、これからはミクロンの攻防となるだろう。
今、何より興味があるのは、パソコンのパスワードの代わりに指紋を用いるシステムや指紋によって身元確認を行うパスポートなど『指紋による犯罪予防』だ。でも、これらの実現のためには、まだまだ指紋に対する偏見や誤解が多い。そのためにも、もっともっと指紋のことを知ってもらいたい」
実は、さらなる指紋の普及という点では、今春を目処《めど》に青年海外協力隊のシニア・ボランティアとしてアジア諸国へ赴くプランもある。今はせっせと履歴書を含め提出書類を準備している段階だ。ここ一年ほど、自宅近くの家庭菜園で野菜などをともに育て、ようやく夫も家に落ちつくかと安堵《あんど》していた様子の妻のことが気がかりと言いながらも、当の宇兵、
「女房は、『お父さんは指紋のことになると、言いだしたら聞かないから』と笑っていたよ。東南アジアの一部では、これから本格的な国の整備が始まる。そんなとき、指紋の果たす役割はきっと大きいはずだ。
ほら、あそこら辺は暑い国だから手袋をする習慣もないだろう。だから、指紋は日本以上に活躍できるはずなんだ……」
三年前、最初に出会ったときと同じ、いや、それ以上の熱っぽさで、また指紋を熱く語り始めるのだった。その眼差《まなざ》しは、紛れもない職人のそれ。努力と才能と素直さと……いや、そんなことはどうでもいい。とことんのめり込める一生の仕事を持つ塚本宇兵という男が、そのとき、妬《ねた》ましいほどに眩《まぶ》しく目に映った。
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あとがき
「指紋の神様≠ノ会ってみないか――」
三年前、ある人からこう持ちかけられて、最近はなかなかお目にかかれない職人と出会えるのではと期待すると同時に、実はこのとき、私にはもう一つ、咄嗟《とつさ》にひらめいたことがあった。
私はこの本の前に『阿部定《あべさだ》正伝』を上梓《じようし》しており、その中で、昭和一一年にいわゆる「阿部定事件」を起こした稀代《きたい》の毒婦こと、阿部定さんの人生を追いかけていた。だが、結論からいうと、事件後、彼女が平凡な生活を得ようと願いながらも叶《かな》わず、相変わらず波瀾《はらん》万丈の生活を送っていたことはわかったが、最後の消息に関してはついにつかめず仕舞いだった。この情報に溢《あふ》れた社会で、あれほどの有名事件のヒロインが生きているか死んでいるかさえわからないままでいる。それはシンプルな驚きであり、さかのぼれば、取材が始まったきっかけもこの一点にあった。
最後にたどり着いた推理は、彼女が世間やマスコミから姿を消すために偽名を使っていたのではないかというものだった。すさんだ放浪生活を送っていた十代の頃から、いくつもの名前を使い分けてきた人だ。偽名を使う生活の中で行き倒れるようなことがあれば、身元不明のまま入院したり、或《ある》いは死亡したりという可能性もなくはない。そんな中、彼女が晩年、近しい人に「富士の樹海で死にたい」と、漏らしていた事実も出てきた。
もし、彼女が偽名生活の果てに行き倒れたり、樹海へ迷い込んでいたとしたら、どうなっただろう――そんなとき脳裏に浮かんだのが「指紋」だった。あれほどの有名人≠フことだ。万が一、そうした不測の事態に陥ったとしても、残された指紋によって身元はじきに割れるはずだ、と。早速、警視庁および警察庁に尋ねてみた。だが、何の後ろ楯《だて》もないフリーライターの悲しさ。協力を得られるはずもなく、指紋について確認することが叶わなかった私は阿部定さんの指紋の件を頭の片隅に追いやり、ともかく取材を終えた。
そして、ほぼ一年後、はからずも対面することになった指紋の神様≠ナあったが、多分、二度目にお会いしたとき、私は取材の終わりにさり気なく塚本氏に切り出したように覚えている。
「阿部定事件はご存じだと思うんですが、あれくらいの有名事件だと、必ず指紋は採っていますね」
「あれは、いつだっけ?」
「昭和一一年五月一八日です」
「なら、間違いなくあるだろう。ただ、間に戦争が入るから、資料が焼失している可能性もあるが」
「じゃあ、指紋が警視庁に残っているとして、阿部定さんがどこかで行き倒れたりしたら、たとえ偽名を使っていても身元が割れるということですね」
「ああ、そうなると思う。行き倒れの身元不明者などは指紋照会する決まりになっているから」
「やっぱり……」
少し安堵《あんど》する。だが――
「いや、待てよ。阿部定さんはいくつになる?」
「生きていれば、今、九三歳のはずですが……それが何か」
「じゃ、駄目だ」
「えっ!」
「保管しておいたとしても、その人物が七五歳までなんだよ」
「なぜですか」
「もう、その年になれば、さすがに犯罪を犯すこともないだろう。たしか、そうした理由だったと思うが」
「そんな……」
素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げながらも、この「七五歳説」を聞いて、警察が指紋をどう捉《とら》えているかということが早くもぼんやり見えた気がした。
もちろん、私の落胆の大きさは言うまでもない。四年半に及ぶ取材活動の中で判明していた、阿部定さんが完全に社会から姿を消したとされる年が昭和五五年、奇《く》しくも彼女七五歳のときだった――。
ただ、その後、塚本氏の取材が進むにつれ、前の落胆や悔しさは徐々に薄れていっていた。それほど、指紋にまつわる捜査現場の話は一見地味なようで、実はミステリー小説にも犯罪ドラマにもない未経験の刺激に満ちていた。一言でいうなら、原点の魅力。ポケベルが携帯へ、カメラがビデオへ、ファクスがパソコンへと進化していった今も、塚本氏が指紋との関わりを始めた三〇年前と同じく、すべての事件捜査が「指紋」から始まっており、これは、こののち三〇年も変わらないはずだと確信した。
だが、当の塚本氏は会うたびに淡々と繰り返した。
「俺の話なんかいいんだよ。それより、指紋が個人識別にこれほど優れていることを、誰もが理解できるような本を書いてくれないか」
指紋の奥深さを知るには、塚本氏の日々の仕事ぶりを追体験していくしかない。そう思って、テーマなど決めず、実際にあった事件の話からどんどん取材を広げていった。第一線にいたとき、氏が「三億円」「よど号」「オウム」など、二〇世紀を代表する大事件の多くに関わっていたのは取材する側としては幸運だった。また、近年、急増している動機なき殺人≠ノついては、「違う世界の事件のように感じることもある」と、複雑な胸中を語る場面もあった。もちろん、「指紋が残ってさえいれば、必ずや解決できるはずだ」と付け加えるのを忘れなかったが。
延べ三年間の取材を終えたとき、私の前には、紛《まが》うかたなき「指紋職人」の姿があった。そして、職人というのは、自分の仕事に対して愛情と責任をとことん持つものだと教えられた。
同時にこの三年は、また警察不祥事が盛んに報じられた時期とも重なる。キャリアの汚職、怠慢な捜査活動、組織の腐敗などなど。だからこそ、言いたい。
「こんな警察官もいる」
あえて続けるなら、昼夜を忘れ職務を遂行する絶対多数のノンキャリアの警察官の存在にわれわれの日々の安心は支えられている。その現実を、塚本宇兵という一人の指紋捜査官と出会い、改めて知ることができた。
まず、理解力不足から指紋に関して同じ質問を繰り返す私に飽きずに付き合ってくださった塚本宇兵氏、鑑識研究所のスタッフの方々、教育システム、NECドキュメンテクスと、この本をまとめるに当たって一つの方向を示してくれた角川書店の永井草二氏に、この場をかりてお礼を申し上げます。
最後に、これからボランティアとしてアジア諸国へ指紋の普及活動に行くという夢を持つ塚本さん、くれぐれもご無理をなさらないよう。といっても、また、彼《か》の地でいったん事件が起きれば、寝食も忘れてどんどん指紋捜査にのめり込んでいくのだろうな――。
平成一三年四月四日
[#地付き]堀ノ内 雅一
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参考文献
『悪女の涙』 佐木隆三著(新潮社)
『墜落遺体』 飯塚 訓著(講談社)
『宿命』   高沢皓司著(新潮社)
『極秘捜査』 麻生 幾著(文藝春秋)
その他、新聞雑誌の指紋・鑑識捜査に関する記事も参考にしました。
本書は二〇〇一年四月、小社から刊行した単行本を文庫化したものです。
角川文庫『指紋捜査官』平成16年9月25日初版発行