和辻哲郎
鎖国−日本の悲劇 (後編)
目 次
後篇 世界的視圏における近世初頭の日本
第一章 十五・六世紀の日本の情勢
一 倭寇
二 土一揆
第二章 シャビエルの渡来
一 ヤジローとの邂逅
二 鹿児島におけるシャビエル
三 山口におけるシャビエル
四 豊後におけるシャビエルと大友義鎮との接触
第三章 シャビエル渡来以後の十年間
一 トルレスと山口の教会
二 豊後における教会の建設
三 シャビエルの死と日本への関心の高揚
四 山口の教会の活動とその受難
五 豊後の教会の成長、慈善病院の経営
六 トルレスとビレラ、平戸の教会
第四章 ビレラの畿内開拓
一 ビレラ京都に来る
二 堺における一年間
三 結城山城守の招請
四 河内飯盛地方の開拓
第五章 九州諸地方の開拓
一 基地――豊後の教会
二 平戸附近諸島の開拓
三 ダルメイダの薩摩訪問
四 横瀬浦の建設
五 島原半島の開拓
六 大村純忠の受洗
七 横瀬浦の没落
八 口の津と平戸
第六章 京都におけるフロイスの活動
一 フロイスとダルメイダの上京
二 日本文化の観察
三 将軍暗殺と宣教師追放
四 京都回復の努力
第七章 九州北西沿岸地方における布教の成功
一 福田の開港
二 キリシタン武士たちの努力
三 ダルメイダの五島、天草及び長崎の開拓
四 トルレスの最後の活動――大村の会堂と北九州の政治的情勢
第八章 ルイス・フロイス―和田惟政―織田信長
一 フロイス信長に会う
二 フロイスと朝山日乗との衝突
三 追放綸旨の効力問題――日乗と惟政との対立
四 フロイス岐阜に信長を訪う
五 日乗の惟政排斥運動、日乗の失脚
六 戦乱に対するフロイスの方針と惟政に対する讃美
第九章 信長の伝統破壊
一 本願寺との敵対、叡山焼討
二 信長の危機、京都の攻囲戦
三 将軍の没落、浅井朝倉の滅亡、伝統破壊者の勝利
第十章 京都の新会堂『昇天の聖母』の建立
一 新会堂の計画とその主動者たち
二 建築工事と村井貞勝の外護
三 新会堂の効果
四 信長一門の同情
五 部将たちの同情、佐久間信盛と荒木村重
第十一章 キリシタン運動の最高潮
一 信長の鉄砲隊と艦隊
二 荒木村重の背叛と高山右近の去就
三 安土宗論
四 巡察使ワリニャーニの渡来
五 石山本願寺の開城、安土城の完成、安土のセミナリヨの開設
六 ワリニャーニの京畿地方巡察
七 大友宗麟の受洗
八 ローマへの少年使節
第十二章 鎖国への過程
一 信長殺さる
二 キリシタン大名の繁栄
三 秀吉の宣教師追放令
四 キリシタン迫害史
五 鎖国
[#改ページ]
[#見出し] 後篇 世界的視圏における近世初頭の日本
[#小見出し] 第一章 十五・六世紀の日本の情勢
一[#「一」はゴシック体] 倭寇
航海者ヘンリ王子が、ヨーロッパ西南端のサグレスの城から大西洋を望みつつ、アフリカ回航にねばり強い努力を続けていた時代、またその伝統に育てられた航海者たちが、あとからあとから探検航海を続け、遂にインドへの航路とアメリカ大陸とを発見して、その遠い土地に植民地を作りはじめた時代、即ちヨーロッパの近世が華やかにその幕をあけた時代に、われわれの国はいかなる状態にあったであろうか。
この問題は簡単には答えられない。何故ならこの時代、即ちわが国での室町時代《ヽヽヽヽ》乃至|戦国時代《ヽヽヽヽ》は、わが国の歴史のうちで最も理解の困難な時代だからである。われわれは幼時以来この時代を|闇黒な時代《ヽヽヽヽヽ》、|秩序のない時代《ヽヽヽヽヽヽヽ》として教わって来た。この見方は、江戸時代の初めに、新たに樹立された封建制度を護持する立場から、力強く主張され始めたものであるが、その後反幕府的な思潮が現われた後にも、覆えされるどころか、一層強固にされたのである。その理由は、反幕府的な思想家が、江戸幕府に対する反感を率直に表現し得ず、足利幕府を攻撃するという形を借りたところにある。彼らは足利幕府を極力貶しめようとする江戸幕府の政策的な立場を逆用して、それを一層強調しつつ、楠公崇拝の立場を宣揚した。そうしてそこに江戸幕府を倒そうとする勤王運動の顕著な標識を作り出した。その結果右の見方は明治時代以後にも生きのび、政治的な力を保持し続けたのである。この見方に反するような研究が、政治的な弾圧を受けたことは、明治末期の著しい現象であった。
室町時代乃至戦国時代が国家の統一の失われた時代、秩序の乱れた時代であるということは、誤りのない事実である。江戸幕府がその統一と秩序とを回復した後に、その功績を誇示し、前代の無秩序と対比して宣伝したことも、決して嘘の宣伝ではなかった。しかし視点を変えて見れば、その秩序の乱れの裏には、ちょうどイタリアの十四・五世紀におけるような、|個性のある強剛な人物《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の輩出を指摘することができるであろう。数々の専制君主や、傭兵をひきいて何時でも戦争の需要に応じたコンドチェーレなどが、イタリアのルネッサンスの時代の特徴となっている。それと同じタイプの人物が室町時代や戦国時代を作ったのである。伝統的身分ではなくして実力が物をいう。主従関係の道徳ではなくして利害打算が事を決する。伝統を保持する人々は口を揃えて世道の頽廃を嘆じていたが、しかしこれらの伝統破壊の現象も、当時としては人間性解放の一つの仕方であったことは認めなくてはならぬ。その解放の結果、社会の秩序は失われ、争闘や残虐の現象が横溢したのではあるが、しかしあのイタリアの華々しいルネッサンスの文化を作り出したのは、ちょうどそのような争闘と残虐とに充ちた生活であった。積極的な創造の功績の前には、社会の分裂や不安の如き他の半面の欠点は忍ばなくてはならぬ。わが国の十四・五世紀もまたそのような創造に乏しくないのである。能楽・茶の湯・連歌の如き、日本文化の独自の特徴を示すものは、みなこの時代に作り出された。歌舞伎や浄瑠璃の如き次代の創造の基礎を築いて置いたのもまたこの時代である。そういう点から見ればこの時代は創造的な時代、積極的な時代であって、決して闇黒な時代などではない。
が、われわれの問題にとって一層関係の深いのは、この時代の特徴を示す「倭寇」と「土一揆」との現象である。倭寇と呼ばれている海外進出の運動は、海外貿易と結びつき、この時代の重要な契機となっている。貿易はわが国の経済事情に著しい変化を与えた。貨幣経済が急激に発達し、利子を目ざす資本の蓄積がはじまり、都市が出現するに至ったことなど、すべてそこに聯関している。かくして資本の力は既に武力を掣肘し始めているのである。土一揆は主として農民の運動であって、貿易とは方面が異なっているが、しかし同様に民衆の力の解放として、この時代の重要な契機となっている。この民衆運動によって、日本の社会は一度作りなおされたのである。これらはヨーロッパの十四・五世紀にも著しく現われた現象であって、わが国に限ったことではないが、しかし直接に連絡のないヨーロッパと日本とにおいて、ほぼ時を同じゅうして同様な現象が見られることは、われわれの強い関心を刺戟せざるを得ないのである。
先ず初めに倭寇や海外貿易の現象を取り上げて見よう。
倭寇は、高麗史によると、一三五〇年庚寅の年から急激に盛んになっているそうである。これは蒙古襲来から七十年ほど後のことであって、蒙古人の刺戟が直ちにひき起した現象とは見えない。しかし間接にはその間に聯関があるであろう。蒙古軍に対する防衛戦争は武士階級に著しい貧困をもたらし、遂に半世紀の後に鎌倉幕府を崩壊せしめた。そのあとには伝統的な武士の秩序が回復されず、実力の競争としての内乱が打ち続いた。そのための産業の破壊や生活の困難が、倭寇を押し出したらしいのである。特に倭寇として進出したのが北九州や瀬戸内海沿岸の「あぶれ者」どもであって、蒙古人の襲来の直接の印象をうけた地方に多いことは、倭冠と蒙古襲来との聯関を示唆するものといってよかろう。しかし何故に一三五〇年という特定の年から急激な進出がはじまったかは、今のところ知る由がない。それはシナにおいて蒙古人の支配が崩壊した一三六八年よりは少しく前であるが、しかし初めは主として高麗朝末期の朝鮮に向い、崩壊に瀕した元王朝の勢力とはあまり接触しなかった。従って蒙古人への復讐という如き考のなかったことは確かである。のみならず、初期の倭寇が目ざしたところは、主として米であった。数十艘或は数百艘の船をもって南鮮の沿岸を襲い、高麗政府の租米運漕船の捕獲、陸上の租米倉庫の掠奪などをやるのが、彼らの仕事であった。その他には沿岸農民を捕虜として連れてくることをもやったが、それ以外はただ食糧の獲得がねらいであって、征服とか植民地獲得とかの如きことは全然考えていない。して見ると、一三五〇年の頃には、何か|特別に《ヽヽヽ》食糧が不足する事情があって、彼らをこの食糧獲得の運動に追い立てたのではないかと考えられる。
これがきっかけとなって、一度掠奪の味を覚え、その方法が見出されると、あとは同じような特別の事情がなくとも、倭冠は継続されたであろう。内乱の継続によって一般的に食糧の不足を来たしていた当時の日本にとっては、米は貴重品であったに相違ないからである。だから倭冠がその後連年続き、年と共に猛烈になって行ったことは当然といわなくてはならぬ。一三七五年―一三八八年の十四年間には、南鮮の四百カ所が倭寇に襲撃されたといわれている。これは高麗王朝にとっては深刻な外患であった。倭寇を防ぎ得なかった高麗王朝はやがて崩壊し、倭寇防禦に功のあった李成桂が、李王朝を創始するに至るのである。
倭寇は元王朝の崩壊する以前に山東半島に現われているが、盛んにシナ沿岸を荒らすようになったのは明王朝が起った後、一三六九年からである。その以後は揚子江の河口、杭州湾あたりから、南シナの沿岸に亘り、連年掠奪を行った。「倭寇の到る処、人民一空す」とか、「其の来るや奔狼の如く、其の去るや驚鳥の如し、来るも或は知るなく、去るも捕ふるに易からず」などといわれたのは、その頃のことである。新興の明王朝もその防衛のためには相当に苦心せざるを得なかった。しかし倭寇が、遠く広東省あたりまでも出かけて、掠奪したものは、依然として|米と農民《ヽヽヽヽ》とであった。その侵略は颱風のように過ぎ去るだけで、ヨーロッパにおけるノルマン人のように、その土地に喰い入りそこに根をおろすものではなかった。
倭寇のこの特徴は、倭寇の歴史的意義を決定するものであろう。彼らもノルマン人に劣らず冒険的であり慓悍であったが、しかしいつまでも「あぶれ者」であって、政治的な意義を獲得するに至らなかった。それに反してノルマン人は、冒険的進出が盛んになるに従い、本国の政治的組織と結びついて、国家的な行動としての侵略を行うに至ったのである。この傾向は十五世紀以後におけるヨーロッパ人の植民地経営にも見られるであろう。初めは海賊に過ぎなかった冒険的航海者も、その仕事が大きくなるに従って公共的な意義を獲得し、国家の支持を得てくる。それに応じて海賊たち自身も、探検的航海者としての心構えを失わず、その経験を記録し或は云い伝えて、背後にある国民の視圏の拡大に寄与した。この特徴は倭寇には全然見られないのである。倭寇は、その名の示す通り、|侵略を受けた国々の記録《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》によって知られるのであって、彼らがその冒険によって得た知識を母国の国民に刻みつけたが故に記憶せられているのではない。彼らの冒険的な労苦は公共的な意義を獲得することなく闇から闇へと流れてしまった。即ち歴史的意義を|獲得し得なかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということが倭冠の歴史的意義でもあるのである。
倭寇のこの性格を明かに反映しているのは、十五世紀に入って盛んになった海外貿易が、|倭寇の禁圧《ヽヽヽヽヽ》によって可能になったということである。この禁圧は高麗や明の側からの数十年に亘る熱心な外交交渉によって漸次実現されるに至ったのであった。初め高麗からの海賊禁圧の要求が日本の政府に届いたとき、日本の政府の執った熊度は、倭寇が|九州の乱臣《ヽヽヽヽヽ》の所為であって、政府の責を負うべきものではないということであった。これは倭寇が日本にとって|公のものでない《ヽヽヽヽヽヽヽ》ということの承認であると共に、日本の国家の統一が十分でないことの告白でもあった。その後間もなく新興の明の太祖が、倭寇に対する威圧的な抗議を送って来たときには、それを受けたのは、九州にあってなお南朝の勢力を保持していた征西将軍懐良親王であって、日本の統一的な政府ではなかった。その事情を漸く理解し始めた明は、頻々たる倭寇の侵掠の続く間にも日本との貿易関係を絶たず、機会ある毎に|倭寇の禁圧と公式の貿易関係の設定《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とを申入れているのである。
この公式の貿易関係は、明の太祖にとっては、明の正朔を奉じ入貢の形を取ることであった。貢の物資に対しては、それ以上の物資が明の皇帝の賜与として償われるのであるが、その貿易としての実質よりも入貢の名目が重んぜられたのである。勿論この贈答に附随して、船に満載した物資の貿易が行われる。そのための貿易商人も同乗している。また使節船以外に公認の貿易船が出かけて行くことも出来る。貿易としてはこの方が主要事なのであるが、しかしその貿易を公式のものたらしめるためには、右の如き名目が必要だったのである。この事情を双方の側でのみ込み、一方では倭寇の掠奪行為によって甚大な社会不安をひき起されるよりも、貿易によって利を与える方が遥かに損害が少ないこと、他方では掠奪行為よりも平和的な貿易の方が結局において遥かに利益が多いことを、互に理解し合うに至るために、ほぼ二三十年の年月が費された。そうしてこの了解を形に現わすに至ったのが、明の建文・永楽の皇帝と足利義満なのである。
一四〇一年に足利義満は僧祖阿と商人肥富とを使者として明の皇帝に書を送った。その中で義満は日本の統一を特記している。それに対して明の二代目の建文帝は、翌年答礼の使者を日本に寄越したが、義満はそれを兵庫に迎え、京都で款待した。そうして丁度その頃に、明の側の熱望する海賊船禁圧令を発布したのである。当時は足利幕府の最盛期であったから、この禁令も実際に威力を持つものであった。
一四〇三年に明は永楽年代に入るのであるが、その年、明の使節は多量の銭貨を以て日本を訪れ、それに対して日本からも硫黄、瑪瑙などのほかに多量の武器類や工芸品を携えた使節が、三百余人をつれて答訪した。明の皇帝はこの使者たちに織物類や銅銭を与えたほか、義満に対して国王の冠服・金印、その他織物を贈った。この時に永楽条約《ヽヽヽヽ》、即ち勘合貿易の協定が行われたと伝えられている。公認の貿易であることを証明する勘合百道、即ち貿易船百艘分の証明書を交付し、正式の使節は十年に一回、船二隻、人数二百人と定めたというのである。そこでその後は連年貿易船が派遣され、明からも倭寇の鎮圧を感謝する使者が送られた。かくして両国の間の貿易は急激に盛大となったのである。
当時の貿易品は、表面の贈答品が示しているように、日本からは硫黄などの原料と工芸品とが輸出され、シナからは主として織物類と銅銭とが来たのであろう。この銭貨の輸入は特に注意すべきものだといわれている。当時急速に貨幣経済の進展しつつあった日本においては、銅銭の需要は極めて熾烈であった。だから武器等の金工品その他工芸品の類を、銅銭の安いシナへ売って、その銅銭を日本まで持ってくれば、それだけでも何倍かの利益が得られた。そのように貿易の利は大であったから、当時の幕府の財政はこの貿易によって支えられたといわれる。そこで幕府のみならず民間にもこの貿易を企てるものが輩出したのである。勘合を得て公認の貿易に従事すれば、掠奪行為を行わなくとも巨利が得られる。だから倭寇がそういう貿易商に転ずることはいかにも自然なのである。勘合が得られぬものは恐らく密貿易にも従事したであろう。そういう事情を考えると、|倭寇の禁圧《ヽヽヽヽヽ》は海外への冒険的航海者に|掠奪行為を禁じた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》というだけであって、彼らに海外への出航を禁じたというわけではない。貿易が盛大となるに従って航海者に対する需要はふえたであろうし、数十年来の海上の経験もまた高く評価されるようになったであろう。だから十四世紀における|倭寇の現象《ヽヽヽヽヽ》は、十五世紀に至って、|貿易の現象《ヽヽヽヽヽ》に転化した、といってよいのである。
もっともこれは大体の傾向についてのことであって、海賊が全然跡を絶ったなどというのではない。一四二〇年に日本に来た朝鮮の使節朴端生が、朝鮮海峡や瀬戸内海の印象に基いて書いた報告によると、赤間関から西では対馬、一岐、内外大島、志賀、平戸など、東では四国の北の島々や竈戸社島などが海賊の根拠地であって、その兵は数万、船は千隻を下らないが、しかしそれらの根拠地の領主、宗氏、大内氏、宗像氏、大友氏、松浦党などは、それらの海賊に対して強い支配権を握っていたという。そういう事情から察すると、倭寇と諸大名との間には、何かの連絡があったかも知れないのである。九州の諸大名は、倭寇の掠取してきた捕虜を朝鮮やシナに送還して米や布の礼物を受け、或はその機会に貿易を行っていた。捕虜の送還は倭寇の逆を行くものとして勘合と同じく平和の保障を意味したかも知れない。そういう意味のある捕虜を他方では倭寇が供給したとすれば、貿易と倭寇とは表裏相結んでいたとも考えられる。一歩を進めていえば、この両面の活動を同一の連中がやっていたかも知れない。このことは当時の貿易商が、刺戟の如何によっては倭寇の本性を現わすかもしれないような、慓悍な連中であったことを意味する。
このような事情のために、十五世紀の初めに急激に進展しつつあった海外貿易が、間もなく逆転するかのような形勢を示した時がある。義満の歿後、あとをついで将軍となった足利義持が、明との公認貿易に背を向けたときである。入貢という形式に拘泥すればそうならざるを得なかった。しかしそれによって公認貿易の道が塞がれたとなると、倭寇は直ちに跳梁をはじめたのである。一四一八年に倭寇百艘賊七千余人が杭州湾北岸を劫掠した如きはその著しい例であるが、その活躍は山東から広東にまで及んでいた。
しかしこの頃には、東亜の海上には、広汎な貿易の機運が活溌に動きつつあった。琉球はすでにシャムとの貿易を開始し、蘇木や胡椒のような|南方の特産《ヽヽヽヽヽ》を手に入れていた。そうしてそういう産物を盛んに朝鮮へ輸入していたのは、琉球人自身ではなくして、九州の諸大名であったのである。従って琉球の南洋貿易商と九州の諸大名との間の密接な聯関は疑うべくもない。やがて一四三〇年からはジャバへも琉球船が行くようになった。十五世紀の後半になると、シャムよりはむしろマラッカの方が琉球船をひきつけた。そういう点で琉球船は九州の貿易商の先駆の役をつとめていたのである。
再び倭寇に苦しみ始めた明は、この琉球を介して日本との公認貿易の再興を企てた。足利義持の歿後四年目、一四三二年に、明の宣徳帝は、琉球中山王尚巴志の手を経て新らしい将軍義教に呼びかけて来たのである。これは或は日本と密接な関係のある琉球人の入智慧であったかも知れない。効果は覿面であった。同年直ちに遣明船五隻が出発し、翌年五月使者たち二百二十人は宣宗の盛大な歓迎を受けた。そうしてさらにその翌年の帰航の際には、明の使者の五艘の船を伴ってきた。将軍への贈り物として、多量の豪華な織物類や道具類がもたらされた。この使節交換の時、宣徳の勘合百道が交付され、正式の使節を十年一回、船三隻、乗員三百人に改め、商品としての刀剣を三千把以下に制限したといわれている。これが所謂|宣徳条約《ヽヽヽヽ》である。
この宣徳の勘合貿易船は、一四三六年に第一回六隻を出発させているが、その後大名船や社寺船の貿易が顕著となり、一四六八年、応仁の乱の時にさえも、公方船・大内船・細川船の三隻が出ている。丁度この頃が航海者ヘンリ王子の活躍の時期であった。そうしてその後、アフリカ沿岸の探検が進み、インド航路が発見され、インドに植民地が形成されるまでの時期は、博多の貿易商を配下に置く大内氏と、堺の貿易商を配下に置く細川氏との間の、シナ貿易の争奪競争の時期であった。この抗争の幕を切って落したのは、前記の公方船・大内船・細川船の出航の時で、細川船は帰路大内氏の勢力圏である瀬戸内海を通ることができず、公方船と共に土佐沖を廻って堺に帰った。この頃から堺が擡頭しはじめ、薩摩から琉球への密接な連絡を作り上げた。十五世紀の後半にはこの航路によって幾度か貿易船隊がシナに行っている。それに対して在来の航路による大内氏や博多の商人も決して負けてはいなかった。勘合を入手することにおいてはむしろ大内氏の方が優勢であった。
こうして十五世紀の後半のシナ貿易は、日本人同士の激烈な抗争のうちに過ぎて行ったのであるが、その形勢は十六世紀に入ってからも続き、すでにアルメイダやアルブケルケがインドで活躍した後、ポルトガルの船が広東附近に現われた後の一五二三年に、遂に大内船と細川船とが寧波に於て衝突し、大内方の掠奪行動や寧波港の閉鎖を結果するに至った。この時細川船には正使瑞佐のほかに明人|宋素卿《ヽヽヽ》が乗っていたのであるが、この宋素卿は十六世紀の初めに日本の使者湯四五郎が連れて来たもので、すでに一五〇六年にも細川船の綱司として活躍し、明側の注目をひいたといわれている。その宋素卿がこの時にも再び活躍し、市舶司の官吏を買収して、先着の大内船よりも先に細川船の荷役をすませるとか、有効な勘合を持って来た大内船の正使宗設よりも既に無効となった勘合を携えた細川船の正使瑞佐の方を上席に据えて優待させるとか、というような芸当を演じた。これが大内方を憤激させ、武器をとるに至らしめたのである。外来の貿易関係者を接待する嘉賓堂の焼討、商品倉庫の劫掠、細川方への攻撃に始まって、あとは旧来の倭冦のように寧波附近一帯を荒らし廻ったのであった。寧波の市舶司閉鎖はその結果なのである。
もっともこの後にも明は琉球を仲介として大内船の正使宗設の引渡しを要求し、日本も琉球を経て大内方の責任を認め、抑留中の素卿などの釈放を求めたらしい。しかし何しろ日本の国家の統一が失われかけている時代のことで、事情ははっきりとは解らない。大内氏はなおこの後も一五三九年、一五四七年などに勘合貿易をやっている。勘合貿易が中絶したのは、その三四年後に大内義隆が陶晴賢に殺されてからである。
その頃から倭冦は再び猖獗になった。初期の倭冦と同じような颱風的な襲撃が、主として揚子江の下流地方に、連年加えられた。やがてそれは直隷山東より福建広東に亘るシナ沿岸全体に及んだ。シャビエルが日本に来たのはこの倭冦盛行の時代の初期であった。
この猛烈な倭冦の爆発は、勘合貿易の裏にいかに盛んに私貿易《ヽヽヽ》が行われていたかを示すものである。貨幣経済の進展に従い銭貨を必要とした日本人は、この貿易を控えるわけには行かなかった。そうしてそれに対応して日本人と取引するシナ側の貿易商人も決して少くはなかった。シナ船もまた出動して来たし、琉球船の活動もまた盛んであった。当時の貿易の主潮はむしろこの私貿易《ヽヽヽ》にあったといわれている。そうしてそれらの貿易商人たちは、当時すでに認められていたように、貿易を許せば商人となり、貿易を禁ずれば寇となる連中であったのである。そういう冒険的な商人たちが、日本から南洋に至るまでの各地の特産を、互に交換し合い、互に数倍の利潤を得ていた。日本の硫黄や銅、或は輸出向に製作される刀剣その他の工芸品をシナへ持って行くと、少くとも五六倍の値段には売れる。ところでそれを買うに用いたシナの銅銭は、当時既に銀貨に駆逐されて通用の廃れかかっていたものであるから、シナ商人の得るところも決して少くはなかった。また琉球人のもたらした南洋の蘇木や胡椒の類は、日本の貿易商人の手によって朝鮮に盛んに輸入されていたし、シナの精巧な織物類は日本では非常に珍重されていた。そういう利益の共同によって、東アジアの海上の貿易商たちが、|一つの仲間として結びついていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことは、察するに難くない。だから貿易の禁圧と共に倭寇が爆発したとき、その倭寇と称せられるもののうちには、シナ沿岸の諸地方のシナ人が非常に多く混じていたのである。これはシナの記録に明かに認められているところであって、単に推測に止まるのではない。それらによると、今沿岸を荒らす海賊は、主として|外国人と貿易する奸民《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であって、真の倭夷はその中の十分の一に過ぎないという。或は、倭は十の三であって、十の七は中国の叛民であるという。或は、今の海寇、ややもすれば数万を計えるが、その中日本人は数千に過ぎず、他は浙江、福建の諸地方の民であるという。しかもそれらのシナの海賊は、日本人を首長とし、日本風の髷を結ってそれに従っていたという。その中には※[#「けものへん+僚のつくり」、unicode7360]《りょう》と呼ばれる西南系の異民族なども加わっていた。琉球の貿易船に古くからアラビア人が乗り込んでいたことを考え合わせると、東アジアの海上の冒険的な貿易商人たちの世界は、著しく国際的な色彩を帯びていたと見られなくてはならぬ。シナの記録に名を留めている王直《ヽヽ》の如きは、九州の五島に移り住んで、そこから私貿易や海寇に出動していた。また徐海《ヽヽ》なども日本人をひきつれてシナ沿岸を荒らし廻っていたのである。
こういう貿易商人の世界のなかへポルトガル人が乗り込んで来たのであった。最初アルブケルケがマラッカに接触したのは一五〇九年であり、そこを攻撃し占領したのは一五一一年である。その頃琉球の船は連年マラッカに行っていたが、右の占領後はシャムとパタニのみで、マラッカへは行っていない。しかしポルトガル人は直ちに東アジアの海上の貿易商人の世界の探検にとりかかった。船団を広東の沿岸に派遣したのは一五一六年で、その内の一隻は琉球探検に向ったが、これは成功しなかった。その後五六年の間に三度に亘って後継の船団が広東附近に来たが、シナとの公式の貿易の開始には成功しなかった。しかしポルトガルの貿易商人が、シナ船や日本船に乗って東アジアの海上の貿易の世界に入り込んで来ることは、さほどの困難なく出来たらしい。一五四〇年には、許一松許二楠許三棟許四梓などの日本人がポルトガル人をつれて広東に来り貿易したといわれている。一五四二年にポルトガル人がシナ船で種子島に漂着したということも、右のような情勢の下にあっては、当然起り得ることだったのである。一五四五年の頃、大分に来たシナ船の中には、六七人のポルトガル商人が乗っていた、と大友義鎮が語っている。一五四八年にシャビエルがインドから本国に送った手紙には「|長らく日本にいた《ヽヽヽヽヽヽヽ》一ポルトガル商人」の記したものとして、アルバレズの日本に関する記事を封入している。これらは僅かな証拠ではあるが、その背後に東アジアの海上の国際的な世界の存在を示しているのである。
こういう情勢を眼中に置いて考えると、シャビエルに帰依して有名となったヤジロー(或はアンジロー)のような人物が出たことは、少しも奇異な現象ではないのである。彼はポルトガル人の貿易に関係した富商なのであろうが、人を殺して国外に逃げようとしたときに、アルバレズに頼ってマラッカへ行った。そういう特殊な境遇のためにもしろとにかく日本人がマラッカとシナの間を漂浪して歩くことが出来たということ、またそういう漂浪の意図を持ち得たということは、当時の九州人の世界がマラッカまで拡がっていたということの証拠である。これはポルトガル人の刺戟によって起ったことではなく、それに先立ち、自発的に日本人自身の中から起ったことであった。シャビエルの日本布教の決意は、ヤジローに逢ったことによって固められたといわれている。その点からいえば、日本人の刺戟がシャビエルをマラッカから日本まで誘い寄せたのである。即ちポルトガルの東へ向う運動がマラッカへまで届く間に、日本の外に向う運動もマラッカへまでは届いていたのである。
しかしそれらの運動の著しい|性格の相違《ヽヽヽヽヽ》は認めざるを得ない。両者がいずれも貿易の関心によって動いていた点には変りはないが、しかしポルトガル人の運動の筋《すじ》がねとなっていたのは航海者ヘンリ王子の精神であった。そこには無限探求の精神と公共的な企業の精神とが結びついていた。しかるに日本人の運動は「あぶれ者」の精神によって貫かれ、無限探求と公共性とのいずれをも欠いていた。従ってシャビエルを誘引したヤジローが文字通りに「あぶれ者」であったことは、まことに象徴的であるといわなくてはならない。西からマラッカまで来た勢力は、ヨーロッパ近世の視圏拡大運動の尖端としての性格を持っていた。しかるに東からマラッカまで行った勢力は、日本人の公共的な記憶に残らず、また日本人の探究心に寄与することのないものであった。この相違はかなり重大である。当時の日本人の知的素質は、インドのゴアでヤジローが教師トルレスを驚かせたほどに優秀であったが、しかしそれが幸福な発展をなし得なかった所以は、すでにこの相違のうちに予示せられていたといわなくてはならない。
二[#「二」はゴシック体] 土一揆
土一揆と呼ばれている民衆運動が、大きい社会的現象としてはっきり現われて来たのは、正長永享の頃、即ち一四二八年頃からである。これはヨーロッパでは、航海者ヘンリ王子がアフリカ西海岸のボハドル岬をまだどうしても突破することができないでいた時分で、ヨーロッパ人の視圏も中世的な限界を超えてはいなかった。しかるにそのヨーロッパでも、同じ頃に同じように民衆運動が起っていたのである。ドイツで農民の暴動や農民戦争などが起ったのは、十六世紀の初めであって、一世紀近く後のことであるが、しかしフランスで|ジャッケリの乱《ヽヽヽヽヽヽヽ》と呼ばれる農民一揆が起り、イギリスでウィクリフの仲間の運動に引きつづき|ワット《ヽヽヽ》・|タイラー《ヽヽヽヽ》のひきいる一揆がロンドンを占領したりなどしたのは、十四世紀の末で、半世紀ほど先立っている。一三五〇年頃のペストの大流行の後には、一般に社会的動揺があり、中世の社会組織の崩壊の気運と相俟って、このような農民一揆を頻発せしめたのであるが、その同じ現象が、相互の間に何の連絡もない日本においても、起って来たのである。
しかしこの一揆運動は、正長永享の頃に|民衆の間から突然《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》起って来た、というわけではなかった。倭冦は、記録の示すところでは、一三五〇年から突如として始まっているが、しかしその前の十数年は建武中興の失敗に引きつづいた国内混乱の時期であり、そうしてその混乱は一三五〇年以後にも続いている。そういう混乱を制御しようとする努力のなかから、大ぎく浮び上って来たのが、本来の意味における「一揆」の現象なのである。後には土一揆の盛行のために、民衆の一揆が一揆の名を独占するに至ったが、もとは字義通り軌を一つにすること、即ち多くの人々が|団結して心を一つにする《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことであって、相争う武士団体の間の団結の必要から自覚されて来たのであった。これは或る意味では室町時代の国内統一の原理を示すものといえる。鎌倉時代の国内の統一は、武士の主従関係を全国的に拡大し、数多くの武士団体を将軍と家人との主従関係の框に入れることによって実現されていたのであるが、鎌倉幕府の打倒によってこの紐帯が解き放されると、あとには個々の武士団体のみが残り、それを統一すべき原理が一時なくなったのである。建武中興は|武士団体の存しなかった昔《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の国家統一を再興しようとしたのであるが、しかし鎌倉幕府を倒しても個々の武士団体は消滅せず、またそれを解体せしめる力はどこにもなかったのであるから、この試みは短期間にして失敗に終った。そこでこれらの武士団体を統制して国内の統一を回復する力は、実力《ヽヽ》のほかにはないことになる。しかしそういう大きい実力を持った武士団体はどこにもなかった。現実的な主従関係を以て固く団結し得る武士団体の大きさは、通例五百騎位のものであったらしい。だから右のような実力は、多くの武士団体を聯合団結《ヽヽヽヽ》せしめるところにのみ現われ得たのである。それは政治的手腕の問題であった。そうしてそういう手腕を持ったものが将軍になり、また有力な大名になった。結局、室町幕府の統制力は、有力な大名たちの聯合団結の上に、即ち|大名の一揆《ヽヽヽヽヽ》の上に、立つことになったのである。これが一揆の必要を自覚せしめるに至った時代の大勢であるといってよい。しかしこのような統一の原理は、同時にまた争闘の原理ともなり得るのであって、真に統一を実現することは出来なかった。一揆のみが強い実力を発揮し得るということになれば、対抗する勢力は互に一揆を企てることになる。分裂が一揆によって促進される。応仁の乱は大名の一揆衆の対立によって惹起されたために、遂に収拾すべからざる混乱を現出したのである。
が右のように団結の力が自覚されてくると、それはただに|武士団体の間《ヽヽヽヽヽヽ》の関係においてのみならず、一つの団体の内部においても働らくようになる。幕府にあっては、将軍の権力は大名の一揆の前に無力となった。室町幕府が最も有力であった足利義満の時代にさえも、義満は諸大名の一揆になやんでいる。義政に至っては殆んど無力も同様である。ところでその大名の権力も、家臣の一揆の前には同じように無力である。義政の時代には、斯波、畠山、細川の三管領の如き、皆老臣の権力に圧せられ、それに基く内訌になやんでいるが、他の大名たちも大同小異であった。ところでまた、その家臣たちの権力も、民衆の一揆の前には無力たらざるを得ない。少数である武士たちは、いかに武術に長けていても、多数の民衆の団結の力を圧倒することは出来なかったのである。
このことを民衆が自覚するに至ったのは、いろいろの機縁によるでもあろうが、蒙古人来襲によってひき起された戦術の変化は、その中の有力なものであったらしい。鎌倉時代の権力の基礎となった武士団体の武力は、関東平野に淵源する騎馬戦術の上に立つものであるが、蒙古軍は九州に上陸したとき、歩兵の密集部隊を巧みに使って騎馬戦術を無効ならしめた。そこでこの後|足軽《ヽヽ》による密集部隊が編制せられるようになったのである。この足軽、即ち軽装の歩兵は、騎馬の術や弓矢の術に熟達していなくともよい。楯と槍と、あとはその密集隊形が物をいうのである。従ってそれは容易に農民のなかから組織することができた。そうなると、一つの軍隊の主力は、専門の騎士から農民の方へ移ることになる。民衆は団結しさえすれば武士を恐れるには及ばないのである。
そういう民衆の気勢が、遂に|正長永享の土一揆《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》として爆発したのであった。その火をつけたのは、一四二八年の八月に近江で起った馬借(運送業者)の一揆である。それは忽ち山城、大和、河内の各地に蔓延し、翌年には、播磨の土民蜂起を初めとして、丹波、摂津、伊勢、伊賀などの諸国にも起った。さらに一四三二年には、薩日隅の三国に「土一揆の国一揆」が起り、島津の兵と戦った。大和では土一揆が奈良に乱入し、寺社諸院の年貢の免除に成功した。その翌年あたりでも、近江の馬借土一揆は、上京の途にあった信濃の守護の兵と戦ってこれを撃退している。
これらの土一揆は、必ずしも支配階級を倒そうとする運動ではなかった。多くは徳政《ヽヽ》を標榜して、酒屋・土倉・寺院等当時の金融業者を襲撃し、借銭の破棄、売買の取消し、質物の掠奪などを行ったのである。これは、シナの銅銭の輸入による貨幣経済の発展に伴い、金持の出現、高利貸の盛行を見るに至った結果、経済的な不平等への反抗運動として起ったのであった。しかし武士たちが金融業者を保護して鎮圧に乗り出してくると、民衆はおのずから武士たちと戦うことになる。そこで土一揆は政治的な色彩を帯び、明かに反支配階級的な性格を持ちはじめた。播磨の土一揆の如きは、守護赤松満祐の兵と戦ってこれに克ち、|武士の国外放逐《ヽヽヽヽヽヽヽ》を宣言したと伝えられている。伊勢山田の土一揆の如きも、神人と戦って民家数百戸を焼き、神人が外宮に逃げ込むにつれて神宮の境内に侵入することをも憚らなかった。その他土一揆が武士と戦って屈服しなかった例は決して少くない。民衆はその団結の力によって支配階級に対抗し得ることを自覚したのである。
しかしこの時の土一揆は、数年に亘って諸国に蔓延しはしたが、なお私徳政《ヽヽヽ》であって、政治的な成功を達成するまでには至らなかった。しかるに一四四一年に起った|嘉吉の土一揆《ヽヽヽヽヽヽ》は、京都を占領し、室町幕府をして徳政令を発布せしめるに至っている。この土一揆も初めはまず近江に起った。そこでは半国守護たる六角満綱を強要してその領内に徳政令を発布せしめたのであるが、それだけでは治まらず、忽ちに京都周辺の諸地方に伝播し、東は坂本三井寺あたり、南は鳥羽、竹田、伏見、西は嵯峨、御室、北は賀茂などの民衆が、一斉に蜂起した。そうしてそれぞれの地方から、千人或は二三千人の集団が京都に攻め入り、町の外郭にある壮麗な仏寺や神社を占領した。その陣営は十六カ所に及んだといわれる。東寺もその一つであったが、そこから代表が出て来て、幕府との交渉をはじめた。徳政令を発布せよ、もしこの要求が容れられなければ、伽藍に放火する、というのであった。幕府の侍所京極持清は、その武力を以てしては、如何ともすることが出来なかった。管領畠山持之は、洛外にある土倉、即ち金融業者の資産を洛中に移させようと試みたが、そのため反って民衆の憤激を煽った。京都を包囲した一揆の連中は、京都へ物資を運び込む七つの口を塞いで、市民の糧道を絶っている。幕府も遂に屈して、|土民の徳政令《ヽヽヽヽヽヽ》を発布すると云い出したが、一揆の民衆はそれに同意しなかった。目下債務に苦しんでいるのは、土民よりもむしろ公家や武家である。土民の徳政令ではこの社会悪を除くことはできない。土民以外にも公家武家等一切の人々に適用せられる徳政令を発布して貰いたい。これが彼らの要求であった。幕府はこの要求にも従わざるを得なかった。かくて幕府は、土民の京都進撃以来二週間にして、「一国平均の沙汰」を触れ出すに至ったのである。
この土民の京都包囲は明かに統制せられた民衆運動である。民衆の団結は遂に幕府を屈服せしめ、民衆の意志を法令の形に表現することに成功した。当時の民衆が何を目ざしていたかは右の「平均」という言葉によっても明瞭に示されているが、ほぼ一カ月の後に徳政条々として発布された徳政の細目を見ると、売買・貸借・質入等の契約は、広汎な範囲に亘って無効を宣せられている。これは貨幣経済による富の蓄積が漸く著しくなって来た当時の経済界にとっては、容易ならぬ大事件であった。こうなると土一揆はもはや単なる暴動ではない。民衆は集団の力によって大きい政治力を発揮し始めたのである。
徳政の伝統は、鎌倉時代以来、債務破棄を中核的な内容としていた。だから土一揆の運動は、その初期においては、主として土倉酒屋の如き「金持」を攻撃の目標とし、必ずしも武士の支配を覆えそうとしたのではなかった。しかし一度集団の力によって政治力を発揮し始めると、民衆は武士階級の支配に反抗することをも辞せなくなった。既に初期においても、前掲の如く、播磨の土民一揆は武士の国外放逐を標榜して居り、薩日隅の土一揆は国一揆《ヽヽヽ》として島津と戦っているが、その後、応仁の乱によって武士階級の分裂が暴露されてくると共に、土一揆は著しく政治的団体としての性格を帯び、武士階級に対して己れを主張するようになった。「国一揆」という言葉はこの政治的な性格を云い現わしているのである。そういう一揆の代表的な例は、一四八五年の末に起った|山城の国一揆《ヽヽヽヽヽヽ》であろう。この運動の動機となったのは、畠山氏の継嗣問題に絡んだ被官人の間の戦争が山城で行われ、そのために民衆の生活にさまざまの不法を加えたことであった。民衆は武士の私闘のために社会の秩序の乱されることを怒り、秩序の防衛のために立ち上ったのである。そこで、山城の国中の民衆、十五六歳から六十歳までの者の会議を催おし、(一)両畠山氏の軍隊の撤退、(二)寺社本所領の還附、(三)新関の一切撤廃、の三カ条の要求を決議した。この要求は明かに武士の権力に対する制限であって、民衆の債務破棄のような利益の主張ではない。民衆はこれらの要求を武士たちに提示し、もし肯かれなければ攻撃を加えると宣言した。当時の記録はこの結束した民衆のことを「国衆」或は「国人」などと呼んでいる。「武家衆」はこの国衆の反抗に敵し兼ねて要求に同意し山城の国から撤退した。そこで民衆は民兵を以て国内を警備し、行政機関を悉く自分たちの手に収めた。そうして二三カ月後に再び宇治の平等院に会議を開き、国中の法制(掟法)を議定した。その結果、総国月行事二名が選出され、その名において寺社本所領などが処理されるに至っている。これは明かに山城一国の民衆の自治である。室町幕府の管領たる畠山政長も、幕府の侍所所司で山城国守護を兼ねていた赤松政則も、面目を失してその職を去らざるを得なかった。幕府は一四八七年十一月に至って漸く政所執事の伊勢貞宗を山城国の守護に任じたが、国人がそれを承認したのは更に五六年の後である。もし国人の間に分裂が起らなかったならば、自治政府はもっと永続したであろう。
このほかにも、「守護はなく百姓持に仕りたる国」といわれている紀伊の国や、河内、大和などにも、同じような現象があった。がこれらの国一揆に比べると、宗教一揆《ヽヽヽヽ》の方が一層持続的であった。中でも|加賀の一向宗一揆《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の如きは、守護を倒して加賀一国の自治をはじめて以来、半世紀に亘って分裂を起すことなく続いた。そうしてその後にも、本願寺の領国となったのであって、武士の手に奪い還されたのではなかった。同じく民衆の団結でありながらこのように宗教一揆の方が強固であったのは、同じ頃にヨーロッパにおいて宗教改革に聯関する民衆の運動が極めて強靭な力を持っていたことと対比して、非常に興味深く感ぜられる。特に一向一揆に関しては、ちょうどこの時代に蓮如上人が地方の信者の間に「組織」を植えつけて歩いたことを考え合わせなくてはならぬ。彼の布教の著しい特徴は、信心談合《ヽヽヽヽ》のための講の組織や寄合などを奨励し、農民の間に緊密な精神共同体を育成したことであった。それによって人々は、活溌に話し合うということ、従って会議によって全体的な意志を結成することなどを学んだ。その蓮如が越前吉崎に布教の根拠地を作ったのは、応仁の乱中の一四七一年であるが、教団は急激に加越地方に蔓延して行って、十数年の後には右にいったような一揆を起し得るに至ったのである。それは前述の山城の国一揆よりも三年後の一四八八年であった。一揆の指導者は民衆の中の有力者と一向宗の僧侶とであった。民衆の組織は教団の組織と平行して作られ、郡や組村がそれぞれ寄合《ヽヽ》を持った。この自治的統制は都合よく運び、やがて越中や能登をも合同せしめて、強力な自治団体を形成したのである。民兵による戦闘力も十分武士に対抗し得たのであって、越後の長尾の軍にはしばしば勝ち、越前の朝倉に対しても絶えず圧迫を加えていた。
以上は民衆の一揆の代表的な例であるが、それほどに成功しなかった地方においても、一揆運動は民衆の間に「組織」をもたらした。もっともそれは一揆運動のみによったのではないであろう。戦国時代の領主たちが、領内の治安維持のために地縁団体を利用したという事情もあるであろう。しかしその主導的な力が一揆団結の動きの中にあったことは疑いがない。かくしてわが国の十五・六世紀の一般民衆は、相当に確乎とした自治組織を持ったものになっていたのである。
この組織の例を中央の京都にとって見よう。そこでは「組町」の組織が発達していた。個々の町も勿論一つの団体であるが、かかる町が十数カ町相寄って一つの「組」を形成し、更にかかる組と組との間に親町枝町という如き統制関係を作るのである。組に属する町は各々その代表者として「年寄行事」を選挙する。そうしてそれらの町が月毎に交替して「行事町」となり、行事町の年寄行事が組全体の行政を行うのである。この執政者が組町の「月行事」と呼ばれた。しかし大事を決する場合には「寄合」の決議によらなくてはならない。「評定」「惣談合」などと呼ばれたのがそれである。
このような「組」の組織は、多少の差違があるにしても、「組郷」「組村」の組織として地方にも現われた。ここでも単位となる村はそれ自身一つの団体である。村の事件は寄合の談合において「多分」に付いて決せられる。即ち多数決である。その寄合に出席するのは村民の義務であった。「寄合ふれ(触)二度に不[#レ]出者、五十文可[#レ]為[#レ]咎者也」などという罰則もあった。このような村のいくつかが集まって「組」を形成し、その組と組との間に親村枝村の関係を作ることは、京都の組町の場合と同様である。従って組郷組村の勢力は、加賀の国の場合ほど大きくはなかったにしても、江戸時代の町村のそれのように小さいものではなかった。
以上の如き組織が十五・六世紀の日本に一般に形成されていたのである。それらの自治団結は、各々の成員が連帯責任を負う緊密な団体として行動し、時には他との戦闘をも辞せなかった。かかる組織の最も好く発達していた例としては、堺の町を挙げることができるであろう。ここには殆んどヨーロッパの自由市に近いような自治的な独立都市が形成せられていた。ただ異なるところは、ヨーロッパの都市がギリシアのポリスの伝統や模範を背負っていたのに対し、ここではそういう歴史的背景がなく、従ってこの新らしい形成の意義が十分に自覚せられなかったことである。
この相違は、しかし、近世の開始にとって極めて重大な意義を担っている。それは展開するに従ってますます大きい相違に成育して行くものであった。
土民の一揆、及びそこから生み出されて来た民衆の組織や民衆の力の自覚は、鎌倉幕府以来の封建的遺制を一応覆滅させることができたのである。既に応仁の乱の初めに、尋尊大僧正は、土民と侍との間の|階級の差別《ヽヽヽヽヽ》が失われたことを嘆いているが、その大勢はますます押し進められ、その後一世紀足らずの間に、鎌倉時代の名ある武家は殆んど悉く没落してしまった。源氏の流れを汲む名家だけを拾って見ても、足利氏及びその一族たる畠山、細川、斯波、吉良、仁木、今川、一色、渋川の諸氏、新田氏の一族たる山名、里見の両氏、佐々木氏の後裔たる六角、京極、尼子の諸氏、皆そうである。名家としての伝統、主家としての権威が人々を服従させた時代は、もう過ぎ去ってしまった。武士の主従関係を原理とする組織が崩壊したのである。民衆の力は解放された。貧しい農夫の子でも、組織の力、統率の力さえあれば、最高の支配者になることができる。物をいうのはただ実力である。ここにもし「民衆の支配」の伝統や理想が存していたならば、そういう実力を持ったものは、先ず何よりも|民衆の名において《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、即ち農民の統率者とか商人の指導者とかとして、仕事をしたであろう。しかしここにはそういう歴史的伝統はなかった。だから実力の競争において民衆の中から出て来た力は、|土一揆や海外貿易《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の方面に現われるとともに、また武力を以て他を圧倒しようとする|新興の武士団《ヽヽヽヽヽヽ》としても現われたのである。戦国時代の群雄と呼ばれているものには、このような新らしい武士団の統率者が多い。それらはイタリアのルネッサンスを特徴づけているコンドチェーレや僭主などと極めてよく性格の似たものであるといえるであろう。
右の如き実力の競争は、結局、新興武士団の勝利、新らしい武士階級の形成を以て終るのであるが、しかしその新らしい支配階級が|下から《ヽヽヽ》、|民衆の中から《ヽヽヽヽヽヽ》、出てきたものであることを忘れてはならぬ。この時代は群雄割拠時代と呼ばれ、新興の武士団と武士団との間の戦争のみが行われていたかのように語られているが、しかし武士団と土一揆との間の抗争も決して少くはなく、そうしてその土一揆もまた次の時代の支配者を生み出す地盤となっているのである。少しく大胆に云い切るならば、この時代の群雄をそれぞれ英雄たらしめたものは、まさに土一揆にほかならなかった。民衆の団結を|力によって《ヽヽヽヽヽ》圧倒するか、或は|政治的な才能によって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》懐柔するか、いずれにしても民衆に嘆美の情を起させるほどの卓抜な業績をあげることによって、初めて人は「英雄」になることができた。このような英雄は在来の大名と同じものではない。大名はその家柄の権威によって家臣を統率してはいたが、領国の民衆をまで把握してはいなかった。今や家柄の権威が消滅し、ただ民衆の把握のみが物をいう時代となったのである。
このことを代表的に示しているのは、十六世紀の中頃、シャビエルの渡来の前後に活躍していた武田信玄と上杉謙信とであろう。この二人が英雄として人口に膾炙したのは、もっと後の時代のことでもあろうが、しかし初めから非常な人気を得ていたからこそそうなったのである。信玄は何よりも先ず卓越した政治家であって、領内の民衆の心を巧みに掴んでいた。のみならず当時の宗教一揆の動向に注目し、外交的にこれと連絡することを怠らなかった。謙信もまたその道義心の強い人格によって民心を得ていたのみならず、加越能の一向一揆との迫り合いによって鍛えられた人である。彼の父は一揆の軍との戦いにおいて敗死した。彼自身も初めは同じように敗北した。そうしてそれに打ち勝ち、一揆の軍の東進の力を阻止し得たとき、彼の卓越した力が認められたのである。甲陽軍鑑の記すところによると、彼は最初一揆の集団を型通りの軍隊の如く取扱って本格的に取組んだ。しかるに一揆の軍隊の行動は奇想天外であって、どうにも防ぐことが出来なかった。この敗因に気づいた彼は、次の年の戦に、味方の部隊に対しててんでに気儘勝手の行動を許した。この策が当って大勝を博したのであるという。これは史実であるかどうか解らないが、しかし彼が一揆の集団に対して研究的な態度を取り、その上に出ようと努力していたことは認めてよいであろう。
群雄割拠時代を終結せしめた織田信長にとっても、最も手剛い敵は一向一揆であった。彼がどうしても打ち克つことのできなかった敵は、ただ摂津石山の本願寺だけである。彼は宗教一揆の力の恐るべきことを知り、いろいろな手を打った。古来のいかなる武将もなし得なかった叡山の焼打ち、全山僧徒の鏖殺を敢行したのも彼である。伊勢長島の一向一揆を討伐したときには、二万人の門徒を鏖殺した。この過激な手段は、他の多くの一揆衆を慄え上らせるために、即ち恐怖によって将来の抵抗を断つために、取られたのであるかも知れぬ。しかしこのような、日本では珍らしい残虐な態度にまで武士を押しつめるほど、一向一揆は強かったのである。それを十分に経験した信長は、解放された民衆の力を決して軽視しはしなかった。一向一揆は彼に敵対するが故に克服しようと努めたが、他面において民衆と結びつく努力は怠っていない。皇居の修理や伊勢神宮の外護なども、全国の民衆の感情に訴えようとしたものと見られるが、特に安土の城下町の経営には、この態度がはっきりと現われている。彼はこの町を座の特権から解放して「楽市楽座」とし、徳政の廃棄を保証した。これは民衆の自由競争を許し、それによって得た私有財産を保護する、ということの宣言である。解放された民衆の力はここに制度的な表現を得た。中世の崩壊、近世の開始と極めてよく似た現象がここに見られるのである。
信長はこの仕事を成し遂げずに死んだが、それを受けついで完成したのは秀吉である。大都市大坂の急激な繁栄や、豪華な桃山時代の文化を見ると、鬱積していた民衆の力が一時に爆発したというような印象をうける。しかもこの華々しい文化創造を宰領した秀吉は、一介の農夫の子から出発して関白にまで成り上った人として、民衆の力の解放を一身に具現している。このことが当時の民衆にどれほど喜ばしい印象を与えたかは、京阪地方における豊太閤崇拝の根強さを見れば解るであろう。
がこのように民衆の力の解放が頂点に達したときに、突如として解放の運動はせき止められたのである。なるほど秀吉は新興の武士団の勝利を完全に仕上げた。彼のみならず、多くの農村出の青年が、今や大名となり国主となっている。しかしそれらの武士たちによって回復せられた社会の秩序を、持続的な秩序たらしめるためには、もう下から湧き上る力に攪乱されては困るのである。民衆の力の解放は、少くとも政治的に影響のある範囲においては、打ち切らなくてはならぬ。そこで秀吉が考えたのは、武士以外の|民衆や宗徒の武装解除《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であった。手初めとしては、一五八五年に高野山の武装解除をやったが、遂に一五八八年に有名な「刀狩」を断行し、百姓町人から一切の武器を取り上げた。そうして武装解除せられた民衆に対しては、その職分に釘づけにするという政策が打ち立てられた。武士が百姓町人となることも、百姓が商人に転ずることも、禁止せられた。これは封建的な身分制度の基礎工事である。
この武装解除や身分釘づけの処置は、勿論武力の威圧の下に強制的に行われたのであるが、その手段として用いられたのは他ならぬ民衆の自治組織そのものであった。長期に亘り民衆は団結によってその力を発揮して来たのであるが、今やその団結が民衆を弱める武器として用いられはじめた。というのは、秀吉は、刀狩、検地、転業の禁などを励行するに当って、違犯者に対する|刑罰の連帯性《ヽヽヽヽヽヽ》を以て臨んだのである。一人でも違犯者を出せば、「一郷も二郷も悉く|なで切り《ヽヽヽヽ》」が行われる。団結の範囲が広ければ広いほど、「なで切り」に逢う危険が多い。人々は出来るだけ団結を小さくして、相互の警戒の眼を届かせることにより、この危険を防がなくてはならぬ。かくて曾ては武士階級への反抗の手段であった民衆の団結が、武士階級への隷属の手段、武士の支配を強化する警察力に転化した。やがて一五九七年には、辻斬・掏摸・盗賊等の取締という純粋に警察的な目的を以て、侍は五人組、下人は十人組の組合を作り、組中の犯人は組合から告発せしめるという制度を作るに至った。これが江戸時代における五人組制度の起りで、土一揆以来の民衆の団結運動は、その|最小限の規模《ヽヽヽヽヽヽ》にまで押し戻されたのである。農民の一揆、商人の海外貿易、新興の武士団という三つの勢力の競争は、ここで武士団の完全な勝利に終った。
家康は右のような秀吉の政策を継承して封建的な身分制度を確立した人であるが、この人の一生を通観すると、最も重大な|運命の岐れ目《ヽヽヽヽヽヽ》は、一五六三年、二十二歳の時に起った参河の一向宗の土呂一揆《ヽヽヽヽ》であったと思われる。この時には|家臣の半ばが《ヽヽヽヽヽヽ》一揆方についた。代々松平郷で|田を作りながら《ヽヽヽヽヽヽヽ》微力な主君を守りつづけてきたこの小さい武士団の団結も、いよいよここで一揆の力の前に崩壊するかに見えた。後に江戸幕府初期の有力な政治家として活躍した本多佐渡守なども、この時は一揆方に加わっていたのである。それに対して若い家康は、久しく今川の質となっていて、近年やっと岡崎に帰ったばかりで、家臣たちとの馴染も薄かった。大勢の一揆衆に加えて家臣の半ばが敵方であって見れば、勝敗の数は既に定まっているといってよい。しかるにいよいよその決算をやる段になると、不思議な現象が起って来た。崩れかけた軍のなかから若い主君の家康が危険を物ともせずに突進してくると、一揆方の武士たちは、その主君にそむいた連中でありながら、どうも身がすくむようで手出しが出来ないのである。だからその主君を討取るのはやさしいが、誰も向って行こうとしないで避けてしまう。結局その日の勝負はきまらないことになる。幾度会戦して見ても、あの若い主君の姿が現われてくると、同じように駄目にされて結着がつかない。そういう状態が半年位も続いて、だんだん一揆方の気持が腐って来た。そこを見て仲裁に入るものがあり、結局、責任者を処罰しないというような条件で一揆は降服した。その際本多佐渡守などは一向一揆の本場の加賀へ逐電してしまった。家康の許へ帰参したのは、十八年後、光秀のクーデターのどさくさの際である。がこの土呂一揆の試※[#「火+鰊のつくり」]によって、松平郷の|主従関係の伝統《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、当時流行の一揆の力よりも強いことが証明された。これが家康の運の開け初めである。当時の群雄のなかでこの古風な主従関係の伝統を家康ほど確実に握っているものはなかった。そうして、実力の競争において結局武士団が勝利を占めたとなると、その武士団のなかでは主従関係の筋金を持ったものが最も底力のあるものとして光ってくる。江戸時代の全国的な大名の組織は、松平郷の主従関係を要石としたものである。この前後の聯関を考えると、家康という人物が十四世紀以来二世紀に亘る民衆運動に止めを刺す役割を以て現われて来たのであるということ、その創めた江戸幕府の政策が民衆抑圧において極めて徹底したものであったということは、非常に理解し易くなると思う。土一揆が日本の歴史において出来るだけ軽視されて来たのも、この政策の反映であろう。
[#改ページ]
[#小見出し] 第二章 シャビエルの渡来
一[#「一」はゴシック体] ヤジローとの邂逅
シャビエルが日本に来たのは一五四九年、三好長慶が京都を占領し、その家臣松永久秀に庶政を委せた年である。足利の将軍や古い管領の家はもう消滅するばかりになっていた。それに反して東の方ではすでに小田原の北条氏が関東平野の経略を完成しようとして居り、武田信玄と上杉謙信との対峙の形勢もほぼ出来上っている。西の方では毛利元就が小さい地頭の家から起って中国地方最大の領主となるという経歴の最後の段階に達していた。時に信長は十六歳、秀吉は十四歳、家康は八歳であって、いずれもまだ舞台にのぼってはいないが、これらの人々の一生の間に、日本民族の運命についての大きい岐れ路が踏み越されて行くのである。鹿児島に現われたシャビエルの姿にはすでにこの大きい運命的意義が具現している。それは当時の日本人の眼には映らなかったし、シャビエル自身にも理解されてはいなかった。しかし今のわれわれにとっては、見まいと思っても見ないわけに行かない明かな事実なのである。
江戸時代以来、日本の十六世紀の歴史として記されているところだけを読んでいると、キリシタンの運動はいかにも一時的な、挿話的なものに見える。その歴史のなかにキリシタンの運動が根をおろしていた土壌についての把握がほとんどないからである。その土壌の主なるものは、日本人の参与していた東アジアの海上交通、従って博多、山口、堺、兵庫などのような繁華な町々を出現せしめた貿易商人の活動、及び土一揆や宗教一揆として表現せられた民衆の活動である。これらの歴史的現象は、江戸幕府の政策によって、歴史的意義なきもの、或は一歩を進めて歴史的に|有害なもの《ヽヽヽヽヽ》として取扱われたように見える。その結果としてこれらの現象をわざと無視した歴史が出来上ったのである。それらの史料はキリシタン史料のように故意に湮滅させられたのではないであろうが、しかし右のような取扱いはおのずからにして湮滅に近い効果をあげたのであろう。従って現在においては、外国に残存したキリシタン史料の方が、民衆運動についての国内の史料よりも反って豊富な位である。この事情もまた日本人自身のキリシタンの運動を後代の日本人が著しく「異国的」なものとして感じた理由になっていると思われる。
われわれはその土壌に眼をつけて、十六世紀の日本のキリシタンの運動が日本人自身の体験に属することを理解しなくてはならぬ。それによって禁教や鎖国の事実がいかに深くわれわれの運命に関与しているかも十分に会得されるに至るであろう。
シャビエルに日本伝道の意図を起させたのは鹿児島人ヤジロー(或はアンジロー)である。彼はマラッカでシャビエルに逢ったのであるが、どうにかポルトガル語で話し合うことも出来、彼の側からシャビエルに傾倒するとともに、シャビエルもまた彼から非常によい印象を受けた。そこでシャビエルはこの一人の日本人を通じて日本民族に対する強い信頼と希望とを抱くに至った。その意味でヤジローは十六世紀の日本人の代表者、日本民族の尖端の役目をつとめたのである。しかし日本の歴史はこの重大な役目をつとめたヤジローについて何一つ記録していない。われわれはこの興味深い遭遇の話をただシャビエルの書簡(一五四八年一月二十日附コチン発)やヤジローの書簡(一五四八年十一月二十九日附ローマ・ヤソ会宛)などによって知るのみである。ところでそういう遭遇の起り得た背景としては、当時の東アジア海上における活溌な交通、貿易商人の頻繁な往来があげられなくてはならぬ。右にあげたヤジローの書簡によると、彼は日本で何かの理由によって人を殺し、遁れて寺にかくれていた。その時貿易のために同地に来た|ポルトガル人の船《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》があった。その中に前からの馴染のアルバロ・バスという人がいて、彼の事情をきき、外国へ逃げる気はないかときいたので、彼はそうしたいと答えた。するとバスは、自分はまだ貿易の仕事がすまずここに留まるが、|同じ海岸の他の港《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》にドン・フェルナンドという武士がいるから、それに紹介しようと云った。そこで彼はその紹介状を携え、夜中に出奔してその港へ行った。そうしてポルトガル人に逢ってドン・フェルナンドだろうと思って紹介状を渡したのが、|別の船の船長《ヽヽヽヽヽヽ》ジョルジ・アルバレズであった。アルバレズは彼を親切にもてなし船にのせてくれた。航海中いろいろキリシタンのことを教え、またシャビエルの生活や行いについても話して聞かせたので、彼は非常にシャビエルに逢いたくなり、また洗礼を受けたいという気持をも起した。しかしマラッカに着いて見ると、シャビエルは同地に居らず、同地にいた司祭は彼に洗礼を授けることを拒んだ。彼がすでに結婚していたこと、やがてまた日本に帰りその妻と同棲する意志のあることなどが、妨げとなったのである。そのうち日本に向って航海のできる風の季節になったので、彼はシナ行の船に乗り込み、シナからは他の船で日本に帰ることにした。ところが、シナで日本行の船に乗りかえて日本の海岸へ二十里ほどの処へ達したとき、ひどい暴風に逢って押し戻され、シナの港へ帰らざるを得なかった。そうなって見るとまたキリシタンとなり信仰を得たいという希望が働き出してくる。日本へ帰るか、再びマラッカへ行くか、と迷っていたときに、ちょうど日本から帰って来ていたアルバロ・バスに逢った。バスはこの奇遇に驚き、ローレンソ・ボテリヨという人と共に、その船でマラッカへ引き返すことをすすめた。今度行けばシャビエルはもうマラッカへ帰って来ているであろうし、またやがて神父の一人がヤジローと共に日本へ行くことになるであろうと言った。これをきいてヤジローは喜んでマラッカへ引き返した。マラッカではまたアルバレズに逢い、遂にシャビエルの許へ連れて行ってもらった。ちょうど聖母の会堂で結婚式が行われているところであった。アルバレズは彼のことをシャビエルに詳しく紹介した。シャビエルはヤジローを抱いて非常に喜んだ。ヤジローもシャビエルに逢って心から感激し、この人に仕えて生涯離れまいと思った。ヤジローは少しくポルトガル語が出来たので、シャビエルは彼をゴアに送って教育することにした。ヤジローがゴアに着いたのは一五四八年三月の初めで、洗礼を受けサンタ・フェのパウロという教名を得たのは五月の初め、ポルトガル語でこの長い書簡を認めたのは十一月の末である。僅か六カ月ほどの間に彼はポルトガル語の読み書きを覚え、マタイ伝を全部暗記してしまった。またマタイ伝の要点を日本文で書いた。ヤジローはこれら一切のことを神の恩寵として感謝しつつ、ロヨラたちのヤソ会にあてて報告したのである。
このヤジローの報告によって見ると、彼は殺人後の逐電の場面を日本の国内にではなくマラッカまでの東アジアの海上に求めたのである。われわれはこのことが当時の九州沿岸の人々にとってさほど珍らしいことでもなかった、という点を理解して置かなくてはならぬ。ポルトガル商人を乗せた船が九州沿岸へ盛んに来始めたのは、一五四二年のポルトガル人種子島漂着以後のことではあろうが、ヤジローをシャビエルに紹介したアルバレズの日本に関する報告書によると、一五四六年頃には、ポルトガル船は鹿児島、山川、坊の津など十五カ所位の港に出入していた。そういう港にはポルトガル商人の相手になって貿易を営む商人たちがいた筈であり、またその商人たちは多少ポルトガル語を解し得るようになっていた筈である。それらの商人は堺や博多あたりで大きい社会的存在となっていた貿易商と同じ意味で貿易商であったわけではない。また自ら船に乗って冒険的に海外へ押し出して行ったわけでもない。むしろ九州沿岸の諸港に普通に見られる富商であったのであろう。ヤジローも恐らく鹿児島の町のそういう富商の一人であったと思われる。彼が鹿児島へ入港したアルバロ・バスを|前から知っていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということ、ポルトガル語を少しく解したということ、逐電の際に一人の弟と|一人の僕《ヽヽヽヽ》を連れていたということ、などがその証拠である。そういうヤジローにとっては、京大坂の方面へ逐電するよりも、むしろマラッカへ行く方が気安かったかも知れない。しかし彼は殺人の結果鹿児島にいられなくなって外へさすらい出たのであって、探求心に煽られ、外への衝動によって出て行ったのではない。だからマラッカへ行ってもすぐにまた日本へ帰りたくなったのである。その彼をシャビエルに近づけたのは全くの偶然《ヽヽ》であった。日本近海で四日四晩吹き荒れた暴風であった。ところで、探求心に煽られ外への衝動によって動いていたポルトガル人は、この偶然を単なる偶然に終らしめなかった。彼らはこの鹿児島の一富商を捉えると共に、この一人の日本人を隅から隅まで探索し、そこに日本民族を、日本の文化を、見出そうとしたのである。シャビエルは日本を目ざす前にすでにそういう仕方で日本に関する予備知識や日本人に接近する方法などを獲得していたのであった。
シャビエルはヤジローを通じて日本人が|道理に支配せられる民族《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であること、|宗教や学問に対して強い関心を抱く民族《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であることを知った。ヤジローがそう語ったのみならず、ヤジローやその弟、その僕などがそのことを実証した。特にヤジローの知的能力はシャビエルたちを驚嘆せしめた。マタイ伝を短期間に覚えてしまったということは、直接彼を指導したトルレスの証言しているところである。そういう点から日本人を非常に高く評価したシャビエルは、日本こそキリスト教の弘布すべき土地であると確信し、どんな危険を冒してでも日本に行こうと決心した。日本行の妨げになるのは、シナの諸港が皆ポルトガル人に叛いたということ、またシナ海日本海の風波が世界中で最も激烈であるということ、更にこの方面に海賊が非常に多いということである。しかしこのヤソ会の闘士にとっては、死の危険こそ最も大きい休息であった。風波や海賊などは、神の力の前には何でもない。信仰あるものにとっては、そういう危険は恐れるに足りない。だから彼はヤジローに逢って以来着々として日本行の準備を整えたのである。特に彼が熱心に知ろうとしたのは日本の宗教事情であるが、ヤジローは|天竺の教《ヽヽヽヽ》がシナ及び日本に弘まっていることを知っているだけで、その経典の言語を理解する力なく、従ってその教義にも通じていないことを告白した。だからシャビエルは日本に弘まっている宗教を知るということを日本に着いてからの|第一の課題《ヽヽヽヽヽ》として初めからねらっていたのである。次にシャビエルが努力したのは、キリスト教の綱要を日本語で書くことであった。シャビエルの日本渡来までにヤジローが、シャビエルの定めた教理問答の抜書や、簡単な教義綱要や、マタイ伝の概要などを、日本文で認めていたことは確かである。だからシャビエルは鹿児島について即座に伝道を始めることが出来たのであった。この研究的な態度や用意周到な準備こそ、西から迫って来たヨーロッパの尖端が、マラッカまで出迎えた日本民族の尖端よりも、遥かに優越な力を持っていた主要な理由である。
シャビエルが日本に渡来した当時の状況は、彼が鹿児島で書いた有名な書簡に詳かであるが、彼がこの鹿児島に一年近くも留まっていたのは、右にあげた|第一の課題《ヽヽヽヽヽ》を解き、伝道の準備を更に一層完成するためでもあったであろう。このことを眼中に置いて彼の鹿児島書簡を読むと、彼の烈しい伝道の情熱の裏に如何に着実な研究的精神が動いていたかをまざまざと感ずることができるのである。
二[#「二」はゴシック体] 鹿児島におけるシャビエル
シャビエルの日本渡来の一行は全部で八人であった。ヤソ会士ではコスメ・デ・トルレスとジョアン・フェルナンデス、これはいずれもスペイン人である。それに日本人ヤジロー、その弟、その僕。ほかは従僕のインド人とシナ人とであった。当時バスコ・ダ・ガマの子ペドロ・ダ・シルバがマラッカの長官をやっていたが、いろいろシャビエルのために配慮し、日本へ直航しようという|シナ船《ヽヽヽ》を見つけてくれた。乗船したのは一五四九年六月二十四日であった。出航後天気も風も好かったのであるが、船頭は卜いによって航海のやり方をきめるので、途中で考が変って、シナの港で越冬しようと考え出した。広東についた時、いよいよその港に留まろうとし始めたが、これはシャビエルの一行の反対や威嚇でやめさせた。次で順風に乗って数日航海した後に、チンチェウの港へ着き、そこで越冬しようと企らんだが、丁度出港して来た船から港内に海賊がいることを聞いて急いで外洋へ出た。風は日本へ向って吹いていた。そこで船頭らはやむなく日本に向い、八月十五日鹿児島へ安着したのである。
シャビエルたちはヤジローの身内のものその他から非常な愛情を以て迎えられた。やがてその歓迎は一般的になり、鹿児島の町の長官、その地方の領主、一般民衆なども彼らに好意と親切を示した。ポルトガルの神父が彼らにはひどく珍らしかったのである。しかしヤジローがキリシタンになったことには彼らは一向驚かず、むしろそれに敬意を払った。親戚のものなどはヤジローがインドのような珍らしい所を見て来たことを非常に喜んでいた。やがてこの国の領主の島津氏も彼を款待するに至った。当時島津氏は鹿児島から五里の伊集院にいたが、彼を呼び寄せてポルトガル人の習俗や国情、インドの所領などについていろいろ質問し、彼の説明に満足したようであった。その時ヤジローは聖母マリアの画像を持って行って見せた。領主はこれを見て非常に喜び、その前に跪いて礼拝した。領主の母堂もこれを見て非常に心をひかれたと見え、ヤジローが鹿児島のシャビエルの許へ帰って来てから数日後に、使者を寄越して同じ画像の製作を依頼し、またキリスト教の教義を書面に認めて送って貰いたいと云って来た。画像は材料がなくて作れなかったが、教義の方はヤジローが数日かかって書いた。これは九月中頃のことであったらしい。やがて九月二十九日には、領主がシャビエルたちに会った。領主は彼らを款待し、キリシタンの教を記した書籍を大切にせよと云ったという。その数日後に領主は、臣下一同に対して、自由にキリシタンとなって好いという許可を与えた。
こうして伝道の滑り出しは非常に順調に行った。しかし言葉の関係から、当時の伝道の主役はヤジローであった。彼は親戚や友人を集めて昼夜説教し、おのれの母・妻・娘、親戚の男女、友人たちなど多数の人をキリシタンにした。町の人はキリシタンとなることを一向怪しまなかった。人々は読み書きが出来るので、祈りの言葉を直ちに覚えてしまう。そういう情勢のなかにシャビエルはまるで彫像のようにしていた。人々がシャビエルたちのことをいろいろと云いはやしているのに、シャビエルたちは何も解らず黙っていたのである。しかしシャビエルの心の中には、日本語さえ出来ればどんどん信者が得られるという強い希望が動いていた。だから彼は小児のようになって日本語を学び取ろうとした。このことは鹿児島滞在中に相当の程度に実現されたらしい。特にイルマンのフェルナンデスは、よほど語学の才のあった人と見え、非常に迅速に日本語を覚えたといわれている。それと共にまたシャビエルは、日本で読み書きの出来る人が多いという点に着目して、熱心に教義書の作製を企てた。日本語を学び始めてから四十日の間に、先ず十誡の解説を作った。次でその年の冬の間に日本語で信仰箇条の詳しい解釈を作り、それを印刷しようと考えた。シャビエルがポルトガル語で書き、ヤジローがそれに忠実に飜訳するのである。この企ても彼が鹿児島にいるうちに実現されたらしい。これは相当に大きい著述で、天地創造からキリストの出現、苦難、最後の審判までを説き、更に仏教排撃に説き及んでいたといわれる。この訳は、ヤジローの無学のために失敗の作に終ったが、しかしそれでも後の教義書の基礎にはなったのである。
このように伝道は最初のうちヤジローの力を必要としたのであるが、しかしその頃にもすでに日本に関する研究は熱心にすすめられていた。日本語は出来なくても直接の観察によっていろいろなことが解ったし、またヤジローを介してヤジローの知らないいろいろなことを聞き出すことも出来た。シャビエルが日本から出した最初の書簡は、鹿児島到着から八十余日後の十一月五日の日附を持ったものであるが、それには次のような日本観察が記されている。
まず第一は日本の一般的な印象である。シャビエルが鹿児島で得た第一印象は非常に好かった。彼はいう、自分が今まで交際した人たちは、新らしく発見された諸地方における最良のものである。異教徒の中には日本人よりも優れたものを見出すことは出来ないであろう、と。彼が特に注目したのは、日本人が名誉を重んずること、及び一般に善良であることであった。|名誉は富よりも大切にされている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。これはヨーロッパでは見ることのできない点である。日本の国民は|一般に《ヽヽヽ》貧しいのであるから、貧しいことを恥とは思わないのであるが、しかしそれにしても、巨富を擁する商人が赤貧の武士に対して富貴なる者に対すると同じように尊敬の態度を取るということは全く珍らしい。赤貧の武士はたとい巨額の財産を贈られても商人の娘と結婚しようとはしない。武士は名誉ある身分であり、その名誉を失いたくないからである。武士たちが領主に忠実に仕えるのも、刑罰に対する怖れからではなく、名誉を維持するがためであった。がこのように名誉を重んずるのは武士に限ったことではない。だから一般に日本人は、侮辱や軽蔑の言葉を決して忍ぼうとはしない。日本人が賭博を行わないのも、名誉を傷つけたくないからである。次に日本人は、|一般に善良であって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、人づき合いが好く、|道理に適ったことを喜ぶ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。盗みの罪を憎むことは、キリスト救国と否とを問わず、日本ほど甚だしい所はない。従って盗賊は少ない。罪悪を犯しても、その非なる所以を説いて聞かせると、道理を認めてやめる。だから一般民衆の間には、罪悪が少なく、道理が支配している。キリスト教の神のことを聞いてそれを理解し得た時には、彼らは非常に喜ぶのである。
第二は仏教の問題である。シャビエルは渡来前から日本に流通している天竺伝来の宗教を問題としていたのであるが、鹿児島到着後には直ちに研究をはじめたらしい。彼は数人の仏僧に接近したが、特に当時鹿児島で名声の高かったニンジツ(忍室か)という八十歳の高僧と仲よくした。仏僧たちが彼を款待したことは、彼自身「ニンジツは驚くほど自分に親しんだ」と云っているのによっても明かである。彼は、ポルトガルから六千里も距っているこの遠い日本へ、ただイエス・キリストの福音を説くためにのみやって来た、とその使命を語り、また霊魂の不滅の問題などをも論じて見たらしい。しかしニンジツたちは、この遠来の客の珍らしい話に驚くのみで、宗論にはあまり深入りしなかったらしい。だからここではまだ宗教としての衝突は起っていないのである。しかしシャビエルの方では、この接近によって、「坊主」たちが俗人よりもひどい罪悪に陥っていることを見出した。道理に従うという点でも、彼らは俗人ほど素直でないと解った。そこで先ずシャビエルに起った問題は、これほど堕落している「坊主」たちが、何故に彼らよりも善良な俗人たちから大きい尊敬を得ているか、ということであった。その答として彼の頭に浮んだのは、仏僧の禁欲生活《ヽヽヽヽ》であった。物資の乏しい日本では一般に甚だしい粗食が行われているが、特に僧侶は、肉類も魚類も食せず、酒も飲まず、野菜と果物と米との食事を日に一回取るだけである。そのほか女との交わりも厳格に禁ぜられている。そういう制欲の生活を営みつつ、信仰に関する物語を説いて聞かせる。それが尊敬を得る所以なのである。そういう「坊主」の数は日本には非常に多い。シャビエルはここに強敵を認め、宗論をはじめる前にすでに彼らからの迫害を覚悟した。もっともその迫害は言葉による攻撃の形をとるであろう。俗人が自発的に迫害を加えてくるとは考えられないが、しかし坊主の論難によって煽動されれば、どうなるか解らない。だからそういう迫害によって命をおとす危険がないわけでもない。がどんな危険があろうとも、われわれはキリストの救いを説くことをやめない、かくシャビエルは、「驚くほど親しく」してくれるニンジツを前にして、すでに腹をきめていたのであった。
第三は日本の国情である。鹿児島へ来たシャビエルが目ざしていたのは、日本の首府ミヤコに行くことであった。しかし彼が到着した時には風が逆で、五カ月後でなければ順風が吹かないといわれ、鹿児島に待機したのである。そこで彼は、恐らく彼が関心を以て仏僧たちから聞いたであろうと思われる日本の国情を記している。ミヤコは鹿児島から三百里で、戸数は九万以上ある。そこに一つの大きい大学があって、五つの学部に分れている。(これは五山のことであろう。)外に坊主の住む寺が二百余、禅宗の僧坊や尼院などもある。このミヤコの大学の外に、主要な大学は五つである。高野、根来、比叡山、多武峯などの大学は、ミヤコの周囲にあって、おのおの三千五百以上の学生を有っているが、遠く離れた坂東にある大学は、日本の最も大きい大学であって、学生も最も多い。坂東は広い地方で、領主は六人であるが、その内の一人が統括している。しかしその一人もミヤコの日本国王に服従しているのである。なお以上の諸大学のほかに、日本国中に多数の小さい大学があるという。一五五一年中にはこれらの諸大学にイエス・キリストの教を弘めるつもりである。なお日本国王はシナへの安全通行証(勘合)を与えることが出来るので、それを得て、シナへ安心して行けるように努力しよう。日本からシナへ渡る船は非常に多い。この航海は十日乃至十二日である。
シャビエルは以上の諸点を報道し、日本伝道についての明るい見透しを披瀝している。日本はキリスト教を弘めるに最も適した地である。もし神が十年の齢を与えられるならば、この地において非常に大きなことが出来るであろう。かくて彼は最初の書簡においてすでに後続宣教師の派遣準備を促しているのである。
シャビエルはこの書簡と同時にマラッカの長官、バスコ・ダ・ガマの子、ドン・ペドロ・ダ・シルバにも書簡を送っているが、その中で堺に商館を設置すべきことを勧誘している。堺は日本の最も富裕な港で、ミヤコにも近い。そこに商館を設置してインドと日本との貿易を開けば、長官や国王の得る利益は大したものであろう。自分は日本国王に説いてインド総督との交渉をはじめるよう努力するつもりである、と。このシャビエルの言葉は、前述の勘合貿易のことと共に、堺の貿易船と関係の深かった鹿児島の港の空気を反映している。同じことはまたシャビエルの渡来に刺戟されて多数の日本人がマラッカに渡ったことにも見られる。ヤジローが鹿児島でポルトガル人のことを頻りに賞讃したので、それらの人たちの気が動いたのである。その中には坂東及びミヤコの大学で学んだ坊主二人もまじっていた。これらの人たちの乗った船は、シャビエルたちを鹿児島に届けたその同じ船であったかも知れぬ。
以上によってわれわれは鹿児島滞在の初期におけるシャビエルたちの行動や心境をほぼ察知することが出来る。彼らは前途の見透しについて非常に楽観的であった。二年の後には日本全国の諸大学においてキリスト教が説かれている筈であった。しかしそれは彼らが当時の日本の政治的情勢について殆んど無知であったことをも示すものであろう。三好長慶を中心とした京都地方の戦乱の様子は、鹿児島でははっきり解らなかったかも知れない。従って仏僧たちもその点についての説明は出来なかったかも知れない。しかしとにかく全国的な秩序が失われていて、日本国王との直接談判などが思いもよらぬことであったという事情は、鹿児島人には解っていたであろう。シャビエルたちは少しく日本語が解るようになると共に、最初の予想を裏切るいろいろなことに気づきはじめたらしい。五カ月後にミヤコへの船を与えようと約束していた島津氏は、ミヤコが戦乱の巷である故にその静まるのを待てと云い出した。鹿児島での伝道も最初の予想ほどには伸びなかった。これは鹿児島が、鎌倉時代以来の武家の|伝統的な権威《ヽヽヽヽヽヽ》を、この下剋上の時代においても遂に覆滅させることのなかった稀有な地方であることと、何らかつながりがあるであろう。ヤジローに飜訳させた教義書には仏教排撃の議論をも書き込んだが、キリスト教の「神」を「大日」と訳するようなヤジローの無学の故に、反って仏僧の嘲笑を買ったらしい。
そういう周囲の事情から、遂に一年後の一五五〇年九月に、シャビエルたちは鹿児島を去って平戸へ移った。平戸を選んだのは、その二カ月ほど前にポルトガル船が一隻そこへ入港し、その機会にその地を訪ねて有利なことを見て来たからである。鹿児島にはシャビエルの信頼するヤジローを残したが、しかしこの伝統の力の強い土地にヤジローをひとりで残すことは無理であった。数年後に彼は他の道に入り込んでしまったのである。
三[#「三」はゴシック体] 山口におけるシャビエル
平戸へ移ったシャビエルは、一カ月あまりの後、一五五〇年十月の末に、トルレスをその地に残し、フェルナンデスと日本人一人をつれて、|日本の国情の視察や伝道の好適地の探検《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を目ざした旅にのぼった。当時の日本の物騒な情勢から見て、そういう旅行がいかに危険であり困難であるかを彼ら自身も好く知っていたのであるが、そういう危険のなかへまっしぐらに飛び込んで行くところに、当時のスペイン人の気質がよく現われているといってよい。フェルナンデスはもうよほど日本語に熟達していたし、日本語で書かれた教義書ももう出来上っていたのであるから、伝道はしようと思えば出来るし、行く先々に伝手を求めることも不可能ではなかったであろうが、しかしまだ保護者もなく信者もなく、従ってまだ全然連絡のない地方へ、「探検」の歩を進めて行くという態度は、明かに近世ヨーロッパの精神の尖端たることを示している。
しかし、それほどの覚悟にもかかわらず、この旅行の最大の印象は、|旅の艱難《ヽヽヽヽ》であった。第一にあげられるのは寒気と降雪とであって、スペイン人にはよほどこたえたらしい。雪と寒さのために脚が腫れ、その上道が悪くて滑る。荷物を負ったまま道に倒れたことも度々ある。また多くの河を徒渉しなくてはならなかったし、履物のない時も少くなかった。寒さと飢とのために殆んど死ぬほどに疲れ、雨に濡れそぼたれて宿に着いても、それを和らげるような何の設備もなかったこともある。第二は人の与える不安である。海賊の多い海の上では、しばしば人に見つからぬように船の中に隠れていなくてはならなかった。また盗賊の難を脱れるために身分ある人の馬丁となって、はぐれぬように駆けたこともある。村や町について、往来で子供らから石を投げつけられたこともある。これらの艱難は全くシャビエルの予想した以上のものであったらしい。
この時のシャビエルの旅行は、博多、山口を経て、瀬戸内海を船で堺に渡り、そこから京都へ行って十一日間留まり、また西へ平戸まで帰って来たのであるが、その間に四カ月かかった。博多、山口、堺はいずれも|海外貿易によって《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》栄えたところで、当時の日本の都市発生の先駆となったものである。それらの町々が日本の重要な地点であることは、当時の世間では一般に認められていたであろう。だからシャビエルもまたこれらの町々に眼をつけたのであろうが、実地を踏査してそういう新興の町こそ伝道の好適地であることを見出したらしい。山口の町では伝手を求めて領主の大内義隆に謁することが出来、領主の好奇心に答えていろいろの話をしたが、結局フェルナンデスに教義書を読ませ、日本の宗教や道徳の腐敗に対して攻撃を加えるに至った。領主は悦ばなかった。シャビエルたちは覚悟をきめ、翌日から街頭説教をはじめた。日本人が真の神を知らず偶像を礼拝すること、男色や間引きの如き不道徳に陥っていることなどを指摘し、悔改めを迫ったのである。これはフェルナンデスが日本語で述べ、シャビエルはそばで祈っていたのであった。そういう説教を彼らは山口の町のあちこちでやった。収穫はあまりなかったようであるが、しかしシャビエルにそういう行動を取らせるような何物かが山口の町にはあったのであろう。やがて彼らは海路を取って堺に向ったが、海賊の用心や相客の侮辱などでいろいろ不愉快な思いをしているうちに、彼らに同情した一人の船客が、親切にいたわって堺の知人への紹介状を書いてくれた。堺についてその人を訪ねると、この人もまた彼らを親切にもてなしてその家に泊めてくれ、京都への旅路のことをも心配して、或る身分の高い武士の一行に加えて貰うように骨を折ってくれた。そういう人のいる堺の町が伝道の好適地の一つに加えられたことも、当然といってよいであろう。しかし遥々と目ざして来たミヤコは、三好長慶が将軍を近江へ追い払ったあとであり、日本全国の王である内裏は、いかにもみすぼらしい有様であった。またそれらに近づくすべもなかった。そこで早々に引上げて帰路についたのである。
しかしこの旅行の結果、日本の有力者に近づくには「進物」が必要であること、伝道を開始するにはミヤコよりも山口の町の方が好適であること、などが解った。博多の貿易商を配下に置いて、シナとの勘合貿易を独占しようと長い間努力して来た大内氏の城下町は、恐らく当時の京都よりも繁華であったろう。競争相手の細川氏が三好長慶に滅茶滅茶にせられ、上方が連年戦乱に曝らされていた当時にあっては、大内氏の隆盛はその絶頂に達し、京都の公卿その他の文化人にして山口に移っていたものも少くないのである。その大内氏が一朝にして覆滅せられ、山口の町が戦乱の巷になるであろうなどとは、シャビエルには勿論思いも寄らぬことであった。で平戸に引き返したシャビエルは、ポルトガルのインド総督や司教の|公の書簡《ヽヽヽヽ》と、進物《ヽヽ》として丁子・時計、その他マラッカの長官から贈られた種々の品物などを携え、フェルナンデス及び日本人二人をつれて、海路山口に向った。それは一五五一年の春であった。
山口ではシャビエルは、公式の書簡と多くの進物とを領主に呈するため、法服をつけて公式に謁見した。領主は珍らしい品々を見て非常に喜び、布教の許可を与えた。この町及び全領土においてデウスの教を説いてよい、それを信ずることは自由である、という意味を書き記した立札を街に立てさせたのである。また宣教師たちに害を加えないよう人民に命令し、宣教師たちの住居として一つの僧院を与えた。これは最初の山口訪問の際とはまるで異なった情勢であるが、それを導き出したのはシャビエルの日本国情視察の結果なのである。
こうして山口の町では、鹿児島の時とは異なり、迅速に活溌な伝道が開始された。町の人たちは新らしい教を聞くために、或はさまざまの珍らしい話を聞くために、朝から晩まで詰めかけて来た。その質問はしばしば彼らが「難問」と云い現わしているように答え難いものであった。シャビエル自身はこの質問攻めを、予期しなかった「迫害」だと云っている。日本人は時刻を問わず訪ねて来て、夜中までも質問を続ける。身分のある人はおのれの家に招いていろいろなことを聞こうとする。従って祈祷・黙想・思索などに没頭の出来る暇がなくなってしまう。精神上の休養をとる時さえもない。最初の間はミサを行うことさえも出来ず、立てつづけに質問に答えていなくてはならなかった。こうして、祈祷や食事睡眠などの時間さえも不足するというような状態が、シャビエルの山口滞在四五カ月の間続いた。この経験によって、シャビエルは、日本人の質問に答えるためには学問があって弁論に巧みでなくてはならぬ、詭弁に対しては即座にその矛盾を指摘し得なくてはならぬ、とロヨラに報告している(一五五二年一月二十九日コチン発)。九月に山口へ呼び寄せられたトルレスはシャビエルからこの情勢をきいたのであろう。同じようにこの質問攻めのことを述べて、この地に来るべき宣教師は、高尚な難かしい質問に答え得るだけの学問がなくてはならぬ、とインドへ書き送っている(一五五一年九月二十九日)。これらの質問者のうちには勿論僧侶もまじっていたのであるが、しかし鋭い質問をするのは僧侶のみではなかった。僧侶に対しては一般の人々は表面に尊敬を現わすが実は憎んでいる、とトルレスは記している。
右のような質問攻めの記述は、山口の民衆の探究心がこの熱烈なヤソ会の闘士たちを一時|受身にならせた《ヽヽヽヽヽヽヽ》ことを示しているのである。それは一つには日本語で説明するのがフェルナンデスのみであり、その拠り所がヤジローの飜訳した教義書であるということにもよるであろう。だからこの山口伝道の初期にシャビエルが一人の|若い琵琶法師《ヽヽヽヽヽヽ》の心を捉えたことは、後の伝道にとって非常に意義が大きいのである。この琵琶法師は当時二十五六歳で、肥前生れの男であったが、片眼が少し見えるだけの小さい跛足の体をひきずって、この新興の都会で、平家物語を弾奏しつつ暮らしを立てていた。強い記憶力と巧みな物語りの技術とはすでに出来上っていたのである。この知能優れた青年が、シャビエルの伝道の情熱から霊感をうけ、まっしぐらに彼のふところに飛び込んで来た。洗礼名はロレンソと呼ばれる。ヤジローがこれまでつとめていた役目はやがてこのロレンソによって担われるようになった。この後四十年の間に彼のあげた功績は非常に大きいのである。その間のキリシタン伝道の目ぼしい事件のなかに、彼の力の加わらないものは殆んどないと云ってよい。
このロレンソを含んだ山口の町の人々もまたシャビエルたちに非常に好い印象を与えた。トルレスの前記の書簡によると、彼らは、日本人が世界中の何国人よりもキリスト教の植えつけに適したものであることを、この地においても認めたのである。日本人はスペイン人と同様に、或はそれ以上に、道理に服することを知っている。またどの国民よりも強く知識を求める。魂の救いや神への奉仕をいかにすべきかについて語り合うことは、彼らにとって非常な喜びであった。新発見の諸地方において彼らほど烈しくこの喜びを示したものはない。そうしてその知慧は鋭敏で、理性に支配されている。だからキリスト教の神や救いのことを教えると、初めは強い反感を持っていたものでも、やがて飜然と悟って彼らの偶像や父母を忘れるようになる。しかも一度キリスト教に帰したものは、その堅実なること実に比類がない。すでに改宗したものはかなり多数であるが、その大部分はどんな艱難にでも堪える覚悟が出来ているようである。これがシャビエルの山口を去る頃に出来ていた日本人についての観察であった。
がこれはロレンソをはじめ町人や武士たちのことである。そういう俗人たちは、礼儀正しく、慈愛に富み、隣人を誹謗せず、何人をも嫉まない。しかし仏僧たちはそうではなかった。ヤジローの不十分な仏教の知識によって仏教排撃の議論を組み立てていたシャビエルたちは、ここで手痛い反撃を受けざるを得なかった。それを彼らは仏僧たちの党派心や憎悪として受取ったのである。この時彼らは、ロレンソその他の改宗者から、やや詳しい仏教の教義を教わったらしい。釈迦のこと、法華宗・一向宗・禅宗などの区別のことも、彼らは漸く知り始めた。しかしそれはすべて彼らを論破するためであった。シャビエルの山口滞在数カ月の間には、この方面に長足の進歩があり、仏教に対するキリスト教の相違点が漸く鮮明に表明されるに至った。
こうして山口には五百人ほどの信者が出来た。その中には武士階級に属するものが多く、相当の身分の人もいた。山口の町が当時の日本で最も進んだ都会であったということは、そういうところにも現われていると思われる。
シャビエルは一五五一年の九月までこの町にいたのである。
ところでこの年の八月に、バスコ・ダ・ガマの子ヅアルテ・ダ・ガマを船長とするポルトガル船が、大分の傍の日出《ひじ》の港に入った。長途の航海の後にはポルトガル人は神父を必要とするのであるが、それのみならずガマはシャビエルの崇拝者であり、またいろいろな計画をも持っていたらしい。彼は豊後の領主大友義鎮にすすめて、シャビエルを府内(大分)へ迎えさせた。シャビエルは平戸からトルレスを呼んで、フェルナンデスと二人に山口の信者を守らせることにし、自分は日本人の信者三人と共に九月中旬府内に向った。その三人の一人はヤジローの弟で、通弁の役をつとめる。他の一人は鹿児島人で、前に京都旅行に従った男、あとの一人は山口での新らしい改宗者である。
シャビエルがダ・ガマの船でインドまで行ってくるということを、すでに山口で考えていたのかどうかは明らかでない。トルレスを平戸から呼び寄せたところを見ると、相当長い留守を考えていたとも見える。が十月に大分からの使が来て、このシャビエルのインド行きをはっきりと知ったトルレスも、やがて直ぐにシャビエルが|日本へ引返してくる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のを当然のこととして語っている。恐らくシャビエルは、東洋のこの方面において日本国民のみがキリスト教に向いていること、従って日本のみがキリスト教の好適の地であることを、直接にインドのヤソ会士たちに説き、多くの優秀な宣教師たちを日本へ連れて来ようと考えたのであろう。そのシャビエルがインドへ帰ってからシナ伝道の計画を立てたのは、何かこの後の事情の変化があったものと考えられる。しかしそれにしても、山口での経験がシナ伝道の決意の有力な機縁となったことは、彼自身がロヨラに宛てた書簡(一五五二年一月二十九日コチン発)によっても察せられる。山口では彼を質問攻めにした日本人の知識は、結局シナ文字で書かれたシナの書籍に基いている。日本人は|シナ語《ヽヽヽ》を理解することは出来ないが、しかし|シナ文《ヽヽヽ》を読むことは出来るのである。シナ文化は日本文化の母胎にほかならない。従ってシナ人がキリスト教を奉じたとなると、日本人はシナから伝えた諸宗派の謬見を直ちに捨てるようになるであろう。これが彼のシナに眼をつけた理由であった。して見れば、あの若い琵琶法師などを通じて得られた日本についての知見は、非常に影響するところの大きいものであったといわなくてはならない。
がそれらは後のことである。シャビエルが去ったあとの山口は、さしずめどうなったであろうか。
山口に残ったトルレスやフェルナンデスの報告によると、シャビエルが出発したその日のうちに、山口の町の僧侶たちが、非常な勢でトルレスたちの住居の門から闖入し、トルレスたちやその言説に嘲笑をあびせて時を過したという。この出来事によってトルレスたちは、彼らがいかにシャビエルを怖れていたかを知ったのであった。がそれだけにシャビエルの出発はあとに残ったものには心配であった。僧侶のうちでも禅宗のものは甚だ苦手で、その質問には答え難い。聖トマスやスコトゥスといえども、それに満足に答えることは難しかろう。神の特別な恩寵なくしては彼らを説破することは出来ない。そうトルレスは感じた。しかし幸にも彼は、その特別の恩寵によって、シャビエル出発後の八日か十日の間に、身分あるものや学者などを混えて五十余人のキリシタンを作った。トルレスがフェルナンデスの通訳によっていろいろと質問に答えたとき、日本人たちは、この新らしい宣教師もまた信頼しうることを知って、大変穏やかになって来たのである。
ところが丁度その頃に戦争の噂がはじまった。大内氏の家臣陶隆房(晴賢)が大内氏に叛いたのであった。そうなると僧侶や身分ある人たちはほとんど来なくなった。商人や婦人たちが少しは来たが、それらもキリシタンとなるには至らなかった。やがて叛軍は山口に迫って来た。遂にトルレスらは、九月二十八日(太陰暦八月二十八日)に至って、所持品を隠し、逃支度をした。そうしてキリシタンの同情者である有力者カトンドノ(加藤殿か。奉行内藤隆治だとする人もある。)の邸に、もとヤジロー従僕であった男を使にやって、どうすればよいかを聞かせた。やがてその男は馳せ帰って、取りあえず大急ぎでその邸まで来いという先方の答を伝えた。トルレスは直ちにその邸に向ったが、途中で甲冑をつけた兵士の部隊にいくつか行き逢った。兵士たちは、あの天竺人が仏を罵ったからこんな戦争が起きたのだ、あいつらを殺してしまえ、追払ってしまえ、などと口々に言って、トルレスらを慄え上らせた。邸につくとカトンドノは、一人の坊主をつけて、トルレスらを彼の檀那寺に案内させた。その寺の僧も、彼らを悪魔視し、彼らのためにこの不幸が起ったと考えている人で、寺に迎え入れることは喜ばなかったのであるが、檀那を怖れてか、或は案内の僧の頼み方が好かったためか、結局彼らを寺の一室にかくまった。ここで彼らは慄えながら二昼夜を過したのであるが、その二昼夜の間に武士たちの家が多く焼失した。陶隆房の軍隊が山口を占領し、大内義隆は自殺したのである。トルレスらはカトンドノの夫人と共にその邸に帰り、そこの三畳の茶室に五日間潜伏していた。町は火災・掠奪・殺戮によって混乱し、トルレスらの生命も相当危険であったが、しかしどうにかしのぐことが出来た。キリシタンとなったものには大内氏の家臣が多かったのであるが、その内には一人も死んだものはなく、最初に信者となったトメ・内田という武士も無事で、その後彼らを守りかくまった。
こうして山口の伝道は、シャビエルが山口を去ってから一カ月経たない内に、一頓挫を来たしたのである。しかし幸に陶隆房は、自ら山口の領主となろうとはせず、自殺した大内義隆の甥、大友義長を迎えて大内氏を嗣がせようとした。大友義長は豊後の領主の弟で、当時府内にいた。そうしてその府内には丁度その頃シャビエルが行っていたのである。
四[#「四」はゴシック体] 豊後におけるシャビエルと大友義鎮との接触
シャビエルの府内入城は非常に華々しい儀容を以てなされた。すでに山口で領主に物々しい公式の謁見をやり、それによって大きい効果をあげたシャビエルは今度は日出《ひじ》の港のポルトガル船と連合して、前とは比較にならないほど大げさな儀容を張ることが出来たのである。それには船長ダ・ガマの側にも大いに力を入れる理由があったであろう。ヨーロッパの技術や儀容を展示して新らしい土地の民衆に強い印象を与えるということは、インド以来ポルトガル人の常套手段であった。だからシャビエルが日出に着いた時には、船には旗を掲げ、祝砲を連発して日本人を驚かせた。ついで府内入城の日には、ダ・ガマ船長をはじめ多くのポルトガル人たちが、華やかな盛装をつけ、従僕を伴い、法服に威容を整えたシャビエルを擁して、静々と行進を起したのである。一人は花鳥を描いた日傘をシャビエルの上にかざしている。他の一人は被をかけた聖母の画像を捧げている。それについで精巧な上靴を一足捧げているものもある。行列の指揮者は金棒を曳いている。前の年に領主になったばかりの若い大友義鎮(宗麟)も士卒を羅列し威容を張ってこれを迎えた。城下の民衆は見物に押し寄せて来た。そういう華々しい姿で伝道者シャビエルは府内に入って来たのである。城に入っていよいよ席につくとき、ポルトガル人の一人は非常に高価な上衣をぬいで、その上にシャビエルを請じ、列席の武士を驚かせたという。こういう行進や儀式の際のヨーロッパ風の動き方が、眼に見えるようである。
領主は伝道の許可を与えた。シャビエルは直ぐに翌日から街頭に立って伝道をはじめた。ヤジローの弟が通弁であったが、シャビエル自身も日本語で説教したかも知れぬ。最初の行列の印象で民衆の注意を集めたあとであるから、効果は大きく、間もなく五百人の信者が出来たといわれている。この形勢に対してここでも仏僧の反抗がはじまった。シャビエルの攻撃的態度がそれを触発したのであろう。仏僧たちはフカタジ(石仏で有名な深田寺か)を先頭に立てて宗論を挑んだ。それは対立を深めるばかりであった。遂に領主に正式の宗論を催おさせ、五日に亘って対論させたといわれる。ここでも日本人は、知識欲に富み、限りなく難問を提出する、という同じ性格を示したわけである。それをシャビエルはヤソ会の闘士らしい気魂で圧倒して行ったらしい。豊後滞在は僅かに二カ月余であったが、その間に彼は山口に劣らぬ有力な根拠地を築き上げたのである。
当時二十二歳であった領主の大友義鎮は、初め信者にはならなかったが、しかしポルトガル人との貿易には非常に熱心であった。だからシャビエルを擁して華々しい府内入城をやった船長ダ・ガマと、その府内の領主との間には共通の関心があったのである。シャビエルもまたそれを利用することを忘れなかった。彼はダ・ガマの船で一度インドへ引き返し、日本布教の計画を強化しようと決意したのであるが、それと呼応するかのように、大友義鎮はポルトガル王やインド総督に書簡を送り、|教師派遣を懇請しよう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とした。その書簡や贈物を携えた使者を同じ船でインドまで連れて行って貰いたいと申出たのである。そこでシャビエルは、この使者のほかに、山口から連れて来た三人の日本人及び山口から使いに来たもとのヤジローの従僕、合せて五人の日本人を同行することにした。京都への旅に同行した鹿児島人と山口での改宗者とはポルトガルへ留学に送り、ヤジローの弟と従僕とはインドから日本へ来る新らしい宣教師を案内するためであった。日本人にインドやヨーロッパを見せよう、或はヨーロッパ人に日本人を見せよう、という気持は、彼らの間にすでに流れていたのである。
ダ・ガマの船はこの一行を乗せて一五五一年十一月に日出の港を出帆した。途中広東でサンタ・クルスという船に乗りかえたが、その船長ディエゴ・ペレイラがシャビエルにいろいろシナのことを話したので、シャビエルのシナ伝道の気持が起ったといわれている。マラッカでまた船をかえて、一行は翌年の一月末にインドに着いた。
日本人のポルトガル留学もその後実現されたが、帰国後伝道事業に大いに役立つであろうというシャビエルの期待に反して、惜しいことに彼地で死んでしまった。
豊後の大友氏は古い家柄で、義鎮は頼朝時代以来十八代目と称せられる。従ってここでは古い伝統が相当に有力であった。その豊後へ新らしい空気をもたらしたのは、当時九州の諸大名を動かしていた海外貿易であった。朝鮮の貿易にも古くから参加していたし、シナとの勘合貿易に大友船を出したこともある。倭寇に出るものも少くなかった。従って豊後の港へシナ船の出入することなども珍らしくはなかった。後年に大友義鎮がフロイスに語ったところによると(一五七八年十月十六日附、臼杵発書簡)、彼が十六歳の時、即ち一五四五年には、すでにポルトガルの商人もやって来ていた。これはポルトガル人の種子島漂着よりも二三年の後、シャビエルの豊後滞留よりは六年ほど前のことである。その時には、日出の港へシナ人の小さいジャンクが入港し、その中に六七人のポルトガル商人が乗っていた。その重立ったのはジョルジ・デ・ファリヤという富人であった。ジャンクのパイロットはシナ人であったが、義鎮の父である領主義鑑に、あのポルトガル人を殺せば手間なしで大きい財産が手にはいる、と言ってそそのかした。領主は欲に動かされてシナ人の献策を実行しようとした。それを聞いた十六歳の義鎮は、父の所へ行って、あの外国人は領主の保護の下に領内で貿易をしようとして遠くから来たものである、それを罪もなく理由もないのにただ欲から出て殺すということは甚だよろしくない、自分は絶対に不同意である、自分は彼らを保護するであろう、と説いて、その実行を喰いとめた。このことを義鎮はキリシタンとなる最初の因縁として語っているのであるが、確かにこの|父子の間《ヽヽヽヽ》にはすでに視圏の相違が出来ていたのである。なおその後にもヂヨゴ・バズというポルトガル人が府内に来て五年間滞在し、日本語を話すほどになった。その男がどういう風にして義鎮と接触したのかは解らぬが、とにかく朝夕に聖書を読み、数珠を持って祈祷するその敬虔な態度は、非常に強い印象を義鎮に与えた。僧侶でもない単なる商人がこれほど熱心に勤行するということは、よほど霊顕のあらたかな神だからであろうと思えたのである。
こういう青年時代を送った義鎮が領主となる時には、いかにも戦国時代らしい血腥いお家騒動があった。父の義鑑が惣領の義鎮をさし措き、後添の妻の子を世継にしようとしたからである。それに迎合する家老の権力が強く、それを不可とする正義派の家臣のうちには誅戮をうける者もあった。そこで正義派の家臣二人が奥へ切り込んで、義鑑夫人、その子のみならず、義鑑をも殺害した。義鎮は当時湯治のために別府へやられていたが、急ぎ迎えられて跡を継いだのである。
シャビエルが豊後を訪れ、山口では大内義隆が家老の陶隆房に殺される、という事件が起ったのは、その翌年であった。義鎮の同母弟義長を大内氏の後継として迎える話がはじまったのは、シャビエルがまだ豊後にいた間のことらしい。義鎮義長兄弟の母親は大内義隆の姉であるから、義長は叔父のあとの相続に呼ばれたわけである。この交渉は公開的のものであって、勿論シャビエルの耳にも達したに相違ない。当時、|山口の教会《ヽヽヽヽヽ》を日本唯一の教会として残して行こうとしていたシャビエルにとっては、これは非常に重大な報道として響いたであろう。兄の義鎮は宣教師派遣の懇請状を公式にインド総督に向けて送ろうとしている。その弟が、山口の領主となって、今危機に陥っている教会を保護し得るかも知れないのである。その人物についてもシャビエルは恐らく直接に知っていたであろう。そうとなればこの際シャビエルがその全力をつくしたであろうことは察するに難くない。義長が山口の領主となったならば、極力キリシタンを保護するであろう、という了解が、この時彼らの間に成立したということも、あり得ぬことではなかろう。
義長の大内氏相続については、大友記に義鎮の反対意見と義長の承諾の理由とが記されている。反対意見はこうである。陶隆房は毛利元就を敵にしているが、隆房にはこの強敵を防ぐ才覚はない。その隆房に擁せられて大内氏を継いでも、元就がそれを承認せず、主家として取扱わないならば、やがて毛利氏と戦わなくてはならない。その際に勝つ見込はない。やがて亡びる大内氏を継ぐのは無分別である。この反対に対して義長は答えた。元就を恐れてこの跡目相続を断わったと|世人から嘲られる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のは、堪え難く口惜しい。しかし元就と一戦して討死することは、むしろ名誉である、と。この云い分は当時の武士の間には立派なものとして通った。そこで相続の約束が出来、シャビエルの去った翌年の晩春に、義長は大内氏を嗣いだのである。
この相続の議論は、後の経過を知っている者の考え方を反映しているようにも見えるが、しかし当時の下剋上の大勢から見て、義鎮がこのような懸念を抱いたということは、あり得ぬことではあるまい。毛利元就は|下から成り上る《ヽヽヽヽヽヽヽ》という大勢を最もよく具現した人の一人である。毛利氏が大きい勢力を持つに至った後に書かれた毛利記にも「毛利の家、昔年代々有之と云えども、|元就以来の義に候《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と書かれている。その元就が、三十歳の時、安芸吉田「三千貫の所」を領して以来、「談合」と「結束」とによって三十年の努力を続け、遂に大内氏に属する諸将のうちの最も大きい存在にまで成長してきたのである。特に大内氏と尼子氏との間の長期に亘る争覇は、元就の才幹を現わすに恰好の舞台であった。大内氏の運命が元就によって支えられた場合も少くない。世間はもうこの元就の実力を知っていたのである。その際に、元就が主家とする大内氏の実権は家臣の陶隆房に握られ、しかもその隆房が主君義隆に叛いて、義隆父子を自殺せしめるに至った。たとい隆房自身が領主とならず、傀儡領主大内義長を擁立するとしても、元就がその領主の権威を認めず、主殺しの故を以て陶隆房を討伐するであろうことは、容易に見通され得たのである。義長が毛利氏に圧倒せられることを予感しつつ大内氏を継いだということも、あり得ぬことではなかろうと思われる。
シャビエルが日本に残して行った教会はこのような政治的情勢の上にかかっていた。そのような情勢はシャビエルの眼には十分明かではなかったであろう。彼は日本を去った後にも、山口の教会がますます隆盛となるであろうことを確信を以て語っている。|山口の教会の最大の危険はすでに過ぎた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。多数のキリシタンのうちには大身のものもあり、トルレスやフェルナンデスを昼夜保護している。そのフェルナンデスは日本語に上達して、トルレスの説教の通訳をやることが出来る。日本はキリスト教を植えつけるに非常に適した土地である。この方面で新《あら》たに発見された諸国のうちでは、|日本国民のみが《ヽヽヽヽヽヽヽ》キリスト教を伝えるのに適している。かく彼は力強く主張しているのである。それから僅か九カ月後に彼は広東附近の上川島で死んだのであるから、この確信は死ぬまで変らなかったであろうと思われる。
山口の教会に関する限り、彼の予想は裏切られた。四五年の後に大内氏に代って山口を支配し始めた毛利氏は、海外の広い世界への関心も薄く、キリシタンへの同情も持たなかった。従って山口の教会の隆昌は、僅か五六年続いたに過ぎなかった。伝道の流れは、この毛利氏の攻勢を防ぎ切ることの出来た大友義鎮の領内へと移って行った。その頃若い義鎮は、戦争《ヽヽ》と政治《ヽヽ》と歓楽との荒々しい生活のなかに沈湎していたのであるが、それでも海外の広い世界への関心やキリシタンへの同情を持ちつづけたのである。
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[#小見出し] 第三章 シャビエル渡来以後の十年間
一[#「一」はゴシック体] トルレスと山口の教会
シャビエルが日本を去ってインドへ帰り着いたのは一五五二年の一月の末であるが、間もなく四月の中頃には、日本に向うイルマン、ペドロ・ダルカセヴァとドワルテ・ダ・シルヴァとを率い、インドを出発した。船はシナ行の船で、船長はインド総督のシナ派遣大使の資格を兼ね、シャビエル自身も神父バルテザル・ガゴと共にシナに行って伝道に従事する決意を固めていた。ところがマラッカに着いてから故障が起り、船長の大使は翌年までこの地に留まることになった。そこでシャビエルは予定を変更して、神父のガゴを日本行の一行に長老として加わらせ、別の船を工面して六月六日にシナに向って出発させた。ガゴの一行はシナでまた日本行の船にのりかえ、八月二日出発、同十四日には曾てシャビエルの滞在していたタヌシュマ(鹿児島か)という島についた。そこで領主の款待を受け、留まること八日、小船に乗って豊後に向った。中々難航であったが、九月七日無事に豊後の府内に着いた。シャビエルが日本を去ってから十カ月目である。
ガゴたちは到着の翌日領主大友義鎮を訪ねてインド総督からの贈物を捧げ、領主の款待を受けた。が何よりも必要なのは、これからの伝道計画の樹立である。彼らは山口の教会と連絡を取ったが、山口からは日本語の上手なフェルナンデスを派遣して寄越した。そこでガゴは先ず領主を訪ねてインド総督からの伝言を伝え、ついで宣教のために度々訪ねて行って、領主の前にこの伝道計画の問題を持ち出した。殿はインド総督に書簡を送ってキリシタン宣教師の渡来を促されたそうである。また殿御自身にもキリシタンの教を奉ずる意志があると聞き及んでいる。従ってわれらはこの教を説きたいのである。もしわれらが領内に留まることを欲せられるならば、キリシタンの伝道を許可する旨布告せられたい。もし今その決心がつき兼ねるならば、われらは山口に行って日本語を勉強し、殿が招かれる時を待とう。取りあえず一応は山口へ行って来たいが、もしわれらがこの国へ帰ってくるよう望まれるならば、山口の神父にその旨を告げて、ここへ帰ってくることにしよう。かくガゴは申出た。それに対して義鎮は答えた。山口には神父が居り、すでにキリシタンも出来ているそうであるが、自分の領内にはキリシタンはいない。これは甚だ遺憾である。山口には神父トルレスがいるのだから、貴下たちはこの領内に留まって伝道してほしい。その上自分はインド総督と度々通信したいのであるが、神父が領内にいないとそれが出来ない。だから領内に留まってくれれば、伝道の方は手助けをしよう。ガゴはこれを聞いて領主の好意を謝し、さらに押し返して言った。当地に留まるにしても、古参の神父トルレスからその命令を受ける必要がある。また山口では領主の|公式の許可《ヽヽヽヽヽ》を得て伝道しているのであるから、当地でもそういう公許を得て、キリシタンとなろうとしている者の疑懼を除きたい。この領内にもすでにキリシタンとなったものがある。希望者は更に多数である。領主はこれに答えて、では望み通り即刻許可を与え、高札を立てさせよう、説教は自由にやってよい、旅行は急ぐにも及ぶまいと言った。ガゴは先ずトルレスに逢いたいという切望をくり返して述べ、伝道許可の高札は山口から帰って後に立てて貰いたい、山口のと同じ形式にしたいから、と申出た。
このように領主の義鎮はガゴたちをひきとめようとし、ガゴたちは山口行を急いだのであるが、結局十月になって先ずダルカセヴァが山口に行き、数日遅れてシルヴァもそのあとを追った。最後にガゴとフェルナンデスとが山口に着いたのは、十二月の末、クリスマスの近づいた頃であった。
山口では前年の内乱以後も、烈しい迫害と艱難とのなかで、トルレスとフェルナンデスとが信者を守っていた。やがて大友義長の大内氏相続の話もまとまり、晩春の頃には義長が山口の領主となった。そうしてガゴの一行が豊後に到着したとほぼ同じ頃に、山口の教会に対して、有名な大道寺建立《ヽヽヽヽヽ》の裁許状を与えた。この裁許状は一五五七年にビレラがインド及びヨーロッパのヤソ会に向けて送り、一五七〇年にはすでに複刻せられて広くヨーロッパ人の眼にふれたものである。
この一年の間に山口でトルレスのした仕事は決して少くはなかった。シャビエルが教化した若い琵琶法師もこの間に著しく育った。平家物語を暗記し、それを感情に訴えるように吟誦し得たその才能を以て、今やキリシタンの教を暗記し物語りをはじめたのである。その話術は甚だ巧みで、非常にトルレスの助けになった。のみならず彼は思考の力においても優れていた。だからトルレスは、日本人と立ち入った議論をしようと思うときには、もとの琵琶法師ロレンソを呼んで代弁せしめた。そのほかにトルレスは一人の少年(ベルシヨール)を育て上げた。この少年はポルトガル語を読むことが出来、しばしばキリストの一代記を日本人に読み聞かせるという役をつとめた。こうして一年程の間にトルレスは千五百人ほどの熱心なキリシタンを作っていたのである。大道寺建立の企てはこの盛り上る力の現われであった。
そこへ新らしく渡来したダルカセヴァやシルヴァが乗り込んで来たのであるが、この新来者の眼を驚かせたのは、|山口のキリシタンの熱心さ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であった。ヨーロッパでは一般人がすべてキリシタンであるから、キリシタンであることと宗教的な熱情を持つこととは必ずしも一つではない。しかるにこの地のキリシタンは、特に宗教に身を捧げようとする修道者のように熱心であった。新来の教師たちに対して親切であることはヤソ会の兄弟(イルマン)以上である。人種の違うポルトガル人をもキリシタンたるが故に本当の兄弟のように思うとともに、同じ日本人でもキリシタンでないもののことを念頭に置かない。否、むしろそれらを憎んでいる。そうしてキリシタン同士は|不自然と思われるほどの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》強い愛を以て交わっている。少しでも信仰が弱まると宣教師のところへ来て治療を求める。誰の前でも昂然としてキリスト教の神のことを語り、キリスト教に帰依しないものを攻撃し、その眼の前で仏像を壊したりなどする。そういう風であるから、この地の信者が日曜日毎に宣教師のもとに集まって、ミサに列し、説教を聞く様子は、ほかの異教国に於ける場合とは甚だしく感じが違う。これが新来の教師たちの受けた印象であった。
やがて神父のガゴが、フェルナンデスと共に、クリスマスに間に合うように豊後からやって来た。そこで日本にいるヤソ会士は全部揃った。そうして恐らく日本における最初の華やかなクリスマスの祭が行われた。宣教師らはミサを歌い、また終夜キリストの一代記を語った。トルレスとガゴとは前後六回ミサを行った。信者らは非常に喜んで、夜を徹して会堂に留まった。フェルナンデスがキリスト教の神のことを読んで聞かせる。疲れると、ポルトガル語の読める例の少年が代って読む。それがすむと信者たちは、もっと話をしてくれという。鶏鳴のミサの時には、トルレスがミサを歌い、ガゴが福音書と書簡とを読んだ。ほかのイルマンたちも応唱した。それがすんで信者たちは一度家に帰ったが、翌朝のミサの時にはまた集まって来た。ミサのあとで世界の創造やキリストの一生に関する説教が読まれた。つづいてガゴも説教をした。そのあとで信者たちの骨折りにより来会者一同が食事を共にしたが、その際信者のなかの年長者や会堂の近くに住む信者たちがいかにも嬉しそうに他の人々の給仕をしていたことは、信者となった日本人にのみ見られる現象であった。
クリスマスの祭儀は日本の信者たちに非常な印象を与えた。それを見た宣教師たちは、こういう営みに必要な品々の不足を痛感したと見え、|それらを調達するために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ダルカセヴァをインドへ帰すことに決定した。伝道のために有効な手段に対して彼らが如何に敏感であったか、またそれを如何に重大視したかは、これを見ても解るのである。
儀式に対する喜びと聯関して、日本人の|厚葬の風《ヽヽヽヽ》もまた彼らの注意に上った。|信者たち《ヽヽヽヽ》は神父と相談して、宣教師に与えられた広い地所の一部にキリシタン墓地をつくり、死者のために非常に美しい墓を立てたのである。そうして葬儀の際には最も身分の高いものも熱心に参列した。トルレスはこれを見て葬儀にも力を入れ始めたのであろう。二年後の一五五四年十月に彼が豊後に送った書簡(一五五五年九月二十日豊後発シルヴァの書簡に収録)によると、山口の領主の重臣ファイスメの義兄弟であるアンブロシヨの葬儀には、トルレスが男女の信者二百余人をひきいて参加した。トルレスは白法衣と袈裟をつけ、ポルトガル語の出来る青年ベルシヨールは白法衣をつけて十字架上のキリストの像を捧げた。墓地は宣教師館から遠いので、高い棺や明るい提灯を列ねた荘厳な行列は、山口の町中を練って行った。死者の親族も山口の町の大衆もこれを見て非常に感激した。未亡人は四日間貧民に食物を施与し、会堂にも多額の寄附をした。
がこのような儀式に対する喜びのほかに、もう一つ目立ったのは、日本の信者たちが貧民救済のような|愛の行《ヽヽヽ》に非常に熱心なことであった。当時仏教の僧侶たちは、キリシタン攻撃の一つの論点として、彼らは寺への布施が惜しいからキリシタンとなったのであろうと言った。それを聞いた信者たちは、トルレスの許へ来て、あなた方が|喜捨を受けない《ヽヽヽヽヽヽヽ》からこういうことを言われるのである、だからこの非難を避ける方法として、会堂の門に箱を備え、信者らの自由な喜捨を受けて、それをこの町の貧民に施与することにしてはどうか、と提議した。これには勿論トルレスは同意したであろう。やがて信者たちは、月に一回貧民に給食することに定め、米の喜捨を受ける箱を会堂に備えつけた。給食の日になると、いつもその箱は溢れるほどに充たされた。給食をはじめる前にトルレスは十誡の話をした。ダルカセヴァも数回その場に列席して、給食をやる信者たちの強い愛のこころに驚いたのであった。「私は彼らと交わって、自分が恥かしくなった」とダルカセヴァはいっている(一五五四年ゴア発)。この信者たちの活動は山口の教会に多数の貧民をひきつけた。その中には信者となるものも少くなかった。二年後のトルレスの書簡によると、信者たちは毎月三、四回の給食をやって居り、貧民の家を建てる計画も出来たという。
こういう信者たちの熱心は、早くから山口に|治病の奇蹟《ヽヽヽヽヽ》を産み出していた。洗礼の水を飲むことによっていろいろな病気が癒るのである。これはトルレスが飲ませたのではなく、熱心な信者が自分の信仰から出て飲ませたのである。こういう治病の事績はこの時代のヨーロッパにも少くないであろうが、特に日本の地においては起り易かったであろうと思われる。これもまたキリシタンの信仰の伝播には役立ったのである。
このように、トルレスの下にある山口の教会では、|信者たちが《ヽヽヽヽヽ》活溌に動いていた。そこに新来のガゴは一月余り滞在し、再びフェルナンデスをつれて豊後にひき返した。この時シルヴァは山口に留まり、インドへ帰る筈のダルカセヴァはガゴに従った。彼らは一五五三年の二月四日に山口を出発し、十日に府内へ着いたのである。
二[#「二」はゴシック体] 豊後における教会の建設
豊後では領主の大友義鎮が、ダルカセヴァに託するために、インド総督への書簡を作らせた。その書簡には、総督の贈物に対する謝意や神父たちの好遇と保護との約束などに次いで、神父ガゴの在留によりインド総督との通信の道が開けたことの喜びを述べた。自分はこの通信を前から望んでいたが、それを媒介する人がなく、これまでは実行出来なかった。今はその人を得たから、ポルトガル王のために尽そうとする自分の意志を形に現わすことができる。自分の領内の人々をキリシタンにするために、もっと多くの神父を派遣して貰いたい、というのである。この書簡が出来上ると、ダルカセヴァは直ぐにそれを携えて平戸へ向った。多分二月の十四日であろう。通訳の人をつれないので、手真似で意を通じながら、平戸まで十八日かかったという。平戸ではもうシナ行の便船はなかったらしく、彼がダ・ガマの船で出発したのはその年の十月十九日である。
ところで丁度右の書簡が作られていた頃に、三人の重臣が領主を殺そうとするという事件が起った。それがこの書簡と関係のある事件であるかどうかは解らない。四年前に父の義鑑がやはり家臣に殺されたのであるから、そういう家中のもつれの続きであったかも知れない。とにかくダルカセヴァが出発してから二日の後、二月十六日に、その騒擾は激化し、府内の町は焼かれるであろう、掠奪が行われるであろう、神父は所有品を匿さなくてはならぬと信者が告げに来た。ガゴは領主の身の上を心配してフェルナンデスを見舞にやった。フェルナンデスが館《やかた》に行って見ると、武士が溢れるほど詰めかけていて、どれが敵、どれが味方とも解らなかった。ただ謀叛人を討伐する軍隊の統率者数人だけが識別された。領主と話すことなどは到底出来ない、自分の首さえも危ない、と彼は心配していたが、偶然領主が彼の側の戸を開けたので、彼は領主に会ってガゴの祝福と祈りの言葉を伝えた。領主の義鎮は非常に喜んで、謙遜な態度で、彼のための祈りを頼むと言った。
ガゴとフェルナンデスとの運命もまた領主の運命にかかっていた。領主が倒れれば彼らもまた倒れなくてはならぬ。で彼らは一切を神の手に委ねて待った。町には驚くべく多数の武装した人が動いて行った。ガゴたちは戸を閉じ家の中に籠って、剣を喉に当てられたような気持で、ただ祈っていた。
領主を殺そうと企てた重臣たちは、その家族や親族と共に、短時間の間に亡ぼされた。しかしその家に火を放ったので、町の被害は大きく、商家や武士の家が三百戸ほども焼けた。ガゴたちの持ち物の置いてあった家も、周囲を火に包まれたのであるが、不思議に助かった。夜になって領主の使が来た。今日は大分心配したが、戦争は幸いに止んだから安心して貰いたい。貴下らの持ち物は焼けたことと思うが、その損失は償うから、これも放念を願う、という伝言であった。
この騒ぎの後、ガゴたちは暫く或る寺院に住んでいたが、その内山口のと同様な伝道許可状《ヽヽヽヽヽ》を貰い、会堂のための敷地をも給せられた。ガゴたちの住む宣教師館の建築も早速開始され、同一五五三年七月二十二日マグダレナの祭日の頃にはすでに出来上っていた。その建築のためには|信者たちが《ヽヽヽヽヽ》車を以て石を運ぶというような労働に服し、労働をなし得ない身分のある信者たちは、風炉を携えて来て湯を沸し茶を立てて労働者たちをねぎらった。また熱心な信者である一人の鍛冶屋は、他の人々が仕事を休んでいる祭の日に、ふいごや炭を携えて来て宣教師館のために釘を作った。そういう風にしてこの会堂は、信者たちの熱心の上に建てられたのである。
領主がキリシタンを保護しているのであるから、宣教師たちに公然害を加えるものはなかったが、しかし仏教の僧侶たちの迫害は執拗に行われた。ガゴたちが寺院にいた時には、度々議論を吹きかけ、嘲笑や罵詈を浴びせた。宣教師館に移ってからも、夜宣教師館に石を投げ込むとか、路上で石を投げつけるとか、という風なことをやった。領主は投石のことを聞いて、その附近に住んでいる武士たちに護衛を命じ、或は夜中使を出してガゴたちを見舞わせたので、それきり投石は止まったが、仏僧たちの敵意は止まなかった。しかしそういう敵意にもかかわらず、日本人の信者たちは、自分はキリシタンであるということを街頭に立って公言し、熱心にキリスト教の神のことを説いた。或る信者は、その住んでいる町に信者のない家は一軒もない、というような情勢をつくり出した。また或る身分の高い信者は、町から一里のところにあるおのれの家にガゴを招き、家族たち三十人を信者にして貰った。盲目の少年の目が開き、重病の娘が忽ちに全快するというような現象も起った。こうしてこの一五五三年の秋までには府内とその附近に六七百人の信者が出来たのである。
三[#「三」はゴシック体] シャビエルの死と日本への関心の高揚
以上のような日本の情勢をインドに報告しようとするダルカセヴァは、帰途広東附近の上川島において、一年前の一五五二年十二月二日にシャビエルが死んだことを聞いた。遺骸はすでにマラッカに移され、そこでダルカセヴァの到着を待っていた。マラッカからはダルカセヴァが遺骸と共にインドに向い、一五五四年の復活祭の頃にゴアに着いたのである。ゴアでの感激は大変なものであった。シャビエルが讃美せられると共に、日本への関心も高まった。ヤソ会のインド管区長|ベルシヨール《ヽヽヽヽヽヽ》・|ヌネス《ヽヽヽ》は復活祭の後にはもう日本行を決意していた。その許可を得るために総督を訪ねると、総督はちょうどダルカセヴァのもたらした大友義鎮の書簡を読んでいたが、ヌネスの来意を聞く前に、何をしているのだ、何故早く日本へ行かないのか、と切り出した。そこで早速事はきまり、ヌネスは|神父ガスパル《ヽヽヽヽヽヽ》・|ビレラ《ヽヽヽ》と、イルマン五人、少年生徒五人を同伴することにした。そのイルマンのなかには後に日本史を書き残した|ルイス《ヽヽヽ》・|フロイス《ヽヽヽヽ》もまじっていたのである。これらの人々はこの後日本伝道を力強く推進した傑物であるが、五月にはもう日本に向けてゴアを出発した。その航海が予定通りに運んだならば、一五五四年の八月には日本に着き、山口の教会を見ることも出来たであろう。しかるにインド洋では風が逆になり、暴風が起ったため、マラッカに着くのが非常に遅れた。マラッカでの彼らの非常な努力にもかかわらず、結局日本に向う季節風の時期を逸することになってしまった。マラッカの長官はこれに同情して、翌一五五五年の四月には、ポルトガル国王のカラベラ船を以て彼らを豊後まで届けようと云ってくれた。がこの航海も途中でうまくは行かなくなり、ヌネスやビレラが豊後についたのは一五五六年七月である。フロイスはさらに八年ほど遅れて日本へ来た。
四[#「四」はゴシック体] 山口の教会の活動とその受難
こうしてマラッカやシナ沿岸に日本へ向う新らしい伝道の情熱が停滞していた間にも、日本における教会は着々として進展しつつあった。
|山口の教会《ヽヽヽヽヽ》では、トルレスの許にあって新来のシルヴァが熱心に日本語を学び、もとの琵琶法師のロレンソは服従・貧困・清浄のヤソ会士の生活を身につけ、青年のベルシヨールはポルトガル語の理解をすすめた。ここではミサも説教も日本語の本によって行われた。トルレスは日本の風俗に適応することを心掛け、生れて以来の肉食の習慣を廃して日本人と同じ食物におのれを慣らしたほどの人であって、日本人の気持を好く理解し、それをどういう風に扱えばよいかをも心得ていた。従って信者たちの信頼を得ることも非常であった。
山口の教会の伝道の仕事は山口の町のみには限らなかった。多分シルヴァが山口に来てから最初の冬のことであろうと思われるが、山口から一里ほど距たった村で五六十人の農夫が信者になった。皆読み書きの出来ない人たちであったが、その語るところを聞くと、学問あるものも口を出す余地がないほどであった。この信者らは絶えず集会を催おしていたので、トルレスは厳寒の頃にもとの琵琶法師のロレンソを説教にやった。ロレンソは洗礼を受けようとする人十二人を連れて帰って来た。その中に歯のない老婆が数人いたが、そういう人たちでもラテン語の主の祈りを暗記していて、まるで子供の時から知っているかのようであった。そういう調子で、その村の信者には主の祈りを知らない者はなく、その発音もポルトガル人に劣らなかった。二年後の一五五五年にはこの村の信者は三百人になったといわれている。
シルヴァが来た次の年一五五三年のクリスマス前夜には、前年と同じように、気高い男女の信者たちが会堂に詰めかけて来た。夜の一時からシルヴァと日本の青年ベルシヨールとが、代る代るに日本語で、アダムより世の終りに至るまでの六つの時期の歴史を読んだ。初めの五期は旧約の物語の摘要のようなものである。(一)は人間の創造、エデンの園の生活、アダムの堕罪など、(二)はノアの洪水、言語の分裂、偶像崇拝の始、ソドムの滅亡、ニネベのこと、ヤコブの子ヨセフのことなど、(三)はイスラエルの子らのエヂプトにおける奴隷化、モーゼによる解放、律法の確立など、(四)はエリシヤやユヂスのこと、ネブカドネザルのことなど、(五)はダニエルのことなど。そこまで読んだあとでトルレスが暁のミサを行い、いろいろと歌った。そうして昼のミサのあとで、シルヴァは、第六期の初め、即ちイエス・キリストが、この世に来たことを読んだ。こうしてミサや説教が終った後に、信者一同は宣教師館でトルレスたちと食事を共にした。この日と翌日とには信者たちは貧民への食物施与を盛大に行った。
|キリストの誕生《ヽヽヽヽヽヽヽ》を祝う祭に対応して重要なのは|キリストの受難と復活《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とを記念する復活祭であるが、この祭はそれに先立つ四十日間の断食期を以てすでに二月の中頃に先触されるのである。その開始期は灰の水曜日であるが、シルヴァが山口に来てからの最初の灰の日は、一五五三年の二月十五日で、ガゴはフェルナンデスと共にすでに豊後に去って居らず、トルレスが灰を祝福してその意味を説明した。信者たちは、この四旬節の間に絶えず断食を行った。毎朝食事をする習慣のある日本人には、このことは非常に苦痛であった。いよいよ復活祭の週に入り、キリストが十字架についた金曜日になると、トルレスは十字架の祈祷を行い、信者らに十字架を拝せしめた。そのあとでシルヴァが受難の説教をした。これは恐らくロレンソか誰かが通訳したのであろう。その翌々日四月二日の復活祭の日にはミサの後に信者たちが盛大な食物施与をやった。そのため会堂に青い布を張って墓所のようにしつらえ、祭壇の前には二本の蝋燭を立てた。トルレスは祈祷をし信者らはそれに応唱した。それと同じように翌一五五四年の四旬節にも信者たちは熱心に告解を行い、またしばしば断食した。特に復活祭の週に多数の信者が断食を行い、宣教師館に来て泊った。夜は信者たちの間で互に体験を語り合い、信仰を鼓舞した。金曜日には多数の信者が会堂に集まって、十字架の儀式に列し、キリスト受難の説教を聞いた。この時にはシルヴァはもう日本語で説教したらしい。
信者たちが貧民施食の仕事を熱心に進めるに従って、貧民の中から信者となるものが多数に現われた。一五五四年の夏の頃には毎日十人、二十人の貧民が信者となったといわれる。そういう貧民の信者たちは、いろいろの祈祷の文句を覚え、毎日会堂の門に来て祈祷を捧げた上、満足して立ち去った。多分そういう現象や信者たちの熱心な慈悲の行を見た結果であろう。都から来ていた二人の学僧がキリスト教に関心を持ちはじめ、トルレスの許へ教えを受けに来て、遂に信者となった。キョーゼン(パウロ)とその友センニョ(バルナベ)がそれである。二人はトルレスの助けを得て宣教師館の側に一軒の家を作り、何処からも何物をも受けずに、ただおのれの手を以て獲たもののみによって生きるという生活をはじめた。彼らの求めるのはただ徳のみであった。二人は新らしい植物の如く日々に伸びて行き、その謙遜な態度によってトルレスを感服せしめた。キョーゼンは宗学に精通した学者であったから、やがて仏教の誤りとキリスト教の優れた点とを非常に明晰に把握し、それを人々に説くようになった。ロレンソがすでにそういう仕事を始めていたのであるが、仏教学者としてキョーゼンは一層突き込んだ説教を始めたのであろう。
ほかにもう一人パウロと名づけられた信者が、この頃新らしく出来た。五十を越えた相当に有名な人で、文章を書くのが上手であった。この人も、その妻が信者となって以来非常に善くなったのを見てキリスト教に関心を持ちはじめ、遂に信者となったのである。そうして日本語の教義書をすべて書写し、熱心に読み、トルレスにいろいろと聞きに来た。自分でも数種の書物を書いた。徳の高い謙遜な人であったから、親戚・友人その他多くの人が彼に導かれて信者となった。
こういう情勢の下に山口の信者たちは、一五五四年の末には、貧民施食を毎月三四回行い、貧民の家の建築を企てて募金をはじめた。信者の数はほぼ二千に達していた。トルレスの宣教師館も著しく腐朽して来たので、新らしい建築が企てられた。半年余りの後、一五五五年七月半ばには、幅九間余、長さ六間半の新会堂が完成し、ミサが行われた。その秋にはシルヴァが豊後に移り、フェルナンデスが山口に帰って来たらしい。
これらの経過を通じて、山口の教会における|信者たちの活動《ヽヽヽヽヽヽヽ》は非常に顕著である。トルレス自身も、「神の言葉は弘まり、キリスト信者は増加し、告解・説教、その他精神的な修練が盛んに行われた。」と言っているが(一五五七年十一月七日府内発)、恐らくこの時が山口の教会の最盛期で、それを作り出したのは、信者たちの盛り上る力であった。後年トルレスはヌネスに向って、「自分の全生涯中、山口の六七年間のように大きい歓喜と満足とを以て生きたことはなかった」と述懐している(一五五八年一月十日コチン発ヌネス書簡)。その歓喜と満足とは、結局において信者たちの活動にもとづいているのである。
しかし新会堂のミサが行われて後、僅か三カ月にして、陶晴賢が厳島において毛利元就に惨敗した。山口の領主の権威は地に墜ち、町の平和は失われた。翌一五五六年に入ると、毛利氏の圧力が追々加わって来て、毛利勢がなお尼子氏と戦っている間に、すでに山口の町は内訌の兵乱によって焼かれた。「日本の戦争は火を以てする。家屋は木造で壁がないから、火は風に煽られて猛烈となり、リスボンと同じ大きさだといわれる山口の町全部が、一軒ものこらずに焼けた。国王の宮殿も、神父が非常に骨折って一年前に建築を完成した会堂も、火を免れることは出来なかった。」(同上ヌネス書簡)トルレスやフェルナンデスが多年の艱難を忍びつつ築き上げたものは、三四時間の間に悉く失われた。領主や大身などの家臣であった信者たちも、諸方へ散り散りになってしまった。
やがて敵兵が来襲するだろうとの知らせに、信者が数人集まって、トルレスやフェルナンデスの身の上を相談したが、その結果は騒ぎが静まるまで山口にはいない方がよい、ということであった。火災後二三十日を経て、敵はいよいよ山口の町へ一里ほどの所まで迫って来た。信者たちは頻りにトルレスたちの退去をすすめた。トルレスも遂に、乱後には帰ってくるというつもりで、退去を決意した。信者たちは集まって別れを悲しみ、出発の日にも町から二三里のところまで送って来たが、まるで死別れででもあるかのように、男も女も少年も皆泣いた。トルレスも涙を抑えることが出来ず、激しい悲痛と愛情とを表わして別れた。こうして豊後へついたのは五月であったが、悲しみと愛情とのために遂に病気になり、七月のヌネスたちが到着した時にはまだ癒っていなかった。
トルレスはこの時フェルナンデス、元琵琶法師のロレンソ、青年ベルシヨールなど、山口の教会の幹部をすべて同伴した。信者を守る人はあとに残らなかった。トルレスは間もなく山口へ引き返すつもりでいたのである。半年の後、十二月には、大内義長やその他の大身から山口に帰るようにとの書簡が来た。トルレスは早速領主大友義鎮の許可を求めたが、義鎮はまだその時期でないと言って許さなかった。翌一五五七年にはいよいよ毛利元就が山口を占領し、大内義長は自殺した。あとには毛利大友両氏の直接の対抗がはじまり、大友義鎮自身が幾度かの戦争の試※[#「火+鰊のつくり」]を経なくてはならなかった。山口の教会を回復すべき機運は中々廻って来なかったのである。
五[#「五」はゴシック体] 豊後の教会の成長、慈善病院の経営
|豊後の教会《ヽヽヽヽヽ》では、一五五三年以来、日本語の巧みなフェルナンデスがガゴを助けて、仏僧に対抗しつつ伝道をすすめた。ところでここでは、領主の保護があるといっても、身分ある人、事理を解する人の帰依は少なく、僧侶・富者・武士などは、頑固に旧信を守り、現在に執着していた。信者となる善良な人たちは多く貧民であった。そこでガゴは知識ある人々、身分ある人々の教化に力を入れようとしたのであろう。自ら教義書を編纂して日本語に訳させ、領主大友義鎮に献じた。義鎮はそれを重臣たちの臨席している前で読ませ、大いに満足してその書に署名した。別に写本を作って置き署名本は重臣たちに読ませるというのである。
こういう教義書を作る際に、ガゴは、シャビエルの教義書飜訳以来その仕事にたずさわって来たフェルナンデスのほかに、パウロという日本人の信者の助けを藉りた。このパウロは、山口で改宗したパウロ・キョーゼンと同じように、仏教の教理に精通した人であった。改宗して以来は、仏教とキリスト教との相違点を明かに指摘し、仏の教えが偽りでありキリスト教の神の教えが真であることを主張して止まなかった。その説教は非常に巧みで、仏教を非難しても聴衆は怒らず、福音を説けば聴衆はその真理なることを納得した。惜しいことに三年後の一五五七年に病死してしまったが、ガゴはこの人を非常に高く評価し、ヤソ会士たらしめようとしていたようである。多分このパウロとの接触の結果であろう。彼は早くから|キリスト教の用語の問題《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に注意を向けた。シャビエルの残して行った教義書は仏教の用語を使い過ぎている。それは虚偽の言葉を以て真理を説くにほかならない。従って誤解を生ずる。そういう有害な言葉は捨て去り、新らしい事物は新らしい言葉を以て現わさなくてはならぬ。こういう見地の下に彼は有害な言葉五十以上を見つけ出したのである。
身分あるものを教化しようというガゴの希望は、一五五四年には幾分かずつ充たされたように見える。府内に近い或る村を治めていた人が信者となり、ガゴをその村に招いて、妻子その他村人を受洗せしめた如き、その一例である。中でも目ぼしいのは、内府から九里か十里ほど離れた朽網《くたみ》郷の「大家族を有する一老人」の帰依であった。府内の一信者アントニオが朽網に行って、信仰の力で病気を癒したのが機縁となり、この「身分ある老人」を改宗せしめるに至ったのである。老人はルカスという洗礼名を受け、その地方の多数の人々を教化したが、翌一五五五年の初めには、ガゴを朽網へ招いた。ガゴは、その頃豊後にいたフェルナンデス、説教のうまい日本人パウロ、及び右のアントニオを伴って、四旬節の頃に朽網に赴いた。ルカスの妻、二人の息子、その他家族のみで六十人、家族の外のものを入れると二百六十人の人々が洗礼を受けた。この地方一帯の領主はケイミドノで、豊後の最も有力な大身二人の内の一人であったが、この人も説教を聞いて非常に喜び、豊後の国王の許しを得たらば信者になろうと言った。彼は信者の保護を約し、出来るだけ多くの人の改宗を希望したので、彼自身の家来で洗礼を受けたものも少なくなかった。こうして朽網には、ガゴの希望するような、身分あるもの事理を解するものの帰依が実現されたのである。
しかし府内で信者となるものは依然として貧民や病人であった。薬は洗礼の水だけであったが、それが好く利き、十里二十里の遠方からさえも求めに来た。そういう信者の間に「外形の行事」がいかに強い印象を与えるかを知っていたガゴは、いろいろの儀式を盛大に行うと共に、信者の葬儀に特に力を入れた。先ず一般的に来世のことを理解させるために、毎年十一月の一カ月間は、毎日ミサを行い、死者の連祷を歌いながら、棺を運び出す。その棺は会堂の中央に常置し、四隅に四本の大蝋燭を立てて置くのである。この行事には勿論、死についての説教が伴っている。そうして実際に誰か信者が死ねば、多数の信者が集まって厳粛な儀式を行う。棺を造ることも出来ないような貧しい信者の場合でも、人々の寄附によって棺を造り、それを絹糸で覆い、富める人を葬る場合と全然同じような鄭重な儀式を以て葬るのである。会堂を出る前に主の祈りを三唱し、信者らも合唱する。棺は四人で運び、十字架のキリスト像を携えた白い法衣のイルマンと、聖水や聖書を携えた青年とが、ラダイニヤの音頭をとり、信者たちがこれに伴唱する。両側には高い燈籠に火を点じたものを多数立てて行く。こういう葬儀の行進は日本人に非常な感激を与え、最初の時には三千人の見物が集まった。特に貧しい人をもこの様に厳粛に葬るということが、人々を感動せしめたのであった。
が貧民と病人とを相手にする府内の教会は、遂にそれに適応した特殊な活動を始めるに至った。それは|病院の経営《ヽヽヽヽヽ》である。その機縁を作ったのは、一五五五年にガゴの許へ告解のため、またそれ以上に魂を救う道の修業のため、やって来たルイス・ダルメイダであった。彼はリスボンの富裕な貴族の子で、その頃三十歳であったが、マラッカ、シナ、日本を往来する航海者貿易商人たちの間ではすでに知名の人となっていた。このダルメイダが、この年にはダ・ガマの船で平戸へ来たのであったが、ガゴの許に滞在している間に、豊後の信者の状態を見、特に日本における産児制限(間引き)の風習のことを聞いて非常に心を動かし、その救済のために病院設立の費用として千クルサドを提供しようと言い出したのである。その病院には、貧しい信者の乳母や二頭の牝牛などを用意し、貧民の嬰児をどしどし引き取って哺育する。その嬰児は入院と同時にキリシタンにして了う。そのため領主に請願して、嬰児を殺さずに病院へ連れて行くようにという命令を発布して貰わなくてはならぬ。そういう計画であった。この計画は早速領主の前に持ち出されたが、領主の大友義鎮も非常に賛成してそれを許可した。これは多分この一五五五年の九月頃のことであったろうと思われる。間もなくダルメイダは、ガゴやフェルナンデスに伴って一度平戸まで行ったが、その秋に出帆するダ・ガマの船には乗らず、そのまま日本に留まって病院の仕事を始めたのである。
ダルメイダはこの時すべての所有をヤソ会に捧げようと決心したらしく、まだ日本へ到着しない管区長ヌネスの一行のために、船を買う資金二千クルサドを贈るとか、日本伝道に必要な画像数種をリスボンへ注文するために、麝香に投資して百クルサドを贈るとか、いろいろヤソ会のために肩を入れはじめている。
ダルメイダの最初の計画は、恐らく一五五五年の末か翌年の初めには、緒についたのであろう。しかしそれが本式の病院として大仕掛けに建設されるに至ったのは、まる一年後《ヽヽヽ》のことである。その間にトルレス以下山口の教会の連中が豊後へ逃げて来た。管区長ヌネスの一行も豊後についた。府内の教会の形勢は急激に変って来た。これまで府内の教会に貧民の信者の多いのを嘆いていたガゴは、|平戸に移って《ヽヽヽヽヽヽ》そこで新らしく伝道の仕事をはじめることになり、府内の教会は山口で信者たちの愛の行を指導していたトルレスが引き受けることになった。新来の神父ビレラ――こののち日本で非常に多くの仕事をするビレラは、老いたるトルレスを助けつつ|日本の習慣や信者の取扱い方《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》についてのトルレスの貴重な体験を学び取るために、府内に留まった。こうして府内の教会が|トルレスのもとに《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》一五五六年のクリスマスを盛大に祝い、この地方の多数の信者がこの愛の行の導者のまわりに集まったとき、そこに新らしい機運の生じて来たことは察するに難くない。多くの財産をなげうって愛の行に没頭しようとしていたダルメイダがそこにいる。過去の学識をなげうってキリスト教的な愛の実践に浸り込んだパウロ・キョーゼンも山口から来ている。そうして貧民や病人は会堂にあふれている。だからこの時、何かが急に燃え上って来たのである。その証拠に、トルレスは、クリスマスの後にビレラにつけて朽網に派遣したフェルナンデスを、|数日後に急に呼び返して《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、領主義鎮と病院についての交渉をはじめている。義鎮は病院の仕事の善いことを知って居り、前にその建設の決心をしたのであったが、貧民と接することを賤しむ気持から、その時まで躊躇していたのであった。そこでトルレスは早速実行に着手し、会堂の隣りの地所に|大きい病院《ヽヽヽヽヽ》を建てた。その病院は二つの部に分れ、一は普通の外科と内科、他は癩病院であった。治療にはダルメイダとパウロ・キョーゼンとが当った。ダルメイダは特に外科の手術がうまく、そのやり方を他の人にも教えた。イルマンのシルヴァなどもその一人である。パウロは漢方医で、内科をひきうけ、遠く数里の山の中まで往診した。漢方薬の効能はトルレスたちにも認められた。
こうして豊後の慈善病院は、豊後の教会の著しい特徴になった。
六[#「六」はゴシック体] トルレスとビレラ、平戸の教会
シャビエルの死に刺戟され強い感激を以て一五五四年の五月に日本に向けインドを出発した管区長ヌネスの一行は、運悪く途中で二年余の年月を空費し、一五五六年七月の初めに漸く豊後に到着した。この遅延はヌネスには好い影響を与えなかったであろうが、さらにその到着の当時、豊後は内乱で騒いでいた。ヌネスらは日出の港に着く前に豊後の国主が殺されたという噂をさえ聞いたのである。着いてから確かめて見ると、十五日前は国主は謀叛の嫌疑のある大身十三人の家を焼きその一族を滅したとのことであった。その謀叛人らは三年前ガゴが府内に落ちついた時の謀叛の残党であったらしい。一夜のうちに双方で七千人の人が死に、国主は府内から七里の島か山かに遁れていた。国内にはまだ戦争の懼れが充ちていた。その不安のなかで宣教師たちが少しも死を怖れず伝道に熱中している姿を見て、ヌネスは「自分を恥じた」と云っている。がこのような現前の不安状態のみでなく、彼はまたトルレスから山口の戦乱やそこの教会の没落の話を聞かねばならなかった。この「善き老人」トルレス、日本人に適応するために肉食を捨てて乏しい菜食に甘んじているトルレス、迫害と戦乱とに堪え忍んで漸く築き上げた教会を今や悉く失い去ったトルレス、この徳と克己とに於て完全な、模範的なトルレスを見て、インド管区長ヌネスは、その堪えぬいた試※[#「火+鰊のつくり」]の大いさに驚嘆したのであった。そのほかに彼は、シャビエルの通弁をして歩いたフェルナンデスから、シャビエルが日本において如何に多くの苦難に堪え忍んだかをも聞いた。しかしそういう苦難や戦乱の不安などは、この管区長には不向きであった。フェルナンデスに案内されて豊後の内地を旅行したとき、木を枕にして蓆の上に寝ね、何の調味もなしに米の飯を食うという日本の生活が、すでに彼を病気にしたのである。漸く動けるようになると馬に乗って府内へ帰っては来たが、三カ月の間日々に悪寒と発熱とに苦しみ、死ぬかと思うほどであった。そこで彼は、目下の日本が戦乱のために伝道に適しないこと、インド管区長としての職責が他にあることなどを考慮し、日本に来たと同じ年の秋に、豊後にいたポルトガル船へ病中の身を託して日本を去ったのである。
しかしそれでもインド管区長が日本を視察したということは無駄ではなかったであろう。その上神父ビレラとイルマン二人とが加勢に来たことは、教勢の拡張に非常に役立った。まず第一は平戸に日本で三番目の教会が出来たことである。平戸にはすでにトルレスが一年ほど滞在して、かなりの数の信者を作って置いたのであるが、その後は手が足りなくて、ポルトガル船の入港した折にガゴが出張するという程度に止まっていた。そこヘヌネスの着後間もなくガゴが派遣されたのである。平戸の領主松浦隆信は、日本への渡来の途中シナで停滞していたヌネスに宛てて招請の書簡を発した。ヌネスは平戸へは向わず真直に豊後へ来たのであるが、右の領主の招請を無視する気はなかったのであろう。ガゴは通訳のイルマン一人、信者一人をつれて平戸に移り、領主の許可を得て、地所を買い聖母の会堂を建てた。やがてこの後にはこの地の教会の重要性がだんだん増して行くのである。
第二はトルレスがビレラに日本伝道の特殊のやり方、特殊の喜びを教え込んだことである。一五五六年の降誕祭後に、トルレスはビレラにフェルナンデスをつけて朽網に送った。ビレラは山奥の農村の人々の純真な信仰や愛情にふれて、|初代の教会における新鮮な信者《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を見るような思いをした。ついで一五五七年には貧民病院の建設があり、愛の行にいそしむ信者たちと共に働らいた。この年の四旬節の頃には、領主が五里ほど離れた城にあって彼らを直接保護することが出来ず、キリシタンの宣教師らは殺され宣教師館は焼かれるであろうとの噂が頻りであった。宣教師らは死を覚悟し、夜も服装を解かずに寝た。信者が数人、警護のために宣教師館に泊ったが、宣教師たちも順番に徹夜して警備に加わった。しかしそういう不安のなかでも毎日の説教は欠かさず、金曜日と日曜日との鞭打の苦行を続けた。そういう胆の据った態度をもトルレスはビレラに仕込んだのであった。やがて復活祭の週が来ると、戦乱の不安にもかかわらず、極めて盛大にさまざまの行事が行われた。教会の人々のほかにこの冬を豊後で過ごした数人のポルトガル人もそれに参加した。そのお蔭で二つの合唱隊には五人ずつのポルトガル人が加わることが出来た。オルガンの演奏や、この合唱隊の歌は多くの信者を熱狂せしめた。木曜日にはポルトガル人たちとともに日本人の男女約三十人が聖餐を受けた。これは|初めての聖餐《ヽヽヽヽヽヽ》であって、日本人の信者に与えた印象は非常に深かった。希望者はもっと多数にあったのであるが、トルレスは時機の熟したものだけを選び出したのである。聖餐の時には、それを受ける者も受けない者も涙を流して泣いた。そういう強い感激は宣教師たちにとっても「生れて以来初めての」経験であった。その他いろいろの行進や鞭打の苦行や儀式などが一々信者を感動せしめた。復活祭の前夜には、トルレスは非常に舞台効果の大きい方法を用いた。絵布その他のものを以て荘厳に飾り立てた祭壇、復活したキリストの像、火を点じた多数の蝋燭などを、初めは黒布で隠して置く。そうして会堂の中央の小祭壇で、合唱隊の一部に唱わせながらミサを行う。それが終るとトルレスは引き込んでそっと服を変える。合唱隊がミサを唱いはじめる。「主よ、憐れみ給え」の章が終ると、トルレスが高らかに「高きにある神に栄光あれ」を唱い出し、合唱隊がそれに和する。その途端に黒布が切って落され、荘厳な祭壇が会衆の前に現出するのである。信者たちはまるで失神したように打たれた。翌日の朝には、日本で作った立派な天蓋の下に聖体を奉じて、美しい広い庭園の中を行進して廻った。天蓋は四人のポルトガル人が持ち、トルレスは晴れの服装に薔薇を飾った緑の冠をつけてあとに従った。次には香炉を持ち花冠を戴いたイルマン一人、その次にはいろいろな色の薔薇の花環を戴いたイルマン四人がオルガンにつれて歌いながら続いた。天蓋のそばには、ポルトガル人二人が松明を持ち、最古参の日本人二人が燭台に蝋燭を立てて持ち、さらに二人の白法衣を着たものが蝋燭を持ってついていた。この行列は庭を三度廻ったが、銃を持ったポルトガル人が十三四人いて、その度毎に聖体に対して祝砲を放った。この行進もまた信者たちには非常な感動を与えたが、しかしそれによって強い印象をうけたのは信者たちのみではない。一般の見物人も会堂の敷地内に充満し、その騒ぎのために説教が出来ないほどであった。ビレラはこういう祭儀の日本人に対する影響力をもはっきりと認識することが出来たのである。
こうしてビレラが日本での最初の一年を送った頃、一五五七年の夏に、大友義鎮は毛利氏に通じた秋月文種を破って、博多の町を手に入れた。この戦勝に気をよくした義鎮は、九月に宣教師館を訪ねて晩餐を共にした。その時彼は宣教師たちに俸禄を与えようと言い出したが、トルレスはそれを病院の費用にまわしてくれと頼み、その通りにしてもらった。義鎮はまた博多に宣教師館と会堂とのための地所を与えようと言った。これはトルレスが喜んで受け、早速その準備に取りかかった点である。それだけ宣教師の手がふえていたことは、ヌネス来朝の結果の第三の点として挙げてよい。トルレスは平戸にいるガゴに博多の教会建設の仕事をやらせ、平戸には日本のことに慣れて来たビレラを置こうと考えた。ちょうどその九月にポルトガル船が二隻平戸に入港したので、トルレスは早速ビレラを手伝いにやった。この時から平戸におけるビレラの一年間の活動がはじまるのである。初めには船のポルトガル人たちを激励して、日本人の信者に好き模範を示すために、いろいろの儀式を行った。特にミサを歌いながら小山の上の十字架に向って行進する聖行列が人々の注意をひいた。行列の先頭には四十人のポルトガル人の銃手が加わって、時々斉射をやる。船は旗を飾り、祝砲を打つ。笛とチャラメラとの楽隊、蝋燭や炬火、高く捧げられた十字架、美しい法服をつけた神父たち。そういう行列が日本の諸地方から貿易のために集まって来ていた人々に強い印象を与えたのである。
そういう行事のあとでガゴは博多の地所を受取るために出発したが、あとに残ったビレラは、大友義鎮の軍が平戸を襲撃するであろうとの噂に嚇かされた。戦争が起れば日本人の信者の女子供たちは多数死ぬであろうし、貧しいものさえも掠奪を受けて安静を失うであろう。信者のある者は夜ビレラを訪ねてそういう不安を語り、もしビレラが平戸に留まるならば、そういう際には会堂に来てビレラと共に死ぬであろうと言った。そういう状況のなかにビレラは敢て留まり、平戸及びその附近の島々に伝道をはじめたのである。
戦争は幸いにして起らなかった。一五五八年の初めにはビレラの伝道も非常に調子よく進んで、二カ月間に千三百人の信者を作り仏寺三カ所を会堂に改造した位であった。それには領主松浦氏の一族たる籠手田《こてだ》左衛門(ドン・アントニオ)の協力があった。籠手田氏は生月島《いきつきじま》、度島《たくしま》その他の小島の領主であって、前から信者となっていたが、ビレラの勧めに従い、ビレラと共に村々を説教して廻ったのである。しかし仏寺から仏像を運び出して焼き払い、|あとをキリスト教の会堂とする《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というような過激なやり方は、仏僧や仏教信者の反動を呼び起さずにはいなかった。その先頭には一人の仏僧が立った。彼はキリスト教を攻撃し宣教師と討論などをもやった。こうしてキリスト教徒と仏教徒との対抗がはじまり、右の仏僧は宣教師の国外追放を叫び出したのである。身分のある武士で、小山の上の十字架を切り倒したものもあった。それに対抗して島のキリスト教徒は、更に多くの仏像を焼いたり海に投げ捨てたりした。遂に仏教徒の武士たちは領主に宣教師の追放を請願するに至った。それがきかれなければ内乱が起りそうであった。領主は遂に屈して、インド管区長ヌネスに対する約束にもかかわらず、ビレラを平戸から追放したのである。
こうして平戸の教会は挫折したが、しかし信者がなくなったのではなかった。籠手田氏の度島《たくしま》、生月島《いきつきじま》、その他平戸島の村々には依然として信者が多く、美しい会堂もあり、改宗した僧侶や熱心な信者による説教礼拝も続けられた。平戸の町では公然たる説教は禁ぜられていたが、信者のあることは右の村々と同様であった。二三年後にルイス・ダルメイダが出張して来たときには、度島《たくしま》は「天使の島」のようであったし、生月島《いきつきじま》も住民の三分の一は信者となり、六百人を容れる会堂を持っていた。ダルメイダは最大級の感激の言葉を以てこれらの信者の状況を報道している。この地方は倭寇の活動以来海外交通の尖端に立っていたのであるから、そういう現象が起るのも不思議はないのである。
がそういう民衆の気分と、武力によって決せられる当時の政情とは、全然別のものであった。新興の毛利氏の武力は、丁度この頃に北九州を不安と動揺に陥れた。ビレラが平戸を追われて間もなく、ガゴもまた博多を逃げ出さざるを得なかったのである。
ガゴが大友義鎮から博多の地所を実際に受取ることが出来たのは、一五五八年の復活祭の後であった。彼はフェルナンデスと共に博多に赴いて宣教師館と会堂とを建築し、布教活動をはじめた。博多には山口から来ている信者もあったが、中でも山口から移住して来たアンドレーという武士は、非常に熱心で、遂にエルサレムのエステバンのように殉教するに至った。その子がヤソ会に入ってイルマンとなったジョアン・デ・トルレスである。土地の人は厳選して信者としたので、数は少なかったが、富裕な貿易商も数人信者となった。ところが一五五九年の復活祭の後に、大友氏に背いた筑紫氏の二千人ほどの兵が博多に来襲した。市民はその日防禦するにはしたが、夜のうちに敵と折衝して町を引き渡した。大友氏の代官は殺された。フェルナンデスは信者の子供数人をつれ、会堂の所有品を携えて、平戸の船に乗って逃げた。ガゴはイルマンのギリエルメ、一人の日本人信者、一人のポルトガル人と共に、海上二里ほどの所にいた日本船に乗せてもらったが、その船の船頭は、翌朝博多の町が筑紫氏に占領せられたのを見て、急に態度を変えた。宣教師たちの所持品は掠奪され、その生命も危険に瀕した。しかし四日ほどの後に船頭は彼らのことを占領軍に告げ、三艘の舟に乗って来た武装兵に彼らを引渡した。兵士たちは船頭から掠奪品を取り上げ、更にその上に彼らの衣服をも剥ぎ取った。が一里ほどの沖合まで帰ってくると、ガゴと識り合いの有力者が来て、下着などを呉れた。博多の海岸へ上るとまた多くの兵士に取巻かれ、再び殺されそうになった。その間に、一緒にいた日本人の信者が、博多の町のジョアンという裕福な信者にこの事を知らせたので、ジョアンは占領軍の当局と連絡をとりつつガゴたちの救出に努めた。大抵のことは贈物や金で埒があいた。かくてガゴたちは、十日間ジョアンの家に隠れ、ついで他の信者の家に五十日間隠れていた。そうして数人の信者の奔走によって、乱後三カ月、一五五九年の夏に博多を逃げ出すことが出来たのである。
豊後の信者たちはカゴの生還を見て非常に喜んだ。ガゴはこの強い愛と喜びとに接して、恰も「楽園にあるかのような」喜悦を感じたという。この時にはガゴは、博多の会堂や宣教師館は焼き払われ、井戸までも埋めつくされたと信じていた。しかし会堂はただ壊されただけであった。やがて博多の信者たちは自発的にこれを修繕して立派な会堂に仕上げた。信者たちが富裕なので、こういう点は目立って行き届いていた。二年後には教師の派遣を懇請して来たが、先ずダルメイダが行き、ついでダミヤン、フェルナンデスなども行くようになった。
が|一五五九年の夏《ヽヽヽヽヽヽヽ》には、平戸の教会も博多の教会も壊滅し、宣教師たちは全部豊後に集まっていたのである。この時トルレスは、布教の活動を萎縮させるどころか、逆に劃期的な飛躍を試みようとした。それは十年前のシャビエルの計画に従って日本の精神的中枢を突くことであった。彼はビレラを起用して京都に派遣することにした。目標はさしずめ叡山であった。元琵琶法師のロレンソが通訳として附き添うほかに、府内の教会で養成せられた日本人青年ダミヤン、近江坂本の出身である信者ヂヨゴなどが同行した。インド管区長ヌネスが起草し、ロレンソ自身が日本語に訳した教義書を、彼らは携えて行った。
この一行が盛大なミサに送られて豊後を出発したのは、一五五九年の八月末か或は九月初めであった。
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[#小見出し] 第四章 ビレラの畿内開拓
一[#「一」はゴシック体] ビレラ京都に来る
ビレラの一行の瀬戸内航海は、同船者からかなり苛められたようであるが、しかし四十余日を費して無事に一五五九年の十月十八日に堺についた。「堺の町は甚だ広大であって、大きい商人が多数にある。この町はヴェニス市のように執政官によって治められている」とビレラは報告している。が彼らは数日間ここで疲れを休めただけで、真直に叡山をさして進んで行った。先ず坂本のヂヨゴの家に行き、前に豊後に連絡のあったダイゼンボー(大泉坊か)を訪ねたが、その僧は既に死し、後継者は無力であった。叡山の座主に会おうと努めて見たが、これも成功しなかった。そこで彼らは叡山をあきらめて京都へ入ったのである。
その頃の京都は、既に無力となった将軍足利義輝や細川晴元と、下からのし上って来た三好長慶やその家臣松永久秀との間に、争奪を繰り返している場所であったが、一五五九年は両者の間に講和が成り立ち、将軍義輝や細川晴元が在京している時であった。春の初めには織田信長《ヽヽヽヽ》が入京して将軍に謁し、初夏には長尾景虎《ヽヽヽヽ》が入京して、将軍に謁するのみならず参内して天盃と御剣を賜わった。これは信長の|桶狭間の奇襲《ヽヽヽヽヽヽ》の前年、景虎の|川中島の合戦《ヽヽヽヽヽヽ》の前々年のことである。秀吉や家康も既に舞台に上っていた。戦国時代の群雄の角逐は、これから数年の間が絶頂であったと言ってよい。
こういう年の末にビレラの一行は京都に来た。度々の戦災のために町は著しく破壊され、薪炭も少なく食料も欠乏していた。泊める家がないので小さい家を借りたが、初めの内は説教を聞きにくるものもなかった。で京都に入ってから一月半近く経った後に、相当身分の高い仏僧の仲介によって、ビレラは将軍義輝に謁した。将軍は彼を見て喜び、友誼を示すために自分の飲んだ盃を以てビレラに飲ませた。将軍を味方としたビレラは、十字架を取って街頭に立ち、説教をはじめた。来集者は驚くべく多数であった。噂は忽ち市内にひろがり、このことを話し合わない家はないほどになった。ビレラの借家へ教を聞き或は議論をしようとして押しかけてくるものも多数であった。しかし教に従おうとするものは殆んどなかった。
ビレラの報告によると、当時仏僧たちは|狂人の如く《ヽヽヽヽヽ》市街を奔走して、キリスト教を罵り人民を煽動したという。それがどの程度に真実であるかは解らぬが、とにかく京都の町の民衆が、この異様な新来者の教を容易に受けつけなかったことは事実であろう。ビレラの住んでいた町の住民は、煽動されたか否かはとにかくとして、ビレラがそこに住むことを好まなかった。人々は家主に対してビレラを追い出すように迫り、家主もビレラに即刻立ち退きを乞うた。しかしビレラたちは行く先がなく、ぐずぐずしていた。すると家主は抜身の剣を携えて迫って来た。人を殺せばおのれも死ななくてはならないという日本の習慣の下においては、この家主はおのれの死の危険を冒してまでもビレラの立退きを欲したのである。ビレラは白刃の下において|少しく恐怖を感じた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と言っている。
かくてビレラは一五六〇年一月二十五日、太陰暦正月の二日前に、「壁なくまた何ら寒気を防ぐべきものもない」家に移った。時は極寒で雪が多く、このあばら家での生活はかなり苦しかったが、しかし信者となるものは追々ふえて来た。彼らはキリスト教を嫌っている両親や友人や隣人などに隠れてやって来た。附近の村々や山の中からも来るものが多かった。この間にも迫害は続き、多数の子供が石や土を投げつけるとか、嘲罵の言葉を言いはやすとか、ということは絶えなかった。家主は酒屋であったが、ビレラたちのために町の人々からボイコットを食い、止むなく再三ビレラの立退きを要求したが、ビレラたちは懇請して猶予を乞い、やっと三カ月間そこに留まることが出来たのである。
[#地図5(地図5.jpg)]
この苦しい三カ月の間に信者となったものはほぼ百人であった。その中にはケンシウという禅宗の師家などもあった。この人は初めは傲慢な態度で、自分は悟りを開いている、救いを求めに来たのではない、ただ暇つぶしに珍らしいことを聞きに来た、と言っていたが、改宗して非常によい信者になった。この人によって信者となったものも少くない。なおほかに改宗した仏僧は十五人ほどあった。公家の家来で信者となるものもあった。しかし改宗しないまでもキリスト教の真理であることを承認した仏僧もかなり多かった。真言宗の人は、キリスト教の神も結局大日如来と同じだという。禅宗の人は本分と同じだという。浄土宗の人は阿弥陀と同じだという。神道の人はコキャウ(古教か)と同じだという。皆もう一歩の所まで来ているのである。こういう伝道の仕事には元琵琶法師ロレンソの力が相当強く働らいているように見える(一五六〇年六月二日京都発ロレンソ書簡)。
丁度その頃、一五六〇年の二月の末(永禄三年正月二十七日)に、正親町天皇即位の大典が行われた。摂津芥川城にいた三好長慶はその月の半ばに淀の城に移り、翌日軍隊をひきいて京都に入った。即位式の日には管領代として|御門警固の役《ヽヽヽヽヽヽ》をつとめた。これは実権を握っているということの表示であろう。家臣の松永久秀は京都の市政を掌握していた。多分この大典のあとのことであろうと思われるが、ビレラは三好長慶の庇護を求めるために、その家臣に伴われて長慶を訪ねた。それを見たものは、三好殿がビレラを捕縛させたと噂したが、そのあとで松永久秀からビレラたちに害を加えてはならないという布告が出た。異人追放の声が高かったにかかわらず、ビレラたちに害を加えるものがなかったのは、右の庇護があったからである。
織田信長の桶狭間の戦の行われた一五六〇年の夏、ビレラは再び将軍を訪ねて京都居住の許可を請うた。許可は口上のみならず書面を以て与えられた。そうして、宣教師に対し危害や妨害を加える者は死刑に処する、ということが公布された。その後は迫害も止み、信者の数が追々にふえて、会堂が必要となって来た。そこで一軒の大きい家を買い、京都で|最初の会堂《ヽヽヽヽヽ》を作ったのである。
この会堂には信者のみならず一般の日本人も説教を聞きに来た。改宗する勇気がなくてもキリスト教を善しと認める日本人は少くなかった。京都における最初のクリスマスも、信者たちの歓喜の下に行われた。こういう状態で一年ほど布教を続けていた間に、ビレラは京都における祭礼や仏教諸宗の状況を静かに観察してヤソ会の同僚たちに報告している。祭礼では祇園祭・盂蘭盆会・端午の節句、仏教では時宗・真言宗・一向宗・日蓮宗など。その状況は明治時代以後に残存していたものとほとんど同じである。そういう雑多な信仰や習俗、千年の間に堆積し並在していた多種多様なものが、今や一律に「異教的なもの」として敵視せられる。そこで|一年の後《ヽヽヽヽ》には再び激しい迫害が盛り返して来た。京都を支配する松永久秀やその家臣らは、仏僧その他キリスト教を排斥する人々に買収され、将軍の知らない間に、宣教師たちの追放を決定したのである。しかるにそれを知った一人の大名が、将軍と謀って、追放の実行に先立ち、一夜使を寄越して、宣教師たちは京都を立ち退き自分の城に入って仏僧たちの怒の鎮まるのを待つがよい、と言ってくれた。その夜は信者たちが宣教師のもとに集まっていたが、相談の結果この提案に従うこととし、多数の信者たちが同伴して同夜直ちに宣教師たちを四里離れた城に送り込んだ。ビレラたちはそこに三四日の間潜伏した。しかしビレラはそのままそこに留まることを不可とし、京都に引き返して、信者たちと密かに協議の上、京都に留まるか去るかを決定するために四カ月の猶予を請い、許された。そこでビレラたちは公然会堂に帰った。それと共に迫害の形勢は緩和された。
丁度その頃に豊後のトルレスからビレラに対して堺の町に行くようにとの指令が来た。堺の町からトルレスに対して教師の派遣を求めた結果である。ビレラはこの指令に従い、一五六一年の八月に、ロレンソたちを連れて堺に移った。初めビレラは、クリスマスには京都へ帰って信者と共に祝うつもりであったが、僅か一カ月後の九月に六角氏と三好氏との戦争が再燃し、京都はまた戦乱の巷となってしまったので、時々ロレンソを派遣することはしたが、自分はそのまま一年間堺の町に留まってしまった。
二[#「二」はゴシック体] 堺における一年間
堺は非常に富裕な町で、「ヴェニスのような政治」を行っていた。西は海、他の三方は深い堀で囲み、外との通路には門を設けて厳重に監視していた。防衛力も十分であって、どの大名にも対抗することが出来た。従って当時の日本においては堺ほど安全な所はなく、他の国々が戦乱に悩んでいる時にも、この町は平和であった。敵対している武士たちも、この町に入ってくれば、敵対をやめて仲よく礼儀正しく附き合わなくてはならない。もし紛擾を起して町の秩序を破ると、当局は直ちに町の周囲の門を閉じて犯人を検挙し、厳重に処罰する。だから彼らはこの町の中では紛擾を起さないのである。しかし町の中で穏かに附き合っている敵同士は、町の外に半町も出たところで出会えば、直ぐに剣を抜いて立ち合うのである。
堺の町での布教は、ビレラが期待したほどうまくは行かなかった。キリスト教信者は賤しい貧民に多いという先入見がこの町にひろまっていて、富裕な市民たちはその体面のために容易に改宗しないのである。最初説教をきいてキリスト教の真理を認めた数人の学者もそうであった。しかしそれでも半年の間に洗礼を受けたものは四十人位あった。貿易のために堺の町に集まってくる異郷人のうちで洗礼を受けたものはそれよりも多かった。ビレラはそういう信者たちと共に一五六一年のクリスマスを祝ったが、祭具がないためにミサは行わなかった。その祭具が豊後から着いたのは翌一五六二年の四旬節の始まる頃であった。ビレラはミサの秘義を説き、聖餐のことを話して信者を感動させた。信者たちの多くは金曜日毎に鞭打を行い、告解をする。資格のあるものは非常に熱心に、涙を流して聖餐を受けた。やがて復活祭になると、出来るだけ盛大にこれを祝い、京都からも数人の信者が参加した。
こうして堺にも教会が出来た。それは他の地方においてのように急激に盛んにはならなかったが、しかしまた浮沈の激しい運命にも逢わず、畿内における安全な根拠地となった。京都が危なくなると、宣教師たちは堺に退き、ここから畿内の諸地方に働らきかける。そういう点から見れば堺の教会の意義は決して軽くないのである。
ビレラは堺にいる間に、根来の僧兵や高野山の勢力を認識した。根来の僧兵は河内高屋城に拠っていた畠山高政と共に近江の六角氏に呼応して三好長慶と戦ったのである。阿波から来た三好の援軍は堺に上陸して南方の敵に対抗したが、大小の戦争において常に勝利を得たのは僧兵であった。一五六二年の四月には、遂に僧兵たちが三好の援軍の将である長慶の叔父を打ち取り、援軍を崩壊せしめた。長慶は河内飯盛城で包囲せられた。それを救ったのは山城の方から来た三好の軍勢、特に松永久秀なのである。結局戦争は六月の末に三好、松永の側の勝利に帰したが、しかしその間に根来の僧兵の示した実力はビレラの関心を刺戟したらしい。彼はその背後にある高野山や弘法大師のことに注意を向けた。ここにも悪魔の権化が見出された。
日本の強力な宗派が戦争に従事しているのに対して、ビレラの指導する微力な教会は、その戦災に苦しむものの救助に努力した。京都の会堂は幸にして掠奪や火災を脱れたが、そこに集まる信者らは、毎月三人の当番を選出して寄附金の募集や貧民の救助を続けたのである。ビレラの代りに京都へ出張したロレンソは、すでに山口でこういう経験を積んで来た人であるから、実地の指導は恐らく彼によったのであろう。身分の高い富んだ婦人で、その財産をこの仕事のために投げ出した人もあった。これは京都中の評判になった。
三[#「三」はゴシック体] 結城山城守の招請
その京都へビレラは一五六二年の九月にひき返したのである。
聖母マリアに捧げられた京都の会堂で、九月八日の聖母誕生の祭日に、彼は|京都で最初のミサ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を行った。これはビレラが三年来望んでいたところであった。そのために彼は信者たちにミサの意義を説明してその熱心を湧き立たせた。ついで彼はクリスマスの準備にとりかかった。告解や断食が熱心に行われた。クリスマスには告解を行った人々が非常な歓喜を以て参加した。聖餐を受ける資格のある数人の信者は、聖餐の秘義を説き聞かされて、感動のあまり涙を流しながらこれを受けた。ミサも盛大に行われ、信者たちを恍惚たらしめた。そういう信者たちの態度には実際に素朴な誠実さがあった。ビレラはここでも、新鮮な信仰に充たされていた教会の初期を、人々が皆愛と信仰とにおいて一つになっていたあの幸福な時代を、想い起したのである。
クリスマスの後、一五六三年になってからは、ビレラは福音書のことを説教して、信者たちの信仰を進めて行った。それはイエス・キリストの生涯を説いて復活祭の準備をすることでもあった。こうして信者たちの信仰はますます固められて行ったが、新らしい改宗者はあまりなかった。外から説教を聞きにくるものも初めのように多くなかった。京都で最初の四旬節が営まれる頃には、それが全然なくなった。ビレラは近郊の村々を説教して廻り、漸く数人の改宗者を得たという程度であった。しかし信者たちは熱心に聖餐を受けることを望み、復活祭の週の木曜日即ち主の晩餐の日には三十余人の信者が聖餐を受けた。復活祭の当日には九人の受洗者があった。その中には一人の高僧も混っていた。
京都の教会はこうして地味に育って行ったが、復活祭のあとでまた戦争が起り、僧兵の動きが激しくなったので、ビレラは信者たちと協議の上、また堺の町に移った。丁度そこへ奈良から結城山城守《ヽヽヽヽヽ》の招請が来たのである。ビレラはこの「キリスト教の敵」の招請に幾分の疑を抱いたが、しかし死を賭してもそこに行こうと決心した。それは一五六三年の四月の末であった。ここに幾内伝道の一つの大きい転機がある。
結城山城守は清原外記と共に当時の京都で著名な人物であったが、それは武力を握ったものとしてでなく、不思議に深い智慧を持ったものとしてであった。彼は仏教の諸宗に通じていたのみならず、文芸・武略・占星などのことにも明るく、将軍、三好長慶、松永久秀などの「頭脳」として活躍していた。従ってビレラの教会の取扱いなども主として彼の判断によって定まったのである。丁度この頃には叡山の衆徒が京都の治安を司る松永久秀に対して三カ条の要求を提出していたが、その内の二カ条はキリスト教宣教師の追放に関するものであった。インドから来た神父は日本の神仏を攻撃する。それによって民衆が信仰を失い秩序の破壊に向う怖れがある。また彼らの滞在した地は、山口でも博多でも、戦争によって破壊された。京都を同じ運命から救うためには、この神父を追放しなくてはならぬ。これがその要求の趣旨であった。松永久秀はこれに対して、神父は外国人であり、将軍、三好、松永などの庇護を求めたものである。十分調査した上でなくては追放するわけには行かない、と答えた。そうしてその調査を結城山城守と清原外記とに委任した。京都の教会の信者たちはこの調査が彼らに不利であるべきことを覚悟していたのである。従って堺に移ったビレラも、結城山城守をキリスト教の敵と見ていたのであった。
しかるに事情は逆であった。京都の信者の一人ヂヨゴという人が、訴訟の用務で、当時松永久秀に従い奈良に来ていた結城山城守に会ったとき、山城守はいろいろとキリスト教のことを聞き、それに同情の態度を示した。そうして更に詳しく神父からその教を聞きたいと言い出した。自分はキリスト教の弘布を支持する。事によれば自分も信者になるかも知れない。清原外記も同意見である。そういう意味のことをも彼は言った。事の意外なのに驚喜したヂヨゴは、他の一人の信者と共に使者の役をひき受け、山城守の招請状を携えて堺へ来たのである。
堺の信者たちにとってもこの招請は意外であった。彼らはヂヨゴよりも用心深く、謀殺のたくらみではないかとさえも疑った。だから彼らはビレラの奈良行を止めた。ビレラはロレンソを偵察に送ることにした。ロレンソは死の危険などを問題とせず喜んで出掛けて行った。ここにこの元琵琶法師の目ざましい活躍がはじまるのである。堺の信者たちが彼の生命の安否を気づかっていた間に、彼は当時の最高の知能といわれていた山城守と外記とを説き伏せ、遂に回心せしめるに至った。二人に導かれて松永久秀にも会い、説教を試みた。山城守の招請は嘘ではなかったのである。今はビレラが奈良に来て彼らに洗礼を授けなくてはならぬ。神父が松永久秀と近づきになり、その保護を得る望みもある。そのためにビレラを奈良へ招く再度の書簡を携えて、ロレンソは堺へ帰って来た。
ビレラはロレンソと共に奈良へ行って、彼を招いた結城山城守や清原外記に洗礼を授けたが、その際山城守の子左衛門尉、沢の城主高山図書(右近の父)など数人の武士にも洗礼を授けた。そうして堺へ引返さずに京都へ帰り、そこで聖霊降臨節を迎えた。
四[#「四」はゴシック体] 河内飯盛地方の開拓
この事件は畿内における急激な教勢拡張の皮切りであって、この後矢つぎ早にいろいろな事件が起ったせいか、当時の最も近い報告書にも|記憶の曖昧さ《ヽヽヽヽヽヽ》を示すものがある。第一ビレラの奈良へ行った時期が精確に記されていない。一五六三年四月二十七日附堺発のビレラの書簡の末尾には、すでに奈良からの招請と死の危険を冒してそこへ行こうとする決意とが記されているから、この招請がほぼその頃であることは疑いがない。しかしその後幾日にして奈良に向ったのであろうか。この事件を比較的詳しく書いたフェルナンデスの書簡(一五六四年十月九日平戸発)によると、初めに派遣されたロレンソは、四日以内に帰らなければ殺されたものと思って貰いたいと言って出掛けたが、四日過ぎても帰らなかった。人々が心配して一人の信者を偵察に出すと、途中で、ビレラを奈良へ迎えるための馬と人とを伴ったロレンソに出逢った。ビレラは|その人々と共に京都に帰って《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、山城守、外記、及び三好長慶の親戚で教学に通じたシカイという武士に洗礼を授けた、ということになっている。これは奈良をさえ眼中に置いていないのである。フロイスの日本史では、ロレンソが堺に帰ってから|四十日を経て《ヽヽヽヽヽヽ》迎えの人馬が来たという。復活祭後一週間を経て京都を去り、聖霊降臨節には京都にいたとなると、ビレラが京都を留守にしたのは全部で四十日位である。フロイスの記述の通りでは復活祭後五十日の降臨節に京都にいることは出来ないであろう。
がビレラ自身の書簡から考えると、この奈良行は一五六三年の五月中のことと言ってよい。それから三好長慶が歿するまでは一年と二カ月ほどであるが、その間に長慶の根拠地、|河内の飯盛城を中心とした地方《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が急激に開拓されたのである。当時の日本には既に信長、秀吉、家康たちも舞台に登場して居り、西方では毛利元就が尼子氏に止めを刺しかけていたが、しかしそれらはまだ地方的現象で、中央の畿内を掌握する力は、今の大阪の東方、四条畷に近い飯盛城にあった。従ってビレラは、いわば当時の日本の中枢に跳りかかったのであった。
その過程がどうであったかも精確にいうことは出来ない。ビレラに伴って奈良に行ったロレンソが、|その足で《ヽヽヽヽ》飯盛の地に赴き、三箇《さんが》の伯耆殿、池田丹後殿、三木半太夫など七十三人の武士を教化したのであったか、或は前記のシカイ殿が飯盛城に帰ってキリスト教を宣伝し、同僚や友人の間に帰教の気運を醸した上でビレラ或はロレンソを招いたのであったか、はっきりしたことは解らない。がビレラ自身の報告するところによると、|暑熱の頃《ヽヽヽヽ》になって彼はロレンソを飯盛城に派遣した。そこでは多数の身分ある武士が洗礼を受け、会堂を建設した。ビレラもそこへ行った。その後もしばしば訪れた(一五六四年七月十七日都発)。この|暑熱の頃《ヽヽヽヽ》は一五六三年の夏を指すと見るほかはない。しかるにその同じビレラは同じ頃に書いた他の書簡(一五六四年七月十五日都発)で、|一五六四年に《ヽヽヽヽヽヽ》京都の異教徒たちのキリスト教に対する関心が薄らいだので、一人のイルマンを飯盛に派遣したと語っている。このイルマンはロレンソに相違ないが、ロレンソは|第一回の時《ヽヽヽヽヽ》に七十余人、|第二回の時《ヽヽヽヽヽ》にもまた同数の武士を信者たらしめた。ビレラはこの形勢を見て飯盛の地に赴き、多数の人に洗礼を授け、相当な会堂をそこに建設した。これを書いているのは一五六四年の七月で、また新らしく飯盛附近の岡山《ヽヽ》から招かれ、そこへ行って会堂の如きものを設けようと心づもりしていた時である。従って前の|暑熱の頃《ヽヽヽヽ》がこの年の夏でないことは明かだといわねばならぬ。して見るとビレラは、ロレンソの第一回の飯盛布教をも一五六四年のこととして記述するほどに、記憶が曖昧なのである。しかしこれはこの一年間に起ったことがあまりに多かったということの証拠であろう。飯盛附近の砂《ヽ》や三箇《ヽヽ》はこの間に信者の大きい群を持つようになった。砂は結城山城守の子の左衛門尉がいたところ、三箇は伯耆守の居城で、当時は河に囲まれた中島であった。右にあげた岡山《ヽヽ》は結城山城守の甥の弥平次がいたところで、ここもやがて信者の村になった。これらの場所は、京都と堺との間の有力な根拠地として、この後大きい役目をつとめるようになる。
この新らしい形勢を作り出したおもな役者は、片眼の僅かに見えるびっこのロレンソであった。がロレンソが如何にその琵琶法師としての話術を巧みに使ったとしても、こうして急激に武士たちの間に改宗の機運が起ったことには、何か別のわけがあったであろう。三好長慶の部下のこの武士たちは、前年|根来の僧兵《ヽヽヽヽヽ》と戦って手を焼いたのである。キリスト教の正面の敵である仏僧たちが、今や彼らにとっても敵となった。この形勢の持つ意義は決して軽くはないであろう。しかし、それだからと言って、武士たちが悉くそういう気分を持ったというのではない。フェルナンデスの報告によると、飯盛城の仏僧や仏教徒たちは、ロレンソの大きい収穫を見て、或は議論により、或は侮辱や迫害によって、改宗者たちを引き戻そうと努力した。その点はこれまでの京都の情勢と同じなのである。ただ新らしい機運が在来と異なっているのは、改宗したのが武士たちだということであった。彼らは一日、迫害者たちに対して武器を取って立ち上った。そうなると信仰が新鮮である者の側に力が出るのである。この形勢を聞いた結城山城守は、ビレラに勧めて、城の彼方一日程のところに居住していた三好長慶を訪ね、キリスト教の真理を説かしめた。長慶はビレラを厚遇し、キリスト教にも同情を示した。そうして会堂や信者の保護を約した。それによって飯盛の信者たちは安全になった。ビレラはそこへ行って新らしく十三人の武士に洗礼を授けた。これは多分飯盛布教の初期のことであろうと思われるが、それによって見ると、覇権を握っていた三好長慶自身が、新らしい機運のなかに立っていたと言えるのである。彼の「頭脳」の役をつとめていた結城山城守や清原外記の真先の改宗は、三好長慶の態度と無関係ではないであろう。
山城守や外記は、改宗後、イエス・キリストの光栄のために大著述をやった。日本の各宗派の起原・根柢・基礎、及び内容を説明してその虚偽を明かにし、終りにキリスト教を説いて、これこそ真実の救いの教であることを示したものであった。これは武士たちの間に相当に影響があったといわれる。一五六四年の夏には、京都の附近十六里以内のところで、|五カ所の城内《ヽヽヽヽヽヽ》に会堂が建設されていた。或は、京都の周囲十二乃至十四里の間に会堂七カ所を建てていた。
この結果は九州のトルレスを動かして、一五六四年の初秋に、神父ルイス・フロイスや、イルマンのルイス・ダルメイダの京都派遣を、決意せしめるに至った。ところで、この新来のフロイスも、豊後で病院をはじめたダルメイダも、同じ期間に九州で新らしい形勢を作り出していたのである。
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[#小見出し] 第五章 九州諸地方の開拓
一[#「一」はゴシック体] 基地――豊後の教会
一五五九年の初秋に、ビレラやロレンソが京都に向って出発したあと、残余のヤソ会士たちは全部豊後に集まっていた。二年後の一五六一年六月にルイス・ダルメイダが博多や平戸に派遣せられるまでは、豊後以外の地の信者は宣教師に接することが出来なかった。それほど筑紫地方は不穏だったのである。他方、京都や堺においても、ビレラはこの期間に一度もミサを行うことが出来なかった。従ってこの期間に教会が活溌に活動していたのは、|ただ豊後だけ《ヽヽヽヽヽヽ》であった。
豊後の教会を最初に創設したガゴは、一五六〇年十月に、日本で病気勝ちだったイルマンのペレイラを連れて、マヌエル・デ・メンドサのジャンクに乗って豊後を去った。日本へ出来るだけ多くの宣教師を招かんがためであった。
老齢のトルレスは、身体的にもすっかり日本の風土に適応し、落ちついて日本布教の方針を考量しつつ、日々のミサや日曜日《ヽヽヽ》の告解などに精励していた。日曜日の午後を告解の時間に宛てたのは、信者たちの労働を妨げず、また日曜日を守る習慣を養うためであった。こういう努力の間にも彼の日本人に対する信頼はますます高まって行った。自分はこれまで信者の国や不信者の国を多く見て来たが、しかしかほどまで道理に従順な国民、かほどまで強く信心や苦行を好む国民を見たことはない。日本には大いなるキリスト教会の起りそうな徴候がある。ただ足りないのは宣教師の数である。こう彼はインド管区長に訴えている。
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豊後の教会の状況も前とは少しずつ変って来た。まず第一は、一五六〇年のクリスマスに、トルレスが信者たちに勧めて演劇をやらせたことである。信者たちの選んだ劇は、「アダムの堕罪と、贖罪の希望」「ソロモンの裁判」「天使羊飼に救主の誕生を告ぐ」「最後の審判」などであった。これらの劇は非常に巧妙に演ぜられ、看衆が喜んだという。翌一五六一年の復活祭の時にも、いろいろな儀式が盛大に行われたほかに、復活の日の朝マリヤ・マグダレナが墓所において天使に逢い、主の復活を使徒ペテロに報告する場面が演ぜられた。そういう演劇を演ずる側にも、またそれを見て感激する看衆の側にも、旧約や新約の物語が相当詳しく浸み込んでいたことは、推測するに難くないであろう。
第二は豊後の教会における児童教育《ヽヽヽヽ》の仕事である。児童の教育に主として当っていたのは、ビレラと共に渡来したイルマンのギリエルメであった。彼は|ラテン語《ヽヽヽヽ》で主の祈り、アベ・マリア、使徒信経、サルヴェ・レギーナ(処女マリアへの祈祷歌)などを教え、日本語で神の十誡、教会の制令、重大な罪、これに対する徳、慈善の事業などを教えた。集まる児童は四五十人で、ミサを聴いた後、その日の当番の子が右のいずれかを唱えると、他の一同がそれに応唱する。正午には一同会堂に集まって、毎日右の内の三分の一を唱え、その内の一カ条の説明をきく。それが終って、丁度トルレスの手があいている時には、二人ずつ側へ行って手に接吻する。そのあとで焼米か何かを少しずつ貰って帰って行くのである。夕方にもアベ・マリアの時刻に三十四五人集まって来て、十字架の前に跪いて、一時間位かかって教わったものを皆歌う。日本人は記憶がよく、スペイン人よりも理解力がすぐれている、とフェルナンデスが報告している(一五六一年十月八日豊後発)。これらのことのほかに、日本の文字についての教育は、京都から帰って来た青年ダミヤンが当った。児童らは十カ月の間に、寺小屋で二三年かかって教えるよりも多くを覚えた。
第三はキリスト教信者の葬式が制度的に確立されて来たことである。その係りはイルマンのシルヴァであった。信者の間にミセリコルヂア(慈善の組)をつくり、貧しい信者の葬式の場合には、この組から助けを出す。信者たちはこの慈善の組の仕事を非常に喜び、死者の家が町から一里も一里半もある場合にさえ、男女ともに熱心に会葬する。こうして貧しい者をも富める者と同じように立派に葬ることが、日本人には強い印象を与えた。
第四は慈善病院の仕事がすっかり整い、日々の外来患者のほか、百人以上の入院患者を収容し得るようになったこと、従って病院の建設者ダルメイダが伝道の仕事に専心し得るようになったことである。ダルメイダは日本で発心してヤソ会に入った人であるが、その積極的な仕事の才能を認めたトルレスは、博多や平戸の教会再建の仕事にダルメイダを抜擢するに至ったのである。
二[#「二」はゴシック体] 平戸附近諸島の開拓
平戸の教会の更建のことは絶えずトルレスの心の中にあったのであるが、いよいよ誰かを派遣しようと考えていた矢先、一五六一年の五月下旬に、博多から信者である三人の富める商人が訪ねて来た。その中の一人は妻子その他家族をつれて来てトルレスに洗礼を乞うた。彼らの主な用事は宣教師の派遣を求めることであった。そこでトルレスは、平戸訪問を兼ねて博多へダルメイダを派遣することに決したのである。
ダルメイダは六月初に日本人青年ベルシヨールをつれて府内を出発した。博多では信者の熱心な歓迎を受け、十八日の間に七十人ほどの信者を作った。その中には山口の領主の説教師であった老僧も加わっていた。ダルメイダに病気の治療を受けた者も少くなかったが、奇蹟的に癒った重病人が二人あった。博多の信者のうち重立った者二人は、ダルメイダの旅行に同伴すると云って、止めてもきかなかったので、一緒に博多を立って度島《たくしま》に向った。
度島は籠手田氏の領であって、約三百五十人の信者があった。ダルメイダはここで八人の人に洗礼を授けたが、それによって全島に信者でないものは一人もなくなった。信者たちは会堂に行くことを非常に楽しみにしている。会堂は美しい建物で、綺麗に掃除してある。そこには曾て仏僧であった好き信者がいて、神父の代りにキリスト教の教義を島の信者たちに教え込んでいる。従って信者の大多数は、十分教義に通じている。会堂には、もと仏寺であった時と同じ収入があり、また貧民救助の同情金も集まるので、会堂の経営、貧民への施与、順拝者の接待などには欠くるところがない。ダルメイダは同伴者四五人と共に約半月の間そこに留まったが、王者をも饗し得るような食物を供せられた。その間に、平戸から数人のポルトガル人がこの島を見に来た。彼らは信者たちの敬虔な態度やダルメイダに対する服従と愛、その他いろいろなことを見て非常に感心し、この島の信者は自分たちよりも遥かにすぐれた信者である、もしヤソ会の神父たちがこれらのことの五分の一をでも知ったならば、皆ここに来ることを望むであろうと云った。ダルメイダもこれに同感したが、特に彼を動かしたのはこの島の児童であった。約百人の児童が教を受けるために会堂に集まってくる。会堂に入って聖水をとり、跪いて祈る様子は、まるで宣教師のようであるが、唯一回教えただけでそうなったのである。中でも二人の児童は、教義を高唱する度毎に、初めから終りまで身じろぎもせず、全く入神恍惚の境に浸っているようであった。のみならず彼らは教義と共にその解説をも共に覚え込んでいる。児童たちさえそうであるから、その親たち、多くの男女の信仰の厚いことはいうまでもない。ダルメイダはこの信者たちに非常に同情し、神の前で涙を流して、もっと多くの宣教師の来ることを祈った。そうして毎日二回ずつ説教し、二回ずつ教義を授けた。
その内に度島西方四里ほどの生月島《いきつきじま》から迎いの船が来た。ダルメイダの一行が島につくと、大勢の人々が岸に待ち受けていた。生月島の人口は二千五百ほどであったが、その内の八百人が信者であった。美しい樹木に取り巻かれた会堂は非常に大きく立派で、六百人以上を容れることができた。ここでダルメイダは、人々の昼間の仕事の邪魔をしないように、早朝と夜との二回説教をし、子供たちには午餐後に教えることにした。説教には多数の人が集まり、婦人だけで会堂が殆んど一杯になったので、男子は庭に蓆をしいて坐った。到着の翌日ダルメイダは島内数カ所の小堂を見て廻ったが、いずれも元は仏寺で、景勝の地を占めていた。それらには度島の場合と同じく元の住僧がキリスト教徒となって住んでいた。ところでこの島には、信者の多い土地で会堂から遠く子供らが教義を学びにくることの出来ないところがあった。ダルメイダはそこに会堂を建てることを計画したが、人々は非常に喜んで工事に加わり、数日の間に作り上げた。丁度平戸には五隻のポルトガル船が来ていたので、そこから額に入った画像とか帷帳とかその他教会用品を取り寄せた。ダルメイダはここで数日間説教し、教義を教えた。
生月島の次にダルメイダは平戸島西側の獅子、飯良、春日などの諸村を訪れた。獅子村《ヽヽヽ》では新築の会堂に祭壇を造った。この工事のために生月から大工七人をつれ、他の信者たちと共に大きい船に乗って行ったが、村では王を迎えるように道路を掃除して迎えた。ここでも日中は労働し夜と朝説教をするという仕方で、ミサを行い得るような祭壇を造り上げ、この会堂を管理している元仏僧に信者や児童を導く方法を教えた。飯良村《ヽヽヽ》は全村こぞって信者となっていたが、まだ会堂がなかったので、信者たちにすすめて会堂を建てさせることにした。春日村《ヽヽヽ》でも同様で、海陸の眺望のよい清浄な場所を選んで直ちに会堂建築に着手した。これらの会堂の装飾用品は皆ダルメイダが平戸から送ったのである。
これらの村々を巡回した後に、ダルメイダは一度生月島に帰った。そこへ籠手田氏から平戸の様子を知らせてくる筈であった。籠手田氏の意見では、領主松浦隆信に謁することなく、全然秘密《ヽヽヽヽ》に平戸で用を果すがよいとのことであった。でダルメイダは、船で平戸に着くと、先ずポルトガル船の船長を訪問し、ついでひそかに籠手田氏の邸に行って、全家の款待を受け、夜半まで神のことを語り合った。その夜はポルトガル船へ帰って寝たが、翌朝船長と相談して船の甲板を飾りつけ、聖像の額を掲げて臨時の会堂を設けた。これらの画像はやがて他の地方へ持って行かれるのであるが、その前に平戸の信者たちに見せて置こうと思ったのである。この知らせによって、籠手田左衛門、その弟、その家臣を初めとし、多くの信者が画像を拝みに来た。ダルメイダはまた島々の信者にも日曜日に画像を見に来るようにと伝えた。その日には島々その他から多数の人が船でやって来た。船長は帆布を張り、旗を吊し、数発の祝砲を発した。ダルメイダは船に充満した信者たちに向って説教をした。そのあとで船長は遠くから来た人々を親切に饗応した。その日の後にも、聖像が掲げてあった間は、信者を満載した船が諸方からやって来て、ポルトガル船の中は復活祭の週の金曜日のようであった。|平戸の町《ヽヽヽヽ》ですることの出来ない活動を、|ポルトガル船の上《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》でやったのである。
しかしダルメイダは平戸の町に手をのばさないのではなかった。着いて二日目の夜は町の信者の家に泊り、集まって来た信者たちに秘密に説教をした。また信者の戸別訪問をやって神のことを説き聞かせた。従って信者たちの近親で改宗するものもあり、約二十日の間に五十人が洗礼を受けた。その間にダルメイダは会堂再建の方法として、ポルトガル船の船長から、|ポルトガル人の会堂《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の建設を願い出させた。領主はそれに対して、相談して見ようと答えた。この答が拒絶に等しいことを知っていたダルメイダは、直ちに教会の所有地にある一信者の家に祭壇を設けることを決意した。この信者は親切に隣り合った二軒の家を提供して、その内の美しい方を会堂として、自分は会堂の番人になろうと云った。そこでその家を改造し、必要なものを備えつけ、そこで毎夜祈祷文を唱え説教をやったが、集まるのはポルトガル人が多かったので、領主の禁を破ったとの印象は与えなかった。こうしてダルメイダは平戸の会堂を再建し、信者たちを喜ばせたのである。
八月下旬平戸を去るに際して、ダルメイダは生月島《いきつきじま》と度島《たくしま》とへ別れを告げに行った。そのためには、土曜日午後訪ねて行って日曜日午後帰ってくるという予定を知らせただけで、島の船は土曜日昼食の時刻にちゃんと迎えに来て居り、島々では歓迎の手筈がちゃんと整っていた。島の信者の様子を見ようとするポルトガル人たちも同行した。夕方生月島につくと、大きい炬火を持った出迎えが出て居り、直ちに会堂へ案内した。そこには多数の信者が待ち受けていた。ダルメイダは暫らく説教した後、児童たちに教義を唱えさせて見学のポルトガル人を驚かせた。翌日曜日には早朝の説教や授洗のあとで九時頃から新築の会堂を見舞いに行き、正午にそこから船に乗った。その時信者たちが別れを惜しむ有様は、石の心を持っている者をも感動させるほどであった。信者を牧する者の手が足りない、ということの最も具体的な姿がそこにある。度島には二時間で着いた。児童たちは晴着をつけて浜辺に出迎え、ダルメイダやポルトガル人たちを十字架の方へ案内しながら高らかに教義を歌い唱えた。十字架の前で祈りをした後、また教義の高唱につれて会堂に行くと、そこには信者が充満していた。ダルメイダは説教をして、暫らく経ってから別れの挨拶をしたが、信者らは是非一晩位泊ってくれと言い、それを断わるとここでも非常に別れを惜しんだ。いよいよ船に乗る時になると島中の者が殆んど皆浜辺に出て来て、船着場までのかなりに長い途を見送りながら、悲しみと涙の中に別れを述べた。この有様を見てポルトガル人たちは非常に感動し、世界を廻っていろいろ珍らしいことを見たが、今日見たことほど話し甲斐のあるものはない、と云った。ダルメイダはそれに続けて、もしヤソ会の神父がこれを見たならば、このような良い信者と共にこの島で死にたいと祈るであろう、と書いている。二年後に日本に来たルイス・フロイスが、一年間をこの島に送り、フェルナンデスが側で日本文法書を編纂するのを眺めながら、日本についての基礎的なことを学び取ったのは、決して偶然ではないのである。
博多へは風の都合が悪く、陸路を取って非常に難渋した。そのためダルメイダは途中で病気になり、博多へやっと辿りついた後にも癒らなかった。博多の富める信者は馬二頭と附添いの人や必要な物資を出して彼を豊後へ送り届けた。そこで彼は一カ月以上寝ついてしまった。
三[#「三」はゴシック体] ダルメイダの薩摩訪問
しかし一五六一年におけるダルメイダの活動はそれに終らなかった。十月に病気がなおると、トルレスは彼を府内附近の村々に派遣して会堂五カ所を建てさせた。十一月には薩摩の坊の津で冬越しをするマヌエル・デ・メンドサの一行が告解のためにやって来て、ダルメイダの薩摩派遣をトルレスにすすめた。島津氏からもトルレスにそれを求めた。トルレスは薩摩に帰るメンドサたちにダルメイダを同行させることにした。日本人青年ベルシヨールも同伴したのであろう。出発は十二月であった。
ダルメイダの鹿児島訪問は、シャビエル以来十三年目のことである。そこには到るところシャビエルの息のかかったものが残っていた。彼がメンドサたちと共に訪ねて行った市来の鶴丸城がそうであった。そこには城主の夫人・子・老臣ミゲルその他シャビエルが洗礼を授けた信者が十五人ほどいて、豊後や京都における布教事業のことを熱心に聞いた。翌朝出発の前に城主の二子を初め九人の少年に洗礼を授けた。鹿児島でもポルトガル人たちと共に領主を訪ね、トルレスの書簡を渡した後、日本人ベルシヨールと共に説教した。それから更にメンドサたちを薩摩西南端の坊の津まで見送り、船の乗組員たちの病気の治療に努めた。そうしてその船の出帆の頃鹿児島にひき返し、ここに約四カ月滞在したのである。
ダルメイダの受けた印象では、鹿児島は決してキリスト教にとって不毛の地ではなかった。なるほどここは仏教の勢力が強く、説教を聞きにくるものは少い。しかしその仏僧のなかでシャビエルと親しくした人に接近していろいろ話して見ると、話はよく解った。シャビエルのときは通訳がなくて詳しいことが聞けなかったが、今度はどんな問題でも解答を得ることができたのである。彼は領主に対してもキリスト教のことを説明したが、そのとき領主は、|殊勝な《ヽヽヽ》(Xuxona)ことだと云った。領主のこの言葉と、ダルメイダの仏僧との親しい交際とは、人々を動かしてキリスト教にひきつけた。領主の側近である二人の身分の高い武士が帰依したのをきっかけとして、その夫人・家臣など、約三十六人が信者となった。続いて他にも改宗する人が出て来た。ダルメイダはこれらの信者の助けによって、遂に鹿児島に会堂を建設するに至った。
鹿児島滞在中に市来の城へも行った。十日ほどの間毎日二回説教し、そのほかに教義を教えた。信者でないもののためには仕事のない夜を選んで説教した。城中の重立った武士四五人が改宗した。その中の一人はキリスト教の要旨を巧みに記述した。ダルメイダはその才能と熱心とを認めて、自分の持っていた日本語の教義書を写させ、日曜日の集会の時にその書の一章を読んで、それについて一時間ほど話させた。城主の長子も非常に俊敏で、短期間に教義・祈祷・信仰問答などを覚えてしまったので、これにも同じように他の信者たちに教えさせた。これは宣教師のいないところで信仰生活を持続するための準備である。こうしてダルメイダは城内に新らしく七十人の信者を作った。信者らは城内に立派な会堂を建て、聖母の肖像を祀った。城主自身は改宗しなかったが、キリスト教に対して極めて同情的であった。
こういう仕事をした後に、ダルメイダはトルレスに呼ばれて豊後に帰った。薩摩の信者たちは心から別れを惜しみ、親切をつくした。ダルメイダが痛感したのは宣教師の手の足りないことである。この地に駐在する宣教師さえあればもっともっと信者がふえる。それが彼の確信であった。
四[#「四」はゴシック体] 横瀬浦の建設
豊後に帰って一月ばかり経つと、トルレスはダルメイダにダミヤンをつれて平戸や横瀬浦《ヽヽヽ》へ行くことを命じた。
ダミヤンは日本人の青年で、ビレラに附いて京都へ行っていたが、一五六一年に豊後に帰り、一五六二年に一人の老人と共に博多に派遣されて非常な働きをした。年は二十一歳であるが、非常に謙遜で、諸人に愛せられ、強い感化を周囲に及ぼしたのである。博多では二カ月の間に約百人の身分ある人たちが信者になった。ダルメイダはこのダミヤンとベルシヨールと一老人信者とをつれ、博多駐在を命ぜられたフェルナンデスと共に、一五六二年七月五日に豊後を出発した。
一行は博多の四里手前でダミヤンの改宗させた貴人の家に泊った。この人はこの地方でこれまで信者となった者のうちの最も有力な、最も身分の高い者で、博多の町でも非常に尊敬されていた。家族は皆信者となって居り、玄関前の庭には美しい十字架が立ててあった。ここで一行は申分のない款待を受けたが、ダミヤンの人気は大変なもので、博多に駐在する筈のフェルナンデスを遥かに凌駕していた。翌日着いた博多においても事情は同じであった。ここの信者は皆商人で裕福であったから、破壊された会堂や倉庫はすでに彼らによって再建修理されて居り、また一行を待遇することも非常に厚かったが、しかしダミヤンが平戸に行くことを聞くと、熱心にひき止めにかかった。ダミヤンは新しく信者となった人々の個性を見て、各人に向くように導いてくれた、皆が彼を愛している、これから新しく信者を作って行く上にも彼は是非必要である、などがその理由であった。フェルナンデスはトルレスの命令に背くことの出来ない所以を説いて漸くそれをなだめることが出来た。
ダルメイダの一行は七月十二日博多を船で出発した。途中平戸でダミヤンとその伴の老人とをおろし、ダルメイダたちはそのまま南方十里、大村湾口の横瀬浦《ヽヽヽ》に向った。
ここで急に横瀬浦が布教活動の舞台になって来るが、それにはトルレスのいろいろな苦心があったらしい。平戸はトルレスが最初一年ほどいて開拓したところである。しかるに平戸の領主は一五五八年に至って宣教師を追放してしまった。平戸に入港するポルトガル船と豊後の宣教師たちとの間の連絡も不自由になった。そこでトルレスは平戸に代るべき港やキリスト教を保護すべき領主などを物色して、大村領に着目した。京都で信者となった近衛家関係のバルトロメオや、山口で信者となったトメ内田などは、その意を受けて大村氏に働きかけたらしい。他方トルレスはポルトガルの船長たちと連絡をとり、平戸附近に良港を探させて、大村湾を西から抱いている西彼杵《にしそのぎ》半島の突端、佐世保へ入る入口のところの横瀬浦に見当をつけた。一五六一年の夏、ダルメイダが平戸やその附近の信者を訪ねた頃には、トルレスのそういう計画は相当に進んでいたのであろう。ダルメイダが平戸の領主の禁教政策にもかかわらず、|ポルトガル人の会堂《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を作るという形式で平戸の会堂の再建を強行したことは、この形勢と照し合せて見ると、よく理解することが出来る。果してその後に平戸では、ポルトガル人に反感を起させるような事件が起った。その機会にポルトガルの商船は一斉に碇をあげて平戸を去り、横瀬浦に移った。領主の大村|純忠《すみただ》は、豊後のトルレスのところへ、布教のために非常に有利な申込をして来た。それは一人のイルマンを横瀬浦に派遣してキリスト教を説かしめること、数カ所に会堂を建て|横瀬浦港をその周囲約二里の地の農民と共に教会に附すること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、神父もしそれを欲するならばその地に非キリスト教徒を居住せしめざること、貿易のために来る商人には十年間一切の税を免ずることなどであった。
この重大な申込が来たのはダルメイダの薩摩旅行の留守中であったが、これを実現するには一五六二年度に日本へ来るポルトガル船を平戸へ入れず横瀬浦へ集中しなくてはならぬ。トルレスはダルメイダを呼び返してこの時期に間に会うように、横瀬浦に派遣したのである。しかしダルメイダが平戸を通った時には、すでにそこに一隻のポルトガル船が碇泊していた。
ダルメイダは横瀬浦に着いた翌日、すぐに数人のポルトガル人と共に大村湾の奥に領主大村純忠を訪ね、トルレスの名において右の申込に就ての協議をはじめようとした。純忠はダルメイダの一行を非常に款待した後、家老たちをして協議の衝に当らせた。その結果、前の申込の通りに種々の特権を与えることを承諾したが、しかし横瀬浦の所領関係は、領主と教会とが半分ずつを領するのであると云った。ダルメイダはこの点についてトルレスに回訓を求める必要があると云って、二日滞在の後横瀬浦に帰った。しかし回訓が来るまでにも宣教師館は建てはじめて貰うことにしてあったので、早速一軒の家が出来、そこに祭壇を造って、ダルメイダは宣教師としての活動を開始した。そこへ不意に、豊後からトルレスがやって来たのである。
トルレスはひどく老衰しているので、誰もこの困難な旅行が出来るとは思っていなかった。そのトルレスをここまで引き出して来たのは、豊後に行っていたポルトガル人たちである。平戸の領主はポルトガル船を平戸へひきつけようとして、この年にはキリスト教信者を苦しめず、会堂の建立を許可した。その数日後にポルトガル人のジャンクと帆船とが入港した。これでは平戸をボイコットしようとする計画は破れる怖れがある。その時豊後にいたポルトガル人のうちに、二年前まで船長をしていた一人の貴族がいて、その帆船は自分の叔父のものである、トルレスが一緒に行ってくれるならば、それを平戸港から外へ出すことが出来ると申出た。トルレスも、他のポルトガル人や信者たちも、この考に賛成した。大友義鎮は少し躊躇したが、結局許可を与えた。かくしてトルレスは困難な旅途に上ったのである。彼が横瀬浦開港をいかに重大視していたかはこれによっても察することが出来る。
トルレスが近くまで来たとの意外の報に接したダルメイダは、十数人のポルトガル人と共に出迎え、港外一里ほどの海上でその乗船に逢った。トルレスの船が横瀬浦に入ると、ポルトガル船は旗をかかげ祝砲を放って歓迎した。陸上でも、早速儀式を行い得るような家の建築にとりかかった。ダルメイダは大村侯との交渉の結果をトルレスに報告したが、トルレスは、大村側の条件を認めて交渉の妥結を命じた。ダルメイダは直ちに大村に行き、五日間滞在して、領主からの書類を受取って帰って来た。領主はまた会堂建築のために材木を取る森を寄進し、多数の人を送って寄越した。
トルレスが横瀬浦に来たことを知ると、平戸の信者たちは、二十人位ずつ次から次へと告解のためにやって来た。だからこの新しい港には平戸の信者の船がいつも三四隻ずつ滞在していた。それと共に平戸に碇泊していた帆船とジャンク船とのポルトガル人たちも告解にやって来たので、トルレスは容易に、また穏やかに、ポルトガル船の平戸退去を要求することが出来たのであった。
トルレスは豊後を出発する時にも、また横瀬浦へ来てからも、この新しい港に留まるつもりではなかった。九月に豊後で恒例の通り領主の宣教師館訪問を受けるため代理にダルメイダを派遣したりなどしたが、しかし十月の末頃ポルトガル船が出帆してしまえば、あとは平戸諸島を巡回し、博多に寄って豊後へ帰るつもりであった。だから九月中にダルメイダが豊後へ往復した機会に平戸のダミヤンを博多に移し、博多のフェルナンデスを横瀬浦へ連れ帰らせて、横瀬浦の教会の基礎固めに力を集中している。がトルレスの仕事は横瀬浦に限るわけには行かなかった。神父がいないため告解《ヽヽ》や聖餐《ヽヽ》の機会を恵まれていなかった平戸の島々の信者は、今やその機会を得るために二三十人ずつの群になってあとからあとから波状的にトルレスの許に集まってくる。横瀬浦は一時この地方の信者の中心地になった。この熱心はやがてトルレスを引きつけた。先ずフェルナンデスやダルメイダを派遣して準備させて置いて、一五六二年の十二月の初めに彼は平戸に移った。ここでクリスマスを祝い、島々を廻ってから、博多へ出るつもりであった。平戸は十三年前に卜ルレスが種を蒔いた土地であるから、彼にとっても特別の親しみがあったであろう。ここでは籠手田氏やその家族が心から款待してくれたが、領主もまたポルトガル人との交際の回復を考えてトルレスを厚遇した。クリスマスは非常に盛大であった。そこから生月島へ廻ったのは一五六三年の初めで、ここでも愛と信仰とに浸りながら一カ月滞在し、度島を廻って平戸へ引上げたが、さて博多へ向って出発しようとすると、その道は塞がっていた。博多地方に領していた大友配下の武士がまた大友氏に叛いたのである。そこでトルレスは止むを得ず二月二十日に横瀬浦へ引返した。しかしその時にも、まだ、他の路によって豊後へ帰るつもりだったのである。それを不可能にしたのは、先ず第一には彼が庭で足を挫き、歩けなくなったことであった。がそれに加えて彼をこの地に釘づけにするような事件が、この四旬節の間に、次から次へと起って来たのである。
横瀬浦は、帰って来ない筈のトルレスが帰って来たのを見て、「主の愛を以て燃えはじめた」とダルメイダは書いている。一五六三年の四旬節は、ここでの最初の(後になって見れば唯一度の)四旬節であったが、そのために豊後で人々を感動させた少年アゴスチニョや、博多にいたダミヤンもやって来た。説教のうまいパウロはもう前の年からダルメイダを助けてここで働いていた。信者の側でも、平戸諸島はいうに及ばず、遠く博多や豊後からさえ集まって来た。そうして熱心な説教や告解や鞭打苦行が続いていた。
その間に事件は外から起って来たのである。まず第一は、四旬節の初めに、|島原の領主《ヽヽヽヽヽ》から宣教師の派遣を求める使者が来たことであった。これが島原半島への布教の端緒である。前の年にトルレスはダルメイダをして有馬の領主有馬義直(義貞)を訪問せしめた。この領主は横瀬浦を領している大村純忠の実家の兄で、純忠もその下に附いていたし、また教を聴こうとする意志のあることも聞えて来たからである。その時有馬侯は戦陣にあったので、ダルメイダはただ逢っただけであったが、その家臣の一人で、また姻戚でもある島原の領主が、領地に帰ってから宣教師の派遣を求めるであろうと云った。ダルメイダはそれをただ挨拶の言葉として聞いたのであったが、それが本当になって来たのである。トルレスは、直ぐには出せないが、七八日中には派遣しようと答えた。そうして四旬節の中頃に、ダルメイダと日本人ベルシヨールとを、復活祭までの予定で島原に派遣した。領主はダルメイダを非常に厚遇し、有馬侯の夫人の姉妹であるその妻と共に、熱心に説教を聞いた。家臣たちで洗礼を受けるものは五十人位あった。その間に有馬義直が出陣の途中島原に寄ったので、ダルメイダが訪ねて行くと、有馬侯は、有馬から二里余の|口の津《ヽヽヽ》に会堂を建てるため、トルレスの許にイルマンの派遣を求めるつもりだと語った。有馬侯のこの態度は島原の信者たちを一層活気づけた。島原の領主も、ダルメイダが復活祭に間に合うように帰ろうとする前日、その一人娘である四五歳の少女に洗礼を授けて貰った。「この女は今日まで日本で信者となったもののうち、最も高貴な血統の最初の人である」とダルメイダは誇らしげに報告している。
有馬義直の使者は実際に復活祭前にトルレスの許に来た。前年のダルメイダの訪問を謝し、おのれの領内に横瀬浦以上の大きい会堂を建てて布教をやって貰いたい、自分もそれを助けようと申入れたのである。使者の一人は口の津の領主で、その港に宣教師館を建てることを頻りにすすめた。そうすれば自分や領民は直ぐに信者になる。それを見て有馬でも会堂を建てるようになるであろう。そう彼は云った。
第二に、島原の使者よりも少し遅れて、領主大村純忠が、筆頭家老の弟ですでに信者となっているドン・ルイス新助その他多くの重臣を連れて、トルレスを訪ねて来た。酒樽六つ・鮮魚・猪一頭・銭三千などが手土産であった。トルレスは領主を午餐に招き、七八人の武士と共に洋食を饗応した。身分あるポルトガル人五人が鄭重に給仕の役をつとめた。午餐後トルレスは別席で純忠に教をすすめ、聖母の像を飾った祭壇を見せたりなどした。純忠は直ぐに説教を聞くことを望んだので、フェルナンデスがそれを始めたが、しかし深く理解するためには長い説教を聞く必要があると云われて、翌日は晩餐後から夜半の二時まで熱心に聞いた。そうして気持の上ではもう信者になっていた。翌日ドン・ルイスを使に寄越して、十字架を携えることやキリストに祈ることの許可を求めて来たほどである。
こういう二つの出来事のあとで、横瀬浦での最初の復活祭の週が来た。各地の日本人信者のみならず船のポルトガル人たちも加わって、これまで日本で見られなかったほど盛大に復活祭が行われた。ところでその復活祭の週に、大村純忠は、再びドン・ルイスなどを連れて横瀬浦を訪ねて来たのである。その目的はトルレスの同意を得て会堂附近におのれの住宅を建てることであった。ポルトガル人と親しく交わり、またこの港を発展させるためには、なるべく多くの日をこの地で送らなくてはならないからである。この時彼はトルレスの請いにまかせて、この新開の港の秩序と平和とのための掟七八カ条を立札に書いて与えた。その第一条は、この港に住もうとする者は皆天主の教を聞かなくてはならぬ、聴くことを欲しないならばこの地を去るがよい、という意味の規定であった。しかし彼には改宗の覚悟はまだ出来ていなかった。
五[#「五」はゴシック体] 島原半島の開拓
丁度復活祭の頃に大村では高い地位にある二人の武士の間に争が起り、領内が沸き立った。それに対する見舞を兼ねて、復活祭後間もなくダルメイダは大村に行き、そこに数日留まった後、三人の「イルマンの如き」日本人(ダミヤン、パウロ、ジョアン)をつれて、当時有馬義直が出陣のため部下の集合を待ち受けていた所へ行った。それは島原から二三里のところであった。有馬侯はダルメイダを厚遇し、晩餐を共にした後説教を聞いたが、翌日口の津港宛の説教聴聞を命ずる書簡や、トルレス宛の領内布教許可の書簡などを与えた。ダルメイダは島原に数日留まり、海路|口の津《ヽヽヽ》へ行ったが、ここは日本全国から人々の集まってくる港で、人口も非常に多く、住民の物解りも好かった。ダルメイダはこの地の領主の家に迎えられ、その主君たる有馬侯の書簡を渡して、早速布教活動にとりかかった。十五日間教えた後洗礼を授けたものは二百五十人であった。その中には|この地の領主《ヽヽヽヽヽヽ》、|その妻《ヽヽヽ》、子女《ヽヽ》などもはいっていた。これらの様子を見てダルメイダはこの地を重視しようと考え、島原の信者を見舞った後またこの地に帰る予定で、留守を日本人パウロにあずけて、再び島原に行った。
しかるに島原では、丁度この時仏僧たちの指揮する反抗運動が起っていた。島原の旧城址を会堂用地として宣教師に与えたのはよろしくない、ポルトガル人が来てそこに城を造り、この国を奪うおそれがある、というのがその主要な主張であった。仏僧たちは諸地方の領主と親縁があり、相当の政治的勢力があったので、島原の領主の態度は微温的であった。ダルメイダは他の諸地方において宣教師を求めているにかかわらず、特にこの地の領主の招きに応じて来ているのである、仏僧の妨害で布教が出来なければこの地を去るほかはない、と抗議したが領主は暫らく隠忍することを請うた。そうして領主の支配権内にある家臣や民衆に対しては、説教を聴くようにとの命令を発した。それで聴衆は非常に多く集まり、受洗希望者は三百人に達した。この形勢を見た仏僧たちは、ダルメイダが着いてから十六日後に、説教の場に侵入して机上の十字架を破壊するというような示威運動をやった。次の日にも信者たちの戸口《とぐち》の十字架を画いた貼り紙をはぎ取って廻るというようなことをやった。それらに対しては信者たちは、領主の指示に従い、無抵抗の態度を取った。しかし更にその次の日、即ち聖霊降臨節の前々日に至って、遂に事が起った。島原から一里の他領に属する二人の青年武士が説教を聞きに来たのであったが、その一人が酒に酔っていて不穏当な質問をするので、他の一人がこれを制し連れ去ろうとした。それに侮辱を感じた武士は、百人ほどの信者の集まっている中で剣を抜こうとした。信者たちはこの酔どれから剣を奪った。これがもとになって、その武士の親戚友人が集まり島原に来て復讐しようとしたのである。目標はダルメイダが滞在し説教していた信者の家であった。しかしこの争の理非曲直は明白である。島原側ではただに信者のみならず信者でないものも武器を取ってダルメイダのいる家を護った。聖霊降臨節の前夜はその襲撃を待ち受けて物々しい有様であった。もし襲撃があれば少くとも五百人は死ぬであろう。キリシタンの到るところ必ず戦争があるという仏僧の宣伝は、それによって実証されることになる。ダルメイダはそれを非常に悲しんだが、幸にして襲撃はなかった。そうしてこの事件が逆に翌日の聖霊降臨節を盛大ならしめた。すでに受洗の準備の出来たものが、この日約二百人洗礼を受けた。
ダルメイダは次の日に領主が会堂用地として与えた旧城趾に移る許可を求めた。そこは海へ突き出た突角の上にあって村より離れて居り、仏寺からも遠いからである。領主はこれに賛成し、右の地所のそばの信者の持家へ移転させた。ダルメイダはそこにダミヤンを残し、再びここに帰り来ることを約して口の津に向った。こうして彼の口の津に重点を移そうとする計画は破れ、島原《ヽヽ》と|口の津《ヽヽヽ》とをかけ持ちするほかはなくなったのである。
口の津に帰って見ると、日本人パウロは説教を聴きにくる者が非常に少数になったと報告した。ダルメイダがその原因を探究して見ると、領主の家へ出入するのが窮屈であるからだと解った。そこで彼は領主に交渉して、人々が気楽に出入し得る家を求めた。領主はダルメイダに選択をまかせた。ダルメイダの選んだのは、有馬侯が会堂用地として与えた地所にある大きい廃寺であった。これを掃除し、縁を造り、蓆をしくと会堂になる。翌日早朝百人ほどの人夫が集まり、仏像を運び出して、一日中に立派な会堂に造りかえた。この会堂でダルメイダはパウロと共に再び活溌な活動をはじめ、二十日ほどの間に百七十人の信者を作った。
六月の初めにダルメイダはまた島原に行った。ここでも旧城趾に会堂を造る活動がはじめられた。領主は地所附近の七十戸を住民と共に教会に寄進し、会堂建築用の材木を寄附した。また敷地の地均らしのために二十日間毎日二百人の人夫を寄越してくれた。ダルメイダは地所内の大石を運び出して会堂の門前に埠頭を造らせ、相当の船がそこへ直接に着けるようにした。
六[#「六」はゴシック体] 大村純忠の受洗
こうしてダルメイダが島原半島で活溌に開拓をやっていた間に、横瀬浦でも著しい事件が起った。
トルレスは復活祭の後四十余日、昇天祭の過ぎた頃に、大村に領主純忠を訪ねて、その地に会堂を造るようにすすめた。純忠は、自分もその希望を持っている、会堂を造れば領内のものは皆信者になると確信する、しかしそのためには|仏寺を破壊する必要がある《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が、仏僧の勢力は中々侮り難いから、未だその時期ではない、と答えた。その時には受洗の話は出なかった。しかるにその後一週間ほど経って、純忠は、洗礼を受けようという決意を以て二三十人の武士と共に横瀬浦にやって来たのである。先ず彼はおのれの心事をトルレスに打ちあけ、その意見をきくために、日本語のよく解る人を寄越してくれと云って来た。トルレスは一人の日本人を送ったが、純忠はそれと夜半まで語った。彼のこだわっていたのは仏教排撃の問題なのである。彼はその兄である有馬の領主の配下についている。その兄はまだ仏教徒である。従って彼は|仏像を焼き仏寺を破壊することが出来ない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。しかし彼は、仏僧と関係せず補助をも与えない、ということを約束する。そうすれば仏教はおのずから崩壊する筈である。その程度でも洗礼は授けて貰えるであろうか。これが彼の知りたいところであった。トルレスはそれに対して、彼が時機の熟した時その権力内の|異教を破壊するという約束《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をするならば、また|そういう決意《ヽヽヽヽヽヽ》を持つならば、洗礼を授けようと答えさせた。純忠は喜んで、同夜直ちに家臣一同と共に説教を聞きはじめ、夜明に及んだ。トルレスは洗礼の準備が十分であることを認め、領主の身分にふさわしく盛大に式を挙げようとしたが、純忠は非常に謙遜な態度で、簡素に洗礼を受け、ドン・ベルトラメウとなった。伴《とも》の家臣たちも洗礼を受けた。
これは一五六三年五月下旬、ダルメイダが口の津に会堂を造った頃のことである。丁度同じ頃に東の方では奈良で結城山城守と清原外記とが洗礼を受け、新らしい機運を醸成していた。どうしてこのように大村や島原のみならず畿内地方までが時を同じゅうして動き出したのかは、よくは解らない。しかし恐らくこの頃に、日本全国を通じて、戦乱時代の|心理的な峠《ヽヽヽヽヽ》があったのであろう。同じ年に少し遅れて三河の国に一向宗一揆が起り、それが徳川家康の一生の運の岐れ目となっていることも、決して偶然ではないであろう。
七[#「七」はゴシック体] 横瀬浦の没落
大村純忠が受洗に際して仏寺破壊の問題にこだわったのは、決して軽い意味のことではない。一国の政治的権力を握るものの改宗には、この問題がつきまとうのである。ここに布教事業と政治的な争いとの絡まって来る機縁がある。純忠はこの点に用心したように見えるが、しかし「妬みの神」はその不徹底を許さなかった。
純忠が洗礼を受けたのは、その実家の有馬氏と竜造寺隆信との戦争の前夜であった。竜造寺隆信は肥前の少弐氏の部下であったが、今やその主家に代って肥筑地方に勃興し、有馬氏に圧迫を加えたのである。純忠もその兄の下について出陣したのであるが、その途中で、恐らく戦争気分の結果であろう、摩利支天像やその堂を焼き払い、そのあとに十字架を建ててこれを礼拝するというような思い切ったことを敢行したのである。これを口火として領内の多くの仏寺仏像が焼かれた。この急進的な態度は、彼の心配した通り、領内に不穏な空気をまき起した。謀叛が企てられたのはその頃からであった。
横瀬浦では領主が受洗の時の約束以上に果敢に振舞うのを見て非常に喜んだ。丁度そこへ、六月の末に、シナからドン・ペドロ・ダルメイダの船が数人の神父やイルマンを運んで来た。|神父ルイス《ヽヽヽヽヽ》・|フロイス《ヽヽヽヽ》もその一人である。トルレスは歓喜の余り涙を流し、「もう死んでもよい」と云ったという。フロイスが早速着手した仕事は、純忠が送って寄越すその家臣たちに日々洗礼を授けることであった。
丁度そこへ、七月の初めに、島原半島の大きい収獲の報を携えて、ダルメイダが新来の宣教師に会いに来た。トルレスは早速この有能な働き手を、自分と船長ドン・ペドロ・ダルメイダとの代理として、陣中の大村純忠の所へ使にやった。純忠は陣羽織にエズスと十字架の紋所をつけ、頸に十字架や数珠をかけて、熱心に教のことをきいた。その情景は陣中というよりもむしろ宗教家の会合のようであった。そこから彼が七月半ばに帰ってくると、トルレスは新来の神父ジョアン・バウティスタを豊後に派遣することとして、ダルメイダに同伴を命じた。一行は翌日すぐに出発し、途中からダルメイダだけは島原と口の津とを廻って、豊後に赴いた。
七月の末になって、大村純忠は神父たちやポルトガル人に会うために横瀬浦を訪ねて来た。ルイス・フロイスや船長ドン・ペドロ・ダルメイダは非常にこれを款待し、鍍金の寝台、絹の敷布団、掛布団、天鵞絨の枕、ボルネオの精巧な蓆、その他織物類を贈った。純忠は熱心に、ミサを聴き、聖餐のことを学び、数日にして大村へ帰ったが、夫人に対して改宗を迫り、また次の出陣の前に壮麗な会堂を建てようとして、場所の選定のためにトルレスを大村へ招いた。また丁度その頃に盂蘭盆会の廃棄を考えていた彼は、大村の先代の像(位牌か)の前に香をたく代りに、その像を焼却するということをやったらしい。それらのことが謀叛の陰謀を熟せしめたのである。
大村の先代は庶子《ヽヽ》後藤|貴明《たかあき》を残していたが、先代の夫人はそれをさし措いて養子《ヽヽ》純忠を夫人の実家の有馬家から迎えた。その養子が、先祖の祀りをしないばかりか、先代の位牌を焼いたのであるから、大村の家臣たちにとっては、庶子を擁して養子を誅すべき十分な理由があると考えられたのである。そこで謀叛人たちは、逆手を使って、会堂の建設、夫人の受洗、トルレスの招請などを|家臣らの希望《ヽヽヽヽヽヽ》として進言した。トルレスが大村に来たときに、クーデターによって一挙に害悪の根源を絶とうという計画であった。そういう計画に全然気づかないドン・ルイス新助は、横瀬浦へトルレスを迎いに来た。その儘トルレスが大村に赴き得たならば、計画は成功したかも知れない。しかしトルレスは、側《そば》にヤソ会の神父がいないため五年間行うことの出来なかった宣誓を、八月五日の聖母の祭日に、新来の神父フロイスの前で行う筈であった。そのためにわざわざ豊後から、日本でヤソ会に入ったイルマンのアイレス・サンチェズが、ヴィオーラを弾《ひ》く少年たちをつれてやって来たほどであった。従って大村行はその後にするほかはなかった。祭の当日ドン・ルイスは二度目の迎いに来たが、生憎フロイスもトルレスも病気で、式を辛うじて挙げた程度なので、大村行はまた二三日延ばした。この間に有馬の領主が改宗の意志を表明したとの報があり、三度目に迎いに来たドン・ルイスも大村純忠が兄の改宗のことを相談したいと云っていると伝えたので、トルレスは「日本全国の門戸が開かれるであろう」というような大きな希望を抱いて、いよいよ翌八日早朝出発しようと約束した。ドン・ルイスはその約束を携えて勇んで帰って行った。ところが翌日早朝、トルレスがミサを行いポルトガル人に別れを告げて、さていよいよ出発しようとしていた七八時頃に、様子が変になって来たのである。トルレスは一日本人を偵察に出した。ドン・ルイスは前日帰途を横瀬浦対岸の針尾の武士たちに襲撃せられ、殺害されたのであった。大村でも前夜暴動が起り、大村純忠はドン・ルイスの兄の家老たちと共に近くの城に逃げ込んだのであった。
この時の事情はよくは解らない。トルレスが大村行を幾度も延ばしたので、陰謀が洩れたと感じて急に事を起したのか、或はドン・ルイスの船にトルレスも同船していると見て襲撃したのか、当時の人にもよくはわからなかった。がいずれにしても暴動の手際は悪く、トルレスも純忠も暗殺をまぬがれた。同日夕方、トルレスは碇泊中のゴンサロ・バスのジャンクに移り、フロイスはフェルナンデスと共にドン・ペドロの帆船に乗った。他の人々も、信者らも、それぞれ財物を携えてこれらの船に遁れた。純忠も約四十日の後にはともかくも領主権を回復し大村に帰った。そうして彼に叛いた地方の領主たちと対峙し得るに至った。
しかしトルレスが大きい望をかけていた横瀬浦――アジュダの聖母の港――の運命は、この内乱を以て終った。横瀬浦は騒ぎの当座直ちに焼かれたのではない。そこは抵抗せずに謀叛人に服従したし、また謀叛人たちもポルトガル船に留まることを求めた。純忠が大村を回復したとの報に接したときには、ポルトガル船は旗をあげ大砲を発射してこれを祝したし、横瀬浦を占領していた謀叛人も逃げ去っていた。フロイスも陸上で働いていた。しかし商船がシナに向って出帆しようとしていた頃に、横瀬浦に最も近い所にいた謀叛人の一味が、横瀬浦を奇襲して町や会堂や宣教師館を悉く焼き払ったのである。丁度その時には有馬の武士(島原の信者であろう)が二艘の船を率いて救援に来ていた。トルレスは敵が近づいたのを見てその船に乗り、大きい望をかけていた会堂や純真な信者の家が焼かれるのを見ていたのである。これは宣教師たちにとって非常な打撃であった。急激に拡大しそうに見えていた布教事業はここで一時頓挫したのである。
大村の内乱が世間に与えた印象もそうであった。ダルメイダが八月下旬《ヽヽヽヽ》に豊後で報告に接した時には、大村純忠は殺され、有馬の領主は逃げ、ポルトガル船は横瀬浦を去り、会堂も町も焼失し、信者らは皆殺しにされた、ということであった。そうしてそれらは純忠が|仏像を焼いた《ヽヽヽヽヽヽ》結果であり、有馬の領主もキリスト教の同情者として同様の運命に瀕している、と噂された。これはほとんど皆事実に合わない誇大な噂であるが、しかしそれがキリスト教に対する反感を煽るように見えた。急いで横瀬浦にかけつけようとしたダルメイダは、途中でこれまでにない侮辱を受けた。また人々は満足そうに、「何処へ行かれるか、会堂は焼けたし神父は横瀬浦にいない」と挨拶した。島原の対岸の高瀬《ヽヽ》まで来て、彼はやっと、純忠の死も、横瀬浦の焼失も、商船の退去も、すべて嘘であることを知ったのである。島原でも信者たちの態度は少しも変っていなかったが、しかし口の津まで来ると、政治的情勢が変っていた。有馬の領主の父|仙岩《ヽヽ》(晴純)は、この様な内乱の原因となったキリスト教を、断然禁止したのであった。信者たちの信仰は崩れていなかったが、しかしダルメイダは上陸することが出来なかった。それのみか、仙岩の領内を通る間中《あいだじゆう》、死の危険を感じなくてはならなかった。緒についたばかりのダルメイダの島原半島布教も、一頓挫を来たしたように見えた。
ここに政治的意義を帯びた大仕掛けなキリスト教排撃の最初の現われがある。それは|一国の領主《ヽヽヽヽヽ》が改宗して仏教排撃をはじめるや否や、即座に起った。この現象は非常に示唆するところが多い。ポルトガル人と貿易を営みヨーロッパの文明を取り入れようとする関心は、必ずしもキリスト教への関心ではなかった。前者は当時の日本人にほとんど共通のものであり、従って政争を捲き起すことなく実現し得られるが、後者は忽ち政争に火をつけるのである。この事情が平戸の領主に曖昧な態度をとらせ、豊後や有馬の領主に長い間改宗を躊躇させた。しかるに宣教師たちは、|前者を後者のために利用し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、前者のみの独立な実現を阻もうとしたのである。この態度はいわば|開国と改宗《ヽヽヽヽヽ》とを結びつけるものであって、|鎖国の情勢《ヽヽヽヽヽ》を呼び起す上に関係するところが多い。日本民族が国際的な交際の場面に入り込み、世界的な視圏の下におのれの民族的文化の形成に努めることと、在来の仏教を捨ててキリスト教に転ずることとは、別の問題である。前者は倫理的、後者は宗教的な課題であった。ヤソ会士がただ宗教の問題をしか見ず、異教徒をキリスト教に化することをのみその関心事としたことは、ヤソ会士としては当然であったかも知れぬ。しかしそのために倫理的な課題が遮断されたことは、実に大きい弊害であったといわなくてはならない。その一半の罪は、ヤソ会士を介してでなくては視圏拡大の動きが出来なかった日本の政治家や知識人の方にある。無限探求の精神や公共的な企業の精神の欠如が、ここにもうその重大な結果を現わしはじめているのである。
八[#「八」はゴシック体] 口の津と平戸
横瀬浦を焼かれたトルレスはダルメイダや新来のイルマン、ジャコメ・ゴンサルベスを伴って、有馬の武士の船で、島原の対岸|高瀬《ヽヽ》に向った。そこは豊後の大友の領地で、豊後への往復の要衝とされていたところである。ルイス・フロイスは籠手田氏が迎いに寄越した船で、既に一月前からフェルナンデスの行っている「天使の島」度島《たくしま》に向った。こうしてこの後の一年間、トルレスは島原半島の回復をねらい、フロイスは日本布教者としての能力の獲得に努めたのである。
トルレスは一五六四年の夏まで高瀬に留まっていた。先ず初めにダルメイダを豊後に派遣して大友義鎮(この頃に宗麟と名を変えたらしい)に高瀬滞在の許可を乞い、地所、家屋、布教の許可などを与えられた。更に三カ月後には、領内のあらゆる人への改宗の許可、宣教師の保護、全領内の布教許可の三カ条を記した立札二枚を送られた。一枚は高瀬《ヽヽ》に立てるため、他の一枚は熊本の南の川尻《ヽヽ》に立てるためである。川尻へは豊後にいたドワルテ・ダ・シルバが派遣された。ダルメイダはクリスマスから復活祭まで豊後に留まって、自分のはじめた病院の仕事や思い出の深いこの地の教会の仕事に久しぶりで没頭することが出来た。しかし復活祭の後には川尻で病んでいるシルバを見舞わなくてはならなかった。シルバは熱心に布教につとめる傍、日本語の文法や辞書を編纂していたが、過労に倒れたのである。ダルメイダはもう手のつくしようのないこの重病人を、その希望に委せて高瀬のトルレスの許に運んだ。病人は十日ほどの後に満足して死んで行った。
有馬の領主がその領内へ来るようにトルレスを招いたのはその頃である。トルレスはそういう機運の熟してくることを島原の対岸で待っていたのであった。しかし彼は直ぐには動かなかった。二度目の招請の手紙が来たとき、彼は、その保護者である豊後の領主の許可を得るまでの代理として、ダルメイダを有馬の領主のもとに派遣した。ダルメイダは島原で非常な歓迎を受けた後、有馬へ行って領主義貞に会った。義貞は前年の騒ぎの時よりはよほど権力を回復していた。彼はトルレスが口の津へ来てよいこと、敵に対して勝利を得るまでそこに留まっていて貰いたいこと、地所家屋はトルレスが来るまでもなく直ちにダルメイダに与えることなどを云った。こうして口の津が回復されたので、トルレスは大友宗麟の諒解を得て口の津に移り、地所家屋の処理をはじめた。この地の信者たちは、十カ月に亘る禁教の間にも、少しも退転していなかった。トルレスはそれを見て非常に喜んだ。そういう状態になったところへ、一五六四年八月半ばに、ポルトガル船サンタ・クルス号が三人の新らしい神父、ベルシヨール・デ・フィゲイレド、バルタサル・ダ・コスタ、ジョアン・カブラルを運んで来たのである。
この年のポルトガル船は、トルレスの意に反して|平戸へ《ヽヽヽ》入港した。その時の折衝をやったのは、度島《たくしま》にいたフロイスである。フロイスは度島に移って以来、島の外へは出ず、過失によって会堂を焼失するという不幸に逢ったほかは、純真な信者に取り巻かれて平和な生活を送り、説教や祭式を営む傍、六七カ月を費してフェルナンデスが日本文法書や語彙を編纂するのを眺めつつ、静かに日本語や日本人の気質を学び取っていた。こうして一五六四年の四旬節も過ぎ、復活祭も終ったのであるが、その頃から平戸の情勢が少しずつ変って来たのである。前にビレラが平戸から追放せられた時、背後の主動力であった仏僧は、籠手田氏との争に負けて平戸から追放された。平戸の信者らも漸く動き出した。丁度その頃、七月の半ばに、帆船サンタ・カタリナと、ベルトラメウ・デ・ゴベヤのジャンク船とが、平戸附近へ来た。松浦侯はこれを平戸へ迎い入れようとしたが、船長らは|神父の許可なしには《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》入港しないと答えたので、松浦侯は止むなくフロイスの許に使者を寄越して入港の許可を求めた。その時の条件は、神父の平戸来住を船長らと|協議しよう《ヽヽヽヽヽ》ということであった。フロイスは必要を認めて許可を与えた。そこで平戸に入港した船長たちは、神父の平戸来住と新会堂の建築との許可を松浦侯に求めたが、松浦侯はいい加減なことを云って|許可をひきのばして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》いた。そこへ、二十七日遅れて、神父三人を乗せた司令官(カピタン・モール)の乗船サンタ・クルス号が着いたのである。フロイスは度島でこの報を聞くと、その|平戸入港を阻止するため《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、直ぐに小船に乗って出掛けた。トルレスが前からこのことをフロイスに命じていたのである。サンタ・クルスはもう帆をあげて平戸に向いつつあったが、司令官・船長ドン・ペドロ・ダルメイダはフロイスの申入れをきいて直ぐに引還そうとした。しかるに同船の商人たちはそれに反対した。サンタ・クルスはサンタ・カタリナよりも僅か二日後にシナを出帆したのであるが、途中暴風のために非常に難航して、一カ月近くも遅れてしまったのである。だから一刻も早く馴染の港に着きたかった。彼らの平戸入港が、キリスト教徒となった大村純忠の敵に力を与えることになるという説得も、商人たちを動かすことが出来なかった。でフロイスは、ともかくも船を平戸から二里ほどの所に停めさせ、三人の神父たちを伴って島へ帰った。そうして再び司令官を船に訪ね、神父を平戸に入れるのでなければ、平戸へは入港しない、という旨を松浦侯に伝えて貰った。その結果、松浦侯は遂にフロイスに平戸の会堂再建を許可したのである。
これはビレラの追放以来失われていた平戸の教会を回復することであった。だからフロイスの平戸入りは出来る限り壮大になされた。サンタ・カタリナやジャンク船は大小の国旗を掲げ砲を並べている。船長以下ポルトガル人たちは盛装して舷側に並ぶ。陸上に出迎えた人々も着飾っている。フロイスとフェルナンデスとが船で着いて上陸すると、サンタ・カタリナは祝砲を発し、信者たちは歓呼の声をあげる。それから人々は行進を起し、松浦侯の邸に向った。フロイスは船長たちやその他の人々と共に松浦侯に会って、入国許可に対する挨拶をした。そうしてその足で籠手田氏を訪ね、会堂の敷地に廻って、早速再建の計画にとりかかったのである。こうして横瀬浦壊滅の一年後に平戸が回復されたのであった。
新来の神父の一人|フィゲイレド《ヽヽヽヽヽヽ》は到着後七八日で口の津にトルレスを訪ねて行った。|カブラル《ヽヽヽヽ》はフロイスと入れ代って度島に赴いた。|コスタ《ヽヽヽ》は乗って来たサンタ・クルスに留まり、ゴベヤのジャンクに泊ったフロイスと共に、ポルトガル人の告解を聞き、ミサを行った。フェルナンデスは信者の家に泊って会堂建築のことに当った。こうして急に手がふえたので、トルレスは、ポルトガル船が日本を去った後フロイスやダルメイダを京都地方へ派遣しようと考えたのである。
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[#小見出し] 第六章 京都におけるフロイスの活動
一[#「一」はゴシック体] フロイスとダルメイダの上京
ルイス・フロイスがトルレスの命令によって京都のビレラに協力するため平戸を出発したのは、一五六四年の十一月十日であった。
フロイスは日本へ来てから一年余の間に、横瀬浦の没落や、度島での日本人の信仰生活や、ポルトガル船の貿易と布教事業との微妙な関係などを経験し、日本における宣教師の仕事のおおよその見当はつけ得たのであったが、しかし日本の諸地方への旅行はまだ少しもしていなかった。そのためか、度島のフロイスの許へはダルメイダが迎いに行った。ダルメイダもフロイスと共に京都地方へ行き、その地方の事情を調査してトルレスに報告する筈になっていた。しかしトルレスがそういう計画を立てた後の僅かな時日の間にも、ダルメイダの活動はめざましいものであった。彼はまず口の津のトルレスの許から豊後に派遣された。毎年の例になっている領主饗応のためである。だから十月の半ばにはまだ豊後にいた。その彼が、高瀬まで引き返して、そこから平戸へ陸路四五十里を旅行している。この道筋は多分初めてだと思われるが、途中、博多から十一二里の所にある信者の町を訪ねたり、また海岸へ出て|姪の浜《ヽヽヽ》とか名護屋《ヽヽヽ》とか信者のいる町に足を止めたりしつつ平戸へ行ったのである。そこには神父コスタがいた。度島にはフロイスと共に神父カブラルがいた。そこで平戸に半月余り滞在した後、フロイスと共に出発したのであった。
風の都合がよく、船は翌日の夜|口の津《ヽヽヽ》についた。トルレスとフロイスとは横瀬浦の没落の時別れたきりであったから、再会の喜びは非常なものであった。しかし口の津にもただ四日留まっただけで、フロイスとダルメイダとは旅程に上った。この時にも風の都合がよくその日の内に島原についた。この島原、ダルメイダの開拓した島原が、度島で一年を送って来たフロイスを実に喜ばせたのである。港へ突き出ている旧城址――会堂の地所が、比類なく優れた場所であったばかりでなく、更に島原の街はこれまで見た|最も美しい街《ヽヽヽヽヽヽ》であったし、そこに住んでいる信者たちは殆んど皆身分の高い人たち、富める商人たちであって、一般に教養も高く、教義に対する理解能力も優れていたからである。フロイスはそれを見て、信者たちがこれまでミサを聞いたこともなく、ただ日本人のベルシヨールやダミヤンに二三カ月説教を聞いただけであるのを残念に思い、「もし自分に委せられるならば、日本での最も良い仕事に代えて、この地に留まるであろう」と早速トルレスに書き送っている。そうして熱心にトルレスの島原訪問をすすめ、「もし貴下が八日間この地に留まられるならば、この町がこれまで滞在せられたどの地方よりも優っていることを認められるであろう」とさえも云った。それほど島原での二日間はフロイスにとって印象が深かったのである。
それから二人は高瀬を経て豊後に行き、臼杵丹生島に大友宗麟を訪ねた。その後府内に帰り、船の談判をして出発しようとしたが、風の都合で一カ月待たされ、遂にクリスマスを府内で祝うことになった。いよいよ豊後を出発し得たのは一五六五年の一月一日で、堺に着いたのは一月二十七日であった。途中の航海は相当苦しく、特に寒さが烈しかったので、ダルメイダは病気になり、堺の富豪日比屋の邸宅で寝ついてしまった。
フロイスは五人の信者と共に翌日直ちに京都に向って出発した。(五人の内の一人は多分ダミヤンであろう。)その夜は本願寺の門前町大坂に泊ったのであるが、当時大坂はすでにコチンの町よりは大きかったといわれている。フロイスはまだこの地の領主「妻帯せる坊主」が宣教師にとっての最大の敵であることを知らなかったので、この夜はのんきにして、同船した異教徒の泊った家に行き、款待を受けていたのであるが、夜半過ぎに火事が起って、本願寺を初め九百戸を焼き払うという大火になった。フロイスの取った宿は焼けはしなかったが、避難者を収容するためにフロイスたちの退去を求めた。信者たちは警備の厳しくなった町でフロイスたちをかくまうのに骨折った。本願寺の町であるということがこの時ひしひしと身にこたえたのである。が一日日の目を見ない暗い二階にひそんでいただけで、翌々日の早朝、気づかれずに町の門から出ることが出来た。「私はこの時ほど道を遠いと思ったこともなく、またこの時ほど早く歩いたこともない。人の本性が自己保存を欲することはこの通りである」と彼は書いている。この日は稀有の大雪で三四尺も積っていた。で歩くことが出来ず、漸く淀の川船を捕えて、一月の末日に京都に入ることが出来た。ビレラに逢うと、まだ四十歳でありながら苦労して七十の老人のように白髪になっているこの日本布教者は、フロイスが遥々インドから日本布教に来てくれたことよりも、|大坂の危険《ヽヽヽヽヽ》を脱したことの方を一層悦んだのであった。
フロイスの京都入りを何故このように重視するかというと、一つにはフロイスが熱心な宣教師であると共にまた|比類なく優れた記者《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であったこと、もう一つにはフロイスが到着してからの半年の間の京都が戦国時代の混乱の絶頂を具象的に展示して見せた舞台であったことによるのである。フロイスは日本に着いて間もなく|横瀬浦の没落《ヽヽヽヽヽヽ》を自分の眼で見た。この事件は日本におけるキリスト教布教事業の運命をすでに象徴的に示しているということも出来る。その同じフロイスが、京都に入って半年後に、最初の公然たる禁教政策に出会ったのである。いずれもキリスト教が権力と結びつくや否や間もなく起ったことであった。
フロイスは京都に入って、半年後には転覆される運命にあった古い伝統的なものを、相当詳しく見ることが出来た。彼が京都に着いた翌日は陰暦の元旦であったが、ビレラは|将軍への年賀《ヽヽヽヽヽヽ》を必要と認めていたので、彼もビレラに伴われて正月の十二日に将軍に謁した。そのために出来るだけの盛装をも工夫した。十年前にヌネスの連れて来た少年の持っていた金襴の飾りのある古い長袍、船室で使い古した毛氈、そういうものをフロイスは豊後から携えて来たが、ビレラはその毛氈で広袖の衣を作り、金襴の長袍と共にこれを着て、その上に更に美しい他の衣をつけた。フロイスはキモノの上にポルトガルの羅紗のマントを羽織った。進物はガラスの大鏡・琥珀・麝香などであった。こうして二人は輿に乗り、二十人ほどの信者に伴われて、多分今の二条城のあたりにあったと思われる足利将軍の宮殿に赴いた。将軍義輝は神父を一人ずつ接見したが、フロイスはその際の義輝の印象については何も語らず、ただその室の美しかったことを言葉を極めて讃めている。自分はこれまで木造の家であれほど美しいのを見たことがない。室は金地に花鳥の美しい絵で取巻かれ、畳は実に精巧なもので、書院の窓の障子も非常に好かった、と彼は云っている。次の間に下ったとき、神父の着ているカパは珍らしい、見せて貰いたい、ということであった。次で将軍の夫人に謁する時には、間の襖《ふすま》を開いて、次の間から礼をした。義輝の母慶寿院尼も同じ構えのなかにいたので、二人はそこへ行って、大勢の婦人の侍坐している前で盃を頂戴した。フロイスはここでも、その静かで、簡素で、きちんとしている有様を、僧院のような感じだとほめている。この人たちが半年後に悲惨な目に逢ったのである。
この年賀の翌日にビレラは、当時の実権を握っていた「三好殿」を河内の飯盛に訪ねて行った。三好長慶は実は前年の夏、四十二歳で病死したのであるが、まだ喪を発してはいなかったのである。ビレラはそこから堺のダルメイダを呼んだ。
ダルメイダはフロイスと共に堺に着いた時直ぐ日比屋で寝込んだのであるが、その病中二十五日ほどの間は、父母の家にあってもこれほど親切にされることはなかろうと思われるほどの愛情を以て看護された。日比屋の主人のみならず夫人も子女も昼夜心をつくした。やや快方に向ってから少しずつ説教なども始めたが、日比屋の娘のモニカの結婚問題について相談相手になり、父のサンチョを説いて正しい結婚の実現に努力したりなどもした。ビレラに呼ばれていよいよ飯盛に向って出発しようとする前日には、日比屋の主人の|茶の湯の饗応《ヽヽヽヽヽヽ》を受け、その珍蔵する道具類を見せて貰ったのであるが、当時すでに高価なものとなっていた茶道具類はとにかくとして、茶の湯の作法そのものは相当に深い感銘をダルメイダに与えたように見える。客はダルメイダと日本人イルマン(これはダミヤンではないらしい)と事務一切の世話をしている信者とであった。朝の九時に日比屋の家の横の小さい戸口から入り、狭い廊下を通って檜の階段を上ったが、その階段はこれまで何人も踏んだことがないほど清らかで、実に精巧を極めていた。そこから二間半四方位の庭に出、縁を通って室に入った。室の広さは庭より少し広く、「人の手で作ったというよりもむしろ天使の手によって作られた」と思うほど美しかった。室の一方には黒光りのする炉があって、白い灰の中に火を入れ、面白い形の釜がかかっていた。この釜は高価なものだということであったが、その炉や灰の清潔でキチンとしていることがダルメイダを驚かせた。やがて席につくと食物が運ばれ始める。美味は驚くに足りないが、その給仕の仕方の秩序整然として清潔を極めていることは、実に|世界に比類がない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と彼は讃嘆している。食後主人サンチョの立てた濃茶の味も、出して見せた名物の蓋置きも、大した印象は与えなかったらしいが、会席の気分そのものは彼を敬服せしめたのである。
そういう仕方で日本の生活を瞥見したダルメイダは、信者たちに送られて堺を出発し、堺から三里余のところで飯盛からの迎いの船に乗った。当時は寝屋川が淀川の支流ででもあったらしく飯盛山下まで船で行けたのである。日没頃船を上り、約半里の山道を輿に担がれて、夜半近くやっと城に着いた。ビレラや信者の武士たち、その家族たちが、非常な喜びを以て彼を迎えた。
この飯盛山上の堅固な城は、今や畿内を押えている実力の所在地であった。その城の内の身分ある武士たちが、ビレラやダルメイダに対して、恰かもその主君に対する如き尊敬の態度を示しているのである。ここでビレラは一週間の問、武士たちの告解を受けた。その間にビレラやダルメイダは三好の殿を訪問し盃を受けたというのであるが、長慶は既に半年前に歿しているのであるから、誰に会ったのか解らない。嗣子の重存(義重、義継)は未だ非常に若く、それに会えば何か気づく筈である。或は三好三人衆の内の誰かが会ったのかも知れない。その時三好の殿はビレラやダルメイダと同じく跪坐し、二人が辞去する時にも礼を尽した、とダルメイダは記している。ビレラが飯盛山下の三箇を訪れた後、奈良へ出て松永久秀を訪ねているのは、或は形勢の変化に対する幾分の理解を示しているのかも知れない。
三箇は当時は大河に囲まれた半里位の島で、領主の伯耆守はダルメイダが日本で見た最も信仰の厚い信者の一人であった。彼は日本全国のキリスト教化を希望していたし、また堺の町の会堂建築費として銭五万を寄附しようと申し出た。この領主の熱心が半年後には非常に役立つことになるのであるが、この時にもダルメイダの体の痛みを心配して、治療のために、輿を用意し十里の道を京都へ送りつけた。そこでダルメイダはまた二カ月ほど寝ついたのである。
二[#「二」はゴシック体] 日本文化の観察
フロイスが京都に入ってから、日本文化に対するヤソ会士の考察が非常に精密になったように思われる。フロイス自身の報告のみならず、ダルメイダの報告などにもその傾向が顕著に現われて来ている。ヤジロー、ロレンソ、その他九州の信者を通じて見ていた日本を、自分たちの眼ではっきりと見直そうという要求が、強く働き出したのであろう。
フロイスが京都に着いてから二カ月足らずで書いた最初の書簡は、この地の風俗について報告するという書き出しではあるが、実際は日本文化の概観というようなものになっている。先ず日本の風土から説き起し、衣食住の細かい特徴を述べた後に、この日本文化の中枢地方においては男女が通例読み書きを知っていること、身分あるものは皆礼儀正しく、教養があり、|外国人に会うのを喜ぶこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|外国のことは些細な点まで知ろうとすること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、生来道理に明かであること、などを力説し、次で日本の政治組織に及んでいる。日本は、首府京都に「公方様」と呼ばれる主権者《ヽヽヽ》がいて全国を支配していたが、地方の諸侯の独立のために今は六十六カ国に分れ、公方様はただ名目上尊ばれているだけである。実力を持った諸侯は互に他を征服しようとし、戦争の絶える時がない。京都にはもう一人、日本人が日本の首長として|殆んど神の如く尊崇している《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》神聖な君主がある。神聖であるから足を地に附けることが出来ない。しかし非常に貧しく、ただ進物によって己れを支えている。それに仕えているのが公家《くげ》で、頗る貪欲である。諸侯の間の争議の調停などをやると、多額の金を受ける。そういう政治的支配者の衰微した状態に比べると、宗教的支配者の力は非常に強い。悪魔《ヽヽ》がいかに力をつくしてこの国民を欺いているかがそれによって察せられる。仏教は十三の宗派に分れているが、その寺院は実に壮麗であって巨額の収入を有している。僧尼の数も非常に多い。殊に高野山の勢力、奈良の寺院の壮観など、実に驚くべきものである。しかし悪魔の働きはそれだけに尽きない。山伏というものがかなりの勢を持っている。エンキ(善鬼)とか鳩の飼《かい》とかというものもある。悪魔は実に綿密に網を張っているのである。そういう網のなかで日本人は、死者を葬るために実に壮麗な行列や儀式をやっている。山口や豊後でキリシタンのはじめた葬儀の比ではない。更に悪魔は日本人に、生きながら葬る方法をさえも教え込んでいる。葬られるものはそれによって法悦を感じ、送るものはそれを羨望するのである。フロイスは京都への途次伊予でそれを見聞した。それ位であるから、生けるものに対する説教も非常に発達して居り、説教師は通例極めて雄弁である。その上坊主は一般民に対する態度が真面目で優しい。パリサイ人の偽善を悉く備えている。だから一般人はそれらの宗旨を信じ、そこに救いの望みをかけるのである。
このようにフロイスは日本に行われていた宗教をすべて悪魔の仕業として説いているが、これは当時のキリスト教宣教師に通有の傾向であってフロイスに限ったことではない。ただフロイスがその「悪魔の仕業」を|綿密に考察し始めた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》こと、それが著しく目立つのである。半月後に書いた二度目の書簡にも、京都の寺院見物について報告している。三十三間堂と東福寺とを見たのである。三十三間堂は今と大差はなかったであろうが、フロイスは千体の観音像の金箔の光が堂内に横溢している光景に感服したらしく、もしこれが異教のものでなかったならば、「天使の集団を想い浮べたであろう」と思われるほどに、仏像の姿が美しかった、と言っている。東福寺は今と異なり堂塔の揃っていた頃のことで、規模は非常に大きかった。フロイスはここでも、坊主の家や庭の清潔で整頓していることは、注目すべきだと言っている。
更に五十日ほど後に書いた三度目の書簡にも、ビレラやダルメイダと共に案内された見物の記事がある。この時には先ず将軍の宮殿を見た。その中で、休養のために設けられた家というのが、精巧なこと、清浄なこと、優雅なこと、立派なことにおいて、ポルトガルにもインドにも比類のないものであった。この家の外の庭も非常に美しく、杉・柏・蜜柑・その他の珍らしい樹木、百合・石竹・薔薇.野菊・その他さまざまの色や匂の草花が植えてあった。そこを出て広い街路を通り、内裏へ行った。「日本全国の最も名誉ある君主、元は皇帝であったが今は服従せられない君主」の宮殿である。この宮殿は入ることが出来ず、ただ外から眺めただけであるが、庭は見物することが出来た。そこを出て西陣の繁華な街を通り、大徳寺へ行ったが、そこには大きい森のなかに、ゴアのコレジヨの敷地ほどの広さ、或はその二三倍もある僧院が、五十もあった。フロイスたちはそのうち三つの僧院をざっと見物しただけであったが、どの一つを取っても数日間見るに値するほどのものを持っていた。建築は美しく、精巧で、清潔である。庭も非常に凝っている。室内の装飾は実に華麗であった。フロイスたちもそれには驚嘆せざるを得なかったのである。
その翌日は東山見物で、祇園から知恩院に廻り、そこで日本の説教師の説教の模様を視察した。その説教師は高貴な生れの四十五歳位の人で、容貌が非常に美しく、声の質や、優雅な態度・動作など、確かに注目すべきものであった。その説教の技倆も嘆賞に値した。これを見てビレラもフロイスも、日本の信者に対する説教の方法を改善しようと考えたほどである。
こういう印象を記したあとでフロイスは力説する。シャビエルが云ったように、日本人は、|文化や風俗習慣に関しては《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|多くの点において《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|スペイン人よりも遥かに勝《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽまさ》|っている《ヽヽヽヽ》。日本に来るポルトガル人があまり日本を尊重しないのは、九州の僻地の商人や民衆にのみ接しているからである。そういう民衆と都の人々とは実に甚だしく異なる。シャビエルが日本に眼をつけたのは確かに聖霊のうながしによるのである、と。
そう云う考のフロイスであるから、日本人が洗礼を受ける前にさまざまの難問を提出する所以をも理解することが出来た。ヨーロッパ人は物の道理などを考える前にすでにキリスト教徒となっているのであるが、日本人は異教のなかで育って来た後にキリスト教の真なることを認めて改宗するものであるから、予め教義についての理解に徹しなくては、洗礼を受けることが出来ない。従って宣教師は、日本の八宗を学習研究し、その立場に立ってこれを反駁し得なくてはならない。またそういう異教の影響から脱し得た人々に対しても、キリスト教の教義がひき起す疑問に対して十分に答え得なくてはならない。フロイスはそういう疑問として、次のような問題を列記している。(一)悪魔は神の恩寵を失ったものである。しかるにその悪魔が、人よりも大きい自由を持ち、人を欺くことも出来れば、正しい者を滅亡の危険に導くことも出来る。それは何故であるか。(二)神がもし愛の神であるならば、人が罪を犯さないように作って置く筈である。そうでないのは何故であるか。(三)神が人間に自由を与えたのであるならば、最初に悪魔が|蛇の形をして《ヽヽヽヽヽヽ》誘惑を試みた時、何故に天使をしてそれが悪魔であることを知らせなかったのであるか。(四)人の精神的本質が清浄であるならば、何故に肉体にある原罪によって汚されるのであるか。(五)善行をなすものが現世において報いられず、悪人の繁栄が許されているのは何故であるか。等々である。ビレラはそれに対して、|問者の満足するような答《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を与えた、というのであるが、その答は記されていない。それはそう容易ではなかった筈である。なおその他にも、もしキリスト教の説く如き全能の神があるならば、何故今日までその愛を日本人に隠して知らしめなかったのであるか、という問が掲げられている。これも簡単には答えられなかったであろう。フロイスもその困難ははっきりと認めている。しかし日本にある多数の宗派が互に相反した意見を持って対立していることは、キリスト教を説くに非常に都合がよかった。もしこれらが悉く一致して唯一の宗教となっていたならば、右の困難は切り抜けられなかったかも知れない。
フロイスが日本の文化に丹念な注意の眼を向けた態度は、ダルメイダにも影響を与えたらしい。堺の日比屋の茶会記を書いたことなどもその結果と思われるが、奈良地方の見物記などにもその趣が現われている。
京都で寝込んだダルメイダは、復活祭の頃には回復して教会の行事に参加し、そのあとでビレラやフロイスと共に京都見物をもやった。そうして、多分ロレンソをつれて、大和地方をも巡回したのである。奈良につくとすぐ翌日には松永久秀の信貴山城を訪れた。少し前二月の末頃にはビレラが奈良に松永を訪ねているが、この時にも先ず松永の居城に行ったということは、恐らく当時の政情とかかわりがあるであろう。ダルメイダはその記事のなかに、三好殿や将軍の|臣下である《ヽヽヽヽヽ》松永弾正が、逆に将軍や三好殿を己れの意志に従わせていると、はっきり書いているのである。がこの訪問の時には、松永の家臣の信者たちに款待され、松永の城内を見物しただけで、久秀自身には会っていない。城は着手以来もう五年になるので、城内には重臣たちの二階建や三階建の白壁の邸宅が美しく建ち揃っていた。それは「世界にもあまり比類のないような美しい別荘地」に見えた。松永の館は総檜造りで、一間廊下は一枚板で張られて居り、障壁は悉く金地に絵をかいたものであった。京都で立派な建築を見て来たばかりのダルメイダの眼にも、これは一層立ちまさって見えた。「世界中でこの城のように善美なものはなかろうと思う」とダルメイダは極言しているのである。
翌日ダルメイダは、日本人が遠国から苦心して見物に来る奈良の寺々を見て廻った。先ず行ったのは興福寺であるが、これは応永修築の、七堂伽藍の完備したものであって、その結構の壮大なことが彼の眼を驚かせた。柱が太くて高いことだけでも、そういう大きい樹木をあまり見たことのないダルメイダには驚異であった。そこから、杉並木の壮麗なのに感嘆しながら春日神社に行き、手向山八幡宮を通って大仏殿へ出たのであるが、これも寿永修築の大仏殿で、今のとは形も大きさも違うものである。ダルメイダは日本の建築が一目して寸法の解るものであることを説いたあとで、大仏殿を間口四十ブラサ(約二九〇尺)、奥行三十ブラサ(約二一八尺)と記している。しかしこの堂は天平尺で間口二九〇尺奥行一七〇尺であったのであるから、間口の方はかなり精確であるが、奥行の方が合わない。恐らく十一間七面の柱間を各四ブラサと見つもり、正面の柱間を十としたのに対し、側面の柱間を七と数え誤まったのでもあろうか。いずれにしてもこの堂は、唐招提寺の金堂を重層にして拡大したような、壮大なものであった筈である。ダルメイダはこの堂を取り巻く廻廊と、それに取り巻かれた庭との美しさを特筆しているが、この美しさの印象に大仏殿の印象が籠っていない筈はないであろう。大仏の大きさはさほど彼を驚かさなかったが、立ち並ぶ九十八本の太い柱は彼に強い刺戟を与えた。日本のように開けた、思慮のある国民が、|こんな壮大な殿堂を築くほどまでに悪魔に欺かれている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とは、実に驚くのほかはない、と彼は感じたのである。
ダルメイダは奈良見物のあとで、ロレンソの教化した十市城の信者たちや沢城の領主ドン・フランシスコなどを訪ねた。これらは、当時松永久秀の手についていた武士たちである。特にドン・フランシスコは、ダルメイダが見た日本人のうちで最も偉大な人物であった。体格が大きい上にあらゆる美質を備え、優雅快活で愛と謙遜に富み、勇敢であると共に深慮のある人であった。ダルメイダの滞在中にこのドン・フランシスコは、四五里離れた他の城主を訪ね、松永久秀から叛こうとする意図を喰い止めたという。
ダルメイダはドン・フランシスコの手の者に送られて堺に出、五月中旬に船に乗った。ロレンソのほかに、堺の高名な医者で、「この世を捨ててヤソ会に入った」学者が、一緒であった。
三[#「三」はゴシック体] 将軍暗殺と宣教師追放
京都で将軍暗殺という変事が起ったのはそれから間もなくである。
前年三好長慶が死んだにもかかわらずその喪を秘していたことは、いろいろな不安を反映したものであろう。先ず第一に三好や松永はその把握した権力を敵から守る必要があった。第二に三好の権力は家臣の松永の手に移りつつあった。この情勢を察したビレラは、二月から三月へかけて、河内の飯盛城や奈良の松永の城を訪ねて行ったのである。しかし、松永久秀への働きかけはうまく行かなかったであろう。ビレラの留守の間に書いたフロイスの書簡によると、畿内において武士たちの改宗の先駆けとなった結城山城守《ヽヽヽヽヽ》は、その主君たる松永久秀の京都統治が専横残虐であるのを見て、郷里の尾張へ帰りたい意志を洩らしたという。その頃からもう何かが萌していたのである。しかし事が起ったのは、三好と松永の軍隊一万二千が五月末(永禄八年五月一日)に京都に来てからであった。
フロイスはこの時のことを記して、三好殿《ヽヽヽ》が将軍から栄誉を与えられた機会に、その謝意を表するため、|己れの子《ヽヽヽヽ》、松永弾正《ヽヽヽヽ》、及びもう一人の大身をつれて京都に来たと云っている。当時京都の町の人もそう思っていたかも知れぬ。しかしこの時来たのは三好長慶の子重存(義重)、松永弾正の子久通(義久)である。重存はまだ十五歳、久通も若かった。初めての任官で、両人とも将軍義輝の「義」の字をもらった。両人はその御礼に将軍を饗応したいと申し出たが、将軍は彼らの軍隊の物々しさに怖れて、その受諾を躊躇し、或は京都からの脱走を計ったとさえ云われている。結局、饗宴の予定の日の二日前、一五六五年六月十七日(永禄八年五月十九日)早朝、清水詣を装った七十騎ほどの三好の隊が突如方向を変えて将軍の宮殿に赴き、訴状を出した。それは将軍の夫人、侍女、その他の侍臣が彼らを讒したという理由を以て、その引渡しを要求したものであった。この訴状に関して将軍ととやかく折衝している間に、三好、松永の軍隊は宮殿を囲み、銃隊はすでに庭にいた。やがて射撃が始まり、宮殿には火が放たれた。将軍義輝も母堂慶寿院も殺された。(夫人のみは幸いに脱れたが、二三日後、見出されて頸を切られた。)これがこの年の正月の参賀にフロイスの見た貴人たちの最後であった。
こういう思い切ったやり方が、十五歳の義重や義久の頭から出たのでなく、奈良の多聞城で采配を振っていた松永久秀の計画であったことはいうまでもあるまい。下剋上の大勢を代表する久秀は、伝統的なものの権威に終止符を打ちたかったのであろう。久秀の重臣であった結城山城守《ヽヽヽヽヽ》は、その日の夜、キリシタンの老人を使に寄越して、自分は主人の心を知っている筈のものであるが、しかし今度のことは全然知らなかった、|将軍を殺すほどであるから何をするか解らない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、宣教師たちは信者らと談合して自ら救う方法を講じなくてはならぬ、といわせた。老人の説明によると、松永久秀は法華宗徒である。法華宗の僧侶はキリスト教を憎むこと甚しいのであるから、久秀を説いて宣教師殺戮をやらせるかも知れない、というのであった。翌日ビレラは数人の信者と談合して次のように決心を語った。松永弾正、或はその子が、宣教師たちを殺そうと決心したならば、宣教師たちには脱れる道はないのである。だから逃げても仕方がない。京都の会堂は異教徒に占領されればもはや回復は出来ないであろう。だからあくまでも会堂を守り、祭壇の前に跪いて喜んで死のう、と。信者たちは同意見であった。三好の部下のキリシタン武士たちも、百人位しか来ていなかったが、皆同意見であった。彼らは松永弾正を呪い、その宣教師に対する計画を探知して知らせると約したが、しかし将軍の場合と同じく奇襲をやられては自分たちは間に合わないだろう、と言った。で祭具などはこっそり堺や飯盛に移すことにした。そうしてじっと形勢を観望していた。
将軍家の次にはキリスト教の宣教師である、とフロイスたちは感じていたが、しかし将軍の家臣や親近者が続々として捕えられ殺されて行く間に、キリスト教会堂に対する襲撃は全然なかった。それは三好の部下のキリシタン武士たちのお蔭であったのか、或は松永弾正自身が宣教師問題に重きを置かなかったのか、よくは解らない。が丁度この頃に、右に言及した結城山城守の長子で三好の部下となっていたアンタン左衛門が、毒殺されるという事件も起った。法華宗の僧侶がこの機会を捉えてキリスト教排撃運動を強化したということも事実であろう。松永弾正は結局|宣教師の追放《ヽヽヽヽヽヽ》、|布教の禁止《ヽヽヽヽヽ》の策を取った。しかし最初布教を許可したのは将軍や三好長慶のみではない。京都の統治の責任者としての|彼自身の名において《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、宣教師たちは京都居住を許されていたのである。だから彼は、おのれの名においてではなく、将軍よりも一層無力でありながら将軍よりも一層尊貴である「日本全国の君主」の名において、追放令を出した。即ち禁裏に申し出でて女房奉書をもらい受け、「大うす逐ひ払ひ」をやったのである。それは一五六五年七月三十一日(永禄八年七月五日)三好、松永の軍隊が京都を引き払った日の日附で、その翌日《ヽヽ》市内に布告された。布告の出た時には宣教師たちはもう京都に居なかった。
このように、宣教師の京都脱出がうまく行ったのは、三好の部下のキリシタン武士たちの働きのためであった。宣教師たちが殺されるであろうという噂を聞いたキリシタン武士たちは、所々の城から神父のもとに使を寄越したが、特に飯盛の城からは、信者のうちの主立った武士がビレラを連れに来た。ビレラを自分たちが擁していれば、万一危険が迫った際に緩和策を講ずることができると考えたからである。ビレラは、フロイスがまだ日本語を十分に話し得ないので、自ら留まって事を処する必要があると云って、中々承知しなかったが、武士たちの熱心なすすめにより、遂に出発することにした。フロイスに対しては、「日本全国の君主」或は松永弾正の命令を受けるまでは、会堂及び住館を捨ててはならないと命じた。ビレラの出発は七月二十七日金曜日であった。それから三日目、|二十九日の午後《ヽヽヽヽヽヽヽ》になると、いよいよ追放令が出たらしい情報を信者たちが持って来た。松永弾正のすすめによって日本全国の王が追放の書附を出したことは事実である。弾正の子の義久も同じ命令を出した、即刻会堂を捨てて退去するがよい、というのであった。フロイスは三人の少年に祭具の類を託して出発させたが、自分《ヽヽ》は動かなかった。追放の命令を自分が受けるまでは、会堂を捨てることは出来ない。ビレラの命令の方が自分の命よりも重い。これがフロイスの態度であった。しかし翌|三十日の朝《ヽヽヽヽヽ》になると、三好三人衆の一人である三好日向守が、その家臣のキリシタンを使に寄越して、実情を伝えた。日向守は宣教師の追放という如きことを極力阻止しようと努めたのであったが、松永弾正が背後から指図しているために、遂に成功しなかった。三好、松永の軍隊は翌日朝京都を引き払うことになっている。神父たちがその後まで京都に滞在することは危険である。出来るだけ早く堺もしくはビレラの滞在地に向って出発して貰いたい。途中は兵士を以て護衛する、というのであった。船二艘がすでに準備してあり、所持品の保護や関税の免除の手筈も整えてあった。なお日向守のほかにもう一人、三好義重の後見の如き職にある人も、同じような手配をしてくれた。それでもフロイスはその日に出発はしなかった。翌三十一日には命令の伝達があるであろうと待ちかまえていたのである。その命令の伝達は「われらの大敵なる二人の異教の武士」によって行われる筈であった。その予定の通りに行けば、フロイスやダミヤンは侮辱と苦痛とを受けて文字通りに追放せられたであろう。しかし三十一日の朝には、三好義重の秘書官役をつとめていたキリシタン武士が、主君と共に出発せず、部下を率いてあとに残った。そうして部下をして会堂を護らせたのみならず、追放命令を実施しようとしていた武士たちと懇談し、同日中に宣教師を連れ出すから追放令は翌日まで市内に布告しないで置いて貰うこと、彼らが追放令を持って会堂に赴かずとも彼がそれを宣教師に取次ぐべきこと、などの諒解を遂げた。そこでフロイスはゆっくりと信者たちに別れを告げた。信者たちも会堂を異教徒によって破壊せられる前に、自分たちの手で戸障子畳などを外して運び出してしまった。フロイスたちは午後三時頃、キリシタンの武士たちに護られ、大勢の信者たちに取り巻かれて、京都の地を離れた。町から一里半ほど来た野の中で、ダミヤンが見送りの信者たちに信仰の堅持を説き、教会回復の期待を語り合って別れた。熱心な信者三人は別れずに飯盛までついて来た。その一人は小西行長の父、小西隆佐であった。
こうして京都の教会は、建設以来六年、漸く盛大になりかけた途端に覆滅させられたのである。その隆盛の機運を作ったのは、三好氏に属する武士たちであったが、今や同じ三好氏の配下にいた松永久秀が、はっきりと反対の態度を見せはじめた。松永方《ヽヽヽ》と三好三人衆《ヽヽヽヽヽ》との対峙は、この頃から激成されて来たのである。キリスト教が武士の政治的権力と結びつくと共に、同じ武士階級のなかから反キリスト教的な運動が擡頭してくるという現象は、九州の大村の場合と同じように、ここにも見られる。尤もここでは、キリシタンの武士が仏像仏寺の破壊を敢行するというところまで行ったわけではないが、松永久秀はその独裁的権力の掌握のために、キリスト教排撃を有利としたのである。奈良を根拠地とする久秀にとっては、仏寺の勢力は無視し難いものであったに相違ない。この関係を考えると、仏寺及び宗教一揆に対して思い切った弾圧の態度をとった織田信長の出現が、日本におけるキリシタン全盛時代を作り出した所以は、理解せられ易くなるであろう。
四[#「四」はゴシック体] 京都回復の努力
京都を立ったフロイスたちは、鳥羽から船に乗り、夕方枚方で飯盛の武士たちに迎えられ、夜半に飯盛山下|砂《すな》の結城左衛門の建てた小庵に着いた。そこにはビレラや信者たちが集まっていた。キリシタンの武士たちは宣教師の京都追放を憤り、おのれの所領や妻子を捨てて死の覚悟を以てそれに抗議しようといきり立っていたので、ビレラはそれを鎮めるのに苦心していた。フロイスは更に一里ほど先の三箇島に行って泊った。
一週間ほど後に、ビレラとフロイスとは送られて堺の町に移った。ここは当時としては最も安全な場所であった。二人は日本人のイルマン二人と共に布教に従事し、訪ねてくる飯盛の武士たちを力づけると共に、この富裕な町の教養ある人たちの間に教をひろめた。その間にも京都の教会の復興の努力は絶えず続けていた。一方では飯盛の武士たちが、他方では京都の信者たちが、それに呼応した。追放令は松永弾正の名においてではなく、「日本全国の王で絶対君主でありながら何人も服従せず、偶像のように宮殿の中にいて外に出ることのない内裏」の名において発せられたのであるから、京都へ帰る免許状もこの内裏から得なくてはならない。京都の信者たちは、将軍、三好長慶、松永久秀等から得た免許状を提出して、諒解を求めた。一年後の一五六六年六月頃には内裏の意向が解った。免許状は与えてもよい、しかし「神父たちは、|人肉を食いはしない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」ということを、信者一同が仏前に誓わなくてはならぬ、というのであった。偶像による宣誓という条件は問題の解決を困難にした。もう一つの望みは、阿波公方足利義栄を擁している三好長治の家の実権者|篠原長房《ヽヽヽヽ》であった。この人は人物も立派であり、キリスト教に同情を持っている。その勢力が京都に及び、義栄を将軍とすることが出来れば、そこにも教会回復の道は開けるであろう、とフロイスたちは考えていた。しかしこの道も容易に開けなかった。
一五六六年四月の末に、ビレラはトルレスの命によって豊後に移った。平戸を追放された直後、京都布教を命ぜられて初めて堺に着いてから、もう八年目であった。その間のさまざまな艱難が、この四十代の神父を白髪の老人にしてしまった。今また京都を追放され、彼の建てた聖母の会堂を再興する見込も立たないままで、堺を立って行ったのであった。
あとに残ったフロイスは、日本に着くと間もなく横瀬浦の没落を見、京都に入ると間もなく京都の教会の没落を経験した人であった。ということは彼が最初の開拓者たちのあとを受け、その仕事の再興《ヽヽ》という立場に立っていたことを意味する。そのためには何よりも先ず、ビレラやロレンソが数年間の苦心で作り上げた信者たちを、保持して行かなくてはならなかった。堺には信者の数が少なく、会堂らしいものもなかったが、一五六六年のクリスマスには|堺の町の会議所《ヽヽヽヽヽヽヽ》を借り、町の外で対峙していた軍隊のなかのキリシタンの武士たち七十人ほどをも参加せしめて、告解・聖餐・ミサなどにつとめた。戦場では敵対している武士たちが、ここでは一人の主君の家来ででもあるかのように睦まじかった。飯盛からはサンチョが部下をひきいて参加した。一五六七年の一月にはサンチョに招かれて三箇に行き、八日ほどの間毎日二回のミサを行った。四旬節には三箇から灰をもらいに来たが、復活祭の週は|堺と京都《ヽヽヽヽ》との信者たちが三箇に集まって一緒に祝うことになった。そのためのサンチョの尽力は非常なものであった。交通のための船や馬の用意、宿の割りあて、会堂の応急拡張など、費用を惜しまずに努めた。三年来告解の機会を持たなかった京都の信者たちは、泣いて喜んだ。がこうして信者たちが集まって来た丁度その時期に、三好義重が兵を起したとの知らせが堺から来た。一同は騒ぎ立って復活祭の行事も滅茶滅茶になるかと見えたが、サンチョは平然として、この地は安全である、十五日や二十日の間に戦争の起ることはない、帰途の安全も引きうける、神の光栄のために集まったものは神が守って下さると言った。それで一同は安心して予定通り復活祭を終った。
この時信者たちを脅かした戦争の噂は、三好義重が三好三人衆の手を離れて松永久秀と合し、久秀がその党を集め始めたことにかかるであろう。サンチョの予言の如く半月や一月で戦争にはならなかったが、半年後には、奈良の大仏殿を焼いたあの戦争になったのである。
このように三好の当主義重が三好三人衆と離れたのは、阿波より迎えられた足利義栄が三好三人衆を重んじて義重を省みなかったからである。足利義栄は前年の夏|篠原長房《ヽヽヽヽ》に擁せられて兵庫に上陸し、摂津越水城に拠っていた。三好三人衆は篠原長房と力をあわせ、義栄を足利将軍たらしめようと企てていたのであるが、その長房の寵臣に一人のキリシタンがあり、その縁でフロイスも二三度長房に会い款待を受けた。長房はフロイスの請に委せ、公家の一人に書簡を送って宣教師の追放解除を説いたこともある。飯盛のキリシタン武士たちもこの点において長房に結びついた。二十五人ほどの主立った武士が尼ヶ崎で会合し、篠原長房と三好三人衆との前へ出て、代表者三箇のサンチョをしてその主張を述べしめた。自分が三好の居城飯盛を預かった時には、神父を京都へ帰らしめるということのほかに希望はなかった。しかるに三好三人衆はそのことを実現しないのみか寧ろそれを妨害して来た。しかし神父を京都に帰還せしめることは我々の面目の問題である。今や三好の当主は松永と合体し、三好の家臣たる我々はそれに従わなくてはならないのであるが、しかしもし篠原長房及び三好三人衆が神父の京都復帰を決定せられるならば、我々は篠原殿の手について力限り働くであろう。我々の求めるのは禄でもなく名誉でもなく、ただ神父の京都帰還である、というのであった。長房はこれに同意し、三好三人衆をもほぼ同意せしめた。しかるに丁度その頃、三人衆の親戚の青年で、三箇でキリシタンとなった武士が、越水城の青年武士と共に遊山に行った際、些細な言葉争いから仏像に不敬を加えるという事件が起った。三好三人衆はまた硬化しそうに見えた。篠原長房もこの事件を喜ばなかった。しかしそれは神父の責任ではないというので、半月ほど後に、長房は公家宛の書簡を書き、三好三人衆にも渋々と同様の書簡を書かせた。こうして篠原長房の圧力が漸く内裏に加わり始めた途端に、堺附近にいた三好義重が松永久秀に擁せられて信貴山城に入ったのである。それは一五六七年の五月の初めであった。公家は形勢を観望して容易に返答を与えなかった。松永久秀と篠原長房とのいずれが勝つかは、――況んやこの二人のいずれもが制覇に成功しないであろうなどとは、当時何人にも解らなかったのである。
一五六七年の夏、奈良まで攻め寄った三好三人衆の軍隊は、大仏殿に陣して多聞城の松永の軍に対したが、攻囲半年の後、夜襲によって大仏殿を焼かれ、敗退した。しかし京都制圧の勢力を失ったわけではなかった。篠原長房らは足利義栄の将軍宣下に努力し、年内には成功しなかったが、翌年の三月の初めには遂に成功している。堺のフロイスの状況はあまり変らなかった。一五六八年の復活祭は前年のように三箇で行われた。サンチョの計画した会堂はすでに出来上りつつあった。前年に異なるところは、フロイスが尼ヶ崎その他|摂津の地《ヽヽヽヽ》において身分ある武士たちを教化したことである。京都の会堂は篠原長房の尽力によって信者たちの手に返り、聖霊降臨祭の後には日本人のイルマンが行って四十日ほど働いた。神父の京都帰還については、長房は遂に、最後通牒を発した。神父を追放しなくてはならないという理由は、何にもない。だから神父の京都帰還を許可せられないならば、自分は権力を以て彼らを復帰せしめるであろう、というのであった。
しかるに、それがどうなるか解らないうちに、織田信長が、将軍たるべき足利義昭を擁して上京して来たのである。
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[#小見出し] 第七章 九州北西沿岸地方における布教の成功
一[#「一」はゴシック体] 福田の開港
一五六五年、京都で将軍暗殺の変事が起った時よりも一カ月ほど前に堺を出発したダルメイダは、豊後を経て島原《ヽヽ》でトルレスと落ちあい、おのれの開拓した葡萄園の果実を静かに味うことが出来た。そこから信者たちの二艘の大船に送られてトルレスと共に|口の津《ヽヽヽ》に帰ったが、ここも彼の開拓した土地であった。しかし彼は、席の温まる暇もなく、半月の後にロレンソを伴って福田《ヽヽ》の港に派遣されたのである。
長崎の直ぐ西の、外向きの海岸にある福田《ヽヽ》が、横瀬浦に代って大村領の開港地に選ばれたのは、この年からである。やがて|一五七〇年《ヽヽヽヽヽ》に長崎《ヽヽ》が開かれるに至るまでの四五年の間、(口の津が用いられた唯一年のほかは、)福田がポルトガル船の寄港地になった。しかし平戸の地位を福田が奪うについては、相当に面倒なことが起らなかったのではない。前の年には、トルレスの平戸忌避の方針にもかかわらず、ポルトガル船が平戸へ入った。ポルトガル王から任命された司令官《カビタン・モール》の乗船サンタ・クルスさえもそうであった。司令官ドン・ペドロ・ダルメイダがトルレスの方針に従おうとしても、商人たちはそれをきかなかったのである。そこで当時|度島《たくしま》にいたフロイスは司令官と相談して、平戸の領主松浦侯に交渉し、|宣教師追放の取消し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》や|会堂再建の許可《ヽヽヽヽヽヽヽ》を取りつけることに成功した。平戸の領主にとっては、そういう犠牲を払ってでもポルトガル人との貿易を続けたかったのである。こうして前の年の十一月には、日本で最も大きく美しいといわれた会堂が出来上り、日本に馴れたフェルナンデスのほかに新来の神父ダ・コスタ・カブラル、少し前に来たイルマンのゴンサルベスなどが滞在して、盛んに布教を始めた。松浦侯に対しても、会堂へ招待したりなどして、いろいろと働きかけた。附近の島々では、著しく教勢を拡めることが出来た。そういう形勢から考えて、平戸の領主は、一五六五年度のポルトガル船も勿論平戸へ入港すると考えていたに相違ない。しかるにその一五六五年の七月ごろ、司令官ドン・ジョアン・ペレイラの乗った商船が横瀬浦について平戸へ連絡したとき、平戸にいた神父コスタは、ペレイラの平戸入港を止《と》め、新しい港|福田《ヽヽ》に廻航させたのである。その理由は、松浦侯の嗣子がキリシタンの少年の持っていた錫のキリスト像を涜したことに対し、松浦侯が謝罪の約束をしながら、それを履行しなかった、ということである。キリシタンが仏像の破壊を大仕掛けにやっていることに比べれば、この少年の仕業は、松浦侯の眼には一小些事に映ったであろう。従ってこの事を口実としてポルトガル船が平戸入港をやめるとは予期していなかったであろう。しかし神父たちは既にキリシタンとなった大村純忠を支持するために、ただ貿易のための方便として渋々布教を許しているような平戸の領主から、貿易の利を取上げるという方針を確定していたのである。司令官ペレイラはこの方針を是認し大村領の福田港で貿易を開始した。これを知った平戸の領主は、ポルトガル船の「生意気」な振舞いを憤り、遂に五十余艘の軍船を派してこれを襲撃せしめたのである。ドン・アントニオ籠手田は勿論この企てには反対であった。だから松浦侯は彼に知られないように、ただ反キリシタンの武士たちだけを集めてこの企てに参加せしめた。倭寇と関係がないでもない彼らは、ポルトガルの「商人」に何程のことが出来ようと見くびっていたのでもあろうが、しかし襲撃は全然失敗であった。大砲の威力は大きかった。軍船隊は分散破壊せられ、死者六十余、負傷者二百余を乗せて帰って来た。目ぼしいキリスト教の敵が大勢死んだ。これでポルトガルの商船と平戸港との関係はきっぱりと絶えたのである。
福田の港へ来たポルトガル人の告解を聴きミサを行うためには、豊後から神父フィゲイレドが呼ばれ、ダルメイダに一足おくれて来た。丁度その頃に領主の大村純忠が、七歳位の長女の病気をなおしに来てくれと頼んで寄越したので、ダルメイダは、畿内で多数の武士を教化したロレンソをつれて大村に赴いた。純忠は内乱勃発の一寸前にトルレスに会って以来、|二年の間《ヽヽヽヽ》、宣教師の誰にも会う機会がなかった。その間彼は、|キリスト教信者なるが故に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、多くの攻撃を受け、それに堪えなくてはならなかったのである。従って彼の周囲において最も必要であったのは、|仏教との対決《ヽヽヽヽヽヽ》においてキリスト教の信仰を確立することであった。この仕事はロレンソの最も得意とするところであった。ダルメイダが純忠の女を治療している間に、ロレンソは数回説教を行い、武士たちを感動せしめた。
ダルメイダは福田の港に引き返すと直ぐトルレスの命によって口の津に帰り、そこから、豊後へ派遣された。途中島原に寄って「日本中での最も熱心なキリシタンたち」の面倒を見、豊後では府内のバウティスタを助けて働き、臼杵の町に宣教師館を建てる世話をしたが、十月にはまた福田の港へ来た。
その間に純忠は福田の港へ神父フィゲイレドや船長ドン・ジョアン・ペレイラなどに会いに来た。会堂で祈祷した後、船に行って盛大な饗応を受けたが、ポルトガル人たちは非常に喜んで、この領主のためにはどんな事でもしようと申し出た。|キリスト教のために戦う領主《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということで、彼は、ポルトガル人の同情と、そうして貿易とを、一手に集めたのである。
二[#「二」はゴシック体] キリシタン武士たちの努力
一五六五年の十月にドン・ジョアン・ペレイラの船は福田港を去った。そのあとでトルレスは、病気療養のため平戸から福田へ呼び寄せていたカブラルをイルマンのバスと共に豊後に移し、クリスマス後にはフィゲイレドを島原に派遣した。フィゲイレドはまだ日本語が話せないので、堺の人パウロが彼を助けて、一五六六年の四旬節、復活祭などを営むことになった。告解をきくためには、口の津からトルレスが出向いて行った。ダルメイダが基礎をつくり、フロイスが口を極めて賞讃した島原の教会は、こうして一時非常に隆盛になりかけたのである。(そのため翌一五六七年には烈しい反動を呼び起したのではあるが。)
有馬領の口の津や島原がこうしてキリスト教化して行くのを見た大村純忠は、頻りに宣教師の大村派遣《ヽヽヽヽ》を懇請して来たが、トルレスはそれに応じなかった。今はもう「手が足りない」からではない。敵地の平戸や、大村よりも新しい島原にさえ、神父を駐在せしめている。しかも日本で最初のキリシタン大名たる大村純忠の許へ宣教師を送らないのは、|純忠の敵に謀叛の機会を与えないためだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と説明された。従ってトルレスは、|純忠が針尾地方を占領するまでは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》宣教師を送らない、と明白に答えた。針尾は横瀬浦の対岸の島で、平戸領に接し、トルレス暗殺の計画を立てた勢力の根拠地であった。トルレスのこの態度を見た純忠は、さしずめの必要として家臣を三四人ずつ次々に|口の津《ヽヽヽ》へ洗礼を受けに寄越したが、問題の根本的解決をはかるためには、一五六六年の五月頃に、いよいよ針尾地方、従って平戸の勢力に対して、戦端を開く決心をしたらしい。温厚なトルレスにも十字軍的な気持はあったのである。
平戸の領主や、その配下の反キリスト教的な武士たちが、この形勢を察知していなかった筈はない。しかし彼らの教会に対する態度は、上べに愛情を現わしつつ、行う所において敵たることであった。福田の港から教会に送られる食糧や器具の類はしばしば掠奪をうけ、掠奪された聖母像が涜されるというような事件も起った。それにつれて、キリシタンの武士と反キリスト教的な武士との問の軋轢も起った。もし宣教師が抑止しなかったならば、ドン・アントニオ籠手田やその兄弟ドン・ジョアン一部などは、聖母への侮辱に報復するために、武器を取って立ったであろう。しかし宣教師は、異教徒が数においてキリスト教徒に三倍すること、報復の行為は異教徒に教会破壊の口実を与えることを説いて、堅く手出しを止めた。反キリスト教側の武士たちも会堂破壊、ドン・アントニオ襲撃などの計画を立てたことがあったが、キリシタンたちの決死の防衛態勢を見た領主たちは、同じように手出しを禁じた。そういう仕方で漸く平戸の教会は、「平和のうちに」存立することが出来たのである。
一五六四年の秋、平戸の教会が回復される機会に渡来した神父のコスタは、日本語を学ぶ上に驚くべき進歩を示し、翌一五六五年のクリスマスの一月ほど前には、自分で告解をききうるほどになった。告解の際の勤めは、トルレスよりもよく解るほどだとさえも云われた。これは平戸や附近の島々の信者たちにとっては、大きい出来事であった。この地方で告解をきいたのはトルレスだけで、そのトルレスが口の津にいるために、もう四年来告解が出来なかった。あとの神父たちは、フロイスもカブラルも、告解をきくほどに日本語が出来なかったのである。だからコスタが告解をきき始めると共に、島々の信者は沸き立った。一五六六年の一月からは、生月島、度島、平戸西岸の村々を廻って、告解をうけた。この地方の古馴染のフェルナンデスも一緒であった。この巡回は島々の信仰を新しく活気づけたが、その後四旬節から復活祭までの営みを平戸の会堂で行う際にも、これまでに見られなかったような活気が現われた。教会回復以来、毎年の復活祭は、|敵のいない度島《ヽヽヽヽヽヽヽ》へ行って営んだのであるが、この年には異教徒の妨害に備えた武装警戒のもとに、平戸で盛大に行ったのである。こうして平戸諸島には、この後のどんな迫害も根絶せしめなかったような根強い信仰が育てられたのであった。
三[#「三」はゴシック体] ダルメイダの五島、天草及び長崎の開拓
この同じ年にトルレスは、ダルメイダをして二つの新しい土地を開拓せしめた。|五島と天草《ヽヽヽヽヽ》とである。
一五六六年の初め、フィゲイレドが島原へ派遣されたと同じ時に、ダルメイダは五島《ヽヽ》へ派遣された。元琵琶法師のロレンソが同行した。この五島の開拓についてはダルメイダが詳細な報告(一五六六年十月二十日附志岐発)を書いている。一人も信者のいなかったこの島で、彼は半年余の間に、多くの信者と数カ所の会堂とを造り出したのである。
最初、彼が島に着いたのは太陰暦の正月の前であったが、やがて新年になり、島の主立った武士たちが領主の許へ集まって来た。(ダルメイダは領主の居所をオチカとしている。しかし小値賀島ではなさそうである。普通には今の福江港だとされている。)それらは皆相当の教養を持っていた。そこで正月の十五日過ぎに、これらの武士たちに対して、七日間説教をしたいということを申し出た。領主は、今空いている旧邸を提供し、自分や夫人も聴聞する旨を告げた。翌日夕方その邸に行くと、大広間に燈火を多く掲げ、四百の男子が列んでいた。婦人たちは接続した他の室に控えていた。領主は上段の間にいたが、そこへダルメイダやロレンソを請じた。座が静まったときダルメイダは、自分は日本語が十分でないから、ロレンソをして自分の考を述べさせる、と挨拶し、ロレンソに説教を始めさせた。その内容は宣教師が日本の各地で説いていることと変りはなかったが、しかしその説き方が実に放胆・軽妙・明快で、聴衆を承服させずにはいない力を持っていた。特に異教の立場との討論を一人でやって見せたのが鮮やかであった。こうしてロレンソは三時間の間聴衆を魅了した。その手際はダルメイダをも驚嘆させるほどのものであった。領主も武士たちも非常な感銘を受け、続いて説教を聴こうという気持で帰って行った。
このようにすべり出しは好かったのであるが、突然その翌日、領主は烈しい熱病にかかった。命も危いように見えた。仏僧たちはそれを仏罰だと云った。武士たちの心に萌えた芽は直ぐ枯れそうになった。しかし、仏僧たちが病気平癒のために大わらわになってやった大般若経の転読も効果はなかった。三日目には病気は一層重くなった。この時ダルメイダは、|領主は恢復する《ヽヽヽヽヽヽヽ》、このままほって置けば大般若がきいたことになる、と考えた。そこで宿の主人である武士を介して、自分は薬を持っているし医療の経験もある。領主が脈をとり尿を験することを許されるならば、病気は癒せるであろう、と申し入れた。領主は喜んでダルメイダを招いた。翌日ダルメイダは領主を鄭重に診察し、解熱剤《ヽヽヽ》を与えた。薬はその日からきき始め、次の日にはよほど熱が下りた。ダルメイダはその|心理的な効果《ヽヽヽヽヽヽ》に一層力を入れた。あとにはひどい頭痛が残り、夜間の往診を必要とするほどであったが、この時には鎮痛剤催眠剤を与えた。領主は久しぶりで熟睡した。その心理的な効果もまた大きかった。次の日往診したダルメイダは、領主の病の快癒したことを告げ、彼を救ったのが天地の造主であって、大般若経でないことを説いた。ダルメイダの宿には、領主から贈った猪一頭、雉二羽、家鴨二羽、大きい鮮魚五尾、酒二樽、米一俵、その他領主夫人、庶子などの贈物が充満した。ダルメイダはそれで以て領主の家臣数人を招き、領主の病気平癒の祝宴を開いた。ダルメイダは勝ったのである。
しかし半月ほどの後、四旬節の初めに再び説教をはじめると、その二日目にまた突然火災が起り、同時に領主の指が腫れて痛み出した。指はダルメイダの薬で癒ったが、説教をききにくるものは殆んどなくなった。ただこの島に来ていた博多の商人が二人、教をきいてキリシタンになったことが、この地の人々の注意を引いた位のものであった。
他方、医者としてのダルメイダの信用は大したものであった。領主は、その伯母の病気の治療をダルメイダに頼んだ。領主の娘・庶子・甥・弟なども彼の治療を受けた。これらの病人が簡単な薬で癒ったことは、ダルメイダ自身にも不思議に思われるほどであったが、そのお蔭で彼は領主やその家族親戚と非常に親しくなった。領主は説教場に使った邸宅を彼に与えると云い出した。
この現象は貿易のために熱心な平戸の領主がキリスト教を喜ばなかったのと似たものである。だからダルメイダもまた、布教がうまく行かないならばこの地を去るほかはない、という態度を取ることになった。島に来てから三カ月以上を経たとき、彼はトルレスからの使者が携えて来た大友宗麟の招きの書簡を見せて、領主たちに島を去る旨を告げた。領主は涙を流して引きとめたが、ダルメイダは、長老の命令であるからと云ってきかなかった。止むを得ず領主は家臣一同を招いて盛大な別宴を催した。が、出発の前夜になって領主は、二十歳になる一子と共にダルメイダを訪ねて来て、再び熱心に引きとめた。領主がダルメイダを招いて以来もう百日を超えている。しかるに領内にはまだ一人のキリシタンも出来ていない。かく無収穫でダルメイダが去ることになると、家臣たちは何と批評するであろう、と領主は言った。これはダルメイダが云いたかったことなのである。それを領主から云わせて、ダルメイダは留まることに同意した。トルレスからの使者にその旨を復命して貰い、再度の指令の来るまで取り敢えず留まろうというのであった。
領主は非常に喜んで、ダルメイダの望む布教活動の支持に乗り出した。会堂の敷地を与え、その建築を補助する。キリシタンとなろうとする者には許可を与える。異教の祭は強制しない。会堂に領地を附け、その収入を慈善事業に使わせる、などである。またトルレスに多くの贈物を届け、ダルメイダの五島滞在を懇請する手紙を書いた。領主の家族や、町の人の喜びも非常なものであった。やがて領主は五十人ほどの武士と共に説教をききはじめた。ロレンソがまたその雄弁をふるった。十四日の間説教は続いた。重臣など二十五人の武士が改宗を決意した。そこで更に二十日間の準備教育をして洗礼を授けることになった。その途中で仏僧の妨害や平戸人との紛争が起ったが、それは二十五人の武士の決意を揺がしはしなかった。そこでダルメイダは、最後に一夫一婦《ヽヽヽヽ》の条件を持ち出した。武士たちは大抵三四人の妻妾を有していたからである。武士たちはその条件をも容れて、妻一人を定めた。この事は領主の夫人を初め婦人連に非常に好評であった。キリシタンとなった者の妻は幸福である、と領主の夫人は言った。こういう準備のあとで、二十五人の武士は、出来る限り荘厳な仕方で洗礼を授けられたのである。
これを皮切りとして急激に布教の仕事は進んだ。領主の居所から一里半ほどの所(大津)では、寺を会堂に改造した。その近くの奥浦では、景色の好い岬の上に会堂の敷地を作り、ダルメイダの二十日間の滞在の間に百二十三人の受洗者を出した。やがてこの敷地には、領主が美しい会堂を建ててくれたのである。それほどであるから、領主の居所オチカの町では、受洗希望者は続々として現われて来た。領主は、ロレンソが最初説教した大きい邸をダルメイダに与えたが、ダルメイダがそれを利用しないのを見て、ダルメイダに希望の設計図を引かせて会堂の建築にとりかかった。婦人や子供の教化はこの会堂の落成後に延ばさざるを得なかった。
こうして五島の布教が順調に進み出したのは六七月の頃であったが、間もなく、平戸の領主の姻戚である武士が、五島の領主に叛いて兵を挙げた。キリシタン武士たちは勇敢に戦って謀叛人たちを敗走させたが、平戸の領主はその姻戚を助けるために二百隻の軍船を派遣することになった。沿岸の住民は食糧を携えて山城に籠った。奥浦で病気になっていたダルメイダも、命からがら峻険な山にのぼらざるを得なかった。しかし幸にもドン・アントニオ籠手田の率いた平戸の大艦隊は、五島の端の島の海岸数カ村を焼いただけで、約一カ月の後にひき上げてしまった。五島の領主は百隻の艦隊を派して平戸領の島に復讐した。
口の津のトルレスは、ダルメイダの病気のことを聞き、恢復期を大事にするために帰還を命じた。あとにはロレンソが残ることになった。領主は、非常に悲しんだが、やがてダルメイダが引き返してくるか、或は他の神父が来るという約束で承知し、色々の物資を携えてキリシタン一同と共に奥浦の港まで見送りに来た。
ダルメイダが、暴風雨になやみながら福田の港につくと、そこにはポルトガル船が一隻着いて居り、近畿地方から久しぶりにひき上げて来たビレラが滞在していた。豊後から来たジョアン・カブラル――血を吐く病気のために遂に、この秋日本を去らざるを得なかったカブラル――も一緒であった。
ダルメイダはトルレスの許に二十日ほど留まっただけで、盆過ぎにはまた天草島北端の志岐に派遣された。志岐の領主志岐鎮経は、有馬の領主と親しく、有馬義貞や大村純忠の弟に当る諸経を養子にしていたのである。諸経は上品なよい青年で、すでにダルメイダたちの注意をひいていた。ダルメイダは日本人イルマン・ベルシヨールをつれて志岐に行き、領主や諸経から非常に款待を受けた。直ぐ説教を所望されたが、大広間は身分ある武士たちで一杯であった。領主の前に出ることの出来ない人々のためには、旅宿で説教を始めた。こうして説教を続けているうちに、やがて領主はキリシタンになろうと考え始めたが、大村領におけるような内乱を慮って、秘密《ヽヽ》に洗礼を授けてくれないかと云った。これはダルメイダが断わった。しかし、この懸念は家臣たちが続々キリシタンになって行けばおのずから取り除かれるのであるから、家臣たちの改宗を促進することが双方の関心事になった。十月の中頃には洗礼を受けようと決心したものが五百人以上に達した。すべては順調であった。十月の末には、遂に領主が、多くの身分ある武士たちと共に、洗礼を受けるに至った。会堂の工事も、ほとんど出来上った。
ダルメイダは福田の港に行く必要があったので、代りにイルマンのサンチェズがやって来た。やがて福田の港のポルトガル船がジョアン・カブラルを乗せて去って了うと、神父ビレラもまたダルメイダの開拓したこの土地へ収穫にやって来た。彼の手で洗礼を受けた武士たちは非常に多かった。やがてビレラは去ったが、サンチェズは一五六七年を通じてこの地に残り、附近のフクロや梅島に布教すると共に、志岐の会堂の増築や信者の固めに尽力した。
こうして天草の志岐は、初めのうち非常に調子が好かった。で、一五六八年の初めに、老年のトルレスが口の津から志岐に赴いた。イルマン・バスを先発させて準備した上、志岐の有力な武士たちの迎えの船で、盛大な歓迎のうちに志岐に乗り込んだのである。そうしてここで四旬節や復活祭を営んで夏になると、シナからの船が神父アレッサンドロ・バラレッジョを福田の港へ運んで来た。トルレスはこの新来の神父を志岐で迎えた。その時にはダルメイダも来ていたが、トルレスがイルマンたちや童男童女の合唱隊を率い、ラテン語の讃美歌を唱いながら出迎えたときには、バラレッジョは歓喜のあまり茫然としてしまったという。会堂について信者たち一同と祈祷した時にも、このような遠隔の地で、イタリアにおいてさえ見られないものを見るという気持がした。志岐の教会が、短時日の間に急速に発達したことは、このバラレッジョの印象によっても察することが出来るであろう。
そこでトルレスは、この機会に、諸地方の神父やイルマンたちを|志岐に招集《ヽヽヽヽヽ》し、日本におけるヤソ会の方針を協議することにした。口の津にはトルレスの去ったあとへビレラが来ていた。五島にはダルメイダの去ったあとへバウティスタが行っていた。豊後にはフィゲイレドがいた。平戸には、引きつづぎコスタが滞在していたが、シャビエルに同伴して来た老年のフェルナンデスは、前の年に静かにこの地で世を去った。それらの神父たちは一五六八年の八月に志岐に集合して会議を開いた。この時一時的にもしろ、天草の志岐は日本布教の中心地となったのである。日本の他の地方には、|領主がキリシタンであって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、しかも、それを理由とする|内乱が起っていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という所は、どこにもなかった。トルレスがこの事態をいかに重要視していたかが、この志岐会議に示されているといってよいであろう。
ダルメイダはいつも開拓者であった。一五六七年には長崎を開拓した。長崎《ヽヽ》の領主は大村純忠の臣下で、既にキリシタンとなっていたが、ダルメイダはその領地に行って多数の信者を作ったのである。勿論日本人のイルマンを伴って行ったであろうし、その訪問も幾度か回を重ねた。一五六八年秋の報告によると、身分あるものは悉く信者になり、平民の間にも五百人の信者が出来た。附近の村々からも信者が|長崎の会堂《ヽヽヽヽヽ》に集まって来た。志岐会議の後、福田の港に行っていたビレラは、船が去ってから|長崎に移って《ヽヽヽヽヽヽ》その冬を過し、その間に三百人の信者を作った。恐らくその頃にもう長崎の地が福田よりも良い港であることは知られていたであろう。ポルトガルの船はこの後もなお二年ほど福田の港に来ているが、しかしビレラはこの冬、即ち一五六八年の末以来ずっと長崎に住み込み、トドス・サントスを建てて、長崎繁栄の基礎を築いたのである。
四[#「四」はゴシック体] トルレスの最後の活動――大村の会堂と北九州の政治的情勢
ビレラが長崎に住み込んだと同じ頃に、大村純忠の多年の望みが達せられ、大村にも会堂が出来た。日本最初のキリシタン大名は、改宗後五年半にして漸く自分の城下でミサを聴きクリスマスを祝うことができるようになったのである。
純忠が二年前に熱心に宣教師の派遣を懇請したときには、トルレスは内乱の危険を口実として宣教師を送らなかった。純忠はその領内の福田の港にポルトガル船が着き神父が来住する機会を捉えて、そこを訪れ、僅かにその渇望を癒すほかはなかった。しかし純忠は絶えずトルレスと連絡をとり、その懇請をも続けている。志岐会議に先だつこと三カ月の頃にも、彼はその子に洗礼を授けるためにトルレスに大村へ来ることを懇請した。トルレスは大村の領内が平和に帰したことを認め、迎いの船を送って貰いたいと答えたのである。しかしこの時には、志岐の領主が熱心に引きとめ、トルレスの提出した要求を承諾したりしたために、出発することができなかった。やがて志岐会議が催されたが、それの済んだあとの九月に、口の津で腫物を病んでいたダルメイダを見舞うという口実のもとに、トルレスは志岐を出発した。口の津で半月余を送った後に、更にポルトガル人の間の不和の調停のためという口実をもって、彼は福田の港に赴いた。ここでは帆船その他の船が祝砲を打って迎えた。十日経たない内に純忠が福田へトルレスを訪ねて来た。着くと先ず会堂へ行ってミサを聴き、そのあとでトルレスに挨拶し、それからやっと宿へ入った。その日の午後トルレスは七十人ほどのポルトガル人を連れて純忠を訪ねた。それから二日の間協議を重ね、トルレスは|巡察のために《ヽヽヽヽヽヽ》大村へ行くということになった。出発の準備をしている間に近隣の領主たちや純忠の家臣らが盛んにトルレスを訪ねて来た。やがて十月五日に卜ルレスは五人のポルトガル人と日本人イルマンのダミヤン及びパウロを連れて大村に行った。翌日一行は純忠の館で晩餐の饗応をうけ、そのあとでダミヤンが夫人たちに説教をした。やがて純忠は評議会を招集し、トルレスに|このまま大村滞在を懇請すること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、会堂の敷地をトルレスに与えることなどを附議した。キリシタンであるものもないものも皆これに賛成し、彼らの意志としてトルレスに懇請して来た。トルレスが多年切望していたことは、今や向うから転げこんで来たのである。
純忠はかなり広い地所を与えた。会堂の建築は早速始められた。それが出来上るまでトルレスは、その滞在していた家でミサや説教を行った。受洗者は続々と出で、三回で二百四十人ほどになった。純忠もその子の洗礼を希望したが、トルレスは純忠夫人の帰教を重視していたので、母親と共に授洗しようと云って先へのばした。
会堂は一五六八年十二月の初めに出来上った。そこで大村での最初のクリスマスが盛大に祝われた。純忠はこの祭を盛大にするために、会堂の隣りの地に大きい舞台を造り、周囲に多数の桟敷を設けて、二千人の公衆の前に宗教劇を演ぜしめた。純忠夫人も侍女たちを連れて大きい桟敷に来て居り、トルレスも二人の日本人イルマンやポルトガル人と共に他の桟敷にいた。この時のトルレスの満足はほぼ推測することができる。彼が純忠をめがけて豊後から移って来て以来、六年を経て、漸く|キリシタンを領主とする国の首府《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に、|領主を信者の筆頭とする教会《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を作り上げたのである。
トルレスは、一五六九年から一五七〇年の復活祭の後まで大村に留まり、ここで日本諸地方の布教の指揮をした。彼が二十年来目ざしていたことは漸く緒についたと云ってよい。政治的権力を教会の下に置くという彼の企ては、大村では非常に成績がよかった。武士たちが神父の命令を尚び服従したことは、一ポルトガル人をして世界中にその比がないと云わせたほどであるが(一五六九年八月十五日発無名ポルトガル人書簡)、トルレスはその服従を異教との対立の克服に利用した。大村でポルトガル人の従僕が数人の仏僧に殺されたことがある。それを見た純忠の家臣たちは、猛然として殺されたキリシタンのために復讐しようとした。トルレスは純忠に復讐をとめた。純忠は、自分の家臣たちが最早|自分の命令を聞き得ない段階《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に達していることを述べ、トルレスに直接の命令を乞うた。トルレスは、寺院の焼き討ち、僧侶殺戮に乗り出して行った武士たちに、途中から引き返しを命じた。領主の命令に従わなかった武士たちも、トルレスの命令には躊躇することなく従った。世界中で最も復讐を重んずる武士たち、復讐をしないのは最大の恥辱であると考えている武士たちに対して、トルレスは、復讐を抑止することが出来たのである。そのために大村では、新しい紛争を防止することが出来た。このことは未だ改宗していない有力な武士たちを非常に感動せしめた。争いを挑発しているのは仏僧たちであって、神父たちではない。神父は信頼するに足りる。こういう印象の下に、キリスト教は反って地歩を占めることが出来たのである。
トルレスは一五七〇年六月、新しく着いた神父フランシスコ・カブラルに長老の職を譲り、間もなく十月二日に志岐で歿した。七十一歳位であった。だから|大村での一年半《ヽヽヽヽヽヽヽ》はその最後の活動期なのであるが、丁度その時日本は政治的に新しい時期に入りつつあったのである。東の方では信長が京都に現われた。九州では大友宗麟の勢力が非常にのび、北九州から毛利の勢力を追い払ったのみならず肥前の竜造寺を圧迫して来た。それに応じてトルレスも、ダルメイダを使って、いろいろな手を打っているのである。
天草島東側の本渡城の主天草氏は、志岐氏の三倍ほどの領地を支配していた。前から宣教師に関心を持ち、トルレスが初めて志岐に赴いた頃にはダルメイダを名指してその派遣を懇請して来たほどであったが、大村に落ちついたトルレスは、一五六九年の初めにダルメイダをこの天草氏の許へ派遣した。ダルメイダはそこで開拓者としての辣腕をふるった。領主の方でキリスト教への熱心を示して来なければ、彼は直ぐ立ち去ろうとする態度を示すのである。領主はそれに釣られてあわてて布教の許可を与えたが、政治の実権が家臣の手に移っていることを見て取ったダルメイダは、|先ず五カ条の条件《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を提出した。一、領内の布教を喜ぶ旨の城主等署名の文書、二、領主も家臣と共に八日間説教をきくこと、三、キリスト教をよしと認めた場合には子の一人をキリシタンとし、|キリシタン武士の首領たらしめること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、四、会堂の敷地を与えること、五、|志岐との間の沿岸七里の住民《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にキリシタンとなる許可を与えること、などである。領主はこれを承認した。そこで、それまで静かに形勢を観望していたダルメイダは、二人の日本人イルマンと共に目ざましい活動をはじめた。先ず、全領の行政を握っていた家老のドン・レアンが、家人ら約五十人と共に洗礼を受ける。次でその外舅が同じく五十人ほどと共に洗礼をうける。他にも重臣数人がそれに続く。更にダルメイダはドン・レアンの援助をうけて村々を巡り、そこにも四百人ほどの信者を作った。こうして僅か二カ月ほどの間に全領内が動き出したように見えた。
その形勢は、直ぐに政治的な分裂をひき起した。仏僧たちの働きかけで、領主の兄弟が先頭に立ち、有力な武士たちを集めて、ドン・レアンの排斥運動を企てたのである。一夜、一味の武士たち七百人が寺院に集合し、ドン・レアンの家を襲撃しようとした。出発に先立ち領主にこの挙の承認を求めたが、領主は承認を拒んだ。レアンを殺すのは領主を殺すも同様であると答えた。そうしてレアンの許に急を伝えた。キリシタンの武士たちは続々レアンの家に集まり、その手につくものは六百人に達した。一人の主立った仏僧が、領主やレアンに説いて廻った。レアンに対しては、キリスト教を捨てよ、然らずばこの地を立ち去れと要求した。レアンは、ただ領主の命令にのみ従う旨を答えた。領主はついに口説き落されて、平和のため暫くこの地を去れ、とレアンに命じた。レアンは止むを得ず、妻子及び家臣約五十人と共に船に乗って口の津に赴いた。
この出来事は五月に起ったが、ダルメイダは八月まで天草に留まって攻勢の回復に努めた。先ず第一に彼は大友宗麟に依頼して、キリスト教の弘布を希望する書簡を天草の領主に送って貰った。当時肥前の竜造寺を圧迫していた宗麟の睨みは、天草へは十分に利いたのである。領主はこの書簡を家臣たちに示し、ダルメイダの布教活動を継続させた。すると反動側は三人の有力な領主を動かし、天草の領主に対してキリスト教排撃を申し入れさせた。領主は、一時それに屈せざるを得ない所以をダルメイダに説明し、暫く隠忍することを求めた。そこでダルメイダは、領主と協約を結び、大村のトルレスの許へ帰って行った。その協約は、ダルメイダが再び天草領へ来た時、領主の長子と二人の重臣とをキリシタンにすること、ダルメイダの選んだ十六カ村をキリシタン村としてダルメイダに託することなどであった。
ダルメイダの去った後、天草領内の内乱は激化した。領主は一時一つの城に籠って僅かに生命を全うし得たほどであったが、やがてもり返し、謀叛した兄弟を他の城で包囲するに至った。その間にダルメイダの斡旋によって得た大友宗麟の助力が相当に利いたらしい。翌一五七〇年の二月には、ダルメイダはトルレスの命によって宗麟を筑紫国境の日田に訪ね、九通の書簡を認めて貰ったのであるが、その内の三通は天草の領主に関するものであった。一は島津氏宛の書簡で、天草の叛乱軍を後援しないように頼んだもの、二は宗麟配下の一領主に宛てた書簡で、天草の領主を助け内乱鎮定に努めるよう依頼したもの、三は天草の領主宛の書簡で、領地を悉く回復するまで援助を約したものである。こういう助力によって遂にキリスト教排斥派を鎮定し得た天草の領主は、やがて新来のカブラルの手によって受洗するに至った。こうして有名なキリシタン地方天草領は、トルレスの最後の仕事として、ダルメイダによって開拓されたのである。
しかしトルレスが大友宗麟の勢力を利用したのは、天草領についてのみではなかった。宗麟の北九州制覇が都合よく進み、毛利の軍勢を北九州から追い払ったのは、一五六九年の夏から秋へかけて半年に亘る大仕事であったが、この際逸早く|山口の教会の《ヽヽヽヽヽヽ》回復を思ったのは、トルレスであった。彼は一五六九年の十一月にダルメイダをして日田の陣営に大友宗麟を訪ねしめ、天草布教に対する援助を謝すると共に、また「山口の正統の領主たるチロヒロ」との連絡のことを相談せしめている。ダルメイダはその足でチロヒロの陣営を訪ねた。チロヒロは毛利勢が筑紫に進撃している隙をねらって山口を襲撃しようと企てていたし、その部下には、山口のキリシタン武士がいたのである。彼はダルメイダの要求に応じ、山口を回復したならば領民をキリスト教徒たらしめるであろう、というトルレス宛の返書を認めた。このチロヒロの山口領襲撃は、|大友宗麟が大内四郎左衛門輝弘《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をして軍勢空虚の長府あたりを奇襲せしめた事件を指すのであろう。博多東方の立花山に陣していた毛利の大軍は、この奇襲に驚いて北九州を引き上げたのである。
毛利勢が立ち去ったあと、大友宗麟の圧力が西方へ加わってくるのを見て、大村純忠は幾分の危険を感じ、トルレスに頼んで大友氏との親交を斡旋して貰った。宗麟はトルレスの申し出に対しては何事によらず拒絶したことがないので、この時にも、大村氏や有馬氏が毛利氏に好意を寄せていた過去のことを不問に附し、トルレスの意に従った。今やトルレスは大名の運命を左右する地位に立つこととなったのである。
しかし一五七〇年五月頃、宗麟の軍隊が肥前の竜造寺の領地に迫ったときには、大村純忠は落ちついてはいられなかった。大村は飛ばっちりを受けるかも知れないというので、純忠はトルレスに|長崎の会堂《ヽヽヽヽヽ》へ移ることを請うた。大村にはダルメイダが残った。が半月の後にはトルレスはダルメイダを呼んで、宗麟及びその部将の陣営へ派遣した。戦争の際に会堂や信者を保護するよう頼むためであった。
ダルメイダは、多分久留米附近にいたと思われる宗麟を訪ねて来意をのべたが、宗麟は心配するに及ばぬという親切な返書をトルレス宛に書いた。そうして彼の部将たちを訪ねるというダルメイダにいろいろの保護を与えた。ダルメイダは陣営で主将に会って款待をうけ、大村純忠のために大いに弁じた。会堂の保護はどの部将もひきうけてくれた。
そういう形勢のただ中へ、フランシスコ・カブラルが、日本のヤソ会士たちの長老として赴任して来たのである。カブラルは六月に志岐で、第二回の会議を召集した。京都のフロイスを除いてすべての神父が集まった。日本における布教活動の指揮はこの時からカブラルの手に移ったのである。
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[#小見出し] 第八章 ルイス・フロイス―和田惟政―織田信長
一[#「一」はゴシック体] フロイス信長に会う
天草の島でトルレスが、志岐会議を催してから間もなく、一五六八年の秋に、織田信長は足利義輝の弟義昭を擁して上京して来た。松永久秀は立ちどころに彼に降った。三好党や篠原長房の擁立した将軍足利義栄は、阿波に逃れて死んだ。京都をめぐる覇権競争は、ここで急激に面目を改めたのである。
足利義昭は、三好松永のクーデターの当時、奈良興福寺の一乗院主《ヽヽヽヽ》であった。三好党は早速彼を幽閉した。それを秘かに救い出し、還俗せしめ、結局信長と結ぶに至らしめたのは、長岡藤孝《ヽヽヽヽ》(細川幽斎)、和田秀盛《ヽヽヽヽ》、明智光秀《ヽヽヽヽ》などの働きである。これらの人々は室町時代の高貴な伝統を守ろうとしたのであって、成り上り者である信長に奉仕しようとしたのではなかったが、結果においては、彼らの利用した新興の勢力に逆に利用せられることとなったのである。
フロイスが信長に渡りをつけたのは、この義昭側近の勢力を通じてである。その中で長岡藤孝や明智光秀が当時どういう態度を取っていたかは明かでないが、後に有名となった細川ガラシヤ夫人が|明智光秀の娘《ヽヽヽヽヽヽ》、|長岡藤孝の嫁《ヽヽヽヽヽヽ》であることを考えると、満更無関心であったとも思えない。特に関係の深いのは和田秀盛の一族|和田惟政《ヽヽヽヽ》である。惟政は藤孝などと共に義昭に従って将軍守り立ての努力をした一人であるが、その親しくしていた(或は兄弟であったともいわれている)高山図書頭ダリヨが畿内キリシタン武士の先駆者であった関係から、かねてキリシタンに深い同情を持っていた。信長の上京後は摂津大和の平定に功を立て、京都の南の押えとして高槻の側《そば》の芥川城、ついで高槻城の城主となった。フロイスはこの惟政に働きかけたのであるが、キリシタンでない領主のうちでこの惟政ほど衷心の愛情を以てキリスト教の保護に尽してくれた人はほかにはないと彼は云っている。
この惟政の尽力で、信長の二度目の上京の時に、フロイスの帰京が許された。一五六九年三月末、惟政の命により、高山ダリヨが堺まで迎えの人馬を寄越したのである。フロイスの一行は途中高槻近くで高山ダリヨに迎えられ、高山の守っている芥川城にも一泊して、三月二十八日に、信者たちの盛大な出迎えを受けつつ、五年ぶりで京都に入った。この期間に九州へ行って活躍して来た元琵琶法師のロレンソも、ベルシヨール、アントニオ、コスモなどの日本人イルマンと共にフロイスに従っていた。
京都では、このフロイスの入京の二週間前(永禄十二年二月廿七日)に、信長が二条城築造の鍬初めをやり、その後恐ろしい勢でその大土木工事が進行しつつあった。何故信長が急激にこの工事を始めたかというと、前年の末に信長が岐阜に引き上げて行ったその留守をねらって、正月早々三好三人衆が京都を奇襲し、一時新将軍を危地に陥れたからである。この時には、将軍側近の長岡藤孝らの守備や和田惟政らの来援で、辛うじて三好党を潰走させることが出来たが、しかし京都の防備の弱いことは露骨に曝露された。信長は即座に上京して来て、これまで永い間どの武将も企てなかった京都築城《ヽヽヽヽ》のことを考え出したのである。しかもその城は、当時盛んに行われていた山城《やまじろ》とは異なり、平地の京都市中に、深い壕や堅固な城壁を以て、山城以上に防備厳重に築いたものであった。フロイスの言葉でいうと、それは「日本において曾て見たことのない石造《ヽヽ》」であった。信長はこの大土木工事のために近畿十四カ国の諸将を動員し、彼らをして、部下の武士たちや人足を率いて労役せしめた。総指揮者は信長自身で、日々工事場に臨んだ。通例は二万五千人、少ない日でも一万五千人の人々が彼の指揮の下に動いた。鐘の合図で、諸方の領主や武士たちが、各々その部下を率い、鍬を携え手車を押して集まってくる。そうして、堀を掘り土を運ぶ。石垣の工事のためには多量な石が必要であるから、或は近郊の山から運び、或は市中から集めてくる。或る領主は部下を率いて寺々を廻り、毎日一定数の石をそこから運び出した。石の仏像や台座の石などもばらばらにして車に積まれた。時には、石像の頸に縄をつけて工事場に引いて行くというようなことも行われた。そういう石で積み上げられたのが、高さ七八間、厚さもまた七八間、時には十間に及ぶような、巨大な城壁である。フロイスはこの光景を見て、ソロモン王の「エルサレムの殿堂」の建築や、「ディドのカルタゴ都市建築工事」などを聯想している。
普通ならば四五年はかかるであろうと思われるこの大工事を、信長は七十日間に仕上げた。それはフロイスにとっては非常な驚きであった。彼がここに何か新しい時期の開始を予感したことは、彼の信長に対する熱心な働きかけによっても察することができる。この予感はやがて信長の猛烈な仏教破壊によって充たされるのである。
しかし信長への接近は初めは容易ではなかった。フロイスの入京を聞くと、松永久秀はフロイスに先んじて信長を訪ね、キリシタンの神父のいる所には、必ず擾乱や破壊が起るということを理由にして、その追放を懇願した。それに対して信長は、こういう大きな町でただ一人の人が擾乱の原因になるなどとは、お前の胆は小さい、と答えた、といわれる。しかし、入京の翌々日、フロイスが城へ信長を訪ねて行った時には、|信長は会わなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。その理由は、数千里の遠方から来た外国人にどういう礼儀で接してよいか解らぬということと、密かに面会すれば神父が信長に洗礼を授けに来たなどと心配するものがあるだろうということとであった。つまり彼はキリスト教排斥運動を顧慮していたのである。内裏から出た宣教師追放令《ヽヽヽヽヽヽ》はまだ取り消されてはいなかった。排斥派はそれを拠り所にした。フロイスが信長を訪問すると、すぐその夜には、|内裏から《ヽヽヽヽ》将軍に対して宣教師追放を信長に命令せよという交渉があった、という噂がひろまった。翌々日の早朝には、|内裏の使《ヽヽヽヽ》がフロイスのいる信者の家を壊しにくると注進する人があった。フロイスは早速ロレンソを和田、佐久間、高山などの許に使にやり、自分は他の信者の家に逃れて一日中潜伏していた。信長が宣教師に会わなかったということだけで、これだけの不安があったのである。
この不安は和田や佐久間の保証で取り除かれ、フロイスは初めの信者の家へ帰って復活祭の週のさまざまな祭儀を行った。そうして復活祭の一週間後、入京してから二十日目に、初めて足利将軍を六条の本国寺に訪ねた。この訪問は和田惟政の斡旋で信長の指図により行われたものであったが、|将軍は面会しなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。このように信長も義昭も神父を引見しないということはキリシタンにとっては相当の打撃であったので、惟政はその面目にかけて信長を動かそうと努めた。その結果、将軍訪問の数日後に、惟政は信長の承諾を取りつけ、突然騎馬の士二三十人を率いてフロイスを迎いに来た。信長は平生通り工事の指揮をしていたのであって、遠来の客を迎える態勢を取ってはいなかった。フロイスが乗物で工事場に着いた時には、信長は堀の橋の上に立ち、附近で六七千の人が働いていた。工事はすでに半ばは出来ていたのである。フロイスたちが遠くから敬礼すると、信長は自分の側へ招き寄せた。こうして信長とフロイスとの最初の会見は、この未曾有の大工事の見渡せる橋の上で、衆人環視の中《うち》に行われたのである。
信長が最初に知ろうとしたのは、この珍らしい外国人の身の上であった。それはフロイスにとっては重要でない前置《ヽヽ》に過ぎなかったが、信長にとってはそうでなかったらしい。非常に遠い国から親を離れ、艱難を冒して、布教のためにこの国に来ている心境、――そこにいわばヨーロッパ文化の尖端があったのであるが、それを彼は捉えようとした、フロイスにとって本論である布教の問題も、信長はこの視点から見ていた。キリスト教が拡がらなければインドへ帰る気か、という問もそこから出たのである。フロイスはそれに対して、信者がただ一人になっても、神父一人は生涯この地に留まるであろうと答えた。次で信長は、キリスト教が京都で栄えないのは何故であるか、ときいた。それに対してロレンソは、稲を育てるには田の草取りをしなくてはなりませぬ、という風に答え、仏僧たちの迫害を示唆した。信長はそれに和して|僧侶の堕落《ヽヽヽヽヽ》を長々と語り、坊主らは欲と色に目がくれていると云った。その機会に、フロイスは、ロレンソをして次のような意見を述べさせた。宣教師たちの目ざすところは、名・富・好評、その他いかなる世俗的なものでもなく、ただキリスト教を拡めることだけである。就てはこの教と日本の宗旨とを比較するために、仏教各派の最も優れた学僧を集め、信長の面前でキリスト教との討論をやらせて頂きたい、もし負けたらば追放されてよい。もし勝ったならば仏僧たちにもキリスト教を聴かせることにしてほしい。そうでないと何時までも陰謀が絶えないであろう、というのであった。信長はこれを聞いて愉快そうに笑い、なるほど大国には大胆な学者が出ると云った。そうしてフロイスに向い、日本の学者が承知するかどうか解らぬが、或はそういう催しをするかも知れぬ、と答えた。フロイスの最大の用件、信長の布教免許状については、明答は得られなかったらしい。フロイスはこの免許状が宣教師に対する最大の恩恵であること、この恩恵によって彼の美名がキリスト教国民の間に知れ渡って行くであろうことを説いた。それに対して信長は愉快そうな顔をしたが、何も云わなかった。
この会談は一時間半乃至二時間位かかった。そのあとで信長は和田惟政に工事場の案内を命じた。この工事が彼の心を占領していたことはこの時の彼のそぶりにありありと現われていた。
信長がフロイスに会ったので、将軍も二日後に彼を引見した。しかし布教免許状の方はそうすらすらとは運ばなかった。それを心配した信者たちは、|信長への献金《ヽヽヽヽヽヽ》の必要があるのではないかと考えた。何故なら堺の町、大坂の町をはじめ、諸方の寺院などは、信長の簡単な免許状を得るために巨額の金を献じていたからである。そこで信者たちは銀三本を和田惟政の所へ持って行った。惟政はそれに銀七本を加え、信長の機嫌の好い折をねらって、貧しい神父からの贈物として献じた。信長は笑ってそれを斥けた。神父から金銀などを受ける必要はない。神父は外国人だから、免許状のためにそんなものを受けたとあっては聞えが悪い。そんなことをしなくとも免許状は与える。|汝が文案を作り《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|神父にこれでよいかと念を押した上《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、持って来るがよい。署名してやろう。そう信長は云った。工事に気を取られていた信長は、文案が面倒なのでついほって置いたのである。
そう解ると、和田惟政は迅速に事を処理した。信長の朱印状は、神父の京都居住許可、会堂に対する徴発や公課の免除、領内における保護などを表明したものであった。日附は永禄十二年四月八日(一五六九年四月二十四日)である。惟政はこの免許状を高山ダリヨに持たせて寄越し、翌日御礼言上のためにフロイスを同伴して信長の許に行った。信長は相変らず工事場にいて上機嫌であった。そうしてまた惟政に命じて工事を見物させた。惟政は城内を案内して歩きながら、フロイスに信長の扱い方を教えた。この建築の壮麗なことをお讃《ほ》めなさい、また免許状の訳文をインドやポルトガルへ送って信長の恩寵を知らせるとお云いなさい、というのであった。フロイスは惟政の親切を感謝し、キリシタンになることを勧めた。惟政は笑いながら、心中はキリシタンである、信長が岐阜へ帰ったら教を聴く暇が出来るであろうと云った。
将軍義昭の免許状は一週間遅れて手に入った。それも惟政の尽力であった。惟政はまた目覚時計《ヽヽヽヽ》を信長に見せるためにフロイスを連れて行った。この三回目の会見は室内においてであった。信長は時計を見て驚いたが、構造が複雑で、自分が持っていても使えない、と云って受けなかった。そうしてフロイスに茶を振舞い、美濃の干柿を与えた。この時も二時間ほど話したが、信長は頻りに|ヨーロッパやインド《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のことを知ろうとした。そうして別れ際に、近々尾張へ帰るから出発前にもう一度来るがよい、その時は将軍訪問の時に着ていた|ポルトガル風の衣服《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を着けて来て貰いたいと云った。それはオルムズの緞子で作った短い大型の雨外套に金襴の装飾を附けたもの及び黒頭巾なのであった。
二[#「二」はゴシック体] フロイスと朝山日乗との衝突
その出発の前日、一五六九年五月六日(永禄十二年四月二十日)フロイスは、ロレンソたちを伴い、シナの大型紅紙一束、蝋燭一包を携えて、別れの挨拶に信長を訪ねた。時は夕方で、面会を求める人々が大勢待っていたが、彼の来たことをきくと信長は直ちに引見し、彼の差出した蝋燭に自《みずか》ら火を点じて手に持ちながら、例のポルトガル服はどうしたとたずねた。フロイスはこういう待遇を予期せず、その服を着てはいなかったが、念のために持参してはいた。信長は自分の面前でそれをフロイスに着させ、頻りに眺め入ってその形を讃めた。そうして、出発前の多用なのを顧慮して辞去しようとするフロイスを、強いて引き留めた。
この席でフロイスは、朝山日乗《ヽヽヽヽ》と衝突したのである。この日乗という人物は、法華宗の日乗上人というふうに伝えられているが、法華宗の僧であったかどうかは明かでない。しかし非常な山師で、珍らしい雄弁家であったことは確からしい。もと出雲の豪族で備後に領地を持っていたが、戦乱の間に領地を失い諸国を流浪して歩いた。フロイスによると、尼子に叛いて山口の毛利に頼った時には、彼は、釈迦の示現により仏教改革《ヽヽヽヽ》・皇室復興《ヽヽヽヽ》の使徒と称していた。八九年前京都で買った金襴の布《きれ》を|内裏から拝領の衣《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と称し、小片に切って、多額の寄附をなしたものに与える、などということもやっていた。それによって彼は山口の寺院を建築し得たほどである。その後毛利氏と松永弾正との間の連絡を計ろうとして東上したが、三好三人衆の手に捕えられ、篠原長房の裁断で西の宮の獄に投ぜられた。しかるに彼は巧みに内裏との連絡をとり、内裏から彼の赦免を求めるということになった。日乗上人の号は後奈良天皇の勅によると伝えられているし、彼が皇室復興を標榜したことなどを考え合わせると、朝廷との関係は相当深かったらしい。丁度そこへ信長が上京して、最初に企てたのが内裏の修造や供御の復興であった。日乗のためには機が熟して来たのである。彼は信長と朝廷との間の仲介者《ヽヽヽ》として立った。この地位と、そうしてそのしたたかな才能とが、信長をして彼を重んぜしめたのであった。
その日乗は、前の日に信長を訪ね、出発前に宣教師を追放せよと頻りに口説いた。宣教師追放令は五年前に朝廷から出たのであるから、日乗がかく主張する根拠はあったのである。しかし日乗はそういう法律論を持ち出したわけではなく、ただ当時の極まり文句として、宣教師の到る処擾乱と破壊ありということを理由とした。信長はその心の狭さを笑い、既に免許状を与えたのだから追放は出来ない、ときっぱり答えた。これは実質的には五年前の女房奉書の効果などは認めないという態度の表明でもあったのである。このいきさつは和田惟政からロレンソを通じてフロイスに知らせてあった。そこで、信長に引き留められたフロイスは、日乗が直ぐそばにいるとも知らずに、信長に向って、坊主らの反対意見をそのまま信じないで貰いたいこと、信長出発後は和田惟政に神父保護を託してほしいことなどを頼んだ。信長は、坊主らは何故キリスト教を嫌うのかときいた。それに対してはロレンソが、両者は熱と寒、徳と不徳とのように相違すると答えた。信長は再び、汝らは神仏を尊ぶかときいた。その答は、神とか仏とかと云われているのは皆|我々と同じ人《ヽヽヽヽヽヽ》である、人類を救い得るものではない、従って尊崇することはできぬ、というのであった。この時に信長は、日乗上人の名を呼んで、この答には何か意見があるだろう、何か質問するがよいと云った。それで初めてフロイスやロレンソは日乗がそばにいることを知ったのである。日乗は気取った態度で、それでは汝らの崇拝するのは何であるかときいた。答は、三位一体のデウス、天地の造り主、であった。「ではそれを見せて貰おう。」「見ることは出来ない。」「釈迦や阿弥陀よりも前にあったのか。」「勿論前である。始めなく終りなく永遠のものである。」そういう問答のあとで、ロレンソがその意味を詳しく述べ始めたが、日乗は一向に理解が出来ないらしく、これは乱暴だ、民衆を瞞すものだ、早速彼らを追放すべきであると云った。信長は笑って、気が弱いではないか、解らない所をもっと質問するがよい、と云ったが、日乗はもう言葉が出せなかった。で、ロレンソが逆に、生命を作ったのは誰であるか、御存じか、とたずねた。日乗は知らないと答えた。次々にロレンソが色々な問をかけたが答はいつも知らない、であった。そんな問題はそっちで説明して見ろ、と言って威圧するような態度を取った。ロレンソは平然として詳しい説明を展開した。日乗は、そのデウスは禅宗の本分と同じだな、と云った。その言葉を捉えてロレンソはまた両者の相違を明かに論じ立てた。そういう風にして議論はもう二時間位に亘っていた。日乗はよほどむかむかして来たらしく、もう遅い、追放すべきである、彼らが京都にいたために前の将軍は殺されたのだが、その彼らがまた京都に来ているのだ、と云った。しかし、「信長は元来|神も仏も尊敬しない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のであるから、そういうことは気にかけず、日乗に対して厳しい顔を向けた。」フロイスがこの報告を書いたのは一五六九年六月一日(永禄十二年五月十七日)であるから、信長はまだ仏教に対する強硬政策を始めてはいなかったのであるが、しかしフロイスの眼にはもうはっきりとその態度が映っていたのである。
が、日乗はそれだけで凹んではいなかった。一層大きい衝突は、霊魂不滅の問題に関して起った。そのきっかけとなったのは、デウスは善を賞し悪を罰するか、という信長の問である。それに対してロレンソが、勿論である。しかし賞罰には、現世におけるものと|来世における永遠のもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とがある、と答えると、日乗は、来世において賞罰を受ける当体、即ち不滅なるものの存在という考を、大声をあげて笑った。そこで、病中のために疲れて来たロレンソに代って、フロイス自身が日乗との間に霊魂不滅の議論を始めたのである。来世の信仰や霊魂不滅の思想が当時の仏教徒の間になかったということは甚だ理解し難いことであるが、しかし仏教哲学の空の原理から云えばそれらを否定する方が正しいであろう。その否定の主張に対してフロイスは、肉体と独立な霊魂の存在をいろいろな点から証明しようとした。この落ちついた議論をきいているうちに、日乗は、色を変じ、歯を鳴らし、不思議な狂暴さを現わして、よし、それでは汝の弟子(ロレンソ)の首を斬るから、霊魂の存在することを示せ、と云いながら、室の一隅に立ててあった信長の長刀に走り寄って、それを抜こうとした。信長は急ぎ起ってうしろから抑え、和田、佐久間その他の大身たちが他方から抑えて、長刀をもぎ取った。信長は|笑いながら《ヽヽヽヽヽ》、予の面前において甚だ無礼ではないか、もとへ坐れ、と云った。他の大身たちも彼の無礼を責めた。和田惟政の如きは、信長の前でなければ斬り捨てる所だと云った。やがて座が鎮まったとき、フロイスは信長に向って、日乗上人の乱暴は予の挑発したものではない、予はただ真理を説いただけである、と云った。日乗はまたかっとしてフロイスを突き飛ばした。信長はまた厳しく彼をたしなめたが、彼はひるまず、キリスト教を罵って、宣教師追放を主張し続けた。
以上はフロイスの記述によったものであるから、朝山日乗の態度には同情すべき余地がない。がそれにもかかわらず、信長は日乗の乱暴を大目に見ているのである。当時フロイスの聞いたところでは、信長のこの態度は、「内裏のため」であった。彼は前日内裏の工事のための献金を日乗に託した。が何のためであるにしろ、彼はキリスト教排斥の主張を禁圧しようとはしなかった。即ちキリスト教にも反キリスト教にも同じように自由を与えようとしたのである。だから彼は日乗の乱暴を寛恕すると共に、フロイスには親切な態度で別辞を述べ、またゆっくり聞かせて貰おうと云った。そうして翌日、途中まで見送った和田惟政に、安心しているがよい、というフロイスへの伝言を託したのであった。
三[#「三」はゴシック体] 追放綸旨の効力問題――日乗と惟政との対立
しかし信長が京都にいなくなると、日乗のキリスト教排撃は急激に力を得て来た。フロイスの報告によると、信長出発後五日目の五月十二日《ヽヽヽヽヽ》に、古いキリシタンの結城山城守《ヽヽヽヽヽ》がロレンソを通じて最初の情報を伝えたといわれる。日乗が宣教師追放の|新しい綸旨《ヽヽヽヽヽ》を得て将軍にその実行を迫ろうとしている、神父は急いでその備えをしなくてはならない、というのである。この情報と殆んど同時に、ベルシヨールもまた別口の噂をもたらして外から帰って来た。それによると、日乗は内裏の庇護の下に武装兵を率いて神父を襲い、キリシタンを皆殺しにしようとしている、というのであった。この五月十二日(永禄十二年四月二十五日)に、何か綸旨が出たことは事実であるらしい。御湯殿上記に「四月二十五日はてれん、けふりんしいたされて、むろまちとのへ申され候」とあるのがその証拠である。しかしこれだけでは布教許可の沙汰であったと解する人もある。信長の布教許可の十七日後、将軍のそれの十日後に、それと全然反対の追放の綸旨が出たとは考えにくいのである。しかしフロイスに伝わって来たところはまさに右の通りであった。
フロイスは和田惟政の所へロレンソを急派して、この情報を伝えた。惟政の答は、実否を質しては見るが、自分の保護を信頼していてよい、というのであった。そこで惟政が聞き合わせて見ると、その日日乗は一人の公家と共に将軍を訪ね、「|内裏が京都より追放した神父《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、京都へ帰って来ている。彼は日本の諸々の教の敵であるから、その追放を命ずべきである」と申入れた。それに対して将軍は、「朝廷は人の入市とか追放とかに関与せらるべきでない。それは自分の行うべきことである。自分はすでに宣教師に免許状を与えた。信長もそれを与えた。今更追放すべき理由はない」という旨を答えた、ということであった。して見ると日乗が奉じたという綸旨は、五年前の追放綸旨が守られないことに対する抗議であったのかも知れない。
翌日、城の工事を巡視していた惟政の所へ、ロレンソが様子をききに行くと、惟政は将軍の態度を伝えた後、午後フロイスが将軍と信長の免許状を持って城へ来るようにと頼んだ。その午後に日乗はまた、公家と共に将軍を訪ね、信長に対して|免許取消し《ヽヽヽヽヽ》を求める急使を出して貰いたいと交渉したが、将軍は応じなかった。その公家が、フロイスの着いたときにまだ残っていた。惟政はフロイスの面前で、その公家に対し、次のようなことを云い切った。自分は今日まで内裏のためにいろいろ尽して来た。将軍や信長と交渉して御為を計ったことも少なくない。その報償として自分は神父への免許状のほか何事も望まなかった。しかるにその免許状を与えないのみか神父の追放を命ずるというのは、自分の名誉を奪い、不正を行うものである。|もしそういうことを決定せられるならば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、自分は内裏に仕えることをやめる。公家を庇護することもやめる。神父に対する将軍や信長の態度はこの免許状の通りである。こう云って惟政は、フロイスの持って行った免許状を、眼の前で写させて公家に渡した。このいきさつもまた、決定的な追放命令が新しく朝廷から出たのでないことを示すものであろう。
この日将軍はフロイスを引見しようとせず、ただ人をして、自分が庇護しているから、内裏とのことは心配しなくてよいと云わせた。しかし惟政は、この際将軍が会わないのは拙いと考え、目覚時計を種に使って、フロイスを将軍の前へひき出した。将軍は時計を見て非常に喜び、ヨーロッパ人の工夫と才智とを讃めた。
以上によって察すると、日乗がふりかざしていたのは五年前の追放の綸旨であり、また綸旨の方が武将たちの免許状よりも重いという主張であったらしい。だからこの後も、日乗が綸旨を奉じて宣教師を追放或は誅殺するという噂は世間に絶えなかった。で惟政は多数の兵士を会堂に派遣し、日乗の策動を武力で押えるという態勢を示して、噂を消そうとした。半月位は平静になり教会もその平常の活動を始めた。
日乗の方では、皇居修復の仕事や京都の経済復興などに辣腕をふるい、信長の信用を深めたのに乗じて、執拗に宣教師問題を信長に交渉し、遂に|宣教師の追放に関しては内裏に一任する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という返書を書かしめるに至った。これは日乗の方からいえば五年前の追放綸旨を有効に実施させるという意味になるであろうが、信長の方ではこれから決定する問題だと考えていたのであろう。この交渉の顛末を知った惟政は、公家たちの書類を受理しないという態度で対抗した。そうして三日の間公家たちと折衝した結果、彼は云った、「日乗の所行は公家たちの所為であると認められる。もし内裏が|宣教師追放を決定するならば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、山城摂津の守護の地位を捨ててでも神父の保護を続けるであろう」と。
こうして、日乗と惟政との対立が尖鋭化して来た五月の末に、惟政は摂津の諸城の巡視に出かけた。日乗はこの惟政の不在に乗じて事を起すであろう、という噂が立ち、キリシタンたちは危険の身に迫るのを感じた。フロイスはロレンソをして惟政のあとを追わせた。ロレンソは高槻の城で惟政に会って、二通の書簡を書いてもらった。一は将軍側近の三人の重臣にあてて神父の保護を依頼したもの、他は|日乗にあてて《ヽヽヽヽヽヽ》妄動を封じたもの、である。後者には、「神父は将軍と信長との免許状を得て京都に居住している。その神父を追放しようとする動きがあると聞き、公家をして内裏の意向を伺わせたところ、|内裏の方では何事もない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》との返事であった。内裏以外の方面の動きであるならば、これは意に介するに及ばないことである。もし神父について何か云い分を持たれるならば自分に通知せられたい。その弁明は自分がする」という意味のことが認めてあった。
この書簡は六月一日に日乗に届けられたが、日乗は激怒して、即夜惟政宛に次のような趣旨の返書を送った。「内裏の宣教師追放令が出たのは五年程も前のことである。綸言汗の如し。追放令は撤回され得ない。しかるに貴下はこの追放令に反して行動している。これは未曾有の不正事といわなくてはならぬ。この道理を悟った信長や将軍は、今や追放に関しては|内裏の意向に一切を委ねた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。貴下は内裏・将軍・信長などに背反してもキリスト教を庇護せんとするのであるか。元来キリスト教は悪魔の教であるが故に、内裏及び公家たちは、宣教師の誅殺、会堂の破壊を令したのであった。この内裏の命に反対するものは天下になかろうと思われる。山城摂津の守護たる貴下がそれを守らず、支持庇護の態度に出るならば、|信長はこれを心外とするであろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。貴下は静かに反省して庇護をやめるべきである。」
この返書によって見ても、日乗が新しい追放綸旨を受けたとは考えられぬ。彼は五年前の綸旨の有効を主張しているのであって、フロイスたちが怖れていたように、新しく宣教師追放誅殺の綸旨を受けたのではない。しかしフロイスたちがそう感じたとすれば、日乗の威嚇は成功していたのである。フロイスはこの返書を惟政に届ける前に読み、直ちに主立った信者を集めて対応策を協議した。信者らの意見は、岐阜の信長に頼ることに一致した。そこでフロイスは翌日未明に京都を立ち、坂本でロレンソを待ち受ける、ロレンソは日乗の返書を携えて和田惟政を訪ね、信長側近の大身への紹介状を得てくる、ということになった。
翌日未明には小西隆佐とその一子がフロイスに伴って出発し、坂本で知人の家を宿に世話した。その子はロレンソの来るまで附添っていた。ロレンソは越水城で惟政に会い、日乗の返書を見せた。惟政は微笑しながら、この法螺吹きの首を斬ってやる、と云った。フロイスの岐阜行きについては、自分が案内したいのであるが急には間に合わない、と残念がりながら、二通の紹介状を与えた。一は秀吉《ヽヽ》にあてて神父のとりなしを依頼したもの、他は岐阜の宿屋の主人に宛ててフロイス一行の世話を頼み、費用万端は自分が引受けると云い送ったものであった。他に丁度美濃へ行こうとしていた柴田勝家にも庇護を依頼した。ロレンソは右の紹介状を携えて小西隆佐と共に六月三日に坂本についた。そこでフロイスの一行は夜の三時に船で坂本を出発した。
四[#「四」はゴシック体] フロイス岐阜に信長を訪う
岐阜は当時人口一万位に過ぎなかったが、新興の城下町として、「バビロンの雑沓」を思わせるほどに、商人や商品で混雑していた。フロイスの着いた時には、秀吉は尾張に行って居らず、佐久間信盛、柴田勝家もまだ着いていなかったので、二日ほど空しく待っていた。その内に先ず着いたのは佐久間、柴田の両人で、フロイスはそれらの人たちに会った。二人が信長にフロイスの来たことを告げると、信長は、「内裏の宣教師追放誅殺の綸旨は困ったものだ。神父のある所、破壊が起るなどとは迷信に過ぎない。神父は外国人だから、自分は同情し庇護する。京都から追放させてはいけない」と云ったという。そのあとで、新築の宮殿の方へ出掛けて行く時に、フロイスは途上で信長に出逢った。信長は機嫌よくフロイスを迎え、こんなに遠くまで来る必要もなかったのにと云った。そうして柴田、佐久間、その他七八人の人と共にフロイスを新築の宮殿に案内した。この宮殿は岐阜城のある稲葉山の麓の斜面に四段に亘って建てられていた宏壮なものであったらしいが、信長はフロイスに向って、「ヨーロッパやインドのものに比べると小さいではあろうが、しかし、貴下は遠来の客であるから、自分で案内してお見せする」と云ったという。その宮殿を叙述するに当って、フロイスは、「ポルトガル、インド、日本に亘って自分がこれまで見た宮殿建築中、これほど精巧で美しく清らかなものは一つもなかった」と云っている。
その後二三日経って秀吉が尾張からやって来た。フロイスはロレンソと共に惟政の紹介状を持って訪ねて行った。秀吉は彼らを款待し、午餐を供した上、フロイスの宿の主人宛にフロイスを優遇するようにとの書簡を作らせ、依頼の件は満足の行くように計らうから、ゆっくり休んでいるがよいと云った。この時フロイスはロレンソと相談して作った四五行の覚書を秀吉に渡したのであるが、秀吉はそれを信長の所へ持って行って、指令を仰いだ。すると信長は、それは簡単すぎると云って、内裏及び将軍に宣教師の庇護を請う一層長い書簡を書かせ、それに署名して、秀吉に渡した。秀吉は、この信長の書簡に、惟政及び日乗に宛てた自分の書簡二通を加えて、フロイスに渡し、さっさと戦場へ帰って行った。フロイスが信長に礼を言いに行くためには、また柴田勝家の手引きを頼まなくてはならないような始末であった。
フロイスが勝家に伴われて信長の前へ出たとき、信長は多数の京都の武士の面前でフロイスに云った。内裏や将軍を意に介するには及ばぬ。すべては信長の権内にあるのであるから、信長の言に従って行動し、居たい所に居てよい、と。そうしてフロイスが翌朝出発しようとするのを更に二日延期させ、翌日は京都の武士七八人と共にフロイスを饗応し、食後城を見せるという手筈をした。この信長の優遇は、前例のないものとして、人々に強い印象を与えた。
翌日、饗宴の後に、柴田勝家がフロイスとロレンソを案内して城の山に登った。信長は城の中に住んでいたので、表の方には大身たちの子息である少年武士が百人ほど詰めて居り、奥の方は侍女のみが用を弁じて何人も入ることが出来なかった。フロイスたちが信長の室に招き入れられると、信長の子息、十三歳の信忠や十一歳の信雄(実際は十二歳であった)も接待に出た。信長が信雄に茶を命ずると、信雄は最初にフロイスの前へ、次に信長の前へ、第三にロレンソの前へ、茶碗を運んで来た。そこで茶を飲みながら、美濃尾張の平野を遠くまで見晴らした。信長は、インドにもこういう城のある山があるか、と尋ねた。それから|二時間半か三時間ほどの間《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、次々に|日月星辰のこと《ヽヽヽヽヽヽ》、|寒地と暖地との相違《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|諸国の風俗《ヽヽヽヽヽ》などのことを質問した。その間に信雄を呼んで夕食の支度を云いつけさせたりなどもした。このことは、信長としてはよほど異例であったらしい。やがて立って行ったが、自分でフロイスの膳を捧げ、信雄にロレンソの膳を持たせて出て来た。そうして、急のことで何もありませぬが、という挨拶をした。食事のあとで信長はフロイスとロレンソに美しい衣服を与え、直ぐに着させて、よく似合う、また訪ねてくるがよい、と云って彼らを帰らせた。
このように信長訪問は非常な成功であった。それを記述しているフロイスは、現世のことを蔑視すべきヤソ会士が何故にかくも異教の権力者の款待を重視するかについて、長々と弁解している。この国においては、|権力者の意志を捉えなくては《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》布教は出来ないのである。がこの時にはまだ信長は、新しい時代の形成者としての姿をはっきりと現わしてはいなかった。競争者は東にも北にも西にもなお健在であった。信長がこれらの競争者に打ち克つという時代、即ち元亀天正の時代は、まさにこれから始まろうとしている時であった。この時に逸早く信長に眼をつけ、その意志を捉えることに全力を傾注したフロイスの炯眼は、感服のほかはないのである。
五[#「五」はゴシック体] 日乗の惟政排斥運動、日乗の失脚
しかしフロイスの見当がすぐに実現したわけではなかった。日乗が失脚してキリスト教排斥運動をやめるまでにでも、一年余は経っている。
フロイスが信長や秀吉の書簡を得て京都に帰り、惟政と協議して日乗のキリスト教排斥運動を封じようとした後にも、日乗はその態度を改めなかった。惟政が日乗に送った書簡には、信長が宣教師庇護の態度を取っていること、内裏にも将軍にも宣教師排斥の意志はないことを力説し、おのれの宣教師庇護の理由は|遠来の外国人であるが故《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であって他意はないという風に穏やかに出たのであったが、日乗は前の主張を引込めないのみか、一層露骨に狂信者的な信仰闘争の態度を示して来た。信長や秀吉の書簡はほとんど眼中に置かないかのようであった。のみならずこの折衝の五六日後には、みずから信長に会うために岐阜に向って出発した。その用件は主として内裏の修復、公家の所領の処置に関するものであったと思われるが、フロイスたちは宣教師追放問題のためであろうと推測し、惟政に頼んでそれに対抗する措置をとったのであった。日乗は勿論岐阜においても信長の宣教師に対する態度を変更させることは出来なかったが、惟政に対する敵対心はそれによって一層高まり、キリスト教排斥の運動を|惟政排斥の運動《ヽヽヽヽヽヽヽ》に転じたように見える。
異教徒である惟政は、フロイス庇護の運動を続けるうちに、漸次その信仰にも親しんで行った。フロイスが岐阜から帰って来た頃には、高槻に会堂を建築し、宣教師を自由に宿泊せしめようと考えていた。万一、内裏が宣教師追放を決定したならば、その宣教師を高槻にひき取り、自分が京都に出る度毎に同伴して行って一月でも二月でも滞在させる、そういうことを考えていた。しかしそういう風に惟政が宣教師庇護に力を入れることに対しては、山城摂津の武士のなかに不平を抱くものも決して少くはなかった。日乗が眼をつけたのはその点である。彼は信長の信用しそうな有力な武士で惟政を快く思わないものを煽動し、惟政の行政を非難させた。またそういう証言を集めて、巧みに信長に吹き込んだ。そうして遂に惟政に対する信長の信頼の念を突き崩すことに成功したのである。
こうして一五六九年の秋惟政が岐阜に信長を訪ねて行ったとき、信長は惟政を岐阜に入れず、追い返した。そうして高槻のそばの要害芥川城を破壊させた。領地の一部も没収された。惟政は部下二百人と共に剃髪して謹慎の意を表した。日乗たちはこの惟政の失脚を宣教師庇護の罰としてはやし立てたが、惟政の宣教師に対する態度は少しも変らなかった。自分の不幸な運命などは意に介するに足らぬ。宣教師が無事に京都にいることの出来るのが何よりである。もし宣教師が追放されれば、自分はインドまでもついて行く。そう彼は云った。
一五七〇年は信長を中心とする争覇戦がいよいよ始まった年である。この年の三四月頃には信長と家康とが揃って入京し、夏には北方の勢力朝倉浅井との衝突が始まった。その信長の入京の際に、和田惟政は高槻の城から信長に会いに来た。日乗らの仲間は、信長が惟政の首を斬らせるであろうと待ち構えていた。しかるに信長は、突然惟政を招き、多数の諸侯の面前で非常に情ある言葉をかけた。そうして美しい衣服を与え、領地を増してやった。これは日乗らにとっては案外のことであったが、その五六日後に、日乗は、他の人々から重罪の訴えを受け、信長の激怒に触れた。信長は多数の大身たちの面前で日乗を罵り、彼奴を足蹴にして追い出せと云った。その後も日乗は内裏修復の仕事にかじりついてはいたが、もはや信長の愛顧を得ることは出来なかった。日乗を中心とするキリスト教排斥運動はこれでほぼ終りを告げたらしい。
六[#「六」はゴシック体] 戦乱に対するフロイスの方針と惟政に対する讃美
日乗のキリスト教排斥運動は以上のようにして片づいたが、しかしすぐ引き続いて慌しい戦争騒ぎが起った。浅井朝倉に対する夏の戦争は、姉川で信長方が綺麗に勝ったのではあるが、それがきっかけとなって秋には一層大きい戦争が巻き起って来たのである。三好三党は再び摂津に盛り返して、信長に反抗した。|石山の本願寺《ヽヽヽヽヽヽ》がこれに応じて立った。信長はその討伐のために西下して来た。惟政も信長の部下の有力な将として摂津に転戦したが、信長方は相当の苦戦であった。北方の浅井朝倉は三好三党に呼応して再び立ち、近江の坂本城を攻陥して京都の郊外に侵入し、信長を背後から脅かした。この時信長は、柴田勝家と和田惟政とを殿軍として三好の軍に当らせながら、実に急速に京都に引き返し、咄嗟に坂本に出て浅井朝倉の軍の退路を絶ったのである。浅井朝倉の軍は叡山へ逃げ上るほかはなかった。信長は叡山の衆徒を味方につけて浅井朝倉の軍を降らせようとしたが、衆徒はこれに応じなかった。そこで彼は東と西とから叡山を包囲し、山上の軍隊を自滅せしめようと計ったのであった。包囲の開始は、寒さの近づき始めた十月の末であった。
フロイスが包囲開始後一カ月の頃に書いた書簡(一五七〇年十二月一日京都発)によると、この時の市内の混乱と不安とは実に甚しく、最後の審判の光景を見るようであったという。何故なら、勝利はまだいずれに帰するとも解らず、信長が負ければ京都の町は焼かれ蹂躙されるからである。そこで市民は山上に穴を掘り、街路に逆茂木を設け、家財を隠し、妻子を市外に避難させた。しかもその市外には強盗や殺人が横行していた。市内でも、夜警・叫喚・警鐘・突撃などとみじめなことばかりであった。フロイスも、大切な祭具は愛宕山に送り、他の家財は数人の信者の家に預けて、会堂には古い祭具だけを残して置いたのであるが、しかしそれを使ってミサを行い、説教を続けていた。包囲のために食糧は著しく欠乏していたが、それでも信者の好意で米と乾大根乾蕪などの貯蔵があり、包囲の継続中持ちこたえ得る見込みがついていた。こうして混乱のなかで会堂を維持し布教を続け得たところを見ると、市民大衆のなかに積極的なキリスト教排撃運動などのなかったことは明かだといわねばならぬ。
ところで、この年、一五七〇年の夏には、布教長フランシスコ・カブラルが志岐に着き、日本のヤソ会士の指揮をとった。信長が三好党の討伐をはじめた十月はじめには、トルレスがその志岐で死んだ。その同じころに、カブラルに従って来たオルガンチノが堺に着き、出迎えたロレンソとともにそのまま堺に留まっていた。戦争で京都へ来ることはできなかったのである。そのロレンソからフロイスの許へ、|三好三党の反キリスト教的な傾向《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を知らせて来た。宣教師を庇護する領主や大身は必ず没落するから、今度勝利を得たならば、直ちに宣教師を京都から追放しようというのである。この報を受けて、万一信長や惟政が敗れた場合には篠原長房に頼ろうと考えていたフロイスは、すっかり腹を据えて、|信長にのみ頼ろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》という覚悟をきめた。信長が敗れても、彼が生きている限りは、その領内へ行って布教をしよう。やがてまた彼が勝利を得た時には、京都へ帰ってくることも出来る。こうフロイスは、勝負のまだきまらぬ内に考えていたのである。
その後包囲はなお一カ月半ぐらい続いた。山上の軍隊も疲労困憊して来たが、一層参ったのは物資の供給を絶たれた京都の市民であった。そこで将軍が調停にのり出し、正親町天皇も、勅使を派遣されるということになって、遂に妥協が成立し、包囲は解かれた。この間に三好三党の南からの圧迫をはね返したのは、和田惟政と木下秀吉との働きであった。
フロイスがオルガンチノを京都へ迎え入れたのは一五七一年の一月一日(元亀元年十二月六日)で、信長が包囲を解いた日よりも八日前であった。このオルガンチノはフロイスの到達した決意と方針とをそのまま受け入れた人で、信長時代のキリスト教の隆盛と深く関係しているのである。
フロイスの功績は、新しい信者を数多く獲得するということではなかった。信者の数はむしろ死亡によって減少して行った。彼の努力はむしろ信仰を深め、その退転を防ぐことであった。殊にこの戦乱の期節においてはそうであった。長期に亘って布植せられた仏教の勢力は中々抜き難く、また京都には諸宗派の精鋭が集まっているのであるから、京都で一人の日本人を改宗せしめることは他の国々で二百人を改宗せしめるよりも難しいことであった。しかしフロイスは、その中で教会を維持しつづけ、親族の強硬な反対にもかかわらず信仰を貫き通した|少年コスモ《ヽヽヽヽヽ》や、清浄の理想を追うて結婚することなく死んで行った愛らしい少女パウラのような、感嘆すべき信者をも出したのである。がそれよりも著しいフロイスの功績は、京都における|教会の存在の権利《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のために戦いつづけ、和田惟政や織田信長の意志を捉えることによって、|政治的に《ヽヽヽヽ》、或は公共的《ヽヽヽ》に教会の地位を確立したことであった。
この仕事のために異教徒和田惟政《ヽヽヽヽヽヽヽ》がフロイスを助けた態度には、実際驚くべき一貫性や強靭さがあった。彼は高山ダリヨと親しく、キリスト教徒に同情を持っていたには相違ないが、しかし狂信者らしいところは少しもなく、従って右の態度も信仰の情熱から出たのではない。フロイスによると、惟政は非常に愛情深く、一度人の保護をひき受ければ、そのため領地を失うようなことがあっても決して保護をやめなかった。心変りということを非常に憎んだという。また家臣との間も非常に親密で、外から見ると、君臣の差別がつかなかったという。これは、生命を賭して|信頼に答える《ヽヽヽヽヽヽ》という、|鎌倉武士の献身的な態度《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にほかならない。惟政はこの古風な武士気質の人であったと思われる。しかしフロイスを保護し通した態度には、因襲に縛られた保守主義的な傾向と正反対なものがある。外国人を受け容れ、愛情をもってこれを庇い、その説くところには虚心坦懐に耳を傾ける。従ってもし戦争が彼を妨げなかったならば彼はキリスト教に帰依したかも知れない。高槻城にフロイスとロレンソを迎えた時、彼は妻子と共にロレンソの二時間に亘る説教を聞き、非常に興味を覚えた。でロレンソをひきとめて四日間続けて説教を聞き、霊魂不滅の教に深く感動した。しかしこの時は戦争騒ぎで聴聞を中断され、その後再びそれを続ける機会が来なかった。惟政としては、|教義を根本的に理解した上で《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、また自分がキリシタンとなっても差支えのないように一切を処理した上で、受洗するつもりであったが、その暇を得ないうちに戦死してしまったのである。この惟政の新旧いずれにも囚われない自由な態度は、当時の武士の一つの類型を示すものとして、十分重視せらるベきであろう。
一五七一年九月、惟政の戦死後間もなく、フロイスはインド地方区長に宛てて惟政に関する愛情のこもった長い書簡を送っている。それによってフロイスは、この|異教の領主の《ヽヽヽヽヽヽ》、護教の功績を永遠に記念したのである。|惟政の戦死《ヽヽヽヽヽ》は、惟政に似合わない油断の結果であった。この時の敵は、曾て惟政の味方であった摂津池田の城主の家臣たちであった。彼らは遠くを達観することの出来ない勇猛一途の連中で、城主を逐い出し池田の実権を握って新興の信長の勢力に反抗しようとしたのであるが、惟政はこの下剋上の現象の故に彼らを蔑視し、警戒を怠って奇襲にひっかかったのであった。
フロイスはこの日、河内の三箇にあって、悲報を聞いた。京都へ帰るために、護衛兵を惟政に頼んでやった使が、この悲報を持って帰って来たのである。京都の会堂ではオルガンチノとロレンソとが、この庇護者の戦死のあとに起るべき迫害について協議を始め、急いでフロイスを京都へ迎え取る方法を講じた。教会の人々の感じた不安と悲痛とは非常なものであった。ロレンソは、近江の国まで来ている信長にすがるために、一五七一年九月二十八日に京都を出発した。
ところがその翌日、実に意外な事件が突発し、教会の人々の不安などはどこかへ吹き飛んでしまった。
それは信長の叡山焼討である。こんな思い切った伝統破壊は、戦国時代の乱暴極まる武士たちでも、否、仏教打倒を心から望んでいた宣教師たちさえも、全く思いがけぬことであった。
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[#小見出し] 第九章 信長の伝統破壊
一[#「一」はゴシック体] 本願寺との敵対、叡山焼討
織田信長が仏教に対してはっきりと弾圧の態度を取り出したのは、一五七一年からである。その直接の機縁となったのは、前年の秋の畿内における苦戦であった。摂津では|大坂石山の本願寺《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が三好三党にくみして立ち、彼の摂津制圧を妨げたのみならず、伊勢尾張の門徒をして木曾川下流右岸の長島《ヽヽ》に拠って、信長を背後から脅かさしめた。京都では|叡山の衆徒《ヽヽヽヽヽ》が浅井朝倉の軍を助けて信長の京都把握を危殆《きたい》に陥れた。結局彼は、本願寺に痛棒を与えることも出来ず、浅井朝倉を制圧することも出来ず、浅井朝倉と一時和を講じて岐阜にひき上げたが、本願寺や叡山を打倒しなくてはならないという考は、この時に萌したのであろう。
彼が先ず手をつけたのは、本願寺の勢力の打倒であった。一五七一年の初夏には、信長はみずから諸将をひきいて伊勢の長島に迫って行った。しかし一向一揆の力は彼の予想を裏切るほどに強力であった。だからこの時には信長は、兵を損することを恐れて、いい加減にしてひき上げたのである。長島征伐はこの後三年の間懸案として残り、一五七四年の夏に至って、三カ月間の強攻の後に、遂に二万人皆殺しという脅威的手段に出たが、しかし石山の本願寺はひるまなかった。次の年には越前の本願寺一揆を討伐したが、本願寺の反抗は一層高まった。いよいよ石山の攻囲にかかって見ても、五年間に亘って遂にこれをくだすことは出来なかった。結局一五八〇年に至って、信長は皇室の仲介を請うて和を講じ、本願寺を石山から紀州の雑賀に斥けることが出来たのである。この経過によって見れば、信長の覇権時代の大部分は|本願寺との敵対《ヽヽヽヽヽヽヽ》のうちに過されたと云ってよい。信長の反仏教的な態度が根強かったのは、その故であるとも見られよう。
本願寺との長期に亘る関係に比べると、叡山との関係は極めて単純であった。叡山が信長に反抗して浅井朝倉の軍を立て籠らしめた年の翌年の、正月の賀に、細川藤孝が信長を岐阜に訪ねたとき、信長は叡山焼討の意図を洩らしたが、藤孝は、聞かね振りをして帰って来たという。王朝文芸に通達した、学者でもあった藤孝にとっては、たとい衆徒の堕落が眼にあまるほどであったとしても、この伝統の聖地を破壊するなどとは思いも及ばぬことであったに相違ない。従ってこの言葉を聞いても、まさか実行するつもりだとは思わなかったのであろう。しかし信長は、「日本で不可能なことと考えられていた」ことを敢て実行するような偶像破壊者であった。一五七一年夏に、浅井の兵が近江に進出したのをきっかけとして、その秋、信長はまた近江に大軍を入れ、浅井の軍を北に圧迫しつつ、三井寺から東坂本まで達したが、その時、信長は突如として、叡山攻撃の命令を発したのである。部下のものも驚愕して諫止しようとしたが、信長の決意は動かなかった。叡山の衆徒だけでは到底信長の軍を防ぎ得るものではない。叡山の力は八百年の伝統を背負った教権や、それを象徴する山王の神輿などにあったのであって、それを恐れないものにとっては物の数ではなかった。信長は平気で山王二十一社やその神輿を焼き払った。また根本中堂をはじめ山上の堂塔四百余をも余すところなく焼き払った。僧侶千五百、それに附随するほぼ同数の俗人(その中には多数の美しい稚児や、稚児に仕立てた美女があったとはいわれるが)、それらをも一人残らず殺戮させた。
このような未曾有の伝統破壊を決行しながら、信長は平然として即日京都に入り、将軍に会って政務を見た。京都市民に米を貸し、その利子で公家の生活を救うという風な手を打ったのもこの時である。内裏の修復をも促進して、その秋に工事を完成させるようにした。フロイスやオルガンチノも、叡山全滅をキリスト教弘布のよい機会として喜びつつ、信長を訪ねて款待を受け、長い間話し合った。その後この二人を一層喜ばせたのは、キリスト教排撃の原動力となっていた竹内三位が、将軍の前で信長の没落を予言したというようなことから信長の忌避にふれ、信長退京の途中で斬首されたことであった。
こういう情勢になっては、宣教師たちを脅かしていた追放の問題などは、何時の間にか消えてしまったのである。
叡山焼討で永い伝統を背負った仏教の教権が崩れ、キリスト教弘布の道が開かれたかのように感ぜられて間もなく、布教長フランシスコ・カブラルの巡視が行われた。
カブラルは一五七〇年の夏天草島の志岐に着いてトルレスに代り日本におけるヤソ会の指揮をとり始めたのであるが、志岐で第二回の宣教師会議を開いた後、先ず九州諸地方にとりかかり、それを終えて堺まで来たのは一五七一年の末であったらしい。一五七二年の初めには、フロイスやロレンソを連れて、岐阜に信長を訪ねた。その時の饗応の席で、信長が宣教師の肉食のことを尋ね、カブラルが大っぴらに肉食する旨を答えると、信長はその態度をほめ、「坊主は内証でやっている」と云ったという。仏僧に対する信長の反感は事毎に現われたのであろう。京都では、オルガンチノも一緒に将軍に謁し、非常に厚遇せられた。その後カブラルはフロイスと共に河内や摂津の信者群を訪ねた。これらはビレラの開拓した地方で、そこのキリシタン武士たちの信仰を堅固に維持させて行くことが、当時の京都の最大の仕事であった。でカブラルは復活祭を三箇《ヽヽ》で営んだ。そうして一五七二年の夏の間に九州に帰ったのであるが、この巡視旅行の全期間を通じて、人々の怖れていたような危険は少しもなく、将軍、信長、その他大身たちから、|周囲の人々の驚くほどの優遇《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を受けた、とカブラルは特筆している。反キリスト教的な気運はとにかく鎮まったのである。
二[#「二」はゴシック体] 信長の危機、京都の攻囲戦
しかし時勢は平和な伝道などには不向きであった。元亀天正の兵乱は漸く白熱点に達して来たのである。信長を東と北と西とから圧迫してくる諸勢力は、丁度この頃に、相結んで信長を打倒しようと試みた。一五七二・三年の頃は、信長にとって最も大きい危機ではなかったかと思われる。その中心的な勢力は東から迫ってくる武田信玄《ヽヽヽヽ》であった。彼は将軍義昭が信長の権力に対して不平を抱くのを利用し、これを味方につけた。そうして西の方は石山の本願寺をはじめ、松永久秀、叡山の残党等とも連絡をとり、北の方は浅井朝倉と協力を約した。この形勢に気づいた信長は、一五七二年晩秋、義昭に対して十七カ条の問責書を発したが、同じ頃にもう信玄は数万の兵を率いて甲府を出発したのである。信長と義昭との間の交渉は、もうこれまでのように簡単に解決しなかった。幾度も使者が往復し、義昭が信長の急襲に備えて二条城の防備を堅くするというような態度を取っても、信長は宥和政策を続けて動こうとしなかった。一五七三年の初めには信玄の軍が三方ヶ原で家康の軍を破ったが、信長はなお信玄に対して和親の努力を続け、義昭に対しても温和な使者を送っておのれの娘を人質に出そうとさえもした。この際強硬であったのはむしろ、信玄と義昭とである。信玄は義昭にあてて信長の罪五カ条を数えた意見書を送ったが、叡山撲滅はその罪の大きいものであり、従って叡山復興が信玄の主たる目的とされていた。フロイスによると、信玄は信長に宛てた書簡に「天台の座主沙門信玄」と署名し、信長はその返書に「第六天の魔王信長」と署名したといわれる。これは二人の英雄の間に取り交わされた諧謔の応答に過ぎぬが、しかしその背後には両者の仏教に対する態度が示されている。フロイスはその点を敏感に感じて、信長が容易に上京し得ないような窮境に陥っていることを憂慮し、信玄が上京して叡山を復興した場合の迫害についてさえも心構えをしようとしていた。
が、そういう不安はフロイスに限ったことではない。京都の市民全体が非常な不安に陥り、避難の準備で騒いでいた。家財の荷造り、市外への運搬、それに対する兵士たちの掠奪、そういう騒ぎが毎日続いた。フロイスも祭具や書籍を醍醐、八幡などに送った。やがて女子供たちの避難も始められた。当時オルガンチノとロレンソは三箇に滞在していたが、その三箇の領主はフロイスに避難をすすめて来た。摂津の高山ダリヨも丹波の内藤ジョアンも、度々その居城へ来るようにとすすめて来た。京都の信者たちも同意見であった。いよいよ京都の町が兵火に焼かれる時には、フロイスを救うことが困難になるからである。
しかしフロイスは動かなかった。自分の任務はキリスト教の信仰を日本人にすすめることである。信長は自分たちの親友であり、キリスト教を庇護しているのであるから、その軍隊が京都へ侵入しても、信者や会堂に対して害を加えることはあるまい。信長の軍隊が近づいてくれば、自分は市外に出迎えて、カブラルからの贈物の楯や書簡を渡すつもりである。こう彼は云い切った。市内の騒擾が主として心理的な不安に基くことを、彼は見抜いていたらしい。或る日一群の盗賊たちが、掠奪の機会を作るために、信長来襲、二条城炎上という虚伝を飛ばした。すると京都の市内は、俄然、「最後の審判の日」のような混乱に陥った。そういう市民の心理状態を彼は観察していたのである。
義昭は春の彼岸の頃に遂に兵をあげた。それに対して即座に信長が打った手は、柴田明智等の部将を派遣して石山や今堅田の城を陥《おと》し、京都への通路を確保することだけであった。信長が大軍を率いて京都に来たのは、それよりも一カ月ほど後のことであるが、その当時京都では、信長の上京は、到底|不可能であろう《ヽヽヽヽヽヽヽ》と信ぜられていた。東からの信玄の圧迫、北からの浅井朝倉の攻撃が、信長を危地に陥れているからである。京都の義昭は、摂津の三好党や本願寺の勢力を味方として、今や確乎たる地歩を占めているかのように見えた。
この頃に、フロイスの前に大きく現われて来たキリシタン武士は、丹波の八木の城主|内藤ジョアン《ヽヽヽヽヽヽ》であった。ジョアンは前年京都でカブラルに会った時には、「憐れむべき窮乏の状態」にあったといわれるが、僅か一年後のこの時には、二千の兵を率い、|十字架の旗印《ヽヽヽヽヽヽ》を掲げ、|兜にゼズスの金文字《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を輝やかせながら、将軍義昭の味方に馳せ参じて来たのである。義昭は非常に喜んでこれを迎えた。ジョアンはその日の午後、キリシタンの兵士たちをつれて会堂にフロイスを訪ね、告解のための準備を熱心にはじめた。その熱心、謙遜、従順な態度は、フロイスに非常によい印象を与えた。このジョアンがこの時以来会堂や信者に手厚い保護を加えたのである。その後彼は、高山右近などと共に、最後までキリシタン武士としての操守を貫いた。
その高山右近も丁度この頃に表へ浮び上って来た。彼は父の高山ダリヨと共に和田惟政の部下として高槻城を守っていたのであるが、惟政の戦死後、後を継いで城主となった惟長の統率力の不足から、遂に悲劇的な異変をひき起すことになったのである。事の起りは、惟長の家臣のうちに、高山父子の声望と勢力とを妬んでこれを除こうとする連中があったことである。惟長はそれに同じたわけでもなさそうであるが、またそれを抑えることも出来なかった。で、惟長が高山父子を誅しようとしている、ということが、高山父子に伝わった。高山父子は、和田惟政に代って権力を握っている荒木村重の諒解のもとに、遂に惟長の不意を襲った。当時十九歳の青年であった右近が、同じように若い惟長と渡り合って共に傷ついた。この争を調停したのは、桂川の西の地方を領していた細川藤孝《ヽヽヽヽ》である。その結果、惟長は高槻城を出て伊賀に帰り、高山ダリヨは高槻城主として留まることになった。が間もなく惟長は、右の負傷のため伏見の城で死んだ。キリスト教を外護した和田惟政のあとはこうして絶えたが、その代りキリシタン武士高山右近の活躍がこれから始まるのである。
ところが、その惟長の歿後十日ほどを経て、上京不可能であろうと思われていた信長が、突如近江の国に姿を現わした。一五七三年の四月末であった。その報が達すると共に、義昭は急いで味方の兵を二条城に籠らせ、濠の橋を引いた。内藤ジョアンも部下の兵と共に城に入った。市民はまた大混乱に陥った。フロイスもまた家財の荷造りや発送をはじめた。内藤ジョアンは護衛兵、馬、人夫などを出して、その荷物を丹波へ送らせた。そうして熱心にフロイスに丹波へ避難することをすすめた。しかしフロイスはなお会堂と信者とを見捨てなかった。丁度その頃に細川藤孝《ヽヽヽヽ》と荒木村重《ヽヽヽヽ》とは、信長の軍を逢坂まで出迎えたのである。もし内藤ジョアンが信長方であったならば、フロイスも信長を出迎えることが出来たかも知れない。
信長は四月三十日(天正元年三月二十九日)午前、京都の東の郊外に入り、智恩院から祇園へかけて陣を取った。フロイスはその午後、カブラルの信長への書簡や贈物の楯などを携えて小西隆佐の家を訪ねた。多分信長への接近の手だてを隆佐に相談しに行ったのであろう。隆佐の家では家族は皆避難し、隆佐と子の行長だけが武器を持って残っていた。隆佐の智慧を以てしてもフロイスの計画は実行し難かったのであろう。フロイスは書簡と楯とを隆佐に託し、機会を見て信長に届けるように頼んだ。そうしてフロイス自身は、十人ほどの信者のいる九条村に避難することになった。十数人の信者が同伴した。丁度麦が穂を出しかけた時分で、掠奪者が麦畑にひそんでいたが、またこちらも麦畑に隠れることが出来た。九条村では信者の親戚や知己の家を転々して隠れていたが、掠奪に来た荒木の兵士やそれに内応した村人たちに対し、危険を顧みず敢然としてフロイスを庇ったのは、|その父がキリシタン《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であったという|一人の異教徒《ヽヽヽヽヽヽ》であった。その騒ぎのあとで信者たちはフロイスの避難先を相談し、夜の闇にまぎれて東寺の村へ連れ込んだが、迫害者の内通で、東寺の坊主らはすでにフロイスの隠匿を禁ずる触れを出していた。この時にも死を賭してフロイスを匿まってくれたのは、老信者メオサンの|親戚の異教徒《ヽヽヽヽヽヽ》であった。その家にフロイスは八日間《ヽヽヽ》隠れていたのである。
その八日間に信長は一応京都のことを処理して、急速に京都をひき上げてしまった。だから、フロイスは信長には会えなかった。しかし最初東山に陣取った信長は、部下の兵士に京都市内へ入ることを禁じ、義昭に対して依然宥和政策を続けたので、フロイスが九条村へ逃げさえしなければ、翌日あたりには、会うことも出来たのである。カブラルの書簡と楯とを託された小西隆佐は、翌日即ち五月一日には信長を訪ねてその託されたものを手渡すことが出来た。信長は非常に喜んでフロイスやオルガンチノの消息をたずね、ポルトガルの楯をほめた。このことはすぐフロイスの方へ連絡されたと見え、二三日後には隆佐に金米糖入りの瓶を持たせて、再び信長を訪ねさせている。
このように信長は、最初四日間、軍隊を動かさずに義昭に和睦をすすめた。将軍は将軍として立てる。ただ戦争と政治のことは譲歩して貰いたいというのであった。義昭が承知しなければ実力を以て強行することも出来るが、しかしそのためには京都の市民や郊外の農民が非常な災厄を受ける。それは何とかして避けたい。そう信長は考えた。しかし、義昭を取り巻く「若衆」の鼻息は頗る荒く、信長の足許を見透かしたような気持になっていた。だから義昭は和睦に応じなかった。そこで信長は止むを得ず五月三日に|京都の周囲《ヽヽヽヽヽ》二里から四里位の間の町村九十余を焼き払わせたのである。それは京都の市民がその家財や妻子を避難させた場所であった。従ってそこで行なわれた掠奪や暴行は実質上京都の町に加えられたのと同じであった。フロイスが最初避難した九条村もこの日焼かれた。
この大破壊のあとで信長は再び義昭に働きかけたが、義昭は依然として応じなかった。上京や下京の市民は、市内へ手をつけないようにと熱心に信長に請願し、信長も下京に対しては焼かないという書付を与えたが、上京に対しては、答えなかった。しかし、五月三日夜に上京に起った火は、信長がつけさせたのではない。三十人ほどの掠奪隊が勝手にやったことである。信長は部下の兵士が京都の町に火を放ったのでないことを示すために、その夜軍隊を全然動かさなかった。こうして五月四日の朝には上京の三分の一以上は焼けていた。そこへ信長は軍隊を入れて、二条城包囲に都合のよいように、残存の部分をも焼き払ったのである。この上京の焼き払いでは|多数の寺院の焼失《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が目立った。信長が上京を容赦しなかったのは、寺院が多い故であろうとも云われている。
信長は自分の築城したこの堅固な二条城、三つの堀と数カ所の稜堡を以て取巻かれたこの要害を、攻撃によって陥そうなどとはしなかった。周囲に四つの城を設け、通路を塞ぎ、糧道を絶って、包囲の態勢を整えたのである。地元の細川藤孝などがその押えを命ぜられた。この形勢を見て義昭は和睦に応ずる態度をとるに至った。五月八日(天正元年四月七日)勅使が義昭と信長とを訪れ、信長は即日京都を去ってその日は近江守山に陣取った。
この時の和睦が一時的なものに過ぎなかったことは、事件の二十日後に書かれたフロイスの書簡にも明記せられている。義昭は浅井朝倉や三好三党の救援をあてにして一時免れの策を取ったのである。信長もそれを知っていた。だから彼は義昭の再挙を予想して、琵琶湖に百挺櫓の大船十数艘を急造させ、京都急襲の用に備えた。
ところでこれらの信長の進退を東から牽制していた武田信玄は、三河野田の陣中で病み、信濃まで引き返して五月十三日に歿した。それは直ぐには発表されなかったが、しかし東からの強い圧迫はここで止んだ。この信玄の死が恐らく信長にとっては実質上の|運命の転回点《ヽヽヽヽヽヽ》であったであろう。従って形の上では、信長のこの時の九日間の在京が、彼の地位を決定したのである。この時信長は、「その心が寛大であって思慮があり、時に臨んでよくおのれの情を撓めることが出来る」という印象を京都市民に与えたという(フロイス、一五七三年五月二十七日都発書簡)。将軍の存在はもう宙に浮いてしまった。
三[#「三」はゴシック体] 将軍の没落、浅井朝倉の滅亡、伝統破壊者の勝利
高山ダリヨはこの戦乱に際し、フロイスの身の上を心配して数人の家臣に村々を捜索させたが、八日の後にやっと東寺にいるのを見つけた。それは信長の退京の日であった。その日京都からも信者が迎いに来て、フロイスは会堂へ帰った。翌日、在京の信者たちが集まって来たが、フロイスを見ると皆涙を流して泣いた。
内藤ジョアンは城を出てほとんど毎日会堂を訪ねて来た。兄の玄蕃も、家老の内藤土佐も、他の家臣らと共に説教を聞きに来た。やがて間もなくこの両人は洗礼を受け、玄蕃はドン・ジュリアン、土佐はドン・トマスとなった。丹波に会堂を設けること、ロレンソがそこへ説教に行くことなども追々に運んだ。
フロイスによると、この内藤ジョアンは義昭とかなり親しかったように見える。信長の退京後六日の頃、義昭は二条城にいることを不安に感じ、ジョアンに対してその城の借用を申込んだ。義昭が八木城に入り、ジョアンが二条城を守るという計画を立てたのである。ジョアンはそれに対して、将軍の意志には喜んで従いたいが、しかし将軍ともあるものがこの堅固な二条城を逃げ出して信長を再び敵とすることは、甚だふさわしくないという意見を述べた。すると将軍は初めの計画を変更して|宇治の槙の島《ヽヽヽヽヽヽ》に移ることにきめ、婦女子や家財の運び出しをはじめた。京都の市民はそれを見て再び恐慌に陥り、同じように女子供や家財の搬出に狂奔した。当時病中であったジョアンは、それを聞いて急いで城に馳せつけ、出発のために将に馬に乗ろうとしていた義昭をとどめて、その場に居合わせた大身たち一同の面前で、この移転を諫止した。京都市民は将軍を愛するが故にこの絶大な災禍に逢ったのである。その将軍が今京都を見捨てるならば、将軍の名誉と尊敬とは、全然失われてしまうであろう。自分は死を賭してもこの城を守る。是非留まってもらいたい。この意見には、将軍に随行しようとしていた大身たちも、賛成した。そうして義昭は移転を思い止まった。市内の動揺も静まった。このジョアンの諫止は市民の間にも非常に好評判であった。
同じ頃に三好三党や本願寺などの聯合軍は、大坂と京都との中間まで進出していた。高山ダリヨは危険を慮ってフロイスを高槻の城に避難させるため人馬を京都に寄越した。丁度その時に三好の軍中からもキリシタン武士たちの書簡を携えて使が来た。それによると、三好の軍隊が京都に入るかどうかはまだきまっていないが、もし入ることになれば、会堂のある町はキリシタン武士たちが責任を以て保護するから、避難するに及ばない、というのであった。フロイスはこの申出に満足して、高山の兵士を帰らせた。
そういう状態でフロイスは三月ほど京都で活動をつづけた。内藤ジョアンの一族のほかに摂津の池田の兵士たちも内藤玄蕃のすすめに従って説教をききにくるようになった。六七月頃には、池田の人々に対して、毎日午から夕方まで説教をつづけた。池田領にキリスト教をひろめようということは、フロイスの年来の望みだったのである。
義昭は六七月頃に再び京都を去ろうとして思い止まったが、八月のはじめには遂に意を決して|宇治の槙の島《ヽヽヽヽヽヽ》にたてこもった。二条城は部下の武士や公家が大将となって守った。三好三党や本願寺の軍は、京都の南方まで来ている。浅井朝倉は信長の京都への通路を遮ぎるであろう。今度こそは後顧の憂のある信長を苦しめることが出来る。そう彼は考えたであろう。しかしすべては無駄であった。信長は義昭挙兵の報知を得ると、岐阜から大軍を一日一夜で京都へ入れた。京都の市民はあきれて、まるで天狗のようだ、将軍がかなう筈はない、とつぶやき合った。琵琶湖に準備した百挺櫓の船隊が物を言ったのである。二条城は包囲せられると間もなく降った。十日目にはもう槙の島の攻撃がはじまったが、これも一日で陥ちそうになった。義昭は和を請うた。信長はさすがに殺そうとはせず、どちらへでも送ってあげろと云って秀吉たちに処置をまかせた。そこで秀吉らは、将軍方についた三好義継の居城、河内の若江へ義昭を送り届けた。義昭はこの後も本願寺や毛利の勢力に頼って信長に反抗し続けるのであるが、しかし信長の眼中にはもう彼はなかった。足利将軍の伝統的意義はここで壊滅してしまったのである。
このことは京都では形の上に示された。上京《かみぎよう》を兵火によって破壊したのは、信長ではなくして足利将軍の責任である。信長はただ、市民の不幸に同情して復興を助ける。そのために彼は、地子銭及び諸役の免除、鰥寡孤独の扶持、そのほか種々の技術において名人《ヽヽ》と呼ばれるものの保護、儒学の奨励などを布告した。市民は古い伝統を担う将軍よりも、実力を持ったこの新しい英雄の方を喜び迎えたのである。
この新しい形勢を完成するかのように、信長は、すぐその翌月に、浅井朝倉を討滅してしまった。それは僅か二十日ほどの間の出来事であった。信長は江北の浅井の城を押えて置いて、朝倉の援軍に強圧を加え、近江から越前へ続く峻嶮な山地のなかを追撃して行った。そうして朝倉の軍をその本拠一乗ヶ谷から追い出し、遂に徹底的に崩壊せしめた。それから直ぐひき返して、江北の虎姫《とらごぜ》山の城を強襲し、浅井父子を自殺せしめた。これで、長年の間信長を北から圧迫していた力は取除かれたのである。
このように一五七三年は、五月に東方の信玄が歿し、八月に京都の将軍義昭が追われ、九月に北方の浅井朝倉が討滅されて、信長の運命がはっきりときまった年であった。フロイスは冷々《ひやひや》しながらこの信長の運命を見まもっていたのであったが、それは彼の希望する通りに開けて行った。彼はこの騒ぎの最中、五月の末に、こう書いている。日本の異教徒たちは、坊主も俗人も、神仏《ヽヽ》が信長に厳罰を加えるだろうと期待していた。しかるに寺院や神社を破壊しその領地を武士たちに分配するような乱暴を働いた信長は、その後ますます栄え、ますます大きい勝利を得、何事をも意の儘になし得るようになった。それを見て異教徒たちは、神も仏も頼りにならないと嘆いた。中には、|信長がひそかにキリシタンになっている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と信ずるものもあった。そうでなければ、あのように思い切って神仏を涜すことは出来ないからである、と。この言葉には、フロイスの信長にかけていた希望が鳴り響いているように思われる。
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[#小見出し] 第十章 京都の新会堂『昇天の聖母』の建立
一[#「一」はゴシック体] 新会堂の計画とその主動者たち
一五七三年を境として信長の地位は非常に強固なものになったが、しかし彼を包囲する敵の勢力はなお残っていた。東からは信玄の歿後嗣子の勝頼が信長を襲おうとしている。西の方では本願寺が反信長の勢力を糾合し、北方の越前の一向一揆を活気づけている。一五七四・五年の頃はこれらの敵対勢力の処理に忙がしかった。が一五七四年には伊勢長島の一向一揆を全滅させ、一五七五年には長篠の合戦で巧みな鉄砲戦術により武田の精鋭を壊滅させたのみならず、北の方越前へ攻め込んで本願寺一揆を平定した。こうして一五七六年以後は、石山の本願寺とその与党とを討滅することが、唯一の問題として残ったのである。
その一五七六年の初めに、信長は近江の安土に城を築いてそこへ移った。それは同時に、中世的な種々の特権組織から解放された|近世的な都市の建設《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の開始でもあった。信長の政治家としての才能はここで顕著に現われてくる。後に秀吉が大坂《ヽヽ》を、家康が江戸《ヽヽ》を作ったのは、いずれも信長の安土経営に学んだものである。
この機運はそのまま、京都のキリスト教会にも反映した。一五七五年にはじめられた|新会堂の建築《ヽヽヽヽヽヽ》がそれである。
京都の信者は永年の戦乱つづきのために数の上でふえたわけではなかったが、しかしビレラの教化以来堅実に信仰を守って来た人が多かった。困難の時期にいつもフロイスを援助した小西隆佐父子のほかに、フロイスが特に名をあげているのは、老アンタン、コスモ、アンタンの兄弟ベント、ジュスチノ・メオサン、その子アレシャンドレ、レアン清水などである。|メオサン《ヽヽヽヽ》はその妻子と共に京都で最初に信者となった老人で、教会のことに非常に熱心であった。妻のモニカも徳行のすぐれた人であった。フロイスが九条村に逃げた時にはメオサンもその子と共について行き、東寺の自分の甥の家に八日間フロイスを匿まったのである。|レアン《ヽヽヽ》は五十歳位の相当富裕な人で、才智があり思慮深く、言葉少なで実行力に富んでいた。その父は熱心な法華信者で、レアンのキリシタンとなることを非常に嫌い、不幸の死を遂げた。その妻と子も中々改宗しなかったが、レアンはその熱心によって遂に信者とすることが出来た。このレアンが実に真面目な信者で、その富を教会と慈善とのために惜しみなく使ったのである。京都の信者のうち、|新しい会堂建築の主動者《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》となり、その建築のために最も熱心に働いたのはこのレアンとメオサンとであった。レアンはこの建築のために多額の寄附をしたのみならず、この計画のために、いろいろ智慧を絞った。フロイスは、事毎に、殆んど皆レアンの意見に従ったと云っている。メオサンも分以上の寄附をし、木材買入れに寒中四十里余の山中へ出掛けたりなどした。この好き老人は、夜眠れない時に、キリシタン都市としての京都の都市計画を考案して楽しんだという。京都に数多い仏寺を改造して、キリスト教の大寺院、貧民病院、受洗志願者の家、学校などを建設するのである。
しかし新会堂の建築に力をつくしたのは、京都の信者のみではなかった。摂津河内のキリシタン武士たちも熱心にこれに加わった。
先ずあげられるのは|高槻城の高山ダリヨ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ジュストの父子《ヽヽヽヽヽヽヽ》である。一五七三年の春、和田惟長を追い払って高槻城主となった高山ダリヨは、もう五十歳を越えて居り古い戦傷が時々痛みもするので、城の支配をジュスト右近に委せて、自分はキリスト教のことに専心し始めた。先ず第一に着手したのは会堂の建築である。元神社のあった、大樹のある広い場所にそれを建て、周囲に大きい庭を造った。会堂の傍には、宣教師の宿泊用に美しい住宅を建て添え、その前には石を多く使ったしゃれた庭を造った。この新しい会堂で最初のミサを聞いたとき、ダリヨは床の上に伏して歓びの涙を流し、地上の望みはもう達せられた、御意《みこころ》のままに、何時にても御許《みもと》に召し給え、と云ったという。この会堂へ、信者らは毎朝鐘の音と共に集まって、祷りをした。夕方アベ・マリアの時もそうであった。ダリヨとその子はいつも真先に来た。日曜や祭日にはダリヨが説教をしたり、或は書籍を読んで聞かせたりした。そうして時々京都から宣教師に来て貰って、ミサや説教をきいた。こうしてその後二年ほどの間に、城内の武士や兵卒たちをその妻子と共にキリシタンに化して行ったのである。
ダリヨはこの信者らを組織して教化の仕事や慈善の仕事につとめた。キリシタンの客人は、全然未知の人であっても、親戚のように款待した。貧者には、衣食を給した。戦死者の遺族は、親身になって世話をした。貧しい者の葬儀も、信者一同の参加によって、盛大に営んでやった。
そういう風にしてダリヨの仕事が実って来た頃に、京都で会堂新築の議が起ったのである。ダリヨも京都に来て宣教師や大工と共に製図をやり、主要な材木の供給をひき受けた。そのために彼は自ら騎馬の士二三人と共に大工木挽を引率して六七里の山奥に入り、材木を伐り出した。それを先ず高槻まで運び、船で京都近くまで持って来て、更に荷車で一里ほどの途を工事場に届ける、ということをすべて自費でやった。工事が始まってからも人夫の供給その他いろいろなことを引受けた。かなり困難だと思われることでも、頼まれると、お易《やす》い御用だと云って気持よく引受けるのが彼の常であった。
この工事の進行中、一五七六年の復活祭に、ダリヨは懇請してオルガンチノを高槻に迎えた。ダリヨはいろいろと祭の準備を整え、非常な熱心と献身的な態度とを以て聖週の行事を手伝った。聖餐の後には、会衆六百余を饗応して、人々にその慈愛を感嘆させた。オルガンチノは、これほど荘厳な復活祭を日本で見たことがない、と云ったという。その後数カ月を経てオルガンチノは京都の会堂で献堂式を行ったのであるが、その時にはダリヨは、夫人を伴い、子ジュストと共に二百余人の士卒をひきいて参会した。附近の市民はかくも多数の輿や騎馬が会堂に入るのを見て驚いた。式後にダリヨは、運ばせて来た多量の食料品を以て、諸方からの参会者のために盛大な饗宴を設けたのであった。
高山父子についで挙げられるのは、河内飯盛山下の|岡山城の家老《ヽヽヽヽヽヽ》、|ジョルジ結城弥平治《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。ジョルジはこの時三十三歳位であったが、洗礼を受けたのは十四五年も前で、ビレラが最初に作ったキリシタン武士結城山城守の甥だといわれている。ジョルジの母親は熱心な法華信者であり、兄弟二人も僧侶にされていたのであるが、ジョルジは非常に骨折って、これらをすべて好いキリシタンにした。岡山城に来る前には、三箇のキリシタン武士の一人として活躍し、キリシタンなるが故に戦死を脱がれたこともあった。岡山城主は彼の甥であったが、彼は見込まれてその後見となり、その家を治めることになった。城主は彼のすすめにより家族と共に洗礼を受けてジョアンとなった。城主のみならず、岡山の住民千余人も、彼の熱心に化せられて、一人残らずキリシタンとなった。そこには会堂や宣教師の宿舎も建てられた。フロイスやロレンソは度々ここを訪れている。
京都で会堂の新築がはじまった時には、ジョルジは早速、会堂の附近に一軒の家を借り、そこに四五十人の士卒を宿泊せしめて、毎日工事を手伝わせた。会堂の大きい礎石を運び込み、据えつける時などには、ジョルジがこの仕事を引きうけ、自ら士卒の先頭に立って、両肩を腫れ上らせるほどに働いた。家老であるから、いつも京都に来ているというわけには行かなかったが、祭日などには、一両人の伴をつれて夜のうちに十里の道を馬で飛ばせ、午前中に告解や聖餐をすませて、午後直ちに帰って行く。まるで一二里の所から来るような|何気のない《ヽヽヽヽヽ》ふりをして、骨折りを人に知らせないようにする。建築費の寄附なども率先して人より多く出したのであるが、それを秘して人に知られないようにしていた。或時、上京の節に工事場に大工の数の少ないのを見て建築費の窮乏を察し、宣教師館の一隅でこっそりおのれの帯刀の金の飾りを外して紙に包み、日本人のイルマンに託して行ったこともあった。そういう慎ましいやり方が宣教師たちを非常に感動させたのである。
岡山の近くの|三箇の信者たち《ヽヽヽヽヽヽヽ》も勿論会堂の新築に協力したのであるが、その中で特に著しかったのは、|三箇の城主の姉妹《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》で、キタという武士に嫁していた|フェリパ《ヽヽヽヽ》である。この五十歳を越えた老夫人は、キリシタンの女子の模範であったといわれている。さほど富裕ではなかったが、会堂や貧者のためには物惜しみせずに愛の行をつとめた。病人を訪ねて慰め、心弱きものの信仰を堅めてやり、うかうかとしていたものは呼び醒し、争いがあれば調停する。異教徒に対する教化にも熱心であった。またクリスマスや復活祭に他の地方から三箇に集まってくるキリシタンの貧しい女たちで、フェリパの世話にならぬものはなかった。その他の時でも、岡山にくるキリシタンはいつも夫人の世話になる。冬になるとフェリパは侍女たちと共にせっせと機を織り、衣服に仕立て、京都の宣教師のもとへ持ってくる。新会堂の工事の始まったときには、工事に役立てるために多量の織物の荷を携えて京都へやって来た。その所行は全く初期の教会の婦人のようであったとフロイスはいっている。
|河内若江城の部将《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|シメアン池田丹後《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》も京都の会堂の新築に力をつくした人である。若江の城は信長が将軍義昭を逐うた頃には三好義継の居城となって居り、義昭もさしずめ宇治の槙の島からこの若江の城に送りつけられたのであったが、その冬信長の軍に攻囲せられた時、池田丹後は他の部将たちと共に信長方に内応し、義継を自殺せしめたのである。その後はその部将たちが共同して若江の城を守っていた。そのうちキリシタンであったのはただ池田丹後のみであったが、しかしその部下の武士たちは、ビレラが飯盛山下に布教した頃からのキリシタンであった。だから若江の城内に立派な会堂を建てたのみならず、京都の会堂の工事についても非常に援助を与えた。その後一五七七年に信長が紀伊の雑賀を攻めたとき、シメアンも従軍して寺々を焼いたが、その戦争の最中に、彼は分捕った大釣鐘を京都まで運ばせ、聖母の会堂に献じたりなどした。
が以上に挙げたのは|特に目立った《ヽヽヽヽヽヽ》数人なのであって、ほかに無数の信者たちがそれに類した熱心さを以て働いたことはいうまでもない。河内の山から材木を淀川に出し、それを伏見までひいてくる時などは、若江、三箇、甲賀などのキリシタン武士たちが集まり、その家臣・親戚・友人など、千五百人が出動した。高槻の傍を通る時には高山ダリヨが士卒を出して手伝わせた。その他富者は富者相応に、貧者は貧者の分以上に、金銀米、その他雑多なものを寄進した。或者は縄を持ってくる。他の者は手一杯の釘を持ってくる。或は大工らのための魚類、或は手織の木綿の布を届ける者もある。或は自家の鉄鍋を携えて来て料理を手伝うものもある。戦死した子の武具や衣類を寄進する母親、畳百枚を寄進して人々を驚かせた老寡婦などもあった。こういう無数の人々の心からの協力が新会堂の建築を仕上げたのである。従ってそれは単なる建築の仕事というわけではなく、京都地方の信者たちの、集合的な感情や意志の表現だったのである。
二[#「二」はゴシック体] 建築工事と村井貞勝の外護
ではその建築の仕事はどういう風に運んだか。
一五七五年までの小さい貧弱な会堂は、風の烈しい日には中にいられないほど頽廃していた。
それを何とかしたいということは前から宣教師も信者も考えていたのであるが、いよいよ新築の議が起ったのは、一五七五年の前半であったらしい。その時は売物に出ている仏寺を買い取り、その材木を使う計画であったが、値段が折合わず、その計画は放棄された。しかしそれが却って刺戟となり、信者たちの熱心が高まって、夏の頃に新会堂建築の相談がきまった。宣教師は豊後のカブラルに報告して、ヤソ会の経常費を、いくらか割いて貰うことにした。有力な信者たちは集まって、製図したり、工事の分担をきめたりした。人々は手を分けて、材木の買入れ、工事用の米の買入れ、大工や人夫の工面などをひき受けた。こうして、多分、一五七五年の末頃に工事に着手したのである。
工事は、前に述べたような熱心な信者の協力のもとに押し進められて行ったのであったが、工事のために特に都合がよかったのは、村井長門守貞勝《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、一五七三年の足利将軍失脚以来、京都所司代《ヽヽヽヽヽ》となっていたことであった。貞勝はそれ以前にもすでに朝山日乗と共に内裏の造営に従い、京都の行政を見ていたのであるが、日乗とは異なり、宗教的な偏向を全然持たず、信長のキリシタンに対する態度をそのまま施政の上に反映し得る人であった。フロイスも彼のことを「尊敬すべき老年の異教徒」「生来の善人」などと呼んでいる。その貞勝が、前の和田惟政と同じように、異教徒でありながら、熱心にキリシタンの保護をはじめたのである。所司代は「京都の総督」と呼んでもよいような地位で、権勢の上でも惟政に匹敵していた。
最初教会から新会堂建築のことを所司代へ届け出たとき、貞勝はそれに対して特別の恩典を与えた。当時京都では、内裏修復用の建築資材のほかは、材木その他一切搬入が禁ぜられていたのであるが、貞勝は会堂用の材木その他建築資材の自由搬入を許し、その上税を免じたのである。ついで棟上げの時には、七百人以上の人手が必要だと考えられていたが、貞勝はそれに対して、要るだけ申出るがよい、千人でも送って上げよう、と申入れたという。そうして、棟上げの当日には、代理の武士二人が、多数の人を率い、祝いの品を携えてやって来た。この人々は夜に入るまで工事場に留まり、|所司代が会堂に好意をもつこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を市民の間に周知せしめようとしたのである。その日はほかにも諸方からキリシタンの大身が集まったが、それらと併せてこの所司代の処置は非常にききめがあった。これまで会堂に好意を持たなかった町内の人々も、急に態度を変え、工事に助力するようになった。なお、棟上げの数日後には、貞勝自身が工事場に来て、小銭二万を贈って好意を表したのみならず、当時安土造営のために行われていた|大工の徴発《ヽヽヽヽヽ》を、会堂の大工にのみは適用しないことにしてくれた。
が貞勝の与えた最も大きい庇護は、会堂新築に対する|京都市民の反対《ヽヽヽヽヽヽヽ》を抑えてくれたことであろう。反対の理由は、会堂の上に二階のある高い建築(日本風にいえば三階建であろう)が、寺院や住宅を越えて聳え立ち、京都の市民を見下《みくだ》すということ、或は礼拝堂の上に住屋を重ねるのは日本の風でないということ、などであった。貞勝はそれに対して、至極合理的な意見をのべ、反駁した。|外国人が京都へ来て《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》家を建てるということは、京都に名物がふえるようなものではないか。市民はむしろそれを尊重すべきである。会堂の上に住屋を重ねるのは、地所が狭く余地がないためであって、止むを得ない。また高い二階を造るのがよくないというのならば、外国人と日本人とを問わず禁止すべきである。京都に現存する二階を悉く壊させるというのであるならば、キリシタンの会堂に対しても二階を壊せと命じよう、というのであった。
所司代が会堂新築反対に同じないのを知ると、京都の町の自治組織を代表する年寄たちは、|自分たちの権限を以て《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、会堂の上の二階を壊せということだけを命令して来た。これは会堂の構造《ヽヽ》に難癖をつけたのであって、会堂の新築《ヽヽ》に反対したのではないように見えるが、しかし工事の途中にこの変更を命ずることは、工事を不可能ならしめるに近かったのである。それを察した宣教師たちは次のように抗弁した。二階の住屋がいけないならば、|工事を始める前に《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》そのことを通達すべきである。建築の構造上、上と下とは密接に聯関している。下の構造を害うか、或は非常に多額の費用をかけなくては、上部を取除くことは出来ない。この建築は開始前に信長及び所司代に届け出てある。それらの人々の保護の下に宣教師は京都に居住しているのであるから、この事についてもそれらの人々の命令に従うであろう。
こうして京都の町の自治当局と教会とははっきりと対立した。何故、町の年寄連がこの筋の通らない難癖にやっきとなったかは、よくは解らないが、フロイスは坊主らの使嗾によると解釈している。町の方では意地になって、|四十人ほどの主立った人々《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に、多量の進物を持たせ安土の信長に陳情させることにした。京都市民の希望とあれば、民衆の動向を重視する信長は動くに相違ないと考えたのであろう。これは、京都の町としては相当の大事件である。この形勢を見て教会の方では一足先に、日本人イルマンのコスメを安土に派遣し、有力な武士数人に事情を報告させた。その人たちは、気にせずに工事を続けるがよい、陳情者が来ても工合よく計らってやる、といってくれた。所司代の村井貞勝もこの陳情団が出発したと聞いて、|信長及び彼自身の庇護している外国人《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を京都の町が苛めるということは、彼の面目にかかわると考えた。で、老体にかかわらず寒いなかを急遽安土に馳せつけた。陳情団が安土について見ると、そこには意外にも彼らに反対した京都所司代が居り、しかも信長側近の武士たちは誰も彼らを信長に取り做そうとはしてくれなかった。結局彼らは何も出来ずコソコソと京都へ引き返して来たのである。
以上のような所司代の外護に加えて、キリシタン武士たちも、意外なほど熱心であった。一五七六年の五月には、石山本願寺に対する信長の大仕掛な攻撃が始まったので、高槻、若江、三箇、岡山の四城のキリシタン武士たちはそれに参加しなくてはならなかったのであるが、そういう慌しい際にも彼らは一定の人数を京都の工事場に派遣することを決して中止しなかった。それぞれの部署を互に代り合い、交替して京都に出て来たのである。
この工事の有様はフロイスやオルガンチノを非常に喜ばせた。所は神社仏閣に充ち溢れた|偶像の都《ヽヽヽヽ》である。そこに|たった二人の外国人《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》がいて、多数の敵の意志に反して美しい会堂を建築している。この素晴らしい状況をヨーロッパ人に想像せしめるために、フロイスは次のような表現を使った。この状況は、ローマかリスボンへたった|二人のアラビア人《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が来て、キリスト教の会堂の側に、モハメッド教のモスクを建てているのと同じである、と。この気持は恐らく当時の日本人には解らなかったであろう。しかしモハメッド教徒との対抗に刺戟されてインドに進出し日本まで来ることになったヨーロッパ人にとっては、この表現は実に多くのことを語っているのである。
一五七六年の夏には、会堂はまだ落成してはいなかったが、オルガンチノはシャビエルの日本に着いた八月十五日、聖母昇天祭の日を選んで、この会堂での最初のミサを献じた。会堂の名も『昇天の聖母』と呼ばれた。この時フロイスはロレンソと共に河内に行っていて留守であったが、諸地方の信者は多数に集まり、盛大な祭が行われた。
その年の末、クリスマスの頃には、会堂は大部分落成《ヽヽヽヽヽ》していた。着工以来ほぼ一年である。その会堂へ諸方から信者が集まって、クリスマスを賑やかに祝おうとしているところへ、前々年に長崎へ着いた新しい神父ジョァン・フランシスコが到着した。その喜びをも加えて、新会堂最初のクリスマスは非常に盛大であった。
会堂は部分的にはなお未完成であったのであろう。半年後にフランシスコの書いた書簡にも、新会堂は殆んど落成したとあって、未だ完成を云ってはいない。更にその一年後にオルガンチノの書いた書簡に至って初めて新会堂は落成したという言葉に出会う。しかしこの時にもなお壁画は出来ていなかったのである。
三[#「三」はゴシック体] 新会堂の効果
会堂は宏大とはいえないが、|しかし壮麗《ヽヽヽヽヽ》なものであった。京都の石工や木工は非常に技術が優れていたし、建築工事を監督するオルガンチノがイタリア人で、建築のことを心得て居り、いろいろ工夫を加えたので、その点からも日本人の眼を驚かせるに十分であったらしい。信長をはじめ日本人たちは、この会堂に関して西洋人の知識を讃めた、といわれているところを見ると、かなりヨーロッパ風が加味されていたと思われる。信長たちが満足したのみならず、この建築を妨害しようとしていた人々さえも、出来上りを見て賞讃したほどであった。
問題となった二階は、会堂の上部にあって、美しい室を六つ含んでいた。そこからは市内が見渡せるだけでなく、郊外の諸寺院や田園をも遠望することが出来たのである。この高い構造もまた日本人には珍らしかったのであろう。
かくて新築の会堂は、|京都におけるキリシタンの存在《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を非常に顕著に示すことになった。京見物のために諸国から出てくる人々の眼にもつき易くなった。これは宣教師たちにとっても信者たちにとっても非常に大きい意義を担ったことだったのである。キリシタンらは日本の中央の都に壮麗な会堂を持ち、屋根に勝利の旗・光栄ある徽章としての十字架を輝かせ、そこで公然と福音を説いている、――このことが日本全国の異教徒や領主たちに知れ渡るのである。それはあたかも主キリストの勝利を示すかのように感ぜられた。この気持は、日本の各地に勃興した英雄たちがいずれも京都をめざして動いていた時代、京都占領が覇権の成就として受取られていた時代にあっては、実際に現実的な裏づけを持っていたのである。
その証拠は、会堂新築の仕事と共に、また新築の結果として、急激に教勢が高まって来たことである。オルガンチノが新会堂の献堂式を挙げた頃までの二年間《ヽヽヽ》の教化の収穫は、その前の二十五年間のそれよりも多かったといわれている。さらにこの堂が大部分落成したといわれる一五七六年のクリスマス以後になると、僅か三四カ月の間に摂津河内で四千人のキリシタンが出来た。一五七七年の七月頃には六千三百人と数えられている。高槻、三箇、岡山などがそのおもな場所である。一向宗徒二百人が一時に改宗するというようなこともあった。
一五七七年九月にオルガンチノが当時インドにいた巡察使ワリニャーニに宛てて書いた報告によると、この年の四旬節の初日以来彼は七千人以上に洗礼を授けた。そうしてなお続々と改宗者が出て来そうであった。彼はこの形勢を京都の会堂の新築と結びつけて記述している。この『昇天の聖母』の会堂は、新築のために非常に骨が折れたが、しかしキリストの御名を挙げる基となるであろう。今既に|大いなる効果《ヽヽヽヽヽヽ》が現われて来ている。京都の町全体は教会に対して態度を改めた。建築の初めの頃に教会を忌み嫌っていた人たちが、今は教会を尊敬し、悪言を放たなくなった。がこの変化は京都だけのことではない。京都の会堂の噂は全国の津々浦々に伝わり、何処へ行ってもキリストの教を説くことが出来るようになった。のみならず京都の会堂の新築はキリシタンの領主たちを動かし、それぞれの領内に宏壮な会堂を造ろうとする機運を呼び起している。一五七七年の秋までに着工したのは三箇と岡山とである。これらの会堂の装飾用として大毛氈二枚、金襴或はびろうどの法衣数着、美しい画像数面を用意せられれば幸である、と。
かくして一五七七年中の京都地方の受洗者は一万一千に達したのである。
四[#「四」はゴシック体] 信長一門の同情
その同じ年に信長は、大坂の本願寺に更に一層の強圧を加えたのみならず、その背後の勢力を絶とうとするもくろみで、春には紀伊の雑賀一揆を自ら討ち、秋には秀吉をして播磨征伐を開始させた。
が信長が動き出す前、多分陰暦の正月の礼に、オルガンチノはロレンソその他の日本人を伴って、安土の信長を訪ねた。安土の城は京都の会堂より少し遅れて起工されたのであるが、信長の権力を以て畿内地方の材木を集め、大工その他の職人を徴発して、工事を急いだのであるから、この時にはよほど出来ていたのであろう。「キリスト教国にあるとも思えないほど宏壮なもの」と、オルガンチノはいっている。中央の塔は、二十間四方で、高さ十五間、五層の屋根を持っていた。(信長記によると、安土の殿守は、二重の石垣に、高さ十二間、上の広さ南北二十間、東西十七間、石垣の内を蔵に用い、それより上、七重である。)信長は宣教師たちを喜んで迎え、厚くもてなした。キリスト教のことも長時間に亘って聞き、飽くことなく質問を続けた。またこの時にも同席した諸国の領主たちの前で、キリスト教及び宣教師の生活の清浄なことをほめ、日本の仏僧たちの堕落を罵った。そうして、自分は坊主らを悉く亡ぼしてしまいたいのであるが、方々に騒ぎが起るので遠慮している、という意味のことをさえ云った。今や大坂の本願寺を正面の敵としている彼にとっては、これは単なる放言ではなかったであろう。
オルガンチノたちはその足で岐阜に信長の長子信忠を訪ねた。この青年が曾てキリシタンとなる意志を示したと伝え聞いたオルガンチノは、熱心にそれに働きかけようとしたのである。信忠も彼を款待し、長時間語り合った。
オルガンチノたちが帰京してから十日の後、一五七七年の三月に、信長は三人の子を同伴して、雑賀遠征の途次、京都に寄った。この時にもオルガンチノは、新来のフランシスコや日本人ロレンソ、コスモなどを伴って、妙覚寺に宿っていた信長を訪ねた。当時、大勢の有力な武士や公家が面会に来ていたが、信長は誰にも会おうとせず、ただ「貧しい二人の外国人」と、ロレンソやコスモだけを居間に呼び入れ、一時間ほど雑談した。当時フロイスは病気がちで、この日も同伴しなかったのであるが、信長は早速彼のことを尋ねた。フロイスが豊後に行くと聞いたが、ロレンソも一緒に行くのか、という問であった。ついで新来のフランシスコの名や、生国を聞いた。話はそういう些末なことであったが、しかし信長の宣教師に対するこの特別扱いは、集まっている人々を驚愕させずにはいなかった。宣教師たちが帰ったあとで、彼はまたいつものように仏教を罵り、キリスト教を讃めたという。そういうところから、信長にはキリシタンになろうとする意志がある、という臆測も生じて来たのである。そうしてまたそれは、宣教師たちが実際希望していたところであった。
この臆測は、信長の大坂本願寺に対する猛烈な敵意と無関係ではあるまい。信長が紀州の一向一揆を目ざして京都を出発したとき、宣教師たちも教会の附近で彼の通過を見物したらしいのであるが、その時の信長の顔つきは|非常に暗く《ヽヽヽヽヽ》、人に恐怖を抱かせるようなところがあった。京都の市民たちは、信長が|よほど思い切った《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことをやるだろうと噂し合った。叡山焼討ちの記憶はまだ新しかったのである。その上、信長の本願寺に対する大仕掛な戦略は、市民の間にもう知れ亘っていた。フランシスコが右の信長の京都出発のあと二週間ほどで書いた書簡には、信長がいま従事中の雑賀征伐を終ったならば、次には|毛利氏の二国《ヽヽヽヽヽヽ》(播磨淡路か)を攻撃し、堺に築城して|大坂本願寺の後援を絶つであろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と明記している。信長の本願寺打倒の努力は、今や世間の関心の焦点だったのである。
紀伊の一向一揆は一カ月余で片づき、信長はその子と共に京都に凱旋して来た。その時オルガンチノは、この三子、信忠、信雄、信孝に熱心に働きかけている。八年前フロイスが初めて岐阜を訪問した時には、彼らはまだ愛らしい少年で、フロイスをいろいろと接待してくれたのであったが、この時はもう二十歳二十一歳などの青年で、それぞれ軍隊を指揮していた。そのうち先ず会堂を訪ねて来たのは信雄《ヽヽ》である。彼は二時間ほど宣教師たちと語り合い、|ヨーロッパ人は日本人よりも勝れている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と云った。また、遠い国の外国人が、敵の充満している国の都の真中にこのような壮麗な会堂を建てるということは、実に勇気のある仕業だ、と感嘆した。辞去した後、贈物につけて自筆の礼状を寄越したが、その中には、キリスト教のことをもっと詳しく聞いてキリシタンになろうと思うが、今は戦争中で、それが出来ない、機会を待つ、というようなことが記してあった。オルガンチノたちはこの信雄に非常に望をかけたのである。彼は信長の三子のうちで最も信長に似ている。意志が強く果断である。彼は部下の兵に給与するために、余裕ある大身の米六千俵を奪い取ったことがある。信長が彼を呼んで叱りつけると、自分はあなたの子供のうち最も貧しく、部下に与えるものがない、だから余っている所から少し取った、と答えた。信長は、あいつは叱っても聴かない、腕ずくで取返せ、とその大身に云った。そこでその武士の|一万人の部下《ヽヽヽヽヽヽ》と信雄の|七百人の部下《ヽヽヽヽヽヽ》とが対峙した。信雄は、誰も動くな、と云って、自分一人で相手の軍中に乗り入れ、敵将を探し廻った。信長の子だというので誰も手を出さず、相手の武士も姿を隠したので、喧嘩はそれだけで済んでしまった。そういう信雄の行跡を承知の上で、オルガンチノやフランシスコは信雄をひいきにしたのである。
信雄の来た翌日に長子の信忠《ヽヽ》が会堂を訪ねた。彼もまた人々が驚くほど、宣教師たちに親切にした。彼の希望で、会堂に入り切れぬほどの部下の武士たちと共に、説教を聞いた。岐阜に来て会堂を建て説教するがよい、自分は部下が皆キリシタンになることを望んでいる、と彼は云った。
さらにその翌日に、第三子の信孝《ヽヽ》が訪ねて来た。彼は長い間宣教師の許に留まり、いろいろとキリスト教のことをきいた。ロレンソが満足の行くように答えた。九州にいる宣教師の数を聞くと、京都は日本の文化の中心だのに何故こんなに少ないかと云った。彼もその領国の伊勢へ神父を一人つれて行きたいという希望を述べた。
広い門が開けた。オルガンチノの心は燃え上ったのである。
五[#「五」はゴシック体] 部将たちの同情、佐久間信盛と荒木村重
が、信長一門のみではない。彼の部将の間にもキリスト教への同情が流れた。中でも著しいのは佐久間信盛《ヽヽヽヽヽ》である。
信盛は一五七四年以来、大坂本願寺への押えとして、天王寺城にいた。前からキリシタンの同情者ではあったが、丁度この頃に、河内の古いキリシタンの中心地三箇の城主及びその子を、反キリストの徒の迫害から救うために、非常に骨折ってくれたのである。この父子を冤罪に陥れ、キリシタンの中心を破壊しようとしたのは、若江城をシメアン池田丹後と共に守っていた多羅尾右近であった。多羅尾はそれによって河内のキリシタンを亡ぼし、京都のキリシタンの根を絶つことも出来ると考え、三箇城主が信長に対して叛逆を計ったという噂をいろいろな方面に拡めた。信盛は三箇の城主を信じていたので多羅尾の奸策を察し、城主を近江の佐久間自身の城へ行かせた。そこには、三箇の城主の孫が人質として預かってあった。しかし信盛の配慮にかかわらず右近の讒言は効を奏した。信長は信盛に、三箇城主の嗣子マンショを捕えることを命じた。信盛は止むを得ず、若江城の池田シメアンと共にマンショをつれて京都へ行き、信長の前でマンショ父子の功績を述べ冤罪である所以を弁じた。その熱心によって一応信長の誤解を解くことが出来たのである。
しかし事件はそれだけでは済まなかった、多羅尾右近は右の結果を見て黙過することが出来ず、六人の武士を説きつけて味方にならせ、それらを証人として信長の許へ抗議を持ち出したのである。その際多羅尾は、三箇の城主の叛逆を立証するために、当人の署名した書類を提出することが出来るとさえ述べた。六人の証人もそれを保証した。そこで信長は前の決定を飜えし、帰国の途中にある信盛やマンショを呼び返してマンショの処刑を命じた。ひき返して来た信盛が、激怒しながら信長の宿へ入って行くと、多羅尾は既に出発して居らず、右の六人の共謀者だけが控室にいた。信盛は一人ずつ呼んで、おれが三箇の城主父子の庇護者だということを知っているか、ときいた。また謀叛の書類というのがあるなら見せろと迫った。誰一人まともに答え得るものはなかった。多羅尾に聞かせられたことのほかは何も知らない、というのが彼らの答えであった。で信盛は信長に謁して、処刑に先立ち側近の重臣二人にマンショを訊問せしめるようにと懇願した。信長はそれを容れ、父子に対する嫌疑の諸条を問わせた。信盛もその場に同席した。マンショはすでに死を覚悟して祈りを捧げていたが、訊問に対して非常にしっかりと明晰に答弁し、人々を驚嘆させた。終りに彼は、叛逆がキリシタンの教に背くことであり、かかる汚名を受けてキリシタンの名を恥かしめるのが死よりもつらい、という旨をのべた。信長はマンショの弁明に満足し、即座に無罪を認めたのである。しかし目前の戦争の継続中は、マンショを父と共に信盛の城に居らせることにした。
城主父子の冤罪は解けたが、三箇へは帰って来なかったので、三箇の城はしばしば危険に陥った。この年は洪水が多かったので、三箇から大坂へ通ずる川の増水を利用すれば、大坂の本願寺の船隊が三箇を攻撃し占領することも出来たのである。キリシタンの根拠地として特に三箇にはこの危険があった。それに対して三箇を守ってくれたのは、勇猛の名の聞えたシメアン丹後であった。しかるにこの危険が去ると、次には信長方についているキリシタンの敵たちが、陰謀によってシメアンを三箇から引き離し、自分たちで三箇を占領しようとした。この計画は九分通り成功したのであったが、最後の段階で急遽シメアンを三箇に帰し、奇蹟的にキリシタンらを救ってくれたのは、遠く播磨の戦争に赴いていた佐久間信盛であった。
三箇の城主父子は、一五七八年の初めには三箇に帰ることが出来、三箇の城も安全になった。父は一切をマンショに譲って、自分はただ会堂のことに専念した。会堂は非常に大きく、構造も好かったのであるが、彼はなおその上に壁画を計画した。教化のことにも熱心で、日曜と祭日には自分で説教をした。さらに説教しつつ諸所を巡歴しようという志もあったと云われる。三箇を守ってくれた若江城のシメアン丹後は、功績を認められて信長から加増を受けたが、それを貧民救済に使った。これらのことは皆信盛の庇護の下に行われたのであろう。
佐久間信盛のほかにもう一人注目すべきは荒木村重《ヽヽヽヽ》である。村重は摂津武庫郡の郷士であったが、その臣事していた池田の城主の不才なのにつけ込み、同僚と共に党を組んで池田城の実権を掌握した。和田惟政を奇襲して斃したのはこの連中である。当時は反信長の陣営にいたが、村重は漸次信長方に傾き、高山ダリヨを後援して高槻城主たらしめた頃には、はっきりと、信長の手についた。それは一五七三年四月、信長が足利将軍との対決のために急遽上京して来た時であった。信長は村重を重んじ、和田惟政にやらせたと同じように、摂津の統治をやらせた。京都の教会は池田の兵士と幾分の関係を持ってはいたが、池田地方が深くキリスト教と関係し始めたのは、村重の下に高山父子がいたからである。
村重は、高山父子との接触の初期に、おのれの領民に対して、権力を以て|一向宗への帰依《ヽヽヽヽヽヽヽ》を強制したことがある。聴従しないものは|罰する《ヽヽヽ》というのである。これは村重が一向宗の狂信者であったからではなく、一向宗の僧侶が巧みに村重を籠絡したが故に起ったことであった。一向宗徒は、宗派の命令として、領主に|特別の年貢《ヽヽヽヽヽ》を納めることになって居り、それが村重をひきつけたのである。
村重のこの措置は高山ダリヨを強く刺戟したが、ダリヨはそれに反対する代りに、自分の領内で全然反対な|自由なやり方《ヽヽヽヽヽヽ》をやって見せた。それは、キリシタンの妻子のまだ洗礼を受けないものや、農民・職工などの未信者に対して、自由選択を標榜して説教の聴聞をすすめたことであった。とにかく、会堂へ来て説教を聞いて貰いたい。聞いた上で、気に入らなければ信者になる必要はない。信者になった場合に特別の年貢などの義務がないと同じく、ならない場合にも罰などは加えない。がとにかく説教を聞いて見なければ、善いも悪いもきめられないではないか、というのであった。丁度その時、フロイスが高槻に来ていて説教した。最初集まった二百人は、皆キリシタンとなる決心をした。彼らはさらに親戚友人を勧誘したので、説教の聴聞を希望するものはますます殖え、会堂が狭くて困るようになった。強制なくして強制以上に教勢は盛んになって行ったのである。
村重はこのようなキリシタンのやり方を、一向宗の僧侶の政略的な活動と対照しつつ経験することが出来た。それに加えて、彼の上に立つ信長のキリシタンに対する態度や一向宗に対する態度が、いろいろな形で彼に響いたのであろう。一五七七年に村重が高槻城を訪ねた際には、キリスト教の弘布を助けるように動き出している。高山右近には、|一向宗徒に対してキリシタンとなることを命ずる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》一札を与えた。この命令下に立つ宗徒の数は五万以上であった。一向宗以外の宗派のものもキリスト教の説教を聞くように命ぜられた。この措置に対してオルガンチノは謝意を表するため村重をその城に訪ねたが、そのとき村重は、|領民が悉くキリシタンとなることを欲する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と語った。一向宗への帰依を領民に強制した村重とは、まるで別人のようになったのである。
村重が信長を訪ねて来ていた時に、法華宗の信者である大身数人が、キリシタン宣教師の追放を主張したことがあった。このとき信長は、村重の意見を聞いた、村重は、自分はキリスト教のことはあまり知らないが、部下のキリシタンたちは非常に忠実で、道義を重んずる、と答えた。他にもそれに賛成する人々が多かった。信長も同意見であると云った。
ルイス・フロイスは一五七七年の最後の日に京都を出発して豊後に向ったのであるが、船まで見送るロレンソとともに、まず高槻の城で方々から集まった信者たちと別れを惜しみ、翌日高山ダリヨも一行に加わって伊丹《ヽヽ》の城に荒木村重を訪ねた。村重は彼らを非常に款待し、もし京都で何事か事が起って信長の庇護を必要とするような場合には、彼も極力援助するであろうと云った。翌日は、村重の支配下にある兵庫まで村重の兵士たちに送られ、村重の指図によって法華寺に宿った。ここへも方々から信者が送りに来た。堺の信者たちは船で来た。こうして兵庫の港が利用し得られるようになったのは、村重のキリスト教庇護の結果であろうと思われる。
しかし一向宗への帰依強制から一向宗徒のキリシタンへの改宗強制に転じた荒木村重は、一五七八年の末に、また一向宗徒と結んで信長に反するに至った。そのため高山父子は非常に苦労しなくてはならなかった。だから村重が教勢拡張に寄与したのは、比較的短かい間のことであった。
がとにかく、京都の会堂が壁画以外は全部落成し、いろいろ世話になった京都所司代村井貞勝を会堂に招待して、ロレンソの説教を聞かせたりなどした一五七八年には、信者の数は急激に殖え、信長一家の庇護は十分であり、異教徒の大名たちさえも、キリスト教に好意を示して、日本におけるヤソ会の仕事の最高潮期《ヽヽヽヽ》に入りつつあったのである。
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[#小見出し] 第十一章 キリシタン運動の最高潮
一[#「一」はゴシック体] 信長の鉄砲隊と艦隊
信長がキリシタンの宣教師たちを庇護したのは、|新しい宗教《ヽヽヽヽヽ》を求めたが故ではなくして、|ヨーロッパの文明《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を求めたが故であった。その態度は、最初にフロイスに逢って以来一貫している。彼はフロイスにおいてヨーロッパ文明の尖端に接触すると共に、この人物の担っている象徴的な意義に非常に引かれたのである。従って彼はこの人物を好み、それを理解しようと努め、その事業を保護した。その態度を彼自身は、|外国人であるが故に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》庇護する、という風に云い現わしている。彼は仏僧の堕落を事毎に罵っていたし、またその後思い切った仏教弾圧を始めたのであるから、それと対照して彼がキリシタンの宣教師の真面目な態度を賞讃したり、また彼らを特別に優遇したりしたことは、ともすれば彼の|信仰の要求《ヽヽヽヽヽ》と結びつけて解釈されることもあったようであるが、しかし彼は信仰などを求めていたのではない。仏僧の堕落や宣教師の真面目な活動は、当時にあっては明白な客観的事実であって、それを認めたことは、何ら主観的要求の証拠とはならない。信長は宣教師と会談する毎に、|世界についての新しい知識《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を得ようとはしていたが、救いを求めるような態度を示したことはない。仏教に代ってキリスト教が全日本に弘布しても、そのキリスト教が彼の庇護の下に栄えるのであり、従ってキリスト教徒は決して彼に反抗などはしない、という見とおしのある限り、彼はむしろそれを喜んだであろう。しかしその際にも彼自身が信仰を必要とするに至ったかどうかは疑問である。
信長が強い関心を抱いたのはヨーロッパの新しい知識である。そうしてそれは、この戦乱の時代にあっては、先ず|武器に関する知識《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》として現われてくる。ヨーロッパ人との接触を記念するものは、種子島、即ち|鉄砲の知識《ヽヽヽヽヽ》であった。それは迅速にひろまり、九州西北沿岸では早くから戦争に影響を与えている。がそれを戦術に取り入れて、一つの|決定的な勝利《ヽヽヽヽヽヽ》の形にまで具体化することが出来たのは、ほかならぬ信長なのである。一五七五年の長篠の戦勝がそれであった。これは全国的に強い刺戟を与えたであろう。一五七八年に書いたフランシスコの書簡によると、大坂の本願寺の城内には|八千の銃《ヽヽヽヽ》があったという。長篠における信長の戦術は、もう信長の敵が使っているのである。
それに加えて、本願寺を後援する毛利氏は、すでに信長に先んじて、有力な海軍を創設していた。一五七六年の夏、毛利氏の送った兵粮船が数百艘大坂へ近づいたとき、信長方の軍船はそれを迎撃したが、毛利方の「ほうろく火矢」で散々な目に逢った。兵粮船隊は悠々大坂に入港し、兵粮を大坂城へ入れて、悠々として帰って行った。淡路の岩屋城は毛利の海軍の根拠地であった。多分この形勢に刺戟されたのであろう、信長は志摩の国鳥羽の城主九鬼嘉隆に命じて、大きい軍艦を造らせた。嘉隆は六隻、滝川一益が一隻造ったが、それらは|鉄張りの船《ヽヽヽヽヽ》で、長さ十二三間、幅七間であった。一五七八年夏《ヽヽヽヽヽヽ》には九鬼嘉隆がこの七隻の艦隊を率いて伊勢湾から大坂湾へやって来た。乗員は五千人であったという。途中雑賀などの一揆が数百艘の兵船で襲撃して来たが、九鬼の艦隊はそれを近くへひきつけ、やにわに「ほうろく火矢」即ち大砲を放って撃破したのである。その時敵船三十余艘を捕獲したらしい。艦隊は盂蘭盆の日に堺に着き、翌日|大坂港の封鎖《ヽヽヽヽヽヽ》を開始した。この鮮やかな成績に気をよくした信長は、二カ月ほど後に、わざわざ艦隊を見るために大坂にやって来て、住吉の沖で演習をやらせたりなどした。
この艦隊が堺に着いた時には、丁度オルガンチノが居合わせて、その報告を書いている。それによると、これらの船は日本で最も大きく、また最も立派なもので、|ポルトガルの船に似ている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。日本でこんなものを造るとは驚くのほかはない。信長がこれを造らせたのは、大坂港封鎖のためであるから、大坂の市はもう滅亡するであろう。船には|大砲を三門《ヽヽヽヽヽ》ずつ載せているが、|何処から持って来たものか解らない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。豊後の大友が数門の小砲を鋳造せしめたほか、|日本には大砲はない筈《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのである。自分は船へ行って大砲やその装置を見た。ほかに無数の精巧な大きい長銃も備えてあった。
オルガンチノに解らなかったように、日本の歴史家にも、この大砲の出所は解らないのであるが、『国友鉄砲記』によると、信長は元亀二年(一五七一年)に秀吉を通じて|二百目玉の大筒《ヽヽヽヽヽヽヽ》を、国友鍛冶に造らせたというのであるから、一五七七・八年の頃に|日本の鍛冶工《ヽヽヽヽヽヽ》が大砲を作り得たということは、さほど不思議ではあるまい。オルガンチノは当時の貿易関係を熟知していたであろうし、従ってポルトガル人が|大砲を輸入したのでない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことは確実であろう。宣教師たちが日本に大砲はないと信じていた間に、いつの間《ま》にか宣教師たちの眼の届かない毛利の領国や信長の領国において、大砲の製造がはじまっていたのである。これが恐らく築城の上にも大きい変化をもたらしたのであろう。大砲を備えた軍艦の使用においては毛利の方が一歩先であるが、信長は鉄張りの大きい軍艦の製造によって毛利の艦隊を圧倒したのである。
この信長の艦隊は、当時の日本においてヨーロッパの知識を摂取する努力の尖端の姿であった。信長の「外国人」に対する関心や庇護は決して単なる好奇心ではなかったのである。がそういう実用の範囲に止まらず、さらに広汎な世界への視圏を開こうとする衝動も彼のうちには動いていた。それを示すものは宣教師たちとの会談の時の話題である。それは宣教師たちが、二次的な重要でない事柄として、あまり詳細には記述していない点であるが、しかし信長には信仰よりも重大な事柄であったであろう。不幸にして信長の周囲の知識人は、信長ほどに視圏拡大の要求を持たず、従って、政治家であり軍人である信長がそういう知識欲の先頭に立たざるを得なかった。しかもその信長に対してヨーロッパの知識を媒介する地位にあったヤソ会士たちは、あまりにも信仰と伝道のこととに偏より過ぎた人々であった。比較的関心の範囲の広かったフロイスといえども、ヤソ会士としての狂熱は今から見れば不思議なほどである。それらのことを思うと、先駆者としての信長という人物には、よほど見なおさなくてはならない面があると思われる。
二[#「二」はゴシック体] 荒木村重の背叛と高山右近の去就
信長の艦隊が大坂港を封鎖し、信長の陸軍が播磨における毛利の勢力を、着々と圧迫し始めた一五七八年の暮に、摂津の領主荒木村重は再び逆転して一向宗徒と結ぶに至った。これは本願寺や毛利の勢力に再び活を入れる重要な出来事であった。何故村重がこの挙に出たかは信長自身も理解に苦しんだらしく秘書の松井友閑や明智光秀などを派遣して村重と懇談させ、一時は納まるかに見えたが、村重部下の諸将が沸き立って遂に引きずって行ったのである。恐らく本願寺側の必死の働きかけが利いたのであらう。信長は早速京都に来て討伐をはじめたが、村重は中々頑強で、翌一五七九年の秋に至るまで十カ月の間伊丹有岡城に拠って反抗を続けたのであった。
この戦争の最初に先ず問題となったのは、キリシタンの城|高槻城《ヽヽヽ》であった。城主の高山父子《ヽヽヽヽ》は、村重の後援によってその地位を得た関係上、村重に背くわけには行かなかった。のみならずダリヨの娘即ち|右近の妹《ヽヽヽヽ》と、ダリヨの孫即ち|右近のひとり児《ヽヽヽヽヽヽヽ》とが、人質として村重の手許に置いてあった。だから信長が摂津へ攻め入ろうとした時、高山父子は高槻城に拠って信長の軍を防いだのである。城は広い堀に囲まれ、堅固な城壁を持っていて、中々落ちそうにもなかった。そこで信長は|オルガンチノに命じて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》高山右近を説得させようと思いついたのである。オルガンチノは高槻城に行って説いて見たが、全然効果がなかった。すると信長は、宣教師たちや信者たちを山崎の陣営に呼びつけた。その様子でキリシタンたちは事によると殺されるかも知れないという予感を抱いた。そういう連中に対して信長の秘書の松井友閑は、信長の意を次のように伝えた。汝らキリシタンたちは、高槻城主高山右近に説いて、直ちに信長の味方にならせるべきである。右近はそれによって自分の子と妹とを失うであろうが、その代り信長の領内の神父及び信者を助けることができる。もしそうしないならば、信長は直ちに右近の眼前においてキリシタンたち一同を十字架にかけるであろう。――この宣言はキリシタンらを泣かせた。彼らは信長が村重の謀叛による形勢の逆転を非常に重大視していることを知っていると共に、ジュスト右近の降服の困難な事情をも知っていた。だからその間に挿まった宣教師たちが、先ず殺されることになるだろうと考えざるを得なかったのである。
この時右近との談判には、オルガンチノたちに佐久間信盛や羽柴秀吉や松井友閑なども附き添って行ったらしい。ジュスト右近は信長の決心を聞いて、あっさりと城を投げ出すことにした。彼は部下のキリシタン武士一同を集めて次のように|降服の理由《ヽヽヽヽヽ》を述べた。自分が城を開け渡すのは、それによって利益を得ようと思うからではない。自分の子と妹との命を以て多数の神父やキリシタンたちの命を購うのは、われらの主に仕える所以だと考えるからである。神父やキリシタンたちへの愛のためには、自分は一切のものを捨てるのみならず、おのれの命を投げ出すことをも辞せない、と。こうして右近は、城を捨てると共に世を捨て、神父のもとにイルマンとして働こうと決心したのであった。
この右近の措置は、信長の陣営でもキリシタンの間で、も、非常な喜びを以て迎えられた。それは信長の戦略的地位を有利に導くものであったと共に、またキリスト教のための「生きた説教」ともなったのである。前には知らなかった外国人を救うために、自分の肉親の愛を捨てる、そういう慈悲の行をキリスト教はさせたのだ、ということが、広く世間に知れわたった。信長も非常に喜んで、キリスト教保護の朱印状を改めて交付し、二つの町を選んでキリシタンに免税の特権を与えた。信忠初め他の大身のうちにも、キリシタンとなることを約束するものが少なくなかった。
この事件は信長のキリスト教に対する腹を割って見せたように見える。降服しなければお前の重んじている神父らを殺すぞ、と云って右近を脅した態度は、キリスト教を戦争の道具に使ったものにほかならない。『信長公記』によると、信長はこの時|神父に対して《ヽヽヽヽヽヽ》、右近口説落しを引き受けろ、もし引き受けなければ、|デウスの宗門を断絶する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と云って迫ったことになっている。この方が一層露骨である。神父フランシスコがその書簡のなかで、信長の取った策は「われわれにとって非常に苦痛であった」と認めている所を見ると、何かそのようなことがあったのであろう。しかしそれにもかかわらず、フランシスコの報告のなかには、信長を非難する調子が現われていない。信長は右近の心情を諒としたのであるが、しかし、|おのれの領土全体の安危にかかわる大問題《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であったために、敢て道理に対して眼を閉じたのだ、という彼の記述は、幾分信長を弁護しているようにさえも取れる。「小鳥を殺し大鳥を助ける」という右近の決断が、信長と宣教師との間に醸し出されたかも知れぬ暗雲を、未然のうちに防いだのである。
このように、肉親を犠牲にするという|右近の決意《ヽヽヽヽヽ》は、キリスト教のために大きい貢献をしたのであるが、しかしその犠牲そのものは、遂に捧げられずにすんだ。というのは、父のダリヨが、その娘と孫を救ったのである。彼は娘や孫を見捨てる気持になれず、高槻の城を出て、伊丹の村重の城へ奔った。娘や孫が死すべきであるならば、おのれも運命を共にしようと彼は考えていた。伊丹の城内にいた多数の親戚も、部下をつれて彼のもとに集まった。そうなると、子の右近は村重に叛いたが、父のダリヨは|叛かなかった《ヽヽヽヽヽヽ》ということになる。人質を処分すべき理由は半ば消失したのである。だから村重も、事を荒立てようとはせず、知らぬ振りをして放任してしまったのであった。
がそうなると高山ダリヨは、荒木村重の味方について|信長に叛いた《ヽヽヽヽヽヽ》ということになる。その報いは信長の方から受けなくてはならない。一年の後、伊丹の有岡城が陥落したとき、信長はかなり残酷な大量処刑を行わせた。ダリヨも勿論その中に含まれるであろうと考えられ、彼を敬愛するキリシタンたちは熱心に彼のために祷っていた。しかし幸いにも信長の報いるところは非常に寛大であった。彼はダリヨのために命乞いするものの言葉に耳を傾け、彼のために肉親の犠牲を辞せなかった右近のためを思うて、ダリヨの死刑を取りとめ、幽閉するに止めたのである。やがて彼は右近の許に使者を送って、ダリヨの放免を伝えた。ダリヨは死刑に処すべきものであるが、右近に対する愛のためにその刑を免ずる。目下幽閉中の牢を出て妻と共に暮らしてよい。両人には生活の資を与える。宥免状は夫の許に赴く妻に持たせてやろう、というのであった。こうして高山ダリヨは越前の柴田勝家に預けられ、同地で直ぐに福音伝道の仕事を始めた。
高山右近も高槻城主に復せられたのみならず、前の二倍の領地を与えられた。その子や妹も無事であった。一五八〇年には、その領内のキリシタンは一万四千に達した。高山家には反って繁栄が来たのである。
三[#「三」はゴシック体] 安土宗論
荒木村重に対する長期の攻囲が行われた一五七九年には、もう一つ世間の耳目を聳動する事件が起った。それは安土宗論《ヽヽヽヽ》として知られているものである。初めは法華宗と浄土宗との間の喧嘩に過ぎなかったのであるが、信長はその機会を巧みに利用して、手ひどく法華宗の迫害を断行したのであった。
この宗論の行われたのは一五七九年六月二十一日(天正七年五月二十七日)であるが、|その月の終らぬ内に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》オルガンチノはフロイスに宛ててこの事件を詳細に報じている。従ってこの書簡は安土宗論に関する現存の最も|古い記録《ヽヽヽヽ》と云ってよい。その内容は信長記を通じて普通に知られていることとほぼ一致している。問答の箇条書までもそうである。
事の起りは、坂東の浄土宗の僧が安土で数日間説教をやっていた席へ、安土の町の一人の法華宗徒が行って、説教の途中で質問を始めたことであった。説教師はそれに対して、俗人と法論しても結着はつかない、誰か法華宗の学僧を連れて来れば答弁しよう、と答えた。法華宗徒はこの答を憤り、自分の質問に答え得ないのならばその座を下りるがよい、と云って、説教師を高座からひき下ろし、衆人の前で侮辱を加えた。浄土宗徒はこの乱暴を信長に訴えた。そこでこの喧嘩が両宗派の間の公の争いとなったのである。法華宗徒は両宗の間の討論を要求し、浄土宗徒もそれを拒みはしなかったが、信長は遠方から学者を集めることの困難を理由としてそれを止めさせようとした。しかし|法華宗徒は強硬に討論を主張し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、学僧は遠方から呼ぶ必要なく、京都の人だちで沢山であると云った。そうして、|もし負ければ頸を切られてもよい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という一札を差出した。
そこで信長は日を定め、四人の奉行や、判者を任命した。京都からは法華宗の主立った僧侶が呼ばれ、多数の檀徒と共にやって来た。浄土宗側では、智恩院の僧が一人来ただけであった。問答の衝には、安土の浄土宗の僧が当った。
問答は法華経の権威と念仏の権利とをめぐって行われたのであるが、最後に浄土宗側が、「もし法華経以前の経を悉く未顕真実とするならば、|方座第四の妙《ヽヽヽヽヽヽ》をも捨てるか」と問うたとき、法華宗側は答弁に詰った。それを見て、浄土宗の僧は、第四の妙の意味を説明した。そのとたんに、|判者も聴衆もどっと笑い出した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。法華宗の僧たちは袈裟衣をはぎ取られ、鞭うたれ、捕縛された。富裕な檀徒も数人捕えられた。群集は非常な混乱に陥ったが、やがてその場へ信長が出て来て、討論には加わっていなかった法華宗の僧|普伝《ヽヽ》と、最初争いをひき起した法華宗徒との二人の首を斬らせた。その場にいたマヅと小西隆佐の一子とは、この日の法華宗徒の敗北が曾てない甚だしいものであったことをオルガンチノに向って証言したのである。
この報道が安土の町にひろまると共に、早速法華宗の寺院や檀徒の家の破壊が始まった。京都から勝利を確信して見物に出掛けた法華宗徒たちは、捕えられることを恐れて、物をも食わずに逃げ歩いた。隆佐の子もその一人であった。その日のうちに京都へも騒ぎが伝わった。伊勢、尾張、美濃、近江の四カ国の法華寺院は悉く掠奪された。前後を通じて掠奪により法華宗徒が失ったところは、黄金一万を超えるだろうと云われている。
数日後に信長は人を派して、京都の法華宗諸寺院に巨額の罰金を課した。捕えられた三人の僧と五人の檀徒とは、なお十数日の間釈放されなかったが、法華宗側から差出した起請文は所司代村井貞勝の手によって公表された。それは宗論において法華宗の負けたことを承認し、|今後他宗に対して論難攻撃を加えないこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を誓ったものである。
十数年来キリスト教に対して最も積極的に迫害の努力を続けて来た法華宗は、こうして殆んど倒れるばかりの所まで押しつめられた。オルガンチノは大喜びで早速この報道を書いたのである。
信長記では、普伝たちの首を斬らせる場で信長の述べた言葉を詳しく伝えている。彼は先ず争をひき起した男の不届を責め、ついで普伝の法螺吹き・インチキ師としての性格や所行を数え上げ、両人を処分したあとで、宗論をやった法華僧たちに向って次のように云っている。お前たちは働かずに食わせて貰っていながら、|学問もよくしないで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、討論に負けたのは、甚だ不都合である。しかし法華宗の僧侶は法螺を吹く癖があるから、宗論には負けなかったのだなどと云い出すに相違ない。だから今度の宗論で負けたことを承認し、今後他宗を論難攻撃しないと誓った書附を差出して貰いたい、と。
信長のこれらの言葉をどうしてオルガンチノが伝えなかったかは解らぬ。隆佐の子たちは落ちついてそれを聞く余裕がなく、従ってオルガンチノにも話さなかったのかも知れない。しかしこの信長の言葉に対応する起請文は、村井貞勝に見せて貰ったらしく、その写しをフロイスに送っている。
ところで、この安土宗論については、裏面の事情が問題とされている。宗論は信長の術策だというのである。京都の法華宗の僧侶たちは、何も知らないでいるところへ、突然、浄土宗との宗論だと言って安土へ呼び出された。そうして奉行から次のような二者択一の返答を強要された。宗論をやるならば、|もし負けた場合には京都及び信長領国中の寺々を破却せらるべし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という一札を差出した上で、やるがよい。それが迷惑であるならば、問答をせずにこのまま帰ってもよい。宗論をやるか、やらぬか、一つを答えよ、というのである。法華僧たちはそれに答えることを拒んだ。自分たちは命令によって出向いて来たのであって、宗論をするとかしないとかは自分たちの方からは云えぬ。するもしないもただ命令に従う、というのである。して見ると、|法華宗徒があくまでも宗論を主張した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのは嘘である。負けた場合に寺を破却されてもよいという書附も差出さなかったのである。宗論は信長の命令によって行われた。
当日の討論においても、法華宗が負けたというのは信長の細工である。因果居士の批判によると、討論の成績では浄土宗の方が悪かった。それを浄土宗の勝にしたのは、|信長の意を受けた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》因果居士の仕業である。それを因果居士自身が告白している。
して見ると安土宗論は、法華宗に打撃を与えようという信長の意図の下に仕組まれた狂言であって、公平な宗論ではなかった、ということになる。或はそうであったかも知れない。しかし|京都の学僧たちが《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》宗論を発起したのでないということは、法華宗がこの争いをひき起したのでないということの証明にはならないのである。|安土の法華宗徒《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、先ず浄土宗徒に対して攻勢に出た。これが事件の起りであり、そうして、信長の関知しない偶発の事件である。浄土宗側は、学僧をつれて来れば返答する、と答えただけであって、あくまでも受身だといってよい。それに対して法華宗徒が侮辱を加えたとすれば、その侮辱は罰せらるべきであるか、或は当然の所為として是認せらるべきであるか、それが争点になる。訴えられた法華宗徒は、おのれの所為が正当であったことを立証するために、学僧をして討論せしめなくてはならなかったのである。従って|宗論をあくまでも主張した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のは安土の法華宗徒であろう。宗論に負けた場合、首を斬られてもよいという一札を差出したのも、安土の法華宗徒であろう。京都の法華僧たちは、|これらのことが定まった後《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に呼ばれたのである。この関係はオルガンチノの報告によって明かに知り得られると思う。そうであるとすれば、京都の学僧たちに対して、宗論をするかしないかの選択を迫ったということも、極めて理解し易くなる。彼らは争いをひき起した法華宗徒の不謹慎を詫び、宗論をしないで引上げることも出来たのである。しかし、それは法華宗の敗北を意味するが故に、彼らはなし得なかった。それならば、争いをひき起した法華宗徒の責任をひき受けて宗論をすると主張すべきであるが、その場合には、首を斬られてもよいと誓った法華宗徒の責任をもひき受け、法華宗の寺院を破却せられてもよいと誓わなくてはならぬ。これもまた彼らのなし得ないところであった。信長は法華宗徒の始めた争いを|巧みに利用して《ヽヽヽヽヽヽヽ》法華宗をこの窮地に追い込んだのである。必ずしも暗い術策を弄したわけではない。
さていよいよ宗論をやらせるについて、信長が初めから法華宗を敗北させるようにもくろんでいたということは、恐らく本当であろう。種々雑多な説を包含する大乗経典の文句《ヽヽ》を、論証の有力な根拠とする仏教の論議にあっては、そういうことは比較的容易である。だから因果居士もそれをひき受けたのであろう。結局浄土宗側は、「方座第四の妙」という如き、どの経にあるか解らない文句を持ち出して法華宗側を閉口させ、因果居士がそれを認めて|法華の負け《ヽヽヽヽヽ》を宣したのである。それは舞台効果の十分な場面であった。オルガンチノはそれをマヅとか隆佐の子とかの如き|その場にいた人々《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》から聞いたのであるから、信用してよいであろう。最後の瞬間に、|判者を初め聴衆一同が大笑した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という叙述は、オルガンチノの書簡と信長記とが奇妙なほどによく一致している点である。
以上のように考えると、安土宗論について普通に知られているところは、ほぼ事実に近い。それは信長の仏教弾圧の一つの現われとしての法華宗弾圧であった。法華宗のキリスト教に加えた圧力が大であっただけに、この事件がキリシタンに与えた喜びも大であった。彼らにとっては信長は、この種の所行のみによっても讃美せらるべきものとなった。
四[#「四」はゴシック体] 巡察使ワリニャーニの渡来
荒木村重の謀叛と安土宗論とのほかに、もう一つ一五七九年における大事件は、巡察使アレッサンドロ・ワリニャーニの渡来であった。
一五七〇年トルレスのあとを受けて日本ヤソ会の指揮を取ったカブラルは、トルレスとはかなり性格の異なる人であった。トルレスはシャビエルと同じく日本人に信頼し、日本人の生活のなかに融け入ることを念とした。だから苦痛を忍んで日本の衣食住の様式におのれを適応させようと努めた。風習の相違の如きは魂の救済の前には末梢的なことに過ぎなかったのである。日本人を宣教師として養成することも彼の熱心に努めたところであって、ロレンソ、ダミヤン、ベルシヨール、アントニオ、コスモ等々、二十六人の優れた日本人が、活溌に日本人教化の|実際の成績《ヽヽヽヽヽ》をあげていた。しかるにカブラルは、トルレスのような柔軟な心の持主でなく、偏狭で、主観的な判断を固持する人であった。彼は日本人教師がこのまま伸びて行けばやがてヨーロッパ人教師を見下すに至るであろうことを怖れ、その成長を阻止する態度に出たのである。その布教の態度もまた、トルレスのように広く政治的な見透しを持ったものでなく、むしろ狂熱的に殉教を煽るというような猪突的なものであった。そういう点から云って、カブラルの指揮はトルレスよりもよほど見劣りのするものであった。彼の在任の末期には、もと十八人であったヤソ会士が五十五人に殖えているが、しかし特に彼の名に結びついた事績は、大友宗麟の洗礼のほかには、殆んどないと云ってよい。
しかるにワリニャーニは、一五七九年七月末日本に着いて口の津で宣教師会議を招集した時に、直ちに「シャビエルの方針に帰れ」と唱道し始めた。日本人は信頼に値する。伝道の主なる目的は、殉教に走ることではなくして、少しでも多くの魂をキリストに近づけることである。それには日本人を教育し日本人の教師を出来るだけ多く作らなくてはならぬ。かかる考のもとにワリニャーニは少年のための学校セミナリヨや専門の学林コレジヨなどの計画を樹《た》て、有馬には早速セミナリヨを造った。これはカブラルの方針とはまるで逆であった。ワリニャーニはこの長老の頑固な心が、恐らく不幸な結果を生ずるであろうとさえ考えていた。従って、新しく日本に設置した副管区長(ビセプロビンシアル)に彼が選んだのは、一五七二年以来カブラルの指導の下に九州で働いていたガスパル・クエリヨであった。
五[#「五」はゴシック体] 石山本願寺の開城、安土城の完成、安土のセミナリヨの開設
以上のような情勢のもとに、一五八〇年にはいろいろなことが一緒に起った。七年の間も信長が攻囲を続けていた大坂石山の本願寺の開城、――安土城造営の完成、――安土における宣教師館の建築、――少年のための学校セミナリヨの開設、などがそれである。これは信長の勝利が、ヨーロッパの知識への接近と時を同じゅうして起ったことを意味している。
石山本願寺は、信長の艦隊に海上を封鎖され、荒木村重の没落、秀吉の播磨地方制圧などによって、毛利氏との陸上の連絡も絶たれてしまったために、一五八〇年の春、朝廷の調停によって、遂に、信長と和を講ずるに至った。その条約は、大坂城を守った人々を処罰しないこと、諸国の末寺を破壊しないこと、本願寺の領地として加賀二郡を残すこと、その代りこの年の夏に大坂及び附近の二城を明け渡し、人質を差出すことなどを含んでいた。本願寺光佐は間もなく石山を出て紀伊の雑賀に退いたが、子の光寿は信長を信頼せず、父に背いて信長への反抗を続けるかに見えた。いよいよ開城すべき夏の頃には、信長は軍隊をひきいて京都まで出て来た。石山の城は依然として水の充満した広い堀に三重に囲まれ、城中にはなお一万の戦士が立てこもっていた。が結局光寿も反抗を断念し、条約通りに開城が実現された。これによって信長の毛利氏に対する戦争は非常に有利になった。と共に、宣教師たちは、キリスト教の伝道が容易になったと感じた。一向宗は今やキリスト教の「最大の敵」となっていたからである。
信長やその子たちのヤソ会に対して示した好意は、一向宗に対する敵意と比例して高まった。オルガンチノたちが訪ねて行くと何時も非常に機嫌が好かった。しかし信仰の方へ近づいて行ったとは見えない。この年に信長は多数の大身たちの列席している前でオルガンチノとロレンソを相手にしていろいろの質問を試みたことがあるが、その時彼は神(デウス)や霊魂の存在についての疑惑をはっきりと表白したらしい。彼岸の世界や地獄極楽のことは仏僧たちも説いているところであるが、しかしそれは民衆を善導するための方便に過ぎまい。それが彼の考であった。それに反して、地球儀《ヽヽヽ》を持ち出させ、それに関してオルガンチノの与えた説明には、非常に感服したらしい。|ヨーロッパから日本に来る旅程の説明《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》などは特に彼を喜ばせた。それほどの旅行をするにはよほどの勇気と意志が必要である。神父たちがそのような冒険をしてここまでやってくるのは、よほどの大望があるからであろう、などとも云った。この疑問を解くためには世界の大勢を理解しなくてはならない。そうしてその衝動が彼のうちには動いていたのである。
安土城の造営はこの年の初夏に完成した。その機会に信長は一般民衆の参観を許した。無数の人々が見物に集まった。オルガンチノたちもまた安土に赴いた。信長が安土に会堂や宣教師館の建築用地を与えるであろうかどうかをためすためである。もし信長がこれらのものの建築を宣教師に命じたと日本国中に知れ亘ったならば、キリスト教の日本における地位は非常に確乎としたものになるであろう、そう彼らは考えた。
信長はオルガンチノたちの参観を喜び、非常に款待した。オルガンチノはすかさず、信長の開いたこの著名な町に会堂や宣教師館を建築したいと申出た。それは信長の方でも望むところであった。そこでいろいろと配慮した末、五月の末にキリシタン側の希望に従い、山下の新しい埋立地に広い地所を与えた。そこに壮麗な宣教師館や会堂が出来れば、この|都市の装飾になる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と彼は云った。
信長は早速この建築を始めるようにと注文した。そうなるとこの建築は教会の名誉や信用にかかわる問題となった。キリシタンの大身はオルガンチノに早く始めるようにと迫った。高山右近なども、一切をひき受けるからと云って熱心にすすめた。幸いこの頃オルガンチノは、ワリニャーニの命によりセミナリヨを開設するために、京都に二階建の大きい家を数軒建てる予定で、材木の切り込みをすでに終ったところであった。で彼はこの材木を安土に運び、早速|壮麗な宣教師館《ヽヽヽヽヽヽヽ》を建てることにきめた。大身らはその人夫を出した。高山右近だけでも千五百人であった。こうして材木と瓦とを運び、直ちに組み立てて行ったので、|一カ月ほど《ヽヽヽヽヽ》で出来上ってしまった。しかもその家は安土の町では信長の城を除いては最も立派な建築で、第二階には三十四の座敷があったという。信長はそれを見て非常に満足し、オルガンチノに感謝の意を伝えさせた。しかし会堂の方はそう迅速に建てることは出来なかった。
この宣教師館の建築は、オルガンチノが予想したように、非常に宣伝効果の多いものであった。仏僧や仏教徒たちは、神父らに敬意を表するようになり、武士たちの中にも、神に関心を抱くものが殖えた。そういう情勢の下に、この秋にはすでに、安土において|少年の学校セミナリヨ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が開かれ、貴族の少年約二十二人が集まった。その大部分は、新築の宣教師館に住んでいた。巡察使ワリニャーニが来れば、|セミナリヨの建築《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》をも始める筈であった。
六[#「六」はゴシック体] ワリニャーニの京畿地方巡察
巡察使ワリニャーニは、一五八一年三月八日に、ルイス・フロイス、ロレンソなど、神父四人、イルマン三人を伴って臼杵を発し、三月十七日、復活祭の週の始まる前に堺に着いた。同行のフロイスは三年前から豊後にいたのであるが、ロレンソは前年の秋、巡察使の上京を促すために、京都から迎えに行ったのであろう。それほど京都地方ではワリニャーニの上京を待ちこがれていた。堺ではフラガタに似た船五艘を準備して、豊後まで迎えに行こうとした位である。
この時のワリニャーニの旅行を、これまでの宣教師たちの旅行に比べれば、実に雲泥の相違があるといってよい。ワリニャーニの一行を乗せたのは|大友宗麟の提供した大きい船《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。それには二十五歳以下の青年漕手三十人が乗り組んでいて、必要とあれば飛ぶように早く漕ぐことも出来たし、また兵士たちも乗り込んでいた。海賊の危険に対しては武装することも出来た。そういう船で送られてくるということは、宣教師の社会的地位が如何に高まって来たかを示すものである。その代り宣教師たちの財宝をねらう海賊の活動や、毛利の海軍の危険も大きかった。丸亀沖の塩飽《しわき》諸島では危く難を免れることが出来たが、兵庫附近では、遂に海賊船の追跡を受け、堺までまるで競漕のような形で力漕して来た。堺に入港してからも、それらの海賊船に取巻かれて容易に荷役が出来なかった。堺の富商日比屋良慶は、部下三百人に鉄砲を持たせ、海岸からワリニャーニの船を守った。結局良慶らの調停で多額の償金を出すことになった。それほどこの航海は大げさだったのである。
上陸後の歓迎もワリニャーニの驚くほどであった。質素を重んずるヤソ会士として、ワリニャーニは、自分に対しこのように華々しい名誉と好意とを表わす必要はない、と云って断わろうとしたが、日本のキリシタンたちは押し返して云った。神父たちはおのれの利益には少しもならないのに、多額の経費を使い、多大の艱難と危険とを冒して、遠い所から救いの道を説きに来られた。われわれは曾て、いつわりの教を説いている坊主たちに対してすら大きい敬意を払っていたほどであるから、まことの教を説く神父たちのこの献身的な努力に対しては、出来るだけの敬意を払い、奉仕につとめなくてはならぬと。この道理ある言葉にはワリニャーニも従わざるを得なかった。で彼は、|日本の習慣に従う《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という口実のもとに、盛んな歓迎を甘受することにした。
このように社会的に顕著な現象となったワリニャーニの畿内巡察は、日本におけるキリシタン伝道史の上では一つの頂上をなすものと見てよいであろうが、日本とヨーロッパとの文化的接触という点から見ても、恐らく|最高潮の時期《ヽヽヽヽヽヽ》を示すと云ってよいであろう。この時には、ヨーロッパ文化の摂取に対する肯定的な機運が最も高まっていた。従って日本民族に世界的視圏を与え、近代の急激な精神的発展の仲間入りをさせるという望みが、まだ十分にあった。セミナリヨの開設は、萌芽的な状態ではあったが、その望みを象徴的に現わしたものである。事によればそれは国民的事業として発展し、全然別趣の近代日本を作り出していたかも知れないのである。
ワリニャーニが堺に上陸したのは、多分三月十七日の夕方であろう。待ちかまえていたキリシタンは直ちに八方へ使を派したので、同夜直ちに結城、池田丹後、その他のキリシタン武士がやって来た。烏帽子形城のパウロ文太夫が教会に寄附した家は、日比屋の向い側にあったが、ワリニャーニはそこで翌々日ミサを行った。翌々日三月十九日は枝の日曜日であったが、ワリニャーニは枝を祝福した後、河内の岡山に向けて出発した。ワリニャーニが非常に背が高いのと、一行の中に一人の黒ん坊がいたのとで、それを見るために狭い街路に無数の人々が集まり、店屋を壊したほどであった。堺を出てからの行列は、駄馬三十五頭、荷持人足三四十人、一行の乗馬もほぼ同数であったが、ほかに、出迎えの武士が騎馬で八十人位、多数の兵士を率いていた。この行列は進むに従って出迎えの人や騎馬の武士が殖えて行った。
池田丹後はこの頃八尾の城にいたが、一行が八尾に近づくと、待ち受けた多数のキリシタンが手に手に持っていた枝と薔薇とを道に投げ、ワリニャーニたちはその上を通っていった。少し行くと野原に蓆をしき屏風を立て廻して、池田丹後夫人が子供や貴婦人たちと共に待ち受け、一行に食事を饗した。
三箇に近づいて、飯盛山麓まで来ると、三箇の領主や夫人ルシアなどが、多数のキリシタンと共に街道に蓆を敷いて待ち受けていた。すでに夕暮も近づいたので、ゆっくり挨拶する暇もなく三箇に行ったが、そこには食事が準備してあり、オルガンチノがセミナリヨの少年数人と共に迎えに来ていた。
その日は岡山まで行って、方々から集まった多数のキリシタンに迎えられ、先ず十字架の所に、ついで会堂に入った。人々の喜びは非常なものであった。
翌日はワリニャーニが単独でミサを行った後に、高槻に向けて出発した。多数の大身や夫人たちなどが行列に従った。高槻の近くの渡し場までくると、数人の武士が船を準備して待ち受けて居り、対岸は出迎えの人たちで一杯であった。高槻にいた神父グレゴリヨ、イルマンのヂヨゴ・ピレイラ、右近の家族たちもその中にあった。
ワリニャーニは初め京都で聖週を迎えたいと考えていたらしいが、高槻に着いたのがもう月曜日の夕方で、復活祭の準備は急がなくてはならなかったし、それに信長が二三日中に上洛して京都で派手な祝祭を行うことになっていたので、かたがた神父たちは暗黒の諸儀式や復活祭を高槻で行って貰うようにと望んだ。そこで復活祭は|俄かに高槻で《ヽヽヽヽヽヽ》行われることになり、早速その準備に取りかかった。高山右近は十分な準備をする暇のないことを残念がったが、しかしワリニャーニの一行は装飾品一切を携えていたので、会堂は立派に飾りつけられた。集まった人の数も未曾有であったし、儀式の荘厳なことも曾てないほどであった。信者のうちには遠く美濃尾張から来た人もあった。ワリニャーニの一行が運んで来たオルガンも今度初めて据えつけ、土曜日の儀式の時から使って見たのであるが、これは会衆の間に非常な驚嘆を巻き起した。ワリニャーニは信者たちの熱心な態度を見て、身が高槻にあるのではなく、ローマにある思いをしたという。
復活の日曜日には、天明の二時間前に、荘厳な行進が行われた。これはフロイスが日本で見た中で最も盛んな整ったものであったと共に、ヨーロッパで行われるそれに比肩し得るものであった。この行進には身分のある武士たちを初めキリシタンだけで一万五千、異教徒も加えて二万の人が参加した。主立った武士たちや、二十五人の白衣を着けたセミナリヨの少年たちは、今度ワリニャーニの携えて来た絵を一人一人捧げていた。大きな絵は数人で高く捧げた。その他信者たちは手に手にさまざまな形や色の提灯をかざしていた。ワリニャーニは十字架の木の聖匣を持って天蓋の下に立ち、それに従う神父たちはカッパやアルマチカを着ていた。
この日右近は、宣教師たちや方々から集まった信者たちのために、盛大な宴を開いた。そのうち京都から使が来て、信長を訪問するために直ちに出発するようにと云って来たので、復活祭の日の午後ワリニャーニは高槻を立って京都に入った。
翌日、京都の会堂は、恐ろしい群集に取り巻かれた。ワリニャーニの連れて来た黒ん坊を見ようとして人が集まったのである。その混雑のため怪我人が出、門が壊された。信長からも黒ん坊を見たいと云って来たので、オルガンチノが連れて行った。信長は皮膚の黒さが自然の色であることを信ぜず、上半身を裸にして調べて見たりなどした。
一日おいて、三月二十九日にワリニャーニは、オルガンチノ、フロイス、ロレンソなどをつれて、信長を訪問した。進物は鍍金の燭台、緋天鵞絨一反、切籠硝子、金の装飾のある天鵞絨の椅子などであった。信長は彼を款待して長時間いろいろなことを語り合った。帰り際に、丁度坂東から届いた鴨十羽を彼に贈った。この厚遇の噂はすぐに全市にひろまり、キリシタンたちは皆祝辞をのべにやって来た。
信長の計画した祝祭はその三日後、四月一日(天正九年二月二十八日)に行われた。それは部下の諸将を集めてその威容を展観させる|馬揃え《ヽヽヽ》であった。諸将は、部下の衣裳や馬匹の装飾に工夫を凝らし、巨額の金をつかった。緋の服を着、馬も緋で覆うとか、五十人の家来に金襴の揃いの服を着せるとかいう類である。高山右近でさえも、己れと馬とのために七通りの服装を作った。祝祭の場所は東の野で、砂を撒いた競技場のまわりに多数の桟敷が造ってある。競技に参加した武士たちは、十三万と云われた。諸将はおのおの揃いの服の家臣たちをつれて定めの位置につく。信長は、多数の良馬を右側に曳かせ、うしろにワリニャーニの贈った天鵞絨の椅子を四人の武士に担わせ、その後方に歩兵を随えて臨場した。
祝祭として行われるのは、騎馬の武士たちが、或は三人ずつ、或は十二人ずつ、或は四五百人も一時に、競技しながら、場内の一端から他端へ走るだけのことであった。しかしその武士たちが多年来近畿地方の|戦争の舞台《ヽヽヽヽヽ》に立っている役者である、ということは、市民の関心をそそらずにはいなかった。それらの役者が、今や数寄を凝らした華美な服装と装飾に包まれて、市民に|顔見せ《ヽヽヽ》をするのである。だから内裏・公家衆・高僧たちを初め、観衆は二十万に達した。フロイスをはじめ、他の神父たちも、このように豪華な光景は曾て見たことがないと云った。つまりこの祝祭は、|京都の平和《ヽヽヽヽヽ》が回復されて来たという歓びを表現するものでもあったのである。
この祝祭に信長はワリニャーニを招待して、非常によい見物席を与えた。ワリニャーニは迷惑がりながら他の神父たちと共に臨席したのであるが、そこから見ていると、信長が天鵞絨の椅子を持って来させたことは非常に目立ち、彼を他の武士たちから区別する目じるしになった。忽ちの間に、あれはキリスト教の宣教師の長が信長に贈ったものだという評判が場内にひろまった。ここには諸国の人が集まっていたのであるから、この評判はやがて迅速に日本全国にひろまることになった。信長の祝祭場は巧まずしてヤソ会の宣伝場に化したのである。
祝祭の後、四月十四日に信長は安土へ帰ったが、ワリニャーニは直ぐその翌日、あとを追って安土に行った。
ワリニャーニが安土に着いた翌日、信長は城を見せると云って神父たちを招待した。この城の工事は、神父たちの報告によると、ヨーロッパの最も壮大なものと比することができると云われている。周囲の石垣の大きくて堅固なこと、内部の宮殿の広大壮麗なことは、このヨーロッパ人たちにとっても驚くべきものであった。中でも中央の塔は七層の楼閣で、内外共に驚くべき構造を持っていた。木造であるにかかわらず石と石灰で造ったもののように見える。信長は見るべき箇所を一々指図して案内させたが、自身も三度出て来て、ワリニャーニと語った。ワリニャーニがヨーロッパの最も壮麗な建築に劣らないと云って讃めると、信長は非常に喜んだ。そうして料理場から厩まで見せた。その日は見物だけで、翌日饗応に呼ばれることになって辞去したが、しかしこの信長の厚遇がすでに城下では評判になっていて、城から出てくる宣教師たちを見るために多数の見物が集まり、その間を通ることが出来ないほどであった。
前年オルガンチノが建てた安土の宣教師館はワリニャーニをも非常に満足させた。釣合のよい三階建で、信長の特別の許可により城のと同じ瓦で葺いてあって著しく人目をひく建築であったが、それが安土の城下に聳えているということの大きい意義を、ワリニャーニはすぐに見て取った。オルガンチノはすでにここで相当の事をしていたのである。各地から安土に集まってくる身分の高い武士たちは、この珍らしい建築を見物に来ては説教を聞き、キリスト教に親しむようになった。そういう人の中からも、土地の人の中からも、洗礼を受ける人たちが続出した。もと近江の守護であった京極高吉夫妻や、信長の金工刀工などもその中にまじっていた。信長の子たち、信忠や信孝も、ますます宣教師に親しんだ。特に信孝は、週に一二回は宣教師館にやって来た。ワリニャーニの滞在中は一層熱心で、特にロレンソと非常に親しくした。ワリニャーニに対してはまるで|子が父に対するように《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》振舞った。これは日本では珍らしいことであった。
こういう情勢を見たワリニャーニは、オルガンチノの判断通り、セミナリヨをここに置くのが適当と考え、宣教師館の最上層に立派な広間を造った。オルガンチノはすでに二十五六人の少年武士を集め、教育をはじめていたのであるから、ワリニャーニはそれに対して、有馬のセミナリヨの場合と同じ注意・規則・時間割などを与えた。日本語の読み書きと共に、ラテン語の読み書きを教え、ほかにオルガンで歌うこと、クラボを弾くことなどを仕込むのである。有馬ではすでに、日本の少年がヨーロッパの少年よりも優っていることが実証されたが、安土では少年たちが有馬地方よりも洗※[#「火+鰊のつくり」]されているので、一層よき成績が期待された。
ワリニャーニはなお安土に会堂を建築することを計画し、材料を集めにかかった。信長はこの会堂を非常に壮麗宏大なものとすることを希望し、しばしばそのことについてワリニャーニと語り合った。
五月十四日、聖霊降臨節の日の午後に、フロイスは高槻の信者らをつれて高山ダリヨを訪ねるために、越前に向けて出発した。近江から越前の方へかけて宣教師が動いたのは、この時が初めてである。ダリヨは信仰を堅持していたし、領主の柴田勝家も非常にフロイスを款待した。勝家は信教の自由を認め、布教は手柄次第であると云った。ダリヨの熱心と伴って、この地方にもキリスト教は栄えるかのように見えた。
五月廿五日の聖体の祝日には、ワリニャーニは高槻城に行った。復活祭のとき、十分な準備をなし得なかったのを遺憾に感じた高山右近が、聖体の祝日の祭儀を是非高槻で営んでほしいと懇請したからである。今度は十分に準備されたので、高槻の町全体が祭のために装を凝らした。祭儀も行進も復活祭の時よりは遥かに荘厳に行われ、祭の後の饗宴も前よりは盛大であった。それらの経費はすべて右近が負担したのである。ワリニャーニはこの祭の機会に二千余の人々に洗礼を授け、また数日かかって右近の領内の二十余カ所の会堂を巡視したのであるが、それの与えた喜びが右近にとっては十分の報酬であった。ワリニャーニはこの右近の仕事を賞讃せざるを得なかった。しかし右近はこの時の経験によって高槻の会堂が狭過ぎることを感じた。で彼は早速他の武士たちと相談して、広大な会堂を建築する準備に取りかかったのである。
右近はまた、ワリニャーニの新しい方針にも共鳴していた。すでに前年末以来、彼はオルガンチノのセミナリヨ開設の努力に協力して来たのであった。というのは、日本の身分ある武士たちはその子のセミナリヨへの入学を在来の出家と同視して躊躇していたために、先ずそれを打破する必要があったのである。オルガンチノは先ず手初めに高槻城内の少年をひき入れようと考え、八名を選んで安土の祭に招待した。祭のあとでいろいろ勧めて見ると、少年たちはすぐに入学の決心をした。しかし問題は親たちを納得させることであった。そこでオルガンチノは、問題の解決を右近に託したのである。右近は少年の父親たちを初め臣下一同の集まっている前で、この少年たちの決心を讃め上げ、彼らがセミナリヨの生活を選んだことに対して、毎年米百俵の扶持を与えると宣言した。これでセミナリヨの生徒募集に緒がついたのである。ワリニャーニが来てセミナリヨの規則を定めた頃には、親も子も熱心にセミナリヨへの入学を希望するようになっていた。
高槻で高山右近の款待を受けたワリニャーニは、ついで河内の諸城の信者たちを訪ねた。京都の会堂の新築に際して力をつくしてくれた人々である。岡山の領主結城ジョアン、その伯父ジョルジ弥平治、その下には三千五百の信者があり、宏壮な会堂もある。次には三箇《ヽヽ》の領主と千五百の信者、ここにも立派な会堂や宣教師の家がある。次にはシマン池田丹後、前に若江の城にいたが、今は八尾《ヽヽ》の城にいる。シマンの努力で附近の他の城主たちもキリスト教に近づきつつある。烏帽子形城《ヽヽヽヽヽ》の領主は既に帰依し、会堂の建築にとりかかっていた。烏帽子形の大身パウロ文太夫は堺の町の数軒の家を神父に寄附してくれたので、ワリニャーニは堺に出て、そこに小会堂を設けた。ついで、市の中央に地所を買うことが出来たので、この富裕な自由市に立派な会堂と宣教師館を建て、行く行くはコレジヨをも設立しよう、と彼は考えたのであった。
ワリニャーニが巡察を終って安土へ帰ったのは、多分七月の頃であろう。信長はますますワリニャーニに好意を示した。その第一に、ワリニャーニの帰国の際の|みやげ《ヽヽヽ》として、愛蔵の屏風を贈ったことである。それは信長が、「日本の最も著名な画家」に命じて|安土の城と町と《ヽヽヽヽヽヽヽ》を描かせたものであって、非常に出来が好く、しかも信長が滅多に人に見せないので、大評判になっていた。それを信長はワリニャーニの許に届け、次のように云わせた。貴師の帰国に際し何か記念品を差上げたいが、立派なものは皆ヨーロッパから来たものであるから適当な品がない。しかし貴師は安土におけるキリスト教の建築を絵にかかせたいと思っていられるかも知れぬ。それを考えてこの屏風をお届けする。見た上で気に入れば受納されたく、気に入らなければ送り返して貰いたい、と。やがてワリニャーニが、非常に気に入った旨を答えさせると、信長は満足して次のように云った。これで神父に対する自分の愛がいかに大きいかが解るであろう。あの屏風は内裏の懇望をさえ断わったほど大切にしていたのであるが、それを神父に与えて、自分が神父を尊敬するということを日本全国に知らせるのが嬉しいのだ、と。このことは直ぐに全市に伝わり、さらに周囲の諸国に広まった。屏風を観るために宣教師館に集まる人が非常に多く、三七信孝などもその一人であった。それと共に神父たちに対する尊敬も非常に高まって行った。
第二に信長の示した好意は、建築費などで困った場合には申出るがよい、補助を与えるであろうと伝えさせたことである。ワリニャーニは協議の上、会堂建築の遷延する事情を報告し、漠然と信長の外護を求めるだけに止めて、具体的な補助の要求はしなかった。
第三の好意は、ワリニャーニに豪華な夜の祭を見せたことである。ワリニャーニが暇乞に行ったときに、信長は、この祝祭を見ることを勧《すす》めた。でワリニャーニは止むを得ず祝祭の日まで十日ほど滞在を延ばした。この祭は通例町の住民が|各戸で《ヽヽヽ》火を焚き、提灯を窓や門に吊すのみであって、城では何もしなかったのであるが、この時には信長の命によって各戸の火や提灯をやめ、城の天守閣にいろいろの色の提灯を飾らせた。これは立派な観物であった。そのほかに、キリシタンの宣教師館の角から始まって、山の裾を通り、城にまで続いている街路の両側に葦のたいまつを持った人を整列させ、一時にその多数のたいまつに点火させた。たいまつは盛んに火花を出し、町中が昼のように明るくなった。その火花の散る間を多数の青年武士や兵士たちが走った。そのあとで信長が宣教師館の門の前を通ったので、ワリニャーニは他の神父たちと共に出迎えた。信長は、祭はどうだったなどと愉快そうに声をかけた。この日の祝祭は、|どうやら信長がワリニャーニ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に見せるために行ったらしいのである。
ワリニャーニが堺まで見送るオルガンチノと共に安土を出発したあと、暫く宣教師館を預かっていたのはフロイスであったが、フロイスは古くからの信長の馴染でもあったので、信長は彼を招いて長い間語り合った。ロレンソも一緒であったらしい。やがてオルガンチノが帰ってくると、信長は或る日突然、宣教師館へ遊びに来た。家来たちを下に留めて、ただ一人宣教師館の最上層に登り、宣教師たちと親しく語りあった。また少年たちにクラボやビオラを弾奏させて喜んだ。クラボを弾いた少年は日向から来ていた伊東祐勝であった。
こういう信長の態度が宣教師たちに対する厚意を示していたことはいうまでもないが、しかしそれでも宣教師たちは|信長がキリスト教に帰依するであろうとは考えていなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。信長が信仰を求める人でないことは、彼らの眼にも明かだったのである。それを彼らは信長の「慢心」として云い現わしている。がこの時まではまだどの宣教師も信長の傲慢を非難するような報告を書いてはいない。たとい信長自身の改宗が望み少ないものであったとしても、その子信忠や信孝は決して望みのないものではなかった。信忠が、もし姦淫戒をさえ緩めるならばキリシタンになるであろうと云ったことは有名であるが、ワリニャーニの巡察当時には既に岐阜の城下に神父セスペデスと日本人イルマンのパウロとを迎え、盛んに布教させていた。その収穫も決して少なくはなかった。信孝はまだ領地を与えられて居らず、従ってその領内での布教という事はなかったが、しかし京都や安土で親しくワリニャーニと交わり、ワリニャーニからも非常に愛せられていた。「佐久間信盛のほかには、畿内でこのように善い教育を受けた人を見たことがない」とは側にいたフロイスの言葉である。こういう信長の子らへの信頼が、信長の傲慢の埋め合わせになっていたのかも知れない。
とにかくワリニャーニにとっては、日本布教の前途は洋々たるものに見えた。「日本のキリスト教会は、ヤソ会の有する|最も善きもの《ヽヽヽヽヽヽ》の一つである。それは|インド全体よりも《ヽヽヽヽヽヽヽ》もっと価値がある。」これが彼の考であった。その彼が、堺から土佐を経由して九州に帰り、大友、有馬、大村など諸大名の使節を伴って長崎を出発したのは、翌一五八二年の二月二十日であった。その使節は|セミナリヨの果実《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》たる少年たちであったが、それによってワリニャーニは、|日本人がいかなるものであるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をヨーロッパ人に見せようとしたのである。それは同時に|ヨーロッパがいかなるものであるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を日本人が知る緒ともなる筈であった。
七[#「七」はゴシック体] 大友宗麟の受洗
九州地方ではカブラルが渡来しトルレスが死んで以来の十年間に、大友、有馬、大村の諸領、及び平戸附近諸島、五島天草島などの既開拓地において、着実にキリスト教の地歩が堅められて行った。初めの間はさほど目ぼしい現象も起らなかったが、京都地方で急激な政情の変化があり、やがて信長の勝利とその宣教師庇護の態度とが明かとなってくるに従い、人目を聳たしめるような事件が続出するに至ったのである。大友宗麟の受洗と社寺焼き払い、有馬義直の受洗などがその例である。
豊後の教会は大友宗麟の庇護のもとにもう二十何年かの活動を続けて居り、府内の慈善病院などは一つの名物となっていたが、しかし宗麟は大村純忠のように教に入ろうとはせず、部下の武士たちも改宗するものは少なかった。府内《ヽヽ》の教会では武士でキリシタンとなったものは二十年間にただ一人であったといわれている。しかるに臼杵の会堂では、青年武士のキリスト教に近づくものが追々に現われて来た。一五七五年頃には、宗麟の長女とその妹たち、世子とその弟たちなどが頻りに説教を聞き改宗の意志を示すようになった。当時土佐から逃げて来ていた親戚の一条兼定夫妻などもそうであった。そういう機運がやがて、大友家の内部に激烈な紛擾を巻き起すに至ったのである。
紛擾のきっかけを作ったのは、一五七五年のクリスマスの前に宗麟の次男|親家《ヽヽ》が洗礼を受け、ドン・セバスチヤンとなったことである。この十四歳の少年は、次男である故を以て出家させられることになっていたが、幼少の頃から父に伴われて宣教師館に出入していた関係もあって、仏教を嫌い、キリシタンとなることを熱望した。宗麟はこの子の意志の動かし難いのを見て、遂にカブラルを大村領から呼んで、数人の武士と供に洗礼を受けさせたのである。その三日後にカブラルは、府内でクリスマスを祝うために出発したが、その時宗麟はセバスチヤンにも同行を命じた。ところで、府内の教会のクリスマスに参列したセバスチヤンは、府内の仏教寺院を破壊するというような過激なことをはじめた。それによって領主の子や多数の武士がキリシタンとなったことを世間に周知せしめようとしたのである。これは身分あるものにキリシタンの少なかった府内においては一つの劃期的な出来事であった。
この後臼杵では青年武士の受洗者が多くなり、修養会などを作って活溌に動き出した。当時政務を執っていた宗麟の長子義統も、それに同情の態度を見せた。この形勢を見て、義統や親家の実母である宗麟夫人は、猛然として反対運動を始めた。娘たちは母の味方に附いた。彼らはあらゆる手段をつくして宗麟や義統にキリシタンを憎ましめようと計った。生憎新たに改宗した武士のうちに殿中で刃傷したり、義統の機嫌を損じたりするものが出て来た。遂に義統は母親の意に従うようになって行った。家臣は改宗を禁ぜられ、既にキリシタンとなったものも転向を要求せられた。それにつれてキリシタン迫害の噂が立った。カブラルはキリシタンたちと共に会堂にたて籠って殉教する準備にとりかかった。ドン・セバスチヤンは母夫人から義絶を以て脅かされたが、少しも心を動かさず、殉教の覚悟をきめて会堂に入った。殉教の噂を聞いた府内の信者たちも、殉教者になろうとして急いでやって来た。会堂内の感激は非常なものであった。が結局何事も起らなかった。カブラルの訴をきいた宗麟は、キリシタンの保護を再確認し、長子義統を宥めて穏便に事を治めたのである。
が宗麟夫人の反対運動は鎮まりはしなかった。次で起ったのは夫人の実家の嗣子の改宗問題に関してである。夫人の兄弟田原親堅は大友家で第二位或は三位の重臣であったが、子がないため京都の公家から親虎を迎えて養子とした。これは非常に才能のある優れた少年で、一五七七年には十六歳であったが、この年の内に宗麟の娘と結婚する筈になっていた。その少年がキリシタンになろうとしたのである。宗麟夫人はそれを聞いて「牝獅子の如く」怒った。早速親堅を呼んで、その子のキリシタンとなることを決して許してはならない、もしなるようなら婚約はやめる、また彼に会うこともやめると云った。親堅は前にこの少年をつれて会堂を訪れ、カブラルの説教を聞かせたこともある位で、キリスト教嫌いというわけでもなかったが、宗麟夫人に押されて、親虎を監禁した。しかし親虎にとっては領主の娘との結婚も、大身の家督相続も問題でなかった。廃嫡や離縁は覚悟の上であった。やむなく親堅は時の力に頼ることとして親虎を豊前の僻地に送りキリシタンとの連絡を絶った。しかしそれは秘かに届けられたカブラルの激励の手紙を一層有効ならしめたに過ぎなかった。数カ月後、もう熱は冷めたであろうと親堅が呼び返したとき、親虎が真先にやったことは、急いで受洗したいという希望をひそかにカブラルに申送ったことであった。ついで彼は父の取り扱いの不当な点を領主の前に訴えて領主を驚かせた。遂に親堅は教会に人を派して説諭を依頼するに至ったので、教会の方からは|教に背かぬ限り《ヽヽヽヽヽヽヽ》父の命に従えという勧告を送ったのであるが、親虎は急に従順になり、周囲の人々が驚くほどであった。しかしその隙に親虎は、父には秘密で、三人の少年武士と共に、カブラルの手から洗礼を受け、ドン・シマンとなったのである。
その秘密はやがて洩れた。そうしてそれはドン・シマンの希うところであった。父は怒って、追放を以て脅かし、子はそれを甘受する旨を答えた。カブラルは監禁されたドン・シマンの所へひそかに、殉教者サン・セバスチヤン伝の訳書を届けた。宗麟夫人は親堅と計って、ドン・シマンの側近のものや、共に洗礼を受けた友人たちを迫害し、彼に|惨めな気持《ヽヽヽヽヽ》を味わせようとした。またいろいろな人に頼んで利害得失を説かせた。しかしドン・シマンは少しも動揺しなかった。結局この時にもまた親堅は神父カブラルに説諭を乞うことになった。しかしカブラルは今度は親堅のあげる理由を悉く反駁し、|自分たちの生命を失うとも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ドン・シマンに信仰を捨てよと勧めることは出来ないとはねつけた。宗麟夫人の圧迫をますます強く受けている親堅は、遂にカブラルに対して会堂の破壊、宣教師の殺戮を以て威嚇するに至った。カブラルはひるまなかった。道理に逆らって、武力により、会堂の破壊や「二人の憐れなる外国人」の殺戮を欲するならば、われわれはここに無防備で待っているのであるから、何時でもやられるがよい。それが彼の答であった。が同時に彼はこの事を宗麟に報告せしめた。
その前にカブラルは、迫害に苦しむドン・シマンの懇請によって、日本人イルマンのジョアンを宗麟の許に派し、親堅の所為の不当なことを訴えしめた。宗麟はこの事件に関するカブラルの処置を是認し、また信仰の自由の原則を確認したが、しかしこの事件に容喙することはいま暫く避けると答えた。で今度、親堅の会堂破壊の威嚇について報道を受けても、田原一家の紛擾に対しては依然として容喙を好まず、ただ「会堂と宣教師とは領主の保護の下にあるのであるから、親堅に一指もふれさせない」とのみ答えた。つまり会堂破壊や宣教師殺戮などは単なる威嚇の言葉に過ぎない旨を示唆したのである。
カブラルが威嚇に屈しないのを見た親堅は、その威嚇をドン・シマンに向けた。汝の父親堅は今明日中に会堂を焼き宣教師を殺すであろう。汝の決意一つでこの災禍を避けることができる。この威嚇は少年には十分に利《き》いた。|彼は父の意に従うことを誓った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。親堅も宗麟夫人も非常に喜んだ。しかしドン・シマンが一切の経過をカブラルに報告すると、カブラルは、|神父たちの生命などを顧慮すべきでない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|神父はインドからいくらでも来る《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、キリシタンとしての操守の方が大切であると教えた。そこでドン・シマンは、再び強硬な態度に返り、死すともキリシタンたることを止めないという書簡を父にあてて書いた。
この書簡を読んだ父がどういう態度に出るかまだ解らないうちに、ドン・シマン親虎は宗麟の次男ドン・セバスチヤン親家とひそかに路上で会合した。苦労で痩せ衰えた親虎の姿はひどく親家を動かしたので、その同情すべき従兄弟が殺されるか追放されるかの切迫した身の上について援助を求めたとき、親家は、もしキリシタンたるが故に追放されるならば、自分はどこまでも一緒に行こう、とはっきり答えたのであった。
子親虎の再びもとへ返った告白を受取った父親堅は、その威嚇の言葉を、実行に移さざるを得ない羽目に陥った。その日のうちに親堅が多数の兵士を派遣したという噂が伝わった。後にフロイスが親家から聞いた所によると、親堅は実際に神父殺害のために武士二人、日本人イルマンのジョアンを殺すために十二三人、その他の人々を殺し会堂を焼くために多数の兵士を派遣したのだという。しかし血なまぐさい事件は起らなかったのである。というのは、噂が伝わると共に、城内のキリシタン武士たちは皆|殉教の情熱《ヽヽヽヽヽ》に燃えながら会堂に集まって来た。カブラルは武器を持たない宣教師だけを会堂に残してくれと頼んだのであるが、武士たちは聞かなかった。却って神父たちに隠して多数の銃・槍・弓矢などを会堂に運び込んだ。こうして殉教の情熱が高まって行くと共に、その武士たちの母親とか夫人とか侍女とかが皆動き出した。平生は手軽に外出の出来ないような身分の高い婦人たちさえも、夜中会堂へ押しかけて来た。こうなるともう簡単に会堂の焼討などは出来なかったのである。
そこで宗麟夫人や親堅の側と、会堂の側とが対峙して睨み合った。その状態は二十日以上も続いた。そのうち最も危険の多かったのは二昼夜ほどであったが、その最初の夜、宗麟はカブラルに次のように申入れて来た。今度の騒ぎはすべて宗麟夫人の起したものだといわれている。自分は当然|離婚すべきだ《ヽヽヽヽヽヽ》と思うが、そのために起る国内の不安を思うと中々実行は出来ない。ついては、カブラルの旅行の予定を少しく繰り上げ、ジョアンと共に|肥前の方へ出発せられる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》わけには行かないか。そうすれば事件は無事に納まるであろう。会堂の保護は自分が受け合う、というのであった。その同じ夜に宗麟夫人もまたカブラルに使者を送り、悪人ジョアンの策動を非難して、もし神父が態度を改めないならば、会堂破壊、キリシタン殺戮を実行するであろう、と威嚇をくり返して来た。これによって見ると、宗麟夫人はあくまでも強硬であり、宗麟は幾分の譲歩を希望していたのである。カブラルは夫人の申出は単純に拒絶したが、宗麟の申出に対しては自己の立場を詳細に説明した覚書を送った。こうして対峙の形勢は一層緊張したのであった。
がキリシタン|武士の殉教《ヽヽヽヽヽ》の情熱は、会堂を容易に攻撃すべからざるものにしたと共に、宗麟夫人の側に有力な口実を与えることになった。それは、キリシタン武士たちの所行が|一向一揆に類似する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのである。宗麟夫人にとっては、おのれの次男親家がキリシタンとして会堂側についていることが、口惜しくて堪らなかった。だから親家と親虎とがこの宗教一揆の領袖であると主張することをさえ辞せなかった。丁度信長が石山本願寺の反抗に手を焼いていた頃のことであるから、これは一国の政治にとってまことに「重大な問題」に相違なかった。フロイスが、キリシタン武士たちは|カブラルの意志に反して《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》会堂に集まり、また|カブラルに隠して《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》武器を持ち込んだ、と特筆しているのに見ても、この非難がいかに有効であったかが解るであろう。
領主の宗麟も世子の義統も、宗麟夫人側の主張を無視することは出来なかった。で義統はカブラルに対して、(一)ドン・シマン親虎は保護するが、(二)キリシタン等が|領主に対する義務を捨てても《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》団結しようとしているというのは真実であるか、と質問を発した。カブラルは(一)の点を感謝し、(二)の点は|虚伝である《ヽヽヽヽヽ》と答えた。そうして領主への義務に背けば完全なキリシタンではないということを詳しく説明した。それによってキリシタン武士の団結が一向一揆と同じ種類のものでないと立証せられたとき、妥協の緒もついたらしい。カブラルの出発の予定日が来る前に、宗麟は事件の解決を知らせて来た。親虎はキリシタンのままで父と和解し、依然として嗣子の地位を保つ。しかし父の感情を刺戟しないように、当分はあまり教会へは行かないことにする。キリシタンたちも喜びをあらわに表に現わすような態度は取らないでほしい、というのであった。親堅の感情を傷けないようにいろいろと配慮したのである。
この最初の解決は、一五七七年の六月の初めであったが、その一週間ほど前、五月二十五日の夜、宗麟夫人は猛烈な発作を起した。五六人でも押え切れなかったというのであるから、多分癪の差し込みであろう。丁度その頃に宗麟が一応夫人を押えつけ得たのであろうと考えられる。
事件はこれで解決したように見えたが、しかし宗麟夫人はその怒りを鎮めたわけではなかった。秋の頃には、殉教騒ぎの反動として、却って夫人側の勢力の方が強まったように見える。田原親堅は、ドン・シマン親虎が頑強に転向を拒んだために、遂にこれを追い出してしまった。親虎は府内の宣教師館に入った。そこで親堅は夏前の騒ぎの時と同じように教会攻撃を始めた。|キリシタンの宣教師たちは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|日本で相当数の信者を作れば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|インドから艦隊を呼んでこの国を占領するであろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。これがその主要な主張であった。この声に押されて信仰を捨てる武士が出て来た。会堂にくる武士の数も減った。
こうして宗麟夫人がその勢を盛り返して来たときに、宗麟は遂に夫人を離別するという最後の手段を取った。それは一五七七年の秋の末であったと思われるが、そのために彼は臼杵の城外に新居を建て、隠居して国政を義統に譲る、というような準備工作をやっている。新居へは、次男ドン・セバスチヤン親家の夫人の母で、これまで宗麟夫人に仕えていた女を、妻として迎え入れた。宗麟夫人は興奮して自殺を計ったが、それは未遂におわった。
新夫人を迎えた宗麟は、この夫人をキリシタンにしたいから、日本人イルマンのジョアンを説教に寄越して貰いたい、とカブラルの許に云って来た。これはカブラルにとっても不意打ちであったが、しかし彼は領主が説教を聞き始めるかも知れないことを直覚した。これまであれほど熱心に宣教師を庇護し、また|あれほど熱心にヨーロッパのことを知ろうとしていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》宗麟も、説教だけは決して聞こうとはしなかったのであるが、この時突然調子が変って来たのである。
ジョアンは十八年前博多で殉教した山口人アンドレーの子で、元琵琶法師のロレンソと並び称せられている優れた説教師であった。九州の諸大名に対するカブラルの影響の背後には、このジョアンの活躍があると云ってよい。彼を招いた宗麟は、新夫人たちに説教を聞かせるだけでなく、自らもその席に出て熱心にキリスト教の教義を聞き始めたのである。それは毎夜続いた。説教のあとでは夜遅くまでジョアンと語り合った。こうして彼のキリスト教に対する興味はだんだん高まって行ったのである。
一通り教義の説教が終ったときに、宗麟は、その邸において新夫人と親家夫人とに洗礼を授けることをカブラルに請うた。カブラルはこの機会を捉えて宗麟に一夫一婦の婚姻を誓わせ、新夫人にはジュリア、娘にはキンタという洗礼名を与えた。これは元の宗麟夫人にとっては堪え難い侮辱であった。彼女の宣教師に対する憎悪は無限となり、毒殺・放火などをも辞せない剣幕を示したといわれる。
その後ジョアンは日曜日毎に宗麟の邸へ行って説教を続けた。それは|五六カ月《ヽヽヽヽ》にも及んだ。その間に|宗麟の改宗《ヽヽヽヽヽ》の準備が出来たのである。これまでの宗麟は、一方に宣教師を庇護しながらも、信仰のことに関しては|禅宗の徒《ヽヽヽヽ》であった。京都の大徳寺の大檀那であり、臼杵にも大きい禅寺を建てて大徳寺の怡雲を招いたのみならず、自らも坐禅に努めていた。その宗麟がすっかり禅宗を離れてキリスト教の信仰に近づいて来たのである。
そういう情勢が宗麟の周囲で動き始めた後、一五七八年の一月に、日向の伊東義祐が島津義久の侵入を受け、|孫たち《ヽヽヽ》をつれて豊後へ逃げて来た。義祐は宗麟の妹婿であったが、嗣子義益はその方の出ではなく、自ら宗麟の姪を娶っていた。従って嫡孫たちは|宗麟の姪の子《ヽヽヽヽヽヽ》であった。その一人が、後に安土のセミナリヨにいた祐勝(義勝)である。宗麟の妹の方から出た孫は、後にローマに行ったマンショ祐益である。大友義統は日向を回復するために六万の兵を率いて四月頃出征した。そうして比較的容易に島津の兵を追い払うことが出来た。
この新しい形勢を見て宗麟は、一つの思い切った計画を立てた。それは、この新領土に|ポルトガルの法律や制度を模した新しい都市《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をつくり、住民を悉くキリシタンにして、征服者被征服者の区別なく、すべての人が兄弟の如く愛し合うようにしよう、ということである。因襲の妨げの少ない新しい土地でならそれが出来る、と彼は考えたのであった。で彼は新夫人と共に日向に移り、この新しい経営によって、豊後の当主義統の後顧の憂を除くつもりであった。その実行に着手するのは|三四カ月先《ヽヽヽヽヽ》の予定であったが、しかしこの新しい都市の建設のためには宣教師の協力がなくてはならないのであるから、予めカブラルに交渉してその同意を得た。城より先に会堂を建て、ヤソ会士十人乃至十二人を扶持する。|彼自身の洗礼もこの新しい町で受ける《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、というのであった。それは一五七八年の六七月頃のことである。
しかし宗麟は、ラテン語の祈祷や信仰箇条を熱心に暗誦したり、日曜日毎にジョアンの説教を聞いたりしているうちに、洗礼を新都市の建設まで待つのはよくないと感じ始めた。丁度七月下旬にはカブラルが長崎の方へ行くことになっていたので、その旅行を一カ月ほどで切上げ、帰って来て洗礼を授けてくれるようにと頼んだ。洗礼名も、シャビエルを記念してフランシスコとしてほしいと言った。そういう風にだんだん信仰の熱が高まって行ったのである。
カブラルが旅行に出たあとへ、フロイスが府内から留守番にやって来た。翌日宗麟は宣教師館を訪ねて二時間ほどフロイスと語り合った。フロイスも宗麟を訪ねていろいろな話の間に巧みに機会を捉え、宗麟の受洗の希望が、|神の恩寵によって《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》起ったものであることを説き聞かせた。これは宗麟の心に沁みたと見え、十六歳で初めてポルトガル人を見、二十二歳でシャビエルに接して以来の、永い年月の間の心の経歴を、ふり返って見る気持にならせた。その述懐を聞いたのは日本人イルマンのダミヤンであった。がそういう気持の中ででも、宗麟は頻りにローマ教会の制度のことをフロイスに質問しているのである。
カブラルが一カ月で旅行から帰ってくると、宗麟は待ち兼ねたように催促して洗礼を受けた。一五七八年八月二十八日であった。この洗礼は豊後の国内でも、近隣の諸国でも、かなり人々を驚かせた。宗麟ほど学問あり、禅宗にも通じた人が、キリシタンになる筈はない、という人もあり、またあれほどの人がキリシタンになる所を見ると、キリスト教はよいものであろう、という人もあった。
日向への出発の時の近づいた九月二十一日に、宗麟の希望によって、府内のイルマンたちも参加して荘厳ミサが行われた。その数日後に夫人ジュリアや嫁のキンタも宗麟に伴われて会堂に来た。そうして、いよいよ十月四日、サン・フランシスコの祭日に、宗麟は、相当な艦隊を率いて、船で日向の延岡附近の土持領に向けて出発した。白緞子に赤い十字架をつけ金繍で飾った旗を初め、多数の十字架の軍旗がその船に飜っていた。夫人ジュリア、神父カブラル、イルマンのジョアン及びルイス・ダルメイダ、前年来府内の宣教師館に預かっていたドン・シマン親虎などが随行した。これは宗麟の最も得意の時であったかも知れぬ。
宗麟がこのようにキリスト教に入って行くのを側で見ていた嗣子義統も、それに応じて宣教師たちに親しみを見せた。その態度は彼自身もまた彼らの仲間の一人ででもあるかのようであった。丁度信長の仏教弾圧が世間の耳目を聳動していた頃のことであるから、この若い領主も信長を模倣して、社寺の所領を没収し家臣に与えるということをやり始めた。実母の元宗麟夫人の抗議に対しては全然耳を借さず、むしろ彼女の神仏崇敬を弾圧するような態度に出た。宗麟受洗の前後にはこの態度はますます顕著になり、盂蘭盆会の禁止、八幡宮祭礼の無視などを敢行するに至ったのである。
宗麟受洗後間もなく、九月の初めに、義統は深夜イルマンのジョアンを呼んで、密室で夫人と共に説教を聞き始めた。やがてフロイスもこの説教に加わり、ヨーロッパの宗教界や俗界のこと、シャビエルの生涯のことなどを、夜明頃まで話した。後にはカブラルもそれに加わった。また母夫人に知られることなく夫人に会堂を見せるために、城の裏から小舟に乗って真夜中に会堂を訪れたこともある。こうして宗麟の日向行の直前には、夫人と共にキリシタンとなる決心をして、カブラルに次のことの指図を仰いだ。即ち、本年実行したように、少しずつ社寺を破壊して徐々に国内の有力者たちに偶像崇拝の無益なことを悟らせる、という方法がよいか。或は有力者たちの背反を恐れず一挙に異教の撲滅を敢行すべきであるか。もし後者がよいならば国を失う危険を冒してもその道を択ぶであろう、というのであった。カブラルはそれに答えて|漸進的な道《ヽヽヽヽヽ》をすすめ、準備が整えば|翌年の初めには《ヽヽヽヽヽヽヽ》彼も洗礼を受け得るであろうと云った。
カブラルが宗麟に従って日向へ行った後には、義統はフロイスを度々招いていろいろなことを相談した。中でも夫人に洗礼を授けて貰いたいことを熱心に希望した。夫人自身も直接フロイスに頼んだ。しかしフロイスは、信仰がまだ十分でないと見て、中々承知しなかった。結局義統はフロイスの勧めに従って城内に小さい礼拝堂を建て、その落成の時に夫人が洗礼を受けるということになった。
当時の義統の陣営は、臼杵の西南の野津の町にあったが、そこでも急激にキリシタンが出来始めた。野津の領主レアンとその妻のマリアは、このとき日本人イルマンの説教を聞いて改宗した人たちであるが、日本で最もよいキリシタンとなった。その一族郎党二百人も、共に改宗した。
日向では宗麟が会堂や宣教師館の建築を始めさせた。建築場には仮会堂が出来ていたが、そこへ宗麟は、十一月の朝寒の中を、毎日遠くからやって来た。日向にキリスト教を植えつけその香《かお》りがローマにまで達するということ、この新しい国をキリシタンやポルトガル人の法律によって治めるということ、それが彼には今にも出来そうに思えていた。
それにひきかえて臼杵では、精悍な元宗麟夫人がまた勢力をもり返して来た。彼女は義統夫人の母親を抱き込み、若い夫人の改宗を極力妨げようとした。義統は夫人の動揺を防ぐため、フロイスに頼んでその洗礼を急ぐこととし、十一月二十五日にいよいよ式をあげることにきめたが、二人の母親たちは、自殺を以て若い夫人を威嚇し、彼女を途方に暮れさせた。義統が帰って来て母親と喧嘩して見たが、肝腎の夫人の決心がつかず、フロイスは洗礼を中止せざるを得なかった。
その五日の後、十一月三十日(天文六年十一月十二日)大友の軍は島津の軍に大敗したのである。それは総指揮官|田原親堅《ヽヽヽヽ》の油断と無識によったものと云われている。この敗戦は収拾の拙さによって全軍の潰走となり、大友の勢威は忽ちにして地に堕ちた。
宗麟も義統もこの敗北によって信仰を失いはしなかった。しかし一カ月の後に田原親堅が臼杵に現われたときには、その姉の元宗麟夫人や戦死者の遺族たちが挙《こぞ》ってキリスト教を呪う声をあげた。それに次いでこれまで大友氏の押えていた筑前、筑後、豊前、肥後などの諸領主が、大友氏に叛いた。叛かないものも義統に対してキリスト教庇護の態度を捨てよと要求した。この大勢に対して若い領主義統は遂に抵抗することが出来なくなった。彼は漸次宣教師に対して冷淡となり、神仏に宣誓して異教徒としての態度を明かにした。キリスト教への反感は潮の如く高まった。カブラルはまた死の覚悟を固め、或る夜の如きは宣教師館の一同を励まして死を迎える準備をしたほどであった。そういう切迫した苦難は数日間であったが、しかしこの後会堂では、二カ月半の間、昼夜祈祷を絶たなかったといわれる。
宣教師に対する直接の危害は遂に加えられなかった。領主義統は異教に屈伏しはしたが、しかし宣教師たちを迫害しようとしたのではない。領主の父宗麟は信仰を堅持して力の限り迫害を抑えた。もし宣教師を害しようとするのならば、先ず|余を殺せ《ヽヽヽヽ》と彼は重臣たちに云い送った。その重臣たちは田原親堅の指導の下に宣教師追放《ヽヽヽヽヽ》を決議しようとしていたのである。この決議を成立せしめなかったのは、田原親堅を敵視している田原親宏《ヽヽヽヽ》であった。彼は曾てその領地の大部分を取り上げられ、それが今親堅の領地となっているのである。彼は親堅が|敗戦の責《ヽヽヽヽ》を宣教師に転嫁しようとするのに反対し、宣教師を庇って親堅を責めた。この有力な反対が宣教師追放の議を覆えしたのであった。これは一五七九年一月末、日本の正月の少し前のことであった。
こうして宣教師追放の危機は過ぎたが、しかし直ぐ続いて内乱の危険が迫った。右の田原親宏《ヽヽヽヽ》は、突如臼杵を去っておのれの領地に帰り、現在親堅の所領となっている彼の旧領地の返還を要求したのである。世間では親宏叛起の噂が専らであった。また実際、その要求が容れられなければ彼は叛起したであろう。当時の形勢では、臼杵も府内も彼を防ぐだけの力を持たなかった。両市は掠奪され、焼かれるであろう。キリスト教排撃でなくとも結果は同じである。両市の市民は避難の準備を始めた。キリシタンたちも騒ぎ立った。宗麟は、自分が国を治め始めて以来の未曾有の難境であると云った。元宗麟夫人の周囲のものは、義統が出陣したあと直ちに兵士を以て会堂を襲撃しようなどと語り合った。宗麟は会堂に入って防ぐであろうから、|彼をも片附けよう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、というのであった。カブラルはまた死の覚悟をきめて、会堂で祈祷を続けた。
がこの緊張は、領主が親宏の要求を容れることで解決した。宗麟は親宏に叛意なきことを認めて、当主義統にその指図をしたのである。それは、二月一日のことであった。ところでこの解決は、教会にとって予想外の好い結果をもたらした。ドン・シマンの問題以来、教会迫害の中心勢力であった田原親堅は、その領地の大部分を失い、それと共にその名声をも失ったのである。人々は日向敗戦の責を彼に帰した。彼は臼杵を去って、貧弱となった領地に引き籠った。その後、親宏に苦しめられた彼は、宗麟とジュリア夫人の許に曾てのキリシタン迫害を詫びて来た。このような親堅の失脚につれて元の宗麟夫人もまたその収入や勢力を失った。
こうして教会は落ちついた。義統もまた異教徒としてのキリスト教外護の態度を回復した。しかし容易に回復の出来なかったのは、筑肥地方に対する大友氏の勢力であった。
その夏、巡察使ワリニャーニが、日本に着いたのである。彼が口の津で催した宣教師会議には、カブラル以下イルマンたちも豊後から出かけて行った。宗麟は彼らに護衛をつけたが、しかしそれでも交通は可能になっていたのである。
義統はワリニャーニに書簡を送り、心中は従前と変らないが、政治的必要上《ヽヽヽヽヽヽ》それを隠しているのだ、と弁明した。ワリニャーニがカブラルと共に豊後に来なかったのは、豊後の政情の不安のためであろう。やがてこの年の秋には田原親宏の叛起の形勢がだんだん熟して来た。領主の押えがもう利かなくなっていたのである。親宏は十二月の初めに急死したが、後嗣|親貫《ヽヽ》は直ちに府内進撃の態勢を示した。田北紹鉄がひそかにそれに応じていた。
この時宗麟と義統とは、少数の兵を率いて府内にあったが、形勢は非常に非であった。もし親貫の艦隊が暴風に妨げられず、予定通り行動することが出来たならば、府内は簡単に攻略せられたであろう。重臣たちで親貫に対して戦おうとするものは少なかった。さすがの宗麟もこの時には国の滅亡を覚悟し、宣教師たちに|国外へ避難すること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を勧めたほどであった。彼はこの時の心情をワリニャーニやカブラルに書き送り、自分たち父子が命を失うことよりも、豊後のキリスト教会の破滅の方がつらいと云った。それほどであるから、教会の人たちも今度はもう駄目だと思っていた。しかしワリニャーニもカブラルも、|豊後から動いてはならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という考であった。どこへ行ったとて危険はある。神の摂理に一切を委せるほかはない、というのである。
この時重臣たちの間に団結を取り戻したのは宗麟の力であった。彼らはこの隠居が再び出馬して政権を執ることを希望するようになった。当主の義統もこの必要を認め、自ら父を訪ねてこのことを懇請した。しかし宗麟はおのれの子の面目を傷けることを欲しなかった。義統はあくまでも領主として留めるが、実質上すべてのことを宗麟の意志によって決定する、これが宗麟の解決策であった。それでも彼の智慧と権威とは再び有効に働き出したのである。重臣たちは結束して親貫を打倒することになった。それは一五七九年の十二月であった。
それでもこの内乱の鎮圧は急には運ばなかった。一五八〇年の復活祭の頃には、宗麟自身はもうワリニャーニを迎えてよいと考えたのであったが、その時にさえも田北紹鉄は、途中で巡察使一行を誅殺しようと計画していたのである。幸にしてワリニャーニは出発せず、この危険を免れたが、その機会に紹鉄の叛逆が曝露し、間もなく討伐せられた。それによって親貫の勢力は著しくそがれ、宗麟の信用と権威とは著しく回復した。
一五八〇年の秋には、親貫はその居城に追いつめられた。宗麟は筑後の国境へ出て肥前の竜造寺と勝負を決しようと考えるまで勢力を回復した。丁度その頃、九月中旬に彼は巡察使ワリニャーニを豊後へ迎え入れたのである。ワリニャーニは府内に数日留まった後、親貫の城を攻囲中の義統を訪ね、次で臼杵に来て宗麟に会った。二年前の十月四日、サン・フランシスコの祭日に、宗麟はカブラルたちをつれて日向に出発したのであったが、今戦争遂行の協議のために義統のもとへ行こうとしていた彼は、その出発前、|同じ祭日《ヽヽヽヽ》に、祝祭を行う計画を立てていた。ワリニャーニは、オルガンの伴奏の下に荘厳ミサを行って宗麟を喜ばせた。宗麟は神父たち一同をその邸に呼んで大に饗応した。
ワリニャーニは府内と臼杵の宣教師たちを集めて協議会を開いた。カブラルの反対にもかかわらず彼はあくまでも|日本人の教育《ヽヽヽヽヽヽ》に重点を置こうとした。臼杵には、ヤソ会への入会希望者のための練習所《ヽヽヽ》ノビシヤドを設立する。府内の宣教師館はイルマンたちが学問を継続し得るような|専門の学林《ヽヽヽヽヽ》コレジヨにする。練習所の卒業生は、年齢と時間の許すかぎり、コレジヨに在学させるのである。外来の宣教師たちはここで日本語を学ぶ。文法書も出来、二年かかれば日本語は間に合うようになる。なお右のほかに、野津《ヽヽ》と由布《ヽヽ》とに宣教師館を設けなくてはならぬ。
この計画は早速実行に移され、|臼杵のノビシヤド《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》はクリスマスの前日に開かれた。最初ワリニャーニが入学を許したのは日本人六人ポルトガル人六人であった。教師は前にローマで新入会員を教えていた神父ぺロ・ロマンである。新しい建築にも取りかかり、翌年出来上った。学生も日本人をさらに四人入れた。日本人学生の成績は予期したよりも遥かに好かった。その中には七十四歳の老人と、四十歳になるその子なども混っていた。
|府内のコレジヨ《ヽヽヽヽヽヽヽ》にはヤソ会士が十三人いた。内三人は神父で、その中の一人がラテン語を教える。日本語の教師はイルマンのパウロで、もう七十歳を越えた徳の高い人であった。このパウロなどの尽力で文法書のほかに辞典や飜訳書が出来た。カテキスモ(聖教要理)の訳が出来たのもこの時である。
ワリニャーニは一五八一年の三月初めに豊後を出発して京畿地方に行き、帰りは土佐薩摩経由で秋になって豊後へ帰って来た。この間に宗麟は著しくその威望を回復していた。国内の謀叛人田原親貫は、徹底的に片づけられ、竜造寺や秋月との戦争は有利に進展した。その際に有名な|彦山霊山寺の焼討《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》をやったのである。これは信長の叡山焼討と同じような意味のものであるが、恐らく信長の影響でもあったであろう。それに伴って国内では身分ある武士たちの改宗が頻りに行われた。一五八一年だけで五千人を超えたといわれる。中でも、宗麟が力を入れ世間をも驚かせたのは、元宗麟夫人たちの師として声望の高かった高僧フインの改宗であった。宗麟はこの人物を見込み、「領内の半分が帰依するより以上に大切なこと」として、その改宗に骨折ったのである。これにはさすがの元宗麟夫人も兜をぬいだといわれている。
一五八一年の九月には、宗麟は臼杵に大きい会堂の建築をはじめた。丁度その頃にワリニャーニが京都の方から帰って来たのである。そこでワリニャーニは会堂のために荘厳な定礎式をあげた。豊後にいる宣教師たちが皆集まって来た。その数は四十人に達した。数年前には僅かに一二人に過ぎなかったのである。そこで人々は改めて日向敗戦以来の艱難な年月を回顧した。宗麟はあの敗戦によって数多くのキリスト教排斥派が戦死したことを感謝しさえした。実際この二年間に宗麟の努力によって得た教会の収穫は、その前の三十年間の収穫よりも多かった。三十年間に出来た信者の数は僅かに二千で、しかも身分の低いものが多かったが、今は、信者数一万を超え、その中に身分の高い武士が多く含まれている。宗麟改宗後にもしあの蹉跌がなかったならば、豊後全国はすでにキリスト教化していたであろう、と人々は感じた。日向へ進出したときの宗麟の空想は、必ずしも根のないものではなかったのである。
臼杵の会堂は、日本にある会堂のなかで最も金のかかった立派なものであった。宗麟はそのために工人を京都から招いた。四カ月かかって大体の建築が出来、屋根も葺き終り、内部の工事にかかった。その頃にワリニャーニは、ローマへの日本の使節をつれて長崎を出帆しようとしていたのである。それは、一五八二年の二月であった。
八[#「八」はゴシック体] ローマへの少年使節
ワリニャーニがローマへ連れて行こうとしたのは、宗麟の姪の子である|ドン《ヽヽ》・|マンショ伊東祐益《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、大村純忠の甥で同時に有馬晴信のいとこに当る|ドン《ヽヽ》・|ミカエル千々石清左衛門《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|この二人の親戚に当るドン《ヽヽ》・|ジュリアン中浦《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|ドン《ヽヽ》・|マルチノ原《ヽヽヽヽヽ》、及びこれらの少年の家庭教師の格で日本人イルマンの|ジョルジ《ヽヽヽヽ》・|ロヨラ《ヽヽヽ》、の五人であった。これらは皆有馬のセミナリヨの果実なのである。
有馬のセミナリヨはワリニャーニが日本に来て先ず手をつけた仕事であった。何故に有馬が先ず彼によって取り上げられたかというと、彼は渡来早々|有馬晴信の改宗《ヽヽヽヽヽヽヽ》に関与したからである。
大村純忠がキリシタンとなり、その領内の長崎がポルトガル船の寄港地として栄え始めた後にも、兄の有馬義貞は中々改宗しなかったが、しかしキリシタン大名としての純忠の不思議な強さを知るに従い、追々と気持が動いて行った。そうして遂に一五七六年四月、その家族と共に洗礼を受けた。京都で新会堂の建築が行われ、豊後で宗麟の次男が洗礼を受けて問題をひき起していた頃である。有馬領内のキリスト教は領主の改宗によって活気を呈して来た。領主はその権力を以て仏寺をキリスト教の会堂に改造する。人々はそれに追随し、半年の間に信者数二万に達した。全領キリシタンの理想もやがて実現されるかに見えた。
しかるにこの形勢はこの年の末に突然逆転した。義貞は腫物で急死し、反動派は後嗣晴信を擁してキリスト教排撃を始めたのである。葬儀は仏式で営まれた。宣教師は皆口の津に引き上げざるを得なかった。会堂は再び仏寺となり、異教に逆転する信者も相当にあった。有馬晴信の治世は、このような反動弾圧を以て始まったのである。
しかし新興の竜造寺の圧迫は、晴信のこの反動的な態度を持続せしめなかった。彼はキリシタン大名たる叔父純忠の援助を受けなくてはならなかったし、またポルトガル船の火薬の供給をも必要としたのである。そういう政治的理由が彼の態度を緩和させた。一五七九年七月、ワリニャーニが渡来した頃には、晴信はもうかなりに動きかけていた。
口の津会議で日本のいろいろな情勢を聞いたワリニャーニは、先ず豊後を訪れようとしていた初めの予定を変更して、この手近かな有馬に着目した。彼が有馬に晴信を訪ねて行くと、晴信は非常に彼を款待してキリシタンとなる意志を示した。そこで問題は、出来るだけ国内の紛争を避けつつこの領主を受洗せしめることであった。その内竜造寺の圧迫がひどく加わり、領内の諸城が攻略された。この形勢を見て仏僧さえもキリスト教との提携を説くほどになった。しかし他方にはキリスト教にかこつけて背反を計るものさえあった。ワリニャーニは洗礼を躊躇したが、しかし窮境に立った晴信は遂に心からキリスト教の神に縋る気持になった。こうして一五八〇年の復活祭の頃に、晴信はワリニャーニから洗礼を受け、プロタシヨとなった。親類や家臣大勢が一緒であった。
ワリニャーニは、既に危殆に瀕していた有馬の城に入り、糧食弾薬等を供給して晴信の難を救った。これにはポルトガル船の協力を得たのである。この効果は覿面であった。何人ももう反キリスト教的態度を執り得なかった。晴信は領民にキリシタンとなることを勧め、領内の仏寺、全部で四十余を悉く毀って、キリスト教会堂建築の材料に当てた。こうしてこの後数年の間に全領キリシタンということが実現されて行くのである。
こういう背景のもとにワリニャーニは有馬のセミナリヨを建設したのである。
もっとも、一五八〇年以来ワリニャーニが着手したのはセミナリヨばかりではない。有馬《ヽヽ》と有家《ヽヽ》とには、西北九州地方で最良のものといわれる大きい会堂が建てられた。いずれも非常に大きな工事で、仏寺の木材を潤沢に使い、信者にも異教徒にも強い印象を与えるような立派なものであった。有馬のセミナリヨも会堂と共に建築し始め、翌年大広間が竣工したといわれている。がセミナリヨは、その建物が出来る前に、多分晴信の改宗後間もなく、開設されたのである。身分の高い少年で才能の優れたもの二十六人を、有馬の地に集め、それを教育するために神父二人、イルマン四人をつける。それをワリニャーニは何よりも先にやった。だから彼が日本を去ろうとするまでの|二年足らずの間に《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、見事な果実がみのったのである。
ワリニャーニがセミナリヨに定めた学課課程は、のちに安土のセミナリヨに与えたと同じく、日本語の読み書き、ラテン語の読み書き及び音楽であった。彼はこの教育が始まってから間もなく豊後に移り、次で京畿地方を巡察したのであるが、一五八一年の秋の末に有馬に帰って、ほぼ一年半の教育を受けた少年たちを見たとき、これで巡歴の間の辛苦は十分に報いられたと云った。少年たちは自分たちの工夫で色紙を色々に切抜いてセミナリヨの広間を飾り、礼拝所や祭壇にも木彫の像を飾付けて盛大な歓迎会を開いたのであるが、何よりも彼を喜ばせたのは、この少年たちの|著しい進歩《ヽヽヽヽヽ》であった。彼らはもともと行儀がよく、入学してからの二年近い間、曾て不行迹を示したことがない。極めて仲がよく、謙遜で信心深いことは練習生以上である。だから進歩は主として知力の上に見られた。これらの少年らが学問に熱心なことは全く期待以上で、ヨーロッパの少年よりも才智と記憶力とにおいて勝《まさ》っている。というのは、これまで見たこともない文字を、僅か数カ月で読み書きし得るようになるからである。ラテン語を覚える速力で比較すると、ヨーロッパの少年と同程度、或は一層早い。
この優秀な成績を見てワリニャーニの心は躍った。ヨーロッパ人にこのセミナリヨの成果を見せたい。そうして|日本の救済をなし得るものは実にこのセミナリヨである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということを納得させたい。日本ではこういう少年がこの一二年の間にすでに五十人養成されている。セミナリヨの定員をさらに百人ずつに殖して教育して行けば、短期間に大した効果が上るであろう。こう考えて彼は|セミナリヨの少年を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》何人かヨーロッパへ連れて行く計画を立てた。それを彼はキリシタン大名のローマ教皇及びポルトガル王に対する使節《ヽヽ》ということに結びつけたのである。そこで彼は大友、大村、有馬の三領主に説いて、彼らの|使節たり得べきもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をセミナリヨの少年のなかから選み出した。大友宗麟の使節は初め宗麟の姪の子|伊東祐勝《ヽヽヽヽ》とする筈であったが、祐勝は安土のセミナリヨにあって間に合わないために、そのいとこの伊東祐益《ヽヽヽヽ》を以て代えたといわれている。して見るとこの選択はかなり押し迫ってから行われたと見なくてはならぬ。が、もともと「使節」ということよりも「セミナリヨの少年」ということの方が根本なのであるから、その選択の範囲はきまっていたのである。ワリニャーニたちが主として心配したのは、十四歳をまだ越えていないような少年たちを親たちが手離すかどうか、或は少年たちの方で母親の手許を離れ得るかどうか、ということであった。しかるにそれは案外容易に運んだ。それだけにワリニャーニも少年たちに対して親のように心を配っている。|日本人イルマン《ヽヽヽヽヽヽヽ》のジョルジ・ロヨラを同行させたのは、この若い日本人が特別に成績がよく、セミナリヨに数カ月いただけでヤソ会に入会を許され、その後一年の練習を経て来たという優秀な人であって、「日本人イルマン」の標本として適当であったためでもあるが、同時に少年たちが永い外国旅行の間に|日本語を忘れてはならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という配慮からも来ていたのである。
このワリニャーニの計画は、やがて数年後に、彼の考えた以上の成功を収めた。少年たちはヨーロッパで異常な歓迎を受け、ヤソ会は日本布教の独占権と多額の補助金を獲得した。日本人がヨーロッパの文化に直接に触れる道も開かれたかの如くに見えた。が、往路にゴアで病歿したジョルジ・ロヨラを除き、四人の少年が皆無事で|八年の世界旅行《ヽヽヽヽヽヽヽ》を終えて日本に帰って来たときには、事情はすっかり変っていた。彼らのあとに汪然として続くべきであった流れは、もはや涸れていたのである。
が一五八二年の二月に彼らがこの世界旅行に出で立とうとしていたときには、彼らは新しい潮流の尖端に立っていた。彼らはただに大友、大村、有馬などのキリシタン大名を代表していたばかりではない。これらの諸大名を圧迫していた薩摩の島津《ヽヽ》、肥前の竜造寺《ヽヽヽ》といえども、|ヨーロッパへの触手《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は同じように出したがっていたのである。
ワリニャーニは、有馬晴信を竜造寺の圧迫から救ったが、しかし竜造寺隆信は宣教師たちを攻撃するようなことはしなかった。有馬や大村の領主が彼に対して恭順の態度を示すならば、それ以上に領地を攻略する必要もなかったのである。一五八一年に宣教師たちを心配させた事件は、竜造寺隆信が大村純忠とその嗣子とを佐賀に招いたことであった。この招待に応ずることは、純忠一族の運命を一時隆信の手中に委せることを意味した。人々は疑懼し、神父クエリヨもそれを危んだが、純忠は決然としてその招待に応じた。隆信は彼を款待し、おのれの娘を彼の嗣子に嫁せしめようと約した。それでもクエリヨたちは隆信に対して懸念を抱き続けている。ワリニャーニは竜造寺と親しむことがキリスト教会の安全にとって必要であると考え、しばしば人を遣わして隆信の機嫌を伺わせた。そうしてその懇望に従いクエリヨをして彼を訪ねさせた。隆信はクエリヨを款待して、|ポルトガル船が竜造寺領の港に来るよう斡旋して貰いたいこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、竜造寺領内に会堂を建て布教することを許すこと、などを話した。クエリヨはこの隆信の友情にもあまり信頼を置かなかったが、しかし|貿易の希望《ヽヽヽヽヽ》、従って|ヨーロッパ文明との接触の希望《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を竜造寺が持っていたことは、否定の出来ないことであろう。
島津の方も同様で、ワリニャーニが旅行の途中船で寄った時などには非常に款待したのみならず、|ポルトガル船をその領内の港に招致するために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、会堂の建設や布教の許可に関して、ワリニャーニやクエリヨと交渉を始めた。ワリニャーニが日本を出発するためにすでに船に乗った後にも、それに関して具体的な申入れをする使者が薩摩からやって来た位である。
キリシタンの敵とさえ見られる異教徒の領主たちがこのように熱心にワリニャーニの方へ手を出した位であるから、キリシタン大名の大村純忠や有馬晴信がワリニャーニに対していろいろ積極的につくそうとしたことはいうまでもない。晴信は一五八〇年にワリニャーニに助けられた御礼として、浦上を教会に寄附した。それを聞いた純忠は、長崎を教会に寄附しようと申出た。ワリニャーニは、これを受け容れるかどうかについて、西北九州、豊後、京都などの神父たちとも相談し、純忠とも幾度か会見した。純忠が、長崎を教会領としたいという理由はこうであった。第一、竜造寺が長崎をねらっている。竜造寺に渡せばポルトガル貿易も彼に奪われてしまう。拒絶すれば圧迫を加えてくるであろう。教会領として置けば安全である。第二、教会領となれば大村は依然としてポルトガル貿易を続けることが出来る。第三、大村氏にとっての安全な避難場所になる。これらの理由は、大体神父たちを承服せしめることが出来た。竜造寺に貿易の利益を与えれば、正面の敵たる大友氏に大打撃となるであろう。それは結局キリスト教徒にとっての大損害である。長崎は|キリシタンの避難所《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》として確保しなくてはならぬ。いずれ日本には司教を置く必要があるが、長崎は|司教の座《ヽヽヽヽ》としても安全でなくてはならぬ。こう考えて、ワリニャーニは長崎を教会領とすることに賛成した。純忠は長崎のほかに一里先の茂木をも教会に渡した。もっとも司法権だけは領主の手に残したのである。
ワリニャーニは長崎の市民に対して会堂を何よりも尊敬すべきことを教え込んだ。ここの宣教師館には神父三人、イルマン一人、日本人イルマン三人を置いた。大村の宣教師館は、神父二人、イルマン二人であった。ワリニャーニが京都から帰って来たとき、純忠は大村で盛大な祝宴を開き、長崎へも二度訪ねて来た。そうしてその年のクリスマスには、ワリニャーニを大村へ連れて行って荘厳な祭を行った。例の通り演劇の催しもあった。
有馬のセミナリヨの少年たちは、そういう社会的雰囲気のなかから出発して行ったのである。
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[#小見出し] 第十二章 鎖国への過程
一[#「一」はゴシック体] 信長殺さる
一五八二年二月、ワリニャーニが少年使節たちをつれて長崎を出発したあとの日本は、九州でも京畿地方でも新しい機運が五月の若葉のように萌え上っていた。副管区長クエリヨは有馬で盛大な復活祭を祝う。晴信の母・祖母・姉妹、多数の家臣などが洗礼を受ける。相当に力のある仏僧たちさえも、転向してくる。有馬のセミナリヨは周囲の日本人が目を聳てたほど、顕著な存在になって来た。フロイスも、日本でキリスト教を発展させるには、人間的にはこのセミナリヨのほかに頼るべきものがないといっている。そのほか附近の有家、島原、高来、少し離れて天草、大村、長崎、平戸、筑前の秋月、何処でも教勢の進まないところはない。特に宣教師たちを喜ばせたのは、最初シャビエルが足跡を印した|鹿児島と山口《ヽヽヽヽヽヽ》とが回復されそうになったことである。鹿児島からはワリニャーニの出発間際に有利な申込みがあり、クエリヨがそれを取り上げようとしている。山口の毛利もワリニャーニに宣教師派遣を求めて来たが、その後さらにクエリヨに交渉して来た。豊後《ヽヽ》では宗麟が益々熱心で、府内の万宝寺を焼き、豊前の宇佐八幡宮を焼いた。永い間キリシタンの大敵であった元の宗麟夫人までが、今はキリシタンになろうとしている。府内のコレジヨ、臼杵のノビシヤドはいずれも予期以上にうまく行っている。臼杵の新会堂は復活祭に間に合うように工事を急ぎ、府内のヤソ会士たちをも招いて盛大に祭を行った。集まるものが多く、日本一の大会堂さえも小さく見えるほどであった。行列の行進の時には三千の燈籠が動き、種々の仕掛花火が空に輝やいた。安土《ヽヽ》でも宣教師館とセミナリヨとは続々増築され、建築工事はなお続いていた。会堂の建築はまだ着手していなかったが、材木はすでに買集めてあった。セミナリヨは予定通り育っていた。オルガンチノなど五人の外国宣教師のほかに日本人イルマンのビセンテがいて少年たちを教えていたのである。総勢は三十五六人であった。神父セスペデスが日本人イルマンのパウロと共に開拓に行っていた岐阜地方《ヽヽヽヽ》でも、信忠の庇護の下にかなりの収穫があった。京都《ヽヽ》では神父カリヤンやもう一人のイルマンと共に、例のロレンソが活動していた。オルガンチノを父のように愛していた三七信孝は、いよいよ父から起用されて四国征伐の指揮官に任ぜられた。四国を平定すればそこへキリスト教を導入するであろうと彼は約した。ロレンソに向っては、あなたに来てもらいたいと云った。
そういう好況のさなかに、突然信長が京都の本能寺で殺されたのである。それは一五八二年六月二十日(天正十年六月一日)の早朝であった。明智光秀は信長の油断を見て咄嗟に奇襲し、信長と信忠とを、一二時間で片附けてしまった。光秀が何故この挙に出たかは、よく解らない。猜疑《ヽヽ》か、嫉妬《ヽヽ》か、或は単なる権力欲《ヽヽヽ》か。いずれにしても光秀が、信長に対する|衆人の怨嗟《ヽヽヽヽヽ》ということを宛にしていたのは確かであろう。この暴王を倒せば、|衆人はそれを徳とする《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と彼は考えたのである。その証拠に彼は、奇襲成功後、直ちに近江に出で、安土城を掠奪占領することを主たる仕事としたのであって、他の部将たちに対する戦略をほとんど考えていない。それは宣教師たちさえも気づいた所であった。安土を命からがら逃げ出したオルガンチノが最も怖れたところは、光秀が彼を捕えて人質とし、曾て信長のやったように高山右近などを味方につける道具に使いはしないかということであった。だから彼は光秀の部下の手中にあったとき、右近に書簡を送り、「たとい我らが皆十字架にかけられても、この暴君の味方になってはならない」と勧告した。しかし光秀は宣教師たちを捕えようとはしなかった。が、それをほかにしても、光秀は、摂津へ進出して諸所の城から人質を取り、その城におのれの兵を入れることが出来た筈である。それらの諸城の兵はみな毛利との戦争に出征して居り、ほとんど空であった。高山の高槻の城などもそうである。そこには夫人ジュスタや二人の小児が僅かの家臣と共に留守をしているだけであった。しかるに光秀は安土の占領を急いで、摂津の方へは眼を向けなかったのである。彼は右近を初め諸将たちが当然自分の味方になるものと考えていた。これが彼の失敗のおもなる原因だといってよい。
光秀には遠くを見る眼力がなかった。信長の偶像破壊がどれほど多くの反感を呼んでいたとしても、それはその時代の創造力の尖端であった。信長を倒したことを徳とする人は極めて少なかった。摂津河内のキリシタン武士のなかで光秀の味方になったのは、ただ三箇の領主だけである。信長の部将たちは急速に中国から引き返して来た。高山右近も光秀が近江から出てくる前に高槻城に帰って光秀進出に備えた。やがて秀吉が音頭を取り、三七信孝を擁して、光秀の軍を山崎で粉砕した。信長の死後二週間と経たない七月二日のことである。
安土の城も町もその後に焼き払われた。二条の宮殿は信忠と共に焼け失せた。岐阜の会堂や宣教師館も破壊された。信長の建てたもの、持っていた財宝などは、皆焼かれるか、或は掠奪された。京都では人々が「日本の富は失われた」と云って悲しんだという。
フロイスはこの事件を報告するに際して、信長が稀なる才能を有し賢明に政治を行ったことを賞讃しつつも、その「傲慢」の故に身を亡ぼしたことを力説している。その傲慢は死の年に極点に達し、ネブカドネザルのように自ら神として尊崇せられることを欲した。その現われは安土山上に建てた総見寺《ヽヽヽ》である。そこには諸国から有名な仏像を集めたが、|本尊は信長自身であった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、とフロイスは云っている。信長記などには見えないことであるが、当時の宣教師たちの感じ方をよく現わしていると思う。
二[#「二」はゴシック体] キリシタン大名の繁栄
信長のあとについては、光秀討伐の当時、世人は秀吉が三七信孝を立てるであろうと噂した。それは宣教師たちにとっては都合の好いことであったが、しかしフロイスは、あれほど勢力のある秀吉がそんなに謙遜な態度を取るとは思わないと云っている。事はフロイスの予感の通りに動いた。一年の内には、政敵柴田勝家、滝川一益を掃蕩し、信孝を自殺せしめ、大坂の築城に取りかかった。信長を六年間苦しめた石山本願寺のあとが、安土に代って新しい大都市として発展し始めることになったのである。そこで工事に従事するものは、初めは二三万であったが、後には五万になった。規模の大きいことは安土の比ではない。
この新しい形勢に際して、キリシタンたちは、信長の死の意義を十分見とおすことは出来なかった。なるほど安土のセミナリヨは覆滅したが、全員無事に京都へ逃げて来て、やがて高槻の城にセミナリヨを移した。高山右近は光秀討伐に大功があったため秀吉から厚遇をうけているが、相変らず教のことに熱心で、セミナリヨの神父二人、イルマン数人、生徒三十二人の面倒をも親身になって見ている。日本人イルマンのビセンテが、ここでカトリック教義の講義をしたがそれは非常に効果があった。生徒も非常に優れて居り、六七人は臼杵のノビシヤドに行きたいと云い出した。即ちセミナリヨは安土よりも却ってよいほどである。そのほか、キリシタンの中から秀吉が非常に重く用い始めたものが数人ある。その一人は小西隆佐《ヽヽヽヽ》である。秀吉は彼の知識や才能を見込み、自分の財宝の管理や堺の町の支配などを委ねた。次はその子のアゴスチニョ行長《ヽヽ》である。行長は幼少の時から京都の会堂で教育を受けたものであるが、秀吉は彼を海の司令官とし、播磨の室の津をその所領として与えた。その他秘書官の安威志門《ヽヽヽヽ》、留守居役の休庵老人《ヽヽヽヽ》などもキリシタンであった。これらの人々のお蔭で教会は秀吉から非常に好意を受けることが出来た。というのは、秀吉が大坂の経営をはじめ諸方から人々を引き寄せようとしていたとき、高山右近の勧誘に従って、オルガンチノが、大坂に会堂を設けることを敢行したからである。当時京都の教会は安土焼失の打撃で会堂建築などの資力を持たなかったのであるが、右近はそれが緊急の必要であることを説き、河内岡山の会堂を大坂に移す計画を立てて、その移築を自分の費用でやろうとさえ申出たのであった。でオルガンチノはロレンソをつれて秀吉の許へ土地を請い受けに行った。秀吉は二人を居間の方へ導き入れ、小西隆佐、安威志門をも加えて、五人だけで永い間語り合った。そうして川添いの非常によい地所を三千数百坪ほど教会に与えたのであった。それは一五八三年の九月のことである。この滑り出しはキリシタンたちに非常によい印象を与えた。曾て安土のセミナリヨがキリスト教の有力な宣伝となったように、大坂の会堂もまた身分ある武士たちのための網となるであろう。大坂の建設が、安土よりも大規模であるように、キリスト教の繁栄もまた、安土時代よりは大規模となるであろう。そう人々は考えた。
そうしてまた実際、数年の間は、その方向に動いて行くように見えた。会堂の移築は一五八三年のクリスマスの頃にほぼ出来上り、そこで最初のミサを挙行した。ついで一五八四年から八五年へかけて、続々として身分ある武士たちや大名たちの改宗が行われた。初めは秀吉の小姓衆・馬廻衆という風であったが、高山右近や小西行長の勧誘が利いて、馬廻衆の頭の牧村政治《ヽヽヽヽ》、伊勢松島の城主|蒲生氏郷《ヽヽヽヽ》、秀吉の有力な顧問たる黒田孝高《ヽヽヽヽ》、播磨三木の城主|中川秀政《ヽヽヽヽ》、美濃で二万俵をとる市橋兵吉《ヽヽヽヽ》、近江で一万二千俵をとる瀬田左馬丞《ヽヽヽヽヽ》などが洗礼を受けるに至った。秀吉夫人の側に勤めている婦人たちの内にも固いキリシタンが出来て来た。
この情勢には当時の政情も大いに関係しているであろう。一五八四年の春、秀吉は、家康と信雄との叛起に備えて出陣の準備を部下に命じた。事情を知らない世人は秀吉が根来征伐《ヽヽヽヽ》をやるのではないかと噂し合ったが、戦争は濃尾の平野で行われた。その方面でも高山右近や池田丹後などキリシタン武士の武功が相当に目立った。しかし一層目立ったのは、将兵の留守中に小西行長《ヽヽヽヽ》のやった海軍の活動であった。大坂の武備が空になっている隙に、根来の僧兵は大坂を占領し本願寺を元に帰そうとして、動き出したのである。建設中の大坂の町は非常な混乱に陥り、オルガンチノさえも会堂を棄てて船に避難した。この時、僧兵の進撃を喰いとめて危く大坂を救ったのは、岸和田城を守っていた中村一氏《ヽヽヽヽ》と、七十艘の艦隊を率いて急遽堺の前に現われた小西行長《ヽヽヽヽ》とであった。行長の船には、多数の大きいモスケット銃・大砲一門・小砲数門を載せていた。彼は兵を海岸に上げて敵兵を撃退した。この海軍の活動に着目した秀吉は、その夏には、尾張で水攻めにしている敵城を攻撃する為に、行長の艦隊の出動を命じたのであるが、更に翌一五八五年の春、右の根来の僧兵や紀伊雑賀の本願寺の討伐に向ったときには、行長の艦隊を初めから共同作戦に使ったのであった。勿論主力は陸軍で兵数は十万を超えたといわれる。この全軍の指揮官は二人であったが、その一人は高山右近であった。この優勢な軍隊が、損害をかまわず敵の出城三つ四つを強襲して全滅させたので、根来、粉河等の僧兵は、敵を待たずして雑賀に逃げ込んだ。雑賀は今の和歌山附近で、海と紀の川と山とに囲まれた要害の地である。雑賀の前面に二つの重要な城があったが、その一つは海の司令官小西行長が引き受けて攻略し、それが刺戟となって他の一つも片附いたが、行長の目ざましい功名はこのあとの雑賀の本城の攻撃であった。そこは非常な要害で、根来と雑賀の主力が立て籠って居り、軍需品も米二十万俵を初めとして、極めて豊富であった。強襲は不可能であるから秀吉は|水攻め《ヽヽヽ》の策を取り、高さ六七間、厚さ二十数間の土壁を城の囲り二里に亘って築き上げ、そこへ紀の川の水を引いたのであるが、それだけではまだきめ手がなかった。そこで秀吉は、行長の艦隊に命じて湖水に入り船から城を攻撃させたのである。攻囲軍の将士は安全なところからこの攻撃を見物していた。行長は十字の旗を掲げた船を率いて城壁に近づき大砲・小砲・大モスケット銃などを用いて攻撃を開始した。それは二三時間続いた。行長は多数の船を巧みに指揮して城の大部分を占領した。周囲から眺めていた全軍は、この光景に非常な感銘を受けた。この攻撃で行長の船は一艘も焼けず、戦死者も非常に少数なのであったが、甚だしい煙と火に驚いた秀吉は、行長の艦隊が大損害を受けたものと思い、退却の信号をさせた。が、この攻撃の結果として雑賀の城は降服したのである。この功労によって行長は秀吉の全領土の艦隊司令長官の地位を与えられ、これまで管轄していた小豆島をその領土にして貰ったのであった。
高山右近もこの戦争の際に、根来の寺を秀吉から貰って、大坂の会堂建築の用材に当てた。神父セスペデスはロレンソをつれて雑賀へ礼を云いに行ったが、その時はまだ攻囲中で、秀吉は全軍環視の中に土壁の上で彼らを引見した。この高山右近の仕事といい、小西行長の功名といい、キリシタン大名はかなり派手に、人目につく活動をしていたのである。だからそれが多くの武士たちを引きつける刺戟となったことは争われない。もっとも蒲生氏郷が洗礼を受けたのは雑賀征伐の直前であったが、彼をここまでひきつけたのは、高山右近の熱心な勧誘であった。傑物黒田孝高を先ず動かしたのは、小西行長である。それを洗礼にまで導いたのは、右近と氏郷とであった。
これらの大名はこの後二三年の間、キリスト教を非常に盛大なものにした。小西行長《ヽヽヽヽ》はその領地の室の津や小豆島をキリスト教化したのみならず、海の司令官としての権力を広く諸方に及ぼし、布教を助けた。既に一五八五年の夏に、神父パシヨは、豊後から京都へ行く途中児島半島突端の日比の港で、秀吉の十万の遠征軍を四国へ渡らせている小西行長に逢い、その勢力の強大なこととその指揮の巧みなこととに驚嘆している。やがて一五八七年に秀吉の九州征伐が行われる頃には、彼の艦隊は九州の西海岸へ進出するのである。島津の兵が臼杵を占領して宗麟の建てた壮麗な会堂やノビシヤドの建物を焼き払ったとき、豊後の教会の人々を救出して下の関へ運んだのも、彼の力であった。陸では黒田孝高《ヽヽヽヽ》の活躍が目ざましい。彼は小寺官兵衛として秀吉の播磨平定の頃から頭角を現わして来たのであるが、やがて、毛利氏と秀吉との間の妥協に腕をふるい、秀吉の九州征伐以前に、中国から北九州に亘って、準備工作を仕上げたのであった。その際副管区長クエリヨを助けて|山口の教会の回復《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を成功させるとか、小早川隆景に説いて伊予の開拓を始めるとか、島津の兵に蹂躙された大友領内のキリシタンを支えるとか、その機会に大友義統を説いて洗礼を受けさせるとか、中々積極的にキリシタンとして動いているのである。小早川隆景は筑前筑後の領主になったが、その養子|秀秋《ヽヽ》は洗礼を受け、秀吉の命によって宗麟の娘マセンシヤと結婚した。孝高の嗣子|黒田長政《ヽヽヽヽ》も、秀吉から豊前の父のもとへ派遣されたとき、父にすすめられて洗礼を受け、熱心な信者となった。
そのような情勢のところへ、高山右近もまた秀吉に従って西下して来たのであるから、九州征伐に際して陸からも海からも|十字の旗が押し進んで行った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》といわれるのは、必ずしも誇張ではない。
三[#「三」はゴシック体] 秀吉の宣教師追放令
秀吉は尾張の農民の子から日本の絶対権力者にまでのし上って来た男である。因襲の力をはねのけて|赤裸々の実力《ヽヽヽヽヽヽ》に物を云わせるという当時の社会的情勢を、彼ほどはっきりと具現している人はない。従って彼はまた、何人でも、才能さえあれば、身分が何であろうと、その奉ずる宗教が何であろうと、かまうことなく抜擢し起用した。小西行長、黒田孝高なども、その顕著な例なのである。従って彼は、宗教的偏見などは持たず、人に対して極めて自由な態度を取った筈である。しかるに彼が宣教師たちに与えた印象は、信長ほどに好くなかった。信長の死の当時、その後継者として急に注意され始めた秀吉について宣教師たちの記しているところは、すべて同情のない調子である。秀吉が「勇猛」で、「戦争が巧い」ということ、「身分や家柄が高くない」ということ、「富と権勢と地位」とにおいて信長以上であることなどを彼らは報告するだけである。そのほかには――むしろこの方が重大なことであるが、――|秀吉は信長ほどに他人の意見を容れる力がない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、自分の意見を他の誰のよりも優れたものと考えている、などといわれる。或は、その傲慢と権力欲とが信長以上であるといわれる。そういう意見を書いているフロイスは、信長の死んだあとで信長の傲慢を手ひどく非難してもいるが、しかしそれまで信長と接触した永い間の報告には、かなり濃厚に信長の人柄に対する同情を見せていたのである。信長は信仰の要求を持たず、従って宣教師の要求する第一の資格を欠いてはいたが、しかし|未知の世界に対する強い好奇心《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|視圏拡大の強い要求《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を持っていた。それは権力欲の充足によって静まり得るようなものではなかった。それをフロイスは感じていたのである。ところで秀吉には、そういう点がまるでなかった。これは甚大な相違だと云ってよいのである。
こういう相違をはっきり見せているのが、副管区長クエリヨの謁見の際の秀吉の態度だと云ってよい。クエリヨは一五八六年三月六日に神父四人イルマン三人を同伴して長崎を出発し、平戸、下の関を経由して東上した。丸亀沖の塩飽島で小西行長の船の出迎えを受け、室津、明石、兵庫に寄って、四月二十四日に堺に着いたが、その時にはキリシタンたちは、秀吉が果して副管区長を引見し款待するかどうかを疑っていたのである。しかるに案外にも秀吉は、これまで曾てヤソ会士に対して示したことのない款待の態度を見せた。それは五月四日のことで、クエリヨは神父四人、イルマン四人、同宿十五人、セミナリヨの少年数人、合せて三十余人をつれて大坂城を訪ねた。案内者は安威シマンと施薬院とであった。一行は公の儀式に用いる建物に通され、その日登城していた前田利家、細川忠興その他の諸大名も席に列なった。高山右近も勿論その中にいた。やがて秀吉が現われて、奥正面に着座し、安威志門が一人一人名を呼んで紹介した。そのあとでクエリヨたちを座敷内に近く進ませ、秀吉自身も座所から出て神父の側に坐り、親しく話を始めた。通訳として附いていたフロイスは秀吉と古い馴染であったので、まずフロイスを相手にいろいろと昔話をしたが、それにひっかけて次のような述懐をもらした。日本にいる宣教師たちがただ一途に|教を拡めることだけに専心している《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のは大変によい。自分も権勢と富を得ることに専心してそれを成就したのであるから、ほかに何も得ようとは思わない。ただ己れの「名」と、権勢の評判とを、死後に残そうと思うだけである。日本のことが片附けば、これは弟に譲って、自分は朝鮮とシナを征服するために海を渡ろうと思う。そのためには二千艘の船をつくる。そこで神父たちに頼みたいのは、|十分艤装した大きい帆船二隻を調えて貰いたいことである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。勿論代価を払う。乗組員には給料を与える。もしこの計画が成功してシナ人が帰服すれば、シナの各地に会堂を建て、キリスト教に帰依することを命じて日本へ帰ってくる。日本もまた半分位、或は大部分をキリシタンとなすべきである、というのであった。
これはまことに矛盾した云い分である。キリシタンの宣教師が一向一揆のように政治的意図を持たないことを賞讃しながら、同時におのれのシナ侵略の計画に協力することを要求する。しかしそれは秀吉の意図においては矛盾はなかった。彼は、キリシタンの宣教師が国内の政治の邪魔をせず、自分の役に立つことを要求したのである。布教の代償として造船の技術を提供させることは、彼にとっては無理な取引とは思えなかった。しかしそれは純然たる取引であって、未知の領域への探求などではない。根本にある知的能力は彼にとって問題ではなく、ただかかる能力の産み出した果実だけが彼に必要だったのである。これは在来キリスト教を排撃しつつただポルトガル貿易の利益だけを得ようとしていた諸大名の態度を、一層巧妙な仕方で現わしたものに過ぎない。その肝腎の点をクエリヨは看取しなかったように見える。
フロイスとロレンソとは、永い間信長に接していた関係上、この点に気づかなかった筈はない。この時の謁見のあとで秀吉はクエリヨの一行を天守閣に案内し、そこに貯蔵された巨大な富や物資を自慢して聞かせたり、最上階まで連れて行って四方を展望しながら|九州征伐の計画《ヽヽヽヽヽヽヽ》について気焔を吐いたりしたのであるが、その際フロイスは、秀吉の自慢する黄金の組立茶室を、|是非拝見したい《ヽヽヽヽヽヽヽ》と云い出しているし、雄弁なロレンソは|口を緘して何事も喋舌らなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。これはいずれもこの人たちの平生の態度ではない。秀吉は、曾て信長の面前でフロイスと日乗とが激論し、日乗がロレンソを切ろうとした時のことを云い出し、老いたるロレンソの頭に手を載せて、「お前は何故黙っていて話をしないのだ」とさえ云っている。しかしこの二人と雖も、まだはっきりとした意見を立てるまでには至らなかったのであろう。
クエリヨはこの謁見の後、秀吉の夫人北の政所《まんどころ》を通じて、キリスト教布教の特許状《ヽヽヽ》を得ようと努めた。|秀吉の全領内における布教の許可《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、宣教師館及び会堂に対する諸種の課役徴用等の免除がその内容であった。秀吉はおのれの領内という云い現わしを日本全国《ヽヽヽヽ》という言葉に改めて、その特許状を与えた。当時の情勢としては非常に有力なもので、山口の教会の回復のためにも非常に役立ったのである。
クエリヨがこういう在来のやり方をそのまま続けて行こうとしていた時に、秀吉の手中において一世紀来の下剋上の趨勢が突然打切られようとしていたことをわれわれは見のがしてはならない。シャビエル渡来後の三十五六年の間、即ち秀吉が農村の一少年から関白にまでのし上ってくる間は、特にこの趨勢の激甚な時で、民衆の中にあった力がどしどし表面に浮び上り、伝統的なものの権威が次から次へと壊されて行った。しかるにそれが行くところまで行き、農夫の子の秀吉が関白になったとたんに、彼はその絶大な権力を以て|現状の固定《ヽヽヽヽヽ》、従って下からの力の禁圧を計ったのである。その最も端的な現われは、一五八六年の秋、京都の大仏造営に着手するに当って行われた|刀狩り《ヽヽヽ》であった。これは|全国の僧侶及び民衆の武器没収《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、武装解除《ヽヽヽヽ》である。それによって一揆はすべて不可能になり、民衆に対する武士団の威力が非常に増大する。社会の組織はすべて武士階級に都合のよいように、思うままに定めることができる。そういう思い切ったクーデターを秀吉はクエリヨ謁見の数カ月後に断行したのである。
これは実に大きい情勢の変化で、この時に、近世ヨーロッパにおけるような|町人の発達の可能性《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が押しつぶされ、武士階級の支配が確立してくるのであるが、しかしその変革は諸所の農村で地味に目立たず行われたのであって、その翌年の九州征伐のような花々しい出来事ではなかった。だから九州征伐が一通り終った一五八七年七月廿四日に秀吉が博多で宣教師追放令を出した時、それはいかにも突然で、その夜の気まぐれに基くかのように感ぜられた。しかしそうではなかったのである。民衆を武装解除する秀吉の気持のなかには独裁権力者の自信や自尊は顕著であったであろうが、未知の世界への探求心や視圏拡大の要求はもはや存しなかった。宣教師たちが自分の用をつとめなければ追い払う、――それは前の年にクエリヨに特許状を与えたときの秀吉の腹であった。
秀吉が九州に入って八代まで進んだとき、クエリヨは会いに行って捕虜の助命などをした。その時秀吉は、いずれ博多に行くから、その時また会いに来てくれと云った。で島津が降って戦争が片づき、秀吉が博多に引き返してこの町の復興につとめていたとき、クエリヨは再び訪ねて行った。そうして宣教師館や会堂の地所を貰ったのであるが、その際にも秀吉は|シナ遠征の計画《ヽヽヽヽヽヽヽ》をはっきりと語った。また或る日海上でクエリヨの乗っていたフスタ船を見て、それに乗り移り、熱心に船の構造を観察した。その頃に秀吉は、|ポルトガル船を見たいから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、平戸に碇泊している船に博多へ回航するよう交渉してくれと頼んだのである。これは前の年のクエリヨへの申入れに対する回答を促したものと見ることができる。
クエリヨがこの一年の間にポルトガル船の入手について何の努力もしていなかったことは明かである。彼はそれが自分たちの運命に関する重大な問題であるとは思わず、全然閑却していたのであろう。たといポルトガル船の入手が不可能であるとしても、その不可能な所以を秀吉にのみ込ませるような手段が講じてあれば、――或は少なくとも造船の技術だけでも教えるような方法を考えていたならば事はもう少し円満に行ったかも知れない。しかるにクエリヨは、この回航が危険で実行し難いことを説明しつつ、極めて消極的な態度でこの申入れを船長に取りついだだけであった。船長も小さい船で平戸からやって来て、秀吉に大帆船の回航がいかに危険であるかを説明した。秀吉はこの弁解を納得したかのように、船長一行を款待して船に帰らせた。それが七月二十四日のことであった。
|その夜《ヽヽヽ》、突然《ヽヽ》、秀吉は|心を変えて《ヽヽヽヽヽ》キリスト教迫害を始めた、とフロイスは報告している。秀吉自身はずっと前から考えていたと主張しているが、それはこのような大事を軽々しく気分一つできめたと思われないためであって、実際は|突然の怒り《ヽヽヽヽヽ》によるのである。かく解釈してフロイスは、元比叡山の坊主であった徳運の高山右近に対する憎悪や、有馬領で秀吉のために美女を求めてキリシタン女子のために恥をかいた話などを挙げている。しかしヨーロッパ風の大帆船のことは一年来の懸案である。それに対するクエリヨの解決がいかにも拙かったことは認めなくてはならない。だから秀吉の、ずっと前から考えていたという主張は、或る意味では正しいであろう。それが船長に会った日の夜起ったということも、いかにももっともである。すでに事件の|二日前に《ヽヽヽヽ》、布教の前途について楽観的な期待を述べたクエリヨに対し、高山右近《ヽヽヽヽ》は、「激しい迫害が突然起りはしないかと心配している」と云った。少なくとも右近は何かを予感していたのである。
その夜秀吉は右近の許に使者を送り、キリシタンをやめるか、或は直ちに領地を捨てよ、と伝えさせた。右近は平然として領地を捨てる旨を答えた。使者も友人も、表面だけは命令に従うように勧めたが、彼はきかなかった。もしこの通り復命しないならば、自分で秀吉の前へ出て答えると云った。
秀吉はまた使をクエリヨの船に送り、眠っていた神父を起して次の質問に答えさせた。神父たちは何故にかくまで熱心に布教し、改宗を強制するか。何故に社寺を破壊し坊主を迫害するか。何故に人間に有用な牛馬を食うか。何故に日本人を買って奴隷にするか。クエリヨの答はこうである。救いは主エス・キリストによってのみ得られるが故に、われわれは、それを日本人に説きに来たが、しかし曾て強制したことはない、また権力なきわれわれには強制などをすることも出来ない。社寺を破壊したのは信者の自発的な行動であって、われわれがさせたのではない。牛肉は自国の習慣に従って食うが、馬肉は食ったことがない。その牛肉も食うなとあれば止めてもよい。奴隷売買があるのは、日本人が売るからである。われわれはそれを悲しんで防止に努めたが力及ばなかった。奴隷売買を欲しないならば、先ず売ることを禁止すべきである、と。これらの答はいかにも戦闘的である。クエリヨはかく答えると共に死に就く覚悟をしたのであった。が同夜は右近追放の通告を受けただけであった。
翌七月廿五日に秀吉は諸侯を集めて宣教師追放を公表した。宣教師たちは救いを説くことを口実として人を集め、やがて日本に大きい変革を起そうとしている。彼らは博識の人であって、巧妙な議論により多数の大身たちをたぶらかした。その|欺瞞を見破ったのは自分である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。今にして彼らの企図を押えなければ、一向一揆と同じになるであろう。否、彼らは、本願寺の坊主と異なり、日本の主立った領主たちを引きつけるが故に、一層危険である。神父がキリシタン大名たちを率いて叛起したならば、容易に抑えることが出来ぬであろう。かく説いて彼は追放令を示した。
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一、日本は神国である。キリシタン国から邪法を伝えたのは怪しからぬ。
二、彼らが諸国の人民を帰依させ、神社仏閣を破壊させたのは、前代未聞のことである。領主たちは一時その土地を預かっているのであって、何事でも勝手にふるまう権利を持つのではない。天下の法律には従わなくてはならぬ。
三、神父はその智慧の法を以て自由に信者を持ってよいと考えていると、右の通り日本の仏法を破壊する。だから神父らを日本の地に置かないことにする。神父らは今日より二十日以内に用意して帰国すべきである。この期間に神父らに害を加えれば処罰されるであろう。
四、黒船は商売のために来るのであるから、別である。貿易はやってよい。
五、今後、仏法のさまたげをしないものは、商人でも何でも、キリシタン国から自由にやって来てよい。
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この追放令は直ちにクエリヨ及び船長の所へ伝達された。クエリヨは、船が今後六カ月間は出帆しないから、二十日以内には出発出来ないと答えた。そこで秀吉は神父らに平戸へ集まれと命じた。日本人イルマンも同様である。
それについで十字の旗の徹去命令、大坂、堺、京都等の宣教師館の没収、長崎、茂木、浦上の教会領の没収、長崎のキリシタンへの罰金負課、大村、有馬領内の諸城及び会堂の破壊などが行われた。大村純忠が二月前に、大友宗麟が一月半前に死んだばかりであるから、ヤソ会の受けた打撃はまことに大きかった。
追放令は急に諸方へ伝達された。高山右近の新領地明石をはじめ、大坂、京都などのキリシタンは大騒ぎであった。宣教師たちは急いで平戸へ行かなくてはならぬ。が、信者らの信仰の情熱はこの迫害に面して反って燃え上った。宣教師に対する同情は、異教徒の間にさえも起った。
当時日本にいるヤソ会士は百十三人で、ほかにセミナリヨの生徒七十余人、その他多数の同宿、宣教師館の使用人などがあったが、この時の追放に際して害を受けたものはほとんどなかった。新しく開かれた山口の教会や下の関の宣教師館においてもそうであった。この追放は不当である、道理に反している、日本の恥である、そう日本の武士たちは感じたのである。
京都にいたオルガンチノは、平戸へは行かず、小西行長の領地に隠れた。彼が八月十七日に室から出した書簡によると、八月初めに追放の知らせを受けて、いろいろ教会のことを処理したときの状況は、「原始教会の迫害以来、曾て見たことのないもの」であった。キリシタンたちは皆|殉教者《ヽヽヽ》となることを望んだ。彼らの内に、これほど大きい力があろうと考えていなかったオルガンチノは、反って非常な驚きを感じたという。
この迫害の間に起ったことで有名なのは細川ガラシヤ夫人の受洗である。夫人は明智光秀の娘であるが、よほど才能のあった人と見え、禅宗についての理解などはイルマンのコスメを驚かせるほどであった。キリスト教に興味を持ったのは、夫の忠興が高山右近の親友で、しばしばこの宗教の噂をしたからである。丁度九州征伐で夫の留守中、彼岸の寺まいりにかこつけて侍女たちの群に混って宣教師館を訪れた。偶然その日は復活祭日で、会堂が美しく飾ってあった。その時、名を明かさずに説教を乞い、イルマンのコスメの説教を長時間に亘って聞いたのである。コスメと激しい討論を戦わせたのはこの時であった。コスメはこれほど物の解る婦人を日本で見たことがないと云った。それが始まりで、その後侍女を介して説教を聞き質問を続けていたが、その侍女が先ず洗礼を受けてマリアとなった。続いて邸内の主立った婦人十七人が洗礼を受け、残るのは夫人のみになった。その頃に秀吉の宣教師追放令が出たのである。それは夫人を一層熱心にさせた。神父の出発前に洗礼を受けるため、駕籠に乗って会堂へ忍んで行こう、そう彼女は決心した。神父セスペデスは、時期が時期だけに、それを危んで止めた。そうして、マリアに教えて夫人に洗礼を授けさせた。それがガラシヤ夫人である。だから夫人の信仰は初めから殉教の覚悟と結びついていた。
そのように追放令は却って信仰の情熱を高めた。そこで平戸に集まった宣教師たちは、|殉教の覚悟を以て全部日本に留まること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を決議した。そうしてポルトガル船長をして秀吉の許に次のように報告させた。日本にいる宣教師は数が多く、到底全部を運ぶことが出来ない。従って本年は|船に収容し得るだけ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を運び、あとは明年に延ばすことにする、と。その収容し得たのは、シナへ叙品を受けに行くイルマン三人のみであった。
こうしてヤソ会士は潜伏戦術《ヽヽヽヽ》に出た。その潜伏をひき受けたのはキリシタンの領主である。有馬晴信は全部引き受けようと申出たが、しかしほかの領主へも分けざるを得なかった。オルガンチノとイルマン二人が小西行長の領内に留まったほか、あとは西北九州である。度島に四人。大村領内に十二人。豊後に五人。天草島に六人。大矢野に三人。五島に二人。筑後に二人。有馬は最も多く、七十余人の宣教師と七十三人のセミナリヨの少年をひき受けた。
この潜伏戦術は|殉教の覚悟《ヽヽヽヽヽ》に裏打ちされているのではあるが、しかし秀吉の追放令はやがて緩和されるであろうという見とおしをも伴っていたのである。そうしてそれは見当違いでもなかった。秀吉は宣教師たちが社会の表面から影をひそめ、彼の威光に恐れて萎縮している態度を示している限り、強いて追放令の厳格な実施を迫りはしなかった。従って潜伏戦術は|キリシタン信仰の維持《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という見地から見れば成功だったとも云える。それはただに信者たちの信仰を維持し得たのみならず、更にそれを内面化し深化することによって著しい信仰の発展をさえもたらし得たのである。しかしその代償としてキリスト教が|公共的性格を失った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことは十分重視して置かなくてはならぬ。|公的な意味においては《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ヤソ会の宣教師は日本から追放されて一人も残っていないのである。このことは間もなく重大な結果を現わしてくる。
四[#「四」はゴシック体] キリシタン迫害史
秀吉の宣教師追放令によって日本のキリシタンの信仰は揺ぎはしなかった。平然として領地を捨てた高山右近の態度は、数多くのキリシタン武士に通有の態度であった。黒田孝高に勧められて洗礼を受けた大友義統が、追放令の出たあとで早速迫害を始めたのは、むしろ異例に属するのである。しかしそれにしてもこの追放令がはっきりと一つの時期を劃することは認めざるを得ない。追放令の出るすぐ前に大村純忠《ヽヽヽヽ》、大友宗麟《ヽヽヽヽ》が相次いで死んだ。その年の末には、日本人イルマン中の傑物|ダミヤン《ヽヽヽヽ》が四十四歳で死に、三年の後には、|クエリヨ《ヽヽヽヽ》も死んだ。シャビエルに見出されて以来、実質的には日本伝道史の上に巨大な仕事を残した琵琶法師の|ロレンソ《ヽヽヽヽ》も、やや遅れて五年後に六十六歳で死んでいる。九州諸地方の開拓に大きい働きをした|ルイス《ヽヽヽ》・|ダルメイダ《ヽヽヽヽヽ》は、追放令に先立つこと四年、六十歳で、その三十年に近い活動を終った。それやこれやを思うと、ここに世代の変り目があったともいえるのである。
追放令が出てから三年後、一五九〇年七月にワリニャーニは、ローマへの少年使節を伴って帰って来た。少年使節たちはヨーロッパの服装がすっかり身についた青年になっていた。がそれを迎える日本の情勢もすっかり変っていたのである。ワリニャーニはヤソ会の巡察使としてではなく、ポルトガルの|インド副王の使節として《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、翌年秀吉に謁した。ヨーロッパを見て来た青年たちは、多くの大名や武士たちに取り巻かれて、その見聞を物語った。宣教師は追放しても、ヨーロッパ文明の摂取に対する一般の関心はまだ衰えていなかった。ワリニャーニは布教のことを全然表に出さず、外交家として活動した。それは信仰の情熱に燃えた人々にとってはまことに歯がゆい態度であったが、しかしワリニャーニは今こそ忍耐の時であると見ていたのである。
かくてワリニャーニは潜伏の戦術に積極的な内容を与えた。信者たちは公然たる会堂や儀式を持たずともその信仰を維持し得るように「組織」されなくてはならぬ。セミナリヨやコレジヨは人目に立たない山中や島に隠されなくてはならぬ。教えをひそかに人の心に植えつけるためには教義書がどしどし印刷されなくてはならぬ。ローマから帰って来た|四人の青年《ヽヽヽヽヽ》は天草のコレジヨで教え始めた。ワリニャーニの携えて来た印刷機《ヽヽヽ》は長崎で、後には天草で、盛んに動き始めた。こうして実質的にヨーロッパの文化が沁み込んで来れば、やがて教会が公共的な性格を取り戻したときに、大きい飛躍が可能となるであろう。これが一五九一年の末にワリニャーニの日本に残して行った方針であった。
しかしこの忍耐強い、地味なやり方は、スペイン人のフランシスコ会の進出によってかき乱されたのである。
スペイン人がフィリッピン諸島を確保し、太平洋航路を打開したのは、ポルトガル人のゴアやマラッカの確保よりも三四十年ずつ遅れていた。従ってスペイン人の日本への進出も、丁度それ位は遅れている。ルソンの商船が平戸に入り、スペイン人が初めて日本の地を蹈んだのは、信長の死後二年を経た一五八四年である。その後漸次接触が出来、一五九一年には原田孫七郎がルソンへ秀吉の勧降状を持って行った。翌年ドミニコ会の宣教師がその真偽を正すために日本に来て、肥前の名護屋で秀吉に謁し、再び朝貢を促す秀吉の書状を持って帰った。しかるに、その船が帰途難破したために、更にその翌年にフランシスコ会の宣教師ペドロ・バプチスタが使節となり、一人の副使と三人のフランシスコ会士をつれて名護屋に来た。そうして副使が三度目の秀吉の書状を携えて帰ると共に、使節ほか三人は|人質として残った《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。しかし宣教師たちはそれを在留許可《ヽヽヽヽ》と解し、京大坂方面に行くことを希望したのである。秀吉は布教しないという条件で許したが、宣教師たちはかまわずに布教を始めた。次の年一五九四年にまたフランシスコ会の宣教師三人が長官の返事をもたらして京都へ来た。返書は秀吉の注文にまるで嵌らないものであったが、しかしこれで宣教師は七人になった。
これらの宣教師が盛んに布教活動を始めたのである。一五九四年の秋には京都に会堂が出来た。翌年には病院が出来た。大坂にも会堂が出来た。長崎にもフランシスコ会士を常駐せしめた。これは四十年来日本の開拓に努力して来たヤソ会士にとっては、まことに不快な出来事と云わなくてはならない。ヤソ会は教皇から|日本布教の独占権《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を与えられているのである。しかもその日本の布教は、目下|忍耐を必要とする微妙な境遇《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に追い込まれている。拙く動くと根本的な失敗を招くであろう。しかるにフランシスコ会士は、ヤソ会と打合せるでもなく、ヤソ会士が潜伏している機会に、大っぴらに日本の布教事業を奪い取ろうとしたのである。ヤソ会士は憤らざるを得なかった。併しフランシスコ会士から見れば、日本のヤソ会士は秀吉の追放令によって悉く国外に逐われた筈である。即ち教皇の許した布教独占権は事実上消滅しているのである。フランシスコ会士はヤソ会士のいない日本へ来て布教を始めたのであるから、抗議を受ける筈はない、この主張は屁理窟というほかないであろうが、しかしまた潜伏戦術の急所を射ぬいたものともいえるであろう。ヤソ会士は、抗議を持ち出すためには、おのれの追放令違反を白日の下に曝露しなくてはならない。この窮境に立って、彼らのフランシスコ会に対する憤懣は一層深まって行ったのである。
フランシスコ会士の無思慮な活動によって、日本布教は実に危険な瀬戸際に立たされていた。そこへ丁度|二つの事件《ヽヽヽヽヽ》が一緒に起った。一つは一五九六年八月に最初の|日本司教マルチネス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が来着したこと、他は同年十月に|スペイン船サン《ヽヽヽヽヽヽヽ》・|フェリペ号《ヽヽヽヽヽ》が土佐の浦戸港に入ったことである。
日本に司教を置くことは、大分前から計画されていたが、フランシスコ会の攻勢を憤ったヤソ会は、それに対抗するため急いで実現したのであった。司教はローマ教会の制度であるから、会派の別なく指揮権を持つことができる。その司教にヤソ会士が任命せられれば、フランシスコ会士の活動をもヤソ会の方針に従って統制し得るのである。マルチネスはゴアで日本司教に就職し、七人の宣教師をつれてやって来た。そうして小西行長の斡旋により、|インド副王の使節《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》として、十一月に伏見で秀吉に謁した。
スペイン船サン・フェリペはマニラを発してメキシコへ向う途中、颱風で船を破損し、修繕のため浦戸へ入港したのであったが、船員の保護や修繕の許可を得るため使者を大坂に送った。その交渉が手間取っている間に秀吉は増田長盛を浦戸に急派して、積荷や船員の所持金を没収せしめた。その際サン・フェリペ号のパイロットは長盛に世界地図を見せ、スペイン領土の広大なことを誇った。長盛が、どうしてそんなに領土を拡張することが出来たかときくと、彼はそれに答えて、|スペインでは先ず宣教師を送って土人にキリスト教を教える《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ついで信者が相当数に達したとき《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|軍隊を送って《ヽヽヽヽヽヽ》、|信者たちと呼応してその地を占領する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と答えた。このことを長盛が秀吉に報告した、とヤソ会側では主張している。しかしサン・フェリペ号の司令官の報告では、当時京都にいたポルトガル人たちが、秀吉に向ってスペイン人の侵略を説いたことになっている。スペイン人は海賊である。|メキシコ《ヽヽヽヽ》、|ペルー《ヽヽヽ》、|フィリッピン諸島において残虐な侵略を行った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。日本にも先ずフランシスコ会士を派して布教させ、ついでその国を測量する。そのために多額の資金をつぎ込んでいる。終局の目的は征服である。そう云って|スペイン人を讒した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのである。丁度その時にインド副王の使節、実は日本司教のマルチネスが来ていたのであるから、スペイン人の|メキシコやペルーの征服《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のことを語らなかったとは保証出来ないであろう。そういう事実をただ客観的に述べただけならば、|讒言した《ヽヽヽヽ》とは云えないのであるが、しかしまだ世界的視圏を十分に獲得していない日本人にとっては、この事実を聞いただけで、在来の漠然とした杞憂が裏づけられるに十分であったであろう。キリシタン宣教師たちの企図は、性格において一向一揆に変りなく、その危険性においては一向一揆以上である。そう秀吉は確信したであろう。
一五九六年十二月九日(文禄五年十月廿日)弾圧がはじまった。フランシスコ会士六人、日本人ヤソ会士三人、その他日本人信者十七人が京都で捕縛され、京都、伏見、大坂、堺などで市中引き廻しに逢い、陸路を九州まで見せ物にして連れて行かれ、一五九七年二月五日、長崎の海岸の小山で死刑に処せられたのである。
これが日本における|最初の大殉教《ヽヽヽヽヽヽ》であった。殉教者たちの不屈の態度といい、為政者側の「見せしめ」としての故意の残酷さといい、日本国中に与えた印象は実に激甚であった。信者の信仰は狂熱的になり、諸方の領主の圧迫もヒステリックな性格を持ちはじめた。
この年の夏、ルイス・フロイスは、六十五歳で日本における三十四年の活動を閉じたのである。その最後の報告は右の二十六殉教者のことであった。
翌一五九八年夏、新司教セルケイラが巡察使ワリニャーニと共に数人の宣教師をつれてやって来た。その一月あまり後に、教会の弾圧者秀吉も死んだ。
レオン・パジェスがその大部な『日本切支丹宗門史』(吉田小五郎訳岩波文庫)を丁度この年で以て始めているのは、彼の計画した日本史の第三巻がここから始まるからであって、日本におけるキリスト教の歴史をここから始めてよいと考えたわけではないであろうが、しかしまた「迫害」がキリスト教徒の完成に欠くべからざる条件であるという見地から見れば、日本のキリスト教史は、このあたりから真にキリスト教史になってくるともいえるであろう。しかし、ここで問題としているのは、キリスト教史ではなくして、日本民族が何故に世界的視圏を獲得し得ず、従って、近世の世界の仲間入りをなし得なかったかということである。この見地から見れば、この後の日本キリスト教史は、鎖国の形勢を激成して行く過程にほかならない。
勿論このことはキリシタンの運動が日本人の視圏を拡げるような要素を持たなかったということではない。秀吉死後の十数年間、即ち慶長年間《ヽヽヽヽ》には、舶来の印刷術のお蔭で、ローマ字綴りのキリシタン書が多数出版されたし、またキリシタン書以外にも語学書や文芸の書が出版されている。『日葡辞典』やロドリゲスの『日本文典』が出たのはこの頃であるし、『妙貞問答』や『舞の本』が出たのもそうである。日本側の舞の本などがほとんど仮名ばかりで書かれていた時代であるから、それを口語の対話にひきなおしローマ字で綴っても、その移り行きは極めてなだらかで、大した困難もなくローマ字の採用が行われ得たのであった。これらの点から見れば、慶長年間はまだまだ広い世界への接近の傾向を持っていたと云えなくはないであろう。
しかしこれらはすべて「余勢」であって、隆盛期に張った根がいかに深くまた広く諸方に及んでいたかを示すに過ぎないのである。キリシタン側の文化的活動も著しかったに相違ないが、それに対抗する保守的な文化活動はさらに一層強力に押し進められていた。秀吉が下から盛り上ってくる力を抑えて、現状を|固定させよう《ヽヽヽヽヽヽ》とする方向に転じたとき、この大勢は定まったのである。家康はこの大勢に添い、それを完成して行ったのであって、その点で決して迷ってはいない。
しかし秀吉が貿易だけは保存しようとしたように、家康もまた西洋人との貿易には熱心であった。そうしてこの貿易を宣教師の布教運動から引き離すのが困難であることも知っていた。だから彼はキリスト教に対しては、初めから、|公認はしないが大目に見る《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という態度で一貫している。秀吉の死後、諸方で会堂や宣教師館が回復され、殊に小西行長の領地肥後では数多くの新設を見たのであったが、それらは問題にされなかった。だから秀吉死後の数年間には、信者が七万殖えたといわれる程である。
この形勢に最初の変化をもたらしたのは、一六〇〇年(慶長五年)の関ヶ原の戦である。それによって徳川の覇権が確立するとともに、小西行長《ヽヽヽヽ》、小早川秀秋《ヽヽヽヽヽ》などのキリシタン大名が亡んだ。特に小西行長の喪失はキリスト教にとって大きい打撃であった。しかしそれだけならばまだ大したことではない。キリシタン大名でも大村、有馬、黒田などは徳川方に附いていたし、徳川方の有力な諸大名、細川、前田、福島、浅野、蜂須賀などはキリシタンの同情者であった。重要なのはむしろキリシタン迫害が大名の間の主要な潮流となり、諸大名が漸次態度を変えるに至ったことである。迫害の先駆者は、小西行長の個人的な敵で、小西の領地を引きついだ法華信者加藤清正であった。彼の迫害によって肥後の八万の信者は二三年の間に二万に減ったといわれている。それについで迫害をはじめたのは、小西領であった天草島、長門の毛利などである。筑前の黒田孝高はその大勢に反抗してキリスト教を盛んにしていたが、一六〇四年に歿して長政が後を嗣いでからは、漸次形勢が変り、遂に長政の棄教を見るに至った。豊前の細川忠興も関ヶ原戦の際に犠牲になったガラシヤ夫人の思い出のためにキリシタンを保護していたが、それは十年以上は続かなかった。大村領は長崎が幕府の直轄地となった関係から直接に幕府の圧迫を受け、大村|喜前《よしあき》は逸早く棄教した。ただ有馬晴信のみは夫人と共に熱心に信仰のために尽し、教勢の拡張を計っていたが、その彼も一六二一年には遂に流罪に処せられたのである。
しかし政治の表面に現われたこの大勢は必ずしもそのままキリスト教信者の間の大勢ではなかった。武装を解除された民衆が何を信じようと、それは初めの内はさほど問題ではなかった。だから宣教師たちも、公然たる宣教を控えつつ、内実において信者の組織に努力し、教育をすすめ、信仰書の出版を盛んにして、教勢の維持や拡張を計ったのである。その間、特に著しいのは日本司教セルケイラの活躍であった。彼は一方において|布教事業の公認《ヽヽヽヽヽヽヽ》を再び獲得することに努めると共に、他方において|スペインの勢力との対抗《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、即ちフランシスコ会、ドミニコ会、アゴスチノ会などの進出を抑えることに苦心した。このスペイン側の宣教師たちは、一五九六年の大殉教にもひるまず、依然として日本進出に努力し、一六〇二年の如きは、マニラから渡来するもの十五人に達したのである。セルケイラはその年の秋マニラに書簡を送って、このような行動がいかに危険であるかを警告している。第一、家康はキリスト教を好まず、仏教に熱心である。貿易の必要から宣教師の滞在を大目に見ているが、公認しているのではない。第二、家康初め諸大名はスペイン人が侵略者であり、布教は侵略の手段に過ぎぬと信じている。これらの理由によって、スペイン宣教師の大挙来日は、教会に対する迫害を激発する怖れがある。その徴候はすでに顕著だといってよい。家康は宣教師の到着に関して、「あいつらはまたはりつけになりたくて来たのか」と云ったという。側近の高僧(相国寺の承兌)の策動で、毛利《ヽヽ》の山口、細川《ヽヽ》の小倉、黒田の博多《ヽヽ》などには、すでに迫害が起り、或はまさに起ろうとしている。この調子で行くと大殉教のようなことがまた起らないとも限らない。だからスペイン宣教師の無思慮な行動は実に危険である、というのであった。
セルケイラの態度は、出来るだけ控え目にしていて家康以下諸大名の疑念を解き、布教公認を取り戻そうというのであって、巡察使ワリニャーニと相談して立てた方針を守っているのである。ワリニャーニがセルケイラたちと共に三度目に日本を訪れたのは一五九八年の夏であって、着くと間もなく秀吉が死んだのであるが、その死に先立って先ず着手したのは奴隷売買問題《ヽヽヽヽヽヽ》の解決であった。この問題は秀吉の追放令の中で最も手ひどく教会にこたえたものである。追放令発布の当時クエリヨは、日本人が売るから悪い、そちらで禁止したら好かろうと秀吉に答えたのであったが、ワリニャーニとセルケイラとは、|ポルトガル商人に奴隷売買を禁ずる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》態度を明かにしたのである。この禁令は最初の日本司教マルチネスが既に着手していたが、まだ実現されずにあったのである。これはキリスト教徒としては当然の態度であるが、しかしポルトガル商人の利益を制限する意味において、相当困難な仕事であった。それだけに追放令緩和に役立つ筈でもあった。ついで秀吉の死後には、ワリニャーニは、以前大坂にいたロドリゲスを連れて、禁圧緩和の運動に大坂へ出たりなどした。諸大名には同情者もあり、うまく行くように見えていたが、そのうち関ヶ原の戦争が起り、小西行長の滅亡その他事情の変化で、問題は非常にデリケートになっていた。丁度そこをスペインの宣教師たちが掻き廻し始めたのである。ワリニャーニはその頃に日本を去ったらしいが、セルケイラはこのワリニャーニの忍耐強い宥和政策を受けついだのであった。
一六〇六年にセルケイラは伏見に来て家康に謁した。|ポルトガルの使節《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》という資格であるから、旅行は公式であったし、謁見式も公式であった。しかし実質的にはセルケイラは、司教の正装で家康に会い、司教として信者たちに接した。また近侍の本多正純や京都所司代の板倉勝重には、布教の自由についていろいろと懇請したらしい。翌年にも管区長パエスを駿府に送って同じように運動を続けている。パエスは江戸にも行って将軍秀忠に謁した。本多正信正純父子が親切に世話をした。布教の公認についても何となく希望があるように見えていた。
このセルケイラの方針をいつも脅かしていたのはスペインの宣教師たちであったが、しかしそのほかにもう一つ手ごわい敵が現われて来たことを見のがしてはならない。それは新教《ヽヽ》国民たるオランダ人とイギリス人とである。
ヨーロッパを真二つに分裂させた宗教改革は、十七世紀の初めにはますます深刻な影響を現わしていた。信仰の自由を守るために北アメリカに移って行くピューリタンたちがもうそろそろ動き出しそうになっていた頃である。新教と旧教との対立が織り混って、あの執拗な抗争を続けた三十年戦争も、もう萌し始めていた。新大陸の発見以来急激に興隆した旧教国スペインは、一五八八年の無敵艦隊敗滅以来、ヨーロッパの覇権への望を捨てて降り坂になった。それとともに、ローマ教会と絶って新教に妥協したイギリスが、海上の雄者になって来た。新教を容れたオランダは、その前からスペイン王に離反して独立のために戦っていたが、今やその独立を殆んど完成しようとし、イギリスに対抗し得る海国となった。このヨーロッパの形成は、間もなく東洋の海上へ響いて来たのである。
その最初の現われは、一六〇〇年四月、豊後に漂着した|オランダ船リーフデ号《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であった。初めは五隻の艦隊の内の一隻であり、百十人の乗組員を持っていたのであるが、途中散々な目に逢って、生存船員僅か二十四人で、ただ一隻豊後に着いたのである。しかも歩けるのはパイロットのイギリス人|ウィリアム《ヽヽヽヽヽ》・|アダムス《ヽヽヽヽ》以下六人だけで、三人は上陸の翌日死んだ。オランダが遠征艦隊を出し始めてからやっと五年目、|東インド会社が出来る二年前《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のことであるから、まだ東洋への航海は不慣れだったのである。
アダムスが大坂城で家康に会ったのはヨーロッパの旧暦五月十二日(慶長五年四月十日)で、関ヶ原役の五カ月前であった。家康はアダムスからオランダの独立戦争の事や、マゼラン海峡を通過し太平洋を横ぎる世界航路の事を聞いたのであるが、これまで旧教の宣教師ばかりを見ていた家康の眼には、この俗人の航海者がよほど違って見えたであろう。彼はリーフデ号を浦賀に回航させ、アダムスに俸給を与えて好遇した。その結果五六年後にはオランダの|東インド会社と連絡《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を取ることが出来、一六〇九年七月、二艘のオランダ船が平戸に入港するに至ったのである。そこで両船の商人頭が使節として駿府に行き、オランダのオレンヂ公の書簡を家康に呈した。家康は通航免許状を与え、また商館の設置を許した。商館設立のこともまた、家康には在来の宣教師のやり方と異なって見えた点であろう。その秋には平戸にオランダの商館が出来、ジャックス・スペックスが商館長として数人の館員と共に駐在することになった。
こうしていよいよ、オランダ貿易が始まったのであるが、半世紀以上に亘るポルトガル人の貿易や、最近にマニラから日本に進出して最も地の利を得ているスペイン人の貿易などと競争するのは容易でなかった。スペックスは非常に努力して、二年後の一六一一年七月に自分の手で第二船を入れ、アダムスと打合せて駿府に行った。スペインやポルトガルの使節もその少し前に駿府を訪れたのであるから、云わば三国は鎬を削るという状態になっていた。しかるにオランダ商館長スペックスのみは、アダムスの斡旋で、まるで別格の取扱いを受け、家康と親しく貿易の話をすることが出来たのである。スペックスはそのあとで江戸に出で、浦賀に廻ったが、そこでスペインの使節と落ち合ったにかかわらず、いずれも会おうとはしなかった。本国の敵対関係がここまで響いていたのである。
こういう競争に際して、スペイン人やポルトガル人は、オランダ人が叛逆者《ヽヽヽ》であり海賊《ヽヽ》であることを攻撃した。オランダがスペインからの独立のために戦っていたこと、海上で敵船の捕獲や掠奪をやっていたことは、いずれも事実である。それに対してオランダ人や家康側近のイギリス人アダムスが、過去一世紀に亘るポルトガル人やスペイン人のインド及びアメリカにおける残虐な征服行為を挙げて対抗したことも、推測するに難くない。ポルトガル人及びスペイン人は世界的視圏を開くという非常な功績を挙げたのではあるが、その点を抑えてただただ|暗い半面《ヽヽヽヽ》のみを物語れば、そういう|事実の報告《ヽヽヽヽヽ》のみを以てしても、ポルトガル人とスペイン人とを日本から遠ざけることは出来たのである。
このやり方はやがて|公的な表現《ヽヽヽヽヽ》にまで達している。一六一二年八月にオランダから来た船の商人頭ヘンドリック・ブルーワーは、|国主モーリッツ《ヽヽヽヽヽヽヽ》の書簡を携えて駿府に行ったのであるが、その書簡には、|ヤソ会の宣教師が表に布教を装いつつ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|内実においては改宗による国民の分裂《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、党争《ヽヽ》、|内乱をねらっている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と明白に認めているのである。これはもう個人的な蔭口ではない。反動改革者に対する新教徒の公然たる攻撃なのである。
この趨勢を心から憂えていたのは、セルケイラであった。彼はスペイン国王に対して|オランダ人の危険《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を頻りに訴えている。またオランダ人の策動を有効ならしめるような|スペイン宣教師の無思慮な行動《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をも訴えている。しかしもう遅かった。迫害はすでに一六一二年の春、家康の膝下駿府において始められたのである。
一六一二年四月(慶長十七年三月)家康は京都所司代板倉勝重にキリスト教会堂の破却を命ずると共に、駿府の旗下武士のうちの信者十数人を検挙した。検挙はなお夏まで続き、大奥の女中にまで及んだ。この禁教令は有馬晴信の処刑と連絡があるらしく、発布の直前に晴信の喧嘩相手岡本大八が火刑に処せられたし、また駿府での検挙と同時に有馬領での禁教が励行された。
一六一三年、江戸で、キリシタンの検挙が行われた。スペイン宣教師の経営していた浅草の癩病院も閉ざされた。七月に至って、検挙せられたものの内二十七人が死刑に処せられた。四五年来メキシコ通商のことで幕府の役人との間に山師的に活動していたフランシスコ会士ルイス・ソテロも、この時には信者と共に捕えられていたのであるが、巧みに出獄して伊達政宗に取り入り、この年の十月には支倉《はせくら》常長たちをつれて日本を出発した。がこれもソテロの山師的な計画によるものであって、日本における大きい社会的情勢の現われではなかった。
一六一四年一月二十八日(慶長十八年十二月十九日)家康はキリスト教厳禁、宣教師追放の政策を決定し、大久保|忠隣《ただちか》をその追放使に任じた。家康のこの決定には南禅寺|金地院崇伝《ヽヽヽヽヽ》の進言が有力に働いているといわれる。しかし、数日後に発表された崇伝の禁教趣意書は、厳めしい漢文で長々と書かれてはいるが、「キリシタンは神敵仏敵である。急いで禁圧しなければ国家に害があるだろう」ということを主張しているだけである。何故特にこの際追放令を出す必要があるか、キリスト教のどの点が国家を害するか、などについては、何事も語っていない。その与える印象は、宗派的な偏執と陰惨な憎悪とのみである。即ち家康の頭脳としての崇伝自身が、すでにキリシタンを|説得しよう《ヽヽヽヽヽ》とする理性的な態度を持っていないのである。従って禁教がただ|武力による圧迫《ヽヽヽヽヽヽヽ》となったのは当然といわなくてはならぬ。
大久保忠隣は二月二十五日(慶長十九年一月十七日)に京都に着き、翌日から会堂の焼却・破壊、信者の捕縛、転宗の強要などを始めた。棄教転宗を肯んじないものは、俵に入れてころべころべと囃しながら転がして歩いた。女の信者に対しては裸体で晒らすこと、遊女にすることなどで脅かした。さらに頑固なものは火刑にするといって、四条河原に十字架を建て列ねた。京都の町は陰惨な空気に包まれてしまったのである。
しかしこの狂気じみた迫害は長くは続かなかった。二月二十七日には大久保忠隣自身が領地没収の宣告を受け、その命令が三月十日に京都に着いたのである。そこで跡始末は賢明な京都所司代板倉勝重によってなされたのであるが、勝重はその前からすでに追放や流罪の穏やかな策を立て、外国人宣教師に対しては大久保が京都に着くよりも二週間前に退京を命じ、伏見、大坂にいた人々と併せて、船で長崎の方へ送り出したのであった。従って残る問題は、日本人信者で改宗を肯んじないものの追放である。加賀の前田家に預けられていた高山右近の一群、内藤ジョアンの一群などは、四月十五日に加賀を立って、京都でジョアンの妹のジュリヤたちの群と合して長崎に向った。日本にいなければよいので、殺す必要はないではないか、というのが勝重の方針であった。
長崎へは諸方の追放者が集まり、だんだん感情が激して受難覚悟の行列なども繰り返されたが、幕府の官吏は諸大名の兵を集めて厳戒しつつ、会堂の破壊焼打ちを断行し、十一月に至って四百余人のキリシタンを海外に送り出した。高山右近はマニラで翌年死んだが、内藤兄妹はなお十二三年生きていた。
この大追放は、しかし、キリシタン宣教師の三分の二を国外に送り出し得たに過ぎなかった。潜伏し残った宣教師は、諸会派併せて四十数人に達している。しかも翌年からしてすでに潜入帰来が始まっているのである。
右の大追放の際に、九州の諸大名は特に厳重に禁教を実行する様命ぜられた。中でも、大村、細川、黒田などは、よほど熱心に努力しなくてはならなかった。しかし残虐な処刑はまだ行われていない。ただ一つの例外は有馬領《ヽヽヽ》である。幕府は、棄教した領主直純を日向に移したが、家臣の殆んど全部はキリシタンで、棄教した領主に附いて行こうとせず、浪人してもとの土地に留まった。このキリシタンの態度が新領主を恐れさせたのみならずまた幕府をも驚かせた。そこで大追放断行のために長崎に集まっていた陣容と兵力とを用いて、徹底的なキリシタン探策、|残忍な拷問や処刑《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を行ったのであった。つまり有馬の家臣らの|固い信仰《ヽヽヽヽ》、|強い操守《ヽヽヽヽ》が、迫害の残虐化を誘発したのである。
この関係はこの後の迫害史に一層拡大されて現われてくる。大追放でキリシタンを断絶し得たと見えたのはただ表面だけのことで、殉教を恐れない宣教師はなお多数潜伏している。それに加えて毎年勇敢な潜入者が続々とやってくる。幕府を最も強く刺戟したのはこの潜入であった。それも初めの内はおもにヤソ会士で、単独に、隙をねらって潜入したのであったが、一六一八年頃から、ヤソ会以外の宣教師たちが、団体的《ヽヽヽ》、計画的《ヽヽヽ》に潜入するようになったのである。それは前の年に大村で殉教した二人の宣教師の話が、マニラのスペイン人たちの間に殉教熱《ヽヽヽ》を煽ったからであった。第一回は七人、翌年の第二回は五人。ついで一六二〇年の第三回は、人数はただ二人であったが、その引き起した事件によって当局の注目をひいた。アゴスチノ会のズニガとドミニコ会のフロレスとで、堺のキリシタン平山常陳の船に隠れて日本へ潜入する途中イギリス船に捕獲され、オランダ船に引渡されて平戸へ連れて来られたのである。オランダ人はこの捕獲が海賊行為でないことを立証するために、乗員中に宣教師がいることを主張した。しかし、ズニガとフロレスとは宣教師でないと云い張った。そこで面倒な係争問題が起ったのである。オランダ人はその立場を守るために、二人に残忍な拷問をも加えたらしい。この争は長崎奉行の前でスペイン人とオランダ人が互に非難し合うという場面をも展開した。スペイン人はオランダ人の叛逆と海賊行為とを指摘し、オランダ人はスペイン人のペルーやメキシコの征服を指摘した。が結局先ずズニガが自白し、それを潜入させた罪で船長平山常陳以下船員十数名が投獄され、最後にフロレスも自白した。彼らが長崎で処刑されたのは一六二二年の八月である。
マニラからの潜入はまだこの後にも続々として行われたのであるが、しかし右の処刑の頃までに既に十分に|キリシタン迫害への拍車《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の効用を発揮していた。宣教師の潜入は、直接にはそれを助ける外国航路船やその船員の取締りを厳格ならしめたが、同時に|日本に潜入している宣教師との連絡や《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|彼らをかくまい潜伏せしめる国内信者の存在《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をも曝露したのである。そこで、この刺戟がなければ穏やかに秘やかに存在し続けることの出来たかも知れない信者たちを、洗い立て、検挙し、処刑するという気運が生じて来たのである。
その最初の現われは、マニラからの第一回潜入のあった翌年、一六一九年(元和五年)の|京都における大殉教《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であった。家康死後三年であるが、金地院崇伝の勢力は依然として盛んであった。出来るだけ温和な取扱いをしようとしていた板倉勝重も、遂にその力に押されて、富豪桔梗屋ジョアンの一家を初め、信者六十三人を逮捕したのである。そうして刑の軽減の努力も効なく、この年の十月初めに、将軍の命によって、獄死を脱れた男女小児五十二人を七条河原で火刑に処した。
次に著しいのは、一六二二年の|長崎立山の大殉教《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。一六一八年の秋以来、マニラからの潜入者及びその連累が続々と捕えられ、宣教師格のものは壱岐や大村の牢獄に、宿主や五人組の連坐者は長崎の牢獄に繋がれた。獄死したものも多かったが、後者の内には次々に殺されたものもあった。しかしそれでも入牢者はだんだん殖えて行ったのである。その処分が一六二二年の夏頃から行われたのであった。前述のズニガ、フロレス、平山船長の三人が火刑、船員十名乗客二名が斬罪に処せられたのは、八月十九日であったが、ついで九月十日《ヽヽヽヽ》(元和八年八月五日)に、数年来たまっていた宣教師及び信者五十五人が、長崎の立山で、火刑と斬罪に処せられた。これが「大殉教」と呼ばれるものである。しかし処刑はそれで終らず、二日後に、宣教師など十八人が大村の山中の人里離れた所で刑の執行を受け、つづいて長崎附近の諸処で、同様の処刑が続行された。全体では百数十人に達するであろう。
ついで一六二三年、家光が将軍となった年には、江戸で、原主水、ヤソ会のアンゼリス、フランシスコ会のガルベス以下五十人のキリシタンが、悉く火刑に処せられた。少しあとでそれらの人の妻子など二十六人(或は四十三人)が同じく火あぶりになった。なおこの年には仙台でも三十六人処刑されたらしい。
翌一六二四年には東北地方の迫害が続き、仙台《ヽヽ》と秋田《ヽヽ》とで多数のキリシタンが処刑された。
一六二六年は、|家光の政策《ヽヽヽヽヽ》が長崎へ響いて来た年である。ヤソ会の宣教師九人の火刑を初めとして、有馬における残忍を極めた拷問苛責が開始された。温泉《うんぜん》岳の火口がそのために用いられた。熱湯に浸して苦しめるのである。が殉教者たちは、その苦しみを見せつけられても、退転しようとはしなかった。最も猛烈であったのは二年位であるが、しかしこの残忍な方法は一六三一年までは続けられたのである。それは思想や信仰の力に対する、|武力のヒステリー《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》だといってよい。
一六二九年頃から東北の方でまた迫害が烈しくなっているが、長崎の方でも一六三三年には、多数の宣教師や信者が「穴つるし」にされた。連年の多量な火あぶりがまだ手ぬるく感ぜられて来たのであろう。
五[#「五」はゴシック体] 鎖国
宣教師追放令を出した秀吉も、禁教令を発布した家康も、鎖国を考えていたわけではなかった。秀吉の追放令には貿易の自由をわざわざ掲げているし、家康は禁教令に先立ってオランダ貿易を始めている。しかし十六世紀末十七世紀初頭《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のヨーロッパの文明を摂取したいと考えつつ、そこからキリスト教だけを捨てて取らないというようなことは、到底出来るわけのものではない。そこには教会の覊絆を脱した|近世の精神《ヽヽヽヽヽ》が力強く動いていたとしても、ヨーロッパ人自身すら、それを純粋に取り出すことは出来なかった時代である。その近世の精神に参与し得るためには、それと絡み合ったものをも一緒に取り入れなくてはならなかった。そうしてそのためには当時の日本人は極めて都合のよい状況を作り出していたのである。古い伝統の殻は打ち砕かれた。因襲にとらわれない新鮮な活力は民衆のなかから湧き上って来た。室町時代末期の民衆の間に行われた文芸の作品――ほとんど仮名文字ばかりで書かれ、漢学や漢字の束縛を最少量にしか示していないあの物語や舞の本の類――は、今見ると実に驚かされるような想像力の働きを見せている。|死んで甦る神《ヽヽヽヽヽヽ》の物語もあれば、|美しいものの脆さ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を具象化したような英雄の物語もある。ああいう書物を読み、ああいう想像力を働かせていた人々の間に、ローマ字書きが拡まり、旧約や新約の物語が受け入れられるということは、いかにも自然なことであったと考えられる。のみならず、当時の日本人の強い知識欲に応えるために、反動改革の急先鋒であったヤソ会士さえも、日本では、近世初頭に急激に発展した自然科学の知識を振り廻したのである。関ヶ原戦後の京都においてさえも、神父の天文や地理に関する話をきき、天体図や地球儀を見せて貰いに来るものが非常に多かったという。地球儀は内裏からも所望され、秀頼も興味を持ったと伝えられている。一六〇五年から京都にいたスピノラは、数学や天文学に通じていて、京都の学者たちを集め、アカデミー風のものを作ったりなどした。つまりキリスト教の伝道は当時のヨーロッパ文明を全面的に伝える意味をも持っていたのである。そうしてまた、その故に宣教師たちに引きつけられた人々も決して少なくはなかったのである。だからこの際宣教師を追放しキリスト教を禁ずるということは、民衆の中から湧き上って来た新しい力、新しい傾向を押えつけ、故意にそれを|古い軌道へ帰す《ヽヽヽヽヽヽヽ》ということにほかならなかった。
これは純然たる保守的運動《ヽヽヽヽヽ》である。それは秀吉が|民衆の武装解除《ヽヽヽヽヽヽヽ》をやったときに、はっきりと開始された。農民の子から関白にまでのし上った秀吉自身は、伝統の破壊、従って保守の正反対を具現していたにかかわらず、自分がその運動を完成したときに突如として反対のものに転化し、保守的運動を強力に開始したのである。それは一世紀以来の赤裸々な実力競争において、新興の武士団が勝利を得ると共に、その勝利を確保し、|武力の支配《ヽヽヽヽヽ》を固定させる努力にほかならなかった。この努力において主として眼中に置かれたのは、|国外の敵を制圧すること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であって、日本民族の運命でもなければ、未知の世界の開明や世界的視圏の獲得でもなかった。秀吉は気宇が雄大であったといわれるが、その視圏は極めて狭く、知力の優越を理解していない。彼ほどの権力を以てして、良き頭脳を周囲に集め得なかったことが、その証拠である。彼のシナ遠征の計画の如きも、必要なだけの認識を伴わない、盲目的衝動的なものである。彼はポルトガル人の航海術の優秀なことも、大砲の威力も、十分に承知していた。しかも、その技術を獲得する努力をしなかった。|国内の敵《ヽヽヽヽ》しか彼の眼には映らなかったからである。結局彼もまた|国内の支配権《ヽヽヽヽヽヽ》を獲得するために国際関係を手段として用いるような軍人の一人に過ぎなかった。
家康はこの保守的運動を着実に遂行した人である。彼はそのために一度破壊された伝統を復興し、仏教と儒教とをこの保守的運動の基礎づけとして用いた。特に儒教の興隆は、彼が|武士の支配の制度化《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の支えとして意を用いたところであった。かくして近世の精神が既にフランシス・ベーコンとして現われている時代に、二千年前の古代シナの社会に即した思想が、政治や制度の指導精神として用いられるに至ったのである。それは|国内の秩序《ヽヽヽヽヽ》を確立する上に最も賢明な方法であったかも知れない。しかし、世界における日本民族の地位を確立するためには、最も不幸な方法であった。彼もまた|国内の支配権《ヽヽヽヽヽヽ》を確保するために国際関係を犠牲にして顧みなかった軍人の一人である。
これらはすべて世界的視圏をおのれのものとなし得なかったことの結果である。そうしてそれが、世界的視圏を初めて開いたポルトガル人とスペイン人との刺戟の結果であることは、まことに皮肉な現象だといわなくてはならない。宣教師たちの報告によると、日本の武士たちは、スペイン人の侵略の意図を云い立てはしたが、自分たちの武力には自信を持ち、決してスペイン人には敗けないと思っていたという。秀吉がマニラ総督に朝貢を要求したほどであるから、これは本当であろう。それほどの自信があるなら、侵略の意図などには恐れずに、ヨーロッパ文明を全面的に受け入れれば好かったのである。近世を開始した大きい発明、羅針盤・火薬・印刷術などは、すべて日本人に知られている。それを活用してヨーロッパ人に追いつく努力をすれば、まださほどひどく後れていなかった当時としては、近世の世界の仲間入りは困難ではなかったのである。それをなし得なかったのは、スペイン人ほどの冒険的精神《ヽヽヽヽヽ》がなかった故であろう。そうしてその欠如は|視界の狭小《ヽヽヽヽヽ》に基くであろう。
その視界の狭小は、宣教師やキリシタンの迫害が進むに従って、ますますその度を加えた。単純に|武力を以て《ヽヽヽヽヽ》思想や信仰に対抗する場合には、武力はそれ自身の無力《ヽヽ》を見せつけられてだんだんヒステリックになる。おのれの無力を承認しようとせず、一層その力を証示しようと努めるからである。スペイン人の冒険的精神が宣教師の殉教熱《ヽヽヽ》となって日本の岸にうち寄せ、日本人のなかの背骨の固い信者たちが同じ殉教熱《ヽヽヽ》を以て武力に対抗したとき、武力は実際何の効果もなかった。武力はただ彼らの生命を奪い得るだけであった。しかし武力の威光を示そうとする人々は、あらゆる残虐な殺し方を工夫することによって、それに対抗した。そういう陰惨な気持は、理非もなくキリスト教への憎悪《ヽヽ》を高めて行く。その結果、貿易を安全に続けるための手段《ヽヽ》であった禁教が、逆に貿易をもさまざまの形で制限する目的《ヽヽ》の地位を占めるに至ったのである。
丁度この頃は新しく極東に進出したオランダとイギリスとの勢力が、在来のポルトガルとスペインの勢力に対して激しい競争を敢行している時であった。その間に日本の勢力も絡まり、三つ巴、四つ巴となって極東の海上には連年さまざまの事件を引き起した。その中にオランダ人とイギリス人との衝突、日本人とオランダ人との衝突なども入り混り、決して単純な関係ではないが、しかし大体においてポルトガルとスペインの勢力が後退して行ったのである。ポルトガル人に対する居住の制限、婚姻の制限、碇泊期間の制限などはその現われであった。やがて一六二八年には、マニラ艦隊がシャムで日本商船を捕獲した事件が起り、その報復として、同一君主の支配下にあるという理由で、ポルトガル船三隻を長崎で抑留するというようなこともあった。
そういう情勢の下に、一六三三年《ヽヽヽヽヽ》には長崎奉行に対してかなり厳しい外国貿易取締令が通達された。御朱印船以外の船の外国渡航の厳禁、五年以上外国居住の日本人の帰朝の禁止、外国船の輸入品の統制、外国船碇泊期間の短縮などを規定したものである。この法令は、翌年にも繰り返して発布され、翌々年には改正して発布されたが、さらに一六三六年《ヽヽヽヽヽ》(寛永十三年)に一層厳格した形で発布された。これが通例、鎖国令と呼ばれているものである。ここでは、御朱印船をも含めて、|一切の日本船の外国渡航の禁止《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|一切の日本人の外国渡航の禁止《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|一切の外国居住日本人の帰朝禁止《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、混血児の追放、追放された混血児の帰来及び|文通の《ヽヽヽ》厳禁、その他前とほぼ同様の外国船及びその輸入品の統制を規定している。貿易を認めている以上、厳密な意味で鎖国令とは云えないのであるが、然し|日本人に対して外国との交通を遮断した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という点においては、鎖国令に相違ないのである。海外へ連れて行かれた混血児が、日本にいる親類へ文通した場合には、本人は死罪、受取った親類も処刑される。それほどにまで外国との交通を恐れたのである。
この法令は着々実行に移されたが、しかし長崎奉行が実現したのはここに規定された範囲に止まらなかった。前に記したポルトガル船抑留事件に聯関して渡来したマカオの使節ドン・ゴンサロ・ダ・シルベイラは、執拗に努力を続けて一六三四年に将軍に謁見することが出来、その翌年には三隻、翌々年には四隻を率いて渡来したのであるが、この一六三六年の来航の際には、長崎に着くと共に、乗組員八百名も積荷も厳重な検査を受け、船の帆や舵は取り上げられ、船員一同は新築の出島に隔離された。この出島は、ポルトガル人と日本人との|交通を遮断するため《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に、長崎の海岸に作った埋立地である。貿易のため外国船が日本に来ても、|日本人と外国との交通《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は絶つことが出来る。そういう考をこの狭い埋立地が具体化しているのである。
ドン・ゴンサロの四隻の船が長崎を出発する時には、混血児二百八十七人を乗せて去った。
この鎖国令を一層強固ならしめたのは、翌一六三七年末に起った|島原の乱《ヽヽヽヽ》であった。
島原の乱の爆発した直接の動機は、信仰の迫害ではなくして苛政であった。しかし爆発する力を蓄積して行ったのはやはりキリシタン迫害である。島原半島の地はこの二十年来、想像に余るような残酷な迫害の血の浸み込んだところであった。殉教者は無抵抗《ヽヽヽ》の方針を堅持して来たが、それが心理的に与えた効果はむしろ逆である。それに加えて迫害者たちは、明白なキリシタンに対してのみ残虐であって一般領民には仁慈である、という如き区別の出来る人たちではなかった。迫害の心理はやがて彼らを暴虐な為政者たらしめる。そういう為政者の下にある下級官吏は、一般領民に対して一層苛酷な態度を取ることになる。従って、秘かに信仰を維持している民衆も、そうでない人たちも、その内心の反抗においては一つであった。その気運のなかで、小西の遺臣の子、天草四郎時貞という十六歳の少年に、特別の天命が下ったという風の信仰が燃え上って来たのである。
丁度その頃、一六三七年の十二月の中頃に、或る村で下級官吏の横暴から村民が憤って代官を殺すという事件が起った。それは忽ち伝染し、他の村々でも代官が殺された。一揆が蜂起したのである。一揆は領主の城島原を囲んだ。そうして城主の米倉を占領し、領内の米を集めて、原城に拠り、四万に近い人数を以て三カ月間討伐軍に抵抗した。天草島でも十日ほど遅れて蜂起し、領主の兵を破って富岡に迫ったが、城を抜くことが出来ず、原城の一揆に合流した。
叛乱軍は信仰の情熱に燃え、恐ろしく強かった。最初幕府から向けられた討伐軍の指揮官板倉内膳正は、原城攻略に失敗して、一六三八年二月十四日に戦死した。二度目の指揮官松平伊豆守は、攻囲軍を十数万に増し、オランダ船に頼んで、十六日間砲撃して貰ったりなどしたが、大して効果はなかった。結局糧食の欠乏によって、四月十一、十二日の総攻撃に陥落したのである。女子供を合せて三万七千といわれた籠城のキリシタンは、|全部殺戮された《ヽヽヽヽヽヽヽ》。
このキリシタンの抵抗力は、武士たちを驚かせたと共に、また彼らのキリシタン憎悪を強め、禁教政策に対する信念を固くした。外国との交通は徹底的に禁圧しなくてはならぬ。そこでこの後数年の間、禁教と鎖国との法令制度が続々として制定されたのである。
ポルトガル人の貿易も、島原の乱の平定の年、一六三八年が最後であった。乱後の処置に、江戸から派遣された太田備中守は、一六三九年九月二日、|ポルトガル人追放《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ポルトガル船来航禁止《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を云い渡した。理由は宣教師に対する援助である。その年来航したポルトガル船は即時追い返され、翌年通商再開の嘆願に来たマカオの使節一行は、大部分死刑に処せられた。
あとに残ったオランダ商人は、いよいよ日本貿易の独占を祝ったのであったが、一六四〇年十一月七日、大目附井上筑後守から|商館破壊の命令《ヽヽヽヽヽヽヽ》を受けた。その理由はオランダ人もまたキリスト教徒であること、商館の建物にヤソ紀元の年号が記されていることである。それと同時に日曜日を守ることの禁止、商館長の年々交代などが命ぜられた。右の商館の建物は、オランダ人が長崎移転を不利なりと考えた程、多額の費用のかかったものであったが、商館長は当局の断乎たる態度を見て、その夜から徹夜で破壊工作に取りかかった。この従順な態度がオランダ貿易を救ったといわれている。
翌年オランダ商館は長崎への移転を命ぜられた。前年の商館破壊命令は、この移転を容易ならしめるためであったのである。かくしてオランダ人は、この後二百年の間、長崎の出島に閉じ込められた。そうしてその出島が日本人と外国との交通の象徴となった。
このように鎖国の形成が完成するまでには、秀吉の宣教師追放令以来四十五年、家康の禁教令からでも二十七八年を要している。その間に|為政者の側での《ヽヽヽヽヽヽヽ》キリスト教に対する憎悪が漸次高まり、遂に|海外との交通《ヽヽヽヽヽヽ》そのものを恐れるに至ったのであるが、しかしそれは|国内での支配権獲得の欲望《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が他の文化的欲求や近世的動きに優越していたことを示すのみであって、国民の間に外に|向う衝動《ヽヽヽヽ》がなかったことを証示するものではない。一六〇四年から一六一六年までの十三年間に幕府の出した海外渡航の許可状は百七十九通に達しているし、その後一六三五年の海外渡航禁止に至るまでの海外渡航船は百四十八隻以上であったといわれている。その行先は、台湾からマラッカに至るまでの諸地方、ブルネイやモルッカの諸島などである。船は、大きい場合には三百名以上を乗せ、その大部分は商人であった。船主も、島津家久、松浦鎮信、有馬晴信、加藤清正、細川忠興などの大名や、末次平蔵、長谷川権六などの幕府官吏を混えてはいるが、大部分は商人であった。角倉了以、同興一、末吉孫左衛門、荒木宗太郎、西宗真、船本弥七郎、などが有名である。そうしてこれらの人たちは、外に向って相当に活溌な働きを見せていたのである。
右の内で一六〇八年にチャムパ(占城)へ行った有馬晴信《ヽヽヽヽ》の船は、帰途マカオに滞留して事件を起した。船員が乱暴してポルトガル兵に銃殺されたのである。翌年マカオの司令官ペッソアは、マードレ・デ・デウスという大船に多量の荷を積んで長崎に来た。この船は縦四十八間、横十八間、吃水線上の高さ九間、檣四十八間であった。ペッソアは有馬晴信の船の事件を云い立てて、日本人のマカオ渡航禁止を家康に乞い、その許可を得た。他方有馬晴信も船員が侮辱を受けたことを云い立てて、その雪辱の許可を家康に請願した。家康は、事実を調査して適当に処分せよと晴信に命じた。そこで晴信は、長崎奉行と相談してペッソアを召喚したが、ペッソアはそれに応ぜず、大急ぎで出帆の準備に取り掛った。止むを得ず晴信は実力に訴えることにして、一六一〇年一月六日にマードレ・デ・デウス号を攻撃し始めた。ペッソアは錨索を切って逃げ出そうとしたのであったが、風がなくて動けず、三日間攻撃を受け続けた。そうして四日目に漸く微風が出たので福田のあたりまで逃げた。このまま逃げられれば晴信の面目は丸潰れである。長崎奉行は|晴信の攻撃が手ぬるい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と非難し、晴信はそれを口惜しがって、「奉行を斬り長崎を焼いて自殺する」と云ったほどであった。幸いまた風が落ちて、船が動かなくなった。有馬の船隊は船にやぐらを作りその前面に生皮を張って銃撃のなかを突進して行った。この肉迫戦の間に防禦側の投げた焼弾で火が帆布に移り盛んに燃え出した。ペッソアは火薬庫に火をつけろと命じて海へ飛び込んだ。火薬の爆発と共に船はひっくり返って沈み、ペッソア以下は死んだ。これでようやく晴信はその面目を保ったのである。
この事件は勿論面倒な外交問題を引き起したが、またキリシタン大名有馬晴信の没落の因ともなった。長崎奉行の配下であった岡本大八が、右の焼打事件の恩賞を周旋すると称して、晴信から再三賄賂を取ったのである。それが露見して捕えられると、今度は大八が晴信の逆心を訴えた。長崎奉行を斬り長崎を焼くといった晴信の興奮した言葉を云い立てたのである。結局大八は火刑、晴信は流罪次いで切腹となったが、その処刑は一六一三年の禁教令の直前で、大八、晴信、いずれもキリシタンであった。外に向う衝動が巧みに鎖国的傾向に利用せられた一例といってよい。
同じ有馬晴信は、一六〇九年に家康の内命を受けて台湾に探検隊を送っている。これは成功しなかったので、一六一六年に長崎の代官|村山等安《ヽヽヽヽ》が幕府の許可状を得て十三隻の遠征艦隊を台湾に送ったが、これもまた暴風に逢って失敗した。日本の貿易船が、新しく台湾へ進出したオランダ人と衝突しはじめたのは、一六二五年頃からである。長崎代官末次平蔵の船の船長|浜田弥兵衛《ヽヽヽヽヽ》が台湾で活躍したのはこの時であった。生糸貿易上のいざこざがだんだんこじれて、一六二八年に弥兵衛が二隻を率いて台湾に行ったときには、船に小銃など相当の武器が積込んであったし、乗組員も四百七十人であった。万一の場合には武力行使を覚悟していたのである。それに対してオランダの台湾長官ノイツは初めから高圧的に出て、武器を取り上げたりなどした。だから弥兵衛は、ノイツの不意を衝いて捕虜にし、それを枷に使って生糸貿易の懸案を解決する、というような離れ業をやった。しかもそれは出先での挿話的な出来事ではなく、やがて平戸でのオランダ船の抑留、オランダ商館の閉鎖にまで発展して行った。オランダのバタビヤ総督は翌一六二九年に特派使節を寄越して事件の解決に努力したが、幕府は台湾におけるオランダの根拠地ゼーランヂヤ城の引き渡し或は破壊を要求し、それを拒絶すればオランダ貿易を禁止するような気勢を見せた。オランダ人は勿論この要求には応じなかったが、しかし、日本貿易を失うことをも怖れ、遂に浜田弥兵衛と事を起した前台湾長官ノイツを犠牲にすることにして、一六三二年《ヽヽヽヽヽ》にノイツを日本に連れて来て日本側に引き渡した。その頃には弥兵衛の船の船主であった初代末次平蔵も既に死んでいたし、鎖国の形勢が急激に熟しつつあったために、幕府は事件責任者の引き渡しを以て満足し、船の抑留や商館の閉鎖を解いてオランダ貿易を旧に復したのである。
その後オランダ人はいろいろと幕府の御機嫌を取ったので、ノイツは一六三六年に釈放された。また翌一六三七年には、オランダ人側から、日本とオランダとが同盟してポルトガルの根拠地マカオ、スペインの根拠地マニラ及び基隆を攻略しようという案を持ち出した。やがて長崎代官の二代目末次平蔵は、商館長コークバッカーに宛てて、幕府はキリスト教宣教師の根拠地フィリッピンを征服するに決した、ついては軍隊の渡航や上陸を掩護し、スペイン艦隊を撃退する、という任務に必要なオランダ艦隊を派遣して貰いたい、と申込んで来たという。オランダ商館は大艦四隻、ヨット二隻の派遣を決議し、バタビヤ総督もこのことを本国の十七人会に報告したというのであるから、架空のことではないであろう。
このフィリッピン遠征は島原の乱のために何処かへふっ飛んでしまったが、一六三七年になお気運が動いていたのであるから、|外に向う衝動《ヽヽヽヽヽヽ》はなおかなり強かったといわなくてはならない。だからこの頃に南洋の日本町が相当に栄えていたということは、不思議ではないのである。
|シャムの日本人町《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、首府アユチヤの南郊にあった。メーナム河を挟んでポルトガル人町やシナ人町と対し、オランダ商館とも近かった。この町は、一六一〇年代には既に出来ていたらしい。町の最初の頭領は純広、二代目が城井久右衛門、三代目が山田長政である。長政は沼津の城主大久保忠佐の駕籠舁であったが、何時の間にかシャムに渡り、一六二一年にはシャム四等官、一六二八年には一等官に昇進している。シャムの内乱に関与し、かなり大きい勢力を持っていたが、一六三〇年に毒殺された。そのあと日本人町は焼き払われたが、やがて復興して二人の頭領を置くことになった。
|カンボヂヤの日本人町《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、今のプノンペンに近い当時の首府ウドンにあった。やはりポルトガル人町やシナ人町と相隣って居り、オランダ商館とも近かったが、一六三七年の見聞記によると、日本人は七八十家族で、皆追放人であった。オランダ人たちを支配している港務長官の一人も日本人であった。この日本人たちは一六二三年にシャム軍が侵入したとき国王を援けて敵を撃退し、一六三二年にシャムの圧迫が加わったときには七隻のジャンクでメーナム河口へ封鎖に行った。一六三六年の内乱に際しても国王を助け、王から非常に尊敬されていた。ここへ日本船が来たのは一六三六年が最後である。
|交趾の日本人町は《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、広南の外港ツーランと、その南方八九里のフェーホとにあった。フェーホでは一六一八年に船本弥七郎が初代の頭領になった。
|マニラの日本人町《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、すでに十六世紀の末に千人の人口を有して居り、一六二〇年頃には三千人に達した。一六一四年の大追放で高山右近、内藤如安、その妹ジュリヤなど大勢来たが、右近は間もなく死に、如安たちはヤソ会の関係で日本人町にはいなかった。一六二四年頃からは日本とスペインとの関係が悪化し、一六三七年には八百人に減じていたという。
右のような日本人町のないところにも日本人は進出していた。香港の西の|マカオ《ヽヽヽ》はポルトガル人の根拠地であった関係から、一六一四年の追放者百余人、一六三六年の追放者二百八十七人などが行っているが、日本から奴隷として連れて行かれたものも少なくなかったらしい。そこからずっと西へ行って|トンキン《ヽヽヽヽ》にもかなりの日本人がいたらしい。一六三六年にはオランダのカピタンが日本人の家に泊めて貰ったり、長崎人和田理左衛門や日本婦人ウルサンの斡旋によって、国王に謁見したりしている。更にマレー半島南端の|マラッカ《ヽヽヽヽ》では、一六〇六年のオランダ艦隊の攻撃のときに、日本人が守備隊に加わって勇敢に防禦に努めたといわれている。ジャバの|バタビヤ《ヽヽヽヽ》へは、一六一三年にオランダ人が大工・鍛冶・左官・水夫・兵士など六十八人を雇って行った。その後も日本の移民を幾度か連れて行ったらしい。一六二一年には幕府がそれを禁じたほどである。東インド会社の使用人としてはその頃七十人とか五十人とかの日本人がいたし、自由市民としても百幾十人の男女がいた。|モルッカ諸島《ヽヽヽヽヽヽ》にも、一六二〇年には二十人、一六二三年にはアムボイナ島に六十三人の日本人がいたといわれる。なおその他南洋諸島やインドにも少しずつは行っていた。
しかし以上のように|外に出て行った日本人《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に対して、日本の国家はほとんど後援をしなかったのみならず、逆にその抑圧に努めて、遂に一六三六年に、全然本国との交通を絶ってしまった。従って、この後の日本人町や海外在留者は、ただ衰退し消滅して行くばかりであった。だから、当時の日本人に|外に向う衝動《ヽヽヽヽヽヽ》がなかったのではない、為政者が、国内的な理由によってこの衝動を押し殺したのである、とはっきり断言することが出来るのである。
つまり日本に欠けていたのは航海者ヘンリ王子であった。或はヘンリ王子の精神であった。
恐らくただそれだけである。そのほかにさほど多くのものが欠けていたのではない。
慶長より元禄にいたる一世紀、即ち|わが国の十七世紀《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、文化のあらゆる方面において創造的な活力を示している。その活力は決して弱いものではなく、もし当時のヨーロッパ文化を視圏内に持って仕事をしたのであったならば、今なおわれわれを圧倒するような文化を残したであろうと思われるほどである。学者として中江藤樹、熊沢蕃山、伊藤仁斎、文芸家として西鶴、芭蕉、近松、画家として光琳、師宣、舞台芸術家として竹本義太夫、初代団十郎、数学者として関孝和などの名を挙げただけでも、その壮観は察することが出来る。
文化的活力は欠けていたのではない。ただ無限探求の精神、視界拡大の精神だけが、まだ目ざめなかったのである。或はそれが目ざめかかった途端に暗殺されたのである。精神的な意味における冒険心《ヽヽヽ》がここで萎縮した。キリスト教を恐れて遂に国を閉じるに至ったのはこの|冒険心の欠如《ヽヽヽヽヽヽ》、|精神的な怯懦《ヽヽヽヽヽヽ》の故である。当時の日本人がどれほどキリスト教化しようと、日本がメキシコやペルーと同じように征服されるなどということは決してあり得なかった。キリスト教化を征服の手段にするというのは、それによって|国内を分裂させ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|その隙に乗ずる《ヽヽヽヽヽヽヽ》という意味であるが、日本国内の分裂はキリスト教を待つまでもなくすでに極端に達していたのであって、隙間はポルトガル人の前に開けひろげであったのである。征服が可能であれば、それを手控えるようなポルトガル人ではなかったであろう。勿論、キリスト教化が進めば、秀吉や家康のような考を以て国内を統一することは不可能になったかも知れない。しかしどこかのキリシタン大名が国内統一に成功した場合でも、キリシタンであるが故に日本の主権を放棄してスペイン国王に服属したであろうなどとは到底考えられないのである。スペイン国王への書簡にそれに類する文句があったからと云って、それを証拠にするわけには行かない。書簡の作法では、君主として仰いでいるわけでもない相手に対して誰もが平気で「君」と呼び、おのれを忠実な僕という。それと政治的な関係とは別である。日本人はヨーロッパ文明にひかれてキリスト教を摂取したのであって、そこに当時の日本人の示した|ただ一つ《ヽヽヽヽ》の視界拡大の動きがあった。その後のキリシタン迫害は、キリシタンとなった日本人の|狂熱的な側面《ヽヽヽヽヽヽ》をのみ露出せしめることになったが、しかし|それがすべてではなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。狂熱的傾向は当時のヨーロッパにおいても顕著であったし、わが国の一向一揆などもそれを明瞭に示しているが、しかしこの時代的特性《ヽヽヽヽヽ》のなかに根強く芽をふき出した|合理的思考の要求《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》こそ、近世の大きい運動を指導した根本の力である。わが国における伝統破壊の気魄は、ヨーロッパの自由思想家のそれに匹敵するものであった。だからたとい日本人の大半がキリスト教化するという如き情勢が実現されたとしても、教会によって焚殺されたブルーノの思想や、宗教裁判にかけられたガリレイの学説を、喜んで迎え入れる日本人の数は、|ヨーロッパにおいてよりも多かったであろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そうなれば、林羅山のような固陋な学者の思想が時代の指導精神として用いられる代りに、少なくともフランシス・ベーコンやグローティウスのような人々の思想を眼中に置いた学者の思想が、日本人の新しい創造を導いて行ったであろう。日本人はそれに堪え得る能力を持っていたのである。
ヤソ会の宣教師は、日本における仏教諸派の間の対立抗争が、キリスト教に対する仏教の防禦力を弱めていることを指摘した。が、そのことはやがて日本におけるキリスト教の伝道そのものの運命ともなったのであって、秀吉の宣教師追放の頃からの旧教諸派の間の対立抗争は著しいものであった。そこへ間もなく新教を奉ずるオランダ人や、ローマ教会を離脱したイギリス人たちが現われてくる。キリスト教を無制限に摂取しても、それがただ一つの運動に統一され、日本侵略の手段に用いられるなどということは、到底起り得なかったのである。この事情は少しく冷静に観察しさえすれば直ぐに解ることであった。それを為し得なかったのもまた為政者の精神的怯懦の故である。
ただこの一つの欠点の故に、ベーコンやデカルト以後の二百五十年の間、或はイギリスのピューリタンが新大陸へ渡って小さい植民地を経営し始めてからあの広い大陸を西へ西へと開拓して行って遂に太平洋岸に到達するまでの間、日本人は|近世の動きから遮断されていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。このことの影響は|国民の性格や文化《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の隅々にまで及んでいる。それには|よい面《ヽヽヽ》もあり|悪い面《ヽヽヽ》もあって単純に片附けることは出来ないのであるが、しかし悪い面は開国後の八十年を以てしては容易に超克することは出来なかったし、よい面といえども|長期の孤立に基く著しい特殊性《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の故に、新しい時代における創造的な活力を失い去ったかのように見える。現在のわれわれはその決算表をつきつけられているのである。
和辻哲郎(わつじ・てつろう)
一八八九―一九六〇。近代日本を代表する哲学者、倫理学者。兵庫県に医家の次男として生れる。一九一二年、東京大学哲学科卒業。東洋大学、法政大学、慶応大学で教鞭を執り、一九二五年、京都大学で倫理学を担当、一九三四年より東京大学教授。「和辻倫理学」とよばれる独自の倫理学を形成するとともに、文化史家・思想史家としても多彩な活動を行なった。一九五五年、文化勲章受章。著書に、『古都巡礼』『日本精神史研究』『風土―人間学的考察』『人間の学としての倫理学』『倫理学』他、多数。
本作品は一九五〇年四月、筑摩書房より刊行され、一九六四年五月、筑摩叢書に収録された。