和辻哲郎
鎖国−日本の悲劇 (前編)
目 次
序 説
前篇 世界的視圏の成立過程
第一章 東方への視界拡大の運動
一 東方への衝動・マルコポーロとその後継者
二 航海者ヘンリ王子の理念
三 バスコ・ダ・ガマによる実現
四 インド洋制海権の争奪
五 インド征服
六 マラッカ征服
七 植民地攻略
八 未知の世界への触手・キリスト教伝道
第二章 西方への視界拡大の運動
一 コロンブスの西への航海の努力
二 コロンブスの第二回及び第三回航海
三 アメリゴ・ヴェスプッチの新大陸発見
四 征服者たちの活動
五 メキシコ征服
六 ペルーの発見
七 インカ帝国
八 インカ帝国の征服
九 太平洋航路の打開とフィリッピン攻略
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[#2字下げ]序
この書は近世初頭における世界の情勢のなかで日本の状況・境位を考察したものである。著者はその境位の特徴を最も端的に現わすものとして「鎖国」という言葉を選んだが、それはここでは「国を鎖ざす行動」を意味するのであって、「鎖ざされた国の状態」を指すのではない。後者は前者の結果として現われたものであり、また目下のわが国の情勢を考察するに際して参考となるべき多くの問題を含んでいるが、しかしそれはまた別の取扱いを必要とするであろう。
この書の内容をなす個々の事項は、それぞれの専門家によって既に明らかにされていることのみであって、何一つ著者が新しく発見したことはない。しかし、それらの数多くの事項をこの書のような聯関において統一し概観するということは、恐らく初めての試みであると思う。著者は日本倫理思想史を考究するに当ってその種の概観の必要を痛感し、頻りにそういう著述を求めたのであったが、得られなかった。偶々戦時中、東京大学文学部の著者の研究室において、「近世」というものを初めから考えなおして見る研究会を組織し、西洋と東洋とに手を分けて、十人ほどの仲間といろいろとやって見たとき、著者にほぼ見とおしがついて来たのである。その際西洋の側では山中謙二教授、金子武蔵教授、矢嶋羊吉教授、日本の側では古川哲史教授、筧泰彦教授、日本キリシタンについては勝部真長教授から多くの益を得た。爆撃下の東京において、或は家を焼かれ、或は饑に苦しみながら、この探究の灯を細々ととぼし続けたことに対し、右の同僚諸氏に深く感謝の意を表したい。
本書の前篇の資料として著者が使ったのはたかだか Hakluyr Society の叢書位のものであるが、しかし方面違いの著者がこの叢書に親しんだということには、妙な因縁がある。多分昭和十一、二年の頃と思うが、丸善からアコスタの The Natural and Moral History of the Indies を売り込みに来た。Edward Grimston の英訳で一六〇四年の刊本である。当時の相場でたしか百円位であったと思う。しかし一年の図書費が三百円ほどに過ぎない研究室としては、この購入は相当に慎重を要するものであった。またアコスタについて当時何も知らなかった著者は、この書の価値をも判じ兼ねた。そこで著者は一応この書を読んで見たのである。そうして、何の期待も持っていなかっただけに殆んど驚愕に近い感じを受けた。ところで購入のために重複調べをさせて見ると、アコスタの英訳本は既に図書館に備えつけてあった。それがハクルート叢書の複刻本である。ここで著者は初めてハクルート叢書の存在を知り、第一期刊行の百冊のうちだけでも実に多くの興味深いものが揃っているのを見出した。図書館にあるのは大正大震災後英国から寄贈されたもので、百冊のうち四十四、五冊に過ぎなかったが、しかしそれらは皆近世初頭の航海者・探検家の記録であった。アコスタの書で味を覚えた著者は、時折それらをのぞき見るようになったのである。
後篇の資料として使ったのは、主として村上直次郎博士の飜訳にかかるヤソ会士の書簡である。『耶蘇会年報』第一冊(長崎叢書第二巻大正十五年)『耶蘇会士日本通信』上下二巻(異国叢書昭和二・三年)『耶蘇会士日本通信豊後篇』上下二巻(続異国叢書昭和十一年)『耶蘇会の日本年報』第一輯(昭和十八年)第二輯(昭和十九年)など、既刊のものが既に七巻に達している。前のハクルート叢書の英訳本に当るものが、ここでは村上博士の和訳本であった。ポルトガル語もスペイン語も読めない著者にとっては、原資料に接近する道はそのほかになかったのである。右のほかにはなお友人故太田正雄君がイタリア語訳本から重訳したフロイスの年報(『日本吉利支丹史鈔』所輯)をも用いた。がこのように原資料に直接触れることの出来ない欠を幾分かでも補うために、日本吉利支丹史に関する諸家の研究をも、右の宣教師の書簡と対照しつつ読んで見た。それによって吉利支丹史研究家のやり方につきいろいろなことを知ることを出来た。それらの研究書のなかで、海老沢有道氏の『切支丹史の研究』(昭和十七年)及び『切支丹典籍叢考』(昭和十八年)からは特に多くの益を得た。
著者は前篇及び後篇で扱ったいずれの事項についても「研究」の名に価するほどのことをやったのではない。しかしこれらの事項を互に密接に|結びつけ《ヽヽヽヽ》、その|統一的な意味《ヽヽヽヽヽヽ》を概観する、という仕事は、著者にとっても相当骨が折れたのである。それによって日本のキリシタン史の諸事象や戦国時代乃至安土桃山時代の日本人の精神的状況につき|方位づけ《ヽヽヽヽ》を与えることが出来れば、日本人及び日本文化の運命に関する反省の上に、幾分役立つことが出来るであろう。
[#1字下げ]昭和二十五年二月一日
[#地付き]著者
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[#2字下げ]序 説
太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情ない姿をさらけ出した。この情勢に応じて日本民族の劣等性を力説するというようなことはわたくしの欲するところではない。有限な人間存在にあっては、どれほど優れたものにも欠点や弱所はある。その欠点の指摘は、人々が日本民族の優秀性を空虚な言葉で誇示していた時にこそ最も必要であった。今はむしろ日本民族の優秀な面に対する落ちついた認識を誘い出し、悲境にあるこの民族を少しでも力づけるべき時ではないかと思われる。
しかし人々が否応なしにおのれの欠点や弱所を自覚せしめられている時に、ただその上に罵倒の言葉を投げかけるだけでなく、その欠点や弱所の深刻な反省を試み、|何がわれわれに足りないのであるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を精確に把握して置くことは、この欠点を克服するためにも必須の仕事である。その欠点は一口にいえば|科学的精神の欠如《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》であろう。合理的な思索を蔑視して偏狭な狂信に動いた人々が、日本民族を現在の悲境に導き入れた。がそういうことの起り得た背後には、直観的な事実にのみ信頼を置き、|推理力による把捉を重んじない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という民族の性向が控えている。推理力によって確実に認識せられ得ることに対してさえも、やって見なくては解らないと感ずるのがこの民族の癖である。それが浅ましい狂信のはびこる温床であった。またそこから千種万様の欠点が導き出されて来たのである。
ところでこの欠点は、一朝一夕にして成り立ったものではない。近世の初めに新しい科学が発展し始めて以来、欧米人は三百年の歳月を費してこの科学の精神を生活の隅々にまで浸透させて行った。しかるに日本民族は、この発展が始まった途端に国を鎖じ、その後二百五十年の間、国家の権力を以てこの近世の精神の影響を遮断した。これは非常な相違である。この二百五十年の間の科学の発展が世界史の上で未曾有のものであっただけに、この相違もまた深刻だといわなくてはならぬ。それは、この発展の成果を急激に輸入することによって、何とか補いをつけ得るというようなものではなかった。だから最新の科学の成果を利用している人が同時に最も浅ましい狂信者であるというような奇妙な現象さえも起って来たのである。
して見るとこの欠点の把捉には、|鎖国が何を意味していたか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を十分に理解することが必要である。それは|歴史の問題《ヽヽヽヽヽ》であるが、しかし歴史家はその点を明かに理解させてはくれなかった。歴史家が力を注いだのは、この鎖国の間に日本において創造せられた世にも珍らしい閉鎖的文化《ヽヽヽヽヽ》を明かにすることである。それはさまざまの美しいものや優れたもの、再びすることの出来ない個性的なものをわれわれに伝えた。それを明かにすることは確かに意義ある仕事である。しかしそれらのものの代償としてわれわれが|いかに多くを失ったか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということもまたわれわれは承知していなくてはならない。その問題をわれわれはここで取り上げようとするのである。
がその問題に入り込む前に、近世が始まるまでの、従って鎖国というようなことが総じて問題になるまでの、世界の歴史的情勢を概観して置きたいと思う。鎖国が問題になるのは|世界的な交通《ヽヽヽヽヽヽ》が始まったからであって、|一つの世界《ヽヽヽヽヽ》への動きは既にそこに見られる。鎖国とは一つの世界への動きを拒む態度である。従ってそれが問題になる以前の時代には、世界は|多くの世界《ヽヽヽヽヽ》に分れていた。そうしてそのなかでヨーロッパ的世界が特に進歩しているというわけでもなかった。しかし近世の運動はヨーロッパから、始まったのであるから、先ずそこから始めよう。
ローマ帝国が地中海を環る諸地方を統一して当時のヨーロッパ人にとっての世界帝国となったとき、それはまたこれらの諸地方の一切の古代史の集注するところでもあった。それは地理的にも歴史的にも東と西との総合を意味している。この|普遍的な世界《ヽヽヽヽヽヽ》において、|普遍的な《ヽヽヽヽ》政治や法律や文芸や宗教が形成せられたのである。その普遍性がインド的世界やシナ的世界を含まず、従って真に普遍的となっていなかったとしても、彼らにとっての東方と西方との世界、そこに存するさまざまの民族、に対して|普遍であった《ヽヽヽヽヽヽ》ことは、疑いがない。またそれを通じて把捉せられた|普遍性の理念《ヽヽヽヽヽヽ》は、その後の分裂的な民族国家や対立的世界に対して、常により高き人倫的段階を指し示すものとして作用することが出来た。
この普遍的な世界の崩壊は二つの方面から起った。一は|ゲルマン人の侵入《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》であり、他は|アラビア人の来征《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。
ゲルマン人のローマ帝国への侵透は極めて長期に亘って行われた。初めは傭兵として部分的に入り込み、或は北方の国境地方に於て徐々に侵透しつつあったのであるが、四世紀末の民族大移動につれて旺然とローマ帝国内になだれ込むようになった。その或者は女子供や生活資材を携えた|民族の集団《ヽヽヽヽヽ》がそのまま軍隊《ヽヽ》として行動したのであって、帝国を征服したというよりもむしろ帝国の版図内に入り込んで宿営《ヽヽ》したと云う方が当っている。彼らは土地の住民と妥協し、ローマ末期の宿営権《ヽヽヽ》に基いて、その土地の三分の一乃至三分の二を所有したのであった。従ってローマ人の権利や制度はその儘に残され、行政もゲルマン人が参加するのみでもとの儘であった。これは同じ土地に二つの生活が並存することを意味する。ゲルマン人は軍人であり、アリウス派であり、おのれの部族法に従っているが、ローマ人は非戦闘員であり、カトリックであり、ローマ法に従っている。かくてゲルマン人は、世界帝国の内部に|新しい郷土《ヽヽヽヽヽ》を獲得したのであって、新しい国家を形成したとは考えていなかった。イタリアからスペインにまで拡がったゴート族やブルゴーニュの地名を残したブルグンド族などがそのよき例である。が他方には原住地を根拠地としてそこから帝国の版図内に植民《ヽヽ》して行く種族もあった。このやり方では、ローマ人と並存するのではなくして、むしろそれを征服したのである。後のフランスの基礎を置いたフランク族がそうであった。後のイギリスの基礎を置いたアングロ・サクソン族に至っては、ローマの習俗全部を壊滅せしめたと云われている。
こういう二つのやり方でゲルマン人は五世紀から六世紀へかけてローマ帝国の中へ無秩序に入り込んで行った。その間にフン族の王アッチラの来襲とか、ゲルマン傭兵の指揮者オドアケルによる西ローマ帝国の滅亡(476)とか、東ゴート族のテオドリックによるオドアケル討伐とか、ロムバード族のイタリア占領とかの如き事件が起り、ローマ帝国の西欧側は完全に壊滅に帰した。
がゲルマン諸族の侵入はその後もなお数世紀に亘って続いて居り、ローマ帝国の廃墟から西欧の文化世界が明白に形成されるまでには、なお三百年の年月と、そうして他のもう一つの有力な契機、即ち|アラビア人の侵入《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が必要であった。
ローマ帝国の版図を東方・南方・西方に亘ってゲルマン人以上に広く侵蝕したのはアラビア人であるが、この東方からの侵入の起点はモハメッド(570 - 632)である。彼はセム族に普遍なアラー(Allah, hebr. Elohim)の信仰に新鮮な活気を与え、ユデア教やキリスト教の要素を取り入れて新しい民族宗教を作り上げた。それは一神への絶対服従の態度の故にイスラム(Islam)と呼ばれ、その信者(Moslem)は予言者及びその後継者(Kalif)を首長(Imam)として頂く固い宗教的共同体を形成している。その信仰の情熱は|戦闘的な拡大《ヽヽヽヽヽヽ》を目ざす態度となって現われ、極めて迅速に西に向ってはローマ帝国、東に向ってはペルシアと戦端を開いた。そうして教祖の死後十年には既に西アジア全体とエジプトとをトリポリタニアまで征服した。アレキサンダー大王の作った『一つの世界』はここに崩壊し、東方と西方とを統一したローマ帝国もその東方を失い去ったのである。
かく急激に成立した宗教的戦闘的な世界帝国は、それが世界的となったまさにその理由によって、種々の変質や反動を閲せざるを得なかった。オマイヤ朝(661 - 750)はカリフの権威を倒して純粋に|世俗的な支配《ヽヽヽヽヽヽ》を樹立したもので、国都をもメヂナからダマスクスへ移した。その頃からイスラムの内に持続的な分裂が引き起されたのである。が征服事業は依然として続けられている。東方は中央アジアや北インドまで、西方はアフリカ北岸を海峡まで七世紀の末に進出した。ヨーロッパへの侵入はまず初めにコンスタンチノープルを襲ったのであるが、八世紀の初めには西方スペインに侵入し、西ゴート族を打ち破って(711)半島全部を征服した。更にピレネー山脈を越えて(720)、フランスの中部にまで進出したが、これはフランク人によって撃退された(732)。しかしスペインに於けるイスラムの支配はこの後永い間続くのである。なおこれと並行して地中海の海上権力もまたアラビア人の掌握するところとなった。沿岸の諸地方や島々は彼らに侵略され、占領された。中でも目ぼしいのはシチリアの征服(827)である。こうして『東方』の力は『西方』の世界の心臓部に近く迫って来たのである。
西欧の文化世界の形成のためにアラビア人の侵入が必要であったというのは、この『東方』と『西方』との対立を指すのである。西欧の世界の形成のためにはまさにこの『東方』の圧力が必要であった。ローマ帝国に侵入したゲルマン諸族の間に初めて統一の萌しが見え、初めて国家を強力に形成したのは、前述のアラビア人の侵入を中部フランスに於てカール・マルテルが打ち破った頃からである。が重要なのはただこのような武力的圧迫のみではない。我々は当時のゲルマン諸族が文化的にはなお野蛮と呼ぶべき段階にあったのに対して、スペインに尖端を置くイスラムの文化が遥かに高い段階に達していたことを見のがしてはならぬ。
ゲルマン諸族は十一世紀に至るまでもなお野蛮であったと云われる。彼らはローマ時代の制度文物を荒廃せしめたのみで、おのれ自身は何ら新しいものを作り出し得なかった。従って彼らの侵入以来数世紀間の世界史的な出来事は、実はその侵入に悩みつつあったローマ人の力によるのである。その内特に注目すべきはローマの統一教会の強化発展であろう。元来キリスト教がローマ帝国に於て公認《ヽヽ》され、次で国教《ヽヽ》とせられるに至ったのは、ゲルマンの侵入よりあまり古いことではない。帝国の首都を東に移したコンスタンチヌス大帝がその統一の事業のためにキリスト教徒の勢力を利用し、その挙句この教を|公の宗教《ヽヽヽヽ》として認許したのは三一三年であって、民族大移動の開始に先だつこと僅か六十年である。この皇帝は自らも信者となったために、在来迫害されて来たキリスト教は反ってローマ旧来の諸教よりも優勢となったが、しかし四世紀はなお異教との対立抗争に充たされている。テオドーシウス大帝がキリスト教以外の宗教を厳禁したのは三九五年であって民族移動開始後既に二十年を経ている。カトリック教会の最大の天才とも云うべきアウグスチヌスは実にこのゲルマン侵入の時期に仕事をしたのであった。彼の有名な回心は三八六年のことであり、彼の名著『神国論』は、四一〇年のアラリックのローマ劫略によって全帝国が狼狽し湧き返っているさ中に、この帝国と教会との危機を救うべく、四一三年から書き始められたのである。その直接の意図は帝国の危機をキリスト教の責に帰しようとする保守的なローマ人異教徒に対して駁撃を加えるにあったが、しかし彼の預言者的眼光は、ローマ帝国の崩壊と、かかる現世的流転を超越せる永遠なる神の国の姿とを洞見し、来るべき時代を予示している。即ち彼に於て帝国内の異教徒との戦が外より侵入し来るゲルマンの異教徒との戦と接続しているのである。『神の国』の著述は十五年の年月を要し四二七年に完成したのであるが、その後三年を経ずしてヴァンダル族は北アフリカの彼の町ヒッポへも押し寄せて来た。彼は敵軍重囲の内に四三〇年に死んだのである。がかく異教徒と戦うことは教会をますます強靭ならしめ、西ローマ帝国が亡んだ(476)後に反って精神的な世界帝国の理念を育成している。特にフランク族の王クローヴィスの改宗はこの傾向に拍車をかけた。元来ローマの司教は諸地方の司教と同じく papa と呼ばれ、それが帝国の首府に位置するという以外に特別の優位を持たなかったのであるが、その papa の尊称や使徒の座の資格を独占《ヽヽ》して『法王』或は『教皇』と訳さるる如き意義を帯びしむるに至ったのは、むしろこの時代以後のことなのである。それはローマ文明の荒廃と反比例して高まって行った。六世紀に於て学芸の伝統を保持していたのは、現世的に無力となり終った知識人の隠遁所としてその頃始められた修道院のみであったが、そこから出た教皇グレゴリウス一世(590 - 604)は、アングロ・サクソンの教化に成功したのを初めとして多くのゲルマン諸族をカトリック教会の中に取り入れ、ローマの司教を|最高の司教《ヽヽヽヽヽ》として仰ぐに至らしめたと云われる。キリスト教が真に深くゲルマン諸族の中に根を下したのはなお三百年も後のことであるが、しかしゲルマン人の武力が現実を支配している西欧の世界に於て、文化的に着々とその発展を見せたものは、ローマの教会の他にないのである。
ところでこの教会の異教徒教化事業の最中に、西は北アフリカからスペインにまでも及ぶもとの帝国領が悉くモスレムによって征服され、そこに西欧に先んじて文化の華が開き始めた。ダマスクスのオマイヤ朝からバグダードのアッバス朝に代った頃がその始まりである。元来イスラムは東方のローマ属州を占領すると共にそこに残存したギリシア文化を熱心に吸収した。キリスト教によって殆んど窒息せしめられていたシリア地方のギリシア精神の如きも、イスラムによって解放され、力強く生き始めた。またイランやインドの文化圏も四方と密接に結びついて来た。九世紀に至ってイスラムの帝国が分裂したことも文化の華のためには好都合であった。というのは多くの主要都市が学芸や学校や図書館や天文台を守り育てる場所となったからである。先ずバグダードとバスラには最初の大学が出来た。東部イランでもニシャプール、メルヴ、バルク、ボハラ、サマルカンド、ガスナ、などが栄えた。その他イスパハン、ダマスクス、ハレブ、カイロなど。こういう広汎な文化交流を背景として、十世紀から十二世紀の頃にスペインではコルドバ、セビリャ、グラナダが、シチリアではパレルモが、文化の絶頂に達した。スペインには十七の大学があったと云われる。
こういう情勢の下に西欧より一歩先んじて発展したアラビアの哲学は、主としてアリストテレースに基き、また新プラトーン派を通じてプラトーンの影響をも受けていた。アラビア哲学の創始者として端的に『哲学者』と呼ばれていたアル・キンディは、数学者、医学者、天文学者でもあったが、八世紀の末にバスラで生れ、八七三年頃バグダードで死んだ。合理主義者であり自由思想家であったが故に多くの迫害を受けたと云われているが、アリストテレースの『オルガノン』の註釈を初め三十四種に上る哲学上の著述はあまり残って居らない。次で現われたファラビは九世紀の後半にトルキスタンのファラブで生れ、早くよりバグダードに来てアラビア語とギリシア哲学を学び、やがて自ら講義するに至った。歿したのは九五〇年ダマスクスに於てである。彼の著書は百種以上に上り大部分は失われたが、幸に『オルガノン』の註釈は残っている。彼の功績は、ギリシア哲学、|特に論理学《ヽヽヽヽヽ》の理解に初めて深く突き入ったことであると云われる。がその解釈には新プラトーン派の影響がある。あらゆる後代の学者は、キリスト教のアリストテレース主義者さえも彼に基いている。この師のあとを歩いたのがイスパハンで医学と哲学とを教えたアヴィチェンナ(980 - 1037)である。彼はファラビの立場から出発しつつアリストテレースの教説に還って行った。個性化の原理である質料《ヽヽ》は、神からの流出でなく、それ自身永遠でありあらゆる可能性を包蔵する。この考を彼は貫徹しようと努めた。論理学・形而上学等の彼の著書は大部分既に十二世紀にラテン語に飜訳されている。こういう飜訳がなされるのはスペインに於ても既に哲学が盛行していたことを示すものであるが、この地で最初に現われたアラビア哲学者はアヴェンパチェ(1138 歿)で、医学・数学・天文学等にも通じアリストテレースの註釈を書いた。その自由思想の故に迫害を受けたと云われるが、彼の立場は本能から神の理性的認識に至るまでの精神の発展を説くにあった。やや遅れて現われたイブン・トファイル(1185 歿)も同じく医学者・数学者を兼ねた哲学者であって、同様に人間精神が、超自然的啓示によらず全然自然的に発展して自然及び神の認識に達する段階を説いた。その同時代の後輩としてかの有名なコルドバのアヴェロエス(1126 - 1198)が現われたのである。彼はアリストテレースを尊信すること厚く、人間に於ける完成の絶頂、我々が一般に|知り得る《ヽヽヽヽ》ことを我々に知らしむべく神の与えた人、と讃めたたえた。だから彼の仕事の中心もまたアリストテレースの註釈であって、その大部分はラテン訳によってのみ知られている。彼はアヴィチェンナの質料重視の立場を更に押し進め、形相は萌芽的に質料の中にあってより高き形相の影響の下に展開せしめられるのであると説く。また彼は理性の受動的側面を認めるアリストテレースの説に対して普遍的理性の両面即ち能動的理性と質料的理性《ヽヽヽヽヽ》とを説き、質料的理性といえども受動的ならざることを力説した。彼が汎神論的《ヽヽヽヽ》であると云われるのは、この普遍的能動的な理性が個々人に分れてその生存中の精神となり、死後はその本来の普遍性に帰るが故に、個人的霊魂の不滅は問題とならないと説いたためである。
これらのアラビア哲学は西欧中世の哲学に甚大なる影響を与え、スコラ哲学の隆盛を将来した。それはアヴィチェンナ及びアヴェロエスの著書とトマス・アクィナスとの密接な聯関によっても察せられるであろう。がこの点は後に問題とする。
哲学のみならず、数学・物理学・化学・医学・地理学・天文学の如き諸科学、及び歴史学・言語学等も、九世紀以来熱心に追究せられている。数学はギリシアの伝統に従って哲学の一部分として取扱われたが、現在のアラビア数字や代数学などはアラビア人が西欧に伝えたものである。地理学はイスラムの版図の広さや交易の隆盛に伴って中世の如何なる民族よりも進んでいた。歴史学に於ても十世紀以来すでに普遍史が書かれている。
その他なお我々は文芸美術の方面に於ても、また農工商の方面に於ても、多くの優秀な特徴を考えることが出来る。それらのすべてに於てアラビア人は、ギリシア人には及ばなかったとしても、同時代の西欧諸民族よりは遥かに優れていたのである。特に商業はその得意とするところであった。彼らは航海の力によってインド洋と地中海とを独占的に支配し、東西を結ぶ陸海の貿易路を悉くその手中におさめていたが故に、リスボンよりインドやシナに至る広汎な領域に於て諸民族の間の貿易を独占し、巨大な富を集めていたのである。
この絢爛たる『東方』の文化に対してゲルマン諸族の『西方』の文化はどうであったろうか。ローマの教会が世界帝国の理念を宗教的に継承し、西欧を精神的に統一し始めたことは既に説いたが、それはアラビア人が哲学を作り始めた八・九世紀の頃に於てもなおゲルマン人の心を十分に支配してはいなかった。八世紀初めのアングロ・サクソンの叙事伝『ベオヴルフ』や、サクソンの『ヘリアント』の如き九世紀の古ドイツ文芸などは、未だ全然異教的精神に充たされている。教会のドグマにはゲルマン人の歯が立たなかったのである。この間、イギリスのスコトゥス・エリゲナ(877 歿)の如き西欧最初の独立的な思想家を出すには出したが、そういう学者はその時代には理解されず、教会から排斥された。
しかし十世紀の初めになると、ゲルマン人も漸くキリスト教を理解し始めたらしい。それは修道院の改革運動や神秘説の勃興となって現われた。がそれはファラビがバグダードで論理学の講義をしていた頃なのである。やがて十一世紀になるとパリに最初の大学が出来た。これが模範となって十二世紀以後には西欧の所々に大学が作られ始める。初めはギルド的な教師の団体として、やがては公の権力による設備として。それはアヴィチェンナが東方に現われ、スペインに於てアリストテレースが講義せられている頃なのである。西欧に於てはカンターベリーのアンセルムス(1033 - 1109)がスコラ哲学を始めるに至った。がかくキリスト教が理解せられ始めると共に世界史上の最も注目すべき事件の一つである十字軍(1095 以後)が惹き起された。酉欧の文化世界の形成とこの十字軍とはひき離して考えることが出来ない。そうしてこの十字軍こそ『東方』と『西方』との対立を露骨に具体化したものなのである。
この現象の理解のためには、ゲルマン諸族の|本来の生活要素《ヽヽヽヽヽヽヽ》たる『戦闘的なるもの』が、ローマの教会の教化のもとにどうなって行ったかを見ることが必要である。ゲルマン人にはもと|一つの平等な身分《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、即ち自由な、防衛的な、農民があった。(十二世紀に至っても北方の国々はそうであった。)然るにローマ帝国への侵入の時代に王や有力な首領やその従臣(vassal)などが出現し、やがて非戦闘的になった農民大衆と、王侯に奉仕する戦士とが分離するに至った。それに加えて十世紀頃から主君が手下の戦士と共に城(Burg)の中に住むようになる。また小さい領地が世襲になって小さい従臣たちが経済的にも社会的にも浮び上ってくる。更に数多くの|自由なき《ヽヽヽヽ》家人の俸禄としての領地も真の領地の如く取扱われるようになる。これらの事情から素姓の別は稀薄となり、|騎馬の武術《ヽヽヽヽヽ》という共通の生活が表へ出て来た。かくて自由を持たなかった従卒や家人は自由なる農民の上に出で、公侯や騎士の貴族階級に近づき、反対に、騎馬の勤めをせず代りに税を払っていた自由なる農民は隷属の地位に落ちた。この|身分の対立は氏族の対立《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を押しのけてしまう。騎士は農民を軽蔑し憎んでいる。軍隊はただ騎馬の軍隊である。かくして封建制度は、暴力的な、また冒険的な、職業戦士階級を産み出したのであった。
このような封建制度が形成せられて行く丁度その時期に、右の如き戦士たちはローマの教会に指導されつつ、スペインに侵入したアラビア人と対抗したのであった。スペインは絢爛たる東方文化の西方への尖端である。この地に於けるアラビア人は最初土地の住民に対して極めて寛大で、財産にも言語にも宗教にも手を触れなかった。下層階級はアラビア人の支配によって反って安楽となった。上層のものも多くイスラムに帰依したが、改宗しないキリスト信者と雖、ただ税を払うだけで、信仰や法律上の権利はもとのままであった。そういう状態であるから、東方で倒されたオマイヤ朝の苗裔が逃げて来た時、民衆は歓呼を以てこれを迎えた。この王のもとにコルドバを首都として建てられた(755)国は、学芸を奨励し、農工商の平和な発展を保護したが故に、着々として文化がすすみ、十世紀にはその絶頂に達した。今や数々の繁華な都市がこの国土を飾り、モハメダン支配下のスペイン全体で人口は二千五百万に達したろうと云われる。中でもコルドバは人口五十万、戸数十一万三千、三千のモスクや華麗な宮殿があった。がグラナダ、セビリャ、トレドなどもそれに比肩し得る町々である。それらを初め地方の諸都市に大学・図書館・アカデミーなどが営まれたのであった。この文化燦然たるサラセン王国に対して西欧を護るゲルマン族は、最初のサラセン侵入をスペインの北岸地帯で漸く喰いとめた西ゴート族のアストゥリアスのほかは、主としてピレネー山脈の麓に小さいキリスト教国を建てた。ナバルレ、アラゴン、カタロニアなどがそれである。アラビア人の寛容な政策に化せられて、最初の間は宗教的対立はさほど強烈でなく、キリスト信者たる王がサラセン女を母とし、キリスト信者たる公侯の娘がサラセン人の妻となっている如き例も少くない。カリフの部下にキリスト信者があった如く、キリスト教の王の下にモハメダンが仕えていた。民衆も十字架と半月との戦には冷淡であった。むしろ征服された領土の回復のための戦、その戦を通じての封建制度の発展の方が主要事に見える。ゲルマン族の戦士たちは、その力と勇気とを奮って、おのれよりも文化の優れたる民族の手からおのれの祖先の地を取り返そうとしたのである。かくして十世紀から十一世紀へかけてアストゥリアスはスペインの中部にまで進出し、カスティレと呼ばれるに至った。十一世紀の中頃には既にカスティレ王がスペイン皇帝と称するに至っている。
ローマの教会はこの戦を常に|信仰の戦《ヽヽヽヽ》として把捉せしめようと努めている。その努力が効を奏し、『東方』との戦を十字軍《ヽヽヽ》として実現するに至ったのは十一世紀末であるが、それと共に十二世紀に於てはサラセン人の側《がわ》にも狂信的な信仰防禦の傾向が加わり、スペインはその烈しい戦場となった。西欧中世の騎士道はこの十字軍の精神に於て満開するに至るのであるが、その最初の形成はアラビア人との接触によると見られる。騎士道の発祥の地は南フランスであるが、その本源はペルシアであると云われている。|騎士的な風習《ヽヽヽヽヽヽ》、|騎士的な闘い方《ヽヽヽヽヽヽヽ》、封建的な騎士制度《ヽヽヽヽ》、それらはペルシアに起りアラビア人によって西欧に伝えられたのである。ゲルマン人の主従関係に本来伴っているのは、男の間の信義、武功手柄、という如き理想であったが、騎士道としてはそれ以外に|信仰の防衛《ヽヽヽヽヽ》、|弱者の保護《ヽヽヽヽヽ》、婦女尊崇《ヽヽヽヽ》などの義務が加わって来た。|スペインの騎士は今やその尖端に立っている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。国民的矜持・狂信・騎士的感覚、それがカスティレ風の特質である。これは数世紀の後にスペイン人とポルトガル人(これは十二世紀にカスティレから独立した)とが西欧人の世界進出の尖端に立つことと密接に関係のあることなのである。
以上によって明かなように、ゲルマン諸族に於ける戦闘的性格が騎士の姿を取って現われたことは、教会の教化によるのではない。がかくして現われた騎士は信仰の守護者として教会のための戦士となっていた。|それを示すのが十字軍《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。スペインの騎士が長期に亘って体験したことを、十字軍は西欧全体に押しひろめた。がそれは、スペインの騎士がイスラムに征服された国土を奪還しようとして戦った如く、イスラムに征服せられたローマ帝国の版図を奪回しようとして企てられたのではない。スペインの騎士が後に自らをキリスト教の守護者として感じ始めた如く西欧の諸王が『キリスト教を奉ぜる王』として、|教皇の指導《ヽヽヽヽヽ》のもとに、聖墓奪還《ヽヽヽヽ》を目ざして軍を起した、それが十字軍なのである。それは全く不思議な現象であった。サラセン人やビザンツ人の眼から見ればなお野蛮人に過ぎないヨーロッパ人が、単純に宗教的な情熱から、一切の街道を充ち塞ぐほどに群をなして遥々と東方の世界へ押し寄せて行く。中には婦人子供をさえも伴っている。この狂信と献身との不思議な結合によって、一時はエルサレムが征服され、そこに王国が建設せられた。しかしやがてイスラムの国に於てトルコのセルヂュック族が国内の統一を強化し始めると共に、十字軍士の建てた国も危くなり、第二第三と起された十字軍も効を奏せず、パレスチナは再び失われた。その回復のために更に二度三度と遠征が企てられる。かくて十字軍の騒ぎは前後百六十年に亘ったが、結局その目的を達し得なかった。
しかし十字軍が西欧の形成に対して担っている意義は甚大である。それは西欧が|一つの統一的な世界《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であるという自覚をはっきりとヨーロッパ人に植えつけた。この自覚はまた『東方』がおのれに対立する世界、|おのれの外なる世界《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であるとの自覚であり、そこから|東方に対する永続的な衝動《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が生れてくる。この自覚と共にまた教皇の権威は皇帝の上に出で、西欧キリスト教的世界に君臨するに至った。ここにローマ帝国と異った独自の西欧帝国《ヽヽヽヽ》が明白に仕上げられたのである。
西欧中世文化の絶頂は十二・三世紀の頃であるが、それは丁度十字軍の時期にほかならぬのである。騎士道《ヽヽヽ》が完成されたのもこの時期であり、しかも特徴的現象として、パレスチナやスペインの如き東方との闘争の前線に於て、騎士団《ヽヽヽ》が形成された。これは騎士を僧団的に組織したものであって、|戦闘的ゲルマン的《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》なるものと宗教的謙抑的《ヽヽヽヽヽヽ》なるものとの結合だと云ってよい。かかる騎士団は、やがて西欧全体に拡がり、夥しい財産の寄附を受けた。それによっても知られるように、騎士道は西欧全体に通用する国際的なものである。この|騎士道の文芸的表現《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》もまたこの時期に起った。アラビアの吟唱詩人の影響の下にまず南フランスから『トゥルーバドゥル』が起ってくる。同じくプロヴァンスの抒情詩も、迅速にスペインやイタリアにひろまり、北フランスやドイツの抒情詩の模範となった。北フランスでは、聖盃伝説《ヽヽヽヽ》と結びついたアーサ王の円卓騎士の物語や、サラセンとの戦を背景とするローランの物語などの英雄叙事詩が作られた。これらには十字軍的な観念が強く現われていると云ってよい。
学問に於てもそうである。教会の哲学を完成し、カトリックの模範的哲学者として尊崇せられているトマス・アクィナス(1227 - 1274)に於て、我々は烈しい十字軍的態度を見出すことが出来る。元来トマスはアリストテレースの開展《ヽヽ》の思想を取って教会の哲学を組織したのであるが、そのアリストテレースの大きい著作は十二世紀に至るまで西欧に知られていなかったのである。それがスペインに於てアラビア語からラテン語に重訳せられ、アヴェロエスの註釈のラテン訳と共に西欧に紹介せられたのは、十二世紀の末の頃である。十三世紀にはこれに基いてアリストテレースを解釈する一つの学派が成立した。その特徴は個人的な霊魂の不死を認めず、普遍的理性に於て不滅であるとした点にある。教会は最初アリストテレースの研究を喜ばず、それを禁止すること三度以上に及んだのであるが、やがてアリストテレースの体系が教会の信条と結合され得ることを見出し、その摂取を企てるに至った。この大勢の下にトマスはアリストテレースの研究に入ったのであるから、アラビア学者からの影響は避けるわけには行かなかった。彼の師アルベルトゥス・マグヌス(1193 or 1208 - 1280)はアヴィチェンナのアリストテレース解釈の方法を学び、アリストテレースの著述を解り易く云い換えようと努めたが、しかしトマスは|アヴェロエスの方法《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を学び、アリストテレースの|言葉の意味《ヽヽヽヽヽ》を出来るだけ忠実に再現してその思想内容を把捉しようと努めたと云われる。これには異論もあり、トマスの方法は聖書解釈の方から来たと論ぜられているが、併しトマスのアリストテレース研究も最初アラビア哲学者の労作に基いたこと疑いないのである。然るにトマスのアリストテレース註釈の仕事の特徴は|アヴェロエスに対する攻撃《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にある。彼はアヴェロエスを以てアリストテレースの真意に反し真意を誤るものとした。従ってアリストテレース哲学からアヴェロエス的解釈の殻を取り去ることが彼のアリストテレース註釈の主要任務とさえなった。アヴェロエスに対する烈しい攻撃が最初に現われてくるのは、Summa contra Gentiles であるが、これはスペインのアラビア人やユデア人の間に伝道するドミニカンのために論難攻撃の教科書として書かれたものである。丁度この書の著述の頃にトマスはギリシア原典からのラテン訳にもとづいて独立にアリストテレース研究を始めていた。アヴェロエスのアリストテレース解釈が誤謬であることを彼は右の根拠から指摘したのである。更に晩年トマスが再度パリの教職に就いたとき、大学のアヴェロエス派と対立することによって一層アヴェロエス攻撃の熱が高まった。当時の著 De unitate intellectus contra Averroistas(1270)は、アヴェロイズムに対して教会の教理を守ろうとすると共に、またアヴェロエス派的解釈によって危険思想家にされ兼ねないアリストテレースの真実の姿を守ろうとしている。このように最大のスコラ哲学者のアリストテレース解釈は|アヴェロエスに対する戦《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という旗の下になされた。そうして|アヴェロイズムに対する学問的征服《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が聖トマスの功業の一つであった。ここに我々は、異教徒《ヽヽヽ》アリストテレースを|教会の哲学者《ヽヽヽヽヽ》と|イスラムの哲学者《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》とが奪い合っている、という事実に面接するのである。それは古代の世界帝国の遺産を『東方』の手から『西方』が奪い返そうとする運動にほかならない。即ち十字軍と同じ動機が精神的世界にも現われているのである。
かくの如く十字軍的観念によって教会の指導の下に西欧が一つの統一的世界として自覚されたということの最も巨大な記念碑はダンテ(1265 - 1321)の神曲であると云ってよい。元来この種の世界的古典は、ホメーロスやシェークスピアやゲーテなどの作品に於ても同様であるが、それの作られた時代と社会とが相続して持っている世界の文化の綜合を表現したものである。神曲もまたギリシア・ローマの古代の文化、及び『東方』の文化を、中世の西欧、特にイタリアの文化の中に渾融し、それを教会の精神に於て極めて独特な仕方で統一している。この作品の輪郭をなす地獄界、浄罪界、天堂界の幻想の中にペルシアあたりの幻想が力強く流れ込んでいること、従って仏教に流れ込んだ地獄極楽の幻想と源泉を同じくするらしいことは、それ自身極めて興味ある研究問題であるが、この輪郭の中にはめ込まれた豊富な世界史的内容が教会の立場から価値づけられて地獄の底から九天の高所に至るまでの実に顕著な高下の差別の中に配列せられているのを見る時、我々はこの詩の幽幻な美しさにも拘らずなお十字軍的な烈しい精神を感ぜざるを得ない。神曲の神学的構成の基礎にトマス・アクィナスの体系、特に Summa contra Gentiles が用いられているのも故なきことでない。もとよりトマスは中世最大の哲学者に相違ないが、しかし彼がその師アルベルトゥス・マグヌスなどと共に高く天堂の第五天(火星天)に栄光に充たされて位しているのに対し、ソークラテースやプラトーンやアヴィチェンナやアヴェロエスが低く地獄に落されていることは、何としても偏狭の見と云わざるを得ない。同様にイェルサレムの大虐殺や南フランス全体の大劫掠を伴った十字軍の戦士たちが、トマスよりも更に高く第七天に於て燦然たる光となって輝いているに対し、東方を一つの統一的世界に形成する力の源となったモハメッドが、地獄の奥底たる第九圏に間近いところで、人類の間に分裂や殺し合いをひろめた罰として、頬から口まで切り裂かれ、腸や心臓を露出して苦しんでいることも、あまりに党派的な見方と評せざるを得ない。このような評価の体系は、少くとも西洋の古代に関しては、ルネサンスに至って全然覆えされたのである。
十字軍の影響としてはなお他に|都市の勃興《ヽヽヽヽヽ》、|市民階級の形成《ヽヽヽヽヽヽヽ》をあげて置かなくてはならぬ。既に十世紀頃より純粋の農民的自然経済は崩れ始め、手工業と商業とが再び栄えようとしている。経済的意味に於ける都市生活は、ローマ時代の都市が僅かに名残りを留めていた南方《ヽヽ》に於て、十世紀の頃に始まり、次で十一世紀には北方《ヽヽ》にもひろまった。そこでは都市の住民――商人、手工業者、召使、家来などが結合して市民共同体をつくり、自治権を獲得した。それは司法、警察などの組織から防衛隊の結成にまで及んでいる。こういう自治的な都市が教会や封建君主の権力と戦って漸次|自由都市《ヽヽヽヽ》としての存立を獲得して行ったのが丁度十字軍の時期なのである。十字軍による輸送や交通や貿易の活溌化は必然に都市の活動を刺戟し、急激にそれらを発達させた。特にイタリアの諸都市が顕著であった。ヴェネチア、アマルフィ、ナポリなどは既に九世紀の頃から海に進出してアラビア人に対抗していたが、十一世紀にはそれをイタリアの島々から駆逐した。これは東方への反撃の先駆と云ってよい。十二世紀にはピサやジェノヴァが進出して東方との貿易に加わった。こういう海上の勢力が十字軍と結びついて急激な海運都市の勃興となったのである。フィレンツェ、ミラノなどは海に沿っていないが、しかしその興隆は貿易に基いている。イタリア以外ではマルセーユ、バルセロナなどが海運都市として興ったが、十三世紀に至るとブルージュ、ガンなどを初めとしてライン河畔やダニューブ上流、北海・バルト海沿岸などに多数の都市が出現する。そういう都市の隆盛と同時に市民共同体の内部には種々の職業団体(ギルドやツンフト)が発達し、外部には都市同盟が盛んになる。やがて十四・五世紀に於ては、かかる都市の内部に於ける民主主義運動や外部に於ける国際関係からして近代国家に関するさまざまの思索が現われてくるのである。かく見れば十字軍の刺戟によって起った都市こそ、|西欧を近代化する母胎《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であったということが出来る。その母胎の近代初頭十五世紀に於ける情勢は、パリ、ナポリ、パレルモ、ヴェネチアのみが人口十万以上、ローマ、フィレンツェ、ジェノヴァ、ブルージュ、ガン、アントワープなどが五万乃至十万、リュベック、ケルンが五万、ロンドンが三万五千、ニュルンベルクが三万であった。
以上の如く『東方』との対立に於て出来上った西欧の統一的世界は、この対立によって形成を促進されたというまさにその理由によって、また崩壊に面しなくてはならなかった。十字軍は前にもいった如くゲルマン諸族の戦闘的性格が教会の理念を通じて表現せられたものであるが、それによって|教会の統治《ヽヽヽヽヽ》が強化されると共にまた戦闘的性格《ヽヽヽヽヽ》そのものも醇化した形に展開せざるを得なかった。それは世俗的な国家生活の発展や自由な人間生活の形成に於ける無限追求の精神である。教会的統一の形成のために必要であった精神的閉鎖性は、今やこの無限追求の精神にとっての束縛となり、それを破る努力を呼び醒してくる。一切の自由な思索を禁圧し、理性を牢屋に閉じ込めていた教義の支配は、今や揺り動かされねばならぬ。この支配の下に固定させられていた社会組織や、情意の自然的な活動を抑圧されていた個人の生活は、今や解き放されなくてはならぬ。かくて西欧の統一的世界を打ち破り、人間性を解放しようとする運動が、ルネサンスとして爆発し、近代ヨーロッパを産み出してくるのである。
この運動は十四世紀の初頭に先ず教皇権の王権に対する敗北となって現われた。十字軍の経験から最初に中央集権策によって国家を強化しようとし始めたフランスの国王が、教皇を制御するに成功し、更にそれをアヴィニヨンに移したのである。教皇が西欧に君臨するという権威はここで倒れた。西欧が|一つの統一体《ヽヽヽヽヽヽ》であることはここに終りを告げ、それに代って民族的統一《ヽヽヽヽヽ》が現われ出ようとする。しかしそれは一朝一夕に近代国家にまで発展したのではない。対外的には国と国との間の戦争が頻々として起り、内部に於ては僧侶と貴族と都市との間の激しい闘争がくり返され、それを通じて漸く近代国家が形成されるのである。
この道程に於てイギリスの憲法マグナ・カルタの制定は劃期的なものであるが、しかしこの制定によって直ちに国内の混乱が止んだのではない。議会制度は未だ国内の秩序を維持する力を持たなかった。教皇権と共に中世を標徴する騎士の階級は、今や崩壊の時期に瀕して、その最も悪い面を示し始めた。それはヨーロッパ全体に亘っての現象である。騎士は恣にその城壁から出て通りすがりの旅人を掠奪する。城郭にたてこもる貴族は何人の統制にも服しようとしない。こういう混乱のなかでわずかに秩序を保ち得たのが、新興の勢力としての都市《ヽヽ》であった。それは団結によって市民の生活を護り、秩序によって暴力に対抗し、そこから近代ヨーロッパを産み出して行ったのである。
この形勢に於て先駆的役割をつとめたのがイタリアであった。十字軍の影響の下に急激に勃興した諸都市は、それぞれ独立の自治組織を形成したが、今や皇帝権も教皇権も崩壊し去るに及んで、国家としての態度を整えて来たのである。中でも強力なのは、ヴェネチア、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ナポリの五国であった。中世の標徴たる騎士はここでは早くより消滅し、それに代るものとして傭兵とその首領(Condottiere)があるのみであった。それは社会に於ける一定の身分ではなく、報酬に応じてどの国家のためにも戦争に従事する一種の企業家である。国家はここでは身分の差別の殆どない市民によって構成され、多くは共和制を取った。勿論そこには市民共同体全体を包む純政治的な組合組織を形成したフィレンツェの如きもあれば、確乎たる貴族政治を樹立したヴェネチア共和国の如きもある。がいずれも近代国家の風貌を供えていることは否定出来ない。この中にあって国家の問題を深く考えたフィレンツェのマキアヴェリが、その後のヨーロッパ近代国家に対してさまざまの示唆を与え得たのは故なきことでない。
しかし狭いイタリアの中に数多くの小国家が並立して相争い、また絶え間なくスペインやフランスからの侵入を受ける情勢にあっては、国民的国家《ヽヽヽヽヽ》としての近代国家はここに見出すことが出来ない。それはイタリアの民族全体にとっては分裂・争闘・残虐・不安に充ちた生活であった。しかもその中からイタリア人は、ギリシア盛時にも比肩すべき華々しいルネサンスの文化を作り出したのである。この視点から見れば、争闘と残虐に充ちたその生活は、人間性解放の一つの現われと解せられるでもあろう。チェーザレ・ボルヂアに於て最も強健な超人的性格を見出そうとする如き見方は、まさにその代表的なものである。十字軍を背景として産み出されたイタリア諸都市の文化は、文弱《ヽヽ》なものではあり得なかった。地獄の苛責を以て人を嚇かそうとする教会の権威を大胆にはねのけ、ただ異教的な古代の文化にのみ親縁を感じつつ、しかもその古代人以上に人間的な美を結晶させようとしたルネサンスの芸術家は、すべて強剛な豪胆な個性の持主であった。イタリアのルネサンスの偉大さはこの『強さ』に基くところ少くないのである。
イタリアのルネサンスの本質的な特徴は、|個人の発展《ヽヽヽヽヽ》、|古代の復活《ヽヽヽヽヽ》及び|世界と人間の発見《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》において認められている。中世人が外界をただ教会の教に従って空想的にのみ理解し、自己をただ何らか全体的なものの一分子としてのみ感じたのに反し、ルネサンスのイタリア人は外界を|客観的に《ヽヽヽヽ》直視し、自己を|独立の個人《ヽヽヽヽヽ》として自覚し始めた。十三世紀が終ると共に突如としてイタリアには個性的人物《ヽヽヽヽヽ》が簇出し始める。既にダンテがそうであるが、都市国家の政権を握るデスポットや軍隊を率いるコンドチェーレの如き著名な人物のみならず、一介の市民にさえもこの傾向が見られる。これは云わば中世人に対する『神』の代りに『自然』を置きかえた態度なのであるが、ここにこそ近代ヨーロッパ文化の出発点があるのである。しかし、外界を客観的に眺めたからと云って直ちに自然的精神的世界の認識に徹し得るものではない。ここに指導者として入り込んでくるのが古代《ヽヽ》である。そこには神話伝説の代りに厳密な学問があり、教の代りに無限追求の精神がある。叙事詩や歴史は朗らかで自然的な人間の生活を鮮やかに示してくれる。それによって育成されたイタリアの精神は、やがて|外的世界の発見《ヽヽヽヽヽヽヽ》に向い、中世の閉鎖的な眼界を打ち破ろうとするのである。既に十字軍の遠征はヨーロッパ人に遠い国々への衝動を植えつけたのであるが、その衝動が最初に知識欲《ヽヽヽ》と結びついて冒険的な旅行に出で立たせたのは、イタリアに於てであった。それはイタリア人が地中海の航海と貿易とに早くより乗り出し、東方の国々に馴染んでいたせいでもあるであろう。既に十三世紀の末にマルコ・ポーロ(1254 - 1324)はシナまで旅行した。その後|発見のために《ヽヽヽヽヽヽ》海外へ乗り出して行ったイタリア人は枚挙に遑がないと云われる。彼らは皆先駆者の思想や意志を継承し、それに基いておのれの計画を立てたのである。そういう中から遂にコロンブスを出すに至ったのは決して偶然でない。
この発見の精神はまた近代の自然科学を出発させた。既に北方に於ても十三世紀にアルベルトゥス・マグヌスは物理学・化学・植物学等についてのかなりの知識を示して居り、またイギリスのローヂァ・ベーコン(ca. 1214 - ca. 1294)はアラビアの自然科学の影響の下に現象の真の聯関についての驚くべき洞察を見せ、自然観察に帰るべきことを説いてスコラ的体系に容赦のない攻撃を加えている。これらは近代自然科学の先駆者に相違ないが、その時代その社会からは理解されず、後者の如きは迫害をさえ受けた。しかるにイタリアでは自然の観察探究が国民全体によって歓迎された。ダンテの神曲のなかに含まれている詳しい天文学的な知識は、その時代の読者には常識に過ぎなかったのである。そういう背景のもとに経験的自然科学はイタリアに於て最も早く進んだ。教会の干渉も北方に於けるほど甚しくはなかった。かくて十五世紀の末にはパオロ・トスカネリ(1397 - 1482)、リオナルド・ダ・ヴィンチ(1452 - 1519)などを出し、数学・自然科学に於てヨーロッパに並ぶものなき先進国となったのである。そうしてそのトスカネリこそコロンブスに西廻りインド航路の考を与えた人であった。
この発見の運動は、近代ヨーロッパが中世の閉鎖性を破って|外に進出する《ヽヽヽヽヽヽ》という傾向を最も直観的に示しているものであるが、それを力強く実行に移したのは、イタリア人ではなくしてスペイン人及びポルトガル人であった。即ち『東方』との争闘の中に成り立った国々、『東方』との戦の最前線にいた民族が、今や新しく『海外十字軍』を始めたのである。そうしてこの事業こそ近代ヨーロッパを形成する最後の重要契機にほかならない。我々は近代ヨーロッパの考察をそこから始めたいと思う。
以上概観した歴史的経過は、東方と西方の合一と対立とを含むとは云え、我々の住む東亜文化圏とはかかわりがない。東方は漸くインドに触れるのみで、マルコ・ポーロの頃に初めてシナと日本をその眼界に含ませてくるのである。しかしインド及びシナの文化圏は、実質上西方の文化とさまざまの交渉を持っているのみならず、ヨーロッパの文化圏に対して決して劣らない世界史的意義を担っている。にも拘らずそれが対等の取扱いを受けないのは、近代ヨーロッパとの接触以後に、相拮抗するだけの文化的発展をなし得なかったからである。我々はその点をも簡単に通観して置かなくてはならない。
インドはローマ帝国の世界統一の時代には、同じくギリシア風要素を摂取した高度の文化を以て、それ自身の視圏内に於て統一的世界を形成していた。大乗仏教の結構壮大な哲学や文芸や美術はこの時代の創造にかかるものである。のみならずその活動はローマの世界統一よりも永く続いている。中観哲学と瑜伽行哲学との創成は既に四世紀までに終っているが、しかし西ローマ帝国の滅亡の頃にはなお中観派と瑜伽行派との哲学者たちの活動は活溌に続いているのである。両者が学派として明白に対立するに至ったのは、むしろ六世紀の事に属する。真諦や玄奘がシナに伝えた仏教哲学はこの時代の学者の解釈を通じたものである。七世紀からは漸く衰頽時代に入っているが、それでも真言系統の象徴的哲学が起っている。そうしてそれらはヒマーラヤの彼方に移って新鮮な活力を発揮するに至った。しかし西欧が漸くその独自の文化を作り始める頃にはインドはその頽廃の底に達し、やがて十世紀の終り頃にはマームードの征服に遇うに至った。その後は『東方』の世界の一契機に過ぎなくなる。
シナに於てローマ帝国に比肩するものは両漢の帝国である。それは古い周の文化を継承しつつも戦国時代以来外来的要素を取り入れ、当時の東亜全体に及ぶ統一的世界を形成した。それは黄河流域の狭い区域に限られた周代の世界に対して全然新しい世界である。この広汎な統一的世界の形成がシナ文化にとって如何に決定的な意義を有するかは、シナの民族を漢民族と呼び、シナ文字を漢字《ヽヽ》、シナ語を漢語《ヽヽ》と云い慣わしていることによっても知られるであろう。シナの民族はその後数々の新しい要素を加え、漢代のそれと決して同じものではない。シナの言語もそうである。しかもそれを我々は漢の名に於て統一的に把捉するように習慣づけられているのである。
この統一的な世界はローマ帝国よりも一歩早く三世紀に崩壊した。あとに三国時代が続き、やがて盛んに異民族の侵入をうけることになる。民族運動による混乱も西方よりは一歩早く、既に四世紀の初めには外蛮が中原を制している。混乱の時期は西方と同じく三百年以上に及んでいるが、その収拾の仕方は西方と同じではない。西方に於てはローマの文化は殆んど破壊され、ローマ人の征服民族に対する文化的逆征服は本来ローマ的ならざるキリスト教を以てなされた。然るに東亜に於ては漢文化はそれほど破壊はされなかった。次々に入り込んで来た外蛮は大体に於て漢文化に化せられる。言語さえ漢語を使うようになる。従って民族渾融による新しい文化の創成は、漢文化を土台としてなされたのである。勿論それによって漢文化自身も顕著な変化を受けなくてはならなかった。かくて西方より一歩早く、七世紀の初めに華々しく開き始めたのが隋唐の文化である。
我々はこの隋唐の文化が民族の渾融によって新しく創成されたものであるという点を忘れてはならぬ。隋室の祖先は北狄の間に育ち、少くとも母系には北族の血を混えている。唐朝の李氏も蕃姓と見られ得る。そうしてその部下の有力者中には異民族のものが多かった。隋唐の文化はそういう異民族の協働の下に外来の要素を盛んに取り入れつつ形成せられたのである。インドの哲学・宗教、ペルシアの思想・芸術、林邑の音楽・物資等は旺然として隋唐の文化に流れ込んだ。かくして唐代の詩や絵画や美術に見られるような豊醇な様式が作り出され、或は唐代の仏教哲学に見られるような壮大な体系が建立せられたのである。それは漢文化とは顕著に異ったものであるが、しかしシナに於て創られた文化としては最高のものであり、また当時の世界全体に於てどこにも比類を見出し難いほど醇美なものである。七世紀より九世紀に至る西方の文化が遥かにこれに劣ったものであることはいうまでもなく、アラビアの文化も到底是に及ばない。従ってこの文化の影響は東亜全体はいうまでもなく、遠くアジアの西の方に及んでいるのである。
この文化は西欧がその固有の文化を展開し始める前に既に終末に達した。それには契丹などの外蛮の国の勃興や、トルコ族の国内に於ける跳梁なども有力な契機となっているが、今度は混乱僅かに半世紀余にして宋の統一(960 - 1279)を実現した。しかしこの統一は唐代に於ける如く東亜の世界全体に亘る広汎なものではなく、外囲に契丹等の異民族の国を控えて、シナ固有の版図(後にはその半ば)に集約的な文化を形成したものである。従ってそこには再び|シナの土地に固有な色彩《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が蘇って来たように見える。仏教が著しくシナ化されて禅学《ヽヽ》となり、儒教が再び活溌となって仏教の影響の下に形而上学《ヽヽヽヽ》を発展させた如きは、そのよき例である。これらはいずれもシナ独自の創造として重視さるべきものであろう。が特に注意すべきことは、この宋の文化が西欧の中世文化とほぼ時を同じくするに拘らず、西欧の中世を特徴づける封建制度がここには存しないことである。宋の政治は意識的に武力の支配を排除し、民衆の活力を開放した。そのために商工業は栄え、農民の地位は向上し、都市生活は頗る繁華となった。かかる点に着目してここに既に近代的傾向を見ようとする学者もある。それにはなお他に都合のよい事実を数えることも出来るであろう。火薬や羅針盤の発明、印刷術の大成などは、西欧よりも遥かに早く、宋代に於て実現された。しかもその印刷術の如き、一切経の出版という如き大事業をさえもなし遂げている。地理的な知識も、遠く地中海の沿岸、エヂプト、シシリー、スペインにまで及んでいた。そういう傾向の総括として儒教の大成者朱熹(1130 - 1200)は格物致知《ヽヽヽヽ》を力説している。それも近代の黎明を示していはしないか。なるほどそうも云えるであろう。しかしその格物致知の精神にも拘らず、東亜の世界には西欧の近代科学の如きものは起らなかった。火薬や羅針盤や印刷術に先鞭をつけながら、それによって近代の技術や思想の解放などが促進されず、逆にそれらを伝えた西欧人のためにそれらの力を以て圧迫されてしまった。ここに大きい問題があると云わねばならぬ。朱熹はトマス・アクィナスよりも二世代ほど早く現われ、トマスと同じくその時代の哲学の大成者となった人であるが、格物窮理によって近代を先駆するというよりも、むしろ|中世的な経典解釈の態度《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に於てトマスに酷似する。朱熹に対する経典や聖人の権威はトマスに対する聖書やキリストの権威と毫も異るところがない。従って宋の文化は全体として西欧の中世よりも進んでいるに拘らず、最も重要な点に於て依然として中世的であり、西欧近代を特徴づける思想の自由・無限追求の精神を欠いているのである。
しかしそれはシナ民族の性格によるのであろうか。或は時代がまだそれほどに熟していなかったことに基くのであろうか。この点は重大な問題として慎重な考察を要すると思うが、とにかく運命は丁度このあとへ右の如き発展を不可能ならしめるような情勢を与えた。それは蒙古人によるシナ征服である。チンギスカンに始まる蒙古の勃興、世界征服の事業は、ヨーロッパに対しては一時的な挿話に終った(1236 - 1243)が、西南アジアよりシナにかけては重大な影響を与えた。クビライがシナ征服を完成した頃(1260 - 94)には、西欧、インド、エヂプト、日本を除いて、当時知られていた限りの世界全体を統一し、世界史上空前絶後の大帝国を建設したといわれる。しかし蒙古人自身は見るべき文化を持たなかったのであるから、その征服は破壊的な効果をしか与えなかった。シナに於ても宋代の文化を担っていた人々は社会の最下層に落され、シナの外蛮金及び高麗人の方がその上に位する。更にその上にアラビア人その他西域から来た異民族(色目)が立ち、それら全体の上に支配階級として蒙古人が位する。かかる情勢に於ては宋の文化は萎縮するほかはなかったのである。
しかし右の統一はイスラムの文化圏とシナの文化圏との統一にほかならず、従って|アラビアの文化《ヽヽヽヽヽヽヽ》、特に天文学・数学・地理学・暦・砲術等の知識が、シナに流入したことは顕著な事実である。郭守敬の授時暦はこの事実を記念するものとしていつも指摘されている。この点に注目すれば、西欧がスペインに於てアラビア人から受けたと同じような刺戟を、シナ人もまた蒙古人のお蔭で西欧とほぼ同じき十三・四世紀の頃に、アラビア人から受けることが出来たと云える。しかるにその刺戟の効果は西欧とシナとでは著しく異っている。西欧ではそれが教義の支配という牢獄を破るのに役立った。シナでは逆に朱子学が官学とされ、中世的な閉鎖性を強めることとなっている。ここにも我々は重大な性格の相違を看取せざるを得ない。
しかし蒙古帝国の統一は、更にもう一つ重要な結果をもたらした。それは西欧人にインド、シナ、日本等、彼らの『東方』の概念の内に含まれていなかった東方の文化圏を知らしめたことである。ここに於て|東方への衝動《ヽヽヽヽヽヽ》はインド、シナ、日本等|未知の国々への衝動《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》となって力強く働き出した。そこに我々の当面の問題が現われてくるのである。
最後に我々は以上の推移に対して日本の諸時代を位置づけて置きたい。
我国が国家としての統一を形成したのは漢が東亜に統一的な世界を作り出した頃であろう。鏡玉剣の権威による統一は漢鏡と引き離して考えることが出来ない。その国家が朝鮮半島に於て長期に亘り軍事行動を展開したのは四世紀の末頃である。丁度西欧の民族移動と時を同じくしている。その結果我国は漢字漢文の摂取を初めシナ文化の具体的な理解を開始した。やがて仏教を受け容れ、隋唐の新文化に接し、極めて迅速に法制の整備した国家組織を作り上げた。それは隋の統一(589)から半世紀後、唐の統一からは二十数年後のことである。そうして七世紀より九世紀へかけての唐の文化の時代は、我国に於ても|大化より延喜へ《ヽヽヽヽヽヽヽ》かけての燦然たる文化の時代であった。唐の文化が当時の世界全体に於ける最高峰であったように、我国のこの時代の文化も当時の西欧よりは遥かに進んだものである。のみならず我国に於ては、シナの五代の如き混乱もなく、宋の文化に対応する如き我国独特の|藤原時代の文化《ヽヽヽヽヽヽヽ》を形成した。これは骨の髄まで平和の浸み込んだような文化であって、同じ十一世紀頃の西欧の殺伐な風と比較すれば、そこにはまるで別世界があると云わねばならぬ。かく見れば、ローマ帝国崩壊後、中世文化の最盛期に至るまでの西欧の暗黒時代は、我国に於ては最も晴朗な真昼の時代であったのである。
しかしその晴れやかな時代の絶頂に於て、既に「武士」の団体は形成されつつあった。それは西欧に於てやがて十字軍が催されようという時代であるから、騎士の出現よりは遅い。しかしその発展は西欧よりも迅速で、一世紀の後には源平の戦、武士の幕府の形成(1185)となり、その事蹟を唱う『平家物語』の創作は、西欧中世の騎士を歌う叙事詩と殆んど時を同じくするに至っている。しかも文芸の作品としては平家物語の方が遥かに進歩したものと云わなくてはならぬ。のみならずこの十二・三世紀の武士の時代は、南都北嶺の教権に反抗して浄土(真)宗、禅宗、日蓮宗などが興起した点に於て、西欧中世と著しく事情を異にしている。それはキリスト教と仏教との相違にもよるが、しかし自己の宗教的体験に忠実となり、|信仰によって義とせられる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という立場を貫徹した態度には、既に後のルターの宗教改革に通ずるものがある。それらの点に於て我々は鎌倉時代の文化を相当に高く評価してよいと考える。
それにも拘らず我々は西欧中世に存し我々の鎌倉時代に存せざる一つの点を重視しなくてはならぬ。それは我国の武士がただ内乱を背景としてのみ発生し西欧に於けるが如く異民族や異れる文化圏との対立に於て発生したのではないという点である。ここには東亜の統一的世界への外からの侵入もなければ、また西方の世界との持続的な対立もなかった。|従って眼界はいつも国内に限られ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、遥かな彼方の未知の世界への衝動を持たなかった。否、むしろそれは西方浄土への憧憬として、十字軍とは凡そ正反対の、柔和にして観念的なものとなった。これがいかに重大な意義を持つかは、十三世紀末の蒙古襲来(1274, 1281)が我国に如何なる影響を与えたかを見れば解るであろう。それは西欧から日本までの橋が目前に現われたことに外ならぬが、しかし我々の祖先はこの衝撃によって外なる広大な世界への眼を開きはしなかった。ただ外なる世界の圧迫によって我国の統一的な国家としての存在に目ざめ、武士階級興隆以前の天皇親政を復興しようとして、再び内乱をひき起したに留まった。この受動的閉鎖的な態度はまさに我国の位置と歴史との産物なのである。
西欧にルネサンスの華を開いた十四・五世紀は、我国の室町時代に当る。この時代は我国自身に即して云えば同じくルネサンスなのである。藤原時代の文芸、特に源氏物語は、この時代の教養の準縄となり、その地盤の上で|新しい創造《ヽヽヽヽヽ》がなされた。謡曲にせよ、連歌にせよ、すべてそうである。しかもこの時代に作り出された能狂言《ヽヽヽ》や、|茶の湯《ヽヽヽ》や、連歌《ヽヽ》などが、現代に至ってさえもなお日本文化を特徴づけるものとして重視されているのである。そうしてそれは決して空言ではない。演芸の一様式としての能は、人間の動作の否定的な表現として実に独特なものであり、そうしてそれを理論づけている世阿弥の芸論にはかなり深邃なものがある。文芸の一様式としての連歌も世界に比類のない共同制作であって、その理論にも欠けていない。茶の湯に至っては芸術の新分野の開拓と云えるであろう。これらを創造した時代は、イタリアのルネサンスと同じく、十分に尊敬されねばならぬ。のみならずこの時代には海外遠征熱が勃興し、冒険的な武士や商人がシナ沿岸のみならずもっと南方まで進出している。またそれに伴って堺や山口のような都市が勃興し、その市民の勢力が武士に対抗し得るに至っている。更に民衆の勢力の発展に至ってはこの時代の一つの特徴とさえも見られる。一揆の盛行、民衆による自治の開始、それらが次の時代の支配勢力の母胎となっている。
すべてこれらの点に於て我国の十四・五世紀もまた近代を準備していると云えるのである。しかも同時代に於けるイタリアと同じく、国内に数多の勢力が対峙し、国家的統一が失われ去った十六世紀に至って、いよいよ西欧の文化との接触に入った。そこに我々の問題の焦点が存するのである。
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[#見出し] 前篇 世界的視圏の成立過程
[#小見出し]     第一章 東方への視界拡大の運動
一[#「一」はゴシック体] 東方への衝動、マルコ・ポーロとその後継者
東方イスラムの世界との対峙を通じて形成せられて来たヨーロッパの世界が、その東方をさらに遠く東へ超えた|東アジア《ヽヽヽヽ》に向って動きはじめたのは、いかなる事情によるであろうか。
最初に機縁を与えたのは、十三世紀末における蒙古帝国の形成である。ヨーロッパの十字軍の戦士たちにとっては、正面の敵であるイスラムの世界を遥かに東方の背後から圧迫してくれる蒙古人の勢力は、云わば援軍の如くに感ぜられた。のみならずその蒙古人は、アラビア人やトルコ人のように宗教的狂信《ヽヽヽヽヽ》を持つ民族でなく、キリストの信仰に対してもむしろ同情を抱くかの如くに見えた。もっともこの宗教的寛容の態度は、彼らがモハメッド教に対しても示したところであって、キリスト教を特別扱いにしたというわけではないのであるが、しかしそのために多くのキリスト教徒が蒙古の君主に仕えて居り、特にクビライ兄弟の母たちがキリスト教徒であったというような事情が、ローマの教会その他の人々をして蒙古帝国との連絡に努力せしめるようになったのである。
なおもう一つ、ヨーロッパの関心を遠く東へひきつけるものがあった。それはプレスビテル・ヨハンネスの伝説である。このヨハネは祭司たると共に王として東方のキリスト教国に君臨していたと信ぜられている。このキリスト教国を探し出してイスラム帝国を挾み撃ちにするのもまた西欧人の強い希望であった。
こういう事情の下に十三世紀の中頃、先ず教皇インノセント四世が使節団を派遣し、次でアルメニア王室の一族が次々と出掛け、それに続いてルブルクが教皇とフランス王との依嘱の下に旅途に上った。いずれもカラコルムを訪れたのであってシナまでは来て居らないが、しかしシナについての報道はアルメニアの王子ヘートンが『人民と富とに充ちた世界の最大国』として与えて居り、ルブルクもまた東に大洋を控えた国として言及している。彼らがいずれも興味を以て語っているのは漢字のことである。
こういう先蹤に続いて、シナで二十年を送ったマルコ・ポーロ(1254 - 1324)が現われてくる。彼の父と叔父はビザンツの商品を蒙古人の間に持ち込む貿易の仕事でヴォルガを遠く遡って行ったのであるが、蒙古の内乱に帰路を遮られ、東南へステップを超えてボカラへ出た。ここに商用で三年ほど留まり、蒙古人の習俗や言語を学び、シナへ行くペルシアの使節の誘うままに、クビライ汗を訪ねることとなった。クビライは彼らを款待し、帰国に際して教皇に七芸の師たる学者を送られたいと懇請する使者を托したと云われる。使者は病気であとに留まったが、ポーロ兄弟は帰国後教皇庁にその旨を伝え、第二回旅行には教皇の書翰の他に二人のドミニコ会士を伴っている。尤もこれらも戦争のためアルメニアから引き返したのではあるが。
マルコ・ポーロは十八歳にしてこの第二回旅行に伴われた(1271)。旅程は小アジアのラヤッツォから上陸し、アルメニアの方へ迂曲してバグダード、バスラを経由、ペルシア湾をオルムヅまで航海し、そこからイラン高原を突切ってバルクに出で、峻嶮な山越しにカシュガル、ヤルカンド、コータンと昔のシナ・インド交通路を伝って行く。しかし甘州の近くから北に曲り、今の内蒙古を経て北京に入ったらしい。一行はクビライに再び款待せられたが、特に若いマルコは非常な愛顧を受け、特別の使命を以てシナ南方諸省の端まで派遣せられた。そこで彼は山西、陝西、四川、雲南等の諸省を経てビルマにまで旅行した。その後三年ほど南京東北の揚州の知事をつとめ、ついで叔父と共に甘州に永く滞留した。この頃にクビライは島国ジパング(Zipangu 日本国)の征服を企て失敗したのである。かくしてマルコ・ポーロはシナにあること二十年を超えた頃に、ペルシアに婚する王女の一行に加わり、海路帰途につくことが出来た。この度は大運河を通って揚州に出で、蘇州を経て杭州《ヽヽ》に来た。これを彼はキンザイ(Quinsai, Kinsay, Khinzai 行在、宋朝の行都)と呼び、非常な驚きを以て、世界最美の都市として描いている。戸数百六十万、石橋一万二千。十二の職業組合は一万二千の工場を処理し、街道には車の往来が絶えない。人口の多さは日に胡椒の消費が一万磅に上ることによっても知られる。そこから彼は更に南方福州を経て Zayton(刺洞、泉州)に達した。これはインド航路の出発点で、世界最大の商港の一つに数えられている。その港は厦門をまで含んでいたかも知れぬ。ここで一行は一二九二年の初め四本マストの十三艘の船に乗り、マンジ(Manzi 南シナ)の海を渡って、チャンパに着き、更にシャムを経てビンタン島に達した。またそこから南スマトラのパレンバンを訪れた後、海峡を西北上してインド洋に出で、ニコバル、アンダマン諸島を経て南西に向い、セイロン島に寄港した。あとはインドの西海岸沿いにペルシアのオルムヅまで航海するのであるが、ここでマルコ・ポーロはインド洋の西方沿岸についてソコトラやザンジバルやマダガスカルの島々のことを伝聞している。かくして一行は二年の航海を終えてペルシアに着いた(1294)。そこから王の手厚い保護を受けつつヴェネチアに帰りついたのは、その翌年である。
しかしその同じ年にマルコ・ポーロはヴェネチアのために戦争に参加し捕虜となった。彼の旅行記はジェノヴァの牢獄に於て僚囚に口述筆記させたものである。のみならず彼の学的教養も叙述の能力もあまり十分とは云えない。従ってこの旅行記はさまざまの点に於て不精確である。しかしアジアを端から端まで踏査し、そこにある個々の国々について叙述した旅行家は、彼を以て嚆矢とする。イラン高原の景観、東トルキスタンの町々、蒙古のステッペの生活、北京の朝廷の威容、シナの民衆の群、それらを彼は見て来たのである。彼は黄金で葺いた宮殿のある日本や、黄金の塔《パゴダ》のあるビルマのことを、或は香料の豊かなスンダ諸島の楽園のような野原や、多くの美しい王国と産業との栄えているジャバ、スマトラのことを、|西欧で初めて《ヽヽヽヽヽヽ》物語った。また西欧に於て伝説に包まれているインドの、現実の偉大さと富とを、自分の眼で見て来た。アビシニアのキリスト教国のこと、マダガスカルのこと、北極地方のことなどを語ったのも彼が最初である。これは西欧にとって実に劃期的のことと云わなくてはならない。
尤もこの旅行記の影響は急激には現われなかった。同時代のダンテなどもマルコ・ポーロには言及していない。しかしその後一・二世紀の間に漸次西欧の世界に浸透し、東南アジアに関する知識の基礎となったことは疑がない。Quinsay, Zayton, Zipangu, Manzi などの名は永い間西欧の貿易人に対して強い魅力を持っていた。だから後にはコロンブスのアメリカ発見をマルコ・ポーロに結びつける見方が現われてくる。コロンブスはポーロの旅行記に刺戟され、|ジパングに達すること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をその生涯の任務とするに至ったというのである。ユール(H. Yule, The book of ser Marco Polo. 1875.)はこれを反駁して、コロンブスはポーロの名を挙げていない、彼がポーロのことを知ったのはトスカネリの手紙によってである、という。しかしそのトスカネリの知識はポーロにも基いているのであるから、間接ではあるが、ポーロの仕事が新大陸発見の仕事の一つの動力となっていることは認めざるを得まい。
マルコ・ポーロに踵を接してインド及びシナに旅行した伝道師は、モンテコルヴィノのジョン(ca. 1247 - 1328)、ポルデノーネのオデリコ(1286 - 1331)、マリニョリのジョヴァンニ(ca. 1290 - 1353)などで、いずれもフランシスコ会士である。前二者はインド経由でシナに来り、北京で教会を建設・経営しているが、中でもオデリコは、スマトラ、ジャバ、ボルネオ、チャンパを経て広東に達し、マルコ・ポーロの描いた Zayton, Quinsay や南京などを通って北京に来たのである。それらの町々の大いさや繁華なことについては、オデリコの方が一層誇張的に報道している。マリニョリは陸路北京に来て、帰りにインドを通ったのであるが、南シナについては、三万の大都会があり、中でも Quinsay は最大最美であるという。すべてマルコ・ポーロの報道を実証するような報告のみであった。
がこの種の交通は元の崩壊(1368)によって中断され、あとにはただインドとの交通のみが残された。十五世紀にはこの方面に旅行したニコロ・デ・コンティが有名である。彼はインドの内陸を横断した最初のヨーロッパ人で、デカン高原を東岸マドラスに出で、南してセイロンを訪れた。次でスマトラ、ビルマ、バンコック、スンダ諸島と廻り歩き、ボルネオとジャバにはやや永く滞留した。帰路にはアデンやアビシニアを経て紅海を航し、最後にカイロに出ている。彼の旅行談が保存されたのは、帰途紅海に於て海賊の手に陥り止むを得ずイスラムに帰したことを、懺悔して免罪を求めるために、当時(1439 - 42)フィレンツェに滞留していた教皇の許に来て物語ったからである。ところでその頃のフィレンツェには丁度トスカネリが四十代半ばの活気旺んな学者として生きていた。彼がその有名な手紙の中で、シナのことについてゆっくり話し合ったと云っているのは、多分このコンティのことであろうとされている。
トスカネリの手紙というのは、香料や宝石の豊かな東方の国、特に学芸や政治の術も又非常に進歩している筈の強大なシナの国への近道《ヽヽ》を、|西の方向に《ヽヽヽヽヽ》求め得ると教えたもので、ポルトガル王の諮問に応じこの考を直観的に示した地図の添状なのである(1474)。ここに我々はマルコ・ポーロ以来の旅行の知識の集積と、大地が球であるという物理学的な考との結合を見ることが出来る。そうしてそれが|この時代の知識の尖端《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だったのである。
この手紙はやがてコロンブスを刺戟して西方への航海に出立せしめるのであるが、しかし我々はそれに先立って|何故にこの手紙がポルトガル王と関係するか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を問題としなくてはならぬ。新しい知識の尖端がポルトガルと結びついているのは、ポルトガルが新しい認識の活動の先頭に立っていたが故なのである。
二[#「二」はゴシック体] 航海者ヘンリ王子の理念
この事態をあらわに示している人物としてここには航海者ヘンリ(Dom Enrique el Navegador)を取り上げよう。
ポルトガルはスペインと共に|サラセンとの戦に於て《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》形成せられた国である。その建国はサラセンに対する戦勝(1139)の機に行われ、首府となったリスボンは十字軍によって征服せられた(1147)。南端のアルガルヴェ州をモール人(本来は北アフリカの一種族の名であるが、漸次アラビア人の総称として用いられた)から奪取したのは更に百年余の後である。十四世紀中頃のスルタン・アブル・ハッサンの圧迫に際してはスペインと同盟し、サラド河の『キリスト教の大勝利』(1340)に参加した。その後スペインとの紛争に陥り、リスボン焼払いなどを食ったが、遂に勝利を得てジョアン一世(在位 1385 - 1433)の即位となった。ここに|ポルトガル民族の英雄時代《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が始まるのである。この王も依然としてモール人との戦を継続し、北アフリカ突端のセウタを征服したりなどしたが、しかしその対立がこの時代に|全然質を変えて来た《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことを我々は重視しなくてはならぬ。それを示しているのがジョアン一世の王子、航海者ヘンリ(1349 - 1460)なのである。
ヘンリは二世紀前にモール人から奪回したアルガルヴェ州のサン・ヴィセンテ岬サグレスの城に住み、そこに最初の天文台《ヽヽヽ》、海軍兵器廠《ヽヽヽヽヽ》、天文現象世界地理などを観察叙述する|コスモグラフィーの学校《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》などを創設して、ポルトガルの科学力を悉くここに集結しようと努力した。かかる企ての動機となったものは、第一《ヽヽ》に、アラビア人の刺戟によって惹き起された未知の世界への関心である。ヘンリは青年時にセウタ戦に従って自らアラビア文化との対峙を体験した。そこで南の方アフリカの地に対する注意が高まり、ギネアの国に到達しようとする強い欲望を抱くに至った。ギネア(Guanaja, Ganaja, Ginia)に就ては恐らくヨーロッパ人はアラビア人から聞いたのであろう。カタロニア版世界地図(1375)はアフリカの内地に王冠を頂いた黒人を描き、『このニグロの王はムッセメルリと呼ばる。ギネアのニグロの主なり。その国にて集められし黄金の豊かさにより、この王はこの地方を通じて最も富み最も貴き王なり』と記している。しかしこの国を訪れたヨーロッパ人は未だないのである。アフリカの西岸は海峡より千五百キロのボハドル岬より南は知られていなかった。従ってこの未知の領域へ進出しギネアの諸民族との貿易関係を独占することは、ポルトガルにとって非常に有利に見えた。がこの関心はアラビア人の刺戟によるのであるから、第二《ヽヽ》に、アラビア人への敵対意識が強く働いている。数世紀来の相伝の敵モール人の背後には一体どういう勢力が拡っているのであろうか。そこにはキリスト教国家はないものであろうか。カタロニアの地図はエチオピアの皇帝を記している。このような勢力とキリストの名に於て結合し、モール人を挟撃することは出来ないものであろうか。この敵対意識は積極的にはキリスト教の光を、未だ福音に接せざる暗い国土に拡めようとする伝道意欲となって現われる。動機としてはなおこの他に当時流行した占星術による予言なども結びついて居り、主観的には強い力を持っていたであろうが、しかし王子の後《のち》半世紀にして大仕掛けに世界的規模に於て展開せしめられたのは、まさに右の如き二つの動機であった。
ところで我々にとって意義深いのは、アラビア人との対抗や未知の世界への進出の努力が、|学問と技術との研究《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という形に現わされていることである。ここに我々は前に云った|質の変化《ヽヽヽヽ》を見出さざるを得ない。ヘンリは航海者と呼ばれているが、しかし自ら航海したのではなく、ヨーロッパ西南端のサグレスの城から、西と南に涯なく拡がる大洋を望みつつ、数多くの部下の航海と探検とを指揮したのであった。従って個々の航海は彼にとっては『実験』にほかならない。またこの実験によって未知の世界への眼界が開けたのであるから、彼の業績は|認識の仕事《ヽヽヽヽヽ》にあると云ってよい。しかしこの実験は、研究室内の実験とは異なり、多くの経費や人員や組織や統率を必要とした。そうしてこれらは単なる学者のなし得るところではなく、強い政治力と優れた政治的手腕とによってのみ遂行され得るのである。ここにヘンリの出現の意義がある。彼に於て認識の仕事が政治力と結合し、政治力が理智の眼を持ったのである。
ヘンリの性格として伝えられるところも、この事実にふさわしい。彼の態度は物静かであったが、言葉はきっぱりとしていて、厳格な感じを与えた。生活は簡素で、酒や女を近づけず、感情に流れることをしなかった。人の過ちに対しては寛容であったが、しかし決断に富み、粘り強く持ち耐える力があった。
さてこのヘンリが冷静に辛抱強く突破しようと試みた困難は、先ず第一に、当時の|航海術の幼稚さ《ヽヽヽヽヽヽヽ》であった。ヴェネチア人が初めて英国への航路を開き、リスボンをその中休みの港として以来、まだ百年を経ていない。|航海は岸伝い《ヽヽヽヽヽヽ》にしか出来なかったのである。尤も磁針の効能は既に知られていたのであったが、航海者はまだそれに頼るに至らなかった。そういう状態の下にヘンリはしばしば探検船を送ったのである。それらはいずれも既に知られているボハドル岬まで行くことが出来た。しかしこの岬が岸伝い航海の関なのであった。それは四十海里ほど西へ突き出て居り、更にその突端から六七里ほどの海中に暗礁があって、物凄い波をあげている。それを避けるためには岸伝いの常法を破ってよほど遠く海の中へ出て行かなくてはならぬ。その勇気の出せない航海者はそこから引き返すほかはなかったのである。
が更に第二にこの航海を困難ならしめたのはアフリカ西海岸の地理的風土的条件であった。この海岸は北から四百哩ほどの間殆んど河がなく、従って港になる河口がない。ただ平らな、砂丘の多い海岸で、半ばはサハラの沙漠である。そうして海上四五十海里まで、浅い潮の上にどんよりした空気が淀んでいる。その原因は沙漠の埃や、温度を異にした気層の接触による濛気や、或はここで海面に表われてくる寒流などに帰せられているが、いずれにしても空には雲なきに拘らず大気曇り日光が弱い。そのため岸伝いの航海者は陸を見失う危険に苦しめられたのである。従ってここは中世以来『暗い海』として航海者に恐れられていた。
これらの障害は実際克服し難いものであった。ヘンリは二十年間苦心したが、どうしてもボハドルから先へ進めなかった。人民の間には不平の声が聞える。海員は疑惑を抱いてくる。やがて王子は海員を得るに難渋するほどになった。かかる情勢の下に王子が直面した|最大の困難《ヽヽヽヽヽ》は、在来の地理的知識の重圧であった。アリストテレースによれば、|熱帯地方には人は住めない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。この考は、プトレマイオス、アラビアの学者、アルベルトゥス・マグヌスなどを経て、この時代になお通用している。もしそうであるならば熱帯地方に人を送るのは無益の犠牲である。しかし王子はこの知識のかせを破ろうと努力した。マルコ・ポーロの旅行記を初め、アフリカの内地についてのさまざまの報告を集めて、熱帯地方についての知識を革新しようとする。この立場にとっても、暗い海やボハドル岬はまさしく新しい視界を遮っている関門であった。王子は在来の知識の立場よりする非難に対抗しつつ、辛抱強くこの関門の突破に努力したのである。
遂に一四三四年に至ってこの第一の関門は突破された。或る失錯で王子の寵を失ったギル・カンネスという家臣が、その寵を回復するために、命がけで、ボハドル岬を廻って見たのである。決行して見ると在来の恐怖が根拠のないものであることが解った。彼は帰れない筈のところからちゃんと帰って来た。これに力を得て後継者がリオ・デ・オーロまで行った。ここは北回帰線、熱帯地方の入口である。が岸辺に見える魚の網は人跡を示している。熱帯地方に人が住めぬという理論は、まだ破れるまでには至らないが、ここで|動揺し始めた《ヽヽヽヽヽヽ》のである。
ボハドル岬が突破され、熱帯の門が開かれると共に、探検の船は続々と前進し始めた。一四四一年には|白い岬《カボ・ブランコ》、一四四三年にはアルキム湾。それと共に土人と友交を結ぶ新しい方法が採用され、アルキム島に根拠地を作って貿易を始めた。数年後にはサグレス附近のラゴスの商社が六艘の貿易船を送るに至っている。この貿易の成功は王子に対する反対者を沈黙させた。人々は漸く貿易に乗り出して来た。
が更に重要な突破は、一四四五年の|緑の岬《カボ・ヴエルデ》の発見である。この時はディニズ・ディアスが王子の計画に従って更に南方のニグロの国土に達しようとしたのである。モール人とニグロとの境界線はセネガル河であったが、ディアスは大胆にこの河口を越えて、アフリカの西への突端まで来た。土地の黒人はこの巨大な船を見て非常に驚いた。がそれより一層驚いたのは、この岬の|美しい緑《ヽヽヽヽ》を見た白人なのである。北緯十五度のこの熱帯地方に於て、植物は旺盛に茂り、鳥獣は豊かに栄え、溢るるほどの食糧を人間に提供していようとは! ここに於て熱帯に人が住めぬという理論は完全に|崩壊した《ヽヽヽヽ》のである。
これは王子ヘンリの仕事の中核をなすものと云ってよい。ギリシアの権威者の書物よりも|自分の眼の方が信用出来る《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということを人々ははっきりと悟った。ここに地球に対する認識の|新しい展望《ヽヽヽヽヽ》が開けてくる。王子はこのことを期待して永年の努力を続けて来た。今やそれが報いられたのである。そこに漕ぎつけるまでは、彼と確信を共にする人は非常に少かったであろうが、今や彼は全面的に航海者たちを感化し、その眼をひらくことが出来た。
かくして発見の努力は一層高められた。翌一四四六年にはガムビア河からシェラ・レオネの近くまで。しかしニグロの抵抗もまた一層熾烈となった。前に白い岬を発見し、今度ガムビア河に達したトゥリスタンは、ヌネズ河をボートで溯江していた時、突然武装したニグロの小舟に取囲まれ、全員毒矢で殺された。ところで船に残っていた書記と四人の水夫とが、そこから大洋に出て北に航し、二カ月の後に安全に帰着している。その間陸を見なかったと云っているのを見ると、岸伝いの航海法から脱却して広い大洋に出る自信が出来ているのである。しかもそれを書記と水夫とで敢行し得たことは、航海の技術の急速な進歩を物語るものと云ってよい。眼界の拡大は技術の拡大を伴っていたのである。
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この形勢の下に王子はインドへの航路の発見を意図し始めたらしい。特にインド洋に臨むアフリカの東岸、エチオピアの高原は、プレスター・ジョンの国として依然として強い引力を持っていたらしい。併し彼の送った最後の探検隊は未だなおニヂェル河上流地方を目ざしたものに過ぎなかった。即ち一四五七年にディオゴ・ゴメスがセネガルの内地に大河東に走れりとの報を齎したのを取上げ、ゴメスほか二人の下に三艘の探検船を派してガムビア河を遡上せしめたのである。この探検隊はカントルの町に至り、チュニスやカイロの隊商がそこまで来ること、シェラ・レオネの山々の彼方に大河東流せることなどを聞いて来たが、実地を踏査するまでには至らなかった。
王子はこれらの永年の探検に財産を蕩尽し、多大の借金を残して、一四六〇年六十七歳にして没した。アフリカの海岸は未だギネアにも到らなかったのであるが、しかしポルトガルの海国としての大きい仕事は既に彼によって基礎を置かれたのである。|関門は既に突破された《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。あとはただ王子の個人的な仕事が国民的・全体的な仕事として成育し来るのを待つのみであった。そうしてその成育は極めて着実に歩一歩と進められた。
三[#「三」はゴシック体] バスコ・ダ・ガマによる実現
ヘンリ王子の没後、その甥に当るアフォンソ五世は、初めの内熱心で、モンロヴィアあたりまでの探検に関係したが、その後国内関係に没頭して海の企業から手をひいた。しかし貿易は益々盛んとなり、その儲けも巨額に上るようになった。一四六九年にはフェルナン・ゴメスがギネア海岸の貿易独占を年五百デュカットで五年間許されたが、それには自費で年|百レガ《ヽヽヽ》(約 550km)|ずつ前進すること《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が義務として附いている。即ち探検が儲け仕事として引き合うようになったのである。ギネア海岸はかくして迅速に獲得された。一四七一年には更に他の二人が黄金海岸からニヂェル河口を経て赤道の南まで出た。トスカネリが西航を勧めた(1474)のに対し、ポルトガル人が冷淡であったのは、この好況の故であると云われている。
こういう情勢の下に、一四八一年、アフォンソ五世の子ジョアン二世が立った。ヘンリ王子の精神はこの王に伝わり、再びアフリカ回航の企てが促進され始めた。既に即位前七八年の間、彼はギネア貿易の収益からその収入を得ていたのであり、また前述のゴメスが五年間に如何に儲けたかをも見知っている。それに加えて即位の年には教皇シキストゥス四世の教書がポルトガルに対してアフリカの発見地の所有を保証した。それらのことがこの王の熱心をそそったのである。ここに於てアフリカ回航の仕事は漸くポルトガルの国家的事業としての性格を現わし始めた。一四八二年には黄金海岸に城砦が築かれる。王はギネアの領主と称する。発見地に石の標柱を建てることが定められる。
この石柱を最初に船に積み込んだ人はディオゴ・カンである。一四八四年に二艘で出発した。この探検はドイツのコスモグラーフのマルチン・ベハイム(1459 - 1507)が同行したことによって有名である。彼等はコンゴー河口に最初の石柱を立て、河を遡って、この繁華なコンゴー王国の最初の訪問者となった。コンゴーの王はキリスト教を求めて使者カッスタを送り、カッスタはポルトガルで洗礼を受けさえしたのであるが、ポルトガル人はその踏査した沿岸全体をポルトガル王の名に於て占有し、通弁養成のために所々で土人を捕獲した。
コンゴーから南へは更に二百レガ進出、ネグロ岬(南緯 15°40')に第三柱を建て、十九カ月にして帰還した。ベハイムの功績は非常に高く評価され、王よりキリスト教騎士団の騎士に叙せられた。
その翌年一四八六年にはバルトロメウ・ディアスが五十噸の船二隻で出発している。一人の指揮官にあまり多くの責任を負わせたくないという格率に従って、ポルトガルの政府は一回毎に司令官を変えたのである。王子ジョアンが第二船の船長として同行した。この航海ではコンゴー海岸より喜望峰の東に至るまで、土人への贈物を持った黒人の女に上陸させて、土地の景況を窺うと共に土人にポルトガル人の強さや素晴らしさを宣伝せしめた。そうしてそのポルトガル人はプレスター・ジョンの国を探しているのだと云わせた。そういう噂をひろめれば司祭王の方から迎いを寄越すかも知れぬと考えたのであるから、プレスター・ジョンの伝説はまだ相当に強い力を持っていたと云わなくてはならぬ。
今度の第一の石柱は鯨湾《ワルフイシ・ベイ》の北方に建てられた。そこから南下してセント・ヘレナ湾のあたりへ来ると、ひどい暴風に襲われ、十三日間南東へ流された。人々は寒流と寒さとに驚かされている。凪いでから数日東航したが陸が見えない。そこで舵を北に向け、アフリカ大陸の南端に達したのである。そこから更に東航してモッセル湾からアルゴア湾まで行き、そこの小島に最前線の石柱を立てたが、この時船員たちは疲労困憊の極に達し、船長に帰航を要求した。食料も既に尽きかけているという。しかしディアスにとってはそれは遺憾の限りであった。アフリカの南端を廻ったことは確実である。目的はもう大きい困難なしに達せられるであろう。で彼は、もう二三日航海して海岸線が北に向かなければ帰ろうと答えた。そうしてなお二日航海し、最前線の石柱よりも二十五海里前進して大魚河《グレート・フイツシユ》まで出たが、遂に止むなく帰航を決意した。彼は残念の余り石柱を抱いて泣いたという。実際ここで海岸線は既に北に向きかけていたのである。
ディアスは帰路喜望峰に寄った。ここは往路にはあらしのために知らぬ間に通り過ぎたところである。で彼は|あらしの岬《カボ・トルメントソ》と命名したのであったが、ジョアン王はそれを喜望峰(Cabo da boa esperanza)と改名した。インド洋への門は開かれた、香料の国への水路は見出された、という確信がここに現われている。ディアスの帰着は、一四八七年の末であった。
ジョアン王はなお他に数人の者をシリア、エヂプト、インドへと送っている。中でもペロ・デ・コヴィリャムはインド西岸よりアフリカ東岸を遍歴し、同じく王の派遣したユデア人に本国への通信を托した。ギネア海岸のポルトガル船は南航してアフリカの端に達し、インド洋に出てソファラとマダガスカルに向うべしと云うのである。インドへの水路はこの方面からも確証された。
しかしその水路が打通される前にコロンブスが西インドから帰ってくるという事件が起った。ジョアン王はコロンブスを引見してその Zipangu 訪問談を聞いたのである。その連れ帰ったインディアンを見るとどうもアジアの近くまで行ったらしい。彼が第二回の航海に出れば、或はポルトガルより先に香料国に着くかも知れない。そうなればヘンリ王子以来の努力は水泡に帰する。でジョアン王は急いで新しい航海の準備に取りかかったが、果さずして一四九五年に歿した。
次で即位したのが当時二十六歳の胆力あるマノエル王(1469 - 1521)である。早速準備の仕事を再開させようとしたが、一四九七年までのびた。前の航海の司令官ディアスが三艘のインド行艦隊(百トン乃至百二十トン。サン・ラファエル、サン・ガブリエル、サン・ミカエルの三隻。船員の数は一七〇人、二四〇人、一四八人等諸説がある。)の艤装を指揮した。新しい司令官はバスコ・ダ・ガマであった。一四九七年初夏、出発に際して、司令官はプレスター・ジョン、インドのカリカットの王、その他の|諸君主宛の《ヽヽヽヽヽ》ポルトガル王の推薦状を貰った。この航海が|ポルトガル国の行動《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であるということは、形式の上にもはっきりと示されて来た。
緑の岬あたりまでディアスが同伴し、そこで分れてガマは喜望峰に直航《ヽヽ》した。海は相当に荒れた。一カ月航海の後、陸に近寄り、喜望峰に達しようとしたが駄目であった。実際この後になお数カ月を要しているのである。また大洋に出て南へ下って行く。乗員はもう帰航を思うようになる。ガマはそれと労苦を共にして夜もろくろく眠らない。やがて南の冬になって日が短くなる。一日中がほとんど夜である。乗員《ヽヽ》は恐怖《ヽヽ》と労苦《ヽヽ》とに病み疲れて食事の用意さえ出来なくなる。不平がひろまり帰航の意が高まる。しかしガマは烈しくそれを斥けた。乗員が寒さに慄えても頑として引き返さなかった。
この司令官の確信、決意、統率力がこの劃期的な企ての核心である。が未知の世界への突進、ただ科学的な認識の力にのみ頼る大洋航海、その中で揺がぬ確信と決意とを持ち続けることは、ただ|科学的な推理力《ヽヽヽヽヽヽヽ》のみのなし得ることである。ここに強い意志と|強い思索力《ヽヽヽヽヽ》との密接な結合が見られる。迷信に捕われ易いような性格の人は、どれほど強い意志を持っていようとも、探検家にはなれないのである。
ガマは陸上で緯度の高さを計るためにセント・ヘレナ湾に入った。当時まだ観測器の使用に習熟していなかった船員たちは動く船の上で正確な観測をなし得なかったからである。そのあとで数日続きのあらしの中を遂に喜望峰に達したが、その後もあらしは止まず、難航が続いた。日夜身心の休まる暇がない。しかしガマは、|インドに着くまで一歩も退かぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という。船員は再び動揺し始めた。彼らにとってはインドに着くという見込ははっきりしないのである。我々は盲目的に破滅の中へ追い込まれたくない。彼は一人、我々は多数ではないか。これが謀叛の理由であった。一水夫の内通によってこれを知ったガマは、策を以て謀叛者たちを捕え、鎖につないだが、しかしこの無智な連中がガマやその味方であるパイロットや舵手などを片附けたあとで、船をどこへ持って行こうとしているかを考えると、彼は絶望的な憤りを感ぜざるを得なかった。航海書を海中へ投げ捨てて、さあ舵手もパイロットもなしで帰れるかどうか、やって見るがいいと啖呵を切ろうとさえもした。
一四九八年正月に再び陸に近づいて船を修繕し水を積込んだが、更に航海を続けてコリエンテス岬まで来ると、烈しいモザンビク潮流に流されて沿岸を離れ、ソファラに寄ることが出来なかった。しかし辛うじてザンベジ河口に入ると、アラビア語を解する明色の混血児に逢うことが出来た。もう少し北へ行くと航海が盛んであるという。いよいよ|アラビア人の貿易圏《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》へはいったのである。先ず一息というわけで、船の修繕や船員の休養のために一カ月留まった。
再び海を航してモザンビクの港につく。ここには既に明白にアラビア人の勢力が現われている。土人はアラビア風の服装をつけ、その首長《シヤイヒ》は北キロアのアラビア人の支配下にある。アラビア商人はモザンビク島に倉庫を持ち、ニグロと活溌な貿易をやっている。ガマは通弁によって来意を告げた。我々はキリスト教国の有力な王から派遣され、既に二年、荒海を航海し廻った。今や仲間と別れて香料の国を目ざすのであるが、道不案内であるから信用の出来るパイロットを寄こして貰いたいと。この申入れには何ら反対すべきものはなかったから、ガマは生鮮食料品やモール人ダヴァネや水先案内を入手することが出来たのであるが、アラビア人はこの商売敵を恐れて策動を始めたらしく、水先案内は不信であり、さまざまの小競合いが起った。結局は不快な印象を以てこの港を去った。
四月下旬モンバサに着いたが、ここでも同様であった。土人の首長《シヤイヒ》は初め親切でやがて態度を変えた。アラビア人の陰謀があったらしいことも同様であった。でガマは月夜にこの港を脱出し、途中土人の船《ザンブウク》を捕えて北方マリンディに案内させた。
マリンディの態度は非常に好意的であった。ガマは盛装して祝砲の轟く中にマリンディの首長と会見すべき土人船《ザンブウク》へ乗り込んで行ったが、岸辺や人家は見物人に溢れていた。そこでガマは剣、槍、楯などを贈った。土人の首長も補給と休養を承諾した。後にガマは首長をその城に訪問したが、その時には、インドへのパイロットを貸そう、しかし香料をあまり高く買ってくれるな、相場を乱すから、と云ったという。出帆前に首長は船へ来訪した。
かくして一四九八年四月二十四日出帆、南西モンスーンにのって、二十二日にしてインドの岸に着いた。その頃インド西岸の最も繁華な貿易港であったカリカットに着いたのは五月二十日である。
この頃のインドは既に数世紀来イスラムの支配下にあって無数の王国に分裂していた。カリカットを首府とするマラバルは、インド尖端の西海岸を細長く三四百粁に亘って領し、貿易の隆盛の故に|海の君主《ヽヽヽヽ》(Samudrin, Samorin)の国と呼ばれていた。十四世紀以来このカリカットは香料の貿易港として西岸第一となったが、その繁栄は主としてアラビアの商人と船とに負うている。西欧への輸出はアラビア商人の独占で、エヂプト経由、地中海諸港に運んだのである。でこのインドの港にもアラビア人の居留地が出来て居り、来住者は四千家族以上に達していたという。
このアラビア人のインド貿易の中心地へガマの艦隊が乗り込んで来たのであった。既に数世紀来イスラムは西方に於て絶えず反撃をうけ、最近には遂にヨーロッパに於ける最後の根拠地をさえ失ったのであるが、今やその反撃が在来平和であった東方の貿易圏にさえも及んで来たのである。アラビア人は非常な衝撃を受けざるを得なかった。従ってこの後のインド貿易の展開は、西欧に於ける古い対立を新しくインドの舞台に於て展開するという意義を持っているのである。
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しかしガマが表面に於て求めたのは、海の君主、カリカット王との平和な通商関係であった。尤もその際ガマが幾分の恫喝を混えていたことは否定出来ぬ。彼が最初使者をして告げしめた来意にいう、我々は西洋最強《ヽヽヽヽ》のキリスト教国王が胡椒薬品等を買うために派遣した|五十隻の大艦隊《ヽヽヽヽヽヽヽ》の一部である、暴風のために四散して我々のみがここに着いた、と。次で第三船長のクエリョを王に送り、自由な貿易と平和な交際とを提議して、その保証あらば提督は贈物とポルトガル王の書翰とを捧呈するであろうと申入れしめたのであるが、この際にもクエリョはかなり強引《ヽヽ》に王に謁見し王の返事を強要しているのである。王の周囲がこの新しい関係を喜ばなかったことは確かであるらしい。が王は承諾し、その結果ガマの正式謁見となり、マノエル王の書翰が捧呈された。その内容は友交と平和な通商とである。次で王の正式の返事がもたらされた。ここに於て商館が設立され、西欧人のインドに於ける最初の貿易が開始された。ポルトガル人は値の安いことを喜び、カリカット人はキリスト教徒が倍の値で買ってくれること、品質もアラビア人ほど詮議しないことを喜んだ。が喜ばなかったのはアラビア人である。彼らによれば、まともな商人は悪質の品を倍の値で買うことはしない。恐らくこの貿易は口実に過ぎないであろう。こういう見解のもとに、商人らの陰謀が始まったとせられている。
陰謀はまずガマの取引を遷延させ、アラビア商船隊の到着するまで引き留めて置こうとする手段によって行われた。これを察したガマは積荷を終る前に引ぎ上げることを決意した。そこへ王からの申込みでガマは再び王と会見したが、その機会に事件が起ったのである。王はポルトガル人が海賊であるという噂に対して弁明を求めた。ガマは、ポルトガル王が海の君主の盛名に動かされて友交と香料貿易関係を結ぶために、また特にキリスト教の伝播を重んずるが故に、遥々と船を送ったのであること、アラビア人はヨーロッパに於てポルトガル人の生得の敵であって、ここでもポルトガル人を害しようとしていることなどを述べ、戦争などの起らない様アラビア人の陰謀から彼を護って貰いたいこと、アラビア人によって葛藤に巻き込まれない様用心してほしいことなどを請うた。王は諒解したように見えたが、しかしガマは帰路モハメダンの知事によって捕えられ、保護の名の下に軟禁された。ポルトガル人がこの侮辱を怒って手出しをすれば、彼らを全滅させることが出来るのである。しかしガマは冷静に構えていた。アラビア人はガマを殺すことを要求したが、しかし知事の方では、きっかけなしに彼を殺すわけにも行かなかった。結局ガマは商館長を人質に残して船に帰ることが出来た。そうして後からこの人質を盗み出そうと企てたが、それはうまく行かず、騒ぎの内に商館の倉庫を掠奪された。もっとも人質の方は、海上に出ている土地の漁夫を捕えて来て、それと交換に取りかえすことが出来たが、喧嘩はいずれとも勝負がつかず、ガマは復讐を誓ってこの地を去ったのであった。
この小競合が後の大仕掛けな争闘の種子なのである。未知の世界への突入によってインドへの水路が開かれた途端に、そのインドの地において|モール人との戦《ヽヽヽヽヽヽヽ》が開始された。航海者ヘンリ王子を動かしていた一つの動機が、ここで現実になって来たのである。
ガマはその後北方カナノル港で十分の商品を積込み、ゴアの南方の島で船を修繕し、一四九八年の末に近い頃、北東モンスーンに乗ってインド洋を越え、翌一四九九年一月八日にマリンディに着いた。リスボンまで帰ったのはその年九月であった。故国での歓迎は実にすばらしいものであった。ガマは伯爵の位とインド洋提督という肩書のほかに、多くの利権や賞与をうけた。部下もそれぞれ十分に報いられた。歓迎のためには盛大な行列やミサが催され、その度毎に王が臨席した。
これはポルトガルの国民がインド航路の発見をいかに高く評価していたかを示すものである。ヘンリ王子以来の企業は、粘り強い持続の後に、遂に貫徹された。それを国民ははっきりと感じたのであった。
四[#「四」はゴシック体] インド洋制海権の争奪
がこの貫徹は同時に新しい|海の企業《ヽヽヽヽ》の出発であった。インド貿易を続ける気ならば、久しく香料を独占していた|モール人との真面目な争闘《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を覚悟しなくてはならぬ。信仰上の敵対関係はこの争闘を極めて深刻ならしめるであろう。そこには平和的解決の見込はない。しからばここで、|武装し戦闘準備を整えた商業《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に出で立たなくてはならない。それには威圧的な艦隊が必要である。
ここにおいて政府は、十隻の大船と三隻の小船よりなる新しい艦隊を建造した。ガマはその企画や監督に当りはしたが、司令官とはならず、親友ペドラルヴァレス・カブラルがその位置についた。乗員は千二百。前回の五倍乃至八倍である。その中に宣教師や商人もまじっていた。
このカブラルの航海は、一五〇〇年三月九日発、途中ブラジルの海岸に接触し、その報告に一隻を帰した。(既に緑の岬で一隻を帰しこれで二隻目である。)その後喜望峰に向う頃二十日の間あらしに逢い、遂に四隻の難破船を出した。他にマダガスカルの東に迷い出たのもあり、カブラルの手に残ったのは六隻となったが、インド洋は八月に十六日間で横断した。そうしてゴアの南方の島で修繕し休養した後に、右の六隻を以てカリカットに現われた。王は再び平和的な態度に出で、再び取引が開始されたのであるが、いかにも不活溌であった。モール人の引のばし策であろうと考えられた。三カ月間に二隻だけが積込済となったに過ぎない。カブラルは遂に癇癪を起してモハメダンの商船の強行捜索を行った。そこにも荷物はなかったのであるが、しかしそれが騒動のきっかけとなった。モール人に煽動された民衆は、暴動を起し、商館を掠奪、商館長を殺した。ここに於てカブラルは碇泊中の船十五隻を焼き、カリカットの町を一日中砲撃した。遂に火蓋は切られたのである。
やがてカブラルはコチン、クランガノル等他の港で荷を積み一五〇一年一月十六日出帆、帰路一隻を失い五隻を以てリスボンに帰った。それでも積荷の利益は損失を十分に補ったという。従ってインド航路を継続すべきか否かの問題は、種々論議の末、結局継続せられることに決した。インドに於ける盟邦と、ヨーロッパの船や武器の優秀さとを以てすれば、モハメダンを圧迫して香料国に根拠地を作ることは不可能でない。これは異教徒教化のためにも必要である。がそのためには一層強力な艦隊がなくてはならぬ。それが結論であった。
既にカブラルの帰着以前に王は四隻の艦隊をインドに派したのであるが、ここで更に二十隻の艦隊を建造し、それに八百名の兵士をも乗せて、再びガマを司令官とし、一五〇二年の二月及び四月に出発せしめた。ガマは今度は極めて明白に戦闘的態度に出で、到るところで高飛車に出ている。八月インド洋を渡ってゴア附近に投錨したのであるが、その間、見かけた船はすべて捕えて掠奪する。インド船をも焼打している。そこから南下しカナノルへ行く途中では、商品と巡礼者とを満載してインドへ帰る大船を捕え、掠奪・放火・撃沈・殺戮など残虐を恣《ほしいまま》にしたと云われる。この船はエヂプトのスルタン或はその部下の所有らしく、直ぐ後に教皇への抗議となった。カナノルでは款待を受けたが、しかしガマはこの町に対しても紅海からの貿易やカリカットとの通商を禁じてしまった。そこからカリカットへの途上、海の君主は恐れて平和の申入れをしたが、ガマはそれに対し二カ条の要求を提出した。前に商館長を殺した際に掠奪した財産の返還、及び紅海から来るモール人の入港禁止がそれである。海の君主は答えた、前の問題はメッカ船掠奪と相殺して貰いたい、後の問題については、四千家族以上のアラビア人の追放は不可能である。ガマは怒って返事は自分で持って行くと答えて艦隊を町の前へ進めた。海の君主は恐れて更に弁償金を申出たが、ガマは受けた恥は金では償えないとはねつけた。そうしてポルトガル人の間にさえ尻込みする人の出るほど残虐の限りをつくしたと云われている。カリカットの町は二回砲撃した。平和を求めているのではない、降服を欲するのだ、これがガマの態度であった。
海の君主の国では全国復讐戦の用意を始めた。あらゆる川では大小の軍艦が作られた。そうして策略を以てガマの船一隻だけを釣り寄せ、夜襲をかけたが、ガマは巧みに難を脱れた。その後ガマがコチンで積荷を終えカナノルへ行く途中を要して襲撃したが、これも大砲で撃退された。船の数がいかに多くても武器の上ではどうにもならないのである。
こういう情勢の下にガマは、大船五隻小船二隻の艦隊を残してインド沿岸を巡航せしめ、自分は帰途について一五〇三年九月リスボンに帰着した。
あとに残った艦隊はアラビア人の貿易封鎖のために紅海の入口の方へ巡航に出かけたが、その留守に海の君主はコチンを攻撃して占領した。しかし艦隊は七、八月頃あらしに撃破されて戦闘力を失い、コチンを救うことが出来なかった。ところがガマの帰着以前、一五〇三年四月六日に有名なアフォンソ・ダルブケルケとフランシスコ・ダルブケルケとが各三隻を以て出発し、八月には既にマラバルの岸に着いている。アフォンソはコチンを奪回し、そこに|最初のポルトガルの要塞《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を築いた。翌年一月末帰航の際にはモザンビクへ直航し、九月初めリスボンに帰着している。フランシスコは帰途難破して帰らなかった。
更にアルブケルケに踵を接して三隻の艦隊が紅海巡航の途に上ったが、途中海賊などを働いてあまり功績がなかった。しかし翌一五〇四年に出発した十三隻の艦隊は、軍需品と千二百の乗組員とを満載して八月に到着した。アフォンソの帰航後それまでの間に、カリカットの王は再び六万の兵をくり出してコチンに迫ったのであったが、僅か百六十名のポルトガル兵によって守られたコチンを奪取することが出来なかった。大砲の威力の故でもあるが、また土人の戦術の幼稚であった故でもある。新来の艦隊はカリカットに二日間砲撃を加え、カナノル附近でアラビア人の艦隊を打ち破り、十分の荷を積んで一五〇五年七月にはリスボンに帰着した。インドの海には五隻の艦隊が三百人の乗員を以て残った。他に二百五十名の兵がコチン、カナノル、コラム等を守った。
以上の如くにしてガマのインド航路打通後僅かに四五年の間にインド洋は戦雲に覆われるに至った。この形勢によって痛切な打撃をうけたエヂプトのスルタンは、一方使を派して教皇に抗議を申込むと共に他方決戦に備えて艦隊の建造にとりかかったのである。教皇への抗議には、アラゴンのフェルディナンド王がスペインのモール人に加えた残虐、及びポルトガルのマノエル王がインドのイスラム教徒やアラビア人に加えた傷害を非難し、もしこれらの諸王がイスラムに対する怒りを捨てなければ、スルタンもまた自国領内に於けるキリスト信者を同様に扱わざるを得なくなるであろうとあった。また教皇がマノエル王に対しインドへの航海を禁じないならば、スルタンもまたその艦隊を以て地中海の沿岸を荒しキリスト教徒に復讐するであろうと云った。教皇はそれを両王に伝えたが、マノエル王の返事は極めて強硬であった。我々が艦隊を以てインドへの道を開き祖先の知らなかった国々を探求しようと決意したとき、目標となったのは、悪魔の助けによって地上に多くの悩みをもたらしたモハメッド教を絶滅することであった。スルタンの威嚇に対する最善の答は|新しい十字軍《ヽヽヽヽヽヽ》を召集することである。威嚇によって信仰の戦をやめる如きことは決してせぬ。かくして平和な協調の望は全然不可能となった。スルタンは二十五隻の艦隊を小亜細亜の海岸に送って船材を取り寄せようとしたが、ロードス島でヨハネ騎士団の襲撃をうけ、更にあらしで難破し、僅かに十隻が目的を果したのみであった。その結果建造された船は大六隻小四隻に過ぎなかった。
ポルトガルはこれに備えて、種々の対抗策を講じた。司令官の地位に持続性を与えるため『副王』の制度をつくり、最初の副王としてフランシスコ・ダルメイダを任命したのがその一つである。艦隊はインドに常駐せしめ、ただ貨物船のみを帰航せしめることにしたのが他の一つである。この新方針の下にアルメイダの率いた艦隊船団は二十隻以上で、軍艦には三年以上の服役義務を有する千五百の兵員が乗り込んだ。最大の軍艦は四百トンであった。
この艦隊は一五〇五年三月末に出発、七月半ばにモザンビクに着いたが、それからはもう軍事行動に移っている。先ずアラビア人の根拠地キロアを征服して城を築き、守備隊と大砲を残して行く。次でモンバサは少しく抵抗したために掠奪の上焼き払われた。インド沿岸では先ずゴア南方のアンヂェディヴの島に城を築き、次で南方オノル港では在泊中の船と町とを焼き払ってしまった。かくしてアルメイダは十月末カナノルに到って副王の位についたのである。この町にも城を築き百五十人の兵をして守らしめた。丁度その頃南方コラムに於て二十隻のアラビア船の入港を機としてポルトガル商館員殺戮の事件が起ったため、副王の子ロレンソは八隻の艦隊をひきいて急行し、アラビア艦隊を全滅せしめた。副王自身はコチンに到ってマノエル王の名の下にコチン王に戴冠せしめ、この地に石の城を築くことを承諾させた。
この年の末から一五〇六年の初めへかけて八隻の貨物船が香料を満載して帰国の途についた。これらは半年或は十カ月の後に無事リスボンに着き、大成功として迎えられたのであるが、他方インドに残った副王は、アラビア艦隊の攻撃にとりかかった。かくてロレンソはこの年三月、カナノル港外に於てカリカット王の二百隻の艦隊を見事にやっつけたのである。丁度その頃に、ベンガル湾沿岸からマラッカ、ジャバまで遍歴して来たヴェネチア人ルドヴィコ・ディ・ヴァルテマが来訪し、諸方の状況を物語った。アラビアの商船が従来の航路を変え、マルディヴ諸島経由セイロンに来り、東方の産物を入手することも明かとなった。で副王は再びロレンソを派遣してこの航路を遮らしめようとしたが、目標を誤ってセイロンに達し、なすところなく帰って来た。しかしアルメイダの方針はインド西岸の要地にポルトガルの勢力を確立することであって、そのために彼は無暗に事を起したり手をひろげたりするのを好まなかったのである。
然るに本国の考はそうでなかった。信仰の敵アラビア人が出没する限り、インド洋のどの沿岸も、攻撃し征服すべきである。そう人々は考えた。そうしてそれを形に現わしたのが、前に一度インドに来たアフォンソ・ダルブケルケである。彼の艦隊の出発はアルメイダの出発後二回目で、初めのは八隻の艦隊を以てアフリカ東海岸の経営に向ったのであるが、うまく行かなかった。次に一五〇六年の初めにアルブケルケが五隻の軍艦、千三百の兵をひきい、十隻の貨物船団と共に出発したのである。船団はインドに直航し、艦隊は紅海の入口やペルシア湾に向う筈であったが、マダガスカル島の探検でその年を終り、ソコトラ島の経略で翌年の夏を迎うるに至っている。このように海の勢力を分散させることは丁度アルメイダの怖れたところなのであるが、果してインド沿岸の根拠地は種々の危機に見舞われたのである。
その一つはカナノルの謀叛である。ポルトガルに友交的であった王が歿して後嗣が立った後に、ポルトガルのカピタンがカナノルの舟を沈めた事件が起り、遂に王は怒ってカリカットと結びポルトガル人の城を包囲するに至ったのである。守兵が敢闘して四カ月まで持ちこたえた時に、一年も遅れた船団が到着して、城を救った。一五〇七年八月末のことである。
もう一つはロレンソ・ダルメイダのチャウル(ボムベイ南方)に於ける戦死である。ロレンソは香料取引にチャウルまで行ったのであるが、丁度その頃に、前述のエヂプトの艦隊が押し寄せて来たのである。北方グヂェラートの王《シヤー》の提督(Melek Aias もしくは Ass. 恐らくロシア人であったろうという。ヂウ港の知事。)は、四十隻の快速船を以てエヂプト側に附いた。この聯合艦隊をアルブケルケの艦隊と誤認したロレンソは、川口に碇泊したまま敵を迎えることになったのである。そこで彼は圧倒的に優勢な敵に敢然として立ち向い遂に戦死した。漸く逃げ帰った他の船がこれを副王に報告すると、副王は全艦隊を集結してモハメダンに復讐することを企てた。がすぐには捗らず、エヂプトの艦隊はヂウで冬越しをした。
こういう事件の間にアルブケルケはペルシア湾の入口を荒し廻っていたのである。一五〇七年八月下旬に七隻四百人の兵員を以てソコトラを出発し、オマーン湾沿いのアラビアの岸にある商港を片端から攻撃し破壊した。これらの町々は数世紀来インド貿易に参加して相当に栄えていたのであるが、キリスト教世界に対して敵対したということは全然ない。しかしそれがアラビア人の町々であるということは、アルブケルケにとっては、信仰の敵であるということと同義であった。従ってそれらの町々はヨーロッパの武器の優秀性を容赦なく思い知らされたのであった。その破壊・焼打・掠奪・捕虜殺戮などの残虐なやり方を、当時の本国のポルトガル人は誰も非難していない。彼らは神聖な信仰のために戦っているのであり、神を味方としているのであるから、それに刃向う敵に対してはどんな残虐も当然のことと思われたのである。
かくして九月末にポルトガル艦隊はオルムヅに現われた。ここには三万の守備兵があり、その中に四千のペルシア弓射兵も加わっていたのであるが、アルブケルケは大砲の斉射を行いつついきなり港の中に突入した。そうして降服とポルトガルの主権の承認とを要求し、聴かずば町を壊滅せしめると威嚇した。要求は拒絶された。アルブケルケは港内の商船を撃沈した。弓射兵をのせた二百艘の小舟が攻撃して来たが、大砲の前には脆く懐えた。そこで町は降服し、ポルトガルの主権や年々の貢金や城塞の築造などを承認した。十月には既に築城が始まった。しかし部下たちは商船の拿捕やインドの香料貿易などを望み、追々にアルブケルケの統率を離れかけた。そうしてこの不和につけこんだ町の謀叛に際して、三隻の軍艦は勝手にインドに向け出帆してしまった。止むを得ずアルブケルケはソコトラに引き帰し越冬せざるを得なかった。
丁度この頃に副王アルメイダはインド沿岸に於けるエヂプト艦隊との決戦を企てつつあった。ポルトガル艦隊の勢力分散を喜ばなかった彼には、アルブケルケのペルシア湾遠征そのものが不愉快であったので、そこを脱して来た三隻の船長たちの訴えを取り上げ、一五〇八年五月にこの事件の調査を命じた。その結果彼は、アルブケルケがその暴行《ヽヽ》によってポルトガル王の利益を害するという確信を一層強めた。で彼はオルムヅの摂政に書を送り、アルブケルケの有害な戦争遂行を不愉快に思うこと、オルムヅの貿易船の安全を保障することなどを伝えた。
他方アルブケルケは、ソコトラが根拠地として役立たず、むしろその救済につとめなくてはならなかったために、一五〇八年の盛夏までそこにぐずぐずしていた。そこへリスボンから援軍が来たので、前の残兵と併せて三百名の兵を掌握し、再びオルムヅ攻撃に向って九月に港の前に着いた。オルムヅは前年の城塞を完成し、脱走兵に鋳造せしめた大砲をも備えていた。だからアルブケルケは港を封鎖するに留めざるを得なかったが、なおその上に彼はアルメイダの書翰をつきつけられたのである。その結果あまり効果を上げることも出来ず、インドに向って引き上げた。副王に逢ったのは十二月であった。
副王の任期はこの十二月を以て終り、次にはアルブケルケが総司令官となる筈であった。しかしアルメイダはエヂプト艦隊との決戦、子のための復讐戦を終るまでは、任を離れることを欲しなかった。それには彼を迎えて帰る筈であった船(ホルヘ・ダギアルのひきいる十三隻の船団の旗艦サン・ジョアン)がアフリカ東岸で沈没し、予定の通りに着かなかったという事情も手伝っている。がとにかく任期の切迫に追われてアルメイダは十二月十二日に北上した。艦隊は総勢二十三隻千六百名であった。先ず年内にダブールの町を襲撃したが、この町の破壊の物凄さは未曾有のものとして永く語り伝えられたという。やがて一五〇九年二月二日にヂウについた。港内にはエヂプト艦隊の他にグヂェラート王の提督の艦隊やカリカットからの来援艦隊もいたが、翌日アルメイダは港内に突入して|エヂプト艦隊《ヽヽヽヽヽヽ》のみを攻撃した。片端から乗り込んで行って沈めるのである。エヂプトの司令官は辛うじて脱出し馬に乗って逃げた。インド人の艦隊は形勢を観望して手を引き、アルメイダもまた、ロレンソの讐であるに拘らず、それらを攻撃しなかった。グヂェラートの王との紛争に陥ることを恐れたのであろう。アルメイダの目ざしたのは|モハメダンたるエヂプト人をインドの海から追い払う《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことであった。|インドの諸王とはなるべく友交を回復したい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と望んでいた。その態度を見てとってインド側からも手をさしのべた。アルメイダはロレンソ戦死の際捕虜となった味方のものを受取って、そのままコチンへ帰った。
アルブケルケは再び指揮権の譲り渡しを要求したが、アルメイダは迎えの船がまだ着かないという理由でなお躊躇を続けた。それほど彼はアルブケルケを危ながったのである。が一五〇九年秋に至って本国からフェルナン・クティニョが十四隻の船団をひきいて到着し、司令官更迭に対する確定的な命令を伝えたので、遂に彼は仕事を退いた。そうしてインド経綸についての彼の方針が直ちに崩されるだろうことを深く悲しみつつ、十二月帰国の途につき、途中アフリカ西岸で不慮の出来事により土人の手に斃れたのである。
五[#「五」はゴシック体] インド征服
アルブケルケの総司令官就任と共に果して方針は変った。モハメダンの勢力を駆逐するという在来の方針は、今や|インドの諸港を征服しよう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とする侵略的な方針に変った。インド航路の打通が国家的事業《ヽヽヽヽヽ》として取り上げられたということの必然の結果がここに出て来たのである。
先ず即座に始められたのは、カリカット攻撃の準備である。それはマノエル王の命令でもあった。新来のマーシャル・クティニョは、貿易の仕事に対して何らの愛着をも持って居らない単純な武人で、この戦争に加わることを非常に喜んだ。そこで、一五一〇年の正月に、聯合艦隊は二千の兵をのせてカリカットの前に現われ、敵前上陸を決行した。まず海辺の城を取り、次で町に侵入して王宮をも占領したのであったが、そこでクティニョが勝利を得たと考え、兵卒らに散らばって掠奪することを許したとき、インド軍は反撃に転じて王宮を包囲し、散らばったポルトガル兵を襲撃した。クティニョは部下と共に倒れた。後に続いていたアルブケルケは重傷を負い辛うじて退却した。かくてカリカット攻撃は完全に敗北に終った。
アルブケルケはクティニョの艦隊をも併せてコチンに退いたが、負傷の癒えると共に再び戦争の準備にとりかかった。一月の末には二十一隻の船が装備を終った。今度は王の命令に従って新しいエヂプト艦隊の邀撃のために紅海に向うらしく見えていたが、アルブケルケはひそかに|ゴア攻撃《ヽヽヽヽ》をもくろんでいたのである。この十年来の経験で、アフリカからインドへの渡海のためにも、またインド洋の制圧のためにも、ゴアが丁度最適の港であることが解って来た。従ってその理由のために、即ち|モハメダンと戦うためではなくインドを攻略するために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ゴアが攻撃目標として選ばれたのであった。
アルブケルケは艦隊をひきいて港の入口に達するや、武装したボートを偵察に派した。丁度その頃ビヂャプール王アディル・シャーはこの町にあまり多くの軍隊を置いていなかったので、偵察隊はいきなり城を奇襲して占領してしまった。アディル・シャーの軍隊は市民に抵抗するなと云い置いて町から引き上げた。翌日市民はアルブケルケに降服を申出で、アルブケルケは町を占領した。艦隊も入港し、長期碇泊の気構えで索具の一部を片附けたほどであった。しかしその間にビヂャプール王は大軍を集めて町の救援にやって来た。ポルトガル人は町を捨てて船に帰らざるを得なかった。そこで三月の末にはインド軍は艦隊の退路を絶つ工作を始め、海へ出る運河に船を沈めて閉塞した。そうしてポルトガルの船を焼き払うために筏に火をつけて河上から流した。アルブケルケは退却を決意せざるを得なかったが、その退却がまた実に困難であった。一隻ずつ沈没船の間を縫って出るのであるが、その間両岸の堡塁から間断なく火を投げてくる。それを防ぐには堡塁を襲撃奪取しなくてはならない。それが成功しても今度は浅瀬が船を阻む。陸からの援助は全然ないから食料と水はだんだん欠乏してくる。鼠を捕えて食う程になる。最初城の奇襲に成功した勇士は戦死する。士気は沮喪して脱走兵が出る。その中でアルブケルケはその気魄を失わず部下を力づけた。そうして遂に八月に至って浅瀬を超え海に出ることに成功はしたが、しかしここでも戦争は完全に敗北であったと云う他はない。
アルブケルケはカナノルに引き上げて休養したのであるが、その頃に二つの船団が本国から着いた。一つはマラッカの市場(そこへは既に前の年にディオゴ・ロペス・デ・セケイラがアルメイダの支援の下に行った。)を巡狩すべき命を受けて来たヴァスコゴンセ※[#「小さなル」]ロスの四隻の船隊、もう一つはゴンサロ・デ・セケイラの率いる七隻の商船隊であった。アルブケルケはこの援軍に力づけられて新しくゴア攻撃を考えた。ヴァスコゴンセ※[#「小さなル」]ロスは参加の意を表明したが、セケイラは部下の船の多くが貿易のみを目ざした船主の船であることと海の君主に圧迫せらるるコチン救援の方が緊急であることを理由として参加を拒んだ。そこでアルブケルケはコチンに赴いて簡単に事を鎮め、一五一〇年十月十二日にこの地で隊長たち全体の戦争相談会を開いた。議題は商船がコチンで積荷をやっている間に、使える人手を悉くゴア攻撃軍に加えてもらえぬかどうかということであった。ここで、前年のマラッカ探検に加わっていたフェルナン・デ・マガリャンスは、きっぱりとセケイラの意見に賛成であると述べた。その理由は、目下の逆風では十一月八日以前にゴアに着くことは困難である、とすれば戦争に参加した人々が帰航の出帆に間に合わないか、或はそれらの人々を待つために丁度よいモンスーンを逸するか、いずれかである、というにあった。アルブケルケはそれに対して明日直ちに出発し帰航の間に合わせると断言した(実際には、ゴア到着は十一月二十日以後であった。)。しかし意見は遂に一致せず、アルブケルケは一部の賛同を得たのみであった。この事件の故にアルブケルケはマガリャンスを憎み、マガリャンスも間もなくインドを去ったらしい。これがマガリャンスをスペインに走らせ、スペイン船を以て世界一周に成功せしめた遠因であると云われている。この優れた『探検家』と肌の合わなかったところに、アルブケルケの特性があると云ってよい。
アルブケルケは二十三隻千六百の兵を以て十一月の二十日過にゴアに現われ、二十五日には城を襲撃奪取して島を占領した。そうして慎重に町を攻撃し、モハメダン的なるものは、男・女・子供、その他何であるかを問わず殲滅した。捕虜の充満したモスクをそのまま焼き払って、イスラムの神が全然救う力のないことを実証した如きその一つである。
そこでアルブケルケは、頑丈な石の城を築き、その囲みのなかにポルトガル人の居留地を作った。これがインドに於けるポルトガル勢力の中心地となるのである。この形勢を見て近隣のインド諸王は頻りに友交の手をのべて来た。カンバヤ、グヂェラート、ビスナガなどがそうである。カリカットさえも使を寄越した。エヂプトの司令官はインドに於て勝利を得る望みを失いカイロに引き上げた。スルタンも一時は引続いて艦隊を建造することをやめた。|ゴア攻略の効果《ヽヽヽヽヽヽヽ》は実に大きかったのである。語をかえて云えば、モハメダンとの戦争は、インド攻略に変質することによって、反ってその目的を果し得たのであった。
ゴアは四百の守備兵が常駐しているというのみでなく、ポルトガル王の所領たるポルトガルの町となった。インド諸王もそれを承認せざるを得なかった。やがてポルトガルが通貨を鋳造し始めたのみでなくインドの貨幣もポルトガルの印を押されることによって貿易通貨となり得るに至った。がアルブケルケはこの権力を平和的に拡大して行こうとは考えなかった。彼がついで目ざしたのはマラッカの征服である。これを果さずしては香料貿易を独占することは出来ない。
六[#「六」はゴシック体] マラッカ征服
マラッカとの関係はゴア攻略以前に一五〇九年の秋からついた。ディオゴ・ロペス・デ・セケイラがアルメイダの後援の下に五隻の艦隊を以てここに遠征したのである。この町ではまずシナ人が友交的に迎えてくれた。彼らは何らの偏見もなく新来のヨーロッパ人と附き合い、その習慣もヨーロッパに近い。がマレー人のスルタン・マームウドも自由な貿易を許しはした。それを陰謀に導いて行ったのは、ここでもアラビア人だろうと云われている。遂にポルトガル人襲撃が行われ、艦隊は二三の敵船を撃沈しただけで引き上げた。
このマラッカをアルブケルケはその大艦隊を以て圧倒しようと欲したのである。マノエル王は依然として紅海航路の閉鎖を命じたのであったが、これは逆モンスーンのためにうまく行かなかったので、その艦隊をそのまま、モンスーンに乗れるマラッカの方へ向けたのである。それは一五一一年の春で、十九隻八百名の兵、それにインド人の補助隊六百名を加えた。マラッカについたのは七月一日であった。まず捕虜の返還を要求し、それが拒絶せらるるや岸辺の家と港の船を焼いた。そこでスルタンは捕虜を返し、町の人も平和な協定を望んだのであったが、アルブケルケはセケイラに対する損害賠償のみならず、三十万クルサド(一クルサド約二志四片)の戦費と城塞築造の承認とを要求したのである。この過大な要求に対してスルタン側の意見は二つに分れた。商業を傷いたくないと思う人々は平和と賠償とをすすめ、この要求の承認によってスルタンの権威が地に墜ちることを恐れた人々は開戦を主張した。三万の兵、八千の砲、その他にヨーロッパ人の知らない戦象がある。どうしてこの敵を追い払えないことがあろう。遂に開戦論が勝って、七月二十五日市街戦が始まった。ポルトガル軍は相当マレー軍を圧迫したが、結局船に退却せざるを得なかった。八月十日に再び攻撃が始まった。九日間市街戦が続き、市街は漸次ポルトガル軍の手に落ちた。モール人に対しては特に仮借するところがなかった。アルブケルケは部下の労をねぎらって三日間掠奪を許した。大砲の鹵獲は三千門に及んだ。
アルブケルケはここに石の城を築いた。石材はモスクや王宮の石を使った。また貿易を回復するために土人の港務長《シヤーベンダー》を任命し、金銀の貨幣を作った。そうして東アジアの諸国と交友関係を結ぶ努力を始めた。シャムへは使者を送った。ペグへも送った。スマトラやジャバの諸王から手をさしのべて来た。シナヘも使を送ろうとしたが、これはあとにのびた。(しかし商船は既に一五一五年にシナに来ている。)
一五一一年の末には更に香料の島モルッカ諸島探検のために小艦隊が派遣された。アルブケルケ自身は、マラッカに守備兵三百及び十隻の艦隊を残し、一五一二年の正月に三隻を以てインドに向け出発したが、途中スマトラ沿岸で坐洲して船を失い、辛うじて二月一日にコチンに着いた。
七[#「七」はゴシック体] 植民地攻略
ところで彼の留守中にゴアは再びインド軍に包囲され、絶え間なき小競合いによってひどく疲弊していた。幸に一五一二年の夏には続々と本国の船がつき、八月には十三隻で千八百の兵をのせた艦隊さえも到着した。これに力を得てポルトガル人は再び攻撃に転ずることが出来た。アルブケルケは商船隊の始末などをしたあとで、ゆっくりと九月半ばに十六隻を以てゴアに来り、一挙にして形勢を変えてしまった。かく容易に勝利が得られたのは、インド諸王の仲が悪く、外敵に対して団結しないのみか、互に抜けがけでポルトガル人と友交を結ぼうとしていたためである。その事情を示す一つの例は馬である。インド諸王の軍隊は騎兵を主力としていたが、その|馬の輸入《ヽヽヽヽ》をゴアが独占してしまった。そういう点からもゴアは商港として栄え始めたのである。
アルブケルケのマラッカ征服がヨーロッパに与えた印象は非常なものであった。殊にそれは一五一三年にマノエル王がローマに送った盛大な使節の行列によって高められた。インドからの象や豹などもつれて行った。一五一四年三月にいよいよローマに入った時には、祝砲が町中に轟き、教皇が宮殿の窓に現われて行列を迎える。象は三度跪いて敬礼する。黒山のようにたかっている群集があっけに取られる。翌日の謁見式に於てはポルトガルの使節がインド征服に関する華かな演説を行い、アルブケルケの武功をほめたたえた。インドに於ける勝利は|信仰の勝利《ヽヽヽヽヽ》なのである。今や十字軍は遥かなる東方に進出し、ポルトガルの武力によってキリスト教をかかる遠い地方にまで拡め得るに至った。これがアルブケルケの功績として承認せられたところなのである。この時が彼の名声の絶頂であったと云ってよいであろう。
しかし本国では何故にインドの総司令官がゴアを保持するために多くの血と金とを費しているかを理解しなかった。それにはアルブケルケの反対者の流布した噂もあずかって力があった。ゴアは不健康地である。それを維持するには無駄な金がかかるのみならずインド諸王との絶えざる紛争をひき起す。この声に耳を傾けた王は総司令官に反省を促した。がアルブケルケはゴアの奪回を非常に重大視していた。この勝利は過去十五年間インドに送られた艦隊全部がなした仕事よりももっと有効である。陸に堅固な足場がなくてはポルトガルのインドに於ける勢力は永続きがしない。コチン、カナノルその他のどの城も、意義価値に於てはゴアと比較にならないのである。ゴアを放棄すればインドにおけるポルトガルの支配は終るであろう。自分は本国に敵を持つことを知らないではないが、どうかそれらに耳を傾けないでほしい。これがアルブケルケの意見であった。今や彼はインド洋の制海権を得るために|陸地の支配《ヽヽヽヽヽ》が必要であることを確信するに至ったのである。これはアルメイダの見解に比すれば明白に植民地略取《ヽヽヽヽヽ》の方へ歩を進めているのであるが、しかし本国の見解と対立するに至ったという点では、アルブケルケも結局アルメイダと同じ境遇に追い込まれたと云ってよい。
しかし最後の破局が来るまでには彼はなお二つの遠征を遂行している。その一つは王の命令によって止むを得ずにやった紅海遠征である。一五一三年二月に艦隊二十隻、ポルトガル兵千七百、インド兵八百を以て出発した。ソコトラから西の海は古代以後ヨーロッパ人の乗り込まなかったところで、水路は知られていなかった。そこへ彼は進出して先ずアデンを攻撃したが、これは全然失敗に了った。そこで紅海へ入って北方カマラン諸島まで行き、八月にインドへ帰った。第二はやはり王の命令によるのであるがアルブケルケ自身も気乗りがして行《おこな》ったオルムヅ遠征である。一五一五年二月、二十七隻の艦隊、千五百のポルトガル兵、七百のインド兵を以て出発した。七年前の彼の第二回のオルムヅ攻撃は云わば副王アルメイダの妨害によって挫折したのであったが、今度は簡単にオルムヅを占領し、そこで政治の実権を握っていたペルシア人たちを追い払ってもとの老君主に政権を戻した。そうして数カ月の間占領後の処理に努めていたが、八月頃より痢病にかかり、経過が思わしくないためにインドに帰ることとして、十一月に出発した。その途中アラビア船に逢い、ロポ・ソアレスが総司令官の後継者に任命されたことを知ったのである。
これはアルブケルケにとって非常な打撃であった。王が遂に彼の敵たちの言葉に耳を傾けたことは明かであった。彼らの云いふらしたところによると、アルブケルケは全インドの独立の君主となろうとしている。そのために要職には親族の者のみを坐らせる。事実彼はマラッカにもオルムヅにも自分の甥を司令官に任命したのである。本国では彼の敵の方が多く、彼を弁護する人はいなかった。しかし王もこれらの非難をそのまま採用したのではなく、中を取って彼を召還することに決したのである。しかし後任の司令官その他の幹部には曾てアルブケルケに不従順であったもの或は犯行の故に囚人として送還されたものなどが選ばれていた。この人選がアルブケルケを深く傷けたのである。彼はもう生きる力を失った。そうしてゴアの港が見えるところまで来て息を引き取った。
アルブケルケは失脚して死んだが、しかし彼が航海者ヘンリの始めた仕事を|ポルトガル国のインド攻略《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の形にまで展開したという意義は失われはしない。このあとで彼の敵がインドの総司令官となったにしても、結局大勢はアルブケルケの開始した|植民地経営を押し進める《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことに帰着するのである。
アルブケルケを憤死せしめたロポ・ソアレス・ダルベルガリアは一五一八年まで総司令官の職にあったが、前任者のあとを追って一五一六年に三十七隻の大艦隊を以て試みた紅海遠征は散々の失敗であった。彼は紅海中ほどのヂッダまで進出したのであるが、港の攻撃がうまく行かない間に、エヂプトのスルタンがトルコ人に亡ぼされるという事件が起り、もはやアラビア人のインドへの脅威は除かれたとして軍を引いたのである。そうして帰途暴風・饑餓・疫病などのために惨憺たる損害をうけたのであった。彼の任期中に於ける僅かな成功はセイロン島のコロンボの占領のみである。彼に次いで総督となったのは、前にマラッカを探検したディオゴ・ロペス・デ・セケイラで、一五二一年まで在任した。この総督もまた王の命に従って紅海に遠征した。エヂプトのトルコ人がインド遠征を企てていると聞えて来たからである。が今度もまた失敗であった。バブ・エル・マンデブの海峡の近くでセケイラ自身の船が難破し、他の船に救われた。艦隊はヂッダまでも行けなかった。なおその他にも彼は四十隻を以てするヂウの攻略に失敗し、エヂプト遠征の企は準備が整わなかった。この頃マノエル王歿し、ジョアン三世が立ったが、インドの総指揮官にはドゥアルテ・デ・メネゼスが任ぜられ、一五二二年に赴任した。がこの総指揮官も香しいことはなかった。再び叛いたオルムヅを制圧するのがやっとのことであったのである。
かくだれて来たインド経営に活を入れるために、一五二四年に再びバスコ・ダ・ガマが副王として登場した。彼はエンリケ・デ・メネゼスやロポ・ヴァス・デ・サムパヨを従えて同年九月にインドに到着し、インド経営に思い切った粛正を開始したのであるが、その十二月にはもうコチンに於て歿してしまった。|十字軍の精神《ヽヽヽヽヽヽ》を以てインド航路を打通したこの探検家も、インドに於ける植民地経営には寄与するところはなかったのである。
後任には同伴して来たエンリケ・デ・メネゼスが任ぜられたが、これも一年余にして一五二六年二月に歿し、その後任の手続きがもつれて、右のロポ・ヴァスとマラッカの知事ペロ・マスカレニャスとの間の党争となった。これを鎮めるために新しく総督に任命されたのがヌンニョ・ダ・クーニャで、これが一五二九年より一五三八年までの十年間に、アルブケルケの事業を力強く押し進める事になるのである。
クーニャはインドに着く前にオルムヅに寄ってここに経綸を施し、インドに着いてからも海の君主を手なずけることに成功している。が彼がインドで企てた最大の事業は|グヂェラートの征服《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。彼が一五三一年にボムベイからヂウ攻撃に向った時には、大小四百隻、ポルトガル兵三千六百を率いていた。これはポルトガルとしては未曾有の大軍である。がこの大軍を以てしてもヂウは直ちには陥落しなかった。何故ならグヂェラートのスルタン・バハドゥルはトルコの将軍ムスタファの援軍を得ていたからである。ムスタファはヨーロッパ風の戦術を心得、砲兵士官として有名であったが、ヂウの危機の知らせによって、紅海から二隻八百名を率いてかけつけたのであった。そこで彼は全守備軍の指揮を委ねられ、正確な砲撃を以て防いだ。クーニャはこの形勢を見て要塞強襲を躊躇せざるを得なかったが、王の命であるが故に止むなくこれを強行して撃退された。であとは港の封鎖に留めて南方チャウルに退いた。
その間にスルタン・バハドゥルはデリーのスルタンと戦争を始め、海岸地方の守りを緩くせざるを得なくなった。そこでヂウの代りにバッセインの町をサルセット島ボムベイ島と共に譲ろうと申出て来た。クーニャは喜んでこの講和に応じ、一五三五年にバッセインに要塞を築いた。然るにバハドゥルは戦に敗れて海の方へ圧迫され、ヂウに逃げて来た。そこで彼はポルトガル人を味方にすべく、ヂウの側《そば》に要塞を作る土地を提供しようと申出た。クーニャはそれに対して紅海方面への自由な貿易の保証を約したが、ただトルコの船のみは除外した。この原則の上に攻守同盟が出来上ったのである。
がデリー軍の圧迫が薄らぐと共にバハドゥルはポルトガルの要塞を邪魔にし出した。そうしてデカンの他の諸王と結び始めた。クーニャはそれを察して一五三七年正月ヂウに赴き、自分の船でスルタンと会見したが、その会見からの帰途スルタンの船はポルトガル船と衝突し、遂にスルタンは殺された。その混乱に乗じてポルトガル人は容易に町を占領することが出来たのである。しかしやがてグヂェラートの大軍が押し寄せてくると、ポルトガル人はまた要塞の中へ引き上げざるを得なかった。その上翌一五三八年には、七千の兵をひきいた強力なトルコ艦隊がヂウの前に現われ、二十五日間重砲を以て要塞を砲撃した。しかし城兵は要塞を死守して、破壊口から突撃を辛くも撃退した。その内トルコ艦隊は、クーニャの送った数隻の救援艦を大艦隊の一部と誤判して、囲を解いて引き上げて行った。その時要塞では砲弾も既に尽き、戦い得る兵僅かに四十人に過ぎなかったという。あとは戦死し、傷き、また壊血病で寝込んでいたのである。
かくしてヂウは辛くも保持された。それは一五三八年の十一月であった。最後の危機に際して彼がヂウに十分の救援軍を送り得なかったのは、この九月に既に後任の副王ガルチア・デ・ノローニャが到着し、慎重に構えて容易に動かなかったからなのである。この後任の選定もまたクーニャの地位が本国に於て危うくなったことを示していた。十年間の苦しい努力は冷淡な取扱いを以て報いられた。それはクーニャのみならず部下の多くの士官たちの感じたところであった。かくてクーニャは極度の不愉快の内に一五三九年正月自分の借りた船でインドを出発し、七週間後に海上で死んだ。
このような結果が招来されたのは、一つは本国が遠い出先の事情を審《つまびら》かにしないことによるが、もう一つにはインドで服役によって成金になろうと考えていた貴族たちが厳格な総督のためにその意を果さず本国に送還されなどして頻りに悪声を放ったことにもよるのである。がジョアン三世の立場としては、クーニャが政治的関心からスルタン・バハドゥルにあまりに譲歩し過ぎ、キリスト教の伝播に熱心でない、という点を嫌ったのであろう。ジョアン三世は宗教審判《ヽヽヽヽ》をポルトガルに導入したほどの人であるから、このことは相当重要な意義を持つと思われる。更にそれと聯関して考えらるべきことは、クーニャがインド洋で展開した兵力が、|ポルトガルの国力の最大限《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に達していたのではないかということである。ガルチア・デ・ノローニャは訓練された兵士の代りに解放された囚人を連れて来て、インドに於けるポルトガル士官たちにむしろ土人兵の方がよいと思わせたほどであった。本国に於ける壮丁がそれほど不足して来たのである。これらの点を考えれば、航海者ヘンリ以来一世紀の間に極めて強靭な力を以て発展して来たポルトガルの東への進出は、インド沿岸に於てゴア、ヂウ、及びサルセットを含むバッセイン、の三地点、インドの外に於てマラッカ、オルムヅの二地点、の攻略を以て、|その発展を終った《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということが出来るのである。
八[#「八」はゴシック体] 未知の世界への触手・キリスト教伝道
植民地攻略《ヽヽヽヽヽ》としての発展の勢は止《と》まった。あとは既に手に入れた植民地の維持《ヽヽ》が主要事になる。マラッカの如きは辛うじて維持が続けられ得たのである。がこの運動の本来の動力としての|未知の世界への探検の要求《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|キリスト教のための戦《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、及び|貿易の関心《ヽヽヽヽヽ》は、ここで止まったわけではない。ポルトガルの艦隊はマラッカから先へは大挙進出をなし得なかったにしても、探検や貿易の努力は更に太平洋のなかへのびて行ったのである。が特に重要なのは、それらよりも一層熱心に|キリスト教伝播の運動《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が先へ先へと押し進められ、その形に於てポルトガルの勢力が日本にまで到達したことである。
探検と貿易との仕事としては、アルブケルケがマラッカを攻略した一五一一年の末にモルッカ探検に派遣された三隻の船が、アンボイナまで到達した。内一隻は難破し、船長フランシスコ・セランは部下と共にあとに残って、本来の香料の島テルナーテに来た。この報が一五一三年春マラッカに着くと、セランを迎える船隊が派遣され、これが香料の島テルナーテとティドールとの間の引っぱり凧になったのである。セラン一人はなおテルナーテに留まったが、この時彼のマガリャンスに宛てた手紙が、世界一周航海を刺戟したといわれている。というのはセランがマラッカからモルッカヘの距離を非常に誇張して報告し、バスコ・ダ・ガマ以上の大仕事をなしたかの如く吹聴したからである。マガリャンスはこれに基いて計算し、香料の島がポルトガルに許された半球よりも東へ出ていること、従って西廻りの方が近いことを推論したのであった。
この計算は誤りであったが、しかしマガリャンスの西廻り航海は、一五二一年の秋には遂に実現したのである。それまでの間にポルトガルの商船は一五一八年に一度来ただけであった。次にアントニオ・デ・ブリトーがやや大なる船隊をひきいて来たときには、既にスペインの船がこの海域に現われていた。かくして香料の島をめぐるポルトガルとスペインとの争が起るのであるがそれは|東へ向けての探検と西へ向けての探検《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とが落ち合ったということ、従って未知の領域への熱烈な視界拡大の運動がここで一応のまとまりに達したのであるということ、を意味している。われわれはここまでで|その半分《ヽヽヽヽ》を、即ち東へ向けての探検のみを、辿って来たのであるが、ヨーロッパ人が日本へ現われたときには、|他の半分《ヽヽヽヽ》の知識をもすでに十分に持っていたのである。即ち世界一周によって得られた視界の拡大が、ヨーロッパ人の真実の優越性を形成していたのであった。それを十分に理解するためにはわれわれはなお|西方への視界拡大の運動《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を辿り、スペイン人の偉業を観察して見なくてはならぬ。
がそれは次章の問題として、ここではマラッカまで来たポルトガル人が、いかにして日本まで探検の歩をのばして来たかを見て置かなくてはならぬ。それは探検家の仕事ではなくして|キリスト教の宣教師《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の仕事であった。そうして宣教師がこのような仕事を成し遂げたについては、近い過去にヨーロッパに起った大事件が、即ち宗教改革《ヽヽヽヽ》が、響いているのである。
宗教改革の運動は大分前からヨーロッパで燻っていたが、それが焔々となって燃え上ったのは一五一七年《ヽヽヽヽヽ》であった。それはインド洋においてアルメイダやアルブケルケの事業がすでに終った後である。ヨーロッパがこの改革によって混乱に陥ると共に、ポルトガルの植民地攻略の仕事も一時その活力を失ったように見える。しかし新教の攻勢によって深刻な反省を促されたカトリックの世界においては、さまざまな腐敗の粛清、宣教師の生活の浄化などによって、反撃に出る傾向が激成されて来た。中でも著しいのは、一五三四年《ヽヽヽヽヽ》にイグナチウス・ロヨラによって創設せられた|ヤソ会《ヽヽヽ》である。それが法皇に承認せられたのは|一五四〇年《ヽヽヽヽヽ》であった。即ちポルトガルの植民地攻略の勢の止まった時とほぼ同時なのである。
ところでこのヤソ会は、清貧・貞潔・服従などの中世的戒律を厳格に守り、自己及び同胞の魂を救うために身命を捧げて戦う軍隊であった。従ってそれは|内面化された十字軍《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であるということも出来る。ローマの教会が宗教改革によって失った権威を、何とかして回復しようということも、この十字軍の目ざすところであった。だからこの運動はポルトガル人の視界拡大の運動と直ちに結びつくことが出来たのである。この視界拡大の運動において主観的な筋金《すじがね》の役目をつとめていたのは|十字軍的な精神《ヽヽヽヽヽヽヽ》であったが、それは視界が拡大されるにつれて、単にイスラムに対する反撃運動という狭い立場から、一般的な|異教徒教化の運動《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》に転じて行った。丁度その傾向が、軍隊的な組織を持ったこの教団にぴったりと嵌ったのである。
ローマの教皇がヤソ会を公認した一五四〇年の頃に、丁度ポルトガル王ジョアン三世は、インド総督クーニャがキリスト教伝道に不熱心である故を以て更迭させ、ローマ駐箚の公使に命じて力ある宣教師を探させていた。そこで当然着目せられたのがこの新しい活気ある教団であって、その幹部の二人が選に入った。その内の一人がフランシスコ・デ・シャビエルである。彼はポルトガル王の招聘を受諾し、翌一五四一年、新しく赴任するインド総督スーザの艦隊と共にインドに向ったのであった。ヤソ会士としてはまことに出来たてのほやほやである。
シャビエルがインドに着いたのは、一五四二年《ヽヽヽヽヽ》であった。ところでこの一五四二年という年は、ポルトガル人が|初めて種子島に漂着し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、日本人に鉄砲を伝えた年、ポルトガル人の側から言えば、日本を発見した年である。この漂着の事件は種々異なって伝えられているが、その船がシナのジャンクであり、乗っていたポルトガル人が二人乃至三人に過ぎなかったことは、動かぬところであるらしい。即ちポルトガルの「船」が日本を目ざして来たのではなく、|船から遊離した冒険的なポルトガル人が《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、偶然《ヽヽ》、日本に接触したのであった。
しかしこの偶然の事件の背後には、日本人にとって一世紀以来馴染の多いシナ沿岸へ、ポルトガル人が進出して来たという事実がある。それはマラッカ征服後一五一四年に、シナへの使者をシナ人のジャンクに乗せて送ったことに始まる。ついで一五一六年には、ポルトガル船四隻、マレー船四隻の船団を以て、初めて広東附近タマオまで進出した。広東の知事が皇帝へ伺いを立てている間に、船団の中の一隻はレキア(琉球)探検に派遣されたが、しかしこの船は台湾対岸の|※[#「さんずい+章」、unicode6f33 ]州《しょうしゅう》まで来ただけであった。その中に南京からポルトガル人の宮廷訪問の許可が到着した。そこで一五二〇年の初めに、司令官は、福建南端から陸路南京に向った。謁見は一五二一年に至って漸く行われた。しかるに右の船団に続いて一五一九年にやって来た第二の船団の司令官は、タマオに要塞を築いたり、子供を誘拐したりなどして問題を起した。それに加えてシナへの救援を求めに来たビントヮンの王の使者が、ポルトガル人に征服の野心があることを説いて聞かせた。そのため皇帝は、南京に来ているポルトガルの使者を拘禁し、同国人の入国を禁じた。で、一五二一年に第三の船団二隻がタマオに来たときには、シナ人はこれを撃ち払った。翌一五二二年に第四の船団五隻が着いたときにも、シナ人は一隻を捕獲し一隻を破砕して追い払った。こうして公許の貿易は遂に成功しなかったのである。しかし私貿易はそうではなかった。特にシナのジャンク船を利用したポルトガル人の貿易は、漸次北にのびて寧波に及んだ。種子島に漂着したポルトガル人も、シャムでポルトガル船に別れ、ジャンクを使ってシナ沿岸の貿易をやっていた人たちなのである。
そういう情勢であったがために、たとい偶然にもしろ、|日本が見つかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということの影響は非常に大きかったらしい。ピントーの旅行記によると、日本は銀が豊富でシナ商品を輸入すれば大儲けが出来ると聞いた人々は、争って商品の買入れに着手し、一ピコル四十|両《テール》の生糸を僅々八日の間に百六十両までせり上げた。そうして九隻のジャンクが十五日の間に準備を整え、日本に向って出発した。この記事はあまり信用の出来ないものではあるが、しかし種子島漂着の報をきいたポルトガル商人が直ぐにシナ沿岸からジャンクで日本に向つたということは、他の報告にも現われている。ポルトガル人の日本への渡米はこの後迅速に始まったらしいのである。
つまりシャビエルがインドへ着いたとたんに、ポルトガル人が日本へ来始めたのである。そうしてその後五六年の間に、ポルトガル人は九州沿岸の諸所の港に出入するようになり、シャビエルはマラッカや南洋諸島を見て歩いた。一五四七年には、マラッカで、|鹿児島人ヤジローとシャビエルとが会った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。シャビエルはヤジローにおいて日本人を見、日本人に対して非常に好感を抱いた。日本布教の決意はこの時に固められたといわれている。
この因縁によってシャビエルは、一五四九年に日本へ渡来した。これは一隻や二隻の貿易船が日本へ来たというような小さい事件ではなかった。航海者ヘンリ王子以来の「東方への視界拡大の運動」が、ここではポルトガル艦隊の姿においてではなく、|三人のヤソ会士の姿《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》において、日本にまで届いたのである。
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[#小見出し]     第二章 西方への視界拡大の運動
一[#「一」はゴシック体] コロンブスの西への航海の努力
コロンブスの西方への航海は、結果としては|新大陸の発見《ヽヽヽヽヽヽ》となり、近代のヨーロッパに甚大な影響を与えたのであるが、しかし未知の世界への視界拡大の運動としては、航海者ヘンリの活動から派生して来た一つの枝に過ぎない。この運動の最も困難であった点は既にコロンブスの幼時に打ち越えられていた。アリストテレース以来の知識の限界は突破され、アフリカ沿岸の探検は急速に歩度をのばしつつあった。この地盤の上で西廻り航海という考を実行に移して見るか否かがここでの問題だったのである。
しかし結果として|新大陸が発見《ヽヽヽヽヽヽ》されたということは非常な大事件であった。コロンブス自身はまだその意義を理解するに至らなかったが、彼のあと二、三十年の間にこれが全然新しい『発見』であることが明かにされ、一挙にして視界は倍に拡大されたのである。しかもそれは単に地理的の発見たるに留まらず、新しい人間社会の発見、新しい文化圏の発見でもあった。この点に於てインドやシナへの航路の打通とはよほど趣を異にしていると云ってよい。インドやシナはどれほど珍らしかったにしてもとにかくその存在の知られている国であった。然るにアメリカの存在は全然知られていなかったのである。|未知の領域の開明《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということがこれほど顕著に実現された例はない。従って|未知の世界の開拓《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》に対してこれほど強い刺戟となったものも他にはないのである。
この相違と聯関して植民地攻略の仕方が著しく異って来たことも忘られてはならぬ。インド洋では、ポルトガル人は積年の仇敵アラビア人と制海権を争ったのであって、初めからインド征服を目ざしたのではない。インドでの植民地攻略はアラビア人との戦争に必要な根拠地を獲得するためであった。然るにアメリカにはそういう仇敵はいなかったのである。しかも十字軍的精神はここでも同様に旺盛であった。そこでスペイン人は単純に土人の国々を征服したのである。
この征服事業の発端をなしたのはコロンブスの西への航海である。
コロンブスはこの航海が惹き起した結果の故に非常に有名となったが、そのくせ伝記には不明な点が多い。生地や生年についてさえ多くの異説がある。しかし多分一四四六年にヂェノヴァで生れたイタリア人だということは確かなのであろう。十四歳の時から船乗りとなり、外国に出たらしい。一四七七年に、多分英国のブリストルから出帆して、アイスランドとの中途にあるファロエ諸島を超えて百哩位北まで航海したのが、大洋を知った初めであると云われている。その後ポルトガルに移り、一四八二年以後に、ギネア海岸へ航海したこともある。その内リスボンで結婚したが、その妻の父が遺して置いた海図や書類から彼は色々なことを学んだらしい。
当時は航海者ヘンリの歿後二十年も経って居り、ポルトガルの海員たちの間の発見熱は大変なものであった。だから西方の海の秘密についての色々な噂もかなり行われていたのである。例えばポルトガルの船長マルチン・ヴィセンテは、サン・ヴィセンテ岬の西方四百五十レガのところで彫刻のある材木を拾った。これは幾日も幾日も吹き続いた西風に流されて来たのであるから、西方のあまり遠くないところに陸があるに相違ないということが云える。またアゾレス諸島にはその地に存しない樅の幹や、インドに於てのみ育ち得るような太い蘆が漂着した。或はまたマデイラのアントニオ・レーメは百哩ほど西方に三つの島を見たと語った。等々の類である。
コロンブスはこれらの話を自ら聞いたほかになお当時の海図からも同じような示唆を受けている。当時の海図は航海者の錯覚に基くようなものを書き入れているのであって、アンティリア島の如きがそれである。この名は後に彼の発見した西インドの群島の名として生き残っている。
がこれらよりも一層強い影響をコロンブスに与えたのは、一四一〇年にピエール・ダイーの書いた Imago mundi(世界像)という地理書である。コロンブスはこの書をポルトガルにいた時分に熱心に読んだのみならず、後に航海の時にも携えて行った。ところでこの書は学問的にあまり価値のあるものではなく、古代及び中世の多くの学者からの寄せ集めで、新しい探求の結果などあまり重んじていない。マルコ・ポーロの名なども出ては来ない。しかもコロンブスのコスモグラフィーの知識は悉くこの書から出ているのである、特に|地球の大きさや大洋の狭さ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》についての考がそうである。アイーは、アリストテレース、セネカ、プリニウスなどを引用して、スペイン西岸とインド東岸との間の海が、順風数日間に渡り得る狭い海であることを説いた。或はアリストテレースやアヴェロエスに基いて、アフリカにもインドにも象がいる、だからアフリカ西岸とインド東岸とはあまり距っている筈がないと論じた。その距離はまだ解らないが、しかしスペインから東に向ってインドに達するまでの人の住んでいる世界は、地球の半周よりは大きいのである。従って西への海路の方が近道であるということは動かない。この近道という考がコロンブスに対して非常に有力に働いたのである。
航海者ヘンリの仕事が既にその実を結びかけている時代に、右の如き典拠に基いた知識が有力に働いたということは、全く不思議であるが、しかしそれは、|楽園の位置と性質や切迫せる世界の没落《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》などに関するアイーの考がそのままコロンブスを支配していたことを思えば、まだ何でもないのである。地上楽園は遥かなる東方の高いところにあって、そこから川が恐ろしい勢で流れ下っている筈であった。後にコロンブスはオリノコ河口に達したとき、これが楽園から流れ出る川だと真面目に考えたのである。
が、コロンブスの西航の企てに決定的な影響を与えたものは、やはりトスカネリの手紙であろう。コロンブス自身の書いたコピーによると、
「リスボンのフェルナン・マルティンス僧会員に物理学者パオロより挨拶を送る。香料の国へ行くにギネアを通る道よりももっと近い海の道があることを曾て貴下と話し合ったことがある。それを思うと、王陛下と貴下との親密な御交際の御知らせは一しお愉快に感ぜられる。王は今やあの方面のことにあまり通じないものでも理解し得るような、むしろ眼見に訴えて人を承服せしめる底の説明を求められる。余は大地を現わす球によってこのことを示し得ると思うが、しかし一層容易な理解のために、また手数を省くために、この道を海図の上で説明しようと決心した。で余は自分の手で引いた海図を陛下に捧呈する。その海図に描かれているのは、西への道の出発点たる貴国の海岸や島々、その道の到着点たるべき場所、その途上北極及び赤道からどれほど離れなくてはならぬかということ、及びどれほどの距離によって、即ち何マイル航海した後に、あらゆる香料や宝石の充溢したかの場所に到達する筈であるかということなどである。香料のあるところは通例東方と呼ばれているのに余がそれを|西方の地域《ヽヽヽヽヽ》と呼ぶことを怪しまないで頂きたい。何故ならあの地方は、陸路を取り|上の道《ヽヽヽ》を通って行けば、東へ東へと行って到達するのであるが、海路を取り|地下の道《ヽヽヽヽ》を通って行けば、西へ西へと行って見出せるのだからである。従って地図に縦に引かれた直線は東から西への距離を、横の線は南から北への距離を示す。なお余は地図にさまざまの場所を書き込んだ。航海の詳細な報告によると、そういう所へ諸君はつくかも知れぬのである。逆風とか、何かその他の事情で、目ざすところと異ったところへ着くこともあろうし、又その際航海者がその国土の知識を持っていれば一層工合がいいに相違ないのであるからそれを予め持つようにそこの住民を示すためである。しかしその島々には商人のみが住んでいる。即ちそこでは、世界中他の何処にも見られぬほど多くの商船の群が、ザイトンと呼ばれる一つの有名な港に集まっていると云われる。その港では毎年胡椒を積んだ百隻の大船が出発する。他の香料を積んだ他の船は別である。その国土は非常に人口が多く、州や国や都市も数え切れぬほどあるが、王の王を意味する大汗という一人の君主に支配されている。彼の居所・宮殿は大抵カタイ州にある。彼の父祖はキリスト教徒との交際を望んだ。既に二百年前に彼らは教皇に使を送り、教を伝えるべき多くの学者の派遣を求めた。が派遣された人々は途中障害に逢ってひき返した。エウゲニウス教皇の時にも、一人の男が教皇の所へ来て、キリスト教徒に対する彼地の好意を保証した。余自身もその男とはさまざまのことを長い間話し合った。王宮の偉大なこと、江河の流れが、その幅に於ても、恐ろしい長さに於ても、実に巨大であること、江河の岸に無数の町々があること、或河の沿岸には約二百の町があり、広い長い大理石の橋が無数の柱に飾られて掛っていることなどを。それはラテン人が訪ねる価値のある国土である。ただに金銀宝石或は珍らしい香料などの巨大な宝がそこから得られるが故のみならず、学者や哲学者や熟練した天文学者の故に、またいかなる巧みさと精神とを以てかくも強大な国土が統治され、或は戦争が遂行されるのかを知るために。フィレンツェ、一四七四年六月二十五日」
「リスボンから西へ真直に豪華都市キンサイまで、地図には二十六劃書かれている。一劃は二百五十哩である(milliarium ローマの千歩。一マイルより少し短い。)キンサイは広さ百哩で十の橋を持つ。この町の名は天の都市を意味する。この町については、技術家の数や収益の高など、多くの不思議なことが云われている。ここまでの距離は大地全体のほぼ三分の一になる。この町はマンヂ州にあるが、君主の首府のあるカタイ州はその隣州である。しかし同じく人の知っているアンティリアの島からあのひどく有名なチッパングまでは十劃である。この島は金・真珠・宝石が非常に多く、純金を以て寺院や宮殿の屋根を葺いている。だから我々は、|未知ではあるが遠くはない道《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を辿って海の空間を切り開かなくてはならぬ。」(Ruge ; Geschichte des Zeitalters der Entbeckungen. S. 228 - 229.)
以上がトスカネリの手紙なのである。これはポルトガル王を動かすに至らなかった。一四七一年に黄金海岸まで到達し、急速にアフリカ回航の歩度がのびようとしていた時だからである。ところが数年の後、一四八〇年から一四八二年の間に、コロンブスはトスカネリと文通して、右の手紙と地図との写しを見せられたのである。「この時までは彼は単純に一人の船員であった。この時から彼は発見者となった」(do. S. 225.)とさえ云われている。彼は遅疑するところなくトスカネリの考に賛成し、その実行の決意を云い送ったらしい。トスカネリは激励の手紙を寄せた。
「余は西に向って航せんとする貴下の意図を賞讃する。貴下が余の地図に於て既に見た如く、貴下の取ろうとする道が世人の思うほど困難でない、ということは余の確信である。反対に余の描いたあの地方への道は全く確実なのである。もし貴下が、余の如く、あの国土に行って来た多くの人々と交際したのであったならば、何の疑懼をも持たなかったであろう。そうして有力な王たちに逢い、あらゆる宝石の充ち溢れた繁華な町や州の多くを見出すことを、確信するであろう。またあの遠い国々を支配する王侯たちも、キリスト教徒と交わりを結び、そこからカトリック教や我々の持つあらゆる学問を学び得るような道が開けたことを、限りなく喜ぶであろう。その故に、またその他の多くの理由によって、余は貴下が、あらゆる企てに於ていつも優秀な人を出しているポルトガル国民全体の如く、実に勇敢であることを当然と思う。」(do. S. 231.)
これによって見ればコロンブスを衝き動かしていたものがマルコ・ポーロ以来の|東方への衝動《ヽヽヽヽヽヽ》にほかならぬことはまことに明白である。その東方への「近道」の考には確かにコスモグラフィーの上の新しい知識も含まれているではあろうが、しかしアリストテレースやアヴェロエスの典拠によってもそれだけの見当は立ち得たのであった。従ってここには|新大陸の発見《ヽヽヽヽヽヽ》を予想せしめるような何らのイデーも含まれてはいない。もしここに何らか|新しい契機《ヽヽヽヽヽ》が含まれているとすれば、それはトスカネリの所謂|地下《ヽヽ》(subterraneas)|の道《ヽヽ》の実証という点のみである。大地を球と考えることは既に古くから行われていたが、それを実証する業績は未だ何人にも挙げられていなかったのである。|今や東方への衝動がこの実証の試みとなって現われて来た《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。しかもそれは、トスカネリの説明が示す如く、明かに|間違った認識《ヽヽヽヽヽヽ》に基いてであった。西廻りの道が「近道」であるのでなくてはコロンブスの勇気は出なかったであろう。とすれば新大陸の発見は|間違った認識によって誘導された《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と云わなくてはならぬ。それはこの発見が|偶然に過ぎなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということなのである。しかしこの偶然を押し出したのが東方への衝動であったとすれば、前に云った如く、この西廻り航海が航海者ヘンリの事業から派生した一つの枝に過ぎぬということは、いよいよ確かであろう。
コロンブスの功績は以上の如き西廻り航海の試みを|実行に移した《ヽヽヽヽヽヽ》という点にある。ここには航海者ヘンリの如き明敏な組織者はいなかった。勢い彼はその個人的な熱情と意志とによって押して行かなくてはならなかった。ここに彼の長所も欠点もある。彼が多分に|山師的な色彩《ヽヽヽヽヽヽ》を帯びて見えるのもここに起因するであろう。
コロンブスは一四八三年に右の計画をポルトガル政府に申出た。ヘンリ王子の精神を受けついだジョアン二世が勢込んで黄金海岸から先へ歩度をのばそうとしている時であった。王はこの申出でを委員会に附託したが、委員たちはコロンブスを夢想家として斥け、王も彼を熱狂的なお喋舌《しやベり》と見たらしい。香料の国への近道という点のみから云えば、この判断は誤まっていなかったのである。
翌一四八四年にコロンブスは妻を失った。それを機会に彼はポルトガルを去ってスペインに移り、そこで有力な保護者を見出すことが出来た。遂に一四八六年、大司教メンドーサの紹介によって女王イサベラに謁見し、廷臣として迎えられた。彼の抱懐している計画はサラマンカ大学に於て審査を受けたが、香しくなかった。彼はコスモグラフィーの典拠によって主張するに留まらず、聖書の句などを引いてかなり狂信的なことを述べ、神学者たちをさえ驚かせたのである。結局一四九一年に至って審査が決定し、彼は婉曲に拒否された。これもサラマンカ大学としては当然の処置であったであろう。天文学的、コスモグラフィー的な計算や推論と、古典や聖書の中にある予言或はその牽強附会の解釈との、不思議な混合に対しては、学問の立場から是認することは出来なかった筈である。彼の後の成功は彼の計画が学問的に正しかったからではなかった。
ここで彼の生涯の劇的な瞬間が現われてくる。彼はスペインを去ることに決意し、息子ディエゴの手をひいて、とぼとぼとティソトー河沿いにウェルバの港の方へ歩いて行った。その途中、海に近い不毛な丘の上にあるラ・ラビダの僧院に来たとき、彼は饑と疲れとで動けなくなり、僧たちにパンと水とを哀願した。その不思議な乞食のありさまが慈悲深い僧侶の、特に僧院長ファン・ペレス・デ・マルケナの注意を引いたのであったが、偶然にもそのファン・ペレスが女王イサベラの告解師だったのである。コロンブスは僧院の住居へ連れて行かれ、色々手当を受けた後に、広々と海の見晴らせる広間で、その西廻り航海の計画のことやその望の失われたことなどを話した。僧院長はコロンブスのことを曾て聞及んだことはなかったのであるが、その熱狂的な情熱にはすっかり魅せられたので、近くのパロスから天文学やコスモグラフィーに通じている物理学者ガルチア・エルナンデスを呼んで相談した。三十歳そこそこのこの若い物理学者も、コロンブスの話をきいているうちに、だんだん興味を覚えて来た。結局二人は、この珍しい人物をつなぎとめるのが女王のためになるという結論に達した。で僧院長は女王イサベラに手紙を書き、グラナダの宮廷へ使をやった。二週間経つと女王の礼状がつき、僧院長にすぐ来てくれとの事であった。彼は即夜出発して女王からコロンブスの企のために三隻の船を給するという同意を得て来た。コロンブスの運命はかくして開けたのである。
丁度一四九二年の正月にモール人との戦争が終ったこともコロンブスにとっては好都合であった。しかしなおもう一つ最後の困難があった。それはコロンブス自身の提出した条件なのである。つい近頃ラ・ラビダで饑と疲れとのために死にかけていた男が、スペインの王位に近いほどの高位を要求したということ、ここにも我々はコロンブスを理解する一つの鍵を見出すと云ってよい。即ち彼の条件は、提督の官位、貴族の身分、新発見地に於ける副王の地位、王の収入の十分の一という割での収穫の配分、外地関係の最高裁判官の地位、船の艤装の八分の一を引受けた場合には収穫の八分の一を保有すること、などである。さすがの女王もこれにはあきれて断った。コロンブスもその要求を一として引きこめようとはしなかった。で一月の内に既に相談は破れ、コロンブスは再び宮廷を去ってコルドバ経由フランスに行こうとした。その時に調停に立ったのが、最初からの彼の愛護者メンドーサと会計を司るルイース・デ・サントアンヂェルであった。彼らは植民地の増大やキリスト教の伝播がいかに望ましいかを説いて、遂に女王にコロンブス呼戻しを同意せしめた。急使は女王がコロンブスの要求を承諾するとの報をもたらして彼のあとを追いかけ、途中から連れ戻して来た。かくして一四九二年四月十七日に契約が成立した。コロンブスの熱狂的な自信が遂にスペイン国を圧倒したのである。しかしまた、まさにこの点が、コロンブスの後の失脚の原因でもあるのである。
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かくてコロンブスは準備に着手し、同じ一四九二年の八月三日に出発したが、大西洋の横断も決心して見ればまことに簡単なものであった。まずカナリー群島へ直航、船の修繕のために四週間を費し、そこから九月六日に出帆、西に向った。十六日には既に気候の変化が認められ、陸地の近いしるしが見えるように思われ出した。しかしまだ中々陸は見えず、船員の不安が高まって相当不穏な気勢も現われたらしい。十月の十日にも船員は不平を訴えた。然るにその十二日の朝の二時に陸地が見えたのである。夜が明けると緑の美しい島が眼の前にあった。コロンブスは眼に喜びの涙をたたえながら讃美歌 Te deum laudamus を口ずさんだ。船員も皆それに和した。
この島はコロンブスによってサン・サルバドルと命名された。その所在については異論が多く、未だ解決されたとは云えないが、現在のワトリング島と見る説が有力であるらしい。次で附近の諸島を探検中、土人から南方にコルバ(キュバ)という大島のあることを聞いて、コロンブスはそれをチパングであろうと判断した。そこで十月二十四日に出発、二十八日にその北岸に達した。着いてからはこの地をアジア大陸と考えるようになったらしい。十一月一日の日記には、「キュバはアジア大陸である。我々はキンサイ及びザイトンへ百哩の地点にある」と記している。そうして実際大汗との連絡を得ようと努力しているのである。
キュバ沿岸の探検に一カ月を費した後、十二月五日コロンブスはハイチに来た。ここは山も野も美しく、農耕牧畜に適する。岸には良港が多く、河川には「砂金」がある。八日の後にコロンブスは、大地が最大の富を蔵する地に近づいたと信じた。西への航海の目標が、香料でなくして黄金《ヽヽ》とされた所以は、ここに淵源する。その興奮や荒天航海の配慮などの結果、彼は二日間眠らなかった。そうしてへとへとになって船室に引き込んでいた十二月二十四日の夜に、船は砂洲に乗り上げた。
コロンブスはこの地に植民地を設定し、三十九人のポルトガル人を残し、あとの二隻の船で一四九三年一月四日に帰航の途についた。ハイチの島を最後に離れたのが一月十六日、アゾレス群島に来たのが二月十五日である。三月初めにリスボンに入ってジョアン二世に謁した。スペイン帰着は三月十五日であった。彼は民衆の歓呼の中にパロスに入り、そこからセビリャへ行った。急使によってこの遠征の成功を知った王や女王は、三月三十日附でコロンブスをバルセロナに招待した。そこでコロンブスは、|インドから《ヽヽヽヽヽ》もたらしたと称する珍宝や土人を携え、スペイン南西端のセビリャから東北端のバルセロナに至る全スペインを、凱旋行列のように練って行った。国中の人々が大洋の征服者を見に集まった。かくて四月中旬にバルセロナに入り、宮廷の最高の歓迎を受けた。
当時コロンブスがいかなる報告をなしたかは、二三の手紙(1493 年二月十五日、Luis de Sant-Angel 宛。同三月十四日、Rafael Sanchez 宛)によって知ることが出来る。彼は|インド洋まで行って来た《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と確信していたのである。「私のプランを夢想とし私の企図を妄想とした有力な人々の意見に対抗して私が主張したことを、神は驚くべき仕方で確証し給うた。」「併しこの偉大な企てがかく成功したことは、私の功績ではない。神聖なカトリックの信仰と、我々の主君の敬虔との功績である。何故なら人の精神が理解し得ぬことを神の精神が人々に与えるのだからである。神はその命に従うしもべの祈りをきき給う、今度の場合の如く不可能を願うように見える時でさえも。その故に私は、在来人力を超えていた企てに成功したのである。……王も女王も諸侯も、その福なる国家も、またあらゆるキリスト教国も、即ち我々すべては、救主エス・キリストにかかる勝利を与え給うたことを感謝すべきであろう。行列が行われ祝祭が祝われ、神殿は緑の枝で飾られるべきであろう。キリストは、かくも多くの民族の今まで失われていた魂が救われるのを見るならば、地上に於ても天上に於ても歓喜せられるであろう。我々もまた我々の信仰の向上や財宝の増加を喜ぼうと思う。……」
この熱狂的な感激は、コロンブスの主観的な歓喜を表現してはいるが、客観的にその主張の正しさを立証したものではない。彼はキュバをシナ大陸、ハイチを日本と即断したらしく、これらの島の大きさをも誇大に報告している。しかしそれらの島の位置をはっきりと地図に示すことは出来なかった。それらに対する疑念はその当時にも既に存したのである。そうしてまたこの疑念の故に、コロンブス自身がおのれの新発見の意義を理解し得たよりも先に、他の探検家が、即ち他ならぬ|アメリゴ《ヽヽヽヽ》・|ヴェスプッチ《ヽヽヽヽヽヽ》が、それを明かにするに至ったのである。
二[#「二」はゴシック体] コロンブスの第二回及び第三回航海
が当時としては、コロンブスの見当が当っているにしろいないにしろ、とにかく西へ航海して大陸らしいものに突き当ったというだけで十分であった。スペイン王は大乗気で一四九三年五月末にコロンブスの提督及び副王としての特権を再確認し、第二回航海の準備に取りかからせた。そうしてコロンブスの要求するままに、十四隻の快速船《カラヴエルレ》、三隻の大貨物船、千二百の歩騎兵、その他ヨーロッパの家畜・穀物・野菜・葡萄などの移植の準備までがなされた。これはもはや探検船隊《ヽヽヽヽ》の準備ではなくして、新しい土地を占有し経営するための植民船隊《ヽヽヽヽ》の準備である。コロンブスは既に予め副王としての活動を開始したのであると云ってよい。このプランの実現には多数の官吏や軍人が必要であった。ベネディクト派の僧が一人、新しい国土の司祭代理としてローマから任命された。スペイン貴族を代表するものとしては、アロンゾ・デ・オヘダ、フアン・ポンスェ・デ・レオン、ディエゴ・ベラスケス、フアン・デ・エスキベルなどが加わった。これらは背後にこの方面で活躍した人々である。コロンブスはこれらの同勢を以て先ず適当な場所に植民地を建設した後、更に探検航海を続け、ただにチパングやカタイに到るのみならず、西航して世界一周を試みようとしたのであった。第一回航海は彼をして、大地は天文学者やコスモグラーフェンの云うほど大きくはないという確信をますます固めさせたのである。
我々はこの計画の内にポルトガルのインド航路打通の運動と明白に異った性格を見出すと思う。この時はヘンリ王子の歿後既に三十三年を経て居り、ポルトガルがアフリカの新発見地に石の標柱を建て出してからでももう十年目である。バルトロメウ・ディアスが喜望峰の東まで進出してインド洋への門が既に開かれたのは五年前のことであった。しかしポルトガルはまだ植民船隊《ヽヽヽヽ》を送るという如き気勢は見せていないのである。インドに副王が任命され、植民地攻略が必至となって来るまでには、なお十数年の年月が必要であった。然るにスペインは、探検航海の仕事に手を出した翌年、既にもう植民船隊を建造したのである。これはこの事業に於てポルトガルに遅れているのを取返そうとする焦慮にもよるであろうが、ポルトガルの努力によって眼を開かれたとき、主としてこの探検の物質的成果に眩惑したということにもよるであろう。コロンブスは丁度このスペインの焦慮や欲望と結びついたのである。そうしてまた彼の性格もこのスペインの傾向に打ってつけであったと云ってよい。
スペインのこの傾向はまたあの有名な境界線の問題にも現われている。既に古くからポルトガルはその発見地の領有や独占について教皇の認可を得ていたのであるが、コロンブスの帰国後スペインは急いで教皇の許に今後の発見の計画やそれと聯関するキリスト教の伝道に就て諒解を求めたのである。そこで一四九三年の五月に、アゾレス諸島及び緑の岬諸島の西百レガの子午線を境として、それより西方で|見出された《ヽヽヽヽヽ》、|また見出されるであろう島や陸《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をスペイン王及びその後嗣に「与える」という指令が発せられた。この線はコロンブスが天にも海にも気温にも変化の現われる線として主張したものであるが、事実上そんな境界線はないにしても、教皇がそれを認めたことによって政治的境界線《ヽヽヽヽヽヽ》として現実化したのである。尤もこの境界線はポルトガルとスペインとの間に問題となり、種々交渉の結果、翌年七月に更に二百七十レガ西方へ移すことになった。がいずれにしてもそれは二つの国家の間の境界線の問題である。コロンブスの第二回航海は既にかかる問題とからみ合っていたのである。
コロンブスは前記の植民船団をひきいて一四九三年九月末出発、カナリー群島を出たのは十月十三日で、十一月三日には小アンティル諸島についた。大西洋横断は二十日間である。次でハイチに至り、前年残して置いたスペイン人を探したが、これは絶滅されていた。で適当な根拠地を探すのに手間取り、三カ月を経て漸くモンテ・クリスチの東十レガのところにイサベラ城を築いた。そこから頻りに黄金の捜索に人を出し、また自らも出掛けた。相当な発見があった。それは金鉱で、金掘りたちを護るためにコロンブスは堅固な家を建て五十六人の守備兵を置いた。ソロモンが黄金を取りに人を派遣したと云われる|オフィルの地《ヽヽヽヽヽヽ》はここに相違ないとコロンブスは信じた。驚くべく多量な黄金が続々と発見せられるであろうと人々も信じた。しかもこの最初の築城や黄金の発見は、コロンブスが初めにチパングではないかと見当をつけた土地に於てのことなのである。そうしてそのチパングは黄金で屋根を葺いている国なのであった。黄金が目標とされるという特徴はこれらのことの内にも顕著に現われている。
一四九四年四月末、コロンブスは弟のディエゴを代官として植民地に残し、自分は再び探検航海の続行に移った。先ず西航してキュバ南岸に出で、土人に黄金の産地をたずねると、土人はいつも南方《ヽヽ》を指して教える。そこで五月の初めにキュバの岸を離れて南西に向い、ジャマイカの北岸についた。しかし黄金はありそうにない。再び北に向ってキュバ西岸の女王の園に入り、次でピノス島に達した。ここでコロンブスはマラッカより三十度の所まで来たと考えた。もう二日航海してキュバの西端に達したならば、キュバがアジア大陸であるという彼の迷いは醒めたであろうが、船の状態はもはや前進を許さなかった。これが六月の中頃である。そこで帰航の途につき、ジャマイカの南を廻って八月半ば過ぎその東端に出たが、その後荒天のため三十二夜眠らず、遂に九月二十四日過労で倒れた。九月末イサベラに帰着するまで生死も覚束なかった。かくして第二回の探検旅行も彼の執われていたコスモグラフィー的な迷信を破ることは出来なかったのである。
植民地には思いがけず弟のバルトロメーが三隻の船を以て来援していた。この弟は中々有能な男で、コロンブスの頼みにより英国王を説得に出かけ、ほぼその後援の約束を得たのであったが、かけ違ってうまく兄に逢えず、反ってスペイン宮廷で好遇をうけていたのであった。この弟からコロンブスはスペイン王や宮廷の気受けのよいことを知ることが出来た。しかし他方、部下のスペイン人中には、不満や反抗のきざしが見えて来た。土人もスペイン軍人の悪政に刺戟されて、団結して反抗を始めた。この反抗を少数の騎士たちの手で巧みに抑圧することに成功したのは、アロンゾ・オヘダである。オヘダは胆力と智慧と、そうして土人の知らない『馬』とで以て、土人を手玉にとったのであった。しかし植民地経営は必ずしも快調とは云えなかった。副王の独占権も十分には実現されなかった。荷厄介に過ぎぬ植民も二百人を超えていた。これらの事情からコロンブスは帰国を決意し、一四九六年三月、二隻の船を以てハイチを発し、六月カディスに帰着した。
今度も第一回の時と同じくスペインの南端から北端まで国中を凱旋行列が練って歩いた。連れて来られたインディアン人が黄金の飾りをつけて行列に加わった。ソロモンのオフィルを発見したという主張を実証するためである。当時の政治的事情はコロンブスの事業にとって甚だ不利であったが、それでも王は彼を引見し再びその保護を保証した。また、新しい船隊を即時準備する運びには至らなかったが、コロンブスの特権を再確認し提督の権利を再保証する運びはついた。バルトロメーの代理任命も事後承諾が与えられた。
第三回航海の準備は中々捗らなかった。漸く一四九八年正月に至って、物資補給船二隻を先発せしめることが出来たという程度であった。国内の有力者の間に相当に強い反対の気勢がある。船員もうまく集まらない。遂にコロンブスは罪人を植民しようと考え出した。法廷も追放刑のものをインドに送ることに同意した。この罪人植民は後にスペイン植民地経営の癌となったものである。
がそういう窮策のあとで、一四九八年五月末日、コロンブスは六隻を以て出発した。カナリー群島からは三隻をハイチに直航せしめ、自分は三隻をひきいて|南西に向って《ヽヽヽヽヽヽ》航路を取った。熱帯地方には黒人のほかに高貴な産物があるという当時の俗信に従ったのである。この俗信を丁度この頃に相当有名な航海者が王のすすめに従ってコロンブスへ吹き込んだ。その手紙はコロンブスを|神の使者《ヽヽヽヽ》として絶讃しつつ、宝石・黄金・香料・薬品の類は大抵熱帯地方から出ることを説いたものである。コロンブスは|神の使者としての確信《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をますます高めると同時に、針路を南西に向けたのであった。
この神がかりの状態からして地上楽園の解釈が出てくる。十七日の航海の後にコロンブスはトゥリニダッド島につき、次で翌日オリノコ河口に達したのであるが、この|アメリカ大陸の最初の発見《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が、彼にとっては地上楽園の位置の推定に終ったのであった。この推定の前提として彼は、「地球は球形ではない、梨形である」という考を持ち出している。アゾレス群島の西百レガから急に天象地象が変るのは、そこから大地が高まり始めている証拠である。いまオリノコ河口に来て恐ろしい水量が海へ流れ込んでいるのを見ると、この河の水源地こそまさにその高まりの極まった所に相違ない。地上楽園はまさしくこの極東の高所にあるのである。もしこの強大な河が地上楽園から流れ出るのでなかったならば、それは|南方の大陸《ヽヽヽヽヽ》から流れ出るのでなくてはならないが、そういう大陸のことはこれまで聞いたことがない。だからこの河は地上楽園から来るのでなくてはならない。これが彼の真面目に考えたところであった。そこでこの新発見の大陸はただ触れられた程度に止まり、コロンブスは半月の後にカリブ海に出てハイチの南岸サント・ドミンゴに向った。そこに彼の弟バルトロメーが新しく植民地を建設していたのである。
コロンブスの留守中ハイチの経営は相当進捗してはいたが、しかし他国人たるコロンブス一家への反抗も相当激しくなっていた。イサベラでは上席判事のフランシスコ・ロルダンが謀叛を起し、コロンブス一家の金鉱独占を攻撃した。また土人を味方につけるために、副王代理の圧制から彼らを護るのだと宣言した。この争はコロンブスの到着後も鎮まらず、双方から政府に訴えるに至った。かくてそれは翌一四九九年の九月まで続いたが、遂にコロンブスの方が譲歩してロルダンを上席判事に復職せしめた。しかし本国ではこの植民地での争が非常に不評判で、フランシスコ・デ・ボバディリャを新しく判事に任命した時には、副王の特権などを無視して、行政権も兵権もすべて判事の手に移した。更に植民地の福祉に害ありと認められる者は強制的に島から追放し得る権利をさえも与えた。でボバディリャは一五〇〇年八月末サント・ドミンゴに着くや、直ちにここを占領してコロンブス一家の者を捕縛し、本国へ送還したのである。
コロンブスは船長の同情ある取扱いを受け、王子の乳母へ宛てた手紙を取りついで貰ったりなどした。王の側に於てもコロンブスに対する処置を不当とし、縛を解いて礼遇する様に命じた。王に謁見の際にはコロンブスは感極まって言葉が出なかったという。こういう事件のためにボバディリャも不評判となり、ドン・ニコラス・デ・オバンドに代えられた。オバンドに対する信用によって新世界に行こうとする人が急に殖えて来た。かくてこの新総督は一五〇二年二月に、三十隻二千五百人を以て出発、四月半ばにハイチについた。植民地の経営はもうコロンブスとは縁が切れてしまったのである。
三[#「三」はゴシック体] アメリゴ・ヴェスプッチの新大陸発見
以上の如く、コロンブスが地上楽園の推定から捕縛に至るまでの数奇な運命に飜弄されていた一四九八年から一五〇〇年までの間は、ヨーロッパ人の視界拡大の運動にとっては特に活溌な展開の見られた時期である。バスコ・ダ・ガマは、一四九八年の夏インドに達し、一四九九年九月帰着した。コロンブスの第二回航海に参加してハイチで武功を立てたアロンゾ・デ・オヘダは、一四九八年の末に、コロンブスの第三回航海の報告にもとづいて、パリアの探検を人からすすめられ、翌一四九九年五月に出発して南アメリカの東北岸(北緯六度あたり)に達し、そこから北上して北岸に出でベネズエラ湾あたりまで探検した。更に同じ一四九九年の十一月に出発したビセンテ・ヤンネス・ピンソンは、コロンブスの第一回航海の際の船長であるが、南ブラジルの岸から北へハイチまで探検した。それに踵を接して一四九九年十二月に出発したディエゴ・デ・レーぺは南緯八度まで行ったといわれる。これらはいずれも一五〇〇年の内に帰着しているのであるが、アメリゴ・ヴェスプッチは右のオヘダの航海に参加し、後途中から移ったのか、ピンゾンもしくはレーペの航海にも加わったと云われている。コロンブスがハイチで党争に悩んでいた一五〇〇年の四月には、ポルトガルのカブラルがインドへの途上ブラジルに接触し、早速本国へ報告した。|ポルトガルのマノエル王はこの新発見の島を探検するため《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|丁度探検航海から帰って来たアメリゴを招いた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そこでコロンブスが捕縛送還されて帰国してから第四回の航海に出発するまでの間に、|アメリゴの有名な第三回航海《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が行われたのである。
アメリゴ・ヴェスプッチは一五〇一年五月リスボン発、南アメリカの東岸を南緯五度より二十五度まで行った。更にその指導の下に五十度或は五十二度まで行ったと云われるが、これは確実でない。一五〇二年九月帰着するや、彼はこの探検の科学的指導者として報告書を書いた。これが非常なセンセーションを起したのである。彼が友人ロレンソに宛てた手紙は、一五〇三年ラテン語訳で、次でドイツ語訳で出版されたが、その初めに、彼は|新大陸の発見《ヽヽヽヽヽヽ》を唱道したのである。|彼がポルトガル王の命によって発見した大きい陸地《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、「新しい世界」と呼ばれてよい、と彼はいう。何故なら、これまでは何人もその存在を知らず、西方の赤道の南は海のみであると考えていたからである。今や|アジア《ヽヽヽ》、|アフリカ《ヽヽヽヽ》、|ヨーロッパに対立する新しい世界《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が見出された。これをアメリゴははっきりと把捉したのである。
コロンブスは事実上新大陸の発見者であったかも知れない。しかし彼はかかる大陸のあることを拒んで地上楽園の存在を主張したのである。また彼がキュバやハイチの発見によって主張したのは、シナ大陸や日本に到着したということであって、未知の新しい世界の発見ではなかった。一五〇三年は彼が依然として右の如き信念の下に地峡の沿岸でインドへ出る海峡を探していた時なのである。従って新大陸の発見者として、コロンブスではなく、アメリゴが登場したということは、理の当然であると云ってよい。
コロンブスの第四回航海はアメリゴの南アメリカ探検よりも一年遅れて一五〇二年五月の出発であった。四隻の快速船、百五十の乗員である。既にバスコ・ダ・ガマのインド航路打通の後であるから、コロンブスはキュバとパリアとの間を西航してそのインドへ達しようとしたのである。サント・ドミンゴでは上陸を許されなかった。彼は真西に航して七月三十日にホンデュラス湾端のグヮナハ島に着き、ユカタンの商人に逢って、在来この地方で接することの出来なかった高度文化の国のあることを知った。でもしその商人の故郷へ行けば、ユカタンの町々を見、メキシコを見出して、否応なしに新大陸を把捉する筈だったのである。しかしインドへの通路発見に凝り固まっているコロンブスは、西に向わずして東に向い、ホンデュラスの岸を廻って地峡を南下した。そうしてこの有名な瘴癘の地に一五〇三年の四月末までまごついていた。しかし西への出口はどうしても見つからず、遂に北航して暴風に逢い、六月二十五日にジャマイカの岸にのりあげた。ここで助けを待っている間に、一五〇四年二月二十九日、月蝕の予言で土人の害を免れたのである。その後なお救出される迄に半年かかり、散々の態で十一月初めに帰国したのであったが、運悪く彼の庇護者イサベラ女王もその数週間後に歿し、王はもはや彼に取り合わなくなった。かくしてコロンブスは極度の失意の内に、一五〇六年五月、パリャドリードに於て歿したのである。
他方アメリゴも一五〇三―四年の第四回航海は失敗であった。でポルトガルを去ってスペインに帰った。一五〇五年二月にコロンブスに会った時には、コロンブスは大変いい印象を受けたらしい。ヴェスプッチもまたその功績を正当に報いられない人であると彼は書き残している。しかしヴェスプッチは間もなくスペインに職を奉じ、一五〇八年より年俸二百デュカットの帝国パイロットに任命された。そうしてパイロットの資格試験をやったり、地図を書いたりなどした。歿したのは一五一二年であるが、コロンブスと異なり、生前既に過分の名誉に恵まれた。というのは、新大陸の発見を報ずる彼の一五〇三年の手紙がヨーロッパ中に広く読まれたのみならず、一五〇七年には、フィレンツェの友人ソデリニに与えた手紙が『四度の航海』の名の下にラテン語訳として盛行し、遂に同じ一五〇七年に出版されたマルチン・ワルドゼーミューラーの『コスモグラフィー序論』に於て|新大陸をアメリカと呼ぼう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という提議が出されるに至ったのである。
四[#「四」はゴシック体] 征服者たちの活動
西航して発見されたのはシナでもインドでもなくして、これまでヨーロッパ人もアジア人もアフリカ人も曾て知らなかった|全然新しい大陸《ヽヽヽヽヽヽヽ》なのである。これは視界拡大の点から云えば未曾有の大発見であった。しかもこの発見が|発見として《ヽヽヽヽヽ》自覚されるためには、ポルトガル王が一役買って出なくてはならなかったのである。ここに我々はヘンリ王子の精神がいかに発見にとって重要であったかを反芻して見なくてはならない。
しかし新しく見出された大陸がどんなものであるかはまだ殆んど未知であった。そうしてその|未知の世界を切り拓く仕事《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、着実なヘンリ王子の精神を以てではなく、華やかなカスティレの騎士的精神を以て、極めて冒険的・猟奇的に遂行されたのであった。しかもそれはインド洋に於てアルブケルケが領土攻略の事業を遂行したのと時を同じくしているのである。
この冒険に乗り出した先駆者たちの中で特に目ぼしいのは、前にコロンブス第二回航海の参加者中に名をあげたアロンゾ・デ・オヘダであろう。彼は名門出の騎士で、その当時まだ二十三歳位の青年であったが、その胆力を以て土人との戦争に武功を立てた。次で二十九歳位の時にアメリゴ・ヴェスプッチを伴って南アメリカの探検に赴いたのであるが、その後この探検の事業を続行し、一五〇八年三十八歳位の時には、南アメリカの北岸ダリエン湾以東の地をおのれの縄張りとした。同じ頃にディエゴ・デ・ニクエサがホンデュラス地峡よリダリエンまでのベラグワ地方を縄張りとしたのに対したのである。翌一五〇九年には四隻三百人の乗員をもって右の地方へ出発したが、その中に後のペルー征服者フランシスコ・ピサロが加わっていたのである。オヘダは土人の抵抗によって危うく命を落そうとしてニクエサに救われたりなどしたが、一五一〇年ウラバ湾に植民地サン・セバスチアンを建設した。しかし土人の抵抗と食糧の不足とで経営は依然困難であった。そこでハイチに船を送り救援を求めたが、その結果、スペインの食糧船を乗取った食詰め者の一群が来援するというようなことになった。オヘダは植民地の管理をピサロに託し、右の分捕船で再び来援を求めにハイチへ帰ったが、この船の強奪事件に坐して捕われ、解放された後にも意気振わず、貧窮の内に一五一五年頃歿した。
ピサロは一五一〇年の夏、残った六十人と共にサン・セバスチアンを見限って二隻の船でハイチに向ったが、一隻は難破し、他の一隻は法学者マルチン・フェルナンデス・デ・エンシソの船に出逢った。その船にバスコ・ヌニェズ・バルボアという、これも後に太平洋の発見者となった男が乗っていたのである。ピサロはエンシソと行動を共にし始めたが、そのエンシソの船もまたダリエン湾の東端で難破してしまった。で止むを得ず陸路をサン・セバスチアンまで辿って行ったが、つい近頃去ったばかりのスペイン人の家は既に焼き払われていた。で思い切ってニクエサの領分であるダリエン湾西岸に行くことになった。
この提議をしたのがバルボアなのである。彼は貧乏貴族で、当時既に三十八歳になっていたが、アメリカに来たのは十年前の青年の時であった。即ち一五〇〇年にロドリゴ・デ・バスティダスの遠征に従い、ベネズエラ湾からダリエン湾(ウラバ)を経てパナマ地峡に到った。だからこの地方については経験者だったのである。その後サント・ドミンゴに於て農耕の仕事を始めたが、それがうまく行かず、追々に借財がかさんで窮境に陥った。で遂に脱走を企て、食糧の荷箱にかくれて潜入したのがエンシソの船であった。エンシソはこの冒険的な男を戦士として使うつもりで保留して置いたのである。
ダリエン湾西岸のニクエサの領分に於ける新しい植民地はサンタ・マリア・デル・アンティガと呼ばれた。エンシソは法律概念に従ってこの地の経営にとりかかった。しかし部下の乱暴者たちは、軍令に従う習性は持っているが、紙上の法規による規制を喜ばない。追々に不平が高まって来た。遂にバルボアは謀叛の主謀者となってエンシソを追い払ってしまった。
この時代の南アメリカ植民地の通有のなやみは食糧難であった。土人は白人に抵抗して、食糧を供給しなかったのである。バルボアの植民地も食糧難になやんだ。丁度そこへ一五一〇年十一月、ニクエサのために食糧を運んで来た二隻の船がついて、バルボアのためにも食糧を分けてくれたが、この船の連絡によってバルボアのことがニクエサにも知れた。ニクエサは前年一五〇九年にパナマ地峡に於て難破し、現在のパナマ運河附近のノンブレ・デ・ディオスに辛くも生き残っていたのであったが、おのれの領分にバルボアが植民地を建設したことを聞き、六十人の生存者と共にその船で翌一五一一年三月にバルボアの植民地へやって来た。しかしバルボアはこの名目上のベラガ領主を認めず、上陸を拒んだ。翌日漸くその上陸を許した時には、謀略を以てニクエサを部下から引き離し、直接スペインへ帰るという誓言を強要した。そうして十七名の部下と共に最も危なっかしいブリガンティンに乗せて突き放した。ニクエサはそのまま行方不明になってしまった。つまりバルボアたちはニクエサの領分を強奪したのである。かくしてニクエサとエンシソとオヘダとの三つの探検隊の残存部隊三百人がバルボアの手に残った。ピサロもこの下についていたのである。
このバルボアを有名ならしめた仕事は南海の発見、即ち|太平洋の発見《ヽヽヽヽヽヽ》である。パナマ地峡が僅かに四、五十哩で太平洋に面しているに拘らず、当時の探検家たちはかかる事態を夢にも知らなかった。既に一五〇〇年にバルボアはバスティダスに従ってこの地峡に来て居り、一五〇二年にはコロンブスが丹念にこの沿岸を辿ったのであるから、ニクエサがパナマ地峡に植民地を作って苦労した時まで十年を閲《けみ》しているのであるが、この地峡の狭いことを突きとめようとした人は一人もなかった。然るにそれを今バルボアが思いつくに至ったのである。その機縁となったのは、一つはバルボアがその植民地から内地の方へ探検に入り込んだ時ある酋長から『南の海』のことを聞いたことであるが、他の一つはバルボアがスペインの当局から認められそうになるに従い、エンシソ及びニクエサに対する罪の償いとなり得るような大功名を立てたいと考えたことである。時は丁度ポルトガルがマラッカ攻略に成功した直後であった。
かくしてバルボアは一五一三年九月一日、百九十のスペイン人、六百の土人をひきいてその植民地サンタ・マリア・デル・アンティガを出発、六七十哩北方のカレタから地峡横断を試みた。ここは西側にサン・ミゲル湾が入り込んでいて、地峡の最も狭くなっているところであり、山梁も標高七百米に過ぎない。しかし恐ろしい密林に覆われ、日光が地に届かないほどのところであった。その原始林の中の小径をカレタ酋長のつけてくれた案内者に導かれて隊は難行軍を続けた。漸く九月二十五日に至って、案内者は、目前の山の背を指して、あそこへ出れば海が見えるという。バルボアは全部隊を停止させた。彼はまず最初の一人として南の海の眺めを味いたかったのである。で自分だけ前進して峠の上に出た。そこに跪いて、両手を天に挙げ、南方の海を歓び迎えた。自分のような優れた才能もなく貴い生れでもない者に、このような大きい名誉を与えられたことを、彼は心から神に感謝した。次で彼は部下を招き寄せて新しい海を指し示した。人々は皆跪いた。バルボアはこの探検が幸福に終ります様にと神に、特に処女マリアに祈った。そこで衆は声を合せて讃美歌を唱った。ピサロはバルボアにつぐ有力者としてこの衆の中にいたのである。
そこから下り道にかかって九月二十九日にはサン・ミゲルの内湾に注ぐサバナス河口に到着した。丁度上げ潮の時であったが、バルボアは剣と旗とを以て膝の浸るまで海水の中に歩み入り、この海にある陸と海岸と島とを北極より南極に至るまで王の名に於て占領すると宣した。
バルボアはこの海岸に数週間留まって附近の酋長たちを征服し、またこの地方のことについて出来るだけ知識を得ようと努めたが、酋長トゥマコは|南方の強国《ヽヽヽヽヽ》のことを語った。そこには量り知れぬ富があり、船や家畜も用いられている。家畜は駱駝に似た珍らしい形のものである。こういうことはダリエンの方では知られていなかった。でこの新しい報道によって異常に深い感銘を受けたのがほかならぬピサロだったのである。
十一月三日に探検隊は帰路についた。道々土人の諸酋を掠奪して、遂には運べなくなるほどの黄金を集めた。スペイン人の戦死者は一人もなかった。こうして一五一四年一月十九日にバルボアはサンタ・マリア・デル・アンティガに凱旋したのである。彼は早速この成功を本国に報ずるために、王に献ずべき多量の黄金と真珠とを乗せて三月に船をスペインへ送った。新しい大洋の発見は実際非常なセンセーションを惹き起し、将来に重大な結果を作り出すのであるが、しかしバルボア個人の運命は、僅か数週間のことでふさがれてしまった。というのは、バルボアの発見の報道が本国に到着する以前に、彼のニクエサに対する謀叛が問題となって、彼に代り地峡方面の総督となるべきペドラリアス・デ・アビラが任命され、一五一四年の四月十一日に二十隻千五百人を以て出発したのである。もしその出発前にバルボアの新発見の報が到着していたならば、恐らくこの後の事態は別の途を辿ったであろうと云われている。
新総督ペドラリアスは六月三十日にサンタ・マリア・デル・アンティガに到着したが、この一行には新世界未曾有の学者連騎士連が加っていた。後に『メキシコ征服史』を書いたベルナール・ディアス・デル・カスティロ、『インディアの一般史』の著者ゴンザロ・フェルナンデス・デ・オビエド、司法官として来任し後に『地理学集成』を著した法学者エンシソ、ペドラリアス支配下のスペイン人の業績を記述したパスクヮル・デ・アンダゴーヤ、後にチリーの征服者となったディエゴ・アルマグロ、後にピサロと共にペルー征服に従事し更に中部ミシシッピー河谷の発見者となったフェルナンド・デ・ソト、キトー及びボゴタの征服者ベナルカザル、キボラ及びクィピラの征服者フランシスコ・バスケス・コロナド、後にマガリャンスと共に世界一周をやった主席船長フアン・セラノなどである。ペドラリアス自身は既に六十歳で活気なく、植民地経営も甚だ拙劣であったが、しかしその率いた一行からは大きい結果が生れ出ることとなったのである。
バルボアはペドラリアスの部下と共に植民地から南の方の内陸へ探検に出て土人と戦争をしたりなどしていたが、翌一五一五年七月に至り、本国政府から南海発見の業績を認められて南海の総督代理に任命された。総督ペドラリアスはこれを喜ばなかった。総督の管理下にある地方では南海の沿岸こそ最も価値ありまた健康地だったからである。で彼はこの地を競争者バルボアに委託するを欲せず、甥のガスペル・モラーレス及びピサロに六十人の兵をつけて、真珠諸島攻略のため、ミゲル湾に派遣した。二人は三十名の兵と共に小舟で真珠諸島中の最大島イスラ・リカを襲撃し、激戦の後、この地方で最も強大であった島の酋長を降服せしめた。酋長は籠一杯の真珠を差出し、おのが家の塔の上から配下の島々を指し示した。その時彼はまた|遥か南方にある強大な国《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のことをも話したのである。それを聞いていたピサロは再び強い刺戟を受けたが、傍のモラーレスは眼前の真珠の島々をいかにして搾取するかをのみ考えていた。結局酋長は毎年真珠百マルクの貢を収めることに定められ、探検隊は帰途についたのであったが、その帰路に於て、前代未聞の大虐殺大掠奪が行われたのである。さすがのバルボアさえこの残虐を嫌悪の念を以て報道しているが、しかし総督の甥は何の罰も受けなかった。
その内総督ペドラリアスと総督代理バルボアとの間を和解せしめようとして、ダリエンの司教が両者の間に縁談を持ち出した。それは表面上うまく運ぶ様に見えたが、しかしペドラリアスはこの厄介な競争相手を除こうとたくんでいたのである。間もなくその機会が到来した。それはバルボアが太平洋岸での支配力を拡大しようとして焦ったことによるのである。というのは、カレタのやや北方に設けられたアクラの港から、地峡を横ぎって造船材料を太平洋岸に運ぼうとしたのであるが、それが実に難事業であった。先ず第一に、バルボアがアクラまで行って見ると、土人の襲撃によって小舎は破壊され守備兵は全滅していた。従って土人を屈服させ小舎を再建することから始めなくてはならなかった。次に船材や鉄を土人に担わせて地峡を横ぎって運ぶのに非常に手間取った。更に第三に、太平洋まで運んで見ると、船材はあまりに永くアクラの海岸に放置してあったために、虫に穴をあけられて、船材として用いられなくなっていた。しかもこの運搬のために五百人(二千人ともいう)の土人の命が犠牲となっているのである。そこで再び初めからやり直さなくてはならなかったが、丁度その頃に本国でフェルナンド王が歿し、総督ペドラリアスも転任を噂された。そこでバルボアは邪魔の入らぬ内にと考えて非常に仕事を急いだ。それが謀叛の嫌疑を惹き起したのである。総督はバルボアを招致した。バルボアは総督に会い自分の企業の促進や説明をするつもりでアタラの港まで来たが、総督はピサロをしてバルボアを捕縛せしめた。そうしてエスピノーザによる簡単な裁判の後に、四人の部下と共に斬首の刑に処した。一五一七年の頃、バルボアは四十二歳位であったらしい。
バルボアの処刑はこの地方の開発にとって非常に不幸な出来事であったと云われている。がとにかく彼の始めた仕事はエスピノーザが引きつぎ、彼の造った四隻のブリガンティンよりなる艦隊を以て、一五一九年にパナマの植民地を建設した。この町は一五二一年にカルロス一世(ドイツ皇帝カール五世)から都市権を与えられた。その年からサンタ・マリア・デル・アンティガは荒廃し始め、一五二四年には全然放棄されるに至っている。地峡地方の中心がパナマに移ったのである。
ペドラリアスの派遣した探検船隊は、バルボアのプランとは正反対に、太平洋岸を北西に上った。一五二一年にはニカラグヮに達し、上陸して酋長以下九千の土人に洗礼を施した。黄金の収穫は十万ペソに上った。この探検隊は一五二三年六月にパナマに帰った。次でニカラグヮ征服に送られたエルナンデス・デ・コルドバは、グラナダ、レオン等の町を建設したが、後に独立を計ったために、急遽出動したペドラリアスに捕えられ、レオンに於て一五二六年に斬首された。がそのペドラリアスが一五二七年二月パナマに帰着した時には、後任者ペドロ・デ・ロス・リオスが既に地峡に上陸していた。でペドラリアスはレオンに退き一五三〇年に歿した。十三年に亘る彼の悪政が、中部アメリカの美しい土地の、荒廃の原因を作ったと云われている。
五[#「五」はゴシック体] メキシコ征服
バルボアの歿後十年の問にぺドラリアスが探検を進めた地方は僅かにニカラグヮに過ぎなかったが、丁度その間に北ではメキシコ、南ではペルーに於て前代未聞の新事件が起りつつあったのである。それらは|眼界拡大の運動《ヽヽヽヽヽヽヽ》がおのずから|領土拡大の運動《ヽヽヽヽヽヽヽ》に転化することを露骨に示している。勿論それは探検として、即ち未知の領域への眼界拡大の運動として始まったのであるが、その未知の領域の開明が|単に地理学的な発見に止まらず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|新しい民族《ヽヽヽヽヽ》、|新しい国家生活の発見となるに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》伴って、眼界の拡大それ自身が如何に優越な力を人間に与えるか、従って、眼界拡大の運動を特徴とする民族が|眼界の狭い閉鎖的な民族《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》よりも如何に優越な力を持つかを直接に体験させ、それによって新しい国家生活の発見《ヽヽ》を直ちにその征服《ヽヽ》へと転化させたのである。この傾向は既に前からスペイン人の探検に現われていたのであるが、しかしその相手が大きい組織を持たない断片的な部族であった間は、まだ人を瞠目せしめるほどの事件は起さなかった。然るにメキシコとペルーとで起ったことは、新しい世界に於て最も発達していた|二つの国家《ヽヽヽヽヽ》に関することなのである。従ってこれらの事件は、「発明や発見のお蔭で、文明人と野蛮人との区別が、神と人との間の相違の如く著明になった」と云われる所以を示しているのである。
両者の内では、北の方が一歩先であった。元来キュバとユカタン半島とは百哩あまりしか離れて居らず、しかもユカタンの附近まではコロンブスが二度も行っているのであるが、いつももう一息のところで反転したのであった。だから南の方ダリエン湾を中心とした探検活動が、北の方キュバを中心として動くようにさえなれば、ユカタンに触れることは易々たるものであったのである。そうしてその機運を作ったのは、恐らくバルボアたちの新発見の刺戟であろう。
バルボアがエンシソの船で地峡方面へ入り込んだのは一五一〇年であるが、その翌一五一一年に、ディエゴ・ベラスケスがキュバ総督として赴任して来た。彼は早速キュバ島の征服を行い、土地を征服者たちに分配した。この島は相当に広く、そこへ本国から流れ込んで来る冒険者たちの数も相当に多かったのであるが、それらの人々は落ちついて土地を開拓するよりも何か冒険的なことをやりたがる連中であった。そこへ頻々として伝わって来たのが黄金に豊かな土地の発見《ヽヽ》の噂である。若い連中は自分たちも発見《ヽヽ》と征服《ヽヽ》の仕事をやろうとして集まってくる。そういう連中が二隻の船を準備し、エルナンデス・デ・コルドバを隊長に選び、アントニオ・デ・アラミノスを船長に雇った。総督はもう一隻艤装する金を出して後援した。この探検隊の出発したのがバルボアの処刑された一五一七年の二月なのである。出発して見ればユカタン半島は極めて簡単に発見された。つまりこの発見の急所は、キュバに於て西方への探検が企てられ始めたという点にあったのである。
しかしこの発見の意義は予想外に重大であった。コロンブス以来既に二十五年、スペイン人がこの地方に於て見出したのはすべて文化の低い未開民族であったが、一歩ユカタン半島に触れると共に、まるで程度の異った文化民族の存在が明かとなったのである。そこには華麗な|石造の家《ヽヽヽヽ》があり、|木綿の衣服《ヽヽヽヽヽ》が用いられ、彫刻に飾られた殿堂に立派な神像が祭られている。極めて独特な象形文字《ヽヽヽヽ》も用いられていた。このマヤ文化は未だに素姓のはっきりしないものであるが、当時突如としてこれに接したスペイン人の驚きは察するに余りがある。その驚きが一種の恐怖をまじえたものであったことは、後にスペイン人がこの地方を占領したとき、マヤ文化の産物を|徹底的に破壊した《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことによっても知られるであろう。
コルドバの探検隊は沿岸の諸所で上陸を試みたが、土人に撃退された。ユカタン西岸の中程まで行った時、コルドバは重傷を負ったので、探検を切り上げてキュバに帰り、上陸後十日にして歿した。がこの発見は総督の功名心をかり立て、新しい船隊の準備に向わしめた。で翌一五一八年の四五月頃に、総督は甥フアン・デ・グリハルバに四隻をつけてユカタンへ派した。パイロットは前年と同じくアラミノスであった。この探検隊はユカタン半島の根元のタバスコに到って土人との友交を結ぶことに成功し、更に西してベラ・クルス港附近の小島に上陸した。ここの文化は一層高い程度に達していたが、しかしここでスペイン人は、|人身犠牲の習俗《ヽヽヽヽヽヽヽ》を見出したのである。がグリハルバはそれにかまわず、酋長らと平和に贈物を交換することが出来た。ガラス玉・針・鋏などに対して、一万五千乃至二万ペソの価の金や宝石が手に入った。いよいよ黄金の国が見つかったのである。グリハルバは更に北上してタンピコまで行き、十一月にサンチャゴへ帰着した。
総督はこの成功に驚喜し、一方本国に報告して新発見地の管理を懇請すると共に、他方この黄金の国を探検すべき大艦隊を建造し、その司令官にコルテスを任命したのである。
ここにフェルナンド・コルテスが登場する。当時のスペインの|『征服者』《コンキスタドール》のうちで最も優れた英傑なのである。彼は一四八五年に西スペインのエストゥレマドゥラ州に生れ、サラマンカ大学に二年在学した。当時の植民地の隊長としては稀な教養を身につけていたのである。一五〇四年、数え年で二十歳の時、当時の青年を風靡した冒険熱に駆られて、サント・ドミンゴの総督オバンドの許に来たが、七年の後、ベラスケスのキュバ征服に参加し、この地において領地を得た。そうしてその学問の故にベラスケスの秘書として用いられ、後にはサンチャゴの判官に任ぜられた。即ち若くして島の最高官吏の一人となったのである。それは彼の傑出した人物の故であった。騎士としての訓練には何事によらず熟達している。決意した際には勇敢で毅然としているが、プランを立てるに当っては熟考し明細に考える。理解は早く頭脳は明晰である。その上巧みな熱のある弁舌によって周囲を統率する。このような性格によって彼は新しい世界に稀れな指導者となったのである。
コルテスは司令官となった時にはまだ三十三歳であった。彼自身も艦隊建造の一部を負担して総督を喜ばせた。出来上った艦隊は十一隻より成り、主席パイロットは依然アラミノスであった。兵隊はスペイン兵四百、土人兵二百であるが、スペイン兵のうちで小銃狙撃兵は僅かに十三人、弩《いしゆみ》狙撃兵さえも三十二人に過ぎなかった。ほかに騎兵十六人、重青銅砲十門、軽蛇砲(長砲)四門。これが一つの強大な国家を襲撃しようとする軍隊の全武力なのである。
出発前に、ベラスケスは気が変ってコルテスの司令官任命を取消そうとしたが、コルテスは先手を打ってキュバ島西端の集合地から出発してしまった。一五一九年二月十八日であった。彼はユカタン半島を廻ってタバスコ河まで行ったが、河口が浅いため大きい船を乗り入れることが出来ず、小さいブリガンティンと武装したボートのみを以てコルテス自らタバスコの町へ遡江を試みた。そうして土人に平和の意図を宣明したのであるが、土人はただ鬨の声をもってこれに答えた。そこでコルテスは敵前上陸を強行し、|大砲と騎兵隊《ヽヽヽヽヽヽ》という土人の思いもかけぬ武力を以て、四万(とコルテスは称する)の土人兵を潰乱せしめたのである。土人の戦死者は二百二十名であった。翌日酋長らは降服し、種々の贈物と共に二十人の女を献じたが、その内の一人、後にドンナ・マリナと呼ばれたメキシコ生れの女は、この後の征服事業に重大な役目をつとめた。
次で四月にコルテスはベラ・クルスに到って全軍を上陸せしめた。二日ほどするとアステークの知事が彼を訪ねて来た。コルテスは自分が海の彼方の強力な君主からこの国の君主へ送られた使者であること、贈物を奉呈し使命を伝達するため国内の行軍を許されたきことを申入れた。知事は、それを王に報告するため、この|海から出て来た白人ら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を絵にかかせた。コルテスはこの報告絵を効果あらしめるために|大砲と騎兵《ヽヽヽヽヽ》とで演習をして見せたという。その後彼は砂丘のうしろに陣地を築き、王からの返事を待った。
コルテスが初めて|メシコ《ヽヽヽ》(メキシコ)の名を聞いたのは、三月末タバスコ征服の際であるが、四月末には右の如く既に国都への進軍を申込んでいる。これはメキシコ王国の事情を研究した上でのこととは思えない。タバスコでの戦闘は彼に自信を与えたではあろうが、しかしそれにしても彼の軍隊は微々たるものである。ここに我々は当時の『征服者』の冒険的な性格をはっきりと看取し得るであろう。彼の成功は、偶然にも彼がうまい時機に乗り込んで来たことに起因する。と共に彼の偉さは、この偶然の事情を直ちに看破し、それを巧みに利用したところにある。
では当時のメキシコの国情はどういう風であったか。
メキシコ王国の中心地はアナワクの高原で、海抜二千米位、首府メキシコのある谷は二千二百米に達する。メキシコ湾沿いの低地との間には山脈が連なり、その中には五千米を超える高山もある。従って海岸との交通は峻険な山道によるほかはない。この山脈は西に起って高原の南を限り、メキシコ市の附近では五千四百米のポポカテペトル、五千二百米のイシュタッチワトルとなって、メキシコの湖と共に美しい景観を作り出していた。
このメキシコの谷の北方百キロほどの所にトゥラという町がある。ここへ何処からかトルテーク族が移り住み、ここを首府として、七世紀の頃に、強大な王国を築いたと云われる。実は神話的な民族に過ぎぬのかも知れず、或はまた小さい部族であったかも知れぬ。がとにかく、とうもろこし・木綿・とうがらしなどの栽培や、貴金属の細工や、壮大な石造建築など、メキシコ特有の文化はこの民族に帰せられている。スペイン人侵入当時のメキシコ土人にとっては、トルテーク族の統治の時代が過去の黄金時代として記憶せられていたのである。恐らくこの族は南方に移ってユカタンやホンデュラスの地方にその文化を伝えたのであろう。
トルテーク族を征服或は追放したのは、十一二世紀の頃に北西の方より侵入したチチメーク族であった。この族はメキシコの湖の東側にテツクコの町を築いてアナワク高原を支配した。この頃からメキシコの平和な統治が失われて|武力による強圧的な統治《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が始まったらしい。その統治は間もなく好戦的なテパネーク族の攻撃によって覆えされたが、チチメーク族はアステーク族の援助によってそれを回復することが出来た。そのアステーク族も外から入り込んで来た部族であるが、湖の中の小島にテノチティトラン(メキシコ)の町を築いて頭角を現わし始めたのは、十四世紀の初頃であろうと云われている。
やがてアステーク族は右のチチメーク族を征服して王国を建てるに至った。それはスペイン人の到来より一世紀とは距っていない一四三一年のことである。その後アステーク族は急激に勢力を増大し、附近の諸部族を武力によって征服しつつ、東は大西洋に、西は太平洋にまでその領土を拡張したのであった。元来は貴族政治の行われていたこの国土に、殆んど絶対的な王権を確立したのは、このアステーク族の仕事だと云われている。即ち十一二世紀にチチメーク族によって開始された武力統治の運動がここにその絶頂に達したのである。数多くの封建貴族は宮廷に於て直接にこの君主に奉仕した。しかしアステーク族の専制君主制は成立後まだ日が浅いのであるから、それを支えるためには依然として|武力による強圧《ヽヽヽヽヽヽヽ》が必要であった。そうしてこの強圧の下に統一にもたらされている諸部族は、未だ緊密な団結を形成するに至っていなかった。ここにこの国家の脆弱点があったのである。スペイン人を極度に憤激せしめた血腥《ちなまぐさ》い人身犠牲の風習も、右の如きアステーク族の恐怖政治より出たものと見られている。アステーク族はその偶像の祭壇に捧げるために、メキシコ湾より太平洋に至る間の|被征服諸部族から《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》無数の人命を徴発した。それは毎年二万に上ったとさえ云われる。犠牲者の頭蓋骨はピラミッドのように積み上げてあるが、コルテスの従者の一人はただ一つの箇所で十三万六千の頭蓋骨を数えたそうである。被征服諸部族がこの恐怖政治からの解放を熱望していたのも当然のことと云わなくてはならぬ。
この解放の熱望を反映していたのが、武力政治以前のトルテーク族を記念するケツァルコアトゥルの神の崇拝である。元来メキシコには二千に上る地方神が祀られているが、アステーク族の民族神として|最も多く人身犠牲を要求している《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のは、ウィツィロポチトリの神であった。これはアステーク族をアナワク高原へ導いて来た祖先《ヽヽ》が神化されたものだと云われている。然るにケツァルコアトゥルは、もとトルテーク族の祭司でありまた宗教改革家であったと云われる。彼は|人身犠牲を廃止しようとした《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ために、この国土から追われ、東の海岸から姿を隠したと信ぜられているのである。後に彼は空の神として、この民族に農耕及び金細工の技術を教えた恵みの神として崇敬された。この神は丈高く、|色白く《ヽヽヽ》、波うつ髯のある姿に於て表象されている。東の海岸から姿を隠す時には、|蛇の皮で作った魔法の舟《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に乗り、やがて|何時かは帰って来てこの国を取り返すであろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と声明した。で全民衆は、この神が今に帰って来るだろうと信じていた。そこへ色の白いスペイン人が東の海のあなたから現われて来たのである。抑圧されている人々は、ケツァルコアトゥルの予言が実現されたと信じた。否、王さえもそう信じたのであった。
こういう国情のところへコルテスが乗り込んだのであって見れば、彼の一撃がこの王国の紐帯をほごして了ったのは、極めて当然のことと云わねばならぬ。メキシコの文化自体は、数百人のスペイン兵と十数門の大砲とに一つの王国の蹂躙を許すほど無力なものでも幼稚なものでもなかったのである。
トルテークの文化を継承し発展せしめた当時のメキシコに於ては、農耕《ヽヽ》は高度に栄えていた。とうもろこし、木綿、とうがらしのほかに、蘆薈《マグアイ》、カカオ、ヴァニラなども取れる。蘆薈の葉の繊維は紙に、汁は酒にするのである。カカオの豆は小貨幣として通用し、チョコラトゥルにする。果物で最も愛用されるのはバナナである。煙草はパイプ又は葉巻で用いている。採鉱《ヽヽ》も盛んであるが、鉄はまだ知られていない。刃物には黒曜石の鋭い破片を使う。陶器《ヽヽ》は広く用いられているが、杯は木製である。木綿の織物《ヽヽ》は非常に巧みで、刺繍も行われている。市場《ヽヽ》は定期的に町で開かれ、極めて活溌である。道路網《ヽヽヽ》は駅亭と共に全国に行き亘っている。政府の命令は飛脚が送達する。軍隊の組織は、八千人を以て師団、三四百人を以て戦闘隊とする。軍服は飛道具を防ぐように厚い木綿の布で出来て居り、指揮官は金や銀の甲冑をつける。武器は、剣・槍・路棒・弓矢・投石器などである。学問《ヽヽ》は祭司の手中にあるが、中で珍らしいのは、二十日を以て一カ月、十八カ月と年末無名日五日とを以て一年とする太陽暦である。それによって祭日や犠牲日が規制せられている。象形文字《ヽヽヽヽ》は竜舌蘭の繊維から成る紙、木綿の布、精製された皮などの上に彩色を以て描かれる。同じやり方で王国全体や各州や海岸などの地図も出来ていた。
これは一つの纏まった、独自の文化である。が同時に極めて|閉鎖的な文化《ヽヽヽヽヽヽ》である。メキシコ人の眼は同じアメリカの地の他の文化圏へは届かず、況んや大洋のあなたの国土を探求する欲求の如きは毛程もなかった、この閉鎖性もまた一つの弱点として、前掲の弱点に油をそそぐ役目をつとめたのである。
スペイン人到来当時の王はモンテスーマと呼ばれ、一五〇二年に即位した。アステーク族の王の常として、領土及び祀りの拡大に執心し、グヮテマラやホンデュラス、恐らくはニカラグヮへさえも、遠征を試みた。しかもメキシコの直ぐ東に山を距てて隣合っているトゥラスカラは、未だ王には服属していなかったのである。こういうことも国家の統一を不完全にする有力な原因となっていたであろう。そういう不完全さの現われとして、王は常に周囲に対する猜疑心になやまされていた。臣下が彼の眼を盗んで悪政を行っていはしないかと、夜毎に変装して巷に出で民の声を聞いたという如きがその一例である。王位の覬覦を怖れて血縁者を除いたという如きも他の一例である。それに加えて一五一六年にはチチメーク族の首府であったテツクコの君主が死に、その継承の争に王が一方に味方して他方を敵にした。かくの如く王は、大仕掛な遠征の事業にもかかわらず、身近に多くの敵を持っていたのである。
この情勢の中ヘスペイン人上陸の報が届いた。人々の頭に先ず浮んだのはケツァルコアトゥル再来の伝説である。|海から出て来たこの色の白い人々《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、追われた神の後裔に相違ない。本山たる神殿の塔が焼けた。東に不思議な光が現われた。三つの彗星が空に見える。これらは皆あの予言が充たされる前兆である。そう人々は考えた。王は評議会を開いたが、そこでは開戦論と平和論とが対立したので、王はおのが独立の意見を示そうとして、その中道を選んだ。即ち、コルテスに豊富な贈物をして、首府へ来ることはどうか思い止まってくれと頼んだのである。その贈物は、車の輪ほどの金と銀の円盤(これは日月を表徴する)、鉱山から出たままの純金の粒を盛《も》った兜、その他多数の金細工の鳥獣、装飾品などであった。これらを土産《みやげ》として郷里《くに》へ帰ってくれというわけである。
しかしこの豊富な贈物はスペイン人を一層刺戟した。コルテスは、王に面談するよう命令を受けて来ている、と答えた。すると二度目の使が新しい贈物を持って現われ、前と同じ頼みをくり返した。コルテスは聴かなかった。宮廷との関係は悪化した。土人はスペイン人の陣営を遠ざかり、食糧をも寄越さなくなった。コルテスは当然窮境に陥ったわけであるが、その時彼の眼の前に現われて来たのが|この王国の脆弱点《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのである。
コルテスの上陸したベラ・クルスの北方海岸にトトマーク族が住んでいた。これは肉体的にも言語的にもアステーク族と異った部族であるが、最近にモンテスーマに征服されたのであった。そのトトマーク族がコルテスをその町に招待したのである。この事件によってコルテスはメキシコ王国の中に味方につけ得る分子のあることを悟った。そうしてそれによって彼のメキシコ王国征服の方策が立てられ得たのである。
そこで彼は先ずその上陸地点にスペイン式の町を形式上建設した。ベラ・クルスの名はこの時につけられたのである。即ちそれはスペイン人の目標である|黄金とキリスト教《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》とを結びつけて Villa rica de la vera cruz(まことの十字架の富める町)と呼ばれたのであった。コルテスの腹心のものたちがこの新しい町の市会を構成する。その市会に於てコルテスはベラスケスから任命された職を辞する。市会は直ちにスペイン王の名に於て彼を最高司令官・裁判官に任命する。このお芝居によってベラ・クルスの町は国王直轄となり、キュバ総督から独立したのである。それを不愉快とした総督派は反抗を企てたが、直ちに弾圧された。
次でコルテスはトトマーク族の町に行き、盛大な歓迎を受けてこの町をスペイン領とする。神殿の代りにキリストの祭壇が築かれ、住民は洗礼を受ける。住民は僅か二、三万であったが、しかしこの事件の意義は非常に大きいのである。コルテスはこの町で、トトマーク族と同じようにアステーク族に対抗して未だなお征服されていないトゥラスカラ国のことを、詳しく聞いたのであった。そうしてトトマーク族に於て起ったことはトゥラスカラ国に於ても起り得るとの確信を得たのであった。
コルテスはアナワク高原へ侵入する前に、所謂背水の陣をしいた。先ず彼は兵士たちの同意を得て、それまでに獲得された黄金や装飾品を悉くスペイン王に送ることにする。次で市会は兵士たちに対してコルテスを最高司令官として確認するように懇請する。そこで総督派の軍人たちは秘かにキュバに帰ることを企てたが、発覚して首謀者は死刑に処せられた。コルテスはこの種の憂を根絶するために、一隻の小さい船を残してあとの全艦隊を海岸に乗り上げしめた。これは隊員全部の同意の下に公然なされたことであるという。もはや退路はない。前進あるのみである。
ベラ・クルスには兵百五十名騎士二名が守備隊として残った。遠征隊はスペイン兵三百、トトマーク兵千三百、人夫千、騎士十五名、砲七門を以て組織された。出発したのはこの地に到着後四カ月の八月十六日である。熱帯の低地から急に涼しくなる山脈を超えて五日間でアナワク高原へ出た。住民は穏かであったが、コルテスは戦闘隊形を以てトゥラスカラの方へ進んだ。この部族は十二世紀にこの土地に入り込み、幾度かの戦を経てここに定住したのであるが、王を頂かず四人の君主が共同に治める一種の聯邦を形成していた。アステーク族には烈しく抵抗して、未だ屈服していないのである。新来のスペイン軍に対しても烈しく抵抗した。その兵は十万であったと云われている。がコルテスは遂に大砲を以て決戦に勝った。九月五日である。コルテスは友交を申入れ、トゥラスカラ国はそれを受諾した。この外人たちは|モンテスーマの敵《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのである、というトトマーク人の説明が、非常によく利いた。モンテスーマを敵とするが故に、トゥラスカラ国はコルテスと結んだのである。この時コルテスのメキシコ征服は既に成ったと云ってよい。
モンテスーマは、その大兵力を以てしても容易に屈服せしめることの出来なかったトゥラスカラが、極めて脆く白人に敗れたと聞いて、この白人こそ久しく待望されていたケツァルコアトゥルの裔であろうという信仰を一層強めた。でまた彼は贈物を持った使者を寄越して、メキシコ国の首府に進軍することは危い冒険であるということを説かせた。のみならずスペイン王への貢を申出で金銀宝石彩布などの分量をコルテスの思い通りにきめてくれと頼んだという。しかしコルテスは頑として最初の声明を飜えさなかった。
コルテスの軍隊がトゥラスカラの町に入ったのは九月二十三日であった。グラナダよりも大きいこの町の大勢の見物の前で日々にミサが行われた。君主の娘をはじめ多くの貴族の娘が洗礼を受けてスペインの将校と婚姻を結んだ。かくてこの町で三週間の休養を取っている間に、コルテスはメキシコの国情や戦力を詳しく研究した。モンテスーマに掠奪され圧制せられている諸部族のメキシコ人に対する憎悪、権力を以て徴募せられた軍隊の奮わざる士気、などが一層明かとなった。僅か三百のスペイン兵を以てこの強大な武力統治国の首府へ乗り込んで行こうとするコルテスの大胆極まる離れ業の背後には、十分に冷静な観察や考量が存したのであった。
コルテスは六千のトゥラスカラ兵を加えてメキシコへの進軍を開始した。その途上チョルラの町が先ず占領せられた。この町はケツァルコアトゥルが海岸へ移る途上二十年間留まったところで、この神のために、全高一七七呎の段々の上に壮大な神殿が建てられ、その中に巨大な神像が祀られていた。これは人身犠牲を欲せざる神であるが、しかしこの町に人身犠牲の風習がなかったというのではない。神殿の他に四百の犠牲塔があった。犠牲となるべき男子や子供は檻の中に充満していた。スペイン人は先ずこれらの囚人を解放し、ついで陰謀の計画を見出したためにトゥラスカラの軍隊に掠奪・殺戮を行わしめた。大神殿も破壊焼却された。この先例を見て近隣の町々は急いで降服するに至ったのであった。
この町からメキシコへの道は二つの高山の間を通ずるのであるが、その峠の上から見晴らしたメキシコの谷の風景は非常に美しかった。永久に雪を頂いている山々の裾に、長さは十四五里、幅は七八里に達する湖水が横わり、それに沿うて数々の町や村がある。首府メキシコは湖中の島にあって、三方から堤道が通じている。当時は戸数六万、人口三十万以上の大都市で、サラマンカの町位の広さの大市場がいくつもあった。一一四段の階段で昇って行く高い壇の上に建てられた犠牲神殿は、家々の上に高く聳え立ち、四十の石造の塔に囲まれていた。やがて山を降りて湖水の側に出ると、水上に浮んで見えるこれらの塔や神殿や家々が、まるで夢幻境の風物のようにスペイン人らの心を蕩かした。湖水の側で宿営した宮殿は、美しく削った四角な石や、杉や、その他の香木で建てられ、どの室にも木綿の壁掛がかかっていて、この国土の富と力とが如何に大きいかを示すように見えた。
かくしてコルテスの軍隊が遂にメキシコの町に乗り込んだのは、一五一九年の十一月八日である。堤道は八歩の広さであったが、見物人の往来で通行困難を感じた。塔や神殿も悉く見物人に覆われ、湖にも一面に見物人の舟が群った。それも道理で、彼らは白人や馬を曾て見たことがないのであった。ところでこの無数の人の群の中を通って行くスペイン人はと言えば、僅か三百の小部隊なのである。「これほど大胆な冒険を企てた人々が曾てあったろうか」とベルナール・ディアスが記しているのも無理はない。
町の大通りではメキシコ王が、貴族たちのかつぐ玉座に坐し二百人の華やかな従者を従えて迎えに出た。スペイン人が近づくと王は玉座を降り、拡げられた敷物の上を歩いて来た。豊かな彩衣をつけ、緑色の羽飾りの冠を頂き、足には宝石を鏤めた黄金の履をはいていた。看衆は王を直視することは許されない。すべての人は恭しく眼を伏せた。コルテスは馬を降りて王に近づぎ、贈物としてガラス玉の鎖を王の頸にかけた。彼は更に王を抱擁しようとさえしたのであるが、それは神聖を涜すものとして側近の貴族に遮られた。王はコルテスへの豊かな贈物を残して従者と共に引上げて行った。
スペインの軍隊は楽を奏し旗を飜しつつ入城した。六千のトゥラスカラ兵もそれに続いた。町の中央の広い市場に面して戦神の高い殿堂と広大な旧王宮があったが、この後者を王は新来の客の宿舎に宛てたのである。ここでも好い室には彩布の壁掛があり床の敷物があった。コルテスはこの頑丈な建物の要所要所を固め、入口に大砲を据えた。夜になると王が訪ねて来て、ケツァルコアトゥルの伝説を詳しく物語り、これまでスペイン国やその王について聞いたところから判断すると、|この王こそメキシコの正当な君主である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と確信すると述べた。従ってコルテスはメキシコ王及びメキシコ国を自由に処理してよいのである。メキシコ国の降服は一日にして片附いたのであった。
しかしコルテスにとっては王の降服のみでは十分でなかった。翌日彼は四人の隊長を従えて王をその石造の宮殿に訪ね、顔が映るほどに好く磨いた大理石や碧玉や斑岩の壁の室、或は花鳥を繍《ぬいとり》した高価な織物のかかっている室で、王と会談したのであるが、その時コルテスは、|モンテスーマをキリスト教に改宗せしめよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》との王命を受けていると宣明し、教義の議論を始めたのである。しかし曾て最高の司祭の職にあったメキシコ王はこの議論を避けた。そうしてただスペイン王に臣事し貢を上る用意があることをのみ繰返した。即ち遠征の真の目的として標榜せられている点は未だ達せられていないのである。
一週間後にコルテスは王を捕虜としようと決心した。口実はベラ・クルスの守備隊が附近の酋長に襲撃された事であった。コルテスは王宮に赴いて王がこの襲撃を使嗾したのであろうと抗議し、酋長の処罰を要求した。王は同意して酋長の召喚を命じた。しかしコルテスはそれだけに満足せず、事件解決まで王が旧王宮に住むべきことをも要求した。王は息子と娘とを人質に出そうと提議したが、コルテスは王自身のみがスペイン人の安全を保証し得ると主張して譲らなかった。遂に部下は辛抱し切れず、同意せねば殺そうという恐嚇の言を吐いた。王はこの気勢に驚いて同意し旧王宮に移った。民衆には王の発意であると発表した。スペイン人も王を鄭重に取扱い、王としての日常のやり方は元のままに続けさせた。従って表面上何の変化もない如く見えたが、しかし王自身は深い苦痛を感じていたのである。
やがて問題の酋長は息子と十五人の部下をつれて首府に現われ、コルテスに引渡された。彼らはモンテスーマに使嗾されたことを自白し王宮前の広場で火|炙《あぶ》りの刑に処せられた。王は使嗾者としてこの処刑の行われる間鎖につながれたが、そこから解放されても、もうおのれの王宮に帰ろうとはしなかった。彼の人民の痛憤、外敵に対する蜂起を、制止し得る自信はもう彼にはなかった。彼はスペイン人の保護の下に留まることを選んだ。幾人かの王族貴族はこの屈辱に堪え兼ねて兵を起そうとしたが、すべて失敗に帰した。王は酋長たち貴族たちの集会に於てスペイン王への忠誠を誓い、ケツァルコアトゥルの予言が今や実現されたのであると語った。「これからはお前たちの本来の主君としてカルロス大王に、またその代理者たる将軍に、服従せよ。お前たちが余に払った租税はこの主君に払い、余に仕えた如くこの主君に仕えよ。」かく王は涙と嘆息の内に語を結んだ。コルテスは公証人に降服文書を起草させ、双方それに署名した。
スペイン人は土人の官吏を従えて国中をめぐり、租税の徴集、スペイン王への貢物の受納を行った。モンテスーマも私財の中から数知れぬ金銀細工を提供した。かくして多量の「黄金」がコルテスの手に帰した。ただ一度の強圧手段で全国が平和の内にスペイン人の支配に移り行くかのように見えた。然るにそれを中断したのは、スペイン人の側に起った内訌と、それに刺戟されて起ったメキシコ人の反抗とである。
内訌は、キュバ総督ベラスケスが己れに叛いたコルテスを制圧しようとしたことによって起った。総督はコルテスの不埒を本国に訴え、コルテスを捕縛すべき遠征隊を送った。八十の銃兵、百二十の弩兵、八十の騎兵、十七八門の大砲等を含んだ八百名の軍隊、十八隻の船隊であるから、コルテスの遠征よりは遥かに有力である。ハイチの副王はキュバ総督のこの挙を阻止しようとしたが、駄目であった。で副王はコルテスに味方して、総督及び遠征隊長の罪を本国に訴えるに至ったのである。
遠征隊は一五二〇年四月二十三日にベラ・クルスに着き、上陸して、コルテスの守備隊に降服を要求した。守備隊長はこの使者たちを直接コルテスの許へ送ったが、コルテスは彼らを優遇しメキシコの事情を説明して自分の味方につけてしまった。新来の遠征隊全体を味方につける望みもないではなかった。ただ問題は隊長だけであった。でコルテスは隊長に和解を申込み、将校たちに多量の金を贈ると共に、七十名の部下と二千名の土人兵を率いて急遽山を下って行った。途中探検から引上げて来た部下や海岸の守備隊を合してスペイン兵二百六十名となった。その手勢を以て聖霊降臨節の前夜に新来遠征隊の宿舎を奇襲し、隊長を捕えたのである。その部下はコルテスに忠誠を誓った。従って結果としてはコルテスは増援軍を得たと同じことになったのである。
がその留守の間にメキシコに於て事が起ったのであった。残された守備隊は百四十名であったが、大きい犠牲祭の日に、王を奪還する企てを恐れて、群集を攻撃し、血を流したのである。その結果全市は蜂起して旧王宮の守備隊を猛烈に攻撃した。コルテスは全兵力をあげて救援に赴き、夏至の日に帰着した。その勢力は騎士九十、銃兵八十、弩兵八十を含めて千三百であった。しかしそれ位では防ぎ切れなかった。大砲で次々と打ち払っても、メキシコ兵は反って増大してくる。コルテスは遂に退却を決意し、王を利用して退路を作ろうと試みた。王は盛装して塔の段に現われた。民衆は鎮まった。王は声高く、「自分は捕虜ではない、スペイン人は退去を欲している」と云った。しかし民衆はこの言葉を怯懦のしるしとして受取り、王に呼びかけた、「王のいとこ、イスタッラパンの君公を王位に即けよ、スペイン人を鏖殺するまで武器を措かぬと誓え。」この言葉と共に霰のように石と箭が飛んで来た。楯で覆う前に王は多くの傷を受け、頭に当った投石のために気絶した。この屈辱はモンテスーマの心魂にこたえ、覚醒後にも一切の手当を拒んで、一五二〇年六月三十日に歿した。
王の死と共に攻撃は狂暴を増した。堤道の橋も悉く取り除かれた。食糧もつきた。翌七月一日の夜コルテスは、運搬の出来る橋を使って退却に取りかかった。陸からも湖上の無数の小舟からも石と箭が飛んで来た。恐ろしい苦戦であった。コルテスと共に町に入った千三百の兵のうち、逃れ得たのは四百四十名で、それも悉く負傷していた。大砲弾薬は悉く失われ、馬も四十六頭斃れた。それでもコルテスは敗残の兵を率いて退却を続け、湖水の西側を北に廻って七月七日には古都テオティワカン(神々の住居)に着いた。が最大の危機はなおその後に控えていた。古都東方のオトゥンバ平野で、この敗残の部隊は二十万と号するメキシコ軍に包囲されたのである。そこには絶望的な混戦があった。コルテス自身も投石によって頭部に負傷した。が彼はこの乱軍のなかで数騎と共に敵将に向って殺到し、これを倒して旗を奪った。それによってメキシコの大軍は崩れたのである。かくてコルテスは辛うじてトゥラスカラまで引上げ、傷の療養に努めたが、部下の士気は沮喪し、トゥラスカラ人の間にも動揺が起らぬではなかった。それを持ちこたえたコルテスの気魂は相当のものと云わなくてはならない。
一度降服したメキシコ国は、更に改めて武力を以て征服せられなくてはならなくなった。敗残のコルテスがかかる攻撃力を回復した道は、メキシコ人よりも優れた智力《ヽヽ》と技術《ヽヽ》なのである。傷病が癒えると共にコルテスの踏み出した第一歩は、トゥラスカラ人の助けを借りてその東南方の地方を征服することであった。それによって彼はこの際不可欠なトゥラスカラ人の信望をつないだのである。第二歩はキュバ総督が何も知らずに送って来た援軍を味方につけることであった。それによって彼の勢力は最初アナワク高原へ乗り込んだ時よりは強くなって来た。そこでメキシコに対する攻撃の方法として彼の考え出したのが、|船による湖上の支配《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。ヨーロッパの造船や操縦の技術によってアステークの戦舟を圧倒すれば、湖中のメキシコを孤立させることが出来る。かく考えて彼は幾隻かのブリガンティンを造らしめた。索具や鉄はベラ・クルスから持ってくる。船体はトゥラスカラで工作して湖へ持って行って組み立てる。これは太平洋を発見したバルボアがその征服のために最初に着手したと同じやり方なのである。
一五二〇年十二月中旬、コルテスは歩兵五百五十、騎兵四十、大砲八九門を以てテペアカを出発し、北方の山路を経てテツクコに進出した。そうして新造の十三隻の船が湖水へ進水出来るように、町から湖までの半レガの堀を十二呎の深さに掘り下げ始めた。他方では湖岸偵察のために遠征を試み、沿岸の町々を征服した。その内ハイチから歩兵二百、騎兵七八十の援軍がくる。コルテスは大胆にも湖水南端のホチミルコの町を襲い、危うく捕虜となりかけるような冒険をやった。こういう強気のやり方は、反対なしに行われたのではない。総督派はまた謀叛をたくらんだ。しかしコルテスは首謀者一人を死刑に処したのみで、一味の者を追窮しなかった。
一五二一年四月二十八日遂に堀は完成し、船が進水した。一隻に砲一門・兵二十五名である。このヨーロッパ風の軍艦十三隻の出現はメキシコの町の死命を制した。何故なら、これによって、数千の戦舟に取巻かれた堤道を進出するという困難が取除かれたからである。戦舟隊との最初の戦闘は予期以上にうまく行った。五百艘の戦舟が偵察にやって来た時、コルテスは初め引き寄せて置いて大砲を打ちかけ、船の操縦の巧みさで一挙に勝を占めるつもりであったが、突然陸の方から追風が起ったので、早速ブリガンティンをして満帆を張って敵舟隊に突進せしめ、メキシコの町へまでも追撃せよと命じたのである。無数の戦舟は突き沈められ、乗員は溺れた。追撃三哩に及び敵の舟隊は覆滅した。この一挙を以てコルテスは湖上の支配権を握ったのである。あとはこの軍艦に掩護されつつメキシコの町への堤道を徐々に追い詰めて行けばよかった。水道を絶ち糧道を絶たれた湖中の町が、いつまでも包囲に堪える筈はないからである。
この理詰めの攻撃に対してアステーク族はいかに抵抗したか。先王モンテスーマは運命を諦観して抵抗しなかったが、しかしそれはアステーク族の戦闘的性格を現わしたものではなかった。モンテスーマの歿後そのあとを嗣いだ弟は四カ月にして歿し、この当時は甥に当る二十五歳のカウーテモ(或はガテモ)が王位に即いていたが、この王の下にアステーク族は|実にがむしゃらに《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》死闘を続けたのである。彼らは湖中の堤道を絶ち切ってスペイン軍の進出を防いだ。一つの箇所が埋めつくされると背後に新しく堀を掘って関を作り頑強に抵抗した。陸にも水面にも荒々しい雄叫びが響きつづけた。従って|死を辞せざる勇気《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》という一点に於てはメキシコ人は決してスペイン人に劣ってはいなかったのである。しかし|智力と技術《ヽヽヽヽヽ》とが優劣を分った。スペイン人は遂に町に達した。通りに造られた堡塁を大砲で打ち破り、それを越えて大神殿にまで進出し、再建された偶像を破壊した。この形勢を見てテツクコの君公は五万の兵を率いて降服し、他の町々もこれに倣ったが、しかしメキシコ人は屈しなかった。毎日毎日攻撃は繰返され、家は焼かれ、饑餓は迫ったが、しかし彼らはあらゆる平和条件を斥けた。このような頑強な抵抗が三週間続いた後、コルテスは遂に総攻撃を決行したが、混戦の最中コルテス自身は危うく捕虜にされそうになり、若い士官の身代りによって漸く助かった。スペイン兵の戦死四十、捕虜にされたもの六十二、ほかに同盟軍の損害多数であった。夜になると戦の神の殿堂の大太鼓が轟き、長い戦士の列が階段を昇って行った。そうして捕虜となったスペイン兵たちに羽飾りをつけ、偶像の前で舞踏をさせ、彼らを犠牲台に横えて胸を剖き生きた心臓を取り出して神に捧げた。それがコルテスの陣から見えたのである。この凶暴な敵に対して包囲軍も凶暴となった。八日間休養した後に再び総攻撃が開始された時には、町の家々は片端から破壊され焼かれた。王宮も炎上した。饑餓は激化した。住民は草の根や雑草や、また木材さえも喰った。それでもアステーク族は降服しようとしなかった。彼らは王国の没落のあとに生き残ろうと思わず、首府の廃墟の下に埋められることを欲したのである。
この包囲は一五二一年五月三十日より八月十三日まで七十五日間続いたのであった。それを終結せしめたのは、王が舟で脱走しようとしてブリガンティンに捕まったからである。饑餓で弱ってかつがつ動ける程度の男・女・子供の大群が、三日三晩堤道を埋めて引上げて行った。最後まで王が守っていた町の部分の家々は悉く死人に充たされ、生き残っている者も立ち上る力はなかった。死者の総計は十二万乃至二十四万と云われている。これが平時の人口三十万の町での事なのである。
メキシコ陥落によって近隣の諸部族も降服した。黄金の収穫は多大であった。コルテスは巧みに町の再建を計り、神殿のあとに教会を建てた。堅固な要塞にはブリガンティンを掩護する設備も設けられた。町に暴動が起っても湖上の支配を失わないためである。かくしてこの新しい町には一二年の内に二千のスペイン家族が定住し、一五二四年には人口三万を数えた。他方土人たちは、在来の国家組織・社会秩序を破壊されると共に、悲しむべき道義頽廃に陥り、征服者たちの下に奴隷化された。人身犠牲の風習が根絶されると共に、また在来の文化や産業も破壊されつくしたのである。
コルテスのメキシコ征服が本国より承認され、彼が新スペインの総督・総司令官に任命されたのは、メキシコ陥落の翌年一五二二年十月である。その後のコルテスの経綸は、メキシコに於けるスペイン権力の確立と附近の諸地方の探検征服とであった。特に太平洋への通路は彼の熱心な目標であった。初めにはテワンテペク地峡に於て、次にはホンデュラス湾の奥に於て、探し求められたが、見つかる筈もなかった。しかし彼は断念せず更に、北方へ、或は南方へ、探検の計画を立てた。それに比べて眼に見える効果が上ったのはグヮテマラ征服である。ここにはマヤ族がトルテーク文化を受けて美しい建築を造っていたが、一五二四年コルテス部下の遠征隊によって破壊され征服された。次でホンデュラスの征服も企てられたが、その遠征隊の司令官がキュバ総督に内応したため、コルテスは自ら一部隊を率い陸路ユカタン半島の根元を横断してホンデュラスの北岸へ赴いた。原始林と沼沢とを突破するこの行軍は実に困難を極めたものであったが、コルテスは遂にそれを強行した。しかし着いて見ると謀叛事件は夙くに片附いていた。のみならずコルテスの遠征隊全滅の噂の為メキシコに動揺が起った。コルテスが漸くメキシコに帰着したのは一五二六年の五月末である。がコルテスの全盛期はもう終った。四週間後に到着したスペイン政府の全権使節は、コルテスに対するさまざまの告訴について取調べを始めたのである。
コルテスが自ら直接に弁明すべく、多量の金銀や土産物を携え、勇敢な部下やトゥラスカラの公子や多くのメキシコ芸人などを伴れて本国へ着いたのは、一五二七年十二月であった。その本国で彼は、ペルー征服の計画に対し政府の支持を求めに帰って来たピサロと落ち合ったのである。それは云わばメキシコ征服の日が西に傾いて、ペルーの征服の月が東の地平線上に上って来た瞬間であるとも云えよう。コルテスの弁明は聴かれ、オアシャカの地に広い領地も給せられたのであるが、しかしメキシコの支配権はもはや彼の手に残らなかった。彼はただ軍司令官に過ぎなかった。一五三〇年春メキシコに帰り、暫く領地の整理に努めた後、一五三二年、一五三三年と引き続いて太平洋岸に探検隊を派したが、皆思うように行かなかった。一五三五年から一五三七年にかけては自ら乗り出して見たが、カリフォルニア湾を北上しただけで、得るところはなかった。新スペイン副王は遂に爾後の探検を禁じた。それを憤ったコルテスは王の裁決を請うべく一五四〇年に再び本国に帰ったが、王は冷淡で埒があかず、愚図愚図しているうちに、一五四七年十二月、六十三歳にして歿した。彼の歴史的な意義は二十五年前のメキシコ征服を以て終っていたのである。
六[#「六」はゴシック体] ペルーの発見
華々しいメキシコ征服が刺戟となってその後《あと》間もなく惹き起されたのが|ペルー征服《ヽヽヽヽヽ》の事業である。そうしてその主役は前にオヘダ及びバルボアの探検に際して登場したフランシスコ・ピサロなのである。
ピサロはコルテスの母方の一家の出で同じエストゥレマドゥラ州に生まれ、コルテスよりは数年或は十数年の年長であったらしい。庶子であった為にひどい取扱いを受け、読み書きさえも教えられなかった。豚の番人か何かをしているうちに新世界への冒険熱にかぶれて故国を後にしたのであるが、その際彼ほど残り惜しさを感じなかったものはなかろうと言われている。同じ代表的な征服者でも、サラマンカ大学に学んだコルテスと文字さえ読めぬピサロとの相違は、やがて事業の上にはっきり現われてくるのである。
オヘダの探検隊に於て彼が頭角を現わしたのは、セルバンテスの作中にでもなけれぽ比類を見出し難いような騎士的性格と武功との故であった。次でバルボアと共に太平洋に進出する冒険旅行を遂行し、その翌々年にはモラーレスと共に真珠諸島を攻略して、遥か南方にある強国のことを再び聞き、その冒険欲をそそられたのであったが、総督ペドラリアスが首府をパナマに移した後には、総督の試みる北方への探検に従事し、相当に名を現わしはしたが、僅かにパナマ近隣の不健康地の領主となったに過ぎなかった。年はもう五十に近づいたか、或はそれを超えたかなのである。
丁度その頃一五二二年にアンダゴーヤが南方ビルーまで探検して帰った。(このビルーが訛ってペルーとなったとも云われている。)他方にはコルテスの華々しい事業が人心を刺戟している。パナマの人心は期せずして|南方への探検《ヽヽヽヽヽヽ》に向った。が南方の黄金国の秘密は未だ何人にも開かれていない。そこへの道のりも見当がつかぬ。ただ南方への航海の困難さだけが少し解っている程度である。従って最も大胆なものも手が出せなかった。その時ピサロはこの探検に熱中する二人の相棒を見つけ出したのである。一人はディエゴ・デ・アルマグロで、ピサロより少し年長であったらしい。素姓はよく解らぬが、勇敢な軍人として知られていた。もう一人はパナマの司教代理エルナンド・デ・ルケで、相当知識も広く、土地の信望を集めていた人らしい。それによってルケは金策につとめ、アルマグロは船の艤装や食糧の調達に奔走し、ピサロは遠征を指揮するということに相談がきまった。総督もすぐに同意を与えた。アルマグロは機敏に活動を始め、二隻の小さい船を手に入れた。一隻は前にバルボアが南海探検のために造ったものである。乗員の募集はそれよりも困難であったが、それでも彼は百人ほどの人を集めた。かくしてピサロは遂に一五二四年十一月にパナマ港を出発することが出来たのである。アルマグロは二隻目の準備が出来上り次第あとに続く筈であった。
ピサロのこの第一回航海はパナマ地峡に近いコロンビアの海岸をうろついただけであったが、しかしその苦労は大変なものであった。先ずビルーの河を二三レガ遡江して上陸して見たが、沼沢と原始林と暑熱とでどうにもならない。諦めて船に帰り少し沖に出ると、ひどい暴風が十日間も続いて揉み抜かれる。食糧や水が欠乏して皆がへたばってくる。陸に船をつけて見ても全然望みのない密林のみである。士気は崩れ、帰航を望むものが多くなった。しかしピサロは退こうとしない。発見者の苦難を説き、成功の華やかさを述べて士気を鼓舞しようと努める。遂に船と半分の隊員を真珠諸島へ送り、食糧の補給を企てたが、自分は密林の中に残って元気に部下を労わりつつ、貝や椰子の芽や木の実で命をつないだ。数日で帰る筈の船は幾週間か経っても帰らなかった。数少い隊員の中から二十人以上の死者が出た。もう餓死するほか道はないという危機に立った時に、燈が見えると報告したものがあった。人々は密林を突破して小さい土人の村に出で、とうもろこしやココアを見て驚喜したのである。
白人の突然の出現に驚いて姿を隠した土人たちは、危害を加えられる恐れのないのを見て帰って来た。この時の土人の質問がいかにも類型的である。「他所へ出て他人のものを盗む代りに、何故に自家にいておのれの土地を耕さないのか。」その答は、土人たち自身が身につけている|金の飾り《ヽヽヽヽ》であった。ピサロは熱心に南方の黄金国のことを聞いた。土人は、山越しで十日行くと力強い君主が住んでいる。その国はもっと力強い|日の御子《ヽヽヽヽ》に侵略された、と語った。
七週間経って船が帰って来た。食糧にありつくと冒険者たちは前の苦難を忘れてまた前進に移った。相変らず岸伝いに、所々上陸しつつ進んだ。土人の家や土人の町を見つけては丹念に金の痕跡を追究した。その町では土人の勇敢な抵抗に逢いピサロは遂に負傷するに至ったが、丁度船も破損がひどくなっていたので、探検を切上げて帰ることにしたのであった。この間アルマグロの第二船はピサロのあとを追いつつ追い越して、北緯四度あたりサン・フアン河まで行ったが、めぐり逢うことが出来ずに引上げて来た。
第一回探検の不成績は総督ペドラリアスの機嫌を悪くした。それを極力取りなしたのがルケ師であった。結局総督は成功の際千ペソを受けることにして再挙を承認した。これはこの不評判な総督の在職最後の年のことである。そこでピサロ、ルケ、アルマグロの三人は改めて契約書を作った。ルケは二万ペソを出資する。征服された国土は悉く三人で均分する。金銀宝石等の宝物のみならず、スペイン王が征服者に授けると思われる特権から発生すべき報酬・地代・奴僕等の悉くをも、三分するのである。が失敗の際には、二人のキャプテンはその全財産を以てルケの出資を賠償しなくてはならぬ。この誓約は極めて厳かな儀式を以て行われ、その狂熱的な態度の故に傍観者は涙を催さしめられたという。それは一五二六年三月十日のことであった。「平和の王の名に於て彼らは掠奪と流血とを目ざす契約を承認した」(Robertson : America. Vol. III. p. 5.)と云われている。が彼らはその掠奪と殺戮とを行うべきペルー帝国の実情については、未だ何も知っていなかったのである。そういう未知の富強な帝国を、三人のあまり有力でもない男が、自分たちの間に分配したという事実は、この発見の時代《ヽヽ》と、新しい世界に於ける社会《ヽヽ》との、性格を、明かに示していると云ってよい。
準備は迅速に進められた。第一回航海の失敗やパナマの町での不評判にも拘らず、前の隊員は殆んど全部加わって、百六十九名になった。数匹の馬も手に入った。弾薬や武器も前よりは豊富であった。二隻の船も前よりは上等であった。のみならずバルトロメー・ルイスという優れた船長が乗組んだ。それにしても一つの帝国を征服しようという軍勢ではない。ここにも当時の冒険家の性格が現われているのである。
二隻はパナマを出発して真直にサン・フアン河まで南下した。ここは前回にアルマグロの到達した最南端であるが、今度は数日にしてそこに着いた。ピサロは上陸して土人の村を襲い金の飾りを手に入れた。この収穫に気をよくした彼らは、この獲物を餌にもう少し増援隊を募集すべくアルマグロを帰還させた。他方ルイスをして南方沿岸の偵察に出発せしめたが、ルイスは陸に上らず、土人との衝突を避けつつ、南下して行った。南へ行くほど文化も人口の密度も高まった。サン・マテオ湾(北緯一度半)では岸に見物人が群って、恐怖も敵意も見せずに、白人の船が水上を辷って行くのを眺めていた。そこから沖へ出て間もなくルイスは海上に帆影を認めて驚いたのである。この地方へ彼よりも先にヨーロッパの船が来ている筈はない。またアメリカ土人は最も開けたメキシコ人でさえ帆の使用を知らなかった。一体あの船は何であるか。ルイスは強い関心を持って近づいて行ったが、それは土人がバルサと呼んでいる大きな筏風《いかだふう》の船であった。船上には男女数人の土人があり、中には豊かな装身具をつけている者もあった。また積荷の内には相当に巧妙な金銀細工もあった。が最も驚くべきは彼らの衣裳の中に用いられている毛織物であった。繊巧な織り方で、花鳥の繍があり、華やかな色に染められている。それに驚いたルイスは土人の話によって一層驚かせられた。土人の内の二人はペルーの港トゥンベスの者であったが、その町の近傍では、この毛織物の毛を取る家畜の群が野原を覆うているという。しかも王宮に行けば金銀はこの毛ほどに沢山あるという。ルイスはこういう報道の証人として二三の土人を船に留め、あとを解放したが、その後は赤道を越えて半度ほど南へ出ただけで引返して来た。
ルイスがこのような新発見をしている間に、ピサロは相変らず原始林と取組んで饑餓になやんでいた。隊員の或者は鰐に食われ、或者は土人の奇襲に斃れた。ピサロと数人の部下を除いては隊員は悉く帰還を切望するようになった。丁度そこへルイスが吉報をもたらして帰って来たのである。その後間もなくアルマグロもまた食糧と八十名余の増援隊と新任の総督が肩を入れてくれるという吉報とをもたらしてパナマから到着した。士気は俄かに回復し、隊員は前進を切望するようになった。
が南進を始めて見ると、都合のよい季節はもう過ぎ去っていた。逆風と逆潮とで困難なばかりでなく、あらしがしばしば起った。そういう難航を続けてピサロはルイスの足跡を辿ったが、南へ行けば行くほど土地や人民の開けてくることは実に顕著であった。海から望むと、原始林の代りに広々としたとうもろこしや馬鈴薯の畑が見える。部落の数も多くなる。タカメスの港まで来ると二千戸以上の町が眼の前に横わった。男も女も金や宝石の飾りをつけていた。いよいよ南方の黄金国へ来た、と人々は感じた。がそれと共に土人の勇敢な態度も目立って来た。軍人の乗った小舟がスペイン船のまわりを警戒する。岸には一万もあろうかと思われる軍隊が勢揃えをしている。土人と会商するつもりで部下と共に上陸したピサロは、優勢な敵軍に取囲まれて危地に陥ったが、その時偶然にも一人の騎士が落馬したために助かった。というのは、一つのものと思っていた騎馬武者が突然馬と人とに分れたので、土人たちは喫驚して退いたからである。
ピサロの探検隊を以て土人の軍隊と戦うことは不可能である。いかにすべきであるか。弱気の者は探検の中止を主張したが、アルマグロは聴かなかった。隊員中パナマに債鬼を控えていないものは一人もなかろう。このまま帰れば彼らの手中に陥って牢屋へ放り込まれる。どんなにひどい未開地であろうと、自由人として歩き廻る方がよいではないか。もう一度ピサロにどこか工合のいい所で頑張っていてもらおう。自分はパナマへ帰って増援隊をつれてくる。これがアルマグロの提案であった。それを聞いてピサロは怒り出した。船の上で愉快に日を送る君はそれで好かろう。しかしひどい未開地に残って食う物がなくて弱って死んで行くものにとってはそうは行かない。アルマグロも赫となって答えた。君がいやなら僕が残ろう。かくて双方は激昂し危うく剣を抜こうとする所まで行った。それをなだめたのはルイスと会計方とであった。結局アルマグロの計画を実行することになり、数日の間沿岸を探したが、土地の開けている限りは土人の警戒が厳重であった。しかしずっと北へ帰れば、原始林が土人よりも一層怖ろしい。そこで選ばれたのが北緯二度のトゥマコ湾にあるガロという小島である。ここでピサロは隊員と共に頑張ることになったが、この決定を聞いて隊員中には甚だしい不平が起った。
アルマグロはこの不平の声がパナマに聞えないように、残留隊員の託した手紙を押えたのであったが、木綿の球の中に隠した手紙には気附かなかった。その木綿は産物の標本として総督夫人の許に届けられ、中の手紙もその手に渡った。それは自分たちの惨めな境遇を訴えて総督に救済を求めたものであった。総督はルケやアルマグロの弁解を聴かず、二隻の船を救出に送った。ガロの島へ行って見ると、果してピサロの探検隊は惨憺たる状態にあった。それは前の原始林の場合よりもっと酷かったと云ってよい。人々は半裸体で、餓え疲れて、へとへとになっていた。救いの船で一刻も早くこの島を離れたがった。
この時がピサロの事業の最大の危機であったかも知れぬ。が同じ船でルケとアルマグロの手紙が届き、現前の窮境に絶望せず本来の目的を固守すべきこと、その場合には間もなく前進に必要な手段を講ずることを云って来ていたのであった。ピサロは一歩も退こうとしなかった。しかしまた隊員を説得しようともしなかった。彼は剣をぬき、砂の上に東西に線を引いて、南を指しつつ、「あちらの側には、労苦、饑餓、真っ裸、びしょぬれになる暴風、置き去り、そうして死がある。」また北を指しつつ、「こちらの側には安楽と快楽とがある。――あちらには富めるペルーがある。こちらには貧しいパナマがある。勇敢なカスティレ人にふさわしい方を、めいめいに選んでくれ。自分は南へ行く。」こう云ってピサロは線をまたいだ。彼に従ったものは船長ルイスを始め、十三人であった。救援隊の隊長は彼らの不従順を怒ったが、彼らは頑として退こうとしなかった。食なく、衣なく、武器なく、船もないのに、この僅かな人数で彼らは、強力な帝国に対する十字軍を遂行しようとして、この孤島に留まったのである。こんなことは騎士の物語のうちにもその例がない。
ルイスだけは後図を計るために救援船でパナマへひき返したが、あとの十三人はガロ島から二十五レガほど北方のゴルゴナの島へ筏で移った。ガロの土人が引返してくる危険を恐れて無人島を選んだのである。ここには森があって鳥や獣を狩することが出来た。清水もあった。そこに小舎を建てて、毒虫に悩まされながらも、ピサロは朝の祈りや夕のマリアヘの讃歌やさまざまの祭りを勤めつつ、この冒険事業の十字軍的な色彩を強化することに努めた。信仰が士気を鼓舞するからである。かくして彼らは日々水平線を見張りながら、何カ月かを過した。その日その日が失望に暮れて、また追々に絶望が近づき始めた。それが、水平線の彼方から現われてくる白い帆によって救われたのは、七カ月経ってからであった。
パナマの総督はピサロの頑固な態度に腹を立て、かかる自殺的行為をなす者には一切援助を与えてはならぬという態度を取った。しかしルケとアルマグロとは熱心に総督を口説いた。遂に総督も渋々一隻の船の派遣に同意した。しかし航海のために必要である以上の船員の乗組を禁じ、ピサロには六カ月以内に帰還せよとの命令を下した。そこでアルマグロは小さな船に食糧と武器弾薬とを積んでやって来たのである。ピサロはこの事情をきいて失望したが、しかし南方の黄金帝国の存在を突き止めることは出来ると考えた。そこで前から捕えて置いたトゥンベスの土人の案内で、とにかくトゥンベスを目ざして南下したのである。
今回は前に上陸したあたりでも陸にふれず、前にルイスの到達した南端をも通り越して、ヨーロッパ人の曾て踏み入らなかった海域へ入った。沿岸の地勢も前と変ってなだらかな斜面になり、所々に非常に豊かな農耕地を見せるようになった。海岸に建ち続いている白い家や、遠くの丘から立ち上る烟なども、これらの国土の人口稠密を思わせた。そういう景観を眺めつつ、二十日ほどして、船は静かに美しいガヤキル湾に辷り込んだ。コルディレラの山脈はここでは海に迫っているが、しかし海岸には町や村があちこちにあり、美しい緑の地帯が土地の豊沃を示している。スペイン人たちは歓喜しつつトゥンベス湾口の小島のそばに投錨した。
翌朝船は湾を横切ってトゥンベスの町に近づいた。これはかなりの広さの町で、石と漆喰《しつくい》で出来たらしい建物が多い。背後には灌漑の行き届いているらしい豊かな牧場がある。その景色を眺めていると、軍人を満載した数隻の大きいバルサスが遠征に出掛けて行くのが見えた。ピサロはそれに添うて航行しつつ酋長たちを招いた。彼らはスペイン人の船に上って珍らしそうに眺めていたが、特にそこに同国人を見出して驚いたのであった。その同国人は彼らに身の上を話し、この不思議な外来人は害を与えに来たのでなくただこの国とその住民とに近づきになるために来たのであることを説明した。ピサロもそれを保証し、早く帰って町の人にこのことを知らせて貰いたいこと、友交が望みなのであるから船に生鮮食糧を供給して貰いたいことなどを要求した。
トゥンベスの町の人は海岸に集ってこの浮べる城を不思議そうに眺めていたが、右の報道を聞いて急いでこの地方の支配者(クラカ)に訴えた。クラカは外来人が何か一段上の生物であるに相違ないと考え、即刻右の要求に応じた。間もなく数隻のバルサスが、バナナ、ユカ、とうもろこし、甘藷、パインアップル、ココナッツ、その他鳥・魚、数頭のラマなどを積んでやって来た。ピサロはこの時ラマの実物を初めて見たのである。のみならず丁度この時トゥンベスに来合わせていた|インカ貴族《ヽヽヽヽヽ》が、珍らしがってこの不思議な外来人を見物しに来た。ピサロは恭しくこれを迎えて船の中を案内し、さまざまの機械の用法を説明した。インカの貴族は特にピサロたちが|何処から《ヽヽヽヽ》、|何故に《ヽヽヽ》来たのであるかを知りたがった。ピサロは、このインカ帝国との最初の接触に於て、明かに次の如く答えたと云われている。
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自分は、世界中で最も偉大な、最も力強い王の家臣である。自分はこの主君がこの国の合法的な最高権を持つことを主張するためにやって来た。更にもう一つ、ここの住民を現在の不信仰の闇から救い出すためにやって来た。彼らはその魂を永劫地獄に陥れる悪魔を礼拝しているのである。自分は彼らに真実の唯一の神、エス・キリストの知識を与えたい。キリストを信ずるのが永久の救いであるから。
[#地付き](Prescott ; History of the Conquest of Peru. p.271.)
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これは明白に征服の宣言である。それをインカ貴族は注意深く、不思議そうに聞いていたが、返事はしなかったという。一体通弁が右のピサロの宣言を理解し、また飜訳し得たのかどうか。元来これらの概念を簡単に伝え得る言葉が、インカ帝国にあったのかどうか。それらは明かでない。がとにかくインカ貴族は晩餐の時まで船に留まり、ヨーロッパ料理を賞美した。特に葡萄酒はこの国の酒より遥かに優秀であると云った。別れに臨んで彼はスペイン人をトゥンベスの町へ招待したが、ピサロも彼に鉄の斧を贈った。鉄はメキシコにもペルーにも知られていなかったので、彼は非常に喜んだ。
翌日上陸したのは十三人の内の一人であるアロンソ・デ・モリナであった。彼はクラカヘの贈物として、アメリカの地に産しない豚と鶏を携えて行き、夕方果物や野菜の補給を受けて帰って来たが、その報告によると、土人たちは彼の着物や皮膚の色や長い髯などを珍らしがり、特に婦人連が非常に款待したという。また伴につれたニグロの皮膚の色をも珍らしがり、擦ってその色をはがそうとした。鶏が鳴いた時には手を打って喜び、今何を云ったのだとたずねた。やがてクラカの住居へ案内されたが、そこでは金銀の器を多量に使っていた。また堅固な要塞の隣りにある神殿は金や銀で眩しく輝いていた。そういう報告があまりに誇大に感ぜられたので、ピサロはもっと思慮深い、信用の出来る偵察者を送ろうと考えた。
翌日、十三人の先頭であったペドロ・デ・カンディアが、甲冑に身を堅め、剣をつるし、銃を肩にして上陸した。それが日光にきらきらと輝くのを土人たちは驚嘆して眺めた。鉄砲の評判は既に土人の間に広まっていたので、彼らはそれが「語る」のを聞きたがった。カンディアは板を的にして、ねらいを定めて発射した。火薬の閃めき、爆発音、的の壊れる音。土人たちは恐怖に打たれた。カンディアがにこにこ笑っているので、やっと落ちついたようであった。ところでカンディアの視察は、ただモリナの報告を確めただけであった。のみならず彼は神殿の隣りにある尼院の庭に入って、純金や純銀で作った果物や野菜の装飾を見て来た。そこでは数人の職人がなお熱心に新しい細工を作りつつあったのである。
スペイン人たちはこの報道を受けて喜びの余り殆んど狂気せんばかりであった。永年夢みて来た黄金の国に彼らは遂に到着したのである。ピサロは神に感謝した。がその宝を手に入れようにも、彼の手には軍隊がなかった。遠征に着手して以来、この時ほど彼が武力を持たなかった時はないのである。彼はこの当時にはひどくそれを口惜しがったが、しかし後にはこのことを神の恩寵として感謝した。何故ならこの時にはまだインカ帝国の内乱は起って居らず、乗ずる隙はなかったのだからである。
征服の仕事に着手出来ないピサロは更に南下して沿岸の探検に従事した。到るところの港で土人は、果物・野菜・魚などをもたらして新来の客を款待した。顔色の明るい、輝く甲冑を着て雷火を手にした「太陽の子」らは、行儀正しく優雅であるという評判が、既に国中にひろまっていた。それと共にピサロは、いくら南下してもこの強大なインカ帝国が続いているのを見出した。そこには水道や運河で巧みに灌漑された豊沃な耕地があった。石と漆喰の建築があった。手入れの届いた街道があった。かくしてピサロは南緯九度あたりまで探検して引返したのである。
土人の款待と征服者たちのおとなしい態度とに就て、極めて示唆するところの多い挿話が一つある。それはサンタ・クルスと名づけられた土地での貴婦人の款待である。ピサロは帰り途にも寄ると約束したが、帰路その村の沖に投錨すると、すぐに貴婦人は伴をつれて船を訪ねて来た。そうしてピサロたちをその邸に招待した。翌日ピサロが訪ねて行くと、匂の高い花で飾った緑の枝の四阿《あずまや》が出来ていて、その中にペルー料理がどっさり並んで居り、名も知らぬ果物や野菜もうまそうに盛ってあった。食事の後には若い男女の音楽と踊りが催され、しなやかな肢体の優美さ敏活さを見せてくれた。最後にピサロはこの親切な女主人に自分がこの国へ来た動機を述べ、携えて来たスペインの国旗をひろげて、スペイン王への臣事の記念にこれを掲げてくれ、と云った。女主人たちはこの国旗掲揚の意味が十分に解らなかったと見え、至極上機嫌で、笑いながら旗を掲げた。ピサロはこの形式的な征服に満足して船に引き上げた、というのである。
ピサロはこの南方の黄金帝国の確証をもたらして、十八カ月目にパナマに帰った。その与えたセンセーションは実に大きかった。彼らはもはや夢想家でも狂人でもないのである。しかし総督はこの期に及んでもなおこの発見の意義を理解せず、今後の保護を拒んだ。もはや王に訴えるほか道はなかった。その使にはピサロが立つことになり、一五二八年の春パナマを出発したのである。本国でメキシコ征服者コルテスと落ち合ったのはこの時であった。
七 インカ帝国[#「七 インカ帝国」はゴシック体]
ピサロの発見したインカ帝国とは如何なる国であったか。
インカの建国はスペイン人の渡来より四百年前、即ち十二世紀初めのことと推定せられているが、しかしこれは確実でない。人によると更に古く五百年と云い、また新しく二百年位に引き下げる。チチカカ湖畔の広大な廃墟の示すところによると、|インカの時代以前に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》既に文明の進んだ国があった。しかしそれが如何なる種族で何処から来たかはよく解らない。インカの起源についても同様である。恐らくこの帝国は徐々に成立し拡大して行ったものであろう。幾分確実な史実の捉えられ得るのはスペイン人渡来前一世紀間のことだと云われている。
ペルー人自身の語る建国神話によると、初代のインカは|天より降臨した日の子《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのである。|日の神《ヽヽヽ》は人類の堕落状態を憐れんで、これに共同態の結成や文化的な生活の術を教えしめるため、その子マンコ・カパクとママ・オェロ・ワコとの兄妹を地上に送った。この妹《いも》と兄《せ》は高原をつたってチチカカ湖畔に出で、更に進んでクスコの谷まで来たが、ここで携えている金の楔がおのずから地中に没して見えなくなった。この奇蹟の起る場所に停まれというのが日の神の命令だったのである。そこで日の子どもはこの地に住居を定め、日の神の意志通りに慈悲《ヽヽ》の仕事を始めた。マンコ・カパクは農業を教え、ママ・オェロは紡織の術を教えた。人民はこの日の子らの教に従い、集まってクスコの町を築いた。このマンコ・カパクが初代のインカで、その後代々慈悲の伝統を守り、温和な支配を続けて、インカ帝国の大をなした。
この種の神話が歴史でないことは云うまでもないが、しかしスペイン人の見たインカ帝国には、この神話が生きて働いていたのである。
先ず第一にクスコの町がそれを示していた。この町は、アルプスでならば年中雪が消えることのない高さの高原にあって、北方にはコルディレラの一支脈が続き、市中には清い川が流れている。家は皆一階で、貧しい家は土と蘆で作られているが、しかし王宮や貴族の邸宅は重々しい石造である。街路は狭いが、所々に大きい広場がある。この町に|日の神の大神殿《ヽヽヽヽヽヽヽ》があって、全国より順礼が集まってくるのである。その神殿の結構の壮大さは新しい世界に於ける第一のものであり、装飾の高価な点に於ては旧世界のどの建築もこれに及ばないだろうと云われている。この大神殿がインカの神聖性を表現していたのである。
それと共にこの町には神聖なインカの権力を表現する大要塞があった。それは町の北方の丘の上にあって、厚い壁に取り巻かれ、地下道で町と王宮につながっている。構築には巨石を用い、つなぎ目は密着してナイフの刃も入らぬ。巨石の或るものは長さ三十八呎、広さ十八呎、厚さ六呎に達している。大阪城の巨石とほぼ同じ大きさである。それをペルー人は鉄の道具なしで山から切り出し、牛馬なしで四里乃至十五里の距離を運び、川や峡谷を越えてこの丘の上まで持ち上げた。そうして石と石の間をぴっちりと接合した。その技術も驚くべきであるが、土工二万人を使用し五十年間を費したと云われるその専制的な権力の大いさにも驚くべきであろう。
このような権力を有するインカの位は、マンコ・カパク以来|王統一系《ヽヽヽヽ》を以て伝えられたと云われている。インカの妃嬪は多数であるが、位を嗣いだのは正式の王妃の長子であったらしい。そうしてその王妃はインカの姉妹から選ばれた。ペルー人から見るとこれが日の神の血統を最も純粋に保つ所以だったのである。
しかしインカという名は王位に即いたもののみに適用されたのではない。マンコ・カパク以来の男系の子孫は悉くインカと呼ばれた。つまり王族《ヽヽ》も亦インカなのである。ペルー君主制の実際の力はこの王族によって支えられていた。彼らも日の神の子孫であることは王と同様であり、従ってその貴族たる所以を神から受けている。従ってその感情も利害も共同であった。彼らは支配階級として、血統のみならず言語・服装をも一般社会のそれと異にしていた。その王族が王室の藩屏として王位を護っていたのである。国内の重要な地位は王族によって占められて居り、それらと中央政府との通信連絡も極めて緊密であった。のみならず彼らの智力的優越《ヽヽヽヽヽ》は人民に対する彼らの権威の主要な源泉であった。ペルーの特殊な文化や社会組織を作ったものはこの王族の智力であると云ってよい。従ってそれらは|インカの文化《ヽヽヽヽヽヽ》であり|インカの社会組織《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのである。尤も地方にはインカ族以外の貴族|クラカ《ヽヽヽ》が重要な地位を保っていた。しかしクラカの行うところはすべてインカを模したものであった。
インカの王子は幼時より「賢者」の手によって神事と軍事とを仕込まれるのであるが、特に軍事はインカ貴族の子弟らと共に軍事学校に於て教育された。十六歳になると、成年式の準備としての公の試験をうける。試験官はインカ中の最も有名な長老たちである。その前で受験生たちはあらゆる種類の武芸を演じ、断食を行い、戦闘演習をやる。これが三十日位続くのであるが、その間王子も同じように土の上で寝、裸足で歩き、粗衣をまとって苦労する。それが終ると及第者たちは王の前へ出て成年式に与るのである。王はこの若者たちの及第を祝し、王族としての責任を説いて聞かせる。日の神の子らよ、我々の偉大なる祖先が人類に対して行ったあの栄ある慈悲の業をまねよ、という。そうして一人一人に|黄金の耳飾り《ヽヽヽヽヽヽ》を着けてやる。そのあとにインカの地位を示す履とか、成年を示す帯とか、花の冠とかが続く。インカ貴族たちが集まって王子に祝をのべる。全集団は広場に出て祝賀の祭を行う。これらのことを見聞したスペイン人は、中世のキリスト教騎士の成年式との酷似に驚いたと云われている。
以上の如くインカ貴族の子弟と同じ様にして成年に達した王子は、今や父王の政治や軍事に与る資格があると認められる。遠征などの際には、長年父王に仕えて来た名ある司令官の下につくのであるが、やがて経験が積んでくると、彼自身軍司令官に任命せられる。そういう仕方でインカの王子は王にまで仕立て上げられるのである。
インカの王の統治は、性格に於ては温和であったが、形式に於ては純粋な専制政治であった。元首は臣下よりも計り難いほど高く位している。王と同じく日の神の子孫たるインカ貴族の中の最も有力なものでも、裸足になって、肩に尊敬の印の荷を担わないと、王の前へは出られなかった。王は|日の神の代表者《ヽヽヽヽヽヽヽ》として祭司全体の頭首であり、最も重要な祭儀は自らこれを司った。王は軍隊を召集し自らこれの司令官となった。王は租税を課し、法律を作り、任意に司法官を任命した。彼はあらゆる威厳・権力・俸禄などの源泉であった。つまり「王自身が国家であった」のであった。
プレスコットはインカの専制政治が東洋の専制政治と似ていることを指摘したあとで、その相違を次の如く云っている。東洋のそれは物質的な力に基いているが、インカの権威は最盛期の教皇のそれと比較さるべきである。しかし教皇の権威は信仰に基くのであって現世の権力に基くのではない。然るにインカ帝国は両方に基いている。それはユダヤの神政よりももっと力強い神政であった。インカは神の代表者或は代理者たるに留まらず、神そのものなのである。彼の命令を犯すことは冒涜なのであった。このような、臣下の内心をまで支配しようとするような強圧的な政治は、他に類例がない、と。
インカの王はその尊さを現わすために物々しい生活の仕方を執った。その醇美な衣裳、豪奢な装飾、珍奇な鳥の羽に飾られた王冠、すべて臣下のまねし得られぬものであった。しかしまた彼は時々臣下や民衆の中に降りて来た。大きい祭儀を自ら司った際には、貴族たちを食卓に招いて彼らの健康のために杯をあげた。数年に一度ずつは、国内を巡行して、民衆の声を聞いた。街道には人民が立ち並んで小石や切株を掃除し、匂の高い花をまき散らしたり、荷物を村から村へ運ぶのに競い合ったりした。王は時々停まって民の訴えをきいた。行列が山道をうねうねと曲るところなどでは、元首を一目見ようとする見物人が一杯であった。王が輦の帳をかかげて姿を現わすと、王の万歳を唱える声が轟き渡った。駐輦の場所は聖化された場所として何時までも記念されるのであった。
王宮もまた豪奢なものであって、国中到るところにあった。低い石造で外観の美はないが、内部の装飾や設備が大変なものなのである。室の壁には金や銀の装飾が厚く嵌め込んであった。壁の凹みには金銀製の動植物の像が一杯になっていた。台所道具から下僕の使う道具に至るまで金銀製であった。それに加えて美しい彩の毛織物がふんだんに使ってあった。これらはヨーロッパやアジアの奢侈に馴れたスペイン王さえ喜んで使ったほど繊巧な織物であった。
中でもインカたちの好んだ宮殿は首都から四レガほどのところにあるユカイ宮であった。山に囲まれた美しい谷にあって清洌な水が庭を流れている。その水を銀の水道で引いて金の湯槽へ入れるという贅沢な浴場もある。広い庭にはさまざまの木や草花が育っているが、その中に金銀細工のさまざまな植物を植えた花壇があるのである。特にとうもろこしは、金の実、銀の葉で美しく輝いている。
このように金銀が豊富なのは、この国に金鉱銀鉱が多いのみならず、それを貨幣として用いないで全部インカ王の手に集めるからである。しかもインカ王の用いる金銀は、先代から相続したものではなくして、悉くおのれ一代に集めたものである。一人のインカ王が歿すれば、その所有した金銀は、共に葬るもののほかは、宮殿と共にそのまま死者のために保存される。何時死者が帰って来ても元通りの住居に住めるためである。それを以て見ても金銀の豊富さは解るであろう。
王が歿した時、即ち「父たる日の神の家に呼び帰された時」の葬儀もまた実に盛大である。臓腑《ヽヽ》は体から出して首府から五レガほどのタンプの神殿に埋められる。その際には金銀の器や宝石の類が共に葬られるのみならず、多くの臣下や妃たちが、時には千人に達する人々が殉葬されるのである。しかも人々はこの殉死を忠誠のしるしとして進んでその選に入ろうとしたらしい。葬儀に続いて国中が喪に服した。一年の間人民は悲しみの表現をくり返した。故王の旗を掲げた行列、故王の業績を唱う歌の制作とその披露の祭など。しかし|王の体《ヽヽヽ》は埋められるのではない。それは巧妙に香詰にして、日の神の大神殿に祖先のミイラと共に保存されるのである。かくして、常の王服に包まれ、首をうなだれ、両手を胸で組み、黄金の椅子に坐した代々のインカの王と正妃とが、煌々たる黄金の大日輪の前に、左右に並んでいたのである。そうして一定の祭儀の日になると、故王の「留守宮」の番人頭が貴族たちを招待し、王のミイラを鄭重に広場までかつぎ出し、王の財宝をその前に陳列して、故王の名において饗宴を開くのであった。「世界のどの町もこれほど多量な金銀器や宝石の陳列を見たことはなかろう」と古い記録者(前には Sarmiento と考えられていたが、今は Cieza de Leon と考えられている。この記録はペルー年記第二部である。)は云っている。
以上の如きがインカの名の意味するところである。ではその統治する国はいかなる組織を持っていたであろうか。
ペルーという国名はスペイン人がつけたのであって、インカの国家自身は名を持たなかった。国人が自分の国を一つの統一として云い現わす時には「世界四方」と呼んだという。四方は東西南北の意味である。この観念に従って王国は|四つの地方《ヽヽヽヽヽ》に区分され、都よりそこへ向けて|四つの道《ヽヽヽヽ》が通じていた。その都自身も|四つの区劃《ヽヽヽヽヽ》に分けられ、地方から上京した者はそれぞれその方角の区域に住んだ。四つの地方には総督が置かれ、その下に参議会があった。総督も一定期間都に住んでインカの枢密院を構成した。
国民一般は十人組に分たれる。組長は組員の権利を護り、侵害者を訴えねばならぬ。怠れば侵害と同罪になる。十人組の上に更に五十人組・百人組・五百人組・千人組があって、それぞれに長が置かれる。その上に更に一万の人口の県があってインカ貴族の知事が治める。裁判は町や村の保安官が軽罪を扱い、重罪は知事の許へ持って行く。裁判官はどんな事件でも五日以内に片附けなくてはならぬ。上告の制度はないが、巡視が国内を廻って裁判を監督している。裁判事件はすべて上級法廷へ報告されるから、王は中央にあって国の隅々まで司法の状態を監視することが出来た。
法律は数少く峻厳であった。それも殆んど刑法である。貨幣なく、商業というほどのものもなく、財産もないのであるから、それらに関する法律の必要はなかった。窃盗・姦淫・殺人は死刑に処する。尤も情状は酌量する。日の神に対する冒涜、インカヘの誹謗も死刑である。日の神の子に対する謀叛は最大の罪であるから、謀叛した町や地方は設備を破壊し住民を根絶する。交通に障礙を与える橋の破壊も死刑である。その他の重罪は、|土地の境界標を動かすこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|隣人の土地への水をおのれの土地へ向け変えること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、放火《ヽヽ》、などであった。この種の行為が重罪とせられる点に於て畔放ち・溝埋めの国津罪《くにつつみ》を聯想せしめるものがある。
税制は土地制度《ヽヽヽヽ》と共にインカの国の一つの特徴をなすものである。土地は日の神のためのもの、インカのためのもの、人民のためのものに分たれた。どれが最も広かったかは明かでない。割合は地方毎に異っている。日の神のための土地はその収入によって神殿や祭司階級や祭儀を支える。インカのための土地は王室の費用及び政府の経費を供給する。その余の土地が人民に均分《ヽヽ》されるのである。その割当ては家族を単位とするのであるから、人の結婚の時にはじまる。人民は一夫一婦で、男は二十四歳以上、女は十八歳乃至二十歳になると、全国一様に|同じ日《ヽヽヽ》に町や村の広場に召集され、それぞれの地方の長によって一対ずつに婚わされる。そうしてその日に全国一斉に新夫婦のための祝宴を開くのであるが、そのあとでその地の団体が新夫婦の住居を造ってやり、夫婦の生活に十分なだけの土地を割当てるのである。子供が出来ると一人毎にその割当てが増加する。男の子は女の子の倍である。従って割当ては毎年《ヽヽ》家族の人数に応じて更新される。即ちここにも班田制《ヽヽヽ》が行われ、しかもそれが極めて活溌に運用せられている。世界の他の地方で行われた均分的班田制は、大抵自然的な不平等配分に逆戻りしたのであるが、ここではこの制度が確乎たる社会秩序として、崩れることなく、持続していたのである。
土地は、以上の如く、三種類に分たれているが、それを耕作するのは同一の人民である。人民は先ず第一に|日の神の土地《ヽヽヽヽヽヽ》を耕作する。次で老・病・寡・孤及び徴兵に出たものの留守宅の土地を耕す。そのあとで初めておのれの土地に取りかかるのであるが、その際にも隣保相助けなくてはならぬ。それを終って最後に人民は、盛大な祭儀を行いつつ、|団体的にインカの土地《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を耕す。朝、合図が響き渡ると、男も女も子供も一張羅を着飾って楽しげに集まってくる。そうして昔のインカの英雄的な事績を歌い、唱和しつつ、一日中嬉しそうに労働するのである。
衣の生産に関する制度もほぼ同様で、数え切れぬほど多数なペルー羊の群は、悉く日の神とインカとに属していた。そのうち|ラマ《ヽヽ》と|アルパカ《ヽヽヽヽ》とは、熟練した飼い手に管理されて方々の牧場を廻って歩く。その飼い方は非常に綿密なものであった。他の二種、|ワナカ《ヽヽヽ》と|ビキュニヤ《ヽヽヽヽヽ》とは、高地の野生で、毛はむしろこの方から多量に得られる。四年に一回位の割で、一つの地方に五六万の勢子を集め、大狩猟をやる。捕えた羊の一部は屠殺するが大部分(三四万位)は毛を刈り取って放すのである。以上の両方から出る毛は、一応|公倉《ヽヽ》に貯え、人民の各家庭には必要な分量を粗毛で配分する。女たちはその荒い毛を紡ぎ織って家族の衣の需要を充たすのである。それが終ると、インカのための繊毛の紡織が要求される。この紡織は非常に技術の発達したもので、絹のような光沢を持った柔かい薄い織物から、絨氈のような厚いものに至るまで、いろいろなものが出来る。首府においてその年度の必要量や種類を決定し、それを各地方に割当てると、専門の官吏が原料の毛を配分し、生産さるべき織物を指定する。そうしてその仕事の進行情況をも監督する。もっともこの監督は、人民がおのれの衣類を作る仕事に対しても行われるのである。その監督の趣旨は、人民の奢侈とか、過剰生産とかを取締るというのではなく、「何人も必要な衣類を欠いてはならない」というのであった。が同時にまた、「何人も働かずして衣食してはならない」という思想も、そこに含まれていたと云われる。
衣食以外の労働で目ぼしいのは採鉱冶金・金銀細工・建築・土木などであるが、これらの労働を計画的に管理する方法もまた綿密に定められていた。その基礎となったのは人口調査・土地資源調査などによる統計的知識である。それによって政府は需要量を定め、仕事を適当な地方に配分する。鉱山の多い地方に採鉱冶金熟練工が養成されるという如きである。その技術は通例世襲で、幼少の時から注意深く仕込まれ、思いがけぬ巧妙さに達している。種々の金銀細工などはその目ぼしいものであるが、驚くべきことには、エメラルドその他の宝石のような非常に硬いものをも刻んでいるのである。道具は石か銅であるが、銅に僅かの錫を混えることによって鋼鉄に近い硬さを与えることに成功している。しかしそれらの熟練工はそれによって衣食するのではない。衣食の道はあくまでも前述の如き農耕紡織の仕事によって得られるのであるが、その基調の上に特殊の技術を習得し、それによって公共の仕事に奉仕するのである。だから一定の期間勤めれば他の者がそれを嗣ぐ。そうしてその期間内は公費を以て養われる。どの職工も負担の過重に悩むことなく、また衣食の途に窮することもない。鉱山労働の如き健康に好からぬものでさえ、坑夫に何の害も与えていない。この労働の制度は「完備せるもの」としてスペイン人を驚かせたのであった。
以上の如き農工労働による成果は、一部分首府に運ばれ、インカとその朝廷の用に供せられるが、大部分は各地方の倉庫に貯蔵される。倉庫は石造の広い建物で、日の神とインカとに分たれるが、インカの方が多かったらしい。通例インカの倉庫は多量の余剰を残し、それが第三の備荒倉庫《ヽヽヽヽ》に移された。これは病気や災害に苦しむ個人の救済にも用いられる。かくしてインカの収入の大きい部分が|再び人民の手へ還る仕掛《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》になっていた。倉庫の中身はとうもろこし・コカ・キヌア・繊毛・木綿・金銀銅の器具などである。特に穀倉はその地方を数年間(時には十年間位)支え得るほど貯蔵していた。これらは初期のスペイン人が実見した事実なのである。
このような財産の制度の下に於ては、人民の何人も|富む《ヽヽ》ことは出来ないが、また|貧しくなる《ヽヽヽヽヽ》ことも出来ぬ。すべての人は|平等に《ヽヽヽ》安楽を享受し得たのである。と共に、野心・貪欲・好奇心・不平などが人心を衝き動かすということもない。人々は父祖が歩んだと同じ道を同じ場所で歩き、子孫にもそうさせねばならぬ。このような受動的従順の精神、既存の秩序に黙って同意する態度、それをインカは人民の内に浸み込ませた。スペイン人の証言によると、人民は他の何処にも見られないほどインカの統治に満足していたということである。丁度この点にまたこの国家組織の|最大の欠点《ヽヽヽヽヽ》が認められる。即ちペルーに於ては労働は|他人のためであって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|自分のためではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。自分の生活を少しでも好くしよう、自分を一歩でも進歩せしめよう、という態度はここでは許されない。かく個性の発展を閉め出した社会には、人間性の発展もまたないであろう。
しかしこれはペルー人がその独特の文化産物を作らなかったということではない。個人はその衣食住のための労働に費す以外の余力をすべて公共の設備のために捧げた。だから神殿・宮殿・要塞・段畑・道路・水道などの構築は実に豊富且つ壮大であった。
先ず第一に驚くべきものとして挙げられているのは道路《ヽヽ》である。中でも首府から北キトー、南チリーへ通じている大街道である。一本は大高原の中を、他の一本は海岸沿いの平地を走っているが、高地の街道の如きは実に素晴らしい大工事と云わなくてはならぬ。雪に埋れた峻険な山々や、切り立った岩や、深い谷川など、今日の土木技術を以てしても容易に処置し得ないような地帯を丹念に切り開き、築き、釣橋をかけ、幅二十尺ほどの頑丈な敷石道を通じているのである。しかも必要なところには石よりも堅い瀝青セメントが用いてある。流れが土台を洗い去ったところでは、この舗装面だけが崩れずに弓なりに張って谷の上に掛っているという。その延長は千五百哩から二千哩に達していた。平地の街道で目につくのは、湿地を横ぎる高い堤道と道の両側の並木である。並木は熱帯の日光を遮り、また花の匂で旅人を喜ばせる。さてこれらの街道には、十哩乃至十二哩毎に旅舎の設備がある、その或るものは軍隊を宿泊せしめ得るほど広大である。これらの種々の点から、インカの街道は人類の構築した最も有用にして巨大な仕事の一つであると云われている。
交通の設備たる道路にこれほど力を用いているのであるから、通信連絡の設備も同様に進歩していたことは云うまでもない。あらゆる交通路には五哩以下の距離毎に小さい駅逓を設け、そこに何人かの飛脚を駐在せしめる。それが速達便を逓送するのである。速度は一日百五十哩と云われている。この制度はメキシコにもあったが、ヨーロッパよりは遥かに早い。だからヨーロッパの首府と首府との間が非常に距ったものと感ぜられていた丁度その時代に、長大なペルーの諸都市は緊密に結びつけられていたのである。
道路についで驚くべきは水道《ヽヽ》である。沿岸地方には殆んど雨がなく、川は少くて急流であるから、広い地面を湿おすことが出来ない。従って土地は乾いて不毛であるが、灌漑さえすれば豊沃の地となるところも多い。そういうところへ運河《ヽヽ》と地下水道《ヽヽヽヽ》とによって水が引かれているのである。それらは大きい石の板をセメントなしでぴったり接合したもので、所々の水門により必要なだけの水量を供給して行く。時には非常に長く、四五百哩に達するものもある。水源は高地の湖とか山中の水で、それを導き下すに際し、岩に穴をあけ、山に隧道を掘り、或は山を廻り、河や沼を越えている。即ち工事は道路の場合と同じに困難なのである。この大工事はスペインの征服以後荒廃に帰したが、しかし所々になお灌漑を続けているものもある。しかしその水が何処の水源からどういう径路を経て来ているかは、大抵不明である。従って水道構築に於けるインカ人の天才と努力とは未だその全貌を示しているとは云えないのである。
水道による灌漑は乾燥地の農耕をも可能にしたが、更にペルー人は段畑《ヽヽ》の構築によって山や丘をも耕地に化した。勾配の急な山を段々に刻んで山頂までも畑にするのである。或る場合には岩を切って段々を作ったところへ厚い土壌を運び上げて畑にしている。その労力は実に驚くべきものである。それと逆な構築は水の乏しい山地の穴畑《ヽヽ》である。十五尺か二十尺掘ると適当な湿度の土壌が出てくる。それを利用するのである。広さはしばしば一エーカーを越えている。こういう段畑や穴畑にペルー人は|鰯の肥料《ヽヽヽヽ》や鳥糞《ヽヽ》などを用いて穀類野菜類を栽培した。これらの肥料はペルーの海岸で多量にとれるのであるが、その肥料としての効用をヨーロッパ人よりも遥かに早く理解していたのであった。農耕の技術はペルーの文明のうち最も進んでいたものと云ってよい。
神殿《ヽヽ》は建築として非常に優れたものとは云えぬが、その巨大な構築と豪華な装飾とによって、ペルーに於ける宗教の意義を十分に表現していると云ってもよいであろう。ペルー人もまた宇宙の創造主・主宰者としての神を知らぬではない。しかしインカ以前からの一神殿を除いては、この神に捧げられた神殿はない。その他月・星・雷電・地・風・空気・山川の神々も尊崇され、それらに捧げられた神殿もあるが、日の神の崇敬とその神殿の多さ壮大さは全く特別である。最古の日の神の神殿はチチカカの島にある。そこの神田の穀物が国中の公倉へ少量ずつ配分され、それによってその倉の穀物が聖化されると云われるほど、特殊の意義を担っている。が最も有名なのは首府にある神殿である。代々のインカの布施によって、『黄金の場所』と呼ばれるほどそれは豪華なのである。首府の中央に石の壁に囲まれた広い神域があって、その中に本殿、いくつかの礼拝堂、附属の建物がある。本殿の西壁には非常な大きさの厚い金の板の上に日の神が表現せられている。中央に顔があってそこから四方八方へ光が射しているのである。エメラルドその他の宝石が一面に鏤めてある。朝、太陽が上ってくると、東の入口からこの金壁の上へ真直に光線が当って、燦然と輝き、殿堂内を幽玄な光で充たすことになる。西壁のほかにもあらゆる部分に金の板や間柱《まばしら》が嵌められている。蛇腹も金である。外壁にも広い金のフリーズが廻らされている。礼拝堂の一つは月の神の殿堂で、同じ構想が全部銀で表現され、蒼白い月の光を反映することになる。その他星・雷電・虹などの殿堂がある。これらすべての殿堂内に用いられている装飾や道具類も皆金銀製である。とうもろこしを盛《も》る大きい瓶、香炉、水差し、水道の水を引く水管、それを受ける水盤、その他庭園で用いる農具の類までもすべてそうである。更にその庭園には金銀で造った植物や動物が光り輝いている。全くお伽噺のような光景であった。これは最も有名な神殿の場合であるが、首府及びその郊外にはなお他に|三四百の神殿《ヽヽヽヽヽヽ》があって、それぞれに豪華を競っている。のみならず全国の諸地方にもそれぞれ神殿が建てられて居り、その或るものは首府の神殿に比肩し得たと云われている。その盛大なことはまことに驚くべきである。
ところでその多数の神殿を運営しているのは、祭司や役人である。首府の日の神殿だけでも四千人と云われているから、全国では大変なものであろう。祭司の長はインカに次ぐ威厳を担い、通例インカの兄弟などから任命される。その下に整然たる祭司の組織が出来ている。祭司の職分は神殿の事に限られ、その知識も祭儀に関することに限られているが、その祭儀が中々多数で、込み入っていたのである。最も重要なのは夏至・冬至・春分・秋分の四大祭であったが、中でも最大の祭は夏至祭であった。この時には国中の貴族が首府に集まってくる。祭の三日前から全国民は火を落して断食にはいる。当日にはインカを初め全民衆が未明から広場に集まって日の出を迎える。最初の光が差した瞬間に群集は感謝の叫びを挙げ、歓喜の歌を唱う。その合唱の間に太陽は静々と昇ってくる。讃美の儀式、灌酒の儀式が続く。大きい黄金の瓶から神に捧げた酒は、先ずインカが飲み、次で王族の間に分ける。そこで群集は行列を整えて日の神殿へ進んで行く。ここで犠牲の式が行われるのであるが、人身犠牲は極めて稀で、通例ラマが用いられる。祭司はその体を剖き、内臓の状態によって卜うのである。次で凹面鏡により日光を集めて木綿に点火し、「新しい火」を造る。この聖火を|日の神の処女《ヽヽヽヽヽヽ》が一年間護り通すのである。犠牲のラマはこの火に焼かれて祭壇に供えられるが、それを序曲として無数のラマが屠られ、インカや貴族のみならず人民たちのために饗宴が開かれる。日の神の処女が作ったとうもろこしの粉のパン、この国の特殊な酒なども出る。そうして音楽や舞踏を楽しみつつ夜になって閉会する。なお舞踏や酒宴は数日間続くのである。この種の祭りは人民の大きい楽しみであった。
右の如き祭儀のなかで、|パンと酒と《ヽヽヽヽヽ》を分配する儀式は、聖餐礼との類似によってスペイン人を驚かせた。また|日の神の処女《ヽヽヽヽヽヽ》の存在も、聖火《ヽヽ》を護るという役目に於てローマの風習を思い起させ、厳粛な童貞《ヽヽ》の要求に於てキリスト教や古代の風習との一致を示していた。更にこれらの処女の主要なつとめが|神衣を織る《ヽヽヽヽヽ》ことにあったという点に於て我々の神話をも思い起させるであろう。がこの処女たちは他の場合と異って「インカの花嫁」だったのである。首府の尼院はインカ族の娘のみで千五百人以上の日の神の処女を擁していたし、地方の尼院もクラカの娘や人民中の美女を多数収容していたが、その中で最も美しい処女たちは選ばれて王の妃となるのである。かかる妃の数は数千に達したと云われている。一度妃となった者は、出された時には尼院に帰らずして元の家に帰り、「インカの花嫁」として世間から尊敬されるのである。して見れば日の神の処女の制度はインカの多妻主義と密接に関係し、日の神への献身をインカの花嫁たることによって実現しているのである。
以上の如きがインカの国の組織と文化との大要なのである。|鉄と文字《ヽヽヽヽ》との使用を未だ知らない民族がこれほどの国家を作り得たということは十分注目せられなくてはならない。もしこの国が安全に存続して徐々に記録の時代に入ったとするならば、右の如ぎ国家の具体的な姿は、インカの事績を伝える口承伝説の蔭に隠れて了ったであろう。そういう「伝説の時代」に属すべき国へ、突如スペイン人が闖入して、その実情を記録して置いてくれたのである。その点に於てインカ帝国は歴史の研究の内に大きい光を投げるというべきであろう。ギリシアやわが国の伝説の時代に対しても、その伝説の子供らしさの故にその社会の構造の複雑さやその生活の豊かさを見のがしてはならないのである。文字を知らず色糸を結んで数を現わしたというインカの国でも、人口その他さまざまの統計を作り、それに基いて巧妙な生産と配分の統制を行い得たという。政治や生活の技術は文字の技術よりも遥かに先立っている。
初期のスペイン人は、インカの仁政の下に美しい国家が建設せられていたことを認めた。「広い国土を通じて衣食に窮する者は一人もない。整然たる秩序は国の隅々まで行き亘っている。人民は節制と勤勉とに於て著しく優れて居り、従って盗みや姦淫はこの国には存しない。その従順柔和な性格は、もし初期の征服者が乱暴をしなかったならば、非常によくキリストの教を受け容れたであろう。」そういう意味の賞讃の辞が幾人もによって記録されているのである。十六世紀の後半に永くこの国に滞在したアコスタも、「古代人がもしこの国を知っていたならば、必ずや激賞したことであろう」(Acosta; The Natural and Moral History of the Indies. Hakluyt Society. Vol. II, p.391.)と云っている。現代に於ても、「もしインカ帝国が存続したならばどうなったであろうか。その統治の形式や社会状態は非常に興味深いもので、その構造の或点は直ちに現代ロシアの共産制との類似を思わせるのである。」(Pittard; Race and History, 1927. p. 447.)と云われている。
勿論この種の賞讃に対しては異論がある。プレスコットもその一人である。彼によれば、なるほどインカの国には救貧設備も整って居り公共事業も盛んであった。しかしそこには|人権は認められていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。私有財産もなければ、職業の自由、居住の自由、妻を選ぶ自由さえもない。総じて自由な人格はないのである。自由のないところには|道徳も存しない《ヽヽヽヽヽヽヽ》。従ってイタリアのカールリが「ペルーの道徳人《ヽヽヽ》はヨーロッパ人よりも遥かに優れている」(Carli; Lettres Americaines, tom. i. p. 215.)と云ったのは、明かに云い過ぎである。ペルーには北アメリカの|自由な共和国《ヽヽヽヽヽヽ》と丁度|正反対のもの《ヽヽヽヽヽヽ》が存していた。そこでは「政府が人のために作られる」のではなく、「人がただ政府のためにのみ作られている」如き外観を呈していた。新しき世界はこの|二つの政治体制《ヽヽヽヽヽヽヽ》の舞台となったのである。その一つ、インカ帝国は、痕もなく影を没した。他の一つ、|人の自治能力《ヽヽヽヽヽヽ》の問題を解決すべき偉大な実験は、現に進行しつつある。インカ帝国の功績は封建時代のヨーロッパに比すれば認めてよいであろうが、その大帝国がスペイン人の侵入によって|迅速に《ヽヽヽ》亡んだのは故なきことでない。自由なき人民は、自由を生命よりも重んずるあの愛国心を持っていないからである。(W. H. Prescott; History of the Conquest of Peru. 1847. p. 170-177.)
このプレスコットの批評はいかにも尤もであるが、しかし「伝説の時代」に相応する文化段階の国と、十九世紀のアメリカ合衆国とを、同一の水準に置いて比較しているのは、当を得た態度とは云えない。アメリカ合衆国を形成せる民族が、その伝説の時代に於て如何なる人倫的組織を形成していたかを考え、それをインカ帝国と比較してこそ、公正な態度と云えるのではなかろうか。否、それでさえもなお一方には大きいハンディキャップがある。何故ならアングロ・サクソン民族はすぐそばにギリシア・ローマの高度に発達した文化や人倫的組織を見ていたのであるが、インカ帝国はこのような模範なしに自らのみの力によって成長したのだからである。しかしたとい同じ文化段階に於てインカ帝国の方がより優れた人倫的組織を形成していたとしても、それはインカ帝国の迅速な滅亡を防ぐ力とはならなかったであろう。文化段階の相違は実に致命的なものである。特にスペイン人の持っているコスモグラフィー上の広大な眼界と、インカの国に於ける閉鎖的な狭い眼界との相違は、実に重大な|力の相違《ヽヽヽヽ》となって現われたのである。
この力の相違がどういう風に現われたか。強大な筈のインカ帝国が僅か数百人のスペイン人によって如何に迅速に征服されたか。それを観察するためには、先ずインカ帝国の戦力と、征服当時の政情とを見て置く必要があるであろう。
インカ帝国は仁政を以て統治する平和な国家であったが、しかしこの平和を維持するためには絶えず対外戦争を行っていたのである。それは日の神の崇拝を拡めるためであった。勿論日の神は仁愛の神であるから、初めより武力侵略を以て外蛮に臨んだのではない。まず最初には謙遜と親切の態度を以て融合につとめる。それが成功しない場合には、外交交渉や宥和政策によって懐柔しようとする。それらすべてが無効に了った時、戦争に訴えるのである。その動かし得る兵力は二十万であった。兵士は徴兵制度によって得られる。その兵士の服役は輪番制によって絶えず交代するものであり、在郷兵は月二三回の訓練を受ける。従って軍隊は秩序整然として居り、戦技にも熟達していた。武器は弓矢・槍・短剣・斧・石弓など。防禦には楯、木綿の厚い刺子の服を用いる。軍隊の集中や移動は前に説いた道路の発達によって迅速に行われた。軍需品は道路に沿って一定の間隔に設備せられた倉庫に充満している。人民のものを掠奪すれば死刑に処せられる。だから軍隊が国の端から端へ移動しても、人民は何の不便をも蒙らなかった。戦争のやり方も残酷ではない。敵を極端にまで圧迫せず、また不必要な殺戮や破壊をも行わない。「敵の人も財産もやがては此方のものになるのであるから、大切にしなくては損である」というのが彼らの格率であった。この態度は味方に対しても同様であって、戦が永びくと、度々兵士を入れ換え休養させる。尤も敵が手剛い場合に思い切ってやっつけた例がないわけではない。敵が降ればまず日の神の崇拝を導入する。在来の信仰を蔑ろにするのではないが、日の神を最高の神として崇めさせるのである。次で人口や土地の調査を行い、そこにインカの土地制度を実施する。在来の支配者クラカは都に移されて言語風習を仕込まれるが、人民に対してもまた都言葉が共通語《ヽヽヽ》として教え込まれるのである。
以上の如きがインカ帝国の戦争と征服とのやり方であった。それは云わば日の神の崇拝を拡めるための十字軍なのであり、日の神の子たるインカの、ミッションなのであった。かくして徐々に近隣の多くの部族が征服され融合されて、共通の宗教、共通の言語、共通の統治の下に、精神的に|一つの国民《ヽヽヽヽヽ》に仕上げられて来たのであった。この点はアステークの武力による強圧的な統治と極端に異っているのである。
がスペイン人渡来当時のインカ帝国の、北はキトーより南はチリーに至る長大な領土は、漸く十五世紀の中頃に至って出来上ったのである。三代前のトゥパク・インカ・ユパンキは、「日の子ども」の内でも最も有名な一人で、南はアタカマの沙漠を越えてチリーに遠征し、北はキトーの南部地方を攻略したのであった。このキトー遠征は太子ワイナ・カパクが指揮したのであったが、十五世紀後半に父王歿するや次で王位を継承し、その在位中にキトー全土を征服したのであった。キトーは富裕な国土で、その領域も広く、従ってその征服は建国以来最も重要な領土拡張であったと云われている。ワイナ・カパクはこの新附の領土のインカ化に全力をつくした。キトーと首府とを結ぶ新道路の完成、郵逓の建設、都言葉の伝播、農業の改善、工芸の奨励など。かくしてインカ帝国は、十五世紀末十六世紀初頭に於てその最盛期に達したのである。もしこの速度を以て発達を続けたならば、それは間もなくアジア諸国の水準に達したかも知れない、とも云われている。丁度そこヘスペイン人が到来したのである。ワイナ・カパクが歿したのは一五二五年の末のことであるが、その十二年前にバルボアが太平洋岸にまで進出し、その前年の一五二四年の末にピサロが第一回のペルー探検に出発したのであった。この時にはアルマグロのみが北緯四度あたりのサン・フアン河に達したのであるが、その報道はインカに届いたらしい。侵略者の恐るべき勇敢さと武器とは、自分たちよりも遥かに優れた文明の証左として、強い衝撃をインカに与えた。ワイナ・カパクは、この不思議な力を持った外来人が、やがてインカの王位を危うくするだろう、という憂慮を洩らしたと伝えられている。その他さまざまの天変地異が前兆として現われたとも云われる。いずれにしてもスペイン人の出現は心理的にペルー人を萎縮せしめたらしい。
がワイナ・カパクはこの異常な出来事が進展する前に歿し、あとに不幸な紛擾の種を残したのである。というのは、彼が正妃との間に生んだ太子ワスカルは当時三十歳位であったが、この他に彼は新しく征服したキトーの最後の王の娘との間にアタワルパを生み、この王子を非常に愛した。そのため彼はインカ帝国の慣例を破って領土をこの二人の子に分けることを強行し、もとのキトー王国をアタワルパに与えたのである。父王は死の床に於てワスカルとアタワルパとの親和や協力を命じた。でその後五年位の間は事なく過ぎた。だからピサロが第二回探検に於てインカ帝国を発見した頃には内乱はまだ起っていなかったのである。しかし純粋なインカであるワスカルが、いかにも温和な、寛容な性格であったのに対して、辺境のキトー人との混血児たるアタワルパは、四五歳の年少であるのみならず、非常に争闘的な、野心に富んだ人物であった。でその絶え間なき領土拡張の事業が兄王を刺戟すると共に、宮廷の阿諛迎合が漸次両者を離間して、遂に悲惨な内乱を勃発せしめるに至ったのである。
この戦争の経過は、スペイン人侵入の直前のことであるに拘らず、諸説甚だしく一致を欠いているそうであるが、とにかくアタワルパはキトーの南方六十哩ほどの所で大血戦を行い、正統インカの軍隊に殲滅的打撃を与えたらしい。次で同じくもとのキトー王国の領内で、父王ワイナ・カパクが好んで住んでいたトメバンバの町に迫り、この町が敵の味方をしたという理由で、徹底的な破壊と殺戮を行った。この町を含む地方全体も同様に殲滅的な打撃を受けた。この残虐な処置を聞いた町々は恐怖して相次いでアタワルパに降り、その進軍を容易にした。アタワルパは迅速にカハマルカまで進出してそこに止まり、麾下の二将軍を首府に向けて進軍せしめた。首府ではワスカルは祭司の意見を聞いて敵を迎え討つ態度を取っていた。決戦は首府から数レガの平野に於て終日粘り強く行われたが、「主君のためにおのが生命を軽んずる」臣下たちの献身的な防戦も、勝に乗った歴戦のアタワルパ軍にはかなわなかった。大地は屍に埋められ、ワスカルは捕虜とされた。
これは一五三二年の春、スペイン人侵略の数カ月前の出来事なのである。インカ帝国としては未曾有の大事変であった。純粋のインカの血統でない者が、しかも近頃まで敵国であったキトーの王室との混血児が、インカの上に立ったのである。その激動のためか、この当時の出来事に就ては異常な残虐行為が伝えられている。即ち戦勝の報を得たアタワルパは、ワスカルを優遇せよと命ずると共に、全国のインカ貴族に対して、帝国分配の問題を適当に解決するために首府に集まれと命じた。そうして彼らが首府に集まった時、これを包囲して容赦なく屠殺した。純粋のインカ族のみならず、幾分かでもインカの血を受けたものは、女たちさえもその例に洩れなかった。しかもこの処刑はワスカルの面前に於て行われたのである。従って彼はその妻たちや姉妹たちの屠殺されるのをも見ていなくてはならなかった。これほど残虐な復讐はローマ帝国の年代記にもフランス革命の記録にもないと云わねばならぬ。しかしこの伝説は疑わしいとされている。何故ならこの時より七十年後に純粋なインカ族が六百人近く存在したと認められているからである。のみならずアタワルパは、当の相手のワスカルを、またその弟のマンコ・カパクをも、殺しはしなかった。従って右の如き残虐行為の物語は、むしろスペイン人自身の残虐行為に対する弁護の意図から、誇大されたものであろうと云われている。
八 インカ帝国の征服[#「八 インカ帝国の征服」はゴシック体]
インカ帝国が右の如き未曾有の大事変に遭遇していた時、ピサロは既にその第三回の遠征に於てペルーの海岸へ来ていたのである。
一五二八年ピサロが本国へ帰った時には、前にダリエン湾で彼が追い払ったエンシソに告訴されて、一時拘留されたりなどしたが、政府の命令で釈放されてトレドに赴き、カール五世に謁見した。王はドイツ皇帝として戴冠するためイタリアに出発しようとしている矢先であったが、ピサロのもたらしたペルーの産物やその探検談に動かされ、後援の意を示した。女王がその意をうけて、一五二九年七月、ピサロ、アルマグロ、ルケの三人に対し協約を結んだ。ピサロは新しい領土の総督として種々の特権を認められ、アルマグロはトゥンベス要塞の司令官、ルケはトゥンベスの司祭に任命された。ピサロと共にゴルゴナの島に蹈み留まった十三人もそれぞれ貴族に列せられた。この時ピサロが三人均分の盟約を無視しておのれ一人に多くの権力を集中したことは、後の仲違いの種となるのである。これらの特権の承認に対してピサロの負うた義務は、六カ月以内に募兵を完了し、パナマ帰着後六カ月以内に遠征の途に上ることであった。ピサロは早速故郷に帰って資金と兵員との募集に着手したが、うまく行かなかった。丁度その時帰国していた同郷のコルテスが声援してくれなかったならば、資金なども集まらなかったろうと云われている。約束の六カ月間には予定にほぼ近い程度まで漕ぎつけ、政府の目をごまかしながら、一五三〇年一月、三隻の小艦隊を以て出発したのである。
パナマではアルマグロが王との協約に不満であった。一時は独立して遠征を企てようとしたほどであった。がルケが奔走し、再び三人均分の盟約を確認して、遠征の準備に取りかかった。ここでも募兵は思わしくなかった。本国以来合計して百八十名を出でず、馬は二十七頭であった。でアルマグロはあとに残って援軍の組織に努力することとし、一五三一年一月、ピサロは三隻の船を以て|第三回の遠征《ヽヽヽヽヽヽ》の途に上ったのである。
ピサロは前回に見定めて来たトゥンベスへ直航しようとしたのであったが、逆風に妨げられてうまく行かず、北緯一度あまりのサン・マテオ湾から上陸して岸沿いに南下を企てた。ここはもとのキトー王国の最北端であるから、町には相当の金銀宝玉が見出された。スペイン人は存分に掠奪して仲間で配分したが、ピサロは早速それをパナマに送り、援軍の募集に役立てた。しかしその後行軍は暑熱と疫病とで困難を極めた。住民は騎馬兵と銃火の威力に恐れて影をかくし、掠奪すべきものを残さなかった。がパナマに送った財宝の効果はやがて現われ始めた。先ずピサロに追いついたのは本国から派遣された官吏たちであったが、ついで南緯一度半のプェルト・ビエホに辿りついた時、三十名の援軍が到着した。更に南下してトゥンベス北方のプナ島に至り、土人との間に争闘をくり返していた時、二隻の船が百名の援軍を運んで来た。ピサロはそれによってインカ帝国の入口トゥンベスに殺到し得る態勢を整えたのである。
然るにトゥンベスに着いて見ると、前回のような款待の代りに土人の敵対を受けたのみならず、町そのものが恐るべき廃墟と化していた。あの豪奢な金銀の飾りに充ちていた神殿や宮殿はただ残骸を留めるのみであった。この幻滅に困惑したピサロは、偶然この地方のクラカを捕えて事情を聞くことが出来た。正統のインカに忠誠を守っているブナの勇敢な部族が、アタワルパに味方したトゥンベスの町と戦って、遂にこの町を攻略し住民を追い払ったのであった。アタワルパはおのれの戦争に熱中してこの町を助けなかったのである。この内乱の事実に直面してピサロは初めて|土民を手なずける政策《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の必要を痛感したと云われている。また侵略の一歩を蹈み出す為に、インカ帝国の国情を詳細に調査すること、安全な根拠地を探すことの必要をも痛感したらしい。
でピサロは軍隊の一部をトゥンベスに留め、残余の軍隊を率いて一五三二年五月の初めに国内偵察の途に上った。自分は海岸寄りの低地を南進し、エルナンド・デ・ソトの分遣隊は山麓地方を探検した。この行軍に当って彼は軍規を厳にし兵士の掠奪を禁じた為に、間もなく土人の信望を集め、到る処の村々で款待を受けるに至った。それに対して彼は、教皇とスペイン王への服従を要求する、と宣言した。土民はその意味が解らず、抗議を申立てなかった。そこで土民はスペイン王の順良な人民として受け入れられた。こういう仕方で三四週間偵察した後、ピサロはトゥンベス南方三十余里の所に地を選んで植民地建設にとりかかった。トゥンベスに残った人と船は直ぐに呼び寄せられ、材木や石は附近の森や石切場から運ばれた。やがて教会・倉庫・裁判所・要塞、その他の建築が出来上った。市役所も構成された。附近の土地や土民は、市民の間に配分された。これがインカ帝国に於ける最初の植民地サン・ミゲルなのである。
インカの国情もピサロに明かになった。最近の内乱に於て勝利者となった新しいインカが南方十日乃至十二日程のカハマルカに陣していることも確められた。ピサロは少しでも援軍がくればと心待ちにして数週間延ばしていたが、遅延は士気を沮喪せしめる怖れがあるので、遂に二百に足らぬ軍勢を率いて、一五三二年九月二十四日、サン・ミゲルの門を出で、インカ王の陣営に向って行動を起した。この時のピサロの心境は好くは解らないが、恐らくスペイン王の平和な使節としてインカに謁見を申込み、その敵意や警戒の念を取り除こうとしたのであろう。あとは臨機応変で行けるからである。
ピサロの隊は美しいペルーの山河の中を行軍した。到る処で土民は款待してくれた。それがスペイン人側の温良な態度に起因すること、またかくの如く土民の好感を得るか否かが冒険の成否を決するのであることを、彼らは十分に心得ていたのである。かくして五日目になるとピサロは隊を停めて精密な査閲にとりかかった。隊員は百七十七名、その内六十七名が騎兵、三名が銃兵であったが、中にこの冒険を喜ばぬ者もあった。ピサロは全員に向って演説した。今やわれわれの仕事の岐路である。心の底から遠征を欲するもの、その成功を確信するものでなければ、これから先へ行くべきでない。引返すには今でも遅くはないのである。サン・ミゲルにはもっと守備兵が必要なのであるから、引返せば残存した者と同じに取扱われる。かくの如く彼は引返す者に恥を与えないように提言した。が希望者は九名に過ぎなかった。かくしてピサロは不平の種を選り棄てて前進を続けたのである。
その内インカの使者が贈物を持ってピサロを招待にやって来た。ピサロはこの使者が偵察の目的を以て訪ねて来たことを承知しつつ、鄭重に応待し、珍らしい武器の用法や白人の来意などを説明して聞かせた。その来意は自分たちが海の彼方の強い君主から派遣されてアタワルパの勝利を祝いその戦いを助けるために来たのだということであった。そこでピサロは返礼の品を持たせて使者を帰し、再び進軍を続けた。そうしてかなりの日数を費してカハマルカへの山径とクスコへの大街道との分れ目へ来た。ここから山脈を越えると直ぐカハマルカへ出るが、その道は羊腸たる山路で、もし敵に防禦の意志があれば、到る処が屈強の要塞となり得るものであった。既に前に、インカは小人数の白人を自分の掌中へ誘《おび》き寄せようとしているのだ、という土人の陳述をきいて、不安のあまり通弁の一人を偵察旁々使者に派遣したピサロにとっては、この山路への突入は、かなり思い切った決意を必要とするものであった。が踏み込んで見るとインカは何の防禦もしていなかった。数日の緊張した行軍の後にコルディレラの頂まで達したとき、インカの使者がラマの贈物を持って現われインカの歓迎の辞を伝えた。二日の後下り坂にかかった時、再び使者が贈物を持って現われた。そこへピサロの派遣した使者も帰って来て、インカの敵意を報告した。インカの使者は一々それを反駁したが、ピサロの心中にはアタワルパの奸策を確信するものがあったらしい。しかし彼はそれを色に現わさず、インカの使者を心から信ずるが如く装った。
遂に七日目にピサロの軍隊はカハマルカの谷を見おろす所まで来た。それは五里に三里の美しい平地で、丹念に耕されてあった。住民も海岸地方よりは優秀であるらしい。白い家々が日光に輝いているカハマルカの町の一里ほど向うに、今インカの滞在している温泉場があって、そこの丘陵の斜面沿いに数知れぬ白い幕舎が数哩に亘って並んでいた。これほどの幕舎がかくも整然と布置されていることは、これまで新世界に於て曾て見られなかったことである。この光景はスペイン人の度胆を抜いた。しかしもう退くわけには行かない。彼らは平気を装って戦闘隊形を以てカハマルカの町へ進んで行った。そこは人口一万位の町で、日の神殿も、日の処女の尼院も、兵営も、要塞も揃っていたが、この時には全然人影なく空虚となっていた。そこへピサロが乗り込んだのは、一五三二年十一月十五日の夕刻であった。
当時インカがスペインの小部隊をその有力な勢力圏内へおびき寄せようとしていたのか、或は彼らの平和の意図を信じて単に好奇心から迎え入れたのか、それは明白には解らない。彼がこの不思議な外来人に対して疑懼や恐怖を感じなかったとも思えぬが、しかし表面に現われた限りでは、|実に平然として《ヽヽヽヽヽヽヽ》ピサロのなすがままに委せていたのである。カハマルカに入城したピサロは反って焦躁を感じて、エルナンド・デ・ソトを十五騎と共にインカの陣営へ使者に送った。しかもすぐあとで小勢に過ぎたことを憂え、弟のエルナンド・ピサロに二十騎を率いて増援させた。この慓悍なスペイン騎士の一隊がインカの陣営でつとめた役割は、当時の「征服者」たちの性格を最もよく現わしたものの一つであろう。彼らは牧場を貫く堤道を疾駆して、一里ほど先の陣営に達し、あっけに取られて眺めているインカの兵士たちの間を、トランペットの声高く響かせつつ、風に乗った魔物のようにさッと動いて行って、陣営の奥深くインカの座所に迫った。そこにはアタワルパがインカ貴族に取り巻かれてクッションに坐していたが、その慓悍や残虐の名が高いに拘らず、落ちついた、静かな態度で、顔には無感動のみが現われていた。エルナンド・ピサロとソトとは二三の騎士と共に静かに馬を歩ませてインカの前へ出た。そうして騎馬のままでピサロは使者の口上を述べた。自分らは海の彼方の強い君主の家来である。今度インカの大勝利の報をきき、お役に立つために、また真の教えを伝えるためにやって来た。今夕カハマルカに到着したについては、アタワルパ陛下の御光来を待つ、というのであった。これを通弁が飜訳したときインカは一言も発せず、また解ったという顔もしなかった。側の貴族が「よろしい」と答えたが、エルナンド・ピサロは鄭重にインカの直答を促した。インカは止むを得ず自ら答えた。余は目下断食中である。それは明朝終るから、その後部下と共に訪問するであろう。それまでは広場の公共建物を使ってよい。その他のことは行ってから命令しよう。この答が得られたあとで、ソトは、インカが馬に興味を抱いているのを見て取って、馬に拍車を入れて猛烈に駆けさせ、縦横にその優秀な馬術を披瀝した。全速力で疾駆して来てインカの直ぐ傍でぴたッと停止して馬を棒立ちにならせたりした。がインカはその平然たる態度を崩さなかった。
この劇的な会見を了えて帰って来た騎兵たちは、反ってインカの軍隊の優勢に怖れを抱いた。それが仲間に伝染してその夜は隊内に意気銷沈の兆候が見えた。この時、内心に願望成就を喜びつつ部下を力づけて廻ったのがピサロなのである。|騎士的な冒険心《ヽヽヽヽヽヽヽ》と宗教的熱情《ヽヽヽヽヽ》とを鼓舞するのが、即ち十字軍的精神の挙揚が、そのコツであった。更に彼は幹部を集めて彼の離れ業式の企図を打ち開けた。それは、伏兵の策によってインカをその全軍の面前で捕虜とすることなのである。それは捨身の戦法であった。が他に策はないと彼は考えた。退却すれば全滅である。平和に滞在すればやがて白人の与えた異様な超自然的な印象が薄らいで了う。インカがスペイン人らを掌中におびき寄せたのだということは必ずしもあり得ぬことではない。この罠をぬける唯一の道は、罠を逆用することである。これは一刻も早い方がよい。南方からインカの軍隊が集まってくれば事は一層面倒である。従ってインカが承諾した招待の席こそ最上の機会でなくてはならない。奇襲によってインカを掌中に握れば、あとは全帝国に命令することが出来る。以上がピサロの考であった。幹部は皆これに賛成し翌日実行に移すことにきまった。
一五三二年十一月十六日の夜明、部下の軍隊が武装を整えると共に、ピサロは奇襲の企図を簡単に発表してそれぞれの部署を定めた。彼らの宿営した低い建物は三方から広場を包み、その広場の一端に田舎を向いて要塞が立っていたのであるが、ピサロは騎兵を二隊に分けて二つの建物にひそませ、歩兵をもう一つの建物に隠して置くことにした。要塞には二門の小さい鷹砲《フアルコネツト》を据えた。インカを迎える時ピサロの手許にいる兵士はただ二十名だけとした。機会が来れば鷹砲を合図に三方から突撃して|インカを捕えよう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのである。かく部署を定めてから厳粛なミサが行われた。彼らにとっては、いよいよ|十字架のための戦《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が始まるのである。
ピサロの準備がかく早朝から整っていたのに対して、インカの方はゆっくりしていた。インカの行列が軍隊を率いて動き出したのはやっと午頃であった。予めピサロへ使を寄越して、昨日のスペイン人と同じくこちらも|武装した兵士を連れて行く《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が好いかと念を押した上でのことである。インカは輿に乗って街道を来たが、軍隊の大部分は街道沿い、野原を覆うて押し寄せて来た。ところで王の行列は町から半哩ほどの所で停止し、テントを張りにかかった。今夜はここに宿営して明朝町に入るというのである。この報道はピサロを困惑させた。早朝から緊張して待ちかまえているスペイン人たちにとっては、ここで永びかせられるほど危険なことはない。彼はアタワルパに対して、予定の変更の不可を説き、歓迎の準備は悉く整っている、今夜は食事を共にするつもりであったと云わせた。これを聞いてインカはまた気を変えて進行を続けた。しかもピサロに通知していうには、カハマルカで夜を過す方がよいと思うから、自分は兵士の大部分をあとに残し、ごく少数のものをつれて|武器なしで《ヽヽヽヽヽ》町に入るであろう。――ピサロは神の助けだと思った。インカは罠の中へ飛び込んでくるのである。
アタワルパは大胆な果断な性格の人と云われているが、この時の動揺は何とも理解し難い。しかし彼が|白人を信頼して《ヽヽヽヽヽヽヽ》その招待に応じたということは疑がないであろう。でなければ彼が軍隊をつれず武器なしで訪問するなどと提議する筈はないからである。彼は疑念などを抱くにはあまりに絶対的な君主であった。また何万の大軍のただ中で、僅か百六十余名の小勢を以て有力な君主に襲いかかるというような、そういう大胆さは、彼にとっては思いもかけぬことであったであろう。一言にして云えば、スペイン人がインカを研究し知っていたほどには、インカはスペイン人を知らなかったし、また知り得なかった。それは畢竟、世界大に拡がった眼界と、自国にのみ閉鎖された眼界との相違なのである。
日没に近くインカの行列の先頭が町の門を入った。それは数百人の僕たちで、道を清めながら、また気の滅入るような調子の凱旋歌を歌いながら進んでくる。広場へ来ると右と左へ開いて後続の隊に道をあける。あとにはさまざまの等級の隊が、さまざまの制服で続いてくる。白と赤の派手な市松模様の制服を着たもの。銀・銅などの鎚や棒をかついで純白の制服をつけたもの。美しい空色の制服の護衛兵たち。それらもまた整然と右と左に開いて道をあける。扈従の貴族たちも美しい空色の服で、華やかな装飾を豊富に体につけている。インカは金銀や鳥の羽で飾った輿の上のどっしりした黄金の玉座に坐し、大きいエメラルドの首飾りや金の髪飾りなどをつけて、悠然と群集を見下しつつ、広場に進み入った。全部で五六千人が広場に入ったかと思われる頃、アタワルパは停止して周囲を見まわし、外人はどこにいるのだときいた。
その時ドミニコ会修道僧のバルベルデが、聖書を片手に、十字架を他の手に携えてインカに近づき、司令官の命によってスペイン人渡来の目的たる真実の信仰の宣伝を始める旨を述べた。彼の説明は、三位一体の教義、人間の創造、堕罪、イエス・キリストによる救い、使徒ペテロの法統、教皇の権威などに亘り、最後に現前の遠征の意義にふれた。曰く、教皇は世界最強の君主スペイン皇帝にこの|西方世界の土人を征服し改宗せしめよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》との任務を託した。フランシスコ・ピサロ将軍はこの重大な任務を実行するために来たのである。願わくは将軍を親切に迎え容れ、在来の信仰の誤りを棄ててキリストに帰依せよ。更にまた皇帝カール五世の朝貢者となることを承認せよ。その場合には皇帝は彼を臣下として援助し保護するであろう。
この説明の意義がインカに理解せられたかどうかは疑わしいが、しかしそれがインカに降服を迫るものであることだけは十分に理解せられた。インカは眼を瞋らせ眉を顰めて答えた。「余は何人の朝貢者ともなろうとは思わぬ。余は地上のいかなる君主よりも偉大である。汝の皇帝は偉大な君主であるかも知れぬ。その臣下をかくまで遠く海を超えて送って来たのを見ると、確かにそうであろう。余は喜んで彼を兄弟と看做すであろう。が汝のいう教皇は、おのれのものでない国土を他に与えるなどと云うところから見ると、気違いに相違ない。余の信仰は、変えようとは思わね。汝のいう所によると、汝らの神はおのが作った人間によって死刑に処せられた。しかし余の神は、見よ、今なお天に生きてその子らを見おろしているではないか。」そう云ってインカは丁度その時西の山に沈みつつあった太陽を指した。そうしてバルベルデに、何を典拠としてあの様なことを説くかと聞いた。修道僧は手中の聖書を指した。アタワルパはそれを取ってペーヂをめくって見たが、恐らく侮辱を受けた感じが突然湧き上ったのであろう、乱暴にそれを投げつけて云った、「汝の仲間に云え、彼らは余の国中に於てなしたことの詳細な報告をなすべきである。彼らがその悪行に対して十分の弁明をなすまでは余はここを動かぬ。」
修道僧は聖書に対して加えられた侮辱を怒り、それを拾い上げてピサロのもとに急いで来た。「あの傲慢な犬とお喋舌りをしている間にだんだん土人の数が殖えてくるではありませんか。すぐ合図をなさい。もう何をやってもよろしい。」ピサロは白いスカーフを振った。要塞から鷹砲が発射された。ピサロと部下とは広場へ飛び出して鬨《とき》の声をあげた。三方の建物から騎兵と歩兵の集団が群集の中に突入してそれに応じた。鷹砲と小銃の音が轟き渡った。広場の群集は極度の混乱と恐怖とに陥り、ただ逃げまどうのみであったが、広場への入口は死人の山で塞がれて通ぜず、揉み合う群集の圧力で石と土の厚い壁が破られたほどであった。その混乱の中をスペインの馬と人とが縦横になぎ倒して廻ったのである。
インカのまわりには忠義な貴族たちが集まって身を以て楯とした。武器なしで、騎士たちを撃退しようとして馬に縋りついたり、鞍から引きおろそうとしたりした。そうしてそれらの人々が切り倒されると、あとからあとから新手が身を捨てて同じことを繰り返した。だからインカは依然として輿に乗ったまま、人波の上に漂っていた。夕闇が深まると共にスペイン人はインカの脱出を恐れて思い切ってその命を絶とうとさえ試みたが、彼に最も近づいているピサロは、「命の惜しいものはインカを打つな」と大声に呼んだ。そうしてインカをかばおうとして腕を延ばし、味方のために手に傷を受けた。この傷が、この騒ぎの間にスペイン人の受けた唯一の傷であった。やがて輿をかついでいた貴族のうちの数人が斃されて輿は覆えされた。インカは危うく大地へ打ちつけられるところであったが、ピサロと二三の騎士が受けとめた。そうして側の建物へ連れ込んで厚く保護した。
インカが捕虜となると共にあらゆる抵抗は止み、すべての人が脱出に狂奔した。郊外に幕営中の軍隊も闇に紛れて逃亡してしまった。この騒ぎは|僅か半時間《ヽヽヽヽヽ》あまりで片附いたのであるが、その間の死者の数は二千とも云い一万とも云われている。
ピサロはその夜約束を守ってインカと晩餐を共にした。彼はいろいろとインカを慰め、白人に抵抗する者は彼のみならず他の君主も同じ運命に逢うこと、白人はイエス・キリストの福音を伝えに来たのであって、キリストの楯が彼らを護る限り勝つのが当然であること、アタワルパは聖書に対する侮辱の故に屈服せしめられたのであること、スペイン人は寛大な民族であるから信頼してよいことなどを述べた。
翌日から町の清掃とか、インカの財宝の処分とかが始まった。以前のインカの幕営地に派遣された三十騎の一隊は、インカの后妃たち、附人たちなど多数の男女を率いて帰って来た。ピサロはその或る者を家に帰し、或る者をスペイン人たちの召使として残した。また同じ地のインカの別荘からは豊富な金銀器や宝石がもたらされた。死んだ貴族たちの体からも多くの装飾品が得られた。町の倉庫には木綿や羊毛の織物が堆積していた。
間もなくアタワルパは、スペイン人たちが好んで語っている宗教的熱心の裏に、もっと強い欲望の動いていることを看破した。それは黄金に対する欲望であった。彼はここに血路を見出そうとした。ぐずぐずしていると、監禁中の兄ワスカルが出て来てインカの位を回復するであろう。だから一刻も早く自由を得なくてはならぬ。で彼はピサロに、もし釈放してくれるならばこの室の床を黄金で埋めようと提案した。人々はそれをきいて信用し兼ねる笑を洩らした。インカは焦って、床を埋めるだけでない、手の届く限りの高さまで金で一杯にしようと云って、背伸びして壁に手をのばした。ピサロは熟慮の末この提案を承諾し、インカの示した高さに赤い線をひいた。室は幅十七呎、長さ二十二呎、赤線の高さは九呎であった。なお次の小さい室は銀で二度充たすことになった。期限は二カ月であった。この契約が出来上ると共にインカは使をクスコその他の地に急派して、王宮・神殿、その他公共建築物の黄金の装飾や調度を出来るだけ早くカハマルカに送るよう命令したのであった。
その間インカは、スペイン人の監視の下に、その旧来の生活を続けた。后妃たちは彼に仕え、臣下は自由に彼に謁見した。囚われたインカであるに拘らず、臣下の彼に対する尊崇は変らなかった。ピサロは機会を捉えては宗論を戦わしたが、インカを敵に囚われしめるような神は真の神ではあるまいという議論には屈服したようであった。がこういう恐るべき新事態に面していながらも、兄ワスカルとの関係は依然として彼の最大関心事であった。ワスカルは弟の囚われと身代金との事を聞いて、それよりも一層多い身代金をピサロに申出でようと企てたのであるが、そのことはアタワルパに密告された。それに加えてピサロはこの兄弟の対立を利用しようと考え、ワスカルをカハマルカに呼んでいずれが正統のインカであるかを調べようと宣言した。これらのことに嫉妬心を煽り立てられたアタワルパは、遂に兄を殺さしめた。ワスカルは最後に、白人が復讐してくれるだろうと云ったと伝えられている。事実この事が後にアタワルパ処刑の有力な口実となったのである。
金は諸方から集まり始めたが、それを見るとスペイン人の貪欲心は一層高まって来た。集まりの遅さに焦躁を感じて、アタワルパの陰謀をさえ疑うに至った。そこへペルー人蜂起の噂が伝わった。ピサロがそれをインカに告げると、アタワルパは驚いて噂を否定した。「余の臣下は余の命令なしには決して動かぬ。貴下は余を捕えていられるから、これ以上の保証はない。」そうして彼は遠方から重い金を運ぶのに如何に日子を要するかを説明した。「が念のために貴下は部下の人々をクスコに送られてもよい。余はその人々に旅券を与えよう。向うへ行けば、約束の金が運ばれつつあることも、また何ら敵対運動が企てられていないことも、自分の眼で確めることが出来よう。」(Prescott. op. cit. p. 430.)これはいかにも尤もな提案であった。ピサロはそれに応じてクスコへ使者を送ると共に一部隊を国内偵察に派遣したのであるが、その結果はアタワルパの云った通りであった。アタワルパ部下の最も有力な二人の将軍の内の一人であるチャルクチマは、三万五千の兵を率いてハウハの附近にいたが、インカの囚われの後にはなすところを知らず、ピサロの弟に説き落されてカハマルカに来た。またクスコの日の神殿からは七百枚の金板が剥ぎ取られたのであった。
他方に於てスペイン人側の態勢は好転した。歩兵百五十、騎兵五十の援軍を率いたアルマグロが、カハマルカの事件の一カ月あまり後、一五三二年十二月末にサン・ミゲルに着き、翌一五三三年二月中頃カハマルカに入った。
金はまだ赤線に達しなかったが、スペイン人たちは待ち切れなかった。ここでぐずぐずしている間に土人たちは財宝を隠匿してしまうであろう。早く分配をすませて首府へ進出しなくてはならぬ。そう人々は考えた。で金銀細工の内の優れたものをスペイン王のために取りのけて置いて、あとは鎔かして金塊にした。金の総量は一、三二六、五三九ペソ(十九世紀中頃の換算では三五〇万磅、一五五〇万弗)であった。その分配は「神への恐れを以て、神の眼の前で」行われた。そこで残った問題は、|捕虜のアタワルパをどうするか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということである。釈放するのは危険であるが、しかし監禁を続けるのも、クスコヘの進軍を開始するとすれば、非常に困難である。インカは頻りに釈放を要求したが、ピサロは身代金の残余を免除しただけで、拘禁の方は更に援軍が到着するまで継続することを宣言した。その内に土人蜂起の噂がまた燃え上って来た。その火元がどこであるかは解らないが、アタワルパを極度に憎んでいた通弁が余程怪しいと云われている。とにかくインカはその首謀者として疑をかけられ、再びピサロの訊問をうけた。インカは前と同じようにそういう企てのあり得べからざることを弁明したが、疑は解けなかった。新来のアルマグロやその部下たちはインカの死刑を主張し始めた。ピサロはそれに同意しないように見えた。エルナンド・デ・ソトその他少数のものもそうであった。ソトは噂の真否を確めるために小部隊を率いて偵察に派遣された。が隊内の輿論はますます高まり、遂にピサロをしてインカを裁判に附することに同意せしむるに至った。
インカの罪として告発されたのは十二カ条であったが、その内重大な箇条は、彼が王位を簒奪し兄を殺したこと、彼がスペイン人の征服以後に国家の収入を浪費し一族や寵愛のものに与えたこと、偶像を礼拝し多妻によって姦淫を犯したこと、及びスペイン人に対し謀叛を企てたことであった。最後の一カ条を除けばすべてスペイン人の裁判に附せらるべきものではないが、その唯一の箇条が証拠不十分のため、あとの諸箇条を以て色をつけたのである。裁判は直ちに開始された。証人も呼ばれた。が悪意のある通弁は証言を勝手に歪曲した。しかもそのあとでアタワルパの死刑の|利と不利《ヽヽヽヽ》が討議されたという。その結果アタワルパは有罪と認められ、火刑が宣言された。そうしてその夜直ちに執行されることとなった。ソトの偵察の報告を待ち、謀叛の事実の真偽を確めようとは、彼らはしなかったのである。尤もこの専横なやり方に反対する人もないではなかった。証拠は不十分である。また一国の君主を裁く権限はこの法廷にはない。裁判すべくばスペインに送り皇帝の前で行わるべきである。これが反対意見であった。しかしそれは十対一の少数で敗れた。
宣告を聞いた時のインカの悲しみはさすがのピサロをも感動させたほどであった。倍の身代金でも払うと哀願するインカに面していることが出来なくなって、彼は背を向けた。インカはもう駄目と悟ると、平生の落ち着きを取戻し、その後は平然としていた。かくしてインカの死刑は、一五三三年八月廿九日の日没後二時間にして行われることとなった。インカが柱に縛りつけられ薪が積み上げられた時、ドミニコ会の修道僧は、十字架を差し上げて、これを抱け、洗礼を受けよ、そうすればこの苦しい火刑を軽減して絞首刑にしよう、と提言した。インカは本当かとピサロに確めた後、おのれの宗教を捨てて受洗することに同意した。洗礼は行われた。インカはフアン・デ・アタワルパとなり、死骸をキトーに送るべきことを遺言し、遺孤をピサロに託して、静かに刑についた。
一両日後にエルナンド・ソトは偵察より帰ってこのことを聞き、驚くと共に激怒した。彼は直ちにピサロに会って、ずけずけと云った。「あなたは早まり過ぎた。アタワルパは卑劣な中傷を受けたのです。ワマチュコには敵なんぞいなかった。土人の蜂起などもありはしなかった。途中で逢ったのは歓迎ばかりで、何もかも平静だ。もしインカを裁判する必要があったのなら、カスティレへ連れて行って、皇帝に裁いて貰うべきだった。僕はインカが無事に船に乗っているのを見るために自分自身を賭けてもよかったと思う。」(Prescott. op. cit. p. 476.)この抗議は尤もだった。ピサロもおのれの軽率を認め、修道僧と会計主任とに欺されたのだと云った。がそれを伝え聞いた両人は納まらず、ピサロを面責した。そうして互に嘘つき呼ばわりをした。これを以て見てもインカの裁判の不正は解ると云われている。これは恐らくスペイン植民史上の最大なる罪悪であろう。
絶大な権威を持っていた「日の神の子孫」の支配は、かくして終った。美しく整っていた国内の秩序はそれと共に崩壊した。が新しい秩序はまだ樹立されない。それは一種の革命状態であった。ピサロは古い権威を利用することの賢明なるを考えて、アタワルパの弟トパルカを王位継承者と定め、彼の手から王冠をさずけた。そうして五百名の軍隊を率い、新しいインカと老将軍チャルクチマをつれて、一五三三年九月初め、首府クスコに向け進軍を開始した。土人の抵抗がないでもなかったが、荒っぽい騎士たちはそれを乗り切って行った。途中ハウハで若いインカは急に歿し、老将軍はその暗殺や土人蜂起の指嗾などの嫌疑を受けるに至った。クスコに近い別荘地で数日軍隊を停め休養させた時、ピサロは老将軍を裁判にかけ、またもや火刑が宣告された。が将軍は最後まで改宗せず、剛毅な態度を以てその苦痛に堪えた。ところがその直後に、正統の王位継承者たるワスカルの弟マンコが現われ、王位を要求すると共にスペイン人の保護を求めた。ピサロは喜んでこれを迎え、自分は王位に対するワスカルの要求を擁護し、アタワルパの簒奪を罰するため、スペイン王よりこの国に派遣されたのである、とさえ言明した。かくて彼は、正当のインカたるべきマンコ・カパクを携えて、一五三三年十一月十五日、首府クスコに入城したのであった。
クスコは当時人口二十万、郊外にも二十万の住民があったと云われている。それは誇張であったかも知れぬが、しかしとにかく帝国の首府として、全国より集まる貴族の邸宅があり、また代々のインカによって豊富にせられた神殿宮殿の豪華であったことは前に述べた通りである。ピサロは住民の家宅の掠奪を禁じたが、数多い宮殿や神殿の掠奪は兵士のなすがままにしたのである。彼らは墓場をさえもあばいた。財宝の隠匿所をも探して歩いた。それらは前と同じく鎔かして金塊銀塊とされたが、総額はアタワルパの身代金よりも多かったと云い或は少かったと云う。
マンコはピサロの手によって戴冠されインカの位に即いた。神殿や宮殿は壊されてキリストの教会・僧院、その他ヨーロッパ風の建築が建てられた。ピサロの仲間でここに落ちついたものは少くない。かくてクスコに於けるスペイン人の支配が始まったのであるが、しかしこれがスペインの植民地として確立されるまでには、|征服者たち自身の間の内乱《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》がなお十五年位も続くのである。
最初の事件はグヮテマラの征服者ペドロ・デ・アルバラドが一五三四年三月キトー征服に来たことであったが、これは戦を交えるまでに至らず、ピサロが十万ペソを以てアルバラドの艦隊や軍隊(五百名)を買い取り局を結んだ。
次の事件はピサロとアルマグロの衝突である。両人の間の不和は前に述べた如く第三回遠征に出発する前に萌していたのであるが、ペルー征服に際しておのずから両者は和合したのであった。征服後にも一五三五年一月にピサロが今のリマに新しい首府を築き、同年七月初めアルマグロが南方遠征に出発する頃には、二人は契約と誓言を以て和合につとめている。然るにアルマグロが一年半に亘る大遠征によってアンデス山脈をチリーまで突破し、帰途アタカマ沙漠を越えて一五三七年春クスコ高原に帰着した時には、事情はすっかり変っていた。その原因の一つは、遠征隊の留守中にインカ・マンコが独立を計ったことである。彼はクスコを脱出して人民を集め、武器を執って首府を包囲した。町の半ばは焼かれ、要塞も一時占領された。防禦につとめたピサロの三人の弟の内、一人は戦死した。ピサロは救援に赴こうにも途中の山路を扼されて如何ともなし得なかった。やがて謀叛が全国に拡まれば征服の成果は危うくされるであろう。ピサロはかく考えてパナマ、ニカラグヮ、グヮテマラ、メキシコなどの総督に救援を求めた。コルテスが二隻の援軍を送って来たのはこの時のことである。これがアルマグロの帰着の時の情勢であった。第二の原因は、遠征の留守中にアルマグロがスペイン王からペルー南部の総督に任命されていたことである。その地域はサンチャゴ河の南二七〇レガより始まり南方に拡がるあらゆる国土ということであった。アルマグロはクスコが自分の領分に属すると考えた。でマンコの軍を撃退しつつクスコに迫って、ピサロの弟ゴンサロ及びエルナンドに町の明渡しを要求した。両人はそれを躊躇したが、彼は一五三七年四月八日の夜、突然町に侵入して両人を捕縛してしまった。これがピサロ派とアルマグロ派との衝突の始まりなのである。
丁度その頃、ピサロに救援を頼まれたアルバラドは、五百名の隊を率いてクスコへ進軍中であった。アルマグロは早速首府占領の旨を報じたが、アルバラドは使者を捕縛させて進軍を続けた。アルマグロは怒ってその隊を急襲し、七月十二日に勝利を得た。インカの軍隊も山の中へ追い込められてしまった。そこでアルマグロに必要なことは、南ペルーに海港を見出して本国と直結することであった。彼はピサロの弟をつれて海岸へ下りて来た。ゴンサロは逃げたが、エルナンドは手に残っていた。それをピサロは取り戻そうとして、至極穏かな態度を取り、交渉を始めたのである。十一月十三日、双方はリマ南方で会見した。ピサロはアルマグロのクスコ領有を認め、その代りにエルナンドを釈放せしめた。がその釈放の実現せられた途端にピサロは契約の無効を宣言し、再び戦争を開始したのである。怨み骨髄に徹したエルナンドは翌一五三八年春クスコに攻め上り、四月末首府附近に於て、双方各々七八百名の兵力を以て、決戦を行った。アルマグロは病中で陣頭に立てず、敗れて捕えられ、裁判にかけられた。エルナンドはこの戦友に何の同情も示さず、七月八日死刑に処して了ったのである。
アルマグロの息ディエゴはリマにあったが、総督の地位を嗣ぐことも出来ず、味方と共にチリー派として排斥せられた。で彼らは本国へ訴えた。その運動に対抗するため、エルナンド・ピサロも一五三九年に本国に帰ったが、しかし総督を死刑に処した行為は弁解の余地がなく、捕えられて一五六〇年まで獄中にあった。他方ペルーではチリー党が結束して、一五四一年六月、ピサロを奇襲して殺した。ピサロはこの時六十三歳であった。彼は当然受くべきような罰を受けた、というのが多くの史家の一致した意見である。
以上の党争に続いて起った事件は、両派の残党と本国政府の任命した総督との争闘であった。初めに登場したのはピサロを殺したチリー党で、それに対抗したのは、本来ピサロと共同して正しい政治を行う様にと本国政府から任命された王の裁判官法学者バカ・デ・カストロであった。カストロはピサロ死去の場合総督となるべき命を受けていたが、果して彼がペルーの北方に到着した時、ピサロの暗殺の報を受けたのである。で彼は総督としてキトー地方に入り、スペイン人軍隊の間に本国政府への忠誠を説きつつ徐々に南下して行った。リマではアルマグロの息ディエゴがチリー党と共に味方を獲得して相当に勢力を拡大しつつあったが、新総督の集めた勢力の方がやや強く、一五四二年九月十六日にクスコとリマの中間で決戦が行われた時には、総督方騎兵三二八名、歩兵四二〇名、アルマグロ方騎兵二二〇名、歩兵二八〇名であった。この決戦でチリー党は壊滅し、ディエゴも処刑された。かくて法学者カストロは極めて賢明にスペインの軍人たちを本国政府の権威の下に服従せしめたのである。
次で登場したのはピサロの末弟ゴンサロで、その相手はカストロに代って任命された副王ブラスコ・ヌンニェス・ベラである。ゴンサロは既に一五四〇年にキトー総督に任ぜられていたのであるが、カストロがキトーに来た時分にはアマゾン河谷への苦しい遠征から未だ帰っていなかった。彼が生き残ったスペイン人八十名をつれて漸くキトー高原に帰って来た時には総督は既に南下していた。兄の暗殺を聞いた彼は憤然としてアルマグロ討伐軍への参加を申入れたのであるが、総督はピサロ派の参加を喜ばず、この申入れを拒絶した。これが先ずゴンサロを深く傷つけたのである。しかし彼はカストロには反抗せず、その勧めに従って南方ボリビアのポトシ銀鉱開発などに従った。然るに副王ブラスコ・ヌンニェスが来任して、|土人の人権擁護《ヽヽヽヽヽヽヽ》を強行し始めると共に、事件が勃発したのである。この人権擁護の要求は云わばペルー征服者たちの十年来の行為を否定するものであった。征服者たちがペルーに於て行った暴虐行為は実に人類の歴史を通じて稀有なものであるが、それが本国に於ても問題を起し、遂に一五四二年ラス・カサスの土人の人権保護の提議となったのである。この提議は採用され、奴隷解放に関する詳しい勅令が一五四三年十一月マドリッドに於て発布された。それがペルーに伝わると、領地を分配されて土人を奴隷的に駆使しつつあった征服者たちは、おのれたちの生活の破滅として騒ぎ始めた。ペルーの征服はわれらの力を以て成し遂げたのである。政府は殆んど力を貸してくれなかった。然るにその征服の成果を今や政府は取上げようとする。この暴虐に対して誰かわれわれを護ってくれるものはないか。そこで衆望はゴンサロ・ピサロに集まった。銀鉱の経営に没頭していたゴンサロの許へ国中から手紙や使者が集まった。それに動かされて彼は遂に立ち上り、クスコに入って特権擁護運動の先頭に立ったのである。やがて彼は軍隊を集めてリマに向け進軍を始めた。副王配下の隊も頻々としてピサロ側に寝返った。副王は漸次周囲の者の信望をさえも失い、部下の裁判官や市民の手によって船でパナマへ追放されて了った。かくてゴンサロ・ピサロは血を流すことなくして一五四四年十月末リマに入り、ペルー総督となった。副王は途中トゥンベスで脱出し、キトーに入って再挙を計ったが、ゴンサロはこれを追及し、一五四六年一月に至って、遂に副王を戦死せしめた。
この情勢に驚愕した本国政府は、王命を無視せる謀叛人に対して王位の名誉を守るために政府の全力を用いようとする意向がなかったわけではないが、しかしその仕事の困難なことを反省して、穏かに彼らを説得するために、ペドロ・デ・ガスカを送ることになった。ガスカは僧侶でありサラマンカ大学の有力な学者であったが、当時世間に示した政治的才幹の故にこの任に選ばれたのであった。彼は任務の説明を聞いたとき、自分は報酬は要らない、しかし皇帝の全権を委任して貰いたいと要求した。このような広汎な権限は曾て如何なる総督や副王にも与えられたことがないので、政府は途方にくれたが、皇帝カール五世は一五四六年二月に淡白にそれをガスカに与えた。そこで彼は任地に於ける宣戦権・募兵権・任免権のみならず、大赦を行う権利、問題の人権擁護の勅命を取消す権利をまで握って、五月末本国を出発した。従者は極めて少数であったが、その中に曾てのピサロの部下アロンソ・デ・アルバラドがガスカの請によって混っていた。
本国の圧迫に備えたゴンサロ・ピサロは二十隻の強力な艦隊をパナマに派し、地峡の対岸のノンブレ・デ・ディオスをも占領していたが、軍隊もつれず質素な僧衣を身にまとったガスカは、そこへ乗り込んで行って平和工作を開始した。艦隊の司令官イノホサは、熱心なピサロ派であったが、ガスカに説得されて王の委任した全権を認め、その命令に服従した。ピサロが、本国に派遣しようとした腹心のものも同様の態度を取った。でガスカは一五四七年二月にこの男と四隻の船を先発させ、スペイン国民としての義務に帰った者は赦免される、その財産は安全である、と宣伝させた。ピサロに従ったスペイン人の多くが動揺し脱走し始めた。ピサロはリマを去り、あとを先発隊が難なく占領した。ガスカ自身は募兵によって軍隊を組織し、艦隊を率いて、四月パナマ発、六月中頃にトゥンベスに着いた。国中のスペイン人がガスカに呼応した。
ガスカが南方リマを経てハウハに進軍していた間に、ピサロは減少した隊を率いてチリーへの脱出を企てていた。がその途中を曾ての部下センテノに阻まれた。これはピサロ担ぎ出しに奔走した男なのである。ピサロは示談を試みたが駄目であった。両軍は一五四七年十月末チチカカ湖畔に於て戦った。ピサロはこの戦に勝ってもう一度クスコに入り、ガスカの軍隊との決戦を準備した。ガスカは一五四八年の春に至って二千名の軍を率いてクスコ近郊に迫り、四月九日敵軍と対峙して最後に降服を勧告したが、ピサロはきかなかった。が戦の始まる前に歩兵隊の指揮官は離叛の合図をしてガスカ方に走り去った。騎兵もそれに従った。取り残されたピサロと少数の部下は捕えられて裁判に附せられ、死刑に処せられた。
ガスカはペルー国の秩序を確立して、一五五〇年スペインに帰った。丁度その頃にシャビエルが日本にいたのである。
九 太平洋航路の打開とフィリッピン攻略[#「九 太平洋航路の打開とフィリッピン攻略」はゴシック体]
ペルーの征服はヨーロッパ人の植民史上に於ても最も暗黒な頁として認められている。征服者たちにとってはそれは十字軍《ヽヽヽ》であったが、しかしキリスト教界に於ても最早何人も征服者の暴虐な所行を弁護するものはあるまい。前述の如く既にその当時に於てさえもラス・カサスはこの所行を否定し、そうしてそれが一時はスペイン国の政策とさえもされたのである。しかしこの非人道的な征服事業の内にも極めて強健な|探検の精神《ヽヽヽヽヽ》が動いていたことを我々は見落してはならない。ピサロの相棒であったアルマグロは、ピサロと同じく無学な男であったが、ペルー征服後直ちに南下して、アンデス山脈の中を、今のボリビアやアルゼンチンの西境地方からチリーに至るまで、実に困難な探検旅行を遂行している。またピサロの弟ゴンサロ・ピサロは、キトーの東境からアマゾン河の上流地方に入り込み、さまざまの艱難を嘗めた。その部下のオレリャナの如きは、隊の食糧の工面をするため下江したのであったが、引返すことが出来ずそのままあの長いアマゾン河を河口まで下って行くという大旅行をやった。このような活溌な冒険的行為は、たといそこに黄金追求欲が入り混っているとしても、なお近代の世界の動きの尖端としての意義を失わないのである。
このような特徴はメキシコ征服者コルテスにも明白に現われていた。彼の征服の完成を以てその活動を閉じたのではなく、大西洋から太平洋への通路の発見や、太平洋岸の探検などにその余生を集中したのであった。かかる点から見れば、メキシコ及びペルーの征服は、ヨーロッパから西方に進んでインドやシナに達しようとした本来の運動にとっては、一つのエピソードに過ぎないとも云える。新大陸の発見はその担える意義に於ては印度航路の発見よりも遥かに大であるが、しかし西方への視界拡大の運動はそれによって喰いとめられはしなかった。今やアメリカ大陸の西に横わる大洋が未知の世界として解決を要求する。西への衝動はこの大洋を突破しなくてはならない。
征服されたメキシコとペルーとは、今やこの西への運動の基地としての意義を担い始めるのである。しかもこの太平洋への動きは|既に《ヽヽ》メキシコ征服と時を同じくして始まったのであった。それはマガリャンス(マゼラン)の世界周航である。
ヨーロッパより南西航路によって香料の島に達しようとする考は、既に一五〇三年にアメリゴ・ヴェスプッチの抱いたものであった。一五〇八年には、ビセンテ・ヤンネス・ピンソンとフアン・ディアス・デ・ソリスとがその実行にかかったが、南緯四十度で挫折した。その後間もなく一五一三年のバルボアによる太平洋の発見が強い刺戟となり、この新しい海へ大西洋から連絡をつけようという希望が湧き上って来た。一五一五年右のソリスは南アメリカに太平洋への海峡を発見し、パナマまで出ようと企てたが、ラプラタ河のあたりで土人に殺された。南西航路の打開にはピンソンやソリス以上の巨腕が必要だったのである。そこへ現われたのがマガリャンスであった。
マガリャンスのことは、既にアルブケルケのゴア攻略を語る際に言及した。彼はポルトガルの北東端の州に生れ、一五〇五年、二十四五歳でダルメイダに従ってインドに行き、一度帰国、一五〇九年にマラッカ遠征に従った。一五一〇年にはアルブケルケのゴア攻略の計画に反対してその機嫌を損い、インド洋での立身の望を絶つに至ったのである。帰国後はアフリカに地位を得ようとしてモロッコに出征したりなどしたが、思うように行かず、王の恩顧をも受けることが出来なかった。で失意のうちに隠退してコスモグラフィーと航海術との研究に専念していたが、そこへ親友セランからモルッカ諸島への航海を報ずる手紙が届いた。それによるとモルッカ諸島はマラッカから非常に遠いことになっている。そうなると、モルッカ諸島は西の半球に、即ちスペインの領分に、入っていはしないか、という疑が起る。そういう疑を天文学者ルイ・ファレイロなどと語り合ううちに、南アメリカを廻ってモルッカ諸島へ行く航路の考に到達したのであった。
この考はしかしポルトガルでは実現出来ない。スペインの領分を通るのだからである。それに加えてポルトガルの王はマガリャンスの業績も才能も認めなかった。それらの理由で彼は遂にスペインへの移住を決意し、ルイ・ファレイロやクリストヴァル・デ・ハロなどと共に、一五一七年にセビリャに来た。そうしてディオゴ・バルボサに款待され、後にその娘ベアトリスと婚するに至った。また有力な商館長フアン・デ・アランダをも同志に引き入れた。
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一五一八年の初め、マガリャンスはファレイロ、アランダなどと共に、バリャドリードの宮廷を訪ね、彼らの計画を申し出た。幾分の懸念もないではなかったが、遂に三月廿二日に至って契約が成立した。それによると、マガリャンスはスペインの半球内に行動しなくてはならない。航路を見出せば、十年間の独占を允許する。その航路はアメリカ南方の海峡を通って太平洋に出る道である。新発見の島については、収入の二十分の一を受け総督の称号や地位を貰う。また新発見の地方への遠征に対しては千デュカットの商品を以て参加することが出来る。六つ以上の島が発見せられた場合には、その内の二つを選んで収益の十五分の一を受ける。第一回航海の純益からも五分の一を受ける。等々。かかる契約の下に政府は五隻の船(一三〇噸二隻、九〇噸二隻、六〇噸一隻)及び乗員二三四名に対する二年間の食糧を提供した。マガリャンスはこの探検隊の最高権力を握ることを要求し、王より各船長以下乗員に対して総指揮官への絶対服従を命じて貰った。尤も艤装費の五分の一(四千デュカット)は、マガリャンスと共にスペインへ移住したハロが受持った。
この計画を聞いて驚いたのはポルトガル政府で、早速邪魔を入れ始めた。一方では正式にカール王へ使者を送って抗議し、他方ではセビリャのポルトガル商館長をしてマガリャンスを説得せしめたが、いずれも効を奏せず、そこで盛んに中傷宣伝をこころみた。そのため準備はいくらか遅れ、同志のファレイロも脱退するに至ったが、代りにバルボサの甥ドゥアルテ・バルボサやフィレンツェ人のアントニオ・ピガフェッタが加入した。特に後者はこの航海の記録者として著名である。
マガリャンスは一五一九年九月廿日、五隻の艦隊を率いて出発した。彼は初めより各船長に艦隊行動を取ることを厳命し、絶えず信号燈によって連絡することにつとめたが、この厳格な統率に対して最初に反抗し始めたのは旗艦(トゥリニダッド)と同じく大型のサン・アントニオの船長であった。マガリャンスはこれを拘禁して船長を代えたが、この争があとまで根を張っていたように見える。艦隊は年内にリオ・デ・ヂャネイロまで行き、翌一五二〇年一月十日にはモンテビデオに着いた。ここは前にソリスの来た南端である。二月一日から未知の南方にふみ入り、湾を一々注意深く調べながら、三月卅一日にプェルト・サン・フリアーン(49°15')まで来たが、ここでマガリャンスは|冬籠り《ヽヽヽ》の決意をした。それが船員の間に不平を呼び起し、それに乗じて前述の争が遂に勃発したのである。
謀叛の起ったのは四月一日の夜であった。中型船コンセプションの船長が先ず拘禁中の前述の船長を解放し、この拘禁船長が頭となって、もとの自分の船サン・アントニオの新船長を襲い、この船を奪回したのである。中型のヴィクトリアもこれに味方した。で翌朝にはマガリャンス方二隻、謀叛船三隻の形勢となった。マガリャンスは船長たちを召集したが、逆に向うからサン・アントニオへ来て貰いたいという返事を受けた。そこへ謀叛者たちが集まっていたのである。マガリャンスは隙を見て腹心のものをヴィクトリアに派し、船長を殺して船を奪回せしめた。次でその夜、サン・アントニオが錨綱を離れて流されて来た機会を捕え、いきなり大砲を打ちかけてこの大型船の中へ兵隊を突撃せしめた。謀叛船長たちは皆捕縛された。特にコンセプションの船長は斬罪に処せられた。こういう騒ぎが、目ざす海峡に僅か二百海里のところで演ぜられたのである。
マガリャンスはその後、この海峡に近いところで五カ月の間冬籠りした。南緯七五度まで行ってなお海峡が見つからなければ引返そうというのが彼の主張であったから、まだまだ高緯度の寒い地方へ深く突入する覚悟で、じっくり腰を落ちつかせていたのである。やがてその腰を上げようとする前に、小型のサン・チャゴを先発させたが、この船はサンタ・クルス(50°)で難破し、乗員たちは辛うじて帰って来た。でそれらを残りの四隻に分乗させ、一五二〇年の八月末に出発、サンタ・クルスに至って船の修繕にかかり、十月十八日にいよいよ南航の途に上った。そうして海峡の入口、|処女の岬《カプ・ビルゲネス》についたのが、三日後の二十一日なのである。
この海峡はフィヨルド風の断崖で、長さは六百粁、東部、中部、西部などで様子が変っている。東部は狭い海峡を通ると中が開けて湖のようになり、また狭い海峡に来てその奥が開ける。岸にはあまり湾入がなく、地質は新生代で、ほぼ等高の山脊が連り、樹木はない。中部から西は花崗岩と緑岩で、山は千米以上、時には二千米を超え、岸に湾入が多くなる。西部は狭い海峡になっている。いずれも樹木は多い。
マガリャンスはこの入口で、サン・アントニオとコンセプションとを偵察に出した。一隻は湾に過ぎないと報告し、他の一隻は、狭まりの奥に広い湾があり、更に次の狭まりの奥にも広い湾があって、いずれも投錨出来ぬほど深い、恐らく海峡であろうと報じた。これは三日目のことであった。マガリャンスは事の重大性を察して、船長やパイロットたちを召集し会議を開いた。食糧はあと三カ月しかない。この時サン・アントニオのパイロットのエステバン・ゴメスは帰航を主張した。もう海峡は発見されたのだから、一度スペインへ帰り、一層完全な準備を整えて、世界周航の企てを遂行するがよい、と云うのである。マガリャンスは、峠を越したところで引返すという法はない、王との約束は守らなくてはならない、と強硬に主張し、翌日出発の用意を命じた。
海峡の途中、大陸の南端近くで、彼は再び二隻を偵察に出し、あとの二隻は魚を漁って食糧の補給に努めることとした。ゴメスの操縦するサン・アントニオは、満帆を張って南東へ入り込んだ水路を突進して行った。そこの探検に行ったものと考えたコンセプションは、同じ水路を巡航してサン・アントニオの帰るのを待っていたが、遂に現われて来なかった。ゴメスは、マガリャンスの忠実な部下である船長を押しこめて、そのままスペインを目指し、途中置いてきぼりの謀叛船長を拾い上げて、帰国して了ったのである。コンセプションは北西への海峡を探検して、三日後に、西の出口まで到達したという報をもたらした。マガリャンスはこの吉報を喜ぶと共にサン・アントニオの失踪を憂え、その捜索にヴィクトリアを派遣したりなどしたが、見つかるわけもなかった。
十一月廿一日、マガリャンスは、残りの船に回状をまわして帰航か前進かの意見を求めた。天文学者マルティンの意見はやや悲観的であったが、前進に反対はしなかった。翌日マガリャンスは前進の命令を発した。そうして昼間だけ航海し、夜は碇泊した。一隻だけ先駆させたが、この船は五日目に出口到達を知らせた。かくて十一月廿八日、マガリャンスの船隊は、海峡に進入してから三週間で太平洋に出た。待ち合せの日を除くと、正味十二日間である。
マガリャンスは海峡を出てから針路を北にとった。南緯四七度まで北上してもなおパタゴニアの山々が見えた。更に三七度まで北上して、いよいよ太平洋をのりきるために、針路を|北西に《ヽヽヽ》向けた。そうしてパウモツ諸島とマルキーズ諸島との間を通って、四十日間島影を見なかったが、その間毎日順風が続いた。太平洋(mar pacifico)という名はこの時に与えられたのである。一五二一年一月廿四日に至り南緯一六度一五分のところで初めて無人島に接した。更に十一日を経て二月四日に一〇度四〇分のところで再び無人島を見出し、二日間碇泊して漁獲に努めた。食糧の欠乏が甚しかったからである。ピガフェッタの語るところによると、三カ月と二十日間、新鮮な食糧なく、遂には皮革や鼠などを食った。「神とその聖母とが好天気を恵み給わなかったならば、我々はすべて餓死したであろう。」
一五二一年二月十三日、マガリャンスは赤道を超えた。西経一七五度のあたりである。それから十一日間北西に針路を取って北緯一二度まで達したという。ギルバート諸島とマーシャル諸島との間を通りぬけたわけである。そこで航路を西に転じて、三月六日、マリアナ(ラドロナ)諸島に達した。目標たるモルッカ諸島が赤道下にあることを知っていながらかく北へ迂回したのは、ポルトガル船を避けて休養と修繕の地を見出そうとしたのである。ここではグァム島とサン・ローザ島をまず見出した。これらの島には極めて軽快に走る帆舟が群っていて、前へも後へも矢のように走っていた。そういう舟が頻りにスペイン船へ近づいて来て船のものを盗んだりなどしたために、ラドロナ(盗み)という名がつけられたのである。ここに三日ほど碇泊したが、土人の盗みを憤って村を焼き七人ほど殺した。かくマガリャンスが日本に最も接近して来た丁度その時期に、メキシコではコルテスが最後の攻撃の準備をほぼ整えていたのであった。
ここから西航してサン・ラザロ島(即ちフィリッピン諸島)に着いたのであるが、最初上陸したのは、サマル島の南の小島スルアン島であった。水を積み込み病人を休養させるためである。土人との間は友交的であった。酋長は絹の鉢巻き、金糸繍のサロンというマライ風俗でやって来た。そこから南西に航してミンダナオ島とレイテ島の間の小島のリマサガ(マサゴア)に立ち寄りミサを行ったが、この島のラヂャはスペイン人を北西セブ島に案内して行った。セブの商人は既にポルトガル人と貿易を行っていたからである。セブの君公はスペイン人たちを非常に優遇し、八日の後には数百の島人と共に洗礼を受けたという。この地に来ていたアラビア商人は、カリカットやマラッカの征服を説いて彼に警告したが、マガリャンスはそれを圧倒した。そのセブの君公は近隣諸島の征服を志していたが、東岸のマタン(マクタン)島は未だ服していなかった。この事情を聞いたマガリャンスは、自分たちの武器の優秀さを見せて土人たちを心服せしめようと考え、マタン島の討伐を企てた。セブの君公が兵隊を出そうとするのを断り、彼はただ五六十人のスペイン兵を率いて、三隻のボートで島に行ったのである。然るに上陸して見ると敵は案外に優勢であった。スペイン兵の銃撃を楯で防ぎながら、攻撃に転じて肉迫してくる。矢と石が雨のように降りかかる。マガリャンスは遂に毒矢に中った。そこで彼は退却の命令を出したのであったが、味方は崩れて逃走におちてしまった。ただ七八人の勇敢な部下だけが彼を守った。敵の攻撃はこの司令官に集中した。彼は最後まで敢闘したが、遂に斬倒された。彼と共にスペイン人八名受洗土人四名も戦死した。彼の屍は遂に取り返すことが出来なかった。これは一五二一年四月末、マガリャンス四十一歳の時のことであった。丁度この同じ日にメキシコではコルテスの湖上艦隊が進水したのであった。
ヨーロッパより西に向って遂にアジアに到達することの出来たこの偉大な業績に比べて、彼の最後はいかにも気の毒な失策であった。これを見てセブの土人の気持は急に変ってしまったのである。外来人の優越はもはや認められなかった。そこで計画されたのが宴会の席上で目ぼしいスペイン人を鏖殺することであった。被害者は二十四人であったが、その中に最初からのマガリャンスの片腕ドゥアルテ・バルボサ、同じく腹心のフアン・セラノ、天文学者サン・マルティンなどがあった。助かったのは、負傷のため招待に応じなかったピガフェッタや、疑懼のため行かなかったロペス・デ・カルバリョなどであった。カルバリョは凶報を受けると共に即座に抜錨して陸からの攻撃に備えた。生捕られたセラノの身代金の交渉にさえも応じなかった。
こうしてセブ島を逃げ出したものの、乗員はもはや不足である。で三隻のうち最も破損のひどいコンセプションをボホル島で焼き、トゥリニダッドはカルバリョが、ヴィクトリアはゴンサロ・バス・デスピノーザが、指揮を取って、南ミンダナオ島のカガヤン、更に北西パラワン島などを廻り、アラビア人の手引きによって南方ボルネオのブルネイを訪れたりなどした。そうしてそこから引返してモルッカ諸島のティドールについたのが、一五二一年の十一月八日、セビリャ出発後二年三カ月であった。
ティドールのラヂャはスペイン人を款待し、都合のよい通商条約を結んでくれた。スペイン人がポルトガル人よりも高く香料を買ったからである。ポルトガル人はテルナーテに根拠地を作っていたが、スペイン人はそこへ友交的な会見を申込んだ。ポルトガル人は初めそれを断ろうとしたが、遂に承諾して会いに来た。十年前最初の船で来た商館長アフォンソ・デ・ロウロサである。彼はポルトガル王がマガリャンスの遠征隊を妨害すべき命令を発したこと、インド総督セケイラがマガリャンスの艦隊を撃退するため六隻の軍艦をモルッカ諸島に派遣しようと企て、対トルコ戦のため中止したことなどを語った。ロウロサ自身はスペイン船に便乗して故国へ帰りたがったほどであるが、国家的には烈しい敵対関係が醸されつつあったのである。
スペイン船は十二月中ばまで積荷にかかった。十六日には出発の予定であったが、突然旗艦トゥリニダッドが洩水を始め、容易に修繕することが出来なかった。そこで二十一日にヴィクトリアのみが帰国の途に上ることになった。船長はセバスチアン・デル・カノ、乗組は白人四七名、インド人一三名であった。かくてブル島、チモル島を経て直ちにインド洋に出で、一五二二年三月中旬にはインド洋の真中のアムステルダム島、五月上旬にはアフリカ南岸のフィッシュ河、同月中にひどい嵐の中で喜望峰を廻り、食糧の欠乏に苦しみながら、七月九日、やっとカボヴェルデ諸島に着いたが、この間に二十一人死んだ。窮迫のあまり、ポルトガル官憲に押えられる危険を冒してサン・チャゴ島に上陸したが、この際最も驚いたことは、|船内の日附が一日遅れている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことであった。ピガフェッタはこのことを特筆している。自分は日記を毎日つけて来たのであるから日が狂う筈はない。しかも自分たちが水曜日だと思っている日は島では木曜日だったのである。この不思議はやっと後になって解った。彼らは|東から西へと地球を一周したために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、その間に|一日だけ短かくなった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のであった。
この島ではやがて彼らの素姓が見あらわされた。三度目にランチが陸についたとき、乗組十三名はいきなり捕まって了ったのである。デル・カノは即座に抜錨して逃げた。そうして九月六日に本国についた。|生存者は十八名に過ぎなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。しかしこの世界周航が世間に与えた影響は非常なものである。ピガフェッタは全航海の自筆日誌を王に捧げた。これがマガリャンスの偉大な業績を世界に対してあらわにすることとなった。かくして最初の世界周航は、|スペイン《ヽヽヽヽ》国の仕事として一人の|ポルトガル《ヽヽヽヽヽ》人によって遂行され、右の|イタリア《ヽヽヽヽ》人によって記録されたということになる。これは近世初頭のヨーロッパの尖端を綜合した仕事といってよい。
マガリャンスの仕事は太平洋をスペイン人の活動の舞台たらしめた。その第一歩は既に右の最初の世界周航の中からふみ出されている。マガリャンスの乗船であったトゥリニダッドがその役者である。
香料の島ティドールに残ったトゥリニダッドは、漸く修繕を了えて、一五二二年四月六日に出発し得るに至ったのであるが、船長デスピノーザは、ヴィクトリアのあとを追わず、太平洋を横断して帰航することを企てたのである。乗組はヨーロッパ人五〇名、土人の水先案内二名であった。ティドールから先ず北へ向い、やがて北東へ針路を転じたが、風向きが悪く、航路を外れて北緯四二度まで上った。こうして数カ月の間あちこちと吹き廻わされ、寒さと食糧の欠乏と病死とに悩まされ続けたが、遂に五日つづきの暴風で船首上甲板と主檣《メーンマスト》とをとられ、止むを得ずモルッカ諸島へ引返して来た。来て見るとテルナテ島にはポルトガル人が要塞を築いている。ティドールではそれに近過ぎるので、ハルマヘラの岸へ避難し、そこからポルトガルの司令官に救援を哀願した。かくて十月頃、残存十七名のスペイン人はテルナーテに運ばれ四カ月拘禁、更にバンダで四カ月、マラッカで五カ月、コチンで一年留められた。その間に次から次へと死歿し、リスボンに着いた時には|三人のみ《ヽヽヽヽ》となった。ここでも七カ月の拘禁後に釈放されたのである。かくしてマガリャンスの隊員二三九名中、帰国し得たものは合計二十一名に過ぎなかった。
右の如く太平洋での活動の第一歩は挫折したが、しかしマガリャンスの仕事は、本国に於ても|太平洋への関心《ヽヽヽヽヽヽヽ》を急激に高めたのである。政治家はその眼界を拡大した。香料の島への道は今や東向きと西向きとの二本になったのであるが、かくいずれの方向からも到達し得るとすれば、その香料の島はスペインとポルトガルとのいずれの領分に属するのであろうか。もし西廻りの近道が見出されたならば、この方が東廻りよりも短距離なのではなかろうか。かかる考慮から、カール五世はデル・カノの帰着後一年経たぬ内に、コスモグラフィーの学者たちの忠告に従って、メキシコの征服者に、中部アメリカで太平洋への通路発見の努力を熱心に続けよと命令した。また国内でも商人や企業家に制限なくモルッカ行を許し始めた。それと共に香料の島の帰属を定めようとするポルトガルとの協議も開催された。委員は両国とも法律家三人、天文学者三人、パイロット三人で、一五二四年の四月から五月末まで、国境のバダホスとエルヴァスの町で討議したが、境界線の位置も確定して居らず、半球の長さも未定であった当時に於て、明白な結果が出るわけもなかった。そうなればあとは実力で香料の島を確保するほかはない。そこでスペイン政府は有力な艦隊を太平洋に派遣することに決したのである。
この艦隊は七隻からなり乗組は四五〇名であった。司令官はガルチア・ホフレ・デ・ロアイサで、前述のデル・カノがパイロットの頭をつとめた。出発したのは一五二五年七月末、ピサロが既にペルーの第一回探検に出ていた頃である。しかしこの遠征は非常に不運であった。マゼラン海峡に達するまでに既に散々な目に逢っている。一五二六年の一月にまずデル・カノの船が難破した。二月には暴風で艦隊が離散し、内一隻は喜望峰廻りを志して行方不明、他の一隻はブラジル木材を積んで帰国してしまった。なおデ・オセスの船は南緯五五度まで流され、おのずから|南アメリカの南端《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を発見したのであったが、この時はその発見を利用せず、北上してロアイサの本隊に復帰したのであった。
ロアイサが四隻を以て海峡に入ったのは一五二六年四月六日、太平洋に出たのは五月二十五日であったが、六月一日に再び暴風に襲われ、四隻は四散してしまった。その内の最も小さい船は五十噸で、単独に太平洋を横断するほどの食糧を積んでいないため、最寄のスペイン植民地に達しようとして北上し、一五二六年七月末にテワンテペクに着いた。それによって南アメリカ大陸の西の限界が明白となったのである。前にアメリカの南端を発見したデ・オセスの船はパウモツ諸島で難破したらしく、もう一隻の船も目的地近くに到達しながらミンダナオとモルッカ諸島との間のサンヂル島で難破してしまった。かくて七隻の内、とにかくモルッカ諸島に着いたのは、旗艦一隻のみであった。しかもそれは無事にではなかった。司令官ロアイサは部下の船を失った打撃で一五二六年七月末に太平洋上で歿し、次で後継者デル・カノも八月四日にあとを追い、その後に選挙された船長は|マリアナ諸島まで《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》無事に船を導いてここで十一日間ほど休養したが、そこを出発して後間もなく九月十三日に歿した。四人目の指揮官となったバスク人マルチン・イリギエス・デ・カルキサノが、船をフィリッピン諸島、タラウト島、ハルマヘラ島と導いて行ったのである。この島のサマフォ港についた時乗組百五名中四十名が死歿していた。かくて漸く、一五二七年の元旦に、船はティドに着いた。ここではポルトガル人の圧制に対する反感から非常な款待を受け、要塞の構築なども始めたのであったが、船にはもう帰航するだけの力がなかった。その内イリギエスも歿し、あとに選ばれたフェルナンド・デ・ラ・トッレが、残存の部下を指揮しつつ後援の来るまで頑張っていたのであった。
以上の如く本国から派遣された艦隊は、最初のマガリャンスの遠征よりも反って不成績な位であった。大西洋と太平洋とを共にのり切ることがいかに困難であったかは、これによって解るのである。そこで当然人々の思いつくのは、|アメリカを基地として太平洋を横断《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》することであった。この企てに最初に手をつけたのは、ほかならぬメキシコ征服者コルテスであった。
コルテスはアルバロ・デ・サーベドラを司令官として、三隻百十名を率いて、一五二七年の末に出発せしめた。目的は|香料の島とメキシコとの連絡《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。サーベドラは途中で二隻を失いはしたが、しかし|二カ月でマリアナ諸島まで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》来た。ロアイサの船が本国からここまで十三カ月かかっているのに比べると非常な相違である。その後サーベドラはフィリッピン諸島でマガリャンスやロアイサの遠征隊の落武者を拾い、一五二八年三月末日にティドールに着いた。そこで前述のデ・ラ・トッレが既に一年以上頑張っていたのである。しかしサーベドラの隊員も三十名に減じていて、あまり援軍の用をなさなかった。そこで彼はメキシコに帰って来援を求めようと決心したのである。
西から東へ太平洋を横断しようとする企ては、前にマガリャンスの旗艦トゥリニダッドが試みて失敗したところであった。今やサーベドラがそれを繰り返すのである。彼は一五二八年六月初めに出発してニューギニアの北岸を経、カロリン諸島を航したが、逆風でマリアナ諸島より先へは出られなかった。で一先ず十月にティドールへ引き返した。翌一五二九年三月、彼は再挙を計ってマーシャル諸島に達し、そこから北東へ北緯二七度まで行ったが、そこでサーベドラは歿した。船はなお行進をつづけたが三〇度に至って逆風に押し返され、遂にその年の秋の末にハルマヘラに帰着した。そうしてポルトガル人に捕えられマラッカへ連行されたのである。
本国ではこの年の四月にカール五世が三十五万デュカットを受けて香料の島への要求権を放棄した。ポルトガル側も太平洋の方からポルトガルの領分へ迷い込んだ船は敵視しないと誓った。そういう解決の結果、ティドールに頑張っていたデ・ラ・トッレ以下十六人は、一五三四年本国へ送還されることになり、途中半分に減じて一五三六年に帰着した。その中にデ・ラ・トッレ及び香料の島の報告を書いて有名なパイロット、アンドレアス・|ウルダネタ《ヽヽヽヽヽ》が混っていたのである。
が太平洋を|アメリカとアジアの間の《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》通路としようとする活動はこの妥協によっても止まりはしなかった。むしろそれはコルテスによって始められたばかりの新しい運動だったのである。コルテスが二度目に派遣したのは、エルナンド・グリハルバを隊長とする二隻の探検隊であった。これは一五三六年にピサロの救援の需めに応じてペルーに送ったものであるが、ペルーで用事をすませた上は、南アメリカの西岸からアジアへ向って航海せよとの命令を与えて置いたのである。グリハルバは赤道附近の海を西に向つた。いくら行っても島影は見えなかった。もうメキシコに帰航しようと考えたが、逆風でどうしても引返せない。でそのまま風にのってニューギニア近くまで行き、メラネシア人の島で難破してしまった。後に数名の生存者がポルトガル人に救われてこの航海の消息が解ったのである。
コルテスの如上の試みはやがて数年後に大規模の探検隊にまで成長した。一五四二年十一月、メキシコ副王アントニオ・デ・メンドーサは、六隻の艦隊を西に向って出発させたのである。隊長はルイ・ロペス・デ・ビリャロボスであった。彼はほぼ真西に進んでマーシャル諸島を通り中部カロリン諸島に突き当った。一五四三年一月末には、パラオ諸島を通ってフィリッピンに着いた。この場合にも太平洋横断は二カ月余で成功している。
ビリャロボスは二月二日にミンダナオに上陸し、一カ月ほど滞留して植民地建設を企てたが、気候は悪く土人は抵抗し、思うように行かなかった。で食糧を得るたあにミンダナオとセレベスとの間の小島を経巡って見たが、そこでも土人の抵抗は絶えなかった。遂に数カ月の後には食糧を得るために小さい船をカロリン諸島へ派遣したほどである。
がそれと共に彼はベルナルド・デ・ラ・トッレの指揮するサン・フアンを報告のためメキシコに向けて出発せしめた。その報告書の中で彼は、当時のスペイン皇太子の名を取ってこの諸島をフェリピナスと名づけた。これがフィリッピン諸島の名の始まりである。がこの時デ・ラ・トッレの太平洋帰航が成功したのではない。彼は八月末サマル島を出発して北東へ向い、北緯二五度のところで硫黄島を発見、更に三〇度まで行ったが、水の欠乏のため止むなくフィリッピンに引き返したのである。
その間にビリャロボスは、フィリッピン占領に対してポルトガル側からの抗議を受け、それを弁明するためにモルッカ諸島へ行った。食糧の欠乏や乗員の死亡のためポルトガル人と争うだけの元気はなかったのである。彼はただメキシコよりの救援に望をかけていた。そこヘサン・フアンが引返して来たのであるが、しかし彼はその望を絶たず、一五四五年五月に、今度はデ・レーテスを船長として、再びサン・フアンを出発せしめた。レーテスはハルマヘラを廻って南東へ針路をとった。でニューギニアの北岸に触れつつ、六月から八月へかけて二カ月間悪天気と戦った。その間薪水のためにしばしば上陸し、黒人の小舟に襲撃されたりなどした。ニューギニアの名はレーテスがつけたのである。かくてレーテスはもう少しでニューブリテン諸島へつくところまで来たが、ここで針路を北に転じた。その内乗員の間に不平が起り、止むなく引返して十月初めティドールに帰着した。
ビリャロボスは二度の失敗によって太平洋からの救援に絶望した。もはや全艦隊を以てポルトガル人に降服するほかはない。丁度新任のポルトガル知事が強硬な態度を取り始めた機会に、彼はそれを実行した。そうして送還の途中、一五四六年四月、アンボイナで歿した。一四四名の乗員は一五四八年にヨーロッパに帰った。
以上の如き失敗にも拘らず、フィリッピン植民の計画は放棄されなかった。カール五世についでフェリペ二世が立つと共に、その名を負う諸島の経綸も力強く押し進められた。ポルトガルの抗議は顧慮するに当らない。ポルトガルは、モルッカ諸島までの勢力維持が精一杯で、それから先への拡張の余力などはもうないのである。その上フィリッピンの植民は、貿易上の巨利などを約束せず、土人への福音伝道を目ざしている。従ってそこへ手をのばしてもポルトガルの利益を損うことにはならない。そうスペイン人たちは考えたのであった。
そこで一五五九年に、メキシコ副王ルイス・デ・ベラスコは本国から艦隊建造の命を受けた。この時政府が大きい望をかけていたのは|ウルダネタの協力《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。ウルダネタは本国から派遣したロアイサの艦隊で最後まで生き残った一人、南洋のことには詳しい。その上優れたパイロットである。一五五二年アウグスチノ会の僧団に入り、メキシコの僧院に隠居していた。そこへ新らしい遠征隊への招聘がもたらされると、ウルダネタは喜んで承諾した。というのは、未だ知られていない南洋の大陸を発見したいとの念が、この隠遁僧の心の中になお生きていたのである。伝道のためには同じ僧団の仲間を四人連れて行くことにした。かくて準備に数年を費し、一五六四年十一月四隻の艦隊を以てメキシコ西岸から太平洋にのり出した。司令官は、ミゲル・ロペス・デ・|レガスピ《ヽヽヽヽ》であった。
レガスピの受けた命令は、ビリャロボスの航路を蹈襲し、出来るだけ早くフィリッピンに着けということであった。そうしてそれは命令通りに実行されたのであるが、途中で艦隊にはぐれた小さい船の一隻は、そのために反って思いがけぬ偉功を立てることになった。それはフィリッピン諸島にふれた後に、暴風に流されて遠く北方に出で、|北緯四〇度よりも北で太平洋を東へ横断し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、メキシコへ帰って来たことである。それは偶然ではあったが、最初にトゥリニダッドが失敗して以来、コルテスの派遣したサーベドラや、ビリャロボス配下のデ・ラ・トッレ、レーテスなど、悉く失敗しつづけていた東への横断航路が、ここに見出されたのであった。
レガスピは一五六五年二月三日にフィリッピンヘついた。土人の敵意のため補給が困難であったが、ボホル島に到って漸く食糧を得ることが出来た。次で四月末にはセブ島を占領した。セブの王は既にマガリャンスの前でスペイン王への忠誠を誓ったからである。レガスピの経綸はセブ人たちを帰服せしめた。
その後に起った大事件は、|ウルダネタの帰航《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。前に偶然に行われた東への太平洋横断を、ウルダネタは計画的に遂行した。彼の考によると、熱帯圏には不断の貿易風が東から西へ吹いているが、高緯度のところへ出れば、大西洋と同じく西から東への風を期待し得るであろう。で彼はフィリッピンから北東へ四三度までのぼり、四カ月の航海を以て一五六五年十月三十日、無事にアカプルコに着いた。この科学的に考えられた航路が、この後太平洋の大道となったのである。ここでフィリッピンとメキシコとの交通が確実となり、|アメリカとアジアとの間の《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》通路は打開されたのである。ウルダネタはこの航海の報告を本国へもたらした後、再びメキシコの僧院に帰住し、一五六八年に歿した。
フィリッピンに於けるレガスピは、右の如き航路打開の結果、メキシコとの連絡容易となり、一五六七年八月に二隻の来援を受けた。これだけの勢力があればポルトガルの圧迫に対抗することが出来る。モルッカ諸島にあるポルトガルの知事は、軍隊の力を以てスペインの植民地を覆滅しようと試みたが、成功はしなかった。しかしセブの植民地はモルッカ諸島に近すぎ、奇襲の危険に曝されている。フィリッピン植民の根拠地はもっと遠隔の地に移さなくてはならぬ、とレガスピは考えた。そこへ再びメキシコから来援軍が到着し、レガスピは総督に任命された。でレガスピは一五七〇年にルソン島を攻撃してマニラ村を征服し、そこに要塞を築いた。こうしてフィリッピン植民地の基礎を築いた後、レガスピはこの地に於て一五七二年八月に歿した。
ヨーロッパから西への衝動はアメリカを超え、太平洋を超えて、遂にアジアの岸にまで到達したのである。
メキシコが右の如く太平洋通路打開の根拠地とされていたのに対して、ペルーは南太平洋に於ける発見の根拠地となった。
未だ知られざる南洋の大陸はウルダネタの心を衝き動かしていたのみではない。西からの太平洋横断に失敗したレーテスが、ニューギニアの北岸を発見して以来、この未知の大陸への関心は一般に高まって来た。人々はこの陸地がマゼラン海峡の南側のフェゴ島とつながっていはせぬかとさえ考えた。この南洋の大陸を見出す仕事がペルー総督に課せられていたのである。
この仕事の先駆者であるフアン・フェルナンデスは、チリーのサンチャゴの西方に島を見つけた。その島は発見者の名を負うているが、そこへ十八世紀の頃にイギリスの水夫アレキサンダー・セルカークが漂着し、その体験譚がダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』となったのである。
一五六七年にペドロ・サルミエントは南洋の大陸の探検を申し出た。ペルー総督はアルバロ・デ・メンダニャ将軍に二隻の遠征隊の指揮を命じた。サルミエントは旗艦の船長として同行した。上席パイロットはエルナン・ガリェゴであった。同年十一月廿日リマの港カリャオを出発、|南西に《ヽヽヽ》針路を取った。しかし一七〇レガほど進んだところで将軍は自信をなくしたと見え、北に転針した。サルミエントがいくら抗議してもきかなかった。八日後に南緯一四度まで北上した時、サルミエントは再び南西に向うことを要求したが、これもきかれなかった。南緯五度まで行ったとき、漸く将軍はサルミエントの主張に従って西南西《ヽヽヽ》に転針した。かくて翌一五六八年一月十五日にイェス島に着き、更に南緯六度を西へ航して、二月七日ソロモン諸島に突き当った。最初の島はイサベル島と命名された。そこには豚や鶏が飼われて居り、好い木材もあった。金の痕跡もないではなかった。それを誇大して考えたスペイン人たちは、遂に|ソロモン王のオフィル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に到達したと信じて、ここの諸島をソロモン諸島と命名するに至ったのである。人々は初めこの地を南洋の大陸の一部と考えたが、五月八日まで滞留する内に島であることを踏査した。次でサン・クリストバル島を発見した。ここでサルミエントは南方へ航することを熱心に要求したが、将軍はそれを斥け、九月四日北方航路によって帰路についた。南カリフォルニアのサンチャゴに着いたのが翌一五六九年の一月末、ペルーへ帰着したのは三月であった。
ソロモン諸島まで来ても南洋の大陸の謎は解かれなかった。第二回探検はずっと遅れて三十年後であった。この時には南太平洋の多くの島々を発見しはしたが、しかしサンタ・クルス諸島まで来てソロモン諸島には達しなかった。第三回探検は更に十年の後であったが、この時にはニューヘブライヅ諸島を発見すると共に、隊にはぐれたルイス・バエス・デ・トルレスの船が、ニューギニアの南を通ってモルッカ諸島へ出たのである。この時トルレスは初めてオーストラリアの北端にも触れたわけであるが、彼はその意味を解しなかった。トルレス海峡を発見したこと自体も十八世紀の中頃までマニラの文書館に埋もれていた。従ってトルレス海峡の名はずっと後につけられたのである。
以上の如きが十六世紀中頃の太平洋の情勢であった。南洋の大陸はまだ見出されないが、しかし南はソロモン諸島より北はマーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島に至るまで、西太平洋の島々はスペイン船の勇敢な探検の舞台となっていたのである。|視界拡大の運動は遂に地球を一周した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。この点から見れば、東へ向う運動がモルッカ諸島に至り、西へ向う運動がフィリッピン諸島に至って、ここに接触点を形成したことは、十五世紀以来一世紀に亘る世界史の大きい動きが、ここで一先ず結論に到達したことを意味する。
これは新しい時代の開始である。世界はここで初めて|一つの視界の中に《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》はいって来た。それはまだ単に輪郭的に過ぎず、その内部に多くの未知の部分を残してはいたが、しかし円環は出来上ったのである。これは人倫的な意味に於て|一つの世界《ヽヽヽヽヽ》が出来上るための第一歩《ヽヽヽ》と云わなくてはならぬ。そこに見出されたのはさまざまの異った民族、さまざまの異った国家であって、それらの間には何らの統一もなく、むしろ敵対関係の方が多かった。しかしこれらが一つの組織にまとまってくるためには、まず第一にそれらが一つの視界に入り込まなくてはならぬ。四百年後の今日に人類の最大の問題として取り上げられている国際的組織の問題は、まずこの時に、世界史上初めて、その芽を出したのである。勿論その当時に於てはこの芽が、即ち|一つの視界《ヽヽヽヽヽ》が、何に成長して行くかは解らなかった。征服者たちの態度はむしろ合一と反対のものを示していた。しかし人倫的合一はどの段階に於ても常に「私」を媒介とする。一つの視界の中にはいって来た世界が、一つの人倫的な組織にまで成長するためには、数多くの否定を重ねなくてはならなかったし、またならないであろう。その艱難な道の出発点としての視界《ヽヽ》がここに初めて開けたのである。
丁度その時代に、ニコラス・コペルニクスが現われて、ここに始まった時代を力強く性格づけた。彼の生れたのは、ヘンリ航海者の歿後十三年、一四七三年で、歿したのは前述のメキシコ艦隊がまっすぐ西に太平洋を横断した年、即ち一五四三年であった。クラカウ大学で学んだ後、イタリアに行き、ボロニャやパドゥアの大学で三十二歳の頃まで研究につとめたが、地動説を考え始めたのはドイツに帰ってハイルスベルクの司教《ビシヨフ》になってからである。彼はその説をただ親しい学者にのみ打ちあけたらしい。その原理を書いた論文もただ手写によって拡まっていた。が学界に於ては追々に注意を引き、一五三九年にはレティクスの弟子入り、翌年にはコペルニクスの労作についての発表などがあった。コペルニクスも遂に友人や弟子たちの懇請に負けて著書の発表を決意し、レティクスがその原稿をニュルンベルクに持って来て印刷に附した。しかし書物が出来るまでに彼は歿したのである。それはむしろ彼にとって幸福であったろうと云われる。何故ならレティクスは、彼の信頼を裏切り、周囲の非難を怖れて、地動説は|単なる仮説に過ぎぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という序言を勝手に附加したのだからである。ルターやメランヒトンなどもこの説を嫌った。ローマの教会でも追々に反対の気勢が現われ、一六一六年にはガリレイの騒ぎをきっかけとしてコペルニクスの書は禁書《ヽヽ》の中に入れられた。それが一般の承認を得るまでにはまだまだ年月の経過を必要としたのである。しかしコペルニクス自身にとっては地動説は単なる仮説ではなくして証明された事実なのであり、そうしてそこに世界に対する全然新しい視界が開けていた。それが容易に一般の承認を得難かったのは、この新しい視界があくまでも精神的な視界――即ち数学的な合法性に従って把捉された視界――であって、単なる感覚的な視界でなかったことに基くであろう。勿論その基礎には実験があり、従って多くの艱難忍苦の経験《ヽヽ》が堆積しているのであるが、しかしそのような感覚的経験を活かして自然の真相に迫り得たのは、ただただ合理的な思索の力なのである。航海者たちに|地球を巡る《ヽヽヽヽヽ》ことを可能ならしめたと同じ力が、ここでは太陽系の把捉に成功せしめたのであった。それは新大陸の発見《ヽヽ》に比して決して劣ることのない重大な発見《ヽヽ》なのである。
かかる発見と時を同じゅうしてヨーロッパの精神界には更にもう一つ極めて重大な革命が、即ち宗教改革が、行われつつあった。その波は反動改革《ヽヽヽヽ》の形で、ヤソ会のシャビエルの姿において、|メキシコ艦隊の太平洋横断よりも先に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、すでにゴアにまで達していた。そうしてそのシャビエルは、フィリッピンの植民が成功するよりも前に、すでに日本に来ていたのである。
和辻哲郎(わつじ・てつろう)
一八八九―一九六〇。近代日本を代表する哲学者、倫理学者。兵庫県に医家の次男として生れる。一九一二年、東京大学哲学科卒業。東洋大学、法政大学、慶応大学で教鞭を執り、一九二五年、京都大学で倫理学を担当、一九三四年より東京大学教授。「和辻倫理学」とよばれる独自の倫理学を形成するとともに、文化史家・思想史家としても多彩な活動を行なった。一九五五年、文化勲章受章。著書に、『古都巡礼』『日本精神史研究』『風土―人間学的考察』『人間の学としての倫理学』『倫理学』他、多数。
本作品は一九五〇年四月、筑摩書房より刊行され、一九六四年五月、筑摩叢書に収録された。