和辻哲郎
埋もれた日本
目 次
第一部
巨椋池の蓮
京の四季
二条離宮の障壁画
新しい様式の創造
第二部
『菊と刀』について
若き研究者に
埋もれた日本
第三部
漱石に逢うまで
漱石の人物
藤村の思い出
藤村の個性
露伴先生の思い出
歌集『涌井』を読む
杉先生の思い出
太田正雄君の思い出
野上さんのこと
児島喜久雄君の思い出
第四部
われわれの立場
民族的存在の防衛
私の信条
あとがき
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第一部
巨椋《おぐら》池の蓮
蓮の花は日本人に最も親しい花の一つで、その大きい花びらの美しい彎曲《わんきよく》線や、ほのぼのとした清らかな色や、その葉のすがすがしい匂いや肌ざわりなどを、きわめて身近に感じなかった人は、われわれの間にはまずなかろうと思う。文化の上から言っても蓮華の占める位置は相当に大きい。日本人に深い精神的内容を与えた仏教は、蓮華によって象徴されているように見える。仏像は大抵《たいてい》蓮華の上にすわっているし、仏画にも蓮華は盛んに描かれている。仏教の祭儀の時に散らせる華は、蓮華の花びらであった。仏教の経典のうちの最もすぐれた作品は妙法|蓮華経《ヽヽヽ》であり、その蓮華経は日本人の最も愛読したお経であった。仏教の日本化を最も力強く推し進めて行ったのは阿弥陀《あみだ》崇拝であるが、この崇拝の核心には、蓮華の咲きそろう浄土の幻想がある。そういう関係から蓮華は、日本人の生活のすみずみに行きわたるようになった。ただに食器に散り蓮華があるのみでない。蓮根は日本人の食う野菜のうちのかなりに多い部分を占めている。
というようなことは、私はかねがね承知していたのであるが、しかし巨椋池のまん中で、咲きそろっている蓮の花をながめたときには、私は心の底から驚いた。蓮の花というものがこれほどまでに不思議な美しさを持っていようとは、実際予期していなかったのである。
それはもう二十何年か前のことである。そのころ京都にいた谷川徹三君が、巨椋池の蓮の話をして、見に行かないかとさそってくれた。私はそれほどの期待もかけず、機会があったらと頼んでおいたのであったが、たしか八月の五六日ごろのことだったと思う、夜の九時ごろに谷川君がひょっこりやって来て、これから蓮の花を見に行こうという。もう二三日すれば、お盆のために蓮の花をどんどん切って大阪と京都とへ送り出すので、その前の今がちょうど見ごろだというわけであった。それでは落合太郎君もさそおうではないかと言って、そのころ真如堂《しんによどう》の北にいた落合君のところを十時ごろに訪ねた。そうして三人で町へ出て、伏見に向かった。
谷川君が案内してくれたのは、伏見の橋のそばの宿屋であった。もう夜も遅いし、明朝は三時に起きるというのでその夜はあまり話もせずに寝た。
寝たと思うとすぐに起こされたような感じで、朝はひどく眠かったが、宿の前から小舟に乗って淀川《よどがわ》を漕《こ》ぎ出すと、気持ちははっきりしてきた。朝と言ってもまだまっ暗で、淀川がひどく漫々としているように見える。それを少し漕ぎ下ってから、舟は家と家との間の狭い運河へはいって行った。運河の両岸の光景は暗くて何もわからない。そういうところを何十分か漕いで行くうちに、だんだん左右が開けてくる。巨椋池の一端に達したらしいが、まだ暗くて遠くは見晴らせない。そういうふうにしていつとはなしに周囲が池らしくなって来たのである。
舟はもう蓮の花や葉の間を進んでいる。その時に、誰いうともなく、蓮の花の開くときに音がする、ということが話題になった。一つ試してみようじゃないか、というわけで舟を蓮の花の側に止めさせて、今にも開きそうな蕾《つぼみ》を三人で見つめた。その蕾はいっこう動かないが、近辺で何か音がする。蓮の花の開く時の音はポンという言葉で形容されているが、どうもそれとは似寄りのない、クイというふうな鋭い音である。何だろうとその音のする方をうかがって見たりなどしながら、また目前の蕾に目を返すと、驚いたことには、もう二ひら三ひら花弁が開いている。やがてはらはらと、解けるように花が開いてしまう。この時には何の音もしない。最初二ひら三ひら開いたときには、つい見ていなかったのではあるが、しかし側にいたのであるから、音がすれば聞こえたはずである。どうも音なんぞはしないらしい。
それでは、さっきの音は何であろうか。また舟を進めながら、しきりに近くの蕾に注意していると、偶然にも、最初の一ひらがはらりと開く場合にぶつかることがある。いかにもなだらかに|ほどける《ヽヽヽヽ》のであって、ぱっと開くのではない。が、それとは別に、クイというふうな短い音は、遠く近くで時々聞こえてくる。何だかその頻度《ひんど》が増してくるように思われる。それを探すような気持ちであちこちをながめていると、水面の闇がいくらか薄れて来て、池の広さがだんだん目に入るようになって来た。
私たちのそういう騒ぎを黙って聞いていて口を出さない船頭に、一体音のすることがあるのかと聞いてみると、わしもそんな音は聞いたことがないという。蓮の花は朝開くとは限らない。前の晩にすでに開いているのもある。夜中《よなか》に開くのもある。明け方に音がするというのは変な話だという。そういわれてみると、蓮の花が日光のささない時刻に、すなわち暗くて|人に見えず《ヽヽヽヽヽ》また|人の見ない《ヽヽヽヽヽ》時刻に、開くのであるということ、そのために常人の判断に迷うような伝説が生じたのであるということが、やっとわかって来た。もちろん、日光のほかに気温も関係しているであろう。右のような時刻には、外気が冷たくなり、蕾の内部の気温との相対的な関係が、昼間と逆になるはずである。何かそういう類の微妙な空気の状態が、蓮の開花と連関しているのかも知れない。その点から考えると、気温の最も低くなる明け方が、最も開花に都合のいい時刻であるかも知れない。しかしそれにしても、あの妙な音は何だろう。それを船頭にただしてみると、船頭は事もなげに、あああれだっか、あれは鷭《ばん》どす、鷭が目をさましよる、と言った。
そういうことに気をとられているうちに、いつか舟はひろびろとした池の中に出ていた。そうしてあたりの蓮の花がはっきりと見え出した。夜がほのぼのと明け初めたのである。その変化はわりに短い時の間に起こったように思われる。ふっと気がついて見ると、私たちは見渡す限り蓮の花ばかりの世界のただ中にいたのである。
蓮の花は葉よりも上へ出ている。その花が小舟の中にすわっているわれわれの胸のあたり、時には目の高さに見える。舟ばたにすれすれの花から、一尺先、二尺先、あるいは一間先、二間先、一面にあの形の整った、清らかな花が並んでいるのである。舟の周囲、船頭の棹《さお》の届く範囲だけでも何百あるかわからない。しかるにその花は、十間先も、一町先も、五町先も、同じように咲き続いている。その時の印象でいうと、蓮の花は無限に遠くまで続いていた。どの方角を向いてもそうであった。地上には、葉の上へぬき出た蓮の花のほかに、何も見えなかった。
これは全く予想外の光景であった。私たちは蓮の花の近接した個々の姿から、大量の集団的な姿や、遠景としての姿をまで、一挙にして与えられたのである。しかも蓮の花以外の形象をことごとく取り除いて、純粋にただ蓮の花のみの世界として見せられたのである。これは、それまでの経験からだけでは到底想像のできない光景であった。私は全く驚嘆の情に捕えられてしまった。
が、この時の驚嘆の情は、ただ自然物としての蓮の花の形や感触によってのみ惹《ひ》き起こされたのではなかった。蓮の花の担っている象徴的な意義が、この花の感覚的な美しさを通じて、猛然と襲いかかって来たのである。われわれの祖先が蓮花によって浄土の幻想を作り上げた気持ちは、私にはもうかなり縁遠いものになっていたが、しかしこの時に何か体験的なつながりができたように思う。蓮花の世界に入り浸る心持ちは、どうも仏教的な理想と切り離し難いようである。それはただに仏教の経典に蓮華が説かれ、仏教の美術に蓮華が作られているからのみではない。蓮の花そのものの形や感触に何か|インド的なもの《ヽヽヽヽヽヽヽ》、日本の国土を|はるかに超えたもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が感ぜられたからであろう。日本人にとっては、そのことが特に現実を超えた理想を象徴するのに役立ったであろう。しかし同時にそれは顕著にインド的なものであって、インドを超えたものではなかった。日本の蓮の花はインドのそれと同じ種類のものであるが、しかしこの種類は現在アジアの温かい地方と北オーストラリアとに限られていて、他の地方にはないと言われている。エジプトには昔はあったらしいが、今はない。日本へはたぶん、直接ではないにしても、とにかくインドから来たのであろう。それもいつのことであったかはわからない。太古からすでに日本にあったとも言われているが、仏教に伴なって来たということもあり得ぬことではない。そうなると蓮の花は、われわれの祖先の精神生活を象徴するのみならず、広くアジアの文化を象徴することにもなるのである。
私はこの蓮華の世界に入り浸りながら、ここまでいくぶんか強制的に引っ張って来てくれた谷川君に心から感謝した。
そういう印象を受けたのは、ほのぼのと夜が明けて来て、広い蓮池が見渡せるようになった時であるが、それが何時ごろであったかははっきりしない。四時と五時の間であったことだけは確かである。どれほど長くこの光景に見とれていたかということも、はっきりとは覚えていない。が、やがてわれわれは、船頭のすすめるままに、また舟を進ませた。蓮の花の世界の中のいろいろな群落を訪ね回ったのである。そうしてそこでもまたわれわれは思いがけぬ光景に出逢った。
最初われわれの前に蓮の花の世界が開けたとき、われわれを取り巻いていたのは、爪紅《つまべに》の蓮の花であった。花びらのとがった先だけが紅色に薄くぼかされていて、あとの大部分は白色である。この手の花が最も普通であったように思う。しかし舟が、葉や花を水に押し沈めながら進んで行くうちに、何となく周囲の様子が変わってくる。いつの間にか底紅の花の群落へ突入していたのである。花びらの底の方が紅色にぼかされていて、尖端《せんたん》の方がかえって白いのであるが、花全体として淡紅色の加わっている度合が大きい。その相違はわずかであるとも言えるが、しかし花の数が多いのであるから、ひどく花やかになったような気持ちがする。
何分かかかってその群落を通りぬけると、今度は紅蓮《ぐれん》の群落のなかへ突き進んで行った。紅色が花びらの六七分通りにかかっていて、底の方は白いのである。これは見るからに花やかで明るい。そういう紅《あか》い花が無数に並んでいるのを見ると、いかにもにぎやかな気持ちになる。が、しばらくの間この群落のなかを進んで行って、そういう気分に慣れたあとであったにかかわらず、次いで突入して行った深紅の紅蓮の群落には、われわれはまたあっと驚いた。この紅蓮は花びらの全面が濃い紅色なのであって、白い部分は毛ほども残っていない。実に艶《なま》めかしい感じなのである。そういう紅蓮があたり一面に並んだとなると、一種異様な気分にならざるを得ない。それは爪紅の、大体において白い蓮の花とは、まるで質の違った印象を与える。もしこれが蓮の花の代表者であったとすれば、恐らく浄土は蓮の花によって飾られはしなかったであろう。
紅蓮の群落はちょっと息の詰まるような印象を与えたが、そこを出て、少し離れたところにある次の群落へはいったときには、われわれはまた新しい驚きを感じた。今度は白蓮の群落であったが、その白蓮は文字通り純白の蓮の花で、紅の色は全然かかっていない。そういう白蓮に取り巻かれてみると、これまで白蓮という言葉から受けていた感じとはまるで違った感じが迫って来た。それは清浄な感じを与えるのではなく、むしろ気味の悪い、物すごい、不浄に近い感じを与えたのである。死の世界と言っていいような、寒気を催す気分がそこにあった。これに比べてみると、爪紅の蓮の花の|白い部分《ヽヽヽヽ》は、純白ではなくして、心持ち紅の色がかかっているのであろう。それは紅色としては感じられないが、しかし白色に適度の|柔らかみ《ヽヽヽヽ》、|暖かみ《ヽヽヽ》を加えているのであろう。われわれが白い蓮の花を思い浮かべるとき、そこに出てくるのはこういう白色の花弁であって、真に純白の花弁なのではあるまい。そう私は感ぜざるを得なかった。真に純白な蓮の花は決して美しくはない。艶めかしい紅蓮の群落から出て行ってこの白蓮の群落へ入って行ったためにそう感じたのであるとは私は考えない。真紅の紅蓮が艶めかし過ぎて閉口であるように、純粋の白蓮もまた冷た過ぎ堅すぎておもしろくない。やはり白色に淡紅色のかかっているような普通の蓮の花が最も蓮の花らしいのである。
こうして蓮の花の群落めぐりをやっているうちにどれほどの時間がたったかは忘れたが、やがてだんだん明るさが増し、東の空が赤るんでくると、ついに東の山、西の山が見えるようになって来た。それとともに、蓮の花のみの世界は、壊れざるを得なかった。蓮の花が無限に遠くまで打ち続いているという印象も消えた。そのころに舟は帰路についたのである。
帰路はさんざんであった。舟がまだ池を出はずれない前に、もう朝日が東の山を出たように思う。来る時に見えなかったいろいろな物が、朝日の光に照らし出された。池はだんだん狭くなり、水田と入り組み、いつともなしになくなってしまう。その水田の間の運河に入って、町裏のきたないところを通り、淀川に出る。その間に目に入るものは、すべて、さきほどまでの美しい蓮華の世界の印象を打ちこわすようなものばかりであった。この現実暴露といっていいような帰り道がなかったら、巨椋池の蓮見は完全にすばらしいのだが、と思わずにいられなかった。
宿に帰ったのは七時近くであったと思う。朝飯は、蓮の若葉を刻み込んだ蓮飯であった。
谷川君はこの時には何も言わなかったが、その後何かの機会にマラリヤの話が出て、巨椋池の周囲の地方には昔から「おこり医者」といってマラリヤの療法のうまい医者があることを聞かせてくれた。巨椋池にはそれほどマラリヤの蚊が多いのである。あの蓮見の時にはそんな心配は少しもしなかった。で、そのことを谷川君にいうと、「うっかりそんな話をすれば、引っ張り出しが成功しなかったかも知れませんからね」という答えであった。落合君はもうその前から東山のマラリヤの蚊にやられていたのである。この谷川君の英断にも私は心から感謝した。あのすばらしい蓮の花の光景のことを思うと、マラリヤの蚊などは何でもない。また夜明け前後のあの時刻には、蚊はあまりいなかったように思う。
ところで、巨椋池のあの蓮の光景が、今でも同じように見られるかどうかは、私は知らないのである。巨椋池はその後干拓工事によって水位を何尺か下げた。前に蓮の花の咲いていた場所のうちで水田に化したところも少なくないであろう。それに伴なって蓮の栽培がどういう影響を受けたかも私は知らない。もし蓮見を希望せられる方があったら、現状を問い合わせてからにしていただきたい。
あの蓮の花の光景がもう見られなくなっているとしたら、実に残念至極のことだと思うが、しかし巨椋池はかなり広いのであるからそんなことはあるまい。
[#地付き](昭和二十五年七月)
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京の四季
京都に足かけ十年住んだのち、また東京へ引っ越して来たのは、六月の末、樹の葉が盛んに茂っている時であったが、その東京の樹の葉の緑が実にきたなく感じられて、やり切れない気持ちがした。本郷の大学前の通りなどは、たとい片側だけであるにもしろ、大学の垣根内に大きい高い楠《くす》の樹が立ち並んでいて、なかなか立派な光景だといってよいのであるが、しかしそれさえも、緑の色調が陰鬱で、あまりいい感じがしなかった。大学の池のまわりを歩きながら、自分の目が年のせいで何か生理的な変化を受けたのではないかと、まじめに心配したほどであった。
京都から時々上京して来たときにも、この緑の色調の相違を感じなかったわけではない。しかし三日とか五日とかの短い期間だと、それはあまり気にならず、いわんや苦痛とまではならなかった。それが、引っ越して来て居ついたとなると、毎日少しずつ積もって行って、だんだん強くなったものと見える。いわゆる acceleration の現象はこういうところにもあるのである。とうとうそれはやりきれないような気持ちにまで昂《こう》じて行った。自分ながら案外なことであった。京都に移り住む前には二十年ぐらいも東京で暮らしていたのであるが、かつてそういう気持ちになったことはない。
気になり始めると、いやなのは緑の色調ばかりではなかった。秋になって、樹々の葉が色づいてくる。その黄色や褐色や紅色が、いかにも冴《さ》えない、いやな色で、義理にも美しいとはいえない。何となく濁っている。爽やかさが少しもなく、むしろ不健康を印象する色である。秋らしい澄んだ気持ちは少しも味わうことができない。あとに取り残された常緑樹の緑色は、落葉樹のそれよりは一層陰鬱で、何だか緑色という感じをさえ与えないように思われる。ことに驚いたことには、葉の落ちたあとの落葉樹の樹ぶりが、実におもしろくなかった。幹の肌がなんとなく黒ずんでいてきたない。枝ぶりがいやにぶっきら棒である。たまに雪が降ってその枝に積もっても、一向おもしろみがない。結局東京の樹木はだめじゃないか。「森の都」だなどと、嘘をつけ、と言いたくなるほどであった。
こんなふうにして不愉快な感じがいつまでも昂じて行くとすれば、閉口するのはほかならぬ私自身であって、東京ではない。これは困ったことになったと思っていると、幸いなことに東京の春がそれを救ってくれた。樹木に対して目をふさぐような気持ちで冬を過ごしてしまうと、やがて濠《ほり》ばたの柳などが芽をふいてくる。いかにも美しい。やっぱり新緑は東京でも美しいんだなと思う。次々にほかの樹も芽を出して来て、それぞれに違った新緑の色調を見せる。並木に使ってある欅《けやき》の新緑なども、煙ったようでなかなかいい。などと思っているうちに acceleration が止まったのである。東京の新緑が美しいといっても到底京都の新緑の比ではないが、しかし美しいことは美しい。やがて新緑の色が深まるにつれ、だんだん黒ずんだ陰鬱な色調に変わって行くが、これも火山灰でできた武蔵野《むさしの》の地方色だから仕方がない。樹ぶりが悪いのは成長が早過ぎるせいであろう。一体東京の樹木は、京都のそれに比べると、ゲテモノの感じである。ゲテモノにはゲテモノのおもしろみがある。などと、自分で自分を慰めるようになった。
が、こういう経験のおかげで、私は今さらに京都の樹木の美しさを追想するようになった。
大槻《おおつき》正男君の話によると、京都の風土は植物にとって非常に都合のよいものであるという。素人目《しろうとめ》にもそれはわかる。水の豊富なこと、花崗岩《かこうがん》の風化でできた砂まじりの土壌のことなどは、すぐ目についてくる。ところでその湿気や土壌が植物とどういうふうに関係してくるかということになると、なかなか複雑で、素人には見とおしがつかない。ただほんの一端が見えるだけである。
京都の湿気のことを考えると、私にはすぐ杉苔《すぎごけ》の姿が浮かんでくる。京都で庭園を見て回った人々は必ず記憶していられることと思うが、京都では杉苔やびろうど苔が実によく育っている。ことに杉苔が目につく。あれが一面に生い育って、緑の敷物のように広がっているのは、実に美しいものである。桂離宮の玄関前とか、大徳寺|真珠庵《しんじゆあん》の方丈の庭とかは、その代表的なものと言ってよい。嵯峨《さが》の臨川寺《りんせんじ》の本堂前も、二十七八年前からそういう苔庭になっている。こういう杉苔は、四季を通じて鮮やかな緑の色調を持ち続け、いつも柔らかそうにふくふくとしている。ことにその表面が、芝生のように刈りそろえて平面になっているのではなく、自然に生えそろって、おのずから微妙な起伏を持っているところに、何ともいえぬ美しさがある。従ってそういう庭は、杉苔の生えるにまかせておけば自然にできあがってくる道理である。臨川寺の庭などは、杉苔の生えている土地の土を運んで来て、それを種のようにして一面にふりまいておいただけなのである。しかしその結果として一面に杉苔が生い育ち、むらなく生えそろうということは、その場所にちょうどよい条件がそろっていることを示している。杉苔は湿気地ではうまく成長しないが、乾いた土地でもだめである。その上、一定の風土的な条件がなくてはならぬ。京都はそういう条件を持っている。それが京都の湿度だと思う。
私は永い間東京には杉苔はないと思っていた。東京で名高い名園などでも杉苔を見なかったからである。しかし京都から移って来て数年後に東京の西北の郊外に住むようになってみると、杉苔は東京にもざらにあることがわかった。農家の防風林で日陰になっている畑の畔《あぜ》などにはしばしば見かける。散歩のついでにそれを取って来て庭に植えたこともあるが、それはいつのまにか消滅してしまった。杉苔を育てるのはむずかしいと承知しているから、二度とは試みなかった。ところが五六年前、非常に雨の多かった年に、中庭の一部に一面に杉苔が芽を出した。秋ごろには、京都の杉苔の庭と同じように、一坪くらいの地面にふくふくと生えそろった。これはしめたと思って大切に取り扱い庭一面に広がるのを楽しみにしていたのであるが、冬になって霜柱が立つようになると、消えてなくなった。翌年も少しは出たが、もう前の年のようには育たなかった。雨の少ない年には全然出て来ないこともある。昨年はいくらか出たが、今年は比較的多く、庭のところどころに半坪ぐらいずつ短いのが生えそろっている。竜の髯《ひげ》の間にもかなり萌《も》え出ているところがある。しかし冬は必ず消えるのであるから、京都の杉苔のようになる望みは全然ない。それを見て私には、東京と京都との風土の相違がかなり具体的にわかったのである。
これは杉苔だけのことであるが、しかし杉苔にこれほど顕著に現われている相違は、他のあらゆる植物にもあるに相違ない。樹の葉の色の相違などは、たぶんそこに起因するものであろう。東山や嵐山などを包んでいる樹木の種類は非常に多いのであるが、そういう多種類の樹木の一々が、非常に具合のいい湿気に恵まれて、その樹木に特有な葉の色を、最も純粋に発揮しているのかも知れない。あるヨーロッパの画家が、新緑ごろの嵐山を見て、緑の色の種類のあまりに多いのに驚嘆した、という話を聞いたことがある。特に京都でそういう印象を得たということは、京都の樹木の種類が多いことを示すとともに、また一々の樹の特徴が他の地方でよりも|くっきり《ヽヽヽヽ》と出ていることを示すのであろう。椎《しい》の樹は武蔵野の原始林を構成していたといわれるが、しかし五月ごろの東山に黄金色に輝いている椎の新芽の豪奢《ごうしや》な感じを知っているものは、これこそ椎だと思わずにはいられない。
が、湿気と結びついて土壌が重要な役目をしていることも見のがすわけには行かぬ。樹木の姿の相違などはそこに起因しているように思われる。武蔵野の土は、岩石の風化でできた土とは、非常に違ったものである。いくら掘ってみても同じようにボコボコしているし、石などは一つも出て来ない。植物の根がのびて行くのを邪魔するものは何もない。たぶんその結果であろう、武蔵野の樹木はのびが非常に早い。それが樹の姿に野育ちの感じを与える。その代表的なものはつつじだと思う。一間も二間もの高さに育ったつつじなどは京都付近では見ることができない。それと同じに松の樹の枝ぶりがまるで違うし、桜に至っては別の種類ができあがっている。楓《かえで》などでも成長の速度が恐ろしく違う。そういう相違はあらゆる樹木の種類について数え上げて行くことができるのである。京都の東山などは、少し掘って行けば下は岩石である。そういう、あまり厚くない土壌の上に、相当に大きい樹木が生い茂っている。ああいう樹木の根は、まるで異なった条件の下にあるといってよい。同じ丈をのばすのに、二倍三倍の年数がかかるかも知れない。しかしそれは無駄ではないのである。早くのびた樹の姿は、いかにも粗製の感じで、かっちりとした印象を与えない。また実際に早く衰える場合も多い。それに対して、同じ大きさになるのに二倍三倍の年数をかけた樹は、枝ぶりに念の入った感じがあるばかりでなく、かえって耐久的なのである。そういう樹々が無数に集まって景観を形成するとすれば、景観全体がすっかり違った感じになるのは当然であろう。
私は東山の麓《ふもと》に住んでいた関係もあって京都の樹木の美しさを満喫することができた。
新緑のころの京都は、実際あわただしい気分にさせられる。疎水端の柳が芽をふいたと思うと、やがて次から次へといろいろな樹が芽をふき始める。それが少しずつずれていて、また少しずつ色調を異にしている。樹の名は一々は知らないが、しかしとにかく種類が多い。楓が芽をふき始めるのは四月の中ごろであったと思うが、若王子《にやくおうじ》の池畔にある数十本の楓だけでも、芽の出る時期は三四段に分かれており、新芽の色もはっきり四五種類に見分けることができた。若王子神社の伊藤快彦氏の話では、ここには十何種類かの楓が集めてあるということであった。その楓の新芽が、日々に少しずつ色を変えて葉をのばして行き、やがてほぼ同じ色調の薄緑の葉を展開し終わるのは、大体四月の末五月の初めであったが、その時の美しさはちょっと言い現わし難い。実に豊かな、あふれるような感じであった。ことにそのころがちょうど陰暦の十四五日にでも当たっており、幸い晴れた晩があると、月光の下に楓の新緑の輝く光景を見ることができた。その光と色との微妙な交錯は、全く類のないものであった。
楓だけでもそれぐらいであるが、東山の落葉樹から見れば楓はほんの一部分である。新緑のころ、東山の常緑樹の間に点綴《てんてい》されていかにも孟春《もうしゆん》らしい感じを醸し出す落葉樹は、葉の大きいもの、中ぐらいのもの、小さいものといろいろあったが、それらは皆同じように、新芽の色から若葉の色までの変遷と展開を五月の上旬までに終えるのである。そうしてそのあとに常緑樹の新芽が目立ち始める。椎とか樫《かし》とかの新芽である。前に言ったように椎の新芽の黄金色が、むくむくと盛り上がったような形で東山の山腹のあちこちに目立ってくるのは、ちょうどこのころである。やがてその新芽がだんだん延びて、常磐樹《ときわぎ》らしく落ちついた、光沢のある新緑の葉を展開し終えるころには、落葉樹の若葉は深い緑色に落ちついて、もう色の動きを見せなくなる。そうなるともうすぐに五月雨の季節である。栗の花や椎の花が黄金色に輝いて人目をひくのはそのころである。
松のみどりがだんだん目につくようになってくるのも、そのころからであったと思う。新芽の先についた花から黄色の花粉のこぼれるのが見えたと思ううちに、やがて新芽の新しい針葉がのびて来て、古い葉と層々相重なった、いかにも松の新緑らしい形になる。なるほど土佐絵の画家はこれを捕えたのであったかと気づかざるを得ないような形である。東京で松の新緑を見ても、必ずしもそういう印象を受けるとは限らないのであるが、東山などでは、最も数の多い松の樹が、そろってそういう形になるのである。落葉樹の緑色も、常磐樹の緑色も、もうすっかり落ちついて、新緑らしい鮮やかさのなくなったころであるから、この松の新緑は、非常に鮮やかな美しい印象を与える。
松の新緑が出そろってしまうのは、もう土用も遠くない七月の初めであったと思う。やがて一二週間もすると、この新緑も落ちついた色に変わってしまう。柳の芽が出始めて以来、三四個月の間絶えず次から次へと動いていた東山の緑色が、ここで一時静止する。それはちょうど祇園《ぎおん》祭りのころで、昔は京都の市民が祭りの一週間とその前後とで半月以上にわたって経済的活動を停止した時期である。
しかしこの静止状態が続くのは、せいぜい三週間であって、一個月にはならなかったと思う。土用の末ごろにはもう東山の中腹の落葉樹の塊りが、心持ち色調を変えてくる。ほんの少しではあるが、緑の色が薄くなるのである。ここで動きがまた始まる。八月から九月の中ごろ、秋の彼岸のころへかけては、非常に徐々としてではあるが、だんだん色が明るくなって行き、彼岸が過ぎたころには、緑の色調全体がいかにも秋らしい感じになる。
少しずつ黄色が目立ちはじめるのは、十月になってからであったと思う。新緑の時に樹の種類によって遅速があり、またその新芽の色を著しく異にしていたように、緑があせて黄色が勝ち始める時期も、またその黄色の色調も、樹によってそれぞれ違う。十月の中ごろにはそういう相違がはっきりと感じられるようになる。楢《なら》であったか、形のいい大きい葉で、実に純粋な美しい黄色を見せるのもあった。それから櫨《はぜ》のような真紅な色になる葉との間に、実にさまざまな段階、さまざまな種類がある。それが大きい樹にも見られれば、下草の小さい木にも見られる。
私が初めて東山の若王子神社の裏に住み込んだのは、九月の上旬であったが、一月あまりたってようやく落ちついて来たころに、右のような色の動きが周囲で始まった。書斎の窓をあけると、驚くような美しい黄葉が目に飛び込んで来る。一歩家の外に出ると、これまで注意しなかったいろいろな樹が、美しく紅葉しかけている。それが毎日のように変わって行く。十月の下旬になると、周囲がいかにも華やかな、刺激の多い気分になって、書斎の中に静かに落ちついていることができなくなった。これは飛んだところへ引っ越して来た、と幾分あわてるような気持ちにさえなった。
そういう紅葉の代表的なのは楓の紅葉で、その楓の樹は家の前の池のまわりに数十本植えてあった。その楓の種類が多く、新芽の出る時期や新芽の色が一々違っていることは、前にちょっと述べたが、紅葉の時にまたその相違が現われてくる。真紅になるのもあれば、紅の要素が非常に少なく、ほとんど黄色に近いのもある。芽の色に赤味が勝っていた樹は、紅葉の時の赤みも濃い、というような関係も目立ったが、また芽の出の最も遅かった樹がまっ先に紅葉するというような、逆の関係も目についた。年によると、この相違が非常に強く現われ、早い樹はもう紅葉が済んで散りかけているのに、遅い樹はまだ半ば緑葉のままに残っている、というようなこともあった。そういう年は紅葉の色も何となく映えない。しかし気候の具合で、三年に一度ぐらいは、遅速があまりなく、一時に全部の樹の紅葉がそろうこともあった。それは大体十一月三日の前後で、四五日の間、その盛観が続いた。特に、夕日が西に傾いて、その赤い光線が樹々の紅葉を照らす時の美しさは、豪華というか、華厳というか、実に大したものだと思った。しかしその年の紅葉がそういうふうに出来がよいということの見透《みとお》しは、その間ぎわまではつかないのである。手紙で打ち合わせをして東京から客を呼ぶ、というだけの余裕はなかった。老人は、夏が旱魃《かんばつ》であればその秋の紅葉は出来がよい、と言ったが、それは必ずしも当たらなかった。たぶん、気候の条件がそろっている上に、その年の霜の降り具合が仕上げをするのであろうと思う。いずれにしても、高山とか高原とかでなくては見られないような美しい紅葉が、大都会の中で見られるのである。
紅葉は大体十一月一杯には散ってしまう。楓の樹が数十本もあると、その下に一二寸に積もっているもみじの落葉を掃除するのはなかなかの骨折りであった。もみじの落葉を焚《た》いて酒を暖めるというのが昔からの風流であるが、この落葉で風呂を沸かしたらどんなものであろうと思って、大きい背負い籠に何杯も何杯も運んで行って燃したことがある。長州風呂でかまどは大きかったのであるが、しかしもみじの葉をつめ込んで火をつけると、大変な煙で、爆発するようにたき口へ出て来た。そのわりに火力は強くなかった。山のように積み上げたもみじの葉を根気よくたき口から突き込んで、長い時間をかけて、やっとはいれる程度に湯がわいた。湯はもちろん薪で焚いたのと一向変わりはなかったが、しかしこの努力でできた灰は大したものであった。さらさらとしていて、何となく清浄な感じで、灰としてはまず第一等のものである。
紅葉のなくなったあとの十二月から、新芽の出始める三月末までの間が、京都を取り巻く山々の静止する時期である。新緑から紅葉まで絶えず色の動きを見ていると、この静止が何とも言えず安らかで気持ちがよい。緑葉としては主として松の樹、あとは椎や樫のような常緑樹であるが、それらの落ちついた緑がなかなかいい。落葉樹の白っぽい、骨のような幹や枝が、この常緑と非常によく釣り合っている。色彩という点から言っても、この枯淡な色の釣り合いが最もよいかも知れない。
これは私には非常な驚きであった。東京では冬の間樹木の姿が目に入らなかったのである。まれに目に入ると、それはむしろいやな感じを与える。早く春になって新芽が出るとよいと思う。しかるに京都では、この落ちついた冬の樹木の姿が、一番味がある。われわれの祖先の持っていた趣味をいろいろと思い出させる。
中でも圧巻だと思ったのは、雪の景色であった。朝、戸をあけて見ると、ふわふわとした雪が一二寸積もって、全山をおおうている。数多い松の樹は、ちょうど土佐派の絵にあるように、一々の枝の上に雪を載せ、雪の下から緑をのぞかせる。楓の葉のない枝には、細い小枝に至るまで、一寸ぐらいずつ雪が積もって、まるで雪の花が咲いているようである。その他、檜《ひのき》とか杉とか椎とか樫とか、一々雪の載せ方が違うし、また落葉樹も樹によって枝ぶりが違い、従って雪の花の咲かせ方も趣を異にしている。それを見て初めて私は、昔の画家が好んで雪を描いたゆえんを、なるほどと肯《うなず》くことができたのである。四季の風景のうちで、最も美しいのはこの雪景色であるかも知れない。
しかしこの美しさは、せいぜい午前十時ごろまでしか持たない。小枝の上にたまった雪などは非常に崩れやすく、ちょっとした風や、少しの間の日光で、すぐだめになってしまう。枝の上の雪が崩れ始めれば、もう雪景色はおしまいである。だから市中に住んでいる人にこの景色を見せたいと思っても、見せるわけには行かなかった。
こういう雪景色と交錯して、二月の初め、立春の日の少し前あたりから、池の鯉が動きはじめ、小鳥がしきりに庭先へ来る。そういう季節が、紅葉と新緑とから最も距《へだ》たっていて、そうして最も落ちついた、地味な美しさのある時である。昔の人はちょうどそのころに年の始めを祝ったのであった。
[#地付き](昭和二十五年九月)
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二条離宮の障壁画
二条離宮をはじめて拝観したのはいつであったか、はっきり思い出せない。しかし昭和の初めまでには幾度かあの数多い豪華な障壁画に親しみ、自分ではほぼ一定した格付けをあの障壁に与えていた。一口でいうと、桃山美術としては末流であり、余韻である。桃山時代の美術に特有な豪華な気分はなお保持されてはいるが、しかしああいう思い切った構図や華麗さを押し出して来た豪宕《ごうとう》な、また奔放な精神は、ここではもう新鮮な活気を失い去っているように見える。そう私は考えていた。従って私には、何となくあの障壁画を軽んずる気持ちがあったかも知れない。あの数多い画によってできている宮殿装飾の全体を一つのまとまりとして受け取ることや、その装飾の価値を世界的な水準において考えてみることなどは、かつて念頭に浮かんだことがなかった。
しかるに昭和三年の秋、ヴェルサイユ宮殿の印象がまだ私の心に生々しく残っていたころに、私は人を案内して、何の気もなく久しぶりに二条離宮を訪ねたのであったが、一巡壁画を見て回るうちに、これはすばらしいぞ、芸術的にはヴェルサイユ宮殿にも負けないぞ、という気がしたのである。これは自分ながらも意外なことであった。で、その時から、二条離宮の障壁画を改めて見なおし、それに連関していろいろなことを考えてみるようになった。
第一には、なぜそういう比較が念頭に浮かんだかという問題である。
ヴェルサイユ宮殿と二条離宮とは、建築の様式から言っても、装飾のやり方から言っても、まるで違うものである。ことにその規模がまるで違う。ルイ十三世が建築家のルメルシエーに建てさせたときには、なおルネッサンスの様式を保持した小ぢんまりした建築であったが、その後ルイ十四世がルヴォーやマンサールを使って、二三十年もかかって拡張工事をやったので、バロック盛期の宮殿建築として全ヨーロッパに範を垂れるというような、壮大な宮殿になったのである。従ってそれはルイ王朝の美術の粋をあつめたということになるであろうが、革命の後にも、ルイ・フィリップが、この宮殿を国立美術館としていろいろ増補して行った。ドラクロアなどの壁画がはいったのはその時である。だからヴェルサイユ宮殿は、十七世紀から十九世紀にわたる長い期間の記念物としてわれわれの前に立っているのである。それに比べると二条離宮は、慶長七八年ごろから寛永の初めにかけて江戸の将軍の京都別邸として建てられたもので、ただ一時期を表現するに過ぎない。そこに注ぎ込まれた労力の量から言っても、この方は比較にならないほど少ない。
しかしそれにもかかわらず、この両者は性格を同じくしている。それらはいずれも、|強大な権力《ヽヽヽヽヽ》を持った支配者の宮殿である。従ってそれらはいずれも、豪奢《ヽヽ》であることを特徴としている。悪くいえばそれらは成金芸術である。のみならずそれらは、建造の年代《ヽヽ》をも同じくしている。ルメルシエーがルイ十三世の命によってヴェルサイユ宮殿の中核的な部分を建てたのは、一六二六年だといわれているが、二条離宮が作られたのも千六百年代の初めである。前者は十七世紀を通じての長期にわたる造営の出発点であり、後者は短期間に完成したものであるが、しかし一方で石工が営々として大理石を刻み上げていたその|同じ時に《ヽヽヽヽ》、他方で木工が木を削りそれを組み上げていたのである。このように両者が性格《ヽヽ》と時代《ヽヽ》を同じくしているのであるならば、その様式がどれほど異なっていようとも、それを比較してみる理由は十分にあると言ってよいであろう。
第二に、どういう点が比較の対象になるかという問題であるが、これほど様式の違う建築において、形とか、内部の装飾とかを、一々比較してみるということは、ほとんど無意味に近い。それはむしろ、ヨーロッパ風の石造建築の様式と、屋根の大きい東洋ふうの木造建築の様式との、一般的な比較論に所を譲るべきことであろう。ここで問題になるのは、異なった様式の内部において、どれほどまでに芸術的統一が成就されているか、という点でなくてはならない。二条離宮で、これはヴェルサイユ宮殿にも負けないぞと感じたのは、そういう点に着目してのことなのである。特に、宮殿内部の装飾としての壁画の効果について、その感じが深かった。
ヴェルサイユ宮殿の内部の装飾は、絵画のみに頼ったものではない。絵画よりはむしろ彫刻的、あるいは工芸的要素の方が勝っているであろう。壁面や欄間には、化粧|漆喰《しつくい》によって精緻《せいち》な文様が描かれており、柱や扉や家具などには同じように精緻な文様が刻み込まれている。絵画はそういう装飾のところどころに、人物画とか、戦争画とかとして、はめ込まれているだけである。そういう装飾は実に豪奢《ごうしや》であって、二条離宮のように質素なものではない。しかしそれらを見て来てあとに残っている印象は、実に「装飾の過冗」ということにほかならないのである。どれか一つの室、あるいは二三の室だけで、何時間もぶらぶらしている、というような見方をしてくればよかったのかも知れぬが、数多い間《ま》を次から次へと見回った印象だけで言うと、豪奢は豪奢でも、案外単調で、かえって人を退屈させる。宮殿全体から|一つのまとまった印象《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を受けることができない。つまり芸術的統一がないのである。
それに比べると、二条離宮は、部分的には質素であっても、|一つのまとまった全体《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》としての印象を与える。もとよりここでも、絵画のみが装飾ではない。襖《ふすま》や長押《なげし》の金具や、極彩色の格天井《ごうてんじよう》や、すべてみな、日本の普通の住宅建築に見られないような豪奢なものである。しかしこれらの装飾要素は、すべてその室の障壁画の気分に服属し、その統制に従ったものである。だからどれほど絵画以外の装飾要素があっても、絵画が主導的な要素として全体を統一している。これは絵画の様式とも関連した問題であるかも知れぬ。ヴェルサイユ宮殿では、壁面を文様で飾ろうとする時には、全然絵画と独立した化粧漆喰の文様をもってしている。従って絵画をもって飾ろうとする時には、装飾文様的な要素の全然ない人物画の類をもってしている。両者は全然分かれているのである。しかるに二条離宮の壁画は、樹木や草花を描いた半ば装飾的な絵画であって、両者の役目を兼ねつとめることができる。だから襖や壁は、ことごとく絵画をもって埋められているのである。これが宮殿内部の装飾に鮮やかな芸術的統一を与えたゆえんであるかも知れない。
しかしそれのみではない。私はヴェルサイユ宮殿の内部装飾において、|一つの統一した芸術的意図《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を感受することができなかった。しかるに二条離宮においては、実にはっきりとそれを感受することができたのである。これは一つの芸術的作品として重大な問題と言わなくてはならぬ。
二条離宮におけるこのような芸術的統一を明らかにするためには、簡単にでもあの障壁画の並び方を叙述しなくてはなるまい。
二条離宮は大体において三つの部分に分かれている。第一は玄関に続いた三棟で、そこに遠侍《とおさぶらい》の間とか大広間とかがある。大広間は将軍の謁見所であって、諸大名などと公式に逢う場合にここを用いたらしい。第二はここから鉤《かぎ》の手に折れた先にある一棟で、第一の部分よりはずっと小さいが、しかしここにも控えの間や広間があり、第一の場合ほど儀式張らない客を受けたのであろう。第三はさらにここから鉤の手に折れた先にあって、第二の棟よりもっと小さく、そのうしろにかくれている小さい棟であって廊下でつながっている。ここは将軍の居間や寝室として用いられたらしい。
さてその第一《ヽヽ》の部分であるが、玄関からはいってまずぶつかる|遠侍の間《ヽヽヽヽ》は、七十六畳ほどの室で、金張り付けの襖に、大きく|竹に群虎《ヽヽヽヽ》が描かれている。相当に広い壁面であるが、ただ数本の竹の幹と、相呼応する数匹の虎とで、人を威圧するような気分を室中にみなぎらせているのである。その次は大広間《ヽヽヽ》の|三の間《ヽヽヽ》に当たる室で、広い襖の金地の面が、ただ一本のうねった松の幹によって占められている。その次の|二の間《ヽヽヽ》も同じである。さらに裏側の|槍の間《ヽヽヽ》も同じで、壁面は実に広いが、そこにただ一本の大きい松が描かれ、その枝は実に五間くらいものびている。が特に|二の間《ヽヽヽ》の松の絵は、非常に雄偉な印象を与える。これは探幽《たんにゆう》作と伝えられているが、その真偽はとにかく、二条離宮の障壁画中最もすぐれているといわれるのも無理はない。一本のうねった松だけで、これだけの広い画面を、一分のすきもなく引き締めている手腕は、確かに見事である。こういう絵は、画面をさまざまな形象によって埋めつくさなくては承知のできない立場から見ると、あるいは空疎なものに見えるかも知れない。ヴェルサイユの宮殿でならば、これだけの広い画面には、何十人あるいは何百人もの人物がさまざまの姿態をもって描き込まれるのが常であるが、ここではただ一本の松が描かれているだけで、画面の少なからぬ部分が空白なのである。しかしその一本の松の幹や枝は、|何も描かれていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》金地と相呼応して物を言っているのであって、もしその空白がさまざまの形象によって充たされるならば、その幹や枝のうねりは効果を示さなくなるであろう。吠えている虎の姿よりも、うねった松の幹の方が、一層強く威圧的な気分を現わしているのは、何も描かれていない金地があるからである。とともに、何も描かれていない金地は、うねった幹のおかげで、非常な表現力を発揮している。空疎に見えるどころではない。
が、松の絵の効果はそれだけに尽きるのではない。雄偉な松に飾られた二の間から、いよいよ大広間《ヽヽヽ》を見渡すと、同じような老松の姿がさらに広大な壁面をおおうているのに驚かされる。これまで見て来た松の絵は、つまりこの画因の展開にほかならなかったのである。正面にある上段の床の間の壁には、ちょうどそこに具合よくはまるような松が描かれ、その枝が右手の違い棚の壁にも及んでいる。右側の長い壁面は、奥の方の帳台飾りのついた重々しい襖から、下の方の金地の襖に至るまで、一本の老松を描いた一つの画面になっている。横に長い画面であるにかかわらず、幹はただ一つで、それがうねって、遠くまで枝をのばしているのである。葉は深緑で美しく、梢《こずえ》は欄間に及んでいる。この大きい松の絵をながめていると、床の間の松がこの曲がりくねった松に展開し、さらに二の間、三の間などのヴァリエーションに展開して行くゆえんが、実に鮮やかに心に映ってくるのである。
この大広間は、障壁画以外の装飾にも豊かである。違い棚は凝ったものであるし、帳台飾りも豪奢である。天井は格天井で、縁は黒塗り、その間に群青《ぐんじよう》や金の色彩が見える。欄間には彫刻があり、飾り金具も多い。しかしこれらの装飾は、皆壁画と調子が合うように作られている。壁画が|全体の気分《ヽヽヽヽヽ》を支配するように構想されているのである。その気分は、竹に群虎とか、太い松の幹のうねりとかで示されているように、豪宕《ヽヽ》と形容してよいようなものである。それは威圧的な力強さを印象する。これこそまさに二条離宮の装飾を考えた芸術家が意図したところなのであろう。
第一の部分にはなおそのほかに|勅使の間《ヽヽヽヽ》がある。これは入り口の|遠侍の間《ヽヽヽヽ》や、三の間の裏の|槍の間《ヽヽヽ》などの、背後にある。見物の時には、廊下をぐるぐる回って離宮全体を見終わって後に、最後にこの室の前に出たと思うが、実際は右に叙述した室々と相隣っているのである。だから、勅使の間として遠侍の間や大広間と扱い方を異にしているにもかかわらず、第一の部分に属するものとして、同じ気分のもとに統一されている。画題は、上段の間に楓《かえで》の樹、二の間に樅《もみ》の樹をえらんで、表側よりもずっと穏やかであるが、しかしその樅の樹などは、太い幹を直線的に並べたものであって、非常に強い威圧するような印象を与える。私は最初この画に面した時に、その構図の新鮮な味に驚いたものである。明治以後の展覧会向きの屏風《びようぶ》画ではこの種の構図は珍しくないが、しかし江戸時代初期のものには全然期待していなかったハイカラなところがこの画には現われている。二条離宮の障壁画全体から見ても、画面を太い線で|縦に直線的に《ヽヽヽヽヽヽ》区切るようなやり方は、遠侍の間の竹と、この間の樅だけである。しかもこの樅の樹は、竹よりもずっと太いし、また虎などのような他のものをあしらってもいないし、ずっと思い切った構図である。第一の部分を一つの気分に統一しようとする芸術家の意図は、こういうところにもはっきりと現われているのである。
さて第一の棟から第二の棟へ渡って行く廊下に面して、細長い室があるにはあるが、ここの壁画はひどく摩滅して、目につくものはなかったと思う。その廊下を行きついた先に、第二の棟の廊下へはいる杉戸があって、それに|草花の絵《ヽヽヽヽ》がある。おやと思いながら杉戸をはいってふりかえると、杉戸の内側には、華やかに咲きあふれた|桜の花《ヽヽヽ》が描いてある。尚信《なおのぶ》の筆と伝えられているが、それを見た瞬間に、一挙にして気分を転換させられるほどの、力のあるものである。
桜花の絵によって、和らかな気分にさせられたものの目の前には、まず取っつきの三の間の襖の絵が展《ひら》ける。それはどこかの浜べにでもありそうな、|遠見の松林《ヽヽヽヽヽ》の風景である。松を画題とした点において第一の部分と密接につながっているが、しかしその松は、第一の部分のどこにも見られないような|やさしい姿《ヽヽヽヽヽ》で、壁画の一部分に、小さく、何十本となく並んで立っている。いかにも|なごやかな感じ《ヽヽヽヽヽヽヽ》で、威圧的な気分はどこにもない。第一の部分と異なった気分は、この松林の絵だけでも十分に醸し出される。
が、そこを過ぎて二の間の前へ出、上段の間までを一目に見渡したときには、われわれは実際にあっと驚くような気持ちになる。上段から二の間へかけての横に長い壁画が、爛漫《らんまん》と咲き乱れた桜の花に充たされていて、実に華やかなのである。華やかなだけでなく、艶《なま》めかしささえも感ぜられるように思う。
もっとも、上段床の間の壁画は、桜花ではない。ここでも松である。しかしその松には雪が積もっていて、松の葉の濃い緑をひどくきわ立たせている。のみならず側には濃艶な紅梅を添え、鵯《ひよどり》、四十雀《しじゆうから》などがあしらってある。斜め下からは、盛り上げ彩色の雪の積もった柴《しば》の垣根が出て、松と交叉《こうさ》している。しかもこの垣根は右手の違い棚にまで及んでいるのである。
そういう松の絵であるから、桜の花と調子が合わぬはずはない。違い棚のすぐ右側の帳台飾りには、梢が欄間に届くような大きい桜の木を描いている。桜花の絵はそこから始まって壁面を埋め、二の間の襖にまで及んでいるのである。そうして二の間では、盛り上げ彩色の網代垣《あじろがき》に沿うて、厚ぼったいような八重桜の花が、ほとんど艶めかしいほどに描き出されている。
第二の部分はこういう仕方で優美な感じを全体にみなぎらせるように装飾されている。格天井の文様でも、飾り金具の文様でも、皆それに調子を合わせたものである。が、特に強い印象の残っているのは、裏回りの室の襖の絵であった。そこは細長い室で、襖の数は非常に多かったと思うが、それがことごとく華やかな花の絵によって飾られているのである。けしの花なども並んでいたように思う。こういう草花の絵は日本では少しも珍しいものではないが、しかしこれほど広い画面に一面に花のみを並べるというやり方は、ほかにはあまりないように思われる。構図もなかなかハイカラで、こましゃくれたところがない。草花だけによってあれほど広い画面をひきしめ、あれほどの効果をあげるということは、やはり驚くべきことである。
第二の部分で右のように華やかな優美な気分にひたりながら、さらに廊下を伝って第三の棟に移ると、急に色彩が少なくなり、瀟洒《しようしや》な気分が支配しているのに出逢う。ここでも気分の転換にちょっと驚きを感じさせられる。
ここでは上段の間も狭く、十五畳ぐらいになるが、床の間の壁や仕切りの襖には、墨色を主にした唐絵の山水が描かれている。筆者は興以《こうい》だといわれているが、絵はなかなか立派である。特に帳台飾りの襖絵が傑《すぐ》れている。山や水や台閣などを墨線で描き、それに淡彩や金泥などを用いているのである。色彩がないわけではないが、前の極彩色の花の絵との対照で、すっかり色彩を離れたような気持ちになる。袋戸に小さく紅白の撫子《なでしこ》が描かれているが、その色彩がひどく目立って感ぜられるほどであるから、襖絵の淡彩の色調はよほど弱いのであろう。
この部分では、二の間、三の間もあまり大きくなく、十八畳ぐらいで、同じように淡彩の山水や人物が描かれている。四の間はさらに小さく十二畳ぐらいで、襖には雪竹に睡雀を配した絵があった。これは純然たる墨絵であったように思う。とにかく全体の気分はあっさりとしていて、閑寂の境地に近づこうとしているように見える。
以上によって二条離宮の|三つの部分《ヽヽヽヽヽ》がどういうふうに装飾されているかはおおよそ見当がつくことと思う。三つの部分はそれぞれに全然異なった気分によって統一されているのであるが、第一の部分の威圧的な力強い感じから、第二の部分の和やかな濃艶な感じに移った場合、さらにこの濃艶な感じから第三の部分の枯淡な瀟洒な感じに移った場合、われわれは実に愉快な驚きを感ずる。それらはそれぞれに全然異なった気分でありながら、互いに照応し、映発し合って、|一つの緊密な統一《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を形成しているのである。そういう統一の仕方をわれわれは、連歌や俳諧《はいかい》の付け合いにおいても見いだすことができるであろう。私は二条離宮の内部装飾を|誰が《ヽヽ》指揮したのであるかは知らない。またあの時代のこの種の創作に、誰かが指揮をするというような|やり方《ヽヽヽ》をしたのであるかどうかも知らない。しかし作られたものには明白に右のような統一が実現されているのである。もし連歌式の統一が意図されていたとすれば、誰か一人が指揮しなくともああいう統一は実現され得たであろう。連歌や俳諧は|指揮者のいない共同製作《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であり、従って個人の製作ではなくして、根本的に|団体の製作《ヽヽヽヽヽ》である。私は二条離宮の内部装飾が、右のいずれのやり方によったものであるかを知らない。が、とにかくあの|全体の統一《ヽヽヽヽヽ》はなかなかすぐれたものである。個々の部分の絵が一流の傑作とはいえなくても、あの全体は、宮殿の装飾芸術として、現存の遺品中最も傑出したものと言ってよいであろう。
桃山時代の宮殿はことごとく亡んだ。断片的に残っているものはあるが、一つの宮殿として有機的な統一を保ちつつ保存されたものは、一つもない。二条離宮は桃山時代の芸術の名残《なごり》を示すに過ぎないが、しかしわれわれはそれによって桃山時代の宮殿の豪華な姿を想像することができるのである。そうしてその想像の枢軸となるものは、右にいったような|全体の統一《ヽヽヽヽヽ》にほかならないであろう。
この点に注目すれば、二条離宮をヴェルサイユ宮殿に比較してみるということも、まんざら意味のないことではないという気がする。様式はまるで違うのであるから、ヴェルサイユ宮殿で見られると同じ美しさを二条離宮に求めたところで得られるわけはない。しかし異なった様式によって作り出されるそれぞれの美しさを追うて行けば、芸術的にいずれが一層成功しているかを比較してみることはできるのである。その際必要なのは、様式が異なるに従って、それをながめる眼鏡の度を合わせ変えるという用意である。一つの様式にだけ度を合わせておいて、そのままでほかの様式の絵をもながめれば、はっきり見えないのは当然であろう。そういう人が、自分の用意の不足には気づかないで、この絵はぼやけていると主張する場合もなくはない。その人は主観的には正直であるかも知れぬが、客観的には嘘を言っているのである。
[#地付き](昭和二十五年十二月)
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新しい様式の創造
日本の美術史だけに限って考えてみても、それぞれの時代が顕著な様式を持っていることは明らかであるが、明治以後の日本の美術はどうであろうか。明治時代や大正時代の作品を江戸時代のものと比べてみると、はっきり見分けはつくが、しかし明治様式とか大正様式とかと呼び得るものは、果してあるであろうか。優れた画家の個人的様式《ヽヽヽヽヽ》というようなものは非常にはっきりと取り出せると思うが、時代的様式《ヽヽヽヽヽ》としては、顕著なものはないのではなかろうか。それは明治以後にいまだ|新しい様式《ヽヽヽヽヽ》が創造されていないということである。
その原因は、恐らく西洋美術の輸入であろう。西洋美術は日本美術に対して、時代的様式の相違などよりももっと根本的な、|文化圏の相違に基づく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》異種の美術様式を示している。両者はそれぞれ長い歴史的伝統を背負い、時代的な様式の変遷を経て、今日の様式に到達しているのである。そういう深い相違を持った美術の様式を新しく採用したということは、時代的な様式の変遷などよりもはるかに深刻な事実であった。明治以後の美術界における最大の問題は、日本画と西洋画、日本彫刻と西洋彫刻とかいうごとき、二つの異なった様式の対立である。時代に即応した|新しい様式の創造《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》よりも、この対立をいかに解決するか、あるいはこの対立のなかでいかに自らを保持して行くか、という問題の方が、一層切実な関心事となったように見える。だから明治維新後すでに一世紀近くたっているにかかわらず、われわれの時代の様式というべきものは、いまだ創造せられていないのである。
洋画と日本画との対立は、はたから見るほど解決の容易な問題ではないらしい。第三者から見れば、西洋の絵の具や技法を用いても、日本人の製作である限り「日本画」ではないかと言いたくなる。しかし日本画と呼ばれるのは、日本人の描いた絵というだけの意味ではなく、様式の上でかなりはっきりとした限定を持っているのである。従って洋画と日本画の区別は何十年たっても弱まって行かない。在来の様式を破って絵の具や技法の制限をのり超えた新しい様式が作り出されるまでは、この区別は到底取り除くことができまい。ところでそういう様式の創造には、まずこの区別を克服するような第一歩が必要である。そういう第一歩は個人的にはすでに踏み出されていると思うが、それが一つの時代の動きとして新しい様式の創造に達するまでには、まだまだ大きい努力がなされなくてはなるまい。
新しい様式を創造するということは、美術における進歩の中核的な意義である。
美術における進歩は、科学の進歩などとは趣を異にしている。科学は前の成果を踏み台として、後のものがその先へ出るのであるが、美術においては優れた成果は必ずしも後のものの踏み台とはならない。それぞれの傑作は、すべて特殊な、ただ一回的なもので、そこから先へ行けない「絶頂」のような意味を持っている。たとえばギリシアの彫刻とかルネッサンスの絵画とかのように、同じやり方ではどうしてもそこから先へ出られないものである。同じやり方をすれば必ずエピゴーネンになってしまう。だから美術に進歩をもたらそうとすれば、先のものが見のこした新しい美を見いだし、それに新しい形づけをしなくてはならない。それが新しい様式の創造なのである。
そういう創造のことを考えるごとに、私はいつもミケランジェロの仕事を思い出す。彼の作品が実際私にそういう印象を与えたのである。ギリシア彫刻の美しさや、その作者たちのすぐれた手腕を、彼ほど深く理解した人はないであろうが、その理解は同時に、ギリシア人と同じ見方、同じやり方では、到底先へは出られぬということの、痛切な理解であった。だから彼は意識してそれを避け、他の見方、他のやり方をさがしたのである。すなわちギリシア的様式の否定のうちに活路を見いだしたのである。「形」が内的本質であり、従って「内」が残りなく「外」に顕《あら》われているというやり方に対して、内が奥にかくれ、外はあくまでも内に対する他者であって、しかも内を表現しているというやり方、すなわちそれ自身において現われることのない「精神」の「外的表現」というやり方を取ったのである。従って作られた形象の「表面」が持っている意味は、全然変わってくる。それは内なる深いものを|包んでいる表面《ヽヽヽヽヽヽヽ》である。そういうやり方で彼は絶頂に到達した。彼のあとから同じやり方を踏襲するものは、「何かを包んでいる表面」だけを作りながら、中が空っぽであるという印象を与える。同じやり方で彼の先に出ることはできないのである。ロダンが「何かを包んでいる表面」を思い切って捨て、面を形成しているあらゆる点が内から外に向いているような新しい表面を作り出したとき、初めて近代の彫刻は一歩先へ出ることができた。
そう考えてくると、新しい様式の創造には古い様式の重圧が必要だということになる。古い様式による傑作を十分に理解すればするほど、そこからの解放の要求、新しい道の探求が盛んになる。すなわちできあがった一つの様式のなかには、新しい様式を必然に生み出して行くような潜勢力《ヽヽヽ》がこもっているのである。だからこそ過去の傑作の鑑賞や、その鑑賞を容易ならしめる美術館は、美術の進歩に重大な意義を担うことになる。それぞれの時代、それぞれの様式において、「絶頂」を意味するような傑作が、美術館に並んでいて、いつでも見られる、という社会にあっては、言わばそういう傑作の権威が君臨しているのである。そういう世界で幾分かでも独創的な仕事をするためには、右の権威の重圧をはねかえして、新しい様式をつくり出さねばならぬ。美術館はそういう運動の原動力となっているといってよい。
ところでこの、古い様式の重圧や、それをはねのける努力は、洋画と日本画とが対立している日本では、どういうふうに現われたであろうか。
明治以後日本では洋画や西洋彫刻が盛んに作られた。それは大抵《たいてい》フランスあたりのその時々の流風に従ったものであった。しかし、フランスで例えば印象派の画を押し出してくる時に、その背後で重圧を加えていた古い様式の名画は、一つでも日本の美術館に陳列されたであろうか。われわれは印象派の育ってくる根や土壌を受け入れずに、ただ印象派の花だけを見せられたのではないであろうか。私は日本の洋画家の能力が乏しかったとは決して考えない。ただ日本で洋画が描かれる以上、それを育てるに必要な土壌は輸入されなくてはならなかったと思うのである。すなわち西洋の名画のある程度の輸入がぜひとも必要であったと思うのである。それによってわれわれは、どういう絵から出発して印象派というごとき新しい様式が作り出されたか、この描き方は何ゆえに必要となったかを理解することができる。さらにまた印象派の画の傑作をいくつか直接にながめることによって、何ゆえに後期印象派が現われなくてはならなかったかを理解し得たであろうし、後期印象派の傑作をながめることによって、その後のさまざまの試みの必然性をも理解し得たであろう。とにかく日本で描かれている洋画を、われわれ自身の生活から生いいでたものとして受け取るためには、その洋画の背負っている伝統をもわれわれの生活のなかにとり入れていなくてはならなかったのである。
もっとも、西洋の名画の日本への輸入が全然なかったというわけではない。少数の個人が少数の名画を持って来てはいるのである。しかし一つには、その輸入は西洋画の技法の輸入に比してあまりにも遅かったし、もう一つには洋画の発達に資するほど十分でなかった。だから日本では、古い様式の重圧などが感ぜられるどころか、むしろその圧力を人々は恋い慕っていたのである。すなわち|圧力の不足《ヽヽヽヽヽ》がわれわれの実際の体験であった。それにもかかわらず、われわれの前には、その圧力に反抗してその圧力をはねのけようとする様式の絵が現われて来たのである。それがヨーロッパにおけると同じ内的必然性をもってわれわれの心に食い込んでくるはずはない。だからパリにおけると同じ運動に乗って日本で絵を描いていた人たちは、実際に張り合いのない思いをしたに相違ない。
では日本画はどうであったろうか。日本の古い名作は、どういうふうにあとから来るものに影響したであろうか。日本画家は果して古い様式の重圧をはねのけようとして来たであろうか。
永い目で見れば、日本でも美術の進歩は同じようにして行なわれている、と私は考える。鎌倉時代までの大和《やまと》絵は、流麗な線や豊麗な色彩をもって、優美そのものを具現するような様式のものであるが、室町時代の墨絵は、色彩をことごとく去り、線の流麗な働きをも捨てた。優美はもはやその欲するところではない。雄勁《ゆうけい》な線とただ一色の墨色とをもってこの様式の絵は枯淡な画境を作り出している。しかるに桃山時代になると、色彩を捨てる立場はくつがえされて強烈な極彩色が用いられ、枯淡に代わって豪華濃艶な絵が作り出された。それは江戸時代の初めには末期的な醇熟《じゆんじゆく》の段階に達したといってよいが、江戸中期以後になると、豪華濃艶な様式に代わって、恬淡洒脱《てんたんしやだつ》な文人画が起こってくる。古い様式の否定によって新しい様式が生まれてくる関係は、これらの変遷の中に実に明白に示されているといってよい。
ではその進展は明治以後にも続けられたであろうか。確かに、恬淡洒脱な文人画に比すると、明治以後の日本画には、油っこい、執拗《しつよう》なところが出て来た。しかしそれが古い様式から必然に押し出されて来たのか、あるいは洋画の様式に刺激された結果であるのか、容易に断じ難い。明治以後のいろいろな美術運動から考えると、日本画家は、日本画の伝統の圧力を感じるよりも、むしろ外来の様式の圧力を一層強く感じたのであろう。
この点では日本とヨーロッパとでは事情が異なっている。ヨーロッパでは美術館の示している伝統の力が現前に重圧を加えてくるのである。ルーヴルその他の画廊からは、数多くの巨匠の作が、日々に現代をにらみつけている。画家はこの監視の下に仕事をしなくてはならない。しかるに日本の美術館には、西洋の巨匠の作が並んでいないばかりでない。日本自身の生み出した巨匠の作さえも並んでいないのである。名作が多くは個人の家の奥深くしまい込まれているせいでもあるが、たとい美術館の所蔵に帰しているものがあっても、それはきわめてまれにしか陳列されないであろう。なぜなら日本の絵は、日光や空気や湿気のなかに永くさらしておくわけには行かないからである。従って名作は、大抵しまい込まれていて、人目につかない。人目につかないと、自然に人々の意識のなかでも、どこかへしまい込まれてしまう。名作が現代をにらみつけているという事態は、ここでは成立しない。従って日本の画家に対しては、過去の名作の圧力はさほど加わって来ないのである。
たぶんその結果であろう。日本画家は明治以来洋画の圧力の下に仕事をして来た。しかもその洋画家は、洋画の伝統の|圧力が感じられない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ところで、その|圧力をはねのける様式《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の下に仕事をしていた。してみると日本画家も洋画家もともに古い様式の圧力を|はねのけて《ヽヽヽヽヽ》新しい様式を造り出すという努力をしていたわけではないのである。両者はいずれもおのれの背負っている伝統の重圧を切実に感じていなかった。しかも洋画家は、日本にとって新しい様式を輸入するという|新しい仕事《ヽヽヽヽヽ》をしていたし、日本画家は、この新しい様式の侵入に対して日本画の伝統を守り、それを新しい時代に適応させて行くという、これも日本にとって|新しい仕事《ヽヽヽヽヽ》をしていた。そのように仕事はいずれも新しいという性格を持ってはいたが、しかし自分の背負っている伝統的な様式を否定して新しい様式を創造するという仕事ではなかったのである。
このことは、日本画と洋画との対立という大きい様式的対立が、それぞれの伝統における時代的様式の対立よりも一層根本的であり、従って過去数世紀にわたる絵画の発展とは異なった解決を必要とすることを示している。美術の進歩は新しい様式の創造にあると言ったが、そういう進歩を顕著に示している洋画の様式の系列が、今や同じように進歩のあとを示している日本画の様式の系列と交叉することになったのである。この際日本画の伝統を捨てて洋画の伝統を取ったところで、そこには進歩はない。それは伝統的な様式の否定ではあるであろうが、新しい様式の創造ではないのである。反対に、洋画の伝統を拒否して日本画の伝統を守るとすれば、そこには伝統的な様式の否定という意味さえも成り立たぬであろう。日本人が洋画を採用しなかったところで、洋画の伝統の中には何らの否定の契機も加わって来ないからである。
しからばこの対立において、進歩はいかにして可能であろうか。この対立は相対して生きる二つのものの間の関係であるから、進歩はただ|相互の自己否定的な奉仕《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》によってのみもたらされるであろう。洋画がその伝統の一切をすてて日本画の伝統を生かそうとし、日本画がその伝統の一切をすてて洋画の伝統を生かそうとすれば、洋画も日本画も、その捨てたおのれが相手において生きることを見いだすであろう。これは人間的な愛の関係にほかならぬが、この愛において、初めて、洋画と日本画との対立を生かせた新しい様式が、創造され得るであろう。
このような対等な愛の関係が成り立つためには、過去の伝統全部をふくめた両者が、互いに相手を理解し、尊重し合わねばならぬ。両者は著しく様式を異にしているが、その相違にもかかわらず、価値において互いに優劣のないことを認め合わねばならぬ。
私は推古天平以来の日本の美術史を通観して、ヨーロッパの美術史との間に右のごとき相互理解を要求することが、必ずしも不倫ではないと思う。私自身の経験でいうと、ヨーロッパの優れた美術を見て回っていたときに、かえって日本の美術の価値を見なおすような気持ちをしばしば味わった。彫刻でも絵画でもそうである。同じ段階のものを個々に比較して見れば、それらは案外に比較に堪えるのである。
その一つの例は浮世絵である。私はそれまでにも浮世絵を認めていなかったわけではない。あの柔婉《じゆうえん》な線や色調は実際美しいのである。しかし日本の絵画にはもっと優れたものがたくさんある。従って私は浮世絵に高い地位を与えようとは思っていなかった。しかるに一九二八年の初夏、私はロンドンの大英博物館で、意外な感に打たれたのである。その日私が見に行ったのは、デューラーの四百年記念、ゴヤの百年記念の展観であった。この二人の画家の、主として線描の絵が、かなり多数に集められていた。私はかなり長い時間をかけて、ゆっくりそれらを見て回った後に、何の気なしに衝立《ついたて》の向こう側に出た。そこには一面に日本の浮世絵を並べてあった。それを見た瞬間に私はあっと驚いた。デューラーやゴヤに魅せられていた私の目に、この浮世絵が、何ら蹴押《けお》されることのない、立派な品位あるものとして映ったのである。様式は非常に違う。しかし芸術としてはこの方が静かで気持ちがよい、とさえ私は感じた。その瞬間に、私が在来浮世絵に与えていた地位はあまりに低かった、ということが解ったのである。その同じ部屋には顧凱之《こがいし》の長巻が展観されていた。これはシナの古画として最高峰に位するものであり、その細い線などは実に美しいのであるが、しかしそれをながめたあとで再び浮世絵にふり返って見ても、必ずしも場違いの感じはしなかった。浮世絵は顧凱之と同室に展観されることに結構堪えているのである。この時に私は、欧米人がなぜ浮世絵を珍重するかを、初めて理解したのであった。
同じような経験を私はもっと平凡な無名の絵から得た。ルーヴルの美術館に毎日通っていたころで、ギリシアの彫刻や、イタリアのルネッサンスの絵や、さらに下ってベラスケス、レンブラントなど、世界一流の名作の前に、毎日心から頭を下げていた。しかし、十八世紀のフランスの絵や彫刻がずらりと並んでいる広い室を見て回る段になると、必ずしもそうは行かなくなった。一日じゅう、次から次へと裸体の絵を見ているうちに、人間臭い匂いにやり切れなくなったような、うんざりした気持ちになってしまうのである。で、ある日、気持ちを転換するために、外に出て、セーヌの河岸の方から、シナの陶器や日本の絵などの陳列してある部門にはいってみた。シナの陶器はあまり好い印象を与えなかったが、ふと日本の屏風と掛け軸の前に出たときに、私ははっとしたのである。屏風には平凡な草花の絵が描いてあり、掛け軸はぼたんの花の小さい横軸であったが、それが何とも言えず落ちついた、静かな良い気持ちを与えたのである。それは作の力というよりは、むしろ様式の力であった。ここには別世界がある。のみならず、こういう凡作さえも、品位において劣っているとは言えない。私は急に目を開かれたように感じた。
そういう経験のせいか、私は日本へ帰ってまもなく二条離宮を訪れて、そこの障壁画をすっかり見直すような気持ちになった。ここでも個々の作のできばえよりはその様式が私の目を引いた。広い壁面に人物も背景も描かず、ただ|一本の松《ヽヽヽヽ》を描いて、しかも十分に効果をあげているというような例は、ヨーロッパには全然ない。ではその効果はどこから出ているか。描かれた松は極端に不規則的な形をしている。松が植物として持っている法則的な形はことごとく捨て去られ、幹は怪物のごとくうねっている。しかもそのゆえに、広い壁面に美事な美的統一が作り出されているのである。それは左右均斉というような法則的合理的な統一ではなくして、いわば|気合いの統一《ヽヽヽヽヽヽ》である。そこにこの特殊な様式の根柢《こんてい》があるのであろう。人物や背景を丹念に描き出している西洋の絵は、|対象的なるものの把握《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に重点を置いている。従って対象のうちの本質的なもの、偶然ではなくして必然的なものに迫って行こうとする。それはしばしば対象のうちの規則的なもの法則的なものの把握《はあく》ともなるのである。しかるにこの松の絵は、松という植物の本質的な姿を描き出そうなどとしているのではない。松はただ手段であって、|主体的なるものの表出《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》がねらいなのである。だから松の持っている偶然的な姿が利用され、さらに誇大されさえもする。線はここでは形象の輪郭を示すのではなくして、主体的なるもののリズムを表現するのである。しかも巧みに形象を現わすことを通じて、すなわち他者たることを通じて、主体がほとばしり出るのである。形象の間の釣り合いや調和ではなくして、気合いの統一が目ざされるゆえんはそこにある。これは一つの様式として十分に存在の価値を持つものであり、そこに特殊の美しさが作り出されることも十分に認められなくてはならぬ。
浮世絵の線の美しさなども、こういう見地から理解することができよう。たとえば女の姿が柔婉な美しい線の流れによって描かれている場合、そこには同じリズムを示す微妙な彎曲《わんきよく》線がくり返して用いられ、それらの線の諧調が何とも言えず快い印象を与えるであろう。それらの線はあるいは顔の輪郭を現わし、あるいは袖の形を描き出している。そうして柔らかな肉のふくらみとか、絹の布の感触とかを、きわめて鋭く捕えてもいるのである。しかしそれらは決して写実的な線なのではなくして、柔らかい花びらの輪郭などにのみ見られるような、非常に微妙な線の|うねり《ヽヽヽ》なのである。そういう線は、ちょうど音声のある|うねり方《ヽヽヽヽ》と同じように、われわれの感情の|うねり《ヽヽヽ》を非常に適切に現わすことができる。だからそれを使って一つの美しい諧調を作り出すことは、われわれの感情の適切な表現になる。女の姿はしばしばこういう仕事のための手段として用いられている。ねらいは対象的なものの描写ではなくして主体的なものの表出なのである。このやり方が発達したために、浮世絵は、目に見えない触覚的な体験を、目に見える視覚的な形象に翻訳して表現する点において、他に類を見ないほどの成功をおさめたのであろう。
こういう点を数えあげて行くと、日本画が洋画に対して相互に尊敬し合うことを要求しても、決して行き過ぎではないと思う。
しかし特殊性は限定である。日本画の様式は、どこへでも通用し得るというわけではない。西洋の文化を受け入れる大勢と、日本画の様式とは、調和しないであろう。たとえば洋風の建築に、桃山式の壁画をつけるわけには行かない。合理主義的法則的な建築様式は、不規則的な|気合いの統一《ヽヽヽヽヽヽ》の様式などを受けつけないのである。もしこれらを無理に結びつければ、そこに滑稽な「混合美術」が生まれてくるであろう。そういう不愉快な失敗の例は決して少なくないのである。
従ってここにまず必要なのは、それぞれの様式の相違、従ってその限定の理解である。それぞれの様式は、その背負っている伝統のなかで、純粋に、従って混合芸術に陥ることなしに、発展させられなくてはならない。がそれにもかかわらず、美術家の努力は、絶えずその伝統をはねのけることに向かっているのである。そういう否定の努力に際しては、|伝統の異なる他の様式《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が、しばしば天啓的な示唆を与えることもあるであろう。それは混合ではない。新しい様式の創造である。
そういう例としてわれわれはマネーに対する浮世絵の影響をあげることができる。浮世絵の簡素な色調は、マネーを刺激して一つの新しい様式を生み出させたように見える。マネーの絵に対するとき、われわれはそれを感ぜざるを得ないのである。
モネーの晩年の|草花の壁画《ヽヽヽヽヽ》もそういう印象を与える。モネーはここで西洋の風景画の伝統を超えて、日本の草花の屏風に見るような構図をもって大壁画を作っているのである。横に長い壁面は、一面に池の水面をもっておおわれている。そこには水蓮の花が咲き、空と雲とが映っている。この画面を縦に区切っているのは、ただ二本の柳の樹の幹と、その枝垂《しだ》れた枝とである。こういう単純な構図は西洋の壁画では初めてといってよい。もちろんその単純な壁面も、モネーらしく丹念に塗り上げたものであって、屏風の金地のようなものではない。そこには水が見え、空が見え、雲が見え、水蓮の葉や花が見える。見つめていればいるほどいろいろのものの見えてくる、深みのある面であって、何物も描かれない面とはまるで違う。モネーは決して「描かれない面」を活かして使おうなどとはしていない。それはあくまでも洋画である。しかしわれわれはその前に立って、まず第一に、日本画の草花の屏風と同じような、静かな気分を出した洋風の大壁画が、このように可能であったということに、驚きを感ずるのである。モネーはさらに同じような大壁に、同じ池の秋枯れの景を描いている。ほかの小壁には夏の景色があったと思う。日本画に通有な、四季の変化を描くという動機も、ここには働いているのである。この調子でなら、四季草花の図をもって洋風建築の大壁を飾るということも、もはや不可能ではないのである。
しかしそれは、洋画と日本画との対立というような、伝統の異なった様式の対立などの見られないフランスにおいてのことである。かかる対立の下に苦しんでいる日本では、この問題の解決には洋画家も日本画家もともに参加しなくてはならぬ。洋画家はマネーやモネー以上に日本画の伝統から示唆を受ける機会を持っている。モネーの始めた草花の壁画のごときを、もっと突きつめて遂行することもできるはずである。とともに日本画家も、絵画の公共性について多くのことを洋画の伝統から示唆されてよいであろう。日本画における公共性の欠乏は、絵の具や技法に結晶している。線の微妙な発達とか、持続的な展観に堪えない色彩や画布とかは、私室的《ヽヽヽ》な鑑賞が盛んであった結果であろう。しかし日本画も古い時代にはそうではなかったのである。それは法隆寺の壁画を描いて千年以上の持続的な展示に堪え、桃山時代の豪華な宮殿の障壁を飾って三百年後に遺品を残している。日本画はこういう公共的性格を回復しなくてはならぬ。ただその場合に、過去の様式をそのまま襲用するのでなく、それをはねのけて新しい様式を創造するためには、洋画の伝統から多くの示唆を受けることができるであろう。このような努力が洋画と日本画との双方から行なわれて行けば、洋画と日本画との区別をのり超えた新しい様式も創造され得るであろう。それは両者の混合ではなくして新しい一つのものである。それは洋画の伝統と日本画の伝統とをいずれも否定しつつ、しかも両者の生命を生かせ、従って二つの伝統を共に背負ったものとして現われるであろう。
それがどんな形に現われるか、私は知らない。知っていれば私がそれを創るであろう。そういう新しい創造は、天才の仕事である。
しかしそういう天才を産み出すためには、洋画と日本画との双方の伝統が、その力を底まで発揮しなくてはならぬ。それには双方の伝統に属する傑作が、絶えずわれわれの上にその圧力を加えていなくてはならない。ここに美術館の重大な役目がある。美術館が民衆の目を開き、深め、一国の美術の水準をも高めて行くのである。それによってやがては民衆が天才を呼び出すに至るであろう。
[#地付き](昭和二十六年一月)
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第二部
『菊と刀』について
石田英一郎様
二月ほど前に貴君がベネディクトの『菊と刀』の批評を書かないかと言って来られました時、わたくしがまだその書を読んでいないことをお答えしますと、貴君はとにかく一度読んでみるようにと熱心にすすめられました。その時わたくしは、少しどうかとは思いましたが、貴君に次のようなことを申し上げました。自分はもう生い先の短い身であるから、余生はできるだけわがままに送りたいと思っている。自分の興味の湧《わ》かない書物などは読みたくない。『菊と刀』の噂《うわさ》は聞いてはいるが、読みたいという気持ちは少しも湧かなかった。しかしもし貴君が責任をもってこの書は読むに価するということを言われるならば、事情は異なってくる。貴君ほどの人が学問的価値を認められるものならば、とにかく読んでみましょう。そうわたくしは申しました。これは実際わたくしのまじめな気持ちであったのです。民族学者としての貴君の業績には前々から大きい敬意を抱いていたのでありますから、その貴君が推賞せられるくらいならばベネディクトの文化人類学的研究にも見るべきものがあるのであろうと思ったのです。それに対して貴君は、幾分|躊躇《ちゆうちよ》しながらも、それだけの価値があると思うと答えられました。細部にはかなり誤謬《ごびゆう》もあるが、全体の見方にはわれわれの反省を促すに足る卓見が含まれていると思う、とも言われました。しかし、わたくしがさらに念を押した時に、読んでみた上で興味を感じられなければ、批評は書かなくともよい、と言われました。そういう諒解《りようかい》の下にわたくしは『菊と刀』の訳書を読むことを貴君と約束したのであります。
しかし訳書を読みはじめてまもなく、わたくしは非常に後悔いたしました。そうして長い間それを再び手に取り上げる気持ちが起こりませんでした。やはりわたくしはわがままを通してお断わりすればよかったと思っております。この書にもいろいろな価値はありましょうが、少なくとも学問的な価値だけはない、とわたくしには思えるのであります。従ってわたくしは、尊敬すべき学者としての貴君が、どういう点にこの書の学問的価値を認められるかを、この書に対する関心よりも一層大きい関心をもって、知りたいと思うのであります。わたくしは貴君に対してそれを要求する権利がある、と申し上げてもよいでしょう。
わたくしがこの書を学問的な書として取り扱いたくないという理由は、この書のあげているデータのなかに無数の誤謬や誤解があるということではありません。もちろんそれだけでも学問の書としての信用をそこなうには十分でありますが、しかしわれわれは、外国人の日本研究に付随するこの種の難点に対しては、寛容な態度をもって接するという習慣を持っているのです。それよりもむしろ、間違いのないデータを並べている場合でも、それの取り扱い方に難があると思うのです。著者はそういうデータから不当に一般的な結論を出しています。われわれの側からは、そういう結論を不可能にするだけの同数の反対のデータを、容易に並べることができるでしょう。この著者はそういう反対のデータを細心にさがし回るという努力をほとんどしていないように見えます。従ってもし著者が、「日本の軍人の考え方について」とか「日本の捕虜の考え方について」とかいうような、範囲の限られた日本人についての考察を示されたのであったならば、それは学問的にも価値があったかも知れません。しかしそれでもって「日本人の考え方」とか「日本文化の型」とかを明らかにするということになりますと、そういう部分的な事実が全体に対してどういう関係に立っているかをよほどはっきりとつかんでいなくてはならないのです。しかるに著者は、局部的な事実において直ちに全体の性格を見ているのであります。
本書の冒頭に「西洋諸国が人間の本性に基く事実として承認するに至つた戦時慣例は、明かに日本人の眼中には存在しなかつた」とあります。この考えは第二章で詳しく展開されておりますが、そこでは、日本人が西洋の戦時慣例に違反して行なったあらゆる行為が、日本人の人生観や、人間の義務全般に関する日本人の信念を知る資料になった、とはっきり言われています。その「日本人」とある個所をことごとく「一部の軍人」とでも書き改めてしまえば問題はないのです。その代わりこの書は「日本軍人の型」を論じているのであって「日本文化の型」を論じているのではないことになります。いや「日本軍人の型」といってもまだ行き過ぎで「国粋主義的軍人の型」とでも限定しなくては精確でないでしょう。日本人の大多数はそういう違犯行為をやったのではありません。そういう行為の行なわれていたことを確実に知っていたわけでもない。時に残虐行為の噂を洩れ聞くとしても、それは少数の乱暴者、不法者のやることであって、日本の軍隊が公然とそういう行為をやるとは信じていなかったのであります。その証拠に、軍部の方でも、南京《ナンキン》大虐殺とか捕虜虐待とかの事実をひた隠しに隠して、決して国民に知らせようとはしませんでした。著者のいうように日本人がそういう違犯行為を平気でやっていたのなら、どうしてそれを国内でひた隠しに隠す必要があったのでしょうか。そういう事実に感づいてちょっとでもそれを批判する人があれば、その人は反軍思想の持ち主として憲兵に追求されましたが、それほど厳重に取り締まらなくてはならなかったということは、いかに軍部が国民の非難を恐れていたかを示すものではないでしょうか。もちろん、日本人の大多数が憲兵を恐れて軍部への批判をなし得なかったということは、別の重大な問題として浮かび上がって来ます。しかしそれは日本人の大多数が残虐行為を是認した、あるいは残虐行為の共犯者であった、ということではないと思います。乃木《のぎ》大将が旅順《りよじゆん》で降将ステッセルを優遇したということは、わたくしどもの少年時代の日本人の良識を反映したものとして、満足の感情をもって国民に迎えられました。当時中学生であったわたくしは、級友と連れ立って、自発的にたびたび捕虜のロシア人の慰問に出かけました。捕虜を虐待するなどということは、そのころの日本人の道徳的感覚には合わなかったのであります。もっと古い時代の戦記物を見ましても、降人を残虐に扱うということは、特別に暴虐な人物を描写する場合の道具立てにしか用いられていないのです。著者が大きい問題として取り上げている日本の軍人の無降服主義そのものさえ、近時の軍人の考え方であって、日本人の伝統的な考え方ではありません。降服ということは恥辱と見られたには相違ないが、しかし最近におけるようなヒステリックな考えは昔の武士にはなかったのです。明治時代に軍歌というものが唱《うた》われ始めたころ、兵士たちが「知勇兼備のもののふ」として日々|讃美《さんび》していたのは、ほかならぬ降参者熊谷|直実《なおざね》、初め頼朝征伐の軍に加わり、後に降参して頼朝の家臣になったあの熊谷直実ではありませんか。国民は直実の降参の事実などをさほど重大視せず、従って明治時代の軍人たちもその点は気にしなかったのでありましょう。降服をひどくきらって城を枕に討ち死にすることが流行したのは、戦国時代の末、力ずくの争いが激化して手段を選ばなくなり、策略のために降服する人などが輩出した結果、降人をことごとく斬るというようなやり方が始められたからでありましょう。しかしそういう武力対立をきれいに克服した信長・秀吉・家康、特に秀吉は、有力な大名を巧みに降服に誘う術を心得た人でありました。敵が合理的に形勢を判断し得る余裕を持っている間に、従ってヒステリックに恥辱感を昂進《こうしん》させたりする前に、適当な名誉感を保持させつつ降服せしめること、これが彼の成功の核心であったといってよいでしょう。日本人の間に降服という現象がなかったなどとは飛んでもない独断です。もちろん日本人は、降服ということをひどくいやがりますが、しかしそれは西洋人だって同じでしょう。ここで問題になるのは、一部の軍人が熱狂的に唱え、また部下に強制していた無降服主義が、果たして日本人の人生観、日本人の信念を示しているといえるかどうかという点です。勝つことを知って負けることを知らないというのは、戦場で突進する時の興奮した心理であって、人生観とか道義に関する信念とかといわるべきものではありません。もしそれを人生観として持っている武士があれば、それは猪武者《いのししむしや》として卑しまれたものです。そういう猪武者が最近十余年間舞台の上にのぼっていたからといって、そこから日本文化の型を取り出されては、その独断的なことは猪武者の独断と異なるところはないと言わなくてはなりますまい。
しかしこれは戦時慣例に関したことだけではありません。著者は「日本」あるいは「日本人」の考え方として、最近十幾年の間に著しく目立った軍部のイデオロギーを、ほとんど無批判的に使っています。階層制度(Hierarchy)に対する信仰と信頼とか、日本は必ず精神力で物質力に勝つという思想とか、その他「日本人が戦争中にあらゆる種類の事柄に関して述べた言葉」として著者のあげるものは、すべてそうであります。そういう言葉を述べた軍人や、そういう軍人の代弁者たちも、「日本人」であるには相違ありません。従って日本人のなかにそういう考え方をする人々のいたことは確かであります。しかしそういう人々をもって「日本人」を代表させてよいかどうか、しかも著者のするように過去の永い時代にわたっての日本人を代表させてよいかどうか、それがこの書にとっては重大な問題であります。
なるほどある時期の日本の新聞雑誌には、そういう言葉ばかりが掲載されておりました。海外からそれを見て、日本人の一致した考えがそこに表現されていると感じても、無理はなかったかも知れません。しかしそういう言葉が大声に叫ばれたのは、海外に対して日本人の考えを表明するためではなくして、むしろ国内の民衆に対する統制や威嚇のためであったのです。日本人の大多数がそう考えていないために、それを抑圧し、引きずって行くための標語として、いろいろなことが言われたのです。すなわち国内闘争の標語であったのです。
たとえば「精神力で物質力に勝つ」という標語を取ってみましょう。著者はこれを重大視して、そこに日本人の特性を見ようとしていますが、そういうことをしてよいかどうかを考えるために、満州事変前の十数年間の日本の新聞雑誌を調べてみるがよいと思います。そこにはこんな標語はほとんど見つからないでしょう。むしろそれとは逆な唯物史観がほとんど支配的と言ってよいほどに流行しているのを見いだすでしょう。そういう中からどうして精神主義の標語が浮かび上がって来たかというと、直接行動の主張を左から学び取った青年将校たちが、軍部の手に支配権を奪い取ろうとしたからです。この標語の現わしている思想は、貧乏な日本で軍人たちが無理に軍備を拡大しようとした結果生まれて来ました。機械が足りなくても精神で勝つ。こう主張した連中も、機械の必要を知らなかったのではありません。機械が望み通りに手に入らないための「無理」が言わせたやせ我慢なのです。従ってこの標語は「無理を通そうとする立場」の旗印であって、サーベルの代わりに日本刀をぶら下げるというあの時代錯誤的な姿とともに、軍部の考え方の型となったのです。やがてそれは軍部専制時代のいろいろな無理押し宣伝の標語にも流用されました。だから著者が指摘しているように食糧不足、燃料不足でヘトヘトになっている民衆に、ラジオが防寒体操をすすめるというような現象も起こりました。しかしそれだからといって、体操が暖房や食糧の代わりになると日本人が考えていたといわれると、われわれはあっけに取られざるを得ません。
アメリカ人の体力についての考へ方はいつでも、前の日に八時間眠つたか、五時間眠つたか、平生通り食事をしたかどうか、寒かつたかどうかによつて、どれだけ体力を使つてさしつかへないかを計算するのであるが、この日本人の計算の仕方はそれとは正反対で、体力を蓄へることなんかは全然眼中に置いてゐない。(訳書三四頁)
これが軍部の無理押し宣伝に対する諧謔《かいぎやく》であるのならば結構でしょう。しかしまじめに日本人の特性として論ぜられたということになると、こちらもまじめに批判する気持ちになれるでしょうか。
そのほかにも「八紘《はつこう》一宇」とか「各得其所」とかという標語は、著者によって非常に重大に取り扱われております。なるほど戦争の指導者たちがこれらの標語をふり回していたことは事実であります。しかし日本人の大多数はこれらの古い言葉を知っていなかったのです。それはただ軍部の圧力を表示する言葉として受け取られていました。ある学校の校長が「八ゲン一宇」と発音したために右翼の連中からいじめられたという話を聞きましたが、その校長でなくとも「紘」という文字などを知っていた日本人は、数えるほどしかなかったでしょう。わたくしなどももちろん知らなかった人の一人ですが、あまりひどくふり回されるので、どういうことかと思って日本書紀の注釈書をあけてみますと、そこでは、外国の事などは全然眼中になく、ただ日本国中を一家族のように仲よくさせるというほどの意味に使ってありました。従って本来は侵略主義などと全然関係のない言葉であります。八紘を国外のことに押しひろめるとしても、それは四海同胞主義にこそなれ、侵略主義にはならないでしょう。もちろん、侵略主義者が四海同胞主義を標榜《ひようぼう》しつつ侵略を行なうということは、例のないことではありません。しかし侵略主義者が標語に使ったからといって、四海同胞主義は侵略的でいけない、とはいえないでしょう。「各得其所」という語も、たぶん論語の「雅頌各得其所」あたりから出たのでありましょうから、それぞれのものがその本来の意義を、あるいは当然の価値を、発揮するという意味だと思います。それぞれの個人がその人格の権利を保証され、自由を得るということも、各得其所でありましょう。これを侵略主義者が標語に使ったからといって、この語自体に侵略主義的な意味を付するのは強弁というほかはありません。いわんやこの標語が日本文化の型の核心である階層制度を表現しているというに至っては、非常な独断であります。
しかしこれらの標語をふり回していたのは軍部の指導者であり、従ってこれらの標語によって彼らの考えを指示するのは誤りでない、とはいえるかも知れません。そこで問題はまたこれらの指導者が日本文化の適当な表現者であったかどうかに帰着するのであります。
日本人は右のような標語が士官学校や右翼団体の産物であることをよく知っておりました。従ってそれらの乱暴者が自分たちの代表者でない事をも認めておりました。では何ゆえに日本人は、そういう一部の乱暴者を抑え得なかったか。そういう連中が目の前で議会を無力にし、報道機関を占領して行くのを、なぜ抵抗もせずに見ていたか。抵抗しないばかりか、やがては「御無理ごもっとも」というような態度をとることを、なぜあえてしたか。ここに著者の取り扱わなかった別の問題があると思います。そうしてその方が著者の取り上げた問題よりも重要であると思います。
「無理が通れば道理ひっ込む」という諺《ことわざ》は、だいぶ古くからあるようでありますが、なぜ日本では道理がひっ込むのか。もちろん日本にも「いや道理は決してひっ込まない」と豪語し得る少数の首っ骨の固い人もあります。しかし大多数の日本人は、無理が通るのを黙って見送るのです。その現象は現在電車の中などでさえも頻々《ひんぴん》として見られます。車内で一人が不法を行なっているのを九十九人が苦々《にがにが》しく思いながらも黙っているのです。たまたま見かねてそれをとがめる人があれば、衆人は共鳴しますが、自ら立ってとがめようとはしないのです。この傾向は軍部専制時代には限りません。今度『菊と刀』を読んでいた時のある日、わたくしは新聞で次のような投書を見ました。
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さる二十四日午後五時近く、東京西南郊の郊外電車がS駅についたとき、五六人の男が突然のりこんできて、えらい勢いで「下山《しもやま》事件、三鷹《みたか》事件につき反動政府が中傷的な報道をするので、これを是正するためにここに新聞があります。ぜひ人民のため買って読んでください。そして真相をつかんでください」と絶叫し、買い求めを半ば強制する態度に出ました。この勢いはすさまじいもので、乗客はしばしあっけにとられ、中にはしぶしぶ金を出す人もありました。その時、若い車掌さんが「車中の新聞売りは厳禁してあるからやめてください」と強く申し出ました。ところが男たちは「なんだ、構わないじゃないか、我々は人民のために闘うのだ」と車掌をとりかこみ脅迫がましい態度です。さらに男たちの一人が「君も労働者ではないか、我々は世界労働者のために反動政府と闘っているのだ。これがわからぬか。禁止するのはけしからん」と叫びました。車掌さんはビクともせず「新聞の内容が何とあろうと関係ありません。私は無断車内売りつけを禁ずるのです」といい、勇敢に争って退きません。
電車がY駅につくと、ドヤドヤと男たちは下車しました。その一人をつかまえて車掌さんは「ゼヒ駅長室にきてください」といいました。ここでも男たちはさんざん反抗しましたが、とうとう多数の駅員にかこまれ姓名をつげてほうほうの体で去りました。
私ははじめて「暴力」の一端をみました。そしてこれに屈服せず勇敢に正しいことを主張した若い車掌さんの職務に対する責任感と、危険を恐れぬ勇気に感服させられました。
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この記事で特徴的なのは、あたりまえのことをしている車掌が珍しく勇敢な人に見えたということと、車掌の態度に同感している人々がこの車掌を支持してその当然の行為を助けようとしなかったことであります。大多数の人々は道理を知らないのではありません。ただ無理が通ろうとする場合に引っ込んでいて出て来ないのであります。この特徴は著者のあげているような標語がことごとく影を没してしまった現在においても、少しも変わっていないのであります。
わたくしは同じ特徴が、軍部自身の中にもあったであろうと推測しております。わたくしの接した軍人はごく狭い範囲に過ぎませんが、その中の多数は合理的に物を考える人たちであって、精神主義的でもなければ神がかりでもなく、また「無理」を通そうとする人たちでもありませんでした。軍部のイデオロギーを作った人たちがどこにいたのか、わたくしどもはよくは知らないのであります。乱暴者はやはり少数であったと思われます。しかし多数の人々が右にあげた電車の乗客と同じような態度を取ったために「無理」が通ることになったのでありましょう。
この性格のゆえに少数の人々の偏狭な考えが日本人の考えとして言い現わされ、そうしてそれが日本の国家の行動として実現されました。しかしそれは政治的に、武力を握った少数者の専制が行なわれた、ということであって、日本人の考えとか、日本文化の型とかが、その偏狭な考えの中に十分表現されているということではありません。そういう専制が行なわれ得たということは、日本文化の型と関係のある問題ですが、しかしその専制は全然別種の思想や人生観の下においても行なわれ得るでありましょう。そこが重大な点なのであります。
著者が階層制度を捉《とら》えていろいろ日本の過去の時代に言及する段になりますと、前記の欠点は一層拡大されてまいります。
日本は御承知の通りいろいろな古いものを破壊せずに保存している国であります。封建的なものどころか、原始的なものさえも現前に生きているのです。わたくしはずっと前にそれを日本文化の重層性として論じたことがありますし、またその点に着目して日本を並在の国として論じたドイツ人もあったと記憶しております。しかし我々にとってはこれは単なる並在ではなく、新古の層のはっきりと弁別されるものであり、従ってどれが残存物、どれが生きて動いているものと、ほとんど反射的に区別して取り扱っているのであります。そういう残存物の二三を取り出し、それを一般化して現在の生活の型として示される、ということになると、どうもまじめに相手になる気持ちは起こらなくなるのです。著者がもし「日本の封建時代における風習について」とか、「現代日本における封建的遺習について」とかのごとき題目を掲げ、研究をその局部に集中したのであったならば、幾分学問的価値を要求し得たでもありましょう。
わたくしは大日本憲法の発布された年に、中国の小さい農村に生まれ、そこで育ったものであります。江戸時代のことはもとより、明治維新のことも遠い過去として感じられていました。憲法の発布さえも前の世代に属する古いことでありました。その後還暦の年に当たる今日まで半世紀にわたる経験によりますと、著者が「日本の階層制度に対する信頼」と呼んでいるものには、きわめてまれにしか触れることができなかったのであります。天保《てんぽう》元年生まれの祖父は確かにそういう信頼の念を持っていました。しかし父やその世代の人々は「階層制度の中で自分にふさわしい位置」などに安んじている人ではありませんでした。事情やむなくその位置に留《とど》まっていたとしても、少なくとも一度や二度はそこから脱出する努力をした人でありました。わたくし自身の世代の青少年は、農村であれ、田舎町であれ、皆当然のこととしてそういう位置を抜け出ること、できるだけ高い地位にのぼることを目ざして動いていたのであります。親の職業をつぎ、親と同じ位置に安んずるというような、フランスなどによく見られるあの落ちついた態度のものは、もうほとんどなくなっていました。シオドル・ルーズヴェルトの The Strenuous Life の訳本が流行し、中学生は原文の抄本にとりついて熱心に読みました。『成功』という雑誌は田舎の町でさえも相当の数が売れていたと思います。青年たちは皆親のたどらなかった新しい道をたどろうとしていたのです。そういう中で育って来たものが、半世紀近くも後に「日本人は……行動が末の末まで、あたかも地図のやうに精密にあらかじめ規定されて居り、めいめいの社会的地位が定まつてゐる世界の中で生活するやうに条件づけられて来た」という言葉を聞かされて、なるほどと肯《うなず》くわけには行かないでありましょう。
著者が熱心に取り扱っている日本の「家」の問題にしましても、親とか年寄りとかが絶対権をもって子供に一々の事を命令したなどということは、わたくしどもの経験の中にはありません。わたくしの見聞した限りでは、当時の青年たちの大部分は自分の意志で職業を選び、妻を選びました。その際親の意志に反することも決してまれではありませんでした。それは時には激しい親子げんかを引き起こしましたが、大抵《たいてい》は親の譲歩で大したこともなく済んだのであります。もちろんわたくしは、自分の接触しない範囲に著者のいうような古風な家庭がたくさんあったことを知っています。しかしそれらは明治時代にさえもすでに「古風な」という烙印《らくいん》を押されていたのであります。
著者が一つの特徴的な現象としてあげている姑《しゆうとめ》の嫁いじめは、わたくしの少年時代、まだ小説などを読み始める前に、『不如帰《ほととぎす》』という小説、ついではその演劇化によって、非常に世人の注意をひきました。その結果であるかどうかはよくわかりませんが、わたくしの親の世代の母親たちは、嫁いじめなどはしないと決心したように見えます。わたくしの接触した範囲の方々の母親たちは、息子の嫁に対して非常に控え目な態度をとりました。そのため母親たちが逆に嫁にいじめられた場合が少なくないのです。今はその姑をいじめた嫁が母親として嫁に対する時代になっています。この世代の母親たちはもう嫁に「家風」を押しつけようとか、何事によらず命令しようとか、ということを、考えない方が多いのです。親は子供らが幸福な家庭を営むことを念願しており、子供たちも親が幸福な老後を送るように心がけています。「家」のために犠牲になるということを、当然のこととして甘んじているような人たちには、わたくしどもはきわめてまれにしか逢うことができないのです。もちろん今でも「古風」な家庭はそこここに残っておりましょう。しかしそれが現代の日本の家庭であるといわれると、六十年間日本で生活して来たわたくしもただあっけに取られるほかはありません。
貴君が特にわたくしに批評を求められたのは、義理と人情とに関する著者の分析であろうと思われますが、あの部分は特にできが悪く、右にあげた欠点のために実に混沌《こんとん》としたものになっていると思います。それを洗い上げて行くような手間はどうか御勘弁ください。それよりもわたくしは、この書のどこに学問的価値があるかを、民族学者としての貴君に教えていただきたいと思います。それをわたくしは繰り返して要求いたします。
[#地付き](昭和二十四年八月)
[#改ページ]
若き研究者に
――ヒミコ女王の国ヤマトについて――
湯浅泰雄君
魏志倭人伝《ぎしわじんでん》の解釈に関して君は一つの新しい説を立てようと意図し、僕の意見を徴せられました。それにお答えするについて、念頭に浮かんでくることをそこはかとなく書きつけてみたいと思います。
魏志倭人伝が日本人に注目されて以来、すでに千数百年の年月がたっております。近いころでは江戸時代の学者が相当にこれを問題にいたしました。明治以来、西洋の史学の影響の下に、この貴重な史料の価値が新しく見なおされ、厳密な学問的取り扱いを受けるようになってからでも、もう半世紀近くたっております。しかしその解釈はいまだ一定しているとはいえない。君がこの点に着目して、日本の建国の前後の時代の歴史をこの記録から掘り出して来ようとせられるのは、まことにもっともと思います。
が、それにつけても思い出されるのは、近ごろおりおり見受けられる妙な説であります。日本の古代史はこれまで永い間自由討究を許されず、従って真相を覆いかくされていた。しかるにこの四五年来、日本で初めて自由な研究が可能になった。今やわれわれは覆いをとって真相を露呈することができる、というのであります。日本の学校の教科書は、学問的研究などには顧慮せず、神話伝説をそのまま史実であるかのように書いていましたが、しかしそれは教育上のことであって、研究上のことではありません。教育の方針にはいろいろな政治的勢力の干渉があったでありましょう。しかしそれと同じに研究の上でも自由が許されなかったなどというのは、この数十年来のいろいろな学者のまじめな研究のことを、なんにも|知らない《ヽヽヽヽ》という無知の告白に過ぎない。それほど無知でもなさそうに思える人が右のようなことを言っているとすれば、それはためにするところがあって故意に歪曲《わいきよく》しているのであって、むしろおのれの無恥を告白したものというべきでしょう。少しでも日本の古代に関する学問的研究に注意している人であったならば、明治の末に白鳥庫吉《しらとりくらきち》氏の書いた『ヒミコ考』を知らないはずはありません。そこでは白鳥氏は魏志倭人伝の史料的価値を精密に立証したのでありますが、さらにその記事の解釈において、魏志のいう耶馬台《ヤマト》を筑後川の川口地方と推定し、この地の女王ヒミコを天照大神《あまてらすおおみかみ》の原型であるかのごとく説きました。大正の初頭には津田|左右吉《そうきち》氏が、神武天皇の東征の物語から史実性を全然|払拭《ふつしよく》してしまう説を含んだ『神代史の新しい研究』を発表しました。その後、同氏は古事記と日本書紀との徹底的な原典批判を試み、朝鮮との関係によって文字や記録の術が伝わる以前の伝説から同じように史実性を消して行きました。これは大正の中ごろのことでありますが、同じころから浜田耕作氏らの考古学者たちは、日本の古代をいろいろと地下から発掘して見せてくれました。それらの業績は君の熟知していられるところと思います。その後、軍閥の恐怖政治の時代に、津田左右吉氏は、その自由な研究のゆえをもって、ひどい迫害を受けましたが、しかし数年にわたる検事の訴追にもかかわらず、氏を国法によって罰しようとする右翼の計画は、ついに|成功せずに《ヽヽヽヽヽ》終わったのであります。これらの事情も、またこれらの学者たちが日本の国史学の名誉を守っていたのであって、神がかりの国史家やそれに追随する便乗学者が国史学を担っていたのでないという事情も、日本で学問に注意する人たちの間には知れわたっていたはずであります。にもかかわらず、これまで自由な研究がまるでなされなかったかのように言いふらすのは、無知にしろ無恥にしろ、とにかく浅ましい次第だと思わずにいられません。
が、右のような妙な説のなかで、一層有害だと思われる部分は、自由な研究が許されるとともに、在来かぶせてあった覆いがとれて、たちまち真相が露呈してくる、という考えであります。これは実に素人《しろうと》だましの法螺《ほら》だというほかはありません。古代に関する研究は、ちょっと覆いをとればすぐに真相が見えるなどという簡単なものではないのです。極度に自由な研究を次から次へと続けて行っても、真相へはただ歩一歩と近づくだけで、なかなか到達のできるものではありません。日本の古代がこれまで十分に解明せられていないのは、自由討究が許されなかったとか、覆いがかぶせてあったとかの理由によるのではなく、数十年来の自由な研究をもってしても、なお解決されない問題の方が、された問題よりも多いからです。これは君などのよく気づいていられるところと思います。非常に力量のある先輩が苦心してやった仕事でも、あとから来るものにはアラが見える。それを自分で解決してみたいという要求が、おのずと内からもり上がってくる。魏志倭人伝の解釈の問題などは特にそうだと思います。明治時代の末に白鳥庫吉氏の解釈が出たとき、すぐあとからそれに対立する内藤|湖南《こなん》氏の解釈が出ました。この両説の特徴を一言でいえば、白鳥氏が耶馬台《ヤマト》を筑後川川口地方と推定し、従って山門《やまと》郡と関係づけるに反し、内藤氏が耶馬台《ヤマト》即|大和《やまと》とするという点でありましょう。その後橋本捨吉氏が白鳥氏の流れを汲《く》んで詳しい考証をやり、梅原末治氏が考古学の立場から内藤説を支持して、最初の対立はそのまま続いております。戦後に和田清氏の発表した説も、考古学者の説などを顧慮せず、あの時代の東亜の大勢から考えて、ヤマト国を九州における小さい部族国家と見たものであります。こういうふうに、自由討究の結果でもなかなか一致しては来ない。一致しないどころか、かえって新しい解釈を押し出してくる。君のはまさにその一つでありましょう。耶馬台即大和とする点においては内藤説に近いが、しかし内藤氏がヒミコを倭姫《やまとひめ》に比定して日本建国よりも後の時代だとしているのに反し、君は、魏志倭人伝の記事が大和朝廷による建国直前《ヽヽヽヽ》の中部日本社会(出雲系文化圏)の歴史を示していると主張する。これは確かに他の人の考えなかったところであります。この主張が相当の根拠をもって成り立ち得ることになると、倭人伝の解釈はさらに複雑化してくるといわなくてはなりません。
自由な研究が進めば進むほど、真相の捕捉《ほそく》はかえってむずかしくなる。これが日本に限らず一般に神話伝説の時代に関するこの二世紀以来の研究の大勢だと言ってよいでしょう。ちょっと覆いをとればすぐに真相が見えるというような考え方は、学問的な研究がどういうものであるかを全然理解しない人の態度であります。
しかしこの神話伝説の時代の研究の態度については、君の諸論点に言及する前に、なお反省しておくべき点があると思います。
神話伝説をそのまま史実だと考える素朴な態度は、現代においてもまだ痕《あと》を絶っているとは言えません。『不如帰』とか『金色|夜叉《やしや》』とかという小説からさえも「史蹟《しせき》」が産み出されて来た日本においては、特にそうであります。しかし啓蒙《けいもう》時代以来、少なくとも学問の上では、この素朴な態度は放棄されたのであります。十九世紀にはこの態度はおいおいに徹底して行って、確実な記録による証明のできない伝説からは、どしどし史実性を剥脱《はくだつ》して行きました。旧約の伝える伝説や、ギリシアの叙事詩《じよじし》の伝えている英雄伝説のみではない、はなはだしい場合には釈迦《しやか》やイエス・キリストの史実性をさえ抹殺《まつさつ》しようとする試みが現われて来ました。魏志倭人伝が取り上げられたのは、この趨勢《すうせい》と無関係ではないのであります。日本の神話伝説が今の形に記録されたのは西暦の八世紀のことでありますが、倭人伝はそれよりも四五百年は古いでありましょう。すでに記録の術に長《た》けていたシナ人が、三世紀の前半に日本へ来て、その見聞記を書き残したことは、ほぼ確実であります。その見聞記や魏の政府の公文書などが、魏志の記事の基礎になっている。それに比べると、八世紀に記録された日本の古伝説は、その信憑《しんぴよう》性において格段の差があるといわなくてはなりません。日本の伝説の史実性はこのシナ人の記録によって量らるべきであって、逆にこの記録の信憑性が日本の伝説によって量らるべきではないのであります。白鳥氏はこのことをすでに考えていたらしく、その趣が行間に現われていますが、しかしそれをはっきりと言明するには至りませんでした。そこでそれを徹底させて、記録尊重の立場から記紀の伝説の史実性をくつがえして行ったのが津田左右吉氏であります。日本に記録の術が初めて伝わったのは、必ずしも朝鮮関係が起こって後とは限らないでありましょうが、しかしそれが日本人に習得され利用されるに至ったのは、魏志倭人伝が書かれてから何世紀も後のことでありましょう。書紀の利用している最も古い記録は朝鮮側のものであります。こういう事情の下に、古伝説の史実性を一応拒否してしまうことは、十九世紀のヨーロッパの史学の大勢に随順したものといわなくてはなりません。
しかしヨーロッパでは、十九世紀の末から反動が起こってまいりました。シュリーマンのトロヤ発掘などがその皮切りであります。考古学の仕事が進むにつれ、英雄伝説の背後にミュケーナイの文化やクレータの文化が控えていることは、もう何人《なんぴと》も疑わなくなりました。旧約の伝説も同様に新しい光に照らされるようになって来ました。なるほど神話や伝説は、|そのままの姿では《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》想像の産物であるかも知れない。しかし想像力が形をつけて行く素材のなかには、何か史実的なものがあるのだ。そう人々は考え始めました。伝説の物語りは|そのまま《ヽヽヽヽ》史実ではないが、しかし何かの仕方で史実を反映している。神話や伝説を形成して行く|想像力の働き方《ヽヽヽヽヽヽヽ》をしっかりと把捉《はそく》してかかれば、神話伝説を介して史実に迫ることもできるはずである。こういう考えのもとに、神話や伝説は再び尊重されるようになりました。この立場は考古学の仕事と手を携えて進んで行こうとしていますが、記録尊重の立場に立つ人は、必ずしもそれに賛同するとは限らないようであります。記録を証拠とするのに比べれば、そういうやり方はよほど恣意《しい》的に見えるのでありましょう。
僕は右の両者をいずれも十分に活かせるべきだと思います。記録のある限りそれを尊重すべきでありますし、記録のない範囲については伝説の背後に掘り込んで行くこともまたやむを得ないと思います。だから伝説は、一応|史実でない《ヽヽヽヽヽ》ものとして、記録による史実と|異なった次序《ヽヽヽヽヽヽ》におき、伝説を介して何か史実的なものに突き当たった時に、初めてこれを記録による史実と同じ次序の中に持ち込むべきであると思います。シナの記録と日本の伝説とを|同じ次序の中で《ヽヽヽヽヽヽヽ》平行させておいて、かれのどれがこれのどれに当たるというふうな議論をするのは、伝説の史実性剥脱の段階をいまだ通過していない証拠であります。われわれは一応伝説の史実性を全然認めない立場に立ち、さて改めて、そういう伝説の根にある史実を掘り起こして来なくてはならないのであります。しかるに今までの議論は、そこまで行かないのが多い。伝説の史実性を剥脱する論は、剥脱のしっ放しで、その根にある史実まで掘り込んで行こうとはしない。他方で、伝説から史実を取り出そうと努める人は、伝説の史実性をひとまず否定し去るということが十分にできていない。その最も著しい例は、伝説のなかの超自然的、非合理的な要素だけを抹殺して、|あとを史実であるかのごとくに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》取り扱う態度であります。君も気づいていられることと思いますが、この安易な態度が案外に国史家のなかには多いのであります。こういう中途半端な態度をとれば、シナの記録も、考古学的研究の成果も、十分に正当に生かせることができないでありましょう。
さて倭人伝の解釈の問題でありますが、それについて僕自身の考えの変遷を一通り述べておきたいと思います。
大正九年に『日本古代文化』の初版を出したときには、僕は全然白鳥氏と津田氏との影響の下に立ち、次のように考えました。西紀三世紀の前半に、シナ人は北九州において、ヒミコ女王の統治するヤマト国を見たのである。これは当時にあっては、シナ人のいわゆる東夷《とうい》中の最も進歩した部分であったであろう。しかもそれは原始宗教の力によって初めて国家らしいものの形成されて行く原初的な段階にある。シナ文化と接触のある部分においてこの通りであったとすれば、日本の他の地方にそれよりも進歩した部分があったであろうとは、到底考えることができない。従って日本の国家形成はこれよりも後のことであり、しかも九州における原初的国家が核となって発展したものであろう。そのためには九州における中心勢力が東方の大和に移ったのでなくてはならない。その時期は三世紀の後半から四世紀の前半へかけての一世紀の間であろう。わが国の神話伝説は、この九州起源と東征とに関して豊富な痕跡《ヽヽ》を示しているのである。そう僕は考えたのでありました。
ところでその後、浜田梅原両氏といろいろ接触しているうちに、上記の考えの具合の悪いところがだんだん明らかになって来ました。大和を中心として中部日本に広がっている銅鐸《どうたく》といい、古墳から出る前漢鏡といい、どうも魏の時代以前に相当に大きいまとまりのあったことを示唆しているのであります。日本の国家形成の時期は、最も少なく見積もっても、右に言ったよりは百年さかのぼらせなくてはならない。とすると、魏志の記事は、ちょうど国家形成の直後になる。ヤマト即大和であるという内藤氏の説も、なるほどもっともなところがあるのだ、と考えるようになりました。それで大正十四年に改訂版を出したとき、最初の説を撤回して、二つの解釈のいずれをも容《い》れ得るようなゆとりのあるものにしようと努めました。日本の国家の形成がヒミコより先であっても後であっても、とにかく三世紀において日本にヒミコ女王のごとき統治者があったということは確実である。われわれはそれを規準にして日本の文化段階を捕えることができる。それができさえすれば、ヤマト即山門か、あるいはヤマト即大和かという論争にも、さほどこだわる必要はないであろう、という態度を取ったのであります。
その後しばらくこの問題からは遠のいていましたが、十年ほどたって、再び魏志倭人伝を読み返してみますと、その記事のなかに、実にはっきりと層を異にしたもののあることが感じられました。すなわち実際の観察に基づいた部分と、想像によって書いた部分とであります。一度これに気づいてみると、なぜ初めからこれが見えなかったろうと、みずから怪しまずにいられないほどでした。魏使は博多湾ぞいの地方へまでは来たでありましょうが、ヤマト国へは決して来ていない。ヤマト国に関する記事は|聞き書き《ヽヽヽヽ》であるに相違ない。聞き書きであるとすれば、魏人が日本の官吏の説明をどういうふうに理解し、どういうふうに書き現わしたかについて、いろいろな解釈が可能になる。日御子《ひのみこ》についての神話や、活目《いくめ》の命《みこと》、御間城《みまき》の命などの話をきいて、神話のなかの日の女神や、その子孫である日御子などのことをゴチャゴチャにして、そこからヤマト国の女王や官吏についての記録ができたというようなことも、あり得ぬことではない。もしそうであれば、日本の国家はすでにできており、神話や伝説もすでに形成されつつあったと認められなくてはならぬ。白鳥氏は天照大神の原型をヒミコにおいて見いだしたのであったが、それとは逆に、天照大神や日御子の神話をきいた魏人が、そこから現実に統治するヒミコ女王を創り出したのであったかも知れない。魏の時代のシナ人が、文化段階の異なる日本へ来て、異なる立場でできた物語をいきなり聞かされれば、それくらいの歪曲が生ずるのは当然ではなかろうか。そう考えるようになったのであります。で、昭和十四年に『日本古代文化』の改稿版を出したとき、僕はこの考えの下に書きかえました。銅鐸中心の文化圏が銅鉾《どうほこ》、銅剣中心の文化圏によって統一されたとき、日本の国家は形成されたのであろう。日本の神話伝説はこの時の事蹟《じせき》といろいろつながりがあるであろう。右の統一の時期はほぼ西紀二世紀であって、魏志に記された時よりも少なくとも百年は古い。それが僕の到着した結論でした。
以上が僕の考えの変遷の過程であります。一言で申しますと、魏志倭人伝の記録としての価値をだんだん変質させて行く過程なのであります。その価値を低めようとするのではなく、かえって高めることになる、と僕は考えています。魏志の一様な記述のなかから、その材料とせられたものの性質の相違を見いだそうとするなどは、はなはだあぶなっかしい企てには相違ありませんが、しかし反復熟読しているうちには、少なくともそこに用いられている数種の材料と、それをつなぎ合わせている記者の手とを、見わけることができると思います。それを見わけることはかえってそれらの真価を生かせるゆえんでありましょう。
右のような立場に立って君の新しい解釈に向かうと、いずれの点に賛成しいずれの点に賛成しないかは、すでに君にとっては明らかであろうと思います。
君が朝鮮と大和との間の交通路として日本海航路をも見のがしてはならないといわれるのは、まことにもっともであります。潮流の関係で南朝鮮沿岸から山陰地方へ船がつきやすいことは、何人《なんぴと》も認めざるを得ないところでありましょうし、銅鐸と呼ばれているものが九州を除外して大和中心にひろがっているという事実も、この通路の推定に人を誘うものであります。しかし北九州沿岸の地名がはっきりと魏志に記録され、また地中から委奴国王《わのなのこくおう》の金印を出しているのに比して、山陰沿岸は、まだ確証を示していない。この方面の研究が大いに進むことを希望せずにはいられません。もし出雲や但馬《たじま》が銅鐸の時代の交通路として立証せられたならば、いろいろなことがそこから明らかになって来るでしょう。魏志の記録している倭王の大夫|難升米《ヽヽヽ》は、日本側の伝説に現われるタジマモリである、という内藤氏の解釈も、改めて考えてみなくてはならないかも知れません。そうなると君のいわれるように、北九州沿岸から山陰の岸づたいに東へ行く航路も、相当に重視しなくてはならなくなるでしょう。江戸時代に日本海沿岸の海運がはるか北の方まで大阪商人の勢力下にあったということは、よく知られている事実でありますが、銅鐸の時代にも大体において天竜川と信濃川とをつないだ斜めの線が大きい境界線になっているので、日本海沿岸の方が|はるかに北の方まで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》開けていたといわれています。日本海の沿岸航路はなかなか軽視できないのであります。だから魏人が北九州において大和までの交通路の話をきいたとき、日本海沿岸づたいの航路もまた話題に上ったであろうと推測せられるのは、まことにもっともだと思います。
ヤマト山門説に対して君のあげられる難点もまたもっともに思われます。魏使が実際にヤマトに行くことを目ざしており、そうしてそのヤマトが山門であるならば、松浦に上陸した彼は、海岸伝いに陸行して博多湾に出るよりも、佐賀平野を通って直接に山門に向かいそうなものである。その方が里程は半分くらいだし、陸行も容易である。しかるに魏使は当然のことのように、上陸後博多湾の方に向かっている。そうして博多湾添いの伊都《いと》には、ヤマト国の一大率も常駐しているし、また魏使も|そこに駐まる《ヽヽヽヽヽヽ》はずである。してみると、ヤマトが山門であることは、いかにも不自然である。これはいかにもその通りだと思います。
しかしヤマトを大和とすれば、西紀三世紀にヤマトの国は近畿《きんき》地方から九州へかけての西日本全体にある統一を与えていた、と認めることになります。その統属下に二十幾つかの「国」と呼ばれるものがあるのではありますが、しかしその国々は経済的にも政治的にも大倭の監督を受けているのであります。特に博多湾の伊都に一大率がいて、ちょうどシナの刺史《しし》のような役目を果たしていたというのでありますから、西日本の政治的組織は相当に整っていたと認めなくてはならぬ。しかるにヤマトが山門であるならば、右のすべてのことは北九州の一部における小さい部族の間の関係だということになってしまうのであります。これは国家組織の段階としては非常な相違であって、軽々しく看過することを許さないものでありましょう。
君はヤマトを大和とすることに賛成せられる。しからば、大和の国から北九州に派遣された一大率が伊都にいて、シナの刺史のような役目を果たしていた、ということも認められるはずであります。しかも君は、その時にまだ大和朝廷は建設されていなかった、魏志の記事は|その建設直前の状態《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を示している、と解釈しようとせられる。してみると、君のいわれる大和朝廷の建設というのは、日本における|最初の国家組織を意味するのではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。西紀三世紀において、大和を中心とする西日本の国家組織はすでにできていた。大和朝廷の建設は、この初次の国家を|征服して《ヽヽヽヽ》、新しく王朝を立てたことである。そう君は主張しようとするのであります。
ではその征服者はどこから来たか。君はそれを魏志にいう狗奴国《ヽヽヽ》に認めようとする。三世紀の前半において、狗奴《くな》国はヤマトの女王国に対峙《たいじ》していた。二四七年ごろには両国の間に戦争があった。ヒミコはこの戦争の間に死んだ。この狗奴国は南九州であったと思われる。中心は日向《ひゆうが》であったかも知れない。景行《けいこう》紀の九州征伐の話によると、北九州ではしきりに征伐を行なうが、南九州では少しも戦っていない。景行天皇は日向に六年も滞在してここで結婚している。そういう伝説の調子から考えても、大和朝廷の勢力がもと南九州から出たということは、いかにもありそうなことである。そうすると、ヤマトの女王国に対峙していた強力な狗奴国が、ヒミコの死後にヤマトに攻め込んでそれを征服したということに、おのずからならざるを得ない。狗奴国の男王は、魏志には卑弥弓呼と記されている。Pの音とMの音とは通いやすいから、これはミマキコと読めないこともない。ミマキイリヒコ(崇神《すじん》天皇)の略であるかも知れない。そうすれば南九州狗奴国のミマキコが東征してヤマトの国に入り、ハツクニシラススメラミコトとなったのであるかも知れぬ。その際、ヤマト国に統属する北九州には攻め入らず、直接に四国の南岸から紀州を経由して大和盆地に攻め入ったのであるらしい。これが大和朝廷による日本の建国である。この際、九州から東征して来たミマキイリヒコが、ヒミコの後をうけた|ヤマトの女王《ヽヽヽヽヽヽ》と婚したということも、伝説の示している痕跡《こんせき》から見て、いかにもありそうに思える。建国初期の天皇と結びついている神婚伝説《ヽヽヽヽ》がその痕跡である。なおその出雲系の祭祀《さいし》に関する諸伝説は、当時の統一が宥和《ゆうわ》的に行なわれたことを示すものと言ってよい。これが君の解釈の大略であります。
以上の君の解釈の新しい点は、ヤマトの女王国に対峙していた狗奴国《ヽヽヽヽ》を大和朝廷の源流に見立てたということであります。これはまだ誰もやってみなかった試みで、はなはだおもしろいと思います。かつて原勝郎氏は、狗奴国を天竜川以東のエゾの勢力に見立てたことがあります。弥生《やよい》式文化の時代には、金属器を持っている文化圏と、そうでない文化圏との境界が、天竜川あたりにありました。この境界はかなり長期にわたって存在していたらしく、それを越えて西方の勢力が東にのびたということが、古墳文化の時代、すなわち大和朝廷の時代の最も顕著な特徴であります。従って狗奴国の消滅と大和朝廷の成立とを結びつけて考えるということは、決して例のないことではない。しかしその狗奴国の消滅が、狗奴国自身大和朝廷に転化したことを意味する、という考えは、君をもって嚆矢《こうし》とすると言わなくてはなりますまい。
君はこれによって魏志の記事が三世紀における|大和中心の地方《ヽヽヽヽヽヽヽ》に関係することを明らかにするとともに、大和朝廷の日向起源《ヽヽヽヽ》の伝説にも所を与えようとせられました。日向起源ということは、考古学の仕事が進んで行けば、あるいは案外に重大な問題になるかも知れません。前には日向の古墳は五六世紀以後の新しいものが多いと考えられていたのでありますが、近来はだんだん古いものが見いだされるようになり、北九州とほとんど区別がなくなって来たといわれております。しかしそれにしても、三世紀以後に南九州の勢力が東征したと考えることは、どうも僕には無理があるように考えられます。ヤマト即山門と考え、ヤマト国の組織をごく小さいものと見てしまえば、南九州の勢力がそれを征服するということも、そんなに困難とは思えませんが、しかしヤマトが大和であって、そのヤマト国が一大率を北九州におくほど|広汎な統治組織《ヽヽヽヽヽヽヽ》を形成していたとするならば、それに比してきわめて小さい地方的組織に過ぎない南九州の勢力が、しかも海路による遠征によって、征服をなし得たというようなことは、どうも考えにくいのであります。いわんや魏と交通していたヤマト国はすでに|鉄の武器《ヽヽヽヽ》を使っていたのであって、そういう交通の活発でない狗奴国よりもよほど進んでいたと見なくてはならない。山陰山陽の砂鉄鉱、特に出雲の砂鉄鉱などは、恐らく三世紀にはすでに開発せられていたでありましょう。ヤマト即大和説を取る以上、二世紀以後における建国ということは、どうも考えにくいと思うのであります。
結局、君の解釈の困難は、日本における原始国家の成立を三世紀以前の大和に認めつつ、大和朝廷による建国を三世紀以後に認めようとするところにあると思います。君をその困難にさそい込んだのは、建国伝説に何かの史実を求めようとする態度が少し強すぎたことではないかと思います。原始国家の成立は弥生式文化の時代、銅鐸崇拝の伝統が銅鉾、銅剣、銀鏡などの崇拝の伝統に打ち負かされた時にあると思います。この勝利をもたらしたのは鉄の武器の豊富な所有、あるいは製作開始であったかも知れない。出雲の砂鉄鉱はその時重大な役目をつとめたかも知れない。いずれにしてもこの対峙は|長期にわたり《ヽヽヽヽヽヽ》、その最後的な解決は|きわめて徐々に《ヽヽヽヽヽヽヽ》得られたものと思われる。このテンポの緩さが、記紀の建国神話のなかにはっきりと反映しているといってもよいでしょう。三世紀のころにはそういう神話がすでにできていたと考えられる。もちろんそれは記紀に記録されたと同じ形であったとは思われないが、しかし鏡玉剣の崇拝、日の神の崇拝と結びついたものであったことだけは、確かだといってよいでしょう。そうだとすれば、魏志の記しているヒミコが日御子であり得ないということは、なかなか言い切れないのであります。ヒコは日子とも書かれている。それならば、ヒミコも日御子であってよいでしょう。日御子は通例ヒノミコと読まれますが、しかし日子がヒノコでなくてもよいように、日御子もヒノミコでなくてもよい場合がありそうに思われます。もしそうだとすれば、ヒミコという言葉の存在自体がすでに|神話の存在《ヽヽヽヽヽ》を示唆しているといえるでありましょう。しかもそれは出雲系神話でない、|日の神の神話《ヽヽヽヽヽヽ》であります。そういう神話の成立は、日本の建国がすでに済んでいたことを示すといわなくてはならない。こういう点もすべて君の解釈にとって難点となるでしょう。さらに一層の考究を希望いたします。
[#地付き](昭和二十五年八月)
[#改ページ]
埋もれた日本
――キリシタン渡来時代前後における
日本の思想的情況――
この問題を考えるには、まず応仁の乱(一四六七―一四七七)あたりから始めるべきだと思うが、この乱の時のヨーロッパを考えると、レオナルド・ダ・ヴィンチは二十歳前後の青年であったし、エラスムス、マキアヴェリ、ミケランジェロなどはようやくこの乱の間に生まれたのであるし、ルターはまだ生まれていなかった。ポルトガルの航海者ヘンリーはすでに乱の始まる七年前に没していたが、しかしアフリカ回航はまだ発展していなかった。だからヨーロッパもまだそんなに先の方に進んで行っていたわけではない。むしろこれから後の一世紀の進歩が目ざましいのである。シャビエルが日本へ来たのも、乱後七八十年であった。
応仁の乱以後日本では|支配層の入れ替え《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が行なわれた。それに伴なう社会的変動が、思想の上にも大きく影響したはずである。しかしそういう変動を問題とするためには、その変動の前の|室町時代の文化《ヽヽヽヽヽヽヽ》というものが、一体どういうものであったかを、はっきりと念頭に浮かべておかなくてはならぬ。
原勝郎氏はかつて室町時代は日本のルネッサンスの時代であると論じたことがある。日本の独自の文化であると考えられる平安朝の文化が、鎌倉時代の武家文化に覆われていた後に、ふたたびここで蘇生《そせい》して来ているからである。この見方はなかなか当たっていると思われる。室町時代の文化を何となく貶《おと》しめるのは、江戸幕府の政策に起因した一種の偏見であって、公平な評価ではない。我々はよほどこの点を見なおさなくてはなるまいと思う。
室町時代の中心は、応永《ヽヽ》(一三九四―一四二七)永享《ヽヽ》(一四二九―一四四〇)のころであるが、それについて、連歌師|心敬《しんけい》は、『ひとり言』の中でおもしろいことを言っている。元来この書は、心敬が応仁の乱を避けて武蔵野《むさしの》にやって来て、品川あたりに住んでいて、応仁二年(一四六八)に書いたものであるが、その書の末尾にいろいろな名人を数え上げ、それが皆三四十年前の人であることを省みて、次のように慨嘆しているのである。「程なく今の世に万《よろづ》の道すたれ果て、名をえたる人ひとりも聞え侍《はべ》らぬにて思ひ合はするに、|応永の比《ヽヽヽヽ》、|永享年中に《ヽヽヽヽヽ》、諸道の明匠|出《いで》うせ侍るにや。今より後の世には、その比は延喜一条院の御代などの如くしのび侍るべく哉《かな》。」すなわち応永、永享は室町時代の絶頂であり、延喜の御代に比せらるべきものなのである。しかるに我々は、少年時代以来、延喜の御代の讃美を聞いたことはしばしばであったが、応永永享時代の讃美を聞いたことはかつてなかった。それどころか、応永、永享というごとき年号を、記憶に留《とど》めるほどの刺激を受けたこともなかった。連歌の名匠心敬に右のごとき言葉があることを知ったのも、老年になってからである。しかし心敬のあげた証拠だけを見ても、この時代が延喜時代に劣るとは考えられない。心敬は猿楽の世阿弥《ヽヽヽ》(一三六三―一四四三)を無双不思議とほめているが、我々から見ても無双不思議である。能楽が今でも日本文化の一つの代表的な産物として世界に提供し得られるものであるとすれば、その内の少なからぬ部分の創作者である世阿弥《ぜあみ》は、世界的な作家として認められなくてはなるまい。のみならず世阿弥は、能楽に関する理論においても、実に優秀な数々の著作を残しているのである。また心敬は、絵かきの周文《ヽヽ》を、最第一、二三百年の間に一人の人とほめている。周文《しゆうぶん》は応永ごろの人であるが、彼の墨絵はこの時代の絵画の様式を決定したと言ってもよいであろう。そうしてこの墨絵もまた、日本文化の一つの代表的な産物として、世界に提供し得られるものである。もっとも、絵画の点では、雪舟《せつしゆう》(一四二〇―一五〇六)が応仁のころにもうシナから帰朝していたので、「絵かきの道すたれ果て」とは言えぬのであるが、しかし彼の名はまだ心敬には聞こえていなかったかも知れぬ。禅においては、一休和尚《ヽヽヽヽ》(一三九四―一四八一)がこの時にまだ生きていた。心敬はこの人を、行儀、心地ともに|独得の人《ヽヽヽヽ》としてほめている。よほど個性の顕著な人であったのであろう。そうしてこの禅の体得ということも、日本文化の一つの特徴として、今でも世界に向かって披露せられている点である。そうしてみると、これらの|三つの点《ヽヽヽヽ》だけでも、応永時代は延喜時代よりも重要だと言わなくてはなるまい。
もっとも、この三つの点以外であげられている名人は、我々にはちょっと歯の立たない連中である。詩人《ヽヽ》では南禅寺の惟肖和尚《ヽヽヽヽ》が、二三百年このかた、比べるもののない最一の作者とされている。|平家がたり《ヽヽヽヽヽ》では、千都検校《ヽヽヽヽ》が、昔より第一のもの、二三百年の間に一人の人である。|碁うち《ヽヽヽ》では、大山の衆徒|大円《ヽヽ》。早歌《ヽヽ》では、清阿《ヽヽ》、口阿《ヽヽ》。尺八《ヽヽ》では、増阿《ヽヽ》。いずれもその後に及ぶもののない無双の上手とされている。我々には理解のできない問題であるが、諸道の明匠が雲のごとく顕われていた応永、永享の時代を飾るに足る花なのであろう。
ところで、そういう時代の思想界から誰を代表者として選ぶかということになると、やはり一条|兼良《かねら》(一四〇二―一四八一)のほかはないであろう。兼良は応永九年の生まれで、応永時代の代表者としては少しく遅いが、しかしそれでも応永の末には右大臣、永享四年には関白となっている。この時にはすぐにやめたが、十五年後四十五歳の時にふたたび関白太政大臣となり、さらに六十五歳の時三度関白となった。しかしそういう地位からばかりでなく、その学識の点において、応永、永享の時代を代表するに足りるであろう。彼の眼界は、日本、シナ、インドの全体にわたり、仏教哲学、程朱《ていしゆ》の学、日本の古典などにすべて通じている。著書も多く、当時の学問の集大成の観がある。したがって思想傾向も、一切を取り入れて統一しようという無傾向の傾向であって、好くいえば総合的、悪く言えば混淆《こんこう》的である。その主張を一語でいうと、神儒仏の三者は同一の真理を示している、一心すなわち神すなわち道、三にして一、一にして三である、ということになるであろう。
この兼良が晩年に将軍|義尚《よしひさ》のために書いた『文明一統記』や『樵談治要《しようだんちよう》』などは、相当に広く流布して、一般に武士の間で読まれたもののように思われるが、その内容は北畠親房《きたばたけちかふさ》などと同じような正直《ヽヽ》・|慈悲の政治理想《ヽヽヽヽヽヽヽ》を説いたものである。この思想は正義と仁愛との相即を中核とする点において特徴のあるものであるが、しかし日本では古くから成立していたものであって、この時代に限った現象ではない。この時代として特に注目せらるべき点は、武家の権力政治が数世紀にわたって行なわれた後に、なおこのような王朝時代の政治理想が依然として説かれている点である。これは最初に言及したルネッサンスとしての意義にも関係しているであろう。同じ兼良が将軍義尚の母、すなわち義政夫人の日野富子のために書いた『小夜《さよ》のねざめ』には、このことが一層明白に現われている。この書もこの後の時代に広く読まれたようであるが、その内容は人としての|教養の準則《ヽヽヽヽヽ》を説いたものである。自然美を十分に味わうべきこと、文芸を心の糧とすべきこと、その文芸も万葉集、源氏物語のごとき古典に親しむべきこと、連歌や歌の判のことなども心得べきこと、などを説いた後に、実践の問題に立ち入って、|人を見る明《ヽヽヽヽヽ》が何よりも大切であることを教えている。全然王朝の理想によって教養を作ろうとしたものである。
こういう点においても明らかなように、兼良は応永、永享の精神を代表したものであって、応仁以後の時代の精神には全然他人であると言ってよい。彼は応仁乱後数年まで生きていたのであり、『樵談治要』なども乱後に書いたものであるが、しかし彼が新しい時代に対して抱いたのはただ恐怖のみであって、新しい建設への見通しでもなければ、新しい指導的精神の思索でもなかった。『樵談治要』のなかに彼は「足軽」の徹底的禁止を論じている。足軽は応仁の乱から生じたものであるが、これは暴徒にほかならない。下剋上《げこくじよう》の現象である。これを抑えなければ社会は崩壊してしまうであろう、というのである。彼は民衆の力の勃興《ぼつこう》を眼前に見ながら、そこに新しい時代の機運の動いていることを看取し得ないのであった。正長、永享の土一揆《つちいつき》は彼の三十歳近いころの出来事であり、嘉吉《かきつ》の土一揆、民衆の強要による一国平均の沙汰は、彼の三十九歳の時のことで、民衆の運動は彼の熟知していたところであるが、彼にとってはそれはただ悲しむべき秩序の破壊にすぎなかったであろう。今やその民衆の力が、軍隊の主要部を形成するに至った。それが足軽である。だから彼は社会の崩壊を怖《おそ》れたのである。
以上のごとく、応永、永享の精神から見れば、応仁以後の時代は下剋上の時代、秩序なき時代、社会崩壊の時代であった。この新しい時代を代表するものは、(一)政治化した土一揆や宗教一揆に現われているような民衆の運動、(二)足軽の進出に媒介せられた新しい武士団の勃興、ひいては群雄の勃興である。ここではまず第一《ヽヽ》の民衆《ヽヽ》に視点を置いて、その中にどういう思想が動いていたかを問題としよう。
応仁以後においては、土一揆や宗教一揆は明らかに政治運動化して来た。文明十七年(一四八五)の山城の国一揆、長享二年(一四八八)の加賀の一向一揆などはその著明な例である。これらは兼良の没後数年にして起こったことであるが、世界の情勢からいうと、インド航路打通の運動がようやくアフリカ南端に達したころの出来事である。
このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料として|室町時代の物語《ヽヽヽヽヽヽヽ》を使ってみたいと思う。その中には寺社の縁起物語の類が多く、題材は日本の神話伝説、仏典の説話、民間説話など多方面で、その構想力も実に奔放自在である。それらは、そういう寺社を教養の中心としていた|民衆の心情《ヽヽヽヽヽ》を、最も直接に反映したものとして取り扱ってよいであろう。民俗学者が問題としているような民間の説話で、ただこの時代の物語にのみ姿を見せているもののあることを考えると、この時代の物語の民衆性は疑うことができない。ただしかし、それらの物語を特に|応仁以後の時代の製作《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》として確証し得るかどうかは疑問である。中にはもっと古い時代の写本が見いだされているものもある。しかしそれらの物語がさかんに書写され、したがってさかんに受用されたのが、室町末期であったことは、認めてよいであろう。その限り我々は、これらの物語において応仁以後の時代の民衆の心情に接し得るのである。
さてそのつもりでこの時代の物語を読んで行くと、時々あっと驚くような内容のものに突き当たる。中でも最も驚いたのは、|苦しむ神《ヽヽヽヽ》、|蘇りの神《ヽヽヽヽ》を主題としたものであった。
その一つは『熊野の本地』である。これは日本の神社のうちでも最も有名なものの一つである熊野権現の縁起物語であるから、その流布の範囲はかなり広汎《こうはん》であったと考えなくてはならない。ところでそこに語られているのは、熊野に今|祀《まつ》られている神々が、もとインドにおいてどういう経歴を経て来たかということなのである。したがってそこには、インドのマカダ国王の宮廷に起こった出来事が物語られている。しかもそこに描かれている世界は、衣裳《いしよう》、風俗から役人の名に至るまで、全然|源氏物語《ヽヽヽヽ》ふうであって、インドを思わせるものは何もないのである。
女主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御《にようご》である。宮廷には千人の女御、七人の后《きさき》が国王に侍していたが、右の女御はその中から選び出されて、みかどの寵愛《ちようあい》を一身に集め、ついに太子を身ごもるに至った。そのゆえにまたこの女御は、后たち九百九十九人の憎悪を一身に集めた。あらゆる排斥運動や呪詛《じゆそ》が女御の上に集中してくる。ついに深山に連れて行かれ、首を切られることになる。その直前にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子を哺《はぐく》んだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育《ほいく》ということが、この物語のヤマなのである。王子は四歳まで育って、母后の兄である祇園精舎《ぎおんしようじや》の聖人の手に渡り、七歳の時大王の前に連れ出されて、一切の経過を明らかにした。大王は即日太子に位を譲った。新王は十五歳の時に、大王と聖人とを伴なって、女人の恐ろしい国を避け、飛車で日本国の熊野に飛んで来た。これが熊野三所の権現だというのである。
この物語では、女主人公の苦難や、首なくしてなおその乳房で嬰児《えいじ》を養っている痛ましい姿が、物語の焦点となっているが、しかしこの女主人公自身が熊野の権現となったとせられるのではない。ただ首なき母親に哺育せられた憐《あわ》れな太子と、その父と伯父とのみが熊野権現になるのである。しかるに同じ『熊野の本地』の異本のなかには、さらに女主人公自身を権現とするものがある。そのためには女主人公が首を切られただけに留めておくわけに行かない。首なき母親に哺育せられた新王は、この慈悲深い母妃への愛慕のあまりに、|母妃の蘇り《ヽヽヽヽヽ》に努力し、ついにそれに成功するのである。そうして日本へ飛来する時には母妃をも伴なってくる。だから首なくしてなおその乳房で嬰児を養っていた妃が熊野の権現となるのである。ここに我々は苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神の観念を見いだすことができる。奈良絵本には、首から血を噴き出しているむごたらしい妃の姿を描いたものがある。これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。
ところでこの苦しむ神、蘇《よみがえ》る神の物語は、『熊野の本地』には限らないのである。有名な点において熊野に劣らない厳島《いつくしま》神社の神もまた同じような物語を背負っている。『厳島の縁起』がそれである。ここでも物語の世界はインドであり、そうしてそれが同じように|源氏物語ふうに《ヽヽヽヽヽヽヽ》描かれているのであるが、しかし話の筋はよほど違っている。宮廷には父王とその千人の妃があり、それに対して新王は、恋愛のことにははなはだ理想主義的であって、理想の女のほかには妃嬪《ひひん》を寄せつけない。ついに新王は、さまざまの冒険の後に、理想の王女を遠い異国から連れてくる。この美しい妃が女主人公なのである。そこでこの妃のその後の運命を語る段になると、話は俄然《がぜん》熊野の本地に一致してくる。父王の千人の妃たちの憎悪と迫害がこの新王の美しい妃に集まり、妃を孤立させるために相人を利用して新王を遠い地方へ送り出してしまう。守り手のない妃のところへは武士をさし向け、妃を山中に拉《らつ》して首を切らせる。そうして、ここにも首なき母親の哺乳が語られるのである。しかし新王が十二年の旅から帰って来て妃の運命を知った時には、話はまた違ってくる。新王はただ一人で妃の探索に出かけ、妃の夢の告げによって山中で妃の白骨と十二歳になった王子とを見いだすのである。そこで不老|上人《しようにん》に乞うて妃を|元の姿に《ヽヽヽヽ》行ないかえしてもらうということが、話の本筋にはいってくる。妃の蘇りにとって障《さまた》げとなったのは、妃の首の骨がないことであった。王子はその首の骨を取り返すために宮廷に行き、祖父の王の千人の妃の首を切って母妃の仇《かたき》を討ったのち、母妃の首の骨を見つけ出して来た。それによって美しい妃の蘇りが成功する。この蘇った妃と、その首なきむくろに哺まれた王子と、父の王と、それが厳島の神々なのである。苦しむ神、死んで蘇る神は、ここでは一層顕著であるといわなくてはならぬ。
わたくしはこういう物語がどういう源泉から出て来たかは知らないのである。物語の世界がインドであるところから、仏典のどこかに材料があるかとも思われるが、しかしまださがしあてることができぬ。物語自体の与える印象では、どうも仏典から来たものではなさそうである。死んで蘇る妃は、「十二ひとへにしやうずき、紅《くれなゐ》のちしほのはかまの中をふみ、金泥《こんでい》の法華経の五の巻《まき》を、左に持たせ給ふ」などと描かれている。これは全然日本的な想像である。のみならず、苦しむ神の観念は、仏典と全然縁のないらしい、民間説話に基づいた物語のなかにも現われている。そうなるとこの観念は、日本の民衆の中から湧《わ》き出て来たと考えるほかないのである。
民間説話に題材を取ったらしい物語のなかで、最も目につくのは、伊予の三島明神の縁起物語『みしま』である。この明神はもと三島の郡の長者であった。四万の倉、五万人の侍、三千人の女房を持って、栄華をきわめていたが、不幸にして子がなかった。で、北の方のすすめにしたがって、長谷《はせ》の観音に参籠《さんろう》し、子をさずけられるように祈った。三七日の夜半に観音は、子種のないことを宣したが、長者は観音に強請して、一切の財産を投げ出す代わりに子種を得るということになった。やがて北の方は美しい玉王を生んだが、その代わり長者の富はすべて消えて行った。長者は北の方とただ二人で赤貧の暮らしを始める。ある朝女房は、玉王を背負うて磯の若芽を拾いに出たが、赤児を岩の上にでも落としてはという心配から、砂の上に玉王をおろして、ひとりで若芽拾いにかかった。そのすきに鷲《わし》が舞いおりて、玉王をさらって飛び去った。母親は「四万の倉の宝に代へて儲《まう》けたる子を、何処へ取り行くぞや」と言って追いかけたが、鷲は四か国の境の山岳の方へ姿を消してしまった。長者夫妻は非常な嘆きに沈んで、鷲が飛んで行ったその深山の中へ、子をさがしに分け入った。
玉王をさらった鷲は、阿波の国の|らいとう《ヽヽヽヽ》の衛門の庭のびわの木に嬰児をおろして、虚空に飛び去った。衛門は子がなかったので、美しい子を授かったことを喜び、大切に育てた。すると玉王の五歳の時、国の目代がこのことを聞いて、自分も子がないために、無理に取り上げて自分の手もとに置いた。七歳の時にはさらに阿波の国司がこのことを聞いて、目代から玉王を取り上げ、傍《そば》を離さず愛育したが、十歳の時、みかどがこれを御覧《ごらん》じて、殿上に召され、ことのほか寵愛された。十七の時にはもう国司の宣旨が下った。ところが筑紫《つくし》へ赴任する前に、ある日|前栽《せんざい》で花を見ていると、内裏を拝みに来た四国の田舎人たちが築地の外で議論するのが聞こえた。その人たちは玉王を見て、あれは|らいとう《ヽヽヽヽ》の衛門の子ではないかと言って騒いでいたのである。玉王はそれを聞いて、自分が鷲にさらわれた子であることを知った。で、みかどに乞うて四国の国司にしてもらい、ほんとうの親の探索にかかった。まず阿波《あわ》の国に行って衛門に逢い、子を鷲にさらわれた者を探したが、一人もなかった。ついで伊予の国に行って、法会にこと寄せて二十歳以上の人々を集め、同じく子を鷲にとられた者を調べたが、ここでもわからなかった。そこで玉王はいら立って、老年のために出頭しない者があるならば、引き出物をしても連れて来いと命じた。そのとき、四か国の境の山中に、世を離れて住んでいる老人夫婦があることを言い出したものがあった。それが取り上げられて、ついに探索隊が派遣された。
探索隊は深い山の中をさがし回って、ようやく老夫婦を見いだしたが、その老夫婦は、この十七年来人に逢ったことわずかに二度であると語り、浮世に出て来ることを肯《がえん》じなかった。探索隊の役人たちは、やむなく老夫婦を縛り上げ、笞《むち》うち、責めさいなんで、山から引きずりおろして来た。里に出て宿を取るときには、逃亡を怖れて老夫婦に磨《す》り臼《うす》を背負わせた。老夫婦の受けた苦難はまことに惨憺《さんたん》たるものであったが、物語は特にその苦難を詳細に描いている。それは玉王の前に連れ出されたときの親子再会の喜びをできるだけ強烈ならしめるためであろう。しかも作者は、この再会の喜びをも、実に注意深く、徐々に展開して行くのである。まず玉王は、連れ込まれて来た老夫婦をながめて、それらを縛り上げている役人たちをしかりつけ、急いでその縄を解かせる。そうしてこの寛仁な国司が十七年前に鷲にさらわれた愛子であることを、一歩ずつ老夫婦に飲み込ませて行く。それに伴なって老夫婦は徐々に歓喜の絶頂に導かれて行くのであるが、それはまた読者にとっても歓喜の絶頂となるのである。
三島の明神とはこの苦難を味わった長者のことである。長者の妻もまた讃岐《さぬき》の国の一の宮として祀られている。我々はここにも|苦しむ神《ヽヽヽヽ》の類型を見ることができるであろう。物語の作者は、長者夫婦が愛児を失った時の悲嘆や、山から無理やりに連れ出されてくるときの苦しみを、特に力を入れて描写している。それはこの神々を|苦しむ神《ヽヽヽヽ》として示そうとする意図を作者が持っていることの明らかな証拠である。そういう意図が、日本の民間説話である長者伝説を材料として、非常に力強く表現せられているところを見ると、苦しむ神の観念が日本の民衆のなかから湧き出て来たと考えても、あまり行きすぎではないように思われる。
このように|苦しむ神《ヽヽヽヽ》、|死んで蘇る神《ヽヽヽヽヽヽ》は、室町時代末期の日本の民衆にとって、非常に親しいものであった。もちろん、日本人のすべてがそれを信じていたというのではない。当時の宗教としては、禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが最も有力であった。しかし日本の民衆のなかに、苦しむ神、死んで蘇る神というごとき観念を理解し得る能力のあったことは、疑うべくもない。そういう民衆にとっては、キリストの十字架の物語は、決して理解し難いものではなかったであろう。
民衆のなかに右のような思想が動いていたとして、次に第二《ヽヽ》に、新興武士階級《ヽヽヽヽヽヽ》においてはどうであったであろうか。
新興武士階級も武力をもって権力を握ろうとする点において旧来の武士階級と異なったものではないが、しかし応仁以前の伝統的な武家とは一つの点においてはっきりと違うのである。それは旧来の武家が伝統《ヽヽ》の上に立っていたのに対して、新しい武家が実力《ヽヽ》の上に立っているという点である。鎌倉時代の幕府政治を作り出した武家は、「源氏」というごとき由緒の上に立っていた。武家の棟梁《とうりよう》とその家人との関係が、全国的な武士階級の組織の脊梁《せきりよう》であった。そうして初めは、彼らの武力による治安維持の努力が実際に目に見える功績であった。しかし後にはただ特権階級として、伝統の特権によって民衆の上に立っていたのである。しかし民衆運動が勃興して後には、由緒の代わりに実力が物をいうようになった。単なる家柄の代わりに実際の統率力《ヽヽヽ》や|民衆を治める力《ヽヽヽヽヽヽヽ》が必要となったのである。だから政治的才能の優れた統率者が、いわゆる「群雄」として勃興して来た。彼らを英雄たらしめたのは、民衆の心をつかみ得る彼らの才能にもよるが、また民衆の側の英雄崇拝的気分にもよるのである。
群雄のうち最も早いものは、北条早雲《ヽヽヽヽ》である。彼は素姓のあまりはっきりしない男であるが、応仁の乱のまだ収まらないころであったか、あるいは乱後であったかに、上方から一介の浪人として、今川氏のところへ流れて来ていた。ちょうどそのころに今川氏に内訌《ないこう》が起こり、外からの干渉をも受けそうになっていたのを、この浪人が政治的手腕によってたくみに解決し、その功によって愛鷹山|南麓《なんろく》の高国寺城を預かることになった。これがきっかけとなって、北条早雲の関東|制覇《せいは》の仕事が始まったのである。彼が伊豆堀越御所を攻略して、伝統に対する実力の勝利を示したのは、延徳三年(一四九一)すなわち加賀の一向一揆の三年後であった。やがて明応四年(一四九五)には小田原城を、永正十五年(一五一八)には相模《さがみ》一国を征服した。ちょうどインド航路が打開され、アメリカが発見されて、ポルトガル人やスペイン人の征服の手が急にのび始めたころである。
北条早雲の成功の原因は、戦争のうまかったことにもあるかも知れぬが、主として政治が良かったことにあるといわれている。特に政道に私なく、租税を軽減したということが、民衆の人気を得たゆえんであろう。その具体的な現われは、小田原の城下町の繁盛であった。それは京都の盛り場よりも繁華であったといわれているが、戦乱つづきの当時の状況を考えると、実際にそうであったかも知れない。
この北条早雲の名において、『早雲寺殿二十一条』という掟書《おきてがき》が残っているが、これはその内容の直截《ちよくせつ》簡明な点において非常に気持ちの好いものである。その中で最も力説せられているのは「正直」であって、その点、伝統的な思想と少しも変わらないのであるが、しかしその正直を説く態度のなかに、前代に見られないような|率直さ《ヽヽヽ》、おのれを赤裸々に投げ出し得る|強さ《ヽヽ》が見られると思う。「上たるをば敬ひ、下たるをばあはれみ、あるをばあるとし、なきをばなきとし、|ありのまゝなる心持《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、仏意|冥慮《めいりよ》にもかなふと見えたり」とか、「上下万民に対し、一言半句もうそを云はず、かりそめにも|ありのまゝ《ヽヽヽヽヽ》たるべし」とかという場合の、|ありのまま《ヽヽヽヽヽ》という言葉に現わされた気持ちがそれである。虚飾に流れていた前代の因襲的な気風に対して、ここには実力の上に立つあけすけの態度がある。戦国時代のことであるから、陰謀、術策、ためにする宣伝などもさかんに行なわれていたことであろうが、しかし彼は、そういうやり方に弱者の卑劣さを認め、|ありのまま《ヽヽヽヽヽ》の態度に|強者の高貴性《ヽヽヽヽヽヽ》を認めているのである。そうしてまたそれが結局において成功の近道であったであろう。
なお早雲の捉には、禅宗の影響が強く現われている。彼の|ありのまま《ヽヽヽヽヽ》を説く思想の根柢《こんてい》はたぶん禅宗であろう。部下の武士たちへの訓戒もそこから来ているのであって、武術の鍛錬よりも学問や芸術の方を熱心にすすめているのは、そのゆえであろう。力をもって事をなすは下の人であり、心を働かして事をなすのが上の人であるとの立場は、ここにもうはっきりと現われていると思う。
早雲と同じころに擡頭《たいとう》した越前の|朝倉敏景も《ヽヽヽヽヽ》注目すべき英雄である。朝倉氏はもと斯波《しば》氏の部将にすぎなかったが、応仁の乱の際に自立して越前の守護になった。そうして後に織田信長にとっての最大の脅威となるだけの勢力を築き上げたのである。『朝倉敏景十七箇条』は、「入道一箇半身にて不思議に国をとりしより以来、昼夜目をつながず工夫致し、ある時は諸方の名人をあつめ、そのかたるを耳にはさみ、今かくの如くに候」といっているごとく、彼の体験より出たものであるが、その中で最も目につくのは、|伝統や因襲からの解放《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。人事については家柄に頼らず、一々の人の器用忠節を見きわめて任用すべきことを力説している。戦争については、吉日を選び、方角を考えて時日を移すというような、迷信からの脱却を重大な心掛けとして説いている。その他正直者の重用を説き、|理非を絶対に曲げてはならないこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、断乎《だんこ》たる処分も結局は慈悲の殺生であることなどを力説しているのも、目につく点である。我々はそこに、精神の自由さと道義的背景の硬さとを感じ得るように思う。
やや時代の下るもののうち注目すべきは、『多胡辰敬家訓』である。これはたぶんシャビエルが日本へ渡来したころの前後に書かれたものであろう。多胡辰敬は尼子氏の部将で、石見《いわみ》の刺賀岩山城を守っていた人であるが、その祖先の多胡重俊は、将軍義満に仕え、日本一のばくち打ちという評判を取った人であった。後三代、ばくちの名人が続いたが、辰敬の祖父はばくちをやめ、応仁の乱の際に京都で武名をあげたという。辰敬の父も「近代の名人」と評判されたが、実際はばくちをきらっていた。辰敬家訓として述べるものも、実はこの父の教訓にほかならない。辰敬自身は、青年時代以来諸国を放浪して歩いたが、その間に、「力を以て事をなすは下の人、心を働かして心にて事をなすは上の人」と悟ったのである。悟ってみると父の教訓がしみじみと思い出されて来る。で、心を正直に持ち、ついに身を立てることができたのであった。
辰敬はこの体験にもとづいて、|学問の必要《ヽヽヽヽヽ》を何よりも強く力説している。したがってこの家訓は、|学問と道理とに対する関心《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のもとに、主として|学問の心得《ヽヽヽヽヽ》を説いたものだといってよいのである。
まず初めに手習い学問の勧めを説き、「年の若き時、夜を日になしても手習学文をすべし。学文なき人は理非をもわきまへ難し」と言っているが、ここで勧められているのは、文芸《ヽヽ》を初め諸種の技芸《ヽヽ》である。しかもその勧めは、前にあげた兼良の『小夜のねざめ』と同じく、平安朝の文芸を模範とした教養の理想のもとに立っているのである。それを説いているのが戦国末期の勇猛な武士であるというところに、我々は非常な興味を覚える。
が、辰敬家訓の一層顕著な特徴は、「算用」という概念を用いて|合理的な思惟《ヽヽヽヽヽ》を勧めている点である。彼はいう、「算用を知れば道理を知る。道理を知れば迷ひなし。」その道理《ヽヽ》というのは、自然現象の中にある|きまり《ヽヽヽ》を意味するとともに、また人間の行為を支配する当為の法則をも意味している。しかもその後者を考えるに際して、かなり綿密である。たとえば人間の道理の一例として、彼は、「身持が|身の程を超えれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》天罰を蒙《かうむ》る」という命題をかかげる。これはギリシア人などが極力|驕慢《ヽヽ》を警戒したのと同じ考えで、ギリシアにおいても神々の罰が覿面《てきめん》に下ったのである。しかし彼はそのあとへ、「位よりも|卑下すれば《ヽヽヽヽヽ》、|我身の罰《ヽヽ》が当る」と付け加えている。|自敬の念《ヽヽヽヽ》を失うことは、驕慢《きようまん》と同じく罰に価するのである。ここに我々は、実力格闘の体験のなかから自覚されて来た人格尊重の念を看取することができるであろう。彼はこういう道義的反省をも算用と呼んだのであった。家の中で非常に親しくしている仲であっても、公共の場所では慇懃《いんぎん》な態度をとれとか、召使は客人の前では厳密に規律を守らせ、人目のない時にいたわってやれとか、というような|公私の区別《ヽヽヽヽヽ》も、彼にとって算用であった。人を|躾ける《ヽヽヽ》やり方についても、小さい不正の度重なる方が、まれに大きい不正を犯すよりは重大である、ということを見抜くのは、やはり算用である。大なるとがはまれであるが、小なるとがは日々に犯されるゆえに、ほっておけば習性になる。だから大きいとがは人によって許してよいが、小さいとがは決して許してはならないのである。こういう算用を戦国武士が丹念にやっていたということは、注目に価すると言ってよいであろう。
以上の三つの家訓書は、目ぼしい戦国武士がみずから書いたものである。それだけで新興武士階級の思想を全面的に知ることはむずかしいかも知れぬが、しかしここに|指導的な思想《ヽヽヽヽヽヽ》があったことを認めてもよいであろう。そういう視点を持ちながら、キリシタンの宣教師たちが戦国時代末期の日本の武士たちについて書いているところを読むと、なるほどそうであったろうと肯《うなず》ける点が非常に多いのである。戦国の武士の道義的性格は決して弱いものではなかった。また真実を愛し、迷信を斥《しりぞ》け、合理的に物を考えようとする傾向においても、すでに近代を受け入れるだけの準備はできていた。
以上のごとく見れば、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかにあっても、ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況は、十分に成立していたということができるのであろう。だから半世紀の間にキリシタンの宣教師たちのやった仕事は、実際おどろくべき成果をおさめたのである。
しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に湮滅《いんめつ》させられてしまった。したがってあれほど大きい、深い根をおろした文化運動も、日本の歴史では、ちょっとした挿話《そうわ》くらいにしか取り扱われないことになった。
そういうことの行なわれていた間の日本人の思想的情況を知る材料として、私は『甲陽軍鑑』に非常に興味を持つのである。
この書は、それ自身の標榜《ひようぼう》するところによると、武田信玄の老臣高坂|弾正《だんじよう》信昌が、勝頼の長篠《ながしの》敗戦のあとで、若い主人のために書き綴ったということになっている。内容は、武田信玄の家法、信玄一代記、家臣の言行録、山本勘助伝など雑多であるが、書名から連想せられやすい軍法《ヽヽ》のことは付録として取り扱われている程度で、大体は道徳訓《ヽヽヽ》である。この書がもしその標榜する通りに成立したものであるならば、『多胡辰敬家訓』などと同じ古さのものとして取り扱われなくてはならないが、しかしそれに対する批判はすでに十八世紀の初め、宝永のころから行なわれているのであって、それによると著者は、江戸時代初期の軍学者|小幡《おばた》勘兵衛|景憲《かげのり》(一五七二―一六六三)であろうと推定されている。景憲の祖父小幡山城は、信玄の重臣で、軍鑑の著者に擬せられている高坂弾正とともに川中島海津城を守っていた。弾正の没した時には景憲はようやく七歳であったが、事によると弾正の面影をおぼろに記憶していたかも知れない。景憲が弾正に仮託してこの書を書いたことには何かそういう根拠があるであろう。武田氏は景憲十一歳の時に亡んだのであるが、景憲の父の世代に属する武田の遺臣のうちには家康の旗下についたものが多く、景憲はそれらの人たちからいろいろなことを聞いたであろう。書いた時期は慶長の末ごろ、十七世紀の初めと推定せられている。
この書を通読すれば、恐らく誰の目にも性質の異なる部分が識別せられるであろうと思う。(一)は高坂弾正の立場で物を言っている部分である。(二)は信玄一代記と山本勘助伝とのからみ合わせで、勘助の子の禅僧が書き残した記録を材料としたであろうと思われる。(三)は石清水《いわしみず》物語と呼ばれている部分で、信玄や老臣たちの語録である。これは古老の言い伝えによったものらしいが、非常におもしろい。(四)は軍法の巻で、何か古い記録を用いているであろう。(五)は公事の巻で、裁判の話を集録しているが、文章は(一)に似ている。(六)は将来軍記で、これも(一)に似ている。(五)と(六)を(一)に合併すれば、大体は四つの部分になる。
『甲陽軍鑑』がこれらの部分において語っていることは、非常に多種多様であるが、しかしそれを貫ぬいて一つの道徳的理想が動いているように思われる。軍法の巻においてさえも、その主要な関心は、戦術や戦略の末ではなくしてその「もと」を探ることにあった。よき軍法の「もと」はよき采配《さいはい》である。よき采配のもとはよき法度である。よき法度のもとは正直・慈悲・智慧《ちえ》である。これが|軍法の原理《ヽヽヽヽヽ》なのである。そういう着眼であるから、信玄の一代記にしても、戦国武士の言行録にしても、道徳的訓戒としての色彩が非常に濃い。
ここにはその一例として、『命期の巻』(巻三―巻六)にある「我国をほろぼし我家をやぶる大将」の四類型をあげてみよう。
第一は、ばかなる大将、鈍過ぎたる大将である。ここでばかというのは智能が足りないということではない。才能すぐれ、意志強く、武芸も人にまさっている、というような人でも、ばかなのがある。それは|うぬぼれ《ヽヽヽヽ》のある人である。「我することをば何《いづ》れをも能きこととばかり思ふ」人である。こういう人は下の者に智慧を盗まれる。というのは、おだてにのって、自分で善悪の判断をすることができなくなるのである。したがってますますばかになる。
もっとも、家来というものは、そういう悪意はなくとも、主君のすることをほめるものである。それに対してはしかるべき心得がなくてはならない。賢明な大将は、事のよしあしは|自分で《ヽヽヽ》判断する。したがって「善きことをほめるは道理と思ひ、悪しきことをほめるは、|我への馳走《ヽヽヽヽヽ》、|時の挨拶《ヽヽヽヽ》と心得る。」しかるに、人によると、悪しきことをもほめる者を軽薄者《ヽヽヽ》として怒るのがある。これはばかである。一家中に、主君に直言するごとき家来は、五人か三人くらいしかないであろう。大部分は軽薄をいうのが通例である。それを心得ていないで怒るというのは、ばかというほかはない。
大将がばかであるゆえに起こってくる結果は、同じようなばか者を重用するということである。そのばか者がまた同じようなばか者に諸役を言いつける。したがって家中で「馳《はし》り廻るほどの人」は、皆たわけがそろってしまう。そのたわけを家中の人が分別者利発人とほめる。ついに家中の十人の内九人までが軽薄なへつらい者になり、互いに利害相結んで、仲間ぼめと正直者の排除に努める。しかも大将は、うぬぼれのゆえに、この事態に気づかない。百人の中に四五人の賢人があっても目にはつかない。いざという時には、この四五人だけが役に立ち、平生忠義顔をしていた九十五人は影をかくしてしまう。家は滅亡のほかはないのである。
第二は、利根すぎたる大将である。利害打算にはきわめて鋭敏であるが、賢でも剛でもない。「大略がさつなるをもつて、|をごりやすうして《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|めりやすし《ヽヽヽヽヽ》。」好運の時には踏んぞりかえるが、不幸に逢うとしおれてしまう。口先では体裁のよいことをいうが、勘定高いゆえに無慈悲である。また見栄坊であって、何をしても他から非難されまいということが先に立つ。自分の独創を見せたがり、人まねと思われまいという用心にひきずられる。他をまねる場合でも、「人見せ善根」になってしまう。
こういう大将は、地下《じげ》の分限者、町人などにうまく付けこまれる。やがて、家風が町人化し、口前のうまい、利をもって人々を味方につける人が、はばを利かしてくる。百人の内九十五人は町人|形儀《かたぎ》になり、残り五人は、人々に悪く言われ、気違い扱いにされて、何事にも口が出せなくなる。五人のうち三人は、ついに町人形儀と妥協し、あと二人はその家を去る。こうしてこの家中は、家老より小者に至るまで、意地ぎたない、人を抜こうとするような気風になってしまう。
第三は、臆病なる大将である。「心愚痴にして女に似たる故、人を猜《そね》み、富める者を好み、諂《へつら》へるを愛し、物ごと無穿鑿《むせんさく》に、分別なく、無慈悲にして心至らねば、人を見しり給はず」というような、心の剛《つよ》さを欠いた、道義的性格の弱い人物である。したがって彼は、義理《ヽヽ》にしたがって動くのではなく、|外聞を本にして《ヽヽヽヽヽヽヽ》動く。たとえば、|けち《ヽヽ》だと言われまいと思って知行を多く与える類である。強い大将ならば、必要あって物を蓄える時には、貪欲《どんよく》と言われようと、意地ぎたないと言われようと、頓着《とんじやく》しない。知行は人物や忠功を見て与えるのであって、外聞とかかわりはない。
外聞によって動くような臆病な大将の下では、軽佻《けいちよう》な、腹のすわらぬ人物が跋扈《ばつこ》する。彼らは口先で人を言い負かそうとするような、性格の弱い、道義的背骨のない人物であって、おのれより優れたものを猜み、劣ったものを卑しめる。この|そねみ《ヽヽヽ》と|卑しめ《ヽヽヽ》とは、他に対する批判《ヽヽ》と厳密に区別されなくてはならない。法螺《ほら》ふきを|そしる《ヽヽヽ》とか、自慢話を言い|けす《ヽヽ》とかというのは、正当な批判であって、そねみや卑しめではない。|そねむ《ヽヽヽ》のは優れた価値を引きおろすことであり、|卑しめる《ヽヽヽヽ》のは人格に侮蔑《ぶべつ》を加えることであって、いずれも道義的には最も排斥さるべきことである。
第四は、強すぎたる大将である。心たけく、機はしり、大略は弁舌も明らかに物をいい、智慧人にすぐれ、短気なることなく、静かに奥深く見えるのであるが、しかし何事についても|よわ見なることをきらう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。この一つの欠点のゆえに、いろいろな破綻《はたん》が生じてくるのである。家老は大将のこの性格をはばかって、その主張しようとする穏健な意見を、十分に筋を通して述べることができぬ。したがって不徹底、因循に見える。大将はそれを不満足に感ずる。そのすきにつけ込んで、野心のある侍が、大将の機に合うような強硬意見を持ち出すと、大将はただちに乗ってくる。野心家はますますそれを煽《あお》り立てて行く。その結果、大将は、|智謀を軽んじ《ヽヽヽヽヽヽ》、武勇の士を|ことごとく失ってしまう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことになる。なぜかと言えば、侍のうち、「剛強にして分別才覚ある男」は、上の部であるが二%にすぎず、「剛にして機のきいたる男」は、中の部であるが六%にすぎず、「武辺の手柄を望み、一道にすく男」は、下の部であっても一二%にすぎず、あと八〇%は「人並みの男」に過ぎないのであるが、強すぎた大将の下では、上中下の二〇%の武士を戦死させ、人並みの猿侍のみが残ることになるからである。こういう場合には、八〇%が残っていても、全滅と変わりはない。
以上の四類型は国を滅ぼす大将の類型であるが、それによって|理想の大将の類型《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が逆に押し出されてくる。それは賢明な、道義的性格のしっかりとした、仁慈に富んだ人物である。そこには古来の正直・慈悲・智慧の理想が有力に働いているが、特に「人を見る明」についての力説が目立っているように思われる。うぬぼれや虚栄心や猜みなどのような私心を去らなくては、この「明」は得られないのであるが、ひとたび大将がこの明を得れば、彼の率いる武士団は、強剛不壊のものになってくる。ということは、|道義的性格の尊重《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が彼の武士団を支配するということなのである。この書のねらっている武士の理想は、道徳的にすぐれた人物となるということのほかにはないと思う。
一般に武士の理想を説く場合にも、正直・慈悲・智慧の理想が根柢となっていることは明らかであるが、しかしこの書全体にわたってなお一つの特徴が明白に現われているのを我々は指摘することができる。それは強烈な|自敬の念《ヽヽヽヽ》である。前に多胡辰敬の家訓のなかから、おのれを卑下すれば|わが身の罰が当たる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という言葉を引いたが、この心持ちはこの書では非常に強く説かれている。特に武道、男の道、武士道などを問題とする場合に顕著である。これらの言葉は本来は争闘の技術を言い現わしていたのであるが、そこに「心構え」が問題とされるようになると、明白に道徳的な意味に転化して来る。そうしてそこで中心的な地位を占めるのは、自敬の念なのである。おのれが臆病であることは、|おのれ自身において《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》許すことができぬ。だからおのれ自身のなかから、|死を怖れぬ心構え《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が押し出されてくる。そういう人にとっておのれの面目《ヽヽ》が命よりも貴いのは、外聞《ヽヽ》に支配されるからではなく、自敬の念が要求するからなのである。同様に、おのれの意地ぎたなさや卑しさは、|おのれ自身において《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》許すことができぬ。だからここでもおのれ自身のなかから、|男らしさの心構え《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が押し出されてくる。廉潔《ヽヽ》を尚《たつと》ぶのは、外聞のゆえではなくして、自敬の念のゆえである。こうして自敬の念に基づく心構えが、やがて武道とか男の道とかの主要な内容になってくると、争闘の技術としての武道の意味はむしろ「兵法」という言葉によって現わされるようになっている。そこで、武道、男の道、武士の道などと言われるものは、自敬《ヽヽ》の立場において、|卑しさ《ヽヽヽ》そのものを忌み|貴さ《ヽヽ》そのものを尚ぶ道徳である、と言い得られるようになる。これは尊卑を主とする道徳であり、したがって貴族主義的である。君子道徳と結びつき得る素地は、ここに十分に成立しているのである。
この道徳の立場は、「敵を愛せよ」という代わりに「敵を敬せよ」という標語に現わし得られるかも知れない。信玄家法のなかに、敵の悪口いうべからずという一項がある。敵をののしることによって敵を憤激させれば、それだけ敵が強まることになって損である、という利害打算もあるいは含まれているのかも知れぬが、しかし根本にある考えは、尊敬し得ないようなものは敵とするに価しない、敵に取ったということは尊敬に価する証拠であるというにあるであろう。そういう心持ちを詳細に説明した個所もある。信玄自身は謙信に対する尊敬によってこのことを実証していたのであった。信玄の遺言といわれるものは、勝頼に対して、おれの死後謙信と和睦せよ、和睦ができたらば、謙信に対して頼むと一言言え、謙信はそう言ってよい人物であると教えている。真偽はとにかく、信玄はそういう人物と考えられていたのである。
慶長の末ごろに小幡景憲が『甲陽軍鑑』を書いたのであったとすれば、そのころにもう徳川家康の新しい文教政策は始まっていたのである。この政策の核心は、日本人に対する精神的指導権を、仏教から儒教に移した、という点にあるであろう。かかる政策を激成したものは、キリシタンの運動の刺激であったと思われる。
秀吉がキリシタン追放令を発布してから六年後の文禄二年(一五九三)に、当時五十二歳であった家康は、藤原|惺窩《せいか》を呼んで『貞観政要』の講義をきいた。五十八歳の秀吉が征明《せいみん》の計画で手を焼いているのを静かにながめながら、家康は、馬上をもって天下を治め得ざるゆえんを考えていたのである。だから五年後に家康が政権を握ったときには、彼は、秀吉が征明の役を起こした時と同じ年齢であったが、秀吉とは全然逆に、|学問の奨励《ヽヽヽヽヽ》をもっておのれの時代を始めたのである。慶長四年(一五九九)の孔子家語、六韜三略《りくとうさんりやく》の印行を初めとして、その後連年、貞観政要の刊行、古書の蒐集《しゆうしゆう》、駿府《すんぷ》の文庫創設、江戸城内の文庫創設、金沢文庫の書籍の保存などに努めた。そうして慶長十二年(一六〇七)には、ついに林|羅山《らざん》を召し抱えるに至った。家康がキリシタン弾圧を始めたのは、それより五六年後のことである。
家康に貞観政要を講義した藤原惺窩は、いかなる特殊の内にも普遍の理が存することを力説した学者であった。海外との交通の手助けなどもしている。そう眼界の狭い学者であったとは思えない。彼の著として伝わっている『仮名性理』あるいは『千代もと草』は、平易に儒教道徳を説いたものであるが、しかし実は、彼の著書であるかどうか不明のものである。同じ書は『心学五倫書』という題名のもとに無署名で刊行されていた。初めは熊沢|蕃山《ばんざん》が書いたと噂《うわさ》されていたが、蕃山自身はそれを否定し、古くからあったと言っている。惺窩の著と言われ始めたのは、その後である。しかるに他方には『本佐録』あるいは『天下国家の要録』と名づけられた書物があって、内容は右の五倫書と一致するところが多い。これは本多|佐渡守《さどのかみ》の著と言われながら、早くより疑問視せられているものである。新井白石は本多家から頼まれてその考証を書いているが、結論はどうも言葉を濁しているように思われる。しかしそれがいずれであっても、同一書を媒介として惺窩、蕃山、本多佐渡守の三人の名が結びついているという事実は、非常に興味深いものである。
本多佐渡守は三河の徳川家の譜代の臣であるが、家康若年のころの野呂一揆に味方し、一揆が鎮圧したとき、徳川家を逐電して、一向一揆の本場の加賀へ行ってしまった。そうしてそこで十八年働いた後に、四十五歳の時、本能寺の変に際して家康のもとに帰参したのである。その閲歴から見て狂熱的な一向宗信者であったと推測せられるが、しかしキリシタンの宣教師の報告によると、家康の重臣中では彼が最もキリシタンに同情を持っていたという。慶長六年(一六〇一)には彼はオルガンチノに対してキリシタンをほめ、その解禁のために尽力した。同十二年にも、パエスのために斡旋《あつせん》している。宣教師に対して、禁教緩和の望みがあるような印象を与えたのは、彼とその息子の上野守《こうずけのかみ》なのである。一向宗の狂信が依然として続いていたとすれば、恐らくこういう態度を取ることはできなかったであろう。したがって帰参のころには一向宗の熱は醒《さ》めていたと推測するほかはない。しかし一向宗の信仰に没入して行くような性格《ヽヽ》は、依然として変わらなかったであろうし、そのゆえにキリシタンに対する理解や同情があったであろうことも、察するに難くない。それがおのずから宣教師によき印象を与えたのであろう。が、周囲の情況は彼をキリシタンに近づけるよりは、むしろ儒教の方へ押しやったのである。そこで同じ性格の佐渡守が、本佐録において、|熱烈な儒教の尊崇者《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》として現われることになる。対象は変わって行くが、態度は同じなのである。天道の理、堯舜《ぎようしゆん》の道、五倫の教えは、ほとんど宗教的な情熱をもって説かれている。天道というのも、ここでは「天地の間の|あるじ《ヽヽヽ》」なのであって、抽象的な道理なのではない。その「あるじ」が万物に充満していると説くところは、やや汎神論《はんしんろん》的に見えるが、しかしそれをあくまでも天地の主宰者《ヽヽヽ》として取り扱うところに、佐渡守の狂信の対象であった阿弥陀《あみだ》仏や、キリシタンの説いていたデウスとの相似を思わせる。そういう点を考えると、この書が佐渡守に帰せられていることは、非常に興味深いことになるのである。惺窩や蕃山は冷静な学者であって、佐渡守のような狂信的なところはない。江戸幕府の文教政策を定め、儒教をもって当時の思想の動揺を押えようとした当時の政治家は、冷静な理論よりもむしろ狂信的な情熱を必要としたのであろう。
林羅山は慶長十二年(一六〇七)以後、幕府の文教政策に参画した。その時二十五歳であった。羅山はそれ以前から熱心な仏教排撃者《ヽヽヽヽヽ》であって、そういう論文をいくつか書いているが、それによると、解脱は一私事であって、人倫の道の実現ではない、というのである。同時にまた彼は熱心な|キリシタン排撃者《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》であって、仕官の前年に『排|耶蘇《やそ》』を書いている。松永貞徳とともに、『妙貞問答』の著者不干ハビアンを訪ねた時の記事である。その時、まず第一に問題となったのは、「大地は円いかどうか」ということであった。羅山はハビアンの説明を全然受けつけず、この問題を考えてみようとさえしていない。次に問題となったのは、プリズムやレンズなどであるが、羅山はキリシタンに対する憎悪をこういう道具の上にまであびせかけ、光線の現象などに注意を向けようとはしていない。最後に取り上げられたのは、妙貞問答やマテオ・リッチの著書などである。羅山は、妙貞問答における神儒仏の批判が、単なる罵倒《ばとう》であって、批判になっていない、という点を指摘する。しかし羅山自身の天主に関する批判も同様である。「聖人を侮るの罪のみは忍ぶべからず」という態度であるから、ほとんど議論にはならないのである。したがってこの書は、青年羅山の眼界が非常に狭く、考え方が自由でないことを思わせる。
羅山は非常に博学であって、多方面の著書を残している。その言説は権威あるものとして尚ばれていたであろう。しかし『排耶蘇』に現われているような偏頗《へんぱ》な考え方は、決して克服されてはいないのである。またその点が、狂信的な情熱を必要とした幕府の政治家に、重んぜられたゆえんであろう。彼が幕府に仕えて後半世紀、承応三年(一六五四)に石川丈山に与えて異学《ヽヽ》を論じた書簡がある。耶蘇は表面姿を消しているが、しかし|異学に姿を変じて《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》活躍している、あたかも妖狐《ようこ》の化けた姐己《だつき》のようである、というのである。その文章は実に陰惨なヒステリックな感じを与える。少しでも朱子学の埒《らち》の外に出て、自由に物を考える人は、耶蘇の姿を変じたものとして排撃を受けなくてはならないのである。彼の『草賊前記』には、熊沢蕃山をかかる異学の徒としてあげている。蕃山は羅山よりもはるかに優れた学者であるが、羅山を重用する幕府の下においては、弾圧を受けざるを得なかったのである。
家康が儒教によって文教政策を立てようとしたことには、一つの見識が認められるでもあろう。しかしヨーロッパでシェークスピアやベーコンがその「近代的」な仕事を仕上げているちょうどその時期に、わざわざシナの古代の理想へ帰って行くという試みは、何と言っても時代錯誤のそしりをまぬかれないであろう。家康自身はかならずしも時代に逆行するつもりはなかったかも知れないが、彼の用いた羅山は明らかに保守的反動的な偏向によって日本人の自由な思索活動を妨げたのである。それが鎖国政策と時を同じくして起こったのであるから、日本人の思索活動にとっては、不幸は倍になったと言ってよかろう。当時の日本人の思索能力は、決して弱かったとはいえない。中江|藤樹《とうじゆ》、熊沢蕃山、山鹿素行《やまがそこう》、伊藤|仁斎《じんさい》、やや遅れて新井白石、荻生徂徠《おぎゆうそらい》などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである。
鎖国は、外からの刺激を排除したという意味で、日本の不幸となったに相違ないが、しかしそれよりも一層大きい不幸は、国内で自由な討究の精神を圧迫し、保守的反動的な|偏狭な精神《ヽヽヽヽヽ》を跋扈せしめたということである。慶長から元禄へかけて、すなわち十七世紀の間は、前代の余勢でまだ剛宕《ごうとう》な精神や冒険的な精神が残っているが、その後は目に見えて日本人の創造活動が萎縮《いしゆく》してくる。思想的情況もまたそうである。
[#地付き](昭和二十六年二月)
[#改ページ]
第三部
漱石に逢うまで
私が最初に漱石の作に接したのは、明治三十七年五月の『帝国文学』に載った『従軍行』を読んだ時である。それは日露戦争がはじまってから三個月ほど後のことで、この詩のほかにも二三の帝国大学教授の愛国的な詩か文章かが載っていたように思う。その時十五歳であった私は、もちろん愛国の情熱に燃えていたのであるが、しかしこの漱石の愛国の詩からは、あまり強い感銘を受けなかった。むしろ拙《つたな》い詩だと思った記憶がぼんやり残っている。そのころ愛読していたのは泣菫《きゆうきん》や有明《ありあけ》などの詩であった。そういう眼から見ると、「吾に讎《しゆう》あり、艨艟吼《もうどうほ》ゆる、讎はゆるすな、男児の意気」というような調子は、何となく滑稽に感じられたのである。
しかし翌三十八年の一月に、同じ『帝国文学』で、大した期待も持たずに『倫敦《ロンドン》塔』を読みはじめた時には、突然非常なショックを感じた。私は強い力であの作の中に引き込まれ、それまでにかつて感じたことのないような烈しい陶酔感に浸った。それで幾日もの間、現実に立ち帰ってくることができないような気持ちであった。この経験はひどく私を驚かせた。それまで漱石についてあまり知識を持っていなかった私には、これは実際突然の出来事だったのである。この時から、漱石の存在は、私にとって急に大きいものになって来た。
と言っても私は、漱石についてそれ以外のことを知ったわけではない。同じ正月に雑誌『ホトトギス』に『吾輩は猫である』が載りはじめたということも私は全然知らなかった。『ホトトギス』という雑誌そのものもそれまでに見たことがなかった。当時私の接触していた範囲では、そういうことを教えてくれる人は一人もなかった。そういう知識はただ文芸雑誌から得るだけであったが、私の見ていたのは、『帝国文学』のほかには、『明星』『文庫』『新声』などだけであった。『明星』は本屋を通じて購読していた人が、その約束を打ち切ることになった機会に、本屋の主人にすすめられて、そのあとを引き受けたのであったように思う。もちろん店頭などに並ぶわけではなく、この本屋の取り扱っているのも一冊か二冊にすぎぬということであった。そういう窓から見ていると、漱石の消息などはほとんどわからなかったのである。
ところが『倫敦塔』が出てから二三個月後の『明星』に、大谷|繞石《じようせき》の随筆が載り、そのなかで、『ホトトギス』連載中の『吾輩は猫である』が激賞してあった。この時に私ははじめて『吾輩は猫である』という題名を知ったのである。で、早速本屋へ行って『ホトトギス』を取り寄せるように頼んだのであったが、大阪の取次店を仲介としているこの地の本屋では、なかなか埒があかなかった。とうとう私は、『吾輩は猫である』が単行本になって出るまで、『ホトトギス』を手にすることができなかった。従って『倫敦塔』についで私が読んだのは、同人雑誌『七人』に出た『琴のそら音《ね》』である。『七人』はどういうわけか、創刊号以来購読していた。『琴のそら音』からはさほど強い感銘は受けなかったが、この雑誌では野村伝四の書くものに興味を引かれた。当時まだ『吾輩は猫である』を読んでいなかったので、野村伝四がその影響の下に書いているという関係には気づかなかったのである。
この年の秋には『一夜』や『薤露行《かいろこう》』が『中央公論』に出た。当時の私には、これらの作の文体が、縹緲《ひようびよう》としていて非常に魅力的に感じられた。特に、テニスンに親しんでいた私には、題材の上からも『薤露行』がおもしろかった。それに比べると、翌三十九年の一月、『帝国文学』に出た『趣味の遺伝』は、それほどに感じなかったように思う。
私は明治三十九年三月末に、満十七歳で東京に出て来たのであるが、その時には確かに『倫敦塔』や『薤露行』の作者としての漱石に傾倒していた。しかしこれらと異なった傾向の作にはさほど引きつけられていなかった。特に漱石の出世作としての『吾輩は猫である』に関しては、いつ読んだかさえもはっきり記憶に残っていない。最初上篇が出たのは三十八年の秋で、私はまだ田舎にいたのであるが、その時手に入れたか、あるいは手に入れようと努力したかは、どうも思い出せない。翌年大倉書店から改めて出版され、秋には中篇も出たのであるが、どうも私の読んだのは大倉書店本であったように思う。しかしその上篇を九月よりも前に読んだのか、あるいは中篇といっしょであったのか、はっきりしない。評判の作『坊っちゃん』もまた、私の上京の直後、『ホトトギス』の四月号に載ったのであるが、それを雑誌で読んだのか、あるいは後に単行本で読んだのか、全然記憶に残っていない。それに引きかえ、この年の五月に出た『漾虚《ようきよ》集』のことは鮮やかに印象が残っている。なかなか凝った装幀《そうてい》であったが、私はこの書によって初めて『カーライル博物館』や『幻影の盾』を読み、漱石への傾倒を新たにしたのである。
その九月に私は一高の東寮へはいった。ちょうどその時に『新小説』に『草枕』が載り、私の漱石に対する期待を十分に充たしてくれたのであった。
ところが、一高の寮生活がはじまるとまもなく、私は漱石についての知識がきわめて貧弱であることを悟らせられた。それはおもに隣室にいた同級生の春山武松君によってであったと思う。春山君は私と同郷の人であるが、早くから東京に出ていて、本郷千駄木の漱石山房の裏側にあった郁文館《いくぶんかん》中学を卒業したのである。漱石が千駄木の家へ住みついたころには、春山君はもう四年生になっていた。だから漱石の書斎のそばの桐畠《きりばたけ》や檜《ひのき》の木の下にはいり込んで来て、弁当を食ったり、歌を唱ったり、「おめえ、知らねえ」という類の言葉で放談したりした悪童どもは、春山君の仲間だったのである。もちろん『吾輩は猫である』は創作であるから、その第八回に描いてある落雲館中学生と苦沙弥《くしやみ》先生とのいざこざが、事実そのままだというわけではないが、しかしモデルにされた郁文館中学生たちにとっては、現実よりもその作中の世界の方がおもしろいのであった。自分たちがその中で活躍しているということから、ひいて自分たちの出ない場面に対しても強い興味が湧き、苦沙弥先生とその仲間に対する熱狂的なファンになっていたのであった。だから春山君は迷亭とか寒月とか作中人物の行動に詳しく通じていたのみならず、行徳のまないたとかトチメンボーとかのような作中の洒落《しやれ》をむやみにふり回した。言わば『吾輩は猫である』が体に滲《し》み込んでいたのである。そういう春山君と話していると、私は漱石についてほとんど何も知らないような気持ちがした。だから春山君が導いてくれるままに唯々としてその導きに従ったのである。
それは三十九年の十月のころであったと思う。夕食後の散歩に、春山君は千駄木の漱石山房の前へ連れて行ってくれた。千駄木あたりがまだよほど郊外めいていたころで、垣根は大抵生け垣であった。漱石山房は平家で、奥の方はよくわからなかったが、門からのぞき込みながら春山君は、あそこは迷亭がどうしたところであるとか、あの庭の向こうが球を投げ込んだところであるとか、いろいろ説明してくれた。その他あの作に出てくるいろいろな場所や店屋などにも案内されたように思う。田舎から出て来てやっと半年ぐらいの私には、何から何まで物珍しく、春山君がそばの食い方の実地指導をやってくれたり、熱い風呂へ我慢してはいるところを見せてくれたりするのを、感心して見ていたものである。
そういうふうにして煽《あお》られた漱石熱というものは、江戸ッ子自慢や野次気分を相当に多く含んだものであった。『吾輩は猫である』の中篇や『鶉籠《うずらかご》』などを迎えたのはそういう気分のなかであったと思う。しかもそれは郁文館中学の卒業生や文学志望の連中に限ったわけではなかった。とにかく『吾輩は猫である』は世間でも大評判になっていたし、作者の漱石は一高の教師であったのであるから、それが一高生の注目を集めたのは当然なのである。そのころ芦田均君は私より二級上の三年生であったが、雑誌に出た漱石の短篇を集めて一冊に製本させ、それを漱石の所へ持って行って、見返しに俳句を書いてもらった。たぶん『鶉籠』が出るのを待ち兼ねての行動であったと思うが、法科志望の一高生でもそういうことはやっていたのである。私は芦田君からそれを見せられたとき、初めて漱石の字というものに接したわけであるが、その時にはあの字の巧さはわからなかった。
そういう騒ぎをしながら、漱石の顔を見たことは、その時までに一度ぐらいしかなかった。赤壁の教室の廊下を、むっつりした顔で、濃いカイゼル髯《ひげ》をぴんとはね上げて、しずしずと歩いてくるのに出会ったのである。目つきはなかなか鋭かった。苦沙弥先生で想像しているのとはまるで違った、威厳のある、同時にどことなく精悍《せいかん》な感じのある人物に見えた。私は自分の傾倒を少しも裏切られなかったような満足を感じた。そうして漱石から直接に教えを受けることのできない羽目になっているのを、非常に残念に思った。
当時漱石が英語を受け持っていたのは、工科志望の二部の組だけであった。二部の方は私たちといっしょに入学した一年の連中も英語を教わっていた。私は、文科志望のものの混じっている一部の組へこそ漱石は教えに来るべきだと思ったが、どうにもいたし方がなかった。で、廊下で漱石を見たあと、ちょうど誰かの時間が欠講になったおりに、私は廊下の窓から中庭へ飛びおりて、漱石の英語の時間のある二部の組の窓下へ行った。ちょうどそこは南向きで、日なたぼっこに都合がよかった。で、時々漱石の巻き舌の発音が聞こえるのに満足しながら、時間のすむまでそこにいた。
漱石はこの暮れに郁文館のそばの借家を出て西片町のS字坂の上のところへ引っ越した。これは家主の斎藤阿具先生が、原勝郎先生の後任として二高から一高へ転任してくることになったからである。原先生は京都大学の教授になる予定で、新年早々海外留学に出発した。二学期からは斎藤先生が講義を引きついで、オランダ貿易の話を始めた。そういう関係で漱石山房移転の事情は誰いうとなく私たちの間に知れわたっていた。
西片町の漱石山房は、S字坂をのぼりつめた所を右へはいった横町の左側にあった。ぽかぽかと暖かい春の日に、三四人づれでその前を通ったことがある。生け垣の間から庭先が見えたが、漱石は日の当たる縁側でしきりに頭のふけを取っていた。この家にいた間に、漱石は一高をやめて朝日新聞社にはいったのである。その夏から『虞美人草《ぐびじんそう》』が新聞に載りはじめ、九月には早稲田南町の漱石山房に移った。ここはもう一高生の散歩圏内ではなかったので、五六年後に初めて訪ねて行ったときまで、その所在をさえも知らなかった。
漱石が朝日新聞の紙上で目ざましい活動をはじめて後にも、私は依然として漱石のファンではあったが、しかし私の心の中での比重はだいぶ変わって来た。というのは、そのころに私はヨーロッパの近代文芸に親しみはじめたのである。その刺激はたぶん文芸雑誌から受けたのであろうが、しかし私の覚えている限り、皮切りになったのは、ブランデスの『イブセンとビョルンソン』であった。私はそれを一高の図書館にある英訳本で読んだ。同じころにやはり図書館でトルストイの『戦争と平和』の英訳本を借り出して読みはじめたが、これは図書館で読むのは少し無理だったので、まもなく中絶した。それに引きかえブランデスの方は、少なくともイブセンの部分だけは、丹念な覚え書きを作ったりなどした。そういうことをきっかけにして、イブセンの作品を手はじめに、いろいろなものを読みはじめた。バイロンやテニスンから急にそういう方面へ移ったので、受けた衝撃も大きかった。そういう変化のために、漱石の作品の与える印象も、『倫敦塔』や『幻影の盾』の時ほど純粋ではなくなったのである。
漱石が『三四郎』についで『それから』を書きはじめたころに、私は一高を卒業した。ついで『門』と『彼岸過迄』を書く間に、私は大学を終えた。その間に、漱石と直接接触していた先輩たちから、いろいろ漱石のことを聞く機会も多くなった。それを通じて私は、漱石から人格的にひきつけられるのを感じた。しかし逢いに行こうとする勇気は、なかなか出て来なかった。
大正二年の秋、初めて『ニイチェ研究』を出版したときに、私は敬慕のしるしとして一本を漱石に献じたいと思った。が、製本にかかってからもなかなか手間取って本が手もとへ届いて来なかったので、待ち切れずに手紙だけを先に出した。その中に、右に書いたような、一高入学当時の思い出を書き込んだのである。そうしてそれを投函《とうかん》した日に、その足で帝国劇場へ行った。たしか小宮豊隆君の関係していたストリントベルグの『父親』だったか『令嬢ユリエ』だったかが上演された時であったと思う。その時、開幕前に、偶然廊下で漱石に紹介された。それまで数年間劇場や音楽会で漱石を見かけたことは一度もなかったのであるが、この日には、はいるとすぐ漱石にぶつかったのである。そのころ漱石は四十六歳で、『行人』の執筆中であった。六七年前一高の廊下で見かけた時分とはまるで別人のようで、円熟した、温情にあふれた老紳士に見えた。四十六歳の老紳士はおかしいが、しかし二十二年下のものから見ると、そういうふうに見えるものらしい。
この時のストリントベルグの劇を見て漱石は、「まるで重病人の見舞いに来たようだ」と言った。それを直接に聞いたのであったか、あるいは人伝《ひとづ》てに聞いたのであったかは、どうもはっきり覚えていない。
その後幾日目かに漱石からもらった返事が全集の続書簡集の中に載っている。その中に、「あなたの自白するような殆んど異性間の恋愛に近い熱度や感じを以て自分を注意しているものが、あの時の高等学校にいようとは、今日まで夢にも思いませんでした」という句がある。これは少々刺激的に響くと見えて、時おりそれについて質問を受けることがある。しかし私が書いたのは、窓の下で英語を教える漱石の声を聞いていたり、漱石の家のあたりをうろついてみたりしたことである。それも数年前の出来事として、客観的に書いたつもりであった。が、漱石からこういうふうに言われると、その時にも私はヒヤリとしたことを覚えている。私は求めるところがあってそういうことを書いたわけでもなかったが、よほど書き方がセンチメンタルであったのであろう。そういう態度を厳格に警《いまし》めている率直な漱石の言葉には、今でも敬服の念を禁じ得ない。
あの手紙はそのほかにも私に教えるところが多かった。漱石は、「私が高等学校にいた時分は世間全体が癪《しやく》に障ってたまりませんでした。その為《ため》にからだを滅茶苦茶に破壊して仕舞いました。だれからも好かれたく思いませんでした。私は高等学校で教えている間ただの一時間も学生から敬愛を受けて然るべき教師の態度を有《も》っていたという自覚はありませんでした。従ってあなたのような人が校内にいようとはどうしても思えなかったのです」と書いている。それを読んで私は、あのころ一高の廊下で見た漱石の鋭い顔つきを、なるほどと思い起こしたのである。『吾輩は猫である』がそういう癇癪《かんしやく》の産物であるということも、初めてよくわかった。迷亭の洒落《しやれ》などをおもしろがって騒いでいたのは、あの作品を理解した態度とはいえない。しかしその癇癪のために漱石の感じ方が片寄っていたことにも気付かざるを得なかった。実際あの当時の高等学校には、私のほかにも漱石を敬愛するものは多数にいた。苦沙弥先生をからかっていた悪童たちの中からさえも、熱心な漱石心酔者が生まれていた。そういう人たちには、漱石が|教師として《ヽヽヽヽヽ》どういう態度を取っていようと、問題ではなかった。彼らは創作家としての漱石を敬愛していたのである。それらの内の誰一人も、直接漱石に近づいて行かなかった。また彼らの理解の仕方もはなはだ幼稚であったかも知れない。しかしそれにしても漱石が敬愛の的になっていたことは事実なのである。それに対して漱石が、教師として敬愛さるべきような態度を取っていなかったから、全然敬愛を予期しなかった、といっているのは、かなりの見当違いであるといってよい。
大正二年の漱石には、もうそういう感情の片寄りはなかった。温情にあふれたようなところがあった。しかし『吾輩は猫である』の時代に癇癪として現われていたものが、この時には、「私は今道に入ろうと心掛けています」という言葉になって現われて来た。私が漱石から最初にもらった手紙のなかで、最も強い感銘を受けたのはこの言葉である。私にはこの言葉が、当時の漱石の創作活動を解く鍵《かぎ》のように思えた。
私はその次の月あたりに初めて漱石山房を訪ねて行ったように覚えているが、私の接した漱石の背後には、いつもこの言葉がひそんでいた。その後三年の間、たびたび漱石に接触したが、私に対する漱石は、いつもそういう人として変わることがなかった。
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漱石の人物
私が漱石と直接に接触したのは、漱石晩年の満三個年の間だけである。しかしそのおかげで私は今でも生きた漱石を身近に感じることができる。漱石はその遺した全著作よりも大きい人物であった。その人物にいくらかでも触れ得たことを私は今でも幸福に感じている。
初めて早稲田南町の漱石山房を訪れたのは、大正二年の十一月ごろ、天気のよい木曜日の午後であったと思う。牛込《うしごめ》柳町の電車停留場から、矢来《やらい》下の方へ通じる広い通りを三四町行くと、左側に、自動車がはいれるかどうかと思われるくらいの狭い横町があって、先は少しだらだら坂になっていた。その坂を一町ほどのぼりつめた右側が漱石山房であった。門をはいると右手に庭の植え込みが見え、突き当たりが玄関であったが、玄関からは右へも左へも廊下が通じていて、左の廊下は茶の間の前へ出、右の廊下は書斎と客間の前へ出るようになっていた。ところで、この書斎と客間の部分は、和洋折衷と言ってもよほど風変わりの建て方で、私はほかに似寄った例を知らない。まず廊下であるが、板の張り方は日本風でありながら、外側にペンキ塗りの勾欄《こうらん》がついていて、すぐ庭へ下りることができないようになっていた。そうしてこういう廊下に南と東と北とを取り巻かれた書斎と客間は、廊下に向かって西洋風の扉や窓がついており、あとは壁に囲まれていた。だからガラス戸が引き込めてあると、廊下は露台のような感じになっていた。しかしそのガラス戸は、全然日本風の引戸で、勾欄の外側へちょうど雨戸のように繰り出すことになっていたから、冬はこの廊下がサン・ルームのようになったであろう。漱石の作品にある『硝子戸《ガラスど》の中《うち》』はそういう仕掛けのものであった。そこで廊下から西洋風の戸口を通って書斎へはいると、そこは板の間で、もとは西洋風の家具が置いてあったのかも知れぬが、漱石は椅子とか卓子《テーブル》とか書き物机とかのような西洋家具を置かず、中央よりやや西寄りのところに絨毯《じゆうたん》を敷いて、そこに小さい紫檀《したん》の机を据え、すわって仕事をしていたらしい。室の周囲には書棚が並んでおり、室の中にもいろいろなものが積み重ねてあって、紫檀の机から向こうへははいる余地がないほどであった。客間はこの書斎の西側に続いているので、仕切りは引き戸になっていたと思うが、それは大抵《たいてい》あけ放してあって、一間のように続いていた。客間の方は畳敷で、書斎の板の間との間には一寸ぐらいの段がついていたはずである。この客間にも、壁のところには書棚が置いてあった。
私が女中に案内されて客間に通った時には、漱石はもうちゃんとそこにすわっていた。書斎と反対の側の中央に入り口があって、その前が主人の座であった。私はそれと向き合った席に書斎をうしろにしてすわった。ほかには客はなかった。
この最初の訪問のときに漱石とどういう話をしたかはほとんど覚えていないが、しかし書斎へはいって最初に目についた漱石の姿だけは、はっきり心に残っている。漱石は座ぶとんの上にきちんとすわっていた。和服を着てすわっている漱石の姿を見たのはこれが最初である。客がはいって行ってもあまり体を動かさなかった。その体つきはきりっと締まって見えた。三年前の大患以後、病気つづきで、この年にも『行人』の執筆を一時中絶したほどであったが、一向病人らしくなく、むしろ精悍な体つきに見えた。どこにもすきのない感じであった。漱石の旧友が訪ねて行って、同じようにして迎えられたとき、「いやに威張っているじゃないか」と言ったという話を、その後聞いたことがあるが、人によるとこの態度を気取りと受け取ったかも知れない。しかし私はどこにもポーズのあとを感じなかった。因襲的な礼儀をぬきにして、いきなり漱石に会えたような気持ちがした。たぶんこの時の印象が強かったせいであろう。漱石の姿を思い浮かべるときには、いつもこのきちんとすわった姿が出てくる。実際またこの後にも、大抵はすわった漱石に接していた。だから一年近くたってから、歩いている漱石を見ていかにもよぼよぼしているように感じられて、ひどく驚いたことがある、確かザルコリの音楽会が帝国ホテルで催されたときで、玄関をはいって行くと、十歩ほど先をコツコツと歩いて行く漱石のうしろ姿が見えたのであった。それを見て私はすぐに漱石の大患を思い出した。それは決して精悍な体つきではなかった。
初めて漱石と対坐しても、私はそう窮屈には感じなかったように思う。応対は非常に柔らかで、気おきなく話せるように仕向けられた。秋の日は暮れが早いので、やがて辞し去ろうとすると、「まあ飯を食ってゆっくりしていたまえ、その内いつもの連中がやってくるだろう」と言ってひきとめられた。膳が出ると、夫人が漱石と私との間にすわって給仕をしてくれられた。夫人は当時三十六歳で、私の母親よりは十歳年下であったが、その時には何となく母親に似ているように感じた。体や顔の太り具合が似ていたのかも知れない。かすかにほほえみを浮かべながら、無口で、静かに控えておられた。当時はまだ『道草』も書かれておらず、いわんや夫人の『漱石の思い出』などは想像もできなかったころであるから、漱石と夫人との間のいざこざなどは、全然念頭になかった。『吾輩は猫である』のなかに描かれている苦沙弥先生夫妻の間柄は、決して陰惨な印象を与えはしない。作者はむしろ苦沙弥夫人をいつくしみながら描いている。だから私は漱石夫妻の仲が悪いなどということを思ってもみなかったのである。実際またこの日の夫人は貞淑な夫人に見えた。
食事をしながら、漱石は志賀直哉君の噂をした。確かそのころ、漱石は志賀君に朝日新聞へ続きものを書くことを頼んだのであったが、志賀君は、気が進まなかったのだったか、あるいは取りかかってみて思うように行かなかったのだったか、とにかくそれをことわるために漱石を訪ねた。それが二三日前の出来事であった。その時のことを漱石は話したのである。その話のなかに、「志賀君もなかなか神経質だね」という言葉のあったことを、私はぼんやり覚えている。
食事がすんでしばらくすると、ぼつぼつ若い連中が集まり始めた。木曜日の晩の集まりは、そのころにはもう六七年も続いて来ているので、初めとはよほど顔ぶれが違って来ていたであろうが、その晩集まったのは、古顔では森田草平、鈴木三重吉、小宮豊隆、野上豊一郎、松根東洋城など、若い方では赤木|桁平《こうへい》、内田|百閨sひやつけん》、林原耕三、松浦嘉一などの諸君であったように思う。客間はたぶん十畳であったろうが、書斎の側だけには並び切れず、窓のある左右の壁の方へも折れまがって、半円形に漱石を取り巻いてすわった。客が大勢になっても漱石の態度は少しも変わらなかった。若い連中に好きなようにしゃべらせておいて、時々受け答えをするくらいのものであった。特によくしゃべったのは赤木桁平で、当時の政界の内幕話などを甲高い調子で弁じ立てた。どこから仕入れて来たのか、私たちの知らないことが多かった。が、ほかの人たちが話題にするのは、当時の文芸の作品とか美術とか学問上の著作とかの評判であった。漱石はそういう作品の理解や批判の力においても非常にすぐれていたと思う。若い連中にはどうしても時勢に流され、流行に感染する傾向があったが、漱石は決してそれに迎合しようとはせず、また流行するものに対して常に反感を持つというわけでもなく、自分の体験に即して、よいものはよいもの、よくないものはよくないものとはっきり自分の意見を言った。森田、鈴木、小宮など古顔の連中は、ともすれば先生は頭が古いとか、時勢おくれだとか言って食ってかかったが、漱石は別に勢い込んで反駁《はんばく》するでもなく、言いたいままに言わせておくという態度であった。だからこの集まりはむしろ若い連中が気炎をあげる会のようになっていたのである。しかし後になっておいおいにわかって来たことであるが、漱石に楯《たて》をついていた先輩の連中でも、皆それぞれに漱石に甘える気持ちを持っていた。それを漱石は心得ており、気炎をあげる連中は自分で気づかずにいたのだと思う。
この木曜会の気分は私には非常に快く感じられた。それでこの後には時々、たぶん月に一度か二度ぐらいは出席するようになった。
漱石を核とするこの若い連中の集まりは、フランスでいうサロンのようなものになっていた。木曜日の晩には、そこへ行きさえすれば、楽しい知的|饗宴《きようえん》にあずかることができたのである。が、そこにはなおサロン以上のものがあったかも知れない。人々は漱石に対する敬愛によって集まっているのではあるが、しかしこの敬愛の共同はやがて友愛的な結合を媒介することになる。人々は他の場合にはそこまで達し得なかったような親しみを、漱石のおかげで互いに感じ合うようになる。従ってこの集まりは友情の交響楽のようなふうにもなっていたのである。漱石とおのれとの直接の人格的交渉を欲した人は、この集まりでは不満足であったかも知れない。寺田|寅彦《とらひこ》などは、別の日に一人だけで漱石に逢っていたようである。少なくとも私が顔を出すようになってから、木曜会で寅彦に逢ったことはなかった。また漱石の古い友人たちも、木曜日にはあまり顔を見せなかった。私の記憶に残っているのは、ただ一つ、畔柳芥舟《くろやなぎかいしゆう》が何かの用談に来ていたくらいのものである。
大正三年ごろの木曜会は、初期とはだいぶ様子が違って来ていたのであろうと思うが、私にはっきりと目についたのは、集まる連中のなかの断層であった。古顔の連中は一高や大学で漱石に教わった人たちであるが、その中で大学の卒業年度の最もあとなのは安倍|能成《よししげ》君であって、そのあとはずっと途絶えていた。安倍君と同じ組には魚住《うおずみ》影雄、小山|鞆絵《ともえ》、宮本和吉、伊藤吉之助、宇井|伯寿《はくじゆ》、高橋|穰《ゆたか》、市川三喜、亀井高孝などの諸君がいたが、安倍君のほかには漱石に近づいた人はなく、そのあと、私の前後の三四年の間の知友たちの間にも、一人もなかった。木曜会で初めて近づきになった赤木桁平、内田百閨A林原耕三、松浦嘉一などの諸君は、皆まだ大学生であった。また古顔の連中は、鈴木三重吉のほかは皆一高出であったが、若い大学生では赤木、内田両君が六高、松浦君が八高出であった。だから私はちょうどこの断層のまん中にいたことになる。芥川龍之介の連中が木曜会をにぎわすようになったのは、さらに二年の後、大正五年のことである。
古い連中と新しい連中との間には、年齢から言っても六七年、あるいは十年に近い間隙《かんげき》があったし、また漱石との交わりの歴史も違っていた。古い連中は相当露骨に反抗的態度を見せたが、新しい連中にはそういうことはできなかったし、またしようとする気持ちもなかった。しかし大正三年のころには、そういう断層のために何か不愉快な感情が起こるということは、全然なかったように思う。これは私が鈍感であったせいかも知れぬが、とにかく私自身は、古い連中が圧制的だと感じたこともなかったし、また漱石に楯を突く態度をけしからぬと思ったこともない。初めのうちは、弟子たちが漱石に対して無遠慮であることから、非常に自由な雰囲気《ふんいき》を感じたし、やがてそのうちに、前に言ったような弟子たちの甘えに気づいて、それを諧謔《かいぎやく》の調子で軽くいなしている漱石の態度に感服したのである。楯を突いていた連中でも、たまに漱石からまじめなことを一言言われると、ひどく骨身に徹して感じたようであった。断層のために幾分弟子たちの間に感情のこだわりができたのは、芥川の連中が加わるようになってからではないかと思う。そのころ私は鵠沼《くげぬま》に住んでいた関係で、あまりたびたび木曜会には顔を出さなかったし、またたまに訪れて行った時にはその連中が来ていないというわけで、漱石生前には一度も同座しなかった。従ってそういうことに気づいたのは漱石の死後である。
木曜会で接した漱石は、良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であった。癇癪を起こしたり、気ちがいじみたことをするようなところは、全然見えなかった。諧謔で相手の言い草をひっくり返すというような機鋒《きほう》はなかなか鋭かったが、しかし相手の痛いところへ突き込んで行くというような、辛辣《しんらつ》なところは少しもなかった。むしろ相手の心持ちをいたわり、痛いところを避けるような心づかいを、行き届いてする人であった。だから私たちは非常に暖かい感じを受けた。しかし漱石は、そういう心持ちや心づかいを言葉に現わしてくどくどと述べ合うというようなことは、非常にきらいであったように思われる。手紙ではそういうこともどしどし書くし、また人からもそういう手紙を盛んに受け取ったであろうが、面と向かって話し合うときには、できるだけ淡泊に、感情をあらわに現わさずに、互いに相手の心持ちを察し合って黙々のうちに理解し合うことを望んでいたように見えた。これはあるいは漱石に限らず私たちの前の世代の人々に通有な傾向であったかも知れない。私の父親などもそういうふうであった。私は父親から愛情を現わす言葉などを一度も聞いたことはない。言葉だけを証拠とすれば、父親には愛がなかったということになるが、そうでないことを私はよく理解していた。しかりつける言葉の中にだって愛は感じられるのである。しかしそういう態度は、親子の愛情などを何のこだわりもなしにあけすけに露出させる態度と、はっきり違っている。昔の日本の風習には、感情の表現にブレーキをかけるという特徴があったと思う。その点で漱石は前の世代の人であった。それだけに漱石は、言葉に現わさずとも心が通じ合うということ、すなわち昔の人のいう「気働き」を求めていたと思う。
そういう漱石が、毎週自分のところに集まってくる十人ぐらいの若い連中――それは毎週少しずつ顔ぶれが変わるのであるから、全体としては数十人あったであろうが――そういう連中の敬愛にこたえ、それぞれに暖かい感じを与えていたということは、並み並みならぬ精力の消費であったはずである。もちろん漱石は客を好む性《たち》であって、いやいやそうしていたのではないであろうが、しかしそれは客との応対によって精力を使い減らすということを防ぎ得るものではない。客が十人も来れば台所の方では相当に手がかかる。しかし客と応対する主人の精神的な働きもそれに劣るものではない。木曜会に時々顔を出したころの私は、そんなことをまるで考えてもみなかったが、後に漱石の家庭の事情をいろいろと知るに及んで、その点に思い及ばざるを得なかったのである。日本で珍しいサロンを十年以上開き続けていたということは、決して犠牲なしに行なわれ得たことではなかった。漱石は多くの若い連中に対してほとんど父親のような役目をつとめ尽くしたが、その代わり自分の子供たちからはほとんど父親としては迎えられなかった。これは家庭の悲劇である。漱石のサロンにはこの悲劇の裏打ちがあったのである。
このことにはっきりと気づいたのは、漱石の死後十年のころに、ベルリンで夏目純一君に逢ったときである。純一君は漱石が朝日新聞に入社したころ生まれた子で、漱石の没したときにはまだ満十歳にはなっていなかった。木曜会で集まっている席へ、パジャマに着かえた愛らしい姿で、お休みなさいを言いに来たこともある。私は直接なじみになっていたわけではなく、漱石の没後にも、一時家を出ていたころに、九日会の日に玄関先で見かけたぐらいのものであった。だからベルリンの日本人クラブで、二十歳の青年になっている純一君から声をかけられたときには、初めは誰かわからなかった。名乗られて顔をながめると、一高の廊下で時々見かけたころの漱石の面ざしが、非常にはっきりと出ているように思えた。それから時々往来するようになり、さそわれていっしょにテニスをやりに行ったりなどしたが、似ているのは面ざしだけでなく、性格や気質の上にもかなり濃厚に父親似が感ぜられた。当時ベルリンで逢う日本人のうちでは、一番傑出した人物であったかも知れない。しかしまだ若い上に、釣り合いのとれないチグハグなところがあった。それは当人も気づいていて、「おれは日本語の丁寧な言葉ってものを一つも知らないんだよ。だから日本から来たヘル・ドクトルの連中に初めて逢って口をきくと、みんな変な顔をするんだ」と言っていたことがある。この純一君と話しているうちに、漱石の話がたびたび出たが、純一君は漱石を癇癪持ちの気ちがいじみた男としてしか記憶していなかった。いくら私が、そうではない、漱石は良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であったと説明しても、純一君は承知しなかった。子供のころ、まるで理由なしになぐられたり、どなられたりした話を、いくつでも持ち出して、反駁するばかりであった。そこにはむしろ父親に対する憎悪さえも感じられた。それで私ははっと気づいたのである。十歳にならない子供に、創作家たる父親の癇癪の起こるわけがわかるはずはない。創作家でなくとも父親は、しばしば子供に折檻《せつかん》を加える。子供のしつけの上で折檻は必要だと考えている人さえある。それは愛の行為であるから、子供の心に憎悪を植えつけるはずのものではない。創作家の場合には、精神的疲労のために、そういう折檻が癇癪の爆発の形で現われやすいであろう。しかしその欠点は母親が適当に補うことができる。純一君の場合は、母親がこの緩和につとめないで、むしろ父親の癇癪に対する反感を煽ったのではなかろうか。そのために、年とともに消えて行くはずの折檻の記憶が、逆に固まって、憎悪の形をとるに至ったのではなかろうか。そうだとすれば、漱石夫妻の間のいざこざが、こういう形に残ったとも言えるのである。
このことに気づいたとき私は、『道草』に描いてある夫婦生活の破綻《はたん》を再び意味深く反省してみる気持ちになった。あの小説の主人公も細君も、決して悪い人ではない。しかしいずれも我が強く、素直に理解し合い、いたわり合おうとはしない。二人の間にやさしい愛情がないわけでもないのに、細君は夫を「気違いじみた癇癪持ち」に仕上げ、夫は細君を従順でない「しぶとい女」に仕上げて行く。漱石はこの作を書いた時より十年ほど前、『吾輩は猫である』を書き出す前後の自分の生活をこの作で書いたと言われているが、しかし作者としての漱石は作の主人公やその細君を一歩上から憐《あわ》れみながら、客観的に批判して書いている。漱石の心境はもはや同じところに留《とど》まっていたのではない。しかし漱石の家庭生活がその心境と同じように一歩高いところへ開けて行っていたかどうかは疑わしい。夫人が素直に漱石について歩いていれば、あるいは漱石がその精力を家庭の方へ傾けていれば、たぶんそうなっていたであろう。しかしこの期間の生活の痕跡《こんせき》を一身に受けている純一君は、明らかにその反証を見せてくれたのである。『道草』に書かれた時代よりも後に生まれた純一君は、父親を「気違いじみた癇癪持ち」として心に烙《や》きつけていた。それは容易に消すことができないほど強い印象であった。私はそこに十歳以前の子供に対する母親の影響を見たのである。
これは私が漱石に接しはじめてから後にもわたっている出来事である。だから私は、漱石の明るいサロンが、家庭の悲劇の犠牲において作り出されていた、と感ぜざるを得ないのである。ああいうサロンの空気は、すでに『吾輩は猫である』のなかにも見いだすことができる。漱石はそこでは妻子に見せるとは異なった面を見せていた。何十人もの若い人たちに父親のような愛を注ぎかけた。そのための精力の消費が、夫として、あるいは父親としての漱石の態度に、マイナスとして現われるということはあり得たのである。漱石を気違いじみた癇癪持ちと感じることは、夫人や子供たちの側からは、それ相応に理由のあることであろう。漱石に対する理解や同情がありさえすれば、問題をそこまでこじらさなくてもすんだであろうとはいえる。しかしこれは夫人や子供たちに漱石と同程度の理解力や識見を要求することにほかならない。そういう要求はもともと無理である。漱石の方からおりて行って手を取ってやるほかに道はなかった。そのためには漱石は、家庭の外に向かって注いでいる精力を、家庭の内に向けるほかはなかった。もしそうしていれば漱石は、実際の漱石とはかなり別のものになっていたであろう。そういう漱石が、よりよい漱石であったかどうかは別問題である。が、少なくとも自分の子供の内に憎悪を烙きつける父親ではなかったろうと思われる。
純一君にベルリンで逢ってから二年後に、漱石夫人の『漱石の思い出』が出版された。その中に漱石を一種の精神病者として取り扱っている個所がある。特に烈しいのは『道草』に書かれた時期のことである。そこに並べられているいろいろな事実から判断すると、夫人の観察は正しいと考えざるを得ないであろう。しかし実際に病気にかかったのであったならば、『吾輩は猫である』や『道草』などは書かれるはずがないと思う。当時漱石は、世間全体が癪にさわってたまらず、そのためにからだを滅茶苦茶に破壊してしまった、とみずから言っている。猛烈に癇癪を起こしていたことは事実である。しかしその時のことを客観的に描写し、それを分析したり批判したりすることができたということは、漱石が決して意識の常態を失っていなかった証拠である。それを精神病と見てしまうのは、いくらか責任回避のきらいがある。一体にこの『漱石の思い出』は、漱石を「気違いじみた癇癪持ち」に仕上げて行く最後のタッチであったような気がする。
漱石と接触していた三年の間に、漱石と二人きりで出歩いたことは、ただ一度しかない。たしか大正四年の紅葉のころで、横浜の三渓園《さんけいえん》へ文人画を見に行ったのである。
私は大正四年の夏の初めに、大森から鵠沼へ居を移した。そのころにちょうど東京横浜間は電化されたが、鵠沼から東京へ出るには汽車のほかはなく、それも二時間近くかかったと思う。木曜日の晩に漱石山房で話しにふけっていれば、終列車に乗り遅れるおそれがあった。それで木曜会に出る度数は減ったが、訪ねて行くときは、午後早く行って夕方に辞去するようにした。そのころ、門の前まで行くと、必ず人力車が一台待っていた。客間には滝田樗陰《たきたちよいん》がどっかとすわって、右手で墨をすりながら、大きい字とか小さい字とか、しきりに注文を出していた。漱石はいかにも愉快そうに、言われるままに筆をふるっていた。
たぶんその関係であろうと思うが、そのころにはしきりに文人画の話が出た。いい文人画を見た記憶などを漱石はいかにも楽しそうに話した。それを聞いていて私は原三渓の蒐集《しゆうしゆう》品を見せたくなったのである。三渓の蒐集品は文人画ばかりでなく、古い仏画や絵巻物や宋画や琳派《りんぱ》の作品など、尤物《ゆうぶつ》ぞろいであったが、文人画にも大雅《たいが》、蕪村《ぶそん》、竹田《ちくでん》、玉堂《ぎよくどう》、木米《もくべい》などの傑《すぐ》れたものがたくさんあった。あれを見たら先生はさぞ喜ぶだろうと思ったのである。
私はその話を漱石にしたように思う。そうして「それは見たいね」というふうな返事を聞いたようにも思う。しかしその点ははっきりとは覚えていない。覚えているのは漱石を横浜までつれ出すにはどうしたらよかろうと苦心したことである。あらかじめ三渓園の都合をきいて、日をきめて訪ねて行く、という方法を取るのでは、漱石はなかなか腰を上げないであろうというふうに感じた。それで、今から考えるとまことに非常識な話であるが、十一月の中ごろのあるうららかに晴れた日に、いきなり漱石をさそい出しに行ったのである。こんな日ならば気軽に出かける気持ちになるであろう、出かけさえすればあとは何とかなるであろう、と思ったのである。鵠沼から牛込《うしごめ》までさそいに行ったのであるから、漱石山房へついた時にはもう十時ごろになっていた。玄関へ出て来た漱石は、私の突飛さにちょっとあきれたような顔をしたが、気軽に同意して着替えのために引っ込んで行った。
今の桜木町駅のところにあった横浜駅に着いたのは、もう十二時過ぎであった。そのころ私はナンキン町のシナ料理をわりによく知っていたので、そこへ案内しようかと思ったが、しかし文人画を見せてもらう交渉をまだしていないことがさすがに気にかかり、馬車道の近くの日盛楼という西洋料理屋へはいって、昼飯をあつらえるとすぐ三渓園へ電話をかけた。ちょうどその日に何か差支えでもあれば、変な結果になるわけであったが、その時には私はその点を少しも心配していなかったように思う。電話では、喜んでお待ちするとの返事であった。で私は、自分の突飛さをほとんど意識することなしに、自分の計画の成功を喜びながら、昼食をともにしたのである。
私はその日、のりものの中や昼食の時などに、漱石とどんな話をしたかをほとんど覚えていない。ただ一つ覚えているのは、市電で本牧《ほんもく》へ行く途中、トンネルをぬけてしばらく行ったあたりで、高台の中腹にきれいな紅葉に取り巻かれた住宅が点在するのをながめて、漱石が「ああ、ああいうところに住んでみたいな」と言ったことである。
三渓園の原邸では、招待して待ち受けてでもいたかのように、款待をうけた。漱石としては初めて逢う人ばかりであったが、まことに穏やかな、何のきしみをも感じさせない応対ぶりで、そばで見ていても気持ちがよかった。世慣れた人のようによけいなお世辞などは一つも言わなかったが、しかし好意は素直に受け容れて感謝し、感嘆すべきものは素直に感嘆し、いかにも自然な態度であった。で、文人画をいくつも見せてもらっているうちに日が暮れ、晩餐《ばんさん》を御馳走になって帰って来たのである。
漱石は『吾輩は猫である』のなかで、金持ちの実業家やそれに近づいて行くものを痛烈にやっつけている。また西園寺《さいおんじ》首相の招待を断わって新聞をにぎわせた。そういうことから私たちは漱石が権門富貴に近づくことをいさぎよしとしない人であるように思い込んでいた。またそれが私たちにとって漱石の魅力の一つであった。しかし漱石は、いつだったかそういうことが話題になったときに、次のような意味のことを言った。相手が金持ちであるとか権力家であるとかということだけでそれに近づくのを回避するのは、まだこちらに邪心のある証拠である。|ためにする《ヽヽヽヽヽ》気持ちが全然なければ、相手が金持ちであろうと貧乏人であろうと、大臣であろうと小使であろうと、少しも変わりはない。――ちょうどこの言葉に現わされているような態度を、私は実際に目の前に見るように感じた。
滝田樗陰のことで思い出したが、たぶん大正五年の春であったと思う。木曜日の午後に、樗陰は墨をすりながら、きょうは先生に大きい字を書かせるといって意気込んでいた。漱石は半切に、「人静月同照」という五字を、一行に書いた。二三枚書きつぶしてから、今度はうまく行ったと言って漱石が自ら満足する字ができた。樗陰も、これはいいと言ってしばらくながめていたが、やがて首をかしげて、先生、この文句は変ですね、と言い出した。漱石は、変なことはないよ、いい文句じゃないか、と答えたが、樗陰は、いや、おかしい、と頑強に主張した。漱石は立って書斎から李白《りはく》の詩集を取って来て、しきりに繰っていたが、なるほど君のいう通りだ、人静月同眠だね、と言った。樗陰は、そうでしょう、そうでなくちゃならない、月同照は変ですよ、と得意だったが、漱石は、しかしそうなるとまことに平凡だね、といかにも不服そうだった。樗陰は、文句が違っていちゃしようがない、さあ書きなおしてください、と新しい紙を伸べた。漱石は、君がいやなら、これは和辻君にやろう、なかなかいいじゃないか、と言って、「人静月同照」の半切を私にくれた。私が直接漱石からもらった書は、これ一枚だけである。
私は、「人静月同照」という掛け軸を、今でも愛蔵している。これは漱石の晩年の心境を現わしたものだと思う。人静かにして月同じく眠るのは、単なる叙景である。人静かにして|月同じく照らす《ヽヽヽヽヽヽヽ》というところに、当時の漱石の人間に対する態度や、自ら到達しようと努めていた理想などが、響き込んでいるように思われる。
[#地付き](昭和二十五年十一月)
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藤村の思い出
藤村の作で最初に読んだのは、『水彩画家』と『椰子《やし》の葉蔭《はかげ》』とであったように思う。この二つの作には今でも特別の色彩がついているように感じられる。年譜で見ると、これらの作は明治三十七年の初め、日露戦争が勃発《ぼつぱつ》した前後に、前者は『新小説』、後者は『明星』に載ったのである。当時私はちょうど満十五歳になろうとするころで、田舎の中学の三年生であった。友人に教わって蘆花《ろか》の『思出の記』を読み、それから小説を耽読《たんどく》するようになって、まだ一年とはたっていなかった。しかし雑誌『明星』の愛読者であったから、これらの作の作者が有名な詩人であるということはすでに知っていたように思う。
その後二年ほどたって、明治三十九年の春に、私は東京に出て来た。ちょうどそのころに『破戒』が出版されたのであるが、それを読んだ時の印象はどうもはっきり思い出せない。これは傑れた作なのだと思い込もうとしながらも、どこか満たされないものを感じたように思う。それよりもその年の秋、一高の寮にはいったころに、古本屋で、『若菜集』『一葉舟』『落梅集』などの初版本を買って来て耽読した時の印象の方が、強く残っている。これらは出版後七八年たっていたに過ぎないのであるが、しかしそのころの年配では七八年の年月は非常に長く、従って埋もれていた古い宝を掘り出して来たような気持ちであった。当時のわれわれの感情があの詩によってどれほど深く揺り動かされたかということは、今読み返してみてもまざまざと思い起こすことができる。
『春』が朝日に載ったのは、私の一高の二年のころで、同級の連中が一室に集まって暮らしている時であった。当時は藤村|操《みさお》の巌頭の感がまだわれわれの間になまなましい力を持っており、「煩悶《はんもん》」という言葉が特殊の意味をもって流行していた。だから青春の煩悶を取り扱ったあの作は、私たちの仲間でかなり強い興味をもって迎えられた。その仲間の一人は、二三年後に、いろいろの煩悶の結果、『春』の主人公と同じように、東海道を西に向かって歩きはじめたことがある。この男は、やはりあの主人公と同じように、死にはしなかった。しかしそういう挙動をさせるほどにあの作はわれわれの仲間に影響を与えていたのである。しかしそれが題材のせいであったのか、あるいは作品の力であったのかは、どうもはっきりしない。もともと青春のもだえというものは、もやもやとしていて形のはっきりしないものであるが、あの作には、それをはっきりとした結晶にまとめあげるほどの形成力は、現われていないように思う。だから、作品としての芸術的な力によって、感情を奥底から揺り動かされたというわけではなかったのであろう。
たぶんそのころであったと思うが、生田《いくた》長江、森田草平などの連中で九段坂下のユニヴァーサリスト教会で文芸講演会を催したことがある。講師は上田敏、島崎藤村などであった。私は藤村を見ることを楽しみにして聞きに行ったのであったが、初めに『旧約の文芸』について講演した上田敏の話が非常におもしろかったのに反して、藤村は声も低く、話もはっきりしなかった。しかし洋服を着た小柄の藤村の姿や、何となく内気なような話しぶりなどが、全身ことごとくデリケートな触覚でできているような、非常にいい印象を与えた。いかにも詩人らしいと私は感じた。それは藤村の詩の愛読者にとっては満足な印象であった。
藤村が『家』を書き出したのは私の大学在学中であった。これは今読んでみると非常に力強い作品で、恐らく藤村の作品中最も傑れたものの一つだと思うが、しかし当時の私にはあの作の味はよくわからなかった。そのころよくいっしょになった萱野《かやの》二十一はしきりに藤村を悪く言っていたが、私にも幾分それに同ずる気持ちがあったかも知れない。しかし他方で、先輩の小山内薫《おさないかおる》や、雑誌『新思潮』の同人として知り合った木村荘太などが、藤村を非常に尊敬していたのに対して、それをもっともだと感ずる気持ちもあった。詩人藤村に対する敬愛はなかなか根深いものであったと思う。
木村荘太にさそわれて浅草新片町に初めて藤村を訪れたのは、『家』を執筆中の明治四十四年の秋であった。初めの夫人を失われてから間のないころだったと思う。藤村は非常に陰鬱であった。ほとんど話らしい話はしなかった。
その後、藤村に逢った記憶としてはっきり残っているのは、東京駅のホテルで催された会合の席のことである。それは藤村のための会合であったように思う。たぶん、藤村がフランスから帰って来た大正五年のころのことであろう。この時には藤村は、いかにも人なつこい、活き活きした表情で、体全体がデリケートな感覚であるという印象を、再び与えた。この時には藤村が直接私に話しかけたことを覚えているから、それまでにも幾度か逢っていたかも知れない。
若いころに私が藤村と接触したのはその程度であるが、大正の末に京都に移った後、偶然の機縁で新しい接触の道が開けた。それは新しい藤村夫人静子さんを通じてである。
そのころ私の家では静子さんの親しい友人の伊吹信子さんとなじみになり、昭和の初めごろ信子さんは私の家に住んでいた。静子さんはその前から藤村の飯倉片町の家に家政婦のようにして住み込んでいたのであるが、いよいよ結婚しようかと思うということで、信子さんに相談するために京都へ見え、私の家に泊まられたことがあった。それで私の家でも静子さんと知り合ったのである。
静子さんはある意味ではちょっと風変わりの、現代に珍しい婦人である。全身が藤村崇拝の結晶のようで、文字通りにおのれの一切を創作家藤村にささげた人であった。ちょうどそのころ、藤村は『夜明け前』の準備に取りかかっていたのであるが、静子夫人はそういう創作活動が自由にのびのびとできるようにと、ただそれだけに努力を集中した。衣食住の一切のことから、さまざまの人間関係に至るまで、藤村の趣味や性向を絶対の権威として、すべてをそれに合わせるように努めた。それはいわば奴隷の態度であるが、静子さんはみずから進んでその態度を取ったのである。
藤村は相当に殻の固い人であったし、その趣味や性向もかなり独自であったから、それを絶対の権威としてその世界の中に閉じこもっている静子さんの姿は、外から見るとちょっとおかしくも見えたが、しかし創作家である藤村にとってはこれは非常な慰めであったろうと思われる。創作に熱中している時には、人事関係のきしみなどは非常に煩わしく感ぜられるであろうが、そういう煩いはすべて静子さんが引きうけ、藤村をいつも藤村崇拝の雰囲気で包んでおこうとしていたように見えた。藤村がその自伝的小説のなかで詳しく描写しているさまざまの煩累も、静子夫人の努力で、よほどその圧力を減じていたであろう。『夜明け前』の読者は、この作が従前の藤村の作よりもよほど明るくなっていることを気づくに相違ない。
藤村が静子夫人とともに京都に来て私のところを訪ねてくれたのは、『夜明け前』の第一部を終わり、第二部に着手する前であった。たぶん昭和六年であったろう。この時のことは『京都日記』として藤村自身が書いているから、ここにくり返す必要もないが、藤村は非常に快活で、幸福そうに見えた。その時藤村は、二条城を見せてもらうわけには行かないだろうかと言った。『夜明け前』のなかに想像で描きはしたが、心もとないから実見したいというのである。そのころは離宮の拝観には資格の制限があって、無位無官の者は表向き許可証をもらうことができなかった。で、私は東伏見伯に頼んで、特別に許可証を出してもらうように口をきいてもらおうと思った。ところが東伏見伯は自分で案内に立ってくれられたのである。それがあの日記のなかの「思いがけない人」である。この時はあの城のなかの襖絵《ふすまえ》をずいぶん自由に見ることができて、私には非常におもしろかったのであるが、藤村はそのことを一言も書いていない。
その三年後に私はまた東京へ転住し、その機会に招かれて麻布の大和田で鰻《うなぎ》の御馳走になった。有島|生馬《いくま》氏やシナの周氏などが同席であった。しかし飯倉片町の家を訪ねたことはまだなかった。あの谷底の家へ私を連れて行ったのは徳田秋声である。そのころ私は本郷の西片町にいたが、ある日秋声がひょっこり訪ねて来て、藤村のための何かの催しの計画を話し、自分一人で行くと簡単に断わられそうな気がするから、君もいっしょに行ってすすめてくれということであった。何の催しであったか、はっきり思い出せないが、還暦にしては少し遅すぎるから、『夜明け前』完成の祝賀会というようなことであったかも知れない。第二部の脱稿が昭和十年の九月であるから、たぶんそのころのことではなかったかと思う。秋声に案内されてあの谷底へ降りて行くと、藤村はちょうど玄関前の崖下《がけした》で朝顔の鉢の世話をしていた。着物の上にモンペイだかカルサンだかをつけた姿が、そのころとしてはひどく異様であった。が、こういう谷底の家と言い、そこでいかにも落ちついてこういう田舎めいた姿で朝顔をいじっている態度と言い、いかにも藤村らしい独自な気分があふれていた。
二階に通されて秋声がぽつりぽつりと用談をのべたが、藤村は承知もせず、かと言ってきっぱりと断わるのでもなかった。やがて、せっかく見えたのですから、一つ付き合ってください、と言って、両国の鳥屋へ連れて行かれた。藤村の古いなじみであったらしい。
そのころからは静子夫人も時々遊びに見えたし、藤村に逢う機会も多くなった。二度目の外遊中四谷の新邸の建築を頼まれたりなどもした。あの建築は、費用のわりにはうまくできたと思っていたが、藤村の気には入らなかったらしい。
[#地付き](昭和二十五年十二月)
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藤村の個性
藤村は非常に個性の強い人で、自分の好みによる独自の世界というふうなものを、おのずから自分の周囲に作り上げていた。衣食住のすみずみまでもその独特な好みが行きわたっていたであろう。酒粕《さけかす》に漬けた茄子《なす》が好きだというので、冬のうちから、到来物の酒粕をめばりして、台所の片隅に貯えておき、茄子の出る夏を楽しみに待ち受ける、というような、こまかい神経のくばり方が、種々雑多な食物の上に及んでいたばかりでなく、着物や道具についてもそれぞれに細かい好みがあった。そうしてまたそういう好みを実に丹念に守り通していた。
住居についてもそうであった。新片町や飯倉片町の家は、借家であって、藤村の好みによった建築ではないが、しかしああいう場所の借家を選ぶということのなかに、十分に藤村の好みが現われているのである。随筆集の一つを『市井にありて』と名づけている藤村の気持ちのうちには、その好みが動いているように思われる。市井にある庶民の一人としての住居にふさわしい、ささやかな、目だたない、質素な家に住むことを、藤村は欲したのであろう。しかしそういう住居のなかには、市井庶民の好みに合うような、さまざまな凝った道具が並んでいなくてはならなかったであろう。あるとき藤村は、置き物を一つか二つに限った清楚《せいそ》な座敷をながめて、こうきれいに片づいていると、寒々とした感じがしますね、と言ったことがある。
その藤村が自分の家を建てたいと考え始めたのは、たぶん長男の楠雄さんのために郷里で家を買ったころからであろう。「そういう自分は未《いま》だに飯倉の借家住居で、四畳半の書斎でも事はたりると思いながら自分の子のために永住の家を建てようとすることは、我ながら矛盾した行為だ」という言葉のうちに、それが察せられる。が、その時に藤村が考えたのは、たぶん、ささやかな質素な家であったであろう。というのは、その家のために藤村が麻布のどこかに買い求めた土地は、六十坪だということであった。この計画は後に変更され、麹町《こうじまち》の屋敷はたしか百坪ぐらいだったと思うが、しかしその後にも、大きい住宅に対する嫌悪の感情は続いていた。あるとき藤村は、相当の富豪の息子で、文筆の仕事に携わろうとしている人の住宅の噂《うわさ》をしたことがある。藤村はその住宅の大きく立派であることを話したあとで、あの程度の仕事をしていながら、あんな立派な家に住んでいて、よく恥ずかしくないものだと思いますね、と言った。それは藤村としては珍しくはっきりした言い方であった。私はそれを聞いて、藤村の質素な住宅に対する執着が、なかなか根深いものであることを感じたのである。
藤村は着物でも食物でも独特な凝り方をしていて、その意味で相当ぜいたくであったと思う。飯倉片町の借家をただ外から見ただけの人には、その中でこういう凝った生活が営まれていることをちょっと想像しにくかったであろう。しかしその質素な住宅が、また一つの凝り方であったことを考えないと、藤村の個性は十分に理解されない。
これは衣食住の末に現われたことであるが、しかし同じような態度は、その仕事の全面を支配していたと言ってよい。おのれの好みに忠実であること、おのれの個性を大事にすること、これが藤村の仕事の筋金になっている。『春』『家』『新生』『夜明け前』と続いた藤村の主要作品を押し出して来た力は、そこにあると思う。
ところで右にあげたような藤村の好みのなかにはっきりと現われている独自な性格は、それが無遠慮に発揮されないで、何となく人の気を兼ねるという色合いを持っていることである。
昔の日本人は、他人に見える着物の表面を質素なものにし、見えない裏に贅《ぜい》をつくす、というようなやり方を好んだ。これはもと幕府の奢侈《しやし》禁止令に対して起こったことであるかも知れぬが、やがてそれが一つの好みになってくると、奢侈をなし得る能力のあるものでも、それを遠慮した形で、他人に見せびらかさない形でやることが、奥ゆかしいように感ぜられて来た。これは欧米人が、その奢侈をありのままに露呈してはばからないのに比べると、非常に異なった好みである。世間をはばかり、控え目にするという態度そのものが、その好みの核心になっているのである。こういう好みは日本でももう古風であるかも知れないが、藤村にはそれが強く働いていたと思う。金持ちの息子が立派な住居に住んでいるのを批評して、あれでよく恥ずかしくないものだと言った藤村の気持ちには、それがあったであろう。彼はそういう住居を建てる資力を持っているかも知れない、しかしそれは彼自身が自分の仕事から得た資力ではないであろう、それならば彼は世間の手前そういう家に住むのを恥ずべきである。そう藤村は考えたのであろう。美しい住居そのものが無意義なのではない。彼自身も、「あのウイリアム・モリスのように、自分の心の世界と言ってもいいような家を作って、そして、そういうところに住んでみることは、決してぜいたくとは思いません。そこには生活というものと芸術とのおもしろい一致もあると思いますが、けれども私などの境涯では、そんなことは及びもつきませんね」と言っている。問題は「境涯」なのであるが、大正の末、五十幾つかになっていた藤村は、その数々の名篇をもってしても、なお自分の境涯がそれにふさわしいとは認めなかったのである。そうすればどんな人が、生活と芸術との一致した家に住んでよいと認められたのであろうか。
が、他の人の気を兼ねるという傾向は、右のような好みにのみ基づくのではあるまい。物心がついて以後の藤村の生い立ちの苦労が、この傾向と深く結びついているであろう。『桜の実の熟する時』や『春』などで見ると、藤村はその少年時代や青年時代を他人の庇護《ひご》のもとに送り、その年ごろに普通のわがままをほとんど発揮することができなかったのである。それに加えておのれの生家のいろいろな不幸をも早くから経験しなくてはならなかった。無邪気な少年の心に、わがままを押えるとか、他人の気を兼ねるとかの必要が、冷厳な現実としてのしかかってくる。これは一人の人の生涯にとっては非常に大きい事件だと言わなくてはなるまい。こうして、ありのままのおのれを卒直に露呈するという道は、早くから藤村の前にふさがれたのである。内からもり上がってくる青春の情熱は、それにもかかわらず、ありのままのおのれを露呈するように迫ってくるが、しかしそういう激発があっても、普通の場合ならば傷痕《きずあと》を残さずにすむような出来事が、ここでは冷厳な現実のために、生涯|癒《い》えることのない大きい傷あとを残すことになる。従って青春の情熱そのものがここでは非常な不幸の原因になるのである。『春』は私が一高にいたころに発表されたものであるが、最初それを読んだ時には、この作の主人公を苦しめている根本の原因が、よくのみ込めなかった。私ばかりでなく、私の仲間も大抵そうであった。私たちには、「少年の時分から他人の中で育った」ということの意味が、一向にわかっていなかった。私たちはありのままを露呈するということを少しもはばからなかったし、またそれを妨げようとする力をも骨身に徹するほどには経験していなかった。地方の農村で育った私でさえそうであったから、東京の山の手で育った連中は、一層そうであったであろう。ちょうどそのころに、文芸ではありのままの現実を描写すると称する自然主義がはやり始めたし、思想の上では個人主義が私たちを捕えた。他人の気を兼ねるという気持ちは、そういう所へ押しつけられる体験を持たないわれわれには、単に因襲的なものとして、あるいは無性格のしるしとして、排斥されてしまったのである。
しかし少年時代からこの苦労をなめて来た藤村にとっては、それは、思想的遊戯の問題などではなかった。恐らく藤村自身それをはっきりと反省の材料となし得ないほどに、それは藤村のなかに深くしみ込んでいたであろう。藤村は、無性格などということとはおよそ縁遠い、個性の強い人であった。その強い個性によっておのれの独自の世界をきり開いて行こうとする努力と、遠慮深い、他人の気を兼ねる習癖とが、藤村においてはいや応なしに結びついてしまったのである。
芥川龍之介が自殺したときに、藤村は一文を書いた。それを書かせる機縁となったのは、芥川の『ある阿呆の一生』のなかにある次の一句である。「彼は『新生』の主人公ほど老獪《ろうかい》な偽善者に出逢ったことはなかった。」藤村はそれを取り上げて、「私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、おそらく芥川君には読んでもらえなかったろう」と嘆いている。
ところで私もまた、『新生』が出始めた時分に、主人公が女主人公の妊娠を知って急に苦しみ始める個所を読んで、それから先を読み続けるのをやめた一人である。|世間に知れる《ヽヽヽヽヽヽ》という怖《おそ》れが主人公の苦しみの原因であって、初めに女主人公と関係したことは何の苦しみをもひき起こしていないように見えたからである。この点はその後ゆっくりこの作を読み返してみても、やはりそうだと思った。最初関係するところは非常に注意深く伏せてあった。従ってこの作の主人公は、世間の思わくの前に苦しんでいるのであって、おのれの良心の前に苦しんでいるのではない。もし『菊と刀』の著者がこの作を読んだのであったならば、この個所を有名な証拠として引用したであろう。
が、そこにこそ問題があるのであることを、私は久しい間気づかなかった。世間の思わくの前に苦しむのであって、自分の良心の前に苦しむのでない、と言われ得るほど、他人の気を兼ねる習癖が、作者藤村の個性にこびりついていればこそ、藤村は新生のために悪戦苦闘したのである。少年時代以来の藤村の苦労を、作品を通じて通観し得たときに、私にはやっとこのことがわかった。この苦労が次の苦労を生んだのである。ありのままのおのれを卒直に投げ出すような気持ちになれるために、作者も主人公もあのような苦労を積み重ねなくてはならなかったのである。
しかし『新生』を書いたことによって藤村があの習癖を完全に脱却したというのではない。『新生』は藤村があの習癖を|自覚した《ヽヽヽヽ》ということの証拠なのであって、脱却の運動はそこに始まったばかりなのである。少年のころから深く植えつけられた習癖が、そう簡単に抜き去られるものではない。
藤村の文体の特徴も、恐らくここに関係があるであろう。ありのままを卒直に言ってしまうということは、実際にありのままを表現し得るかどうかは別問題として、一つの性格的な態度である。その態度のもとに、素直な卒直な|表現の仕方《ヽヽヽヽヽ》を作り出して行くためには、いろいろな苦心をしなくてはなるまいが、しかしその態度そのものは、割合に早く固定するもののように思われる。しかるに幼少のころから、他人の感情を害すまい、他人の誤解を受けまいというふうな用心によって、卒直な感情の表出を統制するように訓練されて来たとなると、右のような態度そのものが、何となく浅はかなような、奥ゆかしさを欠いたものとして感ぜられるようになるであろう。そこには卒直な物言いの人の知らないような、細かいセンスが働くであろう。私はそういうセンスが藤村の文体と密接に関係しているように感じる。一例をあげると、藤村のしばしば使っている「……と言つて見せた」という言い回しである。前後の連関から見て、他の作者なら単純に「……と言った」としてしまうところに、藤村はわざわざこの言い方を使っているのである。ところで、「言ってみせる」という言葉は、「言う」というのと同じ意味ではない。してみせるとか、着てみせるとかと同じように、言ってみせるのもまた「試みに言う」のであって、取りかえしのつかない実践的な人格の発動としての「言う」行為なのではない。人が笑いながら「殺すぞ、と言ってみせた」としても、相手は殺意などを感じはしない。しかるに藤村は、作中の人物がまじめに相手に対して言葉によって働きかけている場合にも、「と言つて見せた」という描写をやっているのである。同情なしに見る人は、ここに思わせぶりな態度とか、特殊な癖とかを認めるであろう。しかし藤村がわざわざこういう言い回しをするには、何かそう言わずにいられないものがあるのだと考えなくてはならぬ。それは、この人物がこの場合、言葉に現わしきれない、どういっていいかわからない気持ちを抱きながら、何とかいわずにいられなくて、試みにこうでも言い現わしたらどうであろうかという態度で、そう言った、ということなのであろう。そういう気持ちが、「……と言つて見せた」という言い回しで十分現わされているかどうかは、別問題である。が、とにかくそういうセンスが働いてあの文体ができているということは、認めなくてはなるまい。
藤村自身も『言葉の術』のなかで言っている。「言葉といふものに重きを置けば置くほど、私は言葉の力なさ、不自由さを感ずる。自分等の思ふことがいくらも言葉で書きあらはせるものでないと感ずる。そこで私には、|物が言ひ切れない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」岩野|泡鳴《ほうめい》のように、あけ放しに物の言える人から見ると、藤村の書いたものは思わせぶりに感じられたかも知れぬが、物の言い切れない藤村から見ると、泡鳴のように物を言い切ってしまう人は、話せないように感じられる、というのである。つまり藤村は、自分の文体が|物の言い切れない文体《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、「……と言つて見せる」文体であることを認めているのである。
幼少のころから他人の気を兼ねて育ったということは、それほどまでに深く藤村のなかに食い入っていると思う。
が、この幼少以来の苦労のおかげで、藤村の描いた世界のなかには、一つの非常にはっきりとした特徴が結晶している。
私は『夜明け前』を読んだ時にそれを痛切に感じたのである。この作にはかなりいろいろな人物が現われてくるが、作者はどの人物をも同情をもって描き、それぞれにその所を得させるように努めている。従っていろいろないやな事件が起こるにかかわらず、いやな人物は一人も出て来ない。作の世界全体に叙情詩的な気分が行きわたり、不幸や苦しみのなかにもほのぼのとした暖かみが感ぜられる。これは全く独特な光景だと私は思ったのである。
しかし考えてみると、この特徴はすでに『春』や『家』や『新生』などにも現われている。作者はどの人物をも責める態度で描くということがない。ちょうど「物が言い切れない」と言われていると同様に、人物をも一つの性格に片づけ切れないという趣が見える。苦労した人の目から見れば、人生はそういうふうに見えるかも知れない。遠くから見て、不埒《ふらち》な、怪しからぬ人物に見えていても、その人の立場に立てば、そうでないいろいろな点がある、ということになるのであろう。それを思いやり、そういう人の気をも兼ねるということになれば、作中の人物をくっきりと浮き彫りにし、それぞれにあらわな特徴を与えるということは、ちょっとやりにくくなる。どの人物の言行にも、はっきりと片づいた動機づけをすることができない。それが作の世界全体に叙情的な色調を与えるゆえんなのであろう。
私はこの態度が作者として取るべき唯一の道だとは思っていない。ありのままを卒直に言おうとする態度の人、物を言い切る人、人の気を兼ねるということをしない人でも、その態度によってひき起こすいろいろな苦労をしなくてはならないのである。またその苦労によって得た体験を書き現わそうとする場合には、この態度につきまとう独特な困難、すなわち主観的見方のなかに落ち込んでしまうという困難を切りぬけるために、特に烈しい苦心をしなくてはならないであろう。しかしそれを切りぬけて出た作者は、その卒直な態度のゆえに、また物を言い切る明快さのゆえに、物の形のくっきりとした、明澄な世界を作り出すことができるであろう。そういう作の中には、非常によい人物と、非常にいやな人物とが、並んで現われるかも知れない。作者は作中の人物を平等に愛するのではなく、一を愛し他を憎むのであるが、そういう愛憎の卒直な表現からでも、我々は優れた作品を期待することができる。
しかし藤村の個性はそうでない態度の上に立っているのである。だから藤村の作品からその個性にないようなものを求めるのは、見当違いだと思う。藤村の作品からは我々は苦労人の目から見たしみじみとした人生の味を味わい取ることができる。特に藤村が全力を集注して書いた数篇の長篇は、くり返して読むに価する滋味に富んだものである。またくり返して読ませるだけの力を持った作品である。
[#地付き](昭和二十六年二月)
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露伴先生の思い出
関東大震災の前数年の間、先輩たちにまじって露伴先生から俳諧《はいかい》の指導をうけたことがある。その時の印象では、先生は実によく物の味のわかる人であり、またその味を人に伝えることの上手な人であった。俳句の味ばかりでなく、釣りでも、将棋でも、その他人生のいろいろな面についてそうであった。そういう味は説明したところで他の人にわかるものではない。味わうのはそれぞれの当人なのであるから、当人が味わうはたらきをしない限り、ほかからはなんともいたし方がない。先生は自分で味わってみせて、その味わい方をほかの人にも伝染させるのであった。たとえばわかりにくい俳句などを「舌の上でころがしている」やり方などがそれである。わかろうとあせったり、意味を考えめぐらしたりなどしても、味は出てくるものではない。だから早く飲み込もうとせずに、ゆっくりと舌の上でころがしていればよいのである。そのうちに、おのずから湧然《ゆうぜん》として味がわかってくる。そういうやり方が、先生と一座していると、自然にうつってくるのであった。そのくせ今残っている感じからいうと、「手を取って教えられた」というような気がする。
先生の味解の力は非常に豊富で、広い範囲にわたっていたが、しかし無差別になんでも味わうというのではなく、かなり厳格な秩序を含んでいたと思う。人生の奥底にある厳粛なものについての感覚が、太い根のようにすべての味解をささえていた。従って味の高下や品格などについては決して妥協を許さない明確な標準があったように思われる。外見の柔らかさにかかわらず首っ骨の硬い人であったのはそのゆえであろう。
何かのおりに、どうして京都大学を早くやめられたか、と先生に質問したことがある。その時先生は次のようなことを答えられた。自分は江戸時代の文芸史の講義をやるはずになっていたが、いよいよ腰を据えてやるとなると、自分の好きな作品や作家だけを取り上げて問題にしているわけには行かない。御承知の通り江戸時代の戯作者の作品には実にくだらないものが多いが、ああいうものを一々まじめに読んで、学問的にちゃんと整理しなくてはならないとなると、どうにもやりきれないという気がする。それよりも自分の好きなものを、時代のいかんを問わず、また日本と外国とを問わず、自由に読んでいたい。そういうわけでまあ一年きりで御免をこうむったわけです。
先生のあげられたこの理由が、先生の大学に留《とど》まらなかった理由の全部であるかどうかは、わたくしは知らない。しかしもしそれだけであったならば、まことに惜しいことをしたとわたくしはその時に感じた。先生が好きなものを自由に読んでいられても、江戸時代の文芸史の講義ができなかったはずはない。いわんや先生の目から見てくだらない作家や作品は、ただ名前をあげる程度に留めておき、先生が価値を認められる作家や作品だけを大きく取り扱ったような文芸史ができたならば、かえって非常に学界を益したであろう。日本の文芸の作品は世界的な広い視野のなかでもっと厳重に淘汰《とうた》されてよいのである。先生が思い切ってそれをやろうとせられなかったことは、今考えても惜しい気がする。
先生が京都で講義せられていたときのことを後に成瀬無極《なるせむきよく》氏から聞いたことがある。成瀬氏は大学卒業後まだ間のないころであったが、すでにドイツ文学の講師となっており、同僚の立場から先生を見ることができたのである。氏によると、先生は非常にきちょうめんで、大学の規定は大小となく精確に守られた。同僚の教師たちがなまけて顔を出していないような席にも、規定とあれば先生は必ず出席せられた。何かの式であるとか、学友会の遠足であるとか、すべてそうであった。そばから見ていると、あれでは窮屈でとても永続きはしまいと思われた、というのである。この話をきいた時わたくしは前述の先生の言葉を思い出した。先生は学問の上においても同じようにきちょうめんな態度を取ろうとして、それが窮屈なためにやめられたのである。わたくしはそのころの京都大学の空気を知らないから、このきちょうめんさが外からの要求なのか、あるいは先生自身の内から出たのか、それを判断することはできないが、晩年まで衰えることのなかった先生の旺盛《おうせい》な探求心のことを思うと、あのとき先生が大学の方へ調子を合わせようとせずに、自分の方へ大学をひき寄せるようにせられたならば、日本の学界のためには非常によかったろうと思われる。
もっともあの時代には、大学などを尻目にかけるということが非常にいさぎよいことのように感ぜられた。少なくともわれわれ青年にとってはそうであった。それほど学界のボスの現象が顕著であり、そういうボスに接近する青年たちは、当時の流行語でいえば、シュトレーバーだと見られた。その後三四十年の歴史が実証したところによると、そういう青年の感じ方は必ずしも間違ってはいなかったといえる。だから先生がいち早く身をひかれたのはいかにももっともなのであるが、しかしまたそれだけに先生の廓清《かくせい》的な仕事の余地もあったのである。
先生の探求心が晩年まで衰えなかったことの一つの証拠は『音幻論』であるが、伝え聞くところによると、先生はあれを病床で口授せられたのだという。先生は丹念にカードを作る人であったから、調べた材料は相当に整理せられていたのでもあろうが、しかしああいう引例の多い議論を病床で口授するということは、どうも驚くのほかはない。恐らくあの問題を絶えず追いかけているうちに、頭のなかで議論のすじ道ができあがってしまったのだろうと思う。これはよほど粘り強い、頑強な探求心のしわざである。もちろんそこにはわれわれの思いも及ばない旺盛な記憶力が伴なっているのではあろうが、しかし記憶力だけではかえって雑然としてまとまりがつかないであろう。雑多な記憶材料に一定の方向を与え、それを整然とした形に結晶させた力は、あくまでも探求心である。
言語の問題に関しては先生はいつも活発な関心を持っていられた。わたくしのわずかな接触の間にも、この問題についておりにふれて教えられたことは、かなり多く記憶に残っている。漢字をいきなり象形文字と考えるのは非常な間違いで、音を写した文字の方が多いこと、同じ音で偏だけ異なっているのは偏によって意味の違いを表示したもので、発音的には同一語にほかならないこと、従って一つの音を表示する基準的な文字があれば、象形的に全然つながりのない語に対しても、同音である限りその文字が襲用せられていること、などは、わたくしは先生から教わったのである。子供の時以来漢字や漢文を教わって来ていても、右のような単純明白なことを誰も教えてくれなかった。英語の字引きをひいて must(1) must(2) などとあるのをおもしろがっていた年ごろに、もし漢語を同じように写音文字にすれば、(1)(2)どころではなく(1)から(20)、否(30)…(50)と並べなくてはならないのだと知ったならば、よほど漢字に対する考え方が違っていたろうと思う。そこには漢語のような単音節語《ヽヽヽヽ》特有の困難な事情がある。日本語は単音節語ではないのであるから、右のような困難を背負い込む必要はなかったのである。
そういう類のことは日本語についてもいくつか聞いたと思うが、それらは大抵《たいてい》『音幻論』のなかに出ているらしい。そこに出ていないと思われることでさしずめ思い出すのは、「なければならない」という言い回しについて先生のいわれたことである。この言い回しがひどく目立って来たのは、ちょうど関東震災前後の時代からであった。先生は「この不思議な」言葉がどこから出て来たかをいろいろと考えてみたが、どうもこれは「なけらにゃならん」という地方なまりをひき直したものらしい、といわれた。この着眼にはわたくしは少なからず驚かされたのである。わたくし自身もこの言い回しが著しく目立って来たことには気づいていたが、しかしこれが格はずれの用法であるとは全然思い及ばなかった。先生の説明によると、「なければ」は「なくあれば」のつまったものであるから、「ならない」で受けることはできない。「あってはならない」「なくてはならない」ということはいえる。しかし「あればならない」という人はなかろう。「もしそう|でなければ《ヽヽヽヽヽ》、かくかくであろう」というのが「なければ」の普通の用法である。それは、「もし|そうであれば《ヽヽヽヽヽヽ》、かくかくでなかろう」という用法と対になる。もっとも後半の受ける方の文章はどう変わってもよいのであるが、とにかく「なければ」「あれば」は一つの条件を示す言葉であるから、それを「ならない」で受けることはできないはずである。これが先生の主張であった。わたくしはいかにももっともだと思った。その後わたくしは自分の書いたものを調べてみたが、やはりところどころに使っていることを見いだした。そうして「どこまでも追究して|見なければ《ヽヽヽヽヽ》ならない」というふうな言い回しが、「どこまでも追究して|見なくては《ヽヽヽヽヽ》ならない」というのと幾分違った語感を伴なうに至っていることをも認めざるを得なかった。先生が「なければならない」という言葉に出会うごとに感じられたような不快な感じを、わたくしたちは感じないばかりか、そこに新しい表現が作り出されているようにさえ感じていたのである。しかしわたくしは、一度先生に注意されてからは、この言い回しを平気で使うことができなくなった。それでも不用意に使うことはあるが、気がつけば直さずにはいられないのである。そういうことをわたくしはほかの人にも要求しようとは思わない。どんな破格な用法を取ろうと、それはその人の自由である。日本語の進歩もたぶんそういう破格な用法からひき起こされるのであろう。そうあってほしい。しかしわたくしは破格を好まない。そういう点で露伴先生の鋭い語感は実際敬服に堪えないのである。
晩年の露伴先生に対しては、小林勇君が実によく面倒を見ていた。先生も恐らく後顧の憂いのない気持ちがしていられたことと思う。
小林君の話によると、先生は最後に呵々《かか》大笑せられたという。わたくしはそれが先生の一面をよく現わしていると思う。
[#地付き](昭和二十二年十月)
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歌集『涌井《わくい》』を読む
わたくしは歌のことはよくわからず、広く読んでいるわけでもないが、岡|麓《ふもと》先生のお作にはかねがね敬服している。誠に滋味の豊かな歌で、くり返して味わうほど味が出てくるように思う。中でも最も敬服する点は、先生が、目立って巧みな言い回しとか、人を驚かせるような奇抜な表現とか、刺激の強い言葉とかを、決して使われないことである。どんなに烈しい内容を取り扱われる場合でも、いかにも淡々として、透明な感じを与える。わたくしはこの透明さが表現の極致ではないかと考えている。ちょうど無色透明で歪《ゆが》みのない窓ガラスが外の景色を最も鮮やかに見せてくれるように、表現の透明さは作者の現わそうとするものを最も鮮明に見せてくれる。また透明であればあるほどそこにガラスのあることが気づかれないと同様に、透明な表現もその表現の苦心とか巧みさとかを意識させず、ただ端的に表現されたものに直面せしめる。それに反して警抜な表現とか巧みさを感じさせる言い回しとかは、ちょうど色のついたガラスのように、見えるものに色をつけてしまう。その色の好きな人は、あるいは好きな間は、その色が見えるというだけで喜びを感じるであろうが、その色のきらいな人、あるいは飽きてきた人は、その色がありのままの物の姿を見るのにひどく邪魔になることを痛感させられる。それを感じはじめると、どの色といわず、色のついていること自体がいやになってくる。そういう意味で、わたくしには、あの淡々とした透明な感じが実にありがたい。
しかしこれは先生の歌が無技巧だなどということではない。あれほど一字一句の使い方、置き方に気を配った歌、あれほど浮いたところのない、中味のびっしりとつまった歌、またあれほど濃《こま》かいニュアンスを出した歌が、技巧に熟達せずに作れるものではない。しかし先生の歌は、その巧みさを少しも感じさせないほど巧みな域に達していると思う。今度の歌集で先生は、
[#この行2字下げ]もののさびものの渋味はおのづからいたりつく時はじめて知らゆ
と歌っていられるが、そういう先生の境地が先生の歌を味わうものの心にもしみじみと伝わってくるように感ぜられる。それはまことに達人の域である。何事にもあせりが目立ち、どぎつい表現があふれている今の世の中で、こういう達人の歌に接し得ることは、不幸に充ちたわれわれの生活の中で、まことにありがたい幸福だと言ってよい。
歌集『涌井』は動乱のさなかに作られた歌の集である。戦争の最後の年、空襲がようやく激甚となってくるころに、先生は、病を押して災禍を信州に避けられた。その後東京の町は激しく破壊され、先生が大震災後住みついていられたお宅も、愛蔵された書籍や書画や骨董《こつとう》とともに焼けてしまった。それのみか、戦いの終わろうとする間ぎわになって、やはり空襲のために、学徒で召集されていた愛孫を失われた。そのあとには占領下の変転のはなはだしい時期がつづく。その一年あまりの間、都会育ちの先生が、立ち居も不自由なほどの神経痛になやみながら、生まれて初めての山村の生活の日々を、「ちょうど目がさめると起きるような気持ちで」送られた。その記録がここにある。それはいわば最近二十年の間の日本の動乱期がその絶頂に達した時期の記録なのであるが、しかしその静かな、淡々とした歌境は、少しも乱れていない。これこそ達人の境であるという印象は、この歌集において一層深まるのを覚えた。
ここには戦争の災禍に押しつめられた、苦しい、いたましい生活がある。が、その生活には、山村の四季のさまざまな物の姿がしみ通っている。時おりの心のゆらぎを示すものも花や鳥の姿である。それを読んで行くと、いかにも静かではあるが、しかし心の奥底から動かされるような気持ちがする。特に敬服に堪えないのは、先生のいかにも柔軟な、新鮮な感受性である。都会育ちの先生が、よくもこれほど細かに、濃淡の幽《かす》かな変化までも見のがさずに、山や野や田園の風物を捉《とら》えられたものだと思う。わたくしは農村に生まれて、この歌集に歌われているような風物のなかで育ったものであるが、幼いころに心に烙《や》きついたまま忘れるともなしに忘れ去っていたさまざまの情景を、先住の歌によって数限りなく思い出した。たとえば、
[#この行2字下げ]蓮華草この辺にもとさがし来て犀川《さいがわ》岸の下田に降りつ
[#この行2字下げ]げんげん田もとめて行けば幾筋も引く水ありて流に映る
[#この行2字下げ]おほどかに日のてりかげるげんげん田花をつむにもあらず女児ら
[#この行2字下げ]さきだつは姉か蓮華の田に降りてか行きかく行く十歳下三人
という一連の歌などは、ほとんど強い酒のように、わたくしを蓮華草の花の匂いや感触や、ふくふくと生い茂った葉の肌ざわりなどの中へ連れ戻して行った。流れに映るげんげの姿に目を留められたのも驚くべきことであるが、しかし蓮華草の田のなかにいる子供たちの幸福な気持ちを捉えられたのは、一層驚くべきことに思われる。そういう類のことがいくつでも出てくるのである。蓮華草の田がすき返され、塀《へい》の外田に蛙《かえる》が鳴き、米倉の屋根に雀が巣くう、というような情景もそうであるが、やがて郭公《かつこう》の来鳴くころに、
[#この行2字下げ]弟と笹の葉とりに山に行き粽《ちまき》つくりし土産《みやげ》物ばなし
[#この行2字下げ]ここへ来る一里あまりの田のへりを近路《ちかみち》といへばまた帰り行く
などと歌われている。農村の生活が実にしみじみと心に浮かんでくる。田植えの歌のなかにも、
[#この行2字下げ]苗代ののこりくづして苗束《なへたば》をつくり急げり日の暮れぬとに
などというのがある。田植えのころの活気立った農村の気持ちのみならず、稲の苗、田の水や泥、などの感触をまでまざまざと思い起こさせる。
こういう仕方でやがて夏になり、野萩《のはぎ》の咲くころとなり、秋に入り、雪を迎え、新年になる。遅い山国の春にも紅梅が咲き、雪が解け、やがて猫やなぎがほほけ、つくしがのび、再び蓮華草の田がすきかえされ、初雷の聞こえるころになる。その間の数多い歌が、実に豊かに山村の風物を描き出している。しかもその歌がそれぞれに玉のように美しい。実に得難い歌集である。
老年の先生を信州の山の中に追いやった戦禍のことを思うと、まことに心ふさがる思いがするが、しかしそれが機縁になってこの歌集が生まれたことを思えば、悪いことばかりではなかったという気もする。
[#この行2字下げ]田舎住なま薪|焚《た》きてむせべども躑躅《つつじ》山吹花咲くさかり
[#地付き](昭和二十三年十一月)
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杉先生の思い出
第一高等学校という思い出の多い学園が日本から消え去って行った機会に、杉敏介先生が上京されて世間の注目をひいた。杉先生の生徒であったもののうちの古顔はもう七十歳に近いのであるから、先生において一高の存在が象徴せられているように感ずる人々は相当に数が多いことと思う。その人々は何かしら先生についての思い出を持っているに違いないが、それは同時におのれの一高時代の思い出でもある。だから、先生の上京によって、過去の一高の存在が再び強くかき立てられたことは疑いないのである。私もその一人として、この四月の花のころに自分の心に去来した二三のことを書きつけておきたいと思う。
私たちが一高に入学したのは明治三十九年であったが、杉先生の国文法の講義を聞いたのは、一年生の時であったか、二年生の時であったか、はっきりしない。いずれにしても三年になって文科の組が分かれるよりは前のことで、後に文科に行くものも英法、独法、仏法などの組のなかに入り混じっていた。独法の組には天野貞祐《あまのていゆう》君、九鬼《くき》周造君、児島喜久雄君、立沢剛君など、仏法の組には大貫晶川君、英法の二の組には岩下壮一君、戸田貞三君、今村完道君、香川鉄蔵君、春山武松君、鈴木竜司君、それに私などがいた。右の国文法の講義は後に法科に行った連中もいっしょに聞いたはずである。英法の二の組には吉植|庄亮《しようりよう》君、浅村成功君、田中広太郎君、寺井久信君など、一の組の方には白鳥敏夫君、笠森伝繁君、日野水忠作君、佐々田三郎君などがいた。これらの中で大貫君は大学卒業後まもなく没し、九鬼、岩下両君は戦前に、立沢、鈴木、白鳥の諸君は戦後になくなった。
二の組にいた諸君はたぶん覚えていられることと思うが、ある日杉先生が首に物々しい繃帯《ほうたい》をして、肩から上がいかにも不自由そうな格好で、教壇に立たれたことがある。そうして、いつもの物静かな、諄々《じゆんじゆん》とした口調で、その繃帯の顛末《てんまつ》を語られた。前夜ふと寝ちがえられただけのことであるが、首の筋肉が恐ろしく痛んで、少しも左右に動かすことができない。右を向くとすれば体全体を右に向けなくてはならない。実に不自由である。「昔から借金で首が回らぬということを申しますが、なるほど首が回らぬというのはこういうことかとやっとわかりました。」この落ちを先生独特の澄ました調子で言われたとき、私たちは大喜びでわっと歓声をあげた。
この小さい事件は何でもないことのようであるが、私たちが子供の時以来意味だけを抽象的に飲み込んでいる言葉に、具体的な内容を与えるとか、体験の地盤まで連絡をつけるとかというふうなことを頻々《ひんぴん》としてやられた、そのやり方を代表するものである。文法の講義のなかにもそういうところがあった。私たちの仲間の間で、「の」の字の復活といって一時おもしろがったことなどもその一例である。私たちは小学から中学の間に日本の歴史のことを一通り教わっており、藤原道長、平清盛、源頼朝、北条時宗、楠正成、足利尊氏などという名前は、生まれぬ先から知っていたかのような気持ちでいたのであるが、それらの名前のうち藤原の道長、平の清盛、源の頼朝などには姓と名との間に「の」の字がはさまっており、北条時宗、楠正成、足利尊氏などではそれが脱落している、ということに、つい気づかないでいた。だから杉先生がそれを指摘して、ここに一つの変わり目があるということを証明されたとき、われわれは一種の驚きを感じた。すると先生は、その機会を捕えて、熊谷の次郎とか仁田の四郎とか、「の」の字のある方が優雅でよい、現代にも復活させたらどんなものであろう、杉の敏介などは大変よいと思う、と言われた。皆がどっと笑った。その日から寮では吉植の庄亮とか春山の武松とかと呼び合っておもしろがったのである。しかしこれはちょっとした笑い話以上に意味のある問題で、ヨーロッパの例などと対照して考えてみると、いろいろなことがそこから出てくるように思われる。特にこの変わり目の時代的背景が問題になるであろう。日本の場合はヨーロッパよりも早く、また徹底的に変わっている。公家でも武家でも皆一様に変わっている。その原因なども追求すればおもしろそうである。
級友とともに経験したことのほかに、私は文芸部の委員として文芸部長であった先生と特別の接触を持った。そのなかに一つ忘れられない事件があるのである。
文芸部の委員にされたのは二年の第二学期の初めで、明治四十一年の一月の末だったと思う。仲間は、長い間啓明会の仕事をしていた笠森伝繁君、近くまで東大工学部教授であった佐野秀之助君、そのほか物故した大貫晶川、立沢剛の両君であった。前年の委員は、谷崎潤一郎君、田中木叉君、それに物故した杉田直樹、岸巌、行森昇の三君で、いろいろなことを手を取るようにして教えてくれた。杉田君の家は学校に近く西片町のから橋下にあったので、そこへよく仲間が集まったが、新しい委員のうちでそれに加わったのは私だけであったかも知れない。杉田君は私の同級の春山武松君と中学時代以来の親友で、その関係から私も親しくしていたのである。
文芸部の委員になるとさっそく立沢君は『風の如き生活』という論文を、私は『失はれたる校風』というのを書いた。皆寄宿制度を攻撃する校風論で、その二三年前に魚住影雄君が書いて問題を起こした。私のはその余韻のようなもので、皆寄宿制度を原理的に攻撃したのではなく、この制度が実際には行なわれていないことを指摘し、この制度を校風の中軸であるかのように説く立場をわらったのである。三月一日の紀念祭の夜の集まりでは、二三の人の攻撃演説があり、三村起一君がそれに対して弁護に立ってくれたりなどした。私はその演壇の下で、文芸部委員として演説の大意を書き取っていたが、別に反駁《はんばく》に立とうとする気も起こらなかった。結局このことは文芸部長としての杉先生を煩わすほどの問題にはならなかったのである。
それに連関していくらかあとに残った問題は、夜、酒に酔ってストームにやって来た英法三年の宮沢源吉君が、私をなぐったことである。宮沢君は、「てめえがあんなことを書きあがるから、ボート部の寄付が集まらなくなったぞ」といって、平手で私の横っ面を張ったが、それはあまり力がはいっておらず、大して痛くなかった。宮沢君がやってくる前に、その同級の長束竜三郎君が先駆《さきがけ》としてやってきて、宮沢が君をなぐると言って騒いでいるが、手むかいをせずにおとなしくしていてくれ、何とかしてうまくなだめるから、と断わって行ったので、私はおとなしく寝床の上にすわってされるがままになっていたのである。宮沢君もただ一つなぐっただけで連れ出されて行った。
私の隣に寝ていた吉植庄亮君は剣道部の選手でもあり、常々私に向かって、君をなぐりにくるやつがあったら片端から竹刀《しない》でたたき伏せてやるからな、と言っていたのであるが、この時は蒲団を頭からかぶっていた。ところがその吉植君が翌日になって猛然として立ち上がったのである。柔道部の選手で端艇《ボート》部の委員をやっている宮沢源吉君は、夜、我々の寝室に侵入して文芸部の委員和辻を殴打した。もし言いぶんがあるなら公然交渉すべきであるのに、寄宿舎の規則に反し、また腕力をふるうとはけしからぬ。これは柔道部や端艇部の恥である。しかるべく処分されたい。こう吉植君は舎監に訴え出たのである。私はもう全然それには関与しなかったが、それを問題として取り上げた吉植君が剣道部の選手で弁論部の委員をやっていたところに、いろいろの妙味があるらしかった。ことに吉植君に頑強に論じ立てられれば、ちょっと誰にも手がつけられなかったのである。数日後、私が自習室にいるところへ、当時の大学先輩で柔道の達人山上岩二君がひょっこり現われ、「君、ちょっと寝室まで来てくれ給え」と私に言った。これは先夜ストームに逢ったときよりはよっぽど気味が悪かった。しかし逃げるわけには行かず、おずおずとついて行くと、山上君は寝室に向き合ってすわって、体に似合わず穏やかな声を出して、「君、宮沢を勘弁してやってくれないか」と言い出した。私はいきり立っている吉植君のことを考えながら、すぐに山上君に「僕は怒っているわけじゃないんですよ」と答えた。これはほんとうでもあるが、またその時の山上君の態度が非常に気持ちよく、同君に好意を表するために言ったのでもある。吉植君はあの時蒲団をかぶって寝ていたんだから、剣道部が柔道部をやっつける一歩手前で御破算にしてしまったってかまうまい、と私は思った。そんなわけで、この後日|譚《たん》も、杉先生を煩わすには至らなかった。
杉先生を煩わしたのは、その年の秋、三年生になって日光へ発火演習に行った後のことである。
そのころの一高の秋の演習は、二泊三日で、御殿場とか、銚子とか、日光とかへ行った。中一日は自由行動と称して各自勝手に遠足をやるが、着く日の午後と帰る日の午前とには、大隊対抗の演習をやった。銃を持つのは二年と三年だけ、一年生は手ぶらで本隊になっていた。
文芸部の委員は校友会雑誌にこの演習の記事を書く責任があるので、従軍記者という資格で、銃を持たずに出かけた。前の年銚子へ行ったときには、谷崎君たちの連中が従軍記者で、マントを羽織って軽々と歩いていた。その時谷崎君のマントの襟《えり》に毛皮が付いていたような記憶が残っている。今度は自分もああやって銃を担わずに行けるというのがなかなか得意であった。ことに私はその秋から寮を出て、高商にいる従兄とともに千駄が谷に家を借りて住んでいたので、朝早く学校まで出頭せずとも、じかに上野駅前へ集まればよいということが大変ありがたかった。
ところが当日早朝上野駅前へ行ってみると、一部三年の百名あまりの連中は、一人も銃を携えていなかったのである。どうしてそういうことになったかは、その時にも聞いてみなかったし、その後にも調べてみたわけではないので、今でも知らない。とにかくその時は、学校まで銃を取りに帰らせると、予定の汽車に乗れなくなる、というので、そのままずるずると汽車に乗ってしまったことを覚えている。従軍記者の特権は一向見ばえのしないことになってしまったのである。
その日は今市で下車して、杉並木の立派な日光街道を行進し、大谷川の河原との間の野原で演習をやった。十月の末の天気のいい日でなかなか気持ちがよかった。夕方日光の町について何軒かの宿屋に分宿し、翌日は東照宮から中禅寺湖、戦場が原あたりまで歩いた。さらにその翌日の帰途には、戸田貞三、吉野信次、鈴木竜司などの諸君とともに宇都宮で脱出して、栃木町の鈴木君の家へ行って泊まり、その足で榛名《はるな》、妙義、碓氷《うすい》峠などの紅葉を見て歩いた。これも右の諸君が銃をかついでいなかったためにできたことであったように思う。
しかし杉先生を煩わしたのはこれらのことのためではない。一部三年の連中が銃を持って行かなかったことに対しては、帰校後一週間ほどたって、戒飭《かいちよく》の処分が行なわれた。赤壁の教室の西側にあった掲示場に百人ほどの名前がずらりと張り出されたが、私の名はその中にははいっていなかった。私がひっかかったのは、従軍記者として書いた演習の記事のためである。
私は一高へ入学する前に姫路中学にいたのであるが、そこへは体操で有名な永井道明先生が私の一年の時に校長として赴任され私の五年の時に体操研究のためスウェーデンへ留学された。従って私の中学五年間は、二学期ほどを除いてほとんど全部永井先生の監督下にあったのである。永井先生は赴任後まもなく野球を禁止して蹴球《しゆうきゆう》を奨励され、また兵式体操を非常に重んぜられた。私のようなひわひわした体のものでも、器械体操となれば大車輪を除いて何でもできた。そういうわけで、明治三十五六年のころに、後の昭和十五六年のころよりももっときちんとした軍事教練が行なわれていたのである。週に一度は校長の指揮する大隊教練が行なわれていたし、月に一度は付近の山々谷々を踏破する強行軍が試みられた。飯盒《はんごう》で飯をたいて夜営したり、徹夜で行軍したりなどもした。それくらいであるから、一人に弾丸五発ぐらいしか渡らない発火演習でも、なかなか本式にやったのである。連隊に交渉して、中学の先輩で一年志願兵になっている連中などをよこしてもらって、小隊長や分隊長をやらせたこともあった。ところがそういうやり方でやってみると、演習というものが少年の心に非常におもしろかった。それとともにむずかしさもわかった。五年の時の発火演習には中隊長をやらせられたが、部下の統制が拙《まず》く、宙に浮いてしまって、さんざんな目に逢った。
そういう経験を持った目で見ると、一高の演習というものは、まるで演習になっていなかったのである。また平素の訓練から見てそうなるのが当然であった。だから演習そのものが全然無意味であった。そういう無駄なことをやるよりは、初めから三日間の修学旅行として見物でも山登りでも徹底してやる方がよい。それが私の痛切に感じたところであった。で、私はそれをそのまま従軍記事のなかに書いたのである。
それが体操科の主任教官堀中佐の目にとまった。堀中佐は嚇怒《かくど》して学校当局に厳重な処分を要求して来た。
今考えると、堀中佐の気持ちはよくわかる。同氏にとって重要な問題は、一部三年生百余名の演習に対するボイコットであったろうと思われる。こんな「不祥事」は全く前例がないのである。しかし百余名を厳罰に処することは学校としても困ることであろうし、できるだけ荒立てずにおく方が事を小さいままで葬るゆえんにもなるので、堀中佐は極力憤怒を押えて学校当局の穏便方針に従ったのであろうと思われる。事実この事件は世間の噂《うわさ》にのぼることなしに済んだのである。しかるにその処分がすんだあとで、あたかもあのボイコットを是認し根拠づけるかのような記事が、校友会雑誌に掲載された。今度はその責任者は一人である。押えられていた憤怒はこの一人の上に集注して来たのであろう。
しかしその当時私の頭のなかでは、同級生の演習ボイコットと私の演習批判とは、少しも結びついていなかった。書いた時にそうであったのみならず、堀中佐に怒られてもまだその間の連絡はつかなかった。
たぶん十一月の末か十二月の初めであったろうと思うが、ある日杉先生に呼ばれて、堀中佐が怒っていることを聞かされたのである。当時の教官室は正門の突き当たりの煉瓦建ての中にあった。この煉瓦建ては関東大震災のあとで取りこわしたが、正門へはわりに近かった。杉先生は歩きながら話そうと言って私を表へ連れ出し、正門を外へ出て、本郷の通りを大学の正門まで歩き、大学の構内を弥生町の門の方へぬけて、運動場のすみの門から一高の構内へ帰って来た。その間に先生は静かに事の顛末《てんまつ》を話され、何ぶん堀中佐はひどく怒っているのであるから、それを緩和するために一言わびを言ってくるがよいとすすめられたのであった。
先生の説明によると、堀中佐の言い分はこうであった。一高の発火演習は学校の規則に従って実施しているのである。そういう演習を行なうのがよいかどうかは、学校の規則がよいかどうかの問題であって、生徒が論議すべきものではない。あの演習批判の記事は生徒の分を超えたものである。生徒の本分を逸脱するものは、厳重に処分しなくてはならぬ。
杉先生はこの意見を伝える時に、同級生のボイコット事件との連関を示唆するようなことはされなかった。そうして、堀中佐の意見は筋が通っているので、正面から反駁するわけに行かない、というふうに言われた。私には自分の演習批判が間違っているとは思えず、またそういう批判をしたからと言ってそれが生徒の分を超えたものとも思われなかったので、しきりに先生に向かって抗弁した。あの程度の批評さえ許されないとすれば、全然言論の自由がないではないか、という気持ちで、いろいろなことを言った。先生は相変わらず静かな調子で相手になられ、声を荒ららげるというようなことを決してされなかった。
こうしていつまでも先生の忠告に従おうとしないままで一高の弥生町の門をはいって運動場の端まで来たとき、先生は、珍しく強い調子で、「では君は、もうあとわずか二学期だという時に、学校を追い出されてもいいという腹をきめているのかね」と言われた。私はそんな腹をきめてはいなかったのである。こんな些細《ささい》な事(と私は思っていた)が放校に価するとは、思いもよらないことであった。だからこう聞かれても、即座の返事はできなかった。桜の並木の下を歩きながら、私はその覚悟をきめたものかどうかを新しく考えてみた。それができなければいかにも意気地なしのようにも思われるし、また何だかばかばかしいような気もした。そうやって一二分間歩いて物理学教室のそばまで来たとき、先生はまた穏やかな調子で、こういうくだらないことのために引っかかるのは、実際ばかばかしい、ただ一言わびて来さえすれば好いのだ、という意味のことを言われた。とうとう私は屈服した。
先生と別れたあと、私はひどく自己嫌悪に襲われた。自分の書いたことの結果を正面から受け取ることのできない意気地なさが実にいやだった。しかしあれを書く時に放校になってもよいという覚悟を持っていなかったことは事実なのである。そうすると、書いたことの内容はともかくとして、書く時の態度が軽卒であったことは認めなくてはならない。内容を撤回するのでなく、この軽卒ということを告白して来よう。そう考えて私は体操教官室へ行った。堀中佐はちょうど在室であった。私は名を言ってから、「まことに軽卒でした」と言ってお辞儀をした。その時堀中佐は何も訓戒めいたことを言われなかったように思う。その時の中佐の態度についても、ほとんど何も覚えていないが、ただ中佐が剣をはずしていたこと、背の高い、大柄の顔つきがむっつりとしていたことなどは、ぼんやりと記憶に残っている。いつもは表で軍帽をかぶり剣をつるした姿のみを見ていたので、室内の姿が珍しく見えたのかも知れない。
この事件は、私の知る限りでは、それだけで済んだ。杉先生と堀中佐との間にその後どういう話し合いがあったかは、聞いてもみなかった。しかしとにかく当人が恭順の意を表したとなると、杉先生が堀中佐をなだめるのもよほどやりやすかったのであろうと思う。杉先生は恐らくもうこの一小事件を覚えてはいられないであろう。しかし私にはこれが杉先生についての一番強い印象である。あの時先生といっしょに歩いた本郷の通りも、大学の構内も、一高の運動場も、すべて変わってしまった。もとの面影を残しているところは一個所もない。しかし私にははっきりとあの時の散歩の情景が浮かんでくる。あの時私はまだ丁年に達していなかった。先生もまだ三十六七歳であったと思う。
[#地付き](昭和二十五年八月)
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太田正雄君の思い出
太田君が仙台から東京へ転任して来たときには、神田|駿河台《するがだい》の竜名館に泊まっていた。明治大学から少し神保町の方へおりた右手であった。やがてまもなく、暑くなり始めたころに、黄疸《おうだん》か何かにかかって、かなり長くそこで寝ていた。いかにも不便そうなので、早く家をさがさなくてはと思った。しかしそれをすすめると、太田君は、毎朝満員の電車で通うようなところはいやだよと言っていた。幸いそのころ私は本郷の西片町にいたので、近所をさがしてみようということになった。
その時取りあえず西片町十番地の差配の人のところへ聞きに行ったり、頼み込んだりしたように思うが、とにかく最初にあき家が見つかったときには、太田君といっしょに見に行った覚えがある。九月ごろであったかも知れない。阿部邸の西側に沿って餌差《えさし》町の方へ降りるS字坂があるが、あの通りの坂にかかる手前、阿部邸の塀《へい》が左側に現われてくるよりも手前の、左側にある、小さい平家建てであった。場所はいいが、何分にもこれでは手狭でしようがないというので、それはことわることになった。次に見つかったのは、西片町の椎《しい》の樹の広場からまっすぐ西へ八千代町の坂の方へ向かっている通りの、広場から二三軒目の左側にある二階家であった。これも少し狭くて不満なようであったが、結局借りることにして、そこへ自分と雇い人だけで引っ越して来た。それはたぶんその年の秋であったと思う。
この家のことで最も強く印象に残っているのは、太田君が児島喜久雄、勝本正晃の両君を迎えて開いた絵を描く会である。それは児島君が東京へ転任して来てから後のことであったように記憶する。この三人はみな素人《しろうと》放れのした絵がかけるのであるが、その中へまるで絵のかけない私が招かれたのは、近くに住んでいたからである。その席へ出て私が驚いたのは、三人が代わる代わる文人画をかきながら、実に楽しそうにしているその雰囲気《ふんいき》であった。これは当時よりも十年前、昭和の初めごろにはなかったことである。西洋から帰って来て仙台に落ちついてからの十年の間に、この人たちは仙台でそういう文人画風の気分を作り上げたのであろう。牡丹《ぼたん》の絵をかけば、それは仙台付近の牡丹の名所へ清遊した時の思い出と結びついていた。その気分はいかにものどかで、そのころの東京の気分とひどく異なっていたし、また京都の大学関係の仲間の気分とも違っていた。ハイカラな絵をかいていて、文人画などにあまり振り向かなかった洋行前の太田君や児島君が、そういうふうに変わって行った十年間には、私は両君に逢う機会はわりに少なかったのである。
もっとも太田君がそういうふうに変わって来ていることは、東京へ転任して来た年の夏にすぐわかった。太田君が西片町へ越してくる前、私のところへ来て晩餐《ばんさん》をともにしたときに、食後|微醺《びくん》を帯びた顔を輝かせながら、君のところには絵をかく紙はないかと言い出したことがある。その時には、非常に上機嫌で、半切に牡丹の絵や藤の絵をかいてくれた。藤は大学の構内の藤棚に垂れ下がっている花が目についた結果だったように思う。十年前に京都に寄ってくれた時などには、そんなそぶりはまるでなかった。やはり日本人は、年をとると文人画が好きになる、などと私は思った。しかしその時にはそれほど驚きを感じなかったのであるが、児島、勝本両君と相寄って心の底から楽しそうに描いているところを見ると、ちょっと驚かずにはいられなかったのである。
この後、太田、児島両君が夢中になって絵をかき出す場面を幾度か見た。二人とも実に絵をかくことが好きだった。若いころには画家になろうと思ったこともあるであろう。絵ばかり画かせておいたらどうなったかわからないが、日常抑えつけられているだけに、画き出す時には本性がほとばしり出るように見えた。
太田君は晩年に植物図譜のような形で花の絵をかくことに凝った。逢うと花の話をよくした。その熱心に動かされて、私の庭の土佐水木や木藤の花を大学まで運んで研究室へ届けたこともある。戦争が始まってからであったと思うが、ある日曜日に水道橋の能楽堂へ太田君を誘ったことがあった。廊下のそばの広間で待っていると、太田君は風呂敷包みを片わきにかかえてやって来た。そうして桟敷にはいるとすぐにその包みをあけた。それは植物図譜の花の絵で、何百枚かあった。一々の花の絵がなかなか美しかった。能が始まる前にそれを見始めたのであるが、能が始まっても太田君は舞台の方を見ようとせず、花の絵を一枚一枚めくってくれる。その熱心さに押されて私も舞台の方を見ずに絵を見つづけた。とうとう能は見ずにしまった。能を見てからあとのことにしてもよかったはずであるが、そうできなかったところがおもしろいと思う。
[#地付き](昭和二十五年十一月)
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野上さんのこと
野上豊一郎さんが急になくなって大変惜しいと思う。野上さんは大学の経営などには非常に適した人であった。これから私立大学の経営がだんだん困難になるにつれて、野上さんのあの老熟したやり方がたびたび思い出されてくるであろう。
野上さんは才気を鋭く見せるというたちではなかったが、しかし座談は非常にうまかった。茫漠としているようで、なかなか要領もよく、諧謔《かいぎやく》にも富んでいた。罪のない世間話をしているようでいて、相手の心をとらえるのが巧みであった。私は野上さんが積極的に迫ってくるという印象を受けたことがなく、またいらいらしているのを見たこともない。しかしいつでも野上さんの注文通りになっていた。恐らくほかにもそういう人が多いと思う。自分を押しつけずに相手を生かせるという態度が、相手にとっては非常に感じがよかった。
法政大学で法文学部を設けてから三年の間、私は野上さんといっしょに働いたが、そのころ同僚であった内田|百閨sひやつけん》君などでも、野上さんとは非常に具合よく行っていたと思う。内田君をあんなにうまく使いこなしたのは、日本ではたぶん野上さんだけであろう。同僚の数は非常に多かったが、野上さんの捉《とら》えどころのないような柔らかい態度で、非常によく治まっていた。法政大学に大騒動が起こり、遂に野上さんも一時やめるようになったのは、私が京都へ行った後のことで、事情はよく知らないが、あれは野上さんにとってよりもむしろ法政大学にとって非常に不幸な出来事であった。もしああいうことがなければ、法政大学はもっとよくなっていたろうと思われる。
野上さんは謡や能楽に対しては実に熱心であった。初めはただ道楽だと思っていたのがいつのまにか専門のようになってしまった。能楽の催しのある日には、出かけて行けばきっと顔が見られたのに、これからはそうでなくなると思うと、まことにさびしい。
[#地付き](昭和二十五年二月)
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児島喜久雄君の思い出
児島君とは一高で同級であったが、しかし組が違っていた関係で、親しく話し合うようになったのは二年以後であったように思う。三年になってからは文科志望の連中は週に何回か同じ教室に集まったし、また私も寮を出て通学しはじめたので、時々帰りにいっしょに歩いたことがあった。それは明治四十一年の秋で、児島君の家は大久保にあったが、その大久保がまだいかにも郊外の新開地らしい趣を持っていた。空が広く見晴らせて、生け垣のなかに小さい洋間の応接室が見える、というようなところを歩きながら、病気の兄さんの面倒を見ているので勉強する暇がなくて困るという話を聞いた覚えがある。
児島君はそのころから西洋美術のことをよく知っていた。そのころドイツで出ていた美術家|叢書《そうしよ》 Kunstler-Monographien が便利でいいということを教えてくれたのも児島君であった。丸善で確か一冊二円ぐらいでベックリンとかクリンゲルとかシュトゥックとかの評伝を買って来て、挿画《そうが》の写真版をあきずにながめたものである。次いで買ったのは、バーン・ジョーンズとかロセッチとか、イギリスのプリラファエリットのものであった。フランスの近代の画家に近づかず、ベックリンやバーン・ジョーンズなどをまず愛玩《あいがん》したのは、私自身の趣味であったのか、あるいは児島君の指導によったのか、その点はどうもはっきりしないが、しかし児島君もあのころにはクリンゲルやシュトゥックを重んじていたと思う。今から思うとああいう見当違いにも無理のないところがある。フランスの印象派や後期印象派の画のすばらしさを網目版によって推測することは、全然できない相談であるが、ベックリンとかバーン・ジョーンズとかの画ならば、網目版を見て原物にあこがれている場合の方が、原物に接した時よりもかえって印象が深いかも知れない。
大学に行ってからは、講義をいっしょに聞く場合が多かったはずであるが、記憶に残っていることはあまりない。後年児島君自身から言われて、そんなこともあったかと思ったのは、岡倉覚三先生の美術史の議義で、先生がシナの鏡かなんかを持って来て聴講生に見せられた時、私がそれを無雑作に取り上げてながめようとしたので、先生が、そんな乱暴な見方をするものではない。こういうものはこうやって見るのだ、と言って、丁寧に品物の扱い方を教えられたというのである。それを当人の私の方が忘れていて、傍《そば》で見ていた児島君の方が後まで覚えていたのであった。
ただ一つはっきりと私が覚えているのは、大塚先生の美術概論の試験の時のことである。この講義は震災前の文科大学の煉瓦建ての二階中央にある大教室――と言っても七八十人ぐらいしかはいれなかったと思うが――で行なわれた。私はなまけずに出席したが、大塚先生の方で欠講が多かった。われわれが二階の廊下に集まって、窓から正門内の芝生や植え込みを見おろしながらむだ話をしていると、大塚先生が正門をはいって小股《こまた》の急ぎ足にやってくるのが見える。それが大抵《たいてい》十時十五分か二十分ころなのであるが、時には三十分か四十分ころになることもある。四十分以後になってもなお先生の姿が見えなければ、きょうは欠講らしいというわけでわれわれの方で適宜に退散するのである。そういう欠講の日がわりに多く、廊下のむだ話の群れがそのままカフェーとか丸善とかへ移動することもあった。そういうむだ話の間に私は仲間からいろいろ啓発を受けたように思う。試験の話はその一例なのであるが、学年末――明治四十四年の六月だったと思う――に幾年かぶりで講義の試験というものが復活して、それを受けるために同じ廊下に集まっていたとき、柳宗悦君が、
「児島君、Aesthetisches Verhalten というのは日本語にどう訳するんだい」
ときいた。この Aesthetisches Verhalten は大塚先生が一年間講義のなかで幾度となく繰り返した言葉で、その現わしている概念の内容もはっきりとつかんでいるつもりでいたが、さてそれを日本語で何というかは、私自身も知らなかった。そうしてそれを知らないということを、試験のはじまる直前まで、私自身では気づかないでいた。で、柳君の言葉にハッとして、児島君が答える前に、
「Verhalten は態度だね」
とつぶやいたことを覚えている。そのころ美的態度という用語にはあまり出会わなかったので、さてそれではどう訳するのだろう、とその時初めて自分も疑問にぶつかったのである。児島君は事もなげに、
「美意識だよ」
と答えた。Aesthetisches Verhalten の実質をなすものは美意識に相違ないのであるから、そう答えても間違いだとはいえないが、しかし Aesthetisches Verhalten の「訳語」として美意識という語をあげるのは、少し不穏当であるかも知れない。が、その時は、そんな訳語ができているのかとひどく感服したものである。それほど大塚先生は講義のなかで訳語を使わなかったし、またその日試験場で黒板に書かれた試験問題も、Aesthetisches Verhalten par exellence を初めとして、四題だったか、五題だったか、みんなドイツ語であった。しかもおもしろいことには par exellence がわからなくて質問が出た。講義には使ってなかったのである。大塚先生は、それぐらいの言葉は諸君知っていなくってはいけない、と言って、なかなか説明しようとしなかったが、知らない学生の方が多く、説明を要求する声が囂々《ごうごう》と起こって来たので、先生も渋々その意味を説明したのであった。
答案は自分の好きな問題を二つだけ選んで書けばよかったのであるが、この時児島君は右の Aesthetisches Verhalten par exellence を書き出したところ、書くことが多くて、半分も書かないうちに時間が来てしまった、と話していた。私自身は何を書いたか全然覚えていないが、奇妙に児島君と Aesthetisches Verhalten と美意識とのことだけが、一つにつながって記憶に残っているのである。知り過ぎているためにかえって一題の半分しか書けなかったということが、いかにも児島君の性格をよく示しているので、そのために記憶に残ったのであるかも知れない。今になって思うと、児島君の一生の仕事にもそういう趣がある。
たぶん同じ事情によることと思うが、児島君は大学の卒業論文の提出を一年延ばしたので、卒業は私たちよりも一年あと、大西克礼君などと同期の大正二年(一九一三)になった。その卒業の前であったか後であったかはっきりしないが、とにかくそのころに児島君とディルタイの精神科学序論とに連関して、一つの伝説ができあがった。
ディルタイの精神科学序論は、一九二二年にディルタイ著作集の第一巻として再刊されて以後は、何でもなく手に入るようになって来たが、一九一三年ごろには、絶版になってから十年ぐらいもたっていて、非常に手に入れにくい本であった。ちょうどそのころ、大塚先生がリッケルトに失望して、ディルタイに強い希望を抱き始めたので、たぶんその影響のもとに、児島君も熱心にディルタイの本を追いかけた。ところで同じ美学科の下級生のS君が、どこからかすでにこの本を手に入れていたのである。それを知った児島君は、「ディルタイの精神科学序論をSのような男の手もとに置くのはもったいない、あの本は自分が所有すべきである」と考え、神田の錦町だかにあったSの家へ譲り渡しの談判に出かけた。それは雨の降る寒い晩であったが、あいにくSが留守だったので、その帰りを待つために、雨の街を歩き回りながら、「これだけの苦労をしているのであるから、Sは当然あの本を自分に譲渡すべきである」と考え続けた。そうして一二時間の後に再びSの家を訪ね、譲り受けの談判をしたが、Sは承知しなかった。そこで児島君はひどく憤慨し始めた。「Sはけしからん男である。ディルタイの精神科学序論など所有する資格はないくせに、惜しがって手放そうとはしない。」
この伝説は誰が作ったというわけでもなく、児島君自身の無遠慮な諧謔のなかから自然に浮かび上がって来たのではないかと思う。私たちはいかにも児島君らしい話として受け取っていたが、しかしけしからぬ男とされたS君は、心平らかでなかったかも知れない。右にあげたような言葉を、児島君のわがままな感情の現われとしてでなく、自分に対する客観的な批判として受け取れば、腹が立つのは無理もないであろう。
私はそのころ児島君からゲーテのエゴイスムスに対する讃美を聞いたことがある。当時|はや《ヽヽ》っていたエリートの意識から言っても、右の伝説に見られるようなわがままな感情は、別に珍しいことではなかった。しかし児島君の場合、それは付け焼き刃ではなく、いかにも地がねの感じであった。またそれが何のこだわりもなく無邪気に出てくるので、いかにも自然児のようで、いやみがなかった。かなり突っ込んで打ちあけ話をしたり、こぼし話をしたり、人の世話をしたりなどするのも皆同じ調子であった。だから児島君に絶えず接触している人は、たといS君と同じような目に遭っても、腹を立てなくなるのである。その後四十年の間のいろいろな出来事を考えてみると、そういう人はかなり多いと思う。またそういう人で児島君のためにいろいろ尽くしたという場合も少なくないと思う。
[#地付き](昭和二十五年九月)
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第四部
われわれの立場
一
五年以上にわたって占領を続けることは、占領する側にも占領される側にも、好い結果を生まぬであろう、という宣言を聞いたのは、占領後一年とたたぬうちであったと記憶する。われわれはその時、人間知に充ちた言葉を聞くように感じた。実際、ポツダム宣言の受諾を具体化して行くのに、五年という長年月は必要でなかったのである。この宣言の出た当時、すでに武装は完全に取り除かれ、憲法の改正も緒についていた。革命のみがもたらし得るような大きい社会的変化もすでに現われていた。あとは秩序の回復や産業の復興が問題であった。それを妨害する共産党の運動がどこからかケシかけられさえしなければ、その回復はもっと早かったであろう。
翌年には新しい憲法も効力を発揮し始めた。そうしてその後まもなく、日本はもう講和条約を結ぶ資格を持っている、ということが公然認められた。もし事が円滑に運べば、その年の内にでも講和条約は成立しそうに見えた。やはり五年はかからないで済むのである。五年たったころには、すでに平和な独立国日本が、新しい文化の建設に孜々《しし》として努めているであろう。その態度一つで、平和を愛好する世界の諸国民の仲間に迎え入れられるということも、望みがなくはないであろう。そうわれわれは思った。
しかしその五年がたってみると、状況はまるで違う。講和条約がまだ結ばれず、日本がその独立を回復していないのみではない。待望の平和そのものがかえってわれわれから遠のいて行ったのである。われわれの間近で盛んに砲声が聞こえる。北朝鮮の共産政府の軍隊は、朝鮮民族を「解放」するという名目の下に、南朝鮮を席巻して釜山《ふざん》の近くまで押し寄せて来た。国際連合の警察軍は、このような「侵略」を防ぎ、国際正義をまもるために、南朝鮮の韓国軍を助け、釜山周辺の岸頭堡《がんとうほ》の保持に死力をつくしている。この衝突がやがて第三次世界大戦に発展しはしまいかという不安は、恐らく世界を覆うているであろうが、特に戦場に近いわが国では、神経過敏な人たちは、今にも共産軍の侵略がわが国土に及んで来はしまいかと脅えている。あるいは、日本もまたまもなく朝鮮と同じように二つに引き裂かれるであろう、その場合にいずれに就くべきであろうか、などと真顔になって心配している。冷静に判断する人ならば、滑稽に感ずるであろう、と思われるような風説でさえも、そういう人々を脅かすには十分なのである。これはあの新しい憲法を作った時分の気持ちとはまるで違う。平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼するという気持ちがもう見られないばかりではない。その諸国民が平和を愛するということ自体をさえも人々は信じないように見える。
わずか五年の間に、というよりも、その半分の二年半の間に、世界の情勢はすっかり変わった。それに影響されて人々の気持ちもまた変わって来ている。しかしわれわれはここで落ちついて反省してみなくてはならない。世界の情勢がかく変わったということは、全然われわれの責任ではないのである。従ってわれわれは、その変化を是認し、あるいはそれに追随すべき義務をも、負ってはいない。われわれが今でも負っているのは、ポツダム宣言の受諾から生ずる義務である。この義務を遂行するためにわれわれの作った新しい憲法こそ、われわれの責任に属している。われわれはここに固執しなくてはならない。世界の情勢が変わったからといって、憲法の内容が自動的に変わるものではない。そこに表明された立場をわれわれは簡単に離れてはならないのである。
二
われわれは新しい憲法の前文において、人間関係を支配する高い理想の「自覚」と、平和を愛する世界の諸国民の公正と信義とに対する信頼の「決意」とを、宣言した。この宣言は、組織された「一つの世界」を前提としている、と言ってよい。世界の|あらゆる国民《ヽヽヽヽヽヽ》が平和的に協働するということ、そういう諸国民によって作られた国際社会《ヽヽヽヽ》が、ただに平和を維持しようと努力するのみならず、|専制と隷従《ヽヽヽヽヽ》、|圧迫と偏狭などを地上から永久に追い払おう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と努めているということなどは、同じ前文が明らかに認めているところである。そういう国際社会の成立を現実の世界情勢と認めた上で、われわれは右のような自覚や決意に到達したのであった。
実際その当時には、国際連合はそういう方向に成長して行って、世界史の上に新しい時期を画するかのように見えた。世界的に調和のとれた、新しい世界経済の組織も、実現の緒につくかに見えた。数世紀来列強の植民政策によってもたらされた人類の不幸は、今後は取り除かれるであろうという希望をさえも、われわれは抱くことができた。だからこそわれわれは、世界情勢をただ権力関係からのみ理解していた在来の立場を放擲《ほうてき》し、人間関係を支配する高い理想が国際関係のなかにもまた働くという新しい立場に移ったのである。しかもそれを最も現実的な形に現わすために、戦争を放棄し、軍備をやめたのである。
これはわれわれの原理的な立場である。その後世界の情勢がどういうふうに変わったにしろ、われわれの立場は変わらない。われわれは「武力による威嚇」や「武力の行使」を、国際紛争の解決手段として用いないと宣言した。それはわれわれがもはや武力を持たないからそうしたのではない。武力を持たないものが武力を手段として用い得ないことは当然の理であって、ことさらに宣言するを要しない。われわれの宣言は、この決意が人間関係を支配する高い理想への努力であることを示しているのである。国際紛争を解決する手段として武力を用いることは、右の理想に反する。紛争は、あくまでも武力によらず、道理によって解決されなくてはならない。この原理が保持されなければ、平和な国際関係は到底実現され得ないであろう。諸国民が真に平和を愛するのであるならば、この原理を離れることはできないはずである。
三
しかし現実の情勢は変わったのだ。一つの世界ができあがったかのように感じたのは一時の幻であって、現実の世界は真二つに割れている。対日講和条約に関する提案は、手続きの問題で意見が分かれ、そのまま進行しなくなった。その他数え切れぬほど多くの意見の対立が、解決されることなしに、緊張の度を高めている。いわゆる冷たい戦争は、もう二年以上にわたって戦われているのである。その現実の前で、一つの世界を前提とするわれわれの「自覚」や「決意」を繰り返してみたところで、なんにもならないではないか。いわんやその冷たい戦争が「熱い戦争」に転化するのではないかと世界じゅうをはらはらさせている今の瞬間――われわれの間近で武力による死闘がすでに開始されている今の瞬間において、「武力によらず道理によって解決すべきである」と主張するごときは、全く非現実的ではなかろうか。
われわれはそうは考えない。|現実に《ヽヽヽ》われわれの前に効力を持っているのは日本国憲法である。そこにはなるほど冷たい戦争も熱い戦争も予想せられていない。諸国民はすべて平和を愛する国民、公正と信義とを有する国民として取り扱われている。しかしわれわれは、諸国民が戦争に駆り立てられて行く形勢や、諸国民が互いに相手を不公正・不信義として非難し合うような形勢を、全然念頭に置くことなしに、あの憲法を決定したのではない。むしろわれわれは、そのような形勢を国際間の現実であるとする立場に、あまりにも長く固着し過ぎていたのである。だからこの二三年来の新しい国際的形勢と呼ばれているものは、われわれにとってはあまりに陳腐であって、新しい時代に即応した新しい形勢であると認めるわけには行かない。自由競争の中に創造的な契機を認める資本主義の国と、世界革命を目ざしている共産主義の国とが、いろいろな点において対立し抗争するであろうということ、また共産主義革命が決して武力の行使を控えるものでないということなどは、もう二三十年も前から自明であるほどに明らかなことであった。この二三年来に初めて明らかにされたなどというわけではない。われわれはむしろ、そのような並立し難い|二つの陣営《ヽヽヽヽヽ》が、連合国として|一つになり《ヽヽヽヽヽ》、同一の旗印の下に|協力し始めた《ヽヽヽヽヽヽ》という形勢のなかに、新しい何ものかを感じたのである。もし両者が、理想的な社会の形成という目標を同じくしつつ、異なった道において互いにその成功を競い合うことができるならば、理想的な社会の形成は非常に促進せられるであろう。が、そのためには共産主義は世界革命の予定を変更しなくてはならないであろうし、資本主義もまたその自由競争にいろいろな制限を設けなくてはなるまい。事実そういう傾向はすでに見え始めていたのである。そういう新しい傾向こそわれわれが希望をかけたところであった。だから二つの陣営の間の協調が崩れ、古臭いマルクス宗の狂信に従って世界革命の運動が強行され始めたとなると、われわれの前にはまた二十数年前と同じような形勢が現われてくる。あるいはさらにさかのぼって、二十世紀初頭におけると同じような形勢と言ってよいかも知れない。共産主義国はいつのまにか世界最大の陸軍を擁し、ツァーの時代のロシアと同じような国になっているからである。そういう逆転した形勢が現実であって、われわれの上に現に効力を有している憲法が現実的でない、という主張は、人類の進歩に対する一切の努力を拒むものといわなくてはならない。現実の情勢がどのように後退して行こうとも、われわれはその現実に負けてはならない。われわれは一度獲得した地歩を護り抜かなくてはならない。「紛争は、武力によらず、道理によって解決すべきである。」
四
われわれは連合軍の占領下にある。連合国の間にどのような対立抗争が起ころうとも、われわれには全然発言権はない。しかしわれわれは憲法において、国際社会が平和の維持に努めていること、また専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永久に追い払おうと努めていることを承認した。ということは、われわれが国際社会から、従って連合国から、これに合うような態度を期待していることを意味する。この期待を、われわれは、いくら強く表明してもよいであろう。
連合国のなかの対立した国々は、いずれも|自国が《ヽヽヽ》平和の維持や自由の実現に努力していることを声明する。原則において相違するところはないのである。しかもそれらの国々はいずれも|相手国が《ヽヽヽヽ》帝国主義的な世界征服をもくろみ、専制と隷従、圧迫と偏狭を守り育てていることを非難する。この非難においては、平和の維持や自由の実現に関する相手国の声明は信用されないのである。征服の手段として平和を唱え、専制の手段として自由を説くこともできる。重要なのは何を説いているかではない、何を実行しているかである、という。そうなると結局事実問題である。それぞれの国が互いに国内を開放し、|いかなる政治的実践をやっているかを見せ合う《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という以外に、問題を解決する道はない。
このように国内を見せ合うというやり方は、その国の主張が正しいことを実証するためにも、当然なさるべきである。一つの明白な主義のもとに、専制と隷従、圧迫と偏狭を追放し、社会的経済的な正義を実現し得たのであるならば、あるいは少なくともその実現に向かって旺盛《おうせい》な努力が行なわれているのであるならば、その国内の情況を他の主義の下にある人々に自由に見せるということは、最も有効な宣伝の手段であるのみならず、またその主義の実現のための義務でさえもある。社会的経済的正義を実現するというごとき困難な問題において、すでに模範的な解決の例があるならば、模倣《もほう》を特徴とする人間が、それを取っておのれの社会に適用しないはずはないのである。
対立の一方である民主主義国は、もともと政治的実践を開放的に行なっている。従って見せ合うことを拒むはずはない。そういう国では独占資本が支配的な権力を持ち、社会的経済的な正義は蹂躙《じゆうりん》せられている、と非難される。しかし資本主義の経済組織を保持しながらも、さまざまの社会主義的制度を作って行くこと、それによって革命を避けつつ|徐々に《ヽヽヽ》社会的経済的な正義を実現して行くこと、それが民主主義国における理想実現の努力である。その方が安全で確実である、とそこでは信ぜられている。だから、その努力は決して隠しはしない。誰にでも見せる。正義の実現はいまだ半端であるが、しかし革命の道を選んだ国においてよりもかえって進んでいる。それをまっすぐに見て判断してもらいたい。もし非難者のいうごとく、民主主義国において独占資本の専制や労働者の隷従が行なわれ、民衆が圧迫と偏狭・不寛容とに苦しんでいるとすれば、それを自由に共産主義国の民衆に見せることは、共産主義国にとってはかえって好都合なことではないか。互いに国内を開放して見せ合おう。われわれの望むのは理想的社会を作る努力の競争である。この競争はフェアでなくてはならない。かく主張せられるであろう。
対立の他方である共産主義国は、独裁政治によって有名である。従って見せ合うことは恐らく好まないであろう。すでに長い間、外国人に国内を自由に見せることはしなかった。その弁解として、そのような鎖国的態度は実は資本主義国のせいである、といわれる。資本主義国の包囲攻撃はかつてこの国の存立を脅かした。この脅威に対して自ら守るのは当然ではないか、というのである。しかし目下の共産主義国は、世界じゅうの資本主義国を相手に回してびくともしないほどの強大な軍備を持っているのであるから、この弁解は通用しない。恐らく国内の状態は、外国人に見られては困るのであろう。共産党の独裁政治は、秘密警察の気味の悪い強大な力によってささえられているのであって、民衆はおのれの意見を発表する自由を全く奪われているに相違ない、専制と隷従、圧迫と偏狭・不寛容は、ここでは世界のどこにも見られないほど栄えているであろう、というような非難が起こってくる。この非難に対しては、いやそうではない、階級的搾取を根本的に取り去り、労働の成果を正しく労働者に分配している国は、共産主義国のほかにはないのだ、という答えが当然与えられる。が、それに続いて、その成績は決して隠しはしない、誰にでも見せる、ということをなぜ言わないのであろうか。共産主義の実現はまだ途中であって、最後的段階には達していないが、しかし革命の道を選んだ国においてのみ見られる急速な進歩、資本主義打倒によってのみ達せられる正義の確立、そういうものはすでにここで見ることができる、それをまっすぐに見て判断してもらいたい、もし非難者のいうごとく、共産主義国において専制と隷従、圧迫と偏狭・不寛容が栄えているとすれば、それを自由に民主主義国の民衆に見せることは、われわれ共産主義者にとって不利であろう、しかしわれわれはあえて国内を見てくれという、経済的正義の実現された国を作る競争において、われわれは決して負けないのである、という主張をどうしてなし得ないのであろうか。
共産主義革命は世界革命によってのみ完成せられる。従っていまだ革命を経験しない国々にはことごとく革命を伝播《でんぱ》させなくてはならない、というのが共産主義国の意図であるとすれば、それは開放して人に見せることさえなし得ない状態を、その見ない人々に押しつけることである。それは人に隷従を強いる偏狭・不寛容な態度といわなくてはならない。
かく考えれば、共産主義国がその国内を世界に向かって公開しない限り、その主張もまた|信用し難い《ヽヽヽヽヽ》ということになる。そうなれば種々の問題は共産主義国に不利なように判断されざるを得ない。たとえば講和の問題に関しては、われわれは一致した連合国との間の講和を、すなわち全面講和を欲する。しかしその全面講和を妨げているのは共産主義国である。全面講和の主張は、当然共産主義国に対する不満の表明とならなくてはならない。共産主義国は平和を欲するというが、その欲するのは実は征服であって平和ではない。それを共産主義国は朝鮮において実証した。従って平和運動は共産主義国を非難する運動とならなくてはならない。
五
しかし事態はまだ救われなくなっているのではない。対立する諸国はいずれの側も依然として平和の維持を主張している。今からでも国内を開放して見せ合うという態度をとれば、その平和の主張がいずれも真実であるということを実証し得るかも知れない。双方は互いにその主義を認め合い、寛容な心をもって、共同の目標への異なったやり方を見まもることができるかも知れない。必要なのは信義の回復である。それには互いに国内を開放して見せるほかに道がない。
このことを共産主義国に期待するのは非現実的だといわれるかも知れない。しかしわれわれは憲法のなかで、共産主義国をも含む諸国民が平和の維持と自由の実現とに努めていることを認めているのである。それを実証する道が右のほかにないとすれば、われわれはこの道に執着せざるを得ない。それが共産主義国にのみ譲歩を強いるものであるとしても、われわれの期待はただそこにのみかかっているのである。
共産主義国は今や昔の蒙古《もうこ》帝国よりも広い勢力圏を獲得している。かつて世界の平和を脅かす震源地だと言われていた諸地方――第一次大戦の前のバルカン地方や第二次大戦の前のシナ地方などは、今やその勢力圏に包み込まれて、震源地の性格を失い去っている。これは共産主義国の非常な勝利だと言わなくてはならない。これほど急激な拡大は、実際蒙古帝国以来ないことである。もうここいらで勢力圏の拡大運動をやめたらどうであろうか。世界の平和への唯一の望みはそこにかかっている。そうしてそれは共産主義国としてもまた安全な道である。これほど広大な地域と資源を擁すれば、その中で自由に共産主義的建設が達成され得るであろう。そのためにはただ尨大《ぼうだい》な軍備を差し控え、その資力を建設の方へ集注しさえすればよいのである。そうして、その標榜《ひようぼう》する通りに、資本主義国の達成し得ない社会的進歩を実現し、それを世界に公開して示すべきである。それは「武力による威嚇」や「武力の行使」なくして行なわれ得る。しかもその効果は、武力と比較にならないほどに強大なものであろう。
六
そういう期待をいくらくり返していたところで、現実は変わらぬであろう。「武力による威嚇」は一層強まり、やがて「武力の行使」に発展して行くであろう。そういう武力に圧迫せられながらも、なお依然として、「紛争は武力によらず道理によって解決すべきである」という立場を持続することができるか。
しかり。それは能力の問題ではなくして意志の問題である。われわれは武力によらず道理によることを決意したのである。しかしそれは国防が不必要であり無意義であるという意味ではない。いやしくも人が人倫的組織として国家を形成した以上、その国家を不正な侵略から護ることは、その国民の神聖な義務である。が、それにもかかわらず、われわれは「武力」による対抗手段を放棄したのである。従って武力による侵害はわれわれの手によって防ぐことはできない。われわれはそれを覚悟していなくてはならぬ。それは戦争の放棄、武力の放棄の当然の帰結である。しかしこの危険を冒すことによってわれわれは、「武力によらず道理によってのみ事を決しよう」とする真に平和な国家を、世界史上初めて作り出そうとしているのである。防衛の手段は武力のみに限らない。武力的には無抵抗の態度を取っても、人格としては全然屈服しないことができる。それはただ意志の問題、気魄《きはく》の問題である。
平和の維持はあるいは不可能になるかも知れない。しかしそれはわれわれの責任ではない。われわれの立場はあくまでも「武力による威嚇」や「武力の行使」を否定する立場である。われわれはこの立場を固守しなくてはならない。武力による威嚇は今やさまざまの風説としてわれわれの身辺に迫ってくるが、しかしわれわれはそういう威嚇に脅えてはならない。われわれの立場は簡単明瞭であって、いささかも迷うところはないのである。
[#地付き](昭和二十五年九月)
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民族的存在の防衛
朝鮮の事変の報道を読んでいると、私たち老人はそぞろに半世紀前の出来事を思い出してくる。定遠とか鎮遠とかのような優秀な甲鉄艦が日本へ示威運動にやって来たのは、私の五六歳のころであったが、そういう幼童の心にさえも、それらの甲鉄艦は非常な威圧を与えた。日本にはそんな優秀な軍艦は一隻もなかったのである。当時の大|清《しん》帝国の強大な国力は、恐らく今の共産主義中国の比ではなかったであろう。だからその大清帝国が朝鮮に手をのばし、朝鮮全体の大清帝国化を今にも成就しそうに見えたときには、その与える危険感は今よりもっと強かった。
幸いにしてこの危険は取り除かれたが、すぐそのあとに三国干渉が来た。その結果は遼東《りようとう》半島の還付に止《とど》まらず、その還付した旅順《りよじゆん》、大連《たいれん》などがロシア帝国の手に渡ることになった。ロシア帝国の強力な軍隊は満州に入り込み、旅順には堅固な軍港が作られた。当時のロシア帝国の侵略的態度は実に露骨なもので、満州へ入れた軍隊を約束の期限に撤退しないのみか、ついに鴨緑江《おうりよつこう》を越えて朝鮮へ軍隊を侵入せしめた。朝鮮全体のロシア帝国化が今にも実現しそうに見えた。そのころ私は十五六歳でロシア帝国のシベリア征服の歴史なども少しは知っていたのであるから、ロシアの侵略の危険を実にひしひしと感じたものである。
これらの危険はいずれも武力によって防がれた。日清戦争も日露戦争も、われわれの体験した限りにおいては、防衛戦争であった。明治時代のわれわれの先輩は、それを防衛戦争として立派に遂行した。それをあたかも帝国主義的侵略戦争であったかのごとくにいうのは明らかに事実の歪曲《わいきよく》である。防衛戦争のおかげで軍備が強化され、国力と不釣り合いな軍備の強化のおかげでやがて帝国主義的侵略が呼び起こされたということは、認めなくてはなるまい。しかしそれは後のことである。大清帝国とロシア帝国とに対しては、日本人は明らかに防衛戦争を戦ったのである。
今やその大清帝国の後身とロシア帝国の後身とが、半世紀前と同じように、朝鮮に侵入して来た。そうして半世紀前と同じように、日本人に侵略の危険を感じさせている。そこまでは同じである。そこから先の道もまた、同じでなくてはならないであろうか。
列強の関係を支配する力は半世紀前も今も同じである、と考える人は、侵略を防ぐ道もまた同じであると考えざるを得ないであろう。しかし二度の世界戦争を経て来た後の人類は、国際関係に関する考え方を変えた、と信ずる人は、ここに新しい道を見ることができるであろう。日清戦争も日露戦争も、言わば一騎打ち的な戦争であった。そういう戦争で鮮やかに敵を倒すというようなやり方は、今後はもう不可能であろう。戦争は必然に世界的連関を持った戦争となり、長期にわたって殺戮《さつりく》を続けることになるであろう。そういう戦争の連鎖のなかで、一つの民族の能力をことごとく軍備と戦争とに集中するというようなことは、全く無意義だといわなくてはならない。かつての輝かしい防衛戦争さえも、日本文化全体の上に跛行《はこう》的な発達をもたらし、ついに悲劇を将来せざるを得なかった。われわれはその過失をくり返してはならない。
一つの民族の存在を防衛するものは、ただ武力のみではない。どんな爆弾も破壊することのできない団結こそ、一層強い防衛力である。あるゆる武装は解除されていてもよい。ただ国民的統一だけは失われてはならない。その点を考えると、われわれの面している最も大きい危険は、朝鮮半島の方から迫ってくる侵略にあるのではなくして、国内のさまざまな分裂にある。特に、国民的統一を突き崩そうとする野心家たちの策動にある。
水は裂け目を伝って侵入してくる。日本民族を崩壊させるものがあるとすれば、それはこの分裂にほかならぬであろう。
[#地付き](昭和二十五年十二月)
[#改ページ]
私の信条
私の信条をのべろということであるが、私どもの理解しているところでは、「信条」というのは credo, creed の訳語であって、信仰のことに関し|公の立場《ヽヽヽヽ》で定められた|合い言葉《ヽヽヽヽ》、言いかえれば一つの教団の正統的な信仰内容を公に表明した信仰告白を意味していると思う。従って私の信条という場合には、社会的歴史的にすでに存在しているいろいろな信仰個条のうちの、どれを私が奉じているか、ということを示すのが通例であると思う。もっとも、教会の信仰告白のなかには、根本的な信条のほかに、マニフェストとかテーゼとか、その他いろいろの種類形式があり、そうしてそういう形式を共産党などが政治的立場とか運動方針とかの表明に転用しているのであるから、信条という言葉も、あるいはそういうふうに転用せられ得るかも知れないが、しかしそういう場合にも、それが公の立場、集団の立場で定められた|合い言葉《ヽヽヽヽ》であるという性格は、失われないであろう。従って私の信条といえば、|私の奉じている合い言葉《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という意味にはなり得るが、私が個人として持っている信念とか、私自身の確信とか、という意味にはなり得ないのである。
そうであるとすれば、私は私の信条を持っていない。信仰個条の意味でも、また政治的立場の意味でも、総じて信条なるものを奉じていない。たといそれが絶大な権威によってであるにしても、他から信条を課せられるということは、私は欲しない。こういうことが平気で言えるのは、あるいはわれわれの社会の特徴であるかも知れない。ヨーロッパの社会では、使徒信経を奉じないと公言することは、何らかの程度に教会と衝突すること、従って何らかの程度に社会の例外人となることを意味するであろう。キェルケゴールの独訳者シュレンプは、使徒信経に対する疑惑を表明したために教会を追われた。彼は反教会の立場で生涯戦い通すことを辞せなかったが、しかし彼のいうところによると、キェルケゴールの追随者のうちでもそれのできたのは彼一人であった。そうしてそれができない限り、真にキェルケゴールを理解したといえないのであった。これは二十世紀の出来事である。百年前のヨーロッパで無神論者だという疑いを受けることは社会的地位を失う危険を伴なったのであるが、今でも顕《あら》わな信条の拒否は、目に見えぬいろいろな迫害を呼び寄せてくるであろう。幸いにわれわれの社会には、固定した信条を奉じなくてはならないような不寛容な風習は存していないのである。そのためにいかがわしい宗教が数知れず残存し、また続々として発生してくるという、他の文明国に見られない大きい弱点もできあがっているが、しかしそれにもかかわらず寛容な態度は是認せられなくてはならぬ。いかがわしい宗教を追い払うことは、すぐれた宗教との自由な競争において、あるいは合理的な冷静な思索の力を育成することによって、なさるべきであって、固定した信条を強制することによってなさるべきではない。私はいかなる信条をも奉じないということを何の煩いもなしに言い得る社会をむしろ喜びとするものである。
もし信条という言葉によって政治的立場を現わし得るとすれば、そういう信条を奉ずるということは、むしろおのれ自身の判断を放棄することにほかならないであろう。不合理であればこそ、「信ずる」という態度が必要なのだ、といわれ得るのは、ただ信仰の立場のみである。政治的の立場はあくまでも合理的に批判されなくてはならない。そういう労を厭《いと》って、課せられた合い言葉に何の批判もなく追随するということは、よく言っても付和雷同の態度、率直にいえば、奴隷的態度にほかならない。私はそういう態度は絶対にとりたくない。だから応用的な意味においても、信条などは奉じないのである。
しかし編集者の求めているのは、そういう意味の信条ではないらしい。模範として掲げられているのはロンドン放送局の I believe である。信条 credo は英訳すれば I believe であるに相違ないが、しかし credo の公認された英訳語は creed であって、I believe ではあるまい。もちろん人は、信仰を告白する場合に、I believe という言葉を用いることはできるであろう。しかし日常この言葉によって普通に現わされているのは、自分自身の意見、自分自身の信念であって、教会の信仰個条ではない。I believe はそういう個人的意見《ヽヽヽヽヽ》を示しているのであろう。個人的意見あるいは確信を信条という言葉で現わせば、信条の原義は死んでしまうが、しかし credo に関係させずとも漢語の信条はそれ自身の意味を持ち得るといわれればそれまでである。それは辞典にない新語であって、たぶん信仰個条の意味ではなく、信念の条々、確信の条々などの意味なのであろう。
私の個人的意見のなかでここに特に解答を求められているのは、「自分の仕事と世の中とのつながりをどう思うか」「この世で何を失いたくないものと思うか」という二点である。これはいかにも平明な問いのように見えるが、決してそうではない。それは第一回の三人の答えを見てもわかる。
第一問の「自分の仕事」ということは、自分の従事している職業の意味にも取れれば、また自分のなし遂げた業績の意味にもとれる。この問いをいろいろな人に投げかけた場合を考えると、職業の意味でならば誰にも通用するが、業績の意味では通用しない場合が多い。仕事の成果が何らか持続的な形に現われる場合でないと、業績の意味には使えないのである。たとえば大工の建てた家は|この大工の仕事《ヽヽヽヽヽヽヽ》と呼ばれ得るが、農人の作った米は|この農人の仕事《ヽヽヽヽヽヽヽ》とは呼ばれない。だからこの問いは、まず仕事を職業の意味に解して答えるべきであると考える。
自分の職業と世の中とのつながりをどう思うかという問いは、|自分の職業の社会的意義《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を問うにほかならない。しかしどんな職業でも、社会的にきまって来たのでないものはない。職業そのものが、社会的な役目として成り立っているのである。従って個々の職業の社会的意義とその職業の本質とは同一である。自分の職業の社会的意義は自分の職業が|何であるか《ヽヽヽヽヽ》によってきまっている。私の職業は学問である。真理の探求である。それが私の社会から課せられた任務である。私はこの職業を選んだ時にこの任務を承認したのである。――これで私の第一問に対する答えはすんでしまう。
しかしこれは職業の社会的意義を一般的に考察しただけであって、特に私の個人的意見とか個人的な確信とかと関係はない。編集者の求めているのは、後者である。では私は何を答うべきであろうか。右の問題について特に個人的な契機を求めるとすれば、それは、私が何ゆえにこの職業を選んだかということ、あるいは、自分の選んだ職業、自分の承認した社会的任務について、私がどういう覚悟を持っているかということ、などであろう。それは幾分告白めいたことになる。そうしてその告白こそ編集者の欲するところなのであろう。私は告白の要求を自分の内には感じないが、しかし求められればあえて避けようとも思わない。
私の職業の選択や職業における覚悟などについて最も大きい関係を持っているのは私の父である。私は父の命令に従ったのではないが、しかしもし父がほかの態度を取っていたならば、私の歩き方もまた違っていたであろうと思う。
私の父は中国地方の農村で医者をやっていたが、日本古来の医の理想を表現した「医は仁術なり」という標語を、まじめに自分の実践の指針としていた。医者の任務は病気と戦って患者の苦しみを救うにある。職業である以上報酬は受けるが、しかし報酬が目的なのではない。それが父の態度であった。だから実際に報酬のことも自分の生活の難易のことも眼中になかった。夜中に急病だと言って呼びに来れば、貧乏人であろうが遠方であろうが、あるいは寒かろうが雨中であろうが、一切のことにかまわず出かけた。農村のことであるから、田の草取りのいそがしい真夏のころには、一夜にそういうことが二度も三度も重なったが、しかしいやがらずに黙々として任務に従っていた。「医は仁術なり」という理想の実現がいかに苦しいものであるかは、子供の私にも実によくわかった。しかしそれだけに、診療をうけた患者の方では、感謝の念が強かったように思う。それが子供の目にもまざまざとわかったのは、盆と正月とであった。年二回の決算のために、患家の方から自発的に薬代(診察料は取らなかった)を払いにくるのであるが、その時、米あるいは麦を一升ずつ袋に入れて礼のしるしに持ってくる。薬代の支払いの延期を頼みにくる人も、その年診療をうけなかった人も、同じようにこの礼のしるしだけは持ってくる。それが輻輳《ふくそう》して、その処理に手が足りず、子供も手伝わざるを得ないほどであった。だからその米は一年間の一家の食いぶちには余るほどの量に達した。が、このような年二期の謝礼ばかりでなく、季節ごとに、筍《たけのこ》とか瓜《うり》とか西瓜《すいか》とか梨とか松茸《まつたけ》とか柿とか栗とか大根とか、あるいはさまざまの川魚の類とかが持ち込まれた。松茸や大根などは食い切れないので、それを乾燥野菜にするのに忙しいほどであった。報酬はそういう贈り物の形ではいって来たのである。
私は物心がついて以来、自分で職業の選択を考えるようになるまで、右のような生活のなかにいたのである。それは派手な享楽らしいものの何もない、質素をきわめた生活であった。しかしまた何の不安や不和もない、健やかな生活であった。私はその中で、六年の間、日々一里半の道を往復して学校へ通った。側には汽車ももう開通していたのであるが、足の骨折のあと半年ほどそれを利用した時と、用事で遅くなった時以外は、すべて歩いた。父の日々の行動を見ていると、そうするほかはなかったのである。また当時の級友のうちには自転車を利用しているものもあったが、私は父に自転車をねだる勇気がどうしても出なかった。それらのことを考えると、父の無言の薫陶が相当に強く私に影響していたと思われる。自分の職業についての覚悟というようなものも、父の「医は仁術なり」という態度から、おのずから滲《し》み込んで来たのである。
しかしその父が、医者であることに強い嫌悪を感じだしたことがある。ちょうどそれが私の職業の選択と連関しているのである。
当時私の家には郡の医師会できめた定価表が掲げてあり、そのまっ先に診察料が書いてあったと思う。しかし父は宅診料も往診料も取らなかった。土地の風習として米麦や季節の物を礼に持ってくるのであるから、それ以外に現金で診察料を取るのは不当だと思ったのであろう。当時の農家には物はあったが現金のないのが普通であった。医師会の規約は、診察料の高をきめてはいるが、しかし診察料を取れと命令しているわけではない。取る取らないは自分の自由である。現金の不自由な農家から現金を取ることは、医師としての任務の遂行の邪魔になる。これは筋の通った考えであった。しかし都会と同じように新式にやろうとしている他の医師たちは、父のこの態度を不快に感じたらしい。しかし診察料のことだけではまだ問題は起こらなかった。やがてその内に医師会では、往診の際、その場で車代を取るという規約を作った。個人としては一々その場で車代を請求するということははなはだやりにくいが、医師会の規約となればやりやすいというわけであった。この規約が問題の種となったのである。父はもちろんそれに従わなかった。現金の不自由な農家から、その場で何ほどかの現金を請求するということになれば、この車代への顧慮から、急病の際でも来診の依頼を躊躇《ちゆうちよ》する、ということが起こるかも知れない。そういう気持ちだけでも、何時間か診察を遅れさせるということはあり得る。病気によっては一刻を争う症状もある。病気と戦う医者としては、患者が何の顧慮もなくできるだけ早く来診を求めるように仕向けるべきであって、それを妨げるような態度をとるべきでない。これが父の立場であった。しかしこの規約は医師会で議決したのである。どういう理由があるにもしろ、会員は会の規約を守らなくてはならぬ。こういって医師会側から迫られると、父は、では車で往診することをよそう、歩けばよい、といい出した。歩けば時間がかかるので、幾分矛盾にもなるが、父は頑固にそれを実行し始めた。
それが何月ごろであったかはよく覚えないが、やがて暑い夏が来た。午前中は宅診で、午後いっぱい近村を歩き回るのであるから、その疲労は実にはなはだしかった。過労のために、夜はしばしば眠りながらうめいている声が聞こえた。そういう時には母は寝ずに父の体を揉《も》んでいた。そこへ急病で呼びにくると、父はまた立ち上がって黙々として歩いて行った。
その夏のことである。ある村の衛生委員の家で赤痢の患者が出た。父はその場で警察署への届書を書いたが、自らそれを巡査の駐在所へ届けるには非常に回り道を歩かなくてはならなかった。それが疲労した体にはかなりつらいことであったし、また患者の家の主人が村の衛生委員であるところから、つい気をゆるめて、その届け出を主人に託した。これが非常な失敗であった。当時田舎では避病院行きということをひどく怖れていたのであるから、村の衛生委員も家族の感情に負けて届け出を躊躇し、一日ほどぐずぐずしていた。そうしてやむなく届け出る時に、届書の日付を改竄《かいざん》したのである。これが発覚のもとであった。警察でそれを問題にしたときに、郡の医師会に対する父の在来の反抗が、いろいろと不利に作用した。父はついに衛生委員とともに衛生法違犯として摘発された。区裁判所は、日付を改竄した衛生委員を無罪、父を科料五円に処した。伝染病発生の際に患家のものが隠匿をはかるのは自然の情であるから、その患家のものに届け出を託するということは、医師の手落ちと認めなくてはならない、というのであった。
この判決は父にとって非常な打撃であった。「医は仁術なり」という信念の実行のために精いっぱいの労苦に堪えて来た結果が、この処罰なのである。しかも届け書の日付の改竄というような明らかな不正を犯したものが無罪であって、毫厘《ごうり》も不正を犯さなかった自分に不正の烙印《らくいん》が押されたのである。これは父には堪えられないことであった。科料の高が少額であるというようなことは問題ではなかった。父は直ちに地方裁判所へ上訴の手続きをとった。しかし何分にも科料五円の事件なのであるから、弁護を依頼した弁護士も、同情はしてくれたが、あまり熱心になってはくれなかった。判事もそうであったかも知れない。地方裁判所の判決も前審通りであった。父の憤激はますます高まり、直ちに大阪の控訴院へ控訴した。大阪までは当時でも日帰りで行くことができたので、患者への義務をさほど怠らなくとも訴訟を続けることはできたのである。しかし弁護士は、科料五円をまぬがれるために多額の訴訟費用がかかることを気の毒がるばかりで、やはりムキになってはくれなかった。控訴院でもやはり敗訴であった。
まだ大審院というところがある。不正でないものに不正の烙印を押すことがいかにはなはだしい罪悪であるかを理解している裁判官が、日本にも一人ぐらいはいるであろう。自分の正義を主張するためには、手段のある限りをつくさなくてはならぬ。そう父は考えた。しかし困ることには、当時東京へ出るには、急行でも十三四時間はかかったのであるから、患者への義務を著しく怠ることなしには、訴訟の継続は不可能であった。それに加えて、親類たちが騒ぎだしてしきりになだめにかかった。それやこれやで大審院への上告だけはとうとう思い止まることになった。
そのころ父は実に憂鬱になっていた。正義は地を払ったのか、というような嘆きの言葉を毎日もらしていた。父が伯夷叔斉《はくいしゆくせい》の心境に非常に共鳴していたのは、そういう事情も手伝っていたかと思われる。この事件をきっかけとして、父はまた車に乗ることにした。車代も規約通りに取り始めた。車夫に言い含めて、できるだけ患家に苦痛を与えないような態度をとらせはしたが、しかしこの点においても敗北であった。
ちょうどそのころに私は中学の上級にいて、高等学校の入学試験を目の前に控え、将来の職業の問題を考えていたのである。私の家では誰もそんなことを問題にしていなかった。医者の子は当然医者になるべきであった。天保元年生まれの祖父などは、家業を捨てることは人の道にはずれることであるとさえ考えていた。しかし私は医者になりたくなかった。父の苦しみを側で見ていたためにそうなったのであるかどうかは、自分でもはっきりしないが、しかし家業を嗣《つ》ぐためにはすでに兄が医科大学まで進んでいるのであるから、私は自由に自分の道をえらびたいと思った。しかもその時私の望みであったのは、少し突飛ではあるが、バイロンのような詩人になりたいということであった。そういうことを考える機縁を与えたのは、坪内雄蔵氏の英文学史である。私はあれを読んでいろいろな感激を覚えたのであるが、しかしイギリスの多くの文人のなかから、特にバイロン、キーツ、テニスン、ロセッティなどを選び出し、その著作を東京から取り寄せたりなどしたのは、私自身の好みであった。中でもバイロンが好きで、『シーヨンの囚人』の翻訳を学校の雑誌にのせたりなどした。バイロンの詩を読みこなすことができたなどとはちょっと考えられないが、しかしバイロンを愛好する気持ちには、あるいは父の心境の影響があったかも知れない。しかし自分の志望として言い現わす場合には、さすがにバイロンのような詩人になりたいとは言わなかった。ただ私は文学をやりたいと言った。文学では食って行けないというのが当時の常識であったが、どれほど苦労しても私はそれをやってみたいという決心を、私はまず兄のところに言い送った。兄は快く賛成して、前途のことを心配するには及ばない、一人の文学者ぐらいはおれでも養って行けるから、精いっぱいやってみろ、と言ってくれた。で、次には父にその旨を申し出た。父は恐らく家業ということを考えているであろう。それに対しては強硬に職業の自由を主張しなくてはならぬ、と私は少し硬くなっていた。しかし父はきわめて簡単に、「そうか。それもよかろう。医者なんてつまらんものだ」と言った。こうして私はどこからも反対を受けずに、自分の意志によって、文学志望を決定したのである。
もっとも私は祖父の賛成を得たわけではなかった。また祖父を説得し得る自信もなかった。で、その点は父にまかせて、自分では触れなかった。父も同様であった。私が大学を卒業したころにもまだその事は祖父に伝えてなかった。やがて私の著書のことを近村の人が祖父に話しかけるというようなことも起こったが、祖父は何も理解しなかった。祖父にとっては私は医者であったのである。家業を放棄するような孫があるはずはなかったのである。しかしこの食い違いからは何一つ不都合なことは生じなかった。
しかし私の職業の選択はこの時にきまってしまったのではない。中学を出るとすぐ一高受験の目的で東京に来た私は、兄の紹介の手紙を持って魚住影雄君を訪ねた。魚住君は当時一高の三年で、校風問題を惹《ひ》き起こしたあとであったから、一高の思想的情況を非常に詳しく話してくれた。それは田舎の中学にいた私にとっては耳新しいことばかりであった。が、それのみならず魚住君は、私の志望のことについてもいろいろと忠告してくれた。私はバイロン崇拝の関係から英文学をやろうと考えていたのであったが、魚住君はそれを頭から斥《しりぞ》けた。詩人になるにしろ、学者になるにしろ、英文学などをやる必要はない。大学で必要なのは一般教養を作ることである。それには哲学をやるに限る。基礎さえしっかり作っておけば、あとはどういう方向へでも動いて行くことができる。いわんや目下の大学ではケーベル先生の右に出る人はない。とにかく一高へはいるときには、哲学志望ということを表明しておかなくてはいけない。哲学志望から文学志望へは勝手に移れるが、文学志望から哲学志望へ変わるためには、大学へはいる時に試験を受けなくてはならぬ。自分は今それで弱っているところだ、ということであった。一々もっともなので、私は忠告に従ったのである。
こういうわけで私は一高へ入学する時から哲学志望を表明していたが、しかしそれは魚住君の言葉通り一般教養のためであって、哲学を職業として選ぼうと考えたわけではなかった。入学当座はまだしきりにバイロンを読んでいたし、興味を引かれるのは主として文芸の方面であった。この方面でやがてイプセンやバーナード・ショーなどを愛読するようになるとともに、詩に代わって戯曲が目標になりだした。しかし大学を出るまでにはだいぶ哲学の方にも近づき、卒業後にはニイチェとかキェルケゴールのような詩人哲学者といわれる人々を追いかけることになったのである。それでもまだはっきりと学問に専心する覚悟はできていなかったのであるが、二十代の終わりごろから学問というものが非常におもしろくなり、探求ということに没頭できるようになった。学問を「自分の仕事」と考えるようになったのも、そのころからであると思う。父に文学志望を打ちあけてから十年ぐらいもたって、やっと職業の選択がきまったのである。
そういうふうにして私は父とまるで異なった職業を選んだのであるが、しかし職業についての態度や考え方は、おのずから父を学ぶことになった。物心がついてから満十七歳になるまでの間、「医は仁術なり」ということを日々黙々として実践している父を見ていたのであるから、その感化は無意識のうちに深く沁《し》み込んでいたのである。私は年をとるに従って父に対する尊敬の念が高まってくるのを覚える。父はその職業の本質に忠実であることを念としたのであって、職業を名利のための手段とするという気持ちは全然なかった。どの職業を選ぼうと、これ以上にとるべき態度はないはずである。私は学問の仕事を選んだときに、真理を追求するという任務に忠実であることを第一の心がけとした。これは身心ともに微力な私にとっては、過重な負担であった。だから世間とのかかわりをできるだけ少なくして、精力を節約するほかはなかった。それでもこの三十余年の間、気のすむだけ念を入れて仕事をしたと感じたことはない。私はいつもそれを父に対して恥じているのである。
第一問の「自分の仕事」という言葉を、職業の意味に解せず、自分の業績という意味にとるならば、答えはすっかり違ってくるであろう。私の場合、それは主として著書の形で示されている。従って第一問は、私の著書と世の中とのつながりをどう考えるか、ということになる。意図から言えば、私は学問上の主張をしたのであるから、それが普遍的に通用することを目ざしている。従って世の中の人々はすべて私と同じように考えるべきであると考えている。事実上わずかの賛同をしか得られなかったとしても、この要求は変わらない。もしそうでないならば、そういう説を提出する必要はないのである。では事実上の結果をどう考えるか、ときかれると、私は答えることができない。私はそれを精確には知らないし、また知ろうと努力してもいない。ただ私は、数は少なくとも、先輩友人の厚い同情と理解を受けて来た。私はそれを心から感謝し、そうしてそれ以上に多くを求めようとは思わないのである。
第二問は、この世で何を「失いたくないもの」「残しておきたいもの」と考えるか、というのであるが、この問いが平明なように見えて平明でないゆえんは、編集者が何か押しつめたもの、究極のものを答えるように要求しているからである。しかしそういう答えは不可能であると思う。たとい人が何か一つのもの、あるいは数えあげることのできるような少数のものを、この世で失いたくないものとしてあげたとしても、それはその人がそれ以外のものを失ってよいと考えている証拠ではあるまい。価値あるものは何だって失いたくはないのである。価値を認めることと失いたくないということとは、ほとんど同義である。そうして価値あるものはこの世には無限にあると言ってよい。
しかし価値あるものの間にも、価値の高下序列に従って、さまざまの相違がある。従って「失いたくない」ということの中にも、強度の別はあるであろう。従ってここまでは失っても我慢ができるが、これ以上は我慢ができないという限界があるであろう。そういう限界の上にあるものをあげることはできるではないか、といわれるかも知れない。しかし価値の問題は性質の問題である。一が他に代わることはできない。価値あるものは|それぞれ《ヽヽヽヽ》に失いたくないのである。失ったときに我慢ができるからといって、そのものが失ってよいものに転化したわけではない。従って私には、ここまでは失ってもよいという限界線などを引くことはできないのである。
この問題に関して留意すべき点は、むしろ価値に対する鈍感や不感症がのさばり出していることであろう。これは文明に対する野蛮の圧迫である。そういう傾向を利用して、価値に対する反感や、価値あるものの破壊の興味を煽《あお》るものがあるとすれば、それがどういう動機から出ているにしろ、正真正銘の「悪」として排除せられなくてはならぬ。
[#地付き](昭和二十五年十一月)
[#改ページ]
あとがき
この書に集めた二十篇の雑文のうち、ただ三篇を除いて、あとは皆昨二十五年の後半に書いたものである。またそのうちの半分は、斎藤十一君の巧みな釣り出しに引っかかったものである。
この書の題名は、第二部におさめた一文の題を取ったに過ぎない。それを選んだのは出版者佐藤君である。ところでその第二部の一文は、元来は、その副題の通りの長い題目のものであった。またそれは雑誌に発表するつもりで書かれたものでもなかった。それを中央公論の嶋中君の熱心な勧誘によって同誌に掲載することになったとき、同君の希望に従って、雑誌に向くような短い題に変えたのである。だからこの題名は、右の一文で取り扱った主題を精確に表示したものではない。そのことは副題によって示されていると思う。それくらいであるから、この題名がこの書全体の内容を表示するものでないことはもちろんである。しかしもし日本の事物の真のよさに対して眼を閉じている人が多いとすれば、そのよさを語ることは埋もれた宝について語ることになるかも知れない。そういう意味でならば、この題名は、この書の内容を表示していると言ってもよいであろう。
[#地付き](昭和二十六年四月)
この作品は昭和二十六年九月新潮社より刊行され、
昭和五十五年二月新潮文庫版が刊行された。