昭和文芸院瑣末記
和田利夫
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目 次
序 章  状況の展望
第一章  何を今さら文芸院――与謝野晶子、正宗白鳥、徳田秋声らの反発
第二章  山本有三の「文学士道弁」と文芸懇話会
第三章  人および思想の系譜――小松原英太郎と松本学
第四章  安岡正篤の国維会と松本学の日本文化連盟
第五章  文化統制の諸相(一)――芥川・志賀の見た山本悌二郎、その人
第六章  文化統制の諸相(二)――長谷川伸『雪の宿場街』の放送禁止
第七章  文化統制の諸相(三)――『源氏物語』の上演禁止物語
第八章  文芸家慰霊祭一景――水蔭に舞ひ絡みてし老孤蝶
第九章  文壇五勇士の陸軍特別大演習観戦
第一〇章 孤立国日本の一九三五、六年危機説と文化擁護の問題
第一一章 帝国美術院の改組で落花紛々
第一二章 帝院陰々として帝展転々――悶々の文部大臣
第一三章 文芸懇話会賞のいざこざ――佐藤春夫と広津和郎
第一四章 ぎりぎりの誠実――中野重治と室生犀星
第一五章 久米正雄の八つ当たりと近松秋江の老武者ぶり
第一六章 文壇無鑑査組の意欲を覗かせた『文芸懇話会』誌
第一七章 「財閥富を誇れども……」――フィランソロピーの先駆
第一八章 文化勲章の制定と帝国芸術院の成立――志賀直哉・永井荷風・島崎藤村
第一九章 詩歌懇話会と北原白秋――詩人賞わざわい「あり」や「なし」や
終 章  アート・サポートへの架橋
主要参考文献(単行本のみ)
文芸院問題・関係資料一覧
あとがき
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覚書を持参しなかったので、長くはお話し致しませぬが、私の一言申し述べたいことは、人は常に一個の特殊題目を一般化してみようと試みることができるということです。その題目が一層微細に分解されてゆけば、いよいよもってこれが可能となるのであります。問題を微小にするにつれ、その次には、行われた一層深い分析を出発点として問題を単純化しつつ、或る一般的観念に達することがますます容易となります。
[#この行2字下げ](一九三二年五月、国際連盟の知的協力国際会議第一回談話会におけるポール・ヴァレリーの発言冒頭部分より。筑摩書房『ヴァレリー全集 補巻』、佐藤正彰訳)
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序章 状況の展望
あえて数万言を費やし、これから記そうとする事柄は、一九三五年(昭和一〇年)前後における昭和日本の、文芸・文化をめぐる状況への模索である。
一九三〇年代が問われてから久しい。国際的には、ファシズムの台頭と、それに抗する民主主義防衛の局面とで対比的に把握できる時代である。スペイン戦争は、その典型だった。国際文化の面では、当然の結果として、ファシズムの文化弾圧と、それに抗した国際文化擁護の運動との関係で観ることが可能だろう。しかし、旧ソ連の粛清に伴なう文化統制もあって、状況は決して単純なものではない。
わが国の事情はどうだったか。柳条湖事件(満州事変)に端を発した戦火は、下火になった時期はあっても、盧溝橋事件で中国全土に燃えひろがり、一路、泥沼化への道を辿っていた。その間に、五・一五事件や二・二六事件があって、国内は騒然たるありさま。思想対策が国家喫緊の必要として叫ばれ、文化統制が、国民の上に、暗い影を落としていた。
歴史に空白はなく、どの時代もそれなりの意味を持つが、なかんずく、後世から見て、明らかに転換期としか評し得ない時代というものがある。否、後世を待たずとも、その時代にあれば、だれの眼にも事柄の異常性は、歴然と分るのだ。
一例を示せば、一九三七年(昭和一二年)二月、中央公論社から刊行された鎌田沢一郎著『宇垣一成』は、冒頭で述べている。
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間断なく廻転する歴史の歯車のきざみをしばらくとゞめて、現世に展開する世界の動きを現像して、一枚の絵巻物を作るとしたら、敢て後世史家を待たずとも、乱麻のごとき戦国時代に比すべき史的波瀾をまざ/\と客観し得られるであらう。(中略)
まこと日本現在の国家並に社会状勢及びその雰囲気から醸し出される政局の動向は、日本の歴史に未だ曾て視ざる異常性を帯び来つて居ることは事実である。
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非常時局にあっては、文芸・文化も、その独自性を守るのは難い。十五年戦争の開始と共に一段と厳しくなった思想対策は、プロレタリア文化運動の弾圧に、先ず、向けられた。こうして、それまで影響力の強かったプロレタリア文学が、運動としての機能を喪失すると、ブルジョア文学の名で一括されていた文学が俄かに生き返ったかに見えた。一部ジャーナリズムは、これを以て文芸復興とはやし立てたが、徒花に終るしかなかった。文化統制は、正面からだけでなく、攻めあぐねては、搦め手に回っている。
現職の内務省警保局長が、文学者に呼び掛けて、文芸院の設立をちらつかせたが、思わぬ反発にあって、文芸懇話会に規模を縮小せざるを得なかった。一方、帝国美術院にも文部省の手がのび紛乱を極めた。これらは、一九三七年の帝国芸術院の成立で、難なく解決されてしまったが、解決したのは、文学者や美術家を含め、関係当事者というよりも、非常時と呼ばれた時代そのものだった。
非常時が非常識時であるとは、里見クの敗戦直後の小説『十年』の中で、ある硬骨の明治人が、孫の結婚披露宴で述べたテーブル・スピーチ中の言葉である。これに不愉快を感じた出席者中の少壮新官僚の口真似で紹介すると、
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「近来、猫も杓子も、非常時々々々と言ふが、何が非常時か。一部に、常に非ざる行動をとる者のあることは知つてゐるが、その故を以つて今日の時勢を強ひて非常の時へ駆り立てんとするのか。以つてのほかだ。そんなのは非常時ではない、非常識時だ。……とかなんとか利いた風なことをぬかしたぢアないか。ところがだ、実情は、一部どころぢアない、全部が、即ち挙国一致で、常に非ざる行動に出づるにあらずんば、この難局は突破できやせんのだぜ」。
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小説では、二・二六事件の直前に、この場面は設定されている。世は正に非常時だった。常識では考えられない事が次々と起った。そして、戦争が常識時となった。
こういう時代の変局に際会して、わが国の文芸家も、政治に無関心でいることを許されなくなっていた。文芸院問題として出された文芸の保護と統制との問題は、文壇という狭い舞台の上におけるパフォーマンスを越えていた。好むと好まざるとにかかわらず、文芸家の変質が要請されていたのである。
このような観点に立って、昭和文学の一側面を描こうと思うのである。そのばあい、一般的には瑣事と思われるような事柄に、著者なりの、こだわりを見せるであろう。瑣末な出来事にこだわることによって、全体の状況が見えてくるよう心がけたいのである。
小さな出来事は、ただそれだけで終れば、歴史の波間に掻き消されてしまう。しかし、瑣末も積もれば、歴史を動かす大きなうねりとなる。言ってみれば、瑣末の堆積が歴史である。瑣末を粗末にすれば始末におえない。以下、その瑣末を分析し、整理することで、昭和史の、いまひとつの真実に近づこうとしている。各章が、それぞれ独立していながら、しかも相互に、有機的な関連性を持っていることに着目していただけると、ありがたい。前著『明治文芸院始末記』の続篇の気持もあって『昭和文芸院瑣末記』とした。
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第一章 何を今さら文芸院
――与謝野晶子、正宗白鳥、徳田秋声らの反発
一九三七年(昭和一二年)六月に、帝国芸術院が誕生するまで、文芸院の名で、国家による文芸の保護が、少なくとも二度、表立って問題になったことがある。
剱 一度目は、一九〇七年(明治四〇年)、時の宰相西園寺公望が催した雨声会で、西園寺の私設文芸院と噂されたのに始まる。これに刺戟されて、四年後の一九一一年(明治四四年)に、第二次桂内閣の文相小松原英太郎は内相平田東助の協力の下に、国立文芸院の瀬踏みとして、文芸委員会を設置、文芸保護の名の下に文芸統制に乗り出したが、所期の目標を達することもなく、不評に終っている。
二度目は、一九三四年(昭和九年)、斎藤内閣の警保局長松本学が、直木三十五ら一部の大衆作家に接近し、官民合同の文芸院を構想したが、純文学作家らの反発に遭い、文芸懇話会の名称の下に、曲りなりにも文芸家の動員に成功、帝国芸術院への道を掃き清めたことで知られる。
本書は、この、昭和の文芸院問題として話題となった文芸懇話会の実体を、映画、演劇、放送等の分野における文化統制を視野に入れながら、時代の背景と共に、考察しようとするものである。そのばあい、帝国芸術院への布石となった帝国美術院の改組問題は、一連の文化統制の一環として出てきているので、全体の構成を損なわぬ程度において、触れざるを得なかったことを断わっておく。
一九三四年(昭和九年)一月二十五日の東京各紙は、内務省警保局長松本学が直木三十五らの文士に諮り、文芸院創設の準備を進めているとして、次のような見出しで報じた。
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「警保局の後押しで/帝国文芸院の計画/まづ右翼大衆作家達を集結/非常時の文筆報国」(『東京朝日新聞』)
「国家への勲功は/文士にも酬いよ/帝国美術院と同格に=^=直木氏等が水平運動を起す」(『東京日日新聞』)
「官吏と文芸家/敵味方? 握手/音頭取りは松本警保局長」(『読売新聞』)
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『東朝』の記事の内容は、「思想取締りにはどうしても文芸家の奮起が必要だ」という松本警保局長と直木三十五の意見が一致し、来る二十九日に有志の会合を持つことになった、とあって、直木と松本の談話を掲げている。さしあたって、松本警保局長の談話全文を写してみる。
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直木君とこの間会つてそんな話が決りました、向ふも乗気ならこちらも非常に乗気で是非まとめてみたいと思ひます、右翼とか反動とかさういふものではない、ただ皇道精神の発揚と日本文化のは握を目指すもので、山本有三氏の様な自由主義者に参加してもらふのをみても分ります、酒井忠正伯等の日本文化連盟の一党とも提携したいと思つてゐますが行く/\は「文芸院」といつたやうなものにまで育てたい希望です
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こういう趣旨の下に、二十九日夜、日本橋の偕楽園における松本警保局長主催の宴席に集まったのは、直木三十五、山本有三、菊池寛、三上於菟吉、白井喬二、吉川英治の外に、内務省から中里図書課長、生悦住《いけずみ》事務官といった人たち。
懇談の内容は、文芸院創設を目標として月一回の会合を持ち、日本精神の作興に寄与する作品に文芸賞を与える、などだった。この文芸賞について当夜の松本学はあっさり引き受けているが、賞金の出所については後々まで問題となった。また、会の今後については、次第に会員を拡大して行くが、「左翼作家は絶対に参加させぬ」(『東朝』記事)という申し合わせもあった。これらは、後々まで、この会の性格を規定する重要な要素となるので、この際、深く記憶にとどめておきたい。
これと関連して、三日後の二月一日夜、下谷の緑風荘に、松本警保局長、香坂府知事、安岡正篤、藤原親雄らと共に、吉川英治、三上於菟吉、長田幹彦、加藤一夫、大木雄三らの作家が参集、日本精神を中心とした文化運動を起すべく協議している事実を記憶しておきたい。一連の動きが、この時期、どういうところから出てきたのか、いろいろ考えてみたいと思う。
ところで、文芸院の設立云々が新聞に報道されると、それに対する賛否の論が各方面から湧き起ってきた。また、新聞や雑誌は、これに関する意見を広く求めた。意見の求め方にもよるが、『文芸』三月号掲載の帝国文芸院設置の可否に関するアンケート結果では、積極と消極のニュアンスの違いこそあれ、回答者の大部分が文芸院の設置を望んでいるのである。すなわち、回答者十五名中、はっきり反対意見を表明したのは青野季吉ただ一人で、これに、旅行中で詳細は分らないのでという藤森成吉を加えても反対は二名。考えてみたこともないという林芙美子を除く賛成者の内訳は、佐佐木信綱、辰野隆、門外野人(匿名)、川端康成、吉江喬松、杉山平助、岡本綺堂、中村武羅夫、長谷川伸、千葉亀雄、近松秋江、矢田挿雲の十二名だった。
新聞では、一月二十七日の『読売新聞』「論壇時評」に三木清が、「帝国文芸院の計画批判」と題して論じたのを以って、最も早い反響と見ることが出来るだろう。
三木清の論点は、帝国文芸院の計画が、思想取り締まりの直接の任にある警保局の後押しで出てきたところから、それが思想善導ないしは思想統制の機関になり得るとの懸念に発したもので、ナチスの文化統制に抗議する立場の、自然の帰結といえるものだった。もちろん、三木清としても、国家が文士の社会的地位を低いまま放置してきた国状から考えれば、「年金制度とか賞金制度とかいふが如きものによつて、ほんとに勝れた文芸家が保護され、表彰されるやうになるのは、そのこととしてはまことに望ましいことである」という原則論は認めている。だが、現状からすれば、そういう試みは、御用文学の保護奨励になりかねないと憂慮する。この議論に疑問を挾む余地はない。
こういう、ある意味では、金無垢の正統性からする批判を、理性の声と見るならば、明治の文芸院問題を昨日の事のように記憶している与謝野晶子や正宗白鳥、さらには徳田秋声らの反発は、体験に根ざした感情の吐露と見ることができる。そこには、いくたの困難を克服して文学を守り通してきた者のみが知る肉声があった。
直情は与謝野晶子の身上だった。その昔、第二次桂内閣の発売禁止処分に憤って、文部大臣小松原英太郎、内務大臣平田東助をば、「英太郎東助と云ふ大臣は文学を知らずあはれなるかな」で一蹴した晶子は、松本警保局長と文士との会合にも「あはれ」を感ぜずにおれなかった。
そうして発言したのが、『東京朝日新聞』家庭欄の「文士は勲章を好むか」だった。『東朝』家庭欄は当時「女性のための批判」「ニユースから問題を拾つて」というタイトルで、各界の女性に意見を発表させていた。その一月二十九日のところに、与謝野晶子の意見が出ているのである。
満州国皇帝夫人の礼賛にはじまり、左翼学生の転向問題から中等学校の入学難問題へと感想を述べてきた晶子は、一転して文芸院問題に論点を移し、言っている。以下は、その全文である。
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警保局長と二三の小説家との私的会談に由つて、文士を国家的に優遇しよう、将来は文芸院を学士院と同様に作らうとする交渉があると新聞に報ぜられた。
その主唱者達は真面目な動機から考へられたことであらうけれども、我国の文士は勲章や大礼服の好きなフランスの芸術家とは全然気質を異にしてゐる。その上、明治以来一点の保護も政府から受けず、反対に政府から蔑視と虐待のみを蒙り、その中で現に見るやうな空前の文芸復興を建設して来たので、今更依頼主義に転向する者は一人もないであらう。(中略)
文士が国家に貢献してゐることは、一切の教科書に文章らしい文章を載せることが出来てゐるのは文士の作品を採録してゐるためであるといふ一事でも明白であり、文武の完備が国体その物であるなら、武勲の陸海軍に対して、世界に誇るべき文勲を文士が国家の保護なしに建てゝゐるのであるけれども、文士は国家からの報酬を夢にも期待してゐない。
文芸院が出来て、谷崎潤一郎さんや里見クさんが礼装でその招集に応ぜられようとは思はれない事ではないか。この相談は恐らく進展しないで消え去るであらう。
二十余年前にも一度文芸院の計画があつたが、結局は貧弱に文芸委員会が出来たに過ぎず、それもあわの様に無くなつた。
農人は土に親しみ無名の人で終る、ほんとうの文士もそれでよい。
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与謝野晶子に限らず、この世代に共通の認識としてあったのは、明治以来、わが国の文学が、国家から何らの保護も受けずに発達してきたという自負であった。
ただ、与謝野晶子のばあい、文芸院というような機関による上からの保護を、勲章や礼装という外観でカリカチュアライズしたところが面白い。国家の保護に与らぬのみか、蔑視と虐待に遇ってきた文学者の中でも、女性であることによって不当に軽視されてきたことから来る正当な観察である。文芸院が出来たとして、会員になるのは男性だろう。とすれば、女性はそのことで、さらなる差別を蒙ることになる。与謝野晶子は、文学の立場においてだけでなく、女性の立場において、文芸院構想を批判したといえる。
こういう晶子の視点は一貫していた。一例として、文功章の時の意見を挙げておこう。
文功章というのは、昭和天皇の大典のあった一九二八年(昭和三年)、大典を記念して芸術・文化の功労者を表彰しようとした案件で、結果的には文部省と賞勲局との間の行き違いから実現を見なかったが、この年の春から秋にかけて、文芸界のトピックとなった問題である。
ところで『読売新聞』はこの件に関し、同年八月、十回に分けて、文芸家をはじめ、美術家、音楽家に、だれが文功章にふさわしいか、アンケートしている。その際、回答者のほとんどが、具体的に候補者の名前を挙げている(坪内逍遙、島崎藤村が上位を占めた)のに、与謝野晶子の回答は、いかにも振っているのである。直筆の回答か口頭の回答かは知らないが、新聞掲載の全文は次のようなものだった。
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まじめな芸術家と学者の事業と未開時代の勲章の如きものとは雲泥の距離があつて、到底一致しないものです。たとへば泉鏡花、永井荷風、正宗白鳥、里見ク、佐藤春夫、北原白秋の諸家が、文功章とやらを胸にして野蛮な得意を示されようとは考へられないことです。そんな物に費すお金と労力とを以て、世の中の浮浪人に職を授けて欲しいと考へます。
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要するに、与謝野晶子にあっては、勲章は未開時代の遺物でしかなかった。したがって、文芸院というものが、勲章で文士を釣るとしたら、滑稽ものとなる。なぜならば、芸術や学問は、文明の産物にほかならなかったのだから。しかし、そういう晶子も、文学賞については認めていたようである。このことは、透谷文学賞(昭和一二年創設)の選考委員に名を列ねていることで分る。
[#この行1字下げ]注―文功章について筆者は、一九九〇年二月の『ちくま』に、「『御大典』と文功章と――『明治文芸院始末記』余滴――」を書いている。
文功章一件は、国家的栄誉について、改めて問題を提起してくれたようである。いわゆる「御大典(御大礼)」で、政財界の名士が自薦他薦の勲章騒ぎに一喜一憂した結果は、翌年の勲章疑獄(売勲事件)で歴然となった。田中義一の政友会内閣時代のことが、一九二九年(昭和四年)七月、浜口雄幸の民政党内閣になって、鉄道疑獄などと前後して露見したわけで、そこに政争の苛烈さを見るのであるが、政権担当が長くなれば自ずから腐敗せざるを得ぬ金権政治の例証にもなっている。
失笑を買ったのは尾上菊五郎の勲六等受賞だった。歌舞伎役者に勲六等は一つのニュースで、演劇界は、彼らの存在が正当に認められた証拠として喜んだが、勲六等に感激するあたりに、演劇界の社会的地位の低さを見る思いがした。このことについては武者小路実篤が書いている。
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菊五郎が勲六等をもらつて喜んだ話なぞよむと、たつた勲六等をもらつてよろこぶ心が純粋につたはつてこちらも一寸涙ぐむ、他人がほめられる場合も、その人が嫌ひな人でない限り愉快なものである。(中略)
勲六等てどんなものか知らないが、そんなものをもらつてよろこぶ処に役者の社会的位置にたいする伝統的な謙遜が見えて気の毒な気もしたのだ。文士だつたらそんなものをもらつたつてよろこぶ人は少ないだらう。せめて勲二三等でももらへば侮辱は感じないかも知れないが。
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[#地付き](二九年七月五日『国民新聞』「金のある事ない事(一)」)
おまけを一つ。勲章疑獄と菊五郎の受賞とは何の関係もないのだが、勲章疑獄が大々的に新聞に報じられたその秋のこと、尾上菊五郎が舞台に立つや、「いよおッ六代目!!」の代わりに、「いよおッ勲六等!!」と大向うから浴びせかけられた由。
ところで、与謝野晶子の「文士は勲章を好むか」が出た四日後の、二月二、三日にかけて、正宗白鳥は、同じく『東京朝日新聞』に、「文芸院について」を寄稿している。
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文芸院の創立が企てられてゐる。文壇で文芸復興の声が聞かれてゐる今日、政府から進んで文芸奨励の機関を創設されようとしてゐると聞くと、お目出たいことだらけで、無論文壇人として喜んで迎へなければならない。それに拘らず、かういふ消息を聞かされた時の私の頭は陰うつ[#「うつ」に傍点]であつた。「文芸復興」も、作家の内部に創作力がわう[#「わう」に傍点]盛でない限りは、空念仏に終るであらうが、「文芸院」も純真に文芸を尊重する心から企てられるのでなければ其効果について最初から疑ひが挿はさまれるのである。
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こう書き出す白鳥は、ナチスの文芸統制と徳川時代における水野越前守の文芸弾圧に言及し、明治になっても「国家の保護を受けたことは、今まで皆無であつた」文学者を招待して話題となった西園寺首相個人の雨声会と、文部大臣として小松原英太郎が創設した文芸委員会とを回顧、いずれも水野越前守のような頭で文学を取り扱う腹ではなかったと述べてから続けた。
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その後何十年か経つた今日、新たに「文芸院」創立の計画が発表された。その事自身は結構であるといつていゝが、気遣はれるのは内容である。純真なる文芸奨励ならいゝが官憲の意志によつて何等かの拘束を加へたがつたための思ひ付きなら、文学者に取つては有難迷惑である。保護されなくてもいゝから、せめて邪魔をしてもらひたくないといひたいやうな場合が、世間には多いのである。(中略)
世に絶対の自由はない。国家取締の任に当つてゐる者が、自分の見解に基いて、西鶴を禁止したり「源氏」の上演を禁止したりするのはやむを得ないかも知れない。しかし、禁止されても傑作は傑作である。全体、官憲の好みに投じた文学で、文学として傑出したものがあつたであらうか。「思想善導」に利用される程度の文学に、文学者が甘んじるやうだつたら、明治以来の文壇の先輩が貧窮の間に努力して築き上げたものも、退却することになる訳だ。……純真の文学魂に照して見ると、今度の「文芸院」は、昔の「雨声会」や「文芸委員会」のやうに、無邪気な姿を帯びて現れては来ない。むしろ薄気味悪く思はれるが、それは私のヒガミであらうか。
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ヒガミであろう筈はない。白鳥の観察は、松本学が取締当局の代表者のように目されていたこの時点のものとして、自然な警戒といえるだろう。文芸賞のようなものにしても、「国家を背景にして、作品の価値を極めるとなると、事が面倒になる」という白鳥にとって、文芸院の前途は悲観的で、傍観するしかないのである。
徳田秋声が『改造』三月号に書いた「如何なる文芸院ぞ」も、新聞に出た文芸院計画を読んで直後に筆を執ったものと言えるだろう。それは、単なる感想というよりも、一つの論として成り立っていた。秋声はこういうふうに書き出している。
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近頃の文芸院設立問題については、そこらに有識の人が沢山ゐるから、私などの濫りに喙を容れる限りではない。私はまた本家本元の仏蘭西のアカデミイ・フランセイズなどの組織や権能が何んな風になつてゐるかといふやうなことについても、更に智識がない。堀口氏のアポリネエルの詩の訳書にはピカソのかいた翰林院大博士の礼服を著込んだアポリネエルのカリケチユアが載つてゐて、それを見ると我々平民には少々困りものだといふ感想がおこる。日本でも何か子供だましの勲章でもくれて、礼装をしなければならないことにでもなると、これは漫画やゴシツプのお笑ひ草だらうが、今日の問題はさう大業なことでもないらしい。官憲の、しかも或る箇《ママ》人が、個《ママ》人の小説家と会合したといふだけのことで、会議の内容も知ることは出来ないが、多年苦難の多い芸術の道を、覚束なくも辿つて来た私などの心境からいへば、趣意と組織と内容の如何によつては、さういふものの一つくらゐあることは望ましくないこともないが、芸術の重要性について、官人が何の程度の理解をもつてゐるかは、頗る疑はしい。
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こういう前提の下に秋声は、以下、最初の会合に集まった人々の顔触れから、予想される文芸院がどういうものになるかを計量する。
まず、直木三十五と三上於菟吉について秋声は言う。彼等が軍人と気脈を通じてファッショ文学を提唱したことを考えると、「今度の文芸院にも何かさう言つた、芸術道からいへば不純なものがあるのではないかと、疑惑の目で見られても為方があるまい」。秋声は続けた。直木や三上がファッショ文学を鼓吹するのは勝手である。しかし「文芸院といふ以上、それは大学や学士院と同じに、政治から離れたものでなくてはならない。若しも文芸院が、時の政治的影響を受けて、本来の自由性を失ひ、或時は右傾し、或時は左傾したりして、芸術の評価が、その時々の政治の方針によつて定められるやうなことがあつたら、それこそ芸術の本質を毒するものであらう」。そう言いながらも秋声は、文芸院の計画は、まだ、そこまでは行っていまいと思う。なぜならば、「穏当な自由人」である菊池寛や、「或る種の左傾思想の要素のある」山本有三が、そこに加わっているからと言う。
次は、秋声の松本警保局長観である。会ったことがないので何とも言えないが、官人の文芸趣味などは知れたものである、でも、風教のことにたずさわっている以上は、普通の官人や代議士より増しかも知れない、と秋声は松本学を想像する。しかし「一国の文芸院として、国民の品性や道徳を高め、それによつて人間の質を向上せしめようといふやうな事だつたら、もつと腹をくゝつて遣つてもらはなければならない」。人間教育をおろそかにして思想善導しても、はなはだ頼りないものが出来上ってしまう。「たとへば姦通は無論罪悪だが、それが高い道徳性の裏附けをもつた芸術で取扱はれる場合には、それを読む目のあるほどのものは、決して堕落はしないで、反対に精神的に上昇する。その反対に、いくら貞操の正しいものや、人の好い人間を描いたところで、その芸術に通俗的な道徳標準しかなかつたら、その貞操観念や、善人是認が甚だ危険なものになつて来る」。
要するに、文芸院というからには、一部の大衆作家を中心とした徒党的なものでなく、純文学作家を押し立てたものでなくてはならないが、それにしたところで統制を目的とするのには反対だ、と言うのである。以上の結論は、「芸術家同志の結合でさへ困難な文壇に、若し官憲的統制を加ふる目論見だとすれば、恐らくそれは芸術の朗かな生長を阻害するに過ぎないであらう。寧ろ色々の意味において、今より正しい理解の下に文芸を解放することが、遙かに適切である」という言葉に尽きるであろう。
四百字詰原稿用紙にして二十枚を下らない右の評論を要約すれば、おおよそ以上のごとくになる。ここには前年(一九三三年)夏、ナチスの焚書事件などに抗議して生まれた学芸自由同盟の会長としての顔があった。また、文士がダンス・ホールに出入りしたからとて一々騒ぎ立てるお国柄への面当てもあっただろう(実際問題として、徳田秋声はその被害者だった)。
それにしても、与謝野晶子といい、正宗白鳥といい、そして徳田秋声といい、いずれも明治文人の流れを汲む作家が、文芸院設立の噂を聞き、ほとんど時を同じうして異議を申し立てたことを銘記しておきたいのである。
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第二章 山本有三の「文学士道弁」と文芸懇話会
文芸院の噂は、発起人の異色な取り合わせなどから、新聞匿名欄のゴシップ種にされた。当時、『読売新聞』には「壁評論」、『東京朝日新聞』(今の『朝日』)には「豆戦艦」「赤外線」、『東京日日新聞』(今の『毎日』)には「蝸牛の視角」、『中外商業新報』(今の『日経』)には「学芸サロン」、『都新聞』(今の『東京』)には現在も活躍している「大波小波」があって、辛辣犀利な寸言で気焔を吐いていた。それらは、時をへだてた今日読んでみても、なかなかに面白い。
匿名批評がもてはやされた時代というのは、それだけ言論が抑圧されていた訳で、それは不幸な時代の象徴以外の何物でもないといえる。現在、概して匿名批評がつまらないと言われる所以は、匿名でなくても、だれでも自由に発言できる時代に生きているからではないか、といった匿名批評考はお預けにして、『東京日日』「蝸牛の視角」の標的にされた山本有三について述べる。
では、なぜ、山本有三が批判の標的にさらされたのか。陸軍の少壮軍人と会合を持ったりした直木三十五や三上於菟吉、白井喬二らの大衆作家が、警保局長と会合を持ったからとて、今さら騒ぎ立てるほどの事もない。だが山本有三は、徳田秋声も「或る種の左傾思想の要素のある」と見ていたことで分るように、いわゆる同伴者作家だったのである。その山本有三が警保局長の招きに応じたとなれば、何やら得体の知れない文芸院計画を胡散臭く思っていた筆者の、格好の餌食になるのは目に見えていた。匿名筆者は、いわば物言えぬ読者の代弁者であるゆえ、これによって溜飲を下げる者もあったろう。
一九三四年(昭和九年)一月二十八日の「蝸牛の視角」(第三者生)は、翌日に予定された松本警保局長と一部文士との会合を前に、「主人側には今松陰安岡正篤なぞもまじると言はれてゐるが、さて、めいめいどんな気持で列席するのか? この非常時に今更芸術至上主義的な文芸院でもあるまい」「まづい支那料理で老酒を飲んで『今晩は顔つなぎ、いづれ近日』それで立ち消えになつてしまふのが落ちかな」と、先ず軽く揶揄した。
次いで三十日の新聞に二十九日の会合の様子が伝えられると、三十一日の「蝸牛の視角」(R・K)は、席上における三上於菟吉の発言――作品は劣っていても国家的に見て良いものに文学賞を与えたい、委員に自由主義者が多いと困る――を問題にした。これで判るように、「蝸牛の視角」筆者の視角は、常に同じ方向に向けられていた。
そして、二月三日の同欄に、山本有三が名ざしで非難される。「文学士道論」(疋頓々)がそれで、その匿名筆者は、先日の会合に山本有三の名前まで見えたのはどうしたことかと述べ、こう続けたのである。「文士といふ限りはやつぱり『士』で、だから『士道』とか『士気』とかは矜持してゐて貰ひたい。何かといへば『当局』と懇談する癖がつき初めたが、一体どつちが招いてどつちが伺候するのか? 用があつたらやつといでといふ位の格式が『文壇』の方にあつて、初めて『文学』があり得るのだと思ふのだが」と。
このあと、『キング』三月号で完結した山本有三の『不惜身命』に対し、「蝸牛の視角」(鴫野崩)は、この作品を「大胆不敵の猪突猛進主義者が、突然転向して身命を惜しむ自重主義者になる過程を描いたもの」と評し、「『波』『風』とリベラリズムの階段を昇つてゆく途中、『女の一生』で大嵐に逢ひ、最近は例の『文芸院』設立計画に参加してゐる山本氏は、人間として、作家として、果して『不惜身命』なりや否や?」と問いかけた。しかし有三は沈黙を守った。
そうこうしているうち、入院間もない直木三十五の危篤が伝えられ、二月二十四日の死という思わぬ事態を見、文壇の一角はすくなからざる衝撃を受けた。といっても、永井荷風などは、そんな文士がいたのかといった風で、二月二十六日の日記には、「灯刻」尾張町で食事し「喫茶店きゆるぺる」を通りかかった折の事として、「葵山人在り。直木某告別式に赴きたる帰途なりと云ふ」「須臾にして神代帚葉氏来る。氏も亦直木某告別式に赴きしと云ふ」(『荷風全集』)とあって、ほとんど黙殺の体。山本有三が直木三十五と、いつ、どのようにして親しくなったのかは知らない。ここでは二月二十七日の『読売』に、「直木君の最後」を寄稿して追悼したことだけを記しておく。
そんなこんなの騒ぎが静まった頃、またもや「疋頓々」は三月三日の「蝸牛の視角」で有三を挑発した。題して「文芸院顔触れの説」。その中にこうあった。
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「新潮」で、杉山平助が帝国文芸院の会員十三名を任命してゐる。藤村、寛、白鳥、逍遙、有三、直哉、秋声、潤一郎、露伴、荷風、亀雄、如是閑、鏡花、だがこの中で喜んでお受けするのは有三と鏡花くらゐなものだらう。潤一郎は不敵な男だし、白鳥は曲り屋だし、逍遙は頑固者だし、如是閑は案外素直に出るかも知れないが、秋声は一理屈こねるだらう。現に「改造」でこねてゐる。これはやつぱり人選を代へんことには円滑に行くまい。
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これで堪忍袋の緒は切られた。有三は「疋頓々」の「文学士道論」に対して、「文学士道弁」で反論するのである(『東京日日』三月六、七日)。有三は書いた。
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これを読むと論者は竹林の七賢あたりを理想人物としてゐるらしい。招かれても出て行かないことを大変偉いことのやうに考へてゐるやうだ。
竹林の七賢が出た時代なら或は竹藪の中に引込んでゐて、酒をあふつたり、琴を弾じてゐたのでも済むかもしれない。しかし今は時代が違ふ。人によつては今日でも、清澄高邁のやうに心得てる者もあるやうだが、少くとも僕はそんないぢけた考へは持ちたくない。当局者が懇談したいといふのであつたら僕は喜んで出て行く。そして自分の所信を忌憚なく述べる。それがむしろ現代の文士道だと思つてゐる。役人と飯を食ふのがなぜいけないのだ。論者は藪の中に引込んでゐて蚊に食はれることがそんなに有難いことだと思つてゐるのか。
[#地付き](三月六日の文中)
先方は平生権力を振つてゐるのだから、こんな時にわざと欠席する方が張りがあつていゝなぞと考へるのはおよそ小つぽけな量見だ。いや、寧ろ卑怯だと思ふ。招かれても家に引込んでゐて、何の意見も述べないことが果して士道にかなつてゐるだらうか。高邁な精神といへるだらうか。蔭では不平を列べてゐる癖に、当事者の前に出てそれが述べられないやうな人間こそ最も士道に反するものといふべきではないか。(中略)問題は招宴に臨んだことではなくつて、その席において山本は何を語り、如何なる態度を取つたかでなくつてはならない。
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[#地付き](三月七日の文中)
このあと、三月十七日の同欄に「藪を突くのは誰だ」(疋頓々)が出て、山本さん、藪を突けば蛇が出るよ、と凄んでみせたが、もはや紹介するまでもないだろう。
問題は、やはり、警保局長との席で有三が何を語り、いかなる態度を取ったかにかかわる。彼は権門におもねり、欣然として幕下に馳せ参じたのだろうか。小説『不惜身命』の石谷十蔵は、将軍に取り入ろうなど夢にも考えてみなかった。十蔵には力が有り余っていただけだった。して、有三には、検閲問題があっただけだった。
話は飛ぶが、上司小剣は、徳田秋声を中心にした親睦雑誌『あらくれ』の一九三五年(昭和一〇年)一月号に、「裏切者ではない」という一文を書いて山本有三に与えている。
いろいろ取り沙汰された文芸院が、文芸懇話会という名称で発足した事情については未だ触れていないが、ある日の文芸懇話会の席上での話。中里図書課長を前にして山本有三と検閲問題で話し合っていた時、小剣が自分の考えを述べたところ、山本有三から、「仲間からこんな裏切者が出ちや困る」と笑われてしまったというのである。そこで小剣は、その時の自分の考えを述べて、裏切り者でない所以を説明しようとして言った。
上司小剣によれば、当局側は「国家の保安の上から見た防衛として、毒瓦斯を禦ぐマスクを一般国民の上にかけやう」としているのであるから、「われわれは、これを冷然、超然として見てゐたらよいではないか。さうして、これが副用物《ママ》ともいふべき物質上の損害――事実上の罰金――を無くすること、若しくは軽減することを工夫するのが最も現在の時世にふさはしい行動ではあるまいか」となるのである。小剣は、自分に対する誤解を晴らそうとしたのだろう。ところが、弁解は誤解を増幅させることにしかならない。
山本有三は、翌二月号の『あらくれ』に、「上司小|剱《ママ》氏に――検閲問題について――」を書いて反論した。有三は小剣に向かい、かつて一緒にこの問題で行動したことのある人の言葉ではないと述べ、次のように続けた。
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さて問題の検閲制度改正の件ですが、これは私が十数年前から筆に口に公にしてゐるところで、この点あなたと御意見が違ふことになつたのは甚だ遺憾に堪へません。一体私が懇話会に出席する気になつたのも、第一はこの検閲問題があるからであつて、警保局長ならこの問題を論ずるのに最も適当な人物だと思つたからです。懇話会といふと世間ではすぐ文芸院設立なぞに持つて行きますが、私は美術院の二の舞のやうな文芸院なら、却つて起さない方がいゝのだと思つてゐます。またさういふものを政府が真面目に起さうといふのなら総理大臣か文部大臣から話があるべきであつて、まづ警保局長の招待なら警保関係程度のことを論議する方がむしろ適切のやうに考へるのであります。それで第一回の会合の時私はかなり突込んでこの問題を論じたのですが、これは警保局に取つては一番いやな問題のせいか、その後は兎角これがそらされる形になつてあまり問題に上つて来なかつたところ、この間の会合の時はいゝ工合にこれが話題になつたので、私はこゝぞとばかり突撃したわけなのです。(中略)
毒瓦斯をまかれたら、国家として国民にマスクをかぶせることは時宜に適つた処置だと思ひます。しかし、一番大事なことはそのまかれたものが、本当の毒瓦斯か、否かといふことです。毒瓦斯でも何でもないのに、マスクをかぶせられたら、国民はこんな迷惑なことはないでせう。
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直情といおうか律義といおうか、「まちがつたこと、曲がつたことは一度もしたことがない」という自負に貫ぬかれた『真実一路』の義平を思わせるような言葉は、言葉として生きている。
ここには、一九二〇年(大正九年)、菊池寛や長田秀雄らと劇作家協会を作ったあと、一九二六年(大正一五年)一月、小説家協会と合併させることで文芸家協会を成立させてからこのかた、著作権法や検閲制度の事で、内務省と何度も渡り合い、文芸家の地位向上に努めてきた山本有三の、運動に対する自負の念が滲み出ている。今日、山本有三を、小説家、劇作家として評価し、戦後の国語表記の問題で批評する人があっても、戦前の検閲制度改正問題で苦闘した一面を評価する人がいないのを残念に思う。
目ぼしいところだけでも振り返ってみよう。
古いところでは、創立したばかりの文芸家協会の幹事として、一九二六年七月、有三は、菊池寛や加能作次郎に出版社側の代表と共に浜口内務大臣に発売禁止問題に関する要望書を手渡している。また、翌二七年(昭和二年)九月には、検閲制度改正期成同盟を作り、以後、幹事として菊池寛らと共に、運動の一翼を担っている。こういう事を通じて、内務省の役人とも顔見知りとなることが、権力への擦り寄りのように思われるとしたら、それは皮相な観察でしかないだろう。
上司小剣とのことで言えば、一九三一年(昭和六年)四月二十三日、検閲制度と演劇取り締りの件で、内務大臣官邸で開会された懇談会への出席がある。この時の文芸家協会側の出席者は、山本有三、岸田国士、上司小剣、金子洋文、宮島新三郎、中村吉蔵に、専門家の榛村専一と協会書記長林田英雄。他に雑誌社の代表や興業者の代表も参加した。また、衆議院議員側から犬養健ほか五名、内務省側からは、大臣、次官、警保局長、図書課長等が出席している。
こういう経緯からも分るように、松本警保局長の招待を、懸案の検閲問題について意見を交換できる絶好の機会と思ったからこそ、有三は受けたのである。分けの分からぬ文芸院などは、彼にとって、二の次、三の次の関心事でしかなかった。そのことは、当初の文芸院計画が矮小化されて出来た文芸懇話会について見ても、比較的熱心だったと思われたのは、松本学が警保局長に在任していた当時においてであって、以後は次第に関心の度を失って行ったようである。
文芸院、文芸院と、ことごとに批評の対象にさらされた文芸家の新組織が、文芸懇話会の名称で正式に発会したのは、一九三四年(昭和九年)三月二十九日夜のことだった。会の推進力に数えられていた直木三十五すでに亡く、忌明けを控えての会合においてだった。
蛇足ながら瑣事にこだわって言っておけば、従来、各種の文学事典や年表その他の記述中、文芸懇話会の成立を管見では『日本文芸家協会五十年史』付録「日誌」を除き、三四年一月としているのは一体どうしたことか。当時の資料に当ってみたが、すくなくとも三月二十九日までの間に、文芸懇話会という名称は現われていないのである。文芸懇話会について署名入りで書かれたものとしては、三四年四月三日の『読売新聞』に島崎藤村が寄せた「文芸懇話会について」あたりを以て、最も早い時期のものと言えそうである。冒頭で藤村は、「文芸懇話会といふものが生れた。それに就いての意見を読売記者から求められたので、わたしも出席者の一人であるところから自分一個の感じたまゝをすこしこゝに書きつけて見る」と書いていて、これが単なる談話でないことは明らかなのだが、この藤村の一文は、これまでの全集に収録されていないことも、ついでながら記しておく。
ところで三月二十九日夜の出席者は、島崎藤村、徳田秋声、近松秋江、広津和郎、岸田国士、豊島与志雄、川端康成、加藤武雄、中村武羅夫、吉川英治、白井喬二、三上於菟吉、山本有三の十三文士に、内務省から松本警保局長が出席したのは音頭取りとしては当然で、他に中里図書課長、文部省から伊東学生部長までが顔を列ねている。
当夜の模様は、島崎藤村が書いているところによれば、「あの発会は快活な談笑の間に終始し、隔てのない意見の交換と数名の会員を加へる相談とにとゞまり、取りたてゝこゝに報道するほどのことも持たない」(前記「文芸懇話会について」)といった会合だった。という部分だけを取り上げれば、藤村がいかにも楽観的の印象を与えてしまうが、全体の文脈に即していえば、藤村の真意は、文芸が自由な発達に任せられるべきこと、懇話会で文芸院が問題が出てもアカデミックな性質のものにしたくはないこと、懇話会をして著作者の位置を高めるものにしたいことなどにあった。藤村の表現が穏和なため、誤解されざるよう付け加えておく。
予想された政府主導の文芸院が、文芸懇話会という名称で誕生したということは、意図された文芸統制を牽制することにもなった。このことでは徳田秋声の発言などが効果的だったらしく、広津和郎は、その場の印象を、何度か文章にしている。広津和郎によると、松本警保局長が、日本の政府は文学に対し冷淡に過ぎたが、この私設文芸院を基礎に文学を保護しなければならぬと思っていると挨拶したところ、真向いに坐っていた徳田秋声が、「『日本の文学は庶民の間から生れ、今まで政府の保護など受けずに育って来ましたので、今更政府から保護されるなんていわれても、われわれには一寸信用できませんね。それに今の多事多端で忙しい政府として、文学など保護する暇があろうとは思われませんよ。われわれとしては、このままほって置いて貰いたいと思いますね』」と、間髪を入れず発言し、「松本警保局長の機先を制して、その方向を変えさせた」というのである(一九六九年四月、講談社『続年月のあしおと』)。また、「この会合に『文芸院』という名をつけることにも徳田さんは反対した。これは徳田さんばかりでなく、純文学派といわれる連中は皆反対した」(同上)とも書いている。
そういう徳田秋声が、山本有三の態度を一番立派だと語っているのである。三四年(昭和九年)四月二十日、二十一日、そして中一日おいて二十三日と、『読売新聞』に分載された勝本清一郎との対談がそれである。
聞き役が勝本清一郎だったことによって、これには、かなりの資料価値を持たせていいと思う。徳田秋声と勝本清一郎とが対談し、それを第三者がまとめるというのでなく、直接の聞き役が原稿にしているからでもあるが、それ以上に、事柄の本質を洞察した上で、それを正しく伝えることにおいて、秋声と浅からぬ関係にあった勝本清一郎が適任であったという意味である。
小説『仮装人物』(三八年刊)を書く前の秋声が、その作品で、かなり重要な位置を占める年少の友人――恋敵と呼んでもいい――に対して、旧知とはいえ、どういう感情を抱いていたかと想像してみても、あながち覗き趣味とのみは言えないだろう。時は経っていた。とはいえ、二人共、何のこだわりも感じなかったわけではなかろう。一九二九年九月、日本を出国し、三三年末ドイツから帰国したばかりの清一郎の傍には、青い目の夫人が寄り添っていて、山田順子との事は過去の事になっていた。見方によっては、二人は共通の被害者として、互いに傷をなめあう間柄になっていた。「君が向ふへ出掛けたあとで、僕は一時ペチヤンコに困つてしまつてゐた時があつたんだよ」。秋声は弱みをさらけ出した。そういう苦悩の果てに湧いてきた創作意欲が、一段と澄みきったところに結晶したのが『仮装人物』だったと言えるだろう。一方、勝本清一郎に即していえば、明確な形はとらなかったにしろ、転向と呼んで差し支えのないような変貌があり、やっぱり時は、解決すべきものを解決に持ち込んでいたと言える。
勝本清一郎は、明治・大正・昭和と、文壇の現役で通してきた秋声の一面を、敬愛の念で伝えている。
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「杉山平助君が最近の徳田秋声論の中で、先生が学芸自由同盟の幹事長で居られることに言及して、もし将来日本にフアツシヨ文学同盟といつたものが大きな勢力を得て先生に椅子でも提供したとしたら、それでもやつぱり先生には似合ひさうだと言つてゐるんですが、先生御自身としてはどうお考へですか?」
すると先生はちよつと色をなした形で、「僕はフアツシヨ文学などには……」とすぐいはれた。先生はフアツシヨ文学――といつて悪ければ、軍人やお役人と妥協しようとする、あまり文学者的でない文学者に対して、相当激しい軽蔑感をもつて居られるらしい。先生がとにかく曾ての自由民権思潮の一端に縁故を持つて居られたことは、前にお聴きした通りだ。一体先生の腹の据わりは蛇のやうに陰性のものなのだが、しかもそれが決して無方向ではないのだ。文芸院問題のその後の経過についても、こんな風にいはれた。
「どうも若いお役人は、文学を分つてくれるよりもお役人としての仕事にしようとしてゐるだけでね。しかし山本有三君の態度は一番立派なんですよ」。
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山本有三の名前が出てくるのは、たった一回、ここだけである。一体、山本有三がどうしたという説明もない。しかし、その世評にもかかわらず、山本有三が役人に向って、言うべき事を言っていた様子が察しられる。文芸懇話会の席上でも、山本有三の関心は検閲制度に向けられ、それで譲らなかったのだろう。「招かれても家に引込んでゐて、何の意見も述べないことが果して士道にかなつてゐるだらうか」と書いた山本有三を、見るべき人は見ていたのである。
話は飛ぶが、一九四〇年(昭和一五年)といえば、紀元は二千六百年で、日本国中が沸き立っていた時である。その年の六月、山本有三は、「ペンを折る」の一文を草して、『主婦之友』に連載中の『新篇路傍の石』を中断した。内務省の検閲官から、内容が時局にふさわしからずと判定されたためである。
そういう物議をかもした文芸院問題だった。では、その黒幕とも音頭取りともなった松本学という警保局長は、どのような成案があって、こういう企てを起したのか。以下しばらく、松本学の周辺を調べておこう。
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第三章 人および思想の系譜
――小松原英太郎と松本学
小松原英太郎は第二次桂内閣(一九〇八年七月〜一九一一年八月)の文部大臣だった。この内閣には内務大臣に平田東助がいて、小松原英太郎は彼と連携して思想対策に腐心した。青年の思想悪化を防ぐため、小説改良を思い付き、文芸院の餌を投げたが文芸家に見向きもされず、文芸委員会を作った事情については、拙著『明治文芸院始末記』に書いた。この内閣には海軍大臣に斎藤実がいて、西園寺公望の雨声会に顔を出していた。
松本学は斎藤実の内閣(一九三二年五月〜一九三四年七月)の警保局長で、五・一五事件以後ますます険悪となった思想対策に腐心していた。そうして思い付いたのが文芸院の計画だったが、これが不評で文芸懇話会となった経緯は前章で見た通り。ある日の文芸懇話会で文部省の某局長から会のことを尋ねられた松本が、「『実はね、前に教育統制、宗教統制をやった。そこで次ぎに文芸統制をしようというので、斎藤総理に話すと、総理も賛成されたので、それに乗り出したわけだ……』」という言葉を、その場に居合わせた広津和郎は聞いている(『続年月のあしおと』)。
小松原英太郎と松本学、この二人に共通するものは何だったか。また、関係ありとすれば、いかなる関係があったか。以下、そのことを探ってみよう。
結論から先に言えば、この二人の間には浅からぬ関係があった。まず、二人とも、岡山県を郷里としていた。今日でも同郷の誼などと言うが、明治時代における郷党意識は、今日とは比べものにならないだろう。そういうことから、東大に入学した松本学の身元保証人を小松原英太郎は引き受けている。これには、松本学の祖父が小松原英太郎と親しかったということがある。そういう関係から、学生時代の松本学は、個人的にも小松原英太郎を何かにつけ訪ね、雑談の端々からも影響を受けることが多かった。郷里の大先輩の果たそうとして果たしきれなかった文芸院設立の夢を、松本学が実現しようとした志は分かるような気がする。
それにしても、文部大臣が文芸院を作るというのなら分かりがいい。しかし、警保局長が文芸院とはどういうことなのか。だれもが文芸統制のことを考えるのは自然ではなかったか。今日の自治省、建設省、厚生省、労働省、国家公安委員会の仕事を一手に掌握していた内務省と言えば、その権限の大きさの想像はつく。では、その内務省で幅を利かせていた警保局とは何をするところだったのか、一応の知識を得ておこう。これについて、伊藤隆監修・百瀬孝著『事典 昭和戦前期の日本――制度と実態』(一九九〇年二月、吉川弘文館)に当たってみたら次のように説明されていた。
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内務大臣が警察行政を掌握し、警視総監・府県知事を監督するが、実質的には警保局が警察業務全般を握り、全国の警察部を人事・法令の立案の面で完全に統制した(明治三一年勅令第二五三号内務省官制)。
警保局長は、大正時代まで高等警察が重視されていた頃、内閣総理大臣や内務大臣の片腕あるいは耳目となって情報を収集し、それにもとづく政治的判断を下し、警察権力を使って時の政権に奉仕した。それ以後もその地位は時の政権に密着し、他の官吏と異なり自由任用の官として政変毎に異動したため、昭和期の平均在任期間は一年にすぎなかった。
警保局自体は、捜査権や執行権を持つ警察そのものではなく、警保局の官吏は局長のほか書記官・事務官・属が大部分であり、保安課の警務官・同補を除いては、警察官としての権限を持たない行政官であった。
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では、松本学とは一体どういう人物だったのか。このへんで、ひとまず、松本学の経歴を知っておく必要があるだろう。参考までに、内務省警保局長になる頃までの略年譜を作ってみた。
松本学  略年譜
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一八八六年(明治一九年) 十一月二十日、岡山市大字東中山下一一六番地に生まれる。
一八九三年(明治二六年) 四月、岡山県師範学校付属小学校尋常科第一学年に入学。
一八九九年(明治三二年) 三月、同校高等科第二学年終了。四月、岡山県私立関西中学校へ入学。
一九〇四年(明治三七年) 三月、私立関西中学校卒業。在学中は第二、三、四、五年次と組長を命じられ特待生。岡山県知事より表彰され『言海』を授与されたこともある。九月、第六高等学校入学。第一、二年次級長。二年次特待生。
一九〇七年(明治四〇年) 七月、第六高等学校卒業。九月、東京帝国大学法科大学政治学科入学。
一九一一年(明治四四年) 七月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。同期に石坂泰三、河合良成、正力松太郎、五島慶太らがいた。文官試験合格。十一月、愛知県試補(高等官待遇)。年俸五五〇円。
一九一三年(大正二年) 秋田県警視。
一九一五年(大正四年) 静岡県警視。保安課長。
一九一六年(大正五年) 鹿児島県理事官。勧業課長。
一九一八年(大正七年) 警察講習所(警察大学校)教授。経済および社会問題と衛生行政法を担当。
一九二〇年(大正九年) 内務省道路課長を経て港湾課長。『経済及社会問題』(清水書店)刊行。
一九二三年(大正一二年) 三月、港湾課長在任中、約一年、欧米に出張。帰国後、河川課長。
一九二五年(大正一四年) 九月、内務省神社局長(勅任官)。
一九二六年(大正一五年) 九月、静岡県知事。時に満三十九歳。反政友会系と目される。
一九二七年(昭和二年) 五月、鹿児島県知事となったが、田中政友会内閣の内務大臣鈴木喜三郎によって解職される。在任八か月。
一九二八年(昭和三年) 上京、浪人生活に入る。民政党からの出馬を促がされたが出ず。同郷の先輩宇垣一成と親交。
一九二九年(昭和四年) 七月、浜口内閣の成立と共に復職して福岡県知事となる。内務大臣は安達謙蔵。
一九三一年(昭和六年) 六月、内務省社会局長。
一九三二年(昭和七年) 五月、斎藤内閣の成立で警保局長となる。内務大臣は山本達雄。
一九三四年(昭和九年) 七月、斎藤内閣の総辞職に伴い警保局長を辞任。同年十一月、貴族院議員(勅選)。「従四位勲三等松本学 貴族院令第一条第四号ニ依リ貴族院議員ニ任ス 昭和九年十一月二十七日 内閣総理大臣従二位勲一等功三級岡田啓介」。
以後、財団法人日本文化中央連盟の理事を務める傍ら各種の団体に関係する。雑誌『邦人一如』等に寄稿。戦時下の著書に『文化と政治』(一九三九年、刀江書院)、『世界新秩序の文化的建設』(一九四一年、同上)等がある。
戦後は、国際港湾協会の設立に尽力したほか、自転車振興会の会長として競輪を育成。また、社団法人世界貿易センター会長にも就く。
一九七四年(昭和四九年)三月二十七日没。
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[#この行1字下げ]注―なお、占領軍に提出した追放(パージ)関係の申告書にみる出生日は明治一九年十二月二十六日となっている。また、同申告書には身長一・七メートル、体重六二・六キロの記載もあった。
以上の略年譜作成にあたっては、国立国会図書館憲政資料室『松本学文書』の諸資料、ならびに内政史研究会編『松本学氏談話速記録』などを参考にした。以下、断りのないかぎり、前者を『松本学文書』、後者を『談話速記録』として資料のありかを示す。『談話速記録』は内政史研究会の会員が、一九六七年(昭和四二年)十月から同年十二月の間、全七回にわたって、松本学に役人生活の実話を聞いて記録したものである。上下二冊のタイプ印刷で仮綴じ。発行日、定価などの記載はない。
さて、こうなると、小松原英太郎と松本学との関係を事実に即して証明しなければならない。このことについては松本学自身が語っている。内政史研究会の会員升味準之輔が、就職の時、同郷の先輩に相談したりしたことはなかったか、という質問に答えて言っているのである。
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ええ、そうでしたね。ぼくは、実は岡山県の関西中学というある意味において天下に有名な私立学校を卒業したのです。それから岡山の第六高等学校を出て、東京帝国大学へ来たわけですね。
それで大学にいる時分に、ちょっとした関係があって、小松原英太郎といって文部大臣をされた人、ぼくの故郷の大先輩、ぼくの祖父とちょっと知合いであるという関係から、大学の学生時分にずっと四年間保証人になって貰ったのです。そんなことも多少影響しているのです。文部大臣でおられる時分なぞも、官舎に遊びに行って、それで奥さんにお汁粉をご馳走になったり、正月に行ってはお雑煮なんかをご馳走になったりしてよく遊びに行っておったものです。そんなような関係がひとつには役人になろうというような気持にしたのでしょうね。
有松英義という方がこれがやっぱり内務省の大先輩で警保局長をやめられた年にぼくがちょうど大学を卒業しておるのです。そんな関係で有松さんのいろいろ恩顧も受けましたし、そういうような関係だものだから内務省にはいることを熱望したのです。
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[#地付き](『談話速記録』)
右に出てくる有松英義(一八六三〜一九二七)についていえば、彼もまた岡山県の出身で、小松原英太郎が文士招待会を開いていた当時、平田内務大臣の下で警保局長を務めていた。後に貴族院議員に勅選され、枢密顧問官になっている。小松原没後に刊行された『小松原英太郎君事略』は有松英義の編集に成るものである。この有松が、青年の思想悪化を防ぐため、文芸対策に苦心していたことは、職掌柄として頷けるが、その相談相手に巌谷小波がなっていたことなどは、一般には察知できないことだった。有松英義と巌谷小波とは独逸協会中学の同級だったのである。これらの事については『明治文芸院始末記』に書いているので、ここでは省略する。
要するに松本学は、同郷の先輩ということで、学生時代から、現職の文部大臣や警保局長の近くにいたのである。小松原英太郎についていえば、その時は文部大臣だったが、県知事や警保局長の経験もあって、いわば内務畑を歩いてきたのだった。このような環境にいれば、よほどのヘソ曲りでないかぎり、先輩の歩いてきた道を歩くのが無難といえるだろう。彼らの所で話されるのは、故郷の噂話ばかりではなかった。今どんな小説が読まれているかとか、社会主義についてどう思うかとか、彼らの側からすれば、隔意のない学生の意見が聞けた。文芸院の話題も出たであろう。彼らの一声によって、当代の小説家が欣然としてやってくる。これが権力というものか。青年松本がそう感じたとして不思議はない。いずれにしても、小松原、有松、松本と岡山産の三本松が、揃いも揃って文芸対策に乗り出したことを確認しておきたいのである。
それにしても前引『談話速記録』で、どこまで真実が語られたか、ということがある。一般に、後世の回想とか談話に、どのくらい信用を置いていいかの問題である。自伝・自分史にしてもそうだが、無意識に過去が美化されることはないか。客観的に書いたつもりでも、表現の適不適ということもある。また、だれでも触れたくない部分をもっているだろう。そのへんを、どう見るかである。傍証となるようなものがあれば……そう思って探したら『日誌』が見付かった。岡山仁科照文堂製十行二十四字詰の和紙原稿用紙に毛筆でしたためられた『日誌』は、飛び飛びになってはいるが、学生時代の松本学を知るのに絶好の手がかりを与えていてくれる。もちろん未刊である。以下、判読しえた小松原関係の部分を摘記してみよう。句読点は適当に判断して付けてみた。
一九〇九年(明治四二年)
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「午後一時頃白根が来て二人一緒に小松原へ行く。一号室で待つてゐると令夫人が出て来られ話す。(中略)小松原に面会して大学の様子を語り四時までをつて辞し……」(二月二十八日)
高商(現在の一橋大)問題に触れたあと、「学校騒動は徳川時代の御家騒動の如く頻繁なり。小松原文相の苦衷察するに余りあり」(五月十七日)
「朝、小松原へ暇乞に行く。主人は大学卒業式の為不在。夫人は今外出せんとせられをり 玄関にて挨拶して帰る」(七月十日) 注―夏休みで帰郷の暇乞い。
「秋来の雨晴れて一天拭へるが如し。九時家を出で小松原へ行く。松茸を国より送りし故なり」(十月二十日)
「午後暇乞に小松原へ行く。大臣も夫人も不在」(十二月十八日)
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一九一〇年(明治四三年)
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「四時頃小松原へ行く。干海老のお土産を渡す。二階のくらしの間へ通され夫人と語り、すゝめられるまゝに晩餐をいたゞく。主人夫人令息などと共にす。昨日つかれしとかにて雑煮しるこを馳走さる。岡山の話など出て面白し。後、夫人令息召使などと一緒にカルタ家族合などして遊び、十時半辞し帰る」(一月十五日)
「昼頃岩永がやつて来て白根を訪ひ将来の画策を談じようと云ふ。吾人政界に入るものは大勢を予見せねばならぬ。将来誰が総理大臣になるか、誰を親分にすべきか、余は小松原氏によつて居るから三角同盟を指導者となすべきは当然である」(三月十九日)
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なお、若干のコメントを付け加えておけば、小松原夫人も岡山県の人。そのため、主人不在でも松本らとの話は合った。また、将来の進路を語って「三角同盟」とあるのは、小松原英太郎・平田東助・有松英義の三角とも考えられるが、もうすこし面積の大きい山県有朋(または桂太郎)・平田東助・小松原英太郎の三角を意味すると考えたが、いかがなものだろう。
それにしても、出世するような人は、若い時の心掛けからして違うものだと感心させられる。それが『日誌』を読んでの正直な感想である。でも、太宰治だったら、やはり、こう言っただろう。――選ばれてあることの「恍惚」はあっても「不安」のない人生とは一体何だったのか、と。
松本学が生涯で最も得意だったのは、おそらく警保局長の時代だったろう。この時代に彼は本領を発揮した。五・一五事件以後の思想善導に当たって、何かと小うるさい文芸家を文芸院の幻想で、土俵の上に引きずり出すことができたからである。この時かれは、同郷の大先輩でもあり、学生時代の保証人だった小松原文部大臣に倣ったつもりだろうが、一九三四(昭和九年)年が一九一一年でなかったと同様、松本学は小松原英太郎ではなかった。ルイ・ボナパルトがナポレオン・ボナパルトの戯画だったのに、それは、上っ面だけみれば、いかにも似ている。文芸懇話会は文芸委員会の再版でしかなかった。ごていねいにも、増補改訂と銘打ったところの。
社会主義が全世界的に崩壊した今日、マルクスを持ち出すのも気がひけるが、「二度目は茶番」とは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』の冒頭に出てくる言葉である。すべて世界史的な事件や大人物は、いわば二度あらわれるものだ、とヘーゲルが言ったのに付け加えたのだった。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として、と。しかし、悲劇は何らかの意味で喜劇の要素を含み、喜劇も何らかの意味で悲劇の要素を含む。幸いにも、わが国の文化統制は世界史的事件ではなかった。また、小松原も松本も、大人物ではなかった。にもかかわらず、それは二度あらわれた。一度目は喜劇として、二度目は悲劇として。文芸懇話会は帝国芸術院への道を掃き清めたが、時すでに遅く、日本は奈落へ向かっていた。
だが、少しばかり幸いなことに、この国では「叔父のかわりに甥」でなかったから、過去の亡霊を呼び戻す必要はなかった。島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥ら、明治の生き証人が現役でいたのである。マルクスは「ダントンのかわりにコーディシエール」と言った。コーディシエールは、フランス二月革命(一八四八年)後の臨時政府で警視総監を務め、はたらく人々に一定の幻想を振り撒いた。では、昭和の文学者の中に割り込み、一定の幻想を振り撒いた点において、わが松本警保局長は、戯画化されたプチ・コーディシエールだったのか。そういうアナロジーで割り切れないところが歴史の面白さである。
松本学が大臣になれなかったことで小松原英太郎に及ばなかったとするのは、皮相な見方だろう。大臣になるならぬは機会の問題だ。宇垣擁立が成功していたら、松本もあのままではいなかったろう。彼にも重要な役割が回ってきたかもしれない。だが、そのことで戦犯にもならずに済んだと思えば、人間なにが幸いするかわからない。
松本学は、たしかに一つの幻想を振り撒いた。幻想は幻想であることによって彼を酔わせていた。彼は哲学を持っていると自認していた。誇大妄想であれ、彼は本気でそれの実現に邁進していた。しかり、あらゆる哲学は幻想に発している。その哲学とは何だったか。彼に哲学の幻想を与えたのは、そも、いかなる人物だったか。これが次章の課題である。
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第四章 安岡正篤の国維会と松本学の日本文化連盟
政友・民政両党抗争時代の地方長官というのは、現代のそれに比べると、あわれな存在だった。彼らは政権が変わる度ごとに飛ばされていたのである。その代わり、いったん政権の庇護を受けたとなれば、水をえた魚のように思い切り泳ぎまくれた。
松本学が、順風に乗って本領を発揮できたのは、福岡県知事の時代だった。浜口雄幸民政党内閣の大蔵大臣は井上準之助、内務大臣は安達謙蔵。松本は安達謙蔵に信頼されていた。金解禁にともなう緊縮政策にどう対処するかが、地方長官の課題だった。松本知事は何をしたかというと、まず、県庁内に「むだ無し運動」を起こし、経費の節減に努めた。久留米に広幅織の織機を普及させて、在来の久留米織に活を入れた。また、県下に葡萄の栽培を奨励して成功させた。一村一品運動である。県下の男女中等学校生徒の制服を統一して父兄の負担を軽くしたというのは、父兄の負担を重くしたとも考えられるので疑問。
中でも、松本が自身の発案として吹聴力説しているのに、北九州工業用水計画と筑豊炭田の合同計画とがある。いずれも在任中は実現を見ず、後者の場合は浜口首相の遭難で幻影に終わったのだが、その計画を自慢する分だけ心残りだったらしい。このことは、一九六七年(昭和四二年)八月一日発行『日本工業倶楽部会報』創立五十周年記念号に、松本が寄せた「秘められた九州財界の二大事件――浜口・井上両相を偲ぶ――」が語っている。浜口と井上との支援を言うことで松本の政治的立場も分かるというもの。要するに、福岡時代の松本は、浜口緊縮内閣の線に沿って、産業の合理化や失業対策や国産愛用の掛け声で県政の実を上げようとしていたわけで、内心は、昭和の上杉鷹山のつもりだったのかもしれない。
そういう実務面とは別に、松本が、農士学校とか全村学校とかを福岡で試みたという事などは、彼なりの理想主義を示したものといえよう。そして、そういう思想に方向付けを与えたのが、これまた、昭和の吉田松陰と一部ではやし立てられていた安岡正篤(一八九八〜一九八三)だったのである。昭和初年の一時期、政界に不気味な風を吹き込んでいたのに国維会があり、その中心に安岡正篤がいて、松本学は国維会の会員だったという訳である。では、国維会とは一体どういう組織だったのか。
国維会の源流は、一九一八年(大正七年)の猶存社に遡ることができる。猶存の由来は、「三径荒に就くとも、松菊猶存す、国家乱れんとして志士茲に在り」からきている。東大法学部在学中より漢籍に造詣の深かった安岡は、大正デモクラシーの盛時にあっても、聖賢の道に沈思していた。安岡を猶存社に引き入れたのは、安岡の著書『王陽明の研究』に感銘した北一輝だった。猶存社には大川周明、満川亀太郎、鹿子木員信らがいた。しかし、集まれば散じるのが世のならい。大川周明と安岡正篤とは、別に行地社を組織したが、やがてまた袂を分かつ。その後の行き方としては、大川が軍人に接近して五・一五事件に連座したのに対して、安岡は陽明学を講じて貴族や官僚の間に根をはり、実行家というよりも予言者的存在になる、といった違いがあった。
こういう安岡の庇護者になったのが酒井忠正伯爵で、安岡は酒井の邸内に住んで金鶏学院を主宰した。酒井忠正は農士学校や全村学校をも支援している。金鶏学院や農士学校が農村指導者の養成機関だったとすれば、新官僚の牙城となった国維会は、さながら国政担当者の研修所の感があった。
国維会が旗揚げをしたのは一九三二年(昭和七年)一月で、その「綱領」は次の通り。
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一、広く人材を結成し、国維の更張を期す。
一、大に国家の政教を興し、産業経済の発展を期す。
一、軽佻詭激なる思想を匡し、日本精神の世界的光被を期す。
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また、その「心得」に曰く。
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一、同志は理論に偏倚せず、時相に拘泥せず、常に公義に遵ふべし。
一、同志は力めて人材を愛し、人材に下り、人材を結ぶべし。
一、同志は自ら地下百尺に埋るゝ覚悟を以て事に当るべし。
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言々句々、いかにも安岡正篤らしい文章である。設立発起人による国維会の理事氏名を記しておく(五十音順)。荒木貞夫、大島辰次郎、岡部長景、香坂昌康、近衛文麿、後藤文夫、広田弘毅、松本学、湯沢三千男、吉田茂。
余計なことかもしれないが念のために言っておくと、前記の吉田茂は、白足袋・ワンマンの異名をとった戦後の総理大臣吉田茂とは同姓同名の別人である。吉田首相が高知県出身の外交官だったのに対し、国維会の吉田茂は大分県の出身で内務畑を歩いてきた。内務の吉田茂は外務の吉田茂より、大学では五、六年後輩になるが、岡田内閣では書記官長(官房長官)、米内内閣では厚生大臣、小磯内閣では軍需大臣を歴任するなど、戦後初めて大臣になった白足袋さんに比べ、敗戦までは日の当たる道を歩いていた。大学では松本学と同期だった。
こう書いてくると、かの吉田首相が安岡正篤と関係なかったように聞こえるが、どうしてどうして、吉田首相も年下の安岡を「老師」と呼んで礼遇したということだ。吉田首相だけではない。戦後歴代首相の施政方針演説に、安岡の朱の入らざるはなしと聞く。田中角栄の引退声明に、「一夜、沛然として大地を打つ豪雨に心耳を澄ます思い」のくだりを『孟子』の引用で加えたのも安岡と聞く。そう言えば、終戦の詔書にかかわったことでも知られている。安岡正篤を師と仰ぐ各界の集まりが、その死の直前まで続いたというのも故なしとしない。
ところで、この安岡正篤の名前が一般に知られるようになったのが国維会によってだった。特に注目を集めたのは、斎藤内閣の後に成立した岡田内閣(一九三四年七月〜三六年三月)に、外務大臣広田弘毅、内務大臣後藤文夫、書記官長吉田茂と三人も送り込んだことである。それで一躍有名になった。では、国維会の思想的根拠はどこにあったのか。「綱領」「心得」では漠然としているので、いま少し突っ込んで調べてみたい。さしあたって、一九三四年(昭和九年)八月号『改造』に、「国維会の正体」というのを田村禄二が書いているので、それについて見ておこう。そこには、こうあった。
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国維会の指導者が安岡正篤であり、安岡が旧猶存社以来の伝統を汲む一人である以上、フアツシヨ的色彩の強いことは否むことが出来ない。安岡は陽明学を基礎として政治を論ずるが、その政治論は、陽明学といはず、一般に東洋的な牧民思想であり、官僚の治民術である。その限りにおいて、貴族及び官僚が安岡の政治論を支持してゐることは、充分すぎる程の理由がある。同時にかれの東洋的思想が、一方においてはヨーロツパ的資本主義と矛盾し、資本家的政党政治と相容れず、他方においてはプロレタリア的社会主義を排擠するといふことは、今一歩にしてフアシズムである。
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簡単に言えば、安岡の東洋的牧民思想はファシズム的色彩は強いが、まだファシズムまでは行っていない、ということらしい。
丸山真男の『現代政治の思想と行動』(一九五六年十二月、未来社)上巻所収「日本ファシズムの思想と運動」は、一九四七年六月、東大で行われた東洋文化研究所の連続講座の一つで、講演筆記である。著者は「追記および補注」の中で「全体として冗漫を免れず」と言っているが、いまだに先駆的な価値を失っていない。よって、そこからの援用になるが、日本ファシズム運動の時代区分は、一九一九、二〇年(大正八、九年)から満州事変頃までの準備期(民間における右翼運動の時代)を経て、満州事変から二・二六事件に至る成熟期(急進ファシズムの全盛期)、そして、二・二六事件から敗戦に至る完成期(上からのファシズムの制覇)の三期に分けて考察できる。このばあい丸山真男は、成熟期としての第二期を、第一に軍部とくに青年将校の政治的実践力の発揮、第二に無産政党内部のファシズム運動、第三に在郷軍人や官僚を主体とする政治勢力の結成、とに分けた上で、この第三に付いて説明した。
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後者すなわち官僚グループが中心となった動きとしては、何といっても平沼男(騏一郎、男爵―和田)の国本社、安岡正篤の金鶏学院及び新官僚が中心になった国維会等が挙げられるでしょう。こういう団体はそれ自体明確なイデオロギーを持った政治団体ということは出来ませんが、そこに軍部、官僚、財界でそれぞれ指導的地位を占める人物が集ったために、支配階級の内部における横の連けいが自から強化され、第三期における上からのファシズムの制覇を準備するのに少からぬ役割をつとめたことは否定出来ない事実であります。
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基本的には『改造』筆者の見方とそう大きな隔たりはない。つづめて言えば、国維会は、ただちにファシスト団体と規定できないにしても、ファシズムへの道を掃き清めた、ということである。したがって、危険な要素を抱えた国維会だったわけであるが、時代は、そういう曖昧さを許さない所まで行っていた。『原理日本』に拠るウルトラ天皇主義者蓑田胸喜や三井甲之らの眼からすれば、安岡正篤ですら、兇逆思想の持ち主として、成敗の対象にされる必要があったのである。下中弥三郎を発行兼印刷兼編集人とする月刊『維新』(平凡社)は、一九三四年(昭和九年)十一月創刊号に、蓑田胸喜の「『国維会』指導精神の反国体性――安岡正篤氏の自己神化思想――」を掲げて、その思想を指弾した。
蓑田の安岡指弾は、文部省内思想問題研究会編・青年教育普及会発行『日本の国体』(三二年十月)に向けられた。これは安岡正篤と紀平正美との共著だったが、対象となったのは、安岡の論文「国維会の指導精神」だった。問題にされたのは易姓革命の思想で、維新革命の原理を至尊奉仕の念に置く安岡が、至尊を説明して次のように書いた所などにかかわる。
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苟も人間が禽獣と等しい動物でなく、敬に居り恥を知る万物の霊長である限り、何物にも易へ難い至尊を何人も持たねばならぬ。その至尊とは、黄金でもない、名位でもない、生命でもない、畢竟憂我である。神である。同時に我々の国家にも亦是の如き至尊が無ければならぬ。或は之を国旗に表徴し、或は之を法律に懸け、或は之を無象に観る。我々は之を天皇に拝する。我々に天皇在すことは我々の胸奥に神在すに等しい。
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この部分は三井甲之も批判したことがあるらしく、蓑田胸喜はそれを援用しつつ言う。安岡の「至尊」とは、われらのいう「上御一人」と同義ではない、そもそも「我々に天皇在す」がけしからない、「在す」とは「有する」ということで、主体は国民である、われらは天皇を「仰ぎ戴きまつる」ので、「有す」とは不逞不敬語で兇逆至極である、と。
右翼にしても左翼にしても、対立抗争は付きもの、正しきはわが党わが派のみ、はいつの世でもかわりはないが、それにしても神がかった頭にかかっては、さすがの国維会も沈黙の外に手はなかった。この時期における国体論からの批判は、けだし決定的だった。こういう批判が出てくると、もともと蛮勇に欠ける貴族や官僚から成る国維会などは、その精神的エリート主義ゆえに、ほとんど対抗する気力も手段も持ち合わせていなかった。このへんに世評ほどでもなかった国維会の脆弱性があったと言える。
国維会の性格を知るためには、大川周明の神武会と比べてみるのが便利だろう。少壮軍人を抱え込む神武会が、政党政治の打破を叫び、資本主義経済を否定していたのに対し、国維会は綱領に「産業経済の発展を期す」とあるように、現状是認から出発していた。そのいい例が労働組合の右翼的再編である。国維会の影響下にあった日本産業労働倶楽部がそれで、傘下には石川島造船所の自彊組合、八幡製鉄所の協進会、東京乗合自動車の中正会などがあり、組合員数一万といわれた。彼らのスローガンが「労資協調」から一歩進めて「労資一体」にあったことを記憶にとどめておきたい。後に述べる松本学の「一如観」と相通じるからである。国維会と労働組合というのも妙な取り合わせであるが、これは、吉田茂が協調会常務理事を務めていたこと、大島辰次郎、松本学が内務省社会局長を務めたことと関係するだろう。
しかし松本学としては、より多く農村対策の方に関心があった。そのことでは、安岡正篤の農士学校に共鳴していた。農士学校とは、農は国の本なので武士の心構えで働かねばならぬ、という考えに立っている。松本は安岡の夢を実現させるため、麻生太吉に当時の金で六万円出させ、安岡に渡している。すると安岡は、埼玉県下に畠山重忠の広大な屋敷跡を見つけ、そこに校舎を建設して安岡学派の人びとをして教育にあたらせた。松本学と麻生太吉とは、筑豊炭田の件で知り合ったものと思われる。
安岡に資金の世話をするくらいだから、知事の松本が、福岡県下の各地に農士学校を作ったことは言うまでもない。資金は、石炭産業界や篤志家の醵金でまかなった。福岡の農士学校が埼玉の農士学校と違う点は、主に地主の子弟の再教育を目的とした点だろう。松本によれば、小作の子弟は汗水たらして働いているのに、地主の息子は絹の着物を着こんで小説など読みながら安閑と暮らしている、こういう根性を叩き直さなければならぬ、というのである。
ということになると、いかにも松本が農本主義者であったかの印象を与えるが、これは福岡県知事時代の松本の仕事としてしか評価できない。なぜならば、松本学の発想の中には、すくなくとも、権藤成卿が「国」の観念に対立させた「社稷」の観念は無かったと思うからである。ただ、農本主義的イデオロギーが日本ファシズムの一特徴だったという意味でいうならば、松本の農士学校も、そういうものの一環としてあった、と言って言えないことはないだろう。
しかし官僚は、つまるところ官僚でしかなかった。上から農村新興を口にしても、それは自分の仕事の成績を上げるためでしかない。警保局長になった松本学は、農民運動弾圧に乗り出さざるを得ない。原田熊雄(国維会会員)述『西園寺公と政局』(岩波書店)を読むと、このへんの事がよく見えてくる。一九三二年(昭和七年)八月二十日の事として、原田熊雄は松本学から聞かされた話を、次のように記録しているのである。
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全国の農民組合会議派といふ連中が栃木県下で始めた『米残せ会』なる運動があり、東京でその連中三十名余りを検束した。一方には、二万俵の米を県で買上げて、宇都宮の倉庫に入れておき、他方では主唱者を弾圧し、全国的の動きをとめた。(中略)権藤が『近来の警察の弾圧には弱る』とこぼしてゐたさうだが、そんなところから見ても、相当に警察力が行届いてゐることも事実だらう。
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[#地付き](『西園寺公と政局』第二巻)
農本主義と並んで、日本ファシズムのいま一つの柱である家族主義については、このばあい、全村学校が挙げられるだろう。これも松本学の発案で福岡県下に設置されたが、後に、岡山県や千葉県にも設置されるようになった。全村学校とは読んで字のごとく、村全体を一つの学習組織と考え、個があっての全、全があっての個なるがゆえに全村一如である、というところに出発した。村おこし運動の理念であるが、言ってみれば、日本精神で色揚げされた体のいい社会有機体説である。
これが松本学の内部で、自慢の「一如観」にこねあげられていくのは、警保局長になって日本文化連盟を提唱し始めた頃からと思われる。そして、その思想の普及を目的として冊子『邦人』のちに『邦人一如』が、藤沢親雄、大串兎代夫らを執筆者に得て創刊された一九三五年(昭和一〇年)には警保局長を辞めていたが、全村学校以来の「一如観」に立っていたことは明確である。文芸懇話会当時の松本は、そういう哲学の持ち主だったのである。
ちなみに「邦人主義宣言」なるものを見ると、「我等は邦人一如、即ち邦と人との不二一体なることを信ず」で始まり、近代の個人主義が邦と人との連関を忘れ無秩序をもたらしたと指摘、これを克服するには産霊《むすび》の原理によるしかない、として続ける。「産霊の行はるゝところ其処には主観と客観、心と物、一と多との対立も、国家と個人、都市と農村、労と資との矛盾も、自由と権力、左翼と右翼、独裁主義と民主主義との葛藤も、霊と肉、文と武、政治と道徳との相剋もなく二にして一、一にして二である。我等はこれを邦人一如と呼ぶ。これ我が国の伝統的国家生活原理たる祭政一致の近代的表現で在る」。対立概念の止揚の行き着く先が祭政一致であることによって、「一如観」は正体を露呈する。それは全村学校が、聖旨奉戴の精神で推進される道筋を示していた。
要するに日本精神なのである。国維会に拠った松本学の念願が日本精神の発揚にあったことは、一九三三年七月一日発行の『国維』第十四号に載った松本の論文「日本文化連盟の提唱――第五インター(日本精神インター)について」で、すでに明示されていた。そこに松本は書いていた。
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明日の世界は吾日本精神でやるべき時機に到達した。即ち驕慢なるパルチザンシツプと民族性を無視した国際主義の第三インター第四インターごときは旧時代のこと。(中略)聖天子の覚召しを体して、おく山のおどろが下もふみわけて、如何なる階級の人たるを問はず、真個の人材を訪ひ、之を敬し、之を結び、内に於ては国民精神の作興を計り外に向つては日本精神を世界に光被しようと庶幾ふのである。要するに国維精神を発揚して国民の覚醒を促さんと期するに外ならぬ。これが結局国家の禄を食んだ自分の感得し到達した結論である。
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何のことはない、日本精神を世界に及ぼすこと、それが第五インターナショナルの運動だと言うのである。一九三三年九月九日の『万朝報』は、これを「日本主義インター/樹立を絶叫する/非常時警察の総元締の/松本名警保局長」の見出しで紹介したが、落ち目の新聞のせいか、提灯を持たれた割りには、反響がなかった。具体的には、この時、松本は日本文化連盟の構想を実現しつつあった。では、そのための資金は一体どこから出ていたのかとなるが、これについては、第一七章を御覧いただきたい。ただ、一つだけここで言っておきたいのは、国維会も資金の面では、日本文化連盟の傘下になっているということである。
参考までに、一九三三年(昭和八年)七月から三九年四月までに日本文化連盟に加盟した団体を記しておく。以下は大体、設立または加盟の順序である。日本芸道連盟、国維会、国維青年部、教育同志会、日本文化研究所、日本労働組合、日本精神顕修会、工場スポーツ連盟、木鐸会、大同会、文芸懇話会、日本古武道振興会、伝記学会、日本医道協会、邦人社、詩歌懇話会、日本民俗協会、日本体育保健協会、全国青年学校振興会、新日本文化の会、日本児童文化の会、綜合科学協会。してみると、松本学は最初から、非常時日本の私設芸術院長のつもりだったのか。
以上の中でも文芸院の構想は、松本にとって、食指を動かすに足る最後の、そして最高の御馳走だったに違いないのである。そして、少なくとも、それを思い付いた時、彼は国維会の会員であり、日本文化連盟の主唱者であり、現職の警保局長だった。日本精神で文芸家を抱き込み、文芸統制の実を挙げることが出来るならば、と彼は内心で期待していたに違いないが、どっこい、そうは問屋がおろさない。文芸家の反発は思ったより強かった。彼も認識を改めざるを得ない。そのうち内閣が倒れ、彼も現職を離れる。そうこうしているうち、岡田内閣に三閣僚を送り込んだことで当面の目的を達成したとみたのか、一九三四年十一月、国維会も解散した。蓑田胸喜の一発は空砲に終わったのである。
国維会の「心得」にあった「地下百尺に埋るゝ覚悟」とは河井継之助の言葉である。昭和の維新革命家は、官軍に抵抗した越後長岡藩家老の苦悩をいかに理解しただろうか。かれら昭和のエリート集団は、散開して地下三尺の塹壕に身を寄せ合い、突撃の機を窺ったつもりなのだろう。
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第五章 文化統制の諸相(一)
――芥川・志賀の見た山本悌二郎、その人
内務省の一警保局長が、文芸家と接するについては、実は、それなりの理由があった。文芸院の設立か、などと華々しく報じられるまでの文化行政の背景を、その前年の一九三三年(昭和八年)にさかのぼって探ってみたいのである。
五・一五事件後に出現した内閣は、海軍の長老斎藤実を首班に、政友会から高橋是清大蔵大臣、鳩山一郎文部大臣、三土忠造鉄道大臣、民政党から山本達雄内務大臣、永井柳太郎拓務大臣、新官僚から後藤文夫を揃えるなど、錚々たる顔触れで挙国一致内閣の態勢を整えた。世は正に物情騒然、内閣は従来の左翼に対するばかりでなく、右翼や軍部の圧力にも抗しなければならなかった。思想対策が緊要な課題となったのである。ここにおいて警保局長の職責も一層問われることになる。
松本学は、警保局長になって某日、警保局の事務官や課長らを警察協会の建物に集め、思想対策の件に関し二日間、徹底討論をした結果、一つの意見書を作成した。松本は言っている。「この意見書を堀切内閣書記官長に提出して内閣に思想対策委員会を設置されるよう要望したところ、採用されて関係各省次官、陸海軍次官その他民間人学識経験者も入れて組織された」(『談話速記録』)。組織されたというのは「思想対策協議委員会」のことである。
こういう経緯があって、一九三三年(昭和八年)三月、第六十四回帝国議会衆議院で、久原房之助ほか政友・民政両党の有志から思想対策に関する決議案が提出され、可決成立しているのである。ところで、この時の提案理由に立ったのが山本悌二郎だった。
余談になるが、著者は先年、所用で佐渡を巡遊した。その折、悲憤の順徳帝を葬った真野陵を訪れ、思いがけず、陵下の一隅で山本悌二郎の胸像に接したのである。胸像が戦後のものだっただけに、あの山本悌二郎が、という思いが私によぎった。「あの」というのは、貴族院における菊池武夫と並んで衆議院の山本悌二郎が、「機関説十字軍のつわもの」(宮沢俊義著『天皇機関説』中の言葉)だったことを、ゆくりなくも思い出したからである。志賀直哉の芥川龍之介追懐文中に、確か山本悌二郎の名前を見た覚えもある。これも何かのめぐり合せかもしれない。そう思って私は、この人物のことを少しばかり調べてみた。
山本悌二郎は、一八七〇年(明治三年)、現在の地名で新潟県佐渡郡真野町大字新町に生まれている。十三歳で上京。二松学舎、独協普通科を経て、一八八六年(明治一九年)三月、十七歳の時、品川弥二郎に随行、ドイツに留学した。ドイツで修めたのは農学だった。留学の仕上げにイギリスへ行っている。帰朝は一八九四年(明治二七年)三月。帰朝後は第二高等学校教授、日本勧業銀行の課長などを経験したが、一九〇〇年(明治三三年)十月、台湾製糖株式会社の創立に参画、以後は台湾製糖の支配人、取締役、専務取締役を経て、一九二五年(大正一四年)には社長に就任している。しかし社長職は、一九二七年(昭和二年)四月、田中義一内閣の農林大臣で入閣したのを機に辞職した。
その山本が政治家を志したのは一九〇四年(明治三七年)で、佐渡郡選挙区から衆議院に初当選したのを皮切りに十一回の当選を重ねた。一九三一年(昭和六年)十二月に成立した犬養内閣にも農林大臣で入閣している。その後、思想対策で国粋主義を振りかざしたのは前にも述べた通り。一九三七年(昭和一二年)十二月十四日といえば、南京陥落の報で国内が沸き立っていた時だったが、この日の昼、会頭を務める大東文化協会内で脳出血の発作があり、その晩、不帰の客となっている。興奮が極点に達したためでもあろうか。
農学者・農政家であり実業家でもあった山本が、いつごろから国士の風を帯びるに至ったのかは定かでない。ただ言えることは、一九一一年(明治四四年)、いわゆる南北朝問題が起ったとき、山本悌二郎が一役買って出ていたということである。国定教科書に南朝と北朝とが並記されているのに対し、南朝正統論に立つ藤沢元造が議会で問題にした。この時、山本は藤沢の側に立ったのである。そのことで、以後の生徒は吉野朝をたたき込まれた。そういう事実を踏まえてみると、山本悌二郎の国体観念は一貫していたと言えそうである。
以上は、山本悌二郎の骨格である。では、素顔はどうだったのだろう。
たしなみとしては漢詩を作り、漢詩集を出している。また書を能くした。しかし、この程度なら明治の実業家、政治家として珍しくはない。他に抜きん出ていたと思われるのは、中国書画および刀剣の蒐集である。なかんずく、中国書画の知識では定評があった。逸品のみを集載した『澄懐堂書画目録』十二巻は『宋元明清書画名賢詳伝』十六巻(共著)と共に貴重な典籍となっている。これについて青野季吉は、「この探究と徹底の心熱はいつたい何処から来たのか。私は、実業の成功や政治の達成では、たうてい満たされない夢をそれに託したのだと、観察しないではをれない」(『佐渡』)と評している。
青野季吉の言葉が誇張でないことの証拠には、芥川龍之介や志賀直哉も、山本悌二郎の仕事を認めていたことでも分る。ある日のこと、芥川と志賀は、連れ立って山本の所蔵品を見学させてもらうため、山本邸を訪れているのである。
志賀直哉の芥川追懐文というのは、「沓掛にて――芥川君のこと――」という文章で、芥川の自殺直後に執筆され、一九二七年(昭和二年)九月一日発行の『中央公論』に載った。「芥川《あくたがは》君とは七年間に七度しか会つた事がなく、手紙の往復も三四度あつたか、なかつたか、未だ友とはいへない関係だつたが、互に好意は持ち合つて居た」という書き出しで始まる文章は、七度の思い出を「その次は」「その次は」と、虚飾をまじえず克明に綴ることによって、芥川との、回数は少なかったが、会った印象の深さを浮かび上らせている。
次に引用する部分は、その五度目に会った時の思い出で、芥川と古美術の写真帖を作る計画をしている時に続いて二度会ったうちの一度目(このへん正確すぎて少々ややこしい)、それが山本悌二郎を訪ねた時のことである。志賀直哉はこう書いていた。
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其次は古美術の写真帖を作る計画をしてゐた時、東京方面の個人所有の絵を見せて貰ひに上京した折、二度会った。
一度は目黒の山本悌二郎《やまもとていじらう》氏の家に支那画を見せて貰ひに行つた時、どういふ絵を見るか、目録から芥川君にそれを選んで貰つた。写真は前から決めてゐた物きり撮らなかつたが、芥川君は支那画に精しく、選んでくれた物は大体いいものだつた。山本氏も気軽に色々見せて呉れた。昼になり吾々はひる飯の御馳走になつたが、山本氏は用事で出掛けねばならぬと洋服に着かへ、再び出て来て吾々の食事をしてゐる傍《そば》で話し込んでゐた。
これは後《あと》で芥川君が云つたといふのを伝へ聞いたが、鰯の塩焼を食はされたと云つてゐたといふ。又聞きで、はつきりした事は云へないが芥川君がそれを苦笑の気持で云つたとすれば、私は丁度その反対だつた。膳には他《た》のものもあつたが、其鰯が一番うまかつたからだ。
早稲田の或作家に就て芥川君が「煮豆ばかり食つて居やがつて」と云つたと云ふ。これは谷崎君に聞いた話だが一寸面白かつた。多少でも貧乏つたらしい感じは嫌ひだつたに違ひない。
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[#地付き](岩波書店『志賀直哉全集』第三巻)
都会人芥川龍之介を評論するために引用したのではない。芥川の一面を語って山本悌二郎の素顔が見事に浮き出ていると思ったからである。山本悌二郎が気さくな人だったらしいこと、質素な日常だったらしいこと、それらが感じ取られるのである。鰯といえば最も庶民的な食べ物だった。あるいは貧乏くささの見本といってもよいかもしれない。それを初対面の文士に供して恥じない飄々として村夫子然とした風貌、そこに好感がもてる。
そういう御仁にして、自分と相容れぬ思想に対するとき、硬直した形でしか出てこなかったのはなぜだろう。硬直は自らを痩せて見えさせる。ここに、いま一つの思想と実生活との落差を見るのである。青野季吉が言ったように、「実業の成功や政治の達成では、たうてい満たされない夢」が山本をして書画の世界に没入させたとするならば、かの議政壇上の熱弁も、所詮は虚しき所業であったと言わねばならないだろうに。
閑話休題。いずれにしても、一九三三年(昭和八年)三月二十五日の政友会代議士山本悌二郎は、思想対策に対する決議案の提案理由説明に情熱を傾けていた。速記録からの抜き書きで、提案理由の概要をたどってみよう。
「昨今ノ思想ハ、往々ニシテ我ガ国体ノ問題ト関連致シマスルガ故ニ、吾々ハ特ニ本問題ノ一日モ閑却スベカラザル重大問題デアルコトヲ確信致スノデアリマス(拍手)」といったところから入っていって山本は、長野県における教員赤化事件や司法官の赤化事件を引き合いに出しつつ、思想問題の重大さを力説する。思想には思想で(ちなみに、松本学などはこの立場だった)という時代は過ぎ去ったと認識する山本が言いたかったのは、思想には力で、という考え方だった。
彼は言った。「単ニ思想ハ思想ヲ以テ征伏スルト云フノミヲ以テハ、吾々ハ之ヲ満足スルコトガ出来ナイノデアリマス、寧ロ是ト同時ニ……」。速記者は騒然たる野次で聞き取れない。国民同盟の中野正剛の野次が目立ったのだろう。議長の秋田清が声を張り上げて言った。「中野君ニ注意致シマス、静粛ニ……」。
山本悌二郎は続けた。思想悪化を防ぐには、民衆の生活不安を取り除くだけでなく、思想運動そのものの取り締りが大事である。「厳トシテ秋霜烈日ノ態度ヲ以テ之ニ臨マナケレバナリマセヌ(拍手)、斯クシテ一面ニハ国法ノ権威ヲ示スト同時ニ、他面ニハ徹底的ニ危険運動、危険分子、是ガ弾圧芟除ニ努メナケレバナラヌノデアリマス」。そして、そこから再び教員の思想問題に還り、「小学中学ノ時代ニ於テ、十二分ニ我ガ国体観念、我ガ伝統的ノ道義観念ヲ注入」しなければならないと述べるのだった。
要するに、国体、国体で、現代っ子なら国民体育大会のスポーツ奨励と勘ちがいするかしれないが、分ったようで分らぬ国体思想による異端征伐は、げに恐るべき威力を持っていたのである。それだけに、山本悌二郎が提案理由を締めくくるに当って言った「吾々ノ要求スル所ハ、更ニ/\徹底セル画時代的ノ対策ニ在ルノデアリマス」が不気味に響かざるを得なかった。
もはや明白である。このとき山本悌二郎は、二年後に起される「機関説十字軍」への道を掃き清めていたのである。それゆえと言おうか、山本は、天皇機関説事件に際し、かつて自分が閣僚の一員として美濃部達吉を勅選議員に奏請した責任ということで、正三位勲二等の位階の方、つまり正三位を返上すると申し出た(勲等は返上できないそうな)。だが最終的に位階の返上はなかった。坪内逍遙の遺族が逍遙生前の意思を体して没後の叙勲を拝辞した時だったので、山本の出処進退は甚だ精彩を欠いた。
過去の責任をとるということなら、「衆議院議員を辞職する方が、山本氏の意思に副ふ捷径ではなかつたか」と、一九三五年三月十四日の『東京朝日新聞』は「社説」に書いている。疑惑の議員が、役職だけは辞めても、議員だけは辞められないという心情は、昔も今も変わらないものらしい。
事のついでに先き走って言えば、天皇機関説が議会で問題になってから、正しく一年後に、二・二六事件が起っている。北一輝の思想は山本悌二郎のそれのように簡明単純ではなかったが、一九三五、六年の日本を震撼させた人物が二人ながら佐渡を郷土としていること、そこに興味を覚える。そう言えば山本悌二郎は、佐渡の吉田松陰と称された大儒者円山溟北の学古塾に学んでいる。塾の先輩に萩野由之がいた。そして北一輝は溟北の門下生に学んでいる。山本や北に流れた思想が溟北に発するところはなかっただろうか。
まだ加えておきたいことがある。山本悌二郎の実弟に戦後の平和主義者有田八郎がいて、二・二六事件後に成立した広田内閣の外務大臣に就いている。悌二郎は学生時代の八郎に学費から生活一切の面倒をみている。北一輝にも北※[#「日+令」、unicode6624]吉という弟がいて、この時期、論壇で活躍していた。また、名作「大原女」で画名を高めた土田麦僊の弟にはユニークな思想家土田杏村がいた。土田麦僊は帝展改組では京都派として独自の動きを見せていたが、帝国芸術院成立の一年前に惜しくも他界した。以上の山本兄弟、北兄弟、土田兄弟の佐渡三兄弟とは別に、文芸統制への道を警告して文芸懇話会を批判しつづけた青野季吉、この時期、批評界に独自の地歩を占めた新進気鋭の矢崎弾を加えると、一九三五年(昭和一〇年)前後は、正しく、佐渡へ佐渡へと草木もなびく感があった。
提出された「思想対策に関する決議案」は難なく可決された。ちなみに、記名による投票総数二五二票、内、賛成二一八票、反対三四票と記録されている。反対に回ったのは、国民同盟と無産政党とだった。
可決成立した「思想対策に関する決議」をうけて「思想対策協議委員会」が作られた。閣議で承認された委員十五名には、内閣書記官長堀切善次郎をはじめ、内務、司法、文部、陸・海軍の各次官および、それに次ぐ役職が選ばれ、警保局長松本学もその一人だった。また、幹事九名には、前記各省の書記官級の人々が就いた。その中には、陸軍歩兵大佐山下奉文の名前もあった。
こうして成立した右委員会は、積極的な活動を展開し、「教育改善方策具体案」(七月十四日閣議提出)、「思想善導方策具体案」(八月十五日閣議提出)、「思想取締方策具体案」(九月十五日閣議提出)、「社会改善方策具体案」(十月六日閣議提出)といったぐあいに、一か月一件のペースで仕事を進めた。時あたかも、京大・滝川事件で旋風が巻き起っていた時でもあり、政府側も打つべき手を次々と打ってきていたのである。
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第六章 文化統制の諸相(二)
――長谷川伸『雪の宿場街』の放送禁止
前章に見た政府の思想対策は、言ってみれば文化統制の現われにほかならない。そして、そのいずれの場合にも、何らかの形で松本警保局長が関与しているのである。映画国策についても同様だった。
たとえば一九三三年(昭和八年)一月二十日の『東京朝日新聞』は、「日本精神発揚の映画を作りたい/警保局長、映画業者と懇談」の見出しの下に、一月十九日に行われた懇談会の内容を次のように伝えている。以下は、その全文である。
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『非常時日本の更正はまず芸道による民心の作興から』といふ訳で内務省の松本警保局長の肝いりで十九日午後六時半から日本橋亀島町の偕楽園で松竹、日活、新興、河合の各映画会社首脳部が集まつて懇談会を催した、当夜の出席者は主人側から松本局長、松竹から大谷社長、城戸重役、日活の原田支配人、河合の河合社長、新興の吉村支配人、それに貴族院の酒井忠正伯、協調会町田労働課長も個人の資格で参加、晩餐の後に松本局長から 国体の光輝を発揚するには芸道にいそしむ人々の自覚が第一であるが、事業界の当路者も国民性発揚に関係のあるものを心して盛んにするやうにしたい といふ意見を開陳し、映画事業側では理屈を抜きにして政府当局と提携して行かうといふことに意見が合致し、次回の会合で具体的に日本精神発揚映画の向上発展について話を進めることになつた(写真は同懇談会)
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満州事変以後、いくつかの戦争映画が製作されていたが、国防の重要性を強調した国策映画としては、三三年になってからのものが目立つ。陸軍大臣荒木貞夫の演説を主調とした「三月十日」(三月上映)、海軍の側から国防問題を取り上げた「此の一戦」(五月上映)、やはり荒木貞夫の演説を柱にした「非常時日本」(八月上映)、その他では「護れ大空」(九月上映)、「海の生命線」(十一月上映)などがあった。中でも「非常時日本」などは全国巡回で国防思想の普及に大きな役割を果たしている。こういうことは、一方における非国策映画にたいする検閲の一層の強化となって現われてこざるを得なかった。
しかしこれが、ラジオ統制、ラジオ国策となると事情はまた違ってくる。ラジオ放送に関しては、その出発の当初から国家管理の色彩が濃厚だったからである。放送事業は逓信大臣の厳重な監督下に置かれていた。放送番組を事前に届け出ることなどであるが、このばあい、不適当と認められた時には電波を一方的に切られるといった規制を受けた。内務省の管轄でなかっただけに、かえって内務省の意を体して、それを上回る理不尽がまかり通っていた。その一例を長谷川伸の作品に対する当局の扱い方に見るのである。
松本学が映画業者と懇談会を持った直後の事である。長谷川伸の戯曲『雪の宿場街』の放送劇が突然、放送禁止の命令を受けるということがあった。事の次第を説明しておこう。
尾上菊五郎門下の尾上多賀之丞・尾上菊枝らによる『雪の宿場街』は、一九三三年(昭和八年)一月二十三日の夜八時四十分から全国に中継放送されることになっていた。ところが、放送予定の前々日の一月二十一日夜になって、逓信省から中止の命令が来たのである。劇の内容が時局にふさわしくないという理由によってだった。とりわけ最後の第三場が悪影響を及ぼすと言うのである。すでに番組は二十二日の地方版にも組込んであったので、関係者はあわてた。このことで、逓信省側(直接担当官は無線係長)と放送局側とで折衝があったことは言うまでもないだろう。当局の要望は問題の第三場を全面改作することだった。しかし放送局側としては著作権法の問題もあり、作者に無断で内容を改めるわけにいかない。協議の末、二十二日の朝になって中止の決定をし、急きょ『傾城阿波の鳴門』(どんどろ大師門前の場)に差しかえた。聴取者に気付かれないように。
話を分りやすくするために、『雪の宿場街』一幕三場の梗概を紹介しておこう。まず、舞台設定と登場人物から。
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第一場 宿場街の或る家の外
第二場 その家の中
第三場 元の家の外
――徳川の中世以後の雪国の冬――
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姉お柳(娘のころ駆落ちし辛酸を味わいたる中年増)
弟京太郎(財産を騙しとられたる跡とり息子)
妹お蝶
鷹取屋丈兵衛(老獪陰険なる財産横奪者)
目明し九郎蔵(丈兵衛の味方)
京田屋喜蔵(おなじく)
杢屋三右衛門(おなじく)
使いの男・男たち(数名)・通行の人々・九郎蔵の子分・若い衆・老いたる僧。
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お柳・京太郎・お蝶ら三きょうだいの家は、元は相当な資産家。丈兵衛はそこの使用人。父の死後にのこされた僅かな借財を、今は亡き母が丈兵衛の忠義立てで肩代りしてもらった時、家屋敷から家財一切が丈兵衛の名義にされてしまう。丈兵衛の肩代りした金も元はといえば母からだまし取ったものである。丈兵衛は最初から計画的だった。よって、母がいなくなると、鷹取屋は丈兵衛に乗っ取られてしまう。京太郎とお蝶は、悪辣な丈兵衛に逆らえば土地にいられなくなることを知っている。二人は泣き寝入りするしかないと思っている。
そこへ、娘のころ手代と駆落ちして暗い巷にも荒んだことのあるばらがき[#「ばらがき」に傍点]の姉お柳が戻ってくる。そして丈兵衛の仕打ちを知る。お柳はお上に裁きを願い出る。が、なかなか取り上げてくれない。だが、白州に立つことはできた。結果はお柳の負けで、悄然とお柳は家に帰ってくると、当てつけに鷹取屋からの祝い膳が届く。お柳は使いの者(むかしの使用人)の目の前で祝い膳を土間へ放り出す。すると京太郎が、姉さんはどこへなりと出ていけば済むけれど、ここにいなければならない私たちは困るのだ、という。お柳は、それを聞きとがめて外へ出ていってしまう。やがて半鍾の音がきこえてくる。鷹取屋に忍び込んだお柳が、酒に酔った丈兵衛を出刃包丁で殺し、家に火を付けたのだ。捕縛されたお柳は言う。「御地頭様は、良い民百姓を護ってくださるから有難いのだ。悪い奴の味方をするなら御陣屋も何もあったものか」「善悪を正してくださる、掟《おきて》が役に立たないで、悪い奴に増長され、あたし達兄妹みたいな者が、圧し付けられて苦しむ時に、あたし達のできることに何があるんだ。何があるんだか知ってるかい」。第三場はお柳が目明しに引っ立てられて行く場面である。以下はその全文。
第三場 元の家の外
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元の家の外。雪が降っている。老僧がとぼとぼ通る。大戸が内から開かれる。
お柳が引ッ立てられ、九郎蔵と子分、杢屋三右衛門等が付いて出る。雪が小やみになる。
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京太郎 (障子を開けて姉を見おくり、お蝶に)姉さんとわたしとは考え方がまるで別ッ個なんだ。
お蝶 (大戸からがんぎ[#「がんぎ」に傍点]の下で見送り、咽び泣く)
お柳 鷹取屋の方はまだ赤くなってるねえ。ハハハハ。権現様がお拵えなされた百カ条とかの掟が、護ってくれなけりゃあこうするより外に仕方がないじゃあないか。だれがこれを悪いといえるのだい。ハハハハハ、もし悪いというなら、そういう世の中の方が余ッ程悪いんじゃないか。(歩む、やがて)ハハハハハ。
(引用は一九七一年五月、朝日新聞社刊『長谷川伸全集』第一五巻に拠った。以下長谷川伸の作品引用は『全集』から)
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問題は第三場のお柳のセリフにあるとされた。そこに非合法の実力行使を是認する思想があらわれていると見られたからである。血盟団事件、五・一五事件とあってから、近くは極左の銀行ギャング事件の記事解禁があった直後なので、なおさらであった。この戯曲全体の基調がお上に楯突く不埒な言動にあると見なされれば、どこを取っても、臆病風に吹かれた木っ端役人の眼には「けしからん」と映ったに違いないと思うからである。ところが一般には、第三場だけが問題になったように受けとられている。そこのところを、まず注釈しておく。
当時、長谷川伸『雪の宿場街』の放送禁止について報じた新聞は限られていた。これを大きく扱った新聞といえば『時事新報』ぐらいだったろう。ところが『時事』は衰退期にあったので、反響はいま一つというところだった。『東京朝日新聞』を例にとってみると、これについては触れておらず、一月二十三日のラジオ版で、お弓に扮した多賀之丞の写真と子別れのセリフの一部を紹介したにとどまった。『読売新聞』のばあいは扱うには扱ったが、社会面においてではなく、ラジオ版においてだった。第三場が問題にされたこととして報告している(一月二十三日付)。
ところが『時事新報』は、他紙にさきがけて、一月二十二日の社会面に取り上げたのだった。しかも四段抜きで。ちなみに見出しは、「逓信省の横槍で/『雪の宿場街』放送中止/上演を許された脚本に対し/社会秩序を乱すと」と付けられている。この≪上演を許された脚本に対し≫の説明は後回しにするとして、放送中止命令の理由を、「これは暗に法で真の黒白がつかぬ時はテロをもつてといふ様なもので、現代の社会秩序に反するものとして、逓信省では最後の場面を正反対のものにすれば許可[#「逓信省では最後の場面を正反対のものにすれば許可」はゴシック体]するとの意見であつた」云々と述べている(ゴシック体は原文のまま)ことを挙げておく。すこしおくれて、雑誌では『文芸春秋』が同年三月号の「ラヂオ匿名批判」で取り上げたが、やはり第三場幕切れでのお柳のセリフがたたったものとしている。しかしこれらの報道は、いずれも事実と若干ちがっているようである。
というのは、作者の言によれば、第三場最後のセリフは、提出した放送台本からは最初から削られていたと理解できるからである。そういう作者側の配慮にもかかわらず、問題箇所の具体的指摘もないまま、一方的に放送を禁止された。まことに以て理に合わぬ処置である。今後のこともある。泣き寝入りは為にならない。そこで長谷川伸は書いた。一九三三年(昭和八年)一月二十四日付『時事新報』に寄せた抗議文「舞台劇『雪の宿場街』の放送禁止を問ふ――何故ラヂオではいけないのか?」がそれである。
「逓信省無線係長長野さん。拙作『雪の宿場街』があなたによつてAKの放送を禁止されたさうです、といふ事であなたを非難しません、随つてあなたと争ふのでなく、事を究明して彼此二つの岸に立つものゝ、研究資料を得てみたいと思ひます。どうでせうか」これが書き出しである。表面いかにも低姿勢ではじめられているが、丁重な中にもドスが利いており、股旅物での仁義を思わせないでもない。
さて、こういう挨拶のあと長谷川伸は『雪の宿場街』の来歴を述べる。すなわち、脱稿が一九二九年九月であることとか、雑誌『騒人』に発表したあと第三戯曲集『疵高倉』に収録されたが、いずれも為政者の圧迫を蒙っていない事などについてである。また、上演記録としては、明治座(二九年十一月、尾上多賀之丞主演)、帝劇(三〇年三月、河合武雄主演)、歌舞伎座(三一年五月、慰安会興行、多賀之丞主演)、公園劇場(三二年五月、多賀之丞主演)を挙げ、帝劇再演の時に、検閲官により、第三場最後のセリフが削られた事を書く。そして、初演は尾上菊五郎門下の菊葉会の試演興行だったので、あれは真の意味での検閲通過とは思っていない、と述べたあとに続けるのである。
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作家としてモノいふ場合はこの時の通過を採つて、一つの論拠とするのがいゝやうですが、私はしません。再演の帝劇の場合こそ、まさしく普通興行とその検閲の場合だと思はれるし、この時、新しく認可申請をしたのですから、それを挙げるべきです。
その時、検閲官はラストの台詞《せりふ》、法が保護しない時に窮地に陥つた、あゝいふ女の叫び、あれを削りました。私はそれに異存をもたなかつた、今でも左様です。
あの台詞が削られても作は傷つかない、それは打たざる鍾でなく、打ちたる鍾の余韻に却つてなるのですからいゝのでした。爾来の上演は、多分この時の認可本が再提出されて通過してゐたのだと思はれます。(中略)
そこで、あなたの禁止を命じた根拠を教へていたゞきたい、勿論ラストの台詞抹殺ぐらゐのものでない、もつと大きく、もつと多くあることゝ思はれるのは、削除でなく禁止であるからであります。
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文脈に乱れが見えるのは、禁止を知らされて直ちにペンを執ったからであろう。それだけに気迫が感じとれる。文末の執筆日付は一月二十二日と記されている。これを一気に書き上げた長谷川伸は、フェアーでありたいと思った。そうして、こう付け加えた。「追伸。この事に関する記事が掲げられた縁故にしたがひ、あなたも私も『時事新報』をお互の場席としたく思ひます」。
長谷川伸は待った。だが、返事は遂に来なかった。しびれをきらした彼は、二月八日の『時事新報』に、「問題を片付ける『雪の宿場街』の禁止」の一文を寄せた。待ちくたびれたので、こちらからケリをつける、答を待つことは外地にいて銀座の星を仰ぐようなものだった、と言って続けた。「相手は斬棄ご免だ。こちらは斬棄られ損だ。さういふ制度でよろしいとされてゐる不法を憤つたところで、相手が絶対では手の下しやうがない」そう言ったあと最後を、「この問題、他日の材料に役立てる以外、私の方から一先づの鳧《けり》をつけて置いてやる」と結ぶ。お柳のセリフを地で行ったようなもので、ケリをつけて置いてやるの「やる」には一種すご味がある。
なお、この話には、おまけがつく。おまけは筆者である私が付けるのである。――つらつら考えてみるに、はかりがたいは人の世の常、いつどこで人生の転機にめぐりあうか分らない。それで奈落の底に沈む者もあれば、光明を一手に握る者もある。長谷川伸のばあいは後者だった。前にも書いたように、放送禁止問題にケリをつけるとの文章が新聞に掲載されたのは、一九三三年(昭和八年)二月八日のことだった。翌九日の夕刻、熱海へ出かけようとしていた長谷川伸の許へ、未知の婦人からの手紙が舞いこんできた。開いて見れば、四歳の時に別れ別れになった瞼の母の健在を知らせる手紙である。あれほど捜し求めた生母の所在がわかったのである。だのに、温泉につかっても彼の心は定まらず、会うべきか会わざるべきかに思い悩んだ。母の生活を乱してはならないと思ったからである。頭のなかに、ふと、『瞼の母』の一場面が浮んできた(と私は想像する)。五つで別れて二十余年、やっと出会った母親に、忠太郎が言うセリフである。「縁は切れても血は繋がる。切つて切れねえ母子の間は、眼に見えねえが結びついて、互の一生を離れやしねえ、あッしは江州番場宿のおきなが[#「おきなが」に傍点]屋の倅、忠太郎でござんすおッかさん」。
長谷川伸が熱海から帰ったのは二月十一日だった。そして翌十二日、たまりかねて、突然、かれは母をたずねている。四十七年目の再会で、生母こう刀自七十二歳、長谷川伸五十歳の時の事である。
話は半世紀以上の昔にさかのぼる。神奈川県和泉村の豪農横山谷右衛門の四女こうは、横浜日出町で土木建築請負を業とする駿河屋の一人息子長谷川寅二郎の許に嫁いで、日出太郎、伸二郎(長谷川伸の本名)、ふじの三児をもうけたが、夫が愛人を家に入れたために、身を引き、里に帰った。そうして再婚したのが、横浜で生糸業を営む三谷宗兵衛だった。一方、駿河屋はその後没落し、伸は年少より土工などで辛酸をなめる。いつも手だけはきれいにしていたいと長谷川伸は言っていたそうである。いつどこで母に会うかしれない。会ったとき、苦労を知られて母を悲しませたくなかったからだという。
ところで、伸が訪れたころの三谷家は東京市牛込区にあって、こう・宗兵衛との間に出来た子に、隆正(一高教授)、隆信(外務省課長)、妙(三高教授夫人)、田鶴(内務省課長夫人)、捨子の二男三女が社会的に活動していた。先妻の子の三谷民子は女子学院の校長だった。以上は一九三三年の時点での地位である。三谷隆正(一八八九〜一九四四)については、ご存知の方も多いだろう。神学者・法哲学者で、歿後、『三谷隆正全集』全五巻(一九六五〜六六)が、南原繁・高木八尺・鈴木俊郎編で岩波書店から出ている。
二月十二日の事に戻る。その日の午後何の前ぶれもせずに長谷川伸は三谷家の玄関に立った。幼な心に亡兄日出太郎に似ていると聞かされていた老母が出て来たが、長男隆正の客と思ってそのまま書斎へ通す。名乗はそれからだった。その場に居合せたかのように新聞は潤色して書いている。「万感極まつて母子は相抱いてしばらくは言葉も出ず劇的な会見をとげた」(『都新聞』)。「『おお伸や、伸や』と呼び続ける母親は絶えず白いハンカチを眼にあてゝゐた、老の眼をしばたゝく母、僅に遠くなつた耳もとに口を寄せる長谷川氏、始めて兄といひ弟と名乗る血を分けた兄弟、そのいずれもが立派に成人してゐて…… 四人が囲むストーヴは楽しき夕食をすませた後もしんしんと更ける夜半までいつまでも消されようとしなかつた」(『東京朝日新聞』)。また、「良い兄貴が飛だしてくれました、私は長男でしたが、今度三男になつたわけで、肩の荷が降りたやうに思ひますよハヽヽヽヽ」(『東朝紙』)とある隆正の感想など、いかにも『幸福論』の著者らしく、いずれにしてもハッピーな再会だったといえよう。
このことあってから長谷川伸は、母の生存中、『瞼の母』の上演・上映を禁じたという。ボヴァリー夫人は私だと言ったフロベールにならっていえば、番場の忠太郎は長谷川伸だった。母に拒絶された忠太郎は、幕切れでつぶやいて立ち去った。「俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんの俤が出てくるんだ――それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺ら眼をつぶろうよ。(永久に母子に会うまじと歩く)」。長谷川伸が番場の忠太郎だったのは一九三三年(昭和八年)二月十一日までのことだったのである。以後は作風もかわった。お柳のデスペレートな叫びはどこへ行ってしまったのか。『雪の宿場街』の放送禁止問題にケリをつけた長谷川伸は、奇しくも同時に、半生のケリをつけることになるのである。
一九三二年が大衆文学にとって一つの画期をなしていたことは、長谷川如是閑が『読売新聞』に書いた「一九三二年に何故髷物小説が読まれるか」(八月二十三、四日)を引き合いに出すまでもないだろう。年初にあった直木三十五のファシズム宣言はプロレタリア文学への対抗という所から、三上於菟吉らと共に陸軍の少壮軍人への接触をもたらし、その延長線上に松本学の文芸懇話会を生み出すのだったが、長谷川伸の行き方はやや違っていたと思う。しかし日中戦争が始まると、ペン部隊で従軍し、陸海軍に多額の献金もした。そして再び、「しかし」である。一方では、あの戦争中に彼は、『相楽総三とその同志』(昭和一八年五月、新小説社)を書き、その誠忠にもかかわらず偽官軍の汚名で処刑された草莽の志士を鎮魂した。また『日本捕虜志』を書きついでいた。このへんを、どう見るかである。『雪の宿場街』の作品、ならびに、それの放送禁止で見せた反骨は、やすやすと折れたりはしないと思うのだが。
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第七章 文化統制の諸相(三)
――『源氏物語』の上演禁止物語
長谷川伸の『雪の宿場街』が放送禁止になった同じ年のこと、「新劇場」の第三回公演『源氏物語』が上演禁止の厄に遭った。しかも、これは、それまでの禁圧にくらべ、いささか性質を異にしていた。そこに問題の複雑性があった、と言えば言えるであろう。言うなれば、左翼的のゆえを以ての禁止ではなかったからである。そこのところをとらえて、『都新聞』「大波小波」の匿名筆者(謝青天)は、滝川事件と相共通するものがある、と指摘した(一九三三年十一月二十四日)。というのは、「一つの国家に於ける政治的な意見と文教的な意見との対立が、ここにも仄見えてゐる」から、と言うのである。これだけでは分りにくいと思われるので、以下概略を説明する。
『源氏物語』の演劇化は、藤村作博士を会長とする紫式部学会の全面的後援で成ったものである。意図としては、古典の劇化を通じての、日本文化の宣揚、日本精神の再認識ということがあった。つまり、文教の側に立って、国民精神の涵養に努めていると自覚する人びとにとって、有意義と認められたから、劇化に協力したのである。しかるに、政治的取り締りの側では別の解釈を以てした。そこに学問と政治との、ぶつかり合いが生じた。それを、「大波小波」の筆者は、滝川事件との比較で言ったものだろう。
しかし、事がらの性質とか経過とかを考えると、『源氏物語』の上演禁止は、滝川事件(一九三三年の春から夏にかけて起っている)とは、おのずから異なる現れかたをした、と言えるのである。日本の国策から考えて、よかれと思ってしたことが、風俗壊乱のおそれありとされ、思わぬ災難にあったというのが、『源氏物語』のばあいだったからである。そこに違いがあった。よって当局は、敵に回すべきでない人までも、敵に回してしまったことになる。何たる失態! と、当局者が思ったか思わなかったか、の感覚に、日本の幸不幸が懸っていたと見るのは、大げさだろうか。
このように見てくると、『源氏物語』の戯曲化や上演は、本来ならば、歓迎はされても、無下に否定されるべき性質のものではなかった。よって、新劇場関係者は無論のこと、これに全面協力した紫式部学会にしてみれば上演禁止は、正に、青天の霹靂でしかなかったのである。しかし、事は、禁止する側と禁止される側との対立といった様相だけではなく、戯曲の良否という次元で問われるという、いわば、内輪もめに似た現れかたを呈した。一致すべき人たちが一致しなかったということである。そこに、ややこしさを含んでいた。「大波小波」匿名筆者が指摘した「政治的な意見と文教的な意見との対立」だけではなく、文教的な意見と文学的な意見との対立で争われたからである。
その事は後回しにするとして、事がらを分りやすくするため、一九三二年(昭和七年)五月、紫式部学会が成立したあたりから、順を追って見ていこう。創立の趣旨は、イギリス人がシェークスピアを、ドイツ人がゲーテを、それぞれ誇りとしているように、日本人の立場から紫式部を追慕し、あわせて日本文学の知識の向上に努める、というところにあった。事業としては、源氏物語講座をはじめ、古典の講座や研究発表会、講演会、展覧会のほかに、会誌『むらさき』の発行などが予定されていた。それら事業の一つに、「女子の日本文学に関する研究の奨励」をうたっているのは、同じ会費を払う女子が通常会員であるのに対し、男子が会友だったことなどと共に、この会の一大特色をなしていたかと思う。
発足以後の主な記録から拾うと、帝国教育会館における六月四日の創立大会には、四百五十名の来会者を前に、藤村作の挨拶のあと、久松潜一、池田亀鑑、沼沢龍雄が講演している。一九三二年(昭和七年)度の講座開始は六月十一日からで、久松潜一が万葉集を、池田亀鑑が源氏物語を、そして、藤村作が日本永代蔵を、それぞれ担当している。藤村作が会長に推挙されたのは七月九日とのこと。十一月十九、二十の二日間、東大国文科主催、紫式部学会後援で、東大講堂内に源氏物語関係の展覧会を開催した折には、東伏見宮大妃殿下(十九日)、高松宮妃殿下(二十日)の台臨があったと記録されている。一九三三年度の講座は四月十五日から開始、前年に引き続いて、池田亀鑑が源氏物語を、藤村が日本永代蔵を持っている。
こうした『源氏』評価の影響を受けたものだろうか、新劇場の俳優たちの間で、これの劇化上演を目的とした研究会が始められていた。彼らの熱心な態度を知った紫式部学会が、会としての後援を決定したのは一九三三年の春で、以後、原典に関する学術的指導はもちろん、切符の売りさばきについても、半分の責任を分担するほど肩を入れた。学者の指導で脚本を作ったのは、番匠谷英一だった。全六幕十七場の内容は次のようになっている。
第一幕は帚木の巻・空蝉の巻、四景。第二幕は夕顔の巻・若紫の巻、四景。第三幕は末摘花の巻、二景。第四幕は葵の巻、三景。第五幕は花の宴の巻・賢木の巻、二景。第六幕は須磨の巻、二景。この脚本全文は、一九三三年十二月号(第一巻第二号)『文芸』に載っている。番匠谷英一が脚本末尾の「附記」に書いたことは、このあとの叙述にも関係してくるので、必要部分を写しておく。「一、本篇を草するにあたり紫式部学会久松潜一氏池田亀鑑氏より幾多の本文に関する学術的指導を賜はつた。厚く感謝の意を表する。一、演出者青柳信雄氏は演出者の立場より、また友人として、多くの改修補綴をほどこされた。即ち本篇は一つの共同製作である。なほこのことについては他の場所に於て詳しく書きたいと思つて居る。一、原作はあまりに偉大である。原作を傷つけざらんことを念ずる。しかしまた一方に於て演劇としての源氏物語は別箇の立場に立つものでなければならないことも断つておきたい」。
新劇場が第三回公演に打ち出した『源氏物語』が意欲的なものであったことは、坪内逍遙を顧問に担いでいることなどで想像できるだろう。いま一人の顧問には藤村作がなって、かれが実質上の代表者であったことは言うまでもないが。舞台意匠に松岡映丘と安田靫彦の両画伯、舞台装置に伊藤熹朔、衣装考証に渡辺滋、音楽に小松清が当っている。主な配役を挙げると、光源氏・坂東簑助、頭中将・市川段四郎、空蝉・坂東鶴之助、夕顔・伊藤智子、葵の上・市川紅梅、朧月夜・片岡ひとし、といったところ。
上演は、十一月二十六日から、新歌舞伎座で四日間、という運びになっていた。ところが、である。上演を間近にひかえた十一月十八日のこと、かねて警視庁に内閲を出願してあった台本が、不許可になるとの内意を知った。この期におよんで不許可はひどすぎる。藤村作や池田亀鑑らは、驚いて警視庁に出向き、了解に努めた。だが、話は平行線。禁止の理由は、主要人物が高貴な宮廷人であること、連続的なる恋愛生活を扱っていること、などとされた。学会側ではこれに対し、光源氏が臣下に下った人物であること、物語は正史ではなく小説であること、劇化は恋愛生活よりも平安時代の情調に重きを置いたものであること、それに、観客は国文学の教養をもつ人びとと予想されること、などについて述べた。当局側の担当者は、重田という保安部長だった。
しかし交渉は無駄に終った。二十二日になって正式の禁止通告があったからである。その夜八時、関係者は新宿の白十字に集って善後策を協議したが、具体的結論は得られなかった。さしあたって、すでに売りつくしていた一万枚の切符は、出来るだけ払い戻しに応じるようにはしたが。しかし、あきらめきれるものではない。この時こそ学芸自由同盟の出る番である。
運動らしい運動をしなかったといわれる学芸自由同盟も、さすがに事態を座視するにしのびず、二十五日午後二時、新宿・白十字に新劇場、紫式部学会の代表者を招集、事情を聴いている。そして、これを文化全般の発展を阻害するものと見て、他の文化団体へも呼びかけ、当局に対し、厳重抗議することを決めた。これが、せい一杯のところだったろう。同盟側から新居格、藤森成吉、塩入亀輔、小松清、長田秀雄、新劇場側から青柳信雄、八住利雄、学会側から池田亀鑑、他に個人の資格で、文芸家協会幹事の岸田国士が出席している。また、紫式部学会では、同日午後三時から、家政学院で、百七十名の女性会員が上演禁止絶対反対の抗議集会(?)を開き、気勢を挙げている。
一方、新劇場側では、警視庁との交渉の結果、禁止理由が判明したので、学会協力で、改訂脚本を再提出することにし、その作業を急いだ。改訂脚本では、主要人物を、ただ「ある時代の貴族」とし、恋愛部分は削除した。なお、その梗概書は、あらかじめ検閲当局に提出して内閲を得ていたので、今度は大丈夫と確信していたところ、十二月九日午後二時、意外にも、またまた不許可の命令が下ったのだった。再禁止の理由は、もともと恋愛を素材としたものは、不都合な部分を除いても、上演すれば、文字にあらわれない部分も強調されるので宜しくない、というのである。つまり、どのようなものであれ、『源氏物語』の劇化上演は、一切まかりならん、というのに等しい。踏んだり蹴ったりである。
さて、こういう経過を見てきて、特別これに驚いたり、あきれたりしているのではない。そういう無法は、あの時代だったら、珍しくなかっただろうと思われるからである。で、問題はどこにあるかというと、最初の脚本に禁止通告のあった十一月二十二日から、改訂脚本の禁止が通告される十二月九日までの間に何があったか、である。そこが知りたかった。そこに問題の核心があると見るからである。
舞台を『東京日日新聞』へ移そう。まず、一九三三年(昭和八年)十二月一日の同紙上に、三上於菟吉は、「師走雑記 その一――『源氏物語』禁止に就いて」を出した。一読、かなり挑発的な内容を含む文章である。
三上は言うのである。学者博士、大和絵の大家、音楽家その他の権威をあつめた『源氏物語』劇化の噂を知ったとき、「僕達はまづ脚本の性質について興味を持つたのだつた。あの古典大作を、脚色者が、どうピツクアツプし、アレンジするか、当然、物議を醸すであらうあの原作の特長を、どううまく処理して、しかも本来のクラシツク美の精神と形式とを生かし出すか」を絶望的気持で見ていた。同時に「原作に忠実であればある程、現在の舞台で上演が許可されるかどうかといふことに危惧を抱いてゐた」と述べて三上は続けた。「しかし、今や、あの脚本を一読するに及んで、あれそのまゝを、少しの懸念もなく簑助君等に採用させ、そして、聴くところでは莫大な費用をかけて、道具、衣裳も作つたさうだが、いろ/\な点で、いはゆる『後援』にいそいだ後援者諸君の常識を、僕としては疑はざるを得なくなつて来た」。そう述べてから三上は、こう断言するのである。「僕に云はせれば、源氏物語の、あの流|義《ママ》での脚色は、現代日本で上演を許可されぬのが当然だ」「若し彼等が現代への挑戦にこの事業をえらんだとすれば、もう少し、『敵』を知つてからにするがいゝ」。
この、いかにも物の分った風で高飛車な発言に反発したのは、シナリオ作家の八住利雄だった。十二月六日の『東日』に寄せた『源氏物語』禁止再考――三上於菟吉へ」がそれである。
八住は言う。現代日本で禁止は当然と三上は言っているが、「現代とは何か? ○○○○である。至《ママ》る処において『○○○○』時代である。歴史的、民|俗《ママ》的、芸術的自由の一切が奪はれている時代である――このやうな認定は自由である。しかしまたそれと共に、そのやうな絶対的(同時に絶望的)認定を好まず、それ等のものに対する能ふ限りのアンチテーゼを取らうと計画し、取ることがやり方によつては可能だと考へ、そのための若干の抗争が進歩的だとする認定もまた、自由であらう。この二つの認定は互に接触することなく平行し合ふものであらう」。
八住はそう言ったあと、『源氏物語』は、注釈書、現代語訳本、その他講義などで一般化しているのに、なぜ演劇にのみ差別的であるのか、と結ぶ。
これに対し三上於菟吉は、七日付『東日』に、「源氏『禁止』三考――八住氏に答へる」で応えた。
三上の主張はこうだった。「八住氏にいふが、『現代』と、ここでいふのは、現在の統治下に動く日本とか、現在の社会常識下にある日本とかいふものなのだ。勿論かうした情勢は固定的なものではない。動き、また変ずるであらう。が、一切の社会生活は恒にこれ等に緊迫され、製肘される。芸術家の熱情と努力とが、それ等へ反抗し、それ等を超越しようと絶えず脈動してゐるのは、千古同じことだが、しかし今度のやうな演劇運動の場合なぞに、無やみ矢たらに第一義的に、絶対的に行動しようとし、又、それを固執して行かうとするのは、いつの時代でも許されるものではないのだ」。
これに続けて三上は、いわゆる「俗衆」への悪影響に言及して、「社会的に見て、訓練のない人々へ爆弾の効果を、最も不用心な方法で示すのは、恐怖すべきことだ」と、付け加えるのだった。
八住利雄は引き下りはしなかった。しかし事面倒と見てか、一方的に論争を打ち切った。九日の『東日』に載った「源氏『禁止』四考――於菟吉氏と打ち切る」の内容は、「僕達は、『第一義的に、絶対的に行動』などはしたことはない。さういふやうな行動を考へることこそ、最も観念的である。僕達は、今度の仕事のためにあらゆる配慮はしてゐる。その配慮の結果が障害にぶつかつたから、その次の配慮をしてゐるのだ」と、弁解ぎみで迫力に欠けた。でも、最後に、痛烈な一矢を放つのを忘れなかった。「源氏物語が『爆弾』になつたら、日本はどの国との戦争にも負けないだらう」は、『源氏物語』の上演で日本人の頭の中身が変えられるようだったら、というふうに考えられるのである。
三上・八住の応酬で知られることは、三上の言語が明瞭であるのにくらべて、八住のそれに翳りがあることである。思うにこれは、思想対策が厳重になってきた時ではあり、うっかり本心をさらけだして口実を与えたくない、という配慮が働いたものだろう。そういう点で、三上於菟吉は言いたい放題言えたのに対し、八住利雄は止むをえず口ごもった、と見たいのである。
ただ、ここで見過してならないのは、八住利雄の論争打ち切りの一文が出たほかならぬ十二月九日に、『源氏物語』の改訂脚本不許可の通告があった事実である。警視庁が彼らの応酬に注目したであろうことは、考えられうるところである。しかし、勘案したのはそれだけではなかった。菊池寛の発言なども、意外な作用を及ぼしていたかもしれぬのである。すくなくとも三上於菟吉にとって、菊池寛の発言は、有力な側面援護の役割を果したにちがいないと思われるのである。
菊池寛は、十二月四日(三日夕刊)の『報知新聞』掲載の感想「大阪ビルから」の中で言っていた。菊池寛によれば、ちょっとした思いつきで『源氏物語』を上演したからといって『源氏物語』に何も加えず、原作を曲解させるのがオチ、なのだそうだ。表向きは、「警視庁の芸術に対する干渉は歎かはしいが」とは言いつつも、続けて、「しかし今度のことは、日本古典の純潔さを、保護するためからいつても、意義のある禁止である」と、文壇の大御所は言い切った。
菊池と同じような見解を直木三十五も新聞に述べていた。これは禁止が最終決定となったあとの発言だが、「『源氏物語』が坂東簑助や、番匠谷英一の手で、衣裳劇以上に見られたら『源氏』は下らない文学だ。やつてみるのもいゝが、禁止されたとて、少しも惜しくない」(十二月十二日『報知新聞』「回顧と近事・『源氏物語』の問題その他」)。これは、三上や菊池に符節を合せたかのように取れるであろう。そう思って間違いなさそうだ。
脚本の出来という点では正宗白鳥なども文芸時評で不満をもらしてはいた。しかし筆者が、これを執筆するにあたって読んでみたところ、捨てたものではない。ちなみに『日本近代文学大事典』を開いてみたら、番匠谷英一の項を担当した今村忠純は、この脚色に触れて、「やや平板ながら原作の味わいをそこなわず人物の理想化をこころみ抒情性にとむものだった」と記していて、わが意をえた。脚本への不満は、『源氏』を尊重しすぎてのことからだったろう。戦後の劇化、映画化、アニメーション化の現実にてらして眺めるとき、やはり隔世の感をいなめないのである。
ところで、三上・八住論争がたけなわのころ、藤村作も新聞に感想を述べていた。しかし八住支援のためではない。よって、修羅場の助太刀にはなっていなかった。掲載紙が『九州日報』だったということもある。どうして『九州日報』かといぶかって調べてみたら、藤村作は福岡県柳河の出身だった。十二月六日の同紙に載った「『源氏物語』上演禁止に就て」は談話かとも思われるが(とくにその記載はない)、紫式部学会の立場が察知できると思うので引用しておこう。上演禁止を千秋の恨事としながら、藤村作は言うのである。「我等はこの禁止に関して、当局の意見を質したが、そのために我等の所信を飜すに足るべき何ものをも発見することは出来なかつた。よつて我等の方から十分に所信を披れきして見たが、不幸にして又当局の態度を更めしめることは出来なかつた。然し其際当局が源氏物語の文学価値については十分にこれを認むること、及び日本文学の研究はこれを尊敬して、寸毫もこれにせいちうを加へんとするの意志を持たないことの言明を得た」云々。
藤村作にとっては、『源氏』研究の自由を確保することの方が大事だったようである。もっとも、正宗白鳥でさえ「この物語も、官憲の目で仔細に調査されたら、上演禁止どころか、発売禁止となるかも知れない。普通人にはわからない昔の文章だから、わからないながらに有難がられてゐるのだ。知らぬが仏だ」(一九三四年一月四日『東京日日新聞』「評論家として(三)」)と述べているくらいだから、発売が禁止されないのみか、研究が許されただけでも、もっけの幸いだったわけである。藪をつついて蛇を出す愚は避けるにしかず。
さんざんな目にあったのは新劇場である。上演の夢を断たれた関係者は、十二月十五日、舞台用に新調した衣裳、大道具などを、茅場町清水ビル内に陳列して識者の観覧に供し、これを以て「源氏物語葬」とした。衣裳その他の費用は、当時の金額にして一万二、三千円というから、今日なら数千万円の損害ということになる。最初の禁止通告のあった晩の会合で、坂東簑助が男泣きに泣いたというのも当然といえよう。かくして『源氏』爆弾は不発に終った。そうして日本は戦争に負けた。
以上の経過を見てきて、筆者の逢着した疑問は、次の二つに絞られる。
一つは、三上於菟吉、直木三十五、菊池寛に見られる見解の共通性である。なかんずく三上や直木は、それ以前から陸軍の少壮軍人らと接触していて、既に一つの方向をたどりつつあった事を想起したい。直木三十五はこの時期、体力的に弱っていたに違いなく、三上於菟吉ほどの元気はなかったが、なお、大衆文壇における影響力には絶大なものがあった。そこに眼を付けたのが松本学である。文芸院の設立かと噂された松本学とこれら文士との会合は、意外に早かった直木の死(一九三四年二月二十四日)によって潰え、その香煙の中から文芸懇話会が生れた。菊池寛が直木をしのんで直木賞を設けたことは、有名すぎる。
筆者の疑問の二つ目は、『源氏物語』の上演禁止に、内務省警保局の関与があったかどうか、である。管掌はちがっても、警保局と警視庁とは「つうかあ」の間がらである。しかも問題は、松本学に関係の深い文化、学芸分野の出来事だった。「関与」はともかく、これに関心のあったことは事実だったろう。よって、以上の疑問は二つにして一つ。因果ないまざって、非常時文壇の素顔を垣間見させてくれるのである。
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第八章 文芸家慰霊祭一景
――水蔭に舞ひ絡みてし老孤蝶
文芸家慰霊祭が決まったのは、斎藤内閣総辞職の前月、すなわち、一九三四年(昭和九年)六月二十七日夜に開かれた懇話会の席上においてだった。同夜の協議事項は、文学賞金の件、文芸記念館設立の件、純文芸長編小説執筆中の生活保証の件、文芸家遺族慰安ならびに救済の件、検閲問題、などであった。協議の結果、さしあたって文士慰霊祭を催すことが具体化した。
内閣総辞職に伴なって松本学も警保局長を辞めた。実をいうと、辞める必要はなかったのである。というのは、こういうことがあった一九三四年三月、それまで自由任用だった警視総監、内務省警保局長、貴衆両院書記官長は、官制の改正で資格任用になったため、内閣の更迭で辞表を提出する必要がなくなったからである。つまり、これで身分は保障されていた。だから松本警保局長が斎藤内閣に殉じたのは、従来の慣行に付き合ったに過ぎなかった。普通なら、松本学は横滑りで勅撰の貴族院議員になれるところだったが、なぜか彼は、この時はずされた。人情として、文芸懇話会の席上で松本学に接した会員にすれば、いささか淋しいことでもあった。慰労会の話は、そういうところから持ち上がったに違いない。
松本学を慰労する会が芝の紅葉館で持たれたのは、同年七月十六日夜のことだった。十七日の各紙は、それぞれ次のように報じている。「文壇のお歴々/松本警保局長の/労をねぎらふ宴」(『報知新聞』)、「文芸懇話会松本氏への感謝宴/和やかな風景」(『中外商業新報』)、「松本さん感激/文芸懇話会の生みの親に/文士連が謝意の集ひ」(『読売新聞』)、「松本前局長を/慰める会/昨夜文芸懇話会の文士連が」(『都新聞』)等々。警保局長が文士から慰労されるなどは、まったく前代未聞の出来事だった。取り締まる側が取り締まられる側から感謝されたのである。秋声・藤村両長老の間に席を占めた和服姿の松本学は、ご満悦だった。政治家でも、文士などと席を共にすることは、きわめて希れだったのだから。強いて例を探せば、一九〇七年(明治四〇年)、時の宰相西園寺公望の文士招待(雨声会)に対する返礼会を文士側が設けた時のみ。しかしこれは、「慰める会」というのとは違っていた。違ってはいたが、松本慰労会には往時を思い起こさせるものがあった。なぜなら、西園寺に対する返礼会も、この時と同様、芝の紅葉館で催されていたからである。二十七年前、同じようにして紅葉館に足を運んだ秋声や藤村の瞳には、過ぎ来し方の険峻が映っていた。
当夜の松本慰労会に出席した人々の名前を記しておけば、主賓の松本学のほかに、島崎藤村、徳田秋声、菊池寛、山本有三、上司小剣、佐藤春夫、広津和郎、岸田国士、豊島与志雄、三上於菟吉、吉川英治、白井喬二、中村武羅夫等。気になるのは、内務省から図書課長のほか、二人の事務官が出席していることである。われわれを素直にさせないのは、そういう事実があったからである。
とは言いながら、もし松本が、警保局長の威力を振りかざすだけの男だったら、いくら何でも慰労会の話などは起こらなかっただろう。それなりに文芸への理解を示してくれた役人、という印象を、松本が与えていたことは事実だった。それに、従来の慣例からすれば、貴族院議員に勅撰されていい筈の松本が、どうしたことか、勅撰に漏れた事への同情も手伝っていた。それゆえ、一九〇七年(明治四〇年)における西園寺への返礼会とは、まったく事情を異にしていたのである。憶測を逞しゅうすれば、検閲問題などを考慮して、この際、いくらかでも、当局との対話ルートを確保しておきたいとの思惑が、文士側にあった。そう考える方が自然かもしれない。
いずれにしても、警保局長を辞めた松本学は、こうして一介の浪人となった。彼が内務省を離れたことで、外見には、文芸統制の背景が稀薄になったかに思われたが、文芸懇話会の牛耳は執り続けた。それが、日本文化連盟の主宰者たるものの使命でもあった。したがって、懇話会のプログラムには、いささかの変更も加えられなかった。そのことは、松本慰労会の席上、宴に先立って、文芸家慰霊祭・遺品展覧会の件が協議されている事実で分かるのである。詳細が決まったのは八月二十三日の委員会においてだった。推進役は、松本学、白井喬二、山本有三、佐藤春夫、近松秋江らで、実務には神代種亮が当たった。
わが国はじめての物故文芸家慰霊祭は、こうして、予定どおり、一九三四年(昭和九年)九月一九日午後三時から日比谷公会堂で催された。おりからの秋雨は、故人を偲ぶにふさわしい一日に思われた。だが、この雨が関西一帯に大被害をもたらした室戸台風の前兆だったことは、後で分かったことである。雨にもかかわらず慰霊祭には多数の文壇人が出席した。それに不思議はなかったが、遺族の参列には、改めて涙を誘うものがあった。北村透谷、徳富蘆花、田山花袋らの未亡人、岩野泡鳴最初の夫人、直木三十五の令嬢、竹久夢二の遺児などで、なかでも一同を感激させたのは、はるばる弘前から駆け付けた葛西善蔵の遺児だった。森鴎外の令息森於菟がいたことは疑いない。森田思軒の女婿白石実三は遺族席にいたが、柳浪を父とする広津和郎は主催者席にいたと思う。胸に造花を付けて川端康成は、遺族接待係を務めていた。生家が神職だった上司小剣は、祭式係にさせられた。適材適所というわけである。この日、尾崎紅葉の令息と斎藤緑雨(妻子がなかった)の令弟は病気で不参だった。なお、当日の参会者は、一般を含めて千名内外と伝えられている。
文学に関心のなかった松田文部大臣は、政務次官を代理に出しただけだったが、内務省からは唐沢警保局長が来ていた。これは、どう理解したらいいだろうか。唐沢俊樹が松本学の後任という理由だけなら理解に苦しむ。松本学が個人の関係で声を掛けたと考えられなくもないが、検閲問題で何かと文士と関係があったため、と見るのが至当だろう。とすれば、さんざん文芸家を苛めてきた側の代表である。いわば加害者が被害者の葬式に出たようなものだ。これで、故人の霊は慰められるのだろうか。慙愧の念からの敬弔とすれば殊勝なこと。だが、そんなことは万々有り得ない。このように見て来れば、物故文芸家慰霊祭は、欺瞞でなければ大いなる滑稽である。しかも滑稽は、日本精神に則った厳かな神式の行事に尽くされた。
式は、修祓、招神、献饌にはじまり、日枝神社宮司の祝詞のあと、祭主松本学が恭しく祭文を読み上げ、次に文部大臣代理の祭文があり、続いて樋口一葉の遺族にはじまる玉串奉奠、そのあと撒饌、昇神、垂帳とあって、式は午後四時に終わった。白装束に冠を被った松本学の読み上げる祭文は、古式床しくだったか知れないが、信教の自由を無視されて神様に祭り上げられる文士こそ、いい迷惑だった。北村透谷は悲鳴をあげていたに違いない。その悲鳴は、島崎藤村には聞こえていた筈である。藤村は、どんな思いで式の進行を見守っていただろうか。承諾なしに招魂された夏目漱石は、苦虫を噛みつぶして耐えていた。霊魂があると仮定しての想像だが。
引き続き、記念講演会に移った。開会の挨拶は島崎藤村。「いま、過ぎ来し方を追懐すれば、幾山河を越えてきた感があります」。謹厳な藤村が訥々と口を切った。ざわついていた会場が水を打ったように静かになった。そのあと、江見水蔭、馬場孤蝶、高浜虚子、長谷川誠一、登張竹風、白井喬二、小島政二郎、佐藤春夫らが登壇、こもごも追憶談を披露した。閉会は六時で、閉会の挨拶は徳田秋声。この間、司会を兼ねた藤村が、講演者の代わる度毎に、コップの水を取り替えたり、時計を見ながら時間を注意したり、まめまめしく動いて聴衆の感動を呼んだ。六時から同会場内で食事と休憩があり、七時から講談「島千鳥月の白浪」一龍斎貞山、朗吟「啄木作その他」(赤彦五首、子規六首、節七首、啄木八首)吉村岳城、落語「吾輩は猫である」柳家小さん、所作「鏡獅子」市川翠扇・杵屋栄蔵、演奏「青葉茂れる」とつづいた。つまり、これで、恵まれない遺族の心を慰安したというわけ。で、万事めでたし、めでたしだったが、講演のことでは意外なハプニングが発生して興を添えた。
事は江見水蔭と馬場孤蝶との間で持ち上がった。この日、水蔭はよほど気分が良かったものと見える。彼は硯友社のために弁じた。硯友社の戦友は明治文壇の戦場で名誉の戦死を遂げたが、自分のような雑兵が生き残った、こんな立派なお祭をしてもらえるのなら、自分も早く亡くなった方がよかった、などと笑わせたあと、硯友社は山頂の原始林の近くまで文学を開拓した、しかし原始林は残した、それを伐採してしまうと、航海の標識は取り払われ、洪水の原因がつくられる、そのため硯友社は一歩しりぞいた、ところが、この原始林に手を付けたのが自然主義だった、と水蔭は述べてきて、飛躍した。「つまり硯友社は国家のためを思ったのであります」。あえて注釈するならば、山頂の原始林とは、国家の意思、あるいは旧来の道徳を意味する。自然主義は、そこに踏みこんだ。だが、硯友社は、そこまでは踏みこまなかった、と言うのである。時局向けの発言とも受け取れた。
「黙って聞いていれば、いい気なものだ」。馬場孤蝶は、そう心の中で思った。ここは文学のために斬り死にした『文学界』の僚友のためにも、反論しなければならなかった。孤蝶の番がきた。孤蝶は壇に舞い上った。「ただいま江見さんの言われたことは、ちょっと、どうかと思われます」。彼は続けた。「われわれは国家のことを考えて文学をやったのではありません。食えなくても、苦しくても、ただ、書きたいから書いたまでのことで、それが今日認められているに過ぎないのです」。
この時、孤蝶の眼前には、透谷や一葉の姿がちらついていた。そして、然り、緑雨斎藤賢の最期が。筆一本に人生を託し、華々しく世間と戦った緑雨も、貧乏と病気には勝てなかった。病床を訪れた孤蝶に、「いよいよお別れだ、ながながどうもお世話になってありがたかった。少し頼みたい事があるから」と言って、出版予定の一葉日記の返却を依頼するあたりの様子を、孤蝶は次のように伝えている。
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私はそこで、確かに受合つたと言つて、暫時黙つて居つた処が暫くして気の毒だが筆を執つてくれぬかと云ふのです。そこで筆を家の人に出して貰つて何だと言つたら、例の新聞に出た広告文で『僕本月本日を以つて目出度死去致候間此段謹告仕候也四月日緑雨斎藤賢』といふのを書いて置いて呉れといふのでした。(中略)それから暫くすると、『愈々今夜当りは家の者を寄せて、所謂裏家の葬式の順序立てをする積りだ』と言つて寂しく笑つた。私は何でも話せ、腹蔵なく話すがよろしい。書き留むべき事は書き留めて置くから、遠慮なく云へと言つた処が、此の期に及んで何も言ふべき事はない、たゞ死あるのみであると云つた。(『明治文壇の人々』「斎藤緑雨君」一九四二年十一月、三田文学出版部)
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この翌々朝、緑雨は息を引き取った。痛烈な風刺からは想像できないくらい、静かな死だったという。一九〇四年(明治三七年)四月十日のことだった。火葬場まで、隅田川べりを付き添って行ったのは、幸田露伴、与謝野寛、馬場孤蝶に、親類縁者が三、四人。「天の模様は雨を含んで居り、草は露を含んで居る、その中を分けて吾々が寂しい柩を護つて行くのは、あたりの景色のハデヤカなのに相対して、吾々どもには寂しい何とも言へぬ感じがしました」(前掲書)と馬場孤蝶は記している。
実は、文芸家慰霊祭の最中、こんな場面があった。全員起立して神主の祝詞を聞いているのに、祭壇の脇に腰を掛けていた馬場孤蝶は、うつらうつら眠っていた。周りがハラハラしていると、その気配で胡蝶の夢から覚めたふうの先生、立とうか立つまいか一瞬迷ったが、結局、そのまま最後まで座り通してしまった。舞台の正面だっただけに目立ったようである。しかし、孤蝶老いたりと言えども、会衆の面前で眠りこけるほど老いたわけではあるまい。神前に拝礼するいわれを感じなかったのである。だから立たなかったのだろう。いまさら妥協して何になる。自由民権論者馬場辰猪と血を分けていたという以上に、生ける化石になりつつあった明治文人の、稜々たる気骨を感じないわけにはゆかないのである。
水蔭は乗りに乗っていただけに、お気の毒だった。殊に、この勝負あったり、が歴然としていただけに腐ったようである。『自己中心明治文壇史』の著者らしく、自己中心に硯友社のために弁じたところへの横槍だったのだから。水蔭も孤蝶も共に一八六九年(明治二年)の生まれで、水蔭が三か月早い六十五歳。平均寿命の延びた今日の感覚では、まだまだである。なのに人の命は明日を知れぬもの。文芸家慰霊祭のこの日から僅か一か月半で、だれに祭られるというでもなく、水蔭は忽然と世を去り、残る孤蝶も、それから数年後に、天上の星と化すのである。こうして文壇の生き証人は消えて行く。それにしても、この日この時、眠れる蝶の舞いなくんば、明治文学史の真実は、訂正されぬままに終わっただろう。それは、一匹の老蝶が、水の蔭に揺らめいただけだったかもしれない。秋の日の残照に輝く、淋しくも悲壮な舞いだった。それを記憶に止めんとて月並み一句。――水蔭に舞ひ絡みてし老孤蝶(老蝶は秋の季語。秋の蝶、とも)。
しかし、事はそれだけで終わっていない。文芸家の祭壇に祭られた者と、そうでない者とがいて、この祭典の政治性を印象づけていたからである。日本主義を奉ずる御仁が祭主であれば、小林多喜二が外されるのに不思議はないが、小林多喜二を除外したことには、外野席の一角からブーイングがおこっていた。
そうかと思うと、選ばれたのに遺品の提供を拒否されたのがある。これについては永井荷風が、『断腸亭日乗』同年九月十六日の条を以て説明に代える。「帚葉子の談に、三越開催文芸家遺品展覧会に三遊亭円朝のものを出すがため、泉鏡花氏は先師紅葉山人の遺品は落語家のものとは同列には陳列しがたしとて出品を拒絶せしと云ふ。鏡花氏の褊狭笑ふべし」。帚葉子は荷風日記にしばしば出てくる人物で、帚葉山人すなわち神代種亮のことである。よって、この話の信頼性は高い。若かりし日、落語家を志して三遊亭系の高座にも上がったことのある荷風にとって、鏡花の偏狭は度し難かった。なお、この遺品展には荷風も出品を依頼されている。鴎外関係の品かと思われるが定かでない。そのため、九月二十三日の午後、三越まで見に行っている。
物故文芸家遺品展覧会は、二十日から二十七日まで、日本橋の三越本店で開催された。慰霊祭には約二百名が祭られたが、遺品展は四十九名にかぎられた。小規模の個人展を別にすれば、これだけの遺品展は、もちろん、わが国初めての事だった。前段でも一言した人選の可否は措くとして、こういう展覧会が、文芸を国民の側に引き寄せた功績だけは、認めてよいだろう。折りからの「文芸復興」気運に乗って、明治文学再評価の動きを促進したと思うからである。これを機縁に、物故文芸家の遺品を収集して、行く行くは文芸記念館を建設しようという意向などは、いつの間にか立ち消えになってしまったが、今日、各地のデパートや文学館で、年に何度か、作家の回顧展が催されているのを見るとき、隔世の感を抱かざるをえないのである。
めいめいの心に、不遇にして倒れた友人の無念が惻々と伝わって来ていた。正宗白鳥が平尾不孤を追懐した一文などは、文士慰霊祭によっても慰められない薄幸の文士への、鎮魂の賦として読めるのである。「死せる明治以来の文学者の慰霊祭が行はれたことについてふと思ひ出されたのは、平尾不孤の薄倖な生涯であつた。明治以来、文学に志した者は何千人あつたか何万人あつたかわからないが、そのうちで、『慰霊』される資格のある者は数十人に過ぎないのである。戦争で死んだのなら『無名戦士』の墓だが、文壇では、『無名文士』には追懐の好意も寄せられないのであらうか」と書き出す白鳥は、妻に逃げられ肺を病み、京都での最後の下宿も追い出され、二条城の塀にもたれて泣いていた貧乏文士の手紙を紹介する。不遇にして世間を呪詛し、米塩の資を求めて後輩の白鳥に小説の新聞掲載を依頼する手紙は、「剣に倒れし人には金鵄勲章あり、筆に倒れし人には何の酬いかある。緑雨は陋巷に窮死して、世のこれを見ること、一士官の死にも及ばず」、で結ばれていたそうである。日露戦争の最中だっただけに、手紙の含意は深い。人それぞれに、さまざまな思いを起こさせた慰霊祭だった。前記の文章を白鳥は、こう締め括っている。「平尾君には遺族もなく、慰霊祭にも加へられなかつたが、多数の文学志望者は、つまりは平尾組なのであらう」(「物故文人の手紙」。初出は一九三四年十一月号『早稲田文学』、引用は福武書店版『正宗白鳥全集』第二七巻に拠った)。さりげない言葉に、真実がこめられている。
参考までに、追慕展覧会に遺品の展示された作家名を、没年順に挙げておく。河竹黙阿弥、北村透谷、樋口一葉、森田思軒、正岡子規、高山樗牛、尾崎紅葉、落合直文、斎藤緑雨、小泉八雲、福地桜痴、川上眉山、国木田独歩、二葉亭四迷、山田美妙、大塚楠緒子、石川啄木、押川春浪、長塚節、上田敏、夏目漱石、塚原渋柿園、柳川春葉、蘇曼殊(河井宗之助)、島村抱月、須藤南翠、岩野泡鳴、饗庭篁村、森鴎外、有島武郎、黒岩涙香、大町桂月、小栗風葉、内藤鳴雪、島木赤彦、渡辺霞亭、芥川龍之介、村井弦斎、徳冨蘆花、葛西善蔵、若山牧水、広津柳浪、小山内薫、内田魯庵、田山花袋、巌谷小波、嘉村礒多、直木三十五、横瀬夜雨、以上。
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第九章 文壇五勇士の陸軍特別大演習観戦
物故文士の霊は慰めた、遺品の展覧会も開いた、では、生ける文士に何があったろう。何もありはしない。あったのは、相も変わらぬ検閲と相も変わらぬ貧乏だけだった。文芸院に擬せられた文芸懇話会が出来たとて、文士の生活は少しも良くなっていない。ちょっぴりでもいい、会員だけには何か特典が与えられてもいいのではないか。期せずして、そんな声があがっていた。
松本学としても、自分の顔の利くかぎり、そういう要望を満たしてやりたいと思っていた。ここで汗を惜しんだら男が廃る、と彼は直感した。そこで動いて実現したのが、正倉院の拝観と、陸軍特別大演習の観戦および軍艦「三笠」の見学などだった。こういう機会は文士風情には簡単に与えられなかったので、成果を聞いた文士は勇躍した。文士慰霊祭のあった一九三四年(昭和九年)秋の事である。ちなみに松本学は、京都、福井両府県にまたがる前年の陸軍特別大演習では、警備の総指揮に当たっている。大演習観戦組は、佐藤春夫、吉川英治、三上於菟吉、白井喬二、菊池寛といった塩梅だった。
正倉院拝観も大演習観戦も、希望は希望として、すべては上からの許可でなされた。正倉院拝観組は『読売新聞』によると、徳田秋声、正宗白鳥、広津和郎、宇野浩二の四名。記事によると、拝観の資格として、学芸および技芸に相当な経歴ありと宮内省が認める者とあったところから、宇野浩二は、履歴書に何十という著書をクソ真面目に記入し、今さらのように懇話会関係者を驚かしたという。ゴシップ記事ゆえ何ともいえぬが、白鳥はこの時に行ったかどうか不明。翌年秋の拝観については、感想を書いているので間違いはないが。正倉院が一般国民に開放されていなかった頃の話である。だが、正倉院の宝物見学を特定の有識者に許したのは、これが初めてではない。たとえば、一九二九年秋には、田中智学、香取秀真、北原白秋、前田曙山、河野桐谷、灰野庄平、永見徳太郎らが、礼装に身をかためて宝庫に入っているのである。こういう前例に照らせば、文芸懇話会会員にたいする恩典も、特筆するには当らないだろう。
正倉院の拝観は十一月三日からだった。そして、正しくこの日、江見水蔭が講演先の松山で、急性肺炎を引き起こし、忽然と世を去ってしまうのも、事が文芸懇話会につながっているだけに、奇しきことに思われる。一方の陸軍特別大演習の方は、十一月十一日からだった。ここでは、時局を反映して、国家と文学者、戦争と文学者とについて考えさせる一つの演習課題として、陸軍特別大演習の周辺、ならびに文士の戦争へのかかわりの道筋を観察しておきたい。
その前に、一応の知識として、陸軍の編成から略述しておこう。陸軍の最小単位は中隊で、その兵員は平時で約百名、戦時で約二百五十名(さらに小隊に分かれ、小隊は分隊に分かれた)だった。平時においては通常、三個中隊で一大隊、三個大隊で一連隊を成していた。連隊は独立の兵営を持ち、天皇から軍旗を授与されるなど、最も重要な組織とされた。大佐が連隊長を務めるのが普通だった。二つ、または三つの連隊で一旅団を成し、二ないし三の旅団を以て一師団を成した。おおむね少将が旅団長、中将が師団長だった。日中戦争(盧溝橋事件)開始までは十七の師団(内地に一五、朝鮮に二)を以て帝国陸軍は構成されていた。満州事変(柳条湖事件)までは内地の一個師団が交替で満州に派遣されていたから、内地の常備兵力は十四個師団。ところが、満州事変以後は四、五個師団が満州へ行っていたので、内地には十個師団くらいしかなかった。ちなみに現在の陸上自衛隊は十三個師団である。明治以来、師団増設問題が内閣の命運を決めるなど、師団の増減は、国防の問題であると同時に、国家予算編成上の大問題だった。
演習にもピンからキリまであったが、陸軍特別大演習では四個師団が、南北または東西の二軍に分かれ、これに航空隊、戦車隊、高射砲隊、野戦重砲兵隊、騎兵旅団などが参加した。とりわけ「特別」の二字が付けられたのは、単に規模の大きさだけからではない。大元帥陛下である天皇が統裁(または統監)したからである。ゆえに、観戦は天皇に従って観ることを意味する。当時の表現では、これを「陪観」と言った。つまり、わが文壇五勇士は、陸軍特別大演習の陪観の栄に浴したのである。
ついでに、いますこし付け加えておくと、陸軍特別大演習は、明治以来、めったに挙行しなかったが、一九三一年(昭和六年)以後は毎年十一月中旬に挙行されるのが常だった。この時期が選ばれた理由としては、農家の収穫が済んだ後で少しくらい田畑を荒らしても大目に見られることと、除隊を前にした二年兵の総仕上げに当たっていたことなどが考えられる。新兵の入隊時期を冬場にしたのなども、農閑期を考慮してのことだった。農村に深く根を下ろしていた軍隊として、兵士の供給源である農村の事情を無視できなかったからである。ちなみに、海軍特別大演習は、洋上だけに夏場に行われた。
そういう訳で、一九三四年の陸軍特別大演習は、十一月十一、十二、十三の三日間にわたり、北関東一帯で展開された。想定は、仙台地方を根拠とする東軍と、富山地方を根拠とする西軍が関東平野の領有を争う、というもの。東軍は阿部信行大将を軍司令官とする第一(東京)、第二(仙台)師団、西軍は荒木貞夫大将を軍司令官とする近衛(東京)、第十四(宇都宮)師団が基幹。大本営は前橋市の群馬県庁に置かれ、ここから錦旗は両毛の野に進められた。参加将兵五万は、群馬、栃木、埼玉、茨城の四県下に集結、戦機いたるを待つことしばし。かくて、十一日早暁、戦端の火蓋は切られたのである。と、古風な表現で書けば、何とも物々しいが、何のことはない、簡単にいえば、兵隊ゴッコに過ぎない。だが、それは六十年の時を経た観察で、当時としては、やはり、血湧き肉躍る大演習だったのである。十月一日に陸軍パンフレット「国防の本義と其の強化の提唱」が出た後だったので、それだけに内外の視聴を集めていた。
ついでに両軍の軍司令官を紹介しておくと、阿部信行と荒木貞夫とは陸軍士官学校では第九期の同期生。真崎甚三郎、本庄繁、松井石根と逸材の輩出した豪華版組だった。中でも、阿部信行が陸軍省軍務局長、陸軍次官、無任所大臣(陸相代理)と昇進してきた軍政家であるのに対して、荒木貞夫は陸大校長や陸軍大臣を務めはしたが、参謀本部課長、参謀本部第一部長(作戦部長)と参謀本部で暮らした軍令家で、二人は好対照だった。阿部信行は後に総理大臣になったし、荒木貞夫は皇道派として二・二六事件の黒幕とされたが文部大臣に就任するなど、いずれも軍国日本をリードした人物である。
そういう大物を配しての演習ゆえに、文壇の大御所菊池寛や佐藤春夫、『鳴門秘帖』で大衆文学に独自の地歩を確立した吉川英治、今でこそ忘れられたか知れないが、『富士に立つ影』の白井喬二、『雪之丞変化』の三上於菟吉らが勇躍、観戦行に連れ立って行った気持が分かるのである。それも、日頃の無頼とは裏腹に、乙女のごとく、服装などにも気を遣って。はじめは、平服で良い、となっていたのが、どこからそうなったのか、急にモーニングに決まって「さて、帽子は何にするか」など彼等は慌てた。ソフトにしたものか山高帽にしたものか、それともシルクハットにしたものか、洋服にしてからが着つけない彼等にとって、これは難問だった。集まってみたら、電話で相談できた白井、三上、吉川の三人は黒のソフト帽、佐藤は山高帽。一日遅れで参加した菊池寛も、わざわざ十七円の山高帽を買ってくるほどの気のつかいようは、勅任官扱いに感激したためだろう。
いずれにしても、彼等は、忙しい執筆の時間を割いて、しかもモーニングを着用してまでして、陸軍特別大演習陪観の栄誉に与かったのである。しかも、勅任官なみに扱われてのことだから、気持の悪かろう筈はない。小説の材料を求めてではなかった。もちろん、文士特有の好奇心があっての事には違いなかったが、彼等をそういう所へ駆り立てずにはおかなかった緊迫した日本の状況に思いを致さずにはおれないのである。同時に、そういう好奇心が愛国心とない混ざって、従軍作家へと続いて行く道筋を考えない訳にはいかないのである。彼等の物した中学生の作文もどきの観戦記が、数年後に輩出する戦記物の先駆けとなっていなければ幸いとしよう。
そこで以下しばらく、佐藤春夫をのぞく四名の作家が、それぞれ新聞や雑誌に寄せた観戦記の一端を、一人ずつ見ておきたいのである。
吉川英治の「載筆観戦行」(『東京朝日新聞』十一月十二、三、四、五、六日)は、こう書き出された。「十州の秋は今、錦旗のうへに、錦旗の下に、集まつてゆく。軍国の動脈を太く、帝都の心臓部から赤城山麓までの百余マイルを、僕等書斎の蒼生もまた、戦雲を趁つて、載筆の観戦自動車を疾駆してゐるのだ。(中略)白井、三上の両氏を乗せた前の自動車が、高崎市の四ツ角で、キヤンといつた。パンクにしては変な音響だと思つたら、タイヤの下から茶色の子犬が横ツ飛びに逃げた。載筆観戦隊第一の犠牲者である。思ふに、勇士三上於菟吉、先頃京浜国道で自動車の災厄にかゝつて今日も右手を繃帯して従軍してゐるので、その鬱憤を犬にはらしたのかも知れない。後続自動車の中で佐藤春夫氏がつぶやいていつた。『あの自動車が衝突いたしますと、大衆文学は全滅に近いでありますね』」。第一日は砲声を聞かず、兵隊の影も見えず、一同、空しく伊香保の旅館に引き上げている。ついでに書いておけば、陪観者は前橋、高崎、伊香保と分宿したが、五文士の宿所は伊香保の千明《ちぎら》旅館。徳冨蘆花の小説『不如帰』で武夫と浪子が愛を語らった縁の場所である。ここを文士の宿舎としたのは、軍人らしい気の利かせようといえよう。もっとも、川島武夫は海軍士官だったが。
伊香保での一夜が明ければ、翌日は戦場である。吉川英治はその一場面を、こう記している。「丘だと見えてゐた偽装タンクや、草と見えてゐた甲鉄自動車が、地殼を削つて、驀走する。戦車の音、機関銃の音、野砲の音、そして、時折、銀翼をひくゝ斜げて地上を掃射する両軍の爆撃機に、地も天も、咆哮しないものはない。大元帥陛下には、その時、神流川の仮橋の上に、天皇旗を立てさせられて、烈風の中を、御マントも召させられずに御野立あらせられた。(中略)この日の感激は、たゞ一語にして尽きる。よき男の子一人を生まば、僕等といへども、天皇陛下のおん前に、一兵を捧げたいと思ふことであつた」。
馴れない靴で足にマメの出来た吉川英治は、仲間とはぐれ、夜おそく宿舎にたどり着くと菊池寛が来ている。となれば、行き着くところは決まっている。「キミ、一局」で、勝って一局、負けて一局の時が過ぎる。近代戦の用兵を将棋に応用したつもりの吉川英治だったが、「勝敗は、こんどの大演習と同様に、講評所の想定にまかせる」としか書いていない。
明けて第三日目、いよいよ決戦場に臨むのである。菊池寛は、十一月十四日の『東京日日新聞』に、肉筆サイン入りで一文を寄せている。「御野立所はとても眺望のいゝ所である。前面には赤城が美しいスロープを見せてゐるし、榛名が左手に見える。三国峠らしい越後境の山は、雪で銀色に輝いてゐるし――伊香保を出たのは四時半だ。僕は、朝起きは平気だが、昨夜吉川英治の下手将棋のお相手を七八番もして一睡もしなかつたので少し眠いが、高崎へ近くなると暗い街路に見物の人達が、ゾロ/\動いてゐるし、タンクや輜重隊等もゐるし、小学生徒等も歩いてゐる」。交戦場面の描写など菊池寛には苦手らしく、「実戦ではかうは簡単ではあるまい」とか「演習だから仕方ないんだらう」とか、いくぶん、冷ややかな見方をしている。
その点、将棋には負けたか知れないが、吉川英治の筆の方が冴えている。戦いが最高潮に達すると遠望だけでは我慢できず、将校の誘導で山を下りる場面は、「近眼らしい佐藤氏や、あの無性つたい菊池氏ですら、団子みたいに駆けて、騎馬兵の叱咤を食つたり、もう敵以外には眼も見えないやうな顔つきの歩兵の銃剣に、あぶなく、何度も転びかけた」と迫真的。兵隊にどやされながら、佐藤春夫や菊池寛がウロチョロ駆けずり回っている風景は、漫画としか言いようがないようだ。
吉川英治の文章に出てきたように、三上於菟吉は、その夏の交通事故で右手が不自由だった。そのため、観戦記は記者と向かい合っての口述となる。これは『読売新聞』に、十一月十二、十三、十四日と載った。全体として散漫な印象に終わっているのは、口述のせいだろう。でも、天皇に触れたところでは、気配りを見せている。また、そこに、こういう観戦記の宣伝効果が期待されていたのだろう。「天皇旗はためくところ、すなはちいつもわれらの魂の、生きかつ死ぬところだといふ森厳な心理に、誰か流涕を禁じ得るものがあるだらうか」といったような所である。
白井喬二は雑誌『維新』に観戦記をおくった。一九三四年(昭和九年)十二月号(第一巻第二号)の「大演習印象記」がそれである。これは凝って、伝書鳩便で送っている。しかも、自身のスケッチ入りで。だが後便は伝書鳩が届かなかったため、中途半端。白井喬二の観戦記に前三者と違うところがあるとすれば、戦闘状態そのものよりも、兵器とか戦術のあり方に興味があったらしいことである。そのことは、「戦争の深味、滋味は、実にこの後方部隊の機動機構にあるのである。高等戦略は、科学的にして芸術的でさへある」などと記していることで分かる。
ところで、せっかく山野を駆け回りながら、佐藤春夫だけが観戦記を書かなかったのはなぜだろう。新聞社や雑誌社が、しつこく付きまとった筈なのに。答えは簡単である。要するに、佐藤春夫には書けなかったのである。こういう文章は性に合っていなかった。いや、性に合う合わぬの問題でなく、書こうにも書けなかったのである。自然主義作家だったら、それなりに物し得たでもあろう。だが、佐藤春夫には出来なかった。室生犀星などにしても、書けない口だったろう。珍しいことではない。しかも佐藤春夫には、中学生時代の苦い体験がまつわり付いていた。
佐藤春夫の中学卒業は一九一〇年(明治四三年)で、春夫たちは日露戦争(一九〇四〜五年)の、いわば戦後派だった。戦勝国の戦後派だから、一般の中学生の間には、勇壮活発の気風が漲っていた。その頃、春夫が在学した和歌山県立新宮中学では、卒業を前にして、発火演習を実施していた。二小隊ずつ東西にわかれての演習で、春夫は西軍の副官を務めている。そして、一九一〇年(明治四三年)三月発行の校友会会誌に「発火演習の記」と題した一文を載せているのである。しかし、全体の三分の一以上は、こういう文章は書けぬ、と次のような言い訳。
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幾度か筆を執つたけれども発火演習の記は出来ない、未来の文豪を以て自任する僕と雖これには大に手こずらざるを得なかつた、其理由は色々ある、第一に僕の未来の文豪に似合ず文才のすくないこと、それから僕早くから老成して仕まつて感激しやすい少年の心を大分失つて居ること、それから今まで僕が文を草するとき恐ろしく誇張することが嫌ひであつた癖、これらのものが邪魔をして自分で満足するやうな文を作れば他人が満足せぬ、他人に満足させようと思へば自分で満足出来ぬ、高がこんな文章の一つ位どんなに書いたつてよいぢやないかと云ふ人もあるだらうが僕はどうしてもその気になれぬ、斯う思つて何も作らずに居るうちに印刷所へまはさなければならぬから今日中に作つてこいと云はれた、僕は風邪を引いて咽喉が痛くて寝て居たので今更一層狼狽したが仕方がない、其当日其場で書きつけたノートから裁判の判決書を見たやうな控をそのまゝ写して責を塞ぐことにした、結局、自分にも他人にも満足出来ぬもので間に合さなければならぬことになつた、茲にその理由を正直に書いて平に読んで呉れる諸君に御断をする、血湧き肉躍るやうな快文字に到つては僕の代りに中筋君が行列をさせて居る筈である。
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佐藤春夫は、血湧き肉躍る文章を書けぬ理由をこう綴ったあと、お義理のように、裁判の判決書もどきの報告を作った。それは、前記引用文よりも短い文章で出発から帰校までを記し、その後に、指揮官、副官、小隊長、分隊長の名前を付し、西軍の想定と当日の注意事項を箇条書きしたに過ぎなかった。その昔の苦い思い出が昨日のように残っていたので、佐藤春夫は観戦記執筆を拒否した、と考えたいのである。
それはそれとして、時が移ればこころも移る。一九一〇年の佐藤春夫は一九三四年(昭和九年)の佐藤春夫につづいたかもしれないが、一九三八年の佐藤春夫は一九三四年の佐藤春夫を引きずっていなかった。この四年は、ただの四年とちがっていた。一九三七年七月、日中戦争が開始されると、文壇人の身辺は俄かに慌ただしくなった。その端的な現れを、一九三八年秋の文壇人従軍(ペン部隊)にみるのである。内閣情報局の肝いりで、作家と陸海軍の中堅将校との会合が持たれ、ペンによる従軍報国が立ちどころに実現したのだった。文芸家協会会長の菊池寛が一部作家に呼び掛けて結成している。ちなみに、この時、第一陣として従軍した作家名を挙げておこう。
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陸軍側――浅野晃、尾崎士郎、川口松太郎、片岡鉄兵、岸田国士、久米正雄、佐藤惣之助、白井喬二、滝井孝作、富沢有為男、中谷孝雄、丹羽文雄、林芙美子、深田久弥。
海軍側――菊池寛、北村小松、小島政二郎、佐藤春夫、杉山平助、浜本浩、吉川英治、吉屋信子。
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これを皮切りとして、戦争の拡大と共に、多数の文壇人が志願で、応召で、徴用で、次々と従軍した事実は、個々のケースも異なるので、いっしょくたに書く訳にもいかない。よって、本題に戻って言えば、整理しておきたいことは次の三つ。
一つは、かの陸軍特別大演習を観戦しながら観戦記を書かなかった佐藤春夫の、その後の変貌をどう見るかについて。一九三八年(昭和一三年)九月の『大阪毎日新聞』をみると、『東京日日新聞』と共同で、「文壇部隊従軍報告」を十七文人に委嘱し、「散文に詩に、あらゆる視角からの観察を続々掲載」するとの予告を顔写真入りで出し、予告をたがえず従軍記を続々掲載した。だが、佐藤春夫のだけは、遂に出ないのである。だが佐藤春夫は、すでに、他の文人に伍して戦争の感懐を述べていたし、この時も、実は、出陣の決意を託した詩「一詩人が従軍の志を言へる賦」を『文芸春秋』十月号に寄せ、同誌十一月号に「江上日記――従軍第一信――」、『改造』十一月号に「戦禍――従軍詩集のうち――」を書き、『東京朝日新聞』に「広東陥落を祝ひて」の詩を送っている。観戦記というのとは違ったか知れないが、かつては重かった筆も、なめらか鮮明、いちじるしい変貌を示した。このへんは、作家の全体像を掴むためにも、きちんと抑えておきたいところである。
いま一つは、戦争文学における純文学作家と大衆作家との姿勢である。それらの間に、違いがあったか違いがなかったか、である。あったとすれば、どういう点においてだったか、今後の課題となろう。一応のヒントまでに、菊池寛が「話の屑籠」(一九三八年十月号『文芸春秋』)で、ペン部隊の顔ぶれを見て言った次の言葉を拾ってみた。「大衆作家が多いが、結局観戦の結果が、直接作品に現はれるのは、大衆作家である。純文学の作家が、戦争の小説を書くためには、一月や二月の従軍では何にもならぬと思ふ。純文学の戦争小説は、火野君の例もある通り、結局第一線将士の中の文学的素質のある人から起るのではないかと思ふ。結局いくら第一線に近づいても、戦争を見たのでは、戦争小説は書けないのではないかと思ふ。戦争をするのと見るのとは、結局劃然たる相違があると思ふ」。前段と後段とで論点の移動があるが、参考とはなろう。
最後は、この第二点と関係するが、陸軍特別大演習の観戦行に参加した文壇五勇士の四人が、いずれもペン部隊に参加しているという事実である。このことの意味は、演習観戦行が従軍作家行への予行演習でもあった、ということである。少なくとも、結果的に、そうなっていた。ただ、三上於菟吉の名がペン部隊にみえないのを不思議に思う人がいるかもしれない。これについては、『日本近代文学大事典』(萱原宏一執筆)の記述に譲ろう。そこには、こう書いてある。「昭和九年夏自動車事故の予後不注意から余病を併発して健康すぐれず、ついに一一年七月脳塞栓で倒れた」。交通事故の後遺症が軽く見られていた時代の事である。大演習の観戦に出かけざりせばの感、なきにしもあらず。
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第一〇章 孤立国日本の一九三五、六年危機説と文化擁護の問題
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人間の判断のためには、世間と繁く交わることから、驚くべき明察が得られます。我々はいずれも自分のうちに閉じこもっております。視界は狭くて鼻の長さを越えません。人がソクラテスに向って「どこの者か。」と尋ねましたところ、「アテネの者」とは答えないで「世界の者」と答えました。
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[#地付き](関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』第一巻第二六章)
中じきりの意味で、この時代の状況を展望しておこうと思う。文学も時代の状況を離れては存在しないからである。さしあたって、大所高所から物を言うことになる。明治天皇は西園寺公望を評して、「西園寺は世界の大勢から説かねば気が済むまい」と言ったというが、ここでは西園寺流で行く。よって、瑣末はひとまず粗末にされる。
まず、今日の昭和史研究でも問題として顧みられることのない一九三五年の危機、あるいは一九三六年の危機の喧伝された事実を知っておこう。たとえば、一九三五年(昭和一〇年)一月一日の新聞「社説」の一節には、こう書かれていた。
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三五・六年の危機が叫ばれる中に、まさに西暦三五年の危機を迎へたのであるが、危機を危機とせざるところには、危機が存するであらうけれども、既に危機を知り危機に備へるの用意があり、しかして、更に金剛不壊の覚悟があるならば、おそらく危機は避けられるのみならず、却つて転禍為福の天啓が恵まれるのである。
[#地付き](『中外商業新報』「昭和十年を迎へて」)
両三年来、「国民緊度」の目標にされて来た一九三五年が、遂に来たのである。皇紀二千五百九十五年といはずして、西洋紀元の一九三五年を用ゐる所によつても、それが国際危機を意味してゐることを知るのであるが、果して本年において国際危機が襲来するかどうか。
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[#地付き](『東京朝日新聞』「一九三五年来る」)
このほか、『東京日日』『読売』『都』その他の各紙も、何らかの形で一九三五年の危機に言及していた。では、両三年来、いかなる理由で一九三五年の危機が叫ばれて来たのだろうか。
危機の根本には、三三年三月二十七日に国際連盟を脱退したのが、二年後の三五年三月二十七日を以て実質的に効力を発するという事実があった。したがって、危機の到来は、二年前から予想はされていたのである。しかし、いたずらに国民を不安にしないよう、また出来るなら国際関係の緊張を和らげる方針から、政府の方では宣伝を控えていたのであるが、一部の軍事評論家あたりが騒ぎだして、三三年の秋頃からジャーナリズムで取り上げられるようになって来ていた。中でも圧巻は『経済往来』三三年十月増大号が、「危機! 一九三六年」の特集を組んだことだろう。
たしかに日本の国際連盟脱退は日本が文字通り国際的に孤立することであって、資源を外国に依存しなければならない日本にとっては、それが直ちに経済封鎖につながらなかったにしても、容易ならない事態を迎えたことになる。しかし、一九三五、六年危機説の背景には、それに付随する多くの問題があった。もともと危機説といったようなものは、その時になってみれば、何も起こらなかったといったことが多く、大体において、民衆心理の操作に使われるのが常だが、いちいち理由を挙げて説明されると成るほどと思わせるところを持っている。また、それらの観察は、論者によって微妙に異なっている。以下、そのいくつかについて検討してみよう。
論者の一人橋爪明男は、これを四つの視点から分析している(前掲『経済往来』「一九三六年の危機」)。要約すれば、こうなるだろう。
第一点は、連盟脱退完了に伴う南洋群島委任統治の問題。わが国の南洋委任統治返還については、連盟脱退通告当時にもあったので、これが脱退完了となると、より現実味を帯びて迫って来る。とくに米英からの主張は、より真剣味を以て迫って来る。もし、日本をして南洋群島を放棄せしめるならば、米国艦隊の太平洋渡航は容易となり、戦わずして日本を屈服せしめることが可能である。逆に言えば、南洋群島の軍事的価値の重要性を十二分に知っている日本としては、断じて、これを死守しなければならないのである。さらには、わが国の商品販路としても南洋は重要性を増して来ている。
第二点は、中国の抗日運動である。北支における停戦協定成立の裏には米英両国公使の勧説があった。その際、米英側は南京政府の要人に対し、今は一応日本の主張を容れよ、いずれ一九三五年(昭和一〇年)の軍縮会議に満州事変以来の諸懸案を清算してやるから、その時まで対日抗争の準備をせよ、と言ったというのである。以来、アメリカは、中国の空軍増強に技術的にも経済的にも援助を惜しまず、中国もアメリカとの日本挾撃をたくらんでいるというのである。
第三点は、アメリカの軍備拡張。日本の満州侵略に抗議するため各国協調の経済封鎖が実行困難と知るやアメリカは、ロンドン条約で許容された最高の海軍力を造出し、年来の東洋政策である日本攻略の理想的陣型と言われる渡洋円陣の完成を急いでいる。もちろんアメリカの目的は中国市場への進出であるが、いずれにしても、日米海軍力の差は、一九三六年あたりを以てピークに達するだろうと見る。
第四点は、三五年末の第二次ワシントン軍縮会議。アメリカは、この会議において、ロンドン条約延長の可否を初めとし、委任統治問題、満州問題等の最終的解決を迫ってくるだろう。日本としては、ロンドン条約の延長は受け容れることが出来ないし、その他の要求にも応じられるものではない。かくして、第二次ワシントン会議が、三六年の危機の峠となるだろう。つまり、三五年に始まる危機の実質は三六年に現実のものとなる。
大体、これが共通の見方だった。だが、論者によっては、さらに、いくつかの視点が加えられる。たとえば池崎忠孝などは、一九三六年頃になるとソ連の第二次五か年計画が完成することによるソ連邦の国力の日本にとっての脅威を警告した。同時に、南方においては、シンガポール海軍根拠地の完成によるイギリス艦隊の極東進出を挙げて警告した(一九三三年十一月二十一日発行『京都帝国大学新聞』「一九三六年の危機」)。また論者によっては世界のブロック経済化による戦時経済の必然性が説かれるなど、危機の予測は軍事面だけではなく、政治経済の全般にわたって考察されていた。
以上でわかるように、いわゆる一九三五、六年の危機とは、太平洋をめぐる国防の問題だったのである。より高い世界の展望台に立って眺めるなら、ナチスの政権獲得による影響の測定の方が世界危機の実相に迫れたはずなのに、わが論者の視野には入っていなかった。というよりも、わが危機論者にとってナチスの動きは、否認されるべきものとしてよりも、同感すべきものとして映っていたからである。
由来、危機意識なるものの醸成は、何かの魂胆があってのことである。この場合の魂胆は、国民精神の振興もさりながら、本当の狙いは、国防予算の増額要求にあったと言うべきだろう。もちろん、軍部の要求である。一九三四年(昭和九年)十月一日に陸軍省新聞班が配布した陸軍パンフレット「国防の本義と其の強化の提唱」などは冒頭、「たたかひは創造の父、文化の母である」など打ち出し、明らかに戦争賛美に道を開いていた。ところが、政党政治は幕を閉じても一部政党人の正常な政治感覚はまだ生きていて、彼らは農村疲弊を理由に国防予算の増額に反対した。すると、軍部および右翼周辺は、これを以て軍部と民衆とを切り離す「軍民離間策」として盛んにその非を鳴らした。こう見てくると、一九三五、六年危機説は、対外問題であるよりも、結果的には、国内問題だったのである。
忘れぬうちに記しておくと、陸軍パンフレットについては美濃部達吉が、一九三四年十一月号『中央公論』に、「陸軍省発表の国防論を読む」を書いて批判した。また「日本文化連盟とかいふ団体から、陸軍省発表の国防論を礼讃し支持する多数諸氏の意見をのせたパンフレツトを寄贈せられた」という書き出しで美濃部達吉は一九三五年一月号の『経済往来』「一頁時評」に書いた(「日本文化連盟のパンフレツト」)。それによると、日本文化連盟の論者は、戦争を賛美し挑発するかのごとき陸軍パンフレットが帝国の国是に反するとした美濃部の警告には直接触れず、「唯僅に私が陸軍パンフレツトの中に『国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義思想を芟除』せねばならぬとあるのを反駁して、国際主義や個人主義、自由主義の思想は、適当の限界内に於いては健全な思想であり、又我が国是の存する所で、決して芟除せらるべきものではないと述べたのに対し、軍部の主張は決して国際主義、個人主義、自由主義の思想そのものに反対する趣意ではなく、唯其の国家を無視する思想だけに付き之を芟除すべしとする趣意であるとして弁解せらるるに止まるのである」「日本文化連盟が若し私の推測して居る如く学者の集まりであるとすれば、無理な苦しい弁解を以て、強ひて軍部主張を弁解せらるるよりは、かういふ誤を正し、以て国民思想の健全な発展に努力せらるる方が、一層其の本分に適する所以であらう」。
わざわざ引用してみたのは外でもない、日本文化連盟については前にも触れたし、今後も触れる予定なので、その正体、性格につき一応念頭に置いておきたかったからである。
それにしても美濃部達吉は単なる講壇憲法学者ではなかった。大日本帝国憲法の最良の部分を活かすべく努力した闘士だった。その一例を陸軍パンフレット批判や帝人事件の取り調べにおける人権蹂躙の発言に見れば分かるだろう。もちろん、そういう姿勢は日本主義者にとって好ましかろうはずはなく、一九三五年二月に始まる天皇機関説攻撃の一斉砲火を浴びるのである。こうして言論の灯は次々と消されていった。そして三六年に入ると二・二六事件が起こっている。結果論かもしれないが、いわゆる三五、六年の危機とは対内効果において著しかったのである。
むしろ、三五、六年の危機が現実のものとして迫っていたのはヨーロッパにおいてだった。その何よりの証拠を三五年十月に始まるイタリヤのエチオピア侵略(伊エ戦争)と、三六年七月におけるスペイン戦争の開始に見るのである。第二次大戦に至る人民戦線と国民戦線(あるいはファシズム)との対立による欧州動乱の構図は、すでにして出来上がっていたのである。こうした背景の中で三六年(昭和一一年)十月に独伊枢軸が形成され、次いで同年十一月の日独防共協定が調印されるのだった。
このような状況を前にして、いかなる態度を知識人はとっていたか。ヨーロッパの場合のようにファシズムの国々と人民戦線(フランスでは三六年六月に人民戦線内閣が成立)が直接境を接するのと違って、わが国の場合などは、そのへんの緊張感に大きな隔たりがあったと言わねばならないだろう。ナチスの暴力的な文化弾圧に比べると、日本政府の文化統制などは、各省間の連絡も不十分で、やたら検閲や発禁で押さえることはしたが、どこか抜けたところがあって、一九三五、六年の危機が喧伝されたわりには、文芸懇話会や帝国美術院の改組(後述)に見られるように、一貫性に欠けるところがあった。その分だけ文化が見くびられていたと言えばそれまでだが。
この点、西欧の文化感覚は違っていた。国際連盟は一九三二年以来毎年、知的協力国際会議を設け、知識人を招集、文化と人間精神とについて省察してきた。ヴァレリーの活躍で知られているが、日本ではヴァレリーが議長を務めた三五年四月の知的協力国際会議議事録『現代人の建設』(一九三七年六月二十八日、創元社、佐藤正彰訳)で、その一端が明らかになったものの、出版直後に勃発した日中全面戦争突入のため、一部の関心を集めたに過ぎなかった。しかも、総じて、知的協力国際会議のテーマは哲学的、文明論的で現実の課題に即応するとは言いかねた。
問題はファシズムの嵐にどう抗するかにあった。三五年六月、パリで開催された国際作家会議こそは、文化の擁護とファシズム反対のスローガンを掲げて現実の課題に対処するものとしてあったと言うべきだろう。アンドレ・ジイド、ジュリアン・バンダ、ポール・ニザン、ルイ・アラゴン、アンドレ・マルロー、オルダス・ハクスリー、ベルトルト・ブレヒト、マクシム・ゴーリキー、イリヤ・エレンブルグなどの発言は、小松清編『文化の擁護』(三五年十一月一日、第一書房)で、その詳細が伝えられた。だが、これより以前に国際作家会議の模様は、第一書房の雑誌『セルパン』九月号、ナウカ社の雑誌『社会評論』九月号によって速報されている。また、京都から若い知識人によって発行されていた『世界文化』なども会議について情報を知らせてくれていた。
ところで、この文化擁護のための国際作家会議には二十八か国の代表二百数十人が参集しているが、わが国からは一人も参加していない。招請状すら発せられていなかったのである。それだけに一部の心ある作家・思想家にとって、文化擁護の会議は羨望と感動とを呼び覚ました。『社会評論』十月号は、「文化擁護国際会議に就ての諸家の感想」を掲載したが、一様に文化擁護の必要性を痛感している。中には林房雄のように、会議に集まった堂々たる作家への羨望のあまり、「ゴールキイやジイド級に行かないまでもオルダス・ハツクスリイ級の作家に早くなつて見たい、人類に貢献したと自信する作品を自分で持つてゐないと『文化擁護』が少々恥しい。日本文化擁護運動が起らぬのは作家が皆文化なんか日本にないと思つてゐるか、または僕のやうに自分の作品はみんなつまらない、低級な商品だから、擁護運動を起すのは恥しいと考へてゐるからでありませう」といった、取りようによっては、いじけた感想もあったが。
他に前記『社会評論』から諸家の感想のいくつかを拾ってみよう。葉山嘉樹――「日本の作家が国際的地位から取り残されてゐるやうに淋しく考へられる。少くとも合法的に堂々と会に出かけ得る諸外国は羨しいと思ふ」。戸坂潤――「感想は多面的。まづ第一に記事を見て行く内に得られた久しぶりの感動。真理を愛することを知る文学者が日本以外には、如何に多数生存してゐるかといふ感嘆。フランスの一部の文学者への人的信頼。そして日本の『文芸懇話会』! 日本の文化インテリ諸君、諸君の『勿体』振りはもう充分拝見した!」。舟橋聖一――「文化統制とは一に知識階級統制案に外ならぬと考へますので、知識階級論の新しき確立が必要であり、日本の進歩的なインテリゲンチヤ運動として拡大してゆくことが最良と思ひます」。壺井繁治――「今度の文芸懇話会の島木健作除外問題などを手近なキツカケとして、これを進歩的な作家、インテリゲンチヤの全問題として正しい文学、文化の発展を擁護すべき運動を起すのもよいと思ひます」。
この時期、学芸自由同盟は開店休業どころか店仕舞いの状態で、それの再興を望む声はあっても、中心となるべき勢力はなく、わずかに行動主義文学論が、ラモン・フェルナンデスやアンドレ・マルローの影響で花を咲かせていたが、それも行動以前の論議に花を咲かせたのみで徒花に終わっている。作品として、舟橋聖一の「ダイヴイング」、芹沢光治良の「塩壺」、豊田三郎の「弔花」にその痕跡を認めるだけなのも淋しかった。それにしても知識人文学として、行動主義・能動精神が世界文学への志向を示した試みは、徒花は徒花なりに、一つの抵抗の姿勢を示したと言って言えなくはないだろう。
声だけで連帯を求めても得られるものではない。参加への意思と行動を示さなければならない。成立に至る経緯は省略するとして、日本ペン倶楽部が島崎藤村を会長に発会式を行ったのは三五年(昭和一〇年)十一月二十六日だった。設立趣意書ともいうべき文書の一節に、「もとよりこれは小さな民間の仕事であります。しかし世界の人の間に伍して種々国際的な文学上の連絡をとり、相互親和の助けともなり得るなら、長い孤立から私達を救うことも出来ましょう」(引用は『日本ペンクラブ三十年史』より)とあったが、これは日本文学の置かれた状況を正直に告白したものといえるであろう。
また、前記の引用文からも分かるように、日本ペン倶楽部は、民間のものとして生まれた。このことは文芸懇話会の場合と同様に、当然のことながら、資金の出所への疑問となって出てくる。これについては野口冨士男が『日本ペンクラブ三十年史』に書いている。それによれば、費用は大倉財閥の二代目当主大倉喜七郎が出している。大倉喜七郎は島崎藤村のファンだったのである。その時の金額は二万円とも三万円ともいわれている。また大倉は、その後も年間一万五千円出していたということである。はじめは、柳沢健が外務省から資金を出させようとしたらしいのだが。
野口冨士男は前記『三十年史』に書いている。「はじめは、創立の斡旋者という立場から外務省が金を出そうとした。といっても、それは柳沢自身があいだに入って、外務省から引き出そうとしたという程度のものであった様子だが、そういう動きが見えたとき、島崎藤村と徳田秋声の二人に、そんな金をもらうとあとがこまると反対されて、クラブは辞退した」「喜七郎は父喜八郎の事業を受け継いだ大倉財閥の二代目社長であったから、実業家には相違なかったものの、数学の大家である一方、自身が案出したオークラロという楽器の作曲もしていたというような、学究肌の趣味人であった。したがって、島崎との関係も単なる実業家と文筆家の間柄ではなく、彼が金包みに『敬意』と記したことには、崇拝する文豪への尊敬の念と、島崎にそのオークラロ作曲の原詩を執筆してもらったことに対する謝意――つまり原稿料という意味合いがふくまれていた」。こう述べてきて野口冨士男は、こう総括した。「大倉個人によって私財が投ぜられたことは、戦前の日本ペンクラブの幸運であったし、戦後に引き続くクラブの歴史に汚点をのこすことからまぬがれ得た原因の最も大きな一つであった」。
大倉喜八郎が明治の末年に石橋思案を通じて文学賞金を出したことについては拙著『明治文芸院始末記』でも触れてある。その文学賞金は今日のものと比べると似て非なるところがあったが、出し方に気っ風の良さがみられた。二代目喜七郎にも同様の態度が見られた。芸術におけるパトロネージの好もしい形を見るの思いがするのである。
島崎藤村が静子夫人同伴で有島生馬と共にアルゼンチンで開催された第十四回国際ペンクラブ大会に、海路出発したのは一九三六年(昭和一一年)七月の事である。九月に開会された大会の時点では、すでにスペイン戦争がはじまっていて、ジュール・ロマンによる世界平和の維持にかんする呼び掛けには切実なものが感じられた。日本の代表は、この国の置かれた状況にもかかわらず、評判は悪くなかったようである。一九四〇年の東京開催(オリンピック同様、戦争で実現しなかったが)を提案して承認されたことなどにその一端をうかがうことが出来るだろう。藤村夫妻は大会後、アメリカからフランスを回ったりして、三七年一月に帰国している。
一九三五、六年の危機が唱えられた反面、日本の作家たちによる世界への連帯が、はかなくも根気強く試みられていた一面を記憶にとどめておきたい。それはともかく、三六年の危機は一応切り抜けた。しかし、気が付いてみたら海軍無条約時代に入っていた。国防の充実で待っていたのは増税による国民の苦しみだったのである。
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第一一章 帝国美術院の改組で落花紛々
わが国の文学は政府の保護など受けずに今まで来たのだから、このままに放っておいて欲しいとは、明治の末、文芸院の下準備かと騒がれた西園寺公望の雨声会や、桂内閣の文相小松原英太郎が主導した文芸委員会で聞こえてきた文士の偽らざる声だった。
この声は、美術家が政府の保護を受けて来たことに対する皮肉とも受け取れる。その美術家の間ですら、政府の保護を受けた者と、そうでない者との間に相違があったことは、国家と芸術との関係を複雑にさせずにはおかなかった。同じ美術家でも、西洋画に比べ、日本画の方が遙かに優遇されていたということもある。雨声会のあったころ、文部省は美術展覧会を画策していた。一九〇七年(明治四〇年)に開設された文展がそれで、設立の当初から紛糾の種を抱えていたことについては、拙著『明治文芸院始末記』でも触れた。一口に言うならば、問題は流派の違いと新旧世代の対立で、これらが審査の情弊となって現れていた。
日本画で言うならば、文展には、日本美術院の岡倉覚三(天心)を中心とする国画玉成会が参加したのに対し、旧派は正派同志会を作って美術協会展覧会を開催し、文展に対抗していた。その後、岡倉覚三没後の文展機構改革で、審査員を外された横山大観や下村観山らは、一九一四年(大正三年)、日本美術院を再興し、官展としての文展に拮抗するかのようだった。院展(日本美術院展)がこれである。もちろん、洋画でも反官展の在野団体が気を吐いていたが、今のばあい、文展と絶縁した横山大観について記憶しておこう。
文展は一九一八年まで十二回、文部省の手で開催されたが、鑑・審査をめぐるトラブルや運営上の問題があって改革の声は絶えず、一九一九年、勅令によって帝国美術院規程の公布となった。以後は、帝国美術院(帝院と略称される)が展覧会の運営に当たるのである。したがって、文展は帝展と呼ばれるようになった。そして、一九三五年(昭和一〇年)五月の改組に至るのである。この間、院長は、初代の森林太郎(鴎外)から黒田清輝、福原鐐二郎、正木直彦へと代わっている。ややこしいのは、在野の日本美術院展覧会が院展と呼ばれていたため、帝院の帝展と混同されやすいことである。院賞と言う場合などは、一層まぎらわしい。
帝国美術院が出来ても官展の弊は変わらなかった。陳列する壁面の限られる会場芸術のばあい、作品は選別されなければならない。神のように公平な第三者が判定するならともかく、人間のすることである。公平であろうとしても、そこに感情が付きまとう。人は情実から自由でありうるか、という問題に答えるのは簡単でない。甲乙つけがたい作品が目の前に並べられたとき、人は何を基準に選ぶだろうか。まず考えられるのは、それが自分の芸術観に合致するかどうかである。次は(と言って、こう順序どおりに行くわけではないが)、制作者と自分との関係である。で、この二つを括れば自派の人間に、おのずから落ち着く。そうでなくてさえ党同伐異の露骨な世界である。ここにおいて情実は、時として正義の代名詞とさえなる。義理人情の支配する封建的人間関係にあっては、この傾向は自然として受け入れられた。それが、とりわけ濃厚だったのが、帝展日本画部においてだった、というわけである。
一例を挙げておこう。一九二九年十月十八日の『東京朝日新聞』は、「情実に囚はれた/帝展日本画の特選/神聖なるべき審査を度外して/未曾有の多数推薦」の見出しを掲げ、一般入選、特選が異常に多かった事情を説明して言っている。「一度会員審査員の顔ぶれを見、また特選作家との関係をたどる時は情実に囚はれて妥協の結果こゝに至りしことは明かで従つて作の良否よりは勢力権衡上かく多数に選ばざるを得なかつたものと見られてゐる」云々。こうして無鑑査組が量産された。同年十月二十一日の『万朝報』が「言論」欄で、「無鑑査出品が次期の帝展出品者の傾向を誤らせる」と述べたのも、入選のみを事とする帝展型マンネリズムの横行を予想できたからである。他の部門も大同小異の事情にあったことは、例えば一九三一年十月十五日の東朝紙に、「特選鑑別の裏に/動く感情問題/もつとも甚しい第四部(工芸)/帝展の権威に係る」と出ている事実などで分かるが、なんと言っても日本画だった。こういう状況は、一時は反省されても、なかなか無くならず、むしろ年々ひどくなるように思われた。
人間のする事である。感情が入らないほうが不思議ともいえる。情実は、ある程度、やむを得ないのかもしれない。困るのは、情実のもたらす弊害だろう。これを称して情弊という。昔は情弊という言葉があった。すくなくとも昭和三十年代まではあった。念のため『広辞苑』第一版を開いてみた。[情弊]情実による弊害、と出ている。消えたのは第二版からである。つまり、一九五五年(昭和三〇年)から一九六九年までの間に消えたのである。言葉の敗者復活戦は無いらしく、それは再び浮かび上がってこない。よって、新収一万五千項目、総収録項目二十二万余を誇る第四版にも載っていない。言葉は時代と共に変遷するから、単純な複合語の整理される理由は分かる。それにしても、整理した言葉の一覧表があったら便利、と思うのは余談で、情弊の事実が消えたわけでないだけに、そんなことを、ふと考えてみた次第。
先を急ごう。ところで問題は、鑑・審査の情弊だけではなかった。これも結局は会場芸術の限界と言っていいかと思うが、多数の作品のなかで審査員の注目を引くためには、それ相応の工夫が必要である。そのために展覧会目当ての、型にはまった帝展式が横行した。創造の意欲とは別に、新奇の技巧だけを競うようになる。その著しい傾向が、日本画の厚塗りだとされた。日本画が洋画の影響をうけて技法に変化をもたらしたのには、それなりの意味があった筈である。しかし、時代が時代だっただけに、それは日本画の伝統破壊、ひいては日本の伝統否定につながるものと考えられてきた。折りからの日本精神の高揚で、こういう考えが美術界にも浸透してきた結果が、帝国美術院改組の懸案と結び付いて出て来たのである。
時の文部大臣松田源治が、帝国美術院の改革案を閣議に出して了承されたのは、一九三五年(昭和一〇年)五月二十八日だったが、そこに至るまでには、議会で次のような質疑応答が行われていた。議会というのは、第六十七回帝国議会(一九三四年十二月二十六日〜三五年三月二十六日)のことで、二月八日午前の衆議院予算第二分科会において、政友会代議士大口喜六は、松田文相に対し、帝展に出品される日本画について大臣はどう思うか、と質問しているのである。以下は、その時の速記録による。
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松田国務大臣
私ハ余リ絵ノコトハ知リマセヌケレドモ、素人トシテノ直覚ハ余リニ、何ト言ツテ宣シイカ、絢爛ニシテ妙ナ絵ガ出テ居ル、斯ウ云フコトハ私ハ余リ宜イコトデハナイト思ツテ居リマス、余リ華ヤカニ、綺羅ビヤカニ過ギタヤウナ絵ガ出テ居ルト云フコトハ、是ハ考ヘモノデハナイカト考ヘテ居リマス、ソレニ付テ帝展ノ方ノコトニ付テモ考ガアリマスケレドモ、素人デモアルシ、能ク分リマセヌガ、私ノ直覚シタ所デハ余リニ眩シイ、何ダカ分ラヌヤウナ絵ガ出テ居ルト云フコトハ、甚ダ不愉快ニ思ツテ居リマスガ、サウ云フ点ニ向ツテハ考ヘテ見ヨウト思ツテ居リマス
大口委員
其素人考ガ宜イノデス、素人ガ見テ感ジルコトガ本当ナンデス、(中略)私モ素人ダカラ正シイ積リデアルガ、是ハ文部大臣ト同感デス、ト云フノハ私モサウ云フ風ニ見ル、アナタガ絢爛綺羅ビヤカニ過ギテ居ルト御覧ニナルノモ、素人眼トシテハ達見ダト思フ、実際技巧ニ進ンデ精神ニ欠ケテ居ルト思フ、帝展ノ絵ヲ見ルト、サウ云フ感ジガ強イ、私ハ美術ニ対スル見識ハ一体西洋人ハ日本人ヨリ低イト思フ、幾ラ値段ノ高イ物デモ、日本ノ絵ノヤウナ風韻ハ洋画ニハナイト私ハ断言スル、ダカラ今ノ絵ハ西洋人ニ見セルニハ丁度宜イ、所ガ真ノ古来ノ日本ノ大精神ヲ以テ、有ユル文化ヲ通シテ我ガ日本ノ帝国ノ大文化ヲ建設シタ大見地カラハ、段々遠ザカツタモノニナツテ行ク、技巧ガ益々巧ミニナツテ、精神ニ欠ケテ来テ居ル、是ハドウ云フ訳ダカト云フコトヲ私ハ考ヘタイ、之ニハ帝展ト云フモノヲ余程根本カラ、御改革ナサラナケレバイカヌト思フ
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大口喜六の見解に対し文部大臣は、日本文化の西洋文化に比べて優れている点を挙げ、「私モ帝展ノコトニ付テハ考ヘテ居リマス、ドウカ其点ハ御諒承ヲ願ヒマス」と述べれば、大口委員「ドウモ文部大臣ハ素人デハナイヤウデスナ(笑声)ソレデハ大キニ安心シテ大改革ヲ為サツテ下サレルヤウニ御願シテ、今ノ質問ハ打切リマス」となるのである。一体、素人が良いのか素人でない方が良いのか、この「素人」論議、大いに矛盾していると思うが、いかがなものだろう。
こういう問答には裏があるものである。松田源治が、その止むに止まれぬ日本精神の発露からして、帝展の日本画を改革したいと思い始めたのは、岡田内閣(三四年七月成立)の文部大臣に就任早々からだった。このことは、その年の初秋の院展へ、わざわざ足を運んでいることなどで推測できる。絵画の鑑賞という殊勝な心掛けというより、横山大観との接触を狙っての動きだった。この時期は、「パパ・ママ」の呼称廃止論で松田文部大臣が失笑を買っていた時期と重なる。外国にかぶれ、パパ・ママなどと呼ぶのは止めようではないかと、主張していたのである。
そういう動きに多少なりと関係があるのかどうか、そのあと、滝精一の帝展改革論「帝展と帝国美術院」が新聞に出た(『東京朝日』三四年十一月十五、六、七日)。大口代議士が滝博士の見解に共鳴できたことは、年来の主張と一致したからには違いないが、これには理屈というより心情のほうが先に立っていた。と言うのは筆者の心情からかも知れないが、大口代議士の息子、三人が三人とも、東大の美術科出身で、したがって、滝精一教授の教えを受けていた。なかんずく、すでに故人となっていた長男などは、仏教美術を専攻し、滝教授の副手をつとめていたくらいである。こういう事の諸々の関係が、何かのきっかけで一本の糸に結ばれていくことを、偶然と見るか必然と見るかは別として、あり得る事として考慮に入れておきたいのである。
閣議で承認された帝国美術院の新官制は、勅令第百四十七号として、五月三十一日に公布、その日より施行された。水面下での工作が功を奏しての結果だった。文部省側からの有力画家への接近は、一部に伝えられてはいたが、果たして実るものかどうか、怪しまれていた。それが実現したのである。一番の難物と思われていた横山大観を、日本美術院ごと抱え込むことが出来たので、松田文部大臣は手放しで喜んでいた。当局も読みきれなかったのだが、これには、気難しいと言われながら、人情に脆いと言うか、権力にも弱かった横山大観の性格が与かっていたようである。
では、新官制の内容はどうだったか。端的に言って、従来の帝国美術院規程が帝国美術院官制となって、いわば格上げされている。新旧を比べ大きな違いは、文部大臣の諮問機関だったのが審議機関になったことである。そのほかでは、たびたびの改正で会員数三十名になっていたのが、一挙に五十名とされたことなどがある。なんでもないようで、これが問題だった。これを三点に要約すれば、第一点は、改革を旧会員に諮らなかったこと、第二点は、旧無鑑査の特権を剥奪したこと、第三点は、在野団体から帝院会員が出たこと、である。第一点については、もし諮れば改革の成就は期しがたい、ということがあった。それゆえ問題は、第二と第三とにあったと言うべきだろう。
先にも述べた帝展積年の情弊は、いわゆる無鑑査組の続出をもたらした。しかし、一度は審査員を唸らせた作家も、いつかは行き詰まることがある。そのまま才能を枯らしてしまうことが珍しくない。そういう作家でも、無鑑査であれば、堂々と、凡作を以て壁面を塞げるのである。一方には、帝展入選に希望を託し刻苦精励して報いられない作家群がいる。作品を比べれば、いずれも甲乙つけがたい。のみならず、無鑑査の無気力作品より優れているのである。なのに壁面を飾れない。帝展の質が問われる所以である。それなら、いっそアンデパンダンにでも出すか落選展で意気を示せばいいのに、残念ながら、この国はパリと余りにも離れ過ぎている。要するに、帝展の癌とまで言われた無鑑査作家の整理が急務だった。だが、これを逆に見ると、せっかく手にいれたフリー・パスを、みすみす放す手はない、ということにもなる。既得権で生活の安定を得ている現在、メシの食い上げは御免だ。というわけで、ここから火の手があがるのは必至。改革反対も必死なのである。
主義主張の筋論から言って腑に落ちないのは、在野団体から帝院会員が出たことだろう。アンチ・アカデミズムの旗をかざし、芸術の自由な沃野に飛び立っておきながら、いまさら官展の軍門に下るとは、時世時節とはいえ、情け無さが先に立つ。一同協議の結果、このへんで宗旨を変えようというのなら分からぬことはない。だが、春秋の苦楽を共にした仲間に内緒で鞍替えを果たすのに、かれらは疚しさを感じなかったのだろうか。相談を受けた者と受けなかった者、選ばれた者と選ばれなかった者との間に、感情のしこりが残らぬ筈はない。このことは、普通の常識さえあれば見易い道理だった。
その見易い道理を、辰野隆は実に見易い形で説いた。一九三五年(昭和一〇年)七月号『文芸春秋』に載った「芸術統制是非」がそれである。辰野隆は、発生した美術問題に関する美術家の意見を読み、「官辺の庇護などに頼らず、一人一党の見地に立つて、若し倶に進むのなら、真に気の合つた同志だけで、あくまで、民間の団体として、好むところに淫するとも、楽しみを改め度くない、といふやうな清々しい、潔い主張が一として無かつた事は限りなく淋しかつた」と述べ、国王の庇護なかりせば、モリエールは執拗なる敵のために倒れただろう、と言う批評家ブルンチエールの言葉を紹介しつつ、芸術におけるパトロネージに一定の理解を示して続けた。
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今や、文部省の庇護がなければ画家的商売は上つたりなのだらうか。現文相をルイ大王に擬するほどの茶気はないが、彼は芸術を解し、芸術を統制する知識と趣味と力との所有者だらうか。新美術院の委員等は、新組織への迎合に依つて、自分等の不利益に於ても尚ほ且つ後進の道を拓く精進と思つてゐるのだらうか。彼等は永年の同志から特に選ばれずして、官権に追随して、犬馬の労を致す自由を自分達だけに留保したとしか思へない。
現文相は自ら全く美術が判らぬと、公然と宣言してゐるが、苟くも一国の文相たる者にして、美術、文芸に定見がなければ、文相として芸術統制にたづさはる、資格を疑はれても、致し方があるまい。この事は、現代日本の文化が、而して又、文化に対す政治が欧米のそれに較べて著しく劣つてゐるのを立証する好材料であらう。芸術に関して、何等の理解力も定見もない官権に招かれて、極めて恭順なるアルテイストに、健全なる将来の方針が樹てられるであらうか。
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辰野隆の批判に耳を傾けた美術家が、どれほどいただろうか。「耳が痛い」くらいだったら見込みもあった。だが、目だけが頼りの彼等には、余計な雑音としてしか聞こえなかったのかもしれない。同じ芸術統制に対する姿勢でも、文士と絵描きとでは、こういう点で違っていた。言ってみれば、国家の保護に対する警戒心の有無の違いである。これを裏返せば、当局者にとって、文士は厄介なもの、画家は与し易きもの、という印象となって現れる。統制は先ず美術家から、というわけである。
では、どういう人々が在野から帝国美術院の新会員に選ばれていたか。以下、その所属と氏名を挙げておく。第一部(日本画)では、日本美術院から横山大観、富田溪仙、安田靱彦、前田青邨、小林古径、青龍社から川端龍子。第二部(西洋画)では、二科会から石井柏亭、山下新太郎、安井曾太郎、有島生馬、国画会から梅原龍三郎、春陽会から小杉未醒。第三部(彫刻)では、日本美術院から佐藤朝山、平櫛田中、二科会から藤川勇造、朝倉塾から朝倉文夫、構造社から斎藤素巌。第四部(工芸)では、国画会から富本憲吉。以上の十八名に、帝展委員から会員に格上げされた橋本関雪(第一部)と清水亀蔵(第四部)を加えた二十名が新会員として発表されたのである。
ちなみに、すでに会員となっていた人々は次の通り。西村五雲、西山翠嶂、川合玉堂、川村曼舟、鏑木清方、竹内栖鳳、土田麦僊、松林桂月、松岡映丘、小室翠雲、荒木十畝、菊池契月、結城素明(以上、第一部)、岡田三郎助、和田英作、和田三造、中村不折、中沢弘光、藤島武二、満谷国四郎、南薫造(以上、第二部)、建畠大夢、内藤伸、山崎朝雲、北村西望(以上、第三部)、板谷波山、香取秀真、赤塚自得、清水六兵衛(以上、第四部)。なお、第四部に一名の欠員があったので、改組発表時の会員数は四十九名だった。
院長には、長いあいだ美術畑一筋に歩いてきた正木直彦に代わって、枢密顧問官で法学博士の清水澄が就任した。美術鑑賞に多少の造詣もあったらしいが、一般には異例の人事と思われた。統制の臭みを感じさせたのも無理はない。
新官制発表後の帝国美術院総会は、二週間後の六月十三日から開催されたが、そこに至るまでの間に蜂の巣をつついたような騒動が各会派に持ち上がっていた。まず、そのへんの動きを日を追って整理しておこう。
五月二十八日。院展は「純正なる芸術の進展を図るべき好機会なりと確信」して改組支持の声明発表。
五月三十日。二科会は「発祥以来の盟約に従ひ」会員五氏と訣別するとの声明発表。
六月二日。梅原龍三郎が国画会に無断で新帝院会員となったことから起こる紛乱を予想し、川島理一郎は同会脱退を声明。旧帝展日本画部無鑑査の双杉倶楽部は、新帝展無鑑査の資格を失う者が一人でもでたら、結束して無鑑査を拒否すると声明。
三日。中村研一、石川寅治ら十六名、新帝展不出品の声明。小磯良平、猪熊弦一郎ら旧帝展洋画部無鑑査組六十余名も不出品の決議。
四日。旧帝展第三部の有志、改組を暴挙として文部省に詰問状を提出。同部に属する塊人社でも新帝院否認、不出品の宣言を発表。
五日。国画会は帝国美術院改組に賛成の声明発表。中京では鬼頭鍋三郎ら不出品声明。
六日。旺玄社の不出品声明。春陽会は紛乱に交わるを好まずとして中立を声明。旧帝展洋画部有志、不出品同盟の意思を明確化した第二次声明を発表。
八日。春台美術の有志、不出品声明。
九日。洋画の一般展覧会出品者、先輩の決議に合流して不出品声明。
十日。光風会も総会で改組反対、不出品の声明書を作成。第二部新旧会員、改組反対運動で意見交換。
十一日。南画院では有志が小室翠雲邸に集合、官設展覧会の廃止と帝院が各派各団体を公平に支持助成する最高機関化となるよう主張、容れられざる時は不出品同盟を作ると声明。
十二日。高松宮を総裁とする日本美術協会は改組の趣旨に賛成と決議。白日会は新帝院解消を訴え声明。太平洋画会は信用なき展覧会には不出品と声明。旧帝展会員の懇談会で婉曲に官展廃止、不出品の声出る。第三部無鑑査組有志、新帝院解散要求の声明。日本画の京都派と東京派の有志会合、一致点見られず、問題を持ち越す。
このようにして、六月十三日、帝国美術院初総会は、その第一日を迎えるのだった。
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第一二章 帝院陰々として帝展転々
――悶々の文部大臣
新官制になって最初の帝国美術院総会は、一九三五年(昭和一〇年)六月十三日、上野の東京美術学校会議室にて開催された。予想に反して静かな幕開けだった。嵐の前の静けさだった。
総会の見どころは、まず、展覧会の開催をめぐる議論だった。一九一九年(大正八年)の官制で、帝国美術院は定期または臨時に「美術展覧会ヲ開ク」とあって、帝院すなわち帝展だったのが、松田改組で「展覧会ヲ開催スルコトヲ得」と変わるには変わったが、帝院すなわち帝展の考えを、文部省は変えていなかった。このため、不開催になることを、当局は極度に恐れていた。総会は、先ず、展覧会の開催を決定することを主たる眼目とした。その次は、旧帝展無鑑査組の整理だった。このへんに絞って、総会の経過をたどってみよう。
第一日。東京側旧帝展会員に京都側が同調するのを防ぐため、文部次官、専門学務局長、学芸課長に川合玉堂、和田英作が手分けをして、西山翠嶂、菊池契月、川村曼舟、西村五雲、土田麦僊の五人を朝から説得する。これに対し五人は協議の結果、京都派総帥の竹内栖鳳に相談したところ、東京側と合流に一決。風をはらんだまま、出席会員四十五名で午後二時半過ぎ開会に漕ぎ着ける。型のごとく、文相に次いで院長の挨拶があって議事に移った。一会員から不開催の建議書が持ち出されたが、その前に展覧会規則作成のための特別委員会を各部会で選出して欲しいという議長(院長)の言を了承、部会別に別れて委員の選出に入り、この日は事もなく終了。
問題は第二日だった。総会に先立って特別委員会。これが、午前九時五十分に始まって午後四時三十分まで続いた。選出された各部の委員は次の通り。一部は川合玉堂、横山大観、菊池契月、安田靫彦、鏑木清方(欠席につき小室翠雲)、西山翠嶂。二部は和田英作、石井柏亭、小杉放庵、梅原龍三郎。三部は北村西望、朝倉文夫、平櫛田中。四部は香取秀真、赤塚自得。委員長は和田英作。無鑑査問題を抜きにして展覧会規則の制定は出来ないから、委員会で揉めるのは当然だった。委員会原案は妥協の産物。決定するのは総会である。午後五時過ぎに開会し、原案は決定を見たが、それからが大変。旧会員二十名連署の展覧会不開催建議書が上程され、事態は紛糾した。このへんを十五日の新聞は次のように伝えている。
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東京方不開催派の急先鋒小室翠雲氏は憤然起ちあがつて三十分にわたる長講、不開催演説を試み、つゞいて同じく不開催派の日本画旧会員荒木十畝氏、洋画の和田三造氏、藤島武二氏、彫塑の内藤伸氏ら起つて不開催、或ひは開期延期の熱弁をふるひ京都派の西山翠嶂、西村五雲、土田麦僊の三氏も京都日本画部の浮沈に関する重大問題としてそれぞれ今秋開催延期を力説した、これに対して即時開催派を代表して洋画の有島生馬氏起つて開催賛成演説を試みたが、この論戦に場内全く混乱に陥つて収拾すべからざるを知つた政府側は午後八時三十分一まづ休憩を宣した、この間休憩中院展派の横山大観、安田靫彦、富田溪仙三氏は別室に鳩首協議を重ねる一方、松田文相、添田次官、和田英作の政府側三氏は校長室に洋画部の最強硬とみられる藤島武二、岡田三郎助、和田三造の三氏を招き約三十分にわたつて懇談説得につとめるなど政府軍の狼狽その極に達した……云々。
[#地付き](『読売新聞』)
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総会に臨むや藤島、小室両氏の否開催態度は意外に強硬で、有島氏の開催演説中、小室、藤島両氏は「採決々々」と叫んで、今にも採決の緊急動議を提出しさうな勢ひ! もし採決すれば同夜出席会員四十五名中、否開催派九名、延期派十四名でこちら側は合計二十三名に対して開催派は二十二名なので、こゝに文部当局もあわて出した、そして強硬派切崩しとなつて、最初は無条件で建議案撤回を懇請したが、頑として聴かぬため玉堂、大観両氏に対して当局も遂に延期の外ないとの肚を打明けて諒解を求めた上、強硬派を招いて今度の改組について何の挨拶もしなかつた非礼を詫びたり、展覧会を開かねば予算を返上せねばならず又今後美術奨励の各種費用等も自然消滅して美術界のため悲しむべき結果になると口説き、強硬派の面目も立て延期はするからとて建議案の撤回方を懇請した……云々。
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[#地付き](『東京朝日新聞』)
こういう、すったもんだの挙句、開催延期と引き替えに不開催建議書は撤回された。開催派は、かろうじて面目を保ち、不開催派は、泣き落としに腰が砕けたのである。閉会は実に午前零時半だった。この日に決定した事項を整理すると次のようになる。
一、展覧会の隔年制。初年度は日本画、その翌年は西洋画といった具合に。彫刻は木彫のような日本風のものと塑像のような西洋風のものとに分ける。ただし、工芸は毎年開催。
一、昭和一〇年度の展覧会は年度内(来春三月末まで)に開くこととし、今秋は延期する。
一、無鑑査は会員(五十名)、旧帝展の受賞者(九名)、参与(五十名の枠内で)、指定(百名の枠内で)とし、他の旧帝展無鑑査は今後二回だけ出品できるものとする。参与、指定の人選は各部会で行い、十七日の総会で正式決定される。第二部にかぎって人選の延期が認められる。
さて、総会三日目は十五日で、深夜の疲労にもかかわらず、午前十時半から全員出席の特別委員会。議題は、授賞の件その他。さすがに午後の総会は気の抜けたよう。
十六日。この日は第一部の参与、指定を内定しただけ。
十七日。午前中は第三、四部の参与、指定の部会。午後五時からの総会は簡単に終了。
参与、指定と言っても、結局は人選が問題となる。その数は会員の数で決まってくる。たとえば、日本画の参与は会員数の二十名までは許された。だが、新進のために席を空けておく必要があるので、厳選はやむを得ない。指定の場合も同様である。で、参与、指定には、どういう人々が選ばれたか、その一端を見ておこう。
第一部の参与は十名。堂本印象、川崎小虎、上村松園、宇田荻村、野田九浦、山口蓬春、福田平八郎(以上、旧帝展)、小川芋銭、中村岳陵、木村武山(以上、院展)。指定は二十六名。伊藤深水、徳岡神泉、村上華岳、児玉希望、小野竹喬、榊原紫峰ら。以上の人選に漏れた旧無鑑査七十余名。この中には、望月春江、上村松篁、吉岡堅二らの名前も見える。
第三部の参与は、石井鶴三(院展)ら六名。指定は高村光太郎ら十八名。選に漏れた旧無鑑査三十余名。第四部の参与は三名、指定は十名。選に漏れた旧無鑑査は約二十名。
総会は終わった。嵐は一先ず去った。文部大臣松田源治は、ほっと胸を撫で下ろした。彼は、絵描きなどは他愛ない、と思ったかもしれない。これで晴れやかな挙国一致の展覧会が生まれる、と内心得意だったかもしれない。だが、わが画壇の先生方は、とても一筋繩では行かなかったのである。彼等は闘将だった。彩管に命を託す誇り高き芸術の使徒だった。少なくとも、そう信じて制作に励んでいた。なんで役人ばらに膝を屈しられよう。政府側の強行突破に、うかうか道を譲って後悔した彼等の一団は、平坦ならざる別の道を歩きはじめた。その代表格が「第二部会」だったのである。
「第二部会」は、松田改組に不満を持つ旧帝展の無鑑査組を中心に結成、この年、すなわち一九三五年(昭和一〇年)の秋には、藤島武二らの賛助出品を得て、第二部会展を開催した。しかし、その気概は気概として、動機が彼等の特権擁護に発しているから、いきなり在野団体になったからといって、官展アカデミズムの体質は一挙に変えられるものではなく、旧帝展洋画部の示威運動たるにとどまった。それだけに、最初から絵画運動としての永続性を欠いていたのである。これに比べれば、同年の晩秋に結成された一水会などの方が明確な意思をもっていたと言えそうである。新帝院会員になったことで二科会から絶縁状を突き付けられた石井柏亭、安井曾太郎、有島生馬、山下新太郎らと、二科会を脱退した小山敬三、硲伊之介、木下孝則、木下義謙らによって出来たのだった。先走って言うならば、翌三六年秋に第一回展を持った猪熊弦一郎、脇田和、小磯良平、佐藤敬、伊勢正義、中西利雄、内田巌、三田康らの新制作派協会がある。「第二部会」が後に官展復帰を決めたとき、それを不服とした人たちが結成したのだった。色彩は違っていたが、一水会も新制作派協会も、帝展改組の副産物だった、というわけである。
いずれにもせよ、松田改組の波紋は少しも収まっていなかった。なのに、それを強引に収めようとして、ますます波紋を広げ、収拾すべからざる事態を招来してしまったのが、同年秋の帝国美術院総会だった。一九三五年(昭和一〇年)十一月二十九日の事である。
総会の会場は、上野の帝国学士院。この日は、来春二月二十五日(招待日)から三月二十五日までを新帝院の第一回展覧会(帝展)会期とすることなどの報告があったあと、各部会に移ったが、問題は第二部にあった。延び延びになっていた洋画の方の参与、指定を一気に決めたいと、当局はねらっていたのである。ところが、そうは問屋が卸さない。二部会員十四名は真っ二つに割れて大論戦となった。
強硬な延期説で一歩も譲らなかったのは、藤島武二、岡田三郎助、和田三造、南薫造、満谷国四郎、中村不折、中沢弘光の七会員。これに対し、ほかでは決まっているのだからと、当局派の立場から説得これ努めたのが、和田英作、石井柏亭、有島生馬、小杉放庵、梅原龍三郎、山下新太郎、安井曾太郎の七会員。まったく互角なのである。これでは何時までたったとて決まらない。仕方がないので清水院長を招じ入れ、一票を投じさせたところで勝負はあったり。延期派の面々、この上は、選ばれても拒絶しそうな人間に票を集中させる作戦に出た。以下は、その結果である。
第二部参与は、金山正三、田辺至、辻永、牧野虎雄、小林万吾(以上、二部会員)、正宗得三郎、藤田嗣治、坂本繁二郎(以上、二科会員)、長谷川昇、山本鼎(以上、春陽会員)、川島理一郎(元国画会員)の十一名。指定は、石川寅治、中川一政、鍋井克之、児島善三郎、高間惣七ら二十六名。以上の選に漏れた旧無鑑査六十九名。この中には、東郷青児、宮本三郎、向井潤吉、田村孝之介、鳥海青児、里見勝蔵、高畠達四郎、林武、小林和作等々が含まれていた。
帝院改組の主目的は日本画にあった筈である。ところが、蓋を開けてみると、予期に反して、洋画が頑強だった。これに刺激されてか、同年十二月十三日の晩、日本画家有志五十四名(参与三名、指定十名、旧無鑑査四十一名)は、目黒の雅叙園に参集して、日本画家の大同団結を確認、次のような決議を発表した。すなわち、旧無鑑査全員の復活を要求し、容れられない場合は出品しない、というのである。この目的貫徹のため彼等は、会員を歴訪するほか、京都側にも合同を呼び掛けるなどを申し合わせた。帝院いよいよ暗し、である。
明けて一九三六年。正月を過ぎると、搬入の時期も迫って来た。厳寒期の制作に悲鳴をあげているところへ、今まで静観の体でいた竹内栖鳳の不出品声明があった。前後して、病気その他を理由に、松岡映丘、結城素明、荒木十畝らの不出品が決まった。文部省の悩みは続いた。かかる折しも、電撃の悲報である。
文部大臣松田源治が急死したのである。それは、実に突然の、あっけない出来事で、唖然とするしかなかった。一九三六年二月一日午後一時過ぎの事である。
松田源治に持病の糖尿病があったことは事実である。でも当人は、余り気にしてなかった。二月一日は、物療内科で知られた東大の真鍋内科の創立二十周年記念があり、その祝いを兼ねて風邪の診療を受け、入院中の高松宮妃を見舞って正午ごろ官邸に帰ったが、気分が悪くなって臥床、午後一時、容態急変、医者が駆け付けた時には、事切れていたというのである。心臓麻痺だった。帝院問題もさりながら、総選挙の最中だったので、民政党には大きな損失だった。と書けば、その経歴に触れないわけにはいかない。
松田源治は、一八七五年(明治八年)、大分県に生まれている。日本大学で学び弁護士を開業していたが、一九〇八年に衆議院議員に立候補、以後、当選九回。この間、衆議院副議長、政友本党総務などに就いていたが、浜口内閣では拓務大臣で入閣、また、民政党幹事長もつとめた。岡田内閣の文部大臣となってから、前にも書いたパパ・ママ排斥論で、日本主義者ぶりを発揮したが、家庭では自由主義者だった由。四年ほど前に夫人を亡くしたあと、「やもめ大臣」で通っていた。子供は、長男(二十四歳)、二女(二十二歳)、二男(二十歳)、三男(十七歳)の四人。こんなことまで記したのは、再婚話の一幕を披露したかったからである。
別府市の素封家に河村家があった。そこに、大分の女学校をでた才媛がいて、東大出の中学教諭と結婚した。だが、夫は体が弱く十五年前に死別、あとは短歌にいそしみ独身を通していた。名前を丸山待子(四十二歳)と言った。この女性を文相夫人にどうか、というのである。松田源治に同情した友人の奔走で、文部大臣がお国入りした時も地元では話題になった。後妻とはいえ、大臣夫人の玉の輿である。松田の友人は、てっきり成功するものと思っていた。ところが、この女性、「わたしは大臣夫人など夢見ていません」と、キッパリ断り、修養道場に入って婦女子の指導に当たった。つまり、大和撫子の道を守り、二夫に見えず、なのである。これこそ、日本婦道の鑑、真白き富士の気高さ、してまた、日本精神の発露にほかならない。お株を取られた文部大臣、はて、「日本シェイシン」の不都合を悟ったかどうか。
後任文相は川崎卓吉に決まった。広島県出身の六十六歳。一九〇三年の東大法科出で、静岡県の群長を振出しに、警視庁、台湾総督府を経て、福島県知事、名古屋市長、一九二四年(大正一三年)の加藤高明内閣時代は警保局長、次いで内務次官、勅選の貴族院議員となって、浜口内閣では法制局長官、その次の第二次若槻内閣で書記官長、そして、民政党の幹事長に就いていたのである。以上の経歴からしても、文部大臣は少し勝手が違ったのではないかと思われる。性格的にはヌーボーとしていて、家庭では、パパと呼ばせていた。亡くなった日が、奇しくも、一か月前に亡くした長男(東大経在学中)と同日だったのも痛ましく思われた。
しかし松田源治も、死に方としては悪くなかったと思う。彼は決して偏狭な国粋主義者ではなかった。彼の日本精神には、どこか憎めないところがある。亡くなる五日前の一月二十七日の晩には、来日中のシャリアピンを聴きに、日比谷公会堂へ行き、シャリアピンに感激、「文句は解らんが、巨匠の歌はシェイシンで解っとる」と、愛想を振りまいた文相。この精神に動かされたのか、文相の死を知ったシャリアピン、二月一日夜のステージでは、十字をきり、しばらく黙祷、やがて「森深く、あたり、そよとの囁きもなし、ただ風の悼むごと、しのび泣き……」と、万感をこめて、切々哀調の歌を捧げた。また、東京中で一番大きな花輪を、と言って届けさせた。シャリアピンに追悼されるなどは、死者の贅沢と言うものだろう。
川崎卓吉は多忙だった。選挙中の幹事長で汗を流しているところへ、文部大臣の椅子である。難問山積の文部省だった。杉村広蔵助教授の博士論文可否に端を発した商大紛争や、帝展問題などである。伴食大臣などと言われた時代は、とうに過ぎていた。初帝展の前途は依然として暗雲低迷、二月十五日から開始される鑑査に、第一部日本画の審査員は三分の一も欠席、かつてない有様だった。でも、なんとか審査を完了、二十五日が招待日で、雪の二十六日に開幕を迎えたら、なんと、二・二六事件。かくて、戒厳令下の展覧会と相成った。事件で岡田内閣は総辞職。組閣の大命は近衛文麿に下ったが、近衛は辞退、三月九日に難産の広田広毅内閣が誕生した。このとき川崎卓吉は、文部大臣から商工大臣に横滑りをしている。文部大臣は、当分の間、内務大臣が兼務し、三月二十五日に新文部大臣が決まった。平生釟三郎《ひらおはつさぶろう》である。
川崎卓吉は、よほど疲れていたのだろう。商工大臣となって間もなく病臥し、三月二十七日に容態急変、午後一時近く永眠した。胃潰瘍と伝えられた。これで、帝展問題にかかわった文部大臣が二人も亡くなったことになる。いささか因縁めいた話である。
因縁めくと言えば、岡田内閣もそうだった。その一年八か月のあいだに、大蔵大臣、逓信大臣、文部大臣と次々に亡くなっているのである。川崎卓吉まで入れると四人である。岡田啓介個人にかこつければ、二・二六事件では、首相と間違われて凶弾に倒れた松尾大佐がいる。こじつければキリがないが、非常時内閣の悲運と言って言えないことはない。世の中は暗く、何の見通しも付かなかった。帝国美術院も陰々滅々、妖怪の住処かとさえ思われた。こういう処へ平気で近寄れるのは、怖い物知らずだけである。
平生釟三郎は教育の経験はあっても、政治には素人だった。素人ゆえに彼は、怖いもの知らずだった。そこで発揮できる凄腕というものがあって、彼はそれを振り回した。
平生釟三郎。一八六六年(慶応二年)岐阜県に生まれ、苦学して外国語学校ロシア語科に入学、二葉亭四迷と机を並べた。外語が廃校となって東京高商に入学、そこを卒業し、韓国は仁川税関吏の勤務。二十八歳で兵庫県立神戸商業学校の校長に転じたが、縁あって東京海上に入り、専務となった。一九〇八年(明治四一年)、二葉亭四迷がロシアへ出発する際、大阪では三日間、平生の所に泊まっている。大正末年、平生は実業界を引退した。以後は甲南学園の経営に専念する。しかし、一九三三年(昭和八年)には、昭和金融恐慌以来ずっと苦境にあった川崎造船の社長に引っ張り出され、会社再建に尽力している。一九三五年四月に、広田外務大臣の依頼でブラジルへの民間使節に赴いたのが、文部大臣への起用につながった。経歴からして、確かに教育には一家言を持っていたが、神経の細かい画家たちの操縦は別問題。紛糾した美術界の再建が、会社再建のように、うまく行くかどうか、それが見ものだった。
はたして、一石が投じられた。帝院再改組の平生試案である。波紋は見る見る広がって行き、美術界は再び収拾のつかない混乱状態に陥った。
帝院問題には白紙で臨みたい、という文相の談話が伝わると、各方面から意見書が届けられた。松田改組に不満な人たちからのが大部分だった。文相は彼等の声を聞こうと思った。こうして、松田改組から一年目の三六年六月四、五日の二日間、部会別の懇談会を開いた結果、かねて用意の試案を示した。眼目とするところは、帝展の隔年開催制を止め、秋に総合展を開くことを前提に、参与、指定の差別を撤廃、旧無鑑査復活に道を開く、というものだった。具体的には、鑑査を必要とする新人のための鑑査展と、鑑査を必要としない既成作家のための招待展との二つに分けたことである。
はっきり言って、松田改組の否定である。松田改組を非とする会員は、要求が認められたのだから満足できるとして、挙国一致の何のと口説かれ、在野から帝院入りした会員や松田改組を是とする会員にとっては、面目は丸潰れである。果たして六月十二日、平生再改組を不満とする会員の脱退声明書が発表された。梅原龍三郎、鏑木清方、川合玉堂(美校日本画主任教授)、菊池契月、小林古径、佐藤朝山(玄々)、富田溪仙、富本憲吉、橋本関雪、平櫛田中、前田青邨、安田靫彦、横山大観、和田英作(美校校長)の十四会員である。これとは別に、川端龍子は単独で辞表を提出した。また、小室翠雲も同調したので、辞表提出者は十六名に達した。そのほかでは、石井柏亭、有島生馬、安井曾太郎、山下新太郎ら二科系四会員は、辞表こそ保留にしたが、文部省の展覧会には関与しないと声明した。一方、春陽会は平生文相案支持を声明するなど、帝院は収拾つかぬ状態に至った。
制作に専念できてこその芸術家である。一年以上にわたる不毛な争いに彼等は、心底、飽き飽きして来ていた。「うんざり、こりごり」といったところが本音だったろう。しかし、文部省の方は平生改組案を骨子に、決して諦めなかった。こういう場合、投げ出した方が負けである。文部省は、残留会員の意見を参考に、「昭和十一年文部省美術展覧会規則」を作成した。展覧会は帝国美術院を離れ、ふたたび文部省の手に帰したのである。よって、この年の展覧会は、臨時文展と呼ばれた。十月十六日より十一月三日までが鑑査展で、十一月六日より同月二十三日までが招待展だった。生彩に欠ける各部総合展だった。紛争をよそに制作に打ち込めた上村松園の「序の舞」が光っていたのは、当然といえば当然、あるべき一筋の道を指し示したようである。
もはや明らかだろう。美術界があれほど揺れた原因は、上から美術統制を押し付けたことにある。それは出し方の上手下手の問題でなく、明治以来の抜きがたい官僚主導の文化政策にあったというべきである。もちろん、個々の文部大臣について見れば、それなりに愛すべき点があった。平生釟三郎にしても、官私学の差別撤廃論者、男女平等論者という面から見れば、平均レベルの政治家に比べ、民主的でもあったといえる。その漢字廃止論が議会で問題となり、勅語の漢字はどうなのかと質問されて閉口する様子などに、その片鱗を窺うことが出来るとしよう。
追記。本稿執筆後に「洋画の動乱――昭和十年」と銘打った美術展が、東京都庭園美術館で開催(一九九二年八月一四日〜一〇月六日)されていることを知り、見に行った。副題に「帝展改組と洋画壇――日本・韓国・台湾」とあることで分かるように、まさしく松田改組・平生再改組時代の洋画回顧展である。当時の韓国や台湾の画家を紹介したのには、それなりの意義があったと思うが、これらは帝展改組に直接の関係はない。その点、やや散漫な気がしないでもなかったが、アカデミズムだけでなく、アヴァンギャルドなど独自路線を歩んだ作家をも集め、時代の雰囲気を伝えていた。
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第一三章 文芸懇話会賞のいざこざ
――佐藤春夫と広津和郎
文部大臣松田源治が帝国美術院の改革に乗り出し、画壇が蜂の巣をつついたように大騒ぎを演じていたころ、文壇の一隅では、初の文芸懇話会賞授賞をめぐって、いざこざが持ち上がっていた。
文壇史上の興味で眺めるならば、一九三五年(昭和一〇年)は文学賞の年として記憶されるだろう。言うまでもなく、芥川賞・直木賞の誕生である。それに、文芸懇話会賞の発表があった。フランスの文学賞が三百前後あったのと比べ、わが国の文学賞は圧倒的に少なかったから、その分だけ何かと話題になった。現代日本のように文学賞が氾濫していなかった頃の話である。一般論として言えば、賞そのものは歓迎されこそすれ、非難されるべきものではない。殊に、これから文壇に打って出ようと志す者にとって、それは何よりの励みとなる。そういう作家志望の青年には、その当時、画壇における帝展の存在でさえ、どんなに羨ましく思われたか知れないのだ。
たとえば、一九三二年の新聞に次のような投稿が載っていた。「一無名作家」としてだが、彼は言っている。「秋の帝展が近づいた。帝展が来ると私の何時も思ふのは文学にも帝展が欲しいといふ事である。/何故に我が国では美術のみが国家に保護されて、文学は捨てゝ顧みられないのか」、しかるに教材などに外国作家が登場しているのだから、よき文学の出現を望んでもいいだろう、「所が今の日本で、無名の士の出発はなか/\容易でない。日本の文壇は、門閥とジヤーナリズムで固まつてゐる。あの群をなす新聞雑誌は、皆申合せたやうに、数人のいはゆる『大家』達の作品ばかりを迎へてゐる」と不満たらたらで、こう彼は結ぶのである。「ジヤーナリズムの支配なき、真の文学登龍門はないか。この点、帝展を持つ美術家達は羨ましいと思ふ。たとひそこにはアカデミーの臭みはあらうとも、ジヤーナリズムの専横に比べたら何だらう。/文学にも帝展みたいなものがあつていゝ」(九月十四日『東京朝日新聞』「鉄箒」欄)。
こういう要望の一つの結果が、芥川賞・直木賞の新設だとすれば、新人にとって、大きな目標が与えられたと言わなければなるまい。菊池寛が、芥川龍之介と直木三十五とを賛嘆併称していたことは、一九二九年一月、直木が『北海タイムス』に「蒼穹を仰ぐ」の連載小説を開始する予告で、「直木三十五は文壇稀に見る鬼才である。直木を少しでも知つてゐる者は、僕の此の言葉を、過称とは思はぬだらう。その才のみを比ぶれば、亡き芥川龍之介にも敵し得ると思ふ」と、推奨していたことなどでも分かるだろう。同じ言葉は、同年同月の『河北新報』に直木の小説「殿堂を砕く」の予告が出た時にも使われている。こういう思いでいたところへ、直木が忽然と世を去った。そして直木が参画した文芸院構想の縮小版として文芸懇話会が生まれ、文芸賞を出そうとの話が持ち上がった。菊池寛が芥川賞ならびに直木賞の創設を思い立ったのは、直木が亡くなって間もなくだったが、文芸懇話会賞が刺激となっての実行だったと考えられないことはない。しかし、芥川賞・直木賞の公表が一九三五年(昭和一〇年)一月号『文芸春秋』誌上だったことを考えると、これに刺激されて懇話会賞が具体化されたとも言える。いずれにしても、文芸復興のほとぼりが冷めていない時期でもあり、両賞とも、文壇活性化に寄与したことは確かである。
だが、創設当初の芥川賞・直木賞は、菊池寛がぼやくほど、ジャーナリズムから軽視されていた。その点、文芸懇話会賞の方は、会そのものが、得体が知れず、うさん臭く思われていただけに、世間の注目を浴びた。過去一年間の優れた創作、評論、翻訳を対象とするという場合でも、どういう作品を選ぶかで、会の性格が問題となる。日本文化を代表し、海外に紹介しても恥ずかしくない作品というのが、暗黙の了解事項としてあったからである。国際連盟を脱退し世界の孤児となった日本は、この時期、いじらしいくらい、世界の理解を求めていた。それが選考委員に徹底していなかったため、というよりも、作品評価の食い違いから、授賞をめぐってトラブルが起こった。
事の次第はこうである。文芸懇話会賞を出すことになって会員に票を入れさせたところ、横光利一の「紋章」に次いで島木健作の「癩」に票が集まったので、この二人に賞が行く筈だった。しかるに、数日後の会合で、松本学から、国体に反するものは好ましくない、とクレームがつき、島木が排され第三位だった室生犀星の「あにいもうと」が繰上げ入選となって、問題は表面化した。決定に松本学の意思が働いたということは、明らかに会員の総意が無視されたことを意味する。これに火を放ったのは佐藤春夫だった。彼は脱会を言明して無法に抗議した。
松本学が島木を好ましくないとして排除したことについては、松本自身語っていたところでもあるので、特にどうということもないが、国立国会図書館憲政資料室の『松本学文書』中の日記で三五年七月十七日のところを見ると、「文芸懇話会を山王下山の茶屋に開く、文芸懇話会賞について島木健|三《ママ》を入れるかどうかについて広津和郎君と意見を交換した、左翼のシンパである者は排撃することをハツキリ答へておいた」とあった。だが、ここでの大事な部分は色のうすいインクで消され、訂正されているのである。よほど慌てて消したものらしく、元の字も読めれば、もちろん訂正した字も読める。で、どう訂正されているかというと、「左翼のシンパである者の排撃による作品は選に入れぬとハツキリ答へておいた」となっている。これでは全く逆になる。恐らく、戦後の追放関係の資料提出に備えてそうしたものと想像できるが、一応の傍証としておく。
[#この行1字下げ]注―単行本『紋章』は三四年九月、改造社から発行されている。「癩」は三四年十月、ナウカ社発行の第一創作集『獄』に、「苦悶」「転落」「盲目」「医者」と共に収録。「あにいもうと」は三五年一月、山本書店発行の『神々のへど』に「猟人」「チンドン世界」「医王山」「神々のへど」「神かをんなか」「悪い魂」とともに収録。三五年九月、山本書店発行の『神々のへど』改題普及版のタイトルは『兄いもうと』とされたが、作品名は「あにいもうと」。
こういう事がジャーナリズムに漏れない訳はない。ただでさえ疑惑の目で見られていた文芸懇話会である。それも、予想どおりの文芸統制、政治の文学支配を如実に示したからたまらない。新聞や雑誌は改めて文芸懇話会の正体、ならびに松本学の存在を問い直した。
帝国美術院が松田文部大臣の改組で揉めていた時期だっただけに、芸術統制の一環かと騒がれたのは当然だった。なかんずく、疑惑が集中したのは、文芸懇話会の資金の出所についてだった。文士慰霊祭の時もそうだったが、賞金一人一千円と分かれば、否応なしに資金がどこから出ているか知りたくなる。この疑問に無理はない。これについては、別の章で考察しているので、ここでは省略するとして、島木健作の除外に端を発した佐藤春夫脱会問題をめぐる広津和郎と佐藤春夫との応酬に、文芸懇話会の一端が、はしなくも露呈されてくるので、以下、それを検討したい。
最初に広津和郎が書いた。三五年(昭和一〇年)九月号『改造』の「文芸懇話会について」は、佐藤春夫に向かって書かれている。
広津和郎によれば、佐藤春夫の脱退は、意外な事とは思われなかった。「潔癖な佐藤君がさういふ行動に出るといふ事は、ありさうな事であるし、如何にも自然な事に思はれる」からである。ただ残念なのは、あの決定の日に佐藤春夫が欠席した事である、という広津和郎は、「その席上に佐藤君が出席してゐたならば、佐藤君はその場で佐藤君の主張を強調したであらうし、そしてそれが懇話会の今度の決定をたとひ左右する事が出来ないにしても、(恐らく決定を左右する事は出来なかつたであらうと思ふ)文芸懇話会の正体がどういふものであるかといふ事を知る上には、随分便利であつたであらうと思ふ。そして或は脱退といふ行動に出ずに、この文芸懇話会といふものを知らうとするために、私達と同様踏み止まる興味を起しはしなかつたかと思ふ」と述べ、懇話会成立の事情と現在の状況との違いについて観察してから広津は言う。少し長くなるが、大事な所なので、そのまま引用する。
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文芸懇話会賞決定の席上の事は、吹聴しない事になつてゐるので、細かな事は云へないが、併し既にいろいろな疑惑の眼をもつて世間から見られ、松本氏自身の話として、『国体を変革する思想を持つたものを推奨する事は出来ない』といふ弁明が、新聞に載つてゐる以上、或程度までは、その問題について、会員の一員である私が語る事は差支へないと思ふ。
――島木健作氏は私も推奨した一人であり、その点で佐藤春夫君がその席に出席し、私達と共に飽くまで論議してくれたらどんなに好かつたらうと思ふが、併しあの文芸懇話会が松本学氏の発起で生れたものである以上、氏の云ふ通り『国体を変革する思想の持主を推薦する事が出来ない』といふ事は、冷静に考へて見れば、最初から解り切つた事であつたとも云へるのである。
無論佐藤君にしても、私にしても、或は島木氏を推奨した他の人々にしても、文芸的価値といふ事を最大の主眼としてゐるが、併し政治家としての松本氏の立場は、さうは行かない。それは文芸家としては、絶対の自由を欲するけれども、その注文は文芸家が発起し、文芸家だけのメンバーで成立つてゐる団体のみに注文すべきものであつて、松本氏が発起し、松本氏のキモ入りで集まつてゐるあの会合では、松本氏の立場といふものを全然無視する事は出来ない。それは考へて見れば、最初から解り切つた筈の事だつたのである。
そこで、私達はなるほどこの会で島木氏を推奨するのは無理かも知れない(無論、島木氏を推奨出来れば、この文芸懇話会の意味が今よりもつと大きくなり、その文芸界に於ける価値が高くなるのであるが、その事はこの会では望めない)、島木氏推奨は他の方法を以てすべきであると思ひ、一歩を譲つたのであるが、併しその時私の心に起つて来た興味は、それならば、この文芸懇話会の性質、これに働きかけてゐるイデオロギーは那辺にあるかといふ事だつたのである。
佐藤君のやうに此処で潔く脱退してしまふのも一つの方法である。併し私にはその会のメンバーの一員でありながら、未だにこの会の性質、及び意味、その他が解らない。その意味、性質の解らないところが、又私にこの会に踏み止まらせる事に或意味を感じさせるのである。といふと逆説的に聞えるが、決してこれは逆説ではない。
世間ではこの文芸懇話会と、著作権審議会とを為政者の文芸統制の先触れであるかの如く見てゐる。著作権審議会の事は知らない。併してこの文芸懇話会が、若し文芸統制の先触れだとしたら、その統制への道をどんな風に踏み出すか。それはわれわれにとつて最も関心すべき問題でなければならない。
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広津和郎は、松本学の立場に、一定の理解を示して言っている。文芸院設立が云々された当初の広津から見れば、大きな変わりようである。果たして広津は変わったのか、それとも、松本が変わったのか。このへんは、認識の分かれるところだろう。広津の認識では、松本が変わった事になっている。広津によれば、警保局長としての松本を、直木三十五と語り合っていた頃と比べると、文芸家に対する理解の変化が見られる、というのである。最初の意図はともあれ、文芸家と接するうちに松本は「文芸愛好の穏健な紳士となつた」、それゆえ文芸懇話会も、「どつちかと云へば中庸の位置にある穏健な会であると見るべき」と、広津は認識する。さらに、文芸懇話会賞で一歩を譲った会員たちも、これ以上の譲歩はしないだろうし、これ以上の譲歩を外から懇話会に強制するものが出たら松本氏は、それをはねつけるだけの決心をほのめかした筈だとも付け加えた。
右に対し佐藤春夫は、三五年(昭和一〇年)九月五、六、七、八の四日間にわたり、『東京日日新聞』紙上で応えた。「文芸懇話会に就て――広津和郎君に寄す――」がそれである。佐藤春夫は、自分が当日出席して自分の主張を強調したところで決定を左右出来なかったであろうことは、君の見るごとくだが、そこから会に踏み止どまる興味を失ったのは、徳島まで行ってモラエスに会うなど、僕が君よりも、いく分か会のために、立ち入った仕事をしたせいかも知れぬと述べ、その時の心境をこう告白した。
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事実あの地で僕は日本主義者としてのモラエスを発見するのに一方ならず苦心したものである。さうしてこんなに無理をしてまで日本精神のお神輿を捜し出さねばならなくなつてゐる時勢を一日本人として日本精神のために甚だ悲しんだものであつた。さうして、日本精神の体得者としてのモラエスを見てこれを宣伝する事をいつの間にやら押しつけられてしまつてゐる自分を発見するに及んで文芸懇話会を幾分か呪はしい存在と思ふやうになつた。さうして最初からその使命を明示して置いてもらへなかつたのを少々遺憾として文芸懇話会は以後警戒しなければならないと思ひはじめたのであつた。
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そう思いはじめたところに発生した島木問題一件だったのである。このあと佐藤は、ある日の会合で松本が「文芸統制などは大キラヒ」と「一時的な方便として」述べたのを真に受けた自分を、「表面だけをしか見ることの出来ない甘ちやん」ととらえ、ひるがえって、審査から決定に至る経過に説きおよぶ。
佐藤春夫によれば、六月十五日の審査会で、横光一位、島木二位の結果から、この二人を推奨することに決まった時、はたして松本がこれに賛成するかどうか懸念がなかったわけではなかった。というのは、「島木氏推奨の筆頭とも見えた上司氏(小剣―和田)が所蔵の一本を送付する事を約して獄の一読を松本氏にすすめて多少左翼の傾向があり、きたならしい世界を扱つたものだけれども云々といひながらも力のある佳作たるを失はぬと力説するかたはらから近松秋江氏は左翼の傾向がたとひあるとしても決して宣伝を旨とする極端なものでなしに純粋な文芸作品と見るべき」云々の意見があったりしたからである。察するところ、この日の松本には島木に関し確たる知識がなかった。だが、諸家の談話の様子で、かえって漠然たる不安を感じ取っていた。帰り際に、まだ決定したわけでないので発表しないようにと、広津と佐藤を名指して念を押したというのに、うかがわれるのである。
案の定、その翌日、会から佐伯という使者が佐藤宅を訪れて来た。使者の用件というのは、横光は外遊するので金が要るだろうから、授賞は横光一人にして、二人分の賞金を与えたらどうか、という案だった。佐藤は、貧乏な島木も金が要るだろうが、と言い、島木を除外する理由をたずねた。すると使者は、当選作品は現代日本を代表するものとして海外へ紹介することになっている、島木の作品では? と美醜を問題にしたので佐藤は、「取材の美醜快不快は文芸美的価値とは何等関係のないものでせう」と反論した。ここにおいて使者佐伯は、本音を吐かざるを得なくなった。佐藤の文章では、「島木氏はその筋ではまだ本当に転向と認めてゐない作家だといふ事実もあり、多少は考慮しないと右翼団体などから睨まれて将来会の活動に支障を生ずるのも不本意ですから」という意味のことを佐伯が答えたことになっている。これに対する佐藤春夫の言葉は次の通り。
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なるほど。しかし内情はどうあらうとも我々の知る限りでは島木氏の作は雑誌でも単行本でも差障りなく行はれてゐる作品でせう。それを推奨出来ないのは厄介な話ですな。それに社会小説としては至極穏健な作風で、何等宣伝的の傾向もなく、特別なイデオロギイによる制作でもないのですからあれを封ずるといふ事になると一切の社会小説は困るといふ事になりさうではありませんか。右翼からの抗議も困りますが、会の文学的視野の狭窄もより以上の困難事になりますね、われ/\にとつては、一応はこれも考慮してもらはなければ――少くも右翼団体の抗議同様乃至以上にはね。
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この翌日が十七日で、決定の日。佐藤春夫は必ず波乱があるものと予想していた。会員の意思が無視された場合、最終的には、会員の推奨は推奨として、また、実際の授賞は授賞として、ありのままを公表することを主張すべく、佐藤は腹をきめていた。佐藤春夫は書いている。
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ところが十七日になつてみると約一ケ月前から台所方面で起つてゐた不快事の永びく影響と会の空気の予想とで自分は特に午後からヒステリカルに腹立しくなつて来てしまつた。自分でもつくづく持てあましてしまつて今夜無理に会場へ出たならば狼藉を働いた上で席を蹴つて帰りさうな気がした。心中の狂暴な状態を露骨に示してゐて自分は家人のために用意の鎮静剤を盛られてしまつたのでその作用の結果、会の時刻には熟睡に陥ちてゐた。これが君の惜しむでくれる当日欠席の理由である。自分でも思へば腹立しいやうなだらしのない、さて結局はどうでもよかつたやうな気持である。翌日の夕刊の授賞の決定を知つた自分は一応なるほどなと感心した。懇話会賞といふものに対して金千円也以上の価値を置かなくなつてゐる自分にとつてはそれがあまりに文壇的なもので、百年後はおろか十年後(千年後の誤植か―和田)になつてもをかしなものであるかも知れないなどはもう考へても見なかつた。
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もう、どうともなれ、という気持ちに佐藤はなっていた。「都合によつては」会を抜けてもいい、と思っていた。そこへ、『都新聞』の記者中村治兵衛がやってきて、脱会の風説をただした。佐藤は、この若い中村地平とは文学の上で知り合いだったので気をゆるし、あけすけに事実を話したところ、会に無断で公言はできないと言っておいたのに、「地平の奴いつのまにやら治兵衛になつてゐて平気で虚報をしたのには驚いた」という次第。
今度は広津和郎が『東京日日新聞』に書いた。「佐藤君に答ふ――文芸懇話会に就て――」は、九月十、十一、十二と三日間にわたって掲載されている。
冒頭「君が僕に与へた文章、気持よく読んだ」で始まる広津の文章は、あの時は刺激的な言葉を避けた、という『改造』の文章を補う意味で書かれている。例えば、懇話会賞決定の席上では、「恐らく君が出席してゐたならいつたであらうと思はれるやうな事を、君に代つて僕は随分論じ、随分追究したわけなのである」と述べたあたりに、それが窺われる。そこから踏み込んで、「しかし結局、何を論じ、何をいつたからとて、文士側のいひ分が通らなかつたといふ責任は、何をも論ぜず、何をもいはなかつたと同様に、僕等が引受けるべきものなのである」と言ったとき、これ以上は譲れぬという不退転の居直りを見て取ることが出来るのである。
それはそれとして、繰り返しになるが、広津和郎の関心事は、松本学の思想をどう見るかに懸かっていた。したがって、前記『東日』紙上の一文でも、重心はそちらの方に動く。広津の見るところ、松本学の思想は、最右翼の、剣で万事を解決しようとするものではなく、「文化的な形を取つた国粋主義といつた程度」の「消極的な回顧的日本主義」にすぎない。少なくとも、金融資本をせっかちに打破しようとするファッショではなく、むしろ金融資本を守ろうとする側に松本は立っている、と見るのである。そして、それ以上に松本が出てくるならば、文士側も黙って済ますこともなかろうから安心していいと思う、というのが広津和郎の見解だった。
こういう見方に対しては、文芸懇話会を以て文芸統制の先触れと見なす側から反論がでておかしくない。同じ『東日』は、青野季吉の「諸家の文芸統制観」を、九月十九日から三日間掲載した。広津和郎の文芸統制観が俎上にのぼるのは、だれの眼にも明らかだった。
青野季吉は、広津が松本を最右翼でないとしたのを、「何とも解し難い」と述べ、島木問題で、はからずも文芸懇話会のイデオロギーの仮面がずり落ちた、と見て言った。
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すでに事態がかうであれば、懇話会をもつて文芸統制への第一歩とするのを「早計」扱ひにする広津氏の見解は、ほとんどナンセンスに近いものである。元らい文芸統制とはげんみつには政府の具体的な機関による文芸の統制であるが、その指導原理は、およそ松本氏が島木氏を排除したやうな政治的基準によつて、文芸を統制することに外ならない。その意味で懇話会は、げんみつに文芸統制の第一歩とはいへぬが、文芸統制への巨大な、徐々の行進の、立派な別働体といつて差支ないのである。
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ここで感じるのは、組織にしても人間にしても、それを内側にいて見るのと外側から見るのとの違いである。当初、あれほど警戒的だった徳田秋声にしても、この時期、松本学に対し、かなり好意的になって来ている。松本の人柄という以上に、親しく接していれば、自然と警戒心も解けてくるのが人情というものだろう。川端康成が『文芸春秋』(三五年十月号)「文芸時評」に書いた文章なども、「統制の言葉にこだはつて、内から会をみれば、松本氏等が会員の文芸家を統制したと云ふよりも、寧ろ会員の文芸家が松本氏等を統制したと云ふ方が、今日までの実情をうがつてゐるであらう」と、かなり好意的なのである。
反面、それほどの警戒心もなく文芸懇話会に入って行けた佐藤春夫にしてみれば、内側にいたからこそ見えてきた懇話会の正体だったとも言える。このへんのところ、悲観もせず楽観もせずに事態の推移を見守ろうとする散文精神と、いつわらざる感情を何物にも代えがたく思う詩精神との違いに帰していいだろうか。
島木問題で佐藤春夫が選んだ道は、世の訳知りから見れば、あるいは、子供じみた行為に映ったかもしれぬ。いつの間にか元の鞘に収まった佐藤をみれば、そう言いたくもなるだろう。しかし、佐藤春夫の放った火によって、文芸懇話会に人々の関心が集まり、文芸統制が改めて問われることになった事の意味は、決して小さなものではない。それは、火遊びとは違う何かだったのである。
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こぼれ松葉をかきあつめ
をとめのごとき君なりき
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき
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[#地付き](佐藤春夫『殉情詩集』「海べの恋」)
注―文芸懇話会賞は、その後、三六年に第二回として、徳田秋声の「勲章」と関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』とに、三七年に第三回として、川端康成の『雪国』と尾崎士郎の『人生劇場』とに、それぞれ授賞して終わっている。
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第一四章 ぎりぎりの誠実
――中野重治と室生犀星
佐藤春夫の文芸懇話会賞での意地を、室生犀星との確執に帰する観測があった。この時点における二人の関係を考慮すれば、ありそうな見方といえる。では、どういう事情で、そうなっていたのか。まず、そのことを探ってみたい。
直接の原因となったのは、『文芸春秋』一九三五年(昭和一〇年)一月号に始まり五月号に終わる佐藤春夫の文芸時評「文芸ザックバラン」だった。個々の作品評を超えて全体を貫く時評の根幹に、谷崎潤一郎の『文章読本』を契機とする文章論と、時代のトピックとしてあったロマンチシズムや能動精神・行動主義への言及とがあったが、なかんずく主調をなしていたのは、その文章論で、ここにおいて春夫のザックバランは、犀星の文章を悪文と評して憚らなかった。しかしこれは、佐藤春夫の美意識上の論理にしたがえば、必然の道程でもあったのである。
谷崎潤一郎の『文章読本』を、「堂々たる愚著」あるいは「ばかばかしい名著」と評する佐藤春夫にとって、『文章読本』には谷崎研究の研究資料としての成功しか認められず、これほどまでに谷崎との本質的相違を見せ付けられたものはなかった。つまるところ、自己の文章観の開陳なしにはできない『文章読本』批評だったのである。そういう所から出発した文芸時評が、個々の作家の文章批評に言及しないということはない。
はたして、「あにいもうと」のあと、「会社の図」「女の図」で図に乗っていたわけではないが、いわゆる市井鬼ものを次々と出していた犀星の文章が、月評の餌食になった。佐藤春夫は四月号の時評で、「室生先生の『会社の図』を三分の一ほど読むために一週間を要した事実の報告は既に先月済んだ。今月はまた『女の図』を見せてくれたが、それも一だけで御免を蒙つてしまつた」云々と書き出し、それらを読むに堪えぬ悪文の見本ときめつけた。そういう春夫が名文の見本と称するところのものは、同年三月号『中央公論』の永井荷風「残冬雑記」で、「今日これを味読し得る者果たして幾人あるだらうか」と結ぶあたりに春夫の文学観もあったというべきだが、悪文を自認する犀星も、公然とけなされては黙ってはいられず、五月号の『文芸春秋』で、「鼻眼鏡をかけた洋服姿のワンワン先生もだいぶ焼きが廻つた鬱晴らしでお気の毒千万」「癪に障つたら仕事で打つかつて来たまへ」と応酬しただけでなく、やけのやんぱちで、春夫の人間性までこき下ろした。
これを知ってか知らずか、同誌上の時評で春夫は、諸家の「女の図」賞賛の辞を意外とし、自分はただ読み通せなかったまでで、「不世出の作家が往々既成観念からは悪文と見え、その実は名文である新文章を以て世に現はれる事実をまだまのあたりにこそは見ないが史上でならば見聞せぬでもない。我が国の西鶴といひ、ドストイエフスキイといひみなこの例であらうか。かういふ考へを抱いてゐる自分だから悪文と呼んだ事を以てその作品の全価値をこきおろしたと思はぬことは、甚だ迷惑である」と、補足した。当面はこれまで。これ以上になったら、際限のない泥仕合になるのは必定。からくも、両者は踏み止どまった。だが、後味の悪い思いは双方に残ったはず。
こういう事実があったればこそ、島木健作が下ろされて室生犀星が浮上したことを不服として、佐藤春夫が反逆したものと消息通は理解した。そういう理解を理解は出来る。しかし、それだけだったのか。もし、それだけだったのなら、佐藤春夫は公憤と見せかけて私憤を晴らしたにすぎぬ。そんな、だれの眼にも明らかな意趣返しをする佐藤とも思えない。これを解く鍵は、どうやら、文芸懇話会賞に対する佐藤春夫の期待、ないしは希望の中に潜んでいそうだ。
島木健作が「癩」で文壇に登場したのは、一九三四年(昭和九年)四月号『文学評論』においてで、佐藤春夫が島木の作品に初めて接するのは文芸時評の必要からだった。三五年二月号『改造』の「黎明」がそれで、佐藤春夫は同年三月号の「文芸ザックバラン」に感嘆して書いている。文芸懇話会賞が具体化される前のことである。佐藤は、「この線の太いデッサンのたしかな表現と言ひ、ひた押しに作意を押し進め乍らも一方読者を把握して放さぬ興味のつながせ方など周到な用意の程は既に三四の作の外に必ずや過去に幾多の習作が在り将来に大成の日あるを思はせる」と書き、公式主義から脱却した「この派の芸術の長足の進歩を慶賀し羨望するの念をさへ生じた」と続けている。懇話会賞は、若い伸び行く作家にこそ望ましいと思っていた佐藤にとって、島木を推薦したのは当然すぎるほど当然の行為だった。
それから、もう一つ。文芸懇話会賞の決定から約三週間後に、芥川賞が決定されているが、懇話会賞の決定前後の佐藤春夫にとって、この時期は、芥川賞の候補作品を読む時期に当たっていた。芥川賞について佐藤春夫は、太宰治の「道化の華」を推すつもりでいたが、委員が太宰治の作品では佐藤が失敗作だと思っていた「逆光」が候補作に上げられてきていたため、石川達三の「蒼氓」に賛成した、と選評に書いている。なまじ情をかけたおかげで、以後佐藤春夫は、芥川賞亡者と化した太宰治の哀願に悲鳴をあげることになるのだが、そのへんは省略するとして、ここで思い出して欲しいのは、懇話会賞決定の前日に松本学の使者が来た折、「あれを封ずるといふ事になると一切の社会小説は困るといふ事になりさうではありませんか」と返した言葉の意味である(前章参照)。「蒼氓」を頭に置いて言ったものか、それとも、懇話会賞で社会小説を排するなら、芥川賞では敢えて社会小説を推す、という覚悟の程をみせたのか、いずれとも確言はできないが、佐藤春夫としては、そちらの方に頭が行っていたと見るのである。
いずれにしても、春夫は、犀星への感情だけで動いたとは思われない。むしろ、犀星との感情上のしこりがなければ、もっと島木擁護を前面に出せたろうに、と思うくらいである。この問題では杉山平助が、「佐藤の行動に若干の私憤がまじつてゐたところで、彼の公憤の正しさを否定する根拠にはならないのである」(三五年十月号『日本評論』「松本学と佐藤春夫」)と評したのが印象に残った。
ばつが悪かったのは室生犀星だったろう。思わぬグランプリに知らんぷりも出来ず、売文の徒の悲しさは、くれるものなら夏も小袖と手は通してみたものの、いかにも着心地が悪い。若い作家に取って代わった後ろめたさはともかく、なにかと噂のある懇話会からの御褒美だと思うと、愉快な事ではなかった。でも賞の霊験はあらたかで、『あにいもうと』の題名で作り直した本が売れ、映画化の話まで出てくると、帯のかわりに荒繩を腰に巻いて飲んだくれていた、しょう(賞)がない餓鬼の頃まで思い出され、一途に文学をやってきたことへの報いに頭を下げざるを得ないのだった。
そういう犀星を痛切な思いで見詰めなければならない作家がいた。室生犀星を師と仰ぐ中野重治である。二人の関係をスケッチしておこう。
中野重治が震災で金沢に帰って来ていた犀星を、はじめて訪問したのは第四高等学校在学中で、犀星・重治両『全集』年譜を突き合わせてみると、一九二三年(大正一二年)十一月となっている。初訪問の印象を中野は、「壁に佐藤春夫のすみれの詩が原稿紙のまま軸になつてかかつていた。『忘春詩集』の出たころで、見返しの絵の象の話が出ると、室生さんはひよいと立つて行つてその本を持つてきて中をあけて見せた」(筑摩書房『中野重治全集』第一七巻「金沢の家」)とあるが、ちなみに『忘春詩集』はその前年十二月に出ている。なお、すみれの詩というのは、「秋くさ」(さまよひくれば秋くさの/一つのこりて咲きにけり/おもかげ見えてなつかしく/手折ればくるし花ちりぬ)ではなかったかと思う。そういう思い違いはあったとしても、そのころの犀星、犀星と春夫と重治との関係が知られればよい。さて、こうして中野重治は、その後も何度か室生犀星を訪ねているが、この間には深田久弥らとの『裸像』の時代があり、やがて『驢馬』の時代へとつづいた。『驢馬』は中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄らを中心に、のちには佐多稲子も参加した雑誌で、詳しいことは省くが、これに萩原朔太郎や芥川龍之介らの寄稿があったことは、室生犀星の存在を抜きにしては考えられないことである。しかしプロレタリア文学運動の高揚期を迎え、狂暴なものへ突き進む中野重治が、師にたいする敬愛の念は念として、室生犀星と疎遠になるのは、運動に携わる者として、やむを得ぬ道程といえるだろう。
いつしか犀星は、人伝てに中野逮捕の知らせを聞く。才能のある若い詩人の身の上を、ふと案じて、あるときの犀星は、こんな感慨を歌に託しているのである。
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途 上
やちまたに
酒をあふりつ途すがら
重治のことを
おもはざらめや
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[#地付き](犀星詩歌集『十返花』所収)
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中野重治が豊多摩刑務所から出てきた時の犀星夫妻の迎えかたもいい。それを中野は書いているのである。思いやりという意識を離れて出てくる犀星夫妻の自然ないたわりが、温もりとして感じとられる素直な、味わい深い文章である。
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一九三四年の春の終りか夏はじめのころ、私は豊多摩からかえつてきてしばらくぶりに室生さんを訪ねた。奥さんにも久しぶりにお目にかかつた。御飯を御馳走になつたと思う。ところがその時に、私は酒も飲まずたばこも吸わなかつた。たばこなぞは、吸いたいと思わなくなつていた。
「それや……」と奥さんがいつて、いいことかも知れぬけれども淋しいようなものだというようなことをいつた。それからまたいろいろ話がはずんで、それから奥さんが、
「あんな恐ろしいことはもうお止しなさいましよ……」というようなことをいつた。これは、言葉どおりではないけれども意味はそんなことだつた。
すると室生さんがいきなりいつた。
「いらぬこと、いうな……」
奥さんの言葉も室生さんの言葉も、両方とも私はありがたく受け取つた。あの奥さんは、恐ろしいことがきらいだというよりも恐ろしいことが恐ろしいのだつた。そういう人だつた。室生さんは理屈をいわぬ人だつた。室生さんのひとことは、理屈をいえば私の責任、人が脇からかれこれいうべきでないことということにもなるのだつたが、私としては論理以前のところで、ありがたくというよりもかたじけなく耳に聞いたのだつた。
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[#地付き](前掲『全集』同巻「金沢の家」)
この年の夏、中野重治は、郷里福井県の高椋村一本田で過ごしている。その大体の様子は、小説『村の家』で知ることができるだろう。小説の終末で、父親の孫蔵から、「これから何をしるんか」「わが身を生かそうと思うたら筆を捨てるこつちや」と、今後の身の振り方について詰め寄られ、主人公の勉次が、「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」と答えるあたりは、さわりの部分と言ってよく、転向をバネに生きようとする作者の説明に、しばしば引用されるところである。このとき、「やはり書いて行きたい」と勉次は答えた。そして、その答えを正しいと思う。「しかしそれはそれきりの正しさで、正しくなるかならぬかはそれから先きのことだと感じた」勉次の「それから先きのこと」は、作者中野重治が引き受ける自身の課題でもあったのである。
こうして、ねちねちした進み方は始められた。けだし、出所後における中野重治の執筆活動には目を見張るものがあった。それを欠いたら日本文学に大きな穴があいたであろう程のものである。とりわけ、日本を取り巻く状況一般にたいする発言は、文学の言葉によって道理の筋道を明らかにしたと言っていい。いま、その主なものだけでも、「イデオロギー的批評を望む」「『文学者に就て』について」「戦うことと避けて通ることと」「このごろの感想」「非論理的な考え方について」「横行するセンチメンタリズム」「閏二月二十九日」「文学における新官僚主義」「一般的なものにたいする呪い」「ねちねちした進み方の必要」等々が立ちどころに浮かんでくる。
文学の置かれた状況と文学者の生き方ということで言えば、当然のことながら、文芸統制や統制の具体的な現れである文芸懇話会に関する発言が目立つ。「文芸統制の問題について」「著作権審査会と懇話会の文学賞」といった評論だけでなく、その他の評論でも中野重治は、随所でこの問題に言及している。
順序立てて言えば、中野重治が文芸懇話会に言及したのは、一九三五年(昭和一〇年)三月号の『文学評論』に寄稿した「三つの問題についての感想」からだろう。一部の作家が懇話会で検閲制度改善に努力していることを認めながらも、近松秋江の反動ぶりを例証し、「かかるやくざものと戦うことは作家の任務である」と言い切っていた。文芸懇話会賞に言及し始めたのは、同年七月号『文学評論』「きれぎれの感想」が最初だった。そこでは、こういうふうに書いていた。「文芸懇話会をつくつたものは前の警保局長だつたと思うが、今度の警保局長は北原白秋に『大日本警察の歌』、『警察行進曲』をつくらしていて、あの歌なぞは、警保局長の詩精神に関するものか北原の詩精神に関するものかよくわからないが、とにかく内務省的、警保局長的規準で文学賞が出ることになると、日本文学発達の障碍がまた一つふえるのではないかと心配になるのである。これももつと詳しいことを聞かねば何ともいえない。しかし日本の芸術家たちが右頬を撫でられて左頬をそれ以上の力で打たれるようなところへ引きこまれるようになつては困ると思う」。
そうして、いよいよ文芸懇話会賞が現実のものとなって書いたのが『文学評論』八月号の「文芸統制の問題について」だった。中野重治は二つの面で懇話会賞を問題にした。
その一つは、いかなる芸術的標準で優秀作品を決定するのか、の問題。これについては、松本学の存在などから芸術上複雑に対立するところでの決定が、でたらめになることを警告する。
二つ目は、賞金の出所を問題にする。金の事では文芸家慰霊祭の時にも問題になっている。その時、どこから出てもかまわぬではないかと近松秋江が言った事に関連させて中野重治は言った。「死んだ作家の祭りの費用の出所が問われても答えられなかつたと同様、今度の二千円の出所も全くかくされている。会に関係ある作家たちの出資でないことは『文芸家以外の人から、好意を寄せられるのを』という近松の言葉からも明らかである。警保局から出るのか、松本学およびその関係すじから出るのか、あるいは何とかいう貴族院議員から出るのか。このどれかから出るとすれば勤労者と文化との発展を願う作家たちの受けえない性質のものである。まして出所が隠されている。まして近松によつて『悪遠慮をして辞退するにも当たるまい』と前もつて注釈づきである。こういう曰《いわ》くづきの金はそれを承知で受けとる作家にのみ与えられるべきであり、またすべてそれを承知で与えるべきであり、与えるべく推薦し決定するべきであらう」。
引用されている近松秋江の言葉は、「評論の評論」と題した『新潮』三五年(昭和一〇年)七月号の文章中、文芸懇話会が賞金を出すことを報告して、「たとひ金額は軽少であつても、文芸家以外の人から、好意を寄せられるのを、悪遠慮をして辞退するにも当るまい」とあった所からのものである。もちろん、この段階では、近松秋江にしても賞金の行方など見当も付かなかった。それは、これを問題にする中野重治も同様だった。そのことは、『文学評論』八月号「文芸統制の問題について」の執筆日付が七月十二日となっていることで物語られている。
しかし、八月七日の日付で発表された『経済往来』九月号「著作権審査会と懇話会の文学賞」になると、いくぶん事情は違っていた。島木健作が落とされ、室生犀星が浮かび上がるという事実が眼前にあったからである。島木健作も室生犀星も、中野重治にとっては無関心では済ませられない作家である。もし島木の授賞がすんなり決まったら、中野はそれを大きな罠として受け取ったにちがいない。室生犀星については慌てた。だが論理の道筋は曲げられぬ。ここでの中野重治は、芸術上の立場の違う推薦者が、何のやましさなしに「自己の推薦を他の人の推薦につきまぜたこと」の不思議さと、「被推薦者たちを、そういう因縁つきの賞金を受けとる人格として扱つていた」ことに抗議した。
このあと八月十三日に執筆、十四日から十六日にかけて『中外商業新報』に載った「二三の文壇時事」がつづいた。その三日目に中野重治は書いている。「懇話会文学賞の受賞候補者の推薦にあたつて、推薦者たちは、そういう金を受けとる人びととしてそれぞれの作家たちを推薦したわけであるが、そういう推薦を受けて、そのうえ決定された人たちがどういう気がしたものか私は非常に聞きたいと思う。推薦ということは推薦するものの勝手だから仕方がないが、そういう賞金を受けとれるものかどうか。新聞の報道によると懇話会の文学賞は二人の人に決定した。しかし二人の作家がそれを受けとつたということは出ていない。私は二、三の人に聞いてみたがわからなかつた。決定した以上は受けとつたのだろうという向きもあつたがそれはわからない。いずれにしても、私としていえば、その人たちはそれを受けとらぬほうがいいと思う。受けとらぬほうが正しいと思うので在る」。
授賞者と受賞者とでは立場のちがいがあり、授賞が直ちに受賞に結びつくとは限らない以上、中野重治の主張ないし期待に納得がいく。注意して読むと、中野重治は「二人の作家」とだけ書いて、一度も名前を挙げていないのである。横光利一を出せば室生犀星を出さない訳にいかない。室生犀星をそういうものとして中野重治は扱いたくなかったのである。前記の一文を新聞に出した前後だろう、重治は「ふるえるような気持ちで」、犀星に手紙を送った。そのことは戦後になって分かったことである。中野重治は書いている。
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二十四、五年も前のことだから正確には覚えていない。とにかく私は室生さんに手紙を書いて出そうと思いたつた。いきなり手紙をとなつたのではない。その前にとつおいつして考え、窪川鶴次郎にもひとこと相談したのだつたかとも思う。窪川は反対しなかつた。そう思うが、窪川に相談したというのからして事実でなかつたかも知れない。そう思つたことは思つて、実地に相談はしなかつたのを、ながいうちに事実として相談したかのように思いこんできたのだつたかも知れない。とにかく、最後になつてやはり私は手紙を書いた。手紙を書く理由が、われながらあいまいな点のあるのをぼんやり承知したままで書いてそれを出した。
問題は文芸懇話会賞のことだつた。
その前の年の一九三四年に文芸懇話会ができた。その年横光利一の「紋章」ができ、室生さんの「あにいもうと」ができた。あくる三五年になつて、第一回文芸懇話会賞のときにこの「紋章」と「あにいもうと」とがえらばれた。えらばれたということが新聞などに出た。しかし室生さんがそれを受けたかどうかは新聞はまだ書いていなかつた。そこで私が、文芸懇話会賞をお受けなさらぬようにと――文句や前後はおぼえていない。――室生さんに手紙に書いたのだつた。私はふるえるような気持ちでそれを出したのだつたと覚えている。
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こう書き出す中野重治は、一九三五年(昭和一〇年)前後の状況、なかんずく文芸懇話会の出来た状況について簡単な説明をし、「あにいもうと」の作品価値は戦後になっても失われていないが、その時はそれに文芸懇話会賞が与えられることを何とかして防ぎたかったと述べ、次につづけた。
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私はいろいろにして考えてみた。しかしとにかく、私は室生さんの弟子であつてまた旧『驢馬』の同人だつた。この師匠=弟子関係と『驢馬』関係とは事実であり、また事実であつたところのもの、歴史だつた。その私が、あれやこれやと七くどく反対したり皮肉を言つてきたりした当の懇話会賞が「あにいもうと」にあたえられようとする。そして賞金があたえられようとする。それを黙つているのは、何かほんとに筋の立つように話を運べる確信がないにしてもほんとうによくないだろう。それは室生さんにたいしてわるい。『驢馬』の人間としての自分にたいしてわるい。それはほんとのところで室生さんを侮蔑することになるだろう。室生さんを不愉快にならせないで、事がらだけを筋みち立てて上手に書く自信はやはり私になかつたが私は書いた。
そして室生さんから返事がきた。
君の手紙を受け取つた。ただ懇話会賞は受けてしまつた。賞金では何か楽器(何だつたか今私はおぼえていない。)を買つてしまつた。――そういう短い手紙がきて、私は、私のほうが息苦しいような状態から救われることができたのだつた。
(「一九三五年のころ」。
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[#地付き]なお引用はすべて筑摩書房『中野重治全集』に拠った)
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物事に差のない譬えに五十歩百歩という言葉がつかわれる。転向や戦時下のあり方に使われることが多い。だか、五十歩と百歩とでは大きな差のあることを中野重治もどこかに書いていた。また、鶴見俊輔も何かの書評で言っていたのを覚えている。そういう使われ方に異議はない。これを転向を例に使ったのでは、おそらく杉山平助が最初ではなかったかと思う。一九三六年(昭和十一年)六月十四日の『東京朝日新聞』に杉山平助は「五十歩五十一歩」の題で書いているのである。
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赤から転向しながら、フアツシヨになるもの、林房雄程度になるもの、中野重治程度になるもの、その間にそれぞれ差別を立てゝ論じて然るべきこと、同じ落第生の中にも、有望なのもあれば、絶望的なものもあるやうなものかも知れない。
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第一五章 久米正雄の八つ当たりと近松秋江の老武者ぶり
この時期、久米正雄は、すこぶる不満であった。
文芸懇話会が何かと話題になるたびに、彼は、クソいまいましい気にさせられていた。元はといえば、大衆文学作家が官辺と話し合って成立したのに、会の中での大衆作家の存在は、どうやら小さくなってきている。そもそも人選に問題があったのだ。それが証拠には、このオレに正式な挨拶が未だにない。よし、こうなったら、意地でもそんな所に顔はださぬぞ。お呼びがあっても、行ってやるものか。夕涼みの縁台で、うちわを扇ぎながら、久米正雄は、だれに言うともなく、憤懣をぶちまけていた。
――オレも通俗小説ではひとかどの巨匠と目されているのだぞ。三上於菟吉や白井喬二がなんだ。文芸院に入院したからって威張るんじゃない。高が老作家の養老院じゃないか。なに? 新聞小説を書いたかって? 書いたさ。あれは『時事新報』に千葉亀雄がいた時だから十七、八年の昔になる。菊池寛も推してくれた「螢草」だ。最近のでは、ほら、東京・大阪の両『朝日』に連載した「沈丁花」がある。文芸院の噂の出る前だった。おもえば、あれは題名で少し手こずったな。わざわざ「ちんちやうげ」とルビをふったところ、「ちん」はおかしい「ぢん」じゃないかと、いちゃもんが付けられてね。読者から投書が来たな。オレにも来たが社にも来たらしい。そこで学芸部の下村海南先生が乗り出してきて、「ぢんてうげ」が正しいと「ぢん」に軍配をあげたが、オレだって「ぢん」と読むぐらいは心得ていたのだ。でも、鐘の音が「ゴーン」でなく「コーン」であって欲しい場合もあるじゃないか。だから「ちん」と振り仮名を付けてくれと、わざわざ注文したのだ。それにしても現代の文部省読みなら「じんちゃうげ」かな、いや「じんちょうげ」だろう。われわれの時代の人間は「ぢんてうげ」、なかには「ぢんてふげ」で通す者もいたげが。海南先生などは沈丁花の「花」を「げ」でなく「か」と読ませたいと言っていた。こうなると何が何だかわからない。だからやっぱりオレの「ちんちやうげ」を珍重すべし。さて、オレはいま何を言いたかったのだっけ。そうそう、題名で話題になるくらいオレの小説の人気は大したものだということ。そういう小説家を無視するとは実にけしからん。なんでえ松本学め。学があったら引っ込んでろ。花札やマージャンに僅かな金をかけたのを賭博事件に仕立て上げ、人をさんざんな目にあわせやがって……。
遂に出てきた文士賭博事件。ここは当人では言いづらかろうから、あとは著者が引き受けた。久米正雄に文芸懇話会の誘いが無かった理由が見えてきたからである。
いわゆる文士賭博団の摘発は、一九三三年(昭和八年)十一月と翌三四年三月との二回にわたって行われている。いずれも松本警保局長が在任中の出来事だった。この最初の回に久米正雄は検挙されているのである。事件の概略はこうだった。
その頃、不良ダンス教師と有閑女性との良からぬ噂が世間で問題になっていた。かねてから警視庁はこれを内偵していたが、そのうちに歌人吉井勇(伯爵)夫人徳子が浮かび上ってきた。吉井徳子は柳原(宮崎)白蓮の姪で、吉井勇とは別居中だったが、吉井夫人で人目をひいた。伯母の影響を受けたせいでもあるまいが、ダンス・ホールへ出入りするなど、行動が自由奔放だったのである。警視庁はダンス・ホールの手入れから彼女を逮捕して取り調べたところ、予想どおりの収穫で色めき立った。かねて注目していた文士賭博行為の確証を握ったからである。
こうして十一月十七日の午後から夜にわたる一斉検挙で、里見クは運悪く花札賭博中に踏み込まれ、ほぼ同時刻に佐々木ふさ子は自宅で、佐々木茂索は文芸春秋社で、といったぐあいに連行された。また、中戸川吉二・とみ江夫妻、小穴隆一、美川きよ、川口松太郎らも相前後して召喚された。久米正雄・艶子夫妻の場合は、自らの結婚十周年祝賀の席から出頭を求められ、取り調べられている。出版関係者を含む被検挙者は十五名だった。彼等は徹夜で調べられたが、それほど悪いこととも思っていないので、すらすら自白し、翌朝、めいめい指紋を取られて帰されている。身元引受人は菊池寛。マージャン賭博の場銭は五円程度で意外と低かった。雑誌『中央公論』が六冊で四円八十銭の時代である。
第二回目の検挙は翌年の三月十六、七日にかけて行われ、医師、画家、実業家、尺八作曲家、代議士、映画俳優など約三十名が挙げられた。前回の検挙で文士だけでは手落ちだとの声があったからである。しかし、やはり文士が目立った。それぞれケースは異なるが、広津和郎、大下宇陀児、甲賀三郎、海野十三らのほかに、前回貰い下げ人となった菊池寛もいた。俳優では松竹蒲田の女優飯田蝶子、八雲理恵子、筑波雪子ら。「八雲は私に下げさせてください」など、女優の身元引き受け人に訳の分からない志願者が数名現れ出たというのもおもしろい。なお、東郷青児と共に連行されるところだった宇野千代は、病気中で召喚は保留されている。また、京都選出の政友会代議士鈴木吉之助も議会開会中で後日に回されている。天才画家青木繁の息子で戦後は「笛吹童子」の作曲で知られた福田蘭童は、賭博もさりながら、女優川崎弘子をめぐる女性関係まで調べられている。この件では、警保局長の松本学は妙な気持ちにさせられていた。なぜならば、菊池寛までが捕まってしまったからである。実は、三月二十九日に予定している事実上の文芸院初会合のメンバーに菊池寛や広津和郎を加えていたのだった。久米正雄については四か月も前の事なので、なんとか外すことも出来たのに。だが、ここに来て菊池や広津を外すのは露骨と映るだろう。しかも、菊池寛らのマージャン賭博が直木三十五の追善会でだったと報じられては、短い期間だったが、意気投合した直木を思うと、職務柄とはいえ、釈然としないものを感じていた。
一方の菊池寛にしても釈然としなかった。かつて、所得税を払わぬと国家に背を向けたこともある。著作権問題では内務省の役人と何度も渡り合ったこともある。でも今度のやり方は少し汚なすぎはしまいか。文芸家協会を代表して検閲や著作権のことを話し合ういい機会だと思えばこそ、松本の招待にも応じてみたが、この事件をめぐる不愉快な気持ちは、終始、ついて回った。不愉快は広津和郎も同様だったろう。広津のばあいは、こういう会だからこそ正体を見極めたい、という気持に促されての出席だったが。
しかし、久米正雄は、理屈抜きで、おもしろくなかった。文芸懇話会が騒がれれば騒がれるほど、おだやかでなかった。鎌倉の二階堂に住んでいた久米正雄は、『文芸春秋』に「二階堂放話」を連載していたが、この事では一九三五年(昭和一〇年)八月号と十月号とに書いている。八月号の標題は「パパ・ママの説、並に文芸院の事」。そこでは、パパ・ママが発音しやすいので家庭で自分はそうさせていると松田文部大臣のパパ・ママ排斥説を嘲笑し、帝展改革に乗り出すくらいだから今度は文芸院と出るだろう、ならば注文がある、予想される文芸院はかくあるべしと、具体的に候補者の名前まで挙げて建設的意見を開陳した。だが、十月号では「文芸懇話会に八ツ当たる」の標題で啖呵を切った。その後に知った文芸懇話会賞のいざこざで、日頃の鬱憤が一挙に吹き出した形だった。久米正雄は松本学を、「此男」と呼び、さらには「此奴」とまで指差して八つ当った。久米正雄はいう。
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此会の成立と、小生との関係に就いては、前回にも書いた。が、私に取つては、此男の警保局長時代、藤沼(藤沼庄平のこと―和田)の警視総監時代に、吾々に加へられた賭博文士の汚名に対しては、恨骨髄に徹してゐるだけに、第一、此奴の御馳走になると聞いたゞけでも、胸糞が悪くなる。僕程の穏和な人間にして、さうした「近時悲憤」を感ずるのだから、以て為政者は考へてよからう。が、それは先づ扨て置き、第一に此の文芸懇話会は、松本氏と直木とが、謂はゞ主唱者めいたものになつて、成立したものだ、其時、直木の考へとしては、僕をも発起人の一員に加へる積りだつたところ、松本氏は、久米は賭博犯人だから、あれは除外して呉れと云つたとか。――死人の口から、出ている話だから、まア僕も信じてよからう。其時、僕は何もその会の発起人に、名を連ねたくは無かつたが、今云つた恨骨《うらこつ》の賭博犯を云為されたゞけに、癪に触つた。俺が賭博犯で、そのために此の半官的な――当時はさう見えた――企に参加出来ないとすれば、文壇で本質的に、参加出来るのは誰だらう。第一に、直木が国士で、僕が賭博犯、そんなケジメは、吾々の生活の実際を知つているものは、チヤンチヤラ可笑しくて、腹が立つよりは、大声でも立てて、笑殺するより外に手は無い。
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途中になるが解説しておくと、「近時悲憤」をわざわざ括弧つきにしたのは、直木三十五が一九三四年(昭和九年)一月号『中央公論』に書いた「近事悲憤之記」を思い出した(時[#「時」に傍点]と事[#「事」に傍点]の違いはあるが)からである。直木はそれを、文士の花札賭博を特別の事として問題とするジャーナリズムならびに世間に向かって書いた。政党の待合政治が与える悪影響に比べれば、文士が花を引くなどは物の数ではないのに、新聞は文士といえば懲罰的に書き立てる、これでは無惨だ、という直木は、そのころ、脱税で「逃避行」などと報じられ、斬捨て御免の新聞記事に怒りを覚えていたのである。転居で住所が不明だったのが「逃避行」と書かれ、手違いの滞納が「脱税」と報じられ、おまけに査定違いで五千円も減額されてみると抗議せずにはおられない。直木はこれを衰弱した体に鞭打って書いた。菊池寛が検挙されたのは直木没後のことだったが、直木が生きていたら、菊池逮捕に抗議して書かれるべき「悲憤之記」はどうなっただろうか。
それはそれとして、先の文章に久米正雄はつづけた。つまり、賭博犯の私を除外するくらいだから、左翼的と見られる島木健作の作品が除外されるのに何の不思議もない、島木の除外に不服ならば、「何故、物故文士の追悼会へ、小林多喜二が入らなかつた時、闘ひを開始しない」、「一松本輩をリードもできず、蔭で泣言めいた反抗をする会員ども何たるザマだ」となり、一転して、そもそも文芸懇話会は純文学派などにヘゲモニーを握らせず、「もつと広汎な社会性を持つた大衆文芸院に還元(?)する方が無事だつたのかも知れない」という所へまでいく。そのあと、横光利一の『紋章』を傑作とは思わない、島木健作は敵から糧を送られなくてよかった、僕なら叩き返すのだが、室生犀星は貰って寝覚めが悪かろうと嫌味を付け加え、やっと腹の虫が収まったようだ。痛快といえば痛快、やけのやんぱちの八つ当りで、矛盾だらけなだけに、かえって愛嬌があった。
この時期、近松秋江は、いささか得意であった。
一九〇七年(明治四〇年)の雨声会では、僅かに人選の下相談を受けたにすぎぬ秋江も、今では文芸懇話会に欠かせない存在になってきていた。黒髪に焦がれた情炎の作家は、非常時文壇の老武者となっていた。彼は文章報国の志を示すため、白髪を染めて出陣し、文学の戦場で討死する覚悟を固めていた。ただ、不足に思ったのは、かつての総大将西園寺公望に比べ、松本学がいかにも見劣りすることだった。しかし、ぜいたくは言っていられない。大事なのは、この際、乃公出でずんばの気概である。彼は悲壮だった。気分において斎藤実盛になりきっていた。
近松秋江の「斎藤実盛の如く」は、一九三五年十月号『文芸』創作欄に発表された作品である。内容は文芸懇話会賞にまつわる挿話で、それゆえ、生の感想が随所に出てくる作者の身辺報告として見ることができる。小説としてなら、煮詰まらない私小説とでも言ったらよいだろうか。でも、文芸懇話会の舞台で果たす近松秋江の役柄を知るためには、大へん興味があるので紹介する。
煮詰まらない私小説と言ったのは、作中人物の扱い方などに出ている。多くはイニシャルで出てくるのだが、本名で出てくるのもあって一定していない。例えば、松本学はエム氏で登場するが、室生犀星や菊池寛は実名なのである。また、作者自身とおぼしき人物は「私」で書かれるが、ほかの登場人物からは「出雲さん」と呼ばせている。ちなみに秋江は、本名を徳田浩司といい、文壇登場の初期には徳田秋江を名乗っていたが、中途で近松秋江に変えている。近松としたのは近松門左衛門にあやかる意味からだった。前記「斎藤実盛の如く」で自分に等しき人物を「出雲」としたのは、近松門左衛門に教えを受けつつ影響も与えた竹田出雲の積もりだったのだろう。
小説は、七月の半ばから書き始めた小説が思うように進展しない小説家の悩みで始まる。
あちこちから借金の催促があり、「私」は書かねばならない。だが、炎暑もあって書けない苦しみは、「私のやうな才薄く天分の乏しい者が、時々刻々に移りゆく時代の流行に伴れて押し流されてしまひ、果ては生きるべきたつきを失つてしまふのも致方ない」といった嘆き節で表現される。もともと、この作者は何事につけても愚痴っぽく、その愚痴の堂に入ったところが魅力と言えば言えるのだが、この小説も、実は、そのへんで話題を撒いたのだった。そのことは、追い追い分かることとして、もうしばらく筋を辿ってみよう。
とにかく「私」という老作家の筆は一向に進まない。こういう父親の苦しみを知らない子供たちは、約束の日光に早く行きたいとせがむ。仕方なく「私」は子供たちを先に行かせて、家で頑張ることにしたが、八月に入っても書けない。
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どうしても家にゐると、心がだらけるやうな気がする。大阪ビルに行くと、冷房装置が出来てゐるので、そこの四階には、エム氏の文化連盟の事務所があつて、文芸懇話会に関係のある相談などもそこでしてゐるので、そして私は、五人の常任委員の中の一番年長者といふので、その中の又常任といふことになつてゐるので、時々速達で、相談に呼ばれたりするのである。
「こゝは涼しい。こゝに来てゐると、避暑にいかなくてもいゝ。こゝに来て僕は仕事をしよう」
「さうです。出雲さんは、常任委員ですもの、当然こゝに来てゐらしつていゝ権利があるぢやありませんか」
エー氏が笑つていふ。
「うむ、さうですねえ。僕もエムさんに、さういつて、一室こしらへてもらひたいな」
「倶楽部創設の仮事務所を置きますか、はツははゝゝ」
「倶楽部を早くこしらへたいな、はツはゝゝゝ」
私は翌日から、避暑に行くのだといつて、毎日午後から大阪ビルの四階にいつて、そこの広間で、憩ひながらもう先月から書き出して、中途で、構成に行き詰つてゐた短篇小説の原稿を改訂したり、先を進めたりした。すると、一つは涼しいためでもあつたが、家にゐるのとちがつて、気分が事務的になるので、割合に仕事が捗取つた。
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このあと近松秋江は、四、五日そこに通っているうちに、決まったばかりの文芸懇話会賞の授賞方法や手順で相談をかけられることがあったと書く。ついでに、文芸懇話会賞の設定経緯が明かされる。秋江によれば、エム氏すなわち松本学が二千円くらいの金なら何とかなるので懇話会賞を出したいというのに、文芸家の側では、だれも進んで実行しようとする者がいなかった。このばあい秋江は、文芸家側が実行しようとしなかった理由を、自分たちの懐中からでる金でないので遠慮したのだと推察するのだが、広津和郎らと比べると、このへんの認識の違いは相当なものである。こうして懇話会の文芸賞は、そんなことに遠慮する必要がないと思う秋江の音頭取りで決定された。そこのところを秋江は、いとも朗らかに書いているのである。
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私一己としては、他の懇話会の人々よりも数年前からエム氏を知つてゐた。それは同県人の会で時々会つて知つてゐた。向うは歴々の高官であり、こちらは一介の文芸家に過ぎないので、それまでも、格別、思想とか文学とかいふことについて語り合つたことはなかつたが、大体その人と為りは知つてゐた。そのエム氏が肝煎つてゐる協会から支出する金にさう何も遠慮することはあるまいと、いふのが私の見解である。
誰れが貰ふんだつていゝぢやないか。エム氏が奇麗に出してくれる金を、遠慮するには当らない。悪びれず、へえ有難うございますと、率直にいつて、もらつて置く方がむしろ礼儀だらう。年中貧乏を託つこの私だ。だが私には貰ふ資格は今の処先づない。今に、斎藤実盛のやうに白髪を染めて大いに勇を鼓し、懇話会賞を贏ちえぬとも限らないが、先づそんなことは無いものと思はねばならぬ。さうすると私がもらひたい為ではない。作家の何人がもらつたつていゝぢやないか。
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近松秋江は、文芸懇話会賞の設定に力を貸したことで、自分の仕事は済んだと思っている。だれに授賞するかなどでは、気の抜けたように興味も関心も持たなかったと言っている。授賞をめぐるエム氏とエチ氏(広津和郎)との議論を、「以前良二千石であつたり、又本省の高官であつたエム氏が、地方で県会議員を対手にしたり、議会で代議士と応酬したりする場合を連想して」、興味をもって耳をかたむける秋江だった。だが内心、エム氏の見解を理解し、これを支持していることは言うまでもない。
こういう経緯、つまり、松本学と近松秋江の呼吸が合って文芸懇話会賞は生まれたのである。大阪ビルへ小説を書きに行った近松秋江が授賞の手順その他で相談を受けるには、それだけの理由があったのである。懇話会賞の経緯を振り返ったあと、一転して秋江は続ける。
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さて、話が前に戻つて、懇話会からは、まだ公式に横光氏にも室生氏にも、推讃の辞を呈することを通告してゐない。横光氏は、今、東北の方の温泉に行つてゐて留守。室生氏は軽井沢に行つてゐるので、近日エム氏一行は上州前橋に行つて、氏の思想運動の一つである邦人主義の座談会を開催することになつてゐるので、そのついでに軽井沢に室生氏を訪ねて、推讃賞を贈呈し、翌日は長野の野尻湖に行つて、そこでも座談会を開く。
「出雲さん、貴下にも軽井沢に行つていたゞきたいと思ふんです。横光さんは会員だから知つてゐますけれど、室生さんにはまだ会つたことがないから、一つ紹介かたかた行つていたゞきたい」
エム氏の話だ。
(室生の奴、有卦に入つてやがる。吾々老残の身を以つて、連日九十度の酷熱に喘ぎ喘ぎ苦渋の筆を呵してゐるのに、涼しい処に居て、懇話会賞を携へて、わざわざ来訪してくれるものがある。そのお使ひ役の一人になる。ちよつと癪だな。)
と思つた訳ではないのだが、実は今の私は、三方四方から借金責めに会つてゐるのだ。その金高は、まことに哀れなものなのだが、収入の乏しい自分にしては、過重の負担であつた。少くともその一つだけは、ぜひとも片づけて置かねば、東京を立つわけにはゆかない。
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借金を片付けるための小説が書けないのだ。締切りは迫っている。そんな事情にあるとは知らず、エム氏は、しきりと軽井沢行きを勧める。「明日の晩は伊香保に泊つて、山の温泉に入り、その翌日は草津にドライブして、それから軽井沢に泊る。県庁から廻してくれる自動車に乗つて。いゝですよ。いきませうよ」と口説くあたりは、近松浄瑠璃「丹波与作待夜の小室節」で三吉が、道中双六を指して姫君に、東下りを勧める場面のよう。仕方なく出雲は、明日車中で最後を書きあげ、速達で送ろうと、その翌朝、上野駅へ行く。「一行はエム氏、チイ博士、エイ氏、中央大学のケイ氏と自分の五人」とあるが、ちなみに、チイ博士は医学博士の田口勝太、エイ氏は松本学の秘書兼会計主任の安藤烝、ケイ氏は川原次吉郎。「斉藤実盛の如く」は、こうして、車中、エス氏(佐藤春夫)の懇話会脱退の新聞記事や漬物の話に花を咲かせ、高崎駅に着くところで締め括られる。
ところで、この小説は、実話と分かるだけに、卑屈さが顰蹙を買った。文士にあるまじき醜行だというのである。取り立てて問題とされたのは、松本学との関係を述べた、「向うは歴々の高官であり、こちらは一介の文芸家に過ぎない」の一句だった。それは「良二千石であつたり、又本省の高官であつたエム氏」で繰り返された。良二千石《りようにせんせき》が地方長官(知事)を意味し、その善政を称えて良二千石という言葉があるにしても、そういう表現を使わずにおれないところに、大時代がかった近松秋江の感覚があったといえるだろう。
そういう感覚は、半ば冗談ではあったにせよ、懇話会賞に挑戦しようと思う自身の構えを、白髪を染めて出陣した斎藤実盛になぞらえる無邪気さとなって表出される。喉から手が出るくらい欲しいのに、欲しくない振りをする不正直さにくらべれば、愛嬌があったと言えよう。しかし、言葉は一人歩きをする。「歴々の高官」と言ったのが、いつの間にか「高位高官」で定着した。そこから、文士の社会的地位をめぐって、文壇のみならず思想界にも考察の機会を与える事となったのは、思わぬ拾い物と言っていいが、そのため秋江は、批判と嘲笑の集中砲火を浴びた。その内容については想像におまかせする。そういう中にあって、佐藤春夫は、「私利に汲々たる出版者(但し複数)の愚にもつかぬ出版物の提灯も平気で持つ当代文士の筆のうちの一本、それが有為の役人を大官と敬するに何の不可があらうか」(三六年一月一日『東京日日新聞』「迎年言志――文学者の社会的地位の考察(上)」)と述べ、秋江を擁護した。そこに一理を感じたので紹介しておく。
単純に人間を陰陽二つのタイプに分ける考え方がある。善悪の問題ではない。いま、これを近松秋江に適用すれば、彼は陰の部類に入るだろう。陰の要素に未練と愚痴があって、秋江は、生涯をかけて未練と愚痴とで持ってきた。そこに秋江の人間性を見出すとすれば、これは、たまらない魅力となる。「別れた妻に送る手紙」「疑惑」から「黒髪」「狂乱」「霜凍る宵」と、女性への恋情は、ことごとく未練に発している。五十近くなって結婚、子をもうけてからは一途に「子の愛の為に」生きようとするが、私小説を売り物にする純文学作家にとって、文壇の状況は厳しい。身上の愚痴が先に立つ。家が欲しい、金がない、で借金に追い立てながらの執筆である。そのことは、「斎藤実盛の如く」で見たとおり。で、あの中で、なかなか書けず、そのために軽井沢行をしぶった作品とは、もしかしたらその年(三五年)十月一日発行の『中央公論』五十周年記念号「現代作家三十四人集」に載った「雅癖」だったのかもしれない。
「雅癖」は、政治、衣装、女と、この三つ以外に道楽のない前島という男が、衣装や女の道楽に取って代った土地道楽に熱中する話。土地道楽といっても、金があるわけでなし、土地は借りるしかない。ところが地代を払いきれずに手放したところ、そこは私鉄の開通で値上がりし、あそこに建てておけばよかったと家人にいわれ、返事もできなかったという愚痴で終わっている。そういうところに居直って書いたのが、三五年(昭和一〇年)二月号『経済往来』に寄稿した「貧乏愚痴物語」という随想で、小見出しに、「人間は利子を払ふ動物なり。借金しながら生命保険。地代が又元の家賃となる事。一生堪えぬ質屋との縁」とあって、いかにも秋江らしい。
衣装のことや住まいの様子では、田辺茂一が一九三五年前後の事として書いている。
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秋江さんは、ちょっと一見、銀行重役のような瀟洒《しようしや》な背広で、頭はすでに銀髪が見事だったが、胸に蝶ネクタイ、時に鼻眼鏡がよく似あい、明治の自然主義の作家とは見えぬ、ダンディーな老紳士であった。
社会時評ふうの、議論も好きなようであった。
ある日、その近松さんが、突然ぼくの店にやって来られ、「田辺さん、あんたひとつ、家を買わないかね」と切り出された。
(中略)
この前後、ぼくは一度だけ、芝白金の秋江さんのお家を訪ねたことがある。
狭い路地を入った右側の、平家建てで、名ばかりのような門の表札に、かすれた字で「徳田」とだけ、本名が書いてあった。玄関さきで辞し去った記憶がある。おそらく招じ入れるには、落莫《らくばく》すぎた室内の模様だったかも知れない。
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[#地付き](『裸像との対話』一九六七年十一月、富士書院)
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最後に秋江の政治好きに触れたい。政治好きと言うよりも政治家好きと言った方が適切かと思うが。どこかで秋江は、文学よりも政治の方が好きだと述懐していた。十代半ばで国会開設に感激した秋江は、二十代で日清戦争後の三国干渉に悲憤慷慨する青年だった。彼は、時の講和全権陸奥宗光の苦衷を思った。その思いは老秋江の胸から消えなかった。一九四一年(昭和一六年)八月刊行の単行本『三国干渉』は、秋江の歴史短編を収めたものだが、巻頭の「三国干渉」には、「昭和十年八月作」と記している。もはや明らかだろう。近松秋江は、室生犀星に文芸賞を呈したあと、斎藤実盛の覚悟で「三国干渉」の筆を執ったのである。しかるに、数年後の失明を予感し、薄明の中にあって、渾身の力を振り絞って書いた青年盛時の念願も、あわれ、時代を動かすには至らなかった。
近松秋江は、自分の日本主義は明治以来の富国強兵のそれで、流行の日本主義とは違うと言っている。ファッショ文学団体に関係はしても自らはファッショと思っていなかった。政党では立憲改進党の流れをくむ立憲民政党びいきだった。その秋江が、「水野越前守」や「井上準之助」を小説にしても、世間は浜口内閣の緊縮政策や金解禁の旗持ちぐらいにしか見ていない。そこに誤算があった。誤算は、同郷の後輩で、民政党寄りの並び大名、松本学に拠った事にも現われた。でも、政治を通して文学の理想を実現しようとした志は、認められてよいだろう。現在、日本文芸家協会では、その事業の一つに「文学者之墓」を設けているが、そういう着想は近松秋江に発していると言って言えなくはない。一九二三年(大正一二年)三月号『文芸春秋』掲載の随筆「文士共同墓地」は、そういう発想の先駆でもあった。
それにしても、時代に取り残されることは悲しいものである。年取ることは寂しいものである。盛時の情事が政治にかわっても、老残の秋江は遂に政治の中枢に近づけず、「一介の文芸家」を以て自嘲せざるを得なかった。皮肉なもので、政治好きに政治は来らず、政治ぎらいに政治は迫る。一九三六年夏、室生犀星は軽井沢で、近衛文磨や鳩山一郎、永井柳太郎、伊沢多喜男ら大物政治家と会食している。犀星は気が重かったが、市川左団次、南薫造が一緒だと聞いて、それを味方に思ってしぶしぶ出かけた。犀星は書いている。
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近衛氏は私の正面に坐られたが、私たちは別に挨拶しなかつた。私から挨拶をすれば妙なものであり近衛氏もそんなことはしなかつた。非常に若々しく鋭い感じの近衛氏は、時折、空眼をつかつて天井を見たりしてゐたが、それらの細々とした態度のなかに私は芥川君の全盛期の睨みや高飛車さを思ひだしたくらゐであつた。
少時して後架に立つてから廊下で往き会つた近衛氏は、ずつと前から知り合つてゐる人に話をするやうな気楽さでいはれた。
「すぐ前にゐて挨拶をしませんでしたが、私が近衛です」。
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[#地付き](一九三七年二月号『改造』「実行する文学」)
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第一六章 文壇無鑑査組の意欲を覗かせた『文芸懇話会』誌
文芸懇話会では、会のアピールと会員相互の親睦をはかるため、機関誌『文芸懇話会』を発行した。この雑誌は、一九三六年(昭和一一年)一月号から翌年の六月号まで、毎月一日を発行日とし、全十八冊を出して終わっている。
一口に雑誌といっても、種類はさまざまである。硬軟を基準とすれば学術専門雑誌から大衆娯楽雑誌まで、大小を基準とすれば総合雑誌からミニ・コミ雑誌まで、といった具合。
分野で大別すれば、自然科学の雑誌から社会・人文科学の雑誌と種々雑多。文学はその一角を占めるに過ぎない。その文芸雑誌にしてからが一様でないのである。一様でないところに、また、文芸雑誌の特質があるのも事実だが。この間にあって、雑誌『文芸懇話会』を位置付けるとすれば、会誌また機関誌のそれとしてだろう。あえて積極的な意味を持たせるならば、リトル・マガジンの一つに数えることも可能かもしれない。
これは、きわめて表面的な観察から、リトル・マガジンを、少数の読者を対象とした非営利雑誌と規定してみてのことである。しかし、公共機関等の広報誌ならともかく、最初から営利を拒否するという雑誌は少ないだろう。読者が少なければ、採算が成り立たないのは当然である。雑誌を出す以上、出来るだけ多くの人に読まれ、そのことによって、当初の予想とは別に、採算が合うのに越したことはない。営利はその結果である。また、最初から少数の読者を対象にしたものでも、会員制の限定版雑誌にでもすれば、営利目的の雑誌として成り立つ。ゆえに、リトル・マガジンを、少数を対象とした非営利雑誌とだけ定義付けるのは少し無理なようである。
あらゆる言葉と概念とは、必ず発生の由来をもつゆえ、リトル・マガジンにしても、十九世紀中葉から二十世紀初頭におよぶ英米の事情を振り返ってみる必要があろう。それらの国々でリトル・マガジンに、どういう意味が与えられていたかである。そのばあい、詳しいことは抜きにして、ただ一つだけ考慮に入れておきたいのは、すくなくとも、なんらかの前衛的または実験的役割を背負わされていた事実である。それは芸術運動としての側面を含んでいた。それが本来のリトル・マガジンだった。したがって、そういう外国の例を日本に適用するのは、はじめから無理だと解っている。だが、日本におけるリトル・マガジンらしきものは何か、という設問は、決して無意味なことではない。なぜならば、日本における雑誌文化の自覚史に資するところがあろうと思われるからである。
そういう観点で日本のリトル・マガジンを拾い出してみるのも一興だろう。新感覚派の『文芸時代』などは咄嗟に浮かぶが、ほかに何があるだろうと指を折ったら出てくるわ出てくるわ。とりわけ詩の雑誌にいちじるしい。『マヴォ』あたりから数えても、エスプリ・ヌーボウの『詩と詩論』、その延長線上にある『新領土』、戦後の『荒地』と挙げれば、いくらでもある。こういうところから、リトル・マガジンすなわち同人雑誌、の観点が生まれるのは解らぬでもないが、すべての同人雑誌がリトル・マガジンとはならないことは自明の理である。また、この場合のリトルは、必ずしも軽薄短小を意味しない。このことは、重厚長大のリトル・マガジンも存在することを含んでいる。
だが、いかなる場合にあっても、基準はあくまでも基準であって、はみ出しの許容度において、物事は分別されてくる。『文芸懇話会』という雑誌を、日本的リトル・マガジンの一種に入れてみようとしたのは、そういう光の当て方で、なにかが見えてくると期待したからである。たしかに、外形だけで言うならば、雑誌『文芸懇話会』は、いかにもリトル・マガジンに似ている。六十四ページから九十八ページ止まりの厚さもさりながら、会員が毎月交替で編集に当たるなど、いわば実験的な要素をも持っていたからである。そのことによって、内容の斬新性が見られた号もあった。しかし、全体の傾向として評するならば、意欲は見られるものの、文壇無鑑査組の仲良し雑誌の域を出ていないと断ぜざるを得ないのである。結論が先になってしまったが、文芸懇話会の実体を知るために、もう少し検討してみたい。
いま述べたように、この雑誌は、会員の輪番編集で発行された。では一体、文芸懇話会の会員は、だれとだれだったのか。第一巻第一号巻末に記載されている会員は、次のようになっている。上司小剣、岸田国士、豊島与志雄、三上於菟吉、近松秋江、正宗白鳥、川端康成、菊池寛、中村武羅夫、白井喬二、室生犀星、長谷川伸、吉川英治、島崎藤村、加藤武雄、横光利一、徳田秋声、広津和郎、宇野浩二、山本有三、佐藤春夫、以上の二十一名。この順序は、創刊号の編集者上司小剣を除き、第二号以降の編集者を抽選で決めたその順序である。いったん脱会を表明した佐藤春夫は、創刊号に見る編集予定者に載っていない。会員氏名の最後に名前が記載されたのは、雑誌発行を機縁に復帰したことを物語っている。会員数の二十一名は、雨声会(拙著『明治文芸院始末記』に詳述)の二十名にならったものだろう。
ざっと見渡した限りで言えることは、純文学作家と大衆文学作家との共存である。純文学作家について言えば、自然主義系の作家を柱に、新感覚派から左翼同伴者作家まで、各派の代表を一通りは加えている。だが、大物の永井荷風や谷崎潤一郎は載っていない。しからば、白樺派はどうかと見るに、志賀直哉も武者小路実篤も載っていない。里見クは創刊号の編集同人名には記載されたが、たった一回、創刊号に「無題」と題した申し訳程度の感想断片を寄せただけ。その中で里見は、きっぱり言い切っている。「今の私には、何か一つのムーヴメントを興さうとも、またひとの興したそれに加はらうとも、さういふ気持は一切ない」。容易に想像できるように、荷風、潤一郎、直哉らは、加えられなかったのではなく、加わらなかったのである。加わる意思を最初から欠いていたのである。
先に、抽選で決めた編集当番を雑誌巻末の記載どおりに紹介したが、諸種の事情で若干の異同があった。ここは『文芸懇話会』誌の内容調べを主とするので、全十八冊につき、実際の編集担当者を改めて記載しておく。一九三六年(昭和一一年)一月一日発行の第一巻第一号は上司小剣。以下、第二号岸田国士、第三号三上於菟吉、第四号近松秋江、第五号川端康成、第六号菊池寛、第七号中村武羅夫、第八号白井喬二、第九号室生犀星、第十号吉川英治、第十一号加藤武雄、第十二号横光利一。三七年の第二巻に入って、第一号徳田秋声、第二号広津和郎、第三号宇野浩二、第四号島崎藤村、第五号佐藤春夫、第六号同じく佐藤春夫。
右で分かるように、この雑誌のおもしろさは、月毎に代わる編集担当者の腕の見せ所にあった。端的に言えば、その月の編集者が、どういう企画を出すか、どういう人に書かせるか、である。そのことにより、編集者の現状認識の程度や文壇交遊の範囲が知られ、そこに一種のコスモスが形成されるとみられるからである。このことは、特集の組み方に歴然と現れている。川端康成は「日本古典文芸と現代文芸」、菊池寛は「日本の将来に何を心配するか」、白井喬二は「文学の現状検討と待望」、室生犀星は「詩についていろいろ」、吉川英治は「歴史小説について」、島崎藤村は「『詩の将来』について」、佐藤春夫は「近世文芸名家伝記資料」「古典文学読本」、といった調子である。
中でも異色なのは三七年五月号の「近世文芸名家伝記資料」だろう。これは、三四年九月に催された物故文芸家遺品展覧会の資料を整理したものである。当時、その事で走り回っていた神代種亮が、翌年三月三十日に急逝(荷風は『断腸亭日乗』三四年三月三十一日の条に「神代帚葉昨夕五時心臓麻痺にて歿せし由。年五十三なりと云ふ。いつもの諸子五拾銭宛出し合ひ香奠を贈る」とある)したため、活字となるまでには、それなりの苦心があったらしい。今日から見れば他愛ない代物かもしれないが、この種のものが不備だった時代を考慮すれば、特筆に価すると言えよう。編集後記に佐藤春夫はこう書いている。「明治以降の文芸家を誌中の四十九家に限つたのは専ら展覧会場の広さに制限されたもので伝記資料にはもつと人員を増して然るべしと思はれないではなかつた。或は学海、梅花道人など逸すべからざる人で逸してゐる名家が尠くないのに気づいたが、本来四十九家の選定は懇話会会員大多数の意見を以て決定したもので、これを今更一存を以て増加するのに躊躇された上に、急いで資料を蒐集して杜撰になるのを虞れたから敢て増加することをせず、その代りに慰霊祭以後物故の十名家を加へて置くことにした」。そうして加えられた文芸家を、掲載順に記してみる。坪内逍遙、江見水蔭、河東碧梧桐、与謝野寛、千葉亀雄、寺田寅彦、生田長江、鈴木三重吉、佐々木味津三、十一谷義三郎。
しかし、そういう特集を組まない場合でも、編集を担当した作家の個性はおのずから出てくるもので、岸田国士編集号では、渡辺一夫の「仏蘭西の『文芸サロン』――その変遷について」を載せるなど、フランスのアカデミーについて紹介するだけでなく、辰野隆の感想をも織り込んで特色を見せた。また、中村武羅夫は、コンテンポラリイの文壇批評家よろしく、「日本文芸院論」(後述の予定)をテーマに諸家を動員した。文芸懇話会を批判した青野季吉も、その場を与えられている。懇話会に批判的といえば、高見順らと『人民文庫』に拠った武田麟太郎の寄稿も異とされる。これは、懇話会の良心ともいえる広津和郎の懇望もだし難く、といったところからだったろう。
そういう人間関係のどろどろが、一見、何らの違和感をも与えずに統一されたところに、文壇無監査組の貫禄が示されてはいた。しかし、これは表面の体裁だけだったのかもしれない。というのは、中には、文芸懇話会の雑誌ゆえに寄稿しないという、かたくなな良心があったことも事実で、室生犀星は、自分の編集した号の編集後記に書いている。「雑誌編輯上原稿を断られることは人格に手痛いものを感じるものである。高村光太郎氏から文芸懇話会の雑誌だから断るといふお返事を見抜いて素直に礼儀を重じてお依頼したのであるのに、小生の素志のとどかなかつたことを残念に思つた」。犀星編集号は三六年(昭和一一年)九月号だったが、光太郎は、ナチスの文化弾圧に抗議しつつ、なかんずく三六年の二・二六事件、中国共産軍の山西進出、スペイン戦争、ナチスの再軍備計画と、相続く内外の情勢変化に心を高ぶらせていた。そのような時、ファシズムの危機に無関心なだけでなく、むしろ、そういう方向に同調しているかのごとき文芸懇話会向きの詩精神は、あいにくと言おうか、光太郎は持ち合わせていなかったのである。そのことは、犀星が辞を低くして依頼した詩稿とは別次元で構想されていた「堅冰いたる」が、何よりも雄弁に語っている。そうして、それは、三七年一月号『中央公論』を飾った。
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堅冰いたる
乾の方百四十度を越えて凜冽の寒波は来る。
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書は焚くべし、儒生の口は嵌すべし。
つんぼのやうな万民の頭の上に
左まんじの旗は瞬刻にひるがへる。
世界を二つに引き裂くもの、
アラゴンの平野カタロニアの丘に満ち、
いま朔風は山西の辺彊にまき起る。
自然の数学は厳として進みやまない。
漲る生きものは地上を蝕《むしば》みつくした。
この球体を清浄にかへすため
ああもう一度氷河時代をよばうとするか。
昼は小春日和、夜は極寒。
今朝も見渡すかぎり民家の屋根は霜だ。
堅冰いたる、堅冰いたる。
むしろ氷河時代よこの世を襲へ。
どういふほんとの人間の種が、
どうしてそこに生き残るかを大地は見よう。
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こういう観点から雑誌『文芸懇話会』を見るならば、おそろしく時代感覚を欠いた雑誌だったといえるだろう。そこには凜冽の厳しさはなく、小春日和の穏やかさがあるだけだった。日本のことも世界のことも知ったことかと言わんばかり。それで文学が自足していられるうちは結構なのだが、すでに火の粉は降りかかって来ていたのである。で、もう一度バックナンバーを調べてみたところ、それが一九三六、七年の雑誌だということを、すこしも感じさせないのである。それはそれで良いのかもしれないが、日本文学者の知性と教養とが、そういうところに安住していたのかと思うと、いささか淋しい。高村光太郎を高しと見て言っているのではない。光太郎については、にもかかわらず、戦争詩にのめり込んだといういきさつがある。それはそれとして、こういう場合、やはり思い起こされるのは、ファシズムの嵐を前に、西欧の文学者が文化擁護や知的協力会議を持っていた事実である。
しかし、無いものねだりは止めておこう。言っても詮ないことだから。そのことは最初から分かっていたのだった。創刊宣言の、「文芸懇話会は、思想団体でもなければ、社交倶楽部でもない。忠実且つ熱心に、日本帝国の文化を文芸の方面から進めて行かうとする一団である」「今度この『文芸懇話会』といふ小さな雑誌を出すに就いても、一つは会の力を一そう強く働かせ、会の動きを更らにはつきりとさせたいといふ趣旨から出たものである」という言葉で分かるだろう。つまり「日本帝国の文化」を宣揚する会の雑誌だったのである。ここに見られるのは、西欧の作家に比べ、文化にたいする考え方の根本的な違いである。そう思って改めて雑誌を手にとってみると、ほとんど毎号のように、松本学らの日本文化連盟や邦人社出版物の広告が掲載されていて、言わず語らずのうちに、雑誌の性格が露呈されている。広告にある邦人社刊の大串兎代夫著『天皇機関説を論ず』が、どういう意図の下に出されたのか、説明するまでもなかろう。ついでに言っておけば、雑誌『文芸懇話会』の編集実務は松沢太平だったが、名義上の編集兼発行人は、松本学の思想運動に共鳴する安藤烝だった。
もはや、雑誌『文芸懇話会』の発行母体が日本文化連盟だったことは、自ずから明らかだろう。発行所が、東京市麹町区内幸町一ノ三・大阪ビルにあったことでも判明する。そこは、酷暑にたえかねた近松秋江が、仕事場にした所でもあった(前章を参照されたい)。この大阪ビルに、日本文化連盟は事務所を置いていたのである。そういえば、日本民俗協会の『日本民俗』や伝記学会の『伝記』も、日本文化連盟と繋がりを持つことにおいて、『文芸懇話会』と同根だった。と言うことは、これらは、とやかく言われた資金の出所についても同じだった、という事である。なお、文芸懇話会の資金の問題については、そもそものいきさつに遡り、次章において検討したい。
ここでは、雑誌『文芸懇話会』に限定することとして、最後になったが、三六年(昭和一一年)七月の中村武羅夫編集号が「日本文芸院論」特集を組み、勇気ある自己検証を試みているので、紹介しておく。目次は次のようになっている。
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文学と教育      阿部知二
他山の石――文芸院の問題に関連して――
中島健蔵
日本文芸院論     新居 格
日本文芸院の問題   青野季吉
日本文芸院について  谷川徹三
文芸院の存在理由   長谷川如是閑
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寄稿者に会員がいないのがよい。提灯持ちがいないのがよい。日本の良心を揃えたのがよい。あえて批判者に意見を求めたのがよい。それゆえに、傾聴に値すると言ってよい。かれらは、そこで、どう言っていたか。
阿部知二は、あるべき文芸院の問題を現実の文芸懇話会と切り離して言う。文芸院の問題が出てきた背景はわかるが、「文学を経世と結ばうとする一方の意志と、文学そのものゝ方向との間には、今のところ、随分、へだゝりがあることが予想される」ので、文芸院には懐疑的になる、国家は文学ということなどより、もっと根本的に教育のことから考えてもらいたい、そのためにはヒューマニズムの教育が必要である、「このヒューマニズムの教育が健全に行はれさへすれば、文学などは、作る方の人間からいつても読む方の人間からいつても、健全になるにちがひない」からである。と、これが阿部知二の考えだった。
中島健蔵は、一八六一年、フランスのアカデミーに二名の欠員が生じ、十何名かの立候補者がでて競った際、シャルル・ボードレールが四十歳の若さで立候補したこと、ボードレールが立候補したと聞いただけでアカデミーの歴史に傷がついたような顔をした会員がいたこと、でも、『悪の華』の作者は、平気で会員を歴訪したが、理解を示したのは、サント=ブーヴとアルフレッド・ド・ヴィニーの二人だけで、それも、よした方がよいとの忠告だったことを紹介し、「倫理の冒険家は、正当に『悪』の権利を持つてゐる。そしてその根拠としては、常識的な『善』に対する疑惑、反抗、否定である」と述べた。そういう中島健蔵の結語は、「真の文学者たる資格と、翰林院会員たる資格とは全く別物なのである」だった。
新居格の見解はどうだったか。それを彼の言葉で示せば、「わたしは政府の文芸政策を進展する機関となる文芸院にならぬ限り、反対はしないが、さりとて賛意を積極的に表明する気持には先づなるまい、といふのが今日の考方である」という所にあった。彼は寧ろ、文芸の現状を憂えていた。文学者の社会的地位の向上と共に文学者が紳士となり、時代に順応して、反逆性を失ってきた、というのである。文芸院が出来ることで、いい意味での文学的無頼漢性が稀薄とならねばいいが、というのも新居格らしかった。文芸院が統制的なものになる可能性を見越してのことである。
青野季吉の考えは事改めて紹介するまでもないだろう。これまで、文芸院や文芸懇話会に関する彼の意見は、本書でも触れている。でも、ここでの意見として整理すれば、「今日の時代に国立文芸院などが、ひよつとして設けられて、国家の利益の見地から統制的な営為に着手されたら、それこそ日本の文学のその社会性や民間性にとつては、大きな危機といふ外はない」というあたり、新居格の考えに近いといえるが、文芸懇話会を日本文芸院へ押し進めてはどうかとの説にたいしては、キッパリ言いきっている。「私は文芸懇話会が松本学氏の指導方針にもとづき、プロレタリヤ文学を排除するといふ態度をとり、資金を出す方がさうなら当分致し方がないといふやうな精神に立つ以上、その存在そのものが複雑な全体を持つ現代の文学にたいして一つの悪を働いてゐると信じてゐる」と。
谷川徹三は文芸院に賛成して言っている。「当局が多少は統制の意志をもつてゐてもそれだけでは文芸院に反対する理由にはならないであらう。文芸家の方でそれをうまく利用すればよい。それ位の知慧と腹をもつた人も一人二人は居さうではないか」。なるほど、こういうところに谷川人生論の神髄があったのか。
長谷川如是閑は、より一層、哲学的考察を試みている。如是閑は言っている。「文芸院は、新らしい発展については、積極的に貢献する力も性質も持たないものであらう。けれども蓄積された文化的感覚の持続の機関としては、存在を主張し得る。それはフランスのアカデミーのフランス語に於けるが如きものだが、言語の感覚について云はれることは、一般の文化感覚についても云はれる道理である」云々。
以上が諸家の「日本文芸院論」の要約である。雑誌『文芸懇話会』が、その資金の出所からくる疑惑にもかかわらず、松本学に引き回されずに何とか続けられたのは、こういう声に耳をかたむけるだけの余裕を、まだ残していたからではなかったか。言うまでもなく、文芸家の側に雑誌に関する一切の権限が任されていたからにほかならない。なお、参考までに付け加えると、上記六名のうち、青野季吉、谷川徹三、長谷川如是閑は、戦後の日本芸術院会員になっている。
実は大事なことが最後になったが、曲がりなりにも雑誌が第三者の介入を排して続けられたについて、口の重い島崎藤村の一言があったことを付け加えておきたい。このことに関しては広津和郎が記しているのである。
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「文芸懇話会」という雑誌が出来ることになった時、島崎藤村さんが、
「松本さん、雑誌のお台所のことはそちらにお願いしますが、編集のことは、一切私共におまかせ下さい」と丁寧な態度ではっきりいった。
雑誌が内務省に利用されないようにと、一本島崎さんが釘をさしたわけである。文芸統制の目的で企てられた最初の会合に、間髪を入れない徳田さんの発言があったように、この雑誌の場合には、機先を制した島崎さんの発言があった。
文芸懇話会を思い出すと、この二長老の二つの発言が思い出されて来る。この明治以来の自然主義の二大家は、かんじんかなめの急所に来ると、適切に釘を打ちこむことを忘れない。
そして徳田さんの発言が、相手の言葉に即応した直観的な発言だとすれば、島崎さんのは、一週間ぐらいじっくり考えた末の、用意周到の発言であろう。そこに両作家らしいそれぞれの特色があるが、急所を見のがさない点では一致している。
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[#地付き](『続年月のあしおと』)
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第一七章 「財閥富を誇れども……」
――フィランソロピーの先駆
何事を為すにも金の世の中である。文芸懇話会の例会が高級料亭で催された。その金はどこから出ているのか。文士慰霊祭をやった。その費用はどこから出たのか。文学賞金を出した。賞金の出所はどこか。採算の合わない雑誌を出した。どこにそんな資金があるのだろう。だれもが、そう思った。だが、文芸懇話会の金の出所は遂に明らかにされなかった。会員でさえ、明言できなかった。知っていたのは、松本学ただ一人。役人の習性で身に着いた口の堅さだった。だが、思わぬ方向から、秘密は遂に秘密でなくなるのである。
端的に言おう。文芸懇話会の資金の出所が分かったのは、三六年(昭和一一年)十一月号『日本評論』に発表された和田日出吉の「三井三菱献金帳」によってだった。和田日出吉の論考は、満州事変以後に顕著となった財閥の寄付行為を、三井・三菱を中心に、一件五万円以上に限って明らかにしたものだが、三井財閥の寄付行為を列挙した中に「社会文化事業及び学術関係寄附」として、次の一項を記していた。
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昭和八年六月十五日
日本文化連盟計画助成金
三〇〇、〇〇〇円
――右翼的な思想系統にある文化団体、松本学(前警保局長)を中心に藤沢親雄(前九大教授)等が集まつてゐる。文学にまで触手を伸し、小説などの奨励金も出してゐる。
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たったこれだけだが、文芸懇話会の費用が松本学の日本文化連盟から出ていることは、これで明白になった。詰まるところ、文芸懇話会は、三井財閥の援助で運営されていたのである。前期三十万円は計画助成金であって、以後の運営費はその都度、追加支出されていたことは言うまでもない。では、なぜ三井はそういう金を出していたのか。以下、その背景を考察してみたいのである。なお、日本文化連盟傘下の団体については、第四章を御覧いただきたい。
かつて三井は財閥の筆頭だった。三井王国の全盛時代を知るオールド三井マンにとって近年の凋落は、どんなに嘆かわしいことだろう。三井といえば、その頂点にあって、心臓部を占めていたのが三井合名会社。さしあたって、話はいきなり、一九三二年へさかのぼる。
三井合名の理事長・団琢磨が、三井銀行本店玄関先で射殺されたのは、三二年三月五日の正午だった。白昼堂々とテロを働いたのは菱沼五郎。血盟団の団員だった。その二か月前の二月九日には、井上準之助が、同じく血盟団の小沼正に暗殺されている。財界の両巨頭が血盟団の沼[#「沼」に傍点]で落命したのである。次いで起こったのが五・一五事件。政財界首脳部は夜もおちおち眠れない時代を迎えていた。ついでになるが、団琢磨を射殺した菱沼五郎の本名は小幡五朗。無期懲役に服した後、恩赦で出所、戦後は茨城県会議員八期、県会議長を務め、九〇年(平成二年)十月三日、七十八歳で没している。
団琢磨が狙われたのは、三井のドル買いが、国民の怨嗟を買っていたからだった。満州事変勃発直後、突如発表されたイギリスの金本位停止で日本の金輸出再禁止が予想され、ドルが買いまくられた。円が安くなればドルが高くなる、今のうちに買っておけ、というわけである。ドル買いに走ったのは三井だけではなく、額の上では住友や三菱の方が多かったが、目の敵にされたのは三井だった。三菱は軍艦や航空機を製造していて軍に受けがよかったからだとか、住友は住友金属工業が軍需資材を造っていたので得をしたとか言われるが、根本は図体の大きさで三井が目立ったからだろう。一方には、そこに至る三井のあくどい儲け方も顰蹙を買っていたということがある。いずれにしても、円の対外信用失墜は国賊ものだった。こうして財閥が富の蓄積に汲々としている反面、農村の疲弊は甚だしく、しかも政界は腐敗していて物情騒然、ファッショの台頭に格好の条件が整って来ていた。
ここにおいて財閥が反省を示さなければ大変なことになる。三井は慌てた。そこで、まず、機構改革に手をつけて陣容を整えることにした。団琢磨の没後、三井合名では理事長を置かず、常務理事の有賀長文、福井菊三郎の両名に、三井銀行の池田成彬、三井信託の米山梅吉、三井鉱山の牧田環、三井物産の安川雄之助の四名を平理事に加え、六名から成る最高指導会議で事に当たってきたが、週一回の定期会議ぐらいでは、事態の急激な変化に即応できなくなってきていた。そこで、池田成彬が合名の常務理事に回り、有賀、福井の三名が合名の仕事に専念することになった。柱は池田成彬だった。
これが発表されたのは、三三年(昭和八年)九月二十二日。即日、池田成彬は三井銀行の筆頭常務を退くと共に、東京手形交換所理事をも辞任、日銀参与も辞任の模様と伝えられた。三井にとって、エース・ピッチャーの登板である。単なる一財閥の人事問題と言うなかれ。それがビッグ・ニュースであったことは、九月二十三日付(二十二日夕刊)『東京朝日新聞』が第一面の見出しを、「三井王国の転向/池田(成彬)氏は合名専任/銀行筆頭を辞す/本日午後突如発表」「資本主義を修正し/社会的貢献を計る/三井財閥今後の動向」と付けて、大きく報じたことでも分かるであろう。
この方向転換は、新聞がそう書いたように、一般に三井財閥の転向と呼ばれた。あたかも、それより三か月前、共産党の巨頭佐野・鍋山の獄中転向声明があったりして、転向ばやりとなったことを受けて、新聞も「三井王国の転向」と皮肉ったのである。もちろん転向ということばそのものは、以前からあった。たとえば、二七、八年の頃には、いわゆるブルジョア作家のプロレタリア陣営への移行を転向とよんでいた事実がある。でも、佐野・鍋山の転向で転向のなだれ現象が起き、言葉に新しい意味が付加されたのも事実にちがいない。財閥の転向も風俗の一つと見えてくるのだった。『太平記』でおなじみの児島高徳が桜の幹に記した十字の詩をもじって「転向せんを空しうするなかれ、時に判例なきにしもあらず」は左翼の自嘲だけではなかったのである。
お家大事と思わば転向も止むなし。財閥がファッショの嵐を防ごうと思えば、在来の路線を後生大事に守っていたのでは危険である。二九年一月から十一月にかけて欧米を視察して回り、ドイツのコンツェルン(財閥)に学ぶところ多々あった池田成彬にとって、このことは切実な課題だった。浜口雄幸、井上準之助、団琢磨、犬養木堂と来て、次はだれかとなれば、戦々恐々となって当然である。こんな話も伝えられている。
郷誠之助といえば、東京電灯の社長として、また財界の世話役として重きをなした人物である。永野護、河合良成、正力松太郎、伊藤忠兵衛など十名前後でなる番町会の主催者としても知られていた。三三年(昭和八年)夏の関東防空大演習といえば、硬骨のジャーナリスト桐生悠々が、防空の目的は敵機を侵入させないことにあるのに敵機の侵入を前提とするのはおかしいと批判したため、『信濃毎日新聞』の退社を余儀なくされたことで知られている。その防空演習があった時のことである。箱根の別荘にいた郷誠之助は、灯火管制で身の危険を感じて、某旅館へ逃げ込んだそうだ。郷だけではない、政財界のお歴々も、当夜は身をくらますのに、苦心惨憺したという。闇討ちを怖れたのである。根も葉もありそうな話だった。
「財閥富を誇れども、社稷《しやしよく》を思ふ心なし」――五・一五事件に連座した海軍中尉三上卓の作った歌の一節である。しばしば街頭宣伝車から流れてくるので御存知の方も多いだろう。財閥は富に汲々として社稷=国民を顧みないというので標的にされた。昭和維新の熱血に燃える青年の心は、汨羅《べきら》の淵に身を投じた屈原になりきっている。あぶない、あぶない。財閥も国民のことを思っていると知らせなければならない。それには三井が先駆けを示す必要がある。それも、迅速に、しかも効果的に。三井の方向転換、転向は、こうして実行に移されるのだった。
では、そういう危機管理の内容はどうだったか。一つには事業独占の非難をそらすための株式公開である。これは経済界では歓迎された。『神戸又新新聞』などは、社説で「財閥の事業公開/三井持株売放と富豪の美挙」として賞揚したくらいである(三三年七月二十九日)。しかし、これには裏があった。つまり、損をしてまで公開していない、ということである。加えて、公開といっても生命保険会社(千代田、第一、愛国、帝国、太平等)への売却だったから、国民に利益を還元したことにならない。ちなみに、三三年七月から十月までの間に、三井合名所有の王子製紙株、三井物産所有の東洋レーヨン株、三井鉱山所有の東洋高圧・三池窒素株が公開されている。
それと、いま一つには、三井同族十一家の経営面からの退却である。これは、実際の経営に当たっていない者が表に立つのはよくない、世間の風当たりを強くするばかりだ、という池田成彬の主義によるもので、同族の説得には多少の時間を要したが、実行された。
これらと並んで、内部浄化にも手が付けられた。「カミソリ安」といわれた安川雄之助は、三井物産の大をなさしめた功の反面、商売のやり方が悪くどく、三井のイメージチェンジにふさわしくなかった。また、東洋レーヨンの株式公開に際しては、一般社員への分配に比べ、自身は相当数を取得するなど、内部の評判も芳しくなかった。プレミアムのつく旨みのある株だっただけに、社員の反感を買ったのである。お家の安泰をはかるには切腹申し付けるにしかず。益田孝翁のお出ましで引導が渡された。黒幕は池田との噂。
これらの株式公開、経営刷新と並んで、いや、それより遙かに大きな反響を世間に与えたのに、三井報恩会の設立がある。三井の方向転換、転向を象徴する事業だった。
時は一九三三年十一月一日。この日午後四時、三井の総本山である三井合名会社は、金三千万円を提供、財団法人を設立して、公益事業の進展に寄与すると発表した。発表された事業の概要は次の三点だった。
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一、緊切なる文化事業の学術的研究並に工業的実験
一、都市における社会事業その他の公益的施設
一、農漁村発展のためにする各種の公益的施設
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当時の三千万円は今日ではどのくらいになるだろうか。かりに貨幣価値を千倍と低く見積もって三百億円、二千倍とすれば六百億円、あるいは、もっとだったかもしれない。これは世間を驚かすに十分な金額だった。そのことは、『東京朝日新聞』が社説(十一月二日「三井家の公益奉仕」)で、「従来とても富豪の公益事業に対する巨財提供は、まれではなかつたが、一時に三千万円といふ巨財の提供は空前の事実であつて、富豪の公益奉仕に一つの紀元を画するものといひ得るのである。思ふに三千万円の巨財は、三井家の大をしても鮮少の犠牲ではあるまい」と述べていることなどからも知られるだろう。
忘れてならないのは、日本経済の基盤が総体として脆弱で、国民所得も極めて低かった時代の金額である。それだけに、決定されるまでには曲折があった。このことに関し池田成彬は、戦後こう語っているのである。
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内部でも議論はありましたよ。三井家が第一反対でした。普通利息でやるか? そんなことでは何もできない。元金を食つてもいい。元金がなくなつたら補充する、という風に徹底的にやらなければいけないと言つたので議論になりました。併しとうとう私達の言つた通りになりました。そして一番最初にやつたことは、癌治療のためのラジウムを九十何万円出して買つたことです。あの時私がもう四、五年三井に居てやつたら、財閥に対する世間の考え方は幾らか違つただろうと思いますが、世の中が妙な方に突つ込んで行つたから、私がやつて居つても同じことだつたかも知れません。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『財界回顧』四九年、世界の日本社刊。
[#地付き]五二年、三笠文庫)
右の談話中にある「もう四、五年三井に居てやつたら」を注釈すれば、二・二六事件後の三六年(昭和一一年)四月、三井の第二次方向転換といわれた定年制施行の際、池田成彬が率先して辞めた事実を指す。なお、その後の池田の経歴はといえば、三七年二月に日銀総裁就任、三八年五月に近衛内閣の大蔵大臣兼商工大臣として入閣、時代の大きな流れに巻き込まれ、戦時経済の舵取りに身をまかせた。太平洋戦争に突入後は東条政権に抗してはみたが、時すでに遅く、池田個人の力では、いかんともしがたい所まで来ていた。
天の恩、地の恩、国の恩、人の恩の三井報恩会――罪ほろぼしのようで、しおらしくもあれば白々しくもある。けれど、せっかくの偽装工作だ、遠慮や照れは禁物、堂々とやるべし、だった。念のため、報恩会発足までの手順を見ておこう。
財団法人三井報恩会の設立認可の申請書は、一九三四年二月十三日に、内務、文部、農林、商工の各大臣宛に出され、三月二十七日付で許可があり、四月五日に登記完了、五月一日に事務開始となっている。その間、四月二十三日午後、定款にもとづき評議員を決定、同時に第一回評議員会を開催、理事および監事の選任があった後、次の事項が正式に決定された。
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一、財団の機関は理事、監事及び評議員を以て組織する。
一、理事長―米山梅吉、専務理事―山口安憲、理事―有賀長文、池田成彬、牧田環、監事―福井菊三郎、樺山愛輔(伯爵)。
一、評議員―三井家ならびに三井関係会社重役、学識経験者若干名。
[#ここで字下げ終わり]
ところで、三井報恩会の三千万円とは別に、三井は、従前からの通常の寄付行為も続けていた。これを団琢磨が殺された三二年(昭和七年)三月から二・二六事件後の三六年五月の四年間に限って見てみると、通常の寄付行為の総計は約三千万円と想定された。報恩会の三千万円と合わせれば六千万円の放出である。今日なら優に一千億円は越える。しかも、この間の寄付行為の特徴として、国防・軍事関係の比重が著しく増大していることに注目したい。三井に次いで寄付の多かった三菱のばあいは、前記四年間の総額は一千五百万円と推定されている。額の上では三井が断然上だが、国防・軍事関係でみると両者はほぼ同額だったようである。三井の方は病院や失業救済など慈善関係の割合が高かったから。それだけに三井は非常時に際し、転向をアピールする必要があったともいえよう。
こういう背景を考慮すれば、日本文化連盟に対する寄付などは物の数ではなかった。いわんや、その傘下の文芸懇話会へ流れた金などは実に微々たるものだった。三井にとっては、それが現に警保局長の職にある人の音頭取りで創設された時局的なものであってみれば、むしろ進んで恩を着せておいた方が何かと都合がよかった筈である。日本文化連盟への資金提供は通常の寄付行為によるものだったが、それは総額でいくら出されていたか、また、文芸懇話会にはどのくらい流れていたのか、そこが問題である。和田日出吉は「日本文化連盟計画助成金」の三十万円を記しただけである。もう少し詳しい事が分からないだろうか。
そう思いながら、国立国会図書館憲政資料室の『松本学文書』を調べてみた。そうしたら、ペン書き一枚の「日本文化連盟支出概計書(六期六ケ年間)」というのが出てきたのである。これで一目瞭然。幸運だった。それによると、三三年七月から三九年四月までに日本文化連盟が使った額は、総額にして八九万四六六六円五七銭となっている。内、文芸懇話会の支出分は、三三年七月〜三四年六月が九二四円八二銭、三四年七月〜三五年六月が五二〇四円四四銭、三五年七月〜三六年六月が一万一八七〇円六二銭、三六年七月〜三七年六月が八一〇六円二六銭、三七年七月〜三八年六月が二三九二円二四銭。以上の合計は二万八四九八円三八銭也。これが三井から文芸懇話会に流れた金の全部である。
繰り返しになるが、以上の費用は三井の通常寄付行為で出ている。すくなくとも当初はそれで出発している。でも、途中で報恩会が肩代わりしたと考えられないだろうか。それは無理だとしても、松本学と三井とを結び付ける要因はどこにあったのか。そこは人脈で、三井報恩会の専務理事山口安憲との関係に一言したい。
山口安憲は松本より一年遅い東大法科出身。在学中に高文をパスして内務省に入っている。振り出しは香川県。その後、朝鮮に渡って保安課長、高等課長を経、本省に戻って震災後の復興局にいたところを伊沢多喜男に引っ張り出され、東京市の第三助役となって、また本省に戻り社会局にいたりしたが、伊沢の推薦で鹿児島県知事となり、さらに山形、石川と回ったあと、報恩会の専務理事に就いたというわけ。鹿児島県知事は松本学も勤めているので、ここでも後輩ということになりそうだ。社会局時代にはラジオ体操、工場体操の普及に努めたという。そういえば、日本文化連盟の傘下に工場スポーツ連盟というのがあった。これと関係があったかどうか。
山口との関係を除いても松本は、三井には貸しがあった。松本が福岡県知事時代の話である。三井鉱山は不況のため鉱夫二万人を一万人に削減した。その上、経費節約の目的で購買組合を作った。三井鉱山に依存していた大牟田市にとって、これは死活問題である。会社と市民が対立して騒動になった。すると、福岡連隊から少壮軍人が乗り込んできて三井攻撃の演説をぶち、不穏な空気が流れた。そこで松本学は六百人の警察官を動員、これを鎮圧したというのである。県知事として当たり前のことをしたつもりかもしれないが、会社側としては大いに助かった。結果として松本は、三井に恩を売ったわけである。大牟田のことを思えば、日本文化連盟への端金などはお安い御用だったのである。
しかし松本学は後年、日本文化連盟への資金の斡旋をしてくれたのは、郷誠之助だったと言っている。松本は郷の番町会の常連ではなかったが、麹町区番町の郷誠之助邸には出入りしていたようである。警保局長になってからと思われるが、要人警護のためもあってのことだろう。そういう所で互いに情報が交換された。何かの折、松本は文化連盟の構想を郷に話してみた。すると郷はすかさず賛成、実は、と言って、資金を作ってくれたというのである。
前にも見たように、郷誠之助は東京電灯の社長をしていた。その東京電灯は三井銀行と資金関係にあったのである。ちなみに郷誠之助の他界(一九四二年一月十九日)に際しては池田成彬が葬儀委員長を務めている。しかし松本は資金の出所が三井だとは決して言わなかった。郷に口止めされていたとは思われない。では、なぜだったか。考えられるのは、政友会に近く平沼騏一郎擁立へ傾いていた三井に対し、民政党に近く宇垣一成擁立に熱心だった松本にとって、三井との関係を云々されるのは避けるのが得策だと思ったからであろう。
それにしても、「財閥富を誇れども……」など、義憤に燃えて血潮を沸かせていた青年たちの運動に、財閥の富のおこぼれが渡っていたのだから、世の中のこと、きれい事だけでは済まされない。北一輝が三井の金を押し頂いていたのである。北の要求は、自分は青年将校に影響力を持っている、しかし「赤貧洗うがごとく」貧しいので生活費の援助を請う、というもので、その要求は執拗を極めたらしい。毎月数万円のほかに盆暮れに一万円といわれ、正確なところは不明だが、万単位で出ていたことは確かと思われる。
二・二六事件一か月後に、東京憲兵隊長宛で提出された池田成彬の「顛末書」には、こう記されている。「一度、援助金を請求して聴かれざるときは、彼は毎日にても電話をもつて面会を要求し、つひに目的の達成をみざれば止まざりしその執拗なる態度にいたりては、尋常人のとうてい堪ゆるところにあらず。知らず知らずの内に、承諾せざるべからざるに至れるものなり」。さりながら、命を金で買えれば安いもの。二・二六事件では、池田は襲撃の対象になっていなかった。そして三井は安泰だった。
北一輝のばあいは特別としても、他に似たような例があったろうことは容易に想像できる。財閥が寄付に応じてくれるとなると、今まで存在も知られなかったような団体が寄付の申し込みをしてき、そのために断るのが一仕事、という現象が生じた。本来なら政府が面倒を見てしかるべきものでさえ、寄付を強要してくるのである。この寄付金への依存体質は、自助努力の放棄につながり、ことに芸術団体などにあっては、溌剌とした活動力の喪失となって現われる。それを文芸懇話会の顛末に見るのである。芸術におけるパトロネージの古くして新しい問題である。
三井報恩会に代表される寄付行為は、今日の言葉に置き換えるなら、さしずめ、フィランソロピー(企業の社会貢献)と言って差し支えないだろう。その一部は、企業のメセナ活動(文化支援)の要素さえ帯びている。だが、出された金額に比して、もたらすものの効果が印象に残っていないのはなぜだろうか。一言でいえば、あまりにも総花式のバラまきだったことによる。それによって、農山漁村の救済に幾分か役立ったことはあったろうけれど、それは本来、政府の仕事であるべき筈である。寄付総額の何分の一でもいい、それによって、三井オペラ・ハウスや三井美術館が造られていたら、三井の名は残っただろう。団琢磨の孫で作曲家の団伊玖磨、その子で建築家の団紀彦にとっても、いみじき事に思われただろう。文芸懇話会賞にしてもそうである。あのとき妙に隠し立てなどせず、三井文芸賞とでもしておいたなら、それこそ企業メセナの先駆として今日、あらためて顧みられることにもなったと思うが。
それにしても、やはり大事なことは、いたずらに助成を求めるのあまり、芸術・文化にとって命ともいえる独立の精神を失いはしないかと言う事である。もし、そうなるならば、芸術・文化の振興とは名ばかりのこと、かえって創造の泉を涸らすことになる。
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第一八章 文化勲章の制定と帝国芸術院の成立
――志賀直哉・永井荷風・島崎藤村
文化勲章令が「文化ノ発達ニ関シ勲績卓絶ナル者ニ之ヲ賜フ」という勅令第九号にもとづいて公布されたのは、一九三七年(昭和九年)二月十一日のことである。授賞者の発表があったのは同年四月二十六日、授与式は四月二十八日に行われた。位階勲等順に発表された受賞者は、次の九氏だった。
正三位勲一等長岡半太郎、従三位勲二等本多光太郎、正三位勲二等木村栄、正四位勲二等岡田三郎助、従四位勲三等藤島武二、正五位勲四等竹内恒吉(栖鳳)、正六位勲六等佐佐木信綱、幸田成行(露伴)、横山秀麿(大観)。
以上の内、長岡、本多、木村の物理学者を除いて他は、佐佐木の歌学史を含め、文学・美術の芸術部門から選ばれている。その面では画期的と言えるであろう。にもかかわらず、いずれも純粋に民間から選ばれたとは言いがたく、アカデミズムを反映した人選である所に、時代を感じさせずにおかないのである。すなわち、長岡、本多、木村、佐佐木、幸田は、帝国学士院会員だったのだし、岡田、藤島、竹内、横山は、帝室技芸員だったのみならず、帝国美術院の会員にもなったことのある人物だった。それなら、同じく帝室技芸員で帝国美術院会員の和田英作や川合玉堂を、この第一回に逸したのはなぜか、の疑問も出てきて、いつのばあいも人選が問題だったことが分かるのである。
それにしても、芸術部門六名の内、洋画二、日本画二と四名が美術家で占められたのに対し、文学が二名に止まったのは、それだけ文学の評価が難しいという以上に、この部門の評価の低さを如実に物語っているようである。それも、信綱といい露伴といい、現役の創作家というよりも、文学の学匠といった方がふさわしく、その点でも、無難は無難ながら、文壇の現実から二人は遠い存在だった。そういう意味での文化勲章受賞者が、一九四九年(昭和二四年)における谷崎潤一郎、志賀直哉まで見られなかったと言うことは、いかにも淋しい。
では、信綱、露伴の受賞の感懐はどうだったか。佐佐木信綱について言えば、いわゆる「御大典」に際し、宮中の饗宴に招待されている。そのとき信綱は、「天つ日の光あまねく野の草も花の数にし召されたり今日」「言霊のさきはふ国のうた人の幸をしおもふ今日のこの日に」他三首を詠み、「おほけなくも」選にあずかった喜びを「この光栄をかがふれる身の畏こさ、かがやかしさよ」と述べた(歌集『豊旗雲』および、その「後序」)。文化勲章の受賞に際し、いかに感激したかは想像に余りあろう。それは、雲のごとき門弟淑女の喜びでもあった。この素直さにケチを付ける気は毛頭ない。露伴はどうだったか。受賞記念祝賀会の挨拶が三七年八月号の岩波『文学』に載っているので見てみると、こういうばあい「私ごときが」という謙辞のあと、すぐれた芸術は国家社会から優遇されたから出るというものではなく、むしろ、国家社会から虐待され冷遇されたところから出てきていると述べていて、それはそれで、いかにも露伴らしく思われるのだった。
ところで、このような時期に、文化勲章の制定は、どういうところから起こったのだろうか。なんとなく文芸懇話会に関係ありそうに思われるが、これについては、直接の関係は何もないと言っておこう。むしろ、その性格からして関係ありそうに思われるのは、一九二八年(昭和三年)のいわゆる「御大典」の際に持ち上がった文功章で、文化勲章は不発に終わった文功章の延長上に開いた花というべきだろう。問題は、それが、なぜ一九三七年になって、にわかに現実化したのか、ということである。
国際連盟から中国侵略を非難されていた日本は、何とかして汚名を返上したかった。そのための、いじらしくも空しい努力が、文化国家としての印象付けだったのである。時の外務大臣広田弘毅の肩入れをえて、近衛文磨を会長に柳沢健らが国際文化振興会を設立したのは三四年四月のことだったが、このことでは菊池寛が、国際文化の振興より国内文化の振興の方が先決問題だ、と言ったことから柳沢健との間に、ちょっとした一幕があったりして、文化の問題は政治の問題にほかならぬことを教えた。
日本文化の海外進出が唱えられ、さまざまな試みがなされた。歌舞伎を海外に紹介するため、小津安二郎に依頼して、六代目尾上菊五郎の「鏡獅子」を映画化した。日独合作映画「新しき土」製作のためアーノルド・ファンクが来日した。そして、早川雪洲の扮する単純な民族主義者が清楚な原節子と共にスクリーンに登場し、祖国愛と国土建設への挺身が、日本各地の観光名所と茶の湯や伝統行事を背景に、浅薄な美しさで描かれた。ドイツ版の題名が「さむらいの娘」だったのに羞恥を感じなかったとしたら、日本人のメンタリティーはどこにあったのだろう。藤田嗣治が監督した「現代日本」も国辱映画といわれたが、考えてみれば、ありのままの日本を紹介すれば、すべて国辱ものになるという現実があったのである。文芸懇話会が授賞作『紋章』や「あにいもうと」を英仏語に訳して、日本の小説を売り込もうとしたのも、日本への理解が得たかったからである。国際文化振興会がアルゼンチンにおけるペン・クラブの要請に答えて、『坊っちゃん』と『多情仏心』と『新生』の三作を日本の代表作として提出したのなども、お笑い草だった。そうかと思うと、世界最古の小説として『源氏物語』を何かというと持ち出していた。一方では、それの劇化を禁じているのだから世話はない。
国際社会における日本の立場を知っていた広田弘毅にすれば、二・二六事件の後に政権を担当した手前、文化の面で日本をアピールしたかったに違いない。三六年(昭和一一年)十一月の閣議に、首相みずから芸術・文化の顕彰を提議した背景も分かるのである。ところが、広田内閣は三七年一月末に倒れ、そのあと宇垣一成に大命が降下したものの、陸軍の反対で流産するなど、もたもたの末に林内閣が誕生した。そのため、文化勲章の公布に副署したのは林銑十郎(文相兼任)だったが、実質的に文化勲章は、広田内閣の置き土産だったのである。
一九三五、六年の危機については既に考察した。その危機を脱した日本に待っていたのは何だったか。過去十五年の間、軍縮の名目で海軍の建艦競争を抑えてきたワシントン条約ならびにロンドン条約の効力が三六年十二月三十一日午後十二時をもって切れたことによって、三七年一月一日以降、海軍は無条約時代に突入したのだった。国防の充実を期するために増税は必至となり、これからが本番の非常時といえた。海軍条約破棄の責任が英米にあったか日本にあったかは、ここでは問わない。一方には日中両国の問題は依然として未解決のまま残されており、いずれにしても日本は、容易ならない事態に追い込まれていたのだった。こういう時代における文化勲章制定であり、日本のアカデミー、帝国芸術院の成立だったのである。
帝国芸術院官制が勅令第二八〇号を以て制定されたのは、一九三七年六月二十三日だった。同時に帝国美術院官制は廃止された。ここに至る直接の経過を述べておく。
帝国芸術院の創設については、すべて文部省サイドで進められた。直接のきっかけとなったのは、帝国美術院の松田改組で、翌年の平生改組につづく文展の終了後に具体化している。すなわち、三六年の秋以降で、準備の中心となったのは、当時の文部次官、専門学務局長、学務課長、学芸課長らで、徹頭徹尾、官僚主導型、したがって秘密裡に進められた。その過程で帝国美術院長清水澄や前院長正木直彦が関与した。すべては、美術部門優先の芸術院で出発した。
官制の骨子が出来たのは三七年五月二十九日だった。翌三十日、清水院長、文部次官、学務局長の三人で林文部大臣を訪ね、決裁を得たところ、その翌三十一日に林内閣は全閣僚の辞表を提出、六月四日に近衛内閣が発足し、文部大臣に安井英二が就任した。こういう次第で、芸術院の新設は頓挫したかにみえたが、安井新文相の承認を得て、水面下の交渉で人選は進んだ。正式交渉は、六月十八日の閣議で承認されたあと、上奏裁下を仰ぎ始められたが、この過程で思わぬ暗礁に乗り上げた。
前年の平生改組を不満として帝国美術院に辞表を出した十六会員のうち、梅原龍三郎、小林古径、安田靫彦、富本憲吉、横山大観、和田英作、川端龍子、平櫛田中、佐藤朝山に加えるに小杉放庵らが相次いで辞意を表明してきたからである。辞意表明の仕方は、今までのように、連名で結束してというのでなく、まったく個々の判断で行われた。しかし、辞意の理由を集約すれば、ほぼ同じところへ落ち着く。すなわち、一昨年来の美術騒動をそのままにしておいて、看板だけ塗り替えても事態は解決しない、松田・平生改組を白紙に戻してから事にあたるべきではなかったか、というのである。もともと展覧会本位に集められた帝国美術院会員を、そのまま芸術院会員とし、展覧会だけは文部省がやるというのも筋が通らぬ話だった。それと、こういう大事を官僚が隠密に処理しようとした事にたいする不満もあった。そもそも、なぜ芸術院なのか、芸術院は何をするところなのかが分からなかった。不満は当然である。
こういう思わぬ反発に文部省側は狼狽した。「思わぬ」というところに役人の思い上がりがあった。かれらは高を括っていたのである。あるいは、首尾は上々と、ほくそ笑んでいたのである。そうして、いったん苦境に立たされると、自らの失態を棚上げにして外部の力に頼ろうとする。それが官僚の常套手段だった。そして、このばあいも、かれらは、この常套手段を用いた。
美術に造詣が深く、美術界に顔の聞く細川護立(侯爵)と岡部長景(子爵)らを歴訪して事態の収拾をはかったのである。ところが、美術家に理解があるだけあって、細川護立のばあい、意外と文部省に厳しかった。細川護立は言うのである。芸術院の是非は別として、出来る以上は、会員の努力で完全なものに持っていくより仕方がない、しかし、美術家の拒絶については、文部省の軽率の一言に尽きる、人選にも問題があるだろう、官制については文部省が一体なにを意図しているのか解らない、ここまで来たら当局は体面などにこだわらず、熱意と努力で、芸術にたいする真の理解を以て進むべきである(六月二十日付『東京朝日新聞』記事「芸術院は何処へ行く? 細川侯と一問一答」)。
こういう人々の理解が功を奏したのか、当局の必死の説得工作の結果か、美術家の方でも折れて、旅行中で交渉できなかった川端龍子は発令後に帰京、改めて辞表を提出した。それ以外は全員元の鞘に収まった。つまり、松田改組で任命された帝国美術院会員が、そっくりそのまま帝国芸術院会員に収まったのである。このへんに美術家の甘さや我儘があったと言ってしまえばそれまでだが、裏面の動きは分からぬながら、芸術家とパトロネージの、曰く言い難い微妙な関係が伏在していたと見るのは酷であろうか。
いずれにしても、帝国芸術院は清水澄を院長に、次のような顔触れで発足した。
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絵画=岡田三郎助、和田英作、川合玉堂、竹内栖鳳、中村不折、藤島武二、菊池契月、荒木十畝、小室翠雲、結城素明、北村西望、建畠大夢、和田三造、山崎朝雲、内藤伸、西山翠嶂、板谷波山、香取秀真、鏑木清方、南薫造、松岡映丘、中沢弘光、清水六兵衛、川村曼舟、松林桂月、西村五雲、朝倉文夫、清水南山、石井柏亭、橋本関雪、富本憲吉、川端龍子、横山大観、梅原龍三郎、山下新太郎、安田靫彦、安井曾太郎、前田青邨、小杉放庵、小林古径、有島生馬、佐藤玄々、斎藤知雄、平櫛田中、藤井浩祐、津田信夫。
文芸=幸田露伴、徳田秋声、岡本綺堂、泉鏡花、菊池寛、武者小路実篤、谷崎潤一郎、千葉胤明、井上通泰、佐佐木信綱、斎藤茂吉、高浜虚子、河井酔茗、国分青崖、三宅雪嶺、徳富蘇峰。
音楽=幸田延子、橘絲重、多忠龍、豊時義。
能楽=梅若万三郎、宝生新。
建築=伊東忠太、塚本靖。
書道=比田井天来、尾上柴舟。
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文芸部門の人選では、やはり問題があると言えるだろう。辞退者の出た小説部門については後述するとして、歌人を例に言えば、『アララギ』の斎藤茂吉や『心の花』の佐佐木信綱を遇する理由は解るが、与謝野晶子はどうしたのか、ということなどである。与謝野晶子については、新聞に「与謝野女史も確実」と顔写真まで出されておきながら(六月十八日『東朝』紙)、内定取り消しとなっているのは、どうしたことか。それで晶子自身、どういうこともなかったが、無視するなら無視するで、最初からそうだったら、どんなにスッキリしたろう。文芸院に批判的だったのを考慮して外したのか、明星派を過去のものとして葬ったのか。そうしておいて、宮内省御歌所の千葉胤明や、これも御歌所と言ってよい井上通泰を入れているのだから、バランスを失している。書道で会員になった尾上柴舟にしても、御歌所に近い存在だった。その学問上の業績を疑うものではないが、東京女高師教授、学習院教授の肩書きは物を言う。近代詩人を河井酔茗で代表させたのは解らぬでもないが、それとの釣り合いで漢詩人の国分青崖を選んだのはどうだろう。国分青崖を入れたので、釣り合い上、河井酔茗が入ったのかも知れないが。しかし、こういうことは言いはじめたらキリがないものだ。人選に付きまとう問題は、現在の日本芸術院にもあるだろうし、また、会社の人事において然り、どの社会にもあることなのである。
それにしても、人選は常に非情である。ことに、それとなく期待していたのが外されたとなると愉快でない。与謝野晶子と、おそらく、同じ思いをしたのに志賀直哉がいた。その時の正直な気持を志賀直哉は、やはり「不愉快」として書いている。
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自分の事になるが、芸術院といふものが出来た時に、私は私のところにも会員を云つて来ると思つてゐたし、新聞社から電話で承諾したかどうかの問合はせなどもあり、けふあすには屹度云つて来るものと思つてゐた。然し私はさういふ人の集まる所を好まず、且つ如何なる肩書も自分に似合はないやうな気がしてゐたし、画家ならば会員になつてゐるか否かで、作品の市価に不当な差別待遇を受けるといふ事もあるが、小説家の場合はさういふ事はないので、承諾したものかどうか迷つてゐた。ところが、会員がきまり、その名が新聞に発表されたのを見ると、私はその選にもれてゐた。承諾を迷つてゐた位だから、此事は面倒がなく、却つていい筈なのに、恥をいふやうだが、私は不愉快になつた。これはいけないと思ひ、無心にならうとしたが、却々、無心になれず、そんな事を不愉快に感ずる自身に嫌悪を感じ、二重に不愉快になった。そして、この次は必ず云つて来るだらうが、今度は迷ふ事なく断つてやらうと決心した。
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[#地付き](一九四八年七月号『文芸春秋』「菊池君の印象」)
終りの方で「この次は」と言っているのは、一九四一年(昭和一六年)に会員補充のあった時のことで、この時には文部省の役人が選ぶのでなく会員が選ぶ事になってきており、まず武者小路実篤から説得されたが固辞し、武者小路が諦めたところへ、滝井孝作と菊池寛が勧めに来た。この時までに志賀直哉は三度断わったと書いている。その三度も断っている者の所へ、親しくしていたわけでもない菊池寛が、勧めにやって来た。その「淡々とした無私な態度」に心を動かされ、承諾の決心をしたというのである。そういう趣旨の文章だった。
話を元へ戻そう。いずれにしても、帝国芸術院の成立の際における一部美術家のこだわりには、文芸家の場合と異なって、過去のいきさつから、それなりの理由があった。でも、腑に落ちない点もないではなかった。あれほど頑強にみえたのに、なぜ、簡単に収まることが出来たのか、という点である。そこへいくと、文芸家の方が、ヘソの曲りが徹底していて、小気味よかった。あるいは、筋の通し方に、感覚の上でも、理屈の上でも、気骨と節度とが見られた。パトロネージと無縁なだけに、会員を受諾するにしても辞退するにしても、その仕方に個性が感じられた。
その最たる者は永井荷風だっただろう。荷風は会員を、にべもなく断わった。そこに交渉の余地はなかった。その日記『断腸亭日乗』六月十八日の条に書いている。「午後朝日及読売新聞の記者来り、文芸院の会員たることを承諾せられたるや否やを問ふ。余は新聞を見ざる故文芸院の何たるかを知らず、従つて会員云々の如きはもとより与り知らざるなり」。また、翌十九日の条には「終日電話の鈴鳴響くこと頻なり。文芸院に関することならむと思ひて取合はず」と記している。
『読売』の記者は、これでは記事にならぬと諦めたのだろうか。それとも記事にはしたが没にされたのだろうか。荷風に関する記事は『読売』には載らなかった。十九日の『朝日』には出ている。荷風日記の傍証になるので、全文を写してみよう。「芸術院入りを拒絶した永井荷風氏を麻生市兵衛町の自宅に訪ふ、呼リンは壊れてゐるし、独り住ひの木造洋館の扉は固く閉されてゐるが、漸く玄関に現れた永井氏はチヨツキ姿素足で土間に降りて来て 何もお話出来ません と一言、文部省から交渉があつたかと問へば 人が来たらしいが会はなかつた 承諾したかどうか尋ねても それは存じません の一点張りである」。荷風散人の面目躍如といったところである。
谷崎潤一郎も辞退を表明した一人だった。阪神在住の潤一郎に文部省は、電話一本で交渉してきたのに腹を立てたためである。芸術院がどんな立派なところか知らないが、その命令口調が気に入らないと言っている。荷風に次いで潤一郎も辞退とあっては文部省の面目は丸潰れとなる。幸い文部省監修官というのが潤一郎と同期だったため、彼が説得に出向いて事なきを得た。このへんは、雨声会にも出席しなかった夏目漱石が、同期の役人の説得で、小松原文部大臣の文士招待に出席しているのに似ていなくもない。
正宗白鳥も、この回の入会を辞退した一人である。その時の辞退の理由を、白鳥は戦後になって回想している。河野与一が読売文学賞を辞退した折、夫妻相携えての気楽な旅で授賞の報せに接するなど「人生の一快事」に思われるのに、人の心境は分からないものである、として言った。
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政府の思付きで芸術院が創設された時、私は最初会員に選定されたのを辞退した。あの時、芸術院設立の可否は盛んに論ぜられたのであつたが、私は芸術院そのものを冷眼視するほどの見識を持つてゐたのではなかつた。自分としてはさういふところに身を置くのは似つかはしくないと思はれたのだ。いろんな意味で会員たる資格無しと思つてゐたのである。
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[#地付き](一九五七年一月三一日『産経時事』「受賞辞退」)
このあと白鳥は、文化勲章授与の時にも、一時間ばかりは迷ったと述べ、勲章辞退を偉いとはおもわないが、明治以来の文壇人で、与えられて辞退したであろうと推測されるのは、二葉亭と漱石だけではあるまいか、と付け加えた。また、勲章とちがって、民間の自由な企てとしてある文学賞などは、もっと気軽に授受されてよいと思うが、たまには断わる人がいるのも刺激になって面白い、とも言っている。
とっておきの話なので最後になったが、島崎藤村が帝国芸術院会員を辞退していることについては、ぜひとも触れておかなければならない。文芸懇話会に関心を持ち、最初からの会員として、会の動きを慎重に見守ってきた藤村の存在は、周囲から慎重に見守られる存在でもあった。おなじく、文芸懇話会の、という以上に、日本文壇の長老的存在と目されていた徳田秋声が、「如何なる文芸院ぞ」の疑念にもかかわらず、秋声流の自然さで、すんなり新設の芸術院に収まった今、藤村の辞退は、やんわりではあったが、意外の感を抱かせるに十分だった。明治の文芸委員会当時の藤村の考え方や文芸懇話会当初の見解からすれば、特に異とするには当たらないが、しかし、なぜだろうと思う。
前にも書いたように、帝国芸術院は広田内閣時代に準備され、次の林内閣に引き継がれ、第一次近衛内閣になって実施されたものである。近衛内閣の文部大臣は安井英二、その下の文部参与官に池崎忠孝がなった。池崎忠孝が文芸部門の人選にかかわったように言われているが、池崎忠孝の正式任官が六月二十四日であることを考えると、極めて疑わしい。白樺派の理想主義に共鳴し、その文学を早くからみとめている池崎が、武者小路実篤を入れて志賀直哉を落とすような、そんな不手際をするはずがないからである。池崎忠孝とは何者だったか。彼こそは、文芸評論家で鳴らしたことのある赤木桁平その人である。夏目漱石の晩年、漱石山房に出入りし、漱石在世中に「夏目漱石論」を執筆、のちに評伝『夏目漱石』を出している。また、『亡友芥川龍之介への告別』を書いている。なかんずく有名なのは、一九一六年(大正五年)八月六日の『読売新聞』に発表した「『遊蕩文学』の撲滅」だろう。長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、近松秋江らが攻撃されたが、中でも近松秋江が最も嫌われた。その赤木桁平が池崎忠孝に戻って時局論に情熱を向けるのは、一九二九年(昭和四年)刊行の『米国怖るゝに足らず』あたりからだろう。以後、彼は、政治に足を踏み込む。文部参与官は適任だったかもしれない。
安井文部大臣は池崎忠孝の文芸家の一面を買ったのだろうか。芸術院会員の辞退者に対し、池崎は説得役に回っている。彼は、徳田秋声を通じて、藤村の辞退を思い止どまらせようとした。左は、池崎忠孝追悼録刊行会『池崎忠孝』(一九六二年十月)収録の永井保「池崎忠孝小伝」中にある徳田秋声の池崎宛書簡(一九三七年七月二十二日付)を、そっくりそのまま引き写したものである。
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先日は失礼しました。御帰京のよし電話にて拝承、其節不在にて失礼しました。島崎氏から手紙も来ましたし、わざわざ夫人も来られました。又二三日前島崎氏に会ひました。しかし最初の意志には変りなく、今迄どほり平の作家として外部から出来るだけのことをしたいと思ふ。この上重ねて言つてくれないやうに、私から文部省の方々に通達してくれるやうにと、なか/\動きさうにありません。私もこれ以上手の尽しやうもなくなりましたので、貴方と御同道しても無駄だと思ひます。――中略――頼まれがひもないことですみません。
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藤村の辞退について深く立ち入る余裕のないのは残念だが、『新生』のモデルとなった姪の長谷川こま子が、『婦人公論』一九三七年の五月号と六月号とにわたって、「悲劇の自伝」を発表したことと関係がある、とだけ言っておく。左翼運動に入って苦労をかさねた彼女は、救貧院のベッドでこう書いているのである。「私は文学のことは分らない。私はたゞ芸術に新生した現実が、かなしいことに叔父その人の弁解と云ひ訳に終つてゐなければ……と思ふ。それは殆んど私と叔父との交渉をありのまゝに芸術化した神品であるかも知れない。けれども、あたしにとつては、それは苦悩でしかなかつた」。
注―志賀直哉が前記の経緯で入会した一九四一年(昭和一六年)の会員補充の際に、正宗白鳥、島崎藤村は、窪田空穂、北原白秋、山本有三らと共に入会した。文芸以外では、小林万吾、六角紫水、上村松園、藤田嗣治が一緒だった。
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第一九章 詩歌懇話会と北原白秋
――詩人賞わざわい「あり」や「なし」や
西園寺公望の雨声会にしても、文芸委員会にしても、それから時をへだてた文芸懇話会にしても、会員は小説家が中心だった。詩人や歌人は一貫して退けられているのである。これに対する疑問はないわけではなかった。だが、偏見を破ろうとするまでには至っていない。第一回文芸懇話会賞の選考会で島崎藤村が、萩原朔太郎の『氷島』を推したということなどは余り知られていないが、特筆しておいてよいだろう。
文芸懇話会が小説家中心なら、こちらは詩歌懇話会で盛り上げよう。いつからか、そして、どこからともなく、そんな声が出てきて詩歌懇話会が出来上がった。そもそも文芸家の会などというものは、さしたる理由もなしに、ふとした機会で生まれるものだ。
折口信夫(釈迢空)の日本民俗協会は日本文化連盟の傘下にあった。ということは、日本民俗協会の運営資金も三井財閥からの援助でまかなわれていた事になる。ちなみに、「日本文化連盟支出概計書」(前出)を見ると、三四年(昭和九年)七月より三九年四月に至る約五年の援助額は、一万八四四円三銭となっている。こういう事などから、折口信夫と松本学とが、なにかと顔を合わせる関係にあったことは、容易に想像できるだろう。
ある日の会合で文芸懇話会の話が出たとき、こんな会話が交わされたと見る。「松本さん、小説だけが文学ではないのです。ひとつ詩歌のほうにも眼を向けてみませんか」「わかりました。でも、詩歌人を一人も存じあげないので。折口さん、どなたか適当な人を紹介してくださらんか」「北原白秋君はどうでしょう。あの人ならすぐ連絡できます」。そこで早速、松本と白秋との会談が持たれ、二人は意気投合。「では、詩歌人を紹介したいので、拙宅に先ずお越し願えませんか」で、世田谷区成城の白秋邸で小宴が開かれた。一九三六年(昭和一一年)六月十二日のことである。
北原白秋は、年々の著作活動を『全貌』と題して記録・刊行している。これは三三年から四〇年まで全八輯出た。付載の「消息片鱗」は、簡単な日誌にもなっていて、主な行動について知ることができる。その三六年六月の項に次のような記載があった。「十二日 文化連盟の松本学氏に詩歌人を紹介する為、自宅に小宴をひらく。出席者 左の諸氏。釈迢空・松村英一・尾山篤二郎・岡山巌・臼井大翼・宇都野研・矢代東村・前田夕暮・佐藤惣之助・大木惇夫・福士幸次郎・春山行夫・川路柳虹・松本学・宇野・松沢太平」(引用は最新の岩波版『白秋全集』第三八巻に拠った。全集の組みは都合でベタになおした。以下同じ)。次いで同じく六月の項に、こう記載されている。「二十三日 詩歌懇話会設立相談会のために文化連盟事務所へ赴く」。
二十三日に文化連盟事務所に赴いたのは白秋ひとりではない。折口信夫、斎藤茂吉らとそこで落ち合っていることは茂吉が同日の日記に、「午前中診察ニ従事」「一時半、大阪ビル四階日本文化協会ニテ松本学、北原白秋、折口信夫ノ諸君ニ合フ」と記していることから分かるのである。この日の会合で、次回は松本学の招待、ついては、だれとだれとがいいかなど、具体的な人選まであったと思う。
これを報じたのは『読売新聞』である。六月二十八日夕刊は四段抜きで次の見出しを掲げた。「詩歌をも統制へ/生れる全日本の懇話会」。記事の内容は、「文芸懇話会を作つて文壇に一投石した日本文化連盟の松本学氏が、こんど詩歌人の懇話会を作つて日本文化を詩歌の方面から大いに発展向上させることになり七月一日夜六時から芝紅葉館に関係者を招待して組織、事業などの打合せ会を開くことになつた」とあって、出席予定者の氏名を掲載、「拘束のない自由な団体としてそこに一つの節操を保たう」とする会の方針を紹介した。
では実際問題として、松本学が招待した七月一日の初会合に一体、どういう人たちが集まったのか、そして何を話し合ったのか、そのことに関しては新聞は伝えていない。これについては川路柳虹が遠地輝武との一問一答の「追記」で書いているところを引用しておこう(三六年八月号『詩人』「所謂『詩歌懇話会』を語る」)。
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その招待の通知を出された方々は可成多数だつたやうだが遠隔の地にある人や、旅行病気等で欠席された人も多く、集つたのは左の人々であつた。(順序不同)
(詩人側)北原白秋、河井酔茗、柳沢健、佐藤春夫、室生犀星、堀口大学、白鳥省吾、福田正夫、福士幸次郎、佐藤惣之助、萩原朔太郎、大木惇夫、春山行夫、川路柳虹
(歌人側)佐佐木信綱、斎藤茂吉、尾上柴舟、折口信夫、金子薫園、吉植庄亮、川田順、宇都野研、松村英一、臼井大翼、尾山篤二郎、土屋文明(或は遺漏あるやも知れぬが今自分の記憶でいふとこれだけだつたと思ふ)
而して、この会はたゞ飲んで話して、別れたに過ぎなかつた。松本氏の挨拶についで、佐佐木、河井、北原諸氏の御礼の辞、ついで折口信夫氏が琉球の万能舞踊を余興として紹介されたにとゞまる。つまり顔合せの会で、これから時々こんな会合をいたしませうといふだけですんだ。従つてこれから何をするべきかも、何をなすのかもまだ誰も口を開かないでゐる。嘘偽りのないところがこれだけの話で、何かあるとすればこれからなのである。
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ここで気が付くことは、俳人が一人も参加していないことである。誘ったのか誘わなかったのかは知らないが、小説、詩歌ときて、俳句を一段下に見てのことだったら、そこに文芸の階層制が感じられ、愉快には思われない。また、一口に詩歌人と言っても、詩人と歌人とでは、もともと所属する組織なども異なっており、いろいろな問題があったことと思う。たとえば、茂吉にしてからが、詩歌懇話会には余り熱心ではなかった。茂吉は三六年(昭和一一年)七月五日付、川田順に宛てた手紙で、「謹啓今般は二度も御めにかゝり多幸至極に奉存候迂生は会合には出席すること無理ゆゑ、今後はあの会にも土屋兄に御願いたすやう、松本北原折口三氏に呉々も申上げ候間右御承引の程願上候」と書いているのである。茂吉は面倒臭かったのである。このことは大日本歌人協会(三六年一一月二十七日成立)に対しても同様だった。北原白秋や折口信夫も理事におさまった大日本歌人協会だったが、いつしか詩歌懇話会と離れていく運命にあった。詩歌懇話会が詩人懇話会に変わっていくのも自然といえば自然といえた。
では詩歌懇話会は、その後どういう過程をたどっただろうか。これについては、北原白秋の行動記録ではあるが、『全貌』「消息片鱗」が便利なので、以下、関係事項を摘記しておく。なお、日本文化連盟は、帝国芸術院の成立以後、従来バラバラであった各種文化団体を統合するため、日本文化中央連盟として時局に即応できる体制を整えたことを付記しておく。
一九三六年
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七月一日 芝、紅葉館に於ける松本学氏の詩歌人招待の会に出席。
七月二十八日 文芸懇話会々員と共に新議会見学。
九月十七日 詩歌人側の松本学氏招待の会。会場・芝公園 紅葉館 世話人・釈迢空・北原白秋
十月二日 大阪ビル内文化連盟に於ける詩歌懇話会相談会へ出席。
十月十三日 丸之内会館に於て詩歌懇話会発会式に出席。
十一月十二日 大阪ビル内日本文化連盟に於ける詩歌懇話会に出席。
十一月二十五日 浜町「醍醐」に於ける詩歌懇話会例会に出席。
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一九三七年
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二月二十四日 詩歌懇話会に出席す。
七月八日 文化連盟に於ける詩歌懇話会に出席。
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一九三八年
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二月二十日 松本楼に開催の詩歌懇話会相談会にも出席。
二月二十四日 詩歌懇話会幹事会。会場・砧 北原方 出席者・釈迢空・前田夕暮・佐藤惣之助・野口米次郎・川路柳虹の諸氏。
四月十二日 レインボーグリルに於ける詩歌懇話会に出席す。松本学氏より贈与の金二千円を受け、一半を大日本歌人協会へ、その一半を詩人懇話会に寄托す。尚この日詩歌懇話会解消す。
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一九三九年
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五月六日 午後五時半、丸ノ内Aワンに於て、来年度以降の詩人賞実行方法に関する協議会開催。会は再び詩人懇話会の名称に返り、実行委員五名を挙げ、詩人賞その他の実務施行の組織成る。
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詩歌懇話会は雑誌などは発行しなかった。経費といえば会合費くらいだっただろう。わずかに詩人賞のための涙金を白秋に託して松本学は表面から退いた。その金は、やはり三井からのものだった。だが、もはや、こういうことに関し、とやかく言う人もいなくなった。時代は変わりつつあった。ちなみに、日本文化連盟を通して詩歌懇話会へ渡った金額は、三六年(昭和一一年)七月〜三七年六月の間に一千三四円六二銭、三七年七月〜三八年八月の間に二千円八〇銭で、合計にして三千三五円四二銭だった。文芸懇話会の場合と比べると大変な差である。そこに詩歌の位置があったと言えばそれまでだが、やはり淋しい。折角の詩人懇話会賞にしても北原白秋に渡った金二千円の半分だったから、五回分として当初は金二百円の賞金で精一杯だった。文芸懇話会賞の賞金に比べると微々たる額である。
そういう詩人賞にしても、いざ授賞となると、いろいろな問題を生じた。それを書く前に、詩人懇話会賞の受賞者と作品名とを挙げておく。第一回(一九三八年度)佐藤一英『空海頌』、第二回(三九年度)三好達治『艸千里』『春の岬』、第三回(四〇年度)西村皎三『遺書』、第四回該当作なし、第五回(四二年度)蔵原伸二郎『戦闘機』、以上。ところでトラブルは、第一回の授賞にからんで起こった。北原白秋と室生犀星との確執である。
白秋が最初に書いた。三九年四月号『改造』の「詩人賞禍あり――室生犀星に与ふ――」がそれで、冒頭「室生君、僕は今朦朧たる視野の中にあつて、激しくこの両眼を瞬いてゐる。実に今度の詩人賞の銓衡と、即時決定とは苦々しき限りである。この非法、粗暴、非礼、不道とがたやすく許されるならば、我が日本の詩壇は下賤醜劣に墜したといふ外はなからう。詩人賞の禍以つて知るべしである」と始めたあたり、すでに喧嘩腰である。白秋によれば、詩人懇話会のいきさつも知らない室生犀星が、横からしゃしゃり出て、詩人賞の選考を専断したのは、許しがたい行為だというのである。しかも、本来は眼疾の白秋を慰める意味もあった金を白秋が拒否したことで金の行き場に困って、さて、どうするかとなった時、犀星が自分に銀行の預金帳があるから預かっておくと言い出したので一座もそれに同意したが、犀星を常任理事とか幹事とかにしたわけではない。しかるに先月末、詩人賞委員会の名で、三月一日までに推薦の詩集または詩稿を調べておかれたく、欠席の場合は提出の原稿につき出席者にて審査するから、まげて出席を請うとあったが、自分は病気で出席できなかった、と述べた。
白秋は続けた。欠席はしたものの気掛かりだったので、当夜、君に電話したところ、電話ぎらいの君にかわって佐藤惣之助がでた。そこで自分の推薦する詩人を申告し、自分としては松本氏にも責任があるから公明かつ慎重に選考して欲しいと伝えた。後で聞いたところでは、審査委員は全部で十七名で当夜の出席者は十名だったそうではないか。決定には欠席者の手紙や電話による申告も投票に入れたというが、その結果、二点が五名だったので、さらに出席者だけで再投票して決定したそうではないか。これは多数決という不公平である。「かゝる態度と専断とに依つて、賞金が処置されることは、自分の金ならいざ知らず、公金である以上分際を越え、まるで隙を狙ふた横領者に近い心理を疑はれても致し方があるまい。君は、平然として僕等の面前に、僕の言を反発し得るか」と来て、賞金など葉書一枚で呼び寄せ授与すればいいと言ったそうだが、事実とすれば以ての外の事である、詩人の光栄のため、授与式は正々堂々でなければならぬと述べ、終りを次の言葉で締め括った。
「君に切言するが、君は此際謹慎してその保管の賞金全部を旧幹事中の一長老野口米次郎氏に返付なさい。引下つたがよろしい。室生君僕の肉眼は盲ひかけてゐるが、光るものは光つてゐる。僕をして何故これ程激しく瞬たかねばならぬか」。なお「付記」として白秋は当夜の出席者である白鳥省吾、堀口大学、百田宗治、前田鉄之助、大木惇夫、西条八十、佐藤惣之助、春山行夫、萩原朔太郎、室生犀星の名前を挙げ、これほどの人たちがいながら、どうしてこういう結果になったのか訊ねたいとも述べている。
これに対して室生犀星は翌月の『改造』で反論した。題して「詩人賞禍なし――北原白秋に答ふ――」。犀星は冒頭、「北原白秋君、君の『詩人賞禍あり』の一文を先月号本誌で一読した。誰が読んでもこれは北原白秋が憤慨するのが尤もだと思はれる位、正々堂々たる公開状であつた。君がいかに純潔無垢な正義の人であり僕がいかに横着粗暴な人間であるかを余すところなきまでに痛罵された。君が書かれた人間としての僕の悪い印象は読んだ人の頭から容易に消え去るものではない。僕といふナマの人間を知らない人は室生といふやつはこんな奴かなと僕は不名誉な汚名で征伐される、僕はこの一つのことで不健康な君にお返事をかかなければならぬ不幸を感じる」で始めた。
犀星は先ず選考方法の手順に非を鳴らす白秋に答える。選考は整然と行われた、出席は十委員だったが、棄権した島崎藤村、佐藤春夫の二名を除くと、川路柳虹、野口米次郎、福田正夫、河井酔茗が手紙で候補者を推薦してきており、君が電話で推してきた藪田義雄を入れると十五名の候補者が出揃ったことになる。ところが、十五委員の推薦詩人は各々別々の詩人ばかりで三点が最高だったため、これで何度やっても決定は不可能なので、やむをえず、協議の結果、当夜の即決としたのである。
「ざつくばらんに云へば君のすいせんされた藪田義雄氏が当選されたら、即決批難も何もなく君は温和しくうんさうか、それは宜かつたと仰せられるであらう、それほど君は子弟に手厚い人であり僕にもよく解るのである。それがさう行かなかつたことが君こんどの公開状を書く口火になつたことは君も正直に肯定されていいと思ふ」「正直にいへば僕は『西康省』の田中克己氏と第二段には『蛙』の草野心平氏とを心に用意して出席した。開票の結果、佐藤一英氏に授賞されそれもよいと考へたが、傍の萩原朔太郎氏に僕はすいせん詩人の名前を云ひ残念だつたと呟いたが、萩原氏は草野心平氏に入れた旨をこたへた。これで僕は些かも専横とか横着者でないことがお解りと思ふ」。
そうなると次は金の問題である。たしかに僕は常任理事でもなければ幹事でもない、預かる人がいなかったから金を預かったまでである。それを、その場にいながら口にせず、その時の不愉快さをずつと持ちつづけていたのに驚く。賞金の由来は知っている。だが、詩歌懇話会は解散して詩人懇話会となり、すべては一新されたのである。しかるに君は、保管の賞金額全部を野口米次郎に返付し、引き下がったがよろしい、と出た。犀星も出た。「君は僕を何の気で見てゐるのか、引下らうがどうしようが僕の勝手である。人に仕事をさせてをいて合議的結果が気に入らない一理由から、まるで小使同様に投げ出して賞金全部を返付せよとは、君に全部の権利でもあるやうで滑稽ではないか」。
犀星はつづけた。「君はふた言めには詩壇のためだといふが」「詩壇はいつまでも団結できずバラバラなのは君がぐずり出すことに始まる。君の公開状によつて詩人賞委員の諸君の心にまたもや厭気がさしはじめたのだ。さういふ厭気は君が内輪でいい話を公器にまで持ち出すからである。各委員が多忙中出席し凝議したことに礼もいはずにいきなり非礼不徳呼ばりをするのは、北原白秋といふ美しい名前をもつてゐながら甚だ残念なことではなからうか。君こそ各委員に一応公開状の内容の不遜と傲慢を陳謝すべきである。洗つても落ちない厭気は君が落さないかぎり剥げない」。
こういう事があったためでもあろうか、第二回の詩人懇話会賞授賞式は盛大におこなわれた。三好達治の『春の岬』他と村野四郎の『体操詩集』が競り合ったが、三好への授賞で決定した。村野は第六回文芸汎論詩集賞を受けた。紋付・羽織袴に威儀を正した三好達治が、にこやかな和服の島崎藤村から賞状を受ける写真は『文芸年鑑』その他で何度か見たが、こういう時代もあったのかと思う。
授賞式は「日本詩の夕」題下に、一九四〇年(昭和一五年)三月二十三日午後五時、丸ノ内・産組中央会館で開催された。主催は詩人懇話会だが、賛助に文芸汎論社、VOUクラブ、新領土編集所、蝋人形社、女性時代社、四季社、コギト発行所、歴程社、詩洋社が加わった。第一部は河井酔茗の開会の辞に次いで、松本学、長谷川巳之吉の挨拶、堀口大学の報告、島崎藤村による賞状授与、三好達治の受賞者挨拶で終わった。続いて第二部の講演には北原白秋、野口米次郎、高村光太郎、西条八十、萩原朔太郎が立った。第三部は詩の朗読で、佐川英三、山本和夫、荻野綾子(授賞詩朗読)、前田鉄之助、岩佐東一郎、城左門その他が出演した。当日の雰囲気を、長谷川巳之吉はこう伝えている。
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過去十年、詩人は世の悪潮流に押し流されて、アポロに対する渇仰の信念を失つたやうであるけれども、然し時が来たのだ。詩人懇話会賞が極めて公平な投票方法に依つて三好達治君に授与されたといふこと、私はこれをアポロの復活する時が来たのだと歓喜してゐる。従つて懇話会賞授与式は詩の復活祭を意味する日本詩史の特筆すべき事蹟であると惟はずには居られない。殊に授賞の任にあたられた島崎藤村先生のユーモアは会場の空気を実になごやかに、和気藹々、臨席者を感嘆せしめずにはおかないものがあつたであらう。当夜演壇に立たれた萩原朔太郎の風貌の立派さ、過去十数年親しくお目にかかつて来てゐる私も、その夜のやうな萩原氏の風貌に接したことは初めてである。
萩原氏の後、ヨネ野口先生が演壇に立たれて暫くすると演壇のうしろの隅の方に一人で講演を聞いてゐられた島崎藤村先生が、しづしづとヨネ野口の演台に進み寄つて来られた。聴衆席の前側にゐた私は好奇の目を見はつて、隣席の堀口大学兄に、『島崎先生どうなさるのでせう?』と囁いてゐるうちに、島崎先生は講演者に一寸会釈なさつて演台のコツプを物しづかに取つてさがられた。
『あ! 先生はコツプの水を取り替へに行かれる』私がさう感嘆の声をはなつと、堀口兄は『いいよ、いいよ、実にいい気持ではないか、老大家がコツプの水を取り替へて下さる! 詩のためなればこそだよ、』私は甞つて斯んな感激の場面を見たことがなかつた。
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[#地付き](四〇年五月号『セルパン』)
「日本詩の夕」は正しく詩壇の盛儀だった。菊池寛が「詩は滅びる」の発言をして物議を醸したのは、つい昨日のこと、あたかも詩歌懇話会が誕生しようとしていた時だった。あれが逆説の意味を含んでいたにせよ、現代詩の将来に暗い影をなげかけたことは人々の記憶に生々しい。それが今日の盛儀を見るとは。戦争が事態を一変させたともいえる。時間のかかる小説に比べ、即興に感動を伝達できる詩は、戦意高揚に打って付けの形式を備えている。一方、職域奉公の精神は詩壇にまで浸透して、異を唱えることが異とされるようになって来ていた。
帝国芸術院の成立を機会に文芸懇話会は解散した。そして、それに代わるかのように新日本文化の会が誕生した。新日本文化の会は大阪ビル内に編集所を置いて雑誌『新日本』を発行した。発行費の出所は想像におまかせする。『文芸懇話会』誌のように会員だけのものでなく、寄稿者を新進にまで拡大した時局雑誌だった。詩歌懇話会の会員もこれに寄稿している。創刊は三八年(昭和一三年)一月一日。その創刊号に北原白秋は「突撃」という詩をだしているのであるが、南京陥落前後に作られた詩と思われるので、参考までにお目にかけよう。さきがけ戦争詩である。
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突 撃
[#地付き]北原白秋
突撃、
突撃するもの、
突くなり、突きまくり、
ひた刺し、刺しつらぬき、
銃床|逆手《さかで》もろに
飛び入り、はたきのめし、
はたくやたたき斃す、
これのみ、ただこれのみ。
突撃、
突撃するもの、
ひたぶる、ひたぶるなり、
生死無し、邪《よこしま》無し、
戦ひ、戦ひ恍《ほ》れ、
突き刺し、たたき斃し、
声のみ、息あるのみ、
我あり、跳ぶあるのみ。
突撃、
突撃する時、
ただ見る命ある、醜き、
顔ゆがめ、眼《まなこ》ひらき、
恐れに、膽《きも》へし消え、
わななき、わななくもの、
敵なりや、彼なりや、
将た知らず、
斃れに、ただ斃れぬ。
響きて、ひ[#「ひ」に傍点]と斃れぬ。
[#ここで字下げ終わり]
もはや文芸統制だなど、野暮なことを言うひとはいなくなった。文芸家が進んで協力の実を示し出したからである。あとは脱兎のごとし。松本学にしても統制の総元締めなどと騒がれていた時代が懐かしかったに違いない。それにしても、なにかと口やかましかった文芸懇話会に比べ、無邪気な詩歌人の方に一層の親しみを覚えていたようである。白秋没後の一九四三年(昭和一八年)六月、歌誌『多磨』は北原白秋追悼号を出した。そこに松本学は「白秋先生と私」の一文を寄せている。
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白秋先生に初めてお目にかゝつたのは、昭和十年の秋でしたか(一一年夏?―和田)、私が主唱して琉球の舞踊を青山青年会館で公演して貰つた時のことでした。其時先生は初対面なのに例のざつくばらんな調子で「松本さん、あなたは文芸懇話会をやつてをられるが、詩歌人とも話をして見てはどうですか、日本文化の問題として重要なことですぞ、近い内に砧の自分の宅で数人集るから、あなたも来て一緒に月見でもしようではありませんか」と、まるで一見旧知のやうな心やすさでした。私も生来の無遠慮者ですから臆面もなく風流な月見の宴に加はつたものです。其時私出雲橋畔の藍水で作らせた特製のおすしを持参しました。(中略)
それがきつかけとなつて詩歌懇話会が生れた訳であります。時々詩歌人が集つては大に飲み大に談じたものです。いつだつたか芝の紅葉館で会合した時などは白秋先生も大に飲まれて盛に気焔を挙げられました。其当時は随分元気で自ら陣頭に立つて、吾国詩歌壇の為に万丈の気を吐いてをられました。詩歌懇話会が多少とも斯界に貢献するところがあつたとすれば、これは一に先生の此の意気此の迫力のお蔭と云はねばなりません。(後略)
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終章 アート・サポートへの架橋
考えてみると不思議な気がしないでもない。日本の近代文学が漸く一本立ちした明治末期この方、国家と文芸、あるいは文芸の保護と統制という問題が出てきたとき、判で押したように文芸院の設立云々が持ち上がっているのである。風流宰相といわれた西園寺公望が文士を招待したのが、フランスの文学事情に詳しかったことから、私設アカデミーなど言われて以来のことである。次の桂内閣では文部大臣の小松原英太郎が、青少年に与える小説の影響を考慮して健全な文学を要求し、文芸院の餌で文士を釣ろうとした。だが、夏目漱石などの批判もあって、文芸委員会に矮小化され、間もなく消滅した。その後、大正時代になって文芸院の噂も出てきたが、それはそれで終わっている。
そうして文芸院が再びクローズアップされてきたのが、四分の一世紀を経た昭和も九年になってからだった。これは内務省の警保局長松本学のところから出たので、文芸家のみならず心ある知識人はみな警戒した。警保局長が職掌柄、思想対策に腐心するのは分かる。だが、なぜ相も変わらぬ文芸院だったのか。軍国主義へ向かっていた時代だっただけに、文化の面で日本をアピールしたかったということもあっただろう。また、文芸院で文士の歓心を買おうとする魂胆もあっただろう。だが、本文にも書いた通り、こういう因縁もあったのである。
松本学は郷土の大先輩小松原英太郎に私淑していた。のみならず、学生時代には小松原文相を身元保証人にしていた。そのため、しばしば小松原文相を訪ねている。あたかも文芸院が問題になっていた時期で、そのことでは先輩の苦心も知っていた。そういう彼が思想対策の衝に当たったとき、忽然として思い出したのが文芸院の構想で、先輩の果たせなかった夢を実現してみたいという気になった。幸いにも大衆作家がこれに賛同してくれた。官民合同とか官民一体とか騒がれたが、純文学系の作家に釘をさされ文芸懇話会に矮小化されて成立した。小松原の二の舞いだった。
松本学が文芸院を文芸統制の具としようとしたのは確かだろう。しかし、それが考えていたよりも困難な事であると悟ったことも確かである。そのうち警保局長を辞職する羽目になった。公人から私人になったことで文芸統制から一歩後退したのも確かである。そのうち、文士の側でも何度か会合を重ねるうちに松本学の素顔が見え出してきたようで、当初警戒的だった徳田秋声や広津和郎までもが、松本学に対し一定の理解を示しはじめた。だが、実際がそこまで行っていなかったことは、島木健作をめぐる文芸懇話会賞の問題で明らかになった。これは文芸懇話会の金の出所への疑惑を一層かきたてた。同じ頃、美術界では帝国美術院(帝展)改組の問題が持ち上がり、文芸とは直接の関係はなかったが、芸術統制がじわじわ押し寄せてきていたことを思わせた。
こういう推移とは別に、詩歌懇話会は朗らかな形で生まれている。萩原朔太郎までもが会員になったことで「朔太郎老ゆ」などといわれたが、これには文学といえば小説だけだとする風潮への抗議があった。そのへんを補っておきたい。三六年(昭和一一年)十月号の『文学界』の「詩壇時言」に朔太郎は書いている。「詩を除外視するやうな文壇は、真の文学的精神を欠いた証左だといふことが、僕の常に議論してゐることのテーマなのだ」「かうしたわけであるから、詩人をこそ、文芸懇話会のメンバアに入れるべきであつて、詩人をそこから除外し、他に別の懇話会的グループを作るといふのは、益々日本の詩文学を特殊化し、併せて日本文学の健全な発育を阻害するわけである。そこで僕は、原則的に言つてこの詩歌人懇話会に不満であるが、しかし一方から考へれば、それが『無いよりは優る』程度のものであるので、別にツムジを曲げるほどのこともなく、寛容に入会を承諾した次第であつた」「日本の政府が、今日遅れ乍ら文芸に敬意と関心を持つて来たといふことは、たとへ政略のためにせよ、僕等の社会的地位を高める為に、相当有力な動機となるにちがひないのだ」。
文芸懇話会といい、詩歌懇話会といい、帝国芸術院といい、それに対する文芸家の処しかたは実に様々だったと言える。そこに文芸家の気質なり個性なりが覗かれるとすれば、その覗きの楽しさは、文学の楽しさの一つとしてあるとも言えるだろう。だれが、どこに書いたのかわすれたが、松本学は会合では余り発言せず、文士の談論風発を隅の方で聞いているだけだったという。付き合えば情が移る。彼も文士の気心を知ってきた。松本学の存在が内務省の手出しを控えさせたと考えることも可能である。とするならば、松本学よ、以て瞑すべし。
さて、以上は六十年前の話である。この間、世界は大きく変わった。芸術・文化の置かれた状況も変わってきている。その一々は問わないが、大きな変化といえば、国家の干渉する部分が後退してきたことだろう。代わって企業が芸術・文化の守護神のように見えてきた。企業メセナがそれである。だが、日本の芸術・文化の置かれた状況は本質的に変化したかと問い掛けてみると、残念ながら「ノン」という答えしか返ってこない。ある面で戦前の文化状況と戦後のそれとが、驚くほど似ているからである。
明治以来、物質文明における日本は著しい進歩を遂げた。特に軍事面での日本は世界の強国の一つに数えられるまでに成長し、近隣諸国を侵略して世界の非難を買った。日本は野蛮な軍事国家である。こういう非難をかわすために文化にも力を注いでいることを示したかった。文芸院の計画は国内の思想統制に発したが、日本のアカデミーとして政府は誇示したかったのだろう。しかしながら、こういう姑息なまやかしに文芸家は乗らなかった。満州事変以後、世界から見放されるや、日本文化の海外進出が積極的に試みられたのも涙ぐましい努力だったのである。どうにか帝国芸術院を作り出した時には、のっぴきならない所まで行っていた。
ひるがえって、今日はどうか。敗戦後の文化国家建設の掛け声とは裏腹に、日本人は食うため、猛烈に働いてきた。そうして世界に冠たる黒字大国になった。だが、経済は一流、文化は三流の汚名はそそがれない。しかも一流となったはずの経済も、中身を洗ってみれば、なりふりかまわぬ企業の利益優先のためだったのである。ここにおいて、企業の社会貢献が問われた。社会に利益を還元するにはどうしたらよいか。イメージとしたら文化が格好いい。都市再開発などでは目玉ともなる。そこでアート・サポートが課題となる。初めは冠イヴェントで企業は技を競ったが、これでは露骨。もっと地に根ざしたものということで冠ホールの建設となったが、ここにも企業意識が残る。メセナ活動には企業の名前は控えた方がよい。でも、金を出す以上は……。
そのうちバブルがはじけた。企業にとって本体を救うのが急務となる。文化は後回し。こうして撤退がはじまった。こう見てくると、日本の芸術・文化はいつも何者かに振り回されているようである。なかなか自立できない。ホールができればクラシック、美術館ができれば印象派というのも日本的。文化支援にしても、大きくて無難な団体に対してばかりで、小劇場や実験的な前衛芸術運動などには目もくれない。こういう現実をどう見るかである。地方自治体の壮麗な文化施設などにしても同様。建造物だけなら金さえあればできる。問題は中身。
企業メセナが人目を引き出した一九九〇年(平成二年)、政府は文化庁を監督官庁に、芸術文化振興基金を設定した。政府から五百億円、民間から百億円の計六百億円を財源とし、その運用益約三十億円を芸術文化の振興に支出するという結構な話。消費税に対する国民の非難をかわすためだとの見方もあるが、それはさて措くとして、この発表で最初によぎった感想は、一体どういう団体が助成の対象になるのか、ということだった。当然そこには審査ということもあろう。とすれば、すべての芸術団体に行きわたるものではない。
そう思っていた矢先、九〇年九月十九日の『朝日新聞』に演出家の浅利慶太氏が「芸術文化振興基金への疑問」を書いた。三十四年続いた「新劇団協議会」が助成を得るための社団法人化として、名称を「日本劇団協議会」にかえて再出発することへの疑問である。これを読んで知ったことだが、案の定、助成を受けるための申請その他が煩雑な上に、芸術団体の内部にまで報告しなければならないよう義務づけられていることだった。浅利氏の疑問にたいしては、作曲家の三善晃氏が助成を是とする立場から同紙上で反論し(十月二日)、浅利氏が再論し(十月二十五日)、さらに三善氏がこれに答える(十一月八日)という経過をたどった。
この論争で分かったことは、論争の中身よりも、演劇と音楽というジャンルの異なる立場への興味だった。明治以来、演劇は厳しい検閲や上演禁止で国家と対決してきた。それに比べると音楽は、戦時中の規制はあったにしろ、演劇や文芸が受けた被害とは自ずから違った過程をたどって来た。一概に断定できぬことでもあるが、そういう気がしてならない。文芸院の問題を、そういう線に沿って考えてみるとき、前衛的な芸術活動の助成申請に「個人調書」の提出さえ義務づけていることなどの非常識につき、浅利慶太氏が述べた次の言葉は、芸術の保護と統制とが古くして新しい問題として常にあることを示していると言えるであろう。
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おそらくこれは戦後、というよりも、明治政府の発足以来、芸術文化の政策をないがしろにしてきたこと、そこから生じた行政経験の不足と行政責任者の不勉強からくるエラーだと思います。文化庁の立案者は、認可した法人の事業活動の監督と、芸術の創造活動が本質的に違うということが理解出来なかったのです。しかし、それによって今芸術家に掛けられようとしている網が、実は恐ろしいのです。もしこの権限を意識的に行使し、芸術団体をコントロールしようとする者が現れたらどうでしょうか。
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[#地付き](九月十九日の前掲紙)
あらゆる芸術活動の根底には、強烈な詩精神、珠玉の文学精神がなければならない。今日、文学は企業メセナや芸術文化振興基金の圏外に置かれているようであるが、おびただしい文学賞で繁栄しているかにも見える。安易な道を求めず、苦難の過去を顧みて、アート・サポートへの架橋に批評精神を発揮したらどうだろう。文芸院の問題を、そういう視野で考えてもみたかったのである。
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主要参考文献(単行本のみ)
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『文芸と社会』 青野季吉 昭和十一年四月 中央公論社
『続年月のあしおと』 広津和郎 昭和四十四年四月 講談社
国際作家会議報告『文化の擁護』 小松清編 昭和十年十一月 第一書房
知的協力国際協会主催『現代人の建設』 佐藤正彰訳 昭和十二年六月 創元社
『日本文芸家協会五十年史』 昭和五十四年四月 社団法人日本文芸家協会
『日本ペンクラブ三十年史』一九六七年三月 社団法人日本ペンクラブ
『回顧七十年』 正木直彦 昭和十二年四月 学校美術協会出版部
『帝展問題の鳥瞰』 猪木卓爾 昭和十一年三月 資文堂書店
『美術五十年史』 森口多里 昭和十八年六月 鱒書房
『日本絵画三代志』 石井柏亭 昭和十七年七月 創元社
『苦悶するデモクラシー』 美濃部亮吉 昭和三十四年三月 文芸春秋新社
『天皇機関説事件――史料は語る――』上・下 昭和四十五年五月 有斐閣
『斎藤実』 有竹修二 昭和三十三年十月 時事通信社
『富と銃剣――池田成彬――」 小島直記 昭和四十二年八月 人物往来社
『三井コンツエルン読本』 和田日出吉 昭和十二年二月 春秋社
『財界回顧』 池田成彬・柳沢健編 昭和二十四年七月 世界の日本社
『池田成彬伝』 池田成彬伝記刊行会編 昭和三十七年九月(非売)
『男爵郷誠之助君伝』 財団法人郷男爵記念会 昭和十八年十一月(非売)
『池崎忠孝』 池崎忠孝追悼録刊行会 昭和三十七年十月(非売)
『近代佐渡の人物』 山本修之助 昭和五十二年五月 佐渡郷土文化の会
日本映画発達史』一〜五 田中純一郎 昭和五十年十二月〜五十一年七月 中公文庫
『現代史資料』マスメディア統制(解説・内川芳美) 一九七三年十二月 みすず書房
『現代史資料』思想統制(解説・掛川トミ子) 一九七六年十一月 みすず書房
『帝国議会・衆議院議事速記録』第六十四回他。
『松本学氏談話速記録』 内政史研究会 昭和四十二年の分(非売)
国立国会図書館憲政資料室『松本学文書』
国立国会図書館憲政資料室『斎藤実文書』
『事典 昭和戦前期の日本――制度と実態』 百瀬孝・伊藤隆監修 平成二年二月 吉川弘文館
『日本芸術院史』 日本芸術院 昭和五十五年三月(非売)
[#この行1字下げ]注―本文では西暦を主とし元号を従としたが、ここでの発表年月は奥付に従った。
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他に文学全集では『長谷川伸全集』(朝日新聞社)、『志賀直哉全集』『斎藤茂吉全集』『永井荷風全集』(いずれも岩波書店)、『佐藤春夫全集』(講談社)、『山本有三全集』(新潮社)、『中野重治全集』『萩原朔太郎全集』『島崎藤村全集』(いずれも筑摩書房)等に随時当たった。また、昭和十年十二月発行の久米正雄『二階堂放話』中の「近松氏の所謂『高位顕官』に就いて」や昭和十五年四月発行の上司小剣『清貧に生きる』中の「政治と文学との連関」などを取り上げていたら際限がなくなるので省略した。
著者の昭和史・昭和文学史に臨む態度は、できる限り、その時代の中に沈潜し、その時代をもう一度生きようとするにある。そのためには速報性のある新聞が欠かせなかった。戦後の文学史などで文芸懇話会に言及したのがあるのは知っているが見なかった。本書で筆の及ばなかった点は、次項の「関係資料一覧」で補っていただきたい。
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文芸院問題・関係資料一覧
凡 例
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1、本稿は文芸院に関する新聞・雑誌の資料として作成したものである。叙述の都合で著者が割愛した部分を補う意味で通覧を乞う。
2、新聞名は「 」で、雑誌名は『 』で示した。
3、※印は内容の要約である。原文の直接引用は※印以下の「 」で示した。
4、〈 〉印は当該新聞・雑誌に付された欄(コラム)の名称である。
5、執筆者名または談話者名のないものは記事の「見出し」である。コラム名だけで他に記載のないものは、そこに関連記事が載っていることを示す。
6、新聞の発行日付は、その新聞の上段欄外の記載によった。地方新聞のばあいの「東京電話」または「東京電報」の日付は省略した。
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一九三四年(昭和九年)
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一月二六日
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○〈社説〉欄 『帝国文芸院』「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」
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一月二七日
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○〈論壇時評〉帝国文芸院の計画批判―三木清 「読売新聞」
○〈文芸〉欄 文学と政治との接触―松本警保局長との会見(一)―直木三十五 「読売新聞」
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一月二八日
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○〈蝸牛の視角〉欄 会合(第三者生) 「東京日日新聞」
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一月二九日
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○浅春独語(二)帝国文芸院の問題―新居格 「都新聞」
○〈家庭〉欄 麗貌は輝く―文士は勲章を好むか―与謝野晶子 ※満州国皇帝溥儀夫人の麗貌を満州王土の光輝を見て述べたあと文芸院問題に言及。 「東京朝日新聞」
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一月三一日
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○〈蝸牛の視角〉欄 文士、国士、役人顔合せ(R・K)「東京日日新聞」
○〈社説〉欄 国立文芸院の設立問題 「読売新聞」
○文学と政治との接触―松本警保局長との会見
(二)―直木三十五 「読売新聞」
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二月一日
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○〈戦線語〉欄 ※内務省の役人と大衆作家の一群が文芸院設立を計画しているという、これが思想統制にならないと考えるのは阿呆だ。『新文戦』
○ジヤーナリズムのフアツシヨ的統制―「文芸院」の設立計画はその一段階―大宅壮一 「時局新聞」
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二月二日
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○〈倒一説〉欄 土田杏村 ※文芸院設立は悪いことではないが思想善導とは開いた口が塞がらぬ。「九州日報」
○文芸院について(上)―正宗白鳥 「東京朝日新聞」
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二月三日
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○文芸院について(下)―正宗白鳥 「東京朝日新聞」
○〈蝸牛の視角〉欄 文学士道論(疋頓々) 「東京朝日新聞」
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二月四日
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○〈社説〉欄 文芸院計画―右翼文学転向 「新愛知」
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二月五日
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○国立文芸院と日本文学の運命―泉芳朗 「福岡日日新聞」
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二月一〇日
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○文芸院の設立 その一 その利益と害毒―杉山平助 「大阪朝日新聞」
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二月一一日
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○文芸院の設立 その二 かくあるべき事―杉山平助 「大阪朝日新聞」
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二月一二日
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○〈蝸牛の視角〉欄 有三の「不惜身命」(鴫野崩) 「東京日日新聞」
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二月一五日
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○〈大波小波〉欄 愛国文学者と警保局長―文芸院に就て(折焚柴夫) 「都新聞」
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二月一七日
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○最近の諸問題(一)文芸院―生方敏郎 「山形新聞」
○文芸の非常時(7)文芸院は出直せ―松山禾夫 「中外商業新報」
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二月一八日
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○文芸の非常時(8)佳作推賞の仕組―松山禾夫 ※文芸院問題から雨声会のことに及び、演劇関係では現に国民文芸奨励会で優秀作品を表彰している。文芸院の創設は望ましいことだ、と。 「中外商業新報」
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二月二二日
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○文芸の非常時(11) 歌・俳句の為に―松山禾夫 ※文芸院に関する説。 「中外商業新報」
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二月二四日
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○近事世相忿懣之記 四 政治と文学について―青野季吉 ※この文芸統制に敢然と抗議した文芸家を僕は未だ知らない。 「都新聞」
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二月二五日
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○最近の諸問題(二)文芸院堕落の近道、虻蜂取らず―生方敏郎 「山形新聞」
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二月二八日
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○病床雑筆 『冬柏』
○帝国文芸院のこと 「支部通信」
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三月一日
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○如何なる文芸院ぞ―徳田秋声 『改造』
○〈一頁時評〉欄 文芸院設立是非―杉山平助 『経済往来』
○〈文芸時評〉文芸院の創立意義なしとせず、他。―杉山平助 『新潮』
○〈巻頭言〉欄 長谷川誠也 『芸術殿』
○文芸院と文芸家―永田広志 『文化集団』
○文芸時評 武田麟太郎 ※大衆作家が役人と文芸院を作るとかの噂があるが、文芸院の名称も分に過ぎている。「通俗文芸院」とでもいうべきだろう。『文学評論』
○〈文芸時評〉文芸院の問題―江口渙 『文化集団』
○〈文芸近事雑感〉欄 帝国文芸院と日本国民文化協会、他。―世田三郎 『文芸』
○〈文芸ポスト〉欄 文芸院と文芸復興と(山梨県・辻修) 『文芸』
○〈話の屑籠〉欄 菊池寛 ※松本警保局長との会合のこと。『文芸春秋』
○〈文芸春秋〉欄 杉山平助 ※文芸院問題に言及。発表時は無署名。『文芸春秋』
○〈文芸通信〉欄 官立「文芸院」生れるか 『文芸通信』
○〈文芸時評〉文芸統制について―青野季吉 ※文芸院問題に関説 『政界往来』
○〈文壇往来〉欄 ※文芸院問題の話題。 『政界往来』
○警保局の指導精神 『新聞及新聞記者』
○文芸時評 3 漫画『文芸院』―杉山氏の時評を読む―武林無想庵 「東京朝日新聞」
○〈アンケート〉帝国文芸院の問題
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一、設置の可否
一、設置に対しての要望事項
〈回答者〉佐佐木信綱・長野隆・門外野人・川端康成・吉江喬松・杉山平助・林芙美子・岡本綺堂・中村武羅夫・長谷川伸・千葉亀雄・藤森成吉・近松秋江・青野季吉・矢田挿雲 『文芸』
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三月二日
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○〈直木三十五追悼〉(5) 理想、現実の両面―血の滲む程真剣な虚実の構へ―白井喬二 ※文芸院問題に言及。 「報知新聞」
○〈壁評論〉欄 老作家に恥ぢよ(金剛登) ※「如何なる文芸院ぞ」をよしとし、「秋声のテーゼ」を基礎に黒白の討論をたたかわせよ、という。 「読売新聞」
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三月三日
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○〈蝸牛の視角〉欄 文芸院顔触れの説(疋頓々) 「東京日日新聞」
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三月四日
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○最近の諸問題(三) 増長、他―生方敏郎 ※いずれも文芸院問題。 「山形新聞」
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三月六日
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○文学士道弁(上)―山本有三 「東京日日新聞」
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三月七日
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○文学士道弁(下)―山本有三 「東京日日新聞」
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三月八日
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○帝国芸術院設立問題に就て(上)―新居格 「信濃毎日新聞」
○文人の死と文芸院(上) 文士果して不養生か?―中山義秀 「時事新報」
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三月九日
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○帝国芸術院設立問題に就て(下)―新居格 ※三月一〇日の「九州日報」「山陽新報」、三月二八日の「徳島毎日新聞」にも掲載。 「信濃毎日新聞」
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三月一一日
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○〈大波小波〉欄 文士の玄関・衣食足つて勲章を思ふか?(間泥先生) ※文芸院なぞ鬼に喰われろ……。 「都新聞」
○文人の死と文芸院(中) 惨な生活と偉大な作品―中山義秀 「時事新報」
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三月一二日
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○文人の死と文芸院(下)文芸価値の国家的認識―中山義秀 「時事新報」
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三月一五日
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○〈大波小波〉欄 文芸院音頭―揃うた、揃うたよ、気が揃うた(間泥先生) 「都新聞」
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三月一六日
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○〈大波小波〉欄 文芸院を犬に喰はすな―間泥先生に答ふ―杉山平助 「都新聞」
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三月一七日
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○〈蝸牛の視角〉欄 藪を突くのは誰だ(疋頓々) 「東京日日新聞」
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三月二〇日
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○〈蝸牛の視角〉欄 文士の床屋政談(荒海梶之助) 「東京日日新聞」
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三月三〇日
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○〈文芸時評〉老作家の気概―白鳥、秋声、藤村の長短―勝本清一郎 「東京朝日新聞」
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四月一日
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○文芸家協会と文芸院(感想)―上司小剣 『行動』
○「日本文芸」について―直木三十五氏追悼―笹本寅 『文芸』
○〈文芸ポスト〉欄 帝国文芸院に対する諸家の意見(東京市・川村一夫) 『文芸』
○〈話の屑籠〉欄 ※「警保局長と我々一部の文士との会合は、直木が死んだ後も続けられることになつた」云々。 『文芸春秋』
○〈文芸通信〉欄 文芸院はどうなる 『文芸通信』
○〈社説〉欄 思想的文化運動―文芸院設立と日本精神 「山形新聞」
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四月三日
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○文芸懇話会について 島崎藤村 「読売新聞」
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四月二〇日
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○〈文芸時評〉文芸院について、他―三上秀吉 『制作』
○春宵雑筆 (1) 「文芸懇話会」の意味―広津和郎 「読売新聞」
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四月二二日
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○〈蝸牛の視角〉欄 何たる不運の子ぞ!(疋頓々) 「東京日日新聞」
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四月二三日
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○芸術の統制と風俗の統制―長谷川如是閑 「読売新聞」
○秋声氏との文学・生活談―一定見・無定見―勝本清一郎 ※二〇、二一、二三日と三回連載のうち。 「読売新聞」
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五月一日
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○非常時文壇を曝く―大家小家のインチキ行状記―帝国文芸院の正体、他―滝野渙 『解剖時代』
○〈文芸時評〉匿名批評の流行について―青野季吉※文芸院、文芸懇話会に言及、多くの匿名批評がこれらを非難していて皆衝いている、と。 『政界往来』
○〈文芸ポスト〉欄 文芸院に関する小生の回答について―青野季吉 『文芸』
○文学と居候 1 大きな見落し―大宅壮一 ※文芸院問題で誰もが見落しているのは対社会的接触において芸術派が大衆派に完全にリードされていることである。 『文芸』
○文芸院音頭(漫画)―堤寒三 『文芸』
○〈話の屑籠〉欄 菊池寛 ※同じ内閣の役人に不愉快な目に逢わされたので、今後は警保局長との会合に出ない。 『文芸春秋』
○〈文芸春秋〉欄 杉山平助 『文芸春秋』
○文芸懇話会に就て―内藤透(談) 「中央新聞」
○〈散弾〉欄 所謂文芸院設立問題 「万朝報」
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五月二日
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○〈文芸〉欄 文芸懇話会について(XYZ) 「伊勢新聞」
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五月三日
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○広津和郎を訪ねて(下)「紋章」と「文芸院」問題―徳永直 「読売新聞」
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五月七日
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○〈壁評論〉欄 文芸家と役人(金剛登) ※松本学は文芸懇話会は個人としてやったと言っているが、個人松本なにがしと文士は何の因縁あって懇談するのか? と。 「読売新聞」
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五月一一日
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○文芸院問題について―千葉亀雄 『国論』
○〈壁評論〉欄 唇寒し―広津和郎 「読売新聞」
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五月一八日
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○〈文芸点描〉欄 イタリー 学芸院と既成作家―中村恒夫 「東京朝日新聞」
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五月一九日
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○〈文芸点描〉欄 イタリー ダヌンツイオ 中村恒夫 「東京朝日新聞」
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五月二〇日
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○〈文芸点描〉欄 イタリー 文芸賞―中村恒夫 「東京朝日新聞」
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五月二一日
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○〈文芸点描〉欄 イタリー ムツソリーニ賞―中村恒夫 「東京朝日新聞」
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五月二二日
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○〈文芸点描〉欄 イタリー 新進作家一瞥―中村恒夫 「東京朝日新聞」
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五月二三日
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○〈文芸点描〉欄 イタリー 最年少作家―中村恒夫 「東京朝日新聞」
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六月一日
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○〈文芸時評〉文芸懇|談《ママ》会を批判す―青野季吉 『政界往来』
○〈文壇往来〉欄 ※四月二十日夜の文芸懇話会のこと。『政界往来』
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六月二七日
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○委員会へ漕つけた文芸院の設立―二十九日具体案を練る 「読売新聞」
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七月一日
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○〈文壇そのときどき〉欄 顔触れ異変 ※懇話会のメンバーが直木の頃と変った。 「都新聞」
○〈大波小波〉欄 文士と役人は違ふか―高田の人間学―平山平助 ※高田保が『新潮』で、役人は勲章を欲しがるが文士はそうでないと言ったのに対し、役人は正直に欲しがり文士は欲しくないふりをするだけ、という。 「都新聞」
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七月四日
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○文芸感想(5)文学者と当局―文芸院のことを考へて―武田麟太郎 ※結語に「発禁や伏字だらけの作品を以て、何の文芸院ぞやである」。 「報知新聞」
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七月八日
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○現実直視の言(三十二)文芸院と作家―内藤透 「万朝報」
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七月一一日
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○〈蝸牛の視角〉欄 警保局長更迭万歳(掃石居士) 「東京日日新聞」
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七月一二日
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○〈蝸牛の視角〉欄 「我等の松本」を守れ!(王外居士) 「東京日日新聞」
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七月一三日
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○〈壁評論〉欄 新文相に与ふ(金剛登) ※松田源治に文芸院のことに関し。 「読売新聞」
○所謂文芸院の問題について(上)―近松秋江 「国民新聞」
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七月一四日
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○所謂文芸院の問題について(下)―近松秋江 「国民新聞」
○〈大波小波〉欄 内閣更迭も他事ならず―懇話会の行方(閑次郎) 「都新聞」
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七月一六日
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○〈文壇余白〉欄 (即羅哲) ※松本学の退任で文芸院問題はどうやら暗礁に乗り上げたらしい。即羅哲は武野藤介。 「福岡日日新聞」
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七月一七日
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○政治家と文士(上)―新居格 ※唐沢俊樹(大学時代の友人で文学好き)が警保局長になった、文芸院をどうさばくだろうか。 「都新聞」
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七月一八日
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○政治家と文士(中)―新居格 「都新聞」
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七月一九日
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○政治家と文士(下)―新居格 「都新聞」
[#ここで字下げ終わり]
七月二〇日
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○新警保局長と語る―文芸院問題その他(上)―新居格 「読売新聞」
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七月二一日
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○新警保局長と語る―文芸院問題その他(下)―新居格 「読売新聞」
[#ここで字下げ終わり]
七月二九日
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○八月の文芸界(一)文芸院問題(対談)―新居格・篠原文雄 ※同月三〇日の 「九州日報」にも掲載。 「山陽新報」「信濃毎日新聞」
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八月一日
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○文芸院問題と文学者の態度―中村武羅夫 『あらくれ』
○文芸家追慕展の挙行 『明治文学研究』
○〈蝸牛の視角〉欄 新居格復興(空沢) ※文芸復興の気運と共に有卦に入った新居格、帝大法学部出身の文士なるため、山本有三に代って文芸院の主事に任命されぬとも、と。 「東京日日新聞」
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八月一四日
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○〈大波小波〉欄 大所高所のかちあい(南蛮太郎) ※中村武羅夫「文芸院の問題と文学者の態度」『あらくれ』で中村が大所高所から文学者の「品性」とやらを説いているが……。 「都新聞」
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八月一五日
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○〈蝸牛の視角〉欄 人事相談所(邪々馬) ※唐沢警保局長が新居格にインタヴューされたことにつき、文士は文芸を所管してもらいたいのか、と言ったとかで。 「東京日日新聞」
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八月一六日
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○〈評壇〉欄 文芸家慰霊祭 「報知新聞」
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八月二〇日
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○物故文人慰霊祭―ソ連ゴリキーに対する記念祭を見よ―江口渙 「時局新聞」
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八月二一日
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○小説の行詰り―今日を理解すべき鍵は何か(五)―武田麟太郎 ※文芸院について、松本学など本当に文芸の為を思うなら検閲発禁などの問題を研究してもらいたい。 「大北日報」
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八月二三日
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○〈大波小波〉欄 文芸懇話会に望む―序に建墓のことも(IN生) 「都新聞」
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八月二九日
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○〈蝸牛の視角〉欄 文芸懇話会に(内村寛二) ※遺品展の人選につき、云々。 「東京日日新聞」
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九月一日
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○文芸懇話会最初の仕事―文芸家慰霊祭と遺品展覧会 『衆文』
○私の法螺―松本学 ※帝国文化院の構想を語る。 『文芸春秋』
○〈蝸牛の視角〉欄 霊魂の苦笑(文魚) ※中村星湖が女学生を連れて雑司ケ谷の墓地に行ったところ泡鳴のがなくて慨嘆したというが、泡鳴はそれを本望としているのではと。物故作家慰霊祭につけても精霊棚をつくって念佛を称えるような神経に感心しない、と。 「東京日日新聞」
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九月三日
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○〈文壇余白〉欄 懇話会の慰霊祭と文士追慕展覧会(即羅哲) 「福岡日日新聞」
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九月五日
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○〈一日一題〉欄 物故文人の追慕―桜井忠温 「読売新聞」
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九月一〇日
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○〈月曜評壇〉欄 文人慰霊祭、他 「北国新聞」
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九月一七日
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○文芸家追慕展覧会に関して……二三の問に答へる―佐藤春夫 「帝国大学新聞」
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九月一八日
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○文芸家慰霊祭によせて(1) 費用の出所を明確にせよ―木蘭蝋二 「東京日日新聞」
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九月一九日
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○文芸家慰霊祭によせて(2) 人選の錯誤―木蘭蝋二 「東京日日新聞」
○〈大波小波〉欄 学芸家の独尊排他病、礼遇の道なし―大槻憲二 ※文芸家追慕。 「都新聞」
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九月二〇日
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○文芸家慰霊祭によせて(3) 死後の命運―木蘭蝋二 「東京日日新聞」
○文芸家の功績表彰―三木春雄 「時事新報」
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九月二一日
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○文芸家の功績表彰―三木春雄 「時事新報」
○文芸家慰霊祭・記念の講演会―藤村の名調子と『硯友社の雑兵』のこども ※記事五段、写真二段、別に当日の講演者藤村、虚子、水蔭、小島政二郎の順で顔写真。 「国民新聞」
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九月二二日
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○文芸家の功績表彰―三木春雄 「時事新報」
○〈散弾〉欄 ケチ臭い院賞制考究の余地あり「万朝報」
○〈滑走路〉欄 ※『博浪沙』の面々が大日本文芸院創立事務所の看板を掲げる、と。 「東京日日新聞」
○〈紙ナイフ〉欄 ※孤蝶が神主が祝詞をあげている間眠っていた、と。 「報知新聞」
○文芸家慰霊祭と展覧会(1) 水蔭、孤蝶一騎打―神崎清 「報知新聞」
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九月二三日
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○独歩時代の文壇―物故文人の慰霊祭に当りて―中村星湖 「九州日日新聞」
○閑却され勝ちな文人「文芸家遺品展覧会」(一)―徳田秋声 「東京朝日新聞」
○文芸家慰霊祭と展覧会(2)黙阿弥を筆頭に―神崎清 「報知新聞」
○文壇近事一家言(四)―近松秋江 ※文芸懇話会主催の遺品展で故人の心もちを考えぬような展示はどうか? と。 「都新聞」
○〈散弾〉欄 芸術院をつくれ―奨励機関の必要 「万朝報」
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九月二四日
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○西洋と比較して「文芸家遺品展覧会」(二)―徳田秋声 「東京朝日新聞」
○〈文壇余白〉欄 (即羅哲) ※文芸懇話会がまだろっこしいとして、吉川英治が「日本青年文化協会」を作った……。 「福岡日日新聞」
○〈月曜文壇〉欄 私の文壇過去帖―物故文芸家慰霊祭に因みて―水守亀之助 「福岡日日新聞」
○孤蝶の独角力―江見水蔭 ※神崎が水蔭が孤蝶との一騎打で負けたとの判定に不服である、と。 「報知新聞」
○文芸家慰霊祭と展覧会(3)二葉亭の原稿―神崎清 「報知新聞」
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九月二五日
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○懐しさ、恥かしさ「文芸家遺品展覧会」(三)―徳田秋声 「東京日日新聞」
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九月二六日
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○文芸家慰霊祭と展覧会(4)たけくらべ二種―神崎清 「報知新聞」
○〈展望台〉欄 水蔭未だ老いず ※文芸家慰霊祭での水蔭の講演のこと。 「読売新聞」
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九月二七日
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○文芸家慰霊祭と展覧会(5)記念館設置問題―神崎清 「報知新聞」
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九月二九日
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○文芸家追慕展覧会を観ての感想(上)(秋月生) 「九州日日新聞」
○〈大波小波〉欄 文士の生活―懇話会に望みたい仕事(正直正太夫) ※文士がみじめだからとてただ金をやっても気骨のある者はもらうまい、自叙伝や回想を書かせ、その間生活の保障をしたらどうか。 「都新聞」
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九月三〇日
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○〈文壇噂話〉欄 文芸家慰霊祭余聞 『週刊朝日』
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一〇月一日
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○政治機構改造私議(四)文教院の創設―里見岸雄 『社会と国体』
○空想―榊山潤 ※文芸家慰霊祭に招待されなかった故人文士がいるが……と、文芸院に言及。『博浪沙』
○物故文人を偲ぶ座談会(出席者)江見水蔭・長谷川天溪・登張竹風・佐佐木信綱・岡本綺堂・千葉亀雄・佐藤春夫・(本社)斎藤龍太郎 『文芸春秋』
○文芸家追慕展覧会を観ての感想(下)(秋月生) 「九州日日新聞」
○〈月曜文壇〉欄 物故文人五十家の追慕展覧会を見る―矢ケ部至 「福岡日日新聞」
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一〇月二日
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○〈蝸牛の視角〉欄 文芸懇話会の無責任(鼠骨生) ※先日の遺品展に子規遺墨の偽品があった、と。 「東京日日新聞」
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一〇月四日
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○文芸家追慕の展覧会に寄せて―佐藤春夫(談) 「九州日日新聞」
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一〇月一一日
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○明治以来の文芸諸家を追憶する(三令哲人) ※水蔭・孤蝶・虚子・長谷川誠也・登張竹風の談話。『国論』
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一〇月一三日
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○〈展望台〉欄 文芸懇話会プラン ※正倉院御物拝観のあとは大演習の御陪観か? と。 「読売新聞」
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一〇月二三日
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○〈展望台〉欄 文芸家と正倉院拝観 ※懇話会会員に拝観が許された。 「読売新聞」
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一〇月二九日
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○〈文壇余白〉欄 (即羅哲) ※文芸懇話会の会員が大演習を見学するに当って、松本学が人選を依頼された……。 「福岡日日新聞」
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一一月一日
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○『第五インターナシヨナル運動』とは=松本学を中心とした新官僚の企画=(柳下土生) ※文芸家慰霊祭、文芸懇話会、帝国文化院のことなどに触れる。『解剖時代』
○文壇の対社会的事業―上司小剣 ※「文芸家慰霊祭」と十二年前の「秋声花袋誕生五十年祝賀会」との比較、感想。『行動』
○〈文壇往来〉欄 ※文芸慰霊祭、遺品展に関し。 『政界往来』
○文芸家追慕展覧会を見る―保高徳蔵 『文芸』
○〈話の屑籠〉欄 菊池寛 ※柳沢健に国際文化協会に協力することがあったら文芸懇話会に力を尽くしたほうがましだ、と。『文芸春秋』
○文芸家追慕展を観る―倉橋弥一 『レツェンゾ』
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一一月二日
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○〈大波小波〉欄 文壇五勇士出陣―心細き顔触れと文壇の現実(黒谷文之進) ※文芸懇話会員の陸軍特別大演習。 「都新聞」
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一一月四日
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○〈落穂は踊る〉欄 正倉院拝観の文士連 「読売新聞」
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一一月九日
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○〈壁評論〉欄 文芸懇話会へ最少限要求 一、資金の出所を明かせ 二、月々の懇談内容を知らせ 三、故人のみならず現文壇人の福祉を考えよ(金剛登) 「読売新聞」
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一一月一〇日
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○取り止めのない感想(一)―新井紀一 ※夏目家で遺品を売ったことに関し、物故文芸家の遺品を永久保存せよ、文芸院が何をするかしらないが、こういうことをするのは無意義でない、と。とくに(一)で。 「時事新報」
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一一月一一日
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○取り止めのない感想(二)―新井紀一 「時事新報」
○文芸懇話会の次の仕事は?(一)―近松秋江 「国民新聞」
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一一月一二日
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○取り止めのない感想(三)―新井紀一 「時事新報」
○載筆観戦行(一)―吉川英治 ※大演習観戦。 「東京朝日新聞」
〇大演習陪観記 前記―三上於菟吉 「読売新聞」
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一一月一三日
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○文芸懇話会の次の仕事は?(二)―近松秋江 「国民新聞」
○載筆観戦行(二)―吉川英治 ※大演習観戦。 「東京朝日新聞」
○大演習陪観記 秩序と勇気との錯綜せる大偉観―三上於菟吉 「読売新聞」
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一一月一四日
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○文芸懇話会の次の仕事は?(三)―近松秋江 「国民新聞」
○載筆観戦行(三)―吉川英治 ※大演習観戦。 「東京朝日新聞」
○大演習陪観記 一瞬にして変ず―三上於菟吉 ※他に陪観記、「東日」に菊池寛。 「読売新聞」
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一一月一五日
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○文芸懇話会の次の仕事は?(四)―近松秋江 「国民新聞」
○載筆観戦行(四)―吉川英治 ※大演習観戦。 「東京朝日新聞」
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一一月一六日
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○載筆観戦行(五)終―吉川英治 ※大演習観戦。 「東京朝日新聞」
○〈展望台〉欄 大演習陪観の作家連中 ※陪観は三上、菊池、吉川、佐藤春夫、白井喬二の五人。 「読売新聞」
○〈蝸牛の視角〉欄 近松秋江に答ふ(上)(遠松醜江) ※木蘭蝋二が費用の出所を明らかにしろと言ったのに対し近松は「余計なおせつかい」だと言った。今日の文士は幇間的存在ではないのだ、と。 「東京日日新聞」
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一一月一七日
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○〈蝸牛の視角〉欄 近松秋江に答ふ(下)(遠松醜江) ※もはやヨボヨボ老人は相手にせぬ、前警保局長松本学自ら責任ある答弁をせよ、と。 「東京日日新聞」
○〈大波小波〉欄 作家の演習陪観、世界を大きくしたか?(北蛮次郎) 「都新聞」
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一一月二二日
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○〈いしゆみ〉欄 痩犬は吠える(紀文大盡投) ※懇話会の金の出所など、他人の財布を気にするのはおかしい、と。 「国民新聞」
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一一月二五日
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○文芸家慰霊祭―斎藤昌二 『書物倶楽部』
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一二月一日
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○大演習印象記―白井喬二 ※喬二自筆の絵と文。 『維新』
○〈文壇寸評〉欄 文芸懇話会 『改造』
○〈ヂヤアナリズムの動き〉欄 文芸懇話会に望む 『新潮』
○新聞と純文学―岡田三郎氏の抗議に対して―片岡実 ※岡田三郎が十月号の『新潮』「新聞は純文学をどう見てゐるか」で文芸復興や文芸院の問題が起っても新聞は社説に扱わぬ、と言ったことに関し、文芸問題への見解を述べる。 『新潮』
○〈話の屑籠〉欄 菊池寛 ※文部省は美術家を保護しても文芸家は保護しない、老大家を優遇せよ。 『文芸春秋』
○〈昭和九年の豆年鑑〉文芸院設立問題等―文壇―笹本寅 『文芸春秋』
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一二月五日
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○〈評壇〉欄 文芸の士にも ※美術工芸でも学士院でも表彰はあるのだから文芸にあってもよい。 「報知新聞」
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一二月八日
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○〈蝸牛の視角〉欄 著作権委員会と衛生(妙竹林) ※著作権委員会が内務省に出来て文芸懇話会も尻尾を出したが、毎月の大衆小説には実に愚劣なものがあるので、内務省の企ては衛生的である。 「東京日日新聞」
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一二月二〇日
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○〈社説〉欄 文化委員会 ※内務省は芸術院設立の前提として日本文化委員会を設立するそうである……。 「都新聞」
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一二月二九日
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○一九三四年≪文壇閻魔帳≫一月〜七月 ※文芸懇話会関係の記録あり。 「都新聞」
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一二月三〇日
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○一九三四年≪文壇閻魔帳≫八月〜一二月 ※文芸懇話会関係の記録あり。 「都新聞」
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一九三五年(昭和一〇年)
一月一日
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○裏切者ではない―上司小剣 『あらくれ』
○文芸雑感―長篇小説の問題、他―広津和郎 ※文芸懇話会で長篇小説を援助しようとしたのはどうなったか。松本氏にぜひ実現してもらいたい、と。『改造』
○〈スポット・ライト〉欄 文芸懇話会の金、他(XYZ)
『新潮』
○文学賞の問題―新居格 『セルパン』
○〈最近文芸思想解説〉文芸懇話会 『文芸首都』
○大演習と川島浪子―松波仁一郎 ※陸軍大演習と陪観した文士連を諷刺した戯文。『文芸春秋』
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一月八日
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○〈大波小波〉欄 長篇と自力本願―広津の提案を検討する(南蛮太郎) ※広津は『改造』で、懇話会が長篇の発表を援助せよと望んでいるが、懇話会など一体どこまで信頼できるのか、と。 「都新聞」
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一月二〇日
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○〈速射砲〉欄 秋江老人(睨天) ※「大衆作家も一種の転向者なり」「松本学よ、油断するな」などと言っている秋江はどうかしている、と。 「報知新聞」
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二月一日
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○上司小|剱《ママ》氏に―検閲問題について―山本有三 『あらくれ』
○文芸漫談―近松秋江 ※文芸懇話会のことが断片的に顔を出す。『新潮』
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二月五日
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○〈展望台〉欄 懇話会のその後 「読売新聞」
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三月一日
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○山本有三氏に―上司小|剱《ママ》 『あらくれ』
○〈一頁時評〉欄 日本文化連盟のパンフレツト―美濃部達吉 『経済往来』
○世界各国文芸賞縦横談 『話』
○〈文壇ゴシツプ〉欄 ※上司小剣が芸術省設置案のメイ案を触れまわっているが、いまに菊池寛芸術大臣、上司次官でも出るか? と。 煙草雑誌『響』
○三つの問題についての感想 二、文学上のフアツシズムと能動精神―中野重治 『文学評論』
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三月五日
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○昨今を眺む(一)国際文化振興会―近松秋江 「都新聞」
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三月六日
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○昨今を眺む(二)国際文化振興会―近松秋江 「都新聞」
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三月七日
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○昨今を眺む(三)イデオロギイとリヤリズム―近松秋江 「都新聞」
○〈大波小波〉欄 勲一等の拝辞―逍遙の明治文人魂 「都新聞」
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三月八日
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○昨今を眺む(四)作家よ脇見をするな―近松秋江 「都新聞」
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三月一〇日
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○〈大波小波〉欄 衆議院の名誉―坪内博士への弔辞と文壇(鳶草) 「都新聞」
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三月一八日
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○〈記事〉 ※日本文化院創設、云々。 「東京朝日新聞」
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三月二五日
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○〈大波小波〉欄 文化使節最適任―ラツソー君と国際文化振興会―新居格 「都新聞」
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三月三一日
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○〈学芸サロン〉欄 文芸懇話会の誕生(水光園) ※松本学のそれに対し、豊島、三木、川端ら自由主義文学者から成る文芸懇話会が生れた。追々、反フアッショの色を出して行くだろうが雲散霧消せぬ様に。 「中外商業新報」
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四月八日
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○文壇実際論・アカデミズム精神を尊重せよ―深田久弥 ※わが国では音楽や美術が国家から保護を受けるほどには文壇は保護を受けていない。文芸院の話が出たとき、何も国家から保護されずともという意見があったが、信念を守りながら保護を受けるのは文学隆盛のために望ましいのでは、と。 「報知新聞」
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四月一六日
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○〈展望台〉欄 民間文芸懇話会 ※ゴシップ記事。 「読売新聞」
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四月二七日
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○〈学芸サロン〉欄 帝国文化院と文芸統制(洗心亭) 「中外商業新報」
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五月一日
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○文芸統制の本質―統制とは何か?―戸坂潤 『行動』
○文学の危機について―青野季吉 『新潮』
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五月六日
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○わが演劇文化の水準(上)アカデミイなき悲劇―岸田国士 「帝国大学新聞」
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五月二八日
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○〈近頃聴きたい事、話したい事〉欄 文化事業と予算―当局者柳沢健氏に問ふ―芹沢光治良 「読売新聞」
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五月二九日
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○〈社説〉欄 帝国美術院新官制―寧ろ文芸院を創設せよ 「国民新聞」
○〈近頃聴きたい事、話したい事〉欄 我が国の現状報告―芹沢光治良氏への答―柳沢健 「読売新聞」
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五月三〇日
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○〈蝸牛の視角〉欄 お次は官製文芸院警戒(白衣処士) ※帝展の次は文芸院だというおべっか使いがいるので一本釘をさしておくが、いくら統制ばやりでも文芸の統制は真平だ。 「東京日日新聞」
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六月一日
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○文芸家に対する国民の義務―小松耕輔 ※坪内逍遙の死に関連しアカデミーを、云々。『文芸春秋』
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六月五日
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○〈よみうり抄〉欄 ※文芸懇話会が文学賞を設定することに決定し、来る十七日の例会で具体案を練る、と。 「読売新聞」
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六月一八日
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○〈記事〉 ※十七日午後六時から築地の「治作」で文芸懇話会賞を出すことに決った、来月十五日の常任委員会にかけ十七日に決定の筈、と。 「東京朝日新聞」
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六月二〇日
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○文芸院は出来るか―大宅壮一 「大阪時事新報」
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六月二二日
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○〈速射砲〉欄 文芸統制のこと(愚老) 「報知新聞」
○文芸草稿(下)帝展と文芸院―小森盛 「信濃毎日新聞」
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六月二五日
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○〈蝸牛の視角〉欄 呉越同舟(忠七) ※懇話会で文芸賞を出すというが、秋声と白井喬二といった人がどうして一緒にやってゆけるのか、論話会になりはしないか。 「東京日日新聞」
○〈展望台〉欄 ※文芸懇話会の会で、藤村が文芸記念館を、秋声が倶楽部設置案を出したがおもしろい、と。 「読売新聞」
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六月二七日
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○〈赤外線〉欄 芸術院統制是々非々(一羽鳥) 「東京朝日新聞」
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七月一日
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○文芸評判記―青山銀造 『月刊文章講座』
○〈評論の評論〉欄 文芸懇話会の計画、他―近松秋江 『新潮』
○文芸統制・文学と行動―青野季吉 『セルパン』
○きれぎれの感想―中野重治 ※文芸懇話会が文学賞を出すことに決めたという……。『文学評論』
○文芸統制の問題―青野季吉 『文芸』
○芸術統制是非―辰野隆 『文芸春秋』
○最近世情批判座談会 美術院と文芸院―芦田均、関口泰、高柳賢三、戸田貞三、三木清、蝋山政道、(司会)斎藤龍太郎 『文芸春秋』
○〈散兵線〉欄 山中徹 ※文芸院の問題が蒸し返されている、と。『若草』
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七月三日
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○さみだれ情趣(一)―近松秋江 ※六月十七日の文芸懇話会の控え室で、藤村と語ったことを。 「都新聞」
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七月四日
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○さみだれ情趣(二)―近松秋江 「都新聞」
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七月五日
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○さみだれ情趣(三)―近松秋江 「都新聞」
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七月六日
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○文化の進展に伴い、文芸統制に乗出す、著作権審査会の構成 ※この記事によると七月十五日に実施の由。 「時事新報」
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七月八日
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○文芸統制論―新居格 ※松本学が文芸統制の意思を以てしたなら、文芸懇話会は彼の失敗だったという人があるが、彼は失敗していない。彼は一方に日本文化連盟を組織していて、これが彼の事業の主体で日本主義のイデオロギーをさかんに鼓吹している、と。 「帝国大学新聞」
○〈文壇余白〉欄 (即羅哲) ※懇話会賞で云々。 「福岡日日新聞」
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七月一七日
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○〈赤外線〉欄 著作権審査会の人選(一羽鳥) 「東京朝日新聞」
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七月一八日
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○〈歩き出す著作権審査会〉思想統制の困難(上)―村松正俊 「時事新報」
○〈赤外線〉欄 文芸賞の発表について(失名生) 「東京朝日新聞」
○文芸懇話会賞、初の受賞者決定 ※横光、室生の顔写真も。 「東京朝日新聞」
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七月一九日
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○〈歩き出す著作権審査会〉思想統制の困難(下)―村松正俊 「時事新報」
○〈速射砲〉欄 文芸懇話会賞(飛燕楼) ※受賞者が二人共純文学作家であった事は好意が持てる。しかし賞金が政府からか民間からかが不明で薄気味悪い。 「報知新聞」
○〈大波小波〉欄 文芸懇話会の賞金―受賞作品を完璧と誤認するな(青法師) 「都新聞」
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七月二〇日
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○〈壁評論〉欄 懇話会賞の価値と後聞(烏丸求女) 「読売新聞」
○〈歩き出す著作権審査会〉文芸統制の前哨(上)―神近市子 「時事新報」
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七月二一日
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○〈歩き出す著作権審査会〉文芸統制の前哨(下)―神近市子 「時事新報」
[#ここで字下げ終わり]
七月二二日
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○著作権審査会の成立について(一)審査の権能―榛村専一 「東京朝日新聞」
○〈速射砲〉欄 文芸院是非(NRJ) ※『文春』八月号、杉山の論につき。 「報知新聞」
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七月二三日
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○著作権審査会の成立について(二)意義と運用―榛村専一 「東京朝日新聞」
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七月二四日
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○〈不光塔〉欄 利一と犀星(朽木) ※懇話会賞のこと。 「国民新聞」
○著作権審査会の成立について(三)当面の問題―榛村専一 「東京朝日新聞」
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七月二五日
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○〈学芸サロン〉欄 文芸懇話会に望む(鹿越兵六) ※文芸懇話会賞の選考は片よりすぎてはいまいか、と。 「中外商業新報」
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七月二六日
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○〈蝸牛の視角〉欄 だから騒ぐのだ (寒太郎) ※新居は文芸懇話会も騒ぐに当らぬというが、騒ぐには、それなりの理由があるからだ、と。 「東京日日新聞」
○〈速射砲〉欄 文学と大臣(財) ※ユーゴーの五十年祭に大臣が出て挨拶したり、モラエスの講演会に外相と文相が挨拶したのに対し、菊池寛が〈話の屑籠〉欄で、日本の文学者の記念会に彼らが出たことがあるかと言っている。しかし彼らが出席しない方が日本の文学者にとって名誉だ、と。 「報知新聞」
○〈壁評論〉欄 鼻つまみでない文芸院(烏丸求女)※杉山平助が『文春』八月号で文芸院設立論を鼻つまみの様であるといって文芸院への要望を出しているが、それが通れば先方から鼻つまみにされるだろう、と。 「読売新聞」
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七月二七日
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○〈文芸晴曇〉欄 帝国文芸へのデモ―高村三郎 「大阪朝日新聞」
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八月一日
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○文化統制現象の分析―戸坂潤 『改造』
○文芸統制の問題について―中野重治 『文学評論』
○二階堂放話―パパ・ママの説、並に文芸院の事―久米正雄 ※『二階堂放話』(昭和一〇年一二月二〇日、新英社)に収録。発表年月を一〇年七月としたるは誤り。『文芸春秋』
○帝国文芸院創設論―杉山平助 『文芸春秋』
○文芸懇話会賞=室生犀星氏の小説―村田清 「北国新聞」
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八月二日
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○〈学芸サロン〉欄 詩人は乾盃せよ(北山千古)※文芸懇話会賞に横光・室生が選ばれたが、二人共詩を書いていたのだから。 「中外商業新報」
○文芸賞に就て(一)文芸懇話会の実体―中村武羅夫 「東京朝日新聞」
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八月三日
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○文芸賞に就て(二)文芸懇話会の立場―中村武羅夫 「東京朝日新聞」
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八月四日
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○文芸賞に就て(三)選定の範囲と立場―中村武羅夫 「東京朝日新聞」
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八月七日
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○文芸統制の意慾(上)―青野季吉「北海タイムス」
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八月八日
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○文芸統制の意慾(下)―青野季吉「北海タイムス」
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八月九日
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○〈学芸サロン〉欄 文学賞と詩集「氷島」(惨酷刀) ※文芸懇話会賞が決定したが、知られざる話として藤村が朔太郎の「氷島」を推した事実には敬服される。 「中外商業新報」
○〈大波小波〉欄 「文芸賞」の経緯―会員は態度をハッキリせよ(綴魚) ※島木の文学を松本が排除したのは分るが、会員が賛成だったのは分らない、と。 「都新聞」
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八月一〇日
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○〈学芸サロン〉欄 文学と政治との関連(G・P・U)
※浜口雄幸が第二の雨声会を開こうとして口をすべらした、「諸君、緊縮小説を書きたまへ」などと。 「中外商業新報」
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八月一二日
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○〈赤外線〉欄 秘密好きな懇話会―杉山平助 「東京朝日新聞」
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八月一四日
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○二三の文壇時事(1)芥川賞と直木賞―中野重治 「中外商業新報」
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八月一五日
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○二三の文壇時事(二)文芸懇話会の賞―中野重治 「中外商業新報」
○〈速射砲〉欄 徳永直の言分(NRJ) ※徳永が文芸院にプロ作家も入れろと言っているが、野暮。しかしその要求は真面目に考えてよい、と。 「報知新聞」
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八月一六日
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○二三の文壇時事(三)懇話会の「功」「罪」―中野重治 「中外商業新報」
○〈大波小波〉欄 官僚臭と芸術―犀星もし文芸賞を蹴らば(狛犬) 「都新聞」
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八月一七日
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○〈一日一題〉欄 文学賞金―正宗白鳥 「読売新聞」
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八月一九日
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○〈隅の討論〉欄 島木健作の二重賞―新位来治 ※文芸懇話会賞の件につき。 「時局新聞」
○〈時局漫談〉欄 文芸懇話会異状あり 「時局新聞」
○〈月曜文壇〉欄 文芸賞に就て―長崎謙二郎 ※懇話会賞に言及。 「福岡日日新聞」
○〈月曜文壇〉欄 文芸賞と佐藤春夫氏―本庄陸男 ※懇話会賞。 「福岡日日新聞」
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八月二〇日
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○女性と現実 二―神近市子 ※懇話会賞が室生の作品に与えられたが室生氏の立場を妙にした。室生の作品のどこが日本主義的か。「前に催された物故作家慰霊祭に小林多喜二をオミツトしたことといひ、今度の審査の偏頗といひ、前から伝はつてゐるこの組織の反動性と腐敗とを自ら雄弁に物語つてゐる」。 「都新聞」
○〈赤外線〉欄 文芸家と政治家(文鶏楼) 「東京朝日新聞」
○〈速射砲〉欄 文芸懇話会の事(飛燕楼) ※懇話会の正体を当事者はハッキリ言え、と。 「報知新聞」
○〈大波小波〉欄 反逆の精神―問題は実践方法(鳶草) 「都新聞」
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八月二一日
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○〈河北春秋〉欄 文学賞の或る欺瞞―青野季吉 ※文芸懇話会賞のことなど。 「河北新報」
○〈赤外線〉欄 非文芸賞(和泉八郎) ※島木がはずされたことにつき。 「東京朝日新聞」
○文芸賞を繞る人々(1)三つの賞金(葛飾老人) 「東京日日新聞」
○文芸時評 1・文芸復興の実―読者の間にも批評的態度―武田麟太郎 「報知新聞」
○〈壁評論〉欄 広津と文芸懇話会(烏丸求女) 「読売新聞」
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八月二二日
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○文芸賞を繞る人々(2)室生と横光(葛飾老人) 「東京日日新聞」
○文芸時評 2・編輯者の自覚―何々賞の流行を望む―武田麟太郎 ※懇話会賞の件に関連して。 「報知新聞」
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八月二三日
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○〈学芸サロン〉欄 人の好い広津和郎(鹿越兵六) ※『改造』の「文芸懇話会について」で広津は松本が文士に好意を持っていると言っているが甘い。日本主義の『邦人』を発行、第五インターを唱える松本の本質が分っていない。 「中外商業新報」
○文芸賞を繞る人々(3)石川と川口(葛飾老人) 「東京日日新聞」
○〈速射砲〉欄 無用の長物化(阿羅) ※佐藤春夫は退会したが島木などに賞金が行かないことは初めから分っていたことで、この会が大衆文学に流れなかっただけでもまし、と。 「報知新聞」
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八月二四日
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○文芸賞を繞る人々(4)坪田と島木(葛飾老人) 「東京日日新聞」
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八月二五日
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○文芸賞を繞る人々(5)四人新進(葛飾老人) 「東京日日新聞」
○〈散弾〉欄 文芸懇話会賞問題と批評放棄の批評家群(大森生)「万朝報」
○学芸特輯 文化統制問題批判
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政治的目標を監視―特に思想に関して―石浜知行
文芸院創設可―上司小剣
文芸懇話会の魂胆―広津和郎
統制図鳥瞰―特に文芸院とラジオを―青野季吉
文芸院賛成だが―長谷川伸
文芸院に関して―原則としては賛成―杉山平助
文芸院により国立宣伝出版局を―三上於菟吉
〈一問一答〉指導理論ありや―横光利一
絶対反対―貴司山治
松田文相、唐沢警保局長との一問一答。 ※以上十一名。「読売新聞」
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八月二六日
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○文芸懇話会の実体―新居格 ※同月二七日の「北海タイムス」、二八日の「九州日報」にも掲載。「信濃毎日新聞」
○文学賞の或る欺瞞―青野季吉 ※懇話会賞に関し。同月二九日の「福岡日日新聞」にも掲載。「北海タイムス」
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八月二八日
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○〈家庭と趣味〉欄 時評―文芸統制―中村星湖 ※文芸懇話会に言及。 「神戸又新日報」
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八月三〇日
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○〈学芸サロン〉欄 詩歌を尊重せよ(G・P) ※懇話会賞選考の席上、詩歌の価値に言及されたのに黙殺された。 「中外商業新報」
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九月一日
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○文芸懇話会について―広津和郎 『改造』
○横光と室生―青野季吉 ※『文芸と社会』(昭和一一年四月三日、中央公論社)所収に当っては「横光利一と室生犀星」。『経済往来』
○著作権審査会と懇話会の文学賞―中野重治 ※雑誌目次では「文芸院と懇話会賞」。『経済往来』
○〈詩壇時評〉詩人と生活その他―後藤郁子 ※懇話会のプロ作家及び詩人除外、他。『詩精神』
○〈爆撃機〉欄 ※懇話会賞が詩人とプロレタリア作家を除外したこと、文芸院用の会員サンプルにも詩人、歌人、俳人が見えなかったことなど。『詩精神』
○文芸評論(赤星白光) ※文芸統制と文学賞、他。『社会評論』
○文学防衛論―進歩的文学者の結合の必要について―青野季吉 『新潮』
○徳田秋声と島崎藤村―杉山平助 『新潮』
○文化のフアツシヨ的統制―松原寛 『政界往来』
○横光利一と室生犀星―杉山平助 『中央公論』
○〈同人雑記〉欄 賞金と勲章―林房雄 『文学界』
○文芸懇話会賞が決定するまで―徳田秋声氏との一問一答―丸山義二 『文学評論』
○〈アンケート〉「文芸統制」をどう見る?―諸家の回答 ※(回答者)上司小剣・林房雄・細田民樹・中河与一・岡邦雄・近松秋江・戸坂潤・江口渙・葉山嘉樹・失名氏・秋田雨雀・小松清・森山啓。『文学評論』
○文化統制について―石浜知行 『文芸』
○文芸の反逆―川端康成 ※文芸懇話会賞と文芸院についての感想。『文芸』
○文芸統制について―徳永直 『文芸』
○文芸統制に関する感想―和木清三郎 『文芸』
○〈五行言〉欄 『文芸』
○〈文学雑記〉欄 金谷完治 ※今度文芸院で文芸賞を出したが……。『文芸首都』
○〈話の屑籠〉欄 菊池寛 ※文芸統制のこと、文芸懇話会賞のこと、芥川・直木賞のことなど。『文芸春秋』
○〈文芸春秋〉欄 平山平助 『文芸春秋』
○文芸懇話会に就いて―徳田秋声 『文芸通信』
○〈散兵戦〉欄 古林史郎 ※文芸懇話会賞は島木健作とか丹羽文雄に与えた方が有意義だったのでは、と。『若草』
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九月二日
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○〈隅の討論〉欄 何が本質的か、舟橋聖一氏に
(水害生) ※舟橋聖一が「東京日日新聞」の文芸時評で「近頃は懇話会の金の出所がどうの、当選の経過がどうの」と言って本質問題が論ぜられぬと言っているが、それこそが本質問題だ。行動主義者への批判はゆるめるな、と。 「時局新聞」
○〈月曜文壇〉欄 文壇週報―好話嘉郎 ※佐藤春夫と懇話会。 「福岡日日新聞」
○〈大波小波〉欄 青春反逆せよ―小林秀雄の新人論(鳶草)※懇話会賞は旧人のためのもの。受賞した横光・室生が事新しく批判されることはない。批判されるのは授賞側の会員だ。 「都新聞」
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九月四日
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○〈蝸牛の視角〉欄 芸術家の態度 高山松一郎 ※島木は懇話会賞を逸したが、島木の芸術を推した根拠は残っている。推せん者たちは一体それをどう思うか、と。 「東京日日新聞」
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九月五日
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○〈文芸晴曇〉欄 「懇話会」の非懇話性(検非違使別当) 「大阪朝日新聞」
○文芸懇話会に就て(一) 広津和郎君に寄す―佐藤春夫 「東京日日新聞」
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九月六日
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○文芸懇話会に就て(二) 広津和郎君に寄す―佐藤春夫 「東京日日新聞」
○社会と文芸の境 三 文芸家の政治的能力―大森義太郎 ※文芸院に触れ、ファシスト的文芸統制機関となるだろう、と。また文芸懇話会賞の件にも言及。 「都新聞」
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九月七日
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○文芸懇話会に就て(三) 広津和郎君に寄す―佐藤春夫 「東京日日新聞」
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九月八日
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○文芸懇話会に就て(四) 広津和郎君に寄す―佐藤春夫 「東京日日新聞」
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九月九日
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○芥川賞作品その他―青野季吉 ※文芸懇話会賞に言及。 「北海タイムス」
[#ここで字下げ終わり]
九月一〇日
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○佐藤君に答ふ―文芸懇話会に就て(上)―広津和郎 「東京日日新聞」
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九月一一日
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○佐藤君に答うふ文芸懇話会に就て(中)―広津和郎 「東京日日新聞」
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九月一二日
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○佐藤君に答ふ―文芸懇話会について(下)―広津和郎 「東京日日新聞」
[#ここで字下げ終わり]
九月一三日
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○〈壁評論〉欄 懇話会と三作家(烏丸求女) ※佐藤春夫、山本有三、広津和郎の懇話会に対する三人三様の態度が見もの。春夫は脱退し、有三は賞金に反対したのみか投票にも加わらず、広津は様子をじっと見ている、政治家は誰を御し易いか、と。 「読売新聞」
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九月一五日
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○〈蝸牛の視角〉欄 松本学を論ぜず(山神先生) 「東京日日新聞」
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九月一七日
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○〈家庭と趣味〉欄 文芸賞の問題―江口渙 ※同月二一日の「山陽新報」、二九日の「小樽新聞」にも掲載。 「神戸又新日報」
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九月一八日
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○〈断層面〉欄 松田文相賞(MM生) ※島木の懇話会賞問題に関し。 「伊勢新聞」
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九月一九日
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○諸家の文芸統制観(上)―青野季吉 ※特に文芸懇話会との関連で説く。 「東京日日新聞」
○文芸懇話会の事―統制と作家の個性に就て(4)―森山啓 「報知新聞」
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九月二〇日
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○諸家の文芸統制観(中)―青野季吉 「東京日日新聞」
○〈速射砲〉欄 仲々の商売人(阿羅) ※懇話会につき、大体の定説は松本学の意図は何であれ、文壇は金だけもらっておけばよいというのにあるが、文壇人も商売人になったものだ、と。 「報知新聞」
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九月二一日
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○〈学芸サロン〉欄 文壇多事ならずや(八太郎) ※懇話会賞に言及。 「中外商業新報」
○諸家の文芸統制観(下)―青野季吉 「東京日日新聞」
[#ここで字下げ終わり]
九月二二日
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○〈学芸サロン〉欄 敵は本能寺に在り!(秋雲亭) ※『文芸』一〇月号の「斎藤実盛の如く」と、同誌「文芸賞と泡鳴追憶の日記」につき、この二人がM氏をあがめるのは懇話会を文芸養老院にしてもらいたいからか、と。 「中外商業新報」
○〈文芸時評〉久米の啖呵と近松の創作―新居格 ※久米の「二階堂放話」と近松の「斎藤実盛の如く」では久米を買う。 「東京日日新聞」
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九月二三日
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○〈大波小波〉欄 老友に見習へ―近頃愉快な久米、里見の文章(妄子) ※久米が懇話会に八ツ当りして元気。それにひきかえ、川端康成は懇話会のことで妙に中正ぶっているが、懇話会より川端を問題にしたくなる、と。 「都新聞」
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九月二四日
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○〈大波小波〉欄 文学と糠味噌―秋江よ、ペンを折れ(氷吉) ※実盛の出陣とくらべ秋江はペンを途中でしまって、松本について行った。秋江には「如く」などの相似はない。 「都新聞」
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九月二六日
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○〈蝸牛の視角〉欄 文士魂今昔感(斜消光) ※文芸懇話会の出席日誌を上司小剣が発表している。三十年前大倉の金を失敬であるといっていた文壇だが。 「東京日日新聞」
[#ここで字下げ終わり]
九月二七日
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○〈大波小波〉欄 俗論家の久米―懇話会八つ当りはヒステリー(赤城猪之介) 「都新聞」
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九月二八日
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○〈文芸晴曇〉欄 近松秋江の報告文学(大塩平九郎) ※『文芸』一〇月号近松「斎藤実盛の如く」をヤユ。 「大阪朝日新聞」
○〈一日一題〉欄 近時悲憤―正宗白鳥 ※懇話会のことで。 「読売新聞」
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一〇月一日
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○〈座談会〉今日の話題―著作権審議会と文芸懇話会、他 (出席者)長谷川如是閑・山川均・真鍋嘉一郎・阿部真之助・菊池寛・宮沢俊義・鈴木文史郎・山本実彦 『改造』
○〈文壇寸評〉欄 『改造』
○文壇を賑はした文芸賞のこと 片岡貢 『現代』
○〈目撃せざる実録〉欄 千両首のすげ替へ―成田仁平 ※文壇御歴々が文芸懇話会賞当選者島木健作氏を闇から闇に葬るまで。『実録文学』
○極楽悲憤図―直木三十五と牧逸馬の対話(XYZ) ※文芸院、文芸懇話会を話題にして、あの世から。『実録文学』
○文芸統制論―文芸統制の歴史的考察―高沖陽造 『社会評論』
○〈文芸時評〉ジードの「文化擁護」論―青野季吉 ※わが国懇話会にも言及。『政界往来』
○文化統制の効果如何―戸坂潤 『政界往来』
○〈文芸〉欄 文芸賞難―千葉亀雄 ※文芸懇話会賞のごたごたとはまた違うフランスのポピュリスト文芸賞のいざこざにつき、日本では懇話会賞でもめているが、と。『世界知識』
○松本学と佐藤春夫―杉山平助 『日本評論』
○文芸懇話会の正体(CC) ※目次では「文芸懇話会のぞき M・C・C」『日本評論』
○〈日本評論〉欄 ※賞金問題から松本学に言及。文芸懇話会こそ現代文士の墓、と。『日本評論』
○文学統制を企てる松本学とはどんな男か―斎藤一夫 『話と小説』(『大衆倶楽部』改題)
○芥川賞と懇話会賞―広津和郎 『話と小説』
○詩壇時言―萩原朔太郎 ※文芸懇話会のこと、他。『文学界』
○文芸懇話会の実体―片岡貢 『文芸』
○文芸賞と泡鳴追憶の日記―上司小剣 『文芸』
○〈文壇漫画ありそうな話〉△無難なる銓衡委員会 △犀星と春夫の話 ※松本が机に座し、周りに人はおらず、空の椅子がめいめい勝手な向きで散らばっている図。『文芸』
○〈小説〉斎藤実盛の如く―近松秋江 『文芸』
○〈詩〉文芸懇話会―壺井繁治 『文芸』
○〈文芸時評〉文芸懇話会―川端康成 『文芸春秋』
○〈話の屑籠〉欄 菊池寛 ※文芸懇話会の授賞態度について。『文芸春秋』
○二階堂放話―懇話会に八ツ当る―久米正雄 『文芸春秋』
○〈文芸春秋〉欄 杉山平助 『文芸春秋』
○文芸懇話会の計画―板垣直子 『文芸通信』
○〈文芸時評〉受賞者発表について―今井達夫 『文芸汎論』
○文学賞の背景―春山行夫 ※文芸懇話会賞に関し。『若草』
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一〇月三日
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○十月文芸時評(一)文化の擁護―大瀧重直 ※文芸懇話会賞の島木への授賞拒否に関し。 「秋田魁新報」
○〈文壇ゴシツプ〉欄 懇話会賞は『女』がお好き
「山陽新報」
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一〇月四日
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○〈赤外線〉欄 久米の直言(青色旗) ※「二階堂放|語《ママ》」で懇話会に毒づいたのはつまらぬ、しかし『紋章』を悪作と断定したのはさすが、と。 「東京朝日新聞」
○〈蝸牛の視角〉欄 川端の大見得(函十郎) ※川端が『文春』で懇話会の弁護に立っているが、どうかと思われる、と。 「東京日日新聞」
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一〇月九日
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○詩壇時評的に―百田宗治 ※文芸懇話会で詩人にも賞を贈ったらどうかの話が出たというが、出て当然だと思う、云々。 「早稲田大学新聞」
○〈豆戦艦〉欄 十月の雑誌『文芸春秋』(玉藻刈彦) ※川端康成がプロを認めぬ懇話会なら自分も進退を考えたいと言ったのに対し。 「東京朝日新聞」
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一〇月一〇日
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○文士と役人(上)近松秋江の作品を読みて 「斎藤実盛の如く」につき―杉山平助 「東京朝日新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一〇月一一日
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○文士と役人(下)「文学的」という意味―杉山平助 「東京朝日新聞」
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一〇月一二日
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○〈一日一題〉欄 斎藤実盛の如く=\正宗白鳥 ※近松の高位高官に関し。久米の「二階堂放話」と共におもしろく読んだ、と。 「読売新聞」
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一〇月一三日
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○〈豆戦艦〉欄 十月の雑誌「文芸」(玉藻刈彦) ※「斎藤実盛の如く」評。謙仰は美徳だがよろけてしまっては手のつけられない卑下となる、と。 「東京朝日新聞」
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一〇月一四日
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○〈文化評論〉欄 文化擁護に就て(雹生) 「帝国大学新聞」
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一〇月一五日
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○文芸保護の問題(一)―川路柳虹 ※ナチスのような日本に必要になってきているだろうか、そこが問題、と。 「時事新報」
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一〇月一六日
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○文芸保護の問題(二)―川路柳虹 ※懇話会賞が上から拒否されたのを統制とするのは当らない。むしろ芸術家の保護をせよ、云々。 「時事新報」
○〈速射砲〉欄 佐藤春夫と某(愚亭) ※春夫退会問題で事務局の某が『文芸』で佐藤に与えた一文は不愉快だ。佐藤が室生に対する反感で島木に投票したようなことを言っている、と。 「報知新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一〇月一七日
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○文芸保護の問題(三)―川路柳虹 ※文芸家は位階勲等で飾られるより、自由に書いて食ってゆけることを望んでいる、と。 「時事新報」
[#ここで字下げ終わり]
一〇月一九日
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○〈赤外線〉欄 公論主義に徹せよ(文鶏楼) ※文芸懇話会なども、下らぬ秘密主義さえとらなかったら、あれほど槍衾を向けられる訳はなかったのだ。 「東京朝日新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一〇月二〇日
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○〈評論〉欄 文化擁護 ※わが国のインテリの無力に腹が立つ。その例として近松秋江の「斎藤実盛の如く」に言及。学芸自由同盟の再建もこれでは心細い、と。「神戸又新日報」
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一〇月二二日
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○〈蝸牛の視角〉欄 久米の気魄 (鬼翁) ※「二階堂放話」は先月の「八ツ当たり」より今月の「高位高官」批判の方がよい。 「東京日日新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一〇月二八日
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○久米・正宗・杉山君等の話(一)文士と政治家―近松秋江 ※高位高官云々で非難されたことにつき反論、弁明。 「都新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一〇月二九日
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○〈学芸サロン〉欄 懇話会に望む(他和律) ※懇話会授賞作の海外紹介につき、むしろ現代文学作品の内容を前以て紹介しておくなど文学史の上梓を心がけてはどうか、と。 「中外商業新報」
○〈速射砲〉欄 文士の恥(愚亭) ※久米の「二階堂放話」で、なぜ近松の「高位高官」をあれほどやっつけなければならないのか、こんな問題を取り上げるのは文士の恥、と。 「報知新聞」
○久米・正宗・杉山君等の話(二)文士と政治家―近松秋江 「都新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一〇月三〇日
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○久米・正宗・杉山君等の話(三)床屋政治家と村長―近松秋江 「都新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一〇月三一日
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○久米・正宗・杉山君等の話(四)床屋政治家と村長―近松秋江 「都新聞」
○〈豆戦艦〉欄 十一月の雑誌「文芸春秋」(玉藻刈彦) ※高位顕官にたいする秋江的感情も正直、久米的感情も正直、と。 「東京朝日新聞」
○〈壁評論〉欄 高位高官と文学者(車引耕介) ※藤村・白鳥・秋江・久米と並べて、どれが最も文学者的であるか、と。 「読売新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一一月一日
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○〈時の話題〉欄 文芸懇話会結論(福地)『社会及国家』
○文芸評論(赤星白光) ※作家クラブの問題。 『社会評論』
○インテリゲンチヤと文化擁護の部署―戸坂潤 『社会評論』
○「斎藤実盛の如く」読後感―高山毅 『新思潮』
○新聞・雑誌の文学記事―ヂヤーナリズムの特質と限界性―新居格 ※文芸懇話会の如き歯牙にかけるに及ばないことに新聞も雑誌も未だに話の種にしている。『新潮』
○〈スポット・ライト〉欄 各人各説(XYZ) ※文芸懇話会に関し、とくに久米の「文芸懇話会に八ツ当たる」を取上げて。『新潮』
○〈文芸時評〉民間文学その他―青野季吉 ※懇話会の問題、民間による文学、他。『政界往来』
○〈社会時評〉岡田内閣と国体明徴―文士を罵る、他―清沢洌 ※懇話会批判。『セルパン』
○佐藤春夫氏に―文芸懇話会の事務の立場より―佐伯郁郎 『文芸』
○〈諷刺劇〉文芸懇話会紛騒早見
[#ここから3字下げ]
第一景 偕楽園の一室
第二景 大阪ビル四階文化連盟事務室
第三景 銓衡会場
〈登場人物〉
第一景 松本、直木、広津
第二景 松本、近松秋江
第三景 秋江、松本、広津、久米、佐藤、島木、室生、菊池、聴衆一、二、三
作者不詳 『文芸通信』
[#ここで字下げ終わり]
一一月三日
[#ここから1字下げ]
○懇話会積極行動、機関誌を発行 ※広津和郎の義弟松沢太平が実務担当、と。 「読売新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一一月六日
[#ここから1字下げ]
○文学の反逆性―青野季吉 ※文芸統制について。同月九、十一日の「北海タイムス」にも掲載。 「河北新報」
○時のトピツク(5)上司小剣氏打診、懇話会の機関誌―それは何を意味する 「読売新聞」
○〈壁評論〉欄 懇話会雑誌の難問(車引耕介) 「読売新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一一月七日
[#ここから1字下げ]
○〈大波小波〉欄 懇話会の雑誌―問題の発生を憂ふ(矢代兵衛) ※親睦機関であった筈の懇話会が統制機関にさえ化しつつあるとき、雑誌は統制を生みださないか。 「都新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一一月九日
[#ここから1字下げ]
○文芸懇話会に就て一言 談話・飯倉にて―島崎藤村 週刊 「芸術新聞」
[#ここで字下げ終わり]
一一月一二日
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○最近の感想(2)―尾崎士郎 ※進歩的官僚の存在と文芸統制について述べ、文芸懇話会のいざこざなども、現象的には反対を示しながら文芸院の待望へ行っている、と。 「時事新報」
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一一月一六日
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○〈学芸サロン〉欄 日本主義文学の誕生(身軽織助) ※文芸懇話会の雑誌が出るという、松本学の日本主義の一翼をなすものか。 「中外商業新報」
○〈大波小波〉欄 世俗的な評価―XYZと秋江氏へ―新居格 ※高位高官のことで「新潮」XYZは僕が近松を冷笑したと非難しているが、XYZの考え方は僕と根本的にちがう。僕は文士を高きものとして言ってるのではない、と。 「都新聞」
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一一月一八日
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○船頭多ければ?―一刀研二 ※文芸懇話会の機関誌のこと、絵と文。 「福岡日日新聞」
○〈月曜文壇〉欄 文壇週報―好話嘉郎 ※文芸懇話会が機関誌を出すことで、云々。 「福岡日日新聞」
○〈大波小波〉欄 立ち寄る大樹―新居の「野武士論」(緋衣) ※『文芸』で新居が「フリーランサアの精神」を保持せよといい、「フリーランサア性をもち得る人々が好んでその位地を抛棄して行くこと」を惜んでいるが、文芸懇話会にとどまって松本学に「最後的譲歩」をする広津なども同様か、と。 「都新聞」
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一一月一九日
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○〈赤外線〉欄 作品は作家の私有物ではない(和泉八郎) ※「斎藤実盛の如く」の批評に対し、近松が作者は「あれを、真剣な私小説として書いた物でなく」云々と述べてるが、作者自身その作品の独立を疑っているようで哀れである、と。 「東京朝日新聞」
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一一月二〇日
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○〈大波小波〉欄 気の毒な因果―小説でない「実盛氏」(緋衣) ※僕はあれを近松の諷刺小説(書きかたは足らぬが)として読んだが、近松はあれを感想といってるのでオドロキ。杉山や新居はあれを感想として読んでやっつけていたが、阿呆らしく僕は思っていた。僕は小説として読み、作中人物に軽蔑感を持っていた。 「都新聞」
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一一月二二日
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○〈大波小波〉欄 井戸端的喧騒―弥次馬根性を棄てよ(悪鬼子) ※今年度文壇で下半期に文学賞をめぐって近松の小説の人物が問題になったが、久米正雄らが本気なのに閉口した。あれは安木節の舞台と客の掛け合いにすぎぬ、と。 「都新聞」
○人の礼儀と所謂硬骨(上)―近松秋江 ※高位高官云々の件に関し。 「読売新聞」
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一一月二三日
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○〈文芸時評〉(一)文学者の地位―武田麟太郎 ※『日本評論』の「文学者の地位」につき、懇話会と近松のことに言及。 「東京日日新聞」
○人の礼儀と所謂硬骨(中)―近松秋江 「読売新聞」
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一一月二四日
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○文芸時評(二)背後にあるもの―武田麟太郎
※文学者の地位と懇話会について徹底的な論議が必要である。菊池寛は松本学に好意を持ってると言っているが、個人の意志は一つの政治過程でどうなるか、「われわれはその松本学氏の個性のうしろにあるものを排撃する」。 「東京日日新聞」
○人の礼儀と所謂硬骨(下)―近松秋江 「読売新聞」
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一一月二五日
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○〈速射砲〉欄 二つの雑誌(徹) ※『文芸懇話会』という雑誌が出るそうだ。片や『人民文庫』が懇話攻撃の雑誌となるという、おもしろい。 「報知新聞」
○〈大波小波〉欄 素人の理解力―大倉・松本の場合(緋衣) ※大倉や松本が文学に理解あるのは趣味程度を出ない。 「都新聞」
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一一月二六日
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○〈学芸サロン〉欄 秋江老出来したり(八太郎) ※秋江が白鳥の正倉院御物拝観を取上げている。秋江老よ、貧乏は辛いね。恒産あれば豈に一介の高位高官に阿ねらんや。 「中外商業新報」
○〈大波小波〉欄 作家クラブ賛成―懇話会長老を誘へ(矢代兵衛) 「都新聞」
○文芸時評(三)―青野季吉 ※文芸懇話会の雑誌、云々。 「読売新聞」
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一一月二九日
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○〈文芸晴曇〉欄 文学者の態度―高村三郎 ※懇話会には欠席するが、会主催の正倉院御物拝観にだけは出てゆく正宗白鳥を例にして、文士はすべてを食ってゆけばよろしい、と。 「大阪朝日新聞」
○〈学苑〉欄 文化団体の動き―懇話会・ペンクラブ・作家クラブ等々―戸坂潤 「名古屋新聞」
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一二月一日
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○〈寸壇寸評〉欄 『改造』
○文化統制の種々相―戸坂潤 ※『現代日本の思想対立』(一一年一二月)所収。発表誌不明(昭和一〇年一二月)
○〈座談会〉昭和十年の文学界の回顧―文学賞のこと、他 (出席者)青野季吉・杉山平助・阿部知二・河上徹太郎・上泉秀信・勝本清一郎・尾崎士郎・中村武羅夫 『新潮』
○〈公憤・私憤〉欄 感想―中山義秀 ※近頃最も不愉快だったのは懇話会賞をめぐる問題である、と。『星座』
○〈一九三五年のフイナーレ〉三五年の文学界―青野季吉、思想界の動向―戸坂潤 『セルパン』
○官吏の文化意識(N・R・J) ※文芸懇話会賞と松本学の思想に言及。芸術をなめてかかっている、と。『セルパン』
○〈街の人物評論〉欄 近松秋江―高野三造 ※文芸懇話にあれだけ忠誠を励む近江老人に常任の扶持を支給せぬという理由はない。『中央公論』
○〈時事諷刺〉欄 道徳の発揚―古今東西に稀なる「文芸懇話会の実体」―窪川鶴次郎(詩)、柳瀬正夢(画)『中央公論』
○〈文学者の地位〉文学と為政者―菊池寛、地位に優劣なし―近松秋江、自己に忠実なもの―武者小路実篤 『日本評論』
○文化擁護運動の経験―田辺耕一郎 ※学芸自由同盟に熱心だった人々も文芸懇話会に関心を寄せるに至った云々の個所あり。『文芸』
○「斎藤実盛の如く」の批評に対して―近松秋江 『文芸』
○文芸時評 川端康成 ※島木「一つの転機」に言及し、島木の作品は修身の教科書みたいで、文芸懇話会が世上難ずるごときものなら、秋声や豊島与志雄を追い出して島木を入れたら世道人心の為になる、と。『文芸春秋』
○〈話の屑籠〉欄 菊池寛 ※文芸懇話会の世話で奈良の正倉院を拝観できた。懇話会賞、芥川賞、直木賞の祝賀会をやりたいと思っている。『文芸春秋』
○〈文芸春秋〉欄 杉山平助 『文芸春秋』
○〈公論私論〉欄 (A)、(K) ※文芸懇話会誌のこと。『早稲田文学』
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一二月二日
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○〈文芸時評〉時代逆転の一景物―文士の社会的地位―杉山平助 「東京朝日新聞」
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一二月四日
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○十二月の論壇時評―三木清 ※『日本評論』の「文学者の地位」に関し、文芸懇話会、松本学等に言及。同月六、七日の「北海タイムス」にも掲載。 「河北新報」
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一二月一〇日
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○文芸界の歳末を眺める(一)文学熱の時代相―窪川鶴次郎 「報知新聞」
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一二月一一日
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○文学界の歳末を眺める(二)文学者は好人物―窪川鶴次郎 ※(一)と(二)では学芸自由同盟の現存すること、それをふまえ、進歩的文学者の共同戦線を説き、文芸懇話会との関係に及ぶ。 「報知新聞」
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一二月一二日
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○文芸界の歳末を眺める(三)常識的なる時代―窪川鶴次郎 「報知新聞」
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一二月一三日
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○文芸界の歳末を眺める(四)無理論の芸術性―窪川鶴次郎 ※(三)と(四)では諷刺文学のことなど。 「報知新聞」
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一二月一六日
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○昭和拾年に於ける我が文壇を回顧す(上)―江口渙 「九州日報」
○〈噂の人松本学氏文壇を語る〉久米君の怒髪たちまちけろり。僕と文芸懇話会 ※文芸懇話会で噂の人、松本学が日本文化連盟邦人主義座談会の為名古屋に来た。早速捉えて「文壇談義」を聞いてみる……。 「名古屋新聞」
○一九三五年の論壇回顧(下)―石浜知行 ※(三)で文芸懇話会などにおける文化統制の危険を論じる。「北海タイムス」
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一二月二三日
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○昭和拾年に於ける我が文壇を回顧す(下)―江口渙 ※文芸懇話会賞に言及。同月一九日の「名古屋新聞」、二一日の「信濃毎日新聞」にも掲載。「九州日報」
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一二月二八日
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○〈一日一題〉欄 文壇気風の変遷―正宗白鳥 ※『文芸懇話会』誌の中から。 「読売新聞」
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一二月三〇日
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○純文学と文芸賞(1)―今井達夫 ※懇話会賞のことなどを話題として取上げる。 「時事新報」
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一二月三一日
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○純文学と文芸賞(2)―今井達夫 「時事新報」
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一九三六年(昭和一一年)
一月一日
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○文化的領野見透し―壺井繁治 ※文芸懇話会と文芸統制のことなど、他。 『社会評論』
○〈文芸時評〉文学者の社会的地位―青野季吉 ※秋江の高位高官にからんで。 『政界往来』
○文学会の会合―徳田秋声 「帝国大学新聞」
○迎年言志―文学者の社会的地位の考察(上)―佐藤春夫 ※秋江の「高位高官」に理解を示しながら文学の第一義は金や名誉でない、と。 「東京日日新聞」
○〈扉絵〉欄 文芸懇話会―柳瀬正夢 『文学案内』
○〈文芸懇話会〉欄 上司小剣 『文芸懇話会』
○懇話会と金、その他。 三上於菟吉 『文芸懇話会』
○〈会員の一人〉欄 宣言 ※上司小剣編輯号。 『文芸懇話会』
○政治家との交際―馬場恒吾 ※近松秋江の高位高官云々に触れる。『文芸春秋』
○〈文芸時評〉政治的精神―豊島与志雄 『文芸春秋』
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一月三日
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○迎年言志―文学者の社会的地位の考察(中)―佐藤春夫 「東京日日新聞」
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一月四日
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○迎年言志―文学者の社会的地位の考察(下)―佐藤春夫 「東京日日新聞」
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一月六日
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○〈大波小波〉欄 そのたから船―明日待たるる懇話会(緋衣) ※懇話会は日本文化に寄与してゆくといっているが、苦笑の種。雑誌の表紙にストーブを描いたのは冷却した文学界をあたためる為だと、では秋江や小剣は石炭の役目か、と。 「都新聞」
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一月八日
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○〈速射砲〉欄 懇話会と詩人(詩郎) ※懇話会会員に一人も詩人がいないのはおかしい、と。 「報知新聞」
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一月九日
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○〈壁評論〉欄 文壇小景一束(車引耕介) ※文芸懇話会誌は反対者に送らぬそうだが、そんな根性で何が文学の奨励だ、と。ペンクラブはどこからか二万円入ったそうだが会員に通知がない。プロ文学雑誌は作家クラブに冷たいが会員の申込みは八十人もいたから変てこだ、と。 「読売新聞」
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一月一一日
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○〈新春文壇〉6『文芸懇話会』誌―順風に帆を孕ませた創刊号―武田麟太郎 「報知新聞」
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一月一三日
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○〈月曜文壇〉欄 興味を唆らるる文壇―官制ジアナリズムの台頭について―長崎謙二郎 ※文芸統制と文芸懇話会賞など。 「福岡日日新聞」
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一月一四日
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○二階堂酔語(二)序に松本学氏へ―久松正雄 ※会員に誘われなかったウラミを述べ、およそ僕くらい、甘い是々非々主義者はないのだから、懇話会よ、誘う水あらばいなんとぞ思う、と。 「東京日日新聞」
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一月二三日
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○〈赤外線〉欄 寧ろ政治家的文学を(和泉八郎) ※政治家に卑下した文学者を非難しているだけで事はすむか、と。 「東京朝日新聞」
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一月二四日
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○文芸時評 四「自己流正義」の弁―中村武羅夫 ※久米の文芸懇話会に八ツ当たるは公正な批判と思われぬ、だのに近松の作品から「高位高官」を抽出して大新聞が文芸時評で問題にしているのは正しくない、と。 「東京日日新聞」
○〈速射砲〉欄 文学者の恥(阿羅) ※宇野浩二が文芸懇話会賞のことで『セルパン』に書いている。第一回は過ぎたから仕方ないとして第二回からは授賞作品に推せんの辞を付けることを希望しているのに同感、と。 「報知新聞」
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一月二七日
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○〈月曜文壇〉欄 投げられた陰影と官僚的暗流に抗する動き―田辺耕一郎 ※文芸懇話会。 「福岡日日新聞」
○〈羅針盤〉欄 『文芸懇話会』(天道公平) ※雑誌評。 「福岡日日新聞」
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一月二八日
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○〈文芸時評〉文壇は動く(上)―菊地克己 ※文芸懇話会、独立作家クラブ、人民文庫に言及。 「国民新聞」
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一月二九日
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○文学と保護政策「悪ジヤアナリズムが胚胎するもの」―「新潮」と「文芸」(下)―勝本清一郎 「読売新聞」
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一月三〇日
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○随想随筆(1)文学賞の事ども―宇野浩二 ※懇話会賞に言及。 「報知新聞」
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一月三一日
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○〈編輯後記〉田宮虎彦 ※主に文芸懇話会賞に論及。 『日暦』
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二月一日
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○文芸懇話会に希望―宇野浩二 『セルパン』
○文化団体の使命―三木清 ※文芸懇話会その他。 『セルパン』
○先づ会より始めよ―文芸家集会ノート(白野ペン十郎) ※小見出し―独立作家クラブ・サンチヨ倶楽部・ペン倶楽部・文芸懇話会。 『文芸』
○〈同人雑記〉 欄 文芸懇話会―川端康成 『文学界』
○文学界同人座談会(第二回)(出席者)横光利一・川端康成・小林秀雄・林房雄・深田久弥・武田麟太郎・村山知義・河上徹太郎・阿部知二・森山啓・島木健作・舟橋聖一 ※テーマの一つに「懇話会と人民文庫」。『文学界』
○〈コラム〉欄 文芸懇話会―岸田国士 『文芸懇話会』
○〈私の書架〉欄 文芸雑彙―「文芸草子」を読む―室生犀星 『文芸懇話会』
○〈座談会〉懇話会一夕話―文学は専門的のものであるか、教育と文学的教養、文化と文学的教養、社会現状と文学 (出席者)豊島与志雄・徳田秋声・中村武羅夫・岸田国士・川端康成・宇野浩二・広津和郎・室生犀星・近松秋江・上司小剣・松本学 『文芸懇話会』
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二月四日
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○新文相との一問一答―統制は程度問題 ※文芸院の設立は? 「それは知りません」「文芸懇話会とはどういうものなンですか?」と。 「都新聞」
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二月一三日
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○〈豆戦艦〉欄 二月の雑誌―文芸懇話会・文学界・セルパン(石走水人) 「東京朝日新聞」
○春はまだ遠い―懇話会二月号に就て―武田麟太郎 ※今号は岸田国士編輯で創刊号に比べるとすぐれているが、日本文学のパトロンであり右翼団体の資金取次ぎ者の松本学に奮発してもらって、もっと立派な雑誌にしないと日本文学のために相済まぬのでは、と。 「読売新聞」
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二月一四日
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○横行するセンチメンタリズム―中野重治 「報知新聞」
○〈Gメン〉欄 佐藤春夫の降伏(文学の鬼) ※佐藤春夫が懇話会に復帰した……。 「名古屋新聞」
○〈大波小波〉欄 懇話会作家に―文芸院の具体化(矢代兵衛) 「都新聞」
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二月一八日
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○文士の社会的地位―北林透馬 ※近松の「高位高官」云々につき。『痴遊雑誌』
○〈壁新聞〉欄 「文芸懇話会」問答(車引耕介) ※創刊号、二月号の批評。 「読売新聞」
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二月二〇日
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○〈文芸時評〉文学の不思議―北条氏の得た「文学界賞」その他―川端康成 ※懇話会賞に言及。 「大阪朝日新聞」
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二月二三日
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○〈学芸サロン〉欄 「人民文庫」に失望した(大伴黒主) ※打倒文芸懇話会をスローガンに出発したはずの『人民文庫』の創刊号を見て。 「中外商業新報」
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二月二四日
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○散文精神の興隆―「文芸懇話会」に挑戦―武田麟太郎 ※『人民文庫』の創刊号について一言させて頂く……の書き出し。 「帝国大学新聞」
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二月二六日
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○〈Gメン〉欄 人民文庫の誕生(文学の鬼) ※『人民文庫』誕生を喜ぶが、文芸懇話会にのみ八つ当りしているのはどうか? 「名古屋新聞」
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三月一日
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○〈文芸時評〉文芸懇話会の問題、他。―木寺黎二 『現実』
○〈座談会〉文学者の社会的位置と経済生活 (出席者)徳田秋声・久保田万太郎・近松秋江・宇野浩二・生田葵山・杉山平助・佐藤春夫・中村武羅夫 ※小見出し―昔と今の作家の位置、文芸院の問題、美術院の場合、政府と芸術家、文勲章、外国の作家について、ジヤーナリズムの暴威……。『新潮』
○文化勲章と文化輸出―大宅壮一 『日本評論』
○〈文壇時言〉欄 懇話会と抵抗する武田麟太郎と暢気な俗謡歌手林房雄のやりとりに関し。『日本評論』
○ある日の感想―中野重治 『文学評論』
○〈コラム〉欄 文芸懇話会―三上於菟吉 『文芸懇話会』
○心臓の功罪―広津和郎 『文芸懇話会』
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三月五日
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○作家歴訪―文芸懇話会を語る広津和郎氏 「日本学芸新聞」
○松本学―世田三郎 小野沢亘漫画 ※諷刺詩。 「日本学芸新聞」
○〈大波小波〉欄 「解らん」懇話会―会内だけは統制的(三月堂) ※里見クの原稿が返されて修正を命じられた。それは最初から「解りきつたこと」だ。『文春』誌上に里見が書いたから解ったようなものの文芸懇話会の雑誌だったら伏字にされたろう。 「都新聞」
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三月一〇日
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○〈学芸サロン〉欄 広津・三上の時代認識(留迅) ※『文芸懇話会』三月号の随筆につき。 「中外商業新報」
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三月一一日
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○〈蝸牛の視角〉欄 覆水盆にかへる(山王台) ※脱退した佐藤春夫が懇話会の雑誌に随筆を書いている。入る方も入る方、入れる方も入れる方、結局、松本学が男振りをあげた。やっぱり大将は元警保局長だったよ。 「東京日日新聞」
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三月一三日
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○〈学芸サロン〉欄 秋声氏の気魄を見よ(身軽織助) ※『新潮』座談会「文芸院の問題」で秋声一人がその設立に反対しているのは立派である。 「中外商業新報」
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三月一四日
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○〈Gメン〉欄 養老院か(冬木春彦) ※懇話会が茂吉や白秋を入れぬようでは今に養老院になり終わるであろう、と。 「名古屋新聞」
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三月一五日
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○作家クラブの成立(1)―中野重治 「東京朝日新聞」
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三月一六日
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○作家クラブの成立(2)―中野重治 「東京朝日新聞」
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三月一七日
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○作家クラブの成立(3)―中野重治 「東京朝日新聞」
○〈大波小波〉欄 懇話会の潔癖さ―一般は監視している(三月堂) ※懇話会を「潔よいもの」にするためには内部検討をしなければならぬという三上於菟吉に賛成。三上説でやれば寄合い世帯は分裂するだろうから。 「都新聞」
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三月一八日
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○作家クラブの成立(4)―中野重治 ※最終回とくにプロレタリアを振りまわす。 「東京朝日新聞」
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三月二二日
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○〈蝸牛の視角〉欄 ゾラ的勇気(フアッショ) ※『文芸懇話会』第三号評。 「東京日日新聞」
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三月二六日
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○文教の刷新、新内閣に望む(四)形式主義の打破―岡邦雄 ※昨二二日付東京日日新聞によると文部省は大規模な「文教院」を作って今次声明の実を上げようとしているが、と文教院に言及。 「都新聞」
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三月二八日
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○〈蝸牛の視角〉欄 秋江大人と伏せ字(ワツシヨ) ※秋江編集の『文芸懇話会』は「文化と暴力」という座談会をやったり、他の雑誌だったらやられていたろう加藤武雄の「雪粉々」の小説を載せたりしても伏字がない。神経過敏になってる他の雑誌は秋江に笑われている。 「東京日日新聞」
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三月三〇日
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○〈羅針盤〉欄 四月号創作評『文芸懇話会』 (天道公平) 「福岡日日新聞」
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四月一日
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○文芸評論―草刈鎌吉 ※小見出し中に―中野重治の「ある日の感想」。『社会評論』
○文化諸団体の検討―新居格 『新潮』
○知感記(二)感想―独立作家クラブと文芸懇話会について―青野季吉 『人民文庫』
○文芸懇話会―古沢元 『人民文庫』
○二つの文学の新しい関係―中野重治 『教育・国語教育』
○歌壇に対して―中野重治 『日本短歌』
○文芸往来―随想随筆―宇野浩二 ※宇野と文芸懇話会の関係から説きおこし、茂吉「柿本人麿」や朔太郎の文学にまで懇話会は眼をひろげるべきことをいう。『日本評論』
○闘ひ主張する感想―那珂孝平 『文学評論』
○一つの感想―木寺黎二 ※文芸懇話会に対する感想。作家の善良な意思とは別に会が存在する現実を問題とする。『文芸』
○文勲章が貰へたら(漫画と文)―清水崑 『文芸』
○〈コラム〉欄 文芸懇話会―近松秋江 『文芸懇話会』
○文芸懇話会損得論―小熊秀雄 『文芸通信』
○文壇縦横論―河合惟人 ※文芸懇話会と独立作家クラブ、他。『若草』
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四月二日
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○近頃憤懣録(1)―榊山潤 「報知新聞」
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四月三日
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○近頃憤懣録(2)―榊山潤 「報知新聞」
[#ここで字下げ終わり]
四月五日
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○近頃憤懣録(3)―寄合世帯の文芸懇話会―榊山潤 ※敬愛なる大先輩は何故官僚と握手せねばならないのかと懇話会を批判。 「報知新聞」
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四月六日
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○近頃憤懣録(4)文学愛か文学者愛か―榊山潤 「報知新聞」
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四月二九日
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○〈赤外線〉欄 新人賞への疑問(公式主義者) ※芥川・直木賞その他につき、新旧をひっくるめて作品を讃うべき賞は「例の秘密的な『文芸懇話会賞』を除いて殆どない」と。 「東京朝日新聞」
[#ここで字下げ終わり]
五月一日
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○「文芸懇話会」三・四月号―古沢元 『人民文庫』
○〈座談会〉若もの一席話(出席者)細野孝二郎・新田潤・大谷藤子・上野壮夫・渋川驍・高見順・円地文子・田宮虎彦・本庄陸男・松田解子、他 ※文芸懇話会など、他。『人民文庫』
○現代作家論(2)―矢崎弾 ※懇話会賞に関説。『政界往来』
○批評家と作家との間のギヤツプといふこと―中野重治 『文芸』
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五月八日
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○文学者は偉くないか(五月四日から五月八日のうち)(5)勲章はなくとも―中村武羅夫 ※牧野信一の自殺のことからきて、近松秋江の高位高官説にふれる。 「報知新聞」
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五月一四日
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○〈Gメン〉欄 文士といふお人好し(十和田八郎) ※雑誌『文芸懇話会』が「日本古典文学の伝統と現代文芸」の特輯を出した。これは日本主義運動のあらわれで懇話会をリードしている側から出されたものと思われるが、執筆者はそこまで見ぬいているか? 「名古屋新聞」
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五月二三日
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○〈てんぼうだい〉欄 話題の懇話会賞 「読売新聞」
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五月二七日
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○〈蝸牛の視角〉欄 懇話会の憂国談(清川鮎介)
※『文芸懇話会』六月号は岸田の編輯で「日本の将来に何を心配するか」とか「日本の文化はこうしたい」などお盛んである。勤労階級を締め出している団体が何で日本の前途を憂える必要あるのか、と。 「東京日日新聞」
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五月二九日
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○文芸時評 その二、順応論的傾向―林君の時評をよむ―新居格 ※林房雄が『文春』に「文芸懇話会擁護論」を書いたのに不快を感じる、と。 「東京日日新聞」
○〈壁評論〉欄 懇話会賞に一言(車引耕介) ※秋声と関根秀雄に与えられたことにつき、病む秋声に与えられたのはよいが、関根は陸大教授である。恵まれぬ民間の文学者のことを考えよ。また『モンテーニュ随想録』もさりながら『チャタレー夫人の恋人』の翻訳も立派である、と。 「読売新聞」
[#ここで字下げ終わり]
六月一日
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○文学に於ける官尊民卑―高見順 『人民文庫』
○平生文相の文学観を語る―岩井尊人 『文芸懇話会』
○〈文芸時評〉「文芸懇話会」擁護説―中野重治先生言行録―林房雄 『文芸春秋』
○文芸懇話会への疑義、その他―宮地嘉六 『メッカ』(健文社)
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六月四日
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○翻訳と懇話会賞―文学界近事(上)―上田進 「信濃毎日新聞」
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六月五日
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○近頃の感想(上)文学賞の作品―宇野浩二 ※懇話会賞につき〈壁評論〉で車引が述べたことの感想。 「読売新聞」
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六月六日
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○近頃の感想(中)文芸賞の作品―宇野浩二 「読売新聞」
○文壇的時評 懇話会賞と徳田秋声―貴司山治 ※同月九、一四日の「大阪時事新報」、九、一五日の「神戸又新日報」、一四日の「山陽新報」にも掲載。 「名古屋新聞」
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六月七日
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○近頃の感想(下)文芸賞の作品―宇野浩二 「読売新聞」
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六月一〇日
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○懇話会賞の断面(上)―青野季吉 「東京日日新聞」
○〈Gメン〉欄 懇話会に望む(文学の鬼) ※賞のこと。 「名古屋新聞」
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六月一一日
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○懇話会賞の断面(中)―青野季吉 「東京日日新聞」
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六月一二日
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○懇話会賞の断面(下)―青野季吉 「東京日日新聞」
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六月一四日
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○〈壁評論〉欄 漱石の「準社会主義的感情」(車引耕介) ※小泉信三が『文学』六月号「鴎外と社会思想」の中で漱石の「準社会主義的感情」について述べているが、それはさておき、「漱石にしても、有島武郎にしても、いま生きてゐたら、あの人道主義的、社会主義的の感情は、どんな道筋をとつて現はれたであらうか? ちよつと想像は困難だが、文芸懇話会なんかに納つて、いい気になつてゐないであらうことは、十分に想像が出来る……」。 「読売新聞」
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六月一六日
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○〈鉄箒〉欄 文芸博物館(K・S) ※遺墨遺品を展示・保存することは文芸家協会の仕事として意義深いと思う。 「東京朝日新聞」
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六月一九日
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○懇話会賞縦観―青野君の「断面」に対して(上)―上司小剣 「東京日日新聞」
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六月二〇日
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○懇話会賞縦観―青野君の「断面」に対して(中)―上司小剣 「東京日日新聞」
○文壇近事二三(一)懇|話賞《ママ》銓衡の事情―近松秋江 「都新聞」
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六月二一日
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○懇話会賞縦観―青野君の「断面」に対して(下)―上司小剣 「東京日日新聞」
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六月二五日
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○〈蝸牛の視角〉欄 上司さんへの挨拶―青野季吉
※上司の僕に対する批評は並び大臣ならそれでもいいかも知れぬが、「僕の感想は絶対の公平を求めぬところから出発してゐる」と。懇話会賞の件。 「東京日日新聞」
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六月二六日
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○〈社説〉欄 情操教育と芸術局新設 ※平生文相の言。 「国民新聞」
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六月二七日
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○〈社説〉欄 情操教育と芸術局新設 ※平生文相は芸術局新設の明年度予算を計上したという……。「新愛知」
○〈蝸牛の視角〉欄 毎度ながら秋江殿(呂藤素屋夫) ※近松は津村秀松から松本の鞄持ちといわれて憤慨しているが、津村に反論するに、津村が法学博士だから重視したといっている。それがタイコ持ち根性なのだ。 「東京日日新聞」
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七月一日
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○〈文壇寸評〉欄 ※懇話会賞が関根秀雄の『モンテーニュ随想録』と徳田秋声の「勲章」に与えられたことにつき、宇野浩二の発言を紹介。『改造』
○「文芸懇話会」―細野孝二郎 『人民文庫』
○〈アンケート〉文芸懇話会が徳田秋声氏の「勲章」に授賞したことに就て (回答者)豊田三郎・新居格・秋田雨雀・三好十郎・舟橋聖一・徳永直 『文学案内』
○賛否の言―川口浩 ※亀井勝一郎が懇話会反対者を批判したことにつき、「高い浪漫精神から懇話会に対するちつぽけな反対と嘲ることが懇話会に対する暗黙の支柱となることを考へるべきである」と。『文学読本』
○懇話会賞偶感―青野季吉 『文芸』
○「勲章」推頌―上司小剣 『文芸懇話会』
○銓衡過程報告―中村武羅夫 『文芸懇話会』
○津村秀松を諭す―近松秋江 『文芸懇話会』
○第二回文芸懇話会賞決定発表報告・受賞者「徳田秋声・関根秀雄」両氏の感想 『文芸懇話会』
○〈日本文芸院論〉
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文学と教育―阿部知二
他山の石―文芸院の問題に関連して―中島健蔵
日本文学院論―新井格
日本文芸院の問題―青野季吉
日本文芸院について―谷川徹三
文芸院の存在理由―長谷川如是閑 『文芸懇話会』
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○〈話の屑籠〉欄 菊池寛 ※文芸懇話会賞と徳田秋声のことなど。『文芸春秋』
○文芸時評 一、徳田秋声論の一章―室生犀星 ※懇話会が秋声の「勲章」に贈られたのは気持よい、作品徳だ、と。『文芸春秋』
○〈大波小波〉欄 持込み懇話会統制労せずして成る(民尊官卑生) ※白秋が松本学に詩歌懇話会を持ち込んだらしい、云々の話から。 「都新聞」
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七月二日
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○松本氏が詩歌人招待 「東京朝日新聞」
○〈学芸サロン〉欄 詩人懇話会(竹葉天金) ※文芸懇話会が正体不明なところへもってきて詩人懇話会を割り込ませようとは松本学も暇な人らしい。 「中外商業新報」
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七月一〇日
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○〈社説〉欄 芸術家と社会とパトロン ※文芸懇話会に関説。 「名古屋新聞」
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七月一二日
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○民間文芸院論(一)谷川徹三氏の賛成論―青野季吉 「東京朝日新聞」
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七月一三日
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○民間文芸院論(二)如是閑氏の見解について―青野季吉 「東京朝日新聞」
○〈Gメン〉欄 詩壇の統制と詩人たち(十和田八郎) ※松本学が今度は詩人懇談会をやるそうだ……。 「名古屋新聞」
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七月一四日
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○近頃所感(一)オリムピツクと文学賞―春山行夫 ※懇話会賞に関連して。「新愛知」
○民間文芸院論(三)実現の望み多き理由―青野季吉 「東京朝日新聞」
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七月一五日
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○〈壁評論〉欄 文学と文芸懇話会(車引耕介) 「読売新聞」
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七月一九日
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○〈蝸牛の視角〉欄 文学院うそ倶楽部(風天) ※文芸院設立は結構ではないか、文芸は言論の自由あってのことだから文芸を盛んならしむことは統制をしないことになる。これは「うそ倶楽部」の原稿ではないかって?(東京日日新聞に「うそ倶楽部」欄があったので。) 「東京日日新聞」
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七月二一日
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○詩歌懇話会は何を為すべきか―遠地輝武 ※同月二二日の「神戸又新日報」にも掲載。 「大阪時事新報」
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七月二二日
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○〈文化諸団体の検討〉(一)対立する二陣営・文芸懇話会と独立作家クラブ―池田寿夫 「名古屋新聞」
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八月一日
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○詩人の諸団体をめぐる問題(一)詩歌懇話会の成立(?)、他―新井徹 『詩人』
○所謂「詩歌懇話会」を語る(遠地輝武との対話)―川路柳虹 『詩人』
○詩歌懇話会について―壺井繁治 『詩人』
○文壇と詩壇の隔離に拍車をかける詩歌懇話会―草野心平 「日本学芸新聞」
○文芸懇話会―石塚友二 『文学読本』
○〈文学読本〉欄 前月のことども―大家の年配―頴田島一二郎 ※「今月の課題は『文芸懇話会』ださうだが、僕には何の意見もない。関係がなさ過ぎるのだ。さう思つてゐたら今度は詩歌壇の連中を集めて懇談する話が出てゐた。これも文芸懇話会と同一で何も意見はないが、これに集る所謂大家の年配になると自然にフアツシヨになるのではないだらうか」云々。『文学読本』
○〈文芸通信〉欄 詩歌懇話会 『文芸通信』
○〈短歌〉欄 柳田新太郎 ※白秋を通して歌人にも詩歌懇話会の話があった、とその顔触れ。『文芸春秋』
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八月八日
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○俗論の流行 一、俗論は流行してゐるか―中野重治 「都新聞」
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八月九日
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○俗論の流行 二、俗論の特徴―中野重治 「都新聞」
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八月一〇日
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○俗論の流行 三、暴露された俗論―中野重治 「都新聞」
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八月一一日
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○俗論の流行 四、文と文学批評とにおける俗論―中野重治 「都新聞」
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八月一二日
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○俗論の流行 五、俗論の克服と条件の成熟―中野重治 「都新聞」
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八月一三日
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○〈速射砲〉欄 山本実彦の皮肉(赤木黒吉) ※白井喬二編輯の『文芸懇話会』誌中、笹本寅との一問一答で山本は、凡才の奴が文芸統制に乗り出しても文芸は抑えられるものでない、といっている。雑誌が雑誌だけに面白い。 「報知新聞」
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八月一四日
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○〈速射砲〉欄 詩歌懇話会は何をするか(芸低生) 「報知新聞」
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八月三〇日
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○文芸時評(一)芥川賞の再評価―新居格 ※懇話会賞言及。 九月一、二日の「北海タイムス」、三日の「信濃毎日新聞」、一七日の「山形新聞」にも掲載。 「山陽新報」
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九月一日
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○時代と文学との新機運―窪川鶴次郎 『中央公論』
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九月二日
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〇いま実盛の秋山老 「九州日報」
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九月一八日
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○〈学芸サロン〉欄 詩壇将に荒れなんとす(雲客) ※「詩歌懇話会」のメンバー選定を柳沢健がしたそうだが、詩人もだらしない。 「中外商業新報」
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九月二二日
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○〈壁評論〉欄 「国際文化連盟」遠望―山東賦夫 ※松本が国際文化連盟を提唱しているのは笑止。主催する日本文化連盟の中身はどうか、松本は日本の文化を代表できない。 「読売新聞」
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一〇月一日
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○詩壇時言―萩原朔太郎 ※文学界賞に推せんされたことに関し、懇話会に言及。『文学界』
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一〇月四日
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○〈大波小波〉欄 文芸家と検閲―政治的手腕を振へ(三四郎) ※懇話会がこの国の文芸の向上に貢献しようとするが、検閲問題などに関心を示すべきだ。 「都新聞」
○文芸時評(3)芥川賞に関して文学賞への提言―武田麟太郎 ※文芸懇話会賞に言及。 「読売新聞」
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一〇月五日
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○〈速射砲〉欄 朔太郎老ゆ(好々漢) ※詩歌懇話会につき。 「報知新聞」
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一〇月九日
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○〈おけらの唄〉欄 現代の詩歌―萩原朔太郎(紫) ※朔太郎が松本学の「詩歌懇話会」を無いよりはまし、と言ったことにつき。 「東京日日新聞」
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一一月一五日
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○文芸懇話会の資金局 ※和田日出吉の「三井三菱献金帳」の紹介。 「日本学芸新聞」
○文化団体と文化人団体―戸坂潤 ※文化団体が文化人団体でなくなっている……。 「小樽新聞」
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一一月一七日
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○〈Gメン〉欄 三井の金と文芸(十曲八郎) ※和田日出吉の調査によると、文統の本山日本文化連盟に三井から金が出ているというが、文芸懇話会の広津・岸田・林房雄らはどう見るだろうか。 「名古屋新聞」
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一一月一七日
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○詩歌懇話会の成立と其の展望(1)参加詩人の関心―春山行夫 「報知新聞」
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一一月一八日
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○詩歌懇話会の成立と其の展望(2)芸術上の統制機関―春山行夫 「報知新聞」
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一一月一九日
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○詩歌懇話会の成立と其の展望(3)情ない詩人の会合―春山行夫 「報知新聞」
○〈評壇〉欄 矜持を異にす ※広田首相が文芸家表彰を閣議にはかったことで、国家の表彰なくとも芸術家は問題にしない、と。 「報知新聞」
○〈大波小波〉欄 垣を撤廃せよ―懇話会近事小観(阿羅) ※和田日出吉の調査で金の出所が分った。松本はなぜこの程度の事をかくしたのか? 懇話会賞銓衡の時期になったがプロ、ブルの垣をはずして新生面を拓け、と。 「都新聞」
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一一月二〇日
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○〈社説〉欄 為政者の芸術認識 ※文化賞授与、云々での広田首相の言につき。 「中外商業新報」
○〈社説〉欄 文化貢献者を選び出す標準 「報知新聞」
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一一月二一日
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○〈読者と記者〉欄 文化賞の事、その前に道あり(大島清)(記者) ※一七日の閣議における広田首相の発言に関し。 「都新聞」
○芸術家の顕彰「文学と国家の保護」(一)―中村武羅夫 「東京朝日新聞」
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一一月二二日
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○芸術家の顕彰「主として文学者の場合」(二)―中村武羅夫 「東京朝日新聞」
○十一月記(二)「作家に年金」説―富沢有為男 ※国家の文芸保護、云々で。 「中外商業新報」
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一一月二三日
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○芸術家の顕彰「勲章より実質的年金を」(三)―中村武羅夫 「東京朝日新聞」
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一一月二四日
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○糠喜びの記―広田首相に望む(上)―林房雄 ※学者や芸術家を国家が顕彰しようという広田案は誤報だったそうだが、これを機会に首相はアカデミーの設立を真面目に考えたらどうか。 「読売新聞」
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一一月二五日
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○一片耿々の志―山本実彦の意気(中)―林房雄 「読売新聞」
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一一月二七日
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○硬骨なる小説―文芸懇話会賞の予想(下)―林房雄 「読売新聞」
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一一月二八日
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○〈学芸サロン〉欄 作家と勲章の夢 (他和律) ※芸術家顕彰云々の広田首相の発言につき。 「中外商業新報」
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一二月一日
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○〈スポット・ライト〉欄 文学と国家の保護、他(XYZ) 『新潮』
○文芸批評統制と懇話会―古沢元 『人民文庫』
○文化人と社会行動・文化人会議の意義―岡邦雄 『セルパン』
○〈一九三六年のフイナーレ〉思想界の動向―戸坂潤、一九三六年の回答―板垣直子 『セルパン』
○右翼文化団体に躍る人々―田中惣五郎 ※「文芸的に」の小見出しで松本学と文芸懇話会を論ず。『中央公論』
○〈一九三六年を語る〉座談会 文化擁護のために、文壇の新傾向、他 (出席者)米田実・河野密・有沢広巳・石浜知行・和田日出吉・谷川徹三・島木健作・新居格 ※検閲、島木授賞拒否、文芸会館に言及。島木、新居、谷川ら発言。『日本評論』
○最近の感想―徳田秋声 『文芸通信』
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一二月二日
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○〈おけらの唄〉欄 懇話会賞の季節―ヒツトをとばしてくれ(猿火矢) 「東京日日新聞」
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一二月七日
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○文芸時評 一、文学の権威―窪川鶴次郎 ※文学者の仕事の意義を国家が認めるのは文学の発展にとって有力な一助となる、と文芸院、文芸懇話会問題にふれている。 「都新聞」
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一二月二一日
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○〈月曜文壇〉欄 近頃文壇展望。文芸会館と文功賞、純文芸雑誌帰還説。―武野藤介 「福岡日日新聞」
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一二月二五日
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○文芸懇話会賞(上)―近松秋江 「読売新聞」
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一二月二六日
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○本屋の大将(上)―十菱愛彦 ※広田首相の言と文芸院。 「中外商業新報」
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一二月二七日
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○本屋の大将(下)―十菱愛彦 ※「未来の文芸院総裁を夢みた僕は、本屋の大将と呼ばるるに至つて」云々。 「中外商業新報」
○現代に於ける文化と国家の問題(上)―田中宏明 ※広田首相の文化人顕彰発言から文芸懇話会までに言及。 「中外商業新報」
○文芸懇話会賞(下)―近松秋江 「読売新聞」
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一九三七年(昭和一二年)
一月一日
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○文化統制と文化の「自粛」―戸坂潤 『改造』
○〈歌壇展望〉欄 詩歌懇話会―岡野直七郎 『新潮』
○〈ヂヤアナリズムの動き〉欄 芸術家優遇案 ※広田首相の提案から文芸院のことなど。『新潮』
○〈放談〉欄 宅間ケ谷雑記―林房雄 ※広田首相の芸術家顕彰発言から文芸懇話会、日本文化連盟に及ぶ。『自由』
○〈人民文庫文壇ニユース〉欄 コンワ会賞シーズン近付く 『人民文庫』
○〈市井談義〉欄 文芸批評統制と懇話会―古沢元 『人民文庫』
○〈文芸時評〉文学賞時代について―青野季吉 ※官設の文芸賞と文芸懇話会賞のことなど。『政界往来』
○新文学への道―谷川徹三 ※文芸懇話会に自分は賛成したが、反対した人は勇ましいようで勇ましくないと思う。アカデミーに入らないことでジイドは貫禄を示した……。文芸院で日本の文学がどうなるものでない。『中央公論』
○〈現代詩壇総覧〉社会的事件―萩原朔太郎 ※三四年度詩壇の反省として書かれた中に。『文学界』
○文芸懇話会並詩歌懇話会(T・M) 『邦人』
○〈文学者として国家に何を要求するか〉 本多彰・石川達三・前田河広一郎・清沢洌・鶴田知也・小田嶽夫・亀井勝一郎・青野季吉・本庄陸男・|小柳清≪(松?)≫
・伊藤整・今野賢三・窪川鶴次郎 ※広田首相の文功賞発言に関連して。 「日本学芸新聞」
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一月五日
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○〈文芸時評〉文学賞金の拡大―室生犀星 ※文芸懇話会に関連。 「読売新聞」
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一月六日
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○〈槍騎兵〉欄 文学者と国家―青野季吉 「東京朝日新聞」
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一月九日
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○一月の創作―小説の三つの種類(三)―中野重治 ※新日本主義批判。「北海タイムス」
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一月二一日
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○〈速射砲〉欄 演劇改善論の誤謬・岸田国士氏に問ふ―千葉昭 ※官立俳優アカデミーを提唱した岸田に。 「報知新聞」
○〈軟焦点〉欄 芸術統制と『文芸懇話会』(西尾生)「山陽中国合同新聞」
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一月二三日
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○〈座談会〉時代と文芸思想の行くべき道(16)文芸賞の問題、国家と民間とのもの ※広津が懇話会に言及。一日から二四日のうち。 「読売新聞」
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一月二四日
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○〈座談会〉時代と文芸思想の行くべき道(17)文学賞と時代、その効果と方法論 ※芹沢が文芸院に言及。 「読売新聞」
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一月二六日
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○〈てんぼうだい〉欄 文芸懇話会賞候補者 「読売新聞」
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二月一日
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○文学賞小論―高見順 『改造』
○国家と文芸―青野季吉 『日本評論』
○国家と文芸―新居格 『日本評論』
○〈座談会〉現代文学の日本的動向 (出席者)谷川徹三・河上徹太郎・三木清・林房雄・戸坂潤・村山知義・佐藤信衛・阿部知二・小林秀雄・岸田国士 ※可能性への努力―アカデミー是非、アカデミーの矛盾。『文学界』
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二月四日
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○〈壁評論〉欄 国家と岸田説、村山説―大井真瓜 ※二月号『文学界』座談会で岸田国士と村山知義が演劇と国家の関係を論じ対立している。岸田は国家がアカデミーを作ることを望み、村山は反対している。村山の方が正しいと思うが、と。 「読売新聞」
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二月五日
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○〈大波小波〉欄 先づ椅子を造れ、老大家年金の問題―菱山修三 ※菊池寛は秋声如き老大家に国家は宜しく年金を下附せよと言った。いきなりは無理だから作家が政府の各審議会に顔を出し説得すべきだ、と。 「都新聞」
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二月一一日
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○〈速射砲〉欄 旺んなり青野季吉―文学者顕彰要請£ノ撃(穂刈玄鳥) ※中村武羅夫や岸田国士が国家の文学者顕彰問題で要請したことで……。青野の「国家と文芸」(『日本評論』)に関して。 「報知新聞」
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二月一四日
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○文化団体の再検討―三木清 「読売新聞」
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二月一七日
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○文化団体の再検討―三木清 「読売新聞」
○〈文芸雑感〉欄 醇化した宇野(上)―広津和郎 ※宇野の「文芸三昧」(『文芸懇話会』)評。 「読売新聞」
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二月一八日
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○文化団体の再検討―三木清 「読売新聞」
[#ここで字下げ終わり]
三月一日
[#ここから1字下げ]
○文学賞について―細野孝二郎 『人民文庫』
[#ここで字下げ終わり]
三月一三日
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○自主的文化―正宗白鳥 「読売新聞」
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四月七日
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○〈学芸サロン〉欄 無精な詩歌懇話会(公木) ※詩歌懇話会が賞を出すという。昨年度の著書に対してというが、詩は雑誌に発表されるのが多い。だから選考は問題、無駄な授賞は願い下げにしてほしい。 「中外商業新報」
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四月一〇日
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○〈同人雑誌評〉欄 アカデミイ建設―その主体たり得るもの―山本和夫 「日本学芸新聞」
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四月一五日
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○文学の自由(一)或出版統制の夢物語―阿部知二 「時事新報」
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四月一六日
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○文学の自由(二)自我と画一化―阿部知二 「時事新報」
○〈青鬼赤鬼〉欄 日本の詩人と小説家の問題(赤壁生) ※詩歌懇話会の会員が酒で乱痴気騒ぎを起した。文芸懇話会の小説家が「文芸懇話会の人たちには見られぬ図だ」と言った。彼は詩歌懇話会対文芸懇話会の図式で物を言っている。詩人と小説家はこの国では互に侮蔑するために生れてきたのか……。 「名古屋新聞」
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四月一七日
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○〈槍騎兵〉欄 文芸懇話会に望む―林房雄 ※雑誌『文芸懇話会』は年間三〇〇〇円以上の赤字を出しているそうだが、そんな雑誌を出すより、年刊作品集かせめて文芸年鑑でも出してもらいたい、と。 「東京朝日新聞」
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四月一八日
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○文学の自由(三)その希望―阿部知二 「時事新報」
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五月一日
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○〈文芸時評〉批評と常識―中野重治 ※松本学が「紳士」だとは? と。『新潮』
○〈時の話題〉欄 文化勲章について(東風) 『社会及国家』
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五月九日
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○文壇世論の無力、新しき階級文学―林房雄 ※新日本主義に関し。 「報知新聞」
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五月一二日
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○日本文学の危機(三)―徳永直 ※新日本主義に言及。「北海タイムス」 「河北新報」
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五月一三日
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○情熱の方向(1)日本主義者の遊び―榊山潤 「河北新報」
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五月二〇日
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○〈文化団体打診〉(三)毀誉褒貶の嵐を外に悠々たり文芸懇話会(無記名) 「日本学芸新聞」
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五月二三日
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○〈速射砲〉欄 懇話会賞の行方、会長松本学の態度(新川) 「報知新聞」
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五月二八日
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○〈速射砲〉欄 新日本主義の馬脚、陳腐な理論的手品(観潮楼) 「報知新聞」
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六月一日
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○御用文化団体の検討―大宅壮一 ※目次では「御用文化団体の解剖」。『日本評論』
○〈文芸春秋〉欄 『文芸春秋』
○政治の文学支配について―谷川徹三 『文芸春秋』
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六月四日
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○〈速射砲〉欄 卒塔婆の行列―『文芸懇話会』六月号(烏の子) 「報知新聞」
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六月五日
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○政治と作家の問題―中野重治 「京都帝国大学新聞」
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六月七日
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○文芸懇話会賞′作がないのか誠意がないのか……。―加藤悦郎 ※漫画。 「東京朝日新聞」
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六月一二日
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○〈槍騎兵〉欄 政治の文学支配―小林秀雄 「東京朝日新聞」
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六月一四日
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○予想の懇話会賞―浅見淵 「新愛知」
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七月一日
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○〈文壇寸評〉欄 『改造』
○世界文芸賞よろづ案内―小沢修一郎 ※文芸懇話会賞にふれる。『月刊文章』
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七月三日
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○〈大波小波〉欄 懇話会の解散 今日では無用の長物(上次) 「都新聞」
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七月七日
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○〈学芸サロン〉欄 懇話会の足跡(百万石) 「中外商業新報」
○読後感(下)我れ人共に戒めざるべからず―正宗白鳥 「読売新聞」
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七月八日
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○『文芸懇話会』解消の可否(1)創設当初と現在―白井喬二 「報知新聞」
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七月九日
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○『文芸懇話会』解消の可否(2)既成観打破へ進め―白井喬二 「報知新聞」
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七月一〇日
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○〈槍騎兵〉欄 文芸懇話会の使命―吉川英治 「東京朝日新聞」
○文芸懇話会解散か 近日総会で決定 「日本学芸新聞」
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七月一一日
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○〈槍騎兵〉欄 懇話会解散に就いて―杉山平助 「東京朝日新聞」
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七月一三日
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○文芸懇話会の解散―吉川英治 「大阪朝日新聞」
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七月一四日
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○〈青鬼赤鬼〉欄 解散のほかなし 文芸懇話会 (十曲八郎) 「名古屋新聞」
○〈大波小波〉欄 雪国と人生劇場 本年度の懇話会賞決定(G・P・U) 「都新聞」
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七月一六日
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○〈大波小波〉欄 評論家の独立性、文壇の迷妄を破れ(闇助) ※文芸懇話会では評論の独立性を認めなかったようだが……。 「都新聞」
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七月一七日
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○〈学芸サロン〉欄 文芸懇話会賞決定す(樋口紅葉) 「中外商業新報」
○〈壁評論〉欄 懇話会賞の感触(阿蘭) 「読売新聞」
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七月一八日
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○〈壁評論〉欄 懇話会消え、「新日本」現る(阿蘭) 「読売新聞」
○文芸懇話会の解散―菊地寛 「東京日日新聞」
○第三回文芸懇話会賞に就て(1)解散と新団体組織―武田麟太郎 「報知新聞」
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七月一九日
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○最後の文芸懇話会賞―川端・尾崎両氏の作品 「新愛知」
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七月二〇日
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○文士の生活と社会(4) 文芸懇話会の解消(上)―広津和郎 「中外商業新報」
○近頃の話題(4) 「新日本文化の会」の結成―宮本百合子 「東京日日新聞」
○第三回文芸懇話会賞に就て(2)川端氏の抒情性―武田麟太郎 「報知新聞」
○懇話会の事ども 炎暑漫筆(一)―宇野浩二 「都新聞」
○〈大波小波〉欄 「日本的」の車輪 「新日本文化の会」生る(鯤太郎) 「都新聞」
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七月二一日
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○『雪国』と『人生劇場』 文芸懇話会の解散と授賞―青野季吉 「河北新報」
○文芸懇話会解散と授賞(上)―青野季吉 ※同月二二日の「信濃毎日新聞」「名古屋新聞」、二三日の「新潟新聞」にも掲載。 「信濃毎日新聞」
○文士の生活と社会(4)文芸懇話会の解消(下)―広津和郎 「中外商業新報」
○最近の文芸界時事(1)『懇話会』の解散―青野季吉 「東京朝日新聞」
○近頃の話題(4)「新日本文化の会」の複雑性―宮本百合子 「東京日日新聞」
○川端氏の「雪国」 炎暑漫筆(二)―宇野浩二 「都新聞」
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七月二二日
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○最後の懇話会賞(一)授賞に伴ふ苦悩と困難―上司小剣 「中外商業新報」
○最近の文芸界時事(2)「新日本文化の会」―青野季吉 「東京朝日新聞」
○第三回文芸懇話会賞に就て(3)尾崎氏の人生愛―武田麟太郎 「報知新聞」
○「人生劇場」論 炎暑漫筆(三)―宇野浩二 「都新聞」
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七月二三日
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○最後の懇話会賞(二)「人生劇場」とチエホフの「決闘」―上司小剣 「中外商業新報」
○最近の文芸界時事(3)川端・尾崎の文学―青野季吉 「東京朝日新聞」
○『新日本文化の会』批判(1)文学と政治の結合―岡邦雄 「報知新聞」
○〈大波小波〉欄 不可解な進退―長谷川如是閑に与ふ(阿羅) ※如是閑が「新日本文化の会」に入ったこと。 「都新聞」
○〈文壇涼台〉欄 文芸懇話会賞 川端・尾崎両氏の作品(真珠郎) 「山陽中国合同新聞」
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七月二四日
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○最後の懇話会賞(三)川端康成の「雪国」その他―上司小剣 「中外商業新報」
○最近の文芸界時事(4)尾崎・川端の文学―青野季吉 「東京朝日新聞」
○『新日本文化の会』批判(2)現代を古代に移す―岡邦雄 「報知新聞」
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七月二五日
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○『新日本文化の会』批判(3)思想統制≠ニの暗合―岡邦雄 「報知新聞」
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七月二七日
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○新日本文化の会 その成立と目的への私見(上)―林房雄 「読売新聞」
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七月二九日
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○文芸批評の悲劇と弱点(四)新日本主義批評家―高沖陽造 「中外商業新報」
○灰皿(一)懇話会の解散―徳田秋声 「東京朝日新聞」
○新日本文化の会 その成立と目的への私見(下)―林房雄 「読売新聞」
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七月三〇日
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○新日本主義の認識―新日本文化会の林房雄氏へ―三木清 「読売新聞」
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七月三一日
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○新日本主義の認識―新日本文化会の林房雄氏へ―三木清 「読売新聞」
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八月一日
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○文化団体再編成―文化統制を意図に中央文化連盟£a生 「日本学芸新聞」
○文化団体再編成―新日本文化の会 「日本学芸新聞」
○〈流弾〉欄 文壇の明朗化―上野壮夫 ※文芸懇話会が解散した。芸術院が出来て目的を達したからだという。文芸統制を危惧した我々は間違っていなかった。新日本文化の会も最初から目的をはっきりさせれば明朗となる。 「日本学芸新聞」
○懇話会の大衆作家―村雨退二郎 「日本学芸新聞」
○〈随筆〉(5)芸術院と懇話会―上司小剣 「日本学芸新聞」
○新日本主義の認識 新日本文化の林房雄氏へ―三木清 「読売新聞」
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八月二日
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○昨今文壇閑話(1)芸術院と懇話会―室生犀星 「東京朝日新聞」
○〈月曜文壇〉欄 日本文学の一将来性 川端康成氏の『雪国』文学賞獲得作品―武野藤介 「福岡日日新聞」
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八月三日
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○昨今文壇閑話(2)文学者と画家―室生犀星 「東京朝日新聞」
○文芸懇話会消滅と私―近事多事(一)―佐藤春夫 「報知新聞」
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八月四日
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○〈文芸短信〉欄 「新日本文化の会」の本質―窪川鶴次郎 「中外商業新報」
○昨今文壇閑話(3)文芸会館に一言―室生犀星 「東京朝日新聞」
○不熱心だった大衆作家―近事多事(二)―佐藤春夫 「報知新聞」
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八月五日
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○「出来た」いや「作られた」―徳永直 ※帝国芸術院と新日本文化の会のこと。 「日本読書新聞」
○新日本文化の会発生―近事多事(三)―佐藤春夫 「報知新聞」
○矛盾の一形態としての諸文化組織―宮本百合子 「三田新聞」
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八月六日
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○芥川賞と尾崎一雄君―近事多事(完)―佐藤春夫 「報知新聞」
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八月九日
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○〈月曜文壇〉欄 文芸時事 三つの文学賞(九里生) ※懇話会賞言及。 「福岡日日新聞」
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八月一〇日
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○日本文化中央連盟に与ふ―戸坂潤 「東京日日新聞」
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八月一二日
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○〈文芸時評〉(一)文学賞二つ―立野信之 「名古屋新聞」
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八月一三日
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○新国際主義の開眼へ 日本文化中央連盟の結成に因む(上)―三浦参去洞 「中外商業新報」
○〈青鬼赤鬼〉欄 新日本文化の会と時局の緊迫(ON) 「名古屋新聞」
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八月一四日
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○新国際主義の開眼へ 日本文化中央連盟の結成に因む(下)―三浦参去洞 「中外商業新報」
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八月二〇日
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○中央文化連盟£獄レすべき其動向 「日本学芸新聞」
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九月一日
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○〈スポット・ライト〉欄 文芸懇話会の解消、他。(XYZ) 『新潮』
○〈文芸評論〉時局と文学―高沖陽造 ※「新日本文化の会」批判。文芸懇話会の生ぬるさを捨てた日本文化への「決意」を見る。新日本主義者、日本浪漫主義者、国学主義者、それから倉田百三氏の様な意識的ファッシストの顔ぶれを見ただけで、会の行く方向は明らかでないだろうか。『自由』
○〈市井談義〉欄 新日本文化と指導者―堺健 『人民文庫』
○〈文芸時評〉文壇の最近時事一覧―青野季吉
※文芸懇話会の解散と「新日本文化の会」。『政界往来』
○〈文芸展望台〉欄 中島健蔵 『中央公論』
○「新日本文化の会」論―青野季吉 ※佐藤春夫と林房雄の言葉に沿って。『日本評論』
○〈文芸時評〉懇話会賞と芥川賞(A・H・O) 『日本評論』
○思想動員論―戸板潤 ※松本学が文芸懇話会を解消する理由として帝国芸術院が出来たからだと言ったとか伝えられるが、それは理由にならぬ。文芸懇話会の解消と日本文化中央連盟との間には恐らく内面関係があると見る。『日本評論』
○新日本文化の会の進路―林房雄 『日本評論』
○『新日本文化の会』の仕事―中河与一 『ホーム・ライフ』
○〈五行言〉欄 ※文芸懇話会の解散に関説。『文芸』
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九月四日
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○論壇時評(三)―向坂逸郎 ※新日本文化の会に言及。 ※同月一一日の「河北新報」にも掲載。「北海タイムス」
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九月五日
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○〈文化〉欄 新日本文化の会 こそ泥の真似はよしてくれ! 『土曜日』
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九月一五日
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○芸術院と懇話会―室生犀星 『駱駝行』
○文学賞金―室生犀星 ※発表誌、発表年月不詳
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一〇月一日
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○文芸時評 十返一 ※懇話会賞の『雪国』『人生劇場』に言及。『文芸汎論』
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一〇月二〇日
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○芸術国策論―松本学 『教育パンフレツト』
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一一月一日
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○〈座談会〉散文的文学論 (出席者)宇野浩二・窪川稲子・徳永直・武田麟太郎・高見順・那珂孝平 ※宇野浩二が文芸懇話会賞の裏話と松本学について語っている。『人民文庫』
○〈文芸時評〉最近文学の展望―青野季吉 ※「新日本文化の会」のこと。『政界往来』
○新日本主義の現実的基調―浅野晃 『中央公論』
○文壇の新動向―田辺耕一郎 ※「新日本文化の会」に言及。『若草』
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一二月一日
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○一九三七年を送る日本―戸坂潤 『改造』
○〈文芸時評〉一九三七年の世相「新日本文学」の台頭―青野季吉 ※新日本文化の会、他。『政界往来』
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一二月一三日
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○新日本主義の台頭 ヒューマニズムは消散する―青野季吉 「帝国大学新聞」
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一九三八年(昭和一三年)
二月一日
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○偶像より神話へ―丸山静 ※浅野晃の「新日本主義」批判。『自由』
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四月二五日
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○〈記事〉 ※「詩歌懇話会解散」四月一二日正午からレインボーグリルで解散式を行った、と。 「歌壇新報」
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五月一日
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○新日本主義文学の精神的地盤―河上徹太郎 『中央公論』
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一九三九年(昭和一四年)
六月一日
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○詩人賞禍を嗤ふ―金子光晴 ※詩歌懇話会に言及。白秋、犀星の争いに触れつつ。『中央公論』
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あとがき
悠長な旅だった。初稿ともいえる部分を「文学・一九三四〜一九三七――松本学と直木三十五――」と題して、個人リーフレット「けいろく通信」に書いたのが一九七九年六月だったのだから。以来、数回これに関して書いたあと、『明治文芸院始末記』に当たる部分に移っていたので、昭和がおろそかになっていた。そこで、明治が一段落したところで再び昭和に戻り数回書いてから全体を一本のテーマに統一しようと決めた。したがって、それまでの分も大幅に改稿を余儀なくされた。改稿どころか、全体としては、新稿の部分の方が多くなったと思っている。
本書の中心となった一九三五年前後は、著者のちっぽけな記憶にも残る時代だった。なつかしい昭和。文芸院が話題になった三四年(昭和九年)、小学校に入学した。いたるところ「さくら音頭」で浮かれていた。その秋、大きな台風が来るといって、家の者に背負われて学校から帰った。室戸台風だった。そのとき、文芸家慰霊祭も催されていたのである。雪の朝、父は食い入るように号外を見詰めていた。反乱軍とされた歩兵一連隊は父が現役兵を務めた連隊だった。四年生になって備え付け書棚のある教室に移った。そこに、「をさなものがたり」か「幼きものに」だったか島崎藤村の赤い背表紙の本があって、その背に藤村・少年の文学読本とあったのを、フジムラ少年という何か自分たちとは違う特別の優等生の書いた模範作文集だと思って敬遠していた。
芸術院が出来たことなど知る由もない。まもなく盧溝橋事件が起こり、日中は全面戦争へ突入した。夏休みで遅い朝飯を、キュウリの新漬けがこんなに旨かったのかと一人で食べていると、歓呼の声が聞こえてきた。第一陣の出征兵を送る行進である。飛び出して駅まで行進について行った。何柱かが秋には英霊で帰ってきた。子供達は町葬の真似ごとをした。そういう風景は覚えているものの、私は外で遊ぶよりも家で一日中、絵でも描いているほうが楽しいといった、引っ込み思案で、ぐずな少年だった。
回想には感傷が伴う。こんな気分にさせられるのは、たまたま、そういう時期の日本を調べたことによるとして、同時に、自分の今の状態がそうさせたのだと思うところがある。
本書の執筆に取り掛かった昨年七月、私に思わぬ事態が発生した。進行性の大腸がん(S状結腸)で手術する羽目になったことである。手術後は経過もよく四週間で退院するなど順調に推移しているかに思われたが、運のわるいことに腹膜播種とかで六か月後、小腸に再発、今年の三月、小腸を四か所も切り取った。そのため、手術前の諸検査や術後の化学治療を含めて二か月半の入院生活を余儀なくさせられた。その間にも病室に資料を持ち込んで執筆に専念した。そんな無理をせず病気を治してからにしたらという親切な声もあったが、時間のない私には待てなかった。
とは言うものの、実際問題として、人は苦しみの最中などで仕事はできない。小康状態を見計らっての作業である。楽な作業ではない。けれども書いている時は楽しかった。落ち込んで弱音を吐いている私を主治医は、「どうしたのです。最近は書いてないじゃありませんか」と励ましてくれる一幕もあった。ありがたかった。
二度目の手術のあとは経過よろしくなく、固形物は受け付けず、点滴と栄養液だけで体力、気力ともに減退、次第に先が見えてきたように思われた。必死の思いだった。残された時間との勝負だった。がんが完成させてくれたのである。そう思うと、がんよ、ありがとう、の気さえしてくる。妙なものである。そういう意味で本書は著者にとって、まさしく断腸の書となった。
敬老の日の翌日、三十五キロまで痩せた私は車椅子で入院した。悲壮感はなかった。行き届いた病院で信頼できるドクター、やさしいナースに身をまかせられる私は、何という果報者なのだろう。この「あとがき」は、白い雲を望みながら病室でまとめている。
未練がないわけはない。もし奇跡が起こったら次作にかかりたい。きびしい明日が待ち構えているのに、はかない希望で、今度も資料を持ち込んでみた。残念なのは、ひそかにライフワークとしてきた『昭和初期言論総目録』を完成できぬままに終わることである。テーマ別に全国の新聞・主要雑誌を政治、経済、社会、教育、文学と約二百項目に分類したもので、本書「関係資料一覧」は、その僅かな一滴だと思っていただければよい。本書にしても帝展・文化擁護・文化勲章等に分けたものは割愛せざるを得なかった。
しめっぽい「あとがき」になってしまいました。これまで多くの方々から受けた御恩には深く感謝しています。お世話になりました。みなさんの幸せを祈っています。
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命《いのち》の 全《また》けむ人は 畳薦平群《たたみこもへぐり》の山の 熊白檮《くまかし》が葉を 髻華《うず》に挿せ その子
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今度の本も辰巳四郎さんのお蔭で世に出る運びとなった。中島かほるさんの装丁も三冊目である。どうか万端、よろしくお願いします。
なお、巻末の資料一覧の整理には和田麗子があたった。また、資料照合その他で和田達也・さと子の協力があった。
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一九九三年九月二十五日 父島海軍航空隊で戦没した兄正行五十回忌の命日に
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(著者和田利夫氏は九月二十八日未明亡くなられました――編集部)
和田利夫(わだ・としお)
一九二七年、東京に生れる。一九五一年、慶応義塾大学経済学部卒。一九五三年同大学院修士課程終了。近代文学研究家。リーフレット『けいろく通信』執筆発行人。一九九三年歿。著書に『昭和文芸院瑣末記』『郷愁の人 田中冬二』がある。
本作品は一九八九年一二月、筑摩書房より刊行された。